(1)萬葉集古義十一卷之上
 
古今相聞往来歌類上。
 
古今とは古は、飛鳥岡本(ノ)宮の中比より、清見原宮の比までの歌を云、今とは、藤原(ノ)宮より、寧樂(ノ)宮の初頃までの歌を云なるべし、相聞の歌おほきゆゑに、上下にわかちて、十一(ノ)卷、十二(ノ)卷に載たり、書紀に、天武天皇(ノ)卷を上下にわかち、源氏物語に、若菜(ノ)卷を上下にわかてるがごとし、契冲云、此(ノ)相聞(ノ)歌は、男女の中によみかはせるにかぎれり、○此(ノ)十一(ノ)卷、舊本の順次、初に旋頭歌十七首、(人麿集(ノ)歌十二首、古歌集(ノ)歌五首、)正述心緒四十七首、(人麿集(ノ)歌、)寄物陳思九十三首、(人麿集(ノ)歌、)問答九首(人麿集(ノ)歌、)を載、後に正述心緒百二首、(人麿集外(ノ)歌、)寄物陳思百八十九首、(上に同じ、)問答二十首、(上に同じ、)譬喩十三首(上に同じ、)を載、以上通計歌數四百九十音にて、卷を終たり、今用るところの本の順次は、相聞(旋頭歌、)十七首、(舊本に異なることなし、)正述心緒百四十九首、(人麿集(ノ)歌四十七首、人麿集外(ノ)歌百二首、)寄物陳思二百八十二首、(人麿集(ノ)歌九十三首、人麿集(ノ)外歌百八十九首、)問答二十九首、(人麿集(ノ)歌九首、人麿集外(ノ)歌二十首、)譬喩十三首(舊本に異(2)なることなし、)を載、以上通計歌敷上に同じ、按(フ)に、舊本は、初に人麿集(ノ)歌を載て、正述心緒、寄物陳思、問答の標を出し、後に人麿集外の歌を載るに、上の同標を、再出したることわづらはし、今用るところの本は、正述心緒等の標を出して、その初方に人麿集(ノ)歌、後方に人麿集外の歌を載て、再同標を出すに及ばざること、理甚叶へり、
 
相聞〔二字各○で囲む〕《シタシミウタ》。【旋頭歌。】十七首。【十二首。人麿集。五首。古歌集。】〔十七〜古歌集、大きく□で囲む〕
 
2351 新室《ニヒムロノ》。壁草苅邇《カベクサカリニ》。御座給根《イマシタマハネ》。草如《クサノゴト》。依逢未通女者《ヨリアフヲトメハ》。公隨《キミガマニ/\》。
 
新室《ニヒムロ》とは、新しく造れる家を云、十四に、爾比牟路《ニヒムロ》、古事記景行天皇(ノ)條に、熊曾建家邊《クマソタケルガイヘノホトリニ》、軍《イクサ》圍《カクミ》2三重《ミヘニ》1、作《ツクリテ》v室《ムロヲ》以居《ヲリ》、於是《コヽニ》言3動《イヒトヨミテ》爲《セムト》2御室樂《ニヒムロウタゲ》1、設2備《マケソナヘタリ》食物《クヒモノヲ》1、清寧天皇(ノ)紀に、二年冬十一月、依(テ)2大甞供奉之料《オホニヘツカヘマツルコトニ》1、遣《ツカハスニ》2於播磨(ノ)國(ノ)司《ミコトモチ》山部(ノ)連(ノ)先祖伊與(ノ)來目部(ノ)小楯(ヲ)1、於(ニ)2赤石(ノ)郡|縮見屯倉《シヾミノミヤケノ》首|忍海部《オシヌミベノ》造|細目新室《ホソメガニヒムロ》1、見2《ミマツリテ》市邊(ノ)押磐(ノ)皇子(ノ)子、億計、弘計(ノミコヲ)1、顯宗天皇(ノ)紀卷(ノ)初に、適會(リ)2縮見(ノ)屯倉(ノ)首、縱賞新室《ニヒムロアソビシテ》、以v夜(ヲ)繼1v晝(ニ)、など見ゆ、室《ムロ》は家のことなり、(伊勢物語に、惟高(ノ)親王の事を、比叡の山の麓なれば雪いと高し、しひて御室《ミムロ》にまうでゝをがみ奉るに云々、大和物語に、比叡の山に念覺といふ法師のやまごもりにて、ありけるに、しとくにてまし/\ける大徳の、早う死けるが、室《ムロ》に松の木のかれたるを見て、源氏物語若紫に、老かゞまりて、室《ムロ》の外《と》にもまかでず、世繼物語に、五つの室ならべて、などある類は、修道《オコナヒ》の爲にこもり居る所を、室《ムロ》と云り)○壁草《カベクサ》は、契冲も云しごとく、あたらし(3)く造れる屋は、先(ヅ)草をかりて、壁のごとくかこひふせぐより云ならむ、契冲又云、今も田舍には、柴などにてかこひて、壁のかはりにするゆゑに、やがて壁をかきと申めり、楚辭屈原九歌、湘夫人云※[草がんむり/全](ノ)壁《カキ》兮紫(ノ)壇《センアリ》、これに壁(ノ)字を牆の和訓によみたれば、田舍には、かへりて古語の殘れるなり、※[草がんむり/全](ノ)壁とあれば、常の草にてもかこひぬべし、(今すさと云ものかともきこゆれど、さにはあらじ、)略解に、陸奥南部の黒川(ノ)盛隆がいはく、延喜式七(ノ)踐祚大甞祭式(ニ)云、所v作八神殿一宇、(中略)並以2黒木及草(ヲ)1構※[草がんむり/?]、壁蔀(ニハ)以v草(ヲ)云々、とある、是壁草なるべし、といへり、又同國鹽竈の藤塚(ノ)知明がいへるは、彼(ノ)あたりにては、新室造て壁などいまだぬらざるほどは、草を刈て其(ノ)屋をかこひおくを、壁草とはいふといへり、とあり、(本居氏は、壁草を、やがてカキクサ〔四字右○〕とよめれど、猶カベクサ〔四字右○〕なるべし、)○御座給根は、イマシタマハネ〔七字右○〕とよむべし、(オハシタマハネ〔七字右○〕、とよめるは非なり、オハシ〔三字右○〕は、古語に大坐坐《オホマシマシ》といふを、中古より省きて、オマシマス〔五字右○〕といひ、其を又オマス〔三字右○〕とも云なるを、其(ノ)マ〔右○〕をハ〔右○〕に轉して、オハス〔三字右○〕といふなり、かゝれば此(ノ)集の頃には、オハシオハス〔六字右○〕といふ計は、なきことなれば、然訓べきに非ず、)來て給はれかし、といふ意なり、凡て來をも行をも、敬ひていふときは、伊座《イマス》といふ例なり、○依逢未通女《ヨリアフヲトメ》とは、多く女の依相をいふにはあらで、これは一人の女のうへにて、草のより合(ヒ)靡くごとく、容儀《カタチ》しなやかにして、うるはしきをいふなるべし、○歌(ノ)意は、吾(ガ)造る新室の壁草を刈に來て給はれかし、其(ノ)壁草にかる草の(4)繁生て、よりあひなびける如く、容儀しなやかにしてうるはしき女は、公が心(ノ)任《マヽ》に進《マヰ》らせむ、といふなるべし、さて此(ノ)歌と次なると二首は、女持たる人のもとへ、心ありて通ふ男のあるを、おやのゆるして、聟にせむと思ふ意を告てよめるなるべし、さてその折から、此(ノ)人新室つくりたる故に、託《コトヨセ》て云るなるべし、
 
2352 新室《ニヒムロヲ》。蹈靜子之《フミシヅムコガ》。手玉鳴裳《タタマナラスモ》。玉如《タマノゴト》。所照公乎《テラセルキミヲ》。内等白世《ウチヘトマヲセ》。
 
蹈靜子之は、フミシヅムコガ〔七字右○〕とよむべし、靜《シヅム》とは、動《サワク》の反《ウラ》にて、此は新室の柱を築建て、動《ユル》ぐことなく、搖《ウゴ》くことなからしめむと、堅固《カタラ》に蹈(ミ)鎭むるを云、さるは、凡て古(ヘ)の家の造り樣を、礙《イシズヱ》と云ことなく、やがて柱を地に築建たればなり、顯宗天皇(ノ)紀室賀(ノ)御詞に、築立稚室葛根《ツキタツルワカムロツナネ》、築立柱楹者《ツキタツルハシラハ》、此(ノ)家長御心之鎭也《イヘキミノミコヽロノシヅメナリ》、とあるも、柱を築建て、堅固《カタ》く令不動《シヅムル》をもて、心の鎭と賀(ギ)給へるなり、これ新室の柱を蹈(ミ)鎭るをいへり、とする證なり、又神賀(ノ)詞に、白御馬能前足爪《シロミマノマヘアシノツメ》、後足爪蹈立事波《シリヘアシノツメフミタツルコトハ》、大宮能御門柱乎《オホミヤノミカドノハシラヲ》、上津石根爾蹈堅米《ウハツイハネニフミカタメ》、下津石根爾蹈凝立《シタツイハネニフミコラシ》(立は志の誤、)云々、とあるをも、思(ヒ)合(ス)べし、貞觀儀式(ノ)踐詐大甞祭儀に、鎭2稻實殿(ヲ)1、と見え、又止由氣宮儀式帳に、新宮奉v造時行事并用物(ノ)事云々、右物等新造正殿|地鎭《ツチシヅメノ》料云々、とある、この地鎭《ツチシヅメ》も、柱を令不動《シヅムル》料にて、同意なるを考(ヘ)合(ス)べし、さて子《コ》とは、何(レ)にまれ、その業をする件《トモ》をいふ稱にて、狩する卒《トモ》を狩子《カリコ》といひ、※[楫+戈]とるをのこを、※[楫+戈]子《カコ》といふ類なり、こゝは委細にいふ時は、新室の柱を築(キ)建(テ)蹈(ミ)堅め令不動壯子之《シヅムルヲノコガ》、(5)と云義なるを、かく簡便《テミジカ)にいひて、その事を聞せたるものなり、○手玉鳴裳《タタマナラスモ》は、手玉《タタマ》は、十(ノ)卷に、足玉母手珠毛由良爾織旗乎公之御衣爾縫將堪可聞《アシタマモタタマモユラニオルハタヲキミガミケシニヌヒアヘムカモ》、とある歌に、委(ク)釋《イヘ》るが如し、さて手玉は、多くは女の装飾《カザリ》にいへれど、履中天皇(ノ)紀に、時仲(ツ)皇子、冒2太子(ノ)名(ヲ)1、以※[(女/女)+干]2黒媛(ニ)1、是夜《ソノヨ》仲(ツ)皇子、忘2手鈴《タナスヾヲ》於黒媛之家(ニ)1而歸(レリ)焉、とあるに准へて、をとこも手玉をかくることありしなるべしと、契冲も云り、さてこゝは、たゞにかざりにせるとは異にて、手玉の相觸て、玲瓏《ユラヽ》と鳴を拍子にとりて、足蹈しつゝ柱を蹈鎭るなるべし、裳《モ》は歎息(ノ)詞なり、○玉如所照公《タマノゴトテラセルキミ》とは、容儀のうるはしくすぐれたるを、ほめたるなり、源氏物語に、光君の御誕生のことを、さきの世にも御ちぎりやふかゝりけむ、世になくきよらなる、玉のをのこ御子さへうまれ給ひぬ、とあり、なほ人の容儀のうるはしきを、玉にたとへたる例古(ヘ)に多し、既くいへり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)造る新室の柱を蹈(ミ)鎭る壯子《ヲノコ》どもの、手玉を玲瓏《ユラ/\》と鳴《ナラ》すよ、さても面白や、中にその手玉の光華《カヾヤク》ごとく、うるはしき公ぞ、わが聟にせむと思ふ人なるを、いで内へ入給へと白《マヲ》せ、と女に云るか、又は從者などに云つくる意にもあるべし、○上件二首、從來説等あれど紛はしくて、よく解得たりと思ふはなし、
 
2353 長谷《ハツセノ》。弓槻下《ユツキガモトニ》。吾隱在妻《アガカクセルツマ》。赤根刺《アカネサシ》。所光月夜邇《テレルツクヨニ》。人見點鴨《ヒトミテムカモ》。
 
弓槻《ユツキ》は、(齋槻《ユツキ》ともきこゆれど、然にはあらじ、)五百箇桂《イホツカツラ》を、湯津桂とも云ると同例にて、五百槻《イホツキ》(6)なり、さらば弓津槻《ユツツキ》と云べきが如くなれども、津《ツ》の言重なるゆゑいはざるなるべし、さてそは、一株《ヒトキ》に、五百《イホ》と數多の繁(キ)枝あるをいふ、二(ノ)卷に、百枝槻《モヽエツキ》の木とよめるをも、思(ヒ)合(ス)べし、(和名抄に、槻(ハ)木(ノ)名、堪v作v弓、とあるによりて、弓に作る槻といふ義とする説はとらず、其は弓は借(リ)字のみなるにまどへる後(ノ)世意にて、いへるなり、)○歌(ノ)意は、長谷の五百槻が下の繁みの中に、深く率て行て、かくし置る隱妻なれば、人はしらじと思ふに、もし此(ノ)清き月夜にうかれ出て、山めぐりなどして、あそびありく人の、見あらはしつることもあらむか、さてもうしろめたしや、となり、此(ノ)歌は、所由ありて、長谷のあたりの山隱れる家に、隱妻を率て行て、かくしおけるほどよめるなるべし、たゞに荒山中の槻の木陰に、放ちおけるを云にはあらず、○舊本に、一云人見豆良牟可、と註せり、いづれにてもよろし、
 
2354 健男之《マスラヲノ》。念亂而《オモヒタケビテ》。隱在其妻《カクセルソノツマ》。天地《アメツチニ》。通雖光《トホリテルトモ》。所顯目八方《アラハレメヤモ》。
 
念亂而は、舊本に、一云大夫乃思多鷄備※[氏/一]、とあるぞ、理協へりとおぼゆる、こゝは或説に、亂(ノ)字は武の誤にて、オモヒタケビテ〔七字右○〕なるべし、といへり、○通雖光《トホリテルトモ》は、かしこくも神代紀(ノ)上に、於是共生2日(ノ)神(ヲ)1號2大日〓(ノ)貴(ト)1、此(ノ)子《ミコ》光華明彩《ヒカリウルハシクシテ》、照2徹《テリトホル》於六合之内《クニノウチニ》1、とあるが如し、○歌(ノ)意は、右の作者、おしかへして、ふたゝびよめるにて、よの常の月(ノ)光はさるものにて、たとひ天地のかぎり、てりとほることありとも、大夫の念(ヒ)武びて、深く隱せるしのび妻なれば、たはやすくあらはれむや(7)は、あらはれはせじ、となり、
 
2355 惠得《イキノヲニ》。吾念妹者《アガモフイモハ》。早裳死耶《ハヤモシネヤモ》。雖生《イケリトモ》。吾邇應依《アレニヨルベシト》。人云名國《ヒトノイハナクニ》。
 
惠得は、本居氏云、或人の説に、息緒の誤にて、イキノヲニ〔五字右○〕なり、といへり、これによるべし、○早裳死耶は、ハヤモシネヤモ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、ハヤモスギネヤ〔七字右○〕とよめるは、甚わろし、)耶(ノ)字、ヤモ〔二字右○〕とよませたる例は、下に、雷神少動刺雲雨零耶君將留《ナルカミノヒカリトヨミテサシクモリアメモフレヤモキミヲトヾメム》、と見えたり、○人云名國《ヒトノイハナクニ》は、妹が云(ハ)ぬことなるをと云むが如し、人は他人をさすにあらず、○歌(ノ)意は、妹ゆゑに、あまりに心をなやますことの切なるにょりて、中々に吾(ガ)命にかけて、深く思ふ妹は早くも死ねかし、たとひ妹は存生《イキナガラヘ》てありとも、我に心を許して、依べしといはぬことなるを、といへるなり、後撰集に、まだあはず侍ける女のもとに、しぬべしといへりければ、返事に、はやしねかしといへりければ、又つかはしける、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、
 
2356 狛錦《コマニシキ》。※[糸+刃]片叙《ヒモノカタヘゾ》。床落邇祁留《トコニオチニケル》。明夜志《アスノヨシ》。將來得云者《キナムトイハバ》。取置待《トリオキテマタム》。
 
狛錦《コマニシキ》は、高麗錦《コマニシキ》にて、既く註りき、錦紐《ニシキノヒモ》は、允恭天皇(ノ)紀御歌は、佐瑳雁餓多邇之枳能臂毛弘等枳舍氣帝《ササラガタニシキノヒモヲトキサケテ》云々、とあり、○紐片叙《ヒモノカタヘゾ》云々は、契冲も云しごとく、紐には、女紐男紐あるを、かた/\のおちてあるなり、さきにひける、仲(ツ)皇子の黒媛がもとに、手鈴をわすれて歸りたまへるたぐひなり、古今集にいはく、五節のあしたに、かむざしの玉のおちたりけるを、たがならむとと(8)ぶらひてよめる、とあり、○歌(ノ)意は、夫君の結び賜ひし、高麗錦の紐のかた/\の取忘れて吾(ガ)床に落してあるを、若(シ)明夜も、例の如く來座むとのたまはゞ、その紐のかたへを取あげ隱し置て待居む、いでやこの紐のかたへの、取落してあるからには、よも來じとはのたまはじ、となり、
 
2357 朝戸出《アサトデノ》。公足結乎《キミガアユヒヲ》。閏露原《ヌラスツユハラ》。早起《ハヤクオキテ》。出乍吾毛《イデツヽアレモ》。裳下閏奈《モノスソヌレナ》。
 
朝戸出《アサトデ》は、わかれて歸る夫の朝戸出なり、○足給《アユヒ》は、既くいへり、雄略天皇(ノ)紀に、大臣(圓《ツブラ》)出2立於庭1索《ユフ》2脚帶《アユヒヲ》1、時(ニ)大臣(ノ)妻持2來|脚帶《アユヒヲ》1、愴矣傷懷而《カナシビイタミテ》、歌曰云々、※[人偏+爾]播爾陀々始諦阿遙比那陀須暮《ニハニタヽシテアヨヒナダスモ》、とあり、○閏露原《ヌラスツユハラ》は、露のしげくおきたるを、露原といふ故に、それにて足結を沾すなり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君の朝戸出の脚帶を、露の沾すがいとほしければ、われもはやく起(キ)出て、夫のかへるを見おくりがてら、露原にて裳の裾を沾さむ、いでや君ひとりに、さる艱難はかけじよ、となり、
 
2358 何爲《ナニセムニ》。命本名《イノチヲモトナ》。永欲爲《ナガクホリセム》。雖生《イケリトモ》。吾念妹《アガモフイモニ》。安不相《ヤスクアハナクニ》。
 
安不相《ヤスクアハナクニ》は、たは易《ヤス》く逢ことのならぬことなるをの意なり、○歌(ノ)意は、たとひいきながらへたりとも、吾(ガ)念ふ妹に、たはやすく逢ことの叶ふべからねば、何故に、むざ/\と長命を欲《ネガ》はむぞ、早く死とも、さらに命をば惜まじ、となり、
 
2359 息緒《イキノヲニ》。吾雖念《アレハオモヘド》。人目多社《ヒトメオホミコソ》。吹風《フクカゼニ》。有數數《アラバシバシバ》。應相物《アフベキモノヲ》。
 
(9)人目多社《ヒトメオホミコソ》は、人目の多き故にこそ、行て得逢ぬといふ意を含ませたるなり、○歌(ノ)意は、命にかけて吾は思へど、人目の多き故に、行て得逢ねば、そのかひなし、吾(ガ)身もし吹風ならば、人の目に見えずして、いづくまでも至りて、屡々見べきものなるを、となり、伊勢物語に、吹風にわが身をなさば玉すだれひまもとめても入べきものを、此(ノ)下にも、玉垂小簾之寸鶴吉仁入通來根足乳根之母我問者風跡將申《タマタレノヲスノスケキニイリカヨヒコネタラチネノハヽガトハサバカゼトマヲサム》。とあり、
 
2360 人祖《ヒトノヤノ》。未通女兒居《ヲトメコスヱテ》。守山邊柄《モルヤマヘカラ》。朝朝《アサナサナ》。通公《カヨヒシキミガ》。不來哀《コネバカナシモ》。
 
第一二(ノ)句は、守山《モルヤマ》をいはむ料の序なり、未通女兒《ヲトメコ》は、幼女にて、母の膝に居おきて、朝夕に守(レ)ば、かくつゞけたるなり、十三長歌に、三諸者人之守山《ミモロハヒトノモルヤマ》、本邊者馬醉木花開《モトヘハアシビハナサキ》、未邊方椿花開《スヱヘハツバキハナサク》、浦妙山曾泣兒守山《ウラグハシヤマソナクコモルヤマ》、とある、泣兒守《ナクコモル》とつゞきたるに同じ、○守山邊柄《モルヤマヘカラ》は守山は、右に引る十三の歌に、三話者人之守山《ミムロハヒトノモルヤマ》、とある守山は、大和(ノ)國高市(ノ)郡飛鳥の神岳をいへり、と思はるれば、こゝも同處なるべし、かくて山守は、諸國にあることなれば、神岳は、天皇の旦暮御覽し給ふ御山にして、ことに嚴しく山守を居て守しめ賜ふが故に、山(ノ)名にもなれるなるべし、(古今集に、白露もしぐれもいたくもる山は下葉殘らず色付にけり、とあるも、同處なるべし、新古今集に、すべらきをときはかきはにもる山の山人ならし山かづらせり、とあるは、近江(ノ)國守山をいへるにて別なり、)柄《カラ》は從《ヨリ》と云に同じ、ヲ〔右○〕といはむがごとし、十(ノ)卷に既く委(ク)云り、○朝朝《アサナサナ》は、日毎にと(10)いふがごとし、○歌(ノ)意は、守山邊を通りて、吾(ガ)方に日毎に來座しゝ君が、何の障によりてか來座(サ)ざらむ、今日かく來座ずあれば、さても心もとなく悲しやとなり、
 
2361 天在《アメナル》。一棚橋《ヒトツタナハシ》。何將行《ナニカサヤラム》。穉草《ワカクサノ》。妻所云《ツマガリトイハヾ》。足莊嚴《アユヒシタヽム》。
 
此(ノ)歌|解難《トケガタ》し、説々あれど、よく解得たりと思ふもなし、せめて按《オモ》ふに、何將行の行は障の誤か、さらばナニカサヤラム〔七字右○〕とよむべし、足莊嚴(莊(ノ)字、拾穗本には杜と作り、)は、足帶發の誤か、さらばアユヒシタヽム〔七字右○〕と訓べし、(略解にも、本居氏(ノ)論を載て、足莊嚴は、足結發の誤にて、アユヒシタヽス〔七字右○〕とよむべし、といへり、されどタヽス〔三字右○〕とよみては、いかゞなり、)かくて歌(ノ》意は、一(ツ)棚橋は、たゞさへあるに、たとひ天上にある一(ツ)棚橋の危きにも、何かは障るべき、愛《ウツク》しき妻が許へとならば、脚帶《アユヒ》して出發む、といふなるべし、棚橋は、十(ノ)卷|天漢《アマノガハ》の歌に、既く見えたり、
 
2362 開木代《ヤマシロノ》。來背若子《クセノワクゴガ》。欲云余《ホシトイフアヲ》。相狹丸《アフサワニ》。吾欲云《アヲホシトイフ》。開木代來背《ヤマシロノクセ》。
 
來背若子《クセノワクゴ》は、和名抄に、山城(ノ)國久世(ノ)郡|久世《クセ》とありて、そこの若年の男をいへり、地(ノ)名もて人を呼《イフ》は、血沼壯士《チヌヲトコ》、蒐原壯士《ウナヒヲトコ》などの如し、若子は字の如く、若く壯りなる人をいふ、集中にも、殿之若子《トノノワクゴ》、久米之若子《クメノワクゴ》などよめり、(古語拾遺に、天照大神、育2吾勝(ノ)尊(ヲ)1、特甚鍾愛、常懷2腋下(ニ)1、曰2腋子《ワキコト》1、今(ノ)俗號2稚子1謂2和可古《ワカコト》1、是其轉語也、とあるは、正説にあらず、)○欲云余《ホシトイフアヲ》は、吾を妻にほしといふなり、大日本靈異記中卷に、聖武天皇(ノ)世、擧(リテ)v國歌詠(テ)之謂、奈禮乎曾與※[口+羊]邇保師登多禮《ナレヲソヨメニホシトタレ》、阿牟知能古牟(11)智能餘呂豆能古《アムチノコムチノヨロヅノコ》云々、〔頭註、【奈禮乎曾は、汝をそなるべし、與※[口+羊]邇保師登多禮は婦に欲と誰と云か阿牟知能古は、奄知之子なるべし、奄知は、大和國十市郡奄知村を云、牟知能を打反して、阿の言を略きて云るなるべし、餘呂豆能古は、萬之子にて、女子の名なり、なほ南京遺響に云、】〕催馬樂山城に、也未之呂乃己末乃和太利乃宇利川久利和禮乎保之止伊不伊加爾世牟《ヤマシロノコマノワタリノウリツクリワレヲホシトイフイカニセム》、古今集に、足引の山田のそほづおのれさへわれをほしてふうれはしきこと、○相狹丸《アフサワニ》は、契冲、おもひ入ず、大方にと云心なりと云り、此(ノ)詞既く八(ノ)卷に見えて、彼處にいへり、○吾欲云《アヲホシトイフ》云々は、本(ノ)句をかへざまにして、ふたゝびいへるなり、古歌の體なり、さてこゝにも若子《ワクコ》といふべきを、上に照して省きたるなり、○歌(ノ)意は、久世の若子が、吾を欲《ホ》し吾を欲《ホ》しといへど、大方にわれを欲(シ)といふ人に許《ユル》さむやは、深切《フカク》思ふとならば、さもあらむをの意を含みたるなるべし、
〔右十二首。柿本朝臣人磨之歌集出。〕
 
2363 崗前《ヲカノサキ》。多未足道乎《タミタルミチヲ》。人莫通《ヒトナカヨヒソ》。在乍毛《アリツヽモ》。公之來《キミガキマサム》。曲道爲《ヨキミチニセム》。
 
崗前、こゝはヲカノサキ〔五字右○〕と訓べし、此《コ》は名處にはあらず、山の岬《サキ》などいへるに同じ、書紀に、丘岬此云2塢介佐棄《ヲカサキト》1、○多未足道《タミタルミチ》は、手廻而在路《タモトホリタルミチ》といふに同じ、多《タ》はそへことば、美《ミ》は毛等保里《モトホリ》の約れるなり、折(レ)曲れる路をいふ、○曲道《ヨキミチ》は、避路《ヨキミチ》なり、避《ヨキ》は、春風は花のあたりをよきてふけ、又夢の通路人目よくらむなどのよくに同じ、俗に與氣路《ヨケミチ》といふに同じ、七(ノ)卷に、神前荒石毛不所見浪立奴從何處將行與奇道者無荷《カミノサキアリソモミエズナミタチヌイヅクユユカムヨキヂハナシニ》、ともよめり、曲(ノ)字は、曲《マガ》りて避《サク》る義にとりて書り、○歌(ノ)(12)意は、崗の岬を折(リ)廻れるその路は、氣遠くて、常に人のしらぬ道なれば、わがしれる人の、ありありつゝ吾(ガ)方へ通ひ來座すとき、人目を避《ヨク》る避路《ヨケミチ》にせむを、たとひ他人は、その路のあることをしれりとも、そこをば、通ることなかれ、となり、
 
2364 玉垂《タマタレノ》。小簾之寸鷄吉仁《ヲスノスケキニ》。入通來根《イリカヨヒコネ》。足乳根之《タラチネノ》。母我問者《ハヽガトハサバ》。風跡將申《カゼトマヲサム》。
 
玉垂《タマタレ》は、枕詞なり、玉を貰(キ)垂る綸《ヲ》、といふ意にかゝれり、○小簾之寸鷄吉仁《ヲスノスケキニ》は、簾《スダレ》の透間《スキマ》にといふが如し、小簾《ヲス》は、小《ヲ》はそへことばにて、たゞ簾《ス》なり、寸鷄吉《スケキ》は透《スキ》なり、須吉《スキ》を須鷄吉《スケキ》といふは、繁《シゲ》きを斯宜氣伎《シゲケキ》、暑《アツキ》を阿都氣伎《アツケキ》、寒《サム》きを佐牟氣伎《サムケキ》などいふに同じ、仁は、もしは從(ノ)字の誤寫にてはあるまじきにや、スケキヨ〔四字右○〕とあらまほしくおぼゆればなり、猶考(フ)べし、○入通來根《イリカヨヒコネ》、下に、玉垂之小簀之垂簾乎往褐寢者不眠友君者通速爲《タマタレノヲスノタリスヲユキガテニイハナサズトモキミハカヨハセ》、枕册子に、にくきもの云々、伊豫簾などかけたるを、打かづきてさら/\と鳴したるも甚《イト》憎《ニク》し、帽額簾《モカウノス》は、ましてこはき物の打おかるるいとしるし、それもやをら引(キ)揚(ケル)て出入するは、更に鳴ず、○問者《トハサバ》は、問賜はゞと云が如し、○風跡將申《カゼトマヲサム》は、風なりと答奉《コタヘマツ》らむといふほどの意なり、申(ス)は奉(ル)と云に大かた同じくて、今少し輕き詞なり、さればこの言は、よき人に對《ムカ》ひていふことにて、稱奉《タヽヘマツル》といふほどの意を稱申《タヽヘマヲス》とやうにいへること多し、さて又言に出してよき方に告を、直に麻乎須《マヲス》とのみもいへり、こゝはその申《マヲス》なり、たゞ云を申《マヲス》と云は、古へになきことなり、紀氏六帖に、風ふけと人にはいひて(13)戸はさゝじ、あはむと君にいひてし物を、○歌(ノ)意は、簾を掲て入たまはゞ、音ありて、それとしらるべきなれば、身をそばめて、簾の透間より通ひ來りたまへかし、もしそれにても、なほ音ありて、母がいぶかり問たまはゞ、風なりと答へ奉らむ、となり、
 
2365 内日差須《ウチビサス》。宮道爾相之《ミヤヂニアヒシ》。人妻※[女+后]《ヒトヅマユヱニ》。玉緒之《タマノヲノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。宿夜四曾多寸《ヌルヨシソオホキ》。
 
※[女+后]《ユヱ》は、拾穗本に垢と作り、考(フ)るところなし、略解(ニ)云(ク)、藤原(ノ)濱臣、此(ノ)※[女+后]をユヱ〔二字右○〕とよめるは、此(ノ)卷(ノ)末に、珍海云《チヌノウミノ》々|人子※[女+后]《ヒトノコユヱニ》、此(ノ)歌或本(ノ)歌、人兒故爾《ヒトノコユヱニ》、卷(ノ)十二にも、※[女+后]をユヱ〔二字右○〕とよめる歌二首あり、さて※[女+后]は妬の訛なり、さるよしは、集※[韵の旁](ニ)※[女+戸](ハ)都故(ノ)切妬同(シ)、と有のみにて、字書にユヱ〔二字右○〕とよむべきよしはなけれども、遊仙窟に、無情明月故臨v窓を、アヂキナキアリアケツキノミゾネタマシゲニマドニイル〔アヂ〜右○〕と訓せり、字鏡に、故々|禰太介爾《ネタケニ》、又己止太戸《コトタヘ》と有(リ)、是も字書に、故に嫉※[女+戸]の義を註せることなし、といへど、おもふに、故※[女+戸]ともに去聲にて、遇暮の韵の字にして、いにしへは故※[女+と]通し用しものと見ゆ、されば互に相通はして、ユヱ〔二字右○〕といふにも妬(ノ)字を用ひしなるべし、今の字書にさるよし見えずして、たま/\にも、遊仙窟又吾國の古書に殘れるぞ、いにしへを見る據なるべき、今の字書どもは、唐以前用ひし字を遺漏し、字義をももらせること有(リ)とおぼゆるよしいへり、さもあるべしといへり、〔頭註、【干禄字書ニ、※[女+戸]妬(上通下正)、】〕○歌(ノ)意は、人目遠きあたりならばこそ、もしはすべきやうもあるべきならめ、さる打はれたる、宮路に逢し人妻なるものを、か(14)ひなきことにおもひみだれて、ぬるよの多きは、げにもはかなきことよ、となり、
 
2366 眞十鏡《マソカヾミ》。見之賀登念《ミシガトオモフ》。妹相可聞《イモニアハメカモ》。玉緒之《タマノヲノ》。絶有戀之《タエタルコヒノ》。繁比者《シゲキコノゴロ》。
 
眞十鏡《マソカヾミ》は、枕詞なり、つゞけの意明けし、○見之賀登念《ミシガトオモフ》は、見てしがなと思ふの意なり、(見《ミ》し歟の意にはあらず、)願ふ意の處を、之賀《シガ》といへること、古今集廿(ノ)卷に、甲斐が嶺をさやにも見之《ミシ》賀けゝれなくよこほりふせるさやの中山、とあるこれなり、金葉集三卷に、秋ならでつまよぶ鹿をきゝしがなをりから聲の身にはしむかと、とあるも同じ、○比(ノ)字、舊本に此と作るは誤なり、古寫本、拾穂本等に從つ、○歌(ノ)意は、心は變らねど故ありて中絶たれば、比日戀(シキ)情の繁く、いかで見てしがな/\と思ひこがるゝ妹に、相見るよしのあれかし、さてもこひしや、となり、
 
2367 海原乃《ウナハラノ》。路爾乘哉《ミチニノレヽヤ》。吾戀居《アガコヒヲリテ》。大舟之《オホブネノ》。由多爾將有《ユタニアルラム》。人兒由惠爾《ヒトノコユヱニ》。
 
海原乃路《ウナハラノミチ》は海路《ウミヂ》といふが如し、○歌(ノ)意は、吾は海路を船に乘てあればにや、かくゆたのたゆたに、むなさわぎして、心の落居る間もなく、いもを、こひしく思ひつゝあるらむ、かく戀しく思ひても、さらにそのかひなき、他人の妻なるものをの謂なり、(由多爾將有《ユタニアルラム》を、人兒《ヒトノコ》といふへ屬て見る説はわろし、吾戀る心の、たゆたひさわぐ意なればなり、)
〔右五首。古歌集中出〕
 
(15)正《タヾニ》述《ノブ》2心緒《オモヒヲ》」1。百四十九首。【四十七首。人麿集。百二首。人麿集外。】〔百四十九〜集外□で囲む〕
 
左の歌より下四十七首は、人麿歌集に出たるよし、後に註せるごとし、其(ノ)次百二首は、人磨歌集外(ノ)歌なり、舊本は順次たがへり、今は順次のよき本どもに從(リ)てしるせること、初にいへる如し、
 
2368 垂乳根乃《タラチネノ》。母之手放《ハヽガテハナレ》。如是許《カクバカリ》。無爲便事者《スベナキコトハ》。未爲國《イマダセナクニ》。
 
母之手放《ハヽガテハナレ》は、契冲云、常に親の手をはなれて、といへるこゝろなり、允恭天皇(ノ)紀に、皇后曰、妾《ワレ》初2自《ヨリ》結髪《カミアゲシ》1陪《ハベリテ》2於|後《キサキノ》宮(ニ)1、既經多年《トシヲアマタスグシツ》、この結髪《カミアゲ》しよりとのたまへるが如し、第五に、山上(ノ)憶良の大伴(ノ)熊凝がためによまれたる歌にも、うちびさす宮へのぼるとたらちしや母がてはなれ、といへり、(但(シ)今(ノ)歌は、やう/\成長《ヒトヽナリ》て、母の手を放るゝを云、五(ノ)卷なるは、旅に行とて母の許を放るゝをいへるなり、されば同詞ながら、事は別なり、)○歌(ノ)意は、やゝ人となりつゝ、母の手許をはなれてよりこのかた、かゝるせむかたなき戀をば、いまだせぬことなるを、となり、
 
2369 人|所〔□で囲む〕寐《ヒトノヌル》。味宿不寐《ウマイハネズテ》。早敷八四《ハシキヤシ》。公目尚《キミガメスラヲ》。欲嘆《ホリテナグクモ》。
 
人所寐は、本居氏、所寐は、ヌル〔二字右○〕と訓ては、所(ノ)字餘れり、ヒトノナス〔五字右○〕と訓べし、といへり、今按(フ)に、十二、十三の歌を併(セ)思ふに、人之寐といふ古語の例なれば、こゝも所は衍文にて、ヒトノヌル〔五字右○〕にや、此(ノ)一二(ノ)句の意は、世(ノ)間の人の寐るところの快寐《ウマイ》をば爲《セ》ずしての謂なり、十二に、人之宿味(16)宿者不寐哉《ヒトノヌルウマイハネズヤ》、十三に、入寢味眠不眠而《ヒトノヌルウマイハネズテ》云々、○公目尚《キミガメスラヲ》は、公《キミ》と相宿するはさるものにて、その目さへをといふ意なり、尚《スラ》は、すべて斡《モト》はさるものにて、その枝葉《スヱ》さへをといふ意の詞なり、○歌(ノ)意は、世(ノ)間の人の寐るところの、快寐をば、得爲ぬだにあるを、愛しき君が面をさへ見たく思ひて、夜もすがら嘆きあかすよ、さてもくるしや、となり、○舊本に、或本歌云公矣思爾曉來鴨、とあり、
 
2370 戀死《コヒシナバ》。戀死邪《コヒモシネトヤ》。玉桙《タマホコノ》。路行人《ミチユキヒトニ》。事告无《コトモツゲナキ》。
 
事告无(无(ノ)字、舊本に兼と作るは誤なり、今は官本に從つ、)は、コトモツゲナキ〔七字右○〕と訓べし、四(ノ)卷に、我念人之事毛告不來《ワガオモフヒトノコトモツゲコヌ》、とあるをも、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此(ノ)下に、戀死戀死哉吾妹吾家門過行《コヒシナバコヒモシネトヤワギモコガワギヘノカドヲスギテユクラム》、十五に、古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等余牟流《コヒシナバコヒモシネトヤホトトギスモノモフトキニキナキトヨムル》、古今集に、こひしぬとするわざならしうば玉のよるはすがらに夢に見えつつ、又、かゝるをりにや人はしぬらむ、とよめる歌も、思(ヒ)合すべし、と契冲云り、(新古今集に、玉ほこの道行人のことづてもたえてほどふる五月雨のころ、とあるは、今の歌によられたるなり、)
 
2371 心《コヽロニハ》。千遍雖念《チタビオモヘド》。人不云《ヒトニイハズ》。吾戀※[女+麗]《アガコフイモヲ》。見依鴨《ミムヨシモガモ》。
 
※[女+麗](ノ)字、拾穗本には、儷と作り、
 
(17)2372 是量《カクバカリ》。戀物《コヒムモノソト》。知者《シラマセバ》。遠可見《トホクミツベク》。有物《アリタルモノヲ》。
 
二首(ノ)歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
2373 何時《イツハシモ》。不戀時《コヒヌトキトハ》。雖不有《アラネドモ》。夕方枉《ユフカタマケテ》。戀無乏《コフハスベナシ》。
 
夕方枉《ユフカタマケテ》、方枉は借(リ)字にて、夕(ヘ)を片設而《カタマケテ》なり、片《カタ》は、片就《カタツキ》たるをいふ詞なり、○無乏は、スベナシ〔四字右○〕なり、乏(ノ)字、スベ〔二字右○〕とよむ義は未(ダ)詳ならねど、此(ノ)下に、無乏《スベナカリ》、又|無乏《スベヲナミ》、十二に、無乏《スベヲナミ》などあれば、古(ヘ)スベ〔二字右○〕と云に用ひし字なるべし、(略解に、乏は爲も誤なり、といへるは、推當なり、)○歌(ノ)意かくれなし、十二に、何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハナモコヒズアリトハアラネドモウタテコノゴロコヒノシゲシモ》、十三に、何時橋物不戀時不者《イツハシモコヒヌトキトハ》、不有友是九月乎《アラネドモコノナガツキヲ》、吾背子之偲丹爲與得《ワガセコガシヌヒニセヨト》云々、古今集に、いつはとは時はわかねど秋の夜ぞもの思ふことのかぎりなりける、
 
2374 是耳《カクノミシ》。戀度《コヒシワタレバ》。玉切《タマキハル》。不知命《イノチモシラズ》。歳經管《トシハヘニツヽ》。
 
是耳は、カクノミシ〔五字右○〕と訓べし、(カクシノミ〔五字右○〕と訓ては、同じやうのことながら、助聲のおきどころ、古語の例にたがひてわろし、)九(ノ)卷に、如是耳志戀思渡者靈刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタレバタマキハルイノチモアレハヲシケクモナシ》、此(ノ)下に、人目多常如是耳志候者何時吾不戀將有《ヒトメオホモツネカクノミシサモラハヾイヅレノトキカアガコヒザラム》、十三に、如是耳志相不思有者天雲之外衣君者可有有來《カクノミシアヒモハザラバアマクモノヨソニソキミハアルベカリケル》、などある、其(ノ)例なり、○玉切《タマキハル》は、命《イノチ》の枕詞なり、○歳經管は、トシハヘニツヽ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、如是《カク》ばかり、一(ト)すぢに戀しく思ひて、月日を經わたれば、惜むべき命の、終(リ)に近くならむ(18)ことをもおぼえずして、徒に歳月を過しつゝあらむが、くちをしき事ぞ、となり、
 
2375 吾以後《アレユノチ》。所生人《ウマレムヒトハ》。如我《アガゴトク》。戀爲道《コヒスルミチニ》。相與勿湯目《アヒコスナユメ》。
 
相與勿湯目《アヒコスナユメ》は、勤《ユメ》よ勤《ユメ》よ、あふことなかれの意なり、散《チリ》こすなゆめ、ありこすなゆめ、聞(キ)こすなゆめ、など云る類なり、與(ノ)字は、集中に、希望辭の、コソ〔二字右○〕に多く用ひたり、既く説《イヘ》り、(略解に、乞の誤なりと云るは、推當なり、)○歌(ノ)意は、吾より後に生れ出む人は、ゆめ/\吾(ガ)如く、戀の道にあふことなかれ、まことに戀は苦しきものにてあるぞ、となり、
 
2376 健男《マスラヲノ》。現心《ウツシコヽロモ》。吾無《アレハナシ》。夜晝不云《ヨルヒルトイハズ》。戀度《コヒシワタレバ》。
 
現心《ウツシコヽロ》は、字(ノ)意の如く、うつゝ心といはむが如し、つよくたしかなる心を云、此(ノ)下に、玉緒之島心哉《タマノヲノウツシコヽロヤ》云々、七(ノ)卷に、紅之寫心哉《クレナヰノウツシコヽロヤ》云々、十二に、虚蝉之宇都思情毛《ウツセミノウツシコヽロモ》、又|鴨頭草乃移情《ツキクサノウツシコヽロ》、又|玉緒乃徙心哉《タマノヲノウツシコヽロヤ》云々、などあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2377 何爲《ナニセムニ》。命繼《イノチツギケム》。吾妹《ワギモコニ》。不戀前《コヒザルサキニ》。死物《シナマシモノヲ》。
 
2378 吉惠哉《ヨシヱヤシ》。不來座公《キマサヌキミヲ》。何爲《ナニセムニ》。不厭吾《イトハズアレハ》。戀乍居《コヒツヽヲラム》。
 
二首とも、歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2379 見度《ミワタシノ》。近渡乎《チカキワタリヲ》。回《タモトホリ》。今哉來座《イマヤキマスト》。戀居《コヒツヽソヲル》。
 
見度は、ミワタシノ〔五字右○〕と訓べし、十三に、神風之伊勢乃國者《カムカゼノイセクニハ》云々、見渡島毛《ミワタシノシマモ》(毛を名に誤、)高之《タカシ》、此下(19)に、見渡三室山《ミワタシノミムロノヤマ》、又十三に、見渡爾妹等者立志《ミワタシニイモラハタヽシ》、などありて、打向ひ見渡さるゝ處を、ミワタシ〔四字右○〕といふなり、(こゝはミワタセバ〔五字右○〕と訓はわろし、)○渡《ワタリ》は、河などのあるによりて云るなるべし、(略解に、あたりといふことに解なせるは、ひがことなるべし、すべてあたりを、わたりと云こと古(ヘ)になきことなればなり、五條わたりなどやうに云ことは、やゝ後のことなり、)○歌(ノ)意は、今夫(ノ)君の來るをりに至れりと、打(チ)見やるに、見わたしの近き河瀬のわたりに、かげも見えこぬは、人目をはゞ かりて、避(キ)道をして、まはりきますにやと、待つゝぞ居る、となり、七(ノ)卷に、視渡者近里廻乎田本欲今衣吾來領巾振之野爾《ミワタセバチカキサトミヲタモトホリイマソアガコシヒレフリシヌニ》、
 
2380 早敷哉《ハシキヤシ》。誰障鴨《タガサフレカモ》。玉桙《タマホコノ》。路見遺《ミチミワスレテ》。公不來座《キミガキマサヌ》。
 
歌(ノ)意は、誰人りへだて障ふればか、愛《ウツク》しき君が、此ほどは、路見忘れて來まさぬやうに、間《ホド》久しくはなりたるぞ、さてもなさけなや、となり、第一(ノ)句は、第五(ノ)句の上にうつして心得べし、(略解に、公《キミガ》のカ〔右○〕の言は清て、歟《カ》の意なり、誰人の障て來まさぬか、又路を忘れて來まさぬかと云なり、といへるは、ひがことなるべし、)
 
2381公目《キミガメノ》。見欲《ミマクホシケミ》。是二夜《コノフタヨ》。千歳如《チトセノゴトク》。吾戀哉《アガコフルカモ》。
 
公目は、キミガメノ〔五字右○〕と訓べし、○見欲は、ミマクホシケミ〔七字右○〕と訓べし、見まほしかる故にの意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
(20)2382 打日刺《ウチヒサス》。宮道人《ミヤヂヲヒトハ》。雖滿行《ミチユケド》。吾念公《アガモフキミハ》。正一人《タヾヒトリノミ》。
 
歌(ノ)意かくれなし、四(ノ)卷岳本(ノ)天皇御製歌に、人多爾國爾波滿而《ヒトサハニクニニハミチテ》、味村乃去來者行跡《アヂムラノサワキハユケド》、吾戀流君爾之不有者《アガコフルキミニシアラネバ》云々、反歌に、山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左夫思惠君二四不在者《ヤマノハニアヂムラサワキユクナレドアレハサブシヱキミニシアラネバ》、十三に、式島之山跡之土丹《シキシマノヤマトノクニニ》、人多滿而雖有《ヒトサハニミチテアレドモ》云々、反歌に、式島乃山跡乃土丹八二有年念者難可將嘆《シキシマノヤマトノクニニヒトフタリアリトシモハバナニカナゲカム》、これら思(ヒ)合すべし、
 
2383 世中《ヨノナカハ》。常如《ツネカクノミト》。雖念《オモヘドモ》。半手不忘。猶戀在《ナホコヒニケリ》。
 
常如は、ツネカクノミト〔七字右○〕と岡部氏のよめるぞよろしき、如此とあるべき處なれども、此(ノ)字は省きて書るなるべし、○半手不忘は、(手は多(ノ)字の誤にて、ハタワスラレズ〔七字右○〕ならむ、と岡部氏云り、されど此(ノ)人麿集の書樣に、さる假字あることなければ、なほいかゞなり、)吾者不忘《アレハワスレズ》などあるべきところなり、○戀在は、コヒニケリ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、世中の常の理にて、如此あるべき事なれば、強て迷はじとは思へども、猶人のうへの忘られずして、戀しく思ふ心に迷ひけり、といふなるべし、
 
2384 我勢古波《ワガセコハ》。幸座《サキクイマスト》。遍來《タビマネク》。我告來《アレニツゲツヽ》。人來鴨《ヒトモコヌカモ》。
 
遍來は、もとのまゝにては、解《トケ》がたし、(略解に、適喪を誤れるにて、タマタマモ〔五字右○〕なるべし、といへるは非なり、喪の假字を書るも、此前後の例にたがへるをや、)かれ按(フ)に、來は多の誤なるべし、(21)さらばタビマネク〔五字右○〕と訓べし、四(ノ)卷に、大夫之思和備乍遍多嘆久嘆乎不負物可聞《マスラヲノオモヒワビツヽタビマネクナゲクナゲキヲオハヌモノカモ》、又、夜之穗杼呂出都都來良久遍多數成者吾※[匈/月]截燒如《ヨノホドロイデツツクラクタビマネクナレバアガムネキリヤクゴトシ》、などあるを考(ヘ)合(ス)べし、○告來の來も誤なるべし、乍(ノ)字などあるべし、ツゲツヽ〔四字右○〕と訓べし、○人來鴨は、ヒトモコヌカモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、吾(カ)夫子に、平安《サキ》くておはしますと云ことを、吾に告知せつゝ、使人の度しげく來れかし、となり、
 
2385 麁玉《アラタマノ》。五〔□で囲む〕|年雖經《トシハフレドモ》。吾戀《アガコフル》。跡無戀《アトナキコヒノ》。不止恠《ヤマヌアヤシモ》。
 
五年雖經は、略解に、清水(ノ)濱臣云、五は上の玉よりうつりて、誤て入たるなるべし、トシハフレドモ〔七字右○〕ならむといへり、とあり、○跡無戀は、アトナキコヒノ〔七字右○〕と訓べし、則跡形もなき戀の意なり、八(ノ)卷に、秋野乎旦往鹿乃跡毛奈久念之君爾相有今夜香《アキノヌヲアサユクシカノアトモナクオモヒシキミニアヘルコヨヒカ》、とある跡《アト》の意に同じ、しるしのなきことなり、○不止恠は、中山(ノ)嚴水が、ヤマヌアヤシモ〔七字右○〕とよめるぞ宜き、○歌(ノ)意は、大方何事も、年月を經れば、繁きことも、まばらになりなど、移ひ變《カハ》るならひなるに、吾(カ)思は初も今も變る事なく繋きは、さてもあやしき事や、かく年月久しく、戀しく思へども、何のしるしもなき事なるに、となり、
 
2386 石尚《イハホスラ》。行應通《ユキトホルベキ》。建男《マスラヲモ》。戀云事《コヒチフコトハ》。後悔在《ノチクイニケリ》。
 
歌(ノ)意、契冲云、神武天皇(ノ)紀に、更|少進《イサヽカイデマセバ》、亦有(リ)v尾而|披《オシワケ》2磐石《イハヲ》1而《テ》出者《イヅルヒトアリ》、天皇問之曰、汝(ハ)何人《タレソ》、對2曰《マウシキ》臣《アレハ》是|磐排別之子《イハオシワクノコト》1、いはをも蹈さきて、とほるべきほどのつはものも、戀といふことには、後のくや(22)みある、となり、大敵にむかひても、おそれぬをのこの、戀とい へば、かへりみしてくゆるは、これがおもしろきことなり、
 
2387 日低《ヒクレナバ》。人可知《ヒトシリヌベミ》。今日《ケフノヒノ》。如千歳《チトセノゴトク》。有與鴨《アリコセヌカモ》。
 
日低(低(ノ)字、舊本には位と作り、其は低を※[人偏+弖]とも作《カク》によりて、誤れるなり、今は拾穗本に從つ、)は、ヒクレナバ〔五字右○〕とよむべし、○今日は、ケフノヒノ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、日暮なば、人の知べき故に、今日暮ずして、千年の如く、長くてあれかし、といふならむ、略解に、日暮て、却て人目多きことのよしありて、今日の日は、千歳の如く、長くあれかしとねがふなるべし、といへり、(契冲が夕になれば、いとゞ心ぼそく涙もろなるゆゑに、人知ぬべしとはいふなり、と云るは、いかゞなり、
 
2388 立座《タチテヰテ》。態不知《タドキモシラズ》。雖念《オモヘドモ》。妹不告《イモニツゲネバ》。間使不來《マツカヒモコズ》。
 
立座態不知は、タチテヰテタドキモ、シラズ〔タチ〜右○〕、と訓べし、(略解にタチヰスルワザモシラエズ〔タチ〜右○〕、とよめるはわろし、)十二に、立而居爲便乃田時毛今者無《タチテヰムスベノタドキモイマハナシ》、又、立居田時毛不知《タチテヰテタドキモシラズ》、とあり、○歌(ノ)意は、何(レ)のすぢに便り寄(リ)著ば、思をはるけむと云事をもしらず、立ても居ても、ひとへに戀しく思へども、かく思ふと云ことを、妹に告知す人のなければ、間使も來ず、となり、
 
2389 烏玉《ヌバタマノ》。是夜莫明《コノヨナアケソ》。朱引《アカラビク》。朝行公《アサユクキミヲ》。待苦《マテバクルシモ》。
(23)朱引《アカラビク》は、朝行《アサユク》の言を隔て、公《キミ》といふへかゝれり、(朝の言へつゞけたるにはあらず、)十(ノ)卷に、朱羅引色妙子數見者久妻故吾可戀奴《アカラビクシキタヘノコヲシバミレバヒトヅマユエニアレコヒヌベシ》、とあり、又十六に、飯喫騰味母不在《イヒハメドウマクモアラズ》云々|赤根佐須君之情志忌可禰津藻《アカネサスキミガコヽロシワスレカネツモ》、とあるも同じ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2390 戀爲《コヒスルニ》。死爲物《シニスルモノニ》。有者《アラマセバ》。我身千遍《ワガミハチタビ》。死反《シニカヘラマシ》。
 
歌(ノ)意は、戀をするに、若(シ)戀死に死るものにてあるぞならば、幾度と云限もなく、千度も吾は死ては死《シニ》、死ては死《シニ》すべき事なるに、かく苦しき戀をしても、死る期《トキ》に至らねば、死るものにてもなきぞ、となり、四(ノ)卷笠(ノ)女郎が、家持卿に贈れる歌に、念西死爲物爾在麻世波千遍曾吾者死變益《オモフニシシニスルモノニアラマセバチタビソアレハシニカヘラマシ》、とあると、同じ歌なり、
 
2391 玉響《ヌバタマノ》。昨夕《キノフノユフベ》。見物《ミシモノヲ》。今朝《ケフノアシタニ》。可戀物《コフベキモノカ》。
 
玉響、タマユラ〔四字右○〕と訓來れども、さる詞のあるべくもあらず、玉の聲を、由良良《ユララ》とも、由良久《ユラク》ともいふ詞はあれども、そをやがて打まかせて、玉由良《タマユラ》といはむは、古語の格にたがへり、もし又しばらく玉の聲を、玉由良《タマユラ》と云ことの有とせむに、此(ノ)歌にては、いかにも解べきよしなきをや、(玉ユラ〔二字右○〕は、幽かなる意なりなど云は、強て此(ノ)歌を、もとのまゝにて解むとおもふ、後(ノ)世意より出たる説なり、さるは昨夕たしかにあはずして、幽かに見たらむには、今朝はいよ/\思ひのまさるべき理なれば、可v戀物かとは、いふまじきことなるをや、)かれ熟々按(フ)に、こはもと烏(24)玉とありて、ヌバタマノ〔五字右○〕にて、夕《ユフベ》にかゝれる枕詞なりけむを、例の下上に玉烏と誤り、さて烏の草書〓と書るが、〓と似たるうへ、玉には響こそよしあれとて、後(ノ)世人の、うるはしく玉響と改寫て、たまゆらといふ訓をさへになせしなるべし、然るを、今まで註者等の舊本の誤をうけて解來れるは、いかにぞや、(其(ノ)中に荒木田(ノ)久老が、玉響をタマユラ〔四字右○〕とよめるは、ひがよみにて、響は玉の音のさやかなる意にて假れるものなれは、則タマサカ〔四字右○〕とよむべきなり、と云るは、舊訓に泥まざるは宜しけれども、なほ強解《シヒコト》なり、)あはれ古書に眼をさらす人の、絶て久しくなりにけるこそ、あさましけれ、(堀川百首に、伊勢、おくれじと山田のさなへとる田子の玉ゆらもすそほす隙ぞなき、愚草に、定家、玉ゆらの露も涙もとゞまらずなき人こふる宿の秋風、などあるをおもへば、右の歌を、たまゆらとよみたるあやまりをうけたることも、やゝ久しきことなり、)○歌(ノ)意は、絶々なるにこそ、戀しく思ふなどいふことは有らめ、昨日の夕に相見てしものを、今朝かくまで戀しく思ふべきものかは、戀べきことにはあらぬをと、自(ラ)吾(カ)身をなぐさむるやうにいへるが、中々あはれなり、此(ノ)下に、昨日見而今日社間吾妹子之幾許繼手見卷欲《キノフミテケフコソヘダテワギモコガコヽグクツギテミマクホシキモ》、とあるをも考(ヘ)合(ス)べし、
 
2392 中中《ナカナカニ》。不見有從《ミザリシヨリハ》。相見《アヒミテハ》。戀心《コヒシキコヽロ》。益念《イヨヽオモホユ》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、六帖、後朝、逢見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり、(25)思(ヒ)合(ス)べし、
 
2393 玉桙《タマホコノ》。道不行爲《ミチユカズシテ》。有者《アラマセバ》。惻隱此有《ネモコロカヽル》。戀不相《コヒニハアハジ》。
 
歌(ノ)意、契冲云、道ゆきぶりに、おもひよらず人を見そめて、物思となる心にて、かくはよめり、
 
2394 朝影《アサカゲニ》。吾身成《ワガミハナリヌ》。玉垣入《タマカギル》。風所見《ホノカニミエテ》。去子故《イニシコユヱニ》。
 
朝影《アサカゲニ》云々は、痩衰へて、朝日にうつりて見ゆる影の如くになれるを云、此(ノ)下に、朝影爾吾身者成辛衣襴之不相而久成者《アサカゲニワガミハナリヌカラコロモスソノアハズテヒサシクナレバ》、古今集に、戀すれば吾身は影となりにけりさりとて人にそはぬものゆゑ、○玉垣入は、タマカギル〔五字右○〕とよむべし、垣は、カギ〔二字右○〕の借(リ)字、入はル〔右○〕の借(リ)字なり、(垣は清音、カギル〔三字右○〕のギ〔右○〕は濁音なれば、いかゞと思ふ人あるべけれど、借(リ)字には、清濁互にまじへ用る例あること、既くいへるが如し、入は、イル〔二字右○〕のイ〔右○〕の言は、カギ〔二字右○〕のギ〔右○〕の餘韻に含める故に、自ら省る故ル〔右○〕の假字とせり、)玉限《タマカギル》、玉蜻《タマカギル》などあるに同じくて、風《ホノカ》といはむ料の枕詞なり、別に委き考(ヘ)あり、○風所見は、ホノカニミエテ〔七字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意は、たゞ髣髴にのみ見し女なるものを、せむなき思(ヒ)にやせおとろへて、吾(カ)身ははや朝日の影の如くになりぬとなり、○十二に、朝影爾吾身者成奴玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》、とあるは、全(ラ)同歌なり、
 
2395 行行《ユケドユケド》。不相妹故《アハヌイモユヱ》。久方《ヒサカタノ》。天露霜《アメノツユシモニ》。沾在哉《ヌレニケルカモ》。
 
行行は、雖《ドモ》v行《ユケ》雖《ドモ》v行《ユケ》なり、○不相殊故《アハヌイモユヱ》は、逢(ハ)ぬ妹なるものをの意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢな(26)し、
 
2396 玉坂《タマサカニ》。吾見人《ワガミシヒトヲ》。何有《イカナラム》。依以《ヨシヲモチテカ》。亦一目見《マタヒトメミム》。
 
歌(ノ)意かくれなし、
 
2397 暫《シマシクモ》。不見戀《ミネバコヒシキ》。吾妹《ワギモコヲ》。日日来《ヒニヒニクレバ》。事繁《コトノシゲケク》。
 
暫は、シマシクモ〔五字右○〕と訓べし、(又シマラクモ〔五字右○〕にてもあしからず、)○吾妹《ワギモコヲ》は、吾妹子なるものをの意なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
2398 年切《タマキハル》。及世定《ヨマテサダメテ》。恃《タノメタル》。公依《キミニヨリテシ》。事繁《コトノシゲケク》。
 
年切は、年は玉の誤なりといへり、タマキハル〔五字右○〕と訓べし、八(ノ)卷にも、玉切命向戀從者公之三舶乃梶柄母我《タマキハルイノチニムカヒコヒムヨハキミガミフネノカヂツカニモガ》、とあり○歌(ノ)意は、本(ノ)句は、契冲が、偕老同穴の心なり、といへるごとく、死行末來《シニユクスヱ》までもかはらじと、たのみに思はせたる君なるに依て、とにかく云さわぎつゝ、人事の繁き事よ、かくては、心のまに/\相見む事もかはほじを、いかにしてまし、といふ意を、含めたるなるなるべし、但し玉切は、自餘みな命《イノチ》、また世《ヨ》といふ言の枕詞に用ひたるを、こゝはいさゝか異りて、來世のことにいへりとみゆるは、いかなることにか、其(ノ)所由をしらず、
 
2399 朱引《アカラビク》。秦不經《ハダモフレズテ》。雖寐《ネタレドモ》。心異《ケシキコヽロヲ》。我不念《アガモハナクニ》。
 
朱引《アカラビク》は、契冲云、第十六に、あかねさす君とよめるに同じ、それは紅顔《テレルカホ》のにほひをいひ、今は、は(27)だへの雪のごとくなるに、すこし紅のにほひあるをいへり、○秦不經《ハダモフレズテ》は、(秦は借(リ)字にて、)膚《ハダ》も不《ズ》v觸《フレ》而《テ》なり、經は觸(ノ)字の意なり、十二に、吹風の妹にふれなば、といへるにも、經者とかけり、此(ノ)下にも、浦經《ウラブレ》、又|浦經《ウラブル》、とあり、○心異は、(コヽロヲケニハ〔七字右○〕とよみたれども、つたなし、)按(フ)に、異心とありけむが、例の下上に誤れるなるべし、さらば、ケシキコヽロヲ〔七字右○〕と訓べし、十四に、可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《カラコロモスソノウチカヘアハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》、十五に、波呂波呂爾《ハロバロニ》、於毛保由流可母之可禮杼母異情乎安我毛波奈久爾《オモホユルカモシカレドモケシキコヽロヲアガモハナクニ》、又、安良多麻能等之能乎奈我久安波射禮杼家之伎許己呂乎安我毛波奈久爾《アラタマノトシノヲナガクアハザレドケシキコヽロヲアガモハナクニ》、などあるを考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、すべなく障る事のありしにより、女の紅のにほひある膚に觸て、相宿せずしてはあれども、異なる情を持はせぬものを、何かは疑はるゝ事のあるべき、となり、
 
2400 伊田何《イデイカニ》。極太甚《ネモコロゴロニ》。利心《トゴヽロノ》。及失念《ウスルマデモフ》。戀故《コフラクノユヱ》。
 
伊田何《イデイカニ》は、乞如何《イデイカニ》なり、乞《イデ》は既くたび/\出(デ)つ、○極太甚は、此(ノ)末に、大船にまかぢしゞぬきこぐほども極太戀し年にあらばいかに、とあるも、ネモコロ〔四字右○〕と訓べければ、ネモコロゴロニ〔七字右○〕と訓べし、と本居氏云り、○利心《トゴヽロ》は、利《ト》き心を云、ますらをのさとき心もわれはなし、とよめるに同じ、○歌(ノ)意は、いでそも如何なれば、人戀しく思ふ故によりて、かくさとき心の消失るまで、深切に思ふことぞ、となり、
 
(28)2401 戀死《コヒシナバ》。戀死哉《コヒモシネトヤ》。我妹《ワギモコガ》。吾家門《ワギヘノカドヲ》。過行《スギテユクラム》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、上に似たる歌ありて、既く彼處にも註り、
 
2402 妹當《イモガアタリ》。遠見者《トホクシミレバ》。恠《アヤシクモ》。吾戀《アレハソコフル》。相依無《アフヨシヲナミ》。
 
歌(ノ)意は、妹(カ)家の邊を遠々に見やれば、たゞに相見ることのならぬ故に、心に堪がたく、何故にかくまで思はるゝぞ、と自(ラ)もあやしまるゝばかり、戀しく思ふ、となり、
 
2403 玉《ヤマシロノ》。久世清河原《クセノカハラニ》。身※[禾+祓の旁]爲《ミソギシテ》。齋命《イハフイノチハ》。妹爲《イモガタメコソ》。
 
第一二(ノ)句は、略解に、本居氏、玉は山の誤にて、代を脱し、清は能(ノ)字ならむ、さらばヤマシロノクセノカハラニ〔ヤマ〜右○〕と訓べしといへり、されどこゝは、能(ノ)字を添べき書さまにあらず、考べし、といへり、故(レ)按(フ)に、山背久世河原《ヤマシロノクセノカハラニ》とありけむを、山を玉に、背を清に誤りたるより、つひに錯置《ミダレ》しならむ、和名抄に、山城(ノ)國久世(ノ)郡久世郷、とあり、○※[禾+祓の旁]は、祓と通(ハシ)用、○歌(ノ)意は、久世の河原に禊齋《ミソギ》して、壽命《イノチ》永かれと?(リ)申すことは、妹が爲によりてこそするなれ、となり、
 
2404 思依《オモヒヨリ》。見依物《ミヨリシモノヲ》。有《ナニストカ》。一日間《ヒトヒヘタツヲ》。忘念《ワスルトオモハム》。
 
此(ノ)歌(ノ)意、もとのまゝにては解難《キコエガタ》し、(契冲が、オモフヨリミルヨリモノハアルモノヲヒトヒノホドモワスルトオモフナ〔オモフヨ〜右○〕とよみて、人のかたより、我がおもひのほどをおもひはかり、色をうかゞひみるよりは、わがおもひはふかくてあるものを、たとひさはることありて、一日へ(29)だてゝあはぬことありとも、わすれたりやとは、おもふなとなり、といへれどいかゞ、岡部氏は、上の依は從の意、下の見依の依は、倦か飽の誤ならむ、オモフヨリミルニハアケルモノナレバヒトヒヘダツヲワスルトオモハム〔オモフ〜右○〕と訓べし、といへり、なほいかゞなり、)今按(フ)に、有(ノ)字は、何の誤か、又は爲の誤にて、何爲とありけむが、何(ノ)字は脱たるものか、さらばオモヒヨリミヨリシモノヲナニストカヒトヒヘダツヲワスルトオモハム〔オモヒ〜右○〕と訓べし、さらば歌(ノ)意は、心に思ひ目に見て、二(ツ)なく縁(リ)しに妹なるものを、いかなれば、たゞ一日障ることありて隔てたりとも、わすれたりとは、妹がおもはむやは、となり、
 
2405 垣廬鳴《カキホナス》。人雖云《ヒトハイヘドモ》。狛錦《コマニシキ》。※[糸+刃]解開《ヒモトキアケシ》。公無《キミナラナクニ》。
 
垣廬鳴《カキホナス》は、人のことしげにいひたつるをいへり、四(ノ)卷、九(ノ)卷に出て、既く註《イヘ》り、○狛錦《コマニシキ》は、高麗錦にて、既くいへり、契冲云、源氏物語繪合に、右はぢんのはこ、せんかうのしたづくゑ、うちしきは、あをぢのこまのにしき、といへり、○歌(ノ)意は、とにかくに、他人はいひたてさわぐとも、よしや紐解て、相宿せし君にてはなきことなるを、となり、
 
2406 狛錦《コマニシキ》。※[糸+刃]解開《ヒモトキアケテ》。夕戸《ユフヘダニ》。不知有命《シラザルイノチ》。戀有《コヒツヽアラム》。
 
夕戸は、略解に、戸は谷(ノ)字の誤なるべし、といへり、さもあるべし、ユフヘダニ〔五字右○〕なり、○※[糸+刃]解開《ヒモトキアケテ》は、思ふ人にあはむ前兆に、自《オラ》紐の解る事あるを、その前兆にならひて、自(ラ)設けてするならむ、○(30)歌(ノ)意は、本居氏、三四一二五、と句を次第《ツイデ》て心得べし、といへり、夕にだにもしらぬ、はかなき命なるものを、紐ときあけて、こひつゝあるべきことかはの謂なり、
 
2407 百積《モヽツミノ》。船潜納《フネコギイルヽ》。八占剃《ヤウラサシ》。母雖問《ハヽハトフトモ》。其名不謂《ソノナハノラジ》。
 
百積、古來モヽサカ〔四字右○〕とよみて、百尺《モヽサカ》の義とすれども、穩ならず、(こゝは積(ノ)字を、サカ〔二字右○〕の假字に用ひたりともおもはれず、)モヽツミ〔四字右○〕とよみて、百の物を積載る大きなる船といふ義とせむかた、穩なるべし、○船潜納は、十六に、大船爾小船引副可豆久登毛志賀乃荒雄爾潜將相八方《オホブネニヲブネヒキソヘカヅクトモシカノアラヲニカヅキアハメハモ》、とありて、潜《カヅク》と云こと、いふまじきにあらず、と思ふめれど、彼(ノ)歌は、事のさま異りたれば、こゝはカヅク〔三字右○〕にては穩ならぬことなり、故(レ)按(フ)に、潜は漕(ノ)字の誤なるべし、又納も※[さんずい+内]の寫誤にてもあるべきか、もしさらば、フネコグウラノ〔七字右○〕と訓べし、但し納は舊のまゝにて、イルヽ〔三字右○〕にても通《キコ》ゆれば、そはいづれにてもあるべし、さてこれまでは序にて、八占《ヤウラ》をいはむ料に、船こぐ浦を設ていへるなり、船漕(キ)入る浦と云意のいひつゞけなり、かく思ひよらず、他物《コトモノ》をとりもちきて序とするをおもしろみしたるものなり、○八占刺《ヤウラサシ》は、彌度占《ヤタビウラナヒ》を爲《ス》るを云なるべし、刺《サシ》は、その卜占のわざするをいふ言なるべし、そのもと何某何某《ナニガシタレガシ》の所爲などゝ、さしあらはす具なるゆゑに、指といふにやあらむ、○歌(ノ)意は、男の我許にかよひくるを、母のいぶかり思ひて、八たび占などおほせて、度々われをせめて問とも、其(ノ)男の名をば、母にいひきかせじと、女の男を(31)たのめてよめるなり、
 
2408 眉根削《マヨネカキ》。鼻鳴※[糸+刃]解《ハナヒヒモトケ》。待哉《マテリヤモ》。何時見《イツカモミムト》。念吾君《オモヒシワギミ》。
 
此(ノ)歌此(ノ)卷(ノ)未問答(ノ)歌に、眉根掻鼻火紐解待八方何時毛將見跡戀來吾乎《マヨネカキハナヒヒモトケマテリヤモイツカモミムトコヒコシアレヲ》、とある、理かなひて聞ゆ、今はその歌を誤れるなるべし、末にいたりてなほいふべし、
 
2409 君戀《キミニコヒ》。浦經居《ウラブレヲレバ》。悔《アヤシクモ》。我裏※[糸+刃]《ワガシタヒモノ》。結手徒《ユフテタユシモ》。
 
悔は、略解に、恠の誤ならむか、アヤシクモ〔五字右○〕と訓べし、といへり、○結手徒は、岡部氏、徒は倦の誤にて、ユフテタユシモ〔七字右○〕と訓べし、といへり、十二に、京師邊君者去之乎孰解言紐緒乃結手懈毛《ミヤコヘニキミハイニシヲタレトケカワガヒモノヲノユフテタユキモ》、古今集戀(ノ)一に、おもふともこふともあはむものなれやゆふ手もたゆくとくる下紐、○歌(ノ)意は、君を戀しく思ひて、恍惚《ホレ/”\》として愁ひ居れば、あやしや吾(ガ)下紐の、結ぶ手もつかるゝまで解るよ、これはさは思ふ人にあはむと云、前兆《シルシ》にてこそあらめ、となり、
 
2410 璞之《アラタマノ》。年者竟杼《トシハハツレド》。敷白之《シキタヘノ》。袖易子少《ソテカヘシコヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
 
年者竟杼は、トシハハツレド〔七字右○〕と訓るよろし、年の暮るを竟《ハツ》ると云は、古言なり、(クルヽ〔三字右○〕と云は後なり、)十(ノ)卷に、昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來《キノフコソトシハハテシカハルカスミカスガノヤマニハヤタチニケリ》、後撰集に、藤原(ノ)敦忠、物思ふと過る月日もしらぬまにことしもけふにはてぬとかきく、○敷白は、契冲、白とかけるは、日本紀に、たへのはかまとまみ、此(ノ)集第二第十三に、たへのほとよめる、みな白きをたとへ云ばなり、と(32)いへり、(略解に、白の下、布か妙かの字、脱たるならむ、といへれど、中々にわろかるべし、)たへのほと云に、雪穗とかけるをも、考(ヘ)合(ス)べし、○少は、ヲ〔右○〕の假字なり、(略解に、乎の誤なるべし、といへれど、もとのまゝにてよろし、)○忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》は、唯忘れむやは、と云意なり、○歌(ノ)意は、年は竟終《ハツ》れども、袖交て相宿せし女の事を忘れむやは、得忘れあへず、となり、
 
2411 白細布《シロタヘノ》。袖小端《ソテヲハツ/\》。見柄《ミシカラニ》。如是有戀《カカルコヒヲモ》。吾爲鴨《アレハスルカモ》。
 
見柄は、舊本に依て、ミシカラニ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、ミテシカラ〔五字右○〕と訓るは穩ならず、)按(フ)に、柄の下に、爾(ノ)字など脱たるか、ミシカラニ〔五字右○〕は、見しものなるをの意にて、柄《カラ》は人妻故爾《ヒトヅマユヱニ》などの故と同(シ)意なり、○歌(ノ)意は、親く交りて、相語ひし人ならば、さもあるべきに、袖をほの/”\と見しばかりなるものを、さてもかやうに、堪がたき思をする事哉、となり、
 
2412 我妹《ワギモコニ》。戀無乏《コヒスベナカリ》。夢見《イメニミムト》。吾雖念《アレハオモヘド》。不所寐《イネラエナクニ》。
 
戀無乏は、(略解に、乏は爲の誤なるべし、といへるは、ひがことなるよし、上にいへり、)コヒスベナカリ〔七字右○〕とよめるよろし、戀て爲便《スベ》なさに、といはむが如し、十二に、吾妹兒二戀爲便名鴈《ワギモコニコヒスベナカリ》、十七に、和賀勢故爾古非須弊奈賀利《ワガセコニコヒスベナカリ》、などあり、○歌(ノ)意は、吾妹子を戀しく思ひて爲方のなさに、夢になりとも見て慰まむと思へど、寢入(ラ)れずして、夢に見ることも叶はぬことなれば、いかにとかせむ、となり、
 
(33)2413 故無《)ユヱモナク》。吾裏※[糸+刃]《ワガシタヒモソ》。令解《イマトクル》。人莫知《ヒトニナシラセ》。及正逢《タヾニアフマデニ》。
 
令解は、中山(ノ)嚴水(カ)説に、令は今り誤にてイマトクル〔五字右○〕なり、といへり、是(レ)宜し、○歌(ノ)意は、故も無(ク)、自然に吾(カ)下紐ぞ今解る、さてもうれしや、これは思ふ人にあふべき前兆《シルシ》ならむ、能して直に逢までは、人に知(ラ)るゝことなかれ、若惡くして人にしられたらば、とにかくいひさわかれて、あふことのならぬやうになるべきぞと、紐にいひ付るやうに、いへるなるべし、
 
2414 戀事《コフルコト》。意遣不得《コヽロヤリカネ》。出行者《イデユケバ》。山川《ヤマモカハヲモ》。不知來《シラズキニケリ》。
 
意遣不得《コヽロヤリカネ》、遣(ノ)字、舊本に追と作るは誤なり、此(ノ)下に、雲谷灼發意遣見乍爲及直相《クモダニモシルクシタヽバコヽロヤリミツヽヲヲラムタヾニアフマデニ》、とある、遣をも追に誤たり、(この追を、共に進の誤として、ナグサメ〔四字右○〕と、略解には訓たれど、わろし、)十一に、忘哉語意遣雖過不過猶戀《ワスルヤトモノガタリシテコヽロヤリスグセドスギズナホゾコヒシキ》、又三(ノ)卷に、酒飲而情乎遣爾《サケノミテコヽロヲヤルニ》、十七に、於毛布度知許己呂也良武等《オモフドテココロヤラムト》、十九に、見明米情也良武等《ミアキラメコヽロヤラムト》、などあるを、思(ヒ)合(ス)べし、○山川は、ヤマモカハヲモ〔七字右○〕と訓て、山をも川をもと云意になれり、九(ノ)卷に、父母をも妻をもと云意なるを、父妣毛妻矣毛將見跡《チヽハヽモツマヲモミムト》、といひ、十九に、京師《ミヤコ》をも此處《コヽ》をもと云意なるを、京師乎母此間毛於夜自等《ミヤコヲモココモオヤジト》、とあるなど、みな同例なり、○歌(ノ)意は、戀しく思ふことの物むづかしさに、いかにもして、心をなぐさめむと思へど、心を晴し遣得ずして、家を立出て此方彼方吟ひ行ば、山をも川をも辨へ知ずに、心空にて來にけり、となり、
(34)〔右四十七首、柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
2517 足千根乃《タラチネノ》。母爾障良婆《ハヽニサハラバ》。無用《イタヅラニ》。伊麻思毛吾毛《イマシモアレモ》。事應成《コトナルベシヤ》。
 
母爾障良婆《ハヽニサハラバ》は、母《ハヽ》の禁《イサ》め衛るに、憚り障らばの意なり、(略解に、さはらばは、障られなばを約め云なり、といへるは、自他の差別あることを辨へぬ、ひがことなり、)○無用《イタヅラ》、一(ノ)卷にもかく書り、○伊麻思《イマシ》は、十四に、伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》云々、續紀高野(ノ)天皇(ノ)大命に、朕我天先帝乃御命以天《アガアマツサキノミカドノミコトモチテ》、朕仁勅之久《アレニノリタマヒシク》、天下方《アメノシタハ》、朕子伊未之仁授《アガコイマシニサヅケ》給(フ)云々、字鏡に、※[人偏+尓](ハ)禰、汝也、伊萬志《イマシ》、又|支三《キミ》、などあり、本居氏云、伊麻志《イマシ》は、十四(ノ)卷、また後の物語などに麻之《マシ》ともあり、又續紀(九、三十一」宣命どもに、美麻斯《ミマシ》ともあり、さて那と云も伊麻志《イマシ》と云も、後には下ざまの人にのみいへど、いと上(ツ)代には然らず、其(ノ)本は尊む人にもいへる稱《ナ》なり、○事應成は、コトナルベシヤ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、母の禁め衛るに、憚り障りて時を待(タ)ば、つひに吾と汝が中の事成(ラ)ず、思の無用《イタヅラ》になりなむか、となり、此(ノ)下に、垂乳根乃母白者公毛余毛相鳥羽梨丹年可經《タラチネノハヽニマヲサバキミモアレモアフトハナシニトシソヘヌベキ》、
 
2518 吾妹子之《ワギモコガ》。吾呼送跡《アレヲオクルト》。白細布乃《シロタヘノ》。袂漬左右二《ソテヒヅマテニ》。哭四所念《ナキシオモホユ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
2519 奥山之《オクヤマノ》。眞木乃板戸乎《マキノイタドヲ》。押開《オシヒラキ》。思惠也出來根《シヱヤイデコネ》。後者何將爲《ノチハイカニセム》。
 
奥山之《オクヤマノ》は、眞木《マキ》と云のみにかゝれり、檜は、もはら奥山に生る謂もていへるなり、奥山の家の(35)義にはあらず、○眞木乃板戸《マキノイタト》は、檜材《ヒノキ》の板戸なり、十四にも、於久夜麻能眞木乃伊多度乎等杼登之※[氏/一]和我比良可武爾伊利伎※[氏/一]奈左禰《オクヤマノマキノイタドヲトドトシテワガヒラカムニイリキテナサネ》、此(ノ)下にも、奥山之眞木乃板戸乎音速見妹之當乃霜上爾宿奴《オクヤマノマキノイタドヲオトハヤミイモガアタリノシモノヘニネヌ》、などあり、○押開《オシヒラキ》は、五(ノ)卷に、遠等※[口+羊]良何佐那周伊多斗乎《ヲトメラガサナスイタドヲ》、意斯比良伎伊多度利與利提《オシヒラキイタドリヨリテ》、書紀繼體天皇(ノ)卷、匂(ノ)大兄(ノ)皇子(ノ)御歌に、莽紀佐倶避能伊陀圖嗚《マキサクヒノイタトヲ》、飫斯※[田+比]羅枳倭例以梨魔志《オシビラキワレイリマシ》云云、などあり、○思惠也《シヱヤ》は、假に縱す辭にて、縱意哉《ヨシヱヤシ》と云に同じ意の處に用ひたり、○歌(ノ)意は、女の家の戸口にいたりて、男のよめるにて、後といはゞなにとかせむ、よしやさはることありとも、檜の坂戸を押開て、出來て逢てよと、いふなるべし、
                         
2520 苅薦能《カリコモノ》。一重※[口+立刀]敷而《ヒトヘヲシキテ》。紗眠友《サヌレドモ》。君共宿者《キミトシヌレバ》。冷雲梨《サムケクモナシ》。
 
苅薦《カリコモ》は、薦《コモ》は蓆《ムシロ》なり、蒋《コモ》を刈ほして、席に造る故に、苅薦《カリコモ》と云なるべし、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、四(ノ)卷に、蒸被奈胡也我下丹雖臥與妹不宿者肌之寒霜《ムシブスマナゴヤガシタニフセレドモイモトシネネバハダシサムシモ》、今と表裏《ウラウヘ》の歌なり、思(ヒ)合(ス)べし、
 
2521 垣幡《カキツハタ》。丹頬經君※[口+立刀]《ニヅラフキミヲ》。率爾《イサヽメニ》。思出乍《オモヒイデツヽ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
垣幡《カキツハタ》は、燕子花にて、丹頬經《ニヅラフ》をいはむ料の枕詞なり、○丹頬經は、ニヅラフ〔四字右○〕とよむべし、(ニホヘル〔四字右○〕とよめるは誤なり、契冲もはやくいへり、)○率爾《イサヽメニ》は、七(ノ)卷に、眞木柱作蘇麻人伊左佐目丹借廬之爲跡造計米八方《マキハシラツクルソマヒトイサヽメニカリホノタメトツクリケメヤモ》、十(ノ)卷に、率爾今毛欲見秋芽之四搓二將有妹之光儀乎《イサヽメニイマモミガホシアキハギノシナヒテアラムイモガスガタヲ》、などあり、○鴨は、可《カ》は、後(ノ)世の可波《カハ》の意なり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、紅顔の君の事を思(ヒ)出つゝ、たゞかりそ(36)めに、嗚呼《アヽ》と歎きつるかは、草率《カリソメ》の事にはあらず、深く思ふに堪かねたればこそ、あはれかくまで、歎息をしつるにこそあれ、となり、
 
2522 恨登《ウラミムト》。思狹名盤《オモヒナヅミテ》。在之者《アリシカバ》。外耳見之《ヨソノミゾミシ》。心者雖念《コヽロハモヘド》。
 
恨登とは、ウラミムト〔五字右○〕とよめるによるに、恨《ウラミ》をいはむとゝいふ意なり、吾に教へよ行て恨みむ、とよめる恨みむに同じ、○思狹名盤(盤(ノ)字、拾穗本、古寫一本等には磐と作り、それもいかゞ、)は、本居氏、狹名盤は必(ス)誤字なるべし、といへり、(セナハ〔三字右○〕とよめるによりて、兄名《セナ》がつらさを、うらみむと思ひて有しかば、心にはこひしく思ひながら、懲《コラ》しめむとて、よそめにはみてあはぬよしなり、と契冲いへれど、さては歌(ノ)意も穩ならじ、そのうへ兄名者《セナハ》を、狹名盤とは書しとも思はれねば、いかさまにも、決《ウツナ》く誤字ならむ、)今按(フ)に、狹は積(ノ)字を草書にて誤寫《ヒガウツシ》し、さて字を顛置《オキタガ》へて、狹名とし、狹名を兄名《セナ》と見たるより、盤はもとは而(ノ)字なりけむを、さてはよめがたきによりて、上下の畫の消滅たるものと思ひて、さかしらに補加へて、改寫したるものにて、もとは、思名積而《オモヒナヅミテ》なりしにやあらむ、○歌(ノ)意は、直に相見たらば、果して日ごろの恨《ウラミ》をいはれむ、と思ひ艱難《ナヅ》みてありしからに、心には、いかにも戀しく思ひはすれども、直に相見ることを得せずして、外《ヨソ》にのみぞ見てありつる、といへるにやあらむ、
 
2523 散頬相《サニヅラフ》。色者不出《イロニハイデジ》。小文《スクナクモ》。心中《コヽロノウチニ》。吾念名君《アガモハナクニ》。
 
(37)歌(ノ)意は、少くも思はず、心中に深く切に思ふことなれど、さりとて、人にしらすべきにあらざれば、色には出すまじ、となり、此(ノ)下に、言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘバミミニタヤスシスクナクモコヽロノウチニアガモハナクニ》、
 
2524 吾背子爾《ワガセコニ》。直相者社《タヾニアハバコソ》。名者立米《ナハタヽメ》。事之通爾《コトノカヨフニ》。何其故《ナニカソコユヱ》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)夫子《セコ》にたゞしく逢たらばこそ、げにも名は立ため、たゞ言のみ徃來《ユキカヒ》するに、それゆゑに、なにか人に名を立て、いひさわがるゝことのあらむぞ、となり、
 
2525 懃《ネモコロニ》。片念爲歟《カタモヒスレカ》。比者之《コノゴロノ》。吾情利乃《アガコヽロドノ》。生戸裳名寸《イケルトモナキ》。
 
情利《コヽロド》は、十三、十九にもかく見えたり、心神と書る字(ノ)意なり、(荒木田(ノ)久老云、三(ノ)卷に、心神、情神、十二卷に、心神とあるは、コヽロド〔四字右○〕と訓べし、度《ド》は所の意にて、心臓をいふにやあらむ、)○歌(ノ)意は、深切に片思をすればにや、このごろは、吾(カ)心神の生(キ)たるこゝちもせぬ、となり、
 
2526 將待爾《マツラムニ》。到者妹之《イタラバイモガ》。懽跡《ウレシミト》。咲儀乎《ヱマムスガタヲ》。往而早見《ユキテハヤミム》。
 
懽跡《ウレシミト》は、懽しさにといふ意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、下に、不念丹到者妹之歡三跡咲牟眉曳所思鴨《オモハヌニイタラバイモガウレシミトヱマムマヨビキオモホユルカモ》、とある歌に、大方似たり、
 
2527 誰此乃《タレソコノ》。吾屋戸來喚《ワガヤドニキヨブ》。足千根乃《タラチネノ》。母爾所嘖《ハヽニコロバエ》。物思吾呼《モノモフアレヲ》。
 
根の下乃(ノ)字、舊本にはなし、今は拾穗本、水戸本等に從つ、○母爾所嘖《ハヽニコロバエ》、神代紀に、發(シ)2稜威之嘖讓《イツノコロビヲ》1云々、嘖讓此云2擧廬毘《コロビト》1、とありて、罵り責らるゝを云、十四に、禰奈敝古由惠爾波伴爾許呂波要《ネナヘコユヱニハハニコロバエ》、(38)と見え、又、奈我波伴爾己良例安波由久《ナガハハニコラレアハユク》、ともあり、○歌(ノ)意かくれなし、契冲云、女に似つきたる歌なり、十四に、多禮曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和我世乎夜里※[氏/一]伊波布許能戸乎《タレソコノヤノトオソブルニフナミニワガセヲヤリテイハフコノトヲ》、
 
2528 佐不宿夜者《サネヌヨハ》。千夜毛有十方《チヨモアリトモ》。我背子之《ワガセコガ》。思可悔《オモヒクユベキ》。心者不持《コヽロハモタジ》。
 
歌(ノ)意かくれなし、三(ノ)卷に、妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持《イモモアレモキヨミノカハノカハキシノイモガクユベキコヽロハモタジ》、十四に、可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《カマクラノミコシノサキノイハクエノキミガクユベキココロハモタジ》、などあり、
 
2529 家人者《イヘヒトハ》。路毛四美三荷《ミチモシミミニ》。雖往來《カヨヘドモ》。吾待妹之《アガマツイモガ》。使不來鴨《ツカヒコヌカモ》。
 
徃(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は水戸本、異本等に從つ、○歌(ノ)意は、此方の家内の人は、めしつかふ者まで、家の邊の路を、しげく行來《ユキカヒ》すれども、吾(カ)思ふ妹が使は、今か今かと待居るに、たえて來ぬ事哉、さても待遠や、となり、
 
2530 璞之《アラタマノ》。寸戸我竹垣《キヘガタカカキ》。編目從毛《アミメヨモ》。妹志所見者《イモシミエナバ》。吾戀目八方《アレコヒメヤモ》。
 
璞之《アラタマノ》といへるよしは、次にことわらむ、○寸戸我竹垣《キヘガタカカキ》は、十四遠江(ノ)國(ノ)歌に、阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多※[氏/一]天由吉可都麻思目移乎佐伎太多尼《アラタマノキヘノハヤシニナヲタテヽユキカツマシモイオヲサキダタネ》、また、伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太伊利奈麻之母乃伊毛我乎杼許爾《キヘビトノマダラブスマニワタサハダイリナマシモノイモガヲドコニ》、とあり、契冲、契冲、璞《アラタマ》は、遠江(ノ)國|麁玉《アラタマノ》郡なり、といへり、和名抄に、遠江(ノ)國麁玉(ノ)郡|阿良多未《アラタマ》、今稱2有玉(ト)1、とあり、續記に、元明天皇靈龜元年五月、遠江地震、山崩(レ)※[雍/土]2※[竹/鹿]《麁歟》玉河(ヲ)1、水爲之不v流云々、廢帝寶字五年七月辛丑、遠江(ノ)國荒玉河(ノ)堤決(ルコト)三百餘丈、役(シ)2單功三(39)十萬三千七百餘人(ヲ)1、宛v粮修築、と見ゆ、〔頭註。【略解に、遠江國麁玉河に、堤三百餘丈を築しこと、三代實録に見ゆとあり、今按、三代實録無所見、可重考、】〕さて寸戸は、其(ノ)郡のあたりに、今貴平と呼村あり、是なりと略解にはいへり、又本居氏は、璞之《アラタマノ》は枕詞にて、地(ノ)名の寸戸を、來經《キヘ》の意にとりなしてつゞけたるなり、寸戸《キヘ》は、遠江(ノ)國山香郡に、伎階《キヘ》と云郷の見えたる、階(ノ)字は陛の誤にて、寸戸《キヘ》は是なるべし、麁玉(ノ)郡には、伎倍《キヘ》てふ郷なし、といへり、なほ國人に尋て具《クハシ》くいふべし、(又荒木田氏は、寸戸《キヘ》は地(ノ)名を云に非ず、城隔《キヘ》にて、今|壁《カベ》といふは、この城隠《キヘ》と同意にて、垣隔《カキヘ》なるべし、又伎倍乃波也之《キヘノハヤシ》とあるも、伎倍《キヘ》は城隔《キヘ》にて、垣外の林をいふなり、といへれど、いかゞ、)璞之《アラタマノ》を、枕詞とする説によりて、猶考(フ)るに、寸戸《キヘ》は、孝徳天皇(ノ)紀に、大化三年、造2渟足柵《ヌタリノキヲ》1置2柵戸(ヲ)1、四年治2磐舟(ノ)柵《キヲ》1以備2蝦夷1、遂(ニ)選d越|與《ト》2信濃1之民(ヲ)u、始置2柵戸(ヲ)1、この渟足、磐舟は越後なり、績紀廿(ノ)卷(ノ)詔に、出羽(ノ)國|小勝《ヲカチ》村(ノ)乃柵戸爾移賜久止宣《ノキニウツリタマハクトノリタマフ》、などありて、陸奥出羽越後などには、蝦夷の備に城柵を置れしなり、さて柵戸と云は、柵に屬たる民戸《タミノイヘ》也、と本居氏詔詞解に云る如し、さて今も南部の地に、南より段々一の戸《ヘ》、三の戸《ヘ》、五の戸《ヘ》、七の戸《ヘ》、八の戸《ヘ》、九の戸《ヘ》など、すべて戸《ヘ》と呼地多くて、その戸と云所は、城跡と見ゆるとぞ、されば、その城柵を置れしにつきて、その蝦夷の防のために選ばれし民どもの、つぎ/\にかために居し小城を、三の戸、五の戸など呼なせる、今はその跡を云なるべし、さて陸奥出羽のあたりには、蝦夷の備に、もはら城柵をきびしく置れしことにこそあれ、他(ノ)國々にも、軍備のために置れし(40)ことのありしなるべければ、此(ノ)歌の寸戸《キヘ》も柵|戸《ヘ》にて、其はいづれの國とも、定めがたきにやあらむ、さてその城外の竹垣を、寸戸《キヘ》が竹垣《タカカキ》とは云るなるべし、此は城内に守り居る人のよめるか、又は柵戸の垣は、世にことに緊しく造れゝば、たとひその柵戸の垣のまばらならず、きびしく結堅めたる、わづかの透間からなりとも見えなば、といへるにて、幽かになりとも見むと思ふ意をいはむために、設出て譬へたるにて、城柵《キヘ》にあづからnu人のよめるにもあるべし、○歌(ノ)意は、心足ひに相見る事は叶ふべからねば、竹垣の編目の透間からなりとも、妹が容儀の見えなば、かくばかり一(ト)すぢに戀しく思ふことはせじ、嗚呼見まほしや、となり、
 
2531 吾背子我《ワガセコガ》。其名不謂跡《ソノナノラジト》。玉切《タマキハル》。命者棄《イノチハステツ》。忘賜名《ワスレタフフナ》。
 
歌(ノ)意は、たとひいかなる大事ありて、生て居られぬばかりのことあらむにも、吾(カ)夫子が名をば謂《ノリ》て人にしらせじ、と堅く思ひ定めたれば、もとより我は、命もなきものと思ふなり、かくまで夫(ノ)君を深くたのみたれば、夫(ノ)君も吾を忌(レ)賜ふことなかれ、となり、
 
2532 凡者《オホカタハ》。誰將見鴨《タガミムトカモ》。黒玉乃《ヌバタマノ》。我玄髪乎《ワガクロカミヲ》。靡而將居《ヌラシテヲラム》。
 
靡而將居は、本居氏云、ヌラシテヲラム〔七字右○〕と訓べし、二(ノ)卷に、多氣琴奴禮《タケバヌレ》と云|奴禮《ヌレ》の意なり、此(ノ)下に、夜干玉之妹之黒髪今夜毛加吾無床爾靡而宿良武《ヌバタマノイモガクロカミコヨヒモカアガナキトコニヌラシテヌラム》、又、夜干玉之吾黒髪乎引奴良思亂而反戀度鴨《ヌバタマノワガクロカミヲヒキヌラシミダレテアレハコヒワタルカモ》、などあり、○歌(ノ)意は、誰に見せむとてか、吾(カ)黒髪をぬら/\と靡して居むぞ、大方にお(41)もはねばこそ、夫(ノ)君に媚《ナマメ》く容形を見せむとて、かくは爲なれ、となり、
 
2533 面忘《オモワスレ》。何有人之《イカナルヒトノ》。爲物烏《スルモノソ》。言者爲金津《アレハシカネツ》。繼手志念者《ツギテシモヘバ》。
 
面忘《オモワスレ》は、下にも、面志太爾毛得爲也《オモワスレダニモエセムヤ》、とよめり、○烏(ノ)字、舊本に鳥に誤れり、古寫本、古寫一本、拾穗本等には、焉と作り、烏焉相通ふこと既くいへり、○言は、我也と註り、○歌(ノ)意は、いかなる人の面忘をするものにてあるぞ、いかで忘れむ忘れむと思へども、つゞきて絶ず思へば、吾は面忘をすることを得知ず、となり、
 
2534 不相思《アヒオモハヌ》。人之故可《ヒトノユヱニカ》。璞之《アラタマノ》。年緒長《トシノヲナガク》。言戀將居《アガコヒヲラム》。
 
言を我と通(ハシ)書ること、前また後の歌、また其(ノ)他にも、かた/”\に見ゆ、(略解に、吾の誤かと云るは、無稽(ノ)説なり、)○歌(ノ)意は、相思はぬ人にてあるものを、年(ノ)緒長く、戀しくのみ思ひつゝ居むか、となり、
 
2535 凡乃《オホカタノ》。行者不念《ワザトハモハジ》。言故《ワレユヱニ》。人爾事痛《ヒトニコチタク》。所云物乎《イハレシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、わが故によりて、君も世の人に、こと/”\しくいひさわがれしものを、其をおもへば、君とわが中を、たゞ一(ト)通《ワタリ》のことゝは思ひ侍らじと、女の男の心をねぎらひて、よめるものか、
 
2536 氣緒爾《イキノヲニ》。妹乎思念者《イモヲシモヘバ》。年月之《トシツキノ》。往覽別毛《ユクラムワキモ》。不所念鳧《オモホエヌカモ》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
(42)2537 足千根乃《タラチネノ》。母爾不所知《ハヽニシラエズ》。吾持留《アガモタル》。心者吉惠《コヽロハヨシヱ》。君之隨意《キミガマニマニ》。
 
歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水、母あれば、此(ノ)身は君によりがたけれど、母にもしらさずして、もたる我(ガ)心は、よしやよし、君がまに/\よらむ、といへるにや、と云り、十三に、足千根乃母爾毛不謂※[果/衣]有之心者縱君之隨意《タラチネノハヽニモノラズツヽメリシコヽロハヨシヱキミガマニマニ》、
 
2538 獨寢等《ヒトリヌト》。※[草がんむり/交]朽目八方《コモクチメヤモ》。綾席《アヤムシロ》。緒爾成及《ヲニナルマデニ》。君乎之將待《キミヲシマタム》。
 
獨寢等《ヒトリヌト》は、一人寢《ヒトリネ》をするとての意なり、○※[草がんむり/交]《コモ》は、菰、蒋などの字と同じきを、こゝは薦《コモ》に借(リ)用(ヒ)たり、薦は、こゝは薦筵《コモムシロ》の中重《ナカノヘ》なり、○綾席《アヤムシロ》は、契冲、さま/”\にそめて、文を織たるむしろなり、と云り、略解に、綾檜笠《アヤヒガサ》、綾槍垣《アヤヒガキ》などの綾の言の如く、藺を綾に織たるなるべし、といへり、○緒《ヲ》は、席を編る絲《イト》なり、○歌(ノ)意は、畧解に、こもは中(ノ)重なり、席は上(ノ)重なり、その上重の綾席はそこなはれて、編緒《アミヲ》のみに成ぬとも、中(ノ)重のこもまでは、朽亂るまじければ、夫子《セコ》と共宿せし疊を、いつまでも取もかへず、敷寢つゝ待なむとなり、と云り、第一二(ノ)句は、二人寢ばこそあらめ、一人寢とて、薦朽はすまじ、と云なるべし、(鎌倉(ノ)右大臣、あやむしろをになるまでも戀わびぬしたくちぬらしとふのすがごも、)
 
2539 相見者《アヒミテハ》。千歳八去流《チトセヤイヌル》。否乎鴨《イナヲカモ》。我哉然念《アレヤシカモフ》。待公難爾《キミマチカテニ》。
 
否乎鴨《イナヲカモ》は、否歟諾歟《イナカヲカ》と云むが如し、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、(俗に、そうであるまいか、そうであらうか、(43)と云に、こゝは同じ、)十四に、筑波禰爾由伎可呼布良留伊奈乎可呼加奈思吉兒呂我爾奴保佐流可母《ツクハネニユキカモフラルイナヲカモカナシキコロガニヌホサルカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、逢見て後、千歳の久しき間をや經ぬる、いな然《サ》はあらぬか、然《サ》あらむか、思ふに、君を待がてに思ふ心より、我(ガ)しか思ふにてあらむ、さても待久しきことや、となり、四(ノ)卷に、比者千歳八往裳過與吾哉然念欲見鴨《コノゴロハチトセヤユキモスギヌルトアレヤシカモフミマクホリカモ》、相似たる歌なり、○此(ノ)歌、十四(ノ)東歌の未に入て、其(ノ)左註に、柿本朝臣人麻呂歌集出也、とあり、
 
2540 振別之《フリワケノ》。髪乎短彌《カミヲミジカミ》。青草乎《ハルクサヲ》。髪爾多久濫《カミニタクラム》。妹乎師曾於母布《イモヲシゾオモフ》。
 
振別之髪《フリワケノカミ》とは、專らとは、八歳までは、髪の末を肩にくらべて切て、頂より兩方へかきわけて垂るを云、(宇津保物語姫松に、十のみこ四ばかりにて、御ぐしふりわけにて、しろくうつくしげにこえて云々、)されど是は今少し過て、十歳ばかりにもなりて、漸(ク)髪を長からしむる比にても、猶ふり分髪と云べし、と畧解にいへり、○青草乎(青(ノ)字、古寫本、水戸本、拾穗本等には春と作り、いづれにてもよろし、乎(ノ)字、舊本にはなし、官本、古寫本、拾穗本等に從つ、)は、ハルクサヲ〔五字右○〕と訓べし、ハル〔二字右○〕草は即(チ)若草のことなり、五色を四時に配るとき、青は春に當れば、ハル〔二字右○〕と訓べし、十三にも青山《ハルヤマ》とあり、さて青草乎《ハルクサチ》云々とは、若草の髪の如きを、其(ノ)髪にたぐりそへつかぬるなり、ゐなかの女兒の、かづら草と名付て、なよゝかに、細く長き草の、叢に生るを採て、さるわざするなりと、これも略解にいへり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
(44)2541 徘徊《タモトホリ》。往箕之里爾《ユキミノサトニ》。妹乎置而《イモヲオキテ》。心空在《コヽロソラナリ》。土者蹈鞆《ツチハフメドモ》。
 
徘徊《タモトホリ》奮本に、徊徘と作るは、例の下上に誤れるものなり、類聚抄、拾穗本等には俳※[人偏+回]と作り、)は、枕詞なり、徘徊りて往(キ)廻るといふ意なり、(往箕《ユキミ》は、往(キ)めぐると云に同じ古言なればなり、)○往箕之里《ユキミノサト》(往(ノ)字、舊本に住と作るは誤なり、今は官本、拾穗本、古寫一本等に從つ、)は、いづくならむ、未(タ)考得ず、○心空在《コヽロソラナリ》は、十二に、吾妹子之夜戸出乃光儀見之從情空成地者雖踐《ワキモコガヨトデノスガタミテシヨリコヽロソラナルツチハフメドモ》、又、立居田時毛不知吾意天津空有土者踐鞆《タチテヰテタドキモシラズアカコヽロアマツソラナリツチハフメドモ》、伊勢物語に、野にありけど心はそらにて云々、源氏物語に、たれもたれも、あしをそらにてまかで給ふ、○歌(ノ)意は、往箕(ノ)里に、妹を殘し置て、別れて來れば、地は蹈ども、なほ心は空にて、殊が許にのみ通ふぞ、となり、
 
2542 若草乃《ワカクサノ》。新手枕乎《ニヒタマクラヲ》。卷始而《マキソメテ》。夜哉將間《ヨヲヤヘタテム》。二八十一不在國《ニククアラナクニ》。
 
若草乃《ワカクサノ》は、新《ニヒ》といはむための枕詞なり、若草の新《ニヒ》しきといふ意にいひかけたり、十四に、新草《ニヒクサ》
ともよめり、○歌(ノ)意は、今始めて心とけて、新に相宿したる妹が、ありしにまさりて、愛《ウルハ》しく思はるゝことなるに、早故ありて、毎夜逢事もかなはねば、夜を隔て相見むか、となり、源氏物語葵に、かよひ給ひし所々よりは、うらめしげに、おどろかしきこえ給ひなどすれば、いとほしとおぼすもあれど、にひ手枕の心ぐるしくて、夜をや隔てむとおぼしわづらはるれば、いと物うくて、なやましげにのみもてなし給ひて云々、とあるは、此(ノ)歌によりて書るものなり、
 
(45)2543 吾戀之《アガコヒシ》。事毛語《コトモカタラヒ》。名草目六《ナグサメム》。君之使乎《キミガツカヒヲ》。待八金手六《マチヤカネテム》。
 
歌(ノ)意は、君が使の來らば、吾(カ)戀しく思ひし事をも相語(ヒ)て、心を慰めむと思ふに、その使を待ど待ど待得ずて、さる事もかなはねば、その使をまつに堪がたくて、今日も暮しなむか、となり、
 
2544 寤者《ウツヽニハ》。相縁毛無《アフヨシモナシ》。夢谷《イメニダニ》。間無見君《マナクミエキミ》。戀爾可死《コヒニシヌベシ》。
 
間無見君《マナクミエキミ》は、間無(ク)見えよ君、と云がごとし、本居氏は、君は誤字なるべし、マナクミエコソ〔七字右○〕とあるべし、といへり、○歌(ノ)意は、現在にあひたくはあれども、とてもあふべきよしなければ、せむ方なし、夢になりとも毎夜毎夜間なく見えよ、もし夢にさへ見え來ずば、吾は戀死に死ぬべきぞ、となり、
 
2545 誰彼登《タソカレト》。問者將答《トハバコタヘム》。爲便乎無《スベヲナミ》。君之使乎《キミガツカヒヲ》。還鶴鴨《カヘシツルカモ》。
 
歌(ノ)意は、君が使をだに、今しばしとゞめて、かたらはまほしけれども、彼は誰そと、母などのとひあやしまむことをおそれて、かへせしが、さても口惜きこと哉、となり、
 
2546 不念丹《オモハヌニ》。到者妹之《イタラバイモガ》。歡三跡《ウレシミト》。咲牟眉曳《ヱマムマヨビキ》。所思鴨《オモホユルカモ》。
 
不念丹《オモハヌニ》は、おもひがけなく不慮にの意なり、○眉曳《マヨビキ》は、六(ノ)卷、十四(ノ)卷にもあり、仲哀天皇(ノ)紀に、※[目+録の旁]此云2麻用弭枳《マヨビキト》1、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、此(ノ)上にも似たる歌あり、
 
2547 加是許《カクバカリ》。將戀物衣常《コヒムモノゾト》。不念者《オモハネバ》。妹之手本乎《イモガタモトヲ》。不纒夜裳有寸《マカヌヨモアリキ》。
 
(46)歌(ノ)意は、これほど月日をへだてゝ、戀しう思はむものぞとも、かねておもはざりしかば、おこたりてあはぬ夜もありしが、今更くやしき、となり、十二は、此間爾戀將繁跡不念者君之手本乎不枕夜毛有寸《ヨノナカニコヒシゲケムトオモハネバキミガタモトヲマカヌヨモアリキ》、又七(ノ)卷に、吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳《ワガセコヲイヅクユカメトサキタケノソガヒニネシクイマシクヤシモ》、これは挽歌ながら、後悔の意相通へり、
 
2548 如是谷裳《カクダニモ》。吾者戀南《アレハコヒナム》。玉桙之《タマホコノ》。君之使乎《キミガツカヒヲ》。待也金手武《マチヤカネテム》。
 
如是谷裳《カクダニモ》は、谷《ダニ》は、第四(ノ)句の使乎《ツカヒヲ》の下にめぐらして意得べし、俗に、なりともと云意の詞なり、又さへといふ意にも通へり、こゝは君が使なりとも、來れかしとまつに、その使をさへも、待や不得《カネ》てむ、といふ謂なり、○吾者戀南《アレハコヒナム》は、南《ナム》は、辭の那牟《ナム》には非ず、望《ネガ》ふ意にて、能牟《ノム》と云むがごとき詞なるべし、三(ノ)卷大伴氏(ノ)郎女祭神歌に、如此谷裳吾者祈奈牟君爾不相可聞《カクダニモアレハコヒナムキミニアハヌカモ》、反歌に、木綿疊手取持而如此谷裳吾波乞甞君爾不相鴨《ユフタヽミテニトリモチテカクダニモアレハコヒナムキミニアハヌカモ》、とある、彼は神に祈?《コヒイノ》る事にいひ、此はたゞ望《ネガ》ふ意に用ひたれど、本は何にも心に乞望ふ事をば、すべて能牟《ノム》とも那牟《ナム》とも通(ハ)し云るなるべし、(本居氏は、或説に、十三に、引づらひ有なみ雖爲《スレド》、いひづらひありなみすれど、ありなみえずぞ云々と、あるは、有(リ)なみの活用《ハタラキ》にて、戀なむは、戀なみすると云むに同じ、といへるよしいへれど、十三なるは、有否《アリナミ》の謂にて、此《コヽ》の戀南《コヒナム》の南《ナム》とは、意異れりとおぼゆれば、いかゞなり、猶十三にいはむを、考(ヘ)合(ス)べし、)○歌(ノ)意は、戀しく思ふ君に、あひたく望《ネガ》ふは、さらにもいはず、その(47)使なりとも來れかしと待に、使をさへ、吾はかくばかり待得ずしてやあらむ、となり、
 
2549 妹戀《イモニコヒ》。吾哭涕《アガナクナミダ》。敷妙木《シキタヘノ》。枕通而《マクラトホリテ》。袖副所沾《ソテサヘヌレヌ》。
 
敷妙木の木は、之の誤なるべし、○歌(ノ)意は、妹を戀しく思ひて、ひたすらになくわが涙は、枕を徹り越て、袖まで沾ぬ、となり、○註に、或本歌云枕通而卷者寒母、これは用(フ)べからず、尾句穩ならざればなり、
 
2550 立念《タチテオモヒ》。居毛曾念《ヰテモソオモフ》。紅之《クレナヰノ》。赤裳下引《アカモスソビキ》。去之儀乎《イニシスガタヲ》。
 
立念《タチテオモヒ》は、立ても念ひといふ意なり、その毛《モ》は、次の居毛《ヰテモ》の毛《モ》にて帶《カネ》たり、○毛曾《モソ》は、かへりてといふ意を、輕く含む辭なるを、此《コヽ》はたゞ毛《モ》と曾《ソ》と、おのづから重りたるのみにて、含めたる意はなし、○下引は、スソビキ〔四字右○〕なり、(契冲云、源氏物語眞木柱に、あかもたれ引いにし姿をと、にくげなるふることなれど、御ことぐさになりてなむ、ながめさせ給ひける、とかけるは、此(ノ)歌なり、下引は、むかしはタレヒキ〔四字右○〕とよみけるか、式部がそらにおぼえてたがへる歟、)。歌(ノ)意は、紅の赤裳襴引て去し容儀の、しばしも忘れがたくて、立ても居ても、ひたすらに戀しく思ふぞ、となり、
 
2551 念之《オモフニシ》。餘者《アマリニシカバ》。爲便無三《スベヲナミ》。出曾行之《イデテソユキシ》。其門乎見爾《ソノカドヲミニ》。
 
2552 情者《コヽロニハ》。千遍敷及《チヘシク/\ニ》。雖念《オモヘドモ》。使乎將遣《ツカヒヲヤラム》。爲便之不知久《スベノシラナク》。
 
(48)2553 夢耳《イメノミニ》。見尚幾許《ミルスラコヽダ》。戀吾者《コフルアハ》。寤見者《ウツヽニミテバ》。益而如何有《マシテイカニアラム》。
 
三首とも、歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2554 對面者《アヒミテハ》。面隱流《オモカクサルル》。物柄爾《モノカラニ》。繼而見卷能《ツギテミマクノ》。欲公毳《ホシキキミカモ》。
 
面隱《オモカクサル》は、一(ノ)卷に、暮相而朝面無美隱爾加《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカ》云々、八(ノ)卷に、暮相而朝面羞隱野乃《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリヌノ》云々、とよめる、其(ノ)意なり、○歌(ノ)意は、まさしくあひみては、はづかしくてさしうつむき、或は面をおほひなどして、面隱《オモカクシ》せらるゝ物ながら、あはざればやがて戀しく思はれて、打つゞきて見まくほしき、君にもあるかな、となり、
 
2555 旦戸遣乎《アサトヤリヲ》。速莫開《ハヤクナアケソ》。味澤相《ウマサハフ》。目之乏流君《メヅラシキミガ》。今夜來座有《コヨヒキマセリ》。
 
旦戸遣《アサトヤリ》とは、遣(リ)戸をあけはなつを、戸を遣(ル)といへば、旦に開(ク)をかくいふべし、○早莫開《ハヤクナアケソ》は、朝早く開ることなかれの意なり、○味澤相《ウマサハフ》は、目《メ》をいはむとての枕詞なり、○目之乏流君は、本居氏云、流は視の誤にて、メヅラシキミガ〔七字右○〕ならむ、○今(ノ)字、舊本令に誤、拾穗本、古寫一本に從つ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2556 玉垂之《タマダレノ》。小簀之垂簾乎《ヲスノタレスヲ》。往褐《ヒキアゲテ》。寐者不眠友《イハナサズトモ》。君者通速爲《キミハカヨハセ》。
 
玉垂之《タマダレノ》は、枕詞なり、既く往々《トコロ/”\》出たり、○往褐、舊本ユキカチニ〔五字右○〕と訓れど、通えがたし、引掲の誤にて、ヒキアゲテ〔五字右○〕なるべきか、枕冊子に、帽額簾《モカウノス》は、ましてこはき物の打おかるゝ、いとしるし、(49)それもやれら引掲《ヒキアゲ》て出入するは、更に鳴ずとあるを考(ヘ)合(ス)べし、又岡部氏は、持掲の誤にて、モチカヽゲ〔五字右○〕なるべし、といへり、○歌(ノ)意は、吾がもとにて、やすく相寢することはなむずとも、小簾の垂簾をやをら引掲て、夜毎に通ひ來給へ、といふにや、
 
2557 垂乳根乃《タラチネノ》。母白者《ハヽニマヲサバ》。公毛余毛《キミモアレモ》。相鳥羽梨丹《アフトハナシニ》。年可經《トシソヘヌベキ》。
 
歌(ノ)意は、今こそたま/\にも、しのびあふことあれど、此(ノ)事を、母にあらはし申さば、禁《イサ》め衛《マモ》られて、たえてあふ事叶はずして、年をぞ經ぬべき、となり、上に第二(ノ)句、母にさはらばとありて、大かた同じき歌あり、
 
2558 愛等《ウツクシト》。思篇來師《オモヘリケラシ》。莫忘登《ナワスレト》。結之※[糸+刃]乃《ムスビシヒモノ》。解樂念者《トクラクモヘバ》。
 
思篇來師は、契冲、オモヘリケラシ〔七字右○〕とよむべし、篇《ヘム》の音をとりて、ヘリに用るは、播磨《ハリマ》などの例に準ずるなり、といへり、平群《ヘグリ》なども同例なり、○莫忘登は、ナワスレト〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、旅などにある男のよめるにて、別るゝ時に、妹がわすれ賜ふなと云て、結びし紐の、今解ることを思へば、我をなつかしと、妹が戀しく思へる故なるらし、となり、
 
2559 昨日見而《キノフミテ》。今日社間《ケフコソヘダテ》。吾妹兒之《ワギモコガ》。幾許繼手《コヽダクツギテ》。見卷之欲毛《ミマクシホシモ》。
 
今日社間は、(ケフコソアヒダ〔七字右○〕とよみて、今日こそ間なれ、といふ意なり、と云はわろし、)千賀(ノ)眞恒がもたりし本にケフコソヘダテ〔七字右○〕とよめる、いと宜し、此(ノ)上に、一日間を、ヒトヒヘダツヲ〔七字右○〕と(50)よめり、考(ヘ)合(ス)べし、○見卷之欲毛、(之(ノ)字、舊本にはなし、古寫本に從(ツ)、)ミマクシホシモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、月日隔て、あはざらばこそあらめ、昨日相見て、たゞ今日ばかりこそ隔つなれ、其(レ)にさへ堪かねて、つゞきて見まほしく、そこらくに戀しく思はるゝよ、嗚呼なにしに、かくまでに戀しく思はるらむぞ、となり、
 
2560 人毛無《ヒトモナキ》。古郷爾《フリニシサトニ》。有人乎《アルヒトヲ》。愍久也君之《メグクヤキミガ》。戀爾令死《コヒニシナセム》。
 
有人《アルヒト》とは、女のみづから我をいへるなり、○愍久《メグク》は、契冲、こゝにては、俗にいふ、かはゆげにといふ意に見るべし、といへり、〈今按に、俗にむごくと云は、このめぐゝの轉訛にやあらむ、)○歌(ノ)意は、契冲、人目もなき古里に、たゞ君が音づるゝを、たのむごとくにてある我を、とひもこずして、かはゆげに、戀(ヒ)死《シ》なせむものかとなり、といへり、
 
2561 人事之《ヒトコトノ》。繁間守而《シゲキマモリテ》。相十方《アヘリトモ》、八反吾上爾《ハタアガウヘニ》。事之將繁《コトノシゲケム》。
 
繁間守而《シゲキマモリテ》は、繁き間を守(リ)ての意なり、○八反吾上爾は(八反は八重にて、わが身の上に、八重にことのしげからむといふ意なり、といへど、八反の詞うちつかず、平穩ならぬやうなり、)今按に、八反は八多の誤なるべし、ハタアガウヘニ〔七字右○〕と訓べし、八多《ハタ》は、そのもと厭《イト》ひ惡《ニク》むことなれど、外にのがるべきすぢなくて、止ことなくする意の時に、いふ詞なり、○歌(ノ)意は、人言の繁ければ、あはで止べきなれど、さては得あらで、その人言の隙を守りうかゞひて、あひたりとも(51)なほその隙を、うまくうかゞひ得ること協はずして、人にとにかく、いひさわがれなむか、そのもと人言の繁きをば、厭ひ惡むことなれど、外にのがるべきすぢなければ、止事かたし、との謂なり、
 
2562 里人之《サトビトノ》。言縁妻乎《コトヨセヅマヲ》。荒垣之《アラカキノ》。外也吾將見《ヨソニヤアガミム》。惡有名國《ニクカラナクニ》。
 
歌(ノ)意は、女と我と相知(レ)る中ぞと、さもあらぬことを、其(ノ)里人のいひよせたるに、實は其(ノ)女を、にくゝはあらずおもふことなるを、人言をはゞかりて、外《ヨソ》にのみ見てありなむか、となり、
 
2563 他眼守《ヒトメモル》。君之隨爾《キミガマニマニ》。余共爾《アレサヘニ》。夙興乍《ハヤクオキツヽ》。裳裾所沾《モノスソヌレヌ》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、しのび夫《ヅマ》の夙《ハヤク》興《オキ》て去(ク)時に、女のよめるなるべし、
 
2564 夜干玉之《ヌバタマノ》、妹之黒髪《イモガクロカミ》。今夜毛加《コヨヒモカ》。吾無床爾《アガナキトコニ》。靡而宿良武《ヌラシテヌラム》。
 
今(ノ)字、舊本令に誤れり、古寫一本に從つ、○靡而は、これもヌラシテ〔四字右○〕と訓べし、上にいへり、此(ノ)下に、夜干玉之吾黒髪乎引奴良思《ヌバタマノワガクロカミヲヒキヌラシ》、とあり、○歌(ノ)意は、さはることありて、女の許へえ行ぬ夜、女をおもひやりてよめるにて、わが行て相宿せし夜のごとく、今夜もわがなき床に、黒髪を引ぬらして寢らむか、さてもいとほしや、といへるなり、
 
2565 花細《ハナグハシ》。葦垣越爾《アシカキコシニ》。直一目《タヾヒトメ》。相視之兒故《アヒミシコユヱ》。千遍嘆津《チタビナゲキツ》。
 
花細《ハナグハシ》は、契冲云、蘆の花をほむる詞なり、允恭天皇(ノ)紀に、天皇、衣通(ノ)姫の御もとに、御《ミ》ゆきせさせ(52)賜ひ、櫻を御覽じてよませ賜へる御歌に、波那具波辭佐久羅能梅涅許等梅涅麼波椰區波梅涅孺和我梅豆留古羅《ナグハシサクラノメデコトメデハハヤクハメデズワガメヅルコラ》、と見ゆ、(按に、蘆の花は、櫻のごとく、さのみうるはしきものならねば、花細蘆《ハナグハシアシ》とつゞけたりとせむこと、いさゝかおぼつかなし、故(レ)おもふに、此は多くの句を隔て、第四句の、兒といふへ、かゝりて、女の美貌《ウルハシキカタチ》を、花細《ハナクハシ》とほめたるものにてもあらむかと、松本(ノ)弘蔭云り、猶考(フ)べし、)○歌(ノ)意は、葦垣越に、たゞ一目ばかり相見し女なれば、さのみは、戀しく思ふまじきものなるを、猶忘れがたくて、千度嘆息をしつ、となり、
 
2566 色出而《イロニイデテ》。戀者人見而《コヒバヒトミテ》。應知《シリヌベミ》。情中之《コヽロノウチノ》。隱妻液母《コモリヅマハモ》。
 
應知は、シリヌベミ〔五字右○〕と訓べし、知(リ)ぬべからむとての意なり、○波母《ハモ》は、歎息《ナゲ》きて、いづらと尋ね慕ふ意の詞なり、○歌(ノ)意は、色に出しあらはして戀しく思はゞ、人の見て、それと知(リ)ぬべからむとて、心(ノ)中に深く隱して思ふ其(ノ)女はいづらや、さても戀しく思はるゝ事ぞ、となり、
 
2567 相見而者《アヒミテハ》。戀名草六跡《コヒナグサムト》。人者雖云《ヒトハイヘド》。見後爾曾毛《ミテノチニモソ》。戀益家類《コヒマサリケル》。
 
見後爾曾毛は、曾毛は、毛曾とありしを、誤れるなるべし、と略解に云るは、さもあるべし、ミテノチニモソ〔七字右○〕と訓べし、毛曾《モソ》は、かへりてといふ意を、輕く含める詞なり、二(ノ)卷下に、委(ク)云り、○歌(ノ)意は、戀しく思ふ人に相見ては、心をなぐさむるものぞと、世(ノ)人はいへども、中々さにあらず、相見て後に、かへりて戀しく思ふ心ぞ、いよ/\まさりける、となり、契冲云、此(ノ)歌、あひ見ての(53)後に心にくらぶれば、といふ歌の心におなじ、
 
2568 凡《オホロカニ》。吾之念者《アレシオモハバ》。如是許《カクバカリ》。難御門乎《カタキミカドヲ》。追出米也母《マカリデメヤモ》。
 
凡は、オホロカニ〔五字右○〕と訓べし、大方にと云むが如し、十九に、知智乃實乃父能美許等《チチノミノチヽノミコト》、波播蘇葉乃能美己等《ハハソハノハヽノミコト》、於保呂可爾情盡而念良牟其子奈禮夜母《オホロカニコヽロツクシテオモフラムソノコナレヤモ》、云々、○難御門《カタキミカド》とは、禁裏の御門は、出入の自縱《コヽロマヽ》ならぬを云、左右衛門式に凡黄昏之後出2入(セバ)内裏(ヲ)1、五位以上(ハ)稱(シ)v名、六位已下(ハ)稱(シ)2姓名(ヲ)1、然後聽(セ)之、其(ノ)宮門(ハ)、皆令(ヨ)2衛士(ニ)炬1v火(ヲ)、閤門(モ)亦同(ジ)、と見ゆ、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、大方にそこを思はゞ、かくばかり出入の自縱ならず、難き禁裏の御門を退り出てあはむやは、なみ/\に思はず、深く切に思へばこそ、かくて相見るなれ、嗚呼《アハレ》一(ト)わたりに思ふことなかれ、となり、
 
2569 將念《オモフラム》。其人有哉《ソノヒトナレヤ》。烏玉之《ヌバタマノ》。毎夜君之《ヨゴトニキミガ》。夢西所見《イメニシミユル》。
 
歌(ノ)意は、相思らむ其(ノ)人にてあれやは、さばかり相思らむ人にてはあらじを、かく毎夜《ヨゴト》に、君が吾が夢に入來て見ゆるは、あやしきことぞ、となり、○註に、或本歌云|夜晝不云吾戀渡《ヨルヒルトイハズアガコヒワタル》、この意は、相思ふらむ其(ノ)人にてあれやは、相思ふ人にてもなきに、よる晝といふ分もなく、わがこひわたるは、かひなきこと、といふなるべし、
 
2570 如是耳《カクノミニ》。戀者可死《コヒバシヌベミ》。足乳根之《タラチネノ》。母毛告都《ハヽニモツゲツ》。不止通爲《ヤマズカヨハセ》。
 
如是耳は、カクノミニ〔五字右○〕と訓べし、(カクシノミ〔五字右○〕とよめるはいとわろし、)○戀者可死《コヒバシヌベミ》は、戀ば死ぬ(54)べからむとての意なり、○歌(ノ)意は、かくばかり戀しく思はゞ、戀死に死ぬべからむとて、かくと母にもあらはして告つるなり、今はつゝむべきにもあらざれば、常に止ずて通ひ來給へ、となり、
 
2571 大夫波《マスラヲハ》。友之驂爾《トモノサワキニ》。名草溢《ナグサムル》。心毛將有《コヽロモアラム》。我衣苦寸《アレソクルシキ》。
 
友之驂は、本居氏のトモノサワキニ〔七字右○〕とよゆるによるべし、驂は、契冲、驟の誤か、又は騷かといへり、即(チ)拾穗本には騷と作り、今按(フ)に、驂は※[足+參]の誤なるべし、干禄字書に、※[足+參]躁(上俗下正、)とあり、かゝれば※[足+參]は躁の俗字なり、六(ノ)卷に、朝羽振浪之聲※[足+參]《アサハフルナミノトサワキ》、とあり、思(ヒ)合(ス)べし、○名草溢は、ナグサムル〔五字右○〕と訓べし、(ナグサモル〔五字右○〕とよめるは甚わろし、既く委く云り、)○歌(ノ)意は、契冲云、をとこは物思へど、友どちのまじはりに、何くれとまぎれても過るを、深閨にひとり居るわがおもひは、やるかたなくくるしき、となり、第四に、ますらをもかくこひけるをたをやめのこふる心にたぐへざらめやも、
 
2572 僞毛《イツハリモ》。似付曾爲《ニツキテソスル》。何時從鹿《イツヨリカ》。不見人戀爾《ミヌヒトコフニ》。人之死爲《ヒトノシニスル》。
 
歌(ノ)意は、見もしらぬ人を戀しく思ひて、戀死《コヒシニ》に死《シヌ》ると云は、そもいつの時代より、はじまれることぞや、吾等は、さやうのことはあるべき理とも思はず、さて/\よく似合たる僞をも、爲賜ふもの哉、となり、似合(ハ)しからぬことを、わざと似付たりと云は、人のうへを嘲るやうにい(55)へるなり、聞にくきを聞よきといふと、同類なり、神代(ノ)紀下(ノ)卷一書に、是時天孫見2其(ノ)子等《ミコタチヲ》1、嘲之曰《アザケリテノリタマハク》、妍哉吾皇子者《アナニヤアガミコハ》、聞喜而生之歟《キヽヨクテアレマセルカモ》、云々、(これも似合(ハ)ず、聞にくきことを嘲りて、わざと、聞喜《キヽヨク》と詔へる掌り、)四(ノ)卷に、僞毛似付而曾爲流打布裳眞吾妹兒吾爾戀目八《イツハリモニツキテソスルウツシクモマユトワギモコアレニコヒメヤ》、とあり、さて今の歌は、未(タ)親く相見しこともあらぬ人の許より、死ばかり戀しく思ふよし、云おこせたるに、よみておくれるなるべし、
 
2573 情左倍《コヽロサヘ》。奉有君爾《マツレルキミニ》、何物乎鴨《ナニシカモ》。不云言此跡《イハズテイヒシト》。吾將竊食《アガヌスマハム》。
 
奉有は、マツレル〔四字右○〕と訓べし、(マタセル〔四字右○〕と古くよりよみ來れども、すべてマタス〔三字右○〕と云こと、古書にたしかなる假字書あることなければ、おぼつかなし、こゝなどはマ
ツレル〔四字右○〕とよむかた、たしかなり、)○何物乎鴨は、本居氏云、乎は、之の誤にて、ナニシカモ〔五字右○〕なるべし、○歌(ノ)意は、契冲云、我(カ)身を君に奉るは、もとよりのことにて、心ざしをも、ともによせたるほどの君なれば、嗚呼何かいつはりをば申さむぞ、となり、いはぬことをいひたりといひ、又いひたることをもいはぬなどいふは、我ながら詞をぬすみて、人をあざむくなり、さやうのいつはりは我はいはず、となり、
 
2574 面忘《オモワスレ》。太爾毛得爲也登《ダニモエセムヤト》。手握而《タニギリテ》。雖打不寒《ウテドサヤラズ》。戀云奴《コヒノヤツコハ》。
 
面忘《オモワスレ》は、上にも、面忘何有人之爲物烏《オモウスレイカナルヒトノスルモノソ》、とよめり、俗に、知(ル)人をもどすといふが如し、○得爲也は、(56)エセムヤ〔四字右○〕と訓べし、することを得むや、と云むが如し、十二に、玉勝間安倍島山之暮露爾旅宿得爲也長此夜乎《タマカツマアベシマヤマノユフツユニタビネエセメヤナガキコノヨヲ》、とあるは、爲ることを得むやは、と云なり、十(ノ)卷に、彦星之川瀬渡左小舟乃得行而將泊河津石所念《ヒコボシノカハセヲワタルサヲブネノエユキテハテムカハツシオモホユ》、とあるは、行て泊ることを得む、と云意なり、(今の歌なると、十二なるとの得爲也を、エスヤ〔三字右○〕と訓るはわろし、爲をス〔右○〕と云は、現在のうへのことを云ことなればなり、セム〔二字右○〕とよむときは、未(タ)然らぬことを、兼て云詞となれば、二首ながら、爲はヤム〔二字右○〕と訓べきことなるをや、)○雖打不塞、(塞(ノ)字舊本には寒と作り、今は阿野本に從つ、)ウテドサヤラズ〔七字右○〕とよむべし、○戀之奴《コヒノヤツコ》とは、人を戀しく思ふ心のあぢきなきを、賤き奴にたとへて、罵ていへるなり、(俗に、鯉と云やつといふが如し、)十六に、家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏而師戀乃奴之束見懸而《イヘニアリシヒツニクギサシヲサメテシコヒノヤツコノツカミカヽリテ》、(これは、四(ノ)卷に、戀は今はあらじとあれはおもひしをいづこの戀ぞつかみかゝれる、とよめる如く、いやしきやつこの物のわきまへもなく、人につかみかゝる如くに、戀思ふ心の、制《イサ》めがたくあぢきなきを、たとへていへるなり、)十二に、大夫之聰神毛今者無戀之奴爾吾毛可死《マスラヲノサトキコヽロモイマハナシコヒノヤツコニアレハシヌベシ》、(これは戀の奴にせめられて、われは死ぬべしとなり、)なども見えたり、○歌(ノ)意は、面忘れして、知人をもどすことをなりとも、することをえむやと、にぎりこぶしをもて、打て禁《イサ》むれども、なほそれにも障り憚らずして、戀と云奴の、我身にわざはひをなすことよ、となり、戀思ふ心を、いかでわすれむと、みづから我(カ)心をいさむれども、そのしるしもなく、なほ思ふ心のやまぬを、奴に(57)たとへ云り、
 
2575 希將見《メヅラシキ》。君《キミ》乎〔□で囲む〕|見常衣《ミムトコソ》。左手之《ヒダリテノ》。執弓方之《ユミトルカタノ》。眉根掻禮《マヨネカキツツ》。
 
希將見は、メヅラシキ〔五字右○〕とよめるよろし、○君乎見常衣は、六帖に、君みむとこそ、とあるをも思ふに、此《コヽ》も本はしかなりけむを、後に誤れるなるべし、故(レ)按(フ)に、衣(ノ)字は社の誤なるべし、社の草書、衣とまがひぬべし、さてこそ、もとは、君見常社《キミミムトコソ》とありけむを、衣に誤れるより、後(ノ)人、乎(ノ)字を補入て、つひに舊本の如く、キミヲミムトゾ〔七字右○〕、とよめるなるべけれ、荒木田(ノ)久老(ノ)漫筆に、これはキミヲミトコソ〔七字右○〕と訓べし、常は登古《トコ》の訓を假れるものなり、と云り、今按に、常(ノ)字は、此(ノ)集に、常之倍《トコシヘ》、常登波《トコトハ》、常世《トコヨ》、常滑《トコナメ》などとは書たれども、辭《テニヲハ》の借(リ)字には、ト〔右○〕と云處にのみ用(ヒ)て、トコ〔二字右○〕に用たる例、をさ/\なし、そのうへキミヲミトコソ〔七字右○〕といひては、一首の意も通《キコ》えがたし、その謂は、ミトコソ〔四字右○〕は、ミヨトコソ〔五字右○〕と云意になればなり、來《コ》チフニ似タリ〔六字右○〕と云も、來《コ》ヨチフニ似タリ〔七字右○〕の意となると、全(ラ)同例なればなり、しかればこの久老(ノ)説は、用ひがたし、又略解には、終句の禮は、類の誤にて、マユネカキツル〔七字右○〕にて今の第二(ノ)句は、もとのまゝなるべし、といへり、これもさることながら、なほキミミムトコソ〔七字右○〕云々カキツレ〔四字右○〕、とあるべき語(ノ)勢にぞありける、)○執弓方之《ユミトルカタノ》云々は、契冲、今も左を弓手といふこれなり、さて眉かゆみなどとこそよみたるを、それは惣じてにいひて、まことには、左の眉のかゆきが、人にあふべき相にこそ、申ならひて侍けめ、と(58)いへり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
2576 人間守《ヒトマモリ》。蘆垣越爾《アシカキコシニ》。吾妹子乎《ワギモコヲ》。相見之柄二《アヒミシカラニ》。事曾左太多寸《コトソサダオホキ》。
 
人間守《ヒトマモリ》は、人のなき間を守(リ)ての意なり、人間《ヒトマ》は、契冲云、舒明天皇(ノ)紀に、間の字のみをも、ヒトマ〔三字右○〕とよめり、人のなき間なり、古今集に、貫之の梅花の歌にも、いつの人間にうつろひぬらむ、とよめり、○相見之柄二《アヒミシカラニ》は、相見し物をの意なり、○左太多寸《サダオホキ》は、評定することの多き、と謂なり、左太《サダ》はもと定《サダ》にて、これと云(ヒ)かれといひて、物を論じ定むるより、出たる言なるべし、(今俗に、沙汰すると云も同言なり、もと字音より出たる言にはあらず、さだのうらのこのさだすぎて、とあるサダ〔二字右○〕は別言なり、思ひ混ふべからず、)○歌(ノ)意は、人のなき間をうかゞひて、垣越に、そと妹を相見しばかりのことなるを、誰か知つらむ、はやあやにくに、世(ノ)間の人のこれかれといひさわぎ、沙汰することの多きよ、となり、
 
2577 今谷毛《イマダニモ》。目莫令乏《メナトモシメソ》。不相見而《アヒミズテ》。將戀年月《コヒムトシツキ》。久家眞國《ヒサシケマクニ》。
 
今(ノ)字、舊本令に誤れり、古本に從つ、○久家眞國《ヒサシケマクニ》(眞(ノ)字、舊本には莫と作り、今は古寫本によりつ、)は、久しからむことなるをの意なり、○歌(ノ)意は、男の遠き旅などに行むとする日、ちかくなりてよめるにて、今のほどなりとも、しば/\相見て給《タ》べ、旅に發出なば、こひしく思はむ年月の間の、久しからむことなるを、となり、
 
(59)2578 朝宿髪《アサネガミ》。吾者不梳《アレハケヅラジ》。愛《ウツクシキ》。君之手枕《キミガタマクラ》。觸義之鬼尾《フリテシモノヲ》。
 
義之は、羲之の誤なるよし、既くいへるが如し、○歌(ノ)意は、うつくしとわが思ふ君が手枕に、ふれてありしものを、いでやその吾(カ)朝宿髪をも、けづりてあらためじ、となり、
 
2579 早去而《ハヤユキテ》。何時君乎《イツシカキミヲ》。相見等《アヒミムト》。念之情《オモヒシコヽロ》。今曾水葱少熱《イマソナギヌル》。
 
今(ノ)字、舊本令に誤れり、古本に從つ、○少熱《ヌル》は、湯のいまだよくわかぬを、ぬるきといへば、其(ノ)義もてかけり、(神代紀に、弱(ノ)字をヌルシ〔三字右○〕とよめり、)○歌(ノ)意は、いつしか君がもとに、はやくゆきいたりてあひ見むと、せきあがり思ひし心の、今相見てぞなごみぬる、となり、
 
2580 面形之《オモカタノ》。忘戸在者《ワスレテアラバ》。小豆鳴《アヂキナク》。男士物屋《ヲトコジモノヤ》。戀乍將居《コヒツヽヲラム》。
 
面形《オモカタ》(形(ノ)字、古寫には影と作れど、なほ舊本宜し、)は、十四に、於毛可多能和須禮牟之太波《オモカタノワスレムシダハ》云々、とあり、○忘戸在者は、本居氏、戸は弖の誤にて、ワスレテアラバ〔七字右○〕なるべし、といへり、○小豆鳴《アヂキナク》は、書紀に、無端、無状などを、アヂキナシ〔五字右○〕とよめり、文選古詩に、無爲をしかよめり、古今集(ノ)序(ノ)歌に、さくはなに思ひつく身のあぢきなき身にいたづきのいるもしらずて、同集三(ノ)卷に、時鳥はつ聲きけばあぢきなくぬしさだまらぬこひせらるはた、などあり、俗に、遠慮なくと云に同じ、本居氏は、あぢきなくは、俗に無益《ムヤク》など云意なり、といへり、古今集よりこなたの歌は、さても聞ゆることあり、)小豆は、アヅキ〔三字右○〕をアヂキ〔三字右○〕に轉(シ)て借(リ)用たり、十二にも、小豆無《アヂキナク》とあり、二(ノ)卷に、(60)香切火《カギロヒ》、又、御在香《ミアラカ》、十(ノ)卷に、高松之野《タカマトノヌ》などある類、みな轉用の例なり、又此卷に、足常《タラチネ》、又、間結《マヨヒ》、又四(ノ)卷、九(ノ)卷、十二に、名草漏《ナグサムル》、又此(ノ)卷に、名草溢《ナグサムル》などある、みな同例なり、○男士物屋《ヲトコジモノヤ》は、士物《ジモノ》は、たゞ輕く添たる辭にて、男哉《ヲトコヤ》なり、○歌(ノ)意は、女のかたちの忘られてあるならば、男たる物の、かくこひしこひしと遠慮なく、思ひほれてあるべしやは、面貌の忘られぬ故にこそ、かく堪忍かねて、戀しく思ふなれ、とあり、
 
2581 言云者《コトニイヘバ》。三三二田八酢四《ミミニタヤスシ》。小九毛《スクナクモ》。心中二《コヽロノウチニ》。我念羽奈九二《アガモハナクニ》。
 
歌(ノ)意は、すくなくも思はず、心中には深切に思ひ入てあることなるを、その心のたけを、言に出しては述盡しがたし、されば言に出していへば、聞人の耳にたやすく、大方のさまに聞ゆるものなれば、いかにしてか、吾(カ)心中をしらせむ、となり、契冲が、和泉式部が歌に、こひしともいはゞはしたになりぬべしなきてぞ人に見すべかりける、とあるを、引たる宜し、
 
2582 小豆奈九《アヂキナク》。何狂言《ナニノタハコト》。今更《イマサラニ》。小童言爲流《ワラハコトスル》。老人二四手《オイヒトニシテ》。
 
何狂言は、舊本に、狂を枉と作るは誤にて、ナニノタハコト〔七字右○〕なりといへり、○今(ノ)字、舊本令に誤れり、類聚抄、古本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意はわが戀しく思ふよしを人に告るを、自《ミ》らかへりみいさめて、身の老人となりたるをわすれて、今更わか/しきわらはべの、何の遠慮もなきやうに、何とてたはことするぞ、といへるなるべし、
 
(61)2583 不〔○で囲む〕相見而《アヒミズテ》。幾久毛《イクバクヒサモ》。不有爾《アラナクニ》。如年月《トシツキノゴト》。所思可聞《オモホユルカモ》。
 
不相見而は、不(ノ)字、舊本になきは脱たるにて、アヒミズテ〔五字右○〕なるべし、といへる説ぞ宜(シ)き、○歌(ノ)意は、別れて後相見ざるは、幾く久しき間にてもなきことなるを、心には、早年月を隔てたるやうにおもはるゝ哉、嗚呼さてもあふ事の待久しや、となり、
 
2584 大夫登《マスラヲト》。念有吾乎《オモヘルアレヲ》。如是許《カクバカリ》。令戀波《コヒセシムルハ》。小可者在來《カラクソアリケル》。
 
第一二(ノ)句は、六(ノ)卷に、大夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルアレヤミヅクキノミヅキノウヘニナミダノゴハム》、とあり、○小可者在來は、小は不、者は曾の誤なるべし、不可は、義を得てカラク〔三字右○〕と訓べし、(不顔面《シヌフ》、不行《ヨド》、不通《ヨドム》、不樂《サブシ》、不明《オホヽシ》、不穢《キヨク》、不得《カネ》、などの類を思ふべし、)さればこの一句は、カラクソアリケル〔八字右○〕なるべし、(岡部氏は、小可は、苛の誤なるべし、といへり、さることもあらむか、)七(ノ)卷に、黙然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可者有來《モダアラジトコトノナグサニイフコトヲキヽシレラクハカラクソアリケル》、とあり、(これも少可者は、苛曾の誤なりと説り、今按(フ)に、これも不可曾《カラクソ》とありしならむ、)考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、大丈夫と思へる吾なれば、何事にも堪忍てあるべしと思ひ居しに、人のかくばかりに、吾を戀しく思はしむるには、猶得堪ずして、からくぞありける、となり、
 
2585 如是爲乍《カクシツヽ》。吾待印《アガマツシルシ》。有鴨《アラヌカモ》。世人皆乃《ヨノヒトミナノ》。常不在國《ツネナラナクニ》。
 
歌(ノ)意は、わが戀しく思ふ心は、よの常ならぬことなるを、いかでかくしつゝ、わがまちこふる(62)益《シルシ》のありて、人の心とけて、うけひくことのあれかし、といふ歟、四五一二三と句を次第て意得べし、
 
2586 人事《ヒトコトヲ》。茂君《シゲミトキミニ》。玉梓之《タマヅサノ》。使不遣《ツカヒモヤラズ》。忘跡思名《ワスルトモフナ》。
 
上二句は、ヒトコトヲシゲミトキミニ〔十二字右○〕と訓べし、人言のしげさが故に、といはむが如し、(略解に、ヒトコトノシゲケキキミニ〔十二字右○〕とよめるは、いみじくわろし、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2587 大原《オホハラノ》。古郷《フリニシサトニ》。妹置《イモヲオキテ》。吾稻金津《アレイネカネツ》。夢所見乞《イメニミエコソ》。
 
大原《オホハラ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡にて、藤原とも云、鎌足(ノ)大臣の本居なり、皇居の藤原とは別地なり、思混ふべからず、二(ノ)卷にも、大原の、ふりにし里、とあり、○夢所見乞《イメニミエコソ》は、いかで夢に見えよかし、と乞望ふなり、○歌(ノ)意は、大原の故郷に妹を留め置て、獨別れかへり來て、夜寐入むと思へども、思ひに堪かねて、打つかねば得寐入ず、いかですこし寐入て、妹が事の夢になりとも見えよかし、となり、契冲、頼政卿の歌に、山しろのみづのゝ里に妹をおきていくたびよどの舟よばふらむ、これは今の歌をおぼえてやよまれけむ、といへり、
 
2588 夕去者《ユフサレバ》。公來座跡《キミキマサムト》。待夜之《マチシヨノ》。名凝衣今《ナゴリソイマモ》。宿不勝爲《イネカテニスル》。
 
名凝《ナゴリ》とは、波凝《ナゴリ》にて、そは海際に打よせし潮《シホ》の引たるあとに、なほ波の凝たるが殘りて、あるを云をもとにて、轉りては、何にても、物の殘りたる事に、用ひなれたり、○今(ノ)字、此(レ)も舊本令に(63)誤れり、古本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、夕になれば君來座むとて、いもねずして、待しならはしのなほのこりて、絶て來座ぬ後もなほ得|寐《ネ》入ずして、戀しく思はるゝ、となり、○十二に、本(ノ)二句|玉梓之君使乎《タマヅサノキミガツカヒヲ》、尾(ノ)句|不宿夜乃太寸《イネヌヨノオホキ》、とあるが換れるのみにて、全(ラ)同歌あり、
 
2589 不相思《アヒオモハズ》。公者在良思《キミハアルラシ》。黒玉《ヌバタマノ》。夢不見《イメニモミエズ》。受旱宿跡《ウケヒテヌレド》。
 
受旱宿跡は、本居氏、旱は、日手二字を一字に誤れるなり、と云るが如し、ウケヒテヌレド〔七字右○〕なり、神武天皇(ノ)紀に是夜《コヨヒ》自|祈而寢《ウケヒテミネマセリ》、○歌(ノ)意は、神に誓約《ウケヒ》て寢れば、大抵夢に思ふ人の見えぬと云ことは、なきものなるに、なほ夢にも見え來ざるは、よく/\相思はず、つれなく心のきれはなれたる、君にてあるらし、となり、
 
2590 石根蹈《イハネフミ》。夜道不行《ヨミチハユカジ》。念跡《トオモヘレド》。妹依者《イモニヨリテハ》。忍金津毛《シヌビカネツモ》。
 
歌(ノ)意は、石根ふみ危き夜道は、いな行じと堅く念へれども、妹が待らむと思へば、なほ堪ずして、この夜道をふみ出して行よ、嗚呼さても辛しや、となり、
 
2591 人事《ヒトコトノ》。茂間守跡《シゲキマモルト》。不相在《アハズアラバ》。終八子等《ツヒニヤコラガ》。面忘南《オモワスレナム》。
 
茂間守跡《シゲキマモルト》は、茂き間を守(ル)とての意なり、○歌(ノ)意は、人言のしげきによりて、その人のなき間をうかゞふとて、月日を經てあはずあらば、終には子等が我(カ)面を忘れて、知人をもどすやうになりなむか、となり、
 
(64)2592 戀死《コヒシナム》。後何爲《ノチハナニセム》。吾命《ワガイノチノ》。生日社《イケラムヒコソ》。見幕欲爲禮《ミマクホリスレ》。
 
吾命は、ワガイノチノ〔六字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、戀死に死む後には、思ふ人の心とけたりとも、何にかはせむ、命の生てある日の爲にこそ、相見まほしくするなれ、となり、四(ノ)卷大伴(ノ)百代(カ)歌に、孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》、大方似たる歌なり、
 
2593 敷細《シキタヘノ》。枕動而《マクラウゴキテ》。宿不所寢《イネラエズ》。物念此夕《モノモフコヨヒ》。急明鴨《ハヤモアケヌカモ》。
 
歌(ノ)意は、寐入むと思へども、枕が動くゆゑに、さわがしくて寐入られず、寐入れぬ故に、物思をする夜なれば、夜になれる益なし、かゝる夜なれば、いかではやく明て、朝になれかし、さてもくるしや、となり、もと寐られぬ故に、枕の動くやうにおぼゆるを、枕の動く故に、寐られずと負せたるが、をかしきいひざまなり、下問答(ノ)歌に、布細布枕動夜不寐思人後相物《シキタヘノマクラウゴキテヨルモネズオモフヒトニハノチアフモノヲ》、十二に、左夜深而妹乎念出布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨《サヨフケテイモヲオモヒデシキタヘノマクラモソヨニナゲキツルカモ》、
 
2594 不往吾《ユカヌアヲ》。來跡可夜《コムトカヨルモ》。門不閉《カドササズ》。※[立心偏+可]怜吾妹子《アハレワギモコ》。待筒在《マチツヽアラム》。
 
門不閉《カドサヽズ》、古今集に、君やこむわれやゆかむのいざよひにまきの板戸もさゝずねにけり、○歌(ノ)意、これは思ひかけなく、とみにさはることの出來て、約をたがへて、女のもとに、得ゆかぎりし男のよめるにて、かくれたるすぢなし、
 
2595 夢谷《イメニダニ》。何鴨不所見《ナニカモミエヌ》。雖所見《ミユレドモ》。吾鴨迷《アレカモマドフ》。戀茂爾《コヒノシゲキニ》。
 
(65)歌(ノ)意は、夢になりとも、見えよかしと思ふに、なぜに夢にさへ見えぬぞ、たゞし夢に入來て見えはすれども、夢にも吾(ガ)思のしげきが故に、迷ひて、それとも得わかぬにてもあらむか、となり、
 
2596 名草漏《ナグサムル》。心莫二《コヽロハナシニ》。如是耳《カクノミシ》。戀也度《コヒヤワタラム》。月日殊《ツキニヒニケニ》。
 
名草漏は、ナゲサムル〔五字右○〕と訓べし、(ナグサモル〔五字右○〕とよめるは、甚誤なり、)○如是耳は、カクノミシ〔五字右○〕と訓べし、(カクシノミ〔五字右○〕とよめるは、甚非なり、)九(ノ)卷に、如是耳志《カクノミシ》、此(ノ)下に、常如是耳志《ツネカクノミシ》、十三に、如是耳師《カクノミシ》、などある、其(ノ)例なり、此(ノ)上にも委(ク)云り、○歌(ノ)意は、慰むる心は露なくして、月々日々に、かくばかりに戀しく思ひて、經度らむか、かくては命も堪まじきを、いかにかしてまし、と云意を持せたり、○註に、或本歌云奥津浪敷而耳八方戀度奈牟、
 
2597 何爲而《イカニシテ》。忘物《ワスレムモノソ》。吾妹子丹《ワギモコニ》。戀益跡《コヒハマサレド》。所忘莫苦二《ワスラエナクニ》。
 
忘物は、ワスレムモノソ〔七字右○〕と訓べし、(ワスルルモノソ〔七字右○〕とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、吾妹子を戀しく思ふ心の、月日にまさりはすれども、すこしも忘れられはせぬことなるを、かくしては、いかにして忘(レ)むものぞ、もし妹が事を忘れずしてあらば、つひには命も堪まじきを、となり、
 
2598 遠有跡《トホクアレド》。公衣戀流《キミニソコフル》。玉桙乃《タマホコノ》。里人皆爾《サトビトミナニ》。吾戀八方《アレコヒメヤモ》。
 
公衣戀流は、キミニソコフル〔七字右○〕と訓べし、(キミヲソコフル〔七字右○〕、とよめるはわろし、)○玉桙乃《タマホコノ》は、道《ミチ》の(66)枕詞なるを、やがて道のことにして、君が住方の道路《ミチ/\》の里といふ意に、つゞけたり、○歌(ノ)意は、遠き處にいませども、君をこそ戀しく思へ、君が住方の道路の里々のことを、とあらむかかからむかなど云へば、なべての里人を、戀しく思ふやうに聞ゆめれど、君をおきて、嗚呼他し里人みなを、戀しく思ふよしあらむやは、となり、
 
2599 驗無《シルシナキ》。戀毛爲鹿《コヒヲモスルカ》。暮去者《ユフサレバ》。人之手枕而《ヒトノテマキテ》。將寐兒故《ネナムコユヱニ》。
 
驗無《シルシナキ》は、かひなきといはむが如し、古今集に、しるしなさ音をも鳴かな※[(貝+貝)/鳥]のことしのみちる花ならなくに、契冲、日本紀に、有2何益1、とかきて、ナニノシルシカアラム〔十字右○〕とよめり、といへる、其(ノ)意なり、○將寐兒故《ネナムコユヱニ》は、ねなむ子なるものをの意なり、十三長歌に、掻將折鬼之四忌手乎《カキヲラムシコノシキテヲ》、指易而將宿君故《サシカヘテネナムキミユヱ》、赤根刺晝者終爾《アカネサスヒルハシミラニ》云々、○歌(ノ)意は、夕(ヘ)ごとに、人の手をまきて、相宿しなむ女なるものを、それとしりつゝ、かひなき思ひをもする事哉、となり、
 
2600 百世下《モヽヨシモ》。千代下生《チヨシモイキテ》。有目八方《アラメヤモ》。吾念妹乎《アガモフイモヲ》。置嘆《オキテナゲカム》。
 
百世下千代下《モヽヨシモチヨシモ》の下《シモ》は、借(リ)字にて、多かる物の中に、その一(ト)すぢを、つよくうけはりていふ意の辭なり、○歌(ノ)意は、百歳千歳までも、たしかにうけはりて、生ながらへてあらむやは、あはれあすしらぬ我(ガ)命なるものを、いかで妹をさしおきて、あはずに嘆きてのみあらむぞ、となり、吾念《アガモフ》といふ上へ、いかでと云詞を、かりにくはへて心得べし、
 
(67)2601 現毛《ウツヽニモ》。夢毛吾者《イメニモアレハ》。不思寸《オモハズキ》。振有公爾《フリタルキミニ》。此間將會十羽《コヽニアハムトハ》。
 
現毛《ウツヽニモ》は、夢毛《イメニモ》といはむためにいへるなり、現《ウツヽ》の事は言に及ばず、夢にも云々の意なり、伊勢物語に、駿河なる宇都の山邊の現にも夢にも人の遇ぬなりけり、とあるに同じ、○不思寸《オモハズキ》は、思はざりけり、と云むが如し、集中に不及《シカズ》けりと云るは、及《シカ》ざりけりと云意、不止《ヤマズ》けりと云るは止《ヤマ》ざりけりと云意、不飽《アカズ》けりと云るは、飽《アカ》ざりけりと云意、其(ノ)他|不逢《アハズ》けむ、不來《コズ》けむ、などいふも、逢ざりけむ、來ざりけむ、と云意なるに、准ふべし、かくて思はざりけりと云も、思はざりきと云も、同じ語格なるにつきて、古(ヘ)はかくも云りしにぞあるべき、○振有公《フリタルキミ》とは、舊而在君《フリテアルキミ》にて、むかししたしく相語ひし人なり、○歌(ノ)意は、此處にして、ふるなじみの人に遇會《アヒミ》むとは、現はさらにも云ず、夢にだにも、思ひよらざりし事、と歡べるなり、
 
2602 黒髪《クロカミノ》。白髪左右跡《シロカミマデト》。結大王《ムスビテシ》。心一乎《コヽロヒトツヲ》。今解目八方《イマトカメヤモ》。
 
白髪左右跡《シロカミマデト》は、白髪《シロカミ》に成るまでの意なり、白髪はシロカミ〔四字右○〕とよむべし、十七に、布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマデニ》、とあり、これその證なり、(シラカミ〔四字右○〕とよめるは、いとわろし、)又按(フ)に、こゝは白髪とは書たれども、義を得て、シラクルマデト〔七字右○〕と訓かた、しかるべからむ歟、九(ノ)卷に、黒有之髪毛白斑奴《クロカリシカミモシラケヌ》、とあればなり、(忠見集に、年ごとにまつらむかずはきねぞ見むいたゞく髪のしらくるまでに、)○結大王《ムスビテシ》は、ちぎりてしといはむが如し、契冲、日本紀に、約(ノ)字をムスブ〔三字右○〕とよめる是な(68)り、といへるが如し三(ノ)卷に、白妙之袖指可倍※[氏/一]《シロタヘノソテサシカヘテ》、靡寢吾黒髪乃《ナビキネシワガクロカミノ》、眞白髪爾成極《マシラガニナリナムキハミ》、新世爾共將有跡《アラタヨニトモニアラムト》、玉緒乃不絶射妹跡《タマノヲノタエジイイモト》、結而石事者不果《ムスビテシコトハハタサズ》云々、○今解目八方《イマトカメヤモ》(今(ノ)字、これも舊本には令に誤れり、今は拾穂本、古本、古寫一本等に從つ、)は、今更|約《チギリ》を變《タガ》へむやは、と云意なり、約を結ぶと云、其結(ヒ)を解(ク)は、約を變(フ)るなり、○歌(ノ)意は、黒髪の白髪になりて、老はてむまで變《カハ》らじと、心一(ツ)に堅くちぎりしもの」を、今更約を變《タガ》へむやは、すこしも疑ふ心を持賜ふな、となり、
 
2603 心乎之《コヽロヲシ》。君爾奉跡《キミニマツルト》。念有者《ヨシコノゴロハ》。縱比來者《オモヘレバ》。戀乍乎將有《コヒツヽヲアラム》。
 
君爾奉跡は、キミニマルト〔七字右○〕と訓べし、既く此(ノ)上、情左倍奉有君爾《コゝロサヘマツレルキミニ》云々、とある處にいへり、○歌(ノ)意は、契沖、すでに身に心をそへて、君がまに/\とまゐらせつれば、心とてもわが心ならねば、とはずともうらみじ、こひしくばたゞこひつゝあらむ、となり、かゝる心もてる人、末の世にありなむや、といへり、四卷に、心毛身副縁西鬼尾《コヽロモミサヘヨリニシモノヲ》、
 
2604 念出而《オモヒイデテ》。哭者雖泣《ネニハナクトモ》。灼然《イチシロク》。人之可知《ヒトノシルベク》。嘆爲勿謹《ナゲカスナユメ》。
 
嘆爲勿謹は、ナゲカスナユメ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、思ひ出て泣はするとも、誰が目にも其(レ)としらるゝばかり、嘆の息をつきて、謹々《ユメ/\》人にしられたまふことなかれ、となり、
 
2605 玉桙之《タマホコノ》。道去夫利爾《ミチユキブリニ》。不思《オモハヌニ》。妹乎相見而《イモヲアヒミテ》。戀比鴨《コフルコロカモ》。
 
道去夫利《ミチユキブリ》は、道行觸《ミチユキブリ》なり、古今集に、躬恒、春くれば鴈かへるなり白雲の道ゆきぶりにことや
(69)つてまし、○不思《オモハヌニ》は、八(ノ)卷に、霜雪毛未過者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマダスギネバオモハヌニカスガノサトニウメノハナミツ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、上に、玉桙道不行爲有者惻隱此有戀不相《タマホコノミチユカズシテアラマセバネモコロカヽルコヒニハアハジ》、とあるを、ことわれるやうなり、
 
2606 人目多《ヒトメオホミ》。常如是耳志《ツネカクノミシ》。候者《サモラハバ》。何時《イヅレノトキカ》。吾不戀將有《アガコヒザラム》。
 
候者《サモラハバ》(候(ノ)字、舊本には侯と作り、今は拾穗本、古寫一本等に從つ、)は、守者《モラバ》といはむが如し、うかゞはゞといふ意なり、サモラフ〔四字右○〕のサ〔右○〕は、輕く添たる言にて、モラハヾ〔四字右○〕なり、さてモル〔二字右○〕を伸てモラフ〔三字右○〕、モリ〔二字右○〕を伸てモラヒ〔三字右○〕、又モラム〔三字右○〕をモラハム〔四字右○〕、モラバ〔三字右○〕をモラハヾ〔四字右○〕、などゝ云は、たとへば、ワタル〔三字右○〕を伸てワタラフ〔四字右○〕、ワタリ〔三字右○〕を伸てワタラヒ〔四字右○〕、ワタラム〔四字右○〕をワタラハム〔五字右○〕、ワタラバ〔四字右○〕をワタラハヾ〔五字右○〕、など云例の如し、されば守者《モラバ》と云と候者《サモラハバ》と云とは、もと引伸たると、取縮たるとの差(ヒ)あるのみにて、全(ラ)同言なりと知べし、さてしか引伸て云(フ)は、その事の緩なるをいふことにて、モラハバ〔四字右○〕は、絶ず引續きて、緩に守るよしなり、○歌(ノ)意は、人目のしげさに、常に如v此して、人目のなき間を守りうかゞびてのみ、時を待てをるならば、いづれのときか、わがこひしく思はぬと云時のあらむ、と云にて、今は人目をも憚らじと思ふ下心なり、
 
2607 敷細之《シキタヘノ》。衣手可禮天《コロモテカレテ》。吾乎待登《アヲマツト》。左濫子等者《アルラムコラハ》。面影爾見《オモカゲニミユ》。
 
衣手可禮天《コロモテカレテ》は、別てよりの心なり、と契冲いへり、○歌(ノ)意は、あひて別れてより、吾(ガ)來むことを待て居らむ女が容儀の、戀しく思はれて、常に面影に見ゆ、となり、
 
(70)2608 妹之袖《イモガソデ》。別之日從《ワカレシヒヨリ》。白細乃《シロタヘノ》。衣片敷《コロモカタシキ》。戀管曾寐留《コヒツヽソヌル》。
 
歌(ノ)意は、妹と相別れてし其(ノ)日より、夜ごと夜ごとに、戀しく思ひつゝ、衣片敷て丸寢をぞする、となり、
 
2609 白細之《シロタヘノ》。袖者間結奴《ソテハマヨヒヌ》。我妹子我《ワギモコガ》。家當乎《イヘノアタリヲ》。不止振四二《ヤマズフリシニ》。
 
間結《マヨヒ》は、契冲、※[糸+此](ノ)字(和名抄)なり、ヨル〔二字右○〕ともいへり、古今集に、蝉の羽のひとへにうすき夏衣なればよりなむ物にやはあらぬ、此(レ)※[糸+此]《ヨル》を依《ヨル》によせたり、といへり、七(ノ)卷、麻衣肩乃間亂者《アサゴロモカタノマヨヒハ》、とよめる歌に、既く委(ク)註たりき、○歌(ノ)意は、妹に見られむとて、妹が家の方に向て、不v止(マ)袖を振しに、このごろは、衣の經緯の絲が、より※[糸+此]《マヨ》ひぬ、となり、
 
2610 夜干玉之《ヌバタマノ》。吾黒髪乎《ワガクロカミヲ》。引奴良思《ヒキヌラシ》。亂而反《ミダレテアレハ》。戀度鴨《》コヒワタルカモ。
 
引奴良思《ヒキヌラシ》は、引靡《ヒキヌラシ》なり、引《ヒキ》は引(キ)伸(ル)謂なり、靡《ヌラシ》は、上に、黒玉乃我玄髪乎靡而將居《ヌバタマノワガクロカミサヌラシテヲラム》、又、夜干玉之妹之黒髪《ヌバタマノイモガクロカミ》云々|靡而宿良武《ヌラシテヌラム》、などあるところにもいへり、二(ノ)卷に、多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》云々、十四に、多波美豆良比可婆奴流奴流《タハミヅラヒカバヌルヌル》、などある、ヌレ〔二字右○〕も、ヌル/\〔四字右○〕も同言なり、さてこれまでは、亂をいはむための序なり、○亂而反は、反は吾の誤にて、ミダレテアレハ〔七字右○〕なるべし、(春海(カ)説に、反は已の誤にて、ミダレテノミモ〔七字右○〕なるべし、といへり、又本居氏の説には、而反は留及の師にて、ミダルルマデニ〔七字右○〕なるべし、といへり、なほ考(フ)べし、)○歌(ノ)意は、心も亂れて、戀しくのみ思(71)ひつゝ、月日を經度る事哉、さても、苦しや、となり、
 
2611 今更《イマサラニ》。君之手枕《キミガタマクラ》。卷宿米也《マキネメヤ》。吾※[糸+刃]緒乃《ワガヒモノヲノ》。解都追本名《トケツツモトナ》。
 
歌(ノ)意は、ゆゑありて、又あふまじくなりたる後に、紐の自(ラ)解たる時よめるにて、今更に又君にあひて、手枕まきて、宿むことのあるべしやは、さることはあるべくもあらぬを、むざ/\と紐の自《オラ》解つゝ、吾をたのみに、思はするは、いかにぞや、すべて紐の自《オラ》解るは、思ふ人にあふべき前兆と云に、さる前兆はあるまじきものを、となり、
 
2612 白細布乃《シロタヘノ》。袖觸而夜《ソテフレテヨリ》。吾背子爾《ワガセコニ》。吾戀落波《アガコフラクハ》。止時裳無《ヤムトキモナシ》。
 
乃(ノ)字、官本、拾穗本等には、之と作り、○袖觸而夜は、夜は、從の誤にて、ソテフレテヨリ〔七字右○〕なるべし、といへる説ぞ宜き、○歌(ノ)意は、袖を觸てし日より、片時も、吾(ガ)夫子を戀しく思はぬ間とては、さらになし、となり、
 
2613 夕卜爾毛《ユフケニモ》。占爾毛告有《ウラニモノレル》。今夜谷《コヨヒダニ》。不來君乎《キマサヌキミヲ》。何時將待《イツトカマタム》。
 
今(ノ)字、また令に誤れり、古本、古寫一本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、夕卜《ユフケ》のつじうらにも、また常の卜筮《ウラナヒ》にも、必(ズ)來むと出たる今夜さへも、來座ぬ君なれば、何時を其(ノ)期と待居(ラ)む、となり、
 
2614 眉根掻《マヨネカキ》。下言借見《シタイフカシミ》。思有爾《オモヘルニ》。去家人乎《イニシヘヒトヲ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》。
 
下言借見《シタイフカシミ》は、下《シタ》は裏《シタ》なり、心(ノ)裏といふに同じ、言借《イフカシ》は、不審《イプカシ》なり、九(ノ)卷登2筑波山(ニ)1長歌にも、言借石《イフカリシ》、(72)國之眞保良乎《クニノマホヲヲ》云々、とあり、心の裏《ウチ》に不審《イブカシ》うの意なり、見《ミ》は恨美念《ウラメシミモフ》など云ときの美《ミ》にて、俗にイフカシウ、ウラメシウ〔十字右○〕、など云ウ〔右○〕の言に似たり、○去家人《イニシヘヒト》は、舊好《フルナジミ》の人にて、上に振有公《フリタルキミ》といへるに同じ、○歌(ノ)意は、眉毛の癢《カユ》きは、思ふ人に逢べき相《シルシ》にやと、心裏《シタノコヽロ》といぶかり思ひしに、其(ノ)しるしありて、舊好の人に遇見つる哉、さてもうれしや、となり、
 
〔或本(ノ)歌(ニ)曰。眉根掻《マヨネカキ》。誰乎香將見跡《タレヲカミムト》。思乍《オモヒツヽ》。氣長戀之《ケナガクコヒシ》。妹爾相鴨《イモニアヘルカモ》。〕
 
〔一書(ノ)歌(ニ)曰。盾根掻《マヨネカキ》。下伊布可之美《シタイフカシミ》。念有之《オモヘリシ》。妹之容儀乎《イモガスガタヲ》。今日見都流香裳《ケフミツルカモ》。〕
 
今(ノ)字、また舊本令に誤れり、古本、拾穗本等に從つ、この一書歌曰云々、古寫小本にはなし、
 
2615 敷栲乃《シキタヘノ》。手〔○で囲む〕枕卷而《タマクラマキテ》。妹與吾《イモトアレ》。寐夜者無而《ヌルヨハナクテ》。年曾經來《トシソヘニケル》。
 
手枕卷而、手(ノ)字、舊本にはなし、補入てタマクラマキテ〔七字右○〕と訓べし、○寐夜者無而《ヌルヨハナクテ》、催馬樂に、ぬき川の岸のやはらたまくら、やはらかにぬるよはなくて親さくるつま、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2616 奥山之《オクヤマノ》。眞木之板戸乎《マキノイタドヲ》。音速見《オトハヤミ》。妹之當乃《イモガアタリノ》。霜上爾宿奴《シモノヘニネヌ》。
 
音速見《オトハヤミ》は、音高さにといはむか如し、○歌(ノ)意は、妹が家の槇の板戸を開きて、内に入むとおもへど、音が高き故に、母などの、きゝとがめむことをおそれて、ひらきて得入ずして、せめてのわざにとて、妹が家の邊の霜(ノ)上にねぬるよ、となり、
 
(73)2617 足日木能《アシヒキノ》。山櫻戸乎《ヤマサクラトヲ》。開置而《ヒラキオキテ》。吾待君乎《アガマツキミヲ》。誰留流《タレカトヾムル》。
 
山櫻戸《ヤマサクラト》は、櫻の材《キ》にて造れる戸なり、櫻戸といはむとて、足日木能山《アシヒキノヤマ》といへるなり、眞木の板戸をいはむとて、奥山乃《オクヤマノ》とおけるに同じ、○歌(ノ)意は、戸をひらき置て、待どもきまさぬは、誰かとゞめてかよはしめぬぞ、となり、曾丹集に、君待とねやの板戸をあけおきて寒さもしらず冬のよな/\、
 
2618 月夜好三《ツクヨヨミ》。妹二相跡《イモニアハムト》。直道柄《タヾチカラ》。吾者雖來《アレハキツレド》。夜其深去來《ヨソフケニケル》。
 
直道柄《タヾチカラ》は、從《ヨリ》2定路《タゞチ》1といふに同じ、直道《タヾチ》はすぐみちにて、近道なり、柄《カラ》は從《ヨリ》といふに同じ、從《ヨリ》といふべきをカラ〔二字右○〕と云ること、十(ノ)卷に既くいへり、神代(ノ)紀(ノ)下にも、自《カラ》2頓丘《ヒタヲ》1覓《マキ》v國《クニ》行去《トホリテ》、催馬樂本滋に、もとしげききびの中山むかしより、むかしから名のふりこぬはいまのよのためけふのひのため、古今集物名に、浪音の今朝からことにきこゆるは云々、などもあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、思ふ人にとく相見むとて、近道を通りて、急ぎては來ぬれど、なほ遲なはりて、夜更たりとおもふは、人情の常なり、
 
萬葉集古義十一卷之上 終
 
(74)萬葉集古義十一卷之中
 
寄《ヨセテ》v物《モノニ》陳《ノブ》v思《オモヒヲ》。二百八十二首。【九十三首。人麿集。・百八十九首。人麿集外。】
 
2415 處女等乎《ヲトメラヲ》。袖振山《ソテフルヤマノ》。水垣《ミヅカキノ》。久時由《ヒサシキトキユ》。念來吾等者《オモヒコシア ハ》。〔頭註、【四首寄2神祇1、】〕
 
乎《ヲ》は、(略解に、之《ノ》に改めしは甚謾なり)之《ノ》に通ふ詞にて、既く云り、○念來吾等者は、オモヒコシアハ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意、四(ノ)卷にはやく出て、そこに註しつ、
 
2416 千早振《チハヤブル》。神持在《カミニイノレル》。命《イノチヲバ》。誰爲《タレガタメニカ》。長欲爲《ナガクホリスル》。
 
神持在は、本居氏、持は?の誤にて、カミニイノレル〔七字右○〕ならむ、と云り、○歌(ノ)意は、壽命の長からむ事を、神祇に乞?れるをば、そも誰が爲の故にてあるぞ、思ふ人の爲のみの事にこそあれ、となり、
 
2417 石上《イソノカミ》。振神杉《フルノカムスギ》。神成《カムサビテ》。戀我《コヒヲモアレハ》。更爲鴨《サラニスルカモ》。
 
神成は、カムサビテ〔五字右○〕なり、此は身の老たるをたとへて云り、○歌(ノ)意は、第一二句は序にて、身老衰へたれば、今更人を、戀しく思ふやうの事はあるまじきに、さても似合(ハ)ぬ思をもする事哉、(75)となり、十(ノ)卷に、石上振乃神杉神佐備而吾八更更戀爾相爾家留《イソノカミフルノカムスギカムサビテアレヤサラサラコヒニアヒニケル》、とあると、同歌なり、
 
2418 何《イカナラム》。名負神《ナオヘルカミニ》。幣嚮奉者《タムケセバ》。吾念妹《アガモフイモヲ》。夢谷見《イメニダニミム》。
 
何名負神は、安並(ノ)雅景云、イカナラムナオヘルカミニ〔十二字右○〕とよむべし、(本居氏は、名は在の誤、負は皇の誤にて、本(ノ)句は、イカナラムスメカミニヌサタムケバカ〔イカ〜右○〕と訓べし、といへれど、平穩ならず、)○幣嚮奉者は、タムケセバ〔五字右○〕とよめる宜し、○歌(ノ)意は、なみ/\の神に祈りても、更にその驗なければ、何處いかなる名に負へる神に奉幣して、ねもころに?申さば、受納し賜ひ、その御加恩《ミメグミ》によりて、吾(ガ)思ふ妹を、夢になりとも見べきぞ、となり、○以上四首は、神祇に寄てよめるなり、
 
2419 天地《アメツチト》。言名絶《イフナノタエテ》。有《アラバコソ》。汝吾《イマシトアレト》。相事止《アフコトヤマメ》。〔頭註、【一首寄2天地1、】〕
 
汝、此(ノ)上に、伊麻思《イマシ》とあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○この一首は、天地に寄てよめるなり、
 
2420 月見《ツキミレバ》。國同《クニハオヤジソ》。山隔《ヤマヘナリ》。愛妹《ウツクシイモガ》。隔有鴨《ヘナリタルカモ》。〔頭註、【七首寄v山、】〕
 
國同は、クニハオヤジソ〔七字右○〕と訓べし、同をオヤジ〔三字右○〕と云は古言なり、書紀天智天皇(ノ)卷(ノ)歌に、於野兒《オヤジ》、とあり、集中十七にも、於夜自《オヤジ》、と見えたり、於奈自《オナジ》と書るところもあれど、其は奈良(ノ)朝の季《スヱ》つ方に至《ナ》りては、さもいひけむと思はるれば、此(ノ)歌などにては、然《サ》は訓べからず、○隔有鴨は、ヘナリタルカモ〔七字右○〕と訓べし、ヘダツ〔三字右○〕をヘナル〔三字右○〕と云は古言なり、此(ノ)下にも重成《ヘナリ》と書り、○歌(ノ)意は、月(76)光のけしきを見れば、さのみ遠く隔れるにはあらず、なほ同じ國内にてあるぞ、さりながら山をさかひたる故に、愛しき妹に隔てある哉、さてもこの月を、妹と二人居て見まほしや、となり、○契冲、第十八に、古人云、月見(レ)ばおなじ國なり山こそは君があたりを隔てたりけれ、答2古人1云家持、足引の山はなくもが月見ればおなじき里をこゝろへだてつ、はじめの歌は、大伴(ノ)池主、家持へおくる歌の中に有(リ)、もし今の歌を、時にかなへむとて、詞をかへたれど、もと古人の歌なれば、古人云といへるか、といへり、十五に、安麻射可流比奈爾毛月波弖禮禮杼母伊毛曾等保久波和可禮伎爾家流《アマザカルヒナニモツキハテレレドモイモソトホクハワカレキニケル》、又似たり、
 
2421 ※[糸+參]路者《マヰリヂハ》。石蹈山《イハフムヤマノ》。無鴨《ナクモガモ》。吾待公《アガマツキミガ》。馬爪盡《ウマツマヅクニ》。
 
※[糸+參]路者、(※[糸+參](ノ)字、拾穗本には繰と作り、)※[糸+參]《クル》を來《クル》に借たるにて、來《ク》る道はの意とする説は穩ならず、誤字なるべし、故(レ)考るに、※[糸+參]は、絲扁の衍《アヤマリ》て加はれるにて、參にて參路者《マヰリヂハ》などありしにてもあるべきか、參路とは、朝參《ミカドマヰリ》の路を云べし、十八、朝參乃伎美我須我多乎美受比左爾《マヰリノキミガスガタヲミズヒサニ》云々、とあり、猶考(フ)べし、○馬爪盡《ウマツマヅクニ》、金葉集に、御熊野に駒の爪づく青つゞら君こそまろが絆《ホグシ》なりけれ、○歌(ノ)意は、京外の地より朝參する人を、心(ノ)裏に待て、官女のよめるにて、吾(カ)待君が馬の爪突て、艱難《ナヅミ》給ふらむと思ふが、いとほしければ、いかでその君が來ます路に、岩踏蕗のなくてもがなあれかし、と云るにや、
 
(77)2422 石根蹈《イハネフミ》。重成山《ヘナレルヤマハ》。雖不有《アラネドモ》。不相日數《アハヌヒマネミ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。
 
重成山は、ヘナレルヤマハ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、相思ふ人の中間に、石根ふむさがしき山の、へだゝれるにはあらねども、他にさはることのありて、あはぬ日かずの重れる故に、戀しくのみ思ひつゝ、月日を過すことかな、となり、○拾遺集に、いはねふみかさなる山はなけれども逢ぬ日かずをこひやわたらむ、とあらためて、坂上(ノ)郎女の歌とせるは、いかに、伊勢物語には、いはねふみかさなる山にあらねどもあはぬ日おほく戀わたるかな、とあるも、今の歌なり、(新古今集に、岩根ふみかさなる山を分捨て花もいくへのあとの白雲、とあるは、これらの歌を本として、よまれたるなり、)
 
2423 路後《ミチノシリ》。深津島山《フカツシマヤマ》。暫《シマシクモ》。君目不見《キミガメミネバ》。苦有《クルシカリケリ》。
 
路後《ミチノシリ》は、和名抄に、備後(ハ)吉備乃美知乃之利《キビノミチノシリ》、とある、これなり、委(ク)云ば、某之路後《ソレノミチノシリ》といふべきなれど、歌にはたゞ道之後《ミチノシリ》、道之中《ミチノナカ》、道之口《ミチノクチ》、といへる例|往々《コレカレ》あり、應神天皇(ノ)紀に、大鷦鷯(ノ)尊、日向(ノ)國なる髪長姫にたまへる御歌に、瀰知能之利古破※[人偏+嚢]塢等綿《ミチノシリコハダヲトメ》云々、(道(ノ)後|細肌少女《コハダヲトメ》なり、道(ノ)後は日向(ノ)國なり、但日向國に、備前備後などの如く、前後の稱はなけれども、京都よ上りの路次《ミチナミ》、日向は後《シリノ》方なる國なるゆゑに、いへるなり、)集中に、みちのなかくにつみかみは云々、(越中國津御神者なり、)催馬樂道口に、みちのくちたけふのこふに我はありと親に申たべ心あひの風、(越前(ノ)國(78)武生(ノ)國府なり、)○深津島山《フカツシマヤマ》は、和名抄に、備後(ノ)國深津(ノ)郡(ハ)、布加津《フカツ》、とあり、契冲、續紀(ニ)云、養老五年夏四月丙申、分2備後(ノ)國安那(ノ)郡(ヲ)1、置2深津(ノ)郡(ヲ)1、書紀(ニ)云、日本武(ノ)尊、既而從2海路1還v倭、到2吉備(ニ)1、以渡2穴海(ヲ)1、其處有2惡神1、則殺v之、かゝれば穴海は、安那(ノ)郡にあり、深津《フカツ》も、初は安那(ノ)郡の内の一所の別名なるを、養老五年に、分て郡とせられたれば、此(ノ)歌の出來ける時は、まだ安那(ノ)郡に屬せるなり、といへるが如し、さてこれ迄二句は、暫《シマラク》をいはむための序なり、歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2424 ※[糸+刃]鏡《ヒモカヾミ》。能登香山《ノトカノヤマハ》。誰故《タレユヱソ》。君來座在《キミキマセルニ》。※[糸+刃]不開寐《ヒモアケズネム》。
 
紐鏡《ヒモカゞミ》とは、冠辭考に、物に懸む料に、鏡の裏に紐を着ること、類聚雜要抄の、鏡のかたを見て思ふべし、萬葉に、神鏡をも懸ると訓(ミ)、其(ノ)外にも鏡を懸ること多きは、みなうらに紐のある故なりと云り、さて契冲云る如く、その裏に着たる紐は、常に解まじきものなるによりて、勿解《ナトキ》そと云意に云かけたる、枕詞なるべし、勿解《ナトキ》と能登香《ノトカ》と、親く音通ふがゆゑなり、○能登香《ノトカノ》山は、山(ノ)名なり、何地にありや、未(ダ)詳ならず、○紐不開寐は、ヒモアケズネム〔七字右○〕なり、開《アク》は解(ク)といふに同じ、紐《ヒモ》を解(キ)放るを、開(ク)といひしなり、十七に、安麻射可流比奈爾月歴奴之可禮登毛由比底之紐乎登伎毛安氣奈久爾《アマザカルヒナニツキヘヌシカレドモユヒテシヒモヲトキモアケナクニ》、廿(ノ)卷に、多可麻刀能乎婆奈布伎故酒秋風爾比毛等伎安氣奈多太奈良受等母《タカマトノヲバナフキコスアキカゼニヒモトキアケナタダナラズトモ》、などあり、○歌(ノ)意は、契冲、代匠記に、ひもかがみのとかの山とつゞくるは、紐鏡の其(ノ)紐|勿解《ナトキ》その心なり、さて末(ノ)句に、たれゆゑか君きませるに紐とかずねむ、とよみたる心は、紐か(79)がみなときそ、といふ山の名はたれゆゑぞ、思ふ人の來たる夜、などか紐ときてねざらむといふ意なり、といへるが如し、(今云、紐鏡《ヒモカヾミ》と云は、枕詞、能登香《ノトカ》と云は山(ノ)名にて、別事《コト/\》なれど、此歌は紐鏡能登香と云を、即(チ)山(ノ)名のごと取なして、さて其(ノ)意を設けたること、契冲いへるごとし、)
 
2425 山科《ヤマシナノ》。強田山《コハタノヤマヲ》。馬雖在《ウマハアレド》。歩吾來《カチユアガコシ》。汝念不得《ナヲオモヒカネ》。
 
山科は、和名抄に、山城國宇治(ノ)郡山科(ハ)、也末之奈《ヤマシナ》、とあり、○強田山《コハタノヤマ》は、山科にありて、今は木幡《コハタ》山とかけり、神名帳に、山城(ノ)國宇治(ノ)郡|許波多《コハタノ》神社三座、(並大、月次新甞、)山科(ノ)神社二座、(並大、月次新甞、)通稱云、山背(ノ)風土記(ニ)曰、宇治(ノ)郡木幡(ノ)社、名2天(ノ)忍穗耳(ノ)尊1、○歩吾來は、カチユアガコシ〔七字右○〕とか、カチユアガケル〔七字右○〕とか訓べし、歩にて來しとの謂なり、歩にてと云意を歩より、馬にてと云意を馬より、舟にてと云意を舟より、など云る例、既くいへり、金葉集に、いとせめて戀しき時は播磨なるしかまに染るかちよりぞ來る、惠慶法師集に、さうしのゑに、須磨のうらのかたを書たるに、かみの社に、舟より行人の浪のたかければ、たよせにみてぐらたてまつる、釋書に、徒歩カチヨリアユンデ》※[手偏+耆]《サヽフ》v※[竹/〓]《ツヱヲ》、○汝念不得は、ナヲオモヒカネ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、吾(レ)馬を持てあらざるにてはなし、馬はありはすれども、草飼て、鞍置手綱着など、用意する間得待ず、汝を思ふ思ひに堪かねて、取(ル)物もとりあへず、強田山のさがしき道を、歩にてあゆみて來しを、汝はいかに思や、との(80)意を持せたり三五一二四と句を次第て意得べし、強田山に馬はあれどゝつゞけて聞べからず、(しかるを、此(ノ)歌を昔來、強田山に馬はあれど、馬をかる間もなくして、切に思ふゆゑに、歩にて來し、と云意に見て、契冲なども、さる謂に解なせるは、ひがことなり、)
 
2426 遠山《トホヤマニ》。霞被《カスミタナビキ》。益遐《イヤトホニ》。妹目不見《イモガメミネバ》。吾戀《アレコヒニケリ》。
 
歌(ノ)意、第一二(ノ)句は、遠《トホ》をいはむための序にて、あはぬ間の月日いやとほくて、戀しく思ふ心の、さてもいよ/\まさるよ、となり、○以上七首は、山に寄てよめるなり、
 
2427 是川《コノカハノ》。瀬瀬敷浪《セセニシクナミ》。布布《シクシクニ》。妹心《イモガコヽロニ》。乘在鴨《ノリニケルカモ》。
〔頭註、【七音寄v川、】〕
 
瀬瀬敷浪は、セヽニシクナミ〔七字右○〕と訓べし、布布《シクシク》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、妹が容儀《スガタ》の、吾(ガ)心のうへにのりて、常に頻々に、戀しくのみ思はるゝこと哉、となり、二卷(ノ)久米(ノ)禅師(ガ)歌に、東人之荷向篋乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香聞《アヅマヒトノノサキノハコノニノヲニモイモガコヽロニノリニケルカモ》、十(ノ)卷に、春去爲垂柳十緒《ハルサレバシダルヤナギノトヲヲニモ》、とありて、下全(ラ)同(キ)歌あり、
 
2428 千早人《チハヤヒト》。宇治度《ウヂノワタリノ》。速瀬《ハヤキセニ》。不相有《アハズアリトモ》。後我※[女+麗]《ノチハワガツマ》。
 
千早人《チハヤヒト》は、枕詞なり、既く七(ノ)卷に見えたり、○後は、ノチハ〔三字右○〕と訓べし、〔頭注、【和訓栞、萬葉に、宇治川を、是河と書る所あり、前漢地理志にも其事みえ、後漢書、李雲傳の五氏來備の註に、是と氏と通するよし見えたり、橘氏の祖神梅宮を、攝家の人の管領するを是定と云ふ、西宮記に、氏定とあると同じ義なり、】〕○歌(ノ)意は、はやき瀬にあはずありとも後は我つまとは、下に、かも川の後瀬しづけみ後もあはむ、と(81)よめる如く、人のことのしげきを、はやき瀬にたとへ、後瀬は、次の瀬にてぬるければ、人ことのやむにたとへて、いまこそさはり有て得逢ずとも、後には我(ガ)妻にせむ、といふこゝろなり、と契冲いへるが如し、(略解に、速き瀬は、速き時のことなり、といへるは、いかゞあらむ、)
 
2429 早敷哉《ハシキヤシ》。不相子故《アハヌコユヱニ》。徒《イタヅラニ》。是川瀬《コノカハノセニ》。裳襴潤《モノスソヌレヌ》。
 
早敷哉《ハシキヤシ》は、子《コ》といふにかゝる詞なり、愛《ハシ》きやし、子《コ》に相(ハ)ぬもの故に、といふ意に、つゞけ下したり、○不相子故《アハヌコユヱニ》は、あはぬ女なるものをの意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、契冲云、これは古今集に、いたづらにゆきてはきぬるものゆゑに見まくほしさにいざなはれつゝ、此(ノ)意なり、
 
2430 是川《コノカハニ》。水阿和逆纒《ミナワサカマキ》。行水《ユクミヅノ》。事不反《コトカヘサズソ》。思始爲《オモヒソメテシ》。
 
水阿和は、阿は那の誤にて、ミナワ〔三字右○〕なるべし、○事不反思始爲は、舊訓に、コトカヘサズソオモヒソメテシ〔コト〜右○〕とある、これよろし、事不反《コトカヘサズ》は、思案をめぐらさず、二念なくと云意なり、○歌(ノ)意は、契冲、おもひの切なるを、行水のはやさにたとへて、ことかへさずぞおもひそめてしといへり、ことかへさぬは、思案をめぐらさぬなり、たけ/”\しくゆく水の、かへらぬこゝろによせていへり、と云り、(略解に、コトハカヘサジモヒソメタレバ〔コト〜右○〕とよみて、早川の如く、一(ト)たび思ひそめて言(ヒ)出たれば、いかなることありとも、いひ返さじ、となり、また反は變の誤にて、コトハ(82)カハラジ〔七字右○〕ならむか、といへるは、穩ならず、)又本(ノ)句は、たゞ不反をいはむためのみにて、逆(カ)卷(キ)流るゝ水の反らぬ意に、いひつゞけたるならむか、行水のかへらぬごとくなどよめるをも、考(ヘ)合(ス)べし、いかにまれ、末(ノ)句は同意なり、
 
2431 鴨川《カモガハハ》。後瀬靜《ノチセシヅケシ》。後相《ノチハアハム》。妹者我《イモニハアレハ》。雖不今《イマナラズトモ》。
 
鴨川《カモガハ》は、山城(ノ)國愛宕(ノ)郡の賀茂川なるべし、○後瀬靜《ノチセシヅケシ》は、上(ツ)方は、浪高き急流《ハヤセ》なれども、次の瀬はぬるくて、浪靜なるよしにいひて、さて今は人言のしげきを、その人言のやむをしばし期《マチ》て、後に逢むといひつゞけたるなり、○後相《ノチハアハム》、四(ノ)卷に、一瀬二波千遍障良比逝水之後毛將相今爾不有十方《ヒトセニハチタビサハラヒユクミヅノノチニモアハムイマナラズトモ》、○歌(ノ)意は、今は人言しげし、よしや今ならずとも、しばしなりをしづめて、さて後に靜(カ)なるをりのあらむ、其(ノ)時を待得て、妹にはあはむぞ、となり、
 
2432 言出《コトニデテ》。云忌忌《イハヾユユシミ》。山川之《ヤマガハノ》。當都心《タギツコヽロヲ》。塞耐在《セカヘタリケリ》。
 
云忌忌《イハヾユヽシミ》は、言(ハ)ば忌憚《イミハヾカラ》しからむとての意なり、○塞耐在、は、セカヘタリケリ〔七字右○〕と訓べし七(ノ)卷に、名毛伎世婆人可知見山川之瀧情乎塞敢而有鴨《ナゲキセバヒトシリヌベミヤマガハノタギツコヽロヲセカヘタルカモ》、とて載たり、續後紀十九長歌に、堰加倍留天《セカヘトヾメテ》、とあり、世加閇《セカヘ》は、世伎《セキ》の伸りたるなり、(但し世伎《セキ》を伸れば、世加比《セカヒ》となるを、比《ヒ》を閇《ヘ》に轉して、世加閇《セカヘ》といふは、抑《オシ》を伸て於佐比《オサヒ》とは云(ハ)ず、於佐閇《オサヘ》と云と、同じ例なり、)かく伸て云るは、その緩なる形をいへるなり、○歌(ノ)意は、言に打出していはゞ、忌憚しからむとて、やるせなき心を、強(83)ておしとゞめて、黙止《モダシ》てありけり、となり、
 
2433 水上《ミヅノヘニ》。如數書《カズカクゴトキ》。吾命《ワガイノチヲ》。妹相《イモニアハムト》。受日鶴鴨《ウケヒツルカモ》。
 
水上《ミヅノヘニ》云々、契冲、涅槃經に、是(ノ)無常云々、亦如v畫(カ)v水(ニ)、隨(テ)書(ハ)隨(テ)合(フ)、と云(ル)を引たる如し、○吾命は、ワガイノチヲ〔六字右○〕と乎《ヲ》の辭をそへてよむべし、凡て吾(ガ)命と云時は、必(ズ)乎者能《ヲハノ》等のてにをはを添て、六言にいふ例なること、既く三(ノ)卷にいひたりき、○受日《ウケヒ》は、神に誓を立て祈ることなり、靈異記に、祈?、(有介比《イケヒ》)と見え、その餘にも、祈(ノ)字をよめること多けれど、たゞ祈るのみのことにはあらず、見集めて、其(ノ)意をさとるべし、(神代紀葦芽に、誓《ウケヒ》は、目に見えぬ心を、神にかけて物するを云ことなり、俗に、うけやひといふことは、もと誓約《ウケヒ》と同言にはあらじか、請合の字には、なづむべからず、といへり、)○歌(ノ)意は、水(ノ)上に、物の數を、一(ツ)二(ツ)幾箇《イクツ》と書付る如く、はかなくもろく、たのみになりがたき吾(ガ)命なれど、妹にあはむ爲にとて、長からむことを祈りて、神に誓を立つる哉、となり、○以上七首は、川に寄てよめるなり、
 
2434 荒礒越《アリソコエ》。外往波乃《ホカユクナミノ》。外心《ホカゴヽロ》。吾者不思《アレハオモハジ》。戀而死鞆《コヒテシヌトモ》。〔頭註、【七首寄v海、】〕
 
外心《ホカゴヽロ》は、他心《アタシゴヽロ》、異心《コトゴヽロ》などいはむが如し、○歌(ノ)意かくれなし、第一二(ノ)句は序のみなり、下に葦がものすだく池水まさるともまけみそのへにわれゆかめやも、同じこゝろなり、と契冲云へり、
 
2435 淡海海《アフミノミ》。奥白浪《オキツシラナミ》。雖不知《シラネドモ》。妹所云《イモガリトイヘバ》。七日越來《タヾニコエキヌ》。
 
(84)第一二(ノ)句は、不知《シラヌ》をいはむ料の序のみなり、淡海《アフミ》に用あるにあらず、さて白浪不知《シラナミシラヌ》とつゞけるは、みよしぬのたぎのしらなみしらねども、などよめる類なり、○妹所云《イモガリトイヘバ》、四に、不盡能禰乃伊夜等保奈我伎夜麻治乎毛伊母我理登倍婆氣爾餘婆受吉奴《フジノネノイヤトホナガキヤマヂヲモイモガリトヘバケニヨバズキヌ》、○七日越來は、本居氏云、或人説に七日は直の誤にて、タヾニコエキヌ〔七字右○〕なり、といへり、これ然るべし、(十(ノ)卷に、春雨爾衣甚將通哉七日四零者七夜不來哉《ハルサメニコロモハイタクトホラメヤナヌカシフラバナヽヨコジトヤ》、とよめることもあれど、いかにもこの歌にては、七日と云べきにあらず、)○歌(ノ)意は、未(ダ)道をふみしらねども妹が許といへば、心すゝみて、とにかくたどる間もなく、山をも坂をも、直越に越來りぬるよ、となり、
 
2436 大船《オホブネノ》。香取海《カトリノウミニ》。慍下《イカリオロシ》。何有人《イカナルヒトカ》。物不念有《モノモハザラム》。
 
大船《オホブネ》は、枕詞なり、大船の※[楫+戈]取《カトリ》、といふ意につゞけたり、○香取海《カトリノウミ》は、契冲、下總近江兩國にあれば、いづれならむ、されどこゝの前後に、近江の海とよめる歌の中にあれば、七(ノ)卷に、高島の香取の浦とよめる處ならむ歟、ことに下の歌に、近江の海沖こぐ船にいかりおろし、とよめればなり、といへり、眞に、然あるべし、○慍下《イカリオロシ》は、何有《イカナル》をいはむ料の序のみなり、いかりに謂なし、下に、大船乃絶多經海爾重石下何如爲鴨吾戀將止《オホブネノタユタフウミニイカリオロシイカニシテカモアガコヒヤマム》、とあるに同じ、さて慍は借字にて、碇《イカリ》なり、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、海中以v石(ヲ)駐v舟(ヲ)曰v碇(ト)、字亦作v※[石+丁]、和名|伊加利《イカリ》、とあり、○歌(ノ)意は、いかなる人か、物思はず平和にてあるらむ、我は一日片時も、物思をせぬ間と云ものはなくて、常にくる(85)しきを、となり、
 
2437 奧藻《オキツモヲ》。隱障浪《カクサフナミノ》。五百重浪《イホヘナミ》。千重敷敷《チヘシクシクニ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。
 
隱障《カクサフ》は、かくすの伸りたるなり、サフ〔三字右○〕を切てス〔右○〕となれり、かく伸(ベ)云は、其(ノ)緩なる形を云ことなり、一(ノ)卷にも、雲乃隱障倍之也《クモノカクサフベシヤ》、とあり、(かくし障《サヽフ》るの意には非ず、障と書るは、借(リ)字のみなり、)○歌(ノ)意は、千重と重々《シク/\》に戀しく思ひて、月日を經度る哉、さてもくるしや、となり、
 
2438 人事《ヒトコトノ》。暫吾妹《シゲケキワギモ》。繩手引《ツナデヒク》。從海益《ウミユマサリテ》。深念《フカクシゾモフ》。
 
暫は、繁の誤なるべし、第一二(ノ)句ヒトコトノシゲケキワギモ〔ヒト〜右○〕とよむべし、と本居氏云り、これによるべし、○繩手引《ツナデヒク》は、海をいはむための枕詞なり、繩事《ツナデ》は舟の綱手《ツナデ》なり、○從海益は、ウミユマサリテ〔七字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意は、人のとにかくいひたてさわぐ吾妹子が、海よりもまさりて、深く一(ト)すぢに戀しく思はるゝよ、かく人言のしげからずば、たま/\はあふ事も叶ふべきに、人言のしげければ、あふ事も得爲ずして、たゞ思ふのみにてあるがくるしきを、となり、
 
2439 淡海《アフミノミ》。奥島山《オキツシマヤマ》。奥儲《オクマケテ》。吾念妹《アガモフイモガ》。事繁《コトノシゲケク》。
 
奥島山《オキツシマヤマ》は、契冲云、延喜式(ニ)云、近江(ノ)國蒲生(ノ)郡奥津島(ノ)神社、(名神大、)竹生島の神などを、かしこにいはへる歟、しからば今いへるは、竹生島をさすか、といへり、貝原氏(ノ)諸州めぐりに、近江滋賀(ノ)郡小松のむかひに、奥の島あり、民家多くして田畠もあり、島のひろさ廿町ばかりあり、古(キ)歌に(86)奥津島山とよめる、これなり、といへり、さてこれまでは、奥儲《オクマケ》をいはむ料の序なり、○奥儲《オクマケテ》は、契冲が、おくふかくおもふなり、といへるが如し、奥儲《オクマケテ》は、奥《オク》メテ〔二字右○〕なり、(マケ〔二字右○〕はメ〔右○〕と切れり、)深めてといはむが如し、奥眞經《オクマヘ》といふも同じ、(マヘ〔二字右○〕の切もメ〔右○〕となる、)○歌(ノ)意は、奥深めて思ひ入たる妹がうへの事を、人のとにかく云さわぐことよ、かく人言のしげからずば、あふべきてだてもあるべきに、さる事もかなはざるが苦し、となり、
 
2440 近江海《アフミノミ》。奥※[手偏+旁]船《オキコグフネニ》。重石下《イカリオロシ》。藏公之《カクレテキミガ》。事待吾序《コトマツアレゾ》。
 
※[手偏+旁](ノ)字、舊本に滂と作るは誤なり、今は拾穗本、古寫一本等に從つ、○重石下《イカリオロシ》、舊本には石(ノ)字なし、今は類聚抄に從つ、下にも、大船絶多經海爾重石下《オホブネノタユタフウミニイカリオロシ》、とあり、○歌(ノ)意、契冲、あふみの海の底におろせるいかりの如く、ふかくかくれて、君がたのむることのはをまつ、われにてあるぞ、となり、かくれては、しのびての心なり、といへり、本居氏、藏《カク》れてとは、浦隱れ居て風を候《マツ》を云、そはたとへのみにて、歌の意にしのびかくるゝ意はなし、此(ノ)いかりおろしは、序にはあらじ、といへり、さらば船に碇をおろして、浦隱れ居て風待する如く、君が吾をいざなはむ言を、待て居(ル)吾にてあるぞと云なるべし、○以上七首は、海に寄てよめるなり、
 
2441 隱沼《コモリヌノ》。從裏戀者《シタヨコフレバ》。無乏《スベヲナミ》。妹名告《イモガナノリツ》。忌物矣《イムベキモノヲ》。
〔頭註、【一首寄v沼、】〕
 
齋乏は、上にもあり、スベヲナミ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、心(ノ)裏にのみこめて、表にあらはさず思ふ(87)事の、物むづかしくせむ方なさに、妹が名を言に出して云つれば、今は人も知つらむ、いやとよこれは、早《ハヤ》まり過たるしわざにてありけり、まづ妹が名をば、忌つゝみてあるべきものにてありしを、となり、○この一首は、沼に寄てよめるなり、
 
2442 大土《オホツチモ》。採雖盡《トラバツキメド》。世中《ヨノナカニ》。盡不得物《ツキエヌモノハ》。戀在《コヒニシアリケリ》。〔頭註、【一首寄v土、】〕
 
大土《オホツチ》は、神代紀に、大地《オホツチ》海原《ウナハラ》と對(ヘ)云たるに同じ、○戀在は、コヒニシアリケリ〔八字右○〕とよめるよろし、○歌(ノ)意は、この大地はとりても盡終ると云ことは、さらになきものなり、されば、それも、とりとりし居らば、終には、盡終る世もありなむものを、世(ノ)中に盡る時なきものは、人を戀しく思ふ思にてありけり、されば吾(ガ)思をば、何物にかはたとへていふべきぞ、となり、○この一首は、土に寄てよめるなり、
 
2443 隱處《コモリヅノ》。澤泉在《サハイヅミナル》。石根《イハネヲモ》。通念《トホシテゾオモフ》。吾戀者《アガコフラクハ》。〔頭註、【一首寄v石、】〕
 
隱處《コモリヅ》は、此(ノ)下に、隱津《コモリヅ》とあるに同じ、古事記(ノ)歌に、許母埋豆能志多用波閇都都《コモリヅノシタヨハヘツツ》、とあり、契冲、隱處はかくれたる處なり、かくれたる澤に、水のわき出る岩根なり、といへり、(古事記に、許母埋豆《コモリヅ》とあるを、本居氏の、隱水《コモリヅ》なりといへれど、いかゞ、水をば、美とのみ云る例は多けれど、豆《ヅ》と云る證なし、さて又こゝの處(ノ)字は、泉の誤には非るか、其(ノ)故は、處は度《ド》とこそ訓べけれ、豆《ヅ》とは訓がたし、豆《ヅ》に此(ノ)字を書べきにあらず、泉(ノ)字にて豆《ヅ》とよみて、伊豆《イヅ》美の省きならむ歟、といへれ(88)ど、泉(ノ)字を、豆《ヅ》とまで略きて訓べき謂、さらになし、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)戀しく思ふやうは、丈夫心の二念なく、石根をも透すばかりに、通りぬけたる心にてぞある、となり、俗に、男の正念は、岩をも透すといふが如し、上に、石尚行應通建男《イハホスラユキトホルベキマスラヲ》、とあるに、こゝろばえ似たり、さて澤泉在《サハイヅミナル》といへるは、たゞあるがまゝに、文《アヤ》なせるのみにて、泉《イヅミ》に別《コト》に用あるには非ず、(契冲が、古今集に、吉野川岩きりとほし行水の、とよめるを引て、石の中をとほすにはあらず、せかれはてずして、つよく行水をいひて、わがおもひの切なるも、その如くなり、とよめる意なり、と云るは、いかゞ、)下に、隱津之澤出見爾有石根從毛遠而念君爾相卷者《コモリヅノサハイヅミナルイハネヨモトホシテゾオモフキミニアハマクハ》、とあるは、全(ラ)同歌なり、○この一首は、石に寄てよめるなり、
 
2444 白檀《シラマユミ》。石邊山《イソヘノヤマノ》。常石有《トキハナル》。命哉《イノチナレヤモ》。戀乍居《コヒツヽヲラム》。
〔頭註、【一首寄v山、】〕
 
白檀《シラマユミ》は、枕詞なり、眞弓を射《イ》とつゞきたり、古今集に、梓弓いそべの小松とよめるに同じ、○石邊山《イソヘノヤマ》は、契冲、此前後近江をよめるうたおほければ、今甲賀(ノ)郡石邊、(伊之敝《イシベ》)といふ處にや、又佐佐木承禎にしたがひし人に、磯邊の某ときこゆるあり、かの承禎、重代の近江の住人なれば、磯邊も、所の名を氏とせるにや、といへり、但しこれは地(ノ)名ならずとも、たゞいづくにまれ、海際の磯邊山をいへるにもあるべし、○歌(ノ)意は、常石《トキハ》に、いつもかはらぬ身命にてあらむやは、常なき現身は、明日さへもたのみがたきならひなれば、心長くおもひのどめて、たゞに思(ヒ)つ(89)つのみをるべきことかはと、心いられして、戀しぐ思ふよしなり、○この一首は、山に寄てよめるなり、
 
2445 淡海海《アフミノミ》。沈白玉《シヅクシラタマ》。不知《シラズシテ》。從戀者《コヒツルヨリハ》。今益《イマゾマサレル》。
〔頭註、【四首寄v玉、】
 
沈白玉《シヅクシラタマ》は、沈着白玉《シヅクシラタマ》なり、七(ノ)卷に海底沈白玉《ワタノソコシヅクシラタマ》云々、とある處に、委(ク)註せり、(契冲が、浪の玉なり、といへるはわろし、もししからば、沈着《シヅク》とはいふべからず、)さてこれまでは、不知《シラズ》をいはむ料の序のみなり、(契冲が、白玉を女によせ、あふみの海に、逢といふこゝろをそへたり、と云るは非ず、)○今(ノ)字、舊本に、令と作るは誤なり、今は拾穗本、古寫一本等に從つ、○歌(ノ)意は、拾遺集に、逢見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり、とあるに同じ、
 
2446 白玉《シラタマヲ》。纒持《マキテソモタル》。從今《イマヨリハ》。吾玉爲《ワガタマニセム》。知時谷《シレルトキダニ》。
 
今(ノ)字、これも、舊本令に誤、今は姶穗本、古寫一本等に從つ、○吾玉爲《ワガタマニセム》、七卷に、照左豆我|手爾纏古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テニマキフルスタマモガモソノヲハカヘテワガタマニセム》、十六に、眞珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲタエシニキトキヽシユヱニソノヲマタヌキワガタマニセム》、などあり、みな己が妻にすることを、たとへいへり、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は、女を我(ガ)手に入たるをたとへたり、思ふ女を我(ガ)手に入れたれば、今よりしては、かく相知(レ)る時なりとも、己が妻と思ひたのまむ、行末はとまれかくまれ、そこにはさはらじ、と云なるべし、
 
2447 白玉《シラタマヲ》。徒手纒《テニマキシヨリ》。不忘《ワスレジト》。念|心〔○で囲む〕《オモフコヽロハ》。何畢《イツカカハラム》。
 
(90)念何畢は、本居氏、念の下、心(ノ)字を脱し、畢は其の誤にて、オモフコヽロハイツカカハラム〔オモ〜右○〕、とありしなるべし、といへり、これにて歌(ノ)意も、よくことわりに協ひて聞ゆ、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は、これも、女を我(ガ)手に入たるをたとへたり、思ふ女を我(ガ)手に入たる其(ノ)日より、未遂に忘れじと、堅く思ひ定めし心の、いつかは變るべき、となり、
 
2448 烏玉《シラタマノ》。間開乍《アヒダアケツヽ》。貫緒《ヌケルヲモ》。縛依《クヽリヨスレバ》。後相物《ノチアフモノヲ》。
 
烏玉は、白玉《シラタマ》の誤なり、といふ説によるべし、○歌(ノ)意は、白玉の間々遠く明つゝ貰(キ)たるをも、其(ノ)緒を縛《クヽ》り依(セ)合(ハ)すれば、後にはその玉も依(リ)合ものを、なにしに吾(ガ)中をも、はるけきものとのみは、思ひ居む、となり、○以上四首は、玉に寄てよめるなり、
 
2449 香山爾《カグヤマニ》。雲位桁曳《クモヰタナビキ》。於保保思久《オホホシク》。相見子等乎《アヒミシコラヲ》。後戀牟鴨《ノチコヒムカモ》。〔頭註、【四首寄v雲、】
 
雲位桁曳《クモヰタナビキ》(桁の字、タナ〔二字右○〕とよむにや、棚の字の誤歟、と契冲は云り、姓氏録右京神別の下に、天(ノ)湯河|桁《タナノ》命とあるを、山城神別の下には、天(ノ)湯河板擧(ノ)命とあり、かゝれば桁(ノ)字、タナ〔二字右○〕と訓しこと明けしと云説あり、さることなり、)は、たゞ雲の※[雨/非]※[雨/微]《タナビキ》なり、さてこれまでは、於保保思久《オホホシク》をいはむ料の序なり、○於保保思久《オホホシク》は、おぼつかなくほのかなる意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2450 雲間從《クモマヨリ》。狹徑月乃《サワタルツキノ》。於保保思久《オホホシク》。相見子等乎《アヒミシコラヲ》。見因鴨《ミムヨシモガモ》。
 
歌(ノ)意かくれなし、
 
(91)2451 天雲《アマクモノ》。依相遠《ヨリアヒトホミ》。雖不相《アハズトモ》。異手枕《アタシタマクラ》。吾纒哉《アレマカメヤモ》。
 
天雲依相遠《アマクモノヨリアヒトホミは、天の雲と國土と、はるかに離れ隔りて、依合(フ)事の遠きよしのつゞけなるべし、○異手枕《アタシタマクラ》は、契冲云、思ふ人をおきて、こと人の手枕するをいへり、日本紀に、此(ノ)異(ノ)字、餘地等の字を、アタシ〔三字右○〕とよめり、字の如く、あだなる心にはあらず、といへるが如し、○吾纏哉は、アレマカメヤモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、妹が家と吾(ガ)居(ル)處と、天と地とのごとく、離れ隔りて遠くて、依相(フ)事は協はずとも、こと人の手枕をまきて宿むやは、今こそあれ、つひには依合て、一處に居むと思へば、其(レ)をたのみて、異なる心は露もたじ、となり、
 
2452 雲谷《クモダニモ》。灼發《シルクシタヽバ》。意遣《コヽロヤリ》。見乍爲《ミツヽシシヲラム》。及直相《タヾニアフマデニ》。
 
 本(ノ)二句は、齊明天皇(ノ)紀に、建(ノ)王かくれ給ひける時、天皇なげかせ給ひて、みよみませる大御歌に、伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡倶之多多婆那爾柯那皚柯武《イマキナルヲムレガウヘニクモダニモシルクシタタバナニカナゲカム》、とあるに同じ、○意遣(遣(ノ)字、舊本に追と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)は、コヽロヤリ〔五字右○〕と訓べし、○見乍爲は、爲は居の誤なり、と岡部氏云り、ミツヽシヲラム〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、何につけても、なぐさむ事のなきに、せめて雲なりとも、いちじるくをかしくたちてあらば、其を見つゝ意を遣て、たゞにあふまでの慰にせむを、となり、
 
2453 春楊《ハルヤナギ》。葛|木〔○で囲む〕山《カヅラキヤマニ》。發雲《タツクモノ》。立座《タチテモヰテモ》。妹念《イモヲシゾモフ》。
 
(92)春楊《ハルヤナギ》は、枕詞なり、春の楊を鬘《カヅラ》きといふ意につゞきたり、楊を折て、鬘《カヅラ》にするをいへるなり、五(ノ)卷にも、波流楊奈宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈《ハルヤナギカヅラニヲリシウメノハナ》、とよめり、○木(ノ)字、舊本になきは、脱たるなるべし、○妹念は、イモヲシソモフ〔七字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意、本句は全序にて、立ても居ても忘るゝ間なく、妹が事のみをぞ、一(ト)すぢに思ふ、となり、
 
2454 春日山《カスガヤマ》。雲座隱《クモヰカクリテ》。雖遠《トホケドモ》。家不念《イヘハオモハズ》。公念《キミヲシソモフ》。
 
公念は、キミヲシソモフ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、家道の春日山は、雲にかくれて、はるかに遠く隔て來つれども、家のことは、さらに戀しくおもはず、ちかき君をのみぞ、一(ト)すぢに念ふ、となり、これは旅にある人の、旅宿などにて、人にあひてよめるなるべし、○以上六首は、雲に寄てよめるなり、
 
2455 我故《アガユヱニ》。所云妹《イハレシイモハ》。高山之《タカヤマノ》。岑朝霧《ミネノアサギリ》。過兼鴨《スギニケムカモ》。〔頭注、【一首寄v霧、】〕
 
高山之は、タカヤマノ〔五字右○〕と訓べし、(一(ノ)卷に、カグヤマ〔四字右○〕を、高山と書たることもあれど、こゝはなほタカヤマ〔四字右○〕なるべし、又之(ノ)字は、前後の書さまによるに、例にたがへり、後に加はれるにやあらむ、)○歌(ノ)意は、わがゆゑに、人にいひさわがれし妹は、それにうむじて、峯の朝霧の晴行ごとく、われを思ふおもひを過しやりて、忘れけむか、となり、と契冲云る如し、さて終に、さても情なやと云意をくはへて心得べし、四(ノ)卷に、山菅乃實不成事乎吾爾所依言禮師君者與敦可宿良(93)牟《ヤマスゲノミナラヌコトヲワレニヨリイハレシキミハタレトカヌラム》、○この一首は、霧に寄てよのるなり、
 
2456 鳥玉《ヌバタマノ》。黒髪山《クロカミヤマノ》。山草《ヤマスゲニ》。小雨零敷《コサメフリシキ》。益益所思《シクシクオモホユ》。〔頭註、【二首寄v雨、】
 
黒髪山《クロカミヤマ》は、七(ノ)卷にも見えたり、○山草は、山菅《ヤマスゲ》の誤なるべし、○零敷《フリシキ》は、零重る意なり、これまでは、重々《シク/\》をいはむ料の序にいへるなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2457 大野《オホヌラニ》。小雨被敷《コサメフリシク》。木本《コノモトニ》。時依來《トキ/”\ヨリコ》。我念人《》アガオモフヒト。
 
大野は、オホヌラニ〔五字右○〕と訓べし、○被敷はフリシク〔四字右○〕と訓がたし、本居氏、誤字ならむ、といへり、さもあるべし、○歌(ノ)意は、本は大野の中にて、小雨のふりしきるにあひて、路行人などの、一木の陰に集り來る意をもて、依來《ヨリコ》といはむための序とせるにて、吾(ガ)念ふ人の、吾(ガ)許にときどきに依り來よ、といへるなるべし、○以上二首は、雨に寄せてよめるなり、
 
2458 朝霜《アサシモノ》。消消《ケナバケヌベク》。念乍《オモヒツヽ》。何此夜《マツニコノヨヲ》。明鴨《アカシツルカモ》。〔頭註、【一首寄v霜、】
 
何此夜、本居氏、何《イカデ》と云て、鴨《カモ》と留ること、語とゝのはず、何は待の誤にて、マツニコノヨヲ〔七字右○〕云々とありつらむ、といへり、○歌(ノ)意は、身も心も、消失(セ)ば消失よと、切に思ひつゝ待居るに、そのかひもなくして、この夜を徒に開しなむか、さてもくるしや、となり、○この一首は、霜に寄てよめるなり、
 
2459 吾背兒我《ワガセコガ》。濱行風《ハマユクカゼノ》。彌急《イヤハヤニ》。急事|成〔○で囲む〕《ハヤコトナサバ》。益不相有《イヤアハザラム》。〔頭註、【一首寄v風、】
 
(94)初句は、假(リ)によみ絶《キリ》て、彌急《イヤハヤニ》の下に置て心得べし、と契冲がいへる如し、○濱行風は、行は吹の草書を誤れるにて、ハマフクカゼノ〔七字右○〕とありしならむ、(行にては、きこえがたし、)常さへあるに、濱吹(ク)風は、物の障りなくて、疾《トク》ふき過れば、彌急《イヤハヤ》をいはむ料の序とせり、○成(ノ)字、舊本になきは、脱たるなるべし、○益不相有は、イヤアハザラム〔七字右○〕なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)夫子よ、事をいそぎては、中中にさはりありて、こと成べからず、しばらく心をのどめて、時をまちたまへ、といへるにて、女のよめるなり、○この一首は、風に寄てよめるなり、
 
2460 遠妹《トホヅマノ》。振仰見《フリサケミツヽ》。偲《シヌフラム》。是月面《コノツキノオモニ》。雲勿棚引《クモナタナビキ》。〔頭註、【五首寄v月、】〕
 
偲《シヌフラム》は、吾(ガ)旅行を戀《シヌ》び思(フ)らむの意なるべし、○月面《ツキノオモ》、源氏物語須磨にも、月のかほのみまもられ給ふ、とあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、旅にありて、家(ノ)妻を思ひてよめるなるべし、
 
2461 山葉《ヤマノハニ》。追出月《テリヅルツキノ》。端端《ハツハツニ》。妹見鶴《イモヲゾミツル》。及戀《ノチコヒムカモ》。
 
追出月は、岡部氏は、追は進の誤にて、サシヅルツキノ〔七字右○〕とよむべし、といへり、いかゞあらむ、本居氏は、追は照の誤にて、テリヅルツキノ〔七字右○〕なるべし、次下の歌、合(セ)考(フ)べし、といへり、是然るべし、○端端《ハツハツニ》、此(ノ)上、また七(ノ)卷にも、はつ/\と云に、小端と書り、契冲、衣をたつに、きぬのやうやうたれるを、はつ/\と常にいへり、絹布のはつるゝとも、又それをはつすとも云、みな端につき(95)ていへば、はつ/\、はつか、はつるゝ、もとはみなをなじ詞なるべし、といへり、さて山の端より、まだ半輪ばかりてり出たる月の、見ずもあらず見もせぬほどを、端端《ハツ/\》といへり、さて端《ハツ》かに妹を見つる、と云むための序とせり、○及戀は、本居氏、及は、後の誤にて、ノチコヒムカモ〔七字右○〕なり、上に、相見し子等を後戀牟鴨《ノチコヒムカモ》、とあり、といへり、○歌(ノ)意は、見ずもあらず見もせぬばかり、ほのかに妹が容貌をぞ見つる、嗚呼さても、今より後戀しく思はむか、となり、
 
2462 我妹《ワギモコシ》。吾矣念者《アレヲオモハバ》。眞鏡《マソカヾミ》。照出月《テリヅルツキノ》。影所見來《カゲニミエコネ》。
 
影所見來《カゲニミエコネ》は、略解に、此(ノ)影と云は、面影にはあらで、右のハツ/\ニ〔五字右○〕と云如く、ほのかにだにも見え來よ、と云なるべし、と云り、○歌(ノ)意は、吾妹子よ、吾をあはれに思ふとならば、山(ノ)端より照出る月の、端々《ハツ/\》に見え始る如く、ほのかにだにも見え來よ、と云なるべし、
 
2463 久方《ヒサカタノ》。天光月《アマテルツキモ》。隱去《カクロヒヌ》。何名副《ナニナソヘテ》。妹偲《イモヲシヌハム》。
 
隱去は、カクロヒヌ〔五字右○〕と訓べし、(カクレイヌ〔五字右○〕と訓は、いとわろし、)○何名副は、ナニニナソヘテ〔七字右○〕と訓べし、何になぞらへての意なり、○歌(ノ)意は、てる月の光を、見愛つゝ居ると人には云て、實は妹が戀しく思はるゝに堪かねて、外に出て居しに、やう/\その月も、西の山(ノ)端に隱れはてぬれば、今は何を見つゝ賞愛《ウツクシミ》して、内へもいらずに居ると、人に、なぞらへことよせていはむぞ、となり、
 
(96)2464 若月《ミカツキノ》。清不見《サヤニモミエズ》。雲隱《クモガクリ》。吾欲《ミマクゾホシキ》。宇多手比日《ウタテコノゴロ》。
 
宇多手《ウタテ》は、本より有(ル)ことの愈々進みて、殊に甚しくなるを云言にて、既く十(ノ)卷譬愉歌に、吾屋前之毛桃下爾月夜指下心吉菟楯頃者《ウガヤドノケモヽノシタニツクヨサシシタゴヽロヨシウタテコノゴロ》、とある歌につきて、委く註り、○歌(ノ)意は、相見まほしく思ふ妹を、三日月のかすかなるごとく、清《サヤ》かにも見えず、はつ/\に見しのみにて、はやかげを隱したる故に、このごろは愈進みて、殊に甚しくぞ見まほしき、といふなり、○以上五首は、月に寄せてよめるなり、
 
2465 我背兒爾《ワガセコニ》。吾戀居者《アガコヒヲレバ》。吾屋戸之《ワガヤドノ》。草佐倍思《クササヘオモヒ》。浦乾來《ウラガレニケリ》。
〔頭註、【十九首寄v草、】〕
 
歌(ノ)意は、契冲わがせこを、わがこひつゝをれば、草さへ我(ガ)心を知て、ともになげくやうに、うらがるゝ、となり、夏草の思ひしなへて、とよめるごとく、秋の未にも打しをるれば、物おもふ心より、かくはみるなり、といへり、本の三句は、竹をさくいきほひに、わがといふ詞のかさなれるが、おぼえずおもしろし、第四に、額田(ノ)王(ノ)歌に、君まつとわがこひをれば我やどの、簾うごかし秋の風ふく、とあるに、語勢相似たり、といへり、
 
2466 朝芽原《アサチハラ》。小野印《ヲヌニシメユヒ》。空事《ムナコトヲ》。何在云《イカナリトイヒテ》。公待《キミヲシマタム》。
 
本(ノ)二句の意は、淺茅生たる曠野原《アラノラ》に標繩《しめ》ゆふは、何の益《シルシ》なく、いたづら事なるこゝろにて、空事《ムナコト》といはむための序とせるなり、かれ序の意は、徒事《イタヅラコト》の由にいひかけ、空事《ムナコト》とうけたるう(97)へにては虚言《ムナコト》なり、此(ノ)下にも、淺茅原刈標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサチハラカリジメサシテムナコトモヨセテシキミガコトヲシマタム》、十三に、淺茅原 小野爾標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾《アサヂハラヲヌニシメユヒムナコトモアハムトキコセコヒノナグサニ》、などあり、○空事は、十二に空言とある、其(ノ)字(ノ)意なり、(事と書るは借《カリ》字なり、)さてこれをばムナコト〔四字右○〕と訓べし、(古來ソラゴト〔四字右○〕と訓來れども、大じきひがことなり、さるは廿(ノ)卷に、牟奈許等母於夜乃名多都奈《ムナコトモオヤノナタツナ》、と假字書の見えたる、これしか訓べき確據《タシカナルヨサドコロ》なり、牟奈《ムナ》とは、空虚《ムナ》しくして、實の無きをいふ言なり、(曾良《ソラ》は、蒼天《オホソラ》をのみ云
とにて、唯に虚しさを曾良《ソラ》といへること、古(ヘ)にはなきことなり、然るに、漢字の空虚の字は、蒼天のかたにも、又たゞ實のなくて、むなしきかたにもわたりて用ふるから、混《マギ》れて、中古より牟奈《ムナ》某と云べきを、曾良《ソラ》某といひしなり、ソラゴト、ソラメ、ソラネ、ソラギキ、ソラヨミ〔ソラゴ〜右○〕など云類のソラ〔二字右○〕某も、古言の例によりて、正しく云ときは、牟奈《ムナ》某と云べき理なり、されどこれら、ソラ〔二字右○〕某ととなへ誤りたる後にては、何とかせむ、牟奈《ムナ》某とのみとなへし古語を、後の言もて、然訓べきことわりにはあらずなむ、拾遺集物名に、むな車、枕册子に、月夜にむな車ありきたる、とある類は、古(ヘ)に叶へり、そも/\古は、虚空《ムナシ》き方には、空虚國《ムナクニ》、徒手《ムナテ》などいひ、蒼天《オホソラ》をいふには、天津空《アマツソラ》、虚津彦《ソラツヒコ》とやうにいひて、古言には、曾良《ソラ》と牟奈《ムナ》との差別《ケジメ》、きはやかに分りたるを、今までこのさだせし人のなきは、いかにぞや、○歌(ノ)意は、空言《ムナコト》とは、あしひきの山より出る月まつと人にはいひて君まつ吾を、とよめる類にて、虚言《ウソ》をこしらふるを云(ヘ)ば、その虚言《ウソコト》を、何事に(98)託《ヨソ》へて、人を欺きつゝ、君をば待むぞ、といへるなり、
 
2467 路邊《ミチノベノ》。草深百合之《クサフカユリノ》。後云《ユリニチフ》。妹命《イモガイノチヲ》。我知《アレシラメヤモ》。
 
後云は、ユリニチフ〔五字右○〕と訓べし、由理《ユリ》は、後《ノチ》と云に同じき古言なればなり、○我知は、アレシラメヤモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、後云《ユリニチフ》は、後(チ)にあはむといふ、と云義にて、そこは後(チ)にあはむといはるれども、はかなき露の命は、たのみがたきならひなれば、時を待つゝあらむに、そこの命の、いつまでもながらへむといふことを、われたしかに知てたのまむやは、されば、後までもなく、今の間にうけひきてよ、といふなるべし、
 
2468 湖葦《ミナトアシニ》。交在草《マジレルクサノ》。知草《シリクサノ》。人皆知《ヒトミナシリヌ》。苦裏念《ワガシタオモヒ》。
 
湖葦(湖(ノ)字、舊本に潮と作り、今は類聚抄に從つ、)は、ミナトアシニ〔六字右○〕と訓べし、○知草《シリクサ》は、契冲、藺《ヰ》のことなるべし、和名抄に、玉篇(ニ)云、藺(ハ)似v※[草がんむり/完](ニ)而細(ク)堅(シ)、宜v爲v席(ト)、和名|爲《ヰ》、辯色立成(ニ)云、鷺尻刺《サギノシリサシ》、まことに鷺の尻さしといひぬべき草なり、といへり、なほ品物解に云、さて是までは、知《シリ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3469 山萵苣《ヤマチサノ》。白露重《シラツユシゲミ》。浦經《ウラブルヽ》。心深《コヽロヲフカミ》。吾戀不止《ワガコヒヤマズ》。
 
山萵苣《ヤマチサ》は、契冲、常にちさの木といひならへるもの、是なり、といへり、(現存六帖に、足曳の山ちさの花露かけてさける色これ吾見はやさむ、この歌によりて、よめるものなるべし、)今按(フ)に、(99)この前後十八首、いつれも草に寄てよめるを思ふに、この山萵苣も草なるべし、なほ、品物解に云、○浦經《ウラブルヽ》は、契冲、しなえうらぶれとつゞけ、第七に、みわのひばらをうらぶれたてり、とよみみたれば、しをれて葉をたれたる心ときこゆ、こゝも、白露おもみうらぶれて|《と歟》つゞけるほどは、山ちさのしをれたるをいひて、ものおもふこゝろによせたり、といへり、○心深は、誤字なるべし、と本居氏は云う、○歌(ノ)意は、もとのまゝにて云ば、恍惚《ホレ/”\》と愁ひ憐む心の深さに、吾(ガ)戀しく思ふ事の止時なし、なみ/\の思ひならば、息(ム)間もあるべきに、との謂なり、いづれ第一二(ノ)句は序なり、
 
2470 潮《ミナトニ》。核延子菅不《ネバフコスゲノ》。竊隱《ネモコロニ》。公戀乍《キミニコヒツヽ》。有不勝鴨《アリカテヌカモ》。
 
潮は、湖の誤なり、ミナトニ〔四字右○〕なり、四言に訓べし、○核延子菅不は、本居氏、核は根の誤、不は之の誤にて、第二三(ノ)句、ネバフコスゲノネモコロニ〔ネバ〜右○〕なるべし、といへり、これに依べし、核は、拾穗本にも、はやく根と作り、○歌(ノ)意、第一二(ノ)句は序にて、深切《ネモコロ》に君を戀しく思ひつゝ、かくては在にも得堪ぬ哉、さてもかなしや、となり、
 
2471 山代《ヤマシロノ》。泉小菅《イヅミノコスゲ》。凡浪《オシナミニ》。妹心《イモヲコヽロニ》。吾不念《アガモハナクニ》。
 
泉《イヅミ》は、和名抄に、山城(ノ)觀相樂(ノ)郡水泉(ハ)、以豆美《イヅミ》、とある、これなり、○凡浪は、契冲、押靡《オシナミ》になり、すゝきおしなみふれる白雪、とよめるがごとし、それを、なみにおもはぬになしていへり、といへり、(100)さて菅の葉の、涌《ワキ》流るゝ泉水《イヅミ》に押(シ)靡かさるゝより、いひつゞけたるなるべし、○歌(ノ)意、これも第一二(ノ)句は序にて、なみ/\は思はぬことなるに、いかでか忘るゝ事のあるべき、淺き思ひならば、かくまで心を苦むる事は、あるまじきを、となり、
 
2472 見渡《ウマサケノ》。三室山《ミムロノヤマノ》。石穗菅《イハホスゲ》。惻隱吾《ネモコロアレハ》。片念爲《カタモヒゾスル》。
 
見渡は、略解云、打わたすと同じく、打向ひ見る意ともおもへど、猶|美酒《ウマサケノ》の誤にて、枕詞ならむ、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、惻隱《ネモコロ》をいはむ料の序にて、吾は深切《ネムコロ》に片思をぞする、相思ふ中ならば、かくまで益なき事は、あるまじきをとなり、○註に、一云三諸山之石小菅、
 
2473 菅根《スガノネノ》。惻隱君《ネモコロキミガ》。結爲《ムスビテシ》。我※[糸+刃]緒《ワガヒモノヲヲ》。解人不有《トクヒトハアラジ》。
 
解人不有《トクヒトハアラジ》は、君をおきて、他に解(ク)人はあらじ、となり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2474 山菅《ヤマスゲノ》。亂戀耳《ミダレコヒノミ》。令爲乍《セシメツヽ》。不相妹鴨《アハヌイモカモ》。年經乍《トシハヘニツヽ》。
 
歌(ノ)意は、心も亂れて、戀しくのみ思はせつゝ、徒に年月を經て、あはぬ妹にてある哉、さてもつれなしや、となり、
 
2475 哉屋戸《ワガヤドノ》。甍子太草《ノキノシダクサ》。雖生《オヒタレド》。戀忘草《コヒワスレグサ》。見未生《ミレドイマダオヒズ》。
 
甍子太草《ノキノシグクサ》は、六帖にも、軒のしだ草とよめり、子太《シダ》は、草(ノ)名なるべし、今も齒朶《シダ》と云て、山に生るもの有(リ)、されどをはときはにて、古き軒端などに生るものにはあらず、一種山に生る齒朶に(101)似て、小くて濕地に生るものあり、古き軒などにも、たま/\は生ることあるべし、(契冲は、軒の下草として、しのぶ草なり、和名抄に、本草(ニ)云、垣衣、一名烏韮、和名|之乃布久佐《シノブクサ》、又云、蘇敬本草(ノ)註(ニ)云、屋遊(ハ)屋瓦上(ノ)青苔衣也、和名|夜乃宇倍乃古介《ヤノウヘノコケ》、とあるを引て、此(ノ)歌は、人を、こひしのぶ心を、草の名にもたせたるなり、といへれど、いかゞ、子太《シダ》と太の濁音の字を書たるをも思へば、下草にはあらじとぞおもふ、)○歌(ノ)意は、由縁《ヨシ》なき子太《シダ》草は、生しげりたれど、戀をわするゝ忘草は、もし生むかと見れど未(ダ)生ず、といへるにて、益《シルシ》なき思ひのみいやまさりて、いまだえわすれぬといふ車を、もたせたるなるべし、(略解に、しだと云言を、したふ意に取なしてよめるかと、或人はいへり、といへり、いかゞあらむ、)
 
2476 打田《ウツタニモ》。稗數多《ヒエハアマタニ》。雖有《アリトイヘド》。擇爲我《エラエシアレゾ》。夜一人宿《ヨルヒトリヌル》。
 
歌(ノ)意は、稗は、稻の苗にまじりてあるものなるを、其を共に殖るときは、稻をそこなふ故に、擇《エラビ》ぬきてすつるものなり、さて田夫《タビト》の稻苗を殖る時に、稗のあるを、ことごとにえりぬきて、捨る事を得せざる故に、なほその打かへして殖る田にも、稗は多くまじりてありといふを、我のみぞ、ふつに人にえり捨られて、夜ひとりねをするがわびしき、といふなるべし、十二に、水乎多上爾種蒔比要乎多擇擢之業曾吾獨宿《ミヅヲオホミアゲニタネマキヒエヲオホミエラエシワザゾアガヒトリヌル》、とあるに似たる歌なり、
 
2477 足引《アシヒキノ》。名負山菅《ヤマノヤマスゲ》。押伏《ネモコロニ》。公結《キミシムスババ》。不相有哉《アハザラメヤモ》。
 
(102)名負山菅は、契冲、これは、もとより山菅といふ名なれば、足引の名に負といへり、と云れど、いさゝか穩ならぬやうなり、今按(フ)に、足引と云こと、云なれて後は、即(チ)山の事として、やがて足引とて、石《イハ》とも木とも嵐とも、つづけたる事多し、されば此《コヽ》は、足引の名(ニ)負とは、即(チ)山と云ことなれば、義を得て、ヤマノヤマスゲ〔七字右○〕と訓べきにや、(本居氏は名負は、必誤字なるべし、といへり、)○押伏は、押は根の誤にて、ネモコロニ〔五字右○〕なるべし、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、第一二(ノ)句は序にて、深切《ネモコロ》に結び堅めて、君が約《チギ》り賜はゞ、つひにあはずあらむやは、後にはあふべきなれば、其をたのみにせむを、いかで變らねやうに、約をかはしたまへかし、となり、
 
2478 秋柏《アキカシハ》。潤和|川邊《カハヘノ》。細竹目《シヌノメノ》。人不顔面《ヒトニシヌヘバ》。公無勝《キミニタヘナク》。
 
秋柏は、下に出せる歌には、朝柏とかけり、ともにアキカシハ〔五字右○〕と訓べし、品物解に註(ヘ)り、第二(ノ)句は誤字あるべし、其(ノ)謂は、別に枕詞解に、委しく註したりき、○潤和川邊、未(ダ)思ひ得ず、契冲代匠記に、閏八川邊、むかしより、かむがふるところなし、拾芥抄を見るに、中の未、宮城(ノ)部を亘る中に、諸院と標して、八省院、豐樂院等を次第に出して、終に至りて云、紙屋院、(圖書(ノ)別所、在2野宮(ノ)未(ニ)1、)漆室、(内匠(ノ)別所、今荒廢、)在2上西門(ノ)北脇(ニ)1、(これのみ院の字なきは落たるか、しかれども圖もまた此まゝなり、)鷹屋院(在2紙屋(ノ)北(ニ)1、人不v出v之云々、)今荒廢、此中に、もし漆室をヌルヤ〔三字右○〕と讀歟、氏に漆部《ヌリベ》あり、うるしは塗る物なるゆゑなり、室をヤ〔右○〕とよむは、文屋を文室とも書(ケ)ばなり、紙屋院は、(103)紙屋川なれば、漆室も、昔(シ)都とならざる時、ぬるや川有ける所にもやと、書付侍り、といへり、なほ考べし、(○定家(ノ)卿、よる出て《夏果て夫木如此》ぬるや川邊のしのゝめに袖ふきかふる秋の初風、今の歌によられたり、)〔頭註、【枕詞解一卷云、潤和、閏八、ともに疑しきに就て、按に、和八は、共に字の寫誤にて、本は潤比とありけむをはやく誤り傳へたるにはあらじか、さるは和名抄に、上總國市原郡濕津(字留比豆)といふ郷名も見えたれば、宇留比河てふ川も、有しにこそと思はるればなり、もしこの閏比河が、彼濕津と同所ならむとせば、宇留比といふが本の地名にて、其所の河を宇留比河といひ、さて其河津に因て、宇留比津と呼る地名にや有むとも思はるゝなり、再按、寶永年間梓行ありし、東海道驛路鈴と云ものに、駿河國吉原驛より、蒲原驛までての間に、うるか河歩渡、此水大宮淺間の御手洗より漏出る、とあり、これ宇留比河ならむか、更に尋ぬべし、】〕○細竹目《シヌノメ》は、細竹之群《シヌノメ》なり、不顔面《シヌフ》といはむ料の序なり、○人不顔面は、ヒトニシヌヘバ〔七字右○〕と訓べし、○公無勝は、キミニタヘナク〔七字右○〕なり、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は序にて、人目をしのびかくるれば、あふことのならぬ故に、公を戀しく思ふ心のたへられず、さりとてほに出むも、さすがにおもはゆげなれば、いかにともせむかたなきものを、と云なるべし、此(ノ)下に、朝柏《》閏八|河邊之小竹之眼笶思而宿者夢所見來《アサカシハカハヘノシヌノメノシヌヒテヌレバイメニミエケリ》、
 
2479 核葛《サネカヅラ》。後相《ノチハアハムト》。夢耳《イメノミニ》。受日度《ウケヒワタリテ》。年經乍《トシハヘニツヽ》。
 
核葛《サネカヅラ》は、まくら詞なり、五味子《サネカヅラ》の葛《ツル》のはひわかれて、未にて又ゆきあふ意に、いひかけたり、○歌(ノ)意は、今こそあれ、後にはあはむと、神に誓ひて、たゞ夢に見るばかりにて、其をたのみに思ひつゝ、年月を經度れども、つひにあふ事もなし、となり、
 
2480 路邊《ミチノベノ》。壹師花《イチシノハナノ》。灼然《イチシロク》。人皆知《ヒトミナシリヌ》。我戀〓《アガコフルツマ》。
 
(104)壹師花《イチシノハナ》、未(タ)詳ならず、契冲、雄略天皇(ノ)紀に、蓬累此云2伊致寐姑《イチビコト》1、とあるを引たれど、蓬累《イチビ》とは別なるべし、(伊勢の壹師(ノ)郡も、此物より云か、と岡部氏云り、)これは灼然《イチシロク》とつゞけむための序なり、○〓(ノ)字、拾穗本には※[女+麗]と作り、○歌(ノ)意は、吾(ガ)戀しく思ふ女ぞと云ことを、此頃は世(ノ)人が皆いちじるく知ぬれば、今はしのびてもかひなし、となり、(現在六帖に、たつたみもころもで白しみちのべのいちしの花の色にまがへて、)○註に、或本歌云、灼然人知爾家里繼而之念者、
 
2481 大野《オホヌラニ》。跡状不知《タヅキモシラズ》。印結《シメユヒテ》。有不得《アリゾカネツル》。吾眷《アガコフラクハ》。
 
吾眷は、アガコフラクハ〔七字右○〕と訓べし、眷は戀と通(ハシ)用たり、下に至りて委(ク)註《イフ》べし、○歌(ノ)意は、とりとめもなき大野の原に、標繩ゆひまはしたるごとく、無益なる戀を爲《シ》はじめて、わがこふることは、あるにもあられぬことになりぬるよ、と云なるべし、
 
2482 水底《ミナソコニ》。生玉藻《オフルタマモノ》。打靡《ウチナビキ》。心依《コヽロヲヨセテ》。戀比日《コフルコノコロ》。
 
比(ノ)字、舊本に、此と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本に從つ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2483 敷栲之《シキタヘノ》。衣手離而《コロモテカレテ》。玉藻成《タマモナス》。靡可宿濫《ナビキカヌラム》。和乎待難爾《ワヲマチカテニ》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)行至らぬ間を、待に得堪ずして、玉藻の如く靡きて、妹が獨宿すらむか、と思ふがいとほし、となり、○以上十九首は、草に寄てよめるなり、
 
2484 君不來者《キミコズハ》。形見爲等《カタミニセヨト》。我二人《アトフタリ》。植松木《ウヱシマツノキ》。君乎待出牟《キミヲマチデネ》。
 
(105)我二人《アトフタリ》は、其(ノ)君と我と二人して、と云なり、三(ノ)卷に、大伴卿、與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨《イモトシテフタリツクリシアガシマハコダカクシゲクナリニケルカモ》、○牟は、本居氏云、年の誤なり、○歌(ノ)意は、もしさはる事ありて、得來らぬ時は、吾(カ)形見に見よと君が云て、我(ト)二人殖置し松の木よ、そのまつと云名の如く、いかで君を待つけよかし、となり、
 
2485 袖振《ソテフルガ》。可見限《ミユベキカギリ》。吾雖有《アレハアレド》。其松枝《ソノマツガエニ》。隱在《カクリタルラム》。
 
其松枝《ソノマツガエ》は、契冲、上の歌によめる松をさせり、といへり、○歌(ノ)意は、妹が袖ふりて、吾を招くが見ゆべき道(ノ)程をはかりて、その道の限に留りて、妹が方を見やれど、袖ふるが見えぬは、その松枝《マツガエ》に隱れてあるらむ、となり、女の許よりかへる時、男のよめる歌なり、
 
2486 珍海《チヌノウミノ》。濱邊小松《ハマヘノコマツ》。根深《ネフカメテ》。吾戀度《アガコヒワタル》。人子※[女+后]《ヒトノコユヱニ》。
 
珍海《チヌノウミ》は、和泉(ノ)國血沼(ノ)海なり、○※[女+后](ノ)字、上にいへり、○歌(ノ)意は、第一二(ノ)句は序にて、他妻《ヒトヅマ》にてあれば、いかに思ひても、かひなき事なるに、心深く戀しく思ひて、月日を經度るよ、となり、
〔或本歌云。血沼之海之《チヌノウミノ》。鹽干能小松《シホヒノコマツ》。根母己呂爾《ネモコロニ》。戀屋度《コヒヤワタラム》。人兒故爾《ヒトノコユヱニ》。〕
 
2487 平山《ヒラヤマノ》。子松末《コマツカウレノ》。有廉敍波《ウレムゾハ》。我思妹《アガモフイモニ》。不相止者《アハズヤミナム》。
 
有廉飯《ウレムゾ》は、何《ナム》ぞと云に同じ、既く三(ノ)卷にいへり、○者(古寫本、拾穗本等には、看と作り、)は、岡部氏の、甞の誤なり、と云るによるべし、○歌(ノ)意は、これも第一二(ノ)句は序にて、かくまで深く思ふ妹(106)に、何ぞあはずしては止なむ、となり、
 
2488 礒上《イソノヘノ》。立回香瀧《タテルムロノキ》。心哀《ネモコロニ》。何深目《イカデフカメテ》。念始《オモヒソメナム》。
 
立回香瀧は、未(ダ)詳ならず、(舊本に、タチマフタキ〔六字右○〕とよめるは論(フ)に足(ラ)ず、契冲、これをワカマツ〔四字右○〕とよみて、瀧は※[木+龍]に作るべし、※[木+龍]は※[片+怱]也とあり、清濁を通はして、雉を岸にかり用たる例あれば、的のごとくによみ、それを登《ト》と都《ツ》と通へば、松《マツ》となる、上|を《の歟》回香につゞくれば、若松《ワカマツ》なり、高圓を高松とかきたれば、穿鑿といふべからず、といへり、十四に、伊波保呂乃蘇比能和可麻都可藝里登也《イハホロノソヒノワカマツカギリトヤ》云々、とあれば、若松《ワカマツ》といふまじきにはあらねど、※[木+龍](ノ)字は、あまりにもの遠しとやいふべからむ、且《ソノウヘ》回は、浦回、礒回などかけるをウラワ、イソワ〔六字右○〕と訓來れど、其は古言ならぬ事、既くかたがた云る如し、されば回をワ〔右○〕と訓べきにあらぬをや、〉岡部氏(ノ)説に、集中に、吾妹子が見し鞆の浦の天木香樹《ムロノキ》は、と書し類にて、これも回香樹《クワイカウジユ》にて、むろの木にはあらずや、といへるは、よしあり、(但し天木香樹と書るも、回香樹と書るも、其(ノ)所由は詳ならねども、古(ヘ)所據ありてムロ〔二字右○〕にあてし字にこそあらめ、いづれにまれ、君不來者形見爲等《キミコズバカタミニセヨト》云々、といふ歌より、此次の歌まで六首、みな木によせてよみたれば、この歌のみ、瀧なるべきよしなければ、木(ノ)名をよめる歌なるべし、)故(レ)字はもとのまゝにさしおきて、しばらくタテルムロノキ〔七字右○〕とよみつ、○心哀は、十二に、豐國聞濱松心喪《トヨクニノキクノハママツネモコロニ》云々(略解に、春海云、喪は、衷の誤なるべし、字書に、衷(ハ)誠也、とあ(107)れば、心衷を義もてネモコロニ〔五字右○〕と訓べしといへり、と見えたり、)とあるを合(セ)考(フ)るに、共に、心衷にて、ネモコロニ〔五字右○〕なるべし、さて十二なるは、松の根といひかけ、こゝは回香樹《ムロノキ》の根とかゝれるなるべし、室《ムロ》の樹は、根延(フ)むろのきなどもよみて、根によしあるものなれば、此(ノ)くさりあること勿論《サラ》なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2489 橘《タチバナノ》。本我立《モトニアレタチ》。下枝取《シヅエトリ》。成哉君《ナリヌヤキミト》。問子等《トヒシコラハモ》。
 
問子等が、トヒシコラハモ〔七字右○〕とよみて、波母《ハモ》は、歎息《ナゲキ》の辭にて、尋(ネ)慕ふ意あり、古事記景行天皇(ノ)條に、斗比斯岐美波母《トトヒシキミハモ》、此(ノ)集三(ノ)卷に、如是耳有家類物乎芽草花咲而有哉跡問之君波母《カクノミニアリケルモノヲハギガハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》、又、阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《アベノイチヂニアヒシコラハモ》、此(ノ)卷(ノ)下に、情中之隱妻波母《コヽロノウチノコモリヅマハモ》、又、不飽八妹登問師公羽裳《アカジヤイモトトヒシキミハモ》、十二に、消者共跡云師君者母《ケナバトモニトイヒシキミハモ》、十四に、安乎思努布良武伊敝乃兒呂波母《アヲシヌフラムイヘノコロハモ》、廿(ノ)卷に、伊都伎麻左牟等登比之古良波母《イツキマサムトトヒシコラハモ》、などある、皆同じ、此(ノ)餘にも、なほ多し、○歌(ノ)意は、契冲、これは橘の實のなりぬやといふを、戀の成就するによそへたるなり、我(レ)立は、女の身の我なり、下枝取(リ)は、下枝をとりてしめすなり、おもふことのかなひて相見しときに、今こそは成たれといひし女の、後はあひみぬを、いづらやと尋ねてよめる心なり、問しは、いひしなりといへるが如し、但し末(ノ)句の意は、なりぬやいかにと問し、といふなるべし、○以上六首は、木に寄てよめるなり、
 
2490 天雲爾《アマクモニ》。翼打附而《ハネウチツケテ》。飛鶴乃《トブタヅノ》。多頭多頭思鴨《タヅタヅシカモ》。君不座者《キミシマサネバ》。〔頭註、【三首寄v鳥、】〕
 
(108)本(ノ)二句は、古今集に、白雲にはねうちかはし、とよめるに似たり、○飛鶴乃《トブタヅノ》、此(レ)までは、多頭多頭思《タヅタヅシ》といはむ料の序なり、○多頭多頭思《クヅタヅシ》は、契冲、たど/\しにて、おぼつかなく、心のおちつかぬ意なり、といへり、四(ノ)卷に、草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多頭多頭思友無二指天《クサカエノイリエニアサルアシタヅノアナタヅタヅシトモナシニシテ》、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2491 妹戀《イモニコヒ》。不寐朝明《イネヌアサケニ》。男爲鳥《ヲシドリノ》。從是此度《コヨトビワタル》。妹使《イモガツカヒカ》。
 
從是此度は、此の飛の誤なり、と岡部氏の云るぞよろしき、コヨトビワタル〔七字右○〕と訓べし、從是《コヨ》は、此間《コヽ》を、或は、此間《コヽ》にと云が如し、○歌(ノ)意は、契冲、をし鳥は、雌雄あひおもふ鳥なれば、我(ガ)戀あかしたる朝に、こゝにしもわたりくるは、おなじこゝろにこひあかしたる妹が心を、つたふる使かとなり、といへり、鳥を使と云ること、古事記允恭天皇(ノ)條、輕(ノ)太子(ノ)御歌に、阿麻登夫登理母都加比曾多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥《アマトブトリモツカヒソタヅネノキコエムトキハワガナトハサネ》、此集十五に、安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母《アマトブヤカリヲツカヒニエテシカモ》、奈良能彌夜許爾許登都礙夜良武《ナラノミヤコニコトツゲヤラム》、などあり、
 
2492 念《オモフニシ》。餘者《アマリニシカバ》。丹穗鳥《ニホドリノ》。足沾來《アシヌレコシヲ》。人見鴨《ヒトミケムカモ》。
 
歌(ノ)意は、足ぬれ來しといはむために、丹穗鳥のとはいへるにて、雨ふりし後《アト》の道をば、ゆかでもやみなむとためらへど、猶おもひあまりて、歩にて足ぬれ來しなれば、人もかゝるけしきをあやしみて、それと見あらはしけむか、嗚呼うしろめたしや、となり、十(ノ)卷七夕の歌にも、天(109)河足沾渡《アマノカハアシヌレワタリ》、とよめり、にほどりは、おなじ水鳥|の岸に《本ノマヽ》もしばし水をはなれねば、あしぬるゝにつゞけたるなるべし、と契冲はいへり、本居氏は、沾は脳の誤にて、アナヤミコシヲ〔七字右○〕ならむか、十四に、安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》、とよみたるを思ふべし、といへり、(水鳥陸行とか、から人のいふこともあめれば、これもよしある考(ヘ)か、)○以上三首は、鳥に寄てよめるなり、
 
2493 高山《タカヤマノ》。峯行宍《ミネユクシヽノ》。友衆《トモヲオホミ》。袖不振來《ソテフラズキヌ》。忘念勿《ワスルトオモフナ》。〔頭註、【一首寄v獣、】〕
 
岑行完《ミネユクシヽ》(完は宍なり、古書に、宍を多くは完と作り、宍は肉にて、鹿猪に借てかけるなり、)は、岑行鹿猪《ミネユクシヽ》なり、(友衆といふこと似つかはしからねば、雁なるべし、と本居氏はいはれしかど、鹿も群(レ)行こともあるものなれば、猶宍なるべし、と中山(ノ)嚴水いへり、契冲も、後の歌に、鹿のむら友などもよめり、群の多きものなればなり、といへり、)○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は、友を多みといはむ料の序のみにて、友どちの多きが故に、人目を憚りて、思ふ心はあれども、袖ふらずかへり來しと、女のもとよりかへりて後、男のよみておくれるなるべし、袖振《ソテフル》は、上にも、袖ふるが見ゆべきかぎり云々、とよみて、男も女も、遠き間《ホド》まで袖打ふりまねくさまして、思ふ心をしめすは、古(ヘ)の常なり、○この一首は、獣に寄てよめるなり、
 
2494 大船《オホブネニ》。眞※[楫+戈]繁拔《マカヂシヾヌキ》。※[手偏+旁]間《コグマダニ》。極太戀《ネモコロコヒシ》。年在如何《トシニアラバイカニ》。〔頭注、【一首寄v船、】
 
※[手偏+旁]間は、コグマダニ〔五字右○〕と訓べし、※[手偏+旁]は榜と同じ、○極太は、ネモコロと〔四字右○〕よむこと、既く此(ノ)上にいへ(110)るが如し、○歌(ノ)意は、大船の眞※[楫+戈]しゞぬきて、こぐばかりの間も、わすれがたく、かへす/”\思はるゝを、もしさはることありて、あひ見ぬこと一年もあらば、いかにかあらむ、となり、○この一首は、船に寄てよめるなり、
 
2495 足常《タラチネノ》。母養子《ハヽガカフコノ》。眉隱《マヨゴモリ》。隱在妹《コモレルイモヲ》。見依鴨《ミムヨシモガモ》。〔頭註【一首寄v蠶、】〕
 
足常は、タラチネノ〔五字右○〕と訓べし、常はチネ〔二字右○〕に借たり、このことはやくいひたりき、○眉隱《マヨゴモリ》は、老蠶《ヒヽル》の※[爾/虫]《マユ》の内に圍《ツヽマ》れ隱《コモ》れるを云、眉はマヨ〔二字右○〕と訓べし、(古言には、マユ〔二字右○〕といへること一(ツ)もなし、)○歌(ノ)意は、本(ノ)句は序のみなり、隱れる妹とは、深※[窗/心]《オクトコ》の内にかくれ居て、人に見えぬ女をいへば、いかでそのかくれゐたる女を、見むよしもがなあれかし、とねがへるなり、十二に、垂乳根之母我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハヽガカフコノマヨゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》、十三長歌にも、帶乳根笶母之養蠶之《タラチネノハヽノカフコノ》、眉隱氣衝渡《マヨゴモリイキヅキワタリ》云々、などよめり、○この一首は、蠶に寄てよめるなり、
 
2496 肥人《ウマヒトノ》。額髪結在《ヌカカミユヘル》。染木綿《シメユフノ》。染心《シミニシコヽロ》。我忘哉《アレワスレメヤ》。〔頭註、【一首寄2木綿1、】〕
 
肥人は、契冲、うま人は、高貴富有のよき人なり、良家君子※[手偏+晉]紳、これらを日本紀に、ウマヒト〔四字右○〕とよめり、又五(ノ)卷に、帥大伴(ノ)卿の家にて、みな人のよみける、三十二首の梅の歌の中の、作者の名にも、少令史田氏肥人あり、鳥も魚も獣も、肉の肥たるは、うまきことわりなり、今の本には、コマ〔二字右○〕人とよめり、高麗人なるべし、いかでコマヒト〔四字右○〕とはよめりけむ、今朝鮮(ノ)人のわたりくるを(111)見るに、いたくふつゝかにこえふとりたるがおほければ、その人をもてよめりけむ、たゞウマヒト〔四字右○〕にしたがふべし、といへり、(今按、中古肥人書と云ものあり、肥人とは、肥前、肥後の國の人をいへることゝおぼえたれば、こゝの肥人には、あづからぬ事なるべし、然るを平田(ノ)篤胤が、肥人書のことを論へる因に、今の歌を引て、肥人はヒノヒト〔四字右○〕と訓べし、即(チ)肥(ノ)國人のことなり、ウマヒト〔四字右○〕と訓説は、非言なり、といへるは、中々に謾なり、紀人《キヒト》、吉備人《キビヒト》などやうに、多くいひて、紀の人、吉備の人とやうに云ることかつてなし、また難波人《ナニハヒト》、安太人《アダヒト》、或は韓人《カラヒト》、新羅人《シラキヒト》などいふも同じ、何(レ)もの〔右○〕の言を云る例なし、肥(ノ)國人ならぬこと、著きをや、)○額髪は、ヌカカミ〔四字右○〕と訓べし、其證は、和名抄に唐※[韵の旁](ニ)云、※[髪頭/首](ハ)額前髪也、俗(ニ)云|奴加加美《ヌカカミ》、と見えたり、(俗云といへれど、俗にはあらず、枕册子に、ひたひ髪ながやかに、おもやうよき人の云々、ひたひ髪もしとゞになきぬらし、狹衣に、ひたひの髪のゆら/\とかゝりこぼれ給へる云々、などあるは、やゝ後の稱ならむ、)わが古(ヘ)は、男も髪を額に結たりとおぼえたり、さて中山(ノ)嚴水、額は古(ヘ)は、奴加《ヌカ》といへりしなり、和名抄に、額を比太比《ヒタヒ》とあれども、そは後のことならむ、さてひたひてふこと、和名抄に、容飾(ノ)具の中に、蔽髪、釋名(ニ)云、蔽(テ)2髪前(ヲ)1爲v飾(ト)、和名|比多飛《ヒタヒ》、とあり、此(ノ)訓|移轉《ウツリ》て、額の訓となりしにや、といへり、さもあるべし、(枕册子に、御ひたひあげさせ給へる際次《サイジ》に、御わけめの御ぐしの、いささかよりてしるく見えさせ給ふなど云々、新古今集に、后に立給ひけるとき、冷泉院の后宮(112)の、御ひたひを奉り給ひけるを、出家のとき返し奉り給ふとて、東三條院、そのかみの玉のかざしを打かへし今は衣のうらをたのまむ、とあるなどは、いはゆる蔽髪なるべし、)○染木綿は、シメユフノ〔五字右○〕と訓べし、さて古今集に、濃紫わがもとゆひ、とよめるごとく、染たる木綿もて、額髪《ヌカガミ》をゆひしならむ、木綿もて髪を結しことは、十三に、蜷腸香黒髪丹《ミナノワタカグロキカミニ》、眞木綿持阿邪尼結垂《マユフモチアザネユヒタリ》云々、とあり、さてこれまでは、染心《シミニシコヽロ》といはむための序なり、○染心は、シミニシコヽロ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、一度心の染着て、深く思(ヒ)入にしものを、二度忘るゝ事のあらむやは、となり、○舊本註に、一云所忘目八方、○この一首は、木綿に寄てよめるなり、
 
2497 早人《ハヤヒトノ》。名負夜音《ナニオフヨコヱ》。灼然《イチシロク》。吾名謂《アガナハノリツ》。※[女+麗]恃《ツマトタノマセ》。〔頭註、一首寄2早人1、〕
 
早人《ハヤヒト》は、隼人《ハヤヒト》なり、延喜式に、隼人司式あり、○名負夜音《ナニオフヨコヱ》は、灼然《イチシロク》をいはむ料なり、神代紀(ノ)下海宮(ノ)條に、是以火酸芹(ノ)命(ノ)苗裔《スヱ》諸(ノ)隼人等《ハヤヒトラ》、至今《イマモ》不《ズ》v離《サラ》2天皇宮牆之傍《ミカキノモト》1、代2吠《カハリホエテ》狗《イヌニ》1而|奉事者《ツカヘマツレリ》也、と見えて、大甞會式に、十一月卯日平明云々、隼人司※[攣の手が十]2隼人1、分立2左右(ニ)1、朝集堂(ノ)前、待v開v門乃發v聲(ヲ)、とありて、其(ノ)發聲のいちじるきよしもて、いひつゞけたり、○歌(ノ)意はかくれもなし、かく打出して、いちじるくまぎれもなく、今は我(ガ)名をのりつれば、いでや妻とおもひたのみてよ、と云なり、末(ノ)句は、アガナハノリツツマトタノマセ〔アガ〜右○〕と訓むべし、(本居氏の説に、吾は、君の誤なり、キミガナノラセツマトタノマム〔キミ〜右○〕なりといへるは、わろし、)○この一首は、隼人に寄てよめるなり、
 
(113)2498 釼刀《ツルギタチ》。諸刃利《モロハノトキニ》。足蹈《アシフミテ》。死死《シニヽモシナム》。公依《キミニヨリテバ》。〔頭註、【二首寄v劔、】
 
諸刃利《モロハノトキニ》、契冲、和名抄に、四聲字苑云、似v刀(ニ)而兩刃(ナルヲ)曰v劔(ト)、といへる如く、兩刃《モロハ》の劔なりといへる如し、但し上古は、都流岐《ツルギ》といひ、多知《タチ》といへる、皆|兩刃《モロハ》なり、劔刀《ツルギタチ》といひ、劔《ツルギ》の刀《タチ》といへる、皆一(ツ)物なち、刀劔の字に泥むべからず、故(レ)釼刀諸刃《ツルギタチモロハ》とはいへるなり、○歌(ノ)意は、君がためといはゞ、たとひ兩刃《モロハ》の利《ト》きつるぎをふみて死《シニ》すとも、辭《イナ》とは云(ハ)じ、となり、下に、つるぎたちもろはのうへにゆきふれてしにかもしなむこひつ>あらずは、さて又、あふことはかたなのはをもあゆむかな人の心のあやぶまれつゝ、といふ歌も、こゝろはことなれど、此(ノ)歌をもてよめるなるべし、又第四(ノ)卷に、大舟をこぎのすすみに岩にふれかへらばかへれ妹によりてば、これまたこゝろいまの歌に似たり、と契冲云りき、
 
2499 我妹《ワギモコニ》。戀度《コヒシワタレバ》。劔刀《ツルギタチ》。名惜《ナノヲシケクモ》。念不得《オモヒカネツモ》。
 
劔刀《ツルギタチ》(刀(ノ)字、舊本に、刃と作るは誤なり、拾穗本、古寫一本等に從つ、)は、枕詞なり、既く四(ノ)卷に出て、委(ク)註り、(契冲が刀には、鍛冶の名を彫つくる故、名《ナ》とつゞくるなり、と云るは非ず、)○歌(ノ)意は、常は名の惜まるゝことなるに、そのをしさも忍《ネム》じかねてあはれ妹にあふよしもがなと、名をすてゝ戀しく思ひつゝ、月日を經度ることよ、となり、○以上二首は、劔に寄てよめるなり、
 
2500 朝月日《アサヅクヒ》。向黄楊櫛《ムカフツゲクシ》。雖舊《フリヌレド》。何然公《ナニシカキミガ》。見不飽《ミルニアカザラム》。〔頭註、【一首寄v櫛、】
 
(114)朝月日《アサヅクヒ》は、契冲、朝月日と書たれども、唯朝日なり、朝月夜とよめるは、朝まで月のてるなり、夕づくひも、また唯夕日にて、夕づく夜は月夜なり、心を付べし、延喜式の祝詞にも、朝日の日むかひなどいへるごとく、朝つく日は、むかふにめでたきものなれば、向ふといはむとて、朝づく日とはいへり、といへり、今按(フ)に、朝《アサ》づく日《ヒ》、夕《ユフ》づく日《ヒ》を、月日とかけるは、月は借字なることさらにて、朝附日《アサヅクヒ》、夕附日《ユフヅクヒ》と云ことなり、朝月夜《アサヅクヨ》、夕月夜《ユフヅクヨ》など云は、月のことなれば、月は借(リ)字にあらず、實字なり、しかるを契冲が、某|月夜《ヅクヨ》と云を、某づく日《ひ》と云事に引たるは、いさゝか、いひざままぎらはしきことなり、○向黄楊櫛《ムカフツゲクシ》は、すべて櫛の齒は、わが頭髪の方へ向へさすものなれば、いふなるべし、○歌(ノ)意は、朝な/\とりて、向へさす黄楊櫛の、もてならしてふるびたる如くに、年經てふるめきたる君なれば、いとはるゝ方もあるべきに、さらにさやうの心は露思はず、なにしかいつもめづらしく、あく世なく、かくばかりうるはしく思はるらむ、となり、○この一首は、櫛に寄てよめるなり、
 
2501 里遠《サトトホミ》。〓浦經《コヒウラブレヌ》。眞鏡《マソカヾミ》。床重不去《トコノヘサラズ》。夢所見與《イメニミエコソ》。〔頭註、【二首寄v鏡、】〕
 
〓浦經(〓は、眷の減畫なり、)は、コヒウラブレヌ〔七字右○〕と訓べし、下に、里遠戀和備兩家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマスカヾミオモカゲサラズイメニミエコソ》、とあるによるべし、且眷(ノ)字を、コヒ〔二字右○〕とよむ例は、此(ノ)上に、大野《オホヌラニ》云々|吾眷《アガコフラクハ》、とあり、これコヒ〔二字右○〕とよむゆゑはしらねども、此(ノ)處と合せて、戀(ノ)字を書べき所に、通(ハシ)用たるを知べし、(115)もしは眷《カヘリ》み慕ふ義もて書るにや、(略解に、眷は吾の誤にて、ワレウラブレヌ〔七字右○〕なり、といへるは、推度のみなり)○眞鏡《マソカヾミ》は、枕詞なり、鏡は常に床の邊にかけおきて、旦暮に取見るものなればつゞけたり、○與(ノ)字、コソ〔二字右○〕と云に用たること、上にも云るが如し、(略解に、、乞の誤なり、といへるは、推當なり」○歌(ノ)意は、妹(ガ)家の里が程遠き故に、朝夕に、見ることかなはず、戀しく思ふ心の恍惚《ホレボレ》として、愁《ウレ》ひ憐《カナシ》むに堪がたければ、いかで毎夜々々の吾夢に入來て、相宿すと見えよかし、となり、
 
2502 眞鏡《マソカヾミ》。手取以《テニトリモチテ》。朝朝《アサナサナ》。雖見君《ミレドモキミハ》。飽事無《アクコトモナシ》。
 
歌(ノ)意は、毎朝々々鏡を取見る如くに、常にむかひ見れども、飽厭はるゝところなく、うるはしき君にてあるぞ、となり、下に、眞十鏡手取持手朝旦見時禁屋戀之將繁《マソカヾミテニトリモチテアサナサナミムトキサヘヤコヒノシゲケム》、○以上二首は、鏡に寄てよめるなり、
 
2503 夕去《ユフサレバ》。床重不去《トコノベサラヌ》。黄楊枕《ツゲマクラ》。射然汝《ナニシカナレガ》。主待固《ヌシマチガタキ》。〔頭註、【一首寄v枕、】〕
 
射然は、岡部氏云、射は何の誤にて、ナニシカ〔四字右○〕なり、○汝主《ナレガヌシ》とは、枕の主にて、我(ガ)戀る男を云なり、とこれも同人いへり、○歌(ノ)意は、夕(ヘ)になるごとに、床(ノ)邊さらぬ黄楊枕よ、なにとて汝が主とする吾(ガ)夫君を待に、待得がたくてあるぞ、となり、○この一首は、枕に寄てよめるなり、
 
2504 解衣《トキキヌノ》。戀亂乍《コヒミダレツヽ》。浮沙《ウキクサノ》。生吾《ウキテモワレハ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。〔頭註、【一首寄v衣、】〕
 
(116)解衣《トキキヌノ》は、亂《ミダレ》をいはむ料の枕詞なり、○浮沙生(沙(ノ)字、類聚抄には渉と作り、)は、浮草浮とありしを、誤寫《ヒガカキ》せるものなるべし、六帖に此(ノ)歌を載て、ときぎぬの思(ヒ)亂(レ)てうき草のうきたる戀もわれはするかな、とあるに依べし、さて浮草は、浮をいはむ料の枕詞なり、古今集にも、瀧つ瀬に根ざしとゞめぬ浮草の、うきたる戀もわれはするかな、とあり、○歌(ノ)意は、物に便りて落着方もなく、心亂れつゝ、うか/\と戀しく思ひて、月日を經度ること哉、さても苦しや、となり、○この一首は、衣に寄てよめるなり、
 
2505 梓弓《アヅサユミ》。引不許《ヒキテユルサズ》。有者《アラマセバ》。此有戀《カヽルコヒニハ》。不相《アハザラマシヲ》。〔頭註、【一首寄v弓、】〕
 
歌(ノ)意は、契冲、はれる弓をゆるさぬごとく、はじめこひせじ、と思ひしまゝの心ならば、かゝる物思はせじものを、と悔るなり、といへる如し、十二にも、梓弓引而不縱大夫哉《アヅサユミヒキテユルサヌマスラヲヤ》云々、とよめり、○この一首は、弓に寄てよめるなり、
 
2506 事靈《コトタマヲ》。八十衢《ヤソノチマタニ》。夕占問《ユフケトフ》。占正謂《ウラマサニノレ》。妹相依《イモニアハムヨシ》。〔頭註、【二首寄v占、】〕
 
事靈《コトタマ》は、(事は借(リ)字、)言靈《コトタマ》にて、言語に靈驗《タマノシルシ》あるを云、なほ言靈のことは、五(ノ)卷に既くいへり、大鏡に、此(ノ)御時ぞかし、村上のみかど生れさせ給へる、御五十日《イカ》のもち、殿上へ出させ給へるに、伊衡中將つかうまつり給へるはとておぼゆるめり、一年にこよひかぞふるいまよりは百年までの月かげをみむ、とよむぞかし、御かへしみかどのせさせ給ふ、かたじけなさよ、いはひ(117)つることたまならば百年の後もつきせぬ月をこそみめ、(此(ノ)御歌、玉葉集にも出づ)さて事靈は、コトタマヲ〔五字右○〕と訓て、夕占問《ユフケトフ》の上にうつして心得べし、○八十衢《ヤソノチマタ》は、街道の多きをいへり、○歌(ノ)意は、夕占問とは、次の歌に、路往占《ミチユキウラ》といへるに同じく、今(ノ)世に辻占とて、辻に出居て、往來の人の言語を聞て、其(ノ)言語のさまによりて、吉凶の前相《シルシ》をさだむることあり、その類なるべし、さて其は、初發《ハジメ》に神祇《カミタチ》に幣帛獻(リ)置て、吉兆をあらはし賜へと祈て、道股の、多く人の往來のしげき地に出て、物する故、やがて言靈の靈驗を問なり、しか道の衢に出て、夕占して言靈のさとしを問に、いかで妹に逢見むよしを、正しく告てよ、といふなるべし、
 
2507 玉桙《タマホコノ》。路往占《ミチユキウラニ》。占相《ウラナヘバ》。妹逢《イモニアハムト》。我謂《アレニノリテキ》。
 
占相《ウラナヘバ》、本居氏云、占相《ウラナヘバ》は、こは賂《マヒ》をするを麻比那布《マヒナフ》、商《アキ》をするを阿伎那布《アキナフ》、荷《ニ》を爾那布《ニナフ》と云類にて、卜《ウラ》をするを云なり、此(ノ)外|行《オコナ》ふ、養《ヤシナ》ふ、咒《マジナ》ふなど、那布《ナフ》てふことを添て云言多し、皆同じ意なり、○歌(ノ)意は、事靈云々の歌と同作にて、前には、妹にあはむよしのれといひ、さて今は、あはむよしのりつるを、よろこべるにて、かくれたるすぢなし、○以上二首は、占に寄てよめるなり、
〔右九十三首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
2619 朝影《アサカゲニ》。吾身成《ワガミハナリヌ》。辛衣《カラコロモ》。襴之不相而《スソノアハズテ》。久成者《ヒサシクナレバ》。〔頭註、【八首寄v衣、】〕
 
朝影爾《アサカゲニ》云々は、契冲は、只影のとごくになりぬといはむを、ことばたらねば、朝影といへり、と(118)云り、岡部氏は、晝は影の見えず、夕(ヘ)は見えもすべけれど、朝ばかり見ゆるはなきによりて云ならむ、といへり、此(ノ)上に、朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》、とあり、○辛衣《カラコロモ》云々は、十四に、可良許呂毛須蘇乃宇知可陪安波禰杼毛《カラコロモスソノウチカヘアハネドモ》、とよみたるを、合(セ)思ふに、古(ヘ)皇朝に參來し韓人等《カヲヒトドモ》の、衣服の制法、裔《スソ》の合(ハ)ずぞありけむ、故(レ)不相《アハズ》といはむとて、韓衣襴之《カラコロモスソノ》といひかけたるなるべし、○歌(ノ)意は、思ふ人に逢ずして、月日の久しくなりぬれば、思痩て、今は吾(ガ)身は、影の如くに衰へぬ、となり、
 
2620 解衣之《トキキヌノ》。思亂而《オモヒミダレテ》。雖戀《コフレドモ》。何如汝之故跡《ナソナガユヱト》。問人毛無《トフヒトモナシ》。
 
十二に、解衣之念亂而雖戀何之故其跡問人毛無《トキキヌノオモヒミダレテコフレドモナニノユヱソトトフヒトモナシ》、とて載たる方、ことわりに通《きこ》えたり、今は彼(ノ)歌を誦《トナヘ》誤れるものなるべし、汝之故《ナガユヱ》といへる、甚(ク)いかゞに聞ゆればなり、
 
2621 摺衣《スリゴロモ》。著有跡夢見津《ケリトイメミツ》。寤着《ウツヽニハ》。孰人之《タレシノヒトノ》。言可將繁《コトカシゲケム》。
 
摺衣《スリコロモ》は、黄土《ハニ》の類、或は草木の花の類にて、摺綵《スリイロド》りたる衣を云、○寤者《ウツヽニハ》(寤(ノ)字、舊本に寐と作るは誤なり、今は活字本、拾穗本等に從つ、)は、夢にむかへていへるなり、すべて爾波《ニハ》は、他の物に對へて云詞なり、心をつくべし、○孰人之は、タレシノヒトノ〔七字右○〕と訓べし、此(ノ)下一書(ノ)歌に、誰之能人《タレシノヒト》、とあり、○歌(ノ)意は、四(ノ)卷に、吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣津跡夢西所見《アガオモヒヲヒトニシラセヤタマクシグヒラキアケツトイメニシミユル》、又|劔太刀身爾取副常夢見津何如之怪曾毛君爾相爲《ツルギタチミニトリソフトイメニミツナニノシルシソモキミニアハムタメ》、などよめる類にて、古(ヘ)の世のいひならはしに、摺衣着たりと(119)夢に見るは、人言の多からむ前相《シルシ》ぞ、といふことのありけるなるべし、さてかくはよめるなるべし、
 
2622 志賀乃白水郎之《シカノアマノ》。塩燒衣《シホヤキゴロモ》。雖穢《ナレヌレド》。戀云物者《コヒチフモノハ》。忘金津毛《ワスレカネツモ》。
 
志賀《シカ》は、肥前の志可《シカ》なり、(賀(ノ)字は書たれども、清て唱べし、)○鹽燒衣《シホヤキゴロモ》は、海藻刈鹽燒海夫《メカリシホヤクアマ》の衣は、鹽じみて、褻垢《ナレアカヅ》きたるものなれば、穢《ナレ》をいはむ料の序におけるなり、○歌(ノ)意は、思ふ人と互になれては、さはあるまじきものなるを、狎(レ)親みても、戀と云ものは、なほ忘れがたき物にてあるよ、といへるなり、
 
2623 呉藍之《クレナヰノ》。八塩乃衣《ヤシホノコロモ》。朝旦《アサナサナ》。穢者雖爲《ナルトハスレド》。益希將見裳《イヤメヅラシモ》。
 
八塩乃衣《ヤシホノコロモ》は、略解に、古事記に、八鹽折之紐小刀《ヤシホリノヒモカタナ》とも有、八鹽利《ヤシホリ》とは、しほは、其(ノ)色をしむるをいひ、利《リ》は、入《イリ》の略にて、彌《ヤ》たび染入るといふ事なり、さて歌には、利《リ》の言を略きて、やしほといへり、とあり、○朝旦《アサナサナ》は、日に/\といふが如し、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は序にて、日に/\狎(レ)親みはすれども、いよ/\めづらしくうつくしきことよ、となり、
 
2624 紅之《クレナヰノ》。深染衣《コソメノコロモ》。色深《イロブカク》。染西鹿齒蚊《シミニシカバカ》。遺不得鶴《ワスレカネツル》。
 
歌(ノ)意は、これも本(ノ)句は序にて、おもふ人に、情深く染にしゆゑかして、怠るゝことを得がたき、となり、六(ノ)卷に、紅爾深染西情可母寧樂乃京師爾年之歴去倍吉《クレナヰニフカクシミニシコヽロカモナラノミヤコニトシノヘヌベキ》、とあり、
 
(120)2625 不相爾《アハナクニ》。夕卜乎問常《ユフケヲトフト》。幣爾置爾《ヌサニオクニ》。吾衣手者《ワガコロモテハ》。又曾可續《マタソツグベキ》。
 
歌(ノ)意は、逢こともなきことなるに、夕卜《ユフケ》を問《フ》ために、神祇《カミタチ》に幣帛奉るとて、著たる衣の袖を解てものせしに、そのしるしもさらになきを、なほそれにもこりずして、又つゞきて、夕卜のぬさに袖を解べし、となり、古今集に、手向にはつゞりの袖もきるべきに、とよめり、
 
2626 古衣《フルコロモ》。打棄人者《ウツテシヒトハ》。秋風之《アキカゼノ》。立來時爾《タチクルトキニ》。物念物其《モノモフモノソ》。
 
古衣《フルコロモ》は、打棄《ウツテ》をいはむための枕詞なり、○打棄人《ウツテシヒト》は、人に捨られし我(ガ)身を云、古言には、捨《ステ》を宇※[氏/一]《ウテ》とも宇都※[氏/一]《ウツテ》ともいへり、(打棄《ウチステ》のチス〔二字右○〕を切れば、ツ〔右○〕とはなれども、この言は、約めたるには非じ、)五(ノ)卷長歌に、宇都弖弖波死波不知《ウツテテハシニハシラズ》、とあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、三(ノ)卷家持卿の亡妻を悲める歌に、從今者秋風寒將吹烏如何獨長夜乎將宿《イマヨリハアキカゼサムクフキナムヲイカデカヒトリナガキヨヲネム》、○以上八首は、衣に寄てよめるなり、
 
2627 波禰※[草冠/縵]《ハネカヅラ》。今爲妹之《イマスルイモガ》。浦若見《ウラワカミ》。咲見慍見《ヱミミイカリミ》。著四※[糸+刃]解《ツケシヒモトク》。〔頭註、【一首寄v※[糸+刃]、】
 
第一二(ノ)句は、四(ノ)卷、七(ノ)卷にも、出て既く委く註り、○今(ノ)字、舊本には令と作り、今は古本に從つ、○浦若見《ウラワカミ》も、既くいへり、○咲見慍見《ヱミミイカリミ》は、或はよろこびて打ゑみもし、或はうらみて慍《イカ》りもするを云、○歌(ノ)意は、吾妻の事とありて、或は吾をよろこびてゑみ、或は吾をうらみて慍りなどして著し、その紐を解放て、今夜、少女のまだうらわかく、うるはしさにめでゝ、新枕交(ハ)す、となり、○この一首は、紐に寄てよめるなり、
 
(121)2628 去家之《イニシヘノ》。倭文旗帶乎《シヅハタオビヲ》。結垂《ムスビタレ》。孰云人毛《タレチフヒトモ》。君者不益《キミニハマサジ》。〔頭註、【一首寄v帶、】
 
倭文旗帶《シヅハタオビ》は、倭文布《シヅヌノ》にて造りたる帶を云、○本(ノ)句は、孰《タレ》をいはむ料の序なり、武烈天皇(ノ)紀鮪(ノ)臣(ガ)歌に、於〓枳瀰能瀰於寐能之都波※[手偏+施の旁]夢須寐陀黎陀黎耶始比得謀阿避於謀波儺倶※[人偏+爾]《オホキミノミオビノシヅハタムスビタレタレヤシヒトモアヒオモハナクニ》、繼體天皇(ノ)紀春日(ノ)皇女(ノ)御歌に、野須美矢失倭我於朋枳美能《ヤスミシシワガオホキミノ》、於磨細屡裟佐羅能美於寐能《オバセルサヽラノミオビノ》、武須彌陀例駄例夜矢比等母《ムスビタレタレヤシヒトモ》、紆陪※[人偏+爾]泥堤那皚矩《ウヘニデテナグク》、などあるに、ならへるものなるべし、○歌(ノ)意は、君にまさりてうるはしき人は、誰かあらむ、となり、○この一首は、帶に寄てよめるなり、
〔一書歌云。古之《イニシヘノ》。狹織之帶乎《サオリノオビヲ》。結垂《ムスビタレ》。誰之能人毛《タレシノヒトモ》。君爾波不益《キミニハマサジ》。〕
云(ノ)字、舊本にはなし、阿野本、古寫本、古本等に從つ、○狹織《サオリ》は、狹く織たる倭文布にて、帶に用る料のものなるべし、今さなだといひて、細き紐あるも、狹之機《サナハタ》の意なるべきよし、冠辭考にいへり、
 
2629 不相友《アハズトモ》。吾波不怨《アレハウラミジ》。此枕《コノマクラ》。吾等念而《アレトオモヒテ》。枕手左宿座《マキテサネマセ》。〔頭註、【三首寄v枕、】
 
左宿座《サネマセ》は、左《サ》はそへことばにて、寢給へと云に同じ、○歌(ノ)意は、男のもとへ、枕をおくれるときによめるにて、かくれたるすぢなし、
 
2630 結※[糸+刃]《ユヘルヒモ》。解日遠《トキシヒトホミ》。敷細《シキタヘノ》。吾木枕《ワガコマクラニ》。蘿生來《コケムシニケリ》。
 
解日遠《トキシヒトホミ》は、※[糸+刃]解かはしてあひし其(ノ)日より、絶て日數の遠くなりし故にの意なり、○蘿生來《コクムシニケリ》は、
 
(122)下に敷細布枕人事問哉其枕苔生負爲《シキタヘノマクラニヒトハコトトヘヤソノマクラニハコケムシニ ケリ》、とよめり、何にても、ふるくなれるものには、苔の生るにならひて、事をつよくいはむとて、かくいへり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2631 夜千玉之《ヌバタマノ》。黒髪色天《クロカミシキテ》。長夜※[口+立刀]《ナガキヨヲ》。手枕之上爾《タマクラノヘニ》。妹待覽蚊《イモマツラムカ》。
 
歌(ノ)意は、手枕の上に、黒髪しきて、長さよすがら、妹が吾をまつらむか、となり、四一二三五と句を次第て意得べし、○以上三首は、枕に寄てよめるなり、
 
2632 眞素鏡《マソカヾミ》。直二四妹乎《タヾニシイモヲ》。不相見者《アヒミズハ》。我戀不止《ワガコヒヤマジ》。年者雖經《トシハヘヌトモ》。〔頭註、【三首寄v鏡、】〕
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2633 眞十鏡《マソカヾミ》。手取持手《テニトリモチテ》。朝旦《アサナサナ》。將見時禁屋《ミムトキサヘヤ》。戀之將繁《コヒノシゲケム》。
 
本(ノ)二句は、朝旦見《アサナサナミ》といはむ料の序なり、○旦(ノ)下、舊本將(ノ)字なし、活字本に從つ、見(ノ)下、舊本に人(ノ)字あるは衍なり、古本に允とあるもよしなし、官本になきぞよき、○禁は、副《サヘ》の借(リ)字なり、○歌(ノ)意は、相見る事の心に協はゞ、戀しく思ふ事は、さらにあるまじき理なるに、かやうに思(ヒ)の切なるからは、毎日々々相見む時にてさへも、なほ戀情の息ずて、思ひのしげからむ、と云るにや、此上に、本は全(ラ)同じくて、未(ノ)句|雖見君飽事無《ミレドモキミハアクコトモナシ》、とあり、
 
2634 里遠《サトトホミ》。戀和備爾家里《コヒワビニケリ》。眞十鏡《マソカヾミ》。面影不去《オモカゲサラズ》。夢所見社《イメニミエコソ》。
 
以上三首は、鏡に寄てよめるなり、
(123)〔右一首。上見2柿本朝臣人麿之歌集中1也。但以2句句相換1。故載2於茲1。〕
上見とは、里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與《サトトホミコヒウラブレヌマソカヾミトコノベサヲズイメニミエコソ》、とある、是なり、
 
2635 劔刀《ツルギタチ》。身爾佩副流《ミニハキソフル》。大夫也《マスラヲヤ》。戀云物乎《コヒチフモノヲ》。忍金手武《シヌヒカネテム》。〔頭註、【三首寄v劔、】〕
 
本(ノ)二句は、丈夫《マスラヲ》の武きよそひを云り、欽明天皇(ノ)紀に、紀(ノ)男麻呂(ノ)宿禰|令《ノリゴチ》2軍中《イクサビトニ》1曰(ケラク)云々、況復|平安之世刀劔《ヤスラケキヨニモツルギタチ》不v離《サケ》2於身(ヲ)1、蓋|君子之武備《サカシヒトノソナヘ》不《アラズ》2以已《ヤムベキニ》1、○大夫也《マスラヲヤ》は、丈夫にしてや、と云ほどの意なり、○歌(ノ)意は、常に劔刀を身にそへはく、いみじく武々しき大丈夫にして、戀と云ゑせものに、えたへしのびずして、あるべきことかはと、みづからはげませども、なほ忍びえず、となり、
 
2636 劔刀《ツルギタチ》。諸刃之於荷《モロハノウヘニ》。去觸而《ユキフレテ》。所殺鴨將死《シセカモシナム》。戀管不有者《コヒツヽアラズハ》。
 
所殺鴨將死《シセカモシナム》は、殺されなむか、といふ意なり、所殺をシセ〔二字右○〕と云は、古言なり、將死は借(リ)字にて、將《ナム》v爲《シ》なり、○歌(ノ)意は、中々に、たゞに戀しく思ひつゝあらむよりは、刀の諸刃《モロハ》の利《ト》きがうへに行ふれて、殺されなむがまさらむか、となり、堀河百首に、逢事は刀の刃をも歩むかな人の心のあやぶまれつゝ、此(レ)意は異れども、今の歌によりてよまれけるにや、
 
2637 ※[口+酉]《シハブカヒ》。鼻乎曾嚔鶴《ハナヲソヒオモヒケラシモツル》。劔刀《ツルギタチ》。身副妹之《ミニソフイモガ》。思來下《》。
 
※[口+酉]、(拾穗本、古寫一本等には、哂と作り、)略解に、※[口+酉]は、哂にて、哂は、字書に微笑(ナリ)、一曰大笑、とあれば、ウレシクモ〔五字右○〕と訓べし、と岡部翁はいはれき、宣長云、※[口+酉]は※[口+湮の旁]の誤なり、※[口+湮の旁]は咽と同字にて、ムセ(124)ブ〔三字右○〕と訓り、五(ノ)卷に、之可夫可比鼻※[田+比]之※[田+比]之爾《シハブカヒハナ《ビシビシニ》、とあれば、こゝもシハブカヒ〔五字右○〕とよまむといへり、とあり、咽は聲塞也、とあり、烟煙同字なれば、此に准へて、同字とするなるべし、今按に、五(ノ)卷一本に、之波夫可比《シハブカヒ》とある、これよろし、然ればこゝも※[口+煙の旁]にて、シハブカヒ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、鼻ひるは、人におもはるゝしるしなること、かた/”\に見えたれば、吾(レ)に心を許して、常に吾(ガ)身にそふ殊が、今暫離れては居れども、吾(ガ)事を心に忘れず思ふらし、其(ノ)相《シルシ》に、打咽《ウチムセ》び鼻嚔《ハナヒ》せらるる事の、さてもうれしや、となり、○以上三首は、劔に寄てよめるなり、
 
2638 梓弓《アヅサユミ》。末之腹野爾《スヱノハラヌニ》。鷹田爲《トガリスル》。君之弓食之《キミガユヅラノ》。將絶跡念甕屋《タエムトモヘヤ》。〔頭註、【三首寄v弓、】〕
 
梓弓《アヅサユミ》は、まくら辭なり、○未之腹野《スヱノハラヌ》は、略解に、大和(ノ)國添上(ノ)郡|陶《スヱ》の原野なるべし、といへり、もし崇神天皇(ノ)紀に、即於2茅渟(ノ)縣|陶《スヱノ》邑(ニ)1、得2大田々根子(ヲ)1而|貢之《タテマツリキ》、とある地ならば、和泉(ノ)國なり、又日本後紀に、建暦十六年冬十月戊寅、遊2獵于陶野(ニ)1、十八年九月己亥、遊2獵於陶野(ニ)1、とある地ならば、山城國宇治(ノ)郡山科なり、又本居氏は、末之《スヱノ》と云ふまでは序にて、腹野《ハヲヌ》ぞ地の名にあるべき、古事記に、弓腹振立而《ユハラフリタテテ》云々、此(ノ)集十三に、梓弓弓腹振起《アヅサユミユハラフリオユシ》云々、などありて、古(ヘ)弓(ノ)末に、腹と稱《ナヅ》くる處の有し故に、末之腹《スヱノハラ》とは連《ツヾ》けたるなり、と云り、もし腹野《ハヲヌ》を地(ノ)名とするときは、其(ノ)地は何處ならむ、詳ならず、和名抄に、遠江(ノ)國佐野(ノ)郡|幡羅《ハラ》、と見えたる、其(ノ)地とは定めがたけれど、此(ノ)歌なるも、腹《ハラ》と云(フ)が地(ノ)名にて、其(ノ)野をいへるにもあらむ、○鷹田、トガリ〔三字右○〕と云は、鳥獵《トガリ》の意なりき、鳥を獵と(125)いふ謂の稱なるべし、鳥にて獵(ル)と云にはあらず、こゝに鷹田、又ことゝころに鷹獵と書るは、鷹にて獵(ル)ゆゑに、其(ノ)義を得て書るのみなるべし、なほトガリ〔三字右○〕は、十四、十七、十九等にも見えたり、○弓食は、岡部氏は、弓弦の誤ならむ、といひ、本居氏は、弓葛の誤なるべし、といへり、いづれにまれユヅラ〔三字右○〕と訓べし、(一説に、食は、人良の二字を誤れるなるべし、人はツ〔右○〕の假字なりといヘり、東人をアヅマヅ〔四字右○〕、藏人をクラウヅ〔四字右○〕など云しことも物に見え、新撰萬葉に、五十人禮《イヅレ》と書れたり、但集中の頃、人をツ〔右○〕と云しことありしか、おぼつかなし、)○將絶跡念甕屋《タエムトモヘヤ》は、將《ム》v絶《タエ》哉、といふに同じ、念《オモヘ》の言に意なし、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は、絶をいはむための序にて、君とわが中の絶べしやは、未遂に絶べきにあらず、となり、
 
2639 葛木之《カヅラキノ》。其津彦眞弓《ソヅヒコマユミ》。荒木爾毛《アラキニモ》。憑也君之《タノメヤキミガ》。吾之名告兼《アガナノリケム》。
 
其津彦眞弓《ソヅヒコマユミ》とは、其津彦《ソヅヒコ》は、履中天皇(ノ)紀に去來穗別《イザホワケノ》天皇(ハ)、大鷦鷯《オホサヾキノ》天皇之|太子也《ヒツギノミコナリ》、母《ミハヽハ》曰(ス)2磐之媛《イハノヒメノ》命(ト)1、葛城(ノ)襲津彦《ソヅヒコノ》女也、と見えて、磐之媛皇后の父、武内(ノ)宿禰の男なり、神功皇后(ノ)紀に、五年春二月云々、因以副(テ)2葛城(ノ)襲津彦(ヲ)1而遣之、云々、六十二年、新羅|不《ス》v朝《マヰコ》、即年《ソノトシ》遣2襲津彦(ヲ)1撃2新羅(ヲ)1、云々、應神天皇紀に、十四年云々、是年|弓月《ユツキノ》君自2百濟1來歸《マヰケリ》、因以奏之曰《カレマヲサク》、臣領2己(ガ)國之|人夫《ヒトクサ》百二十縣(ヲ)1而|歸化《マヰク》、然(ルニ)因(テ)2新羅人之|拒《フセグニ》1、皆留2加羅(ノ)國(ニ)1、爰遣2葛條城(ノ)襲津彦(ヲ)1而召2弓月之人夫(ヲ)於加羅(ニ)1、然經2三年1而襲津彦不v來《マヰコ》焉、十六年八月、遣(シ)2平群(ノ)木菟《ヅクノ》宿禰、的戸田《イクハノトタノ》宿禰(ヲ)於加羅(ニ)1、仍授2精兵(ヲ)1、詔之曰《ノリゴチタマハク》、襲津彦久(ク)之不v還《カヘリマヰコ》必由(テ)2新(126)羅人拒(ニ)1而|滯之《トヾコホレルナラシ》、汝等|急往而《トクユキテ》、撃2新羅(ヲ)1、披(ケ)2其(ノ)道路(ヲ)1、於v是|木菟《ヅクノ》宿禰、進(テ)2精兵1※[草がんむり/位]2于新羅之境(ニ)1、新羅王|愕《オヂテ》之|服《フシヌ》2其罪(ニ)1、乃《カレ》※[欒の木が十]《ヰテ》2弓月之人夫(ト)與(ヲ)2襲津彦1、共(ニ)來焉《マヰキツ》、と見えて、勝れたる武將なりければ、弓力《ユチカラ》もいみじかりけむほど、おもひやるべし、此(ノ)人の後なる盾人(ノ)宿禰の、銕《クロカネ》の的を射通せしことも、其(ノ)系にて弓刀《ユチカラ》の勝れりしなり、さてその襲津彦の持たりし弓になずらへて、後まで大弓を、襲津彦眞弓《ソツヒコマユミ》と云しなり、(俊頼朝臣の、もゝつての五十師《イソシ》の篠生《サヽフ》時雨してそづ彦眞弓紅葉しにけり、とよまれたるは、木(ノ)名と心得られしにや、おぼつかなし、)○荒木《アラキ》は、いまだ手なれぬ意なり、又|新木《アラキ》の意に見ても通ゆ、○憑也は、タノメヤ〔四字右○〕と訓るぞよろしき、(略解に、ヨルトヤ〔四字右○〕とよみて新木の弓は引どより難きを、吾により難き人の心のよるに譬ふ、といへれどいかゞ、)憑めばにやの意なり、○吾の下之(ノ)字、類聚抄、古寫一本等にはなし、○歌(ノ)意は、襲津彦眞弓《ソツヒコマユミ》の荒木《アラキ》は、強きものゝ限りなるが、その荒木の眞弓の如くにも、たしかにたのもしきものに、我を思ひたのめばにや、君が吾(ガ)名を人に告しらせけむ、となり、さるは末終(ヒ)に、妻とたのまむと思ふ女の名をば、つゝみかくすべきにあらねば、他人にも告知す理なれば、中々にうらみずして、たのもしみしたるなり、
 
2640 梓弓《アヅサユミ》。引見弛見《ヒキミユルベミ》。不來者不來《コズハコズ》。來者其其乎奈何《コバコソヲナド》。不來者來者其乎《コズハコバソヲ》。
 
引見弛見《ヒキミユルベミ》(弛(ノ)字、舊本に絶と作るは誤なり、今は水戸本、拾穗本等に從つ、)は、引もし弛べもしの(127)意にて、心の足らぬにたとへたるなり、○歌(ノ)意は、來ずは來ずしてあるべし、來むとならば來べきを、其を何事ぞや、弓を引ともなく弛ぶともなく、かたづかぬごとく、心の足らぬことよと、とがめたるなり、尾(ノ)句は、第三四(ノ)句を、ふたゝび打かへして、來ずは來ずしてあるべし、來むとならば來べきを其を何事ぞや、といへるなり、○以上三首は、弓に寄てよめるなり、
 
2641 時守之《トキモリノ》。打鳴鼓《ウチナスツヾミ》。數見者《ヨミミレバ》。辰爾波成《トキニハナリヌ》。不相毛恠《アハナクモアタシ》。〔頭註、【一首寄v鼓、】〕
 
時守《トキモリ》は、陰揚寮の屬官に、漏剋(ノ)博士有(リ)て、十二時の一時を四剋にわりて漏剋を置り、さて守辰丁とて、其(ノ)漏剋を守る者有(リ)て、其時々に鐘鼓をうつなり、その守辰丁を、うるはしくは時守《トキモリ》といふめり、(枕册子には、時づかさといへり、)陰陽寮式に、諸時撃v鼓(ヲ)、子午各九下、丑未八下、寅申七下、卯酉六下、辰戌五下、巳亥四下、並平聲鐘依2刻數(ニ)1、(枕册子に、時そうするいみじうをかし、いみじう寒きに、夜中ばかりなどに、こほ/\とこほめき、くつすりきて、弦うちなどして、なむけの何がし、時うしみつ子よつなど、あてはかなる聲にいひて、ときのくひさすおとなど、いみじうをかし、子九つうし八(ツ)などこそさとびたる人はいへ、すべて何も/\、よつのみそくひはさしける、とあるは、上にいひたる如く、一時を四刻にわりて、たとへば丑(ノ)時の一刻二刻三刻四刻、子時の一刻二刻三刻四刻などいふ故に、丑みつ子よつとはいへるなり、時の※[木+兀]さすとは、漏刻とて、銅壺に水を入て、四十八|刻《キザミ》の※[木+兀]をたてゝ、銅壺の水のしたゝりて、たとへば、丑(128)の時の一の刻をあらはせば、うしひとつ、二の刻をあらはせばうしふたつなり、かくて四の刻をあらはせば、丑よつにて、一時の刻滿るなり、然るに子には九(ツ)、丑には八(ツ)、鐘鼓をうつが故に、今も里俗にて、九(ツ)時八(ツ)時などいふ如く、清少納言が頃も、禁中にてこそ、漏刻にしたがひて、丑みつ子四(ツ)などいふを、里俗の者は、鐘鼓の數にしたがひていふと、いやしみたるなり、)齊明天皇(ノ)紀に、又皇太子(天智)初造2漏刻(ヲ)1、使2民(ニ)知1v時(ヲ)、天智天皇(ノ)紀に、十年夏四月丁卯朔辛卯、置2漏尅《トキノキザミヲ》於新臺(ニ)1、始打2候時(ヲ)1動2鐘鼓(ヲ)1、始(テ)用2漏尅《トキノキザミヲ》1、此(ノ)漏尅者、天皇(ノ)爲(リシ)2皇太子1時、始親所2製造1也、云々、と見えたり、○打鳴《ウチナス》は、撃て令《ス》v鳴《ナラ》と云に同じ、令v鳴をナス〔二字右○〕と云は、五(ノ)卷に、遠等※[口+羊]良何佐那周伊多斗乎《ヲトメラガサナスイタトヲ》、とあるも、閇《サシ》令《ス》v鳴《ナラ》の意、古今集に、秋風にかきなす琴の、とよめるも、掻《カキ》令《ス》v鳴《ナラ》なり、○數見者は、ヨミミレバ〔五字右○〕と訓て、かぞへ見ればと云に同じ、○不相毛恠《アハナクモアヤシ》は、不相恠毛《アハナクアヤシモ》と、毛《モ》を下にめぐらして心得べし、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、守辰丁《トキモリ》の撃鳴《ウチナラ》す鼓の數をかぞへ見れば、かねて契りし時になりぬるを、來て逢(ハ)ぬことの、さてもあやしや、いかなるさはりか出來つらむ、はた心の淺くて、わすれやしぬらむ、といふなり、十二に、名者告而之乎不相毛恠《ナハノリテシヲアハナクモアヤシ》、○この一首は、鼓に寄てよめるなり、
 
2642 燈之《トモシビノ》。陰爾蚊蛾欲布《カゲニカガヨフ》。虚蝉之《ウツセミノ》。妹蛾咲状思《イモガヱマヒシ》。面影爾所見《オモカゲニミユ》。〔頭註、【一首寄v燈、】〕
 
蚊蛾欲布《カガヨフ》は、耀《カヾヤク》と云に同じ、既く六(ノ)卷に、加我欲布珠乎《カガヨフタマヲ》、とある歌に註り、○虚蝉《ウツセミ》は、既く委(ク)註り、(129)こゝは虚蝉之妹《ウツセミノイモ》とつゞきて、現身《ウツシキミ》の妹といふ意なり、○歌(ノ)意は、女と離り居て、直に相見し夜、燈の先にかゞやきわたりし、うつくしき咲《ヱマ》ひすがたの、現身の妹にてありながら、幻の如く、一(ト)すぢに面影に立て見ゆ、となり、○この一首は、燈に寄てよめるなり、
 
2643 玉戈之《タマホコノ》。追行疲《ミチユキツカレ》。伊奈武思侶《イナムシロ》。敷而毛君乎《シキテモキミヲ》。將見因母鴨《ミムヨシモガモ》。〔頭註、【一首寄v筵、】〕
 
玉戈之《タマホコノ》は、枕詞なり、既く出つ、○本(ノ)句は、旅人の道ゆきつかれて、宿をかりて、あさましき稻筵を敷て打臥意にて、さて重而《シキテ》をいはむ序とせり、(住吉歌合に、清輔、いなむしろ敷津の浦の松風はもりくる折ぞ※[雨/衆]雨《シグレ》とはしる、)なほ稻筵のことは、八卷(ノ)長歌に、伊奈牟之呂河向立《イナムシロカハニムキタチ》、とある處に委(ク)註り、○歌(ノ)意は、重重《シク/\》に間もおかず、君を相見むよしもがなあれかし、となり、○この一首は、筵に寄てよめるなり、
 
2644 小墾田之《ヲハリタノ》。板田之橋之《サカタノハシノ》。壞者《クヅレナバ》。從桁將去《ケタヨリユカム》。莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》。〔頭註、【一首寄v橋、】〕
 
小墾田《ヲハリタ》は、推古天皇、十一年十月、豐浦(ノ)宮より、小墾田(ノ)宮へ遷(リ)ませること、書紀に見ゆ、神名式に、大和(ノ)國高市(ノ)郡|治田《ハリタノ》神社、とあり、○坂田乃橋は、略解に、板は坂の誤にて、サカタ〔三字右○〕なり、サカタ〔三字右○〕とせることは、小墾田《ヲハリタ》の金剛寺を、坂田尼寺といへり、推古天皇、鞍作(ノ)鳥に、近江(ノ)坂田(ノ)郡(ノ)水田を賜ける時、鳥、天皇の御爲に、此(ノ)寺を建たれば、坂田寺といふなるべし、南淵山細川山より、水落合て、坂田寺のかたへも流るといへば、そこに渡せる橋をいふならむよし、契冲いへり、舒明天(130)皇二年十月に、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮へ遷ませしより、小はり田は故郷と成て、そこの橋の板の朽たる程の歌なるべし、これを後世には、誤りて、ヲハタヽノイタヽ〔八字右○〕とよめる歌どもおほし、と云り、(狹衣に、たかきもいやしきもたづねよりつゝ、いたゞのはしはくつれど、いとはかなきほどにこそあらね、と書たれば、板田に誤れることも、やゝ古し、續後拾遺集戀上には、此を小はたたのいたゝのはしの云々として、人麿の歌とせられたり、)〔頭註、【推古天皇紀云、十 四年五月、勒2鞍作鳥1曰、云々、又造2佛像1、既訖不v得v入v堂、諸工人以將v破2堂戸1、然汝不v破v戸而得v入、此皆汝之功也、即賜2大仁位1、因以賜2近江國坂田郡水田二十町1焉、鳥以2此田1、爲2天皇1作2金剛寺1、是今謂2南淵坂田尼寺1、】〕○歌(ノ)意は、契冲云、坂田の橋をわたりて、君がもとへかよふに、もし橋のふりてこぼれたらば、ゆきげたをわたりても、ゆきてあはむと思ふ心あれば、さだかにたのみてな戀わびそ、と云意なり、○この一首は、橋に寄てよめるなり、
 
2645 宮材引《ミヤキヒク》。泉之追馬喚犬二《イヅミノソマニ》。立民乃《タツタミノ》。息時無《イコフトキナク》。戀渡可聞《コヒワタルカモ》。〔頭註、【二首寄2名所1、】〕
 
宮材引《ミヤキヒク》は、宮殿《オオミヤ》造る料《タメ》の、材木《ソマキ》を伐りて引(キ)出すを云、○泉之追馬喚犬《イヅミノソマ》は、山城(ノ)國相樂(ノ)郡泉の杣山なり、(新古今集序に、泉の杣しげき宮材は、引とも絶べからず、和名抄に、功程式(ニ)云、甲賀(ノ)杣、田上(ノ)杣、杣讀2曾萬《ソマト》1、所v出未v詳、但功程式者、修理(ノ)算師山田福吉等、弘仁十四年所2撰上(ル)1也、)十三にも、眞木積泉河《マキツムイヅミノカハノ》、とも見えて、古(ヘ)多く良材を出せる地なり、追馬喚犬は、契冲云、これをはじめにて、此(ノ)後まそ鏡といふに、犬馬鏡などあまたかけり、今も馬を追(フ)に志《シ》といへば、志《シ》と曾《ソ》と通ずれ(131)ば、いにしへは曾《ソ》といひて追けるゆゑ、追馬とはかけるなるべし、喚犬は、昔犬をよぶに、麻《マ》といひたるにや、都都《ツツ》といふに、喚※[奚+隹]とかける所あり、今も登々《トヽ》といひてよべば、いにしへは都都《ツ》といひて、よびけるなるべし、追馬喚犬も、其たぐひなり、(馬を迫に曾《ソ》と云しことは、十四の歌に見えたり、)○歌(ノ)意は、宮材を引出すとて、泉の杣山にたてる民の、やすむ間もなきがごとく、隙なく戀しくおもひて、月日を過す事哉、さても苦しや、となり、
 
2646 住吉之《スミノエノ》。津守網引之《ツモリアビキノ》。浮笶緒乃《ウケノヲノ》。得干蚊將去《ウカレカユカム》。戀管不有者《コヒツヽアラズハ》。
 
津守網引《ツモリアビキ》は、本居氏、津守は、舊事紀に、津守(ノ)連(ガ)齋祠《イツキマツル》住吉云々、さて古事記に、墨江之津《スミノエノツ》と云、書紀にも、住吉のことを、大津《オホツ》云々とあれば、住吉は本より津《ツ》にて、津守《ヅモリ》は、此(ノ)津を守し由なるべし、西生(ノ)郡に津守《ツモリノ》郷もあるは、其人の住し里ならむ、と云り、さて其(ノ)津守が徒《トモ》の綱引《アピキ》するを、今は云ならむ、○浮笶緒《ウケノヲ》とは、浮《ウケ》は、和名抄に、蒋魴(カ)切韻(ニ)云、泛子(ハ)鉤(ノ)別名也、漢語抄(ニ)云、宇介《ウケ》、今按、網具(ニ)又有2此名1、故別置之、と見えたるは、釣具なる緡《ツリノヲ》を、令《ケ》v浮《ウ》む料のものなり、今は網(ノ)具とあるものにて、海に沈めたる網の上の方を、令《ス》v浮(カ)る具なり、さて其は網に着たる緒あれば、浮之緒《ウケノヲ》とは、いへるなり、そも/\宇介《ウケ》と云は、令《セ》v浮《ウカ》の縮れる言なり、(カセ〔二字右○〕の切ケ〔右○〕となれり、)さてこれまでは、所浮《ウカレ》をいはむたのの序なり、○歌(ノ)意は、中々に戀しくのみ思ひつゝあらむよりは、いづかたへなりとも、うかれゆきやせん、となり、○以上二首は、名所に寄てよめるなり、
 
(132)2647 東細布《ヨコクモノ》。從空延越《ソラヨヒキコシ》。遠見社《トホミコソ》。目言踈良米《メコトカルラメ》。絶跡間也《タユトヘダツヤ》。〔頭註、【一首寄v雲、】〕
 
東細布《ヨコクモノ》は、曉方《アケガタ》の横雲は東の天《ソラ》に細布を引はへたるやうに見ゆれば、其(ノ)義を得てかく書り、○從空延越《ソラヨヒキコシ》は、嶺にわかるゝよこ雲の、空の方に引越し、其(ノ)間の遠放りゆくもて、遠見《トホミ》をいはむ料とせり、從《ヨ》は爾《ニ》と云に通へり、○遠見社《トホミコソ》は、遠き故にこその意なり、見《ミ》は假字なり、遠きとは、女の居處と遠離り居るを云、○目言疎《メコトカル》とは、相見ることも、言かはすことも疎くなるを云、目《メ》と言《コト》と二(ツ)にて見ること言(フ)こなり、○歌(ノ)意は、女のわが居(ル)處と、間の遠き故にこそ、相見てかたらふことの、うときにはあらめ、今は絶なむとて、男のわれをへだてむやは、さはあらじを、たび/\あひ見ねば、心の鬼にて、とにかくうしろめたく思ふことよ、となり、これは隔れる所にすめる男に、心かよはせる女のよめるなるべし、(略解に、遠ければ、直(チ)に相見て、ものいふことこそうとからめ、便りだにせぬは、今は絶むとて、へだつるならむと疑ふなり、といへるはいかゞ、)○この一首は、雲に寄てよめるなり、
 
2648 云云《カニカクニ》。物者不念《モノハオモハズ》。斐太人乃《ヒダビトノ》。打墨繩之《ウツスミナハノ》。直一道二《タヾヒトミチニ》。〔頭註、【一首寄v匠、】〕
 
云云《カニカクニ》は、字書に、猶v云(カ)2如此(ト)1、とありといへり、四(ノ)卷に、浪之共靡珠藻乃云云意者不持《ナミノムタナビクタマモノカニカクニコヽロハモタズ》云々、○斐太人《ヒダヒト》は、工人《タクミ》のことなり、古(ヘ)は飛騨(ノ)國より、番匠をめし上せて、宮中の造營修理を、つとめしめけるゆゑなり、賦役令(ノ)義解に、凡斐陀(ノ)國(ハ)、庸調倶免(シテ)、毎(ニ)v里點2匠丁十人(ヲ)1、(謂若不v足v里(ニ)者、即率2此(ノ)法(ニ)1而降(シ)(133)減(セヨ)、)民部式に、凡飛騨(ノ)國(ハ)、毎(ニ)v年貢2匠丁一百人(ヲ)1、其(ノ)返承(ハ)准(セヨ)2諸國(ノ)調庸例(ニ)1、凡飛騨(ノ)匠丁、役(ノ)中身死者、勿v貢(ルコト)2其代(ヲ)1、役畢(テ)還v國者、免2當年(ノ)※[人偏+徭の旁]役(ヲ)1、木工寮式に、凡工部一人、飛彈工一人、充2大學寮1、令v修2理小破官舍1、凡飛彈(ノ)國(ノ)匠丁三十七人、以2九月一日(ヲ)1、相共(ニ)參2着(テ)寮家(ニ)1不v得2參差(スルコトヲ)1、○墨繩《スミナハ》は、五(ノ)卷好去好來(ノ)歌にありて、既く註りき、(靈異記に、路廣平直(キコト)如2墨繩(ノ)1、)○一道《ヒトミチ》は、一筋《ヒトスヂ》といふが如し、(續紀廿七詔に、一道爾志弖《ヒトミチニシテ》、)中山(ノ)嚴水は、やがて舊本のまゝに、ヒトスヂとよまむ、といへり、○歌(ノ)意は、とかくの物思(ヒ)はなし、工人《タクミ》のうつ墨繩のごとく、唯一(ト)すぢに、君をこそおもへ、となり、○この一首は、匠に寄てよめるなり、
 
2649 足日木之《アシヒキノ》。山田守翁《ヤマタモルヲヂガ》。置蚊火之《オクカヒノ》。下粉枯耳《シタコガレノミ》。余戀居久《アガコヒヲラク》。。〔頭註、【一首寄v火、】
 
翁《ヲヂ》は、書紀に、鹽土老翁《シホツヽノヲヂ》、老翁此云2烏膩《ヲヂト》1、とあり、皇極天皇(ノ)紀歌に、歌麻之之能烏膩《カマシシノヲヂ》、此(ノ)集十七に、佐夜麻太乃乎治《サヤマタノヲヂ》、とも見えたり、○蚊火《カヒ》は、二説あり、一(ツ)には、猪鹿を退べきための假庵なれば、夜(ル)ほだを燒(キ)、草などをくゆらするを云といひ、一(ツ)には、蚊遣火を云といへり、その中に、こゝは蚊火と書たる字の如く、蚊遣火なるべし、和名抄に、新撰萬葉集(ノ)歌(ニ)云、蚊遣火《カヤリヒ》(一(ニ)云|加夜利比《カヤリヒ》、一(ニ)云|蚊火《カヒ》、所v由未v詳、但俗説(ニ)、蚊遇v煙即(チ)去、仍夏日庭中薫v火(ヲ)放(ツ)v煙(ヲ)、故以名之、)とあり、山田守(ル)賤が假廬の蚊遣は、ことにすぐれたれば、とりたてゝ云り、さて蚊遣は、火を下(タ)におきて、上に柴芥など積てくゆらするなれば、下焦《シタコガレ》をいはむための序とせるなり、○歌(ノ)意は、表《ウヘ》にあらはさぬやうに(134)して、裏《シタ》にのみこがれて、戀居る事の、さても苦しや、とあり、(新古今集に、こがれつゝわがこふらくはと改て、人麻呂(ノ)歌とせり、)○この一首は、火に寄てよめるなり、
 
2650 十寸板持《ソギタモチ》。蓋流板目乃《フケルイタメノ》。不令相者《アハザラバ》。如何爲跡可《イカニセムトカ》。吾宿始兼《アガネソメケン》。〔頭註、【一首寄v板、】〕
 
十寸板持は、ソギタモチ〔五字右○〕と訓べし、契冲、十寸板《ソギタ》は、殺板《ソギイタ》なり、今もそぎといひならへるは、殺《ソグ》ゆゑなりと云るがごとし、(又云、新古今集、後京極殿(ノ)御歌、山がつが麻のさころもをさをあらみあはで月日や杉ふけるいほ、本(ノ)句は、古今集の、すまのあまの、しほやき衣をさをあらみまとほにしあれや君がきまさぬ、末(ノ)句は、今の歌を取て、まとほにしてあはぬよしを、よみ給へり、此(ノ)御歌をはじめて、杉ふくとよめるは、此(ノ)歌を杉板《スギイタ》と心得きたれるなり、)○盖流板目乃《フケルイタメノ》は、合《アフ》をいはむ料の序なり、板目は板のすき目なり、さて背(ク)とき、板目を和合《アハ》すれば、板目の合とつづきて、不《ズ》v合(ハ)といふまでにはかゝはらぬこと、ふるのわさだの穗には出ずの類なり、と略解にいへり、○歌(ノ)意は、あひそめて後、さはる事などいできて、あはずあらば、其(ノ)時いかにして過さむとおもひて、わが相宿しそめけむ、となり、○この一首は板に寄てよのるなり、
 
2651 難波人《ナニハビト》。葦火燎屋之《アシビタクヤノ》。酢四手雖有《スシテアレド》。己妻許増《オノガツマコソ》。常目頬次吉《ツネメヅラシキ》。〔頭註、【一首寄v火、】〕
 
難波人《ナニハビト》とは、難波に住(ム)人なり、四(ノ)卷には、難波壯士《ナニハヲトコ》ともよめり、仁徳天皇(ノ)紀(ノ)御製に、那珥波譬苔《ナニハビト》ともあり、安太人《アダビト》などの類なり、○葦火《アシピ》は、廿(ノ)卷防人(ノ)歌に、伊波呂爾波安之布多氣騰母須美與(135)氣乎都久之爾伊多里※[氏/一]古布志氣毛波母《イハロニハアシフタケドモスミヨケヲツクシニイタリテコフシケモハモ》、とあり、(家には葦火燒(ケ)ども住よきを、筑紫に至りて戀しく思はむもなり、)○酢四手雖有《スシテアレド》は、煤《スヽ》けてあれどといはむが如し、(但本居氏(ノ)古事記傳に、此(ノ)歌を引て、酢四《スシ》は、スヽビ〔三字右○〕の切りたる歟といへれど、さにあらず、第三言にすわりたる詞は、第二言に活く例あり、舊《フルキ》を布利弖《フリテ》、布利由久《フリユク》、布利爾之《フリニシ》など云とき、布利《フリ》と活《ハタラ》くと同例なるを思ふべし、)和名抄に、唐韻(ニ)云、炸煤(ハ)灰集v屋(ニ)也、和名|須々《スヽ》、とありて、既くいへり、○常目頬次吉は、ツネメヅラシキ〔七字右○〕とよむべし、(トコメヅラシキ〔七字右○〕とよみ來れど、こゝはしか訓べき處にあらず、)常《ツネ》は、常《ツネ》にといふ意なり、○歌(ノ)意は、難波にすまひする人の、葦火たきこがしたる、ふせ屋のごとくに、舊《フル》びてすゝけてはあれど、己(ガ)妻とおもひたのむ女こそ、常に見さむることなく、めづらしく、うるはしくはあれ、となり、初のほどこそあれ、後にはかたみにえせ心をさしはさみて、中たがふことも、多かるならひなるに、終に古くなるまで、夫妻あひおもふ心のうすらがざるは、いとめでたき人にこそ、(新古今集に、難波人芦火たく屋に宿かりてすゞろに袖のしほたるゝ哉、今の歌によりて、よまれたり、)○この一首は火に寄てよめるなり、
 
2652 妹之髪《イモガカミ》。上《カミ》小〔□で囲む〕|竹葉野之《タカハヌノ》。放駒《ハナチコマ》。蕩去家良思《アラビニキケラシ》。不合思者《アハナクモヘバ》。〔頭註、【三首寄v馬、】〕
 
妹之髪《イモガカミ》は、枕詞なり、髪を揚《タク》とかゝれるなるべし、○上小竹葉野、いづくにや、未詳ならず、(堀河百首に、網引するみつの濱べにさわがれてあげをさゝのへたづ歸るなり、とあるは、此《ノ)歌を、(136)あげをさゝのと訓りと聞えたれど、おぼつかなし、又攝津(ノ)國の地とせむことも、他に其(ノ)證なし、○荒木田(ノ)久老(ノ)漫筆に、門人城戸(ノ)千楯が説に、此はアゲタカハヌ〔六字右○〕と訓べし、さてアゲタカヌ〔五字右○〕といふ意に、かゝる詞とすべしといへり、とあり、今按(フ)に、タカハヌ〔四字右○〕と云は宜しけれど、小竹をタカ〔二字右○〕と訓は、例なきことなり、)せめて按(フ)に、上とは、和名抄に、山城(ノ)國愛宕(ノ)郡に、上粟田《カミアハタ》下粟田《シモアハタ》、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡に、上(ツ)倉下(ツ)倉、和泉(ノ)國和泉(ノ)郡に、上(ツ)泉下(ツ)泉など云がある如く、(この類古書に往々見えたり、)地の勢《ナリ》に、自(ラ)上下ありて、上《カミ》某|下《シモ》某と別ち云る事多し、今もさる所由《ヨシ》にて、上と云るならば、カミ〔二字右○〕と訓べし、(アゲ〔二字右○〕と云てはいかにも地(ノ)名めかず、)さて小は衍文にて、竹葉はタカハ〔三字右○〕なるべし、竹葉は、和名抄に、山城(ノ)國綴喜(ノ)郡|多河《タカハノ》郷、豐前(ノ)國田河(ノ)郡、(延喜式にも、田河(ノ)驛とあり、)とあり、若(シ)は此(ノ)内などにや、)又出羽(ノ)國田河(ノ)郡田河(ノ)郷、壹岐(ノ)島壹岐(ノ)郡田河(ノ)郷、などあり、又此(ノ)集十二に、誰葉野とあるも、同處にや、(すべて地(ノ)名には、諸國に同名多ければ、何國とも定めては云べからねど、此(ノ)下にも、豐國《トヨクニ》の朽網山《クタミヤマ》をよみたれば、豐前のならむも、知べからず、さて枕詞よりは、髪を揚《タク》と云意にかゝれるうへに、(此(ノ)上に、青草髪爾多久濫《ハルクサヲカミニタクラム》、九(ノ)卷に、髪多久麻底爾《カミタクマテニ》、二(ノ)卷に、多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》などあり、)髪《カミ》と上《カミ》と、言の同じきから、かた/”\語路をなして、妹之髪上竹葉《イモカカミカミタカハ》、とつゞけ下したるなるべし、○放駒、ハナレコマ〔五字右○〕と云(ハ)ずして、ハナチコマ〔五字右○〕と云は、放(チ)鳥など同例なり、かげろふの日記にも、河づらに、はなちうまどものあさりありくも、はる(137)かに見えたり、とあり、○蕩《アラビ》は、疎《ウト》くなるを云、さて本(ノ)句よりは、野馬の荒(ビ)行(ク)意に云つゞけたり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、蕩《アラビ》をいはむ序のみにて、日ごろ絶て、來てあはぬ車を思へば、心のうつり變りて、うとく荒びたるゆゑならし、となり、蕩《アラビ》は、上よりは、駒の荒ぶる意にいひかけ、うけたるうへにては、疎《アラ》ぶるよしなり、
 
2653 馬音之《ウマノトノ》。跡杼登毛爲者《トドトモスレバ》。松陰爾《マツカゲニ》。出曾見鶴《イデテゾミツル》。若君香跡《ケダシキミカト》。
 
跡杼《トド》は、動響《トヨメキ》なり、歩む足音なり、等杼《トド》と云るは、十四に、於久夜麻能眞木乃伊多度乎等杼登之※[氏/一]《オクヤマノマキノイタドヲトドトシテ》、とあり、○松陰《マツカゲ》は、走出のなり、矣冲、松に、待こゝろをよせたり、と云り、さることもあらむ、○若君香跡は、ケダシキミカト〔七字右○〕と訓べし、十五茅上(ノ)娘子(カ)歌に、可敝里家流比等伎多禮里等伊比之可婆保登保登之爾吉君香登於毛比弖《カヘリケルヒトキタレリトイヒシカバホトホトシニキキミカトオモヒテ》、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2654 君戀《キミニコヒ》。寢不宿朝明《イネヌアサケニ》。誰乘流《タガノレル》。馬足音《ウマノアノトソ》。吾聞爲《アレニキカスル》。
 
君戀《キミニコヒ》云々、上に、妹戀不寢朝明男爲鳥從是此度妹使《イモニコヒイネヌアサケニヲシドリノコヨトビワタルイモガツカヒカ》、とあるに似たり、○馬足音は、ウマノトソ〔五字右○〕と訓べし、足音《アノ》は、十四に、安能於登世受由加牟古馬母我《アノオトセズユカムコマモガ》云々、とあり、(職人歌合に、いとふなよかよふ心の馬ひじり人り聞べきあの音もなし、)曾《ソ》は加《カ》と云むが如し、誰が乘(レ)る馬の足音にてかあるらむ、となり、加《カ》と云べきを曾《ソ》と云は、十四に、多禮曾許能屋能戸於曾夫流《タレソコノヤノトオソブル》、催馬樂淺水に、多禮曾古乃名加比止太天天美毛止乃加太知世宇曾己之止不良比爾久留也《タレソコノナカヒトタテテミモトノカタチセウソコシトアラヒニクルヤ》、色(138)葉歌にも、わが世たれぞ常ならむ、などある、皆同じ、○歌(ノ)意は、こゝには、君をこひしく思ひつつ、ねもやらで.あかせる朝開《アサケ》に、誰が妹がり行し馬の足(ノ)音にてかあるらむ、それだにわれに聞せずはあるべきを、聞ばいよ/\ねたくおもふを、となり、○以上三首は、馬に寄てよめるなり、
 
2655 紅之《クレナヰノ》。襴引道乎《スソヒクミチヲ》。中置而《ナカニオキテ》。妾哉將通《アレヤカヨハム》。公哉將來座《キミヤキマサム》。〔頭註、【一首寄v道、】〕
 
襴引道《スソヒクミチ》は、續日本後紀十二童謠に、玉兒《タマノコノ》牽《ヒク》v裾《スソ》|乃〔□で囲む〕|坊爾《マチニ》云々、とあり、(此(ノ)謠は、南京遺響に委(ク)釋り、)襴《スソ》は、女の裳裾《モスソ》なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、末(ノ)句は、古今集に、君やこむ我やゆかむのいざよひに、とめる類なり、○舊本に、一云須蘇衝河乎、又曰待香將待、と註せり、一云は第二(ノ)句、又曰は第五(ノ)句なり、須蘇衝は裾漬《スソツク》なり、○この一首は、道に寄てよめるなり、
 
2656 天飛也《アマトブヤ》。輕乃社之《カルノヤシロノ》。齋槻《イハヒツキ》。幾世及將有《イクヨマデアラム》。隱嬬其毛《コモリヅマソモ》。〔頭註、【二首寄2神祇1、】
 
天飛也《アマトブヤ》は、枕詞なり、契冲、天飛鴈《アマトブカリ》といふこゝろにつゞけたり、石上ふりにし里ともよめる例にて、カル〔二字右○〕とカリ〔二字右○〕と、たがひたるやうなれど、かくはつゞくるなり、鴈は高く飛ものなれば、多く天飛鴈《アマトブカリ》とよめり、といへり、也《ヤ》は、のどめたる時におく助辭なり、○輕乃社《カルノヤシロ》は、神名式に、大和(ノ)國高市(ノ)郡輕(ノ)樹村(ニ)坐神社二座、(並大、月次新甞、)○齋槻《イハヒツキ》とは、彼(ノ)社には、槻の木を神木とすればなるべし、と契冲云り、さてこれまでは序にて、此(ノ)木の久しきによせて、幾世及《イクヨマデ》とつゞけたり、○(139)歌(ノ)意は、人目をつゝむ隱妻《コモリヅマ》なれば、あらはして妻とすることのかたきに、いつまでかやうにてあらむぞ、さても久しや、となげきたるなり、
 
2657 神名火爾《カムナビニ》。※[糸+刃]呂寸立而《ヒモロキタテテ》。雖忌《イハヘドモ》。人心者《ヒトノコヽロハ》。間守不敢物《マモリアヘヌモノ》。
 
神名火《カムナビ》は、飛鳥《アスカ》の神南備山《カムナビヤマ》なり、○紐呂寸《ヒモロキ》は、神代紀に、高皇産靈(ノ)尊因|勅曰《ノリタマハク》、吾則《アハ》起2樹《オコシタテヽ》天津神籬及天津磐境《アマツヒモロキトアマツイハサカヲ》1、當爲(ニ)2吾(ガ)孫(ノ)1奉《マツリキ》齋《イハヒ》矣、云々、崇神天皇(ノ)紀に、以2天照大神1託《ツケイェ》2豐鍬入姫(ノ)命(ニ)1祭2於倭(ノ)笠縫(ノ)邑(ニ)1、仍《ソコニ》立(ツ)2磯堅城神籬《シキノヒモロキヲ》1、(神籬此云2比莽呂岐《ヒモロキト》1、)和名抄に、日本紀私記(ニ)云、神籬、俗(ニ)云|比保路岐《ヒボロキ》、とあり、そもそも比母呂岐《ヒモロキ》と云物は、さか木を立て、其を神の御室《ミムロ》として、祭るよりして云名にて、柴室木《フシムロキ》の意なるを、布志《フシ》を切て比《ヒ》と云なり、三(ノ)卷に、吾屋戸爾御諸乎立而《ワガヤドニミムロヲタテテ》、これさか木を立るを云、又廿(ノ)卷に、爾波奈加能阿須波乃可美爾古志波佐之《ニハナカノフスハハノカミニコシバサシ》、これらも同じ、と本居氏云り、○雖忌《イハヘドモ》は雖《ドモ》2齋祭《イハヒマツレ》1、といふ意なり、○不敢物は、アヘヌモノ〔五字右○〕とよみたるよろし、物《モノ》は物《モノ》をの意なり、(略解に、物は疑の誤として、カモ〔二字右○〕とよめるは、古(ヘ)のことばづかひをしらぬ、みだりことなり、)○歌(ノ)意は、神南備山の神の御爲に、神籬《ヒモロキ》をたてゝ、慇懃《ネモゴロ》に齋祭《イハヒマツ》りて、約《チギリ》の變《タガ》はぬやうにと?白《イノリマヲ》せども、うつろひ易き人の心は、神だに守り留め賜ふに、得堪たまはぬものを、となり、○以上二首は、神祇に寄てよめるなり、
 
2658 天雲之《アマクモノ》。八重雲隱《ヤヘクモガクリ》。鳴神之《ナルカミノ》。音爾耳八方《オトニノミヤモ》。聞度南《キヽワタリナム》。〔頭註、【二首寄v雲、】
 
(140)歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、かくれたるすぢなし、古今集に、逢事は雲居はるかに鳴神の音に聞つゝ戀渡(ル)哉、○この一首は、雷に寄てよめるなり、
 
2659 爭者《アラソヘバ》。神毛惡爲《カミモニクマス》。從咲八師《ヨシヱヤシ》。世副流君之《ヨソフルキミガ》。惡有莫君爾《ニクカラナクニ》。〔頭註、【五首寄2神祇1、】〕
 
惡爲《ニクマス》は、惡み賜ふと云に同じ、○歌(ノ)意は、君と吾とのうへを、人のよそへいふなるを、さることさらになしと爭ふべけれど、惡《ニク》くいとはしからぬ君なれば、よしやよそへいふとも、さてありなむ、すべて物爭(ヒ)するは、神もにくみ賜ふことなれば、あらそはじ、となり、
 
2660 夜並而《ヨナラベテ》。君乎來座跡《キミヲキマセト》。千石破《チハヤブル》。神社乎《カミノヤシロヲ》。不祈日者無《ノマヌヒハナシ》。
 
夜並而《ヨナラベテ》は、夜毎《ヨゴトニ》といふか如し、日並兩《ヒナラベテ》と云も、昼夜《ヨルヒル》こそかはれゝ、並《ナラベ》の言は意同じ、○神社乎《カミノヤシロヲ》は、神社爾《カミノヤシロニ》といはむが如し、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2661 靈治波布《タマチハフ》。神毛吾者《カミモアレヲバ》。打棄乞《ウツテコソ》。四惠也壽之《シヱヤイノチノ》。?無《ヲシケクモナシ》。
 
靈治波布神《タマチハフカミ》とは、人の靈《タマシヒ》を、幸《チハ》ひ佐《タス》け保《タモ》ち賜ふ神と云なり、すべて人の命は、神の保ち賜ふものなればなり、○打棄乞《ウツテコソ》とは、打棄《ウツテ》は、此上にも見ゆ、五(ノ)卷には宇都弖《ウツテ》とあり、捨《ステ》と云に同じ乞《コソ》は、希望(ノ)の辭なり、○歌(ノ)意は、人の壽命《イノチ》を持《タモ》つは、神のちはひによることにこそあれ、さるに、かく君にあふことの叶はぬからには、生てあらむも益なく苦しければ、命も惜からず、中々に死ばやすけむと思へど、我(ガ)命の靈を、保ち賜ふ神の、見離ち賜はぬかぎりは、死ることも叶ひ(141)がたし、よしやよし、今は神も、我(ガ)身をば見捨賜へよかし、となり、
 
2662 吾妹兒《ワギモコニ》。又毛相等《マタモアハムト》。千羽八振《チハヤブル》。神社乎《カミノヤシロヲ》。不?日者無《ノマヌヒハナシ》。
 
略解(ニ)云、右の夜並而《ヨナラベテ》の歌の或本なるべし、
 
2663 千葉破《チハヤブル》。神之伊垣毛《カミノイガキモ》。可越《コエヌベシ》。今者吾名之《イマハワガナノ》。惜無《ヲシケクモナシ》。
 
伊垣《イガキ》は、齋籬《イミカキ》にて、神(ノ)社の籬は、齋忌《モノイミ》して清淨《キヨラ》なれば云り、和名抄に、日本紀私記(ニ)云、瑞籬、俗(ニ)云|美豆加岐《ミヅカキ》、一(ニ)云|以賀岐《イガキ》、○今(ノ)字、舊本には令と作り、古本、古寫一本等に從つ、○歌(ノ)意は、契冲、神は人のうやまふべきかぎりなれど、たとひその神の、いがきをふみこえても、あふとだにいはゞこえぬべし、そのたゝりゆゑに、いかなることありて、名をけがすとも、それも惜からずとなり、と云り、七(ノ)卷に、木綿懸而齋此神社可越所念可毛戀之繁爾《ユフカケテイハフコノモリコエヌベクオモホユルカモコヒノシゲキニ》、今の歌と、同じこゝろばえなるべし、十(ノ)卷に、祝部等之齋經社之黄葉毛標繩越而落云物乎《ハフリラガイハフヤシロノモミチバモシメナハコエテチルチフモノヲ》、ともあり、○以上五首は、神祇に寄てよめるなり、
 
2664 暮月夜《ユフヅクヨ》。曉闇夜乃《アカトキヤミノ》。朝影爾《アサカゲニ》。吾身者成奴《ワガミハナリヌ》。汝乎念金丹《ナヲオモヒカネテ》。〔頭註、【十首寄v月、】〕
 
本(ノ)句の意、まづ、暮月夜《ユフヅクヨ》は、かならず曉やみなれば、いへり、さてこれは、歌にとりて用なし、朝をいはむ料に、曉をいへるのみなり、○第三四(ノ)句は、上に見えたり、○汝乎念金丹は、丹は手の誤なるべし、手の草書丹とよく似て混(ヒ)易し、さらばナヲオモヒカネテ〔八字右○〕と訓べし、(略解に、本居氏(ノ)(142)説を引て、丹は衍文にて、ナヲオモヒカネ〔七字右○〕と訓べし、といへれど、さにはあらじ、)○歌(ノ)意は、汝を思ふ思ひに堪|難《カネ》て、吾(ガ)身は朝日にうつる影のごとくに、疲れやつれぬ、となり、
 
2665 月之有者《ツキシアレバ》。明覽別裳《アクラムワモモ》。不知而《シラズシテ》。寐吾來乎《ネテアガコシヲ》。人見兼鴨《ヒトミケムカモ》。
 
歌(ノ)意は、月影が明くてれる故に、夜の開るさかひもしらずして、朝になるまで、相宿して歸り來しを、人のそれと見あらはしけむか、さても悔しや、となり、四(ノ)卷に、戀々而相有物乎月四有者夜波隱良武須臾羽蟻待《コヒ/\テアヒタルモノヲツキシアレバヨハコモルラムシマシハアリマテ》、此は意|異《カハ》りたれど、今の歌に似たり、新古今集、藤原(ノ)惟成、まてしばしまだ夜はふかし長月の在明の月は人まどふなり、又古今集に、玉くしげあけばきみが名立ぬべしよぶかくこしを人みけむかも。とあるは、今の歌のうらなり、
 
2666 妹目之《イモガメノ》。見卷欲家口《ミマクホシケク》。夕闇之《ユフヤミノ》。木葉隱有《コノハガクレル》。月待如《ツキマツゴトシ》。
 
月待加は、ツキマツゴトシ〔七字右○〕と訓べし、(ツキマツガゴト〔七字右○〕とよみては意いさゝかたがへり、)○歌(ノ)意は、妹を見まほしく思ふやうは、たとへば、夕やみのおぽつかなきに、木(ノ)葉隱れし月の、いつか出來むと待がごとし、となり、
 
2667 眞軸持《マソデモテ》。床打拂《トコウチハラヒ》。君待跡《キミマツト》。居之間爾《ヲリシアヒダニ》。月傾《ツキカタブキヌ》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2668 二上爾《フタガミニ》。隱經月之《カクロフツキノ》。雖惜《ヲシケドモ》。妹之田本乎《イモガタモトヲ》。加流類比來《カルルコノゴロ》。
 
(143)二上《フタガミ》は、大和(ノ)國葛下(ノ)郡葛城山のはてに、尖《トガ》りたる嶺二(ツ)あり、其を二上《フタガミ》山と云といへり、○本(ノ)句は、序にて、大和(ノ)國の西の方にある二上山に、やう/\落隱れ行て、見えずなる月の、惜きと云つゞけなり、○歌(ノ)意は、別(レ)のをしくはあれども、公役のつとめなどを、辭《イナ》み止(ム)ことを得ずして、このころは、妹がたもとをはなれ遠ざかりて、得逢(ハ)ぬ、となり、
 
2669 吾背子之《ワガセコガ》。振放見乍《フリサケミツヽ》。將嘆《ナゲクラム》。清月夜爾《キヨキツクヨニ》。雲莫田名引《クモナタナビキ》。
 
雲莫田名引《クモナタナビキ》は、雲莫霏曾《クモナタナビキソ》といふに同じ、曾《ソ》は添いふ辭なれば、あるもなきも同じことなり、(六帖には、此(ノ)歌を、雲なたなびきそと載たれば、必(ズ)曾《ソ》の辭なくて叶はぬことぞと思ふは後なり、)なほ三(ノ)卷に、既く委(ク)説り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2670 眞素鏡《マソカヾミ》。清月夜之《キヨキツクヨノ》。湯徙去者《ユツリナバ》。念者不止《オモヒハヤマジ》。戀社益《コヒコソマサメ》。
 
湯徙《ユツリ》は、依移《ヨリウツリ》なり、依《ヨル》は、彼方にあるものゝ此方に、此方にあるものゝ彼方に依(ル)意なり、されば移《ウツ》るとのみ云も、大方は同じ言なれど、湯徙《ユツル》は、たしかに依來り移る由を、今一(ト)きはくはしくいふ言なり、四(ノ)卷に、松之葉爾月者由移去《マツノハニツキハユツリヌ》、とあるも、松(ノ)葉に、たしかに月の依移れるを、委しく云るにて、其(ノ)言(ノ)意を味(フ)べし、さて與利《ヨリ》を切めて由《ユ》といひ、由移《ユウツル》と連云(フ)とき、宇《ウ》の言は、由《ユ》の餘韻に含れば、自《オラ》省る例にて、由都留《ユツル》とはいへるなり、かくてこゝは、月の西に依(リ)かたぶくを云り、○歌(ノ)意は、清《サヤ》けき月の西にかたふきなば、吾(ガ)思ひも、月と共に鎭るべきに、さはなくして、人を(144)待(ツ)たのみもなき故に、いよ/\ます/\こひしく思ふこゝろこそまさるべけれ、となり、
 
2671 今夜之《コノヨラノ》。在開月夜《アリアケノツクヨ》。在乍文《アリツヽモ》。公乎置者《キミヲオキテハ》。待人無《マツヒトモナシ》。
 
本(ノ)二句は、在《アリ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、君をさしおきて、外に待べき人はさらになし、あり/\て夜更るまでも、君をこそ待べけれ、となり、
 
2672 此山之《コノヤマノ》。嶺爾近跡《ミネニチカシト》。吾見鶴《アガミツル》。月之空有《ツキノソラナル》。戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》。
 
嶺爾近跡《ミネニチカシト》云々は、譬ふる意はなし、山の端より立出る月を、ふと打見たるときは、此方《コナタ》の山の嶺上《ミネ》に、近くより來れるやうにも、見ゆるからに、たゞありのまゝに云るが妙(ヘ)に面白し、さて月之《ツキノ》と云までは、たゞ空といはむ料のみの序にて、月のことは、歌(ノ)意にはあづからず、○歌(ノ)意は、うか/\と心も空になりたる、戀をすることにもある哉、となり、古今集に、五月山梢を高み時鳥なく音そらなる戀もするかな、
 
2673 烏玉乃《ヌバタマノ》。夜渡月之《ヨワタルツキノ》。湯移去者《ユツリナバ》。更哉妹爾《サラニヤイモニ》。吾戀將居《アガコヒヲラム》。
 
歌(ノ)意は、月のあるかぎりは、なぐさむるかたもあるを、その月のかたふきなば、いよ/\心ぼそく、さま/”\に思ひみだれて、又更に戀しく思ふ事のまさらむか、となり、○以上十首は、月に寄てよめるなり、
 
2674 朽網山《クタミヤマ》。夕居雲《ユフヰルクモノ》。薄往者《タチテイナバ》。余者將戀名《アレハコヒムナ》。公之目乎欲《キミガメヲホリ》。〔頭註、【三首寄v雲、】〕
 
(145)朽網山《クタミヤマ》は、景行天皇(ノ)紀に、十二年冬十月云々、留(テ)2于|來田見《クタミノ》邑(ニ)1、權興(テ)2宮室《ミヤヲ》1居之《マシ/\キ》、これは碩田(ノ)國に至りたまひての事なり、碩田は、今の豐後なり、豐後風土記に、大分川《オホキダカハ》、此(ノ)川之源出2直入(ノ)郡|朽網《クタミ》之峰(ヨリ)1、指v東下流云々、とあり、(又契冲、式に、伊勢(ノ)國度會(ノ)郡|朽網《クタミノ》神社、因幡(ノ)國八上(ノ)郡|久多美《クタミノ》神社、これらの神社おはします所にある山にてもあるべきか、といへり、)〔頭註、【風土記、直入郡|球※[譚の旁]《クタミ》郷在2郡北1、此村有v泉、泉水有2蛇※[雨/龍]1、天皇勅曰、如將v有v※[自/死]、莫v令v汲、因曰2※[自/死]水1、今謂2球※[譚の旁]1者、訛也、】〕○君之目乎欲《キミガメヲホリ》、書紀齊明天皇崩御の後、天智天皇いまだ太子にてよませ賜へる御歌に、枳瀰我梅能姑〓之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]婆底底威底※[舟+可]矩野姑悲武謀枳瀰我梅弘報梨《キミガメノコホシキカラニハテテヰテカクヤコヒムモキミガメヲホリ》、○薄徃者、ウスラガバ〔五字右○〕と訓るによらば、おもふ人の心のうすらぎ、うとくなりゆかばと云意にいへるか、(略解に、ウスラガバ〔五字右○〕の言雅ならず、薄と轉と字の似たれば、轉徃とありしにや、しからば、ユツリナバ〔五字右○〕とよむべし、といへり、されどユツル〔三字右○〕、と云詞、雲には聞つかぬ心ちすれば、おぼつかなし、なほ考(フ)べし、)今つら/\按(フ)に、おもふ人の、うすらぎうとくなりゆかむには、戀しく思ふ心の益らむこと、當然の理なれば、ことあたらしく、余者將戀名《アレハコヒムナ》などいふまでもなき歟、故(レ)考るに、薄は發(ノ)字の誤なるべきか、さらば、タチテイナバ〔六字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、いづれ第一二(ノ)句は序なり、第三(ノ)句|發徃者《タチテイナバ》とするときは、雲の發《タツ》と云かけたるなり、さて發て徃賜はば、親く相見ることも叶はねば、君を見まほしくて、我は戀しくのみ思はむなあといへるにて、此は男の旅行などせむとすとき、女のよめる歌とすべし、
 
(146)2675 君之服《キミガケル》。三笠之山爾《ミカサノヤマニ》。居雲乃《ヰルクモノ》。立者繼流《タテバツガルル》。戀爲鴨《コヒモスルカモ》。
 
君之服は、枕詞なり、キミガケル〔五字右○〕と訓べし、○立者繼流は、タテバツガルヽ〔七字右○〕ト訓べし、立《タツ》は、起《タチ》て徃を云、雲の起去かと見れば、又あとより續きて起(ツ)をいへり、三(ノ)卷に、高※[木+安]之三笠乃山爾鳴鳥之《タカクラノミカサノヤマニナクトリノ》、止者繼流戀哭爲鴨《ヤメバツガルルコヒモスルカモ》、とあるは、鳥と雲と物は異りたれど、言(ノ)意は同じ、(略解に、タチテハツゲル〔七字右○〕とよめるは、よろしからず、)○歌(ノ)意は、山に下(リ)居る雲の、起て行かと見れば、又あとより居るが如く、戀しく思ふ心の、うするかとすれば、又あとよりつゞきて、なげかるゝ事哉、となり、
 
2676 久堅之《ヒサカタノ》。天飛雲爾《アマトブクモニ》。成而然《ナリテシカ》。君相見《キミヲアヒミム》。落日莫死《オツルヒナシニ》。
 
成而然《ナリテシカ》(成(ノ)字、舊本には在とあり、今は異本に從つ、)は、雲にがな成たきの意なり、○落日莫死《オツルヒナシニ》は、闕《カク》る日無(シ)にといはむが如し、落《オツ》は、一日も落ず、一夜も落ず、隈も落ずなど、集中に多し、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、十四に、美蘇良由久君母爾毛我母奈家布由伎弖伊母爾許等杼比安須可敝里許武《ミソラユククモニモガモナケフユキテイモニコトドヒアスカヘリコム》、○今按(フ)に、飛といへること、何とやらむ、雲に似つかはしからぬやうなり、若は天飛鴈《アマトブカリ》と、もとはありけむを、はやくより誤り吟(ヘ)て、此(ノ)次《ナミ》に收(レ)たるにはあらざる歟、相見《アヒミム》といへるも、雲よりは、雁ならむこそ、ふさはしかるべけれ、十(ノ)卷にも、出去者天飛鴈之可泣美《イデヽイナバアマトブカリノナキヌベミ》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、○以上三首は、雲に寄てよめるなり、
 
2677 佐保乃内從《サホノウチヨ》。下風《アラシ》之〔□で囲む〕吹禮波《フケレバ》。還者《タチカヘリ》。爲便胡粉《セムスベシラニ》。歎夜衣大寸《ナゲクヨソオホキ》。
〔頭註、【三首寄v風、】〕
 
(147)下風之吹禮波は、アラシノフケレバ〔八字右○〕とよみては、之《ノ》の言あまりて聞ゆ、今按(フ)に、こは傍訓のシ〔右○〕の、本文にまがひ入しなるべし、さらばアラシフケレバ〔七字右○〕と訓べし、下風をアラシ〔三字右○〕とよむこと、既くいへり、○還者、カヘルサハ〔五字右○〕とよみたれど、穩ならず、誤字などあるべし、もしはもとは、立還《タチカヘリ》とありしならむを、字を倒置《オキタガ》へ、つひに立を、者に誤れるなどにもあらAか、○爲便胡粉(爲便(ノ)二字、舊本には脱たり、今は古本に從つ、)は、セムスベシラニ〔七字右○〕なり、シラニ〔三字右○〕は、不v知にあり、○大寸《オホキ》は、借(リ)字にて、多きなり、○歌(ノ)意は、佐保の内より嵐の吹來て、甚寒ければ、爲べきやうをしらずして、立かへり/\、幾度となく、歎息をする夜の多き事よ、獨宿ならずは、かく寒く苦しきに、堪かぬる事もあるまじきを、といへるにやあらむ、
 
2678 級子八師《ハシキヤシ》。不吹風故《フカヌカゼユヱ》。玉※[しんにょう+更]《タマクシゲ》。開而左宿之《ヒラキテサネシ》。吾其悔寸《アレソクヤシキ》。
 
級子八師は、級は、階級也、と字註に見えたれば、階の意にて、ハシ〔二字右○〕に借たる字なり、子は、本居氏、寸(ノ)字の誤なりと、いへり、ハシキヤシ〔五字右○〕と訓べし、さて夏の風は、身にうるはしく覺るものなれば、賞て、愛《ハシ》き風といへるなり、○不吹風故《フカヌカゼユヱ》は、不v吹風なるものをの意なり、○玉※[しんにょう+更]《タマクシゲ》は、枕詞なり、○歌(ノ)意は、待人のむなしく來らざるを、風にたとへたるにて、愛《ウルハシ》き風の吹入(リ)もせざるものを、よもや吹も入むと思ひたのみて、戸を開き置て宿しことの悔しき、となげきたるなり、六帖に、風ふけと人にはいひて戸は閇《サヽ》じあはむと人にいひてしものを、とあるは、風にことよせ(148)て、人を待(ツ)意、今の歌は、やがて人を風にたとへたり、
 
2679 窓超爾《マドコシニ》。月臨照而《ツキオシテリテ》。足檜乃《アシヒキノ》。下風吹夜者《アラシフクヨハ》。公乎之其念《キミヲシソモフ》。
 
窓《マド》は、和名抄に、説文(ニ)云、〓(ハ)穿v壁(ヲ)以v木爲v交(ト)、〓也、和名|末度《マド》、また説文(ニ)云、在v屋(ニ)曰v〓(ト)、在v墻(ニ)曰v〓(ト)、和名|末止《マド》、○月臨照《ツキオシテリ》は、おしなべて照(ル)意なり、八(ノ)卷に、月押照有《ツキオシテレリ》、七(ノ)卷にも、春日山押而照有此月者《カスガヤマオシテテリタルコノツキハ》、とよめり、○足檜、かく書て、アシヒキ〔四字右○〕とよませたる例、此(ノ)下に二所、七(ノ)卷に一所、十二に二所あり、○歌(ノ)意は、秋更て、月さやかに窓にさし入(リ)て、ものあはれに、あらしの膚《ハダ》寒く打ふくよはは、いとど君を戀しくぞ思ふ、となり、(六帖に、窓超に月はてらして足引のあらし吹夜は妹をしぞ思ふ、と載たり、)○以上三首は、風に寄てよめるなり、
 
2680 河千鳥《カハチドリ》。住澤上爾《スムサハノヘニ》。立霧之《タツキリノ》。市白兼名《イチシロケムナ》。相言始而言《アヒイヒソメテバ》。。〔頭註、【一首寄v霧、】〕
 
本(ノ)句は、著然《イチシロク》といはむ料の序なり、霧は、集中に白氣とも書(キ)、漢籍にも白霧と云て、白くそれと著(レ)て見ゆる物なれば、いち白《シロ》くとつゞきたり、○歌(ノ)意は、おもふ人と相語ひ初たらば、それと著《シル》く顯れむなあ、さらばなほつゝみてあるべきなれど、さては堪(ヘ)難からむに、と歎きたる、女の歌なるべし、○此(ノ)一首は、霧に寄てよめるなり、
 
2681 吾背子之《ワガセコガ》。使乎待跡《ツカヒヲマツト》。笠毛不著《カサモキズ》。出乍其見之《イデツヽソミシ》。雨落久爾《アメノフラクニ》。〔頭註、【五首寄v雨、】〕
 
落久爾《フラクニ》は、零爾《フルニ》の伸りたるなり、(良久《ラク》の切|留《ル》、)零ことなるにの意なり、○歌(ノ)意は、雨の零ことな(149)るに、其にも障らず、心いられに笠もとりあへず、濕つゝわびしきに、吾(ガ)夫子が使を待とて、家を出つゝぞ見し、となり、此(ノ)歌十二に再載たり、そこには問答にて、これに答る歌あり、
 
2682 辛衣《カラコロモ》。君爾内著《キミニウチキセ》。欲見《ミマクホリ》。戀其晩師之《コヒソクラシシ》。雨零日乎《アメノフルヒヲ》。
 
辛衣《カラコロモ》、此はあやある衣をいふなるべし、と略解にいへり、○内著《ウチキセ》は、打《ウチ》令《セ》v着《キ》にて、打《ウチ》はそへことばなり、○歌(ノ)意は、あやあるよき衣を縫おきて、着せて見まほしさに、雨のふる日なるものを、よもや來まさぬことはあらじと思ひて、來まさぬ人を、戀しくのみ思ひつゝ待て、いたづらに日をくらせし事、と悔みたる女の歌なるべし、
 
2683 彼方之《ヲチカタノ》。赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》。※[雨/脉]※[雨/沐]零《コサメフリ》。床共所沾《トコサヘヌレヌ》。於身副我妹《ミニソヘワギモ》。
 
彼方《ヲチカタ》は、齊明天皇(ノ)紀童謠に、烏智可※[手偏+施の旁]能阿婆努能枳枳始《ヲチカタノアバヌノキギシ》、大祓詞に、彼方乃繁木我本《ヲチカタノシゲキガモト》、とあり、凡て彼方《ヲチカタ》は、あちかたといふことなり、をちこちは、あちこちと云ことにて、遠近と書て、ヲチコチ〔四字右○〕とよむも、其(ノ)意なり、(しかるを、遠近の字にのみ就て、遠と近とをいふことゝのみ思ふは、末のことなり、)こゝの彼方《ヲチカタ》も、見渡したる所をいへるなり、さて人目|隱《シノ》ぶとて、吾(ガ)家の彼方《ヲチカタ》なる小屋《ヲヤ》に、妹を率《ヰ》て行てねたるからに、なほもとの吾(カ)家よりいふ言もて、やがて彼方《ヲチカタ》とは云るなり、○赤土少屋《ハニフノヲヤ》は、五(ノ)卷に、直土爾藁解敷而《ヒタツチニワラトキシキテ》、と云るごとく、土の上に、たゞわら莚など打しきたる、賤しき屋を云、さて古事記神武天皇(ノ)御歌に、阿斯波良能志祁去岐袁夜爾《アシハラノシケコキヲヤニ》、とあるにより(150)て、少屋をヲヤ〔二字右○〕とよみたるよろし、○※[雨/脉]※[雨/沐]、舊本に、※[雨/沐]を霖と作るは誤なり、今は飛鳥井本、活字本、古寫一本等に從つ、○歌(ノ)意は、此(ノ)下に、人事乎繁跡君乎鶉鳴人之古家爾相語而遣都《ヒトコトヲシゲミトキミヲウヅラナクヒトノフルヘニカタラヒテヤリツ》、といへる如く、人目しのぶとて、賤き屋に女を率て行てねたるに、たゞさへあるに、床の上に雨のもりきて、いとゞせむすべなく、くるしければ、此方の身にそへ吾妹よ、と云て、したしむなり、
 
2684 笠無登《カサナミト》。人爾者言手《ヒトニハイヒテ》。雨乍見《アマツヽミ》。留之君我《トマリシキミガ》。容儀志所念《スガタシオモホユ》。
 
笠無登は、(カサナシト〔五字右○〕とよみきたれるはわろし、)カサナミト〔五字右○〕と訓べし、笠無き故に、との意なり、○雨乍見《アマツヽミ》は、雨に障《サヘ》られて、こもりゐるを云詞なり、○歌(ノ)意は、笠無きが故に、得かへらずて女の家に留りしと、人に言よせいひて、留りて、かへり賜ひし、君がすがたのうるはしさの、わすられずおもはるゝ、となり、
 
2685 妹門《イモガカド》。去過不勝都《ユキスギカネツ》。久方乃《ヒサカタノ》。雨毛零奴可《アメモフラヌカ》。其乎因將爲《ソヲヨシニセム》。
 
雨毛零奴可《アメモフラヌカ》は、雨もがな降(レ)かしと希ふ意なり、零奴《フラヌ》は、もと零禰《フヲネ》の通(ヒ)たる詞なり、(不v零の義にあらず、)布禮《フレ》と云に、禰《ネ》の希望辭のそはれるが故に、それに引れて、禮《レ》を良《ラ》に通(ハ)して、布良禰《フラネ》といひ、可《カ》の辭のそはれるに引れて、禰《ネ》を奴《ヌ》に通(ハ)して、布良奴可《フラヌカ》といへるなり、集中に、多き詞格《コトバヅカヒ》なり、○歌(ノ)意は、いかで爾もがなふり來れかし、雨だにふらば、雨やどりを託言《カゴト》にして、過行がたき妹が家にとまらむを、となり、(契冲、催馬樂に、いもが門せなが門行過かねてわがゆかば(151)ひぢかさの雨もふらなむ、などうたふは、此(ノ)歌より出けむを、ひさかたを、ひぢかさとあやまれるにや、と云り、六帖にも、此(ノ)歌を、ひぢかさの雨もふらなむ雨がくれせむ、と見え、源氏物語にも、ひぢ笠といふことあるは、みな誤を傳へたるものなり、)○以上五首は、雨に寄て、よめるなり、
 
2686 夜占問《ユフケトフ》。吾袖爾置《ワガソデニオク》。白露乎《シラツユヲ》。於公令視跡《キミニミセムト》。取者消管《トレバケニツヽ》。〔頭註、【六首寄v露、】〕
 
歌(ノ)意は、君にあふやあはじやと、夜すがら夜占《ユフケ》を問とて、道に立あかしたる袖におきたる露を、その艱難《イタヅキ》をせししるしを、せめて君に視《シメ》さむとて取ば泣つゝ、それだに心にまかせぬよ、となり、(六帖に、此(ノ)歌を、ゆふとけて、と載たるはいかゞ、)
 
2687 櫻麻乃《サクラアサノ》。苧原之下草《ヲフノシタクサ》。露有者《ツユシアレバ》。令明而射去《アカシテイマセ》。母者雖知《ハヽハシルトモ》。
 
櫻麻《サクラアサ》は、さくらのさくころ、まくものなる故にいふといへり、又後の麻を見るに、すなほにおひたちて、枝のやう葉のやう、やゝさくらに似たればいふにや、と契冲云り、(袖中抄に、さくらあさとは、麻の花は、白き中に、すこしうすすはう色あるあさのあるなり、それを櫻麻とはいふなり、又下人の申侍りしは、くらあさといふものありと申き、くらあさとは、もし苦參《クラ》と云物にや、それも布に織ばあさといふ歟、それにさもじをくはへて、さくらあさといふにや、櫻とかきたる心得ねど、萬葉は書樣ともかくもあり、あるはこれを、さくらをのをふの下草と(152)もよめり、○苧原《ヲフ》の下草《シタクサ》は、苧原《ヲフ》は、麻《アサ》を生したる※[田+漢の旁]《ハタ》を云て、下草《シタクサ》は、其麻の下に、生たる草なり、○射去は、イマセ〔三字右○〕にて、おはしませと云が如し、(イマセ〔三字右○〕は今(ノ)俗に、御出被v成といふに同じ、こゝは、御歸り被v成よの意なり、○歌(ノ)意は、麻生の下草の、曉露のしげきに、たふまじきがいとほしければ、夜を明して歸り賜へ、よしや母にしらるゝとも、さのみいとはじ、となり、女の家のあたりに、麻※[田+漢の旁]のありしからに、苧原をよめるなり、○枕册子に、朝貌の露落ぬさきに文かゝむと、みのほども心もとなく、をふの下草などくちすさみて、わがかたへゆくに云々、とかけるは、今の歌を思ひたるなり、十二に、櫻麻之麻原乃下草早生者妹之下紐不解有申尾《サクラアサノヲフノシタクサハヤオヒバイモガシタヒモトケザラマシヲ》、とて載たり、(新古今集、さくらあさのをふの浦浪立かへり見れどもあかず山梨の花、とあり、此はいかが、)
 
2688 待不得而《マチカネテ》。内者不入《ウチヘハイラジ》。白細布之《シロタヘノ》。吾袖爾《ワガコロモテニ》。露者置奴鞆《ツユハオキヌトモ》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、十二に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニシヲレバウチナビクワガクロカミニシモソオキニケル》、とあると、言異なれど、意は相似たり、又古今集に、君こずば閨へも入じ濃紫《コムウサキ》わがもとゆひに霜はおくとも、といへるは、右の二首を、とりまじへたるやうなり、と略解に評《イへ》り、
 
2689 朝露之《アサツユノ》。消安吾身《ケヤスキワガミ》。雖老《オイヌトモ》。又|變〔○で囲む〕若反《マタヲチカヘリ》。君乎思將待《キミヲシマタム》。
 
又變若反は、マタヲチカヘリ〔七字右○〕と訓べし、(舊本に、變(ノ)字なきは脱たるものなり、克木田氏(ノ)考に從(153)て姑(ク)補つ、六(ノ)卷に、石綱乃又變若反青丹吉奈良乃都乎又將見鴨《イハツナノマタヲチカヘリアヲニヨシナラノミヤコヲマタミナムカモ》、とあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、十二に、初句|露霜乃《ツユシモノ》とかはれるのみにて、重て出たり、
 
2690 白細布乃《シロタヘノ》。吾袖爾《ワガコロモテニ》。露者置《ツユハオケド》。妹者不相《イモニハアハズ》。猶預四手《タユタヒニシテ》。
 
露者置の下、跡(ノ)字などの脱しにや、ツユハオケド〔六字右○〕とあるべし、○猶預四手《タユタヒニシテ》とは猶預《タユタヒ》は、(玉篇に、豫或作v預、とありて、猶豫と書たるに同じ、)行《ユキ》もやらず、去《カヘリ》もあへぬやうの意、四手《シテ》はしかする形を、たしかにいふ言なり、○歌(ノ)意は、女のあたりに行て、内に入(ラ)むとは思へど、もし打つけに入ば、母などのきゝとがめやせむと、心しらひしつゝ、夜更るまでたゝずみて、袖はしとゝに露にぬれたれど、逢ことをば得せず、さりとてなほ黙止《モダ》してかへりもあへず、入も得ずして、たゆたはれつゝをるほどの心うさ、といへるなるべし、
 
2691 云云《カニカクニ》。物者不念《モノハオモハジ》。朝露之《アサツユノ》。吾身一者《アガミヒトツハ》。君之隨意《キミガマニマニ》。
 
朝露之吾身《アサツユノワガミ》とは、露の如く、微《モロ》くはかなき身をいへり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、上に、云云物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二《カニカクニモノハオモハズヒダビトノウツスミナハノタヾヒトミチニ》、とあり、○以上六首は、露に寄てよめるなり、
 
2692 夕凝《ユフコリノ》。霜置來《シモオキニケリ》。朝戸出爾《アサトデニ》。跡踐|附〔○で囲む〕而《アトフミツケテ》。人爾所知名《ヒトニシラユナ》。〔頭註、【一首寄v霜、】〕
 
夕凝霜《ユフコリノシモ》とは、夕方に、凝結《コリカタマ》れる霜を云、○跡踐附而、(舊本には、甚踐而と作り、さらばイタクシフミテ〔七字右○〕と訓べきか、されど穩ならざるなり、拾穗本には跡踐而と作り、)舊訓に、アトフミツケテ〔七字右○〕(154)とあると、拾穗本とに依に、附(ノ)字の脱たるにて、跡踐附而《アトフミツケテ》なるべし、又本居氏は、舊本に甚とあるは、其上(ノ)二字の誤寫にて、ソノウヘフミテ〔七字右○〕なるべしといへり、是然るべし、と略解には云へり、○歌(ノ)意は、夕方に凝結りたる霜の、其(ノ)まゝあれば、其に足跡を踐附て、人に知れ賜ふ事なかれ、よくして歸りたまへ、となり、○此(ノ)一首は、霜によせてよめるなり、
 
2693 如是許《カクバカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。朝爾日爾《アサニヒニ》。妹之將履《イモガフムラム》。地爾有申尾《ツチナラマシヲ》。〔頭註、【一首寄v土、】〕
 
朝爾日爾《アサニヒニ》は、毎朝《アサゴト》に毎日《ヒゴト》に、といふが如し、○歌(ノ)意は、かほどに戀しく思つゝあらむよりは、中中に、妹が朝ごと日ごとに履らむ土にてだにも、あらましものを、となり、○此(ノ)一首は、土に寄てよめるなり、
 
2694 足日木之《アシヒキノ》。山鳥尾乃《ヤマドリノヲノ》。一峯越《ヒトヲコエ》。一目見之兒爾《ヒトメミシコニ》。應戀鬼香《コフベキモノカ》。〔頭註、【五首寄v山、】〕
 
本(ノ)二句は、一峯《ヒトヲ》をいはむ料の序にて、尾乃一峯《ヲノヒトヲ》と、乎《ヲ》の言を重ね、あやなせるなるべし、さて八(ノ)卷に、足日木能山鳥許曾婆《アシヒキノヤマドリコソハ》、峯向爾嬬問爲云《ヲムカヒニツマドヒストイヘ》、ともありて、山鳥は、雌雄一峯を隔て居といふことのあれば、其(ノ)意をも、帶《カネ》たるにもあるべし、○歌(ノ)意は、一(ツ)の峯を越たる、あなたの里にて、たゞ一目のみ見し妹なるに、かくばかり戀しく思ふべきものかは、といふなるべし、
 
2695 吾妹子爾《ワギモコニ》。相縁乎無《アフヨシヲナミ》。駿河有《スルガナル》。不盡乃高嶺之《フジノタカネノ》。燒管香將有《モエツヽカアラム》。
 
歌(ノ)意は、妹に相見むよしのなき故に、富士の高峯の燒るがごとく、つねに心もえつゝあらむ(155)歟、となり、
 
2696 荒熊之《アラクマノ》。住云山之《スムチフヤマノ》。師齒迫山《シハセヤマ》。責而雖問《セメテトフトモ》。汝名者不告《ナガナハノラジ》。
 
本(ノ)二句は、荒山のさまをいへるのみなり、○師齒迫山《シハセヤマ》、何國にか、未(ダ)詳ならず、本居氏、これは師齒迫《シハセ》といふを、數《シバ/\》責《セム》る意にとりて、しば/\せめて問ともの意なるべし、といへり、さもあるべし、さらば齒《ハ》をば濁りて唱へしか、○汝名者不告《ナガナハノラジ》は、汝《ナムヂ》の名をば告知せじ、となり、汝《ナ》は、夫(ノ)君を云なるべし、後(ノ)世こそ、汝《ナムヂ》とはいやしむ方にいへ、古(ヘ)は、尊む方にも、那《ナ》とも伊麻之《イマシ》ともいへること多ければ、疑ふべきにあらず、此(ノ)下に、隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾戀由眼《ユモリクノトヨハツセヂハトコナメノカシコキミチソナガコヽロユメ》、とあるも、戀は爾心の誤にて、爾とは女より男をさせるなり、思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、たとひ父母のしばしば責て問とも、吾(ガ)夫の名をば、告知すまじければ、心易く思(ヒ)賜へ、といふなり、上に、百積船潜納八占刺母雖問其名不謂《モヽツミノフネコギイルヽヤウラサシハヽハトフトモソノナハノラジ》、とあるに似たり、
 
2697 妹之名毛《イモガナモ》。吾名毛立者《アガナモタテバ》。惜社《ヲシミコソ》。布仕能高嶺之《フジノタカネノ》。燒乍渡《モエツヽソヲレ》。
 
立者は、タテバ〔三字右○〕と訓べし、(タヽバ〔三字右○〕とよめるは、いみじき非なり、もししか訓ば、尾(ノ)句を、モエツヽワタラメ〔八字右○〕といはでは、首尾とゝのはざるをや、)○歌(ノ)意は、女も吾も名のたてればこそ惜さに、富士の高峯の燒るがごとく、心もえつゝ月日を過すことなれ、さらずば、かくはあらじを、となり、
(156)〔或|本〔○で囲む〕歌曰、君名毛《キミガナモ》。妾名毛立者《ワガナモタテバ》。惜己曾《ヲシミコソ》。不盡乃高山之《フジノタカネノ》。燒乍居《モエツヽモヲレ》。〕
舊本に、本(ノ)字なきは、脱たるなるべし、○本文は、男の歌、註は女の歌とせると、結句のすこしかはれるを、異本とす、
 
2698 往而見而《ユキテミテ》。來戀敷《クレバコヒシキ》。朝香方《アサカガタ》。山越置代《ヤマコシニオキテ》。宿不勝鴨《イネカテヌカモ》。
 
本(ノ)二句は、夜往て、妹を見て、曉に歸り來れば、戀しきといふにて、朝の序なるよし、略解にもいへり、○朝香方《アサカガタ》、未(タ)詳ならず、陸奥(ノ)國安積(ノ)郡にもやあらむ、(十四(ノ)東歌に、安齋可我多《アセカガタ》、とあるとは、別なるべし、又略解に、古事記に、其(ノ)猿田※[田+比]古(ノ)神は坐2阿邪※[言+可]《アサカニ》1、神名式に、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡|阿射加《アザカノ》神社、とあるを引たれど、阿邪加《アザカ》は、邪《ザ》濁音なれば朝香《アサカ》とは別ならむ、)○歌(ノ)意は、うるはしくおぼゆる人を、朝香がたにおきて、わかれ來つるに、山こしにさへあれば、たやすくあふべきことも叶はねば、思ひにたへかねて、夜だにまどろみあへぬ哉、さてもくるしや、となり、○以上五首は、山に寄てよめるなり、
 
萬葉集古義十一卷之中 終
 
(157)萬葉集古義十一卷之下
 
2699 安太人乃《アダヒトノ》。八名打度《ヤナウチワタス》。瀬速《セヲハヤミ》。意者雖念《コヽロハモヘド》。直不相鴨《タヾニアハヌカモ》。〔頭註、【廿三首寄v水、】〕
 
安太人《アダヒト》は、安太《アダ》と云地に住(ム)人を云、難波人《ナニハヒト》などの類なり、安太《アダ》は、和名抄に、大和(ノ)國宇智(ノ)郡|阿陀《アダ》、(陀音可2濁讀1、)とあるこれなり、○八名打度《ヤナウチワタス》とは、八名《ヤナ》は、和名抄に、魚梁(ハ)(夜奈《ヤナ》、)籍(ハ)(漢語抄(ニ)云、夜奈須《ヤナス》、)取v魚(ヲ)箔也、とあり、なほ三(ノ)卷に既く委(ク)云り、古事記に、到《イタリマス》2吉野河之河尻(ニ)1時、作《ウチテ》v筌《ヤナ》有2取(フ)v魚人1、云々、名(ハ)謂2贄持之子《ニヘモチノコト》1、(此者|阿陀之鵜養之祖《アダノウガヒガオヤ》也、)と見えて、阿陀《アダ》は、上古より魚梁に名だゝる處なり、打《ウツ》とは、山川をしがらみして塞(キ)て、其(ノ)水の聚り落る所に、※[木+戈]《クヒ》を立て竹床を作り、それに、留る點をとる、その竹床をやなといへれば、多く杙を打て作る故に、打とは云なり、と略解に云るが如し、度《ワタス》とは、廣く作り度す謂なり、○速《ハヤミ》は、はやうと云むが如し、首(ノ)卷に委く論へり、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は、速《ハヤミ》をいはむための序にて、川瀬の急《ハヤ》きが如くに、心には、やるせなく思へども、たゞに相見ることのなき哉、と歎きたるなり、
 
2700 玉蜻《タマカギル》。石垣淵之《イハカキフチノ》。隱庭《シヌヒニハ》。伏以死《コヒテシヌトモ》。汝名羽不謂《ナガナハノラジ》。
 
(158)玉蜻《タマカギル》は枕詞なり、○石垣淵《イハカキワチ》は、谷川などの、石かき圍《カコ》みたる所の淵を云、さてさる處の淵は、石に隱れてある意もて、隱《シヌヒ》といはむ料の序とせり、○隱庭は、シヌヒニハ〔五字右○〕と訓べし、ニハ〔二字右○〕は、他にむかへていふ辭なり、こゝは顯に對へていへるなり、○伏以死は、誤字あるべし、伏(ノ)字は戀なるべけれど、字形遠し、いかゞあらむ、以(ノ)字は、雖の誤ならむか、と略解に云る、さもあるべき歟、(本居氏(ノ)説に、庭伏以は、みな誤字なるべし、といへれど、次に引(ク)、下に出たる歌によれば、庭(ノ)字は、本のまゝにて通《キコ》えたり、)なほ考(フ)べし、今は姑(ク)此下に、隱庭戀而死鞆《シヌヒニハコヒテシヌトモ》、とあるに依て、コヒテシヌトモ〔七字右○〕と訓つ、歌(ノ)は意、隱々《シノビ/\》には、戀死《コヒシニ》に死はすとも、汝の名をば、人に告知せじ、となり、
 
2701 明日香川《アスカガハ》。明日文將渡《アスモワタラム》。石走《イハバシノ》。遠心者《トホキコヽロハ》。不思鴨《オモホエヌカモ》。
 
明日文將渡《アスモワタラム》は、やがて上の明日香川をうけていへるなり、明曰香川明日左倍將見等念八方《アスカガハアスサヘミムトオモヘヤモ》、といへるに同じ、さてこゝは、今日のみならず、明日さへもわたらむの意なり、○石走《イハバシ》は、石橋《イハバシ》なり、契冲、石ばしは、間近く蹈(ミ)こえてわたるべきために、そのあたりの石をならべ置なり、今の世に、庭に飛石とてふせ置が如し、といへり、さてこゝは、四(ノ)卷に、石走間近《イハバシノマチカキ》とつゞけたると同じ意にて、遠き心はおもはず、石橋の如く、間近くわたらむとおもふ謂なり、されば遠《トホキ》といふのみにはかゝらず、不思《オモホエヌ》といふまでにかゝれり、○歌(ノ)意は、今日あひて、又間近く明日もわたりて、あひ見むと、思はるゝ哉、遠く間を置てあはむとおもふ心は、さらになし、となり、
 
(159)2702 飛鳥川《アスカガハ》。水往増《ミヅユキマサリ》。彌日異《イヤヒケニ》。戀乃増者《コヒノマサラバ》。在勝申目《アリカテマシモ》。
 
本(ノ)二句は、増《マサリ》をいはむ料の序なり、○彌日異《イヤヒケニ》は、彌日來經《イヤヒケ》にゝて、日々《ヒヾ》に彌《イヨヽ》といはむが如し、○在勝申目《アリカテマシモ》(申(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、甲と作れど、甲目《カモ》にては非じ、)は、在難《アリカテ》ましにて、目《モ》は歎息(ノ)辭なり、なほ二(ノ)卷内大臣(ノ)歌に、王匣《タマクシグ》云々|有勝麻之目《アリカテマシモ》、とあるにつきて、委(ク)註り、○歌(ノ)意は、かく日《ヒ》に日《ヒ》に戀しく思ふ心の彌益らば、つひには在ながらふること、難からましを、となり、
 
2703 眞薦苅《マコモカル》。大野川原之《オホヌガハラノ》。水隱《ミゴモリニ》。戀來之妹之《コヒコシイモガ》。※[糸+刃]解吾者《ヒモトクアレハ》。
 
大野川原《オホヌカハラ》は、大和志には、富川、一名斑鳩(ノ)富小川、名水也、自2添下(ノ)郡1流、至2高安(ニ)1、曰2大野川(ト)1、古人所v賦大野川原、即此流、至2笠目1入2廣瀬川(ニ)1、といへり、なほ尋ぬべし、八雲御抄に、石見と註させたまへるは、由ある歟、(契冲が、おほやがはらとよみて、十四に、いりまぢの於保夜我波良《オホヤガハラ》とよめる所か、といへれど、こゝは野を、ヤ〔右○〕の假字に用ひしとは思はれず、現存六帖に、日のくれに大やが原を分行ばすかもが下にくひな鳴なり、これは今の歌をオホヤ〔三字右○〕と訓て、それに依る歟、如何、)○水隱《ミゴモリ》は、水は上の序のくさりにいへるのみにて、歌(ノ)意に用なし、たゞ隱《コモリ》なり、○歌(ノ)意は、裏《シタ》にのみ隱《コモ》りて、戀しく思ひ來にしを、かたみに心打とけて、吾は今夜、妹が紐解て泊るが、うれしき、となり、
 
2704 惡氷木之《アシヒキノ》。山下動《ヤマシタトヨミ》。逝水之《ユクミヅノ》。時友無雲《トキトモナクモ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。
 
(160)歌(ノ)意は、山とよみてゆく水の、いつとも時分ずに、たぎりゆく如くに、吾は何時ともわかず、戀しく思ひて、月日を度ことかな、となり、
 
2705 愛八師《ハシキヤシ》。不相君故《アハヌキミユヱ》。徒爾《イタヅラニ》。此川瀬爾《コノカハノセニ》。玉裳沾津《タマモヌラシツ》。
 
玉裳《タマモ》は、裳《モ》をほめていへるなり、二(ノ)卷にも、九(ノ)卷にも見えたり、○歌(ノ)意は、愛しき君にあはむと思ひて、この川瀬を、辛うしてわたりつるものを、得あはずして、いたづらに玉裳裾《タマモノスソ》を濕しつるが悔しき、となり、此(ノ)上に、第二(ノ)句不相手故《アハヌコユヱニ》、尾句|裳襴沾《モノスソヌレヌ》、とかはれるのみにて、全(ラ)同歌を載たり、彼は男の歌にて、此は女の歌と聞ゆ、歌の樣を考るに、男のとせる方、さもあるべくおぼゆ、
 
2706 泊湍川《ハツセガハ》。速見早湍乎《ハヤミハヤセヲ》。結上而《ムスビアゲテ》。不飽八妹登《アカズヤイモト》。問師公羽裳《トヒシキミハモ》。
 
速見早湍乎《ハヤミハヤセヲ》(見(ノ)字、拾穗本には水と作り、)は、速《ハヤ》きが故に、(速《ハヤ》さにと云ても同じ、)その早湍をの意なり、(略解に、早み早湍は、言を重ねて、最早きを云と云るは、甚荒凉なり、すべててにをはに暗くては、古人の詞を味得べからず、)さて水の急《ハヤ》きは、淨きこと勿論《サラ》なれば、急《ハヤ》く淨《キヨ》きがゆゑに、それを賞翫《メテ》て掬《ムス》ぶ謂なり、○結上而《ムスビアゲテ》は、掬擧而《スクヒアゲテ》といふが如し、さて清水は、掬《スク》ひ擧て飲に飽足ねば、不v飽といはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、こしかた親《チカ》くなれて相見れども、不v飽や否、妹よと問し其(ノ)男君はいづらや、と絶て後更に尋ね慕ふ謂なり、
 
2707 青山之《アヲヤマノ》。石垣沼間乃《イハカキヌマノ》。水隱爾《ミゴモリニ》。戀哉度《コヒヤワタラム》。相緑乎無《アフヨシヲナミ》。
 
(161)青山《アヲヤマ》は、木立《コダチ》茂き山を云、青香具山《アヲカグヤマ》の青に同じ、○石垣沼間《イハカキヌマノ》(間(ノ)字、舊本に問と作るは誤、類聚抄、古寫一本等に從(ツ)、)は、上に石垣淵《イハカキフチ》とよめるにひとしくて、溪川などの石かき圍《カコ》みたる處の溜《タマ》り水を云べし、○水隱《ミゴモリ》は、此(ノ)上にも見えたり、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は序にて、かくれたるすぢなし、
 
2708 四長鳥《シナガトリ》。居名山響爾《ヰナヤマトヨミ》。行水乃《ユクミヅノ》。名耳所縁之《ナノミヨセテシ》。内妻波母《コモリヅマハモ》。
 
四長鳥《シナガトリ》は、枕詞なり、○居名山響爾《ヰナヤマトヨミ》云々は、十六に、猪名川之奥乎深目而《ヰナガハノオキヲフカメテ》、といへる川水にて、其(ノ)猪名山に響《ヒヾ》き動《トヾロ》きて、音高く流るを云り、さて爾は、彌(ノ)字の誤なり、と本居氏の云るぞよき、○名耳所縁之《ナノミヨセテシ》は、上に、里人之言縁妻乎《サトヒトノコトヨセヅマヲ》、とよみたる如く、いひよせらるゝをいふ、○内妻は、コモリヅマ〔五字右○〕にて、母《ハヽ》の養蠶《カフコ》の眉隱《マヨゴモリ》といへるごとく、父母の守りこめて、逢がたき女を云、○歌(ノ)意は、居名山にとゞろきて流るゝ水の、音高さが如く、名ばかり高く、人にいひよせられし、其(ノ)女はいづらや、行方しらぬが本意なし、となげきたるなり、○舊本に、一云名耳之所縁而戀管哉將在、と註せり、
 
2709 吾妹子《ワギモコニ》。吾戀樂者《アガコフラクハ》。水有者《ミヅナラバ》。之賀良三超而《シガラミコエテ》。應逝衣思《ユクベクソモフ》。
 
歌(ノ)意は、妹を戀しく思ふ心は、物にたとへていはゞ、水ならば、しがらみをも、おしこえてゆくべくぞおもふと、切なる心のたゆみなきをいへり、十四に、伊毛我奴流等許乃安多理爾伊波具久留水都爾母我毛與伊里底禰末久母《イモガヌルトコノアタリニイハグクルミヅニモガモヨイリテネマクモ》、趣は異りたれど、聊似たるところあり、○舊本に、或(162)本歌發句云、(發(ノ)字、舊本にはなし、古本、古寫本、類聚抄等にはあり、)相不思人乎念久、と註り、これは右の歌によしなし、第三句已下失たるか、又別處の註なるが、混(レ)入しか、
 
2710 狗上之《イヌカミノ》。鳥籠山爾有《トコノヤマナル》。不知也河《イサヤガハ》。不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》。余名告奈《ワガナノラスナ》。
 
狗上《イヌカミ》は、和名抄に、近江(ノ)國犬上(ノ)郡、天武天皇(ノ)紀に、時(ニ)近江命(テ)2山部(ノ)王、蘇賀(ノ)臣果安、巨勢(ノ)臣比等(ニ)1、率(テ)2數萬衆《ヤヨロヅノイクサヲ》1、將v襲《ムト》2不破(ヲ)1、而|軍《イクサダチス》2于犬上川(ノ)濱《ホトリニ》1、○不知也河《イサヤガハ》は、即(チ)犬上川なり、四(ノ)卷に、淡海路乃鳥籠之山有石知哉川《アフミヂノトコノヤマナルイサヤガハ》、と見えたり、さてこれまで三句は、不知《イサ》を云むための序なり、○不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》(瀬、舊本に須と作るは誤、今は官本、水戸本、類聚抄等に從つ、)は、不v知と宣《ノタマ》へと云むが如し、伊佐《イサ》は、不(ル)v知ことを云古言なり、神功皇后紀に、有無之不知《アルコトナキコトイサ》、古今集に、貫之、人は伊佐《イサ》心も知らず云云、(集中六(ノ)卷、七(ノ)卷に、伊佐用布《イサヨフ》と云言に、不知世經、とかけり、これ不v知を伊佐《イサ》といふ故なり、(二五《トヲ》は、(十《トヲ》にて、登乎《トヲ》の借(リ)字なり、)乎《ヲ》は、力(ラ)いれて云ときの助字にて、只|不知登《イサト》の謂なり、寸許瀬《キコセ》は、令《セ》v聞《キコ》にて、宣《ノタマ》へと云ことなり、そはもと人の言て、我に令《ス》v聞(カ)意より、出たる言にて、誰(レ)に言(フ)にも、其(ノ)言(フ)人を尊みて云ときにいふ言なり、(又中昔の物語文などに申すと云べきを、聞ゆと云ること常多し、それは尊む人に申すをのみ云り、されば古言の伎許須《キコス》とは、つかひざま表裏のたがひなり、今の人は、古言雅言のつかひざまをしらず、きこすときこゆとをも、一(ツ)にこゝろえ、又人の己(レ)にむかひて言、と云ことを、きこゆと云など、いたくひがことなり、と本居氏云り、)(163)古事記上卷沼河日賣(ノ)歌に、阿夜爾那古斐伎許志《アヤニナコヒキコシ》、下卷八田(ノ)若郎女(ノ)御歌に、意富岐美斯與斯登伎許佐婆《オホキミシヨシトキコサバ》、書紀仁徳天皇(ノ)大御歌に、飫朋呂伽珥枳許瑳怒《オホロカニキコサヌ》、此(ノ)集十二に、空言毛將相跡令聞戀之名種爾《ムナコトモアハムトキコセナグサニ》、十三に、莫寢等母寸巨勢友《ナイネソトハヽキコセドモ》、又、和我勢故之可久志伎許散婆《ワガセコシカクシキコサバ》云々、などある、みな同意なり、○歌(ノ)意は、もしそこと吾との中を、人の問むときに、さらにさることはしらずとの賜ひて、ゆめ/\吾(カ)名を告知すことなかれ、となり、○古今集墨滅(ノ)歌に、狗上の鳥籠の山なる名取川いさとこたへよ吾(カ)名漏すな、(名取の傍にいさやと註して、異本とす、さてその左註に、この歌、或人、あめのみかどの近江の采女に賜へると、)返し、采女の奉れる、山科の音羽の瀧の音にだに人のしるべく吾こひめやも、この狗上の歌は、即(チ)今のと同歌なり、(又六帖に、名を惜む、あののみかど、狗上や鳥籠の山なるいさゝ川いさとこたへてわがなもらすな、とあるは、いさやを、いさゝと唱へ誤れるものなり、この誤を傳へて、後々のものどもに、いさゝ川とよみ、又源氏物語朝貌に、いとかく、よのためしになりぬべきありさま、もらしたまふなよ、ゆめ/\いさゝ川なども、なれ/\しやとて、云々、と書るは、右の歌をふみていへるなり、其(ノ)他いさゝ川としるせるもの多くて、今こと/”\に引出でたゞさむも、わづらはしくなむ、)
 
2711 奥山之《オクヤマノ》。木葉隱而《コノハガクリテ》。行水乃《ユクミヅノ》。音聞從《オトニキヽシヨ》。常不所忘《ツネワスラエズ》。
 
音《オト》は、音《オト》づれなるべし、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、かくれたるすぢなし、
 
(164)2712 言急者《コトトクハ》。中波余騰益《ナカハヨドマセ》。水無河《ミナシガハ》。絶跡云事乎《タユチフコトヲ》。有超名湯目《アリコスナユメ》。
 
言急《コトトク》は、人言の甚しきを云(フ)、と本居氏の云るがごとし、○中波余騰益《ナカハヨドマセ》は、中ころは不通《ヨド》みたまへ、といふなり、四(ノ)卷に、事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手《コトデシハタガコトナルカヲヤマダノナハシロミヅノナカヨドニシテ》、○水無河(無(ノ)下、飛鳥井本、古本、拾穗本等には瀬(ノ)字あり、なくてよろし、)は、ミナシガハ〔五字右○〕と訓べし、絶《タユ》をいはむ料なり、砂の下を水のくゞりて、上に水のなき河をいへば、絶とかゝれり、この川のこと、既く委(ク)註り、十(ノ)卷にも、久方天印等水無川隔而置之神世之恨《ヒサカタノアマツシルシトミナシガハヘダテテオキシカミヨシウラメシ》、とあり、○有超名湯目《アリコスナユメ》は、有乞莫勤《アリコソナユメ》にて、乞《コソ》は、有(ル)こと莫れと云ことを、ふかく乞希《コヒネガ》ふ言なり、○歌(ノ)意は、人言のはなはだしくば、中ごろはよどみて通ひ賜ふな、されどつひに絶賜ふことは、ゆめ/\なかれ、となり、
 
2713 明日香河《アスカガハ》。逝湍乎早見《ユクセヲハヤミ》。將速|見〔○で囲む〕登《ハヤミムト》。待良武妹乎《マツラムイモヲ》。此日晩津《コノヒクラシツ》。
 
本(ノ)二句は、速見《ハヤミ》といはむ料の序なり、○將速見(ノ)登、見(ノ)字、舊本にはなし、はやく契冲も、見(ノ)字脱たるなるべし、といへり、さもあるべし、ハヤミムト〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、來らば速く相見むと、女の待らむものを、障ることありて、速(ク)得行ずして、むなしく此(ノ)日を暮しつ、となり、
 
2714 物部乃《モノヽフノ》。八十氏川之《ヤソウヂガハノ》。急瀬《ハヤキセニ》。立不得戀毛《タチエヌコヒモ》。吾爲鴨《アレハスルカモ》。
 
本(ノ)句は、序なり、宇治川の急(キ)瀬には、おしながされて立留りがたき故に、立不得《タチエヌ》とつゞきたり、○立不得《タチエヌ》は、在不得《アリエヌ》といふに似て、立(ツ)にも居(ル)にも得あられぬ、と云ほどの意なり、(七(ノ)卷に、水隱(165)爾氣衝餘早川之瀬者立友人二將言八方《ミゴモリニイキヅキアマリハヤカハノセニハタツトモヒトニイハメヤモ》、とあるは、意異れり、○歌(ノ)意は、立(ツ)にも立れず、居るにも居られず、あるにあられず、忍《ネム》じがたき切なる思(ヒ)を、することにもあるかな、となり、○舊本に、一云立而毛君者忘金津藻、と註せり、
 
2715 神名火《カムナビノ》。打廻前乃《ヲリタムクマノ》。石淵《イハフチニ》。隱而耳八《コモリテノミヤ》。吾戀居《アガコヒヲラム》。
 
神名火《カムナビ》は、集中に高市郡なると、平群(ノ)郡なるとをよめり、此(ノ)歌なるは、何(レ)の郡のなるにや。未(タ)詳ならず、但し石淵《イハフチ》とよめるによれば、いはゆる神名火河にや、○打廻前は、本居氏、打は折の誤にて、ヲリタムクマ〔六字右○〕、とよみて、道の折まがれるをいふなるべし、といへり、既く四(ノ)卷に、衣手乎打廻乃里《コロモテヲウチタムサト》、とある歌につきて委く註せり、○石淵《イハフチ》は、石垣淵《イハカキフチ》と、よめるごとく、石かき圍《カコミ》て隱《コモ》りかなる淵を云ば、隱《コモリ》を、いはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、人目をしのび隱りて、いつまで、かく裏《シタ》にばかり、戀しく思ひ居るべしや、さてはつひに逢こともかたかるべし、されば今は打出して、色に顯《アラハ》さむ、との事なるべし、
 
2716 自高山《タカヤマヨ》。出來水《イデクルミヅノ》。石觸《イハニフリ》。破衣念《ワレテソオモフ》。妹不相夕者《イモニアハヌヨハ》。
 
高山《タカヤマ》は、地(ノ)名にあらず、何處にまれ、たゞ高き山なり、○石觸《イハニフリ》は、水の石に當り觸るを云、破《ワレ》をいはむ料の序なり、十(ノ)卷に、雨零者瀧津山川於石觸君之摧情者不持《アメフレバタギツヤマガハイハニフリキミガクダカムコヽロハモタジ》、相模(ノ)國風土記に、鎌倉(ノ)郡見越(ノ)崎、毎(ニ)v有2速浪1崩v石(ヲ)、國人|名2號《イヘリ》伊曾布利《イソブリト》1、謂《ヨシナリ》v振(ル)v石也、土佐日記に、いそぶりのよする磯には年月(166)をいつともわかぬ雪のみぞふる、此等は海濱にて礒《イソ》に觸るを云、今は山河の磐《イハ》に觸るを云て、言は同じ、○歌(ノ)意は、妹に得相見ぬ夜は、心も千《チヽ》にわれくだけて、物をぞ思ふ、となり、
 
2717 朝東風爾《アサゴチニ》。井提越浪之《ヰテコスナミノ》。世蝶似裳《サヤカニモ》。不相鬼故《アハヌコユヱニ》。瀧毛響動二《タギモトヾロニ》。
 
朝東風《アサゴチ》は、東風《コチ》はもはら朝に吹ば、かくいへり、さて其(ノ)東風に、浪のさわぐにつれて、井提を水の越れば、かくは云るなり、○井提《ヰテ》は、堰※[土+隷の旁]《ヰセキ》の事なり、河水を田に沃《マカ》せむ料に、しがらみして※[雍/土]き留めたるを云、さて風荒く吹て、浪立(ツ)たびに、其(ノ)堰を水溢れ越る故に、井提越浪《ヰテコスナミ》、といへり、○世蝶似裳は、誤字あるべし、(世蝶を、瀬云《セテフ》の意とする説は、論にも足ず、人或は、世蝶似裳不相《セテフニモアハヌ》は、しば/\もあはぬといはむが如し、後の物語文などに、せちにといへることばは、この世蝶《セテフ》の言の轉れるなるべし、といへれど、證としがたし、又の説に、蝶は越(ノ)字の誤にて、世越似裳《セゴシニモ》ならむといひ、或は染(ノ)字の誤にて、世染似裳《ヨソメニモ》ならむ、ともいへれど、みな用(ヒ)がたし、本居氏は、世蝶似は、且蛾津の誤にて、且蛾津裳《カツガツモ》ならむ、といへり、されどなほいかゞ、みな甘心《アマナヒ》がたき説なり、かにかくに、誤字にはあるべきなり、)七(ノ)卷に、泊瀬川流水尾之湍乎早井提越浪之音之清久《ハツセガハナガルヽミヲノセヲハヤミヰテコスナミノオトノサヤケク》、とあるによりて考(フ)るに、若(シ)は此《コヽ》も、井提越浪之左也蚊似裳《ヰテコスナミノサヤカニモ》、とありしを、左(ノ)字を脱し、也を世に誤、蚊を蝶に寫し誤れるにはあらざる歟、左也蚊《サヤカ》てふ詞は、見(ル)ことはさらにて、逢ことにも聞(ク)ことにも、下に、       、とあり、)何にも、あり/\と慥《タシカ》なることに云(167)言なり、されば清《サヤ》かにも不相《アハヌ》とは、あり/\とたしかに不v逢てふ意なり、六(ノ)卷に、足引之御山毛清《アシヒキノミヤマモサヤニ》、落多藝都芳野河之《オチタギツヨシヌノカハノ》、河瀬乃淨乎見者《カハノセノキヨキヲミレバ》云々、左夜蚊《サヤカ》の詞に縁《ヨセ》あるをも、思(ヒ)合(セ)てよ、○不相鬼故は、鬼は兒の誤ならむ、と本居氏云り、さもあらむ、さらばアハヌコユヱニ〔七字右○〕と訓べし、不v逢子なるものをの意なり、○瀧毛響動二《タギモトヾロニ》は、人の言さわぐことを比《タト》へ云り、礒もとゞろに、宮もとどろに、里もとゞろになども、集中にょめり、(金葉集に、白雲とよそに見つれば足曳の山もとどろに落る瀧つ瀬、)○歌(ノ)意は、あり/\と、たしかに逢たるにもあらぬ女なるものを、名を立て人のいひ動《サワ》ぐことは、瀧の音のとゞろとゞろと、聞えわたるが如し、となり、
 
2718 高山之《タカヤマノ》。石本瀧千《イハモトタギチ》。逝水之《ユクミヅノ》。音爾者不立《オトニハタテジ》。戀而雖死《コヒテシヌトモ》。
 
瀧千《タギヂ》は、激《タギ》りといはむが如し、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、たとひ戀死に死はすとも、音にたてゝ、名には顯さじ、となり、古今集に、吉野川いはきりとほしゆく水の音にはたてじ戀は死とも、又、山高みしたゆく水のしたにのみながれてこひむこひはしぬとも、
 
2719 隱沼乃《コモリヌノ》。下爾戀者《シタニコフレバ》。飽不足《アキタラズ》。人爾語都《ヒトニカタリツ》。可忌物乎《イムベキモノヲ》。
 
隱沼乃《コモリヌノ》は、裏《シタ》をいはむ料の枕詞なり、○下爾戀者は、シタニコフレバ〔七字右○〕と訓べし、(コフルハ〔四字右○〕と訓はわろし)、○可忌物乎《イムベキモノヲ》は、つゝみ隱すべきものをの意なり、○歌(ノ)意は、しのびしのびに思へば、心もむせかへるやうにて、なほ十分ならぬ故に、おもひのはるけむ方もあるべくやと、人に(168)かたりつるが、今更くやしきことなり、よく堪忍びて、つゝみかくすべきことにてありしを、となり、十二に、念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミアレハイヒテキイムベキモノヲ》、
 
2720 水鳥乃《ミヅトリノ》。鴨之住池之《カモノスムイケノ》。下樋無《シタヒナミ》。欝恨君《イフセキキミヲ》。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
 
水鳥乃《ミヅトリノ》は、まくら詞なり、○下樋無《シタヒナミ》(樋(ノ)字、舊本に桶と作るは誤、類聚抄、拾穗本、古寫一本等に從つ、)は、本居氏、下樋なき池は、水の流れ出る方もなきをもて、いぶせきといはむ序とせるなり、といへり、○欝悒君は、イフセキキミヲ〔七字右○〕と訓べし、吾(ガ)心の結ぼれふさがりて、戀しく思ふ君をの義なり、○今(ノ)字、舊本には令と作り、類聚抄、拾穗本、古本、古寫一本等に從つ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2721 玉藻苅《タマモカル》。井提乃四四賀良美《ヰテノシガラミ》。薄可毛《ウスミカモ》。戀乃余杼女留《コヒノヨドメル》。吾情可聞《ワガコヽロカモ》。
 
玉藻苅《タマモカル》は、枕詞なり、○井提乃四四賀良美《ヰテノシガラミ》は、井提《ヰテ》は上に云如く、いつくにまれ堰※[土+隷の旁]《ヰセキ》なり、(山城の井手《ヰテ》に、かぎるべからず、)四賀良美《シガラミ》は、※[雍/土]搦《セキカラミ》にて、河中に杙をうちて、それに柴竹などをからみつけて、水をせくものなり、さて其は、主《ムネ》と田に水をまかする料にするものなれば、厚く細かに精く造るを上《ヨシ》とするを、薄く粗くつくれば、自ら水もるゝ故に、薄可毛《ウスミカモ》云々、といへり、本(ノ)一二(ノ)句は序なり、○歌(ノ)意、本居氏、第三(ノ)句、ウスミカモ〔五字右○〕とよみて、しがらみの薄さに、もれたる歟、又わが忍ぶ思のよどみみちて、おのづからあふれたる歟なり、三(ノ)句にて切て、四五とつゞけて(169)心得べし、といへり、今按(フ)に、密《シノ》び隱す心の薄さに、もれたるか、又吾(ガ)隱《シノ》ふ心のよどみ滿餘りて、もれたる故に、人の知たるか、さてもせむかたなしや、と歎きたるなり、○以上廿三首は、水に寄てよめるなり、
 
2722 吾妹子之《ワギモコガ》。笠乃借手乃《カサノカリテノ》。和射見野爾《ワザミヌニ》。吾者入跡《アレハイリヌト》。妹爾告乞《イモニツゲコソ》。〔頭註、【一種寄v野、】〕
 
吾妹子之《ワギモコガ》は、契冲云、妹が着る笠とつゞけたり、○笠乃借手乃《カサノカリテノ》は、笠に緒をつくる所に、ちひさき輪をしてつくる、そこを借手《カリテ》といふによりて、借手の輪とつゞくること葉なりと、これも契冲云り、(堀川百首に、眞菅よき笠のかりてのわざみのを打きてのみや戀渡るべき、)○和射見野《ワザミヌ》は、美濃(ノ)國不破(ノ)郡|和※[斬/足]野《ワザミヌ》にて、二(ノ)卷に委(ク)云り、○歌(ノ)意は、和※[斬/足]野に入立ぬるといふことを、家の妹に告よかし、といへるにて、旅立しとき歟、あるは歸るさなどに、よめるにもあるべし、○この一首は、野に寄てよめるなり、
 
2723 數多不有《アマタアラヌ》。名乎霜惜三《ナヲシモヲシミ》。埋木之《ウモレキノ》。下從其戀《シタヨソコフル》。去方不知而《ユクヘシラズテ》。〔頭註、【一種寄2埋木1、】〕
 
數多不有名《アマタアラヌナ》とは、吾(カ)身一(ツ)に、二(ツ)なき名なるをもていへり、と略解にいへり、さもあるべし、○埋木之《ウモレキノ》は、下《シタ》の枕詞なり、下《シタ》は裏《シタ》にて、埋木は、沙土の裏《シタ》に埋れたる木をいへば、かくつゞけたり、(又本居氏は、二(ノ)卷に、こもりぬの行へをしらにとねりはまどふ、とあると、同意にて、結句は埋木へかゝれり、三五四と次第して見べし、といへり、いかゞあらむ、)○去方不知而《ユクヘシラズテ》は、遂に落着《ナリハテ》(170)むほどを知ずしての意な.るべし、○歌(ノ)意は、つひになりはてむほどをも、はかりしらずして、名のもれむことをつよく惜みて、しのびしのびに、心の裏に思ふ事のいぶせさよ、といへるなるべし、○此(ノ)一首は、理木に寄てよめるなり、
 
2724 冷風之《アキカゼノ》。千江之浦回乃《チノエノウラミノ》。木積成《コツミナス》。心者依《コヽロハヨリヌ》。後者雖不知《ノチハシラネド》。〔頭註、【一首寄2木糞1、】〕
 
冷風之《アキカゼノ》は、枕詞なり、大神(ノ)景井、これは千《チ》の一言にかゝれる詞なるべし、さてその知《チ》は、風の用《ワザ》をいふことなるべし、波夜知《ハヤチ》(疾風)、許知《コチ》(東風)などの知《チ》、また阿良志《アラシ》の志《シ》なども、同言にて、皆風の用《ワザ》を以て、さる風の號となれるなるべし、さてその知《チ》にあたる字は、發起などの字や、近からむか、と云り、○千江之浦回《チエノウラミ》、いづこにかしられず、(遠江(ノ)國磐田(ノ)郡|千柄《チエ》とする説は、あたらず、と岡部氏云り、又略解に、江は沼の誤にて、和泉の千沼《チヌ》か、といへれど、おぼつかなし、なほ考(フ)べし、)浦回は、ウラミ〔三字右○〕とよむべきよし、さきに委(ク)説り、(ウラワ、ウラマ〔六字右○〕などよむはわろし、)○木積成《コツミナス》は、木糞《コツミ》の如くといはむが如し、○歌(ノ)意は、浪にゆられて、木糞《コツミ》の浦回《ウラミ》によする如く、吾(カ)心も、君に一向《ヒタスラ》によりぬるなり、但し後をかねてまでは知(レ)れねば、つひにはとまれ、今は他心《ホカゴヽロ》なし、となり、○この一首は、木糞に寄てよめるなり、
 
2725 白細砂《シラマナゴ》。三津之黄土《ミツノハニフノ》。色出而《イロニイデテ》。不云耳衣《イハナクノミソ》。我戀樂者《アガコフラクハ》。〔頭註、【一首寄2黄土1、】〕
 
白細砂《シラマナゴ》(砂(ノ)字、古本、拾穗本等には、妙と作り、頓阿井蛙抄にも、此(ノ)歌を、白妙として引たり、)は、枕詞(171)なり、白妙《シラマナゴ》布《シキ》はへたる、三津の濱といふ意につゞきたり、(契冲代匠紀に、微塵の如き白まなごの、みちてある心なり、といへり、さらずとも、三津のはまは、皆しろきまなごなれば、満《ミチ》といふこゝろならずとも、つゞくべし、といへり、又略解に、岡部氏の説を引て、砂は紗の誤にて、シロタヘノ〔五字右○〕なるべし、三津は眞土の意にて、白栲《シロタヘ》の眞土《マツチ》といひかけたる、枕詞とせむか、七(ノ)卷に、白栲ににほふ信士の山川に、といふが如し、といへれど、平穩ならず、)又按(フ)に、白細砂は、白銅鏡とありしを、誤れるにもあるべき歟、十二に、白銅鏡《マソカゾミ》、と書たり、さてマソカヾミ〔五字右○〕とて、見宿女《ミヌメ》とも、見名淵《ミナフチ》ともつゞけたるを、合(セ)考(フ)べし、○三津之黄土《ミツノハニフ》は、三津は、住吉の御津にて、黄土は、即(チ)住吉の岸の黄土とよめる是なり、さて黄土の色とつゞけむための序なり、○不云耳衣は、イハナクノミソ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、色にあらはれて、いはぬのみのことにこそあれ、わが戀しく思ふ心は、物にたとへて言に、いひがたし、となり、○この一首は、黄土に寄てよめるなり、
 
2726 風不吹《カゼフカヌ》。浦爾浪立《ウラニナミタチ》。無名乎毛《ナキナヲモ》。吾者負香《アレハオヘルカ》。逢者無二《アフトハナシ》。〔頭註、【十九首寄v海、】〕
 
毛(ノ)字、舊本になきは、脱たるなり、今は一本に從つ、○歌(ノ)意、契冲云、吹風にあひて、浪のたつは、ことわりなり、しかるを、風もふかで、浪のたつごとく、我は人にもあはずして、なき名をも、たてらるゝことよ、とよめるなり、古今集に、かねてより風にさきだつ浪なれやあふことなきにまたきたつらむ、おなじ心なり、これは風にさきだつなみといふに、立名をもたせたり、○舊(172)本に、一云女跡念而、と註せり、女(ノ)字は誤にや、又落字あるにや、本のまゝにては、適えがたし、
 
2727 酢峨島之《スガシマノ》。夏身乃浦爾《ナツミノウラニ》。依浪《ヨスルナミ》。間文置《アヒダモオキテ》。吾不念君《アガモハナクニ》。
 
酸蛾島《スガシマ》は、契冲、塩津《シホツ》菅浦《スガウラ》とつ ゞけよめるは、近江なり、此(ノ)下のつゞき近江なれば、此(ノ)酢蛾《スガ》島は、菅《スガ》島にて、菅浦にあるなるべし、塩津は淺井(ノ)郡なれば、菅浦、菅島共に、その郡にあるにや、といへり、(略解に、或人、今阿波と紀伊との間に、すが島といふありともいへり、といへり、)○夏身乃浦《ナツミノウラ》、酢蛾島の内にあるべし、(和名抄に、近江(ノ)國甲賀(ノ)郡|夏身《ナツミ》、とあるは、由ある歟、)○依浪は、ヨスルナミ〔五字右○〕と訓べし、間《アヒダ》も不置《オカズ》といふ意に、つゞきたる序なり、○歌(ノ)意は、聞を置て、わがおもふことにてはなし、間もなくしば/\におもふものを、となり、
 
2728 淡海之海《アフミノミ》。奥津島山《オキツシマヤマ》。奧間經而《オクマヘテ》。我念妹之《アガモフイモガ》。言繁苦《コトノシゲケク》。
 
奥間經而《オクマヘテ》は、奥めてなり、奥めのめ〔右○〕は、深《フカ》め崇《アガ》めなどのめ〔右○〕なり、そを延て奥まへと云は、崇めを、崇まへと云と、同じ例なり、さて奥めて思ふは、玉くしげ奥におもふ、とよめると同じく、深く思ふ意なり、○苦(ノ)字、舊本にはなし、類聚抄に從つ、○此(ノ)歌、上(ノ)人磨歌集出歌に、淡海奥島山奥儲吾念妹事繁《アフミノミオキツシマヤマオクマケテアガモフイモガコトノシゲケク》、とあるに同じ、
 
2729 霰零《アラレフリ》。遠津大浦爾《トホツオホウラニ》。縁浪《ヨスルナミ》。縱毛依十方《ヨシヱヨストモ》。憎不有君《ニクカラナクニ》。
 
霰零《アラレフリ》は、枕詞なり、○遠津大浦《トホツオホウラ》は、紀伊(ノ)國の地(ノ)名なり、七(ノ)卷に、山越而遠津之濱《ヤマコエテトホツノハマ》、とよめるに同じ、(173)(本居氏云、大は、もしくは之の誤にはあらざる歟、)○縁浪は、ヨスルナミ〔五字右○〕とよみて、依十方《ヨストモ》をいはむ料の序なり、○縱毛依十方《ヨシヱヨストモ》は、縱《ヨシ》は、假(リ)にゆるす辭、毛《モ》は助辭なりといへど、穩ならず、もしは惠の誤にて、ヨシヱヨストモ〔七字右○〕にはあらぎる歟、○歌(ノ)意は、人にいひよせられて、なき名を立るはつらけれども、もとより、にくからぬ人によりての故なるを、よしやさのみいとはじと、假に縱す謂なり、上にも、世副流君之惡有莫君爾《ヨソフルキミガニクカラナクニ》、とよめり、
 
2730 木海之《キノウミノ》。名高之浦爾《ナタカノウラニ》。依浪《ヨスルナミ》。音高鳧《オトタカキカモ》。不相子故爾《アハヌコユヱニ》。
 
名高之浦《ナタカノウラ》は、紀伊(ノ)國の地(ノ)名にて、此(ノ)下にも、十二にもよめり、○本(ノ)句は序にて、名高の浦に、高く依る浪の音《オト》高《タカ》しとかゝれり、○歌(ノ)意は、いまだ逢たることもなき女なるものを、音高く人にいひさわがるゝこと哉、と歎きたるなり、十四に、麻久良我乃許我能和多利乃可良加治乃於登太可思母奈宿莫敝兒由惠爾《マクラガノコガノワタリノカラカヂノオトタカシモナネナヘコユヱニ》、末(ノ)句似たる歌なり、
 
2731 牛窓之《ウシマドノ》。浪乃塩左猪《ナミノシホサヰ》。島響《シマトヨミ》。所依之君爾《ヨセテシキミニ》。不相鴨將有《アハズカモアラム》。
 
牛窓《ウシマド》は、備前(ノ)國邑久(ノ)郡にありて、俗《ヨ》に前島と云(フ)地のあたりなり、○塩左猪《シホサヰ》は、一(ノ)卷人磨(ノ)歌に、潮左爲二五十等兒乃島邊※[手偏+旁]船荷《シホサヰニイラコノシマヘコグフネニ》云々、三(ノ)卷※[覊の馬が奇]旅(ノ)歌に、塩左爲能浪乎恐美《シホサヰノナミヲカシコミ》、十五に、於伎都志保佐爲多可久多知伎奴《オキツシホサヰタカクチキヌ》、などよめり、潮のさしくるを云言なり、さてその潮の高くみちくる時、島も響《トヨ》みわたるなり、○歌(ノ)意は、潮のおどろ/\しくみちくるとき、島もとどろきわたるが如(174)く、音高く人にいひよせられしうへは、つひにあはずて止べしやは、となり、
 
2732 奥波《オキツナミ》。邊浪之來緑《ヘナミノキヨル》。左太能浦之《サダノウラノ》。此左太過而《コノサダスギテ》。後將戀可聞《ノチコヒムカモ》。
 
左太能浦《サダノウラ》は、和泉に今在り、又出雲にもあり、こゝはいづれにか、と略解にいへり、土佐に蹉※[足+它]《サダ》崎あり、もしはそこならむも知べからず、(今あしずりと云は、蹉※[足+它]の字より出たる、後の唱なり、)さて本(ノ)句は、此左太《コノサダ》といはむ料の序なり、○此左太過而《コノサダスギテ》は、左太《サダ》は、之太《シダ》と同じく、時《トキ》の古言にて、一(ノ)卷に委曲《ツバラ》に辨《ワキマ》へたるを、披(キ)見て考(フ)べし、さればこゝは、此(ノ)時過而といふに同じ、(略解に、本居氏の説を引て、左太過而《サダスギテ》とは、物語文に多くある言の如く、人の齡の盛過たることなり、さてカクサダスギテ〔七字右○〕とよむべしと云へるは、うべなひがたし、物語文の左太《サダ》も、本は同言なれど、其はいたく轉れるものなり、又此(ノ)上に、人間守蘆垣越爾吾妹子乎相見之柄二事曾左太多寸《ヒトマモリアシカキコシニワギモコヲアヒミシカラニコトソサダオホキ》、といへる左太《サダ》は、本より別言なり、今の左太《サダ》と、おもひ混《マガ》ふべからず、)○歌(ノ)意は、此(ノ)時を取はづし過しては、後さらに戀しからむか、さればいかにもして、此(ノ)時の間に相見む、となり、○此(ノ)歌、十二に重出たり、
 
2733 白浪之《シラナミノ》。來緑島乃《キヨスルシマノ》。荒磯爾毛《アリソニモ》。有申物尾《アラマシモノヲ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。
 
歌(ノ)意、かくばかり、こひしく思ひつゝあらむよりは、何の物思ひもなき、大海のあら磯にてもあらましものを、となり、
 
(175)2734 塩滿者《シホミテバ》。水沫爾淨《ミナハニウカブ》。細砂裳《マナゴニモ》。吾者生鹿《アレハイケルカ》。戀者不死而《コヒハシナズテ》。
 
歌(ノ)意は、轡死なば、中々に心安かりなむを、戀死に死もせずして、潮の滿來るとき、其(ノ)泡と共に、浮たゞよふ微《ハカナ》き眞砂の如く、心もそらにうかれつゝ、いたづらに生《イケ》る事哉、となり、
 
2735 住吉之《スミノエノ》。城師乃浦箕爾《キシノウラミニ》。布浦之《シクナミノ》。數妹乎《シバ/\イモヲ》。見因欲得《ミムヨシモガモ》。
 
城師乃浦箕《キシノウラミ》は、岸之浦廻《キシノウラミ》なり、浦廻《ウラミ》のことは、さきに委(ク)註り、(略解に、浦箕《ウラミ》は、浦備《ウラビ》に通ひて、浦方《ウラベ》なり、といへるは、たがへり、○本(ノ)句は、數《シバ/\》といはむ料の序なり、重《シキ》る浪のしば/\間無くよする意に、つゞきたり、○數は、シバ/\〔四字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、間無くしば/\女を相見べき、てだてもがなあれかし、となり、
 
2736 風緒痛《カゼヲイタミ》。甚振浪能《イタブルナミノ》。間無《アヒダナク》。吾念君者《アガモフキミハ》。相念濫香《アヒモフラムカ》。
 
甚振浪《イタブルナミ》は、甚く動《ユル》ぎ振《フル》ふ浪《ナミ》なり、十四に、於志※[氏/一]伊奈等伊禰波都可禰杼奈美乃保能伊多夫良思毛與伎曾比登里宿而《オシテイナトイネハツカネドナミノホノイタブラシモヨキソヒトリネテ》、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は、間無《アヒタナク》といはむ料の序にて、かくれたるすぢなし、
 
2737 大伴之《オホトモノ》。三津乃白浪《ミツノシラナミ》。間無《アヒダナク》。我戀良苦乎《アガコフラクヲ》。人之不知久《ヒトノシラナク》。
 
人は、女を指て云なるべし、○歌(ノ)意、これも本(ノ)二句は序にて、吾(ガ)かくばかり、間もなくしげく戀しく思ふ事を、かくともいはねば、うべも女のしらぬことよ、吾(ガ)かくまで思ふといふことを知たらば、よもやあはれと思ひて、なびく事もあるべきを、となり、
 
(176)2738 大船乃《オホブネノ》。絶多經海爾《タユタフウミニ》。重石下《イカリオロシ》。何如爲鴨《イカニセバカモ》。吾戀將止《ワガコヒヤマム》。
 
本(ノ)句は、何如《イカニ》をいはむ料の序なり、上に、大船香取海慍下《オホブネノカトリノウミニイカリオロシ》云々、とあるに似たり、○歌(ノ)意かくれたるすなし、
 
2739 水沙兒居《ミサゴヰル》。奧麁礒爾《オキノアリソニ》。縁浪《ヨスルナミ》。往方毛不知《ユクヘモシラズ》。吾戀久波《アガコフラクハ》。
 
水沙兒《ミサゴ》は、※[且+鳥]鳩《ミサゴ》なり、品物解にいへり、○本(ノ)句は、徃方《ユクヘ》知ずといはむ料の序なり、三(ノ)卷に、物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂガハノアジロギハイサヨフナミノユクヘシラズモ》、七(ノ)卷に、大伴之三津之濱邊乎曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマヘヲウチサラシヨセクルナミノユクヘシラズモ》、などあり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)戀しく思ふ心は、何處に行て、いかになりはてむ、その行方もしられず、となり、
 
2740 大船之《オホブネノ》。舳毛艫毛《ヘニモトモニモ》。依浪《ヨスルナミ》。依友吾者《ヨストモアレハ》。君之任意《キミガマニマニ》。
 
歌(ノ)意は、船の舳《ヘ》にも艫《トモ》にも、浪のよする如く、此方《コヽ》よりも彼方《ソコ》よりも、さま/”\に、いひよせらるれども、よしやさばれ、あだし心をわれはもたず、君が意に任せ侍らむ、となり、
 
2741 大海二《オホウミニ》。立良武浪者《タツラムナミハ》。間將有《アヒダアラム》。公二戀等九《キミニコフラク》。止時毛梨《ヤムトキモナシ》。
 
歌(ノ)意は、大海に立浪は、常止ぬ物ながら、それすら、起《オコリ》さめのあるならひにて、間(ダ)もあるべきを、わが君を、こひしく思ふ心は、いつも止ときさらになし、となり、
 
2742 牡鹿海部乃《シカノアマノ》。火氣燒立而《ケブリタキタテテ》。燒塩乃《ヤクシホノ》。辛戀毛《カラキコヒヲモ》。吾爲鴨《アレハスルカモ》。
 
(177)牡鹿海部《シカノアマ》は、既く出つ、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、辛《カラキ》をいはむ料のみの序にて、かくれたるすぢなし、古今集に、おしてるや難波の三津に燒塩の辛くも我は老にける哉、今の歌をまねべるにや、
〔右一首。或慍。石川君子朝臣作之。〕
石川君子は、傳九(ノ)下に詳なり、此(ノ)卷、すべて作者しられぬを集めしからは、此(ノ)註おぼつかなし、と略解にいへり、
 
2743 中中二《ナカナカニ》。君二不戀者《キミニコヒズハ》。牧浦乃《ヒラノウラノ》。白水郎有申尾《アマナラマシヲ》。玉藻刈管《タマモカリツヽ》。
 
牧浦《ヒラノウラ》は、近江の比良《ヒラノ》浦なり、牧は枚(ノ)字なり、(即(チ)類聚抄、拾穗本、古寫一本等には、枚と作り、)古書に、多く枚を牧と作り、○歌(ノ)意は、なまなかに、君を戀しく思ひつゝあらむよりは、比良の浦の海人となりて、玉藻かりつゝ、何の物思もなく、やすらかにあらましものを、となり、
〔或本歌曰。中中爾《ナカ/\ニ》。君爾不戀波《キミニコヒズハ》。留鳥浦之《タコノウラノ》。海部爾有益男《アマナラマシヲ》。珠讃刈刈《タマモカルカル》。〕
留鳥浦、舊訓アミノウラ〔五字右○〕とあるにつきて、讃岐と伊勢とにあり、いづれのにつかむといふことをしらず、と契冲云り、此(ノ)説おぼつかなし、(さるはもと、此をアミノウラ〔五字右○〕と訓るによりてなり、されば讃岐といへるは、一(ノ)卷軍(ノ)王(ノ)、讃岐(ノ)安益(ノ)郡にてよみ給へる歌に、鋼浦とあるを、網浦《アミノウラ》とある本につきて、いへりと見え、伊勢といへるは、同卷人麿のよめる伊勢の歌に、嗚呼見浦とあるを、アミノウラ〔五字右○〕とよめるにつきて、いへりとおぼえたり、然れども、綱浦、嗚呼見浦は、みな(178)アミノウラ〔五字右○〕に非ず、既く一(ノ)卷に委く註るが如し、合(セ)見て知べし、)故(レ)考るに、留鳥は、田兒とありけむを、誤寫せるなどにやあらむ、左に引十二の歌に、田籠《タコ》とあるを思(ヒ)合すべし、○刈刈《カルカル》は、刈管《カリツヽ》といふに同じ、十二に、後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻刈刈《オクレヰテコヒツヽアラズバタコノウラノアマナラマシヲタマモカルカル》、
 
2744 鈴寸取《スヾキトル》。海部之燭火《アマノトモシビ》。外谷《ヨソニダニ》。不見人故《ミヌヒトユヱニ》。戀比日《コフルコノゴロ》。
 
鈴寸取《スヾキトル》は、鱸漁《スヾキトル》なり、鱸のことは、品物解にいへり、○本(ノ)二句は序にて、燭火《トモシビ》は外目にも見ゆる物なるからに、外に見といふにつゞきて、不《ヌ》v見《ミ》とある不《ヌ》の言までは關らず、布留《フル》の早田《ワサダ》の穗には出ずの例なり、○歌(ノ)意は、外目にだにも、いまだ見ぬ人なるものを、戀しく思ふこの比ぞ、となり、○以上十九首は、海に寄てよめるなり、
 
2745 湊入之《ミナトイリノ》。葦別小舟《アシワケヲブネ》。障多見《サハリオホミ》。吾念公爾《アガモフキミニ》。不相頃者鴨《アハヌコロカモ》。〔頭註、【五首寄v船、】〕
 
本(ノ)二句は序にて、湊に漕入(ル)舟の、葦の間を過るほど、おほくの葦のさはるをもて、障多《サハリオホミ》とつゞきたり、○歌(ノ)意はさま/”\の事業の障り多さに、わがこひしく思ふ人に、此(ノ)頃えあはぬかな、さても戀しく思はるゝ事よ、となり、十二に、本(ノ)句同歌あり、
 
2746 庭淨《ニハキヨミ》。奥方※[手偏+旁]出《オキヘコギヅル》。海士舟乃《アマブネノ》。執梶間無《カヂトルマナキ》。戀爲鴨《コヒヲスルカモ》。
 
庭淨《ニハキヨミ》は、庭《ニハ》が好《ヨ》さにといはむが如し、(略解に、淨は靜の誤にて、ニハヲヨミ〔五字右○〕ならむ歟、といへれど、いかゞ)淨《キヨキ》は、濁《ニゴル》の反《ウラ》にて、浪立|動《サワ》げば濁《ニゴ》れども、靜なれば清き意にて、淨《キヨミ》といへるならむ、天(179)氣よくて浪風たゝず、海上の靜(カ)なるをいへり、(岡部氏、庭をニハ〔二字右○〕といふは、土場《ニハ》にて、平らかにならせる物なれば、それを借りて、海の平らかに有をも、にはといふならむ、といへれど、いかがなり、場をハ〔右○〕とのみいひたること、古(ヘ)になければなり、)○奥方※[手偏+旁]出《オキヘコギヅル》は、奥邊に※[手偏+旁]出る意なり、○本(ノ)句は序にて、間無《マナキ》といはむ料なり、舟人の※[楫+戈]取(ル)に隙なきをもて、無v間とつゞきたり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、(後撰集に、白浪のよする磯間を漕船のかぢとりあへぬ戀もする哉、)
 
2747 味鎌之《アヂカマノ》。塩津乎射而《シホヅヲサシテ》。水手船之《コグフネノ》。名者謂手師乎《ナハノリテシヲ》。不相將有八方《アハザラメヤモ》。
 
味鎌《アヂカマ》は、十四東歌に、阿遲可麻能可多爾左久奈美《アヂカマノカタニサクナi》、とも妥治可麻能可家能水奈刀《アヂカマノカケノミナト》、ともありて、多くの歌の後にすべて註して、以前歌詞、未v得v勘2知國土山川(ノ)名1也、とあれば、古(ヘ)より、知られざりけるなるべし、(略解に、讃岐(ノ)國寒川(ノ)郡に、庵治《アヂ》の浦、鎌の浦といふ所ありと、其(ノ)國人云り、といへれど、おぼつかなし、)○鹽津《シホヅ》は、知(レ)ざるは勿論《サラ》なり、(近江に、今も鹽津と云所あれど、定めがたし、)○水手は、契冲云、水手《カコ》は舟をこぐものなれば、體をも用にかりて、コグ〔二字右○〕とよめり、○本(ノ)句は序にて、水手船之名《コグフネノナ》とかゝれるは、契冲、十六、筑前(ノ)國志賀(ノ)白水郎(カ)歌十首の中に、奥津鳥《オキツトリ》かもといふ舟のかへりこばやらのさきもり早くつげこそ、おきつどりかもといふ舟はやらの島たみてこぎくときかれこぬかも、應神天皇(ノ)紀に、伊豆(ノ)國におほせてつくらせたまへる舟を、枯野《カラヌ》と名づけさせ給へることもあれば、舟の名によせていへり、と云り、○歌(ノ)意は、おぼろげ(180)にては、名をばのらぬことなるを、既く名さへ告知せたれば、女のうけひきたること、さらにうたがふべきにあらず、されば逢ずあらめやは、嗚呼下(タ)ゑましや、となり、
 
2748 大舟爾《オホブネニ》。葦荷刈積《アシニカリツミ》。四美見似裳《シミミニモ》。妹心爾《イモガコヽロニ》。乘來鴨《ノリニケルカモ》。
 
本(ノ)二句は、繁見《シミミ》をいはむ料の序なり、舟に刈積たる葦荷《アシニ》の繁《シミ》とかゝれり、○四美見《シミミ》は、繁々《シゲミ/\》といはむが如し、○歌(ノ)意は、繁々にも妹が事の、吾(カ)心の上にうかびて、戀しくおもはるゝこと哉、となり、此(ノ)未(ノ)句、二(ノ)卷久米(ノ)禅師が歌に見えたるをはじめて、全(ラ)同詞なる、集中に甚多し、
 
2749 驛路爾《ハユマヂニ》。引舟渡《ヒキフネワタシ》。直乘爾《タヾノリニ》。妹情爾《イモガコヽロニ》。乘來鴨《ノリニケルカモ》。
 
驛路《ハユマヂ》は、驛《ハユマ》は早馬《ハヤウマ》なり、(ヤウ〔二字右○〕の切ユ〔右○〕、)書紀に驛をハユマ〔三字右○〕と訓り、又中山(ノ)嚴水は、やがてこゝは、ウマヤヂ〔四字右○〕と訓べきか、と云り、今の歌は、水驛《ミヅウマヤ》をいふなるべし、厩牧令義解に、凡水驛(ハ)、不(ル)v配(セ)v馬(ヲ)處(ハ)、量(テ)2閑繁(ヲ)1、驛別(ニ)置(ケ)2船四隻以下二隻以上(ヲ)1、隨(テ)v船(ニ)配(セヨ)v丁(ヲ)、(謂船(ニ)有2大小1、故隨(テ)v船(ニ)配(シ)v人(ヲ)、令v應(ラ)v堪(フ)v行(クニ)、若應(クハ)2水陸兼(テ)送(ル)1者、亦船馬並置(ケ)之、)驛長(ハ)、准(シ)テ2陸路(ニ)1置(ケ)、と見えたり、○引舟渡《ヒキフネワタシ》は、契冲、引舟は、ながれのはやく、又わたることを急ぐゆゑに、綱をもて引をいへり、と云る如し、さてこれまでは序にて、乘をいはむ料なり、直乘《タヾノリ》とつゞきたる、直《タヾ》には別に意なし、乘とかゝれるのみなり、○歌(ノ)意は、直一向《タヾヒタスラ》に、(直乘《タヾノリ》の意、)妹が事の、わが心の上にうかびて、こひしくおもはるゝこと哉、となり、○以上五首は、船に寄てよめるなり、
 
(181)2750 吾妹子《ワギモコニ》。不相久《アハズヒサシモ》。馬下乃《ウマシモノ》。阿倍橘乃《アベタチバナノ》。蘿生左右《コケムスマデニ》。〔頭註【四首寄v木、】
 
馬下乃《ウマシモノ》は、(借(リ)字、)甘美物《ウマシモノ》なり、抑々|宇麻之《ウマシ》とは、味のよきにかぎらず、何にまれ、心に好《ヨシ》と賞愛《メデウツク》しむものをば、稱《ホ》めて云なる中にも、菓子《コノミ》などは、もはら味の方につきていへるなり、○阿倍橘《アベタチバナ》は、契冲、和名抄に、爾雅(ニ)云、橙(ハ)似v柚(ニ)小者也、和名|安倍太知波奈《アベタチバナ》、とあるを引て、柚に似てちひさしとあれば、俗に花柚といふものにや、といへり、なほ品物解にいへり、○歌(ノ)意は、阿倍橘の木に、苔の生たるを見て、かくなるまでに妹に相見ず、さても久しき事やと、おどろきたるなり、契冲、花柚ならば、餘(リ)大きにもならぬ木なるに、苔のむすまでといへるは、久しきことをいはむために、わきてとり出てよめるにや、といへり、
 
2751 味乃住《アヂノスム》。渚沙乃入江之《スサノイリエノ》。荒礒松《アリソマツ》。我乎待兒等波《アヲマツコラハ》。但人耳《タヾヒトリノミ》。
 
味乃住《アヂノスム》(住(ノ)字、舊本に徃と作るは誤、拾穗本、古寫一本等に從(ツ)、)は、味は、味鳧《アヂカモ》とて、鴨の屬《タグヒ》なり、其(ノ)鳥の住(ム)渚《ス》とかゝれる歟、又は直に、須沙乃入江《スサノイリエ》といふまでに、かゝれるにもあるべし、○渚沙乃入江は、神名式に、紀伊(ノ)國在田(ノ)郡須左(ノ)神社と有(リ)、そこならむ、と略解にいへり、十四東歌未勘國の歌の中に、阿遲乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキヅカシミズヒサニシテ》、とあり、東國にも、同地名あるにや、○本(ノ)句は、待をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2752 吾妹兒乎《ワギモコヲ》。聞都賀野邊能《キヽツガヌヘノ》。靡合歡木《シナヒネブ》。吾者隱不得《アハシヌヒエズ》。間無念者《マナクシモヘバ》。
 
(182)吾妹兒乎《ワギモユヲ》云々は、妹がうへのことを、聞繼(ク)といふ意に、都賀野《ツガヌ》てふ地に、いひかけたるなり、○都賀野は、書紀神功皇后(ノ)卷、仁徳天皇(ノ)卷等に、菟餓野《トガヌ》と見えて、攝津西成(ノ)郡にある地(ノ)名にて、難波堀江を、ほりとほされて後、堀江の南北にわたりて、南渡邊とひて、北渡邊と云、即(チ)それなりといへり、○靡合歡木は、岡部氏、シナヒネブ〔五字右○〕と訓べし、隱不得《シヌヒエズ》をいはむ料なり、といへるぞよろしき、さてシナフ〔三字右○〕は、三(ノ)卷に、眞木葉乃之奈布勢能山之奴波受而《マキノハノシナフセノヤマシヌハズテ》、ともよめるごとく、なよなよとなびくをいふ言なれば、やがて靡(ノ)字を、訓せたるなり、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は全(ラ)序にて、妹がうへのことを、時も間も無くおもふゆゑに、しのび隱さむとおもへども、得しのびあへぬよ、となり、
 
2753 浪間從《ナミノマヨ》。所見小島之《ミユルコシマノ》。濱久木《ハマヒサキ》。久成奴《ヒサシクナリヌ》。君爾不相四手《キミニアハズシテ》。
 
浪間從は、ナミノマヨ〔五字右○〕と訓べし、浪(ノ)間にといふほどの意なり、○小島《コシマ》は、紀伊にも備前にも、さる地(ノ)名はあれど、これはいづくにまれ、たゞ海の小島をいふなるべし、○濱久木《ハマヒサキ》は、木(ノ)名にて、品物解にくはしくいへり、こゝは久《ヒサ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○以上四首は、木に寄てよめるなり、
 
2754 朝柏《アキカシハ》。閏八|河邊之《カハヘノ》。小竹之眼笶《シヌノメノ》。思而宿者《シヌヒテヌレバ》。夢所見來《イメニミエケリ》。〔頭註、【一首寄2小竹1、】〕
 
本(ノ)句は、此(ノ)上にも出て、既く註り、さてそこには、朝を秋と作、閏八を潤和と作り、(本居氏は、こゝ(183)も八は丸の誤にて、ウルワ〔三字右○〕なるべしと云り、)さて思《シヌヒ》をいはむための序に、本(ノ)句をまうけたることも、全(ラ)上に出たるに同じ、○思(ノ)字、シヌフ〔三字右○〕とよのること、例多し、(しかるを略解に、思は偲(ノ)字の誤なるべし、といへるは、謾なり、二(ノ)卷明日香(ノ)皇女、水※[瓦+缶](ノ)殯宮(ノ)時(ノ)長歌に、天地之彌遠長思將徃《アメツチノイヤトホナガクシヌヒユカム》、とある處に、思(ノ)字を、シヌフ〔三字右○〕とよめる證どもを擧て、委曲《ツバラ》に云るを考(ヘ)見べし、)○歌(ノ)意は、女の事を、思ひ宿《ネ》に思ひ慕ひてぬれば、夢に見えけり、となり、古今集に、小町、おもひつゝぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを、躬恒、君をのみおもひねにせし夢なればわが心から見つるなりけり、○この一首は小竹に寄てよめるなり、
 
2755 淺茅原《アサチハラ》、刈標刺而《カリシメサシテ》。空事文《ムナコトモ》。所縁之君之《ヨセテシキミガ》。辭鴛鴦將待《コトヲシマタム》。〔頭註、【廿八首寄v草、】〕
 
刈標刺而《カリシメサシテ》とは、(刈は借(リ)字にて)假標《カリシメ》を指而《サシテ》なり、假初に※[片+旁]示さしたる意にていへり、さて曠《ムナ》しき淺茅生に、假標さしたらむは、何の益なく、空事《ムナシコト》なる意もていひかけ、空言《ムナコト》とうけたるうへにては、虚言《ムナコト》の謂なり、(しかるを略解に、廣き荒野の中に、假そめなる、標の杙などをさしたるは、とりとめなく定かならぬしるしなるを、空言《ソラゴト》に譬へいへり、と云るは、いさゝか聞取がたき説なり、さるはもと、この空事を、ソラコト〔四字右○〕と訓たるにつきたる考(ヘ)なればなり、空事は、かならずムナコト〔四字右○〕と訓べきこと、此(ノ)上に出たる處に、委(ク)註たるが如し、合(セ)見て考(フ)べし、)○空事は、此上に、朝茅原小野印空事《アサチハラヲヌニシメユヒムナコトヲ》云々、とある處にいへるごとく、ムナコト〔四字右○〕と訓べし、(しかるを、昔來(184)ソラコト〔四字右○〕とよめるは、大《イミ》じきひがことなり」○歌(ノ)意は、虚《ムナシ》言にても、一(ト)度世の人に、いひよせられしからは、今更人言の禁《イサ》めがたきからに、よしやとゆるして、さて君があはむといふ言を、吾は一(ト)すぢに待つゝあらむ、となり、
 
2756 月草之《ツキクサノ》。借有命《カリナルイノチ》。在人乎《ナルヒトヲ》。何知而鹿《イカニシリテカ》。後毛將相云《ノチモアハムチフ》。
 
月草之《ツキクサノ》云々は、鴨頭草《ツキクサ》は、(後の世、露草《ツユクサ》とも云如く、いとはかなくて、)あしたにさきて、暮(ヘ)にしぼむ花なれば、假なる命とつゞきたり、人とは吾を云、○歌(ノ)意は、明日しらず、はかなくかりそめなる、吾(ガ)命にてあるものを、いつまでながらふるものと知てか、後にも逢べしと、たのもしくいふことぞ、となり、
 
2757 王之《オホキミノ》。御笠爾縫有《ミカサニヌヘル》。在間菅《アリマスゲ》。有管雖看《アリツヽミレド》。事無吾妹《コトナシワギモ》。
 
王之《オホキミノ》は、枕詞なり、○御笠爾縫有《ミカサニヌヘル》とは、御笠《ミカサ》は御蓋《ミカサ》なり、蓋は、踐祚大甞祭式に、宸儀始(テ)出(タマフトキ)、主殿(ノ)官人、執(テ)v觸(ヲ)奉v迎、車持(ノ)朝臣一人、執2菅(ノ)蓋(ヲ)1、子部(ノ)宿禰一人、笠取(ノ)直一人、並執(テ)2蓋(ノ)綱(ヲ)1、膝行(シテ)各供2其(ノ)職(ニ)1、主殿式に、正月元日云々、執2威儀(ノ)物(ヲ)1、殿部左方(ニ)十一人、一人(ハ)執2梅(ノ)枝、二人(ハ)紫(ノ)繖、三人(ハ)紫(ノ)蓋、二人(ハ)菅(ノ)繖、三人(ハ)菅(ノ)蓋(ヲ)1、など見えたり、さて其(ノ)蓋をば、縫て造る故に、縫有《ヌヘル》といへり、内匠寮式、野(ノ)宮(ノ)装束の中に、御輿(ノ)中子(ノ)蓋一具、(菅并(ニ)骨(ノ)料材(ハ)、從2攝津(ノ)國1笠縫氏參來作(ル)、)と見えたるをも思(フ)べし、○在間菅《アリマスゲ》は、在間《アリマ》は、攝津の有馬《アリマ》にて、菅の名所なり、さてこれまでは、有管《アリツヽ》をいはむための序なり、○事無吾妹(185)は、コトナシワギモ〔七字右○〕と訓べし、(コトナキ〔四字右○〕と訓はわろし、)さて事無《コトナシ》は、姑(ク)絶《キリ》たる意に心得べし、吾妹《ワギモ》は、いで吾妹よと呼(ビ)かけたる意なり(此(ノ)下に、赤駒之足我枳速者雲居爾毛隱往序袖卷吾妹《アカゴマノアガキハヤケバクモヰニモカクリユカムソソテフリワギモ》、とあると同じく、惣てかやうに、語の尾に、吾妹《ワギモ》、吾夫《ワガセ》、吾君《ワギミ》などやうにいひつめたるは、いづれも吾妹《ワギモ》よ、吾夫《ワガセ》よ、吾君《ワギミ》よ、と呼(ヒ)かけたる意にいふ例なればなり、○歌(ノ)意は、在々て、年月を經て看《ミ》れども、(看《ミ》は、俗に、世間を見合すると云意なり、)何の障ることなし、いで/\吾妹よ、今は打あらはして、夫妻とならむ、となり、(然るをコトナキワギモ〔七字右○〕とよみて、昔來何の難ずることもなく、よき吾妹といふ意と見たるは、大《イミ》じき誤なり、さては尾(ノ)句、いたく手つゝになることなり、十二に、常人之笠爾縫云有間菅在而後爾毛相等曾念《ヒトミナノカサニヌフチフアリマスゲアリテノチニモアハムトソモフ》、
 
2758 菅根之《スガノネノ》。懃妹爾《ネモコロイモニ》。戀西《コフルニシ》。益卜思而心《マスラヲコヽロ》。不所念鳧《オモホエヌカモ》。
 
菅根之《スガノネノ》は、枕詞なり、○益卜思而は、(くさ/”\説あれど、みなあたらず、)本居氏、思而(ノ)二字は、男(ノ)字の誤にて、三(ノ)句コフルニシ〔五字右○〕、四(ノ)句マスラヲコヽロ〔七字右○〕と訓べし、といへり、この説まことにいとよくいはれたり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、十(ノ)卷に、丈夫之心者無而秋芽子之戀耳八方奈積而有南《マスラヲノコヽロハナクテアキハギノコヒニノミヤモナツミテアリナム》、
 
2759 吾屋戸之《ワガヤドノ》。穗蓼古幹《ホタデフルカラ》。採生之《ツミオホシ》。實成左右二《ミニナルマデニ》。君乎志將待《キミヲシマタム》。
 
穗蓼《ホタデ》は、品物解に云、(現存六帖に、さぎのとぶ河べの穗蓼くれなゐに日影さびしき秋の水か(186)な、世を秋の田づらの穗蓼つみはやしいくたびからきふしにあふらむ、)○本(ノ)句の意は、略解にもいへる如く、去年の秋の未に枯たる、蓼の古莖の子《ミ》を採(ミ)取て、今年の春蒔生するを云るなるべし、さて生之《オホシ》にいふまでは、實に成といはむ料の序のみなり、○歌(ノ)意は、實《マコト》に夫妻とならむかぎり、いつまでも心長く、一(ト)すぢに君を待む、といふなるべし、(古來の説ども、みなあたらず、略解にも、子《ミ》に成秋までも、同じ心に君を待む、といふ意に見たるは、いとわろし、末(ノ)句は、實《マコト》の夫妻になるをのみ云て、蓼のことには、あづからざるをや、)
 
2760 足檜之《アシヒキノ》。山澤回具乎《ヤマサハヱグヲ》。採將去《ツミニユカム》。日谷毛相將《ヒダニモアハム》。母者責十方《ハヽハセムトモ》。
 
回具《ヱグ》(回(ノ)字、官本、古寫本、袖中抄等には個、拾穗本には徊と作り、)は、水草の名にて、春の頃採て食ふ物なり、品物解に委(ク)註り、○相將は、將相と書るに同じ、集中に例多し、○歌(ノ)意は、今は許(ル)して會むとは思へども、相見べきたよりのなければ、回具《ヱグ》採《ツム》と云にことよせて、出て行し日なりともあはむ、もし母は聞つけて、我を責(ム)とも、そこには障らじ、と云る、女の歌なり、
 
2761 奥山之《オクヤマノ》。石本菅乃《イハモトスゲノ》。根深毛《ネフカクモ》。所思鴨《オモホユルカモ》。吾念妻者《アガモフツマハ》。
 
本(ノ)二句は、深くといはむ料の序にて、さて菅乃根深《スゲノネフカク》とつゞきたり、○吾念妻者は、アガモフツマハ〔七字右○〕と訓べし、(ワガオモヒツマハ〔七字右○〕、とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、わがうるはしく念ふ女は、ただ一わたりの、淺はかなることにあらず、深くねもころに、おもはるゝことにてあるかな、と(187)なり、
 
2762 蘆垣之《アシカキノ》。中之似兒草《ナカノニコグサ》。爾故余漢《ニコヨカニ》。我共咲爲而《アレトヱマシテ》。人爾所知名《ヒトニシラユナ》。
 
似兒草《ニコグサ》は、草(ノ)名なり、品物解に委(ク)註り、さて此も、本(ノ)二句は序なり、○爾故余漢《ニコヨカニ》は、にこやかにと云が如し、漢は、音を轉(シ)て、カニ〔二字右○〕の假字とせり、笑顔の莞爾《ニコ/\》としたるを云、廿(ノ)卷にも、秋風爾奈妣久可波備能爾故具左能爾古與可爾之母於母保由流香母《アキカゼニナビクカハピノニコグサノニコヨカニシモオモホユルカモ》、とあり、○歌(ノ)意は、吾を相見て、莞爾《ニコ/\》とゑみたまはむはうれしけれど、よくせずば、密情《ミソカコヽロ》を通はせることを、人に見知(ラ)るべければ、心したまへ、といふなり、四(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)女郎(カ)歌に、青山乎横〓雲之灼然《アヲヤマヲヨコギルクモノイチシロク》、とありて、未(ノ)句全(ラ)同じきあり、(現存六帖に、吾思ひ人しるらめや蘆垣の中のにこぐさしたにもゆとも、)
 
2763 紅之《クレナヰノ》。淺葉乃野良爾《アサハノヌラニ》。苅草乃《カルカヤノ》。束之間毛《ツカノアヒダモ》。吾※[立/心]渚菜《アヲワスラスナ》。
 
紅之《クレナヰノ》は、枕詞なり、紅色には、濃《コ》きも淡《アサ》さもあれば、その淡《アサ》き方につきてつゞけたり、○淺葉《アサハ》は、和名抄に、武藏(ノ)國入間(ノ)郡|麻羽《アサハ》、あり、今遠江(ノ)國|佐野《サヤノ》郡にも、麻葉《アサハノ》庄あり、いづこにか、と略解にいへり、○苅草乃《カルカヤノ》云々は、(後(ノ)世|刈《カル》かやを、一種の草の名とせるは、云に足ず、)草をかりて握《ニギ》るを、つかぬるといひて、一握二握《ヒトニギリフタニギリ》を、一束二束《ヒトツカフタツカ》といふ、その一束《ヒトツカ》は、いと短かければ、たゞしばしの間のことを、束《ツカ》の間《アヒダ》といへり、四(ノ)卷に、小牡鹿之角乃束間毛《ヲシカノツヌノツカノマモ》、とあるも同じ、○吾※[立/心]渚菜《アヲワスラスナ》は、吾を忘れ賜ふ勿《ナ》と云意なり、忘《ワス》るを延てワスラス〔四字右○〕》と云は、(良須《ラス》は、留《ル》と切る故なり、)知《シル》をシラス〔三字右○〕居《ヲル》を(188)ヲラス〔三字右○〕、立《タツ》をタヽス〔三字右○〕、引《ヒク》をヒカス〔三字右○〕、行《ユク》をユカス〔三字右○〕、など云と同例なり、さてしか言を延て、云は、崇むる時にいふ言なれば、忘《ワス》ラス〔二字右○〕は、忘れ賜ふ、知《シ》ラス〔二字右○〕は、知賜ふと云と、おのづから同じ意になることなり、○歌(ノ)意は少《シバシ》の間も、われをわすれ賜ふな、吾は君を思ふこと、立ても居ても、止ときなきものを、となり、二(ノ)卷日並(ノ)皇子(ノ)尊御歌に、大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忘目八《オホナコヲヲチカタヌヘニカルカヤノツカノアヒダモアレワスレメヤ》、とあるは、大方同じ御歌ながら、歌(ノ)意に自他の違あり、
 
2764 爲妹《イモガタメ》。壽遺存《イノチノコセリ》。苅薦之《カリコモノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。應死物乎《シヌベキモノヲ》。
 
苅薦之《カリコモノ》は、枕詞なり、○歌(ノ)意は、上に、齋命妹爲《イハフイノチハイモガタメコソ》、又|贖命者妹之爲社《アガフイノチハイモガタメコソ》、とよみ、十七に、奈加等美乃敷力能里等其等伊比波良倍安賀布伊能知毛多我多米爾奈禮《ナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘアガフイノチモタガタメニナレ》、とよめる如く、妹が爲ばかりにこそ、こひ死にしにもせずして、神祇に齋ひ贖ひて、吾(カ)命を遺しおけるなれ、中々に、かくあふこともなくて、あらむよりは、おもひみだるゝ心に打まかせて、戀死に死べかりしを、となり、契冲、此(ノ)歌は、忍ぶ故ありて、心はかよひながらも、えあはぬ中によめるなるべし、といへり、さもあるべし、
 
2765 吾妹子爾《ワギモコニ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。苅薦之《カリコモノ》。思亂而《オモヒミダレテ》。可死鬼乎《シヌベキモノヲ》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし。
 
2766 三島江之《ミシマエノ》。入江之薦乎《イリエノコモヲ》。苅爾社《カリニコソ》。吾乎婆公者《ワレヲバキミハ》。念有來《オモヒタリケレ》。
 
(189)三島江《ミシマエ》は、神名式に、攝津(ノ)國島下(ノ)郡三島(ノ)鴨(ノ)神社とあり、そこの江なり、○本(ノ)二句は、假《カリ》をいはむ料の序なり、○苅(ノ)字は、上の薦の縁にかぇるのみにて、歌(ノ)意は假《カリ》なり、○歌(ノ)意は、吾をおもふおもふとの賜ひしは、まことに、ふかく思ひ賜ひしにはあらず、たゞ假初に淺はかにこそ、おもひたまひしにはありけれ、となり、男の心の淺くなるを見て、恨(ミ)たる女の歌なり、
 
2767 足引乃《アシヒキノ》。山橘之《ヤマタチバナノ》。色出而《イロニデテ》。吾戀南雄《アハコヒナムヲ》。八目難爲名《ヒトメイマスナ》。
 
山橘之《ヤマタチバナノ》は、色出《イロニデ》をいはむ料の序なり、山橘は、今|薮柑子《ヤブカウジ》といふものにて、(なほ品物解にいへり、)實の赤ければ、色に出とつゞきたり、古今集に、わがこひをしのびかねてはあしひきの山たち花の色に出ぬべし、○八妻難爲名は、八は人(ノ)字の誤なり、難爲名は、本居氏、イマスナ〔四字右○〕とよみて人目いむは、はゞかる意なるをもて、難とかけりと見ゆ、といへり、これによるべし、○歌(ノ)意は、今よりは、色にあらはして、吾(カ)思はむからは、そこにも、人目をはゞかり賜ふことなく、相思ひたまへよ、といふなるべし、四(ノ)卷に、此(ノ)本(ノ)句と、全(ラ)同歌出たり、
 
2768 葦多頭乃《アシタヅノ》。颯入江乃《サワクイリエノ》。白菅乃《シラスゲノ》。知爲等《シラレムタメト》。乞痛鴨《コチタカルカモ》。
 
本(ノ)句は、知《シル》といはむ料の序なるべし、○歌(ノ)意、未(ノ)句は、シラレムタメトコチタカルカモ〔シラ〜右○〕と訓て、我(カ)戀しく思ふ心のほどを、君にしられむ爲とて、人言にこちたく、いひさわがるゝ歟、といふなるべしといへれど、穩ならず、誤字あるべし、猶よく考へて云べし、○古今集に、あしかもの(190)さわぐ入江のしら浪のしらずや人をかくこひむとは、今の歌をおもへるか、
 
2769 吾背子爾《ワガセコニ》。吾戀良久者《アガコフラクハ》。夏草之《ナツクサノ》。苅除十方《カリソクレドモ》。生及如《オヒシクゴトシ》。
 
苅除十方は、カリソクレドモ〔七字右○〕と訓べし、苅|退《ノク》れどもと云に同じ、十四に、安可見夜麻久佐禰可利曾氣《アカミヤマクサネカリソケ》云々、十六に、枳棘原苅除倉將立《カラタチノウバラカリソケクラタテム》云々、などあり、○生及加は、オヒシクゴトシ〔七字右○〕とよむべし、(オヒシクガゴト〔七字右○〕と訓ては、いさゝか違へり、この言の事、既く委く云り、)○歌(ノ)意は、吾(ガ)夫子を、わがこひしく思ふ心を、ものにたとへていはゞ、夏草の苅退々々《カリノケカリノケ》すれども、なほ重々に生繁るが如くにして、思ふ心の止(ム)ときなし、となり、十(ノ)卷に、廼者之戀乃繁久夏草乃苅掃友生布如《コノゴロノコヒノシゲケクナツクサノカリハラヘドモオヒシクゴトシ》、
 
2770 道邊乃《ミチノベノ》。五柴原能《イツシバハラノ》。何時毛何時毛《イツモイツモ》。人之將縱《ヒトノユルサム》。言乎思將待《コトヲシマタム》。
 
五柴原能《イツシバハラノ》は、何時毛《イツモ》といはむための序なり、四(ノ)卷に、河上乃伊都藻之花乃何時何時《カハカミノイツモノハナノイツモイツモ》云々、さて五《イツ》は、五藻《イツモ》、五橿《イツカシ》などの五《イツ》と同じく、其(ノ)繁きを云、柴《シバ》は(借(リ)字にて、)莱草《シバ》をいふべし、(略解に、四(ノ)卷に市柴とも書るにつきて、用明天皇(ノ)紀に、赤檮此云2伊知比《イチヒト》1。とあるを引て、橿の類にて、俗にいちかしと云て、大木となるものなり、これも詞なるをば、柴《シバ》といへば、いちひを略きて、いちしばと云、楢柴《ナラシバ》、椎柴《シヒシバ》などいふが如し、といへるは、いとうけがたし、赤檮柴《イチヒシバ》としては、道邊乃《ミチノベノ》といへるにも、似つかはしからぬをや、こは柴とかけるに、いたく泥みたりと乙見えたり、そも/\此(ノ)(191)前後二十八首は、みな草に寄てよめる歌をあつめて、一類とせりとおぼゆるに、此(ノ)一首のみ木なるべき由なきをもおもへ、〉猶|委曲《クハシク》は、既く四(ノ)卷に、大原之此市柴乃何時鹿跡《オホハラノコノイツシバノイツシカト》云々、とある處に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、○何時毛何時毛《イツモイツモ》は、何時《イツ》なりとも/\、といはむが如し、と契冲がいへる如し、○歌(ノ)意は、何時《イツ》なりとも、何時なりとも、己がいふことをうけひきて、人のゆるさむときを、心ながく一(ト)すぢに持てをらむ、となり、
 
2771 吾妹子之《ワギモコガ》。袖乎憑而《ソテヲタノミテ》。眞野浦之《マヌノウラノ》。小菅乃笠乎《コスゲノカサヲ》。不著而來二來有《キズテキニケリ》。
 
眞野《マヌ》は攝津(ノ)國八部(ノ)郡の地(ノ)名なり、○歌(ノ)意は、もし雨ふることあらば、妹が袖をかりて、うちかづきてかへらむとおもひて、とかくといそぐ心に、空のおぼつかなさに、菅笠をだに、とりあへず來つる、となり、と契冲が云る如し、
 
2772 眞野池之《マヌノウラノ》。小菅乎笠爾《コスゲヲカサニ》。不縫爲而《ヌハズシテ》。人之遠名乎《ヒトノトホナヲ》。可立物可《タツベキモノカ》。
 
眞野池は、本居氏、池は※[さんずい+内]の誤なるべしといへり、これは次上の歌の答と見ゆれば、いかさまにも、※[さんずい+内]なるべく、おぼえたり、○笠爾不縫《カサニヌハズ》とは、十三に、遠智能小菅不連爾伊苅持來《ヲチノコスゲアマナクニイカリモチキ》、とよめる類にて、實《マコト》に夫婦の縁を結ぶを、笠に縫合すに譬へて、こゝは實なきをよせて、いへるなるべし、○人之遠名《ヒトノトホナ》は、人は吾を云、遠名とは、世に廣く立る名を云べし、と岡部氏いへり、○歌(ノ)意は、吾(カ)袖をたのみて、笠を着ずに來しとの賜ふが、それは何とやらむ、實ありがほなれど、實に君(192)と契を緒びしことのなければ、吾(カ)名を、世に廣く立べきにあらぬをや、といへるなり、
 
2773 射竹《サスダケノ》。齒隱有《ハゴモリテアレ》。吾背于之《ワガセコガ》。吾許不來者《アガリキセズハ》。吾將戀八方《アレコヒメヤモ》。
 
刺竹《サスダケ》は、古來《ムカシヨリ》、註者等《フミトキビトタチ》皆、竹のことゝして説たれど、下にも云る如く、此(ノ)上に、淺茅原刈標刺而《アサチハラカリシメサシテ》云々、とあるより、此(ノ)下に、左寐蟹齒孰共毛宿常《サネカネバタレトモネメド》云々、とあるまで、凡《スベテ》廿八首は、みな寄v草陳v思歌をあつめて、一類とせりと所思《オボユル》に、この一首のみ竹ならむも、いかにぞやおもはるゝにつきて、考(フ)るに、(竹は、古今集にも、木にもあらず、草にもあらぬ、といへるごとく、古(ヘ)より草(ノ)類には入ざりしよし、余(ガ)考あり、)此(ノ)刺竹《サスダケ》は、黍《キミ》の別名《マタノナ》におぼえたり、さるはまづ、書紀聖徳(ノ)太子(ノ)御歌に、佐須陀氣能枳彌波夜那祇《サスダケノキミハヤナキ》、とあるは、佐須竹之黍《サスダケノキミ》といふ意に、つゞけさせ賜へりと見えたり、黍は、(今は吉備《キビ》とのみいへど、)古くは吉彌《キミ》と云しこと、此(ノ)集十六(ノ)歌に寸三《キミ》と見え、和名抄にも木美《キミ》、とあるを思ふべし、(即(チ)黄實《キミ》の義なるをも、併(セ)考(フ)べし、)さて其(ノ)原《モト》は、其(ノ)幹《カラ》を佐須竹《サスダケ》といひ、(黍《キミ》の幹は、竹に能(ク)似たるものなれば、竹といふべし、今俗にも、※[草がんむり/讓の旁]荷《メガ》の幹を※[草がんむり/讓の旁]荷竹《メウガタケ》、甘蔗を砂糖竹《サトウダケ》などいふめり、さてよのつねの竹は、幹中の虚《ス》の、いと廣きものなるに、黍は幹中に肉《ミ》あれば、虚《ス》の窄《セマ》り合たるよしにて、狹處竹《サスダケ》といへるにやあらむ、狹《サ》とは、狹少《セマクチヒサ》きを云のみならず、庭も狹《セ》、山も狹《セ》、などいふ如く、細く窄り合たるを云言なり、)其(ノ)實を黄實《キミ》と解けるを、後には吉彌《キミ》とのみ云が、草(ノ)名のごとくになりて、佐須竹《サスタケ》と云|稱《ナ》は、人のしらぬやうに、なれりしものとおもは(193)るゝなり、かくて黍は、葉廣く長く繁りて、大かたは其(ノ)葉に、幹の隱るゝものなれば、葉隱《ハゴモリ》とはいひかけたるなり、○齒隱有《ハゴモリテアレ》は、齒は(借(リ)字にて、)葉なり、さて内に隱《コモリ》てあれと云ことを、上の言の縁《チナミ》に、葉隱《ハゴモリ》といひ連ねたり、○吾許不來者は、ワガリキセズハ〔七字右○〕と訓べし、(ワレガリコズハ〔七字右○〕とよむは、いとつたなし、)不來をキセズ〔三字右○〕と云は、あしびきの山よりきせばなど云と、同例なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)許へ來て、己が目に觸る故に、思ふ心もいや益るを、來座ずてだにあらば、かくばかりに、戀しく思ふべきよしあらむやは、されば、そなたに隱《コモリ》て、出賜ふなよと、切なる餘りにいへるなるべし、○此歌、吾といふ言三(ツ)あるは、わがせこにあがこひをればわがやどの、とよめる如く、水の瀬をくだる勢に、ことさらに重ねたり、と契冲云り、
 
2774 神南備能《カムナビノ》。淺小竹原乃《アサシヌハラノ》。美《シミヽニモ》。妾思公之《アガモフキミガ》。聲之知家口《コヱノシルケク》。
 
神南備《カムナビ》は、飛鳥のなるべし、一説に、平群(ノ)郡にあり、ともいへり、○淺小竹原《アサシヌハラ》は、小篠原《ヲサヽハラ》といふに同じ、淺《アサ》は、淺茅《アサチ》の淺《アサ》に同じく、深からぬをいへり、(夫木集に、かれぬるかころもの秋の神なびのあささゝ原の霜の下草、とあり、舊訓にも、あささゝ原とあれば、アサシヌハラ〔六字右○〕なるべし、)○美は、上下に脱字あるべし、(美妾思公之を、ヲミナベシオモヘルキミガ〔ヲミ〜右○〕、と訓るは穩ならず、岡部氏は、ヲミナベシシヌベルキミガ〔ヲミ〜右○〕とよみて、篠原に立交れるをみなべしの、見えがたきをたとへて、しぬべるきみがといへるなるべし、といへれど、いかゞ、女郎花を、美妾と書むこと(194)の、元來平穩ならざればなり、)故(レ)甞(ミ)に按(フ)に、繁美似裳《シミミニモ》などありけむを、美(ノ)字のみ遺して、餘は寫し脱したるにもやあちむ、上に、大舟爾葦荷苅積四実見似裳妹心爾乘來鴨《オホブネニアシニカリツミシミミニモイモガコヽロニノリニケルカモ》、とあり、○妾思公之は、本居氏の、アガモフキミガ〔七字右○〕なるべし、といへる、眞に然もあるべし、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は、繁《シミ》を云む料の序なるべし、さて繁々にも、わが戀しく思ふ君なれば、わづかにその聲を聞ても、それとしるく、身にしみとほりておぼゆることよ、と云るなるべし、○小竹《シヌ》は、竹に類《タグヘ》れど、又草にも類ふぺければ、前後寄v草陳v思(ヲ)歌の中に收たるならむ、
 
2775 山高《ヤマタカミ》。谷邊蔓在《タニヘニハヘル》。玉葛《タマカヅラ》。絶時無《タユルトキナク》。見因毛欲得《ミムヨシモガモ》。
 
山高《ヤマタカミ》云々は、山が高さに、峰まで蔓上《ハヒノボ》ること能はずして、谷邊に蔓有《ハヘル》と云か、さらば谷迫峯邊延有《タニセバミミネヘニハヘル》、(谷が狹さに、峯へに蔓有《ハヘル》なり、)とよめるとは、反對《カヘサマ》なり、(もしは高山とありて、タカヤマノ〔五字右○〕なりけむを、下上に誤れるにもあるべきにや、)さて本(ノ)句は、絶時無(ク)といはむための序なり、十二に、谷迫峯邊延有玉葛令蔓之有者年二不來友《タニセバミミネヘニハヘルタマカヅラハヘテシアラバトシニコズトモ》、十四に、多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》、伊勢物語に、谷せばみ峯まではへる玉かづらたえむと人にわがおもはなくに、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2776 道邊《ミチノベノ》。草冬野丹《クサヲフユヌニ》。履干《フミカラシ》。吾立待跡《アレタチマツト》。妹告乞《イモニツゲコソ》。
 
歌(ノ)意は、冬野の草の萎枯《シモガレ》たるごとくに、道の邊の草をふみからして、女の家の邊に通ひ來て、(195)立待(ツ)と云ことを、いかで妹に告てよかし、となり、女の出て會むことを、待ことの度重れる勞《イタヅキ》を、示《アヲハ》さむとなり、
 
2777 疊薦《タヽミコモ》。隔編數《ヘダテアムカズ》。通者《カヨハサバ》。道之柴草《ミチノシバクサ》。不生有申尾《オヒザラマシヲ》。
 
疊薦《タヽミコモ》は、疊《タヽミ》の蒋《コモ》にて、席具《シキモノ》の疊《タヽミ》にする蒋《コモ》なり、十二に、相因之出來左右者疊薦重編數夢西將見《アフヨシノイデコムマデハタヽミコモカサネアムカズユメニシミテム》、とあり、○隔編《ヘダテアム》とは、疊の蒋を編(ム)には、まづ薦桁《コモゲタ》といふ木を横に亙し、薦槌《コモツチ》といふものに編苧《アミソ》を卷(キ)、薦桁へかけて、槌を此《コヽ》を彼《カシコ》へ、彼《カシコ》を此《コヽ》へ、とり違へつゝあむなり、さて蒋一筋一筋に、編苧を隔て編(ム)ゆゑに、隔(テ)編(ム)とはいへるなり、古事記傳に、隔《ヘダテ》は、重《ヘ》を立るを云て、加佐泥《カサネ》と云に同じ、同事を重編《カサネアム》とも云るにて知べし、さて又|編數《アムカズ》と云は、疊は細密《コマカ》に繁くある物なる故に、編目の數の多くしげきを云なり、重《ヘ》の數の多きを云には非ず、○道之柴草《ミチノシバクサ》は、六(ノ)卷に、立易古京跡成者道之志婆草長生爾異梨《タチカハリフルキミヤコトナリヌレバミチノシバクサナガクオヒニケリ》、とあるに同じく、ともに柴は借(リ)字にて、莱草《シバ》なり、○歌(ノ)意は、疊薦を隔(テ)編(ム)其(ノ)薦槌の、往反のしげく隙なきが如く、屡《シバ/\》に通ひ來ましなば、道の芝草も得生立(ツ)まじきものを、絶間がちなるゆゑに、草長く生(ヒ)しげりたり、となり、
 
2778 水底爾《ミナソコニ》。生玉藻之《オフルタマモノ》。生不出《オヒイデズ》。縱比者《ヨシコノゴロハ》。如是而將通《カクテカヨハム》。
 
歌(ノ)意は、水底に生たる玉藻の、水上に顯れて生出ぬごとく、かくしのび/\に、この頃は通ひてむ、縱やさばれ、つひにはあらはして妻とせむと、末をたのみに思へるよしなるべし、上に、(196)水底生玉藻打靡心依戀比日《ミナソコニオフルタマモノウチナビキコヽロヲヨセテコフルコノゴロ》、
 
2779 海原之《ウナハラノ》。奥津繩乘《オキツナハノリ》。打靡《ウチナビキ》。心裳四怒爾《コヽロヲモシヌニ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
繩乘《ナハノリ》(乘は、借(リ)字にて苔《ノリ》なり、)は、海苔の一種なり、品物解に云、さて打靡《ウチナビキ》といはむための序に、まうけいへり、○歌(ノ)意は、身もなよ/\と打なびきつゝ、心もしなひて、人の戀しくおもはるゝことかな、となり、
 
2780 紫之《ムラサキノ》。名高乃浦之《ナタカノウラノ》。靡藻之《ナビキモノ》。情者妹爾《コヽロハイモニ》。因西鬼乎《ヨリニシモノヲ》。
 
名高乃浦《ナタカノウラ》は、上にも、木海之名高之浦爾《キノウミノナタカノウラニ》、とよめり、七(ノ)卷に二首、今の歌の初二句と同じきありて、そこに委(ク)註したりき、○本(ノ)句は、因西《ヨリニシ》といはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、心は妹に打なびき、一向によりにしものを、今更に、何事をかはおもはむ、となり、
 
2781 海底《ワタノソコ》。奥乎深目手《オキヲフカメテ》。生藻之《オフルモノ》。最今社《モハライマコソ》。戀者爲便無寸《コヒハスベナキ》。
 
奥《オキ》とは、海(ノ)底の極をも云(ヒ)、海(ノ)上の岸より遠さ方をむ云(ヘ)ど、此は底の方なり、○本(ノ)句は、最《モハラ》といはむ料の序なり、(奥乎深目手《オキヲフカメテ》と云に、深き思をたとへたる意はなし、)○最今社は、岡部氏の、モハライマコソ〔七字右○〕とよめるよろし、(モトモ〔三字右○〕とよめるは、甘心《アマナヒ》がたし、)モハラ〔三字右○〕は、古今集に、あふことのもはら結ぬる時にこそ人の戀しきことも知けれ、とあるに同じ、社《コソ》と云て、寸《キ》と結《トヂ》めたる例、一(ノ)卷三山(ノ)御歌に、委(ク)註たりき、○歌(ノ)意は、今社は、專(ラ)戀しく思ふ心の、せむすべなき時なれ、とな(197)り、
 
2782 左寐蟹齒《サネカネバ》。孰共毛宿常《タレトモネメド》。奥藻之《オキツモノ》。名延之君之《ナビキシキミガ》。言待吾乎《コトマツアレヲ》。
 
左寐蟹齒は、(サヌガニハ〔五字右○〕と訓たるによりて、契冲、さぬるからには、といふ意なり、と云れど、カラニ〔三字右○〕を、ガニ〔二字右○〕とのみ云る例あることなし、無稽論《ムナシゴト》といふべし、又略解に、本居氏(ノ)説を引て、さねむとならば、といふほどの言なり、共寢せむとならば、誰ともぬべけれど、といふ意なり、といへれど、いかゞ、逢むとならばといふことを、逢(フ)ガニハ〔三字右○〕、去《イナ》むとならばといふことを、去《イヌ》ガニハ〔三字右○〕など云に、例あらばこそさもあるべけれ、さる例はさらにあることなし、且歌(ノ)意も、さては穩ならず、これ又無證言《アトナシコト》といひつべし、凡《オヨ》そ云々我爾《シカ/”\ガニ》といふ詞は、集中にも四(ノ)卷に、吾屋戸之暮除草乃白露之消蟹本名所念鴨《ワガヤドノユフカゲグサノシラツユノケヌガニモトナオモホユルカモ》、又、道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹《ミチニアヒテヱマシシカラニフルユキノケナバケヌガニコヒモフワギモ》、八(ノ)卷に、於布流橘《オフルタチバナ》、玉爾貫五月乎近美《タマニヌクサツキヲチカミ》、安要奴我爾花咲爾家里《アエヌガニハナサキニケリ》、又、秋田刈借廬毛未壞者秋鳴寒霜毛置奴我爾《アキタカルカリホモイマダコボタネバカリガネサムシシモモオキヌガニ》、十(ノ)卷に、音之于蟹來喧響目《コヱノカルガニキナキトヨマメ》、又、秋就者水草花乃阿要奴蟹思跡不知直爾不相在者《アキヅケバミクサノハナノアエヌガニオモヘドシラズタヾニアハザレバ》、十三に、海處女等《アマヲトメラガ》、纓有領巾文光蟹《ウナガセルヒレモテルガニ》、手二卷流玉毛湯良羅爾《テニマケルタマモユララニ》、十四に、武路我夜乃都留能都追美乃那利奴賀爾古呂波伊敝杼母伊末太年那久爾《ムロガヤノツルノツツミノナリヌガニコロハイヘドモイマダネナクニ》、古今集に、櫻花散かひくもれ老らくの來むと云なる道まがふがに、などありて、消我爾《ケヌガニ》は、消るばかりに、干我爾《カルガニ》は、かるゝばかりに、光我爾《テルガニ》は、光(ル)ばかりにといふ意にて、其(ノ)餘なるもこれに准ふべし、これを本居氏の、語(リ)繼(ク)ガネ〔二字右○〕、立(チ)隱るガネ〔二字右○〕(198)などいふ我禰《ガネ》と同意にて、我爾《ガニ》は、我禰爾《ガネニ》の約りたる言なり、といへるは、大《イタ》く違へり、我禰《ガネ》は言の趣甚く異《カハ》れり、混ふべからず、その差別は、既く委く辨へたれば、こゝにいはず、さてかゝれば、こゝの左寐蟹も、さぬるばかりに、と云意かとも云べけれど、さては解べきやうなし、)今按(フ)に、サネカネバ〔五字右○〕と訓べし、蟹をカネ〔二字右○〕とよむは、集中に、足乳根《タラチネ》を足常《タラチネ》、迷《マヨフ》を間結《マヨフ》、あぢきなくを小豆無《アヂキナク》、など書る類の借(リ)字とも云べけれど、書紀允恭天皇(ノ)卷、衣通(ノ)王(ノ)歌に、さゝ蟹を、佐々餓泥《サヽガネ》とよまれたれば、もとより上(ツ)代には、蟹をカネ〔二字右○〕とも云しこと、うつなければ、カネ〔二字右○〕の借字とせること論なし、土佐(ノ)國幡多(ノ)郡以南と云あたりの俗には、今も蟹をカネ〔二字右○〕と云り、但ガ〔右○〕を濁りて唱るは甚鄙し、)さてサネカネバ〔五字右○〕は、左寐不得者《サネカネバ》にて、左寢《サヌ》ることを不《ズ》v得《エ》者《バ》なり、カネ〔二字右○〕は、集中に多く不得と書る如く、とゞめかねは、留めむとすれど留(メ)不v得、いひかねは、言むとすれど言(ヒ)不v得の意なるに、相例すべし、○奥藻之《オキツモノ》は、枕詞なり、○名延之君《ナビキシキミ》とは、吾(ガ)心の靡きよりにし君といふなり、(君が自(ラ)なびける意にはあらず、)○吾乎《アレヲ》は、吾なるものをの意なり、○歌(ノ)意は、末遂に、吾と相寐することを不v得とならば、われも思(ヒ)斷て、誰その人になりとも、かたらふべきなれど、よもさる心には君もあるまじければ、はじめより吾(カ)心の、一向《ヒタスラ》になびきよりにし君が、今は妻とたのむといふ言を、待つゝあるものを、となり、○以上廿八首は、草に寄せてよめるなり、
 
(199)2783 吾妹子之《ワギモコガ》。奈何跡裳吾《イカニトモアヲ》。不思者《オモハネバ》。含花之《フヽメルハナノ》。穗應咲《ホニサキヌベシ》。〔頭註、【四首寄v花、】
 
歌(ノ)意は、わがかく深く下心におもひ入たるを、妹は何ともおもはぬけしきなるに、得堪やらねば、含める花の色にさき出る如く、今はおしあらはして、心の底を示すべし、となり、
 
2784 隱庭《コモリニハ》。戀而死鞆《コヒテシヌトモ》。三苑原之《ミソノフノ》。鷄冠草花乃《カラヰノハナノ》。色二出目八方《イロニイデメヤモ》。
 
本(ノ)二句は、此上にも出たり、○鷄冠草花乃は、カラヰノハナノ〔七字右○〕と訓べし、色二出《イロニイデ》といはむ料の序なり、鷄冠草《カラヰ》は、契冲が※[奚+隹]頭花なるべし、といへる、さもあるべし、なほ品物解に云り、十(ノ)卷に、戀日之氣長有者三苑圃能辛藍花之色出爾來《コフルヒノケナガクアレバミソノフノカラヰノハナノイロニデニケリ》、とよめり、○方(ノ)字、類聚抄には毛、異本には目と作り、○歌(ノ)意は、たとひ戀死に死はすとも、しのびはてゝむ、色にはあらはさじ、となり、契冲、これは上の歌に問答して、まてしばしと、制してよめるこゝろなり、もと問答の歌にはあらねど、撰集の時、撰者次第をさやうにするなり、といへり、此(ノ)説は、上の歌の穗應咲《ホニサキヌベシ》を、色に出して、人にしらるべしと云意に、見たるなるべし、○舊本註に、類聚古集云、鴨頭草、又作2鷄冠草1云云、依2此義1者、可v和2月草1歟、とあり、和(ノ)字、拾穗本には訓と作り、此(ノ)説はひがことなり、用べからず、古寫本には此(ノ)註なし、
 
2785 開花者《サクハナハ》。雖過時有《スグトキアレド》。我戀流《アガコフル》。心中者《コヽロノウチハ》。止時毛梨《ヤムトキモナシ》。
 
歌(ノ)意は、花は盛あれど、やがてうつろひすぐるものなるを、わが人を戀しく思ふ心は、いつも(200)さかりにて、うつろひすぐる時はさらになし、となり、
 
2786 山振之《ヤマブキノ》。爾保倣流妹之《ニホヘルイモガ》。翼酢色乃《ハネヅイロノ》。赤裳之爲形《アカモノスガタ》。夢所見管《イメニミエツヽ》。
 
山振之は、枕詞なり、茵花《ツヽジバナ》にほへる君、などもつゞくると、同例なり、○爾保敝流妹《ニホヘルイモ》は、紅顔の女を云、○翼酢色《ハネズイロ》は、既く四(ノ)卷に出て、委(ク)註り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○以上四首は、花に寄てよかるなり、
 
2787 天地之《アメツチノ》。依相極《ヨリアヒノキハミ》。玉緒之《タマノヲノ》。不絶常念《タエジトオモフ》。妹之當見津《イモガアタリミツ》。〔頭註、【七首寄2玉緒1、】〕
 
本(ノ)二句は、既く出(デ)つ、○玉緒之《タマノヲノ》は、枕詞なり、玉貫たる綸《ヲ》の斷《キレ》離るゝを、絶《タユ》るといふから、絶《タユ》とも不絶《タエズ》ともつゞく詞なり、(こゝは命の事を云(フ)靈緒《タマノヲ》にあらず、)○歌(ノ)意は、天地のあらむかぎりは、思ひ斷《タエ》じと、心におもひきはめたる女なれば、さらに唯假初のことにはあらず、其(ノ)女の家の當(リ)をば、物よりことに、心に愛《ウツクシミ》してぞ見つる、といふにや、
 
2788 生緒爾《イキノヲニ》。念者苦《オモフハクルシ》。玉緒乃《タマノヲノ》。絶天亂名《タエテミダレナ》。知者知友《シラバシルトモ》。
 
生緒爾念《イキノヲニオモフ》とは、命にかけて念(フ)といふに同じく、眞實に深く思ひ入たる形容《サマ》なり、生緒《イキノヲ》は即(チ)命のことなればなり、さてこの生緒を、他處には多く氣緒《イキノヲ》とかきたれど、其(ハ)借字にて、此處にかけるが正字ならむ、と本居氏も云る如し、(三十二番職人歌合に、息のをのくるしき時は鉦鼓こそ南無阿彌陀佛の聲たすけなれ、とあるは、たゞ氣息を云ことゝ、後には心得たるか、)○玉(201)緒乃《タマノヲノ》、これも緒の斷て、玉の亂るゝとかゝれる枕詞なり、○絶天亂名《タエテミダレナ》は、絶天《タエテ》は、枕詞の縁《チナミ》にいひ下したるのみにて、歌(ノ)意の方は、たゞ亂名《ミダレナ》なり、亂名《ミダレナ》は、將《ム》v亂《ミダレ》といふことを、さし急《セマ》りて強く云言なり、(亂牟《ミダレム》と云と、亂奈《ミダレナ》と云とは、緩急の異《カハリ》ある古言なり、亂名《ミダレナ》は、亂(レ)むと、二念なくおもひつのたる意にて、急《セマ》りて云るなり、)さて亂るゝは、放蕩《ミダリゴヽロ》になるといふほどの意なり、古今集俳諧歌に、實《マメ》なれど何ぞは善《ヨケ》く刈(ル)草《カヤ》の亂て有ど惡けくもなし、とある亂(レ)に同じ、○歌(ノ)意は、命にかけて、心(ノ)裏にのみおもへば、神《タマシヒ》疲《ツカレ》て辛苦《クルシ》きによりて、今はいで亂て、放蕩なる者になりなむ、縱《ヨシ》やたとひ人は知ば知(ル)とも、となり、古今集に、下にのみおもへばくるし玉緒のたえて亂む人なとがめそ、とあるは、今の歌を換たるか、
 
2789 玉緒之《タマノヲノ》。絶而有戀之《タエタルコヒノ》。亂者《ミダレニハ》。死卷耳其《シナマクノミソ》。又毛不相爲而《マタモアハズシテ》。
 
絶而有戀之亂《タエタルコヒノミダレ》とは、中絶して後戀しく思ふ故に、心も散亂《ミダ》れたるを云、戀之亂《コヒノミダレ》と云るは、戀のみだれのつかね緒にせむ、などよめる是なり、○歌(ノ)意は、中絶して後、戀しく思ふあまりに、心も散亂《ミダ》れたるからは、又も相むとはおもはず、たゞ一向《ヒタスラ》に、死むことを而巳《ノミ》ぞおもふ、となり、
 
2790 玉緒之《タマノヲノ》。久栗縁乍《ククリヨセツヽ》。末終《スヱツヒニ》。去者不別《ユキハワカレデ》。同緒將有《オヤジヲニアラム》。
 
久栗縁乍《ククリヨセツヽ》は、白玉《シヲタマ》の間《アヒダ》あけつゝ貫《ヌケ》るをもくゝりよすれば後あふものを、とよめるに同じく、久栗《ククリ》は、借(リ)字にて、縛《クヽリ》なり、○歌(ノ)意は、間置て貫たる玉の緒も、縛りよすれば、末遂により合て、同(202)じ緒になるごとく、今こそ人言などに障《サヘ》られて、暫(ク)遠ざかりたれど、末終には、かた/\に行別れずして、夫婦となりて相住(マ)むぞ、となり、古今集に、下の帶の道はかた/\わかるとも行めぐりてもあはむとぞおもふ、意相似たり、
 
2791 片絲用《カタイトモチ》。貫有玉之《ヌキタルタマノ》。緒乎弱《ヲヲヨハミ》。亂哉爲南《ミダレヤシナム》。人之可知《ヒトノシルベク》。
 
片絲用(用(ノ)字、菅家本には丹と作り、舊本の方まされり、)は、カタイトモチ〔六字右○〕なり、(モテ〔二字右○〕と訓はわろし、)○本(ノ)句は、亂《ミダレ》といはむ料の序なり、より合せぬ片糸をもて貫たるは、緒が弱さに絶(エ)易(ス)ければ、亂るといひ連ねたり、○歌(ノ)意は、今は人の知ぬべく、心も亂やしなむ、となり、十二に、玉緒乎片緒爾搓而緒乎弱彌亂時爾不戀有目八方《タマノヲヲカタヲニヨリテヲヲヨワミミダルヽトキニコヒザラメヤモ》、
 
2792 玉緒之《タマノヲノ》。島意哉《ウツシコヽロヤ》。年月乃《トシツキノ》。行易及《ユキカハルマデ》。妹爾不逢將有《イモニアハザラム》。
 
玉緒之寫《タマノヲノウツシ》とかゝれるは、間置て貫たる玉の緒を、くゝりよするにつれて、玉の彼《カシコ》へ此《コヽ》へ轉《ウツ》るをもて、轉《ウツ》しとつゞきたるなるべし、大神(ノ)景井、玉緒之現《タマノヲノウツシ》、とつゞきたる玉緒《タマノヲ》は、玉貫たる綸《ヲ》を云に非ず、玉《タマ》とかけるは借(リ)字にて、靈之緒《タマノヲ》なり、さて緒《ヲ》は、生之緒《イキノヲ》の緒《ヲ》にて、靈魂《タマシヒ》の緒《ヲ》は、すなはち命のことなれば、靈《タマ》の緒《ヲ》の現《ウツ》しとは、つゞくるなり、と云り、さもあるべし、(但し此(ノ)説によるときは、玉緒《タマノヲ》と靈緒《タマノヲ》と、言は同じけれど、物は各別《コト/”\》なり、撰者は、なほ前の説の如く、玉緒《タマノヲ》の轉《ウツ》しと云意に心得て、玉(ノ)緒に寄て、よめる歌の類に収《イレ》たるか、また靈(ノ)緒にしても、言の同じきまゝ(203)に、何となく、こゝに收たるにもあるべし、)○島意哉(島(ノ)字、古寫一本には、長と作て、ナガキコヽロヤ〔七字右○〕と訓り、それもいかゞ、)は、本居氏、島は寫(ノ)字の誤にてウツシコヽロヤ〔七字右○〕なり、と云り、七(ノ)卷に、事痛者《コチタクハ》云々、とありて、註に、一(ニ)云(ク)紅之寫心哉於妹不相將有《クレナヰノウツシコヽロヤイモニアハザラム》、とあるを、考(ヘ)合(ス)べし、十二にも、玉緒乃徒心哉八十梶懸水手出牟船爾後而將居《タマノヲノウツシコヽロヤヤソカカケコギデムフネニオクレテオラム》、とあり、寫意《ウツシコヽロ》は、寫ほ借(リ)字にて、現心《ウツシコヽロ》なり、○歌(ノ)意は、靈魂《タマシヒ》の緒《ヲ》の、斷《タエ》たらむほどのことはしらず、あり/\としたる現心をもて、年月の行易るまで、久しく妹にあはずてあり得むやは、さは得堪まじきことなるを、となり、
 
2793 玉緒之《タマノヲノ》。間毛不置《アヒダモオカズ》。欲見《ミマクホリ》。吾思妹者《アガモフイモハ》。家遠在而《イヘトホクアリテ》。
 
玉緒《タマノヲ》の云々は、繁く貫たる玉のすき間なき意に、間毛不置《アヒダモオカズ》とつゞきたり、○家遠在而《イヘトホクアリテ》は、いひのこせる詞なり、あはびの貝のかたもひにして、又、あかざる君を山越におきて、など留たると、何例なり、○歌(ノ)意は、間もなく、しば/\に相見まほしくおもふ妹は、家遠くして、度々あひがたきがわびしきこと、となり、○以上七首は、玉緒に寄てよめるなり、
 
2794 隱津之《コモリヅノ》。澤出見爾有《サハイヅミナル》。石根從毛《イハネユモ》。達而念《トホシテソオモフ》。君爾相卷者《キミニアハマクハ》。〔頭註、【一首寄v石、】〕
 
隱津《コモリヅ》は、上に出たるには、隱處と作り、古事記に、許母理豆能志多用波閇都都《コモリヅノシタヨハヘツツ》云々、○澤出見(出(ノ)字、舊本には立と作り、今は活字本に從つ、)は、上に出たるには、澤泉《サハイヅミ》とあり、○達(ノ)字、(舊本に遠と作るは誤なり、今は類聚抄、阿野本、水戸本、拾穗本等に從つ、)上には通と作り、○歌(ノ)意は、君に逢(204)むと思ふやうは、丈夫心の二念なく、石根をも透すばかりに、通りぬけたる心にてぞある、となり、なほ此(ノ)上に出たる處に、委(ク)註り、○此(ノ)一首は、石に寄てよめるなり、
 
2795 木國之《キノクニノ》。飽等濱之《アクラノハマノ》。忘貝《ワスレガヒ》。我者不忘《アレハワスレジ》。年者雖歴《トシハヘヌトモ》。〔頭註、【四首寄v貝、】
 
飽等濱《アクラノハマ》は、七(ノ)卷に出て、既く委(ク)註り、○忘貝《ワスレガヒ》は、貝(ノ)名なり、品物解にいへり、さてこれまでは、不忘《ウスレジ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2796 水泳《ミヅクヽル》。玉爾接有《タマニマジレル》。礒貝之《イソガヒノ》。獨戀耳《カタコヒノミニ》。年者經管《トシハヘニツヽ》。
 
水泳《ミヅクヽル》は、玉が水を潜《クヽ》るなり、○磯貝《イソガヒ》は、中山(ノ)嚴水、何にまれ、石にはひ付てある貝にて、其はみな鰒のごとく片貝なれば、片戀とはつゞけしなるべし、鮑のことゝするは、泥《ナヅ》める説なり、といへり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、かくれたるすぢなし、
 
2797 住吉之《スミノエノ》。濱爾縁云《ハマニヨルチフ》。打背貝《ウツセガヒ》。實無言以《ミナキコトモチ》。余將戀八方《アレコヒメヤモ》。
 
打背貝《ウツセガヒ》は、石花見《セガヒ》の肉《ミ》うせて、殻《カラ》のみになりたるを云、(源氏物語蜻蛉に、浮舟の屍の事を、いかななさまにて、いづれのそこのうつせにまじりなど、やるかたなくおぼす、)さて肉《ミ》無《ナキ》と、いふ意につゞけ下して、實《ミ》なきといはむ料の序とせり、○歌(ノ)意は、實の心なくして、戀しく思はむやは、嗚呼さら/\僞にあらず、となり、
 
2798 伊勢乃白水郎之《イセノアマノ》。朝魚夕菜爾《アサナユフナニ》。潜云《カヅクチフ》。鮑貝之《アハビノカヒノ》。獨念荷指天《カタモヒニシテ》。
 
(205)朝魚夕菜《アサナユフナ》(魚(ノ)字、官本、異本等には莫と作り、それもさることながら、なほ菜に對《ムカ》へて書れば、舊本よろし、)とは、凡て那《ナ》と云は、何にまれ、飯に副《タグヘ》て食ふ物をいふ稱《ナ》にて、(今俗に、字音に菜《サイ》といふもの、これなり、)こゝは朝食夕食の菜科に、貝を潜きとるを云、(然るを、朝々を、古言に朝那朝那《アサナサナ》といへることあるによりて、朝那夕那《アサナユフナ》といふことをも、たゞ朝夕と云ことゝのみ心得るは、ひがことなり、)さて其(ノ)那《ナ》と云は、魚にも菜にもわたりて云稱なるから、朝魚菜《アサナ》、夕魚菜《ユフナ》と云意にて、如此書るなり、(朝魚夕菜とかけるは、所謂文を互にすると云ものにて、朝菜夕魚とかかむも同じ事なり、)○第四(ノ)句までは、獨念《カタモヒ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、吾のみ深く思ふのみにして、人は然ともしらず、片思ひにして、わびしき事といふよしを、言(ノ)外に含ませたり、古今集に、本(ノ)句今と同じくて、見るめに人をあくよしもがな、とよめる歌あり、○以上四首は、貝に寄てよめるなり、
 
2799 人事乎《ヒトコトヲ》。繁跡君乎《シゲミトキミヲ》。鶉鳴《ウヅラナク》。人之古家爾《ヒトノフルヘニ》。相語而遣都《カタラヒテヤリツ》。〔頭註、【九首寄v鳥、】〕
 
繁跡《シゲミト》とは、繁《シゲミ》は、繁《シゲ》さにの意なり、跡《ト》は助辭にて、意なし、○鶉鳴《ウヅラナク》は、枕詞なり、鶉《ウヅラ》は、人目なき處に棲《スミ》て啼ものなれば、古家《フルヘ》とつゞきたり、○古家《フルヘ》は、三(ノ)卷に、吾背子我古家乃里乃明日香庭《ワガセコガフルヘノサトノアスカニハ》、とあり、○相語而は、岡部氏の、カタラヒテ〔五字右○〕とよめるぞ宜しき、〔頭註、【岡部氏云、この歌、夕貌六條院など意ひとし、】〕○歌(ノ)意は、人の口(チ)さがなきによりて、吾(ガ)家に君をむかふることあたはず、人の住あらして、人目なき古(206)家に率《ヒキヰ》行(キ)て、あひかたらひて、さて後に去《ヤリ》つるが、あかずくちをしき事、となるべし、
 
2800 旭時等《アカトキト》。鷄鳴成《カケハナクナリ》。縱惠也思《ヨシヱヤシ》。獨宿夜者《ヒトリヌルヨハ》。開者雖明《アケバアケヌトモ》。
 
惠鳴成《カケハナクナリ》は、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、爾波都登理迦祁波那久《ニハツトリカケハナク》云々、此集十三に、家鳥可鷄毛鳴《ニハツトリカケモナキ》、左夜者明此夜者旭奴《サヨハアケコノヨハアケヌ》、云々、○歌(ノ)意は、曉方になりぬとて、鷄は鳴なり、よしやよし開ば開ぬとも、獨宿の夜なれば、さらに惜くは思はず、となり、
 
2801 大海之《オホウミノ》。荒礒之渚鳥《アリソノスドリ》。朝名旦名《アサナサナ》。見卷欲乎《ミマクホシキヲ》。不所見公可問《ミエヌキミカモ》。
 
渚鳥《スドリ》は、一(ツ)の鳥(ノ)名に非ず、何にまれ洲《ス》に居る鳥を云、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、和何許許呂宇良須能登理叙《ワガココロウラスノトリゾ》、とあるも同じ、(雎鳩《ミサゴ》の事とかぎる説は、偏《カタオチ》なり、)さて契冲もいひしごとく、けしきよき洲《ス》さきなどに、鳥の居たらむは、心ある人は、おもしろく見はやすべければ、日に/\其(ノ)鳥の見まくほしき意に、つゞけ下したる序なり、○朝名旦名《アサナサナ》は、毎日毎日《ヒニヒニ》といはむが如し、○問(ノ)字、古本、中院本、拾穗本等には、聞と作り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2802 念友《オモヘドモ》。念毛金津《オモヒモカネツ》。足檜之《アシヒキノ》。山鳥尾之《ヤマドリノヲノ》。永此夜乎《ナガキコノヨヲ》。
 
念毛金津《オモヒモカネツ》は、思ひを忍《ネム》じ不得《カネ》つ、といはむが如し、○第三四(ノ)句は、永《ナガキ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、つれなき人を戀しく思ふは、何の益《シルシ》もなければ、今は、しか思はじと思へども、なみ/\の物念にあらねば、思はじと思ふ思ひを忍《ネム》じかねて、此(ノ)長き夜を、もの思ひ明す事、といふな(207)るべし、
〔或本歌曰。足日木乃《アシヒキノ》。山鳥之尾乃《ヤマドリノヲノ》。四垂尾乃《シダリヲノ》。長永夜乎《ナガキナガヨヲ》。一鴨將宿《ヒトリカモネム》。
。〕
曰(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、云と作り、○四垂尾《シダリヲ》は、四垂柳《シグリヤナギ》の例のごとし、(略解に、シナヒタリ〔五字右○〕の約言なり、と云るはいかゞ、)○長永夜乎は、もとのまゝならば、本居氏の訓るごとく、ナガキナガヨヲ〔七字右○〕なり、十(ノ)卷に、惑者之痛情無跡將念秋之長夜乎寐師耳《サドヒトシアナコヽロナシトオモフラムアキノナガヨヲサムクシアレバ》、(寐耳は誤字か、)とあり、又永を、此(ノ)字の誤とする説に依ば、ナガキコノヨヲ〔七字右○〕にて、理さだかなり、(ナガ/\シヨ〔六字右○〕とはいふべきにあらず、紀(ノ)友則集に、誰きけと聲高砂にさを鹿のなが/\し夜をひとり鳴らむ、とあるは、全(ラ)今(ノ)歌に本づきてよめり、されば、ナガ/\シヨ〔六字右○〕とよみたるも、やゝ古くよりのことにてはあるなり、近き頃、若狹の法師義門が、山口栞といふものを著て、此(ノ)歌のことを辨じていへるやう、長永夜とかけるは、ナガ/\シ〔五字右○〕夜《ヨ》と詠るに、あてゝかけること、もとよりなるべし、然るにこれをナガ/\シキ〔六字右○〕夜《ヨ》といはでは、シ〔右○〕の言は、體語へはつゞくべからざる故に、ナガキナガヨ〔六字右○〕と訓べし、といふ人のあるは、中々精しからぬ事なり、もしさいはゞ、ナガヨ〔三字右○〕といふことも聞えず、ナガキ〔三字右○〕夜《ヨ》といはではともいふべし、悲しくある妹をカナシ〔三字右○〕妹、空しくなりにたる煙をムナシケブリ〔六字右○〕、同じくある人をオナジ〔三字右○〕人、とやうにいふ例にて、古事記に、賢女《サカシメ》、麗女《クハシメ》、萬葉に、麗妹《クハシイモ》、可憐妹《カナシイモ》など、引出るにたへず、いとおほきを、いかでナガ/\シヨ〔六字右○〕といへるのみをば、あ(208)やしむべき、云々、但しナガキナガヨ〔六字右○〕と訓事、ふつにかなはず、といふにはあらねど、そは作者の意ならざるべく、ナガナガシヨ〔六字右○〕と訓にはおとれり云々など、なほくほしく論へり、今按(フ)に、げにもナガ/\シ〔五字右○〕夜《ヨ》といはむに、語の活《ハタラキ》の格におきては、さらに疑ふべきにあらざること、かたへの證例どもにても、論なきことなり、さればかの紀(ノ)友則集などにも、ナガナガシ〔五字右○〕夜《ヨ》とよめるを見れば、後(ノ)世の人の、語(ノ)活の法を誤りて訓る類とは、いふべきに非ず、余が今ナガナガシヨ〔六字右○〕といふべきにあらず、といへるは、活語の法にかゝはりて、いへるには非ず、古語のやうを考へわたすに、すべて疊りをどれる詞を、歌の七言句の位に居《スヱ》む事は、古人の詞つゞけのさまにあらず、をどらせたる詞は、みづ/\し久米の子、とほ/”\し越の國など、七言句の位の上に冠らせて、姑く歌ひ絶(リ)て、次をいふ處におかざれば、語の勢たゆみて、古人の詞のさまになきことなれば、なが/\し日、なが/\し夜などよまむは、今の人の耳には、さもと聞ゆることなめれど、作者の意には、かなふべくもなし、しかるをナガキナガヨ〔六字右○〕と訓は、ナガナガシ〔五字右○〕夜《ヨ》と訓には、おとれりと思ふは、なほ後(ノ)世の意にて、古書見むとする癖の、清くのぞこらざるが故なり、)○此(ノ)歌、後に人麻呂の作とするは、何の證もなければ、論《イフ》に足ず、されど上手の歌にてはあるなり、
 
2803 里中爾《サトヌチニ》。鳴奈流鷄之《ナクナルカケノ》。喚立而《ヨビタテテ》。甚者不鳴《イタクハナカヌ》。隱妻羽毛《コモリヅマハモ》。
 
(209)里中爾、はサトヌチニ〔五字右○〕と訓べし、(サトナカ〔四字右○〕とよむはわろし、サトナカ〔四字右○〕は、里の中央《モナカ》を云ことなればなり、たとへば國中《クニナカ》と云も、國の中央《モナカ》を云なると同じ、)能宇《ノウ》は奴《ヌ》と切れば、里之内《サトノウチ》といふを約めて、かくいへり、(屋之中《ヤノウチ》をヤヌチ〔三字右○〕と云(ヒ)、木之未《コノウレ》をコヌレ〔三字右○〕と云など、皆全(ラ)同例なり、)さて里内《サトウチ》は、なべて里の域内《カギリ》を云ことなれば、(國内《クヌチ》と云も、なべて國の域内を云に同じ、)一里の内、此《コヽ》にも彼《カシコ》にも呼立て、屡々鳴(ク)よしなり、○隱妻《コモリヅマ》は、父母のもとに隱り居る女をもいへど、こゝは、心の中のこもり妻、とよめる如く、下心に思ひ慕へる女をいふべし、○歌(ノ)意は、戀しく思ふあまりに、此彼《コヽカシコ》に啼(ク)鷄の如く、聲に立ても泣まほしけれども、吾は人目をしのべば、泣ことも心にまかせず、しのび/\になきて、心の中に戀しくおもふ其(ノ)女は、いづらや、と尋慕ふよしなり、○舊本に、一云里動鳴成鷄之、(之(ノ)字、舊本にはなし、拾穗本にはあり、)と註り、(金葉集に、さぎの居る松原いかにさわぐらむしらけばうたて里|動《トヨミ》けり、
 
2804 高山爾《タカヤマニ》。高部差渡《タカベサワタリ》。高高爾《タカタカニ》。余待公乎《アガマツキミヲ》。待將出可聞《マチデナムカモ》。
 
高部左渡《タカベサワタリ》とは、高部《タカベ》は、鳥(ノ)名なり、品物解にいへり、左《サ》はそへことばにて、たゞ飛渡るを云、さて高々《タカ/\》といはむ料に、高《タカ》の言を疊《カサネ》て序とせり、○高高爾《タカタカニ》は、人を望み待意の言にて、集中にあまた見えたり、○待將出可聞《マチデナムカモ》は、待つけなむか、といふほどの意なり、聞《モ》は歎息(ノ)辭なり、人の出來るを待つくるを、待出ると云り、在明の月を待出づるかな、と云も、月の出るを待つけたるに(210)て、意同じ、○歌(ノ)意は、高々に望みて、わが待(ツ)君が出來らむを、待つけなむ歟、さても待久しや、となり、
 
2805 伊勢能海從《イセノウミユ》。鳴來鶴乃《ナキクルタヅノ》。音杼侶毛《オトドロモ》。君之所聞者《キミガキコエバ》。吾將戀八方《アレコヒメヤモ》。
 
音杼侶毛《オトドロモ》(侶(ノ)字、古寫一本には呂と作り、)は、吉信《オトヅレ》だにもと云むが如し、音杼侶《オトドロ》は、音驚《オトオドロ》と云なるべし、續紀宣命をはじめ、中昔の物語書などに驚呂々々《オドロオドロ》と云詞見えたり、さて音信《オトヅレ》は、人を令《ス》v驚《オドロカ》意より、音驚《オトオドロ》とは云なるべし、驚《オドロ》の於《オ》は、音《オト》の等《ト》の餘韻に含まれば、自(ラ)省かりて、吉杼呂《オトドロ》とはいへるなり、かくて音豆禮《オトヅレ》と云言も、この音杼呂《オトドロ》より轉れる詞なるべし、(略解には、杼侶は、陀※[人偏+爾]などの誤れるにて、音ダニモ〔三字右○〕なりけむ歟、といへり、しかるべからず、)○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、君が音信だにも聞え來ば、かくばかり戀しくおもはむやは、音信さへもなきによりて、嗚呼《アハレ》戀しや戀しやとのみ、思ふにこそあれ、となるべし、
 
2806 吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀爾可有牟《コフレニカアラム》。奧爾住《オキニスム》。鴨之浮宿之《カモノウキネノ》。安雲無《ヤスケクモナシ》。
戀爾可は、コフレニカ〔五字右○〕と訓て、戀ればに歟、といふ意なり、○歌(ノ)意は、奥つ浪間に鴨の浮宿する如く、安くもいねられぬは、妹を戀しくおもへばにかあらむと、自《ミラ》をさなくいぶかるなり、契冲云、しらぬよしゝて、かくよみなすは、歌のならひなり、
 
2807 可旭《アケヌベク》。千鳥數鳴《チドリシバナク》。白細乃《シキタヘノ》。君之手枕《キミガタマクラ》。未厭君《イマダアカナクニ》。
 
(211)千鳥數鳴《チドリシバナク》は、契冲云、この千鳥《チドリ》は、唯よろづの鳥を、千々《チヽ》の鳥といふ意にていへり、川に住(ム)ひとつの鳥の名にはあらず、十六に、我(ガ)門に千どりしばなくおきよおきよわがひとよづま人にしらるな、此(ノ)歌の次上に、我(ガ)門のえのみもりはむ百千鳥《モヽチドリ》千どりはくれど君ぞきまさぬ、又十七には、朝がりにいほつ鳥たて、夕がりに千鳥《チドリ》ふみたて、云々、などもよめり、數鳴《シバナク》は、屡啼《シバ/\ナク》なり、○白細乃は、略解に、白は色の誤なり、シキタヘノ〔五字右○〕と訓べし、といへり、○歌(ノ)意は、めづらしく相寢して、君とかたらふことの、未(ダ)飽足ぬことなるに、夜ははや明ぬべしとて、數數《カズカズ》の鳥が屡々啼よ、となり、○以上九首は、鳥に寄てよめるなり、
 
問答《トヒコタヘノウタ》。二十九首。【九首。人麿集。二十首人麿集外。】〔二十九〜外。】□で囲む〕
 
2508 皇祖乃《スメロキノ》。神御門乎《カミノミカドヲ》。懼見等《カシコミト》。侍從時爾《サモラフトキニ》。相流公鴨《アヘルキミカモ》。
 
皇神乃神御門《スメロキノカミノミカド》は、宮城(ノ)門なり、○懼見等《カシコミト》は、畏まりてといはむが如し、等《ト》は徒《タヾ》に添りたる助辭なり、(とての意の等《ト》にはあらず、)○歌(ノ)意は、相見るときも、時こそあらめ、宮城(ノ)門を、つゝしみうやまひて、仕(ウ)まつれる時なれば、心のまゝに、物言かたらふ事も叶はぬに、あへる君哉、さてもせむ方なや、となり、
 
2509 眞祖鏡《マソカヾミ》。雖見言哉《ミトモイハメヤ》。玉限《タマカギル》。石垣淵乃《イハカキフチノ》。隱而在※[女+麗]《コモリタルツマ》。
 
玉限は、タマカギル〔五字右○〕と訓べし、余(レ)別に委(キ)考あり、○石垣淵《イハカキフチ》は、巖の立かこみたる處の淵にて、そ(212)はかくれて見えぬものなれば、隱而在《コモリタル》とつゞきたり、○※[女+麗](ノ)字、拾穗本には※[人偏+麗]と作り、○歌(ノ)意は、おくふかくつゝみかくして、人目しのぶ※[女偏+麗]なれば、見ても見たりと、打つけに人にいはむやは、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2510 赤駒之《アカコマノ》。足我枳速者《アガキハヤケバ》。雲居爾毛《クモヰニモ》。隱往序《カクリユカムソ》。袖卷吾妹《ソテフレワギモ》。
 
足我枳速者は、アガキハヤケバ〔七字右○〕、とよみて、足掻《アガキ》が速ければの意なり、○袖卷吾妹は、本居氏、袖卷は、此(ノ)歌に由なし、卷は擧の誤にて、ソテフレワギモ〔七字右○〕ならむ、古事記に、羽擧をハフリ〔三字右○〕とよめる例あり、といへり、吾妹《ワギモ》は、吾妹子よ、といふ意なり、○歌(ノ)意は、わが乘てゆく赤駒の足掻が速ければ、いとはやも、雲居はるかにかくれ行むぞ、吾(ガ)容形《スガタ》の見えむかぎり、袖ふりて、招け、吾妹子よ、といへるなり、是は女の家を出去るときによめる、男の歌なり、二(ノ)卷に、青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲコマノアガキヲハヤミクモヰニソイモガアタリヲスギテキニケル》、
 
2511 隱口乃《コモリクノ》。豐泊瀬道者《トヨハツセヂハ》。常滑乃《トコナメノ》。恐道曾《カシコキミチソ》。戀由眼《ナガコヽロユメ》。
 
常滑《トコナメ》(滑(ノ)字、舊本に濟と作るは誤なり、今は古寫本、活字本、拾穗本等に從つ、)は、一(ノ》卷、九(ノ)卷にも出て、既く註(ヘ)り、川底の石につきたる滑《ナメ》りなり、○戀由眼は、もとのまゝにて、コフラクハユメ〔七字右○〕と訓ては、解べきやうなし、(略解に、アカシテヲアユケ〔七字右○〕などあるべき所なり、といへれど、いかゞな(213)り、)今按(フ)に、戀は爾心(ノ)二字なりけむを、戀と見て誤れるなるべし、さらばナガコヽロユメ〔七字右○〕と訓べし、七(ノ)卷に、向峯爾立有桃樹成哉等人曾耳言爲汝情勤《ムカツヲニタテルモヽノキナリヌヤトヒトソサヽメキシナガコヽロユメ》、とあるを合(セ)考(フ)べし、さて爾(ノ)字をナ〔右○〕とよませたるは、これも七(ノ)卷に、爾音聞者《ナガコヱキケバ》、とあり、かくて今の歌の爾《ナ》は、男をさして云るなり、凡て汝《ナ》とは、後にこそ、いやしむ方にのみいへど、そのもとは、尊みたる方に いふ詞にて、女より男をさして、汝《ナ》と云ること、往々《トコロ/”\》見えたり、(後(ノ)世のならはしをわすれて、古言をあやしむことなかれ、)四(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)歌に、千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋渡須奈我來跡念者《チドリナクサホノカハトノセヲヒロミウチハシワタスナガクトモヘバ》、又同郎女(ノ)歌に、汝乎與吾乎人曾離奈流乞吾君人之中言聞越名湯目《ナヲトアヲヒトソサクナルイデワギミヒトノナカコトキヽコスナユメ》、などある、これら皆男をさして汝《ナ》と云り、其(ノ)中にも此(ノ)一首は、初に汝《ナ》といひ、後に吾(カ)君といへる、みな同人をさせるにて、其(ノ)尊みいひし言なること著し、又此(ノ)上に、荒熊之住云山此師齒迫山責而雖問汝名者不告《アラクマノスムチフヤマノシハセヤマセメテトフトモナガナハノラジ》、とあるも、女より男をさして云り、と聞えたり、此(ノ)類猶多し、○歌(ノ)意は、泊瀬道は、河底の滑り多くて、恐《カシコ》くあやふき道なるぞ、汝の心をつゝしみて、ゆめ/\あやまち爲《シ》賜ふことなかれと、男の發《タチ》ていぬるに、いひやる女の歌にて、即(チ)右の歌に答へたるなり、(略解に、是は右の答にはあらず、たゞ同じ夜の歌なり、といへるは、ひがことなり、右の答として、よく聞えたるをや、
 
右二首《ミギフタウタ》〔三字各○で囲む〕。
 
上二首は、問答(ノ)歌なれば、こゝにかくあるべきが、舊本はまがひたるなり、
 
(214)2512 味酒之《ウマサケノ》。三侶乃山爾《ミモロノヤマニ》。立月之《タツツキノ》。見我欲君我《ミガホシキミガ》。馬之足音曾爲《ウマノアトソスル》。
 
味酒之《ウマサケノ》は、まくら詞なり、(略解に、之は乎(ノ)字の誤かといへるは、いみじきひがことなり、之にてよくきこえたるをや、但し、其は、味酒《ウマサケ》を釀《カミ》と云意にかゝれる詞なり、といふ説に、泥める誤なり、味酒乎《ウマサケヲ》といへる所もあれど、その乎《ヲ》は之《ノ》に通ふ言にて、意は同じことなるをや、をとめらが袖ふる山とも、をとめらを袖ふる山ともいへる類をも、おもふべし、既くこのことは、前に委(ク)辨へ云り、)○三毛侶乃山《ミモロノヤマ》は、豐泊瀬道《トヨハツセヂ》といふにつゞきたれば三輪山なり、と契冲はいへり、○立月之《タツツキノ》は、七(ノ)卷にも、朝月日向山月立所見《アサヅクヒムカヒノヤマニツキタテリミユ》云々、とありて、立のぼる月なり、(略解に、立は光(ノ)字を誤れるにや、テルツキノ〔五字右○〕とあるべし、といへるは、無稽(ノ)説なり、)さてこれまでは、見我欲《ミガホシ》といはむ料の序なり、○見我欲君我は、ミガホシキミガ〔七字右○〕と訓べし、見まくほしき君がと云むが如し、○歌(ノ)意は、相見まほしく思ひし男の、馬の足音のするを聞て、悦べるさまにて、かくれたるすぢなし、さて舊本、此(ノ)次に答歌なくして、左に、右三首としるせるは、まぎれて三首となれるを見てしるせる後人の所爲なるべし、○戀事意遣不得出行者山川不知來《コフルコトコヽロヤリカネイデユケバヤマモカハヲモシラズキニケリ》、(右見d上正述2心緒1歌中u、但以2間答故1累載2於茲1也、)などやうにあるべし、出行者《イデユケバ》は、道すがらの當時《ソノカミ》を云、不知來《シラズキニケリ》は、女(ノ)許に至れる即今《イマ》を云るにて、右の味酒之《ウマサケノ》云々に、答へたる歌とすべし、
 
右三首《ミギフタウタ》。
 
(215)三首は、二首に改作べし、右に云る如く、答歌の落失しによりて、理辨へぬ後人の手に、三と改(メ)作《カケ》るものなり、
 
2513 雷神《ナルカミノ》。小動《ヒカリトヨミテ》。刺雲《サシクモリ》。雨零耶《アメモフレヤモ》。君將留《キミヲトヾメム》。
 
小動は、本居氏云、小は光の誤にて、ヒカリトヨミテ〔七字右○〕ならむ、○雨零耶《アメモフレヤモ》は、雨もがなふれかしの意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2514 雷神《ナルカミノ》。小動《ヒカリトヨミテ》。雖不零《フラズトモ》。吾將留《アレハトマラム》。妹留者《イモシトヾメバ》。
 
小動、上の如し、○歌(ノ)意これもかくれなし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2515 布細布《シキタヘノ》。枕動《マクラウゴキテ》。夜不寐《ヨイモネズ》。思人《オモフヒトニハ》。後相物《ノチアフモノヲ》。
 
後相物は、ノチアフモノヲ〔七字右○〕と訓て、後に逢ものなるをの意なり、(略解に、後は復の誤、物は疑の誤にて、マタモアハムカモ〔八字右○〕なるべしと、といへるはわろし、)○歌(ノ)意は、わが物思ふ故に、ねいりがてにて、ねがへりねがへりするを、枕の動くによりて、ねいりがたきよしに言負《コトオホ》せて、さてかくいねがてに思ふ人には、後に必あふことのあるものなるを、さる心したまへ、といひやれるなるべし、此(ノ)上に、敷細枕動而宿不所寢物念此夕急明鴨《シキタヘノマクラウゴキテイネラエズモノモフコヨヒハヤモアケヌカモ》、とあり、
 
2516 敷細布《シキタヘノ》。枕人《マクラニヒトハ》。事問哉《コトトヘヤ》。其枕《ソノマクラニハ》。苔生負爲《コケムシニタリ》。
 
(216)苔生負爲は、(負はニ〔右○〕の假字なり、荷とかけるに同じ、字書にも、負(ハ)擔也背荷也、とあり、)コケムシニタリ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、コケオヒニタリ〔七字右○〕とよめるは非なり、)さて契冲が云る如く、まことに枕に苔の生ることはなけれど、ちりばみてあるを、問來ぬほどの久しきよしに、かくはいへり、上にも、結※[糸+刃]解日遠敷細吾木枕蘿生來《ユヘルヒモトキシヒトホミシキタヘノワガコマクラニコケムシニケリ》、とあり、○歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水、此は、枕うごきて、よをも寐ず、と君のの賜ふは、枕にの賜ふことにや、必(ズ)われにの賜ふことにはあらじ、その君の言問賜ふ枕は、君の久しく來ていもねたまはねば、此(ノ)ごろは苔生にたりと、人の來ぬをなじりて、よめるなるべし、といへり、今按に、枕うごきて云々とのたまへども、しか吾にのたまふほどの心ならば、をり/\は來座(ス)べきに、枕に苔の生まで、久しく來まさぬは、吾を思ひてのたまふにはあらで、枕にのみ、こととひたまふことならし、となるべし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
〔以前九首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
九(ノ)字、十に改むべし、
 
2808 眉根掻《マヨネカキ》。鼻火※[糸+刃]解《ハナビヒモトケ》。待八方《マテリヤモ》。何時毛將見跡《イツカモミムト》。戀來吾乎《コヒコシアレヲ》。
 
歌(ノ)意は、何時か相見むと思來にし吾を、そこにも眉根掻《マヨネカキ》、鼻鳴《ハナビ》、※[糸+刃]解《ヒモトケ》など、その前表《シルシ》ありて、吾を待りしや、さても歡しきこと、となり、
 
(217)〔右上見2柿本朝臣人麿之歌集中1。但以2問答故1累載2於茲1也。〕此は上に、尾(ノ)句|念吾君《オモヒシワギミ》、と異《カハ》れるのみにて、全(ラ)同歌を載たるを云り、但念吾君にては、理叶ひがたければ、今のを正とすべし、
 
2809 今日有者《ケフシアレバ》。鼻之鼻之火《ハナビシハナビ》。眉可由見《マヨカユミ》。思之言者《オモヒシコトハ》。君西在來《キミニシアリケリ》。
 
今日有者は、ケフシアレバ〔六字右○〕と訓べし、時し有ばと云も、時が有ばと云意なるにて、准(フ)べし、(ケフナレバ〔五字右○〕とよめるは、いとわろし、今日なればは、今日にあればと云意なればなり、)君を相見る今日が有ばと、一(ト)すぢに歡べる意なり、○鼻之鼻之火といへる、穩ならず、今按(フ)に、鼻火之鼻火とありしが、混てかく誤れるなるべし、さらばハナビシハナビ〔七字右○〕と訓べし、嚔之嚔《ハナビシハナビ》にて、之《シ》は助辭なり、思《オモヒ》を、思之思《オモヒシオモヒ》など云と同例にて、嚔《ハナビ》ることの絶ざるをいふ言なり、○言は、借(リ)字にて事なり、○歌(ノ)意は、かく君を相見る今日があるにておもへば、さきに嚔《ハナビ》眉癢《マヨカユ》みなどして、戀しく思しことは、君が來まさむの前相《シルシ》にてこそありけれ、と一すぢによろこべるなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2810 音耳乎《オトノミヲ》。聞而哉戀《キヽテヤコヒム》。犬馬鏡《マソカヾミ》。目直相而《タヾニアヒミテ》。戀卷裳大口《コヒマクモオホク》。
 
犬馬鏡《マソカゾミ》は、枕詞なり、犬馬は、喚犬追馬と書べきを、省て書り、○目直相而は、メニタヾニミテ〔七字右○〕と訓たれど、穩ならず、相(ノ)字ミ〔右○〕と訓も、例にたがへり、(相をミル〔二字右○〕と訓べきは、論無れども、集中の例(218)みな、アヒ、アフ〔四字右○〕といふにのせ用ひたるをおもへ、)今按(フ)に、直相見而とありしを、見(ノ)字を目に誤り、且《マタ》相の上に混入しなるべし、さらばタヾニアヒミテ〔七字右○〕と訓べし、○大(ノ)字、舊本に太と作るは誤なり、大は、(借(リ)字)多《オホ》の意なり、○歌(ノ)意は、契冲、音のみ聞たるばかりにこひむものかは、聞たるばかりにだに、こふる我なれば、たゞちに相見て、後こひむことのおほさは、かねて知(ラ)るゝとなり、といへり、
 
2811 此言乎《コノコトヲ》。聞跡乎《キカムトナラシ》。眞十鏡《マソカヾミ》。照月夜裳《テレルツクヨモ》。闇耳見《ヤミノミニミツ》。
 
聞跡乎は、契冲、乎は手(ノ)字のあやまりにて、下に鴨、鳧などの字のおちたるにや、聞跡手鴨とあらば、キカムトテカモ〔七字右○〕とよむべし、といへり、(岡部氏も、此(ノ)説然るべし、といへり、)今按に、トテ〔二字右○〕と屬きたること、古言にあることなし、又|可毛《カモ》と云て、下に見都《ミツ》と承《ウケ》たるも、いかゞ、されば、聞跡有之などありけむを、草書より誤れるにや、さらばキカムトナラシ〔七字右○〕と訓べし、○眞十鏡《マソカヾミ》は、即(チ)上のかけ歌にあるをうけて、こゝは照《テル》の枕詞とせり、○歌(ノ)意は、契冲、贈れる歌に、ふかく我をおもふよしをいへれば、君がかゝる言を聞むとてにや、われも此(ノ)ごろ君をこひて、鏡のごとくてれる月夜も、かきくるゝ心に、やみのやうに見なしつるならむ、さては同じ心のかよひけるにや、といひやるなり、といへるがごとし、十二に、久將在君念爾久堅乃清月夜毛闇夜耳見《ヒサニアラムキミヲオモフニヒサカタノキヨキツクヨモヤミノミニミツ》、四(ノ)卷に、照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二《テラスヒヲヤミニミナシテナクナミダコロモヌラシツホスヒトナシニ》、
 
(219)右二首《ミギフタウタ》
 
2812 吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀而爲便無三《コヒテスベナミ》。白細布之《シロタヘノ》。袖反之者《ソテカヘシシハ》。夢所見也《イメニミエキヤ》。
 
袖反《ソテカヘス》とは、思ふ人を、夢見むとてするわざにして、古今集にも、いとせめて戀しき時はぬば玉の夜の衣をかへしてぞぬる、と見え、集中にも、さるさまなる歌甚多し、さて袖をかへすと云は、契冲、衣をかへさゞれば袖もかへらざれば、袖をかへすは、やがて衣をかへすなり、指は手につきたる物なれど、ゆびを折を、手を折と云に准ふべし、と云るが如し、(但衣をかへすことを、袖をかへすと云は、末を云て本をしらすなり、指ををることを、手を折(ル)と云は、本を云て末をしらすなり、されば末を云と、本を云と、相|反《ソム》くがごとくにして、又おのづから相|對《ムカ》ふことなれば、准ふべしとはいへるならむ、)十二に、白細布之袖折反戀者香妹之容儀乃夢二四三湯流《シロタヘノソテヲリカヘシコフレバカイモノスガタノイメニシミユル》、○歌(ノ)意は、いとせめて戀しき心のせむすべなさに、夜の衣をかへしてねて、そこを夢に見たりつるを、そこの夢にも見えつるや、いかに、と問なり、
 
2813 吾背子之《ワガセコガ》。袖反夜之《ソテカヘスヨノ》。夢有之《イメナラシ》。眞毛君爾《マコトモキミニ》。如相有《アヘリシゴトシ》。
 
如相有は、アヘリシゴトシ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、わが夫子《セコ》が、衣を返して、寢賜ひて、吾を夢に見しとのたまふ、その夜の夢にてこそありけらし、眞にあり/\と、君にあへるが如く見え侍りしは、吾も心かよひける故にや、と答へたるなり、
 
(220)右二首《ミギフタウタ》。
 
2814 吾戀者《ワガコヒハ》。名草目金津《ナグサメカネツ》。眞氣長《マケナガク》。夢不所見而《イメニミエズテ》。年之經去禮者《トシノヘヌレバ》。
 
眞氣長《マケナガク》は、眞《マ》は美稱にて、來經長《キヘナガク》なり、日月《ツキヒ》長くといはむが如し、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、夢にだにも、見えよかしと思へども、夢にも見えずして、年を經ぬれば、今は吾(カ)心を、何にか慰さめ侍らむ、となり、
 
2815 眞氣永《マケナガク》。夢毛不所見《イメニモミエズ》。雖絶《タエヌトモ》。吾之片戀者《ワガカタコヒハ》。止時毛不有《ヤムトキモアラジ》。
 
歌(ノ)意、夢にも見えずとの賜ふは、われをおもふ心のうすきが故なるべし、よしやそこには、夢にも見賜はず思ひ絶賜ふとも、わが片戀は、止期《ヤムトキ》もさらにあらじ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2816 浦觸而《ウラブレテ》。物魚念《モノナオモヒソ》。天雲之《アマクモノ》。絶多不心《タユタフコヽロ》。吾念魚國《アガモハナクニ》。
 
天雲之《アマクモノ》は、枕詞なり、雲の中空《ナカソラ》に立て、行ともなく、居るともなき意をもて、猶豫《タユタフ》とつゞきたり、○魚國の魚(ノ)字、拾穗本には、莫と作り、○歌(ノ)意は、さのみうなたれて、物思ひたまふことなかれ、今しばし障ることのあればこそ、絶たるごとくにも侍れ、猶豫《タユタヒ》て定まらぬやうの心を、われはおもはねば、未遂(ゲ)ぬことはあらじものを、と云なるべし、
 
2817 浦觸而《ウラブレテ》。物者不念《モノハオモハジ》。水無瀬川《ミナセガハ》。有而毛水者《アリテモミヅハ》。逝云物乎《ユクチフモノヲ》。
 
(221)歌(ノ)意は、水無瀬川《ミナセガハ》とて、水の絶たるごとくなれども、なほあり/\と、水は下に通ふ如く、うへには、絶たる中と見ゆれども、下に通はす心ざしの互に絶ぬが、末たのもしければ、さのみ物は思はじを、となり、古今集に、みなせ川ありて行水なくばこそ終に我(カ)身をたえぬとおもはめ、今の歌をとれるなるべし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2818 垣津旗《カキツハタ》。開沼之菅乎《サキヌノスゲヲ》。笠爾縫《カサニヌヒ》。將著日乎待爾《キムヒヲマツニ》。年曾經去來《トシソヘニケル》。
 
垣津旗《カキツハタ》は、枕詞なり、燕子花《カキツハタ》の開とかゝれり、○開沼《サキヌ》は、大和(ノ)國添下(ノ)郡|佐紀沼《サキヌ》なり、○歌(ノ)意は、互に心通はしながら、打あらはして、夫妻とならむほどを待に、年を經しことを、菅を笠に縫ながら、さて着ずして、おきふるしたるに、たとへたり、
 
2819 臨照《オシテル》。難波菅笠《ナニハスガカサ》。置古之《オキフルシ》。後者誰將著《ノチハタレキム》。笠有魚國《カサナラナクニ》。
 
魚(ノ)字、古寫本、類聚抄、阿野本、拾穗本等には、莫と作り、○歌(ノ)意は、のたまふごとく、著む日を待賜ふ内に、年を經て置舊し、古物になりはてぬとも、後逐に他人の著む笠ならねば、君こそ著賜ふべきなれ、と云て、打あらはして、妻と爲賜はむを待うちに、年ふりて、いたづらの孃《オミナ》となりはてぬとも、つひに君にこそよりなめ、外に夫《ヨスガ》とたのむ人はあらぬものを、といふ意を、たとへたるなるべし、
 
(222)右二首《ミギフタウタ》。
 
2820 如是谷裳《カクダニモ》。妹乎待南《イモヲマチナム》。左夜深而《サヨフケテ》。出來月之《イデコシツキノ》。傾二手荷《カタブクマデニ》。
 
如是谷裳《カクダニモ》は、如(ク)v此(ノ)夜は更行たりとも、と云なり、○歌(ノ)意は、東山より出來し月が、夜更て西山(ノ)末に傾くまでになりぬ、如(ク)v此(ノ)深行たれども、なほ心長く、妹を待なむ、といへるなるべし、四三五一二と句を次第て心得べし、待は女の門にいたりて、夜更てしのび出來(ム)を待よしなり、
 
2821 木間從《コノマヨリ》。移歴月之《ウツロフツキノ》。影惜《カゲヲヲシミ》。徘徊爾《タチモトホルニ》。左夜深去家里《サヨフケニケリ》。
 
歌(ノ)意は、速く家を出來て、君にあはむと思へども、木(ノ)間よりもり來て、依移れる月影の、いとさやかなれば、この月影に、見あらはされなむことの、さすがに名の惜ければ、今少し、月のかたぶかむほどを待て、出むとして、得出もやらず、立もとほりし間に、心ならず時をうつして、夜深にけり、といへるなるべし、實は月影を厭へる歌なれど、打つけにさはいはで、月影を愛で惜めるやうにいへること、面白かるべし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2822 栲領巾乃《タクヒレノ》。白濱浪乃《シラハマナミノ》。不肯緑《ヨリモアヘズ》。荒振妹爾《アラブルイモニ》。戀乍曾居《コヒツヽソヲル》。
 
栲領巾乃《タクヒレノ》は、枕詞なり、栲領巾とは、栲にてつくれる白き領巾なり、さて白濱とつゞけたり、○白濱浪乃《シラハマナミノ》は、縁《ヨリ》といはむ料の序なり、不肯《アヘズ》といふまでにはかゝらず、ふるの早田の穗には出(223)ずの例なり、さて白濱は、契冲、たゞまさごの白くしき滿たる濱をいへり、名處にはあらず、六(ノ)卷に、赤人の、藤江(ノ)浦にてよまれたる歌に、清き白濱とよまれたるにて知べし、といへり、○不肯縁《ヨリモアヘズ》とは、縁《ヨル》は、荒振《アラブル》の反對《ウラ》にて、歸《ヨ》り懷《ナツク》を云、されば不《ズ》2肯狎親《アヘテナレチカヅカ》l、といふが如し、○荒振《アラブル》は、疎振《ウトブル》といふに同じ、(疎遠になるを云言なり」つくし舟いまだもこねばあらかじめ荒ぶる君を見むが悲さ、とよめる荒振《アラブル》に同じ、上にも、妹之髪上小竹薬野之放駒蕩去家良思不合思者《イモガカミカミタカハヌノハナチコマアラビニケラシアハナクモヘバ》、とあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○舊本に、一云戀流己呂可母、と註せり、
 
2823 加敝良末爾《カヘラマニ》。君社吾爾《キミコソアレニ》。栲領巾之《タクヒレノ》。白濱浪乃《シラハマナミノ》。緑時毛無《ヨルトキモナキ》。
 
加敝良未爾《カヘラマニ》は、契冲云、却而《カヘリテ》なり、末《マ》は、あはずま、こりずまなどのたぐひに、そへたる辭なり、○社《コソ》と云て、伎《キ》と結る例、此(ノ)上にも見えたり、委(ク)一(ノ)卷にいひたりき、○歌(ノ)意は、吾を疎ぶるとのたまへども、吾は君をしたへども、中々に君こそ吾をうとみて、狎親《ナレチカヅ》く時の無(キ)なれ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2824 念人《オモフヒト》。將來跡知者《コムトシリセバ》。八重六倉《ヤヘムグラ》。覆庭爾《オホヘルニハニ》。珠布益乎《タマシカマシヲ》。
 
八重六倉《ヤヘムグラ》は、彌重葎《ヤヘムグラ》にて、草生繁りたる謂なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、十九に、牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之座牟等知者玉之可麻思乎《ムグラハフイヤシキヤドモオホキミノマサムトシラバタマシカマシヲ》、六(ノ)卷に、豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎《アラカジメキミキマサムトシラマセバカドニヤドニモタマシカマシヲ》、
 
(224)2825 玉敷有《タマシケル》。家毛何將爲《イヘモナニセム》。八重六倉《ヤヘムグラ》。覆小屋毛《オホヘルヲヤモ》。妹與居者《イモトヲリテバ》。
 
小屋《ヲヤ》は、古事記神武天皇(ノ)大御歌に」阿斯波良能志祁去岐袁夜邇《アシハラノシケコキヲヤニ》云々、○居者《ヲリテバ》は、居《ヲリ》たらばの意なり、○歌(ノ)意は、玉敷る家も何にかはせむ、彌重葎の茂りおほへる賤しき小屋《ヲヤ》も、妹と二人居たらば、何のあき足ぬことかはあらむ、となり、伊勢物語に、思ひあらば葎のやどにねもしなむひしきものには袖をしつゝも、六帖に、何せむに玉のうてなも八重むぐらはへらむ中にふたりこそねめ、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
2826 如是爲乍《カクシツヽ》。有名草目手《アリナグサメテ》。玉緒之《タマノヲノ》。絶而別者《タエテワカレバ》。爲便可無《スベナカルベシ》。
 
歌(ノ)意は、この年ごろ共にあり/\て、かく相なぐさめつゝ居しを、今遠く別れて、相見ることの絶なば、戀しき心の、せむすべなくあるべし、と云るにて、相馴し夫の、遠境へ旅に行ときよめる、女の歌なるべし、
 
2827 紅《クレナヰノ》。花西有者《ハナニシアラバ》。衣袖爾《コロモテニ》。染著持而《ソメツケモチテ》。可行所念《ユクベクオモホユ》。
 
染著持而《ソメツケモチテ》は、たゞ染着而《ソメツケテ》なり、持《モチ》は、身に附るを云辭なり、青柳の枝くひ持《モチ》て、白さぎの桙くひ持《モチ》て、などの持《モチ》に同じ、○可行所念は、ユクベクオモホユ〔八字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、紅顔《ニホヘ》る妹は、紅(ノ)花にてもがなあれかし、もし妹が、紅(ノ)花にはあるならば、衣に染付て、いづこまでも、したがへ行(225)べきに、さることもならねば、せむすべなく、かなしくおもはるゝ、となり、契冲云、意を得て、言をすてたる返歌なり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
譬喩《タトヘウタ》。十三首。人麿集外。〔七字□で囲む〕
 
2828 紅之《クレナヰノ》。深染乃衣乎《コソメノキヌヲ》。下著者《シタニキバ》。人之見久爾《ヒトノミラクニ》。仁寶比將出鴨《ニホヒイデムカモ》。
 
人之見久爾(之(ノ)字、舊本に者と作るは誤なり、今は中院本、拾穗本、等に從つ、)は、ヒトノミラクニ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、花艶《ハナヤギ》たる女に、なれ近(ヅ)きなば、たとひ密々《シノビ/\》に通ふとも、元來《モトヨリ》人(ノ)目のつく女なる故に、とく顯れなむか、嗚呼さりとて、かくて止べきにあらぬものなるを、といふを、深染《コソメ》の衣を下には著たりとも、色の光り透りて、表にあらはれむかと云に、譬へたるならむ、
 
2829 衣霜《コロモシモ》。多在南《サハニアラナム》。取易而《トリカヘテ》。著者也君之《キセバヤキミガ》。面忘而有《オモワスレタラム》。
 
箱《シモ》(借(リ)字)は、多かる物の中を、取出ていふ助辭なり、○多在南は、サハニアラナム〔七字右○〕と訓べし、○著者也は、キセバヤ〔四字右○〕と訓べし、○君之面忘而有《キミガオモワスレタラム》は、君が面を、吾(ガ)忘れてあらむ、と云意なり、(略解に、君がは、君をといふ意なり、と云るは、たがへり、)上に、面忘何有人之爲物烏言者爲金津繼手志念者《オモワスレイカナルヒトノスルモノソアレハシカネツツギテシモヘバ》、又、面忘太爾毛得爲也登手握而雖打不塞戀之奴《オモワスレダニモエセマヤトタニギリテウテドサヤラズコヒノヤツコハ》、これらは、人の面を自《ミ》忘るゝをも云、吾(ガ)面を他《ヒト》の忘るゝをも云るにて、面忘《オモワスレ》の言はひとつぞ、而有は、岡部氏の、タラム〔三字右○〕と訓る、然るべ (226)からむ、○歌(ノ)意は、色異なる衣を着れば、其(ノ)人を見違ること、あるならひなれば、われに衣のかずおほくしもあれかし、さらば其をとりかへつゝ、君に著させなば、其(ノ)衣の色の異《カハ》れるまぎれに、もし君が面をも、見わするゝこともあらむ歟、さあらむには、かく切なる思の、少しゆるぶこともあるべきをと、思ひのあまりに、をさなくいへるにや、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。寄《ヨセテ》v衣《コロモニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
2830 梓弓《アヅサユミ》。弓束卷易《ユツカマキカヘ》。中見判。更雖引《サラニヒクトモ》。君之隨意《キミガマニマニ》。
 
中見判は、舊本に、アヲミテハ〔五字右○〕と訓たれど、平穩ならず、(契冲、此(ノ)歌は、我を捨て、人にうつりたる男の、又立歸りいふときによめる、女の歌ときこゆ、弓束卷易《ユツカマキカヘ》とは、弓束のふりたると思ひて、新しき革に卷かへたれども、心ゆかずして、もとの弓束に思ひかへして引(ク)、とたとへたり、さはありとも、我はかはる心もなし、君がまゝに隨ひよらむ、とよめるなり、と云り、さる意にはあるべし、岡部氏、中見判は、ナカミテハ〔五字右○〕と訓べし、弓束の革は、纏易るとき、内を見るものなるに譬て、女をこゝろみるを云、さてうち/\試て、後にはなれて、さらにいひよるは、にくむべきことなれど、わが心のよりし君なれば、ともかくもといふなり、と云り、おぼつかなき説なり、)且判(ノ)字、ハ〔右○〕の假字に用たる例なし、必誤字なるべし、猶よく考(フ)べきことにこそ、〔頭註、【山田清賢云、中見判は、ナカミワリと訓べし、】〕
 
(227)右一首《ミギノヒトウタハ》。寄《ヨセテ》v弓《ユミニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
2831 水沙兒居《ミサゴヰル》、渚座船之《スニヲルフネノ》。夕塩乎《ユフシホヲ》。將待從者《マツラムヨリハ》。吾社益《アレコソマサメ》。
 
水沙兒居《ミサゴヰル》(水(ノ)字、舊本に氷と作るは誤なり、今は官本、古本、活字本、拾穗本等に從つ、)は、枕詞なり、○吾社益は、アレコソマサメ〔七字右○〕、或はアコソマサラメ〔七字右○〕など訓べし、(略解に、ワレコソマサレ〔七字右○〕とよめるは、いとわろし、)○歌(ノ)意、洲にかゝれる舟の、舟出せむとて、夕汐のみちくるを、汐待して居るほどよりも、切なることは、君を待(ツ)わが心こそまさりたらめ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。寄《ヨセテ》v船《フネニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
2832 山河爾《ヤマガハニ》。筌乎伏|置〔○で囲む〕而《ウヘヲフセオキテ》。不肯盛《モリアヘズ》。年之八歳乎《トシノヤトセヲ》。吾竊舞師《アヲヌスマヒシ》。
 
筌乎伏而は、舊本に、ウヘヲフセオキテ〔八字右○〕とよめるからは、伏の下、置(ノ)字の落しこと著し、故(レ)舊訓によりて、姑(ク)補入つ、筌《ウヘ》は、和名抄に、野王按(ニ)、筌(ハ)捕v魚(ヲ)竹※[竹/句]也、※[竹/句](ハ)取v魚(ヲ)竹器也、和名|宇倍《ウヘ》、とあり、山川などの、水の早く落る所に伏(セ)置て、魚を捕るものにて、世(ノ)人のよくしるところなり、○不肯盛《モリアヘズ》とかけるは、盛は借(リ)字にて、不《ズ》v敢《アヘ》v守《モリ》なり、筌《ウヘ》を伏(セ)置たるところには、人居(ヱ)て、目をはなたず守らすることなるに、其(ノ)守る人の、時置ず守り敢ずして、たゆむ事あれば、その間をうかゞひて、筌に入たる魚を、人の盗み取ゆゑに、こゝは尾(ノ)句の竊舞《ヌスマヒ》をいはむ料の序に、まうけいへるなり、○年之八歳乎《トシノヤトセヲ》は、數多《アマタ》の歳をといふほどの意なり、十三にも、歳乃八歳※[口+立刀]鑽髪乃《トシノヤトセヲキルカミノ》云々、とあり、(228)(集中に、年《トシ》の五年《イツトセ》などもよめり、)こゝは必(ズ)八年に限るにあらず、彌年《ヤトセ》の義にとりても違はざるなり、○吾竊舞師(舞(ノ)字、古寫本、拾穗本等には※[人偏+舞]と作り、)は、アヲヌスマヒシ〔七字右○〕と訓べし、(ワガヌスマヒシ〔七字右○〕とよみては、意違へり、)そも/\盗むとは、垣おしやぶり、ついぢ乘越などして、人の家の物を掠《カソ》ひ取(ル)を云こと常なれど、こゝはそれとはいさゝか異にて、言《コトバ》にて人を掠《カス》むる意にて、此(ノ)上に、情左倍奉有君爾何物乎鴨不云言此跡吾將竊食《コヽロサヘマツレルキミニナニヲカモイハズテイヒシトアガヌスマハム》、とあると同じく、なきものを有がほにいひなし、有(ル)物を無(キ)さまにいひなして、人を欺くを、竊《ヌス》むといへるなり、(この竊舞師《ヌスマヒシ》を、ひとへに譬とのみ見たるから、昔來(リ)歌(ノ)意を解たがへたり、故(レ)今くだくだしくいへり、なほ次にもいふべし、)○歌(ノ)意は、(本(ノ)句は序のみにて、歌(ノ)意にはあづからず、)われに心よせがほにいひなして、この數多の年ごろをたのませつゝ、つひに打とくるともなくて、われを欺きしが口(チ)をしく、恨めしきこと、といふなり、(然るを、こゝの左註に、寄v魚喩v思、とあるに、深くまどひて、昔來(リ)此(ノ)歌を、山川に筌を伏て守るとすれどなほ魚をぬすまるゝにたとへて、わが思ふ女を、父母などの守れども、此(ノ)年のやとせのほど、ひま/\をうかゞひて、しのび通ひて、相かたらひし、といふ意なり、と心得來つるは、いたくたがへることなり、)
 
右一首《ミギヒトウタハ》。寄《ヨセテ》v魚《ウヲニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
2833 葦鴨之《アシカモノ》。多集池水《スダクイケミヅ》。雖溢《ハフルトモ》。儲溝方爾《マケミゾノヘニ》。吾將越八方《アレコエメヤモ》。
 
(229)多集《スダク》は、字(ノ)意にて、多く群(レ)集るを云、○儲溝《マケミゾ》は、池に水の溢るとき、流し遣む料に、穿(リ)儲(ケ)たる遣溝なり、○歌(ノ)意は、おもひかけたる人に、逢ことかたくして、池水の溢る如く、思(ヒ)は胸にあまるとも、あたし心をもたねば、君ならずして、たとひ逢易からむ人ありとも、溢る水の、遣(リ)溝の方へ流れゆく如くに、外に心をうつす事はせじ、となり、上に、荒磯越外在波乃外心吾者不思戀而死鞆《アリソコエホカユクナミノホカゴヽロアレハオモハジコヒテシヌトモ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。寄《ヨセテ》v水《ミヅニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
水(ノ)字を、鳥と作る本は用ゐがたし、
 
2834 日本之《ヤマトノ》。室原乃毛桃《ムロフノケモヽ》。本繁《モトシゲク》。言大王物乎《イヒテシモノヲ》。不成不止《ナラズハヤマジ》。
 
室原乃毛桃《ムロフノケモヽ》は、室原《ムロフ》は、和名抄に、大和(ノ)國城下(ノ)郡|室原《ムロフ》、これ室生山といふ靈地なり、村も有なり、と契冲は云り、大和志に、室生山、宇陀(ノ)郡室生村、有2安明寺嶽、愛宕嶽、毘沙門嶽等(ノ)支別1、又有2嶽窟二1、曰2仙人(ト)1、一曰2護摩(ト)1、窟前(ノ)井曰2壺井1、峯聳谷深、清巖遮v路(ヲ)、眞塵外之境、といへり、式に、大和(ノ)國宇陀(ノ)郡室生龍穴(ノ)神社、(後紀十三に、大和(ノ)國室生山龍穴寺、)と見えたるによらば、宇陀(ノ)郡なるべし、毛桃《ケモヽ》は、子《ミ》に毛(ノ)生たるさまなればいへり、さて毛桃の木の本《モト》繁《シゲク》とつゞけ下したる序なり、○本繁《モトシゲク》、七(ノ)卷に、波之吉也思吾家乃毛桃本繁花耳聞而不成在目八方《ハシキヤシワギヘノケモヽモトシグクハナノミサキテナラザラメヤモ》、とあり、こゝは本繁は、毛桃のつゞきの縁《ヨセ》にいへるのみにて、本《モト》の言は歌に用なし、歌(ノ)意は、たゞ繁《シゲク》なり、○歌(ノ)意は、互に親(230)言《チカコト》を繁くいひかはし、契り結《カタ》めしからは、末遂に、實《ミ》にならずしては止じものを、となり、成《ナル》は、桃(ノ)實の成によせたり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。寄《ヨセテ》v菓《コノミニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
2835 眞葛延《マクズハフ》。小野之淺茅乎《ヲヌノアサチヲ》。自心毛《コヽロヨモ》。人引目八面《ヒトカラメヤモ》。吾莫名國《アレナケナクニ》。
 
眞葛延《マクズハフ》は、枕詞なり、○淺茅《アサチ》は、女を譬へたり、○人引目八面は、引は、刈(ノ)字の誤にてヒトカラメヤモ〔七字右○〕ならむ歟、と略解にいへり、七(ノ)卷に、於君似草登見從我標之野山之浅茅人莫刈根《キミニニルクサトミシヨリアガシメシヌヤマノアサチヒトナカリソネ》、ともよめるをおもへば、實にさもあるべし、淺茅を引(ク)とては、似つかはしからず、必(ス)刈(ル)なるべければなり、○吾莫名國は、アレナケナクニと訓て、吾にて莫《ナキ》にはあらぬものをの意なり、一(ノ)卷に、吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流君莫勿久爾《ワガオホキミモノナオモホシスメカミノツギテタマヘルキミナケナクニ》、(君(ノ)字、吾とあるは誤なり、)四(ノ)卷に、吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《ワガセコハモノナオモヒソコトシアラバヒニモミヅニモアレナケナクニ》、十五に、多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎須久奈久毛伊母爾戀都々須敝奈家奈久爾《タビトイヘバコトニソヤスキスクナクモイモニコヒツヽスベナケナクニ》、などある、皆同例なり、○歌(ノ)意は、あらかじめ標《シメ》結《ユヒ》置し、吾にて莫にはあらぬものを、時いたりなば、そのうるはしき小野の淺茅を刈て、吾(ガ)物とせむ、他し人の心まかせに、刈とることを得めやは、となり、
 
2836 三島菅《ミシマスゲ》。未苗在《イマダナヘナリ》。時待者《トキマタバ》。不著也將成《キズヤナリナム》。三島菅笠《ミシマスガカサ》。
 
三島菅《ミシマスゲ》は、三島は、攝津(ノ)國八部(ノ)郡の地(ノ)名にて、上に見ゆ、菅に名たゝる地なり、(現存六帖に、もの(231)のふのゆつかにまけるみしますげみしまゝながらとけぬつれなさ、)菅は女を譬へたり、七(ノ)
 
卷に、眞味付越能菅原吾不苅人之苅卷惜菅原《マタマツクヲチノスガハラアレカラズヒトノカラマクヲシキスガハラ》、十三に、師名立都久麻左野方《シナタツツクマサヌカタ》、息長之遠智能小菅《オキナガノヲチノコスゲ》、不連爾伊苅持來《アマナクニイカリモチキ》、不敷爾伊刈持來而《シカナクニイカリモチキテ》、置而吾乎令偲《オキテアレヲシヌハス》、息長之遠智能子菅《オキナガノヲチノコスゲ》、など見え、此(ノ)上にも、開沼之菅乎笠爾縫《サキヌノスゲヲカサニヌヒ》、また難波菅笠《ナニハスガカサ》、などある、これらみな、女を菅に譬へたるなり、そも/\女を菅に譬ることは、古事記仁徳天皇(ノ)大御歌に、夜多能比登母登須宜波《ヤタノヒトモトスゲハ》、古母多受多知迦阿禮那牟《コモタズタチカアレナム》、阿多良須賀波良《アタラスガハラ》、許登袁許曾《コトヲコソ》、須宜波良登伊波米《スガハラトイハメ》、阿多良須賀志賣《アタラスガシメ》、とあるは、八田(ノ)若郎女を詔へるにで、其を須賀志女《スガシメ》とのたまはむがために、菅原をまづ詔へるなり、この大御歌に原《モトヅ》きて、すべて女を、やがて菅に譬へて云ことになれり、と見えたり、○未苗在《イマダナヘナリ》、三(ノ)卷に、春霞春日里之殖子水葱苗有跡云師柄者指爾家牟《ハルカスミカスガノサトノウヱコナギナヘナリトイヒシエハサシニケム》、苗は、稻のみにかぎらず、よろづの草木《キクサ》のちひさきほどをいふなり、今も松苗《マツナヘ》、杉苗《スギナヘ》などいふもこれなり、と契冲云り、○歌(ノ)意は、いまだ幼《イトケナ》き女の、いとをかしげなるを、己が物と心に領居《シメヲリ》ながら、其(ノ)年立て人とならむほどを待ば、他人にえられて、我(カ)妻とならず成なむ歟、といふを、菅のいまだ苗なりとて、時待て、刈取て笠に縫むとせば、他人の取(リ)て著て、我(カ)笠にすることを得ざらむ歟、と譬へたり、
 
2837 三吉野《ミヨシヌノ》。水具麻我菅乎《ミグマガスゲヲ》。不編爾《アマナクニ》。苅耳苅而《カリノミカリテ》。將亂跡也《ミダレナムトヤ》。
 
水具麻我菅《ミグマガスゲ》は、契冲云、水具麻《ミグマ》は、水の隈《クマ》にて、水の入(リ)曲りたる所なり、河隈《カハクマ》といふ意なり、そこ(232)にある菅なり、名所にあらず、○不編爾《アマナクニ》は、薦《コモ》に不《ナク》v編(マ)になり、十三に、不連爾《アマナクニ》とあるも同じ、さて女を、我(カ)物と領せぬにたとへたり、○歌(ノ)意は、心のあはむとうけ引たるものから、なほ我(カ)妻とも得定めずて、さま/”\思ひみだれなむとにや、と云を、菅を刈たるのみにて、なほ未(タ)薦に編(マ)ず、亂しおきなむとにや、といふにたとへたり、
 
2838 河上爾《カハカミニ》。洗若菜之《アラフタカナノ》。流來而《ナガレキテ》。妹之當乃《イモガアタリノ》。瀬社因目《セニコソヨラメ》。
 
河上は、河の上(ツ)方なり、(河上《カハカミ》のいつもの花、又、河上《カハカミ》のねじろたかゝやなどゝは、いさゝか意たがへり、)○洗若菜之《アラフワカナノ》、十四に、許乃河泊爾安佐奈安良布兒奈禮毛安禮毛《コノカハニアサナアラフコナレモアレモ》、云々、姓氏録に、譽田(ノ)天皇、爲v定(ム)2國堺(ヲ)1、事駕巡幸《クニメグリイデマシテ》、到(リタマフ)2針間(ノ)國神崎(ノ)郡|瓦《カハラノ》村東崗(ノ)上(リニ)1、于時《トキニ》青菜(ノ)葉自2崗邊(ノ)川1流(レ)下(リキ)、天皇|詔《ノリタマヒテ》應(シト)2川上《カハカミニ》有(ル)1v人也、仍差(テ)2伊許自《イコジ》別(ノ)命(ヲ)1徃(テ)問(シメタマフニ)即答曰、己(レ)等(ハ)、是日本武尊平(ケタマヒシ)2東夷1時、囚俘蝦夷之《トリコニセラレシエミシノ》後(ナリ)也、云々、○瀬社因目《セニコソヨラメ》は、瀬は、こゝはより處といふ處なるを、河の縁《チナミ》にいへるなり、後の歌に逢(フ)瀬と云、西行法師が、こゝを瀬に むとよみたる瀬と、同意の言なるべし、古事記上卷に、爾(ニ)伊邪那岐(ノ)命、告《ノリタマハク》桃子《モヽニ》1、汝《イマシ》如v助(シガ)v吾(ヲ)、於《ニ》2葦原(ノ)中國1、所有宇都志伎青人草之《アラユルウツシキアヲヒトグサノ》、落2苦瀬《ウキセニ》1而《テ》患惚《クルシマム》時(ニ)可(ト)v助|告《ノリタマヒテ》、賜2名號《ナヲタマヒキ》意富加牟豆美《オホカムヅミノ》命(トイフ)、云々、とある、この瀬も、その境界をいへるにて、今と同じき古言なり、○歌(ノ)意は、河上《カハカミ》にて洗ふ若菜の、とりはづして流るゝが、末の瀬による如く、われも末つひには妹が當りをより所にして、よらむぞ、と云なり、(六帖に、第三四(ノ)句を、流れても君が當(リ)のとして(233)載たり、)契冲、古今集に、大ぬさと名にこそたてれながれても終による瀬はありてふものを、後撰集に、貫之、わびわたるわが身は露をおなじくは君がかきねの草にきえなむ、千載集に、刑部範兼、妹があたりながるゝ川の瀬によらば沫となりてもきえむとぞ思ふ、これらは今の歌を本として、よまれたりとおぼゆ、といへり、
 
右四首《ミギノヨウタハ》。寄《ヨセテ》v草《クサニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
2839 如是爲哉《カクシテヤ》。猶八成牛鳴《ナホヤナリナム》。大荒木之杜之《オホアラキノ》。浮田之杜之《ウキタノモリノ》。標爾不有爾《シメナラナクニ》。
 
猶八成牛鳴は、契冲が、ナホヤナリナム〔七字右○〕とよめる、これよろし、牛鳴は、牟《ム》の借(リ)字なり、玉篇に、牟(ハ)亡侯(ノ)切牛鳴(ナリ)、とあり、(今も土佐(ノ)國にて、小兒詞に、牛をモウ〔二字右○〕といへり、これその鳴聲の牟《ム》を轉しいへるなり、契冲も、牛鳴の二字は、義をもて牟《ム》とよめり、牛のほゆる聲、しか聞ゆればなり、陀羅尼の中に、吽(ノ)字あり、※[合+牛]とおなじ、これを雲の音の如く常によめり、猶|宇牟《ウム》の上をすてゝ、牟《ム》とのみよむを習とす、其(ノ)吽(ノ)字、如2牛鳴1、と註したる所あり、今もそれに准じて心得べし、といへり、然るを岡部氏は、牛鳴は、毛《モ》に借(リ)用(ヒ)たりとて、ナホヤナラムモ〔七字右○〕と訓べきよしいへれど、わろし、さて此(ノ)一句、昔よりくさ/”\に説《イフ》めれど、穩ならず、まづ契冲が、こひの猶成ことやあらむ、といふ意に解たれど、いかゞなり、又略解に、成は朽の誤ならむ、といふ説によりて、戀のむなしく成を云ならむ、といへれど、おぼつかなし、)今按(フ)に、猶(ノ)字は書たれど、其は借(リ)字にて、五(ノ)卷令(234)v反2惑情(ヲ)1長歌の反歌に、比佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾《ヒサカタノアマヂハトホシナホナホニイヘニカヘリテナリヲシマサニ》、十四に、波布久受能比可利與利己禰思多奈保那保爾《ハフクズノヒカリヨリコネシタナホナホニ》、などある奈保《ナホ》と同言にて、云々せむと思ふことを、黙止《モダ》りて、徒《タヾ》に打過ることを云言なり、(なほざりのなほも、本同言なり、)なほ黙止《モダ》る意の奈保《ナホ》に、猶(ノ)字を借(リ)用(ヒ)たる例、續紀宣命に往々見えて、五(ノ)卷に引たるが如し、さて成《ナル》とは、終にさて止《ヤム》を云言にて、續紀廿二(ノ)詔に、吾《アカ》加久《カク》不《ズ》v申《マヲサ》成奈波《ナリナバ》、敢弖中人者《アヘテマヲスヒトハ》不《ジ》v在《アラ》、また、太(キ)政(ノ)大臣|止之弖《トシテ》、仕奉止勅部禮止《ツカヘマツレトノリタマレド》、數々辭備申多夫仁依弖《シバ/\イナビマヲシタブニヨリテ》、受賜多婆受成爾志事毛《ウケタマハリタバズナリニシコトモ》、悔止念賀故仁《クヤシトオモホスガユヱニ》云云、などある成《ナル》に同じ、さればこゝも、奈保奈保《ナホナホ》と黙《モダ》りて、終に止《ヤミ》なむやはの意なり、○大荒木《オホアラキ》は、契冲(ノ)説に、式に、大和(ノ)國宇智(ノ)郡荒木(ノ)神社、と載られ、又荒城氏ありて、大荒城なりけるを、大(ノ)字を除《ノゾ》けるよし、續日本紀の末にいたりて、有けるかとおぼゆ、もししからば、荒木《アラキ》は、すなはち大荒木《オホアラキ》なり、泊瀬《ハツセ》を、大泊瀬《オホハツセ》、豐泊瀬《トヨハツセ》といひ、比叡《ヒエ》を、大比叡《オホヒエ》ともいふがごとくなるべし、といへるが如し、○浮田之杜《ウキタノモリ》(杜(ノ)字、拾穗本には社と作り、)は、即(チ)荒木の地にある杜なるべし、大あらきの杜とよめるも、大荒木野にある浮田の杜を、やがて大荒木の杜といふなるべし、とこれも契冲いへり、○歌(ノ)意は、浮田の神社の神の御爲に、標繩をいかめしく引わたすことなれど、やがて、舊《フルビ》て、雨露のために朽《クタ》されて、無用物《イタヅラモノ》になりはつるを、その標繩にもあらぬ吾(カ)身なるを思(ヒ)し事の叶ふよしもなくして、たゞなほざりになりて、止なむやはといふなるべし、七(ノ)卷寄(235)v草譬喩歌に、如是爲而也尚哉將老三雲零大荒木野之小竹爾不有九二《カクシテヤナホヤオイナムミユキフルオホアラキヌノシヌニアラナクニ》、とて載たるは、同歌ながら、意いさゝか異《カハ》れり、既く彼處にいへり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。寄《ヨセテ》v標《シメニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
2840 幾多毛《イクバクモ》。不零雨故《フラヌアメユエ》。吾背子之《アガセコガ》。三名乃幾許《ミナノコヽダク》。瀧毛動響二《タギモトヾロニ》。
 
不零雨故《フラヌアメユヱ》は、零ぬ雨なるものをの意なり、七(ノ)卷に、甚多毛不零雨故庭立水太莫逝人之應知《ハナハダモフラヌアメユヱニハタヅミイタクナユキソヒトノシルベク》、○三名《ミナ》は、御名《ミナ》なり、貴て云稱なり、○瀧毛動響二《タギモトヾロニ》、この下に、言を含めて、いひのこしたり、上にも、朝東風爾井提越浪之世蝶似裳不相兒故瀧毛響動二《アサゴチニヰテコスナミノサヤカニモアハヌコユヱニタギモトヾロニ》、とあり、○歌(ノ)意は、雨のおびたゞしくふりたらむには、瀧の音のまさるもことわりなり、その雨の、はか/”\しくふらぬごとくに、吾(カ)夫にあふといふばかりのことも、なきものなるを、わが夫が御名のそこらく立て、人にいひさわがれて、瀧の音のとゞろきわたるが如くなるは、勞《イトホ》しき事ぞ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。寄《ヨセテ》v瀧《タギニ》喩《タトフ》v思《オモヒヲ》。
 
萬葉集古義十一卷之下 終
 
(236)萬葉集古義十二卷之上
 
古今相聞往來歌類下。
 
岡部氏(ノ)考爾云、或人問(フ)、上の卷(十一)に既に出たる歌の、此卷十二に二たび載しも、たま/\有はいかにと、答ふ、己(レ)も先には、此事おぼつかなかりしを、今つら/\考(フ)るに、上の卷には只相聞に入しを、此卷には旅に入、又上に相聞なりしが、是には贈答の類に載しもあり、是らは其撰とられし本集どもに二樣にあり、又は傳への異なるなどに依て、其まゝにとり集めし物にて、是も集の一(ツ)の體なり、其外言いさゝか異にて、他歌となれるなどを、或は海山の類、或は草木の類によりて擧つるも有なり、不意《ユクリナク》見ば、同歌の重り載たりと思ふべし、皆心して載し物ぞ、○此(ノ)十二卷、舊本の順次は、初に正述心緒十首、(人麿集歌)寄物陳思十三首、(人麿集(ノ)歌)を載、後に正述心緒百首、(人麿集(ノ)外(ノ)歌)寄物陳思百三十七首、(上に同じ、)問答歌二十六首、(上に同じ、)覊旅發思九十四首、(人麿集(ノ)歌(ノ)四首、人麿集(ノ)外(ノ)歌四十九首、)覊旅に隷たる悲別歌、(人麿集(ノ)外(ノ)歌三十一首、)覊旅に隷たる問答歌(人麿集(ノ)外(ノ)歌十首、)を載、以上通計歌數三百八十首にて、卷を終たり、(今(237)按に、舊本の篇次に從ときは、下に出たる覊旅發思の初、人麿集(ノ)歌四首は、上に出たる寄物陳思の下に、覊族發思と標して、其處にこそ入べけれ、さて其下に、上の歌を總括りて、右二十七首、柿本朝臣人磨歌集出、と云註あるべきが、混れたるか、されど舊本の篇次は、わづらはしければ、今は取ず、十一の初に云るに准(フ)べし、)今用るところの本の順次は、正述心緒百十一首、(人麿集(ノ)歌十一首、人麿(ノ)集(ノ)外(ノ)歌百首、)寄物陳思百五十首、(人磨集(ノ)歌十三首、人麿集(ノ)外(ノ)歌百三十七首、)問答歌二十六首、(舊本に異なることなし、)覊旅發思九十四首、(舊本に異なることなし、但し問答歌已下は、全(ラ)舊本の順次に從べし、舊本に篇次のたがへる本どもは、甚みだりなれば從がたし、)以上通計歌數三百八十一首にて、卷を終たり、
 
正《タヾニ》述《ノブ》2心緒《オモヒヲ》1。百十一首。【十一首。人麿集。百首。人麿集外。】
 
2841 我背子之《ワガセコガ》。朝明形《アサケノスガタ》。吉不見《ヨクミズテ》。今日間《ケフノアヒダヲ》。戀暮鴨《コヒクラスカモ》。
 
朝明形(形の上に、爲(ノ)字脱たる歟、といへる説あり、)は、アサケノスガタ〔七字右○〕と訓べし、アサケ〔三字右○〕は、即(チ)朝明の字(ノ)意なり、(續古今集、土御門(ノ)院、あさあけの霞の衣ほしそめて春立なるゝ天のかぐ山、)○吉不見《ヨクミズテ》は、委曲《ツマビラカ》に見ずしての意なり、下に、野于玉夜渡月之清者吉見而申尾君之光儀乎《ヌバタマノヨワタルツキノサヤケクバヨクミテマシテキミガスガタヲ》、とある、吉見《ヨクミ》も同じ、十卷に、朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテナガキハルヒヲコヒヤクラサム》、とも見ゆ、なほ一卷なる、淑人乃良跡吉見而《ヨキヒトノヨシトヨクミテ》、とある大御歌に、委しくいへるを、考(ヘ)見べし、○歌(ノ)意は、朝開に女の許(238)より歸る男の容儀を、委曲《ツマビラカ》に見ざりしが殘りおほくて、今日、一日戀しく思ひつゝ暮す哉、といへる女の歌なり、
 
2842 我等心《アガコヽロ》。望使念《イキヅキモヘバ》。新夜《アラタヨノ》。一夜不落《ヒトヨモオチズ》。夢見《イメニシミユル》。
 
本(ノ)二句は、舊本のまゝにては、解べきやうなし、(略解に、或人の考とて、使の下に、美(ノ)字脱たるか、さらば等望使美念にて、トモシミモヘバ〔七字右○〕と訓べし、といへり、されど此(ノ)歌の、書樣ならねば、此(ノ)説は用がたし、)今按(フ)に、まづ心等は、下上に誤れるものにて、我等心は、アガコヽロ〔五字右○〕と訓べし、我の下に等(ノ)字を添書て、アレ〔二字右○〕とも、アガ〔二字右○〕ともよめる例多し、さて望使念は、格解に、望使は無便の誤にて、スベナクモヘバ〔七字右○〕と訓べき歟といへるは、さることもあらむ歟、又按(フ)に、氣附の誤にて、イキヅキモヘバ〔七字右○〕と訓べきにや、未(タ)定めては説がたし、なほよく考(フ)べし、○新夜は、アラタヨノ〔五字右○〕と訓べし、抑々|新夜《アラタヨ》とは、世の事を新世《アラタヨ》といふと同例にて、經易(リ)經易(リ)新《アラタ》まる夜と云ことなり、此(ノ)下に、今更將寢哉吾背子荒田麻之全夜毛不落夢所見欲《イマサラニネメヤワガセコアラタマノヒトヨモオチズイメニミエコソ》、とあるは、彼處に云如く、麻は夜(ノ)字の誤|荒田夜《アラタヨ》にて、今と全(ラ)同じ、(これに、照(シ)見て、アタラヨ〔四字右○〕とよむは、ひがことなるをさとるべし、しかるを岡部氏が、新とかけるは借(リ)字にて、惜夜《アタラヨ》の意なり、といへるは、甚《イミジキ》非《ヒガコト》なり、古(ヘ)は、新はアラタ〔三字右○〕、惜はアタラ〔三字右○〕にて、もとより異言なるを、中ごろより、新をも惜をもアタラ〔三字右○〕と唱へて、兩義を兼し歌どもゝあるは、皆|混《マギ》れたるものなり、後(ノ)世の心をもて、上古の言を思(ヒ)誤ることなか(239)れ、○一夜不落《ヒトヨモオチズ》は、一夜も不v闕といはむが如し、○歌(ノ)意は、吾(カ)心から息づきて、君をのみ思ひ寢にすれば、一夜も闕ると云ことなく、夜々一(ト)すぢに夢にぞ見ゆる、となり、十五に、於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》、古今集に、君をのみ思ひ寢にせし夢なれば吾心から見つるなりけり、
 
2843 與愛《ウツクシト》。我念妹《アガモフイモヲ》。人皆《ヒトミナノ》。如去見耶《ユクゴトミメヤ》。手不纏爲《テニマカズシテ》。
 
與愛は、もしは愛與とありけむを、顛倒《オキタカフ》る歟、又さらずとも、かく書まじきにもあらざる歟、何(レ)にまれ、ウツクシト〔五字右○〕なり、○如去見耶は、ユクゴトミメヤ〔七字右○〕とよめるよろし、○歌(ノ)意は、わが心にふかく愛しと思ふ妹なるを、世(ノ)人皆の道行如く、手にも纏ず、よそ目に見過してあらむやは、といへるにて、心をよせたる女の道ゆくを見て、よめるなるべし、
 
2844 比日《コノゴロノ》。寢之不寢《イノネラエヌハ》。敷細布《シキタヘノ》。手枕纒《タママクラマキテ》。寢欲《ネマクホリコソ》。
 
寢欲は、ネマクホリコソ〔七字右○〕と訓べし、(ネマホシミコソ〔七字右○〕とよみても、意はきこゆれども、古言ならず、すべて寢マクホシ〔四字右○〕と云べきを寢マホシ〔三字右○〕、見マクホシ〔四字右○〕と云べきを見マホシ〔三字右○〕と云類は、後なり、)○歌(ノ)意は、此(ノ)頃の夜のいねられぬゆゑは、妹が手枕まきてねまほしく思へばこそ、かゝるなれ、さらずば、かく夜を重ねつゝ起明して、わびしき物思(ヒ)をばせじを、とあるがまゝに、かざらず云るが、古(ノ)風なり、
 
(240)2845 忘哉《ワスルヤト》。語《モノガタリシテ》。意遣《コヽロヤリ》。雖過不過《スグセドスギズ》。猶戀《ナホソコヒシキ》。
 
意遣は、コヽロヤリ〔五字右○〕と訓る宜し、十一に二處、意追と見えたるも、追は遣(ノ)字の誤にて、コヽロヤリ〔五字右○〕と訓べきよし、彼處にいへり、(然るを略解に、こゝの遣は、追の誤にて、ナグサメテ〔五字右○〕とよむべきか、といへるは、中々に非《ヒガコト》なり、○歌(ノ)意は、物思ひを忘れて、安《ヤスム》ずることもあらむか、と友だちなどゝ物語して、心をやり、過さむとすれど、得やり過さずして、猶その人の面影の忘れられずして、戀しくぞ思ふ、となり、
 
2846 夜不寢《ヨルモネズ》。安不有《ヤスクモアラズ》。白細布《シロタヘノ》。衣不脱《コロモモヌカジ》。及直相《タヾニアフマデニ》。
 
寢(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、寐と作り、○本(ノ)二句は、ヨルモネズヤスクアモラズ〔ヨル〜右○〕と訓べし、)ネジ、アラズ〔五字右○〕と訓は、わろからむ、○歌(ノ)意は、直に相見るまでは、安《ヤス》むずる事のあるべきならねば、夜寢ることもあらず、夜寢ることのあらぬからは、晝の衣服をも脱(キ)替ずして、其(ノ)まゝあらむぞ、となり、
 
2847 後相《ノチニアハム》。吾莫戀《アヲナコヒソト》。妹雖云《イモハイヘド》。戀間《コフルアヒダニ》。年經乍《トシハヘニツヽ》。
 
歌(ノ)意は、今は人目しげゝれば、この時を過して、後にやがて逢むからに、我をさのみは莫戀《ナコヒ》しく思ひ賜ひそと、たのもしげに妹はいへれど、いたづらに時を待つゝ、あふこともなくして、戀しく思ふ間に、むなしく年月をわたりつるが、あたら悔しき事、となり、二(ノ)卷に、勿念跡君者(241)雖言相時何時跡如而加吾不戀有牟《ナオモヒトキミハイヘドモアハムトキイツトシリテカアガコヒザラム》、本(ノ)句、似たるところあり、
 
2848 直不相《タヾニアハズ》。有諾《アルハウベナリ》。夢谷《イメニダニ》。何人《ナニシカヒトノ》。事繁《コトノシゲケム》。
 
有の下、飛鳥井本、拾穗本等に、者(ノ)字あり、今此(ノ)前後の書樣をおもふに、なき方宜しかるべし、○歌(ノ)意は、人言の繁さに、直に得あはぬはことわりなり、夢の中は知(ル)人もなければ、見え來べきに、いかなれば夢の通(ヒ)路さへ、人言のしげくさゝへてあるらむ、しげくあればこそ、夢にも見え來ずあるらめと、なり、古今集に、住の江の岸による浪よるさへや夢の通路人目よくらむ、現にはさもこそあらめ夢にさへ人目をもると見るがわびしさ、○舊本に、或本歌曰、寤者諾不毛相夢左倍、(寤(ノ)字、舊本に寢と作るはわろし、今は拾穗本に從つ、古寫本に寐とあるも誤なり、)と註せり、
 
2849 烏玉《ヌバタマノ》。夜夢《ヨルノイメニヲ》。見繼哉《ミエツグヤ》。袖乾日無《ソテホスヒナク》。吾戀矣《アレハコフルヲ》。
 
夜夢、舊本には彼夢と作り、拾穗本に彼夜夢と作る、彼は衍字なるべし、舊本に彼とあるは、本居氏、夜(ノ)字の誤にて、ヨルノイメニヲ〔七字右○〕と訓べし、と云り、下に、夜干玉之夜夢乎次而所見欲《ヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》、○見繼哉は、ミエツグヤ〔五字右○〕と訓べし、繼て見ゆるや如何に、と問意なり、繼て聞ことを聞繼《キヽツグ》と云に准へて、見繼《ミエツグ》は、繼て見ゆる意なるを知べし、○歌(ノ)意は、われは袖ほす間もなく、晝夜戀しく思ふを、そなたの夜の夢には、繼て見えたまふにや如何、といふなるべし、
 
(242)2850 現《ウツヽニハ》。直不相《タヾニアハナク》。夢谷《イメニダニ》。相見與《アフトミエコソ》。我戀國《アガコフラクニ》。
 
與は、乞と通(ハシ)書る例、集中に往々見えたり、○我戀國《アガコフラクニ》は、吾がかやうに戀しく思ふ事なるをの意なり、コフラク〔四字右○〕はコフル〔三字右○〕の伸りたる言にて、戀る事といふ意になる、古語の例なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2944 人言《ヒトコトヲ》。繁跡妹《シゲミトイモニ》。不相《アハズシテ》。情裏《コヽロノウチニ》。戀比日《コフルコノゴロ》。
 
人言繁跡《ヒトコトヲシゲミト》は、人(ノ)言が繁さにといはむが如し、跡《ト》は、例のかろくそへたる辭なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○此(ノ)一首、舊本此間に無して、下の人麿歌集(ノ)外の歌中に收たるは、錯亂《マギレ》たるなり、此(ノ)歌は、人磨集の書樣なれば、必此間に入べきことなり、
〔以上十|一〔○で囲む〕首。柿本朝臣人麿之歌集出。〕
 
2864 吾背子乎《ワガセコヲ》。且今且今跡《イマカイマカト》。待居爾《マチヲルニ》。夜更深去者《ヨノフケヌレバ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
歌(ノ)意、かくれなし、
 
2865 玉釵《タマクシロ》。卷宿妹母《マキヌルイモモ》。有者許増《アラバコソ》。夜之長毛《ヨノナガケクモ》。歡有倍吉《ウレシカルベキ》。
 
玉釵《タマクシロ》(釵(ノ)字、舊本に釼と作て、タマツルギ〔五字右○〕とよめるは誤なり、拾穗本に、劔と作るは、釼劔|同作《オナジモジ》と思へるより、誤れるなり、釵は釧(ノ)字と同じくて、クシロ〔三字右○〕なり、靫をも、古書に多くは靱と作れば、釵をも釼と作しなり、さてつひに、劔と混ひたるな、)は、枕詞なり、玉釵《タマクシロ》は、九(ノ)卷に、玉釧手爾取(243)持而《タマクシロテニマキモチテ》、とある歌に既くいへり、此(ノ)下にも、玉釵卷寢志妹乎《タマクシロマキネシイモヲ》、と見えたり、○夜之長毛は、ヨノナガケクモ〔七字右○〕と訓べし、夜の長き事もの謂なり、○歌(ノ)意は、手枕相纏て、共寢する妹もあらばこそ、夜の長きことも、うれしかるべきに、獨宿なれば、中々に明がたくてつらき事、となり、
 
2866 人妻爾《ヒトヅマニ》。言者誰事《イフハタガコト》。酢衣乃《サゴロモノ》。此※[糸+刃]解跡《コノヒモトケト》。言者孰言《イフハタガコト》。
 
酢衣《サゴロモ》は、酢は、音をとりて、サ〔右○〕の假字とせるにや外に例なし、いかゞ、)岡部氏、作の誤なり、と云り、佐男鹿《サヲシカ》、佐筵《サムシロ》など云|佐《サ》にて、そへたる言なり、佐衣《サコロモ》は、十四にも見えたり、(略解に、佐は狹にて、卑下の詞なり、といへるは、いかゞ、佐《サ》某といへる言の例を合(セ)見て、然ならぬを知べし、又卑下の詞と云ものも、古(ヘ)になきことなるをや、すべて自(ラ)を卑下《クダ》りて云は、みなから國のならはしなり、かの國にては、自(ラ)を卑下《クダ》りて、よき人も、寡人、不穀など常に云めり、これを禮讓とて、よき事とすめれど、實はうはべの へつらひなり、さるは外の國にては、人の首領《カシラ》となれるきはも、種姓《スヂ》によりて、實に尊卑をわかつことなく、たゞ時の勢と徳と云ものとによりて、位にのぼるならひなれば、よき人も、下民を懷《ナツ》け服《シタガ》へて、へつらふことをしばしも忘れては、國は治りがたきにより、自《ミラ》を卑下りて、うはべに人にへつらふ事の多きこそ、あさましけれ、されば皇朝の古(ヘ)さる類の事、かつてなし、)○歌(ノ)意は、人妻は、自(ラ)我をさしていへるにて、われは人の妻にてあるものを、みだりに紐とけと云は、そもいかなる人の言ぞ、と咎めたるなり、尾(ノ)句に打かへ(244)して、同じことをかさねていへるは、深くとがたるものなり、
 
2867 加是許《カクバカリ》。將戀物其跡《コヒムモノソト》。知者《シラマセバ》。其夜者《ソノヨハユタニ》。由多爾有益物乎《アラマシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、かく月日を經て、あはずして、こひしく思はむものぞと、かねて知せば、そのあひし夜は、寛かにねてかへらましものを、さあらむともしらで、とくおきてわかれ歸りしが、くやしき事、となり、
 
2868 戀乍毛《コヒツヽモ》。後將相跡《ノチニアハムト》。思許増《オモヘコソ》。己命乎《オノガイノチヲ》。長欲爲禮《ナガクホリスレ》。
 
思許増《オモヘコソ》は、思へばこその意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2869 今者吾者《イマハアハ》。將死與吾妹《シナムヨワギモ》。不相而《アハズシテ》。念渡者《オモヒワタレバ》。安毛無《ヤスケクモナシ》。
 
今者吾者、下の者(ノ)字、官本にはなし、なくても、イマハアハ〔五字右○〕と訓べし、○本(ノ)句、此(ノ)卷の下にも見えたり、四(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)歌にも、似たるあり、下に引り、○歌(ノ)意かくれなし、十七に、奈加奈可爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須敝奈可流倍思《ナカナカニシナバヤスケムキミガメヲミズヒサナラバスベナカルベシ》、
 
2870 我背子之《ワガセコガ》。將來跡語之《コムトカタリシ》。夜者過去《ヨハスギヌ》。思咲八更更《シヱヤサラサラ》。思許理來目八面《シコリコメヤモ》。
 
思咲八《シヱヤ》(咲(ノ)字、古寫一本には惠と作り、)は集中、假(ニ)縱す辭にも、嘆息(ノ)辭にも用たり、此處《コヽ》はいづれにても通《キコ》ゆ、○思許理《シコリ》は、失計《シソコナヒ》といはむが如し、(しかるを、此(ノ)詞を、昔より註者等心得誤りて、頻《シキリ》と同言とせるは、叶ひがたし、又岡部氏が、思許理《シコリ》は、如是在《シカアリ》といふ義なり、と云るもあたらず、)(245)源氏物語に、爲損《シソコナヒ》たることを、しこらかすといへるも、同言なり、なほ七(ノ)卷に、買師絹之商自許理鴨《カヘリシキヌシアキジコリカモ》とある歌につきて、既く委く註たるを見て、考(フ)へし、○面(ノ)字、古寫一本には方と作り、○歌(ノ)意は、男の必來むと期《チギ》りし夜さへ不v來して、徒に過ぬるからは、まして然《サ》らぬ夜は來べきにあらざれば、今更待とても、過《アヤマ》りて來そこなひにも來らむやは、縱《ヨシ》やさてあらむ、となり、(これ思惠八《シヱヤ》は、假(ニ)縱(ス)意なり、)又來らむやは、あゝさてもくるしやと、嘆(キ)たるにもあるべし(これ嘆息(ノ)意なり、)
 
2871 人言之《ヒトコトノ》。讒乎聞而《ヨコスヲキヽテ》。玉桙之《タマホコノ》。道毛不相《ミチニモアハズ》。常云吾妹《タエニシアギモ》。
 
讒乎聞而《ヨコスヲキヽテ》は、人の讒言《ヨコシマココト》するを聞ての意なり、應神天皇(ノ)紀に、讒2言《ヨコシマヲサク》于天皇(ニ)1、催馬樂に、蘆垣まがきかきわけて、てふこすと、おひこすと、たれか此(ノ)事を、親にまうよこしけらしも、とゞろける此(ノ)家のおとよめ、おやにまうよこしけらしも、あめつちの神もしやうしたべ、我はまうよこし申さず、すがのねのすがなきことを、われはきくか、などあり、抑々|與己須《ヨコス》は、横《ヨコ》すにて、あらぬことを曲て横樣にいひなすを云言なり、なほよこしまてふことは、書紀に、讒言《ヨコシマコト》、(安康天皇(ノ)卷、)讒《ヨコシマコト》(齊明天皇(ノ)卷、)からぶみ毛詩に、匿《ヨコシマ》、回《ヨコシマ》、尚書に、淫《ヨコシマ》などあり、又此(ノ)集十八に、多々佐爾毛可爾母與己佐母《タヽサニモカニモヨコサモ》云々、とある與己佐《ヨコサ》も、與己志麻《ヨヨシマ》と同じ、(志麻《シマ》の切|佐《サ》、孝徳天皇(ノ)紀に方《タヽサヨコサ》、)又|與己志《ヨコシ》とも云り、和名抄に、南北(ヲ)曰v阡(ト)、私記(ニ)曰、多知之乃美知《タチシノミチ》、東西(ヲ)曰v陌(ト)、私記(ニ)曰、與之志乃美知《ヨコシノミチ》、成務天皇(ノ)紀(246)に、阡陌を、タヽサノミチ、ヨコサノミチ〔十二字右○〕とも、タチシノミチ、ヨコシノミチ〔十二字右○〕ともよめり、そもそも與己志《ヨコシ》も與己佐《ヨコサ》も、みな横樣《ヨコサマ》の意にて、しか横樣にいひなすを、與己須《ヨコス》と活用《ハタラカ》しいふなり、○常云は、絶去の誤にて、末(ノ)句、ミチニモアハズタエニシワギモ〔十四字右○〕ならむ、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、世(ノ)人の讒言するを聞憚りて、直に相見る事は、さらにもいはず、道の行合にも避て相見ず、中絶にし吾妹ぞ、さるにても、人の物いひさがにくき世にてもありけるよ、となり、
 
2872 不相毛《アハナクモ》。懈常念者《ウシトオモヘバ》。彌益二《イヤマシニ》。人言繁《ヒトコトシゲク》。所聞來可聞《キコエクルカモ》。
 
歌(ノ)意は、あふことのなきを、つらしとおもふ、それだにもあるを、いやましにあやにくなる世の人言の、さまざまにいひさわぐよしの聞え來る哉、かくてはいとゞ相見べきよしもあらじを、となり、
 
2873 里人毛《サトビトモ》。謂告我禰《カタリツグガネ》。縱咲也思《ヨシヱヤシ》。戀而毛將死《コヒテモシナム》。誰名將有哉《タガナナラメヤ》。
 
里人《サトビト》は、里内のあまたの人、といふ意なり、(俗に、在所《ザイシヨ》中の人、といぶ意なり、)十一に、里人皆爾吾戀八方《サトビトミナニアレコヒメヤモ》、○歌(ノ)意は、戀死に死たりと云こと、里内のあまたの人に聞えて、あはれなる世がたりにも、かたりつぐがために、今は戀死に死てむ、よし/\わが死たらむには、誰人の名にあらず、君ゆゑと云ことはしるければ、ひとへに君が名こそたゝめ、といへるにて、後に名たゝむことをおそれて、わが戀死に死(ナ)ぬ内に、人のあはれとは見よかし、といふ意を、思はせたるな(247)り、十一に、人目多直不相而盖雲吾戀死者誰名將有裳《ヒトメオホミタヾニアハズテケダシクモアガコヒシナバタガナナラムモ》、古今集に、こひしなば誰が名は立じ世の中の常無(キ)ものといひはなすとも、
 
2874 慥《タシカナル》。使乎無跡《ツカヒヲナミト》。情乎曾《コヽロヲソ》。使爾遣之《ツカヒニヤリシ》。夢所見哉《イメニミエキヤ》。
 
慥《タシカナル》(舊本※[立心偏+送]に誤れり、拾穗本に從(ツ)、)は、玉篇に、言行相應(スル)貌、とあり、古事紀允恭天皇(ノ)條、(木梨之輕(ノ)太子(ノ)御歌に、)佐々婆爾宇都夜阿良禮能多志陀志爾《サヽバニウツヤアラレノタシダシニ》云々、竹取物語に、つかうまつる人の中に、心たしかなるをえらびて云々、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、後拾遺集に、わか菜つむ春日の原に雪降ば心づかひを今日さへぞ遣(ル)、曾丹集に、おもひやる心づかひはいとなきをゆめに見えずと聞があやしさ、これは今の歌をとりてよめるなり、
 
2875 天地爾《アメツチニ》。小不至《スコシイタラヌ》。大夫跡《マスラヲト》。思之吾邪《オモヒシアレヤ》。雄心毛無寸《ヲゴヽロモナキ》。
 
歌(ノ)意は、武勇《タケクイサ》める氣《イキ》ざしは、天地のきはみ、阿隈《クマ/”\》のかぎりには、少しは至らぬ地のあらむのみにて、大方はみちたらひたらむと、おもひほこれる、大丈夫の吾なるを、戀故に、おめ/\とたけき心もなく、あるべしや、となり、下に、大夫之聰神毛今者無《マスラヲノサトキコヽロモイマハナシ》云々、(略解に、三(ノ)卷に、天雲之向伏國武士登所云人者《アマクモノムカフスクニノモノヽフトイハレシヒトハ》云々、とあるを引たるは、此(ノ)歌にょしなし、
 
2876 里近《サトチカク》。家哉應居《イヘヤヲルベキ》。此吾目之《コノワガメノ》。人目乎爲乍《ヒトメヲシツヽ》。戀繁口《コヒノシゲケク》。
 
家哉應居《イヘヤヲルベキ》は、家やは居るべきの謂にて、家居すべきことかはの意なり、十(ノ)卷に、山近家哉可居(248)左小牡鹿乃音乎聞乍宿不勝鴨《ヤマチカクイヘヤヲルベキサヲシカノコヱヲキヽツヽイネカテヌカモ》、○人目乎爲乍《ヒトメヲシツヽ》は、人目《ヒトメ》とは、源氏物語若菜に、たゞ嬰兒《チゴ》の面《オモ》ぎらひせぬ心ちして、心やすく、うつくしささまし給へり、とある、其(ノ)面ぎらひと同意にて、今の世、嬰兒の知(ラ)ぬ人を見憚りて、なれ親《チカ》づかぬを、人目をするといへり、この人目をするといふ、人目は、人おめといふことにて、人を怖《オソ》れ憚るを云(ヘ)ば、これ古言にて、今の歌も、其(ノ)意に、人目を怖れ憚るよしならむ、又按(フ)に、乎爲は、五十見の三字の誤れるにもあらむ歟、ヒトメイミツヽ〔七字右○〕とあらば、ことわりさだかなり、十一に、人目難爲名《ヒトメイマスナ》とあり、(しかれども多く字を改めむこと快からず、人目をすると云こと、中々に古言なるべくおぼゆれば、なほ前説に從べし、岡部氏は、乎爲ほ毛里の誤にて、ヒトメモリツヽ〔七字右○〕ならむ、と云り、略解に、乎爲は避止の誤にて、ヒトメヲヨクト〔七字右○〕ならむ、といへるは、いとわろし、)○歌(ノ)意は、妹が家里近く、家居すべきことかは、家居すべきにあらず、さるは人目を憚りてしのぶ故に、中々にあふこともえせずして、思ひのしげくあることなるを、もし遠き方にあらむには、人もさ心づくことも、あるべからねば、月花のをりにことよせて、行てあはむに、かく人目を怖れ憚る事の、あるべきならねば、かへりて心の安き方もあるべきを、となり、
 
2877 何時奈毛《イツハシモ》。不戀有登者《コヒズアリトハ》。雖不有《アラネドモ》。得田直比來《ウタテコノゴロ》。戀之繁母《コヒノシゲキモ》。
 
何時奈毛は、(略解に、奈毛《ナモ》は、後に奈牟《ナム》といふと同じく、助辭なりといへれど、こゝは奈毛《ナモ》てふ(249)助辭を、おくべき所にあらざるをや、)奈は志(ノ)字の誤にて、イツハシモ〔五字右○〕なり、十一に、何時不戀時雖不有夕方枉戀無乏《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモユフカタマケテコフハスベナシ》、十三に、何時橋物不戀時等者不有友《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモ》云々、(この十三の借(リ)字によりて、疑なくイツハシモ〔五字右○〕なるを思へ、)志毛《シモ》は、多かる物の中に、その一(ト)すぢなるをつよく云辭なり、○得出直《ウタテ》は、本より有ことの愈々進て、殊に甚しくなるを云言なり、既く十(ノ)卷に、吾屋前之毛桃之下爾月夜指下心吉菟楯頃者《ワガヤドノケモヽノシタニツクヨサシシタコヽロヨシウタテコノゴロ》、とある處に、本居氏(ノ)説を引て委く註り、直は、物の價をテ〔右○〕といふ故に、借て書り、書紀に、玉代《タマテ》と云地あり、玉の價といふ意にて、名づけたる地なり、新撰萬葉に沓直《クツテ》とあり、今も酒の價を、さかてと云は、古言の遺れるなり、○歌(ノ)意は、何時は思ふ、何時は思はぬと云差別もなく、一(ト)すぢに常にこひしくおもふことなれど、此(ノ)頃は、こひしさのいよいよすゝみて、殊に甚しく、しげくなれる事哉、となり、古今集に、何時はとは時はわかねど秋(ノ)夜ぞ物思ふことのかぎりなりける、
 
2878 黒玉之《ヌバタマノ》。宿而之晩乃《イネテシヨヒノ》。物念爾《モノモヒニ》。割西※[匈/月]者《ワレニシムネハ》。息時裳無《ヤムトキモナシ》。
 
烏玉之《ヌバタマノ》は、晩《ヨヒ》と、いふにかゝるまくら詞なり、○割西※[匈/月]者《ワレニシムネハ》は、此(ノ)下に、從聞物乎念者我胸者破而摧者鋒心無《キヽシヨリモノチオモヘバワガムネハワレテクダケテトコヽロモナシ》、十一に、自高山出來水石觸破衣念妹不相夕者《タカヤマヨイデクルミヅノイハニフリワレテソオモフイモニアハヌヨハ》、四(ノ)卷に、村肝之情摧而如此許余戀良苦乎不知香安類良武《ムラキモノコヽロクダケテカクバカリアガコフラクヲシラズカアルラム》、とも見えたり、○息時裳無《ヤムトキモナシ》、十一に、吾戀落波止時裳無《アガコフラクハヤムトキモナシ》、又|公二戀等九止時毛梨《キミニコフラクヤムトキモナシ》、なども見えたり、思(ヒ)の止(メ)ば、割(レ)にし胸も直る理なり、思(ヒ)の止(マ)ねば、割にし胸の(250)直る期《トキ》もなし、となり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2879 三空去《ミソラユク》。名之惜毛《ナノヲシケクモ》。吾者無《アレハナシ》。不相日數多《アハヌヒマネク》。年之經者《トシノヘヌレバ》。
 
三空去名《ミソラユクナ》とは、名の高く空までも立のぼる意なり、古今集に、塵ならぬ名の空に立らむ、とよめるが如し、○惜毛《ヲシケクモ》は、惜《ヲシ》き事も、と云意なり、○不相日數多《アハヌヒマネク》は、不相日がちにといはむが如し、數多はマネク〔三字右○〕と訓て、數多きことをいふ古言にて、かた/”\に見えたり、(無《ナク》v間《マ》を通(ハシ)云たるにはあらず、似たる言ながら、別なり、)○歌(ノ)意は、相見ぬ日がちにして、年月を經ぬれば、思ひに堪かねて、今は高く立のぼる名のをしきこともあらずと、身をすてたるさまに、切なるあまりにいへるなり、
 
2880 得管二毛《ウツヽニモ》。今見牡鹿《イマモミテシカ》。夢耳《イメノミニ》。手本纒宿登《タモトマキヌト》。見者辛吉毛《ミレバクルシクモ》。
 
今見牡鹿《イマモミテシカ》は、今もがな見まほしき、と希ふなり、五(ノ)卷に、多都能馬母伊麻勿愛弖之可《タツノマモイマモエテシカ》、十八に、須理夫久路伊麻婆衣天之可《スリブクロイマハエテシカ》、などあり、すべて弖之可《テシカ》とある處は、可《カ》を清て唱ふる例なり、(しかるを、略解に、借(リ)字は清濁にかゝはらぬ例なれば、牡鹿とかきたれど、カ〔右○〕を濁るべし、といへるは、中々の非なり、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○舊本に、或本歌發句云吾妹兒乎、と註せり、(發(ノ)字、舊本登に誤れり、古寫本に從つ、)
 
2881 立而居《タチテヰテ》。爲便乃田時毛《スベノタドキモ》。今者無《イマハナシ》。妹爾不相而《イモニアハズテ》。月之經去者《ツキノヘヌレバ》。
 
(251)立而居は、タチテヰテ〔五字右○〕と訓べし、立ても居てもの意なり、下に、立居田時毛不知《タチテヰテタドキモシラズ》、十一に、立座態不知《タチテヰテタドキモシラズ》云々、十七に、多知底爲底見禮登毛安夜之《タチテヰテミレドモアヤシ》云々、○歌(ノ)意かくれなし、○舊本に、或本歌云、君之目不見而月之經去者、と註せり、
 
2882 不相而《アハズシテ》。戀度等母《コヒワタルトモ》。忘哉《ワスレメヤ》。彌日異者《イヤヒニケニハ》。思益等母《オモヒマストモ》。
 
歌(ノ)意、年月を經わたるとも、逢ずしては、つひに忘るゝことはあらじ、彌日々に、戀しく思ふ心こそまさらめ、となり、二一三四五と句を次第て意得べし、
 
2883 外目毛《ヨソメニモ》。君之光儀乎《キミガスガタヲ》。見而者社《ミテバコソ》。壽向《イノチニムカフ》。吾戀止目《ワガコヒヤマメ》。
 
歌(ノ)意は、外目にだにも、君がすがたを見たらばこそ、命にかけておもふ吾(カ)戀の、止こともあらめ、さらずば戀の息(ム)ことあるまじければ、戀死に死むより他なし、となり、下に、眞十鏡直目爾君乎見者許増命對吾戀止目《マソカヾミタヾメニキミヲミテバコソイノチニムカフワガコヒヤマメ》、とあるに、未(ノ)句全(ラ)同じ、○舊本に、末(ノ)句、吾戀山目命不死者、とて載たり、其は外目にも君を見たらばこそ、吾(カ)戀止め、もしさらずば、命死ずしては、止ときあらじ、といふ意なるべけれど、尾(ノ)句平穏ならず、故(レ)今は、一云壽向吾戀止目、と註したるを、全(ラ)用《トリ》つ、
 
2884 戀管母《コヒツヽモ》。今日者在目杼《ケフハアラメド》。玉〓《タマクシゲ》。將開明日《アケムアスノヒ》。如何將暮《イカデクラサム》。
 
明日は、アスノヒ〔四字右○〕と訓べし、本居氏は、明旦の誤なるべし、と云り、さらずともあるべし、○歌(ノ)意は、戀しく思ひながらにも、今日はとかくして暮すべけれど、あけむ明日をば、いかで暮さむ(252)となり、しば/\逢(フ)中に、さはることありて、得あはぬほとよめるならむ、十(ノ)卷に、戀乍毛今日者暮都霞立明日之春日乎如何將晩《コヒツヽモケフハクラシツカスミタツアスノハルヒヲイカテクラサム》、似たる歌なり、
 
2885 左夜深而《サヨフケテ》。妹乎念出《イモヲオモヒデ》。布妙之《シキタヘノ》。枕毛衣世二《マクラモソヨニ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
枕毛衣世二《マクラモソヨニ》は、枕も曾與曾與《ソヨソヨ》と鳴(ル)ばかりに、大《イタ》く歎くよしなり、曾與《ソヨ》は、十(ノ)卷に、旗荒木末葉裳其他丹《ハタスヽキウラバモソヨニ》、秋風乃吹來夕丹《アキカゼノフキタルヨヒニ》云々、とあるをはじめて、風(ノ)音に多くよみたり、新撰萬葉に、夏之夜之松葉牟曾與丹吹風者《ナツノヨノマツバモソヨニフクカゼハ》云々、古今集に、稻葉のそよとなどある類なり、今は嘆息の聲の、枕に響くよしにいへるにて、廿(ノ)卷に、波呂波呂爾伊弊乎於毛比※[泥/土]於比曾箭乃曾與等奈流麻※[泥/土]奈氣吉都流香母《ハロバロニイヘヲオモヒデオヒソヤノソヨトナルマデナゲキツルカモ》、とよみ、十三に、此床乃比師跡鳴左右嘆鶴鴨《コノトコノヒシトナルマデナゲキツルカモ》、とよめる類なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2886 他言者《ヒトコトハ》。眞言痛《マコトコチタク》。成友《ナリヌトモ》。彼所將障《ソコニサハラム》。吾爾不有國《アレナラナクニ》。
 
彼所《ソコニ》は、其《ソレ》にと云が如し、○歌(ノ)意は、人はまことに口(チ)さがなく、とかくいひさわぐとも、それにさへられて、思(ヒ)止べき吾にはあらず、なみ/\の事にてはあらぬことなるを、となり、
 
2887 立居《タチテヰテ》。田時毛不知《タドキモシラズ》。吾意《アガコヽロ》。天津空有《アマツソラナリ》。土者踐鞆《ツチハフメドモ》。
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、十一に、徘徊往箕之里爾妹乎置而意空在土者蹈鞆《タモトホリユキミノサトニイモヲオキテコヽロソラナリツチハフメドモ》、
 
2888 世間之《ヨノナカノ》。人辭常《ヒトノコトバト》。所念莫《オモホスナ》。眞曾戀之《マコトソコヒシ》。不相日乎多美《アハヌヒヲオホミ》。
 
(253)世間之人辭《ヨノナカノヒトノコトバ》は、俗にいふ、くちぐせのこゝろなり、と契冲いへり、此(ノ)下に、うつせみの常のことばとおもへども云々、とあるも、意似たり、(後撰集に、哀てふことこそうけれうつせみのよの人ことのいはぬなければ、)○歌(ノ)意は、逢(ハ)ずして、多くの日かずを經しからに、眞實にこそ戀しく思ひたれ、大かたの世の人の、恆云くちくせのやうに、おぼしめすことなかれよ、となり、
 
2889 乞如何《イデイカニ》。吾幾許戀流《アガコヽタコフル》。吾妹子之《ワギモコガ》。不相跡言流《アハジトイヘル》。事毛有莫國《コトモアラナクニ》。
 
乞如何《イデイカニ》は、いでをも如何《イカ》にぞや、といふなり、十一に、伊田何極太甚利心及失念戀故《イデイカニコヽダハナハダトコヽロノウスルマデモフコフラクノユヱ》、乞《イデ》は、四(ノ)卷に委(ク)註り、允恭天皇(ノ)紀に、壓乞《イデ》、皇極天皇(ノ)紀に、咄哉《イデヤ》、古今集に、いで、われを人なとがめそ云云、○歌(ノ)意は、妹があはじといへらばこそ、さま/”\におもひみだれもせめ、時をうかゞひて、あひぬべくいへれば、心をもやすむべきことなるを、かくそこばくす戀しく思ふは、いでそもいかなることぞや、となり、
 
2890 夜干玉之《ヌバタマノ》。夜乎長鴨《ヨヲナガミカモ》。吾背子之《ワガセコガ》。夢爾夢西《イメニイメニシ》。所見還良武《ミエカヘルラム》。
 
夢爾夢西《イメニイメニシ》は、夢に所見《ミエ》て、又夢に所見《ミユ》るを云詞にて、繼て絶ず見ゆる意なり、西《ニシ》は、さだかにしかりとする意の時云(フ)辭なり、○所見還《ミエカヘル》は、幾遍《イクタビ》も所見所見《ミエミエ》するを云、○歌(ノ)意は、夜の長き故に、幾遍も幾遍も、吾(カ)夫《セ》がうへの夢に見ゆらむか、さるは長き夜すがら、夫(ノ)君を思ふ心のひまなきによりて、さむれば又|所見所見《ミエミエ》するにこそあらめ、嗚呼なつかしや、となり、
 
(254)2891 荒玉之《アラタマノ》。年緒長《トシノヲナガク》。如此戀者《カクコヒバ》。信吾命《マコトワガイノチ》。全有目八目《マタカラメヤモ》。
 
信は、マコト〔三字右○〕とも、サネ〔二字右○〕ともよむべし、○全有目八目《マタカラメヤモ》、(八目、古寫一本には八方、拾穗本には八面と作り、)四(ノ)卷に、吾命之將全幸限忘目八《ワガイノチノマタケムカギリワスレメヤ》云々、○歌(ノ)意は、年月長く、かくの如くに戀しく思はゞ、つひに思(ヒ)に疲れて、まことに我命も全くはあらじ、あはれ戀死に死む外なし、となり、
 
2892 思遣《オモヒヤル》。爲便乃田時毛《スベノタドキモ》。吾者無《アレハナシ》。不相數多《アハヌヒマネク》。月之經去者《ツキノヘヌレバ》。
 
思遣《オモヒヤル》は思をやり過し失ふなり、既く往々《トコロ/”\》に見えたり、○不相數多は、本居氏、相の下、日(ノ)宰を脱せしにてアハヌヒマネク〔七字右○〕なり、と云り、不v相日がちに、と云がごとし、上に、三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモアレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2893 朝去而《アシタユキテ》。暮者來座《ユフヘハキマス》。君故爾《キミユヱニ》。忌忌久毛吾者《ユユシクモアハ》。歎鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
朝去而は、アシタユキテ〔六字右○〕と訓べし、朝に女の許を起出て去《ユク》を云、十一に、朱引朝行公《アカラビクアサユクキミ》、とあり、○君故爾《キミユヱニ》は、君なるものをの意なり、○忌忌久《ユユシク》は、もと忌《ミ》憚らるゝ意より出て、忌(ミ)憚りて、人目を隱《シノ》ぶべき乳をも、得|堪忍《タヘ》ずして、事の甚じかるをも云(フ)、こゝは後の意なり、既く二(ノ)卷に、挂毛忌之伎鴨《カケマクモユヽシキカモ》、とある處に、委(ク)註り、○歌(ノ)意かくれなし、契冲、後撰集に、明ぬればくるゝものとは知ながらなほうらめしきあさぼらけかな、此(ノ)歌と、作者男女にかはりて、歌のやうはかはれど、心同じ、といへり、
 
(255)2894 從聞《キヽシヨリ》。物乎念者《モノヲオモヘバ》。我胸者《アガムネハ》。破而摧而《ワレテクダケテ》。鋒心無《トコヽロモナシ》。
 
從聞《キヽシヨリ》は、妹がうへのことをなり、○破而摧而《ワレテクダケテ》は、上に、割西胸者《ワレニシムネハ》ともよめるに同じ、十一にも、自
高山出來水石觸破衣念妹不相夕者《タカヤマユイデクルミヅノイハニフリワレテソオモフイモニアハヌヨハ》、とあり、○鋒心無《トコヽロモナシ》は、利《ト》き心もなし、となり、十一に、伊田何極太甚利心及失念戀故《イデイカニコヽダハナハダトコヽロノウスルマデモフコフラクノユヱ》、又此(ノ)下に、大夫之聰神毛今者無《マスラヲノサトキコヽロモイマハナシ》、ともよめるに同じ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2895 人言乎《ヒトコトヲ》。繁三言痛三《シゲミコチタミ》。我妹子二《ワギモコニ》。去月從《イニシツキヨリ》。未相可母《イマダアハヌカモ》。
 
去月《イニシツキ》は、前月なり、○歌(ノ)意これもかくれなし、
 
2896 歌方毛《ウタガタモ》。曰管毛有鹿《イヒツヽモアルカ》。吾有者《アレシアレバ》。地庭不落《ツチニハオチジ》。空消生《ソラニケヌトモ》。
 
歌方毛《ウタガタモ》は、危《アヤ》ふげにもと云が如し、抑々|宇多賀多《ウタガタ》は、もと水(ノ)泡の空形《ウツガタ》より出て、姑(ク)の事にも、危き事にも用ふ言なりといへり、和名抄に、准南子註(ニ)云、沫雨(ハ)、雨《アメフリテ》2潦上(ニ)1、沫(ノ)起(ツコト)若2覆盃(ノ)1、和名|宇太加太《ウタガタ》、と見えたり、十七に、大船乃宇倍爾之居婆安麻久毛乃多度伎毛思良受歌方和我世《オホブネノウヘニシヲレバアマクモノタドキモシラズウタガタワガセ》、とあるは、今と同じく、危き事に用たり、遊仙窟に、著時未必相著死《ヨリツカムトキウタガタモアハムトオモハザリキ》、《ヨリツカムトキウタガタモアハムトオモハザリキ》とあるごとぐ、未必をウタガタ〔四字右○〕とよめるも、今と同じ意をもて、いへるならむ、又十五に、波奈禮蘇爾多※[氏/一]流牟漏能木宇多我多毛比左之伎時乎須疑爾家流香母《ハナレソニタテルムロノキウタガタモヒサシキトキヲスギニケルカモ》、十七に、安麻射加流比奈爾安流和禮乎宇多我多毛比母登伎佐氣底於毛保須良米也《アマザカルヒナニアルワレヲウタガタモヒモトキサケテオモホスラメヤ》、又、宇具比須能伎奈久夜麻夫伎宇多賀多母伎美我手敷禮受波(256)奈知良米夜母《ウグヒスノキナクヤマブキウタガタモキミガテフレズハナチラメヤモ》、此等は姑(ク)の意に用たりと見えたり、○地庭不落《ツチニハオチジ》は、打捨りはせじ、といふ意なり、六(ノ)卷橘氏を賜りし歌の次に、奈良麻呂、奧山之眞木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方《オクヤマノマキノハシヌキフルユキノフリハマストモツチニオチメヤモ》、とあるに同じく、捨ることを、地に落るといへり、又八(ノ)卷に、如今心乎常爾念有者先咲花乃地爾將落八方《イマノゴトコヽロヲツネニオモヘラバマヅサクハナノツチニオチメヤモ》、ともあり、十(ノ)卷に、零雪虚空可消雖戀相依無月經在《フルユキノソラニケヌベクコフレドモアフヨシヲナミツキソヘニケル》、などもあるを思ふに、岡部氏の云るごとく、今の歌に雪とはなけれど、雪に譬て、地に落と云、空に消《ケヌ》と云るなるべし、○空消生は、岡部氏云、生は共(ノ)字の誤なるべし、ソラニケヌトモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、妹は未かけて、危ふげに云つゝもあること哉、吾かくてあるからは、たとひそこの命は死とも、打捨ることはあるまじきなれば、それを一(ト)すぢにたのみて、心おちゐてあれ、といふにやあらむ、
 
2897 何《イカニアラム》。日之時可毛《ヒノトキニカモ》。吾妹子之《ワギモコガ》。裳引之容儀《モビモノスガタ》。朝爾食爾將見《アサニケニミム》。
 
何日之時可毛《イカニアラムヒノトキニカモ》は、嗚呼《アヽ》いかなる日、いかなる時にかの意なり、可《カ》は疑の辭、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、五(ノ)卷に、伊可爾安良式日能等伎爾可母許惠之良武比等能比射乃倍和我麻久良可武《イカニアラムヒノトキニカモコエシラムヒトノヒザノヘワガマクラカム》、三(ノ)卷に、何在歳月日香茵花香君之牛留鳥名津匝來跡《イカニアラムトシツキヒニカツヽジハナニホヘルキミガヒクアミノナヅサヒコムト》、○裳引之容儀《モビキノスガタ》は、赤裳を地に引ならす容儀をいへり、あかもすそ引とも、裳引ならしゝすが原の里、などもよめり、○朝爾食爾《アサニケニ》は、朝に來經《ケ》にゝて、毎朝毎日《アサゴトヒゴト》に、と云に同じ意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2898 獨居而《ヒトリヰテ》。戀者辛苦《コフレバクルシ》。玉手次《タマタスキ》。不懸將忘《カケズワスレム》。言量欲《コトハカリモガ》。
 
(257)不懸將忘《カケズワスレム》は、心にかけず忘む、といふなり、○言量欲《コトハカリモガ》は、(言は借(リ)字、)事策《コトハカリ》もがなあれかし、となり、事量《コトハカリ》は、四(ノ)卷、十三(ノ)卷などにも見えて、既く委く説り、○歌(ノ)意は、獨のみ居て思ふ勞《イタヅキ》のくるしきにより、いかで心にかけて思はず、忘れはてなむ事策もがなあれかし、となり、下に、常如是戀者辛苦暫毛心安目六事計爲與《ツネカクテコフレバクルシシマラクモコヽロヤスメムコトハカリセヨ》、
 
2899 中中《ナカナカニ》。黙然毛有申尾《モダモアラマシヲ》。小豆無《アヂキナク》。相見始而毛《アヒミソメテモ》。吾者戀香《アレハコフルカ》。
 
黙(ノ)字、舊本に點と作るは誤なり、拾穗本に從つ、○歌(ノ)意は、はじめよりもだりて、あはむともせずしてあらましものを、なまなかに相見そめてより、かく思はじと思へども、止こと得ずして、遠慮もなく、こゝろをくるしめて、戀しく思ふこと哉、となり、相見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり、今の歌を註《コトワ》れるに似たり、
 
2900 吾妹子之《ワギモコガ》。咲眉引《ヱマヒマヨビキ》。面影《オモカゲニ》。懸而本名《カヽリテモトナ》。所念可毛《オモホユルカモ》。
 
咲眉引は、ヱマヒマヨビキ〔七字右○〕と訓べし、又ヱマムマヨビキ〔七字右○〕とも訓べし、十九に、青柳乃細眉根乎咲麻我埋《アヲヤギノクハシマヨネヲヱミマガリ》云々、○歌(ノ)意は、妹が愛しき咲顔眉引《ヱマヒマヨビキ》の、容儀《スガタ》の面影が、いつといふわかちもなく、むざ/\と眼(ノ)前にうかびて、常に戀しく思はるゝ哉、かくては得|堪《タフ》まじきを、妹はさるこゝろをも知ずて、つれなくさりげなくやあるらむ、となり、
 
2901 赤根指《アカネサス》。日之暮去者《ヒノクレヌレバ》。爲便乎無三《スベヲナミ》。千遍嘆而《チタビナゲキテ》。戀乍曾居《コヒツヽソヲル》。
 
(258)赤根指《アカネサス》は、枕詞なり、○爲便乎無三《スベヲナミ》は、せむ爲便《スベ》のなき故にの意なり、○歌(ノ)意は、晝だにあるに、日くれては、いとゞ心ぼそく、戀しく思ふ心に切《セマ》りて、せむかたなく、千度彌千度《チタビヤチタビ》あはれ/\と、長き息をつきて、わびつゝぞをる、となり、
 
2902 吾戀者《ワガコヒハ》。夜晝不別《ヨルヒルワカズ》。百重成《モヽヘナス》。情之念者《コヽロシモヘバ》。甚爲便無《イトモスベナシ》。
 
夜晝不別《ヨルヒルワカズ》、四(ノ)卷に、夜晝云別不知吾戀情盖夢所見寸八《ヨルヒルトイフワキシラニアガコフルコヽロハケダシイメニミエキヤ》、○百重成《モヽヘナス》は、百重《モヽヘ》にといはむが如し、如《ナス》は、常に如くといふ意に用ふれど、こゝは輕く見べし、四(ノ)卷に、三熊野之浦乃濱木綿百重成心者雖念直不相鴨《ミクマヌノウラノハマユフモヽヘナスコヽロハモヘドタヾニアハヌカモ》、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2903 五十殿寸太《イトノキテ》。薄寸眉根乎《ウスキマヨネヲ》。徒《イタヅラニ》。令掻管《カヽシメニツヽ》。不相人可母《アハヌヒトカモ》。
 
五十殿寸太《イトノキテ》(太は、手(ノ)字の誤なるべし、)は、甚除而《イトノキテ》にて、いとゞと云に同意なり、(岡部氏云、いとゞしくてふ言、いにしへはあらねど、此(ノ)言によくかなへるを思へば、本はいとのきてと言(ヒ)しを、今(ノ)京こなた、いとゞしくと轉じいふならむ、〉)既く五(ノ)卷に見えて、委《(ク)註り、○眉根は、マヨネ〔三字右○〕と訓べし、(マユネ〔三字右○〕と訓るはわろし、すべて眉をマユ〔二字右○〕と云は、中昔よりのことなり、古(ヘ)マヨ〔二字右○〕とのみ云り、古事記、書紀、集中の假字書を見集めて知べし、書紀に眉輪(ノ)王とあるを、古事記に目弱《マヨワノ》王とあり、これもマヨ〔二字右○〕と云る證なり、字鏡にも、黛(ハ)万與加支《マヨカキ》、とある、これ古言なり、しかるを若狹の法師義門が書るものに、眉《マユ》を古言に、眉引《マヨビキ》、眉根《マヨネ》などユ〔右○〕をヨ〔右○〕といへるは、連聲の便に、第三言(259)を、第五言に轉しいふ例なり、と定めたること、何やらむにて見たり、しかれども古言に、爾比具波麻欲《ニヒグハマヨ》などいひて、麻由《マユ》といひたること、かつてなければ、連言の便に、轉しいふ例には、あらざること、さらなり、)○令掻管は、岡部氏、カヽシメニツヽ〔七字右○〕と訓り、これしかり、又舊本に、カヽシメツヽモ〔七字右○〕と訓るに依ば、管の下、毛(ノ)字など脱たるか、○歌(ノ)意は、もとよりうすき眉なるに、いとゞ薄くなれとにや、絶ず掻しめつゝ、其|表《シルシ》には、逢こともあるべきに、然《サ》はなくて、無用《イタヅラ》に、其(ノ)表《シルシ》をのみ示す人にてある哉、となり、すべて鼻鳴《ハナビ》、紐解《ヒモトケ》、眉掻《マヨカユ》きは、人に相見むと云|前表《シルシ》とすることなれば、云るなり、四卷に、無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞《イトマナクヒトノマヨネヲイタヅラニカヽシメニツヽアハヌイモカモ》、
 
2904 戀戀而《コヒコヒテ》。後裳將相常《ノチモアハムト》。名草漏《ナグサムル》。心四無者《コヽロシナクバ》。五十寸手有目八面《イキテアラメヤモ》。
 
名草漏は、ナグサムル〔五字右○〕と訓べし、(ナグサモル〔五字右○〕と訓は、甚誤なり、)既く出たり、○面(ノ)字、古寫一本には方と作り、○歌(ノ)意は、戀しく思ひ思ひて、後々逢むと、自から思ひなぐさめて居ればこそ、其を命にして、暫はながらへてあれ、もしさるたのみさへたえてなくば、いよ/\身もよわり、心も消て、命生てあるべきにあらぬをや、嗚呼|勞《イタヅカハ》しき世にもある哉、となり、
 
2905 幾《イクバクモ》。不生有命乎《イケラジイノチヲ》。戀管曾《コヒツヽソ》。吾者氣衝《アレハイキヅク》。人爾不所知《ヒトニシラエズ》。
 
本(ノ)二句は、九(ノ)卷詠2勝鹿(ノ)眞間娘子(ヲ)1歌に、幾時毛不生物乎何爲跡歟身乎田名知而《イクバクモイケラジモノヲナニストカミヲタナシリテ》云々、とあり、いくばく時も、いきながらへてあるべからじ、と思ふ人の、壽命なるものを、と云意なり、○氣衝《イキヅク》(260)は、長、く息をつきてなげくを云、○歌(ノ)意は、人の世の壽命は、はかなくもろきものにて、いくばく時も、いきては得あらじものなれば、かく戀に心をくるしめずともあるべきことなるに、吾は息をつきつゝくるしみて、思ふ人にもしられず、獨のみ物を思ふぞ、となり、
 
2906 他國爾《ヒトクニニ》。結婚爾行而《ヨバヒニユキテ》。太刀之緒毛《タチガヲモ》。未解者《イマダトカネバ》。左夜曾明家流《サヨソアケニケル》。
 
他國《ヒトクニ》は、契冲云、此(ノ)國は、なにはの國、よしぬの國といへる類に心得べし、又業平の、龍田山をこえて、河内の高安へかよはれけるは、まことに兩國にかゝれば、いつれにもあるべし、○結婚《ヨバヒ》、は九(ノ)卷に、智奴壯士宇奈比壯士乃《チヌヲトコウナヒヲトコノ》、庵八燎須酒師競《フセヤタキススシキホヒ》、相結婚爲家類時者《アヒヨバヒシケルトキニ》云々、靈異記に、※[人偏+抗の旁]※[人偏+麗](ハ)與波不《ヨバフ》、とあり、伊勢物語に、昔(シ)男ありけり、女の得うまじかりけるを、年を經てよばひわたりけるを、からうして盗み出て、いと暮きにきにけり、云々、また、昔(シ)男、大和にある女を見て、よばひてあひけり、云々、(職人歌合の附言に、一義には、ぬしある人をよばふを、まめと云といへり、)言(ノ)意は、本居氏、呼《ヨブ》より出たるならむ、今の世の語に、婦をよぶと云も此(レ)なり、竹取物語に、闇の夜にも、こゝかしこより垣間見《カイマミ》まどひあへり、さる時よりなむ、よばひとは云ける、と云るは、故《コトサラ》に興に作りて云るなり、此(ノ)集十三に、夜延爲《ヨバヒセス》と書るも、正字にはあらず、さて又大和物語に、故式部卿(ノ)宮を、桂のみこ、せちによばひ賜ひけれど、おはし坐ざりけり、とあるは、女の方より、よばふと云りと云り、源氏物語玉葛に、けさう人は、夜にかくれたるをこそ、よばひとはいひけ(261)れ、とあるは、かの竹取物語を思ひて、滑稽《タハムレ》にわざとをかしく書るか、又もとより夜延の意と、心得誤りたるにもあるべし、(しかるを、高尚が、伊勢物語新釋に、夜延と云を、本義と心得て解たるは、ひがことなり、)○太刀之緒は、古事記によりて、タチガヲ〔四字右○〕と訓べし、廿(ノ)卷に、紐之緒《ヒモノヲ》を比毛我乎《ヒモガヲ》、とも假字書ありて、かゝる類の物にも、之《ノ》を我《ガ》と云る例多し、さて太刀が緒は、身に佩(ク)料の緒なり、そのさまは、大神宮式、神寶の條を見て考(フ)べし、彈正式に、凡衛府(ノ)舍人(ノ)刀(ノ)緒、左近衛(ハ)緋(ノ)※[糸+施の旁]、右近衛(ハ)緋(ノ)纈《ユハタ》、左兵衛(ハ)深緑、右兵衛(ハ)深緑(ノ)纈、左(ノ)門部(ハ)淺|縹《ハナダ》、石(ノ)門部(ハ)淺縹纈、凡囚獄司、物部(ノ)横刀《タチノ》緒(ノ)色(ハ)、胡桃《クルミ》染、帶刀賢人黄、また拾遺集神樂歌に、石上ふるやをとこの太刀もがな組(ノ)緒しでて宮路通はむ、又物名、をがはの橋をよめる歌に、筑紫より此《コヽ》まで來れどつともなし太刀の緒革《ヲカハ》の端《ハシ》のみぞある、大和物語に、良少將、太刀の緒にすべき皮をもとめければ三代實録に、貞觀十六年九月、檢非違使の請に依て、構刀之緒に上下の品を別て、五位已上同(ク)用2唐組(ヲ)1、六位已下並用2綺新羅組等(ヲ)1、と定められしことも見えたり、○未解者《イマダトカネバ》は、未(タ)解《トカ》ぬにの意なり、と契冲がいへる如し、此(ノ)語例、既く二(ノ)卷に委(ク)説り、○歌(ノ)意は、他國に女を婚ひに行て、未(ダ)刀(ガ)緒も解あへぬ間に、あたら夜の明ぬるぞ惜(シ)き、となり、此(ノ)歌、古事記上卷に、八千矛(ノ)神、將(テ)v婚(ムト)2高志(ノ)國之沼河比賣(ヲ)1幸行之時、到(リテ)2其(ノ)沼河比倍之家(ニ)1歌曰(タマハク)、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》、夜斯麻久爾都麻麻岐迦泥底《ヤシマクニツママキカネテ》、登富登宮斯故志能久邇々《トホトホシコシノクニヽ》、佐加志賣遠阿理登岐加志※[氏/一]《サカシメヲアリトキカシテ》、久波志賣遠阿理登伎許志※[氏/一]《クハシメヲアリトキコシテ》、佐用婆比(262)爾阿理多斯々《サヨバヒニアリタシヽ》、用婆比邇阿理加用婆勢《ヨバヒニアリカヨハセ》、多知賀遠母伊麻陀登迦受※[氏/一]《タチガヲモイマダトカズテ》、淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタトヲ》、淤曾夫良比和何多々勢禮婆《オソブラヒワガタヽセレバ》、比許豆良比和何多々勢禮婆《ヒコヅラヒワガタヽセレバ》、阿逮夜麻邇奴延波那伎奴《アヲヤマニヌエハナキ》、佐怒都登理岐藝斯波登與牟《サヌツトリキギシハトヨム》、爾波都登理迦祁波那久《ニハツトリカケハナク》、宇禮多久母那久那留登理加《ウレタクモナクナルトリカ》、許能登理母宇知夜米許世泥《コノトリモウチヤメコセネ》、伊斯多布夜阿麻波勢豆加比《イシタフヤアマハセヅカヒ》、許登能加多理其登母許遠婆《コトノカタリゴトモコヲバ》、とあるを、意を約めてよめるなり、と本居氏いへるが如し、
 
2907 大夫之《マスラヲノ》。聰神毛《サトキコヽロモ》。今者無《イマハナシ》。戀之奴爾《コヒノヤツコニ》。吾者可死《アレハシヌベシ》。
 
聰神毛今者無《サトキコヽロモイマハナシ》とは、契冲、戀に心のほれ/”\となる意なり、上にこゝろもなきとよみ、心ともなしとも、利心《トコヽロ》のうするとも、よめるに同じ、といへり、今按(フ)に、佐刀伎《サトキ》と云は、佐《サ》は、佐男牡鹿《サヲシカ》、佐莚《サムシロ》の佐《サ》にて、刀伎《トキ》は、利《トキ》の意にやあらむ、從聞物乎念者我胸者破而摧而鋒心無《キヽシヨリモノヲオモヘバワガムネハワレテクダケテトゴヽロモナシ》、とも、此(ノ)上に見え、利心《トコヽロ》、鋒心《トキコヽロ》、聰心《サトキコヽロ》、みな同じことなり、○戀乃奴《コヒノヤツコ》、十六に、家爾有之櫃爾※[金+巣]制藏而師戀乃奴之束見懸而《イヘニアリシヒツニクギサシヲサメテシコヒノヤツコノツカミカヽリテ》、とも見えて、自(ラ)の戀情を、※[手偏+益]《ツカ》み懸りて、人の身を責る賊《アタ》の如くいひなし、さて賤しめ罵惡《ノリニク》みて、奴《ヤツコ》とはいへるなり、(心の鬼といふに近し、○賤しき奴は、もとより聰明心もなき者なり、ほ一の物しらぬ奴になりて、吾身ははつべし、と云意を、もたせたるなるべし、といふ説は、理屈めきたり、)○歌(ノ)意は、いかなる強敵に對《ムカ》ひても、いさゝかもおくれはとらじと、常は思ひたのみて有し、大夫の利心もうせはてゝ、吾身につかみかゝれる、戀といふ賊奴《アタヤツコ》のくせものゝ(263)爲に、弱り死に死むより、今は他なし、となり、
 
2908 常如是《ツネカクシ》。戀者辛苦《コフレバクルシ》。暫毛《シマシクモ》。心安目六《コヽロヤスメム》。事計爲與《コトハカリセヨ》。
 
戀者は、コフレバ〔四字右○〕と訓べし、○暫毛は、シマシクモ〔五字右○〕と訓べし、○事計爲與《コトハカリセヨ》(計(ノ)字、舊本許に誤れり、拾穗本に從(ツ)、)は、四(ノ)卷に、外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事計爲與《ヨソニヰテコフレバクルシワギモコヲツギテアヒミムコトハカリセヨ》、とあるに同じくて、事の思(ヒ)はかりをせよと、妹に令せたるなり、なほ彼(ノ)四(ノ)卷に、既く註せるを披(キ)見て考(フ)べし、又此(ノ)下に、事計吉爲吾兄子《コトハカリヨクセワガセコ》とあるも、同意なり、此(ノ)上に不懸將忘言量欲《カケズワスレムコトハカリモガ》、とあるは、事策もがなあれかしと、自(ラ)云るにて、今とは自他の別あり、(然るを略解に、事計《コトハカリ》せよは、みづから下知するやうにいひなしたるなり、といへるは、いかにぞや、)○歌(ノ)意は、常にかくばかり戀しく思へば、苦く堪がたきによりて、いかで吾(ガ)身を、すこしはあはれとおもひて、しばらくの間だにも、心安かるべき事の、思ひはかりをしてよ、と妹に令せたるなり、
 
2909 凡爾《オボロカニ》。吾之念者《アレシオモハバ》。人妻爾《ヒトヅマニ》。有云妻爾《アリチフイモニ》。戀管有米也《コヒツヽアラメヤ》。
 
凡爾は、オホロカニ〔五字右○〕と訓べし、十九に、於保呂可爾情盡而《オホロカニコヽロツクシテ》、念良牟其子奈禮夜母《オモフラムソノコナレヤモ》云々、とあり、○歌(ノ)意は、もとより他妻にてあるなれば、いかに思ひてもかひなし、さればさて思ひ止べきなれど、なみ/\の心ならねばこそ、なほ堪がたくて、かく戀しく思ひつゝあるなれ、となり、
 
2910 心者《コヽロニハ》。千重百重《チヘニモヽヘニ》。思有杼《オモヘレド》。人目乎多見《ヒトメヲオホミ》。妹爾不相可母《イモニアハヌカモ》。
 
(264)歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2911 人目多見《ヒトメオホミ》。眼社忍禮《メコソシヌフレ》。少毛《スクナクモ》。心中爾《コヽロノウチニ》。吾念莫國《アガモハナクニ》。
 
人目多見《ヒトメオホミ》、四(ノ)卷に、人眼多見不相耳曾情左倍妹乎忘而吾念莫國《ヒトメオホミアハナクノミソコヽロサヘイモヲワスレテアガモハナクニ》、○少毛《スクナクモ》、(少(ノ)字舊本には小と作り、今は官本、古寫本等に從つ、)十一に、散頬相色者不出少文心中吾念名君《サニヅラフイロニハイデズスクナクモコヽロノウチニアガモハナクニ》、又、言云者三三二田八酢四少九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘバミミニタヤスシスクナクモコヽロノウチニアガモハナクニ》、などあり、又十五に、多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎須久奈久毛伊母爾戀都々須敝奈家奈久爾《タビトイヘバコトニソヤスキスクナクモイモニコヒツヽスベナケナクニ》、十(ノ)卷に、風吹者黄葉散乍少雲吾松原清在莫國《カゼフケバモミチチリツヽスクナクモアガマツバラノキヨカラナクニ》、○歌(ノ)意は、人目をしのびかくればこそ、思ふさまには、得あはずあるなれ、心の中には、そこばく思ふことなるものを、となり、
 
2912 人見而《ヒトノミテ》。事害目不爲《コトトガメセヌ》。夢爾吾《イメニアレ》。今夜將至《コヨヒイタラム》。屋戸閉勿勤《ヤトサスナユメ》。
 
事《コト》は、借(リ)字にて言《コト》なり、○屋戸《ヤト》は、屋之戸《ヤノト》なり、屋之戸《ヤノト》を屋戸《ヤト》と云る例、古事記に、天照大御神、見畏(マシテ)閇2天(ノ)石屋戸《イハヤトヲ》1而刺(シ)許母理坐《モリマシキ》也、とあり、此(ノ)集三(ノ)卷に、石室戸《イハヤト》とも見えたり、四(ノ)卷に委(ク)註り、○歌(ノ)意は、君のみ見賜ふ夢なれば、他人の見あらはして、とがめ言することもなければ、今夜わが心神の其所に至りて、君が夢に見え申さむぞ、ゆめ/\屋の戸を閉て、わが心神の通路を、塞たまふことなかれ、となり、此(ノ)下に、門立而戸毛閉而有乎何處從鹿妹之入來而夢所見鶴《カドタテテトモサシタルヲイヅクユカイモガイリキテイメニミエツル》、四(ノ)卷に、暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサラバヤトアケマケテアレマタムイメニアヒミニコムトイフヒトヲ》、古今集に、かぎりなきおもひのまゝ(265)によるもこむ、夢路をさへに人はとがめじ、(遊仙窟に、今宵莫v閉v戸(ヲ)、夢裏向2渠邊1、此(ノ)下に、人見而言害不爲夢谷不止見與我戀將息《ヒトノミテコトトガメセヌイメニダニヤマズミエコソワガコヒヤマム》、
 
2913 何時左右二《イツマデニ》。將生命曾《イカムイノチソ》。凡者《オホカタハ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。死上有《シナムマサレリ》。
 
將生命曾は、イカムイノチソ〔七字右○〕と訓べし、(將生を、イケラム〔四字右○〕或はイキナム〔四字右○〕など訓むは、よろしからず、)生《イカ》ム〔右○〕、生《イ》キ〔右○〕、生《イ》ク〔右○〕、生《イ》ケ〔右○〕、と活く詞なればなり、○戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》は、戀しく思ひつゝあらむよりはの意なり、例多し、既く二(ノ)卷にいへり、○死上有《シナムマサレリ》は、義を以てかけり、○歌(ノ)意は、何時《イツ》まで生ながらへてあらむ命とて、かく戀にくるしむ事なるらむ、戀しく思ひつゝ勞きてあらむよりは、大むねのところを、はかりくらべて見れば、中々に死む方|勝《マサ》れり、といへり、
 
2914 愛等《ウツクシト》。念吾妹乎《アガモフイモヲ》。夢見而《イメニミテ》。起而探爾《オキテサグルニ》。無之不怜《ナキガサブシサ》。
 
念吾妹は、今按(フ)に、吾念妹とありしを、誤れるにやあらむ、アガモフイモヲ〔七字右○〕とあるべき處なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、四(ノ)卷に、夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者《イメノアヒハクルシカリケリオドロキテカキサグレトモテニモフレネバ》〔頭註、【相如長門賦曰、忽寢寐而夢想兮、魂若君之在傍、※[立心偏+易]寐覺而無見兮、魂廷同若有亡、】〕この歌と今の歌は、共に遊仙窟に、少時坐睡則夢2見十娘(ヲ)1、驚覺(テ)※[手偏+覺](ルニ)之、忽然空v手、心中悵怏、復何可v論、とあるを本にて、よめりと聞えたり、
 
2915 妹登曰者《イモトイフハ》。無禮恐《ナメクカシコシ》。然爲蟹《シカスガニ》。懸卷欲《カケマクホシキ》。言爾有鴨《コトニアルカモ》。
 
無禮恐は、ナメクカシコシ〔七字右○〕と本居氏よめり、是然るべし、無禮《ナメク》は、書紀に、亂語《ナメリゴト》、(繼體天皇(ノ)卷、)輕《ナメク》、(266)(上に同じ)輕《ナメシク》、(安閑天皇(ノ)卷、)此(ノ)集六(ノ)卷に、倭道雲隱有雖然余振袖乎無禮登母布奈《ヤマトヂハクモガクリタリシカレドモアガフルソテヲナメシトモフナ》、續紀廿五(ノ)宣命に、無《ナク》v禮《ヰヤ》之弖《シテ》不v從|奈賣久在牟人乎方《ナメクアラムヒトヲハ》云々、(賣、舊本に壹と作るは誤なり、)伊勢物語に昔(シ)男、かくてはしぬべしといひやりたりければ、女、白露は消《ケ》なば消《ケ》なゝむ消《キエ》ずとて玉に貫べき人も在じを、といへりければ、いと奈賣之《ナメシ》と思ひけれど、心ざしはいやまさりけり、源氏物語未通女に、いさゝか物いふをも制せず、奈賣氣《ナメゲ》なりとてもどかむ、梅(カ)枝に、おぼしすつまじきをたのみて、奈賣氣《ナメゲ》なるすがたを、御覽ぜさせ侍るなり、夕霧に、いかさまにして、この奈賣氣《ナメゲ》さを、見じとおぼしければ、眞木柱に、うちにも奈賣久《ナメク》心あるさまに聞しめし、人々もおぼす所あらむ、枕册子にも、なめげなるもの云々、また文詞なめき人こそ、いとゞにくけれ、とあり、(すべてこの言は、ナメキ、ナメク、ナメシ、ナメシキ、ナメシク、ナメリ、ナメル〔ナメキ〜右○〕など、さま/”\に用く言なり、今俗に、ナメス〔三字右○〕といふ言のあるも、同意の言の轉れるものなるべし、ナメゲ〔三字右○〕と云は無醴氣《ナメゲ》にて、氣《ゲ》は、尊氣《タフトゲ》、卑氣《イヤシゲ》など云|氣《ゲ》なり、)輕しめあなどるを云言にて、無《ナキ》v禮《ヰヤ》といふと、同意の言ながら、無《ナキ》v禮《ヰヤ》といふよりは、いさゝか輕き方に用たり、○然蟹爲《シカスガニ》は、さすがにといふに同じ、(略解に、しかしながらを約めいふなり、と云る言は、さることながら、其(ノ)言を約めりといへるは、いかゞ、)既くあまたに出たり、○歌(ノ)意は、吾が賤しき身にて、妹といふは、無禮《ナメシク》て、おそれあることながら、さすがに言に妹といひて、我手に入まほしく思ふこと哉、となり、
 
(267)2916 玉勝間《タマカツマ》。相登云者《アハムトイフハ》。誰有香《タレナルカ》。相有時左倍《アヘルトキサヘ》。面隱爲《オモカクシスル》。
 
玉勝間《タマカツマ》は、此(ノ)下にも、二處に見えたり、玉《タマ》は美稱、勝間《カツマ》は、古事記上卷海宮(ノ)段に、無間勝間之小船《マナシカツマノヲブネ》、てふもの見えて、其を書紀には、堅間《カツマ》と作り、勝は借(リ)字にて、書紀の字の如く、堅津間《カタツマ》の約りたるなり、(多都《タツノ》切|都《ツ》となれり、)さて組(ミ)たる竹の目の、堅く縮りたるよりいふ稱《ナ》なり、(冠辭考に、勝間《カツマ》は、古事記に、造2無間勝間云々(ヲ)1、神代紀に、取2其竹(ヲ)1作2大目|麁籠《アラカタマ》又無目堅間(ヲ)1、とあり、此勝間、堅間など書たるは、借(リ)字にて、籠と書たるは實なり、且今本に、カツマ〔三字右○〕と訓しも、韻は通へども、猶紀によりて、カタマ〔三字右○〕と訓べし、とあるは、いみじきひがことなり、まづ大目麁籠《オホマアラコ》とあるを、オホマアラカタマ〔八字右○〕とよめるは、いかにぞや、目の麁きを、いかでか堅間とはいふべき、私説と云べし、又書紀に堅間とあるによりて、カタマ〔三字右○〕とよむべし、と云るもいかに、古事記の字づかひ、カタ〔二字右○〕といはむに、勝(ノ)字など書るやうの例、あることなし、書紀は、堅《カタ》つ間《マ》てふ義を得て書たるなれば、訓は猶古事記と此(ノ)集とによりて、加都麻《カツマ》と訓べき定なり、すべて加多麻《カタマ》といふ稱は、前にもノツにもあることなし、本居氏古事記傳に、古(ヘ)加都麻《カツマ》とも加多麻《カタマ》とも云りしなり、といへるも、右の誤を承たる説なれば、とかく論ふまでもなし、なほ次に云べし、)阿波(ノ)國風土記に、勝間井《カツマヰノ》冷水、倭建(ノ)命乃|大御櫛笥《オホミクシゲヲ》忘(タマヒシニ)依|而《テ》、勝間云《カツマトイフ》、とあると、古事記を合(セ)考(フ)るに、籠(ノ)類を後には加多美《カタミ》とはいへど、古代には、船また櫛笥の類、何にても、竹もて編目《アミメ》きびしく製《ツク》れる器《モノ》を、ひろくいひし稱《ナ》にぞありけむ、(古今集に、花かたみ目ならぶ人のあまたあれば云々、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、答※[竹/青](ハ)小籬也、漢語抄云、加多美《カタミ》、などあるは、かの加都麻《カツマ》を訛りたるなり、さてその加多美《カタミ》を、小籠の稱とするも、今(ノ)京よりこなたのことにて、上(ツ)代には、ひろく何にもいへりし稱なること、上に辨たるが如し、)さて相《アフ》とかゝれるは、冠辭考にも云し如く、こゝの玉勝間《タマカツマ》は、蓋《フタ》と身《ミ》とある合せ篋《バコ》の謂にて、逢《アフ》とはいひかけたるなるべし、○誰有香《タレナルカ》は、誰(レ)なるぞ、と云に同じ、例多し、事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手《コトデシハタガコトナルカヲヤマタノナハシロミヅノナカヨドニシテ》、とあるも、誰言なるぞの意なり、○面隱《オモカクシ》は、十一に、對面者面隱流物柄爾《アヒミレバオモカクサルヽモノカラニ》云々、○歌(ノ)意は、あひ見むといひおこせしは誰なるぞ、そこの然《サ》いひおこせしにあらずや、さるを今逢見る時となりてさへ、しか面隱するよ、かゝれば相見むといひおこせしは、たゞうはべの人だのめにてやありしと、女にむかひて、せむるやうに云るなり、相見むとは、人づてにいひおこせしものから、うらわかき女なれば、なほはぢらひて、人おめするをいへるなり、
 
2917 寤香《ウツヽニカ》。妹之來座有《イモガキマセル》。夢可毛《イメニカモ》。吾香惑流《アレカマドヘル》。戀之繁爾《コヒノシゲキニ》。
 
歌意は、現《ウツヽ》に正《マサ》しく妹が來座せるにてあるか、又は戀のしげきによりて、夢に吾心の惑へるにて、眞に來座るには非るか、といへるにて、いかさま戀のしげきによりて、わがまよへるにてこそあらめ、と云意を思はせたるなり、一二五三四と句を次第て意得べし、古今集に、君や(269)こしわれや行けむおもほえず夢か現か寢てか寤てか、○今按(フ)に、此(ノ)歌|可《カ》の疑辭三あり、其(ノ)中初句なるは、來座有《キマセル》にて結めり、第三句なるは、惑流《マドヘル》にて結めり、第四句なるは、徒に重なりたるが如くなれども、かやうの處に重ね云て、語勢をつくる例多し、誤字あるに非ず、既く二(ノ)卷に、例等《アトコトバドモ》を擧て、委(ク)辨へたるを、披(キ)見て考(ヘ)合(ス)べし、
 
2918 大方者《オホカタハ》。何鴨將戀《ナニカモコヒム》。言擧不爲《コトアゲセズ》。妹爾依宿牟《イモニヨリネム》。年者近※[糸+侵の旁]《トシハチカキヲ》。
 
大方者《オホカタハ》は、契冲、おほ方の人ならばの意なり、といへり、○言擧不爲《コトアゲセズ》は、とにかくいふべきこともなしに、といはむが如し、言擧《コトアゲ》は、集中にかた/”\見えたり、既く六(ノ)上に委(ク)註り、○近※[糸+侵の旁]、(※[糸+侵の旁](ノ)字、舊本に侵と作るは誤なり、古寫本、古寫一本、拾穗本等には絞と作り、絞(ノ)字はよしなし、今は古本、水戸本等に從つ、字註に、※[糸+侵の旁]※[糸+踐の旁]也、可2以縫(フ)1v衣、と見えたれば、緒とかけるに同じことなり、)チカキヲ〔四字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、妹が父母の許して、とかくいふことなしに、眞の夫妻となりなむ年月も近きものを、大かたの人ならば、かくばかり、何ぞ戀しく思はむやは、なみ/\の人ならねばこそ、しばし時まつ間も待堪ずして、戀しく思ふなれ、となり三四五一二と句を次第て心得べし、
 
2919 二爲而《フタリシテ》。結之※[糸+刃]乎《ムスビシヒモヲ》。一爲而《ヒトリシテ》。吾者解不見《アレハトキミジ》。直相及者《タヾニアフマデハ》。
 
吾者解不見《アレハトキミジ》は、吾は不《ジ》v解《トカ》と云ことを、かく不《ジ》v見《ミ》といひたる見《ミ》は、試《コヽロミ》の見《ミ》にて、本意ならねど、も(270)し心なぐさになることもぞあると、姑《シバラ》く試に解こともせじ、といへるなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、伊勢物語に、ふたりして結びし紐をひとりしてあひみるまではとかじとぞ思ふ、今の歌をつくり換(ヘ)たるか、
 
2920 終命《シナムイノチ》。此者不念《コヽハオモハズ》。唯毛《タヾニシモ》。妹爾不相《イモニアハナク》。言乎之曾念《コトヲシソモフ》。
 
此者不念《コヽハオモハズ》は、其《ソレ》は不念《オモハズ》といはむが如し、其(ノ)將《ム》v終《シナ》命を、惜くは思はず、となり、○唯毛は、タヾニシモ〔五字右○〕とよめるよろし、之毛《シモ》は、多かる物の中に、その一(ト)すぢをとり出ていふ辭なり、○言は、借(リ)字、事《コト》なり、○歌(ノ)意は、命ばかり惜きものは、さらに無れども、其(ノ)將《ム》v終《シナ》命をも惜くは思はず、たゞ一(ト)すぢに、妹に得逢(ハ)ざる事をこそ、くちをしくは思ふなれとなり、
 
2921 幼婦者《ヒモノヲノ》。同情《オヤジコヽロニ》。須曳《シマシクモ》。止時毛無久《ヤムトキモナク》。將見等曾念《ミナムトソモフ》。
 
幼夫者、穩ならず、本居氏、或人(ノ)説に、この三字は、紐緒之《ヒモノヲノ》の誤なるべし、古今集に、入(レ)紐の同(シ)情にいざむすびてむ、とあるに同じといへり、と云り、姑(ク)此(ノ)説によりて訓つ、○歌(ノ)意は、妹とわれと情を一(ツ)にして、相見なむ事をこそ、しばらくの間も、止ときなしに思ふなれ、となり、
 
2922 夕去者《ユフサラバ》。於君將相跡《キミニアハムト》。念許憎《オモフコソ》。日之晩毛《ヒノクルラクモ》。娯有家禮《ウレシカリケレ》。
 
念許憎《オモヘコソ》は、念へばこそといふに同じ、○娯(ノ)字、舊本に〓と作るは誤なり、玉篇に、〓與v誤同、とあればなり、今は中院家本、拾穗本等に從つ、娯は、玉篇に樂也、とあり、○晩毛《クルラクモ》は、晩《クル》る事もといふ(271)意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、上に、玉釵卷宿妹母有者許増夜之長毛歡有倍吉《タマクシロマキネシイモモアラバコソヨノナガケクモウレシカルベキ》、これ意異りたれど、語勢相似たり、
 
2923 直今日毛《タヾケフモ》。君爾波相目跡《キミニハアハメド》。人言乎《ヒトコトヲ》。繁不相而《シゲミアハズテ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。
 
直《タヾ》の言は、相目跡《アハメド》の上にうつして心得べし、○歌(ノ)意は、今日も君には、直に相見むすべのあるべきなれど、人言の繁さに、得あはずして、戀しく思ひつゝ過す哉、さて/\人言の繁きほど、世にすべなきものはなきぞ、となり、
 
2924 世間爾《ヨノナカニ》。戀將繁跡《コヒシゲケムト》。不念者《オモハネバ》。君之手本乎《キミガタモトヲ》。不枕夜毛有寸《マカヌヨモアリキ》。
 
世間爾《ヨノナカニ》は、世にうれしく、世にかなしくなど云、世と同言にて、世(ノ)間にあるが中にも、殊に甚しきをいふ言にて、こゝは戀の繁き中にも、とりわきて、殊に甚しく繁きを云、(本居氏(ノ)説に、世間は、ヨノホトニ〔五字右○〕と訓べし、ヨノホトニ〔五字右○〕は、生て在(ル)内になり、わが生涯のほどに、かくこひむものとは、かねておもはざりしかばの意なり、と云り、なほ考(フ)べし、)○歌(ノ)意は、かくばかり、世に繁く戀しく思はむものぞと、かねて思はざりしかば、悔しくも、君が手本を枕《マキ》て、相寢せざりし夜もありけり、となり、○十一に、如此許將戀物衣常不念者妹之手本乎不纏夜裳有寸《カクバカリコヒムモノソトオモハネバイモガタモトヲマカヌヨモアリキ》、と出せり、古本には、其(ノ)歌十一にはなくて、此所の左に、一云とて註したり、と岡部氏(ノ)考に云り、
 
2925 緑兒之《ミドリコノ》。爲社乳母者《タメコソオモハ》。求云《モトムトイヘ》。乳飲哉君之《チノメヤキミガ》。於毛求覽《オモモトムラン》。
 
(272)爲社乳母者《タメコソオモハ》、(社(ノ)字、舊本には杜と作り、今は阿野家本、類聚抄、拾穗本等に從つ、)爲社《タメコソ》は、爲《タメ》にこその意なり、乳母は、岡部氏の、オモ〔二字右○〕とよめる宜し、こゝに乳母とは書たれども、たゞオモ〔二字右○〕と訓べきこと、末(ノ)句に、於毛《オモ》とあるにて知べし、於毛《オモ》とは、兒を養育《ヒタ》す婦人をすべて云(フ)稱にて、其(ノ)中に、乳母《チオモ》は、殊に主とある者なる故に、唯に淤毛《オモ》とのみ云、又|親母《ハヽ》を於毛《オモ》といふも、兒を養育《ヒタ》す方につきていへるなり、と本居氏|説《イヘ》り、なほ古事記傳(ノ)廿五に詳に見えたり、披(キ)見て考ふべし、故(レ)こゝには略きて引つ、和名抄に、乳母、日本紀師説、女乃於止《メノオト》、言(ハ)妻(ノ)妹也、事見2彼書(ニ)1、唐式(ニ)云、乳母、和名|米乃止《メノト》、辨色立成(ニ)云※[女+爾]母、今按(ニ)、即(チ)乳母也、和名|知於毛《チヲモ》、とあり、(古本には、知(ノ)字なしといへり、)○乳飲哉《チノメヤ》は、乳を飲ばにやの意なり、○歌(ノ)意は、吾は君と年齡のたがへること、母子ほどの間なれば、吾をいざなひ賜ふは、君の乳母《チオモ》にせむとならむ、さりながら、乳母《チオモ》は、嬰兒《ミドリコ》のためにこそ、求むといふなれ、君も未(タ)乳を飲(ミ)賜へばにや、其(ノ)乳母をもとむならむ、となり、此(ノ)歌は、ねびたる女を、男のけさうするとき、其(ノ)女の、自(ラ)を乳母に比(ヘ)て、よめるなるべし、
 
2926 悔毛《クヤシクモ》。老爾來鴨《オイニケルカモ》。我背子之《ワガセコガ》。求流乳母爾《モトムルオモニ》。行益物乎《ユカマシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、その求め賜ふ乳母《オモ》になりても、君の許へ行まほしくおもへども、今はいたくねびすぎたれば、乳母にだにも得堪じとおもふが、悔しき事哉、となり、此(ノ)歌も、右同(シ)女の作なり、上の歌につゞけて意得べし、契冲、下の心を思ふに、たのめたるをとこの、ねびたる女に心かはり(273)て、こと人をむかへて、子の出來たりときゝて、ねたくうらめしさに、我身を、ほどよりも老たるやうにいひて、人の心をいたましむるが爲に、よみておくるなるべし、と云り、其(ノ)意ならば、上の歌とは別人の作とするか、
 
2927 浦觸而《ウラブレテ》。可例西袖※[口+立刀]《カレニシソテヲ》。又卷者《マタマカバ》。過西戀也《スギニシコヒヤ》。亂今可聞《ミダレコムカモ》。
 
浦觸而《ウラブレテ》は、恍惚《ホレ/”\》と愁ひ憐しみて、と云意なり、○可例西袖《カレニシソテ》とは、離《カレ》にし袖といふにて、可例《カレ》は、男女中絶て、互に纏交《マキカハ》せし袖の、相遠り離るゝよしなり、○今《コム》は、二合假字にて、將《ム》v來《コ》なり、○歌(ノ)意は、恍惚《ホレ/”\》と愁ひ憐しみて、絶果し中を、又ふたゝび、思ひかへして相見たらば、さまざまの物思おこりて、漸々《ヤウ/\》に過《スゴ》し遣り失ひし、日頃の戀の、又みだれ來て、われをなやまさむ歟、されば又ふたゝび思ひかへして、相見むことも、心ぐるしくはあれど、又さらに打とくべきたよりの出來たるに、心づよく、さりげなくもてなさむは、さすがなれば、おもひ倦《ウム》じてあるこのごろぞ、となり、
 
2928 各寺師《オノガジシ》。人死爲良思《ヒトシナスラシ》。妹爾戀《イモニコヒ》。日異羸沼《ヒニケニヤセヌ》。人丹不所知《ヒトニシラエズ》。
 
各自師《オノガジシ》は、人のうへに關ることに非ず、己(レ)として、自身のうへの事を、物する意ときこえたり、(中昔の書に、此言をつかへるやうは、かず/\あるものゝ中に、各自といふ意にて、少し此《コヽ》とは、やうかはりたるやうなるは、より/\に轉れるものならむ、拾遺集(ノ)七物名に、秋風に四方(274)の山よりおのがじしふくに散ぬる紅葉かなしな、紫式部日記に、池のわたりのこずゑども、やり水のほとりの草むら、おのがじしいろづきわたりつゝ云々、源氏物語橋姫に、春のうららかなる日かげに、池の水鳥どもの、羽打かはしつゝ、おのがじしさへづる聲などを、つねはかなさことゝ見賜ひしかども云々、これらは、常に面々にと云意に用ひたり、)○人死爲良思《ヒトシナスラシ》は、人を令《ス》v死《シナ》らしなり、此(ノ)人は、自《ミラ》我《ガ》身をいふなり、(心の鬼が、身をせむるといふが如し、)○歌(ノ)意は、人を戀しく思ふも、我(カ)心よりの事なれば、故《コトサラ》に他の事を、とかくとがめいふべきに非ず、我と我(ガ)身を、戀に令《ス》v死《シナ》るわざならじ、さるは思ふ人にもしられず、しのび/\に、かくばかり思ひつゝ、日々にやせおとろふれば、死むこと遠からじ、もし思ふ人の、我(ガ)かくまで、死《シ》ぬばかり戀しく思ふよしを知たらば、よもむげに、つれなくはもてなさじを、となり、及びなき人などを思ひかけて、いひよらむよしなくて、獨思(ヒ)切《セマ》りて、よめるなるべし、
 
2929 夕夕《ヨヒヨヒニ》。吾立待爾《アガタチマツニ》。若雲《ケダシクモ》。君不來益者《キミキマサズバ》。應辛苦《クルシカルベシ》。
 
夕夕は、ヨヒ/\ニ〔五字右○〕とよめるよろし、(略解にユフベユフベ〔六字右○〕とよめるはわろし、)○若雲は、ケダシクモ〔五字右○〕と訓べし、ケダシ〔三字右○〕と云に、若(ノ)字を用たること、はやく見えたり、字鏡にも、儻(ハ)設也若也云云、介太志《ケダシ》と見えたり、○益は、坐の借(リ)字なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、一夜二夜ならず、夜を數多|連《カサ》ねて、吾(カ)立待たるに、今夜も、もしなほ君が來坐ざりせば、いかにくるしかるべきと(275)なり、
 
2930 生代爾《イケルヨニ》。戀云物乎《コヒチフモノヲ》。相不見者《アヒミネバ》。戀中爾毛《コフルウチニモ》。吾曾苦寸《アレソクルシキ》。
 
生代爾は、イケルヨニ〔五字右○〕と訓べし、生てある現(シ)世にの意なり、四(ノ)卷に、生有代爾吾者未見事絶而如是何怜縫嚢者《イケルヨニアハイマダミズコトタエテカクオモシロクヌヘルフクロハ》、○戀中爾毛は、コフルウチニモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、生てある現(シ)世に、戀といふ物を、いままでならはねば、戀しく思ひつゝある中にも、吾は一(ト)通《ワタリ》の戀と云ものにあらず、殊にとりわきて、せむかたなくさし切《セマ》りて、心を苦しむる事、となり、伊勢物語に、人はこれをやこひといふらむ、
 
2931 念管《オモヒツヽ》。座者苦毛《ヲレバクルシモ》。夜干玉之《ヌバタマノ》。夜爾至者《ヨルニナリナバ》。吾社湯龜《アレコソユカメ》。
 
歌(ノ)意は、來まさぬ君を、思ひつゝ、此方《コナタ》に居れば、苦しく堪がたきによりて、よるになりなば、人目をしのびて、吾こそ君が許にゆかめ、といへるにて、女のよめるなるべし、
 
2932 情庭《コヽロニハ》。燎而念杼《モエテオモヘド》。虚蝉之《ウツセミノ》。人目乎繁《ヒトメヲシゲミ》。妹爾不相鴨《イモニアハヌカモ》。
 
燎而念杼《モエテオモヘド》、十七に、心爾波火佐倍毛要都追於母比孤悲伊伎豆吉安麻利《コヽロニハヒサヘモエツツオモヒコヒイキヅキアマリ》云々、新撰萬葉に、人緒念心之熾者身緒曾燒煙立※[石+弖]者不見沼物※[朝の月が袴の旁]《ヒトヲオモフコヽロノオキハミヲソヤクケブリタツトハミエヌモノカラ》、古今集に、胸走火《ムナハシリヒ》に心燒をり、などある類なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2933 不相念《アヒオモハズ》。公者雖座《キミハマサメド》。肩戀丹《アレハソコフル》。吾者衣戀《カタコヒニ》。君之光儀《キミガスガタヲ》。
 
(276)雖盛《マサメド》は、座《マサ》むなれどの意にて、座すらめどといはむが如し、○肩は、借(リ)字にて片《カタ》なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
2934 味澤相《ウマサハフ》。目者非不飽《メニハアケドモ》。携《タヅサハリ》。不問事毛《コトトハナクモ》。苦勞有來《クルシカリケリ》。
 
味澤相《ウマサハフ》は、目《メ》といはむ料の枕詞なり、○非不飽は、義を得て、アケドモ〔四字右○〕とよませたり、○不問事《コトトハナク》は、物言(ハ)ぬことゝいふに同じ、○歌(ノ)意は、目にはあくまで見れども、狎(レ)親(ヅ)き、打とけて物いふ事もなきが苦しき、となり、此(ノ)歌は、男にまれ女にまれ、同じほどの宮づかへなどして、日に/\互に相見かはすものから、心おかるゝあたりなれば、ちかづきたづさはることの、心ならぬ人のよめるならむ、
 
2935 璞之《アラタマノ》。年緒永《トシノヲナガク》。何時左右鹿《イツマデカ》。我戀將居《アガコヒヲラム》。壽不知而《イノチシラズテ》。
 
歌(ノ)意は、涯(リ)ある命のほどをもしらずして、年久しく、いつまで戀しく思ひつゝ、居むことぞ、となり、
 
2936 今者吾者《イマハアハ》。指南與我兄《シナムヨワガセ》。戀爲者《コヒスレバ》。一夜一日毛《ヒトヨヒトヒモ》。安毛無《ヤスケクモナシ》。
 
指南與我兄《シナムヨワガセ》とは、指南は、將《ム》v死《シナ》の假字なり、中々に死ば安けむ、とよめるごとく、死《シニ》たらば何の物思(ヒ)もなく、かへりて安からむと思へば、今は死なむ我兄よ、といへるなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、上に、今者吾者將死與吾妹不相而念渡者安毛無《イマハアハシナムヨワギモアハズシテオモヒワタレバヤスケクモナシ》、作者は男女かはりたれども、意(277)は同じ、四(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)歌に、今者吾波將死與吾背生十有吾二可縁跡言跡云莫苦荷《イマハアハシナムヨワガセイケリトモアニヨルベシトイフトイハナクニ》、
 
2937 白細布之《シロタヘノ》。袖折反《ソテヲリカヘシ》。戀者香《コフレバカ》。妹之容儀乃《イモガスガタノ》。夢二四三湯流《イメニシミユル》。
 
歌(ノ)意かくれなし、上にも、袖反してぬれば、思ふ人を夢に見ると云こと、これかれ見えたり、袖反は、即《ヤガテ》衣を反すことなり、古今集にも、いとせめてこひしきときはうば玉の夜の衣をかへしてぞぬる、
 
2938 人言乎《ヒトコトヲ》。繁三毛人髪三《シゲミコチタミ》。我兄子乎《ワガセコヲ》。目者雖見《メニハミレドモ》。相因毛無《アフヨシモナシ》。
毛人髪三《コチタミ》、毛人は、契冲がいひしごとく、蝦夷なり、敏達天皇(ノ)紀に、十年春|閏二月《ノチノキサラギ》、蝦夷|數千《ヤチタリ》寇《アタナヘルノ》2於|邊境《ホトリニ》1由是《ヨリテ》、召(テ)2其(ノ)魁帥綾糟《ヒトコノカミアヤカス》等(ヲ)1云々、証に、魁帥(ハ)者、大毛人《エミシ》也、また續紀に、蝦夷(ノ)大臣を毛人とかけり、(今とても蝦夷人は大毛あること、人の知たるごとし、)さて人の言痛《コチタク》言(ヒ)さわぐは、聞(ク)人の耳に繁く煩はしけれは、かの蝦夷が身にも、けだものゝ如くに毛おひ、髪もよもぎの如くに繁きによせて、かけるなるべし、二(ノ)卷但馬(ノ)皇女(ノ)御歌に、人事乎繁美許知病美已母世爾未渡朝川渡《ヒトゴトヲシケミコチタミイケルヨニイマダワタラヌアサカハワタル》、(已母は、生有の誤なるべし、)此(ノ)上に、人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母《ヒトゴトヲシゲミコチタミワギモコニイニシツキヨリイマダアハヌカモ》、○歌(ノ)意かくれなし、
 
2939 戀云者《コヒトイヘバ》。薄事有《ウスキコトアリ》。雖然《シカレドモ》。我者不忘《アレハワスレジ》。戀者死十方《コヒハシヌトモ》。
 
歌(ノ)意は、十一に、言云者三三二田八酢四《コトニイヘバミミニタヤスシ》、十五に、多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎《タビトイヘバコトニソヤスキ》、などいへる類(278)に、たゞ言にのみ戀戀《コヒコヒ》といへば、さのみ深めしからず、たやすくきゝなされて、うすきことにてあり、しかれども、われにおきては、さるうすきことにあらず、たとひ戀死に死はすとも、わするゝよはさらにあらじを、となり、
 
2940 中中二《ナカナカニ》。死者安六《シナバヤスケム》。出日之《イヅルヒノ》。入別不知《イルワキシラヌ》。吾四久流四毛《アレシクルシモ》。
 
死者安六は、シナバヤスケム〔七字右○〕と訓べし、死たらば安樂ならむ、といふ意なり、(略解に、シニハ〔三字右○〕安ケム〔二字右○〕とよめるは、易v死といふ意になりて、いたくたがへり、)十七に、奈加奈可爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須敝奈可流倍思《《ナカナカニシナバヤスケムキミガメヲミズヒサナラバスベナカルベシ》、とあると同意なり、(古今集に、死(ニ)はやすくぞあるべかりける、とあるは、易v死の意にて、今とは意異れり、)○出日之《イヅルヒノ》云々、一(ノ)卷に、霞立長春日乃《カスミタツナガキハルヒノ》、晩家流和肝之良受《クレニケルワキモシラズ》云々、十一に、氣緒爾妹乎思念者年月之往覽別毛不所念鳧《イキノヲニイモヲシモヘバトシツキノユクラムワキモオモホエヌカモ》、四(ノ)卷に、夜晝云別不知吾戀情盖夢所見寸八《ヨルヒルトイフワキシラニアガコフルコヽロハケダシイメニミエキヤ》、○歌(ノ)意は、朝夕のわかちだにもしらずして、一すぢに物思ふことの、くるしく勞《イタ》づかはしければ、死たらば、何の物思(ヒ)もなく、かへりて安からむをとなり、上に、今者吾者指南與我兄戀爲者一夜一日毛安毛無《イマハアハシナムヨワガセコヒスレバヒトヨヒトヒモヤスケクモナシ》、
 
2941 念八流《オモヒヤル》。跡状毛我者《タドキモアレハ》。今者無《イマハナシ》。妹二不相而《イモニアハズテ》。年之經行者《トシノヘヌレバ》。
 
跡状は、タドキ〔三字右○〕とよめる例《アトコトバ》多し、○歌(ノ)意は、上に思遣爲便乃田時毛吾者無不相日數多月之經去者《オモヒヤルスベノタドキモワレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》、とある歌に同じ、又、三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモアレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》、ともあり、
 
(279)2942 吾兄子爾《ワガセコニ》。戀跡二四有四《コフトニシアラシ》。小兒之《ワカキコノ》。夜哭乎爲乍《ヨナキヲシツヽ》。宿不勝苦者《イネカテナクハ》。
 
二四《ニシ》と連ねたるは、さだかにしかりとする意のときにいふ辭なり、○小兒は、ワカキコ〔四字右○〕と訓べし、齊明天皇(ノ)紀(ノ)大御歌に、于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘飫岐底※[舟+可]〓※[舟+可]武《ウツクシキアガワカキコヲオキテカユカム》、○夜哭《ヨナキ》は、枕册子に、くるしげなるもの、夜哭《ヨナキ》といふものするちごのめのと、○宿不勝苦者《イネカテナクハ》は、寐難《イネガテ》にすることは、といはむが如し、○歌(ノ)意は、兒《チゴ》の夜哭をしつゝ、寐がてにすることは、吾のみにあらず、彼さへも、吾(ガ)夫を、さだかに戀しく思ふとてにこそあらめ、さればしか夜哭をするならし、となり、
 
2943 我命乎《ワガイノチヲ》。長欲家口《ナガクホシケク》。僞乎《イツハリヲ》。好爲人乎《ヨクスルヒトヲ》。執許乎《トラフバカリヲ》。
 
我命乎《ワガイノチヲ》、乎(ノ)字、舊本に之と作り、今は古本に從つ、○長欲家口《ナガクホシケク》は、長らへまほしくすることは、といふ意なり、○僞乎好爲人《イツハリヲヨクスルヒト》とは、逢むと度々たのめいひて、まことには逢はぬ人を云、○執許乎《トラフバカリヲ》は、執《トラ》へむため許《バカリ》のことなるものを、といふほどの意ならむ、○歌(ノ)意は、我壽を長らへま欲くすることは、他の義にあらず、僞(リ)言を好(ク)爲《シ》おぼえて、又しても、吾に逢むと、度々たのめいひて、欺きつゝ逢ふこともなき人を捕へて、からき目見せむが爲許(リ)のことなるものを、他に望《ネガ》ふことはさらにあらめや、といふ意を、含め餘したるなるべし、此(ノ)歌、僞をいふ人を、盗人などになぞらへて、吾(カ)命だに全《サキ》く長からば、その盗人の遁(レ)隱るゝを、終には追(ヒ)捕へて、糺明せむと思ひ入たる意のしたてにや、されど尾(ノ)句、今少し平穩ならぬにや、誤字などもあるならむか、(280)略解に、或人云、執は報の誤にて、ムクユバカリヲならむ、といへり、されどいかゞなり、猶よく考(フ)べし、○舊本、此間に、人言繁跡妹不相情裏戀比日《ヒトコトヲシゲミトイモニアハズシテコヽロノウチニコフルコノゴロ》、の歌一首を載たり、これは全(ラ)人麿集の書樣なれば、混亂《マギ》れて此處《コヽ》に入しことしるし、故(レ)此處を除て、上の人麿歌集中に收つ、
 
2945 玉梓之《タマヅサノ》。君之使乎《キミガツカヒヲ》。待之夜乃《マチシヨノ》。名凝其今毛《ナゴリソイマモ》。不宿夜乃大寸《イネヌヨノオホキ》。
 
大(類聚抄には太と作り、)は、借(リ)字にて、多《オホ》なり、○歌(ノ)意は、今は待べきよしなけれど、さきに使を待て、待得し時の心ならひに、今も猶快寐せられぬ夜の數ぞ多き、となり、絶て後猶思ふ女の歌なり、○十一に、夕去者公來座跡待夜之名凝衣今宿不勝爲《ユフサラバキミキマサムトマチシヨノナゴリソイマモイネカテニスル》、
 
2946 玉桙之《タマホコノ》。道爾行相而《ミチニユキアヒテ》。外目耳毛《ヨソメニモ》。見者吉子乎《ミレバヨキコヲ》。何時鹿將待《イツトカマタム》。
 
吉子《ヨキコ》は、可愛女《エキヲミナ》といふに同じ、すべて與吉《ヨキ》と要吉《エキ》とは、もと同言にて、目に見ることの吉《ヨ》きは、可愛《ウツクシキ》なり、その可愛《ウツクシキ》を要吉《エキ》と云は、神代紀に、妍哉可愛少男歟《アナニヤシエヲトコヲ》とある、此(レ)なり、(これを古事記に、阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲ》、とあり、)古事記神武天皇(ノ)大御歌に、加都賀都母伊夜佐岐陀弖流延袁斯麻加牟《カツガツモイヤサキダテルエヲシマカム》、とある、延《エ》も同じ、(最前立《イヤサキダテ》る可愛女《エキヲミナ》を將《ム》v娶《マカ》なり、)天智天皇(ノ)紀童謠に、阿箇悟馬能以喩企波々箇屡麻矩儒播羅奈爾能都底擧騰多※[手偏+施の旁]尼之曳※[奚+隹]武《アカゴマノイユキハヾカルマクズハラナニノツテゴトタダニシエケム》、集中には、十四に、左乎思鹿能布須也久草無良見要受等母兒呂家可奈門欲由可久之要思毛《サヲシカノフスヤクサムラミエズトモコロガカナトヨユカクシエシモ》、とあり、これらみな、要《エ》は欲《ヨ》と同言にして、可愛子《エキコ》といはむは、即(チ)吉子《ヨキヨ》の謂なるを知べし、○歌(ノ)意は、道の行あひに、外目にのみ(281)見るだにも、うつくしき女なるを、何時をばかりに、吾(レ)其(ノ)女を得むことを待むぞ、となり、
 
2947 念西《オモフニシ》。餘西鹿齒《アマリニシカバ》。爲便乎無美《スベヲナミ》。吾者五十日手寸《アレハイヒテキ》。應忌鬼尾《イムベキモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、思ひに、さだかにあまれることの、いともせむかたなさに、しのび妻の名を云(ヒ)つるからは、やがてさはりの出來むこと、はかり難し、なほ忌憚りて、ゆめ/\女の名をば、漏すまじきものにてありしを、となり、○舊本此所に、或本歌曰、門出而吾反側乎人見監可毛、一云無乏出行家當見、(一云を、舊本に可云と作るは誤なり、今は官本、古寫本、水戸本、拾穗本、古寫一本等によりつ、家當は、イヘノアタリ〔六字右○〕と訓べし、略解に、イヘアタリ〔五字右○〕とよめるはわろし、)柿本朝臣人麿集云、爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨、と註せり、今は古本に、此或本歌を似て、本文とせるに從て、左に載つ、又一云已下、人見鴨以前、古本にはなしといへり、
 
思爾之《オモフニシ》。餘爾志可婆《アマリニシカバ》。門爾出※[氏/一]《カドニイデテ》。吾反側乎《アガコイフスヲ》。人見監可毛《ヒトミケムカモ》。
 
反側《コイフス》は、ころび伏と云むがごとし、許伊《コイ》は、許夜理《コヤリ》と同言なり、許夜流《コヤル》は、古事記允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、都久由美能許夜流許夜理母《《ツクユミノコヤルコヤリモ》、とある此なり、がの古今集なる、横ほりふせる佐夜の中山を、構ほりくやる、とある本も、くやるは即(チ)こやるにて、同言なり、さて此(ノ)詞を、許夜之《コヤシ》、許夜須《コヤス》と云、其(レ)ももと同言ながら、其はよき人の然爲るを、此方より敬ひて云にかぎれることなり、しかるに、許夜之《コヤシ》、許夜須《コヤス》と云は、單に伏(ス)ことを云古言なりと心得るは、いみじきひがことなり、此(ノ)(282)事委(キ)論あり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、思ひにあまりて、心亂したる形をいへるなり、○此歌、舊本にはなくて、上の歌の左に註せること、前に云るが如し、今は古本に從て本文とせり、さてこの歌、十一人麿歌集の中に、念餘者者丹穗鳥足沾來人見鴨《オモフニシアマリニシカバニホトリノアシヌレコシヲヒトミケムカモ》、とあるは、第三四(ノ)句異れるのみにて、全(ラ)同歌なり、又、念之餘者爲便無三出曾行之其門乎見爾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミイデヽソユキシソノカドヲミニ》、とも見えたり、
 
2948 明日者《アスノヒハ》。其門將去《ソノカドユカム》。出而見與《イデテミヨ》。戀有容儀《コヒタルスガタ》。數知兼《アマタシルケム》。
 
明日者は、アスノヒハ〔五字右○〕と訓べし、すべて今日をケフノヒ〔四字右○〕、明日をアスノヒ〔四字右○〕といへること、古言に多し、○數《アマタ》は、殊に甚しく、といはむが如し、此(ノ)下に、草枕客去君乎人目多袖不振爲而安萬田悔毛《クサマクラタビユクキミヲヒトメオホミソテフラズシテアマタクヤシモ》、七(ノ)卷に、鳥自物海二浮居而奥津浪驂乎聞者敷悲哭《トリジモノウミニウキヰテオキツナミサワクヲキカバアマタカナシモ》、○歌(ノ)意は、明日は、そこの門の前を行むを、出て見賜へ、甚しく思に痩衰へたるすがたの、さらにかくれもあらじを、たゞ詞にのみ、 戀しく思ふといはゞ、うはべのことゝ思ひもぞする、容貌を正しく見て、わが僞ならぬを知べし、となり、住吉物語に、君が門今ぞ過ゆく出て見よ戀する人のなれるすがたを、
 
2949 得田價異《ウタテケニ》。心欝悒《コヽロイフセシ》。事計《コトハカリ》。吉爲吾兄子《ヨクセワガセコ》。相有時谷《アヘルトキダニ》。
 
得田價異は、ウタテケニ〔五字右○〕と訓べし、(古來此(ノ)一句を、訓得たる人一人もなし、舊本に、これをウタガヘル〔五字右○〕と訓るによりて、異は、累(ノ)字、或は婁(ノ)字の誤ぞなどいへるは、諺に、角|矯《ナホ》さむとて、牛ころすといへるごとし、此(ノ)歌、ウタガヘル〔五字右○〕といふべき所にあらざるをや、)價をテ〔右○〕の假字に用(フ)こと(283)は、此(ノ)上に、得田直比來《ウタテコノゴロ》、とある處に云り、考(ヘ)合(ス)べし、さてこゝは、廿(ノ)卷に、秋等伊弊婆許巳呂曾伊多伎宇多弖家爾花爾奈蘇倍弖見麻久保里香聞《アキトイヘバココロソイタキウタテケニハナニナソヘテミマクホリカモ》、とあると、全(ラ)同言にて、宇多弖家爾《ウタテケニ》は、うたて殊更にの意なり、なほ宇多弖《ウタテ》といふ言(ノ)義は、既く十(ノ)卷にも、此(ノ)上にもいへり、○事許《コトハカリ》は、此(ノ)上に見えたり、○吉爲《ヨクセ》は、好爲《ヨクセ》よといふに同じ、○歌(ノ)意は、本より、おぼつかなく思ひ居りしに、君がかく相見る時だに、なほ事定めし賜はねば、いよ/\殊におぼつかなし、とにもかくにも、ことのはからひを好(ク)爲て、はや事を定め賜ひてよ、といふなるべし、
 
2950 吾妹子之《ワギモコガ》。夜戸出乃光儀《ヨトデノスガタ》。見而之從《ミテシヨリ》。情空成《コヽロソラナリ》。地者雖踐《ツチハフメドモ》。
 
夜戸出《ヨトデ》は、十一に、朝戸出公足結乎閏露原《アサトデノキミガアユヒヲヌラスツユハラ》、といへるを、併(セ)考(フ)るに、女の許より、朝に出て歸るを朝戸出《アサトデ》といひ、夜ごめに出て去《カヘ》るを、夜戸出《ヨトデ》といふならむ、かげろふ日記に、硯なるふみを見つけて、あはれといひて、夜戸出《ヨトデ》の所に云々、(夫木集に、織女の夜戸出《ヨトデ》のすがた立かへりきりのとばりに秋風ぞ吹、)○而(ノ)字、舊本にはなし、なくてもあるべけれど、なほ今は、官本、拾穗本等に從つ、○末(ノ)句は、十一にも見え、此(ノ)上にも、吾意天津空有土者踐鞆《アガコヽロアマツソラナリツチハフメドモ》、又十四に、志母都家努安素乃河泊良欲伊之布麻受蘇良由登伎奴與奈我己許呂能禮《シモツケヌアソノカハラヨイシフマズソラユトキヌヨナガココロノレ》、ともあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2951 海石榴市之《ツバイチノ》。八十衢爾《ヤソノチマタニ》。立平之《タチナラシ》。結※[糸+刃]乎《ムスビシヒモヲ》。解卷惜毛《トカマクヲシモ》。
 
(284)海石榴市《ツバイチ》は、大和(ノ)國泊瀬の邊にあり、武烈天皇(ノ)紀に、海柘榴市《ツバイチノ》巷、用明天皇(ノ)紀に、海柘榴市《ツバイチノ》宮、敏達天皇(ノ)紀に、海柘榴市《ツバイチノ》亭、蜻蛉日記に、又の日つばいちといふ所にとまる、枕册子に、市は、つば市は、やまとにあまたある中に、長谷寺に、まうづる人の、必そこにとゞまりければ、觀音の御縁あるにやと心ことなり、(枕册子の意は、つば市は、大和にあまたある市の中に、長谷寺にまうづる人の云々、と謂《イフ》なるべし、さればつば市はと云にて、姑(ク)絶《キ》る心持なるべし、つば市と云市の、あまたある意にはあらず、)源氏物語玉鬘にも、(玉鬘君泊瀬にまうで賜ふことをいへる所に、)つば市と云所に、四日といふ巳(ノ)時ばかりに、いける心ちもせで、いきつき賜へり、云々、紀略に、延長四年丙戌七月十九日大風|日《本ノマヽ》大和國長谷寺山崩、至2于椿市(ニ)1、人々|烟《衍》悉流、花鳥餘情に、小右記(ニ)云、正暦元年九月八日、參2長谷寺(ニ)1、午時至2椿市1、令v交2易|御明灯心《ミアカシトウシミ》器等1云々、今城上郡金屋村(ノ)の山に、つば市の地藏と云あり、又同村に、つばいづかと云もあるよし、略解にいへり、○八十衢《ヤソノチマタ》は、數多ある衢の義にて、市は、かた/”\より、人のよりつどふ道の、あまたある處なればいへり、下に、紫者灰指物曾海石榴之八十衢爾相兒哉誰《ムラサキハハヒサスモノソツバイチノヤソノチマタニアヒシコヤタレ》、ともあり、又十一に、事靈八十衢夕占問《コトタマヲヤソノチマタニユフケトフ》、占正謂妹相依《ウラマサニノレイモニアハムヨシ》、○立平之《タチナラシ》は、十七に、芽子花爾保弊流屋戸乎《》、安佐爾波爾伊泥多知奈良之《ハギノハナニホヘルヤドヲアサニハニイデタチナナラシ》、暮庭爾敷美多比良氣受《ユフニハニフミタヒラケズ》云々、○歌(ノ)意は、海石榴市の衢に立て、君と二人して結びし紐を、ふたゝび他し人には解せじと、ちぎりかためてしものを、今は其(ノ)男は心がはりしたれ(285)ど、吾(レ)はこの男の爲に解むことは、心ゆかず、さてもをしきことぞ、となり、さてその衢に立平しゝは、男女あつまりて、歌場《ウタガキ》に立る間をいふなるべし、歌場《ウタガキ》は、古事記下卷清寧天皇(ノ)條に、志毘(ノ)臣立2于歌垣(ニ)1、取2其(ノ)袁祁(ノ)命(ノ)將v婚之|美人手《ヲトメノテヲ》1云々、爾袁祁(ノ)命亦立2歌垣1、於是志毘(ノ)臣歌曰云々、このこと書紀には、武烈天皇(ノ)卷に見えて、歌場此云2宇多我岐《ウタガキト》1、と註《シル》せり、攝津(ノ)國風土記に、雄伴(ノ)郡、波比具利《ハヒグリノ》岡、此(ノ)岡(ノ)西(ニ)有2歌垣山1、昔者《ムカシ》男女集(ヒ)登(リ)此(ノ)山(ニ)1、常|爲《セリ》2歌垣1、因《カレ》以爲v名(ト)、常陸(ノ)國風土記に、香島郡、輕野以南|童子女《ヲトメノ》松原、古(ヘ)有2年少僮子1、男稱2那賀(ノ)寒田之郎子(ト)1、女號2海上(ノ)安是之孃子(ト)1云々、※[女+燿の旁]歌之會(俗云|宇多我岐《ウタガキ》、又云2加我毘《カガヒト》1也、)邂逅相遇、于時郎子歌(ヒケラク)曰云々、などあるを合(セ)考(フ)べし、※[女+燿の旁]歌會《カガヒ》のことは、九(ノ)卷に見えて、既くいへり、さて續紀十一に、天平六年二月癸巳朔、天皇御2朱雀門1覽2歌垣(ヲ)1、男女二百四十餘人、五位以上有2風流1者、皆交2雜其(ノ)中1、云々等爲v頭(ト)、以2本末1唱和、爲2難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲之音1、令2都中士女縱觀(セ)1、極v歡(ヲ)而罷、賜(コト)d奉2歌垣1男女等禄u有v差、と見え、同三十に、寶龜元年三月庚申、車駕行2幸由義(ノ)宮(ニ)1云々、辛卯、葛井船津文武生藏六氏(ノ)男女二百三十人、供(ヘ)2奉(ル)歌垣(ニ)1、其服(ハ)並着2青※[手偏+皆]細布衣(ヲ)1、垂2紅(ノ)長紐(ヲ)1、男女相並分(テ)v行《ツラネ》徐進、歌(ヒケラク)曰、乎止賣良爾乎止古多智蘇比布美奈良須爾詩乃美夜古波與呂豆與乃美夜《ヲトメラニヲトコタチソヒフミナラスニシノミヤコハヨロヅヨノミヤ》、其(ノ)歌垣(ノ)歌(ヲ)曰云々、毎v歌曲折擧(ルヲ)v袂(ヲ)爲(ス)v節(ト)云々、とあり、これらにて其(ノ)さまをおもふべし、又、乎止賣良爾乎止古多智蘇比布美奈良須《ヲトメラニヲトコタチソヒフミナラス》、といへるにて、今の歌に立平之《タチナラシ》とあるも、歌場《ウタガキ》の擧動《フルマヒ》なることしられたり、かくて古(ヘ)のは、私の心と會(286)集《ツド》ひて、興ぜしことゝ見ゆるを、續紀の頃は、一(ツ)の舞曲の、ごとなりて、御覽《オホミマヘ》にも供(ヘ)奉りしなるべし、さて古(ヘ)は、もはら市街に集ひてせしことゝ思はれて、大和物語に、中頃はよき人々、市にいきてなむ、色好むわざはしける、とあるも、歌場の類なるべし、拾遺集雜戀にも、すぐろくの市場にたてる人妻のあはでやみなむ物にやはあらぬ、
 
2952 吾齡之《ワガヨハヒノ》。衰去者《オトロヘヌレバ》。白細布之《シロタヘノ》。袖乃狎爾思《ソテノナレニシ》。君乎《キミヲ》母〔□で囲む〕准其念《シソモフ》。
 
吾齡之は、ワガヨハヒノ〔六字右○〕と訓べし、(略解に、ワガヨハヒシ〔六字右○〕、とよめるはわろし、)○袖乃狎爾思《ソテノナレニシ》は、軸乃《ソテノ》といへるまでは、たゞ馴にしといはむ料のみなり、十一に、呉藍之八鹽乃衣朝旦穢者雖爲益希將見裳《クレナヰノヤシホノコロモアサナサナナレハマサレドイヤメヅラシモ》、○君乎母准其念は、准は衍文なりと契冲いへれど、猶思ふに、母(ノ)字衍にて、准は進(ノ)字の誤なるべし、さらば君乎進其念にて、舊本の訓の如く、キミヲシソモフ〔七字右○〕なるべし(新古今集にも、きみをしぞと載られたり、岡部氏は、母准は、羅の一字を誤れるなり、キミヲラソモフ〔七字右○〕と訓べし、といへり、)○歌(ノ)意は、吾齡のおとろへぬるにつれて、年ごろなれ親みし君を、殊にふかく、一(ト)すぢに戀しくぞ思ふ、といへるにて、壯《サカリ》なる齡ならば、思ふとも、かくまではあらじを、といふ意を、思はせたるなり、
 
2953 戀君《キミニコヒ》。吾哭涕《アガナクナミダ》。白妙《シロタヘノ》。袖兼所漬《ソテサヘヌレヌ》。爲便母奈之《セムスベモナシ》。
 
袖兼所漬《ソテサヘヌレヌ》は、面顔《カホ》の濕るのみならず、袖《ソテ》副《サヘ》も漬《ヌレ》ぬといふ意なり、○爲便母奈之《セムスベモナシ》は、人目をしの(287)ぶになり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2954 從今者《イマヨリハ》。不相跡爲也《アハジトスレヤ》。白妙之《シロタヘノ》。我衣袖之《ワガコロモテノ》。干時毛奈吉《ヒルトキモナキ》。
 
爲也《スレヤ》は、爲《スレ》ばにやの意なり、○歌(ノ)意、今より後は、君が絶て逢(ハ)じとすればにや、そのしるしに、吾(カ)涙の、かく止時なく落るならむ、と思ふよしなり、
 
2955 夢可登《イメカト》。情班《コヽロマドヒヌ》。月數多《ツキマネク》。干西君之《カレニシキミガ》。事之通者《コトノカヨフハ》。
 
夢可登は、可の下に、毛字脱たるにて、イメカモト〔五字右○〕とありしなるべし、十三に、夢鴨現前鴨跡雲入夜之迷間《イメカモウツヽカモトクモリヨノマドヘルホトニ》云々、とあるを、考(ヘ)合(ス)べし、此(ノ)上にも、寤香妹之來座有夢可毛吾香惑流戀之繁爾《ウツヽニカイモガキマセルイメニカモアレカマドヘルコヒノシゲキニ》、とあり、岡部氏は、イメカト〔四字右○〕にて、四言一句なり、といへり、○情班は、(班は恠(ノ)字の誤にて コヽロアヤシモ〔七字右○〕ならむ、と岡部氏云れど、もしさらば、恠《アヤシ》マレヌ〔三字右○〕とやうにいはずしては、上に夢可登《イメカト》とあるに、應《カナヒ》がたし、もしアヤシモ〔四字右○〕ならば、上を夢可毛《イメカモ》とやうにいはでは、調ひがたからむ、よく詞の首尾を考(ヘ)てしるべし、)されば思ふに、此(ノ)下に、虚蝉之《ウツセミノ》云々心遮焉《コヽロマドヒヌ》、四(ノ)卷に、直一夜《タヾヒトヨ》云々|心遮《コヽロマドヒヌ》などあれれば、こゝも情遮《コヽロマドヒヌ》とありしを、誤れるならむかともおもへど、なほ字形遠ければ、いかゞあらむ、かゝればなほ班は、斑にてもあるべきか、斑は、字彙に、周禮王制(ニ)、雜色(ヲ)曰v斑(ト)、と見えたれば、こゝは斑雜《マギレ》て、夢現とも、わきがたき意をめぐらして、斑(ノ)字にて、マドヒヌ〔四字右○〕と訓せたるにもあらむか、○月數多の下、舊本に二(ノ)字あり、今は官本になきに從つ、ツキマネク〔五字右○〕と訓べ(288)し、こゝは月を累《カサネ》たるよしなり、○事は、借(リ)字にて、言《コト》なり、○歌(ノ)意は、月ごろ絶て後、又君が音信するは、そも夢にてあらむか、現にてあらむか、心にわきがたし、いかさまこれは、夢にてもやあるらむ、となり、
 
2956 未玉之《アラタマノ》。年月兼而《トシツキカネテ》。烏玉乃《ヌバタマノ》。夢爾所見《イメニソミユル》。君之容儀者《キミガスガタハ》。
 
未玉《アラタマ》は、義を以て書るにて、未(ダ)v理(メ)玉の謂なり、和名抄に、野王按、璞(ハ)玉未v理(メ)也、和名|阿良太萬《アラタマ》、とあり、○年月兼而《トシツキカネテ》は、年月累而《トシツキカサネテ》、といはむが如し、○夢爾所見は、イメニソミユル〔七字右○〕とよめるに依ば、爾の下に、曾(ノ)字など脱たる歟、又爾は、西(ノ)字などの誤にて、イメニシミエツ〔七字右○〕か、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2957 從今者《イマヨリハ》。雖戀妹爾《コフトモイモニ》。將相哉母《アハメヤモ》。床邊不離《トコノベサラス》。夢所見乞《イメニミエコソ》。
 
夢所見乞《イメニミエコソ》は、いかで夢に見えよかし、と希ふ意なり、○歌(ノ)意は、故ありて、女に長く別るゝ事ありし時よめるにて、いかに戀しく思ふとも、あふべきよしなければ、あはれ今よりは、女の形の、床(ノ)邊さらずして、いかで毎夜の夢に見えよかし、となり、
 
2958 人見而《ヒトノミテ》。言害目不爲《コトトガメセヌ》。夢谷《イメニダニ》。不止見與《ヤマズミエコソ》。我戀將息《ワガコヒヤマム》。
 
不止見與(與(ノ)字、古本には乞と作り、)は、ヤマズミエコソ〔七字右○〕と訓て、いかで絶ず夢に見えよかし、と希ふ意なり、(略解に、不止を、ツネニ〔三字右○〕とよめるは非なり、)十(ノ)卷に、山振乃止時喪哭《ヤマブキノヤムトキモナク》、十二に、山菅之(289)不止而公乎《ヤマスゲノヤマズテキミヲ》、又、山菅之不止八將戀《ヤマスゲノヤマズヤコヒム》、などあり、○歌(ノ)意かくれなし、此(ノ)上に、此(ノ)初(ノ)二句、全(ラ)同(ジ)歌あり、○舊本に、或本歌頭云、人目多直者不相、と註せり、
 
2959 現者《ウツヽニハ》。言絶有《コトタエニケリ》。夢谷《イメニダニ》。嗣而所見與《ツギテミエコソ》。直相左右二《タヾニアフマデニ》。
 
言絶有は、コトタエニケリ〔七字右○〕と訓べし、(路解に、コトタエニタリ〔七字右○〕とよめるは、いさゝかわろし、)現前《ウツツ》には、相通ふ言語《コトヾヒ》の道の斷絶《タエ》たるよしなり、四(ノ)卷に、事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《コトタエテカクオモシロクヌヘルフクロハ》、とある事絶而《コトタエテ》は、述《ノベ》む言の絶たるよしにて、詞にものべていひがたきばかり、奇妙不測《クシビ》なる由にいへれば、言は同じけれど、用(ヒ)ひたるさま異れり、○嗣而所見與、(與(ノ)字、舊本に而と作るは誤なり、今は古本、水戸本、異本拾穗本等に從つ、)ツギテミエコソ〔七字右○〕とよむべし、いかで續きて見えよかし、と希ふ意なり、○歌(ノ)意、現前《ウツヽ》に正眞《マサ》しくは、相通ふことゞひの道絶はてたるなれば、いかで今よりは、夢になりとも續きて見えよかし、さらば月日めぐり來て、又相見むまでの、心なぐさめにせむぞ、となり、
 
2960 虚蝉之《ウツセミノ》。宇都思情毛《ウツシコヽロモ》。吾者無《アレハナシ》。妹乎不相見而《イモヲアヒミズテ》。年之經去者《トシノヘヌレバ》。
 
虚蝉之《ウツセミノ》は、現身之《ウツシキミノ》といはむが如し、○宇都思情《ウツシコヽロ》は、現心《ウツシコヽロ》にて、生て在(ル)心のなきよしなり、十一に、健男現心吾無夜晝不云戀度《マスラヲノウツシコヽロモアレハナシヨルヒルトイハズコヒシワタレバ》、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2961 虚蝉之《ウツセミノ》。常辭登《ツネノコトバト》。雖念《オモヘドモ》。繼而之聞者《ツギテシキケバ》。心遮焉《コヽロマドヒヌ》。
 
(290)虚蝉之《ウツセミノ》、これも上の如し、(但し契冲が、此(ノ)ウツセミ〔四字右○〕は、世《ヨ》といふまくら詞なるを、玉桙《タマホコ》、足引《アシヒキ》などの例に、空蝉《ウツセミ》を、やがて世のことにいへり、といへるは、言の本末をたがへたる説なり、さるは玉桙《タマホコ》、足引《アシヒキ》などは、生れつき枕詞に用ふ言なり、空蝉《ウツセミ》は、もと現しくてある人(ノ)身を、なべていふ言にて、枕詞(ノ)料に設出たる言ならねど、自(ラ)いひなれては、他のまくら詞の如くにも、なれるものなるをや、)○常辭《ツネノコトバ》は、俗に、口(チ)くせといふと同(シ)意なり、○心遮焉、(遮焉、官本には遲烏と作り、いづれもいかゞなり、岡部氏は、慰焉《ナギヌ》の誤なるべし、といへり、)荒木田久老、遮は迷に同じ、マヨヒ
ヌ〔四字右○〕と訓べし、他(ノ)卷にも見えたり、と云り、但(シ)マドヒヌ〔四字右○〕と訓べし、(マヨヒヌ〔四字右○〕とよまむは、いさゝかわろし、字彙に、迷(ハ)遮《サヘキル》也、とあれば、同義の字とせるならむ、他(ノ)卷とは、四(ノ)卷に、直一夜隔之可良爾荒玉乃月歟經去跡心遮《タヾヒトヨヘナリシカラニアラタマノツキカヘヌルトコヽロマドヒヌ》、これをいふにや、この心遮も、コヽロマドヒヌ〔七字右○〕と訓て、きこえたり、)○歌(ノ)意は、君が言清くの賜ふは、常の口くせとは思ふものから、たゞ一二度こそあれ、續きていくたびも聞ば、もしやまことの心にてもあらむ歟、と一(ト)すぢに心の迷ひ入ぬる、となり、
 
2962 白細之《シロタヘノ》。袖不數而宿《ソテカレテヌル》。烏玉之《ヌバタマノ》。今夜者早毛《コヨヒハハヤモ》。明者將開《アケバアケナム》。
 
白細《シロタヘ》、拾穗本には白妙、古寫一本には白細布と作り、○袖不數而宿は、(岡部氏が、數は卷(ノ)字ならむ、といへれど、おぼつかなし、略解に、而(ノ)字、官本になきをよしとす、といへれど、ある方まされり、)契冲もいひしごとく、數は、一(ノ)卷にも馬數而とかきて、ウマナメテ〔五字右○〕と訓るごとく、此《コヽ》は男女、(291)袖を相ならべずして、宿る義を以て、書りとおぼしければ、意を得てソテカレテヌル〔七字右○〕と訓べし、(味澤相妹目不敷見而、とあるをも、本居氏は、イモガメカレテ〔七字右○〕とよまむ、といへり、但し數見は、しば/\見る義にて、數(ノ)字、今の歌なるとは、理かはりたれど、カレテ〔三字右○〕と訓は、ひとつなり、)袖を觸ずに遠離《トホザカ》りて宿る謂なり、○明者將開《アケバアケナム》は、明ば明よかしの意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2963 白細之《シロタヘノ》。手本寛久《タモトユタケク》。人之宿《ヒトノヌル》。味宿者不寢哉《ウマイハネズヤ》。戀將渡《コヒワタリナム》。
 
手本寛久《タモトユタケク》は、快寢《コヽロヨクヌ》る形容なり、由多《ユタ》は、此(ノ)上に、其夜者由多爾有益物乎《ヨハユタニアラマシモノヲ》、とある、その由多《ユタ》を活《ハタラ》かしたる詞なり、氣久《ケク》は、善《ヨ》を善氣久《ヨケク》、惡《アシ》を惡氣久《アシケク》など活《ハタラ》かしいふと、同格なり、〇人之宿《ヒトノヌル》は、すべての他の人の宿るなり、○味宿《ウマイ》は、快寢《コヽロヨクイヌ》るをいへり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
寄《ヨセテ》v物《モノニ》陳《ノブ》v思《オモヒヲ》。百五十首。【十三首。人麿集。百三十七首。人麿集。人麿集外。】〔百五十〜□で囲む〕
 
2851 人所見《ヒトミレバ》。表結《ウヘヲムスビテ》。人不見《ヒトミネバ》。裏紐開《シタヒモアケテ》。戀日太《コフルヒゾオホキ》。〔頭註、【四首寄2衣紐1、】〕
 
歌(ノ)意は、人の見ぬ時には、浦紐開解《シタヒモトキアケ》、人が見れば、やがて表衣《ウハキ》の紐を結びつゝ、つくろひかくして、思ふ日ぞ多き、となり、かくする所以《ユエ》は、裏紐のおのづから解るは、思ふ人にあはむと云前相なれば、おのづから解ることはなくとも、おのづから解るになぞらへて、設けても、ときあけたらば、もしあふこともあらむかと、せめてのわざに、ひとへにあはむことを希ひて、する(292)よしなり、
 
2852 人言《ヒトコトノ》。繁時《シゲケキトキニ》。吾妹《ワギモコシ》。衣有《キヌニアリセバ》。裏服矣《シタニキマシヲ》。
 
吾妹は、ワギモコシ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、女(ノ)身が、やがて衣にてあらましかば、かく人の物いひのしげきときに、そと裏に着こめて、人にしらせずして、あるべきものを、衣ならねば、いかにしてか、人目をしのびてまし、となり、下に、如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルキミヲキヌナラバシタニモキムトアガオモヘリケル》、
 
2853 眞珠服《マタマツク》。遠|近〔○で囲む〕兼《ヲチコチカネテ》。念《オモヘレバ》。一重衣《ヒトヘコロモヲ》。一人服寢《ヒトリキテネヌ》。
 
眞珠服《マタマツク》(服(ノ)字、舊本に眼と作るは誤なり、今は類聚抄に從つ、略解に、眼は附の誤なり、といへれど、字形遠ければ非なり、)は、眞珠を服緒《ツケヲ》とかゝれる枕詞なり、服は貫《ヌ》き服《ツク》るよしなり、○遠近兼《チチコチカネテ》(近(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、本居氏(ノ)説に從て補つ、四(ノ)卷に、眞玉付彼此兼手言齒五十戸常《マタマツクヲチコチカネテイヒハイヘド》云々、此(ノ)下に、眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスビツルアガシタヒモノトクルヒアラメヤ》、)は、こなたかなたをかけて、と云むがごとし、○念《オモヘレバ》、類聚抄に、人云と作るに從ば、ヒトノイヘバ〔六字右○〕なり、されどなほ舊本のまゝなるべし、○寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐と作り、○歌(ノ)意は、あながちなるわざせば、末あしかりなむこともやと、こなたかなたを兼て、とりつおきつして思ふが故に、逢こともなくして、只一重の衣を打着て、獨宿をしつるよ、となり、
 
2854 白細布《シロタヘノ》。我※[糸+刃]緒《ワガヒモノヲノ》。不絶間《タエヌマニ》。戀結爲《コヒムスビセム》。及相日《アハムヒマデニ》。
(293)※[糸+刃]緒不絶間《ガモノヲノタエヌマ》とは、下※[糸+刃]の斷《タユ》るは、思ふ人と、中の絶むとする前兆《シルシ》なれば、絶はてぬ前に、戀結せむ、といへるなるべし、○戀結《コヒムスビ》とは、末遂に中絶しめたまふ勿《ナ》、と神かけて、誓願《チカゴト》するとき、衣(ノ)※[糸+刃]、あるひは草木の枝などを、結び合(ハ)することある、其を云て、古(ヘ)の一(ツ)のならはしにてぞありけむ、こゝはやがて、己が※[糸+刃]を戀結にするよしなり、○歌(ノ)意は、中の絶はてぬ間に、戀結をして、後相見む日まで、かたみに心がはりせざらむことを、神かけて、ちかごとせばや、となり、○以上四首は、衣紐に寄てよめるなり、
 
2855 新治《ニヒバリノ》。今作路《イマツクルミチ》。清《サヤカニモ》。聞鴨《キヽニケルカモ》。妹於事矣《イモガウヘノコトヲ》。
〔頭註、【一首寄v路、】〕
 
新治《ニヒバリ》とは、新《アラタ》に造《ツク》り墾《ヒラ》きたるを云、治《ハリ》は、墾をアラキバリ〔五字右○〕とよむ、そのハリ〔二字右○〕なり、(アラキ〔三字右○〕は、即(チ)新掻《アラカキ》なるべし、)十四に、信濃道者伊麻能波里美知《シナヌチハイマノハリミチ》、とよめるが如し、○今作路《イマツクルミチ》は、今《イマ》は、新參《イママヰリ》、新來《イマキ》、また新熊野《イマクマノ》、新日吉《イマヒエ》などいふごとく、即(チ)新の意にて、今|新《アラ》たに造れる新墾道《ニヒバリミチ》といふなり、さてこれまでは、清《サヤカ》といはむ料の序なり、古き道は、人馬のかよひしげくて、塵芥に穢れたるを、新に墾りて、眞砂など布《シキ》はへたる路は、實に淨清なるものなれば、つゞけたり、サヤカ〔三字右○〕は、即(チ)キヨキ〔三字右○〕と云に同じきを思(フ)べし、天武天皇(ノ)紀に、潔《サヤム》v身(ヲ)とある、これきよむるにて、同じ事なり、○清は、サヤカニモ〔五字右○〕と訓べし、こゝは明《アキラカ》にも、あるひは慥《タシカ》にもなどいはむが如し、抑々サヤカ〔三字右○〕と云は、濁り穢などして、物の障《サヽ》へまぎるゝことなく、ありのまゝに、明《アキラカ》に慥《タシカ》なる意なればなり、(東齋隨筆(294)に、修理のかみ俊綱と聞えしは、宇治關白殿の御子と申し侍れども、さやかならぬことなれば、讃岐(ノ)守橘の俊遠が子に定りて、橘の姓を名乘りしが云々、とあるも、さやかならぬはたしかならぬ、と云意なり、○妹於事《イモガウヘノコト》とは、妹が身(ノ)上のありさまを云、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、女の身(ノ)上の平安《サキ》かるありさまを、たしかにきゝて歡べるにや、廿(ノ)卷に、武良等里乃安佐太知伊爾之伎美我宇倍波左夜加爾伎吉都於毛比之其等久《ムラトリノアサタチイニシキミガウヘハサヤカニキキツオモヒシゴトク》、○此一首は、路に寄てよめるなり、
 
2856 山代《ヤマシロノ》。石田杜《イハタノモリニ》。心鈍《コヽロオソク》。手向爲在《タムケシタレヤ》。妹相難《イモニアヒガタキ》。〔頭注、【一首寄2神社1、】〕
 
石田杜《イハタノモリ》は、神名式に、山城(ノ)國久世(ノ)郡石田(ノ)神社、とあり、九(ノ)卷、十三(ノ)卷にも見えたり、(枕册子にも、山は云々|石田《イハタ》山、とあり、)契冲云、石田は、延喜式にも、和名抄にも、宇治(ノ)郡山科とあるを、石田(ノ)神社は、式に久世(ノ)郡に載らる、もしは神社ある處は、山科も久世(ノ)郡にわたれる歟、もしは昔は宇治(ノ)郡に屬《ツキ》けるが、延喜の比は、久世(ノ)郡に屬るにや、○心鈍《コヽロオソク》、鈍《オソク》は、九(ノ)卷に、於曾也是君《オソヤコノキミ》、とよめる於曾《オソ》を、はたらかしいへるにて、心の利《ト》からぬを云、○歌(ノ)意は、石田(ノ)神社に、心|利《ト》く奉幣《タムケ》したらましかば、神もあはれとうけひきましまして、やがて事依しつゝ、妹に逢べきに、心おぞくたむけしたれば、神慮に叶はずして、納受爲賜はざりし故にや、殊にあひがたかるらむ、と云るにて、奉幣せしことの、心鈍かりしを悔るなり、さて石田(ノ)杜をよめるは、作者《ウタヌシ》の生土《ウブスナノ》神にて座ましけむ歟、又は何ぞゆゑありてよめるにもあるべし、○此(ノ)一首は、神社に寄てよめるなり、
 
(295)2857 菅根之《スガノネノ》。惻隱惻隱《ネモコロゴロニ》。照日《テルヒニモ》。乾哉吾袖《ヒメヤワガソテ》。於妹不相爲《イモニアハズシテ》。〔頭註、【一首寄v日、】〕
 
菅根之《スガノネノ》は、まくら詞なり、○歌(ノ)意は、妹に逢たらばこそ、涙にぬれ通りし、吾(カ)袖の乾《カワキ》もすべきを、妹に逢ずしては、夏のつよく照日に乾《ホ》すとも、ねごころには、いかで乾《ヒ》めやは、乾《ヒ》べきに非ず、となり、五三一二四と句を次第て心得べし、○此(ノ)一首は、日に寄てよめるなり、
 
2858 妹戀《イモニコヒ》。不寐朝《イネヌアサケニ》。吹風《フクカゼシ》。妹經者《イモニシフラバ》。吾與經《アガムタニフレ》。〔頭註、【一首寄v風、】〕
 
不寢朝(寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐と作り、)は、イネヌアサケニ〔七字右○〕と訓べし、○妹經者吾共經(共(ノ)字、官本、古寫本、拾穗本等には與と作り、)は、イモニシフラバアガムタニフレ〔イモ〜右○〕と訓べし、經は、觸の借(リ)字なり、十一にもあり、さてフレ〔二字右○〕とのみいひて、フレヨ〔三字右○〕といふ意になるは、古言なり、○歌(ノ)意は、妹を思ひ、寐ずあかせし朝開の、そゞろ寒くおぼゆることなるに、妹も吾と同じさまに、獨宿しつらむとおもへば、いかにわびしかるらむと思ふに、もし吹風の、妹が身に行て觸るならば、妹のみわづらはすべきにあらねば、我(カ)身にも共々に、同じさまに觸よと、一(ト)すぢに希へるさまなり、十(ノ)卷に、吾袖爾零鶴雪毛流去而妹之手本伊行觸糠《アガソテニフリツルユキモナガレユキテイモガタモトニイユキフレヌカ》、とあるは、此を見て彼をいひ、今は彼を思ひて、此をいへるにて、いさゝか異りたれど意又相似たり、○この一首は、風に寄てよめるなり、
 
2859 飛鳥河《アスカガハ》。高河避紫《タカカハヨカシ》。越來《コエコシヲ》。信今夜《マコトコヨヒヲ》。不明行哉《アケズヤラメヤ》。〔頭註、【一首寄v河、】〕
 
(296)高河避紫《タカカハヨカシ》、(紫、異本、活字本等には柴と作り、高河《タカカハ》は、(河(ノ)名に非ず、)雨ふりて、水の高く出たるを云、避紫《ヨカシ》は、避《ヨキ》の伸りたる言にて、(カシ〔二字右○〕の切キ〔右○〕となれり、)避《ヨキ》賜ひて、と云むが如し、すべて言を伸るは、長《ノド》けく媛《ユルヤ》かにいふ時に用る事にて、その長緩なるは即(チ)尊みて云言なる事、一(ノ)卷に委しく云るが如し、採《ツミ》を都麻之《ツマシ》、行《ユキ》を由可之《ユカシ》などいふ、みな同格なり、○越來は、コエコシヲ〔五字右○〕と訓べし、河水の高きを避賜ひて、丘山などを越て、來坐しと云か、又同じ河ながら、さのみ水の高からぬ方へ廻りて、越來しよしか、但(シ)山には越《コエ》といひ、河には渡《ワタ》るといふこと、多くは常のことなれど、又面河に越《コエ》るといへることも、むげに例なきにはあらず、さるは此(ノ)下に、雲居有海山越而伊社名者《クモヰナルウミヤマコエテイマシナバ》云々、これは海と山とを兼て越ると云り、又十一に、淡海海奥白波雖不知妹所云七日越來《アフミノミオキツシラナミシラネドモイモガリトイヘバタヾニコエキツ》、又廿(ノ)卷に、保里延故要等保伎佐刀麻弖於久利家流伎美我許々呂波和須良由麻之目《ホリエコエトホキサトマテオクリケルキミガコヽロハワスラユマジモ》、これらは海江に越、と云るなり、(赤染衛門(ノ)集に、雪のいたくふりたるに、ほうりんにまうでて、つとめてかへるに、雪に大井川の水まさりにけるとて、をのこども衣ぬぎてこ|し《え歟》しに、こしにこそたちけれときゝて云々、これも川に越といへるなり、)○歌(ノ)意は、彼(ノ)飛鳥川の高河を避て、廻り道を爲賜ひつゝ、辛うして越來座つるからは、まことに夜を明さずしては、その危き道を、夜ごめにはかへし申さじ、今夜は寛に相語て行賜へ、といへる女の歌なり、(これを第三(ノ)句をコエテキツ〔五字右○〕、尾句をアケズユカメヤ〔七字右○〕と訓て、女をふかく思へるにより、高河を避き、廻(297)り道をして、辛くして越來つるからは、今夜を明さずしては、その危き道を、夜ごめにひとりはかへらじ、といへる、男の歌とするは、宜しからず、自《ミラ》避ることを、伸て避之《ヨカシ》といはむは、古格に非ず」
 
2860 八釣河《ヤツリガハ》、水底不絶《ミナソコタエズ》。行水《ユクミヅノ》。續戀《ツギテソコフル》。是比歳《コノトシゴロヲ》。
 
八釣河《ヤツリガハ》(釣(ノ)字、舊本に鉤に誤、古本、拾穗本等に從(ツ)、)は、大和(ノ)國高市(ノ)郡にあり、三(ノ)卷に、矢釣《ヤツリ》山とある處に云り、○歌(ノ)意は、本(ノ)句序にて、かくれたるすぢなし、○舊本に、或本歌曰水尾母不絶、と註せり、○以上二首は、河に寄てよめるなり、
 
2861 礒上《イソノヘニ》。生小松《オフルコマツノ》。名惜《ナヲヲシミ》。人不知《ヒトニシラエズ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。〔頭註、【一首寄v松、】〕
 
本(ノ)二句の意、まづ礒《イソ》は石《イソ》にて、巖石《イハホ》の上に生(ヒ)立たる松は、類少き物なれば、顯に目立ものなる故、名に顯るゝにたとへたる歟といへり、今按(フ)に此(ノ)説おぼつかなし、中山(ノ)嚴水、石《イソ》の上に生たる松は、根の多くからみてあれば、小松の根《ネ》といふべきを、禰《ネ》と奈《ナ》と音通へば、名《ナ》と云へり、と説り、此によるべき歟、○歌(ノ)意は、立む名の惜さに、人の知(ラ)ぬやうに、しのび/\に戀しく思ひつゝ、年月をわたること、さても心ぐるしき事哉、となり、○此(ノ)一首は、松に寄てよめるなり、
〔或本歌曰。巖上爾《イハノヘニ》。立小松《タテルコマツノ》。名惜《ナヲヲシミ》。人爾者不云《ヒトニハイハズ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。〕
 
2862 山河《ヤマガハノ》。水隱生《ミコモリニオフル》。山草《ヤマスゲノ》。不止妹《ヤマズモイモガ》。所念鴨《オモホユルカモ》。〔頭註、【二首寄v菅、】〕
 
(298)河(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、川と作り、○水隱生(隱(ノ)字、舊本に陰と作るはわろし、今は一本によりつ、)は、ミコモリニオフル〔八字右○〕と訓べし、十(ノ)卷に、天漢水隱草《アマノガハミコモリクサ》、ともよめり、十一には三吉野之水具麻我菅乎不編爾《ミヨシヌノミグマガスゲヲアマナクニ》、とあり、○山草は、草は菅の誤なり、草菅、草書似て混(レ)やすし、十一に、烏玉黒髪山山草《ヌバタマノクロカミヤマノヤマスゲノ》云々、この草も、菅を誤れるよし、既く云るが如し、さてヤマスゲノ〔五字右○〕は不止《ヤマズ》をいはむ料の序なり、下にも、山菅之不止而公乎念可母《ヤマスゲノヤマズテキミヲオモヘカモ》云々、とあり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2863 淺葉野《アサハヌニ》。立神古《タチカムサブル》。菅根《スガノネノ》。惻隱誰故《ネモコロタレユヱ》。吾不戀《アガコヒナクニ》。
 
淺葉野は、和名抄に、武藏(ノ)國入間(ノ)郡|麻羽《アサハ》、安佐波《アサハ》、とあり、十一に、紅之淺葉乃野良《クレナヰノアサハノヌラ》、とよめるも、同處なるべし、○立神古は、岡部氏、或本(ノ)歌をむかへ見るに、神は紳の誤にて、シナヒ〔三字右○〕に當り、古(ノ)字は、有を草書より誤りけむ、故(レ)タチシナヒタル〔七字右○〕と訓べし、又立は、生の誤にもあらむ歟、といへり、今按(フ)に、紳(ノ)字を、シナヒ〔三字右○〕と訓こと紳は帶にて、帶はタラシ〔三字右○〕ともよみて、タラス〔三字右○〕は垂(ノ)字の意なるに、垂をばシダル〔三字右○〕とよみて、シダル、シナフ〔六字右○〕、意近ければ、げにも其(ノ)理ありといへども、集中他に例なければ、おぼつかなし、されば思ふに、神の下に左(ノ)字脱たるにて、立神左古《タチカムサブル》か、菅の生て、神々《カウ/\》しく古めきたるを云べし、下に、神左備而巖爾生松根之《カムサビテイハホニオフルマツガネノ》云々、とあるを合(セ)考(フ)べし、○菅根《スガノネ》は、惻隱《ネモコロ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、誰故にかくねもころに、わが戀しく思ふにてなし、思ふ其(ノ)人故に、かく心を盡して、戀しく思ふことなるものを、かばかりに思ふといふことをい(299)はねば、女はさとも知ずや、となり、古今集に、誰故に亂れむとおもふわれならなくに、とあるに似たり、○舊本に、或本歌曰誰葉野爾立志奈比垂、と註せり、誰葉野《タカハヌ》は、契冲、いづくともしらず、誰の字なれども、かもじ清べし、竹葉野《タカハヌ》といふなるべし、といへり、按(フ)に、誰葉野は、和名抄に、豐前(ノ)國田河(ノ)郡延喜式に、同國田河(ノ)驛とある、この田河《タガハ》の野をいへるにや、(又抄に、壹岐(ノ)島壹岐(ノ)郡にも、田河(ノ)鄭あり、)もしさらば、この田河《タガハ》を、誰葉《タガハ》と書るにて、カ〔右○〕の言は、もとより濁れるにもあらむか、猶考(フ)べし、○以上二首は、菅に寄てよめるなり、
〔右十三首。柿本朝臣人麻呂之歌集出〕
 
萬葉集古義十二卷之上 終
 
(300)萬葉集古義十二卷之中
 
2964 如是耳《カクノミニ》。在家流君乎《アリケルキミヲ》。衣爾有者《キヌナラバ》。下毛將著跡《シタニモキムト》。吾念有家留《アガモヘリケル》。〔頭註、【九首寄v衣、】〕
 
如是耳は、カクノミニ〔五字右○〕と訓べし、(カクシノミ〔五字右○〕と訓はわろし、)十六に如是耳有家流物乎猪名川之奧乎深目而吾念有來《カクノミニアリケルモノヲヰナガハノオキヲフカメテアガモヘリケル》、○歌(ノ)意は、かくばかりの、淺き心にてありける君なるものを、然《サ》ともしらずして、もし君が衣にてあるならば、人に知(ラ)さず、つねによるひる下に着て、身をはなたずあらむとさへ、おもひしことの悔しき、となり、上に人言繁時吾妹衣有裏服矣《ヒトゴトノシゲケキトキニワギモコシキヌニアリセバシタニキマシヲ》、
 
2965 橡之《ツルハミノ》。袷衣《アハセノキヌノ》。裏爾爲者《ウラシアラバ》。吾將強八方《アレシヒメヤモ》。君之不來座《キミガキマサヌ》。
 
橡之衣《ツルハミノキヌ》は、七(ノ)卷に、註り、○袷衣《アハセノキヌ》は、字鏡に、※[衣+夾](ハ)合乃己呂毛《アハセノコロモ》、和名抄に、文選秋興(ノ)賦(ニ)云、御(ス)2袷衣(ヲ)1、李善(カ)曰、袷衣(ハ)無v絮也、和名|阿波世乃岐沼《アハセノキヌ》、落窪物語に、あさゞゆふざのかうし、にび色のあはせのきぬども、かづけ給ふ云々、などあり、さてこれまで二句は、裏《ウラ》をいはむとての序なり、○裏爾爲者、(ウラニセバ〔五字右○〕にては、平穩ならず、)爲は、本居氏の説の如く有の誤なるべし、(但し其(ノ)説に、ウラニアラバ〔六字右○〕はウラ〔二字右○〕は、疑ひあやぶむことなり、といへるは、猶いかゞ、)また爾は、志(ノ)字などの誤なる(301)べし、さらばウラシアラバ〔六字右○〕と訓べし、裏は、此下に、橡之一重衣裏毛無將有兒故戀渡可聞《ツルハミノヒトヘコロモノウラモナクアルラムコユヱコヒワタルカモ》、又、浦毛無去之君故朝旦本名烏戀相跡者無杼《ウラモナクイニシキミユヱアサナアサナモトナソコフルアフトハナシニ》、十三に、浦裳無所宿人者《ウラモナクイネタルヒトハ》云々、十四に、宇良毛奈久和我由久美知爾安乎夜宜乃波里※[氏/一]多※[氏/一]禮婆物能毛比弖都母《ウラモナクワガユクミチニアヲヤギノハリテタテレバモノモヒデツモ》、伊勢物語に、初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなく物を思ひけるかな、かげろふの日記に、夜もうらもなう打臥て寢たり、源氏物語帚木に、思ひ出しまゝにまかりたりしかば、例のうらもなきものから、いと物思ひがほにて云々、枕册子に、あしと人にいはるゝ人、さるはよしとしられたるよりは、うらなくぞ見ゆる、などある、裏《ウラ》と同じく、裏《ウラ》戀し、裏《ウラ》悲しなどいふ裏《ウラ》にて、心(ノ)裏をいふより、出たる言にて、裏無《ウラナク》は、心の表裏《ウラウヘ》なく、打(チ)解たるをいへり、さればこゝは、心に表裏をおきて打解ざらば、吾(ガ)強て申さむやはの意なり、○吾將強八方《アレシヒメヤモ》は、あはれ強て來座(セ)と申さむやはの意なり、(強《シヒ》は、俗に何分に、といふ意なり、)八《ヤ》は反る詞にて、後(ノ)世の也波《ヤハ》の意なり、方《モ》は、歎息を含めたる辭なり、四(ノ)卷に、不欲常云者將強哉吾背菅根之念亂而戀管母將有《イナトイハバシヒメヤワガセスガノネノオモヒミダレテコヒツヽモアラム》、○歌(ノ)意は、吾(カ)心に表裏《ウラウヘ》をおきて打(チ)解がたきところあらば、君を一(ト)すぢに強て來ませと、嗚呼《アハレ》すゝめ申さむやは、心に表裏なければこそ、強て來座(セ)とは申なれ、さるを何しに、君が來座ぬことなるぞと、難《トガ》めいふなるべし、
 
2966 紅《クレナヰノ》。薄染衣《アラソメコロモ》。淺爾《アサラカニ》。相見之人爾《アヒミシヒトニ》。戀比日可聞《コフルコロカモ》。
 
(302)薄染衣《アラソメコロモ》は、縫殿寮式に、退紅《アラソメ》帛一疋(ニ)、紅花小八兩、酢一合、稾半圍、薪三十斤、彈正臺式に、紵《テツクリノ》布衣(ハ)者、雖2深退紅《コキアラソメト》1、自(ハ)v非2輕細(ニ)1、不v在2制限(ニ)1、江次第二(ノ)卷、大臣家大饗(ノ)次第に、仕丁二人、着2荒染《アラソメヲ》1持v之、とあり、さて阿良《アラ》とは、こゝに薄(ノ)字をかける意に、麁々《アラ/\》と一(ト)度染て、薄紅ならしむるを云へば、麁《アラ》は精《クハシ》の反にて、幾入《イクシホ》も染ずして、濃《コ》からぬよしなるべし、(伊勢氏(ノ)四季草に、洗革鎧のことをいひて、洗革とは、洗ひはがしたるよしにて、うす紅の革を云、退紅をアラソメ〔四字右○〕と訓、これアラヒソメ〔五字右○〕の略言なり、西宮記に、相撲御覽日、相撲の長《ヲサ》并(ニ)立合等、著2洗染布袍1云々、此文を江次第に、相撲左右二人、退紅の袍を著るよし、しるされたり、これにて、アラソメ〔四字右○〕と云は、アラヒソメ〔五字右○〕の意なるを知べし、といへり、しかれども、このアラ〔二字右○〕をアラヒ〔三字右○〕の意とせむこと、おぼつかなし、もし西宮記の洗染布袍、やがて、退紅《アラソメ》ならむには、なほ洗は、麁の意の借(リ)字にこそあらめ、)今のもゝ色の類をいふなるべし、(古き書に、桃花布、桃花※[衣+珍の旁]、桃花布※[衣+珍の旁]、桃花褐、などある類をアラソメ〔四字右○〕と訓たるによらば、アラソメ〔四字右○〕即(チ)もゝ色なるか、但し桃花布等は、なほモヽソメ〔四字右○〕にて、アラソメ〔四字右○〕とは、いさゝか異なるか、モヽソメ〔四字右○〕はやがて、此(ノ)下に見ゆ、なほそこにもいふべし、)さて、これまでは、淺爾《アサラカニ》といはむ料の序なり、○淺爾《フサラカニ》は、あさはかにといはむが如し、○歌(ノ)意は、はじめの間は、ただ假初に、淺はかにおもひて、相見初し人なるに、今は心に思ひ染て、深く戀しく思はるゝ哉、となり、
 
(303)2967 年之經者《トシノヘバ》。見管偲登《ミツヽシヌヘト》。妹之言思《イモガイヒシ》。衣乃縫目《コロモノヌヒメ》。見者哀裳《ミレバカナシモ》。
 
歌(ノ)意、逢(ハ)ずして年を經たらば、形見に見つゝ、思ひ出草にせよとて、妹が縫(ヒ)ておこせし衣の縫目の、このごろまよひたるを見れば、妹が形見と見つゝ、憂思をなぐさめはせずして、中々いよ/\戀しく思はれてさても哀しや、となり、旅に年經て、女の形見の衣を見て、よめるなるべし、十五に、中臣(ノ)朝臣宅守が、越前へながさるゝ時に、茅上(ノ)娘子がおくれる歌に、安波牟日能可多美爾世與等多和也女能於毛比美多禮弖奴敝流許呂母曾《アハムヒノカタミニセヨトタワヤメノオモヒミダレテヌヘルコロモソ》、
 
2968 橡之《ツルハミノ》。一重衣《ヒトヘコロモノ》。裏毛無《ウラモナク》。將有兒故《アルラムコユヱ》。戀渡可聞《コヒワタルカモ》。
 
一重衣《ヒトヘコロモ》は、和名抄に、釋名(ニ)云、衣(ヲ)無v裏曰v單(ト)、比止閇岐沼《ヒトヘキヌ》、とあり、さてこれまでは、裏毛無《ウラモナク》をいはむ料における序なり、○裏毛無《ウラモナク》は、心に表裏無《ウラウヘナク》、といはむが如し、此(ノ)上に云り、○將有兒故《アルラムコユヱ》は、有らむ女なるものをの意なり、○歌(ノ)意は、女の心に、疑はるゝ事のあらむにこそあらめ、何のうらうへもなく、打とけてありと見ゆれば、物思をすべきことにあらぬを、われは猶戀しくのみ思ひて、月日を經ることかな、となり、
 
2969 解衣之《トキキヌノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。雖戀《コフレドモ》。何之故其跡《ナニノユヱソト》。問人毛無《トフヒトモナシ》。
 
解衣之《トキヰヌノ》は、枕詞なり、○歌(ノ)意は、わが戀しく思ふ心の、亂れてあるを、何《イカ》なる故に然るぞと、とがむべきに、さらにとがむる人もなし、といへるにて、その戀しく思ふ人の、さらぬがほにてあ(304)ることを、ふかく恨みたるなり、十一に、第四(ノ)句、何如汝之故跡《ナソナガユヱト》、とて、全(ラ)同歌あり、
 
2970 桃花褐《モヽソメノ》。淺等乃衣《アサラノコロモ》。淺爾《アサラカニ》。念而妹爾《オモヒテイモニ》。將相物香裳《アハムモノカモ》。
 
桃花褐は、一本に、モヽソメノ〔五字右○〕とよめるによるべきか、褐は布衣なり、されば褐(ノ)字に、染る意はなけれども、桃花色に染たる布衣の義を得て、かくかけるなるべし、さてその桃染は、天智天皇(ノ)紀六年に、桃染布《モヽソメノ》五十八端云々を、耽羅人に賜ひしよしあり、衣服令に、朝服云々、衛士(ハ)皀(ノ)縵(ノ)頭巾《カウフリ》、桃染(ノ)袗《ヒトヘキヌ》云々、衛門式に、衛士(ハ)皀(ノ)※[糸+委]桃染(ノ)布袗、左右京式に、凡兵士以2淺|桃染《モヽソメヲ1爲(ヨ)2當色(ト)1、不v得d與2衝士1雜亂(スルコトヲ)u、など見えたり、即(チ)今の桃色にて、上に云る退紅の類なるべし、又契冲も云しごとく、やがてアラソメ、モヽソメ〔八字右○〕は、一色の上に二名ならば、即(チ)此も舊訓の如く、アラソメノ〔五字右○〕と訓て然るべし、○淺等乃衣《アサラノコロモ》は、染色の薄《アサ》らかなる衣、と云意なり、さて此(ノ)一句、淺爾《アサラカニ》をいはむとての序なり、○香裳《カモ》は、香《カ》は疑(ノ)辭にて、後に可波《カハ》と云にちかし、裳《モ》は歎息を含める助辭なり、○歌(ノ)意は、女をあさはかに、たゞうはべに、なみ/\に思ひたるのみにて、あはるゝものかは、あはれ深く思ひ入むぞ、となり、
 
2971 大王之《オホキミノ》。塩燒海部乃《シホヤクアマノ》。藤衣《フヂコロモ》。穢者雖爲《ナルトハスレド》。彌希將見毛《イヤメヅラシモ》。
 
大王之《オホキミノ》云々、塩は、田租にひとしく、公の供御とするを、主として燒(ク)物なれば、かくいへるか、契冲、武烈天皇(ノ)紀(ニ)云、於是大伴(ノ)大連、率《ヰテ》v兵(ヲ)自將《》イクサノキミトナリ、圍2大臣(ノ)宅(ヲ)1、縱《ハナチ》v火(ヲ)|燔《ヤキ》之、所v※[手偏+爲](ケ)雲(ノゴトクニ)靡(ケリ)、眞鳥(ノ)大臣、恨(ミ)2事(ノ)(305)不(ヲ)1v濟、知(リ)2身(ノ)難(キヲ)1v免(レ)、計窮望絶《セムスベシラニ》、廣(ク)指(テ)v塩(ヲ)詛遂《トコヒテ》被《エキ》2殺戮《コロサ》1、及其(ノ)子弟(サヘ)、詛(フニ)唯忘(テ)2角鹿(ノ)海塩《シホヲ》1、不以爲詛《トコハザリキ》、由v是(ニ)角鹿之塩(ハ)、爲2天皇(ノ)所食《オモノト》1、餘海《ホカノウミノ》之塩(ハ)、爲(ニ)2天皇1所《エキ》v忌(マ)、かゝれば延喜式等にも、供御の塩、敦賀にかぎるとは見えざれども、此(ノ)歌よめるころは、敦賀なるゆゑに、大王《オホキミ》の塩燒海部《シホヤクアマ》とは、おけるなるべし、と云り、此(ノ)謂にて、敦賀の塩をいへるにや、○藤衣《フヂコロモ》は、馴《ナル》をいはむ料の序なり、藤布の衣の、あかづきふくたみたるを穢《ナル》ると云(ヘ)ば、男女の相馴るにいひつゞけたり、三(ノ)卷に、須麻乃海人之塩燒衣乃藤服間遠之有者末著穢《スマノアマノシホヤキキヌノフヂコロモマトホクシアレバイマダキナレズ》、六(ノ)卷に、爲間之海人之塩燒衣乃奈禮名者香一日母君乎忘而將念《スマノアマノシホヤキキヌノナレナバカヒトヒモキミヲワスレテオモハム》、○穢者、雖爲は、ナルトハスレド〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意、男女久しく相馴るゝとはすれども、いとふ心はさらになくて、さてもいよ/\めづらしくなつかしやとなり、十一に、難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許増常目頬次吉《ナニハヒトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソツネメヅラシキ》、といへるに、心相似たり、
 
2972 赤帛之《アカキヌノ》。純裏衣《ヒウラノコロモ》。長欲《ナガクホリ》。我念君之《アガモフキミガ》。不所見比者鴨《ミエヌコロカモ》。
 
赤帛《アカキヌ》は、紅色(ノ)衣とは異にて、緋色《アカイロ》の衣をいふべし、(六帖には、これを、くれなゐのとあり、いかゞ、)○純裏衣は、表裏同色の衣をいふよし、岡部氏云り、(又契冲は、純(ノ)字を、延喜式やらむには、にびとよめり、鈍色といふに、思(ヒ)合(ハ)すれば、鈍純通ずる歟、然らば、ニビウラコロモ〔七字右○〕とよむべき歟、といへり、岡部氏(ノ)考には、ヒタウラコロモ〔七字右○〕にて、純は、純一のよしにて、ヒトツ〔三字右○〕の意に書り、六(ノ)卷に、百船純乃《モヽフナヒトノ》の純も、一《ヒト》を人《ヒト》にかりつ、といへり、さもあらむ、)十六に、結經方衣永津裡丹縫服《ユフカタキヌヒツラニヌヒキ》、とあ(306)る、氷津裡はヒツラ〔三字右○〕にて、純裡《ヒタウラ》の約言(タウ〔二字右○〕の切ツ〔右○〕、)にて、今の純裏《ヒタウラ》に同じと云り、さらば此《コヽ》をも、ヒツラノコロモ〔七字右○〕と訓べし、純《ヒタ》とは、頓丘《ヒタヲ》と云も、此面《コノモ》も彼面《カノモ》も、純一《ヒタスラ》に丘《ヲ》なる謂の稱なるに准へて、表も裏も純一なる意に、純裏《ヒタウラ》とはいふなることを知べし、さて然る表裏同色の赤衣は、花やぎうるはしくて、すそ長からむことを、欲《ネガ》ふものなれば、長欲《ナガクホリ》といひつゞけむための序に、設けたるなるべし、○歌(ノ)意は、末長く相思はむことをこひねがひおもふに、此(ノ)頃其(ノ)人の見え來ぬはさはることやある、心やかはりぬるおぼつかなし、さても心もとなき事哉、といへるなり、(岡部氏は、長欲は、長は、着(ノ)字の誤なるべし、といへり、さらばキマクホリ〔五字右○〕と訓て、男の表裏同色の緋衣を、着て來るより、相共に、其(ノ)衣を著て、寢まほしとおもふに、見えこずといふにて、筑波禰乃爾比具波麻欲能伎奴波安禮杼伎美我美家思志安夜爾伎保思母《ツクハネノニヒグハマヨノキヌハアレドキミガミケシシアヤニキホシモ》、といへるごとく、相寢して、重ね着まほしといへる意歟、されど着欲《キマクホリ》とのみにて、相寢せむことを欲《ネガ》ふ意とせむこと、穩ならぬやうなれば、猶もとのまゝなる方ぞ、宜かるべき、)○以上九首、衣に寄てよめるなり、
 
2973 眞玉就《マタマツク》。越乞兼而《ヲチコチカネテ》。結鶴《ムスビツル》。言下※[糸+刃]之《アガシタヒモノ》。所解日有米也《トクルヒアラメヤ》。〔頭註、【五首、寄2帶紐1、】〕
 
眞玉就《マタマツク》は、緒《ヲ》とかゝる枕詞にて、此(ノ)上にも見えたり、○越乞兼而《ヲチコチカネテ》は、彼方此方を兼て、といふに同じくて、此《コヽ》は來し方行さきをかけて、心わかはるまじと、契約する意なり、四(ノ)卷に、眞玉付彼此兼(307)手言齒五十戸常相而後社悔破有跡五十戸《マタマツクチチコチカネテイヒハイヘドアヒテノチコソクイハアリトイヘ》、○歌(ノ)意は、來し方ゆくさきをかけて、心のかはるまじと、かたく契りて結びつるからは、又あふまで、吾(ガ)紐の緒のとくる日は、さらにあらじ、となり、
 
2974 紫《ムラサキノ》。帶之結毛《オビノムスビモ》。解毛不見《トキモミズ》。本名也妹爾《モトナヤイモニ》。戀度南《コヒワタリナム》。
 
帶之結《オビノムスビ》は、次の歌に、紐之結《ヒモノムスビ》とあるに同じく、帶も即(チ)下紐をいふべし、古(ヘ)帶《オビ》、紐《ヒモ》、緒《ヲ》を、一(ツ)に通はし云る例多し、○解毛不見《トキモミズ》は、不《ズ》2解開《トキモアケ》1といはむが如し、見《ミ》は開《アク》といふに當れり、○歌(ノ)意は、思ふ人にあふこともなければ、紐の緒を解も開ずして、むざ/\と戀しくのみ思ひつゝ、月日をわたりなむか、となり、
 
2975 高麗錦《コマニシキ》。※[糸+刃]之結毛《ヒモノムスビモ》。解不放《トキサケズ》。齊而待杼《イハヒテマテド》。驗無可聞《シルシナキカモ》。
 
高麗錦《コマニシキ》は、既く出つ、○齊(ノ)字、官本、拾穗本等には齋と作り、此(ノ)集には、齊齋通(ハ)し用たれば、いづれにてもあるべし、○歌(ノ)意は、二人して結びし、紐を解放ずして、齋ひつゝしみて待(ツ)には、神の冥驗《ミシルシ》も有べきことなるに、思ふ人を待得ざること哉、と歎きたるなり、
 
2976 紫《ムラサキノ》。我下※[糸+刃]乃《アガシタヒモノ》。色爾不出《イロニイデズ》。戀可毛將痩《コヒカモヤセム》。相因乎無見《アフヨシヲナミ》。
 
本(ノ)二句は、色爾《イロニ》出(ツ)といはむための序なり、紫紐《ムラサキノヒモ》の色に出(ツ)といふのみに、つゞきたる詞にて、不《ズ》といふまでにはかゝらず、布留の早田の穗には出ず、の例なり、○戀可毛將痩《コヒカモヤセム》は、さても戀痩むか、といふに同じ、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、人目をはぢて、色に顯はさず、下にのみ戀し(308)く思つゝをることなれど、逢べきよしのなきによりて、つひに吾(カ)身の痩衰へなむか、さても悲しや、といへるなり、
 
2977 何故可《ナニユヱカ》。不思將有《オモハズアラム》。※[糸+刃]緒之《ヒモノヲノ》。心爾入而《コヽロニイリテ》。戀布物乎《コヒシキモノヲ》。
 
紐緒之《ヒモノヲノ》云々、契冲、古今集戀一に、よそにしてこふればくるしいれひものおなじ心にいざむすびてむ、これを顯昭法師釋していはく、入紐は、雄紐雌紐《ヲヒモメヒモ》、ふたつを取合せてさすものなれば、同じ心にむすばむとはよめるなり、今の歌に、こゝろにいりと云るも、そのこゝろなりといへり、と云り、上に、幼婦者|同情《オヤジコヽロ》云々、とある、幼婦者も紐緒之《ヒモノヲノ》の誤なるべし、と云る説ありて、彼處にいへり、○歌(ノ)意、かく心に入て、深く戀しく思ふものを、何によりて、君を思はずあることのあるべしやは、となり、男の思はずやなどいへるに、答へたるならむ、○以上五首、紐帶に寄てよめるなり、
 
2978 眞十鏡《マソカゞミ》。見座吾背子《ミマセワガセコ》。吾形見《アガカタミ》。將持辰爾《モタラムキミニ》。將不相哉《アハザラメヤモ》。〔頭註、【四首寄v鏡、】〕
 
將持辰爾、穩ならず、本居氏、辰は君(ノ)字の誤にて、モタラムキミニ〔七字右○〕なるべし、といへり、是然るべし、○將不相哉は、アハザラメヤモ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、吾(カ)形見の鏡を吾とおぼして、常に身をはなたず、見つゝ心をなぐさめ賜へ、まさきくて、はや事竟り、吾(カ)形見を持て、還り來まさむ其(ノ)君に、互に心もかはらずして、今の如く、あはれ相見ずてあらむやは、と云なるべし、此は夫(ノ)君(309)の遠(キ)境へ旅などに行とき、女の形見に、鏡を贈てよめるなるべし、岡部氏、天孫の天降賜ふ時、天照大御神の神寶をあたへ賜ひて、此(ノ)鏡は、專(ラ)我を拜む如せよとの賜ひしより、形見には、鏡を贈るならはしとして、後(ノ)世の物語ふみにすら見えたり、といへり、
 
2979 眞十鏡《マソカヾミ》。直目爾君乎《タヾメニキミヲ》。見者許増《ミテバコソ》。命對《イノチニムカフ》。吾戀止目《ワガコヒヤマメ》。
 
眞十鏡《マソカヾミ》は、枕詞なり、○見者許増《ミテバコソ》は、見てあらばこそ、といふ意なり、○命對《イノチニムカフ》は、命にかくるといふに同じ、命にもかふるばかりに思ふ、と云が如し、八(ノ)卷に、玉切命向戀從者公之三舶乃梶柄母我《タマキハルイノチニムカヒコヒルヨハキミガミフネノカヂツカニモガ》、○歌(ノ)意は、かく命にかけて、切に思ふ戀も、一度直目に相見てあらばこそ、息《ヤス》かりもせめ、さらずば戀死に死む他なし、となり、上に、外目毛君之光儀乎見而者社壽向吾戀止目《ヨソメニモキミガスガタヲミテバコソイノチニムカフワガコヒヤマメ》、
 
2980 犬馬鏡《マソカヾミ》。見不飽妹爾《ミアカヌイモニ》。不相而《アハズシテ》。月之經去者《ツキノヘヌレバ》。生友名師《イケルトモナシ》。
 
犬馬鏡《マソカヾミ》は、まくら詞なり、○生友名師《イケルトモナシ》は、生《イケ》る利心《トコヽロ》も無(シ)の意にて、生《イキ》たる心ちもせざる謂なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
2981 祝部等之《ハフリラガ》。齊三諸乃《イハフミモロノ》。犬馬鏡《マソカヾミ》。懸而偲《カケテシヌビツ》。相人毎《アフヒトゴトニ》。
 
齊三諸《イハフミモロ》(齊(ノ)字、官本には齋と作り、此(ノ)字のこと上に云り、拾穗本に、〓と作るは誤か、)とは、三諸は御室《ミムロ》にて、神の座《オハシ》ます御殿なり、さてすべて神殿は、祝部等が齋(ヒ)清め祭《イツキ》奉るものなれば、齊御室《イハフミムロ》とはいへり、○犬馬鏡《マソカヾミ》、これまでは、懸《カケ》をいはむとての序なり、すべて神の御前には、賢木の(310)枝などに、鏡をかけて祭る故に、かくいへり、賢木の上(ツ)枝(ニ)掛2八尺瓊(ヲ)1、中(ツ)枝(ニ)掛2白銅鏡(ヲ)1、下(ツ)枝(ニ)掛2十握劔(ヲ)1、など云ること、書紀にも、往々《コレカレ》に見えたり、○歌(ノ)意は、すべて誰にまれ、人にあふごとに、君がことを思ひ出て、心にかけてしのびつるよ、といふにて、其(ノ)あふ人は、もしは似たる人、或はおなじほどにうるはしき人、あるひは、しなかたちのおよばぬ人、それ/”\に見るにつけて、思ひ出てしのぶ意なり、と契冲がいへるごとし、○以上四首、鏡に寄てよめるなり、
 
2982 針者有杼《ハリハアレド》。妹之無者《イモガナケレバ》。將著哉跡《ツケメヤト》。吾乎令煩《アレヲナヤマシ》。絶※[糸+刃]之緒《タユルヒモノヲ》。〔頭註、【一首寄v針、】〕
 
緒(ノ)字、舊本に結と作るは誤なり、今は官本、類聚抄、古寫本、水戸本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、契冲、針はあれども、妹がなければえつけじと、われをなぶりてなやますやうに、紐の緒の絶る、となり、四(ノ)卷に、獨宿而絶西紐緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスベシラニネノミシソナク》、吾以在三相二搓流絲用而附手益物今曾悔寸《アガモタルミツアヒニヨレルイトモチテツケテマシモノイマソクヤシキ》、などあり、又廿(ノ)卷(防人が妻の歌)に、久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂許禮乃波流母志《クサマクラタビノマルネノヒモタエバアガテトツケロコレノハルモシ》、(針持なり、)これ針をもて、我(カ)手にてつくるとおもひてつけよ、となり、われをなやましたゆるは、古今集に、ゆふ手もたゆくとくる下紐、といへるが如し、といへり、此(ノ)歌は、旅などにありてよめるなるべし、廿(ノ)卷に、奈爾波治乎由伎弖久麻弖等和藝毛古賀都氣之非毛我乎多延爾氣流可毛《ナニハヂヲユキテクマテトワギモコガツケシヒモガヲタエニケルカモモ》、○此(ノ)一首、針に寄てよめるなり、
 
2983 高麗劔《コマツルギ》。己之景迹故《ワガコヽロユヱ》。外耳《ヨソノミニ》。見乍哉君乎《ミヽツヤキミヲ》。戀渡奈牟《コヒワタリナム》。〔頭註、【二首寄v劔、】〕
 
(311)高麗劔《コマツルギ》は、心《コヽロ》といふにかゝる枕詞なり、高麗劔《コマツルギ》は、二(ノ)卷に、狛釼和射見我原乃《コマツルギワザミガハラノ》、ともよめり、さて心とかゝるは、契冲、太刀にはなかごあり、それをこゝろといふ、といへり、猶九(ノ)卷に、常世邊可住物乎劔刀己之心柄於曾也是君《トコヨヘニスムベキモノヲツルギタチワガコヽロカラオソヤコノキミ》、とある歌に、委(ク)釋り、○己之景迹故は、ワガコヽロユヱ〔七字右○〕lと訓るぞよろしき、(舊本に、サガカゲユヱニ〔七字右○〕とよめるは、よしなし、)契冲、景迹をコヽロ〔三字傍点〕とよむことは、天武天皇(ノ)紀に、十一年八月壬戌朔癸未、詔曰、凡諸(ノ)應(キ)2考選《シナサダメス》1者、能※[手偏+僉](テ)2其|族姓《ウヂカバネ》及|景迹《コヽロバセヲ》1、方(ニ)後考(セヨ)之、若|雖《トモ》2景迹行能灼然《コヽロバセシワザイチシロク》1、其(ノ)族姓不v定者(ハ)、不(レ)v在2考選之|色《シナニ》1、とあり、といへり、(考課令に、凡官人(ノ)景迹功過應(ク)v附(ク)v考(ニ)者、皆須2實録(ス)1、とありて、義解に、最迹(トハ)者、景(ハ)像也、猶v言2状迹(ト)1也、と見ゆ、この景迹の字を、昔の博士は、コヽロバセ〔五字右○〕ともコヽロ〔三字右○〕とも訓けるがゆゑに、此集にも心《コヽロ》と云に用たるならむ、)故は、ここは常の故《ユヱ》なり、古語に云るは、多くは君故爾《キミユヱニ》、妹故爾《イモユヱニ》など云は、君なるものを、妹なるものを、と云意にて、俗に君ぢやに、妹ぢやに、と云に同じを、こゝの故《ユヱ》は、それとは異にて、今(ノ)世に常云に同意なり、かやうにいへるは、古くはいと少きを、たえてなきにはあらず、十三に、大舟能思憑君故爾盡情者惜雲梨《オホブネノオモヒタノメルキミユヱニツクスコゝロハヲシケクモナシシ》、十六に、直珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲタエシニキトキヽシユヱニソノヲマタヌキアガタマニセム》、などあるは、尋常の故《ユヱ》なり、書紀雄略天皇(ノ)卷(ノ)歌に、耶麼能謎能古思麼古喩衛爾比登涅羅賦宇麼能都都礙播嗚思稽矩謀那斯《ヤマノベノコシマコユヱニヒトデラフウマノヤツギハヲシケクモナシ》、とあるも、其なり、又こゝの故《ユヱ》をも、多くの例のごとく、なるものをと云意にきゝて、俗に吾(ガ)心ぢやに、と云に同じとするときは、いさゝか意かはるべし、○歌(ノ)(312)意は、男の心の、打とけぬにはあらねども、女の自《ミラ》さはることありて、心のまゝに得あはねば、われとわが心故に、外にのみ見つゝ、戀しくおもひて、年月を過しなむか、といふなるべし、これ故《ユヱ》と云を、今(ノ)世に常云と、同意とするときの釋なり、又男の心のつらきにはあらねど、女の自《ミラ》さはることありて、心のまゝに得あはねば、人を恨むべきにあらず、即(チ)吾(ガ)心なるものを、(俗に、吾(ガ)心ぢやに、、といはむがことし、)さとは得思ひあきらめずして、なほ外にのみ見つゝ、戀しく思ひて、年月を過しなむか、といふなるべし、これ故《ユヱ》と云を、多くの例のごとく、なるものをときくときの釋なり、
 
2984 劔太刀《ツルギタチ》。名之惜毛《ナノヲシケクモ》。吾者無《アレハナシ》。比來之間《コノゴロノマノ》。戀之繁爾《コヒノシゲキニ》。
 
劔太刀《ツルギタチ》は、枕詞なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、戀しさのあまりに、打すてゝいへるなり、四(ノ)卷に、劔太刀名惜雲吾者無君爾不相而爲之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモアレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》、大かた同じ歌なり、此(ノ)上に、三空去名之惜毛吾者無不相日數多爲之經者《ミソラユクナノヲシケクモアレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》、とあり、以上二首、劔に寄てよめるなり、
 
2985 梓弓《アヅサユミ》。末者師不知《スヱハシシラズ》。雖然《シカレドモ》。眞坂者君爾《マサカハキミニ》。縁西物乎《ヨリニシモノヲ》。〔頭註、【五首寄v弓、】
 
梓弓《アヅサユミ》は、枕詞におきて、やがてその縁言をいへるなり、○師《シ》は、その一(ト)すぢなる事を、重く思はする助辭なり、○眞坂《マサカ》は、さしあたりたる時をいふ、四(ノ)卷下|直香《タヾカ》の下に、委(ク)云り、○歌(ノ)意は、行末かけて、心のかはるべきにあらねども、初より末のことをいはゞ、たゞうはべに、一(ト)すぢに言(313)よくいひなすものと思やせむ、されば末かけてのことはいはじ、然はあれども、只今さしあたりては、二念なく、君に心のよりにしものを、何ぞ、他心《アタシコヽロ》あらむやは、となり、
〔一本歌云。梓弓《アヅサユミ》。末乃多頭吉波《スヱノタヅキハ》。雖不知《シラネドモ》。心者君爾《コヽロハキミニ》。由之物乎《ヨリニシモノヲ》。〕
 
2986 梓弓《アヅサユミ》。引見縱見《ヒキミユルベミ》。思見而《オモヒミテ》。既心齒《スデニコヽロハ》。因爾思物乎《ヨリニシモノヲ》。
 
梓弓《アヅサユミ》、これも枕詞の如くに置て、譬をもたせたり、引《ヒク》、弛《ユルブ》、因《ヨル》、みな弓の縁言なり、○引見縱見《ヒキミユルベミ》(縱(ノ)字、一本には緩と作り、)は、引もし弛べもし、といはむが如し、見《ミ》は字(ノ)意にはあらず、咲み慍み、降み不v降みなどのみなり、十一に、梓弓引見弛見不來者不來來者其々乎奈何不來者來者其乎《アヅサユミヒキミユルベミコズハコズコバソヽヲナドコズハコバソヲ》、とあり、さてこゝは、契冲が、俗に、とりつおきつ思案する、といふが如し、といへるが如し、○思見而《オモヒミテ》は、思ひ試ての意なり、思案するを云、○既《スデニ》は、全《マタク》といふに同じ、天下須泥爾於保比底布流雪乃《アメノシタスデニオホヒテフルユキノ》、とある、須泥爾《スデニ》に同じ、古事記上(ツ)卷に、此(ノ)葦原(ノ)中(ツ)國者、隨v命(ノ)既《スデニ》獻《タテマツラム》也、とあるも同じ、書紀繼體天皇(ノ)卷には、全(ノ)字をスデニ〔三字右○〕と訓り、按に、既(ノ)字を、スデニ〔三字右○〕と訓ときは、字書に、盡也、と註したる意なり、既往の義はなきによりて、既往《ハヤク》のことを、スデニ〔三字右○〕と云たること、古(ヘ)には、さらになきことなり、かれ既(ハ)已也、と註したる意のときは、ハヤク〔三字右○〕あるはサキニ〔三字右○〕など訓べし、スデニ〔三字右○〕とは訓べからず、しかるを此(ノ)字を、後にはスデニ〔三字右○〕とのみ訓て、既往の意に云ことゝ意得て、スデニ〔三字右○〕と云は、盡(ノ)字の意なることを、知たる人のすくなくなれるは、字にまよへることの、久しきによ(314)りてなり、○歌(ノ)意は、とりつおきつ、さま/”\に思ひ試て、つひに全く心の因にし君なるものを、いかで他《アタ》し心をもたむやは、となり、
 
2987 梓弓《アヅサユミ》。引而不縱《ヒキテユルサヌ》。大夫哉《マスラヲヤ》。戀云物乎《コヒチフモノヲ》。忍不得牟《シヌヒカネテム》。
 
梓弓《アヅサユミ》、これ枕詞にあらず、譬なり、○歌(ノ)意は、常に張(リ)置て弛(マ)ぬ弓の如く、心を強くもつ大丈夫にして、戀と云ばかりのえせ物を、堪忍び得ざらむやはと思へど、猶忍得ずして、心のみだるゝ、となり、大夫哉片戀將爲跡嘆友《マスラヲヤカタコヒセムトナゲケドモ》、のこゝろなり、本(ノ)句は、十一にも、梓弓引不許有者《アヅサユミヒキテユルサズアラマセバ》云々、とあり、
 
2988 梓弓《アヅサユミ》。未中一伏三起《スヱノナカゴロ》。不通有之《ヨドメリシ》。君者會奴《キミニハアヒヌ》。嘆羽將息《ナゲキハヤマム》。
 
梓弓《アヅサユミ》は、枕詞なり、○末中一伏三起不通有之は、本居氏、スヱノナカゴロヨドメリシ〔スヱ〜右○〕と訓るに從べし、六帖に、弓、かくこひむものとしりせば梓弓すゑの中ごろあひみてましを、と有といへり、一伏三起を許呂《コロ》とよむは、岡部氏、今ころぶしざいと云て、一(ト)度なげころばせば、先へ行て、少しづゝ三度起るものあり、といへり、今按(フ)に、※[土+蓋]嚢抄、小兒の翫物を多く擧たる中に、肚《コロ》といふ物あり、又東齋隨筆に、わらはべのうつむきざいと云もの、一(ツ)ふして三(ツ)あふむくよししるされたるを、合(セ)考(フ)るに、肚《コロ》即(チ)うつむきざいの類にて、其は昔よりありし翫物にて、古(ヘ)より許呂《コロ》とぞ云つらむ、(許呂《コロ》は轉《コロ》ばす謂なるべし、〉さてその許呂《コロ》と云物の、用《ハタラ》く形《サマ》によりて、一伏三起と書て、しか訓せたるならむ、十三に、根毛一伏三向《ネモコロ》とかけるも同じ、又十(ノ)卷に、暮三伏一向(315)夜とかきて、ユフツクヨ〔五字右○〕と訓せたるも、こゝと同類なり、その由は既《ハヤ》く彼處にいへり、かくて未(ノ)中頃と云る意は、末とは、なかば通ひ住し盛の末《スヱ》の間《ホド》來て、其(ノ)末の間《ホド》に、ひたすら絶しにはあらで、中不通《ナカヨド》なりしを云なるべし、○嘆(ノ)字、古本、拾穗本等には、嗟と作り、○歌(ノ)意は、末の中間《ナカコロ》中不通《ナカヨド》にして、(四(ノ)卷に、事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手《コトデシハタガコトナルカヲヤマダノナハシロミヅノナカヨドニシテ》、)暫絶たりし心のいぶせかりし、日ごろの歎きをも、今はわするゝばかりに、うれしきことゝ、あへるをよろこびていへるなるべし、
 
2989 今更《イマサラニ》。何牡鹿將念《ナニシカモハム》。梓弓《アヅサユミ》。引見縱見《ヒキミユルベミ》。縁西鬼乎《ヨリニシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、とりつおきつ、さま/”\に思ひ試みて、つひにひたむきに、心はよりにしものを、君をおきて、今更に何の他し事をかはおもはむ、となり、男の末おぼつかなくやなど云るときに、女のよめるなるべし、四(ノ)卷に、今更何乎可將念打靡情者君爾縁爾之物乎《イマサラニナニヲカオモハムウチナビキコヽロハキミニヨリニシモノヲ》、十(ノ)卷に、道邊之乎花我下之思草今更爾何物可將思《ミチノベノヲバナガシタノオモヒグサイマサラ/\ニナニカオモハム》、○以上五首、弓に寄てよめるなり、
 
2990 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。續麻之多田有《ウミヲノタタリ》。打麻懸《ウチソカケ》。續時無二《ウムトキナシニ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。〔頭註、【一首寄v麻、〕
 
續麻之多田有《ウミヲノタタリ》、(續(ノ)字、二條院御本、類聚抄、拾穗本等には、績と作り、次なるも同じ、續、績、古(ヘ)は通(ハシ)用たり、)多田有《タタリ》は、和名抄に、絡〓、楊氏漢語抄(ニ)云、多々理《タヽリ》、また※[木+面](ハ)多々利加多《タヽリカタ》、神祇令(ノ)義解に、凡天皇即(キタマハヽ)v位(ニ)云々、其大|幣者《ミテクラハ》、三月之内令(ヨ)2修理(シ)訖(ヘ)1、(謂大幣(トハ)者、云々、金(ノ)水桶、金線柱《ソタヽリヲ》、奉2伊勢(ノ)神宮(ニ)1、楯戈(ヲ)奉2住(316)吉(ノ)神(ニ)1之類是也、○釋云、伊勢大社(ニ)奉2金(ノ)麻笥、金(ノ)多々利《タヽリヲ》1、住吉(ニ)奉2楯戈(ヲ)1之類也、)大神宮式に、金銅(ノ)多々利《タヽリ》二基、(高各一尺一寸六分、土居(ノ)徑(リ)三寸六分、)銀銅(ノ)多々利《タヽリ》、高一尺一寸六分、土居(ノ)徑(リ)二寸五分、)龍田(ノ)風神(ノ)祭(ノ)祝詞に、金(ノ)※[木+喘の旁]《タヽリ》(契冲云、※[木+喘の旁]は※[木+而]と通(フ)歟、)など見えたり、方なる木を下居にして、それに柱を一(ツ)立て、紵《ヲ》を引掛てうむものなり、其(ノ)形状は、内宮神寶(ノ)圖に見ゆ、六帖に、但馬絲のよれどもあはぬおもひをば何のたゝりにつけてはらへむ、源氏物語總角に、むすびあげたるたゝりの、簾《スダレ》のつまより、木丁のほころびにすきて見えければ方々、〔頭註、【契沖云、左の方に、灯臺の臺なきやうなる物ふたつ、左右に置て、※[木+峠の旁]にかけたる糸をかく、これをふたつたゝりと云、もしかせひの長ければ、今ひとつを、さきの方に置て、かなへの如くするを、三たゝりと云、空の其方に、木にても竹にても、横につりて、ちひさき穴をゑりて、彼絡※[土+朶]のいとくちをとほして、右の方に〓を置てくるなり、】〕○打麻懸《ウチソカケ》、これまでは倦《ウム》をいはむ料の序なり、打麻《ウチソ》は、二説あり、今の世の女も常する如く、麻を績には、まづ打和らげて用ふものなれば、打(ノ)字を書る如く、擣《ウチ》たる麻《ヲ》の意にや、さらばチウソ〔三字右○〕と訓べし、又|全麻《ウツソ》にて、全《ウツ》は美《ホメ》たる稱《ナ》にもあるべし、さらばウツソ〔三字右○〕と訓べし、猶一(ノ)卷、打麻乎麻續王《ウチソヲヲミノオホキミ》とある歌に、委(ク)註り、さてこゝは、柱種《タヽリ》に擣麻を引懸て續《ウム》といふ意に、いひつゞけたるなり、○續時無二《ウムトキナシニ》は、續《ウム》は倦《ウム》の借(リ)字にて、倦《ウミ》おこたり、たゆむ時なしに、と謂なり、(ついでに云べし、伊勢物語に、あてなる女の尼になりて、世(ノ)中をうんじて云々、竹取物語に、御子達上達部きゝて、おいらかに、あたりよりだに、なありきそとやは、の給はぬと云て、うんじてみなかへりぬ、枕册子に、むげにこそ、おもひうんじにしかど云々、などある、(317)このうんじてを、慍の字音にて、慍《ウン》じてなりと云、或は屈してを通して云りなど云り、皆ひがことなり、これらも倦《ウミ》してと云ことなり、世(ノ)中をうんじては、世(ノ)中を倦あきはてゝと云意を、かくいへるなり、さて倦をウン〔二字右○〕と云は、難みしてを難ンジテ〔三字右○〕と云と、同例なり、)○歌(ノ)意は、倦《ウミ》おこたる時なしに、長の月日を、戀しく思ひつゝ過すことかな、となり、(契冲、續時無二の續は、もし繰(ノ)字の誤にて、クルトキナシニ〔七字右○〕にや、といへるは、強解なり、本のまゝにて、よく通《キコ》えたるをや、)○此一首は、麻によせてよめるなり、
 
2991 垂乳根之《タラチネノ》。母哉養蚕乃《ハヽガカフコノ》。眉隱《マヨゴモリ》。馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イフセクモアルカ》。異母二不相而《イモニアハズテ》。〔頭註、一首寄v蠶、〕
 
本(ノ)句、十一に、足常母養子眉隱隱在妹見依鴨《タラチネノハヽノカフコノマヨゴモリコモレルイモヲミムヨシモガモ》、十三(ノ)長歌に、帶乳根笶母之養蚕之《タラチネノハヽノカフコノ》、眉隱氣衝渡《マヨゴモリイキヅキワタリ》云云、などあり、(古今集(ノ)序、なずらへ歌の古註に、今の歌を、たらちめのと出せるは、いと後に、父をたらち男《ヲ》、母をたらち女《メ》と云ことゝ心得たるひがことなり、)さて此(ノ)歌は、欝悒《イフセキ》をいはむとての序なり、蠶《カヒコ》の眉(ノ)中に隱(リ)居るは、欝々《イフセ》くふさがりたる由に、いひつゞけたり、○馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イフセクモアルカ》は、欝悒《イフセ》くも有哉《アルカ》なり、馬聲は、馬の鳴《イナヽ》く聲、初に伊《イ》の音あるゆゑなり、蜂音は、蜂の鳴(ク)音、しか聞ゆればなり、牛鳴を、牟《ム》の假字に用たる類なり、石花は、三(ノ)卷不盡(ノ)山の歌にも、石花《セノ》海とかけり、和名抄に、崔禹錫(カ)食經(ニ)云、〓蹄子云々、兼名苑註(ニ)云、石花云々、和名|勢《セ》とあり、なほ品物(318)解に云、○歌(ノ)意は、妹に得あはずして、いぶせく心のふさがりて、やるせなくもあることかな、となり、○此(ノ)一首は、蠶によせてよめるなり、
 
2992 玉手次《タマタスキ》。不懸者辛苦《カケネバクルシ》。懸垂者《カケタレバ》。續手見卷之《ツギテミマクノ》。欲寸君可毛《ホシキキミカモ》。〔頭註、【一首寄2手繦1、〕
 
歌(ノ)意は、手繦《タスキ》を懸るを、思ふ人にあふにたとへて、いまだあひ見ぬは苦しく、相見そめては、續ぎて絶ず相見まほしくて、さても心の安まる時なき事哉、と歎きたるなり、女を菅によせてよむに、笠にあむを、戀の成就《ナル》にたとふるもひとし、○此(ノ)一首は、手繦によせてよめるなり、
 
2993 紫《ムラサキノ》。綵色之※[草冠/縵]《マダラノカヅラ》。花八香爾《ハナヤカニ》。今日見人爾《ケフミルヒトニ》。後將戀鴨《ノチコヒムカモ》。〔頭註、【二首寄v※[草冠/縵]、】
 
綵色之※[草冠/縵]は、岡部氏、ソメテシカヅラ〔七字右○〕とよむべし、女《メ》の童の、かしらをかざるかづら、古(ヘ)ありしと見ゆ、其(ノ)作りざまはしられず、といへり、(略解に、此(ノ)かづらは、玉かづらにて、玉を貫垂て、頭にかくるかづらなり、といへれど、玉※[草冠/縵]にかぎるべきにあらず、(今按(フ)に、七(ノ)卷に、月草爾衣曾染流君之爲綵色衣將摺跡念而《ツキクサニコロモソソメルキミガタメマダラノコロモスラムトモヒテ》、十(ノ)卷に、紅之綵色爾所見秋山可聞《クレナヰノマダラニミユルアキノヤマカモ》、などあるを、合せ考(フ)るに、こゝもマダラノカヅラ〔七字右○〕と訓て然るべし、なほ七(ノ)卷にいへるを、合(セ)考(フ)べし、さて紫の斑々《ムラ/\》に綵《イロド》り染たる※[草冠/縵]の、花やぎうるはしきをもて、花八香《ハナヤカ》をいはむとての序とせり、○花八香爾《ハナヤカニ》は、花《ハナ》は、花物《ハナモノ》の花《ハナ》にて、さてその花《ハナ》は、實《ミ》の對《ウラ》にて、實《ミ》ならず、阿陀阿陀《アダアダ》しきをいふ言なるべし、八香《ヤカ》は、形容をいふときにそふる辭なり、されば上よりは、※[草冠/縵]の花艶《ハナヤギ》うるはしき意に云かけ、承たる上に(319)ては、あだ/\しき謂なり、○歌(ノ)意は、實に心をかよはして、相見るには非ず、假初に、あだ/\しく相見し人なるを、後長く戀しく思ひて、月日を過む歟、さて/\相見し人の容儀のうるはしく、なつかしき事や、となり、
 
2994 玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》。不懸時無《カケヌトキナク》。戀友《コフレドモ》。何如妹爾《イカデカイモニ》。相時毛名寸《アフトキモナキ》。
 
玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》は、玉着たる、※[草冠/縵]《カヅラ》にて、二(ノ)卷に既く委(ク)釋り、さてこゝは、懸《カケ》をいはむ料の枕詞におけるなり、○不懸時無《カケヌトキナク》は、心に懸て思はぬ時無(ク)の謂なり、古今集に、千早振賀茂の社の木綿手繦一日も君を懸(ケ)ぬ日はなし、宵々に脱て吾(ガ)寢るかり衣懸て思はぬ時の間もなし、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○以上二首、※[草冠/縵]によせてよめるなり、
 
2995 相因之《アフヨシノ》。出來左右者《イデコムマデハ》。疊薦《タヽミコモ》。重編數《カサネアムカズ》。夢西將見《イメニシミテム》。〔頭註、【一首寄v疊、】
 
歌(ノ)意は、思ふ人に、逢べき爲方《シカタ》の出來むまでは、疊薦を、重(ネ)重(ネ)編(ム)數のしげきが如く、透(キ)間もなく、夢に見てだに、心をなぐさまむ、となり、十一に、疊薦隔編數通者道之柴草不生有申尾《タヽミコモヘダテアムカズカヨハサバミチノシバクサオヒザラマシヲ》、○此(ノ)一首は、疊によせてよめるなり、
 
2996 白香付《シラカツク》。木綿者花物《ユフハハナモノ》。事社者《コトコソハ》。何時之眞坂毛《イツノマサカモ》。常不所忘《ツネワスラエネ》。〔頭注、【一首寄v木、】〕
 
白香付木綿《シラカツクユフ》とは、白紙を切て着(ケ)垂たる木綿にて、此《コヽ》は女の髪を結(ヒ)かざりしを云なるべし、なほ白香付《シラカツク》の事、三(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(カ)祭神(ノ)歌に、奥山乃賢木之枝爾《オクヤマノサカキノエダニ》、白香付木綿取付而《シラカツクユフトリツケテ》云々、とあ(320)る處に委(ク)云り、考(ヘ)合(ス)べし、○花物《ハナモノ》は、中山(ノ)嚴水、ハナモノ〔四字右○〕と訓べし、十三に充物とあるも、花物《ハナモノ》の誤なり、その外にも花物ありと、本居翁いへり、さもあるべし、といへり、(岡部氏、物は疑の誤にて、花カモ〔二字右○〕と訓べし、木綿は、花にまがへど、思ふ人のいひし言は、いつのその時にいひしをも、まがひ忘るゝことなしと云なり、といへるは、強解なり、)後拾遺集に、近き所に侍りけるに、音づれし侍らざりければ、むらかみの女三(ノ)宮の許より、思ひ隔《ヘダ》てけるにや、花心《ハナゴヽロ》にこそなど、云おこせたる返事に云々、とある花心も、あだ/\しき心のよしなり、○事は、借(リ)字にて言《コト》なり、○眞坂《マサカ》(舊本に、坂を枝と作るは、誤なり、)は、さしあたりたる時をいふ言なり、此(ノ)上にも出(ツ)、○歌(ノ)意は、女の木綿もて結び飾りたる髪は、世にうるはしけれど、それは當時のあだ/\しき花物《ハナモノ》にて、さのみは賞《メヅ》るに足ず、たゞいつのときもかはらぬ妹が言こそ、常に忘れがたく、たのもしく賞《メデ》たけれ、といふなるべし、○此(ノ)一首、木綿によせてよめるなり、
 
2997 石上《イソノカミ》。振之高橋《フルノタカハシ》。高高爾《タカタカニ》。妹之將待《イモガマツラム》。夜曾探去家留《ヨソフケニケル》。〔頭註、【一首寄v橋、】〕
 
振之高橋《フルノタカハシ》は、武烈天皇(ノ)紀、影媛(ガ)歌に、伊須能箇彌賦屡嗚須擬底《イスノカミフルヲスギテ》、擧慕摩矩雁※[手偏+施の旁]箇播志須擬《コモマクラタカハシスギ》云々、神名式に、大和(ノ)國山邊(ノ)郡、石上(ノ)布留(ノ)神社、とありて、その社の前なる、布留川に渡せるを、高橋と云て、世に名高くて、即(チ)邑(ノ)名にも負(ヘ)りと思はるゝは、崇神天皇(ノ)紀に、八年夏四月庚子朔乙卯、以2高橋(ノ)邑(ノ)人活目(ヲ)1、爲2大神之|掌酒《サカヒトヽ》1、とあるにてしられたり、さてこれまでは、高々《タカ/\》をいはむ料の序(321)なり、○高高爾《タカタカニ》は、集中に多き詞なり、佇《ツマダテ》て高く望み待ときに云言なり、景行天皇(ノ)紀に、是以朝夕|進退《サマヨヒテ》佇2待還《ツマタチマツ》還日(ヲ)1云々、○歌(ノ)意は、妹が吾(カ)方を仰望て、佇(テ)待らむものを、道遠く速に得到らずして、はや夜ぞ更にける、となり、○此(ノ)一首橋によせてよめるなり、
 
2998 湊入之《ミナトイリノ》。葦別小船《アシワケヲブネ》。障多《サハリオホミ》。今來吾乎《イマコムアレヲ》。不通跡念莫《ヨドムトモフナ》。〔頭註、【一首寄v船、】〕
 
本(ノ)二句は、障多《サハリオホミ》をいはむためなり、水門《ミナト》に漕入る舟の、葦間を分るに、これかれ障(リ)多ければつづけたり、十一に、湊入之葦別小舟障多見吾念公爾不相頃者鴨《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミアガモフキミニアハヌコロカモ》、とあり、○今來《イマコム》は、俗に、追(ツ)付(キ)來む、といふに同じ、(集中に、今《イマ》來《コ》む春も、土佐日記に、一(ト)うたに言のあかねば、今一(ツ)などあるは、又《マタ》と云に近き意なり、今(ノ)俗に、字音に、今度《コンド》と云も、この今《イマ》より出たるならむ、)この歌なるは、後の歌に、今來むと云しばかりに、又まつとし聞(カ)ば今歸り來む、などいふ、今に同じ、さて來《コム》は、こゝは行《ユカ》むといふべき所なるを、かくいへるは、妹が方を内にしていへる言にて、かの倭にはなきてか來《ク》らむといへる、來《ク》らむに同じ、○歌(ノ)意は、得さりあへぬ、さま/”\の障の多きが故に、速(カ)には得行ざれども、今追(ツ)付(キ)往むと思へるものを、吾(カ)心に緩《ユルミ》ありて、不通《ヨドム》とおもふことなかれ、といひおくれるなり、○此(ノ)一首、舟によせてよめるなり、
〔或本謌曰。湊人爾《ミナトイリニ》。蘆別小船《アシワケヲブネ》。障多《サハリオホミ》。君爾不相而《キミニアハズテ》。年曾經來《トシソヘニケル》。〕
 
2999 水乎多《ミヅヲオホミ》。上爾種蒔《アゲニタネマキ》。比要乎多《ヒエヲオホミ》。擇擢之業曾《エラエシワザゾ》。吾獨宿《アガヒトリヌル》。〔頭註、【二首寄v田、】〕
 
(322)上爾種蒔《アゲニタネマキ》、古事記海宮(ノ)條に、然而《シカシテ》、其(ノ)兄作(ラ)2高《アゲ》田(ヲ)1者《バ》、汝(カ)命(ハ)營(リタマヘ)2下田《クボタヲ》1、其(ノ)兄作2下田(ヲ)1者《バ》、汝(ガ)命(ハ)營(リタマヘ)2高田(ヲ)1、爲《シタマヘv然|者《バ》、吾(レ)掌《シレルガ》v水(ヲ)故(ニ)、三年之間《ミトセノホドニ》、必(ス)其(ノ)兄|貧窮《マヅシクナリナム》云々、(書紀にも、兄作2高田(ヲ)1者、汝可v作2※[さんずい+夸]田(ヲ)1云々、と見えたり、)上《アゲ》は、即(チ)この高田《アゲタ》にて、高き地の田なり、種《タネ》は稻種なり、(然るを畧解に、神代紀を引て、※[さんずい+夸]田《クボタ》は、田にて、高田《アゲタ》は畠を云なり、といひ、又種は畠物の種なり、と云るは、大《イミ》じき誤《ヒガコト》なり、高田※[さんずい+夸]田は、地の高下によりていふ稱にて、共にみな水田なり、右に引る古事記の文にも、吾掌v水(ヲ)故云々、とあれば、共に水田なること、いふまでもなきをや、)さてこゝは、※[さんずい+夸]田《クボタ》は水多きに過る故に、高田《アゲタ》に稲種を播しに、また高田《アゲタ》は水乾ること多ければ、草の種|除《ノゾ》きがたくて、あらぬ稗なども、まじりて、生るよしのつゞけなり、○歌(ノ)意は、※[さんずい+夸]田は水多くて、蒔|生《オホ》しがたき故に、高田に稲種を播《マキ》て、あらぬ稗草などまじれゝば、其を擢み捨る爲業の如くに、吾をば數ならずとて、思ふ人に擢み捨られて、夜獨宿をぞする、となり、十一人麿集(ノ)歌に、打田稈數多雖有擢爲我夜一人宿《ウツタニハヒエノアマタニアリトイヘドエラエシアレソヨルヒトリヌル》、とあり、(略解に、この十一の歌によりて、今の歌の業は、吾等二字の誤、吾は夜の誤にて、エラエシワレソヨルヒトリヌル〔エラ〜右○〕、と有べきなり、といへるは、いみじきさかしらなり、もとのまゝにて、よくきこえたるをや、又こゝは、さばかり字を誤るべき處にも、あらざるをや、)
 
3000 靈合者《タマシアヘバ》。相宿物乎《アヒネシモノヲ》。小山田之《ヲヤマダノ》。鹿猪田禁如《シシダモルゴト》。母之守爲裳《ハヽシモラスモ》。
 
靈合者は、タマシアヘバ〔六字右○〕と訓べし、靈《タマ》は魂にて、心の相協ふを、魂合《タマアフ》といへり、三(ノ)卷に、王之親魂(323)相也豐國乃鏡山乎宮登定流《オホキミノムツタマアヘヤトヨクニノカヾミノヤマヲミヤトサダムル》、十三に、玉相者君來益八跡《タマシアハバキミキマスヤト》云々、十四に、筑波禰乃乎※[氏/一]毛許能母爾毛利敝須惠波播巴毛禮杼毛多麻曾阿比爾家留《ツクハネノヲテモコノモニモリベスヱハハハモレドモタマソアヒニケル》、などもあり、○相宿物乎は、中山(ノ)嚴水が、アヒネシモノヲ〔七字右○〕、と訓るぞ宜き、○鹿猪田禁如《シシダモルゴト》は、山田には、猪《ヰノシヽ》鹿《カノシヽ》などのつけば、それを禁衛《マモ》るを、猪鹿田守《シヽダモル》といひて、その如く、母が女を守るなり、鹿猪田《シシダ》は、十六にも、荒城田乃子師田乃稲乎《アラキタノシシダノイネヲ》云々、○守爲裳《モラスモ》は、守爲《モラス》は守《モリ》の伸りたる詞にて、守(リ)賜ふと云(ム)が如し、裳《モ》は歎息の辭なり、○歌(ノ)意は、心の一(ト)すぢに相協へる君なればこそ、からくして相寢せしなれ、さるを何しに、鹿猪田《シシダ》を守る如くに、あながちに母の守り賜ふ事や、さても歎かしき事ぞ、とうらみて、女のよめるなるべし、○舊本に、一云母之守之師、と註せり、○以上二首、田によせてよめるなり、
 
3001 春日野爾《カスガヌニ》。照有暮日之《テレルユフヒノ》。外耳《ヨソノミニ》。君乎相見而《キミヲアヒミテ》。今曾悔寸《イマソクヤシキ》。【頭註、【八首寄2月日1、】〕
 
本(ノ)句は、外《ヨソ》に見といはむとての序なり、春日野に夕日のさすを、こなたより遙に見る意につづけたり、○歌(ノ)意は、よそながらに君を相見しのみにて、物思(ヒ)となれるが、中々に今更にぞ悔しき、となり、
 
3002 足日木乃《アシヒキノ》。從山出流《ヤマヨリイヅル》。月待登《ツキマツト》。人爾波言而《ヒトニハイヒテ》。妹待吾乎《イモマツアレヲ》。
 
乎《ヲ》は、ものをの意なり、乎《ヲ》は、しか欲《オモ》ふに、それに應《カナ》はぬをいふ詞なり、こゝは速く來よかしと欲《オモ》ふに、遲きをいへり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、十三に、百不足山田道乎《アシヒキノヤマダノミチヲ》云々、とある長歌(324)の末にいたりての五句、全(ラ)此(ノ)一首なり、たゞ彼處には、妹を君とせるが異れるのみなり、今は妹待とあれば、男の女の門近く至りて、出來むほどを待よしなれば、さてあるべきにこそ、
 
3003 夕月夜《ユフヅクヨ》。五更闇之《アカトキヤミノ》。不明《オホヽシク》。見之人故《ミシヒトユヱニ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
本(ノ)二句は、序なり、夕月夜《ユフヅクヨ》の頃は、必(ス)曉闇なれば、曉闇をいはむとて、夕月夜と云(ヒ)、さてその曉闇は、ほのぐらくおぼつかなきものなれば、不明《オホヽシ》をいはむとて、曉闇とはいへるなり、(夕月夜も、曉闇も、共に不明なれば、ならべて云りとおもふは、たがへり、)十一に、暮月夜曉闇夜乃朝影爾《ユフヅクヨアカトキヤミノアサカゲニ》云々、○不明は、オホホシク〔五字右○〕と訓るよろし、ほのかにおぼつかなき意なり、○見之人故《ミシヒトユヱニ》は、見し人なるものをの意なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
3004 久堅之《ヒサカタノ》。天水虚《アマノミソラニ》。照日之《テレルヒノ》。將失日社《ウセナムヒコソ》。吾戀止目《アガコヒヤマメ》。
 
天水虚爾は、アマノミソラニ〔七字右○〕と訓べし、(アマツ〔三字右○〕と云は、例にたがへり、)例は、既く五(ノ)卷に出つ、水は、借(リ)字にて、御空《ミソラ》なり、○照日之《テレルヒノ》、阿野本、水戸本等に、日を月と作り、それによらば、テルツキノ〔五字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意、これもかくれなし、十五に、和多都美乃宇美爾伊弖多流思可麻河泊多延無日爾許曾安我故非夜麻米《ワタツミノウミニイデタルシカマガハタエムヒニコソアガコヒヤマメ》、とあるに意同じ、
 
3005 十五日|夜〔○で囲む〕《モチノヨニ》。出之月之《イデニシツキノ》。高高爾《タカタカニ》。君乎座而《キミヲイマセテ》。何物乎加將念《ナニヲカオモハム》。
 
十五日夜《モチノヨニ》、舊本に、夜(ノ)字なきは脱たるなるべし、○本(ノ)句は序なり、望月の東の天高くさし登る(325)を以て、高々《タカ/\》とつゞけたり、○高々爾《タカ/\ニ》は、既く多く出たり、四(ノ)卷にも、白雲之多奈引山之高々二吾念妹乎將見因毛我母《シラクモノタナビクヤマノタカ/\ニアガモフイモヲミムヨシモガモ》、とあり、今の歌は、高々《タカ/\》に佇《ツマダチ》て、待(チ)望みし君を、とつゞく意なるべし、○歌(ノ)意は、道に佇て待望みし君を、吾(カ)許に今夜おはしまさせたれば、何事をかはおもはむ、さらに物思ひもなし、とよろこべるなり、
 
3006 月夜好《ツクヨヨミ》。門爾出立《カドニイデタチ》。足占爲而《アウラシテ》。往時禁八《ユクトキサヘヤ》。妹二不相有《イモニアハザラム》。
 
足占《アウラ》は、歩の數を、兼て定めおきて、歩の奇偶をもて、合《アハム》と否《アハジ》とを知る卜事《ウラワザ》なり、なほ四(ノ)卷に、月夜爾波門爾出立夕占問足卜乎曾爲之行乎欲焉《ツクヨニハカドニイデタチユフケトヒアウラヲソセシユカマクヲホリ》、とある歌に、委(ク)註せり、(續古今集に、ゆきゆかずきかまはしきはいづかたにふみさだむらむあしの占山、)○歌(ノ)意は、月の清さに、門の前に出て、さてこよひ合《アハム》か否《アハジ》かと、足占《アウラ》をせしに、逢べき兆《シルシ》のありしによりてこそ、ふりはへ往たるに、かゝる時にさへ、妹にあはずして、むなしくかへるべき事かと、ふかくなげきたるなり、
 
3007 野干玉《ヌバタマノ》。夜渡月之《ヨワタルツキノ》。清者《サヤケクハ》。吉見而申尾《ヨクミテマシヲ》。君之光儀乎《キミガスガタヲ》。
 
歌(ノ)意は、くもれる夜に、あひて、男の容儀を委曲《ヨク》も見ざりしが、殘り多き事、と悔たるなり、
 
3008 足引之《アシヒキノ》。山呼木高三《ヤマヲコタカミ》。暮月乎《ユフヅキヲ》。何時君乎《イツカトキミヲ》。待之苦沙《マツガクルシサ》。
 
歌(ノ)意は、山の梢の木高き故に、出る月のおそきを、いつかと待如くに、君を待居る心の中の、苦しくさぶ/\しさ、いかばかりぞや、となり、○以上八首、日月に寄てよめるなり、
 
(326)3009 橡之《ツルハミノ》。衣解洗《キヌトキアラヒ》。又打山《マツチヤマ》。古人爾者《モトツヒトニハ》。猶不如家利《ナホシカズケリ》。〔頭註、【一首寄v山、】〕
 
本(ノ)句は、古人《モトツヒト》をいはむ料の序なり、まづ初(ノ)二句の意は、橡にて染たる衣の、ふくだみ垢づきたるを、解濯ひて、復擣《マタウツ》といふ意にて、眞土山《マツチヤマ》につゞけたり、多字《タウ》の切|都《ツ》なれば、又擣《マタウチ》は麻都知《マツチ》となれり、〔頭註、【兼良公令抄云、橡者、以搗橡并茜灰染之、】〕こゝに眞土《マツチ》を又打とかきたるは、即(チ)つゞけの意を、字にて解たるがごとし、六(ノ)卷長歌に、古衣又打山從《フルコロモマツチノヤマユ》、とあるも、今と同じ、さて麻都知《マツチ》と毛等都《モトツ》とは、音の親く通ふ故に、古《モトツ》人を云むとて、又打山《マツチヤマ》を設云るにて、此(レ)までは、歌(ノ)意にはあづからぬことなり、○古人《モトツヒト》は、もとあひかたらひし人にて、俗にいふ舊好《フルナジミ》のことなり、(源氏物語浮舟に、わびしくもあるかな、かばかりなるもとつ人をおきて、我(カ)方にまさる思ひは、いかでかつくべきぞと、ねたうおぼさる、)○歌(ノ)意は、もとあひかたらひし舊好《フルナジミ》の人に、いさゝかのゆゑよしなどありて、中絶て、又こと人にあひて、さて彼(ノ)舊好の人にくらべみれば、もとかたらひなれし人には、猶およばずありけり、とおもひかへしたるなり、十八に、久禮奈爲波宇都呂布母能曾都流波美能奈禮爾之伎奴爾奈保之可米夜母《クレナヰハウツロフモノソツルハミノナレニシキヌニナホシカメヤモ》、とあるに意同じ、○此(ノ)一首、山によせてよめるなり、
 
3010 佐保河之《サホガハノ》。河浪不立《カハナミタヽズ》。靜雲《シヅケクモ》。君二副而《キミニタグヒテ》。明日兼欲得《アスサヘモガモ》。〔頭註、【十首寄v水、】
 
本(ノ)二句は、靜《シヅケク》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、今日如此靜かに、事もなく逢る如くに、明日までもがな、君に副ひてあらまほし、となり、
 
(327)3011 吾味兒爾《ワギモコニ》。衣借香之《コロモカスガノ》。宜寸河《ヨシキガハ》。因毛有額《ヨシモアラヌカ》。妹之目乎將見《イモガメヲミム》。
 
吾妹兒爾《ワギモコニ》云々は、妹に吾が衣を假《カス》と云意に、春日《カスガ》にいひかけたり、春日を借香《カスガ》とかけるも、つづけの意を字にて、解《コトワ》りたるごとき、一(ツ)の書樣なり、○宜寸河《ヨシキガハ》は、大和志に、宜寸川、源自2春日水屋峯1、經2野田(ヲ)1曰2水屋川(ト)1、遶2東大寺(ヲ)1至(リテ)2法蓮(ニ)1入2佐保川(ニ)1、とあり、さてこれまでは、因《ヨシ》をいはむ料の序なり、○因毛有額《ヨシモアラヌカ》は、因《ヨシ》もがな有(レ)かし、と希ふ意なり、額《ヌカ》の奴《ヌ》の言は、不《ヌ》の意にあらず、)禰《ネ》の通へるなり、有(レ)かしと希ふを、古言に、阿良禰《アラネ》と云(フ)、その禰《ネ》なり、さて有禰哉《アラネカ》と云べきを、音便のよろしきまゝに、禰《ネ》を奴《ヌ》に轉して、有奴哉《アラヌカ》といへるなり、これ古言の常(ノ)格なり、○歌(ノ)意は、いかで妹が目を見むしかたもがな、あれかし、となり、
 
3012 登能雲入《トノグモリ》。雨零河之《アメフルカハノ》。左射禮浪《サザレナミ》。間無毛君者《マナクモキミハ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
登能雲入《トノグモリ》云々は、上の春日を、衣借香《コロモカスガ》といひかけし類にて、との曇りて雨零(ル)と云意に、石(ノ)上の布留《フル》河にいひかけたり、即(チ)零河《フルカハ》とかけるも、字にてつゞけの意を解《コトワ》れること、借香《カスガ》の例なり、さて登能雲入《トノグモリ》は、多那陰《タナグモリ》と云と同じく、一天|陰《クモ》り合たるをいふことなり、(契冲が、薄曇なり、といへるは、あたらず、)○左射禮浪《サザレナミ》は、細浪《サザレナミ》にて、これまでは、間無といはむ料の序なり、(略解に、此(ノ)下に、さゝ浪の浪越あぜにふる小雨間もおきて吾(カ)思はなくに、といふをおもへば、こゝも川浪に兩ふりて、いよよこまかなる浪のしわの見ゆるを、間なく思ふたとへとせるなるべし、(328)といへるは、わろし、この歌に、雨をいへるは、たゞ布留《フル》川をいはむ料のみのいひかけにて、さらに末(ノ)句までには、あづからざることなるをや、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3013 吾妹兒哉《ワギモコヤ》。安乎忘爲莫《アヲワスラスナ》。石上《イソノカミ》。袖振河之《ソテフルガハノ》。將絶跡念倍也《タエムトモヘヤ》。
 
吾妹兒哉《ワギモコヤ》は、吾妹子余《ワギモコヨ》といはむが如し、十三に、吾妹兒哉汝待君者《ワギモコヤナガマツキミハ》、奥津浪來因白珠《オキツナミキヨスルスラタマ》、邊浪之縁流白珠《ヘツナミノヨスルシラタマ》、求跡曾君之不來座《モトムトソキミガキマサヌ》云々、とあるに同じ、○安乎忘爲莫《アヲワスラスナ》は、吾を忘れたまふな、といはむが如し、忘爲《ワスラス》は、忘《ワスル》を延たる言にて、行《ユク》をユカス〔三字右○〕、立《タツ》をタヽス〔三字右○〕、などいふに同じく、さきの人を崇むる時に、かく延て云(フ)古言の格なり、○袖振河《ソテフルガハ》は、たゞ布留河《フルガハ》にて、集中に、をとめらが袖布留《ソテフル》山と詠(メ)るに同じ、さて布留河《フルガハ》を、振河とかけるも、上の零河等の例なり、○將絶跡念倍也《タエムトモヘヤ》は、絶むやは、絶べきに非ず、といふ意なり、念《モフ》は、たゞ輕く添たる詞なり、○歌(ノ)意、第三四(ノ)句は、序にて、行末いつまでも、中絶べきにあらざれば、吾妹子よ、汝も吾を、後つひにわすれ賜ふことなかれ、となり、
 
3014 神山之《カミヤマノ》。山下響《ヤマシタトヨミ》。逝水之《ユクミヅノ》。水尾不絶者《ミヲノタエズバ》。後毛吾妻《ノチモアガツマ》。
 
神山《カミヤマ》は、飛鳥の雷岳《カミヲカ》なるべし、○水見不絶者は、ミヲノタエズハ〔七字右○〕と訓べし、(ミヲシ〔三字右○〕とよめるは、いとわろし、)さて水屋《ミヲ》といふまでは、不絶《タエズ》をいはむとての料なり、○歌(ノ)意は、汝の心だにかはらずして、中絶ずあらば、この後いつまでも、吾は夫妻《ツマ》と思ふ心ぞ、となり、
 
(329)3015 如神《カミノゴト》。所聞瀧之《キコユルタギノ》。白浪乃《シラナミノ》。面知君之《オモシルキミガ》。不所見比日《ミエヌコノゴロ》。
 
如神《カミノゴト》は、如《ゴト》v雷《カミノ》にて、鳴雷《ナルカミ》の如く、瀧の音の響くよしなり、應神天皇(ノ)紀(ノ)歌に、彌知能之利古破※[人偏+嚢]塢等綿塢伽未能語等枳虚曳之介廼阿比摩區羅摩區《ミチノシリコハゼヲトメヲカミノゴトキコエシカドアヒマクラマク》、○白波乃《シラナミノ》これまでは序なり、白波《シラナミ》の灼然《イチシロ》き意に、面知《オモシル》といひつゞけたり、○面知君《オモシルキミ》とは、本居氏、面知《オモシル》はたゞ面を知(ル)といふ意のみにあらず、知(ル)は、いちじろき意にて、他の人にはまがはず、いちじるく見ゆる君、といふことなり、故(レ)瀧の白浪、或は末に、岡の葛葉を吹返しなどいへる、皆いちじろき物を序とせり、と云り、○不所見比日《ミエヌコノゴロ》は、この日ごろ見え來ぬよ、といふなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3016 山河之《ヤマカハノ》。瀧爾益流《タギニマサレル》。戀爲登曾《コヒストソ》。人知爾來《ヒトシリニケル》。無間念者《マナクシオモヘバ》。
 
歌(ノ)意は、古今集に、たぎつ心をせきぞかねつる、とよめる如く、間無く物思ふ胸の内の、たぎりわきかへるを、せきとめかねて、色に出しつれば、今は山川の瀧よりもまさりて、甚しく、やるせなき物思をすると云ことをぞ、人にしられつる、となり、(顯れて名の立を、瀧にたとへたるにはあらず、思ひ混(フ)べからず、)
 
3017 足檜木之《アシヒキノ》。山河水之《ヤマカハミヅノ》。音不出《オトニイデズ》。人之子※[女+后]《ヒトノコユヱニ》。戀渡青頭鷄《コヒワタルカモ》。
 
本(ノ)二句、は序にて、音《オト》に出(ヅ)と云のみにかゝりて、不出《イデズ》といふまでにはかゝらず、布留《フル》の早田の穗には出ずの例なり、○音不出《オトニイデス》は、音に立(テ)ずといはむが如し、○人之子※[女+后]《ヒトノコユヱニ》は、人の子なるもの(330)をの意なり、※[女+后](ノ)字ユエ〔二字右○〕とよむこと、既くいへり、○青頭鷄《カモ》は、鴨《カモ》にて、哉《カモ》の借(リ)字なり、鴨をかく書は、霰《アラレ》を丸雪と書る類なり、(漢名にはあらず、戀水《ナミダ》、西渡《カタブク》などかけるに似たることなり、此(ノ)類集中に甚多し、既く首(ノ)卷にいへり、)○歌(ノ)意は、人の子なるものを、さとも得思ひあきらめずして、しのび/\に戀しく思ひつゝ、月日を過すことかな、となり、
 
3018 高湍爾有《コセナル》。能登瀬乃河之《ノトセノカハノ》。後將合《ノチニアハム》。妹者吾者《イモニハアレハ》。今爾不有十方《イマナラズトモ》。
 
高湍爾有《コセナル》は、四言一句なり、高瑞《コセ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡|巨勢《コセ》なり、三(ノ)卷に、小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾《サヾレナミイソコセヂナルノトセガハオトノサヤケサタギツセゴトニ》、とよめり、○第二(ノ)句までは、後をいはむ料の序なり、能登《ノト》と能知《ノチ》と音親(ク)
通へばつゞけたり、四(ノ)卷に、云々人者雖云若狹道乃後瀬山之後毛將會君《カニカクニヒトハイフトモワカサチノノチセノヤマノノチモアハムキミ》、○歌(ノ)意は、今人言のしげき時にあはずとも、かく契をふかめし中なれば、よしや後に、のどかにあひかたらはむ、となり、十一に、鴨川後瀬靜後相妹者我雖不今《カモガハノノチセシヅケシノチニアハムイモニハアレハイマナラズトモ》、四(ノ)卷に、一瀬二波千遍障良比逝水之後毛將相今爾不有十方《ヒトセニハチタビサハラヒユクミヅノノチニモアハムイマナラズトモ》、
 
3019 浣衣《アラヒキヌ》。取替河之《トリカヒガハノ》。河余杼能《カハヨドノ》。不通牟心《ヨドマムコヽロ》。思兼都母《オモヒカネツモ》。
 
浣衣《アラヒキヌ》(浣(ノ)字、一本には洗と作り、いづれにてもあるべし、衣(ノ)字、舊本に不と作るは誤なり、今は古寫本、類聚抄、拾穗本等に從つ、)は、枕詞なり、洗濯《アラ》ひ衣を、垢穢《ケガレ》たる衣に、取代て着るよしに、いひつゞけたり、○取替河《トリカヒガハ》は、略解に、和名抄に、大和(ノ)國添下(ノ)郡鳥貝、(止利加比《トリカヒ》)とある所の川にて、則(チ)(331)鳥見(ノ)小川なり、又大和物語にいへる鳥飼の御湯は、河内なり、いづれにか、といへり、今按(フ)に、鳥貝《トリカヒ》河とせむこと、まことにさもあるべきことなれど、上の衣借香《コロモカスガ》、雨零河《アメフルガハ》、袖振河《ソテフルガハ》、などあるを、つら/\併(セ)考(フ)るに、此《コヽ》も香火河《カヒガハ》など云河(ノ)名なるを、香火《カヒ》をいはむとて、浣衣取替《アラヒキヌトリカヒ》といひかけ、さて惜香《カスガ》等の例の如く、詞のつゞけの意を解《シラ》せむとて、替(ノ)字をかけるにもあらむか、なほかへさひ考へて、又も註《イフ》べし、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、人をこひしく思ふ心の切なることの、あまりにくるしきによりて、よしやすこしは、心をよどめ、思ひやみてまし、とおもひ試《コヽロム》れども、よどまるべくほおもはれず、さてもしみ着たる心や、となり、○以上十首水に寄てよめるなり、
 
3020 斑鳩之《イカルガノ》。因可乃池之《ヨルカノイケノ》。宜毛《ヨロシクモ》。君乎不言者《キミヲイハネバ》。念衣吾爲流《オモヒソアガスル》。〔頭註、【一首寄v池、】〕
 
班鳩《イカルガ》は、推古天皇(ノ)紀に、九年春二月、皇太子《ヒツギノミコ》興(リタマフ)2宮室於|斑鳩《イカルガニ》1、あり、大和(ノ)國平群(ノ)郡にあり、斑鳩群居しより、此(ノ)名ありと云り、法隆寺の古名、斑鳩寺といへば、今の法隆寺村ならむといへり、○因可乃池《ヨルカノイケ》は、今法隆寺村に在(ル)天滿の池にや、と或説にいへり、夫木集に、いかるがやよるかの池は氷れども富の小川ぞ流たえせぬ、とあり、さてこれまでは、宜毛《ヨロシクモ》をいはむとての序なり、○宜毛《ヨロシクモ》すべて與呂之《ヨロシ》とは、心の相應《アヒカナヒ》て、あかぬところなきをいふ言なり、靡相之宜君《ナビカヒシヨロシキキミ》が、朝宮を忘れ賜ふや云々、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、(略解に、或人、宜毛《ヨロシクモ》は、因《ヨ》らしくなりと云(ヘ)り、といへるは、非《ヒガコト》なり、)○君乎不言者は、乎は、之(ノ)字の誤にて、キミガイハネバ〔七字右○〕なるべし、さて宜くも君が言(ハ)ぬ(332)は、苦々敷《ニガ/\シク》云(フ)よしなり、○歌(ノ)意は、わがとかく思ひまつはせども、君がわれをうけひき相應《アヒカナ》ふけしきの見えず、いつも苦々《ニガ/\》しくのみいへば、物思をぞわれはする、となり、心だらひなることはあらずとも、せめて君が、さばかり苦々敷《ニガ/\シク》だにいはずは、かくはあるまじきを、との意を、思(ハ)せたるなり、○この一首、池によせてよめるなり、
 
3021 絶沼之《コモリヌノ》。下從者將戀《シタヨハコヒム》。市白久《イチシロク》。人之可知《ヒトノシルベク》。歎爲米也母《ナゲキセメヤモ》。〔頭註、【三首寄v沼、】〕
 
絶沼之《コモリヌノ》は、枕詞なり、十一に出たり、絶は、隱の草書より誤りしものなり、と岡部氏いへり。古事記に、許母理豆能志多用波閇都々由久波多賀都麻《ユモリヅノシタヨハヘツヽユクハタガツマ》、○下從者將戀《シタヨハコヒム》は、下には將v戀といふに同じく、隱《シノ》びに戀しく思はむ、となり、○歌(ノ)意は、たとひ思ひあまるとても、歎息の息をつきて、いちじるく、其(レ)その人の知ぬべくは、思はし、嗚呼《アハレ》くるしくはありとも、裏にのみ戀しく思ひつつをりて、つひに色にはあらはさじを、となり、
 
3022 去方無三《ユクヘナミ》。隱有小沼乃《コモレルヲヌノ》。下思爾《シタモヒニ》。吾曾物思《アレソモノモフ》。頃者之間《コノゴロノアヒダ》。
 
去方無三《ユクヘナミ》云々は、水のはけすたる方のなさに隱《コモ》れる、といふ意に、つゞきたり、二(ノ)卷に、埴安乃池之堤之隱沼乃去方乎不知舍人者迷惑《ハニヤスノイケノツヽミノコモリヌノユクヘヲシラニトネリハマドフ》、○隱有小沼乃は、コモレルヲヌノ〔七字右○〕と訓べし、下《シタ》をいはむ料の序なり、隱沼之下《コモリヌノシタ》とつゞくに同じ、○頃者之間は、コノゴロノアヒダ〔八字右○〕と訓べし、十(ノ)卷に、夜不深間《ヨノフケヌアヒダ》、とあり、(略解に、間の下に、乎(ノ)字を脱せる歟、といへれど、さにはあらじ、)十四に、於能(333)豆麻乎比登乃左刀爾於吉於保々思久見都々曾伎奴流許能美知乃安比太《オノヅマヲヒトノサトニオキオホヽシクミツヽソキヌルコノミチノアヒダ》、ともあり、事は異なれど、安比太《アヒダ》は、共に程《ホド》といふ意にて同じ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3023 隱沼之《コモリヌノ》。下從戀餘《シタヨコヒアマリ》。白浪之《シラナミノ》。灼然出《イチシロクイデヌ》。人之可知《ヒトノシルベク》。
 
隱沼之《コモリヌノ》、白浪之《シラナミノ》》は、共に枕詞なり、○歌(ノ)意は、しのび/\に、戀しく思ふ心のあまり溢れて、著然《イチシル》く人の知ぬべく、このごろは、色に出て、戀しく思はるとなり、此(ノ)歌、十七平群氏(ノ)女郎、贈2家持宿禰1歌十二首、の中に出たり、○以上三首、沼に寄てよめるなり、
 
3024 妹目乎《イモガメヲ》。見卷欲江之《ミマクホリエノ》。小浪《サヾレナミ》。敷而戀乍《シキテコヒツヽ》。有跡告乞《アリトツゲコソ》。〔頭註、【一首寄v江、】〕
 
妹之目乎《イモガメヲ》云々は妹が目を見むことを欲《ホル》、といふ意に、堀江《ホリエ》につゞけたり、○欲江《ホリエ》は、難波堀江《ナニハホリエ》なり、欲とかけるは、字にてつゞけの意を解《シラ》せたる、一(ツ)の書樣なること、上にたび/\いへるごとし、○小浪は、サゞレナミ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、サゞラナミ〔五字右○〕とよめるはわろし、)敷而《シキテ》をいはむ料の序なり、浪の重《シキ》るといふ意につゞけたり、○歌(ノ)意は、重々《シク/\》に戀しく思ひつゝ居る、と云ことを、いかで妹につげよかし、と乞ふなり、十(ノ)卷に、和射美能嶺徃過而零雪乃《ワザミノミネユキスギテフルユキノ》厭毛無跡|白其兒爾《マヲセソノコニ》、とあるも、第四(ノ)句は、敷手念跡《シキテオモフト》を誤れるならむか、なほ彼處にいへるを、考(ヘ)合(ス)べし、○此(ノ)一首江に寄てよめるなり、
 
3025 石走《イハバシル》。垂水之水能《タルミノミヅノ》。早敷八師《ハシキヤシ》。君爾戀良久《キミニコフラク》。吾情柄《アガコヽロカラ》。〔頭註、【一首寄v水、】〕
 
(331)石走《イハバシル》は、枕詞なり、○垂水之水能《タルミノミヅノ》は、早敷八師《ハシキヤシ》をいはむ料の序にて、飛泉《タルミ》の走《ハシ》るといふ意に、つづけなしたり、さて垂水《タルミ》は、攝津(ノ)國の垂水《タルミ》にて、七(ノ)卷、八(ノ)卷等に見えたると、同處なるべし、神名帳に、攝津(ノ)國豐島(ノ)郡垂水(ノ)神社、(名神大、月次新甞、)とあり、姓氏録に、垂水《タルミノ》公(ハ)、豐城入彦(ノ)命四世(ノ)孫、賀表乃眞稚(ノ)命之後也、六世(ノ)孫、阿利眞(ノ)公、謚孝元天皇(ノ)御世、天下旱魃、河井涸絶、于時阿利眞(ノ)公、造2作《ツクリ》高樋(ヲ)1、以《ヲ》2垂水《タルミ》1四(ノ)山(ヨリ)基之《ヒキテ》、令v通《カヨハ》2宮内《オホミヤニ》1、供2奉《ツカヒマツリキ》御膳《ミケニ》1、天皇美(テ)2其功(ヲ)1、便賜2垂水(ノ)公(ノ)姓(ヲ)1、掌2垂水(ノ)神社(ヲ)1也、と見ゆ、○早敷八師《ハシキヤシ》は、愛《ハシ》きやしなり、愛《ハシ》きを早敷とかけるは、早をばハ〔右○〕とのみもいひける故なるべし、七(ノ)卷に、島傳《シマヅタフ》足速乃小舟、とあるを、アスハノヲブネ〔七字右○〕と訓たる人あり、これも早《ハヤ》を、ハ〔右○〕とのみいふことのあるときは、むげなることにはあらず、さて走《ハシ》ると云にも、早《ハヤ》き意あるが故に、愛《ハシ》きを早敷とかきて、字にてつゞけの意を、解《コトワ》れるごとき書樣なること、借香《カスガ》、零河《フルカハ》の例の如し、○歌(ノ)意は、愛《ウルハ》しき君を、かく思ひなやむ事は、たゞ假初の淺はかなる事にはあらず、心の底より、深く思ひ入たることぞ、となり、
 
3026 君者不來《キミハコズ》。吾者故無《アレハユヱナミ》。立浪之《タツナミノ》。數和備思《シバ/\ワビシ》。如此而不何跡也《カクテコジトヤ》。〔頭註、【一首寄v浪、】〕
 
吾者故無《アレハユヱナミ》は、吾は、君が方へ行べき故がなさにの意なり、○立浪之《タツナミノ》は、數《シバ/\》をいはむための枕詞なり、○數和備思《シバ/\ワビシ》は、(略解に、數はシバ/\〔四字右○〕ともよめども、重浪《シキナミ》ともいひて、浪にはシク/\〔四字右○〕といへること、集中に例多きによりて、シク/\〔四字右○〕と訓べし、といへるは、ひがことなり、浪の息(ム)と(335)きなく、屡々起意もて、シバ/\〔四字右○〕とつゞけむこと、何《ナ》てふことかあらむ、例は次にも引り、)心の息時なく、屡和備思《シバ/\ワビシ》となり、此(ノ)下にも、霍公鳥飛幡之浦爾敷浪之屡君乎將見因毛鴨《ホトヽギストバタノウラニシクナミノシバ/\キミヲミムヨシモガモ》、とあり、○歌(ノ)意は、君は吾(カ)許へ來まさす、吾は女の身なれば、君が方へ行べき故なきにより、しば/\わびしきを、かくわびさせて、さて終に君が來まさじとや、さてもつれなきことや、となり、○以上二首、水浪に寄てよめるなり、
 
3027 淡海之海《アフミノミ》。邊多波人知《ヘタハヒトシル》。奥浪《オキツナミ》。君乎置者《キミヲオキテハ》。知人毛無《シルヒトモナシ》。〔頭註、【三首寄v海、】〕
 
邊多《ヘタ》、神代紀に、海濱《ウミヘタ》、古今集に、大かたは我(カ)名も湊漕出なむ世を海|邊多《ヘタ》にみるめすくなし、後撰集に、何せむに邊多《ヘタ》のみるめを思ひけむ奥つ玉藻をかづく身にして、肥前(ノ)長崎にては、今も海邊を、海のへたと云とぞ、○歌(ノ)意、本居氏、此(ノ)歌、上(ノ)句は、四(ノ)句をへだてゝ、知人毛無《シルヒトモナシ》といふへかゝる序のみなり、其(ノ)序の意は、邊の浪は人皆知(レ)ども、沖の波は、遠き故に、知(ル)人もなしといふなり、是は只序のつゞけの意のみにて、さて歌(ノ)意は、下(ノ)句にあり、君を除《オキ》て、外に知(ル)人はなしと云のみなり、知人とは、逢見る人なり、と云り、君を除《オキ》て相知(ル)人は、世にさらにあるべくもなければ、いつまでも、つひに心のかはるべからず、されば君も然思ひ給ひて、行末長くあたし心を勿持給ひそ、といふ心を、告たるなるべし、
 
3028 大海之《オホウミノ》。底乎探目而《ソコヲフカメテ》。結義之《ムスビテシ》。妹心者《イモガコヽロハ》。疑毛無《ウタガヒモナシ》。
 
(336)底乎《ソコヲ》といふまでは、深目而《フカメテ》をいはむ料の序なり、○義之《テシ》の事は、既くいへり、○歌(ノ)意は、かたみに心を深めて、かたく契りしからは、妹が心に行末疑ふべきことも、さらになし、となり、
 
3029 貞能※[さんずい+内]爾《サダノウラニ》。依流白浪《ヨスルシラナミ》。無間《アヒダナク》。思乎如何《オモフヲイカデ》。妹爾難相《イモニアヒガタキ》。
 
貞能※[さんずい+内]《サダノウラ》(※[さんずい+内](ノ)字、舊本納に誤、今は官本、拾穗本等に從つ、類聚抄には浦と作り、)は、十一に既く出たり、此(ノ)下にも見ゆ、○如何の如(ノ)字、古寫本にはなし、さらぼナソモ〔三字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は序にて、かくばかり間無く妹を思へば、妹もさりとはあはれなる事と思ひて、あふ事もあるべきに、なにとてそのかひなく、あふ事の難きぞ、となり、○以上三首、海に寄てよめるなり、
 
3030 念出而《オモヒイデテ》。爲便無時者《スベナキトキハ》。天雲之《アマクモノ》。奧香裳不知《オクカモシラニ》。戀乍曾居《コヒツヽソヲル》。〔頭註、【三首寄v雲、】〕
 
天雲之《アマクモノ》は、まくら詞なり、○奥香裳不知《オクカモシラニ》は、底《ソコ》ひも不知《シラズ》に、といはむが如し、思ふ心の長《タケ》の、はかりしられぬ意なり、奥香《オクカ》は、奥處《オクカ》にて、行到り極りたる處を云言なれば、底《ソコ》ひといふに同じ意なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3031 天雲乃《アマクモノ》。絶多比安《タユタヒヤスキ》。心有者《コヽロアラバ》。吾乎莫令憑《アレヲナタノメ》。待者苦毛《マテバクルシモ》。
 
天雪乃《アマクモノ》は、まくら詞なり、○絶多比安《タユタヒヤスキ》は、猶豫《タメラ》ひ易《ヤス》きにて、やゝもすれば猶豫《タメラ》ひて、定りなき心を云、○吾乎莫令憑《アレヲナタノメ》(令(ノ)字、舊本にはなし、今は一本に從つ、)は、吾を勿憑《ナタノ》ませそ、といはむが如し、(萬勢《マセ》の切|米《メ》となれり、)吾を憑みに思はすることなかれの意なり、○歌(ノ)意は、君はやゝもすれ(337)ばためらひて、定りなき心あり、さやうの心あらむからには、吾をたのみにおもはせて、言清くの賜ふことなかれ、その言清きのみをたのみて、來ぬを待ば、さても苦しきものにてあるぞ、となり、
 
3032 君之當《キミガアタリ》。見乍母將居《ミツヽモヲラム》。伊駒山《イコマヤマ》。雲莫蒙《クモナタナビキ》。雨者雖零《アメハフルトモ》。
 
伊駒山《イコマヤマ》、十(ノ)卷に射駒山《イコマヤマ》とあり、既く彼處にいへり、十五にも見えたり、この山嶺を堺ひて、東は大和(ノ)國、西は河内(ノ)國なり、(これによりて、伊勢物語の文はつくれるなり、なほ下に引(ク)、)○雲莫蒙は、クモナタナビキ〔七字右○〕とよめるよろし、雲たなびくことなかれの意なり、蒙《タナビク》は、此(ノ)下にも、朝霞蒙山《アサカスミタナビクヤマ》、と書り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、岡部氏、いと切なる心より、かゝる事は、思ひもいひもする物なり、と云る如し、伊勢物語に、河内國高安(ノ)郡の女、大和の方を見やりて、君が當り見つつを居(ラ)む伊駒山雲なかくしそ雨はふるとも、といひて、見いだすに、からうして大和人こむ、と云り、よろこびてまつに、度々過ぬれば、君來むと云し夜ごとに過ぬればたのまぬものゝこひつゝぞをる、といひけれど、男すまずなりにけり、とて載たり、(續拾遺集に、伊駒山雲なへだてそ秋の月あたりの空は時雨なりとも、とあるは、今の歌によれり、)○以上三首、雲に寄てよめるなり、
 
3033 中中二《ナカナカニ》。如何知兼《イカデシリケム》。吾山爾《ハルヤマニ》。燒流火氣能《モユルケブリノ》。外見申尾《ヨソニミマシヲ》。〔頭註、【一首寄v煙、】〕
 
(338)二(ノ)字、古寫本には、爾と作り、○吾山爾は、集中に、吾岡《ワガヲカ》、吾島《ワガシマ》などもあれば、吾住(ム)地の山を、吾山《ワガヤマ》といはむはさることなれど、こゝは春山を燒煙をいへりと見ゆれば、略解にもいへるごとく、吾は春の誤にて、ハルヤマニ〔五字右○〕なるべくこそおもはるれ、○燒流火氣能《モユルケブリノ》は、春の野山を燒煙の立登るは、外にも見ゆるゆゑに、外見《ヨソニミ》といはむ料の序に設けたるなり、○歌(ノ)意は、はじめより、外目《ヨソ》にのみ見過してあらましかば、かく思ひに、もゆるばかりのことはあるまじきものを、何故にか、なまなかに、相知(レ)る中とはなりそめつらむ、と悔るなり、○此(ノ)一首、煙によせてよめるなり、
 
3034 吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀爲便名鴈《コヒスベナカリ》。※[匈/月]乎熱《ムネヲアツミ》。旦戸開者《アサトアクレバ》。所見霧可聞《ミユルキリカモ》。〔頭註、【三首寄v霧、】〕
 
爲便名鴈《スベヘナカリ》は、無《ナク》2爲便《スベ》1在《アリ》、なり、久阿《クア》の切|可《カ》、○※[匈/月]乎熱《ムネヲアツミ》は、胸が熱《アツ》さにの意なり、胸の熱(キ)は、思ひに、燒焦《ヤケコガ》るゝを云り、○霧《キリ》は、氣噴《イブキ》の霧《キリ》なり、古事記に、吹棄気吹之狭霧《フキウツルイブキノサギリ》云々、集中六(ノ)卷に、茜刺日不並二吾戀吉野之河乃霧丹立乍《アカネサスヒナラベナクニワガコヒハヨシヌノカハノキリニタチツヽ》、七(ノ)卷に、此小川白氣結瀧至八信井上爾事上不爲友《コノヲガハキリタナビケリオチタギツハシヰノウヘニコトアゲセネドモ》、十五に、君之由久海邊乃夜杼爾奈里多々婆安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢《キミガユクウミヘノヤドニキリタヽバアガタチナゲクイキトシリマセ》、(源氏物語明石にも、歎きつゝあかしの浦に朝霧の立やと人をおもひやるかな、とあり、)などある霧に同じく、物思ひなどするとき、吐(キ)出す白氣《イキ》をいへり、なほ五(ノ)卷に、大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀刊多知和多流《オホヌヤマキリタチワタルワガナゲクオキソノカゼニキリタチワタル》、とある歌の下に、既く委(ク)註せりき、○歌(ノ)意は、妹を思(ヒ)切《セマ》りて、せむか(339)たなく、夜もすがら胸を焦し明しつゝ、朝戸押明たれば、げにもことわりにこそあれ、むせかへれる胸の白氣《イキ》の、けぶり出ても見ゆる哉、嗚呼《アハレ》さて/\、なみ/\のことならず、ふかき歎息の氣噴《イブキ》ぞ、となり、(新撰萬葉に、思庭大虚障哉燃亘朝起雲緒烟庭爲手《オモヒニハオホソラサヘヤモエワタルアサタツクモヲケブリニハシテ》、
 
3035 曉之《アカトキノ》。朝霧隱《アサギリゴモリ》。反羽二《カヘリシニ》。如何戀乃《イカデカコヒノ》。色丹出爾家留《イロニイデニケル》。
 
曉之朝霧隱《アカトキノアサギリゴモリ》、朝《アサ》は鷄鳴《アカトキ》より以後を、廣く云稱なれば、かく重ねつゞけたり、(略解に、曉と朝は、本同じ事にて、曉、曙、朝と分つは、後なりといへるは、いさゝかたがへり、曉と朝とは、本同じ事にはあらざれども、曉は朝に属(キ)たるものなれば、曉を朝といふには妨なく、朝をば、なべて曉とはいふまじき、ことわりなるをや、)十五に、伊母乎於毛比伊能禰良延奴爾安可等吉能安左宜理其問理可里我禰曾奈久《イモヲオモヒイノネラエスニアカトキノアサギリゴモリカリガネソナク》、○反羽二、羽は爲(ノ)字の寫誤なり、カヘリシニ〔五字右○〕と訓べし、羽爲草書甚混(レ)易し、(略解に、岡部氏説によりて、羽は詞の誤ならむ、といへれど、詞(ノ)字を、シ〔右○〕の假字に用(ヒ)たる例なければわろし、)○歌(ノ)意は、人目をふかくしのへばこそ、曉の霧の紛れに起(キ)出て、女の許より歸りしなれ、さるをいかでか、わが戀の色に出て、人にしられつらむと、あやしめるなり、
 
3036 思出《オモヒイヅル》。時者爲便無《トキハスベナミ》。佐保山爾《サホヤマニ》。立雨霧乃《タツアマギリノ》。應消所念《ケヌベクオモホユ》。
 
歌(ノ)意、第三四(ノ)句は序にて、戀しく思ひ出る時は、せむかたなさに、身も消失ぬべく思はる、となり、○以上三首、霧に寄てよめるなり、
 
(340)3037 殺目山《キリメヤマ》。往反道之《ユキカフミチノ》。朝霞《アサガスミ》。髣髴谷八《ホノカニダニヤ》。妹爾不相牟《イモニアハザラム》。〔頭註、【一首寄v霞、】〕
 
殺目山《キリメヤマ》は、新古今集に、熊野にまうで侍しついでに、切目(ノ)宿にて、海邊眺望といへるこゝろを、をのこどもつかうまつりしに云々、とある處の山なり、本居氏(ノ)玉勝間に、切目山は、紀伊(ノ)國日高(ノ)郡熊野道の海邊にて、切目坂、切目浦、切目村あり、山は村より一里ばかり東北なり、村の北に、切目王子(ノ)社もあり、といへり、殺をキリ〔二字右○〕と訓は、四(ノ)卷にも、青山乎横〓雲之《アヲヤマヲヨコギルクモノ》云々、〓は殺に同じとあり、○朝霞《アサカスミ》、これまでは髣髴《ホノカ》といはむとての序なり、○歌(ノ)意は、直に相見る事は、かなふべからねば、ほのかになりとも、見まほしく思ふに、それだに心にまかせずやあらむ、となり、契冲、此は切目山をこえて、妹がり行て、いひかゝづらふ人の、いたづらに行ては歸りて、おもひわづらひて、よめりときこゆ、と云り、此は序歌ながら、所由《ユヱ》なく、殺目山《キリメヤマ》を取(リ)出(ヅ)べき謂《ヨシ》なければ、實《ゲニ》もさるよしにて、よめるにこそ、○此(ノ)一首霞に寄てよめるなり、
 
3038 如此將戀《カクコヒム》。物等知者《モノトシリセバ》。夕置而《ユフヘオキテ》。旦者消流《アシタハキユル》。露有申尾《ツユナラマシヲ》。〔頭註、【五首寄v露、】〕
 
旦者の者、古寫一本、活字本等にはなし、ある方宜し、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3039 暮置而《ユフヘオキテ》。旦者消流《アシタハケヌル》。白露之《シラツユノ》。可消戀毛《ケヌベキコヒモ》。吾者爲鴨《アレハスルカモ》。
 
本(ノ)句は、加消《ケヌベキ》といはむとての序なり、○歌(ノ)意、大方のわざにはあらず、心肝も消失ぬべきばかりに、思をすることかな、となり、
 
(341)3040 後遂爾《ノチツヒニ》。妹爾將相跡《イモニアハムト》。旦露之《アサツユノ》。命者生有《イノチハイケリ》。戀者雖繁《コヒハシゲケド》。
 
妹爾の爾(ノ)字、舊本にはなし、阿野本にある方まされり、○歌(ノ)意は、今こそ思はしげくて、わりなけれど、後遂には、本意の如く、妹にあはずば止じとて、はかなき露(ノ)命を續て、生てこそあれ、となり、
 
3041 朝旦《アサナサナ》。草上白《クサノヘシロク》。置露乃《オクツユノ》。消者共跡《ケナバトモニト》。云師君者毛《イヒシキミハモ》。
 
本(ノ)句は、序なり、○歌(ノ)意は、死(ナ)ば共に死(ナ)む、おくれ先だちはせじと、かたくちぎりし其(ノ)君は、いづらやと、尋ね求むる謂に云るにて、絶て後、ほどへて、又思出てよめるなるべし、源氏物語桐壺に、かぎりあらむ道にも、おくれ先立じとちぎらせ賜ひけるを、さりとも打捨ては、得ゆきやらじと詔《ノタマハ》するを云々、新撰六帖に、いかにせむしなば共にと契る身の同じ限りの命ならずば、靈異記中卷に、禅師信嚴者、和泉(ノ)國泉(ノ)郡(ノ)大領、血沼(ノ)縣主倭麻呂也、觀2鳥(ノ)邪姪(ヲ)1出家《イヘデシ》、隨(テ)2行基大徳1、修v善(ヲ)求v道(ヲ)、但要語曰、與2大徳1倶死、必當3同往2生西方(ニ)1云々、信嚴無v幸、自2行基大徳1先命終也、大徳哭誄作v歌曰、加良須等伊布於保乎蘇等利能古等乎能未等母邇等伊比天佐岐陀智伊奴留《カラストイフオホヲソトリノコトヲノミトモニトイヒテサキダチイヌル》、
 
3042 朝日指《アサヒサス》。春日能小野爾《カスガノヲヌニ》。置露乃《オクツユノ》。可消吾身《ケヌベキワガミ》。惜雲無《ヲシケクモナシ》。
 
本(ノ)句は、序なり、○惜雲無《ヲシケクモナシ》は、惜き事も無(シ)、と謂なり、十一に、靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之?無《タマチハフカミモアレヲバウツテコソシヱヤイノチノヲシケクモナシ》、十五に、和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈(342)思《アギモコニコフルニアレハタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》、○歌(ノ)意は、思に心をなやましくるしめむよりは、中々に死《シニ》たらば安かるべきなれば、戀故に消失べき吾(ガ)身の、惜きこともさらになし、とせめていへるなり、上に中々二死者安六出日之入別不知吾四久流四毛《ナカ/\ニシナバヤスケムイヅルヒノイルワキシラヌアレシクルシモ》、○以上五首、露に寄てよめるなり、
 
3043 露霜乃《ツユシモノ》。消安我身《ケヤスキワガミ》。雖老《オイヌトモ》。又變若反《マタヲチカヘリ》。君乎思將待《キミヲシマタム》。〔頭註、【三首寄v霜、重出、】〕
 
露霜乃《ツユシモノ》は、まくら詞なり、○又變若反《マタヲチカヘリ》、舊本に、變(ノ)字なきは脱たるなり、既く十一に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、〔頭註、【岡部氏考云、此歌、一二句の言と、三句より下と言の道違へり云々、他歌の交りし物といふべし、】〕○此(ノ)歌既く十一に出て、發句を、朝露之《アサツユノ》とかへたるのりみなり、さて彼(ノ)卷には、寄v物陳v思標中に、寄v露歌一類の中に收、此(ノ)卷には、同標中、寄v霜歌一類の中に收たるを、異なりとするのみ、
 
3044 待君常《キミマツト》。庭耳居者《ニハニシヲレバ》。打靡《ウチナビク》。吾黒髪爾《ワガクロカミニ》。霜曾置爾家類《シモソオキニケル》。
 
庭耳居者は、耳の下に、之(ノ)字などの脱たるか、耳をニ〔右○〕の假字に用たるは、此(ノ)上にも、外目耳毛《ヨソメニモ》とあり、また耳は西(ノ)字の誤か、いづれにまれ、ニハニシヲレバ〔七字右○〕と訓べし、(舊本にもかくよめり、略解に、ニハノミヲレバ〔七字右○〕と訓て、ニハノミ〔四字右○〕とは、ニハニノミ〔五字右○〕と云べきを、ニ〔右○〕の言を略ける古言の例ぞ、と云れど、さる例は、をさ/\あることなし、夢耳《イメノミ》、外耳《ヨソノミ》などいふことはあれども、其は甚く異なることなり、)此(ノ)下に、草枕羈西居者《クサマクラタビニシヲレパ》云々、十九に、安麻射可流夷爾之居者《アマザカルヒナニシヲレバ》云々、などの類、集中に往々《コレカレ》あるを考(ヘ)合(ス)へし、爾之《ニシ》は、さだかにしかりとする意のときにいふ詞なり、○打靡(343)は、ウチナビク〔五字右○〕と訓べし、髪の自(ラ)靡く謂なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、○舊本に、或本歌尾句云、白細布之吾衣手爾露曾置爾家留、と註せり、十一に、待不得而内者不入白細布之吾袖爾露者置奴鞆《マチカネテウチヘハイラジシロタヘノワガコロモテニツユハオキヌトモ》、
 
3045 朝霜乃《アサシモノ》。可消耳也《ケヌベクノミヤ》。時無二《トキナシニ》。思將度《オモヒワタラム》。氣之緒爾爲而《イキノヲニシテ》。
 
朝露乃《アサシモノ》は、次上の、露霜乃《ツユシモノ》とあるに同じく、まくら詞なり、○爲而《シテ》は、其(ノ)事をうけはりて、他事なく物する意のときにいふ辭なること、たび/\出たるごとし、○歌(ノ)意は、何時といふ時の定りもなしに、命にかけて嘆きて、肝魂も消失ぬべきばかりに、他事なく物思ひつゝ、月日を過さむか、となり、三五一二四と句を次第て、心得べし、○以上三皆、霜に寄てよめるなり、
 
3046 左佐浪之《サザナミノ》。波越安暫仁《ナミコスアゼニ》。落小雨《フルコサメ》。間文置而《アヒダモオキテ》。吾不念國《アガモハナクニ》。〔頭註、【一首寄v雨、】〕
 
左佐浪《ササナミ》は、小浪をいふなるべし、左射禮浪《サザレナミ》といふとは、言のもと、いさゝか異なるべし、こゝに左佐《ササ》と、清音の字を用ひたるをも思べし、さて左佐《ササ》は、左々蟹《サヽガニ》、左々栗《サヽグリ》などの左々《サヽ》にて、細少《サヽヤカ》なる意の言にやあらむ、(曾根好忠(ノ)集に、河上に夕立すらしみくづせくやなせのさ浪立さわぐなり、とよめるさ浪も、左々浪と同意にや、西行が、をみなへし池のさ浪に枝ひぢて物思ふ袖のぬるゝがほなる、夫木集に、雪氷みな上山にとけにけむ小川のさ浪さゞれこえけり、などあるさ浪も同じ、このさゞれは、細石《サヾレ》にて、水増れるによりて、小浪《サナミ》の細石《サヾレ》を越をいふなるべ(344)し、)○波越安暫仁(暫(ノ)字、拾穗本には※[斬/足]と作り、)は、ナミコスアゼニ〔七字右○〕と訓て、安暫《アゼ》は、田の畔背《アゼ》にや、(岡部氏は、安暫《アゼ》は、まぜることなり、今もまぜるを、あぜかへすといへり、此(ノ)歌は、さゝ浪の石こすにまぜて、小雨のふれば、波文のこまかに見ゆるを、間もおかぬことに、たとへしなり、といへれど、穩ならず、)本居氏は、安暫仁は、必誤字なるべし、といへり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、間も置ずに、吾かくまで思ひわたることなるを、さても君が心のつれなきことよ、と歎きたるなり、その歎きたる意は、不念國《オモハナクニ》の詞に、含ませたるなり、○此(ノ)一首、雨に寄てよめるなり、
 
3047 神左備而《カムサビテ》。巖爾生《イハホニオフル》。松根之《マツガネノ》。君心者《キミガコヽロハ》。忘不得毛《ワスレカネツモ》。〔頭註、【二首寄v木、】〕
 
神左備而《カムサビテ》は、必(ズ)神のうへならでも、かう/”\しく物ふりたることにいへること、集中に多し、さて此(ノ)歌は、巖に生たる松の、年久しく物ふりて見ゆるをいへり、○松根之《マツガネノ》、これまでは序なるべし、さて序に設けたる意は、巖に生たる、松の根のからみつきて、凝々《コリ/\》しきよしにて、心《コヽロ》といふに係れるなるべし、(やがて心《コヽロ》といふも、凝々《コリ/\》しきよりいへる稱なるべし、即(チ)妹之心《イモガコヽロ》と云を、廿(ノ)卷には、以母加古々里《イモガコヽリ》、と有(リ)、又按(フ)に、松(ガ)根の常磐の如くに、いつも變らぬ君が心、と云意かともいふべけれど、古意ならず、)○歌(ノ)意は、うるはしき君が心は、しばしも忘るゝことかたくて、さても常に戀しくのみ思はるゝぞ、となり、
 
3048 御獵爲《ミカリスル》。鴈羽之小野之《カリヂノヲヌノ》。櫟柴之《ナラシバノ》。奈禮波不益《ナレハマサラズ》。戀社益《コヒコソマサレ》。
 
(345)鴈羽之小野《カリハノヲヌ》は、地(ノ)名なりと、本居氏云り、(これを鴈羽と書るは借(リ)字にて、獵場《カリバ》なりとするは非ず、凡某場と云場を婆《バ》と云は、後(ノ)世の言にて、正しさ古言にはなきことなり、其はもと、某|爾波《ニハ》と云(フ)爾《ニ》を、音便にン〔右○〕云なし、又其(ノ)ン〔右○〕を省けるものなり、さて凡の音便のン〔右○〕の下は、清音をも、濁らるゝをば、みな濁る例にて、ハ〔右○〕を濁れるを、後に又ン〔右○〕を省きても、なほ其(ノ)濁の殘れるものぞ、と本居氏のいへるが如し、されば古(ヘ)は、大庭《オホニハ》、弓場《ユニハ》、馬場《ウマニハ》など云場も、正しくは爾波《ニハ》と云るなり、獵場をも、書紀の訓にカリニハ〔四字右○〕とある、〔頭註、獵場之樂(書紀十四五丁、)】〕これ正しき古言のまゝなり、されば鴈羽は、獵場の意ならぬを知べし、今按(フ)に、鴈羽と云地は、古(ヘ)も今も聞及ばず、ことに古(ヘ)遊獵《ミカリ》などのありし地は、後までも名高く聞ゆることなるに、さる地(ノ)名を知(レ)る人もなきにつきて、いぶかり思ふに、こゝも、もとは鴈路之小野なりけむを、はやく字のまぎらはしき本によりて、御獵する獵場《カリバ》こそ理(リ)あれと、たやすく意得て、鴈羽と書しにはあらずや、獵路《カリヂ》は、此(ノ)下にも、遠津人獵道之池爾主鳥之《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノ》云々、と見え、既く三(ノ)卷長(ノ)皇子、獵路野に遊獵《ミカリ》し賜ふ時、人麿のよめる長歌に、八隅知之吾大王《ヤスミシシワガオホキミ》、高光吾日乃皇子乃《タカヒカルワガヒノミコノ》、馬並而三獵立流《ウマナメテミカリタヽセル》、弱薦乎獵路乃小野爾《ワカコモヲカリヂノヲヌニ》、十六社者伊波比拜目鶉己曾伊波比回禮《シシコソハイハヒヲロガメウヅラコソイハヒモトホレ》云々、とありて、獵路《カリヂ》の小野は、古(ヘ)御獵に名高く、今も大和(ノ)國十市(ノ)郡に有といへり、故(レ)こゝも、鴈路之小野《カリヂノヲヌ》なりけむにこそ、御獵爲《ミカリスル》とあるにも、打あひてよろしく聞ゆれば、かくは云るなり、○櫟柴之《ナラシバノ》、(櫟(ノ)字、阿野本、類聚抄等には柏と作り、いかゞ、又(346)拾穗本に楢と作て、ナラノハノ〔五字右○〕と訓て、柴之(ノ)二字なきは、脱たるものなるべし、)これまでは、馴《ナレ》といはむとての序なり、奈良《ナラ》、奈禮《ナレ》と言を、疊ねてつゞけたり、大和物語に、わがやどをいつかは君がなら柴のならしがほにはをりにおこせる、(後撰集には、わがやどをいつならしてかならのはのならしがほにはをりにおこする、とあり、)櫟《ナラ》は即(チ)楢《ナラ》なり、品物解に委(ク)註り、(今の歌を、新古今集に出されたるにも、ならしばのとあり、しかるを、契冲、櫟(ノ)字を、ナラ〔二字右○〕とよめるを疑ひて云、櫟柴はイチシバ〔四字右○〕とよむべき歟、第十六に、櫟津《イチヒツ》、又允恭天皇(ノ)紀に、櫟井《イチヒヰ》、和名抄に、櫟子、和名|以知比《イチヒ》、とあり、イチシバ〔四字右○〕は第四に、市柴、第八に、五柴、第十一に、五柴原とよめり、イチヒシバ〔五字右○〕をイチシバ〔四字右○〕とも、イツシバ〔四字右○〕ともいふは、キツネ〔三字右○〕をキツ〔二字右○〕とのみも云に同じ、さて、ナレハマサラデ〔七字右○〕とつゞくるは、御狩場なれば、かり人の分ならす心にて、つゞけたり、と云るは、いみじきひがことなり、伊知比《イチヒ》を省きて、伊知《イチ》といへること、集中其(ノ)他の古書にも、をさ/\見えたることなし、證に引る市柴、五柴も、櫟柴《イチヒシバ》を謂《イヘ》るに非ず、此は、昔來《ムカシヨリ》、註者等も皆意得誤れることなり、此は余が考ありて、既く四(ノ)卷にも、十一(ノ)卷にも委(ク)註り、披(キ)見て考(フ)べし、又櫟(ノ)字をナラ〔二字右○〕に充たることも、古書に據あることにて、其(ノ)詳《クハシ》き事は、品物解にいひたれば、こゝに略けり、凡そ古(ヘ)は、人々の心々にて、字を充たること多ければ、一(ト)かたにつきて、字に泥むべきことには非ずかし、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、(源氏物語葵に、としごろ思ひきこえしほいなく、なれはまさ(347)らぬ御氣色の、こゝろうきことゝ、うらみ聞え給ふほどに年もかへりぬ、とあるは、今の歌に依て、書るなり、)○以上二首、木に寄てよめるなり、
 
3049 櫻麻乃《サクラアサノ》。麻原之下草《ヲフノシタクサ》。早生者《ハヤオヒバ》。妹之下紐《イモガシタヒモ》。不解有申尾《トケザラマシヲ》。〔頭註、【三十二首寄v草、】〕
 
本(ノ)二句は、十一に、櫻麻乃苧原之下草露有者令明射去母者雖知《サクラアサノヲフノシタクサツユシアレバアカシテイマセハヽハシルトモ》、とあり、櫻麻の事、彼處に註(ヘ)り、○歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水、早生者《ハヤオヒバ》とは、我よりさきに、妹にいひよする人のあるにたとふ、麻を作れる畠に、麻よりも下草の早く生(ヒ)立る如く、我よりさきに、妹にいひよする人の有しならば、かく我(ガ)爲に、妹が下紐をとくことは、得せざらましものを、人のいひよせぬうちに、我(ガ)早くいひよせたればこそ、我(ガ)物になりしなれ、とよろこぶなり、といへり、
 
3050 春日野爾《カスガヌニ》。淺茅標結《アサチシメユヒ》。斷米也登《タエメヤト》。吾念人者《アガモフヒトハ》。彌遠長爾《イヤトホナガニ》。
 
淺茅標結《アサチシメコヒ》は、女をわが手に入ることを、標結《シメユフ》といへば、其(ノ)標結をいはむとて、淺茅をとり出(テ)、さて其(ノ)標繩《シメナハ》の縁に、斷米也《タエメヤ》といへり、○斷米也登《タエメヤト》は、行末いつまでも、將《ム》v斷《タエ》やは不《ジ》v斷(エ)と、と云意なるを、淺茅に結たる標繩の、長くて不v斷(エ)と云意に、上より連(ケ)下したり、七(ノ)卷に、於君似草登見從我標之野山之淺茅人莫刈《キミニニルクサトミシヨリアガシメシヌヤマノアサチヒトナカリソネ》、山高夕日隱奴淺茅原後見多米爾標結申尾《ヤマタカミユフヒカクリヌアサチハラノチミムタメニシメユハマシヲ》、などよめるは、女のうるはしきを、淺茅にたとへたるなり、今の歌は標結をいはむ料のみにて、淺茅にことに用あるには非ず、○彌遽長爾《イヤトホナガニ》は、三(ノ)卷には、延葛乃彌遠永《ハフクズノイヤトホナガク》、とも、天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナガニ》、ともよめり、○歌(ノ)意(348)は、遂に我(ガ)手に入(レ)て、いつまでも中絶じと要釣《チギ》りかためて、ふかく思ひ入たる女なれば、行末遠く長く離るゝことは、さらにあらじ、となり、
 
3051 足檜之《アシヒキノ》。山菅根乃《ヤマスガノネノ》。懃《ネモコロニ》。吾波曾戀流《ワレハソコフル》。君之光儀乎《キミガスガタヲ》。
 
足檜之《アシヒキノ》と書るは、檜をば、古(ヘ)は、比乃伎《ヒノキ》とも、比伎《ヒキ》とも云しから、即(チ)かくかけるなり、木(ノ)字を脱せしにはあらず、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は序にて、かくれたるすぢなし、○舊本に、或本歌曰|吾念人乎將見因毛我母《アガモフヒトヲミムヨシモガモ》、と註せり、
 
3052 垣津※[弓+旗の旁〕《カキツハタ》。開澤生《サキサハニオフル》。菅根之《スガノネノ》。絶跡也君之《タユトヤキミガ》。不所見頃者《ミエヌコノゴロ》。
 
垣津※[弓+旗の旁〕《カキツハタ》は、開《サキ》とかゝれる枕詞なり、※[弓+旗の旁〕は旗(ノ)字なり、○開澤《サキサハ》は、佐紀《サキ》と云地の澤なり、四(ノ)卷に、娘子部四咲澤二生花勝見《ヲミナベシサキサハニオフルハナカツミ》、とよめるに同じ、○菅根之《スガノネノ》、これまでは、絶《タユ》と、いはむための序なり、菅を引ば、根の斷《タエ》きるゝよしにつゞけたり、(岡部氏(ノ)説に、集中、山菅には專ら根といへど、水の菅に根をいへるは、十一に、湖に核延子菅、と云るのみにて、外には見えず、こゝは前後山菅の中なれば、此(ノ)菅(ノ)根も山菅にて、二(ノ)句|開野《サキヌニ》生とや有けむ、と云るは、甚じき非なり、水の菅に根をいへるは、十八に、多豆我奈久奈呉江能須氣能根毛己呂爾《タヅガナクナゴエノスゲノネモコロニ》、ともあるをば、いかで見ざりけむ、さて十一に、垣津旗開沼之菅乎《カキツハタサキヌノスゲヲ》、とよめると同じく、こゝも佐紀澤の水に生たる菅なり、)○頃(ノ)字、舊本項に誤れり。類聚抄、拾穗本、古寫一本等に從つ、○歌(ノ)意は、思ひ離ちて、絶むとての下心にや、(349)この頃君が見え來ざるらむ、となり、
 
3053 足檜木之《アシヒキノ》。山菅根之《ヤマスガノネノ》。懃《ネモコロニ》。不止念者《ヤマズシモハバ》。於妹將相可聞《イモニアハムカモ》。
 
本(ノ)二句は序なり、○歌(ノ)意、かく心長くやまずて、一すぢに深切に思はゞ、遂には妹があはれみて、逢事のあらむか、さても戀しく思はるゝ事ぞ、となり、
 
3054 相不念《アヒオモハズ》。有物乎鴨《アルモノヲカモ》。菅根乃《スガノネノ》。懃懇《ネモコロコロニ》。吾念有良武《アガモヘルラム》。
 
有物乎鴨《アルモノヲカモ》は、有(ル)ものを、何とてかも、と云意なれば、有物乎《アルモノヲ》の下に、何《ナニ》とてと云詞を、假に加へてきくべし、此(ノ)例集中にも、前後にをり/\あり、後の歌にも、往々《コレカレ》あり、古今集に、春の色の至り至らぬ里はあらじ咲る咲ざる花の見ゆらむ、久方の光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ、などいへる類も、第三(ノ)句の下に、假に何とてと云詞を加へざれば、きこえがたし、みな同例なり、○歌(ノ)意、妹は相思はずてあるらむものを、何とてか、我はかく深く思ふならむ、さてもはかなしやと、みづからいぶかるさまにいへり、
 
3055 山菅之《ヤマスゲノ》。不止而公乎《ヤマズテキミヲ》。念可母《オモヘカモ》。吾心神之《ワガコヽロトノ》。頃者名寸《コノゴロハナキ》。
 
山菅之《ヤマスゲノ》は、枕詞なり、此(ノ)上にも、山草不止妹《ヤマスゲノヤマズモイモガ》とあり、山ぶきのやむときもなく、とつゞけたるに同じ、○念可母《オモヘカモ》は、思へばかの意なり、母《モ》の辭に、歎息をもたせたり、その歎息の意は、下にめぐらしてきくべし、一首のうへに關る辭なればなり、○心神は、コヽロト〔四字右○〕と訓べし、三(ノ)卷に、君師(350)不座者心神毛無《キミシマサネバコヽロトモナシ》、又、山隱都禮情神毛奈思《ヤマガクリツレコヽロトモナシ》、とあり、○歌(ノ)意は、君を止ずて思ふいたづきによりてか、この頃は、わが心神の消失て、なき心ちのするならむ、さてもせむ方なしや、となり、
 
3056 妹門《イモガカド》。去過不得而《ユキスギカネテ》。草結《クサムスブ》。風吹解勿《カゼフキトクナ》。又將顧《マタカヘリミム》。
 
妹門《イモガカド》云々、十一に、妹門去過不勝都久方乃雨毛零奴可其乎因將爲《イモガカドユキスギカネツヒサカタノアメモフラヌカソヲヨシニセム》、催馬樂|妹之門《イモガカド》に、妹が門やせなが門、行過かねてや我行ば云々、○草結《クサムスブ》とは、古(ヘ)人のもはらせしうけひ事にて、其は路傍などに自(ラ)生たる草を、さながら莖と莖とを結び合せて、わがなす事の成就《トゲ》むとならば、後日《ノチ》立還り來て見む時まで、解(ケ)ずてあれ、もし事成じとならば、自《オラ》解よとて、さて後に來て見て、事の成否《ナリナラジ》をしることなり、松(カ)枝などを結ぶも、これに同じ事ぞ、(然るを略解に、妹にあふまでのしるしに、草を結びおくなり、と云るは、いななる由にていへるにか、其(ノ)意さらに得がたし、又道の指南《シルベ》のために結ぶ事あり、七(ノ)卷に、近江之海湖有八十何爾加君之舟泊草結兼《アフミノミミナトヤソアリイヅクニカキミガフネハテクサムスビケム》、とある、是なり、また伊勢(ノ)集に、女の里にて、前栽のをかしければ、手ずさみに尾花を結びたりけるを、初の人來て見て、花薄我こそ下にたのみしか穗に出て人に結ばれにけり、公忠集に、醍醐の御時に、御前のすゝきの結ばれたるを御覽じて、あれはたが結びたるにか、と仰られければ、ほころびてまねくすゝきと見えしかばしどけなしとて我ぞ結びし、とある類は、たゞ手すさみにせし事と見ゆ、後拾遺集に、夏草は結ぶばかりに成にけり野飼し駒やあくがれぬらむ、(351)とも見ゆ、)○歌(ノ)意は、妹が門のまへをわたるほど、よそに見て過ゆくことはかたく、さすがに立寄むも、人目ゆゝしくて、又立かへり見むほど、いかであふべき表《シルシ》のあれかしと、うけひて草を結びおくに、其(ノ)結びの自《オラ》解なむは力(ラ)なきを、誤ても、風の吹解ことしもなかれ、となり、○舊本に、一云|直相麻底爾《タヾニアフマデニ》、と註せり、(麻※[氏/一]爾を、類聚抄に、麻之とあるは、寫誤れるものなるべし、)
 
3057 淺茅原《アサヂハラ》。茅生丹足蹈《チフニアシフミ》。意具美《コヽログミ》。吾念兒等之《アガモフコラガ》。家當見津《イヘノアタリミツ》。
 
本居氏、上二句は、家當見津《イヘノアタリミツ》といふへかけて見べし、意具美《コヽログミ》へかけて見べからず、といへり、○意具美《コヽログミ》は、中山(ノ)嚴水(ガ)説ありて、既く四(ノ)卷にいへり、こゝは心になつかしく思ふを、意具美吾念《コヽログミアガモフ》といへるなるべし、(契冲、意具美《コヽログミ》は、心ぐるしみなり、第四、第八、第十七などにも、心グシ〔二字右○〕とよめり、第九第十七に、メグシ〔三字右○〕とよめるは、目のくるしきにて、見ぐるしきなり、といへり、此(ノ)説は、今云ところとは表裏なり、こは茅生丹足蹈意具美《チフニアシフミコヽログミ》、とつゞけて心得て、茅生に足を蹈(ミ)艱難《カラク》して心ぐるしみ、といふ意に、聞たるにや、)○歌(ノ)意は、思(ヒ)にあまりて、せめてその家のあたりをだに見やりたらば、しばしは、心のなぐさむ方もあらむかと、淺茅原の、うばらからたちの中に足蹈(ミ)、艱難苦勞《カラク》して來て、心になつかしく思ふ女の、家の當(リ)を見やりつ、と云なるべし、○舊本に、一云|妹之家當見津《イモガイヘノアタリミツ》、と註せり、
 
(352)3058 内日刺《ウチヒサス》。宮庭有跡《ミヤニハアレド》。鴨頭草乃《ツキクサノ》。移情《ウツシコヽロヲ》。吾思名國《アガモハナクニ》。
 
内日刺《ウチヒサス》は、宮《ミヤ》の枕詞なり、既く數處《アマタトコロ》に出たり、○鴨頭草乃《ツキクサノ》も、まくら詞なり、此(ノ)草の花をもて、絹布などに移し着て染る故に、移《ウツ》しと云につゞけたり、(江次第(ノ)五に、鴨頭草(ノ)移(シ)二帖、上野、これは鴨頭草(ノ)花を紙に移し置て、又其を以て、絹布などに移し染る料とするを、移《ウツシ》と云なるべし、されどそれは、やゝ後のことにて、草木(ノ)花を、直に絹布の類にすり移すこと、すべて古(ヘ)のならはしなれば、今もそのこゝろなり、)○移情《ウツシコヽロ》とは、(移は借(リ)字ながら、上の枕詞よりつゞきたる意をしらせて、此字を書たるなり、承たる意は別なり、)現心《ウツシコヽロ》なり、此(ノ)上に、虚蝉之宇都思情毛吾者無《ウツセミノウツシコヽロモアゾハナシ》、とある、宇都思情《ウツシコヽロ》に同じ、(古來註者等、この移《ウツシ》を、人に心を移す意に心得たるは、大じきひがことなり、移とかける字は、たゞ枕詞よりのつゞけの意を、しらせたるのみなるをや、)○歌(ノ)意は、嚴重《オゴソカ》なる朝廷に、仕へ候らひてあれば、心も鎭りかへりて、萬事正眞にあるべき理なれども、深く思ふ人のあるによりて、吾は現々《ウツウツ》しき心もなきことなるを、となり、元來丈夫にして、ことに嚴重なる朝廷にさへ候ひたれば、さらにさはあるまじきを、なほ女を思ふ情には得堪ずして、おれ/\しき心のほどを、打あらはしいひたるが、あはれなり、(昔より、此(ノ)歌(ノ)意を、解得たる人なし、)
 
3059 百爾千爾《モヽニチニ》。人者雖言《ヒトハイヘドモ》。月草之《ツキクサノ》。移情《ウツロフコヽロ》。吾將持八方《アレモタメヤモ》。
 
(353)百爾千爾《モヽニチニ》は、色々種々《イロ/\サマ/”\》にいふことにて、かにかくにといはむが如し、○月草之《ツキクサノ》は、これもまくら詞なり、○移情、(上にいへる移情《ウツシコヽロ》と、字は同じかれど、意詞は別なり、)これはウツロフコヽロ〔七字右○〕と訓べし、變易《ウツロヒカハル》心を云り、(下に、唐棣花色之移安情有者《ハネズイロノウツロヒヤスキコヽロアラバ》云々、とあるに意同じ、)○歌(ノ)意は、わが他し心をもつ如く、人は色々種々《イロ/\サマ/”\》に云立(ツ)ることなれども、よしやさばれ、われは嗚呼《アハレ》君をおきて、外にうつろふ心をば、さらにもたぬものを、となり、
 
3060 萱草《ワスレグサ》。吾紐爾著《ワガヒモニツク》。時常無《トキトナク》。念度者《オモヒワタレバ》。生跡文奈思《イケルトモナシ》。
 
萱草《ワスレグサ》を身に帶て、思(ヒ)を忘るゝこと、既く三(ノ)巻の歌に、委(ク)註り、○歌(ノ)意、いつといふ時の定りなしに、戀しく思ひて、月日を經れば、生る心神《コヽロト》もさらになし、かくては身命も、得堪まじきによりて、いかで思ひを忘れなむと、萱草を紐に帶る、となり、
 
3061 五更之《アカトキノ》。目不醉草跡《メサマシグサト》。此乎谷《コレヲダニ》。見乍座而《ミツヽイマシテ》。吾止偲爲《アレトシヌハセ》。
 
五更之《アカトキノ》と云るは、契冲、曉は目さます時分なれば、目さまし草といはむためなり、といへる如し、○目不醉草《メサマシグサ》は、草(ノ)名には非ず、何にてもあれ、こなたより贈れる物をさして、いへるなるべし、(後(ノ)世に、茶の雅名を、目醒(シ)草と云とゾ、此《コヽ》は一種の品の名にはあらず、)草《クサ》は、志奴布草《シヌフグサ》、戀草《コヒグサ》、手向草《タムケグサ》、など云ときの草にて、何にも、其(ノ)品をさして云言なり、さて草と云る言によりて、草の一類の歌(ノ)中に、收たるなるべし、不醉と書るは、醒(ノ)字の意にて、酒の醒るを、眠の覺《サム》るにかり用た(354)り、と契冲云るが如し、○歌(ノ)意は、此(ノ)まゐらする品をだに、曉の目覺し種《グサ》と見つゝおはしまして、吾によそへ賜へと云おくりて、吾(ガ)深く思ひまゐらする心のほどを、いかですこしは、あはれとおぼしめせ、と云意を、告たるなるべし、○契冲、此(ノ)歌は、人に忘草をおくりて、よめりと聞ゆ、といへり、そは前後、萱草をよめる歌の中に、はさまりたれば、拘りたることのやうにも聞ゆれど、若(シ)其(ノ)説の如く、此(ノ)草を萱草とするときは、又説あるべし、そのときの意は、目覺し種《グサ》と見つゝ偲《シノ》ばせ、といへるは、反《ウラ》の意にて、君がこの頃とだえがちなるは、吾(ガ)事を忘れむとなるべし、よしさらば、此(ノ)忘草を帶て、ふつに忘れはてたまへ、忘るともなく忌れぬともなく、ためらひ賜ふは、こなたかなたにかゝりて、中々に思の種となり侍れば、中絶はつるにはしかじを、と人のうときさまになれるを、したに恨(ミ)て、わざとねぢけて、よみておくれる歌なるべき歟、
 
3062 萱草《ワスレグサ》。垣毛繁森《カキモシミヽニ》。雖殖有《ウエタレド》。鬼之志許草《シコノシコグサ》。猶戀爾家利《ナホコヒニケリ》。
 
繁森《シミヽ》は、繁々《シミシミ》の約りたる言なるべし、(シミ〔二字右○〕の切ミ〔右○〕となれり、)○鬼之志許草《シコノシコグサ》は、醜之醜草《シコノシコグサ》にて、深く惡み罵ていへる詞なり、四(ノ)卷に、萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家里《ワスレグサワガシタヒモニツケタレドシコノシコグサコトニシアリケリ》、といふ歌に、委(ク)註(ル)せり、(岡部氏考(ニ)、志許草《シコグサ》は、紫苑にて、物をよく覺ゆる草なること、今昔物語にもいひつ、さて忘るやと植し草はかひなければ、こは醜の紫苑ぞと、にくみて云なり、といへるは、い(355)かゞ、)○歌(ノ)意は、わが物思ひを、いかでわすれむと、萱草を垣内にしげく殖置て、或は折て手に持(チ)、身に帶などすれど、猶得忘れがたきは、わすれ草といふは、名ばかりにて、何の益もなく、醜《ミニク》き醜《シコ》草にてあるなり、といたく罵てよめるなり、
 
3063 淺茅原《アサチハラ》。小野爾標結《ヲヌニシメユヒ》。空言毛《ムナコトモ》。將相跡令聞《アハムトキコセ》。戀之名種爾《コヒノナグサニ》。
 
本(ノ)二句は、空言《ムナコト》を、いはむとての序なり、十一に、朝茅原小野印空事何在云公待《アサチハラヒヲヌニシメユヒムナコトヲイカナリトイヒテキミヲバマタム》、又、淺茅原刈標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサチハラカリシメサシテムナコトモヨセテシキミガコトヲシマタム》、とあり、空言とつゞくる意、彼處に委(ク)註り、(略解に、一二(ノ)句は、とり留めもなき、かねごといふたとへなり、と云るは誤なり、)○空言は、ムナコト〔四字右○〕と訓べし、(古來ソラコト〔四字右○〕とよめるは、大《イミ》じき誤なり、そも/\空(ノ)字に、ソラ〔二字右○〕とムナ〔二字右○〕との兩訓あり、前(ノ)字に、サキ〔二字右○〕とマヘ〔二字右○〕との兩訓あり、中(ノ)字に、ナカ〔二字右○〕とウチ〔二字右○〕との兩訓ありて、これらは、字は同じ字ながら、言にはいたく差別《ケヂメ》あることなるを、中世以降は、字にのみ泥(ヅ)みて、これらの差あることを辨へずして、混(ヘ)云ることの多きは、あさまし、)○令聞《キコセ》は、のたまへと云に同じ、十一に、狗上之《イヌカミノ》云々|不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》、とある歌に、委(ク)釋(ケ)り、○歌(ノ)意は、まことにあはむとのたまはむことは、及(ビ)なし、空言《ムナコト》にだにも、あはむとのたまへ、實情にさることは、のたまふべきにあらねば、虚言なりと云ことは、かねてよく知をれども、もしは百に一(ツ)も、吾をあはれみて、心ゆるせることもあらむかと、それをせめての、戀の心なぐさめにせむを、と吾につれなきをかこちて、云おく(356)れるなり、○舊本に、或本歌曰|將來《コムト》知志|君矣志將待《キミヲシマタム》、又見2柿本朝臣人麿歌集1、然落句少異耳、と註せり、本居氏、知は言(ノ)字の誤か、言志《イヒテシ》ならではきこえず、といへり、人麿歌集は、右に引十一の何在云公待《イカナリトイヒテキミヲバマタム》、とあるこれなり、
 
3064 人皆之《ヒトミナノ》。笠爾縫云《カサニヌフチフ》。有間菅《アリマスゲ》。在而後爾毛《アリテノチニモ》。相等曾念《アハムトソモフ》。
 
人皆之《ヒトミナノ》、(舊本には、皆人之と作て、ヒトミナノ〔五字右○〕とよめる訓は宜し、)今は古本、元暦本等に從つ、○本(ノ)句は、在《アリ》といはむための序なり、十一に、王之御笠爾縫有在間菅有管雖看事無吾妹《オホキミノミカサニヌヘルアリマスゲアリツヽミレドコトナシワギモ》、とあり、○歌(ノ)意は、あり/\て、年月經て後にも、あはむふとぞおもふ、となり、
 
3065 三吉野之《ミヨシヌノ》。蜻乃小野爾《アキヅノヲヌニ》。刈草之《カルカヤノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。宿夜四曾多《ヌルヨシソオホキ》。
 
蜻乃小野《アキヅノヲヌ》は、吉野にあり、既く出つ、(後(ノ)世に、かげろふの小野と云、即(チ)其(ノ)地なり、其(ノ)上つ方の瀧を、清明が瀧といへり、蜻《アキヅ》を、蜻螟と書が故に、其を字音に呼て、後つひに字をも書かへたるなるべし、といへり、)○刈草之《カルカヤノ》、此までは、亂《ミダレ》といふにかゝれる序なり、草《カヤ》は、主とは芒《スヽキ》の事にて、屋葺料にする草を、すべて加也《カヤ》とはいへり、既く委(ク)註り、(後にかるかやとて、一種の草(ノ)名とするは、古(ヘ)にたがへり、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3066 妹待跡《イモガケル》。三笠乃山之《ミカサノヤマノ》。山菅之《ヤマスゲノ》。不止八將戀《ヤマズヤコヒム》。命不死者《イノチシナズバ》。
 
妹待跡は、六(ノ)卷に、妹之着三笠山爾《イモガケルミカサノヤマニ》、とあるによりておもふに、待跡は、我服などの誤寫にて、こ(357)ここもイモガケル〔五字右○〕なるべし、(さるを妹待跡といふ詞も、集中に多きによりて、ふとかきあやまれるならむ、)十一に、君之服三笠之山爾《キミガケルミカサノヤマニ》云々、古今集旋頭歌に、君がさす三笠の山の紅葉の色云々、などあり、みな三笠山の枕詞なり、○本(ノ)句は、不止《ヤマズ》をいはむ料の序なり、此(ノ)上にも、山菅之不止而公乎《ヤマスゲノヤマズテキミヲ》云々、○歌(ノ)意は、命終たらむ後はしらず、生てあらむかぎりは、いつまでも止ずて、かやうに戀しく思はむか、となり、
 
3067 谷迫《タニセバミ》。峯邊延有《ミネヘニハヘル》。玉葛《タマカヅラ》。令蔓之有者《ハヘテシアラバ》。年二不來友《トシニコズトモ》。
 
谷迫《タニセバミ》云々は、谷が狹さに、延(ヒ)わたりひろごる方なくて、峯までに蔓のぼれる意なり、十一に、山高谷邊蔓在玉葛《ヤマタカミタニヘニハヘルタマカヅラ》、とあるは、山が高さに、得延(ヒ)のぼらずして、谷邊に蔓有《ハヘル》にて、今とは表裏の意なり、十四に、多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》、とあるは、今と意全(ラ)同じ、○峯邊延有《ミネヘニハヘル》、峯邊《ミネヘ》と云ることは、(もとより云まじき詞にはあらねど、)此(ノ)集はさらにて、他の歌書どもにても、此(ノ)歌の外に見當りたることなし、伊勢物語に、谷迫み峯迄はへる玉葛たえむと人に我思はなくに、とあるによりて、思ふに、若は此(ノ)邊も、迄(ノ)字の誤寫にて、ミネマデハヘル〔七字右○〕にてありしにはあらざる歟、猶考(フ)べし、○令蔓之有者《ハヘテシアラバ》は、思ひ交《カハ》す心の、絶ずあらば、と云むが如し、(令蔓は、ハヽセ〔三字右○〕にて、其(ノ)ハヽセ〔三字右○〕は、ハヘ〔二字右○〕と約れば、かく書り、)十四に、可美都家野安蘇夜麻都豆良野乎比呂美波比爾思物能乎安是加多延世武《カミツケヌアソヤマツヅラヌヲヒロミハヒニシモノヲアゼカタエセム》、之《シ》は、その一(ト)すぢなる(358)ことを、重く思はする助辭なり、○歌(ノ)意は、われと思ひ交《カハ》すこゝろの、一(ト)すぢにたえずてあらば、たとひ一年來まさずとも、物は思はじを、君が心のいかならむ、末おぼつかなければ、かくこそ物思ひはすなれ、となり、○舊本に、一云|石葛令蔓之有者《イハツナノハヘテシアラバ》、と註せり、石葛《イハツナ》は、石に蔓たる絡石《ツタ》なり、六(ノ)卷に註り、
 
3068 水莖之《ミヅクキノ》。崗乃田葛葉緒《ヲカノクズバヲ》。吹變《フキカヘシ》。面知兒等之《オモシルコラガ》。不見比鴨《ミエヌコロカモ》。
 
水莖之《ミヅクキノ》は、崗《ヲカ》のまくら詞なり、既く本居氏(ノ)説を引て、六(ノ)卷に委(ク)註り、○崗乃田葛葉《ヲカノクズバ》、十(ノ)卷に、鴈鳴之寒鳴從水莖之岡乃葛葉者色付爾來《カリガネノサムクナキシユミヅクキノヲカノクズバハイロヅキニケリ》、○吹變《フキカヘシ》、風といはざれども、吹返しとよめるは、古歌の例なり、と契冲云り、開《サク》とのみ云て、花のことゝ聞え、散《チル》とのみ云て、黄葉のことと聞ゆると同じ、さて田葛葉《クズバ》を吹返せば、裏のかたの、いちじるく見ゆるを以て、面知《オモシル》をいはむ料の序とせり、○面知兒等《オモシルコラ》とは、他人にまがはず、いちじるく見ゆる子等《コラ》、と云意なり、上に面知君《オモシルキミ》とある歌に、委(ク)註り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、(新古今集に、家持(ノ)歌とて、水くきの岡のこの葉を吹かへし誰かは君を戀むと思ひし、とて載られたり、)
 
3069 赤駒之《アカゴマノ》。射去羽計《イユキハバカル》。眞田葛原《マクズハラ》。何傳言《ナニノツテゴト》。直將吉《タヾニシエケム》。
 
射去羽計《イユキハバカル》は、(計(ノ)字、舊本には許と作り、今は拾穗本に從つ、三(ノ)卷不盡(ノ)山の歌に、白雲母伊去波伐加利《シラクモモイユキハバカリ》云々、とあり、契冲云、伊《イ》は發語、去羽計《ユキハバカル》は、眞田葛原《マクズハラ》の、馬の蹄《ヒヅメ》にまつはるれば、行ことをは(359)ばかるなり、拾遺集雜戀に、みかりするこまのつまづくまくず原君こそまろがほだしなりけれ、○傳言《ヅテゴト》は、人傳《ヒトヅテ》なり、雄略天皇(ノ)紀に、流言とも、飛聞ともかきて、ツテゴト〔四字右○〕とよめり、○歌(ノ)意は、契冲云、眞くず原にこそ、駒のつまづけば、ゆきはゞかるなれ、さるさはりもなきに、なぞやなほざりのつてごとのみはする、直に來てあはむこそよけれ、となり、○此(ノ)歌、書紀にては、童謠なれば、意異なるべし、天智天皇(ノ)紀、十年十二月癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江(ノ)宮(ニ)1、癸酉、殯(ス)2于新宮(ニ)1、于時童謠曰云々、阿箇悟馬能以喩企波々箇屡麻矩儒播羅奈爾能都底擧騰多※[手偏+施の旁]尼之曳鷄武《アカゴマノイユキハヾカルマクズハラナニノツテゴトタダニシエケム》、とあり、赤駒の眞葛原に馳入(ル)に、足をまつはれて、行難にする如く、憚りなづみて、傳言《ツテゴト》すなるは、何事ぞ、人傳ならずとも、直に云寄(リ)なば、善《ヨ》かるべきを、と云るにて、大友(ノ)皇子の、天武天皇に、直に云寄(リ)賜ひなば、和睦《コトナゴミ》たまふべきことなるを、と云意をさとして、あらかじめ童謠にうたへるならむか、
 
3070 木綿疊《ユフタヽミ》。田上山之《タナカミヤマノ》。狹名葛《サナカヅラ》。在去之毛《アリサリテシモ》。不今有十方《イマナラズトモ》。
 
木綿疊《ユフタヽミ》は、まくら詞なり、此は、木綿帖疊《ユフタヽミタヽナハ》ると云意に、いひかけたるなり、木綿疊のことは、既く六(ノ)卷に委(ク)いへり、(これを冠辭考に、手に取(リ)持て手向る意にて、手の上(ミ)とつゞけしなるべし、と云るは、いみじきひがことなり、たゞ手の上と云たるばかりにて、いかでか手に取(リ)持(ツ)意とは、通ゆべき、)○田上山《タナカミヤマ》は、一(ノ》卷に出つ、○狹名葛《サナカヅラ》、此までは、在去《アリサリ》といはむとての序にて、葛の在(リ)(360)在(リ)て絶ず連きたる意に、いひかけたり、○在去之毛《アリサリテシモ》は、在々而《アリ/\テ》しもといはむが如し、在去《アリサリ》は、在之在《アリシアリ》の約れる言なり、之阿《シア》の切|佐《サ》、春之在者《ハルシアレバ》、秋之在者《アキシアレバ》を、春去者《ハルサレバ》、秋去者《アキサレバ》と云に同じ、袖中抄に、萬葉に、なぐさやまことにざりけりわが戀のちへのひとへもなぐさまなくに、とある、ことにざりけりは、言にし有けり、と云詞なり、としるせり、此は七(ノ)卷に、名草山事西在來《ナグサヤマコトニシアリケリ》、とある歌なり、かの歌を、古くは、ことにざりけりとよみたるゆゑに、かくいへるなり、さてさりけりは、しありけりと云詞なり、と云る、さることにて、今も其(レ)に全(ラ)同じ.之毛《シモ》は、多かる事の中を取出ていふ助辭にて、此《コヽ》はたしかに、其(ノ)事をとりたてゝいふなり、○歌(ノ)意は、在々て後にも、遂に逢むとしも、たしかに思ふとならば、たとひ今ならずとも、よしや心長く待むを、となり、
 
3071 丹波道之《タニハヂノ》。大江乃山之《オホエノヤマノ》。眞玉葛《マタマヅラ》。絶牟乃心《タエムノコヽロ》。我不思《アガモハナクニ》。
 
大江乃山《オホチノヤマ》は、天武天皇(ノ)紀に、八年十一月、初(テ)置2關(ヲ)於龍田山、大江(ノ)山1、とあり、山城丹波の境にありて、今はおいの坂と云よしなり、園大暦に、於伊坂と作り、和名抄に、山城(ノ)國乙訓郡大江、とあり、この郷即(チ)丹波(ノ)國桑田(ノ)郡にも、わたれるなるべし、(小式部が、大江山生野の道の、とよみしも、これなり、といへり、又丹後國にも大江山と云てあり、世に酒顛童子が住し山なり、と云傳る、其は別地なり、)○眞玉葛(玉(ノ)字、類聚抄、拾穂本等にはなし、それに從ば、サネカヅラ〔五字右○〕と訓べし、現存六帖に、夏來れば大江の山の玉かづらしげりにけりな道見えぬまで)は、マタマヅラ〔五字右○〕とこそ(361)訓べけれ、と田中(ノ)道麻呂いへり、と本居氏云り、さてこれも、不v絶(エ)と云意につゞく序なり、○絶牟乃心《タエムノコヽロ】は、絶むと思ふ心、といふほどの意なり、かうやうに、云々|牟乃心《ムノコヽロ》とつゞく云樣は、古今集戀(ノ)四に、君や來む吾や行むのいざよひに、源氏物語桐壺に、此(ノ)君にたてまつらむの御心なりけり、云々、紅葉(ノ)賀に、見せたてまつらむの心にて云々、みかど、おりゐさせ賜はむの御心づかひ、ちかう成て云々、紫式部日記に、忍ぶとおもふらむを、あらはさむのこゝろにて、此等の格なり、○歌(ノ)意は、我は絶むと思ふ心は、さらになきことなるを、君が心こそ、おぼつかなけれ、となり、十四に、多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》、
 
3072 大埼之《オホサキノ》。有礒乃渡《アリソノワタリ》。延久受乃《ハフクズノ》。往方無哉《ユクヘモナクヤ》。戀渡南《コヒワタリナム》。
 
大埼《オホサキ》は、紀伊(ノ)國の、南へさし出たる埼なり、六(ノ)卷に、大埼乃神之小濱者《オホサキノカミノヲハマハ》、とある歌につきて、委(ク)註り、○延久受乃《ハフグズノ》、これまでは序なり、かくて、田葛の蔓《ツル》は、東西《トザマカクザマ》己がまゝ蔓《ハヒ》わたる物なるに、礒邊にはへるは、岸際《キシギハ》をかぎりて、蔓《ハヒ》ゆくことかなはぬよしにて、徃方無《ユクヘナク》とつゞけたるなるべし、さらずば、山野をおきて、殊に荒礒の渡を取出て、よみあはすべきよしなし、と弘蔭いへり、田葛は、山野にかぎらず、渡門の礒岸などにも、多く蔓ものなればいへるなるべし、又本居氏は、此(ノ)一句、※[手偏+旁]舟乃《コグフネノ》とあるべき歌なり、昔より誤りたるなるべし、といへり、○歌(ノ)意は、むせかへる心の、徃(キ)すぐる方もなく、ひたすらに戀しく思ひつゝ、月日を過しなむ歟、となり、
 
(362)3073 木綿疊《ユウタヽミ》。田上山之《タナカミヤマノ》。佐奈葛《サナカヅラ》。復毛必《ノチモカナラズ》。將相等曾念《アハムトソモフ》。
 
疊、舊本※[果/衣]と作て、一云疊と註せるに從つ、○田上山《タナカミヤマ》(田上、舊本に白月と作り、誤なり、夫木集に、さびしとや松に霜おく有明のしら月山の峯になく鹿、とあるも、字の誤れるにつきてよめるなり、誤來れることやゝ舊《ヒサ》し、今は古寫一本に從つ、既く、白月とあるは、田上の誤なるよし、岡部氏(ノ)冠辭考にも、委(ク)辨へたり、)は、一(ノ)卷に見えて、此(ノ)上にも出(ツ)、○佐奈葛《サナカヅラ》は、契冲もいへるごとく、はひわかれても、後にまたはひあふことのあるによりて、後も逢むといふにつゞけたり、二(ノ)卷に、狹根葛後毛將相等《サネカヅラノチモアハムト》云々、とあるも同じ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、上にも、在而後爾毛相等曾念《アリテノチニモアハムトソモフ》、とあり、○舊本に、或本謌曰將絶跡妹乎吾念莫久爾、と註せり、
 
3074 唐棣花色之《ハネズイロノ》。移安《ウツロヒヤスキ》。情有者《コヽロアレバ》。年乎曾寸經《トシヲソキフル》。事者不絶而《コトハタエズテ》。
 
唐棣花色之《ハネズイロノ》は、まくら詞なり、四(ノ)卷に、不念常曰手師物伊乎翼酢色之變安寸吾意可聞《オモハジトイヒテシモノヲハネズイロノウツロヒヤスキワガコヽロカモ》、とある歌に、委(ク)註り、さて唐棣は、木なり、しかるに、上にも云るごとく、此(ノ)前後三十二首ありて、みな草に寄てよめる歌を以て、一類とせるを思ふに、この波禰受《ハネズ》も、小木なれば、草(ノ)類と心得て、こゝに入しにやあらむ、○事は借(リ)字にて、言なり、○歌(ノ)意は、契冲云、人の心のあだにして、うつろひやすければ、さすがに、ことばのかよひはたえねど、あはずして年を來り經る、となり、
 
3075 加此爲而曾《カクシテソ》。人之死云《ヒトノシヌチフ》。藤浪乃《フヂナミノ》。直一目耳《タヾヒトメノミ》。見之人故爾《ミシヒトユヱニ》。
(363)此(ノ)歌、一首の意貫きがたし、本(ノ)句末(ノ)句は、各々別歌なりしが、混《マギ》れて一歌となれるなるべし、かゝれば、本のまゝにて、強て解ば解るべきなれど、其は無益《イタヅラ》の骨折と云ものなれば、姑(ク)さしおきつべし、さて末(ノ)句は、十(ノ)卷に、皮爲酢寸穗庭開不出戀乎吾爲玉蜻直一目耳解之人故爾《ハタススキホニハサキデヌコヒヲアガスルタマカギルタヾヒトメノミミシヒトユヱニ》、とある歌の、混れ來たるなり、
 
3076 住吉之《スミノエノ》。敷津之浦乃《シキツノウラノ》。名告藻之《ナノリソノ》。名者告而之乎《ナハノリテシヲ》。不相毛恠《アハナクモアヤシ》。
 
敷津《シキツ》は、攝津(ノ》國住吉(ノ)郡にあり、新古今集に、敷津の浦にまかりて、あそびけるに、磯にとまりてよみ侍りる、藤原(ノ)實方(ノ)朝臣、船ながら今夜ばかりは旅宿せむ敷津の浪に夢はさむとも、○本(ノ)句は序なり、○歌(ノ)意は、はやく女のうけひきて、名をさへに告知しつるに、あはぬことの、さてもあやしや、となり、下に、然海部之磯爾刈干名告藻之名者告手師乎如何相難寸《シカノアマノイソニカリホスナノリソノナハノリテシヲイカデアヒガタキ》、
 
3077 三佐呉集《ミサゴヰル》。荒磯爾生流《アリソニオフル》。勿謂藻乃《ナノリソノ》。吉名者令告《ヨシナハノラセ》。父母者知鞆《オヤハシルトモ》。
 
三佐呉集《ミサゴヰル》は、まくら詞なり、はやく出つ、○吉名者令告(令(ノ)字、舊本に不と作るは誤なり、今改つ、)は、ヨシナハノラセ〔七字右○〕なり、○本(ノ)句は、序なり、○歌(ノ)意は、三(ノ)卷に、美沙居石轉爾生名乘藻乃名者告志弖余親者知友《ミサゴヰルイソミニオフルナノリソノナハノラシテヨオヤハシルトモ》とあるに同じく、縱《ヨシ》や父母は知てとがむとも、其は吾《ワ》がはからひにて、よくとりをさむるにより、名を告知せて、我(カ)心をうけひきゆるしてよ、とよめるなり、(略解に、既に女の名をあかせし上は、今は妻を呼(ブ)如く、吾(カ)名を告《ノリ》賜へ、よし父母の聞てとがむともと云な(364)り、といへるは、いみじきひがことなり、)凡て人の妻と定《ナル》ことを、許諾《ユル》すときならでは女の名を告(ラ)ぬ、古(ヘ)のならはしなればなり、
 
3078 浪之共《ナミノムタ》。靡玉藻乃《ナビクタマモノ》。片念爾《カタモヒニ》。吾念人之《アガモフヒトノ》。言乃繁家口《コトノシゲケク》。
 
本(ノ)二句は、浪のまゝに靡く藻の、片依(リ)になびき依(ル)意をもて、片思《カタオモヒ》につゞけたる序なり、○歌(ノ)意は、相思ひて、心をかよはす中ならば、かたみに名の立むも、さることながら、わが片思に思ふのみの女なるに、人言のしげく言さわぐことよ、となり、
 
3079 海若之《ワタツミノ》。奥津玉藻之《オキツタマモノ》。靡將寢《ナビキネム》。早來座君《ハヤキマセキミ》。待者苦毛《マテバクルシモ》。
 
本(ノ)二句は、靡《ナビク》をいはむとての序なり、○靡將寢《ナビキネム》、(寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐と作り、)二(ノ)卷人麿(ノ)歌に、浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎《ナミノムタカヨリカクヨルタマモナスヨリネシイモヲ》云々、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3080 海若之《ワタツミノ》。奧爾生有《オキニオヒタル》。繩乘乃《ナハノリノ》。名者曾不告《ナハカツテノラジ》。戀雖死《コヒハシヌトモ》。
 
繩乘乃《ナハノリノ》(乘(ノ)字、類聚抄には苔と作り、)は、名者告《ナハノリ》とつゞく序なり、繩乘《ナハノリ》は繩苔《ナハノリ》にて、品物解に註り、○曾《カツテ》は、物をかたく極めていふ言なり、俗に堅《カタ》く、又|更々《サラ/\》、又一向になど云意なり、四(ノ)卷に、委(ク)註り、○歌(ノ)意は、たとひ戀死に死はすとも、君が名をば、かたく父母に告知せじ、となり、父母に男の名を知しては、隱ひて逢中なれば、事の出來むこと必定なれば、曾て告じ、といへるなり、十一に、吾背子我其名不謂跡玉切命者棄忘賜名《ワガセコガソノナノラジトタマキハルイノチハウテツワスレタマフナ》、○以上三十二首、草に寄てよめるなり、
 
(365)3081 玉緒乎《タマノヲヲ》。片緒爾搓而《カタヲニヨリテ》。緒乎弱彌《ヲヲヨワミ》。亂時爾《ミダルヽトキニ》。不戀有目八方《コヒズアラメヤモ》。〔頭註、三首寄2玉緒1、】〕
 
片緒《カタヲ》とは、繩《ナハ》などのごとく、兩旁《カタ/\》にはよりあはせずして、片絲《カタイト》によりたるを云り、○本(ノ)句は、片絲《カタイト》もて貫たる、玉の緒の弱さに、玉の亂(レ)散る意に、いひかけたる序なり、○歌(ノ)意は、わが中の、かくみだれわかるゝ時に至りて、戀しく思はずてあらむやは、さても堪がたきわざぞ、となり、亂時は、互に離るゝ時をいふべし、
 
3082 君爾不相《キミニアハズ》。久成宿《ヒサシクナリヌ》。玉緒之《タマノヲノ》。長命之《ナガキイノチノ》。惜雲無《ヲシケクモナシ》。
 
玉緒之《タマノヲノ》は、長《ナガ》のまくら詞なり、○長命《ナガキイノチ》は、年若くて、末の長き命をいへり、○歌(ノ)意は、君にあはずて、久しくなりぬる事のくるしさに、在《ナガラ》へてあらむも、かひなきことなれば、年若くて、末長き命の終む事の、さらに惜くもあらず、となり、十五に、和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ワギモコニコフルニアレハタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》、とあるは、表裏の云樣ながら、おつるところの意はひとつなり、十一に、四惠也壽之?無《シヱヤイノチノヲシケクモナシ》、此(ノ)上に、可消吾身惜雲無《ケヌベキアガミヲシケクモナシ》、なども見えたり、
 
3083 戀事《コフルコト》。益今者《マサレルイマハ》。玉緒之《タマノヲノ》。絶而亂而《タエテミダレテ》。可死所念《シヌベクオモホユ》。
 
戀事《コフルコト》、(略解に、事は、布か敷かの誤にて、コヒシクノ〔五字右○〕とありしか、と云れど、あらず、)十一に、戀事意追不得《《コフルコトコヽロヤリカネ》云々、(かくあれば、こゝもなほもとのまゝなり、)○玉緒之絶而《タマノヲノタエテ》は、亂《ミダレ》をいはむ料にて、玉(ノ)緒の緒斷《ヲタエ》して、貫たる玉の亂るゝ意のつゞきなり、○歌(ノ)意は、戀しく思ふ事の益れる今は、心(366)も千《チヾ》に亂て、死ぬべくのみおもはるゝ、となり、○以上三首、玉緒に寄てよめるなリ、
 
3084 海處女《アマヲトメ》。潜取云《カヅキトルチフ》。忘貝《ワスレガヒ》。代二毛不忘《ヨニモワスレジ》。妹之光儀者《イモガスガタハ》。〔頭註、【一首寄v貝、】〕
 
本(ノ)句は、忘《ワスレ》をいはむ料の序なり、○代二毛不忘《ヨニモワスレジ》は、世(ノ)中にあるが中にも、殊にとり別て忘れじ、と云意なり、代《ヨ》に嬉しき、世《ヨ》に悲しきなど云(フ)世《ヨ》みな同じ、○歌(ノ)意は、世(ノ)中に、忘れがたく、しのばしきことは、多かるが中にも、妹が容儀のうるはしきをば、つひにわすらるゝ世あらじ、となり、○此(ノ)一首、貝に寄てよめるなり、
 
3085 朝影爾《アサカゲニ》。吾身者成奴《ワガミハナリヌ》。玉蜻《タマカギル》。髣髴所見而《ホノカニミエテ》。往之兒故爾《イニシコユエニ》。〔頭註、【二首寄v蟲、重出】〕
 
十一に、朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユエニ》、とあると、全(ラ)同歌なり、彼處に委(ク)註り、さて彼(ノ)卷には、正述2心緒1の標内、人麿歌集中の歌とし、此(ノ)卷には、寄v物陳v思の標内、人麿歌集(ノ)外の歌とせるを、異とす、(但し蜻(ノ)字は書たれども、玉蜻は、虫(ノ)名に有ざる由、余(ガ)考あり、撰者は、蜻(ノ)字を書るに依て、蟲(ノ)名と心得て、こゝに收《イレ》しか、又按(フ)に、此歌の前に、寄v貝歌を載、後に寄v蚕歌を載たり、玉蜻を蟲(ノ)名と心得て、後人の加へしならば、此所を除くべし、十一に出たるを、正しとす、)
 
3086 中中二《ナカナカニ》。人跡不在者《ヒトトアラズハ》。桑子爾毛《クハコニモ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》。玉之緒許《タマノヲバカリ》。
 
中中二《ナカ/\ニ》は、なまなかにといふ意なり、既くあまた處に出たり、○人跡不在者《ヒトトアラズハ》は、人とあらむよりは、といふ意なり、これも既く註(ヘ)り、三(ノ)卷に、中中二人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞《ナカ/\ニヒトトアラズハサカツホニナリテシカモサケニシミナム》、○(367)玉之緒計《タマノヲバカリ》は、(計(ノ)字、舊本には許と作り、今は拾穗本に從つ、)玉(ノ)緒の短き間を云て、たゞ少間《シバシノマ》をいふ言なり、既く出つ、○歌(ノ)意は、なまなかに人となりて、かく苦しき物思(ヒ)をせむよりは、少間《シバシ》ばかり蚕《クハコ》になりてだに、雌雄《メヲ》はなれず、たぐひてあらましものを、となり、蚕は命短かけれども、雌雄むつましく、ちぎりふかきものなるゆゑに、うらやみていへるなり、さて伊勢物語に、今の歌を、中々にこひにしなずばくは子にぞなるべかりける玉のをばかり、と載て、一(ツ)の物語をつくれり、○以上二首、蟲に寄てよめるなり、
 
3087 眞菅吉《マスガヨシ》。宗我乃河原爾《ソガノカハラニ》。鳴千鳥《ナクチドリ》。問無吾背子《マナシワガセコ》。吾戀者《ワガコフラクハ》。〔頭註、【九首寄v鳥、】〕
 
眞菅吉ハ本居氏の、マスガヨシ〔五字右○〕と訓る宜し、宗我《ソガ》の枕詞なり、推古天皇(ノ)紀(ノ)大御歌に、摩蘇餓豫蘇餓能古羅破《マスガヨソガノコラハ》云々、○宗我乃河原《ソガノカハラ》は、神名式に、大和(ノ)國高市(ノ)郡宗我(ニ)座|宗我都比古《ソガツヒコノ》神社二座、(並大、月次新嘗、)とあり、今も飛鳥(ノ)里の西北に、宗我村ありて、そこに河ありて、即(チ)檜隈川の末流なりとぞ、○本(ノ)句は、河千鳥《カハチドリ》の屡々鳴をもて、間無《マナシ》といはむ料の序とせり、○歌(ノ)意は、わが戀しく思ふ心は、間も時もなし、吾(ガ)夫子《セコ》よ、といへるなり、
 
3088 戀衣《カラコロモ》。著楢乃山爾《キナラノヤマニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。間無時無《マナクトキナシ》。吾戀良苦者《ワガコフラクハ》。
戀衣ハ、戀は、辛(ノ)字の誤寫なり、カラコロモ〔五字右○〕と訓べし、さて奈良をいはむとて、衣を着褻《キナラ》すと云意に、いひつゞたり、六(ノ)卷に、韓衣服楢乃里《カラコロモキナラノサト》、とよめり、○本(ノ)句は、序なり、三(ノ)卷に、高※[木+安]之三笠乃(368)山爾鳴鳥之止者繼流戀喪爲鴨《タカクラノミカサノヤマニナクトリノヤメバツガルヽコヒモスルカモ》、とよめる如く、鳴鳥の止(ム)時なき意もて、間無《マナク》とつゞけなしたり、○歌(ノ)意は、上なるにおなじ、
 
3089 遠津人《トホツヒト》。獵道之池爾《カリヂノイケニ》。住鳥之《スムトリノ》。立毛居毛《タチテモヰテモ》。君乎之曾念《キミヲシソモフ》。
 
遠津人《トホツヒト》は、まくら詞なり、遠つ人の鴈《カリ》といふ意につゞきたり、十七に、氣佐能安佐氣秋風左牟之登保都比等加里我來鳴牟等伎知可美香物《ケサノアサケアキカゼサムシトホツヒトカリガキナカムトキチカミカモ》、○獵道之池《カリヂノイケ》は三(ノ)卷に、長(ノ)皇子(ノ)遊2獵獵路(ノ)池(ニ)1之時、柿本(ノ)朝臣人麿(カ)作(ル)歌云々、とある、同處なるべし、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、起ても居ても、止時なく、君を一(ト)すぢに、戀しくのみぞ思ふ、となり、
 
3090 葦邊往《アシヘユク》。鴨之羽音之《カモノハオトノ》。聲耳《オトノミヲ》。聞管本名《キヽツヽモトナ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
本(ノ)二句は、聲《オト》といはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、音に聞つゝ居るのみにて、長の月日を、むざ/\と戀しく思つゝ、過すことかな、となり、
 
3091 鴨尚毛《カモスラモ》。己之妻共《オノガツマドチ》。求食爲而《アサリシテ》。所遺間爾《オクルヽホトニ》。戀云物乎《コフチフモノヲ》。
 
己之妻共《オノガツマドチ》は、俗に己之夫婦《オノガメヲト》どうしといふ意なり、(都麻《ツマ》とは、妻《メ》よりは夫《ヲ》をさしていひ、夫《ヲ》よりは妻《メ》をさしていひ、又夫婦一連《メヲヒトツラネ》を、すべてもいへば、こゝの妻共《ツマドチ》は、夫婦《メヲト》どうしと云ことにて、今(ノ)俗に、つれあひどうしと云に同じ、妻(ノ)字には、拘るべきにあらず、)○所遺は、所《ルヽ》v後《オクラサ》意にて、雄《ヲ》にまれ、雌《メ》にまれ、先(キ)立(チ)飛て、後《オク》らさしむるを謂り、○歌(ノ)意は、鴨にてさへも、己が雄雌《メヲ》共に求食《アナリ》し(369)て、飛(ヒ)立(チ)行(ク)とき、少し立(チ)後れたる間《ホド》をも、戀(ヒ)慕て鳴と云ものを、まして人なるわれや、かくわかれ居て、何《イカ》で戀しく思はざらむ、となり三(ノ)卷に、輕池之※[さんずい+内]回往轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カルノイケノウラミモトホルカモスラモタマモノウヘニヒトリネナクニ》、
 
3092 白檀《シラマユミ》。斐大乃細江之《ヒダノホソエノ》。菅鳥乃《スガトリノ》。妹爾戀哉《イモニコフレヤ》。寢宿金鶴《イヲネカネツル》。
 
白檀《シラマユミ》は、枕詞なり、弓を引撓《ヒキタム》るといふ意にかゝれり、○斐太乃細江《ヒダノホソエ》、略解に大和(ノ)國葛城(ノ)郡にも、高市(ノ)郡にも、斐太《ヒダ》と云(フ)村有と云ど、江といふばかりの、大沼有とも聞えず、されど三(ノ)卷に、輕の池の入江といひ、後にも、此(ノ)川の入江などよみて、海ならねど川にもいへり、又十四、未v得2勘知1國(ノ)歌と云る中に、比多我多能伊蘇乃和可米《ヒタガタノイソノワカメ》、とよめり、今も此(ノ)ひたがた、同じ所歟といへり、(但十四なる比多我多《ヒタガタ》は、多《タ》の言清て唱へ、今の歌の斐太《ヒダ》は太《ダ》の言濁りて唱ふめれば、なほ別地ならむか、又は比太我多《ヒダガタ》と連ねるときは、濁音疊る故に、同地ながら、故《コトサラ》に清て唱へしにもあらむか、)○菅鳥乃《スガトリノ》は、此(ノ)鳥の妻戀する意にいひつゞけて、妹爾戀《イモニコフ》といはむための序とせり、さて菅鳥は、いかなる鳥にか、古(ヘ)より定かにしれる人なし、岡部氏が、つゝ鳥てふものあれば、菅は、管の誤字にや、と云るは、さもありぬべくおぼえたり、なほ品物解に註り、○戀哉《コフレヤ》は、戀しく思へばにやの意なり、○寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐と作り、○歌(ノ)意は、斐太の細江にすむ菅鳥の妻戀する如く、妹を戀しく思へばにや、かくよもすがら、いねがてなりつらむ、と云(370)にて、さて忘れては、かくいねられぬは、いかなる故ぞ、と問(ヒ)をかけて、それに答ふるやうに、いひなしたるなり、(菅鳥も、吾(ガ)如く、妹を戀しく思へばにや、いねがてなりつる、と云意とも聞ゆれど、さにあらず、菅鳥毛《スガトリモ》となきを思ふべく、又尾(ノ)句をも味ひて、さる謂《ヨシ》ならぬを知べし、)
 
3093 小竹之上爾《シヌノヘニ》。來居而鳴鳥《キヰテナクトリ》。目乎安見《メヲヤスミ》。人妻※[女+后]爾《ヒトヅマユヱニ》。吾戀二來《アレコヒニケリ》。
 
本(ノ)二句は、目《メ》をいはむ料の序にて、略解に云る如く、鳴鳥《ナクトリ》の群《ムレ》とかゝれり、牟禮《ムレ》は、米《メ》と切れり、小竹之眼《シヌノメ》と云も、小竹之群《シヌノムレ》を云におなじきを思ふべし、(鴎《カマメ》、※[旨+鳥]《シメ》、燕《ツバメ》、雀《スヾメ》など鳥(ノ)名に米《メ》と云ることの多きも、みな群り集るものなるによりて、負る稱なるべし、)○目乎安見《メヲヤスミ》は、目安く惡からぬ故に、といふ意なり、すべて目安《メヤスキ》は、見惡《ミニク》きの反《ウラ》にて、愛賞《ウツクシミ》することを云言なり、(易《ヤスキ》v見《ミ》よしにはあらず、源氏物語桐壺に、(桐壺更衣の事を、)さまかたちなどの、めでたかりしこと、心ばせの柔和《ナダラカ》に目安く、惡み難かりし事など、今ぞおぼし出る、云々、○人妻※[女+后]爾《ヒトヅマユヱニ》は、人妻なるものをの意なり、一(ノ)卷に、紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人嬬故爾吾戀目八方《ムラサキノニホヘルイモヲニククアラバヒトヅマユヱニアガコヒメヤモ》、十(ノ)卷に、朱雁引色妙子數見者人妻故吾可戀奴《アカラピクシキタヘノコヲシバミレバヒトヅマユヱニアレコヒヌベシ》、などあるに同じ、さて※[女+后](ノ)字、ユヱ〔二字右○〕とよむことは、既くいへり、○歌(ノ)意は、他妻なるものを、見惡からずうるはしきが故にこそ、なほ堪忍ぶことを得ずして、かく戀しく思(フ)なれ、となり、
 
3094 物念常《モノモフト》。不宿起有《イネズオキタル》。旦開者《アサケニハ》。利備※[氏/一]鳴成《ワビテナクナリ》。鷄左倍《ニハツトリサヘ》。
 
(371)旦開者《アサケニハ》は、爾波《ニハ》とは、他にむかへて云詞にて、他(ノ)朝にはしからず、かゝる朝開《アサケ》にはとの意なり、
○和備※[氏/一]《ワビテ》は、俗に、力(ラ)落して、と云意なり、○鷄、舊本〓に誤れり、庭津鳥《ニハツトリ》と云は、もと鷄《カケ》の枕詞にて、野津鳥雉《ヌツトリキヾシ》、奥津鳥鴨《オキツトリカモ》、島津鳥※[盧+鳥]《シマツトリウ》などの例なり、さて直に其を鳥の名にしていふは、※[盧+鳥]《ウ》をやがて島津鳥《シマツトリ》ともいふ類なり、○歌(ノ)意は、人を戀しく思ひて、おき明したる朝開には、吾(カ)身のみにはあらず、吾(カ)家に飼る鷄さへも、わびしみ力(ラ)落して鳴なるは、彼(レ)も心あるにこそ、となり、契冲、十一に、我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガセコアガコヒヲレバワガヤドノクササヘオモヒウラカレニケリ》、とあるを引て、もの思ふとて、いねずしておくる心から、鷄の聲さへ、わびて鳴と聞ゆるは、草さへ思ひうらがるゝ、といへる意に同じ、と云り、
 
3095 朝烏《アサガラス》。早勿鳴《ハヤクナナキソ》。吾背子之《ワガセコガ》。旦開之容儀《アサケノスガタ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
 
悲《カナシ》とは、懽《ウレ》しきことにも、憂《ウ》きことにも、深く歎息《ナゲカ》るゝときに、いふ詞なり、○歌(ノ)意は、朝烏の鳴を聞ば、すはや夜が開《アク》よとて、夫の起(キ)出て去《イヌ》るに、其(ノ)起て別るゝ容儀の、見るにしのび得ず、憂愁《カナ》しみに堪がたきによりて、早く鳴ことなかれ、となり、(遊仙窟に、可憎病鵲夜半《アナニクノヤモメガラスノヨナカニ》驚(ス)v人(ヲ)、)十一に、旦戸遣乎速莫開味澤細目之乏視君今夜來座有《アサトヤリヲハヤクナアケソウマサハフメヅラシキミガコヨヒキマセリ》、○以上九首、鳥に寄てよめるなり、
 
3096 ※[木+巨]※[木+若]越爾《ウマセコシニ》。麥咋駒乃《ムギハムコマノ》。雖詈《ノラユレド》。猶戀久《ナホシコフラク》。思不勝烏《シヌヒカネツモ》。〔頭注、【四首寄v獣、】〕
 
※[木+巨]※[木+若]越爾は、十四に、宇麻勢胡之《ウマセコシ》云々、又四(ノ)卷に、赤駒之越馬棚乃《アカゴマノコユルウマセノ》云々、とあるによりて、ウマセ(372)コシニ〔六字右○〕と訓べし、(舊訓に、マセゴシニ〔五字右○〕と訓るはわろし、六帖に、ませごしにむぎはむこまのはつはつにおよばぬこひもわれはするかな、とあるも、ウマセ〔三字右○〕を、マセ〔二字右○〕と訛略《ヨコナマ》れるなり、枕册子に、あをざしといふ物を、人のもてきたるを、青きうすやうを、艶なる硯の蓋にしきて、これませごしにさぶらへばと、まゐらせたれば云々、とあるは、今の歌にゆづりて、麥と云ことを思はせたるなり、さてこれにも、ませと云るは、この歌を、古(ク)より、よみ訛《ナマリ》たるによれり、馬を後に訛略《ヨコナマ》りて、マ〔右○〕といふほ、牧《ウマキ》をマキ〔二字右○〕、秣《ウマクサ》をマクサ〔三字右○〕と云など、其(レ)なり、されど言(ノ)首に、馬《ウマ》を略きて、マ〔右○〕と云ること、古くはなし、御馬駒《ミマコマ》など、マ〔右○〕とのみ云とは別なり、)抑々|宇麻勢《ウマセ》と云は、馬塞《ウマサヘ》の義なるべし、佐閇《サヘ》の切|勢《セ》となれり、(略解に、馬塞《ウマセキ》の意か、と云るは、いさゝかたがへり、關《セキ》と云も、塞城《サヘキ》の切れるなり、)さて※[木+巨]※[木+若](ノ)字を書るは、いかなる義にか、※[木+若]《シモト》をもて、馬柵を造りし故に、書る字とはおぼえたり、されど※[木+巨]字、未詳ならず、(※[木+若]は、延喜式に、シモト〔三字右○〕とよめり、集中十三には、※[木+若]垣《ミヅカキ》とあり、又※[木+巨]は拒を誤れるか、拒は禁ぐ義なれば、※[木+若]《シモト》をもて拒《フセグ》よしにて書るか、と云説あり、さることもあらむ、)猶考(フ)べし、○麥咋駒之《ムギハムコマノ》は、罵《ノラ》ると云(ハ)むとての序のみなり、田夫《タビト》の家の庭に、刈(リ)干(シ)たる麥を、馬柵《ウマセ》より頭をさしのべて、馬《ウマ》の咋を、人の罵《ノリ》いさむる意もて、續けたり、○雖罵《ノラユレド》は、罵禁《ノリイサ》めらるれどもの意なり、能流《ノル》とは、もと詔、宣などを云を、又人を惡み辱《ハヅカ》しめて言ことにも用(ヒ)たり○烏は、焉と通(ハシ)用たること、既く云り、(和名抄装束(ノ)部、烏帽の註に、俗訛v烏(ヲ)爲v焉(ト)、今按、烏焉或通、(373)見2文選註、玉篇等1、)○歌(ノ)意は、母などに罵りいさめらるれども、なほ一(ト)すぢに、君が戀しくおもはるゝに、堪がたきことよ、と女のよめるなるべし、
 
3097 左檜隈《サヒノクマ》。檜隈河爾《ヒノクマガハニ》。駐馬《ウマトヾメ》。馬爾水令飲《ウマニミヅカヘ》。吾外將見《アレヨソニミム》。
 
左檜隈檜隈河《サヒノクマヒノクマガハ》といへるは、御吉野之吉野山《ミヨシヌノヨシヌノヤマ》など云に同じ、(岡部氏云、同じ事をかさねたる詞のうるはしさ、歌てふ物のみやびは、こゝに有めり、後(ノ)世人は、いかで忘れけむ、)さてその左檜隈《サヒノクマ》の左《サ》は、御吉野《ミヨシヌ》、眞熊野《マクマヌ》など云|御《ミ》眞《マ》に同じ、檜隈《ヒノクマ》は、二(ノ)卷、七(ノ)卷等に出て、既く云り、○馬は、二(ツ)共にウマ〔二字右○〕と訓べし、(コマ〔二字右○〕とよめるは甚わろし、馬(ノ)字、コマ〔二字右○〕とよめる例、さらになきことなり、)○水令飲《ミヅカヘ》は水を飲《ノマ》せよ、と云意なり、すべて養《ヤシナ》ふ畜獣《モノ》に、草|食《ハマ》せ水|飲《ノマ》せするを、可布《カフ》といへり、俊成(ノ)卿、駒とめて猶水かはむ山ふきの花の露そふ井手の玉川、○歌(ノ)意は、檜(ノ)隈河にて、馬に水飲せて、しばしとゞまり賜へ、あかぬわかれの悲しさに、吾よそにだに、今しばらく見まゐらせむを、となり、古今集、大歌所の御歌に、さゝのくまひのくまがはに駒とめてしばし水かへ影をだに見む、とあるは、今の歌を、うたひ誤りたるものなり、
 
3098 於能禮故《オノレユヱ》。所詈而居者《ノラエテヲレバ》。※[馬+総の旁]馬之《アシゲウマノ》。面高夫駄爾《オモタカブタニ》。乘而應來哉《ノリテクベシヤ》。
 
此(ノ)歌、すべて左註に依て解り、其(ノ)心して見べし、○於能禮故《オノレユヱ》とは、己(レ)故にて、己に密通《ミソカゴトセ》し所故《ユヱ》によりての意なり、○所罵而居者《ノラエテヲレバ》は、公《オホヤケ》の咎《トガ》めにあひて、左降《ハナタ》れて居(レ)ば、といふなるべし、○※[馬+総の旁]馬《アシゲウマ》(374)は、和名抄に、説文(ニ)云、※[馬+怱](ハ)青白雜毛(ノ)馬也、漢語抄(ニ)云、※[馬+怱](ハ)青馬也、黄※[馬+怱]馬(ハ)葦花毛馬《アシノハナゲウマ》也、日本紀私記云、美太良乎乃宇萬《ミダラヲノウマ》、また毛詩註(ニ)云、※[馬+總の旁](ハ)蒼白雜毛(ノ)馬也、漢語抄(ニ)云、騅馬(ハ)鼠毛也、爾雅註(ニ)云、※[草がんむり/炎]騅(ハ)青白如v※[草がんむり/炎](ノ)色也、今按(ニ)、※[草がんむり/炎]者蘆初生也、俗(ニ)云|葦毛《アシゲ》是(ナリ)、○面高夫駄《オモタカブタ》とは、夫駄《ブタ》は、(契冲、人夫などの、荷を負する馬なるべし、といへれど、證なし、又夫駄とは書たれど、字音の言にはあらじをや、)駁《フチ》なるべし、(但し布知馬《フチウマ》の布知《フチ》は、二言ともに、必清べきことなれど、布《フ》は、上の面高より、直に連きたれば、音便に濁るべし、駄は濁るべき由なければ、清音(ノ)字を用べきに、馬に所由ある假字《カナ》書せむとて、中々に取はづして用たるか、太(ノ)字をも、清べき所に用たる事、集中に多きと、同例なり、)和名抄に、説文云、駁(ハ)不2純色1馬也、俗(ニ)云|布知無萬《フチムマ》、とあり、(俗(ニ)云と云ること、いかゞ、)さて※[馬+総ノ旁]《アシゲ》も、もとより蒼白雜毛なるをいへば、蒼白の純色ならざるを、※[馬+総ノ旁]《アシゲ》の駁馬《フチウマ》といはむに、妨なかるべし、面高《オモタカ》といへるは、馬はもとより、面を高くさしあげて、歩むものなるに、王《オホキミ》の心あがりして、面高くほこりかに、馬に乘てかよひ賜ひし形容をよそへて、のたまへるにやあらむ、(枕册子に、草は云々、おもだかも名のおかしきなり、心あがりしけむと思ふに云々、とあるを、考(ヘ)合(ス)べし、)○御歌(ノ)意は、王《オホキミ》は我に密通せし咎めによりて、遙《ハルケ》き伊與(ノ)國に左降《ハナタ》れてあれば、こしかたの如く、※[馬+総ノ旁]《アシゲ》の面高き駁馬《フチウマ》にのりて、わが許に、又更に通來賜ふべしやは、されば今よりは、ありし時のさまをのみ思ひ出て、慕ひ居むに、いと堪がてなるよし、のたまへるにて、高安(ノ)王の左降せられしを、(375)歎きたまへるにやらむ、
〔右一首。平羣(ノ)文屋(ノ)朝臣益人傳(テ)云。著聞紀(ノ)皇女竊2嫁高安王(ニ)1被v責之時。御2作此歌(ヲ)1。但高安(ノ)王(ハ)左降。任2之伊與(ノ)國守(ニ)1也。〕
益人は、傳未(ダ)詳ならず、○紀(ノ)皇女は、御傳、二(ノ)卷上に、委(ク)云り、○高安(ノ)王は、傳四(ノ)卷上に、委(ク)云り、○責(ノ)字、官本、古寫本、拾穗本等には、嘖と作り、○契冲云、紀(ノ)皇女は、天武天皇の皇女、高安(ノ)王は、和銅六年正月に、初て從五位下に叙せられ、養老元年正月に、從五位上に昇進せられて、紀(ノ)皇女に事のありしは、その年の事なるべし、元正天皇(ノ)紀に、養老三年七月、令d伊豫(ノ)國(ノ)守從五位上高安(ノ)王(ニ)管(ヘ)c阿波讃岐土佐三國(ヲ)u、
 
3099 紫草乎《ムラサキヲ》。草跡別別《クサトワクワク》。伏鹿之《フスシカノ》。野者殊異爲而《ヌハコトニシテ》。心者同《コヽロハオヤジ》。
 
紫草乎《ムラサキヲ》云々は、岡部氏云、鹿は、只の草と紫とを撰(リ)分て、其(ノ)紫ある處に伏(ス)といへり、○別々《ワク/\》は、別《ワケ》つゝと云が如し、刈々《カル/\》は、刈《カリ》つゝと云が如く、、零々《フル/\》は、零《フリ》つゝと云がごとくなるに同じ、○歌(ノ)意は、紫草のある方を撰(リ)分つゝ、鹿どもの臥處《フシド》を定めて伏(ス)野は、その鹿の牡《メ》と牝《ヲ》と、處は各別なれど、牡牝通はす心は異ならず、同じきが如ク、君と吾と住處は異なれど、互になつかしむ心魂は、同じことぞ、といへるにや、中山(ノ)嚴水、紫草は、柴草の誤にて、道之柴草《ミチノシバクサ》とよめるに、同じか(376)るべし、といへり、かの道之柴草《ミチノシバクサ》は、柴と書るは借(リ)字にて、莱草《シバクサ》なり、(つねに芝《シバ》とかくものなり、)げにも。紫草《ムラサキクサ》は、鹿の臥(ス)野山ごとに、生てあらむこと、おぼつかなければ、柴草なりしにてもあらむ、さて莱草《シバクサ》は、寢處《フシド》とするに、柔軟《ヤハラカ》にして宜しければ、他《アダシ》草と撰び別つゝ臥(ス)といふことにや、猶よく考ふべし、
 
3100 不想乎《オモハヌヲ》。想常云者《オモフトイハバ》。眞鳥住《マトリスム》。卯名手乃社之《ウナテノモリノ》。神思將御知《カミシシラサム》。〔頭註、【一首寄2神社1、】〕
 
眞鳥住卯名手乃社《マトリスムウナテノモリ》は、七(ノ)卷に出て既く註り、さて卯名手《ウナテノ》神社にまします神は、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞に、己命乃御子《オノレミコトノミコ》、事代主命能御魂乎《コトシロヌシノミコトノミタマヲ》、宇奈提爾坐《ウナテニマセ》云々、と見えたる、宇奈提《ウナテ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡|雲梯《ウナテ》村なれば、天武天皇(ノ)紀に元年秋七月庚寅朔壬子云々、先是軍2金綱井《カナツナヰニ》1之時、高市(ノ)郡(ノ)大領高市(ノ)縣主|許梅《コメ》、〓忽口閇而不能言也《ニハカニクチヲツクヒテエモノイハズ》、三日之後《ミカバカリノノチ》、方著神以言《カムガヽリシテノリタマハク》、吾者高市(ノ)社(ニ)所居《マス》名(ハ)事代主(ノ)神(ナリ)、とある、即(チ)其(レ)にて、神名帳に、大和(ノ)國高市(ノ)郡高市(ノ)御縣(ニ)坐、鴨事代主(ノ)神社、(大、月次新甞、)と見えたる、是なるべし、かくて、同帳に、同國葛上(ノ)郡鴨都波八重事代主(ノ)命(ノ)神社二座、(名神大、月次相甞新甞、)とあるは、同神にまし/\ながら、葛上(ノ)郡にて、地異なれば、別社なり、然るを、この葛上(ノ)郡なるは、今も社大きにして、神威いちじるきを、雲梯村なるは、今はその神社も、さだかにしられずなりぬるよしなるは、いかなることにか、さばかり嚴重《イカシ》かりし大社の衰微《オトロヘ》ぬるは、かしこしとも、かし(377)こきわざならずや、〔頭註、【嚴水云、神賀詞に事代主命波宇奈提乃神奈備爾坐、と有は、傳の混(レ)たるにて、宇奈提は加夜奈流美命命に坐よし、本居翁の後譯に見えたり、此説然るべし、】〕○歌(ノ)意は、思はぬを、うはへに僞りつくろひて、思ふといふべきにあらず、もし僞りて、思はぬを、思ふといふとならば、卯名手の神社の神こそ、證據《アカシ》にたちたまふなるべけれ、卯名手の社の御神は、かしこくも言代主(ノ)神にまし/\て、世(ノ)中の人のあらゆる、諸の言語をしろしめし、眞僞をも、きこしめしわきたまへば、わがいふことの虚言ならむには、忽(チ)その御神の咎め給ひて、まのあたり、凶事をほどこしたまふことなれば、人を欺きて虚言いはむは、かしこきことのかぎりなり、さればゆめ/\僞り申すべきにあらぬをや、となり、そもそも事代主(ノ)神の、世(ノ)中の人の一あらゆる言語を、掌《ツカサド》り治《シロ》しめす謂は、先(ヅ)御名を、古くは言代主(ノ)神とも書たる、言(ノ)字の義にて、事と作《カケ》るは借(リ)字なり、さて言は、言靈をいひ、代と書るも借字にて、治《シル》なり、神代紀に、汝(カ)所《セル》v治《シラ》顯露事《アラハニコトハ》、宜(ベシ)2是|吾孫治《アガミコシラス》1云々、とある治《シル》なり、主《ヌシ》は、神(ノ)名に多きことにて、之大人《ノウシ》の約れるなり、されば、世(ノ)中の一あらゆる言靈を、掌《ツカサド》り治《シロ》しめす大人《ウシ》の神、と申す義なり、かくて御父大國主(ノ)神を、古くは物代主(ノ)神と稱《マヲ》せしことのある、さるは皇御孫(ノ)命の御天降の時に、天(ノ)下を事避ましますとて、吾|治《シラ》せる顯露事《アラハニコト》は、皇御孫(ノ)命|治《シロ》しめせ、吾は退隱《カクリ》て幽冥事《カムコト》治《シリ》なむと、神契《ミウケヒ》ましましゝより、大國主(ノ)神は、幽冥事《カムコト》しろしめすによりて、天(ノ)下のあらゆる、萬(ヅ)の物の吉凶禍福《ヨコトマガコト》を、人の目に見せず、掌《ツカサド》り治《シロ》しめすが故に、物治之大人《モノシロノウシ》と稱《マヲ》し、御父子神を、物治《モノシロ》、言治《コトシロ》と並べ稱《タヽ》へ奉(378)りて、ことに嚴《オゴソカ》に拜《イツ》き祭るべき神にましますによりて、昔よりこの二柱(ノ)神を、家毎に、並《アハ》せ安置《マセ》て、崇め祀りしと見ゆ、(世に大黒、惠美須と申す、これなり、大國と申すは、大國主(ノ)神と申す御號の大國に、佛家の大黒天を附會《ヒキヨ》せたることさらなり、惠美須は、西(ノ)宮の神にて、蛭兒《ヒルコ》なりとするは、いかなるよしにて、云そめたることにか、おぼつかなし、これは大穴牟遲、事代主(ノ)神の二柱にますこと、確據あることにて、別にくはしく記したるものあり、)かくて神功皇后(ノ)紀(ノ)始、神の御教言に、於v天《アメ》事代於v虚《ソラ》事代、玉籤入彦巌之《タマクシイリヒコイヅノ》事代(ノ)神|有之《アリ》也、云々、とあるも、この神のこととおぼしく七、天《アマ》つ虚《ソラ》をかけりいでまして、諸人《ヒト/”\》の言語を、聞《キカ》し治《シロ》しめす謂にて、於v天|言治《コトシロ》於v虚|言治《コトシロ》とは、のたまへるならむ、さればあるが中にも、この御社の神をいひ出て、わがいふ言語に、もし虚僞あらむとならば、世(ノ)中の諸の言語を掌り治《シロ》しめす、言代主(ノ)神こそ、證《シラ》したまふべきことなれ、といへるなり、さて此(ノ)神(ノ)名に、古くは言(ノ)字を書ること、また八重言代主(ノ)神とも、積羽《ツミハ》八重事代主(ノ)命とも、都波《ツハ》八重事代主(ノ)命とも申せしこと、かくて又大國主(ノ)神を、物代主(ノ)神と申せしこと、又この神の和御魂《ニキミタマ》を、大倭の大三輪にいつきまつりてより、その和御魂にかぎりて、大物主(ノ)神と申すがごと、人皆意得つめれど、神代紀一書には、大物主(ノ)神と申すをも、大國主(ノ)神の亦名《マタノミナ》と見えたるごとく、大物主(ノ)神と申すは、なべてに亙りて申せし一(ノ)名にて、倭大物主櫛瓦玉《ヤマトノオホモノヌシクシミカタマノ》命と申すぞ、大三輪にます、和御魂にはかぎりたることなど、委くは別に論へり、(379)四(ノ)卷に、不念乎思常云者大野有三笠杜之神思知三《オモハヌヲオモフトイハバオホヌナルミカサノモリノカミシシラサム》、又、不念乎思常云者天地之神祇毛知寒《オモハヌヲオモフトイハバアメツチノカミモシラサム》邑禮左變、ともあり、○此(ノ)一首、神社に寄てよめるなり、
 
萬葉集古義十二卷之中 終
 
(380)萬葉集古義十二卷之下
 
問答歌《トヒコタヘノウタ》。二十六首。人麿集外〔八字□で囲む〕。
 
3101 紫者《ムラサキハ》。灰指物曾《ハヒサスモノソ》。海右榴市之《ツバイチノ》。八十街爾《ヤソノチマタニ》。相兒哉誰《アヒシコヤタレ》。
 
紫者《ムラサキハ》云々は、海石榴市《ツバイチ》をいはむとての序なり、紫色《ムラサキイロ》を染るときは、衣さすものぞ、海石榴《ツバキ》といふ意のつゞけなり、紫を染るには、椿《ツバキ》の灰のあくをさして、染ればなり、和名抄に、蘇敬(カ)云、又有2※[木+令]灰1、燒2於木葉(ヲ)1作之、並入2染用(ニ)1、今按(ニ)、俗(ニ)所謂椿灰等是也、後拾遺集、齋宮(ノ)女御、紫に八入《ヤシホ》染たる藤の花池に灰さす物にぞありける、源氏物語末採花に、紫の紙の年經にければ、灰おくれふるめいたるに云々、眞木柱に、なとてかく灰あひがたきむらさきを、心に深く思ひそめけむ、今按に、紫者とある、いさゝか穩ならず聞ゆ、若は者は之の誤などにて、ムラサキノ〔五字右○〕にはあらざるにや、○海石榴市《ツバイチ》は、上に註り、○歌(ノ)意は、椿市《ツバイチ》の八十と街の數多くある道にて、行逢たる女は、をも誰にてありけるぞ、となり、此(ノ)歌は、椿市の街に行あひたる女に、頓《タチマチ》に目とまり、見過しがたくて、從者などして、そのあとを追行て、家處を尋て贈入たるなるべし、(大和物語に、な(381)かごろはよき人々、市にいきてなむ、色このむわざしける、拾遺集雜戀に、すぐろくのいちばにたてる人づまのあはでやみなむ物にやはあらぬ、などある、考(ヘ)合(ス)べし、但し今の歌なるは、わざわざ市街に出て、色好のわざしけるものとはきこえず、ふと女にあひて、心とまりしさまなり、)
 
3102 足千根乃《タラチネノ》。母之召名乎《ハヽガヨブナヲ》。雖白《マヲサメド》。路行人乎《ミチユクヒトヲ》。孰跡知而可《タレトシリテカ》。
 
母之召名乎《ハヽガヨブナヲ》とは、たゞ自(ラノ)名なればあながちに母にかぎらず、其父母ともに呼ことなれど、女はもはら、母のもとに居るならひなれば、母の呼名といへる、いと面白し、さて少き女は、夫と定りて、嫁《アフ》ことを許《ユ》す人ならでは、名を告(ゲ)知さぬこと、古(ヘ)のならはしにて、其(ノ)趣かたがたに見えたり、○歌(ノ)意は、誰そと問れしからは、速《スミヤカ》に、名を告(ゲ)知せまゐらすべきことながら、路行ぶりに、行あひたるのみの人なるを、誰人と知てか、打つけに名を告(ゲ)申すべきとなり、○岡部氏云、此(ノ)贈答の序のいひなしの、みやびておもしろく、和(ヘ)歌の有(リ)ふることのまゝにいひて、あはれに、且二者ともに、調のうるはしきなど、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮の始の頃の歌なり、歌はかくこそあるべきなれ、
 
右二首《ミギフタウタ》。 
 
3103 不相《アハナクハ》。然將有《シカモアリナム》。玉梓之《タマヅサノ》。使乎谷毛《ツカヒヲダニモ》。待八金手六《マチヤカネテム》。
 
(382)歌(ノ)意は、他心《ホカゴヽロ》ありてのわざとにはあらず、止事なく障《サハル》ことありて、直《タヾ》に得あはぬとならば、姑(ク)思ひのどめて、なほさてもありぬべきを、さらば言通はす使を得てだに、心をなぐさむべきに、其(ノ)使をさへ、待得ずしてやあらむ、さりとはつれなき君が心ぞ、とよめるなり、
 
3104 將相者《アハムトハ》。千遍雖念《チタビオモヘド》。蟻通《アリガヨフ》。人眼乎多《ヒトメヲオホミ》。戀乍衣居《コヒツヽソヲル》。
 
歌(ノ)意は、いな/\使を遣《オク》るまでもなく、直《タヾ》に行てあはむとは、幾度もおもへども、ありつゝ行かふ人目の多きを、はゞかりて、得行ずして、戀しくのみ思ひつゝ居るを ひそ、となり、
ゞかりて、得行ずして、戀しくのみ思ひつ >居るを、然《サ》のみな恨みたまひそ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3105 人目多《ヒトメオホミ》。直不相而《タヾニアハズテ》。蓋雲《ケダシクモ》。吾戀死者《アガコヒシナバ》。誰名將有裳《タガナナラムモ》。
 
誰名將有裳《タガナナラムモ》は、タガナナラムモ〔七字右○〕と訓べし、裳《モ》は歎息を含める助辭なり、○歌(ノ)意は、人目の多きにはゞかりて、行てあふことも得せずて、若(シ)わがこひ死に死たらば、誰が名はたゝじ、そこの名こそたゝめ、さてもいとほしや、となり、上に、里人毛謂告我禰縱咲也思戀而毛將死誰名將有哉《サトビトモカタリツグガネヨシヱヤシコヒテモシナムタガナナラメヤ》、古今集に、こひしなばたが名は立じ、世(ノ)中の常無(キ)物といひはなすとも、
 
3106 相見《アヒミマク》。欲爲者《ホシケクアレバ》。從君毛《キミヨリモ》。吾曾益而《アレソマサリテ》。伊布可思美爲也《イフカシミスル》。
 
欲爲者は、ホシケクスレバ〔七字右○〕にても、きこえはすれども、なほよく思ふに、爲は有(ノ)字なりけむを、(383)草書《ウチトケガキ》より、誤りつるものならむ、さらば、ホシケクアレバ〔七字右○〕と訓べし、(本居氏(ノ)説に、爲の下に、事(ノ)字を寫し脱せるものにて、欲爲事者《ホリスルコトハ》とありしなるべし、といへるは、いみじきひがことなり、もししかするときは、下の伊布可思美爲《イフカシミスル》と云こと、無用になるなり、相見《アヒミ》まく欲《ホリ》する事は、君よりも吾(レ)ぞ益れる、と云て、ことたるべきなり、相見《アヒミ》まく欲《ホ》しきことにて有ばこそ、君よりも吾が益りて、欝悒《イフカシミ》するなれ、と云意にこそあれ、よくことばの首尾を味察《アヂハヒミ》て、思ひ定むべきことなり、)○伊布可思美爲也《イフカシミスル》は、欝《オホヽシ》く結《ムスボホ》るゝ意なり、此(ノ)下に、家有妹伊將欝悒《イヘナルイモイイフカシミセム》、とあるも同じ、(後に不審することに云も、これより出たり、疑ひ思ふことは、心の結ぼほれて、さだかならぬより云り、しかるを不審がることのみをいぶかると云と思ふは、後(ノ)世(ノ)意にて、古(ヘ)をわすれたるなり、)也は、徒に添て書るのみなり、○歌(ノ)意は、起《タチ》ても居《ヰ》ても、外の事はなし、たゞひとへに、嗚呼《アハレ》いかで相見ま欲《ホシ》、相見まほしとのみ思ひてあれば、我(レ)こそ、君よりも益りて、欝悒《オホヽシ》く結《ムスボ》ほれてあることなれ、かゝれば君が戀死に死たらば、誰が名はたゝじなどのたまへども、もし戀死に死むには、吾こそさきに死ぬべけれ、といふ意を、思はせたるなり、二(ノ)卷に、秋山之樹下隱逝水乃吾許曾益目御念從者《アキヤマノコノシタガクリユクミヅノアコソマサラメオモホサムヨハ》、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3107 空蝉之《ウツセミノ》。人目乎繁《ヒトメヲシゲミ》。不相而《アハズシテ》。年之經者《トシノヘヌレバ》。生跡毛奈思《イケルトモナシ》。
 
(384)生跡毛奈思《イケルトモナシ》、既くあまた處に出たり、生《イキ》たる心神《コヽロト》も無(シ)、と云に同じ、(本居氏(ノ)玉勝間にいへるやう、二(ノ)卷に、衾路乎云々|生《イナル》跡毛無、また衾路云々|生《イケル》刀毛無、また天離云々|生《イケル》刀毛無、十一に、懃云云吾情利乃|生《イケル》戸裳名寸、十二に、萱草云々|生《イケル》跡文奈思、また空蝉之云々|生《イケル》跡毛奈思、また白銅鏡云々|生《イケル》跡毛無、十九に、白玉之云々|伊家流《イケル》等毛奈之、これら生るともなし、とよめる歌なり、いづれも十九の假字書にならひて、イケルトモナシ〔七字右○〕と訓べし、本にイケリトモナシ〔七字右○〕と訓るは誤なり、生る刀《ト》とは、刀《ト》は、利心《トコヽロ》、心利《コヽロト》などの利《ト》にて、生る利心もなく、心の空けたるよしなり、されば、刀《ト》は、辭《テニヲハ》の登《ト》にはあらず、これによりて、伊家流等《イケルト》とはいへるなり、もし辭ならば、さだまりのごとくイケリリトモナシ〔七字右○〕といふべし、又刀(ノ)字などは、てにをはのト〔右○〕には、用ひざる假字なり、これらを以て、古(ヘ)假字づかひの嚴なりしこと、又詞つゞけのみだりならざりしほどをも知べし、然るを、本にイケリトモナシ〔右○〕と訓るは、これらのわきだめなく、たゞ辭と心得たるひがことなり、とあり、しかるに、二(ノ)卷に、如是有刀豫知勢婆《カヽラムトカネテシリセパ》、十四に、安受倍可良古麻乃由胡能須安也波刀文《アズヘカラコマノユコノスアヤハトモ》、などあれば、刀(ノ)字てにをはのト〔右○〕には、用ひざる假字なり、とは云がたし、又イケルト〔四字右○〕と訓も、十九の假字書たゞ一(ツ)を、證として云ことなれど、もし彼(ノ)卷の假字書、誤字ならむも知べからずと、疑ふ人あらむには、他には、證とすべきものなし、されば、舊訓に、イケリトモナシ〔七字右○〕とあるも、むげなることゝも云がたからむ、且イケルトモナシ〔七字右○〕といはむよりは、なほ刀《ト》(385)を辭としてイケリトモカシ〔七字右○〕といはむかた、おだやかにきこゆるは、いかにかあらむ、しかれども、しばらく本居氏(ノ)定(メ)によりて、右のごとくよみつるなり、なほ人えらび給ひてよ、)○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3108 空蝉之《ウツセミノ》。人目繁者《ヒトメシゲクハ》。夜干玉之《ヌバタマノ》。夜夢乎《ヨルノイメニヲ》。次而所見欲《ツギテミエコソ》。
 
夜夢乎《ヨルノイメニヲ》とは、乎《ヲ》は其(ノ)事をつよくいふ時の助辭なり、夜(ノ)夢に決(メ)て見えよかし、との意なり、○次而所見欲《ツギテミエコソ》は、續て毎夜《ヨゴトニ》所見《ミエ》よかし、と云意なり、此(ノ)下に、全夜毛不落夢所見欲《ヒトヨモオチズイメニミエコソ》、とあるに、同意なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3109 慇懃《ネモコロニ》。憶吾妹乎《アガモフイモヲ》。人言之《ヒトコトノ》。繁爾因而《シゲキニヨリテ》。不通比日可聞《ヨドムコロカモ》。
 
憶吾妹乎は、吾憶を、憶吾に顛倒《オキタガヘ》たるにや、アガモフイモヲ〔七字右○〕、とあるべき處なればなり、上にも、與愛我念妹人皆之如去見耶手不纏爲《ウツクシトアガモフイモヲヒトミナノユクゴトミメヤテニマカズシテ》、とあえい、四(ノ)卷に、大原之此市柴乃何時鹿跡吾念妹爾今夜相有香裳《オホハラノコノイツシバノイツシカトアガモフイモニコヨヒアヘルカモ》、十一にも、惠得吾念妹者早裳死耶雖生吾邇應依人云名國《イキノヲニアガモフイモハハヤモシネヤモイケリトモアレニヨルベシトヒトノイハナクニ》、又、何爲命本名永欲爲雖生吾念妹安不相《ナニセムニイノチヲモトナナガクホリセムイケリトモアガモフイモニヤスクアハナクニ》、又、何名負神幣嚮奉者吾念妹夢谷見《イカナラムナオヘルカミニタムケセバアガモフイモヲイメニダニミム》、又、淡海之海奥津島山奥間經而我念妹之言繁苦《アフミノミオキツシマヤマオクマヘテアガモフイモガコトノシゲケク》、と見ゆ、○歌(ノ)意これもかくれなし、
 
3110 人言之《ヒトコトノ》。繁思有者《シゲクシアラバ》。君毛吾毛《キミモアレモ》。將絶常云而《タエムトイヒテ》。相之物鴨《アヒシモノカモ》。
 
(386)鴨《カモ》は、可《カ》は疑(ノ)辭、後(ノ)世の可波《カハ》の可《カ》なり、毛《モ》は、歎息を含める輔辭なり、○歌(ノ)意は、かくあひそめて後、もし人言の繁くは、其(ノ)時に中絶むといひて、こゝろみに逢しものかは、さはあらぬを、人言の繁きをはゞかりて、よどみたまふは、薄き心なり、さてもつれなき君や、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3111 爲便毛無《スベモナキ》。片戀乎爲登《カタコヒヲスト》。比日爾《コノゴロニ》。吾可死者《アガシヌベキハ》。夢所見哉《イメニミエキヤ》。
 
歌(ノ)意、相思ふ中ならば、然はあるまじきを、せむ爲便なき片戀に疲れて、頃日吾(ガ)死《シヌ》べく成たるを、さる疲勞の形貌の、そなたの夢にも見えしやいかに、といひおくれるなり、
 
3112 夢見而《イメニミテ》。衣乎取服《コロモヲトリキ》。装束間爾《ヨソフマニ》。妹之使曾《イモガツカヒソ》。先爾來《サキタチニケル》。
 
歌(ノ)意、相思ふ中ならば、然はあるまじきをと思ふべかめれど、さらに然《サ》にはあらず、此方よりも、そこの事を、ふかく思へばこそ、そこの形貌の夢に見えつるなれ、しか夢に見えしにより、心あわたゞしく装束して、とみに妹がり行むとする間に、そこの使の、先立てはやく來りし、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3113 在有而《アリサリテ》。後毛將相登《ノチモアハムト》。言耳乎《コトノミヲ》。堅要管《カタクイヒツヽ》。相者無爾《アフトハナシニ》。
 
在有而は、アリサリテ〔五字右○〕と訓べし、上に出つ、(上に、木綿疊田上山之狹名葛在去之毛不今有十方《ユフタヽミタナカミヤマノサナカヅラアリサリテシモイマナラズトモ》、)(387)在ながらへてといふが如し、○後毛將相登《ノチモアハムト》、上に、戀乍毛後將相跡思許増《コヒツヽモノチモアハムトオモヘコソ》、また戀々而後裳將相常名草漏《コヒ/\テノチモアハムトナグサムル》、十一に、核葛後相《サネカヅラノチニアハムト》、などいと多し、○竪要管は、カタクイヒツヽ〔七字右○〕と、岡部氏のよめる宜し、要《イヒ》は、いひ要期《チギル》意なり、次下に、不相登要之《アハジトイヒシ》、とあり、○歌(ノ)意は、今のみならずとも、在ながらへて月日を經る間に、後にも必相見むと、言ばかりを堅く要約《チギリ》つゝ、たのみに思はせおきて、いつまでも、あふとはなきことなるものを、さりとは心づよきしわざにてあるぞ、となり、
 
3114 極而《キハメテ》。吾毛相登《アレモアハムト》。思友《オモヘドモ》。人之言社《ヒトノコトコソ》。繁君爾有《シゲキキミナレ》。
 
極而は、キハメテ〔四字右○〕と訓て、四言一句なり、(舊印本には、此をキハマリテ〔五字右○〕と訓たれど、わろし、)三(ノ)卷に、將言爲便將爲使不知極《イハムスベセムスベシラニキハメテ》、貴物者酒西有良之《タフトキモノハサケニシアラシ》、とあり、(但し此をば、舊印には、キハマリテ〔五字右○〕と訓り、それも宜し、)○相の上、將(ノ)字を脱せしか、と略解にいへり、なくてもあるべきなれど、こゝは、上のかけ歌にも、將相とあれば、さもあるべきか、○歌(ノ)意、われも相(ハ)むと極ておもへど、人言繁く、いひさわぐ君なればこそ、それに憚りて、思ふ如く得逢(ハ)ね、さらに心づよきしわざにはあらぬをや、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3115 氣緒爾《イキノヲニ》。吾氣築之《アガイキヅキシ》。妹尚乎《イモスラヲ》。人妻有跡《ヒトヅマナリト》。聞者悲毛《キケバカナシモ》。
 
(388)氣緒《イキノヲ》は他處に、生緒《イキノヲ》ともかける正字《マサモジ》にて、命のことなれば、生(ノ)緒に氣築《イキヅク》とは、命にかけて、息衝き歎くことなり、○氣築《イキヅク》は、思の切なる時、ため息を衝ことなり、既くあまた處に出たり、十四に、於吉爾須毛乎加母乃毛巳呂也左可杼利伊伎豆久久伊毛乎於伎※[氏/一]伎努可母《オキニスモヲカモノモコロヤサカドリイキヅクイモヲオキテキヌカモ》、とある、乎加母乃毛巳呂《ヲカモノモコロ》は、如《モコロ》2小鴨《ヲカモノ》1にて、鴨の海中に頭を漬《ツケ》て求食《アサ》り、水より頭をあげて、ため息をつくより、息衝《イキヅク》といへるなり、○歌(ノ)意は、命にかけてまで、深く思ひ入たる妹にさへあるを、頃者聞ば、他人に契を交《カハ》せしとかや、さても/\かなしく、本意なきことぞ、となり、
 
3116 我故爾《ワガユヱニ》。痛勿和備曾《イタクナワビソ》。後遂《ノチツヒニ》。不相登要之《アハジトイヒシ》。言毛不有爾《コトモアラナクニ》。
 
歌(ノ)意、他人に契を結《カハ》せしと云は、人のいひなしにこそあらめ、君ならずして、他人によする心は、さらに侍らねば、ありながらへて、後終に君にあはじといひし言も、われはさらになきことなるものを、しかのみいたくわび給ふな、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3117 門立而《カドタテテ》。戸毛閉而有乎《トモサシタルヲ》。何處從鹿《イヅクヨカ》。妹之入来而《イモガイリキテ》。夢所見鶴《イメニミエツル》。
 
門立而《カドタテテ》は、門(ノ)戸を闔《タテ》てと謂なり、○戸毛閉而有乎は、本居氏のトモサシタルヲ〔七字右○〕とよめるぞよろしき、閉《サス》は、刺固《サシカタ》むるを云、さいばら東屋に、東屋の雨阿《マヤ》の餘(リ)の雨灑(ギ)、我立霑ぬ其(ノ)戸開かせ、鎹《カスガヒ》も?《トザシ》も有ばこそ、其(ノ)門の戸我刺め、押開いて來座(セ)吾や人妻、なほ次に云べし、○歌(ノ)意は、夢に妹(389)が入來て見えむことは、欲《ネガ》はしけれど、盗人を恐るゝ故に、夜は門(ノ)戸を闔《タテ》て、その戸に?を刺(シ)固めてあるを、いづくの隙より入來て、妹が夢に見えつるぞと、戯にいひやれるなり、
 
3118 門立而《カドタテテ》。戸者雖闔《トハサシタレド》。盗人之《ヌスヒトノ》。穿穴從《ヱレルアナヨリ》。入而所見牟《イリテミエシヲ》。
 
雖闔は、サシタレド〔五字右○〕とあるよろし、字鏡に、闔(ハ)合也、閇也、門乃止比良《カドノトビラ》、本居氏、古事記に、天照大御神、見畏(テ)閇《タテ》2天(ノ)石屋戸《イハヤトヲ》1而《テ》刺許母理《サシコモリ》坐(シキ)也、とあると、右の二首にて、多都留《タツル》と、佐須《サス》との差あることを知べし、刺《サス》は、たてたる戸に、物を刺(シ)て固むるを云、廿に、久留爾久枳作之加多米等之《クルニクギサシカタメトシ》、又十六に、櫃爾※[金+巣]刺藏而師《ヒツニクギサシヲサメテシ》、清寧天皇(ノ)紀に、※[金+巣]2閇《サシカタメ》外門(ヲ)1云々、和名抄に、?(ハ)度佐之《トサシ》、此も戸を刺(シ)固むる故の名なり、といへり、○盗人《ヌスヒト》、和名抄に、儔兒|奴須比止《ヌスヒト》、竊盗(ハ)美曾加奴須比止《ミソカヌスヒト》、なであり、○入而所見牟、牟は乎(ノ)字の誤なるべし、イリテミエシヲ〔七字右○〕とあるべし、(略解に、牟の上氣(ノ)字脱しにて、イリテミエケム〔七字右○〕なるべし、と云るは、わろし、)○歌(ノ)意は、いかにも、のたまふ如くに、門(ノ)戸を闔《タテ》て、其(ノ)戸に?《トザシ》を刺(シ)固めたまへれば、内に入むことは、叶ふべからねど、さて止べきにあらざれば、盗人の穿(リ)開たる穴よりくゞりて、からうして入て、君が夢に見えしものなるを、大方の心ざしとは、おぼしたまふなと、戯れ答へたるなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3119 從明日者《アスヨリハ》。戀乍將在《コヒツヽアラム》。今夕弾《コヨヒダニ》。速初夜從《ハヤクヨヒヨリ》。綏解我妹《ヒモトケワギモ》。
 
(390)將在、阿野本には、將去と作て、ユカム〔三字右○〕と訓り、○綏、舊本に緩と作るは、綏を寫誤れるなるべし、今は官本、水戸本、阿野本等に從つ、字書に、※[糸+委]或作v綏と見えて、冠の※[糸+委]《ヒモ》を云字なれば、紐に借(リ)用たるなるべし、又飛鳥井本には縷、古本には※[糸+委]と作り、○歌(ノ)意、明日よりは、遠く別れて、月日久しく、戀しく思ひつゝのみあらむ、せめて今夜ばかりなりとも、速く初夜のほどより、紐とき交《アヒ》て、しめやかにかたらひてあれ妹よ、と云るにて、明日旅立むとする男の、前夜によめるなるべし、
 
3120 今更《イマサラニ》。將寢哉我背子《ネメヤワガセコ》。荒田麻之《アラタヨノ》。全夜毛不落《ヒトヨモオチズ》。夢所見欲《イメニミエコソ》。
 
寢(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、〓と作り、○荒田麻之は、此(ノ)上に、新夜一夜不落夢見《アラタヨノヒトヨモオチズイメニミエコソ》、とあるによりて思ふに、麻は、夜(ノ)字の誤寫にて、アラタヨノ〔五字右○〕なり、(アラタマノ〔五字右○〕にては、解べきすべなし、又集中に、アラタマてふ言は、甚多かれど、タマ〔二字右○〕を田麻と書る處、一處だになし、且音訓連用て、假字とせることも、むげになしとにはあらねど、其は大要|用《ツカ》ひなれたる字あれば、かやうに書べしともおもはれず、しかるを昔より、字の誤なることをしれる人、一人だになくして、荒田麻之全夜《アラタマノヒトヨ》とは、一年の間の毎夜といふ意と心得來れるは、あらぬことにこそありけれ、)○全夜毛不落は、全夜は、ヒトヨ〔三字右○〕と訓て、一夜《ヒトヨ》も漏《モレ》ずと云に同じ、(全(ノ)字をかけるは、全一夜の義にて、俗に、丸一夜といふ意を得て書るなり、)○歌(ノ)意、たゞ今夜ばかりになりて、今更に速く相寢せむ(391)もかひなし、たゞ明日の夜より一夜も漏さず、夢に見え來よかし、と云るなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3121 吾勢子之《ワガセコガ》。使乎待跡《ツカヒヲマツト》。笠不著《カサモキズ》。出乍曾見之《イデツヽソミシ》。雨零爾《アメノフラクニ》。〔頭註、【重出】〕
 
歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此(ノ)歌既く十一にも出たり、(但(シ)彼(ノ)卷には、寄v物發v思の中、寄v雨一類に出、此には、問答歌の部に出たるを以て異とす、)
 
3122 無心《コヽロナキ》。雨爾毛有鹿《アメニモアルカ》。人目守《ヒトメモリ》。乏妹爾《トモシキイモニ》。今日谷相乎《ケフダニアハムヲ》。
 
人目守は、ヒトメモリ〔五字右○〕と訓べし、他目《ヒトメ》を守り、見ぬ間を、伺《ウカヾ》ひての謂なり、十一に、他眼守君之隨
爾余共爾夙興乍裳裙所沾《ヒトメモリキミガマニマニアレサヘニハヤクオキツヽモノスソヌレツ》、又、人間守蘆垣越爾吾妹子乎相見之柄二事曾左太多寸《ヒトマモリアシカキコシニワギモコヲアヒミシカラニコトソサダオホキ》、とあるは、人目のなき間を、候《ウカヾ》ひての謂なり、○乏妹《トモシキイモ》とは、逢ことの稀に乏しき妹といふなり、乏妻《トモシツマ》と云るに同じ、○乎(ノ)字、舊本に牟と作るは誤なり、今は官本、古寫本、水戸本、阿野本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意、逢(フ)ことの稀に乏しき妹に、人目の隙を窺ひて、今日なりとも、相見むとおもふものを、さても心無くふる雨にてもある哉、いかで雨がにも心せよかし、となり、四三五一二と次第て意得べし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3123 直獨《タヾヒトリ》。宿杼宿不得而《ヌレドネカネテ》。白細《シロタヘノ》。袖乎笠爾著《ソテヲカサニキ》。沾乍曾來《ヌレツヽソコシ》。
 
(392)直獨《タヾヒトリ》、(俗にたつた一人《ヒトリ》と云がごとし、)六(ノ)卷、市原(ノ)王の獨子を悲しみ、給へる歌に、不言問木尚妹與兄有云乎直獨子爾有之苦者《コトヽハヌキスライモトセアリチフヲタヾヒトリコニアルガクルシサ》、(これもたつた獨子と云がごとし、)○宿杼宿不得而《ヌレドネカネテ》、九(ノ)卷に、思乍雖來來不勝而水尾崎眞長乃浦乎又顧津《オモヒツヽクレドキカネテミヲノサキマナガノウラヲマタカヘリミツ》、とあるに似たる、語(ノ)勢なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、寢入むと思ひて、臥て見たれども、唯一人は、寢入らるべくもあらねば、衣の袖を笠に着て、沾ながら、からくして來たる謂なり、伊勢物語に、雨のふりぬべきになむ、見煩ひ侍る、身幸あらば、この雨は降じといへりければ、例のをとこ、女にかはりてよみてやらず、かず/\に思ひおもはず問がたみ身を知雨は降ぞ益れる、とよみて、やれりければ、みのも、かさもとりあへで、しとゞにぬれて、まどひ來にけり、
 
3124 雨毛零《アメモフリ》。夜毛更深氣〔○で囲む〕利《ヨモフケニケリ》。今更《イマサラニ》。君將行哉《キミイナメヤモ》。※[糸+刃]解設名《ヒモトキマケナ》。
 
更深氣利《フケニケリ》、舊本に、氣(ノ)字なきは、脱たるなるべし、○君將行哉は、キミイナメヤモ〔七字右○〕と訓べし、下に、將行乃河《イナミノカハ》とあるも、將《ム》v行《イナ》を、印南《イナミ》に借たるを、思(ヒ)合(ス)べし、哉《ヤモ》は、夜《ヤ》は、後(ノ)世の也波《ヤハ》の意、母《モ》は、歎息を含める助辭なり、嗚呼|將《ム》/歸《カヘラ》哉波《ヤハ》といふに同じ、)○紐解設名《ヒモトキマケナ》は、紐解(キ)將《ム》v設《マケ》と云ことを、急にいふ時の言なり、既くあまた處に出たる詞なり、(略解に、設名は、設むに同じ、といへるは、くはしからず、設名《マグナ》といふと、設《マケ》むといふとは、緩急の差別ある言なり、一(ノ)卷に委しく辨へたり、)○歌(ノ)意かくれなし、雨もふるなり、夜も更《フケ》たるなり、されば今更君が、歸りますべきにあらねば、紐解(393)設て相宿しつゝ、しめやかにかたらはむ、と謂なり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3125 久竪乃《ヒサカタノ》。雨零日乎《アメノフルヒヲ》。我門爾《ワガカドニ》。蓑笠不蒙而《ニノカサキズテ》。來有人哉誰《ケルヒトヤタレ》。
 
蓑は、爾能《ニノ》と訓べし、字鏡に、蓑(爾乃《ニノ》)と見えたり、今も土佐の國の山里にては、爾能《ニノ》と云り、これ古言なるべし、(但し韮を、爾良《ニラ》とも、美良《ミラ》とも、※[辟+鳥]〓を、爾保杼理《ニホドリ》とも、美保杼理《ミホドリ》とも、通はし云たる例多ければ、古(ヘ)より、蓑をも、爾能《ニノ》とも美能《ミノ》とも云るにもあらむ、又字韻のン〔右○〕を轉じて、錢《セニ》、蘭《ラニ》など、爾《ニ》といひ、文《フミ》頓《トミ》など、美《ミ》といへる類多ければ、爾《ニ》と美《ミ》とは、もとより親く通ふ韻なるを知べし、)○來有人哉誰は、ケルヒトヤタレ〔七字右○〕と訓べし、來有をケル〔二字右○〕と云は、キケル〔三字右○〕の約れるなり、既く一(ノ)卷に、委(ク)釋り、○歌(ノ)意これもかくれなし、蓑も笠も取あへずして、いそぎ女の方に至り、とく内に入まほしけれど、家人などに、見とがめられなばあしかりなむと、門の外にためらひ居たるほど、女の見付て、をりよければ、内に呼人(レ)まほしけれど、雨ふる日の夕暮なれば、男のすがたもほのかに見ゆるを、もし人たがへなどならむには、中々なれば、あらはにはいかでかとて、件の歌を、しづかに打|吟《ウタヒ》て、男にきかせたるなるべし、上に引る伊勢物語の、蓑も笠も取あへで、又こゝに引べし、但しこゝは蓑笠とり着て、人目にふれむことをおそれて、ことさらに、雨にぬれつゝ來しにてもあるべし、
 
(394)3126 纒向之《マキムクノ》。痛足乃山爾《アナシノヤマニ》。雲居乍《クモヰツヽ》。雨者雖零《アメハフレドモ》。所沾乍烏來《ヌレツヽソコシ》。
 
烏は、曾の誤か、又焉に通(ハ)し用たる例にて、ソ〔右○〕とも訓べければ、もとのまゝにてもあるべし、○歌(ノ)意これもかくれなし、これは男の内に入て後に、件の女の歌に、こたへがてらよめるなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
羈旅《タビニ》發《ノブ》v思《オモヒヲ》。九十首。【四首人麻呂集。 三十四首。悲別歌。人麻呂集外。 四十九首。人麻呂集外。 十首。問答歌。人麻呂集外。】〔九十〜集外□で囲む〕
 
3127 度會《ワタラヒノ》。大河邊《オホカハノベノ》。若歴木《ワカヒサキ》。吾久在者《ワガヒサナラバ》。妹戀鴨《イモコヒムカモ》。
 
度會《ワタラヒ》は、伊勢(ノ)國度會(ノ)郡なり、既くいへり、大河邊《オホカハノベ》は、即(チ)五十鈴の川邊なり、○若歴木は、岡部氏、ワカヒサキ〔五字右○〕と訓べし、といへり、また本居氏も、古事記傳に、この歌をひきて、此(ノ)上(ノ)句は、吾久《ワガヒサ》と詞を疊《カサネ》む料の序なれば、歴木は、必(ス)比佐岐《ヒサキ》なることしるし、本にクヌギ〔三字右○〕とよみたれど、さては若《ワカ》と吾《ワガ》と、詞の疊なるのみにて、久《ヒサ》に縁なし、此(ノ)歌は、久《ヒサ》と云こと、主たるを思ふべし、比佐岐《ヒサキ》は、六にも、久木生留清河原《ヒサキオフルキヨキカハラ》、などもあれば、河邊も由あり、今も川邊などにも、よくある木なりと、なほ委く論へり、但(シ)古事記、書紀に見えたる歴木は、久奴岐《クヌキ》なるべく、和名抄にも、私記を引て、歴木を久奴岐《クヌキ》に充たれど、凡て草木鳥獣などの名の字は、古(ヘ)は人の心々に充て書たれば、泥むべきにあらず、又歴木と書るは、岡部氏も云し如く、歴v年(ヲ)の義に取て、久木《ヒサキ》をかくかけるにて、いはゆる(久奴岐《クヌキ》を云、)歴木には、拘はらずともありぬべし、故(レ)今は、右の説どもによりて、ワカ(395)ヒサキ〔五字右○〕と訓つ、なほ此(ノ)木共の事、品物解に委く釋たるを見て考(フ)べし、(或人は、若歴木《ワカクヌキ》は、我(カ)不《ヌ》v來《コ》と云に通はせて、下に久《ヒサ》しくとうけたり、久しく吾(カ)不v來者の意なり、といへれど、おぼつかなし、)○歌(ノ)意は、わが旅の日數の久しくなりなば、家なる妹が、いかにか吾を戀しく思はむ、さてもいとほしや、となり、
 
3128 吾妹子《ワギモコヲ》。夢見來《イメニミエコト》。倭路《ヤマトヂノ》。度瀬別《ワタリセゴトニ》。手向吾爲《タムケソアガスル》。
 
歌(ノ)意は、家なる妹を、いかで夢に見え來さしめ賜へ、と旅中の倭路の渡瀬毎に、そこにても、ここにても、神祇を祈りて、奉幣《タムケ》をぞ吾はする、となり、十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、天漢瀬毎幣奉情者君乎幸來座跡《アマノガハワタリセゴトニヌサマツルコヽロハキミヲサキクキマセト》、
 
3129 櫻花《サクラバナ》。開哉散《サキカモチルト》。及見《ミルマデニ》。誰此所《タレカモコヽニ》。見散行《ミエテチリユク》。
 
開哉散《サキカモチルト》とは、閑散哉《サキチルカモ》とゝいふに同じ、さてたゞ散(ル)ことを、集中に、開(キ)散(ル)と云ること多ければ、櫻花の散かと、と云意となれり、○歌(ノ)意は、花の散は、はかなく、たゞしばしの間に落失れば、それかあらぬか、目を留る間もなし、其(ノ)花の散を見る如く、それかあらぬかと思ふばかり、たゞしばしの間なりとも、本郷の思ふ人を、見まほしくおもへども、遠く離去て來しからは、思ふ人のあふべきよしのなければ、誰かはしばしだに目にかゝらむ、さても家路の戀しく思はるる事や、と云なるべし、
 
(396)3130 豐洲《トヨクニノ》。聞濱松《キクノハママツ》。心喪《コヽロイタク》。何妹《ナニシカイモニ》。相云始《アヒイヒソメケム》。
 
豐州《トヨクニ》は、豐國とかけるに同じ、州と書ても、久邇《クニ》とよまるゝが故に、こゝに此(ノ)字を書たるなり、(神代(ノ)紀下に、西州《ニシノクニ》、神武天皇(ノ)紀に、中州《ナカツクニ》などあり、國語補音叙録に、國(ヲ)爲v州自v唐始(ル)耳、と見ゆ、)抑々此(ノ)集などには、字はひろくさま/”\に用たる故に正しく充れるも、否《シカラザ》るも、いと/\多し、(しかるを、此に州(ノ)字を書たるを見て、ひとへに國と書も、州と書も、同じことぞとのみおもふは、あらぬことなり、)六十六國を云|久邇《クニ》には、國(ノ)字を用ふること、皇朝の御制にて、古事記、書紀等の正史、延喜式、和名抄等に至るまで、州(ノ)字を用ひられたることなきを見てしるべし、(しかるを後に、あながちに漢ざまを學ぶ世となりてより、諸國に州(ノ)字を書ことは、もと御制にもとれる私事にして、いと/\あらぬことなるを、さることに心もつかずして、今はおしなべて、大和(ノ)國を和州と云、山城(ノ)國を城州と云て、異《アヤ》しとせざる類は、あさましきことなり、)○聞濱松《キクノハママツ》は、豐前(ノ)國|企玖《キクノ》郡の海濱の松なり、聞(ノ)濱、既く七(ノ)卷に見えたり、以上二句の意は、次に云べし、○心哀(哀(ノ)字、舊本には、喪と作り、今は元暦本に從つ、拾穗本に裳と作るは、喪を母《モ》の假字と思へるより、誤れるなり、)は、ココロイタク〔六字右○〕と訓べし、三(ノ)卷に、時者霜何時毛將有乎情哀伊去吾妹可若子乎置而《トキハシモイツモアラムヲコヽロイタクイユクワギモカワカキコヲオキテ》、十一に、磯上立回香瀧心哀何深目念始《イソノヘニタテルムロノキコヽロイタクナニヽフカメテオモヒソメケム》、十四に、佐射禮伊思爾古馬乎波佐世※[氏/一]巳許呂伊多美安我毛布伊毛我伊敝乃安多里可聞《サザレイシニコマヲハサセテココロイタミアガモフイモガイヘノアタリカモ》、また九(ノ)卷に、所射十六乃意矣痛《イユシヽノコヽロヲイタミ》、とも見え(397)たり、又略解に云、本居氏は、舊本に、喪とあるは誤にて、ネモコロニ〔五字右○〕と有べき處なり、といへり、春海云、喪とあるは、衷の誤か、字書に衷(ハ)誠也とあれば、心衷を、義もて、ネモコロ〔四字右○〕と訓べし、と云り、(以上、常に漢文にても、懇衷を、ネンゴロ〔四字右○〕と訓は、ネモコロ〔四字右○〕を心衷とかゝむこと、實に、其(ノ)理あり、これによりて、十一なるは、舊訓に、コヽロイタク〔六字右○〕と訓たれど件の説に從ばネモコロニ〔五字右○〕と訓つべし、さらば彼(ノ)卷なるは、室の樹の根とかゝり、此なるを心衷《ネモコロニ》とするときは、松の根とかかれりとすべし、されど、心衷《コヽロイタク》といへることも、上に引る如く、例多ければ、前説もなほすてがたし、)○相云始(云(ノ)字、舊本に之と作るは誤なり、今は元暦本、阿野本等に從つ、)は、アヒイヒソメケム〔八字右○〕とよむべし、○歌(ノ)意は、(心衷《コヽロイタク》とあるかたにつきて解ば、)本の二句は、即(チ)旅路に歴往(ク)處の、目に觸るものをいひて、松に待(ツ)意をそへたるにて、さて家なる妹が待戀らむは、いとゞ心ぼそくかなしきに、何しにかは、その妹に、相言かたらひ始つらむ、始より相言かたらはざらましかば、遠く別れ來ても、かゝる物思はすまじきに、といふなるべし、かく松と云に待(ツ)意をそへたるは、四(ノ)卷岳本(ノ)天皇(ノ)大御歌に、淡海路乃鳥籠之山有不知哉川氣乃己乃其侶波戀乍裳將有《アフミヂノトコノヤマナルイザヤガハケノコノゴロハコヒツヽモアラム》、とあるは、不知哉川《イザヤガハ》といふに、不知《イサ》や知《シラ》ず、と云御意ををへて、女の心は知ずて、來經長《ケナガ》き頃者は、戀つゝあらむ、といふ御意に、よませ賜ひ、又同卷に、眞野之浦乃與騰乃繼端情由毛思哉妹之伊目爾之所見《マヌノウラノヨドノツギハシコヽロユモオモヘヤイモガイメニシミユル》、とあるは、繼橋《ツギハシ》と云に、繼《ツギ》て思ふ意をそへたるにて、同例なり、又二(ノ)卷十市(ノ)皇(398)女(ノ)薨時高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)御作歌に、三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカムスギ》云々、とあるも、神杉《カムスギ》に、皇女の薨《スギ》ませる意をもたせ賜ひ、其(ノ)次の御歌に、神山之山邊眞蘇木綿短木綿如是耳故爾長等思伎《カミヤマノヤマベマソユフミジカユフカクノミユヱニナガクトオモヒキ》、とあるも、短木綿《ミジカユフ》に、皇女の御命の短さをそへ賜へるにて、皆同例なり、又(心衷《ネモコロニ》とする方につきて解ば、)本(ノ)二句は、松の根といひかけたるにて、心衷《ネモコロ》の序のみにて、何しにかと、懇に妹に相言始けむ、始より相言かたらはざらましかば、今かく旅に遠く別れ來て、切なる思ひはすまじきを、と云なるべし、
〔右四首。柿本朝臣人磨集出〕
 
3131 月易而《ツキカヘテ》。君乎婆見登《キミヲバミムト》。念鴨《オモヘカモ》。日毛不易爲而《ヒモカヘズシテ》。戀之重《コヒノシゲケム》。
 
月易而《ツキカヘテ》とは、契冲が、旅に出る人の、八月に出て、九月に歸るごときを云、と云るが如し、○念鴨《オモヘカモ》は、思へばかの意なり、母《モ》は歎息を含める辭なり、○日毛不易爲而《ヒモカヘズシテ》とは、別れし其(ノ)日、やがてに戀しく思ふよしなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、夫の旅に行とき、來月よりさきに、歸り來らむといへるによりて、女のよめるなるべし、もしこの月のかぎりに、かへりまさむとならば、なほ心をなぐさむるかたもあるべきを、月を移して後に、かへりまさむときけば、待遠なるに、堪がたからむと思ふより、別るゝ其(ノ)日すなはちに、戀しく思ふことのしげきよしなり、古今集に、別れてはほどを隔つと思へばやかつみながらにかねて戀しき、
 
(399)3132 莫去跡《ナユキソト》。變毛來哉常《カヘリモクヤト》。顧爾《カヘリミニ》。雖往不帰歸《ユケドユカレズ》。道之長手矣《ミチノナガテヲ》。
 
莫去跡《ナユキソト》は、行(ク)ことなかれと、と云意にて、自《ミ》を送(リ)來る人の云詞の謂なり、○變毛來哉常《カヘリモクヤト》は、送り來りて、道中より、さらばよと別(レ)を告て、家の方へ還りし人の、又立復り來や、と思ふ謂なり、○雖往不歸は、ユケドユカレズ〔七字右○〕と訓べし、(ユケドカヘラズ〔七字右○〕、とよめるはわろし、)○道之長手矣《ミチノナガテヲ》は、手《テ》は、即(チ)道《テ》にて、(通音なり、)道の長道《ナガチ》をといふに同じ、四(ノ)卷に、野干玉能《ヌバタマノ》云々|路之長手呼《ミチノナガテヲ》、五(ノ)卷に、國遠伎路乃長手遠《クニトホキミチノナガテヲ》、又、都禰斯良農道乃長手袁《ツネシラヌミチノナガテヲ》、十五に、君我由久道乃奈我※[氏/一]乎《キミガユクミチノナガテヲ》、などあり、これらみな長手《ナガテ》といへる例なり、三(ノ)卷に、天離夷之長道從《アマザカルヒナノナガチユ》、廿(ノ)卷に、道乃長道波《ミチノナガチハ》、などある、これらは正しく長道《ナガチ》といへるなり、長道磐《ナガチハノ》神と申す、神(ノ)名もあり、○歌(ノ)意は、我(ガ)旅行を送る人の、別れながら又立復り來て、行ことなかれと、若(シ)やとゞむることもあらむか、とゞめられなば、今日一日は暫《シバシ》とまらむ物をと、顧《カヘリミ》せられつゝ、長き旅路の行(ケ)ども行(キ)もやられず、となり、古今集に、人やりの道ならなくに大かたはいきうしといひていざかへりなむ、
 
3133 去家而《タビニシテ》。妹乎念出《イモヲオモヒデ》。灼然《イチシロク》。人之應知《ヒトノシルベク》。歎將爲鴨《ナゲキセムカモ》。
 
去家而は、義を得て、舊本の如く、タビニシテ〔五字右○〕と訓べし、又直に、イヘサリテ〔五字右○〕と訓むも、あしからじ、○歌(ノ)意は、旅にありて、家の妹を思出て、わが妹故に、かく歎くと云ことを、隱《シノ》びあへず、人の著《アラ》はに知べく歎をせむか、さてもすべなくかなしや、となり、
 
(400)3134 里離《サトザカリ》。遠有莫國《トホカラナクニ》。草枕《クサマクラ》。旅登之思者《タビトシモヘバ》。尚戀來《ナホコヒニケリ》。
 
里離《サトザカリ》は、家離《イヘザカリ》といはむが如し、(里と家とは、もとより別物なれど、里を雖るは、わが家の方を雖るなれば、なほ同理なり、)○草枕《クサマクラ》は、まくら詞なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、家遠からぬ處へ、旅に行てよめるなるべし、九(ノ)卷に、振山從直見渡京二曾寐不宿戀流遠不有爾《フルヤマニタヾニミワタスミヤコニソイヲネズコフルトホカラナクニ》、
 
3135 近有者《チカクアレバ》。名耳毛聞而《ナノミモキヽテ》。名種目津《ナグサメツ》。今夜從戀乃《コヨヒヨコヒノ》。益益南《イヤマサリナム》。
 
名耳毛聞而《ナノミモキヽテ》は、名ばかりを聞てゞも、といふほどの意なり、さて名とは、某と云名のみの事にはあらで、此は其(ノ)消息《アリサマ》を謂《イヘ》り、十七思2放逸鷹(ヲ)1夢見(テ)感悦作歌に、等乃具母利安米能布流日乎《トノグモリアメノフルヒヲ》、等我理須等名未乎能里底《トガリストナノミヲノリテ》云々、とあるも、今と同じ意なり、○歌(ノ)意は、女の家里遠からぬ處にあれば、直に逢ことはなくても、其(ノ)消息ばかりを聞てゞも、心を慰めつるに、今日又更に立て、遠方に行なば、今夜より戀しく思ふ心の彌益りて、堪がたかりなむ、となり、これは遠からぬ里に、旅に行たる男の、ゆゑありて、又やがて其處より、遙なる方に趣むとするほど、よめるなるべし、
 
3136 客在而《タビニアリテ》。戀者辛苦《コフレバクルシ》。何時毛《イツシカモ》。京行而《ミヤコニユキテ》。君之目乎將見《キミガメヲミム》。
 
何時毛《イツシカモ》は、未來《ユクサキ》のことを、待遠に思ふときにいふ詞なり、五(ノ)卷戀2男子名古日1歌に、何時可毛比等々奈理伊弖天安志家久毛與家久毛見牟登《イツシカモヒトヽナリイデテアシケクモヨケクモミムト》云々、十八教2喩史生尾張少咋1歌に、何時可毛都(401)可比能許牟等《イツシカモツカヒノコムト》、末多須良無心左夫之苦《マタスラムコヽロサブシク》云々、など多き詞なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は父の任國などへまかれるに、具せられて、下りたる女の、京に思ふ人ありてよめるにや、(又略解に、男の國の任に在てよめるにて、君は、こゝは女をさせるなるべし、といへり、いづれにても通ゆ、)
 
3137 遠有者《トホクアレバ》。光儀者不所見《スガタハミエズ》。如常《ツネノゴト》。妹之咲者《イモガヱマヒハ》。面影爲而《オモカゲニシテ》。
 
面影爲而《オモカゲニシテ》は、面影《オモカゲ》にといふ意なるを、かく言をそへて、爲而《シテ》といへるは、その事をうけはりて、他事なく物する意の時、いふ詞なればなり、家遠くさかり來てあれば、まことの容儀をば、見べきよしのなければ、たゞその面影にのみ、平常《ツネ》の如く、女の咲顔の、眼前に他事なくうかびてをれば、いよ/\戀しく思ふ心の、堪がたきよしなり、三(ノ)卷に、陸奥之真野乃草原雖遠面影
爲而所見云物乎《ミチノクノマヌノカヤハラトホケドモオモカゲニシテミユチフモノヲ》、四(ノ)卷に、暮去者物念益見之人乃言問爲形面影爲而《ユフサレバモノモヒマサルミシヒトノコトトフスガタオモカゲニシテ》、九(ノ)卷に、立易月重而雖不遇核不所忘面影思天《タチカハルツキカサナリテアハネドモサネワスラエズオモカゲニシテ》、などある、みな同例にて、面影の他事なくうかびて見ゆるをいへるなり、さてこゝには爲而《シテ》といひすてゝ、その戀しく思ふよしを、含め餘したるにて、面影の他事なくうかびて見えつゝ、戀しく思ふ心の、しばしも息(ム)ときなきよしなり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
3138 年毛不歴《トシモヘズ》。反來甞跡《カヘリキナメド》。朝影爾《アサカゲニ》。將待妹之《マツラムイモガ》。面影所見《オモカゲニミユ》。
 
反來甞跡は、カヘリキナメド〔七字右○〕とよめるに依て、跡《ト》は雖(ノ)字となして讀べし、と契冲がいへる、宜(402)し、○朝影爾《アサカゲニ》は、此(ノ)上に、朝影爾吾見者成奴《アサカゲニワガミハナリヌ》云々、とありて、戀(ヒ)痩て、影の如くになれるを云、○歌(ノ)意は、年も經ず、近きほどに、われは歸り來りぬべけれども、其(レ)すら待わびつゝ、戀痩て、影の如くになりて待居るらむ、其(ノ)妹が容貌の、面影に見ゆ、となり、(岡部氏(ノ)説に、影は異の誤にて、アサニケニ〔五字右○〕とありしか、と云り、但し朝異爾《アサニケニ》とあらむは穩なれども、さらば第二(ノ)句に、照合よろしからず、もし朝異爾《アサニケニ》ならば、第二(ノ)句、妹が云事として、反早來跡《カヘリハヤコト》などやうにこそ、あるべけれ、
 
3139 玉桙之《タマホコノ》。道爾出立《ミチニイデタチ》。別來之《ワカレコシ》。日從于念《ヒヨリオモフニ》。忘時無《ワスルトキナシ》。
 
玉桙之《タマホコノ》(桙(ノ)字、舊本に梓と作るは誤なり、古寫一本に從つ、拾穗本には鉾と作り、)は、まくら詞なり、○忘時無《ワスルトキナシ》は、忘《ワス》るゝ時なし、と云に同じ、古(ヘ)の詞づかひなり、十八に、射水河流水沫能《イミヅガハナガルミナワノ》、とあるも、流《ナガ》るゝ水沫《ミナワ》の、と云に同じ、此(ノ)下に、松浦舟亂穿江之《マツラブネミダルホリエノ》、とあるも、亂るゝ堀江之《ホリエノ》、と云ことなり、四(ノ)卷に、衣手乃別今夜從《コロモテノワカルコヨヒユ》、とあるも、別るゝ今夜《コヨヒ》より、といふことなり、此(ノ)上に、變毛來哉常《カヘリモクヤト》とあるも、反《カヘ》りも來《ク》るやと、といふことなり、十一に、開花者雖過時有《サクハナハスグトキアレド》、とあるも、開花《サクハナ》は、うつろひ過《スグ》る時あれど、と云ことなり、十三に、黒馬之來夜者《クロマノクヨハ》、とあるも、黒馬《クロマ》の來る夜は、と云ことなり、これらみな同じ例なり、古(ヘ)の詞づかひのさまをしらぬ人は、あやしむことなれど、古き歌にはめづらしからず、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3140 波之寸八師《ハシキヤシ》。志賀在戀爾毛《シカルコヒニモ》。有之鴨《アリシカモ》。君所遺而《キミニオクレテ》。戀敷念者《コヒシクオモヘバ》。
 
(403)波之寸八師《ハシキヤシ》は、第二三(ノ)句を隔て、第四(ノ)句の、君と云にかゝれり、○戀敷念者《コヒシクオモヘバ》は、戀しく思ふを思へば、と云意なり、(略解に、戀|重《シキ》る意に説なせるは、たがへり、)○歌(ノ)意は、朝夕馳つゝ在べく思ひしものを、今かく愛《ウツクシ》き君に後《オク》れ居て、戀しく思はるゝことを、思ひ見れば、兼てより、さるべき中の宿縁にてもありけるか、嗚呼さても歎かしや、といへるなるべし、十五に、與能奈可能都年能己等和利可久左麻爾奈里伎爾家良之須惠之多禰可良《ヨノナカノツネノコトワリカクサマニナリキニケラシスヱシタネカラ》、とあるに同じく、佛説によりて、宿業のことをいへること、この頃既く往々《コレカレ》あり、一四五二三と次第て意得べし、
 
3141 草枕《クサマクラ》。客之悲《タビノカナシク》。有苗爾《アルナベニ》。妹乎相見而《イモヲアヒミテ》。後將戀可聞《ノチコヒムカモ》。
 
苗は、借(リ)字にて、並《ナベ》なり、○歌(ノ)意は、もとより旅の物がなしくあるうへに、今逢初し妹をも、後に又戀しく思ひて、くるしまむか、さてもすべなき事や、となり、略解に、遊女などに、一夜逢てよめるかと云るは、さもあるべし、
 
3142 國遠《クニトホミ》。直不相《タヾニハアハズ》。夢谷《イメニダニ》。吾爾所見社《アレニミエコソ》。相日左右二《アハムヒマデニ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3143 加此將戀《カクコヒム》。物跡知者《モノトシリセバ》。吾妹兒爾《ワギモコニ》。言問麻思乎《コトトハマシヲ》。今之悔毛《イマシクヤシモ》。
 
言問《コトトフ》は、物言《モノイフ》と云に同じ、○歌(ノ)意は、かくばかり、戀しく思はれむものと、かねて知たらば、殘る方なく、深切に妹に物言て、別れ來べかりしものを、さもせずして、今更一(ト)すぢに殘多く、さて(404)も悔しき事ぞ、となり、岡部氏云、十四に、ありきぬのさゑ/\しづみ家の妹に物いはず來て思ひくるしも、てふにひとしく、立とき、なきさわぐをしづめむとて、物をもよくいはでこしを侮るか、又しぬびて逢(フ)妹なれば、物いはむよしもなくて、別れ來しを、今思ふには、顯にも物語らひて來べかりしを、といふにも有べし、
 
3144 客夜之《タビノヨノ》。久成者《ヒサシクナレバ》。左丹頬合《サニヅラフ》。※[糸+刃]開不離《ヒモアケサケズ》。戀流比日《コフルコノゴロ》。
 
客(ノ)字、舊本に容と作るは誤なり、古本、古寫一本、拾穗本、活字本等に從つ、○左丹頬合紐《サニヅラフヒモ》は、女の結べる紅の赤紐をいふべし、○開不離は、アケサケズ〔五字右○〕、と訓べし、(トキサケズ〔五字右○〕とよめるはわろし、)○歌(ノ)意は、旅寢する夜の數の重れば、妹がうつくしき赤紐を開離ずして、たゞその面影のみ、眼(ノ)前にうかびつゝ、いよ/\頃者は、戀しく思ふ心のまされる、と云なるべし、
 
3145 吾妹兒之《ワギモコシ》。阿乎偲良志《アヲシヌフラシ》。草枕《クサマクラ》。旅之丸寢爾《タビノマロネニ》。下※[糸+刃]解《シタヒモトケツ》。
 
阿乎偲良志《アヲシヌフラシ》は、吾《ア》を慕《シノ》ぶらしなり、良志《ラシ》は、さだかにしかりとはしられねど、十に七八は、それならむとおぼゆるを云詞なり、(俗にそうなと云にあたれり、)○寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐と作り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、人に戀しく思はるれば、下紐の自(ラ)解るよしよめる歌、集中にかた/”\あり、されば旅屋の獨宿に、己《オノ》が紐の自《オ》らに解るを見て、家の妹が、吾を戀しく思ひ慕ぶらし、と思ひやれるなり、
 
(405)3146 草枕《クサマクラ》。旅之衣《タビノコロモノ》。※[糸+刃]解《ヒモトケツ》。所念鴨《オモホセルカモ》。此年比者《コノトシゴロハ》。
 
紐解は、ヒモトケツ〔五字右○〕と訓べし、○思念鴨《オモホセルカモ》は、家の妹が、吾を慕《シタ》ひ給へるか、といふ意なり、○歌(ノ)意かくれなし、右の歌と同意なり、
 
3147 草枕《クサマクラ》。客之※[糸+刃]解《タビノヒモトク》。家之妹志《イヘノモシ》。吾乎待不得而《アヲマチカネテ》。歎良霜《ナゲカスラシモ》。
 
紐解は、これも右の歌どもと同じく、紐の自解る謂《ヨシ》なり、(岡部氏の、トク〔二字右○〕は、トクル〔三字右○〕を略けり、と云るは、大《イミジキ》誤《ヒガコト》なり、たとへば、夜開《ヨアク》と云は、夜の自《オ》ら開《アク》るを謂《イフ》ことなれば、アク〔二字右○〕》は、自《オラ》開《アク》るよしなり、とはいふべし、アクル〔三字右○〕の略なりといはむは、たがへるがごとし、)○乎(ノ)字、舊本に之と作るは誤なり、元暦本、官本、古寫本、拾穗本等に從つ、○嘆良霜《ナゲカスラシモ》は、嘆《ナゲカス》は、ナゲク〔三字右○〕の延言にて、嘆き給ふと云に近し、良之《ラシ》は、さだかにしかりとは知(ラ)れねど、十に七八は、それならむとおぼゆるをいふ詞なること、既くたび/\云るごとし、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、歎き給ふらし、さても戀しく思はるゝ事や、となり、○歌(ノ)意、右に見えたる歌どもに同じ、
 
3148 玉釵《タマクシロ》。卷寢志妹乎《マキネシイモヲ》。月毛不經《ツキモヘズ》。置而八將越《オキテヤコエム》。此山岫《コノヤマノサキ》。
 
玉釵《タマクシロ》(釵(ノ)字、舊本に釼と作て、タマツルギ〔五字右○〕とよめるは誤なり、但し釼とあるは、むげに誤なりと云にはあらず、釵と同じければなり、そは靫をも、古書に多く靱と作ると同じことなり、さて釵は、釧と同じ、しかるを釼とかけるを、劔と同《オナジ》作《モジ》と心得て、ツルギ〔三字右○〕と訓たるは、大(シキ)非なり、猶委(406)くは、上にいへり、)は、まくら詞なり、釵《クシロ》を纏《マク》といひかけたるなり、○岫は、岬の誤寫なるべし、サキ〔二字右○〕と訓べし、和名抄に、唐韻(ニ)云、岬(ハ)山側也、日本紀私記(ニ)云、美佐岐《ミサキ》、○歌(ノ)意は、相宿し始し妹を、未(ダ)月も經ざるに、はや殘し置て、別れて、この山の岬を越行むか、となり、契冲云、これは妻をむかへて、ほどなく任國などに、おもむく人の歌なるべし、
 
3149 梓弓《アヅサユミ》。未者不知杼《スヱハシラネド》。愛美《ウツクシミ》。君爾副而《キミニタグヒテ》。山道越來奴《ヤマヂコエキヌ》。
 
梓弓《アヅサユミ》は、まくら詞なり、○未者不知杼《スヱハシラネド》は、契冲云、男女の行末と、旅の行末とをかぬべし、○愛美《ウツクシミ》は、愛《ウツ》くしき故にの意なり、愛しき故に、雖るゝことを得ずして、副ひ來たる謂なり、たゞ愛《ウツクシ》き君と云にはあらず、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、任國に下る男に、從ひ來れる女の、よめるなるべし、
 
3150 霞立《カスミタツ》。長春日乎《ナガキハルヒヲ》。奥香無《オクカナク》。不知山道乎《シラヌヤマチヲ》。戀乍可將來《コヒツヽカコム》。
 
長春日乎、舊本に、長春を、春長と作るは、下上に誤れるなり、今は岡部氏の改めたるに從つ、ナガキハルヒヲ〔七字右○〕と訓べし、一(ノ)卷に、霞立長春日《カスミタツナガキハルヒ》とあるをはじめて、かたがたに多き詞なり、(但(シ)十(ノ)卷に、霞發春永日戀暮《カスミタツナガキハルヒヲコヒクラシ》、とあるも、永春日《ナガキハルヒ》とありしを下上に誤れるなるべし、)○奧香無《オクカナク》は、行つきを不v知、といはむが如し、此(ノ)詞、上に出て既く云り、○戀乍可將來《コヒツヽカコム》は、家の妹を、戀しく思ひつつ行むかの意なり、將《ム》v來《コ》といへるは、往(ク)方を内にして云る言なり、○歌(ノ)意かくれなし、
 
(407)3151 外耳《ヨソノミニ》。君乎相見而《キミヲアヒミテ》。木綿牒《ユフタヽミ》。手向乃山乎《タムケノヤマヲ》。明日香越將去《アスカコエイナム》。
 
外耳はヨソノミニ〔五字右○〕なり、(ヨソニノミ〔五字右○〕と訓はわろきよし、、既くいへり、)○木綿牒《ユフタヽミ》は、まくら詞なり、既く六(ノ)卷に出(デ)つ、牒は、後漢書王符傳(ニ)、皆服2文組綵牒(ヲ)1、註(ニ)牒(ハ)即(チ)今(ノ)疊布(ナリ)、とあり、○手向乃山は、集中に、奈良の手向と、近江(ノ)相坂の手向山とをよめる中に、こゝは奈良の手向をいへり、奈良人の歌にて、明日越むといへばなり、と岡部氏いへり、○歌(ノ)意は、奈良の京の女が、父の任に從ひて、あがたへ行むとするに、兼て心に思ひよりにし男を、外目にのみ相見て、得近づく事もせで、遂に遠き別(レ)とさへ成を、悲しめるなるべし、と岡部氏いへり、
 
3152 玉勝間《タマカツマ》。安倍島山之《アベシマヤマノ》。暮露爾《ユフツユニ》。旅宿得爲也《タビネエセメヤ》。長此夜乎《ナガキコノヨヲ》。
 
玉勝間《タマカツマ》は、まくら詞なり、此下にも、玉勝間島熊山之《タマカツマシマクマヤマノ》云々、とあり、本居氏(ノ)説に、古事記清寧天皇(ノ)段(ノ)歌に、意富岐美能美古能志婆加岐《オホキミノミコノシバカキ》、夜布士麻理斯麻理母登本斯《ヤフジマリシマリモトホシ》云々、とあるは、大君の御子の柴垣《シバカキ》、八節結々廻《ヤフシマリシマリモトホシ》にて、柴垣を結堅め、廻《メグ》らしたるを云なり、されば玉勝間《タマカツマ》は、島《シマ》にかゝれる枕詞にて、籠の目を、堅く結《コ》へるよしのつゞきなり、といへり、○安倍島山《アベシマヤマ》は、仲哀天皇(ノ)紀に、八年春正月、幸2筑紫(ニ)1時云々、限2没利島、阿閇島(ヲ)1爲2御筥(ト)1、云々、とあれど、こゝにいへるは、總國風土記に、尾張(ノ)國中島(ノ)郡|安倍島山《アベシマヤマ》、と見えたる、是か、○旅宿得爲也、(旅(ノ)字、元暦本には客と作り、)は、タビネエセメヤ〔七字右○〕と訓べし、十一に、面忘太爾毛得爲也《オモワスレダニモエセムヤ》云々、とあるも同じ、十(ノ)卷に、彦星之川瀬渡(408)左小舟乃得行而將泊河津石所念《ヒコホシノカハセヲワタルサヲブネノエユキテハテムカハツシオモホユ》、とあるは、行て泊ることを得む、と云意なり、旅宿|爲《スル》ことを得むや、爲《スル》ことを得じ、となり、(今(ノ)世の俗言にしていはゞ、ようせうか、えすまいといふ意なり、)○歌(ノ)意は、安倍島山の暮露の上に、衣かた敷て、長き夜すがら、旅宿は得すまじきを、とわびたるなり、
 
3153 三雪零《ミユキフル》。越乃大山《コシノオホヤマ》。行過而《ユキスギテ》。何日可《イヅレノヒニカ》。我里乎將見《ワガサトヲミム》。
 
三雪零《ミユキフル》とは三《ミ》は御《ミ》にて、眞雪《マユキ》と云が如し、さて越(ノ)國は甚寒くて、古今集にも、君をのみ思ひ越路の白山はいつかは雪の消る時ある、とよめる如く、大かたいつも雪の零(ル)處なれば、かくつづけたり、十七に、美雪落越登名爾於弊流《ミユキフルコシトナニオヘル》、十八に、美由伎布流古之爾久太利來《ミユキフルコシニクダリキ》、などあり、○越乃大山《コシノオホヤマ》は、越《コシ》と云名の由縁は、外國をさして、諸越《モロコシ》といへるを思へば、外國人の調貢の品々を、越《コシ》の國なるべし、と諸國名義考にいへり、垂仁天皇の御世に、意富加羅國(ノ)王の子、都怒我阿羅斯等が、皇朝に歸化《マヰキ》し時、一船に乘て、越(ノ)國笥飯(ノ)浦に泊しよしあるを思ひて、いへる説なるべし、又本居氏は、越後(ノ)國に古志(ノ)郡あれば、そこより出たる名ならむかのよし、古事記傳に論へり、猶考ふべし、大山《オホヤマ》は、契冲、和名抄に、越中(ノ)國婦負(ノ)郡大山(ハ)、於保也萬《オホヤマ》、とあるを引り、此か、又神名式に、越前(ノ)國丹生(ノ)郡大山御板(ノ)神社、と云も見えたり、其處にてもあるべきにや、今決てはいひがたし、○行過而《ユキスギテ》は、過來而《スギキテ》と云が如し、來と云べきを、行と云るは例の越(ノ)國の方を、なほ内に(409)していへるなり、○歌(ノ)意は、任國の越の大山を越過來て、越路《コシヂ》を遙々よそに見すてゝ、何(ノ)日にか、京方にかへり到(リ)著て、吾里をば見べき、となり、任はてゝ上らむとする人の、よめるなるべし、
 
3154 乞吾駒《イデワガコマ》。早去欲《ハヤクユキコソ》。亦打山《マツチヤマ》。將待妹乎《マツラムイモヲ》。去而速見牟《ユキテハヤミム》。
 
乞は、物を乞ふ辭なり、既く徃々《トコロ/”\》に出たり、○早去欲は、ハヤクユキコソ〔七字右○〕とよめるよろし、欲《コソ》は、乞希(ノ)辭なり、○亦打山《マツチヤマ》は、既く出(デ)つ、即(チ)經行(ク)路の山を云て、待《マツ》をいはむ料とせり、○去而速見牟《ユキテハヤミム》は、(本居氏の、ユキテトクミム〔七字右○〕とよめるは、いとわろし、速は、必(ズ)ハヤ〔二字右○〕とよむ例なり、)早く還り往て見むと、自(ラ)いそぐなり、速《ハヤ》は、十(ノ)卷に、森爾早奈禮《モリニハヤナレ》、とある早《ハヤ》に同じ、未來《ユクサキ》のことを、急ぐときにいふ早《ハヤ》なり、○歌(ノ)意は、いで/\吾(ガ)のれる駒よ、早く行(ケ)かし、待つゝあるらむ家の妹が容貌を、早く行|到《イタ》りて見むぞ、となり、紀伊(ノ)國の任などより、京へ還る人のよめるならむ、此(ノ)歌、催馬樂に、いや吾(ガ)駒はやく行こせまつち山待らむ人を行てはやみむ、とあり、古世《ユセ》とあるは、後の、訛なり、(伊勢物語にも、告己曾《ツゲコソ》と云べきを、告己世《ツゲコセ》と云り、)
 
3155 惡木山《アシキヤマ》。木末悉《コヌレコト/”\》。明日從者《アスヨリハ》。靡有社《ナビキタリコソ》。妹之當將見《イモガアタリミム》。
 
惡木山《アシキヤマ》は、契冲、筑前なり、第八に、太宰(ノ)諸卿大夫並官人等、宴2筑前(ノ)國蘆城(ノ)驛家1歌二首云々、その歌に、あしき野とも、あしき川ともよめり、其(ノ)地なるべし、といへり、(岡部氏、肥前の蘆城山かと(410)云るは、筑前を誤れるか、又略解に、尾張|春部《カスカベノ》郡|安食《アジキ》、近江(ノ)犬上(ノ)郡|安食《アジキ》、といふを引たれど、こゝはそれらにはあらず、)○靡有社《ナビキタリコソ》は、靡きてがな有(レ)かし、と云意なり、社《コソ》は乞希(ノ)辭なり、二(ノ)卷人麻呂歌に、妹之門將見靡此山《イモガカドミムナビケコノヤマ》、十三に、靡得人雖蹈《ナビケトヒトハフメドモ》、如此依等人雖衝《カクヨレトヒトハツケドモ》、無意山之《コヽロナキヤマノ》、奥磯山三野之山《オキソヤマミヌノヤマ》、などよめり、○歌(ノ)意は、わが今日越來たる、惡木山の木高き梢、盡(ク)明日よりは靡き伏てがなあれかし、さらば妹が家のあたりの見えむぞ、となり、筑前(ノ)國(ノ)任などにて下れる人のよめるなるべし、
 
3156 鈴鹿河《スヾカガハ》。八十瀬渡而《ヤソセワタリテ》。誰故加《タガユヱカ》。夜越爾將越《ヨコエニコエム》。妻毛不在君《ツマモアラナクニ》。
 
鈴鹿河《スヾカガハ》は、伊勢(ノ)國鈴鹿(ノ)郡の河にて名高し、○八十瀬渡而《ヤソセワタリテ》は、此河同じ流を、かなたこなたと、幾遍も渡りて、往來する處なれば云へりとぞ、催馬樂に、鈴鹿河八十瀬の瀧をみな人のあくるもしるく時にあへるかも、源氏物語賢木に、鈴鹿河八十瀬の浪にぬれ/\て伊勢まで誰か思ひおこせむ、○歌(ノ)意は、相見て、歡ふべき妻もなきことなるに、誰人の爲に鈴鹿河の八十瀬をわたりて、艱難《カラク》して、山道を夜越に越來らむ、となり、男の旅なるほどに、家の妻の身まかりし後に歸るとて、よめるなり、と岡部氏いへり、さもあらむか、
 
3157 吾妹兒爾《ワギモコニ》。又毛相海之《マタモアフミノ》。安河《ヤスノカハ》。安寢毛不宿爾《ヤスイモネズニ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
本(ノ)二句は、家なる妹に別れ來て、又立還りて逢(フ)といふ意もて、つゞけなしたり、さて此は、近江《アフミ》(411)を云むとての縁《クサリ》に云るのみにて、歌意までには關からず、○安河《ヤスノカハ》は、近江(ノ)國野洲(ノ)郡の河なり、さて旅に居る處の河(ノ)名をいひて、やがて安寐《ヤスイ》をいはむ料とせり、○寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐と作り、○歌(ノ)意は、近江(ノ)國に別れ來て、家路戀しく思ふにつけて、夜も安くも寐ずして、月日を過すこと哉、となり、
 
3158 客爾有而《タビニアリテ》。物乎曾念《モノヲソオモフ》。白浪乃《シラナミノ》。邊毛奧毛《ヘニモオキニモ》。依者無爾《ヨルトハナシニ》。
 
歌(ノ)意は、旅にありて、契りのならむともなく、ならざらむともなく、たとへば海上の白浪の、邊方によるともなく、奥方によるともなきがごとくに、たゞよひて、心落居ず、物思をぞする、と云るにて、旅中にて、女に思をかけたる人のよめるなるべし、
 
3159 湖轉爾《ミナトミニ》。滿來塩能《ミチクルシホノ》。彌益二《イヤマシニ》。戀者雖剰《コヒハマサレド》。不所忘鴨《ワスラエヌカモ》。
 
湖轉は、ミナトミ〔四字右○〕と訓べし、三(ノ)卷にも、石轉《イソミ》とあり、轉は同と書むが如し、(轉は、つねに回轉とつらぬる字なるを思ふべし、)回をミ〔右○〕と訓べきこと、一(ノ)卷中に既く委く辨へたるがごとし、(ミナトワ〔四字右○〕とよめるは、後の言なれば、あらず、又略解に、ミナトマ〔四字右○〕とよめるもいとゞわろし、ミナトマ〔四字右○〕と云言、すべてあることなし、)○本(ノ)二句は序なり、四(ノ)卷に、從蘆邊滿來鹽乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシヘヨリミチクルシホノイヤマシニオモヘカキミガワスレカネツル》、○歌(ノ)意は、家なる妹が、わすられはせずして、旅の月日を經るま)に、戀しく思ふ心は、いよ/\まさる哉、となり、
 
(412)3160 奥浪《オキツナミ》。邊浪之來依《ヘナミノキヨル》。貞浦乃《サダノウラノ》。此左太過而《コノサダスギテ》。後將戀鴨《ノチコヒムカモ》。〔頭註、【重出、】〕
 
本(ノ)句は、序にて、旅路に經行(ク)處の、浦の名をいひて、左太《サダ》をいはむ料とせるなり、○歌(ノ)意は、此(ノ)時節を過して、後に戀しく思はむか、さても殘り多や、と云るにて、これも旅中にて、女に思をかけてよめるなるべし、戀此(ノ)歌、十一に既く出たり、なほ彼(ノ)卷に註るを、考(ヘ)合(ス)べし、(但(シ)彼(ノ)卷には、寄v物陳v思と云中に、寄2海邊1歌の一類に載《ツケ》、此(ノ)卷には、羈旅發v思と云中に載たるを以て、異《タガヒ》とす、
 
3161 左千方《アリチガタ》。在名草目而《アリナグサメテ》。行目友《ユカメドモ》。家有妹伊《イヘナルイモイ》。將欝悒《イフカシミセム》。
 
有千方《アリチガタ》は、未(ダ)考(ヘ)得ず、(岡部氏、もし越前のアラチ〔三字右○〕にや、然らばアラチガタ〔五字右○〕と訓べし、といへれど、おぼつかなし、)これも經行路の地(ノ)名を云て、やがて、在《アリ》をいはむ料とせり、○在名草目而《アリナグサメテ》は、在在《アリアリ》つゝ心を慰めて、と云意なり、○行目友《ユカメドモ》は、雖《ドモ》v將《メ》v行《ユカ》なり、(俗に行(カ)うけれども、といふが如し、)○伊《イ》は助辭なり、繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》云々、續紀詔に、藤原(ノ)朝臣|麻呂等伊《マロライ》云々、百濟(ノ)王敬福|伊《イ》云々、又國王|伊《イ》云々、などある同例なり、なほこの辭のこと、三(ノ)卷|志斐伊《シビイ》とある處に、委(ク)註り、○欝悒《イフカシミ》は、思ひ結るゝを云、上に出(デ)つ、○歌(ノ)意は、この在千潟《アリチガタ》の美景を見つゝ、此處に在在《アリアリ》て、心を慰(メ)つゝ行むとはおもへど、家にある妹が、思ひ結れて待らむと思へば、のどかに心をも得とゞめず、徒に見過して行よ、となり、(註どもに、吾はなぐさめても行を、家の妹は、おもひはるゝ時なくてあらむ、といふ意に、心得たるは、大じきひがことなり、)
 
(413)3162 水咫衝石《ミヲツクシ》。心盡而《コヽロツクシテ》。念鴨《オモヘカモ》。此間毛本名《コヽニモモトナ》。夢西所見《イメニシミユル》。
 
水咫衝石は、咫は、尾(ノ)字の誤寫なるべし、(集中に、水脉《ミヲ》を、水尾と書る處多し、)水脉津籤《ミヲツクシ》にて、江海の深き水脉に杙を建て、往來の舟の、其(ノ)杙を目あてにして、漕(グ)料とせるを云、雜式に、難波津(ノ)頭(ノ)海中(ニハ)立2澪標《ミヲツクシヲ》1、若(シ)有(バ)2舊標(ノ)朽折(タル)者1、捜(リ)求(テ)拔(キ)去(レ)、古今集に、君こふる泪の床に滿ぬれば水脉《ミヲ》つ籤《クシ》とぞ我は成ける、六帖に、みをつくし、川浪もうしほとかゝるみをつくしよする方なき戀もする哉、土佐日記に、六日、みをつくしのもとより出て、難波の津をきて、河尻に入云々、さて此は、心盡《コヽロツクシ》といはむとての枕詞ながら、此(ノ)歌の前後、多くは皆地(ノ)名をよめれば、契冲も云る如く、難波の邊に族居せる人の、目にふるゝ物を、やがてよめるなるべし、○念鴨《オモヘカモ》は、おもへばかの意なり、毛《モ》は歎息を含める助辭なり、○此間《コゝ》は、此處《コヽ》なり、此(ノ)方といふが如し、七(ノ)卷に、此月之此間來者且今跡香毛妹之出立待乍將有《コノツキノコヽニキタレバイマトカモイモガイデタチマチツヽアラム》、○歌(ノ)意は、家なる妹が、心を盡して、吾を思へばか、此方にも、むざ/\とかぎりもなく、夢に見ゆるよ、さてもいよ/\、家路の一(ト)すぢに、戀しく思はるゝ事ぞ、となり、
 
3163 吾妹兒爾《ワギモコニ》。觸者無二《フルトハナシニ》。荒礒回爾《アリソミニ》。吾衣手者《ワガコロモテハ》。所沾可母《ヌレニケルカモ》。
 
觸者無二《フルトハナシニ》、上にも、吹風妹經者吾共經《フクカゼシイモニフレナバアガムタニフレ》、とあり、○荒礒回はアリソミ〔四字右○〕とよむべし、(略解にアリソマ〔四字右○〕とよめるは、いみじきひがことなり、)○歌(ノ)意は、妹にこそ依(リ)觸(ル)べきに、さはあらずして、荒き(414)礒浪に觸て、衣手を打沾しつゝ、さてもくるしき旅をすること哉、となり、
 
3164 室之浦之《ムロノウラノ》。湍門之崎有《セトノサキナル》。鳴島之《ナルシマノ》。礒越浪爾《イソコスナミニ》。所沾可聞《ヌレニケルカモ》。
 
室之浦《ムロノウラ》は、播磨(ノ)國揖保(ノ)郡の室《ムロ》なり、○湍門《セト》は、淡路島の間の迫門《セト》なるべし、○鳴島は、舊本ナキシマ〔四字右○〕とよめり、(契冲、ナキシマ〔四字右○〕とよめるによりて、故郷の妻を戀てなくによせて、よめるよしいへれど、然まで譬へたる意はなし、)浪音の鳴動《ナリトヨ》むより、負せたる島の名なるべければナルシマ〔四字右○〕なるべし、鳴尾《ナルヲ》、鳴門《ナルト》、鳴海《ナルミ》などの例をも、思(ヒ)合(ス)べし、略解にも、今人(ノ)氏に、成島《ナルシマ》といふもあれば、ナルシマなるべし、といへり、なほ土人に問べし、○歌(ノ)意は、家妻を思ふ情さへ、堪がたくあるを、鳴島の磯浪にぬれつゝ、さてもくるしき旅をすることにてもある哉、となり、
 
3165 霍公鳥《ホトヽギス》。飛幡之浦爾《トバタノウラニ》。敷浪之《シクナミノ》。屡君乎《シバ/\キミヲ》。將見因毛鴨《ミムヨシモガモ》。
 
霍公鳥《ホトヽギス》は、まくら詞なり、飛《トブ》といひかけたり、四(ノ)卷に、白鳥能飛羽山松之《シラトリノトパヤママツノ》云々、○飛幡之浦《トバタノウラ》、筑前(ノ)國遠賀(ノ)郡に、戸畑《トバタ》と云處あり、筑前(ノ)國風土記、塢※[舟+可](ノ)水門(ノ)條に、鳥旗《トバタ》と云あり、そこ歟、○本句(ノ)は序なり、依重《ヨリシキ》る浪の、間無《マナキ》謂もて、屡《シバ/\》とつゞけたり、此(ノ)上に、立浪之數和備思《タツナミノシバ/\ワビシ》、ともあり、○君《キミ》とは、旅宿のあたりにて、思ひかけたる人を云るか、○歌(ノ)意は、間もおかず、度々君を見むよしもがなあれかし、となり、
 
3166 吾妹兒乎《ワギモコヲ》。外耳哉將見《ヨソノミヤミム》。越懈乃《コシノウミノ》。子難懈乃《コカタノウミノ》。鳥楢名君《シマナラナクニ》。
 
(415)越懈乃は、コシノウミ〔五字右○〕ノとよめる宜し、懈は二(ツ)ともに、契冲がいへるごとく、※[さんずい+解](ノ)字の誤寫なるべし、○子難懈《コカタノウミ》は、十六にも、紫乃粉滷乃海爾潜鳥珠潜出者吾玉爾將爲《ムラサキノコカタノウミニカヅクトリタマカヅキデバワガタマニセム》、とよめり、○歌(ノ)意は、妹は、子難の海の島にてもあらぬことなるを、其(ノ)島を外目に見すぐして、行(ク)如く、外に見てのみあらむ歟、となり、これも旅行中に、思ひかけたる女をよめるにや、
 
3167 浪間從《ナミノマヨ》。雲位爾所見《クモヰニミユル》。粟島之《アハシマノ》。不相物故《アハヌモノユヱ》。吾爾所依兄等《アニヨスルコラ》。
 
浪間從は、ナミノマヨ〔五字右○〕と訓べし、○雲位爾所見《クモヰニミユル》(所(ノ)字、舊本にはなし、元暦本、拾穗体等に從つ、)は、雲居遙に見ゆるなり、○粟島之《アハシマノ》、此までは序なり、さてこれも、旅居せる所より、見やりたる所を云て、即(チ)不相《アハヌ》と疊《カサ》ねつゞけたり、粟島は、既く三(ノ)卷に出(デ)つ、○不相物故《アハヌモノユヱ》は、逢ざる物をといふ意なり、○所依《ヨスル》は、人のいひよするを云、○歌(ノ)意は、未(ダ)逢たることもなき女なるものを、人の吾にいひよするよ、となり、これも旅中にて、女をかたらふよし、人のいひさわぐよしをきゝてよめるなるべし、
 
3168 衣袖之《コロモテノ》。眞若之浦之《マワカノウラノ》。愛子地《マナゴツチ》。間無時無《マナクトキナシ》。吾戀钁《アガコフラクハ》。
 
衣袖之《コロモテノ》は、眞若《マワカ》とつゞきたるは、衣袖の眞別といふ意に、いひかけたるなり、其は四(ノ)卷三方(ノ)沙彌(カ)歌に、衣手乃別今夜從妹毛吾母甚戀名相因乎奈美《コロモテノワカルコヨヒヨイモモアレモイタクコヒムナアフヨシヲナミ》、とあるをはじめて、衣袖《コロモテ》の別《ワカル》とも、袖《ソテ》の別《ワカレ》ともよめる、集中に多し、其は此(ノ)下にも、白妙之袖之別者雖惜《シロタヘノソテノワカレハヲシケドモ》云々、また白妙乃袖之別乎難(416)見爲而《シロタヘノソテノワカレヲカタミシテ》云々、などよめる類なり、これらを思(ヒ)合すべし、○眞若之浦《マワカノウラ》は、紀伊(ノ)國の弱《ワカノ》浦なり、眞《マ》は、眞熊野《マクマヌ》、御吉野《ミヨシヌ》など云、眞《マ》御《ミ》の如し、○愛子地は、マナゴツチ〔五字右○〕と訓べし、(七(ノ)卷にも、愛子地《マナゴツチ》とあれば、地は、ツチ〔二字右○〕なること灼然《シル》し、然るを、地は路の意と心得て、マナゴチノ〔五字右○〕とよめるはわろし、)眞砂のある地《トコロ》を謂ふ、さてその數々《カズ/\》の眞砂の、すき間なきをもて、間無《マナク》とゞけたるなるべし、又七(ノ)卷に、豐國之聞之濱邊之愛子地眞直之有者何如將嘆《トヨクニノキクノハマヘノマナゴツチマナホニシアラバナニカナゲカム》、とある如くマナ〔二字右○〕の言を疊む料に、いへるにもあるべし、○钁(元暦本、類聚抄、拾穗本等には、〓と作り、)は、久波《クハ》の借(リ)字なり、和名抄に、※[秋/金]一名※[金+華]、和名|久波《クハ》、また説文(ニ)云、〓(ハ)大鋤也、和名同v上(ニ)、と見えたり、○歌(ノ)意は、家なる妹と、衣袖の眞別(レ)に別れ來て、此(ノ)弱(ノ)浦の眞砂地の、眞砂の透間《スキマ》なきが如く、吾(ガ)家路を戀しく思ふ心は、間も時もなし、となり、(此(ノ)歌(ノ)意、古來解得たる人なし、まづ冠辭考に、契冲が説を引て、左右の手を具して、眞手《マテ》といふなれば、袖も同じく相具したる物故に、眞《マ》とつゞけたるか、といへり、抑々《マ》某と云|眞《マ》の言は、もと何にまれ、物のすぐれてよきと、又|全備《ソナハリ》たるとを稱《ホメ》いふ言にして、左右の手を眞手《マテ》、左右の袖を眞袖《マソテ》、左右の楫を眞楫《マカヂ》と云る類は、其(ノ)全備《ソナハリ》たるを稱たるなり、其餘なるも・皆其(ノ)定にて、いづれも語首におく言にこそあれ、手の眞《マ》卦、袖の眞《マ》と云べき理やはあるべき、かゝるを、世の古學者の徒、冠辭考に委ねて、ことさらに考(フ)べき物ともせざるにや、いぶかしいぶかし、)
 
(417)3169 能登海爾《ノトノウミニ》。釣爲海部之《ツリスルアマノ》。射去火之《イザリヒノ》。光爾伊往《ヒカリニイマセ》。月待香光《ツキマチガテリ》。
 
能登海《ノトノウミ》は、能登(ノ)國の海なり、○伊往は、舊本は、イマセ〔三字右○〕と訓る、いと宜し、これに從べし、(略解に、イユク〔三字右○〕とよめるは、いみじき非なり、)○月待香光は、ツキマチガテリ〔七字右○〕と訓べし、既く出たる辭なり、○歌(ノ)意は、程なく月も出來べきなれば、其(ノ)月を待兼帶《マチガテラ》に、漁人《アマビト》のともせる、漁火《イザリヒ》の光にてらされて、緩々《ユル/\》と恙《ツヽミ》なくしておはしませ、心急して、あやまちしたまふなよ、とよめるなるべし、此(ノ)歌は、同じ湊に泊たる舟の中に、思ふ人のありけるが、夜中にこぎわかれて、舟出する間に、いひやれるなるべし、
 
3170 思香乃白水郎乃《シカノアマノ》。釣爾燭有《ツリニトモセル》。射去火之《イザリヒノ》。髣髴妹乎《ホノカニイモヲ》。將見因毛欲得《ミムヨシモガモ》。
 
思香《シカ》は、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡にありて、名高き志珂《シカ》なり、既く出つ、○釣爾燭有(釣(ノ)字、舊本には鉤と作り、今は古寫一本、拾穗本等に從つ、爾(ノ)字、舊本に爲と作るは、次上の歌に、釣爲海部之、とあるに見混へて、寫し誤れるなるべし、今は岡部氏の、爾に改めたるに從つ、)は、ツリニトモセル〔七字右○〕と訓べし、○本(ノ)句は序にて、火(ノ)光の幽《ホノカ》といひつゞけたり、○歌(ノ)意は、ほのかになりとも、嗚呼《アハレ》家なる妹を、相見むしかたもがなあれかし、となり、
 
3171 難波方《ナニハガタ》。水手出船之《コギデシフネノ》。遙遙《ハロバロニ》。別來禮杼《ワカレキヌレド》。忘金津毛《ワスレカネツモ》。
 
遙々《ハロ/”\ニ》、五(ノ)卷に、波漏波漏爾《ハロバロニ》とあり、○歌(ノ)意は、難波潟こぎ出て、遙々に別れ來ぬれば、めづらしき(418)處々に、目は觸(ル)れども、なぐさむ心はなくて、家なる妹を、しばしも得忘れず、さても戀しく思はるゝ事ぞ、となり、
 
3172 浦回※[手偏+旁]《ウラミコグ》。熊野舟泊《クマヌフネハテ》。目頬志久《メヅラシク》。懸不思《カケテオモハヌ》。月毛日毛無《ツキモヒモナシ》。
 
浦回は、ウラミ〔三字右○〕と訓べし、(ウラワ、ウラマ〔六字右○〕などよむは、古言にあらず、ひがことなり、)既くたびたび出つ、契冲、右に難波方《ナニハガタ》と云、左に穿江《ホリエ》とあれば、難波の浦回なり、と云り、但しこれは、何處の浦回にてもありぬべし、○熊野舟泊、(泊(ノ)字、舊本に附と作り、古本には、泊と作るよし、これ宜し、)契冲、能は、熊(ノ)字の列火をうしなへるなり、と云るぞ當れる、クマヌフネハテ〔七字右○〕と訓べし、熊野舟《クマヌフネ》は、神代(ノ)紀下(ツ)卷に、故(レ)以(テ)2熊野(ノ)諸手船1、(亦名(ハ)天(ノ)鳩船、)載2使者稻背彦(ヲ)1、此(ノ)集六(ノ)卷にも、眞熊野之舟《マクマヌノフネ》を、二首よめり、さて此までは、愛《メヅ》らしくといはむとての序なり、中山(ノ)嚴水云、今も熊野にて鯢《クヂラ》取(ル)船は、赤く黒く漁りて、色々の花形など畫ければ、古よりしかありしなるべし、されば餘の舟どもとは、異にて愛《メヅ》らしくうるはしければ、そを熊野舟と云て、さてめづらしくといひつゞけたるなるべし、○目頬志久《メヅラシク》は、愛憐《メヅラシ》くなり、難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許増常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガツマコソツネメヅラシキ》、とあるめづらしきに同じ、さて此(ノ)は、思《オモフ》の言に屬(ケ)て意得べし、○歌(ノ)意は、家路遙に、別れ來てはあれども、心に懸て、己妻を愛憐《メヅラ》しき物に思ひ慕はぬ時も日もさらになし、と云るなるべし、
 
(419)3173 松浦舟《マツラブネ》。亂穿江之《ミダルホリエノ》。水尾早《ミヲハヤミ》。※[楫+戈]取間無《カヂトルマナク》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
松浦舟《マツラブネ》は、筑紫の松浦の舟にて、物積(ミ)運ぶ舟なれば、難波に來湊《キツド》ふなり、七(ノ)卷に、作夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨《サヨフケテホリエコグナルマツラブネカヂオトタカシミヲハヤミカモ》、○亂穿江之は、ミダルホリエノ〔七字右○〕と訓べし、亂《ミダル》は、三(ノ)卷にも、苅薦乃亂出所見海人釣船《カリコモノミダレイヅミユアマノツリフネ》、とよめり、(亂は、壞れ亂るゝをも云(ヘ)ど、こゝは出入船の數多くて、さわぎきほふさまをいへるなり、)穿江《ホリエ》は、難波堀江なり、○水尾早《ミヲハヤミ》は、水脉《ミヲ》の流の急《ハヤ》さに、といふ意なり、○※[楫+戈]取間無《カヂトルマナク》は、※[楫+戈]を取に隙無(キ)意なり、流(レ)の急《ハヤ》さに、※[楫+戈]を取(リ)止《ヤム》る間のなき謂なり、さて※[楫+戈]取(ル)と云までは、間無《マナク》を「いはむ料の序にて、旅居のほど、目にふるゝ物をもていへるなり、十七に、香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久京師之於母保由《カシマヨリクマキヲサシテコグフネノカヂトルマナクミヤコシオモホユ》、これは少しつゞけの意、かはりたるやうなれど、香島より熊來の間は、潮早くて、※[楫+戈]取に隙なきより云るならむ、○歌(ノ)意は、家なる妹が、間も時もなく、さても戀しくおもはるゝことかな、となり、○此(ノ)一首、古寫本になきは、脱たるなるべし、
 
3174 射去爲《イザリスル》。海部之※[楫+戈]音《アマノカヂノト》。湯鞍干《ユクラカニ》。妹心《イモガコヽロニ》。乘來鴨《ノリニケルカモ》。
 
本(ノ)二句は序にて、※[楫+戈]音高之水尾早見鴨《カヂノオトタカシミヲハヤミカモ》、又、可治都久米於等之婆多知奴美乎波也美加母《カヂツクメオトシバタチヌミヲハヤミカモ》、など云るとは異にて、なぎたる海にて、海部の漁《イザリ》する舟なれば、急《イソ》がず寛《ユル》やかに漕よしのつゞけにて、さてうけたる方にては、湯鞍干《ユクラカニ》は、意|異《カハ》れり、○湯鞍干《ユクラカニ》は、動搖《ユクラカ》になり、その動搖は、ゆたの(420)たゆたに物思ふ頃ぞと云る、ゆたと同言にして、心の動《ユ》り搖《サワ》ぐを云言なり、○歌(ノ)意は、妹が我(ガ)心の上にうかびて、心《ムネ》打動くばかりに、さても戀しく思はるゝことかな、となり、さてその妹は、旅にして、家の妹を云るなり、此(ノ)歌の末(ノ)句二(ノ)卷に、久米(ノ)禅師(ガ)歌に、東人之荷向篋乃荷之緒荷毛妹情爾乘爾家留香聞《アヅマヒトノノサキノハコノニノヲニモイモガコヽロニノリニケルカモ》、とあるよりこのかた、あまた見えたり、
 
3175 若乃浦爾《ワカノウラニ》。袖左倍沾而《ソテサヘヌレテ》。忘貝《ワスレガヒ》。拾跡妹者《ヒリヘドイモハ》。不所忘爾《ワスラエナクニ》。
 
跡(ノ)字、元暦本、官本、拾穗本等には、杼と作り、○歌(ノ)意は、忘貝《ワスレガヒ》を手に取(レ)ば、忘《ワスル》といふ名にあやかりて、憂を忘ると人のいへば、さることもあらむかと、衣(ノ)裾《スソ》はさるものにて、袖さへも濕《ヌレ》て、、艱難《カラク》して、弱《ワカノ》浦の忘貝を袷へれど、家なる妹は、しばしも得忘れられずに、戀しく思はるゝものを、これにて思へば忘貝といふも、たゞ貝の名ばかりにてありけり、となり、○舊本に、或本末句云忘可禰都母、と註せり、
 
3176 草枕《クサマクラ》。羈西居者《タビニシヲレバ》。苅薦之《カリコモノ》。擾妹爾《ミダレテイモニ》。不戀日者無《コヒヌヒハナシ》。
 
草枕《クサマクラ》、苅薦之《カリコモノ》は、共に枕詞なり、○歌(ノ)意は、旅に居れば、心も亂れて、家の妹を、戀しく思はぬ日は、一日もさらになし、となり、
 
3177 然海部之《シカノアマノ》。礒爾苅干《イソニカリホス》。名告藻之《ナノリソノ》。名者告手師乎《ナハノリテシヲ》。如何相難寸《イカデアヒガタキ》。
 
然《シカ》は、上にいへる思香《シカ》に同じ、○本(ノ)句は序にて、名告藻之名告《ナノリソノナノリ》、と連(ネ)下したり、○歌(ノ)意、女の名を(421)告知せしからは、うけひきつらむを、事とて、逢事の難きことぞ、となり、筑前に任られし人の、旅中にて、女をかたらひてよめるなるべし、さて上に、住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソノナハノリテシヲアハナクモアヤシ》とあるは、今の歌に甚(ク)似たり
 
3178 國遠見《クニトホミ》。念勿和備曾《オモヒナワビソ》。風之共《カゼノムタ》。雲之行如《クモノユクナス》。言者將通《コトハカヨハム》。
 
歌(ノ)意、國が遠く隔りたる故に、得相見ずとて、思ひわぶることなかれ、風と共に、雲の空を往かよふ如くに、音信せむをと、別れしとき、家の妹がいたくわびたるを、なぐさめむとて、よみておくれるなるべし、
 
3179 留西《トマリニシ》。人乎念爾《ヒトヲオモフニ》。※[虫+廷]野《アキヅヌニ》。居白雲《ヰルシラクモノ》。止時無《ヤムトキモナシ》。
 
留(ノ)字、元暦本には※[死/田]と作り、留の異體なり、○人《ヒト》は、妻《メ》を云べし、○※[虫+廷]野は、吉野の蜻蛉野《アキヅヌ》なり、○居白雲《ヰルシラクモ》は、下(リ)居る雲の消失る時なきをもて、止時無《ヤムトキナシ》の序とせり、○歌(ノ)意は、家に留(リ)居し妻を、戀しく思ふに、思ひ止時とてはさらになし、となり、
 
悲別歌《ワカレノカナシミウタ》。
 
これは覊旅の標内の悲別歌なり、その心して見べし、
 
3180 浦毛無《ウラモナク》。去之君故《イニシキミユヱ》。朝旦《アサナサナ》。本名烏戀《モトナソコフル》。相跡者無杼《アフトハナシニ》。
 
浦毛無《ウラモナク》は、心の裏表無《ウラウヘナキ》を云詞にて、此は何の邪心《ヨコシマゴヽロ》もなく、といはむが如し、上に、橡之一重衣(422)裏毛無將有兒故戀渡可聞《ツルバミノヒトヘコロモノウラモナクアルラムコユヱコヒワタルカモ》、とあり、○君故《キミユヱ》は、君なるものをの意なり、故《ユヱ》は、人妻故爾《ヒトヅマユヱニ》などいふ故《ユエ》なり、○朝旦《アサナサナ》は、毎日《ヒゴト》といはむが如し、假字書は、十七に、奈泥之故我波奈爾毛我母奈安佐奈佐奈見牟《ナデシコガハナニモガモナアサナサナミム》、廿(ノ)卷に、阿佐奈佐奈安我流比婆理爾奈里弖之可《アサナサナアガルヒバリニナリテシカ》云々、などあり、○本名烏戀《モトナソコフル》、烏は、上にも、曾といふべき處に用ひたり、焉に通(ハシ)用たるなるべし、烏焉通(ハシ)用る謂は、上に和名抄を引て、證したるごとし、○相跡者無杼、本居氏、杼は荷(ノ)字の誤にて、アフトハナシニ〔七字右○〕なるべし、といへり、元暦本にも、假字には、ナシニ〔三字右○〕とあり、さもあるべし、○歌(ノ)意は、邪心《ヨコシマゴヽロ》をさしはさみて、別れ去し君ならば、さもあるべきに、然はなきものなるを、逢ことなければ、得思ひはるけずして、むざ/\と戀しくのみぞ思ふ、となり、此は夫(ノ)君の旅に行て後に、女のよめるならむ、
 
3181 白細之《シロタヘノ》。君之下※[糸+刃]《キミガシタヒモ》。吾左倍爾《アレサヘニ》。今日結而名《ケフムスビテナ》。將相日之爲《アハムヒノタメ》。
 
吾左倍爾《アレサヘニ》は、男の紐を結ぶを主にて、其(ノ)縁に、吾紐をまでに、と云意なり、○結而名《ムスビテナ》は、結ばむとすることを、さし急ぎていふ言なり、(すべて結而奈《ムスビテナ》、※[手偏+旁]而奈《コギテナ》などいふと、結《ムス》びてむ、※[手偏+旁]《コギ》てむなど云とは、緩急の差別あることなるを、註者等、たゞ古言の一(ノ)格にて、牟《ム》を奈《ナ》と、通(ハシ)云るよしに、説なせるは、古(ヘ)に委しからぬことなり、上にもたび/\いへり、)○歌(ノ)意は、君が下紐を妾《ワガ》結ぶ縁に、我(カ)紐をまでに、いざさらば、今日結(ヒ)堅めおきて、君が恙なく歸り來まして、互に解(キ)交《カハ》さむ時、たしかに異情をもたざる鐙の爲にせむ、となり、此も夫(ノ)君の旅立に臨て、夫(ノ)君の紐を、女の結(423)ぶとてよめるなり、三(ノ)卷人麿の※[羈の馬が奇]旅歌八首の中にも、粟路之野島之前乃濱風爾妹之結紐吹返《アハヂノヌシマノサキノハマカゼニイモガムスベルヒモフキカヘス》とあるも、旅發むとするほど、家(ノ)妻が結べる紐の謂《ヨシ》なり、此(ノ)外さるさまなる歌、これかれあり、
 
3182 白妙之《シロタヘノ》。袖之別者《ソテノワカレハ》。雖惜《ヲシケドモ》。思亂而《オモヒミダレテ》。赦鶴鴨《ユルシツルカモ》。
 
雖惜《ヲシケドモ》は、惜《ヲシ》けれども、といふ意なるを、かくレ〔右○〕の言をいはざるは、古(ヘ)の詞づかひなり、近家杼母《チカケドモ》、遠家杼母《トホケドモ》など云、皆同じ例なり、○赦鶴鴨《ユルシツルカモ》は、縱《ユル》しつる哉の意なり、縱《ユルス》とは、もとよりの意ならねど、よしやさばれと、縱《ユル》べはなつ謂《ヨシ》なり、さればこゝは、縱《ユル》べはなつは、本意にはあらねども、思ひ亂れし紛れに、得留めあへずて、縱《ユル》しつる謂なり、上に、梓弓引而不縱大夫哉《アヅサユミヒキテユルサズマスヲヲヤ》、とあるも、武夫《マスラヲ》の健《タケキ》心の、いさゝか緩《タユミ》なきを、弓弦を引張て、弛《ユルブ》ることのなきが如くなるに、たとへたるなり、四(ノ)卷に、今者吾羽和備曾四二結類氣乃緒爾念師君乎縱久思者《イマハアハワビソシニケルイキノヲニオモヒシキミヲユルサクモヘバ》、とあるは、縱《ユル》べはなら、去しめたることを思へば、わびしきよしにて、今の歌なるに、全(ラ)同じ、同卷に、根毛許呂爾君之聞四手《ネモコロニキミガキコシテ》、年深長四云者《トシフカクナガクシイヘバ》、眞十鏡磨師情乎《マソカヾミトギシコヽロヲ》、縱手師其日之極《ユルシテシソノヒノキハミ》、浪之共靡珠藻乃《ナミノムタナビクタマモノ》、云云意者不持《カニカクニコヽロハモタズ》、大船乃憑有時丹《オホブネノタノメルトキニ》云々、とあるは、もとよりたやすく、人の心にまかすまじと思へるものから、懇切《ネモコロ》にのたまふによりて、許容《ユル》したるよしにて、これも縱《ユルス》は、ゆるべはなちて、人に任せたる意なり、罪を赦《ユルス》と云も、繋《ツナ》ぎ縛《シバ》れるものを、解(キ)て縱《ハナ》つ意なり、そも/\ユル〔二字右○〕は、ユルブ、ユルヤカ、ユルラカ、(424)ユル/\、ユルカセ〔十九字右○〕など多くいふユル〔二字右○〕にて、結《シマ》れるをゆるぶるよしなり、○歌(ノ)意は、纏ひ交《カハ》せる袖と袖とを離《ハナ》して、別ることの惜(ク)はあれども、思ひ亂(レ)し紛れに、得留めもあへずして、縱《ユル》して別れゆかしのつる哉、さても惜き事ぞ、となり、
 
3183 京師邊《ミヤコヘニ》。君者去之乎《キミハイニシヲ》。孰解可《タレトクカ》。言※[糸+刃]緒乃《ワガヒモノヲノ》。結手懈毛《ユフテタユキモ》。
 
京師邊は、ミヤコヘニ〔五字右○〕とよめる宜し、(略解に、ミヤコヘヘ〔五字右○〕とよみしは、いとつたなし、但し三(ノ)卷に、燒津邊《ヤキヅヘニ》、春日之野邊《カスガノヌヘニ》、四(ノ)卷に、山跡邊《ヤマトヘニ》、邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》、七(ノ)卷に、邊近着毛《ヘニチカヅクモ》、清山邊《キヨキヤマヘニ》、八(ノ)卷に、佐保乃山邊《サホノヤマヘニ》、九(ノ)卷に、在衣邊《アリソヘニ》、秋津邊《アキヅヘニ》、十(ノ)卷に、棚引野邊《タナビクヌヘニ》、開有野邊《サキタルヌヘニ》、咲有野邊《サキタルヌヘニ》、十一に、谷邊蔓《タニヘニハヘル》、十九に、可蘇氣伎野邊《カソケキヌヘニ》、など書る處多きによりて、邊は、ヘン〔二字右○〕の字音を、ヘニ〔二字右○〕に假(リ)たるにて、集中に、黄土粉《ハニフニ》、爾故余漢《ニコヨカニ》、今夕彈《コヨヒダニ》、湯鞍干《ユクラカニ》など書ると、同例なり、と思ふ人あるべし、邊はいづくも用《ツカ》ひ樣、正字にかきて、邊《ヘン》の字音を假れるにはあらず、正字なるからは、邇《ニ》の辭をよみ附るに、妨なきことなり、)○孰解可《タレトケカ》は、孰が解ばにか、と云意なり、○結手懈毛は、ユフテタユキモ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、ユフテタユシモ〔七字右○〕とよめるは、第三(ノ)句の、可《カ》の疑詞に結(ビ)とゝのはず、)○歌(ノ)意は、夫(ノ)君は、遠く都方へ行しものを、誰が解ばにか、さてもかく下紐の、結(フ)手もたゆむまで、度々とくるならむ、とまづ疑ひて、さてこれは、他《ホカ》の故にあらず、いかさまこれは、わが夫(ノ)君を思ふが如く、君も妾《ワレ》をこひしくおもほすらむ、其(ノ)應《シルシ》に、かく自《オ》解るならむ、となり、人に戀しく思はるれば、紐の自《オ》解るといふ諺(425)によりて、よめるなり、(岡部氏の、夫は京へ行しかば、田舍女をば思ふまじきに、わが下紐のしきりにとくるは、誰人のわれを戀て、解ぬらむとあやしむなり、といへるは、いさゝか行たらはぬ説なり、)さて此は田舍(ノ)女の、夫(ノ)君が宮づかへなどすとて、都にのぼれるに、殘し置れて、よめる歌なるべし、十一に、君戀浦經居悔我裏紐結手徒《キミニコヒウラブレヲレバクヤシクモワガシタヒモノユフテタユキモ》、古今集に、思ふとも戀ともあはむ物なれやゆふ手もたゆくとくる下紐、
 
3184 草枕《クサマクラ》。客去君乎《タビユクキミヲ》。人目多《ヒトメオホミ》。袖不振爲而《ソテフラズシテ》。安萬田悔毛《アマタクヤシモ》。
 
安萬田悔毛《アマタクヤシモ》は、嗚呼《アハレ》殊に甚じく悔しき事、といふなり、七(ノ)卷に、鳥自物海二浮居而奥津浪驂乎聞者數悲哭《トリジモノウミニウキヰテオキツナミサワクヲキケバアマタカナシモ》、八(ノ)卷に、多夫手二毛投越都倍伎天漢敝太而禮婆可母安麻価多須辨奈吉《タブテニモナゲコシツベキアマノガハヘダテレバカモアマタスベナキ》、などある安麻多《アマタ》は、みな殊に甚しき謂なり、かやうに用《ツカ》へること、古(ヘノ)歌にのみ見えて、後(ノ)世なるにはなし、十七に、多加波之母安麻多安禮等母《タカハシモアマタアレドモ》、矢形尾乃安我大黒爾《ヤカタヲノアガオホクロニ》云々、とあるは、後(ノ)世に云と、同じ用ひ様なり、これも言は、もと同じことにて、殊に數多くあれどもの謂《ヨシ》なり、十四に、安麻多欲《アマタヨ》とあるも、後(ノ)世に云と同じ、毛《モ》は、歎息を含める助辭なり、○歌(ノ)意は、旅に出發往(ク)君を慕ふにつけて、せめての心やりに、袖振(リ)さしまねかまほしくは、思ふものから、さすがに人目の多きに憚りて、袖振ざりしが、さてもあかず、殊に甚《イミ》じく悔しき事、となり、六(ノ)卷に、凡有者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍有香聞《オホナラバカモカモセムヲカシコミトフリタキソテヲシヌヒタルカモ》、
 
(426)3185 白銅鏡《マソカヾミ》。手二取持而《テニトリモチテ》。見常不足《ミレドアカヌ》。君爾所贈而《キミニオクレテ》。生跡文無《イケルトモナシ》。
 
本(ノ)二句は、見《ミ》をいはむとての序なり、○常(ノ)字、官本には、跡と作り、○所贈而《オクレテ》は、贈は借(リ)字にて、所《レ》v後《オク》而《テ》なり、君に殘し置れて、と云なり、集中に多き詞なり、古今集離別に、かぎりなき雲居のよそに別るとも人を心におくらさむやは、これも正身は、今かく別るれども、心の裏には、そこを殘し置はせぬ、との謂なり、かゝればもとオクラス〔四字右○〕は、行人より令《セシ》むるに云(ヒ)、オクル〔三字右○〕は、留る人の、行人の令《セシ》むるを應《ウケ》て云意なるべし、○歌(ノ)意は、見れど見あかず、うるはしき君に殘し置れて、吾は生たる心神もなし、となり、四(ノ)卷に、眞十鏡見不飽君爾所贈而哉旦夕爾左備乍將居《マソカヾミミアカヌキミニオクレテヤアシタユフヘニサビツヽヲラム》、似たる歌なり、
 
3186 陰夜之《クモリヨノ》。田時毛不知《タドキモシラズ》。山越而《ヤマコエテ》。往座君乎者《イマスキミヲバ》。何時將侍《イツトカマタム》。
 
陰夜之《クモリヨノ》は、まくら詞なり、陰夜《クモリヨ》は、たど/\しくて、たよりよる處のしられねばつゞけたり、廿(ノ)卷に、夜未乃欲能由久左伎之良受由久和禮乎伊都伎麻左牟等登比之古良波母《ヤミノヨノユクサキシラズユクワレヲイツキマサムトトヒシコラハモ》、ともめり、○歌(ノ)意は、をちこちのたづきもしらずに、山道を越て、遙々に旅行給ふ君を、何時《イツ》かへり來まさむものと、待つゝやをらむ、となり、
 
3187 田立名付《タタナヅク》。青垣山之《アヲカキヤマノ》。隔者《ヘナリナバ》。數君乎《シバ/\キミヲ》。言不問可聞《コトトハジカモ》。
 
本(ノ)二句は、一(ノ)卷、六(ノ)卷に既く出たり、山(ノ)名に非ず、青々と繁りたる山を云、○隔者は、ヘナリナバ〔五字右○〕(427)と訓べし、十一に、石根踏重成山雖不有不相日數戀渡鴨《イハネフミヘナレルヤマハアラネドモアハヌヒマネミコヒワタルカモ》、十七に、之良久毛能多奈妣久夜麻乎《シラクモノタナビクヤマヲ》、伊波禰布美古要弊奈利奈婆《イハネフミコエヘナリナバ》、孤悲之家久氣乃奈我氣牟曾《コヒシケクケノナガケムソ》云々、○言不問可聞は、コトヽハジカモ〔七字右○〕と幽齋本に訓れたる、よろし、○歌(ノ)意、青々と圍める繁山を隔て、遠くおはしましなば、度度|音信《オトヅレ》することもあらじか、さても惜き別ぞと、女の歎きてよめるにて、今まのあたり相見たるほどだに、ねもころに、いかでかたらひておはしまさねかし、との意を、思はせたるなり、
 
3188 朝霞《アサガスミ》。蒙山乎《タナビクヤマヲ》。越而去者《コエテユカバ》。吾波將戀奈《アレハコヒムナ》。至于相日《アハムヒマデニ》。
 
蒙《ナビク》は、七(ノ)卷にも、大葉山霞蒙《オホハヤマカスミタナビキ》、とあり、○戀變奈《コヒムナ》とは、奈《ナ》は歎息(ノ)詞にて、戀むなあ、と云なり、四(ノ)卷に、大船之念憑師君之去者吾者將戀名直相左右二《オホブネノオモヒタノミシキミガイナバアレハコヒムナタヾニアフマデニ》、七(ノ)卷に、家爾之弖吾者將戀名南野乃淺茅之上爾照之月夜乎《イヘニシテアレハコヒムナナミヌノアサチノウヘニテリシツクヨヲ》、などあるに同じ、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3189 足檜乃《アシヒキノ》。山者百重《ヤマハモヽヘニ》。雖隱《カクストモ》。妹者不忘《イモハワスラジ》。直相左右二《タヾニアフマデニ》。
 
雖隱は、カクストモ〔五字右○〕と訓て、未來《ユクサキ》ををかけたるなり、○妹者不忘《イモハワスラジ》、古事記、日子穗々手見(ノ)命(ノ)大御歌に、意岐都登理加毛度久斯麻邇和賀葦泥斯伊毛波和須禮士余能許登碁登邇《オキツトリカモドクシマニワガヰネシイモハワスレジヨノコトゴトニ》、とあり、これを書紀には、伊茂播和素邏珥《イモハワスラニ》とあり、(和須良士《ワスラジ》を、和須良爾《ワスラニ》といふ所由は、余が鍼嚢の書に、委くいへり、○直相左右二《タヾニアフマデニ》、九(ノ)卷に、吾妹兒之結手師紐乎將解八方絶者絶十方直二相左右二《ワギモコガユヒテシヒモヲトカメヤモタエバタユトモタヾニアフマデニ》、に同じ、○歌(ノ)意は、山の百重隔て、家路を隱したらば、妹が聲を聞べき由も、容を見べきよしもあるべから(428)ねば、何くれの事の紛れに、ふとわするゝ事もあるべきに、中々にさはなくして、旅の憂ごとに、戀しくのみ思ひ出られて、家ならば、かくはあらじと思ふより、かへりきて、直に相見むまでは、一日片時も、妹を忘るゝ間はさらにあらじ、となり、○舊本に、一云|雖隱君乎思苦止時毛無《カクセドモキミヲシヌハクヤムトキモナシ》、と註せり、雖隱は、カクセドモ〔五字右○〕と訓て、現在のうへにていへるなり、思苦は、シヌハク〔四字右○〕と訓べし、(オモハク〔四字右○〕とよめるは、いとわろし、)こは女の歌にして、夫(ノ)君の旅行し方を、山の隱せども云云といふなり、
 
3190 雲居有《クモヰナル》。海山越而《ウミヤマコエテ》。伊往名者《イマシナバ》。吾將戀名《アレハコヒムナ》。後者相宿友《ノチハアヒヌトモ》。
 
雲居有《クモヰナル》は、雲居に在(ル)にて、甚遙なるを云、古今集離別に、かぎりなき雲居のよそにわかるとも人を心におくらさむやは、雲居にもかよふ心のおくれねばわかると人に見ゆばかりなり、白雲の八重にかさなるをちにても思はぬ人に心へだつな、○伊往名者《イマシナバ》は、おはしましたらばの意にて、俗に御出被v成たらば、といはむがごとし、○後者相宿友《ノチハアヒヌトモ》は、宿とかけるは借(リ)字にて、辭の奴《ヌ》に用たるなり、此下に、三沙呉居渚爾居舟之※[手偏+旁]出去者裏戀監後者會宿友《ミサゴヰルスニヰルフネノコギデナバウラコホシケムノチハアヒヌトモ》、とあるも同じ、○歌(ノ)意は、後は立歸り來まして、相見むとはおもへども、白雲の八重にかさなる、をちの海山を越て、旅におはしましたらば、歸り來まさむまで、相見むことのかなふべからねば、吾は、戀し/\と、日々になげきてのみ、待居むなあ、となり、
 
(429)3191 不欲惠八師《ヨシヱヤシ》。不戀登爲杼《コヒジトスレド》。木綿間山《ユフマヤマ》。越去之公之《コエニシキミガ》。所念良國《オモホユラクニ》。
 
不欲惠八師《ヨシヱシシ》(師(ノ)字、舊本に跡と作るは、趾の誤なるべし、一本には、趾と作《カケ》ればなり、今は古本、拾穗本等に從つ、道風手跡本にも、師とあるよしなり、)は、縱《ヨシ》と云は、假《カリニ》縱《ユルス》辭にて、たとへば、人のしひてせむと云ことを、よしやともかくもせよと、假初に縱すは、まことには、心に不《ヌ》v欲《ネガハ》ことなれば、義を得て不欲をヨシ〔二字右○〕と訓せたり、○木綿間山《ユフマヤマ》は、何國にあるにか、未(ダ)詳ならず、次々の歌ども、みな東國の地(ノ)名をよみたれば、これも東にある山なるべし、十四に、古非都追母乎良牟等須禮杼遊布麻夜萬可久禮之伎美乎於母比可禰都母《コヒツツモヲラムトスレドユフマヤマカクレシキミヲオモヒカネツモ》、とあるに、同じかるべし、○歌(ノ)意は、縱や戀じとはおもへども、木綿間山越て、遠く別れ去し君が、戀しく思はるゝ心の、堪がたきことなるを、いかにとかせむ、となり、(略解に、公之は、君乎《キミヲ》と云べきを、かくいふは例なり、といへるはいみじきひがことなり、オモホユル〔五字右○〕は、思はるゝと云にあたれば、君を思はるゝとは連《ツヾ》くべからず、必(ス)君がならでは續かず、されば、オモホユ〔四字右○〕といふにつゞけたる所は、何處にても君之《キミガ》、妹之《イモガ》とやうに云(ヒ)、オモフ〔三字右○〕と云につゞけたる所は、君乎《キミヲ》、妹乎《イモヲ》とやうにいへるは、定まれる格なるをや、心を付て味ひ置べし、)
 
3192 草陰之《クサカゲノ》。荒藺之崎乃《アラヰノサキノ》。笠島乎《カサシマヲ》。見乍可君之《ミツヽカキミガ》。山道越良無《ヤマヂコユラム》。
 
草陰之《クサカゲノ》は、まくら詞なるぺし、屬《ツヾキ》の意、未(タ)考(ヘ)得ず、十四に、久佐可氣乃安努奈由可武等《クサカゲノアヌナユカムト》云々、(草陰(430)之阿野野將行《クサカゲノアヌナユカム》、となるべし、野をナ〔右○〕といへる例多し、)倭姫(ノ)命(ノ)世記に、草陰阿野《クサカゲアヌノ》國などあるを、併(セ)思ふに、安《ア》の一言にかゝれる詞にやあらむ、○荒藺之崎乃笠島《アラヰノサキノカサシマ》は、未(ダ)勘(ヘ)知ず、(岡部氏云、或説に、荒藺(ノ)崎を武藏にありといふは、ひがことなり、海の島を見て越る山は、此(ノ)國にはなし、相模などには有もせむ、)○越良無《コユラム》、拾穗本には、將越と作り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、夫(ノ)君の旅行をおもひやりて、妻のよめるなるべし、此(ノ)歌九(ノ)卷に、山品之石田乃小野之母蘇原見乍哉公之山道越良武《ヤマシナノイハタノヲヌノハヽソハラミツヽヤキミガヤマヂコユラム》、とあるに、末(ノ)句大かた同じ、○舊本に、一云|三坂越良牟《ミサカコユラム》、と註り、三坂《ミサカ》は、眞坂《マサカ》といはむが如し、廿(ノ)卷東歌に、阿志加良能美佐可多麻波理《アシガラノミサカタマハリ》眞坂手廻《ミサカタマハリ》なり、手《タ》はそへたる辭なり、)とあり、かくて阿志加良能美佐可《アシガラノミサカ》は、相模(ノ)國足柄の眞坂にて、此は東國の防人の、不破(ノ)關を越るほどによめる歌なり、十四に、安思我良乃美佐可加思古美《アシガラノミサカカシコミ》、又、安思我良乃美佐可爾多志弖《アシガラノミサカニタシテ》、ともよめり、九(ノ)卷に、鳥鳴東國能《トリガナクアヅマノクニノ》、恐耶神之三坂爾《カシコキヤカミノミサカニ》、云々、とあるも、即(チ)足柄坂なり、これらを思ふに、こゝの三坂《ミサカ》も、足柄坂をいふならむか、しからば、荒藺笠島《アラヰカサシマ》は、かの坂路より見ゆる地ならむ、東(ノ)國の地體しれる人に尋て、註(シ)入べし、
 
3193 玉勝間《タマカツマ》。島熊山之《シマクマヤマノ》。夕晩《ユフグレニ》。獨可君之《ヒトリカキミガ》。山道將越《ヤマヂコユラム》。
 
玉勝間《タマカツマ》は、島《シマ》と云に係れる枕詞にて、上に、玉勝間安倍島山《タマカツマアベシマヤマ》、とある歌に、本居氏(ノ)説を擧て、委(ク)註り、○島熊山《シマクマヤマ》は、未(タ)勘知ず、東(ノ)國の地(ノ)名なるべし、○歌(ノ)意、これも夫(ノ)君の旅行を思ひやりて、女の(431)よめるにて、かくれたるすぢなし、九(ノ)卷に、朝霧爾沾爾之衣不于而一哉君之山道將越《アサギリニヌレニシコロモホサズシテヒトリヤキミガヤマヂコユラム》、○舊本に、一云|暮霧爾長戀爲乍寢不勝可聞《ユフギリニナガコヒシツヽイネカテヌカモ》、と註せり、暮霧爾《ユフギリニ》云々は、霧のおぼつかなき中に、旅宿する意か、長戀《ナガコヒ》は、五(ノ)卷に、於久禮爲天那我古飛世殊波《オクレヰテナガコヒセズバ》云々、とありて、年月永く戀思ふを云り、岡部氏は、此の一云は、上の安倍島山《アベシマヤマ》てふ歌の、字の亂れたるを見て、こゝに入しよしいへり、
 
3194 氣緒爾《イキノヲニ》。吾念君者《アガモフキミハ》。鷄鳴《トリガナク》。東方坂乎《アヅマノサカヲ》。今日可越覽《ケフカコユラム》。
 
氣緒爾《イキノヲニ》云々、十一に、息緒吾雖念人目多社《イキノヲニアレハオモヘドヒトメオホミコソ》、又、氣緒爾妹乎思念者《イキノヲニイモヲシモヘバ》云々、又、生緒爾念者苦《イキノヲニオモヘバクルシ》云々、此(ノ)卷(ノ)上に、氣緒爾言氣築之妹尚乎《イキノヲニワガイキヅキシイモスラヲ》云々、など見えたり、なほ他(ノ)卷にも、かくざまにいへること、往々《カレコレ》あり、本居氏、古事記(ノ)歌に、意能賀袁《オノガヲ》とある、袁《ヲ》は命と云むが如し、凡て物を續け持て、不v絶らしむる物を、袁《ヲ》と云緒も、此(ノ)意の名なり、命も、生の續きて絶ざる間を云なれば、是を袁《ヲ》と云るなるべし、又|多麻能袁《タマノヲ》と云るも、魂を放《ハフ》らさず、持續くるより云なるべし、年(ノ)緒長くと云も、年の長く續くことなり、されば氣緒《イキノヲ》に思ふと云るも、氣は借(リ)字にて、生《イキ》の緒の意にて、命にかけて思ふ、と云ことならむ、されば、十一に、生緒と書るや正字ならむ、命は生の緒なればなりと云り、(建俗職人歌合に、息《イキ》の緒《ヲ》のくるしき時は鉦鼓こそ南無阿彌陀佛の聲たすけなれ、とあるは、彼(ノ)頃はイキノヲ〔四字右○〕と云は、氣息等の字をかける意に心得て、いへるなるべし、しかれども、集中などには、かやうに正しく、氣息《イキヅキ》のことにいへることは、一(ツ)もなし、心をつけて考ふ(432)べし、)○鷄鳴《トリガナク》は、枕詞なり、○東方坂《アヅマノサカ》は、契冲、景行天皇(ノ)紀を考(フ)るに、日本武(ノ)尊、上野(ノ)國碓日(ノ)嶺にのぼりて、弟橘媛をしのびたまひて、東南を望て、吾嬬者耶《アガツマハヤ》との賜ひしゆゑに、山東の諸國《クニ/”\》を、あづまの國といふと見えたれば、今は碓日の坂をいふ歟、といへり、今按(フ)に、古事記には、倭建(ノ)命、相模(ノ)國足柄(ノ)坂に登(リ)立して、阿豆麻波夜《アヅマハヤ》、と歎き詔ふ、とあり、これに依ば、足柄(ノ)坂とすべし、されど、かの倭建(ノ)命の御歎は、碓日と足柄と二(タ)しへに傳りたるにて、今何(レ)を正しとも、決めがたきよし、既く二(ノ)卷(ノ)下に委しく論たりき、岡部氏云、東方は、地(ノ)名にあらぬをしらせて、方(ノ)字を添しものなり、○歌(ノ)意、これも、夫(ノ)君の旅行を想ひやりてよめる、女の歌にて、かくれたるすぢなし、一(ノ)卷に、吾勢枯波何所行良武己津物隱乃山乎今日香越等六《ワガセコハイヅクユクラムオキツモノナバリノヤマヲケフカコユラム》、とあるに似たり、
 
3195 磐城山《イハキヤマ》。直越來益《タヾコエキマセ》。礒崎《イソサキノ》。許奴美乃濱爾《コヌミノハマニ》。吾立將待《アレタチマタム》。
 
磐城山《イハキヤマ》は、和名抄に、陸奥(ノ)國岩城(ノ)郡岩城(ノ)郷、あり、そこの山なるべし、○磯崎《イソサキ》は、神名帳に、常陸(ノ)國鹿島(ノ)郡大洗磯前《オホアライソサキノ》神社あり、其(ノ)地を云ならむといへり、○許奴美乃濱《コヌミノハマ》は礒崎の地にあるなるべし、○歌(ノ)意は、吾(ガ)事をわすれたまはずば、岩城山を直越に越て、他所に目もとゞめず、はやく歸り來ませ、さらば吾は、許奴美の濱に出て立待むど、といへるにて、常陸(ノ)國の女の、夫(ノ)君が陸奥へ往に臨て、別を惜みてよめるなるべし、
 
3196 春日野之《カスガヌノ》。淺茅之原爾《アサチガハラニ》。後居而《オクレヰテ》。時其友無《トキソトモナシ》。吾戀良若者《アガコフラクハ》。
 
(433)後居而《オクレヰテ》は、夫(ノ)君の旅に出たるに、殘し置れて、といふなり、この上にも見ゆ、集中に甚多き詞なり、四(ノ)卷に、後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山爾有益物乎《オクレヰテコヒツヽアラズバキノクニノイモセノヤマニアラマシモノヲ》、八(ノ)卷に、難波邊爾人之行禮波後居而春菜採兒乎見之悲也《ナニハヘニヒトノユケレバオクレヰテハルナツムコヲミルガカナシサ》、九(ノ)卷に、後居而吾戀居者白雲棚引山乎今日香越濫《オクレヰテアガコヒヲレバシラクモノタナビクヤマヲケフカコユラム》、又、於久禮居而吾波也將戀春霞多奈妣久山乎君之越去者《オクレヰテアレハヤコヒムハルカスミタナビクヤマヲキミガコエナバ》、又、於久禮居而吾者哉將戀稻見野乃秋芽子見津都去奈武子故爾《オクレヰテアレハヤコヒムイナミヌノアキハギミツツイナムコユヱニ》、十四に、於久禮爲※[氏/一]古非波久流思母安佐我里能伎美我由美爾母奈良麻思物能乎《オクレヰテコヒバクルシモアサガリノキミガユミニモナラマシモノヲ》、などもあり、○時其友無《トキソトモナシ》は、古今集に、吾(カ)如く物や悲しきほとゝぎす時ぞとも無(ク)夜たゞ鳴らむ、とあるに同じく、時を定めず、何時も戀しく思ふよしなり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君の旅に出る時に、春日野の淺茅が原まで、送り行しに、そこに留め遺されてより、わが夫(ノ)君を戀しく思ふ時をも定めず、いつも思はぬ間とてはさらになし、となり、
 
3197 住吉乃《スミノエノ》。崖爾向有《キシニムカヘル》。淡路島《アハヂシマ》。※[立心偏+可]怜登君乎《アハレトキミヲ》。不言日者無《イハヌヒハナシ》。
 
本(ノ)句は、淡路島《アハヂシマ》の、住吉(ノ)崖にさし向へるを云り、應神天皇(ノ)紀に、二十二年秋九月、天皇狩(シ玉フ)2于淡路島(ニ)1、是島者、横(テ)v海(ニ)在2難波之西1、とあり、○淡路島《アハヂシマ》は、阿波禮《アハレ》と疊《カサネ》む料にいへり、さて此(ノ)作者、攝津《ツノクニ》の女にて、やがて打見たる處を、いひ出たるなるべし、○※[立心偏+可]怜《アハレ》(※[立心偏+可](ノ)字、舊本に阿と作るは誤なり、今は古寫本、類聚抄等に從つ、)は、嗚呼《アハレ》と歎息《ナゲ》きたる聲なり、(古語拾遺に、天晴《アハレ》といふ言とせるは、ひがことなり、阿波禮《アハレ》とは、歡しきことにも、悲しきことにも、長き息をつきて歎く、その聲の(434)阿波禮《アハレ》と聞ゆるより、いへるなり、古今集長歌に、獨居てあはれ/\と歎きあまり、とあるは、阿波禮《アハレ》は、歎息《ナゲキ》の聲なることを、意得たる云ざまなり、)○歌(ノ)意は、遠き國に別れ行し夫君|者耶《ハヤ》、嗚呼鳴呼《アハレアハレ》と歎きて、戀しく思はぬ日とては、さらに一日もなし、となり、
 
3198 明日從者《アスヨリハ》。將行乃河之《イナミノカハノ》。出去者《イデイナバ》。留吾者《トマレルアレハ》。戀乍也將有《コヒツヽヤアラム》。
 
明日從者《アスヨリハ》は、尾(ノ)句の上にうつして心得べし、(明日より將《ム》v行《イナ》とつゞきたるにはあらず、さては後(ノ)世の歌のつゞけざまになるなり、混ふべからず、)○將行乃河之《イナミノカハノ》は、去者《イナバ》をいはむ料に、設け出たるにて、播磨の印南《イナミ》河なり、さて將《ム》v行《イナ》といふ言を、牟《ム》を美《ミ》に轉して、伊奈美《イナミ》に借(リ)用(ヒ)たり、しか轉(シ)用ひたるは、去者《イナバ》と云につゞけむために、設けたる詞なるを知しめたる、一(ツ)の書樣なり、○歌(ノ)意は、愛《ウルハ》しき夫の君が旅に出去《イデイナ》ば、留まれる吾は、明日よりは、戀しく思ひつゝ獨のみあるべきかと思へば、かつ見ながらに、かねて戀しく思ふ心に、堪がたきよしなり、(古今集離別に、わかれてはほどをへだつと思へばや、かつ見ながらにかねてこひしき、)二三四一五と次第て心得べし、さて此(ノ)歌、印南《イナミ》河をいへれば、播磨(ノ)國の女の、夫(ノ)君の別(レ)に臨《ナリ》て、よめるなるべし、
 
3199 海之底《ワタノソコ》。奥者恐《オキハカシコシ》。礒回從《イソミヨリ》。水手運往爲《コギタミイマセ》。月者雖過經《ツキハヘヌトモ》。
 
海之底《ワタノソコ》は、まくら詞なり、奥《オキ》とつゞきたるは、まづ奥《オキ》と云は、海底の極(ミ)をも云、又磯岸はなれて、遠き方をも云て、こゝの海之底《ワタノソコ》と云るは、下を興すかたにてほ、底の極を云(フ)奥の意、うけたる(435)上にては、遠き方の奥をいへり、○礒回從は、イソミヨリ〔五字右○〕と訓べし、(イソワ、イソマ〔六字右○〕などよむは、甚誤なり、)磯廻《イソノメグリ》をといふが如し、○水手運往爲《コギタミイマセ》は、漕運《コギメグ》りおはしませ、といふが如し、運《タミ》は、手廻《タモトホリ》にて、手《タ》は添たる辭、廻《モトホル》は、めぐるを云(フ)古言なり、徃爲《イマセ》は、おはしませと云に、同じ意なり、○歌(ノ)意は、沖の方は、船道近くて便よくとも、浪|暴《アラ》くて恐く危ふければよしや、日月をば經るとも、磯際につきて、恙なく漕めぐりおはしませ、とよめるなり、旅行の海上平安らむことを、とかく思ふより、その實情を告たること、あはれなり、これも夫(ノ)君の船道經て旅行する時、妻のよめるなどにやあらむ、
 
3200 飼飯乃浦爾《ケヒノウラニ》。依流白浪《ヨスルシラナミ》。敷布二《シクシクニ》。妹之容儀者《イモガスガタハ》。所念香毛《オモホユルカモ》。
 
飼飯乃浦《ケヒノウラ》は、越前國敦賀(ノ)郡にあり、三(ノ)卷にも、飼飯海《ケヒノウミ》出つ、但し彼處なる飼飯《ケヒ》は別處なるべし、既く委(ク)云り、飼飯と書る所由も、彼(ノ)卷に委(ク)註り、○本(ノ)句は、重々《シク/\》をいはむとての序なり、十七に、奈呉能宇美能意吉都之良奈美志苦思苦爾於毛保要武可母多知和可禮奈波《ナゴノウミノオキツシラナミシクシクニオモホエムカモタチワカレナバ》、○歌(ノ)意は、家なる妹が、容儀《スガタ》の、限(ノ)前にかゝりて、さても重々《シク/\》におもはるゝことかな、となり、此は越前國の任などにて、下れる人のよめるなるべし、
 
3201 時風《トキツカゼ》。吹飯乃濱爾《フケヒノハマニ》。出居乍《イデヰツヽ》。贖命者《アガフイノチハ》。妹之爲社《イモガタメコソ》。
 
時風《トキツカゼ》は、潮汐《シホ》のさゝむとする時に興《タツ》風を云て、こゝは吹《フク》とかゝれる枕詞なり、○吹飯乃濱《フケヒノハマ》は、(436)紀伊(ノ)國に在(リ)、大和物語に、故右京のみか宗于の君、成(リ)出べき程に、我(カ)身の得成(リ)ぬ鱒事と思ひ給ひける頃ほひ、亭子院の御門に、紀伊(ノ)國より、石つきたる海松をなむ、奉りたりけるを題にて、人々歌よみけるに右京のかみ、沖津風吹飯の浦に立浪のなごりにさへや吾はしづまむ、清正(ノ)家集に、紀伊の守になりて、まだ殿上もせざりしに、天津風吹飯の浦に住たづのなどか雲居にかへらざるべき、〔頭註、【吹飯、名所集に和泉國日根郡とす、續紀に、天平神護元年十月甲申、到2和泉國日根郡深日行宮1、夫木集、寛平の菊合の歌詞書に、和泉國吹飯のうら云云、】〕○贖命《アガフイノチ》とは、まづ贖ふは、身に罪穢ある時は、神の祟らせ給ふが故に、身を祓ひ清めて、罪をのがれむがために、身のかはりに、物を出すを、贖《アガ》ふと云(フ)、さてその出す物を贖物《アガモノ》といへり、大祓の時などに、天皇よりはじめて、御贖物《ミアガモノ》とて出し賜ふ、これなり、さてその贖物《アガモノ》を出して、壽命《イノチ》幸《サキ》く長からむことを願(フ)を贖《アガフ》命とはいへり、十七に、奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍安賀布伊能知毛多我多米爾奈禮《ナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘアガフイノチモタガタメニナレ》、これ禰宜祝等に誂て、中臣の太諄辭言《フトノリトゴト》を宣《ノリ》て祓はしめて、贖(フ)命は誰が爲ぞ、汝が爲にこそあれ、と云意なるべし、○歌(ノ)意は、吹飯の濱に出居て、身を潔(キ)祓ひて、贖物《アガモノ》など出しつゝ、身命《イノチ》の全《サキ》く長からむことを希ふは、他の故にあらず、本郷にかへりて、待らむ妹に、相見む爲にこそあれ、となり、此は紀伊(ノ)國の任などにて、下れる人のよめるなるべし、十一に、玉久世清河原身祓爲齋命妹爲《ヤマシロノクセノカハラニミソギシテイハフイノチモイモガタメコソ》、
 
3202 柔田津爾《ニキタヅニ》。舟乘將爲跡《フナノリセムト》。聞之苗《キヽシナベ》。如何毛君之《ナニソモキミガ》。所見不來將有《ミエコザルラム》。
 
(437)柔田津《ニキダヅ》は、伊與(ノ)温泉(ノ)郡にあり、一(ノ)卷に見えたり、○歌(ノ)意は、柔田津より舟乘して、歸り來むと告來し並《ナベ》に、今日か今日かと佇待《タチマチ》望むに、何ぞも今日まで、君が見え來まさゞるらむ、もしは家にはやくかへらむと思ふ心すゝみに、船などの損《ソコ》ねしにはあらずやと、伊與(ノ)國に任《マケ》られし人の、任はてゝかへるを、妻の京にて立て待居て、待ほどの心づかひ、いとあはれなり、
 
3203 三沙呉居《ミサゴヰル》。渚爾居舟之《スニヰルフネノ》。※[手偏+旁]出去者《コギデナバ》。裏戀監《ウラコホシケム》。後者會宿反《ノチハアヒヌトモ》。
 
三沙呉居《ミサゴヰル》は、まくら詞な、既く十一にも、水沙兒居渚座船之《ミサゴヰルスニヰルフネノ》、とあり、此(ノ)上には、三佐呉集荒磯《ミサゴヰルアリソ》、と見えたり、三(ノ)卷には、美沙居石轉《ミサゴヰルイソミ》、十一には、水沙兒居奥麁磯《ミサゴヰルオキノアリソ》、とよめり、美沙呉《ミサゴ》は、雎鳩《ミサゴ》なり、○裏戀監《ウラコホシケム》は、心戀《ウラコヒ》しからむ、といはむが如し、裏《ウラ》は心なり、また下《シタ》と云にも通ひて同じ、○歌(ノ)意は、既く舟乘して、暫(ク)潮待すとて、洲に候《サブラ》ひ居る舟の、ほどなく遠くこぎ出別れ行なば、心(ノ)裏に戀しく思ひてのみ、月日を過すべし、ふたゝび逢まじき別(レ)ならばこそあらめ、やがて後又かへり來りてあふべき別(レ)なれば、さばかりこひしく思はずともあるべきを、なほ然《サ》とは得思ひはるけずしてあらむよ、となり、(古今集離別に、かへる山ありとはきけど春霞立別れなば戀しかるべし、心似たり、さて略解に、是は別るれど、久しからで歸る契あれば、いたくは歎かず、今はとこぎ出なば、何となく下戀しからむと云なり、と云るは、たがへり、さるは、裏戀《ウラコヒ》といふを、いさゝか戀る意に見たる誤なり、すべて、裏戀《ウラコヒ》、下戀《シタコヒ》など云(フ)裏《ウラ》、下《シタ》は、心の底より戀しき意に(438)て、表方《ウハヘ》に戀しきさまするにあらず、眞實に戀しきを云言にて、戀ることの淺からぬ意なるをや、)
 
3204 玉葛《タマカヅラ》。無怠行核《タエズイマサネ》。山菅乃《ヤマスゲノ》。思亂而《オモヒミダレテ》。戀乍將待《コヒツヽマタム》。
 
玉葛《タマカヅラ》は、不《ズ》v絶《タエ》といふにかゝれるまくら詞なり、○無怠行核は、タエズイマサネと訓べし、サ〔右○〕はセ〔右○〕の通へるなり、ネ〔右○〕は希望(ノ)辭なり、名告《ナノラ》セ〔右○〕と云に、禰《ネ》の希望(ノ)辭を添て、名告沙禰《ナノラサネ》といへるに同じ、速々《スク/\》と滯りなく、おはしまし給(ヘ)かし、と謂るにて、さて滯り怠《オコタ》ることなく、はや事竟て、幸く歸り來ませ、といふ意をもたせたり、されば義を得て、不《ズ》v絶《タエ》を無怠とはかけるなり、○山菅乃《ヤマスゲノ》、これもまくら詞なり、○歌(ノ)意は、われは心もみだれて、戀慕ひつゝ、君が歸り來まさむ日を、今日か明日かと待つゝあらむぞ、君も吾事をあはれとおぼしたまはゞ、速々《スク/\》と滯(リ)なくおはしまして、はやくかへり來ましたまへとなり、
 
3205 後居而《オクレヰテ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》。田籠之浦乃《タコノウラノ》。海部有申尾《アマナラマシヲ》。珠藻苅苅《タマモカルカル》。
 
後居而《オクレヰテ》、此(ノ)上に出たり、○苅苅《カル/\》は、刈つゝと云に同じ、零零《フル/\》は、零《フリ》つゝと云むに同じく、別別《ワケ/\》は、別《ワケ》つゝと云むに同きが如し、(業平集に、ぬれ/\ぞしひて折つる、とあるを、古今集に、ぬれつゝぞと改めて載たるを思ふに、ぬる/\ぞとあるべきことなり、刈《カリ》つゝの意を、刈々《カル/\》、痩《ヤセ》つゝの意を、痩々《ヤス/\》と云など、みな同例にて、濕々《ヌル/\》は、濕つゝと云意になればなり、)○歌(ノ)》意は、殘し置れて、(439)戀しく思ひつゝあらむよりは、夫(ノ)君のおはします、田子の浦の海部となりて、珠藻苅つゝもあらましものを、さらば夫(ノ)君の擧動を、明暮見つゝあるべきに、となり、戀しき思ひに、心を苦しめむよりは、數ならぬ海部の身とならむこと、遙にまさりたらむ、との謂なり、契冲云、此は男の駿河(ノ)國に於けるあとにて、妻のよめる歌と見えたり、十一に、中中二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻苅管《ナカ/\ニキミニコヒズバヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツヽ》、五(ノ)卷に、於久禮爲天那我古飛世殊波彌曾能不乃于梅能波奈爾母奈良麻之母能乎《オクレヰテナガコヒセズハミソノフノウメノハナニモナラマシモノヲ》、
 
3206 筑紫道之《ツクシヂノ》。荒礒乃玉藻《アリソノタマモ》。苅鴨《カレバカモ》。君久《キミハヒサシク》。待不來《マツニキマサズ》。
 
苅鴨《カレバカモ》は、刈者歟《カレバカ》の意なり、毛《モ》は、歎息を含める助辭なり、○歌(ノ)意は、荒磯の玉藻など刈つゝ、筑紫を在(リ)よしとおぼしめしたればか、妾《ワガ》久しく待戀慕ふに、速くかへり來まさずあるらむ、さてもつれなき君が心や、となり、此は筑紫に下れる人の妻の、よめるなり、
 
3207 荒玉乃《アラタマノ》。年緒永《トシノヲナガク》。照月《テルツキノ》。不厭君八《アカヌキミニヤ》。明日別南《アスワカレナム》。
 
荒玉乃《アラタマノ》は、まくら詞なり、○年緒永《トシノヲナガク》は、下の別南《ワカレナム》といふに屬(ケ)て意得べし、照月《テルツキノ》と云へば、つゞかず、○照月《テルツキノ》も、まくら詞にて、月の見に不《ズ》v足《アカ》といふ意につゞきたり、○歌(ノ)意は、相見毎に、足ず愛はしく思ふ君なるを、明日よりは、年月長く、相別れなむか、となり、
 
3208 久將在《ヒサニアラム》。君念爾《キミヲオモフニ》。久堅乃《ヒサカタノ》。清月夜毛《キヨキツクヨモ》。闇夜耳見《ヤミノミニミユ》。
 
(440)闇夜耳見は、ヤミノミニミユ〔七字右○〕と訓しべし、(ヤミニノミミユ〔七字右○〕とよめるは、いとわろし、)○歌(ノ)意は、旅に出て、久しく君が還り來まさずあらむ、と思ふ涙に、はやかきくもりて、清き月夜も、闇夜のごとくにのみ、見なさるゝ、となり、四(ノ)卷に、照日乎闇爾見成而哭涙衣沾葎干人無爾《テレルヒヲヤミニミナシテナクナミダコロモヌラシツホスヒトナシニ》、十一に、此言乎聞跡平眞十鏡照月夜裳闇耳見《コノコトヲキカムトナラシマソカヾミテレルツクヨモヤミノミニミツ》、
 
3209 春日在《カスガナル》。三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》。居雲乎《ヰルクモヲ》。出見毎《イデミルゴトニ》。君乎之曾念《キミヲシソモフ》。
 
歌(ノ)意は、契冲、三笠の山に居る雲は、行かとすれば又居るを、旅に出たる人は、歸り來て家にも居らねば、雲を見るにつけて戀しきとなり、といへり、今按(フ)に、三笠(ノ)山に、雲の起居する風景を見るごとに、あはれ共に見ましをと思へど、遠く別れたれば、すべなくて、一(ト)すぢに君を戀しくのみぞ思ふ、といへるにもあるべし、(略解に、遠き旅に行し夫をおもひて、雲のみを形見と見るなり、といへるは、いさゝかおぼつかなき説なり、)
 
3210 足檜木乃《アシヒキノ》。片山雉《カタヤマキヾシ》。立往牟《タチユカム》。君爾後而《キミニオクレテ》。打四鷄目八方《ウツシケメヤモ》。
 
片山雉《カタヤマキヾシ》とは、片山《カタヤマ》は、傍國《カタクニ》、片岡《カタヲカ》などの片《カタ》なり、顯宗天皇(ノ)紀、室壽(ノ)御詞に、脚日木此傍山《アシヒキノコノカタヤマニ》云々、ともあり、その片山に棲て鳴(ク)雉を、やがてかくいへり、さてその雉の飛立をもて、立《タツ》をいはむ料の序とせり、十四に、武減野乃乎具奇我吉藝志多知和可禮伊爾之與比欲利世呂爾安波奈布與《ムザシヌノヲグキガキギシタチワカレイニシヨヒヨリセロニアハナフヨ》、○打四鷄目八方《ウツシケメヤモ》は、嗚呼《アハレ》顯しく在むやは、といふ意なり、○歌(ノ)意は、旅立往む君に後れ居て、あ(441)はれ顯《ウツ》しくあらむやは、現心もさらにあらじ、命死たるも同じからむぞ、となり、
 
問答歌《トヒコタヘノウタ》。
 
さきに問答歌の標ありけれど、此《コヽ》は其とは別なり、此は羈旅の標内の問答なり、其(ノ)心して見べし、
 
3211 玉緒乃《タマノヲノ》。徒心哉《ウツシコヽロヤ》。八十梶懸《ヤソカカケ》。水手出牟船爾《コギデムフネニ》。後而將居《オクレテヲラム》。
 
玉緒乃《タマノヲノ》は、此《コヽ》はまくら詞にはあらじ、大神(ノ)景井、玉緒《タマノヲ》の玉は借(リ)字、靈之緒《タマノヲ》にて、命のことなり、と云る、然るべし、緒《ヲ》は、生之緒《イキノヲ》、年之緒《トシノヲ》などの緒《ヲ》にて、長く引續くよしの稱《ナ》なり、十一に、玉緒之島意哉年月乃行易及妹爾不逢將有《タマノヲノウツシコヽロヤトシツキノユキカハルマデイモニアハズアラム》、とあり、既く彼處にもいへり、○徙心哉《ウツシコヽロヤ》は、(徙は借(リ)字なり、十一に、健男現心吾無《マスラヲノウツシコヽロヤアレハナシ》、とあり、)現心也《ウツシコヽロヤ》にて、哉《ヤ》は哉者《ヤハ》の意なり、○八十梶懸《ヤソカカケ》は、八十《ヤソ》は數多きをいふ稀《ナ》にて、數多《アマタ》の※[楫+戈]を懸、といふなり、廿(ノ)卷に、夜蘇加奴伎伊麻波許伎奴等《ヤソカヌキイマハコギヌト》云々、又、夜蘇加奴伎可古登登能倍弖《ヤソカヌキカコトトノヘテ》云々、などあり、○歌(ノ)意は、八十《ヤソ》と數多の※[楫+戈]を懸て、鳥の飛が如く、迅くこぎ出て往む君が舟なれば、留《トヾ》むとも、留《トゞ》めらるべきにあらざれば、せむすべなく、後れ居ながら、吾は現しき心にて、戀しく思ひつゝあらむやは、生たるこゝちも、さらにすべからじを、となり、
 
3212 八十梶懸《ヤソカカケ》。島陰去者《シマガクリナバ》。吾妹兒之《ワギモコガ》。留登將振《トヾムトフラム》。袖不所見可聞《ソテミエジカモ》。
 
(442)島隱去者《シマガクリナバ》は、六卷に、島隱吾※[手偏+旁]來者乏毳倭邊上眞熊野之船《シマガクリアガコギクレバトモシカモヤマトヘノボルマクマヌノフネ》、古今集※[覊の馬が奇]旅歌に、ほの/”\と明石の浦の朝霧に島隱(レ)往(ク)舟をしぞ思ふ、(本居氏、遠鏡に、この古今集の歌を釋ていへるやう、すべて島がくれといふことを、よく解得たる人なし、島がくれとは、海をへだてたる所の、かくれて見えぬをいへり、必しも島にはかぎらず、此(ノ)歌にては、朝霧にかくれて、明石の浦の見えぬを、海の沖よりいへるなり、といへり、これは島がくれゆく船と云こと、船の島がくれ行さまにきこゆれど、さにはあらで、朝霧に、明石の浦のかくれゆくを、自《ミ》が船中より見やりて、心ぼをくおぼゆるけしきを、いへるものなりとして、かの今昔物語に、明石にて、海をながめてよめるとあるをさへ、末(ノ)句を心得誤りて、おしあてにいへる、ひがことなり、といへる、いといといぶかしきことなり、島隱《シマガクル》といへること、自《ミ》の船の、島に隱るゝ意として、古(ヘ)の歌ども、いづれも妨なく通《キコ》ゆることなるをや、浦隱《ウラガクル》、磯隱《イソガクル》など云も、皆|自《ミ》乘(レ)る船の、浦磯などに隱るゝをいへるにても、相|例《アカ》すべし、但し必しも、島にはかぎらずといへるは、さることにて、沖の方に遠く隔りて、陸の方より見えずなるをば、島になずらへて、島隱とはいふべきことなり、されば古今集なるも、明石の浦の朝霧にへだてられて、いとゞ沖遠く隱れて、見えずなりゆく船を、此方の海邊より見やりて、おぼつかなく思ふよしにて、聞ゆることなるをや、これは、元來、ほのぼのとの歌を、小野(ノ)篁(ノ)郷のなりとする説を信て、篁(ノ)卿ならば、船中にてこそ、よみたまふなる(443)べけれ、海邊より、沖をながめて、よまれたるものなりとせむは、ことたがへることなり、と一概《ヒトカタ》に思へるより、しひて設けいへる説なるべし、十五に、遣2新羅國1使人の中に、雪(ノ)連宅滿、といひける人の、壹岐(ノ)島に、到りて死れるを、かなしみてよめる歌に、波之家也思都麻毛古杼毛母多可多加爾麻都良牟伎美也之麻我久禮奴流《ハシケヤシツマモコドモモタカタカニマツラムキミヤシマガクレヌル》、とあるは、山隱《ヤマガクリ》、石隱《イハガクリ》など云類に、即(チ)島に葬りたるを、島隱といへるにても、いよ/\自《ミ》の隱るゝを云詞なるを、さとるべし、)などあり、なほ次にいふべし、○留登(留(ノ)字、元暦本には、※[死/田]と作り、留の異體なり、)は、トヾムト〔四字右○〕と訓べし、(トマレト〔四字右○〕とよめるは、いとつたなし、)とゞむるとての意なり、○歌(ノ)意は、そこの心をいとほしみ思へば、しばしは留るべきにてあれど、心なき※[楫+戈]師等《カヂトリラ》が、八十と數多の梶をかけて、沖の方遠くこぎ出して、速々《スク/\》とゆくことなれば、ほどなく吾船の島隱て、見えずなりなむ、其(ノ)時は、此方よりも、そこの吾を留むるとて、振む袖も見えじか、さても名殘惜きことや、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3213 十月《カミナツキ》。鍾禮乃雨丹《シグレノアメニ》。沾乍哉《ヌレツヽヤ》。君之行疑《キミガユクラム》。宿可借疑《ヤドカカルラム》。
 
十月《カミナツキ》云々、古今集冬長歌み、ちはやぶる神無月《カミナツキ》とや、今朝よりはくもりもあへず、打しぐれ云云、○沾乍哉《ヌレツヽヤ》、(沾(ノ)字、舊本に、沽と作るは誤なり、拾穗本に從つ、)は、哉《ヤ》の辭を、第四(ノ)句の下に屬《ツケ》て意得べし、沾乍《ヌレツヽ》君が行らむ哉《ヤ》の意なり、○宿可借疑《ヤドカカルラム》は、宿借(ル)らむ歟、と云むが如し、○歌(ノ)意は、旅路(444)の憂苦《ウケカ》るに、まして※[雨/衆]雨《シグレ》さへ降來て、いとゞわびしかるらむを、なほ厭はずして、彼處までと、からくして、濕《ヌレ》ながら、君が行らむ歟、但し凌ぎあへたまはずして、宿を取つらむ歟、いかさま難義《イタヅキ》し賜ふらむ心のほどこそ、いとはしけれと、夫(ノ)君の旅路のほどを、女の思ひやれるよしなり、
 
3214 十月《カミナツキ》。雨間毛不置《アママモオカズ》。零爾西者《フリニセバ》。誰里之間《タガサトノマニ》。宿可借益《ヤドカカラマシ》。
 
雨間毛不置《アママモオカズ》(雨の下、舊本に、之(ノ)字あるは、衍なるべし、官本、古本等に、無をよしとす、)は、雨の晴間もなくと云が如し、八(ノ)卷に、宇乃花能過者惜香雀公鳥雨間毛不置從此間喧渡《ウノハナノスギバヲシミカホトヽギスアママモオカズコヨナキワタル》、とあるが如きは、雨のふる間を、雨間《アママ》といへるなり、歌によりて、いさゝか意異るべし、○零爾西者《フリニセバ》は、零《フリ》てありせばといふほどの意なり、○誰里之間《タガサトノマニ》とは、いづれの里の程にといふが如し、○歌(ノ)意は、十月のしぐれのならひと、降みふらずみさだめなき空なれば、宿取までもなく、からくして行ことなるを、もし雨の晴間もなく、降來りてありせば、いづれの里の程に、宿からむといふたのみもさらになければ、いとゞ家路を、戀しく思ふことぞ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3215 白妙乃《シロタヘノ》。袖之別乎《ソテノワカレヲ》。難見爲而《カタミシテ》。荒津之濱《アラツノハマニ》。屋取爲鴨《ヤドリスルカモ》。
 
本(ノ)二句は、此(ノ)上に、白妙之袖之別者雖惜《シロタヘノソテノワカレハヲシケドモ》云々、とある處に註り、○難見爲而《カタミシテ》は、難むじてといは(445)むが如し、別れ難《カテ》にしての意なり、○荒津之濱《アラツノハマ》は、三代實録十六、貞觀十一年十二月廿九日詔に、新羅(ノ)賊船二艘、筑前(ノ)國那珂(ノ)郡乃|荒津爾《アラツニ》到來天、豐前(ノ)國貢調船乃絹綿乎掠奪天、逃退太利云云、同二十九、貞觀十八年八月三日、太宰府言、去月十四日、唐商人楊清等三十一人、駕2一隻(ノ)船(ニ)1著2荒津(ノ)岸(ニ)1、など見えたり、此(ノ)集十五に、可牟佐夫流安良都能佐伎爾與須流奈美《カムサブルアラツノサキニヨスルナミ》云々、十七に、荒津乃海之保悲思保美知時波安禮登《アラツノウミシホヒシホミチトキハアレド》云々、○歌(ノ)意は、ふりはへて、吾を送(リ)來し女と、袖をふり離して、別れむとすれど、別れ難にして、速に發船《フナデ》をも得せず、荒津の濱に、今夜は宿を取かな、となり、
 
3216 草枕《クサマクラ》。羈行君乎《タビユクキミヲ》。荒津左右《アラツマデ》。送來《オクリキヌレド》。飽不足社《アキタラズコソ》。
 
歌(ノ)意は、旅行君と、袖をふり離して、別れむとすれど、別れ難にして、發船《フナデ》せむ濱津まで、遙々送(リ)來ぬれども、なほ厭足ずて、夜を連ねつゝ、こゝに留めまほしくこそ思へ、となり、此は太宰府の官人、或は國司の京へ上る時、遊女が、舟津まで送來て、よめるなるべし、と岡部氏いへるが如し、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
3217 荒津海《アラツノウミ》。吾幣奉《アガヌサマツリ》。將齋《イハヒテム》。早還座《ハヤカヘリマセ》。面變不爲《オモガハリセズ》。
 
幣奉《ヌサマツリ》(幣(ノ)字、舊本弊に誤れり、元暦本、拾穗本等に從つ、)は、幣帛《ミテクラ》を、海(ノ)神に、奉獻《タテマツリ》て、海路《ウミツヂ》の安全《サキカ》らむ(446)ことを、祈齋《イノリイハ》ふよしなり、奉《タテマツル》を、マツル〔三字右○〕とのみ云ことは、一(ノ)卷に委(ク)辨へたり、○兩變不爲《オモガハリセズ》は、十八長歌に、鏡奈須可久之都禰見牟於毛我波利世須《カヾミナスカクシツネミムオモガハリセズ》、廿(ノ)卷に、麻氣波之良寶米弖豆久禮留等乃能其等已麻勢波波刀自於米加波利勢受《マケバシラホメテツクレルトノノゴトイマセハハトジオメカハリセズ》、孝徳天皇(ノ)紀に、汝佐平等|不易面來《オモガハリセズマヰク》、續後紀五(ノ)卷宣命に、今日乃己止《ケフノゴト》、變顔容世須《オモガハリセズ》、早還參來止之※[氏/一]奈母《ハヤカヘリマヰコトシテナモ》云々、○歌(ノ)意は、荒津(ノ)海の海(ノ)神に、幣帛を獻りて、今日よりは、君が旅路の平安《サキ》からむことを、祈り齋ひつゝのみ、吾(ガ)待居むぞ、たとひ年は經とも、なほ面易りせぬうちに、早く還り來まして、ありしごとく、相語ひてよ、となり、岡部氏云、此は筑紫人の、京に仕(ヘ)奉るとて、上るをりならむ、面變不爲《オモガハリセズ》は、年經べきよしなれば、國に任《マケ》られたる人の、朝集使などにて、かりに上るにあらず、
 
3218 旦旦《アサナサナ》。筑紫乃方乎《ツクシノカタヲ》。出見乍《イデミツヽ》。哭耳吾泣《ネノミソアガナク》。痛毛爲便無三《イタモスベナミ》。
 
旦旦、(舊本に、早早と作るは、義を得て書るか、今は古寫本、拾穗本等に從つ、)アサナサナ〔五字右○〕とよめる宜し、○哭耳吾泣《ネノミソアガナク》は、哭《ネ》に泣耳《ナクノミ》にてぞ吾(ガ)ある、といふ意なり、○歌(ノ)意、そこの、海(ノ)神に幣帛を獻りて、余《オノ》が旅路の平安《サキ》からむことを、祈(リ)齋ひつゝ待居と聞ば、家路戀しく思ふ心の、いとゞ堪がたくて、たゞ哭《ネ》に泣てのみ、毎日毎日《ヒゴトヒゴト》に、筑紫の方を、出見つゝ居るぞ、となり、今此(ノ)歌をもて按(フ)に、右の荒津海《アラツノウミ》云々も、京に上る人の、はやく道中に至れるほど、よみて贈れるに、すなはち道より、その歌に答て、いひおこせたるなるべし、
 
(447)右二首《ミギフタウタ》。
 
3219 豐國乃《トヨクニノ》。聞之長濱《キクノナガハマ》。去晩《ユキクラシ》。日之昏去者《ヒノクレヌレバ》。妹食序念《イモヲシソモフ》。
 
聞之長濱《キクノナガハマ》は、豐前(ノ)國企救(ノ)郡の海濱なり、既くいへり、長濱《ナガハマ》は、一(ツ)の濱(ノ)名には非ず、海濱の廣く長きを云ならむ、八百日往《ヤホカユク》濱の意なるべし、○歌(ノ)意、晝はめづらかなるところ/”\の、目にふるるにつきて、すこしはまぎるゝかたの、なきにしもあらぬを、企救(ノ)郡の長き濱路を徃暮し、夜になりぬれば、いとゞ心ぼそく堪がたくて、家の妹を、一(ト)すぢに戀しく思ふぞ、となり、此は旅路に、企救の濱を歴行(ク)ほど、家の妻に、よみて贈れるなるべし、
 
3220 豐國能《トヨクニノ》。聞乃高濱《キクノタカハマ》。高高二《タカタカニ》。君待夜等者《キミマツヨラハ》。左夜深來《サヨフケニケリ》。
 
高濱《タカハマ》も、長濱《ナガハマ》と云に同じく、廣く遠きを云るにやあらむ、祝詞に、高山短山《タカヤマミジカヤマ》と云(ヒ)、中昔の物語書に、高《タカ》き短《ミジカ》きなど云て、短に對(ヘ)て、高と云ることあれば、竪に長を云のみにはあらで、横に長きをも、高きと云しにこそ、さてこゝは、やがて高々《タカ/\》をいはむ料の序とせり、○高高二《タカ/\ニ》は、佇待《ツマダテテ》望む意なること、既く云り、此(ノ)上に、石上振之高橋高高爾妹之將待夜曾深去家留《イソノカミフルノタカハシタカタカニイモガマツラムヨソフケニケル》、又、十五日出之月乃高々爾君乎座而何物乎加將念《モチノヒニイデニシツキノタカ/\ニキミヲイマセテナニヲカオモハム》、十一に、高山爾高部左渡高々爾余待公乎待將出可聞《タカヤマニタカベサワタリタカ/\ニアガマツキミヲマチデナムカモ》、又 也ヤ、十三に、母父毛妻毛子等高々二來跡待羅六人之悲沙《オモチヽモツマモコドモモタカ/\ニコムトマツラムヒトノカナシサ》、など多し、さてこれは、十五に、波之家也思都麻毛古杼毛母多可多加爾麻都良牟伎美也之麻我久禮奴流《ハシケヤシツマモコドモモタカタカニマツラムキミヤシマガクレヌル》、十八に、安乎爾石之奈良(448)爾安流伊毛我多可多可爾麻都良牟許己呂之可爾波安良司可《アヲニヨシナラニアルイモガタカタカニマツラムココロシカニハアラジカ》、などある假字書によりて、清て唱ふべし、(多可陀加《タカダカ》と、濁るは非なり、)○左(ノ)字、舊本に在と作るは誤なり、活字本、拾穗本、古寫一本等に從つ、○歌(ノ)意は、旅に出去し夫(ノ)君が、今宵は還り來まさむかと佇待に、還りまさずて、いたづらに、夜の更にけるよ、といへるならむ歟、按に、此(ノ)歌は、筑紫の女のもとに通ひ往男を、女の待わびてよめるにもあらむ、歌のさま、然きこえたればなり、されば、此(ノ)一首は、答歌ならずて、たゞの相聞なるが、聞乃高濱《キクノタカハマ》とあるよりまぎれて、問答に收《イリ》しにもあらむか、
ミギフタウタ
右二首《》。
 
萬葉集古義十二卷之下 終
 
(449)萬葉集古義十三卷之上
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》。【是中長歌十六首。】
 
小書の七字、古寫本、拾穗本等にはなし、但し拾穗本には、此間に、一首作者未詳、と云六字あり、
 
3221 冬木成《フユコモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。朝爾波《アシタニハ》。白露置《シラツユオキ》。夕爾波《ユフヘニハ》。霞多奈妣久《カスミタナビク》。汗湍能振《ハツセノヤ》。樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》。※[(貝+貝)/鳥]鳴母《ウグヒスナクモ》。
 
冬木成《フユコモリ》は、枕詞なり、既く一(ノ)卷に出て、後處に云り、○妣(ノ)字、水戸本には、毘と作り、○汗湍能振(湍(ノ)字、元暦本、古寫本、拾穗本等には、瑞と作り、)は、誤字あるべし、(舊本に、アメノフル〔五字右○〕と訓るは謂なし、又契冲が、カゼノフク〔五字右○〕とよめるも、心ゆかず、岡部氏は、汗微竝能《カミナミノ》、と書るなどの誤れるならむ、といへり、これもいはれたりとは、おぼえねども、いかさまにも、さる地(ノ)名にてはあるべきなり、されどその説の謂《イハ》れたりと思はれぬは、凡て集中に、神南備、甘南備など書て、神は加牟《カム》とのみ唱しとおぼえて加美《カミ》とも加微《カミ》とも、書しことのなければなり、又本居氏は、御諸能夜《ミモロノヤ》の誤ならむか、と云(ヘ)り、)今按(フ)に、汗は、泊(ノ)字の誤、振は夜(ノ)字の誤にて、泊湍能夜《ハツセノヤ》とありしならむか、(450)(泊湍《ハツセ》と書る例、十一に見えたり、但し此(ノ)次々なるも、三諸《ミモロ》、神南備《カムナビ》などよめれば、カムナビノ〔五字右○〕とか、ミモロノヤ〔五字右○〕とかあらむこと、然るべしとも云べけれども、強(チ)拘るべきにもアらず、此(ノ)次下にも、長谷河《ハツセガハ》の歌見え、はた泊湍とせむかた、字形も然るべければなり、)○樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》は、木末之裏《コヌレガシタ》になり、樹奴禮《コヌレ》は、木之末《コノウレ》の約れる言にて、既くいへり、(夫木集に、うたかみやたにのこぬれにかくろへて風のよきたる花を見る哉、とあり、後の歌に、こぬれとよめる、めづらし、)之多《シタ》は、裏《ウチ》と云に同じ、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
右(ノ)字、拾穗本にはなくして、一首の字を、左の歌に題《カケ》たり、
 
3222 三諸者《ミモロハ》。人之守山《ヒトノモルヤマ》。本邊者《モトヘハ》。馬醉木花開《アシビハナサキ》。末邊方《スヱヘハ》。椿花開《ツバキハナサク》。浦妙山曾《ウラグハシヤマソ》。泣見守山《ナクコモルヤマ》。
 
三諸《ミモロ》は、三輪山か、又は飛鳥の神南備《カムナビ》山にてもあるべし、○人之守山《ヒトノモルヤマ》は、山の※[立心偏+可]怜《オモシロ》さに、人の愛《メデ》て、目離《メカレ》ず目守《マモル》山、と云なり、(新古今集に、すべらきをときはかきはにもる山の山人ならし山かづらせり、とあるは、近江(ノ)國守山を、皇朝を守護《マモ》る謂にいひつらね、今は、山(ノ)名にはあらで、ただ賞愛《ウツクシミ》して、目かれずまもる意に、いひつゞけたり、〔頭註、【古今集白露もしぐれもいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり、】〕○本邊《モトヘ》は、山の麓の方なり、○末邊《スヱヘ》は、峰の方なり、仁徳天皇(ノ)紀、兎道(ノ)稚郎子(ノ)皇子(ノ)御歌に、望苫弊破枳瀰烏於望臂泥《モトヘハキミヲオモヒデ》、須惠弊破伊暮鳥於望比泥《スヱヘハイモハイモヲオモヒデ》云々、(これは山の麓峯をよみ給へるにはあらね(451)ど、同詞なる故に、こゝに引つ、)○浦妙山曾《ウラグハシヤマソ》、(浦妙、元暦本に、妙沙と作るは誤なり、)浦《ウラ》は、心《ウラ》なり、裏《ウラ》なり、心悲《ウラカナ》し、心戀《ウラコヒ》しなどの心《ウラ》なり、妙《クハシ》は、ほめて云詞なり、雄略天皇(ノ)紀大御歌に、據暮利矩能播都制能夜麻播《コモリクノハツセノヤマハ》、阿野備于羅虞波斯《アヤニウラグハシ》、阿野爾于羅虞波斯《アヤニウラグハシ》、とあり、曾《ソ》は、※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》などの曾《ソ》なり、○泣兒守山《ナクコモルヤマ》は、守山《モルヤマ》をいはむとて、泣兒と云かけたるなり、泣兒守とは、幼き兒の泣を、母の慰め守るよしなり、さて守山とは、上に、人之守山《ヒトノモルヤマ》とあると、同じ意なり、(契冲が、應神天皇五年に、山守部を定させ給ひて、後、山々に山守なきはなけれども、三諸山は、ことに神のためにもる山なり、第十四に、つくばねのをてもこのもにもりべすゑ、ともよめり、と云れど、こゝの守山は、上に云如く、唯人の愛て、目離ず目守《マモ》る義の外なかるべし、)
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穂本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3223 霹靂之《アマギラヒ》。日香天之《ワタルヒカクシ》。九月乃《ナガツキノ》。鍾禮乃落者《シグレノフレバ》。鴈音文《カリガネモ》。未來鳴《トモシクキナク》。神南備乃《カムナビノ》。清三田屋乃《キヨキミタヤソ》。垣津田乃《カキツタノ》。池之堤之《イケノツヽミノ》。百不足《モヽタラズ》。五十槻枝丹《イツキガエダニ》。水枝指《ミヅエサス》。秋赤葉《アキノモミチバ》。眞割持《マキモタル》。小鈴文由良爾《ヲスヾモユラニ》。手弱女爾《タワヤメニ》。吾者有友《アレハアレドモ》。引攀而《ヒキヨヂテ》。峯文十遠仁《エダモトヲヲニ》。※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》。吾者持而往《アハモチテユク》。公之頭刺荷《キミガカザシニ》。
 
霹靂之日香天之は、(岡部氏は、なるかみの、ひかをるそらの、と訓て、しぐれのはれくもる時な(452)れば、日のくもるそらの、といふなり、さてなるかみは、冠辭にて、冠辭よりは、光とつゞけたり、うけたる言の、かをるは、くもることなり、潮氣のみかをれると云も、即(チ)潮氣のくもるといふなり、日カヲル〔三字右○〕》を、ひかる方につゞけなすは、冠辭の例なり、といへり、されど天之《ソラノ》とありては、下に屬き難し、かにかくに誤字あるべし、)本居氏、雨霧合渡日香久之《アマギラヒワタルヒカクシ》、とありしが、霧合を、靂之と誤れるから、上の雨(ノ)字を、さがしらに、霹なるべしとて改め、渡(ノ)字を脱せるなるべし、三(ノ)卷に、度(ル)日の陰もかくろひとあり、と云り、猶考べし、)○未來鴨は、(いまだきなかず、にては謂《ヨシ》なし、必(ス)さかりに來鳴時なればなり、)未は乏(ノ)字の誤にて、トモシクキナク〔七字右○〕と訓べきか、八(ノ)卷に、誰聞都從此間鳴度鴈鳴之嬬呼音乃乏左右爾《タレキケトコヨナキワタルカリガネノツマヨブユヱノトモシキマデニ》、九(ノ)卷に、妹當衣刈音夕霧來鳴而過去及乏《イモガアタリコロモカリガネユフキリニキナキテスギヌトモシキマデニ》、などあり、(略解には、文末(ノ)二字、率(ノ)字の誤れるにて、かりがねのいざなひきなくか、と云り、)○神南備《カムナビ》(神(ノ)字、元暦本、拾穂本等には、甘と作り、)は、飛鳥のなり、○清三田屋《キヨキミタヤ》は、清とは、神に供(ヘ)む爲に、齋(ミ)清めたる謂なり、三田屋は三《ミ》は御(ノ)字の意なり、神供のために作る御田を、植て刈て春まで守る屋なり、神代紀に以2天(ノ)垣田(ヲ)1爲2御田(ト)1、曾根(ノ)好忠集に三田屋守(リ)今日は五月に成にけり急げや早苗老もこそすれ、(後拾遺にも載たり、)○垣津田乃池《カキツタノイケ》とは、垣津田は、其(ノ)御田屋の垣内の田を云なるべし、池は、其(ノ)御田にまかする料に、穿(リ)設けたるなり、(契冲が、第九に、みもろの神なび山にたちむかふ、みかきの山にとよめる、そのみかきの山にある田をいふか、神垣の内のごとく、ま(453)ぢかぐ作るをも云るは、いさゝかわろし、又或説に、此(ノ)歌の神南備は、平群(ノ)郡にて、法隆寺の鎭守天滿宮の前の池を、今里人は、天滿の池と云り、是(レ)垣津田の池なり、と云う、いかゞあらむ、)○百不足《モヽタラズ》は五十《イ》の枕詞なり、○五十槻《イツキ》は、(五(ノ)字、舊本に三と作るは誤なり、今は古本に從つ、又元暦本、拾穗本等に、五十を卅と作るは、再誤れるにて、いよ/\わろし、)五十は借(リ)字にて、齋槻《イミツキ》なるべし、御田の池の堤にあれば、齋清《イミキヨマ》はりたる槻といふなるべし、齋《イミ》を、いといふは、齋垣《イミカキ》を、いかきと云に同じ、さて槻は、古(ヘ)多くは、地溝の堤に殖けるなるべし、二(ノ)卷に、※[走+多]出之堤爾立有槻木之己知碁智乃枝之《ワシリデノツヽミニタテルツキノキノコチゴチノエノ》云々、○水枝指《ミヅエサス》は、みづ/\とうるはしき稚枝のさすを云なり、(秋時にても、今春新に芽出たる枝をぼ、然云つべし、契冲が、水枝は、三枝にて、凡そ木は、こなたかなたに枝のさせば、中をあはせて三枝と云り、と云るは、非《ヒガコト》なり、水と三とは、清濁|異《カハ》れるをや、)水は借(リ)字にて、美豆山《ミヅヤマ》、美豆垣《ミヅガキ》などいふ美豆《ミヅ》に同じ、〔頭註、【弘蔭按に、水枝指秋赤葉とは、凡て木葉は、末葉より色附そめ、芽子などは、本葉より色附よしに思はるるに、今春新に芽出たる木の稚枝は、生氣弱ければ、中にも露霜に、はやく變色ふものにて、其艶へる色も、殊にうるはしきよりいへるならむか、】〕○眞割持は、岡部氏、マキモタル〔五字右○〕と訓べし、と云る、よろし、小鈴とつゞきて、吾(カ)手に纏持たる鈴もゆらになり、割は、常にはさきといへるを、古くは、きとのみも云しなれば、唯きの言に用ひしなり、靈剋春《タマキハル》など、きの假字に用ひし例あり、割は剋に同じ、(契冲が、マサキモツ〔五字右○〕と、舊訓にあるによりて、云る説は、云に足ず、)此(ノ)一句、上の赤葉《モミチバ》よりは連かず、小鈴といふに屬けり、○小鈴文由良爾《ヲスヾモユラニ》は、手玉母由良爾《タダマモユラニ》とあ(454)るに同じ、(文《モ》は、語(リ)辭にて、由良《ユラ》は、鈴の鳴音なり、既く十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、足玉母手珠毛由良爾《アシダマモタダマモユラニ》云々、とある處に、具く云るを見て考(フ)べし、○手弱女爾《タワヤメニ》云々は、手力もなき弱《タヨワ》き女にはあれども、夫(ノ)君のためにとて、手折る謂なり、三(ノ)卷に、石戸破手力毛欲得手弱寸女有者爲便乃不知苦《イハトワルタヂカラモガモタワヤキメニシアレバスベノシラナク》、○引攀而《ヒキヨヂテ》は、赤葉をなり、○峯文十遠仁は、岡部氏云、峯は、延多か、延太かの二(ノ)字の、一字となりし物なり、エダモトヲヽニ〔七字右○〕なり、と云り、十遠《トヲヽ》は、多和々《タワヽ》と云に同じ、既く云り、○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》、※[手偏+求]《ウチ》は、いひおこす詞にて、手して物する事に、多くそへて云う、九(ノ)卷に、※[手偏+求]手折多武山霧《ウチタチリタムノヤマギリ》云々、○吾者持而往は、アハモチテユク〔七字右○〕と訓べし、○公之頭刺荷《キミガカザシニ》は、夫(ノ)君の頭刺のためにとて、と云なるべし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3224 獨耳《ヒトリノミ》。見者戀染《ミレバコヒシミ》。神名火乃《カムナビノ》。山黄葉《ヤマノモミチバ》。手折來君《タヲリケリキミ》。
 
第一二(ノ)句は、唯獨のみ見てはあかず、夫(ノ)君が、戀しく思はるゝ故に、と云なり、○山黄葉《ヤマノモミチバ》、長歌に堤と云て、こゝにかく山と云るは、即(チ)かの御田、神南備山《カムナビヤマ》の山田にて、其處の池堤に立る槻なるべし、○手折來君は、タヲリケリキミ〔七字右○〕と訓べし、ケリ〔二字右○〕は、來有《キケリ》なり、キケ〔二字右○〕はケ〔右○〕と切れり又タヲリコシ〔五字右○〕と訓ても、然るべし、○歌(ノ)意は、唯獨のみ見ては、足《アカ》ず戀しく思はるゝ故に、神名火山の黄葉を、艱難《カラク》して手折來にけるを、あはれと見賜へ、夫(ノ)君よと、なり、○舊本、此所に、此(ノ)一首入道殿讀出給の丸字あり、古寫本、異本等には無(シ)、後人の加筆《カキクハヘ》なり、これは當時入道殿の、此(ノ)歌の訓(455)を付られたるを記せるなり、そも/\今こそ、古學のみさかりの世となりて、此(ノ)集の歌を訓ことなど、さばかり、むつかしきことにはあらぬを、古學の道の開けざりし時には、こよなく訓難きことゝせし故に、一首(ノ)歌の訓を付たるをも、いみじき功業とせる故に、かく記せるなり、江家江説などゝ記せる所あり、これらも、大江家の人の訓點を付たるを、記せるなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3225 天雲之《アマグモノ》。影寒所見《カゲサヘミユル》。隱來笶《コモリクノ》。長谷之河者《ハツセノカハハ》。浦無蚊《ウラナミカ》。船之依不來《フネノヨリコヌ》。礒無蚊《イソナミカ》。海部之釣不爲《アマノツリセヌ》。吉咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者無友《ウラハナクトモ》。吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》。礒者無友《イソハナクトモ》。奧津浪《オキツナミ》。諍※[手偏+旁]入來《キホヒコギリコ》。白水郎之釣船《アマノツリブネ》。
 
影寒所見は、寒は、塞(ノ)字の寫誤なり、カゲサヘミユル〔七字右○〕と訓べし、雲影の見ゆるは、水の至《キハメ》て清き意なり、十六に、安積香山影副所見山井之《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノ》云々、古今集にも、月のあきらかなることをよめるに、飛鴈の數さへみゆるとあるを、顯昭の註には、一本に、影さへみゆるとありと云り、と契冲いへり、○隱來笶《コモリクノ》は、枕詞なり、既く出つ、○長谷之河《ハツセノカハ》は、城上(ノ)郡にあり、既く一(ノ)卷に出つ、○浦無蚊《ウラナミカ》云々(此(ノ)句、並次の礒無の無(ノ)字共に、元暦本になきは、脱たるなり、)は、よき浦の無(キ)故にや、船の依來ぬ、よき礒のなき故にや、海部の釣爲ぬとの謂なり、已下八句は、二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、石見乃(456)海角乃浦回乎《イハミノミツヌノウラミヲ》、浦無等人社見良目《ウラナシトヒトコソミラメ》、滷無等人社見良目《カタナシトヒトコソミラメ》、能咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモ》、縱畫屋師滷者無鞆《ヨシヱヤシカタハナクトモ》云々、とあるに似たり、○吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》は、寺は、濁音の假字なるに、此(ノ)清音の處に用《カケ》るは、取はづしたるものか、又は子(ノ)字の誤にてもあるべし、此(ノ)下に、縱惠八子《ヨシヱヤシ》と書り、子寺、草書混(ヒ)易し、○奥津浪《オキツナミ》は、次の句をいはむ料なり、浪の立て依來るは、競ひ重るものなればなり、奥《オキ》は河の奥《オキ》にて、凡て古(ヘ)は、河海《ウミカハ》に限らず、岸側《ミギハ》より遠放りたる方を、奥《オキ》と云り、なほ三(ノ)卷に、八雲刺《ヤクモサス》云々|吉野川奥名豆颯《ヨシヌノカハノオキニナヅサフ》、とある歌につきて、具く云るを見て考ふべし、○諍※[手偏+旁]入來(諍(ノ)字、舊本に淨と作るは誤なり、今は官本、拾穗本等に從つ、校本にも、異本、古寫本、淨作v諍、とあり、)は、キホヒコギリコ〔七字右○〕と訓べし、岡部氏が、諍をキソヒ〔三字右○〕とよめるはわろし、諍は、古言にはキホフ〔三字右○〕とのみ云て、キソフ〔三字右○〕と云ること、凡てなし、既く具く云り、)此は白水郎《アマ》の船どもの、我先にと爭《アラソ》ひて、こぎ入(リ)來よ、といふなり、(略解に、浪の打よするに競て、こぎ入來れと云意とせるは、いさゝかたがへり、)〔頭註、【字鏡に、※[言+言]競言也、支曾比云、又支曾比加太利、とあれば、伎曾布と云も、古言には非ずとも云がたきか、されど集中には、伎保布とのみあり、備考、】〕○歌(ノ)意は、雲影うつるばかりの、清潔《イサギヨキ》泊瀬の河なるに、よき浦や礒の無故にや、海人船の依來て釣せざるらむ、よしやよき浦礒は無(ク)とも、此(ノ)河の清き風趣に愛て、爭ひ※[手偏+旁]入來れ、海部の釣舶よ、となり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
反(ノ)字、舊本友に誤れり、類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、
 
(457)3226 沙邪禮浪《サザレナミ》。浮而流《タギチテナガル》。長谷河《ハツセガハ》。可依礒之《よるべきいその》。無蚊不怜也《ナキガサブシサ》。
 
浮而流は、(或人の考に、こは河の流の早ければ、さゞれなみの立ながら、浮(キ)流るゝをいへり、と云れど、わろし、又岡部氏が、浮は湧の誤にて、わきてながるゝなりと云るは、よしなし、)浮は沸(ノ)字の誤寫なるべし、さらばタギチテナガル〔七字右○〕と訓べし、十(ノ)卷に、落沸速瀬渉《オチタギツハヤセワタリテ》云々、とあり、九(ノ)卷に、瀧之瀬從落墜而流《タギノセヨタギチテナガル》云々、○歌(ノ)意は、細浪《サヾレナミ》の沸《タギ》りて流るゝ、甚《イト》清《キヨ》き長谷河なるに、海人船のよるべき礒のなきのみが、心にもあらで、不足《アカズ》さぶ/\しさ、いはむ方なし、となり、(浪の速きが故に、船のよるべき礒もなき意と見るは、わろし、)
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3227 葦原※[竹冠/矢]《アシハラノ》。水穗之國丹《ミヅホノクニニ》。手向爲跡《タムケスト》。天降座兼《アモリマシケム》。五百萬《イホヨロヅ》。千萬神之《チヨロヅカミノ》。神代從《カミヨヨリ》。云績來在《イヒツギキタル》。甘南備乃《カムナビノ》。三諸山者《ミモロノヤマハ》。春去者《ハルサレバ》。春霞立《ハルカスミタチ》。秋徃者《アキユケバ》。紅丹穗經《クレナヰニホフ》。甘甞備乃《カムナビノ》。三諸乃神之《ミモロノカミノ》。帶爲《オビニセル》。明日香之河之《アスカノカハノ》。水尾速《ミヲハヤミ》。生多米難《ムシタメガタキ》。石枕《イハガネニ》。蘿生左右二《コケムスマデニ》。新夜乃《アラタヨノ》。好去通牟《サキクカヨハム》。事計《コトハカリ》。夢爾令見社《イメニミセコソ》。劔刀《ツルギタチ》。齋祭《イハヒマツレル》。神二師座者《カミニシマセバ》。
 
第一二(ノ)句は、大御國の大名にて、本居氏(ノ)國號考に具(ク)云り、○手向爲跡《タムケスト》は、(岡部氏は、手《タ》は、發語にて、向(ケ)平らぐる意なるべし、と云り、されど、向平らぐることを、手向と云る例、外になければ、い(458)かゞなり、)中山(ノ)嚴水、こは三諸山の、いと遠き御代より齋ひまつられ給ふことを、むねとしていへれば、この手向は、神に物を奉りて、齋ひまつることなるべし、神賀(ノ)詞に、大穴待命乃申給久《オホナムヂノミコトノマヲシタマハク》、皇御孫命乃靜坐牟大倭國申天《スメミマノミコトノシヅマリマサムオホヤマトノクニトマヲシテ》云々、賀夜奈流美命能御魂乎《カヤナルミノミコトノミタマヲ》、飛鳥乃神奈備爾坐天《アスカノカムナビニマセテ》、と有て三諸(ノ)大神は、神の御代より、手向し祭られたまふ神にましますを、思ふべし、さればこゝの意は、此(ノ)水穗の國に坐ます神たちに、手向すとて、天降坐けむ、その神代より、名高く言繼來たる、神南備乃云々の意なり、と云り、(猶考べし、)○神代從《カミヨヨリ》云々、五(ノ)卷に、神代《カミヨ》欲里云傳介良久《ヨリイヒツテケラク》云々、)十八に、於保奈牟知須久奈比古奈野神代欲里伊比都藝家良久《オホナムヂスクナビコナノカミヨヨリイヒツギケラク》云々、○霞(ノ)字、舊本霰と作るは誤なり、今は拾穗本、古寫一本等に從つ、校本にも、活字本、古寫本、霰作v霞、とあり、○秋往者《アキユケバ》は、秋になればの意なり、○紅丹穗經《クレナヰニホフ》は、紅葉の艶《ニホ》ふをいへり、○三諸乃神《ミモロノカミ》は、即(チ)山をさしていへり、○帶爲は、オビニセル〔五字右○〕とよむべし、又オバセル〔四字右○〕とも訓べし、山の帶《オビ》てあるを云り、此(ノ)下に、神名火山之帶丹爲留明日香之河乃《カムナビヤマノオビニセルアスカノカハノ》、七(ノ)卷に、大王之御笠山之帶爾爲流細谷川之《オホキミノミカサノヤマノオビニセルホソタニガハノ》云々、九(ノ)卷に、三諸乃神能於婆勢流泊瀬川《ミモロノカミノオバセルハツセガハ》、十七立山(ノ)歌に、於婆勢流可多加比河波能《オバセルカタカヒガハノ》云々、ともよめり、○水尾速《ミヲハヤミ》は、水脉《ミヲ》が速き故にの意なり、○生多米難《ムシタメガタキ》は、苔の生留め難き、と云なり、○石枕は、枕は根の誤にて、イハガネノ〔五字右○〕なり、と岡部氏云り、眞に然なくては、聞えがたし、但しイハガネニ〔五字右○〕とよまむぞ、然るべき、○蘿生左右二《コケムスマデニ》は、早河の石根には、苔の生とゞまりがたきものなるを、それにさへ(459)苔の生までと、未久しくかけて云るなり、○新夜乃《アラタヨノ》、此(ノ)一句は、次(ノ)二句を隔て、夢爾令見社《イメニミセコソ》の上に置て意得べし、新夜乃夢《アラタヨノイメ》とつゞくは、十二に、我心《ワガコヽロ》等望使念(テ)新夜一夜不落夢見《アラタヨノヒトヨモオチズイメニシミユル》、又、荒田麻之《アラタヨノ》(麻は夜の誤なり、)全夜毛不落夢所見欲《ヒトヨモオチズイメニミエコソ》、などあると同じ、(今の新夜を、契冲が、夜は借(リ)字にて、新世なり、と云るによりて、誰もしか心得來れども、わろし、もし新世ならば、新夜乎《アヲタヨヲ》となくては叶はず、乃《ノ》とありては、好去通牟《サキクカヨハム》とつゞくべからず、句をおきかへて聞ときは、いと穩なるを、今迄心の付たる人なし、)○好去通牟《サキクカヨハム》は、末久しく平安《マサキ》くて、この三諸山に、あり通ひつゝ遊ばむ、と云なり、好去と書て、サキク〔三字右○〕とよめる例、集中にこれかれあり、○、事計《コトハカリ》は、俗に、爲道《シミチ》爲方《シカタ》などいふが如し、既く具く云り、○夢爾令見社《イメニミセコソ》は、末限りなく、さきくあり通はむ爲方を新夜の夢に告給へと、此(ノ)山の大神に願申すなり、○劔刀《ツルギタチ》云々、垂仁天皇(ノ)紀に、二十七年秋八月癸酉朔己卯、令(チテ)2神官《カムツカサニ》1卜《シムルニ》3兵器《ツハモノヲ》爲(ムト)2神幣《カミノマヒト》1吉之《ヨシ》、故(レ)弓矢及|横刀《タチヲ》、納2諸神之《モロカムタチノ》社(ニ)1、仍更定2神地神戸(ヲ)1、以v時祠之、蓋|兵器《ツハモノモテ》祭2神祇1、始2興《ハジマレリ》於是時(ニ)1也と見えて、古へより、劔を納て神祇を祭れるなり、されば劔刀を納奉りて齋祭れる、此(ノ)大神にましませば、いかで件の事計を、夢に告給へ、と云なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3228 神名備能《カミナビノ》。三諸之山丹《ミムロノヤマニ》。隱藏杉《イハフスギ》。思將過哉《オモヒスギメヤ》。蘿生右左《コケムスマデニ》。
 
隱藏杉《イハフスギ》は四(ノ)卷に、味酒呼三輪之祝我忌杉手觸之罪歟君二遇難寸《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギテフリシツミカキミニアヒガタキ》、又七(ノ)卷に、三幣取神之祝我(460)鎭齋杉原《ミヌサトリカミノハフリガイハフスギハラ》などあるが如し、神木は、汚穢《ケガレ》を放るが爲に、繩引延て、隱藏《ヒメカク》す意をもて、隱藏と書り、さて即《ヤガ》てこれを、次(ノ)句の過《スギ》をいはむとての序とせり、九(ノ)卷に、神南備神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《カムナビノカミヨセイタニスルスギノオモヒモギズコヒノシゲキニ》、とあり、○思將過哉《オモヒスギメヤ》(將(ノ)字、類聚抄にはなし、)は思ひ忘れむやは、といはむが如し、歌(ノ)意は、この三諸山の齋杉に、蘿の生代まで、思ひ忘れずして、此(ノ)神社に仕奉らむ、となり、
 
3229 五十串立《イクシタテ》。神酒座奉《ミワスヱマツル》。神主部之《カムヌシノ》。雲聚玉蔭《ウズノヤマカゲ》。見者乏文《ミレバトモシモ》。
 
五十串《イクシ》は、齋串《イミクシ》なり、(串(ノ)字のこと、古事記傳(ニ)云(ク)、久志《クシ》は、もと〓(ノ)字にて、字書に、燔v肉(ヲ)器とあり、然るに此(ノ)方にては、古(ヘ)より串(ノ)字を用ひたり、串(ノ)字には、久志《クシ》の義は見えず、但(シ)物相貫也、と註し、字形も〓と似たる故に、まがひつるなるべし、漢國にても、此(ノ)二字まがへることあり、和名抄には、唐韻(ニ)云、〓(ハ)炙v肉(ヲ)〓也、和名|夜以久之《ヤイクシ》、とあり、是も古本には串と作り、)齋《イミ》をイ〔右○〕と云は、齋垣《イカキ》などの例なり、(今(ノ)世神を祭るに幣串五十本を立るとぞ、其はこの五十串を、五十本の串の義と意得たるより、起《ハジマ》れることにはあらざるか、)此は幣玉などをさしはさみて、神に供る串なり、神代紀一書に、五百箇眞坂樹八十玉籤《イホツマサカキノヤソタマクシ》、また五百箇野篶八十玉籤《イホツヌスヾノヤソタマクシ》、などあり、(夫木集に、卯月垣白木綿かけてみたらしや花のいぐしは神やうくらむ、)○神酒座奉《ミワスヱマツル》は、神酒《ミワ》を机に居《スヱ》て、神に供奉ると云なり、神酒は、倭名抄に日本紀私記(ニ)云(ク)、神酒、和語(ニ)云(ク)美和《ミワ》、とあり、既く二(ノ)卷に、哭澤之神社爾三輪須惠雖?祈《ナキサハノモリニミワスヱノマメドモ》云々、とある歌に具(ク)云り、(現存六帖に、道の邊の杉のした枝にひくしめは神(461)酒座奉《ミワスヱマツ》るしるしなるらし、○神主部は、神事をつかさどる人の部《トモベ》なり、部(ノ)字は書たれども、ここはたゞカムヌシ〔四字右○〕とよむべし、○雲聚玉蔭《ウズノヤマカゲ》は、雲聚《ウズ》は、推古天皇(ノ)紀に、十一年十二月戊辰朔壬申、始(テ)行2冠位(ヲ)1云々、唯元日(ニハ)著2髻華(ヲ)1、(髻華此云2于孺《ウヅト》1、)と見えたり、玉蔭は、本居氏、玉は山を誤れるなり、草書にては、山と玉とよく似たる故なり、山蔭は、髻華《ウズ》に垂たる日影※[草冠/縵]なり、と云り、猶委く、玉勝間十三に見えたり、○乏文《トモシモ》は、さてもめずらしや、とほめたるなり、文《モ》は、歎息を含める助辭なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
右三首《ミギミウタ》。
 
首の下、舊本には、但或書此短歌一首無有載之也、と大書せり、古寫一本には小書とす、拾穗本には、右三首、但或云々已下十三字、ともになし、此間に、拾穗本には一首、并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3230 帛※[口+立刀]《ヌサマツリ》。楢從出而《ナラヨリイデテ》。水蓼《ミヅタデ》。穗積至《ホヅミニイタリ》。鳥網張《トナミハル》。坂手乎過《サカテヲスギ》。石走《イハバシル》。甘南備山丹《カムナビヤマニ》。朝宮《アサミヤニ》。仕奉而《ツカヘマツリテ》。吉野部登《ヨシヌヘト》。入座見者《イリマスミレバ》。古所念《イニシヘオモホユ》。
 
帛※[口+立刀](※[口+立刀](ノ)字、拾穗本には叫、元暦本には川と作り、)は、誤字なるべし、(まづ契冲が、舊訓にミテグラヲ〔五字右○〕とあるに依て、みてぐらもて、ならより出るといふべきを、古歌には、ことばくはしからぬこと多し、と云るはいかゞ、古語には、言約《コトズクナ》にいへること、多くあれども、理《コトワリ》貫《トホ》りて、中々に後(ノ)世(462)よりは詳《クハ》しきを、大よそに見るときほ、省(キ)過たりと思ふ事もあれど、具に味ふる時は、必然らぬ事なり、古語におろそかなりと云べし、又岡部氏が、帛※[口+立刀]は、冠辭とすべし、續日本後紀、伊勢への詔に、大幣乎令2捧持1天奉出、とある如く、大内よりは出すといへば、冠辭におけりとすべし、と云るは、ひがことなり、また本居氏の、帛は、内日なるを下上に誤(リ)、つひに帛とかき、また※[口+立刀]は、刺の誤、猶は都の誤にて、ウチヒサス、ミヤコユイデヽ〔ウチ〜右○〕、ならむ、と云るは、甚じき強解なりけり、)故(レ)思ふに※[口+立刀]は、奉(ノ)字の草書の、下の二の畫滅たるより、つひにかく誤れるなるべし、さらばヌサマツリ〔五字右○〕と訓べし、三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》云々、とあるをも考(ヘ)合(ス)べし、奈良坂を過るには、古より必(ス)幣帛《ヌサ》奉《タテマツ》ることなればなり、(この旅は帛《ヌサ》も取あへず手向山、とよまれしも、奈良の手向山なり、)○水蓼は、ミヅタデ〔四字右○〕と四言に訓べし、枕詞なり、(十六には、八穗蓼乎穗積ヤホタデヲホツミ》、とあり、現存六帖に、水蓼の穗積にかよふ村鳥の立居につけて秋ぞ悲しき、これも水蓼をとこそ、あらまほしけれ、○穗積《ホツミ》は、十市(ノ)郡にあり、今蒲津村と云といへり、○鳥網張《トナミハル》は、枕詞なり、此は坂鳥の朝越ましてともよめる如く、山坂のあたりをば、鳥の群立て、飛越ることの多ければ、そこに鳥網《トナミ》張(リ)設て、獵師が鳥を獲(ル)故に、鳥之鋼《トリノアミ》張(ル)坂と云意に云かけたり、等奈美《トナミ》は、鳥之網《トノアミ》の締れるなり、ノア〔二字右○〕の切ナ〔右○〕)○坂手《サカテ》は、景行天皇(ノ)紀に、坂手(ノ)池をつくらせ賜ふよし見えたり、今城下郡に、坂手村あり、といへり、契冲、神名帳に、十市(ノ)郡坂門(ノ)神社、とあるを、引たれども、こ(463)は別なるべし、○石走《イハバシル》は、枕詞なり、○甘南備山《カムナビヤマ》(甘(ノ)字、校本に、水本、官本、作v神(ニ)、とあり、)は、高市(ノ)郡の飛鳥のなり、○朝宮仕奉而《アサミヤニツカヘマツリテ》は、朝の御饌《ミケ》を仕(ヘ)奉るを云なるべし、○古所念《イニシヘオモホユ》は、古(ヘ)の天皇等の行幸のことの、思慕はるゝなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此(ノ)歌は、天皇の、奈良より吉野へ行幸の時に、よめるなり、神南備山の離(ツ)宮に、御止宿まし/\て、その翌朝に、御饌仕へ奉りて、さて吉野へと入ますなり、かくて此(ノ)歌よめるは、其(ノ)神南備の離(ツ)宮を、出發せ給ふほどのことなるべし、反歌に、其離宮處をよめるは、其(ノ)故なり、此(ノ)時の天皇は、元明天皇なるべし、
 
3231 月日《ツキヒハ》。攝友《ユキカハレドモ》。久經流《ヒサニフル》。三諸之山《ミモロノヤマノ》。礪津宮地《トツミヤトコロ》。
 
攝友は、上に行(ノ)字か、立(ノ)字か脱たるなるべし、ユキカハレドモ〔七字右○〕とか、タチカハレドモ〔七字右○〕とかあるべし、字書に、攝(ハ)代也、と見えたり、(元暦本に、ウツリユケドモ〔七字右○〕、とよめるによらば、移去友などありけむを、誤れるにもあるべし、)持統天皇の時、此(ノ)山に、離(ツ)宮仕(ヘ)奉りてより、今元明天皇まで、三御代の間、多くの年月日の改り、移(リ)代れるを云、○礪津宮地《トツミヤトコロ》は、離宮處《トツミヤトコロ》なり、三(ノ)卷に、天皇御封2遊雷岳(ニ)1之時、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作歌に、皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマクモノイカツチノウヘニイホリセルカモ》、とありて、其(ノ)天皇は持統天皇にて、此(ノ)御時より始れる離(ツ)宮なりけむ、○歌(ノ)意は、多くの年月日は、改り移り代りぬれども、常《とこ》しなへに、長く久しく變らず、經たる、三諸山の離(ツ)宮處にてあるぞ、となり、〔頭註、【枕雙(460)紙に、月も日もかはりゆけども久にふるみむろの山の、といふふることを、ゆるるかにうちよみ出し給たまへる、いとをかしとおぼゆるを云々、袖中抄に、月も日もあらたまれども久にふるみむろの山のとつみや所、】〕○舊本、此間に、此歌入道殿讀出給、の八字あり、古寫本、拾穗本等にはなし、上にくはしく云り、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、首の下、舊本に、但或本歌曰故王都跡津宮地也、とあり、拾穗本には、但或本歌曰を、一云と作(キ)、也(ノ)字はなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3232 斧取而《ヲノトリテ》。丹生檜山《ニフノヒヤマノ》。木折來而《キコリキテ》。※[木+伐]爾作《イカダニツクリ》。二梶貫《マカヂヌキ》。礒※[手偏+旁]回乍《イソコギタミツヽ》。島傳《シマヅタヒ》。雖見不飽《ミレドモアカズ》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。瀧動動《タギモトヾロニ》。落白浪《オツルシラナミ》。
 
斧取而《ヲノトリテ》は、木折《キコリ》へ係れることばなり、○丹生檜山《ニフノヒヤマ》は、丹生は、吉野(ノ)郡にあり、二(ノ)卷に、丹生乃河瀬者不渡而《ニフノカハセハワタラズテ》、由久遊久登戀痛吾弟乞通來禰《ユクユクトコヒタムアオトイデカヨヒコネ》、七(ノ)卷に、斐太人之眞木流云爾布乃河《ヒダヒトノマキナガスチフニフノカハ》、などある、同處なるべし、檜山は、檜の多く生たる山なれば云り、○※[木+伐]爾作(※[木+伐](ノ)字、舊本には機、古本には※[木+義]、古寫本には※[木+茂]、官本には※[竹/※[舟+伐]]、拾穂本には艤、阿野本には※[木+筏]、と作り、※[舟+筏]※[木+筏]は、※[舟+伐]※[木+伐]なるべし、字書に、※[舟+伐]、※[木+伐]は、ともに與v筏同(シ)、と見え、筏(ハ)※[木+孚]也、と註せり、彼此《コレカレ》を考(ヘ)合(セ)て、今改つ、機、※[木+義]、※[木+茂]、艤は、共によしなし、)は、イカダニツクリ〔七字右○〕と訓べし、一(ノ)卷に、眞木乃都麻手乎百不足五十日太爾作泝須良牟《マキノツマテヲモヽタラズイカダニツクリノボスラム》、とあり、十九に、漢人毛筏浮而遊云《カラヒトモイカダウカベテアソブチフ》、とあり、○二梶《マカヂ》(梶(ノ)字、拾穗本には※[木+堯]と作り、)は、左右の楫を云なり、○礒(465)※[手偏+旁]回乍《イソコギタミツヽ》(回(ノ)字古寫本、官本、水戸本、拾穗本等には、廻と作り、)は、礒を漕廻りつゝ、といふなり、礒は即(チ)吉野川の礒なり、○島傳《シマヅタヒ》は、島より島につきて、漕めぐるよしなり、河にも池にも島といふ事、古(ヘ)の常なり、○瀧動動《タギモトヾロニ》、六(ノ)卷に、宮動動爾《ミヤモトヾロニ》、また、山裳動響爾《ヤマモトヾロニ》、十一に、瀧毛響動二《タギモトヾロニ》、十四に、伊波毛等杼呂爾於都流美豆《イハモトドロニオツルミヅ》云々、など見えたり、瀧は、吉野の大瀧を云べし、
 
反歌《カヘシウタ》。【旋頭歌。】
 
此(ノ)五字、舊本には旋頭歌とのみ作(キ)、古寫本、拾穗本には、反歌とのみ作り、校本に、古寫本、水本、旋頭歌(ノ)三字、作2反歌(旋頭歌)五字1、とあり、是宜し、こは右の長歌の反歌と見えたり、反歌に旋頭歌をよめること、いとめづらし、
 
3233 三芳野《ミヨシヌノ》。瀧動動《タギモトヾロニ》。落白浪《オツルシラナミ》。留西《トヾメニシ》。妹見卷《イモニミセマク》。欲白浪《ホシキシラナミ》。
 
妹見卷(類聚抄に、見の下に、面(ノ)字、卷の下に、色(ノ)字あるは、いぶかし、)は、イモニミセマク〔七字右○〕とも、イモトミマクノ〔七字右○〕とも訓べし、○歌(ノ)意は、吉野川の瀧も、動々《トヾロ/\》と響き鳴て、激《タギ》り落る白浪の、おもしろき風景を、家に留め置し妹に、いかで見せまほしき事ぞ、となり、又は妹と二人して、見まくほしき事ぞ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
(466)3234 八隅知之《ヤスミシシ》。和期大皇《ワゴオホキミ》。高照《タカヒカル》。日之皇子之《ヒノミコノ》。聞食《キコシヲス》。御食都國《ミケツクニ》。神風之《カムカゼノ》。伊勢乃國者《イセノクニハ》。「國見者之毛」山見者《ヤマミレバ》。高貴之《タカクタフトシ》。河見者《カハミレバ》。左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》。水門成《ミナトナス》。海毛廣之《ウミモヒロシ》。見渡《ミワタス》。島名高之《シマモナタカシ》。曾許乎志毛《ソコヲシモ》。浦細美香《ウラグハシミカ》〔九字各○で囲む〕。己許乎志毛《ココヲシモ》。間細美香母《マグハシミカモ》。挂卷毛《カケマクモ》。文爾恐《アヤニカシコキ》。山邊乃《ヤマヘノ》。五十師乃原爾《イシノハラニ》。内日刺《ウチヒサス》。大宮都可倍《オホミヤツカヘ》。朝日奈須《アサヒナス》。目細毛《マグハシモ》。暮日奈須《ユフヒナス》。浦細毛《ウラグハシモ》。春山之《ハルヤマノ》。四名比盛而《シナヒサカエテ》。秋山之《アキヤマノ》。色名付思吉《イロナツカシキ》。百磯城之《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。天地與《アメツチト》。日月共《ヒツキトトモニ》。萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》。
 
初四句は、上に多く見えたり、○御食都國《ミケツクニ》(都(ノ)字、拾穗本には津と作り、)は、天皇の御贄獻る國を云ことなり、六(ノ)卷に、御食國志麻乃海部有之《ミケツクニシマノアマナラシ》、とある處に、具く云りき、御饌調國《ミケツククニ》と云なるべし、○神風之《カムカゼノ》は、枕詞なり、既く出つ、○國見者之毛は、(廿(ノ)卷に、夜麻美禮婆見能等母之久《ヤマミレバミノトモシク》、可波美禮婆見乃佐夜氣久《カハミレバミノサヤケク》云々、とあるを併(セ)思ふに、こゝも國見者見之乏毛《クニミレバミノトモシモ》、とありけむを、字を落したるものならむと、はじめ思ひしはあらざりけり、)決《キハメ》て衍文なり、さるは次に山と河とを對《ムカ》へ云て稱へたれば、初に國のことをいはむは、無用《イタヅラ》なればなり、さればこの五字は、上下の字どもに見混へて、入しなるべし、○高貴之《タカクタフトシ》、三(ノ)卷不盡(ノ)山をよめる長歌に、神左備手高貴寸《カムサビテタカクタフトキ》、とあり、○水門成《ミナトナス》は、入海にて島々埼々多ければ、水門の如く、と云ならむ、○海毛廣之は、ウミモヒロシ〔六字右○〕と訓べし、六言一句なり、(略解に、ウミモマヒロシ〔七字右○〕とよめれど、眞(ノ)字なければ、さはよむべから(467)ず、)毛《モ》は、山河のみならず、海までもとの意なり、山河を主とたてゝ、わざと海をかたわらとして云るが、おもしろし、○見渡は、ミワタス〔四字右○〕と四言に訓べし、此(ノ)下にも、見波爾妹等者立志《ミワタシニイモラハタヽシ》、とあり、○島名高之は、按(フ)に、名は毛(ノ)字の誤なるべし、十(ノ)卷にも、毛を名に誤れる例あり、名毛草書似たればなり、シマモタカシ〔六字右○〕と六言に訓て、上の海毛廣之《ウミモヒロシ》、に對へたり、(略解に、名高之とあるに依て、垂仁天皇(ノ)紀を引たれど、わろし、)毛《モ》の意は、上なるに同じ、○曾許乎志毛浦細美香《ソコヲシモウラグハシミカ》の九字は、決《キハメ》て有るべきを、寫し脱せることしるし、其(ノ)よしは、下の方に、朝日奈須目細毛《アサヒナスマグハシモ》、暮日奈須浦細毛《ユウヒナスウラグハシモ》、と目細《マグハシ》と浦細《ウラグハシ》と二(ツ)をいひて、上を應《ウケ》たりときこゆるに、その下に照《テラス》べき、目細《マグハシ》と浦細《ウラグハシ》との二(ツ)を云(ハ)ずしては、たちまちかけ合(ハ)ぬことなるを思ふべし、初に、目細《マグハ》しく心細《ウラグハ》しき故にか、この五十師《イシノ》原に、大宮造り仕(ヘ)奉りけむと、おしはかりたる如くにいひおきて、後に、今よくみれば、げにも目細《マグハ》しも、心細《ウラグハ》しもと治定《サダメ》て云る趣なるを、よく味ひ考(フ)べし、されば、右の二句を、姑(ク)補《クハ》へ入たるなり、さて曾許乎《ソコヲ》とは、其《ソレ》をと云むが如し、其《ソレ》とは、山河海島などをさして云り、志毛《シモ》とは、多かる物の中に、その一(ツ)をとり出ていふ辭なること、さきざきに云る如し、浦細《ウラグハシ》とは、此(ノ)上にも見えて、浦は借(リ)字|心《ウラ》にて、心に好愛《メデウツクシ》まるゝを云ば、此(ノ)二句の意は、其(ノ)山河海島などのたゝずまひを、とりわきて、心に好愛《メデウツクシ》まるゝ故にか、と謂なり、○己許乎志毛《ココヲシモ》は、己許乎《ココヲ》とは、此《コレ》をと云むが如し、此(レ)とは、山河海島をさして云ること、上の其(レ)に准(フ)べし、○間細美香母《マグハシミカモ》は、(468)日細《マグハシ》さ故にか、と云なり、間は借(リ)字にて、次に目細《マグハシ》と書ると同じく、見ることのよきを云詞なり、古事記崇神天皇(ノ)條に、遠津年魚目微比賣《トホツアユメマグハシヒメ》、と云あり、書紀には、眼妙媛《マグハシヒメ》と書り、母《モ》は、歎息を含める助辭なり、上には、浦細美香《ウラグハシミカ》とのみ云(ヒ)、下に、問細美香母《マグハシミカモ》、と母《モ》の辭をそへて云るは、心細と、目細との二(ツ)を帶て、歎きたるなり、さて此(ノ)句の下に、大宮造り奉仕《ツカヘマツ》りけむ、と云辭を、假に加へて意得べし、然らでは、香《カ》と云る疑辭の結(ヒ)、下になければなり、其(ノ)例は、さきにたび/”\出たり、○挂(ノ)字、拾穗本には掛と作り、○文爾恐は、アヤニカシコシ〔七字右○〕と訓て、暫(ク)此にて絶て意得べし、次の大宮仕《オホミヤツカヘ》といふにかゝればなり、(アヤニカシコキ〔七字右○〕と訓て、山邊乃《ヤマヘノ》と、直に續て心得るは、わろし、)○山邊乃五十師乃原《ヤマヘノイシノハラ》は、本居氏、伊勢(ノ)國鈴鹿(ノ)郡山邊村と云所なり、そこに山邊(ノ)赤人の、屋敷跡と云傳へたる地あり、又同じ人の硯水とて、古き井もあり、これ山邊(ノ)御井なり、赤人のことを云傳へたるは、此(ノ)地の名につきて、いひよせたるひがことなり、さて五十師乃原は、イシノハラ〔五字右○〕とよむべし、いしの原といふ名のよしは、今石藥師(ノ)驛に、石藥師とて寺有(リ)て、石(ノ)佛をまつれる、そは地の上に、おのづからに立る、大なる石のおもてに、藥師といふ佛のかたを、ゑりつけたるにて、此(ノ)石あやしき石なり、思ふに佛をゑりたるは、後のことにて、上つ代より、此(ノ)あやしき石の有しによりてを、石の原とは名に負たりけむ、かくて此(ノ)長歌は、持統天皇の、此(ノ)國に行幸ありしをりの、行宮のさまをよめりと聞えたれば、かの赤人の屋敷跡といふなる地(469)ぞ、その行宮の跡なるべき、山邊村は、まがり野といふ野の、東のはづれの、にはかにくだりたるきはの、ひきゝ所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり、されば反歌に、山とよめるなるべし、と云り、なほ玉勝間三(ノ)卷に、甚詳に論へるを、見て考ふべし、○内日刺《ウチヒサス》(刺(ノ)字、古寫本に判と作るは、刺の異體なり、)は、枕詞なり、既く出つ、○大宮都可倍《オホミヤツカヘ》は、大宮を造(リ)奉(ル)にて、持統天皇の行宮なり、○朝日奈須《アサヒナス》、暮日奈須《ユフヒナス》は、朝日の如く、暮日の如くといふなり、朝日暮日を、目細、心細しく、ほめたゝへたること、古語にはいと多し、○春山之《ハルヤマノ》、秋山之《アキヤマノ》は、共に枕詞なり、○四名比盛而《シナヒサカエテ》(盛(ノ)字、元暦本に、咸と作るは誤なり、)は、艶《シナ》やぎ榮《サカ》えて、といふなり、四名比《シナヒ》は、三(ノ)卷上、眞木葉乃之奈布勢能山《マキノハノシナフセノヤマ》、とある歌に、委(ク)云り、○色名付思吉《イロナツカシキ》(色(ノ)字、元暦本に、包と作るは誤なり、)は、面貌の色の馴着《ナツカ》しく愛《ウルハ》しきよしなり、○百磯城乃《モヽシキノ》(磯(ノ)字、元暦本、拾穗本には、礒と作り、)は、枕詞なり、既く出つ、○大宮人《オホミヤヒト》は、天皇に仕(ヘ)奉れる女官等なり、○天地與《アメツチト》は、二(ノ)卷に、天地與共將終登念乍《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽ》云云、とあり、○月月共は、ヒツキトトモニ〔七字右○〕と訓べし、二(ノ)卷に、天地日月與共滿將行神乃御面跡《アメツチヒツキトトモニタリユカムカミノミオモト》云云、十九に、天地日月等登聞仁《アメツチヒツキトトモニ》、萬世仁記續牟曾《ヨロヅヨニシルシツガムソ》云々、などあるに同じ、比都奇《ヒツキ》といひ、都奇比《ツキヒ》といふことの分別は、既く五(ノ)卷上に、委(ク)説り、合(セ)考(フ)べし、○萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》は、萬代にもがなあれかし、との意なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(470)3235 山邊乃《ヤマノヘノ》。五十師乃御井者《イシノミヰハ》。自然《オノヅカラ》。成錦乎《ナレルニシキヲ》。張流山可母《ハレルヤマカモ》。
 
成錦乎張流《ナレルニシキヲハレル》とは、本居氏云(ク)、かの持統天皇の行幸は、六年の三月なれば、櫻桃などの花を云るか、又は大寶二年十月にも、同じ天皇、參河(ノ)國に行幸有しかば、其(ノ)時にてもあらむか、もし然らば、行宮は、參河への道次《ミチナミ》の行宮にて、錦は紅葉なるべしと、これも玉勝間に見えたり、六(ノ》卷長歌に、巖者山下耀錦成花咲乎呼理《イハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヲリ》云々、八(ノ)卷に、經毛無緯毛不定未通女等之織黄葉爾霜莫零《タテモナクヌキモサダメズヲトメラガオレルモミチニシモナフリソネ》、などあり、思(ヒ)合(ス)べし、〔頭註、【和訓栞に、五十師乃御井者云々、夫木集に、いそしの清水とよめる、これなり、】〕○歌(ノ)意は、五十師の御井のあたりの山は、人力して縫たるには非ず、自然になれる錦を張(リ)設たり、さても、奇《アヤ》しく見事なること我、となり、○舊本此間に、此歌入道殿下令讀出給、の十字あり、此も古寫本、拾穗本等にはなし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、二首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3236 空見津《ソラミツ》。倭國《ヤマトノクニ》。青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂〔一字○で囲む〕山越而《ナラヤマコエテ》。山代之《ヤマシロノ》。管木之原《ツヽキノハラ》。血速舊《チハヤブル》。于遲乃渡《ウヂノワタリ》。瀧屋之《タギノヤノ》。阿後尼之原尾《アゴネノハラヲ》。千歳爾《チトセニ》。闕事無《カクルコトナク》。萬歳爾《ヨロヅヨニ》。有通將得《アリカヨハムト》。山科之《ヤマシナノ》。石田之森之《イハタノモリノ》。須馬神爾《スメカミニ》。奴差取向而《ヌサトリムケテ》。吾者越往《アレハコエユク》。相坂山遠《アフサカヤマヲ》。
 
空見津《ソラミツ》、青丹吉《アヲニヨシ》は、共に枕詞なり、○寧樂《ナラ》(寧(ノ)字、元暦本、古寫本等に、常と作るはわろし、)樂(ノ)字、舊本(471)に無は、脱たるなり、○管木之原《ツヽキノハラ》(管(ノ)字、舊本に菅と作るは誤なり、拾穗本に從つ、)は、和名抄に、山城(ノ)國綴喜(ノ)郡|豆々木《ツヽキ》、仁徳天皇(ノ)紀に、皇后更(ニ)還2山背(ニ)1、興2宮室(ヲ)於箇城(ノ)岡(ノ)南(ニ)1而居之、とあり、(都豆紀《ツヅキ》と濁るは非なり、清て唱べし、)○血速舊《チハヤブル》(血(ノ)字、元暦本に※[一/血]と作るは、異體なるべし、速(ノ)字、拾穗本に遠と作るは、誤なり、)は、枕詞なり、○瀧屋之阿後尼之原《タギノヤノアゴネノハラ》は、何處にか未(ダ)知ず、(略解に、宇治(ノ)郡三室村にあり、蜻蛉野《カゲロフノ》の一名と、或人云り、とあり、)考(フ)べし、○有通將得《アリカヨハムト》は、ありつゝ行通はむとて、と云なり、將《ム》v通《カヨハ》と書べきを、かく書る例、往々に見ゆ、○石田之森《イハタノモリ》(森(ノ)字、官本、古寫本、拾穗本等には、社と作り、)は、神名帳に、久世(ノ)郡石田(ノ)神社(大、月次新甞、)と見えたる、是なり、(宇治(ノ)郡山科(ノ)神社二座、と見えたるにはあらず、混《マガ》ふべからず、)九(ノ)上に委(ク)云り、合(セ)考(フ)べし、○須馬神《スメカミ》は、皇神《スメカミ》なり、○奴左取向而《ヌサトリムケテ》は、幣帛を取て、向(ケ)奉りて、といふなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、此(ノ)歌は、奈良(ノ)京より、近江の本屬の地へ、衣暇、田暇、歸寧などにて、通ふを云なるべし、と岡部氏云り、
 
右一首〔三字各□で囲む〕《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、こゝにあるべきを、左に云る如く、混ひたるより、失たるなるべし、○此(ノ)間に、舊本には、或本歌曰、とあれど、左の歌は、右の歌とは、意詞いと異《カハ》りて、別の歌なり、拾穗本に此(ノ)四字なき、宜し、
 
3237 緑青吉《アヲニヨシ》。平山過而《ナラヤマスギテ》。物部之《モノヽフノ》。氏川渡《ウヂカハワタリ》。未通女等爾《ヲトメラニ》。相坂山爾《アフサカヤマニ》。手向草《タムケグサ》。絲取置而《ヌサトリオキテ》。(472)我妹子爾《ワギモコニ》。相海之海之《アフミノウミノ》。奥浪《オキツナミ》。來因濱邊乎《キヨスハマヘヲ》。久禮久禮登《クレクレト》。獨曾我來《ヒトリソアガコシ》。妹之目乎欲《イモガメヲホリ》。
 
緑青吉《アヲニヨシ》(青(ノ)字、官本、拾穗本等には丹と作り、)は、枕詞なり、阿乎爾《アヲニ》を、緑青と書る事、既く一(ノ)卷に具(ク)説り、披(キ)見べし、古來此(ノ)枕詞の義を、解得たる人一人もなし、○未通女等爾《ヲトメラニ》も、枕詞なり、十(ノ)卷に、吾妹兒爾相坂山之《ワギモコニアフサカヤマノ》、十五に、和伎毛故爾安波治乃之麻波《ワギモコニアハヂノシマハ》、古今集にも、わぎも子に相坂山、とよめり、○手向草《タムケグサ》は、一(ノ)卷に、白浪乃濱松之枝乃手向草《シラナミノハママツガエノタムケグサ》、とあり、何にまれ、神に手向る具をいふ、契冲云(ク)、相坂は、畿内をこえて、東海道におもむく初の所なれば、手向をして、つゝがなからむことを祈るゆゑに、此(ノ)集第六に、ゆふたゝみたむけの山と、坂上(ノ)郎女がよめるも、此(ノ)山なり、古今集(ノ)序には、あふさか山に至りて、手向をいのり、と書り、○絲取置而、岡部氏、絲は麻の誤なり、と云り、ヌサトリオキテ〔七字右○〕と訓べし、○我妹子爾《ワギモコニ》は、枕詞なり、十二に、吾殊兒爾又毛相海之安河《ワギモコニマタモアフミノヤスノカハ》、とよめり、○來因濱邊乎は、キヨスハマヘヲ〔七字右○〕と訓べし、○久禮久禮登《クレクレト》は、五(ノ)卷に、都禰斯良農道乃長手袁久禮久禮等伊可爾可由迦牟可利弖波奈斯爾《ツネシラヌミチノナガテヲクレクレトイカニカユカムカリテハナシニ》、とあるに同じ、闇闇《クレクレ》にて、獨行道《ヒトリユクミチ》の、おぼつかなき意の詞なり、○妹之目乎欲《イモガメヲホリ》は、妹を相見ま欲《ホシ》くして、といふこゝろにて、集中に甚多き詞なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(473)3238 相坂乎《アフサカヲ》。打出而見者《ウチデテミレバ》。淡海之海《アフミノミ》。白木綿花爾《シラユフハナニ》。浪立渡《ナミタチワタル》。
 
白木綿花の事、既く云り、○歌(ノ)意は、逢坂山を越て、濱の方に打出て見やれば、淡海の海づらに立渡る浪が、白木綿花を散したる如くに見ゆるよ、となり、○契冲云(ク)、或人云(ク)、近江に打出の濱といふは、此(ノ)歌よりいひならへり、
 
右三首《ミギミウタ》。
 
三(ノ)字、二に改むべし、此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、一首作者未詳、といふ六字あり、
 
3239 近江之海《アフミノミ》。泊八十有《トマリヤソアリ》。八十島之《ヤソシマノ》。島之埼邪伎《シマノサキザキ》。安利立有《アリタテル》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。未枝爾《ホツエニ》。毛知引懸《モチヒキカケ》。仲枝爾《ナカツエニ》。伊加流我懸《イカルガカケ》。下枝爾《シヅエニ》。此米乎懸《シメヲカケ》。己之母乎《シガハヽヲ》。取久乎不知《トラクヲシラニ》。己之父乎《シガチヽヲ》。取久乎思良爾《トラクヲシラニ》。伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》。伊加流我等此米登《イカルガトシメト》。
 
泊八十有《トマリヤソアリ》は、七(ノ)卷に、近江之海湖有八十《アフミノミミナトヤソアリ》、とあり、三(ノ)卷に、近江海八十之港爾《アフミノミヤソノミナトニ》、ともよめり、八十《ヤソ》は敷多きを云り、(必(ズ)八十に限れるにはあらず、)十(ノ)卷に、天漢河門八十有《アマノガハカハトヤソアリ》、とも見えたり、○島之埼邪伎《シマノサキザキ》(埼(ノ)字、官本には崎と作り、)は、六(ノ)卷に、付將賜島之埼前《ツキタマハムシマノサキザキ》、十九に、佐之與良牟磯乃埼埼《サシヨラムイソノサキザキ》、などあり、島の埼毎《サキゴト》に、と云むが如し、○安利立有《アリタテル》は、安利《アリ》は、在通《アリガヨフ》など云、在《アリ》にて、在々《アリ/\》て立る意とせむは、事もなく穩なれど、(そは在立《アリタツ》、在通《アリガヨフ》など、人のする事のうへにのみつきて云たるを、こゝは(474)橘樹の自(ラ)植《タテ》る意なれば、いさゝかいかゞなり、)なほ思ふに、在(ノ)字の意にはあらで、あり/\と照《アカ》り植《タテ》る意にて、島山にあかる橘、などよめる如く、安利《アリ》は、橘(ノ)實の、照《テ》ることなるべし、さてその安利《アリ》てふ言は、本居氏(ノ)説に、集中に、安利伎奴《アリキヌ》とあるは、鮮《アザヤカ》なる衣なり、安利《アリ》とは、あざやかなるを云、あざやかと云も、すなはち、ありざやかなり、又俗言に、物のあざやかに見ゆるを、安利安利《アリアリ》とみゆるといふも、是(レ)なり、又月に有明と云も、夜の明方には、月の影の、殊にあざやかに見ゆる物なれば、あざやかにて明るよしにて云なり、書紀に※[〓+毛]※[登+毛]を、ありかもと訓るも鮮《アザヤカ》なるよしなり、と云る、その安利《アリ》なり、○毛知引懸《モチヒキカケ》は、黐を枝に引かくるを云なり、五(ノ)卷に、母智騰利乃可々良波志母與《モチオドリノカカラハシモヨ》、神樂歌に、みなと見田にくゞひやつをり、やつながらとろちなや云々、とろちは、取黐《トロモチ》なり、○伊加流我懸《イカルガカケ》は、斑鳩《イカルガ》を枝にかけ居《スウ》るなり、斑鳩は、品物解に具に云、○此米乎懸《シメヲカケ》は、※[旨+鳥]《シメ》を枝にかけ居《スウ》るなり、※[旨+鳥]も品物解に云、この二鳥を枝に懸居て、媒鳥《ヲトリ》とするなり、さて、この二鳥は、その形よく似て、つれだちあそぶものなり、一(ノ)卷古註に、舒明天皇、伊與(ノ)温湯(ノ)宮に幸時、斑鳩《イカルガ》此米《ガシメ》二鳥、大《イタ》く集りて、稻穗を掛て、養はしめ給へることも見えたり、○己之母乎、己之父乎は、シガハヽヲ、シガチヽヲ〔十字右○〕と訓べし、シガ〔二字右○〕は、其之《ソレガ》と云意なり、之我《シガ》の言は、既く具(ク)云り、己之と書るは、十二に、高麗劔己之景迹故《コマツルギシガコヽロユヱ》、此(ノ)下に、己之家尚乎《シガイヘスラヲ》などある、これなり、(本居氏は、己之は、ワガ〔二字右○〕と訓べし、之我《シガ》は其之《ソガ》と同じ、己之は皆字の如く、おのがと云意、我之《ワガ》と云意なれば、(475)之我とは、いさゝか意異なり、といへれど、これらは斑鳩※[旨+鳥]などの、自《ミヅカラ》己《オノ》が事を、他よりいふ言なれば、シガ〔二字右○〕と訓て、其之《ソレガ》己(カ)母を、其(カ)之己父をと云意になれば、シガ〔二字右○〕と訓に妨なし、此(ノ)外に准へてしるべし、これらは、ワガ〔二字右○〕と訓ては、いとわろし、)○取久乎不知《トラクヲシラニ》は、獲(ル)事を知(ラ)ずに、といふ意なり、取久《トラク》は、取《トル》の延りたるにて、とる事と云むが如し、有《アル》を阿良久《アラク》、零《フル》を布良久《フラク》などいふに同じ、○伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》は、伊《イ》は、そへ言《コトバ》にて、そばへ居るよといふ心なり、と云説の如し、(岡部氏は、伊《イ》は阿の誤にて、遊ばひをるよとあるべし、といへり、いかゞあらむ、)與《ヨ》は歎息(ノ)辭なり、枕册子に、つねにたもとをみ、人にくらべなど、えもいはず思ひたるを、蘇婆敝《ソバヘ》たる小舍人童《コトネリワラハ》などに、引留められて、なきなどするもをかし、とある、蘇婆敝《ソバヘ》に同じかるべし、○歌(ノ)意は、近江(ノ)海の、八十と數多くの島の、埼毎に植る、橘樹の上枝に、黐を引かけ置、仲(ツ)枝にも下(ツ)枝にも斑鳩《イカルガ》と、※[旨+鳥]《シメ》との媒鳥《ヲトリ》をかけ居(ヱ)て、その父母を獲むとする事を、夢にも知ずして、何心もなく、そばへ立て遊び居るよ、さてもあはれに、いとほしの斑鳩と※[旨+鳥]や、となり、此(ノ)歌は、中山(ノ)嚴水云、こは天武天皇の、吉野に入座し後、大友(ノ)皇子の、天武天皇を襲ひ賜はむとて、しのび/\に軍の設などせさせ賜ふほど、高市(ノ)皇子、大津(ノ)皇子は、其(ノ)事を知せ賜はずて、何心も無ておはすを見て、天武天皇に、志ある臣のよみて、二人の皇子等に、諷《サト》し奉りたる歌なるべし、といへり、信にさもありなむ、崇神天皇紀、式埴安彦の邪心を起せる表《シルシ》に、少女《ヲトメ》のうたへる歌に、彌磨紀異利寐胡播椰飫廼(476)鵝烏塢志齊務苫農殊末句志羅珥比賣那素寐殊望《ミマキイリビコハヤオノガヲヲシセムトヌスマクシラニヒメナソビスモ》、とあるに、譬へたる意相似たり、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3240 王《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。雖見不飽《ミレドアカヌ》。楢山越而《ナラユアマコエテ》。眞木積《マキツム》。泉河乃《イヅミノカハノ》。速瀬《ハヤキセニ》。竿刺渡《サヲサシワタリ》。千早振《チハヤブル》。氏渡乃《ウヂノワタリノ》。多企都瀬乎《タギツセヲ》。見乍渡而《ミツヽワタリテ》。近江道乃《アフミヂノ》。相坂山丹《アフサカヤマニ》。手向爲《タムケシテ》。吾越往者《アガコエユケバ》。樂浪乃《サヽナミノ》。志我能韓埼《シガノカラサキ》。幸有者《サキクアラバ》。又反見《マタカヘリミム》。道前《ミチノクマ》。八十阿毎《ヤソクマゴトニ》。嗟乍《ナゲキツヽ》。吾過徃者《アガスギユケバ》。彌遠丹《イヤトホニ》。里離來奴《サトサカリキヌ》。彌高二《イヤタカニ》。山文越來奴《ヤマモコエキヌ》。劔刀《ツルギタチ》。鞘從拔出而《サヤユヌキデテ》。伊香胡山《イカコヤマ》。如何吾將爲《イカヾアガセム》。往邊不知而《ユクヘシラズテ》。
 
雖見不飽《ミレドアカヌ》は、七(ノ)卷にも、雖見不飽人國山《ミレドアカヌヒトクニヤマノ》云々、とあり、○眞木積《マキツム》は、眞木の杣木を積て、泉川を下せば、かく云るなり、一(ノ)卷に、泉乃河爾持越有眞木乃都麻手乎《イヅミノカハニモチコセルマキノツマテヲ》、十一に、宮材引泉之追馬喚犬二《ミヤキヒクイヅミノソマニ》云々、などあり、○多企都《タギツ》(企は、清音の字なるに、此に用たるは、取はづして書るならむ、瀧《タギ》の宜《ギ》は、古言に必(ズ)濁る字を用ひたればなり、)は、瀧《タギ》つなり、激《タギ》るといふに同じ、○手向爲《タムケスル》は、相坂山にては、常の旅にても必(ズ)然するを、まして此(ノ)度は、配流にあひて行なれば、ゆく未、身命の平安《サキ》からむ事を願ひて、いよ/\ねもごろに奉幣せるなり、○志我能韓埼《シガノカラサキ》(埼(ノ)字、拾穗本には崎と作り、校本にも、古寫本、官本、埼作v崎(ニ)、とあり、)は、其(ノ)地の勝景を、復還(リ)來て見む、とつゞく意なり、たゞ幸《サキ》を云むために、設(ケ)出たるのみには非ず、然れども、韓埼幸《カラサキサキ》と疊りたるは、古語の妙處なり、○(477)幸有者《サキアラバ》は、吾(ガ)身命の幸くあらで、といふなり、一(ノ)卷に、樂浪之思賀乃辛埼雖幸有大宮人之船麻知兼津《サヽナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤヒトノフネマチカネツ》、とあるは、をの辛崎の地の、全幸《サキク》てあれど、といふなり、此は下に云如く、穗積(ノ)朝臣|配流《ナガサレ》し時の歌にて、いかで身命の平安て、吾(カ)罪を宥められなば、又反(リ)來て見む、と云なるべし、○又反見《マタカヘリミム》(見(ノ)字、元暦本になきは、脱たるなり、)は、復還(リ)來て見む、と云なり、○八十阿毎《ヤソクマゴトニ》(阿(ノ)字、元暦本に河と作るはわろし、)は、二(ノ)卷に、此道乃八十隈毎《コノミチノヤソクマゴトニ》云々、とある處に云り、○彌遠丹《イヤトホニ》云々(四句)は、二(ノ)卷上に引る歌に、彌遠爾里者放奴《イヤトホニサトハサカリヌ》、益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》云々、廿(ノ)卷に、伊也等保爾國乎伎波奈例《イヤトホニクニヲキハナレ》、伊夜多可爾山乎故要須疑《イヤタカニヤマヲコエスギ》云々、などあり、○劔刀《ツルギタチ》云々(二句)は、伊香胡《イカコ》をいはむ料の序なり、かくつゞくる意は、刀を拔(キ)出て、伊撃《イカク》といふ謂なり、伊《イ》はそへ言にて、撃《カク》は、崇神天皇(ノ)紀に、八廻撃刀《ヤタビタチカキス》とあり、○伊香胡山《イカコヤマ》は和名抄に、近江(ノ)國伊香(ノ)郡伊香(ノ)郷、(伊加古《イカコ》)とあり、そこにある山なり、八(ノ)卷に、伊香山野邊爾開有《イカコヤマヌヘニサキタル》云々、さてかく云て、即(チ)次の如何《イカヾ》をいはむ料とせり、○往邊不知而《ユクヘシラズテ》は、身の安《ヤスム》じ留らむといふ、終の往方をも知ずして、いかゞ吾せむ、おぼつかなしや、との謂なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3241 天地乎《アメツチヲ》。歎乞?《ナゲキコヒノミ》。幸有者《サキクアラバ》。又反見《マタカヘリミム》。思我能韓埼《シガノカラサキ》。
 
天地《アメツチ》は、天(ツ)神地(ツ)祇なり、かく天(ツ)神地(ツ)祇を、天地とのみ云る由は、既く一(ノ)卷藤原(ノ)宮役民(ガ)歌に、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》、とあるに付て、具く云り、○歎乞?(歎(ノ)字、舊本に難と作《カケ》るは誤なり、本居氏の説(478)に從て改めつ、)は、ナゲキコヒノミ〔七字右○〕と訓べし、○埼(ノ)字、校本に、古寫本作v崎、とあり、○歌(ノ)意は、身の凶事を歎き悲みて、天(ツ)神地(ツ)祇に、慇懃に乞願ひ、奉幣り祈禧りたる驗ありて、身命の平安て、遂に吾(カ)罪を宥められなば、この志賀の韓埼の風景を、又返り來て見むぞ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
舊本此に、但此(ノ)短歌者、(短(ノ)字、古寫一本にはなし、)或書(ニ)云、穗積(ノ)朝臣老、配2於佐渡(ニ)1之時作歌者也、と註せり、(拾穗本には、右二首(ノ)三字なくして、但此より下八字を、一云此一首、とありて、者也の者(ノ)字なし、)眞に然るべし、但し短歌のみ、老の作とせるは誤にて、なほ長歌反歌共に、同人の同時によめるなるべし、續紀に、養老六年正月癸卯朔壬戌、坐3正五位上穗積(ノ)朝臣老指2斥(ニ)乘輿(ヲ)1、處(セラル)2斬刊(ニ)1、而依2皇太子(ノ)奏(ニ)1、降2死一等(ヲ)1、配2流於佐渡(ノ)島(ニ)1、と見ゆ、今かく平安て、いかで又反見むことを祈願《コヒノミ》し誠心《マゴヽロ》を、神祇《アメツチ》もうづなひ給へればこそ、はたして天平十二年六月十五日、大2赦穗積(ノ)朝臣老等五人(ヲ)1、召(テ)令v入v京(ニ)、と續紀に見えたれ、また同十六年、難波(ノ)宮に幸し時、老等五人を、恭仁(ノ)宮(ノ)留守と爲給ふことも見えたれば、たゞしき人にてこそありけむを、讒などに依て、さきには配流《ナガサ》れたるにもやわらむ、三(ノ)卷同人(ノ)歌に、吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪《ワガイノチノマサキクアラバマタモミムシガノオホツニヨスルシラナミ》、これ同時に作る者ならねど、似たる歌なり、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、と云六字あり、
 
3242 百岐年《モヽヅタフ》。三野之國之《ミヌノクニノ》。高北之《タカキタノ》。八十一隣之宮爾《ククリノミヤニ》。日向爾行靡闕矣《ツキニヒニユカマシサトヲ》。有登聞而《アリトキヽテ》。(479)吾通道之《ワガカヨヒヂノ》。奧十山《オキソヤマ》。三野之山《ミヌノヤマ》。靡得《ナビケト》。人雖跡《ヒトハフメドモ》。如此依等《カクヨレト》。人雖衝《ヒトハツケドモ》。無意山之《コヽロナキヤマノ》。奧礒山《オキソヤマ》。三野之山《ミヌノヤマ》。
 
百岐年《モヽヅタフ》は、もと百傳布《モヽヅタフ》とありけむを、傳布を岐年に誤れるなるべし、さてこれも、百と多くの處々を、經傳ひ行(ク)御野と云意にて、集中に、百傳布八十之島廻《モヽヅタフヤソノシマミ》といひ、古事記に、毛々豆多布都奴賀《モヽヅタフツヌガ》、書紀に、百傳度逢縣《モヽヅタフワタラヒガタ》、などあるに、同じかるべし、(冠辭考に、百岐年は、百詩年の誤、モモシネ〔四字右○〕にて、百小竹《モヽシヌ》の意なり、と云るは、誤なり、小竹をシネ〔二字右○〕と云ること、集中はさらにて、他の古書にも、見えたる事なきをや、)○高北《タカキタ》は、泳(ノ)宮のあたりの總名なるべし、○八十一隣之宮《クヽリノミヤ》は、景行天皇(ノ)紀に、四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸2美濃(ニ)1云々、居2于泳(ノ)宮(ニ)1泳宮此云2區玖利能彌椰《ククリノミヤト》1、とあり、谷川氏云(ク)、八十一隣(ハ)、即(チ)惠奈(ノ)郡(ノ)郷名、今猶名2於池鯉1云、夫木集に、いと妬し泳の宮の池に住鯉ゆゑ人に欺かれつゝ、又云、頼め但泳の池に住と聞(ク)鯉こそ常の知邊とはなれ、久々《クヽ》を八十一と書るは、之《シ》を二々、之々《シヽ》を十六と書るに同じ、○日向爾は、通難《キコエガタ》し、(古來の説は依がたし、)按(フ)に、日月爾とありLを、ゆくりなく書誤たるか、さらはツキニヒニ〔五字右○〕と訓べし、○行靡闕矣、これも通難きを、(説々あれども、依がたし、)強て思ふに、行麻死里矣とありしを、麻死の草書二字を、靡と見て誤り、里の草書を闕と見て誤れるならむか、さらばユカマシサトヲ〔七字右○〕と訓べし、六(ノ)卷に、眞葛延春日之山者《マクズハフカスガノヤマハ》云々、馬名目面往益里乎《ウマナメテユカマシサトヲ》云々、とあり、さて泳(ノ)宮に、行(カ)まし里を有と聞てと云こ(480)とは、少しいかゞなれど、泳(ノ)宮と云は、廣く其(ノ)地の名となれるなれば、其(ノ)宮地にある愛《メデ》たき里を、ありと聞けるよしなるべし、かくて里と云たるは、大かたに云るにて、實には、其(ノ)里に美麗人《ウルハシキヒト》のありと聞て、月に日に、行通はま欲くするなるべし、○吾通道之《ワガカヨヒヂノ》、七(ノ)卷に、妹所等我通路細竹爲酢寸我通靡細竹原《イモガリトワガカヨヒヂノシヌススキワレシカヨハヾナビケシヌハラ》、○奧十山《オキソヤマ》は、元慶三年に、美濃(ノ)國惠那郡の於吉蘇《オキソ》、小吉蘇《ヲキソ》二村を、信濃(ノ)國につけられしこと見ゆれば、即(チ)於吉蘇《オキソ》山なり、さて此(ノ)歌の比は、美濃なれば、かくよめるなり、かくてかの、意計《オケ》、弘計《ヲケ》の皇子の御名も、古事記には、於富計《オホケ》、弘計《ヲケ》と有て、於吉蘇《オキソ》は、大吉蘇《オホキソ》の略なり、と岡部氏云り、○三野之山《ミヌノヤマ》は、美濃の中山なるべし、と契冲云り、○靡得《ナビケト》云々(四句)は、契冲、足をもて山をふみ、手をもてつく心なり、第二に、人丸の長歌の結句に、妹が門見むなびけこの山、第十二に、あしき山梢こぞりてあすよりはなびきたりこそ妹があたり見む、といへり、人はふめども、人はつけどもといふ、人は、すなはち我なりといへり、○雖跡《フメドモ》は、跡は蹈の誤寫か、されど、此(ノ)下に、石椅跡《イハセフミ》と書たれば、古(ヘ)跡蹈通(ハシ)用けむも知べからず、(契冲、ふめば跡ある故に、もしは義をもて、跡(ノ)字をかけるにや、といへり、)○無意《コヽロナキ》(無(ノ)字、元暦本になきは、脱たるなり、)は、然《サ》りとは、山も意して靡くべきに、との意を、思はせたるなり、○山之《ヤマノ》は、三言一句なり、按に、之は曾(ノ)字の寫誤にて、ヤマソ〔三字右○〕ならむか、之曾、草書混(レ)易し、此(ノ)上に、三諸者人之守山《ミモロハヒトノモルヤマ》、云々|椿花開《ツバキハナサク》、浦妙山曾泣兒守山《ウラグハシヤマソナクコモルヤマ》、此(ノ)下に、隱來之長谷之山《コモリクノハツセノヤマ》、云々|出立之妙山叙《イデタチノクハシキヤマゾ》、惜山之荒卷惜毛《アタラシキヤマノアレマクヲシモ》、又、高山與(481)海社者《タカヤマトウミコソハ》云々、人者花物曾空蝉與人《ヒトハハナモノソウツセミノヨヒト》、などある語勢と、照(シ)考(フ)べし、○歌(ノ)意は、美濃(ノ)國の泳(ノ)宮地に、美麗人《ウルハシキヲトメ》の住里ありと聞て、月毎日毎に、行まほしくおもへども、その往來路《カヨヒヂ》の中に、大吉蘇山、美濃の中山など云、ふみこえがたき、さがしき山あれば、その山を靡けとて、足もて蹈、傍(ヘ)によれとて、手もて衝ども、大吉蘇山も、美濃(ノ)山も、なびかずよらず、わがために情なの山や、となり、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3243 處女等之《ヲトメラガ》。麻笥垂有《ヲケニタレタル》。續麻成《ウミヲナス》。長門之浦丹《ナガトノウラニ》。朝奈祇爾《アサナギニ》。滿來塩之《ミチクルシホノ》。夕奈祇爾《ユフナギニ》。依來波乃《ヨリクルナミノ》。彼塩乃《ソノシホノ》。伊夜益舛二《イヤマスマスニ》。彼浪乃《ソノナミノ》。伊夜敷布二《イヤシクシクニ》。吾妹子爾《ワギモコニ》。戀乍來者《コヒツヽクレバ》。阿胡之海之《アゴノウミノ》。荒礒之於丹《アリソノウヘニ》。濱菜採《ハマナツム》。海部處女等《アマヲトメドモ》。纓有《ウナガセル》。領巾文光蟹《ヒレモテルガニ》。手二卷流《テニマケル》。玉毛湯良羅爾《タマモユララニ》。白栲乃《シロタヘノ》。袖振所見津《ソデフルミエツ》。相思羅霜《アヒモフラシモ》。
 
初三句は、序なり、○麻笥《ヲケ》は、麻を績(ミ)垂て入る笥なり、神祇式風神祭(ノ)條に、麻笥一合、大神宮式神寶の中に、金銅(ノ)麻笥二合、(口徑各三寸六分、尻徑二寸八分、深二寸二分、)銀銅麻笥一合、齋宮式に、水※[肆の旁が瓦]麻笥六口、水麻笥十一口、大甞祭式に、大麻笥四口、小麻笥六口、内藏寮式に、水麻笥五口、主殿寮式に、持麻筍二十六口、龍田風神祭(ノ)祝詞に、金能麻笥《クガネノヲケ》、など見えたり、○續麻成《ウミヲナス》(續(ノ)字、拾穗本には績と作り、)は、績麻《ウミヲ》の如く長(ク)、と云係たるなり、六(ノ)卷に、續麻成長柄之宮爾《ウミヲナスナガラノミヤニ》、とよめり、○長門(482)之浦《ナガトノウラ》は、安藝(ノ)國なり、十五に、安藝(ノ)國、長門(ノ)嶋舶2泊礒邊(ニ)1作歌、和我伊能知乎奈我刀能之麻能《ワガイノチヲナガトノシマノ》云々、また從2長門(ノ)浦1舶出之夜、仰2觀月光1作歌、などあり、○彼塩乃、(彼(ノ)字、舊本に波に誤れり、)ソノシホノ〔五字右○〕なり、益々《マス/\》と云む料なり、○伊夜益舛二《イヤマスマスニ》、四(ノ)卷に、從蘆邊滿來塩乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシヘヨリミチクルシホノイヤマシニオモヘカキミガウスレカネツル》、十一に、湖轉爾滿來塩能彌益二戀者雖剰不所忘鴨《ミナトミニミチクルシホノイヤマシニコヒハマサレドワスラエヌカモ》、などあり、○彼浪乃、ソノナミノ〔五字右○〕なり、重々《シク/\》と云む料なり、○阿胡之海《アゴノウミ》(之字、拾穗本には乃と作り、)は、七(ノ)卷に、吾兒之塩于爾《アゴノシホヒニ》、又、阿胡乃海之《アゴノウミノ》、とよめり、かくて、其(ノ)前後に、名兒之濱邊爾《ナゴノハマヘニ》、また奈呉乃海之《ナゴノウミノ》、と云歌を並べ載たれば、此は、契冲も云し如く、名兒の海なり、名兒は、攝津(ノ)國住吉(ノ)郡にあり、〔頭註、【長門人の云、阿胡は、長門國にまさしくあれば、其地なるべし、といへり、げに安藝より住吉までを、はるかによめりとも見えざれば、さもあるべしと、閑田隨筆にいへり、】〕○濱菜《ハマナ》は、海藻の類を云なり、礒菜などよめるも、同じたぐひなり、○海部處女等は、アマヲトメドモ〔七字右○〕と訓べし、○纓有《ウナガセル》は、古事記上(ツ)卷歌に、宇那賀世流多麻能美須麻流《ウナガセルタマノミスマル》、此(ノ)集十六に、吾宇奈雅流珠乃七條《アガウナゲルタマノナヽツヲ》、ともありて、頸に懸るを云なり、○領巾文光蟹《ヒレモテルガニ》は、領巾も光輝くばかりに、と云なり、○玉毛湯良羅爾《タマモユララニ》は、袖を振につきて、手玉の※[金+將]々《ユラ/\》鳴を云り、湯良羅は、上にも見えたり、○相思羅霜《アヒモフラシモ》は、吾(ガ)京に留置し妹を、戀しく思ひつゞくるをりしも、名兒の礒邊に、濱菜つむ、海部の美女等が形儀の、いとうるはしく思はるゝに、彼等が袖ふりて、吾を慕ふやうに見ゆるは、吾を相思ふにやあるらし、さてもなつかしや、となり、(略解に、吾(ガ)故郷の妹をこひつゝくれば、此(ノ)海部處女も、吾妹を相思ふやらむ、袖をふると(483)いふなり、といへるは、いとわろし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3244 阿胡乃海之《アゴノウミノ》。荒礒之上之《アリソノウヘノ》。小浪《サヾレナミ》。吾戀者《アガコフラクハ》。息時毛無《ヤムトキモナシ》。
 
歌(ノ)意は、小浪の重々に依來て、何時も息ぬが如く、わが妹を戀しく思ふ心の、しばしも息(ム)時なし、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3245 天橋文《アマハシモ》。長雲鴨《ナガクモガモ》。高山文《タカヤマモ》。高雲鴨《タカクモガモ》。月夜見乃《ツクヨミノ》。持有越水《モタルヲチミヅ》。伊取來而《イトリキテ》。公奉而《キミニマツリテ》。越得之早物《ヲチエシムモノ》。
 
天橋《アマハシ》は、天浮橋《アメノウキハシ》、天梯立《アメノハシダテ》など云ものゝ類にて、天上へ昇る料の橋なり、○長雲鴨《ナガクモガモ》は、嗚呼《アハレ》いかでその天橋も、長くもがなあれかし、、と希ふなり、○高山文《タカヤマモ》は、山も天上へ昇るに、いと便あるものなれば、云るなり、○高雲鴨《タカクモガモ》は、嗚呼《アハレ》いかでその高山も、高くもがなあれかし、と望《ネガ》ふなり、○持有越水は、モタルヲチミヅ〔七字右○〕と訓べし、(持越有水として、モチコセルミヅ〔七字右○〕とよめるは、わろし、荒木田氏が、今の如くによめるぞよき、)此を得て飲ば、長生《トコシナヘ》に、不老不死の齡を持つといふ變若水《ヲチミヅ》を、月讀(ノ)命の、持賜へるといふ事のありしこと、此(ノ)歌にてしられたり、(契冲、月は水の精な(484)るがゆゑに、月のたもてる、といへり、世上の禮泉だに、壽命をのぶれば、まして月中の水を得ば、いよ/\久しきよはひを、たもちぬべし、密教の中には、月中に甘露ありととけり、と云り、此は儒佛の説を本として云る事なれど、その本は、中々に吾上(ツ)代の故事の流れ行て、出來たる説にもあらむか、その本末は辨(ヘ)知(リ)がたし、)越水《ヲチミヅ》と云るは、凡て遠知《ヲチ》と云詞は、既く五(ノ)卷に云るごとく、何にても初へ返るをいふ詞にて、これを飲ば、老人も若變《ワカガヘ》る水、と云謂にていへり、六(ノ)卷、美濃(ノ)國多藝(ノ)郡多度山(ノ)美泉をよめる歌に、從古人之言來流老人之變若云水曾名爾負瀧之瀕《イニシヘヨヒトノイヒケルオイヒトノヲツチフミヅソナニオフタギノセ》、○伊取來而《イトリキテ》は、伊《イ》はそへ言にて、酌(ミ)取(リ)來て、といふなり、○公奉而《キミニマツリテ》は、公にたてまつりて、といふなり、○越得之早物は、荒木田氏云(ク)、早は牟の誤なり、ヲチエシムモノ〔七字右○〕と訓べし、令《シメ》v得《エ》2變若《ヲチ》1む物を、との謂なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3246 天有哉《アマテルヤ》。日月如《ヒツキノゴトク》。吾思有《アガモヘル》。公之日異《キミガヒニケニ》。老落惜毛《オユラクオシモ》。
 
天有哉は、古事記上(ツ)卷(ノ)歌に、阿米那流夜淤登多那婆多能《アメルヤオトタナバタノ》云々、とあると、同詞にて、さもあるべきことながら、日月に係て謂(ハ)むには、今少し打つけ言のやうに聞えて、心ゆかず、故(レ)按(フ)に、有は、照の草書〓を、〓と見て寫し誤れるならむ、既く十(ノ)卷に、有を照に誤れる例もあればなり、さらばアマテルヤ〔五字右○〕と訓べし、七(ノ)卷に、久方乃天照月者《ヒサカタノアマテルツキハ》、などあるを、思(ヒ)合(ス)べし、哉《ヤ》は助辭なり、○月(485)日如は、日月如とありけむを、倒置《オキタガヘ》たるにやあらむ、さらばヒツキノゴトク〔七字右○〕と訓べし、その謂は、此(ノ)照す日月をいふ時には、いつも比都寄《ヒツキ》といひ、年月日時をいふときには、いつも都寄比《ツキヒ》といひ分てり、とおぼえたればなり、なほその義、委く五(ノ)卷上に云るを、併(セ)見て考(フ)べし、さて日月如思《ヒツキノゴトクオモフ》とは、日と月との如く、長く久しく不v老不v死て、いつもかはらずあれかし、と思ふとの謂なり、○公之日異《キミガヒニケニ》、(公(ノ)字、拾穗本には君と作り、)は、君が日に/\といはむが如し、○老落惜毛《オユラクヲシモ》(毛(ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には文と作り、)は、老る事の、さても惜や、となり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、老《オユ》るを延て老良久《オユラク》と云は、戀《コフ》るを許布良久《コフラク》、取《トル》を等良久《トラク》、爲《スル》を須良久《スラク》など云が如し、(然るを後に、唯老たるを、老良久《オイラク》と云と心得て、老らくの春、老らくの友、などよめる歌どもの聞ゆるは、いみじきひがことなり、元來|老《オユ》るを伸て老良久《オユラク》といふは、後に、老る事のといふ意なり、戀らくの多きなど云は、戀る事のといふ意なるに、いづれも准へて知べし、されば老る事の春、老る事の友などとは、云まじき道理なるにて、其(ノ)非《ヒガコト》を知べし、但し古今集に、老らくの來むと云なる、とよめるは、いさゝか心得かてなるやうなれど、しからず、此は老る事の來むといふなる、といふ意なれば、老らくの春などといふとは異なり、又後撰集に、わが老らくはくやしかりける、とあるも、わが老る事は悔しかりける、といふ意なれば、たゞ老とのみ云とはたがへることなり、彼(ノ)集等の頃までは、いさゝか、言格の亂れたることの、なべてあらざるを思ふ(486)べし、そのうへ、今はオイラク〔四字右○〕と唱ふることなれど、古(ヘ)は、於由良久《オユラケ》とこそ云たれ、)○歌(ノ)意は、天照す日と月との如く、長く久しく不v老不v死て、いつも變らずあれかし、と思ふ君が、日に/\老行事の、さてもをしや、いかで此(ノ)君に、月讀(ノ)命の持腸へる、變若《ヲチ》水を得て飲しめて、長生に老ず死ず、あらせまほしきものを、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、といふ六字あり、
 
3247 沼名河之《ヌナガハノ》。底奈流玉《ソコナルタマ》。求而《モトメテ》。得之玉可毛《エシタマカモ》。拾而《ヒリヒテ》。得之玉可毛《エシタマカモ》。安多良思吉《アタラシキ》。君之《キミガ》。老落惜毛《オユラクヲシモ》。
 
沼名河《ヌナカハ》は、天安河《アメノヤスガハ》の中にある渟名井《ヌナヰ》と、同じ處を云なるべし、さるは、神代紀に、天眞名井《アメノマナヰ》とありて、其(ノ)一書に、天渟名井《アメノヌナヰ》とあり、眞名井は、眞は美稱にて、即(チ)眞渟名井《マヌナヰ》の切《ツヾマ》れるにて、同じことなり、(ヌナ〔二字右○〕はヌ〔右○〕と切れり、)さて其(ノ)井は、安河の中に、しか云處のありと見ゆるは、古事記、書紀を考(ヘ)て知べし、さて渟名と書るは借(リ)字にて、瓊之井《ヌナヰ》(之(ノ)を名《ナ》と云ことは、古言に例多し、)といふなるべし、さるは、上古より、其(ノ)井(ノ)底に瓊ありしが故に、しか名に負るなるべし、(しかるを、本居氏(ノ)古事記(ノ)傳に、渟名井は、渟は凡て水の湛たる所を云、名は、之なり、されば、たゞ井を美て云るにて、一(ツ)の井の名には非ず、といへるは、たがへり、)かくて古(ヘ)井と云しものは、今常に、ことに掘ま(487)けしをのみ云とは、いさゝか異にて、河にても泉にても、人の飲料に汲用る處の水を、凡て云名にて、其は余が別に委き考あり、されば、かの渟名井も、安河の流の中にあれば、古(ヘ)瓊之《ヌノ》井とも、瓊之河《ヌノカハ》とも、云しならむとおもはるゝなり、かしこけれども、神沼河耳命《カムヌナカハミヽノミコト》と申す御名も、此(ノ)河に依て負せたまへるなるべし、天上の地をよめる例は、集中に、天なる日賣菅原《ヒメスガハラ》、天なるや佐々良《サヽラ》の小野、などよめる類なり、(しかるを、略解に、神功皇后(ノ)紀に、大津渟中倉之長峽《オホツノヌナクラノナガヲ》、と有をもておもへば、攝津(ノ)國住吉(ノ)郡なり、といへるは、臆度説なり、)さてかくあるが中にも、天上の井をしも取出て云るは、其(ノ)人をいたく愛みて、二(ツ)なきものに云むとてなり、○得之玉可毛は、エシタマカモ〔六字右○〕と六言に訓べし、○安多良思吉《アタラシキ》は、惜《アタラシ》きなり、雄略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、婀※[手偏+施の旁]羅斯枳偉讎謎能陀倶彌《アタラシキヰナベノタクミ》、○君之《キミガ》、三言一句なり、○老落惜毛《オユラクヲシモ》は、老る事の、さても惜《ヲ》しや、といふ意なり、上に出たり、○歌(ノ)意は、君は沼名河の底なる玉を、拾(ヒ)求て得し玉にてあらむか、あはれこよなく世にすぐれて、愛《メテ》たくうるはしき君にてあれば、其(ノ)老なむことのいとゞ惜まるゝを、年月の來經ることはすべなきものにて、さる惜しき君が、年月に老ることのさても惜しや、となり、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、
 
相聞《シタシミウタ》。【此中長歌二十九首。】
 
(488)二(ノ)字、舊本一に誤れり、○小書の八字、古寫本、拾穗本等にはなし、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、と云六字あり、
 
3248 式島之《シキシマノ》。山跡之土丹《ヤマトノクニニ》。人多《ヒトサハニ》。滿而雖有《ミチテアレドモ》。藤浪乃《フヂナミノ》。思纏《オモヒマツハリ》。若草乃《ワカクサノ》。思就西《オモヒツキニシ》。君目二《キミガメニ》。戀八將明《コヒヤアカサム》。長此夜乎《ナガキコノヨヲ》。
 
式島之山跡之土丹《シキシマノヤマトノクニニ》、(之字、二(ツ)ながら、拾穗本には乃と作り、)此は、天(ノ)下の總號《オホナ》を云る磯城島之倭《シキシマノヤマト》にて、即(チ)天(ノ)下にと云むが如し、(大和一國のうへを云る、磯城島(ノ)倭にはあらず、)此(ノ)下に、志貴島倭國者事靈之所佐國叙《シキシマノヤマトノクニハコトタマノタスクルクニソ》云々、廿(ノ)卷に、之奇志麻乃夜末等能久爾々安伎良氣伎名爾於布等毛能乎己許呂都刀米與《シキシマノヤマトノクニヽアキラケキナニオフトモノヲココロツトメヨ》、などあるに同じ、○人多滿而雖有《ヒトサハニミチテアレドモ》は、四(ノ)卷岡本(ノ)天皇(ノ)御製歌に、人多國爾波滿而《ヒトサハニクニニハミチテ》、味村乃去來者行跡《アヂムラノサワキハユケド》、吾戀流君爾之不有者《アガコフルキミニシアラネバ》、云々十一に、打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドアガモフキミハタヾヒトリノミ》、などある類なり、○藤浪乃《フヂナミノ》は、纏《マツハリ》へ係る枕詞なり、古今集に、外《ヨソ》に見て歸らむ人に藤の花|蔓纏《ハヒマツハ》れよ枝は折とも、○思纏《オモヒマツハリ》、源氏物語帚木に、わづらはしげに、思ひまつはすけしき見えましかば、かくもあくがらさゞらまし、○若草乃《ワカクサノ》は、句を隔て、君と云(フ)へ係る枕詞なり、○君目二《キミガメニ》、(目(ノ)字、舊本に自と作るは誤なり、今は六帖に依て改つ、)君(ガ)目を、と云に同じ、(六帖には、即(チ)此を、君が目をといへり、)君を戀と云べきを、君に戀といふ例にて知べし、さて君が容儀《スガタ》を、と云むが如し、即(チ)目といふは、所見《ミエ》の縮れるにて、さて此方の目に所見《ミユ》るは、即《ヤガ》て其(ノ)容儀なれば、いへる(489)なり、○歌(ノ)意は、天(ノ)下に人多く滿々て、東西繁く行來すれども、他の人には目もとゞまらず、心(ノ)裏より思ひまつはり、思ひ染就にし君一人の容儀を、見まほしく戀しく思ひて、長き此(ノ)夜を寐《イ》もねずして、徒に明さむか、となり、此(ノ)歌、六帖小長歌の條に載て、しき島の山跡の國に、人は多くみちて有ども、藤浪の思ひまつはし、わか草の思ひなれにし、君が目を戀や明さむ此(ノ)長き夜を、とあり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3249 式島乃《シキシマノ》。山跡乃土丹《ヤマトノクニニ》。人二《ヒトフタリ》。有年念者《アリトシモハバ》。難可將嗟《ナニカナゲカム》。
 
難《ナニ》は、假字にて、何《ナニ》なり、此(ノ)下にも、吾哉難二加《アレヤナニニカ》、とあり、○歌(ノ)意は、天(ノ)下に、わがうつくしとおもふ人の、二人とだにある物ならば、かくばかり何か嘆かむ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3250 蜻島《アキヅシマ》。倭之國者《ヤマトノクニハ》。神柄跡《カミカラト》。言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》。雖然《シカレドモ》。吾者事上爲《アハコトアゲス》。天地之《アメツチノ》。神毛甚《カミモハナハダ》。吾念《アガオモフ》。心不知哉《コヽロシラズヤ》。往影乃。月文經徃者《ツキモヘユケバ》。玉限《タマカギル》。日文累《ヒモカサナリテ》。念戸鴨《オモヘカモ》。※[匈/月]不安《ムネヤスカラズ》。戀列鴨《コフレカモ》。心痛《コヽロノイタミ》。未遂爾《スヱツヒニ》。君丹不會者《キミニアハズバ》。吾命乃《ワガイノチノ》。生極《イケラムキハミ》。戀乍文《コヒツヽモ》。吾者將度《アレハワタラム》。犬馬鏡《マソカヾミ》。正目君乎《タヾメニキミヲ》。相見天者社《アヒミテバコソ》。吾戀八鬼目《アガコヒヤマメ》。
 
(490)蜻島倭之國者《アキヅシマヤマトノクニハ》は、此も天(ノ)下の總號を云るにて、吾(ガ)天皇の知しめす、此(ノ)天(ノ)下皇朝は》、と云むが如し、○神柄跡《カミカラト》は、神故《カミユヱ》とゝ云に同じ、柄《カラ》を清て唱べし、(略解に、柄を濁りて、是は左に出せる人麻呂(ノ)家集に、同言を神在隨と書しにょるに、神ながらと云に同じく、皇御國《スメラミクニ》は即(チ)神にて在まゝにと云意なり、といへるは、いみじきひがことなり、神柄《カミカラ》と、神隨《カムナガラ》とは、元來別言なるをや、(六(ノ)卷初に、三芳野之蜻蛉乃宮者《ミヨシヌノアキヅノミヤハ》、神柄香貴將有《カミカラカタフトクアラム》、國柄鹿見欲將有《クニカラカミガホシカラム》、○言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》は、まづ言擧とは、言語《コトノハ》に擧て、かにかく云たつるを云言なり、さて皇朝は、即(チ)神にて、座ますが故に、萬(ヅ)平穩《オタビ》にして、何の言擧をも爲ぬ國なるぞ、と云なり、○雖然吾者事上爲《シカレドモアハコトアゲス》とは、皇朝は萬(ツ)平穩にして、何の言擧をも爲ぬ國なり、然はあれども、吾は止事を得ずして、かにかくにいひ立て、言擧をするぞと、ことわれるなり、さてその言擧は、即(チ)此(ノ)下に云る條々、其(レ)なり、○神毛甚《カミモハナハダ》云々(毛(ノ)字、元暦本、拾穗本等には文と作り、)は、神も吾(ガ)甚《ハナハダ》しく念ふ心を知ずやの意なり、甚の言は、念(フ)へ屬て聞べし、吾(カ)甚しく念ふ心(ノ)底を、天地の神のしろしめしたらば、あはれみて、その驗もあるべきに、さもなきは、神も知賜はずやあるらむ、との意なり、○往影乃は、ユクカゲノ〔五字右○〕とては、通え難し、本居氏、こゝは必アラタマノ〔五字右○〕と有べき所なり、往影は誤字なるべし、其(ノ)字は考べし、といへり、○玉限《タマカギル》は、枕詞なり、別に委(キ)考(ヘ)あり、○念戸鴨《オモヘカモ》は、念へばかの意なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○戀列鴨《コフレカモ》(列(ノ)字拾穗本には烈と作り、)は、戀しく思へばかの意なり、毛《モ》は上なるに同じ、○犬馬鏡《マソカヾミ》は、喚犬追馬(491)鏡を略(キ)書り、○正目君乎《タヾメニキミヲ》は、佛足石碑(ノ)御歌に、與伎比止乃麻佐米爾美祁牟《ヨキヒトノマサメニミケム》云々、とあれば、マサメニキミヲ〔七字右○〕とも訓べし、○相見天者社《アヒミテバコソ》は、相見たらばこその意なり、○吾戀八鬼目《アガコヒヤマメ》は、吾(カ)戀しく思ふ心の止(マ)め、となり、契冲、鬼を、まとよめるは、魔の心なるべし、と云り、今按(フ)に、こは魔の上畫の落たるにもあるべし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3251 大舟能《オホブネノ》。思憑《オモヒタノメル》。君故爾《キミユヱニ》。盡心者《ツクスコヽロハ》。惜雲梨《ヲシケクモナシ》。
 
君故爾《キミユヱニ》は、多くは、君なる物をといふ意に、心得ることなれど、此《コヽ》は尋常の如く、君なるが故にの意なり、(略解に、こゝなるをも、君なるものをの意とせるは、いみじきひがことなり、)○惜(ノ)字、舊本に情と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、元暦本には、〓と作り、○歌(ノ)意は、今こそ絶て得逢ざれども、末遂には、逢むものぞと、念ひ憑める君なるが故に、かにかくに念盡す心の、惜けくもあらず、となり、さて此(ノ)歌は、長歌に依に、故ありて中絶たる間によめるなり、さらずば、思憑とはいふべからず、
 
3252 久堅之《ヒサカタノ》。王都乎置而《ミヤコヲオキテ》。草枕《クサマクラ》。羈往君乎《タビユクキミヲ》。何時可將待《イツトカマタム》。
 
久竪之《ヒサカタノ》は、枕詞なり、王都《ミヤコ》と云に、此(ノ)詞を冠せたるは、皇都をば、高天(ノ)原になずらへて、やがて天とも云故に、(都人を天人《アメヒト》とも集中にいへり、)天といふに冠らせたるに同じ意なり、御國の古(492)名を、天御虚空豐秋津根別《アマノミソラトヨアキヅネワケ》、とも云て、やがて此(ノ)國を、天上になずらへたるを思(フ)べし、○歌(ノ)意は、皇都を、外にさし置見すてゝ、遠(キ)境に旅行君が、いつ歸り來まさむと思ひて、待居むぞ、となり、按(フ)に、此(ノ)歌は、旅行を送るときによめる歌にて、右の反歌にはあらず、亂れて此《コヽ》に入しものならむ、
 
柿本朝臣人麿歌集歌曰《カキノモトノアソミヒトマロガウタフミノウタニイハク》。
 
拾穗本には、一首并短歌柿本朝臣人麻呂、とあり、
 
3253 葦原《アシハラノ》、水穗國者《ミヅホノクニハ》。神在隨《カムナガラ》。事擧不爲國《コトアゲセヌクニ》。雖然《シカレドモ》。辭擧叙吾爲《コトアゲゾアガスル》。言幸《コトサキク》。眞福座跡《マサキクマセト》。恙無《ツヽミナク》。福座者《サキクイマサバ》。荒礒浪《アリソナミ》。有毛見登《アリテモミムト》。百重波《イホヘナミ》。千重浪敷爾《チヘナミシキニ》。言上爲吾《コトアゲゾアガスル》。
 
葦原水穗國者《アシハラノミヅホノクニハ》は、皇朝者と云むが如し、葦原(ノ)水穗(ノ)國は、吾(カ)天下を總(ヘ)云る古名なり、○神在隨《カムナガラ》は、水穗(ノ)國は、やがて神にて在《マシ》ます隨《マヽ》に、といふ意なり、○言幸《コトサキク》は、言は借(リ)字にて、事幸なり、○眞福座跡《マサキクマセト》にて暫く絶(リ)て、眞幸く座と言擧ぞ吾《ガ》する、と上へかへる意なり、○荒礒浪《アリソナミ》は、有をいはむ料なり、○有毛見登《アリテモミムト》は、有は有(リ)有(リ)にて、有ながらへて、久しく相見むとて、といふなり、○百重浪の上、五(ノ)字脱たるならむ、さらばイホヘナミ〔五字右○〕と訓べし、○千重浪敷爾《チヘナミシキニ》(敷爾の二字、舊本下上に誤れり、)は、三(ノ)卷に、一日爾波千重浪敷爾雖念《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモ》、とあり、敷《シキ》は重《シキリ》になり、書紀に、重浪《シキナミ》、重播種子《シキマキ》など見えたり、○言上爲吾は、(コトアゲスルワレ〔八字右○〕、とよみたれど、よろしからず、)按(フ)に、こは上の下叙(ノ)(493)字を脱し、さて吾爲とありしを、下上に誤れるにて、上の如く、コトアゲゾアガスル〔九字右○〕と有べきなり、○歌(ノ)意は、皇朝はやがて神にて座ますまゝに、萬(ヅ)平穩にして、何の言擧も爲ぬ國なり、然はあれども、君を思ふ心の堪がたくして、平安《サキ》くいませと言擧をぞする、其(ノ)君が恙なく平安くていまさば、在ながらへて、久しく相見むとてこそ、幾度といふかぎりもなく、重々にかくは言擧をするなれ、となり、此(ノ)歌は、相思ふ人の平安《サキカラ》むことをおもひてよめるなるべし、(略解に、老人をことぶく歌なるべし、と云るは、いさゝかたがへり、)十一に、我勢古波幸座遍來我告來人來鴨《ワガセコハサキクイマストタビマネクアレニツゲツヽヒトモコヌカモ》、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3254 志貴島《シキシマノ》。倭國者《ヤマトノクニハ》。事靈之《コトタマノ》。所佐國叙《タスクルクニゾ》。眞福在與具《マサキクアリコソ》。
 
事靈《コトタマ》は、事は借(リ)字にて、言靈なり、人の言語に、自(ラ)奇妙靈《クスシキタマ》のあるを云なり、既く此(ノ)言は、五(ノ)卷にも見えて、具(ク)云り、○佐(ノ)字、一本には佑と作り、○眞福在與具《マサキクアリコソ》は、いかで眞福くてがなあれかし、と願ふなり、己曾《コソ》に、與具と書るは、未(タ)其(ノ)意を詳に知ず、十(ノ)卷にも、妹告與具《イモニツゲコソ》、とあり、○歌(ノ)意は、皇朝は、言語の神靈の佐くる國なるぞ、わが言擧するまゝに、わがおもふ人の、いかで眞福くてがな在(レ)かし、となり、
 
右五首《ミギイツウタ》。
 
(494)五(ノ)字、古寫本には二と作り、此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3255 從古《イニシヘヨ》。言續來口《イヒツギクラク》。戀爲者《コヒスレバ》。不安物登《ヤスカラヌモノト》。玉緒之《タマノヲノ》。繼而者雖云《ツギテハイヘド》。處女等之《ヲトメラガ》。心乎胡粉《コヽロヲシラニ》。其將知《ソヲシラム》。因之無者《ヨシノナケレバ》。夏麻引《ナツソビク》。命號貯《オモヒナヅミ》。借薦之《カリコモノ》。心文小竹荷《コヽロモシヌニ》。人不知《ヒトシレズ》。本名曾戀流《モトナソコフル》。氣之緒丹四天《イキノヲニシテ》。
 
言續來口《イヒツギクラク》は、言續傳へて來るやうは、と云が如し、○玉緒之《タマノヲノ》は、枕詞なり、○胡粉《シラニ》は、不知《シラ》にの借(リ)字なり、集中に、白土《シラニ》と書るに同じ、十一に、佐保乃内從《サホノウチヨ》云々|爲便胡粉歎夜衣大寸《セムスベシラニナゲクヨソオホキ》、とあり、○夏麻引《ナツソビク》は、借(リ)字にて、魚釣※[糸+昏]挽《ナツソビク》なり、七(ノ)卷上に、委(ク)説るを合(セ)見て考(フ)べし、さて此は海の枕詞にて、七(ノ)卷に一首、十四に二首出たるに、皆、海とのみ續きたるを思へば、此(ノ)歌も海某とありけむを、此間に、二句ばかり落たるにや有(ラ)む、されどもとのまゝにて、強て説ば、まづ魚釣※[糸+昏]《ナツソ》とは、かの釣(リ)繩とて、いと長き繩に、あまたの枝※[糸+昏]《エダソ》をつけ、その※[糸+昏]へ鉤をつけて、遠く海面《ウミヅラ》にうち延《ハヘ》おきて、鉤をくひたる魚を獲《トル》をいひて、さてその繩をひきよせあぐるを、挽《ヒク》といふことなれば、あまたの枝※[糸+昏]の鉤に、魚のくひ付たるは、挽よするに、急速により來がたきよしにて、なづむといふに、つゞけたるにもやあらむ、○命號貯は、(舊訓に、ミコトヲツミテ〔七字右○〕とあるは、よしなし、又冠辭考の説は論に足す、契冲が、いのちなづみて、とよめるも、心ゆかず、)命(ノ)字は、拾穗本には兮、異(495)本には方と作り、共に念の誤なるべし、貯は、玉篇に積也、とあれば、ツム〔二字右○〕と訓に論なければ、オモヒナヅミ〔六字右○〕と訓べし、思ひわづらひ、と云むが如し、○借薦之《カリコモノ》は、枕詞なり、靡《シヌ》といふに係れり、○心文小竹荷《コヽロモシヌニ》は、心も靡《シナ》やぎて、といふ意なり、三(ノ)卷に、淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバコヽロモシヌニイニシヘオモホユ》とあり、○人不知《ヒトシレズ》は、世(ノ)人に知(ラ)れず、しのび/\にといふなり、(略解に、人しれずは、戀る人にもしれぬを云、と云るはわろし、)○本名曾戀流《モトナソコフル》は、むざ/\と戀しく思ふよしなり、本名《モトナ》の言は、既く云つ、○氣之緒丹四天《イキノヲニシテ》は、命に懸てと云意なり、氣之緒爾本名《イキノヲニモトナ》ぞ戀るの謂なり、氣之緒《イキノヲ》は、既く云つ、四天《シテ》は、輕く添たる言なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3256 數數丹《シバシバニ》。不思人者《オモハズヒトハ》。雖有《アラメドモ》。暫文吾者《シマシクモアハ》。忘枝沼鴨《ワスラエヌカモ》。
 
數數舟は、シバ/\ニ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、數々は、敷々の誤かといへるは、いかにぞや、さて古今集に、かず/\に思ひ思はず問がたみ、とあるをはじめて、かず/\に思ふと云る事の多きは、もとこの數々を、かず/\と訓誤れるより、出たる言にやわらむ、)○人者《ヒトハ》は、(者(ノ)字、古寫本に〓と作るは、※[匡の王が口]なるべし、字彙に、※[匡の王が口](ハ)普火切、音頗、と註せり、拾穗本に、匹と作るはいかゞ、)女はと云むが如し、○暫文吾者(暫(ノ)字、古寫本には※[斬/足]と作り、)は、シマシクモアハ〔七字右○〕と訓べし、暫を、古言にシマシク〔四字右○〕と云る例、既く具く云り、○忘枝沼鴨《ワスラエヌカモ》は、怠られぬ哉なり、○歌(ノ)意は、女は吾(カ)事を、數々(496)に心にかけて思はずあるらむ、されど吾は、暫がほども、女のことをば、さても得忘られぬ事哉、となり、(略解に、世(ノ)間の人の中には、かく重々《シク/\》に、物思はで在もあるらめどもなり、と云るはわろし、
 
3257 直不來《タヾニコズ》。自此巨勢道柄《コヨコセヂカラ》。石椅跡《イハバシフミ》。名積序吾來《ナヅミゾアガコシ》。戀天窮見《コヒテスベナミ》。
 
直不來《タヾニコズ》は、猶道を來ずして、廻道を來るを云り、○自此巨勢道柄《コヨコセヂカラ》は、此處《コヽ》より越といふ意に、云かけたるにて、此處より、山岡などを越て、巨勢道よりと謂《イヘ》るなり、柄《カラ》は從《ヨリ》といふに同じ、十(ノ)卷に、霍公鳥宇能光邊柄鳴越來《ホトヽギスウノハナヘカラナキテコユナリ》、十一に、守山邊柄《モルヤマヘカラ》、また直道柄《タヾチカラ》、此(ノ)下に、此山邊柄《コノヤマヘカラ》、十四に、安受倍可良《アズヘカラ》、十七に、乎可備可良《ヲカビカラ》、古今集物(ノ)名(ノ)部に、浪(ノ)花おきからさきてちり來めり云々、○石椅跡《イハバシフミ》は、石椅《イハバシ》は、石橋《イシバシ》なり、跡は、蹈と通(ハシ)用たること、上に見えたり、(椅を、橋に通(ハシ)用ひたることは、既く云り、)但し此(ノ)歌、下に再(ヒ)出たるには、石瀬蹈《イハセフミ》とあり、これに依ば、椅は、矢橋をヤバセ〔三字右○〕と訓ごとく、ハセ〔二字右○〕と訓て、さて石椅《イハハセ》は、イハセ〔三字右○〕と縮《ツヾマ》れば、石瀬の借(リ)字とせるならむ、さらば能登瀬河などの石瀬なるべし、石橋《イシバシ》にても、また同じ、○歌(ノ)意は、思ふ心のすべなさのあまりに、早く來らむとは思へども、その直に通ふ道は、人目のいみはゞからしきが故に、廻り道をして、山岡などを越て、巨勢道より、河道にわたせる石椅を蹈(ミ)、艱難《カラク》してぞ來りし、となり、長歌には、人しれず、命にかけて戀しく思ふよしを云て、其(ノ)思のあまりにすべなさに、遂に人目をしのびて、艱難して來(497)りし、と云るなり、七(ノ)卷に、春霞井上從直爾道者雖有君爾將相登他回來毛《ハルカスミヰノヘユタヾニミチハアレドキミニアハムトタモトホリクモ》、○拾穗本には、此(ノ)一首、及(ビ)下の或本以下、四十八字なし、
〔或本以2此歌一首1。爲2之紀伊國之濱爾縁云鰒珠拾爾登謂而往之君何時到來歌之反歌1也、具見v下也。但依2古本1亦累載v茲。〕○校本に、古寫本(ニ)、而(ノ)下有2妹乃山勢能山越而(ノ)八字1、と云り、○但依已下八字、古寫本にはなし、
ミギフタウタ
右二首《》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3258 荒玉之《アラタマノ》。年者來去而《トシハキサリテ》。玉梓之《タマヅサノ》。使之不來者《ツカヒノコネバ》。霞立《カスミタツ》。長春日乎《ナガキハルヒヲ》。天地丹《アメツチニ》。思足椅《オモヒタラハシ》。帶乳根笶《タラチネノ》。母之養蚕之《ハヽノカフコノ》。眉隱《マヨゴモリ》。氣衝渡《イキヅキワタリ》。吾戀《アガコフル》。心中少《コヽロノウチヲ》。人丹言《ヒトニイハム》。物西不有者《モノニシアラネバ》。松根《マツガネノ》。松事遠《マツコトトホミ》。天傳《アマヅタフ》。日之闇者《ヒノクレヌレバ》。白木綿之《シロタヘノ》。吾衣袖裳《ワガコロモテモ》。通手沾沼《トホリテヌレヌ》。
 
荒玉之《アラタマノ》は、枕詞なり、○年者來去而は、トシハキサリテ〔七字右○〕と訓べし、(キユキテ〔四字右○〕とよめるはわろし、略解に、來ゆきは、年の行過るを云て、古事記に、年はきへゆくとあるに同じ、と云るは、あらず、)去《サリ》は、春去者《ハルサレバ》、夕去者《ユフサレバ》、又、有去而《アリサリテ》など云|去《サリ》にて、年月日時の經行を云なり、さてもとは、春去者《ハルサレバ》は、春し有者《アレバ》、夕去者《ユフサレバ》は、夕し有者《アレバ》と云ことの縮りたるなれど、既く云なれて後は、即《ヤガテ》年月日時の經行を、いふ稱となれるなり、されば來さりとも云べきことなり、(又去(ノ)字は、在の草書を誤り(498)たるにて、トシハキタリテ〔七字右○〕ならむかとも、おもひしかども、さにはあらず、)○玉梓之《タマヅサノ》(梓(ノ)字、元暦本に〓と作るほ誤なり、)は、二(ノ)卷下に委(ク)云り、○天地丹思定椅《アメツチニオモヒタラハシ》は、天地の極なく廣き間にも、滿足はして、戀しく思ふ意にて、思の甚じきを云なり、古今集に、吾戀は空しき虚に滿ぬらし、とよめると、同じこゝろばえなり、○帶乳根笶《タラチネノ》は、枕詞なり、○母之養蚕之眉隱《ハヽノカフコノマヨゴモリ》(養(ノ)字、元暦本には〓と作り、蚕(ノ)字、拾穗本には蠶と作り、)は、蚕の眉に隱れるごとく、欝《イブセ》く氣《イキ》づき思ふよしなり、十二に、垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲峰音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハヽガカフコノマヨゴモリイフセクモアルカイモニアハズテ》、とあり、今は、このいぶせくと云意を、もたせて云るな一り、十一に、足常母養子眉隱《タラチネノハヽガカフコノマヨゴモリ》、隱在妹見依鴨《コモレルイモヲミムヨシモガモ》、これは、女の奥深く隱れるを云るにて、いさゝか異なり、○心中少《コヽロノウチヲ》、(少(ノ)字、拾穗本には乎と作り、)少は乎《ヲ》の借(リ)字なり、(略解に、少は乎の誤かと、云れど、他處にも例あり、)○松根《マツガネノ》は、待をいはむ料なり、○松事遠《マツコトトホミ》は、待事の待遠なるが故にの意なり、松は、待の借(リ)字なり、○天傳《アマヅタフ》は、枕詞なり、○白木綿之は、木綿は、幣の誤にやと云り、シロタヘノ〔五字右○〕と訓べし、○通手沾沼《トホリテヌレヌ》は、裏《シタ》に着《キ》たる衣まで、通りて沾ぬ、となり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3259 加是耳師《カクノミシ》。相不思有者《アヒモハザラバ》。天雲之《アマクモノ》。外衣君者《ヨソニソキミハ》。可有有來《アルベクアリケル》。
 
如是耳師《カクノミシ》は、如是許《カクバカリ》といはむが如し、師《シ》はその一(ト)すぢなる事を、おもく思はする辭なり、耳師《ノミシ》(499)と連けたるは、九(ノ)卷に、是如耳志《カクノミシ》、十一に、常如是耳志《ツネカクノミシ》、などあるに同じ、○天雲之《アマクモノ》は、外《ヨソ》といはむための枕詞なり、○歌(ノ)意は、かくばかり相思はずして、吾獨にすべなく、一(ト)すぢに戀しく思はせむとならば、中々にはじめより相知ず、よそ人にて、あるべかりけるものを、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3260 小沼田之《ヲハリタノ》。年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》。間無曾《マナクゾ》。人者※[手偏+邑]云《ヒトハクムチフ》。時自久曾《トキジクソ》。人者飲云《ヒトハノムチフ》。※[手偏+邑]人之《クムヒトノ》。無間之如《マナキガゴト》。飲人之《ノムヒトノ》。不時之如《トキジクガゴト》。吾妹子爾《ワギモコニ》。吾戀良久波《アガコフラクハ》。已時毛無《ヤムトキモナシ》。
 
小沼田之《ヲハリタノ》、略解に、續紀に、尾張(ノ)國山田(ノ)郡、小治田(ノ)連藥師等、賜2姓尾張(ノ)宿禰(ヲ)1、と有(リ)、山田愛智二郡は隣なれば、小治田の愛智ともいふべし、されば、沼は、治の誤なるべし、こゝにことなる冷水《マシミヅ》の有しなるべし、と云り、(現存六帖に、さきだてる沼田のわせを刈はてゝ年魚道の水はあらはれにけり、とあるは、字の誤れるをしらで、よめるなるべければ、證とするに足ず、)今按(フ)に、小治田(ノ)連は、地名を氏とせる人なるべければ、小治田は、山田(ノ)郡にあることしられたり、さてその小治田といふは、もと廣き地にて、愛智(ノ)郡の冷水の有しあたりまで亙《カケ》て、呼るにぞありけらし、されば、この歌に、かくはよめるならむ、(略解はいさゝか言足はぬ故に、今按をそへいへり、)○時自久曾《トキジクソ》は、時ならずそにて、何時もの意なり、○吾戀良久波《アガコフラクハ》は、吾(ガ)戀しく思ふ心はと云む(500)が如し、○歌(ノ)意は、小治田の愛智に出る、ことなる冷水を愛て、何時といふ定りもなく、常に間もなく人の掬飲が如くに、わが妹を戀しく思ふ心は、しばしも息(ム)時はさらになし、となり、此(ノ)歌・は、此(ノ)下に載たる、三吉野之御金高爾《ミヨシヌノミガネノタケニ》云々、の長歌と、全《モハラ》同體なり、又一(ノ)卷なる、天武天皇の、三吉野之耳我嶺爾《ミヨシヌノミガネノタケニ》云々の、大御歌も同じ、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3261 思遣《オモヒヤル》。爲便乃田付毛《スベノタヅキモ》。今者無《イマハナシ》。於君不相而《キミニアハズテ》。年之歴去者《トシノヘヌレバ》。
 
歌(ノ)意は、妹に得逢ずして年の經ぬれば、思を遣(リ)失ふべき爲方《シカタ》の便も、今はさらになし、となり、○舊本こゝに、今按、此反歌、謂2之於君不相1者、於理不v合也、宜v言2於妹不相1也、と註せり、(拾穗本には、君(ノ)字當v作v妹と註せり、)これ後人の註ながら宜し、但女をさして君と云ことも、むげに其(ノ)理なしとには非ざれども、いかさまにも、此(ノ)歌にては、妹とあるべくおぼゆ、十二に、第三句已下を、吾者無不相數多月之經去者《アレハナシアハズテマネクツキノヘヌレバ》、とて載たり、思ふに、この歌、右の反歌にはあらざるべきを、混てこゝに入しにや、
 
或本反歌曰《アルマキノカヘシウタニイハク》。
 
此(ノ)五字、拾穗本にはなし、
 
3262 ※[木+若]垣《ミヅカキノ》。久時從《ヒサシキトキヨ》。戀爲者《コヒスレバ》。吾帶緩《アガオビユルブ》。朝夕毎《アサヨヒゴトニ》。
 
(501)※[木+若]垣《ミヅカキノ》(※[木+若](ノ)字、拾穗本に、※[木+爰]と作るは,いかゞ、)は、枕詞なり、既く四(ノ)卷に具(ク)註せり、○吾帶緩《アガオビユルブ》(緩(ノ)字、舊本に綾と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、拾穗本、活本等に從つ、)は、戀痩(ス)る容を云るなり、四(ノ)卷に、一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクアガミハナリヌ》、九(ノ)卷に、一重結帶矣三重結《ヒトヘユフオビヲミヘユヒ》、苦侍伎爾仕奉而《クルシキニツカヘマツリテ》云々、などある類なり、(遊仙窟に、日々衣寛朝々帶緩、とあるも、同じこゝろなり、)此(ノ)下にも、此(ノ)意の歌見えたり、○歌(ノ)意は、久しき時より戀しく思へば、その思ひに疲れて、漸痩細り行まゝに、朝々夕々に、結べる帶の緩びまさる、となり、
 
右三首《ミギミウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3263 己母理久乃《コモリクノ》。泊瀕之河之《ハツセノカハノ》。上瀬爾《カミツセニ》。伊※[木+兀]乎打《イグヒヲウチ》。下瀬爾《シモツセニ》。眞※[木+兀]乎挌《マクヒヲウチ》。伊※[木+兀]爾波《イクヒニハ》。鏡乎懸《カヾミヲカケ》。眞※[木+兀]爾波《マクヒニハ》。眞玉乎懸《マタマヲカケ》。眞珠奈須《マタマナス》。我念妹毛《アガモフイモモ》。鏡成《カヾミナス》。我念妹毛《ワガモフイモモ》。有跡《アリト》。謂者社《イハバコソ》。國爾毛《クニニモ》。家爾毛由可米《イヘニモユカメ》。誰故可將行《タガユヱカユカム》。
 
※[木+兀](ノ)字、拾穗本には※[木+厥]と作り、下なるもみな同じ、(説文に、※[木+厥](ハ)杙《クヒ》也、と云、爾雅釋宮に、※[木+織の旁]謂2之杙(ト)1、註(ニ)※[厥/木]也、と見え、玉篇に、※[木+兀](ハ)木無v枝也、とありて、杙《クヒ》とは別なれど、此方の古書には、通(ハシ)用ひしと見えたり、)○この歌は、左註に云るごとく、古事記允恭天皇(ノ)條に、木梨之|輕太子《カルノミコノミコト》、其(ノ)伊呂妹|輕大郎女《カルノオホイラツメ》に※[(女/女)+干]《タハケ》給ひしによりて、後遂に伊余(ノ)湯に流《ハナタ》れまし、其(ノ)後に、其(ノ)伊呂妹追到りまして、即(チ)共に自《ミラ》死《ウセ》た(502)まはむとして、よみませる御歌なり、彼(ノ)記には、末(ツ)方を、麻多麻那須阿賀母布伊毛《マタマナスアガモフイモ》、加賀美那阿賀母布都麻《カガミナスアガモフツマ》、阿理登伊波婆許曾爾《アリトイハバコソニ》、伊弊爾母由加米久爾袁母斯怒波米《イハニモユカメクニヲモシヌハメ》、とあり、此(ノ)歌の註釋は、本居氏(ノ)彼(ノ)記(ノ)傳に具《クハシ》く見えたれば、今略きつ、彼(ノ)傳を見べし、さて今は、彼(ノ)記なるを、誤り傳へたるなるべし、いたく劣れり、と彼(ノ)傳に云り、
〔※[手偏+僉]2古事記1曰。件(ノ)歌(ハ)者。木梨之輕太子自死之時所v作者也。〕
件(ノ)歌者、(件(ノ)字、舊本伴に誤れり、古寫本に從つ、)拾穗本には、此一首と作り、○此(ノ)註は、此(ノ)集を編たる人の書たるか、または彼(ノ)仙覺などが、註せるにもあるべし、今姑(ク)本のまゝに載つるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
こは右の反歌には非るを、後に誤りて書加へたるなるべし、右の御長歌には、もとより御反歌はなければなり、
 
3264 年渡《トシワタル》。麻弖爾毛人者《マテニモヒトハ》。有云乎《アリチフヲ》。何時之間曾母《イツノアヒダソモ》。吾戀爾來《アレコヒニケル》。
 
年渡《トシワタル》とは、一年を經渡るを云、○歌(ノ)意は、一年の久しき間をも、よく堪忍びて經渡る人は、世にありといふを、吾は妹に逢ざるは、いつばかりの間ぞや、差近き間なるを、それにも得堪ずして、戀しくのみ思ふ、となり、此は四(ノ)卷に、好渡人者年母有云乎《ヨクワタルヒトハトシニモアリチフヲ》、何時間曾毛吾戀爾來《イツノアヒダソモアガコヒニケル》、とあると、全(ラ)同(シ)歌なり、
 
(503)或書反歌曰《アルフミノカヘシウタニイハク》。
 
曰(ノ)字、古寫本にはなし、拾穗本には、此(ノ)五字なし、これも右の反歌に非ず、混れて入たるなり、歌の風も、かの御歌よりは、はるかに後のさまなるをや、
 
3265 世間乎《ヨノナカヲ》。倦跡思而《ウシトオモヒテ》。家出爲《イヘデセル》。吾哉難二加《アレヤナニニカ》。還而將成《カヘリテナラム》。
 
跡(ノ)字、元暦本、拾穗本には、迹と作り、○家出爲《イヘデセル》、書紀に、出家、出俗、度など書て、イヘデ〔三字右○〕とよめり、○吾哉難二加《アレヤナニニカ》は、難は何《ナニ》の假字なり、さて我《ヤ》と云(ヒ)加《カ》と云て、疑の詞重りたるは、一(ツ)の哉《ヤ》の言輕く見る例にて、其(ノ)證二(ノ)卷下に、委(ク)辨たるが如し、○歌(ノ)意は、世(ノ)間を倦厭《アキイト》ひて、一(ト)度出家せる吾なるものを、又再び還俗して、遂には何物にかならむ、と云るにや、契冲、此(ノ)歌は、もし出家したる人の、還俗する時によめるにや、歌のやう、さぞきこゆる、それをあやまりて、右の長歌につゞけて書るなるべし、と云り、其(ノ)意にてもあるべけれど、又思ふに、或は人の、還俗せよとすゝめけるにこたへて、世(ノ)間を倦厭《アキイト》ひて、一(ト)度出家せる吾なるものを、又再びおもひかへして、還俗したりとも、何にかはならむ、さればいな、還俗せむ心はさらになし、といへるにもあるべし、
 
右三首《ミギミウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3266 春去者《ハルサレバ》。花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》。秋付者《アキヅケバ》。丹之穗爾黄色《ニノホニモミヅ》。味酒乎《ウマサケヲ》。神名火山之《カムナビヤマノ》。帶丹爲留《オビニセル》。(504)明日香之河乃《アスカノカハノ》。速瀬爾《ハヤキセニ》。生玉藻之《オフルタマモノ》。打靡《ウチナビキ》。情者因而《コヽロハヨリテ》。朝露之《アサツユノ》。消者可消《ケナバケヌベク》。戀久毛《コフラクモ》。知久毛相《シルクモアヘル》。隱都麻鴨《コモリヅマカモ》。
 
花咲乎呼理《ハナサキヲヲリ》は、繁く咲たる容を云、既く出(テ)つ、○丹之穗爾黄色《ニノホニモミツ》(色(ノ)字、元暦本に、包と作るはいかが、)は、丹色にあらはれて、深く染たるをいふ、○味酒乎《ウマサケヲ》は、枕詞なり、○生玉藻之《オフルタマモノ》までは、打靡をいはむ料の序なり、○戀久毛《コフラクモ》は、戀しく思ふ事もといふ意なり、○知久毛相《シルクモアヘル》は、その益《シルシ》の有て、相有《アヘル》と云意なり、身も消失ぬべきばかり、甚《イタ》く戀しく思ひたる、其(ノ)益のありしよしなり、○隱都麻鴨《コモリヅマカモ》は、隱都麻《コモリヅマ》とは、十一に、足常母養子眉隱隱在妹《タラチネノハヽガカフコノマヨゴモリコモレルイモ》、云々、とよめる如く、母が守隱せる嬬をいふ、鴨《カモ》は歎息(ノ)辭なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3267 明日香河《アスカガハ》。瀬湍之珠藻之《セセノタマモノ》。打靡《ウチナビキ》。情者妹爾《コヽロハイモニ》。因來鴨《ヨリニケルカモ》。
 
歌(ノ)意は、他の事は思はず、ひた向に靡きて、心は妹によりにける哉、さてもなつかしや、となり、これも序歌なり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3268 三諸之《ミモロノ》。神奈備山從《カムナビヤマユ》。登能陰《トノグモリ》。雨者落來奴《アメハフリキヌ》。雨霧相《アマギラヒ》。風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》。大口乃《オホクチノ》。眞神(505)之原從《マカミノハラユ》。思管《シヌヒツヽ》。還爾之人《カヘリニシヒト》。家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》。
 
登能陰《トノグモリ》は、棚曇《タナグモリ》なり、登能《トノ》と棚《タナ》と通ふことは、既く云り、集中に、棚引《タナビク》を登能引《トノビク》とも云へり、○雨霧相《アマギラヒ》は、雨霧の立覆ひ陰りたるを云、霧相《キラヒ》は、伎理《キリ》の延りたる言にて、その伎流《キル》樣《サマ》の、引つゞきて絶ざる容なり、抑々|伎理《キリ》は、薫《カホリ》なり、(カヲ〔二字右○〕の切はコ〔右○〕なるを、キ〔右○〕と轉し云り、)神代紀に、唯|有朝霧薫滿之哉《アサギリノミカヲリミテルカモ》、此(ノ)集二(ノ)卷に、塩氣能味香乎禮流國爾《シホケノミカヲレルクニニ》、などあるがごとし、(略解に、きりは即くもりなり、と云るはたがへり、きると、くもるとは、もとより別言なり、)○風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》は、雨の降來るのみならず、風まで吹ぬるよしなり、○大口乃《オホクチノ》は、枕詞なり、○眞神之原《マカミノハラ》は、飛鳥の岡の西北、今は五條野と云處なりとぞ、○思管は、シヌヒツヽ〔五字右○〕とよむべし、思(ノ)字、集中に、シヌフ〔三字右○〕と訓例、既く云たるが如し、本居氏(ノ)説に、斯怒布《シヌフ》は、斯那布《シナフ》と通ひて、しなへうらぶれて思ふ意の言なるべし、と云り、今按(フ)に、集中に、心毛志努爾《コヽロモシヌニ》、とよめる、志努《シヌ》を活して、志努布《シヌフ》と云るなるべし、志努《シヌ》は、興《タツ》の反《ウラ》にて、靡《シナ》やぎ軟《ナヨヽ》かに、うなだれたるさまを云ことにて、こゝも男の物思(ヒ)に、しなやぎうなだれて、歸にしさまを云るなり、(略解に、思管は、哭管の誤にて、ねなきつゝならむか、と云るは、いみじき強解なり、)○家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》は、己(ガ)家に到り着けるにや、いかにと云るなり、○歌(ノ)意は、女に逢たる男の、眞神が原の彼方《カナタ》へ歸るを、女は岡本(ノ)宮のあたりに留りてよめるにて、家もなき眞神が原を通りて、かへる道に、雨のみならず、風まで吹來て、いとわびしきに、からうして、し(506)なへうらぶれつゝ、歸り給ひにし男は、平安くて、そが家に着けるにやいかに、おぼつかなし、となり、八(ノ)卷に、大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマカミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3269 還爾之《カヘリニシ》。人乎念等《ヒトヲオモフト》。野于玉之《ヌバタマノ》。彼夜者吾毛《ソノヨハアレモ》。宿毛寢金手寸《イモネカネテキ》。
 
念等《オモフト》は、念ふとての意なり、○彼夜《ソノヨ》は相別れにし其(ノ)夜なり、○歌(ノ)意は、還(リ)給ひにし男を、とにかく思ふとて、相別にし、其(ノ)夜は、吾も寐入ことを得せざりけり、男はさぞ吾(ガ)事を思ひて、寐られざりけむ、とおもひやれるさまを、吾毛《アレモ》の言にて、きかせたり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と九字あり、
 
3270 刺將燒《サシヤカム》。少屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》。掻將棄《カキウテム》。破薦乎敷而《ヤレコモヲシキテ》。所〔□で囲む〕挌將折《ウチヲラム》。鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》。指易而《サシカヘテ》。將宿君故《ヌラムキミユヱ》。赤根刺《アカネサス》。畫者終爾《ヒルハシミラニ》。野干玉之《ヌバタマノ》。夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》。此床乃《コノトコノ》。比師跡鳴左右《ヒシトナルマデ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
 
刺將燒は、サシヤカム〔五字右○〕と訓べし、火さしつけて、かりそめに、燒すつべきばかりの賤しき小屋《ヲヤ》、と云なり、(岡部氏が、將は所の誤にて、さすたけると訓て、是は小竹を燒ことにて、小竹を燒は、山邊の賤屋のさまなり、さすとは、淺篠を約めたる言なり、と云るは、中々の誤なり、こは次に(507)掻將棄破薦《カキウテムヤレコモ》、挌將折四忌手《ウチヲラムシキテ》、など云るに、對へたれば、必(ズ)刺將燒《サシヤカム》となくては叶はず、又或人の考もあれど、叶はざればこゝに載ず、○小屋之四忌屋《ヲヤノシキヤ》、(少(ノ)字、元暦本、拾穗本等には、小と作り、)少屋《ヲヤ》は埴生《ハニフ》の小屋《ヲヤ》などよめる小屋なり、四忌屋《シキヤ》は、醜屋《シキヤ》なり、四忌手《シキテ》の四忌《シキ》も同じ、○掻將棄《カキウテム》は、掻やり棄べきばかりの破薦と、甚《イタク》いやしめて云るなり、○所挌將祈、は本居氏、所は、衍字なるべしと云る、眞に然り、挌は舊本には掻と作り、掻將折《カキサラム》にても、難はなけれども、今按(フ)に、元暦本に挌と作《カケ》る、是然るべし、(字書に、挌(ハ)撃也、とあり、)ウチヲラム〔五字右○〕と訓べし、初に刺燒《サシヤク》と云、中に掻棄《カキウツ》と云、終に挌折《ウチヲル》と、いさゝか詞をかへていへるものなるべし、さて挌將折《ウチヲラム》は、打(チ)折(ル)べきばかりに、痩衰へたる醜手《シキテ》と、甚く賤めて云るなり、○鬼之四忌手《シコノシキテ》は、醜之醜手《シコノシキテ》にて、集中に、鬼乃志許草《シコノシコクサ》、と云る如く、醜の言を疊(ミ)たるなり、○指易而《サシカヘテ》は、互に手を指交(ハ)して宿るよしなり、集中に、玉手指易《タマテサシカヘ》とも、袖指易兩《ソテサシカヘテ》ともよめり、○將宿君故(將(ノ)字元暦本にはなし、)は、ヌラムキミユヱ〔七字右○〕と訓べし、(路解に、ねなむきみゆゑ、とよみたれども、さては歌(ノ)意たがへり、)宿らむ君なるものをの意なり、十」に、驗無戀毛爲鹿暮去者人之手枕而將寐兒故《シルシナキコヒチモスルカユフレバヒトノテマキテヌラムコユヱニ》、○赤根刺《アカネサス》は、枕詞なり、○晝者終爾は、此(ノ)下に、赤根刺日者之彌良爾《アカネサスヒルハシミラニ》、とあるによりて、ヒルハシミラニ〔七字右○〕と訓べし、又シメラニ〔四字右○〕とも訓べし、十七に、今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》、十九に、晝波之賣良爾《ヒルハシメラニ》、など見えたり、シミラ〔三字右○〕とは終日《ヒネモス》のことなり、言(ノ)本義は、未(ダ)考(ヘ)得ず、○夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》は、夜は終夜《ヨスガラ》になり、○比師跡鳴左右《ヒシトナルマデ》は、比師《ヒシ》は、鳴(ル)音なり、(508)源氏物語夕貌に、物の足音|比師比師《ヒシヒシ》と蹈鳴しつゝ、又總角に、はかなきさまなるしとみなどは、比師比師《ヒシヒシ》とまぎるゝ音に、などあり、嘆息(ノ)聲の響に應へて、床の鳴るを云、十二に、左夜深而妹乎念出布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨《サヨフケテイモヲオモヒテシキタヘノマクラモソヨニナゲキツルカモ》、二十に、波呂汝呂爾伊弊乎於毛比※[泥/土]於比曾箭乃曾與等奈流麻※[泥/土]奈氣吉都流香母《ハロバロニイヘヲオモヒデオヒソヤノソヨトナルマデナゲキツルカモ》、などある類なり、さて大殿祭詞に、御床都比乃佐夜伎旡《ミユカツヒノサヤギナク》、とありて、上(ツ)代には、床を葛《ツナ》して結しと見ゆれば、物音に應へては鳴しなり、まして賤者の家などはさらなり、等許《トコ》と云は、全體の、稱《ナ》、由可《ユカ》と云は、その結構につきて云|稱《ナ》ときこえたり、○歌(ノ)意は、甚賤しき小屋に、きたなき破薦をしきて、見どころなく痩衰へたるしづの女の手をまきて、宿らむ君なれば、今は、思ひはなちて、さらに心をかよはすまじき理なるに、さてもあやしや、その男の、なほわすられがたくて、吾(ガ)家の床の比師比師《ヒシヒシ》と鳴(リ)響くま、で、嘆きつる哉、となり、此は女の自《ミ》ら持たる夫の、賤の女などを思ひて、かよひけるをうらみて、且|自《ミヅカラ》さる男を戀したふことを、あやしみ嘆くなり、と谷(ノ)眞潮(ノ)翁云り、さもあるべし、(契冲は、よき女の、賤の男もたるを戀て、よめるなりと云れど、いはれたりともおもほえず、)
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3271 我情《ワガコヽロ》。燒毛吾有《ヤクモアレナリ》。愛八師《ハシキヤシ》。君爾戀毛《キミニコフルモ》。我之心柄《アガコヽロカラ》。
 
燒毛吾有《ヤクモアレナリ》は、吾(カ)心を燒も、吾心故ぞとなり、(俗諺に、心の鬼が身を責ると云と同(シ)心ばえなり、)一(ノ)(509)卷に、燒鹽乃念曾所燒吾下情《ヤクシホノオモヒソヤクルワガシタゴヽロ》、○我之心柄《ワガコヽロカラ》は、我之心故《ワガコヽロユヱ》、といふに同じ、○歌(ノ)意は、思ひの火にて我心を燒も、人のしわざにあらず、よしや君を戀しく思ふも、君が方より、戀しく念はしむるに非ず、我心故のことなれば、思に燒(ケ)は死とも恨みじ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3272 打延而《ウチハヘテ》。思之小野者《オモヒシヲヌハ》。不遠《トホカラヌ》。其里人之《ソノサトビトノ》。標結等《シメユフト》。聞手師日從《キヽテシヒヨリ》。立良久乃《タヽマクノ》。田付毛不知《タヅキモシラズ》。居久乃《ヲラマクノ》。於久鴨不知《オクカモシラズ》。親親《ニキビニシ》。己之家尚乎《ワガイヘスラヲ》。草枕《クサマクラ》。客宿之如久《タビネノゴトク》。思空《オモフソラ》。不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》。嗟空《ナゲクソラ》。過之不得物乎《スグシエヌモノヲ》。天雲之《アマクモノ》。行莫莫《ユクラユクラニ》。蘆垣乃《アシカキノ》。思亂而《オモヒミダレテ》。亂麻乃《ミダレヲノ》。麻笥乎無登《ヲケヲナシト》。吾戀流《アガコフル》。千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》。人不令知《ヒトシレズ》。本名也戀牟《モトナヤコヒム》。氣之絹爾爲而《シノヲニシテ》。
 
打延而《ウチハヘテ》は、吾(カ)居る處より、差《ヤヽ》遠き方に、心を打延て、いかで吾(ガ)物に領《セ》むと、豫(ジメ)思ひし意なり、○思之小野《オモヒシヲヌ》とは、懸想《オモヒカケ》し女を、譬へて云るなり、○不遠《トホカラヌ》云々は、其(ノ)女を、隣なる男の得たるを比(ヘ)て、其(ノ)事を聞てし日より、思の亂るゝをいへり、○立良久乃は、(良久《ラク》は、留《ル》と切れば、立良久《タツラク》は、立《タツ》るの延りたるなり、立るは他(ノ)物を立ることなれば、こゝに叶はず、)今按(フ)に、良(ノ)字は、麻か万の誤なるべし、さらば、タヽマクノ〔五字右○〕と訓べし、タヽマクノ〔五字右○〕は、(マク〔二字右○〕の切はム〔右○〕にて、)立む事の、と云が如し、(然るを今までの註者等、いかでかこゝにこゝろのつかざりけむ、いぶかし、)○田付毛不知《タヅキモシラズ》は、便り(510)て寄(リ)着べきすぢをも知ず、との意なり、○居久乃は、ヲラマクノ〔五字右○〕と訓べし、これも居《ヲラ》む事の、と云が如し、〈居の下、麻か万かの字、落たるにや、)○於久鴨不知《オクカモシラズ》は、奥處《オクカ》も、不v知なり、奥處《オクカ》とは、行はての處を云言にて、こゝは、取とゞめなき意なるべし、立居に付て、心の迷ふよしなり、○親親は、親之とありしを、親々と見て、誤りしにて、ムツバヒシ〔五字右○〕とよまむか、ムツバヒ〔四字右○〕は、ムツビ〔三字右○〕を延いふなり、又ニキビニシ〔五字右○〕ともよまむか、と略解に云り、○己之家尚乎《ワガイヘスラヲ》は、吾(ガ)家さへを、といふが如し、○客宿之如久《タビネノゴトク》は、心のうちつかぬより、旅宿の如く思ふよしなり、○思空《オモフソラ》は、思ふ心ち、と云意なり、○嗟空《ナゲクソラ》は、嗟く心ち、と云意なり、空《ソラ》といふ言の例、既く具く云り、○過之不得物乎《スグシエヌモノヲ》は、思をやり、過し得ぬものを、と云なり、○天雲之《アマクモノ》は、枕詞なり、○行莫莫《ユクラユクラ》は、行莫行莫《ユクラユクラ》と有しが、字の落たるなり、莫は暮に同じければ、久良《クラ》の詞に借(リ)しなり、と略解に云り、物を思に、心の動きさわぐを云なり、○蘆垣乃《アシカキノ》は、枕詞なり、九(ノ)卷に、葦垣之思亂而春鳥能啻耳鳴乍《アシカキノオモヒミダレテハルトリノネノミナキツヽ》、とあり、○亂麻乃《ミダレヲノ》は、思(ヒ)亂れたる心を譬(ヘ)云り、○麻笥乎無等《ヲケヲナミト》(麻の下、拾穗本ば乃(ノ)字あるはわろし、)は、麻笥が無(キ)故に、と云意なり、麻笥は上に見えたり、麻は續て、麻笥に納るゝものなるを、いとゞみだれあひたる麻に、麻笥さへなき故に、つひにいよ/\みだれはつるごとく、吾(ガ)思を誰にいひて、はらすべきよしのなければ、つひにをさまることなきよしなり、○吾戀流《アガコフル》云々は、二(ノ)卷に、吾戀千重之一重裳《アガコフルチヘノヒトヘモ》、遣悶流情毛有八等《ナグサムルコヽロモアリヤト》、云々六(ノ)卷に、吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國《アガコヒシチヘノヒトヘモナグサマナクニ》、七(ノ)卷に、名(511)草山事西在來吾戀千重一重名草目名國《ナグサヤマコトニシアリケリアガコフルチヘノヒトヘモナグサメナクニ》、などよめり、○人不令知《ヒトシレズ》は、わが思ひのほどをも思ふ人に得知せずしての意なり、○本名也戀牟《モトナヤコヒム》云々は、命にかけて、むざ/\と戀しく思はむことか、となり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3273 二無《フタツナキ》。戀乎思爲者《コヒヲシスレバ》。常帶乎《ツネノオビヲ》。三重可結《ミヘムスブベク》。我身者成《ワガミハナリヌ》。
 
二無《フタツナキ》は、無《ナキ》v双《ナラビ》、無《ナキ》v匹《タグヒ》など云むがごとし、三(ノ)卷に、伊奈太吉爾伎須賣流玉者無二《イナダキニキスメルタマハフタツナシ》、とあるも同じ、○歌(ノ)意は、又たぐひなく、一(ト)すぢに戀しく思へば、その思ひに痩衰へて、この頃は、常に一重結びし帶を、三重結ふべくなりぬ、となり、四(ノ)卷、九(ノ)卷等に、此(ノ)意の歌ありて、上(ノ)※[木+若]垣《ミヅカキノ》云々の歌の註に引り、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり。
 
3274 「爲須部乃田付呼不知石根乃興凝敷道乎石床笶根延門呼朝庭丹出居而嘆夕庭入居而思。」白栲乃《シロタヘノ》。吾衣袖呼《ワガコロモデヲ》。折反《ヲリカヘシ》。獨之寢者《ヒトリシヌレバ》。野干玉《ヌバタマノ》。里髪布而《クロカミシキテ》。人寢《ヒトノヌル》。味眠不睡而《ウマイハネズテ》。大舟乃《オホブネノ》。往良行羅二《ユクラユクラニ》。思乍《オモヒツヽ》。吾睡夜等呼《アガヌルヨラヲ》。續文將敢鴨《ヨミモアヘムカモ》。
 
付の下呼(ノ)字、元暦本、拾穗本等には叫、古寫本には※[口+立刀]と作り、下なるも同じ、○朝庭丹は、丹は衍(512)字にて、アシタニハ〔五字右○〕なり、下に出たるに、此(ノ)字なきよろし、○之の下寢(ノ)字、拾穗本には、寐と作り、○人の下寢(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、寐と作り、○續文將敢鴨は、契冲も云し如く、續は讀の誤にて、ヨミモアヘムカモ〔八字右○〕と訓べし、下の挽歌に、數物不敢鴨《ヨミモアヘヌカモ》、とあり、讀《ヨム》とは數ふることなり、○此歌、初句より、入居而思、と云ふまで十句は、此(ノ)下挽歌、白雲之棚曳國之《シラクモノタナビククニノ》云々、の長歌の中の詞なるが、亂れてこゝに入しなり、かくて今の歌は、初(ツ)方の詞は、落失しものと見ゆ、故(レ)この十句の詞(ノ)意は、下に註して、こゝには略きつ、さてまた野干玉《ヌバタマノ》より、終句まで九句も、かの挽歌の末(ツ)方の詞なれど、この九句の詞は必(ズ)戀なり、猶下に云べし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3275 一眼《ヒトリヌル》。夜※[竹/弄]跡《ヨヲカゾヘムト》。雖思《オモヘドモ》。戀茂二《コヒノシゲキニ》。情利文梨《コヽロトモナシ》。
 
夜※[竹/弄]跡(※[竹/弄](ノ)字、古寫本には※[竹/卞]と作り、)は、ヨヲカゾヘムト〔七字右○〕と訓べし、(略解に、ヨヒヲヨマムト〔七字右○〕とよめるは、わろし、カゾフ〔三字右○〕と云も古言なり、八(ノ)卷に、可伎數者七種花《カゾフレバナヽクサノハナ》、五(ノ)卷に、出弖由伎斯日乎可俗閇都々《イデテユキシヒヲカゾヘツヽ》、などあり、○情利文梨《コヽロトモナシ》は、心神も無(シ)なり、既く出(ツ)、○歌(ノ)意は、獨宿をする夜を、幾夜幾夜とかぞへ見むとは思へども、思(ヒ)の繁きによりて、心神も失て身にそはざれば、さる事もえせず、となり、
 
右二首《ミギフタ》。
 
(513)此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3276 百不足《アシヒキノ》。山田道乎《ヤマダノミチヲ》。浪雲乃《シキタヘノ》。愛妻跡《ウツクシツマト》。不語《モノイハズ》。別之來者《ワカレシクレバ》。速川之《ハヤカハノ》。往文不知《ユクヘモシラズ》。衣袂笶《コロモテノ》。反裳不知《カヘルモシラニ》。馬自物《ウマジモノ》。立而爪衝《タチテツマヅキ》。
 
百不足は、齋田(ノ)清繩云(ク)、足日木《アシヒキ》と有しが、日を百に、木を不に誤れるを、百不足を誤れる物と心得て、遂に足(ノ)字を、下に移したるなり、と云るぞ宜しき、(古事記(ノ)傳に見ゆ、)○山田《ヤマダ》は、契冲、地(ノ)名なるべし、山田(ノ)史といふ氏あり、居所をもて氏とせるか、第二十に、山田(ノ)御母とあるは、孝徳天皇の御乳母也、と云り、今按(フ)に、和名抄に、山城(ノ)國葛野(ノ)郡山田、河内(ノ)國交野(ノ)郡山田、など見ゆ、これらの内にもあるべし、又或人、高市(ノ)郡に山田村有といへり、と略解に云り、○浪雲乃は、(契冲が、よく晴たる日、白雪の浪のごとくたてるを、浪雲といふなるべし、といへるは非ず、又冠辭考に、靡藻之《ナビクモノ》なり、といへるも、叶はず、)甚|解難《トキカテ》なるを、今余が竊(カ)に考(ヘ)たる趣(キ)をいふべし、浪は、常に敷浪《シキナミ》と云て、敷々に來依《キヨス》るものなれば、義を得て、シキ〔二字右○〕と訓べし、哭をモ〔右○〕と訓(ミ)、雪をタヘ〔二字右○〕と訓などの類なり、さて雲は、雪の寫し誤とすべし、雪はタヘ〔二字右○〕と訓べし、此(ノ)下にも、雪穗麻衣服者《タヘノホノアサキヌケルハ》、とあり、さて此(ノ)一句はシキタヘノ〔五字右○〕にて、そは、十(ノ)卷に、朱羅引色妙子《アカラビクシキタヘノコヲ》、又此(ノ)下に、黄楊乃小櫛乎抑刺刺細子《ツゲノヲクシヲオサヘサスシキタヘノコハ》、などある如く、容貌のうるはしきを云なり、○愛妻跡は、ウツクシツマト〔七字右○〕と訓べし、孝徳天皇(ノ)紀に、于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》、この集廿(ノ)卷に、有都久之波々爾《ウツクシハヽニ》、などあり、○不語は、モノイハズ〔五字右○〕と訓(514)べし、十四に、安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美伊敝能伊母爾毛乃伊波受伎爾※[氏/一]於毛比具流之母《アリキヌノサヱサヱシヅミイヘノイモニモノイハズキニテオモヒグルシモ》、とあり、又カタラハズ〔五字右○〕ともよむべし、思ふ女のもとに行たれども、さはる事などありて、得物云(ヒ)語らはずして、いたづらに別れて、かへり來るよしなり、○速川之《ハヤカハノ》は、枕詞なり、こは契冲も云る如く、かへり來る道に、川のあるによせていへるなり、○往文不知は、舊訓に、ユクヘモシラズ〔七字右○〕とある宜し、按(フ)に、往の下に、方(ノ)字を脱せるなるべし、物をもおぼえぬばかりなれば、道の行へも知(ラ)ぬよしなり、○衣袂笶《コロモテノ》は、枕詞なり、衣の袂《ソテ》を、風の吹返すより、わが歸るにいひ係たり、○反裳不知《カヘルモシラニ》(知の下元暦本に衣(ノ)字あるは、いかゞ、)は、わが歸る道をも、おぼえぬよしなり、○馬自物《ウマジモノ》は、枕詞なり、○立而爪衝《タチテツマヅキ》は、四(ノ)卷に、道守之將問答乎言將道爲便乎不知跡立而瓜衝《ミチモリノトハムコタヘヲイヒヤラムスベヲシラニトタチテツマヅク》、とよめり、心も空にて歸りくる故に、物に爪づくなり、さて此(ノ)歌は、これまでは、男の女の許に行て、歸る道にてよめる歌なるを、此(ノ)已下は、數多句の落失たるものなり、次の爲須部乃《セムスベノ》云々より下は、女の男を待(ツ)歌にて、こはもとより、別歌なり、しかるを互に上下の句の、落失たるより、後に詞のつゞきをも、よく辨へざる人の、一首(ノ)歌なりと思ひて、漫(リ)に取合せたるものと見えたり、
 
爲須部乃《セムスベノ》。田付乎白粉《タヅキヲシラニ》。物部乃《モノヽフノ》。八十乃心呼《ヤソノコヽロヲ》。天地二《アメツチニ》。念足橋《オモヒタラハシ》。玉相者《タマアハバ》。君來益八跡《キミキマスヤト》。吾嗟《アナゲク》。八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》。玉桙乃《タマホコノ》。道來人之《ミチクルヒトノ》。立留《タチドマリ》。何當問者《イカニトトハバ》。答遣《イヒヤラム》。田付乎不知《タヅキヲシラニ》。散(515)鈎相《サニヅラフ》。君名曰者《キミガナイハバ》。色出《イロニデテ》。人可知《ヒトシリヌベミ》。足日木能《アシビキノ》。山從出《ヤマヨリイヅル》。月待跡《ツキマツト》。人者云而《ヒトニハイヒテ》。君待吾乎《キミマツワレヲ》。
 
こは、上に云る如く、女の男を待(ツ)歌なるを、上に句の落失たるなり、○物部乃《モノヽフノ》は、枕詞なり、八十氏《ヤソウヂ》といふつゞけより轉りて、たゞ八十とのみも、云係たるなり、○八十乃心呼《ヤソノコヽロヲ》(呼(ノ)字、官本、拾穗本等には叫と作(キ)、古寫本には※[口+立刀]と作り、)は、八衢に、物をぞ思ふなどいへる類にて、數多く、種々《クサ/”\》に思ふ心をのよしなり、○天地二《アメツチニ》云々二句は、上に出たり、○玉相者《タマアハバ》は、魂相《タマアハ》ばにて、互に魂の相叶はゞ、と云なり、十二に、靈合者相宿物乎《タマシアヘバアヒネシモノヲ》、○八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》は彌尺之嗟《ヤサカノナゲキ》にて、歎息の長大《ハナハダナガ》きよしなり、尺《サカ》とは、丈尺《ツヱサカ》の尺《サカ》なり、(略解に、八尺は、彌十量《ヤソハカリ》といふを略轉して、ヤサカ〔三字右○〕といへり、と云るは非ず、)此(ノ)一句は、此(ノ)下にも見えたり、又十四には、鴨を八尺鳥《ヤサカドリ》とよめり、(これも鴨の息をつくことの長きをいへり、)○玉桙乃《タマホコノ》(桙(ノ)字、給穗本には鉾と作り、)は、枕詞なり、二(ノ)卷に、玉桙乃道來人乃《タマホコノミチクルヒトノ》云々、立留吾爾語久《タチドマリアレニカタラク》、○人の下之(ノ)字、校本に、官本、古寫本作v乃、とあり、○何常問者《イカニトトハバ》は、如何なる故にて、しか八尺の嗟はするぞと、不審《イブカ》りて問ば、と云なり、○答遣は、イヒヤラム〔五字右○〕と訓べし、(コタヘヤル〔五字右○〕とよみては、問者《トハバ》の詞に應はず、)四(ノ)卷に、道守之將問答乎《ミチモリノトハムコタヘヲ》、言將遣爲便乎不知跡《イヒヤラムスベヲシラニト》云々、とあるを、考(ヘ)合(ス)べし、答(ノ)字、イヒ〔二字右○〕と訓は、九(ノ)卷にも、妹之答久《イモガイヘラク》、とあり、○散鈎相《サニヅラフ》は、枕詞なり、既く出つ、○色出《イロニデヽ》、(色(ノ)字、元暦本に包と作るは誤なり、)九(ノ)卷に、毎見戀者雖益色二山上復有山者一可知美《ミルゴトニコヒハマサレドイロニイデバヒトシリヌベミ》云々、○月待跡《ツキマツト》は、月を待といふを託言《カゴト》にて、男を待(ツ)なり、○君待吾乎《キミマツワレヲ》、君を待(ツ)吾なるものを、(516)いかでいとほしとは、思はざるらむ、との謂なり、十二に、足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシヒキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》、(この歌は、今の長歌より古き歌なるを取て、長歌によめるならむ、)
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3277 眠不唾《イヲモネズ》。吾思君者《アガモフキミハ》。何處邊《イヅクヘニ》。今身誰與可《コヨヒイマセカ》。雖待不來《マテドキマサヌ》。
 
處(ノ)字、拾穗本には所と作り、○今身誰與可は、今宵座世可《コヨヒイマセカ》とありしを、草書にて寫(シ)誤れるか、座世可《イマセカ》は、座《イマ》せばにやの意なり、座《イマ》せは、俗に、御出被v成といふに同じ、(略解には、身誰は、夜訪の誤にて、コヨヒトフトカ〔七字右○〕とよむべし、といへり、)○歌(ノ)意は、夜一(ト)夜寐もやらずして、吾(ガ)思ふ君は、吾(カ)事をば、何とも思はで、何方に今宵おはしませばにや、待ど來座ずあるらむ、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此(ノ)間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり。
 
3278 赤駒《アカゴマノ》。厩立《ウマヤタテ》。黒駒《クロゴマノ》。厩立而《ウマヤタテテ》。彼乎飼《ソヲカヒ》。吾往如《アガユクゴトク》。思妻《オモヒヅマ》。心乘而《コヽロニノリテ》。高山《タカヤマノ》。峯之手折丹《ミネノタヲリニ》。射目立《イメタテヽ》。十六待如《シヽマツゴトク》。床敷而《トコシクニ》。吾待公《アガマツキミヲ》。犬莫吠行年《イヌナホエソネ》。
 
初句より、第六句までは、乘をいはむ料の序なり、赤駒黒駒を飼置て、物へ行ときに、其に乘て行(ク)意にいひて、思妻の、吾(ガ)心に乘ることを、いひおこせるなり、○心乘而《コヽロニノリテ》は、わが心の上に、思ふ人ののるなり、契冲が、俗に、一(ト)すぢに、その事をのみおもふを、心だまにのるといへる、これな(517)り、と云り、此(ノ)詞、上に多く出たり、○峯之手折《ミネノタヲリ》とは、山頂の折曲《ヲリマガ》れる處なり、これも上に出つ、○射目立《イメタテヽ》は、射部《イベ》を令v立てなり、○十六待如《シヽマツゴトク》は、猪鹿《シヽ》を待如くになり、○床敷而は、本居氏、而は爾の誤にて、とこしくにならむ、と云り、常《トコ》しなへにの意なり、○公(ノ)字、拾穗本には、君と作り、○犬莫吠行年は、イヌナホエソネ〔七字右○〕と訓べし、行は所の誤なりと、これも本居氏云り、○岡部氏云(ク)、此(ノ)歌、上は男の歌、下は女の歌なり、さて上下言意も通らず、二首の、句ども落たるが、一首となりしものなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3279 葦垣之《アシカキノ》。末掻別而《スヱカキワケテ》。君越跡《キミコユト》。人丹勿告《ヒトニナツゲソ》。事者棚知《コトハタナシレ》。
 
人丹勿告《ヒトニナツケソ》は、長歌に、犬莫吠行年《イヌナホエソネ》といへるを、打反して云るにて、葦垣をかき分て、君が通ひ來るを、汝が聲立て、人に告しらするが、よからねば、吾(カ)云教るを、よく心御うけ引て、人に告知すな、となり、枕册子に、にくき物、しのびて來る人見しりて、吠る犬は、うちもころしつべし、○事者棚知は(知(ノ)字、拾穗本(イ)に利とあり、又類聚抄に梨と作り、共にわろし、)は、コトハタナシレ〔七字右○〕と訓て、さやうに心得よ、といふ意なり、棚知の言は、既く本居氏(ノ)説を擧て、具(ク)云り、○歌(ノ)意は、葦垣の末を掻分て、君が通ひ來座すことを、聲立て、人にしらする事なかれ、よく/\さやうに心得よ、と犬に云教へたるなり、契冲云(ク)、催馬樂に、葦垣まがきかき分て、てふこすとたれかこのこ(518)とを、おやにまうよこしけらしも、とうたふは、此(ノ)歌よりうたふなるべし、あし垣ならば、未掻分てのことば、まことに面白きなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3280 妾背兒者《ワガセコハ》。雖待不來益《マテドキマサズ》。天原《アマノハラ》。振左氣見者《フリサケミレバ》。には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、黒玉之《ヌバタマノ》。夜毛深去來《ヨモフケニケリ》。左夜深而《サヨフケテ》。荒風乃吹者《アラシノフケバ》。立待爾《タチマツニ》。吾袖爾《ワガコロモテニ》。零雪者《フルユキハ》。凍渡奴《コホリワタリヌ》。今更《イマサラニ》。公來座哉《キミキマサメヤ》。左奈葛《サナカヅラ》。後毛相得《ノチモアハムト》。名草武類《ナグサムル》。心乎持而《コヽロヲモチテ》。三袖持《ミソテモチ》。床打拂《トコウチハラヒ》。卯管庭《ウツヽニハ》。君爾波不相《キミニハアハジ》。夢谷《イメニダニ》。相跡所見社《アフトミエコソ》。天之足夜于《アマノタリヨニ》。
 
妾は、女(ノ)歌なるが故に、かく書て、ワガ〔二字右○〕とよませたり、○不來益、姶穗本には、來不益と作り、○立待爾、舊本に、立留待とあるは誤なり、校本に、留待、異本作2待爾1、とあり、是宜し、左の或本の歌をも合せ見べし、○吾袖、校本に、異本作2吾衣袖1、と云り、○將座の將(ノ)字、舊本にはなし、古本に從つ、○左奈葛《サナカヅラ》は、枕詞なり、○三袖《ミソテ》は、眞袖《マソテ》と云に同じくて、左右の袖をいへり、○床打拂《トコウチハラヒ》は、夢に相見むことを齋て寐る故に、既《ハヤ》く打拂ひたる床を、又更に拂(ヒ)清むるなり、○相跡所見社《アフトミエコソ》は、相(フ)と見えよかし、と願ふなり、○天之足夜于(于(ノ)字、古本には乎と作り、いづれにもあるべし、)は、岡部氏、云(ク)アマノタリヨニ〔七字右○〕と訓べし、全夜の意なり、足夜《タリヨ》は、足日《タリヒ》、足國《タリクニ》など云類にて、古言なり、
 
(519)或本歌曰《アルマキノウタニイハク》。
 
此(ノ)四字、拾穗本には一云と作り、
 
3281 吾背子者《ワガセコハ》。待跡不來《マテドキマサズ》。鴈音文《カリガネモ》。動而寒《トヨミテサムシ》。烏玉乃《ヌバタマノ》。宵毛深去來《ヨモフケニケリ》。左夜深跡《サヨフクト》。阿下乃吹者《アラシノフケバ》。立待爾《タチマツニ》。吾衣袖爾《ワガコロモテニ》。置霜文《オクシモモ》。氷爾左叡渡《ヒニサエワタリ》。落雪母《フルユキモ》。凍渡奴《コホリワタリヌ》。今更《イマサラニ》。君來目八《キミキマサメヤ》。左奈葛《サナカヅラ》。後文將會常《ノチモアハムト》。大舟乃《オホブネノ》。思憑迹《オモヒタノメド》。現庭《ウツヽニハ》。君者不相《キミニハアハジ》。夢谷《イメニダニ》。相所見欲《アフトミエコソ》。天之足夜爾《アメノタリヨニ》。
 
音の下文(ノ)字、拾穗本には毛と作り、校本にも、官本文作v毛、古寫本同、とあり、○動而寒《トヨミテサムシ》九(ノ)卷に、尾花落師付之田井爾《ヲバナチルシヅクノタヰニ》、鴈泣毛寒來喧奴《カリガネモサムクキナキヌ》、云々○宵(ノ)毛、(宵字元暦本に、※[雨/月]と作るは誤なるべし、)毛(ノ)字、拾穗本には文と作り、)○左夜深跡《サヨフクト》は、左夜深(ク)るととての意なり、(略解に、跡は而の誤なるべし、といへるは、強説なり、)○阿下《アラシ》は、岡部氏云(ク)、山阿出風てふを略(キ)て、山阿とのみ書し所ありしとおぼゆ、阿は此(ノ)意にて書(ク)、下は、あらしを下風とも書しを、むかへ見れば、山より吹下す故にて、しか書(キ)けむ、集中|追馬喚犬《ソマ》と書しを略て、ソマ〔二字右○〕といふ所に、馬犬とのみ書し類なるべし、○霜の下文(ノ》字、校本に、官本作v毛、古寫本同、とあり、○君來の下、校本に、官本有2座字1、と云り、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3282 衣袖丹《コロモテニ》。山下吹而《アラシノフキテ》。寒夜乎《サムキヨヲ》。君不來者《キミキマサズハ》。獨鴨寢《ヒトリカモネム》。
 
(520)山下《アラシ》も、山下出風を略て、かく書り、○不(ノ)字、元暦本に乎と作るは誤なり、○寢(ノ)字、古寫本には〓、拾穗本には寐と作り、〔頭註、【干禄字書、〓〓寐(上俗中通下正)】〕○歌(ノ)意は、もし君來まさずば、かく嵐の吹て寒き夜を、獨(リ)宿て明さむか、さてもわびしや、となり、此(ノ)反歌は、長歌の中間の意にあたれり、
 
3283 今更《イマサラニ》。戀友君爾《コフトモキミニ》。相目八毛《アハメヤモ》。眠夜乎不落《ヌルヨヲオチズ》。夢所見欲《イメニミエコソ》。
 
歌(ノ)意は、今夜來ますべき時の過ぬれば、今更に、來座むことをばたのまじ、寐る夜ごとを欠《カヽ》ず、夢に見えよかし、となり、此(ノ)歌は、長歌の末(ツ)方の意にあたれり、
 
右四首《ミギヨウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、四首は、或本の歌を合て四首なり、すべて此(ノ)歌數は、後に書るものなればなり、此(ノ)前後なるも、皆然り、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3284 菅根之《スガノネノ》。根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロゴロニ》。吾念有《アガモヘル》。妹爾縁而者《イモニヨリテバ》。言之禁毛《コトノイミモ》。無在乞常《ナクアリコソト》。齊戸乎《イハヒヘヲ》。石相穿居《イハヒホリスヱ》。竹珠乎《タカタマヲ》。無間貰垂《マナクヌキタリ》。天地之《アメツチノ》。神祇乎曾吾祈《カミヲソアガノム》。甚毛爲便無見《イタモスベナミ》。
 
管根之《スガノネノ》は、枕詞なり、○一伏三向を、コロ〔二字右○〕と訓ることは、其(ノ)義を詳《サダカ》に知ず、三伏一向を、ツク〔二字右○〕とよめると同類なるべし、(東齋隨筆と云ものに、嵯峨(ノ)帝、一伏三仰不來人待暮暗雨降戀筒寢、とかかせ玉ひて、是をよめとて、野(ノ)相公に給はせけり、つきよにはこぬひとまたるかきくもりあめもふらなむこひつゝもねむ、とよめり、云々、わらべのうつむきさいと云物、一(ツ)ふして三あ(521)ふげるを、月夜といふなり、と云り、このこと十訓抄にも見えたり、これはいと後のことにして、おぼつかなきことながら、古(ヘ)少童の玩物に、さる物ありしなるべし、さて一(ツ)ふして三(ツ)あふぐを、月夜と云とあるは、かたがたまがひたるものならむ、三たびふして、一たび仰ぐものにこそありけめ、さらば三伏一仰とあるべきを、おほしたがはせて、一伏三仰とは、かゝせ給はせしなるべし、さてをを月夜といふとあるも、又誤れるにて、古(ヘ)に考(ヘ)合するに、都久《ツク》といひしにぞあらむ、さて又その類に、一たびふして、三たび仰ぐものありて、其は、ころばすものなれば、許呂《コロ》と呼けむなるべし、故(レ)ころと云に、三伏一向と書るにやあらむ、)※[土+蓋]嚢抄、小兒の翫物を多く擧たる中に、肚《コロ》といふ物見えたり、この肚と云もの、一たびふして、三たび仰ぐものにて、かく書るにもあらむか、猶考べし、(既く十(ノ)上に云るを、合(セ)見べし、)○妹爾縁而者《イモニヨリテハ》、(拾穗本には、此(ノ)句(ノ)下に、妹(ノ)字、當v作v君と註して、下の今按云々の註なし、)舊本、歌の左に、今按、不v可v言2之因v妹者(ト)1、應v謂2之縁1v君也、何則反歌云2公之隨意1焉、と註せり、眞にさることなり、すべてのさまも、女の歌と見ゆればなり、次に載たる或本(ノ)歌どもゝ、みな君とあり、(又もとより妹とありとせば、反歌は、長歌につきたる歌にはあらず、とすべし、されどさにはあらじ、)○言之禁毛《コトノイミモ》は、わがこひねぐ詞を、禁《イサメ》給ふなと、神に申すよしなるべし、○齊戸乎《イハヒヘヲ》、(齊(ノ)字、拾穗本には齋と作り、)齊は齋と通はし書るよし、既く云り、已下四句は、三(ノ)卷に、全(ラ)同じき歌あり、○石相《イハヒ》は、齋《イハヒ》の借(リ)字なり、○神祇乎(522)曾吾祈(曾(ノ)字、元暦本に、管と作るは誤なり、)は、カミヲソアガノ〔八字右○〕と訓べし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3285 足千根乃《タラチネノ》。母爾毛不謂《ハヽニモイハズ》。※[果/衣]有之《ツヽメリシ》。心者縱《コヽロハヨシヱ》。公之隨意《キミガマニマニ》。
 
※[果/衣]有之《ツヽメリシ》は、隱せりしといはむが如し、○心者縦は、コヽロハヨシヱ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、舊本に依(リ)て、コヽロハユルス〔七字右○〕と訓るは、いみじきひがことなり、)十一に、葦千根乃母爾不所知吾持留心者吉惠君之隨意《タラチネノハヽニシラセズアガモタルコヽロハヨシヱキミガマニ/\》、これ全(ラ)同じ歌なり、○公(ノ)字、拾穗本には、君と作り、○歌(ノ)意は、母にも露もらさず、隱しつゝめりし心なれど、君にはそむくべきにあらざれば、よしやよし、君にまかせ申さむとなり、
アルマキノウタニイハク
或本歌曰《》。
 
此(ノ)四字、拾穗本には、一云と作て、上の菅根之《スガノネノ》云々の歌の次にあり、
 
3286 玉手次《タマタスキ》。不懸時無《》カケヌトキナク。吾念有《アガモヘル》。君爾依者《キミニヨリテバ》。倭女幣乎《シヅヌサヲ》。手取持而《テニトリモチテ》。竹珠乎《タカタマヲ》。之自二貫垂《シジニヌキタリ》。天地之《アメツチノ》。神呼曾吾乞《カミヲソアガコフ》。痛毛須部奈見《イタモスベナミ》。
 
玉手次《タマタスキ》は、枕詞なり、○文幣、舊本に父弊に誤れり、文は今改め、幣は、古寫小本、拾穗本等に從つ、○呼(ノ)字、古寫本には※[口+立刀]、拾穗本には叫と作り、下なるも同じ、○神乎曾吾乞《カミヲソアガコフ》、十五に、安米都知能可未乎許比都都安禮麻多武《アメツチノカミヲコヒツツアレマタム》云々、○岡部氏(ノ)云(ク)、此歌は、前後の同歌もて思ふに、中間《ナカラ》に數句落(523)しなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3287 乾地乃《アメツチノ》。神乎?而《カミヲイノリテ》。吾戀《アガコフル》。公以必《キミニカナラズ》。不相在目八方《アハザラメヤモ》。
 
地(ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には、坤と作り、○以(ノ)字、契冲云(ク)、似の誤なるべし、○歌(ノ)意は、天(ツ)神地(ツ)祇を慇懃に?りて、願奉りしからは、吾(ガ)戀しく思ふ君に、相見ずしてあるべしやは、嗚呼《アハレ》必(ズ)相見むぞ、となり、
 
或本歌曰《アルマキノウタニイハク》。
 
舊本に、歌の上、反(ノ)字あるは誤なり、今は古寫本、古寫小本等に、反(ノ)字なきに從つ、拾穗本には、此(ノ)四字、一云と作て、上の玉手次《タマタスキ》云々の歌の次に載たり、
 
3288 大船之《オホブネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。木始己《マツガネノ》。彌遠長《イヤトホナガク》。我念有《アガモヘル》。君爾依而者《キミニヨリテバ》。言之故毛《コトノユヱモ》。無有欲得《ナクアリコソト》。木綿手次《ユフタスキ》。肩荷取懸《カタニトリカケ》。忌戸乎《イハヒヘヲ》。齊穿居《イハヒホリスヱ》。玄黄之《アメツチノ》。神祇二衣吾祈《カミニソアガノム》。甚毛爲便無見《イタモスベナミ》。
 
木始己〈始(ノ)字、元暦本には妨と作り、)は、(舊訓に、コシオノレ〔五字右○〕とあるは、論にたらず、)誤字あるべし、(岡部氏は、延絡石とありしを誤れるにて、ハフツタノ〔五字右○〕と訓べし、此(ノ)中に、木を延の誤とせむは遠ければ、なほあるべし、ハフツタノ〔五字右○〕か、サナカヅラ〔五字右○〕か、マサキヅラ〔五字右○〕かの内なるべし、其(ノ)字は、なほ考べし、といへり、又略解に、或人の説に、木始は義訓にて、根なり、己の上如(ノ)字を脱せるなり、(524)卷(ノ)九、卷(ノ)十四に、如己を、モコロ〔三字右○〕と訓り、しかればネモゴロニ〔五字右○〕とよまむ、と云へり、又又按(フ)に、木は本の誤、始は如の誤にて、本如己とありしか、これもネモゴロニ〔五字右○〕と訓べし、と云れど、如己を、モコロ〔三字右○〕と訓は、知己男と連(リ)たる上にて、己が如き男と云意もて、モコロヲ〔四字右○〕と訓ことにこそあれ、たゞに如己の字を、モコロ〔三字右○〕とは、いかでかよむべき、あなかたはらいたしや、)故(レ)強て考(フ)るに、こはもと松根之とありけむを、松(ノ)字の公の畫を脱し、根の草書を、始に、之の草書を己に誤れるにやあらむ、さらば、マツガネノ〔五字右○〕と訓べし、三(ノ)卷|眞間娘子墓《ママヲトメノハカ》をよめる歌に、松之根也遠久寸《マツガネヤトホクヒサシキ》、とあり、考(ヘ)合(ス)べし、又大神(ノ)景井(カ)考あり、其(ノ)説(ニ)云、始は、防(ノ)字を、草體にて、寫し誤れるものにて木防己は、アヲツヾラ〔五字右○〕なるべし、木防己を、字鏡には、佐奈葛《サナカヅラ》とせれど、和名抄に、防己、和名|阿乎加豆羅(カアヲカヅラ)、とあるは、阿乎都豆羅《アヲツヾラ》とありしを、後に寫誤れるものか、さらずとも青加豆羅《アヲカヅラ》は、青都豆羅《アヲツヾラ》のことなるべし、青つゞらは、古今集などにも見えたり、さて葛の遠長く蔓(ヒ)わたる意に、つゞきたるならむ、(始は妨とある本もあれば、防(ノ)字とせむはさることなり、)○彌遠長《イヤトホナガク》は、行末いよ/\遠長く、いつまでも、ちぎりし事の絶じ、と思へるよしなるべし、○者(ノ)字、舊本に有と作るは誤なり、拾穗本に從つ、校本にも、異本、活字本、有作v者、とあり、○言之故毛《コトノユヱモ》は、事の障もといふなるべし、○木綿手次《ユフタスキ》は、木綿もて造れる手襁《タスキ》なり、幣を棒などするわざするときに、かくることなり、○齊(ノ)字(拾穗本には齋と作り、)は、齋に通(ハシ)用(ヒ)たること、既く云るが如し、(略解に、ことごとく、齋(525)に改めたるは、非ず、)
 
右五首《ミギイツウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、
 
萬葉集古義十三卷之上 終
 
(526)萬葉集古義十三卷之下
 
 ○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3289 御佩乎《ミハカシヲ》。劔池之《ツルギノイケノ》。蓮葉爾《ハチスバニ》。渟有水之《タマレルミヅノ》。往方無《ユクヘナク》。我爲時爾《アガセシトキニ》。應相登《アフベシト》。相有君乎《ウラヘルキミヲ》。莫寢等《ナイネソト》。母寸巨勢友《ハヽキコセドモ》。吾情《ワガコヽロ》。清隅之池之《キヨスミノイケノ》。池底《イケノソコ》。吾者不忍《アレハワスレジ》。正相左右二《タヾニアフマデニ》。
 
御佩乎《ミハカシヲ》は、枕詞なり、御佩之《ミハカシノ》といふに同じ、乎《ヲ》と能《ノ》と、通はし云たる例、既く具(ク)註せるごとし、御佩は、書紀景行天皇(ノ)卷に、御刀此云2彌波迦志《ミハカシト》1、と見え、またやがて劔(ノ)字をも、ミハカシ〔四字右○〕とよめる處もあり、衣を御着《ミゲシ》、弓を御執《ミトラシ》などいふ類なり、○劔池《ツルギノイケノ》は、大和(ノ)國高市(ノ)郡石川村にありと云り、應神天皇(ノ)紀に、十一年冬十月、作2劔(ノ)池、輕(ノ)池、鹿垣(ノ)池、厩坂(ノ)池(ヲ)1、舒明天皇(ノ)紀に、七年秋七月、瑞蓮生2劔(ノ)池(ニ)1、一莖二花《クキハヒトツニシテハナフタツアリ》、皇極天皇(ノ)紀に、三年夏六月癸卯朔戊申、於2劔(ノ)池(ノ)蓮(ノ)中1、有2一莖二萼者1、(蓮の名所なること、これらにて知らる、)諸陵寮式に、劔(ノ)池嶋上(ノ)陵、(輕(ノ)境原(ノ)宮(ニ)御宇孝元天皇、在2大和(ノ)國高市(ノ)郡(ニ)1云々、)○渟有水之《タマレルミヅノ》は蓮葉に渟りたる水は、風などの吹過れば、あるが中にも、はかなくこぼれやすくて、跡方もなきものなれば、往方無《ユクヘナク》の序とせり、十六に、久堅之雨毛落奴可蓮葉爾渟(527)有水乃玉爾似將有見《ヒサカタノアメモフラヌカハチスバニタマレルミヅノタマニニタルミム》、○往方無は、ユクヘナクと訓べし、但し無(ノ)字、元暦本に連と作るは無《ナミ》の借(リ)字にや、(七(ノ)卷に、連庫山《ナミクラヤマ》とあり、)さらばナミ〔二字右○〕とも訓べし、ナミ〔二字右○〕は無《ナミ》と云むが如し、○應相登は、アフベシト〔五字右○〕と訓べし、○相有君乎は、もとのまゝに、アヒタルキミヲ〔七字右○〕とよむ時は、吾がよるべなくせし時に、汝に逢べしとて、逢たる君なるを、と云意なり、又本居氏(ノ)説に、相有君乎は、ウラヘルキミヲ〔七字右○〕と訓べきにや、さらば卜(ノ)字落たるか、さらずとも、しか相《サウ》する意にて、ウラヘル〔四字右○〕と訓べし、と云り、○莫寢等《ナイネソト》、(寢(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、寐と作り、)相宿することなかれ、との意なり、○母寸巨勢友《ハヽキコセドモ》は、母宣《ハヽノタマ》へどもと云が如し、君に相宿することなかれと、母は云付給へれどもの意なり、○吾情《ワガコヽロ》は、清《キヨ》といひ屬《ツヾケ》て、君がため心の清淨なるからは、異心はもたず、と云なり、三(ノ)卷に、妹毛吾毛清之河之《イモモアレモキヨミノカハノ》云々、○清隅之池《キヨスミノイケ》は、大和(ノ)國添上(ノ)郡高樋村にありて、其(ノ)水|甚《イト》清潔《キヨ》しとぞ、堀河(ノ)院後百首に、顯仲、みぎはには立もよられぬ山賤の影はづかしき清すみの池、按(フ)に、清隅は、元(ト)はキヨス〔三字右○〕と唱(ヘ)しにもあらむか、隅(ノ)字ス〔右○〕と訓例は、書紀に、天(ノ)日隅(ノ)宮とあるを、出雲風土記には、天(ノ)日栖《ヒスノ》宮と書(キ)、姓氏録に、吾田片隅(ノ)命とあるを、舊事紀には、阿田賀田須《アタカタスノ》命とかけり、されど清隅は、もとよりキヨスミにてもあらむか、其は定めては云がたし、驚ろかしおくのみなり、○池底《イケノソコ》と云に、心を奥深めて思ふ意を、こめたるなり、○吾者不忍、忍(ノ)字、元暦本に志と作り、これによるに、志は忘の誤なるべし、アレハワスレジ〔七字右○〕と訓べし、
 
(528)反歌《カヘシウタ》。
 
3290 古之《イニシヘノ》。神乃時從《カミノトキヨリ》。會計良思《アヒケラシ》。今心文《イマコヽロニモ》。常不所忘《ツネワスラエズ》。
 
常不所忘、(忘(ノ)字、舊本に念と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)ツネワスラエズ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、わが前身、神の御代にありし時より、夫婦となりて、逢けるならし、今現在に、常々心に得忘られずと、佛説にいはゆる、過去の因縁を云るなるべし、(岡部氏は、本は、男女の必(ズ)相あふことをいひ、末は、吾(ガ)今も此(ノ)事をわすれず、と云なり、本は卷(ノ)一三山(ノ)御歌など、御代より、しかにあれこそなど、古今同じき、男女の中のことを、のたまふはひとし、と云れど、さる意とはきこえず、神乃御代從《カミノミヨヨリ》といはずして、時從《トキヨリ》といへるも、前世の意ときこえたるをや、)
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3291 三芳野之《ミヨシヌノ》。眞木立山爾《マキタツヤマニ》。青生《シヾニオフル》。山菅之根之《ヤマスガノネノ》。慇懃《ネモコロニ》。吾念君者《アガモフキミハ》。天皇之《オホキミノ》。遣之萬萬《マケノマニマニ》。夷離《ヒナザカル》。國治爾登《クニヲサメニト》。群鳥之《ムラトリノ》。朝立行者《アサタチユケバ》。後有《オクレタル》。我可將戀奈《アレカコヒナム》。客有者《タビナレバ》。君可將思《キミカシヌハム》。言牟爲便《イハムスベ》。將爲須便不知《セムスベシラニ》。足日木《アシヒキノ》。山之木末爾《ヤマノコヌレニ》。延津田乃《ハフツタノ》。別之數《ワカレノアマタ》。惜物可聞《ヲシクモアルカモ》。
 
青生は、重生の誤なりと云り、シヾニオフル〔六字右○〕と訓べし、○天皇之は、天(ノ)字は、大の誤なり、オホキミノ〔五字右○〕と訓べし、○遣之萬萬(舊本に、或本云、王命恐、と註せり、何れにてもあるべし、)は、マケノマ(529)ニマニ〔七字右○〕と訓べし、十七に、大王能麻氣乃麻爾末爾《オホキミノマケノマニマニ》、又十八に、於保伎見能末伎能末爾末爾《オホキミノマキノマニマニ》、ともあり、○夷離國治爾登《ヒナザカルクニヲサメニト》、舊本に、或本云|天疎夷治爾等《アマザカルヒナヲサメニト》、と註せり、此は何れにてもあるべし、夷離《ヒナザカル》國を治めにとて、と謂なり、夷離《ヒナザカル》とは、夷《ヒナ》に離《サカ》る、と云意なり、十九に、天皇之命恐夷放國乎治等《オホキミノミコトカシコミヒナザカルクニヲヲサムト》云々、○群鳥之《ムラトリノ》は、枕詞なり、○我可將戀奈は、アレカコヒナム〔七字右○〕と訓べし、奈(ノ)字を添たるは、いさゝか心得がたき書法《カキザマ》なれども、かゝる例集中にあり、將戀にてはコフラム〔四字右○〕とも、コヒケム〔四字右○〕ともよまるれば、こゝはコヒナム〔四字右○〕とよむべきナ〔右○〕の言を知さむために、かく書るなり、十(ノ)卷に、吾《アレ》可《ベシ》2戀奴《コヒヌ》1、十六に、將《ム》2若異《ワカケ1、などあるも、此(ノ)例なり、○足日木《アシヒキノ》云々の二句、舊本にはなくして、此間に、或書(ニ)有2足日木山之木末爾(ノ)句1也、と註せり、此は必(ズ)あるべき句なれば、今本章に書連つ、○延津田乃《ハフツタノ》は、枕詞なり、舊本此(ノ)下に、歸之(ノ)二字ありて、或本無2歸之句1也、と註せり、此(ノ)字無ぞ宜き、○別之數《ワカレノアマタ》は、數《アマタ》は、惜へ屬れる詞なり、すぐれて甚じき謂なり、七(ノ)卷に、敷悲哭《アマタカナシモ》、八(ノ)卷に、安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》、十三に、安萬田悔毛《アマタクヤシモ》、などあり、○惜物可聞は、物の下に、有(ノ)字を落せるなり、ヲシクモアルカモ〔八字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は夫の任國などへ、まかれるときに、女のよめるなるべし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3292 打蝉之《ウツセミノ》。命乎長《イノチヲナガク》。有社等《アリコソト》。留吾者《トマレルアレハ》。五十羽旱將待《イハヒテマタム》。
 
(530)五十羽旱將待は、旱は日手(ノ)二字の誤なるべし、(校本に、官本旱作2日于二字1、とあり、日手の誤なること、いちじるし、)さらばイハヒテマタム〔七字右○〕と訓べし、(イハヒマチナム〔七字右○〕にては、調わろし、)○歌(ノ)意は、夫(ノ)君に後れて留まれる吾は、夫(ノ)君の歸り來て相見む日まで、身命|平安《サキ》く長らへてあれ、と神を齋ひ祈りて待居む、となり、
ミギフタウタ
右二首《》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3293 三吉野之《ミヨシヌノ》。御金高爾《ミガネノタケニ》。間無序《マナクゾ》。雨者落云《アメハフルチフ》。不時曾《トキジクソ》。雪者落云《ユキハフルチフ》。其雨《ソノアメノ》。無間如《マナキガゴト》。彼雪《ソノユキノ》。不時如《トキジクガゴト》。間不落《マモオチズ》。吾者曾戀《アレハソコフル》。妹之正香爾《イモガタヾカニ》。
 
御金高《ミガネノタケ》は、吉野の、金峯山にて、いはゆる金の御嶽是なり、(しかるを岡部氏が、金は缶の誤にてミヽガノタケ〔六字右○〕と訓べし、といへるは、無證の論《サダ》にて、いみじき人まどへなり、抑々かの岡部氏は、近(キ)世の古學|新開《ニヒバリ》の人とて、人皆したひ仰ぐものから、又かゝる謾説をも、多く云る人なりけり、よく心して、彼(ノ)人の説に泥て、勿《ナ》まどはされそ、)猶一(ノ)卷に具(ク)註るを見て考(フ)べし、○間無序は、マナクゾ〔四字右○〕と訓べし、(間をヒマ〔二字右○〕とよむは、古言に非じ、次なるも同じ、)○不時曾は、トキジクソ〔五字右○〕と訓べし、○此(ノ)歌は、一(ノ)卷なる天武天皇の大御歌と、全(ラ)同じき歌なるを、末(ノ)句少しかはれるは、後に歌ひ違へたるなり、
 
(531)反歌《カヘシウタ》。
 
右に云如く、長歌は、天武天皇の大御歌にて、もとは反歌はなかりしなるべきを、後に少し歌ひ違へて傳へたるより、この短歌を取合せて反歌とせるなるべし、
 
3294 三雪落《ミユキフル》。吉野之高二《ヨシヌノタケニ》。居雲之《ヰルクモノ》。外丹見子爾《ヨソニミシコニ》。戀度可聞《コヒワタルカモ》。
 
歌(ノ)意は、他目《ヨソメ》にのみ見し女なれば、かばかりは思ふまじき理なるに、猶忍びあへずして、戀しく思ひて、月日を經度る事哉、さても堪かたしや、となり、本(ノ)句は、外丹見《ヨソニミシ》といはむ料の序なり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3295 打久津《ウチヒサツ》。三宅乃原從《ミヤケノハラユ》。常土《ヒタツチニ》。足迹貫《アシフミツラネ》。夏草乎《ナツクサヲ》。腰爾莫積《コシニナヅミ》。如何有哉《イカナルヤ》。人子故曾《ヒトノコユヱソ》。通簀文吾子《カヨハスモアゴ》。諾諾名《ウベナウベナ》。母者不知《ハヽハシラズ》。諾諾名《ウベナウベナ》。父者不知《チヽハシラズ》。蜷腸《ミナノワタ》。香黒髪丹《カグロキカミニ》。眞木綿持《マユフモチ》。阿邪左結垂《アザネユヒタリ》。日本之《ヤマトノ》。黄楊乃小櫛乎《ツゲノヲグシヲ》。抑刺《オサヘサス》。刺細子《シキタヘノコハ》。彼曾吾※[女+麗]《ソレソアガツマ》。
 
打久津は、ウチヒサツ〔五字右○〕と訓べし、打日刺《ウチヒサス》といふに同じ、都《ツ》と須《ス》と同韻にて、通し云る例多し、十四に、宇知比佐都美夜能瀬河泊能《ウチヒサツミヤノセガハノ》云々、とあり、○三宅乃原《ミヤケノハラ》は、契冲、景行天皇(ノ)紀に、五十七年冬十月、令2諸國(ニ)1興2田部|屯倉《ミヤケヲ》1、かゝればみやけの原、いづくとも知がたし、今も三宅といふ村の名、河内にあり、その外あまたきこゆ、と云り、○常土《ヒタツチ》(常(ノ)字、舊本に、當と作るは誤なるべし、今は古(532)寫本に從つ、契冲も、當は常の誤なるべし、と云り、土(ノ)字、元暦本に、士と作るはわろし、)は、俗にいふ平地《ヒラチ》なり、五(ノ)卷に、直土爾稾解敷而《ヒタツチニワラトキシキテ》云々、○足迹貫(迹(ノ)字、拾穗本には跡と作り、)は、アシフミツラネ〔七字右○〕と訓べし、歩行を云なるべし、さて此は、馬にも籠にも乘ずて、直に土(ノ)上を歩き行よしなり、○腰爾莫積《コシニニナヅミ》(莫(ノ)字、元暦本には魚と作り、)は、十九に、落雪乎腰爾奈都美※[氏/一]參來之《フルユキヲコシニナヅミテマヰリコシ》、古事記上(ツ)卷に、堅庭者《カタニハハ》於《ニ》2向股《ムカモヽ》1蹈那豆美《フミナヅミ》、また中卷倭建(ノ)命(ノ)后、及御子等の、うたはせる御歌に、阿佐士怒波良許斯那豆牟《アサジヌハラコシナヅム》云々、又入2其(ノ)海塩(ニ)1而|那豆美《ナヅミ》行(ク)時歌曰、宇美賀由氣婆許斯那豆牟《ウミガユケバコシナヅム》、書紀仁徳天皇(ノ)大御歌に、邪珥波譬苔須儒赴泥苔羅齋《ナニハヒトスズフネトラセ》、許辭那豆瀰曾能赴泥苔羅齋《コシナヅミソノフネトラセ》云々、などあり、今は夏草の腰まで障《サヤ》るを、泥《ナヅミ》て行よしなり、○如何有哉《イカナルヤ》云々は、いかなる愛しき女の故にや、かくまで煩はしき路を、通ひて行賜ふぞ、となり、○通簀文吾子《カヨハスモアゴ》は、通ひ賜ふぞ吾子《アゴ》よ、となり、此(レ)まで問なり、吾子《アゴ》は、十九に、藤原(ノ)清河唐に遣(ハ)さるゝ時、光明皇后の御歌に、清河のことを、此(ノ)吾子《アゴ》とよめり、親て呼ぶ稱なり、さて已上二句、七言を二(ツ)重ねたるは、問答躰の格なり、○諾諾名《ウベナウべナ》は、諾名諾名とありしが、今一(ツ)の名(ノ)字の落たるなるべし、次なるも同じ、さて此(レ)より下は、答(ヘ)なり、○母者不知は、ハヽハシラズ〔六字右○〕と訓べし、○父者不知も上に准ふべし、已上四句は、わが隱《シヌビ》て通ふ處の女なれば、父母の知ぬは諾《ウベ》なることぞ、と云なり、○蜷腸《ミナノワタ》は、枕詞なり、既く出つ、○香黒髪丹《カグロキカミニ》は、香《カ》はそへ言にて、黒(キ)髪になり、○眞木綿持《マユフモチ》は、眞《マ》は美稱なり、木綿をもて髪を結なり、十一に、肥(533)人朝髪結在染木綿《ウマヒトノヌカカミユヘルシメユフノ》云々、○阿邪左結垂(邪左(ノ)二字、古寫小本には、左邪と下上にかけり、)は、(契冲が、髪を結たるさまを、※[草がんむり/行]菜《アサヽ》の葉の形にたとへて、アサヽユヒタレ〔七字右○〕とはいふなるべし、と云れど、※[草がんむり/行]菜の形を、頭に結しと云こと、例なし、且邪の濁音の字をさへに書たれば、※[草がんむり/行]菜に非ること決《ウツナ》し、)岡部氏、阿邪左は、何邪志の誤にて、カザシユヒタレ〔七字右○〕なるべし、と云り、又本居氏、或人(ノ)説に、左は尼の誤にて、交《アザネ》なるべし、髪に木綿を交《マジ》へゆひたるなり、これかの白髪つく木綿、とつづくと同じことにて、白髪のごとくに、木綿をつくるよしなり、と云り、此(ノ)説さもあるべし、○日本之は、ヤマトノ〔四字右○〕と訓べし、大和(ノ)國なり、契冲、筑紫櫛など云るごとく、昔大和(ノ)國より、よき櫛を出せるなるべし、と云り、(略解に、此は大和(ノ)國山邊(ノ)郡大和(ノ)郷のことにて、そこに都氣《ツケ》と云所の有を、黄楊に冠らせたるなり、と云るは、強たる説なるべし、○抑刺《オサヘサス》とは、髪の垂(レ)懸《サガ》るを、抑へて刺(ス)、と云なり、和名抄に、百刺櫛は、佐之久之《サシクシ》、○刺細子は、刺は、敷の誤なりと云り、シキタヘノコハ〔七字右○〕と訓べし、重妙子《シキタヘノコハ》は、美女を稱て云るなり、十(ノ)中に、既く云り、○歌(ノ)意は、上は、隱妻ありて、男のしのび/\に通ふを、父母(ノ)列《ツラ》なる人のほのしりて、問さまなり、下は、その男の答(ヘ)にて、わがしのびしのびに通ふことなれば、父母のしらぬは、諾なることなり、實には、しか/”\のうるはしき女ぞ、わが隱妻にて、そこに通ふなる、と云るなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(534)3296 父母爾《チヽハヽニ》。不令知子故《シラセヌコユヱ》。三宅道乃《ミヤケチノ》。夏野草乎《ナツヌノクサヲ》。菜積來鴨《ナヅミケルカモ》。
 
父母爾《チヽハヽニ》、古本には、母父爾と件り、其に從ば、オモチヽニ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、母父とある方古例なり、ハヽチヽニ〔五字右○〕と訓べし、と云るは、例の甚偏りたる論なり、父母《チヽハヽ》と云ること、古言にいと多かるをや、又ハヽチヽ〔四字右○〕と云る言ぞ、例もなきことなる、母父とあるをば、オモチヽ〔四字右○〕とこそいひたれ、)○不令知子故《シラセヌコユヱ》は、知せぬ子なるが故になり、(略解に、子故は、子なるものをの意なり、と云るはわろし、)○菜積來鴨は、ナヅミケルカモ〔七字右○〕と訓べし、(かく訓ずては、長歌の意に叶はず、)ケル〔二字右○〕は、來《キ》ケル〔二字右○〕の縮れる言なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本には、なし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3297 玉田次《タマタスキ》。不懸時無《カケヌトキナク》。吾念《アガモヘル》。妹西不會波《イモニシアハネバ》。赤根刺《アカネサス》。日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》。烏玉之《ヌバタマノ》。夜者酢辛二《ヨルハスガラニ》。眠不睡爾《イモネズニ》。妹戀丹《イモニコフルニ》。生流爲便無《イケルスベナシ》。
 
赤根刺《アカネサス》云々の四句は、此(ノ)上にもあり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3298 縱惠八師《ヨシヱヤシ》。二二火四吾妹《シナムヨワギモ》。生友《イケリトモ》。各鑿社吾《カクノミコソアガ》。戀度七目《コヒワタリナメ》。
 
二二火四は、火は去の誤にてシナムヨ〔四字右○〕なり、と岡部氏云り、○各鑿《カクノミ》は、借(リ)字にて、如是耳《カクノミ》なり、○(535)目(ノ)字、舊本に日と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本等に從つ。歌(ノ)意は、たとひ生ながらへてありとも、あふべきよしなくて、かくばかりに戀しく思ひて、苦しく月日を經度るべきなれば、生てあるかひなし、よしやよし、今は死失むぞ、吾妹子よ、といへるなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、と云六字あり、
 
3299 見渡爾《ミワタシニ》。妹等者立志《イモラハタヽシ》。是方爾《コノカタニ》。吾者立而《アレハタチテ》。思虚《オモフソラ》。不安國《ヤスカラナクニ》。嘆虚《ナゲクソラ》。不安國《ヤスカラナクニ》。左丹漆之《サニヌリノ》。小舟毛鴨《ヲブネモガモ》。玉纒之《タママキノ》。小※[楫+戈]毛鴨《ヲカジモガモ》。※[手偏+旁]渡乍毛《コギワタリツヽモ》。相語妻遠《カタラハマシヲ》。
 
妹等者立志《イモラハタヽシ》は、妹等《イモラ》は立賜ひの意なり、妹等の等は、添たる辭なり、五(ノ)卷に、伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》、とあり、立志《タヽシ》は、立《タチ》の延りたる言にて、立賜ひと云むが如し、上に多く見えたり、○左舟漆之云々(漆(ノ)字、舊本に〓と作るは誤なり、元暦本、拾穗本等に從つ、)は、八(ノ)卷七夕(ノ)長歌に、佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモガモ》、玉纏之眞可伊毛我母《タママキノマカイモガモ》、朝奈義爾伊可伎渡《アサナギニイカキワタリ》、夕塩爾伊許藝渡《ユフシホニイコギワタリ》云々、とあるに似たり、○相語妻遠は、妻は益の誤にて、カタラハマシヲ〔七字右○〕なるべし、と略解に云り、相語と書て、カタラフ〔四字右○〕と訓る例、集中に多し、相爭《アラソフ》なども書り、
〔或本歌頭句云。己母理久乃《コモリクノ》。波都世乃加波乃《ハツセノカハノ》。乎知可多爾《ヲチカタニ》。伊母良波多多志《イモラハタタシ》。己乃加多爾《コノカタニ》。和禮波多知※[氏/一]《ワレハタチテ》。〕
(536)或本歌頭句云の六字、拾穗本には一と作て、本章、吾者立而の下に分註せり、この或本歌の、初二句の詞なくてハ、言足はぬやうなり、此(レ)に從べし、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、と云六字あり、
 
3300 忍照《オシテル》。難波乃埼爾《ナニハノサキニ》。引登《ヒキノボル》。赤曾朋舟《アケノソホブネ》。曾朋舟爾《ソホブネニ》。綱取繋《ツナトリカケ》。引豆良比《ヒコヅラヒ》。有雙雖爲《アリナミスレド》。曰豆良賓《イヒヅラヒ》。者雙雖爲《アリナミスレド》。有雙不得叙《アリナミエズゾ》。所言西我身《イハレニシワガミ》。
 
埼(ノ)字、拾穗本には崎と作り、○赤曾朋舟《アケノソホブネ》は、三(ノ)卷に見えたり、○曾朋舟爾(ノ)四字、古寫本になきはわろし、○綱取繋《ツナトリカケ》までは序なり、綱は、舟の網手繩《ツナデナハ》なり、連《ツヅケ》の意は、下にいふ、○引豆良比《ヒコヅラヒ》は、引《ヒキ》にて、豆良比《ヅラヒ》は、その形容をいふ辭なり、次の曰豆良賓《イヒヅラヒ》も同じ、(略解に、ヒコヅラヒ〔五字右○〕は、ヒコヅリ〔四字右○〕を延いへるにて、ツリ〔二字右○〕は、連の意なり、と云るは、いさゝかあたらず、)丹都良布《ニツラフ》、擧都良布《アゲツラフ》、邊都良布《ヘツラフ》などの都良布《ツラフ》も、これと同じかるべし、さて引豆良比《ヒコヅラヒ》と云るは、古事記上(ツ)卷、八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタトヲ》云々、比許豆良比《ヒコヅラヒ》、三善(ノ)爲康が童蒙頌韻に、※[如/手]《ヒコヅラフ》、文選西京(ノ)賦に、※[如/手]攫《ヒコヅラヒ》、など見ゆ、今(ノ)俗に、引豆流《ヒコヅル》と云も、豆流《ヅル》は、豆良布《ヅラフ》の約りたるにて同じ、又源氏物語紅葉(ノ)賀に、中將の、帶をひきときてぬがせ給へば、ぬがじとすまふを、とかくひきじろふほどに、ほころびて、ほろほろとたえぬ、朝貌に、鎖《ジヤウ》のいといたくさびにければ、あかずとうれふるを云々、やゝ(537)久しくひこじろひ、あけていり給ふ、若菜に、猫はまだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付たりけるを、物に引かけ、まつはれにけるを、逃むとひこじろふほどに、夕霧に、惜みがほにひこじろひ賜はねば云々、とかくいひじろひて、この御文はひきかくし給へれば云々、ちひさきちご、はひかゝりひきじろへば、寄生は、けしきばみ、かへしなどひこじろふべきにもあらねば、紫式部日記に、權中納言、すみのまのはしらもとによりて、兵部のおもとひこじろひ、今昔物語、雅通中將家在同形乳母二人語に、左手の手足をとりてひきじろふ云々、うばはれじと引じろひたるに、などもあり、按(フ)に、これらの引じろふ、云じろふは、古言の引づちふ、云づらふと、同じ云樣なり、さて此《コヽ》は人の彼《ソレ》なりといふを、否《イナ》さにあらず、是なりとあらそひいふを、引(ク)と云るなり、○有雙雖爲《アリナミスレド》は、(岡部氏は、雙はなびけなり、いひ/\なびくれど、引つゝなびくれどなり、といへれど、いかゞ、)有(リ)は、有(リ)有(リ)て絶ず物するをいふ言にて、舟の石《イシ》葦《アシ》などに觸て、否(ナ)來らじとするを、猶たゆまず、有(リ)有(リ)て絶ず強て引登ずる言に、いひつゞけたるなるべし、さて本居氏、有雙《アリナミ》は、ありいなみにて、人のいひたつるを、否《イナ》と云て爭ふ事なり、いなといひて、あらそひつれども、いなみ得ずして、人にいひ立られしとなり、右の如く見ざれば、いはれにしといふ詞、又上の序も、かなはず、と云り、是に從(ル)べし、○得字、元暦本に待と作るはわろし、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
(538)此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、と云六字あり、
 
3301 神風之《カムカゼノ》。伊勢乃海之《イセノウミノ》。朝奈伎爾《アサナギニ》。來依深海松《キヨルフカミル》。暮奈藝爾《ユフナギニ》。來因俟海松《キヨルマタミル》。深海松乃《フカミルノ》。深目師吾乎《フカメシアレヲ》。俟海松乃《マタミルノ》。復去反《マタユキカヘリ》。都麻等《ツマト》。不言登可聞《イハジトカモ》。思保世流君《オモホセルキミ》。
 
勢の下乃(ノ)字、拾穗本には之と作り、○深海松《フカミル》は、二(ノ)卷に、伊久里爾曾深海松生《イクリニソフカミルオフル》云々深海松乃深目手思騰《フカミルノフカメテモヘド》、六(ノ)卷に、奥部庭深海松採《オキヘニハフカミルツミ》云々|深見流乃見卷欲跡《フカミルノミマクホシケド》、など見えたり、海底に生たるを、深海松《フカミル》と云ならむ、猶品物解に云り、さて深目師《フカメシ》をいはむとて、先かく云なり、○深目師吾乎《フカメシアレヲ》は、深めて君を思ひ入たる、吾なるをの意なり、○來困俣海松《キヨルマタミル》(因(ノ)字、拾穗本には依と作り、俣(ノ)字二(ツ)ながら、舊本に俟と作るは誤なり、俣(ノ)字も、字書には見えねど、股と通(ハシ)用たる例、古典に例多し、)は、海松の枝に股あるを云、復去反《マタユキカヘリ》をいはむとて、先(ツ)かく云なり、○復去反《マタユキカヘリ》は、又年月日の行反、と云なり、○都麻等《ツマト》は、妻となり、三言一句なり、○歌(ノ)意は、故ありて、しばらく中絶たるほどによめるにて、年月日の行反りなば、又もとの如くに、夫婦となるべしと、深く思ひ入たる吾なるものを、君はさはおもほさずや、となり、(略解に、旅の別に臨て、女のおぼつかなくおもふを、慰めてよめるなるべし、と云るは、あらず、旅別の意は見えず、)
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に拾穗本には、一首作者未詳、と云六字あり、
 
(539)3302 紀伊國之《キノクニノ》。室之江邊爾《ムロノエノベニ》。千年爾《チトセニ》。障事無《ツヽムコトナク》。萬世爾《ヨロヅヨニ》。如是將有登《カクシモアラムト》。大舟乃《オホブネノ》。思恃而《オモヒタノミテ》。出立之《イデタチノ》。清瀲爾《キヨキナギサニ》。朝名寸二《アサナギニ》。來依深海松《キヨルフカミル》。夕難伎爾《ユフナギニ》。來依繩法《キヨルナハノリ》。深海松之《フカミルノ》。深目思子等遠《フカメシコラヲ》。繩法之《ハナノリノ》。引者絶登夜《ヒカバタユトヤ》。散度人之《サドヒトノ》。行之屯爾《ユキノツドヒニ》。鳴兒成《ナクコナス》。行取左具利《ユキトリサグリ》。梓弓《アヅサユミ》。弓腹振起《ユハラフリオコシ》。志之岐羽矣《シシキハヲ》。二手挾《フタツタバサミ》。離兼《ハナチケム》。人斯悔《ヒトシクヤシモ》。戀思者《コフラクモヘバ》。
 
室之江《ムロノエ》は、和名抄に、紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡牟婁(ハ)、無呂《ムロ》、とある處の江なるべし、○障事無は、ツヽムコトナク〔七字右○〕と訓べし、ツヽム〔三字右○〕は、字(ノ)意の如し、四(ノ)卷大伴(ノ)女郎(ノ)歌に、爾障常爲公者《アマヅヽミツネスルキミハ》、とあり、○如是將有登は、カクシモアラムト〔七字右○〕と、訓べし、二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時、人麻呂(ノ)作歌に、萬代然之毛將有登《ヨロヅヨニシカシモアラムト》、(一云、如是毛安色無等《カクシモフラムト》、)○大舟乃《オホブネノ》(乃(ノ)字、拾穗本には之と作り、)は、枕詞なり、○思侍而《オモヒタノミテ》は、深目思子等遠《フカメシコラヲ》と云へ.屬《ツヾ》けて心得べし、○出立之は、イデタチノ〔五字右○〕と訓べし、契冲、出立の清きなぎさにとは、海邊のなり出たる地形をほめたるなり、下に、泊瀬山、忍坂山を、走出の宜しき山、出立のくはしき山とよめるに同じ、と云り、雄略天皇(ノ)紀大御歌に、擧暮利矩能播都制能野磨播《コモリクノハツセノヤマハ》、伊底※[手偏+施の旁]智能與慮斯企夜磨《イデタチノヨロシキヤマ》、和斯里底能與慮斯企夜磨能《ワシリデノヨロシキヤマノ》云々、とあるも、山の成出たる體勢《サマ》を、出立《イデタチ》とも走出《ワシリデ》とも詔へるにて、今と同じ、九(ノ)卷に、出立之此松原乎《イデタチノコノマツバラヲ》、とあるは、走出の堤など云類に、出立て向ふ處を云るにて、其(ノ)意いさゝか、異るべきか、さて此(ノ)句より已下七句は、其(ノ)地の形容をもて云る、句中の序なり、○伎(ノ)字、拾穗本には岐と作り、○繩法《ナハノリ》は、繩苔なり、十二、十五にもよめり、(540)品物解に云り、○深目思子等遠《フカメジコラヲ》は、深く思ひ恃みし子なるものをの意なり、○繩法之《ナハノリノ》は、引絶を、いはむ料なり、繩苔は、いと弱きものなれば、海人の其を採むとて引ば、切絶るものなれば、かく屬けたり、○引者絶登夜《ヒカバタユトヤ》は、引(カ)ば吾(カ)中も絶るとてや、との意なり、○散度日と《サドヒト》は、里人なり、散登妣等《サトビト》と云べきを、妣《ビ》の濁音を上へ轉して、散度比等《サドヒト》と云るなり、集中に、馬多藝《ウマタギ》を馬太吉《ウマダキ》、夜降《ヨクダチ》を夜具多知《ヨグタチ》と云る類にて、古言の一(ノ)格なり、このことは、既く本居氏(ノ)説を引て具(ク)云り、九(ノ)卷に、惑人《サドヒト》、十(ノ)卷に、惑者《サドヒト》、なども見えたり、○行之屯爾《ユキノツドヒニ》(屯(ノ)字、舊本に長と作るは誤なり、今は、一本に從つ、校本にも、中本、宮本古寫本長作v屯、とあり、)は、多くの里人等の行(キ)聚《ツド》ふよしなり、○鳴兒成《ナクコナス》は、枕詞なり、(契冲が、鳴は嗚にて、ヲノコナス〔五字右○〕にや、と云るは、非ず、)○行取左具利《ユキトリサグリ》、左具制《サグリ》は、探にて、小兒の這行て、物を採り取る如く、女を誂《カタラ》ふとて、取付すがるを云り、(契冲が、行を靱と見たるは非なり、)○梓弓より已下四句は、句中の序なり、○弓腹振起《ユハラフリオコシ》は、古事記に、弓腹振立《ユハラフリタテ》と見えたり、本居氏彼(ノ)記(ノ)傳に、弓(ノ)末に、腹《ハラ》と稱(ヅ)くる處の有よし、委(ク)云り、三(ノ)卷に、大夫之弓上振起射都流矢乎《マスラヲノユスエフリオコシイツルヤヲ》、十九に、梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》、投矢毛知千尋射和多之《ナゲヤモチチヒロイワタシ》、なども見ゆ、○志之岐羽(之(ノ)字、拾穗本には乃と作り、)は、未(タ)詳ならず、(契冲、舊訓にシノギハ〔四字右○〕とあるに依て、凌羽は、矢のことなり、凌は侵すこゝろなり、矢は敵をしのぐ器なり、と云り、岡部氏も舊訓によりて、シノギ〔三字右○〕羽は、風切羽をいへば、征矢に專(ラ)用ふべきことなり、と云り、されど、此處の書樣にては、之(ノ)字をノ〔右○〕の假字(541)に用ひしものとも思はれず、又或説に、シヽキハ〔四字右○〕は、しわのある羽の矢なり、といへれど、矢羽にしわのあらむこと如何なり、猶考べし、夫木集に、しきりはのやさしきものはあやめ草けふ引すつる眞弓なりけり、とあるは、こゝの志之岐羽《シシキハ》と同じきか、いかでしきり羽とはいひけむ、)古(ヘ)かく云矢羽の稱ありしならむ、○人斯悔梅《ヒトシクヤシモ》は、人は、我の誤にはあらざるか、人にても自《ミ》のことなり、○戀思者は、コフラクモヘバ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、まづ室之江(ノ)邊は、其女の住處なり、さて其(ノ)處に、男の親く通ひ住るにて、その女と、千年萬歳にことゆゑなく、共にかくて語はむ、と奥を深めて、おもひたのみたるものを、いで其(ノ)中をも、引ば絶なむものをとてや、多くの思人等の行つどひて、爭ひつゝ、取すがりいざなひて、吾(カ)中を引離ちけむ、その時に、ともかうもすべきやうあるべきに、尋常ならず、安からぬさまなれば、後難を恐れて、よしやと思ひ切て、放ちやりしことの、今はたかく堪がたきまで、戀しく思はるゝにておもへば、さても悔しや、となり、(此(ノ)歌(ノ)意、今まで解得たる人なし、)
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3303 里人之《サトビトノ》。吾丹告樂《アレニツグラク》。汝戀《ナガコフル》。愛妻者《ウツクシツマハ》。黄葉之《モミチバノ》。散亂有《チリミダリタル》。神名火之《カムナビノ》。彼山邊柄《ソノヤマヘカラ》。烏玉之《ヌバタマノ》。黒馬爾乘而《クロマニノリテ》。河瀬乎《カハノセヲ》。七湍渡而《ナヽセワタリテ》。裏觸而《ウラブレテ》。妻者會登《ツマハアヘリト》。人曾告鶴《ヒトソツゲツル》。
 
(542)告樂《ツグラク》は、告るやうは、と云むが如し、○妻《ツマ》は、借て書るにて、夫《ツマ》なり、四(ノ)卷に、出去之愛夫者《イデユキシウツクシツマハ》、○神名火《カムナビ》は、高市(ノ)郡飛鳥のなるべし、○彼山邊柄《ソノヤマヘカラ》は、舊本に、彼(ノ)字を此と作て、或本云彼山邊、と註せるに從つ、柄《カラ》は從《ヨリ》といふに同じ、○黒馬爾乘而は、クロマニノリテ〔七字右○〕と訓べし、四(ノ)卷に、夜干玉之黒馬之來夜者《ヌバタマノクロマノクヨハ》、とあり、此(ノ)下にも、同詞見えたり、○河瀬《カハノセ》は、明日香河なるべし、○七湍《ナヽセ》、は湍《セ》の多くあるを云なり五(ノ)卷に、麻都良我波奈奈勢能與騰波《マツラガハナナセノヨドハ》、七(ノ)卷に、明日香河七瀬之不行爾《アスカガハナヽセノヨドニ》、などよめり、○裏觸而《ウラブレテ》は、物思ひ愁憐《カナシ》みたるを云、集中に甚多き詞なり、○歌(ノ)意は、本居氏、女の戀したふ男に、或人の道にて逢たることを、其(ノ)女に語るを聞て、女のよめるなり、と云る如し、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3304 不聞而《キカズシテ》。黙然有益乎《モダアラマシヲ》。何如文《ナニシカモ》。公之正香乎《キミガタヾカヲ》。人之告鶴《ヒトノツゲツル》。
 
黙然、舊本下上に誤れり、今は古寫本、官本、拾穗本、活字本等に從つ、○公人正香乎《キミガタダカヲ》は、君がありさまを、と云むが如し、正香《タゞカ》とは、すべて他處にある人のありさまを、とりもなほさず、直に此方にていふ言なり、(後(ノ)世、正香《タヾカ》と眞坂《マサカ》と混れたるよし、玉勝間八(ノ)卷に委(ク)辨(ヘ)たり、合(セ)見て考べし、なほ四(ノ)下にも既く云り、)○歌(ノ)意は、君がありさまを、あやにくに、何しに人の告つるぞ、はじめより聞ずして、たゞなほあらましかば、かゝる物思(ヒ)は、すまじきものを、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
(543)此(ノ)三字、拾穗本にはなし、
 
問答《トヒコタヘノウタ》。
 
答の下、拾穗本には、歌十八首(ノ)四字あり、又並次に、二首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3305 物不念《モノモハズ》。道行去毛《ミチユキナムモ》。青山乎《アヲヤマヲ》。振放見者《フリサケミレバ》。茵花《ツヽジハナ》。香未通女《ニホヒヲトメ》。櫻花《サクラハナ》。盛未通女《サカエヲトメ》。汝乎曾母《ナヲソモ》。吾丹依云《アニヨスチフ》。吾※[口+立刀]曾毛《アヲソモ》。汝丹依云《ナニヨスチフ》。荒山毛《アラヤマモ》。人師依者《ヒトシヨスレバ》。余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》。汝心勤《ナガコヽロユメ》。
 
道行去毛《ミチユキナムモ》は、道行なまし物をの意なり、又按ふに、毛は、乎(ノ)字の誤にてもあるべし、○青山乎は、ハルヤマヲ〔五字右○〕と訓べし、五色を四時に配るとき、青は春に當れば、かくは書り、十一にも、青草《ハルクサ》とあり、集中、秋と云に白(ノ)字を書るも、(白風《アキカゼ》、白芽子《アキハギ》など書り、)白は秋に當れば書るにて、同じ意味なり、○振放見者《フリサケミレバ》は、道行觸《ミチコキブリ》に、茵、櫻花を見て、花の如く艶へる妹を、思ふ事の彌増れるなり、○茵花《ツヽジハナ》、(茵字、古寫本に※[草がんむり/固]と作るは、いかゞなり、)三(ノ)卷に、菌花香君之《ツヽジハナニホヘルキミガ》、○香未通女は、ニホヒヲトメ〔六字右○〕と訓べし、(ニホヘル〔四字右○〕とよめるはわろし、)左に載る人麻呂集(ノ)歌に、爾太遙越賣《ニホエヲトメ》、とあるに、同じければなり、なほ次にも云べし、但し十八に、加都良賀氣香具波之君乎《カヅラカケカグハシキミヲ》、とあれば、こゝもカグハシヲトメ〔七字右○〕と訓べくもおもへど、なほニホヒ〔三字右○〕と訓べし、○盛は、サカエ〔三字右○〕と訓べし、これも左に載たるには、佐可遙《サカエ》とあるに同じ、(サカユル〔四字右○〕とよむはわろし、)○汝乎曾母は、ナヲソモ〔四字右○〕と訓べし、母《モ》は、歎息を含める助辭なり、○吾丹依云《アニヨスチフ》云々は、世の人の、吾は汝に依(ル)と云、汝は吾に依(ル)とい(544)ひなすよしなり、されば其(ノ)人言のまに/\、相依むぞ、となり、○吾※[口+立刀]曾毛《アヲソモ》、(※[口+立刀](ノ)字、拾穗本には叫と作り、)曾毛の二字、舊本には下上に誤れり、今は拾穗本に從つ、○荒山毛《アラヤマモ》云々は、上に、加此依等人雖衝無意山之奥礒山《カクヨレトヒトハツケドモコヽロナキヤマノオキソヤマ》、とよめるとは、表裏の意にて、人の如v此《カク》依(レ)とて衝(キ)依(ス)れば、情無(キ)荒山すらも、依とぞ云なると、云なしたるにて、有v情人として、いかでか、それにさかふべきぞ、と云意を含めり、(略解に、疎き山も、人のいひよすれば、さるかたに、山の心もよせとゞむる、と云諺の有て云るか、今の諺に、云(ヘ)ば云出すなど云に似たり、と云るは、聞とりがたし、)○余所留跡序云は、ヨソルトゾイ〔七字右○〕と、本居氏の訓るに從べし、○汝心勤《ナガコヽロユメ》は、かくまで人にも云依られたる上は、汝が心にも、勤々《ユメ/\》たがふことなくして、遂に相依(リ)親みせよ、となり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3306 何爲而《イカニシテ》。戀止物序《コヒヤムモノゾ》。天地乃《アメツチノ》。神乎?迹《カミヲイノレド》。吾八思益《アハオモヒマス》。
 
歌(ノ)意は、戀情を止賜へと、天(ツ)神地(ツ)祇に?白せども、其(ノ)驗なくして、彌増に物思をすれば、今はいか樣にして、思の止べき物ぞ、となり、契冲が、古今集に、戀爲じと御たらし川にせし身祓神は受ずぞ成にけらしも、とあるを、此(ノ)歌の註に引り、○略解に、右の長歌は、古代の歌なるを、此(ノ)短歌は、長歌より見れば後なり、こゝも亂たるなるべし、と云るは、推當なり、何處か後めきたる、
 
3307 然有社《シカレコソ》。歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》。鑽髪乃《キルカミノ》。吾同子※[口+立刀]過《ワガカタヲスギ》。橘《タチバナノ》。末枝乎過而《ホツエヲスギテ》。此河能《コノカハノ》。下文長《シタニモナガク》。汝(545)情待《ナガコヽロマテ》。
 
然有社《シカレコソ》は、然有《シカアレ》ばこその意なり、然有者《シカレバ》と云べきを、者《バ》をいはざるは、古言の常なり、上件の歌に、汝心勤《ナガコヽロユメ》とあるに答て、少女のよめるなり、故(レ)その歌の詞を受て、我もしか思ひてあればこそ、と云なり、かくてこの社《コソ》の言を結めたる詞、下になし、然ればこそ、吾も云々してあるなれ、と、云意なれば、姑く言を加(ヘ)て心得べし、下の汝情待《ナガコヽロマテ》にて、結めたるには非ず、○歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》(上の歳(ノ)字、古寫本、拾穗本等には年と作り、※[口+立刀](ノ)字、拾穗本には叫と作り、下なるも同じ、)は、十一に、年之八歳乎吾竊舞師《トシノヤトセヲアヲヌスマヒシ》、伊勢物語に、あら玉の年の三歳を待わびて、などある、これ年の幾歳といへる語例なり、八歳といへる事の謂は、次にいふ、○鑽髪乃《キルカミノ》(鑽(ノ)字、古寫本に讃と作るは誤なり、文選左太冲(ガ)魏都(ノ)賦に、或※[鬼+隹]v髻(ヲ)而左言、或鏤v膚(ヲ)而鑽v髪(ヲ)、とある、此(ノ)字によりて書るなるべし、)は、子生れて三四歳の比、はじめて髪の未を切る、これを深そぎと云、さてのび行にしたがひて、肩のあたりまでのばして、末を切を、放髪《ハナリノカミ》とも、振分髪《フリワケガミ》とも云、八歳よりは切ずて、のばして後、男は元服、女は髪上するまでを童《ワラハ》と云、髪をわゝらかしてあればなり、さて今は、八歳までに切たる髪の、やゝ延て、肩過て垂るよしなり、○吾同子※[口+立刀]過《ワガカタヲスギ》は、(子(ノ)字古本には千と作る、此も誤にて、)同子は、肩の誤なるべし、伊勢物語に、比べ來し振舟髪も肩過ぬ、とよめり、(過をスグレ〔三字右○〕とよみて、上の然有社《シカアレコソ》を、結びたりとするは、わろし、)○橘末枝乎過而《タチバナノホツエヲスギテ》とは、身(ノ)丈《タケ》のやゝ長《ノビ》て、橘の(546)上枝よりも、なほ長くなるよしなり、さて此間に、假に詞を加へて心得べし、身(ノ)丈《タケ》のやゝ長《ノビ》て、橘の上枝を過て、よきほどの年比にな上りなむ時に、遂に夫婦となりて、にこやかに相宿むものぞ、と云意なり、○此河能《コノカハノ》と云るは、此(ノ)女の住家のあたりの河を、さして云るなり、○下文長《シタニモナガク》とは、心(ノ)裏にも長く、と云なり、下《シタ》は裏《ウチ》と云むが如し、心(ノ)裏なり、○汝情待《ナガコヽロマテ》は、あふ時あらむを、汝が情に待賜ひてよ、となり、汝とは、男をさして云るなり、○以上舊本のまゝに依て註釋しつ、しかれどもなほ心行ず、いかさまにも、初句の上と、橘未枝乎過而《タチバナノホツエヲスギテ》の句の上下とに、脱句あるなるべし、古本範政(ノ)卿の書入にも、此(ノ)あたり、昔より混亂《ミダレ》たりしよし見えたり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3308 天地之《アメツチノ》。神尾母吾者《カミヲモアレハ》。?而寸《イノリテキ》。戀云物者《コヒチフモノハ》。都不止來《カツテヤマズケリ》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)心に制禁《イサ》むるのみならず、天(ツ)神地(ツ)祇をも?白して、いかで戀情を止賜へと願ひつれども、戀といふえせ物は、かたく止ざりけり、となり、○此(ノ)歌、右の長歌の反歌には、似つかはしからず、上の何爲而《イカニシテ》云々の歌の、轉りたるものなどにやからむ、
 
柿本朝臣人麿之集歌云《カキノモトノアソミヒトマロガウタフミノウタニイハク》。
 
集(ノ)字、拾穗本にはなし、○云(ノ)字、舊本にはなし、拾穗本に從つ、
 
3309 物不念《モノモハズ》。路行去裳《ミチユキナムモ》。青山乎《ハルヤマヲ》。振酒見者《フリサケミレバ》。都追慈花《ツツジハナ》。爾太遙越賣《ニホエヲトメ》。作樂花《サクラハナ》。佐可遙(547)越賣《サカエヲトメ》。汝乎叙母《ナヲゾモ》。吾爾依云《アニヨスチフ》。吾乎叙物《アヲゾモ》。汝爾依云《ナニヨスチフ》。汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》。念社《オモヘコソ》。歳八年乎《トシノヤトセヲ》。斬髪乃《キルカミノ》。和子乎過《アガコヲスギ》。橘之《タチバナノ》。末枝乎須具里《ホツエヲスグリ》。此川之《コノカハノ》。下母長久《シタニモナガク》。汝心待《ナガコヽロマテ》。
 
爾太遙越賣は、ニホエヲトメ〔六字右○〕と訓べし、香少女《ニホエヲトメ》なり、爾太遙《ニホエ》は、にほひと云に、全同じ、香は、にほひなるを、轉りては、にほへとも、にほえとも、活く詞なり、十九にも、春花乃爾太要盛《ハルハナノニホエサカエ》而云々、とあり、この例は、萎は、しなひなるを、しなへとも、しなえとも活して云が如し、さて太(ノ)字を保《ホ》に用たる例は、古事記に、御大之御前《ミホノミサキ》、(出雲風土記に、美保《ミホノ》埼、神名帳に、美保《ミホノ》神社などある、是なり、大は太と通(ハシ)書り、下同じ、)また穴大部《アナホベ》書紀には、穴穗部《アナホベ》とあり、)など見ゆ、天武天皇(ノ)紀に、迹太川《トホガハ》、繼體天皇(ノ)紀に、男太迹《ヲホトノ》天皇、續紀卅九に、穴大村主《アナホノスクリ》などあり、遙(ノ)字は、呉音エ〔右○〕なり、(略解に、遙は逕の誤なり、として、ニホヘル〔四字右○〕と訓《よめ》るは、甚じき誤なり、その由は、逕(ノ)字は、ヘル〔二字右○〕とよむべき理なければなり、逕は、へ〔右○〕とかフル〔二字右○〕とか、訓べきことなるをや、)○佐可遙越賣《サカエヲトメ》(佐(ノ)字、舊本に在と作るは誤なり、今は元暦本、拾穗本等に從つ、校本にも、阿本在作v佐、とあり、)は、盛少女《サカエヲトメ》なり、○念社《オモヘコソ》は、念(ヘ)ばこその意なり、○斬髪乃《キルカミノ》の乃(ノ)字、舊本に與と作るは、之の誤なり、〓〓草書混(ヒ)易し、今は眞恒校本に、與一本作v乃、とあるに從つ、○和子は、我肩の誤にて、アガカタ〔四字右○〕なるべし、○須具里《スグリ》(里(ノ)字、拾穗本には利と作り、)は、須藝《スギ》の延りたる言なり、○此(ノ)歌は上の問答二首を、一首に合(セ)て、歌ひ傳へたるなり、汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》、と云まで問(ヒ)にて、念社《オモヘコソ》と云より答(ヘ)なり、かく一首に問答をよめ(548)るは、上の、打久津三宅乃原從《ウチヒサツミヤケノハラユ》云々、の歌の類なり、
ミギイツウタ
右五首《》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、二首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3310 隱口乃《コモリクノ》。泊瀬乃國爾《ハツセノクニニ》。左結婚丹《サヨバヒニ》。吾來者《アガクレバ》。棚雲利《タナグモリ》。雪者零來奴《ユキハフリキヌ》。左雲理《サグモリ》。雨者落來《アメハフリキヌ》。野鳥《ヌツトリ》。雉動《キヾシハトヨム》。家鳥《イヘツトリ》。可鷄毛鳴《カケモナク》。左夜者明《サヨハアケ》。此夜者旭奴《コノヨハアケヌ》。入而且將眠《イリテアガネム》。此戸開爲《コノトヒラカセ》。
 
左結婚《サヨバヒ》は、眞結婚《マヨバヒ》といはむが如し、○棚雲利《タナグモリ》(棚(ノ)字、古寫本に櫻と作るは誤なり、)は、雨雲の棚引合て陰《クモ》るをいふ、殿雲入《トノグモリ》といふに同じ、○零來奴《フリキヌ》の奴(ノ)字、一本にはなし、下にも落來とのみあれば、其も然るべし、○左雲理《サグモリ》は、眞陰《マクモリ》と云むが如し、(略解に、左は淺の略か、と云るは、いみじき非なり、)○落來の下に、上の例によらば、奴(ノ)字あるべし、○野鳥《ヌツトリ》(野(ノ)下、拾穗本には津(ノ)字あり、)は、枕詞なり、十六竹取(ノ)翁(ノ)歌に、狹野津鳥來鳴翔續《サヌツトリキナキカケラフ》、とよめり、○家鳥《イヘツトリ》も枕詞なり、○可鷄毛鳴《カケモナク》は、雉のみならず、鷄までも鳴、といふなり、毛《モ》の言に心を付べし、○旭(ノ)字、古寫本には※[永+日]と作り、校本にも、官本旭、作v※[永+日]とあり、○且將眠は、且は吾(ノ)字の誤にや、アガネム〔四字右○〕とあるべければなり、且を旦と見て、アサネム〔四字右○〕と訓るはわろし、○開爲は、ヒラカセ〔四字右○〕と訓べし、ひらけを延云るにて、開き賜へ、といふが如し、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は遠き道路に、雨雪さへ降來りて、からくして女の許へ至れるほど、夜の明たるによめるなり、古事記上(ツ)卷に、八千矛(ノ)神、將v婚2高志(ノ)國之沼河(549)比賣(ヲ)1幸行之時、到2其沼河比賣之家(ニ)1歌曰、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》、云々|佐用婆比爾阿理多多斯《サヨバヒニアリタタシ》、用婆比邇阿理加用婆勢《ヨバヒニアリカヨハセ》、多知賀遠母伊麻陀登加受※[氏/一]《タチガヲモイマダトカズテ》、淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》、云々|佐怒都登理岐藝斯波登與牟《サヌツトリキギシハトヨム》、爾波都登理迦祁波那久《ニハツトリカケハナク》云々、とある御歌によりてよめるなり、又書紀繼體天皇(ノ)卷、勾(ノ)大兄(ノ)皇子、親聘2春日(ノ)皇女(ヲ)1御歌に、云々|矢自矩之盧于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《シジクシロウマイネシドニ》、※[人偏+爾]播都等※[口+利]柯稽播儺倶儺梨《ニハツトリカケハナクナリ》、奴都等※[口+利]枳蟻矢播等余武《ヌツトリキギシハトヨム》云々、とあり、又十二に、地國爾結婚爾行而太刀之緒毛未解者左夜曾明家流《ヒトクニニヨバヒニユキテタチガヲモイマダトカネバサヨソアケニケル》、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3311 隱來乃《コモリクノ》。泊瀬少國爾《ハツセヲクニニ》。妻有者《ツマシアレバ》。石者履友《イシハフメドモ》。猶來來《ナホソキニケル》。
 
少國爾《ヲクニニ》、(少(ノ)字、拾穗本には小、校本にも、官本少作v小、とあり、爾(ノ)字、拾穗本には丹と作り、)少《ヲ》は、眞《マ》と云むが如し、小里《ヲサト》、小野《ヲヌ》、小峯《ヲミネ》、小谷《ヲタニ》、小床《ヲトコ》、小林《ヲハヤシ》などいふ小《ヲ》に同じ、(小《チヒサ》き謂には非ず、)○歌(ノ)意は、泊瀬の國に妻のあれば、其を一(ト)すぢに戀しく思ひて、石を履て、嶮しき道はあれども、其(レ)をも猶厭はずしてぞ、來にける、となり、長歌反歌共に、こよなくあはれなり、○右長短二首、男の問(ヘ)る意なり、
 
3312 隱口乃《コモリクノ》。長谷小國《ハツセヲクニニ》。夜延爲《ヨバヒセス》。吾大皇寸與《ワガセノキミヨ》。奧床仁《オクトコニ》。母者睡有《ハヽハネタリ》。外床丹《トトコニ》。父者寢有《チヽハネタリ》。起立者《オキタヽバ》。母可知《ハヽシリヌベシ》。出行者《イデユカバ》。父可知《チヽシリヌベシ》。野干玉之《ヌバタマノ》。夜者昶去奴《ヨハアケユキヌ》。幾許雲《コヽダクモ》。不念如《オモハヌゴトク》。隱※[女+麗](550)香聞《シヌフツマカモ》。
 
長谷小國《ハツセヲクニ》、拾穗本には、泊瀬小國丹、と作り、○夜延爲は、ヨバヒセス〔五字右○〕と訓べし、夜延と書るは借(リ)字にて、上の歌に、結婚と書る字(ノ)意なり、抑々|與婆比《ヨバヒ》と云言の意は、呼《ヨブ》なり、今俗に、婦を娶をよぶと云も、即(チ)是(レ)なり、(しかるを、略解に、夜延とは、夜密に通ふを云なり、と云は、字に泥みて云る誤なり、又竹取物語に、やみの夜にも、こゝかしこより、垣間見まどひあへり、さる時よりなむ、よばひとは云ける、と云るは、滑稽《タハブレ》なり、)靈異記に、※[人偏+抗の旁]儷(ハ)與波不《ヨバフ》、とあり、なほ既く、十二、他國爾《ヒトクニニ》云々の歌の下に云るを、見て考べし、○吾夫皇寸與(夫(ノ)字、舊本に大と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本等に從つ、又皇(ノ)字、校本に、古寫本作v王、とあり、)は、皇寸は、王寸とある本につさておもへば、寸三とありしを、下上に誤り、(君を寸三《キミ》と書ること、十六にも見えたり、)又三を、王に誤れるにて、ワガセノキミヨ〔七字右○〕なるべし、(平(ノ)春海(カ)説に、皇寸は、尊(ノ)一字の誤にて、ワガセノミコトヨ〔八字右○〕なるべし、と云れど、よからず、)與《ヨ》は、呼かけたる詞なり、○奥床《オクトコ》は、母の寢處なり、○睡有(睡(ノ)字、古寫本には眠と作り、)は、ネタリ〔三字右○〕と訓べし、○外床丹は、トトコニ〔四字右○〕と訓べし、父の寢處なり、常には奥と口と對へいひ、内と外と對(ヘ)云を、又奥と外と、むかへいへることもあり、後撰集に、いざやまた人の心も白露の奥《オク》にも外にも袖のみぞひづ、枕册子に、奥《オク》にも外《ト》にも、物打なりなどして、おそろしければ云々、など見えたり、○寢(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、寐と作り、○昶(ノ)字、拾穗本には旭(551)と作り、校本にも、阿本昶作v旭、とみゆ、○幾許雲《コヽダクモ》は、隱《シヌブ》へ係て心得べし、○不念如《オモハヌゴトク》は・相思はぬ人の如くにの意なり、○隱※[女+麗]香聞《シヌフツマカモ》は、父母に知せじとて、密《シノ》び隱《カク》す夫《ツマ》哉なり、※[女+麗]は借(リ)字にて夫《ツマ》なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3313 川瀬之《カハノセノ》。石迹渡《イシフミワタリ》。野干玉之《ヌバタマノ》。黒馬之來夜者《クロマノクヨハ》。常二有沼鴨《ツネニアラヌカモ》。
 
石迹渡は、イシフミワタリ〔七字右○〕と訓べし、○黒馬之來夜者(馬(ノ)字、古寫小本に駒と作るはわろし、)は、クロマノクヨハ〔七字右○〕と訓べし、四(ノ)卷大伴(ノ)郎女(ノ)歌に、狹穗河乃小石踐渡野干玉之黒馬之來夜者年爾母有糠《サホガハノサヾレフミワタリヌバタマノクロマノクヨハトシニモアラヌカ》、○歌(ノ)意は、泊瀬川の石蹈渡りて、吾(ガ)夫の黒馬の通ひ來座夜は、常に絶ずもがなあれかし、となり、○右長短二首、女の答(ヘ)たる意なり、
 
右四首《ミギヨウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3314 次嶺經《ツギネフ》。山背道乎《ヤマシロヂヲ》。人都末乃《ヒトヅマノ》。馬從行爾《ウマヨリユクニ》。己夫之《オノヅマノ》。歩從行者《カチヨリユケバ》。毎見《ミルゴトニ》。哭耳之所泣《ネノミシナカユ》。曾許思爾《ソコモフニ》。心之痛之《コヽロシイタシ》。垂乳根乃《タラチネノ》。母之形見跡《ハヽガカタミト》。吾持有《アガモタル》。眞十見鏡爾《マソミカヾミニ》。蜻蛉巾《アキツヒレ》。負並持而《オヒナメモチテ》。馬替吾背《ウマカヘワガセ》。
 
次嶺經《ツギネフ》は、枕詞なり、古事記、仁徳天皇(ノ)大后(ノ)御歌に、都藝泥布夜夜麻志呂賀波袁《ツギネフヤヤマシロガハヲ》、とあり、抑々次嶺(552)經と書るハ、借(リ)字にて、續木根生《ツギキネフ》といふにや、都藝伎《ツギキ》は、都藝《ツギ》と縮れり、續《ツギ》とは、續《ツヅ》き連れるよしなり、連續《ツヾキ》を都藝《ツギ》と云るは、崇神天皇(ノ)紀(ノ)歌に、飫朋佐介珥菟藝廼煩例屡伊辭務邏塢《オホサカニツギノボレルイシムラヲ》云々、(大坂に、連續《ツヾ》き登れる、石群《イシムラ》をのよしなり、)とある、是なり、木根《キネ》とは、祝詞に、磐根木根立《イハネキネタチ》、倭姫(ノ)命(ノ)世紀に、五十鈴原乃荒草木根苅掃比《イスヾノハラノアラクサキネカリハラヒ》云々、古今集神樂歌に、神の木根かも、などある木根にて、やゞ木のことなり、生《フ》は、淺茅生《アサチフ》、蓬生《ヨモギフ》、麻生《ヲフ》、粟田《アハフ》、豆田《マメフ》、などいふ生《フ》にて、原《ハラ》といふに同じ、さて山代とは、代は、苗代《ナハシロ》、網代《アジロ》の代《シロ》にて、樹林の疆ありて、一(ト)構(ヘ)取圍みたるをいふ言なり、されば、連續《ツヾ》きたる木原の山代とは、云るにやあらむ、○山背《ヤマシロ》の下、拾穗本に、乃(ノ)字あるはわろし、○馬從《ウマヨリ》、歩從《カチヨリ》は、馬にて、歩にてと云むが如し、○曾許思爾《ソコモフニ》は、其(レ)を思ふにの意なり、○蜻領巾《アキヅヒレ》は、蜻蛉羽《アキヅハ》の如くなる領巾《ヒレ》を云なるべし、蜻蛉羽の袖など云る類なり、領巾のことは、既く五(ノ)卷に具(ク)云り、(略解に、類聚雜要、又雅亮装束抄などに載たる、鏡の具の比禮《ヒレ》なるべし、と云るは非ず、)○負並持而《オヒナメモチテ》、宮地(ノ)春樹翁、此(ノ)負は、價のことなるべし、俗に、おひを出すと云事あるは、譬は直拾匁ほどの物を買ふに、七匁ほどにあたる物を、此方より渡して、殘(リ)三匁たらざる所を、添てわたすを、三匁のおひを出すと云り、此(ノ)歌も、その意ならば、鏡にては、馬のあたひに足ざるゆゑに、その負に、領巾を添て出す意なるべし、と云り、此(ノ)説に付て、本居氏、今(ノ)俗に云は、轉々したるものにて、古(ヘ)負と云しは、唯直の事にても有べし、その時は、鏡と領巾とを並べて、馬の價に出す意なるべ(553)し、價を負と云むこと、義よくあたれり、名に負など云負も、相直りて過不及なきを云(ヒ)、おふなりと云事も、分限相應にと云意なれば、直の義にあたれり、と云り、○馬替吾背《ウマカヘワガセ》は、馬を買たまへ吾背よ、と云なり、鏡と領巾とを價に出して、馬を買たまへ、と云なり、さて買《カフ》と云も、價と物を取替す由の稱にて、本は替と同言なれば、こゝに替(ノ)字を書り、買はカヒ〔二字右○〕、替はカヘ〔二字右○〕と云て、別ることなりと思ふは、あらず、十二に、浣衣取替河之《アラヒキヌトリカヒガハノ》、と、あるをも思(フ)べし、○歌(ノ)意は、山城路を、他夫の馬に騎て、安らかに、行を、己夫の歩にて、艱難《カラウ》して行賜ふを見るに、いとほしく堪がたければ、己が母の寄物《カタミ》とて、待傳てある、この眞澄鏡に、蜻領巾を並持行て、價に出して、馬を買て、騎て行たまへ、となるべし、此(ノ)歌、反歌に、泉河をよめるによりて思ふに、大和に住人の、山城へ行ことあるほど、よめるなるべし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3315 泉河《イヅミガハ》。渡瀬深見《ワタリセフカミ》。吾世古我《ワガセコガ》。旅行衣《タビユキゴロモ》。蒙沾鴨《モヌラサムカモ》。
 
渡瀬深見《ワタリセフカミ》、雜式に、凡山城(ノ)國泉川樺井(ノ)渡瀬者、官(ノ)長率2東大寺工等(ヲ)1、毎年九月上旬、造2假橋(ヲ)1、來年三月下旬(ニ)壞収(ヨ)、其(ノ)用度、以2除帳得度田(ノ)地子稻一百束1充之、とあり、その深さ思ひやるべし、○蒙治鴨は、モヌラサムカモ〔七字右○〕と訓べし、蒙は裳《モ》の假字なり、(又裳(ノ)字の誤にてもあるべし、但し略解に、裳に改めて、スソヌレムカモ〔七字右○〕とよめるはわろし、)九(ノ)卷に、雨不落等物裳不令濕《アメハフレドモモヌラサズ》とあるを思(フ)べ(554)し、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
或本反歌曰《アルマキノカヘシウタニイハク》。
 
曰(ノ)字、古寫本にはなし、拾穗本には、右の五字なし、此は泉河《イヅミガハ》云々の一首の或本歌なり、
 
3316 清鏡《マソカヾミ》。雖持吾者《モテレドアレハ》。記無《シルシナシ》。君之歩行《キミガカチヨリ》。名積去見者《ナヅミユクミレバ》。
 
記無《シルシナシ》は、無v益といはむが如し、○歌(ノ)意は、君が歩にて、艱難して行賜ふを見れば、母の寄物《カタミ》と、眞澄鏡を、己が持傳(ヘ)たる益なし、いでこの鏡を進らせむ、此を持行て、直に出して馬を買て、騎て行たまへ、となり、○右長短三首女の問たる意なり、○次の短歌は男の一首にて答(ヘ)たるなり、
 
3317 馬替者《ウマカハバ》。妹歩行將有《イモカチナラム》。縱惠八子《ヨシヱヤシ》。石者雖履《イシハフモトモ》。吾二行《アハフタリユカム》。
 
馬替者、舊本によりて、ウマカハヾ〔五字右○〕と訓べし、(契冲已來、ウマカヘバ〔五字右○〕と訓るは、非なり、カヘバ〔三字右○〕と云て、かへなばの意とするは、俗言の常なり、こゝは未(タ)替ざるほどに云言なればなり、侍を、さもらはゞと云とさもらへばと云と、にて、未來と過去の差別あるを准へ知べし、)替買、同言なるよしは、上に云るが如し、○歌(ノ)意は、上の長歌短歌に、男の答へたるにて、妹を具《トモナ》ひて行べきに、我(ガ)馬を買ば、我は馬に乘てよけれども、妹歩行ならば、苦しかるべきによりて、よしや石は蹈ともいとはじ、我もなほ歩行にて、二人相具ひて、相※[手偏+雋](ヒ)たすけて、道のほどを徐《シヅカ》に往むど、されば馬を買ことはせじ、母君の寄物《カタミ》なれば、なほ其(ノ)物を大切にして、持傳へてあれ、と云意を(555)おもはせたるなるべし、(契冲が、妹にかはりて、我(カ)馬に乘ば、妹はかちにて、女の足なれば行じ、よし/\我石をふみてなづむとも、妹を馬にのせて、ふたり相具してこそゆかめとなり、と云るは、いかゞ、)
 
右四首《ミギヨウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、と云九字あり、
 
3318 木國之《キノクニノ》。濱因云《ハマニヨルチフ》。鰒珠《アハビタマ》。將拾跡云而《ヒリハムトイヒテ》。妹乃山《イモノヤマ》。勢能山越而《セノヤマコエテ》。行之君《ユキシキミ》。何時來座跡《イツキマサムト》。玉桙之《タマホコノ》。道爾出立《ミチニイデタチ》。夕卜乎《ユフウラヲ》。吾問之可婆《アガトヒシカバ》。夕卜之《ユフウラノ》。吾爾告良久《アレニノラク》。吾味兒哉《ワギモコヤ》。汝待君者《ナガマツキミハ》。奧浪《オキツナミ》。來因白珠《キヨスシラタマ》。邊浪之《ヘツナミノ》。縁流白珠《ヨスルシラタマ》。求跡曾《モトムトソ》。君之不來益《キミガキマサヌ》。拾登曾《ヒリフトソ》。公者不來益《キミハキマサヌ》。久有《ヒサナラバ》。今七日許《イマナヌカバカリ》。早有者《ハヤカラバ》。今二日許《イマフツカバカリ》。將有等曾《アラムトソ》。君者聞之二二《キミハキコシシ》。勿戀吾妹《ナコヒソワギモ》。
 
妹乃山《イモノヤマ》、勢能山《セノヤマ》は、既く出つ、○桙(ノ)字、拾穗本には鉾と作り、○夕卜《ユフウラ》とは、夕つ方になす卜なれば、かくいへり、○吾爾告良久は、アレニノラク〔六字右○〕と訓べし、(ツグラク〔四字右○〕と訓れど、卜《ウラ》には、のると云ぞ、常格《ツネノサダマリ》なる、)これは他人の物語して、道を過去を聞て、我(カ)身の上の事にとりなす占なれば、即(チ)其を、吾に告る語とするなり、○吾殊兒哉《ワギモコヤ》は、吾妹子《ワギモコ》よと云が如し、此(レ)より尾句まで、即(チ)夕卜《ユフウラ》の告る語なり、○來因は、キヨス〔三字右○〕と訓べし、奥浪の令《シムル》2來縁《キヨラ》1白珠の意なればなり、(キヨル〔三字右○〕と訓ては、令むることにならず、)次に縁流白珠《ヨスルシラタマ》とあるも、令《スル》v縁《ヨ》白珠の意なるに、相對へて意得べし、二(ノ)卷(556)に、和多豆乃荒磯乃上爾《ワタヅノアリソノウヘニ》、香青生玉藻息津藻《カアヲナルタマモオキツモ》、朝羽振風社依米《アサハフルカゼコソキヨセ》、(來依の誤、)夕羽振浪社來縁《ユフハフルナミコソキヨセ》、○久有の下、者(ノ)字落たるなるべし、○今七日許《イマナヌカバカリ》云々、十七に、知加久安良波伊麻布都可太未《チカクアラバイマフツカダミ》、等保久安良婆奈奴可乃宇知波《トホクアラバナヌカノウチハ》、須疑米也母《スギメヤモ》、九(ノ)卷に、吾去者七日者不過龍田彦勤此花乎風爾莫落《アガユキハナヌカハスギジタツタヒコユメコノハナヲカゼニナチラシ》、(本朝世記に、正暦五年三月廿三日、大神此(ノ)状を間食(シ)天、今日(ヨリ)以後《ノチ》、近は七日、遠は三月之間爾、件(ノ)放火乃輩を、令(メ)2發露(サ)1給(ヒ)天云々、)○今二日許《イマフツカバカリ》は、八(ノ)卷に、今二日許有者將落《イマフツカバカリアラバチリナム》、○君者聞之二二は、キミハキコシヽ〔七字右○〕と訓べし、君はのたまひし、といふに同じ、君とは、夫(ノ)君なり、夫(ノ)君の言を傳へて、夕卜の告よしなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は官事などありて、假に紀伊(ノ)國へ行し人の、彼(ノ)國は、玉の名産地《ナグハシキトユロ》なれば、拾ひて還り來むぞ、と云て、別しをもて、妻のかくいへるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3319 枚衝毛《ツヱツキモ》。不衝毛吾者《ツカズモアレハ》。行目友《ユカメドモ》。公之將來《キミガキマサム》。道之不知苦《ミチノシラナク》。
 
杖衝毛《ツヱツキモ》は、杖を衝てもの意なり、三(ノ)卷に、天地乃至流左右二《アメツチノイタレルマデニ》、杖策毛不衝毛去而《ツヱツキモツカズモユキテ》、夕衢占問《ユフケトヒ》、云々、○歌(ノ)意は、杖をつきてなりとも、つかずになりとも、夫(ノ)君を慕ひ尋ねて、行べきなれども、夫(ノ)君が、歸來まさむ道と吾行道と、違はむほどの、しられぬ事、となり、
 
3320 直不往《タゞニユカズ》。此從巨勢道柄《コユコセヂカラ》。石瀬蹈《イハセフミ》。求曾吾來《モトメソアガコシ》。戀而爲便奈見《コヒテスベナミ》。
 
直不往《タヾニユカズ》は、直道を經ず、廻(リ)道をして來りし謂なり、○求《モトメ》は、尋《タヅネ》と云に同じ、○歌(ノ)意は、君を戀しく(557)思ふ心のすべなさのあまりに、早く來らむとは思へども、直道を來らば、君と道路《ミチナミ》の違ひやせむ、と思ふが故に、君が通りに、歸來まさむとおぼしき方へ廻(リ)道をして、艱難《カラク》して尋ねてぞ來し、となるべし、本居氏云、上に道の知なくとみつれども、なほ思ひかねて、出立行てよめるなるべし、(岡部氏は、上の長歌と、杖衝毛云々の反歌まで、女の贈る歌なり、此(ノ)次に、男の答の長歌は落て、直不往云々の反歌のみ殘りしものなり、さて次の左夜深而云々より二首は、別の贈答なりと云り、)此(ノ)歌、上に出たるには、意|少《イサヽカ》異《カカハ》れり、彼處に委(ク)註り、○右長短三首は、女の問たる意なり、○此間に、男の答(ヘ)たる、長歌短歌などのあるべきが、脱たるにや、
 
3321 左夜深而《サヨフケテ》。今者明奴登《イマハアケヌト》。開戸手《トヒラキテ》。木部行君乎《キヘユクキミヲ》。何時可將待《イツトカマタム》。
 
何時可將待《イツトカマタム》、拾穗本に、將待を得待と作るに從(ラ)ば、イツカマチエム〔七字右○〕と訓べきか、○歌(ノ)意は、夜更行て曉になりぬ、さらば今はとて、戸を開き立出て、紀伊へ行君を、いつかへり來まさむとて待て居むぞ、となり、今按(フ)に、此(ノ)歌は、右の男の紀伊(ノ)國へ出立時す、女の作《ヨメ》るなるべし、然れば、右の長歌より前にあるべきを、反歌に並載たるは、混ひたるなるべし、(契冲が、夜にいりてもかへるやと、待ふかして明ぬれば、いとゞはやく戸を開て、待こゝろなり、といへるは、非ず、)○右一首は、女の問たる意なり、○次(ノ)歌は男の答(ヘ)たるなり、
 
3322 門座《カドニヲル》。郎子内爾《ヲトメハウチニ》。雖至《イタルトモ》。痛之戀者《イタクシコヒバ》。今還金《イマカヘリコム》。
 
(558)門座《カドニヲル》は、男を見送るとてなり、○郎子は、娘子の誤なり、○今還金《イマカヘリコム》は、今は、俗に追付、と云意なり、源氏物語末採花に、今心のどかにを、紅葉(ノ)賀に、いまきこえむ思ひながらぞや、野分に、いまこの頃のほどにまゐらせむ、寄生に、よろづは今さぶらひてなむ、などあるに同じ、金は將v來《コム》の二合假字なり、○歌(ノ)意は、我を見送るとて、をとめの門に立出て居しが、我(ガ)立出て、道の間遠く隔りて、見えずなりなば、娘子もまた内にかへり入べし、たとひ内に入とも、安き心もなく、いたく吾を戀慕ふとならば、追付我も立歸りこむとなるべし、末(ノ)句は、行平(ノ)朝臣の、まつとしきかば今歸り來む、といふに似たり、○略解に、門まで送れる女の、わが屋の内へ歸り入ほどの暫の間なりとも、といふ意か、と云るは、いかゞ、
 
右五首《ミギイツウタ》。
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、
 
譬喩歌《タトヘウタ》。
 
此(ノ)間に、拾穗本には、一首作者未詳、といふ六字あり、
 
3323 師名立《シナタツ》。都久麻左野方《ツクマサヌカタ》。息長之《オキナガノ》。遠智能小菅《ヲチノコスゲ》。不連爾《アマナクニ》。伊苅持來《イカリモチキ》。不敷爾《シカナクニ》。伊苅持來而《イカリモチキテ》。置而《オキテ》。吾乎令偲《アレヲシヌハス》。息長之《オキナガノ》。遠智能子菅《ヲチノコスゲ》。
 
師名立は、シナタツ〔四字右○〕と訓べし、自《オラ》此(ノ)地形の、階立たるをいふべし、(級照《シナテル》といふとは別なり、思ひ
(559)混ふべからず、)○都久麻左野方《ツクマサヌカタ》は、近江(ノ)國坂田(ノ)郡筑摩の地の狹額田《サヌカタ》なり、三(ノ)卷に、託馬野爾生流紫《ツクマヌニオフルムラサキ》云々、十(ノ)卷に、狹野方波實爾雖不成《サヌカタハミニナラズトモ》云々、又、沙額田乃野邊乃秋芽子《サヌカタノヌヘノアキハギ》云々、○息長《オキナガ》は、諸陵式に、息長(ノ)墓、(舒明天皇之祖母、名(ヲ)曰2廣姫(ト)1、在2近江(ノ)國坂田(ノ)郡(ニ)1、)廿(ノ)卷に、爾保杼里乃於吉奈我河波半《ニホドリノオキナガガハハ》云云、天武天皇(ノ)紀に、息長(ノ)横河、(續紀十三に、坂田(ノ)郡横河(ノ)頓宮、)更科日記に、不破(ノ)關、あつみ山などこえて、近江(ノ)國おきながと云人の家にやどり、云々、東大寺古文書に、近江(ノ)國坂田(ノ)莊息長(ノ)莊、○遠智能小菅《ヲチノコスゲ》は、遠智は、息長の内にある地(ノ)名なり、七(ノ)卷に、眞珠付越能管原吾不苅人之苅卷惜菅原《マタマツクヲチノスガハラアガカラズヒトノカラマクヲシキスガハラ》、とよめると、同所なるべし、菅の名あるところなり、小菅は、女を譬へたるなり、女を菅に譬へたること、集中には、右に引る七(ノ)卷なると、又三(ノ)卷に、足日木能石根許其思美菅根乎引者難三等標耳曾結焉《アシヒキノイハネコゴシミスガノネヲヒカバカタミトシメノミソユフ》、又七(ノ)卷に、橋立倉橋川河靜菅余苅笠裳不編川靜管《ハシタテノクラハシガハノカハノシヅスゲアガカリテカサニモアマズカハノシヅスゲ》、十一に、眞野池之小菅乎笠爾不縫爲而人之遠名乎可立物可《マヌノイケノコスゲヲカサニヌハズシテヒトノトホナヲタツベキモノカ》、又、垣津旗開沼之菅乎笠爾縫將着日乎待爾年曾經二來《カキツハタサキヌノスゲヲカサニヌヒキムヒヲマツニトシソヘニケル》、又、臨照難波菅笠置古之後者誰將著笠有魚國《オシテルナニハスガカサオキフルシノチハタガキムカサナラナクニ》、又、三島菅未苗在時待者不著也將成三島菅笠《ミシマスゲイマダナヘナリトキマタバキズヤナリナムミシマスガカサ》、又、三吉野之水具麻我菅乎不編爾苅耳刈而將亂跡也《ミヨシヌノミグマガスゲヲアマナクニカリノミカリテミダリナムトヤ》、十四に、宇奈波良乃根夜波良古須氣安麻多阿禮婆伎美波和須良酒和禮和須流禮夜《マウナハラノネヤハラコスゲアマタアレバキミハワスラスワレワスルレヤ》、など見ゆ、こは古事記仁徳天皇(ノ)大御歌に、夜多能比登母登須宜波《ヤタノヒトモトスゲハ》、古母多受多知迦阿禮那牟阿多良須賀波良《コモタズタチカアレナムアタラスガハラ》、許登袁許曾須宜波良登伊波米阿多良須賀志賣《コトヲコソスゲハラトイハメアタラスガシメ》、とあるは、八田(ノ)若郎女を、比(へ)賜へるに本づきて、ひろく女を譬ふる事にな(560)れるなるべし、○不連爾《アマナクニ》は、笠に編ぬことなるを、といふなり、さて此(ノ)一句は、次の伊苅持來《イカリモチキ》の句の下に、めぐらしてきくべし、○伊苅《イカリ》の伊《イ》は、二(ツ)ながらをへ言《コトバ》なり、○不敷爾《シカナクニ》は、薦に編て敷(カ)ぬことなるを、といふなり、此(ノ)一句も、次の伊苅持來而《イカリモチキテ》の句の下に、めぐらしてきくべし、○伊苅持來而《イカリモチキテ》、以上四句は、伊苅持來不連爾《イカリモチキアマナクニ》、伊苅持來而不敷爾《イカリモチキテシカナクニ》、といふ意なるを、故《コトサラ》に句を倒置《オキカヘ》て、調《シラベ》をとゝのへたるなり、(さらずば、連なくに苅持來、敷なくに苅持來、と云こと、いかゞなればなり、)○置而《オキテ》、(谷(ノ)眞潮翁云(ク)、置の上に、東(ノ)字脱たるなるべし、シカネオキテ〔六字右○〕とあるべし、と云り、余もさきには、さることゝ思へりしかども、あらず、猶もとのまゝにて宜し、)三言一句なり、例多し、○息高之《オキナガノ》云々、と未に二(タ)たび云るは、其(ノ)ことを深く歎くにつきて、反復《ウチカヘ》したるなり、○子菅、拾穗本には、小菅と作り、○歌(ノ)意は、未(タ)よごゝろつかざるほどの幼き女を、小菅にたとへたりときこえたり、さてその小菅の生さき、いかにうるはしからむとは思へども、未(タ)刈持來て笠に編(ミ)薦に編て、敷べきほどにいたらざれば、そのまゝ置て、生たたむほどをまちをるに、もし他人に刈(ラ)れなどしては、安からぬことゝ思ふに、かにかくに吾(ガ)心を煩はす小菅ぞ、と云るなるべし、不連爾《アマナクニ》、不敷爾《シカナクニ》も、己妻となして、未(タ)相宿する時にも至らぬ、幼女なるを、と云意を、たとへたるなり、(略解に、此(ノ)女の我に隨ふさまながら、逢事もなきをなげくなり、と云るはわろし、)
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
(561)此(ノ)三字、拾穗本にはなし、
 
挽歌《カナシミウタ》。
 
此間に、拾穗本には、一首井短歌作者未許、といふ九字あり、契冲云、此(ノ)歌以下三首は、高市(ノ)皇子(ノ)尊薨賜ひて後、よみて傷奉る歌なり、第二に、人麻呂のいたみ奉れる歌あり、たがひに見べし、
 
3324 挂纏毛《カケマクモ》。文恐《アヤニカシコシ》。藤原《フヂハラノ》。王都志彌美爾《ミヤコシミミニ》。人下《ヒトハシモ》。滿雖有《ミチテアレドモ》。君下《キミハシモ》。大座常《オホクイマセド》。往向《ユキカハル》。年緒長《トシノヲナガク》。仕來《ツカヘコシ》。君之御門乎《ミキガミカドヲ》。如天《アメノゴト》。仰而見乍《アフギテミツヽ》。雖畏《カシコケド》。思憑而《オモヒタノミテ》。何時可聞《イツシカモ》。吾王之〔三字各右○〕《ワガオホキミノ》。天下〔二字各右○〕《アメノシタ》。曰足座而《シロシイマシテ》。十五月之《モチヅキノ》。多田波思家武登《タタハシケムト》。吾思《アガモヘル》。皇子命者《ミコノミコトハ》。春避者《ハルサレバ》。殖槻於之《ウヱツキガウヘノ》。遠人《トホツヒト》。待之下道湯《マツノシタヂユ》。登之而《ノボラシテ》。國見所遊《クニミアソバシ》。九月之《ナガツキノ》。四具禮之秋者《シグレノアキハ》。大殿之《オホトノノ》。砌志美彌爾《ミギリシミミニ》。露負而《ツユオヒテ》。靡芽子乎《ナビケルハギヲ》。珠手次《タマタスキ》。懸而所偲《カケテシヌハシ》。三雪零《ミユキフル》。冬朝者《フユノアシタハ》。刺楊《サシヤナギ》。根張梓矣《ネバリアヅサヲ》。御手二《オホミテニ》。所取賜而《トラシタマヒテ》。所遊《アソバシヽ》。我王矣《ワガオホキミヲ》。煙立《ケブリタツ》。春日暮《ハルノヒクラシ》。喚犬追馬鏡《マソカヾミ》。雖見不飽者《ミレドアカネバ》。萬歳《ヨロヅヨニ》。如是霜欲得常《カクシモガモト》。大船之《オホブネノ》。憑有時爾《タノメルトキニ》。涙言《アガナミダ》。目鴨迷《メカモマドハス》。大殿矣《オホトノヲ》。振放見者《フリサケミレバ》。白細布《シロタヘニ》。飾奉而《カザリマツリテ》。内日刺《ウチヒサス》。宮舍人方《ミヤノトネリハ》。雪穗《タヘノホノ》。麻衣服者《アサキヌケルハ》。夢鴨《イメカモ》。現前鴨跡《ウツツカモト》。雲入夜之《クモリヨノ》。迷間《マドヘルホトニ》。朝裳吉《アサモヨシ》。城於道從《キノヘノミチユ》。角障經《ツヌサハフ》。石村乎見乍《イハレヲミツヽ》。神葬《カムハフリ》。葬奉者《ハフリマツレバ》。往道之《ユクミチノ》。田付※[口+立刀]不知《タヅキヲシラニ》。雖思《オモヘドモ》。印乎無見《シルシヲナミ》。雖嘆《ナゲケドモ》。奧香乎無見《オクカヲナミ》。御袖往《ミソデモチ》。觸之松矣《フリシマツヲ》。言不問《コトトハヌ》。木雖在《キニハアレドモ》。荒玉之《アラタマノ》。立月毎《タツツキゴトニ》。天原《アマノハラ》。振放見管《フリサケミツヽ》。珠手次《タマタスキ》。懸而思名《カケテシヌハナ》。雖恐有《カシコカレドモ》。
 
(562)挂(ノ)字、拾穗本には掛と作り、○王都志彌美爾《ミヤコシミミニ》は、主都《ミヤコ》も繁森《シミモリ》に、といふなり、(志彌美《シミミ》は、繁々《シミ/\》の略なり、と云説は、いさゝかわろし、)繁く透間なき、といふ言なり、十二に、萱草垣毛繁森雖殖《ワスレグサカキモシミミニウヱタレド》、とあり、十一に、家人者路毛四美三荷雖往來《イヘヒトハミチモシミミニカヨヘドモ》云々、なほ委く、三(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)女郎(ガ)悲2歎尼理願(ガ)死去(ヲ)1歌に、内日刺京思美彌爾里家者左波爾雖在《ウチヒサスミヤコシミミニサトイヘハサハニアレドモ》、云々とあるにつきて云り、披(キ)見べし、○人下《ヒトハシモ》は、下《シモ》は借(リ)字、之毛《シモ》は、數ある物の中を取出て云辭なり、次の君下《キミハシモ》も同じ、○滿雖有《ミチテアレドモ》、廿(ノ)卷に、比等波佐爾美知弖波安禮杼《ヒトサハニミチテハアレド》、四(ノ)卷に、人多爾國爾波滿而《ヒトサハニクニニハミチテ》云々、○大座常は、オホクイマセド〔七字右○〕と訓たるに從べし、(岡部氏が、オホマシマセド〔七字右○〕と訓て、おはしますと云は、大ましますの略なり、と云るはわろし、)此(ノ)時、皇子等は、多く、其(ノ)外にも座(シ)ませども、と云なり、○徃向は、いと心得がたきにつきて考(フ)るに、向は、易の誤寫にぞあるべき、草書にて、向易混ぬべし、さらば、ユキカハル〔五字右○〕と訓べし、十八に、徃更年能波其登爾《ユキカハルトシノハゴトニ》、十九に、去更年緒奈我久《ユキカハルトシノヲナガク》、などあるを思ふべし、(今一(ツ)には、向は回の誤にもあるべし、さらばユキカヘル〔五字右○〕と訓べし、六(ノ)卷に、往回雖見將飽八《ユキカヘリミトモアカメヤ》、とみゆ、さて年に回《カヘル》と云るは、十七に、荒璞能登之由吉我弊利《アラタマノトシユキガヘリ》、十八に、安良多末能等之由吉我弊理《アラタマノトシユキガヘリ》、廿(ノ)卷に、安良多末能等之由伎我敝理《アラタマノトシユキガヘリ》、など見えたり、但しこれらの年往回《トシユキカヘリ》は、一年の暮て、又の年に立回るを云て、數年のうへにては、往更《ユキカハル》と云ぞ定(リ)と見えたれば、猶初の説によるべきなり、(略解に、往向を、ユキムカヒ〔五字右○〕と訓て、外にも君はませども、わきて此(ノ)君に心よせて、仕(ヘ)奉るよしなりと、本居氏の(563)説るよし云れど、いとわろし、)○仕來は、ツカヘコシ〔五字右○〕と訓べし、(ツカヘキテ〔五字右○〕と訓るは、甚よろしからず、)○如天《アメノゴト》は、二(ノ)卷、高市(ノ)皇子(ノ)尊殯宮之時(ノ)歌に、天之如振放見乍《アメノゴトフリサケミツヽ》、○何時可聞《イツシカモ》は、五卷、戀2男子名(ハ)古日(ヲ)1歌に、何時可毛比等等奈理伊弖《イツシカモヒトトナリイデテ》、天安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》、大船乃於毛比多能無爾《オホブネノオモヒタノムニ》、とあると、同じ語勢なり、○吾王之天下《ワガオホキミノアメノシタ》の二句は、必(ズ)あるべきが、舊本には落たるなるべし、故(レ)此(ノ)五字を、姑(ク)補加へたり、猶次に云を見て、必(ス)無ては叶はぬことを知るべし、○曰足座而は、(舊訓に、イヒタラマシテ〔七字右○〕とあるにつきて、契冲が、皇子(ノ)尊とは申せども、いまだみかどにおはしまさねば、いつか高みくらにのぼらせ賜ひて、天子といひたらはさむ、と思ひしを云り、と云るは、論(フ)に足(ラ)ず、又岡部氏が、曰は日の誤として、ヒタラシマシテ〔七字右○〕と訓るにつきて、世の萬葉學者も、皆うべなひ居る由なれど、甘心《ウケ》がたし、但し日足と云ことは、古事記、本牟智和氣《ホムチワケノ》御子生れませる時の詔に、何爲日足奉《イカニシテヒタシマツラム》、答白、取2御母(ヲ)1、定(テ)2大湯座若湯座(ヲ)1、宜(シ)2日足奉《ヒタシマツル》1云々、とありて、生(ル)子の日を足すを云ことなれば、何かは彼(ノ)説にもとるべき、とおもふ人も、あるべければ、なほ云べし、抑此(ノ)歌、上には既く年緒長仕來《トシノヲナガクツカヘコシ》と云(ヒ)、下に根張梓矣御手爾所取賜而《ネハリアヅサヲオホミテニトラシタマヒテ》云々、と云るなど、いと稚くまします時の事として、通《キコ》ゆべき理のあるべしやは、かへすがへすも、前後のおもむきを熟(ク)考(ヘ)見べし、其(ノ)上(ヘ)高市(ノ)皇子(ノ)尊とする時は、御年四十餘歳にして薨給へる趣なるをや、故(レ)つら/\思ひめぐらすに、以前の二句は、舊本に必(ズ》脱しこと著し、)曰足は、白之の誤寫にぞあ(564)るべき、草書にて、白之と作るを、曰足と見誤りしものならむ、さらばシロシイマシテ〔七字右○〕と訓べし、六(ノ)卷に、阿禮座御子之嗣繼《アレマシヽミコノツギツギアメノシタシロシマサムト》、天下所知座跡《》云々、とあり、さて白を知の借(リ)字にせるは、二(ノ)卷に、無知《シラナク》を白鳴《シラナク》と書たる此なり、なほ餘にもあり、かくて今の意は、此(ノ)吾(ガ)王皇子(ノ)尊の、何時しかも天津日嗣の高御座に登らせ賜ひ、天下所知座して、大御惠の、四方八方に滿湛しからむと、思憑み仰待奉れるよしなり、二(ノ)卷日並(ノ)皇子(ノ)尊殯宮之時(ノ)歌に、吾王皇子之命之《ワガオホキミミコノミコトノ》、天下所知食世者《アメノシタシロシメシセバ》、春花之貴在等《ハルハナノタフトカラムト》、望月乃滿波之計武跡《モチツキノタヽハシケムト》、天下四方之人乃《アメノシタヨモノヒトノ》、大船之思憑而《オホブネノオモヒタノミテ》、天水仰而待爾《アマツミヅアフギテマツニ》云々、とあるに、いとよく似たり、○十五月之《モチツキノ》は、枕詞なり、五の下に、夜(ノ)字あるべきを、略て書り、(略解に、夜の字落しか、と云れど、本より略けるならむ、)○多田波思家武登《タタハシケムト》は、二(ノ)卷に、滿波之計武跡《タヽハシケムト》、と書るに同じ、○殖槻於《ウヱツキガウヘ》は、今昔物語に、敷下(ノ)郡植槻寺とあり、(今郡山に、植槻八幡宮ありとぞ、其は此(ノ)植槻より勸請せる神社には非ぬにや、尋べし、)神樂歌小前張に、植槻や田中の杜や、とあるも、同處なり、於《ウヘ》は、藤原之上《フヂハラノウヘ》など云(フ)上《ウヘ》に同じ、○遠人《トホツヒト》は、枕詞なり、既く五(ノ)卷に出つ、○待之下道湯《マツノシタヂユ》は、待《マツ》は借(リ)字にて、松なり、枕詞よりの屬には、待(ツ)意にとれり、下道《シタヂ》は、松の並生る其(ノ)下を行道なり、湯《ユ》は從《ユ》にて、乎《ヲ》と云が如し、○登之而《ノボラシテ》は、登而《ノボリテ》を延言(フ)なり、登賜而《ノボリタマヒテ》といふが如し、○國見所遊《クニミアソバシ》は、望國《クニミ》して、遊興《アソバ》したまひし、となり、國見は、一(ノ)卷に見えてより巳來、往々によめり、高(キ)處より國内を見放るを云(フ)古言なり、○四具禮之秋者《シグレノアキハ》は、※[雨/衆]雨《シグレ》の降(ル)秋者の意なり、露霜の降秋と云べき(565)を即(チ)露霜之秋と云ると同じ語例なり、○懸而所偲《カケテシヌハシ》は、御心にかけて賞愛《メデウツクシ》み賜ひし、と云なり、○刺楊《サシヤナギ》は、枕詞なり、刺木にしたる楊より、根の出來て張と云意に、張梓と云へ、云(ヒ)係たるなり、○根張梓《ネハリアヅサ》は、根《ネ》は、上の枕詞よりの屬に、云たるのみにて、張梓とは、即(チ)弓のことなり、梓(ノ)木は、弓の良材なるが故に、やがて弓を張梓とはいふなり、○御手二、契冲、此(ノ)上に大(ノ)字落たるにや、さらずとも、オホミテニ〔五字右○〕と訓べし、第二に、人丸の、此(ノ)皇子(ノ)尊をいたみたてまつらるゝ歌にも、大御手爾弓取持之《オホミテニユミトリモタシ》とよめり、と云り、○所遊《アソパシヽ》は、遊獵し給ひしを云(ヘ)り、凡て遊《アソブ》とは、廣く云稱なるが、其(ノ)中に、獵の方に云るは、古事記中(ツ)卷、雄略天皇(ノ)大御歌に、夜須美斯志和賀意富岐美能《ヤスミシシワガオホキミノ》、阿蘇婆志斯志斯能夜美斯志能《アソバシシシシノヤミシシノ》云々、同記上(ツ)卷に、鳥遊《トリノアソビ》とあるも、鳥を狩ることなり、又うつぼ物語に、夕射る事を、あそばすと云ることも見ゆ、(又宇律保物語萬歳樂に、これに御手ひとつあそばして、鬼にかませ給へときこえたまへば云々、源氏物語若紫に、僧都|琴《キム》をみづからもてまゐりて、これたゞ御手ひとつあそばして、おなじくは山の鳥も、おどろかし侍らむと、せちにきこえたまへば云々、これらは琴を彈ことを、あそばすと云り、又大和物語に、みかど、立田川紅葉みだれてながるめりわたらばにしき中やたえなむ、とぞあそばしたりける、とあるは、御歌よみし給ふことをいへり、いづれも遊興のすぢを、尊者の爲給ふことを、阿蘇婆須《アソバス》といへり、今(ノ)俗に、何事にても、尊者の爲給ふことを遊婆須《アソバス》と云も、此(レ)より轉れることながら、ひろ(566)く何事にも云ることは、古(ヘ)にはきこえず、)○王の下矣(ノ)字、拾穗本には乎と作り、○煙立《ケブリタツ》(煙(ノ)字、古寫本、拾穗本等には烟と作り、)は、霞立といふに同じ、霞を煙と云る例あり、源氏物語若紫に、後(ロ)の山に立出て、京の方を見たまふに、遙に霞みわたりて、四方の梢、そこはかとなうけぶり渡れるほど云々、とあるも、霞渡れると云に同じ、(熊孺登(カ)詩に、山頭水色薄籠v煙(ヲ)、とあれば、漢國にても、霞を烟と云りときこゆ、)○春日暮は、ハルノヒクラシ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、ハルヒノクレニ〔七字右○〕と訓たるは、いとわろし、)長き春日の暮るまで、見奉れども飽ぬよしなり、○喚大追馬鏡《マソカヾミ》は、枕詞なり、二(ノ)卷明日香(ノ)皇女(ノ)殯宮之時(ノ)歌に、鏡成雖見不厭《カゞミナスミレドモアカニ》、○萬歳《ヨロヅヨニ》云々、二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊殯宮之時(ノ)歌に、萬代然之毛將有登《ヨロヅヨニシカシモアラムト》、木綿花乃榮時爾《ユフハナノサカユルトキニ》云々、○涙言、(涙(ノ)字、古寫本に度と作るは誤なり、又言の下、一本に可(ノ)字あるもわろし、)は、本居氏、言涙の下上になれるなり、と云り、アガナミダ〔五字右○〕と訓べし、わがなみだが、目を迷はすにや、と云るなり、(岡部氏は、此(ノ)二字は、流言《オヨヅレ》か妖言《マガコト》かの誤なり、およづれことにて有か、又吾(ガ)目の見まどひにやといふなり、言(ノ)下に、歟(ノ)一字落しならむ、と云り、されどなほ上の説によるべし、)言(ノ)字、アガ〔二字右○〕と訓ること、集中に往々見ゆ、欽明天皇(ノ)紀に、言《アレ》念(フ)(詩傳に、言(ハ)我也、)○目鴨迷は、メカモマドハス〔七字右○〕と訓べし、吾(カ)哭(ク)涙が、目を迷はすにや、と云意なり、(メカモマヨヘル〔七字右○〕とよみては、よろしからず、)○白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》は、白布して殯宮を飾れるを云なるべし、二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊殯宮之時(ノ)歌に、吾王皇子之御門乎《ワガオホキミミコノミカドヲ》、神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》、遣使御門之人(567)毛《ツカハシヽミカドノヒトモ》、白妙之麻衣著《シロタヘノアサコロモケシ》、○宮舍人方《ミヤノトネリハ》の下、舊本に、一云者 と註せり、○雪穗《タヘノホ》は、一(ノ)卷に、栲乃穗爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》、とあり、多閇《タヘ》とは、本(ト)白布の名にて、やがて白き物をば、何にても多閇《タヘ》と云より、十一には、しきたへと云に、敷白とも書り、故(レ)今も雪(ノ)字を書て、義を借れり、穗《ホ》とは、目に立ことをいふ、○麻衣服者は、アサキヌケルハ〔七字右○〕と訓べし、古(ヘ)喪服には、白麻衣《シロアサキヌ》を用ひしこと、既く二(ノ)卷に、書紀を引て具(ク)云り、○雲入夜之《クモリヨノ》は、枕詞なり、くもり夜には、行さき見えずして、道を蹈(ミ)迷ふ故に、かく屬けたり、○迷間は、マドヘルホトニ〔七字右○〕と訓べし、(間をハシ〔二字右○〕と訓むは、こゝにてはわろし、)○朝裳吉《アサモヨシ》は、枕詞なり、既く具(ク)云り、二(ノ)卷に、朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノヘノミヤヲ》、常宮等高之奉而《トコミヤトサダメマツリテ》、○城於道從は、キノヘノミチユ〔七字右○〕と訓べし、二(ノ)卷に、高市(ノ)皇子(ノ)尊城上(ノ)殯宮とある、即(チ)是なり、諸陵式に、三立《ミタチ)》岡、(高市(ノ)皇子、在2大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡1、兆域東西六町南北四町、無2守戸1、)と見えて、城(ノ)上は、其(ノ)地の大名なるべし、かくて城(ノ)於《ヘ》に葬(リ)奉れるなるに、此《コヽ》に城於道從角障經石村乎見乍《キノヘノミチユツヌサハフイハレヲミツヽ》、とあるは、いかにぞやおもはるれども、しからず、此は城(ノ)於の方へ行道を、城於(ノ)道と云(ヘ)ば、其(ノ)道より、と云なり、京の方へ行道を京道《ミヤコヂ》、東の方へ行道を東道《アヅマヂ》と云にて、心得べし、○田付※[口+立刀]不知《タヅキヲシラニ》(※[口+立刀](ノ)字、拾穗本には呼と作り、)は、寄(リ)著べき便をしらずに、といふなり、○印乎無見《シルシヲナミ》は、益《シルシ》の無(キ)故にの意なり、○嘆(ノ)字、拾穗本には歎と作り、○奥香乎無見《オクカヲナミ》は、奥底の無(キ)故にの意なり、嘆息の至極なきよしなり、○御袖往は、往は持の寫誤なるべし、さらば、ミソテモチ〔五字右○〕と訓べし、○觸之松矣は、フリテシマツヲ〔七字右○〕と訓べし、上に、遠(568)人待之下道湯《トホツヒトマツノシタヂユ》、とある、其(ノ)松なり、○言不問木雖在《コトトハヌキニハアレドモ》、(言の下、一本に可(ノ)字あるはわろし、木(ノ)字、校本に、官本作v松、とあり、こはいとわろし、)五(ノ)卷梧桐(ノ)日本琴をよめる歌に、許等等波奴樹爾汝安里等母宇流波之吉伎美我多奈禮能許等爾之安流倍志《コトトハヌキニハアリトモウルハシキキミガタナレノコトニシアルベシ》、○立月毎《タツツキゴトニ》は、今より後のなり、十五に、伎美乎於毛比安我古非万久波安良多麻乃多都追奇其等爾與久流日毛安良自《キミヲオモヒアガコヒマクハアラタマノタツツキゴトニヨクルヒモアラジ》、と見ゆ、月毎とは云れど、實には年々月々日々ごとになり、○天原《アマノハラ》は、天(ノ)原を仰(キ)見る如くに、といふなり、○振放見管《フリサケミツヽ》は、右の松を、皇子(ノ)尊を見奉るやうに、仰(ギ)見るよしなり、三(ノ)卷博通法師(ガ)歌に、石室戸爾立在松樹汝乎見者昔人乎相見如之《イハヤトニタテルマツノキナヲミレバムカシノヒトヲアヒミルゴトシ》、○珠手次《タマタスキ》云々は、二(ノ)卷に、作良志之香來山之宮《ツクラシシカグヤマノミヤ》、萬代爾過牟登念哉《ヨロヅヨニスギムトモヘヤ》、天之如振放見乍《アメノゴトフリサケミツヽ》、玉手次懸而將偲恐有騰文《タマタスキカケテシヌハムカシコカレドモ》、とあるに同じ、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3325 角障經《ツヌサハフ》。。石村山丹《イハレノヤマニ》。白栲《シロタヘニ》。懸有雲者《カヽレルクモハ》。皇可聞《オホキミロカモ》。
 
石村山《イハレノヤマ》は、葬(リ)奉れる山には非ねども、城(ノ)於に隣りたる地の、高き山なれば、雲の懸れるまゝ、やがて其を見てよめるなり、○皇可聞は、皇の下に、呂(ノ)字脱たるなるべし、オホキミロカモ〔七字右○〕と訓べし、古事記仁徳天皇(ノ)大后(ノ)御歌に、比呂理伊麻須波淤富岐美呂迦母《ヒロリイマスハオホキミロカモ》、岡部氏は、皇は、吾王の二字を、一字に誤れるなるべし、一本には、星に誤しもあれば、本より亂れしなり、と云り、○歌(ノ)意は、石村(ノ)山に、眞白くかゝりたる雲は、彼や即(チ)吾(ガ)皇、皇子(ノ)命にておはしますらむ、さてもいたは(569)しや、となり、皇極天皇(ノ)紀に、皇孫建王の薨給へるを、かなしみたまへる大御歌に、伊磨紀那屡乎武例我禹杯爾倶謀娜尼母《イマキナルヲムレガウヘニクモダニモ》、旨屡倶之多々婆那爾柯那皚柯武《シルクシタヽバナニカナゲカム》、とあり、今(ノ)歌は、其の立る雲を見て、やがて、皇子(ノ)尊ならむ、と云り、又三(ノ)卷に、隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟《コモリクノハツセノヤマノヤマノマニイサヨフクモハイモニカモアラム》、ともよめり、(但しこれは、士形(ノ)娘子を、泊瀬山に火葬せる時の歌なれば、火葬の煙を云るなり、今(ノ)歌は、直に雲を見て、よめるなるべし、)
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、といふ六字あり、
 
3326 磯城島之《シキシマノ》。日本國爾《ヤマトノクニニ》。何方《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ》。津禮毛無《ツレモナキ》。城上宮爾《キノヘノミヤニ》。大殿乎《オホトノヲ》。都可倍奉而《ツカヘマツリテ》。殿隱《トノゴモリ》。隱在者《コモリイマセバ》。朝者《アシタニハ》。召而使《メシテツカハシ》。夕者《ユフヘニハ》。召而使《メシテツカハシ》。遣之《ツカハシシ》。舍人之子等者《トネリノコラハ》。行鳥之《ユクトリノ》。群而待《ムレテサモアヒ》。有雖待《アリマテド》。不召賜者《メシタマハネバ》。劔刀《ツルギタチ》。磨之心乎《トギシコヽロヲ》。天雲爾《アマクモニ》。念散之《オモヒハフラシ》。展轉《コイマロビ》。土打哭杼母《ヒヅチナケドモ》。飽不足可聞《アキタラヌカモ》。
 
磯城島之《シキシマノ》(磯(ノ)字、拾穗本には、礒と作り、)は、日本《ヤマト》の枕詞の如し、既く九(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云るを、披(キ)見て合(セ)考(フ)べし、○日本國爾《ヤマトノクニニ》は、大和一國になり、(天(ノ)下の惣名を云(フ)日本にはあらず、)さてこゝは、大和(ノ)國なるに、と云意に云るか、何一(ツ)足《アカ》ぬことなき大和(ノ)國なるに、いかさまに、おもほしめしたまへばにや、と云意に、つゞきたればなり、思ふに、爾は、もしは乎(ノ)字にてもありしならむか、日本國(570)乎《ヤマトノクニヲ》とあるときは、大和(ノ)國なるものを、と云意にて、理さだかなり、○何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、此(ノ)下に、云々ありけむと云詞を、假に加(ヘ)てきくべし、さらでは、可《カ》の詞の結なくて、いかゞなり、いかさまにおもほしめしたまへばにや、云々ありけむ、と云意なればなり、その云々は、津禮毛無《ツレモナキ》云々、と云る、即(チ)それなり、一(ノ)卷人麻呂の、近江(ノ)舊都を過る時の歌にも、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、天離夷者雖不有《アマザカルヒナニハフラネド》、とあり、此も大和(ノ)國にて、何を足《アカ》ず、いかさまにおもほしめしたまへばにや、云々ありけむ、といふ意につゞきたり、なほ彼處に、委(ク)説り、○津禮毛無《ツレモナキ》、三(ノ)卷坂上(ノ)郎女が、新羅(ノ)尼理願を悲める歌に、何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》、都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマヘニ》、哭兒成慕來座而《ナクコナスシタヒキマシテ》、六(ノ)卷に、忍照難波乃國者《オシテルナニハノクニハアシ》、葦垣乃古郷跡《アシカキノフリニシサトヽ》、人皆之念息而《ヒトミナノオモヒヤスミテ》、都禮母爲有之間爾《ツレモナクアリシアヒダニ》、此(ノ)下に、家人乃將待物矣津煎裳無荒礒矣卷而偃有公鴨《イヘヒトノマツラムモノヲツレモナキアリソヲマキテフセルキミカモ》などあり、言の意は、連《ツレ》も無(キ)といふにて、ともなひよる人もなき謂なり、○城上宮《キノヘノミヤ》は、二(ノ)卷高市(ノ)皇子(ノ)尊城(ノ)上(ノ)殯(ノ)宮、とあるに同じくて、此も同皇子(ノ)尊の殯(ノ)宮のとき、舍人の中によみたる歌なること、契冲考の如し、○大殿乎都可倍奉而《オホトノヲツカヘマツリテ》は、殯(ノ)宮を造り仕(ヘ)奉りて、といふなり、(略解に、陵を造ることゝせるは、いみじきひがことなり、陵を、大殿とは、いかでか云べき、)○隱在者《コモリイマセバ》、(在(ノ)字、拾穗本には座と作り、)隱りおはしませば、といふなり、(去座《イニマセ》ばといふにはあらず、)○朝者《アシタニハ》云々は、皇子(ノ)尊の御在世のほど、朝夕左右に召て、遣(ハ)しゝを云り、○遣之《ツカハシヽ》は、二(ノ)卷(ノ)歌に、遣使御門之人毛《ツカハシヽミカドノヒトモ》、とあり、遣ひ賜ひし、と云なり、○行鳥之《ユクトリノ》は、群《ムレ》の枕詞なり、○群而待は、待は侍(ノ)字の誤(571)なりと云り、ムレテサモラヒ〔七字右○〕と訓べし、○有雖待《アリマテド》は、有(リ)々て絶ず待どの意なり、○不召賜者《メシタマハネバ》は、二(ノ)卷、日並(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)舍人(ガ)歌に、東乃多藝能御門爾雖伺侍昨日毛今日毛召言毛無《ヒムカシノタギノミカドニサモラヘドキノモケフモメスコトモナシ》、○劔刀《ツルギタチ》は、枕詞なり、○磨之心乎《トギシコヽロヲ》は、年の緒長く仕(ヘ)奉(リ)て、忠を盡さむと磨清めたる赤心を、と云なり、二十に、都流藝多知伊與餘刀具倍之《ツルギタチイヨヽトグベシ》、四(ノ)卷に、眞十鏡磨師志乎《マソカヾミトギシコヽロヲ》、○天雲爾念散之《アマクモニオモヒハブラシ》は、心を磨たてたるかひなければ、天雲の如くに、念ひ放ち散すなり、散《ハフル》は、源氏物語夕顔に、かゝる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ、赤石に、かくながら、身をはふらかしつるにや、と心ぼそうおほせど、などある、はふるに同じ、○展轉土打哭杼母《コイマロビヒヅチナケドモ》、三(ノ)卷安積(ノ)皇子の薨たまへる時、家持(ノ)卿(ノ)歌に、展轉泥土打雖泣將爲須便毛奈思《コイマロビヒヅチナケドモセムスベモナシ》、○飽不足可聞《アキタラヌカモ》、二(ノ)卷弓削(ノ)皇子の薨賜へる時、置始(ノ)東人(カ)歌に、臥居雖嘆飽不足香裳《フシヰナゲケドアキタラヌカモ》、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、又此間に、元暦本に、挽歌(ノ)二字一行あるは衍《アヤマ》れり、
 
3327 百小竹之《モヽシヌノ》。三野王《ミヌノオホキミ》。金厩《ニシノウマヤ》。立而飼駒《タテテカフコマ》。角厩《ヒムカシノウマヤ》。立而飼駒《タテテカフコマ》。草社者《クサコソハ》。取而飼旱《トリテカヒナメ》。水社者《ミヅコソハ》。※[手偏+邑]而飼旱《クミテカヒナメ》。何然《ナニシカモ》。大分青馬之《アシゲノウマノ》。鳴立鶴《イバエタチツル》。
 
百小竹之《モヽシヌノ》は、枕詞にて、百と多くの小竹の生る眞野《ミヌ》とかゝれるなるべし、小竹は必(ス)野に多く(572)生るものなればなり、白浪之濱《シラナミノハマ》と云て、白浪のよする濱てふ意に聞え、白管之眞野《シラスゲノマヌ》と云て、白管の生る眞野てふ意に聞ゆると、同(シ)類なり、猶此(ノ)事は既く一(ノ)卷に具く云り、披(キ)見て考べし、(冠辭考に、こは百と多くの、しなへたる草の蓑《ミヌ》とつゞきたり、小竹は、訓を借たるのみ、と云るは、いかにぞや、たヾ草を志奴《シヌ》といへる例もなく、小竹は字の如く、小き竹を云なるをや、又蓑は、美乃《ミノ》とも、爾乃《ニノ》ともいへれど、美奴《ミヌ》と云る事なし、)○三野王《ミヌノオホキミ》は、契冲云る如く、栗隈(ノ)王の子にて、諸兄公の父なり、書紀に、天武天皇元年六月辛酉朔壬午、詔2村國(ノ)連男依、和珥部(ノ)臣君手、身毛(ノ)君廣(ニ)1曰、今聞近江(ノ)朝廷之臣等、爲v朕(カ)謀(ル)v害(ヲ)、是以汝等三人、急(ニ)往2美濃(ノ)國(ニ)1云々、朕今|發路《ミチタヽム》、甲申、將v入v東(ニ)云云、遣2佐伯(ノ)連男(ヲ)於筑紫(ニ)1、遣2樟(ノ)使主磐手(ヲ)於吉備(ノ)國(ニ)1並令v興v兵(ヲ)云々、男至2筑紫1、時(ニ)栗隈(ノ)王承(ケ)v符(ヲ)對曰、云々、時(ニ)栗隈(ノ)王之二子、三野(ノ)王、武家(ノ)王、佩v劔(ヲ)立2于側(ニ)1而無v退(コト)、於是男|按《トリシバリ》v劔(ヲ)欲v進(ムト)、還恐v見v亡(サ)、故不v能v成(コト)v事(ヲ)而空還(リヌ)之、十年三月庚子朔丙戌、詔2云々三野(ノ)王云々(ニ)1、令v記2定帝紀及上古(ノ)諸事(ヲ)1、十一年三月甲午朔、命2小紫三野(ノ)王(ニ)1、遣2于新城(ニ)1今v見2其(ノ)地(ノ)形《アリカタヲ》1、仍將v都(ツクラムト)矣、十三年二月癸丑朔庚辰、是日遣2三野(ノ)王云々等(ヲ)於信濃(ニ)1、令v看2地(ノ)形《アリカタヲ》1、將v都2是地(ニ)1歟、閏四月壬午朔壬辰、三野(ノ)王等進2信濃(ノ)國之圖(ヲ)1、十四年九月甲辰朔甲寅、遣2云々彌努(ノ)王(ヲ)於京及畿内(ニ)1、各令v※[手偏+交]2人夫之兵(ヲ)1、持統天皇、八年九月壬午朔癸卯、以2淨廣肆三野(ノ)王(ヲ)1、拜2筑紫(ノ)太宰率(ニ)1、(天武天皇(ノ)紀に、美濃(ノ)王といふも見ゆ、これ同名異人なり、混べからず、)續記に、文武天皇、大寶元年十一月丙子、始任2造太幣司(ヲ)1、以2從五位下彌努(ノ)王云々(ヲ)1爲2長(573)官(ト)1、二年正月乙酉、正五位下美努(ノ)王爲2左京(ノ)大夫(ト)1、慶雲二年八月戊午、從四位下美努(ノ)王爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、元明天皇、和銅元年三月丙午、從四位下彌努(ノ)王爲2治部(ノ)卿(ト)1、五月辛酉、從四位下美努(ノ)王卒(ス)、孝謙天皇、天平寶字元年正月庚戌朔乙卯、前(ノ)左大臣正一位橘(ノ)朝臣諸兄薨(ス)云々、大臣贈從二位栗隈(ノ)王之孫、從四位下美弩(ノ)王之子也、と見えたり、○金厩《ニシノウマヤ》は、西(ノ)厩なり、五行を四方に配るときは、金は西に當れば、借て書り、十五に、家布毛可母美也故奈里世婆見麻久保里爾之能御馬屋之刀爾多弖良麻之《ケフモカモミヤコナリセバミマクホリニシノミマヤノトニタテラマシ》、これは右(ノ)馬寮を云るなり、○角厩《ヒムカシノウマヤ》は、東(ノ)厩なり、五聲を四方に配るときは、角は東にあたれば、借て書り、(左傳杜預(ガ)註に、青聲(ハ)角《ヒムカシ》、)○取而飼旱は、旱は甞の誤にて、トリテカヒナメ〔七字右○〕なるべし、と本居氏の云るぞよき、次なるも同じ、神樂歌に、そのこまや我に草こふ、草は取飼、水は取飼む、○大分青馬之は、アシゲノウマノ〔七字右○〕と訓り、(略解に、ヒタヲノコマ〔六字右○〕と訓るは、論(フ)に足ず、)和名抄に、毛詩註(ニ)云、騅(ハ)蒼白雜毛(ノ)馬也、漢語抄(ニ)云、騅馬(ハ)鼠毛也、爾雅註(ニ)云、※[草がんむり/炎]騅(ハ)青白如2※[草がんむり/炎]色(ノ)1也、今按(ニ)、※[草がんむり/炎](ハ)者蘆初(メテ)生也、俗云|葦毛《アシゲ》是(ナリ)、また説文(ニ)云、※[馬+怱](ハ)青白雜毛(ノ)馬也、漢語抄(ニ)云、※[馬+怱](ハ)青馬也、黄※[馬+怱]馬(ハ)葦花毛馬《アシノハナゲノウマ》也、日本紀私記(ニ)云、美太良乎之宇万《ミダラヲノウマ》、と見えたり、葦毛と云も、葦(ノ)花毛と云も同じことにて、青白雜毛なるを云なるべし、(拾遺集に、難波江の葦の花毛のまじれるは津(ノ)國飼の駒にやあるらむ、)さて其(ノ)青白の雜《マジ》れる中に、今少し青き方にかちたるよしにて、今は大分青馬と書たるにやあらむ、○鳴立鶴《イバエタチツル》、(鶴(ノ)字、古寫本に、鴨と作るは誤なり、)和名抄に、玉篇(ニ)云、嘶(ハ)馬(ノ)鳴也、訓2(574)以波由《イバユト》1、俗(ニ)云|以奈奈久《イナナク》、○歌(ノ)意は、三野(ノ)王の東西の厩を立て飼給ひし駒よ、今こそ己が主(ノ)君は、うせ賜ひたれども、草をほしくおもはゞ取て飼(ヒ)、水をほしく思はゞ汲て飼なむものを、何故に然のみ嘶立ぞと云て、いかさま草水をほしく思ふには非で、馬も主(ノ)君の失賜へる悲みに堪ずして、かく殊に嘶立ならむ、となり、馬は飲食のほしき時は、人を見て嘶え鳴ものなれば、かく云り、さて東西(ノ)厩を云るは、多くの馬の鳴立るよしなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3328 衣袖《コロモテヲ》。大分青馬之《アシゲノウマノ》。嘶音《イバエコヱ》。情有鳧《コヽロアレカモ》。常從異鳴《ツネユケニナク》。
 
衣袖は、枕詞なり、コロモテヲ〔五字右○〕と訓べし、阿志氣《アシゲ》と係れるは、(契冲、衣手の色の葦毛、とつゞけたるこゝろなり、と云るは、迂曲《モノドホ》きことにて、)衣袖を襲著《オソケ》と云るなるべし、(十四に、子等《コラ》が於曾伎《オソキ》とあるも、襲著《オソキ》なり、さて其は、表衣《ウハギ》を體に於曾伎《オソキ》といひ、今は襲《オソ》ひ著るといふ意に、用《ハタラ》かして云るなり、)於《オ》と阿《ア》と通ふは、集中に、母を於母《オモ》とも阿母《アモ》とも云るをはじめて、其(ノ)例なほ多かり、さてその於志《オシ》は、於曾比《オソヒ》と云に同じ、曾比《ソヒノ》切|志《シ》なり、又著を氣《ケ》と云は、集中に、蓋世流衣《ケセルコロモ》、とよめるをはじめて、例多し、さて衣手《ソテ》、衣袖《コロモテ》を、著ると云るは、古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、斯漏多閇能蘇弖岐蘇那布《シロタヘノソテキソナフ》、とある是なり、〇情有鳧《コヽロアレカモ》(鳧(ノ)字、拾穗本に鴨と作り、)は、情有《コヽロアレ》ばにやの意なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○常從異鳴《ツネユケニナク》は、常に異りて殊に鳴、となり、異なるを氣《ケ》と云ること多し、續紀廿六(575)詔にも、然此多比賜位冠方《サテコノタビタマフクラヰカヽフリハ》、常與利方異仁在《ツネヨリハケニアリ》、とあり、(新古今集に、曾根好忠、おきて見むと思ひしほどに枯にけり露よりけなる朝貌の花、とあるも、今の異《ケ》の言と、同じことゝはきこゆれど、いひざまいさゝか轉(ロ)ひたり、)○歌(ノ)意は、心あるまじき大分青馬《アシゲノウマ》も、主(ノ)君の別を、したひ奉る心のあればにや、常に異りて、殊に甚く鳴ならむ、さても悲しく憐なる聲や、となり、(荒木田氏(ノ)考あり、めづらしければ擧ぐ、金角厩と書て、ニシヒガシ〔五字右○〕とよめる、書ざまをおもふに、大分青馬の青も、ひがしの意に假れる字ならむ、しからば大分の二字も、泰の一字を誤れるものにて、泰は、爾雅に、西風を泰風といふ、と見えたれば、泰は、にしの意に假たる字にて、にしは右、ひがしは左なれば、ミキノウマヤ、ヒダリノウマヤ〔十三字右○〕云々、衣袖ノミギヒダノウマノ〔八字右○〕云々と訓べし、ひだりを、ひだとのみいふは、みぎりをみぎと云に同じ、と云り、しかれども、右はもとよりみぎとのみ云て、みぎりと云ることなく、左はひだりとのみ云て、ひだと云る例なし、されば此(ノ)説を、打きくにはめづらしくおもしろけれども、強解なるべし、)
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首作者未詳、と云六字あり、
 
3329 白雲之《シラクモノ》。棚曳國之《タナビククニノ》。青雲之《アヲクモノ》。向伏國乃《ムカブスクニノ》。天雲《アマクモノ》。下有人者《シタナルヒトハ》。妾耳鴨《アノミカモ》。君爾戀濫《キミニコフラム》。吾耳鴨《アレノミシ》。夫君爾戀禮薄《キミニコフレバ》。
 
(576)白雲之《シラクモノ》云々、向伏國乃《ムカブスクニノ》は、まづ白雲之棚曳國《シラクモノタナビククニ》とは、國あるかぎり、天《ソラ》に雲のたなびくよしにて云、青雲之向伏國《アヲグモノムカブスクニ》とは、青雲は即(チ)蒼天を云て、遙《ハルカ》に遠く望《ミヤ》れば、蒼天の、大地に向ひ伏たる如く見ゆるを云、古語にて、以上四句、落るところは、天(ノ)下國土の極と謂なり、さて青き雲はなければ、青雲は天のことなれど、雲といへるに因て、祝詞等には、たなびくとも云るなり、三(ノ)卷に、天雲乃向伏國《アマクモノムカブスクニノ》、五(ノ)卷に、阿麻久毛能牟迦夫須伎波美《アマクモノムカブスキハミ》、祈年祭成詞に、青雲能靄極《アヲクモノタナビクキハミ》、白雲乃墜坐向伏限《シラクモノオリヰムカブスカギリ》、など見ゆ、○天雲下有人者《アマクモノシタナルヒトハ》は、たゞ天(ノ)下に有(リ)とある人は、と云意なり、五(ノ)卷に、此照《コノテラ》す日月《ヒツキ》の下《シタ》はともよめり、○妾耳鴨君爾戀濫《アノミカモキミニコフラム》は、吾ばかり、かく君を戀しく思ふらむか、餘の人は、かくはあらじ、さても苦しや、との意なり、○吾耳鴨は、鴨は、師(ノ)字などにて有けむを、上の妾耳鴨に、ふと見まがへて、ゆくりなく寫し誤れるなるべし、鴨《カモ》とありては、下に禮薄《レバとあるに、たちまち叶はざればなり、さらばアレノミシ〔五字右○〕と訓べし、○此(ノ)歌、甚錯簡ありと見ゆるにつきて、よく考(フ)るに、以上十句は、全(ラ)相聞の詞なり、混れて此に入しなり、天地滿足《アメツチニミチタラハシテ》と云に連續《ツヾ》かず、故(レ)按(フ)に、天地《アメツチニ》と云より、入座戀乍《イリヰコヒツヽ》と云まで、三十四句は、挽歌なりしが、前後の句の落失たるより、まぎれ入たるなり、故(レ)次の三十四句をおきて、烏玉之黒髪敷而《ヌバタマノクロカミシキテ》云々、とつゞけて心得べし、
 
天地《アメツチニ》。滿言《ミチタラハシテ》。戀鴨《コフレカモ》。※[匈/月]之病有《ムネノヤメル》。念鴨《オモヘカモ》。意之痛《コヽロノイタキ》。妾戀叙《アガコヒゾ》。日爾異爾益《ヒニケニマサル》。何時橋物《イツハシモ》。不戀時等者《コヒヌトキトハ》。不有友《アラネドモ》。是九月乎《コノナガツキヲ》。吾背子之《ワガセコガ》。偲丹爲與得《シヌヒニセヨト》。千世爾物《チヨニモ》。偲渡登《シヌヒワタレト》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。(577)語都我部等《カタリツガヘト》。始而之《ハジメテシ》。此九月之《コノナガツキノ》。過莫乎《スギマクヲ》。伊多母爲使無見《イタモスベナミ》。荒玉之《アラタマノ》。月乃易者《ツキノカハレバ》。將爲須部乃《セムスベノ》。田度伎乎不知《タドキヲシラニ》。石根之《イハガネノ》。許凝敷道之《コゴシキミチノ》。石床之《イハトコノ》。根延門爾《ネハヘルカドニ》。朝庭《アシタニハ》。出居而嘆《イデヰテナゲキ》。夕庭《ユフベニハ》。入座戀乍《イリヰコヒツツ》。
 
滿言は、本居氏、言は足の誤にて、ミチタラハシテ〔七字右○〕ならむ、といへり、上にも、物部乃八十乃心呼天地二念足橋《モノヽフノヤソノコヽロヲアメツチニオモヒタラハシ》、とあり、○戀鴨《コフレカモ》は、戀ればにやの意なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○念鴨《オモヘカモ》は、念へばにやの意なり、毛《モ》は、上なるに同じ、○何時橋物《イツハシモ》は、橋は借(リ)字、何時者《イツハ》にて、之毛《シモ》は、數ある物の中を取(リ)出ていふ辭なり、十二に、何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハシモコヒズアリトハアラネドモウタテコノゴロコヒノシゲキモ》、(奈は志の誤なり、)十一に、何時不戀時雖不有夕方枉戀無乏《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモユフカタマケテコフハスベナシ》、古今集に、いつはとは時はわかねど秋の夜ぞ物思ふ事の限なりける、いつとても戀しからずはあらねども秋の夕はあやしかりけり、○是九月乎《コノナガツキヲ》云々は、此(ノ)歌、九月に、みまかれる人を悲めるにて、何時はと時はわかねども、此(ノ)後もことに、此(ノ)九月をば、常より殊(グ)れて、おもひ出にせよとて、と云なり、○語都我部等《カタリツガヘト》は、絶ず語繼(ゲ)よとて、となり、都我部《ツガヘ》は、都宜《ツゲ》の延りたるにて、(ガヘ〔三字右○〕の切ゲ〔右○〕、)引つゞきて、絶ず物せよ、といふ意なり、○始而之《ハジメテシ》とは、今より後々、語繼始にせよと、はじめたるよしにて、死たる月を云なり、○過莫乎《スギマクヲ》は、過去《スギ》む事を、と云が如し、○月乃易者《ツキノカハレバ》は、この新喪の九月の易り去ば、便るべきすべなく悲しさに、と云なり、○將爲須部乃《セムスベノ》より、入座戀乍《イリヰコヒツヽ》まで十句は、既く上(ノ)相聞(ノ)條(ノ)歌に出たり、其も(578)甚(ク)混れて、そこに出たるものなり、なほ彼處に云るを、引合(セ)て考(フ)べし、○石根之《イハガネノ》云々、古(ヘ)死人を葬りて、一周の間は、親族共、其(ノ)墓所にてやどれりしなり、さて古(ヘ)の墓の形は、まづ死骸をよきほどに埋めて、其(ノ)上に磐石を、疊(ミ)並て、其(ノ)奥方は、もとより岸などのある所をば、やがて其(ノ)岸にかたより、さもなき所は、別に磐石などかまへ、兩傍へは、別にまた磐石を構へ立(テ)、さてその兩傍に構へ立たる磐にもたせて、上には大石を掛わたして、いさゝかも、雨露の漏れざるやうにして、口の方は、人の出入の安さために明おきて、其(ノ)内に籠り居て、其(ノ)墓を守るやうに、したるものなり、今(ノ)世、諸國邊境に、塚穴《ツカアナ》とてあるもの、皆このさまにて、古(ヘ)の墓所なり、今昔物語に美濃(ノ)國へゆきける下衆男の、近江(ノ)國篠原と云所の野中にて、墓穴にやどれりしと云語のあるも、即(チ)この形したるものと見えたり、故(レ)こゝに、石床之根延門《イハトコノネハヘルカド》、とよめるなり、○出居而嘆《イデヰテナゲキ》(居(ノ)字、拾穗本には座と作り、校本に、官本居作v座、阿本同、とあり、)は、墓穴の内を出居て、嘆息《ナゲク》なり、○人座戀乍《イリヰコヒツヽ》は、墓穴の内に入居て、死《スギ》にし人を、戀しく思ひつゝ、となり、さて以上三十四句は、前に云如く、夫の墓所へ、妻などのやどり居るほど、悲(ミ)よめる歌なるが、句の多く落たるなり、故(レ)次の烏玉之《ヌバタマノ》云々へは、つゞくべからず、上に委(ク)云るが如し、
 
烏玉之《ヌバタマノ》。黒髪敷而《クロカミシキテ》。人寢《ヒトノヌル》。味寢者不宿爾《ウマイハネズニ》。大船之《オホブネノ》。行良行良爾《ユクラユクラニ》。思乍《オモヒツヽ》。吾寢夜等者《アガヌルヨラハ》。數物不敢鴨《ヨミモアヘヌカモ》。
 
(579)寢(ノ)字、元暦本には〓、拾穗本には寐と作り、下同じ、○數物不敢鴨《ヨミモアヘヌカモ》、(鴨(ノ)字、舊本に鳴と作るは誤なり、今は活字本に從つ、)上に出たるは、讀文將敢鴨《ヨミモアヘムカモ》、とあり、○以上九句は、上相聞條(ノ)歌に出たり、上に云る如く、烏玉之《ヌバタマノ》已下は、夫君爾戀禮薄《キミニコフレバ》の句に續くべし、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に拾穗本には、三首作者未詳、といふ六字あり、
 
3330 隱來之《コモリク》。長谷之川之《ハツセノカハノ》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》。下瀬爾《シモツセニ》。鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》。上瀬之《カミツセノ》。年魚矣令咋《アユヲクハシメ》。下瀬之《シモツセノ》。鮎矣令咋《アユヲクハシメ》。麗妹爾《クハシイモニ》。鮎遠惜《アユヲオシミ》。投左乃《ナグルサノ》。遠離居而《トホザカリヰテ》。思空《オモフソラ》。不安國《ヤスカラナクニ》。嘆空《ナゲクソラ》。不安國《ヤスカラナクニ》。衣社薄《キヌコソハ》。其破者《ソレヤレヌレバ》。縫乍物《ヌヒツヽモ》。又母相登言《マタモアフトイヘ》。玉社者《タマコソハ》。緒之絶薄《ヲノタエヌレバ》。八十一里喚※[奚+隹]《ククリツツ》。又物逢登曰《マタモアフトイヘ》。又毛不相物者《マタモアハヌモノハ》。※[女+麗]爾志有來《イモニシアリケリ》。
 
鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》、十九に、毎年爾鮎之走婆左伎多河※[麗+鳥]八頭可頭氣※[氏/一]河瀬多頭禰牟《トシノハニアユシハシラバサキタガハウヲヤツカヅケテカハセタヅネム》、八頭と書るは、漢國にて、鳥獣をかぞふるに、一頭二面など云(ヘ)ば書るなり、十六乞食者(ノ)歌に、韓國乃虎云神乎生取爾八頭取持來《カラクニノトラチフカミヲイケドリニヤツトリモチキ》、(史記三皇本紀に、天地初立、有2天皇氏十二頭1、註に、然言2十二頭1者、非v謂3一人之身有2十二頭1、蓋右質比2之鳥獣數1故也、)○鮎矣令咋《アユヲクハシメ》、これまで十句は序にて、麗妹《クハシイモ》をいはむ料なり、○麗妹爾は、クハシイモニ〔六字右○〕と訓べし、古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に久波志賣遠阿理登伎許志※[氏/一]《クハシメヲアリトキコシテ》、とよみ給へるも麗女《クハシメ》なり、書紀繼體天皇(ノ)御歌にも、播屡比能可須我能倶※[人偏+爾]々倶婆施謎嗚(580)阿※[口+利]等枳々底《ハルヒノカスガノクニヽクハシメヲアリトキヽテ》、古事記崇神天皇(ノ)條に、目微比賣《メグハシヒメ》と云人(ノ)名もあり、○鮎遠惜は、決《キハメ》て字の誤れるものなり、(岡部氏は、難逢鴨《アヒガタキカモ》か、辭遠借《コトトホザカリ》かの誤ならむ、と云れど非ず、〉故考(フ)めるに、副猿緒とありしを誤れるなどにや、さらばタグヒテマシヲ〔七字右○〕と訓べし、麗妹に、常に副居てましものをの意なり、○投左乃《ナグルサノ》は、枕詞なり、投左《ナグルサ》は、契冲、下に、なぐやとよめるに同じ、第十九にも、なぐやもてちひろいわたし、とよめり、なぐるは、射るなり、さは、やと同韻にて通ぜり、第十四の東歌に、阿良之乎《アラシヲ》のいほさだはさみ、とよめるは、あらちをの五百矢《イホサ》だはさみなり、と云り、今按(フ)に、なぐるは、射るなりと云(ハ)むに、大むねはたがふまじけれど、細にいふときは、常の矢は、弓にかけて發《ハナツ》を、投箭《ナグヤ》は、弓にかけず、箭のみ投(ゲ)發つ故に、投(ク)とは云るなるべし、遠射《トホナゲ》、投壺《ツボナゲ》などいふも、投發つ故の稱なるを思ふべし、此(レ)投と射との差別なり、さてその投發つをも、大よそには、射るともいふ故に、千尋射度しなども云るなるべし、夜《ヤ》を佐《サ》と云るは、神武天皇(ノ)紀に、射2手研耳(ノ)命(ヲ)1、一發《ヒトサニ》中v※[匈/月]、再發《フタサニ》中v背、天武天皇(ノ)紀に、射(テ)中2一箭《ヒトサヲ1、など見え、また後に、矢間《サマノ》板など云も同じ、さてこゝは投(ゲ)發つ矢の、遠ざかるよしに云つゞけたるなり、○遠離居而《トホザカリヰテ》は、葬りたれば、家より遠く離て居るよしなり、(略解に、遠き所に住る、おもひつまの死たる歎なるべし、と云るは、甚(ジ)き非なり、)五(ノ)卷、山上(ノ)憶良(ノ)臣の、妻のみまかれるをかなしめる歌に、阿禮乎婆母伊可爾世與等可《アレヲバモイカニセヨトカ》、爾保鳥能布多利那良※[田+比]爲《ニホドリノフタリナラビヰ》、加多良比斯許許呂曾牟企弖伊弊社可利伊摩須《カタラヒシココロソムキテイヘザカリイマス》、○衣社者《キヌコソハ》云々、玉社者《タマコソハ》云(581)云、社《コソ》は、他にむかへて、その物をとりわきて、たしかにしかりといふ詞なり、衣《キヌ》こそは然れ、玉《タマ》こそは然れ、他はしからず、との意なり、されば此《コヽ》は破(レ)たる衣こそは、なほ縫あはすればあひ、緒絶して亂れたる玉こそは、ふたゝびくゝればあふものなるを、又も逢よしのなきものは、みまかれりし妻にしありけり、と歎くなり、○縫乍物《ヌヒツヽモ》は、縫(ノ)字、元暦本には継と作り、其(レ)に從ば、ツギツヽモ〔五字右○〕と訓べし、○八十一里喚※[奚+隹]《ククリツツ》は、縛《クヽ》り乍《ツヽ》なり、○※[女+麗]爾志有來《イモニシフリケリ》、(爾(ノ)字、舊本に山と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本、活字本等に從つ、)爾志《ニシ》は、さだかにしかりとする意の處におく詞なり、重く歎きたる意、此一言にてあらはなり、心を付てきくべし、
 
3331 隱來之《コモリクノ》。長谷之山《ハツセノヤマ》。青幡之《アヲハタノ》。忍坂山者《オサカノヤマハ》。走出之《ハシリデノ》。宜山之《ヨロシキヤマノ》。出立之《イデタチノ》。妙山叙《クハシキヤマゾ》。惜《アタラシキ》。山之《ヤマノ》。荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
 
青幡之《アヲハタノ》は、枕詞なり、かく屬けたる謂は、まづ幡とかけるは借(リ)字にて、陸田《ハタ》なるべし、青《アヲ》とは、青青《アヲアヲ》と繁り榮えたるを云べし、さて於佐加《オサカ》の於《オ》は、阿乎《アヲ》の約り、加《カ》は久佐《クサ》の約りたる言、佐《サ》は眞《マ》に通ふ美稱にて、草とはひろく云中に、此《コヽ》はもはら菜蔬の類をいふべし、されば青青《アヲアヲ》と繁り榮えたる陸田《ハタ》の青眞草《アヲマクサ》と云意に、つゞきたるならむ、出雲(ノ)國(ノ)風土記に、神須佐乎(ノ)命(ノ)御子青蟠佐草昭(ノ)命、とあるも青陸田眞草《アヲハタマクサ》と云稱の義なるべきを、思(ヒ)合(ス)べし、(契冲は、此(ノ)山、草木しげりて青き旗を立たるに似たる意なるべし、と云り、岡部氏の、推古紀に、旗に畫《ヱガキ》給ふと有は、他の國(582)の青旗の如くて、且|襲《オシ》をもつけたるか、さらば、青旗の襲《オシ》とつゞけたるにや、と云り、共にいかが、)○忍坂山《オサカノヤマ》は、和名抄に、城上(ノ)郡長谷、(波都勢《ハツセ》、)忍坂、(於佐加《オサカ》)と見えて、並びたる山なり、○走出之宜山之《ハシリデノヨロシキヤマノ》とは、長谷山へかゝれる言にて、長谷山は、山の尾前の、穴磯山まで引つゞけるを、走(リ)出といふべしと云り、山の自(ラ)成出たる形を、ほめたるなり、次の出立《イデタチ》も同じ、(此方の走(リ)出てむかひ、出立て向ふにも、見どころ多くて、宜しき山と云には非ず、)二(ノ)卷に、※[走+多]出之堤爾立有《ワシリデノツヽミニタテル》、とあるは、人の※[走+多](リ)出にて、今とは異れり、○出立之妙山奴《イデタチノクハシキヤマゾ》とは、忍坂山へかゝれる言にて、忍坂山の、自(ラ)出立たる形の、細しく妙なるよしなり、次に引(ク)雄略天皇(ノ)大御歌には、出立《イデタチ》も、走出《ワシリデ》も長谷山のうへに詔ひ、今は二山をかけて云るなり、○惜《アタラシキ》は、雄略天皇(ノ)紀(ノ)歌に、婀※[手偏+施の旁]羅斯枳偉儺謎能※[こざと+施の旁]倶瀰《アタラシキヰナベノタクミ》、とあり、○山之《ヤマノ》は、三言一句とすべし、○荒卷惜毛《アレマクオシモ》は、荒む事の、さても惜や、との意なり、○歌(ノ)意は、雄略天皇(ノ)紀(ノ)大御歌に、擧暮利矩能播都制能野磨播《コモリクノハツセノヤマハ》、伊底※[手偏+施の旁]智能與盧斯企于磨《イデタチノヨロシキヤマ》、和斯利底能與盧斯企野磨能《ワシリデノヨロシキヤマノ》、據暮利矩能播都制能夜麻播《コモリクノハツセノヤマハ》、阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《アヤニウラグハシ》、阿野※[人偏+爾]于羅虞波志《アヤニウラグハシ》、とある、その御詞をとりて、世に貴み重みせられて、可惜《フタラ》しき人の死れるを譬へて、惜めるにて、今此(ノ)二山もて云るは、其(ノ)人の徳業の一(ツ)ならず、左《カレ》にも右《コレ》にも、くさ/”\世にめでたくすぐれたりしを、いふなるべし、さて其(ノ)人|存命《ナガラヘ》てあらましかば彌々世にもてはやされて、さま/”\其(ノ)徳業の立なむものを、かくはかなくなりて、遂に今までの功績も、荒行むことの、さても惜や、と(583)云なるべし、
 
3332 高山與《タカヤマト》。海社者《ウミコソハ》。山隨《ヤマナガラ》。如此毛現《カクモウツシク》。海隨《ウミナガラ》。然毛直有目《シカモタヾナラメ》。人者《ヒトハ》。花物曾《ハナモノソ》。空蝉與人《ウツセミノヨヒト》。
 
山隨、海隨は、本居氏の、ヤマナガラウミナガラ〔十字右○〕とよめるぞ宜しき、○如此毛現《カクモウツシク》は、かやうにも現然として、常に變(ラ)ず有なめ、となり、○然毛直有目《シカモタヾナラメ》(毛(ノ)字、舊本には無、古本に從つ、)は、さやうにも直在《タヾアリ》にありて、常に變(ラ)ず有なめとなり、○人者《ヒトハ》、花物曾《ハナモノソ》(花(ノ)字、舊本に充と作るは誤ならむ、今は古寫本、拾穗本等に從つ、校本にも、官本充作v花、とあり、)は、一句は三言、一句は五言なり、人はたのみかひなき、あだなる花物ぞ、と云意なり、花物とは、物のはかなく咲かと見れば、やがて散失るやうなることを云(フ)、古(ヘ)の稱なり、十二に白香付木綿者花物事社者何時之眞坂毛常不所忘《シラガツクユフハハナモノコトコソハイツノマサカモツネワスラエネ》、源氏物語寄生に、中納言殿も、いといとはしきわざかなときゝ給ふに、花心におはする宮なれば、哀とはおぼすとも、いまめかしき方に、かならず御心うつろひなむかし、とある、花心の花も全(ラ)同じ、○歌(ノ)意は、海山こそは、現然として、直在にいつも變らずて有なめ、人はたのみがひなく、はかなきあだ物にてあるぞ、となり、十六に、鯨魚取海哉死爲流山哉死爲流死許曾海者潮干而山者枯爲禮《イサナトリウミヤシニスルヤマヤシニスルシネコソウミハシホヒテヤマハカレスレ》、と作ると、今(ノ)歌は表裏の意なり、
 
右三首《ミギミウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
(584)3333 王之《オホキミノ》。御命恐《ミコトカシコミ》。秋津島《アキヅシマ》。倭雄過而《ヤマトヲスギテ》。大伴之《オホトモノ》。御津之濱邊從《ミツノハマヘユ》。大舟爾《オホブネニ》。眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》。旦名伎爾《アサナギニ》。水手之音爲乍《カコノコヱヨビ》。夕名寸爾《ユフナギニ》。梶音爲乍《カヂノトシツヽ》。行師君《ユキシキミ》。何時來座登《イツキマサムト》。大夕卜置而《ヌサオキテ》。齋度爾《イハヒワタルニ》。枉言哉《タハコトヤ》。人之言釣《ヒトノイヒツル》。我心《ワガコヽロ》。盡之山之《ツクシノヤマノ》。黄葉之《モミチバノ》。散過去常《チリスギニキト》。公之正香乎《キミガタヾカヲ》。
 
梶(ノ)字、拾穗本には※[木+堯]と作り、下同(シ)、○水手之音爲乍は、(カコノトシツヽ〔七字右○〕とよめるによりて、略解に、コヱ、オト〔四字右○〕通はし云り、と云るは、いかゞ、水手《カコ》のおとゝ云る例、あることなし、)今按(フ)に、爲乍は、喚(ノ)の字などにて有けむを、梶音爲乍《カヂノトシツヽ》とあるに、ふと見まがへて、寫し誤れるものななべし、必(ス)カコノコヱヨビ〔七字右○〕とあるべきなり、四(ノ)卷にも、朝名寸二水等之音喚暮名寸二梶之聲爲乍《アサナギニカコノコヱヨビユフナギニカヂノトシツヽ》云々、とあるを、思(ヒ)合すべし、十五に、月余美乃比可里乎伎欲美由布奈藝爾加古能古惠欲妣宇良未許具可母《ツクヨミノヒカリヲキヨミユフナギニカコノコヱヨビウラミコグカモ》、○大夕卜置而(夕(ノ)字、元暦本にはなし、卜(ノ)字、校本に、古寫本作v下とあり、)は、大夕卜(ノ)三字は、幣か帛かの誤にて、ヌサオキテ〔五字右○〕なるべし、(本居氏は、大(ノ)字の下に、二句脱たるにて、大ぶねの思ひたのみて夕卜置而《ユフケオキテ》などありしにや、と云り、又岡部氏は、大夕(ノ)二字は、夜(ノ)一字の誤にて、ゆふうらを、夜卜とも書しと覺ゆれば、ユフケオキテ〔六字右○〕と訓べし、と云り、されど、卜には、多く夕占問《ユフケトフ》と云て、問(フ)とのみに云りとおぼゆるに、こゝには置(ク)とあれば、なほ帛なるべきにや、帛は多く置(ク)と云り、)○齋度爾《イハヒワタルニ》は、神祇を拜祭ひて月日を經度るに、といふなり、○枉言哉、枉は、狂の誤なりといへるぞよき、タハコトヤ〔五字右○〕と訓べし、○釣(ノ)字、舊本に鉤と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、(585)○我心《ワガコヽロ》は、夫(ノ)君を待わびて、我(ガ)心を盡す、といふこゝろに、筑紫に云係たるなり、○盡之山《ツクシノヤマ》は、筑紫の山なり、○黄葉之《モミチバノ》は、散過と云む料なり、○散過去常《チリスギニシト》は、死《スギ》にしとゝ云なり、散て去《スキ》にしと、公が正香を、狂言にや人の言つると、立返りて心得る語の格なり、○正香《タヾカ》は、彼方にある人のうへのことを、此方にて、思ひやりていふ言にて、既く云り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は筑紫のつかさに任られて行し人の、任の中にて死れるよしを、京にある妻の聞て、悲みよめるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3334 枉言哉《タハコトヤ》。人之言鶴《ヒトノイヒツル》。玉緒乃《タマノヲノ》。長登君者《ナガクトキミハ》。言手師物乎《イヒテシモノヲ》。
 
枉、これも狂の誤なり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君の、長くながらへて、語らはむものぞと、慰め言て別れしものを、よも吾を棄て、失賜ふ事はあらじ、いかさま死《ミマカ》れりと云は、人の狂言にいひつるにやあらむ、となり、いとあはれなり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に拾穗本には、二首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3335 玉桙之《タマホコノ》。道去人者《ミチユクヒトハ》。足檜木之《アシヒキノ》。山行野往《ヤマユキヌユキ》。直海《タヾワタリ》。川往渡《カハユキワタリ》。不知魚取《イサナトリ》。海道荷出而《ウミヂニイデテ》。惶八《カシコキヤ》。神之渡者《カミノワタリハ》。吹風母《フクカゼモ》。和音不吹《ノドニハフカズ》。立浪母《タツナミモ》。踈不立《オホニハタヽズ》。跡座浪之《シキナミノ》。立塞道麻《タチサフミチヲ》。誰心《タガコヽロ》。(586)勞跡鴨《イトホシトカモ》。直渡異六《タヾワタリケム》。
 
桙(ノ)字、拾穗本には鉾と作り、○直海は、海は、渡か渉かの誤なるべし、タヾワタリ〔五字右○〕と訓べし、○神之渡《カミノワタリ》は、次に載る、或本の題詞に、備後(ノ)國神島(ノ)濱とある所なり、なほそこに云べし、○和者不吹《ノドニハフカズ》は、のどかに和《ヤハラカ》には吹ずて、荒く吹よしなり、○踈不立《オホニハタヽズ》(踈の下、者(ノ)字落たるか、)は、凡に靜には立ずて、高く立よしなり、○跡座浪之は岡部氏の、シキナミノと訓るよろし、二(ノ)卷に、奧見者跡位浪立《オキミレバシキナミタチ》とあり、跡座、跡位は、座も位も同じ意にて、座位を敷(キ)踐(ム)義にて、シキ〔二字右○〕に借(リ)て書り、さてシキナミ〔四字右○〕は、重浪《シキナミ》なり、○立塞道麻は、タチサフミチヲ〔七字右○〕と訓べし、立障る道をの謂にて、神(ノ)渡の浪風の高く荒き形を云り、土佐日記に、若(シ)海邊にてよまゝしかば、浪立塞て入ずもあらなむ、とよみてましや、○誰心勞跡鴨《タガコヽロイトホシトカモ》云々は、誰人の心を勞《イトホシ》とてか、此(ノ)重浪の立障る道を、歩渉《カチワタリ》しけむ、いかさま故郷人の待わぶらむを、いとほしみて、急《イソ》ぐまゝに直渡けむよ、さてもあはれに、かなしきことぞ、となり、勞《イトホシ》は、十九に、大夫之語勞美父母爾啓別而《マスラヲノコトイトホシミチヽハヽニマヲシワカレテ》云々ともあり、又續紀三(ノ)卷詔に、朕乎助奉仕奉事乃《アレヲタスケマツリツカヘマツルコトノ》、重支勞支事乎《イカシキイトホシキコトヲ》、所念坐御意坐爾依而《オモホシマスミコヽロマスニヨリテ》云々、廿四詔に、愧自彌伊等保自彌奈母念須ハヅカシミイトホシミナモオモホス》云々、などあり、後の物語書などにも、甚多き詞なり、さて溺死したる由は、反歌にてしられたり、かくてこれは、屍の海へ流れ出て、磯際へ打あげられたるを見て、作者の、ありけむやうを思ひやりて、かくはよめるなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、(略解に、末に出せる蘆(587)檜木乃《アシヒキノ》云々の歌、家人乃《イヘヒトノ》云々の歌、※[さんずい+内]潭《ウラスニ》云々の歌三首、右の長歌の反歌にして、こゝに入べきよし、翁の考に云り、とあれど、非なり、下に云べし、
 
3336 鳥音《トリガネモ》。之所聞海爾《キコエヌウミニ》。高山麻《タカヤマヲ》。障所爲而《ヘダテニナシテ》。奧藻麻《オキツモヲ》。枕所爲《マクラニナシテ》。蛾葉之《アキヅハノ》。衣浴不服爾《キヌダニキズニ》。不知魚取《イサナトリ》。海之濱邊爾《ウミノハマヘニ》。浦裳無《ウラモナク》。所宿有人者《イネタルヒトハ》。母父爾《オモチヽニ》。眞名子爾可有六《マナゴニカアラム》。若芻之《ワカクサノ》。妻香有異六《ツマカアルラム》。思布《オモホシキ》。言傳八跡《コトツテムヤト》。家問者《イヘトヘバ》。家乎母不告《イヘヲモノラズ》。名問跡《ナヲトヘド》。名谷母不告《ナダニモノラズ》。哭兒如《ナクコナス》。言谷不語《コトダニトハズ》。思鞆《オモヘドモ》。悲物者《カナシキモノハ》。世間有《ヨノナカニアリ》。
 
初二句は、之(ノ)字は不の誤にて、トリガネモ、キコエヌウミニ〔十二字右○〕なり、と岡部氏の云るぞよき、古今集にも、飛鳥の聲も聞えぬ奥山の、とあり、○枕所爲(爲(ノ)下、拾穗本には而(ノ)字あり、)は、マクラシテ〔五字右○〕と訓ぺし、所爲をナシ〔二字右○〕と訓は、上に障所爲而《ヘダテニナシテ》とあればなり、されど此は、次の或本に、枕舟卷而《マクラニマキテ》とあるぞ、語を得たる、○蛾葉之(蛾(ノ)字、古寫本、拾穗本等には、我と作り」は、甚心得難なるにつきて、今熟(ク)考(フ)るに、蛾は蜻(ノ)字なりけむを、草書にて誤りしものなり、さらばアキヅハノ〔五字右○〕と訓べし、蜻葉《アキヅハ》の衣《キヌ》とは、蜻蛉《アキヅ》の羽の如き、薄ら衣を云なり、三(ノ)卷に秋津羽之袖振妹乎《アキヅハノソテフルイモヲ》云々、と見えて、既く彼處に具(ク)云りき、(此(ノ)上にも、蜻領巾《アキヅヒレ》見えたり、)○衣浴不服爾は、浴(ノ)は、谷(ノ)字の誤なること決《ウツナ》し、(こは中昔、萬葉を解得ざる人の、さかしらに、谷は浴の誤ぞとて、改めつらむ、)故(レ)キヌダニキズニ〔七字右○〕と訓べし、さて不服而《キズテ》とあるべきが如くなれども・かくざまに不爾《ズニ》と云ることも、例(588)あり、七(ノ)卷に、白玉乎手者不纏爾《シラタマヲテニハマカズニ》、十二に、安寢毛不宿爾《ヤスイモネズニ》、此(ノ)上に、眠不睡爾《イモネズニ》など有(リ)、かくて今如此云は、溺死(タル)人の屍の、磯打浪に打曝れて、蜻蛉羽《アキヅハ》の薄衣の一重をだに身に著《ツケ》たらぬあさましさを、悲み憐みて云るなり、抑々此(ノ)二句は、字の誤れるまにまに、昔より、註者等、きよく解得たる人一人だになかりしを、余(レ)やう/\に考(ヘ)得たるなりけり、(其(ノ)中に、蛾葉を、舊訓にカハ〔二字右○〕とあるにつきて、岡部氏が、革之衣《カハノキヌ》なるべし、と云るは、論ふ限にあらず、又略解に、或人(ノ)考とて蛾葉之衣は、マユノキヌ〔五字右○〕と訓べしとて、十四の、つくばねのにひくはまよの衣はあれど、と云歌を、引たれども、あたらず、十四なるは、新桑※[爾/虫]《ニヒクハマヨ》にて製れる衣とて、新衣のいと上品なるよしもて云る、歌にこそあれ、たゞに※[爾/虫]《マユ》の衣とはいかでか云べき、ことに欲不服《スヽギキズ》と云ことこそ心得ね、山野にて、死れる人を見て云らばこそ、なほゆるさるべきに、此は海濱に溺死る人の、よきほど潮汐に、爆れたる趣なるに、其(ノ)衣服を欲《スヽガ》ずとは、何の故にか云べからむ、よく心を付て考(ヘ)見よ、)○浦裳無《ウラモナク》は、何心もなく、と云ほどの意なり、既くかたがた出たる詞なり、○母父爾《オモチヽニ》は、母父《オモチヽ》の爲に、といはむが如し、○眞名子爾可有六《マナゴニカアヲム》は、愛子《マナゴ》にてあるらむか、といふなり、眞名子《マナゴ》は、次の或本に、愛子と書る、その字(ノ)意なり、六(ノ)卷に、父公爾吾者眞名子叙《チヽキミニアレハマナゴゾ》、妣刀自爾吾者愛兒子叙《オモトジニアレハマナゴゾ》、十四に安志比奇乃夜末佐波妣登乃比登佐波爾麻奈登伊布兒我安夜爾可奈思佐《アシヒキノヤマサハビトノヒトサハニマナトイフコガアヤニカナシサ》、催馬樂に、末名牟春女《マナムスメ》、など見ゆ、○妻香有異六は、按(フ)に、異は羅(ノ)字の誤にてツマカアルラム〔七字右○〕なるべし、(こゝはケ(589)ム〔二字右○〕と云べき所にあらざればなり、)九(ノ)卷に、直獨伊渡爲兒者若草乃夫香有良武《タヾヒトリイワタラスコハワカクサノツマカアルラム》、○思布言傳八跡《オモホシキコトツテヤト》は、家に、言傳遣まほしく思ふことあらば、吾に言傳しなむやとての謂なり、○哭兒如《ナクコナス》(哭兒、拾穗本には哭子と作り、)は、まだ物を得言(ハ)ず、哭ばかりの兒の如く、といふなり、不《ズ》2言訓《コトトハ》1と云む料なり、○言谷不語《コトダニトハズ》は、物をだに言ず、といはむが如し、○思鞆《オモヘドモ》は、立返りて、思ひ見(レ)どもの謂なり、〇世間有《ヨノナカニアリ》は、世間《ヨノナカ》にてありの意なり、世間也《ヨノナカナリ》と云むが如し、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3337 母父毛《オモチヽモ》。妻毛子等毛《ツマモコドモモ》。高高爾《タカタカニ》。來跡待羅六《コムトマツラム》。人之悲沙《ヒトノカナシサ》。
 
高高爾《タカタカニ》は、既くかた/”\見えたり、遠く望みて待(ツ)意の言なり、○待羅六、羅(ノ)字、舊本に異と作るはわろし、今は或本に從つ、マツラム〔四字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、かく溺死たる事を知ずして、今日か還(リ)來む、今日か還り來むと、遠く望みて待らむ家の、父母妻子の心を思ひやるにも、その悲しさ云む方なし、となり、
 
3338 蘆檜木乃《アシヒキノ》。山道者將行《ヤマヂハユカム》。風吹者《カゼフケバ》。浪之塞《ナミノタチサフ》。海道者不行《ウミヂハユカジ》。
 
山道者《ヤマヂハ》は、もとのまゝにても、聞えはすれども、山道乎《ヤマヂヲ》とあらむかた、穩なり、もしは、もとは乎なりしを、次の海道者に見混て、誤れるには非ざるか、○浪之塞は、之を下に、立(ノ)字の落たるなるべし、(橘(ノ)枝直は、之は立の誤なり、といへり、)ナミノタチサフ〔七字右○〕と訓べし、上(ノ)長歌に、跡座浪之立(590)塞道矣《シキナミノタチサフミチヲ》とあるを思(フ)べし、○歌(ノ)意は、風吹ば、高く浪の立塞る海道を渡るとて、誤りて浪に溺れて、死りぬらむと思ひやるも、あな恐ろし、いで我等は、急事《トミノコト》ありとも、山道の方を行む、かく浪の立塞る海道をば、ゆめ/\行じ、となり、(略解に、是は溺死し人の事を聞て、おくれたるものの、恐《カシコ》みよめるなり、と云るは、あらず、)
 
或本歌《アルマキノウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、
 
備後國神島濱《キビノミチノナカノクニカミシマノマニテ》。調使首《ツキノオミガ》。見《ミテ》v屍《シニカバネヲ》作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
拾穗本には、備の上に、一云(ノ)二字ありて、見屍作の三字、また一首并短歌(ノ)五字なし、○備後は、備中を誤れるなるべし、次に引る證等を見て考(フ)べし、○神島(ノ)濱は、神名帳に、備中(ノ)國小田(ノ)郡神島(ノ)神社、續拾遺集賀に、建久九年、大嘗會主基方御屏風に、備中(ノ)國神島(ニ)有2神祠1所を、前(ノ)中納言資實、神島の浪の白木綿懸まくも畏き御代のためしとぞ見る、などあり、此(ノ)集十五(ノ)遣2新羅1使人等、乘v船入2海路上1作歌の中に、月余美能比可里乎伎欲美神島乃伊素未乃宇良由船出須和禮波《ツクヨミノヒカリヲキヨミカミシマノイソマノウラユフナデスワレハ》、とあるも、同所なるべし、○調(ノ)使首は傳未(タ)詳ならず、使は、もしは衍字にて、調(ノ)首ならむか、調(ノ)首|淡海《アフミ》といふ人、一(ノ)卷に見えたり、首は加婆禰《カバネ》なり、
 
3339 玉桙之《タマホコノ》。道爾出立《ミチニイデタチ》。葦引乃《アシヒキノ》。野行山行潦《ヌユキヤマユキタヾワタリ》。川往渉《カハユキワタリ》。鯨名取《イサナトリ》。海路丹出而《ウミヂニイデテ》。吹風裳《フクカゼモ》。(591)母穗丹者不吹《オホニハフカズ》。立浪裳《タツナミモ》。箆跡丹者不起《ノドニハタヽズ》。恐耶《カシコキヤ》。神之渡乃《カミノワタリノ》。敷浪乃《シキナミノ》。寄濱邊丹《ヨスルハマヘニ》。高山矣《タカヤマヲ》。部立丹置而《ヘダテニオキテ》。※[サンズイ+内]潭矣《ウラスヲ》。枕丹卷而《マクラニマキテ》。占裳無《ウラモナク》。偃爲公者《コヤセルキミハ》。母父之《オモチヽノ》。愛子丹裳在將《マナゴニモアラム》。稚草之《ワカクサノ》。妻裳將有等《ツマモアラムト》。家問跡《イヘトヘド》。家道裳不云《イヘヂモイハズ》。名矣問跡《ナヲトヘド》。名谷裳不告《ナダニモノラズ》。誰之言矣《タガコトヲ》。勞鴨《イトホシミカモ》。腫浪能《シキナミノ》。恐海矣《カシコキウミヲ》。直渉異將《タヾワタリケム》。
 
桙(ノ)字、拾穗本には、鉾と作り、○野行山行《ヌユキヤマユキ》は、山行野行《ヤマユキヌユキ》と有けむが、倒《カヘサマ》になれるにもあるべし、上に、出たる歌考(ヘ)合(ス)べし、○潦は、直渉《タヾワタリ》とありしを、かく一字に誤れるなるべし、と岡部氏云り、さもあるべし、(略解に、潦は激の誤にて、ミナギラフ〔五字右○〕とあるべし、といへれど、よからず、)○川往、古寫本には、河行と作り、○母穗は、母は於(ノ)字を誤しものなり、おの草より誤りけむ、と岡部氏云り、元暦本には、此(ノ)二字をも、篦跡と作り、○濱邊、拾穗本には、濱部と作り、○※[サンズイ+内]潭矣(※[さんずい+内](ノ)字、古寫本、拾穗本等には納と作り、)は、本居氏、ウラスヲ〔四字右○〕とよむべしと云説に、從べしや、さらば、潭は、※[さんずい+單]の誤にや、と云り、さもあるべし、(※[さんずい+單]は、玉篇に、江南呼2水中沙堆(ヲ)1、と見えたり、)六(ノ)卷に、海石之塩于乃共《ウミチカミシホヒノムタ》、※[さんずい+内]渚爾波千鳥妻呼《ウラスニハチドリツマヨビ》、云々、○偃爲公者《コヤセルキミハ》(公(ノ)、字、拾穂本には君と作り、)は、偃《フシ》給へる君は、と云むが如し、凡て、許夜志《コヤシ》、許夜須《コヤス》、許夜世流《コヤセル》など云は、偃《フシ》給ひ、偃《フシ》給ふ、偃《フシ》給へる、と敬ひて云るに同じ、自(ラ)偃《フス》ことをば、許夜里《コヤリ》、許夜流《コヤル》、許夜禮流《コヤレル》と云が、古言の定(リ)なり、(しかるをコヤシ、コヤス〔六字右○〕など云を、ひとへに臥ことをいふ、古言とみ意得て、フシ、フス〔四字右○〕など訓て宜しき處をも、コヤシ、コヤス〔六字右○〕(592)と訓ることあるは、例のおろそかなり、)なほ此(ノ)言の事、三(ノ)卷下に、既く委(ク)説り、○將有、拾穗本には有將と作り、○家道、拾穗本には家路と作り、○腫浪は、本居氏云、鍾禮《シグレ》とかける類にて、シキナミ〔四字右○〕なるべし、と云るぞよき、鍾腫同音の字なり、○今按(フ)に、此(ノ)或本の歌や正しからむ、上の玉梓之道去人者《タマホコノミチユクヒトハ》云々と、鳥音之所聞海爾《トリガネモキコエヌウミニ》云々の、二首の長歌は、この一首を、二首と傳誦へたるなるべし、(岡部氏は、この或本は二首の亂れて、一首となれるよし云れど、さにはあらじ、)
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3340 母父裳《オモチヽモ》。妻裳子等裳《ツマモコドモモ》。高高丹《タカタカニ》。來跡將待《コムトマツラム》。人乃悲《ヒトノカナシサ》。
 
來跡將待、舊本に來將跡待、とあるは、下上に誤れるなり、コムトマツラム〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、上に云り、
 
3341 家人乃《イヘヒトノ》。將待物矣《マツラムモノヲ》。津煎裳無《ツレモナキ》。荒磯矣卷而《アリソヲマキテ》。偃有公鴨《フセルキミカモ》。
 
煎は、烈(ノ)字の誤なりと本居氏云り、○公(ノ)字、拾穗本には君と作り、○歌(ノ)意は、家人は、かくともしらで、還り來む日を、今日か今日かと、待つゝあるらむものを、ともなひよる人もなき荒磯を、枕にしてふせる君哉、さても勞《イトホ》しく悲しや、となり、
 
3342 ※[さんずい+内]潭《ウラスニ》。偃爲公矣《コヤセルキミヲ》。今日今日跡《ケフケフト》。將來跡將待《コムトマツラム》。妻之可奈思母《ツマシカナシモ》。
 
※[さんずい+内]潭(※[さんずい+内](ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には、納と作り、)これも本居氏の説によれば、潭は※[さんずい+單]の誤に(593)て、ウラスニ〔四字右○〕なるべし、○公(ノ)字、拾穗本には君と作り、○歌(ノ)意は、浦渚に身死て、偃(シ)給へる君なるものを、然《サ》ともしらで、還り來む日を、今日か今日かと、待つゝあるらむ家(ノ)妻の心を、思ひやるにも、さて/\悲しや、となり、
 
3343 ※[さんずい+内]浪《ウラナミノ》。來依濱丹《キヨスルハマニ》。津煎裳無《ツレモナク》。偃有公賀《コヤセルキミガ》。家道不知裳《イヘヂシラズモ》。
 
※[さんずい+内]浪(※[さんずい+内](ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穂本等には納と作り、)は、ウラナミノ〔五字右○〕とよむべし、○煎は、烈(ノ)字の誤なること、上の如し、○有公、有(ノ)字、類聚抄、元暦本等には爲と作り、公(ノ)字、拾穗本には君と作り、○歌(ノ)意は、浦浪のよする濱に、ともなひよる人もなく、ひとり偃《フシ》給へる君が、家だに知ば、行て告べきに、家を問ど答へねば、せむ方なし、さても家道のしらまほしや、となり、
 
右九首《ミギコヽノウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり、
 
3344 此月者《コノツキハ》。君將來跡《キミキマサムト》。大舟之《オホブネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。何時可登《イツシカト》。吾待居者《アガマチヲレバ》。黄葉之《モミチバノ》。過行跡《スギテユキヌト》。玉梓之《タマヅサノ》。使之云者《ツカヒノイヘバ》。螢成《ホタルナス》。髣髴聞而《ホノカニキヽテ》。大士乎《アメツチヲ》。太穗跡《コヒノミナゲキ》。立而居而《タチテヰテ》。去方毛不知《ユクヘモシラニ》。朝霧乃《アサギリノ》。思惑而《オモヒマドヒテ》。杖不足《ツヱタラズ》。八尺乃嘆《ヤサカノナゲキ》。嘆友《ナゲケドモ》。記乎無見跡《シルシヲナミト》。何所鹿《イヅクニカ》。君之將座跡《キミガマサムト》。天雲乃《アマクモノ》。行之隨爾《ユキノマニマニ》。所射完乃《イユシヽノ》。行文將死跡《ユキモシナムト》。思友《オモヘドモ》。道之不知者《ミチシシラネバ》。獨居而《ヒトリヰテ》。君爾戀爾《キミニコフルニ》。哭耳思所泣《ネノミシナカユ》。
 
(594)螢成《ホタルナス》は、幽《ホノカ》の枕詞なり、如v螢(ノ)といふ意なり、○髣髴聞而《ホノカニキヽテ》は、死《スギ》て去《ユキ》ぬと使の云を、幽に聞てなり、○大土乎大穗跡(太(ノ)字、元暦本には火と作り、校本には、古寫本、太穗跡作2足※[足+昆]跡1、異本同、とあり、)は、南部氏は、大土乎|足蹈駈《アシフミワシリ》の、誤ならむか、と云れど、いかゞなり、)谷(ノ)眞潮翁(ノ)説に、此(ノ)上に、天地乎歎乞?《アメツチヲナゲキコヒノミ》とあるによるに、天土乎乞?呼《アメツチヲコヒノミヨバヒ》の誤なるべし、と云り、今思ふに、跡は、歎(ノ)字の草書、〓を〓と見て寫し誤れるにて、コヒノミナゲキ〔七字右○〕とありしにもあらむか、猶考べし、さて天土《アメツチ》は、天《ツ》神地(ツ)祇と云意なること、上に云たる如し、かくて神祇に?て、身命の平安《サキ》からむことを願ふは、常のことなるにこゝはその死去《スギ》ぬるよしを、既く使の告たるに、今更さる祈?《ネギコト》せむは、ことおくれたることにて、いかゞしくきこゆれども、使の言をば、幽にはきゝたれども、其は思ふに、狂言ならむ、よもまことに、さることはあらじとおもへるより、歎息《ナゲ》きて、天(ツ)神地(ツ)祇を、乞?よしなるべし、すべての詞も、存命《ナガラヘ》てある人のうへを、云るごときこゆるも、その死去《マガコト》のよしを、信《ウケ》ぬさまにきこえたり、○杖不足はツヱタラズ〔五字右○〕と訓べし、(ツヱタラヌ〔五字右○〕と訓るはわろし、百不足をも、モヽタラズ〔五字右○〕といふをもて、相證すべし、)枕詞なり、杖《ツヱ》は、丈尺《ツヱサカ》の丈《ツヱ》なり、仲哀天皇(ノ)紀に、身長十尺《ミノタケヒトツヱ》と見えたり、丈に足(ラ)ぬ八尺と係るなり、百不足《モヽタラズ》と云て、五十《イ》、八十《ヤソ》などと云と同じ詞なり、○八尺乃嘆《ヤサカノナゲキ》は、上に、吾嘆八尺之嘆《アガナゲクヤサカノナゲキ》、とよめり、○記乎無見跡《シルシヲナミト》は、益《シルシ》が無(キ)故に、といふなり、跡《ト》は、語勢を助けたるのみの辭にて、意には關らず、○天雲乃《アマクモノ》は、行をいはむとての枕詞なり、(595)○行之隨爾《ユキノマニ/\》は、いづくをばかりとなく、行に隨ひての意なり、○所射完乃《イユシヽノ》云々は、齊明天皇紀(ノ)大御歌に、伊喩之々乎都那遇※[舟+可]播杯能《イユシヽヲツナグカハヘノ》云々、とあり、所射《イユ》は、射らるゝなり、矢を負たる鹿の、つひにゆき疲れて死るごとくに、命のかぎり、君があり所を尋ね行む、とおもへどもの意なり、○道之不知者《ミチシシラネバ》は、女なれば、尋ね行べき道のしられぬ事、げに理にてあはれなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は夫の旅にありて、死りたるを悲みて、妻のよめるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3345 葦邊徃《アシヘユク》。鴈之翅乎《カリノツバサヲ》。見別《ミルゴトニ》。公之佩具之《キミガオバシシ》。投箭之所思《ナグヤシオモホユ》。
 
翅(ノ)字、舊本※[走+羽]と作るは、誤なり、今は古寫小本に從つ、○見別《ミルゴトニ》は、毎v見と書ると同意なり、○公(ノ)字、拾穗本には君と作り、○投箭《ナグヤ》は、上に投左《ナグルサ》とあるに同じ、○歌(ノ)意は、鴈の翅を見るたびに、過にし夫(ノ)君の佩賜ひてありし、投箭の羽のさまの思ひ出られて、いとゞ悲しさに堪がたし、となり、
 
右二首《ミギフタウタ》。【但或云。此短歌者。防人妻所v作也。然則應v知2長歌亦此同作1焉。】
 
右二首(ノ)三字、拾穗本にはなくして、一云、此一首防人之妻所作也、然則上長歌亦同作歟、とあり、○此間に、拾穗本には、一首并短歌作者未詳、といふ九字あり。
 
3346 欲見者《ミサクレバ》。雲井所見《クモヰニミユル》。愛《ウルハシキ》。十羽能松原《トハノマツバラ》。少子等《ワラハドモ》。率和出將見《イザワイデミム》。琴酒者《コトサカバ》。國丹放甞《クニニサカナム》。別避者《コトサカバ》。宅仁離南《イヘニサカナム》。乾坤之《アメツチノ》。神志恨之《カミシウラメシ》。草枕《クサマクラ》。此羈之氣爾《コノタビノケニ》。妻應離哉《ツマサクベシヤ》。
 
(596)欲見者は欲は放の誤にて、ミサクレバ〔五字右○〕と訓べし、と本居氏云り、○雲井所見《クモヰニミユル》、(井(ノ)字、古寫本、拾穗本には、居と作り、)雲井は、たゞ雲のことにて、此は遙に見放らるゝを云り、(略解に、井は居の誤なるべし、井はかななれば、居と井と同じ事に心得て、後人の、書誤れるか、と云れど、しからず、井も居も、共に借(リ)字なれば、いづれにしても、同じことなるをや、)○十羽能松原《トハノマツバラ》は、何處とも知がたし、十と云地(ノ)名は、かた/”\にあればなり、○少子等(少(ノ)字、拾穗本には小と作り、校本にも、官本少、作v小とあり、)は、ワラハドモ〔五字右○〕と訓べし、十六に、小兒等草者勿刈《ワラハドモクサハナカリソ》云々、と見ゆ、○率和《イザワ》は、率《イザ》やといふに同じ、神武天皇(ノ)紀に、烏到2其營(ニ)1而鳴之曰、天神(ノ)子召v汝(ヲ)、怡弉過怡弉過《イザワイザワ》、とあり、○琴酒者は、コトサカバ〔五字右○〕と訓べし、琴酒は借(リ)字にて、如(ク)v是《コノ》に避離むとならばの意なり、次の別避者《コトサカバ》も同じ、許等《コト》は如《ゴトク》v是《コノ》にと云ほどlの詞なり、即(チ)如(ノ)字(ノ)意なり、如(ノ)字を常に其等《ゴト》と濁りて唱(フ)るは上よりの連音(ノ)便にて、頭に云(フ)時は、いつも声て唱(フ)るなり、(然るを、この許等《コト》の言を、殊《コト》さらにと云意に、人皆心得來れるは、いみじきひがことなり、(書紀允恭天皇(ノ)御歌に、波那具波辭佐區羅能梅涅許等梅涅麼波椰區波梅涅孺和我梅都留古羅《ハナグハシサクラノメデコトメデバハヤクハメデズワガメヅルコラ》、古今集春に、ことなちばさかずやはあらぬ櫻花、などある、許等《コト》も同言なり、七卷に、殊放者奥從酒甞湊自邊著經時爾可放鬼香《コトサカバオキヨサカナムミナトヨリヘツカフトキニサクベキモノカ》、と見えたり、さてこの避(ク)は、死て別れ避《サカ》るを云り、○乾坤之神志恨之《アメツチノカミシウラメシ》は、神祇の御靈の幸なくして、旅中に死別れたる故、神祇を一(ト)すぢに、恨めしくおもひ奉れるなり、志《シ》はその一(ト)すぢなるを、(597)重く思はする辭なり、抑々人(ノ)身の福も、禍も、會(フ)も、離(ル)も、皆神祇の事依《コトヨサシ》に、漏る事なきが故に、事にあたりては、神祇の冥慮を喜びもし、恨みもする事、古(ヘ)人の常なり、然るを後(ノ)世、眼前の理のみを主として、神祇の冥慮あることを忘れたるは、あさましともあさまし、○此覊之氣爾《コノタビノケニ》(覊(ノ)字、拾穗本には※[覊の馬が奇]と作り、)は、此(ノ)旅の來經《ケ》ににて、時もこそあらめ、この旅中の月日を經る間に、といふなり、○妻應離哉《ツマサクベシヤ》は、妻は借(リ)字にて、夫《ツマ》なり、夫《ツマ》避《サク》べきことにはあらぬをと、恨る意なり、一(ノ)卷に、此渚崎爾多津鳴倍思哉《コノスノサキニタヅナクベシヤ》、とあると、同(シ)語(ノ)勢なり、○歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水云、此(ノ)歌は、任國などにて、夫妻共に往て、其(ノ)國に在しが、夫死れるにより、妻の子等を率て、京にかへる道にて、よめるなるべし、さて十羽能松原《トハノマツバラ》は、夫を葬りし所なれば、愛(シキ)と云るなるべし、率和出將見《イザワイデミム》は、今より遠く別れて歸るなれば、なごりに率や出見む、とは云るなるべしと云り、(略解に、こゝの松原のけしき、わが故郷に似たれば、しかいへるか、と云るは非ず、)是(ノ)やうに夫妻放らむとならば、本(ツ)國吾家に在しほどに、離らしめなむ、此(ノ)旅中にありて、夫避べき事にはあらぬものを、さるちはひのなき事ぞ、ひとへに天つ神地つ祇の恨しき、となり、かくてその十羽の松原は、任所より京にかへる道よりは、遠く雲居に、見やらるゝ故に、雲井所見《クモヰニミユル》とは、云るなるべし、今按(フ)に、九(ノ)卷筑波山の歌に、鳥羽能淡海《トバノアフミ》とあれば、十羽も若(シ)そこにもやあらむ、さらば常陸の任にて行しなるべし、
 
(598)反歌《カヘシウタ》。
 
3347 草枕《クサマクラ》。此羈之氣爾《コノタビノケニ》。妻放《ツマサカリ》。家道思《イヘヂオモフニ》。生爲便無《イカムスベナシ》。
 
覊(ノ)字、拾穗本には※[覊の馬が奇]と作り、○妻は借(リ)字にて、夫《ツマ》なり、(略解に、長歌の妻放べしやは、女の我うへをいひ、反歌の妻放は、夫を云りと云るは、いかにぞや、)○家道思は、イヘヂオモフト〔七字右○〕と訓べし、○生爲便無(便(ノ)字、舊本には使に誤れり、今は元暦本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、イカムスベナシ〔七字右○〕と訓べし、(これを昔よりイケルスベナシと訓來るは、いかに、生る爲便とては、いかにとも通《キコ》えがたきをや、よく心して、語を味(ヒ)見よ、)家道を思ふ心の悲しさに、生てあらむ爲方のなき意なり、○歌(ノ)意は、旅中にありて、夫に別れぬれば、かくて本(ツ)國に還りても、いかゞすべきとは思へども、さすがに住なれし家道も慕はしく、かなたこなたとりあつめ、思ふ心の悲しさに堪がたくて、命生てあらむ爲方《シカタ》も、今はなし、となるべし、○舊本に或本歌曰|覊乃氣二而《タビノケニシテ》、と註せり、第二(ノ)句なり、
 
右二首《ミギフタウタ》。
 
此(ノ)三字、拾穗本にはなし、
 
萬葉集古義十三卷之下 終
 
明治三十一年六月二十五日 印刷
明治三十一年七月  一日 發行
大正二年一月廿五日    再版印刷
大正二年一月三十日    再版發行
(萬葉集古義第五奧付)
非賣品(不許複製)
  東京市京橋區南傳馬町一丁日十二番地
發行者 吉川半七
  東京市芝區愛宕町三丁目二番地
印刷者 吉岡益藏
  東京市芝區愛宕町三丁目二番地
印刷所 東洋印刷株式會社
  東京市京橋區新榮町五丁目三番地
發行所 國書刊行曾
 
宮内省
御原本
 
(1)萬葉集古義十四卷之上
 
東歌《アヅマウタ》。
 
東歌は、東(ノ)國風《クニブリノ》歌なり、阿豆麻《アヅマ》といふ由縁は、古事記、書紀、倭建(ノ)命の御故事に、委く見えたり、さて古(ヘ)は、東(ノ)國は人の風俗言語等、何も皆異樣なりければ、殊に東某とことわれるなり、東人《アヅマヒト》、東男《アヅマヲトコ》、東女《アヅマヲミナ》、東竪子《アヅマワラハ》、東語《アヅマコトバ》、東屋《アヅマヤ》、東琴《アヅマコト》など云るが如し、〔頭注、【東語は惣て雅言と異れるうへ、陸奥、蝦夷などが詞は、殊にいやしくつたなくして、 京人の耳には、分がたかりし故に、譯語もて事を通ぜしことなり、三代實録三十九に、元慶五年五月三日庚戌、授2陸奥、蝦夷譯語外從八位下物部斯波連永野外從五位下1、とあるを合考べし。(此は陸奥に置れし蝦夷の通辭なり、蝦夷なれば詞の通はぬはずなり、)】〕
 
雜歌《クサノ/”\ウタ》。
 
此(ノ)標題は、必(ズ)あるべきを、舊本には脱しなり、拾穗本に從つ、次々にも、相聞、譬喩歌、雜歌、挽歌など標せる例なればなり、
 
(2)3348 奈都素妣久《ナツソビク》。宇奈加美我多能《ウナカミガタノ》。於伎都渚爾《オキツスニ》。布禰波等杼米牟《フネハトドメム》。佐欲布氣爾家里《サヨフケニケリ》。
 
奈都素妣久《ナツソビク》は、枕詞にて、魚釣※[糸+昏]挽《ナツソビク》といふことなり、七(ノ)卷に出て、彼處に、委(ク)註せり、其(ノ)歌も、夏麻引海上滷乃奧洲爾鳥者簀竹跡君者音文不爲《ナツソビクウナカミガタノオキツスニトリハスダケドキミハオトモセズ》、とあり、(本(ノ)句は、今と全(ラ)同じ、)○宇奈加美我多《ウナカミガタ》は、和名抄に、上總(ノ)國海上(ノ)(宇奈加美《ウナカミ》郡とある海の潟是なり、海上《ウナカミ》のことは、七(ノ)卷上、九(ノ)卷下等に、既く委(ク)云り、○於伎都洲《オキツス》は、澳中の洲なり、○佐欲布氣爾家里《サヨフケニケリ》は、三(ノ)卷に、吾船者枚乃湖爾※[手偏+旁]將泊奧部莫避左夜深去來《ワガフネハヒラノミナトニギハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、(○略解に、こゝに載たる五首の中、初二首と末一首は、東風ならず、京人の東(ノ)國の司などにて下りたるがよめるなるべし、と云るは、甚偏なる論なり、いかにとなれば、凡て古(ヘ)に、東人の歌よみけむことは、たとへば今(ノ)世に、琉球人などの、歌よむむごとくにぞ有けむ、そは琉球人の、皇朝學に未熟《イマダシキ》が、彼(ノ)國の語にてよみとゝのへたるは、むげにつたなくて、聞えがたきふしいと多かるを、そが中に、皇朝學にやゝたけたるがよめるは、皇朝人の歌に、をさ/\おとらぬも多きが如し、されば古(ヘ)の東人も、雅言をよく學び得たる人は、猶京人の作にも、立おくれざりしなり、かゝればこゝの初二首、末一首のみならず、凡て東歌の中に、京人のと異なることなきが多かるは、さる故にこそありけれ、此(ノ)下に、美蘇良由久君母爾毛我母奈《ミソラユククモニガモナ》云々、又、阿遲乃須牟須沙能伊利江乃《アヂノスムスサノイリエノ》云々、又、(3)安里蘇夜爾於布流多麻母乃《アリソヤニオフルタマモノ》云々、などの歌は、何(レ)も京人のにかはれるふしなし、猶此(ノ)類|許多《ソコバク》なり、又殊に防人(ノ)歌を五首載たる、皆がらいと詞うるはしくて、京人のにもめづらしきばかりなり、二十(ノ)卷、常陸(ノ)國那賀(ノ)郡(ノ)上丁大舍人部(ノ)千文(ガ)歌に、阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都須米良美久佐爾和例波伎爾之乎《アラレフリカシマノカミヲイノリツツスメラミクサニワレハキニシヲ》、又、下野(ノ)國染田(ノ)郡(ノ)上丁太田部(ノ)三成(ガ)歌に、奈爾波刀乎己岐泥弖美例婆可美佐夫流伊古麻多可禰爾久毛曾多奈妣久《ナニハトヲコギデテミレバカミサブルイコマタカネニクモソタナビク》、又、主帳埴科(ノ)郡|神人部子忍男《カムトベノコオシヲガ》歌に、知波夜布留賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知地我多米《チハヤブルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチチガタメ》、など猶多けれど、今は其(ノ)中にも、殊に秀れたるを、一(ツ)二(ツ)摘出ていふなり、かく正しく生《ハエ》ぬけの東人にも、京人にをさ/\おとらざる、うたよみの有しにて、凡て東にも、勝たる劣たるありて、必(ズ)東語ならずとて、東歌にあらずと思ふは、いと/\かたくななりけり、猶たとへて云ば、後(ノ)世に古風の歌よむもしかり、なべて世の古風を學ぶ人の作を見るに、多くは後(ノ)世語のまじりなど、いとつたなきを、又それが中に、古(ヘ)を熟學び得たる人の、多くよみたる中には、又まれ/\此(ノ)萬葉などにも入べきほどの歌も、あるが如し、
 
右一首上總國歌《ミギノヒトウタハカミツフサノクニノウタ》。
 
3349 可豆思加乃《カヅシカノ》。麻萬能宇良未乎《ママノウラミヲ》。許具布禰能《コグフネノ》。布奈妣等佐和久《フナビトサワク》。奈美多都良思母《ナミタツラシモ》。
 
(4)宇良未《ウラミ》(未(ノ)字、舊本末に誤、今改、)は、浦回《ウラミ》なり、既く一(ノ)卷に具(ク)註り、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、七(ノ)風早之三穗乃浦回乎※[手偏+旁]舟之船人動浪立良下《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノフナビトサワクナミタツラシモ》、とあるに同じ、
 
右一首下総國歌《ミギノヒトウタハシモツフサノクニノウタ》。
 
3350 筑波禰乃《ツクハネノ》。爾比具波麻欲能《ニヒグハマヨノ》。伎奴波安禮杼《キヌハアレド》。伎美我美家思志《キミガミケシシ》。安夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》。
 
爾比見波麻欲《ニヒグハマヨ》は、新桑蠶《ニヒグハマヨ》なり、和名抄に、唐韻(ニ)云、※[虫+象](ハ)桑※[爾/虫]、即(チ)桑蠶也、和名|久波万由《クハマユ》、と見ゆ、蠶は春夏飼ふを、これは先(ツ)春はじめてかひたる蠶の衣をいふなり、貫之集に、ことしおひの新桑まゆのから衣千世をかけてぞいはひそめつる、現存六帖に、平(ノ)重時(ノ)朝臣、あぢきなく物は思はじ賤がほす新桑まゆのうちにくるしも、○伎美我美家思志《キミガミケシシ》は、君之御衣《キミガミケシ》なり、十(ノ)卷に、公之御衣爾《キミガミケシニ》とある處に具(ク)云り、志《シ》は、その一(ト)すぢなる事を、重く思はする辭にて、此《コヽ》はその一(ト)すぢに著欲《キホシ》く思ふよしを、しらせたるなり、○安夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》は、あやしきまでに著まほしきにて、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、筑波嶺の新桑蠶の、よき衣はあれども、其をば著たくも思はず、君が御衣のあやしきまでの、さても一(ト)すぢに著まほしき事や、となり、○舊本に、或本歌(ニ)曰|多良知禰能《タラチネノ》、又云|安麻多伎保思母《アマタキホシモ》、とあり、此(ノ)發句は誤れるなり、多良知禰《タラチネノ》は、母《ハヽ》といふにかゝる古言の例なればなり、
 
(5)3351 筑波禰爾《ツクハネニ》。由伎可母布良留《ユキカモフラル》。伊奈乎可母《イナヲカモ》。加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》。爾努保佐流可母《ニヌホサルカモ》。
 
由伎可母布良留《ユキカモフラル》は、雪か所零《フレル》にて、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○伊奈乎可母《イナヲカモ》は、否歟諾歟《イナカヲカ》と云が如し、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、(俗に、さうであるまいか、さうであらうか、と云に、こゝは同じ、)十一に、相見者千歳八去流否乎鴨我八然念待公難爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチガテニ》、○加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》は、愛憐兒等之《カナシキコラガ》なり、○爾努保佐流可母《ニヌホサルカモ》は、布所暴《ヌノホセル》かなり、此(ノ)下に、美夜麻乎左良奴爾努具母能《ミヤマヲサラヌニヌグモノ》、とよめり、(布雲之《ヌノグモノ》なり、)母《モ》は、これも歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、實は筑波山に雪の零るを見て、よめるなるべけれど、表には、雪のふれるか、いな然《サ》にてはあるまじきか、然にてあらむか、もし然《サ》にてあらずば、美しき女が布を干《ホシ》たるにてあらむか、さても見事のけしきや、と打見たるまゝに、疑ひて云るとなり、(初(メ)には、雪のふれるならむかとおしはかり、中には、雪にてあらむか、其(レ)にはあるまじきかと疑ひ、終には、布ほせるならむかと、おもひはかりたるさまにて、いとをかしきこゝろばえなり、略解に、曝布にたとへたるなり、と云るは、いさゝかたがへり、たとへたる意は、さらになきをや、)
 
右二首常陸國歌《ミギノフタウタハヒタチノクニノウタ》。
 
3352 信濃奈流《シナヌナル》。須我能安良能爾《スガノアラノニ》。保登等藝須《ホトトギス》。奈久許惠伎氣婆《ナクコヱキケバ》。登伎須疑爾家里《トキスギニケリ》。
 
(6)須我能安良能《スガノアラノ》は、信濃地名考に、野史(ニ)曰、大穴持(ノ)命、巡2行此國1、到2坐阿羅野(ニ)1云々、今伊奈(ノ)郡阿智川の南に、菅野村ありと云り、其處なるべし、○歌(ノ)意は、春の末かぎりに逢むと人に約り置しを、得逢ずして、夏來て霍公鳥の音に驚きて、彼が鳴を聞ば、契りし時はや過にけり、と云るなり、(略解に、旅にありて、とく歸らむことを思ふに、郭公の時まで猶在を愁たるにて、意も調(ベ)も、京人の任などにて、よめりけむと云るは、おしあてごとなり、)
 
右一首信濃國歌《ミギノヒトウタハシナヌノクニノウタ》。
 
相聞《シタシミウタ》。
 
3353 阿良多麻能《アラタマノ》。伎倍乃波也之爾《キヘノハヤシニ》。奈乎多?天《ナヲタテテ》。由吉可都麻思自《ユキカツマシモ》。移乎佐伎太多尼《イモサキダタネ》。
 
阿良多麻能《アラタマノ》は、枕詞なり、遠江(ノ)國麁玉(ノ)郡あれど、其(ノ)郡には伎倍《キヘ》てふ地なし、さればたゞ枕詞なりと云り、十一に、璞之寸戸我竹垣《アラタマノキヘガタカガキ》、とある處に、具(ク)註り、○伎倍乃波思之《キヘノハヤシ》は、和名抄に、遠江(ノ)國山香(ノ)郡岐階、とある、階(ノ)字は、陛の誤にて、伎倍《キヘ》は是なるべし、と本居氏云り、其處にある林なり、○奈乎多?天《ナヲタテテ》は、汝《ナ》を、令《テ》v立《タ》而《テ》なり、○由吉可都麻思自《ユキカツマシモ》は、自(ノ)字は、目の誤なり、行難《ユキカテ》ましもにて、目《モ》は歎息(ノ)辭なり、○移乎佐伎太多尼《イモサキダタネ》は、稻掛(ノ)太平云、乎(ノ)字は毛の誤なるべし、妹先立《イモサキダヽ》ねなり、○歌(ノ)意は、本居氏、これは男の旅立行時、妻の伎倍《キヘ》の林まで、送(リ)來ぬるを別るゝ時、男のよめるなり(7)と云る如し、伎倍《キヘ》の林に、汝を立留らせ置て別れ行(カ)ば、さても得行あへじ、妹も立(チ)とまらずして、前立てゆけかし、さらば吾も共に行むぞ、となるべし、
 
3354 伎倍比等乃《キヘヒトノ》。萬太良夫須麻爾《マダラブスマニ》。和多佐波太《ワタサハダ》。伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》。伊毛我乎杼許爾《イモガヲドコニ》。
 
萬太良夫須麻《マダラブスマ》は、斑衾《マダラブスマ》なり、集中に、斑衣《マダラノキヌ》ともよめり、萬太良《マダラ》は、字鏡に、※[足+春](ハ)色雜不v同也、萬太良爾《マダラニ》、と見ゆ、○和多佐波太《ワタサハダ》は、綿多《ワタサハダ》なり、佐波太《サハダ》は、多《サハ》と云に同じ、(岡部氏が、太は爾の誤なり、と云るはあらず、)此(ノ)下に、安比太欲波佐波太奈利努乎《アヒシヨハサハダナリヌヲ》、とよめり、さて此までは、衾に綿を入るを云て、入といはむ料の序なり、○伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》は、入なまし物をなり、物をといふべきを、物《モノ》とのみ云ること、古歌に例多し、既く云り、○伊毛我乎杼許爾《イモガオヲドコニ》は、妹が小床《ヲドコ》になり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
右二首遠江國歌《ミギノフタウタハトホツアフミノクニノウタ》
 
3355 安麻乃波良《アマノハラ》。不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》。己能久禮能《コノクレノ》。等伎由都利奈波《トキユツリナバ》。阿波受可母安良牟《アハズカモアラム》。
 
安麻乃波良《アマノハラ》は、此(ノ)山極めて高く、空にかゝれる如く見ゆれば、天(ノ)原とは云り、都氏(ノ)富士山(ノ)記にも、峯如2削成(ガ)1、直聳而屬v天、と云る如し、新古今集春上に、天(ノ)原富士の烟の春の色の霞になびく(8)あけぼのゝ空、○不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》は、富士之柴山《フジノシバヤマ》なり、富士の半より下の、小木の生しげりたる處を云、○己能久禮能《コノクレノ》は、木之暗之《コノクレノ》なり、(本居氏の、上(ノ)二句は、このくれの序のみ、木之暗《コノクレ》を、此暮《コノクレ》にいひかけたるなり、と云るはわろし、木之暗を、此(ノ)暮にいひかくるやうのことは、古風にあらず、)○等伎由都利奈波《トキユツリナバ》は、時依移《トキユツリ》なばなり、由都流《ユツル》といふ言(ノ)意は、由《ユ》は依《ヨリ》にて、たとへば、中にある物の、本または未の方に、依(リ)て移る謂なり、○歌(ノ)意は、富士の柴山の繁く生なびきて、木暗き折しも、わが隱妻を率て立隱るべきなれば、此(ノ)時節を過しては、さることも叶ひがたければ、逢ずなりなむか、さてもくちをしや、となり、(岡部氏の、木之暗道の越がたき間に、時過むか、といふ意に見しは、違へり、)四(ノ)卷大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌に、佐保河乃涯之官能小歴木莫刈烏在乍毛張之來者立隱金《サホガハノキシノツカサノシバナカリソネアリツヽモハルシキタラバタチカクルガネ》、
 
3356 不盡能禰乃《フジノネノ》。伊夜等保奈我伎《イヤトホナガキ》。夜麻治乎毛《ヤマチヲモ》。伊母我理登倍婆《イモガリトヘバ》。氣爾餘婆受吉奴《ケニヨバズキヌ》。
 
伊母我理登倍婆《イモガリトヘバ》は、妹許《イモガリ》と云(ヘ)ばなり、○氣爾餘婆受吉奴《ケニヨバズキヌ》は、岡部氏云、氣《ケ》は息《ケ》、爾餘婆受《ケニヨバズ》は不《ズ》2呻吟《ニヨバ》1なり、妹が許へ行と思ふ心より、山路もおぼえずして來ぬ、といふなり、(本居氏は、氣は長氣など云氣にて、日を經るに及ばず、いそぎて來ぬといふか、と云り、)○歌(ノ)意は、常は息づき坤吟《サマヨヒ》て、艱難《カラク》して越來なるに、妹許へといへば心空(ラ)にて、彌遠長き山路をも、息づき坤吟(ハ)ずして、越(9)來ぬるよ、となり、
 
3357 可須美爲流《カスミヰル》。布時能夜麻備爾《フジノヤマビニ》。和我伎奈婆《ワガキナバ》。伊豆知武吉?加《イヅチムキテカ》。伊毛我奈氣可牟《イモガナゲカム》。
 
夜麻備《ヤマビ》は、山傍《ヤマビ》なり、山邊《ヤマヘ》と云むが如し、○歌(ノ)意は、霞の立覆へる富士の山邊に、はる/”\わかれて、吾が來りなば、そことも見ゆまじきなれば、何(レ)のかたへ向ひてか、妹がなげかむ、となり、此(ノ)下に、宇惠多氣能毛登左倍登與美伊※[人偏+弖]弖伊奈婆《ウヱタケノモトサヘトヨミイデテイナバ》、とありて、末(ノ)句は、今と全(ラ)同歌あり、
 
3358 佐奴良久波《サヌラクハ》。多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》。古布良久波《コフラクハ》。布自能多加禰乃《フジノタカネノ》。奈流佐波能其登《ナルサハノゴト》。
 
佐奴良久波《サヌラクハ》は、夫妻共相宿《ツマドチアヒネ》することは、と云が如し、○多麻乃緒婆加里《タマノヲバカリ》は、短きを譬云て、たゞ暫の間のことなり、○古布良久波《コフラクハ》は、戀しく思ふ事は、といふが如し、○奈流佐波能其登《ナルサハノゴト》は、如2鳴澤(ノ)1なり、思(ヒ)の、鳴澤の鳴さわぐごとく湧(キ)返る、となり、鳴澤は、此(ノ)山のいたゞきに大なる澤有(リ)て、むかし山のもゆる火の氣《ケ》と、其(ノ)澤水と相對て、常にわき返り、鳴響む音の高かりしゆゑに、鳴澤といへるとぞ、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、古今集に、逢事は玉(ノ)潜計名の立は吉野の川の瀧津瀬の如、伊勢物語に、逢事は玉(ノ)緒許おもほえてつらき心のながく見ゆらむ、
〔或本歌曰。麻可奈思美《マカナシミ》。奴良久思家良久《ヌラクシマラク》。佐奈良久波《サナラクハ》。伊豆能多可禰能《イヅノタカネノ》。奈流左波奈須與《ナルサハナスヨ》。〕
(10)奴良久思家良久、(奴良久の下、舊本には波(ノ)字あり一本に无(キ)よろし、)來(ノ)字は、末の誤なるべし、未家草書似たり、ヌラクシマラク〔七字右○〕と訓べし、○佐奈良久波《サナラクハ》(佐(ノ)字、舊本にはなし、一本に從、)は、佐奴良久波《サヌラクハ》といふに同じ、○伊豆能《イヅノ》云々、奈須與《ナスヨ》は、走(リ)湯の事なりと云れど、鳴澤と云ること、聞え來ざることなり、此歌は、右の歌を闇誦《ソラニヨミ》誤(リ)しものと見えたり、奈須與《ナスヨ》は如《ナス》よなり、與《ヨ》は、歎息の聲にて、次(ノ)歌に、奈須毛《ナスモ》とある毛《モ》に近し、
〔一本歌曰。阿敝良久波《アヘラクハ》。多麻能乎思家也《タマノヲシケヤ》。古布良久波《コフラクハ》。布自乃多可禰爾《フジノタカネニ》。布流由伎奈須毛《フルユキナスモ》。〕
多麻能乎思家也《タマノヲシケヤ》は、玉の緒しくやなり、俗に、何しくといふは、みなそれめくといふ心なれば、玉の緒めきて、わづかなる心なり、と契冲云り、(岡部氏云、遠江などの人、物の形をたとへ云に、山すけに成てなど云るは、山の次なり、是を思ふに、玉(ノ)緒|次哉《スキヤ》にて、それについづる意とすべしと云り、考(ヘ)合(ス)べし、○布流由吉奈須毛《フルユキナスモ》は、零雪の如く、常止ず、さても戀しく思ふぞ、となり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、
 
3359 駿河能宇美《スルガノウミ》。於思敝爾於布流《オシヘニオフル》。波麻都豆良《ハマツヅラ》。伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》。波播爾多我比奴《ハハニタガヒヌ》。
 
於思敝爾於布流《オシヘニオフル》は、磯邊《イソヘ》に生るなり、磯邊《イソヘ》を東語に於思敝《オシヘ》と云り、下に、麻未乃於須比爾奈美毛登杼呂爾《ママノオスヒニナミモトドロニ》、とあるも、眞間之磯邊《ママノオスヒ》になり、○波麻都豆良《ハマツヅラ》(良(ノ)字、舊本夜に誤、今は古寫一本に從(11)つ、既く、契冲も、夜は良の誤なり、といへり、)は、品物解に云、○伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》は、汝《イマシ》を頼《タノミ》なり、○波播爾多我比奴《ハハニタガヒヌ》、舊本に、一(ニ)云|於夜爾多我比奴《オヤニタガヒヌ》、とあり、何れにもあるべし、母の心に背(キ)違ぬなり、○歌(ノ)意は、契冲云、濱つゞらの如く、汝が吾に絶ぬ心をたのみて、母が、こと人をむかへさせむなどいふを、うけひかずして、心に背ける、とい へるなり、
 
右五首駿河國歌《ミギノイツウタハスルガノクニノウタ》。
 
3360 伊豆乃宇美爾《イヅノウミニ》。多都思良奈美能《タツシラナミノ》。安里都追毛《アリツツモ》。都藝奈牟毛能乎《ツギナムモノヲ》。美太禮志米梅楊《ミダレシメメヤ》。 
 
第一二(ノ)句は、序なり、契冲、しらなみのありつゝとつゞけたるにはあらず、つぎなむものをとつゞくるなり、浪のあとより立つゞくによせて、あり/\て後にも、心だにかはらずば、繼て逢見む物をと云なり、と云る如し、○美太禮志米梅楊《ミダレシメメヤ》は、將《ム》2亂始《ミダレソメ》1哉《ヤ》なり、○歌(ノ)意は、ありありて繼て相見む物を、得忍びずして亂初むやは、よく堪て、心を亂さじ、となり、○舊本に、或本歌(ニ)曰、之良久毛能多延都追母都我牟等母倍也美太禮曾米家武《シラクモノタエツツイモツガムトモヘヤミダレソメケム》、と註せり、此意は、絶ながらにも、又繼て逢むと思へやは、又逢むとは思はず、さればにや、かく亂れそめけむ、といふなるべし、
 
右一首伊豆國歌《ミギヒトウタハイヅノクニノウタ》。
 
3361 安思我良能《アシガラノ》。乎?毛許乃母爾《オテモコノモニ》。佐須和奈乃《サスワナノ》。可奈流麻之豆美《カナルマシヅミ》。許呂安禮比(10)毛等久《コロアレヒモトク》。
 
乎?毛許乃母《ヲテモコノモ》は、彼面此面《ヲテモコノモ》なり、十七に、安之比奇能乎底母許乃毛爾等奈美波里《アシヒキノヲテモコノモニトナミハリ》、○佐須和奈乃《サスワナノ》は、刺羂之《サスワナノ》なり、和名抄に、周易(ニ)云、蹄者所2以得1v菟(ヲ)也、故得v菟(ヲ)忘v蹄(ヲ)、師説(ニ)和奈《ワナ》、神代紀下に、特有2川雁1嬰(テ)v羂《ワナニ》困厄《クルシメリ》、神武天皇(ノ)紀に、于※[人偏+嚢]能多伽機珥辭藝和奈破蘆《ウダノタカキニシギワナハル》、(古事記にも見ゆ、)さて此(レ)までは可奈流麻《カナルマ》を之豆美《シヅミ》、といひ係たる序なり、さるは獵者などの刺羂には、人音かまびすしくては、鳥獣の懼てより來ぬ故、物音しづめて、しのび/\に物する故、かくいへるなり、次に引(ク)二十(ノ)卷なるは、數多の健士の、弓矢手挾て向ひ立る時に、弓珥などとの鳴さわぐを、可奈流麻《カナルマ》といふへ、いひかけたるにて、彼《カシコ》は囂鳴を主とし、此《コヽ》は靜を主として、云續たるとの差別ありて、いささか異れり、(諸説皆いかゞなり、)○可奈流麻之豆美《カナルマシヅミ》は、囂鳴間靜《カナルマシヅミ》なるべし、可奈流《カナル》は、囂く鳴響をいふべし、字鏡に、〓(ハ)加萬加万志《カマカマシ》、※[犬三つ](ハ)加方加万志《カマカマシ》、又常に加志万志《カシマシ》とも加万妣須志《カマビスシ》とも云、俗にやかましとも云り、二十(ノ)卷に、阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知可奈流麻之都美伊※[泥/土]弖登阿我久流《アラシヲノイヲサダハサミムカヒタチカナルマシヅミイデテトアガクル》、○許呂安禮比毛等久《コロアレヒモトク》は、兒等と吾と、共に紐解て相寢る、となり、○歌(ノ)意は、夜更て、囂しき人音をしづめて後、女と吾と共に、紐解て、しめやかに逢寢るよ、となり、
 
3362 相模禰乃《サガムネノ》。乎美禰見所久思《ヲミネミソグシ》。和須禮久流《ワスレクル》。伊毛我名欲妣?《イモガナヨビテ》。吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》。
 
(13)相模禰《サガムネ》は、今大山とて、雨降(ノ)神社のある山なるべしと云り、さて和名抄には、相撲(ハ)佐加三《サガミ》とあれども、其は後に轉れる唱(ヘ)にて、古(ヘ)は佐我武《サガム》と呼しなり、古事記に、相武《サガムノ》國と書り、摸(ノ)字を書るも、ム〔右○〕の假字なり、又東遊の一歌に、左加安无乃於禰《サガアムノオネ》とあるも、相摸の峯といふことなるべし、と本居氏云り、○乎美禰見所久思《ヲミネミソグシ》は、小峯見過《ヲミネミスグ》しなり、○和須禮久流《ワスレクル》は、相摸峯を見過し、はるばる來て、漸々妹が事を忘るゝなり、○吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》は、令《シム》2吾(ヲシテ)泣(カ)1v哭《ネヲ》なり、之《シ》は、例のその一すぢなる事を、重く思はする助辭なり、尾《ハテ》の奈《ナ》は、戀む奈《ナ》、けらし奈《ナ》などいふ奈《ナ》に同じくて、奈阿《ナア》と歎きすてたる辭なり、(略解などに、この奈《ナ》を、莫《ナ》の意に見て、我に泣しむることなかれといふ意ぞ、と云るは、甚誤なり、)次の或本(ノ)歌に、奈久流《ナクル》とあるも、令《スル》v泣《ナカ》の意にて同じ、此(ノ)下に、奈勢能古夜等里乃乎加耻志奈可太乎禮安乎禰思奈久與伊久豆君麻底爾《ナセノコヤトリノヲカヂシナカダヲレアヲネシナクヨイクヅクマデニ》、又、思麻良久波彌都追母安良牟乎伊米能未爾母登奈見要都追安乎禰思奈久流《シマラクハネツツモアラムヲイメノミニモトナミエツツアヲネシナクル》、二十(ノ)卷に、先太上天皇御製、霍公鳥歌に、富等登藝須奈保毛奈賀那牟母等都比等《ホトトギスナホモナカナムモトツヒト》、可氣都都母等奈安乎禰之奈久母《カケツツモトナアヲネシナクモ》、などある、皆同じ、岡部氏が、寢し無からするなり、と云るは、甚非なり、)○歌(ノ)意は、旅に出立て、家道はる/”\遠放り來て、戀しく思ふ妹が事をも、漸く忘るゝほどなるに、同旅行《タビユキドチ》の中より、妹が名を呼て、又しも吾に哭を泣しむるなあ、と歎きたるなり、
〔或本歌曰。武藏禰能《ムザシネノ》。乎美禰見可久思《ヲミネミカクシ》。和須禮遊久《ワスレユク》。伎美我名可氣?《キミガナカケテ》。安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》。〕
(14)武藏禰《ムザシネ》は秩父《チヽブ》山をいふなるべし、武藏は、武射志《ムザシ》と射《ザ》を濁り唱(フ)なり、なほ次にいふ、
 
3363 和我世古乎《ワガセコヲ》。夜麻登敝夜利?《ヤマトヘヤリテ》。麻都之太須《マツシタス》。安思哉良夜麻乃《アシガラヤマノ》。須疑乃木能末可《スギノコノマカ》。
 
麻都之太須《マツシタス》は、令《ス》2待慕《マチシタハ》1といふか、都《ツ》は知《チ》を通はし、太《タ》は多波《タハ》の縮りたるなり、されば夫の方より、吾を待慕はしむる謂に云るなるべし、(契沖が、まつしたすは、まつしたつなり、まつしは、まぶしなり、文選潘安仁(ガ)※[身+矢]雉賦(ニ)云、爾乃※[波/手]v場|柱《タツ》v翳《マブシヲ》、停僮葱翠、鳥けだ物をかるものゝ、まぶしさしてうかゞふごとく、足柄山の杉の木のまより、今や歸るとみれば、杉の木の間を、まつしをたつるといふなり、といへるは、いとわろし、翳《マブシ》は、鳥獣をうかねらふ人の、立かくるゝ料の、ものにこそあれ、人を待にはよしなきことなり、又岡部氏は、松に待をそへしにて、せこを常に待望む、杉の木の間なれば、この杉をば、松といふべきかなり、と云れど、さる意ともきこえがたし、)○須疑乃木能末可《スギノコノマカ》は、※[木+温の旁]之木際哉《スギノコノマカ》なり、足柄山には、古(ヘ)杉の大木多くありて、船などに造りしなり、今も埋杉とて掘出すとなむ、後(ノ)矢立の杉と云しも、此(ノ)山のなり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君を都へ上(セ)遣てより、歸り來ますを、今や/\と、足柄山の木(ノ)際より、待慕ひ望ましめつゝある、杉の木哉、と云(ヘ)るにや、杉は、木(ノ)際より望むよしを主《ムネ》として云るを、故《コトサラ》に杉のしわざの如く云なしたるか、二(ノ)卷に、吾勢枯乎倭邊遣登佐夜深而鷄鳴露爾吾立所霑之《ワガセコヲヤマトヘヤルトサヨフケテアカトキツユニアガタチヌレシ》、古今集(東歌)陸奥歌に、吾勢子(15)を都に遣て鹽竈の籬の島のまつぞ戀しき、
 
3364 安思我良能《アシガラノ》。波姑禰乃夜麻爾《ハコネノヤマニ》。安波麻吉?《アハマキテ》。實登波奈禮留乎《ミトハナレルヲ》。阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》。
 
安波麻吉?《アハマキテ》は、粟種而《アハマキテ》なり、逢《アフ》を云む料なり、三(ノ)卷に、千磐破神之社四無有世伐春日之野邊粟種益乎《チハヤブルカミノヤシロシナカリセバカスガノヌヘニアハマカマシヲ》、十六に、成棗寸三二粟嗣《ナシナツメキミニアハツギ》云々、(これら粟《アハ》に逢をそへたり、)○實登波奈禮留乎《ハミトハナレルヲ》は、事は成就《ナリ》たる物を、といふなり、○阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》は、不v逢事も恠しの意なり、○歌(ノ)意は、箱根山に粟を種て、實とはなれる物を粟のなきが怪し、と表に云て、さておもひをかけてほどふるままに、人も許容《ユルシ》て、實にいもとせのかたらひをなせる物をなにとて滯りてあはぬことぞと、裏に怪しみ思ふよしを、粟もて爲立たるなり、○舊本に、或本歌、末句云、波布久受能比可利與《》利己禰思多奈保那保爾《ハフクズノヒカリヨリコネシタナホナホニ》、と註せり、比可利與利己禰《ヒカリヨリコネ》は、所《レ》v引《ヒカ》依來《ヨリコ》ねなり、利(ノ)字、官本には波と作り、さらば引者依來《ヒカバヨリコ》ねなり、思多奈保那保爾《シタナホナホニ》は、思多《シタ》は、下思《シタオモヒ》、下延《シタバヘ》の下《シタ》にて、隱々《シノビ/\》に物するを云、奈保那保《ナホナホ》は、五(ノ)卷に、比佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾《ヒサカタノアマヂハトホシナホナホニイヘニカヘリテナリヲシマサニ》、とある、奈保奈保《ナホナホ》に同じくて、質直《タゞ》に黙止《モダ》りて平穩なる意なり、蔓葛のもつれ亂るゝことなく、たやすく、吾(ガ)方に、依來れかし、と希ふなり、
 
3365 可麻久良乃《カマクラノ》。美故之能佐吉能《ミコシノサキノ》。伊波久叡乃《イハクエノ》。伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》。己許呂波母(16)多自《ココロハモタジ》。
 
可麻久良《カマクラ》は、和名抄に、相摸(ノ)國鎌倉(ノ)郡|加万久良《カマクラ》、○美胡之能佐吉《ミコシノサキ》は、相摸(ノ)國風土記に、鎌倉(ノ)郡見越(ノ)崎毎v有2速浪1崩v石(ヲ)、國人名2號|伊曾布利《イソフリト》1、謂v振(ヲ)v石(ニ)也、○伊波久叡乃《イハクエノ》は、石崩之《イハクエノ》なり、悔《クユ》を、いはむ料の序なり、石崩は、風土記の説の如し、仁徳天皇(ノ)紀播磨(ノ)國(ノ)造(ノ)祖速待(ガ)歌に、瀰箇始報破利摩波椰摩智以播區椰輸伽之古倶等望阿例椰始儺破務《ミカシホハリマハヤマチイハクヤスカシコクトモアレヤシナハム》、○歌(ノ)意は、君が後に、悔べきやうの心をば持じ、堅く頼み給へ、となり三(ノ)卷に、妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持《イモモアレモキヨミノカハノカハキシノイモガクユベキコヽロハモタジ》、十(ノ)卷に、雨零者瀧都山川於石觸君之摧情者不持《アメフレバタギツヤマガハイハニフリキミガクダカムコヽロハモタジ》、
 
3366 麻可奈思美《マカナシミ》。佐禰爾和波由久《サネニワハユク》。可麻久良能《カマクラノ》。美奈能瀬河泊余《ミナノセガハヨ》。思保美都奈武賀《シホミツナムカ》。
 
美奈能瀬河泊余《ミナノセガハヨ》は、金《ヨ》は從《ヨリ》にて爾《ニ》といはむが如し、蘆邊に滿來るといふべきを、從《ヨリ》2蘆邊《アシヘ》1滿來塩之《ミチクルシホノ》、とよめるに同(シ)例なり、既く具(ク)云り、さて今も、常は水乾て、潮滿(ツ)時は、高浪の立(ツ)川、鎌倉に有(リ)と云り、其川を渡りて、妹許へ通ふ人の歌なり、○思保美都奈武賀《シホミツナムカ》は、汐滿らむかなり、良武《ラム》といふべきを、東語には奈武《ナム》と云う、次々《スキ/\》に見ゆ、○歌(ノ)意は、心愛しさに堪かねて、其(ノ)女と相宿せむとて、吾は行なるに、其(ノ)行路の美奈《ミナ》の瀬河に、今は早潮滿來て、渡りがたからむか、おぼつかなしや、となり、
 
(17)3367 母毛豆思麻《モモヅシマ》。安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》。安流吉於保美《アルキオホミ》。目許曾可流良米《メコソカルラメ》。己許呂波毛倍杼《ココロハモヘド》。
 
母毛豆思麻《モモヅシマ》は、百津島《モヽヅシマ》にて、數多の島を云、八十《ヤソ》島など云るが如し、さて此(ノ)句は、巡行多《アルキオホミ》をいはむ料なり、○安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》は、足柄山の材にて造れる船なり、三(ノ)卷に、鳥總立足柄山爾船材伐《トブサタテアシガラヤマニフナキキリ》云々、と見え、又足柄山の杉を伐て船に造れるに、その足のいと輕かりければ、山の名となれるよし、風土記に見えたり、○安流吉於保美《アルキオホミ》は、歩行多《アルキオホ》みなり、かなた此方《コナタ》に、あるき行方の、多き故にの意なり、○目許曾可流良米《メコソカルラメ》は、男の目こそ疎《カル》らめ、となり、○己許呂波價毛倍杼《ココロハモヘド》は、心には思へどなり、七(ノ)卷に、水霧相奥津小嶋爾風乎疾見船縁金津心者念杼《ミナギラフオキツコシマニカゼヲイタミフネヨセカネツコヽロハモヘド》、とあり、○歌(ノ)意、契冲云、これは女の歌にて、われはかく二心なくおもへど、男は心のかろきものにて、こなたかなたに心をかけて、ゆくかたのおほき故に、めこそかるらめ、となり、(略解の説は、聞とりがたし、)
 
3368 阿之我利能《アシガリノ》。刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》。伊豆流湯能《イヅルユノ》。余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》。故呂河伊波奈久爾《コロガイハナクニ》。
 
阿之我利《アシガリ》は、足柄《アシガラ》なり、東語には、足我良《アシガラ》とも足我利《アシガリ》とも、云るなり、○刀比能可布知《トヒノカフチ》は、足柄(ノ)下(ノ)郡の土肥《トヒ》の河内《カフチ》なり、土肥《トヒ》の杉山など云て、伊豆に交れる所に、今湯河原と云村に、湯ありと(18)云り、○伊豆流湯能《イヅルユノ》、此(レ)までは、多欲良《タヨラ》を云む料の序なり、伊豆流湯《イヅルユ》は、和名抄に、温泉(ハ)和名|由《ユ》、とあるが如し、○余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》とは、余爾母《ヨニモ》は、世にも嬉しき、世にも悲しき、などいふに同じ語なり、多欲良《タヨラ》は、多欲良《タヨラ》、多由良《タユラ》、共に多由多《タユタ》といふに通ひて、其(ノ)多由多《タユタ》は、七(ノ)卷に、吾情湯谷絶谷浮蓴邊毛奥毛依勝益士《ワガコヽロユタニタユタニウキヌナハヘニモオモニモヨリカテマシヲ》、とある如く、動搖《ユタ/\》と漂蕩《タヾヨヒ》て、彼にもよらず、此にもよらず、心の定まらぬをいふ言なり、かくて上よりのつゞきは、温泉の不足事《アカヌヨト》なく、多く滿湛へて寛なる意に、いひかけたるなり、(俗にたつぷりといふ意なり、)多欲良《タヨラ》を、滿湛へて寛なる事に云は、即(チ)由多《ユタ》といふをも動搖《ユタ/\》と漂蕩《タヾヨ》ふ事にも、寛大《ユタカ》にして、不足《アカヌ》ことなきにもいふと、同(ジ)例なるを思ふべし、(本居氏は、多欲良《タヨラ》は、俗言に、丈夫にと云意なり、上よりのつゞきは、湯の丈夫に多き意、歌(ノ)意は、あやふからず、丈夫にたしかなる意なり、妹が丈夫にいはぬを、あやふがるなり、と云れど、いかゞ、)○歌(ノ)意は、動搖《ユタ/\》と漂蕩《タヾヨ》ひて、彼にもよらず、此にもよらず、心を定めずして、世に危ふく、末おぼつかなく女のいはゞこそあれ、さはなくして、たしかにかたく、吾といひかはしたるなるに、今更に何を疑ひて、かくさま/”\に物思をばすらむと、自(ラ)我(カ)心を制《トガ》めたるなるべし、此(ノ)下に、筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆代爾毛多由良爾和我於毛波奈久爾《ツクハネノイハモトドロニオツルミヅヨニモタユラニワガオモハナクニ》、
 
3369 阿之我利乃《アシガリノ》。麻萬能古須気乃《ママノコスゲノ》。須我麻久良《スガマクラ》。安是加麻可左武《アゼカマカサム》。許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》。
 
(19)麻萬能古須氣《ママノコスゲ》は、麻萬《ママ》は、足柄(ノ)郡の萬々下の郷と云は、足柄の竹下と云處の下にて、酒勾川の上にあり、と略解に云り、古須氣《コスゲ》は、子菅《コスゲ》なり、○須我麻久良《スガマクラ》は、菅枕にて、薦枕の類なり、○安是加麻可左武《アゼカマカサム》は、何《ナゼ》か纏(キ)賜はむ、と云が如し、○許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》は、兒等爲《コラセ》よ手枕なり、と契冲が云るは、さることなり、○歌(ノ)意は、何とてか菅枕を纏賜はむ、いざ吾(ガ)手を、手枕に爲賜へ、兒等よ、となり、(岡部氏が、許呂勢《コロセ》を、子等夫《コラセ》と見て、子等《コラ》と夫《セ》は、互に手枕をこそすれなり、と云るは違へり、)
 
3370 安思我里乃《アシガリノ》。波故禰能禰呂乃《ハコネノネロノ》。爾古具佐能《ニコグサノ》。波奈豆麻奈禮也《ハナヅマナレヤ》。比母登可受禰牟《ヒモトカズネム》。
 
波故禰能禰呂《ハコネノネロ》は、箱根の嶺なり、呂《ロ》は、添言辭にて、東歌には殊に多き言なり、(※[土頁蓋]嚢抄に、坂東詞、末に多くろの字を付る事あり、と云るは、是なり、)○爾古具佐能《ニコグサノ》、此(レ)までは、花を云む料の序なり、爾古具佐《ニコグサ》は、草(ノ)名なり、俗に箱根《ハコネ》草と呼り、品物解に具(ク)云り、○波奈豆麻奈禮也《ハナヅマナレヤ》(舊本、奈の下に、都(ノ)字あるは衍なり、又官本には、都(ノ)字ありて、豆(ノ)字なし、)は、花妻《ハナヅマ》なれやは、花妻にてはなきにの意なり、さて花妻は、花は、花物《ハナモノ》の花にて、實《マユト》なくあだなる妻を、いふにもあるべけれど、さては打つけに聞えて味なし、今按(フ)に、新婚《ハジメテムカフ》る婦《ヨメ》を、今(ノ)世に花婦《ハナヨメ》と唱《イヘ》り、其は新しく花やぎ、希見《メヅラシ》き由の稱なるべし、此(レ)に依て思へば、古(ヘ)もしか新婚《ニヒマクラ》の妻を、花妻と云しにこそ、○歌(ノ)意は、新婚(20)の妻にてはなきものを、何とて紐解ずしては宿む、となり、いと若き女の、初て交接《ヒモトク》には、甚|恥《ヤサ》しみ憚《ユヽ》しみするものなれば、かく云るにて、此(ノ)歌は、漸既く婚《アヒ》たる女の、なほ恥しがりて、紐解がてにする時、男のよめるなるべし、
 
3371 安思我良乃《アシガラノ》。美佐可加思古美《ミサカカシコミ》。久毛利欲能《クモリヨノ》。阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》。許知弖都流可毛《コチデツルカモ》。
 
美佐可加思古美《ミサカカシコミ》は、御坂の嶮《サガ》しくて、恐き故にの意なり、御坂は、九(ノ)卷足柄(ノ)坂にて、よめる歌に、東國能恐耶神之三坂爾《アヅマノクニノカシコキヤカミノミサカニ》、とあり、○久毛利欲能《クモリヨノ》は、志多婆倍《シタバヘ》をいはむとての枕詞なり、まづ志多《シタ》と云は、常に云|上下《ウヘシタ》の下《シタ》の意のみにあらず、志多《シタ》は、志努《シヌ》、また志那《シナ》など云と通ひて、匿《シヌ》び隱《カク》れて、表方《ウハヘ》にあらはれざるを云言なり、(志多《シタ》と志努《シヌ》と通ふは、シタフ〔三字右○〕とシヌフ〔三字右○〕と同言なるが如し、又|志那《シナ》と通ふと云は、匿をシナメ〔三字右○〕と訓るも、シヌヒ〔三字右○〕といふに同じ、)即(チ)下延《シタバヘ》といふも、隱《シヌ》び延(フ)るよしなり、さて陰夜《クモリヨ》は物の目もわかず、自(ラ)隱《シヌ》びかくるゝ意もて、かくつゞけたるなり、(略解に、己毛利奴能《コモリヌノ》の誤なるべし、と云るは、甚偏説なり、)○阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》は、吾(ガ)下延《シタバヘ》をなり、九(ノ)卷菟原處女をよめる歌に、隱沼乃下延置而《コモリヌノシタバヘオキテ》、とよめり、此(ノ)下にも此(ノ)語見ゆ、既く具(ク)云り、吾(ガ)隱々に通(ハ)す心を、打出す由なり、○許知弖都流可毛《コチデツルカモ》は、言出《コトイデ》つる哉なり、(トイ〔二字右○〕》はチ〔右○〕と切る故、コチデ〔三字右○〕といふ、)○歌(ノ)意は、常は心にのみ隱て、色にもあらはさぬ妹が事を、足柄山の嶮しき坂路の、甚恐さに、頻に戀しく思ひ出るあまりに、おぼえず言に出して、妹が名をいひつる哉、堪忍びて、(21)言に出さずして、あるべかりつるものを、となり、十五に、加思政美等能良受安里思乎美故之治能多武氣乎多知弖伊毛我名能里都《カシコミトノラズアリシヲミコシヂノタムケニタチテイモガナノリツ》、とあるに同じ、
 
3372 相模治乃《サガムヂノ》。余呂伎能波麻乃《ヨロキノハマノ》。麻奈胡奈須《マナゴナス》。兒良久可奈之久《コラシカナシク》。於毛波流留可毛《オモハルルカモ》。
 
相模治《サガムヂ》は、相模道《サガムヂ》なり、○余呂伎能波麻《ヨロキノハマ》は、和名抄に、餘綾(ノ)郡餘綾(ハ)、與呂木《ヨロキ》、延喜兵部省式に、相模(ノ)國傳馬(足柄(ノ)上、淘綾《ユルキ》、高座(ノ)郡、各五疋、)今の大磯(ノ)驛の東うらのあたりなり、と云り、(本居氏、古今集の歌の、こよろきの磯も、相模(ノ)國の餘綾《ヨロ》にて、をよろきなるを小《ヲ》と書るを、後にコ〔右○〕とよみ誤れるものなり、然る例なほあり、小《ヲ》は、小長谷《ヲハツセ》、小筑波《ヲツクハ》、小佐保《ヲサホ》などの小《ヲ》なり、又小野《ヲヌ》、小川《ヲガハ》、或は小篠《ヲサヽ》、小車《ヲグルマ》、小櫛《ヲグシ》などの類の小《ヲ》も、皆同じ、此は小《チヒサ》き由には非ず、眞《マ》御《ミ》などの類に、美《ホメ》たる詞なり、小は大と反對にて、返て共に美稱とせり、と云り、今按(フ)に、大《オホ》と小《ヲ》と、共に美稱なる義は、大《オホ》はその廣大《ヒロク》して、世に巨《オホ》けく勝れたるを稱ていふ詞なれば、論なし、小はその反對なるに、これ又美稱とすることは、すべて狹小《セマ》きほ、必(ズ)品よく物に秀《マサ》りて、細に精しき謂にて、則(チ)美たる詞とせり、)○麻奈胡奈須《マナゴナス》は、如《ナス》2眞砂《マナゴ》1なり、濱の白眞砂《シラマサゴ》は、美愛《メデタ》き物なれば、可憐《カナシ》き女をたとふるなり、○兒良久可奈之久《コラシカナシク》は、良の下久(ノ)字は、(元暦本、古寫本等に、波とあるもわろし、)之《シ》の誤寫にて、其(ノ)一(ト)すぢなる事を、重く思はする辭にて、一(ト)すぢに兒等が愛憐《カナシク》思はるゝ、と謂なり、○歌(ノ)意、かくれた(22)るすぢなし、
 
右十二首《ミギノトヲマリフタウタハ》。相模國歌《サガムノクニノウタ》。
 
3373 多麻河泊爾《タマガハニ》。左良須?豆久利《サラステヅクリ》。佐良友良爾《サラサラニ》。奈仁曾許能兒乃《ナニソコノコノ》。己許太可奈之伎《ココダカナシキ》。
 
多麻河泊《タマガハ》は、今云|多婆《タバ》川なりとぞ、和名抄に、武藏(ノ)國多磨(ノ)(太婆《タバ》)郡、とある、即(チ)其(ノ)郡の川なり、○左良須底豆久利《サラステヅクリ》は、曝手作《サラステヅクリ》なり、手作《テヅクリ》は、十六竹取(ノ)翁(カ)歌に、日暴之朝等作尾《ヒサラシノアサテヅクリヲ》云々、和名抄に、唐式(ニ)云、白絲布、今按(ニ)、俗用2手作布(ノ)三字(ヲ)1、云2天都久利乃沼乃《テヅクリノヌノト》1、是乎、字鏡に、紵繍(ハ)?豆久利《テヅクリ》、靈異記中卷に、尾張(ノ)宿禰久玖利者、尾張(ノ)國(ノ)中島(ノ)郡(ノ)大領也、妻(ハ)在2同國愛智(ノ)郡|片※[草がんむり/絶]《カタワノ》里1之女人云々、織2麻細※[草がんむり/疊]1而《テ》著2夫大領(ニ)1、※[草がんむり/疊]|妹《ウルハシキコト》无v比2其(ノ)國(ニ)1云々、※[草がんむり/疊](?都九里《テヅクリ》、)などあり、さて此(レ)までは、更々爾《サラサラニ》といはむための序なり、〔頭注、【惣國風土記、武佐志國多摩郡多摩河、里人作2調布1、納2内藏寮1、】〕○佐良佐良爾《サラサラニ》は、更々爾《サラサラニ》なり、更《サラ》に更《サラ》にといはむが如し、○歌(ノ)意は、何故に、又しても更に更に、其(ノ)女のそこばく憐しく、戀しく思はるゝ事ぞ、となり、
 
3374 武藏野爾《ムザシヌニ》。宇良敝可多也伎《ウラヘカタヤキ》。麻左?爾毛《マサテニモ》。乃良奴伎美我名《ノラヌキミガナ》。宇良爾低爾家里《ウラニデニケリ》。
 
武藏《ムザシ》は、牟射志《ムザシ》と射《ザ》を濁るべし、(今は清てのみ唱れども、ひがことなり、)此(ノ)下にも牟射志野《ムザシヌ》と書(キ)、古事記にも、牟射志《ムザシノ》國と書り、又藏(ノ)字を用たるも、濁音の故なり、○宇良敝可多也伎《ウラヘカタヤキ》は、十五(23)にも由吉能安未能保都手乃宇良敝乎可多夜伎弖《ユキノアマノホツテノウラヘヲカタヤキテ》、とよめり、宇良敝《ウラヘ》は、占《ウラヘ》なり、まづ宇良《ウラ》と云は、其(ノ)事の體言なるを、其(ノ)宇良《ウラ》の業を爲るとき、波比布閇《ハヒフヘ》の言を添て活して、宇良布《ウラフ》、字良敝《ウラヘ》など云を、又その用言をすゑて、禮言に爲たるなり、例は、歌《ウタ》と云體言を、用言に宇多布《ウタフ》とも、宇多比《ウタヒ》とも云を、又その用言をすゑて、謠《ウタヒ》ともいふが如し、又|宇良奈比《ウラナヒ》とも云、奈比《ナヒ》もこれと同じ例なり、商《アキ》をアキナヒ〔四字右○〕、賄《マヒ》をマヒナヒ〔四字右○〕などいふが如し、(略解に、宇良敝《ウラヘ》は、占《ウラ》令《セ》v合《アハ》の意なり、敝《ヘ》を衣《エ》の如く訓べし、と云るは、甚誤なり、こは古言の體用の格を、深くたどらざりしものなり、又|敝《ヘ》を衣《エ》の如く訓べし、といふも、大《イミジキ》誤《ヒガコト》なり、凡て此等の敝《ヘ》を衣《エ》の如く唱(フ)は、後(ノ)世の音便にこそあれ、古(ヘ)は本音のまゝに、正しく敝《ヘ》と唱しなり、)可多也伎《カタヤキ》は肩灼《カタヤキ》なり、武藏野の、鹿の肩骨を取て、灼て占ふなり、鹿(ノ)肩骨をやきて占ふは、皇朝の上古の占法なり、東國の神社の中には、今も鹿古の有を得て、東麻呂(ノ)翁のもたりしは、骨の斑にこがしたるなりとぞ、と略解に云り、)古事記に、召2天(ノ)兒屋(ノ)命、布刀玉(ノ)命(ヲ)1而、内2拔天(ノ)香山之眞男鹿之肩(ヲ)1拔而、取2天(ノ)香山之天(ノ)波々迦(ヲ)1而、令2占合麻迦那波1而云々、○麻左?爾毛《マサテニモ》は、眞實《マサネ》にもといふなるべし、(テ〔右○〕とネ〔右○〕とは韻通、)信不所忘《サネワスラエズ》など云|信《サネ》に、眞《マ》の言を添たるなり、(眞定なり、といふ説はあらじ、さらば麻左泥《マサデ》と泥《デ》を濁るべきに、皆清音(ノ)字を書るをや、)下に、可良須等布於保乎曾杼里能麻左低爾毛伎麻左奴伎美乎許呂久等曾奈久《カラストフオホヲソドリノマサテニモキマサヌキミヲコロクトソナク》、とあり、○乃良奴伎美我名《ノラヌキミカナ》は、名告《ナノラ》ずして、人にかくせる君我名《キミガナ》なり、○宇良爾低(24)爾家里《ウラニデニケリ》は、卜《ウラ》に出《デ》にけりなり、此(ノ)下にも、能良奴伊毛我名可多爾伊?牟可母《ノラヌイモガナカタニイデムカモ》、とよめり、二(ノ)卷大津(ノ)皇子、竊2婚石川(ノ)女郎(ニ)1時、津守(ノ)連通(ガ)占2露其事(ヲ)1御作歌に、大船之津守之占爾將告登波益爲爾知而我二人宿之《オホブネノツモリノウラニノラムトハカネテヲシリテアガフタリネシ》、とある類なり、○歌(ノ)意は、眞實《マサネ》に名告(ラ)ずして、つゝみかくせる君が名も、武藏野の鹿の肩骨を収て、灼て占《ウラ》ふ占《ウラ》へに、いちじるしくあらはれ出にけり、となり、
 
3375 武藏野乃《ムザシヌノ》。乎具奇我吉藝志《ヲグキガキギシ》。多知和可禮《タチワカレ》。伊爾之與比欲利《イニシヨヒヨリ》。世呂爾安波奈布與《セロニアハナフヨ》。
 
乎具奇我吉藝志《ヲグキガキギシ》は、小岫之雉《ヲグキガキヾシ》なり、岫は、和名抄に、陸詞(カ)云、岫(ハ)山穴似v袖(ニ)、和名|久木《クキ》、とあり、名の意は泳《クヽリ》なり、(クリ〔二字右○〕はキ〔右○〕と切る、)小《ヲ》の言をそへたるは、小嶺《ヲミネ》、小野《ヲヌ》などの例の如し、さてこの小岫《ヲグキ》は、秩父山の方に付て有にや、考(フ)べし、(契冲は、書紀顯宗天皇(ノ)卷に、或本(ニ)云、弘計(ノ)天皇之宮有2二所1焉、一宮2於|少郊《ヲクキニ》1、二宮2於池野(ニ)1、とあるを引て、字書に、野外(ヲ)曰v郊(ト)とあれば、此(ノ)心にて、武藏野の小野といふこゝろなるべし、と云り、考(フ)べし、書紀の少郊は、地(ノ)名なり、郊をクキ〔二字右○〕とよむは、由あるか、)さて此(レ)までは、立別といはむ料の序なり、十二に、足檜木乃片山雉立往牟君爾後而打四?目八方《アシヒキノカタヤマキギシタチユカムキミニオクレテウツシケメヤモ》、とよめるに、同じ意のつゞけなり、雉は晩方に、しめをりし所をあわたゞしく鳴て、立別れ往ものなれば、かくつゞくるなり、○世呂爾安波奈布與《セロニアハナフヨ》は、夫《セ》に不v逢事よ、と云が如し、不v逢を安波奈布《アハナフ》、安波奈敝婆《アハナヘバ》など云は、東語の活用體なり、與《ヨ》は嘆息の聲なり、○歌(ノ)意、かくれたるす(25)ぢなし、
 
3376 古非思家波《コヒシケバ》。素?毛布良武乎《ソテモフラムヲ》。牟射志野乃《ムザシヌノ》。宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》。伊呂爾豆奈由米《イロニヅナユメ》。
 
古非思家波《コヒシケバ》は、戀しく有(ラ)ばの意なり、○宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》は、朮之花之《ウケラガハナノ》にて、色をいはむ料なり、此(ノ)下に、安齊可我多思保悲乃由多爾於毛敝良婆宇家良我波奈乃伊呂爾?米也母《アセカガタシホヒノユタニオモヘラバウケラガハナノイロニデメヤモ》、とよめり、色といふのみに係りて、莫出《ヅナ》といふまでには關らず、末採《ウレツム》花の色に出めや、などよめるたぐひなり、宇家良《ウケラ》は、品物解に具(ク)云り○伊呂爾豆奈由來《イロニヅナユメ》は、努々《ユメ/\》色に出ること莫れの意なり、歌(ノ)意は、さのみ戀しくおぼさむ時は、われ袖振りてなりとも、そこの意をなぐさめむぞ、ゆめゆめ色に顯出《イデ》て人に知(ラ)らるゝことなかれ、と云る、男の歌なり、(略解に、戀しき時は、吾はよそ人を思ふ如くして、袖振事も有むを、それを見て、心には思ふとも、色に顯はすことなかれ、といふ女の歌なり、さて次のは、男の答と見ゆ、と云るは、いみじきひがことなり、)
〔或本歌曰。何可爾思?《イカニシテ》。古非波可伊毛爾《コヒバカイモニ》。武藏野乃《ムザシヌノ》。宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》。伊呂爾低受安良牟《イロニデズアラム》。)
歌(ノ)意は、いかに、して、妹を戀しく思ひたらばか、色に出ずしてあらむ、とにもかくにも、色に出さずては、得堪じ、となり、
 
3377 武藏野乃《ムザシヌノ》。久佐波母呂武吉《クサハモロムキ》。可毛可久母《カモカクモ》。伎美我麻爾末爾《キミガマニマニ》。吾者余利爾思(26)乎《アハヨリニシヲ》。
 
久佐波母呂武吉《クサハモロムキ》は、草葉諸向《クサハモロムキ》なり、此方へも、彼方へも、依向ふを云り、諸《モロ》は、諸手《モロテ》、諸足《モロアシ》などいふ諸《モロ》なり、さて、彼《カ》も此《カク》もといはむ料の序とせり、○伎美我麻爾未爾《キミガマニマニ》は、九(ノ)卷に、死毛生毛君之隨意常念乍有之間爾《シニモイキモキミガマニマニトオモヒツヽアリシアヒダニ》云々、二十(ノ)卷に、伊蘇能宇良爾都禰欲比伎須牟乎之杼里能乎之伎安我未波伎美我末仁麻爾《イソノウラニツネヨビキスムヲシドリノヲシキアガミハキミガマニマニ》、などあるに同じ、○歌(ノ)意は、かにもかくにも、君が任《マヽ》ぞと、身を委ねて依(リ)にし物を、今更何の疑しく、異しき意かあらむ、となり、
 
3378 伊利麻治能《イリマヂノ》。於保屋我波良能《オホヤガハラノ》。伊波爲都良《イハヰヅラ》。比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》。和爾奈多要曾禰《ワニナタエソネ》。
 
伊利麻治《イリマヂ》は、入間道《イリマヂ》なり、和名抄に、武藏(ノ)國入間(ノ)(伊留末《イルマ》)郡、とあり、伊勢物語に、昔男、武藏(ノ)國までまどひありきけり、云々、住(ム)處なむ、伊留麻《イルマノ》郡三吉野(ノ)里なりける、とあるも同じ、かく伊留麻《イルマ》とあれども古(ヘ)は、伊利麻《イリマ》と呼しにこそ、○於保屋我波良《オホヤガハラ》は、大家之原《オホヤガハラ》なるべし、和名抄に、武藏(ノ)國入間(ノ)部大家、(於保也介《オホヤケ》)とある地ならむ、高田(ノ)與清が擁書漫筆に、武藏演露に、入間(ノ)郡(ノ)部に、今の|大在家《オホザイケ》村は、その郷(ノ)名の轉れるにて、おほや河原は此所ならむ、と云り、同書に、入間(ノ)郡の村名|大谷《オホヤ》、大谷木《オホヤギ》などあるも、共に音通へば、いづくとも定(メ)がたけれど、武藏(ノ)國圖を閲《ミ》るに、大谷木は河邊の里ならねば、これにはあらじ、と云り、これは我波良《ガハラ》を、河原《カハラ》と見たるよりの説なり、(27)いかにまれ、我波良《ガハラ》は之原《ガハラ》にて、河原にはあらざるなり、)現存六帖に、明珍法師、日のくれにおほやが原を分行ばすがもがしたにくひななくなり、○伊波爲都良《イハヰヅラ》は、蔓草と見えたり、此(ノ)草の事、未(タ)考得ず、下にも見えたり、(擁書漫筆に、伊延蔓《イハヒヅラ》の義と釋たるは、論に足ず、波爲《ハヰ》と波比《ハヒ》と假字違へるをだに、いかでおもはざりけむ、)○比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》とは、比可婆《ヒカバ》は、蔓草の方に付て云るにて、引(ク)時は靡(キ)依(ル)意なり、奴流奴流《ヌルヌル》は、柔軟《ヤハラカ》に靡(キ)依(ル)貌なり、下に、安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴留安乎許等奈多延《アハヲロノヲロタニオハルタハミヅラヒカバヌルヌルアヲコトナタエ》、とあり、○和爾奈多要曾根《ワニナタエソネ》は、吾に絶ることなくあれかし、と希ふなり、○歌(ノ)意は、柔軟に靡(キ)依(リ)ていつでも、吾に中絶る事なくあれかし、となり、
 
3379 利我世故乎《ワガセコヲ》。安杼可母伊波武《アドカモイハム》。牟射志野乃《ムザシヌノ》。宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》。登吉奈伎母能乎《トキナキモノヲ》。
 
安杼可母伊波武《アドカモイハム》は、何《ナド》か將云《イハム》にて母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○宇家良我波奈乃《ウケガハナノ》は、これも時無といふまでにはかゝらず、時といふにのみ係れる序なり朮(ノ)花は、夏開ものなればなり、○歌(ノ)意は、吾(カ)夫子を愛しく思ふ心は、何時と定りたる事もなく、常に戀しく思はるゝ物を、吾(ガ)夫子を何にたとへて、何とかいはむ、さてもなつかしき事ぞ、となり、
 
3380 佐吉多萬能《サキタマノ》。津爾乎流布禰乃《ツニヲルフネノ》。可是乎伊多美《カゼヲイタミ》。都奈液多由登毛《ツナハタユトモ》。許登奈多(28)延曾禰《コトナタエソネ》。
 
佐吉多萬《サキタマ》は、和名抄に、武藏(ノ)國埼玉(ノ)(佐伊太末《》サイタマ)郡、とある是なり、(吉《キ》を伊《イ》と云るは、音便の訛なり、)○津《ツ》は、此(ノ)郡は海によらざれば、利根の大川の、船津なるべしと云り、○歌(ノ)意は、埼玉の大川の船津に、堅く繋き留めたる船の、風がつよく吹によりて、たとひその鋼の、斷(レ)離るゝ事ありとても、吾(カ)堅く約《チギ》り結べる中なれば、いつまでも、努々《ユメ/\》言問の絶る事なかれ、となり、
 
3381 奈都蘇妣久《ナツソビク》。宇奈比乎左之?《ウナヒヲサシテ》。等夫登利乃《トブトリノ》。伊多良武等曾與《イタラムトソヨ》。阿我之多波倍思《アガシタハヘシ》。
 
奈都蘇妣久《ナツソビク》は、枕詞なり、上に出つ、○宇奈比《ウナヒ》は、地(ノ)名なり、(海邊といふ説は甚(キ)非なり、凡て古(ヘ)海邊をウナヒ〔三字右○〕と云ること、かつてなし、海邊をば、ウミヘ〔三字右○〕とのみこそいひたれ、既く一(ノ)卷に具(ク)云るが如し、披(キ)見て考べし、)この地、何處にあるにや、未(タ)考得ず、(攝津(ノ)國にも菟原《ウナヒ》といふ地あり、同名なり、)○等夫登利乃《トブトリノ》は、飛鳥《トブトリ》の飛て到著如く、到らむの意のつゞけにて、此までは序なり、○伊多良武等曾與《イタラムトソヨ》は、將v到とてぞなり、余《ヨ》は嘆息の聲なり、○阿我之多波倍思《アガシタハヘシ》は、吾之下延《アガシタハヘ》しなり、下延《シタハヘ》は、隱々《シノビ/\》に聘するをいふ、既く具(ク)註り、思《シ》は、過し方のことをいふ辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右九首《ミギノコヽノウタハ》。武藏國歌《ムザシノクニノウタ》。
 
(29)3382 宇麻具多能《ウマグタノ》。禰呂乃佐左葉能《ネロノササバノ》。都由思母能《ツユシモノ》。奴禮?和伎奈婆《ヌレテワキナバ》。汝者故布婆曾母《ナハコフバソモ》。
 
宇麻具多能《ウマグタ》は、和名抄に、上總(ノ)國望多(ノ)(末宇太《マウダ》)郡、とあり、さて末宇太《マウダ》とあるは、後に字につきて唱誤れるにて、古(ヘ)は、字も馬來田《ウマグタ》とかきて、此《コヽ》の如く、宇麻具多《ウマグタ》と呼《イヒ》しなり、書紀繼體天皇(ノ)卷に、馬來田《ウマグタノ》皇女あり、又天武天皇(ノ)卷に、大伴(ノ)連|馬來田《ウマグタ》とありて、十二年六月丁巳朔己未、大伴(ノ)連|望多《ウマグタ》薨、とあるに依ておもへば、望多と書るをも、元(ト)はウマグタ〔四字右○〕と呼《トナ》へしなり、○都由思母能《ツユシモノ》は、本居氏云、都由思母爾《ツユシモニ》といはで、能《ノ》と云るは、露霜に濡て、といふにあらず、篠葉に露霜の置たる如く濡ての意なり、○奴禮?和伎奈婆《ヌレテワキナバ》は、濡而吾來《ヌレテワキ》なばなり、さてこの來は、行と云が如し、いづくにまれ、その行方を内にして、行奈婆《ユキナバ》と云(ハ)ずして、來奈婆《キナバ》と云るなり、○汝者故布婆曾母《ナハコフバソモ》は、汝は戀むぞといふにや、と契冲云う、○歌(ノ)意は、涙に濡て吾(カ)別(レ)行なば、汝は家に留(リ)居て、吾を戀しく思はむぞ、さてもなごりをしや、といへるにや、旅に行(ク)別の時の歌なるべし、
 
3383 宇麻具多能《ウマグタノ》。禰呂爾可久里爲《ネロニカクリヰ》。可久太爾毛《カクダニモ》。久爾乃登保可婆《クニノトホカバ》。奈我目保里勢牟《ナガメホリセム》。
 
禰呂爾可久里爲《ネロニカクリヰ》は、嶺に隱(リ)居なり、○可久太爾毛《カクダニモ》は、如此《カク》てさへもといはむが如し、○久爾乃登保可婆《クニノトホカバ》は、國の遠ざからばなり、○歌(ノ)意は、望多《ウマグタ》の一(ト)嶺に隱れ居つゝ、如此《カク》てさへも、いと家(30)戀しく思はるゝを彌々國遠放りなば、幾許《イクバク》か、妹が目を見まく欲せむ、といふなるべし、第三第四の句の間へ、言を添て意得べし、聊いひたらはぬやうなれど、右の意ならでは解《キコエ》がたし、此(ノ)歌も、上のと共に、旅行の歌にて、望多嶺の彼方になれるほど、よめるなり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。上總國歌《カミツフサノクニノウタ》
 
3384 可都思加能《カヅシカノ》。麻末能手兒奈乎《ママノテコナヲ》。麻許登可聞《マコトカモ》。和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》。麻末乃?胡奈乎《ママノテコナヲ》。
 
麻末乃手兒奈《ママノテコナ》は、既く三(ノ)卷に出て、彼處に具(ク)註り、(或説に、上總、下總にては、今も末の弟子をてこと云り、はての兒の、はを略きたるなり、又遠江にては、弟子をほての子といひ、何にても終りをほてといへり、しかれば、いと末に生れたる女子を、てこなといふべき事知べし、と云り、はて子の略といふは、意得ぬことなり、)○和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》は、吾にいひ依(ス)るといふなり、われと手兒名と通婚《シノビアフ》よし、人の言依(ス)といふと云なり、(契冲は、古(ヘ)の眞間の手兒名は、名高きかほよき人なるを、まことにや、我をそのてこなによせていふは、となり、女の歌なり、さるかほよき人によそへていふは、まことのこゝろならば、われをふかくおもふらむと、たのむなり、と云り、本居氏も、此(ノ)考によれりと見えたり、されどしかにはあらじ、但(シ)三(ノ)卷赤人(ノ)歌に、古昔有家武人之《イニシヘニアリケムヒトノ》云々|松之根也遠久寸《マツガネヤトホクヒサシキ》、とありて、眞間の手兒名は、いとはるかに、上れる代の人と見ゆる(31)に、此(ノ)十四(ノ)卷も、赤人よりは後に、集めたるものとおもはれ、又今の歌も、上古風ならねば、手兒名が現在《ヨニアリシ》時の歌とはいふべからずとも、いふべけれども、さにあらず、彼(ノ)娘子は、いと世に名高くて、人に賞られたれば、其(ノ)頃《ホド》より歌にも多く作て、うたはれしなり、さて此(ノ)歌と次なるとは、むかしより彼(ノ)國にうたひ傳へしを、此(ノ)卷に取載たるなるべく、さて然世々歌ひ傳ふる間には、自然漸改りもしぬべく、又は、こと好む輩などの、其(ノ)世のさまに應ふごとく、聊作(ミ)換しにもあるべし、かにかくに歌(ノ)意は、現在《ヨニアリ》し時の、ことのさまに見ざればわろし、余須《ヨス》といふも、人に言依《イヒヨス》るをいふ言の、例なるをも思ふべし、又次の歌も、手兒名が現在《ヨニアル》時の歌とせざれば、きこえがたきことなるをや、)○歌(ノ)意は、葛飾の眞間の手兒名を、吾と通婚《シノビアフ》よし、人の言よすといふは、眞實《マコト》にや、さやうにきけば、さてもいよ/\彼(ノ)女のなつかしく思はるゝ事哉、といへるなり、其(ノ)世にも、かの手兒名をば、人の娶《エ》がてにしつめれば、しか言よせらるゝをも、下にはほこれる情あるべし、
 
3385 可豆思賀能《カヅシカノ》。麻萬能手兒名家《ママノテコナガ》。安里之可婆《アリシカバ》。麻末乃於須比爾《ママノオスヒニ》。奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》。
 
家(ノ)字は、我の寫誤なるべし、(但し東語に之《ガ》を家《ケ》ともいひしか、此(ノ)下に、和《ワ》家|於毛波奈久爾《オモハナクニ》、又、和《ワ》家|世《セ》、又、多《タ》家|波自《ハシ》、又、兒呂《コロ》家|可奈門欲《カナトヨ》、など見えたり、されど皆我(ガ)といふべき所なれば、解《ゲ》と濁(32)音にこそ、通(ハ)し言べきを、家の清音(ノ)字を用ひたるは、なほ我の草書を寫誤れるなり、且二(ノ)卷に、八多籠良《ヤタコラ》家、又、五(ノ)卷に、和《ワ》家|曾乃乃《ソノノ》、又、和《ワ》家|夜度能《ヤドノ》、などあるも、我の誤なること、うつなければ、共に誤字とすべし、)○麻末乃於須比爾《ママノオスヒニ》は、眞間之磯邊《ママノオスヒ》になり、○奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》は、浪《ナミ》も動響《トヾロ》になり、瀧も動響《トヾロ》に、宮も動響《トヾロ》になどいへるが如し、○歌(ノ)意は、眞間の手兒名が、眞間の磯邊に立てありしかば、打依る浪も響《トヾロ》きわたるまでに、其(ノ)姿のうるはしきにめでゝ、人の多く來より集《ツド》ひさわぎし、といふならむ、(略解に、手兒名が磯邊に在しかば、浪さへめでゝさわぎし、といふならむ、と云るは、あらじ、)
 
3386 爾保杼里能《ニホドリノ》。可豆思加和世乎《カヅシカワセヲ》。爾倍須登毛《ニヘストモ》。曾能可奈之伎乎《ソノカナシキヲ》。刀爾多?米也母《トニタテメヤモ》。
 
爾保杼里能《ニホドリノ》は、枕詞なり、※[辟+鳥]※[遞のしんにょうなし+鳥]《ニホドリ》の潜《カヅク》といふ意にかゝれるなり、四(ノ)卷に、二寶鳥乃潜池水《ニホドリノカヅクイケミヅ》、と有をも思ふべし、○可豆思加和世乎《カヅシカワセヲ》は、葛飾早稻《カヅシカワセ》をなり、○爾倍須登毛《ニヘストモ》は、新饗《ニヒナヘ》を爲《ス》ともなり、爾倍《ニヘ》は、新饗《ニヒナヘ》の釣りたるにて、新稻を以て饗するを云、袖中抄十六に、葛飾わせとは、下總(ノ)國に葛飾といふ所あり、其處の早稻を云なり、爾倍《ニヘ》すともとは、田舍に始て、早稻を刈て物して、里隣の者集て食をば、にへすと云なり云々、と云り、○刀爾多?米也母《トニタテメヤモ》は、外《ト》に令立《タテ》めやはなり、也《ヤ》は、也波《ヤハ》の也《ヤ》、母《も》は、歎息(ノ)辭なり、十五に、爾之能御馬屋乃刀爾多弖良麻之《ニシノミマヤノトニタテラマシ》、○歌(ノ)意は、葛飾早稻の新(33)饗をする時は、いみじく忌慎て、門をも閇て、外人を堅く入ず、されども愛憐《カナシ》と思ふ男の來なば、門外に立せてはおきたらじ、必(ズ)内へこそ入め、とよめるなり、(本居氏云、家持家集と云物に、我宿の早田刈あげて爾倍《ニヘ》すとも君が使をたゞにはやらじ、とあるは、今の歌を、なほしたるものなり、さてもとは朝家のみならず、下々まで、なべてせしことなり、又後(ノ)世にはもはら神に祭る事とのみ、思ふめれど、然に非ず、神にも奉り、人にも饗(ヘ)、自(ラ)も食わざなり、贄《ニヘ》、苞苴《ニヘ》、牲《イケニヘ》なども、本此(ノ)新饗より轉りたる名なり、書紀に、天稚彦|新甞休臥《ニヒナメシテフセリ》、とあるは、爾比那閇《ニヒナヘ》は、上下なべてするわざなること、上に云る如くなれば、天稚彦もしつるなり、○袖中抄に、贄桶《ニヘオケ》、贄殿《ニヘドノ》などいふは、多くは魚につきて云、飯する所をば、大炊殿といふことなれど、似たる事なれば、くひ物をにへといふよし云るは、本義を失へり、まどふべからず、)下相聞に、多禮曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和我世乎夜里?伊波布能戸乎《タレソコノヤノトオソブルニフナミニワガセヲヤリテイハフコノトヲ》、とある、爾布奈未《ニフナミ》も新甞なり、此は其(ノ)村の里長か、或は郡家かにて、新甞祭を行ふ時、其(ノ)村の民どもの集るを云るなり、さて夫を、さる新甞祭にやりて後、家に留(リ)居る妻子などの、家(ノ)戸を閇て、いみじく慎み齋《イハヘ》るにて、古(ヘ)稻穀を重みしたるさま、思(ヒ)やるべし、また常陸風土記に、富士《フジ》の神、筑波《ツクハ》の神の御祖神《ミオヤカミ》、國巡《クニメグリ》せす時に、日くれて、富士(ノ)神に宿を請給へるに、新甞の祝《イハヒ》なりとて、入(ラ)しめ給はず、筑波(ノ)神に請給へば、今夕《コヨヒ》は新甞なれども、御祖《ミオヤ》に坐ば、など宿し參《マヰラ》せざらむとて、入《イラ》しめ給へる事あり、思(ヒ)合(ス)べし、〔頭註、(34)【常陸風土記、古老曰、昔祖神尊巡2行諸神之所1、到2駿河國福慈岳1、卒遇2日暮1、請欲2寓宿1、此時福慈神答曰、新粟初甞、家内諱忌、今日之間冀許不v堪、於v是祖神尊恨泣詈曰、即汝親何不v欲v宿、汝所v居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不v登、飲食勿v奠者、更登2筑波岳1、亦請2客止1、此時筑波神答曰、今夜雖2粟甞1、不2敢不1v奉2尊旨1矣、設2飲食1敬拜祗承、於v是祖神尊歡然語曰、愛乎我胤、嶷哉神宮、天地竝神、日月共同、人民集賀、飲食富豐、代々無v絶、日々彌榮、千秋萬歳遊樂不v窮者、是以福慈岳常雪、不v得2登臨1、其筑波岳往集歌舞飲喫至2于今1不v絶、(以下略之、)】〕
 
3387 安能於登世受《アノオトセズ》。由可牟古馬母我《ユカムコマモガ》。可都思加乃《カヅシカノ》。麻未乃都藝波思《ママノツギハシ》。夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》。
 
安能於登世受《アノオトセズ》は、足之音《アノオト》不《ズ》v爲《セ》なり、字鏡に、跣(ハ)阿奈於止《アナオト》、(足之音《アノオト》なるべし、跣(ノ)字をよめるは心得ず、)七十一番職人歌合に、暮露、いとふなよかよふ心の馬ひじり人の聞べき足《ア》の音《オト》もなし、○歌(ノ)意は、足の音せず、密々《シノビ/\》に行む駒もがなあれかし、さらば眞間の繼橋を、ひそかにわたりて、常に止ず妹許通はむを、さる駒のなきが、せむ方なし、となり、
 
右四首下總國歌《ミギノヨウタハシモツフサノクニノウタ》。
 
3388 筑波禰乃《ツクハネノ》。禰呂爾可須美爲《ネロニカスミヰ》。須宜可提爾《スギカテニ》。伊伎豆久伎美乎《イキヅクキミヲ》。爲禰氏夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》。
 
第一二(ノ)句は、過難《スギカテ》といはむ料なり、筑波嶺に霞の深く居塞りて、過行(キ)晴難きよしのつゞけなり、○須宜可提爾《スギカテニ》は、行過(キ)難になり、(思ひを過し難き意には非ず、)此(ノ)下に、可美都氣努伊可抱乃禰呂爾布路與伎能遊吉須宜可提奴伊毛賀伊敝乃安多里《カミツケヌイカホノネロニフロヨキノユキスギカテヌイモガイヘノアタリ》、とよめるに同じ、○爲禰?夜良佐(35)禰《ヰネテヤラサネ》は、率寢《ヰネ》て行《ヤリ》賜へよ、といふが如し、行《ヤル》は、いなすといふ意にきくべし、夜良佐《ヤラサ》は、夜良勢《ヤラセ》といふ意なるを、禰《ネ》の辭に連ける故に、勢《ヤ》を佐《サ》に轉しいへるなり、禰《ネ》は希望(ノ)辭とて、しか/”\せよと希望ふ意の辭なり、既く一(ノ)卷に委(ク)云り、此(ノ)下に、伎波都久乃乎加能久君美良和禮都賣杼故爾毛乃多奈布西奈等都麻佐禰《キハツクノヲカノククミラワレツメドコニモミタナフセナトツマサネ》、とあるも同じ、○歌(ノ)意は、女の家のあたりを行男の、息づきて過難にするを、侍婢か、又はさらぬかたへの女などの見て、いで内に引入て、率寢《ヰネ》て行《イナ》し賜へよ、といへるなり、
 
3389 伊毛我可度《イモガカド》。伊夜等保曾吉奴《イヤトホソキヌ》。都久波夜麻《ツクハヤマ》。可久禮奴保刀爾《カクレヌホトニ》。蘇提婆布利?奈《ソテハフリテナ》。
 
伊夜等保曾伎奴《イヤトホソキヌ》は、彌遠除《イヤトホソキ》ぬなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は旅などに出立行人の、やや家遠くなれる間に、よめるなるべし、筑波山に、妹が家のかくれざる間に急《ハヤ》く袖を振む、となり、
 
3390 筑波禰爾《ツクハネニ》。可加奈久和之能《カカナクワシノ》。禰乃未乎可《ネノミヲカ》。奈岐和多里南牟《ナキワタリナム》。安布登波奈思爾《アフトハナシニ》。
 
可加奈久《カカナク》は、鷲の聲は、かく/\といふごとく、鳴(ク)物なればいふなり、書紀に、相模(ノ)海に覺賀《カクガ》鳥の鳴し、と云るも、わしにて、其(ノ)聲を覺賀《カクガ》とは書しものなり、と岡部氏いへり、(和名抄に、文選蕪(36)城賦(ニ)云、寒鴟《コイタルトビ》嚇《カヽナク》v雛《ヒナニ》、嚇讀|加々奈久《カヽナク》、とあるは、今の歌の可加奈久《カヽナク》とは、いさゝか異れり、)○歌(ノ)意、第一二(ノ)句は序にて、相見ると云時はなしに、いつも音にのみ泣て、長き月日を、戀しく思ひて、經度りなむか、となり、
 
3391 筑波禰爾《ツクハネニ》。曾我比爾美由流《ソガヒニミユル》。安之保夜麻《アシホヤマ》。安志可流登我毛《アシカルトガモ》。左禰見延奈久爾《サネミエナクニ》。
 
安之保夜麻《アシホヤマ》、此(レ)までは惡《アシ》といはむ料の序なり、この山は、常陸(ノ)國にありて、筑波よりは北にあたれり、常陸(ノ)國風土記に、新治(ノ)郡云々、自v郡以東五十里在2笠間(ノ)村1、越通道路稱2葦穗《アシホ》山(ト)1、古老曰、古(ヘ)有2山賊1、名稱2油置賣(ノ)命(ト)1、今社中(ニ)在2石屋1、○歌(ノ)意は、女の容儀に、何一(ツ)惡《アシ》かる咎も、さらに見えざることなるに、吾(レ)につれなきのみ、くちをしきことなれば、もし女の身のうへに、惡《アシ》といふべき難《トガ》のあるならば、なほさるかたに、思ひゆるさるべきを、となるべし、(略解に、その男は、姿も心も、惡といふべき咎も、見えざる故、心につけるよし、女のよめるなり、と云るはわろし、)源氏物語蜻蛉(浮舟のうせにし後の事を云る處、)に、見るにはた、ことなるとがも侍らずなどして、こころやすくらうたうしと、おもひ侍つる人の、いとはかなくなり侍にける、とあるも、その人がらに、ことに難《トガ》むべきすぢの、なかりしを云るなり、
 
3392 筑波禰乃《ツクハネノ》。伊波毛等杼呂爾《イハモトドロニ》。於都流美豆《オツルミヅ》。代爾毛多由良爾《ヨニモタユラニ》。和我於毛波奈(37)久爾《ワガオモハナクニ》。
 
於都流美豆《オツルミヅ》は、常陸(ノ)國風土記に、茨城(ノ)郡|信筑之《シヅクノ》川、源出v自2筑波之山1、從v西流v東(ニ)、經2歴郡中(ヲ)1、入2高濱之海(ニ)1、とある、この源水なるべし、又筑波嶺のみねより落るみなの川、とあそばしたるも、此(ノ)水流にや、○多由良《タユラ》は、上に出たる多欲良《タヨラ》に同じ、彼處に云り、○我(ノ)字、舊本に家と作るは誤なるべし、今は古寫本、拾穗本等に從つ、○歌(ノ)意は、動搖《ユタ/\》と漂蕩《タヾヨ》ひて、心を定めず、末おぼつかなく云(ハ)ばこそあらめ、さはなくして、世にたしかに、かたく吾(ガ)思人たることなるに、今更に、何をか疑ひ思ふらむ、といふ意を、含めたるなり、(○六帖に、つくばねのいはもとゞろにてる日にもわが袖ひめや妹に逢ずして、とよめるは、今の歌と、十(ノ)卷なる、六月之地副割而照日爾毛《ミナツキノツチサヘサケテテルヒニモ》、の歌とを、暗におぼえあやまり、混《ヒトツ》になしたるものなり、)
 
3393 筑波禰乃《ツクハネノ》。乎?毛許能母爾《ヲテモコノモニ》。毛利敝須惠《モリベスヱ》。波播已毛禮杼母《ハハハモレドモ》。多麻曾阿比爾家留《タマソアヒニケル》。
 
毛利敝須惠《モリベスヱ》は、守部居《モリベスヱ》なり、此(レ)までは、守をいはむ料の序なり、獵師《カリビト》の鹿猪をかるとて、筑波嶺の彼面此面に、守部を居置て、守らするよしのいひかけなり、○波播已毛禮杼母は、已(ノ)字は、巴の誤なるべし、と或説に云り、ハヽハモレドモ〔七字右○〕と訓べし、母者雖v守《ハヽハモレドモ》なり、○多麻曾阿比爾家留《タマソアヒニケル》は、魂《タマ》ぞ相にけるなり、心の相協ふよしなり、既く出たる言なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、(38)女のよめるなるべし、
 
3394 左其呂毛能《サゴロモノ》。乎豆久波禰呂能《ヲヅクハネロノ》。夜麻乃佐吉《ヤマノサキ》。和須良延許波古曾《ワスラエコバコソ》。那乎可家奈波賣《ナヲカケナハメ》。
 
左其呂毛能《サゴロモノ》は、眞衣之《マゴロモノ》といはむが如し、こゝは緒著《ヲヅク》といひ係たる枕詞なり、緒《ヲ》はすなはち紐《ヒモ》のことなり、古(ヘ)は、緒《ヲ》といひ、紐《ヒモ》といひ、紐緒《ヒモノヲ》とも云て、皆ひとつなり、○乎豆久波《ヲヅクハ》は、小筑波《ヲヅクハ》にて、乎《ヲ》は、小泊瀬《ヲハツセ》などいふ小《ヲ》なり、○歌(ノ)意は、旅などにて行人の、筑波山の岬を、通り行間よめるにて、妹が事を、忘られて來なばこそ、汝を懸ずて有なめ、得忘れぬが故にこそ、懸て慕へ、となり、懸は、心に懸るなり、(本居氏の、懸は、言にかけて、云出るなり、と云るは、かたよれり、)
 
3395 乎豆久波乃《ヲヅクハノ》。禰呂爾都久多思《ネロニツクタシ》。安比太欲波《アヒシヨハ》。佐波太奈利努乎《サハダナリヌヲ》。萬多禰天武可聞《マタネテムカモ》。
 
禰呂爾都久多思《ネロニツクタシ》は、嶺《ネ》に月立《ツキタチ》なり、立《タツ》を多思《タシ》と云ること、東語に多し、さて月立は、嶺に月の立(チ)登るをいひて、さて承たる下の意は、月頃の歴し事とせるなり、山嶺に月の登るを、立といへる例は、七(ノ)卷に具(ク)云り、○安比太欲波《アヒシヨハ》は太は、之の誤にて、逢《アヒ》し夜はなるべし、と源(ノ)嚴水の云りしは、信にさることなり、(もとのまゝにて、間夜者《アヒダヨハ》とする説は、わろし、)○佐波太奈利奴乎《サハダナリヌヲ》(太の下、古寫本、拾穗本等には、爾(ノ)字あり、)は、多《サハダ》に成ぬるをなり、(略解に、太は、爾の誤なるべし、といへ(39)れど、しからず、佐波太《サハダ》は、此(ノ)上にも出たり、○歌(ノ)意は、逢見し夜よりは月日立て、漸多く程經ぬるを、かくては、又も相宿すべしや、絶はてやせむ、さてもあやふしや、となり、(略解に、此(ノ)嶺に月のみえし頃逢て後、間の夜頃の多くなれるを、いふと云るは、間夜《アヒダヨ》と見たる故わろし、又ねろに月立は、たゞ月頃の經ることを、いはむために、云るのみなること、上に云たるが如し、
 
3396 乎都久波乃《ヲヅクハノ》。之氣吉許能麻欲《シゲキコノマヨ》。多都登利能《タツトリノ》。目由可汝乎見武《メユカナヲミム》。左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》。
 
之氣吉許能麻欲《シゲキコノマヨ》は、繁木際從シグキコノマヨ》なり、從《ヨ》は、乎《ヲ》と云に通へり、○多都登利能《タツトリノ》は、目《メ》といはむための序なり、目《メ》とかゝれるは、鳥の群《ムレ》といふ意につゞけたるなり、群《ムレ》を米《メ》と云ることは甚多し、(契冲が、繁き木(ノ)際より立鳥は、さだかにも見えず、立物なれば、久しくも見ぬなり、と云るは、きゝとりがたし、)○日由可汝乎見牟《メユカナヲミム》は、「目《メ》に耳《ノミ》汝《ナ》を見むか、となり、由《ユ》は爾《ニ》といふに同(ジ)意なり、○左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》は、左宿《サネ》なくににて、左宿ぬ事なるにの意なり、たゞ奈久爾《ナクニ》と云べきを、射良奈久爾《ザラナクニ》といふ類は、後(ノ)世の語に、怪《ケ》しかるといふべきを、怪《ケ》しからぬと云に同じ、猶この古言の例は、既く一(ノ)卷に具(ク)云りき、○歌(ノ)意は、汝と共に寢し事の、あらばこそあらめ、相宿もせぬ事なるに、たゞよそ目にのみ見て、かくばかり、戀しく思ひつゝあらむか、となり、
 
3397 比多知奈流《ヒタチナル》。奈左可能宇美乃《ナサカノウミノ》。多麻毛許曾《タマモコソ》。比氣波多延須禮《ヒケバタエヌレ》。阿杼可多延(40)世武《アドカタエセム》。
 
奈左可能宇美《ナサカノウミ》は、常陸(ノ)國行方(ノ)郡にあり、後に浪逆と書り、○比氣波多延須禮《ヒケバタエスレ》は、引(ケ)ば根の斷《キレ》て絶すれ、となり、此(ノ)下に、楊奈疑許曾伎禮婆伴要須禮余能比等乃古非爾思奈武乎伊可爾世余等曾《ヤナギコソキレバハエスレヨノヒトノコヒニシナムヲイカニセヨトソ》、とよめるとは、表裏《ウラウヘ》なり、○阿杼可《アドカ》は、何歟《ナドカ》なり、○歌(ノ)意は、浪逆《ナサカ》の海の玉藻こそ、引(ケ)ば根の斷(レ)て絶る物なれ、藻ならぬ吾なれば、何とてか、中絶る事のあらむ、となり、
 
右十首常陸國歌《ミギノトウタハヒタチノクニノウタ》。
 
3398 比等未奈乃《ヒトミナノ》。許等波多由登毛《コトハタユトモ》。波爾思奈能《ハニシナノ》。伊思井乃等兒我《イシヰノテコガ》。許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》。
 
波爾思奈《ハニシナ》は、和名抄に、信濃(ノ)國埴科(ノ)(波爾志奈《ハニシナ》)郡、とあり、○伊思井乃手兒《イシヰノテコ》は、石井《イシヰ》の娘なり、石井は、地(ノ)名なるべし、此(ノ)地未(ダ)考(ヘ)ず、手兒とは、母の手にあるよしにて、いと幼稚《ヲサナキ》兒を云り、こゝは、さる謂にはあらねど、母の稚兒を稱(ブ)ごとく、娘子を愛て云るか、又は妙兒《タヘコ》の義にても有べし、(タヘ〔二字右○〕はテ〔右○〕と切る、)集中に、色妙之兒《シキタヘノコ》ともよめり、(手兒は、はての兒、又|愛兒《アテコ》の意といふ説はとらず、)○歌(ノ)意は、他人等と云交《イヒカハ》したる言は、後に變《ウツロ》ひて絶果ぬとも、よしやさてあるべし、石井の娘子と、堅く約《チギ》りむすびたる言は、いつまでも、努々絶る事なかれよ、となり、
 
3399 信濃道者《シナヌチハ》。伊麻能波里美知《イマノハリミチ》。可里婆禰爾《カリバネニ》。安思布麻之牟奈《アシフマシムナ》。久都波氣和我(41)世《クツハケワガセ》。
 
伊麻能波里美知《イマノハリミチ》は、新之治道《イマノハリミチ》なり、十二に、新治今作路《ニヒバリノイマツクルミチ》、とよめるに同じ、伊麻《イマ》は、新來《イマキ》、新參《イママヰリ》などの新《イマ》なり、治道《ハリミチ》は、坂士佛が、大神宮參詣記に、すゝきかるかやの絶間に、かりばね多き治道《ハリミチ》あり、とあり、○可里婆禰《カリバネ》は、竹木などの刈株《カリカブ》なるべし、岡部氏は、苅許根《カリバカネ》なり、許《バカ》は場《バ》といふ言の本なり、と云り、いかゞあらむ、○安思布麻之牟奈《アシフマシムナ》は、足蹈(マ)すなといふに同じくて、足踏給ふことなかれの意なり、(本居氏、玉勝間(ニ)云、古語に、人の事をたふとみて、行(ク)をゆかす、立(ツ)をたゝすなど云るを、中昔には、ゆかせ給ふ、たゝせ給ふなどいひ、記録ぶみなどには、令v行給(フ)、令v立給(フ)など書り、此たぐひの令《シメ》といふことばは、ふるくは見えざることなるに、萬葉十四の歌に、安思布麻之牟奈《アシフマシムナ》、とあるは、いとめづらし、かの集の頃の歌、他はみなあしふますなと云る例なり、)按(フ)に、此(ノ)下上野(ノ)國歌に、伊香保呂爾安麻久母伊都藝可奴麻豆久比等登於多波布伊射禰志米刀羅《イカホロニアマクモイツギカヌマヅクヒトトオタハフイザネシメトラ》、とあるも禰志米《ネシメ》は、令《シメ》v宿《ネ》といふことにはあらで寢給へと云ことときこえたり、されば今の布麻之牟《フマシム》と同格なり、行《ユク》を由可須《ユカス》、立《タツ》を多々須《タヽス》といふは常なるを、そを重《フタヽ》び用《ハタラカ》して、行志牟《ユカシム》、立志米《タヽシメ》などやうにも、いひしことのありしなるべし、○久都波氣和我世《クツハケワガセ》(都(ノ)字、古寫本に豆と作るはわろし、著《ハケ》v履《クツ》吾兄《ワガセ》なり、○歌(ノ)意は、續紀に、文武天皇、大寶二年十二月壬寅、始開2信濃(ノ)國岐蘇山(ノ)道(ヲ)1、と見えて、其(ノ)後元明天皇、和銅六年七月戊辰、美濃信濃二國之堺、徑道險阻(ニシテ)、往還艱難、仍(42)通2吉蘇路(ヲ)1、とあり、此は大寶二年に、新に吉蘇路を開かれつれど、なほこしかたの古道をも、往還ありしを、其後十年餘を經て、和銅六年に吉蘇路をのみ、通はしめし、といふなるべし、さて今の歌は、其(ノ)間《ホド》、かの吉蘇の新墾道を通て、物へ行人に、よみておくれるにて、その刈株に、足ふみ傷ひ給ふことなかれ、履はきて、よくして無v恙行せ給へ、と云るなるべし、
 
3400 信濃奈流《シナヌナル》。知具麻能河泊能《チグマノカハノ》。左射禮思母《サザレシモ》。伎美之布美?婆《キミシフミテバ》。多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》。
 
知具麻能河泊《チグマノカハ》は、和名抄に、信濃(ノ)國筑摩(ノ)(豆加萬《ツカマ》國府、)郡、とある、この郡にある川なるべし、(豆加萬《ツカマ》とあるは、後の唱(ヘ)にて、元(ト)は此の如く、知具麻《チグマ》とぞいひけむ、)扶桑略記に、光孝天皇、仁和三年七月卅日、信濃(ノ)國大山頽崩、山河溢流、六郡城廬拂v地(ヲ)漂流、牛馬男女流死成v丘云々、これ筑摩川なるべし、さてこの川、佐久(ノ)郡金峰山の陰《キタ》に出るよし、信濃地名考に見ゆ、新續古今集に、君が代は千隈《チグマ》の川のさゞれ石の苔むす岩となりつくすまで、雪玉集に、水の上に降もつもらば千隈川さゞれや峰の雪におよばむ、風雅集に、順徳院、千隈川春行水はすみにけり消ていくかの峰の白雪、〔頭註、【木曾路記云、鹽田の町家七十許、町の出口の川を筑摩川と云、名所なり、大川なり、小橋をわたせり、此河北へながれ、上田を通り川中島をめぐり、善光寺の半里のわきをながれ、越後(ノ)高田に出て海へ入ると云々、】〕○左射禮思《サザレシ》は、細石《サザレイシ》なり、○伎美之布美?婆《キミシフミテバ》は、君が踐たらばにて、之《シ》は、その一すぢなる事を、重く思はする辭なり、踐は、踐て渡るよしなり、四(ノ)卷に、狹穗河乃小石(43)踐渡《サホガハノサヾレフミワタリ》とよめり、○多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》は、うつくしき君がふみたらば、玉とおもひて拾はむ、となり、多麻等《タマト》の等《ト》は、空穗物語俊蔭(ノ)卷に、紅葉の雫を、乳房となめつゝありふるに云々、とある等《ト》と、同格なり、と本居氏云り、拾をば、古(ヘ)は比里布《ヒリフ》とのみ云り、(ヒロフ〔三字右○〕といふは、今(ノ)京已來の言なり、)然るをこゝにかくあるは、東語には、古(ヘ)より比呂布《ヒロフ》とも云しにこそ、○歌(ノ)意は、兼ては思ひ落しめてありし、筑摩川の細石《サヾレイシ》も愛しき君が足踐たらば、一(ト)すぢに貴(ク)玉と思ひて、拾ひ擧む、となり、人を愛しみ、思ふ心の、深きほどを示したるなり、
 
3401 中麻奈爾《ナカマナニ》。宇伎乎流布禰能《ウキヲルフネノ》。許藝?奈婆《コギテナバ》。安布許等可多思《アフコトカタシ》。家布爾思安良受波《ケフニシアラズハ》。
 
中麻奈は、地の名なるべし、未(タ)考(ヘ)得ず、(岡部氏は、中麻奈は、潮にても、河にても、中流をいふならむ、眞な中といふを、下上に、其(ノ)國にてはいひつらむ、又中眞中の事にも有べし、地(ノ)名にはあらず、と云れどいかゞ、)按(フ)に、麻奈《マナ》は、もと志麻《シマ》とありけむを顛倒《オキタガ》へ、つひに志(ノ)字を、奈《ナ》に誤寫せるならむ、中志麻《ナカシマ》は、和名抄に、信濃(ノ)國水内(ノ)郡中島、奈加之末《ナカシマ》)とある是(レ)なり、即(チ)今の河中島これなり、其(ノ)地は、信渡八郡の水の、つき會(フ)處なるによりて、某島と云て、海津の名負(ヘ)る多きよし信濃地名考に見えたり、(但し其説に、今の歌を引て、古(ヘ)の中麻奈の地名轉りて、中島となりたるなるべし、といへるは、おぼつかなし、)さらば此(ノ)一句は、中島の河津に、といふ意にきくべし、中島(44)の河津にかゝりて河に浮居る船の、といふ意に、つゞきたるなるべし、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、此は船より旅行人の中島の河門にて、船よそひするほど、留れる妻の、別を惜(リ)てよめるなるべし、
 
右四首信濃國歌《ミギノヨウタハシナヌノクニノウタ》。
 
3402 比能具禮爾《ヒノグレニ》。宇須比乃夜麻乎《ウスヒノヤマヲ》。古由流日波《コユルヒハ》。勢奈能我素低母《セナノガソテモ》。佐夜爾布良思都《サヤニフラシツ》。
 
比能具禮爾《ヒノグレニ》は、日(ノ)暮になり、此は第二(ノ)句の次に轉《メグラ》して心得べし、碓氷(ノ)山を越る節の、日(ノ)暮の頃なりしからに、云るなるべし、(然るを冠辭考に、此を枕詞として、日の暮に、日影のうすきといふつゞけなり、と云るは、謾なるべし、○宇須比《ウスヒ》は、和名抄に、上野國碓氷(ノ)(宇須比)郡、とあり、○勢奈能《セナノ》は、夫《セナ》にて、能(ノ)は助辭なり、三(ノ)卷に、志斐能《シビノ》とある能(ノ)に同じ、○佐夜爾布良思都《サヤニフラシツ》は、清《サヤ》かに振賜ひつ、といふなり、○歌(ノ)意は、碓氷(ノ)山を、日(ノ)暮に越るときは、物心ぼそく、いよ/\なごり多さに、吾(ガ)袖振のみならず、夫(ノ)君が袖さへも、今一(ト)きは清《サヤ》かに振(リ)賜ひて、吾を慕へるは吾(カ)夫も同じ心に、別を惜み賜へるなるべし、と云るにや、此は碓氷(ノ)山より、遠からぬ里に家居る女の、よしありて、夜をかけて物へ行とき、別を惜むとて、夫と袖を振かはしたる時よめる、女の歌なるべし、(略解に、我(ガ)振袖をも、夫のみつらむかと思ふより、云るならむ、と云るは、いさゝか聞取が(45)たし、
 
3403 安我古非波《アガコヒハ》。麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》。久佐麻久良《クサマクラ》。多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》。於父母可奈思母《オクモカナシモ》。
 
麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》は、さしあたりたる今の間も、悲しくおもはるゝ、となり、○久佐麻久良《クサマクラ》は、枕詞なり、此屬の意は、未(ダ)考(ヘ)得ず、(若(シ)は薦枕多可《コモマクラタカ》とつゞくと同じく、枕を多久《タク》といふ意にてもあらむか、そも/\草枕てふ枕詞は、集中に甚多くあるが、皆|多毘《タビ》とのみつゞきて、異れるつゞきは他になきを、こゝにかく一首のみ、多胡《タコ》と云係たるは、いと/\いぶかしくなむ、薦枕|多可《タカ》といふは、高の意にはあらず、薦の枕を、總束ねて造るよしなり、多可《タカ》はたく意にて、多久《タク》とは、總束るをいふ古言なればなり、但し和名抄によるに、多呉《タゴ》と、もとより濁りて呼しならば、又其意なるべし、しかれども、本は此に書る如く、清音なりしを、和名抄の頃、濁りて呼しも知べからず、略解に此草枕は、枕詞ならず、旅のさまをいふ、と云るは、論に足ず、)○多胡能伊利野《タコノイリヌ》は、多胡(ノ)郡にある入野なるべし、入野も地(ノ)名なるべし、多胡は、和名抄に、上野(ノ)國多胡(ノ)(胡音如v呉(ノ)、)郡、續紀に、和銅四年三月辛亥、割2上野(ノ)國甘良(ノ)郡、織裳《オリモ》、韓級《カラシナ》、矢田《ヤタ》、大家《オホヤケ》、緑野(ノ)郡|武美《ムミ》、片岡(ノ)郡|山等《ヤマナ》六郷(ヲ)1、別(ニ)置2多胡(ノ)郡(ヲ)1、と見えたり、(山等は、山奈を、誤れるか、)又和名抄に、片岡郡多胡、とも見ゆ、もと此(ノ)郷より廣まりたる名なるべし、○於父母可奈思母《オクモカナシモ》、父(ノ)字は、久の誤なるべし、と云り、信に然な(46)り、於久《オク》は、入野の奥とつゞきて、行末の意なり。○歌(ノ)意は、夫の旅行時、留れる妻のよめるにて、其(ノ)別れにさしあたりたる、今の間も悲し、しかのみに非ず、又別てのち、行末の事を思ふにも、さてもいよ/\深く悲しや、となり、
 
3404 可美都氣努《カミツケヌ》。安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》。可伎武太伎《カキムダキ》。奴禮杼安加奴乎《ヌレドアカヌヲ》。安杼加安我世牟《アドカアガセム》。
 
可美都氣奴《カミツケヌ》和名抄に上野(ハ)加三豆介乃《カミツケノ》、古事記に、上毛野《カミツケヌ》、○安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》、(素(ノ)字、類聚抄には蘇と作り、)安蘇《アソ》は地(ノ)名なり、此(ノ)下にも、可美都氣野安蘇夜麻都豆良《カミツケヌアソヤマツヅラ》、とよめり、麻素武良《マソムラ》は、本居氏、眞麻屯《マソムラ》にて、麻を束ねたるを云べし、と云り、(略解に、眞麻の群て有を刈て、かき抱き束ぬるを、たとへとせり、と云るは、わろし、)さて此(レ)までは序にて、その眞麻屯を績(ム)ために、掻(キ)抱(キ)よする意に、つゞけたるなり〔頭註、【下野安蘇郡、もとはこの上野にもわたれる地には非るか、】、〕○可伎武太伎《カキムダキ》は、可伎《カキ》は掻《カキ》にて、手して物する事に添(ヘ)云辭なり、武太伎《ムダキ》は、身抱《ムウダキ》なり、(ムウ〔二字右○〕はム〔右○〕と切る、故(レ)ムダキ〔三字右○〕と云り、〉欽明天皇(ノ)紀に、抱をムダカヘ〔四字右○〕とよめり、抱《ウダク》といふ言の意は、三(ノ)卷に、具(ク)云り、此《コヽ》は、妹が身を抱《ウダキ》て寢るよしなり、○安杼加安我世牟《アドカアガセム》は、何とか吾爲むなり、○歌(ノ)意は、愛情の深きあまりに、妹が身抱て寢れども、猶あきたらねば、何とか吾(ガ)爲む、となり、
 
3405 可美都氣乃《カミツケヌ》。乎度能多杼里我《ヲドノタドリガ》。可波治爾毛《カハヂニモ》。兒良波安波奈毛《コラハアハナモ》。比等里能未(47)思?《ヒトリノミシテ》。
 
可美都氣乃《カミツケヌ》、本居氏云、乃(ノ)字は、奴の誤なるべし、和名抄などのころにこそ、野をばもはら乃《ノ》と云つれ、古(ヘ)には然ることなく、又野を省きて、加美都氣《カミツケ》と云ることも無ければ、辭の之《ノ》にも非ればなり、凡そ此(ノ)國(ノ)名をよめる歌、十二首ある中に、乃《ノ》と云るは只一(ツ)にて、餘はみな奴《ヌ》なるをや、○乎度能多杼里《ヲドノタドリ》は、乎度《ヲド》は、契冲も云し如く、或本(ノ)歌に、乎野《ヲヌ》とあるに依に、小野なるべし、總《スベ》て、那爾奴禰乃《ナニヌネノ》を、太治豆傳杼《ダヂヅデド》に通(ハシ)云は、古例なり、然るに野をば、古(ヘ)は奴《ヌ》と呼《イヒ》しことなれど、既く東語には、乃《ノ》とも云しとおぼえたれば、乎乃《ヲノ》を乎度《ヲド》と通はし云るにぞあらむ、(天の瓊矛《ヌホコ》を等保許《トホコ》ともいひ、又|志奴々《シヌヽ》に沾てを、志度等《シドト》に沾て、と云ることもあれば、奴《ヌ》を度《ド》に通はし云ることもありしかとも思へど、これらは奴(ノ)字に、ヌド〔二字右○〕兩音あるより、ヌ〔右○〕と云を、後にド〔右○〕と唱へ誤れるなるべし、)小野は、和名抄に、甘樂(ノ)郡、緑野(ノ)郡、群馬(ノ)郡に、各々小野(乎乃《ヲノ》)といふ郷見えたれば、其(ノ)中なるべし、多杼里《タドリ》も、川(ノ)名なるべし、と契冲云り、○兒等波安波奈毛《コラハハナモ》、は、兒等《コラ》は逢(ハ)なむなり、○比等理能未思?《ヒトリノミシテ》は、獨耳《ヒトリノミ》にてといふ意なるを、かく思《シ》の言をそへて云るは、其(ノ)事をうけはりて、他事なく思ふ意を、思はせむがためなり、○歌(ノ)意は、多杼里《タドリ》の川路は、里離て人目少き所なれば、かゝる所を、吾(ガ)唯獨行とき、兒等も獨のみにて、いかで逢(ヘ)かし、となり、下に、麻等保久能野爾毛安波《マドホクノヌニモアハ》波|奈牟《ナム》、十六に、寒水之心毛計夜爾所念音之少寸道爾相奴鴨《マシミヅノコヽロモケヤニオモホユルオトノスクナキミチニアハヌカモ》、などよめり、
(48)〔或本歌曰。可美都氣乃《カミツケヌ》。乎野乃多杼里我《ヲヌノタドリガ》。安波治爾母《カハヂニモ》。世奈波安波奈母《セナハアハナモ》。美流比登奈思爾《ミルヒトナシニ》。
安波治、安(ノ)字は可の誤なるべし、次の安波奈母と見まがへて、誤寫せるなるべし、
 
3406 可美都氣野《カミツケヌ》。左野乃九久多知《サヌノククタチ》。乎里波夜志《ヲリハヤシ》。安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》。許登之許受登母《コトシコズトモ》。
 
佐野乃九久多知《サヌノククタチ》は、佐野《サヌ》は、今の佐野村なり。九久多知《ククタチ》は、和名抄に、唐韵(ニ)云、〓(ハ)蔓菁之苗也、和名|久々太知《ククタチ》、俗(ニ)用2莖立(ノ)二字(ヲ)1、(三善(ノ)爲康が、童蒙頌韻にも、〓《クヽタチ》と見ゆ、拾遺集物(ノ)名に、くゝたち、山高み花の色をもみるべきににくゝたちぬる春霞哉、江次第二宮大饗に、莖立《クヽタチ》包燒蘇甘栗等給之、○乎里波夜思《ヲリハヤシ》は、折《ヲリ》令《シ》v榮《ハヤ》なり、凡て波夜須《ハヤス》といふ言は、榮《ハエ》あらしむる意なれば、一(ツ)の物を切(リ)折て、二(ツ)にも三(ツ)にも爲《ナス》をいふなり、○安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》は、吾は將《ム》v待《マタ》にて惠《ヱ》は歎辭なり、左夫思惠《サブシヱ》、加那志惠《カナシヱ》、久流志惠《クルシヱ》など云る惠《ヱ》に同じ、○許登之許受登母《コトシコズトモ》は、今年來ずともなり、○歌(ノ)意は、よし今年來ずとも、來年までも心長く待居む、さはいへど、今は來座べき時節なりと思ふが故に、莖立を折はやしつゝ、いかで君をもてなさむとおもふに、嗚呼《アハレ》さても待遠や、といふなるべし、
 
3407 可美都氣努《カミツケヌ》。麻具波思麻度爾《マグハシマドニ》。安佐日左指《アサヒサシ》。麻伎良波之母奈《マキラハシモナ》。安利都追見禮婆《アリツツミレバ》。
 
(49)麻具波思麻度《マグハシマド》は、眞桑島門《マグハシマド》と聞えて、海門に朝日のさすをいふ、と岡部氏云り、眞桑《マクハ》は、地(ノ)名なるべし、上野は海なき國なれば、いかゞなれど、此は彼(ノ)川中島などの類にて、川島の門をいふにやあらむ、(契冲は、目細窓《マグハシマド》といふことゝし、又本居氏は、麻度《マド》は、眞門《マド》と聞ゆ、されば古(ヘ)、門に日影のさしかゞやくことを、云ならへる故なるべし、旦日照島乃《アサヒテルシマノ》御門、などゝもよめり、と云れど、窓か眞門か耳《ノミ》の事ならば、上野と云ることいかゞ、)○安佐日左指《アサヒサシ》、此までは、羞明《マギラハ》しといはむ料の序なり、旭日《アサヒ》のさすときは、目ばゆきものにて、直《タヾ》に向ひ見がたきものなれば、連《ツヾ》けたり、十七に、阿佐比之曾我比爾見由流《アサヒノソガヒニミユル》、とあるも、旭日《アサヒ》のさす方には、羞明《マバユク》て、直に向ひ難ければ、背向《ソガヒ》に見ゆるとは、いひかけたるなり、○麻伎良波之母奈《マキラハシモナ》は、契冲云、朝日にむかふことのまばゆきにより、得向はぬ如く、人もあり/\して見れば、かたちも、てりかゞやくやうなるを云り、羞明といふごとく、目に嫌はしきといふこゝろなり、と云り、母奈《モナ》は歎息(ノ)辭にて、さても羞明《マギラハ》し奈阿《ナア》といふ意なり、○安利都追見禮婆《アリツツミレバ》は、十(ノ)卷に、石走間間生有貌花乃花西有來在筒見者《イシバシノママニサキタルカホバナノハナニシアリケリアリツヽミレバ》、とよめるに同じ、○歌(ノ)意は、見ざれば、つゞきて見まほしく、さりとてつゞきて、あり/\と向ひ見れば、まばゆくはづかしく、中々に美姿《ウルハシキカホ》に氣《ケ》おされつゝ、さてもせむ方のなき人にてあるよなあ、と云るなるべし、十一に、對面者面隱流物柄爾繼而見卷能欲公毳《アヒミレバオモカクサルゝモノカラニツギテミマクノホシキキミカモ》、とあるを思(ヒ)合(ス)べし、
 
(50)3408 爾比多夜麻《ニヒタヤマ》。禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》。和爾余曾利《ワニヨソリ》。波之奈流兒良師《ハノナルコラシ》。安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》。
 
爾比多夜麻《ニヒタヤマ》は、和名抄に、上野(ノ)國新田(ノ)郡|新田《ニヒタ》、○禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》は、嶺には不v着(カ)なり、○和爾余曾利《ワニヨソリ》は、吾に所依《ヨソリ》なり、此(ノ)詞は既く四(ノ)卷に出て、彼處に具(ク)註り、○波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》は、間《ハシ》にある兒等といへるにて、師《シ》は、その愛憐《カナ》しと思ふ心の、一(ト)すぢを重く思はせたる助辭なり、間を波之《ハシ》といふ例は、既く具(ク)云り、此(ノ)下にも見えたり、○歌(ノ)意は、詞のさまをもて按(フ)に、此(ノ)新田山は、外の大山とはつゞかずして、孤立の山なるべし、さらば他の嶺には不《ナク》v着《ツカ》と云意なるべし波之奈流《ハシナル》は、間《ハシ》にあるなり、と源(ノ)嚴水云る、さることなり、されば新田山の、外の高嶺にも着ずして、たゞ孤立てあるごとく、心は我に依ながら、親く依畢たるにも非ずして、猶|間《ハシ》にある兒等が、あやしきまで、さても愛憐《カナ》しや、といふなるべし、(此(ノ)歌、古來、山の嶺に、雲のつかぬごとくといふ意に、解來れども、雲といはざれば、いかゞ、)
 
3409 伊香保呂爾《イカホロニ》。安麻久母伊都藝《アマクモイツギ》。可奴麻豆久《カヌマヅク》。比等登於多波布《ヒトトオタハフ》。伊射禰志米刀羅《イザネシメトラ》。
 
伊香保呂《イカホロ》は、神名帳に、上野(ノ)國群馬(ノ)郡、伊加保(ノ)神社、(名神大)とある、伊香保乃沼《イカホノヌマ》と多くよめる地なり、呂《ロ》は例の添云辭なり、○安麻久毛伊都藝《アマクモイツギ》は、天雲繼《アマクモツギ》なり、伊《イ》はそへことばなり、天雲の打(51)繼きて、止ず立をいふなるぺし、○可奴麻豆久《カヌマヅク》、鹿沼附《カヌマヅク》といふにや、)勢冲は、彼眞附なるべし、と云れど、いかゞ、)鹿沼は地(ノ)名なり、〔頭註、【東路之記、日光初石町より、今市へ二里、今市より、板橋へ、二里、板橋より鹿沼へ三里六町とあり、此は下野なり、この鹿沼にや、可v尋、】〕○比等登於多波布《ヒトトオタハフ》は、解難けれど、強て思ふに、もしは多(ノ)字は、呂の誤にてはあらぬにや、呂多草書は混(ヒ)易し、若(シ)然らば、此(ノ)下に、水久君野爾可母能波抱能須兒呂我宇倍爾許等於呂波敝而伊麻太宿奈布母《ミクヽヌニカモノハホノスコロガウヘニコトオロハヘテイマダネナフモ》、とあると同言なり、於呂波敝《オロハヘ》はおろ/\延(ヘ)にて、猶下に至ていふべし、さて比等登《ヒトト》は、人ぞといふことゝ聞ゆれば、登(ノ)字は、もしは曾の誤か、下に載たるにも比等曾《ヒトソ》とあればなり、又|登《ト》にても、意は曾《ソ》といふに同し、人ぞおろ/\延る、といふなり、(契冲が、人ぞお|ろ《たカ》はふは、人ぞのたまふなるべし、と云るはわろし、○伊射禰志米刀羅《イザネシメトラ》は、契冲、いざ寢しめよ、となり、羅《ラ》は呂《ロ》とおなじく、助たる詞なり、第五(ノ)卷、山上(ノ)憶良の子をうしなへる時の長歌に、夕づつの夕(ヘ)になれば、、いざねよと手をたづさはりとよめり、と云り、今按(フ)に、禰志米《ネシメ》は、寢給《ネタマ》へといふ意なるべし、さるは踏《フム》といふを、敬ひて踏須《フマス》とのべいふことは、古言のつねなるを、其を再び伸(ベ)て、踏志牟《フマシム》と云ることもあれば、寢《ヌ》といふことを敬ひて、寢須《ネス》とのべいひ、其をふたゝび伸(ベ)て、寢志牟《ネシム》と云りしとおぼゆればなり、○歌(ノ)意は、伊香保嶺より、鹿沼へ立つゞきたる天雲の如く、吾に懸想するさまに、吾(カ)方を附雖れぬ男の、いざ共に寢たまへよと、おろ/\言を延たるよ、と懽べる女の歌なるべし、(岡部氏は、伊可保嶺の雨雲が、かぬまといふ所まで、(52)ひとつにくもりつゞきたるを、妹と吾と、一つぞといはるゝにたとへたり、さてひとゝおたはふは、一つと音なふにて、他人のこちたきなり、然ればいざともに寢む兒らなり、刀は己《コ》の字なるべし、と云り、されど音なふを、おたはふといはむこと、いかなれば、此(ノ)説は用(ヒ)がたし、)此(ノ)下、相聞に、伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久比等曾於多波布伊射禰之賣刀羅《イハノヘニイガカルクモノカヌマヅクヒトソオタハフイザネシメトラ》、とて載たり、今と全(ラ)同歌なるを、聊(カ)歌ひ換たり、
 
3410 伊香保呂能《イカホロノ》。蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》。禰毛己呂爾《ネモコロニ》。於久乎奈加禰昏《オクヲナカネソ》。麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》。
 
蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》は、蘇比《ソヒ》は、契冲、傍《ソヒ》にて、川傍柳《カハソヒヤナギ》などいふがごとし、山の岨《ソハ》といふも、山にそひて、かたはらを行やうの所をいへば、もとはおなじことばなるべし、と云り、波里波良《ハリハラ》は、榛原《ハリハラ》なり、さてこれまでは、奥といはむ料の序なり、榛林《ハリハラ》の奥とかゝれるなるべし、禰毛己呂《ネモコロ》といふへは屬かず、○禰毛己呂爾《ネモコロニ》は、深くくだ/\しくと云むが如し、○於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》は、行末のことを兼ぬることなかれなり、○麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》は、今さしあたりたる時だに善《ヨカ》らばなり、思《シ》は、その一(ト)すぢを重く思はする助辭なり、正香《マサカ》は、さしあたりたる時をいふ詞なり、○歌(ノ)意は、今さしあたりたる時だに、よくばあるべきを、然のみ行末のことを兼て、餘りにくだくだしく、深く思ひわづらふことなかれ、となり、此(ノ)歌の本(ノ)二句は、此(ノ)下にもよめり、
 
(53)3411 多胡能禰爾《タコノネニ》。與西都奈波倍?《ヨスツナハヘテ》。與須禮騰毛《ヨスレドモ》。阿爾久夜斯豆之《アニクヤシヅシ》。曾能可抱與吉爾《ソノカホヨキニ》。
 
多胡能禰《タコノネ》は、多胡(ノ)郡にある山(ノ)嶺なり、多胡は、此(ノ)上に云り、○與西都奈波倍?《ヨセツナハヘテ》は、寄綱延而《ヨセツナハヘテ》なり、寄綱は、石など引寄るに附る綱なり、出雲(ノ)國風土記、意宇(ノ)郡のことを記せる條に、三身之綱|打挂而《ウチカケテ》云々、國々來々|引來縫國者《ヒキキヌヘルクニハ》云々、○阿爾久夜斯豆之《アニクヤシヅシ》、(之(ノ)字、一本に久と作るは誤なり、)は、豈來耶沈石《アニクヤシヅシ》なり、(岡部氏は、あな憎や、重り靜りてよらず、といふ意に説れど、あらず、)沈石《シヅシ》は、水底に沈《シヅ》ける石なり、十九に、藤奈美能影成海之底清之都久石乎毛珠等曾吾見流《フヂナミノカゲナルウミノソコキヨミシヅクイシヲモタマトソアガミル》、とよめるに同じ、○曾能可抱與吉爾《ソノカホヨキニ》(抱(ノ)字、舊本把に誤、一本に從つ、)は、其貌善《ソノカホヨキ》になり、可抱與吉《カホヨキ》は、たゞに面貌の美をいふにあらず、(後(ノ)世は、美貌《ウツクシキカホ》をすべて可保與吉《カホヨキ》といへど、古(ヘ)はさにあらず、)うはべのみ、心よげに相ゑみなどして、心(ノ)裏には、さも思はぬをいふなり、言のみを、よろしくうるはしげにいふを、言善《コトヨ》きといふに同じ、(源氏物語蓬生に、心ぼそき御ありさまの、つねにしも、とぶらひきこえねど、近きたのみ侍つる程こそあれ、いとあはれに、うしろめたくなむなど言善《コトヨカ》るを、さらにうけひき給はねば、とあるも、心には、さも思はで、言のみ善《ウルハ》しくいふ意なり、東屋に、中だちの、かくことよくいみじきに、女はましてすかされたるにやあらむ、寄生に、おろかならぬことゞもを、つきせずの給ひちぎるを、きくにつけても、かくのみ、ことよきわざにや(54)あらむと、あながちなりつる人の、御けしきも思ひ出られて、などあるも同じ、神代紀一書に、吾田鹿葦津姫、瓊々杵(ノ)尊に幸《メサ》れて、一夜に娠《ハラマ》して、四柱の皇子を生ませるよし、聞え上給へる時、嘲之曰、妍哉吾皇子者聞喜而生之歟《アナニヱヤアガミコハキヽヨクテモウメルカモ》、とある聞喜は、通《キコ》えがたき文ながら、キヽヨクモ〔五字右○〕といふ訓によるも、此(レ)も實には、然あらぬを、さもらしく、つくろひかざりて申せるは、さても人(ノ)聞のみ善ことゝ、姫の言をうけかひ給はず、嘲らして詔ふなり、されば顔善《カホヨク》、言善《コトヨク》、聞善《キヽヨク》、みな同じこゝろばえの言なり、)○歌(ノ)意は、水底に沈ける石のうるはしければ、多胡の嶺に引寄むと、綱附(ケ)延て引寄れども寄來ず、うはべには容易く寄來べく見えて、なか/\に底堅く動(キ)もあへぬ物を、何ぞ來むやはといふにて、うはべのみは、吾に思ひよせたるやうに見えて、中々に心の底のしはくて、とにかく、心をつくしていざなへども、うけひかぬをたとへとせり、此(ノ)歌、昔來解得たる人なし、
 
3412 賀美都家野《カミツケヌ》。久路保乃彌呂乃《クロホノネロノ》。久受葉我多《クズハガタ》。可奈師家兒良爾《カナシケコラニ》。伊夜射可里久母《イヤザカリクモ》。
 
久路保《クロホ》は、地(ノ)名なり、未(ダ)考ず、國人に問べし、○久受葉我多《クズハガタ》は、これも地(ノ)名なるべし、(略解に、豆良《ツラ》の約|多《タ》なれば、葛葉葛なり、葛《クズ》かづらの、遠ざかり延るを序とせり、と説るは、いみじきひがことなり、いかでか、葉といひて葛《カヅラ》といふべき、もしその意ならば、たゞに葛《クズ》かづらとこそいふ(55)べきなれ、)○歌(ノ)意は、愛憐《カナシ》き兒が家を離れて、此(ノ)葛葉縣《クズハガタ》を過來れば、いよ/\遠くなりて、さてもつらしや、となり、此は旅ゆく人の家道やゝ遠ざかりて、葛葉縣てふ地を通るほど、妻の事を思ひてよめるなるべし、よせたる意はなし、古來此(ノ)歌の意を心得誤れり、
 
3413 刀禰河泊乃《トネガハノ》。可波世毛思良受《カハセモシラズ》。多太和多里《タダワタリ》。奈美爾安布能須《ナミニアフノス》。安敝流伎美可母《アヘルキミカモ》。
 
刀禰河泊《トネガハ》は、和名抄に、上野(ノ)國利根(ノ)(止禰《トネ》)郡、とありて、そこに流るゝ河なり、凡(ソ)東國第一の大河なり、當郡の渭田《ヌマタ》(和名抄に、渭田(ハ)奴末太《ヌマタ》、)より出て、武藏下總を經て海に入るとぞ、○多太和多里《タダワタリ》は、直渉《タヾワタリ》なり、歩渉《カチワタリ》の事なり、十三に、跡座浪之立塞道麻誰心勞跡鴨直渡異六《シキナミノタチサフミチヲタガコヽロイトホシトカモタヾワタリケム》、○奈美爾安布能須《ナミニアフノス》は、浪に、逢如くなり、○歌(ノ)意は、利根川の渡瀬をも知ず、推て歩渉りして、高き浪に逢て、危く恐き目を見る如く、父母兄弟、又さらぬ人目などの、さてもゆゝしき時にあへる君かな、と女のよめるなり。
 
3414 伊香保呂能《イカホロノ》。夜左可能爲提爾《ヤサカノヰテニ》。多都弩自能《タツヌジノ》。安良波路萬代母《アラハロマテモ》。佐禰乎佐禰?婆《サネヲサネテバ》。
 
夜左可能爲提《ヤサカノヰテ》は、夜左可《ヤサカ》は、八尺《ヤサカ》か、さらばその堰塞の、堰杙《ヰグヒ》と堰杙《ヰグヒ》の間の、互の廣きをいふならむ、又は地(ノ)名にもあるべし、(略解(ニ)云、其(ノ)國人の云るは、伊可保の沼は、此(ノ)嶺の半上に在て、沼の(56)三方には、山ども立(チ)、一方は開けて野なり、其(ノ)開(ケ)し方の水の落る所を、いてと云とぞ、しかれば、やさかは、其(ノ)水の落る所の名、爲提は堰留にて、塘なるべし、と云り、いかにまれ爲提を塘と云るは誤なり、)爲堤《ヰテ》は、堰塞なり、さて和名抄に、群馬(ノ)郡井出とあるは、此(ノ)爲提によれる名にや、○多都弩自能《タツヌジノ》は、立虹之《タツヌジノ》なり、顯るといはむ料の序なり、虹は、和名抄に、毛詩註(ニ)云、〓〓(ハ)虹也、〓又作v〓(ニ)、和名|爾之《ニジ》、○安良波路萬代母《アラハロマテモ》は、顯る迄もなり、いちじるく顯れて、人に知るゝまでもなり、○佐禰乎佐禰?婆《サネヲサネテバ》は、相寢をだに爲たらば、心にあき足む、となり、乎《ヲ》は、其(ノ)事を重くいふ時の辭なり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、
 
3415 可美都氣奴《カミツケヌ》。伊可保乃奴麻爾《イカホノヌマニ》。宇惠古奈宜《ウヱコナギ》。可久古非牟等夜《カクコヒムトヤ》。多禰物得米家武《タネモトメケム》。
 
伊可保乃奴麻《イカホノヌマ》は、今酒井氏の城廓、厩橋《マヘバシ》の上に、赤木山といふありて、其(ノ)山の邊にありと云り、素性法師集に、いかほのやいかほの沼のいかにして戀しき人を今一目見む、○宇惠古奈宜《ウヱコナギ》は、三(ノ)卷は、春霞春日里乃殖子水葱苗有跡三師柄者指爾家牟《ハルカスミガスガノサトノウヱコナギナヘナリトミシエハサシニケム》、とよめり、ともにうるはしき女にたとへたり、○歌(ノ)意は、伊香保の沼に殖生したる、殖子水葱のうるはしきを、かくせむすべなきまで、戀しく物思ひをせむものとて、種を求めけむやは、豫てかくまで物思ひをせむと知せば、種はもとめ得まじき物にてありしを、となり、
 
(57)3416 可美都氣努《カミツケヌ》。可保夜我奴麻能《カホヤガヌマノ》。伊波爲都良《イハヰツラ》。比可波奴禮都追《ヒカバヌレツツ》。安乎奈多要曾禰《アヲナタエソネ》。
 
可保夜我奴麻《カホヤガヌマ》は、金葉集春一に、修理大夫顯李、東路のかほやがぬまの杜若春をこめても咲にける哉、○安乎奈多要曾禰《アヲナタエソネ》は、吾を疎《ウト》み絶ることなかれよ、となり、○歌(ノ)意は、比可波《ヒカバ》といふまでは序にて、柔軟《ニコヤカ》に靡き依て、いつまでも、吾を疎み絶る事なかれよ、となり、上に、伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《イリマヂノオホヤガハラノイハヰツラヒカバヌルヌルワニナタエソネ》、とあるにおなじ、奴流奴流《ヌルヌル》は、靡々《ヌル/\》にて、靡乍《ヌレツヽ》と云が如し、知々《シル/\》は、知乍《シリツヽ》、刈々《カル/\》は刈乍《カリツヽ》といふ意なるを思(ヒ)合(ス)べし、
 
3417 可美都氣奴《カミツケヌ》。伊奈良能奴麻能《イナラノヌマノ》。於保爲具左《オホヰグサ》。與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》。伊麻許曾麻左禮《イマコソマサレ》。【柿本朝臣人麻呂歌集出也。】
 
伊奈良能奴麻能《イナラノヌマノ》は、未(ダ)考(ヘ)ず、國人に問べし、○於保爲具左《オホヰグサ》は、品物解に云り、この於保《オホ》に、凡《オホヨソ》の意をもたせたるなるべし、○與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》は、凡《オホヨソ》に見しよりはなり、と岡部氏云り、○歌(ノ)意は、外目に、凡にのみ見てありしよりは、逢たる今こそ、中々に、深き情勝てあれ、といふなるべし、(契冲が、沼に生たるおはゐをかりきて、席にあみて敷などするを、よそに見し人を、手にいれてみるが、猶まさるといふにたとへたり、と云るは、むづかし、)○註の柿本云々は、彼(ノ)集にも載たり、といふことなり、凡(ソ)此(ノ)卷にかくしるせる五首あり、人麻呂集出とは、凡て彼(ノ)集は、彼(ノ)ぬしの(58)聞に從て、自歌ならねども、載おかれしものなり、故(レ)東歌までも、其(ノ)中に入(レ)るものなり、
 
3418 可美都氣努《カミツケヌ》。佐野田能奈倍能《サヌタノナヘノ》。武良奈倍爾《ムラナヘニ》。許登波佐太米都《コトハサダメツ》。伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》。
 
佐野田能奈倍《サヌタノナヘ》は、佐野田《サヌタ》は、此(ノ)前後に見えたる、左野乃九久多知《サヌノククタチ》、又、佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》、などある左野《サヌ》にて、其處の田をいふべし、又は野はヤ〔右○〕の假字にてサヤタ〔三字右○〕なるべきか、(八雲御抄にも、さやたとよませたまへり、)然らば、和名抄に、上野(ノ)國那波(ノ)郡鞘田(ハ)佐也多《サヤタ》、とある處なるべし、(是に因て、猶思ふに、此(ノ)前後の佐野も、サヤ〔二字右○〕なるべきにや、和名抄に、遠江(ノ)國佐野(ノ)郡、とあるをも、本にはサノ〔二字右○〕と訓たれども、續紀には佐益郡と書たれば、サヤ〔二字右○〕なり、されど佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》の佐野は、今も其處を、サノ〔二字右○〕と呼來りたれば、此等は、サヤ〔二字右○〕にはあらざるべし、)奈倍《ナヘ》は、稻苗なり、○武良奈倍爾《ムラナヘニ》は、群苗《ムラナヘ》になり、群竹《ムラタケ》なども、云(フ)類にて、群立て生たるを云、(按(フ)に、苗(ノ)のへ〔右○〕を、今(ノ)世には清て唱れども、こゝに奈倍と有によりて濁るべきか、古言清濁考には、此(ノ)卷に奈波之呂《ナハシロ》と書るによりて清音と定めたれども、集中に多く並《ナベ》てふ言に、苗(ノ)字を用ひたれば、猶こゝに奈倍とあるに併て、濁音とせむこと、しかるべきに似たり、但し苗のへの言など濁らむは、いと異樣なり、と思ふ人もあるべけれども、凡て古(ヘ)清しを今濁り、古(ヘ)濁りしを、今は清て唱ふるたぐひ、いと多かるを、古言の樣を、しれらむ人はしりぬべし、○許登波佐太米都《コトハサダメツ》は、事者定《コトハサダメ》つなり、○歌(ノ)(59)意は、契冲、苗代は、ぬし/\のさだまるかぎりあれば、そのごとく、わがおもふ人にも、早親などの、ぬしを約して定つれば、今はいかにとかせむと、なげくこゝろなり、と云り、嚴水、この男の、女に言よりしを、其(ノ)女の答てよめるにて、すでに主をさだめつれば、今はしたがひがたしと云るなるべし、と云り、此(ノ)説おもしろし、(岡部氏は、一二(ノ)句は序、三(ノ)句むらなへは、うらなへなり、卜《ウラ》に言定りしからは今はせむかたなしと云り、又さなへもてうらなふわざも有にや、道行人になへを打つけて、祝ひごとするなど、いふ事もあれば、そのなへの有さまによりて、物の成不v成ことを、うらなふ事も有けむ、されど猶うらなへといはむとて、一二(ノ)句をいひしさま、類もあるなれば、上によるべし、と云れど、むらなへをうらなひと轉(シ)云むこと、いかゞなれば、此は、強たる考なるべし、)
 
3419 伊香保世欲《イカホセヨ》。奈可中次下。於毛比度路《オモヒドロ》。久麻許曾之都等《クマコソシツト》。和須禮西奈布母《ワスレセナフモ》。
 
伊香保世欲《イカホセヨ》は、契冲、伊可保《イカホ》にある兄《セ》なよ、と呼かけていふなり、と云り、○奈可中次下は、未(タ)詳ならず、次(ノ)字、元暦本には吹と作り、なほ字の誤脱など多くあるべし、此(ノ)卷の書體にあらざればなり、契冲考あれど、本のまゝにして、字の誤などをば考へざれば、甚強たることにして、從がたし、○於毛比度路《オモヒドロ》、此も未(ダ)詳ならず、契冲は、路《ロ》は助辭にて、雖v思なり、と云り、(もしは路は知にて、思共《オモヒドチ》などにてあらむか、)○久麻許曾之都等《タマコソシツト》、此も未(ダ)詳ならず、(契冲は、山越鹿といふこと(60)に解たれども、甚強説なり、)○和須禮西奈布毛《ワスレセナフモ》は、忘(レ)爲なくなり、母《モ》は歎辭なり、○歌(ノ)意、いかなるにか、右に云如く、凡て誤脱等もあるべく、語(ノ)義|通《キコ》えざれば、解べきやうなし、猶よく考(ヘ)見べし、
 
3420 可美都氣努《カミツケヌ》。佐乃布奈波之《サヌノフナハシ》。登利波奈之《トリハナシ》。於也波左久禮騰《オヤハサクレド》。和波左可流賀倍《ワハサカルガヘ》。
 
佐乃布奈波之《サヌノフナハシ》は、舟を並て橋とせるなり、今佐野村に、舟橋を渡せし川ありて、舟橋を繋ぎし木なりとて、近き世までもありしと云りとぞ、詞花集九(ノ)卷に、夕霧に佐野の舟橋音すなりたなれの駒のかへり來るかと、○和波左可流賀倍《ワハサカルガヘ》(流(ノ)字、舊本には禮と作り、今は官本に從つ、)は、吾れ放《サカ》らむやは放らじ、といふ意の言を、東語にかく云るなり、○歌(ノ)意は、契冲云、舟橋は、こなたかなたより作り出して、中にて作り合するを、をとこ女の、たがひにかたらひあふになずらへて、其(ノ)中をとりさけたるは、橋の中をたちたるにおなじ心をもて、たとへによめる歌なり、よりて親のさかしらにこそ、中はさくれ、われはさからず、と云るなり、下にいたりて、我まつま人はさくれど朝がほのとしさへこゞとわはさかるがへ、これに似たる歌なり、催馬樂に、ぬき川のきしのやはら田やはらかにぬる夜はなくておやさくるつま、後撰集の參議等の朝臣の歌は、こゝの歌をとれりと見えたり、東路のさのゝ舟はしかけてのみおもひわ(61)たるをしる人のなき、
 
3421 伊香保禰爾《イカホネニ》。可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》。和我倍爾波《ワガヘニハ》。由惠波奈家杼母《ユヱハナケドモ》。兒良爾與里?曾《コラニヨリテソ》。
 
可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》は、雷莫鳴《カミナナリ》そね、といふなり、禰《ネ》は乞望(ノ)辭なり、○和我倍爾波《ワガヘニハ》は、吾之上《アガウヘ》にはなり、吾(カ)身の上にはといふに同じ、大日本靈異記(ノ)歌に、古非波未奈和我戸爾於知奴多萬可妓留波呂可邇美縁弖伊邇師古由惠邇《コヒハミナワガヘニオチヌタマキハルハロカニミエテイニシコユヱニ》、○由意波奈家杼母《ユヱハナケドモ》は、事故は無れどもといはむが如し、○歌(ノ)意は、男女伴ひて、伊香保のあたりを物する時、雷の鳴出たるに、女のおそろしがりける故、かくよめるなるべし、
 
3422 伊可保可是《イカホカゼ》。布久日布加奴日《フクヒフカヌヒ》。安里登伊倍杼《アリトイヘド》。安我古非能未思《アガコヒノミシ》。等伎奈可里家利《トキナカリケリ》。
 
伊可保可是《イカホカゼ》は、一(ノ)卷に、明日香風《アスカカゼ》、六(ノ)卷に、佐保風《サホカゼ》、十(ノ)卷に、泊瀬風《ハツセカゼ》、などよみたる類なり、(契冲が、かくむかしより、よみ來らぬところは、今更に、吉野《ヨシヌ》風、立田《タツタ》風とは、よみがたしと云るは、さることなりけり、)○歌(ノ)意は、伊香保風は、吹日も吹ぬ日もありといへど、一(ト)すぢに吾(カ)戀しく思ふ心は、いつと足りたる時もさらになし、となり、古今集に、駿河なる田兒の浦浪立ぬ日はあれども君に戀ぬ日はなし、
 
(62)3423 可美都気努《カミツケヌ》。伊可抱乃禰呂爾《イカホノネロニ》。布路與伎能《フロヨキノ》。遊吉須宜可提奴《ユキスギカテヌ》。伊毛賀伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》。
 
布路與伎能《フロヨキノ》は、零雪之《フルユキノ》なり、行《ユキ》たいはむとての序なり、三(ノ)卷に、白雪仕物往來乍《ユキジモノユキカヨヒツヽ》、六(ノ)卷に、零雪乃行者不去《フルユキノユキニハユカジ》、などあり、○歌(ノ)意は、妹が家の前を何心なく過行む、と兼て思ひしかども、心ひかれて、過行事を得爲ず、となり、
 
右二十二首《ミギノハタチマリフタウタハ》。上野國歌《カミツケヌノクニノウタ》。
 
3424 之母都家野《シモツケヌ》。美可母乃夜麻能《ミカモノヤマノ》。許奈良能須《コナラノス》。麻具波思兒呂波《マグハシコロハ》。多賀家可母多牟《タガケカモタム》。
 
美可母乃夜麻《ミカモノヤマ》は、(略解に、美《ミ》は發語にて、加茂《カモ》山かと云るは、甚じき非なり、下野(ノ)國に加茂《カモ》といふ地、聞も及ばず、)和名抄に、下野(ノ)國、都賀(ノ)郡|三《ミ》鴨、(本に、鴨を島と作るは、誤なり、)兵部省式に、下野(ノ)國驛馬、(三鴨《ミカモ》)とある地の山なり、○許奈良能須《コナラノス》は、如《ノス》2子楢《コナラ》1なり、子楢は、子松などいふ類にて、楢の若木を云、(本居氏は、木楢《コナラ》にて、高の序なり、と云れど、非なり、又今(ノ)世に、小楢といひて、ちひさき葉なるるがあれど、こゝなるは、それにはあらず、)さてその楢の若木の、つやゝかにうるはしき如く、目細兒《マグハシコ》とつゞけたるなり、○麻具波思兒呂《マグハシコロ》は、目細兒等《マグハシコラ》なり、古事記に、遠津年魚目微比賣《トホツアユメマグハシヒメ》、書紀には、年魚目眼妙媛《アユメマグハシヒメ》と見えたり、○多賀家可母多牟《タガケカモタム》は、大神(ノ)眞潮、誰笥歟將持《タガケカモタム》なり、(63)笥《ケ》は、二(ノ)卷に、家にあれば笥《ケ》にもる飯を、とよめる笥《ケ》なれり、さて笥《ケ》を持(ツ)とは、やがて妻となることをいふべければ、誰(ガ)妻とかならましといはむがごとし、と云り、此(ノ)説いはれたり、(契冲が、高くか待むにて、われを遠く高く待らむ、とおもひやるなり、と云るに依て、人皆しかのみ意得來れども、さにはあらず、)○歌(ノ)意は、目細《マグハシキ》兒は、つひに誰(ガ)妻となりて、飯筒など取持て、朝暮に、進《マヰ》らせむぞ、となり、うらわかみねよげに見ゆる若草を人の結ばむ事をしぞ思ふ、思(ヒ)合(ス)べし、
 
3425 志母都家努《シモツケヌ》。安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》。伊之布麻受《イシフマズ》。蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》。奈我己許呂能禮《ナガココロノレ》。
 
安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》は、和名抄に、下野(ノ)國安蘇(ノ)郡|安蘇《アソ》、兵部省式に、下野(ノ)國驛馬、(安蘇(ノ)郡)などある地の川原を、となり、欲《ヨ》は從《ヨ》にて、乎《ヲ》といふに同じ、○伊之布麻受《イシフマズ》は、不v踏v石なたり、○蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》は、從v空來ぬるよなり、由《ユ》はこゝも、乎《ヲ》といふに同じ、登《ト》は助辭の登《ト》なり、(速(ト)にて、速來《トキ》ぬといふかとも思へど、しかにはあらず、)與《ヨ》は歎息の聲なり、川原を來れば、石ふむべき理なれども、あまりに妹がりにいそがるゝ故、石をも蹈ず、空を翔りて來ぬ、となり、○奈我己許呂能禮《ナガココロノレ》は、汝之心告《ナガコヽロノレ》なり、○歌(ノ)意は、われは汝をおもひかねて、心も落居ず、空を翔りて來りぬるを、汝はわれをいかゞおもふや、其(ノ)心を告よ、となり、(一説に、能禮《ノレ》は、乗(レ)にて、我を思へと云なり、思(フ)を、心に乘(ル)といふなり、と云るは、わろし、
 
(64)右二首《ミギノフタウタハ》。下野國歌《シモツケヌノクニノウタ》。
 
3426 安比豆禰能《アヒヅネノ》。久爾乎佐杼抱美《クニヲサドホミ》。安波奈波婆《アハナハバ》。斯努比爾勢牟等《シヌヒニセムト》。比毛牟須婆左禰《ヒモムスバサネ》。
 
安比豆禰能《アヒヅネノ》は、會津嶺之《アヒヅネノ》なり、和名抄に、陸奥(ノ)國會津(ノ)(阿比豆《アヒヅ》)郡、(又同國栗原(ノ)郡會津(ハ)安都《アヅ》とあり、)とある、其(ノ)地の山なり、後撰集に、君をのみしのぶの里へゆくものを會津の山のはるけきやなぞ、さて此(ノ)句は、第三(ノ)句の上へ轉て、心得べし、不v逢者といはむ縁(ミ)に、まづいふなり、會津嶺之國に直續けるにはあらず、○久爾乎佐杼抱美《クニヲサドホミ》は、國の遠きが故になり、佐《サ》は眞《マ》に通ふそへことばなり、國は、本郷思《クニシヌフ》などよめるに同じくて、吾(ガ)本郷をいふなり、○安波奈波婆《アハナハバ》は、不v逢者なり、○斯努比爾勢牟等《シヌヒニセムト》、(牟(ノ)字、元暦本には、毛と作り、同意なり、)逢ことのならずば、紐をだに見つつ、しのび草に爲むぞ、となり、按(フ)に、等は、もしは曾にはあらざるか、○比毛牟須婆左禰《ヒモムスバサネ》は、紐結び賜ひてよ、と妹に乞なり、○歌(ノ)意は、わが本郷遠ざかりなば、あひ見べきよしのなければ、其(ノ)とき、それをだに形見と見つゝしのばむものぞ、いざ紐結び賜ひてよ、となり、
 
3427 筑紫奈留《ツクシナル》。爾抱布兒由惠爾《ニホフコユヱニ》。美知能久乃《ミチノクノ》。可刀利乎登女乃《カトリヲトメノ》。由比思比毛等久《ユヒシヒモトク》。
 
爾抱布兒由惠爾《ニホフコユヱニ》は、艶《ニホ》ふ女の故になり、一(ノ)卷に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》、とあるに同じ、契冲が、に(65)ほふは、今俗に、しほらしきといふにちかし、と云り、)さて古歌に、故爾《ユヱニ》といへるは、大かた、なるものを、といふ意に、心得る例なるを、(たとへば、人妻故爾《ヒトヅマエヱニ》、人之子故爾《ヒトノコユヱニ》は、人妻なるものを、人の子なるものを、と意得るがごとし、)こゝは、今(ノ)世にも、常云如き故《ユヱ》なり、かく云る例は、古(ク)は雄略天皇(ノ)紀に、耶麼能謎能故思麼古喩衛爾比登涅羅賦宇麼能耶都礙播嗚思稽矩謀那斯《ヤマノベノコシマコユヱニヒトデラフウマノヤツギハヲシケクモナシ》、集中には、九(ノ)卷に、倭文手纒賤吾之故《シツタマキイヤシキアガユヱ》、太夫之荒爭見者《マスラヲノアラソフミレバ》云々、十一に、伊田何極太甚利心及失念戀故《イデイカニコヽダハナハダトコヽロノウスルマテモフコフラクノユヱ》、十二に、高麗劔己之景迹故外耳見乍哉君乎戀渡奈牟《コマツルギワガコヽロユヱヨソノミニミツヽヤキミヲコヒワタリナム》、十三に、大船能思憑君故爾盡心者惜雲梨《オホブネノオモヒタノメルキミユヱニツクスコヽロハヲシケクモナシ》、十六に、眞珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲタエシニキトキヽシユヱニソノヲマタヌキワガタマニセム》、などある、これなり、また加良《カラ》といふも、全(ラ)故《ユヱ》と同意にて、それも大かたはなるものを、と云意の所に、いふ言なるを、此(ノ)下に、於能我乎遠於保爾奈於毛比曾爾波爾多知惠麻須我可良爾古麻爾安布毛能乎《オノガナヲオホニナオモヒソニハニタチヱマスガカラニコマニアフモノヲ》、とあるは、此處なるに、同じ、○美知能久《ミチノク》は、和名抄に、陸奥(ハ)三知乃於久《ミチノオク》、(とあれど、能《ノ》に於《オ》の韻ある故、古(ヘ)は於《オ》は省きていひしなり、)古事記に、道奥《ミチノク》、又書紀齊明天皇(ノ)卷に、道奥《ミチノク》とも、又|陸道奧《ミチノク》とも書り、○可刀利乎登女《カトリヲトメ》は、可刀利《カトリ》は地(ノ)名なり、(契冲が、※[糸+兼]《カトリ》をおる女をいふか、と云るは、あたらず、)泊瀬處女《ハツセヲトメ》、伊勢處女《イセヲトメ》、菟原處女《ウナヒヲトメ》などいふ類なり、さて可刀利《カトリ》は、和名抄に、陸奥(ノ)國磐城(ノ)郡片依、とある地、これなるべし、)これを本にはカタヨリ〔四字右○〕と訓たれど、もとはカトリ〔三字右○〕と唱へけむこと、此(ノ)歌に併て知べし、カタヨリ〔四字右○〕のタヨ〔二字右○〕を切れば、ト〔右○〕となる故、カトリ〔三字右○〕を片依と書るなり、)○歌(ノ)意は、防人にて筑(66)紫へ行たる男の、その筑紫の娘子の艶へるに心うつりて、本郷の片依處女の、結び堅めてし紐を今更とく、となり、しかすがに、舊縁《フリニ》しをと女《メ》のことは、得忘られぬさまなり、(契冲が、防人の心を通はしける女の、防人のつくしに至りて、約ことたがへて、かなたにて二心出來たるをきゝて、うらみてよめるなるべし、といへるは、あらず、)
 
3428 安太多良乃《アダタラノ》。禰爾布須思之能《ネニフスシシノ》。安里都都毛《アリツツモ》。安禮波伊多良牟《アレハイタラム》。禰度奈佐利曾禰《ネドナサリソネ》。
 
安太多良《アダタラ》は、和名抄に、陸奥(ノ)國安達(安多知《アダチ》)郡、とある地にて、七(ノ)下に云り、○禰爾布須思之能《ネニフスシシノ》は、嶺に伏鹿猪之《フスシシノ》なり、○安禮波伊多良牟《アレハイタラム》は、吾者《ワレハ》將《ム》v到《イタラ》なり、○禰度奈佐利曾禰《ネドナサリソネ》は、寢處を去(ル)ことなかれよ、なり、○歌(ノ)意は、安達の嶺に伏鹿猪の、あり/\て後も、己が寢處をうしなはず、行到て伏ごとく、其方《ソコ》の寢處に、いつもわれは到らむぞ、ゆめ/\寢處をさることなかれよ、となり、
 
右三首陸奧國歌《ミギノミウタハミチノクノクニノウタ》。
 
譬喩歌《タトヘウタ》。
 
3429 等保都安布美《トホツアフミ》。伊奈佐保曾江乃《イナサホソエノ》。水乎都久思《ミヲツクシ》。安禮乎多能米?《アレヲタノメテ》。安佐麻之物能乎《アサマシモノヲ》。
 
(67)等保都安布美《トホツアフミ》は、和名抄に、遠江(ハ)止保太阿不三《トホタアフミ》、(本居氏云、阿(ノ)字衍なり、トホツアフミ〔六字右○〕を約れば、トホタフミ〔五字右○〕なり、)廿(ノ)卷には、等倍多保美《トヘタホミ》、とあり、正しくは遠津淡海《トホツアフミ》といふを、約の轉して、遠多保美《トホタホミ》といひならへり此《コヽ》は正しき方につきて云るなり、○伊奈佐保曾江《イナサホソエ》は、引佐細江《イナサホソユ》なり、和名抄に、遠江(ノ)國引佐(ノ)(伊奈佐《イナサ》)郡、とあり、(又同抄に、同國蓁原(ノ)郡細江(ハ)、保曾江《ホソエ》、とあれど、この歌の保曾江にはあらず、○水乎都久思《ミヲツクシ》は、水脉津籤《ミヲツクシ》にて、既く云り、○歌(ノ)意は、岡部氏云、水脉つくしは、深きにとれるなり、さて我をば深く思ひたのませて、人の心は淺き物を、と云なり、麻之《マシ》は添云辭にて、をぞましをあさまし、といふは、異なり、
 
右一首遠江國歌《ミギノヒトウタハトホツアフミノクニノウタ》。
 
3430 斯太能宇良乎《シタノウラヲ》。阿佐許求布禰波《アサコグフネハ》。與志奈之爾《ヨシナシニ》。許求良米可母與《コグラメカモヨ》。余志許佐流良米《ヨシコザルラメ》。
 
斯太能宇良《シダノウラ》は、和名抄に、駿河(ノ)國志太(ノ)郡、とあり、其處の海浦なり、駿河舞に、伊波太之太衣《イハダシダエ》と云も、此處なるべし、今藤枝(ノ)驛の南、瀬戸川と云川邊に、志太村と云あり、と云り、○與志奈之爾《ヨシナシニ》は、兩義あるべし、まづ一(ツ)には、無《ナシ》v由《ヨシ》になり、由縁《ヨシ》もなく、唯うか/\と漕浮べたるよしなり、二(ツ)には、無《ナシ》v寄《ヨシ》になりI、磯に漕寄ることもなしになり、いづれにてもあるべし、○許求良米可母與《コグラメカモヨ》は、將v漕歟にて、母與《モヨ》は、歎息(ノ)辭なり、○余志許佐流良米《ヨシコザルラメ》(余(ノ)字、舊本に奈と作るは誤なり、今は元暦(68)本に從つ、)は、不2寄來1らむなり、良米《ラメ》は良牟《ラム》と云に同じ、三(ノ)卷に、不所見十方孰不戀有米《ミエズトモタレコヒザラメ》、とある例に同じ、○歌(ノ)意は、志太の浦を朝漕て出たる船は、由縁もなく無用《イタヅラ》に、うか/\と漕らむやは、由縁なしに漕にはあらじ、決て泊べき磯をもとめて、こぐにこそあらめ、さるを何とて、磯へは寄來ざるらむ、と云て、こゝかしこあるきめぐる男の、吾(ガ)方へ寄來らぬは、いかなる心にかあらむ、由縁なしに、たゞには、さはあるきめぐるにはあらじ、かならず、妻まぐためにこそあらめを、と譬へ云るなり、
 
右一首駿河國歌《ミギノヒトウタハスルガノクニノウタ》。
 
3431 阿之我里乃《アシガリノ》。安伎奈乃夜麻爾《アキナノヤマニ》。比古布禰乃《ヒコブネノ》。斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》。許己汝許賀多爾《ココハコガタニ》。
 
安伎奈乃夜麻《アキナノヤマ》は、未(ダ)考(ヘ)ず、國人に問べし、古事記孝元天皇(ノ)條に、阿藝那(ノ)臣、姓氏録(攝津(ノ)國皇別)に、阿支那(ノ)臣、又(大和(ノ)國皇別)阿祇那(ノ)君などあるは、此地によれる姓か、考(ヘ)合(ス)べし、○比古布禰乃《ヒコブネノ》は、引船之《ヒクブネノ》なり、此は或人云、山中より多くの材を引下すよりは、船として一度に下すは、費少き故、即(チ)山にて作りて、其を引下すなり、と云り、(契冲が、山のかたへ、海の舟を引上るよしに云るは、わろし、又或説には、山上の事にはあらで、山中の河を云るなるべし、と云るも、あらず、)さて上にも云るごとく、足柄山は杉多くて、古(ヘ)は專(ラ)此(ノ)山の材もて、船を造りしなり、かくて古へ、山(69)にて船を造りて、引下せし事は、靈異記にも、諾樂(ノ)宮(ニ)御大八洲國之帝姫、阿倍(ノ)天皇御代(ニ)、紀伊(ノ)國牟婁(ノ)郡熊野(ノ)村、有2永興禅師1云々、熊野(ノ)村人、至2于熊野河(ノ)上(ノ)山(ニ)1伐v樹作v船(ヲ)云々、後經2半年(ヲ)1引(ムトシテ)v船(ヲ)入(テ)v山(ニ)云々、と見えたり、さて山より船を引下すには、舳《ヘ》のかたへ綱を着て引に、波(ノ)上とは異にて、艫《トモ》のかたより引留るやうに覺えて、甚(タ)寄難なるに、たとへていふなり、○斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》は、後引《シリヒカ》しもよにて、母與《モヨ》は歎息(ノ)辭なり、後《シリ》は、船(ノ)後頭謂2之艫1、と云る如く、艫の方なり、○許己波許賀多爾《ココバコガタニ》は、幾許《コヽバ》難《ガタ》v來《コ》になり、(略解に、此許へは來り難になり、と云るはわろし、)○歌(ノ)意は、我(ガ)方へ引よせむと思ひて、かにかく心をわづらはして物すれども、山にて造れる船を、引よする如く、嗚呼《アハレ》さても、後を引留るやうにおぼえて、そこばく寄來がたくする男哉、と女のよめるなるべし、
 
3432 阿志賀利乃《アシガリノ》。和乎可?夜麻能《ワヲカケヤマノ》。頭乃乃木能《カヅノキノ》。和乎可豆佐禰母《ワヲカヅサネモ》。可豆佐可受等母《カヅサカズトモ》。
 
和乎可?夜麻《ワヲカケヤマ》は、契冲、これは石上ふる川とつゞくべきを、石上袖ふる川とよめるが如く、あしがらのかけ山なるを、もじのたらねば我をかけ山といふこゝろに、もじをそへて云るなるべし、といへり、今按(フ)に、(もじのたらねば云々、といへるは、いさゝかわろし、)吾を懸て思はゞ、といふ意を、もたせたるなるべし、さて此(ノ)下に、家家能水奈刀《カケノミナト》とよめるは、異所にや、○可頭乃(70)木《カヅノキ》は、穀《カヂ》の木なり、と契冲云り、○和乎可豆佐禰母《ワヲカヅサネモ》は、岡部氏、我をかどはしゐてゆかね、といふなり、かどはすはぬすみて行なり、づとどは、常にかよへり、と云り、さる意にや、猶考(フ)べし、いかにまれ、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、十八に、可多於毛比遠宇萬爾布部麻爾於保世母天故事部爾夜良波比登加多波牟可母《カタオモヒヲウマニフツマニオホセモテコシヘニヤラバヒトカタハムカモ》、後撰集に、山風の花の香かどふふもとには春の霞ぞほだしなりける、字鏡に、※[言+玄](ハ)加止不《カドフ》、とあり、加豆布《カヅフ》、加多布《カタフ》、加杼布《カドフ》、皆同言にや、○可豆佐可受等母《カヅサカズトモ》は、かどはかしめずとも、といふ意にや、父母などのかたくまもりて、たやすく盗み出がたきよしか、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は、吾を懸て思ひたまはゞ、といふ意をもたせて、序に云るなるべし、吾を懸て思ひ賜はば、ぬすみ出て、嗚呼《アハレ》いづ方へなりとも率て行賜へかし、よし父母などのまもりつよくて、かどはかしめず、容易《タヤス》く盗み出がたくとも、其に障り賜ふなと、女の云るなるべきか、
 
3433 多伎木許流《タキギコル》。可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》。許太流木乎《コダルキヲ》。麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》。古非都追夜安良牟《コヒツツヤアラム》。
 
多伎木許流《タキギコル》は、枕詞なり薪を樵(ル)鎌と、屬《カヽ》れるなり、此(ノ)山に限て薪を樵(ル)といふにはあらず、○許太流木乎《コダルキヲ》は、木垂木《キダルキ》をなり、三(ノ)卷に、東市之殖木乃木足左右《ヒムカシノイチノウヱキノコダルマデ》、とよめり、今も菓などの多くなれるを、なりこだるゝと云り、乎《ヲ》は之《ノ》と通へり、此(ノ)例一(ノ)卷に、味酒三輪乃山《ウマサケミワノヤマ》、とある下に具(ク)云り、併(セ)考(フ)べし、(略解に、乎《ヲ》は之《ノ》の誤か、又は與《ヨ》に通(ハシ)云るか、と云るは、非なり、)木垂木之《コダルキノ》松と屬くなり、(71)○麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》は、松を待にいひかけたるにて、汝が待と云ばなり、○歌(ノ)意は、今こそ旅に出立なれ、汝が待といはゞ、ほとなく歸(リ)來て相見むぞ、いたづらに、戀しくのみ思ひつゝ、あるべしやは、となり、此は防人などに出立時、女の心をなぐさめてよめるなるべし、立別れいなばの山の嶺に生る松とし聞ば今かへり來む、の歌、思(ヒ)合(ス)すべし、
 
右三首相模國歌《ミギノミウタハサガムノクニノウタ》。
 
3434 可美郡家野《カミツケヌ》。阿蘇夜麻都豆良《アソヤマツヅラ》。野乎比呂美《ヌヲヒロミ》。波比爾思物能乎《ハヒニシモノヲ》。安是加多延世武《アゼカタエセム》。
 
安蘇夜麻都豆良《アソヤマツヅラ》は、安蘇山に生たる黒葛《ツヾラ》なり、安蘇夜麻は上に出(ツ)、現存六帖に、爲家、我戀は安蘇山本の青つゞら夏野を廣み今盛なり、○波比爾思物能乎《ハヒニシモノヲ》は、互に遠長く、思(ヒ)を延《ハヘ》わたれる中なる物をの謂なり、○安是加多延世武《アゼカタエセム》は、何《ナゼ》か絶せむなり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、かくれたるすじなし、下に、多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》、この意味なり、
 
3435 伊可保呂乃《イカホロノ》。蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》。利我吉奴爾《ワガキヌニ》。都伎與良之母與《ツキヨラシモヨ》。多敝登於毛敝婆《タヘトオモヘバ》。
 
本(ノ)二句は、既く此(ノ)上に出(ツ)、○都伎與良之母與《ツキヨラシモヨ》は、着宜《ツキヨロシ》なり、着《ツキ》とは摺着《スリツク》の着を、體言に云るにて(72)榛原の、衣に摺(リ)着(ク)るに宜きなり、宜(シ)とは、集中に繼之宜《ツギノヨロシ》などもよみて、打あひ相應したる由なり、さて宜を、與良之《ヨラシ》と云るは、古事記神武天皇(ノ)條(ノ)歌に、久夫都都伊伊斯郡都伊母知伊麻宇多婆余良斯《クブツツイイシツツイモチイマウタバヨラシ》、(今討者宜(シ)なり、)とあるに同じ、母與《モヨ》は嘆息(ノ)辭なり、(契冲は、此(ノ)句を、つきよらしめよにて、きぬにすりつけよの意なり、といへれと、よからず、)○多敝登於毛敝婆《タヘトオモヘバ》、(多の上に、中院本、仙覺抄本等には、比(ノ)字あり、さて仙覺は、ひとへのことゝして、ひとへにおもへばの意なり、といへり、いかゞあらむ、)多敝は、絹布の總名なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)着たる衣は、皮衣の類にあらず、絹布のよき衣服ぞと思へば、(古(ヘ)東(ノ)國の質素なりしさま、此(ノ)詞にてもおもふべし、)蘇比《ソヒ》の榛原の榛を摺着(ク)に、打あひ相應《カナヒ》て、さても宜しや、と云るにやあらむ、さてこれは女の歌にて、わが男の爲に、深く愛《ウツクシ》まれて、夫妻のなからひのよろしきことを、わが身を衣にたとへ、男を榛にたとへたるなるべし、(契冲は、多敝登於毛敝婆は、たへとおもはゞなり、われを白き衣のごとく、たへなりとおもはゞなり、と云れど、いかゞ、をも/\東語には、雅言と異なるが多しといへども、思波婆《オモハバ》を思敝婆《オモヘバ》と云る如きことは、あることなし、言の活用の法は、凡ていさゝかも違へること、古の東語には、ひとつもなけらばなり、)
 
3436 志良登保布《シラトホル》。乎爾比多夜麻乃《ヲニヒタヤマノ》。毛流夜麻能《モルヤマノ》。宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》。登許波爾毛我母《トコハニモガモ》。
 
(73)志良登保布《シラトホル》は、宮地(ノ)春樹(ノ)翁(ノ)説に、志良登《シラト》は、白砥《シラト》にて、新田山の名産なるよし云るは、いはれたることにて、其説に依て、本居氏も、布は留(ノ)字の誤にて、白砥堀《シラトホル》なるべし、と云り、信に然あるべし、(眞珠通《シラタマトホ》す緒《ヲ》とつゞけたり、といふ説は、謂れず、)○乎爾比多夜麻《ヲニヒタヤマ》は、上に、爾比多夜麻《ニヒタヤマ》とよめる、其(レ)にて新田(ノ)郡の山なり、乎《ヲ》は小泊瀕《ヲハツセ》、小筑波《ヲツクハ》など云る、小《ヲ》に同じ、○毛流夜麻《モルヤマ》は、山(ノ)名には非ず、山守居(ヱ)て守る山なり、十三(ノ)卷(ノ)初に三諸者人之守山《ミモロハヒトノモルヤマ》、とよめるが如し、○宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》は、未枯《ウラガレ》せなく、と云なり、勢那奈《セナナ》は、无《ナク》v爲《セ》といふに同じ、(爲《ス》なといふに同じ、と云説は、いさゝか違へり、爲《ス》なは、然すること勿(レ)と令することなれば、無(ク)v爲といふとは、自ら然ると、令するとの、たがひあることなればなり、)○登許波爾毛我母《トコハニモガモ》は、常葉《トコハ》にもがななり、常葉《トコハ》は、六(ノ)卷に、橘花者實左倍花左倍其葉佐倍枝爾霜雖降益常葉之樹《タチバナハミサヘハナサヘソノハサヘエニシモフレドイヤトコハノキ》、續紀養老五年詔に、云々其地者皆殖2常葉之樹(ヲ)1云々、○歌(ノ)意は、新田山の木葉の末枯せず、いつも常葉にてもがなあれかし、と云るにて、おもふ中らひの、未かけて、離《カレ》せずにいつもかはらずあれかし、といふを、譬へたるなり、
 
右三首上野國歌《ミギノミウタハカミツケヌノクニノウタ》。
 
3437 美知乃久能《ミチノクノ》。安太多良末由美《アダタラマユミ》。波自伎於伎?《ハジキオキテ》。西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》。都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》。
 
安太多良末由美《アダタラマユミ》は、安太多良《アダタラノ》郡より出(ヅ)る眞弓なり、七(ノ)卷寄v弓(ニ)、陸奥之吾田多良眞弓著弦而引(74)者香人之吾乎事將成《ミチノクノアダタラマユミツラハケテヒカバカヒトノアヲコトナサム》、○波自伎於伎?《ハジキオキテ》は、彈置而《ハジキオキテ》なり、弓弦を斷て置(ク)由なり、○西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》は、令《シメ》v撥《ソラ》置《オキ》なばなり、置《オキ》を伎《キ》とのみ云るは、古事記須勢理毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、那遠支?遠波那志《ナヲキテヲハナシ》、那遠岐?都麻波麻斯《ナヲキテツマハナシ》、とあり、○都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》は、弦《ツラ》將《メ》v著《ハカ》かもなり、弦を、古(ヘ)は、都良《ツラ》と云りしこと、既く二(ノ)卷に云り、可毛《カモ》は、也毛《ヤモ》といふに同じ○歌(ノ)意は、一(ト)たび絶たる中を、反《ソム》きながらになしておきなば、又打とくべきやうやはあるべべき、といふにて、それを、弦の絶たる弓を反《ソラ》しておきたらば、又弦を著べきよしなきに、譬へていへり、
 
右一首睦奧國歌《ミギノヒトウタハミチノクノクニノウタ》。
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》。
 
3438 都武賀野爾《ツムガヌニ》。須受我於等伎許由《スズガオトキコユ》。可牟思太能《カムシダノ》。等能乃奈可知師《トノノナカチシ》。登我里須良思母《トガリスラシモ》。
 
都武賀野《ツムガヌ》は、未(ダ)考(ヘ)ず、されど駿河(ノ)國の地(ノ)名なることは知(ラ)れたり、其(ノ)由は、次にいふを見べし、抑々此(ノ)歌より終にいたるまで、地(ノ)名の詳ならざることは、卷(ノ)未に、以前歌詞未v得2勘2知國土山川之名1也、と註せる如し、然れども又|安房嶺《アハヲ》、對馬嶺《ツシマネ》など、國土の明《サダカ》に知(レ)たる類もあり、其は此(ノ)卷集(メ)し人の、大かたに考(ヘ)て物せしか、又は彼(ノ)註は、後(ノ)人の手に出たるにもあるべし、さて地(ノ)名の、其地とおもはるゝは、其(ノ)歌ごとに註すべし、又|都《フツ》に勘(ヘ)知(ラ)れざるも多し、そはなにとかせむ、後(ノ)人(75)の考を俟のみぞ、○須受我於等伎許由《スズガオトキコユ》は、鈴之音所聞《スヾガオトキコユ》なり、鈴は鷹の尾鐸《ヲスヾ》なり、○可牟思太《カムシダ》は、此(ノ)上駿河(ノ)國(ノ)歌に、斯太能宇良《シダノウラ》、とよみて、そこに註る如く、彼(ノ)國に志太(ノ)郡あれば、そこなるべし、又駿河舞に、伊波太奈留之太戸乃止乃《イハタナルシダヘノトノ》、とあるも、この志太《シダ》といふ地にある家の殿なるべし、さて、其(ノ)郡に上下ありて、上志太《カムシダ》、下志太《シモシダ》、といひけるなるべし、地に上下あること、めづらしからず、上毛野《カミツケヌ》、下毛野《シモツケヌ》、足柄上《アシガラノカミ》、足柄下《アシガラノシモ》などの類最多し、○等能乃奈可知師《トノナカチシ》は、殿之仲子《トノノナカチ》しなり、殿は、國の守介などの家をはじめて、郡領、などのをもいふべし、右の駿河舞の刀乃《トノ》も郡領をいふべければなり、(駿河(ノ)國府は、安部(ノ)郡にありければ、此《コヽ》は志太(ノ)郡の郡領なること、決なからむ、)奈可知《ナカチ》は、二郎をいふべし、一(ノ)卷に委(ク)云るを、合(セ)考(フ)べし、奈可知《ナカチ》といへるは、雄略天皇(ノ)紀に、帳内佐伯(ノ)部賣輪、更名|仲子《ナカチコ》、顯宗天皇紀に、帳内佐伯部(ノ)仲子《ナカチコ》、繼體天皇(ノ)紀、舒明天皇(ノ)紀に、仲《ナカチ》、舒明天皇(ノ)紀に、仲子《ナカチコ》、又ナカツコ〔四字右○〕といふも同じかるべし、應神天皇(ノ)紀に、中子《ナヵツコ》、古事記垂仁天皇(ノ)條に、大中津日子(ノ)命、)又續紀廿四、廿六などに、中千《ナカチ》といふ女(ノ)名もあり、(仲智《ナカチ》とも書り、岡部氏は、子《コ》をチ〔右○〕といふことなし、或本の和久胡《ワクゴ》をよしとす、本文は、字の誤れるなり、と云るは、甚偏(レル)論なり、)師《シ》は、その事を重くいふ助辭なり、○登我里須良思母《トガリスラシモ》は、鷹狩爲《トガリス》らしも、なり、一(ノ)卷、十九(ノ)卷、などに、鷹田《トガリ》、鷹獵《トガリ》なども見えたり、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、○舊本に、或本(ノ)歌(ニ)曰|美都我野爾《ミツガヌニ》、又曰|和久胡思《ワクゴシ》、と注せり、美都我野《ミツガヌ》は、未(ダノ)考(ヘ)ず、和久胡《ワクゴ》は若子《ワクゴ》なり、
 
(76)3439 須受我禰乃《スズガネノ》。波由馬宇馬夜能《ハユマウマヤノ》。都追美井乃《ツツミヰノ》。美都乎多麻倍奈《ミヅヲタマヘナ》。伊毛我多太手欲《イモガタダテヨ》。
 
我須受我禰乃《スズガネノ》は、鈴之音之《スヾガネノ》なり、契冲が、驛鈴《ハユマスヾ》とて、鈴をさだめおかるれば、鈴が音の早きとつゞけたり、といへるは、さることなり、(又|須受《スズ》は地(ノ)名にて、須受之嶺《スズガネ》といふかともおもへど、しからず、)音に早きと云るは、眞木の板戸の音速みなど云る、これなり、○波由馬宇馬夜《ハユマウマヤ》は、早馬驛《ハユマウマヤ》なり、(ハヤウマ〔四字右○〕の、ヤウ〔二字右○〕を切て、ユ〔右○〕となれば、ハユマ〔三字右○〕といふ、)十八に、須受可氣奴波由麻久太禮利《スズカケヌハユマクダレリ》、(鈴不v掛早馬下れりなり、)書紀廿六に、驛をハイマ〔三字右○〕とよめるも、音通へり、猶驛の事は、厩牧令義解に具(ク)見えたり、既(ク)十一にも註せり、○都追美井《ツツミヰ》は、水を漏失《モラ》さぬやうに、つゝみかこひたる井を云なり、都追美《ツツミ》は、三(ノ)卷不盡(ノ)山の長歌に、石花海跡名付而有毛彼山之堤有海曾《セノウミトナヅケテアルモソノヤマノツヽメルウミソ》云々、とよめる如し、即(チ)堤《ツヽミ》といふ名も、其(ノ)意の稱なり、(略解に、都追美井《ツツミヰ》の美《ミ》は、そへ云辭にて、筒井なりと有は謂れず、)○美都乎多麻倍奈《ミヅヲタマヘナ》は、水を賜へよと云如し、奈《ナ》は禰《ネ》といふに同じくて、乞望(ノ)辭なり、凡て禰《ネ》といふべきを、奈《ナ》に通(ハシ)云る例は、十七に、米具美多麻波奈《メグミタマハナ》、佛足石(ノ)歌に、和多志多麻波奈《ワタシタマハナ》、また須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》、續紀十五(ノ)詔に、一二人乎治賜波奈止那毛所思行須《ヒトリフタリヲヲサメタマハナトナモオモホシメス》、などあり、これらみな奈《ナ》は禰《ネ》と同じく、ねがふ辭なり、〔頭注、【詔詞解、治め賜はなとおもほしめすとは、治め賜へかしと願ひおほしめすよしなり、さて然おほしめし願ふことを、今の天皇に告申給ふなり、】〕○伊毛我多太手欲《イモガタダテヨ》は、妹之直手《イモガタヾテ》に、と云むが如し、○歌(ノ)意は、堤井の美水を、同じくは、(77)他人の手に傳へずして、妹が手にて吾に直《タヾ》に賜へかし、とねがふなり、
 
3440 許乃河泊爾《コノカハニ》。安佐奈安良布兒《アサナアラフコ》。奈禮毛安禮毛《ナレモアレモ》。余知乎曾母?流《ヨチヲソモテル》。伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》。
 
安佐奈《アサナ》は、朝菜《アサナ》なり、○奈禮毛安禮毛《ナレモアレモ》は、汝も我もなり、契冲が、我はあらふといはざれども、共に立出てあらふなり、と云るが如し、○余知乎曾母?流《ヨチヲソモテル》(余知、舊本には知余と作り、今は一本に從、)は、余知《ヨチ》は、五(ノ)卷に、余知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》、十六に、四千庭《ヨチニハ》、などある余知《ヨチ》にて、本居氏の、同じ比ほひの子を云と云るが如し、母?流《モテル》は、持有なり、(略解に、母?流は、思てあるといふを約めて云るか、と云るは、いかゞ、)○伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》は、乞兒賜《イデコタマハ》りねなり、乞《イデ》は、伊泥伊泥《イデイデ》と乞望(フ)辭、爾《ニ》は禰《ネ》と云に通ひて、これもねがふ辭なり、五(ノ)卷に、奈利乎斯乎佐爾《ナリヲシマサニ》とある爾《ニ》に同じ、(一説には、爾は禰の誤か、といへり、)又廿(ノ)卷に、取不得而《トリカネテ》を、刀里加爾弖《トリカニテ》と書り、(これも爾と禰を通(ハシ)云り、)○歌(ノ)意は、家の前わたりの川に出居て、朝菜洗ふ折しも、隣《チカ》きあたりの家よりも、母《ハヽ》と女《コ》と出て、同じく朝菜あらふを見て、いで/\其《ソノ》女子《コ》吾に賜(ハ)れ、吾《ワガ》男子《コ》のよき配なれば、あはせてむぞ、と云るなるべし、上の兒は、其(ノ)母をさし、下の兒は、女子を云り、○舊本に、一云|麻之毛安禮母《マシモアレモ》、と註せり、麻之《マシ》は、汝《イマシ》なり、麻禮《ナレ》といふに同じ、此(ノ)下に、伊麻思《イマシ》、續紀宣命には、美麻斯《ミマシ》と見ゆ、
 
3441 麻等保久能《マトホクノ》。久毛爲爾見由流《クモヰニミユル》。伊毛我敝爾《イモガヘニ》。伊都可伊多良武《イツカイタラム》。安由賣安我(78)古麻《アユメアガコマ》。
 
麻等保久能《マトホクノ》は、間遠之《マトホクノ》なり、○伊毛我敝《イモガヘ》は、妹之家《イモガイヘ》なり、家《イヘ》を敝《ヘ》といふこと、既く具(ク)云り、○安由賣安我古麻《アユメアガコマ》は、令《メ》v歩《アユ》吾(ガ)駒よ、といふなり、○歌(ノ)意は、妹が家に、急《ハヤ》く到らむと思ふに、雲居に遙々見えて、いと遠し、かくてはいついたらむぞ、いで速く歩め吾(カ)駒よ、となり、妹(カ)家に到る事の、待遠なるをいへるなり、○舊本に、柿本朝臣人麻呂歌集曰、等保久之?《トホクシテ》、又曰|安由賣久路古麻《アユメクロコマ》、
 
3442 安豆麻治乃《アヅマヂノ》。手兒乃欲妣左賀《タコノヨビサカ》。古要我禰弖《コエカネテ》。夜麻爾可禰牟毛《ヤマニカネムモ》。夜杼里里波奈之爾《ヤドリハナシニ》。
 
手兒乃欲妣左賀《タコノヨビサカ》、本居氏云、手兒はタコ〔二字右○〕にて、即(チ)田子(ノ)浦同處にて、今の薩※[土+垂]山なり、紫式部(ノ)集にも、たこのよびさか、とよめり、○歌(ノ)意は、手兒の呼坂の嶮《サガ》しきに堪て越むと思へど、越る事を得爲ずして、宿るべき家も無(キ)に、山(ノ)上に獨宿をせむか、さてもくるしや、となり、
 
3443 宇良毛奈久《ウラモナク》。和我由久美知爾《ワガユクミチニ》。安乎夜宜乃《アヲヤギノ》。波里?多?禮婆《ハリテタテレバ》。物能比弖都母《モノモヒデツモ》。
 
宇良毛奈久《ウラモナク》は、何心もなくといふ意の詞なり、既く具(ク)註り、○波里?多?禮婆《ハリテタテレパ》は、張而立有者《ハリテタテレバ》なり、張は、芽の萌出て張(レ)るをいふ、○物能毛比弖都母《モノモヒデツモ》(弖(ノ)字、舊本に豆と作るによりて、略解に、豆都《ヅツ》は、出《イヅ》つと云を、略けるなり、といへるは、あらず、今は一本に從つ、)は、物思(ヒ)出(デ)つにて、母《モ》は歎(79)息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、何の物おもひもなく安らけくわが行道に、青柳の芽の張て、うるはしくなびき立るを見て、家なる妹が眉などおもひ出て、さても物思はしや、中々にこれなくは、かくはあらじを、となり、
 
3444 伎波都久乃《キハツクノ》。乎加能久君美良《ヲカノククミラ》。和禮都賣杼《ワレツメド》。故爾毛民多奈布《コニモミタナフ》。西奈等都麻佐禰《セナトツマサネ》。
 
伎波都久《キハツク》は、仙覺が、風土記を引て、枳波都久《キハツクノ》岡、常陸(ノ)國眞壁(ノ)郡にあり、と云り、○乎加能久君美良《ヲカノククミラ》は、岡之莖韮《ヲカノクヽミラ》なり、莖《クキ》を、古(ク)は久々《クヽ》といひけるなり、此(ノ)上にも、莖立を九久多知《ククタチ》とよめり、古事記傳五(ノ)卷、久々能智(ノ)神の條下に、久々《クヽ》は、莖《クキ》なり、俗に物の速に長《ノブ》る貌を、久々登《クヽト》と云も、此(ノ)意なり、草《クサ》は莖多《クヽフサ》なり、久々年《クヽトシノ》神、久々紀若室葛根《クヽギワカムロツナネノ》神あり、これらの久々《クヽ》も同じ、和名抄木具(ノ)部に、莖和名|久木《クキ》とあり、莖は、字書に、草木之幹也、と云り、莖《クキ》はもと莖木《クヽキ》の縮れる名なるべし、と云り、(谷蟆《タニグヽ》の事を、とり合せたる説はよしなし、)○故爾毛民多奈布《コニモミタナフ》(民(ノ)字、舊本に乃とあるは、決《キハメ》て誤なり、故(レ)今改つ、岡部氏も、民の誤なるべし、と云り、)は、籠《コ》にも無《ナフ》v滿《ミタ》なり、○西奈等都麻佐禰《セナトツマサネ》は、夫名《セナ》と採《ツマ》さねなり、採(ミ)賜へよ、といふが如し、都麻佐《ツマサ》は、都麻勢《ツマセ》といふ意なるを、禰《ネ》の辭に連ける故に、勢《セ》を佐《サ》に轉し云るなり、禰《ネ》は希望(ノ)辭とて、しか/”\せよと希望《ネガ》ふ意の辭なり、此(ノ)上常陸(ノ)國(ノ)歌にも見えて、其處に云り、(略解に、他よりいふことを、吾(カ)願ふことにもいへり、といへるは、(80)聞とりがたし、)さて此《コヽ》は、侍婢などの、主の女に云る意なるべし、○歌(ノ)意は、主の女と共に伎波都久《キハツク》の岡の莖韮を、採ども採ども、つひに籠に滿るばかり得つまず、夫(ノ)君と採賜へよ、と侍婢などの云るなるべし、
 
3445 美奈刀能也《ミナトノヤ》。安之我奈可那流《アシガナカナル》。多麻古須氣《タマコスゲ》。可利己和我西古《カリコワガセコ》。等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》。
 
美奈刀能也《ミナトノヤ》は、(一本には、美奈刀安之能《ミナトアシノ》とあれど、舊本よろし、)湊之哉《ミナトノヤ》なり、哉《ヤ》は助辭にて、與《ヨ》といふに同じ、之哉《ノヤ》と云る例は、二(ノ)卷に、石見乃也高角山之《イハミノヤタカツヌヤマノ》、七(ノ)卷に、淡海之哉八橋乃小竹乎《アフミノヤヤバセノシヌヲ》、繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、阿符美能野※[立心偏+豈]那能倭倶吾《アフミノヤケナノワクゴ》、古今集に、淡海のや鏡の山を、などあり、○多麻古須氣《タマコスゲ》は、玉小菅《タマコスゲ》なり玉は美稱にて、(岡部氏(ノ)説に、玉は玉笹などいふごとく、小菅の繁く集生て圓く見ゆるを、玉といふべし、と云るは、いみじき強解なり、)既く具(ク)云りき、○可利己和我西古《カリコワガセコ》は、刈來よ吾夫子なり、十六に、玉掃苅來鎌麻呂《タマハヽキカリコカママロ》、○等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》は、契冲、床の隔になり、へだては、席の心なり、床は木にてしたる物なり、其(ノ)上に席を敷てふせば、席は、身と床とのへだてになるゆゑなり、と云り、今云、思《シ》は知《チ》と通て、敝太知《ヘダチ》にて、隔《ヘダテ》といふに同じ、○歌(ノ)意は、湊の蘆に交りて生たる菅を、刈て來り賜へ、菅席にあみて、君と相共に宿る床に敷て、床の隔に爲むぞ、となり、
 
3446 伊毛奈呂我《イモナロガ》。都可布河泊豆乃《ツカフカハヅノ》。佐左良乎疑《ササラヲギ》。安志等比登其等《アシトヒトゴト》。加多里與良(81)斯毛《カタリヨラシモ》。
 
伊毛奈呂《イモナロ》は、妹名呂《イモナロ》にて、名《ナ》は親辭、呂《ロ》は助辭なり、九(ノ)卷には、妹名根《イモナネ》、ともよめり、○都可布河泊豆乃《ツカフカハカヅノ》は、用《ツカ》ふ河津之《カハヅノ》なり、都可布《ツカフ》は、今(ノ)世にも、水を汲(ミ)用るを、つかふといふに同じ、即(チ)俗に用水にする、と云義なり、○佐左良乎疑《ササラヲギ》は、佐左良《ササラ》は、物を稱《ホ》め美《ウツクシ》みていふ辭と見ゆ、細小の義のみにはあらず、既く具(ク)云りき、乎疑《ヲギ》は荻《ヲギ》なり、○安志等比登其等《アシトヒトゴト》は、葦と一《ヒトツ》の如くなり、荻と葦は別種ながら、最能(ク)似たるものにて、古(ヘ)より一種の如く云來れるなり、○加多里與良斯毛《カタリヨラシモ》は、語(リ)宜しなり、語(リ)は、夫婦の中らひの事にて、常にも、夫婦の語らひをする、といへるが如し、宜(シ)を與良斯《ヨラシ》といふは、上に、和我吉奴爾都伎與良之母與《ワガキヌニツツキヨラシモヨ》、とあるに同じ、毛《モ》は欺息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は序にて、荻と葦とよく相似て、一(ツ)物なる如く、吾(ガ)夫婦のなからひの縁《チナミ》も、熟(ク)相應《アヒカナヒ》て、さても宜しや、といふなるべし、此(ノ)歌の説、古來種々多かめれど、謂れたらず、(其(ノ)中に、岡部氏は、都可布《ツカフ》は對《ムカフ》なり、此(ノ)川津に、妹も吾も行向ふ時、いひよらむよしなければ、此(ノ)荻の蘆とひとしく見ゆるは、いづれがいづれぞと、問(ヒ)よらむと云と見ゆ、と云れど、對《ムカフ》を、都可布《ツカフ》とは、いふべくもなし、又本居氏は、都可布《ツカフ》は、束生《ツカフ》など云る地(ノ)名にて、比登其等《ヒトゴト》は、他事《ヒトゴト》なり、妹が思ふ事を、得いひ出ずして、先(ヅ)束生川の荻よ葦よと、他の事を語りて、それをしるべにいひよらす、となり、初句の我(ガ)の言は、結句へかけて見べし、と云り、これもわろし、抑々|比登其等《ヒトゴト》といふ言は、他人のうへを(82)いふ言にて、唯|他事《ホカゴト》をいふ言ならねばなり、
 
3447 久佐可氣乃《クサカゲノ》。安弩奈由可武等《アヌナユカムト》。波里之美知《ハリシミチ》。阿弩波由加受?《アヌハユカズテ》。阿良久佐太知奴《アラクサダチヌ》
 
久佐可氣乃《クサカゲノ》は、枕詞なるべし、十二に、草陰之荒藺之崎乃笠島乎《クサカゲノアラヰノサキノカサシマヲ》、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、汝(ガ)國(ノ)名何(ニト)問(ヒ)賜(ヘバ)、白久|草陰阿野《クサカゲアヌノ》國、ともあり、(安《ア》の一言へ係る詞にやあらむ、考(フ)べし、)○安弩奈由可武等《アヌナユカムト》(舊本に、安の下に、今一(ツ)弩(ノ)字あり、今は無(キ)本による、)は、安弩《アヌ》は地(ノ)名なるべし、奈《ナ》は野《ヌ》なるべし、(本居氏は、奈は爾の誤なるべし、といへれども、わろし、)野《ヌ》を奈《ナ》といふは、繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、毛野(ノ)若子を、※[立心偏+豈]那能倭倶吾《ケナノワクゴ》、とよみ、和名抄に、信濃(ノ)國水内(ノ)郡古野(ハ)、布無奈《フムナ》、とあるなど是なり、安弩野《アヌノ》を將《ム》v行《ユカ》とての意なり、○波里之美知《ハリシミチ》は、墾《ハリ》し道なり、○阿弩波由加受?《アヌハユカズテ》(こゝにも舊本には、阿の下に、今一(ツ)弩(ノ)字あり、官本に無(キ)による、)は、阿弩《アヌ》は不《ズ》v行《ユカ》而《テ》なり、今は野を省て云り、○阿良久佐太知奴《アラクサダチヌ》は、荒草立《アラクサダチ》ぬなり、立は生立(ツ)意なり、(岡部氏は、あぬは、吾主《アヌ》、なはがに通(フ)、吾主之《アヌガ》なるべし、さてそのぬしが通はむとて、墾作りし道、今は其(ノ)吾主は絶て通はねば、荒草の生立ぬると、女の悲めるなり、と云れど、わろし、)○歌(ノ)意は、安弩野を行むとて、墾設し道なるに、その安努野をば行ずして、本の如く、荒草生立て荒ぬる、といふなるべし、所由《ユヱ》ありて云るならむ、其(ノ)詳なる事は知べからず、
 
(83)3448 波奈治良布《ハナチラフ》。己能牟可都乎乃《コノムカツヲノ》。乎那能乎能《ヲナノヲノ》。比自爾都久麻提《ヒジニツクマデ》。伎美我與母賀母《キミガヨモガモ》。
 
波奈治良布《ハナチラフ》は、花散《ハナチル》なり、知良布《チラフ》は、散《チル》の伸りたるにて、知流《チル》は、その散(ル)ことを直《タヾ》にいひ、知良布《チラフ》は、その散(ル)ことの引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しきをいふことなり、さて此(ノ)詞は、契冲も云し如く、散に用あるにはあらず、春くれば、花の吹(キ)散(ル)山なるによりて、此(ノ)向峰《ムカツヲ》といはむとての、枕詞におけるなり、一(ノ)卷に、花散相秋津乃野邊爾《ハナチラフアキヅノヌヘニ》、○己能牟可都乎乃《コノムカツヲノ》は、七(ノ)卷に、片崗之此向峰椎蒔者《カタヲカノコノムカツヲニシヒマカバ》、とよめり、○乎那能乎能《ヲナノヲノ》は、乎那《ヲナ》は地名なるべし、和名抄に、信濃國(ノ)更科(ノ)郡小谷(ハ)、乎宇奈《ヲウナ》、(又同國高井(ノ)郡小内(ハ)、乎宇奈《ヲウナ》、とあれど、そは奈(ノ)字は誤ならむか、)とある處などにやあらむ、又同抄に、遠江(ノ)國磐田(ノ)郡小各、とある、各は名の誤にはあらざるか、もしさもあらば、これにもあるべし、さらば、乎那嶺之《ヲナノヲノ》といふなり、(岡部氏は、今も上總國に、をなと云山あり、といへり、猶よく尋(ヌ)べし、)○比自爾都久麻提《ヒジニツクマテ》(比の下、舊本に佐の字あり、一本に無ぞよき、)は、未(ダ)考(ヘ)得ず、契冲は、比自《ジ》は、海中の洲なり、海中の洲につくまで、君が世のあれかし、といはふ心なり、あるまじきことをいひて、君がよはひの、かぎりなからむことをねがへり、洲をひじといふことは、大隅(ノ)國風土記《仙抄第十三》(ニ)云、必志(ノ)里、昔者此(ノ)村之中(ニ)有2海之洲1、因曰2必志(ノ)里(ト)1、海中之洲者、隼人俗語(ニ)云2必志1、と云り、(又から國晉(ノ)王質が故事を引たるは、さらに謂れず、又岡部氏の、比自は比目の誤にて、紐に着までなり、と(84)云るは、謂なし、)猶考(フ)べし、○伎美我與母賀母《キミガヨモガモ》は、君が齡の長くもあれかし、とねがふなり、君とは、さす人ありて云るなるべし、○歌(ノ)意は、(契冲(ガ)説に從ときは、)此(ノ)乎那《ヲナ》の高峰の、くぼみ入て、海中の洲につくまで君が齡の、長く、久しくもあれかし、といへるならむ、
 
3449 思路多倍乃《シロタヘノ》。許呂母能素低乎《コロモノソテヲ》。麻久良我欲《マクラガヨ》。安麻許伎久見由《アマコギクミユ》。奈美多都奈由米《ナタツナユメ》。
 
本(ノ)二句は、序なり、衣の袖を卷て、枕にするよしに、いひかけたるなり、○麻久良我欲《マクラガヨ》は、下にもよめり、麻《マ》は、眞熊野《マクマヌ》などいふ眞《マ》にて、下總(ノ)國葛飾(ノ)郡久良我、をいふべし、欲《ヨ》は自《ヨリ》なり、○安麻許伎久見由《アマコギクミユ》は、海人※[手偏+旁]來見《アマコギクミ》ゆなり、○歌(ノ)意は、久良我の沖より、海人船の漕來るが見ゆるぞ、浪の高く立て、ゆめ/\船を、危ふからしむる事なかれ、となり、
 
3450 乎久佐乎等《ヲクサヲト》。乎具佐受家乎等《ヲグサズケヲト》。斯抱布禰乃《シホブネノ》。那良敝?美禮婆《ナラベテミレバ》。乎具佐可知馬利《ヲグサカチメリ》。
 
乎久佐乎等《ヲクサヲト》は、乎久佐《ヲクサ》は、小草《ヲクサ》といふ地(ノ)名にて、其處の壯子《ヲトコ》なるべし、兎原壯子《ウナヒヲトコ》など云類と見えたり、壯子《チトコ》を乎《ヲ》とのみもいふは、泊瀬乎登賣《ハツセヲトメ》とも、泊瀬女《ハツセメ》とも云る例の如し、○乎具佐受家乎《ヲグサズケヲ》は、乎具佐《ヲクサ》も、地(ノ)名なるべし、これは上の乎久位《ヲクサ》とは、久《ク》と具《グ》の清濁異れば、別地なるべし、さらでは、乎具佐勝《ヲグサカチ》めり、とのみいひては、何れとも分らずして、聞えがたし、と本居氏云り、信(85)に然ることなり、受家乎《ズケヲ》は、(受《ズ》と濁れるは、上よりの連の音便なり、)好色男《スキヲ》なるべし、奇《キ》と家《ケ》とは、親(ク)通ふ例なり、古今集俳諧歌に、うめの花さきての後の實なればやすきものとのみ人のいふらむ、伊勢物語に、ゐなかなれば、田からすとて、此(ノ)男見をりけるに、いみじのすき物のしわざやとて、あつまり入きければ云々、などあるすきものに同じ、又竹取物語に、かゝるすきごとをしたまふ事と、そしりあへり、かげろふの日記に、むかしすきむとせし人も、今はおはせずとか、などあるも、好色事《スキゴト》なり、さて此は、乎久佐受家乎《ヲクサズケヲ》と乎具佐受家乎等《ヲグサズケヲト》、といふべき理なれども、然ては句の餘りて、しかいひがたければ、上は受家《ズケ》を省て云るなり、(乎久佐《ヲクサ》なるはたゞ男《ヲ》にて、乎具佐《ヲグサ》なるは、好色男《スケヲ》なるにはあらず、)かゝる例も、古歌にまゝあることなり、(乎久佐乎《ヲクサヲ》は、小草刈男《ヲクサカルヲ》、受家乎《スケヲ》は、助男《スケヲ》にて、手つだひする男ぞといふ説は、謂れぬことなり、又略解に、乎久佐乎《ヲクサヲ》は、正丁、乎具佐受家乎《ヲグサズケヲ》は次丁にて、助丁《スケヲ》といふなり、と云るは、さらに謂なきことなり、)○斯抱布禰乃《シホブネノ》(抱(ノ)字、舊本に乎と作るは、本(ノ)字の誤なるべし、今は一本に從つ、)は、潮舟之《シホブネノ》なり、海潮を漕船の義にて、潮舟とはいふなり、此(ノ)下に、思保夫禰能於可禮婆可奈之《シホブネノオカレバカナシ》、廿(ノ)卷に、志富夫禰爾麻可知之自奴伎《シホブネニマカヂシジヌキ》、又、志保不尼乃弊古祖志良奈美《シホブネノヘコソシラナミ》、などよめり、さて此は、海潮に、舟を多く漕並(ブ)る由もて、並《ナラベ》の枕詞とせるなり、○那良敝?美禮婆《ナラベテミレバ》は、並而見《ナラベテミ》ればなり、孰(レ)勝ると並べ比て見ればなり、○乎具佐可知馬利《ヲグサカチメリ》(知(ノ)字、舊本利に誤、元暦本に從(ツ)、)は、乎具佐好色男《ヲグサズキヲ》が勝《カチ》め(86)り、といふなり、可知馬利《カチメリ》は、(後に行《ユク》めり、去《イヌ》めり、云《イフ》めりなど云《イフ》は、行《ユク》やうにおぼゆ、去《イヌ》るやうにおぼゆ、云やうにおぼゆ、と云意なり、この馬利《メリ》も、同格なるべし、)勝(ツ)やうにおぼゆ、と云意なり、まさるやうに見ゆ、と云むが如し、さてしからば、可都米利《カツメリ》とこそいふべきに、可知馬利《カチメリ》と云るは、東歌なるが故なるべし、廿(ノ)卷に、戀良之《コフラシ》と云べきを、古比良之《コヒラシ》と云るに、全(ラ)同例なり、○歌(ノ)意は、乎久佐好色男《ヲクサズキヲ》と、乎具佐好色男《ヲグサズキヲ》の二男ともに、皆風流をつくせるすきものにして、いづれ劣らじと思ふを、なほ二人を並べて見れば、乎具佐男《ヲグサヲ》ぞ、勝《マサ》るやうに見ゆると、女のよめるなり、
 
3451 佐奈都良能《サナツラノ》。乎可爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》。可奈之伎我《カナシキガ》。古麻波多具等毛《コマハタグトモ》。和波素登毛波自《ワハソトモハジ》。
 
左奈都良《サナツラ》は、地(ノ)名なるべし、其(ノ)地は未(ダ)考(ヘ)得ず、(左《サ》は左檜隈《サヒノクマ》など云|左《サ》にて、陸奥(ノ)國名取(ノ)郡名取(ノ)郷あれば、其地にて、左名取《サナトリ》なるべきかともおもへど、あまりに強解ならむ、なほ考(フ)べし、又略解に、神名帳に、常陸(ノ)國那賀(ノ)郡酒列礒前(ノ)神社あり、是さなつらといふ所を、かく書しならむ、と云へれど、酒列は、もとよりサカツラ〔四字右○〕にて、左奈都良《サナツラ》を、かく書しものとはおもはれず、)○乎可爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》は、岡に粟種《アハマキ》なり、○可奈之伎我《カナシキガ》は、七(ノ)卷に、佐伯山于花以之哀我手鴛取而者花散鞆《サヘキヤマウノハナモチシカナシキガテヲシトリテバハナハチルトモ》、とあり、上にも、曾能可奈之伎乎《ソノカナシキヲ》、とよめるに同じく、愛憐《カナシ》き夫《セ》が、といふなり、○古麻波多具等毛《コマハタグトモ》は、駒は雖《トモ》v揚《タグ》なり、多具《タグ》は、手綱をたぐりて、頭を引(キ)揚ることをいふなり、十九に、秋附婆芽子(87)開爾保布石瀬野爾馬太伎由吉?《アキヅケバハギサキニホフイハセヌニウマタギユキテ》、云々古今集に、海人の繩多藝漁爲《ナハタギイサリセ》むとは、などあるに同じ、(遊仙窟に、縁《タグリテ》2細葛(ヲ)1泝(ス)2輕(キ)舟(ヲ)1、)此《コヽ》は神代紀に、時(ニ)素盞嗚(ノ)尊云々、秋則放2天(ノ)斑駒(ヲ)1、使v臥2田(ノ)中(ニ)1、とある意なり、○和波素登毛波自《ワハソトモハジ》は、稻掛(ノ)大平、曾《ソ》は馬を追聲なり、喚犬追馬鏡《マソカヾミ》、泉の追馬喚犬《ソマ》など書るをおもふべし、しかれば、曾《ソ》といひて追ひやらじなり、波自《ハジ》は、追《オ》はじなるを、上の毛《モ》に、於《オ》の韻ある故に、於《オ》を略けるなり、と云り、○歌(ノ)意は、左奈都良《サナツラ》の岡に、粟を種生して、其(ノ)栗田《アハフ》に、かなしき吾(ガ)夫が、馬をたぐり來て、蹈(ミ)傷《ソコナ》はしむるとも、最もかなしくうつくしき夫(ノ)君のするわざなれば、吾は、しいと云て追もやらじと、深切《ネモコロ》に思ふあまりに、まうけよめるなり、
 
3452 於毛思路伎《オモシロキ》。野乎婆奈夜吉曾《ヌヲバナヤキソ》。布流久左爾《フルクサニ》。仁比久住麻自利《ニヒクサマジリ》。於非波於布流我爾《オヒハオフルガニ》。
 
於毛思路伎《オモシロキ》は、※[立心偏+可]怜《オモシロキ》なり、既く具(ク)云り、七(ノ)卷に、珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白手古昔所念《タマクシゲミモロトヤマヲユキシカバオモシロクシテイニシヘオモホユ》、十六に、春避而野邊尾回者《ハルサリテヌヘヲメグレバ》、面白見我矣思經蚊《オモシロミアレヲオモヘカ》、狹野鳥來鳴翔《サヌツトリキナキカケラフ》云々、○野乎婆奈夜吉曾《ヌヲバナヤキソ》は、野をば燒事なかれ、といふなり、乎婆《ヲバ》の辭に心を付べし、乎婆《ヲバ》とは、委ね任する意にも、又異處と、とり別る意にも云辭なり、此《コヽ》は異處をば、いかにもせよ、此(ノ)野をば、といふ意を、含めて云るなり、○仁比久佐麻自利《ニヒクサマジリ》は、新草交《ニヒクサマジリ》なり、止由氣宮儀式帳に、二月例云々三日(ノ)節|新草《ニヒクサ》餅作(リ)奉弖、○於非波於布流我爾《オヒハオフルガニ》は、生々《オヒオフ》るがためにの意なり、我爾《ガニ》は、こゝは我禰《ガネ》といふべきを、かく爾《ニ》と云るは、(88)東歌なるが故なるべし、○歌(ノ)意は、去冬の枯にし舊草に、今春の若芽の新草の生交りて、見處多からむがために、この※[立心偏+可]怜き野をば除《オキ》て、燒荒《ヤキスサ》むことなかれ、となり、此は春野の、おもしろきさまをよめるなり、
 
3453 可是乃等能《カゼノトノ》。登抱吉和伎母賀《トホキワギモガ》。吉西斯伎奴《キセシキヌ》。多母登乃久太利《タモトノクダリ》。麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》。
 
可是乃等能《カゼノトノ》は、風之音之《カゼノトノ》にて、遠《トホ》の枕詞なり、風(ノ)音は、最遠く聞ゆるものなれば、つゞけたり、○登抱吉和伎母賀《トホキワギモガ》は、遠き處にある吾妹がの意なり、○多母登乃久太利《タモトノクダリ》は、袂之行《タモトノクダリ》なり、行《クダリ》は、一行《ヒトクダリ》、二行《フタクダリ》の行《クダリ》にて、上《カミ》より下《シモ》までを通していふ、○麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》は、※[糸+比]來《マヨヒキ》にけりなり、七(ノ)卷に、今年去新島守之麻衣肩乃間亂者誰取見《コトシユクニヒサキモリガアサコロモカタノマヨヒハタレカトリミム》、十一に、白細之袖者間結奴《シロタヘノソテハマヨヒヌ》、などあり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、此は防人などにて行て、本(ツ)國にとゞめ置たる妹が、着(セ)てし衣の袖の、※[糸+比]《マヨ》へるを見て、いよ/\妹をしのびてよめるなり、
 
3454 爾波爾多都《ニハニタツ》。安佐提古夫須麻《アサテコブスマ》。許余比太爾《コヨヒダニ》。都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》。安佐提古夫須麻《アサテコブスマ》。
 
爾波爾多都《ニハニタツ》は、庭に殖《タツ》なり、庭(ノ)面に殖生(シ)てある麻、と係るなり、(小衾《コブスマ》といふまでにはかゝらず、)麻は、專(ラ)家庭に殖生するものなれば、かくいふなり、庭とはいへど、堅庭に、麻を作るべきにあ(89)らざれば、垣内の畠に作りたるを、やがて庭に殖(ツ)と云たるなるべし、と宮地(ノ)仲枝(ノ)翁云り、)多都《タツ》は、古事記神武天皇(ノ)御歌に、多知曾婆能微能《タチソバノミノ》、とある多知《タチ》に同じ、さて多都《タツ》といふ言の表は、麻の自(ラ)殖りてある意なり、(人の殖たるといふにはあらず、)四(ノ)卷に、庭立麻乎刈干布慕東女乎忘賜名《ニハニタツアサヲカリホシシキシヌフアヅマヲミナヲワスレタマフナ》、九(ノ)卷に、小垣内之麻矣引干《ヲカキツノアサヲヒキホシ》、(催馬樂庭生に、爾波爾於布留加良名川名波與支名名利《ニハニオフルカラナヅナハヨキナナリ》、)○安佐提古夫須麻《アサテコブスマ》は、麻布小衾《アサテコブスマ》なり、布《タヘ》は、(テ〔右○〕と切(マ)れば、)提《テ》ともいふなり、小《コ》はそへたる辭なり、○許余比太爾《コヨヒダニ》は、常は來まさずとも、さてあるべし、せめては今夜のみなりともの意なり、○都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》は、いかで令《セ》2夫寄《ツマヨラ》1よかし、と乞ふなり、許西禰《コセネ》は、希望(ノ)辭なり、夫《ツマ》を寄よかしと、小衾《コブスマ》に對ひて切に希ふなり、九(ノ)卷に、城國爾不止將往來妻社妻依來西尼妻常言長柄《キノクニニヤマズカヨハムツマノモリツマヨシコセネツマトイヒナガラ》、又十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、事谷將告?寄及者《コトダニツゲムツマヨスマデハ》、ともよめり、寄を余之《ヨシ》といへることは、神代紀(ノ)歌に、妹盧豫嗣爾豫嗣豫利據禰《メロヨシニヨシヨリコネ》、とあるに同じ、(續紀聖武天皇(ノ)詔に、吾(ガ)孫(ノ)將v知(サ)食國天(ノ)下止、與佐斯奉志麻爾麻爾《ヨサシマツリシマニマニ》、光仁天皇(ノ)詔に、太政(ノ)官之政乎波、誰任之加母罷伊麻須《タニヨサシカモマカリイマス》、などある、この與佐斯《ヨサシ》も、本同言なり、)○歌(ノ)意は、常は來まさずとも、よしやさてもあるべし、せめて今夜のみなりとも、わが思ふ夫(ノ)君を、いかで寄せよかし、麻布小衾《アサテコブスマ》よ、麻布小衾よ、と打かへし、ねむごろに、衾に令せたるなり、
 
萬葉集古義十四卷之上終
 
(90)萬葉集古義十四卷之下
 
相聞《シタシミウタ》。
 
3455 古非思家婆《コヒシケバ》。伎麻世和我勢古《キマセワガセコ》。可伎都楊疑《カキツヤギ》。于禮都美可良思《ウレツミカラシ》。和禮多知麻多牟《ワレタチマタム》。
 
古非思家婆《コヒシケバ》は、戀しからば、といふが如し、○可伎都楊疑《カキツヤギ》は、垣内柳《カキツヤナギ》なり、今も鄙邑《ヰナカ》にては、小枝のしげくさす柳を殖て、垣とせる處多し、○宇禮都美可良志《ウレツミカラシ》は、(末摘枯《ウレツミカラ》しと聞ゆれど、さには非ず、)末摘刈《ウレツミカラ》しめなり、奴僕などに、命《オホ》せて、柳の末を採(ミ)刈しめて、越易からしめむ、となり、○歌(ノ)意は、吾を戀しく思ひ賜はゞ、いつも來ませ、奴僕などに令せて、垣内柳の末を採刈しめ置て、竊《シノビ》來まさむに、越易からしめむぞとなり、
 
3456 宇都世美能《ウツセミノ》。夜蘇許登乃敝波《ヤソコトノヘハ》。思氣久等母《シゲクトモ》。安良蘇比可禰?《アラソヒカネテ》。安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》。
 
宇都世美能《ウツセミノ》は、常には、世《ヨ》とつゞけたるを、こゝはやがて顯現《ウツヽ》に在(ル)人の、八十言《ヤソコト》といふこゝろ(91)にて、つゞけたるなり、○夜蘇許登乃敝《ヤソコトノヘ》は、八十言奈比《ヤソコトナヒ》なり、八十言《ヤソコト》は、多くの人の、種々《クサ/”\》に言さわぐよしなり、古事記允恭天皇(ノ)條に、言八十禍活日《コトヤソマガツヒノ》前、といふ事見えたり、(八十言《ヤソコト》、言八十《コトヤソ》、語のさま似たり、)許登乃敝《コトノヘ》は、大平が、言奈比《コトナヒ》にて、音《オト》を音奈比《オトナヒ》といふに同じ、と云る如し、○安良蘇比可禰底《アラソヒカネテ》は、不2得《カネ》相爭《アラソヒ》1而《テ》なり、人のとありしかゝりしよなどいひさわぐを、さることはさらになし、と爭ふなり、さてしかあらそふに、爭ひ得ず負《マケ》ての意なり、○安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》は、吾《ワレ》を言成《コトナ》す勿《ナ》なり、○歌(ノ)意は、爭ひ得ず、かにかく言成《イヒナサ》れて、吾(ガ)名を立しめ給ふな、たとひ世(ノ)間の多くの人の、種々にいひさわぐとも、必(ズ)さることはさらになしと、爭ひ勝給へ、といふなり、女(ノ)歌なるべし、
 
3457 宇知日佐須《ウチヒサス》。美夜能和我世波《ミヤノワガセハ》。夜麻登女乃《ヤマトメノ》。比射麻久其登爾《ヒザマクゴトニ》。安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》。
 
宇知日佐須《ウチヒサス》は、枕詞なり、既く具(ク)註り、○美夜能和我世《ミヤノワガセ》は、宮之吾夫《ミヤノワガセ》なり、これは宮づかへに、男の大和の京へ上りたる、その妻がよめるなり、と契冲が云るごとし、○夜麻登女《ヤマトメ》は、倭女《ヤマトメ》なり、大和(ノ)國の女なり。河内女《カフチメ》、初瀬女《ハツセメ》などいふ類なり、古事記(ノ)歌に、山代女《ヤマシロメ》ともよめり、○比射麻久其登爾《ヒザマクゴトニ》は、膝を枕にして寢る毎に、といふ意なり、垂仁天皇(ノ)紀五年に、天皇|枕《マキ》2皇后(ノ)膝《ミヒザヲ》1而《テ》晝寢《テヒルミネマセリ》、仁徳天皇(ノ)紀四十年に、隼別(ノ)皇子、枕《マキテ》2皇女之|膝《ミヒザヲ》1以臥《コヤセリ》、此(ノ)集五(ノ)卷琴(ノ)娘子(ガ)歌に、比等能比※[身+矢]乃倍和我(92)麻久良可武《ヒトノヒザノヘワガマクラカム》、などあり、○安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》は、吾《ワレ》を忘れ賜ふ勿《ナ》、といふなり、○歌(ノ)意は、倭女におもひつきて、今は吾(ガ)事をば、何とも思ひ賜はずあるらむ、さはありとも、舊《ヒサ》しく馴親みし中なれば、せめて其(ノ)女の膝を枕にして、寢る毎にだに、いかで吾をふつにわすれず、思ひ出し賜へ、となり、
 
3458 奈勢能古夜《ナセノコヤ》。等里乃乎加耻志《トリノヲカヂシ》。奈可太乎禮《ナカダヲレ》。安乎禰思奈久與《アヲネシナクヨ》。伊久豆君麻?爾《イクヅクマテニ》。
 
奈勢能古夜《ナセノコヤ》は、汝兄之子也《ナセノコヤ》なり、汝《ナ》は親(ミ)辭なり、兄《セ》は、本居氏、兄《セ》とは、凡ては、夫婦兄弟の間のみならず、女を妹《イモ》と云如く、凡て男を尊み親みてよぶ稱なり、書紀に、吾夫君、此(ヲ)云2阿我儺勢《アガナセト》1、とあり、此(レ)は此《コヽ》の一義に就て、書る文字なり、夫君の字は、那勢《ナセ》の凡ての意にはあらず、袁祁(ノ)命は、御兄を指て、汝兄《ナセ》と詔ひ、又御弟の須佐之男(ノ)命をしも、我(ガ)那勢《ナセノ》命と天照大御神は詔へり、又十六に、名兄乃君《ナセノキミ》などあり、男どちも然呼(フ)こと、妹といふ例のごとし、と云り、言の義は右の如し、ここは、古事記に、伊邪那美(ノ)命の愛(シキ)我(ガ)那勢《ナセノ》命と詔たるとおなじく、其(ノ)夫をさすなり、子《コ》も、兄子《セコ》といふと同じく、親辭なり、夜《ヤ》は與《ヨ》といはむが如し、十六に、檀越也然勿言《ダムヲチヤシカモナイヒソ》、とある也《ヤ》に同じ、さて汝兄之子《ナセノコ》と云るは、常陸(ノ)國風土記に、海上(ノ)安是之孃子(ガ)歌に、宇志乎爾波多々牟止伊閇止奈西乃古何夜蘇志乎加久理和乎禰佐婆志理之《ウシホニハタヽムトイヘドナセノコガヤソシマガクリワヲネナカシメシ》、とも見ゆ、(此風土記(ノ)歌(ノ)意、いさゝか解《キコエ》難し、按に、初(ノ)(93)句の乎は、本(ノ)字などの誤にて、潮《ウシホ》には、にてもあらむか、尾(ノ)句は、和乎彌那賀志賣之《ワヲネナカシメシ》などありしを、誤れるにもあらむか、此(ノ)歌のこと、なほ南京遺響に委(ク)云り、)○等里乃乎加耻志《トリノヲカヂシ》とは、等里《トリ》は池(ノ)名、乎加耻《ヲカヂ》は岡道《ヲカヂ》、志《シ》は、例のその一(ト)すぢなるを、云辭と聞えたり、岡道の中間を、折(リ)過て見えずなるを、一すぢに惜む意を思はせたる詞なり、さて等里《トリ》は、未(ダ)慥に考(ヘ)得ざれども、甞《コヽロミ》に云ば、和名抄に、常陸(ノ)國鹿島(ノ)郡下(ツ)鳥中(ツ)鳥上(ツ)島、(上島の島は、鳥(ノ)字か、と見えて、其は鳥《トリ》といふ郷に、上中下あるなるべし、されば其地の岡を、鳥之岡《トリノヲカ》とはいふならむ、○奈可太乎禮《ナカダヲレ》は、中手折《ナカダヲレ》なり、其(ノ)謂は、まづ女の家と、夫の里との間に、この鳥(ノ)岡あるなるべし、かくて夫のわかれてかへるに、その間の岬《サキ》の中間までは、女の家も猶見ゆるを、其を折(リ)廻れば見えずなるを、かく云るなるべし、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君の、鳥の岡道を行賜ふまでは、猶見ゆる故、互に袖振交しなどしてなぐさむを、その岡の岬の中間を折(リ)廻ては、見えずなる故、悲しさに堪がたきによりて、夫(ノ)君が容儀をも見せずなりゆきて、息づくまで、一(ト)すぢに吾に哭《ネ》を泣しむるよと、恨みたるやうにいふなるべし、
 
3459 伊禰都氣波《イネツケバ》。可加流安我手乎《カカルアガテヲ》。許余比毛可《コヨヒモカ》。等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》。等里手奈氣可武《トリテナゲカム》。
 
伊禰都氣波《イネツケバ》は、稻舂者《イネツケバ》にて、籾《モミ》を臼《ウス》づきて米とするをいふなり、下に、於志弖伊奈等伊禰波都(94)可禰杼《オシテイナトイネハツカネド》、とよみて稻舂ことは、古(ヘ)より專(ラ)女のすることにありける、神代紀に、天稚彦の殯のとき、以v雀(ヲ)爲2舂女《ツキメト》1、古事記には、雀(ヲ)爲2碓女(ト)1、大炊寮式に、舂米女丁八人、造酒司式に、舂稻仕女四人、など見ゆ、大甞會、悠紀方主基方稻舂歌、あり、○可加流安我手乎《カカルアガテヲ》は、皹吾手《カヽルアガテ》をなり、可加流《カカル》は、和名抄に、漢書註(ニ)云、皹(ハ)手足|※[土+斥]裂《ヤブレサクル》也、和名|阿加々利《アカヽリ》、とあるが如し、(阿加々利《アカヽリ》は、足可可利《アカカリ》なるべし、)さて此(ノ)歌に、たゞ可加流《カカル》とあるによりて考(フ)るに、もとは手の※[土+斥](レ)裂(ケ)たるを、手可々流《テカヽル》といひ、足の※[土+斥](レ)裂たるを、足可加流《アカカル》といひけむを、そは專(ラ)足の方に※[土+斥](レ)裂(ク)る事多く、手の方には※[土+斥](レ)裂(ク)る事|少《マレ》なる故に、おのづから手可々流《テカヽル》てふ言は失て、足可々流《アカヽル》といふこと、常多かりしが、和名抄の頃は、はやくなべて、手足にわたりていふことゝはなれるなるべし、○等乃能和胡《トノノワクゴ》は、此(ノ)上に、等能乃奈可知《トノノナカチ》、(それも或本には、和久胡《ワクゴ》とあり、)とよめると同じく、國の守、介、或は國(ノ)造、郡(ノ)司などの家の稚子《ワカゴ》を、云なるべし、和久胡《ワクゴ》は、武烈天皇(ノ)紀(ノ)歌に思寐能和倶吾《シビノワクゴ》、繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、※[立心偏+豈]那能倭倶吾《ケナノワクゴ》、などあり、(稚《ワカ》を、和久《ワク》と古言に云ること多し、)さて此は、その稚子《ワクゴ》の民家の娘子に、竊《シノ》びて通ひつるを、云るなるべし、○歌(ノ)意は、吾(ガ)手自《テヅカラ》稻舂など、甚荒き業をして、手の※[土+斥](レ)裂(ケ)たるを、みづから打見て、かくいときたなき我(ガ)手を、今夜も來座む殿の稚子の、取(リ)見たまひて、かゝる業をなせることを、あはれ/\となげき給はむか、さても羞《ヤサ》しき事、となるべし、(略解に、良民の女が、身をくだりて、賤女の業もていへるにぞあるべき、といへるは、いみじきひがこと(95)なり、)
 
3460 多禮曾許能《タレソコノ》。屋能戸於曾夫流《ヤノトオソブル》。爾布奈未爾《ニフナミニ》。和哉世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》。伊波布許能戸乎《イハフコノトヲ》。
 
多禮曾許能《タレソコノ》は、誰《タレ》ぞ此《コノ》なり、本居氏、多禮加《タレカ》といふべきを、多禮曾《タレソ》と云るなり、古事記、雄略天皇(ノ)御歌に、志斯布須登多禮曾意當麻幣爾麻袁須《シシフストタレソオホマヘニマヲス》、催馬樂淺水に、多禮曾古乃名加比止太天々《タレソコノナカヒトタテヽ》、美毛止乃加太知世宇曾己之止不良比爾久留也《ミモトノカタチセウソコシトブラヒニクルヤ》、色葉歌にも、わが世たれど常ならむなどあり、と云り、○屋能戸於曾夫流《ヤノトオソブル》は、古事記八十矛(ノ)神(ノ)御歌に、遠登賣能那須夜伊多斗遠於曾夫良比《ヲトメノナスヤイタトヲオソブラヒ》、とあると同じ、於曾《オソ》は、押《オソ》、夫流《ブル》は、夫良布《ブラフ》の約りたる言にして、形容をいふ辭なり、但|夫良比《ブラヒ》は、いひかくる時にいふ言、夫良布《ブラフ》は、いひをさむる時にいふ言にして、詞はひとつなり、○爾布奈未爾《ニフナミニ》、本居氏、未は米の誤か、とまれかくまれ、新甞《ニヒナメ》を、東詞にかく云るなり、上野(ノ)國の新田《ニヒタ》をも、和名抄には、爾布太《ニフタ》としるせり、と云り、○和我世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》(我(ノ)字、舊本には家と作り、今は元暦本に從つ、)は、吾(ガ)夫を遣《ヤリ》てなり、○歌(ノ)意は、新甞祭に、吾(ガ)夫を遣て、閉籠《トヂコモ》りつゝ、いみじく慎齋《イミイハ》ふ、此(ノ)屋の戸を、猥に押開かむとするは、そも誰人にや、となり、此(ノ)新甞は、古(ヘ)戸々《イヘ/\》にても、新稻もて祭れる中、此は、其(ノ)村の里長、或は郡家の新甞祭などにて、其(ノ)里民皆集ふべし、さてしかれば、その新甞祭に吾(ガ)夫をやりて、妻の家に留(リ)居てよめるにて、其(ノ)妻も、夫の出行しあとにて、家の戸(96)を閇て慎齋ふことなれば、さる時しも、しのびたる男の來て、戸を押開かむとするを咎めたるなり、十一に、誰此乃吾屋戸來喚足下根母爾所嘖物思吾呼《タレソコノワガヤドニキヨブタラチネノハヽニコロバエモノモフアレヲ》、とあるは、事こそかはれ、詞のやう、よく今と似たり、
 
3461 安是登伊敝可《アゼトイヘカ》。佐宿爾安波奈久爾《サネニアハナクニ》。眞日久禮?《マヒクレテ》。與比奈波許奈爾《ヨヒナハコナニ》。安家奴思太久流《アケヌシダクル》。
 
安是登伊敝可《アゼトイヘカ》は、何《ナゼ》と云歟《イヘカ》にて、何《ナニ》といふ事ぞ、といふが如し、○佐宿爾安波奈久爾《サネニアハナクニ》は、(宿は、假字なり、字(ノ)意には非ず、)眞《サネ》に無《ナク》v逢《アハ》になり、○眞日久禮?《マヒクレテ》は、眞《マ》は、字の意、日暮而《ヒクレテ》なり、○與比奈波許奈爾《ヨヒナハコナニ》は、夜《ヨヒ》に者《ハ》無《ナ》v來《コ》になり、奈《ナ》は爾《ニ》に通(ハシ)言へり、又は爾(ノ)字の誤にてもあらむ、○安家奴思太久流《アケヌシダクル》は、明《アケ》ぬる時《シダ》來《ク》るなり、時を思太《シダ》と云ることは、此(ノ)下にも、五六處許も見えたり、二十(ノ)卷に、阿我母弖能和須例母之太波《アガモテノワスレモシダハ》云々、肥前風土記(ノ)歌に、佐比登由母爲禰弖牟志太夜《サヒトユモヰネテムシダヤ》云々、など見えたるも同じ、又十一に、左太能浦之此左太過而後將戀可聞《サダノウラノコノサダスギテノチコヒムカモ》、とある左太《サダ》も、思太《シダ》と通(ヒ)て、同言なり、又|朝《アシタ》といふも、即(チ)明時《アクシダ》の義なるべきかの考もありて、既く一(ノ)卷に、具(ク)註《イヘ》りき、○歌(ノ)意は、男の、日くれて夜にこそ來ぬべきを、さはなくして、明ぬる時にのみ來て、眞に交接《アフ》としもなきは、何といふ事ぞ、實には相思はぬにやあらむ、となり、
 
3462 安志比奇乃《アシヒキノ》。夜末佐波妣等乃《ヤマサハビトノ》。比登佐波爾《ヒトサハニ》。麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》。安夜爾可奈(97)思佐《アヤニカナシサ》。
 
夜來佐波妣等乃《ヤマサハビトノ》は、山澤人之《ヤマサハビトノ》なり、源(ノ)嚴水、此は山澤に居《ス》む人といふことなり、さて山澤は、水の漬《ツク》澤にはあらで、山と山との間をいふ、陸奥(ノ)國にては、今もさる所をさはと云り、されば澤《サハ》てふ地名いと多し、信濃の輕井澤《カルヰザハ》も、同じ意の地名なるべし、又毛詩に、山に楡あり、澤に榛あり、とあるも、水漬(ノ)澤にはあらで、山澤なり、かくてその澤には、人の家居すれば、山澤人とは云るなり、さて上は、人多爾《ヒトサハニ》といはむための序のみなり、といへり、さもあるべし、靈其記上に、髑髏在(テ)2于奈良山(ノ)溪《サハニ》1、爲(ニ)2人畜1所(レキ)v履云々、溪(左八爾《サハニ》、)とある溪《サハ》も、同じからむか、○比登佐波爾《ヒトサニ》は、人多爾《ヒトサハニ》にて、世(ノ)間の多くの人をいふ、○麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》は、眞汝《マナ》と云(フ)兒之《コガ》なり、眞汝《マナ》とは、汝《ナ》は例の汝兄《ナセ》、汝妹《ナニモ》など云る如く、親(ミ)辭なるを、それに眞《マ》の美稱をそへたるなり、多くの人のめでうつくしみて、眞汝兒《マナコ》ぞといふ意なり、六(ノ)卷に、父公爾吾者眞名子叙《チヽギミニアレハマナゴゾ》、妣刀自爾吾者愛兒叙《ハヽトジニアレハマナゴゾ》云々、(愛兒を、略解などに、メヅコ〔三字右○〕とよめるは、甚く惡し、)十三に、母父爾眞名子爾可有六《オモチヽニマナゴニカアラム》云々、(これを或本には、母父之愛子丹裳在將《オモチヽノマナゴニモアラム》、とあり、この愛子をも、メヅコ〔三字右○〕と訓は非なり、七(ノ)卷に、豐國之聞之濱邊之愛子地《トヨクニノキクノハマヘノマナゴツチ》、十二に、衣袖之眞若之浦之愛子地《ユロモテノマワカノウラノマナゴツチ》、などあるをもおもへ、)又催馬樂に、あやめのこほりの大領の末名牟春女止以戸《マナムスメトイヘ》、などもあり、(又七(ノ)卷に、人在者母之最愛子曾《ヒトアラバハヽガマナゴソ》云々、とあり、)かく愛兒《マナゴ》、最愛子《マナゴ》などあるも、親愛《メデウツクシ》む義を得て書るなり、○岡部氏の、麻奈《マナ》は、眞《マナ》なり、こゝは皆(98)人の、事無妹、ぞとほむる故に、ことにふかく、あはれと思ふとなり、と云るは、いさゝかきゝとりがたし、)○歌(ノ)意は、世(ノ)間の多くの人の、眞汝兒《マナゴ》ぞといひて、めでうつくしむ女の、あやしきまでに戀しく思はるゝこと、その愛憐《カナ》しさ、いはむ方なし、となり、
 
3463 麻等保久能《マトホクノ》。野爾毛安波奈牟《ヌニモアハナム》。己許呂奈久《ココロナク》。佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》。安敝流世奈可母《アヘルセナカモ》。
 
安波奈牟《アハナム》は、逢(ヘ)かしとの意なり、○佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》は、里之眞中《サトノミナカ》になり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3464 比登其等乃《ヒトゴトノ》。之氣吉爾余里?《シゲキニヨリテ》。麻乎其母能《マヲゴモノ》。於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》。和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》。
 
麻乎其母能《マヲゴモノ》は、眞小薦之《マヲゴモノ》なり、上古は※[草がんむり/交]菅等をもて、專(ラ)枕を造りけるなり、七(ノ)卷に、薦枕相卷之兒毛在者社《コモマクラアヒマキシコモアラバコソ》云々、○於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》は、同枕者《オヤジマクラハ》なり、同を、古言に、於夜自《オヤジ》と云ること、既く云るが如し、○和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》は、吾者《ワハ》不《ジ》v纏《マカ》耶《ヤ》もなり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、人言の繁きをはばかりて、薦枕を共にまきて、相寢せずあらむやは、さて止べきにあらざれば、たとひ人言は繁くとも、共に枕を交していざ寢む、さても愛《ウツク》しき女や、となり、
 
3465 巨麻爾思吉《コマニシキ》。比毛登伎佐氣?《ヒモトキサケテ》。奴流我倍爾《ヌルガヘニ》。安杼世呂登可母《アドセロトカモ》。安夜爾可奈(99)之伎《アヤニカナシキ》。
 
巨麻爾思吉比毛《コマニシキヒモ》は、高麗錦《コマニシキ》の紐なり、十一に、垣廬鳴人者雖云狛錦紐解開公無《カキホナスヒトハイフトモコマニシキヒモトキアケシキミナラナクニ》、狛錦?解明夕戸不知有命戀有《コマニシキヒモトキアケテユフベダニシラザルイノチコヒツヽカアラム》、とあるに同じ、○奴流我倍爾《ヌルガヘニ》は、寢るが上になり、○安杼世呂登可母《アドセロトカモ》は、何と爲よとかもの意なり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、高麗錦の、紐解放て、心だひらに相寢するに、猶此(ノ)上をいかにせよとてか、さて/\あやしきまで愛憐《カナ》しからむ、となり、契冲云、もろともに、こゝろとけてぬるがうへにも、猶あかぬ心の切なるを、みづからあやしみてよめるなり、古今集に、おもふよりいかにせよとか、と云るがごとし、又同集に、心をぞわりなきものと思ひぬる見るものからや戀しかるべき、とよめり、
 
3466 麻可奈思美《マカナシミ》。奴禮婆許登爾豆《ヌレバコトニヅ》。佐禰奈敝波《サネナヘバ》。己許呂乃緒呂爾《ココロノヲロニ》。能里?可奈思母《ノリテカナシモ》。
 
麻可奈思美《マカナシミ》は、眞憐《マカナシ》みにて、眞に愛憐《ウツクシ》き故にの意なり、○奴禮婆許登爾豆《ヌレバコトニヅ》は、寐者言《ヌレバコト》に出《イヅ》なり、共に寐れば人言に出て云さわがるゝよしなり、○佐禰奈敝波《サネナヘバ》は、無《ナヘ》2佐寐《サネ》1者《バ》なり、○己許呂乃緒呂爾《ココロノヲロニ》は、心之緒《コヽロノヲ》になり、緒《ヲ》は、引つゞきて絶ざるよりいふ、緒呂《ヲロ》の呂《ロ》は助辭なり、○能里?可奈思母《ノリタカナシモ》は、女の容儀の、吾(ガ)心のうへにうかびて、常に忘るゝひまなく、さてもかなしや、となり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
(100)3467 於久夜麻能《オクヤマノ》。眞木乃伊多度乎《マキノイタドヲ》。等杼登之?《トドトシテ》。和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》。伊利伎?奈左禰《イリキテナサネ》。
 
於久夜麻能《オクヤマノ》は、眞木《マキ》とかゝれるのみなり、奥山《オクヤマ》に生(ヒ)樹《ヒタテ》る眞木の義なり、自(ラ)住家の奥山なる由にはあらず、○眞木乃伊多度乎《マキノイタドヲ》、十一に、奥山之眞木乃板戸乎押開思恵也出來根後者何將爲《オクヤマノマキノイタドヲサシヒラキシヱヤイデコネノチハナニセム》、又、奥山之眞木乃板戸乎音速見妹之當乃霜上爾宿奴《オクヤマノマキノイタドヲオトハヤミイモガアタリノシモノヘニネヌ》、などあるに同じく、檜材《ヒノキ》にて造れる板戸なり、眞木《マキ》は、檜を美て云るなり、○等杼登之?《トドトシテ》とは、等杼《トド》は戸を開く時鳴(ル)音なり、十一に馬音之跡杼登毛爲者《ウマノトノトドトモスレバ》、ともよめり、○伊里伎?奈左禰《イリキテナサネ》は、入來而《イリキテ》爲《サ》v寐《ナ》なり、○歌(ノ)意は、自《ミ》が内より戸を轟《トヾ》として押開む、その時に入(リ)來て寐給へよ、折あしく入來賜はゞ、父母などに見とがめられて、危き目にあふべからむぞと、女の男にいひをしへたるなり、(略解に、等杼《トド》は戸を叩く昔ぞ、と云るは、たがへり、又これは、男の戸を叩くにて、さて三の句にて切て、吾(ガ)開むにとは、女のひらくなり、と云るも、非なり、さては詞の首尾調はず、)
 
3468 夜麻杼里乃《ヤマドリノ》。乎呂能波都乎爾《ヲロノハツヲニ》。可賀美可家《カガミカケ》。刀奈布倍美許曾《トナフベミコソ》。奈爾與曾利?米《ナニヨソリケメ》。
 
此(ノ)歌、最《イトモ》解難《キコエガタ》し、古來《ムカシヨリ》種々《クサ/”\》の説あれど、從がたし、(まづ漢國魏といひし代の故事を、とりあはせて云る説は、謂なし、又略解に、或人の説とて、山鳥の尾は、夜いみじく光る事有(ル)ものにて、人其(ノ)(101)光を見て、捕むとして行に、やゝ近くなるまでうごかず、今まさに捕ふべきほどに近づく時に、俄に立去て、又行先の方にて光るを、人又行て捕むとすれば、又さきの如くにて、終に捕がたきものなり、となふべみは、捕《トラ》ふべみなり、たとへたる意は、女の、吾になびくべきさまに見えながら、つひになびかぬにて、はじめなびくべく見えたればこそ、心をかけて、いひよりそめたれの意なり、と云るは、おしあての強説なり、もし其(ノ)意ならば、結尾《ハテ》を?禮《ケレ》とこそいふべけれ、いかでか、?米《ケメ》とはいふべき、又荒木田氏の考(ヘ)あれど、其はいと/\うきたる説にて、用ふるに足ず、なほ余が、別に記したるものあるなり、)其(ノ)中に、舊説の一義に、山鳥は、雄は雌と一所には寐ず、峰をへだてゝぬるが、曉に、をとりのはつをに、めとりの影のうつる事あるを見て鳴を、かゞみとは云り、誠の鏡にはあらず、はつをは、なきをなり、と云り、(なきをは、鳴尾《ナキヲ》といふにや、)此(レ)に依て思へば、乎呂《ヲロ》の呂《ロ》は助辭にて、尾之秀津尾《ヲノハツヲ》に鏡懸《カヾミカケ》といふなり、但し尾に光明《ヒカリ》ありて影のうつるを、鏡懸《カヾミカケ》とはいふまじ、と難《トガム》る人もあれど、影のうつるを、鏡にとりなしていはむは、あるまじきことにあらず、懸とは理なきに似たれど、鏡をば、物に懸て影をうつし、又神に奉るにも、懸て奉るなれば、鏡と見なしたる因に、云るにてこそあれ、實の理につきていはむは、甚く歌の詞の、かざりのすぢを失ふものぞ、さてその山鳥の尾に、かげのうつるを見て、雄の音に立て鳴如く、名に立て、人に唱へらるゝよしにて、しか唱へさわがむとてこそ、(102)人の吾を汝にいひよせそめけめ、といふなるべし、〔頭註、【文粹五(ノ)卷後江相公が爲2清慎公1、辭2右大臣1、第三表に、臣某言云々、奉2宣天旨1、重返2臣章1、類2山?之對2圓鏡1、舞而何爲、とあるは、かの漢國の故事に依て云るにて、此歌にはあづからず、河社、新拾遺、湖上水鳥、にほ鳥はをろのはつをにみらねども鏡の山のかげに鳴なり、萬葉に、山鳥のをろのはつをにかゞみかけ、とよめるは、をろは雄にて、ろはたすけたる詞なり、それぞとは聞えながら、をろとのみいひては、山鷄とせむ事やいかゞあるべき、】
 
3469 由布氣爾毛《ユフケニモ》。許余比登乃良路《コトヒトノラロ》。和賀西奈波《ワガセナハ》。阿是曾母許與比《アゼソモコヨヒ》。與斯呂伎麻左奴《ヨシロキマサヌ》。
 
由布氣《ユフケ》は、夕占《ユフケ》なり、○許余比登乃良路《コトヒトノラロ》は、今夜《コヨヒ》と告有《ノレル》なり、(告有《ノレル》を乃良路《ノラロ》といふは、零有《フレル》を布良路《フラロ》といふ例の如し、略解に、ノラロ〔三字右○〕は、ノル〔二字右○〕を延(ベ)言(ヘ)るなり、と云るは、いさゝか違へり、)夕占《ユフケ》を問《トヒ》たる、に、今夜《コヨヒ》來《コ》むと告《ノリ》たるなり、○阿是曾母許與比《アゼソモコヨヒ》は、何《ナゼ》そも今夜《コヨヒ》なり、○與斯呂伎麻左奴《ヨシロキマサヌ》依《ヨシ》ろ不《ヌ》2來坐《キマサ》1なり、與斯《ヨシ》は、上に、都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》、とある余之《ヨシ》に同じ、呂《ロ》は助辭なり、○歌(ノ)意は、夕は、占を問たるに、夕占にも、必(ス)今夜來座むと告たるものを、何とて今夜《コヨヒ》依來座《ヨリキマサ》ぬぞ、となり、十一に、夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケウラニモノレルコヨヒダニキマサキミヲイツトカマタム》、
 
3470 安比見弖波《アヒミテハ》。千等世夜伊奴流《チトセヤイヌル》。伊奈乎加母《イナヲカモ》。安禮也思加毛布《アレヤシカモフ》。伎美末知我?爾《キミマチガテニ》。【柿本朝臣人麻呂歌集出也。】
 
此(ノ)歌、十一に既く出て、其處に註つ、
 
3471 思麻良久波《シマラクハ》。禰都追母安良牟乎《ネツツモアラムヲ》。伊米能未爾《イメノミニ》。母登奈見要都追《モトナミエツツ》。安乎禰思(103)奈久流《アヲネシナクル》。
 
本(ノ)二句は、せめて、暫(ク)は、安寐《ヤスイ》を寐《ネ》つゝもあらむものをの意なり、哭にのみ泣て、安寐しがたければ、かくいふなり、○伊米能未爾《イメノミニ》は、夢耳《イメノミ》になり、耳《ノミ》は、下にめぐらして意得べし、○安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》は、吾に哭《ネ》を令《シム》v泣《ナカ》るよしなり、○歌(ノ)意は、終夜安寐せむとは思はず、せめては暫(ク)の間なりとも寐入て、心を安めむと思ふに寐入るかと思へば、早夢に、愛《ウツクシキ》人の容儀の、むざ/\と見えつゝ安《ヤス》むひまなく、一(ト)すぢに吾に哭をのみ泣しむるよ、となり、
 
3472 比等豆麻等《ヒトヅマト》。安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》。志可良婆加《シカラバカ》。刀奈里乃伎奴乎《トナリノキヌヲ》。可里?伎奈波毛《カリテキナハモ》。
 
安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》は、何《ナゼ》か其《ソ》を云むなり、○志可良婆加《シカラバカ》は、然有者歟《シカラバカ》なり、加《カ》の言を下へうつして、假《カリ》てきぬかも、と心得べし、と契冲云(ヘ)り、しかなり、○可里?伎奈波毛《カリテキナハモ》は、假而《カリテ》無《ナハ》v服《キ》もなり、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、他妻《ヒトヅマ》なりと云て、何ぞそれをさてやむべき、然《サ》あらば、いと寒き時に、隣(ノ)人の衣を、假りて服ることのなきかは、然はなきものを、他妻《ヒトヅマ》なりとて、などかさて止べきぞ、さても愛しき他妻や、となり、
 
3473 左努夜麻爾《サヌヤマニ》。宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》。等抱可騰母《トホカドモ》。禰毛等可兒呂賀《ネモトカコロガ》。於由爾美要都留《オモニミエツル》。
 
(104)左努夜麻《サヌヤマ》は、かの佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》の佐野にて、其(ノ)地に山ありて、其をいふならむか、又和名抄に、常陸(ノ)國筑波(ノ)郡にも、久慈(ノ)郡にも、佐野(ノ)郷あれば、其(ノ)中にてもあるべし(又同抄に、遠江(ノ)國佐野(ノ)郡あれど、そは續紀に、佐益(ノ)郡とあれば、サヤ〔二字右○〕なり、○宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》は、打《ウツ》や斧音乃《ヲノトノ》なり、打《ウヅ》は木を伐《キル》とてなり、遠《トホ》といはむ料なり、○等抱可騰母《トホカドモ》は、雖《ドモ》v遠《トホカレ》なり、○禰毛等可兒呂賀《ネモトカコロガ》は、將《ム》v寐《ネ》とか兒等之《コラガ》なり、○於由爾美要都留は、岡部氏、由は、母の誤にて、面《オモ》に所見《ミエ》つるなり、遠かれど來りてねむとてか、子等が面かげに見えつると云なり、と云り、此(ノ)説宜し、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3474 宇惠多氣能《ウヱタケノ》。毛登左倍登與美《モトサヘトヨミ》。伊低?伊奈婆《イデテイナバ》。伊豆思牟伎?可《イヅシムキテカ》。伊毛我奈氣可牟《イモガナゲカム》。
 
宇惠多氣能《ウヱタケノ》は、殖竹之《ウヱタケノ》なり、殖《ウヱ》は、殖子水葱《ウヱコナギ》、殖草《ウヱクサ》などあるに同じ、本居氏、宇惠《ウヱ》は、人の殖(ヱ)たる由にはあらずて、殖《ウワ》りてある意なり、古事記神武天皇(ノ)御歌に、多知曾婆能微能《タチソバノミノ》、とある、多知《タチ》の言に同意なり、と云り、○毛登左倍登與美《モトサヘトヨミ》は、本副響《モトサヘトヨミ》なり、末はさらにて、本まで饗《トヨミ》といふなり、契冲云、竹の末は風になり、本は別(レ)て歸るとて、諸共になくに、ひゞくこゝろなり、上に、枕もそよになげきつるかもとも、此(ノ)床のひしとなるまでなげきつるかも、ともよみ、第二十には、おひそやのそよとなるまでなげきつるかも、とよめるにおなじ、○伊低?伊奈婆《イデテイナバ》は、出而去者《イデテイナバ》に(105)て、防人などに出立て往(ク)をいふなり、○伊豆思牟伎?可《イヅシムキテカ》は、何方向《イヅチムキ》てかなり、知《チ》と思《シ》は、親(ク)通へば、伊豆思《イヅシ》は、伊豆知《イヅチ》といふに同じ、○伊毛我奈氣可牟《イモガナグカム》(氣(ノ)字、舊本には藝と作り、元暦本に從つ、)は、妹之《イモガ》將《ム》v嘆《ナゲカ》なり、上に、可須美爲流布時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉?可伊毛我奈氣可牟《カスミヰルフジノヤマビニワガキナバイヅチムキテカイモガナゲカム》、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
3475 古非都追母《コヒツツモ》。乎良牟等須禮杼《ヲラムトスレド》。遊布麻夜萬《ユフマヤマ》。可久禮之伎美乎《カクレシキミヲ》。於母比可禰都母《オモヒカネツモ》。
 
歌(ノ)意は、戀しく思ひつゝも、さて堪てあらむとはおもへども、木綿間《ユフマ》山をこえて、隱れ去《ニ》し君をおもふに、さてもしのびがたしや、となり、十二に、羈旅發思、不欲惠八師不戀登爲登木綿間山越去之公之所念良國《ヨシヱヤシコヒジトスレドユフマヤマコエニシキミガオモホユラクニ》、とあるは、今と同歌ならむ、猶彼處に云り、
 
3476 宇倍兒奈波《ウベコナハ》。和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》。多刀都久能《タトツクノ》。奴賀奈敝由家婆《ヌガナヘユケバ》。故布思可流奈母《コフシカルナモ》。
 
宇倍兒奈波《ウベコナハ》は、諾兒汝者《ウベコナハ》なり、諸《ウベ》は、次の戀(フ)なもと云るに係て心得べし、汝《ナ》は、妹汝根《イモナネ》の汝《ナ》にて、親(ミ)辭なり、(略解に、この奈《ナ》は、良《ラ》に通て、兒等《コラ》と云に同じ、と云るは惡し、)○和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》は、吾《ワレ》に戀らむ、といふなるべし、○多刀都久能《タトツクノ》は、立月之《タツツキノ》なり、○奴賀奈敝由家婆《ヌガナヘユケバ》は、流《ナガ》らへ往者《ユケバ》なり、○故布思可流奈母《コフシカルナモ》は、戀しかるらむ、といふなるべし、○歌(ノ)意は、防人の筑紫なるがもとへ、(106)其(ノ)妻などの許より、戀しく思ふよしいひやりつらむ、そが答に、汝が我を戀しく思ふといふは、うべなる事ぞかし、あはずてある間に、立月の程長く流れ往(ケ)ば、實にさぞ戀しく思ふらむ、となり、○舊本に、或本末句曰奴我奈敝由家杼和奴賀由乃敝波、と註せり、或説に、賀由は、由賀を下上に誤れり、と云り、然らば流《ナガ》らへ往ど、吾《ワレ》無《ナヘ》v往《ユカ》者《バ》の意なり、(乃敝を、略解にナヘ〔二字右○〕と訓しは、いみじきひがことなり、意はナヘ〔二字右○〕といふにおなじけれども、ノヘ〔二字右○〕と云しは東詞なればなり、乃(ノ)字を、ナ〔右○〕の假字に用ひたること、集中に例なきことなるをや、
 
3477 安都麻道乃《アヅマヂノ》。手兒乃欲婢佐可《タコノヨビサカ》。古要?伊奈婆《コエテイナバ》。安禮婆古非牟奈《アレハコヒムナ》。能知波安比奴登母《ノチハアヒヌトモ》。
 
本(ノ)二句は、此(ノ)上に出て、彼處に云り、○古非牟奈《コヒムナ》は、將《ム》v戀《コヒ》奈《ナ》なり、この奈《ナ》は、歎息の辭にて、俗に奈阿《ナア》と云が如し、○安比奴登母《アヒヌトモ》は、逢なむなれども、といふが如し、奴《ヌ》は奈《ナ》の通へるなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3478 等保新等布《トホシトフ》。故奈乃思良禰爾《コナノシラネニ》。阿抱思太毛《アホシダモ》。安波乃敝思太毛《アハノヘシダモ》。奈爾己曾與佐例《ナニコソヨサレ》。
 
等保斯等布《トホシトフ》は、遠《トホシ》と云なり、○故奈乃思良禰爾《コナノシラネニ》は、かくいふ山(ノ)名なるべし、されどかくいふ山、東(ノ)國にあることを聞及ばず、熟々索(ネ)て考(フ)べし、今按(フ)に、若(シ)は奈は志(ノ)字などの誤にて、越之白峰《コシノシラネ》に(107)はあらずや、さあらば、古今集に、君が往(ク)越の白山知らねども、とよめる山なるべし、其を白峰《シラネ》といへるは、後ながら後撰集に、年深くふり積雪を見る時ぞ越の白峰に住(ム)心ちする、續古今集に、こゝに又光を分てやどすらむ越のしらねや雪の故郷、などあり、さてかの白山、東(ノ)國よりは、見えみ見えずみ、遙々《ハル/”\》に眺望《ミサケ》らるればいふなるべし、されどこは、余がせめて推量《オシアテ》に考(ヘ)たるなり、猶しれらむ人に尋(ネ)明(ラ)むべし、○阿抱思太毛《アホシダモ》は、逢時《アフシダ》もなり、○安波乃敝思太毛《アハノヘシダモ》は、不《ノヘ》v逢《アハ》時《シダ》もなり、(略解に、アハナヘ〔四字右○〕とよめるは惡し、上に云るが如し、)本居氏云、此(ノ)山遠き故に、見ゆる日と見えぬ日とあるを、逢(フ)日と不v逢日と有に譬へたり、故奈《コナ》の白峯《シラネ》に逢(フ)とつゞきたるは、歌(ノ)意の言と、譬のうへの言とを、交(ヘ)て云る古歌の例にて、白峯に逢は、日峯のみゆる、といふ意なるを、逢(フ)といふは、歌の意なり、○奈爾己曾與佐禮《ナニコソヨサレ》は、汝《ナ》にこそ所《サ》v依《ヨ》れなり、與佐禮《ヨサレ》は、與曾禮《ヨソレ》といふに同じ、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、逢(フ)時も、不v逢時も、その差別なく、一向《ヒタスラ》に、汝に心はよそりてこそあれ、となり、
 
3479 安可見夜麻《アカミヤマ》。久佐禰可利曾氣《クサネカリソケ》。安波須賀倍《アハスガヘ》。安良蘇布伊毛之《アラソフイモシ》。安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》。
 
安可見夜麻《アカミヤマ》は、山(ノ)名なるべし、其(ノ)山は、未考得ず、和名抄に、出羽(ノ)國飽海(ノ)(阿久三《アクミ》)郡飽海(ノ)郷、とあれば、もしは其(ノ)地にて、飽海山《アクミヤマ》なるべきか(カ〔右○〕とク〔右○〕とは親(ク)通へり、)されどこれは、例の推量のみな(108)り、猶よく尋(ヌ)べし、○久佐禰可利曾氣《クサネカリソケ》、は草根刈除《クサネカリソケ》なり、此は人目を放《サケ》て逢(フ)よしの譬なり、(略解に、くさ/”\の障をよけて逢(フ)を云、と云るは、いさゝかたがへり、)○安波須賀倍《アハスガヘ》は、逢(ヒ)賜ふが上に、といふなり、○安良蘇布伊毛之《アラリフイモシ》は、爭妹《アラソフイモ》しなり、之《シ》はその一(ト)すぢなるを、重く思はする助辭なり、隱《シヌ》びて逢ながら、さることはなしと、人にはあらそひいふ意なり、と岡部氏の云るぞ宜しき、○歌(ノ)意は、人目を放《サケ》て、竊びて逢(ヒ)賜ふが上に、猶さる事はさらになしと、他人に爭ひいふ妹が心の深さ、思ひやられて、あやしきまでに、さても愛憐《カナ》しく、いとほしきことや、となり、
 
3480 於保伎美乃《オホキミノ》。美己等可思古美《ミコトカシコミ》。可奈之伊毛我《カナシイモガ》。多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》。欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》。
 
欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》は、契冲が、えだち來ぬるかもなり、徭役の字をかける、其(ノ)義なり、と云るぞ宜しき、(毛詩に、用v|土《エダシ》v國(ニ)と有て、土(ハ)土功也、と註せり、本居氏云、延太知《エダチ》は、延《エ》は充《アテ》の約りたる言か、太知《ダチ》は、民の其(ノ)事に發赴《タチオモム》くを云、)○歌(ノ)意は、王(ノ)命の畏さに、辭(ミ)奉ることを得ずして、愛妹が手枕を離れて、はる/”\此(ノ)度の役に發て、別れ來ぬる哉、となり、
 
3481 安利伎努刀《アリキヌノ》。佐惠佐惠之豆美《サヱサヱシヅミ》。伊敝能伊母爾《イヘノイモニ》。毛乃《モノ》乃〔□で囲む〕|伊勢波受伎爾?《イハズキニテ》。於毛比具流之母《オモヒグルシモ》。【柿本朝臣人麻呂家集中出。見上已記也。】
 
毛乃乃の乃(ノ)字、一(ツ)は衍なり、○此(ノ)歌は、四(ノ)卷に、柿本朝臣人麻呂(ガ)歌とて珠衣乃狹藍左謂沈家妹(109)爾物不語來而思金津裳《アリキヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキニテオモヒカネツモ》、とありて、彼處に具(ク)註り、○註の記(ノ)字、舊本には詮と作り、今は元暦本に從つ、今按(フ)に、四(ノ)卷には、人麻呂(ガ)歌とあれど、本は東歌にぞありけむを、彼(ノ)集に取載たらむを、即(チ)人麻呂(ガ)作と混(ヘ)しにやあらむ、さるは、此(ノ)十四(ノ)卷は、人麻呂(ガ)歌集よりは、前に編たるものとおもはるればなり、
 
3482 可良許呂毛《カラコロモ》。須蘇乃宇知可倍《スソノウチカヘ》。安波禰杼毛《アハネドモ》。家思吉己許呂乎《ケシキココロヲ》。安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》。
 
可良許呂毛《カラコロモ》は、韓衣《カラコロモ》なり、○須蘇乃宇知可倍《スソノウチカヘ》は、襴之打交《スソノウチカヘ》なり、不v相といはむ序なり、さて古(ヘ)韓人の衣は、襴の打交(ヘ)の相合《アハ》ざりけむ、さる故にぞ、かくはいへるならむ、十一に、朝影爾吾身者
成辛衣襴之不相而久成者《アサカゲニワガミハナリヌカラコロモスソノアハズテヒサシクナレバ》、とあるをも、思(ヒ)合すべし、なほ彼處にも云り、○家思吉己許呂《ケシキココロ》は、異情《ケシキコヽロ》なり、既く出たる詞なり、○歌(ノ)意は、此頃(ノ)障《サハ》る事ありて、相見ずはあれども、異なる情をば、さらに思はざることなるを、となり、
〔或本歌曰。可良己呂母《カラコロモ》。須素之宇知可比《スソノウチカヒ》。阿波奈敝婆《アハナヘバ》。禰奈敝乃可良爾《ネナヘノカラニ》。許等多可利都母《コトタカリツモ》。〕
阿波奈敝婆《アハナヘバ》は、不《ナヘ》v相《アハ》者《バ》なり、○禰奈敝乃可良爾《ネナヘノカラニ》は、不《ヌ》v敢《ナヘ》v寐《ネ》故《カラ》になり、(無《ナヘ》v寐《ネ》之《ノ》故《カラ》にと聞ゆれど、此は然《サ》にはあらず、相《アハ》ぬによりて、寐敢ぬよしなり、略解に、不v寐ながらになり、と云るは、誤なり、)奈敝乃《ナヘノ》は、奈敝奴《ナヘヌ》といふに同じく、不《ヌ》v敢《アヘ》なり、二十(ノ)卷に、佐弁奈弁奴《サヘナヘヌ》(不v敢v障なり、)美許登爾阿禮(110)婆《ミコトニアレバ》とよめるを、併(セ)考(フ)べし、可良爾《カラニ》は、故《ユヱ》にといふに同じくて、ものなるをと意得る詞なり、人妻故爾《ヒトヅマユヱニ》、如此耳柄爾《カクノミカラニ》、など云ると、同例なり、されば、こゝは、不《ヌ》v敢《アヘ》v寐《ネ》物《モノ》なるをの意なり、○許等多可利都母《コトタカリツモ》は、言痛有《コトタカリ》つもなり、許等多《コトタ》は、言痛《コチタ》と云に同じ、
 
3483 比流等家波《ヒルトケバ》。等家奈敝比毛乃《トケナヘヒモノ》。和賀西奈爾《ワガセナニ》。阿比與流等可毛《アヒヨルトカモ》。欲流等家也須流《ヨルトケヤスル》。
 
等家奈敝比毛之《トケナヘヒモノ》は、不《ナヘ》v解《トケ》紐之《ヒモノ》なり、○欲流等家也須流《ヨルトケヤスル》(須流の流(ノ)字、元暦本には家と作り、さらば、トケヤスケ〔五字右○〕とよみて、解易《トケヤスキ》意とすべし、されどなほ舊本のまゝにて然り、)は、夜解《ヨルトケ》や爲《ス》るなり、さて上に、可毛《カモ》といひて、こゝにまた解也《トケヤ》と云るは、たちまち可毛《カモ》と、也《ヤ》の疑辭、無用に重りて、いかゞと人皆いぶかることにて、(本居氏(ノ)詞(ノ)玉緒にも、此(ノ)歌を、?爾袁波《テニヲハ》たがへる歌の部に收たれど、中々に誤なり、)かにかくいふめれど、しからず、かく重れる也《ヤ》の辭は、輕く意得る例にて、古歌の證多きことなりかし、其(ノ)説既く二(ノ)卷にも具(ク)云り、又別に、余が論へるものもあるなり、○歌(ノ)意は、晝とけば解ぬ紐の、夜解るは、わが夫に相依(ル)といふ前表《シルシ》にてかあるらむ、さてもたのもしや、となり、鼻び、紐とけなどするは、相見むとする事の兆《シルシ》とする事、往々《トコロ/”\》見えたり、
 
3484 安左乎良乎《アサヲラヲ》。遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》。宅麻受登毛《ウマズトモ》。安須伎西佐米也《アスキセザメヤ》。伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》。
 
(111)安左乎良《アサヲラ》は麻苧等《アサヲラ》をなり。等《ラ》は添云(フ)辭なり、五(ノ)卷に、※[糸+施の旁]綿良波母《キヌワタラハモ》、とあり、○遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》は、麻笥《ヲケ》に多《フスサ》になり、麻笥《ヲケ》は、四時祭式風神祭(ノ)條に、云々|麻笥《ヲケ》一合云々、(已上三物、並金塗、)大神宮式に、神寶二十一種云々、金銅(ノ)麻笥《ヲケ》二合、(口(ノ)徑各三寸六分(ノ)、尻徑二寸八分、深二寸二分、)云々、銀銅(ノ)麻笥《ヲケ》一合云々、齋宮式に、年料(ノ)供物云々、水※[肆の左+瓦]麻笥合六合云々、水麻笥十一口云々、供2新甞(ニ)1料云云、麻笥二口云々、踐詐大甞祭式に、大麻笥四口云々、小麻笥六口云々、祝詞式、龍田風神祭(ノ)詞に、金能麻笥《クガネノヲケ》、主計式に、凡云々、其畿内(ノ)輸(ス)雜物者云々、麻笥六合、(徑一尺五寸、深二尺五分、)主殿寮式に、供奉(ノ)年料云々、持麻笥二十六口云々、など見えたり、布須佐《フスサ》は、布佐《フサ》といふにおなじ、(俗に物の多きをふさ/\とも、ふつさりとも云ば、布佐《フサ》と布須佐《フスサ》とは、全(ラ)同言なり、)八(ノ)卷に、瞿麥花總手折吾者持將去《ナデシコノハナフサタヲリアハモチユカム》、十七に、和我勢古我布左多乎里家流乎美奈敝之香物《ワガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》、などあり、○安須伎西佐米也《アスキセザメヤ》は、本居氏の、明日來《アスキ》せざらめやなり、明日來といふは、すべて月日の事を、來歴ゆくと云て、明日の日の來る事なり、と云るぞ宜しき、○伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》は、率爲小床《イザセヲドコ》になり、率爲《イザセ》は、中昔の言に、人をさそひ立るに、いざさせ給へ、と云ると同じ、續紀廿(ノ)卷詔に、此事倶佐西止伊《射奈布爾依而コノコトイザセトイザナフニヨリテ》、倶佐西牟止事者許而《イザセムトコトハユルシテ》云々、とある、倶(ノ)字は二つながら、伊を誤れるにて、伊佐西《イザセ》なるべし、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、夜(ル)女の麻笥《ヲケ》取(リ)て、麻績《ヲウミ》居る所へ、男の行てよめるにて、早く共に寢む、と女をいざきなへるなり、今宵さばかり、麻をふさ/\と多く績(マ)ずともありぬべし、(112)明日の日のなき事かは、明日の日もあれば、明日又績(ミ)給ふべし、今夜は其(ノ)業をおきて、いざいざ早く床に入て相寢む、となり、
 
3485 都流伎多知《ツルギタチ》。身爾素布伊母乎《ミニソフイモヲ》。等里見我禰《トリミガネ》。哭乎曾奈伎都流《ネヲソナキツル》。手兒爾安良奈久爾《テコニアラナクニ》。
 
都流伎多知《ツルギタチ》は、枕詞なり、劔は身に佩(キ)副(フ)る物なれば、身に副といはむとてなり、○身爾素布伊母乎《ミニソフイモヲ》は、身に副《ソフ》妹をにて、常に側を離ず、吾(ガ)身に副(ヒ)たる妹を、といふ意なり、○等里見我禰《トリミガネ》は、不2得《ガネ》取見《トリミ》1なり、旅などに別れ行とて、身に親く取(リ)見る事を得ざるよしなり、○手兒爾安良奈久爾《テコニアラナクニ》は、母の手に抱かるゝ許(リ)の稚兒《ワクゴ》を、手兒《テコ》と云(ヘ)ば、われは、其(ノ)手兒にもあらぬことなる、といふなり、(岡部氏、東(ノ)國にては、末に生るゝ兒をてこといふ、遠江などにては、それをほての子といふ、同國の人物の終りをほてるといへり、はてるてふ事なり、然ればて子は、はての子てふを略けるなり、是をもて思へば、只|手兒《テコ》といふも、はての子より轉りて、惣て小兒をいふ事とも、成しにも有むか、猶|手《タ》わらはの手《タ》と、手兒《テコ》の手《テ》とひとしからば、てこなとは、相似て別とすべきか、又|手童《タワラハ》は、都にて云(ヘ)ば、掌上兒の意にて、これは東ことばなれば、右のてこなのてこと同じく、はての子をいふなるべし、と云り、)〔頭註、【落窪物語に、まろがをぢにて治部卿なる人のてこ兵部少輔、かたちいとよく、はないとをかしげなるを。むことり給へるとのたまへば云々、とある、このてこも同じきか、】〕○歌(ノ)意は、常に側を雖れず、吾(ガ)身に副(ヒ)たる妹を、旅に別れ去(113)とて親く取見る事を得ずして、吾は母の手にある許(リ)の稚兒にもあらぬことなるを、その稚兒の如く、哭《ネ》をぞ泣つる、となり、此は防人などに出發ときによめるなるべし、古(ヘ)の東人の實情、思ひやるべし、
 
3486 可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》。由豆加奈倍麻伎《ユヅカナベマキ》。母許呂乎乃《モコロヲノ》。許登等思伊波婆《コトトシイハバ》。伊夜可多麻斯爾《イヤカタマシニ》。
 
由豆加奈倍麻伎《ユヅカナベマキ》は、魚彦云、弓束並向《ユヅカナベムキ》なるべし、同等の男どち、弓束を並(ベ)、的に向立て、射競する意なり、と云り、○母許呂乎乃《モコロヲノ》は、知己男之《モコロヲノ》なり、母許呂《モコロ》は、如といふ意の古言にて、こゝは、己(レ)如き同等の男、といふこゝろなり、九(ノ)卷處女墓(ノ)歌に、知己男爾負而者不有跡《モコロヲニマケテハアラジト》、とあり、既く彼處にも云り、○伊夜可多麻期爾《イヤカタマシニ》は、契冲が、いよ/\勝《カタ》ましに、といふこゝろなり、と云るぞ、よろしき、(射哉勝《イヤカタ》ましに、といふにはあらず、)○歌(ノ)意は、もし男どちのあらそひならば、弓束を並べ押張て立向ひ、武夫のたけき心をふるひおこして、いよ/\勝をとらましものを、うつくしき妹をおもふ時は、戀の奴が責(メ)寄來て、なやませば、たけかりし心も失、つよかりし力(ラ)も折(レ)て、競勝て、その戀の奴を、追退くべき手だてもさらになし、となり、三四二五一と句を次第《ツイデ》、さて詞を補《ソヘ》て意を得べし、
 
3487 安豆左由美《アヅサユミ》。須惠爾多麻末吉《スヱニタママキ》。可久須酒曾《カクススソ》。宿奈奈那里爾思《ネナナナリニシ》。於久乎可奴(114)加奴《オクヲカヌカヌ》。
 
安豆左由美《アヅサユミ》は、末《スヱ》といはむための枕詞なるべし、○須惠爾多麻末吉《スヱニタママキ》は、いかなる意にかあらむ、本居氏は、末を大切に思ふ譬とすべし、と云り、猶考(フ)べし、○可久須酒曾《カクススソ》は、如此爲爲《カクスス》ぞなり、如此爲《カクシ》つゝぞ、といはむが如し、(玉藻刈々《タマモカリ/\》といふと、玉藻刈乍《タマモカリツヽ》といふと、同じ意なるにて知べし、)此(ノ)下に、安騰酒酒香可奈之家兒呂乎於毛比須吾左牟《アドススカカナシケコロヲオモヒスゴサム》、とあるも、何爲爲歟《アドススカ》にて、須酒《スス》は今と同じ、○宿奈奈那里爾思《ネナナナリニシ》(下の奈(ノ)字、舊本には莫と作り、今は元暦本に從つ、)は、無《ナヽ》v宿《ネ》成《ナリ》にしなり、○於久乎可奴加奴《オクヲカヌカヌ》は、奥《オク》を兼々《カヌ/\》なり、行末を兼《カネ》つゝなり、兼々《カヌ/\》は、兼乍《カネツヽ》と云(フ)に同じ、爲々《スヽ》の例の如し、○歌(ノ)意は、、かくては、行末いかならむと、未|兼《カネ》て大切に思つゝ、遂に相寐を得爲ずぞなりにし、といふなるべし、
 
3488 於布之毛等《オフシモト》。許乃母登夜麻乃《コノモトヤマノ》。麻之波爾毛《マシハニモ》。能良奴伊毛我名《ノラヌイモガナ》。可多爾伊?牟可母《カタニイデムカモ》。
 
於布之毛等《オフシモト》は、大※[木+若]《オフシモト》なり、布《フ》と保《ホ》と、東歌には、通(ハ)し云り、と岡部氏云り、(逢時《アフシダ》を阿抱思太《アホシダ》、如《ナスv匍《ハフ》を波抱能須《ハホノス》といへる類、其(ノ)餘にも布《フ》と保《ホ》と通はし云たる例、これかれあり、)之毛等《シモト》ほ、字鏡に、※[木+若](ハ)志毛止《シモト》、※[代/木](ハ)志毛止《シモト》、景行天皇(ノ)紀に、茂林《シモトハラ》、雄略天皇(ノ)紀に、弱木林《シモトハラ》、枕冊子に、もゝの木わかだちて、いとしもとがちにさし出たる、かたつかたはあをく、今かたえは、こくつやゝかにして云々、さ(115)てこは、知智乃實乃父波々蘇葉乃母《チチノミノチヽハヽソバノハヽ》などいふ如く、大※[木+若]本山《オホシモトモトヤマ》と、同じ詞を疊(ネ)云たる枕詞なるべし、○許乃母登夜麻乃《コノモトヤマノ》は、此本山乃《コノモトヤマノ》なり、此(レ)までは序なり、○麻之波爾毛《マシハニモ》は、上よりは、山の之波《シハ》とかゝれるなるべし、之波《シハ》とは、※[手偏+總の旁]て物の至(リ)極れるをいふ、底の極(ミ)にある土《ツチ》を志波邇《シハニ》といひ、(古事記應神天皇(ノ)條に見ゆ、)年の極(ミ)の月を之波須《シハス》といふも、皆同言なり、されば、此《コヽ》は山の奥の至(リ)極(マ)れる謂《ヨシ》に、いひつゞけたるなるべし、四極《シハツ》山、師齒迫《シハセ》山などいふも、さる謂より負たる山(ノ)名なるべし、此等にても、山に之波《シハ》といふことのありしを思ふべし、(眞柴《マシバ》といふ意にかゝれるといふ説は、從《ヨリ》がたし、柴は之婆《シバ》なるを、此には、波《ハ》の清音(ノ)字を用ひたればなり、)さて承たる意は、眞吝《マシハ》にもなり、本居氏、此(ノ)下に、安之比奇能夜麻可都良加氣麻之波爾母衣可多伎可氣乎於吉夜可良佐武《アシヒキノヤマカヅラカゲマシハニモエカタキカゲヲオキヤカラサム》、ともありて、ともに清音の波(ノ)字をかければ、數《シバ》には非ず、故(レ)思ふに、俗に物を惜むを、しはきといふと同言にて、名を告る事を惜みて、いさゝかも告ぬ、妹が名といへるなるべし、下なるも、いさゝかも得がたきにて聞ゆるなり、少しなりともと思ふに、少しも得ぬは、かなたより惜みて、しはき意有なり、と云り、○可多爾伊?牟可母《カタニイデムカモ》は、兆《カタ》に將出《イデム》かもなり、可多《カタ》は、卜兆《ウラカタ》なり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、いかで告知せよかしと思へども、とかく吝《ヲシ》みて、いさゝかも告ぬ妹が名も、卜者《ウラノシ》に令《オホ》せて、うらなはしめば、その卜兆に出むか、さても、さばかり吝《シハ》く惜まずとも、ありぬべき事なるを、といふなるべし、すべて男の心をうけひかぬかぎり(116)は、女(ノ)名を告知さぬ古(ヘ)のならはしなるが故に、かくいへるなるべし、
 
3489 安豆左由美《アヅサユミ》。欲良能夜麻邊能《ヨラノヤマヘノ》。之牙可久爾《シガカクニ》。伊毛呂乎多?天《イモロヲタテテ》。左禰度波良布母《サネドハラフモ》。
 
安豆左由美《アヅサユミ》は、寄《ヨリ》といふ意に屬《カヽ》る枕詞なり、○欲良能夜麻《ヨラノヤマ》は、未(ダ)詳ならず、和名抄、に、遠江(ノ)國山香(ノ)郡|與利《ヨリ》、とあれば、もしは其(ノ)地の山ならむか、猶考(フ)へし、○之牙可久爾《シガカクニ》は、繁氣久爾《シゲカクニ》といふに同じ、○伊毛呂乎多?天《イモロヲタテテ》は、令《セ》2妹等立《イモラヲタヽ》1而《テ》なり、○左禰度波良布母《サネドハラフモ》は、左寐所拂《サネドハラフ》もなり、左《サ》は美稱、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、欲良の山の繁くて、物おそろしき木陰なるに、そこに妹を立せ置て、眞寐處《サネド》を拂ふに、さても心あわたゞしや、となり、此は自が家に妹を率て來て、さてまづ、其(ノ)家の外なる欲良の山の木蔭に、しばし妹を隱し置て、自《ミ》は家に入て、寐所の塵を拂ひ、夜床を設るさまをいふなり
 
3490 安都佐由美《アヅサユミ》。須惠波余里禰牟《スヱハヨリネム》。麻左可許曾《マサカコソ》。比等目乎於保美《ヒトメヲオホミ》。奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》。【柿本朝臣人麻呂歌集出也。】
 
奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》は、汝《ナ》を間《ハシ》に置《オケ》れなり、間《ハシ》に置《オク》は、間《ハシ》を隔て居《ヲラ》しむることなり、○歌(ノ)意は、汝を間を隔て、ひとつにをらぬは、今さしあたりて、しばしの間、人目の多きをはゞかりての事にこそあれ、末遂には、相宿せむ物を、となり、
 
(117)3491 楊奈疑許曾《ヤナギコソ》。伎禮波伴要須禮《キレバハエスレ》。余能比等乃《ヨノヒトノ》。古非爾思奈武乎《コヒニシナムヲ》。伊可爾世余等曾《イカニセヨトソ》。
 
伎禮婆伴要須禮《キレバハエスレ》は、七(ノ)卷に、丸雪降遠江吾跡川楊雖刈亦生云余跡川楊《アラレフリトホツアフミノアドガハヤナギカレヽドモマタモオフチフアドカハヤナギ》、また二(ノ)卷に、石橋生靡留《イハバシニオヒナビケル》、玉藻毛叙絶者生流《タマモモゾタユレバオフル》、打橋生乎烏禮流《ウチハシニオヒヲヲレル》、川藻毛叙干者波由流《カハモモゾカルレバハユル》、とあるに似たり、○歌(ノ)意は、楊こそ、その木を伐(リ)取ば、又其(ノ)根より生出て榮ゆるものなれ、人(ノ)身の死ては、又|生《ウマ》るといふことは、さらになき物を、吾を戀死に死《シナ》せむとするは、そもいかにせよとての事ぞ、となり、四(ノ)卷に、空蝉の世やも二ゆく何すとか、妹にあはずてわが獨寢む、此こゝろをもておもふべし、と契冲云りき、
 
3492 乎夜麻田乃《ヲヤマダノ》。伊氣能都追美爾《イケノツツミニ》。左須楊奈疑《サスヤナギ》。奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》。奈等布多里波母《ナトフタリハモ》。
 
乎夜麻田乃《ヲヤマダノ》は、小山田之《ヲヤマダノ》なり、さて、乎《ヲ》は小筑紫《ヲツクシ》、小泊瀬《ヲハツセ》などいふ小《ヲ》にて、山田《ヤマダ》は地(ノ)名なるべし、和名抄に、遠江(ノ)國周智(ノ)郡、武藏(ノ)國入間(ノ)郡に、山田、(也萬多《ヤマダ》)上總(ノ)國市原(ノ)郡山田、(夜萬多《ヤマグ》)又同國海上(ノ)郡、上野(ノ)國山田(ノ)郡、下野(ノ)國那須(ノ)郡、陸奥(ノ)國磐瀬(ノ)郡、同國菊多(ノ)郡、同國磐井(ノ)郡などにも、山田(ノ)郷あり、此(ノ)中なるべし、○左須楊奈疑《サスヤナギ》は、十三に、刺楊根張梓矣《サスヤナギネハリアヅサヲ》、○奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》は、成も不v成もなり、○奈等布多里波母《ナトフタリハモ》は、汝と二人はもなり、波母《ハモ》は、歎息きて尋ね慕ふ意のある辭なり、○歌(ノ)意(118)は、本句(ノ)は序にて、男女の中らひの、末遂に成就《ナリトヽナ》ふとも、成就はずとも、よしや後はとまれ、汝と吾と二人、心はいつまでも變《カハ》らじと吾は思ふを、そも汝はいかに思ふや、と云るなり、上よりのつゞきは、刺たる楊のよく生立|長《ノブ》るを成《ナル》といひ、生つかで枯るゝを不v成(ラ)と云(ヘ)ば、男女の中らひの、成不v成にいひつゞけたり、古今集に、おふのうらにかたえさしおほひ成梨の成も成ずも宿てかたらはむ、
 
3493 於曾波夜母《オソハヤモ》。奈乎許曾麻多賣《ナヲコソマタメ》。牟可都乎能《ムカツヲノ》。四比乃故夜提能《シヒノコヤデノ》。安比波多家波自《アヒハタケハジ》。
 
於曾波夜母《オソハヤモ》は、遲速《オソハヤ》もなり、遲くとも速くとも、汝が意の任《マヽ》といふなり、○牟可都乎之《ムカツヲノ》は、向峯之《ムカツヲノ》なり、七(ノ)卷に、詠v岳(ヲ)、片崗之此向峯椎蒔者《カタヲカノコノムカツヲニシヒマカバ》云々、○四比乃故夜提能《シヒノコヤデノ》は、椎之小枝之《シヒノコヤデノ》なり、さて相|差《タガフ》といはむ料に、まづいふなり、不《ズ》v差(ハ)の不《ズ》まではかゝらず、布留《フル》の早田《ワサダ》の穗には出ずの例なり、さてかくつゞけたる意は、椎の小枝は甚繁くて、差々《タガヒ/\》に指かはすものなればいへり、(契冲も、岡部氏も、椎の葉の、色もかへぬにたとへたり、と云れど、あたらず、又本居氏は、椎は春を過て、夏秋までも、よく芽の出て、小技となるものなる故に、遲くとも逢むのたとへにせるなり、と云れど、それも行過たる考(ヘ)なり、)○安比波多家波自《アヒハタケハジ》は、相違(ヒ)は爲じ、といふ意なり、さて不《ジ》v違《タガハ》を、東詞なれば、多家波自《タケハジ》と云るか、又は家は我(ノ)字を誤れるにても有(ル)べし、(我を家に誤れるこ(119)と、集中に例最多し、此上に云ることを、考(ヘ)合(ス)べし、)○歌(ノ)意は、遲くとも速くとも、いつまでも汝が意に任せて、汝をこそ待め、心の變《タガ》ふ事は、さらにあらじ、となり、
〔或本歌曰。於曾波也母《オソハヤモ》。伎美乎思麻多武《キミヲシマタム》。牟可都乎能《ムカツヲノ》。思比乃佐要太能《シヒノサエダノ》。登吉波須具登母《トキハスグトモ》。〕
登吉波須具登母《トキハスグトモ》は、時者雖v過《トキハスグトモ》にて、椎の枝のさす時節あるをもて、いひかけたり、椎の佐枝之《サエダノ》は、只時といふ言のみへ係れるなり。(説々あれど、わろし、)
 
3494 兒毛知夜麻《コモチヤマ》。和可加敝流?能《ワカカヘルテノ》。毛美都麻?《モミツマテ》。宿毛等和波毛布《ネモトワハモフ》。汝波安杼可毛布《マハアドカモフ》。
 
兒毛知夜麻《コモチヤマ》は、山(ノ)名なるべし、其(ノ)地は未(ダ)詳ならず、○和可加敝流?能《ワカカヘルテノ》は、若?冠木之《ワカカヘルテノ》なり、此(ノ)木の事、品物解に具(ク)註り、さて此(ノ)集などの頃までは、可敝流?《カヘルテ》とのみいひしを、やゝ後には訛略《ヨコナマリ》て、可敝?《カヘテ》と云るなり、八(ノ)卷にも、吾屋戸爾黄變蝦手《ワガヤドニモミツカヘルテ》、とよめり、○歌(ノ)意は、夏の初(メ)、?冠木《カヘルテ》の若葉の、秋の未にいたりて、もみぢせむまで、共に寢むと思ふを、汝はなにとおもふぞ、となり、
 
3495 伊波保呂乃《イハホロノ》。蘇比能和可麻都《ソヒノワカマツ》。可藝里登也《カギリトヤ》。伎美我伎麻左奴《キミガキマサヌ》。字良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》。
 
伊波保呂乃《イハホロノ》、こは略解にも云る如く、上に、伊香保呂乃蘇比乃波里波良《イカホロノソヒノハリハラ》、とよめれば、此(ノ)歌も、本は伊香保呂乃《イカホロノ》なりけむ、されど昔より、伊波保呂《イハホロ》と歌ひ誤り傳へて、國土未勘の中には入(レ)る(120)なるべし、(但し略解に、波は、何の誤ならむ、と云るは、誤なり、そは上にも、伊香保《イカホ》、伊加保《イカホ》、伊加抱《イカホ》なども書て、伊何保《イカホ》と濁音の何(ノ)字を書る例なければなり、)○蘇比能和可麻都《ソヒノワカマツ》は、副之若松《ソヒノワカマツ》なり、(新撰集に、春毎にかどへ來し間に人ともにぞ老しにける峯の若松、)さて限《カギリ》とつゞけたる意は、契冲が、松を待にいひなせる事、此(ノ)集に尤多ければ、待限《マツカギリ》とや、との意なり、と云る如し、(岡部氏の、岨岸をかぎりに、小松の多く立し所を、今我中のかぎりなるに、いひよせたり、と云るは、謂《イハ》れず、)○宇良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》は、心許無《ウラモトナク》もなり、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、心長く待々て、今夜まで、つひに君が來まさねば、今は待夜の限に至れるにやあるらむ、よもや今夜までには、來ますことのあらむと思ひしを、さもなきは、今はつれなく思ひ離せしにや、さても心許なき事や、となり、
 
3496 多知婆奈乃《タチバナノ》。古婆乃波奈里我《コバノハナリガ》。於毛布奈牟《オモフナム》。己許呂宇都久志《ココロウツクシ》。伊?安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》。
 
多知婆奈乃《タチバナノ》は、和名抄に、武藏(ノ)國橘樹(ノ)郡橘樹(ハ)、多知婆奈《タチバナ》、とあれば、其(ノ)地|之《ノ》と云なるべし、(橘は葉の小《チヒサ》ければ、橘之小葉《タチバナノコバ》と云かけたるにもあるべきかとおもへど、なほ橘、といふ地(ノ)名なるべし、)○古婆乃波奈里《コバノハナリ》、岡部氏、古婆《コバ》は地《ノ》名なり、と云り、今もさる名の地ありや、よく尋ぬべし、波奈里《ハナリ》は、童丱放《ウナヰハナリ》をいふなり、少女の、いまだ振分髪にてあるをいふ、○於毛布奈牟《オモフナム》は、思ふらむ(121)といふに同じ、○己許呂宇都久志《ココロウツクシ》は、心愛《ココロウツクシ》しなり、女の心が愛しく憐なり、といふなり、○伊?安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》は、乞々《イデ/\》吾は將v往となり、往奈《イカナ》は、往牟《イカム》を急き云るなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3497 可波加美能《カハカミノ》。禰白路多可我夜《ネジロタカガヤ》。安也爾阿夜爾《アヤニアヤニ》。左宿左寐底許曾《サネサネテコソ》。己登爾低爾思可《コトニデニシカ》。
 
可波加美能《カハカミノ》は、一(ノ)卷に、河上乃湯都磐村二《カハカミノユツイハムラニ》、四(ノ)卷に、河上乃伊都藻之花乃《カハカミノイツモノハナノ》、などあるに、同じ、加美《カミ》は、上(ツ)瀬をいふにもあらず、又|上方《ウハヘ》をいふにもあらず、唯河邊などいはむが如し、○禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》は、根白高草《ネジロタカガヤ》なり、(夫木集に、秋深き河上遠く野分してやすくもたゝぬねじろたかゞや、)川邊の草は、水に洗(ハ)れて、根の白くあらはれ見ゆる故、根白《ネジロ》といふ、高とは、長く生立たるをいふなり、さて此句の、次の一句を隔て、左宿左寐《サネサネ》といふへ係れる序なり、高草《タカガヤ》の、左萎左萎《サナエサナエ》といふ意のつゞけなり、(略解に、かとあと音通へば、かやあやと言を重ねたる序なり、と云るは、あらず、)○安也爾阿夜爾《アヤニアヤニ》は、いつといふ分定《サダマリ》もなく、といふよしなり(抑々|安也《アヤ》は文《アヤ》にて、彼方此方《トザマカクザマ》入ちがひて、とり決《キハ》め難きよりいふ詞なり、されば、或は彼(ノ)時、或は此(ノ)時と、とり定めたる事なく、いつも親しく相宿したるよしなり、安也《アヤ》に可畏《カシコ》きなどいふも、左右と、一方にとし決《キハ》めたる事なく、奇しまるゝまで可畏きといふ意にて、もと同言なり、○歌(ノ)意は、いつといふ分定《サダマリ》(122)もなく、あまりに親しく、ねもころに二人がさね/\し故にこそ、遂に人言にいはれて、名の立にけれ、となり、
 
3498 宇奈波良乃《ウナハラノ》。根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》。安麻多阿禮婆《アマタアレバ》。伎美波伎須良酒《キミハキスラス》。和禮和須流禮夜《レワスルレヤ》。
 
宇奈波良乃《ウナハラノ》は、海原之《ウナハラノ》にて、こゝは海際《ウミギハ》を、かく云たるなり、○根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》は、萎柔子菅《ナエハラコスゲ》なり、次の歌の狹萎草《サネガヤ》、又|狹萎葛《サネカヅラ》などいふ例をも、考(ヘ)合(ス)べし、なほ二(ノ)卷に、玉匣將見圓山乃狹名葛《タマクシゲミムロノヤマノサナカヅラ》、とある歌の條に云るをも、併(セ)考(フ)べし、葉の柔弱《ヤハラカ》に、萎々《ナエ/\》となびく菅をいふ、(契冲が、海際に生たる菅は、鹽にあひて、根のやはらかなる、といふなり、催馬樂に、ぬき川のきしのやはら田やはらかに、ぬるよはなくておやさくるつま、と云るもこれなり、と云れど、あたらず、又略解に、夜波良《ヤハラ》は泥の事にて、其(ノ)泥に生る菅なり、とあるは、謂《イハ》れず、)さて此は、弱好《ナヨヤカ》なる女を譬たるなり、女を菅に譬へたるは、七(ノ)卷に、眞珠付越能菅原吾可苅人之苅卷惜菅原《マタマツクオチノスガハラアレカラズヒトノカラマクヲシキスガハラ》、十三に、師名立都久麻左野方《シナタツツクマサヌガタ》、息長之遠智能小菅《オキナガノヲチノコスゲ》、不連爾伊苅持來《アマナクニイカリモチキ》、不敷爾伊苅持來而《シカナクニイカリモチキテ》、置而吾乎令偲《オキテアレヲシヌハス》、息長之遠智能子菅《オキナガノヲチノコスゲ》、古事記仁徳天皇(ノ)御歌に、夜多能比登母等須宜波古母多受多知迦阿禮那牟阿多良須賀波良《ヤタノヒトモトスゲハコモタズタチカアレナムアタラスガハラ》、(此は、八田(ノ)若郎女を、譬(ヘ)たまへるなり、)など猶有(リ)、○安麻多阿禮婆《アマタアレバ》は、古今集に、花がたみ目ならぶ人のあまたあればわすられぬらむ數ならぬ身は、○和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》は、吾《ワレ》所《レ》v忘《ワスル》やは、(123)得忘れずなり、○歌(ノ)意は、彼《ソコ》にも、此《コヽ》にも、弱好《ナヨヤカ》なる、美《ウルハ》しき女のあまたあれば、吾(ガ)事を、君が忘れ賜ふはうはべなり、されど吾は君が事を忘れむやは、しばしも得忘れず、といへる、女の歌なるべし、
 
3499 乎可爾與世《ヲカニヨセ》。和我可流加夜能《ワガカルカヤノ》。佐禰加夜能《サネカヤノ》。麻許等奈其夜波《マコトナゴヤハ》。禰呂等敝奈香聞《ネロトヘナカモ》。
 
乎可爾與世《ヲカニヨセ》とは、乎可爾《ヲカニ》は、岡にて、といふ意なり、岡にて刈草の、といふなり、與世《ヨセ》は、引よせて刈よしなり、刈の言へ連けて意得べし、彼方に靡きたる草を、吾(ガ)方に引寄て刈意なり、○佐禰加夜能《サネカヤノ》は、狹萎草之《サナエカヤノ》なり、狹《サ》は眞《マ》に通ふ詞、禰《ネ》は萎《ナエ》の縮れるにて、狹萎葛《サネカヅラ》といふ狹萎《サネ》に同じく、萎々《ナエ/\》となびきたる草をいふ、さて此(レ)までは、奈其夜《ナゴヤ》をいはむ料の序のみなり、○麻許等奈其夜波《マコトナゴヤハ》は、眞柔者《マコトナゴヤハ》なり、四(ノ)卷に、蒸被奈胡也我下丹雖臥《ムシブスマナゴヤガシタニフセレドモ》、とよめり、○禰呂等敝奈香母《ネロトヘナカモム》は、將《ム》v寢《ネ》と不《ヌ》v言《イハ》かもなり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、吾に靡きたるさまには見ゆれども、眞に心の底とけて、柔《ナゴヤカ》に相寢せむとは言(ハ)ぬかな、さても心づよき女や、となり、
 
3500 牟良佐伎波《ムラサキハ》。根乎可母乎布流《ネヲカモヲフル》。比等乃兒能《ヒトノコノ》。宇良我奈之家乎《ウラガナシケヲ》。禰乎遠敝奈久爾《ネヲヲヘナクニ》。
 
根乎可母乎布流《ネヲカモヲフル》は、根《ネ》を竟《ヲフ》るかも、といふ意なるを、かく云りと見ゆ、さて根を竟《ヲフ》るとは、紫草《ムラサキ》(124)は、根をもて、衣類など染るを主とするを、その根の色のあるかぎり、染つくすをもて、竟るといへり、可は疑(ノ)辭にて、母《モ》の辭に、歎息の意を含めるなり、さて此(レ)までは、寢《ネ》を不《ヌ》v竟《ヲヘ》といはむ料《シロ》とす、○宇良我奈之家乎《ウラガナシケヲ》は心悲《ウラガナシ》きをにて、心に愛憐《ウツクシ》みおもふ女をいふ、○禰乎遠敝奈久爾《ネヲヲヘナクニ》は、寢ることを不v竟事なるを、と云るにて、諸共に寢ることの、末とほらぬよしなり、(略解に、戀れども、共寢する事を、なしはたさぬなり、と云るは、いさゝか違へり、)○歌(ノ)意は、紫草は根を主として、根《ネ》といふ名のごとく、根の色のあるかぎり、染つくすものにてあるらむぞ、吾(ガ)男女の中らひにも、寢《ネ》といふ名はあれども、愛しき女と、相寢する事の、末通らぬ事なるをおもへば、さても寢《ネ》といふ名の、益なき物哉、となり、
 
3501 安波乎呂能《アハヲロノ》。乎呂田爾於波流《ヲロダニオハル》。多波美豆良《タハミヅラ》。比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》。安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》。
 
安波乎呂能《アハヲロノ》とは、安波《アハ》は、和名抄に、常陸(ノ)國那珂(ノ)郡|阿波《アハ》、とある處なるべし、さて其(ノ)地の岡にて、安波岡呂之《アハヲロノ》といふなり、呂《ロ》は助辭なり、○乎呂田爾於波流《ヲロダニオハル》は、岡呂田《ヲロダ》に生《オフ》るなり、この呂《ロ》も例の助辭にて、岡田《ヲカダ》といふに同じく、安波岡《アハヲ》にある田をいふなり、山田《ヤマダ》などもいふ例の如し、(小田《ヲダ》といふにはあらじ、)○多波美豆良《タハミヅラ》は、蔓草の名なるべし、(略解に、たはみづらは、玉葛に同じかるべきにや、麻《マ》と婆《バ》の濁音と通(ヘ)、と云るは、推量説なり、)さて此は、引《ヒカ》ば靡々《ヌル/\》といはむため(125)の序なり、○安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》は、吾《アレ》を言勿絶《コトナタエ》なり、吾《ワレ》に言問《コトヾヒ》を絶《タツ》ことなかれの意なり、○歌(ノ)意は、此方《コナタ》に柔軟《ヤハラカ》に靡(キ)依て、いつまでも吾に言問を絶(ツ)事なかれ、となり、此(ノ)上に、伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《イリマヂノオホヤガハラノイハヰヅラヒカバヌルヌルワニナタエソネ》、とあるに、大かた同じ歌なり、
 
3502 和我目豆麻《ワガメヅマ》。比等波左久禮杼《ヒトハサクレド》。安佐我保能《アサガホノ》。等思佐倍己其登《トシサヘコゴト》。和波佐可流我倍《ワハサカルガヘ》。
 
和我目豆麻は、ワガメヅマ〔五字右○〕と訓て、目に就て吾(ガ)思ふ妻なり、○安佐我保能《アサガホノ》は、本居氏、此(ノ)句を、初(ノ)句の上におきて見べし、近く同じ句法の例、此(ノ)末に、奈夜麻思家比登都麻可母與許具布禰能《ナヤマシケヒトヅマカモヨコグフネノ》云々、といふも、三(ノ)句は、初(ノ)句の序なり、考(ヘ)合(ス)べし、朝貌の花の如き、目妻《メヅマ》といふなり、と云り、○等思佐倍己其登《トシサヘコゴト》は、年副許多《トシサヘコヽダ》なり、己許杼《ユコド》といふべきを、其《ゴ》を濁り、登《ト》を清るは、東語なればなるベし、さて此(ノ)句は、第二(ノ)句の上にめぐらして心得べし、○和波佐可流我倍《ワハサカルガヘ》は、吾者放《ワハサカ》らむやは放らずの意の詞なり、此(ノ)上に、可美都氣努《カミツケヌ》云々」於也者左久禮騰和波左可流賀倍《オヤハサクレドワハサカルガヘ》、とよめるにおなじ○歌(ノ)意は、もとより目につきて、愛しと吾(ガ)思ふ女なれば、そこらくの年月久しく、とかくいひて、世(ノ)間の人は、中を放むとすれど、其に障りて、中を離む事かは、となり、
 
3503 安齋可我多《アセカガタ》。志保悲乃由多爾《シホヒノユタニ》。於毛敝良婆《オモヘラバ》。宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》。伊呂爾?米也母《イロニデメヤモ》。
 
(126)安齊可我多《アセカガタ》は、未(ダ)詳ならず、東(ノ)國の地(ノ)名にやあらむ、十一に、往而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテクレバコヒシキアサカガタヤマコシニオキテイネカテヌカモ》、とよめるは、同處か異處か、○志保悲乃由多爾《シホヒノユタニ》は、潮干之寛《シホヒノユタ》になり、潮の滿來るときは、浪(ノ)音などの動《サワ》がしきを、潮の引(キ)干たる時は、その反《ウラ》にて、靜なる意もて、寛《ユタ》とは、つゞけたるにやあらむ、古事記傳、清寧天皇(ノ)條、志毘(ノ)臣(ガ)歌に、意富岐美能許々呂袁由良美《オホキミノコヽロヲユラミ》、とある處に、今の歌を引て、由良美《ユラミ》は、此(ノ)由多爾思《ユタニオモフ》、といふと同意なり、由良《ユラ》は由多《ユタ》と通ひて、迫《セハ/\シ》く、心いられし給はず、長《ノド》けく緩《ユル》やかにおほすよしなり、さて由多《ユタ》と由良《ユラ》と通へるは、萬葉(ノ)七に、湯谷絶谷浮蓴《ユタニタユタニウキヌナハ》、十一に、大舟之由多爾將有《オホブネノユタニアルラム》、など云ると、大舟乃由久良由久艮爾《オホブネノユクラユクラニ》、と云ると通(ヒ)、又、多欲良《タヨラ》、多由良《タユラ》といふも、多くて寛大《ユタカ》なる意にて、由多《ユタ》と通へるを思(フ)べし、と云り、(猶委(ク)論へり、)○宇家良我奈乃乃《ウケラガハナノ》は、色に出をいはむ料なり、○歌(ノ)意は、安齊可潟《アセカガタ》の潮干の如く、寛《ユタカ》に緩《ノド》やかに人をおもはゞ、色に出むやは、堪しのびて色には出さじを、あまりに迫切《セハ/\シ》く思ひせまりたればこそ、色に出づれ、となり、古非思家波《コヒシケバ》云々宇家良我波奈乃伊呂爾豆奈由米《ウケラガハナノイロニヅナユメ》、
 
3504 波流敝左久《ハルヘサク》。布治能宇良葉乃《フヂノウラバノ》。宇良夜須爾《ウラヤスニ》。左奴流夜曾奈伎《サヌルヨソナキ》。兒呂乎之毛倍婆《コロヲシモヘバ》。
 
宇良夜須爾《ウラヤスニ》は、心安《ウラヤス》になり、神武天皇(ノ)紀に、昔(シ)》伊弊諾(ノ)尊、目(テ)2此(ノ)國1曰《ナヅケタマヒキ》2日本|者《ハ》浦安《ウラヤスノ》國(ト)1云々、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は、序にて、女の事を、一(ト)すぢに戀しく思へば、心安く快寐《ウマイ》する夜ぞ、一夜もなき、とな
(127)り、後撰集に、春日さす藤の末葉《ウラバ》の心《ウラ》とけて君しおもはゞ我もたのまむ、
 
3505 宇知比佐都《ウチヒサツ》。美夜能瀬河泊能《ミヤノセガハノ》。可保婆奈能《カホバナノ》。孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》。伎曾母許余比毛《キソモコヨヒモ》。
 
美夜能瀬河泊《ミヤノセガハ》は、未(ダ)詳ならず、東人に尋(ヌ)べし、○可保婆奈《カホバナ》は、今世にいふ晝顔《ヒルガホ》のことゝ見えたり、其は余が委(キ)論ありて、品物解にいひたりき、披(キ)考(フ)べし、さて此(ノ)花、日中は能咲て、暮方には眠り、萎《シホ》むものなれば、戀て眠(ル)と云(ハ)む序とせるならむ、(又中山(ノ)嚴水は、可保《カホ》を孤悲《コヒ》と音通ば、可保花《カホハナ》の戀而《コヒテ》とうけたるなるべし、と云り、いかゞあらむ、)○伎曾母許余比毛《キソモコヨヒモ》は、昨夜《キソ》も今夜《コヨヒ》もなり、伎曾《キソ》は、既く具(ク)云りき、○歌(ノ)意は、吾(ガ)障(ル)ことありて、女の許に得行ざる間、昨夜も今夜も、吾を戀しく思ひて宿るらむか、となり、
 
3506 爾比牟呂能《ニヒムロノ》。許騰伎爾伊多禮婆《コドキニイタレバ》。波太須酒伎《ハタススキ》。穗爾?之伎美我《ホニデシキミガ》。見延奴己能許呂《ミエヌコノゴロ》。
 
爾比牟呂《ニヒムロ》は、十一に、新室壁草刈邇《ニヒムロノカベクサカリニ》、また、新室蹈靜子之《ニヒムロヲフミシヅムコガ》、などありて、彼處に云りき、○許騰伎爾伎伊多禮婆《コドキニイタレバ》は、契冲が、蠶時《コドキ》に至ればなり、と云るぞ宜き、蠶時《コドキ》は養蠶《コカヒ》する時の義なり、○波太須酒伎《ハタススキ》は、枕詞なり、神功皇后(ノ)紀に、幡萩穗出吾也《ハタスヽキホニデシアレヤ》、○穗爾?之伎美我《ホニデシキミガ》とは、凡て心(ノ)裏に含て思ふ事を、打(チ)出て顯はすを、穗に出るといへば、此は互に相思ふ心を、打(チ)明したる君が、といふなり、(128)○歌(ノ)意は、新室の蠶時に至れば、事しげくして、互に相思ふ心を明して、打とけたる君が此(ノ)頃見え來ぬ、となり、養蠶する時には、新室を造りて、(今も山里などにて、多く蠶養(フ)處には、新にその室を構ふることなり、)その業する人は、ひたすら室(ノ)裏に籠りのみ居て、他業にはかゝはらずてあれば、出ることもなく、相見るととのかたきなり、
 
3507 多爾世婆美《タニセバミ》。彌年爾波比多流《ミネニオヒタル》。多麻可豆良《タマカヅラ》。多延武能己許呂《タエムノココロ》。和我母波奈久爾《ワガモハナクニ》。
 
本(ノ)句は、絶《タエ》を云むための序なり、意は、谷が狹さに、蔓(ヒ)餘(リ)て、峰までに蔓(ヒ)上《ノボ》りてある玉葛、と云(フ)なり、十二に、谷迫峰邊延有玉葛令蔓之有者年二不來友《タニセバミミネヘニハヘルタマカヅラハヘテシアラバトシニコズトモ》、とあるに同じ、十一に、山高谷邊蔓在玉葛絶時無見因毛欲得《ヤマタカミタニヘニハヘルタマカヅラタユルトキナクミムヨシモガモ》、とあるは、山が高さに、峯までは得蔓(ヒ)上らずして、谷邊に蔓(ヘ)る、と云るにて、今とは意|表裏《ウラウヘ》なり、伊勢物語に、谷せばみ峯迄蔓る玉葛絶むと人に吾思はなく、とあるは、今の歌を、少し取換(ヘ)たるなり、○多延武能己許呂《タエムノココロ》は、將《ム》v絶《タエ》といふ心、と云(フ)意なり、かやうに云る事、古(ヘ)の一(ノ)格なり、後々も此格に云る事多し、後撰集詞書に、法師にならむの心有(リ)ける人、、蜻蛉の日記に、云々といひて見せむの心ありければ、榮花物語に、わかき人々は、又人の衣の色にほひにや、おとらむまさらむのいどみ、胸さわがしかるべし、など見えたり、○歌(ノ)意は、いつまでも中絶むと云(フ)心を、吾は思はぬことなるを、何を疑ひて、いぶかり思ふらむ、と心を含餘し(129)たるなり
 
3508 芝付乃《シバツキノ》。御宇良佐伎奈流《ミウラサキナル》。根都古具佐《ネツコグサ》。安比見受安良婆《アヒミズアラバ》。安禮古非米夜母《アレコヒメヤモ》。
 
芝付《シバツキ》は、地(ノ)名なるべし、○御宇良佐伎《ミウラサキ》は、和名抄に、相摸(ノ)國御浦(ノ)郡御浦(ハ)美宇良《ミウラ》、とあれば、そこの崎をいふにや、さて芝付《シバツキ》といふも、其處にあるにや、國人に問べし、○根都古具佐《ネツコグサ》は、草(ノ)名なるべし、(根の著(ク)草といふ意にて、只芝のことを、重ね云と云説は、用べからず、)さてこの草は未(ダ)詳ならねど美《ウツク》しき草にて、女をたとへたるなるべし、)岡部氏の、にこ草を、ねこ草といへるにて、相見て、にこみしをいふならむ、と云れど、迂曲《ミダリ》なり、○中山(ノ)嚴水が、陸奥(ノ)國鹽竈の祠官藤塚(ノ)知明(ガ)云、彼(ノ)國富山の麓の、海に出たる岬を三浦崎《ミウラサキ》と云り、又そのあたりにて、白頭翁をねこ草といへり、ねこぐさ、やがて根つこ草なるべしと云り三浦崎は、それともさだめがたけれども、ねつこ草は、知明が云る如くなるべし、さて彼(ノ)國宮城(ノ)郡|志波彦《シハヒコノ》神社あり、芝付によしあるにや、さて御浦は、彼(ノ)神の御浦なるべし、と云り、いかゞあらむ、珍しき説なれば、此《コヽ》に擧つ、)○歌(ノ)意は、美《ウツク》しき女に、はじめより相見ずしてあらば、かく戀しく思はむやは、さてもなつかしの女や、となり、相見ての後の心に比れば昔は物を思はざりけり、思(ヒ)合(ス)べし、
 
3509 久多夫須麻《クタブスマ》。之良夜麻可是能《シラヤマカゼノ》。宿奈敝杼母《ネナヘドモ》。古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》。安路許曾要志母《アロコソエシモ》。
 
(130)多久夫須麻《タクブスマ》は、栲布《タクヌノ》の衾《フスマ》の白《シラ》といふ意につゞきたる枕詞なり、仲哀天皇(ノ)紀に、栲衾新羅國《タクブスマシラキノクニ》、集中十五に、多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラキヘイマス》、出雲(ノ)國風土記に、栲衾志羅紀乃三崎《タクブスマシラキノミサキ》、などあり、皆|白《シラ》と係れるなり、荒木田氏、たく、衾新羅《フスマシラキ》といふは、栲布の衾の白き、といふ意としては、衾といふこと、無益の言となるなり、しらとは、領(ノ)字の意にて、十六に、商變餞爲跡之御法有者許曾《アキガヘリシラセトノミノリアラバコソ》云々、此(ノ)領(ノ)字を書るをもておもふに、しらきへつゞけたるは、領著《シリキ》の意なるべし、又此(ノ)歌のしら山風の云々は、の梓衾は、領著《シリキ》て寐ざれども、子等《コラ》が襲著《オソキ》のあるがよき、といふ意にて、領《シル》といふ意と聞かでは、しら山風の寐《ネ》なへどもといふつゞけ、いかにとも意得がたかるべしと、その謾筆にしるせり、○之良夜麻可是能《シラヤマカゼノ》は、白山風之《シラヤマカゼノ》なり、風之音《カゼノネ》といふ意に、宿《ネ》の言につゞけたるか、又荒木田氏(ノ)説に依ときは、其(ノ)意ならず、さて此(ノ)白山も、もしは越の白山にはあらぬにや、さらば、所由《ユヱ》ありて、越(ノ)國へ行たる男のよめる歌とすべし、○宿奈敝杼母《ネナヘドモ》は、雖《ドモ》v莫《ナヘ》v宿《ネ》なり、宿ざれども、と云むが如し、○古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》は、子等之襲著之《コラガオソキノ》にて、妹が形見におくりたる表服《ウハギ》を云べし、○安路許曾要志母《アロコソエキモ》は、有こそ善きもなり、志は、吉(ノ)字を、草書《ウチトケガキ》にて誤れるなるべし、上に許曾《コソ》といひたれば、必(ズ)要吉《エキ》とあるべき、格《サダマリ》なり、さて善《ヨキ》を要伎《エキ》と云ることも、古言には例多し、住吉《スミノエ》、日吉《ヒエ》など云も、善《ヨ》を要《エ》といひける故なり、母《モ》は歎息を含める助辭なり、○歌(ノ)意は、白山風の寒さに堪がたくて、宿ずしてはあれども、女の形見におくりたる衣服のあるこそ、さてもなつ(131)かしきことなれ、となり、又荒木田氏説に依(ル)ときは、白山風の寒きに、梓衾を領著《シリキ》て宿ざれども、と云るにて、其は上に云る如し、
 
3510 美蘇良由久《ミソラユク》。君母爾毛我母奈《クモニモガモナ》。家布由伎?《ケフユキテ》。伊母爾許等杼比《イモニコトドヒ》。安須可敝里許武《アスカヘリコム》。
 
歌(ノ)意は、大空の雲にてもがなあれかし、さらば今日行て、妹に物いひて、明日かへり來らむ物を、となり、これも遠(キ)國に旅にありて、家を思ひて云るなり、四(ノ)卷安貴(ノ)王(ノ)歌に、水空往雲爾毛欲成《ミソラユククモニモガモ》、高飛鳥爾毛欲成《タカトブトリニモガモ》、明日去而於味言問《アスユキテイモニコトドヒ》云々、とあるに同(ジ)哥なり、
 
3511 安乎禰呂爾《アヲネロニ》。多奈婢久君母能《タナビククモノ)》。伊佐欲比爾《イサヨヒニ》。物能《モノ》安〔□で囲む〕乎曾於毛布《ヲソオモフト》。等思乃許能己呂《トシノコノゴロ》。
 
安乎禰呂爾《アヲネロニ》は、青嶺呂《アヲネロ》になり、青山《アヲヤマ》の嶺《ネ》といはむに同じ、三(ノ)卷に、青山之嶺乃白雲《アヲヤマノミネノシラクモ》云々、○伊佐欲比爾《イサヨヒニ》は、猶豫不定《イサヨヒ》になり、去《ユカ》むとして去《ユキ》あへず、留《トヾマラ》むとして留《トヾマ》りあへぬをいふ、既く具(ク)云り、○物能の下、安は、衍字なり、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は、序にて、去(ク)ともなく留(ル)ともなく、心定らずして、此(ノ)年頃は、物思ひをする、となり、
 
3512 比登禰呂爾《ヒトネロニ》。伊波流毛能可良《イハルモノカラ》。安乎禰呂爾《アヲネロニ》。伊佐欲布久母能《イサヨフクモノ》。余曾里都麻波母《ヨソリヅマハモ》。
 
(132)比登禰呂爾《ヒトネロニ》は、一嶺呂《ヒトネロ》になり、男と女と、心を通(ハ)して相婚《アフ》を、某《カノヒト》と某《コノヒト》と一(ツ)ぞといふ、其(ノ)意なり、三(ノ)卷に、妹母我母一有加母《イモモアレモヒトツナレカモ》、とよめり、さて此を、たゞ一(ツ)といはずして、一嶺呂《ヒトネロ》としも云るは、次の青嶺呂《アヲネロ》に對へ縁《チナミ》て云るなり、○余曾里都麻波母《ヨソリヅマハモ》は、依妻《ヨソリヅマ》はもなり、波母《ハモ》は、歎(キ)て尋ね慕ふ意の辭なり、○歌(ノ)意は、妹と吾と一(ツ)ぞと、人には、云るゝ物ながら、なほ青嶺にかゝれる雲の、猶豫《イサヨフ》如く浮たゞよひて、それとたしかに、定めたる事もなきものを、その人のいひよするよそり妻は、いかに思ふやと、尋ねもとむるやうに云るなり、
 
3513 由布佐禮婆《ユフサレバ》。美夜麻乎左良奴《ミヤマヲサラヌ》。爾努具母能《ニヌグモノ》。安是可多要牟等《アゼカタエムト》。伊比之兒呂婆母《イヒシコロハモ》。
 
爾努具母能《ニヌグモノ》は、布雲之《ヌノグモノ》なり、布《ヌノ》を爾奴《ニヌ》と云ることは、上にも見えたり、さてこれは、布引はへたる如くに、棚引たる雲をいふ、旗雲《ハタグモ》なども云る類なり、さて雲は、暮に起(ツ)かと見れば、旦は減(エ)などして、起滅定なければ、絶といはむための序なり、○安是可多要牟等《アゼカタエムト》は、何《ナゼ》か將《ム》v絶《タエ》、となり、○歌(ノ)意は、何としてかは中絶む、いつまでもかはらじと、かたく契りいひし其(ノ)女は、何とてしか、心の變《カハ》りし如くにはなりぬらむ、と歎きて尋ね慕ふよしなり、
 
3514 多可伎禰爾《タカキネニ》。久毛能都久能須《クモノツクノス》。和禮左倍爾《ワレサヘニ》。伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》。多可禰等毛比?《タカネトモヒテ》。
 
(133)久毛能都久能須《クモノツクノス》は、雲《クモ》の著如《ツクノス》なり、○伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》は、君に將《ナ》v著《ツキナ》なり、奈那《ナナ》は、奈牟《ナム》を急《ニハカニ》云るなり、○歌(ノ)意は、高峯に雲の著如く、吾(ガ)身も雲になりて、君を高峯と思ひて、君に寄著なむ、さらばよ、となり、
 
3515 阿我於毛乃《アガオモノ》。和須禮牟之多波《ワスレムシダハ》。久爾波布利《クニハブリ》。禰爾多都久毛乎《ネニタツクモヲ》。見都追之努波西《ミツツシヌハセ》。
 
和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》は、將《ム》v忘《ワスレ》時者《シダハ》なり、十一に、面形之忘弖在者《オモカゲノワスレテアラバ》、○久爾波布利《クニハフリ》は、契冲が、國溢《クニハフリ》にて、國にみつるなり、と云る、其(ノ)意にて、國に、滿(チ)溢れて、峯に立由なり、崇神天皇(ノ)紀に、十年九月云々、斬《キリシカバ》2首過半《クビヲコヽダク》1屍骨多溢《ホネサハニアフリキ》、故(レ)號《ヲ》2其處《ソコ》1曰2羽振※[草がんむり/宛]《ハフリソノト》1、(羽振※[草がんむり/宛]《ハフリソノ》といふは、溢※[草がんむり/宛]《ハフリソノ》といふ義なるべし、これを古事記には、斬2波布理《キリハフリキ》其軍士《ソノイクサビトラヲ》1故(レ)號《ヲ》2其地《ソコ》1謂(フ)2波布理曾能《ハフリソノト》1、とあれば、彼(ノ)記に從(ル)るときは、屠※[草がんむり/宛]《ハフリソノ》といふ義なり、物を切分つやうのことを、波布流《ハフル》といへば、溢《ハフル》と屠《ハフル》とは、言は同じくて、もとより異意なり、これ古事記と、書紀と、その名は、起《ハジマ》れる由縁の、傳(ヘ)の異《カハ》れるが所以なり、)十八に、射水河雪消溢而逝水能伊夜末思爾乃未《イミヅガハユキケハフリテユクミヅノイヤマシニノミ》云々、(これ雪消て益れる水の、河に滿(チ)溢るゝよしなり、)又|波夫流《ハブル》といふことあり、別言なり、混ふべからず、(そは放ち棄遣《ステヤ》る意の言なり、古事記允恭天皇(ノ)條(ノ)歌に、意富伎美袁斯麻爾波夫良婆《オホキミヲシマニハブラバ》、續紀三十一詔に、彌麻之大臣之家内子等乎母波夫理不賜《ミマシオホマヘツキミノイヘヌチノコドモヲモハブリタマハズ》、失不賜慈波牟《ウシナヒタマハズメグミタマハム》、などある類、皆同言にて、今の俗言に、物を棄《スツ》るを、はうるといふ、即(チ)これ(134)にて物語書などにも、はぶらかすと多くいへる、皆同じ、これら言の趣、いたく異なるうへ、溢《ハフル》はフ〔右○〕の言清音、放《ハブル》はブ〔右○〕の言濁音なるを、本居氏、溢《ハフル》と放《ハブル》とを同言にして、古事記傳に解るは、いかにぞや、又|扇《ハフル》といふことあり、朝羽振《アサハフル》、夕羽振《ユフハフル》などいふそれなり、すべて溢《ハフル》、屠《ハフル》、扇《ハフル》は、各々別言なり、さて放《ハブル》は、清濁異なれば、もとより混《マギ》らかすまじき言なるをや、)○歌(ノ)意は、遠(キ)國に行賜ふとも、吾事を忘れ賜ふ事は、あらじなれども、年久しくなりなば、もし自然に、面貌の形忘れたまふ事もあらむに、其時はいよ/\慕はしくおぼしめさむを、外に吾(ガ)形見のなければ、嶺に立雲を、吾と思ほして、見つゝしのび賜へ、となり、夫の旅行に、とゞまれる妻のよめるなり、此(ノ)下に、於毛可多能和須禮牟之太波《オモカタノワスレムシタハ》云々、と云る歌は、大かた今と同じ、
 
3516 對馬能禰波《ツシマノネハ》。之多具毛安良南敷《シタグモアラナフ》。可牟能禰爾《カムノネニ》。多奈婢久君毛乎《タナビククモヲ》。見都追思怒波毛《ミツツシヌハモ》。
 
對馬能禰波《ツシマノネハ》は、對馬之嶺者《ツシマノネハ》にて、西海道の對馬《ツシマ》をいふなるべし、○之多具毛安良南敷《シタグモアラナフ》は、契冲が、下雲《シタグモ》あらなく、といふことばなり、下に雲はなし、上の嶺にたなびく雲を見て、しのばむとよめるなり、と云り、(岡部氏は、具は久の誤、上の波を下へ付て、愛《ハシタ》くもあら無《ナフ》と心得べし、と云れど、強解なり、契冲の説に從(ル)べし、)○思怒波毛《シヌハモ》は、(怒(ノ)字、官本には努と作り、波(ノ)字、一本に婆と作るはわろし、)將《ム》v偲《シヌハ》なり、牟《ム》と云べきを毛《モ》と云るは、東語ならでも、二(ノ)卷に、誰戀爾有目《タガコヒナラモ》、と云るを(135)はじめて、往々見えたり、○歌(ノ)意は、對馬嶺《ツシマネ》に下雲はなし、上の嶺に遠く棚引たる雲を、別れ來にし女の形見と見つゝ偲ばむ、となるべし、
 
3517 思良久毛能《シラクモノ》。多要爾之伊毛乎《タエニシイモヲ》。阿是西呂等《アゼセロト》。己許呂爾能里?《ココロニノリテ》。許己婆可那之家《ココバカナシケ》。
 
阿是西呂等《アゼセロト》は、何《ナニ》と爲《セ》よとて、といはむに同じ、○許己婆可那之家《ココバカナシケ》は、許多悲《コヽダカナ》しきなり、○歌(ノ)意は、中絶にし妹なるものを、今更何とせよとてか、わが心に、妹が容儀のうかびて、そこばくかなしくおもはるらむ、となり、
 
3518 伊波能倍爾《イハノヘニ》。伊賀可流久毛能《イガカルクモノ》。可努麻豆久《カヌマヅク》。比等曾於多波布《ヒトソオタハフ》。伊射禰之賣刀良《イザネシメトラ》。
 
此(ノ)歌は、第三(ノ)句より下は、上の上野(ノ)國(ノ)歌に出て、全(ラ)同じ、さて本(ノ)二句は、他歌なりけむを、第三(ノ)句より下脱失て、混雜《ヒトツ》になれるなるべし、
 
3519 奈我波伴爾《ナガハハニ》。己良例安波由久《コラレアハユク》。安乎久毛能《アヲクモノ》。伊?來和伎母兒《イデコワギモコ》。安必見而由可武《アヒミテユカム》。
 
己良例安波由久《コラレアハユク》は、被《レ》v嘖《コラ》吾者往《アハユク》なり、汝が母に嘖《コロバ》れしかられて、吾はいぬる、といふなり、○安乎久毛能《アヲクモノ》は、青婁之《アヲクモノ》にて、さて次の句を隔て、相見《アヒミ》といふへ係れる詞なるべし、本居氏、青色の(136)雲は、無(キ)物なれども、たゞ大虚空《オホソラ》の蒼《アヲ》く見ゆるを、青雲と云なり、と云る如し、さて大空の青く見ゆるは、著く相向はるゝものなれば、相見と係れるなるべし、○伊?來和伎母兒《イデコワギモコ》は、乞來吾妹子《イデコワギモコ》なり、出來《イデコ》といふにはあらず、まがふべふろず、)○歌(ノ)意は、汝が母に嘖ばれしかられたれば、爲む方なく吾は出て去るを、乞々《イデ/\》此處に來れ吾妹子よ、せめてしばしなりとも、相見て往むぞ、となり、
 
3520 於毛可多能《オモカタノ》。和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》。於抱野呂爾《オホヌロニ》。多奈婢久君母乎《タナビククモヲ》。見都追思努波牟《ミツツシヌハム》。
 
於毛可多《オモカタ》は、面形《オモカタ》にて、十一にも出(デ)つ、○歌(ノ)意は、美人《ヲトメ》の面形の忘れらるゝひまは、あるべからねども、事ありて、年月久しく相見ずして、もし面貌の形わすれしならば、いよ/\慕はしからむに、其(ノ)時は、大野に棚引雲を、美人《ヲトメ》の形見と見つゝ偲ばむ、となるべし、上に、阿我於毛乃《アガヲモノ》云云、とあるは、彼《ヒト》にいひ、今は自《ミヅカラ》云るにて、大かた同じことなり、
 
3521 可良須等布《カラストフ》。於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》。麻左低爾毛《マサテニモ》。伎麻左奴伎美乎《キマサヌキミヲ》。許呂久等曾奈久《コロクトソナク》。
 
可良須等布《カラストフ》は、烏《カラス》といふなり、○於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》は、大虚言鳥之《オホヲソドリノ》なり、虚言を乎曾《ヲソ》といふことは、四(ノ)卷に、乎曾呂《ヲソロ》とありて、彼處に云るが如し、清輔《ノ)奥義抄に、或人云、東の國の者は、そらごと(137)をば、をそごとゝいふなり、とあり、(古(ヘ)は東のみならず、京人もいひしを、後には東にのみ、をそといふことの遺れりしなり、)さて乎曾《ヲソ》は、今(ノ)世に、宇曾《ウソ》といふ即(チ)是なり、(乎《ヲ》と宇《ウ》は親(ク)通へり、)○麻左低爾毛《マサテニモ》は、眞實《マサネ》にもにて、上にいへる如し、○許呂久等曾奈久《コロクトソナク》は、兒等來《コラク》とぞ啼《ナク》なり、(此所來《ココク》といふ説はわろし、次にいふ、)○歌(ノ)意は、烏といふ鳥が、兒呂來兒呂來《コロクコロク》と鳴(ク)故(ニ)、兒呂《コロ》の來ますか、と思ふに、その如く眞實《マコト》に、君は來まさぬものを、さても大虚言《オホヲソ》鳥にてもあるかな、となり、(本居氏の玉勝間に、此(ノ)歌を載て云、許呂久《コロク》は、呂《ロ》は助辭、許《コ》は此《コ》にて、此所《ココ》へ來《ク》、といふことなり、子等來《コラク》にはあらず、すべて子には、古故などの字を書る例なるに、これは許(ノ)字を書たり、そのうへ來まさぬ君とは、女の男をさして云ることなるに、そを子等《コラ》といふべきにあらず、と云るは、詞(ノ)養を強解《アナガチニトカ》むとして、かへりて意(ノ)趣を矢へりしものといふべし、まづ子には、古、故などの字を書と云れど、既く此(ノ)上に、許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》、また許呂安禮比毛等久《コロアレヒモトク》、などはあらずや、又五(ノ)卷に、許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》、十五に、許良爾麻左米也母《コラニマサメヤモ》、などもあるをや、又女の男をさして子等《コラ》といふは、叶はぬ如くなれども、こゝは直(チ)に、女の男に對ひて、子等《コラ》と呼《イヘ》るにはあらで、鳥の聲なれば妨なし、されど猶|子等《コラ》といはむは、男の女を指ていふぞ常なれば、いかにぞや思ふ人もあるべけれど、凡て子とは、男女にわたりて親(ム)辭にて、集中にも、六(ノ)卷に、藤原(ノ)八束(ノ)朝臣(ノ)家にて、家持卿の、久堅之雨者零敷念子之屋戸爾今夜者明而將去《ヒサカタノアメハフリシクオモフコガヤドニコヨヒハアカシテユカム》、とよまれしも、八束(ノ)朝臣をさ(138)して子といひ、又九(ノ)卷に、大神(ノ)大夫が、筑紫(ノ)國へ往る時、阿部(ノ)大夫の、於久禮居而吾者哉將戀稻見野乃秋芽子見都津去奈武子故爾《オクレヰテアレハヤコヒムイナミヌノアキハギミツツイナムコユヱニ》、とよみ、また住吉の小田《ヲダ》を刈《カラ》す子、また山田守《ヤマダモラ》す子、山田つくる子などよめるも、男どち子と稱呼《イヘ》りと聞えたり、されどそは男どちの事にこそあれ、女の男をさして云るは、猶いかにぞやとおもはむか、されど兄《セ》を兄子《セコ》といひ、夫《ツマ》を夫子《ツマノコ》、と女より云ることも、常多く、且此(ノ)上にも、奈勢能古夜《ナセノコヤ》とも云(ヘ)らずや、まして集中に、古良《コラ》、古呂《コロ》などいふ言、いくらぞやあれども、皆|子等《コラ》の意なるに、此のみ此所《ココ》とせむは、謂《ヨシ》なきをや、)○靈異記中卷に、和泉(ノ)國泉水(ノ)郡大領が、鳥の邪婬を視て,世を厭(ヒ)出家《イヘデ》して、行基に隨ひつゝ、行基と倶(ニ)死むと要《チギ》りしに、大領|先《ハヤ》く死ければ、行基の作る歌とて、加良酒等伊布於保乎蘇等利能去等乎美天等母邇等伊比天佐岐陀智伊奴留《カラストイフオホヲソドリノコトヲミテトモニトイヒテサキダチイヌル》とあり、此は本(ノ)句は、今の歌を撮(ミ)採(リ)て作《ヨメ》るものなり、(この歌のことは、余が南京遺響に委く説り、)
 
3522 伎曾許曾波《キソコソハ》。兒呂等左宿之香《コロトサネシカ》。久毛能宇倍由《クモノウヘユ》。奈伎由久多豆乃《ナキユクタヅノ》。麻登保久於毛保由《マトホクオモホユ》。
 
久毛能宇倍由《クモノウヘユ》は、自《ユ》2雲上《クモノウヘ》1にて、雲(ノ)上をといはむに同じ、○麻登保久於毛保由《マトホクオモホユ》は、上よりの係《カヽリ》は、雲(ノ)上に鳴(ク)鶴の、此地《ココ》と隔りて遙《トホ》きよしにて、うけたる下の意は、時日の久しく、間遠く思はるるよしなり、○歌(ノ)意、第三四(ノ)句は序にて、女と共に相寢したるは、昨夜のことにこそあれ、はや(139)時日程ふりて、間遠くなれる心ちのするぞ、となり、
 
3523 佐可故要?《サカコエテ》。阿倍乃田能毛爾《アベノタノモニ》。爲流多豆乃《ヰルタヅノ》。等毛思吉伎美波《トモシキキミハ》。安須左倍母我毛《アスサヘモガモ》。
 
佐可故要点?《サカコエテ》は、山坂越而《ヤマサカコエテ》なり、○阿倍《アベ》は、和名抄に、駿河(ノ)國阿倍(ノ)郡、とあり三(ノ)卷に、駿河奈流阿倍乃市道爾《スルガナルアベノイチヂニ》、とよめる處なるべし、○爲流多豆乃《ヰルタヅノ》は、田(ノ)面に鶴の下(リ)居て、求食《アサリ》するさまの、見るにあかずめづらしき由もて、乏《トモシ》きの序とす、○等毛思吉伎美波《トモシキキミハ》は、希見《メヅラ》しく愛《ウツク》しき君者《キミハ》、と云なり、めづらしく愛しきを、等母之吉《トモシキ》と云例多し、九(ノ)卷に、欲見來之久毛知久吉野川音清左見二友敷《ミマクホリコシクモシルクヨシヌガハオトノサヤケサミルニトモシキ》、○安須左倍母我毛《アスサヘモガモ》は、明日までもがな、副(ヒ)てあらまほし、となり、○歌(ノ)意は、見るにあかずめづらしく愛しき君に、今日のよならず、明月までもがな、副(ヒ)てあらまほし、となり、(岡部氏は、雌雄二(ツ)をるをもて、乏き譬として,さてたま/\來し男を、いかでかく、月並てこむよしもがなと思ふなり、と云り、本居氏は、このともしきは、うらやましきなり、毎日來ぬ日なく、來居る鶴を羨(ミ)て、わが男も毎日明日も來れかしと云なり、と云り、ともに等毛思吉《トモシキ》といふ事を、意得違(ヒ)たる説なり、)
 
3524 麻乎其母能《マヲゴモノ》。布能未知可久?《フノミチカクテ》。安波奈敝波《アハナヘバ》。於吉都麻可母能《オキツマカモノ》。奈氣伎曾安我須流《ナゲキソアガスル》。
 
(140)麻乎其母能《マヲゴモノ》は、眞小薦之《マヲゴモノ》なり、眞小《マヲ》は美稱、薦は席なり、和名抄坐臥(ノ)具に、唐韻(ニ)云、薦(ハ)席也、和名|古毛《コモ》、古事記景行天皇(ノ)條に、裹(テ)v薦(ニ)投棄《ナゲウツテ》、集中十三に、破薦乎敷而《ヤレコモヲシキテ》、十六に、薦疊《コモタヽミ》など見ゆ、○布能未知可久?《フノミチカクテ》は、結而已近而《フノミチカクテ》なり、布《フ》は結目《ユヒメ》の事なり、武烈天皇(ノ)紀、太子(ノ)御歌に、於彌能姑能耶賦能之魔柯枳《ヲミノコノヤフノシバカキ》、とある賦《フ》も同じ、陸奥の十ふの菅薦七ふには君をしなして三ふに我ねむ、とよめるふも、これなり、さて結而已《フノミ》と云るは、歌(ノ)意に用あるにあらず、近くてのみ、と云事なり、○安波奈敝波《アハナヘバ》は、莫《ナヘ》v逢《アハ》者《バ》なり、○於吉都麻可母能《オキツマカモノ》は、奥津眞鴨之《オキツマカモノ》なり、鴨は水に入(リ)居て、浮(キ)上りては、ためたる息をつくものなれば、長息《ナゲキ》をいはむ料とす、○歌(ノ)意は、目に近く見るのみにて、逢(フ)事のなければ、嗚呼《アハレ》、嗚呼《アハレ》とため息をつきてぞ、吾は苦しむ、となり、人知ぬ思ひや何ぞも蘆垣の間近けれども逢よしのなき、思(ヒ)合(ス)べし、
 
3525 水久君野爾《ミククヌニ》。可母能波抱能須《カモノハホノス》。兒呂我宇倍爾《コロガウヘニ》。許等於呂波敝而《コトオロハヘテ》。伊麻太宿奈布母《イマダネナフモ》。
 
水久君野《ミククヌ》は、武藏(ノ)國秩父(ノ)郡に、水久具利《ミクグリ》といふ里あり、其處にやと云り、さて野は借(リ)字にて、沼《ヌ》なるべし、野に鴨の居むこと、いかゞなればなり、○可母能波抱能須《カモノハホノス》は、如《ノス》2鴨之匍《カモノハフ》1なり、匍《ハフ》とは、水(ノ)上を鴨の游ぐは、匍ごとくなればいふなるべし、さて能須《ノス》は、常には如といふ意に、聞例なれども、こゝは只輕く見べし、匍は、下の於呂波敝《オロハヘ》を、いはむ料のみなればなり、匍延《ハフハヘ》と續く意(141)なればなり、三(ノ)卷に、白雪仕物徃來乍《ユキジモノユキカヨヒツヽ》、と續けたるも、常には、仕物《ジモノ》は如と聞ゆる例なれども、雪徃《ユキユキ》と重ねたるのみにて、仕物《ジモノ》は唯輕き辭にて、今と同例なり、照(シ)考(フ)べし、さて此までは序なり、○兒呂我宇倍爾《コロガウヘニ》は、兒等之上《コロガウヘ》になり、上《ウヘ》は輕くて、唯|兒等《コラ》に、といふが如し、○許等於呂波敝而《コトオロハヘテ》は、大神(ノ)眞潮(ノ)説に、おろ/\延たるばかりにての意なるべし、とあり、信にさもあるべし、いまだたしかならず、ほのかに言のみを、云かはしたる意なるべし、(岡部氏が、言※[口+斗]而《コトオラバヘテ》なり、と云るは、いまだしき説なり、又本居氏説に、於呂《オロ》は、おろそかなり、宇倍爾《ウヘニ》は、うはさになり、子等がうはさに、言のみを、寐むとおろそかに云て、いまだ寐ぬ、となり、上二句は、於呂《オロ》の序なり、鴨の陸をありくは、おろそかにて、匍が如くなる意なり、と云れど、それもいかゞなり、)○伊麻太宿奈布母《イマダネナフモ》は、未《イマダ・ナフ》v寐《ネ》もなり、母《モ》は歎息(ノ)辭あり、○歌(ノ)意は、たしかならず、ほのかにおろ/\言のみを、女と言(ヒ)かはしたるばかりにて、いまだ相寐をも爲ぬ事なるを、既く相寐したる女のごとく、さても戀しく思ふ心に堪がたし、となり、
 
3526 奴麻布多都《ヌマフタツ》。可欲波等里我栖《カヨハトリガス》。安我許己呂《アガココロ》。布多由久奈母等《フタユクナモト》。奈與母波里曾禰《ナヲモハリソネ》。
 
奴麻布多都《ヌマフタツ》は、沼二《ヌマフタツ》なり、○可欲波等里我栖《カヨハトリガス》は、通鳥之巣《カヨフトリガス》なり、可欲波《カヨハ》は、可欲布《カヨフ》と云に同し、彼方《カシコ》の沼、此方《ココ》の沼と、二方へ行通ひて栖《スム》よしなり、さて下の布多由久《フタユク》をいはむ料とす、○布多(142)由久奈母等《フタユクナモト》は、二行《フタユク》らむよ、といふが如し、二行《フタユク》は、心を二方によするをいふなり、奈母《ナモ》奈牟《ナム》、良牟《ラム》は、通(ハシ)云る例なり、○奈與母波里曾禰《ナオモハリソネ》は、與は於(ノ)字の誤なるべし、草書よとおと甚似たり、元のまゝにては、與の言落著ざればなり、勿思《ナオモハリ》そねなり、於母波里《オモハリ》は、思《オモヒ》を伸たるなり、波里《ハリ》は比《ヒ》と約ればなり、下に、乎佐藝禰良波里《ヲサギネラハリ》、とあるも、窺《ネラヒ》を伸たるにて、同例なり、禰《ネ》は希望(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)心を二方によすると思ふ事なかれよ、汝ならで、他に思ふ人は、さらになき物を、となり、
 
3527 於吉爾須毛《オキニスモ》。乎加母乃毛己呂《ヲカモノモコロ》。也左可杼利《ヤサカドリ》。伊伎豆久《イキヅク》久〔□で囲む〕伊毛乎《イモヲ》。於伎?伎努可母《オキテキヌカモ》。
 
於吉爾須毛《オキニスモ》は、奥《オク》に住《スム》なり、○乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》は、如《モコロ》2小鴨《ヲカモノ》1なり、母己呂《モコロ》は、廿(ノ)卷に、麻都能氣乃奈美多流美禮婆伊波妣等乃和例乎美於久流等多々理之母己呂《マツノケノナミタルミレバイハビトノワレヲミオクルトタヽリシモコロ》、神代紀下に、夜(ルハ)者|若《モコロ》2※[火+票]火《ホベノ》1而喧響《ニオトナヒ》之、とあり、禰母己呂《ネモコロ》といふ言も、若《モコロ》v根《ネ》の意なり、又此(ノ)上に、母許呂乎《モコロヲ》とあるも同じ、九(ノ)卷には如己男《モコロヲ》、とも見えたり、○也左可杼利《ヤサカドリ》は、八尺鳥《ヤサカドリ》なり、八尺許《ヤサカバカリ》の、長き息を衝(ク)鳥といふなり、さてこれは、上の小鴨《ヲカモ》をいふにもあらず、唯|息衝《イキヅク》をいはむための枕詞なり、小鴨の如くに、息衝といふ歌(ノ)意なればなり、○伊伎豆久久伊毛乎《イキヅク○イモヲ》は、一(ツ)の久は衍文にて、息衝妹《イキヅクイモ》をなり、○歌(ノ)意は、海の澳に住(ム)鴨の如く、息づき歎きて、別難にする妹を、留(メ)置て出來むは、本意なき事なれども、さ(143)てあるべきならねば、別(レ)來ぬる哉、さても殘多や、となり、防人などに發《タチ》て來し人のよめるなるべし、
 
3528 水都等利乃《ミヅトリノ》。多多武與曾比爾《タタムヨソヒニ》。伊母能良爾《イモノラニ》。毛乃伊波受伎爾?《モノイハズキニテ》。於毛比可禰都母《オモヒカネツモ》。
 
水都等利乃《ミヅトリノ》は水鳥之《ミヅトリノ》にて、立《タツ》の枕詞なり、○伊母能良爾《イモノラニ》とは、能は助辭にて、妹等《イモラ》にといふに同じ、○歌(ノ)意は、旅立とて、衣を取(リ)着、脚帶《アユヒ》つくろひなど、装束《ヨソヒ》のいそぎによりて、落付ず、しめやかに妹に物いはず別(レ)來て、思ひに堪がたく、さても苦しや、かくまで苦しからむとならば、今暫(ク)しめやかに物かたらひて、別(レ)來べかりしを、と悔るなり、これも防人などに立(チ)來し人のよめるならむ、廿(ノ)卷防人(ガ)歌に美豆等利乃多知能已蘇伎爾父母爾毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎《ミヅトリノタチノイソギニチヽハヽニモノハズケニテイマゾクヤシキ》、とあるに、おほかたおなじ、又四(ノ)卷に、珠衣乃狹藍左謂沈《タマギヌノサヰサヰシヅミ》云々、とある歌に、未(ノ)句は同じ、
 
3529 等夜乃野爾《トヤノヌニ》。乎佐藝禰良波里《ヲサギネラハリ》。乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》。禰奈倣古由惠爾《ネナヘコユヱニ》。波伴爾許呂波要《ハハニコロバエ》。
 
等夜乃野《トヤノヌ》は、和名抄に、下總(ノ)國印旛(ノ)都島矢(島は、鳥の誤なることは決《ウツナ》し、)とありて、本にはトリヤ〔三字右○〕と訓たれども、もとはトヤ〔二字右○〕とぞいひけむ、さらばそこの野なるべし、(略解に、鷹をあはせむとて、柴などをさして、うかゞひをる所を、田舍にて鳥屋《トヤ》といふ、それを轉して、獣をとる爲に(144)するをも、しかいふか、且さるわざする處を、即(チ)鳥屋の野ともいふべし、と云れど、こゝは必(ズ)地(ノ)名とこそ聞えたれ、)○乎佐藝彌良波里《ヲサギネラハリ》は、兎窺《ヲサギネラハリ》なり、波里《ハリ》は、比《ヒ》の伸りたるなり、上に、思《オモヒ》を於母波里《オモハリ》、と云るに同じ、狩人が兎を窺《ネラ》ふなり、さて此(レ)までは、長々《ヲサ/\》といはむための序なり、本居氏、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、兎(ハ)似2小犬(ニ)1而長耳缺唇、和名|宇佐木《ウサギ》、天武天皇(ノ)紀に、置始(ノ)連菟、と云人の名をも、元正天皇(ノ)紀には、宇佐伎《ウサギ》と書れたり、さて凡て古書に、宇《ウ》の假字に、菟(ノ)字を用ひたるを思へば、なほ宇佐伎《ウサギ》と云ぞ、正しかりける、乎佐藝《ヲサギ》といふは、本より田舍言なるべし、と云り、猶品物解にいふを見べし、○乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》は、長々《ヲサ/\》もなり、しか/\もといはむが如し、古今集壬生(ノ)忠岑(ガ)長歌に、御垣より外重《トノヘ》もる身の、御垣守|長々《ヲサ/\》しくもおもほえず云々、○禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》は、莫《ナヘ》v寢《ネ》兒故《コユヱ》になり、寢せざる兒なるものを、といふ意なり、○波伴爾許呂波要《ハハニコロバエ》は、母《ハヽ》に破《ババ》v嘖《コロ》なり、○歌(ノ)意は、心だらひに相寢したらばこそあれ、しか/\も相寢せざる女なるものを、母にしかられたり、となり、
 
3530 左乎鹿能《サヲシカノ》。布須也久草無良《フスヤクサムラ》。見要受等母《ミエズトモ》。兒呂家可奈門欲《コロガカナドヨ》。由可久之要思毛《ユカクシエシモ》。
 
布須也久草無良《フスヤクサムラ》は、臥哉草村《フスヤクサムラ》なり、也《ヤ》は、助辭にて、與《ヨ》と云むが如し、上に、左努夜麻爾宇都也乎乃登乃《サヌヤマニウツヤヲノトノ》云々、と見え、古今集に、霍公鳥|鳴也《ナクヤ》五月の菖蒲草、などある也《ヤ》に同じ、さて鹿は、よく草(145)村にかくれ臥て見えぬものなれば、不《ズ》v所《エ》v見《ミ》といはむためなり、十(ノ)卷に、寄v鹿(ニ)、小壯鹿之朝伏小野之草若美隱不得而於人所知名《サヲシカノアサフスヲヌノクサワカミカクロヒカネテヒトニシラユナ》、○見要受等母《ミエズトモ》、十(ノ)卷に、春之在者伯勞鳥之草具吉雖不所見吾者見將遣君之當婆《ハルサレバモズノクサグキミエズトモアレハミヤラムキミガアタリハ》とあり、さて今は、この句の下に、假(ニ)縱(ス)辭を加へて見べし假《タトヒ》雖v不v書v見|縱《ヨシ》、といふ意なり、○兒呂家可奈門欲《コロガカナドヨ》は、家は我(ノ)字の誤なるべし、自《ヨ》2兒等之金門《コラガカナド》1なり、金門《カナド》は、四(ノ)卷に、小金門爾《ヲカナドニ》、九(ノ)卷に、金門爾之人之來立者《カナドニシヒトノキタテバ》、此(ノ)下に、佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾《サキモリニタチシアサケノカナトデニ》、などあり、既く四(ノ)卷に具(ク)註り、欲《ヨ》は乎《ヲ》といはむが如し、○由可久之要思毛《ユカクシエシモ》は、行《ユカク》し吉《エシ》もなり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、縱《タト》ひ其(ノ)容儀の見えずともよし、愛しき妹が門の前を、通《ワタ》りて行(ク)事は、さても好《コノ》ましきことや、となり、
 
3531 伊母乎許曾《イモヲコソ》。安比美爾許思可《アヒミニコシカ》。麻欲婢吉能《マヨビキノ》。與許夜麻敝呂能《ヨコヤマヘロノ》。思之奈須於母敝流《シシナスオモヘル》。
 
麻欲婢吉能《マヨビキノ》は、眉曳之《マヨビキノ》なり、横山は、遠く眺望《ミヤ》るときは、美女《ヲトメ》の※[目+禄の旁]《マヨビキ》の如くなれば、かくつゞけたる枕詞なり、仲哀天皇(ノ)紀に、譬2如《ナス》美女之※[目+禄の旁]《ヲトメノマヨビキ》1有2向津國1、も見ゆ、○與許夜麻敝呂能《ヨコヤマヘロノ》は、横山邊呂之《ヨコヤマヘロノ》なり、○歌(ノ)意は、妹をこそ、相見むと思ひて來にしものを、妹には得逢(ハ)ずして、横山邊の、田畠をはむ鹿のごとく惡《ニク》く厭《イト》はしく思へるにぞあらむ、母などに、いみじくおひやらはれつ、となり、
 
(146)3532 波流能野爾《ハルノヌニ》。久佐波牟古麻能《クサハムコマノ》。久知夜麻受《クチヤマズ》。安乎思努布良武《アヲシヌフラム》。伊敝乃兒呂波母《イヘノコロハモ》。
 
本(ノ)二句は、春(ノ)野にて草喰駒《クサハムコマ》の、唯口(ヲ)おかず喰よしもて、口不息《クチヤマズ》をいはむ料の序とせり、○久知夜麻受《クチヤマズ》は、唯口(チ)おかず、嘆《ナゲキ》て慕《シタ》ふよしなり、九(ノ)卷に、珠手次不懸時無《タマタスキカケヌトキナク》、口不息吾戀兒矣《クチヤマズアガコフルコヲ》云々、○歌(ノ)意は、朝暮唯口おかず、嗚呼《アヽ》と歎きて、吾を慕ひ思ふらむ家の妻は、さてもいとほしやなつかしや、となり、此は旅にありて、家(ノ)妻をおもひてよめるなり、
 
3533 比登乃兒乃《ヒトノコノ》。可奈思家之太波《カナシケシダハ》。波麻渚杼里《ハマスドリ》。安奈由牟古麻能《アナヤムコマノ》。乎之家口母奈思《ヲシケクモナシ》。
 
比登乃兒乃《ヒトノコノ》は、人之子之《ヒトノコノ》にて、人の女《ムスメ》をいふなり、(他妻をいふにはあらず、)○可奈思家之太波《カナシケシダハ》は、憐《カナ》しき時者《シダハ》、といふなり、○波麻渚杼里《ハマスドリ》は、濱渚鳥《ハマスドリ》にて、何にまれ、濱渚に居(ル)鳥をいへり、さて水鳥の陸をありくは、よろ/\と足惱《アナヤミ》てありくものなれば、足惱《アナヤム》の枕詞とせり、○安奈由牟古麻能《アナヤムコマノ》は、足惱駒之《アナヤムコマノ》なり、足惱《アナヤム》は三(ノ)卷石川(ノ)女郎(ガ)歌に、葦若末乃足痛吾勢《アシノウレノアナヤムワガセ》、とある下《トコロ》に具(ク)註(ヘ)りき、○乎之家口母奈思《ヲシケクモナシ》は、惜《ヲシ》けくも無(シ)なり、惜(キ)事もなし、と云むが如し、○歌(ノ)意は、人の女を愛憐《カナシ》く思ふ時は、往還(リ)度重りて、駒の足の勞惱むをも、いとふ事もなく、惜む事もなし、となり、契冲が、遊仙窟に若(シ)使(メバ)2人(ノ)心(ヲシテ)密《シタシカラシメ》1、莫(レ)v惜《ヲシムコト》2馬蹄(ノ)穿《ウケナムコトヲ》1、とあるを引たるが如し、
 
(147)3534 安可胡麻我《アカコマガ》。可度?乎思都都《カドデヲシツツ》。伊?可天爾《イデカテニ》。世之乎見多?思《セシヲミタテシ》。伊敝能兒良波母《イヘノコラハモ》。
 
歌(ノ)意は、赤駒が出難にせしを、強て引出して、門出をして來しとき、吾を送見立し家(ノ)妻は、今いかに吾を慕ひ嘆くらむと、尋ね慕ひて嘆息《ナゲ》きたるなり、此は防人に出立る人の、よめるなるべし、赤駒は、防人に行人の、自(ラ)の乘れる駒なり、さて實は、自《ミ》の門出の時、名ごりをしみて、出がてにせしを、自《オノ》が乘(レ)る駒の出がてにせし、といひおほせたるが、あはれなるなり、(略解に、上二句は、馬の馬屋の戸口を出むとすれども、得出ぬ意にて、出がてといはむための序なり、と云るは、いみじき誤《ヒガゴト》なり、)
 
3535 於能我乎遠《オノガヲヲ》。於保爾奈於毛比曾《オホニナオモヒソ》。爾波爾多知《ニハニタチ》。惠麻須我可良爾《エマスガカラニ》。古麻爾安布毛能乎《コマニアフモノヲ》。
 
於能我乎遠《オノガヲヲ》は、己之男《オノガヲ》をなり、さて遠《ヲ》は、余《ヨ》といふに同じくて、己が思ふ男よ、といふが如し、○於保爾奈於毛比曾《オホニナオモヒソ》は、疎《オホ》に勿思《ナオモ》ひそなり、吾を疎忽《オロソカ》に思ふ事なかれ、といふなり、○歌(ノ)意は、わが思ふ男よ、われをおろそかにおもひ給ふことなかれ、そなたの來ませば、相見て咲(ミ)賜ふことのうれしきからに、わが家(ノ)内に、入來座(ス)までをも得待ず、庭に立出迎(ヘ)て、そののり賜へる駒に逢(フ)ものを、といふなり、家に入來るを待居れば、駒に逢(フ)事はなし、待に堪ず、庭に立出る故に、(148)駒に逢(フ)なり、第三四(ノ)句、地を換て見べし、(岡部氏が、古麻は古庇の誤にて、戀《コヒ》にあふ物をなりと云るは、謾なり、略解に、男の早く至て悦ぶなり、安布《アフ》とは、馬に饗《アヘ》するをいふなるべし、といへれど、さては一首の意聞取がたし、又本居氏は、稻掛(ノ)大平が、初句の乎は、馬牽(ク)緒を云るにて、其を、男を戀て、吾(ガ)方に引よせむとするにとれるなり、二(ノ)句は、其(ノ)吾(ガ)思ひをも、おろかに思ひ給ふな、といふなり、結句の駒に逢も、馬を牽ことにて、君をひきよせむとする、思ひにあふを云なりと云り、此(ノ)考ぞ宜しき、と云れど、さては一首の意、いかなる意とも、余は意得知ずなむ、)
 
3636 安加胡麻乎《アカゴマヲ》。宇知?左乎妣吉《ウチテサヲビキ》。己許呂妣吉《ココロビキ》。伊可奈流勢奈可《イカナルセナカ》。和我理許武等伊布《ワガリコムトイフ》。
 
宇知?左乎妣吉《ウチテサヲビキ》は、打而狹緒牽《ウチテサヲビキ》なり、打《ウチ》は鞭打《ムチウチ》なり、狹緒《サヲ》は、狹《サ》はそへ言にて、緒《ヲ》は牽緒《ヒキヲ》なり、心引《コヽロビキ》といはむための序なり、○己許呂妣吉《ココロビキ》は、吾(ガ)心を、男のいかならむ、と引見るよしなり、○伊可奈流勢奈可《イカナルセナカ》は、如何《イカ》なる兄汝《セナ》か、といふなり、いかなる男にてかあるらむ、となり、○和我理許武等伊布《ワガリコムトイフ》は、吾許將來《ワガリコム》と云なり、○歌(ノ)意は唯吾(ガ)心を引見るとて、吾許來むといふなるは、そもいかなる男にてかるらむ、と難《トガ》めたる女の歌なり、
 
3537 久敝胡之爾《クヘコシニ》。武藝波武古《ムギハムコ》宇〔□で囲む〕馬能《マノ》。波都波都爾《ハツハツニ》。安比見之兒良之《アヒミシコラシ》。安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》。
 
(149)久敝胡之爾《クヘコシニ》は、垣越《クヘコシ》になり、契冲云、久敝《クヘ》は垣《カキ》なり、くへ垣などもよめり、又こへ垣とも云り、○武藝波武古宇馬能《ムギハムコ○マノ》は、宇は衍字にて、麥咋駒之《ムギハムコマノ》なり、此までは、端々《ハツ/\》といはむ料の序なり、垣越《クヘコシ》に麥喰(ム)駒は、首のみさし出して、見えつ隱れつする故に、端々《ハツ/\》とつゞきたるなり、十二に、※[木+巨]※[木+若]
越爾麥咋駒乃雖罵猶戀久思不勝烏《ウマセコシニムギハムコマノノラユレドナホシコフラクオモヒカネツモ》、六帖に、垣越に麥咋駒の端々に及ばぬ戀も吾はする哉、○波都波都爾《ハツハツニ》は、端々《ハツ/\》になり、四(ノ)卷に云り、○歌(ノ)意は、たしかに逢たるにてなく、たゞ端々《ハツ/\》にのみ相見し女の、一(ト)すぢになつかしく、奇しきまでかなしきことや、となり、
〔或本歌曰。宇麻勢胡之《ウマセコシ》。牟伎波武古麻能《ムギハムコマノ》。波都波都爾《ハツハツニ》。仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》。古呂之可奈志母《コロシカナシモ》。〕
宇麻勢胡之《ウマセコシ》は、馬棚越《ウマセコシ》なり、十二に既く云り、○仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》は、新膚觸《ニヒハダフレ》しなり、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌に、斯多那岐爾和賀那久都麻袁《シタナキニワガナクツマヲ》、許存許曾婆夜須久波陀布禮《コソコソハヤスクハダフレ》、神樂歌階香取に、和支毛古仁夜比止與者太不禮《ワギモコニヤヒトヨハダフレ》云々、二(ノ)卷に、多田名附柔膚尚乎《タタナヅクニキハダスラヲ》、劔刀於身副不寐者《ツルギタチミニソヘネネバ》云々、
 
3538 比呂波之乎《ヒロハシヲ》。宇馬古思我禰?《ウマコシカネテ》。己許呂能未《ココロノミ》。伊母我理夜里?《イモガリヤリテ》。和波己許爾思天《ワハココニシテ》。
 
比呂波之乎《ヒロハシヲ》は、飜橋《ヒロハシ》をなるべし、反橋《ソリハシ》の事なり、(或は、一尋ばかりの橋をいふといひ、或は古橋《フルハシ》の義ぞと云、又|一枚《ヒトヒラ》の橋をいふなど云れど、皆無稽の説なり、又本居氏は、石橋の間の廣きを、いふなるべし、と云れど、さらばやがて石橋とこそいはめ、其間の廣さもて、いふべきことか(150)は、)○伊母我理夜里?《イモガリヤリテ》は、妹許遣
而《イモガリヤリテ》なり、(略解に、?は豆の誤にて、ヤリツ〔三字右○〕ならむ、と云るは、いみじきひがことなり、夜里?《ヤリテ》云々と下に連きたるこそよけれ、)○歌(ノ)意は、いかで女の許に、行むとは思へども、飜橋《ヒロハシ》の危ふさに、馬にて越(シ)渡る事を得ずして、たゞ心ばかりを女の許に遣て、吾(ガ)身は此《コヽ》もとにありて、爲む方なく、さても相見まほしや、といふ心を云さして、然思はせたるなり、○舊本に、或本(ノ)歌發句曰、乎波夜之爾古麻乎波左佐氣《ヲハヤシニコマヲハササゲ》、と註り、乎波夜之《ヲハヤシ》は、小林《ヲハヤシ》なり、皇極天皇(ノ)紀(ノ)謠歌に、烏麼野始爾倭例烏比岐例底《ヲバヤシニワレヲヒキレテ》云々、(これは、地(ノ)名なり、)今は唯林なり、古麻乎波左佐氣《コマヲハササゲ》は、駒を令《セ》v馳《ハサ》上《アゲ》なり、乘(レ)りし駒の、下《オリ》たる間に放れ行て、林中へ上《アガ》り遠ざかり入て、のりて行べき駒のなければ、心のみ妹がりやるよしなり、
 
3539 安受乃宇敝爾《アズノウヘニ》。古馬乎都奈伎?《コマヲツナギテ》。安夜抱可等《アヤホカド》。比登都麻古呂乎《ヒトヅマコロヲ》。伊吉爾和我須流《イキニワガスル》。
 
安受乃宇敝爾《アズノウヘニ》は、※[土+丹]之上《アズノウヘ》になり、田中(ノ)道萬呂、字鏡に、※[土+丹](ハ)岸崩也、久豆禮《クヅレ》、又|阿須《アズ》と有(ル)、是なり、俗に云、がけの危き所なり、と云り、○安夜抱可等《アヤホカド》は、危ふけれど、といふなり、安夜抱可《アヤホカ》は、安夜布氣《アヤフケ》といふに同じ、氣禮杼《ケレド》の意を、氣杼《ケド》といふは、古言の常なり、○都麻、舊本に、麻都とあるはわろし、一本に從つ、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、他妻に懸像するもあるまじく危ふき事なれども、忍堪ぶ事を得ずして、氣息《イキ》にかけて歎きつゝぞ、吾は思ふ、となり、
 
(151)3540 左和多里能《サワタリノ》。手兒爾伊由伎安比《テコニイユキアヒ》。安可故麻我《アカゴマガ》。安我伎乎波夜美《アガキヲハヤミ》。許等登波受伎奴《コトトハズキヌ》。
 
左和多理《サワタリ》は、地(ノ)名なるべし、和名抄に、下總(ノ)國印旛(ノ)郡|日理《ワタリ》、陸奥(ノ)國安達(ノ)郡|日理《ワタリ》、日理(ノ)郡、日理(ハ)和多理《ワタリ》、などあれば、此(レ)等の中の地にて、左は左檜隈《サヒノクマ》などいふ類に、そへたる辭なるべきにや、又一説に、駿河(ノ)國に、さわたりといふ所あり、と云り、もしはそこにてもあらむか、○手兒爾伊由伎安比《テコニイユキアヒ》は、伊《イ》は、そへ言にて、手兒《テコ》に行遇《ユキアヒ》なり、手兒とは、母の手に抱れてあるばかりの、童女をいふがもとにて、やゝひとゝ成(レ)るをもいふべし、○歌(ノ)意は、名だたる左和多里《サワタリ》の美童女《ヲトメ》に、はからず路にて行遇たるが僥倖《サイハヒ》なれば、其處に留りて、しめやかに、物いひかはして來べかりしを、吾(ガ)乘(レ)る赤駒の歩の速かりしが故に、留る事を得ずして、別れ來ぬるが口惜(シ)、となり、
 
3541 安受倍可良《アズヘカラ》。古麻乃由胡能須《コマノユコノス》。安也波刀文《アヤハドモ》。比登豆麻古呂乎《ヒトヅマコロヲ》。麻由可西良布母《マユカセラフモ》。
 
安受倍可良《アズヘカラ》は、自《カラ》2※[土+丹]邊《アズヘ》1なり、※[土+丹]《アズ》の事は、此(ノ)上に云り、○安也波刀文は《アヤハドモ》、雖《ドモ》v危《アヤフケレ》の意なり、安也抱可杼文《フヤホカドモ》といふべきを、抱可《ホカ》は波《ハ》と縮《ツヾマ》るによりて、かくいへるなり、されば上に、安夜抱可等《アヤホカド》とあるに同じ、○麻由可西良布母《マユカセラフモ》は、岡部氏、麻《マ》は眞《マ》なり、由可西良布《ユカセラフ》は、ゆかしめるといふを、延約(152)めたる言なり、西は志米の約、良布《ラフ》は留《ル》の延言なり、あやふけれども、床《ユカ》しむる心の、やるかた無(キ)よしなり、と云り、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、(中山(ノ)嚴水は、此(ノ)上に、をつくはのしげきこのまよたつとりの目ゆか汝をみむさねざらなくに、と有と同じ意にて、目よりかせむも、たとひ危くとも、逢ずはあらじの意なり、と云るは、いとおもしろくは聞ゆれども、西良布《セラフ》を、西牟《セム》といふと、同言とせむこと、いかゞなれば、從(リ)がたからむか、)○歌(ノ)意は、※[土+丹]邊《アズヘ》の地を駒の過(ギ)行は、崩れ易くて、いかにも危ふきが如く、他妻に懸像するは、げにあるまじく、危ふきわざなれど、猶堪忍ぶことを得ず、吾にゆかしがらしめて、なまめきさわぐは、さてもあやにくの女や、といふなるべし、
 
3542 佐射禮伊思爾《サザレイシニ》。古馬乎波佐世?《コマヲハサセテ》。己許呂伊多美《ココロイタミ》。安我毛布伊毛我《アガモフイモガ》。伊敝能安多里可聞《イヘノアタリカモ》。
 
本(ノ)二句は、心哀《コヽロイタ》みをいはむ料なり、乘(レ)る駒を、細石《サヾレイシ》のうへに馳《ハ》せては、ころ/\と細石がころびて、馬の足を傷ひなど、甚うれたく心痛きものなれば、かくつゞくるなり、○己許呂伊多美《ココリイタミ》は、心痛《コヽロイタ》うと云が如し、○歌(ノ)意は、あまりに愛しく、心痛う吾(ガ)思入たる、其(ノ)妹が家の邊は此處かとよ、さてもゆかしや、となり、
 
3543 武路我夜乃《ムロガヤノ》。都留能都追美乃《ツルノツツミノ》。那利奴賀爾《ナリヌガニ》。古呂波伊敝杼母《コロハイヘドモ》。伊末太年那(153)久爾《イマダネナクニ》。
 
武路我夜乃《ムロガヤノ》は、都留《ツル》の枕詞にて、群草之《ムラガヤノ》といふなるべし、さて群草《ムラガヤ》の列々《ツラ/\》と連《ツラナ》り生たる由に、都留《ツル》へいひかけたるなるべし、(もしは武路我夜《ムロガヤ》は、地(ノ)名にてもあらむか、地(ノ)名ならば、今考(ヘ)なし、よく尋ぬべし、)○都留能都追美《ツルノツツミ》は、和名抄に、甲斐(ノ)國都留(ノ)郡|都留《ツル》、とあれば、其處にある堤をいふにやあらむ、(又初句をも、地(ノ)名とせば、なほ別地にてもあるべし、)〔頭注、【忠岑集、かひの國へまかり申とて、君が爲いのちかひへぞ我はゆくつるてふこほり千世をうるなり、】〕○那利奴賀爾《ナリヌガニ》は、なるべきばかりに、といふが如し、消べきばかりに、といふ意のところを、消奴賀爾《ケヌガニ》といふに同じ、成《ナリ》は、上よりの屬(キ)は、堤を築《ツ》きたるが、成就《ナリヲヘ》たる義にて、うけたる意は、男女の中の、こと成るをいふなり、○歌(ノ)意は、女は二心なく、夫婦の中らひの事、なりとゝのふべきばかりに、いひはすれども、いまだ相寐せざる事なるを、其をいかでか、たしかには、たのみに思はむ、となるべし、
 
3544 阿須可河泊《アスカガハ》。之多爾其禮留乎《シタニゴレルヲ》。之良受思天《シラズシテ》。勢奈那登布多理《セナナトフタリ》。左宿而久也思母《サネテクヤシモ》。
 
阿須可河泊《アスカガハ》は、次なるも同じぐ、大和の飛鳥川をいふなるべし、こは東(ノ)國(ノ)女の宮仕などして、京に上りし時よめるなるべし、次下に、須佐《スサ》の入江をよめるも、味鎌《アヂカマ》をよめるも、所由《ヨシ》ありて、其(ノ)地にいれたる人のよめるにて、同じことわりなるべし、(しかるを、岡部氏が、可は太の誤に(154)て、あすだ川なるべし、と云るは、謾説なり、又略解に、東にも、大和のと同名の川あるなるべし、と云るも、臆度なり、余も一(ツ)には、和名抄に、常陸(ノ)國茨城(ノ)郡|安※[金+芳]《アシカ》とあれば、そこに流るゝ川にて、安※[金+芳]《アシカ》川なるべきかとも、おもひしかど、なほ上によるべ、)さて此(ノ)一句は、下濁《シタニゴ》れるをいはむ料なり、川にことに、用あるに非ず、○勢奈那《セナナ》は、那《ナ》は、添云(フ)辭にて、夫汝《セナ》なり、○歌(ノ)意は、男の上清て、下に濁れる心を持たりと、かねて知せば、はじめより、相寐せずしてあるべかりしものを、然《サ》ともしらず、末遂むと思ひつゝ、心ゆるして相寐せし事の、今更さても悔しや、となり、男の心の變《ウツロ》ひたるを、恨みたるなり、六帖に、とね川はそこはにごりてうへすみて有けるものをさねて悔しき、
 
3545 安須可河泊《アスカガハ》。世久登之里世波《セクトシリセバ》。安麻多欲母《アマタヨモ》。爲禰?己麻思乎《ヰネテコマシヲ》。世久得四里世波《セクトシリセバ》。
 
安須可河泊《アスカガハ》は、上にいへるに同じ、○世久登之里世波《セクトシリセバ》は、母などの、あはせじと障るを、譬へいへるにて、かねてかく塞(キ)隔てられむものと知たらば、といふなり、○世久得四里世波《セクトシリセパ》、と反復《カヘサ》ひいひたるにて、其(ノ)心の切《フカキ》を顯はせるなり、例多し、いたづらに重ねたるには非ず、○歌(ノ)意は、かねて、かく母などに、障へ隔てられむ物と知たらば、其(ノ)障のなき間、夜を重ねて數多夜も、心だらひに相寢して、來べかりし物を、となり、
 
(155)3546 安乎楊木能《アヲヤギノ》。波良路可波刀爾《ハラロカハトニ》。奈乎麻都等《ナヲマツト》。西美度波久末受《セミドハクマズ》。多知度奈良須母《タチドナラスモ》。
 
安乎楊木能《アヲヤギノ》は、青楊之張《アヲヤギノハル》とかゝれる枕詞なるべし、○波良路可波刀《ハラロカハト》とは、波良呂《ハラロ》は地(ノ)名にて、其處の川門《カハト》といふなるべし、さて和名抄に、下總(ノ)國印旛(ノ)郡|原《ハラ》、とあれば、其(ノ)地などの河をいへるにてあらむか、さらば、路《ロ》は伊香保呂《イカホロ》、嶺呂《ネロ》などいふ呂《ロ》に同じく、助辭なるべし、又遠江(ノ)國|佐野《サヤノ》郡|幡羅《ハラ》、武藏(ノ)國幡羅(ノ)郡|幡羅《ハラ》、なども見えたれば、其(ノ)中にてもあるべし、○西美度波久末受《セミドハクマズ》は、清水《シミヅ》は不《ズ》v汲《クマ》なり、○多知度奈良須母《タチドナラスモ》は、立所平《タチドナラ》すもなり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、原呂河門《ハラロカハト》に立たれば、清水をこそ汲べきに、汝を待とて、清水をば汲ず、たゞ人目には、水汲(ム)まねして、地のみを蹈(ミ)平して立待に、さても待遠や、となり、
 
3547 阿遲乃須牟《アヂノスム》。須沙能伊利江乃《スサノイリエノ》。許母理沼乃《コモリヌノ》。安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》。美受比佐爾指天《ミズヒサニシテ》。
 
阿遲乃須牟《アヂノスム》(遲(ノ)字、舊本には知と作り、元暦本に從つ、)は、枕詞なり、○須沙能伊利江《スサノイリエ》は、十一に、味乃住渚沙乃入江之荒磯松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》云々、とあると、同處なるべし、神名帳に、紀伊(ノ)國在田(ノ)郡須佐(ノ)神社あり、其(ノ)地の入江なるべし、和名抄に、出雲國飯石(ノ)郡|須佐《スサ》、とあり、そこにてもあるべし、○許母里沼乃《コモリヌノ》は、美受《ミズ》といふへ屬《カヽ》れるなるべし、第四五(ノ)句は、地を換て見べし、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、久(156)しく相見ずして、嗚呼息づかし、となり、
 
3548 奈流世呂爾《ナルセロニ》。木都能余須奈須《コツノヨスナス》。伊等能伎提《イトノキテ》。可奈思家世呂爾《カナシケセロニ》。比等佐敝余須母《ヒトサヘヨスモ》。
 
奈流世呂爾《ナルセロニ》は、契冲云、鳴瀬《ナルセ》は所の名なるべし、今の世に成瀬《ナルセ》といふ氏の聞え侍をは、先祖のそこより出られけるにや、と云り、呂《ロ》は助辭なり、○木都能余須奈須《コツノヨスナス》は、如《ナス》2木積之依《コツノヨス》1なり、一説に、能は彌の誤にて、コツミヨスナス〔七字右○〕なり、と云り、さて此(レ)までは序にて、人さへ余須《ヨス》といはむ料なり、○伊等能伎提《イトノキテ》は、甚除而《イトノキテ》なり、五(ノ)卷に出て、其處に具く註り、○歌(ノ)意は、もとより愛しく憐《カナ》しと思ふ女に、世(ノ)人までが、吾に事有げにいひよせたれば、いとゞしく、さてもうつくしやかなしや、となり、
 
3549 多由比我多《タユヒガタ》。志保彌知和多流《シホミチワタル》。伊豆由可母《イヅユカモ》。加奈之伎世呂我《カナシキセロガ》。利賀利可欲波牟《ワガリカヨハム》。
 
多由比我多《タユヒガタ》、越前(ノ)國に手結《タユヒノ》浦あり、此《コヽ》によめるは、東(ノ)國にある地(ノ)名にや、○伊豆由可母《イヅユカモ》は、自《ユ》v何《イヅ》かもなり、何處《イヅク》よりかの意にて、母《モ》は歎息辭なり、○歌(ノ)意は、手結潟に潮滿來り來て通ふべき干潟なし、されば、今夜愛(シキ)夫が、何處を通りてか、吾許に來座むぞ、堅く期り置たる事なれば、さりとも來座ずして、止事はあるべからざるを、いかに辛く苦み腸ふらむと思ひやられて、さ(157)てもいとほしや、となり、
 
3550 於志?伊奈等《オシテイナト》。伊禰波都可禰杼《イネハツカネド》。奈美乃保能《ナミノホノ》。伊多夫良思毛與《イタブラシモヨ》。伎曾比登里宿而《キソヒトリネテ》。
 
於志?伊奈等《オシテイナト》は、押而否《オシテイナ》となり、今は否舂《イナツカ》じと思ふを、人などに強令《シヒオホ》せられて、押(シ)て舂《ツク》にはあらねど、といふ屬《ツヾケ》なるべし、於志?《オシテ》は、押忍《オシコタヘ》てといふなり、今(ノ)俗にもいふ言なり、○伊禰波都可禰杼《イネハツカネド》は、稻《イネ》は雖《ド》v不《ネ》v舂《ツカ》なり、○奈美乃保能《ナミノホノ》は、浪秀之《ナミノホノ》にて、枕詞なり、浪(ノ)秀は、古事記上(ツ)卷に、自2波穗《ナミノホ》1乘(リ)2天之羅摩船《アメノカヾミノフネニ》1而《テ》云々、また拔《ヌキテ》2十掬劍《トツカツルギヲ》1逆2刺立《サカシマニサシタテ》于|浪穗《ナミノホニ》1云々、また御毛入沼(ノ)命者、跳《フミタマヒ》2浪穗《ナミノホヲ》1云々、又書紀神代(ノ)卷下に、於《ニ》2秀起浪穗之上《サキタテルナミノホノヘ》1起《タテヽ》2八尋殿《ヤヒロトノヲ》云々、神武天皇(ノ)卷に、浪秀《ナミノホ》とあり、凡て穗《ホ》とは、何にまれ、著《イチジル》くあらはれ見ゆるをいふことにて、浪秀《ナミノホ》は秀起《サキタツ》とある如く、浪の高く、いち白く立さまをいふ古言なり、さて秀起《サキタテ》る浪(ノ)秀の、動搖《ユタ/\》と甚振《イタブル》といひつゞけたるなり、○伊多夫良思毛與《イタブラシモヨ》は、甚振《イタブル》しもよなり、甚振《イタブル》は、心動《ムナサワギ》するをいふ、毛與《モヨ》は、歎を含める助辭なり、十一に、風緒痛甚振浪能間無《カゼヲイタミイタブルナミノアヒダナク》、○伎曾比登里宿而《キソヒトリネテ》は、昨夜獨宿而《キソヒトリネテ》なり、○歌(ノ)意は、まづ賤き女に通ひける男の、契りし夜は行ずして、またの日の夜行たるに、かの女、ちぎりし昨夜來ざりしことを、甚《イミ》じく恨みて、稻舂ながら、いらへもせぬを、その男いざ寐むとて、袖引いざなふを、しかしたまふなと云て、男をわびしむるなるべし、されば否舂じといふを、人にしひ令せられて、押て稻つく(158)にはあらねど、昨夜獨宿てより、心痛(ク)むなさわぎして、さてもくるしや、と歎きつゝ居るなれば、よしやこよひもとおもひわびて、ひとり宿なむを、しかし給ふな、と云るなり、(契冲も、大かたは、この意に解たれども、いさゝか違へり、略解に、賤が事をかりて云るなり、と云るは、論にたらず、)
 
3551 阿遲可麻能《アヂカマノ》。可多爾左久奈美《カタニサクナミ》。比良湍爾母《ヒラセニモ》。比毛登久毛能可《ヒモトクモノカ》。加奈思家乎於吉?《カナシケヲオキテ》。
 
阿遲可麻《アヂカマ》は、十一に、味鎌之塩津乎射而水手船之《アヂカマノシホツヲサシテコグフネノ》云々、とあると同處にや、さらば讃岐國なり、次下なるも同じ、○可多爾左久奈美《カタニサクナミ》は、潟《カタ》に開浪《サクナミ》なり、開《サク》は、六(ノ)卷に、四良名美乃五十開回有住吉能濱《シラナミノイサキモトヘルスミノエノハマ》、神代(ノ)紀に、秀起浪穗《サキタテルナミノホ》、などあり、○比良湍《ヒラセ》は、平湍《ヒラセ》なり、○歌(ノ)意は、味鎌の潟に開(ク)浪のごとく、見(ル)にあかず憐《カナ》しき人をおきて、平湍《ヒラセ》のごとき、あさはかなる人にも、紐ときて相寐せむものかは、さる薄情にはあらぬものを、となり、(契冲も、此(ノ)意に解り、)
 
3552 麻都我宇良爾《マツガウラニ》。佐和惠宇良太知《サワヱウラダチ》。麻比等其等《マヒトゴト》。於毛抱須奈母呂《オモホスナモロ》。和賀母抱乃須毛《ワガモホノスモ》。
 
麻都我宇良《マツガウラ》は、ところの名なるべし、○佐和惠宇良太知《サワヱウラダチ》は、通えがたし、若(シ)は、宇は牟(ノ)字の誤にて、驟群立《サワヱウラダチ》といふか、さらば松が浦に、浪の驟ぎ依(ル)によせて、つゞけたるなるべし、○麻比等其(159)等《マヒトゴ》は、眞他言《マヒトゴト》なり、○於毛抱須奈母呂《オモホスナモロ》は、御念《オモホス》らむ、といふに同じ、○歌(ノ)意は、松が浦に浪の依ごとく、驟群立《サワギムラダチ》て他言の多き、を、吾(ガ)うれたくおもふごとく、君もくるしくおもほすらむぞ、といふなるべし、
 
3553 安治可麻能《アヂカマノ》。可家能水奈刀爾《カケノミナトニ》。伊流思保乃《イルシホノ》。許?多受久毛可《コテタケクモカ》。伊里?禰麻久母《イリテネマクモ》。
 
本(ノ)句は序にて、第四(ノ)句を隔て、入潮《イルシホ》の入而《イリテ》とつゞく意なり、○許底多受久毛可《コテタケクモカ》は、岡部氏云、受は氣の誤にて、言痛《コチタ》けくもあらむか、といふなり、又は久は之の誤にて、言痛からずしもがも、なり、と云り、(今按(フ)に、この二説の中、本居氏も、後の説に從たれど、言痛からずを、許底多受《コテタズ》といはむは、言足はねば、なほ上の説によるべし、)○禰麻久母《ネマクモ》、(禰(ノ)字、元暦本には許と作り、)來《コ》まくもなり、寢まほしく思へど、といふなるべし、)○歌(ノ)意は、女の床に入て、寢まほしく思へど、さらば人言の、言痛けくもあらむか、といふなるべし、
 
3554 伊毛我奴流《イモガヌル》。等許乃安多理爾《トコノアタリニ》。伊波具久留《イハグクル》。水都爾母我毛與《ミヅニモガモヨ》。和里?禰末久母《イリテネマクモ》。
 
歌(ノ)意、三四一二五、と句を次第て意得べし、吾(ガ)身は、石泳《イハクヾ》る水にてもがなあれかし、さらば妹が宿る床のあたりに、人知ずくゞり入て、ねましものを、母などに、見咎められなむことを恐れ(160)て、然得せぬが口をし、となり、十一に、吾妹子吾戀樂者水有者之賀良三超而應逝衣思《ワギモコニアガコフラクハミヅナラバシガラミコエテユクベクソモフ》、とあり、水をうらやめる意は同じ、
 
3555 麻久良我乃《マクラガノ》。許我能和多利乃《コガノワタリノ》。可良加治乃《カラカヂノ》。於登太可思母奈《オトダカシモナ》。宿莫敝兒由惠爾《ネナヘコユヱニ》。
 
麻久良我《マクラガ》は、上に、麻久良我欲安麻許伎久見由《マクラガヨアマコギクミユ》、とよめると同地にて、麻《マ》は眞《マ》にて、久良我《クラガ》といふ地をいふなるべし、○許我能和多利《コガノワタリ》は、久良我《クラガ》といふ地の内に、あるなるべし、下總(ノ)國、今の古河《コガ》の渡にや、猶よく尋ぬべし、(岡部氏が、久良《クラノ》反|許《コ》なれば、久良我《クラガ》、許我《コガ》同じことにて、かさね云るなり、と云るは、臆度説なり、又|久良《クラ》は、可と約るをや。)〔頭註、【日光名勝記、栗橋の町の北のきはに利根川あり、舟にてわたる、栗橋のむかひの川ばたにある町を、中田と云、川より古河の城みゆる、戌亥の方也、古河の渡名所也、古歌多し、萬葉にも載たり、許我の渡とも書けり、】〕○可良加治乃《カラカヂノ》は、柄※[楫+戈]之《カラカヂノ》なり、此までは、音高しといはむための序なり、柄※[楫+戈]《カラカヂ》は、柄《カラ》と云るは、※[楫+戈]柄《カヂカラ》にて、古(ヘ)の※[楫+戈]にも柄はありけれども、そはなべての※[楫+戈]は、今(ノ)世に云|加伊《カイ》の如く、一木して製《ツク》れるものなりけむを、手束《タヅカ》に、殊に別木の柄を添て、用(フ)に便よく製れるを、柄※[楫+戈]《カラカヂ》とはいひけるなるべし、(朗詠集に、唐櫓(ノ)聲高(ク)入(ル)2水煙(ニ)1、とあるは、情(リ)字のみにて、其も柄櫓《カラロ》なるべし、略解に、唐國より來りし故に、可良加治《カラカヂ》といふならむ、と云るは、無稽の論なり、此(ノ)餘、確《カラウス》、傘《カラカサ》、犂《カラスキ》などいふ可良《カラ》も、みな柄《カラ》の義なり、唐にはあらず、)○於登太可思母奈《オトダカシモナ》は、音高《オトダカ》しもななり、母奈《モナ》は、倶に歎息(ノ)辭にて奈《ナ》は、俗に奈阿《ナア》とい(161)ふにおなじ、○宿莫敝兒由惠爾《ネナヘコユヱニ》は、莫《ナヘ》v宿《ネ》兒故《コユヱ》ににて、共に宿ざる兒なるものをの意なり、○歌(ノ)意は、いまだ相宿したる事もなき女なるものを、はや人言には、とかくいひさわがれて、さても音高しなあ、となり、十一に、木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾《キノウミノナタカノウラニヨスルナミオトタカキカモアハヌコユヱニ》、
 
3556 思保夫禰能《シホブネノ》。於可禮婆可奈之《オカレバカナシ》。左宿都禮婆《サネツレバ》。比登其等思氣志《ヒトゴトシゲシ》。那乎杼可母思武《ナヲドカモシム》。
 
思保夫禰能《シホブネノ》は、枕詞なり、これは船を、乘ずして、湊にいたづらに居(ヱ)てあるを、置と云故に、つゞけたるなるべし、○於可禮婆可奈之《オカレバカナシ》は、契冲云、長流が、おかればは置《オケ》ればなり、捨置によせて、詠(メ)る歌なり、と云り、さて女を率て宿ずして、徒に置(ケ)れば悲し、といふなるべし、○那乎杼可母思武《ナヲドカモシム》は、汝《ナ》を何《ナド》か將《ム》v爲《セ》、といふなり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、又|乎《ヲ》は與《ヨ》の意にもあるべし、さらば汝《ナ》よ何《ナド》か將《ム》v爲《セ》なり、○歌(ノ)意は、女を率て宿ずして、よしやと徒に置れば、相見まほしく悲しさに堪がたくて、相寢しつれば、とかくいひさわがれて、人言しげし、かくては汝を何とかせむ、さてもせむ方なしや、となるべし、又汝よ何とかせむ、といふにもあるべし、
 
3557 奈夜麻思家《ナヤマシケ》。比登都麻可母與《ヒトヅマカモヨ》。許具布禰能《コグフネノ》。和須禮波勢奈那《ワスレハセナナ》。伊夜母比麻須爾《イヤモヒマスニ》。
 
許具布禰能《コグフネノ》は、本居氏、惱《ナヤマ》しきをいはむためなり、此(ノ)上に、わが目妻人はさくれど朝貌の、とよ(162)めると、同じ句法なり、浪の上をい行さぐくみ、など云る如く、舟をこぎ行ことの、なやましきよしなり、と云な、○和須禮婆勢奈那《ワスレハセナナ》は、忘《ワスレ》は莫《ナヽ》v爲《セ》なり、○歌(ノ)意は、忘るゝをりもあらむかと、相見ずしてあれば、忘れはせずして、いよ/\戀しく思ひ増ものを、さても惱ましく苦しき他妻にてある哉、といふなるべし、四五三一二と句を次第で意得べし、
 
3558 安波受之?《アハズシテ》。由加婆乎思家牟《ユカバヲシケム》。麻久良我能《マクラガノ》。許賀己具布禰爾《コガコグフネニ》。伎美毛安波奴可毛《キミモアハヌカモ》。
 
歌(ノ)意は、君がもとへ、ふりはへて行むに、人目をはゞかりて、あはずて徒に歸らむは、惜きことならむ、許賀《コガ》の渡を、上(リ)下(リ)に※[手偏+旁](グ)舟にて、互に自(ラ)何となきやうに、行逢(ヘ)かし、といふならむ、
 
3559 於保夫彌乎《オホブネヲ》。倍由毛登毛由毛《ヘユモトモユモ》。可多米提之《カタメテシ》。許曾能左刀妣等《コソノサトビト》。阿良波左米可母《アラハサメカモ》。
 
倍由毛登毛由毛《ヘユモトモユモ》は、自《ユ》v舳《ヘ》も自《ユ》v艫《トモ》もなり、舳《ヘ》をも艫《トモ》をも、といはむが如し、此までは、可多米《カタメ》をいはむ料の序にて、船の泊たるに、舳綱、艫綱をもて、繋き竪むる意のつゞけなり、(岡部氏が、船は艫をよく堅めて作るをいふぞ、と云るはわろし、)○可多米提之《カタメテシ》は、契冲が云る如く、口を堅めてし、といふなり、○許曾能左刀妣等《コソノサトビト》は、思(フ)人をさして云り、許曾《コソ》は、地(ノ)名なるべし、未(ダ)考(ヘ)得ず、○阿良波左米可母《アラハサメカモ》は、將《ム》v顯《アラハサ》やは、といふが如し、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、いかなる事ありとも、(163)人にはもらさじと、口を堅めてし許曾《コソ》の里人なれば、つひに吾(ガ)名をあらはす事は、さらにあらじを、となり、
 
3560 麻可禰布久《マカネフク》。爾布能麻曾保乃《ニフノマソホノ》。伊呂爾低?《イロニデテ》。伊波奈久能未曾《イハナクノミソ》。安我古布良久波《アガコフラクハ》。
 
麻可禰布久《マカネフク》は、眞金吹《マカネフク》なり、眞金《マカネ》は鐵をいふ、丹生《ニフ》といふ山にて鐵を吹ば、かくつゞけたるなり、古今集に、眞金吹(ク)吉備の中山、金葉集に、眞金吹(ク)吉備の山人、○爾布之麻曾保乃《ニフノマソホノ》は、丹生之眞朱之《ニフノマソホノ》なり、朱之色《ソホノイロ》とつゞきたるなり、丹生《ニフ》は、和名抄に、上野(ノ)國甘樂(ノ)郡|丹生《ニフ》、とあそ是にや、七十一番職人歌合に、金ほり、あぢきなや丹生の御山に掘(ル)金のみづから人に思ひ入ぬる、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、色に出て、人にいはぬのみにこそあれ、吾(ガ)戀しく思ふやうは、詞にも何にもたとへがたし、となるべし、
 
3561 可奈刀田乎《カナトダヲ》。安良我伎麻由美《アラガキマユミ》。比賀刀禮婆《ヒガトレバ》。阿米乎萬刀能須《アメヲマトノス》。伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》。
 
可奈刀田《カナトダ》は、金門田《カナトダ》にて即(チ)門田のことなり、○安良我伎麻由美《アラガキマユミ》とは、(荒木の眞弓なり、といふ説は、いかゞなり、)安良我伎《アラガキ》は、新掻《アラガキ》にて、荒木の小田とよめるも同じ、(荒木も、新掻なり、)今(ノ)俗にも、田をならすを、あらがき、こながきなどいふめり、麻由美《マユミ》は、(岡部氏が、庇呂美《ヒロミ》なるべし、とい(164)へるは、かなはず、)稻掛(ノ)大平云、此はまゆむとはたらく言にて、まゆむは、地の干わるゝことゝ聞ゆ、さればまゆみは、地の干われてと云ことなり、しかいふ故は、今伊勢の國人など、夏の旱に、畑つ物の粘るを、まふと云、是旱の時に限りていふ言なれば、まふは、まゆむにて、地の干わるゝより出たる言なるべし、又よめわるゝといふ言もあり、これも、よめとゆみと同言なるべし、○比賀刀禮婆《ヒガトレバ》は、日之照者《ヒガテレバ》なり、○阿米乎萬刀能須《アメヲマトノス》は、如《ナス》v待《マツ》v雨《アメヲ》なり、○伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》は、君をと待もなり、等《ト》は添言辭、母は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、新にすきかへしたる門田の、干わるるまで日が照ば、雨のふるを仰ぎ待如くに、君が來座むを、ひとへに待に、さても待遠や、となり、
 
3562 安里蘇夜爾《アリソヘニ》。於布流多麻母乃《オフルタマモノ》。宇知奈婢伎《ウチナビキ》。比登里夜宿良牟《ヒトリヤヌラム》。安乎麻知可禰?《アヲマチカネテ》。
 
安里蘇夜爾は、夜は敝(ノ)字の誤にて、荒礒邊《アリソヘ》になり、草書は混(ヒ)易ければなり、(略解に、夜は麻の誤にて、荒礒回《アリソマ》なり、といへれど、礒回は、古(ヘ)は伊蘇尾《イソミ》とこそいひたれ、伊蘇麻《イソマ》と云る例あることなし、九(ノ)卷に、遊礒麻見者悲裳《アソビシイソマミレバカナシモ》、とあれど、かの礒麻はイソヲ〔三字右○〕とこそ訓べきところなれ、ゆめおもひまどふべからず、猶これらのこと、既く詳に論へり、又本居氏の、夜は、沼の誤なるべし、と云るも、いかゞ、荒礒には、沼《ヌ》のあらむことゝもおもはれず、且《ソノウヘ》夜と沼とは、字形もいさゝか(165)似ざるをや、)○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、妹が吾を待々て、待得ずして、爲む方なしに、唯獨靡(キ)伏て寐らむか、さてもいとほしや、いかでとく行むとは思へど、急《トミ》に障る事の出來て、得行ざる事こそ、本意なけれ、といふなるべし、
 
3563 比多我多能《ヒタガタノ》。伊蘇乃和可米乃《イソノワカメノ》。多知美多要《タチミダエ》。和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》。伎曾毛己余必母《キソモコヨヒモ》。
 
比多我多《ヒタガタ》は、地(ノ)名なり、いづくにや未(ダ)考(ヘ)ず、(十二に、白檀斐太乃細江之《シラマユミヒダノホソエノ》、とよめるは、清濁も異りて、別地なるべし、)○多知美多要《タチミダエ》は、立《タチ》所《エ》v亂《ミダ》なり、美多要《ミダエ》は、亂《ミダ》されと云むが如し、(直に美太禮《ミダレ》を、韻を通(ハ)して、美太要《ミダエ》といへるにはあらず、)よる浪に立|亂《ミダ》されたる如くに、立みだれとつゞく意なり、○和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》は、吾を待らむか、といふ意なり、○伎曾毛己余必母《キソモコヨヒモ》は、昨夜《キソ》も今夜《コヨヒ》もなり、○歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、妹が容儀も心も立みだれつゝ、昨夜も今夜も、ひとへに吾を待てあるらむか、さてもあはれいとほしや、とく行て相見まほしく思へども、障る事のありて、得行ざるこそ本意なけれ、となり、これも障る事の出來て、夜を重ねつゝ、女の許に得行ずして、男のよめるなり、
 
3564 古須氣呂乃《コスゲロノ》。宇良布久可是能《ウラフクカゼノ》。安騰麻酒香《アドススカ》。可奈之家兒呂乎《カナシケコロヲ》。於毛比須吾左牟《オモヒスゴサム》。
 
(166)古須氣呂《コスゲロ》は、武藏と下總のあはひの葛飾(ノ)郡に、小菅《コスゲ》といふ所今ありて、今は里中なれど、此(ノ)邊、古(ヘ)隅田川といひしめたりにて、古く河にも浦を云れば、こゝをいふならむと云り、○安騰須酒香《アドススカ》は、何爲々歟《アドスヽカ》なり、何《ナニ》と爲乍歟《シツヽカ》、といはむに同じ、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は、過《スグ》をいはむ料の序にて、女の事を、愛しく憐しく思ふ思(ヒ)を、何と爲乍《シツヽ》か遣(リ)過さむ、となり、四三一二五の句を次第て意得べし、浦風の吹過るを、思を遣(リ)過すに、いひかけたればなり、
 
3565 可能古呂等《カノコロト》。宿受屋奈里奈牟《ネズヤナリナム》。波太須酒伎《ハタススキ》。宇良野乃夜麻爾《ウラヌノヤマニ》。都久可多與留母《ツクカタヨルモ》。
 
波太須酒伎《ハタススキ》は、枕詞なり、薄《スヽキ》の末《ウラ》とつゞけたり、○宇良野乃夜麻《ウラヌノヤマ》は、兵部省式に、信濃(ノ)國驛馬、(云云、浦野《ウラノ》各十五疋、)とある、其(ノ)地にある山なり、信濃地名考に、浦野(ノ)輝、小縣(ノ)郡にありて、今馬越のうまやと云り、古驛の殘れるなるべし、といへり、○都久可多與留母《ツクカタヨルモ》は、月片寄《ツクカタヨル》もにて、曉方になりて、山の端近く月のかたぶきよる意なり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、さても夜更しと見えて、浦野の山に月が傾くよ、かくては彼(ノ)女と、今夜相宿を得爲ずして止なむ、となり、此は男の、妹がもとへ行て、屋外に立てをりよく内に入むと伺ひ居るほど、夜更月かたぶくを見て、よめるなるべし、
 
3566 利伎毛古爾《ワギモコニ》。安我古非思奈婆《アガコヒシナバ》。曾和敝可毛《ソコヲカモ》。加未爾於保世牟《カミニオホセム》。己許呂思良(167)受?《ココロシラズテ》。
 
曾和敝可毛は、解難《キコエガタ》し、敝(ノ)字、一本には惠と作り、共に必(ズ)誤字なるべし、(略解に、惠とある本に依て、さわぐ意に解なせるは、論にも足ず、岡部氏が、そわへは、神の祟を、さはりといふなるべし、さはりを、さやりともいひたれば、そわへとも轉すべし、と云れど、これも強解なり、)今強て考(フ)るに、一本に依に、和惠は、もとは故遠なりけむを、例の極草にて故遠を書つらむを、和惠と見て、誤しにはあらざるか、もししからば、ソコヲカモ〔五字右○〕と訓べし、其《ソレ》をかの意にて、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○加未爾於保世牟《カミニオホセム》(未(ノ)字、舊本に米と作るは誤なり、今は一本に從つ、)は、神《カミ》に令《セ》v負《オホ》むなり、○歌(ノ)意は、吾妹子を戀しく思ひて、戀死に死たらば、其(ノ)心をば、世(ノ)人のしらずて、神の祟に負せむか、さても歎かしや、といふなるべし、十六戀2夫君(ヲ)1歌に、憶病吾身一曾《オモヒヤムワガミヒトツソ》、千破神爾毛莫負《チハヤブルカミニモナオホセ》、卜部座龜毛莫燒曾《ウラベマセカメモナヤキソ》、戀之久爾痛吾身曾《コホシクニイタキワガミソ》、とあり、思(ヒ)合(ス)べし、伊勢物語にも、人しれず吾(カ)戀死ばあぢきなく何(レ)の神に无(キ)名負せむ、
 
防人歌《サキモリノウタ》。
 
3567 於伎?伊可婆《オキテイカバ》。伊毛婆摩可奈之《イモハマカナシ》。母知?由久《モチテユク》。安都佐能由美乃《アヅサノユミノ》。由都可爾母我毛《ユツカニモガモ》。
 
歌(ノ)意は、留め置て行ば、殘多くて心悲し、いかで其(ノ)妹は、吾《ガ》携へ持て行(ク)梓(ノ)弓の、弓束にてもがな(168)あれかし、となり、廿(ノ)卷防人(ガ)歌に、知々波々母波奈爾母我毛夜久佐麻久良多妣波由久等母佐佐己弖由加牟《チヽハヽモハナニモガモヤクサマクラタビハユクトモササゴテユカム》、八(ノ)卷に、玉切命向戀從者公之三舶乃梶柄母我《タマキハルイノチニムカヒコヒムヨハキミガミフネノカヂツカニモガ》、
 
3568 於久禮爲?《オクレヰテ》。古非波久流思母《コヒハクルシモ》。安佐我里能《アサガリノ》。伎美我由美爾母《キミガユミニモ》。奈良麻思物能乎《ナラマシモノヲ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、妻の答なり、
 
右二首首問答《ミギノフタウタハトヒコタヘノウタ》。
 
3569 佐伎母理爾《サキモリニ》。多知之安佐氣乃《タチシアサケノ》。可奈刀低爾《カナトデニ》。手婆奈禮乎思美《タバナレヲシミ》。奈吉思兒良婆母《ナキシコラハモ》。
 
可奈刀低爾《カナトデニ》は、金門出《カナトデ》ににて、門出といふに同じ、○歌(ノ)意は、防人に旅發(チ)し朝の門出に、門まで手を携へて、吾を送り來しに、今はとて、手を放して、雙方へ別れし時、なごりをしみて、しほしほと泣く其妻は、今はいかに、吾を戀しく思ふらむ、となり、
 
3570 安之能葉爾《アシノハニ》。由布宜利多知?《ユフギリタチテ》。可母我鳴乃《カモガネノ》。左牟伎由布敝思《サムキユフヘシ》。奈乎汲思奴波牟《ナヲバシヌハム》。
 
可母我鳴乃《カモガネノ》は、鴨之音之《カモガネノ》なり、○奈乎波思奴波牟《ナヲバシヌハム》は、汝《ナ》をば將《ム》v思《シヌハ》なり、○歌(ノ)意は、蘆(ノ)葉に夕霧發(チ)て、物あはれに心ぼそく、鴨が音のそゞろ寒き夕(ヘ)は、まして一(ト)すぢに、汝が事を戀しく思はむ、(169)となり、
 
3571 於能豆麻乎《オノヅマヲ》。比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》。於保保思久《オホホシク》。見都都曾伎奴流《ミツツソキヌル》。許能美知乃安比太《コノミチノアヒダ》。
 
於能豆麻乎《オノヅマヲ》は、己妻《オノヅマ》をなり、○比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》は、他里《ヒトノサト》に留(メ)置(キ)といふなり、實は吾(ガ)家に留(メ)置(ク)事なれど、自《ミ》は地をかへて、筑紫へ下る故に、わざと他(ノ)里と云るにやあらむ、○歌(ノ)意は、妻と二人來ば、海山に心留りて、見所多く、いかに面白からむと思ふを、己妻を留(メ)置て、別れ來ぬれば、長き此(ノ)道の間を、心もふさがりむすぼほれて、おぼつかなくぞ來ぬる、となり、○已上五首、防人(ガ)歌は、詞うるはしく、みやびかにして、京人のにも、めづらしきばかりなりけり、
 
譬喩歌《タトヘウタ》。
 
3572 安杼毛敝可《アドモヘカ》。阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》。由豆流波乃《ユヅルハノ》。布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》。可是布可受可母《カゼフカズカモ》。
 
安杼毛敝可《アドモヘカ》は、何思《アドモ》へかにて、何《ナニ》と思へばか、の意なり、さてこゝの思《モヘ》は、たゞ輕く添たる辭にて、何《ナニ》とてか、といはむに同じ、此(ノ)一(ノ)句は、第四(ノ)句の次にめぐらして聞べし、○阿自久麻夜末《アジクマヤマ》は、山(ノ)名なるべし、未(ダ)考(ヘ)得ず、○布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》は、含有時《フヽマルトキ》になり、若葉の未(ダ)開けざるほどをいふ、廿(ノ)卷に、知波乃奴乃古乃弖加之波能保保麻例等《チハノヌノコノテカシハノホホマレド》、云々、〔頭注、【光經、春も猶あじくま山は風さえて、ゆづるはしろくゆきはふりつゝ、】〕(170)○可是布可受可母《カゼフカズカモ》は、風《カゼ》不《ズ》v吹《フカ》してかあるべきの意なり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、いまだしき童女《ヲトメ》を、弓弦葉の含めるにとり、此方《コナタ》よりおもふ心を音信聞ゆるを、風の吹にたとへたり、さてさる弓弦葉のうら若くて、未(ダ)他人の領《シラ》ず、ふゝみてある時に、嗚呼《アハレ》何とてか、風吹いざなはずしてかはあるべき、といふなるべし、(略解に、風ふかずかもは、いまだしきほどには吹ずして、今となりて吹さわぐは、何てふことや、といふなり、と云るは、いみじきひがことなり、)
 
3573 安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻可都良加氣《ヤマカヅラカゲ》。麻之波爾母《マシハニモ》。衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》。於吉夜可良佐武《オキヤカラサム》。
 
夜麻可都良加氣《ヤマカヅラカゲ》は、山葛蘿《ヤマカヅラカゲ》にて、葛蘿《ヒカゲカヅラ》の事なり、其(ノ)説品物解に委(ク)云う、十三に山蔭《ヤマカゲ》、十八に、加都良賀氣《カヅラカゲ》、十九に、夜麻之多日影《ヤマシタヒカゲ》、とある、皆同物なり、さて葛蘿は、もはら奥山に生る物にて、容易《タヤス》く得がてなる物なれば、娶《エ》がたき女を譬へたり、○麻之波爾母《マシハニモ》は、此(ノ)上に、於布之毛等許乃母登夜麻乃麻之波爾母《オフシモトコノモトヤマノマシハニモ》云々、とよめるに同じ、本居氏(ノ)説に、之波《シハ》は數《シバ》にはあらず、俗に物を惜(ム)を、しはきといふと同言にて、いさゝかも得がたきなり、少しなりともと思ふに、少(シ)も得ぬは、かなたより惜(ミ)て、しはき意有なり、といへり、○衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》は、難《ガタキ》v得《エ》蘿《カゲ》をなり、蘿《カゲ》は即(チ)山葛蘿《ヤマカヅラカゲ》なり、○歌(ノ)意は、女の愛しきを、いかで得むと、とにかく心をつくせども、吝《シハ》く惜みて、吾に得させねば、爲む方なく、そのまゝにさしおきて過さむか、といふを、葛蘿のいさゝかも得がてな(171)れば、さて置て、其を自(ラ)枯しめむか、と云に譬へたり、
 
3574 乎佐刀奈流《ヲサトナル》。波奈多知波奈乎《ハナタチバナヲ》。比伎余知弖《ヒキヨヂテ》。乎良無登須禮杼《ヲラムトスレド》。宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》。
 
乎佐刀《ヲサト》は、地(ノ)名か、又は小里《ヲサト》にて、小《ヲ》は泊瀬《ハツセ》、小國《ヲクニ》などの類に、添たる言にて、唯|里《サト》といふか、十九に、天地爾足之照而吾大皇之伎座婆可母樂伎小里《アメツチニテリタラハシテワガオホキミシキマセバカモタヌシキヲサト》、(これも、小《ヲ》は添たる言なり、略解に、小里は、吾(ガ)住里を、へりぐだりていふか、と云るは、甚じき非が説なり、凡て吾(ガ)身、吾(ガ)家、吾(ガ)里などの事を、卑下《クダリ》て、愚拙、弊家、寒郷などやうに、惣て吾(ガ)方の事をば、いやしめていふなるは、皆うはべのみ阿《オモネ》り附《シタガ》ふ漢國人の習俗《ナラハシ》にこそあれ、此方の古(ヘ)は、凡てさることはなかりしなれば、後(ノ)世に、漢風に染着たる意もて、古(ヘ)を思ひはかることなかれ、)○宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》は、未(ダ)末若《ウラワカ》き故にこそ、折むとはすれど、得折ずてあるなれ、といふを、含め餘したるなり、○歌(ノ)意は、いかで此(ノ)橘の愛しさを、一枝引攀て、折むとは思へども、未(ダ)うら若くて、をるばかりの枝なき故に、得折ずして、其(ノ)まゝに置てあるなれと云て、女の年のいまだしきを、たとへたるなり、
 
3575 美夜自呂乃《ミヤジロノ》。緒可倣爾多?流《ヲカヘニタテル》。可保我波奈《カホガハナ》。莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》。許米?思努波武《コメテシヌハム》。
 
美夜自呂《ミヤジロ》は地(ノ)名なるべし、いづくならむ、未(ダ)考(ヘ)ず、○可保我波奈《カホガハナ》は、貌花《カホバナ》なり、美女《ヲトメ》を譬へたり、
 
(172)○莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》は、勿咲出《ナサキイデ》そにて、彌《ネ》は乞望(ノ)辭なり、色に出て、人に知(ラ)るゝ事なかれよ、となり、○許米?思努波武《コメテシヌハム》は、隱而《コメテ》將《ム》v思《シヌハ》なり、思《シヌフ》は愛《ウツクシム》謂なり、人知ずに、相愛しみせむ、といふなるべし、○歌(ノ)意は、汝と吾との中を、色にあらはして、ゆめ/\人に知(ラ)るゝ事なかれ、内に隱《コメ》て密に相愛しみせむぞと、美貌《ウツクシキ》女にいひ令する謂を、貌花に譬へたるなり、
 
3576 奈波之呂乃《ナハシロノ》。古奈宜我波奈乎《コナギガハナヲ》。伎奴爾須里《キヌニスリ》。奈流留麻爾末仁《ナルルマニマニ》。安是可加奈思家《アゼカカナシケ》。
 
奈波之呂乃《ナハシロノ》は、苗代之《ナハシロノ》なり、稻種《イナダネ》の苗代《ナハシロ》なり、その苗代に、水葱《ナギ》は多く生るものなれば、いふなり、(こなぎの種を水にうゝるを、苗代とよめるなり、といふ説は、あらず、)○古奈宜我波奈《コナギガハナ》(宜(ノ)字、舊本には伎と作り、元暦本に從つ、)は、子水葱之花《コナギガハナ》なり、子水葱《コナギ》は品物解に云、此は女にたとへたり、○茶流留麻爾未仁《ナルルマニマニ》は、馴《ナル》る隨意《マニ/\》なり、子水葱(ガ)花の色を、衣に摺うつして、着褻《キナル》るまゝにといふなり、○安是可加奈思家《アゼカカナシケ》は、何歟悲《アゼカカナシ》きなり、○歌(ノ)意は、心に不足《アカヌ》事ありてこそ、物悲しき理なるに、かく子水葱(ガ)花の美(シキ)色を、衣に摺(リ)うつして、心だらひに着褻(ル)るまゝに、何を不足《アカズ》思ひて、かやうに悲しき事ぞ、と奇しめるなり、美女に親み馴るに、猶物思の止ざるを、子水葱(ガ)花に、譬へなしたり、相見ての後の心にくらぶれば、の意を思ふべし、(夫木集に、折てはや衣にすらむ苗代の子水葱花さく時も來ぬらし、)
 
(173)挽歌《カナシミウタ》。
 
3577 可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》。伊都知由可米等《イヅチユカメト》。夜麻須氣乃《ヤマスゲノ》。曾我比爾宿思久《ソガヒニネシク》。伊麻之久夜思母《イマシクヤシモ》。
 
可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》は、愛憐妹《カナシイモ》をなり、妹之《イモガ》とあるべきやうなれど、しかいひては味なし、これはもと、愛憐妹《カナシイモ》を放ち遣(リ)はせじ、何處に行めやと、思ひたのみたりし意を、乎《ヲ》の言にて、思はせたるなればなり、○伊都知由可米等《イヅチユカメト》は、何處《イヅチ》將《メ》v往《ユカ》や、といふが如し、米《メ》は牟《ム》の通へるなり、○夜麻須氣乃《ヤマスゲノ》は、枕詞なり、山菅の葉は、かなた此方に亂(レ)なびきて、正しく相向はざる故に、背向《ソガヒ》と屬《ツヾ》くるなり、(冠辭考に、須氣《スゲ》と、曾我比《ソガヒ》と通ふ故に、つゞけたり、と云るは、誤なり、)○歌(ノ)意は、死なむとは夢にも知(ラ)ず、現在《ウツソミ》にてありしほど、いさゝか恨むる事などのありて、愛《ウツクシキ》妹と、相背きて寐し事のありしが、今更一(ト)すぢに、さても悔しく悲しや、となり、在ときはありのすさみににくかりきの意を思ふべし、七(ノ)卷に、吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳《ワガセコヲイヅクユカメトサキタケノソガヒニネシクイマシクヤシモ》、とあるは、愛妹《カナシイモ》と吾背子《ワガセコ》と、辟竹《サキタケ》と山菅《ヤマスゲ》とかはりたるのみにて、大かたおなじ歌なり、猶彼處に註せるを併(セ)見て考(フ)べし、
〔以前歌詞。未3得2勘知國土山川之名1也。〕
寔に此(ノ)註にもかくあれば、國土の名は、今更勘へ知べからざることなれど、又それが中に、推(174)量違ふまじきも多く、はた古書に併(セ)考へらるゝ事の、少からぬもあり、なほ東(ノ)國人にも問(ヒ)、古き書をも考(ヘ)て、すき/\に探索《タヅネ》ては、よより/\知られぬべし、
 
萬葉集古義十四卷之下 終
〔2011年7月22日(金)午後5時30分、巻十四入力終了〕
 
(175)萬葉集古義十五卷之上
 
 
 天平八年丙子夏六月《テムヒヤウヤトセト云トシヒノエネミナツキ》。遣2使《ツカヒツカハサルヽ》新羅國《シラキノクニニ》1之時《トキ》。使人等各《ツカヒラオノモ/\》悲《カナシミ》v別《ワカレヲ》贈答《オクリコタヘ》。及海路之上《マタウミツヂニテ》。慟《カナシミ》v情《コヽロヲ》陳《ノベテ》v思《オモヒヲ》作歌《ヨメルウタ》。并當朗誦詠古謌《マタトコロニツキテウタヘルフルキウタ》。一百四十五首《モヽチマリヨソイツツ》。
 
此(ノ)題詞、舊本には、遣2新羅1使人等、悲v別贈答、及海路慟v情陳v思并當所誦詠之古謌、とのみ記せり、今は目録に從つ、續紀に、天平八年四月丙寅、遣2新羅(ニ)1使阿倍(ノ)朝臣繼麻呂等拜朝、九年正月辛丑、遣2新羅(ニ)1使大判官從六位上壬生(ノ)使主宇太麻呂、少判官五七位上大藏(ノ)忌寸麻呂等入v京(ニ)、大使從五位下阿倍(ノ)朝臣繼麻呂泊2津島(ニ)1卒、副使從六位下大伴(ノ)宿禰三中染v病(ニ)不v得v入v京(ニ)、と見ゆ、これなり、
 
3578 武庫能浦乃《ムコノウミノ》。伊里江能渚鳥《イリエノスドリ》。羽具久毛流《ハグクモル》。伎美乎波奈禮弖《キミヲハナレテ》。古非爾之奴倍之《コヒニシヌベシ》。
 
羽具久毛流《ハグクモル》は、羽裹《ハグヽモル》なり、九(ノ)卷に、吾子邪裹天乃鶴群《ワガコハグヽメアメノタヅムラ》、とあり、彼(ノ)處に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、武庫の浦の入江の渚に居(ル)鳥の雛の、母の羽に裹まれてあるごとく、撫育れて在し夫(ノ)君に別れ離れて、(176)吾は戀に死ぬべし、となり、此は遣2新羅(ノ)國(ニ)1使に、留れる妻の贈(ル)歌なり、
 
3579 大船爾《オホブネニ》。伊母能流母能爾《イモノルモノニ》。安良麻勢波《アラマセバ》。羽具久美母知※[氏/一]《ハグクミモチテ》。由可麻之母能乎《ユカマシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、遣2新羅(ノ)國(ニ)使の大舶に、妹が乘て、副《タグ》ひ行ものにてあるぞならば、鳥の雛を、母の羽に裹むごとく、憮愛みて行ましものを、さることも叶はねば、いとゞ殘多し、となり、これは夫の答歌なり、
 
3580 君之由久《キミガユク》。海邊乃夜杼爾《ウミヘノヤドニ》。奇里多多婆《キリタタバ》。安我多知奈氣久《アガタチナゲク》。伊伎等之理麻勢《イキトシリマセ》。
 
歌(ノ)意は、夫(ノ)君が旅行賜ふ海邊の宿に、霧が立ば、他の物ならず、吾(ガ)立歎く氣噴《イブキ》の霧ぞと知たまへ、となり、五(ノ)卷に、大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流《オホヌヤマキリタチワタルワガナゲクオキソノカゼニキリタチワタル》、此下に、和我由惠仁妹奈氣久良之風早能宇良能於伎敝爾奇里多奈妣家利《ワガユヱニイモナゲクラシカザハヤノウラノオキヘニキリタナビケリ》、などある、氣噴《イブキ》の霧を云るにて同じ、六(ノ)卷に、茜刺日不並吾戀吉野之河乃霧丹立乍《アカネサスヒナラベナクニアカコヒハヨシヌノカハノキリニタチツヽ》、十二に、吾妹兒爾戀爲便名鴈胸乎熟旦戸開者所見霧可聞《ワギモコニコヒスベナカリムネヲアツミアサトアクレバミユルキリカモ》、又七(ノ)卷に、此小川白氣結瀧至 八信井上爾事上不爲友《コノヲガハキリタナビケリオチタギツハシヰノウヘニコトアゲセネドモ》、(瀧至は、落瀧とありしを、誤れる歟、)などあるも、戀情《コヒ》或は高言《コトアゲ》するによりて、その息の霧に立さまをいへるにて、同じ事なり、古事記に、吹棄氣吹之狹霧《フキウツルイブキノサギリ》、とも見え、書紀雄略天皇(ノ)卷には、近江(ノ)來田綿蚊尾野猪鹿多有呼吸氣息《クタワタノカヤヌニシシサハニアリテイブクイキ》似(タリ)2於|朝霧《アサギリニ》1、とも見えたり、古事記八千矛(ノ)神の御歌に、那賀那加佐麻久阿佐阿米能佐疑埋邇多多牟叙《ナガナカサマクアサアメノサギリニタタムゾ》、とあるも、汝が泣む其(ノ)涙は、朝雨の如く、歎息《ナゲキノイキ》は、狹霧に立(177)むものぞ、といふ意なり、源氏物語明石に、歎きつゝ明石の浦に朝霧の發《タツ》やと人を思ひやる哉、と見えたるも、右の意なり、さて此は妻の贈(ル)歌なり、
 
3581 秋佐良婆《アキサラバ》。安比見牟毛能乎《アヒミムモノヲ》。奈爾之可母《ナニシカモ》。奇里爾多都倍久《キリニタツベク》。奈氣伎之麻左牟《ナゲキシマサム》。
 
麻左牟の左(ノ)字、拾穗本には佐と作り、○歌(ノ)意は、程無く秋になりなば、早歸(リ)來て相見むものを、何しにか、氣噴《イブキ》の霧に立べく歎(キ)爲《シ》まさむと、なぐさめて云るなり、これは夫の答(ル)歌なり、天平八年の夏、新羅(ノ)國に遣(ハ)されて、明年の春京師に還入しと見ゆ、其は遠境に至れる事なれば、浪風をうかゞふ間に、かねて計りしにたがひて、月日をうつせるなるべけれど、夏行て秋還り來むは、あまりに急なるに似たることなれど、次下の歌にも、秋かへらむとするよし、すきすきに見えたれば、しか計り定めしなるべし、又此《コヽ》は、妻の心をなぐさめむために云るなれば、いよ/\さらなり、
 
3582 大船乎《オホブネヲ》。安流美爾伊太之《アルミニイダシ》。伊麻須君《イマスキミ》。都追牟許等奈久《ツツムコトナク》。波也可敝里麻勢《ハヤカヘリマセ》。
 
安流美爾伊太之《アルミニイダシ》(太、舊本多と作り、一本に從つ、古寫本に、大と作るも、太の誤なり、)は、荒海《アルミ》に出《イダ》しなり、七(ノ)卷に、大舟乎荒海爾榜出八船多氣《オホブネヲアルイミニコギデヤフネタケ》、とあり、○伊麻須《イマス》は、行(キ)坐(ス)といふことなり、(去坐《イニマス》のニ〔右○〕を省ける言と思ふは、誤なり、)後に某處《ソコ》におはし坐(ス)、といふと全(ラ)同じ、五(ノ)卷に、唐能遠境爾《モロコシノトホキサカヒニ》、都(178)加波佐禮麻加利伊麻勢《ツカハサレマカリイマセ》云々、十二に、山越而伊座君乎者《ヤマコエテイマスキミヲバ》、廿(ノ)卷に、安之我良乃夜敝也麻故要弖伊麻之奈婆《アシガラノヤヘヤマコエテイマシナバ》、此(ノ)下に、新羅邊伊麻須《シラキヘイマス》、などある皆同じ、大和物語に、つかさのみ、にはかに物へいますとて、よりいまして、よりふしたりけるを云々、○都追牟許等奈久《ツツムコトナク》は、恙事無《ツヽムコトナク》なり、十三に、紀伊國之室之江邊《キノクニノムロノエノヘニ》、千年爾障事無《チトセニツヽムコトナク》、萬世爾如是將有登《ヨロヅヨニカクシモアラムト》云々、○歌(ノ)意は、大船を荒海《アラウミ》漕(ギ)出して行(キ)坐君よ、無恙平安《ツヽミナクサキク》おはしまして、早歸(リ)來賜へ、となり、妻の贈(ル)歌なり、
 
3583 眞幸而《マサキクト》。伊毛我伊波伴伐《イモガイハハバ》。於伎都奈美《オキツナミ》。知敝爾多都等母《チヘニタツトモ》。佐波里安良米也母《サハリアラメヤモ》。
 
眞幸而、或説に、而は與の誤にて、マサキクト〔五字右○〕なるべし、といへり、○伊波伴伐《イハハバ》は、齋者《イハヽバ》なり、十九に、梳毛見自屋中毛波可自久左麻久良多婢由久伎美乎伊波布等毛比弖《クシモミジヤヌチモハカジクサマクラタビユクキミヲイハフトモヒテ》、又、四舶早還來等白香着朕裳裙爾鎭而將待《ヨツノフネハヤカヘリコトシラカツクアガモノスソニイハヒテマタム》、又、立別君我伊麻左婆之奇島能《タチワカレキミガイマサバシキシマノ》、人者和禮自久伊波比弖麻多牟《ヒトハワレジクイハヒテマタム》、など、猶最多し、○歌(ノ)意は、吾(ガ)旅行を眞平安《マサキク》あれと、妹が齋清《イミキヨ》めて、懇に神祇に祈願《イノリマヲシ》なば、たとひ澳つ浪の、千重に高く、發《タツ》事ありとも、いさゝか危く難《サハ》ることはあらじ、となり、此は夫の答(ル)歌なり、
 
3584 和可禮奈婆《ワカレナバ》。宇良我奈之家武《ウラガナシケム》。安我許呂母《アガコロモ》。之多爾乎伎麻勢《シタニヲキマセ》。多太爾安布麻弖爾《タダニアフマテニ》。
 
宇良我奈之家武《ウラガナシケム》(宇、舊本字に誤、)は、夫(ノ)君の裏悲《ウラガナ》しからむなり、裏恋は、心(ノ)裏に悲し、といふ意な(179)り、○許呂母、類聚抄には、衣と作り、○之多爾乎伎麻勢《シタニヲキマセ》は、裏《シタ》に著坐(セ)なり、乎《ヲ》は、その事を重《オモ》く思はする助辭なり、○歌(ノ)意は、旅に別れ行(キ)坐なば、夫(ノ)君は心(ノ)裏に悲しからむ、吾(ガ)形見にまゐらする衣を裏に着て、直に相見にまでは、やがて吾(ガ)身ぞと思ひたまへ、となり、此は妻の贈(ル)歌なり、
 
3585 和伎母故我《ワギモコガ》。之多爾毛伎余等《シタニモキヨト》。於久理多流《オクリタル》。許呂母能比毛乎《コロモノヒモヤ》。安禮等可米也母《アレトカメヤモ》。
 
之多爾毛の毛は、乎の誤なり、と本居氏云り、かけ歌に、之多爾乎《シタニヲ》とあれば、實にさることなり、意は上に同じ、○歌(ノ)意は、裏に着て、吾(ガ)身ぞと思ひたまへとて、妹がおくりおこせたる衣なれば、やがて着て、しばしも其紐を、解ときはあらじ、となり、此は夫の答(ル)歌なり、
 
3586 和我由惠爾《ワガユヱニ》。於毛比奈夜勢曾《オモヒナヤセソ》。秋風能《アキカゼノ》。布可武曾能都奇《フカムソノツキ》。安波牟母能由惠《アハムモノユヱ》。
 
安波牟母能由惠《アハムモノユヱ》は、相見むもの二なるをの意な八〇歌《(ノ)》意は、秋風の吹む其《(ノ)》月は、早歸《リ》來て相見むものなるを、吾を戀しく思ふとて、思(ヒ)疲《ツカ》れて痩る事なかれ、となんら、此も夫の贈(ル)歌なり、
 
3587 多久夫須麻《タクブスマ》。新羅邊伊麻須《シラキヘイマス》。伎美我目乎《キミガメヤ》。家布可安須可登《ケフカアスカト》。伊波比弖麻多牟《イハヒテマタム》。
 
多久夫須麻《タクブスマ》は、枕詞なり、仲哀天皇(ノ)紀に、栲衾新羅國《タクブスマシラキノクニ》、○歌(ノ)意は、遠く新羅(ノ)國へ行(キ)坐君なれば、い(180)かに戀しく思ふとも、今日や明日やに、歸(リ)來たまふ事はあらじを、さは思へども、戀情に堪がたくて、君が容儀を、今日は見むか、明日は見むかと思ひて、神祇に齋ひ祈りて待居む、となり、此は妻の答(ル)歌なり、
 
3588 波呂波呂爾《ハロバロニ》。於毛保由流可母《オモホユルカモ》。之可禮杼毛《シカレドモ》。異情乎《ケシキコヽロヲ》。安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》。
 
於毛の毛(ノ)字、古寫本には母と作り、○異情《ケシキコヽロ》は、十四に、家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《ケシキコヽロアガモハナクニ》、歌(ノ)意は、遠く新羅(ノ)國へ行(キ)坐君なれば、遙々に戀しく思はるゝ哉、されどさばかり遠く隔り居たりとて、心のかはる事あらむやは、ひとへに君をこそ、戀しく思ひまゐらせめ、となり、五(ノ)卷に、波漏婆漏爾於忘方由流可毛志良久毛能智弊仁邊多夫留都久紫能君仁波《ハロバロニオモハユルカモシラクモノチヘニヘダテルツクシノクニハ》、とあるに、本(ノ)二句は同じ、これも妻の答(ル)歌なり、
 
右十一首贈答《ミギノトヲマリヒトツハオクリコタヘノウタ》。
 
贈答(ノ)二字、古寫本に无(キ)は、わろし、
 
3589 由布佐禮婆《ユフサレバ》。比具良之伎奈久《ヒグラシキナク》。伊故麻山《イコマヤマ》。古延弖曾安我久流《コエテソアガクル》。伊毛我目乎保里《イモガメヲホリ》。
 
歌(ノ)意は、夕(ヘ)になれば、物がなしく、晩蝉《ヒグラシ》の來鳴(ク)生駒山を、心ぼそさに、いよ/\妹が容儀の見まほしく、戀しく思ひて、越てぞ吾(ガ)來る、となり、此は奈良(ノ)家より、生駒山を越て、難波に至るほど(181)よめるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。秦間滿《ハタノハシマロ》。
 
秦(ノ)間滿は、傳未(ダ)詳ならず、此(ノ)下に、秦(ノ)田滿とあり、田は間の誤か、又は間は田の誤かにて、同人なるべし、
 
3590 伊毛爾安波受《イモニアハズ》。安良婆須敝奈美《アラバスベナミ》。伊波禰布牟《イハネフム》。伊故麻乃山乎《イコマノヤマヲ》。故延弖曾安我久流《コエテソアガクル》。
 
須敝奈美《スベナミ》は、爲便無《スベナカ》らむとての意なり、○伊波禰布牟《イハネフム》、は、十一に、※[糸+參]路者|石蹈山無鴨《イハフムヤマノナクモガモ》、また、石根蹈重成山雖不有《イハネフムヘナレルヤマハアラネドモ》、などあり、石根蹈《イハネフミ》さくむ、嶮《サガ》しき生駒山を、辛《カラウ》して超て來るよしなり、(或説に、いはねふむは、射駒山に、石根あるこゝろにはあらず、石ふむ駒といひかけたる詞なり、と云るは、あらず、)○歌(ノ)意は、別(レ)行て、妹に逢ずあらば、爲方なからむとて、石根蹈嶮しき生駒山を、辛して越て、暫(ク)還りて、妹を相見に來る、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。※[斬/足]《ヒソカニ》還《カヘリテ》2私家《イヘニ》1陳《ノブ》v思《オモヒヲ》。
 
※[斬/足]還2私家1は、潮待する間、難波より、奈良(ノ)家に※[斬/足]《ヒソカ》に還りてよめるなり、
 
3591 妹等安里之《イモトアリシ》。時者安禮杼毛《トキハアレドモ》。和可禮弖波《ワカレテハ》。許呂母弖佐牟伎《コロモテサムキ》。母能爾曾安里家流《モノニソアリケル》。
 
(182)歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、契冲云(ク)、此(ノ)歌夏なれは、衣手寒きまではあるまじけれど獨(リ)ぬることのわびしきをいふなり、意を得て、言をわするべし、
 
3592 海原爾《ウナハラニ》。宇伎禰世武夜者《ウキネセムヨハ》。於伎都風《オキツカゼ》。伊多久奈布吉曾《イタクナフキソ》。妹毛安良奈久爾《イモモアラナクニ》。
 
歌(ノ)意、これもかくれなし、
 
3593 大伴能《オホトモノ》。美津爾布奈能里《ミツニフナノリ》。許藝出而者《コギデテハ》。伊都禮乃思麻爾《イヅレノシマニ》。伊保里世武和禮《イホリセムワレ》。
 
歌(ノ)意は、難波の御津にて船乘《フナノリ》して、漕出行たらば何(レノ)島にかゝりて、吾は旅宿せむぞ、となり、六(ノ)卷に、木綿疊手向乃山乎今日越而何野邊爾廬將爲吾等《ユフタヽミタムケノヤマヲケフコエテイヅレノヌヘニイホリセムワレ》、とあり、今と趣相似たり、
 
右三首《ミギノミウタハ》。臨《スル》v發《タヽムト》之時《トキ》。作歌《ヨメルウタ》。
 
臨發は、難波津より發船臨《フナダチセム》としたる時を云り、
 
3594 之保麻都等《シホマツト》。安里家流布禰乎《アリケルフネヲ》。思良受志弖《シラズシテ》。久夜之久妹乎《クヤシクイモヲ》。和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》。
 
歌(ノ)意は、かやうに潮待して、いたづらに日數を經むものと知てありせば、今暫(ク)家に留りて、居るべき事にてありしを、さともしらずして、妹に別れて來しが悔し、となり、
 
3595 安佐妣良伎《アサビラキ》。許藝弖天久禮婆《コギデテクレバ》。牟故能宇良能《ムコノウラノ》。之保非能可多爾《シホヒノカタニ》。多豆我許(183)惠須毛《タヅガコエスモ》。
 
多豆我許惠須毛《タヅガコヱスモ》は、鶴之聲爲《タヅガコヱス》なり、毛《モ》は嘆息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、難波津を、朝に船發して漕(ギ)出て來れば、武庫(ノ)浦の潮の干潟に鶴が群て鳴よ、さてもあはれのけしきや、となり、六(ノ)卷御製歌に、妹爾戀吾乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡《イモニコヒワガマツバラユミワタセバシホヒノカタニタヅナキワタル》、
 
3596 和伎母故我《ワギモコガ》。可多美爾見牟乎《カタミニミムヲ》。印南都麻《イナミヅマ》。之良奈美多加彌《シラナミタカミ》。與曾爾可母美牟《ヨソニカモミム》。
 
印南郡麻《イナミヅマ》は、四(ノ)卷に、稱日都麻浦箕乎過而《イナビヅマウラミヲスギテ》、六(ノ)卷に、伊奈美嬬辛荷之島之《イナミヅマカラニノシマノ》、などあり、○歌(ノ)意は、嬬《ツマ》といふ名のなつかしければ、その稻日嬬を、吾妹子が形見に見まほしと思へど、浪の高く起(ツ)故に、漕よする事もかなはず、外目にのみ見むか、となり、
 
3597 和多都美能《ワタツミノ》。於伎都之良奈美《オキツシラナミ》。多知久良思《タチクラシ》。安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》。思麻我久流見由《シマガクルミユ》。
 
流(ノ)字、拾穗本に、禮と作るは誤、○歌(ノ)意は、海の澳の浪が、高く興(チ)て來らし、そのよしは、海人少女等が乘れる船の、風を避(ケ)て、島陰に漕隱るゝが見ゆ、となり、
 
3598 奴波多麻能《ヌバタマノ》。欲波安氣奴良之《ヨハアケヌシ》。多麻能宇良爾《タマノウラニ》。安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》。奈伎和多流奈里《ナキワタルナリ》。
 
(184)多麻能宇良《タマノウラ》は、次下にも二所見えたり、(七(ノ)卷、九(ノ)卷に、玉之浦《タマノウラ》とあるは、紀伊(ノ)國にて別なり、)大神(ノ)眞潮、備中にも備後にも、、玉島《タマシマ》といふ所あり、又備後の鞆の海に、田島と云あり、その島に、玉村と云もあり、と云り、源(ノ)嚴水、次の歌の神島は、備中なるを、その上に序でたれば、こは備中の玉島《タマシマ》の浦なるべし、と云り、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3599 月余美能《ツクヨミノ》。比可里乎伎欲美《ヒカリヲキヨミ》。神島乃《カミシマノ》。伊素末乃宇良由《イソマノウラユ》。船出須和禮波《フナデスワレハ》。
 
神島《カミシマ》は、十三に、恐耶神之渡乃《カシコキヤカミノワタリノ》云々、とよみて、その題詞に、備後(ノ)國神島(ノ)濱作歌、とある、備後も備中の誤にて、同處なり、さて今備中(ノ)國に、高《カウ》の島といふ有は、神島なるべしと、本居氏云り、○伊素末乃宇良《イソマノウラ》は、契冲は、神島ある所の名なり、いそまの浦の神島なるべけれど、神をたふとみて、神島のいそまの浦とは、いふなるべし、と云り、(現存六帖に、橘(ノ)廣兼、波よする伊素未《イソマ》の浦のそなれ松ねをしほにのみぬるゝ袖かな、とあるは、こゝの伊素末《イソマ》の浦と同じきか、)今按(フ)に、末は未の誤にて、たゞ礒回之裏《イソミウラ》にてもあるべし、(さらば、神島の磯のめぐりといふほどのことなり、)○船出須《フナヂス》は、礒の裏に泊たる舟を、こぎ出すをいふなり、○歌(ノ)意は、月光《ツキノヒカリ》の清くて明きが故に、まだ夜をこめて、神島の礒の裏を發船して吾は漕ゆく、となり、
 
3600 波奈禮蘇爾《ハナレソニ》。多※[氏/一]流牟漏能木《タテルムロノキ》。宇多我多毛《ウタガタモ》。比左之伎時乎《ヒサシキトキヲ》。須疑爾家流香母《スギニケルカモ》。
 
(185)波奈禮蘇《ハナレソ》は、離礒《ハナレソ》なり、廿(ノ)卷に、多多美氣米牟良自加已蘇乃波奈利蘇乃《タタミケメムラジガイソノハナリソノ》、(現存六帖に、爲家、汐がれの干潟の浦のはなれ洲に鶴ぞ鳴なる友呼(バ)ふらし」とよめり、○牟漏能木《ムロノキ》は、品物解に云り、○宇多我多毛《ウタガタモ》は、姑(ク)の間にもの意なり、此(ノ)詞、十七にも、二首見えたり、委(ク)は、十二に、歌方毛曰管毛有鹿《ウタガタモイヒツヽモアルカ》、とある歌に註《イヒ》たりき、○歌(ノ)意は、昔時《サキ》に此に來しより、今までたゞ姑(ク)の間と思ふに、其(ノ)時見し、この離礒《ハナレソ》の室の若木の、かう/”\しく舊(リ)たるを思へば、早久しき年月を經てありし哉、となり、此(ノ)歌にて見れば、再度此處に來りしなるべし、契冲云(ク)、次の歌とゝもに二首は、備後(ノ)國鞆(ノ)浦にしてよめるなり、第三に、帥大伴(ノ)卿、此(ノ)牟漏《ムロ》の木をよめる歌三首あり、そこに鞆(ノ)浦と云り、
 
3601 之麻思久母《シマシクモ》。比等利安里宇流《ヒトリアリウル》。毛能爾安禮也《モノニアレヤ》。之麻能牟漏能木《シマノムロノキ》。波奈禮弖安流良武《ハナレテアルラム》。
 
歌(ノ)意は、しばしの間も、獨あり堪らるゝものなれやは、しばしのほども、妻とはなれて、獨はあり得がてなるものなるに、島の牟漏の木は、いかにしてか、離礒《ハナレソ》に獨はなれ立て、年月を渡るならむ、となり、
 
右八首《ミギノヤウタハ》。乘v船《フナノリシテ》入《イヅルトキ》2海路上《ウミツヂニ》1。作歌《ヨメルウタ》。
 
當所誦詠古歌《トコロニツキテウタヘルフルキウタ》。
 
(186)所(ノ)字、拾穗本には、時と作り、
 
3602 安乎爾余志《アヲニヨシ》。奈良能美夜古爾《ナラノミヤコニ》。多奈妣家流《タナビケル》。安麻能之良久毛《アマノシラクモ》。見禮杼安可奴加毛《ミレドアカヌカモ》。
 
歌(ノ)意は、遙に見遣(リ)て、吾(ガ)戀しく思ふ、そなたの寧樂の都の天《ソラ》に、たなびきたる雲は、見れども見れども、さても飽足ぬ事哉、となり、契冲云(ク)、是より人麿の七夕(ノ)歌までは、所につけ時につけて、興ある古歌を誦したるを、載たるなり、此(ノ)うた、かくれたる所なし、古人の雲を詠じたる歌なるを、今迄に、そなたにながめやりて、此(ノ)歌の心にかなひたれば、打ずんしたるなり、景行天皇(ノ)紀に、はしきよしわぎへのかたゆくもゐたちくも、やまとはくにのまほらま、たゝなづくあをかき、やまこもれるやまとしうるはしと、思邦《クニシノビ》の御歌によませたまへるは、奈良(ノ)都より、はるかのさまなれど、國もおなじく、心もおなじ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》詠《ヨメル》v雲《クモヲ》。
 
3603 安乎楊疑能《アヲヤギノ》。延太伎里於呂之《エダキリオロシ》。湯種蒔《ユタネマキ》。忌忌伎美爾《ユヽシクキミニ》。故非和多流香母《コヒワタルカモ》。
 
延太伎里於呂之《エダキリオロシ》は、楊(ノ)枝を伐(リ)て、苗代の水口にさして、神を齋(ヒ)奉るを、いふなるべし、今も田を植る初(メ)に、木の枝を刺(シ)ていはふことあり、是をさばひおろしと云り、又今土佐(ノ)國長岡(ノ)郡のあたりにては、もはら苗代つくりて、種を蒔とき、水口に松杉などの枝を刺て、水口をいはへり、
(187)さて古(ヘ)は、何の木にても、あるにまかせて刺けむを、後に事祝《コトホギ》して、しか松杉の常葉木に、かぎれる如くにはなれりけむ、(かくて古(ヘ)は、いづくにても、此(ノ)事はせしならむを、後に廢れて、たまたまその事の、遺れる所あるなるべし、しかるを、契冲が、春苗代にたねまかむとては、柳の枝のはびこりたれば、蔭ともなり、そこにかよふにもさはれば、枝をきりおろすなり、と云れど、さらば、枝伐除而《エダキリソケテ》などこそいふべけれ、於呂之《オロシ》とあるにかなひがたし、又本居氏の楊(ノ)枝を、はねつるべといふ物にすることなり、といへるも、たま/\しかする所もこそあらめ、おしなべて、しかるにもあるべからざれば、打まかせて、青柳の枝きりおろしとは、いひがたきをや、)○湯種蒔《ユタネマキ》、此(レ)までは、忌々《ユヽシク》をいはむ料の序なり、湯種《ユタネ》は、既く七(ノ)卷に云り、○忌々伎美《ユヽシクキミ》とは、忌憚《イミハヾカ》らしく君を、といふなり、○歌(ノ)意は、人の見て、何の故ぞといぶかりとがめむ時、答ふべき託言《カゴト》なければ、色には出すまじき事なるに、猶堪忍び得ず、人目忌憚らしきまで歎きて、君を戀しく思ひて、月日を經渡る哉、となり、
 
3604 妹我素弖《イモガソデ》。利可禮弖比左爾《ワカレテヒサニ》。奈里奴禮杼《ナリヌレド》。比登比母伊毛乎《ヒトヒモイモヲ》。利須禮弖於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》。
 
和須禮弖於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》は、忘《ワス》れむやは、得わすれずの意なり、思《オモフ》は、輕く添たる辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
(188)3605 和多都美乃《ワタツミノ》。宇美爾伊弖多流《ウミニイデタル》。思可麻河泊《シカマガハ》。多延無日爾許曾《タエムヒニコソ》。安伊故非夜麻米《アガコヒヤマメ》。
 
宇美爾伊弖多流《ウミニイデタル》は、契冲云(ク)、いづれの川とて、つひに海に出ぬはなけれど、此(ノ)川は、やがて海にながれ出る故に、海に出たるとは云り、○思可麻河泊《シカマガハ》(泊(ノ)字、拾穗本に伯と作るはわろし、)は、播磨(ノ)國飾磨(ノ)郡にある川なり、七(ノ)卷に、思賀麻江者許藝須疑奴良思《シカマエハコギスギヌラシ》、(新三十六人撰に、水上の氷を分る飾麻《シカマ》川海に出てや浪は立らむ、)○歌(ノ)意は、飾磨川《シカマガハ》の流(レ)の渇《カレ》て、絶む日にこそ息《ヤマ》め、さらずば、吾(ガ)戀しぐ思ふ情の息(ム)時は、さらにあらじ、となり、
 
右三首戀歌《ミギノミウタハコヒノウタ》。
 
3606 多麻藻可流《タマモカル》。乎等女乎須疑※[氏/一]《ヲトメヲスギテ》。奈都久佐能《ナツクサノ》。野島我左吉爾《ヌシマガサキニ》。伊保里須和禮波《イホリスワレハ》。
 
此(ノ)歌より已下四首、三(ノ)卷に出たる歌なり、こゝは暗《ソヲ》に誦《トナ》へ誤れるなり、そのたがひ、舊本に註せる如し、其(ノ)註(ニ)云、柿本(ノ)朝臣人麿(ガ)歌(ニ)曰、敏馬乎須疑※[氏/一]《ミヌメヲスギテ》、又曰|布禰知可豆伎奴《フネチカヅキヌ》、この中、敏馬《ミヌメ》を乎等女《ヲトメ》と誦《ウタ》へるは、いみじき誤なり、尾(ノ)句は、いづれにしても通《キコ》えたり、○歌(ノ)意は、敏馬《ミヌメ》の埼を漕(ギ)過て、野島の埼に、吾は旅宿をする、となり、
 
3607 之路多倍能《シロタヘノ》。藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》。伊射里須流《イザリスル》。安麻等也見良武《アマトヤミラム》。多妣由久和禮(189)乎《タビユクワレヲ》。
 
註(ニ)云、柿本(ノ)朝臣人麿(ガ)歌(ニ)曰、安良多倍乃《アラタヘノ》、又曰、須受吉都流安麻登香見良武《スズキツルアマトカミラム》、この安良多倍《アラタヘ》を、之路多倍《シロタヘ》と誦《ウタ》へるは誤なり、第三四(ノ)句は、いづれにても通えたり、○歌(ノ)意は、旅行吾なるものを、藤江の浦に、漁業《イザリ》する海人ぞと、人目には見らむか、となり、
 
3608 安麻射可流《アマザカル》。比奈乃奈我道乎《ヒナノナガチヲ》。孤悲久禮婆《コヒクレバ》。安可思能門欲里《アカシノトヨリ》。伊敝乃安多里見由《イヘノアタリミユ》。
 
奈我道乎《ナガチチ》、三(ノ)卷には長道從《ナガチユ》とあり、註(ニ)云、柿本(ノ)朝臣人磨(ガ)歌(ニ)曰、夜麻等思麻見由《ヤマトシマミユ》、いづれにても通《キコ》えたり、○歌(ノ)意は、夷《ヒナ》の長道を、家路戀しく思ひつゝ來れば、明石の門の口より、その戀しく思ふ家の方が見ゆるに、程なくそれも見えずなりなむかと思ふが、名殘惜き、となり、
 
3609 武庫能宇美能《ムコノウミノ》。爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》。伊射里須流《イザリスル》。安麻能都里船《アマノツリブネ》。奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》。
 
註(ニ)曰、柿本(ノ)朝臣人磨(ガ)歌(ニ)曰、氣比乃宇美能《ケヒノウミノ》、又曰、可里許毛能美太禮※[氏/一]出見由安麻能都里船《カリコモノミダレテイヅミユアマノツリブネ》、いづれにても通《キコ》えたり、○歌(ノ)意は、漁業《イザリ》する海人の釣船どもの、多く漕(ギ)出るが見ゆるは、武庫(ノ)海の波濤《ナミ》の和《ナギ》て、海(ノ)上の平《タヒラカ》なる故なるらし、となり、
 
3610 安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》。布奈能里須良牟《フナノリスラム》。乎等女良我《ヲトメラガ》。安可毛能須素爾《アカモノスソニ》。之保美都(190)良武賀《シホミツラムカ》。
 
註(ニ)に、柿本(ノ)朝臣人麿(ノ)歌(ニ)曰、安美能宇良《アミノウラ》、(此間に爾(ノ)字を脱せり、)又曰、多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》、と云り、今按(フ)に、此(ノ)歌一(ノ)卷に、嗚呼見乃浦爾、とある、見は兒(ノ)字の誤なり、さればこゝに、安胡《アゴ》とあるはよし、然るを此(ノ)註は、その誤れるまゝに引たるなれば、後人の誤なり、○歌(ノ)意は、安胡《アゴ》の浦より、乘船《フナノリ》して漕(ギ)出て、漁業《イザリ》などすらむ海人少女の、美《ウルハ》しき紅裳《アカモ》の裙《スソ》に潮滿來て、いかにわびしき目にか、あふらむ、となり、一(ノ)卷にては、大宮人のさまを思ひやりて云るを、此には海人にとりて云るなるべし、
 
七夕歌一首〔五字□で囲む〕
 
左(ノ)歌は、たゞ月をよめる歌と見ゆるに、七夕(ノ)歌と題《シル》せるは、誤なるべし、なほ歌の下に云を見べし、
 
3611 於保夫禰爾《オホブネニ》。麻可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》。宇奈波良乎《ウナハラニ》。許藝弖天和多流《コギデテワタル》。月人乎登姑《ツキヒトヲトコ》。
 
月人乎登姑《ツキヒトヲトコ》(姑(ノ)字、舊本に祐と作るは、枯の誤なるべし、古寫本、拾穗本等には、※[示+古]と作り、今は一本に從つ、)は、たゞ月なり、(契冲、月人をとこは、牽牛をいふと見えたり、と云り、されど牽牛を、月人をとことは、いかでかいふべき、十(ノ)卷/七夕(ノ)歌にも、月人壯子《ツキヒトヲトコ》とよめれど、それももとは、月の歌なりけむを、混(ヒ)入しものとこそおもはるれ、)○歌(ノ)意は、海(ノ)上に浮べる月(ノ)光を、大船に楫貫て、(191)海原をわたる人に見なして云るにて、かくれたるすぢなし、此は渡海《ウミワタル》に、月の照たるを見て、その興に叶へる古歌を、誦へたるなり、
 
右柿本朝臣人麿歌《ミギカキノモトノアソミヒトマロノウタ》。
 
此は、以上六首の註なるべし、
 
備後國水調郡長井浦《キビノミチノシリノクニミツキノコホリナガヰノウラニ》。船泊之夜《フネハテシヨ》。作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
水調(ノ)郡は、和名抄に、備後(ノ)國御調(ノ)郡(ハ)三豆木《ミツギ》、と見ゆ、
 
3612 安乎爾與之《アヲニヨシ》。奈良能美也故爾《ナラノミヤコニ》。由久比等毛我母《ユクヒトモガモ》。久佐麻久良《クサマクラ》。多妣由久布禰能《タビユクフネノ》。登麻利都礙武仁《トマリツゲムニ》。【旋頭歌也。】
 
礙(ノ)字、古寫本には※[且/寸]と作り、○歌(ノ)意は、吾(ガ)旅行(ク)船の、恙《ツヽミ》無て泊たるよしを、告遣るべき爲に、寧樂の都に、行人もがなあれがしとなり、
 
右一首大判官《ミギノヒトウタハオホキマツリゴトヒト》。
 
大判官は、壬生(ノ)使主|宇太麻呂《ウダマロ》なり、續紀に、天平九年正月辛丑、遣2新羅(ニ)1使大判官從六位上壬生(ノ)使主字太麻呂等入v京(ニ)、十八年四月癸卯、正六位上壬生(ノ)使主宇太麻呂(ニ)、授2外從五位下(ヲ)1、八月丁亥、爲2右京(ノ)亮(ト)1、勝寶二年五月辛丑、爲2但馬(ノ)守(ト)1、六年七月丙午、壬生(ノ)使主宇陀麻呂、爲2玄蕃(ノ)頭(ト)1、と見ゆ、
 
3613 海原乎《ウナハラヲ》。夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》。伎奴禮杼母《キヌレドモ》。奈良能美也故波《ナラノミヤコハ》。和須禮可禰都母《ワスレカネツモ》。
 
(192)夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》は、八十島隱《ヤソシマガクリ》なり、八十《ヤソ》は數多きを云り、九(ノ)卷に、百傳布八十之島回乎※[手偏+旁]雖來粟小島者雖見不足可聞《モヽヅタフヤソノシマミヲコギキケドアハノコシマハミレドアカヌカモ》、○歌(ノ)意は、八十《ヤソ》と數多くの嶋々に漕(ギ)隱れて、面白く目留る處々を見つゝ、海原を經て來ぬれば、寧樂の都の事は忘らるべきに、猶得忘ずしてぞ、戀しく思はるゝとなり、
 
3614 可敝流散爾《カヘルサニ》。伊母爾見勢武爾《イモニミセムニ》。和多都美乃《ワタツミノ》。於伎都白玉《オキツシラタマ》。比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》。
 
可敝流散爾《カヘルサニ》は、歸る時《トキ》になり、○於伎都白玉《オキツシラタマ》は、海(ノ)底の白玉なり、○比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》は、いざ拾《ヒリヒ》て行《ユカ》む、と急ぎ去るなり、拾《ヒロフ》を、比利布《ヒリフ》といふは、古言なり、奈《ナ》は、牟《ム》を急(ク)云るなり、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、家に歸り着たる時に、妹に見せむが爲に、海(ノ)底の白玉を、いざ急(ク)拾(ヒ)取て行む、となり、
 
安藝國風速浦《アギノクニカザハヤノウラニ》。舶泊之夜《フネハテシヨ》。作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
風速(ノ)浦は、和名抄に、安藝(ノ)國高田(ノ)郡風速、(加佐波也《カザハヤ》)とある、是なり、
 
3615 和哉由惠仁《ワガユヱニ》。妹奈氣久良之《イモナゲクラシ》。風早能《カザハヤノ》。宇良能於伎敝爾《ウラノオキヘニ》。奇里多奈妣家利《キリタナビケリ》。
 
歌(ノ)意は、吾を戀しく思ふが故に、妹が歎くらし、そのよしは、この風速の浦の澳に、氣噴《イブキ》の霧が立たなびけり、となり、これと次との二首は、上に、君之由久海邊乃夜杼爾奇里多々婆《キミガユクウミヘノヤドニキリタヽバ》云々、といふ、妻の歌をおもひてよめるなり、
 
3616 於伎都加是《オキツカゼ》。伊多久布伎勢波《イタクフキセバ》。和伎毛故我《ワギモコガ》。奈氣伎能奇里爾《ナゲキノキリニ》。安可麻之母(193)能乎《アカマシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、奧津風の甚《イタ》く起(チ)て、此方《ココ》に吹よせなば、その風にたぐひて、妹の歎の氣噴《イブキ》の霧に、あかまし物を、となり、さるは澳方に立たなびきたるは、妹が氣噴の霧なれば、それだになつかしく思はるゝに、澳の方にのみたなびきて、此方《ココ》によせざるを、足《アカ》ず思へば、いかで此方に吹よせよかし、と希へるなり、(略解に、潮ぐもりは、風の起るに從て立ものなり、きりは、くもりの約言なり、と云るは、誤なり、たゞに潮ぐもりのことゝしては、歎の霧と云るに叶はず、又きりは、くもりの約言にあらず、きりのことは、既く具云り、)
 
長門島舶2泊礒邊1《ナガトノシマノイソヘニフネハテヽ》。作歌五首《ヨメルウタイツツ》。
 
長門(ノ)島は、これも安藝《アキノ》國なり、十三にも、續麻成長門之浦丹《ウミヲナスナガトノウラニ》、と見ゆ、○舶(ノ)字、類聚抄には船と作り、船舶礒邊、拾穗本には、礒邊泊舶と作り、
 
3617 伊波婆之流《イハバシル》。多伎毛登杼呂爾《タギモトドロニ》。鳴蝉乃《ナクセビノ》。許惠乎之伎氣婆《コヱヲシキケバ》。京師之於毛保由《ミヤコシオモホユ》。
 
蝉は、品物解に云り、字鏡に、蝉(ハ)世比《セビ》、※[虫+身](ハ)世比《セビ》、とあれば、セビ〔二字右○〕と訓べし、鳴聲によれる名なり、(蝉の字音の轉には非ず、)○歌(ノ)意は、石走る瀧水の音に響合て、鳴蝉の聲を聞ば、京師のさまが、一(ト)すぢにいよ/\戀しくのみぞ思はるゝ、となり、時の興に乘《つけ》て、京師をおもひ出せるさま、あはれなり、
 
(194)右一首《ミギノヒトウタハ》。大石蓑麿《オホイソノニノマロ》。
 
大石(ノ)蓑磨(蓑(ノ)字、古寫本には※[草がんむり/衣]と作り)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
3618 夜麻河泊能《ヤマガハノ》。伎欲吉可河世爾《キヨキカハセニ》。安蘇倍杼母《アソベドモ》。奈良能美夜古波《ナラノミヤコハ》。和須禮可禰都母《ワスレカネツモ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3619 伊蘇乃麻由《イソノマユ》。多藝都山河《タギツヤマガハ》。多延受安良婆《タエズアラバ》。麻多母安比見牟《マタモアヒミム》。秋加多麻氣弖《アキカタマケテ》。
 
伊蘇乃麻由《イソノマユ》は、礒之間從《イソノマヨリ》なり、礒は、山河の磐石《イハ》なり、○歌(ノ)意は礒の間より、激《タギ》り落るけしきの、きよらに、えもいはず、あかずおもしろきに、旅の憂をも、しばし慰めつるよ、その山河の水の絶ずてあらば、秋片設てかへるさに、又しもその美景を見べし、となり、
 
3620 故悲思氣美《コヒシゲミ》。奈具産米可禰※[氏/一]《ナグサメカネテ》。比具良之能《ヒグラシノ》。奈久之麻可氣爾《ナクシマカゲニ》。伊保利須流可母《イホリスルカモ》。
 
故悲思氣美《コヒシゲミ》は、戀の繁き故にの意なり、○之麻可氣《シマカゲ》は、島陰《シマカゲ》なり、廿(ノ)卷に、之麻加枳乎己枳爾之布禰乃他都択之良受母《シマカギヲコギニシフネノタヅキシラズモ》、○歌(ノ)意は、旅の憂を慰めむとすれど、家路戀しく思ふ事の、繁く多きが故に、得なぐさめずして、晩蝉の鳴(ク)此(ノ)島隱に、旅廬する哉、さても物悲しき夕(ヘ)ぞ、となり、
 
3621 和我伊能知乎《ワガイノチヲ》。奈我刀能之麻能《ナガトノシマノ》。小松原《コマツバラ》。伊久與乎倍弖加《イクヨヲヘテカ》。可武佐備和多(195)流《カムサビワタル》。
 
和我伊能知乎《ワガイノチチ》は、旅にても、喪《モ》なく事なく、吾(ガ)命の長くあれかし、といはふ意にて、長門(ノ)島にいひかけたるなり、十二に、我命之長欲家口《ワガイノチノナガクホシケク》、○歌(ノ)意は、此(ノ)長門(ノ)島の小松原は、幾萬代を經てか、かやうに神々しく、神さび物舊(リ)たるならむ、となり、
 
從《ヨリ》2長門浦《ナガトノウラ》1舶出之夜《フナデセシヨ》。仰2觀《ミテ》月光《ツキヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
3622 月余美乃《ツクヨミノ》。比可里乎伎欲美《ヒカリヲキヨミ》。由布奈藝爾《ユフナギニ》。加古能古惠欲妣《カコノコヱヨビ》。宇良未許見可母《ウラミコグカモ》。
 
比可里乎伎欲美《ヒカリヲキヨミ》(美、一本見と作り、)は、光が清き故にの意なり、○加古能古惠欲妣《カコノコヱヨビ》(古惠、類聚抄、古寫本等には、己惠と作り、)は、四(ノ)卷に、朝名寸二水手之音喚《アサナギニカコノコヱヨビ》、暮名寸二梶之音爲乍《ユフナギニカヂノトシツヽ》云々、十三に、旦名伎爾水手之音爲乍《アサギニカコノコヱヨビ》、(爲乍は呼の誤、)夕名寸爾梶音爲乍《ユフナギニカヂノトシツヽ》云々、○宇良未許具可母《ウラミコグカモ》、(未(ノ)字、舊本には未に誤、今改つ、母(ノ)字、類聚抄には聞と作り、)浦回漕哉《ウラミコグカモ》なり、宇良未《ウラミ》は、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、月(ノ)光が清く明きが故に、夜ながら、水手を喚立て、浦のあたりを漕廻る哉、さてもあはれのけしきや、となり、
 
3623 山乃波爾《ヤマノハニ》。月可多夫氣婆《ツキカタブケバ》。伊射里須流《イザリスル》。安麻能等毛之備《アマノトモシビ》。於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》。
 
備(ノ)字、類聚抄には火と作り、○奈都佐布《ナヅサフ》は、浪漬傍《ナヅサフ》にて、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、西(ノ)山(ノ)端に、入方近(196)く月が傾けば、今一(ト)際漁火をてらして、彼方此方に漕廻りつゝ、海人の漁業《イザリ》するが見ゆ、となり、
 
3624 和禮乃未夜《ワレノミヤ》。欲布禰波許具登《ヨブネハコグト》。於毛敝禮婆《オモヘレバ》。於伎敝能可多爾《オキヘノカタニ》。可治能於等須奈里《カヂノオトスナリ》。
 
歌(ノ)意は、吾ばかり夜船に乘て、漕行らむか、かく夜中に辛《カラ》くして潜行人は、さらにあらじと思へるに、吾のみならず、澳の方にも、船漕人ありと思はれて、※[楫+戈](ノ)音するなり、となり、
 
古挽歌一首并短歌《フルキカナシミウタヒトツマタミジカウタ》。
 
古挽歌、(古(ノ)宇、舊本右に誤、古寫本、拾穗本等に從つ、)契冲云(ク)、これも此(ノ)時、舟の上にて、かたり出けるを、日記などにしたるまゝに、こゝに載たるなるべし、
 
3625 由布左禮婆《ユフサレバ》。安之敝爾佐和伎《アシベニサワキ》。安氣久禮婆《アケクレバ》。於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》。可母須良母《カモスラモ》。都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》。和我尾爾波《ワガヲニハ》。之毛奈布里曾等《シモナフリソト》。之路多倍乃《シロタヘノ》。波禰左之可倍※[氏/一]《ハネサシカヘテ》。宇知波良比《ウチハラヒ》。左宿等布毛能乎《サヌトフモノヲ》。由久美都能《ユクミヅノ》。可敝良奴其等久《カヘラヌゴトク》。布久可是能《フクカゼノ》。美延奴我其登久《ミエヌガゴトク》。安刀毛奈吉《アトモナキ》。與能比登爾之弖《ヨノヒトニシテ》。和可禮爾之《ワカレニシ》。伊毛我伎世弖思《イモガキセテシ》。奈禮其呂母《ナレゴロモ》。蘇弖加多思吉※[氏/一]《ソデカタシキテ》。比登里可母禰牟《ヒトリカモキム》。
可母須良母《カモスラモ》は、三(ノ)卷に、輕池之※[さんずい+内]囘往轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カルノイケノウラミモトホルカモスラニタマモノウヘニヒトリネナクニ》、とあるに同じ、○和(197)我尾爾波《ワガヲニハ》云々、九(ノ)卷に、新玉之小埼乃沼爾鴨曾翼霧己尾爾零置流霜乎掃等丹有斯《サキタマノヲサキノヌマニカモソハネキルオノガヲニフリオケルシモヲハラフトニアラシ》、ともありて、鴨は尾を殊に大切にするよしもて、云るなるべし、○之路多倍乃波禰《シロタヘノハネ》(路(ノ)字、古寫本には露と作り、)は、鳥の羽は、人(ノ)身の衣の如くなれば、比て、白布《シロタヘ》と云り、(略解に、白たへのはねと云れば、こゝの可母は、鴎《カモメ》を云るか、又箱の置るによりて、かく云るか、と云るは、あらず、白布《シロタヘ》とは、もと色の白(キ)をいふより出たる言なれど、いひなれては、必しも色のうへをとはず、人の着(ル)物をいふことになれるより、羽を、人の衣に比へたるのみなるをや、)○左之可倍※[氏/一]《サシカヘテ》は、雌と雄と羽を指交而《サシカハシテ》、といふなり、○由久美都能《ユクミヅノ》云々、十九悲2世間無常1長歌に、吹風能見要奴我其登久《フクカゼノミエヌガゴトク》、逝水能登麻良奴其等久《ユクミヅノトマラヌゴトク》云々、書紀に、豈圖一旦※[耳+少]然昇遐《アニハカラムヤニハカニハルカニワカレテ》、與《トモニ》v水《ミヅト》無《ナク》v歸《カヘルコト》即2安《ヤスミマサムトハ》玄室《クラキヤニ》1、古今集に、さきだたぬくいり八千度かなしきは流(ルヽ)水のかへり來ぬなり、○安刀毛奈吉《アトモナキ》は、三(ノ)卷家持悲2傷亡妾1歌に、跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思《アトモナキヨノナカナレバセムスベモナシ》、とあるに同じ、○奈禮其呂母《ナレゴロモ》は、着褻《キナラ》したる衣なり、○蘇弖加多思吉※[氏/一]《ソテカタシキテ》は、獨宿の形を云るなり、九(ノ)卷に、吾戀妹相佐受玉浦丹衣片敷一鴨將寐《アガコフルイモニアハサズタマノウラニコロモカタシキヒトリカモネム》、十(ノ)卷に、泊瀬風如是吹三更者及何時衣片敷吾一將寐《ハツセカゼカクフクヨハヲイツマデカコロモカタシキアレヒトリネム》、などあるに同じ、○比登里可母禰牟《ヒトリカモネム》は、獨(リ)宿をせむか、さても本意なしや、となり、
 
3626 多都我奈伎《タヅガナキ》。安之敝乎左之弖《アシヘヲサシテ》。等妣和多類《トビワタル》。安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》。比等里佐奴(198)禮婆《ヒトリサヌレバ》。
 
多都我奈伎《タヅガナキ》は、第三(ノ)句の上へめぐらして心得べし、蘆邊を指て鶴之鳴飛渡《タヅガナキトビワタル》なり、さて此は、多頭多頭志《タヅタヅシ》といはむ料の序なり、○安之敝乎左之弖《アシヘヲサシテ》は、六(ノ)卷に、若浦爾塩滿來者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡《ワカノウラニシホミチクレバカタヲナミアシヘヲサシテタヅナキワタル》、○安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》は、四(ノ)卷に、草香江之入江二求食蘆鶴乃痛多豆多頭思友無二指天《クサカエノイリエニアサルアシタヅノアナタヅタヅシトモナシニシテ》、十一に、天雲爾翼打附而飛鶴乃多頭多頭思鴨君不座者《アマクモニハネウチツケテトブタヅノタヅタヅシカモキミシマサネバ》、などあるに同じ、○歌(ノ)意は、妻に別れて、獨宿をすれば、嗚呼《アヽ》さてもたどたどしや、となり、
 
右丹比大夫《ミギタヂヒノマヘツキミガ》。悽2愴《カナシメル》亡妻《ミマカレルメヲ》1歌《ウタ》。
 
丹比(ノ)眞人は、傳未(ダ)詳ならず、
 
屬《ツキテ》v物《モノニ》發《ノブル》v思《オモヒヲ》歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
3627 安佐散禮婆《アササレバ》。伊毛我手爾麻久《イモガテニマク》。可我美奈須《カガミナス》。美津能波麻備爾《ミツノハマビニ》。於保夫禰爾《オホブネニ》。眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》。可良久爾爾《カラクニニ》。和多理由加武等《ワタリユカムト》。多太牟可布《タダムカフ》。美奴面乎左指天《ミヌメヲサシテ》。之保麻知弖《シホマチテ》。美乎妣伎由氣婆《ミヲビキユケバ》。於伎敝爾波《オキヘニハ》。之良奈美多可美《シラナミタカミ》。宇良未欲理《ウラミヨリ》。許藝弖和多禮婆《コギテワタレバ》。和伎毛故爾《ワギモコニ》。安波治乃之麻波《アハヂノシマハ》。由布左禮婆《ユフサレバ》。久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》。左欲布氣弖《サヨフケテ》。由久敝乎之良爾《ユクヘヲシラニ》。安我己許呂《アガココロ》。安可志能宇良爾《アカシノウラニ》。布禰等米弖《フネトメテ》。宇伎禰乎詞都追《ウキネヲシツツ》。和多都美能《ワタツミノ》。於枳敝乎見禮婆《オキベヲミレバ》。伊射理須流《イザリスル》。安(199)麻能乎等女波《アマノヲトメハ》。小船乘《ヲブネノリ》。都良良爾宇家里《ツララニウケリ》。安香等吉能《アカトキノ》。之保美知久禮婆《シホミチクレバ》。安之辨爾波《アシヘニハ》。多豆奈伎和多流《タヅナキワタル》。安左奈藝爾《アサナギニ》。布奈弖乎世牟等《フナデヲセムト》。船人毛《フナビトモ》。鹿子毛許惠欲妣《カコモコヱヨビ》。柔保等里能《ニホドリノ》。奈豆左比由氣婆《ナヅサヒユケバ》。伊敝之麻婆《イヘシマハ》。久毛爲爾美延奴《クモヰニミエヌ》。安我毛敝流《アガモヘル》。許己呂奈具也等《ココロナグヤト》。波夜久伎弖《ハヤクキテ》。美牟等於毛比弖《ミムトオモヒテ》。於保夫祢乎《オホブネヲ》。許藝和我由氣婆《コギワガユケバ》。於伎都奈美《オキツナミ》。多可久多知伎奴《タカクタチキヌ》。與曾能未爾《ヨソノミニ》。見都追須疑由伎《ミツツスギユキ》。多麻能宇良爾《タマノウラニ》。布禰乎等杼米弖《フネヲトドメテ》。波麻備欲里《ハマビヨリ》。宇良伊蘇乎見都追《ウライソヲミツツ》。奈久古奈須《ナクコナス》。禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》。和多都美能《ワタツミノ》。多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》。伊敝都刀爾《イヘツトニ》。伊毛爾也良牟等《イモニヤラムト》。比里比登里《ヒリヒトリ》。素弖爾波伊禮弖《ソデニハイレテ》。可敝之也流《カヘシヤル》。都可比奈家禮婆《ツカヒナケレバ》。毛弖禮杼毛《モテレドモ》。之留思乎奈美等《シルシヲナミト》。麻多於伎都流可毛《マタオキツルカモ》。
 
伊毛我手爾麻久《イモガテニマク》は、朝毎に、妹が容顔《スガタ》をよそふとて、鏡を手に取持をいふ、○可我美奈須《カガミナス》は、如《ナス》v鏡《カヾミ》なり、此まで三句は、美津《ミツ》をいはむ料の序なり、四(ノ)卷に、臣女乃匣爾乘有《オミノメノクシゲニイツク》、鏡成見津乃濱邊爾《カヾミナスミツノハマヘニ》、二(ノ)卷に、鏡成雖見不※[厭のがんだれなし]《カヾミナスミレドモアカニ》、十一に、眞祖鏡雖見言哉《マソカヾミミトモイハメヤ》、○波麻備《ハマビ》は、濱傍《ハマビ》なり、既く具(ク)云り、○多太牟可布《タグムカフ》は、直《タヾ》に向《ムカフ》なり、六(ノ)卷に、御食向淡路乃島二《ミケムカフアハヂノシマニ》、直向三犬女乃浦能《タゞムカフミヌメノウラノ》、四(ノ)卷に、天佐我留夷乃國邊爾《アマザカルヒナノクニヘニ》、直向淡路乎過《タヾムカフアハヂヲスギ》但し、この六(ノ)卷なるは、淡路島にさし向ふをいひ、四(ノ)卷なるは、夷國《ヒナノクニ》にさし向ふをいひ、今は自(ラ)直にさし向ふを云り、)○美乎妣伎由氣婆《ミヲビキユケバ》は、水脈《ミヲ》を導(キ)行(ケ)ばなり、十八に、保里江(200)欲里水乎妣吉之都追美布禰左須《ホリエヨリミヲビキシツツミフネサス》云々、玄蕃式、蕃客朝貢の時宣命に、參上來留客等參近奴登《マヰノボレルマラヒトラノマヰテカヅキヌト》、攝津國守等開著弖《ツノクニノカミラキコシメシテ》、水脈母教導賜解登宣隨爾《ミヲモラバミヲビキシテヲシヘミチビキタマヘトノルマニマニ》、迎賜波久登宣《ムカヘタマハクトノル》、雜式に、凡太宰(ノ)貢(ル)2雜(ノ)官物(ヲ)1船、到(ラバ)2縁海(ノ)國(ニ)1、澪引《ミヲビキシテ》令(ヨ)v知2泊處(ヲ)1、和名抄に、楊氏漢語抄(ニ)云、水脈船(ハ)美乎比岐能布禰《ミヲビキノフネ》、○宇良未《ウラミ》(未、舊本末に誤れり、)は、浦廻《ウラミ》なり、○和伎毛故爾《ワギモコニ》は、枕詞なり、吾妹子に逢といひかけたり、十(ノ)卷に、吾妹兒爾逢坂山之《ワギモコニニオフサカヤマノ》、○安我己許呂《アガココロ》は明石《アカシ》をいはむ料なり、奧方を見やりて、いぶせき心の内をはらしやり、見明むる意のいひかけなり、集中に、見明《ミアキ》らめとも、見《メ》し賜ひ明《アキ》らめ賜ひなども、多く云るをもて、考(ヘ)合(ス)べし、(略解に、人は心の赤きを、むねと尊むことなる故、あが心あかしとつゞくるなり、と云れど、いかゞ、)○都良良爾宇家里《ツラニウケリ》は、列々《ツラ/\》に浮有《ウケリ》なり、古事記下(ツ)卷、仁徳天皇(ノ)大御歌に、於伎幣邇波袁夫泥都雁羅玖《オキヘニハオブネツララク》、(玖《ク》は、カキクケ〔四字右○〕と活用かす辭にて、枕にするを、マクラカム、マクラク〔九字右○〕、蔓にするを、カヅラカム、カヅラク〔九字右○〕など云類なり、と云り、)此(ノ)集十九に、布勢乃海爾小船都良奈米《フセノウミニヲブネツラナメ》、とも見えたり、此《コヽ》は夜中に、漁火の多きを、見やりたるさまなり、○鹿子《カコ》は、水手《カコ》なり、○柔保等里能《ニホドリノ》は、枕詞なり、○奈豆左比《ナヅサヒ》は浪漬傍《ナヅサヒ》にて、此(ノ)上にも見えたり、○伊敝之麻《イヘシマ》は、播磨(ノ)國揖保(ノ)郡家島なり、神名式(ニ)云、播磨(ノ)國揖保(ノ)郡家島(ノ)神社、(名神大、)左馬寮式(ニ)云、凡放2播磨(ノ)國家島(ニ)1御馬、寮直(ニ)移v國(ニ)放繋(ゲ)云々、四(ノ)卷に、稻日都麻浦箕乎過而《》、鳥自物魚津左比去者《イナビツマウラミヲスギテトリジモノナヅサヒユケバ》、家乃島荒磯之宇倍爾《イヘノシマアリソノウヘニ》、とある處に、既く具(ク)云り、○安我毛敝流《アガモヘル》は、吾思有《アガモヘル》なり、○許己呂奈具也等《ココロナグヤト》は、吾(ガ)戀しく思(201)ふ家と名に負たる、家島に至りて見ば、旅憂の和《ナグ》さむ事もあらむかと、といふなり、○波夜久伎弖《ハヤクキテ》は、速行而《ハヤクユキテ》といはむが如し、今は行(ク)方を内にして、來《キ》と云るなり、○許義和我由氣婆《コギワガユケバ》は、漕て吾(ガ)行ばなり、○多麻能宇良《タマノウラ》は、上に具(ク)云り、○與曾能未爾《ヨソノミニ》云々は、澳つ浪の、高く興(チ)來ぬるが故に、家島の方に、漕(ギ)行(ク)事を得爲ずして、外目にばかり見つゝ過行、といふなり、○奈久古奈須《ナクコナス》は、如《ナス》2哭兒《ナクコ》1、なり、三(ノ)卷に、哭兒成慕來座而《ナクコナスシタヒキマシテ》、とあり、○禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》は、哭耳所v泣《ネノミナカユ》なり、之《シ》は、その一(ト)すぢなることを、重く云助辭なり、家路の戀しく思はるゝ故に、一(ト)すぢに音にのみ泣(カ)るゝ、となり、○和多都美能多麻伎能多麻《ワタツミノタマキノタマ》は、海神《ワタツミ》の手纏《タマキ》の珠《タマ》なり、古事記に、伊邪那岐(ノ)大神の、阿波岐原而禊祓《アハギハラニテミソギシ》賜ふ時、於《ニ》2投棄左御手之手纏《ナゲウツルヒダリノミテノタマキ》1所《マセル》v成《ナリ》神云々、靈異記に、比丘|環《タマキノ》解《トキテ》2一(ノ)玉(ヲ)1授(ケテ)之云々、環(タマ支乃《キノ》)字鏡に、釧(ハ)太萬支《タマキ》、又|久自利《クジリ》、また和名抄に、鐶(ハ)由比萬岐《ユビマキ》、唐※[韵の旁](ニ)云、鐶(ハ)指鐶也、環(ハ)玉環也、また内典(ニ)云、在2指上(ニ)1者名之曰v環(ト)、在2臂上(ニ)1者名之爲v釧(ト)、比知萬岐《ヒヂマキ》、などあるも、このたぐひなるべし、(本居氏は、この多麻岐乃玉《タマキノタマ》を、仁徳天皇(ノ)紀に、田道てふ人の、蝦夷と戰て死し時、有2從者1、取2得田道之手纒(ヲ)1、與2其(ノ)妻(ニ)1、乃抱2手纒(ヲ)1而縊死、三代實録に、貞觀十二年五月十三日勅に、壹岐島、冑並手纒各二百具、和名抄射藝(ノ)具に、※[韋+溝の旁]和名|多末岐《タマキ》、一云|小手《コテ》也、などある物と、一(ツ)として解れて、上(ツ)代には常に著る物なりしを射藝(ノ)具とのみなれるは、後のことなり、と云れど、なほ常に飾に著る手纏と、射藝(ノ)具なるとは、もとより同名異物なり、その所由は、和名抄にも、鐶釧などは、服玩(ノ)(202)具に載、※[韋+溝ノ旁]は射藝(ノ)具に載たるをや、)さてこゝは、海邊にある玉なる故、海神の環《タマキ》にする料の玉といふ意もて、やがて環《タマキ》の珠とは云るなり、○比里比等里《ヒリヒトリ》(等、拾穗本には登と作り、)は、拾※[手偏+庶]《ヒリヒトリ》なり、○之留思乎奈美等《シルシヲナミト》は、益《シルシ》無(キ)が故に、と云むが如し、
 
反歌二首。
 
3628 多麻能宇良能《タマノウラノ》。於伎都之良多麻《オキツシラタマ》。比利敝禮杼《ヒリヘレド》。麻多曾於伎都流《マタソオキツル》。見流比等乎奈美《ミルヒトヲナミ》。
 
於伎都之良多麻《オキツシラタマ》(多麻(ノ)二字、類聚抄には玉と作り、)は、海底の眞珠《シラタマ》なり、○見流比等乎奈美《ミルヒトヲナミ》(比等二字、類聚抄には人と作り、)は、取見て、愛る人の無(キ)故にの意なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3629 安伎左良婆《アキサラバ》。我布禰波弖牟《ワガフネハテム》。和須禮我比《ワスレガヒ》。與他伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》。於伎都之良奈美《オキツシラナミ》。
 
於家禮《オケレ》は、禮《レ》は、良里留禮《ラリルレ》の活用《ハタラキ》言にて、置て有れと令《オホ》する詞なり、此下に乏呂多倍能安我之多其呂母宇思奈波受毛弖禮和我世故多太爾安布麻低爾《シロタヘノアガシタゴロモウシハズモテレワガセコタダニアフマデニ》、とある、毛弖禮《モテレ》と同格の詞なり、○歌(ノ)意は、秋になりなば歸り來て、又此(ノ)處に吾(ガ)船を泊《ハテ》むぞ、澳つ浪よ、必(ズ)忘(レ)貝をよせ來て置てあれ、となり、
 
周防國玖珂郡麻里布浦行之時《スハウノクニクガノコホリマリフノウラヲユクトキ》。作歌八首《ヨメルウタヤツ》。
 
(203)玖珂、(珂(ノ)字、古寫本、拾穗本等には河と作り、)和名抄に、周防(ノ)國玖珂(ノ)郡、(珂音如v鵞(ノ)、)續紀に、養老五年四月丙申、分2周防(ノ)國熊毛(ノ)郡(ヲ)1、置2玖珂(ノ)郡(ヲ)1、○麻里布《マリフ》は、今佐波(ノ)郡にありと云り、
 
3630 眞可治奴伎《マカヂヌキ》。布禰之由加受波《フネシユカズバ》。見禮杼安可奴《ミレドアカヌ》。麻里布能宇良爾《マリフノウラニ》。也杼里世麻之乎《ヤドリセマシヲ》。
 
見禮杼安可奴《ミレドアカヌ》は、一(ノ)卷に。雖見飽奴吉野乃河之《ミレドアカヌヨシヌノカハノ》、七(ノ)卷にも、雖見不飽人國山《ミレドアカヌヒトクニヤマ》、と見ゆ、○乎、舊本牟に誤れり、古寫本に從つ、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、此(ノ)浦の見あかぬにつきて、此《コヽ》に泊て、この勝景を愛まほしく思ふを、心なき水手どもの、急ぎて船を漕行を、恨みたるやうにいへるなり、
 
3631 伊都之可母《イツシカモ》。見牟等於毛比師《ミムトオモヒシ》。安波之麻乎《アハシマヲ》。與曾爾也故非無《ヨソニヤコヒム》。由久與思乎奈美《ユクヨシヲナミ》。
 
安波之麻《アハシマ》は、三(ノ)卷に、武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟《ムコノウラヲコギタムヲブネアハシマヲソガヒニミツヽトモシキヲブネ》、とある粟島なり、彼處に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、いつしかも、行至りて見むと、ひとへに待遠に思ひし粟島に、行事叶はずして、外《ヨソ》にのみ戀しく思ひつゝあらむか、となり、
 
3632 大船爾《オホブネニ》。可之布里多弖天《カシフリタテテ》。波麻藝欲伎《ハマギヨキ》。麻里布能宇良爾《マリフノウラニ》。也杼里可世麻之《ヤドリカセマシ》。
 
可之布里多弖天《カシフリタテテ》は、※[牛+戈]※[牛+可]振立而《カシフリタテテ》なり、※[牛+戈]※[牛+可]は、舟を繋く木なり、七(ノ)卷に、舟盡可志振立而廬利爲(204)名子江乃濱邊過不勝鳧《フネハテヽカシフリタテテイホリセナコガタノハマヘスギカテヌカモ》、とある處に云り、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3633 安波思麻能《アハシマノ》。安波自等於毛布《アハジトオモフ》。伊毛爾安禮也《イモニアレヤ》。夜須伊毛禰受弖《ヤスイモネズテ》。安我故非和多流《アガコヒワタル》。
 
安波思麻能《アハシマノ》は、逢じといはむ料に、目に觸る地を、やがて云たるなり、○歌(ノ)意は、又更に、逢見じとおもふ妹にあれやは、さはなきものを、いかでかくばかり、安宿《ヤスイ》も寢ずして、戀しく思ひつつ、月日を經渡ることぞ、となり、(略解に、妹が思ふものならば、夢にも見ゆべきを、妹があはじとおもへばにや、我いねられず思ふと云なり、とあるは、いみじきひがことなり、)
 
3634 筑紫道能《ツクシヂノ》。可太能於保之麻《カダノオホシマ》。思麻志久母《シマシクモ》。見禰波古悲思吉《ミネバコヒシキ》。伊毛乎於伎弖伎奴《イモヲオキテキヌ》。
 
筑紫道《ツクシヂ》と云るは、大島《オホシマ》は、筑紫へ往來《ユキカヒ》する海路のよしなり、○可太能於保之麻《カダノオホシマ》は、可太《カダ》は、未(ダ)考(ヘ)ず、蓋(シ)大島あたりを總《スベ》て稱《ヨビ》し、古(キ)名なるべし、(和名抄に、筑前(ノ)國穗波(ノ)郡堅島(ハ)加多之麻《カタシマ》、とある、これにや、といふ説は、あたらず、)於保之麻《オホシマ》は、周防(ノ)國、大島(ノ)郡これなり、此(ノ)郡は離(レ)島にて、今八代島と云り、(和名抄に、大島(ノ)郡|屋代《ヤシロ》、)上(ノ)關の東、安藝の嚴島の西南にありて、長さ今道八九里ばかり、横五六里ばかりなる島なりと云り、古事記上(ツ)卷に、次(ニ)生2大島(ヲ)1、亦(ノ)名(ハ)謂2大多麻流別《オホタマルワケト》1、國造本紀に、大島(ノ)國(ノ)造、後撰集戀に、人知ず思ふ心は大島のなるとはなしに歎く比かな、また、大島の水を(205)はこびし早船の云々、などある皆同じ、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は序にて、暫の間も見ねば戀しく思はるゝ妹を留置て、道々別れぞ來ぬる、となり、
 
3635 伊毛我伊敝治《イモガイヘヂ》。知可久安里世婆《チカクアリセバ》。見禮杼安可奴《ミレドアカヌ》。麻理布能宇良乎《マリフノウラヲ》。見世麻思毛能乎《ミセマシモノヲ》。
 
理(ノ)字、類聚抄には里と作り、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、此(ノ)勝景を、妹に見せましものを、となり、
 
3636 伊敝妣等波《イヘビトハ》。可敝里波也許等《カヘリハヤコト》。伊波比之麻《イハヒシマ》。伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》。多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》。
 
伊敝妣等《イヘビト》、類聚抄には、家人と作り、○伊波比之麻《イハヒシマ》は、玖珂(ノ)郡にあるなるべし、尋(ヌ)べし、此は齋《イハヒ》を、いはむ料に、目に觸る地を持て云るなり、○歌(ノ)意は、早く歸り來よと齋清《イハヒキヨメ》て、神祇に祈願つゝ、旅行(ク)吾を、家人の待つゝあるらむ、となり、
 
3637 久左麻久良《クサマクラ》。多妣由久比等乎《タビユクヒトヲ》。伊波比之麻《イハヒシマ》。伊久與布流末弖《イクヨフルマデ》。伊波比伎爾家牟《イハヒキキニケム》。
 
久左麻久良《クサマクラ》、類聚抄には、草枕と作り、○比等《ヒト》、類聚抄には、人と作り、○歌(ノ)意は、家人の齋清《イハヒキヨメ》て、神祇に祈願つゝ、吾を待ごとく、昔より旅行(ク)人を、幾代經るまで齋《イハ》ひ來りつゝ、齋島《イハヒシマ》と名に負け(206)むことぞ、となるべし、
 
萬葉集古義十五卷之上 終
 
(207)古萬葉集古十五卷之中
 
過《スギテ》2大島鳴門《オホシマノナルトヲ》1而|經《ヘシ》2再宿1《フタヨ》之後《ノチ》。追作歌二首《オヒテヨメルウタフタツ》。
 
大島(ノ)鳴門は、本居氏云(ク)、この鳴門今もあり、大畑迫戸と云て、周防の地と、大島との間の迫門なり、潮滿たる時は、鳴(ル)響《オト》いと高くて、舟人のおそるゝ處なりとぞ、
 
3638 巨禮也己能《コレヤコノ》。名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》。宇頭之保爾《ウヅシホニ》。多麻毛可流登布《タマモカルトフ》。安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》。
 
宇頭之保《ウヅシホ》は、本居氏云、宇頭《ウヅ》は、うづまきのうづと一(ツ)なり、高き意ときこゆ、書紀に、雄略天皇、十五年、詔(シテ)聚《トリテ》2秦(ノ)民(ヲ)1賜2於秦(ノ)酒(ノ)公(ニ)1、公仍領2率《ヒキヰテ》百八十種勝《モヽヤソクサノカチヲ》1、奉2獻(ル)庸調(ヲ)1也、絹※[糸+兼]《キヌカトリ》充2積《ミチツメリ》朝廷《ミカドニ》1、因《カレ》賜v姓(ヲ)曰2禹豆麻佐《ウヅマサト》1、一云|2禹豆母利麻佐《ウヅモリマサト》1、皆|盈積《ミチツメル》之貌也、とあり、○多麻毛可流登布《タマモカルトフ》(多麻毛、類聚抄には玉藻と作り、)は、玉藻刈《タマモカル》と云なり、○歌(ノ)意は、此(レ)が、彼(ノ)かねて聞及びし鳴門にてやあるらむ、誠名に負たる如く、世に恐しく危ふき海門なるに、その高きうづ潮に下(リ)立て、玉藻刈といふなるは、げにも危ふき海人少女のしわざにぞありける、となり、
 
(208)右一首田邊秋庭《ミギノヒトウタハタノベノアキニハ》。
 
秋庭は、傳未(ダ)詳ならず、
 
3639 奈美能宇倍爾《ナミノウヘニ》。宇伎禰世之欲比《ウキネセシヨヒ》。安杼毛倍香《アドモヘカ》。許己呂我奈之久《ココロガナシク》。伊米齋美要都流《イメニミエツル》。
 
安杼毛倍香《アドモヘカ》は、何思《ナドオモ》へば歟《カ》なり、(契冲が、いざなへばかといふ意なり、と云るは、わろし、)十四に、安杼毛敝可阿自久麻夜末乃《アドモヘカアジクマヤマノ》云々、こゝは妹が、吾(ガ)ことを、などおもへばにかの意なり、此下に、和伎毛故我伊可爾於毛倍可《ワギモコガイカニオモヘカ》云々、とあると、意ひとし、○歌(ノ)意は、家の妹が、吾(ガ)事を、いかに深く思ひおこせばにかあらむ、浪(ノ)上に浮宿せし夜の夢に、危きをもいとはずして入來て、心愛《コヽロガナ》しく見えつる、となり、
○右(ノ)歌、作者を脱せり、
 
熊毛浦船泊之夜《クマケノウラニフネハテシヨ》。作歌四首《ヨメルウタヨツ》。
 
熊毛は、和名抄に、周防(ノ)國熊毛(ノ)郡熊毛(ハ)久万介《クマケ》、○船(ノ)字、古寫本には舶と作り、
 
3640 美夜故邊爾《ミヤコヘニ》。由可牟船毛我《ユカムフネモガ》。可里許母能《カリコモノ》。美太禮弖於毛布《ミダレテオモフ》。許登都礙夜良牟《コトツゲヤラム》。
 
可里許母能《カリコモノ》は、亂《ミダレ》の枕詞なり、○許登都礙夜良牟《コトツゲヤラム》(礙(ノ)字、古寫本に※[日/寸]、拾穩本に碍と作り、)は、言告《コトツゲ》
(209)遣むなろ。○歌(ノ)意は、都方《ミヤコヘ》に行(ク)船もがなあれかし、さらば亂れ狂ひて思ふ心を、家(ノ)妻に、告遣べきを、となり、
 
右一首羽栗《ミギノヒトウタハハクリ》。
 
羽栗は、契冲、羽栗(ノ)翔《カケル》にや、略きて氏のみをかけるか、又は名の脱たる歟、と云り、翔《カケル》は續紀に、寶字五年十一月癸未、授d迎藤原(ノ)清河(ヲ)1使外從五位下高元度(ニ)從五位上(ヲ)u、其(ノ)録事羽栗(ノ)翔者、留(テ)2清河(ガ)所1而不v歸、寶龜六年八月庚寅、授2遣唐錬事正七位上羽栗(ノ)翼(ニ)外從五位下(ヲ)1、爲2准判官(ト)1、七年三月癸巳、大外記外從五位下羽栗(ノ)翼(ヲ)爲2兼勅旨(ノ)大丞(ト)1、八月癸亥、山背(ノ)國乙訓(ノ)郡(ノ)人、外從五位下羽栗(ノ)翼(ニ)賜2姓(ヲ)臣(ト)1、天應元年六月壬子、遣(シテ)2從五位下勅旨(ノ)大丞羽栗(ノ)臣翼(ヲ)於難波(ニ)1、令v練2朴消(ヲ)1、延暦元年二月庚申、爲2丹波(ノ)介(ト)1、四年八月丙子、授2從五位上(ヲ)1、五年七月壬寅、正《從歟》五位|下《上歟》羽栗(ノ)臣翼(ヲ)爲2内藥(ノ)正兼|侍醫《オモトクスシト》1、七年三月己巳、從五位上羽栗(ノ)臣翼(ヲ)爲2左京(ノ)亮(ト)1、内藥(ノ)正侍醫如v故、八年二月癸未、葉栗(ノ)臣翼(ヲ)爲2兼内藏(ノ)助(ト)1、九年二月甲未、授2正五位下(ヲ)1、と見えたり、〔頭注、【百人一首一夕話云、初安倍仲麿入唐の節、※[人+兼]人としてわたりたる羽栗吉滿といふものあり、仲麿に從ひて唐に在る間に、唐女を娶りて子を生り、其名を翼といひしが、天平五年、廣成歸朝の節、仲麿にいとまをこひ、一子翼を伴ひて日本に歸りぬ、此翼といふもの、生質聰明にて、歸朝の後出家して、學業殊に長ずるよし、朝廷に聞えければ、還俗せしめて正二位を授けられ、桓武帝の延暦十年まで、存命せしとぞ、とあり、此説不v知v所v據、恐妄説、】〕
 
3641 安可等伎能《アカトキノ》。伊敝胡悲之伎爾《イヘコヒシキニ》。宇良未欲理《ウラミヨリ》。可沼乃於等須流波《カヂノオトスルハ》。安麻乎等女可母《アマヲトメカモ》。
 
(210)宇良未《ウラミ》(未、舊本末に誤、今改つ、)は、浦廻《ウラミ》なり、上に出(ツ)、○歌(ノ)意は、曉の寢覺に、いとゞ物心ぼそく、家戀しく思はるゝに、浦(ノ)方より、漕(ギ)出る船の※[楫+戈](ノ)首の聞ゆるは、海人少女にてやあるらむ、かれをきけば、いつしかあの如く船漕て、家の方には歸るべきと思はれて、さても殊更に家戀しく思はるゝよ、となり、
 
3642 於伎敝欲理《オキヘヨリ》。之保美知久良之《シホミチクラシ》。可良能宇良爾《カラノウラニ》。安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》。奈伎弖佐和伎奴《ナキテサワキヌ》。
 
可良能宇良《カラノウラ》は、下に筑前(ノ)國志麻(ノ)郡之|韓亭《カラトマリ》、とある處の浦なり、長門(ノ)赤間より、今道一里ばかりあり、といへり、○歌(ノ)意、かくれたるすじなし、
 
3643 於吉敝欲里《オキヘヨリ》。布奈妣等能煩流《フナビトノボル》。與妣與勢弖《ヨビヨセテ》。伊射都氣也良牟《イザツゲヤラム》。多婢能也登里乎《タビノヤドリヲ》。
 
註に、一(ニ)云 多妣能夜杼里乎伊射都氣夜良奈《タビノヤドリヲイザツゲヤラナ》、○歌(ノ)意は、澳の方より、船人の京の方に向ひて、漕|上《ノボ》る※[楫+戈]音するなり、いざやかの船人を呼寄て、旅宿の、憂ながら平安《サキク》あるありさまを、家(ノ)妻に告て遣む、となり、
 
佐婆海中《サバノウミニテ》。忽《タチマチ》遭《アヒ》2逆風漲浪《アラキカゼタカキナミニ》1。漂流《タヾヨヒ》經《ヘテ》v宿《ヒトヨ》。而後《ノチ》幸|得《エ》2順風《オヒテヲ》1。到2著《ツキヌ》豐前國下毛郡分間浦《トヨクニノミチノクチシモツミケノコホリワクマノウラニ》1。於是《コヽニ》追2怛《オヒイタミテ》艱難《イタヅキヲ》1。悽※[立心偏+周]作歌八首《ヨメルウタヤツ》。
 
(211)佐婆は、和名抄に周防(ノ)國佐波(ノ)群(波音馬)佐波《サバ》、書紀、仲哀天皇(ノ)卷に、參2迎《マヰムカヘマツル》于周芳(ノ)沙磨之浦《サバノウラニ》1、○下毛は、和名抄に、豐前(ノ)國上毛(ノ)郡(加牟豆美介《カムツミケ》)下毛(ノ)郡、兵部式に、豐前(ノ)國下毛(ノ)驛馬、など見ゆ、○分間は、今も下毛(ノ)郡にありて、分間を、マヽ〔二字右○〕とも、ワマ〔二字右○〕とも云とぞ、
 
3644 於保伎美能《オホキミノ》。美許等可之故美《ミコトカシコミ》。於保夫禰能《オホブネノ》。由伎能麻爾末爾《ユキノマニマニ》。夜杼里須流可母《ヤドリスルカモ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首雪宅麻呂《ミギノヒトウタハユキノヤカマロ》。
 
雪(ノ)宅麻呂は、傳未(ダ)詳ならず、下に雪(ノ)連宅麻呂とあり、雪は壹岐氏なり、懷風藻に、伊支(ノ)連古麻呂ありて、目録には雪(ノ)連と記せり、和名抄に壹岐島、(由伎《ユキ》)と見ゆ、
 
3645 和伎毛故波《ワギモコハ》。伴也母許奴可登《ハヤモコヌカト》。麻都良牟乎《マツラムヲ》。於伎爾也須麻牟《オキニヤスマム》。伊敝都可受之弖《イヘツカズシテ》。
 
伴也母許奴可登《ハヤモコヌカト》は、早くも歸り來よかし、といふなり、奴《ヌ》は不《ヌ》の意にあらず、希望(ノ)辭の、禰《ネ》の活轉《ウツロ》ひたるなり、常は來禰《コネ》とのみ云を、可《カ》の言へ連く故に、禰《ネ》をうつして、奴《ヌ》と云るなり、既く委しく云り、○伊敝都可受之弖《イヘツカズシテ》は、家附《イヘツカ》ずしてなり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
3646 宇良未欲里《ウラミヨリ》。許藝許之布禰乎《コギコシフネヲ》。風波夜美《カゼハヤミ》。於伎都美宇良爾《オキツミウラニ》。夜杼里須流可(212)毛《ヤドリスルカモ》。
 
未、舊本末に誤れり、○於伎都美宇良《オキツミウラ》は、奧津御浦《オキツミウラ》なり、奧《オキ》は、匣などの底を奧《オク》といふに同じく、行つまりたる處をいふ、御《ミ》は例の美稱なり、さればこゝは、海中にもあらず、海底にもあらず、海浦の、入こみ行つまりたる處をいふ、○歌(ノ)意は、泊の浦のあたりより、漕出來にし船を、又風が疾《ツヨ》くて浪興(ツ)故に、漕(ギ)行(ク)事を得ずして、奧津御浦に宿をする哉、いかで早く行到りて、家の方に漕歸らまほしく思ふを、となり、
 
3647 和伎毛故我《ワギモコガ》。伊可爾於毛倍可《イカニオモヘカ》。奴婆多末能《ヌバタマノ》。比登欲毛於知受《ヒトヨモオチズ》。伊米爾之美由流《イメニシミユル》。
 
伊可爾於毛倍可《イカニオモヘカ》は、吾をいかに思へばかなり、、○比登欲毛於知受《ヒトヨモオチズ》、十二に、我等心望使念|新夜一夜不落夢見《アラタヨノヒトヨモオチズイメニシミユル》、此(ノ)下に、於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》、○伊米爾之美由流《イメニシミユル》(米(ノ)字、姶穗本に、※[さんずい+未]と作るはわろし、)は、夢にし所見《ミユル》なり、爾之《ニシ》とつらねたるは、そのさだかに然る時にいふ辭なり、四(ノ)卷に、眞野之浦乃與騰乃繼橋情由毛思哉妹
之伊目爾之所見《マヌノウラノヨドノツギハシコヽロユモオモヘヤイモガイメニシミユル》、又、吾念乎人爾令知哉玉匣開阿氣都跡夢西所見《アガオモヒヲヒトニシラセヤタマクシゲヒラキアケツトイメニシミユル》、又、無間戀爾可有牟草枕客有公之夢爾之所見《アヒダナクコフレニカアラムクサマクラタビナルキミガイメニシミユル》、又、網兒之山五百重隱有佐堤乃埼左手蠅師子之夢二四所見《アゴノヤマイホヘカクルヽサデノサキサテハヘシコガイメニシミユル》、又、三空去月之光二直一目相三師人之夢西所見《ミソラユクツキノヒカリニタヾヒトメアヒミシヒトノイメニシミユル》、七(ノ)卷に、自荒磯毛益而思哉玉之浦離小島夢石見《アリソヨモマシテオモヘヤタマノウラサカルコシマノイメニシミニル》、十一に、(213)將念其人有哉烏玉之毎夜君之夢西所見《オモフラムソノヒトナレヤヌバタマノヨゴトニキミガイメニシミユル》、十二に、白細布之袖折反戀者香妹之容儀乃夢二四三湯流《シロタヘノソテヲリカヘシコフレバカイモガスガタノイメニシミユル》、又、水咫衝石心盡而念鴨此間毛本名夢西所見《ミヲツクシコヽロツクシテオモヘカモコヽニモモトナイメニシミユル》、これらは、夢爾之《イメニシ》とつらねたる例どもなり、此(ノ)外、云々|爾之《ニシ》とつらねたること多し、皆同じ心ばえなり、○歌(ノ)意は、吾妹子が、いかに吾を深く思へばにか、一夜も闕ず、毎夜の夢に入來て、見ゆるならむ、となり、
 
3648 宇奈波良能《ウナハラノ》。於伎敝爾等毛之《オキヘニトモシ》。伊射流火波《イザルヒハ》。安可之弖登母世《アカシテトモセ》。夜麻登思麻見無《ヤマトシマミム》。
 
安可之弖登母世《アカシテトモセ》は、夜を明(カ)して燭《トモ》せなり、(あきらかに灯《トモ》せの意かともおもへど、さにはあらじ)○夜麻登思麻《ヤマトシマ》は、大和(ノ)國なり、○歌(ノ)意は、海原の澳に燭して、漁する海人の漁火をば、夜を明して絶ず燭せよ、さらばその火(ノ)光によりて、吾(ガ)戀しく思ふ大和(ノ)國を、夜もすがら見遣むぞ、となり、
 
3649 可母自毛能《カモジモノ》。宇伎禰乎須禮婆《ウキネヲスレバ》。美奈能和多《ミナノワタ》。可具呂伎可美爾《カグロキカミニ》。都由曾於伎爾家類《ツユソオキニケル》。
 
可母自毛能《カモジモノ》は、枕詞なり、一(ノ)卷に、鴨自物水爾浮居而《カモジモノミヅニウキヰテ》云々、○美奈能和多《ミナノワタ》も、枕詞なり、○可具呂伎可美《カグロキカミ》は、上の可《カ》は添たる辭にて、黒(キ)髪なり、五(ノ)卷に、美奈乃和多迦具漏伎可美爾《ミナノワタカグロキカミニ》、七(ノ)卷に、彌那能綿香烏髪《ミナノワタカグロキカミ》、十三に、蜷腸黒香髪丹《ミナノワタカグロキカミニ》、十六に、三名綿蚊黒爲受尾《ミナノワタカグロシカミヲ》、などあり、○歌(ノ)意、かくれたるす(214)ぢなし、
 
3650 比左可多能《ヒサカタノ》。安麻弖流月波《アマテルツキハ》。見都禮杼母《ミツレドモ》。安我母布伊毛爾《アガモフイモニ》。安波奴許呂可毛《アハヌコロカモ》。
 
歌(ノ)意、かくれなし、
 
3651 奴波多麻能《ヌバタマノ》。欲和多流月者《ヨワタルツキハ》。波夜毛伊弖奴香文《ハヤモイデヌカモ》。宇奈波良能《ウナハラノ》。夜蘇之麻能宇敝由《ヤソシマノウヘユ》。伊毛我安多里見牟《イモガアタリミム》。【旋頭歌也。】
 
波夜毛伊弖奴香文《ハヤモイデヌカモ》は、嗚呼《アヽ》早くもがな出よかしの意なり、○伊毛我安多里見牟《イモガアタリミム》は、妹が家のあたり見む、となり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
至《イタリ》2筑紫館《ツクシノタチニ》1。遙2望《ミサケ》本郷《モトツクニノカタヲ》1。悽愴作歌四首《カナシミテヨメルウタヨツ》。
 
3652 之賀能安麻能《シカノアマノ》。一日毛於知受《ヒトヒモオチズ》。也久之保能《ヤクシホノ》。可良伎孤悲乎母《カラキコヒヲモ》。安禮波須流香母《アレハスルカモ》。
 
之賀《シカ》は、(賀(ノ)字をば書たれど、清て唱(フ)べし、)和名抄に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡志珂、とある、是なり、既く三(ノ)卷に委(ク)云り、志河の島、福岡の城より三里ばかり北にありて、民家多し、昔(シ)は糟屋(ノ)郡の内なりしが、今は那珂(ノ)郡に屬(キ)たるよし、筑前名寄にいへり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、さても辛く苦しき思(ヒ)をも、吾はする事かな、となり、此は十一に、牡鹿海部乃火氣燒立而燒鹽乃辛戀毛吾爲鴨《シカノアマノケブリタキタテテヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》、とあ(215)る歌を、闇《ソラ》に誦《ウタ》へるに似たり、
 
3653 思可能宇良爾《シカノウラニ》。伊射里須流安麻《イザリスルアマ》。伊敝妣等能《イヘビトノ》。麻知古布良牟爾《マチコフラムニ》。安可思都流宇乎《アカシツルウヲ》。
 
伊敝妣等《イヘビト》と云るは、海人が家人なり、○安可思都流宇乎《アカシツルウヲ》は、夜を明(カ)して釣(ル)魚なり、○歌(ノ)意は、契冲云(ク)、われらは、勅(リ)を承はりたる身なれば、事をはるかぎらは、歸ることあたはず、あまは身を心のまゝにするを、魚をつるに心をいれて、おのが家なる妻どもの、待こふらむことをもおもはぬよと、わが身のうへよりよめるなり、六帖に、あたら夜を妹ともねなむとりがたきあゆとるとると岩の上に居て、第九に、浦島子をよめる歌は、堅魚釣鯛釣矜七日《カツヲツリタヒツリホコリナヌカ》まで家にも來ずて云々、などさへよめり、
 
3654 可之布江爾《カシフエニ》。多豆奈吉和多流《タヅナキワタル》。之可能宇良爾《シカノウラニ》。於枳都之良奈美《オキツシラナミ》。多知之久良思母《タチシクラシモ》。
 
可之布江《カシフエ》は、未(ダ)考(ヘ)ず、糟屋(ノ)郡香椎は、志珂《シカ》の浦のむかひにあれば、彼(ノ)入江を可之布江《カシフエ》といへるにや、志珂は、今は那珂(ノ)郡に屬たれど、元(ト)はこれも糟屋(ノ)郡の内なりと、筑前名寄にいへり、○多知之久良思毛《タチシクラシモ》は、契冲、立し來らしもとも聞え、立(チ)重《シク》らしもとも聞ゆ、と云り、(立重《タチシク》なるべし、)毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、註に、一云|美知之伎奴良思《ミチシキヌラシ》、とあり、これも滿《ミチ》し來《キ》ぬらしとも、滿重《ミチシキ》ぬらしとも(216)聞ゆ、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、見るやうなり、
 
3655 伊麻欲理波《イマヨリハ》。安伎豆吉奴良之《アキヅキヌラシ》。安思比奇能《アシヒキノ》。夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》。日具良之奈伎奴《ヒグラシナキヌ》。
 
歌(ノ)意、かくれなし、
 
七夕《ナヌカノヨ》仰2觀《ミサケ》天漢《アマノガハヲ》1。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2所思《オモヒヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
3656 安伎波疑爾《アキハギニ》。爾保敝流和我母《ニホヘルワガモ》。奴禮奴等母《ヌレヌトモ》。伎美我莫布禰能《キミガミフネノ》。都奈之等理弖婆《ツナシトリテバ》。
 
爾保敝流和我母《ニホヘルワガモ》は、染有吾裳《ニホヘルワガモ》なり、草木《クサキノ》花、また黄土《ハニ》などに觸(レ)て、衣に色の移り染《ソマ》るを、爾保布《ニホフ》と云り、八卷に、草枕客行人毛行觸者爾保比奴倍久毛開流芽子香聞《クサマクラタビユクヒトモユキフラバニホヒヌベクモサケルハギカモ》、十(ノ)卷に、事更爾衣者不摺佳人部爲咲野之芽子爾丹穗日而將居《コトサラニコロモハスラジオミナヘシサキヌノハギニニホヒテヲラム》、十六に、墨江之遠里小野之眞榛持丹穗之爲衣丹《スミノエノヲリノヲヌノマハリモチニホシシキヌニ》、一(ノ)卷に、岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《キシノハニフニニホハサマシヲ》、六(ノ)卷に、住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名《スミノエノキシノハニフニニホヒテユカナ》、など猶多し、○歌(ノ)意は、織女の心になりてよめるにて、彦星(ノ)君を、一すぢに留めまほしく思ふにつきて、其(ノ)御舟の鋼を取て、引留めてあらば、たとひ芽子に染《ニホ》へる吾(ガ)裳は、よしや沾て、色の傷《ソコナ》はるとも、それをばいとはじ、となり、
 
右一首大使《ミギノヒトウタハツカヒノカミ》。
 
(217)大使は、阿倍(ノ)朝臣繼麻呂なり、續紀に、天平七年四月戊申、正六位上阿倍(ノ)朝臣繼麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、八年二月戊寅、爲d遣2新羅1大使(ト)u、四月丙寅拜朝、九年正月辛丑、泊2津島(ニ)1卒、と見ゆ(上に委しく引り、)
 
3657 等之爾安里弖《トシニアリテ》。比等欲伊母爾安布《ヒトヨイモニアフ》。比故保思母《ヒコホシモ》。和禮爾麻佐里弖《ワレニマサリテ》。於毛布良米也母《オモフラメヤモ》。
 
歌(ノ)意は、一年に一(ト)度逢彦里も、我(ガ)旅にありて、妹を戀しく思ふ心の切なるにはまさらじ、となり、○此(ノ)歌、六帖には尾(ノ)句を、思ふらむやは、と改めたり、又拾遺集に、思ふらむやぞ、として、人麿の歌とせるは、かたはらいたし、
 
3658 由布豆久欲《ユフヅクヨ》。可氣多知與里安比《カゲタチヨリアヒ》。安麻能我波《アマノガハ》。許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》。見流我等母之佐《ミルガトモシサ》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)旅にありて、家(ノ)妻戀しく思ふ折しも、夕月の影に立寄合て、天(ノ)河渡る人を見るが羨《ウラヤマ》しさ、いはむ方なし、となり、上に、彦星も我に勝りて思ふらめやも、と云るにて、其(ノ)意をさとるべし、(略解に、夕月の影は、いつも渡れども、其(ノ)夕月と共に渡る屋の影は、年に一夜なれば、めづらしきと云なり、と云るは、いみじきひがことなり、)
 
海邊《ウミヘニテ》望《ミテ》v月《ツキヲ》作歌九首《ヨメルウタコヽノツ》。
 
(218)3659 安伎可是波《アキカゼハ》。比爾家爾布伎奴《ヒニケニフキヌ》。和伎毛故波《ワギモコハ》。伊都登加和禮乎《イツカトワレヲ》。伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》。
 
比爾家爾《ヒニケニ》は日に來經《ケ》になり、日《ヒ》に日《ヒ》にといはむが如し、○伊都登加は、登加は顛倒《カヘサマ》になれるにて、何時歟《イツカ》となりしにや、○歌(ノ)意は、秋風の日毎に寒く吹(ク)時に至りぬれば、いつか歸り來む、いつか歸り來むと、吾妹子は齋清《イハヒキヨメ》て神祇に祈願つゝ、吾を待て在らむ、となり、
 
大使之第二男《ツカヒノカミノオトムスコ》。
 
大使之第二男は、遣2新羅(ニ)1大使阿倍(ノ)朝臣繼麻呂の二郎なり、續紀に、寶字元年八月庚辰、正六位上阿倍(ノ)朝臣繼人(ニ)、授2從五位(ノ)下1、と見ゆ、もしは此(ノ)人か、
 
3660 可牟佐夫流《カムサブル》。安良都能左伎爾《アラツノサキニ》。與須流奈美《ヨスルナミ》。麻奈久也伊毛爾《マナクヤイモニ》。故非和多里奈牟《コヒワタリナム》。
 
可牟佐夫流《カムサブル》は、この荒津《アラツ》は往昔《ムカシ》よりの船津にて、神々しく、ものふりたれば云なるべし、○安良都《アラツ》は、三代實録十六に、筑前(ノ)國那珂(ノ)郡郡荒津、と見ゆ、是なり、(略解に、和名抄に、筑前(ノ)國宗像(ノ)郡小荒大荒(ノ)郷有、是なるべし、と云れど、しからず、)十二に、白妙乃袖之別乎難見爲而荒津之濱屋取爲鴨《シロタヘノソテノワカレヲカタミシテアラツノハマニヤドリスルカモ》、草枕覊行君乎荒津左右送來飽不足社《クサマクラタビユクキミヲアラツマテオクリキヌレドアキタラズコソ》、又、荒津海吾幣奉齋將早還座面變不爲《アラツノミアガヌサマツリイハヒナムハヤカヘリマセオモガハリセズ》、などある、皆同じ、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は、序にて、間も時もなく、家にある妹を戀しく思ひて、月日を經度(リ)な(219)むか、となり、
 
右一首土師稻足《ミギノヒトウタハハニシノイナタリ》。
 
稻足(稻(ノ)字、古寫本に、楯と作るは誤か、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
3661 可是能牟多《カゼノムタ》。與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》。伊射里須流《イザリスル》。安麻乎等女良我《アマヲトメラガ》。毛能須素奴禮奴《モノスソヌレヌ》。
 
註に、一(ニ)云|安麻乃乎等賣我毛能須蘇奴禮濃《アマノヲトメガモノスソヌレヌ》、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3662 安麻能波良《アマノハラ》。布里佐氣見禮婆《フリサケミレバ》。欲曾布氣爾家流《ヨソフケニケル》。與之惠也之《ヨシヱヤシ》。比等里奴流欲波《ヒトリヌルヨハ》。安氣婆安氣奴等母《アケバアケヌトモ》。
 
歌(ノ)意、かくれなし、
〔右一首。旋頭歌也。〕
 
3663 和多都美能《ワタツミノ》。於伎都奈波能里《オキツナハノリ》。久流等伎登《クルトキト》。伊毛我麻都良牟《イモガマツラム》。月者倍爾都追《ツキハヘニツツ》。
 
於伎都奈波能里《オキツナハノリ》は、奥津繩苔《オキツナハノリ》なり、繩苔《ナハノリ》は、品物解に云、繩苔は、繰寄(セ)て採《トル》ものなる故に、來《ク》ると云むために云るなり、○歌(ノ)意、第一二(ノ)句は序にて、月は經行つゝ此(ノ)頃は、わが歸り來る時ぞとて、妹が待らむ、となり、
 
(220)3664 之可能宇良爾《シカノウラニ》。伊射里須流安麻《イザリスルアマ》。安氣久禮婆《アケクレバ》。宇良未許具良之《ウラミコグラシ》。可治能於等伎許由《カヂノオトキコユ》。
 
氣安氣久禮婆《アケクレバ》は、夜の明來者《アケクレバ》なり、○未、舊本末に誤れり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3665 伊母乎於毛比《イモヲオモヒ》。伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》。安可等吉能《アカトキノ》。安左宜理其問理《アサギリゴモリ》。可里我禰曾奈久《カリガネソナク》。
 
伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》(禰、舊本禮に誤、拾穗本に從(ツ)、)は、宿《イ》の寢《ネ》られぬになり、○歌(ノ)意は、家にある妹を戀しく思ひて、夜もいねられぬに、曉に至れば、いよ/\物思はしく、鴈が音ぞ鳴(ク)、となり、
 
3666 由布佐禮婆《ユフサレバ》。安伎可是左牟思《アキカゼサムシ》。和伎母故我《ワギモコガ》。等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》。由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》。
 
安伎可是《アキカゼ》、類聚抄には、秋風と作り、○等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》(其呂母、類聚抄には衣と作り、)は、七(ノ)卷に、橡解濯衣之恠殊欲服此暮可聞《ツルハミノトキアラヒキヌノアヤシクモケニキホシケキコノユフヘカモ》、○歌(ノ)意は、夕になれば秋風寒し、家(ノ)妻が、吾に著せむ料に解洗ひて縫たる衣を、早く歸り行て著む、となり、
 
3667 和我多妣波《ワガタビハ》。比左思久安良思《ヒサシクアラシ》。許能安我家流《コノアガケル》。伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》。阿可都久見禮婆《アカツクミレバ》。
 
安良思《アラシ》は、有《アル》らしなり、○許能安我家流《コノアガケル》は、此吾著有《コノアガケル》なり、熱田(ノ)宮縁起、安酢媛(ノ)歌に、和何祁流意(221)須比乃宇閇爾《ワガケルオスヒノウヘニ》、○伊毛我許呂母《イモガコロモ》、類聚抄には、妹我衣と作り、○歌(ノ)意は、此(ノ)吾(ガ)著たる、妹が形見の衣の、垢つき褻《ナレ》たるを見れば、今は早吾(ガ)旅行の月日の、程久しく成來ぬらし、となり、廿(ノ)卷に、多妣等弊等麻多妣爾奈理奴以弊乃母加枳世之己呂母爾阿加都枳爾迦理《タビトヘドマタビニナリヌイヘノモガキセシコロモニアカヅキニカリ》
ヘヌ ミカ
到《ニ》2筑前國志麻郡之韓亭《ツクシノミチノクチノクニシマノコホリノカラトマリ》1舶泊《フネハテヽ》經《ヘヌ》2三日《ミカ》1。於時夜月之光皎皎流照《トキニツキノヒカリテリワタレリ》。奄《タチマチ》對《ヨリテ》2此華《コノケハヒニ》1。旅情悽噎《タビノコヽロヲカナシミ》。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2心緒《オモヒヲ》1。聊以裁歌六首《ヨメルウタムツ》。
 
韓亭は、和名抄に、筑前(ノ)國志摩(ノ)郡|韓良《カラ》、下に、可良等麻里《カラトマリ》、と見ゆ、亭は、道路所v舍(ル)とあり、とまりなり、和名抄に、釋名(ニ)云、亭(ハ)人所2亭集(スル)1也、和名|阿波良《アバラ》、一云|阿波良也《アバラヤ》、○此華(華(ノ)字、類聚抄には花と作り、拾穗本には、美景(ノ)二字と作り、)は、物華と云るに同じからむ、下に、於是瞻2望物華(ヲ)1、とあり、
 
3668 於保伎美能《オホキミノ》。等保能美可度登《トホノミカドト》。於毛敝禮杼《オモヘレド》。氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》。古非爾家流可母《コヒニケルカモ》。
 
等保能美可度《トホノミカド》は、筑紫は太宰府ある故、遠朝廷《トホノミカド》と云り、三(ノ)卷に、大王之遠乃朝廷跡蟻通島門乎見者神代之所念《オホキミノトホノミカドトアリガヨフシマトヲミレバカミヨシオモホユ》、とある處に、具(ク)云り、(契冲が、遠の朝廷は、遠き都《ミヤコ》なり、と云るは、誤なり、)○歌(ノ)意は、遠(ノ)朝廷なれば、皇都に亞《ツギ》て、をさ/\おとる事なく、たのもしき物に思へれども、妻に別れ來て、月日久しくなりぬれば、堪がたくて、一(ト)すぢに家路戀しく思ひつる哉、となり、
 
右一首大使《ミギノヒトウタハツカヒノカミ》。
 
(222)3669 多妣爾安禮杼《タビニアレド》。欲流波火等毛之《ヨルハヒトモシ》。乎流和禮乎《ヲルワレヲ》。也未爾也伊母我《ヤミニヤイモガ》。古非都追安涜良牟《コヒツツアルラム》。
 
多妣、類聚抄には旅と作り、○也未《ヤミ》、類聚抄に、山と作るは、誤なり、○歌(ノ)意は、我は旅なれど、夜は火ともしてをるを、家(ノ)妹は、心の闇《ヤミ》にくれまどひて、吾を戀ししく思ひつゝやあるらむ、となり、女の心一(ツ)なるを、想ひやりて云るなり、十二に、久將在君念爾久竪乃《ヒサシカラムキミヲオモフニヒサカタノ》、清月夜毛闇夜耳見《キヨキツクヨモヤミノミニミツ》、
 
右一首大判官《ミギノヒトウタハオホキマツリゴトヒト》。
 
3670 可良等麻里《カラトマリ》。能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》。多多奴日波《タタヌヒハ》。安禮杼母伊敝爾《アレドモイヘニ》。古非奴日者奈之《コヒヌヒハナシ》。
 
可良等麻里《カラトマリ》は、右に云る韓亭《カラトマリ》なり、(契冲云、源氏物語玉鬘に云、例の舟子ども、からとまりよりかはじりおすほどは、うたふ聲のなさけなきもあはれにきこゆ、抄(ニ)閑云、備前(ノ)國なり、川尻まで三日ほどとなり、弄花(ニ)、良惟が意見に載たるごとくならば、唐泊より川尻へは、三日行道なり、此故に、川尻といふ所ちかづきて、ふなこは、からとまりよりおすほどは、とうたひたるなり、唐泊は、備前(ノ)國に有、狹衣(ノ)歌、かへり來しかひこそ無れ唐泊いづら流れし人の行へは、これによれば、からとまりは、筑前と備前とに、同名あるか、)○能許乃宇良《ノコノウラ》、(宇良、類聚抄には浦と作り、)能許《ノコ》は兵部省式に、筑前(ノ)國能巨(ノ)島牛牧、朝野群載廿(ノ)卷、寛仁三年太宰府解に、筑前(ノ)國那珂(ノ)郡(223)能古(ノ)島、重録2在状1、小右記に、筑前(ノ)國乃古(ノ)島などある、其處なり、夫木集に、中務、塩風は荒くもぞなる唐泊のこのうら船こぎいづなゆめ、但し韓亭《カラトマリ》は志摩(ノ)郡にて、能許《ノコ》とは郡たがへれど、能許の浦は、韓亭《カラトマリ》の地にも亙れるか、なほ國人に尋ぬべし、(狹衣に、韓泊そこのみくづと流れしを瀬々の岩浪尋ねてしがな、とあるは、もしはこの能古を、そこと誦(ヘ)誤りて、さてよめる歌にはあらざるか、)○略解に、筑前(ノ)國早良(ノ)郡|能解《ノゲ》、と和名抄にみゆれば、能許は、能解の誤ならむかとおもへど、朝野群載、中右記等に、能古(ノ)島とあれば、さてあるべし、といへり、(但し貝原氏、筑前名寄には、能解、能古、同處にて、早良(ノ)郡にある今の殘島なり、朝野群載に那珂(ノ)郡とし、藻塩草に志摩(ノ)郡とせるは、共にちがへり、といへり、もし能解、能許同地ならむには、能解は、後に誤れるにもあらむか、)○伊敝《イヘ》、類聚抄には家と作り、○歌(ノ)意は、韓亭《カラトマリ》の能巨《ノコ》の浦浪は、常に荒く起(チ)てさわがしきに、その浪さへ、たま/\は穩に和《ナギ》たる日もあるものを、吾(ガ)家を戀しく思ふ心の和《ナグ》る日は、一日もさらになし、となり、古今集に、駿河なる田子の浦浪立ぬ日は有ども君を戀ぬ日はなし、今とおほかた似たる歌なり、
 
3671 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。欲和多流月爾《ヨワタルツキニ》。安良麻世婆《アラマセバ》。伊倣奈流伊毛爾《イヘナルイモニ》。安比弖許麻之乎《アヒテコマシヲ》。
 
歌(ノ)意は、空往(ク)月に、吾(ガ)身のあるならば、戀しく思ふ家(ノ)妻に相見て、やがて歸り來まし物を、月な(224)らぬ吾(ガ)身なれば、いかに思ひても、せむ方なし、となり、十一に、久堅之天飛雲爾在而然君相見落日莫死《ヒサカタノアマトブカリニアリテシカキミヲアヒミムオツルヒナシニ》、
 
3672 比左可多能《ヒサカタノ》。月者弖利多里《ツキハテリタリ》。伊刀麻奈久《イトマナク》。安麻能伊射里波《アマノイザリハ》。等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》。
 
歌(ノ)意は月(ノ)光の清きがうへに、彼方《カナタ》にも彼方《コナタ》にも、隙なく、海人の海火を燭し合(ハ)せて、いよ/\海面《ウミツラ》の明かに見やらる、となるべし、
 
3673 可是布氣婆《カゼフケバ》。於吉都思良奈美《オキツシラナミ》。可之故美等《カシコミト》。能許能等麻里爾《ノコノトマリニ》。安麻多欲曾奴流《アマタヨソヌル》。
 
歌(ノ)意は、風が荒く吹ば、澳つ白浪の高く興(ツ)故に、恐しく危ふしとて、發船《フナダチ》を得せずして、能巨《ノコ》の泊(リ)に、數多夜《アマタヨ》、夜をかさねて、旅宿をぞする、となり、いそぐ心の、やるかたなきを云るなり、
 
引津亭舶泊之時〔○で囲む〕《ヒキツノトマリニフネハテシトキ》。作歌七首《ヨメルウタナヽツ》。
 
引津は、是も志麻(ノ)郡なり、引津は、岐志《キシ》といふ地の北にありて、昔は舟入る所なりしが、今は田となれるよし、筑前名寄にいへり、(七(ノ)卷に、梓弓引津邊在莫謂花《アヅサユミヒキツノベナルナノリソノハナ》云々、又十(ノ)卷にも、本(ノ)句同歌あり、濱成式に、當麻(ノ)大夫、陪2駕伊勢1思郷歌云とて、かの歌をあげたれば、其所なるべし、)○時(ノ)字、舊本脱たり、今補つ、
 
(225)3674 久左麻久良《クサマクラ》。多婢乎久流之美《タビヲクルシミ》。故非乎禮婆《コヒヲレバ》。可也能山邊爾《カヤノヤマベニ》。草乎思香奈久毛《サヲシカナクモ》。
 
可也能山《カヤノヤマ》は、筑前(ノ)國志麻(ノ)郡にありて、今|親《オヤ》山といふよし、貝原氏云り、幽齋道之記に、天正十五年五月廿六日、可也《カヤ》山にて、しげりゆくかやの山邊に入鹿の秋より露にぬれてふすらむ、とあり、○歌(ノ)意は、※[覊の馬が奇]旅《タビ》の憂苦《ワビ》しさに、家(ノ)妻を戀しく思ひつゝをれば、あの可也《カヤ》の山邊にも、牡鹿の鳴よ、嗚呼《アハレ》さても吾のみにあらず、彼(レ)も妻を戀しく思ひて鳴ならむ、といふなるべし、
 
3675 於吉都奈美《オキツナミ》。多可久多都日爾《タカクタツヒニ》。安敝利伎等《アヘリキト》。美夜古能比等波《ミヤコノヒトハ》。伎吉弖家牟可母《キキテケムカモ》。
 
於吉の下都(ノ)字、拾穗本には津と作り、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、實には、家人の事を主とせれど、大かたに、都の人とは云るなるべし、
 
右二首大判官《ミギノフタウタハオホキマツリゴトヒト》。
 
3676 安麻等夫也《アマトブヤ》。可里乎都可比爾《カリヲツカヒニ》。衣弖之可母《エテシカモ》。奈良能弥夜故爾《ナラノミヤコニ》。許登都礙夜良武《コトツゲヤラム》。
 
安麻等夫也《フマトブヤ》は、天飛哉《フマトブヤ》にて、也《ヤ》は、高知也《タカシルヤ》、天知也《アメシルヤ》などいふ也《ヤ》に同じく、助辭なり、○可里乎都可比《カリヲツカヒ》と云るは、凡て鳥は、遠き處を往來《ユキカヒ》する物なれば、使《ツカヒ》と云ること古(ヘ)多し、十一に、妹戀不寐朝(226)明男爲鳥從是飛度妹使《イモニコヒイネヌアサケニヲシドリノコユトビワタルイモガツカヒカ》、古事記輕(ノ)太子(ノ)御歌に、阿麻登夫登理母都加比曾《アマトブトリモツカヒソ》、多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥《タヅガネノキコエムトキハワガナトハサネ》、既く高皇産靈(ノ)尊より、葦原(ノ)中(ツ)國へ、雉を御使に遺(ハ)されし事、神代に見え、磐余彦《イハレヒコノ》尊の兄猾《エウカシ》がもとへ、八咫鳥《ヤタカラス》を遣(ハ)されし事など、思ひ合するに、實に鳥を使にせしこト、上(ツ)代よりの事にぞ有けむ、○礙(ノ)字、古寫本には※[旦/寸]と作り、○歌(ノ)意は、いかで天飛鴈を、使に得てしがな、さらば寧樂(ノ)都の妻の許に、思ふ事を言告遣べきに、となり、(拾遺集別(ノ)部に、もろこしにて柿本(ノ)人丸、天飛や鴈の使にいつしかも奈良の都にことづてやらむ、とて載たるは、かたはらいたし、)
 
3677 秋野乎《アキノヌヲ》。爾保波須波疑波《ニホハスハギハ》。佐家禮杼母《サケレドモ》。見流之留思奈之《ミルシルシナシ》。多婢爾師安禮婆《タビニシアレバ》。
 
見流之留志奈之《ミルシシルナシ》は見《ミ》る益《シルシ》なしにて、見《ミ》る代《カヒ》無(シ)といはむが如し、○歌(ノ)意は、秋(ノ)野をおしなべて、色に染《ニホ》はす芽子の咲たれば、其を見て心をなぐさむべきに、妻に別れ來ぬる旅にてあれば、一(ト)すぢに家戀しく思はれて、見る代《カヒ》もさらになし、となり、
 
3678 伊毛乎於毛比《イモヲオモヒ》。伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》。安伎乃野爾《アキノヌニ》。草乎思香奈伎都《サヲシカナキツ》。追麻於毛比可禰弖《ツマオモヒカネテ》。
 
追麻於毛比可禰弖《ツマオモヒカネテ》は、妻《ツマ》を思ふに堪《タヘ》かねての意なり、○歌(ノ)意は、家なる妹を戀しく思ひて、夜(227)も寢られぬに、吾と同じ如く、妻を戀しく思ふに堪かねて、秋(ノ)野に牡鹿の鳴つるよ、となり、
 
3679 於保夫禰爾《オホブネニ》。眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》。等吉麻都等《トキマツト》。和禮波於毛倍杼《ワレハオモヘド》。月曾倍爾家流《ツキソヘニケル》。
 
本(ノ)一二句は、三(ノ)卷に、大船二眞梶繁貫大王之御命恐礒廻爲鴨《オホブネニマカヂシヾヌキオホキミノミコトカシコミイソミスルカモ》、とあるをはじめて、集中に往々《コレカレ》あり、○等吉麻都等《トキマツト》は、たゞしばし潮時《シホトキ》を待(ツ)、となり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、たゞしばし潮時を待と思ふ間に、月を經たるよしなり、
 
3680 欲乎奈我美《ヨヲナガミ》。伊能年良延奴爾《イノネラエヌニ》。安之比奇能《アシヒキノ》。山妣故等余米《ヤマビコトヨメ》。佐乎思賀奈久母《サヲシカナクモ》。
 
欲乎奈我美《ヨヲナガミ》は、夜の長きが故に、といふが如し、○山妣故等余米《ヤマビコトヨメ》は、山彦《ヤマビコ》令《メ》v響《トヨ》なり、聲の木靈《コダマ》にひゞき答《コタ》ふるをいふ、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
肥前國松浦郡狛島亭舶泊之夜《ヒノミチノクチノクニマツラノコホリコマシマノトマリニフネハテシヨ》。遙2望《ミサケ》海浪《ウナハラヲ》1。各《オノモ/\》慟《カナシミテ》2旅心《タビノコヽロヲ》1作歌七首《ヨメルウタナヽツ》。
 
狛島(ノ)亭は、未(ダ)考へず、○心(ノ)字、拾穗本には懷と作り、
 
3681 可敝里伎弖《カヘリキテ》。見牟等於毛比之《ミムトオモヒシ》。和我夜度能《ワガヨトノ》。安伎波疑須須伎《アキハギススキ》。知里爾家武可聞《チリニケムカモ》。
 
歌(ノ)意は、旅發《タビダチ》し時、秋にならば、早く歸り來て、見むと思ひしにたがひて、歸る事を得ざれば、此(ノ)(228)頃は吾(ガ)庭の芽子《ハギ》、芒《スヽキ》は、散失つらむか、さても早く歸らまほしき事や、となり、
 
右一首秦田滿《ミギノヒトウタハハタノタマロ》。
 
秦田(ノ)滿は、上に秦(ノ)間滿《ハシマロ》とあり、いづれ是《ヨ》からむ、
 
3682 安米都知能《アメツチノ》。可未乎許比都都《カミヲコヒツツ》。安禮麻多武《アレマタム》。波夜伎萬世伎美《ハヤキマセキミ》。麻多婆久流思母《マタバクルシモ》。
 
許比都都《コヒツツ》は、乞祈乍《コヒノミツヽ》といふなり、十三に、天地之神乎曾吾乞痛毛須部奈見《アメツチノカミヲソアガコフイタモスベナミ》、字鏡に、褐(ハ)?2百靈(ヲ)1也、己不《コフ》、とあり、○歌(ノ)意は、君が平安《サキ》く座まさむ事を、天(ツ)神地(ツ)祇に、祈願《コヒノミ》つゝ、吾(ガ)待て居むぞ、新羅に行至りて、早く此處に歸り來賜へ、月日程久しく待ば、苦しさに堪がたからむぞ、となり、
 
右一首娘子《ミギノヒトウタハヲトメ》。
 
娘子は、本居氏云(ク)、舟泊たる所の娘子《ヲトメ》なるべし、下にも、對馬娘子名(ハ)玉槻、とて歌有(リ)、其(ノ)類なり、
 
3683 伎美乎於毛比《キミヲオモヒ》。安我古非萬久波《アガコヒマクハ》。安良多麻乃《アラタマノ》。多都追奇其等爾《タツツキゴトニ》。與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》。
 
與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》は、與久流《ヨクル》とは、戀しく思ふ心の遊離《ヨケサク》る意にて、落る處は、戀しく思ふ心は、月ごとに、一日も漏《モル》る日は有じ、となり、○歌(ノ)意は、君を吾(ガ)戀しく思ふ心は、立(チ)更る月ごとの久しき間に、一日も漏る日といふは、さらにあらじ、となり、
 
(229)3684 秋夜乎《アキノヨヲ》。奈我美爾可安良武《ナガミニカアラム》。奈曾許許波《ナソココバ》。伊能禰良要奴毛《イノネラエヌモ》。比等里奴禮婆可《ヒトリヌレバカ》。
 
奈曾許許波《ナソココバ》(己(ノ)字、古寫本には許と作り、)は、何幾許《ナソコヽバ》にて、何とてそこばく、といふが如し、○歌(ノ)意は、なにとて、かくばかり、そこばく宿《イ》の寢られぬことぞや、此《コ》は思ふに、秋の夜が長き故にかあらむ、又は獨宿る故にかあらむ、いかさまにも、獨(リ)宿るゆゑにこそ、かく寐られざりけめ、となり三四一二五と句を次第《ツイデ》て、意得べし、
 
3685 多良思比賣《タラシヒメ》。御舶波弖家牟《ミフネハテケム》。松浦乃宇美《マツラノウミ》。伊母我麻都敝伎《イモガマツベキ》。月者倍爾都都《ツキハヘニツツ》。
 
多良思比賣《タラシヒメ》は、息長足姫(ノ)尊にて、此(ノ)尊の御船泊ましゝことは、五(ノ)卷に云たるが如し、さて今新羅へゆく勅使《ミカドツカヒ》なれば、そのかみを思ひ出たるなり、と契冲云り、○舶(ノ)字、類聚抄には船と作り、○松浦乃宇美《マツラノウミ》は、妹が可v待をいはむ序《シタ》なり、○歌(ノ)意は、家(ノ)妻が、今は歸り來む時至れりとて、吾を待べき月は經來りつゝ、猶歸る事を得ずして、戀しくのみ思ひつゝあるがわびし、となり、結局に、意を含み餘せり、
 
3686 多婢奈禮婆《タビナレバ》。於毛比多要弖毛《オモヒタエテモ》。安里都禮杼《アリツレド》。伊敝爾安流伊毛之《イヘニアルイモシ》。於母比我奈思母《オモヒガナシモ》。
 
歌(ノ)意は、勅命《オホミコト》を恐みて、はる/”\韓國《カラクニ》にわたる旅なれば、いかに思ふとも、爲む方はあらじ、よ(230)しやと思ひ切《キリ》てはありつれど、猶家にある妹を、一(ト)すぢに戀しく思ふ心に堪られず、さても悲しや、となり、
 
3687 安思必寄能《アシヒキノ》。山等妣古由留《ヤマトビコユル》。可里我禰婆《カリガネハ》。美也故爾由加波《ミヤコニユカバ》。伊毛爾安比弖許禰《イモニアヒテコネ》。
 
歌(ノ)意は、山飛越て、道々行(ク)鴈の、京都に行ならば、汝だに、吾(ガ)家(ノ)妻にあひて、平安《サキ》からむ容貌《サマ》を見て歸り來て、吾に告てよかし、となり、
 
到《イタリテ》2壹岐島《ユキノシマニ》1。雪連宅滿《ユキノムラジヤカマロガ》。忽遇鬼病死去之時《タチマチエヤミニテミマカレルトキ》。作歌《ヨメルウタ》。一首并短歌〔五字□で囲む〕。
 
壹岐(ノ)島は、和名抄に、壹岐(ノ)島|由伎《ユキ》、と見えたり、本居氏、此(ノ)集にも由吉《ユキ》と見え、和名抄にも由伎《ユキ》とあるによりて、由伎《ユキ》といふを、古(ヘ)と思ふ人あれど、書紀繼體天皇(ノ)卷の歌に、以祇《イキ》とよみ、古事記にも伊岐《イキ》と見え、又壹(ノ)字も、由《ユ》の假字ならねば、もとは、伊伎《イキ》なること明けし、さて名の義は、此(ノ)島に神祭坐とて、齋忌《ユキ》の事ありしより負せたる稱か、又は韓國《カラクニ》へ渡るに、先(ヅ)此《コヽ》に船とめて息《ヤス》む故に、息《イキ》の島の意ならむかと云り、かゝれば壹岐とあるを、由伎《ユキ》と訓むはいかゞなれど、下の歌詞に由吉《ユキ》とよみ、又懷風藻に、伊伎(ノ)連といふ人を、目録には、雪(ノ)連とかけるなどによりて、姑(ク)由伎《ユキ》と訓つ、由伎《ユキ》とも、伊伎《イキ》とも、古(ヘ)より通はしいへる稱とおぼえたればなり、○遇(ノ)字、類聚抄に无(キ)はわろし、拾穗本には遭と作り、○鬼病は、衣夜美《エヤミ》なり、和名抄(ニ)云(ク)、瘧鬼(ハ)和名|衣也美乃加(231)美《エヤミノカミ》、又云疫(ハ)衣夜美《ハエヤミ》、又云瘧病(ハ)俗云|衣夜美《エヤミ》、(俗と云るは意得ず、)○一首并短歌の五字除べし、其(ノ)由は、この題詞は、左(ノ)歌長短九首に冒《カヽ》れる事にて、左の作者一人に、限りたることならねばなり、
 
3688 須賣呂伎能《スメロキノ》。等保能朝廷等《トホノミカドト》。可良國爾《カラクニニ》。和多流和我世波《ワタルワガセハ》。伊敝妣等能《イヘビトノ》。伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》。多太未可母《タタミカモ》。安夜麻知之家牟《アヤマチシケム》。安吉佐良婆《アキサラバ》。可敝里麻左牟等《カヘリマサムト》。多良知禰能《タラチネノ》。波波爾麻于之弖《ハハニマヲシテ》。等伎毛須疑《トキモスギ》。都奇母倍奴禮婆《ツキモヘヌレバ》。今日可許牟《ケフカコム》。明日可蒙許武登《アスカモコムト》。伊敝妣等波《イヘビトハ》。麻知故布良牟爾《マチコフラムニ》。等保能久爾《トホノクニ》。伊麻太毛都可受《イマダモツカズ》。也麻等乎毛《ヤマトヲモ》。登保久左可里弖《トオクサカリテ》。伊波我禰乃《イハガネノ》。安良伎之麻禰爾《アラキシマネニ》。夜杼理須流君《ヤドリスルキミ》。
 
等保能朝廷《トホノミカド》(廷(ノ)字、類聚抄には庭と作り、)は、何方にても、朝政を執(リ)行ふ處をいふ事にて、此は新羅(ノ)國にて、天皇の大政執行ひし處をいふ、いはゆる日本府と云るものこれなり、太宰府といふと同じ意なり、○伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》は、齋ひて待ねばかの意なり、○多太未可母《タタミカモ》云々(舊本、太を大に、未を末に誤(ル)、太は、類聚抄、拾穗本等に從(リ)、未は拾穗本傍書に未《イ》とあるに從(ツ)、)は、本居氏、多太未《タタミ》は、疊《タヽミ》なり、人の旅行のほどは、家にて、その疊を大切にして、つゝしむこと、古(ノ)禮なり、これを過(チ)すれば、その旅行人に、禍《ワザハヒ》あるなり、と云る如し、(契冲が、書紀に、於是天皇、命(テ)2神祇(ノ)伯(ニ)1、敬受2策《タヽマヲ》於神祇(ニ)1、とあるを引て、宅滿がなすわざの、ことわりにやそむきけむの心なり、と云るは、非《アラ》じ、)(232)古事記下(ツ)卷に、輕(ノ)太子者流2於伊余(ノ)湯(ニ)1也、亦|將《ムトスル》v流(エタマハ)之時(ノ)歌(ニ)曰、意富岐美袁斯麻爾波夫良婆布那阿麻理伊賀幣埋許牟叙和賀多多彌由來《オホキミヲシマニハブラバフナアマリイカヘリコムゾウガタタミユメ》、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、さて可母《カモ》の辭は、次(ノ)句の下にめぐらして意得べし、家人の齋清めつゝしむべき疊《タヽミ》を、疎忽《オロソカ》にして、過失《アヤマチ》しけむ故にか、かく旅人に凶事あるならむ、さても悔しき事、といふ意なり、○可敝里麻左牟等《カヘリマサムト》は、歸《カヘ》り來座《キマサ》むと、といふなり、こゝは宅滿が、自(ラ)言し詞ながら、他人よりいへば、かく敬ひて云るなり、○麻乎之弖《マヲシテ》は、申而《マヲシテ》なり、上なる人に向ひて云を、麻乎須《マヲス》と云り、(乎、舊本于と作り、それもさることながら、今は拾穗本に從つ、)その所由は、申は、古(ヘ)は麻乎須《マヲス》とのみ云ればなり、古事記、仁徳天皇、雄略天皇等(ノ)條(ノ)歌に、麻袁須《マヲス》、字鏡に、註注(ハ)萬乎須《マヲス》、貞觀儀式に、朝堂(ノ)儀云々、辨命(シテ)云任史(詞云、萬乎世留萬爾萬爾《マヲセルマニマニ》、)とあり、集中にも、大かた然あり、(麻宇麻《マウス》といふは、音便に頽れたるものなり、)但し十八に、加波能瀬麻宇勢《カハノセマウセ》、又、麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》、廿卷に、伊能里麻宇之弖《イノリマウシテ》、又、於夜爾麻宇佐禰《オヤニマウサネ》、式部式に、任v申、麻宇世留麻々爾《マウセルマヽニ》、などもあれば、やゝくだりては、さも云けむなるべし、○妣等波の妣(ノ)字、舊本には比と作り、類聚抄に從(ツ)、○等保能久爾《トホノクニ》は、遠之國《トホノクニ》にて、新羅を指て云、○伊麻太毛都可受《イマダモツカズ》は、未(ダ)至り著もせず、といふなり、四(ノ)卷に、筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左《ツクシブネイマダモコネバアラカジメアラブルキミヲミムガカナシサ》、とあるも、未(ダ)來もせぬに、といふなり、未毛《イマダモ》とつらねいふこと、古(ヘ)人の詞づかひなり、後(ノ)世には、聞つかぬことなり、○左可里の可(ノ)字、類聚抄には、加と作り、○夜杼里須流君《ヤドリスルキミ》は、墓作りて葬れるを、かく(233)現在《ウツシヨ》の人の如く、云なしたるなり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
3689 伊波多野爾《イハタヌニ》。夜杼里須流伎美《ヤドリスルキミ》。伊倣妣等乃《イヘビトノ》。伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》。等波婆伊可爾伊波牟《トハバイカニイハム》。
 
伊波多野《イハタヌ》は、和名抄に、壹岐(ノ)島石田(ノ)(伊之太《イシダ》國府、〉郡石田とあり、その野なり、(伊之太《イシダ》とあるは、後の唱なり、)○伊敝妣等《イヘビト》、類聚抄には家人と作り、○伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》は、何等《イヅラ》やと吾に、といふなり、伊豆良《イヅラ》は、土佐日記に、京へ歸るに、女兒の無のみぞ哀戀《カナシミコフル》云々、有物と忘つゝ猶亡(キ)人を、伊豆良《イヅラ》と問ぞ悲しかりける、とあるに同じ、和禮乎《ワレヲ》は、吾《ワレ》にと云むが如し、和爾《ワレニ》といふべきを、乎《ヲ》と云ること、古(ヘ)例多し、仁徳天皇(ノ)紀(ノ)歌に、和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》、古事記腹中天皇(ノ)大御歌に、淤富佐迦邇阿布夜袁登倍袁美知斗閇婆《オホサカニアフヤヲトメヲミチトヘバ》○波婆、舊本|顛倒《カヘサマ》になれり、今改つ、○歌(ノ)意は、石田野《イハタヌ》に、墓造りて葬れる君なるを、然《サ》とも知ずして、家人の、其(ノ)君は何等《イヅラ》やと吾に問(ハ)ば、其(ノ)時いかゞ答へむ、となり、〔頭注、【土佐日記の文、諸本同じ、按に、もとのみ〔二字右○〕の下ヲ〔右○〕の字ありしが、脱たるものならむか、】〕
 
3690 與能奈可波《ヨノナカハ》。都禰可久能未等《ツネカクノミト》。和可禮奴流《ワカレヌル》。君爾也毛登奈《キミニヤモトナ》。安我孤悲由加牟《アガコヒユカム》。
 
歌(ノ)意は、世間の常の理とて、かく死別れぬる君なるに、得思ひ明らめずして、むざ/\と戀し(234)く思ひつゝ、韓國《カラクニ》のかたへ、吾は行むか、となり、(略解に、三(ノ)句以下は、君に戀つゝ慕(ヒ)行むよしなしなり、と云るは、甚じき誤なり、母登奈《モトナ》は、俗言に、むざ/\といはむがごとし、既(ク)云り、)
 
右三首《ミギノミウタハ》姓名〔二字各○で囲む〕(ガ)作〔○で囲む〕《ヨメル》挽歌《カナシミウタ》。
 
三首の下、舊本、作者の姓名を脱したり、作者は、遣2新羅1使の中、宅滿と同行の人なり、
 
3691 天地等《アメツチト》。登毛爾母我毛等《トモニモガモト》。於毛比都都《オモヒツツ》。安里家牟毛能乎《アリケムモノヲ》。波之家也思《ハシケヤシ》。伊敝乎波奈禮弖《イヘヲハナレテ》。奈美能宇倍由《ナミノウヘユ》。奈豆佐比伎爾弖《ナヅサヒキニテ》。安良多麻能《アラタマノ》。月日毛伎倍奴《ツキヒモキヘヌ》。可里我禰母《カリガネモ》。都藝弖伎奈氣婆《ツギテキナケバ》。多良知禰能《タラチネノ》。波波母都末良母《ハハモツマラモ》。安佐都由爾《アサツユニ》。毛能須蘇比都知《モノスソヒヅチ》。由布疑里爾《ユフギリニ》。己呂毛弖奴禮弖《コロモデヌレテ》。左伎久之毛《サキクシモ》。安流良牟其登久《アルラムゴトク》。伊低見都追《イデミツツ》。麻都良牟母能乎《マツラムモノヲ》。世間能《ヨノナカノ》。比登乃奈氣伎波《ヒトノナゲキハ》。安比於毛波奴《アヒオモハヌ》。君爾安禮也母《キミニアレヤモ》。安伎波疑能《アキハギノ》。知良敝流野邊乃《チラヘルヌヘノ》。波都乎花《ハツヲバナ》。可里保爾布伎弖《カリホニフキテ》。久毛婆奈禮《クモバナレ》。等保伎久爾敝能《トホキクニヘノ》。都由之毛能《ツユシモノ》。佐武伎山邊爾《サムキヤマヘニ》。夜杼里世流良牟《ヤドリセルラム》。
 
天地等《アメツチト》云々(四句)は、天地と共に、長く久しくもがな、平安《サキ》くてあれかしと思ひつゝ、ありけむ君なる物を、といふなり、此《コヽ》は家人の、かく思ひてありしやうを、推はかりて云る故に、安里家牟《アリケム》といへるなり、二(ノ)卷|挽歌《カナシミウタ》に、天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽツカヘマツリシコヽロタガヒヌ》、○伊敝乎波奈禮弖《イヘヲハナレテ》、一(ノ)卷に、(235)柔備爾之家乎擇《ニキビニシイヘヲハナレ》、○奈豆佐比《ナヅサヒ》は、上にも見ゆ、浪漬傍《ナヅサヒ》なり、○月日毛伎倍奴《ツキヒモキヘヌ》は、月も日も來經《キヘ》ぬ、といふなり、古事記景行天皇(ノ)條(ノ)歌に、阿良多麻能登斯賀伎布禮婆《アラタマノトシガキフレバ》、阿良多麻能都紀波岐閇由久《アラタマノツキハキヘユク》、此(ノ)集五(ノ)卷に、阿良多麻能吉倍由久等志乃《アラタマノキヘユクトシノ》、○安佐都由爾《アサツユニ》云々(四句)は、家人の立(チ)待(ツ)形容を、思ひやりて云るなり、二(ノ)卷に、旦露爾玉藻者※[泥/土]打《アサツユニタマモハヒヅチ》、夕霧爾衣者沾而《ユフギリニコロモハヌレテ》云々、とあり、○左伎久之毛《サキクシモ》云々(四句)は、死去《スギニ》しことはしらで、幸《サキ》くてあらむ人のやうに、家人の出見つゝ、待らむものを、との意なり、之毛《シモ》は、もと多かる物の中に、その一すぢを、とりたてゝ云(フ)助辭なり、此《コヽ》は事物を執り念ふすぢの多かる中に、一(ト)すぢに想《オモヒ》やりて、幸くてあるらむと待さまを云るなり、○比登乃奈氣伎波《ヒトノナゲキハ》といふ下に、爲便《スベ》もなく哀憐《カナシ》き物哉《モノカナ》、といふ詞を、添て意得べし、○安比於毛波奴《アヒオモハヌ》云々(二句)は、しかばかり待らむ家の母や妻とは、嗚呼《アハレ》相思はぬ君にあればにやの意なり、也母《ヤモ》は、疑ひて歎きたる辭なり、○知良敝流《チラヘル》は、散布《チレル》の伸りたるなり(良敝《ラヘ》の切|禮《レ》となれり、)知留《チル》を知良布《チラフ》、知利《チリ》を知良比《チラヒ》といふと、同(ジ)語(ノ)格なり、さてかくざまに伸(ベ)云は、その長《ノド》けく緩なるをいふことにて、知禮流《チレル》は、その散てあるを直にいひ、知良敝流《チラヘル》は、引つゞきて、絶ず長緩《ノド/\》しく散てあるをいふとの差《タガヒ》あり、知禮流《チレル》は、俗にチツタ〔三字右○〕、知良敝流《チラヘル》は、チリヲル〔四字右○〕と云が如し、(徒に心まかせに、伸縮して云るにはあらず、)此(ノ)事既く一(ノ)卷に委(ク)云り、○波都乎花《ハツヲバナ》は、(本居氏(ノ)説に、秀尾花《ホツヲバナ》なり、と云り、されどたゞ、)初尾花《ハツヲバナ》なるべし、十(ノ)卷に左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花《サヲシカノイリヌノススキハツヲバナ》云々、廿(ノ)(236)卷に、波都乎婆奈麻名爾見牟登之《ハツヲバナマナニミムトシ》云々、○可里保爾布伎弖《カリホニフキテ》は、喪《モ》の荒垣《アラガキ》を造ることなるを、かく凡て存生《ヨニアル》時の如く、假廬《カリホ》に造り宿りせる、と云るが、あはれなり、○久毛婆奈禮《クモバナレ》は、雲居《クモヰ》に遠く放《サカ》れたる意なり、古事記仁徳天皇(ノ)條(ノ)歌に、夜麻登幣邇爾斯布伎阿宜弖久毛婆那禮曾伎袁理登母和禮和須禮米夜《ヤマトヘニニシフキアゲテクモバナレソキヲリトモワレワスレメヤ》、○都由之毛由佐武伎《ツユシモノサムキ》は、十(ノ)卷に、露霜乃寒夕之秋風爾《ツユシモノサムキユフヘノアキカゼニ》云々、とよめり、○良牟《ラム》と云て、上の君爾安禮也母《キミニアレヤモ》を結《トヂ》めたり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
3692 波之家也思《ハシケヤシ》。都麻毛古杼毛母《ツマモコドモモ》。多可多加爾《タカタカニ》。麻都良牟伎美也《マツラムキミヤ》。之麻我久禮奴流《シマガクレヌル》。
 
多可多加《タカタカ》(加(ノ)字、類聚抄には可と作り、)は、遠く望み待(ツ)意の詞なり、(本居氏云(ク)、今(ノ)俗言に、頸《クビ》を長うして待と云(ヒ)、待ことの遲きを、頸が長うなると云に同、)既く具く云り、十三に、母父毛妻毛子等毛高々二來跡待異六人之悲沙《オモチヽモツマモコドモモタカ/\ニコムトマチケムヒトノカナシサ》、○麻都良牟伎美也《マツラムキミヤ》、(伎美、類聚抄には君と作り、)麻都良牟《マツラム》は、家人の心を、此方より想ひやりて云るにて、妻や子等の待居(ラ)らむをの謂なり伎美也《キミヤ》は、その待(タ)るらむ君哉《キミヤ》いかで、と聞べし、○歌(ノ)意は、愛しき家の妻や子等も遠く望みて待居(ル)らむを、其(ノ)待(タ)るらむ君や、いかで心なく、荒き島に、島隱れぬるならむ、となるべし、
3693 毛美知葉能《モミチバノ》。知里奈牟山爾《チリナムヤマニ》。夜杼里奴流《ヤドリヌル》。君乎麻都良牟《キミヲマツラム》。比等之可奈之母《ヒトシカナシモ》。
 
(237)知里奈牟《チリナム》ハ、宅滿が死《ミマカ》れるは、思ふに、未(ダ)秋ふかゝらずして、こゝかしこ黄葉するほどなるべければ、後を推はかりて、落《チリ》なむとは云るなるべし、人氣《ヒトケ》疎《トホ》く、落葉のみ散積りて、いとゞさぶさぶしかるべき山に、永く宿れるを、あはれみて、云るならむ、○比等之可奈思母《ヒトシカナシモ》(比等、類聚抄には人と作り、)は、待らむ人の、さても一(ト)すぢに悲しや、となり、之《シ》は、その一(ト)すぢなる事を、重く思はする辭、隆《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、黄葉の散なむ山に留りて、永く宿りぬる君を、然とも知ずして、今日か歸り來む、明日か歸り來むと、待居(ル)らむ妻や子等の心中を、思ひやるに、さても一すぢに悲しくいとほしや、となり、
 
右三首葛井連子老作挽歌《ミギノミウタハフヂヰノムラジコオユガヨメルカナシミウタ》。
 
子老は、傳未(タ)詳ならず、
 
3694 和多都美能《ワタツミノ》。可之故伎美知乎《カシコキミチヲ》。也須家口母《ヤスケクモ》。奈久奈夜美伎弖《ナクナヤミキテ》。伊麻太爾母《イマダニモ》。毛奈久由可牟登《モナクユカムト》。由吉能安末能《ユキノアマノ》。保都手乃宇良敝乎《ホツテノウラヘヲ》。可多夜伎弖《カタヤキテ》。由加武等須流爾《ユカムトスルニ》。伊米能其等《イメノゴト》。美知能蘇良治爾《ミチノソラヂニ》。和可禮須流伎美《ワカレスルキミ》。
 
和多都美《ワタツミ》は、此《コヽ》はたゞ海のことなり、○可之故伎美知乎《カシコキミチヲ》(可(ノ)字、古寫本に下と作るは誤、)は、恐《カシコ》く危き海路《ウミヂ》を、といふなり、十三に、腫浪能恐海矣直渉異將《シキナミノカシコキウミヲタヾワタリケム》、○也須家口母奈久奈夜美伎弖《ヤスケクモナクナヤミキテ》(久(ノ)字、拾穗本には句と作り、)は、安き事も無(ク)煩《ナヤ》み來てなり、○伊麻太爾母《イマダニモ》は、今なりとも、といはむが(238)ごとし、此(レ)までは、恐《カシコ》く危き海道を、安(キ)心もなく、辛(ク)して煩み來しを、せめて今より行向なりとも、凶事《マガコト》なく、安く行むとて、といふなり、○毛奈久由可牟登《モナクユカムト》とは、毛奈久《モナク》は、此(ノ)下に、多婢爾弖毛母奈久波夜許登《タビニテモモナクハヤコト》、五(ノ)卷に、靈剋内限者《タマキハルウチノカギリハ》、平氣久安久母阿良牟遠《タヒラケクヤスクモアラムヲ》、事母無裳無母阿良牟遠《コトモナクモナクモアラムヲ》、六帖、又伊勢物語に、我さへ裳《モ》無(ク)成ぬべき哉、などあり、毛《モ》は、凶事《アイキコト》を云(フ)稱《ナ》にて、凶事なく安く行むと、といふなり、猶具くは、五(ノ)卷に云るを考(ヘ)見べし、由可牟登《ユカムト》は、新羅(ノ)國に行むとて、となり、○由吉能安末能《ユキノアマノ》は、壹岐之海人之《ユキノアマノ》なり、壹岐を、由吉《ユキ》と云事は、上に云り、○保都手乃宇良敝乎《ホツテノウラヘヲ》(乎(ノ)字、類聚抄には手と作り、ウラヘテ〔四字右○〕にや、猶考(フ)べし、)は、保都手《ホツテ》は、岡部氏、中(ツ)世、相撲の最上をも、秀手《ホテ》といへれば、保都《ホツ》は、太占《フトマニ》の太《フト》と同じく、ほむる言なるべし、と云り、按(フ)に、秀眞國《ホツマクニ》、又|秀枝《ホツエ》、秀鷹《ホツタカ》などいふ保都《ホツ》に同言なり、即(チ)秀津《ホツ》なり、さて手《テ》は、才伎《テビト》などの手《テ》にて、その業あることを云言なり、今上手下手と云(フ)手即(チ)これなり、(畧解に、手は添たる詞ぞ、と云るは、いかゞ、又契冲が、帆手なり、と云るは、わろし、)かくて宇良敝《ウラヘ》は、まづ宇良《ウラ》と云は、其(ノ)事の體言なるを、其(ノ)宇良《ウラ》を爲《ナス》とき、波比布閇《ハヒフヘ》の言を添(ヘ)活《ハタラ》かして、宇良布《ウラフ》とも、宇良敝《ウラヘ》とも云を、その用言を居(ヱ)て、體言に爲(シ)たるなり、なほ十四に委(ク)云るを、考(ヘ)合すべし、(本居氏の、この宇良布《ウラフ》は、宇良阿波須《ウラアハス》てふことなるが、阿《ア》を省き、波須《ハス》を約(メ)て、宇良布《ウラフ》と云なり、と云るは、いかゞ、)さてかく云るは、往昔《ムカシ》此(ノ)壹岐(ノ)島の、卜筮《ウラナヒ》に名高かりし所由《ヨシ》ありて、云るなるべし、○可多夜伎弖《カタヤキテ》は、本居氏云(ク)、此(ノ)歌は、雪(ノ)連が死《スギ》しを傷(ミ)て、(239)壹岐(ノ)島にてよめるなれば、彼(ノ)漢國(ノ)傳の龜卜なるべきか、然らばカタヤキ〔四字右○〕は、十四に、武藏野爾宇良可多也伎《ムザシヌニウラカタヤキ》、とあるも、此(ノ)歌も、ともに肩にはあらで兆《カタ》の意かとも思はるれども、此(ノ)歌は、其(ノ)時に見て、卜《ウラ》をしたるさまにも聞えず、此(ノ)島は卜に名高きゆゑに、たゞ設てかくよめりと聞ゆれば、古(ヘ)の鹿の肩灼《カタヤキ》の卜《ウラ》の語を以て、云るなるべし、そは龜卜になりて後も、云(ヒ)なれたるままに、なほ肩灼《カタヤキ》と云語をぞ、なべて用ひけむ、又兆をカタ〔二字右○〕と云も、象の意にはあらで、本は肩より出し名なるも、しるべからず、○伊米能其等《イメノゴト》は、夢《イメ》の如《ゴト》くなり、○美知能蘇良治《ミチノソラヂ》は、道《ミチ》の空路《ソラヂ》にて、由縁《ヨルベ》もなき道中にて別(ル)るを、空《ソラ》に比《ナゾラ》へて云るなり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
3695 牟可之欲里《ムカシヨリ》。伊比祁流許等乃《イヒケルコトノ》。可良久爾能《カラクニノ》。可良久毛己許爾《カラクモココニ》。和可禮須留可聞《ワカレスルカモ》。
 
歌(ノ)意は、むかしより云傳(ヘ)けるにたがはず、はたして辛《カヲ》き別(レ)を、この韓國《カラクニ》の道にてする哉、さても悲しや、となり、可良《カラ》といふ名を、辛《カラ》きといふ詞になして、かくはよめり、
 
3696 新羅奇敝可《シラキヘカ》。伊敝爾可加反流《イヘニカカヘル》。由吉能之麻《ユキノシマ》。由加牟多登伎毛《ユカムタドキモ》。於毛比可禰都母《オモヒカネツモ》。
 
由吉能之麻《ユキノシマ》は、將往《ユカム》といはむ料なり、○於毛比《オモヒ》、類聚抄には思と作り、○歌(ノ)意は、われは新羅へ(240)ゆくべきことなるに、かく道の空路に辛き別(レ)をして、心もくれまどひ、ゆくべき道のたづきも得思(ヒ)分ず、かくては新羅へ往ことか、本(ツ)家に還ることか、いとおぼつかなし、となり、(契冲が、宅滿がたましひほ、新羅へゆくか故郷へかへるか、といふこゝろなり、と云るはいかゞ、)
 
右三首六鯖作挽歌《ミギノミウタハムサバガヨメルカナシミウタ》。
 
六鮪は、契冲云(ク)、續紀に、廢帝、寶字八年正月乙巳、授2正六位上六人部(ノ)連鮪麿(ニ)外從五位下(ヲ)1、と見ゆ、此(ノ)人の氏と名とを、略きてかけるなるべし、
 
到《ニ》2對馬島淺茅浦《ツシマノアサヂノウラ》1舶泊之時《フネハテシトキ》。不《ズ》v得《エ》2順風《オヒテヲ》1。經停五箇日《トドマリテイツカヲヘキ》。於是《コヽニ》瞻望《ミヤリテ》物華(ヲ)1。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2慟心《オモヒヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
淺茅(ノ)浦は、未考へず、國人に問べし、
 
3697 毛母布禰乃《モモフネノ》。波都流對馬能《ハツルツシマノ》。安佐治山《アサヂヤマ》。志具禮能安米爾《シグレノアメニ》。毛美多比爾家里《モミタヒニケリ》。
 
毛母布禰乃《モモフネノ》云々は、百船之泊津《モモフネノハツルツ》、といひかけたり、六(ノ)卷に、百船之泊停跡《モモフネノハツルトマリト》、八島國百船純乃《ヤシマクニモヽブネビトノ》、定而師三犬女乃浦者《サダメテシミヌメノウラハ》、とよめり、○毛美多比爾家里《モミタヒニケリ》は、黄變《モミチ》にけりの伸りたるなり、(タヒ〔二字右○〕の切チ〔右○〕なり、)かく伸て云は、此(ノ)上に、知禮流《チレル》を知良敝流《チラヘル》と云たるに同(ジ)謂《コト》なり、十(ノ)卷に、雁鳴之寒朝開之露有之春日山乎令黄物者《カリガネノサムキアサケノツユナラシカスガノヤマヲモミタスモノハ》、(後撰集に、雁鳴て寒き朝の露ならし龍田の山を毛美多須《モミタス》ものは、)とあるも、毛美都《モミツ》を、毛美多須《モミタス》と云たるにて、今と同じ語(ノ)格なるを、自《オラ》然るをいふと、然らしむるを(241)いふとの差別のみなり、○歌(ノ)意かくれたるすぢなし、 
 
3698 安麻射可流《アマザカル》。比奈爾毛月波《ヒナニモツキハ》。弖禮禮杼母《テレレドモ》。伊毛曾等保久波《イモソトホクハ》。和可禮伎爾家流《ワカレキニケ》。
 
歌(ノ)意は、都の空にて見しと、同じさまに、夷の國にも、月は照て、興ある事なれど、たゞ一(ツ)あかず口をしきは、共に見賞《ミメデ》つべき妹にぞ、遠く別れ來にける、となり、十一に、月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレバクニハオヤジソヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》、
 
3699 安伎左禮婆《アキサレバ》。於久都由之毛爾《オクツユシモニ》。安倍受之弖《アヘズシテ》。京師乃山波《ミヤコノヤマハ》。伊呂豆伎奴良牟《イロヅキヌラム》。
 
安倍受之弖《アヘズシテ》は、不《ズ》v堪《タヘ》して、といふが如し、○歌(ノ)意は、遠く京師の山の黄變《モミツ》る形《サマ》を、思ひやりて云るにて、かくれたるすぢなし、
 
萬葉集古義十五卷之中 終
 
(242)萬葉集古義十五卷之下
 
竹敷浦舶泊之時《タカシキノウラニフネハテシトキ》。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2心緒《オモヒヲ》1作歌《ヨメルウタ》。十八首《トヲマリヤツ》。
 
竹敷浦は、續後紀十三に、承和十年八月戊寅、太宰府言(ス)、對馬島上縣(ノ)郡竹敷(ノ)崎防人等申云、とあり、○舶(ノ)字、類聚抄には船と作り、
 
3700 安之比奇能《アシヒキノ》。山下比可流《ヤマシタヒカル》。毛美知葉能《モミチバノ》。知里能麻河比波《チリノマガヒハ》。計布仁聞安留香母《ケフニモアルカモ》。
 
山下比可流《ヤマシタヒカル》は、六(ノ)卷に、※[(貝+貝)/鳥]乃來鳴春部者《ウグヒスノキナクハルヘハ》、巖者山下輝《イハホニハヤマシタヒカリ》、錦成花咲乎呼里《ニシキナスハナサキヲヲリ》、とあるに同じく、下《シタ》は、上下《ウヘシタ》の下《シタ》にはあらず、赤紅《アカ》き形をいふ辭なり、二(ノ)卷に、秋山下部留妹《アキヤマノシタベルイモ》、十(ノ)卷に、金山舌日下《アキヤマノシタビガシタニ》、三(ノ)卷に、山下赤乃曾保船《ヤマシタノアケノソホブネ》、古事記に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》、など見えたる下《シタ》に同じ、(詞花集に、夕されば何かいそがむ紅葉の下でる山はよるも越なむ、)○知里能麻河比《チリノマガヒ》は三(ノ)卷に、大舟之渡乃山之《オホブネノワタリノヤマノ》、黄葉乃散之亂爾《モミチバノチリノマガヒニ》、妹袖清爾毛不見《イモガソテサヤニモミエズ》、と見ゆ、五(ノ)卷に、烏梅能波奈知利麻加比多流乎加肥爾波《ウメノハナチリマガヒタルヲカビニハ》、十七に、乎布能佐岐波奈知利麻我比《ヲフノサキハナチリマガヒ》、ともよめり、○歌(ノ)意は、山に赤紅《アカ》く光《ヒカ》る黄葉の、彼此方散(リ)飛(ビ)亂(243)れまがふ盛は、今日此(ノ)頃にてもある哉、さても見事のけしきや、となり、
 
右一首大使《ミギノヒトウタハツカヒノカミ》。
 
3701 多可之伎能《タカシキノ》。母美知乎見禮婆《モミチヲミレバ》。和藝毛故我《ワギモコガ》。麻多牟等伊比之《マタムトイヒシ》。等伎曾伎爾家流《トキノキニケル》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首副使《ミギノヒトウタハツカヒノスケ》。
 
副使は、大伴(ノ)宿禰三中なり、傳三(ノ)卷下に、委(ク)云り、
 
3702 多可思吉能《タカシキノ》。宇良美能毛美知《ウラミノモミチ》。和禮由伎弖《ワレユキテ》。可倣里久流末低《カヘリクルマテ》。知里許須奈由米《チリコスナユメ》。
 
未(ノ)字舊本末に誤れり、今改つ、○未(ノ)字、舊本末に誤れり、今改つ、○知里許須奈由米《チリコスナユメ》は、ゆめ/\散ことなかれ、といふが如し、黄葉に令《オホ》する謂なり、八(ノ)卷に、吾念妹爾《》、直一眼令覩麻而爾波《アガモフイモニタゞヒトメミセムマテニハ》、落許須奈由米登云管《チリコスナユメトイヒツヽ》、○歌(ノ)意は、竹敷の浦廻の黄葉よ、吾(ガ)新羅(ノ)國に行至りて、事竟りて此處に歸り來るまで、ゆめ/\散失る事なかれよ、となり、
 
右一首大判官《ミギノヒトウタハオホキマツリゴトヒト》。
 
3703 多可思吉能《タカシキノ》。宇敝可多山者《ウヘカタヤマハ》。久禮奈爲能《クレナヰノ》。也之保能伊呂爾《ヤシホノイロニ》。奈里爾家流香(244)聞《ナリニケルカモ》。
 
宇敝可多山《ウヘカタヤマ》は、上方《ウヘカタ》山にて、上《ウハ》つ方にある山をいふべし、又即(チ)山(ノ)名に負たるにもあるべし、○也之保能伊呂《ヤシホノイロ》は、彌入之色《ヤシホノイロ》なり、十一に、呉藍之八鹽乃衣《クレナヰノヤシホノコロモ》、十九に、紅之八塩爾染而於己勢多流服之襴毛《クレナヰノヤシホニソメテオコセタルコロモノスソモ》、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首少判官《ミギノヒトウタハスナキマツリゴトヒト》。
 
少判官(少(ノ)字、舊本小に誤れり、)は、五七位上大藏(ノ)忌寸麻呂なり、續紀に見えて上に引り、
 
3704 毛美知婆能《モミチバノ》。知良布山邊由《チラフヤマヘユ》。許具布禰能《コグフネノ》。爾保比爾米※[人偏+弖]弖《ニホヒニメデテ》。伊※[人偏+弖]弖伎爾家里《イデテキニケリ》。
 
知良布山邊由《チラフヤマヘユ》は、知良布《チラフ》とは、知流《チル》の伸りたるにて、その伸(ベ)云謂は、上に理りたる如し、山邊由《ヤマヘユ》は、山邊をといふに同じ、山のほとりの海を漕なり、○歌(ノ)意は、黄葉の散飛つゝ、けはひよき山のほとりの海を、漕(グ)船の艤《ヨソヒ》の艶色《ニホヒ》に愛《メデ》て、娘子が自(ラ)出來にけり、となり、
 
3705 多可思吉能《タカシキノ》。多麻毛奈婢可之《タマモナビカシ》。己藝低奈牟《コギデナム》。君我美布禰乎《キミガミフネヲ》。伊都等可麻多牟《イツトカマタム》。
 
多麻毛奈婢可之《タマモナビカシ》は、玉藻《タマモ》を令《シ》v靡《ナビカ》なり、○歌(ノ)意は、竹敷(ノ)浦の玉藻を、靡かし漕(ギ)出て、新羅へわたり往む君が御舟の、此處に歸り來まさむ程を、いつと思ひてか待居む、となり、
 
(245)右二首對馬娘子名玉槻《ミギノフタウタハツシマヲトメナハタカツキ》。
 
對馬娘子は、播磨娘子《ハリマヲトメ》、常陸娘子《ヒタチヲトメ》などいへる類也、此は遊女の類なるべし、
 
3706 多麻之家流《タマシケル》。伎欲吉奈藝佐乎《キヨキナギサヲ》。之保美弖婆《シホミテバ》。安可受和禮由久《アカズワレユク》。可反流左爾見牟《カヘルサニミム》。
 
多麻之家流《タマシケル》は、玉敷有《タマシケル》なり、明《アザヤカ》なる沙《スナゴ》のつどへるを云り、○可反流左《カヘルサ》は、還《カヘ》る時《サ》なり、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、玉敷(キ)たる清き瀲《ナギサ》のおもしろければ、未(ダ)見あかぬに、潮が滿來て、船に乘べき時になりたれば、心ならず、そこを見捨て立別れゆくぞ、いざ又還る時に委《ヨク》見む、となり、
 
右一首大使《ミギノヒトウタハツカヒノカミ》。
 
3707 安伎也麻能《アキヤマノ》。毛美知乎可射之《モミチヲカザシ》。和我乎禮婆《ワガヲレバ》。宇良之保美知久《ウラシホミチク》。伊麻太安可奈久爾《イマダアカナクニ》。
 
也麻、類聚抄には、山と作り、○宇良之保美知久《ウラシホミチク》(宇良之保、類聚抄には、浦塩と作り、)は、浦潮滿來《ウラシホミチク》なり、○歌(ノ)意は、秋山の黄葉を折(リ)挿頭《カザシ》て、おもしろき瀲《ナギサ》を見つゝ興じ居るに、浦潮《ウラシホ》が滿(チ)來て、船に乘べき時になりたれは、いまだ飽(カ)ぬ事なるに、心ならず見さして、別れ行が口惜しき事、となり、
 
右一首副使《ミギノヒトウタハツカヒノスケ》。
 
(246)3708 毛能毛布等《モノモフト》。比等爾波美要緇《ヒトニハミエジ》。之多婢毛能《シタヒモノ》。思多由故布流爾《シタユコフルニ》。都奇曾倍爾家流《ツキソヘニケル》。
 
比等、類聚抄には、人と作り、○之多婢毛能《シタヒモノ》は、下《シタ》をいはむ料に云る枕詞なり、○都奇、類聚抄には、月と作り、○歌(ノ)意は、いかに思ひはすとも、大丈夫なれば、めゝしく物思(ヒ)をするといふけしきを、人目には見られじと、心づよく思ふものから、はや裏《シタ》に戀しく思ふ中《ウチ》に、數月を經にければ、裏に隱《シノ》ぶに堪じかと思へど、それと人の知べく色に出て、つひに表《ウヘ》にあらはしはせじ、となり、三四五一二と句を次第て聞(ク)べし、四(ノ)卷に、物念跡人爾不見奈常麻強《モノモフトヒトニミエジトナマジヒニ》、常念弊利有曾金鶴《ツネニオモヘドアリソカネツル》、
 
右一首大使《ミギノヒトウタハツカヒノカミ》。
 
3709 伊敝豆刀爾《イヘヅトニ》。可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》。於伎敝欲里《オキヘヨリ》。與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》。許呂毛弖奴禮奴《コロモテヌレヌ》。
 
可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》は、貝を拾ふとて、となり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3710 之保非奈波《シホヒナバ》。麻多母和禮許牟《マタモワレコム》。伊射遊賀武《イザユカム》。於伎都志保佐爲《オキツシホサヰ》。多可久多知伎奴《タカクタチキヌ》。
 
之保佐爲《シホサヰ》は、潮の滿來て、さわ/\と鳴(リ)動く時を云、一(ノ)卷、三(ノ)卷、十一(ノ)卷などに見えて、既く一(ノ)卷(247)に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、此(ノ)清き瀲《ナギサ》のおもしろくて、見るにあかずはあれども、潮の高く興《タチ》來て、船出すべき時に至りぬれば、心ならずとも、いざ/\此處を立(チ)別れて行む、潮涸になりなば、又も歸り來て、此(ノ)おもしろき瀲に、吾は遊ばむぞ、となり、四五三一二と句を次第て聞べし、
 
3711 和我袖波《ワガソデハ》。多毛登等保里弖《タモトトホリテ》。奴禮奴等母《ヌレヌトモ》。故非和須禮我比《コヒワスレガヒ》。等良受波由可自《トラズハユカジ》。
 
本(ノ)句は、我(ガ)袖は、手本まで徹りて沾ぬとも、といふなり、そも/\蘇弖《ソテ》と多母登《タモト》との差別《ケヂメ》を、委細《コマカ》に云(フ)時は、蘇弖《ソテ》は衣手《ソテ》にて、左右(ノ)手を指(シ)入る所の※[手偏+總の旁]名《オホナ》、多母登《タモト》は手本《タモト》にて、衣手《ソテ》の本(ツ)方|臂《ヒヂ》より肩までの間をいふなり、十四に、吉西斯伎奴多母登乃久太利麻欲比伎爾家利《キセシキヌタモトノクダリマヨヒモニケリ》、とあるも、袖《ソテ》の本(ツ)方の行《クダリ》なり、されば、集中、多母登《タモト》と云(フ)には、多(ク)手本と書り、(二(ノ)卷、三(ノ)卷、四(ノ)卷、八(ノ)卷、十(ノ)卷、十一(ノ)卷、十二(ノ)卷、十九(ノ)卷などにしかあり、)後に袂(ノ)字を、タモト〔三字右○〕に當たるも、その意か、(和名抄(ニ)云、釋名(ニ)云、袖(ハ)所2以受1v手(ニ)也、袂(ハ)開(キ)張(テ)以(テ)v臂(ヲ)屈伸(スル)也、※[衣+去](ハ)其(ノ)中虚也、和名|曾天《ソテ》、とあり、さて今(ノ)俗に、袖は※[手偏+總の旁]名にて、タモト〔三字右○〕に對へいふときは、手をとほすところを、ソテ〔二字右○〕といひ、袖のくだりの底の方を、タモト〔三字右○〕と云りとこゝろえたるは、いかなることにかあらむ、)○故非《コヒ》、類聚抄には戀と作り、○歌(ノ)意は、吾(ガ)袖は、縱《タト》ひ本(ツ)方まで徹《トホ》りて、潮に沾(ヌ)べくとも、よしやいとはじ、家(ノ)妻を戀しく思ふ心の、苦しく堪がたきに依て、身に着《ツク》れば、即(チ)その苦しき思ひを忘るといふなる忘貝を、拾※[手偏+庶]《ヒロヒトラ》ずしては行や(248)らじ、となり、
 
3712 奴婆多麻能《ヌバタマノ》。伊毛我保須倍久《イモガホスベク》。安良奈久爾《アラナクニ》。和我許呂母弖乎《ワガコロモテヲ》。奴禮弖伊毛爾勢牟《ヌレテイカニセム》。
 
奴婆多麻能《ヌバタマノ》(婆(ノ)字、舊本に波と作り、類聚抄に從つ、)は、夜《ヨ》といふへつゞけなれたる枕詞にて、さてそれより轉りて、寐《イ》といふ意に、伊《イ》の一言に、妹《イモ》といふにつゞけたりともいふべけれど、おぼつかなし、(本居氏、是は十一(ノ)卷に、ぬば玉の妹が黒髪《クロカミ》云々、と有(ル)歌などを、心得たがへて、誤てよめるなるべし、かにかくに妹《イモ》とつゞくべきよしなし、といへり、然れども、後(ノ)人ならばこそあれ、寧樂人の、さまで意得たがへて、誤らむことゝも思はれず、)故(レ)考(フ)るに、此はもと志岐多閇能《シキタヘノ》などありけむを、後に心得たがへたるより、字をも寫し誤りたるにあらむか、五(ノ)卷に、志岐多閇乃麻久良《シキタヘノマクラ》、と見えたり、さて敷妙之《シキタヘノ》とて、袖《ソテ》とも、手本《タモト》とも、衣手《コロモテ》とも、集中|往々《トコロ/”\》つゞけよみたれば、今の歌も、第二三(ノ)句を隔て、第四(ノ)句の許呂毛弖《コロモテ》といふへ、かゝれる詞なるべきか、○歌(ノ)意は、※[火三つ]り干べき妻も副《タグ》ひてあらぬ事なるを、かやうに潮に沾て、吾(ガ)衣手をいかにかせむ、となり、
 
3713 毛美知婆波《モミチバハ》。伊麻波宇都呂布《イマハウツロフ》。利伎毛故我《ワギモコガ》。麻多牟等伊比之《マタムトイヒシ》。等伎能倍由氣婆《トキノヘユケバ》。
 
(249)宇都呂布《イマハウツロフ》は、落(チ)散(ル)を云り、○歌(ノ)意は、秋になりなば、必(ズ)歸り來給へ、吾(レ)待つゝ居むと妹が云しに、あり/\て、今ははやその時に至りぬれば、妹と共に見はやすべき黄葉は、散失行(ク)を、吾は未(ダ)歸る事を得ずして、空しく妹を待しめむと思ふが、深く口をし、となり、
 
3714 安伎佐禮婆《アキサレバ》。故非之美伊母乎《コヒシミイモヲ》。伊米爾太爾《イメニダニ》。比左之久見牟乎《ヒサシクミムヲ》。安氣爾家流香聞《アケニケルカモ》。
 
故非之美《コヒシミ》は、戀しき故にの意なり、○歌(ノ)意は、秋になりなば必(ズ)歸り來て、相見むと期《チギ》りし故に、いとゞ妹が戀しく思はるれども、歸る事を得ざれば、相見る事もならず、されば夢になりとも、久しく相見むと思へど、心だらひに見る事も得せず、はや夜の明にける哉、さても殘(リ)多や、となり、
 
3715 比等里能未《ヒトリノミ》。伎奴流許呂毛能《キヌルコロモノ》。比毛等加婆《ヒモトカバ》。多禮可毛由波牟《タレカモユハム》。伊敝杼保久之弖《イヘドホクシテ》。
 
伊敝、類聚抄には家と作り、○歌(ノ)意は、もし吾(ガ)衣の紐解(カ)ば、家遠く放り來て、妻もなければ、誰ありてか、其(ノ)紐を結ぶべき、さればたとひ吾(ガ)衣の紐の緩《ユル》ぶとも、獨のみは解(ク)》事をせじ、となり、古(ヘ)夫の紐をば、其(ノ)妻ならでは解結《トヰユヒ》せぬことなれば、かくよめり、四(ノ)卷に、獨宿而絶西※[糸+刃]緒忌見跡世武爲便不知哭耳之曾泣《ヒトリネテタエニシヒモヲユヽシミトセムスベシラニネノミシソナク》、九(ノ)卷に、吾妹兒之結手師※[糸+刃]乎將解八方絶者絶十方直二相左右二《ワギモコガユヒテシヒモヲトカメヤモタエハタユトモタヾニアフマテニ》、(250)十一に、菅根惻隱君結爲我※[糸+刃]緒解人不有《スガノネノネモコロキミガムスビテシワガヒモノヲトクヒトハアラジ》、十二に、二爲而結之※[糸+刃]乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテムスビシヒモヲヒトリシテアレハトキミジタヾニアフマデハ》、又、海石榴市之八十衢爾立平之結※[糸+刃]乎解卷惜毛《ツバイチノヤソノチマタニタチナラシムスビシヒモヲトカマクヲシモ》、廿(ノ)卷に、海原乎等保久和多里弖等之布等母兒良我牟須敝流比毛等久奈由來《ウナバラヲトホクワタリテトシフトモコラガムスベルヒモトクナユメ》、などよめるを、思(ヒ)合(ス)べし、
 
3716 安麻久毛能《アマクモノ》。多由多比久禮婆《タユタヒクレバ》。九月能《ナガツキノ》。毛美知能山毛《モミチノヤマモ》。宇都呂比爾家里《ウツロヒニケリ》。
 
安麻久毛能《アマクモノ》は、枕詞なり、十二に、天雲乃絶多比安心有者《アマクモノタユタヒヤスキコヽロアラバ》、とよめり、○多由多比久禮婆《タユタヒクレバ》は、猶豫して來ればの意なり、○毛美知能山毛《モミチノヤマモ》は、山の黄葉も、と云むがごとし、契冲云(ク)、第十九にも、紅葉の山とよめり、ともに名所にあらず、第十、第十七に、卯(ノ)花山とよめるは、只卯(ノ)花のさける山なり、それに准じてしるべし、○歌(ノ)意は、彼方に留まり、此方にやすらひなどして、進々《スク/\》とも得行やらず、猶豫して來れば、九月の山の黄葉も盛過て、早散失にけり、となり、
 
3717 多婢爾弖毛《タビニテモ》。母奈久波也許登《モナクハヤコト》。和伎毛故我《ワギモコガ》。牟須比思比毛波《ムスビシヒモハ》。奈禮爾家流香聞《ナレニケルカモ》。
 
多婢、類聚抄には、旅と作り、○母奈久波夜許登《モナクハヤコト》は、凶事《モ》なくて早還(リ)來よ、となり、母《モ》は上に云り、○比毛、類聚抄には※[糸+刃]と作り、○奈禮《ナレ》は褻《ナレ》なり、○歌(ノ)意は、旅にても、凶事《モ》なく平安《サキク》座《マシマ》して、早く歸り來給へと云て、妹が結びし吾(ガ)衣の紐は、褻垢《ナレアカヅ》きにける哉、これにて思へば、早月日久しくなりたるに、未(ダ)歸る事を得ざれば、さてもいよ/\戀しく思はるゝ事ぞ、となり、
 
(251)回2來《カヘリキテ》筑紫海路《チクシノウミツヂニ》1。入《マヰラント》v京《ミヤコニ》到《イタル》2播磨國家島《ハリマノクニイヘシマニ》1之時《トキ》。作歌五首《ヨメルウタイツヽ》。
 
回(ノ)字、古寫本には廻、拾穗本には還と作り、○家島は、既く此(ノ)上に出(ツ)、
 
3718 伊敝之麻波《イヘシマハ》。奈爾許曾安里家禮《ナニコソアリケレ》。宇奈波良乎《ウナハラヲ》。安我古非伎都流《アガコヒキツル》。伊毛母安良奈久爾《イモモアラナクニ》。
 
歌(ノ)意は、家島と云(ヘ)ば家の妹も在べきに、海原を遙々、吾(ガ)戀しく思ひて、渡り來つる事なるを、妹もなければ、家島と云は、唯島の名ばかりにてこそありけれ、となり、
 
3719 久左麻久良《クサマクラ》。多婢爾比佐之久《タビニヒサシク》。安良米也等《アラメヤト》。伊毛爾伊比之乎《イモニイヒシヲ》。等之能倍奴良久《トシノヘヌラク》。
 
歌(ノ)意は、旅中に久しくあらむやは、秋に至らば、早歸り來むと、堅く妹に云|期《チギ》りて別れ來しを、早く歸る事を得ずして、はや一年を經度りぬる事よ、となり、天平八年四月に、拜朝《ミカドヲロガミ》に發て、九年正月に、京に入《マヰ》りし趣なれば、年の經ぬるとはいへるなり、
 
3720 和伎毛故乎《ワギモコヲ》。由伎弖波也美武《ユキテハヤミム》。安波治之麻《アハヂシマ》。久毛爲爾見延奴《クモヰニミエヌ》。伊倣都久良之母《イヘツクラシモ》。
 
延、舊本廷に誤れり、今改つ、○伊敝都久《イヘツク》は、契冲云、秋にいたり附を、秋附《アキヅク》といふごとく、家に附なり、○歌(ノ)意は、近く見し淡路島も、やゝ遠く跡になりて、雲居遙に見えぬれば、今は家の方に(252)近附らし、はやく行て妹に相見む、さてもうれしや、となり、三四五一二と句を次第て聞べし、
 
3721 奴婆多麻能《ヌバタマノ》。欲安可之母布禰波《ヨアカシモフネハ》。許藝由可奈《コギユカナ》。美都能波麻末都《ミツノハママツ》。麻知故非奴良武《マチコヒヌラム》。
 
美都能波麻末都《ミツノハママツ》は、待《マツ》を云む料に、家に近き處を、取(リ)出て云るなり、一(ノ)卷に、去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イザコドモハヤヤマトヘニオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、夜中にも船を留めず、夜を明して、いで/\急く船を漕行む、妹が吾を戀しく思ひて、今か/\と待つゝ居《ヲル》らむ、其を思へば、しばしもやすらふべきに非ず、となり、
 
3722 大伴乃《オホトモノ》。美津能等麻里爾《ミツノトマリニ》。布禰波弖弖《フネハテテ》。多都多能山乎《タツタノヤマヲ》。伊都可故延伊加武《イツカコエイカム》。
 
美津能等麻里《ミツノトマリ》は、難波の御津《ミツ》の泊《トマリ》なり、(住吉の御津《ミツ》とは異なり、混(フ)べからず、)御津《ミツ》の濱とも、三津《ミツ》の埼とも、御津《ミツ》の松原とも、多くよめる、其(ノ)地なり、○故延伊加武《コエイカム》は、將《ム》2超往《コエイカ》1なり、往《ユク》を伊久《イク》と云ること、古(ヘ)にも例多し、十四に、伊弖安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》、又、於伎弖伊可婆《オキテイカバ》、十七に、於吉底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》、又、於伎底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》、廿(ノ)卷に、佐之弖伊久和例波《サシテイクワレハ》、などあり、又十(ノ)卷に、妹許跡馬鞍置射駒山《イモガリトウマニクラオキテイコマヤマ》、十七に、伊毛我伊弊爾伊久理能母里《イモガイヘニイクリノモリ》、などもあり、類聚國史卅二、桓武天皇(ノ)御歌に、氣佐能阿狹氣奈久知布之賀農曾農己惠遠岐嘉受波伊賀之與波布氣奴止毛《ケサノアサケナクチフシカノソノコヱヲキカズハイカジヨハフケヌトモ》、古今集離別に、人やりの道ならなくに大かたはいきうしと云て率(ザ)歸りなむ、羈旅詞書に、東の方へ友とする人、ひとり(253)ふたりいざなひていきけり、伊勢物語に、人のいきかよふべき所にもあらず云々、京にありわびて、東《アヅマ》にいきけるに云々、などあり、○歌(ノ)意は、いつしか御津の停(リ)に船泊て、さて陸に上りて、立田の山を超往て、家に還り着むことぞ、といそがれ思ふなり、
 
中臣朝臣宅守《ナカトミノアソミヤカモリガ》。娶《アヒテ》2藏部女《クラベノメニ》1。嫂《ヨバヘル》2狹野茅上娘子《サヌノチカミヲトメヲ》1之時《トキ》。勅《ミコトノリシテ》斷《サダメテ》2流罪《ナガスツミニ》。配《ハナチタマヘリ》2越前
國《コシノミチノクチノクニニ》1也。是於《コヽニ》夫婦《メヲ》相2嘆《ナゲキ》易《ヤスク》v別《ワカレ》難《ガタキヲ》1v會《アヒ》。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2慟情《カナシミノコヽロヲ》1。贈答歌《オクリコタフルウタ》。六十三首《ムソチマリミツ》。
 
此(ノ)題詞、舊本には、中臣(ノ)朝臣宅守與2狹野茅上娘子1贈答歌とのみ記せり、今は目録に從つ、○宅守は、續紀に、天平十二年六月庚午、宜v大2赦天下(ニ)1、自21天平十二年六月十五日戌時1以前、大辟以下咸赦除(セヨ)之云々、其(ノ)流人穗積(ノ)朝臣老等五人、召(テ)令v入(ラ)v京(ニ)云々、中臣(ノ)宅守不v在2赦(ス)限(ニ)1(此(ノ)度は恩を被らずして、此(ノ)後に赦されて、京に入しなるべし、)天平實字七年正月壬子、從六位上中臣(ノ)朝臣宅守(ニ)授2從五位下(ヲ)1、ト見えたり、○藏部(ノ)女は、傳未(ダ)詳ならず、○狹野(ノ)茅上娘子は、傳未(ダ)詳ならず、官女なりけるなるべし、○配2越前(ノ)國1は、續紀に、神龜元年三月癸未、定2諸流配遠近之程1云々、越前安藝爲v近(ト)、と見えたれば、近流なり、宅守が流配《ハナタ》れし年月は、紀中に見えず、漏たるなるべし、
 
3723 安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻治古延牟等《ヤマヂコエムト》。須流君乎《スルキミヲ》。許許呂爾毛知弖《ココロニモチテ》。夜須家久母奈之《ヤスケクモナシ》。
 
治、舊本冶に誤、○歌(ノ)意は、山路を超て、遠く越(ノ)國に、別(レ)去座むとする君が事を、心に持て悲しく(254)思へば、安き事のある間も、吾はなし、となり、
 
3724 君我由久《キミガユク》。道乃奈我弖乎《ミチノナガテヲ》。久里多多彌《クリタタミ》。也伎保呂煩散牟《ヤキホロボサム》。安米惱火毛我母《アメノヒモガモ》。
 
久里多々彌《クリタヽミ》(彌(ノ)字、舊本には禰と作り、今は類聚抄に從つ、)は、繰疊《クリタヽミ》なり、○歌(ノ)意は、君が行(キ)賜ふ長道を繰(リ)寄(セ)疊みて、混一《ヒトツ》にして、燒亡ぼして、近くならしめむ天の神火《アヤシキヒ》もがなわれかし、となり、
 
3725 和我世故之《ワガセコシ》。氣太之麻可良婆《ケダシマカラバ》。思漏多倍乃《シロタヘノ》。蘇低乎布良左禰《ソテヲフラサネ》。見都追志努波牟《ミツツシヌハム》。
 
氣太之麻可良婆《ケダシマカラバ》は、若も罷《マカ》らば、といふが如し、○蘇低、類聚砂には袖と作り、○歌(ノ)意は、勅令《ミコト》なれば、辭《イナ》む事も叶はずして、若(シ)も越(ノ)國に罷賜ふとならば、長き道の間袖を擧《フリ》て、吾を招きて行(キ)賜へ、其をだに見つゝ、君を慕はむぞ、となり、
 
3726 己能許呂波《コノコロハ》。古非都追母安良牟《コヒツツモアラム》。多麻久之氣《タマクシゲ》。安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》。須辨奈可流倍志《スベナカルベシ》。
 
安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》は、夜明《ヨアケ》て後《ノチ》より、といはむが如し、乎知《ヲチ》は彼《ヲチ》にて、あちと云に同じ、貫之歌に、昨日より乎知《ヲチ》をば知ず、とよめるは、過去しかたを云、今は未來《ユクサキ》を云れど、乎知《ヲチ》の言は同じ、貞觀儀式、十二月大儺儀に、云々|與里乎知能所乎《ヨリヲチノトコロヲ》、奈牟多知疫鬼之住加登定賜比行賜弖《ナムタチエヤミノカミノスミカトサダメタマヒユキタマヒテ》云々、とある乎《ヲ》知も同言なり、○歌(ノ)意は、明日は相別れなむと思へば、戀しくは思はるれども、猶別れ(255)ぬ内なれば、頃者《コノゴロ》は、戀情を堪忍びつゝもあるべきを、明む朝に別(レ)をして後よりは、いかにせむすべなく、悲しくあるべし、となり、
 
右四首《ミギノヨウタハ》。臨《シテ》v別《ワカレムト》娘子悲嘆作歌《ヲトメガカナシミヨメルウタ》。
 
舊本には、娘子臨別作歌とあり、今は目録に從つ、
 
3727 知里比治能《チリヒヂノ》。可受爾母安良奴《カズニモアラヌ》。和禮由惠爾《ワレユヱニ》。於毛比和夫良牟《オモヒワブラム》。伊母我可奈思佐《イモガカナシサ》。
 
知里比治《チリヒヂ》は塵泥《チリヒザ》なり、和名抄に、塵埃(ハ)、孫※[立心偏+面](カ)云、揚土也、和名|知利《チリ》、泥(ハ)孫※[立心偏+面](カ)云、土和v水(ニ)也、和名|比知利古《ヒヂリコ》、一云|古比千《コヒヂ》、字鏡に、※[台/火](ハ)知利比治《チリヒヂ》、など見ゆ、○可受爾母安良奴《カズニモアラヌ》は、塵泥《チリヒヂ》の如く、物の數にもあらぬといふなり、(塵泥の數にも、得入らぬといふにはあらず、)四(ノ)卷に、倭文手纏數二毛不有壽持《シヅタマキカズニモアラヌワガミモチ》、五(ノ)卷に、倭文手纒數母不在身爾波在等《シヅタマキカズニモアラヌミニハアレド》、などあるに同じ、○歌(ノ)意は、かく此(ノ)度罪を被りて、遠く配流《ハナタ》れて、塵泥の如く世に客《イレ》られず、數《カズ》まへられぬ吾なるものを、今更誰ありて、憐《アハ》れがり、いとほしむ人の、をさ/\あるべき、さるを唯妹のみ歎き愁ひて、吾(ガ)故に、思ひわぶれてあるらむと思ふが、悲しさいはむ方なし、となり、
 
3728 安乎爾與之《アヲニヨシ》。奈良能於保知波《ナラノオホヂハ》。由吉余家杼《ユキヨケド》。許能山道波《コノヤマミチハ》。由伎安之可里家利《ユキアシカリケリ》。
 
(356)由吉余家杼《ユキヨケド》(吉(ノ)宇、拾穗本には伎と作り、)は、行善《ユキヨ》けれどなり、娘子が許へ、通ひならしたる大路なればの意なり、○許能山道波《コノヤマミチハ》云々は、越前《コシノミチノクチ》の配所へおもむくなれば、彌々まして行惡く思ふ意なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3729 宇流波之等《ウルハシト》。安我毛布伊毛乎《アガモフイモヲ》。於毛比都追《オモヒツツ》。由氣婆可母等奈《ユケバカモトナ》。由伎安思可流良武《ユキアシカルラム》。
 
宇流波之等《ウルハシト》は、十二に、與愛我念妹《ウルハシトアガモフイモ》、又、愛等吾念妹乎《ウルハシトアガモフイモヲ》、などあり、○母等奈《モトナ》は、むざ/\とゝ云むが如し、略解に、此(ノ)モトナ〔三字右○〕の詞を、三の句の上に廻して心得べし、と云るは、さることなり、)○歌(ノ)意は、愛《ウルハ》しと吾(ガ)思(フ)妹を留(メ)置て、むざ/\戀しく思ひつゝ行ばにや、かやうに山道の行惡くあらむ、となり、こは上の、行惡かりけりと云るを、みづからことわるやうの意なり、
 
3730 加思故美等《カシコミト》。能良受安里思乎《ノラズアリシヲ》。美故之治能《ミコシヂノ》。多武氣爾多知弖《タムケニタチテ》。伊毛我名能里都《イモガナノリツ》。
 
第一二(ノ)句は、勅命《ミコト》をおそれて、妹がことを、人にも告《ノラ》ず有しをなり、と契冲云る如し、○第三四(ノ)句は、御越道《ミコシヂ》の峠《タムケ》に立而《タチテ》なり、御《ミ》は、御吉野《ミヨシヌ》の御《ミ》にて、眞《マ》と云に同じ、さてこれも、契冲、近江より鹽津山を越て、越前に入(ル)山の峠なり、およそさる所をたうげといふは、もと手向なるべし、そこにて神たちにぬさ奉(リ)て、つゝがなからむ事をいのればなり、逢坂山をも、第六には、手向山
(257)と云り、此鹽津山といふは、今木の芽峠ト聞ゆるにや、案内知侍らねば、たがひもし侍らむ、此(ノ)峠を越れば、いとゞさかひはるかにおぼゆる故に、得堪ずして、妹が名をいひ出るなり、と云り、猶|多牟氣《タムケ》は三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》、十七、刀奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里《トナミヤマタムケノカミニヌサマツリ》、なども見えたり、○歌(ノ)意は、勅命《ミコト》を恐れ慎《ツヽシ》みて、妹が事を、人にも告《ノラ》ずて有しを、越道の此(ノ)峠の嶮《サガ》しきに得堪ずして、思はず妹が名をいひ出(デ)つゝとなり、
 
右四首《ミギノヨウタハ》。中臣朝臣宅守《ナカトミノアソミヤカモリガ》。上道作歌《ミチダチシテヨメルウタ》。
 
3731 於毛布惠爾《オモフヱニ》。安布毛能奈良婆《アフモノナラバ》。之末思久毛《シマシクモ》。伊母我目可禮弖《イモガメカレテ》。安禮乎良米也母《アレヲラメヤモ》。
 
於毛布惠爾《オモフヱニ》は、今(ノ)俗に、思ふやうに云々するといふは、この於毛布惠爾《オモフヱニ》の詞の、轉りたるものならむか、思ふまゝに、と云むが如し、(岡部氏は、惠《ヱ》は放《ユヱ》なり、思ふからにといふに同じ、と云れど、故《ユヱ》を略きて惠《ヱ》と云如きこと、古言にさらにあることなし、余が雅言成法を見て知べし、)○歌(ノ)意は、思ふまゝに逢(フ)物にてあらば、しばしの間も、妹に離れて居むやは、思ふまゝに逢(フ)といふことの、ならぬものなればこそ、かく妹に離(レ)遠ざかりてはあるなれ、となり、
 
3732 安可禰佐須《アカネサス》。比流波毛能母比《ヒルハモノモヒ》。奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。欲流波須我良爾《ヨルハスガラニ》。禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》。
 
(258)禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》は、之《シ》とは、其(ノ)一(ト)すぢなるを、重く思はする辭にて、一(ト)すぢに、哭にのみ所泣《ナカル》、といふなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3733 和伎毛故我《ワギモコガ》。可多美能許呂母《カタミノコロモ》。奈可里世婆《ナカリセバ》。奈爾毛能母※[氏/一]加《ナニモノモテカ》。伊能知都我麻之《イノチツガマシ》。
 
可多美能許呂母《カタミノコロモ》(許呂母、類聚抄には衣と作り、)は、娘子が形見に贈れる衣なり、○歌(ノ)意は、吾妹子が、形見に贈れる衣のあればこそ、せめての慰みに、其を見つゝ悲しさに堪てあることなれ、もし此(ノ)形見だになかりせば、何物をもてか、命を繼まし、悲しみに堪ずして、死なむより他なし、となり、○今按(フ)に、母※[氏/一]加《モカ》は、母智加《モチカ》を、後に寫誤れるものにはあらざるか、さるは後(ノ)世こそあれ、古(ヘ)は母知《モチ》と、母※[氏/一]《モテ》とは、きはやかにわかれて、自(ラ)持《(ツ)には、母知《モチ》とのみいひ、他《ヒト》に令《シムル》v持《モタ》には、母※[氏/一]《モテ》といひて、一(ツ)も混れたることなければなり、一(ノ)卷に、籠毛與美籠母乳《コモヨミコモチ》、十七に、美許登母知多知和可禮奈婆《ミコトモチタチワカレナバ》、十八に、夜保許毛知麻爲泥許之《ヤホコモチマヰデコシ》、廿(ノ)卷に、麻蘇※[泥/土]毛知奈美太乎能其比《マソテモチナミダヲノゴヒ》、など、假字書には、みな母知《モチ》とのみいひて、これらを母※[氏/一]《モテ》と云ることなし、後(ノ)世には、上(ノ)件の意なるところを、いづれも母※[氏/一]《モテ》とのみいひたるは、自他を誤りて、混一《ヒトツ》にしたるものなり、又古事記中(ツ)卷(ノ)歌に、伊斯都々伊母知宇知弖斯夜麻牟《イシツヽイモチウチテシヤマム》、また、岐許志母知袁勢《キコシモチヲセ》、下(ツ)卷(ノ)歌に、許久波母知宇知斯淤富泥《コクハモチウチシオホネ》、また、加微能美弖母知比久許登爾《カミノミテモチヒクゴトニ》、また、多都碁母々知弖許麻志母能《タツゴモヽチテコマシモノ》、など見えて、これ(259)らの樣《サマ》なるところを、母※[氏/一]《モテ》といひたること、一(ツ)もあることなきことさらなり、但し寧樂朝の季《スヱ》つ方よりは、やゝ混《マガ》ひ初て、母知《モチ》といふべきを、母※[氏/一]《モテ》といへることもありしより、こゝにもかくいへるかとも云べけれど、續紀卅六、後紀十四、續後紀一(ノ)卷などの詔に、清直心乎毛知《キヨキナホキコヽロヲモチ》、また續後紀同卷に、天之日嗣乎戴荷知《アマノヒツギヲイタヾキモチ》、などあるうへ、大日本靈異記に、※[口+周](ハ)母知阿曾比弖《モチアソヒテ》、字鏡に、※[〓/金](ハ)奈波乃波志爾銅乎毛知天加佐禮留曾《ナハノハシニアカガネヲモチチカザレルソ》、などあるを見れば、此(ノ)集のかぎりのみならず、やゝ古くは、混《マギ》れたることなかりし趣なれば、寧樂(ノ)朝の歌よみなどの、混《マギ》れてさいふべき謂は、さらになきことなり、されば此は寫誤なるべきかと思ふなり、これによりて猶思ふに、古書に、是以とあるをも、コヽヲモテ〔五字右○〕と訓は、後の漢籍讀の口(チ)づきたる癖にして、古人の然はいふべくもあらねば、余《オノレ》は、それをもコヽモチテ〔五字右○〕と訓ことなり、コヽモチテ〔五字右○〕といふは、いさゝか異樣なるやうに、思ふ人もあるべけれど、其は即(チ)後(ノ)世の舊慣《クセ》をのりとしたる心より、しか思ふことにて、古(ヘ)は許己思《ココモフ》、許己知《ココシル》などやうにいへること、めづらしからねば、決《キハ》めて古(ヘ)人は、後(ノ)世人の訓(ム)には、たがひしを知べし、十八に、宇萬爾布都麻爾於保世母天《ウマニフツマニオホセモテ》、とあるは、負せ令《セ》v持《モタ》といへるにて、いはゆる他《ヒト》に令《セシム》る意の母天《モテ》なれば、自《ミラ》然する意の母知《モチ》を、混《マガ》へて云るには非ず、この持《モチ》の事、既《ハヤ》く一(ノ)卷に云たれど、盡《ツク》さゞるところもありければ、頻はしけれど、重ねて具(ラ)に云て、驚かしおくになむ、
 
(260)3734 等保伎山《トホキヤマ》。世伎毛故要伎奴《セキモコエキヌ》。伊麻左良爾《イマサラニ》。安布倍伎與之能《アフベキヨシノ》。奈伎我佐夫之佐《ナキガサブシサ》。
 
世岐《ヤキ》は、礪波(ノ)關なり、○伊麻、類聚抄には、今と作り、○佐夫之《サブシ》は、不樂、不怜など書る字の意にて、既く具(ク)云り、註に、一云|佐必之佐《サビシサ》、(これは今少わろし、類聚抄には、此(ノ)註无(シ)、)○歌(ノ)意は、遠き山のみならず、礪波(ノ)關をさへも超て來ぬれば、今更妹に相見べき爲方《セムカタ》のなきが、さぶ/\しくうれはしさ、いはむかたなし、となり、
 
3735 於毛波受母《オモハズモ》。麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》。左奴流欲能《サヌルヨノ》。伊米爾毛伊母我《イメニモイモガ》。美延射良奈久爾《ミエザラナクニ》。
 
於毛波受母《オモハズモ》は、娘子がことを思はずもの意なり、○麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》は、實に世に有《アリ》て得堪むやはの意なり、七(ノ)卷に、淡海之哉八橋乃小竹乎不造矢而信有得哉戀敷鬼乎《アフミノヤヤバセノシヌヲヤハガズテマコトアリエムヤコヒシキモノヲ》、○美延射良奈久爾《ミエザラナクニ》は、見えざる事なるを、といふ意になる詞なり、此(ノ)例、一(ノ)卷、三(ノ)卷、四(ノ)卷、十四(ノ)卷等に見えたり、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、寢る夜の夢にさへも、見え來ざる事なるを、妹が事を思はずも、實に有て得むやは、となり、三四五一二と句を次第て聞べし、
 
3736 等保久安禮婆《トホクアレバ》。一日一夜毛《ヒトヒヒトヨモ》。於母波受弖《オモハズテ》。安流良牟母能等《アルラムモノト》。於毛保之賣須奈《オモホシメスナ》。
 
(261)歌(ノ)意は、一日一夜も、妹が事を思はぬ間とてはなきものを、遠く隔りてあれば、忘れて思はずにあるらむ物と、ゆめ/\おもほしめすな、となり、
 
3737 比等余里波《ヒトヨリハ》。伊毛曾母安之伎《イモソモアシキ》。故非毛奈久《コヒモナク》。安良末思毛能乎《アラマシモノヲ》。於毛波之米都追《オモハシメツツ》。
 
伊毛曾母安之伎《イモソモアシキ》とは、曾母《ソモ》は、十(ノ)卷に、吾待之秋者來奴雖然芽子之花曾毛未開家類《アガマチシアキハキタリヌシカレドモハギノハナソモイマダサカズケル》、十一に、相見而者戀名草六跡人者雖云見後爾曾毛戀益家類《アヒミテハコヒナグサムトヒトハイヘドミテノチニソモコヒマサリケル》、などあるを、考(ヘ)合するに、かへりてと云意を、輕く含たる辭ときこえたり、されば他人《ヒト》よりは善《ヨカ》るべき理なるに、かへりて他人《ヒト》よりは、妹そ惡《アシ》きと云なるべし、○歌(ノ)意は、戀しく思ふこともなくて、安らかにあらましものを、さもえあらずて、かにかく、吾(レ)に物をおもはしめつゝあるをおもへば、他(シ)人よりは、かへりてこよなく、妹そ惡しきものにてはある、となり、契冲云(ク)、第七に、玉つ島見てしよけくもあれはなし都にゆきてこひまく思へば、これ名所と人と異《カハ》れども、そしるやうにて、ほむるこゝろ、あるは、ひとつなり、
 
3738 於毛比都追《オモヒツツ》。奴禮婆可毛等奈《ヌレバカモトナ》。奴婆多麻能《ヌバタマノ》。比等欲毛意知受《ヒトヨモオチズ》。伊米爾之見由流《イメニシミユル》。
 
歌(ノ)意は、思ひつゝ思ひ寐にすればにや、一夜も漏ず、むざ/\と夢に入來て、妹が一(ト)すぢに見(262)ゆるならむ、となり、毛等奈《モトナ》の言は、尾(ノ)句の上にうつして聞べし、上に、和伎毛故我伊可爾於毛倍可《ワギモコガイカニオモヘカ》、以下今と全(ラ)同じ歌あり、
 
3739 可久婆可里《カクバカリ》。古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》。之良末世婆《シラマセバ》。伊毛乎婆美受曾《イモヲバミズソ》。安流倍久安里家留《アルベクアリケル》。
 
歌(ノ)意は、かほどに戀しく思はれむものと、かねて知たらましかば、はじめより、妹をば相見ずてあるべき物にて、ありけるを、となり、十一に、是量戀物知者遠可見有物《カクバカリコヒムモノソトシラマセバトホクミツベクアリケルモノヲ》、十二に、如是許將戀物其跡知者其夜者由多爾有益物乎《カクバカリコヒムモノソトシラマセバソノヨハユタニアラマシモノヲ》、
 
3740 安米都知能《アメツチノ》。可未奈伎毛能爾《カミナキモノニ》。安良婆許曾《アラバコソ》。安我毛布伊毛爾《アガモフイモニ》。安波受思仁世米《アハズシニセメ》。
 
歌(ノ)意は、かくばかり命に懸て戀しく思へば、さりとも天(ツ)神地(ツ)祇も哀憐《アハレミ》て、恩頼《ミタマ》を施して、あはしめ給はむぞ、もし天(ツ)神地(ツ)祇のなき物にてあらましかば、吾思妹にあはせずて、死《シナ》すべき事にてこそあれ、となり、四(ノ)卷に、天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目《アメツチノカミシコトワリナクバコソアガモフキミニアハズシニセメ》、
 
3741 伊能知乎之《イノチヲシ》。麻多久之安良婆《マタクシアラバ》。安里伎奴能《アリキヌノ》。安里弖能知爾毛《アリテノチニモ》。安波射良米也母《アハザラメヤモ》。
 
伊能知乎之《イノチヲシ》は、之《シ》は、其(ノ)一(ト)すぢなるをいふ辭にて、命《イノチ》をの意なり、○麻多久之安良婆《マタクシアラバ》は、これも(263)之《シ》は、上なると同じ意の辭にて、全有者《マタクアラバ》なり、四(ノ)卷に、吾命之將全幸限《ワガイノチノマタケムカギリ》、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、伊能知能麻多祁牟比登波《イノチノマタケムヒトハ》、○安里伎奴能《アリキヌノ》は、有而《アリテ》といはむ料なり、安里伎奴《アリキヌ》は、十四、十六にもあり、古事記にも見ゆ、既く四(ノ)卷に、珠衣乃狹藍左謂沈《アリキヌノサヰサヰシヅミ》云々の歌につきて、具(ク)云つ、○安里弖能知爾毛《アリテノチニモ》は、有々《アリ/\》て後にもの意なり、註に、一云(ク)安里弖能乃知毛《アリテノノチモ》、○歌(ノ)意は、一(ト)すぢに平安《サキ》くあれかし、と思ふ吾(ガ)命さへ、全幸《マタ》くてあるならば、有々《アリ/\》て後にも、逢(フ)事なくては、さりとはよもあらじ、となり、
 
3742 安波牟日乎《アハムヒヲ》。其日等之良受《ソノヒトシラズ》。等許也未爾《トコヤミニ》。伊豆禮能日麻弖《イヅレノヒマテ》。安禮古非乎良牟《アレコヒヲラム》。
 
等許也未《トコヤミ》は、神代紀天(ノ)石屋(ノ)段に、六合之内常闇而《アメノシタトコヤミニシテ》、不《ズ》v知《シラ》2晝夜之相代《ヨルヒルノワキダメヲ》1、古事記に、爾高天原皆暗《コヽニタカマノハラミナクラク》、葦原中國悉闇《アシハラノナカツクニコト/”\ニクラシ》因《ヨリ》v此《コレニ》而《テ》常夜往《トコヨユク》、神功皇后(ノ)紀に、晝暗(キコト)如(シ)v夜(ノ)、已經2他日(ヲ)1、時人《ヨノヒト》曰(リ)2常夜行之《トコヨユクト》1也、此(ノ)集二(ノ)卷に、天雲乎日之目毛不令見常闇爾見成而《アマクモヲヒノメモミセズトコヤミニオホヒタマヒテ》、などあり、常闇《トコヤミ》、常夜《トコヨ》、同じ意なり、こゝは、四(ノ)卷に、照日乎闇爾見成而哭涙《テラスヒヲヤミニミナシテナクナミダ》云々、とある心ばえなり、○歌(ノ)意は、其(ノ)日は逢むといふ事をも知ず、照(ル)日をも常闇に泣くらしまどひて、いづれの日まで、吾(ガ)戀しく思ひつゝ居む事ぞ、となり、
 
3743 多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》。許等爾曾夜須伎《コトニソヤスキ》。須久奈久毛《スクナクモ》。伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》。須倣奈家奈久爾《スベナケナクニ》。
 
(264)多妣等伊倍婆《タビトイヘバ》は、廿(ノ)卷防人(ノ)歌に、多妣等敝等麻多妣爾奈理奴《タビトヘドマタビニナリヌ》云々、とあり、○許等爾曾夜須伎《コトニソヤスキ》は、言《コト》の端《ハ》にかけていふには、いとたは易《ヤス》きよしなり、○須久奈久毛《スクナクモ》は、第四(ノ)句の下へうつして意得べし、少《スクナ》くも爲便《スベ》無らなくににて、太《イト》甚《イタク》すべきよしなり、○歌(ノ)意は、旅々《タビ/\》と言の端にかけていふには、さのみむづかしき事もあらず、いとたは易きことながら、心(ノ)中には妹を戀しく思ひつゝ、太《イト》甚《イタ》く爲むすべなき事なるを、となり、十一に、言云者三三二田也酢四小九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘバミミニタヤスシスクナクモコヽロノウチニアガモハナクニ》、とある類なり、又此(ノ)下に、本(ノ)二句は今と全(ラ)同くて、第三(ノ)句以下|異《カハ》れる歌あり、又十(ノ)卷に、風吹者黄葉散乍少雲吾松原清在莫國《カゼフケバモミチチリツヽスクナクモキミマツバラノキヨカラナクニ》、十八に、可久之天母安比見流毛能乎須久奈久母年月經禮婆古非之家禮夜母《カクシテモアヒミルモノヲスクナクモトシツキフレバコヒシケレヤモ》、などある、みな同類のいひ樣なり、
 
3744 和伎毛故爾《ワギモコニ》。古布流爾安禮波《コフルニアレハ》。多麻吉波流《タマキハル》。美自可伎伊能知毛《ミジカキイノチモ》。乎之家久母奈思《ヲシケクモナシ》。
 
古布流爾安禮波《コフルニアレハ》は、戀るに吾者《アレハ》なり、(戀るに有《アレ》ばとも聞ゆれど、さにはあらず、)○美自可伎伊能知毛《ミジカキイノチモ》は、命《イノチ》の短き事も、と云むが如し、○歌(ノ)意は、命ばかり惜き物は、世に又たぐひなきものにてはあれど、吾妹子を戀しく思ふ心の苦しき餘りに、中々に死たらば、安かりなむと思へば、命の短からむことも、吾はさらに惜からず、となり、
 
右十四首《ミギノトヲマリヨウタハ》。至《イタリテ》2配所《ハナタエシトコロニ》1。中臣朝臣宅守作歌《ナカトミノアソミヤカモリガヨメルウタ》。
 
(265)舊本には、右十四首中臣朝臣宅守、とのみあり、今は目録に從つ、
 
3745 伊能知安良婆《イノチアラバ》。安布許登母安良牟《アフコトモアラム》。和我由惠爾《ワガユヱニ》。波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》。伊能知多爾敝波《イノチダニヘバ》。
 
波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》は、將莫念《ハタナオモ》ひそなり、波多《ハタ》は、そのもと心に欲《ネガ》はず、厭《イト》ひ惡《キラ》ひてあることなれど、外にすべきすぢなべて、止(ム)ことなくするをいふ詞なり、猶一(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、○歌(ノ)意は、物思(ヒ)をするは、そのもの厭《イト》ひ惡《キラ》ふことなれど、外にすべきすぢなく、止事なくして、吾(ガ)身の故に、物思(ヒ)を爲賜ふならむ、さのみ物思(ヒ)を爲賜ふ事なかれ、互《カタミ》に命だにながらへてあるならば、又あふこともあらむぞと、なぐさめていへるなり、
 
3746 比等能宇宇流《ヒトノウウル》。田者宇惠麻佐受《タハウヱマサズ》。伊麻佐良爾《イマサラニ》。久爾和可禮之弖《クニワカレシテ》。安禮波伊可爾勢武《アレハイカニセム》。
 
伊麻佐良爾《イマサラニ》は、尾(ノ)句の上にうつして意得べし、○久爾和可禮《クニワカレ》は、國別《クニワカレ》にて、國を隔て別るよしなり、○歌(ノ)意は、世(ノ)人皆の殖る田を、人なみに殖ましまさず、國遠くわかれまして、今更に吾は如何《イカニ》かせむすべのしられず、となり、
 
3747 和我屋度能《ワガヤドノ》。麻都能葉見都都《マツノハミツツ》。安禮麻多無《アレマタム》。波夜可反里麻世《ハヤカヘリマセ》。古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》。
 
(266)古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》は、戀死《ヒシナ》ぬ内《ウチ》にの意なり、十(ノ)卷に、夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》、とある處に既く具(ク)云り、十九に、左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》、廿(ノ)卷は、和我可敝流刀※[人偏+爾]《ワガカヘルトニ》、繼體天皇(ノ)紀(ノ)歌に、于魔伊禰矢度※[人偏+爾]《ウマイネシトニ》、などあるも、皆同じ、○歌(ノ)意は、吾(ガ)庭の松(ノ)葉見つゝ、その待《マツ》といふ名をたのみて、吾(レ)は待つゝ居むぞ、吾(カ)戀死に死(ナ)ぬ内に、罪|赦《ユル》されて、早く歸り來賜へ、となり、
 
3748 比等久爾波《ヒトクニハ》。須美安之等曾伊布《スミアシトソイフ》。須牟也氣久《スムヤケク》。波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》。古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》。
 
比等久爾《ヒトクニ》は、他國《ヒトクニ》なり、十二に、他國爾結婚爾行而《ヒトクニニヨバヒニユキテ》云々、○須牟也氣久《スムヤケク》は、急《スムヤカ》なり、六(ノ)卷に、急令變賜根《スムヤケクカヘシタマハネ》、三代實録十三詔に、早爾罪那倍不賜《スムヤカニツミナヘタマハズ》、(これら急早は、スムヤケク、スムヤカ〔九字右○〕など訓べきなり、)字鏡に、※[人偏+総の旁]※[人偏+(匆/心)](ハ)須牟也介志《スムヤケシ》、とあり、(すみやかといふは、後なるべし、)本居氏云(ク)、此(ノ)須牟也氣久《スムヤケク》の須牟《スム》は、進《スヽ》む意にて、夜氣久《ヤケク》は、附たる辭なり、○歌(ノ)意は、他國は住惡《スミアシ》とぞいふなる、吾(カ)戀死に死(ナ)ぬ内に、急速に歸り來賜へ、となり、急《スムヤケク》と云て、波也《ハヤ》と疊《カサ》ね云るは、豫兼而《アラカジメカネテ》なども云る類なり、
 
3749 比等久爾爾《ヒトクニニ》。伎美乎伊麻勢弖《キミヲイマセテ》。伊都麻弖可《イツマテカ》。安我故非乎良牟《アガコヒヲラム》。等伎乃之良奈久《トキノシラナク》。
 
伊麻勢弖《イマセテ》は、令《セ》v座《イマ》而《テ》なり、おはしまさしめての意なり、○歌(ノ)意は、他國に遠く、君をおはしまさ(267)しめて、いつは歸り來まさむ、といふかぎりをも知ぬ事なるを、いつまでかやうに戀しく思ひつゝ、吾(ガ)待居む事ぞ、となり、
 
3750 安米都知乃《アメツチノ》。曾許比能宇良爾《ソコヒノウラニ》。安我其等久《アガゴトク》。伎美爾故布良牟《キミニコフラム》。比等波左禰安良自《ヒトハサネアラジ》。
 
曾許比能宇良爾《ソコヒノウラニ》、底方之裏爾《ソコヘノウラニ》なり、曾許比《ソコヒ》は、曾久敝《ソクヘ》、曾伎敝《ソキヘ》など云ると同言にて、畢竟《オツルトコロ》は、底といふに異ならず、(曾久敝《ソクヘ》は、三(ノ)卷に見えて、彼處に具(ク)云り、考(ヘ)合(ス)べし)底《ソコ》は、上《ウヘ》にまれ、下にまれ、竪にも横にも、行(キ)至極《キハマレ》る處をいふ言なり、千載集三(ノ)卷に、郭公猶初聲を忍(ブ)山夕居(ル)雲の曾許《ソコ》に鳴なり、笠超を夕越來れば郭公麓の雲の曾許《ソコ》に鳴なり、源氏玉鬘に、物の色は限あり、人の容《カタチ》はおくれたるも、又|曾許比《ソコヒ》あるものをとて云々、胡蝶に、限なう曾許比《ソコヒ》しらぬ志なれど、人のとがむべきさまはよもあらじ、などあるも、皆行(キ)至極れる處を云るにて、思べし、○左禰安良自《サネアラジ》は、信《サネ》不《ジ》v有《アラ》なり、左禰《サネ》は信《マコト》といふに同じ、七(ノ)卷に、信有得哉戀敷鬼乎《サネアリエムヤコヒシキモノヲ》、九(ノ)卷に、核不所忘面影思天《サネワスラエズオモカゲニシテ》、十四に、安志可流登我毛左禰見延奈久爾《アシカルトガモサネミエナクニ》、此(ノ)下に、夜須久奴流欲波佐禰奈伎母能乎《ヤスクヌルヨハサネナキモノヲ》、十八に、與之母佐禰奈之《ヨシモサネナシ》、廿(ノ)卷は登伎波佐禰奈之《トキハサネナシ》、など多し、○歌(ノ)意は、天地の間の行(キ)至極る限(リ)尋ぬとも、吾(ガ)如く君を戀しく思ふらむ人は、まことに二人とはあらじ、となり、
 
3751 之呂多倍能《シロタヘノ》。安我之多其呂母《アガシタゴロモ》。宇思奈波受《ウシナハズ》。毛弖禮和我世故《モテレワガセコ》。多太爾安布(268)麻低※[人偏+爾]《タダニアフマテニ》。
 
安我之多其呂母《アガシタゴロモ》(其呂母、類聚抄には衣と作り、)は、娘子が吾(ガ)下衣にて、下に著褻《キナレ》し衣をいふ、○毛弖禮《モテレ》は、持《モチ》てあれの意なり、○歌(ノ)意は、吾が下に著褻し衣を失はず、直《タヾ》に相見むまで、吾(カ)形見に持たまへ、となり、下衣は、即(チ)娘子が形見に贈れる衣にて、上に、和伎毛故我可多美能許呂毛《ワギモコガカタミノコロモ》、と宅守が云る、即(チ)其(レ)なり、次の經縫衣ぞとあるもおなじ、
 
3752 波流乃日能《ハルノヒノ》。宇良我奈之伎爾《ウラガナシキニ》。於久禮爲弖《オクレヰテ》。君爾古非都都《キミニコヒツツ》。宇都之家米也母《ウツシケメヤモ》。
 
宇都之家來也母《ウツシケメヤモ》は、顯《ウツ》しく有めやはの意にて、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、花鳥の色音をはじめて、物毎に心愛憐《ウラガナ》しく思はるゝ春(ノ)日なれば、ありし如く、君と共に居ば、いかに樂しからむと思ふに、かく君に遺《ノコ》され居て、獨居れば、いよ/\戀しく思はれて、さても顯々《ウツ/\》しき心は、さらになし、となり、
 
3753 安波牟日能《アハムヒノ》。可多美爾世與等《カタミニセヨト》。多和也女能《タワヤメノ》。於毛比美多禮弖《オモヒミダレテ》。奴敝流許呂母曾《ヌヘルコロモソ》。
 
許呂母、類聚抄には、衣と作り、○歌(ノ)意は、又逢む日までの形見にせよとて、手弱女の、心弱く思ひ亂れて、縫て進らする衣ぞ、此(レ)なる、となり、
 
(269)右九首《ミギノコヽノウタハ》。娘子《ヲトメガ》留《トヾマリ》v京《ミヤコニ》。悲傷作歌《カナシミテヨメルウタ》。
 
舊本には、右九首娘子、とのみあり、今は目録に從つ、
 
3754 過所奈之爾《フタナシニ》。世伎等婢古由流《セキトビコユル》。保等登藝須《ホトトギス》。多我子爾毛《ワガミニモガモ》。夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》。
 
過所は、公式令、關市令等に見えたり、又延喜雜式にも見ゆ、今俗(ニ)云|切手《キツテ》なり、釋名に、過所(ハ)、至2關津1以示也、或云傳過也、移2所在(ヲ)1識(シテ)以爲v信(ト)、東鑑には過書と書り、又朝野羣載に、過所牒見えたり、さてこゝはフタ〔二字右○〕と訓べし、和名抄に、野王按(ニ)、簡所2以寫(シ)v書記(ス)1v事(ヲ)者也、兼名苑(ニ)云、牘一名簡札也、和名|不美太《フミダ》、また文字集略(ニ)云、籍(ハ)民戸之書、古以v牒(ヲ)、今黄※[氏/巾](ナリ)、野王按(ニ)、凡書於2簡札(ニ)1皆謂2之籍(ト)1也、和名與2簡札1同(シ)、など見えて、布美多《フミタ》は、書版《フミイタ》の義にて、簡札の類を總《スベ》いふ稱《ナ》と見えて、過所も其(ノ)類の中の一(ツ)なれば、しか訓べきなり、(さて不美多《フミタ》を不多《フタ》といふは、筆をも、彼(ノ)抄には布美天《フミテ》とあるを、布天《フテ》とのみもいふが如し、さて不多《フタ》、不天《フテ》など云て、美《ミ》をいはざるは、後の事のやうなれども、しからず、そは彼(ノ)抄に、※[弓+肅](ハ)和名|由美波數《ユミハズ》、また※[弓+付](ハ)和名|由美都加《ユミツカ》、とあるを、此(ノ)集には、ことごとく由波受《ユハヅ》、由豆可《ユヅカ》と見えたるをも、思(フ)べし、)○多我子爾毛は、岡部氏、多は和、子は未の誤、さて爾毛の下に、我毛の二字を脱せしにて、ワガミニモガモ〔七字右○〕と訓べし、と云り、○歌(ノ)意は、京に歸(リ)行て、妹に相見て來たく思へど、關所《セキヤ》あれば、過所牒なくては、超往(ク)事も協《カナ》はず、されば過所喋なしに、關飛超る霍公鳥が、吾(ガ)身にてもがなあれかし、さらば止(マ)ず往來《カヨヒ》行て、妹に相見べき物を、とな(270)り、契冲、此(ノ)歌、古今集(ノ)序に、鳥をうらやみて云るこゝろなり、と云り、まことに然ることなり、廿(ノ)卷に、阿佐奈佐奈安我流比婆理爾奈里弖之可美也古爾由伎弖波夜加弊里許牟《アサナサナアガルヒバリニナリテシカミヤコニユキテハヤカヘリコム》、これ又今の歌、并《マタ》彼(ノ)序思(ヒ)合(ス)べし、〔頭注、〕
 
3755 宇流波之等《ウルハシト》。安我毛布伊毛乎《アガモフイモヲ》。山川乎《ヤマカハヲ》。奈可爾敝奈里※[氏/一]《ナカニヘナリテ》。夜須家久毛奈之《ヤスケクモナシ》。
 
第一二(ノ)句は、上にも、同じく見えたり、○山川乎《ヤマカハヲ》は、山と川とをなり、○奈可爾敝奈里※[氏/一]《ナカニヘナリテ》は、中間《ナカラ》に隔《ヘダテ》て、と云が如し、下に、山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登母《ヤマカハヲナカニヘナリテトホクトモ》、とよめり、また十七に、山河能弊奈里底安禮婆《ヤマカハノヘナリテアレバ》又、安之比紀能夜麻伎弊奈里庭《アシヒキノヤマキヘナリテ》、又、關左閉爾弊奈里底安禮許曾《セキサヘニヘナリテアレコソ》、十一に、石根蹈重成山雖不有《イハネフミヘナレルヤマハアラネドモ》、なども見えたり、○歌(ノ)意は、愛《ウルハ》しと吾(ガ)思ふ妹なるを、山と川とを中間《ナカラ》に隔《ヘダテ》て、あふ事も協《カナ》はねば、安き心もさらになし、となり、
 
3756 牟可比爲弖《ムカヒヰテ》。一目毛於知受《ヒトヒモオチズ》。見之可杼母《ミシカドモ》。伊等波奴伊毛乎《イトハヌイモヲ》。都奇和多流麻弖《ツキワタルマテ》。
 
牟可比爲弖《ムカヒヰテ》は、四(ノ)卷に、向座而雖見不飽吾妹子二立離往六田付不知毛《ムカヒヰテミレドモアカヌワギモコニタチハナレユカムタヅキシラズモ》、とよめり、○都奇和多流麻弖《ツキワタルマテ》は、一(ト)月を經るまでの意なり、一(ト)年經るを、年渡(ル)といふに同じ、十三に、年渡麻弖爾毛人《トシワタルマテニモヒト》者有云乎《ハアリチフヲ》云々、○歌(ノ)意は、互に對ひ居て、一日も漏ず相見しかども、飽厭《アキイトハ》るゝ事のなき妹なるを、かく相別れて一(ト)月を輕度るまで相見ずあれば、爲む方なく悲し、となり、六帖に、向(ヒ)居て背(271)く間《ホト》だに肝消て思ひし物を日更る迄、
 
3757 安我未許曾《アガミコソ》。世伎夜麻故要※[氏/一]《セキヤマコエテ》。許己爾安良米《ココニアラメ》。許己呂波伊毛爾《ココロハイモニ》。與里爾之母能乎《ヨリニシモノヲ》。
 
世伎夜麻《セキヤマ》は、關と山となり、(關の山といふにはあらず、)關とは、砥波の關を云、山とは塩津山などを、主と云るなるべし、○歌(ノ)意は、吾(ガ)身は關と山とを超て、此(ノ)地に遠く隔り居てこそあらめ、妹に親しく副《タグ》ひ依(リ)にし心は、猶京に留りてある物を、となり、末(ノ)句は、十一に、紫之名高乃浦之靡藻之情者妹爾因西鬼乎《ムラサキノナタカノウラノナビキモノコヽロハイモニヨリニシモノヲ》、とあるに同じ、
 
3758 佐須太氣能《サスダケノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。伊麻毛可母《イマモカモ》。比等奈夫理能未《ヒトナブリノミ》。許能美多流良武《コノミタルラム》。
 
比等奈夫理《ヒトナブリ》は、人嬲《ヒトナブリ》なり、遊仙窟に、十娘笑(テ)曰、莫2相弄《アヒナブルコト》1、とあり、○註に、一云(ク)伊麻左倍也、とあり、(第三(ノ)句なり、)○歌(ノ)意は、娘子が事により、配《ツミ》せられし吾(レ)なれば、自《ミラ》が上や、また娘子がうへを、殿上の若公達は、おもしろがりて、くさ/”\嬲《ナブ》りごとを、今やするならむ、と思ひやるなり、岡部氏云(ク)、殿上の若公達は、人なぶりする事、今昔物語に、二つ三つ見えたり、古へより有(ル)べし、いとま有て、思ふ事なき若公達集(リ)居て、人にあだ名をつけ、その外いろ/\となぶりなぐさむ事、おちくぼ物語にもみゆ、
 
3759 多知可敝里《タチカヘリ》。奈氣杼毛安禮波《ナケドモアレハ》。之流思奈美《シルシナミ》。於毛比和夫禮弖《オモヒワブレテ》。奴流欲之曾(272)於保伎《ヌルヨシソオホキ》
 
多知可敝里《タチカヘリ》は、契冲が、くりかへしなどいふ心なり、かへすがへす物を思(ヒ)てなくなり、と云るが如し、○之流思奈美《シルシナミ》は、かひ無(キ)故に、といはむが如し、之流思《シルシ》は、効驗《シルシ》なり、三(ノ)卷に、見知師無美《ミルシルシナミ》、又、後雖悔驗將有八方《ノチニクユトモシルシアラメヤモ》、又、雖戀効矣無跡《コフレドモシルシヲナミト》、四(ノ)卷に、雖嘆知師乎无《ナゲケドモシルシヲナミ》、又、雖念知信裳无跡《オモヘドモシルシモナシト》、又、後爾雖云驗將在八方《ノチニイフトモシルシアラメヤモ》、十八に、安須古要牟夜麻爾奈久等母《アスコエムヤマニナクトモ》、之流思安良米夜母《シルシアラメヤモ》、垂仁天皇(ノ)紀に、有《アラム》2何益《ナムノシルシ》1などあり、(益(ノ)字を訓たる、よくあたれり、これらの之流|思《シ》みな、同じ、)又六(ノ)卷に、蟻通御覽母知師《アリガヨヒメサクモシルシ》、八(ノ)卷に、欲見來之久毛知久《ミマクホリコシクモシルク》、又、來之久毛知久相流君可聞《コシクモシルクアヘルキミカモ》、又、情毛知久照月夜鴨《コヽロモシルクテルツクヨカモ》、十(ノ)卷に、來之雲知師逢有久念者《コシクモシルシアヘラクオモヘバ》、など活用《ハタラカ》しても多く云り、○歌(ノ)意は、幾度といふかぎりもなく、くりかへしくりかへし哀泣《カナシミナケ》ども、その効《シルシ》のなき故に、一(ト)すぢに思ひうんじて、寢る夜ぞ多き、となり、
 
3760 左奴流欲波《サヌルヨハ》。於保久安禮杼毛《オホクアレドモ》。母能毛波受《モノモハズ》。夜須久奴流欲波《ヤスクヌルヨハ》。左禰奈伎母能乎《サネナキモノヲ》。
 
左禰奈伎《サネナキ》は、信《マコト》に無(キ)と云が如し、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3761 與能奈可能《ヨノナカノ》。都年能己等和利《ツネノコトワリ》。可久左麻爾《カクサマニ》。奈里伎爾家良之《ナリキニケラシ》。須惠之多禰可良《スヱシタネカラ》。
 
第一二(ノ)句は、おほよそ世間の、常のことわり、といふなり、○可久左麻爾《カクサマニ》は、如此樣《カクザマ》になり、○須(273)惠之多禰可良《スヱシタネカラ》は、居《スヱ》し種故《タネカラ》なり、居《スヱ》は蒔《マク》といふに同じ、今(ノ)俗にも、艸木《キクサ》の種を蒔(ク)を、須惠流《スヱル》と云り、さて多禰《タネ》は、契冲がいひし如く、業因を云、○歌(ノ)意は、今かゝることにあふも、おほよそ世(ノ)間の常(ノ)理にて、己が前世に蒔置し業因故なるらし、と思ひあきらめたるよしなり、
 
3762 和伎毛故爾《ワギモコニ》。安布左可山乎《アフサカヤマヲ》。故要弖伎弖《コエテキテ》。奈伎都都乎禮杼《ナキツツヲレド》。安布余思毛奈之《アフヨシモナシ》。
 
和伎毛故爾《ワギモコニ》は、逢(フ)といひかけたる枕詞ながら、此(ノ)歌にては、猶歌(ノ)意にも關《カヽ》れり、十(ノ)卷に、吾妹兒爾相坂山之《ワギモコニアフサカヤマノ》、十三に、未通女等爾相坂山丹《ヲトメラニアフサカヤマニ》、又此(ノ)上に、和伎毛故爾安波治乃之麻波《ワギモコニアハヂノシマハ》、十二に、吾妹兒爾又毛相海之《ワギモコニマタモアフミノ》、十三に、吾妹子爾相海之海之《ワギモコニアフミノウミノ》、などあるは、多くは唯枕詞のみにて、下には關《アヅ》からず、○歌(ノ)意は、吾妹子に逢(フ)といふ名の、逢坂山を越て來つれば、若や逢(フ)事もあらむかと、戀しく思ひつゝ泣(キ)をれど、逢坂といふは、唯山(ノ)名ばかりにて、逢(フ)よしもさらになし、となり、
 
3763 多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》。許登爾曾夜須伎《コトニソヤスキ》。須敝毛奈久《スベモナク》。久流思伎多婢毛《クルシキタビモ》。許等爾麻左米也母《コラニマサメヤモ》。
 
第一二(ノ)句は、上にもあり、此(ノ)第二(ノ)句下に、しかは有どもといふ一句を、かりそめにくはへて聞べし、と契冲が云るぞよき、○歌(ノ)意は、旅々《タビ/\》と言《コト》の端《ハ》にかけて云には、さのみむづかしき事もあらず、いとたは易き事ながら、實《マコト》には爲むすべもなく、苦しき旅にてあるなり、さてしか苦(274)しき旅にてはあれども、娘子が留(リ)居て手弱女心の一(ト)道に、思ひむすぼれて歎くには、まさらじ、となり、つねには、人のおもひをば、淺はかなることにいひなして、わがおもひのまさるよしをこそよむを、こゝはそれとはかへざまにて、かくよめるは、男女の愛情の深くて、女のすべなからむことを、強ずて信に思ひやり、いとほしみてよめるなり、四(ノ)卷に、坂上(ノ)家(ノ)大娘報2家持(ニ)1歌に、大夫毛如此戀家流乎幼婦之戀惰爾比有目八方《マスラヲモカクコヒケルヲタワヤメノコフルコヽロニタグヘラメヤモ》、とある、その歌の意なる妹がこゝろばえを、うけひきてよめるやうなり、
 
3764 山川乎《ヤマカハヲ》。奈可爾敝奈里弖《ナカニヘナリテ》。等保久登母《トホクトモ》。許己呂乎知可久《ココロヲチカク》。於毛保世和伎母《オモホセワギモ》。
 
第一二(ノ)句は、上にも見えたり、○歌(ノ)意は、山と川とを中間《ナカラ》に隔置《ヘダテオキ》て、身こそ遠く離れてありとも、心ばかりをば、間近くおぼしめせ、吾妹子よ、となり、
 
3765 麻蘇可我美《マソカガミ》。可氣弖之奴敝等《カケテシヌヘト》。麻都里太須《マツリダス》。可多美乃母能乎《カタミノモノヲ》。比等爾之賣須奈《ヒトニシメスナ》。
 
可氣弖之奴敝等《カケテシヌヘト》は、心にかけて、吾(レ)を思へとてなり、(鏡を懸て吾を慕《シノ》べとてと、打つけに云るには非ず、主とは、心にかけてと云なり、)さて鏡は鏡臺にかくる物なる故に、可氣弖《カケテ》といはむ縁《チナミ》に、まづ初|眞十鏡《マソカヾミ》と云るのみなり、かくてこは、契冲がいひしごとく、すなはち鏡をも、かたみにおくりけるによりて、かくはよめるか、又他物を、寄物《カタミ》におくれるにてもあるべし、(いづ(275)れにしても、眞十鏡といへるは、たゞ枕詞のやうにおけるなり、)○麻都里太須《マツリダス》は、三代實録宣命に、多く奉出《マツリダス》と見えたる、それに同じ、この奉出を、本にイダシマツル〔六字右○〕とよめるは非なり、又本居氏の、タテマダス〔五字右○〕とよみtもいかゞ、〔頭註、【高光集、たゞきよの右衛門督、ごせちたてまたし給ふに、たてまたすと云詞有しと見えたり、猶考べし、】○比等爾之賣須奈《ヒトニシメスナ》は、莫《ナ》v示《シメス》v人(ニ)なり、○歌(ノ)意は、心にかけて、吾を偲《シノ》び賜へとて、進《マヰ》らする此(ノ)形見の物を、ゆめ/\人に示《シメ》して、それと知(ラ)るゝ事なかれ、となり、
 
3766 宇流波之等《ウルハシト》。於毛比之於毛波婆《オモヒシオモハバ》。之多婢毛爾《シタビモニ》。由比都氣毛知弖《ユヒツケモチテ》。夜麻受之努波世《ヤマズシヌハセ》。
 
波婆、舊本|顛倒《イリマガヘリ》、○歌(ノ)意は、一(ト)すぢに吾を愛《ウルハ》しと深く思はゞ、此(ノ)形見の物を、下紐に結(ヒ)著持て、かりにも身を離さず、常に止ず吾を偲び賜へ、となり、契冲云(ク)、これは鏡の外のかたみなり、(これは前の歌なる形見の物を、鏡と定めての説なり、)
 
右十三首《ミギノトヲマリミウタハ》。在《ヨリ》2配所《》〔三字右○ハナタエシトコロ〕1。中臣朝臣宅守贈歌《ナカトミノアソミヤカモリガオクレルウタ》〔二字右○〕。
 
舊本には、右十三首中臣朝臣宅守、とのみあり、
 
3767 多麻之比波《タマシヒハ》。安之多由布敝爾《アシタユフヘニ》。多麻布禮杼《タマフレド》。安我牟禰伊多之《アガムネイタシ》。古非能之氣吉爾《コヒノシゲキニ》。
 
多麻之比波《タマシヒハ》は、魂《タマシヒ》をばの意に見べし、と源(ノ)嚴水云り、多麻之比《タマシヒ》と云るは、四(ノ)卷をも、※[女+感]嬬等之珠(276)篋有玉櫛神家武毛《ヲトメラガタマクシゲナルタマクシノタマシヒケムモ》(魂消《タマシヒケ》むもなり、)妹爾阿波受有者《イモニアハズアレバ》、とあり、○多麻布禮杼《タマフレド》は、鎭魂祭の祈?《イノリ》をすれどもの意なり、鎭魂祭をミタマフリ〔五字右○〕と云り、とこれも同人|説《イヘ》り、さもあるべし、○歌(ノ)意は、戀しく思ふ心のしげきによりて、魂もうかれ出べければ、朝となく夕(ヘ)となく、鎭魂祭をして、魂をしづむれども、猶|驗《シルシ》なくて、吾(ガ)胸痛く苦しくして、神魂のうかれ出る事止ず、となり、
 
3768 己能許呂波《コノコロハ》。君乎於毛布等《キミヲオモフト》。須倣毛奈伎《スベモナキ》。古非能未之都都《コヒノミシツツ》。禰能未之曾奈久《ネノミシソナク》。
 
古非能未之都都《コヒノミシツツ》は、戀耳爲乍《コヒノミシツヽ》なり、○歌(ノ)意は、今日この頃は、君を戀しく思ふ心に切《セマ》りて、爲む方もなき思ひをしつゝ、一(ト)すぢに音をのみぞ泣、となり、
 
3769 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。欲流見之君乎《ヨルミシキミヲ》。安久流安之多《アクルアシタ》。安波受麻爾之弖《アハズマニシテ》。伊麻曾久夜思吉《イマソクヤシキ》。
 
安波受麻爾之弖《アハズマニシテ》は、契冲云、あはずしてなり、麻《マ》は助辭なり、こりずといふを、こりずまといふが如し、(岡部氏は、安波受麻《アハズマ》は、あはず妻《ツマ》といふべし、朝つま、夜ごもり妻など、妻をいふこと多しといへれど、いかゞ、)○歌(ノ)意は、さきに事出來ぬ時に、夜のみあひて、朝に別れ去座《イニマシ》て、逢ずて心だらひならざりしことの、あかず口惜くて、今更に悔しくおもふ、となり、
 
3770 安治麻野爾《アヂマヌニ》。屋杼禮流君我《ヤドレルキミガ》。可反里許武《カヘリコム》。等伎能牟可倍乎《トキノムカヘヲ》。伊都等可麻多(277)武《イツトカマタム》。
 
安治麻野爾《アヂマヌ》は、和名抄に、越前(ノ)國今立(ノ)郡味眞(ハ)阿如末《アヂマ》、とある處の野なり、○等伎、類聚抄には時と作り、○歌(ノ)意は、越前(ノ)國|味眞野《アヂマノ》に獨行暮て、艱難《カラウ》して宿り賜ふらむ其(ノ)君が、平安《サキ》くて京に歸りまゐ上り賜はむ、其(ノ)時には迎(ヘ)出て、歡《ヨロコバ》しく相見むと思ふに、罪赦されて歸り賜はむ時を、いつをかぎりと思ひてか、待つゝ居むぞ、となり、
 
3771 宮人能《イヘビトノ》。夜須伊毛禰受弖《ヤスイモネズテ》。家布家布等《ケフケフト》。麻都良武毛能乎《マツラムモノヲ》。美要奴君可聞《ミエヌキミカモ》。
 
宮人は、(岡部氏、宅守もと殿上人ならむ上に、人なぶりをいふも、その同輩をいふなるべし、然れば殿上にて、いとしたしかりし友を、宮人といふべし、と云り、)或説に、宮は家(ノ)字の誤なるべしといへり、これによるべし、○歌(ノ)意は、家人は、今日か今日かと、夜も寐ずして、ひたすらに待らむ物を、さても歸り來賜はぬ君哉、となり、娘子は、密婦《シノビヅマ》にて、もとよりその家の人にあらねば、家族《ヤカラ》の情をおもひやりて、さて實には、自《ミラ》のいたく慕ふ心を、思はせたるなり、
 
3772 可敝里家流《カヘリケル》。比等伎多禮里等《ヒトキタレリト》。伊比之可婆《イヒシカバ》。保登保登之爾吉《ホトホトシニキ》。君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》。キコシメシヲヘテヨロコビホトパシリシタマフ
 
保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》は、契冲、欽明天皇(ノ)紀に、是(ノ)日天皇|聞巳歡喜踊躍《》、とあるを引て、よろこぶ心なり、と云り、(字鏡に、※[立心偏+中](ハ)憂心也、心保止波志留《コヽロホトバシル》、)本居氏、ホトバシル〔五字右○〕は、ホト/\〔四字右○〕として走(ル)を云(278)なり、さればホト〔二字右○〕と云言あるなり、今(ノ)俗に、アワテフタメク〔七字右○〕など云フタ〔二字右○〕も是なり、又フタ/\〔四字右○〕とも云なり、さればこゝは、フタ/\〔四字右○〕と爲《シ》にけりなり、と云り、(今云ホト/\フタ/\〔八字右○〕など、物の動くさまを云詞なるべし、)大鏡五に、ひつのうちに、物のほと/\としけるがあやしさに、とあるも、同言か、○歌(ノ)意は、歸りける人は、宅守にあらず、誰その人が、赦免《ミユルシ》にあひて、かへるよしいふを風聞《ホノキヽ》て、若(シ)は夫(ノ)君にてあらむかと思ひて、歡(ビ)のあまりに、胸のふた/\とさわぎにき、となり、
 
3773 君我牟多《キミガムタ》。由可麻之毛能乎《ユカマシモノヲ》。於奈自許等《オナジコト》。於久禮弖乎禮杼《オクレテヲレド》。與伎許等毛奈之《ヨキコトモナシ》。
 
於奈自許等《オナジコト》は、同事《オナジコト》なり、(許等《コト》は、如《ゴト》にあらず、)罪にあひて配《ハナ》たるゝも、罪なくて都に留り居るも、思(ヒ)をするは同事、となり、さて同は、古(ヘ)は多(ク)は於夜自《オヤジ》と云り、(集中しかり、)此(ノ)集に、於奈自《オナジ》と云るは、唯こゝと、十八に、於奈自伎佐刀乎《オナジキサトヲ》、とあるのみなり、○歌(ノ)意は、契冲云(ク)、君とともにながされてゆかましものを、おくれて都に殘りをれど、物を思ふことのおなじことにて、よきこともなし、となり、
 
3774 和我世故我《ワガセコガ》。可反里吉麻佐武《カヘリキマサム》。等伎能多米《トキノタメ》。伊能知能己佐牟《イノチノコサム》。和須禮多麻布奈《ワスレタマフナ》。
 
(279)歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右八首《ミギノヤウタハ》。娘子和贈歌《オトメガコタフルウタ》。
 
舊本には、右八首娘子作歌、とあり、今改つ、
 
3775 安良多麻能《アラタマノ》。等之能乎奈我久《トシノヲナガク》。安波射禮杼《アハザレド》。家之伎許己呂乎《ケシキココロヲ》。安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》。
 
歌(ノ)意は、年月長く久しく相見ざれども、妹を戀しく思ふ心は、さらにかはらぬ事なるを、となり、上に、波呂波呂爾於毛保由流可母之可禮杼毛《ハロバロニオモホユルカモシカレドモ》、異情乎安我毛波奈久爾《ケシキコヽロヲアガモハナクニ》、十一に、朱引秦不經雖寐異心乎我不念《アカラビクハダモフレズテネタレドモケシキコヽロヲアガモハナクニ》、十四に、可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛家思吉巳許呂乎安我毛波奈久爾《カラコロモスソノウチカヘアハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》、
 
3776 家布毛可母《ケフモカモ》。美也故奈里世婆《ミヤコナリセバ》。見麻久保里《ミマクホリ》。爾之能御馬屋乃《ニシノミマヤノ》。刀爾多弖良麻之《トニタテラマシ》。
 
見麻久保里《ミマクホリ》は、娘子に相(ヒ)見まく欲(リ)しての意なり、○爾之能御馬屋《ニシノミマヤ》は、西之御厩《ニシノミマヤ》にて、右馬(ノ)寮をいふべし、○刀爾多弖良麻之《トニタテラマシ》は、外《ト》に立有《タテラ》ましなり、十四に、爾保杼里能可豆思加和世乎爾倍須登毛曾能可奈之伎乎刀爾多弖米也母《ニホドリノカヅシカワセヲニヘストモソノカナシキヲトニタテメヤモ》、○歌(ノ)意は、ありし日の如く京にありせば、妹に相見まく欲して、今曰この頃か、西の御厩の外《ト》に立らましを、となり、これは、彼(ノ)娘子が家、右馬(ノ)寮の(280)近(キ)隣《ワタリ》にありし故、寮の外《ト》に立て、あひかたらひなれしによりて、かくよめるなるべし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。中臣朝臣宅守更贈歌《ナカトミノアソミヤカモリガマタオクレルウタ》。
 
更贈歌の三字、舊本にはなし、目録に從つ、
 
3777 伎能布家布《キノフケフ》。伎美爾安波受弖《キミニアハズテ》。須流須敝能《スルスベノ》。多度伎乎之良爾《タドキヲシラニ》。禰能未之曾奈久《ネノミシソナク》。
 
歌(ノ)意は、長き間ならず、唯昨日今日君に別れて、逢ずして、便り寄(リ)着(カ)べき爲方《スベ》を知ずに居て、一(ト)すぢに音をのみぞ泣(ク)、かくては久しき年月を、堪へ經べきにあらず、といふ謂を、含め餘したり、
 
3778 之身多倍乃《シロタヘノ》。阿我許呂毛弖乎《アガコロモテヲ》。登里母知弖《トリモチテ》。伊波敝和我勢古《イハヘワガセコ》。多太爾安布末低爾《タダニアフマテニ》。
 
歌(ノ)意は、復逢む日の形見にし給へとて、わが思(ヒ)亂て縫て奉れる其(ノ)衣を、大切に取(リ)持(チ)給ひて、直にあふまでに、よくして、神祇《カミタチ》に祈(リ)齋(ヒ)つゝましませ、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。娘子和贈歌《ヲトメガコタフルウタ》。
 
和贈歌の三字、舊本にはなし、目録に從つ、
 
3779 和我夜度乃《ワガヤドノ》。波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》。伊多都良爾《イタヅラニ》。知利可須具良牟《チリカスグラム》。見流比等奈(281)思爾《モルヒトナシニ》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)庭の橘花は、見愛《ミメヅ》る人なしに、無用《イタヅラ》に散失らむか、となり、
 
3780 古非之奈婆《コヒシナバ》。古非毛之禰等也《コヒモシネトヤ》。保等登藝須《ホトトギス》。毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》。伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》。
 
歌(ノ)意は、霍公鳥の鳴を聞ば、あはれを催されて、いよ/\戀しく思ふ心に堪がたきを、さる事に心もせずして、來鳴響むるは、戀死に死《シナ》ば、死《シニ》なりともせよとてのわざにや、となり、十一に、戀死戀死耶玉梓桙路行人事告兼《コヒシナバコヒモシネトヤタマホコノミチユクヒトニコトモツゲナム》、又、戀死戀死哉我妹吾家門過行《コヒシナバコヒモシネトヤワギモコガワギヘノカドヲスギテユクラム》、
 
3781 多婢爾之弖《タビニシテ》。毛能毛布等吉爾《モノモフトキニ》。保等登藝須《ホトトギス》。毛等奈那難吉曾《モトナナナキソ》。安我古非麻左流《アガコヒマサル》。
 
歌(ノ)意は、時もこそあれ、かやうに旅にて物思(ヒ)をする時に、さやうにむざ/\と鳴ことなかれ、汝(ガ)鳴聲を聞ば、聞ごとにあはれを催《モヨホ》されて、いよ/\吾(ガ)妹を戀しく思ふ心の益るぞ、となり、八(ノ)卷に、神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥痛莫鳴吾戀益《カムナビノイハセノモリノヨブコドリイタクナナキソアガコヒマサル》、
 
3782 安麻其毛理《アマゴモリ》。毛能母布等伎爾《モノモフトキニ》。保等登藝須《ホトトギス》。和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》。伎奈伎等余母須《キナキトヨモス》。
 
安麻其毛理《アマゴモリ》は、八(ノ)卷に、雨隱情欝悒出見者春日山者色付二家利《アマゴモリコヽロイフセミイデミレバカスガノヤマハイロヅキニケリ》、とよめり、○歌(ノ)意は、たゞさへ(282)あるに、かやうに配所のわびしきうへに、雨にふり隱《コメ》られて、いとゞ物思(ヒ)をする時に、吾(ガ)住里に、霍公鳥の心なく來鳴響めて、思(ヒ)を益らしむ、となり、
 
3783 多婢爾之弖《タビニシテ》。伊毛爾古布禮婆《イモニコフレバ》。保登等伎須《ホトトギス》。和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》。許欲奈伎和多流《コヨナキワタル》。
 
許欲奈伎和多流《コヨナキワタル》は、從《ヨリ》2此間《ココ》1鳴渡《ナキワタル》にて、此間《ココ》を鳴渡るといはむに同じ、集中に多きことばなり、こゝは契冲が、所しもこそあるべきにの心なり、と云るが如し、○歌(ノ)意は、かやうに旅にて物思(ヒ)をする時に、處しもこそあるべきに、吾(ガ)住里に鳴(キ)渡りて、霍公鳥の、いよ/\吾に物思(ヒ)を益らしむ、となり、
 
3784 許己呂奈伎《ココロナキ》。登里爾曾安利家流《トリニソアリケル》。保登等囈須《ホトトギス》。毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》。奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》。
 
歌(ノ)意は、物思(ヒ)をする時に鳴べき物かは、鳴まじき事なるに、かやうに鳴て、霍公鳥の吾(レ)に物思(ヒ)を益しむるは、さても心なき鳥にてぞありける、となり、
 
3785 保登等藝須《ホトトギス》。安比太之麻思於家《アヒダシマシオケ》。奈我奈家婆《ナガナケバ》。安我毛布許己呂《アガモフココロ》。伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》。
 
安比太之麻思於家《アヒダシマシオケ》は、少《スコシ》の間《マ》にても、あひだをおきて鳴(ケ)、さらばわが物思ひの、しばしにても(283)息むをの意なり、○伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》、最《イト》も爲便無《スベナシ》なり、多き詞なり、既く云り、○歌(ノ)意は、霍公鳥よ、少《スコシ》の間にても、間を置て鳴(ケ)、さらば吾(ガ)物思(ヒ)の、しばしにても息《ヤスム》べきに、かやうに間を置ず屡《シバ/”\》に鳴故に、いよ/\あはれを催《モヨホ》されて、吾(ガ)戀しく思ふ心の、最《イト》も爲方《スベ》なし、となり、契冲、宅守の藏部(ノ)女を捨て、此(ノ)娘子をむかへられけるは、道に背ける故に、流人となられけれども、よみかはされたるうたは、ともにあはれなるものなり、と云り、按(フ)に、藏部(ノ)女を出し捨しにはあらで、本(ノ)妻をばさておきて、この娘子を娉《ヨバヒ》て、密《ミソカ》に※[女+搖の旁]《タハ》けしなるべし、右馬寮の外に立て、しのびあひたりし樣も、家に迎へ娶《トリ》しにはあらず、さるみだりがはしき事の露《アラ》はれしによりて、流罪にあひけるなるべし、然れども、他妻を犯せし類にあらざりければ、後に罪赦されけるなるべし、
 
右七首《ミギノナヽウタハ》。中臣朝臣宅守《ナカトミノアソミヤカモリガ》。寄《ヨセ》2花鳥《ハナトリニ》1陳《ノベテ》v思《オモヒヲ》作歌《ヨメルウタ》。
 
萬葉集古義十五卷之下 終
 
(284)萬葉集古義十六卷之上
 
有由縁并雜歌《ヨシアルウタマタクサ/”\ノウタ》。
 
有由縁は、櫻(ノ)兒をよめるなどの類の、由縁あるをいふ、由縁は、ヨシ〔二字右○〕とも、ユヱヨシ〔四字右○〕とも訓べし、(契冲が、故(ノ)字、日本紀に加列《カレ》と訓たるに、此(ノ)國の古語|由惠《ユヱ》とよむは、此(ノ)由縁の音にや、と云るは、甚誤なり、故は由惠《ユヱ》の假字、縁(ノ)字は、エム〔二字右○〕の音なるをや、)○雜歌は、由縁ある類ならぬ、雜の歌なり、
 
昔者《ムカシ》有《アリケリ》2娘子《ヲトメ》1、字《ナヲバ》曰《イフ》2櫻兒《サクラノコト》1也、于時《トキニ》有《アリテ》2二壯士《フタリノヲトコ》1。共《トモニ》誂《トフ》2此娘《コノヲトメヲ》1。而|捐《ステヽ》v生《イノチヲ》挌競《アラソヒ》。貪(テ)v死(ヲ)相敵《イドミタリキ》。於是《コヽニ》娘子《エオトメ》歔欷曰《ナゲキケラク》。從《ヨリ》v古《イニシヘ》來于今《コノカタ》。未3聞未見《キカズ》一女之身《ヒトリノヲミナノミ》。往2適《ユクトイフコトヲ》二門《フタリノヲトコノイヘニ》1矣。方今《イマ》壯士之意《ヲトコノコヽロ》。有v難《ガタシ》2和平《ニキビ》1。不《ジトイヒテ》v如《シカ》2妾死相害永息《アレミマカリテアラソフコトヲヒタブルニヤメムニハ》1。爾乃《スナハチ》尋2入《イリテ》林中《ハヤシニ》1懸《サガリ》v樹《キニ》經死《ワタキシニキ》。其兩壯士《フタリノヲトコ》。不《ズ》v敢《タヘ》2哀慟血泣漣襟《カナシミニ》1。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2心緒《オモヒヲ》1作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
櫻兒は、サクラノコ〔五字右○〕と唱(フ)べし、傳未(ダ)詳ならず、(大和(ノ)國高市(ノ)郡大久保村に、娘子塚といふあり、これ櫻(ノ)兒の墓なりと云傳(ヘ)たるよし、)○有二壯士云々、源氏物語浮舟に、昔はけさうする人のあ(285)りさまの、いづれとなきに、思ひわづらひてだにこそ、身を投るためしも有けれ云々、とあるは、この櫻(ノ)兒、さては次の縵(ノ)兒、或は菟原處女の類を思ひて、書るなるべし、○誂は、トフ〔二字右○〕と訓なり、夫妻問誘《ツマドヒイザナ》ふ意なり、字書に、誂(ハ)相呼誘也、又謂以2微言(ヲ)1動(ス)v之也、とあり、(略解に、こゝの誂は、挑の誤なるべし、と云るは、甚非なり、)下の美麗物《ウマシモノ》云々の左註に、時有2娘子1、此娘子不v聽2高姓美人所1v誂、應2許下姓※[女+鬼]士之所1v誂也、また九(ノ)卷に、相誂良比言成之賀婆《アヒトブラヒコトナリシカバ》、又、垣廬成人之誂時《カキホナスヒトノトフトキ》、古事記垂仁天皇(ノ)條に、誂(テ)v妾(ヲ)曰、吾與v汝共治2天下(ヲ)1、などあり、○來于今の來(ノ)字、拾穗本には、至と作り、于(ノ)字、類聚抄、拾穗本等には无(シ)、○歔欷は、文選に出たる字なり、字鏡に、歔欷(ハ)涕泣(スル)貌、泣餘聲也、左久利《サクリ》、とあり、○懸樹は、古事記(中卷)垂仁天皇(ノ)條に、取2懸(リ)樹枝(ニ)1而欲(ス)v死(ムト)とあり、○敢は、堪の誤なるべし、○作歌二首の字、舊本に、はなち書けるは誤なり、類聚抄、古寫本、古寫小本、拾穗本等に連(ネ)書るぞよき、
 
3786 春去者《ハルサラバ》。挿頭爾將爲跡《カザシニセムト》。我念之《アガモヒシ》。櫻花者《サクラノハナハ》。散去流香聞《チリニケルカモ》。
 
散去流香聞は、チリニケルカモ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、チリユケルカモ〔七字右○〕とよめるは、いとわろし、)今思(フ)に、去の下、家(ノ)字脱たるか、(類聚抄に、流(ノ)字无(キ)は、又脱せるなるべし、)○歌(ノ)意は、春になりなば、折(リ)取て、挿頭にせむと思ひ置しかひもなく、櫻(ノ)花は、無用《イタヅラ》に散失にける哉、さてもなごり多き事ぞ、となり、契冲云、櫻兒の名によせて、妻にせむとおもひし心を、かざしにせむとおもひしと云り、
 
(286)3787 妹之名爾《イモガナニ》。繋有櫻《カヽセルサクラ》。花開者《ハナサカバ》。常哉將戀《ツネニヤコヒム》。彌年之羽爾《イヤトシノハニ》。
 
名爾繋有《ナニカヽセル》は、名に負持るをいふ、二(ノ)卷明日香(ノ)皇女(ノ)殯宮之時(ノ)歌に、思將往御名爾懸世流明日香河及萬代《シヌヒユカミナニカヽセルアスカガハヨロヅヨマデニ》云々、十(ノ)卷に、子等名丹闕之宜朝妻之《コラガナニカケノヨロシキアサヅマノ》云々、などあるに同じ、○哉(ノ)字、類聚抄に、者と作るはわろし、○年之羽爾《トシノハニ》は、毎(ニ)v年といふに同じ、十九に、毎年謂(フ)2之(ヲ)等之乃波《トシノハト》1、とあり既く云り、○歌(ノ)意は、妹が、櫻兒といふ名に負持たる、櫻の花開(カ)ば、其を見つゝ、妹を思出して、毎年毎年春になる度に、常に戀しく思はむか、となり、
 
或曰《アルヒトノイハク》。昔《ムカシ》有《アリテ》2三男《ミタリノヲトコ》1。同《トモニ》娉《ツマドヒキ》2一女《ヒトリノヲミナヲ》1也。娘子《ヲトメ》【字《ナヲバ》曰《イフ》2縵兒《カヅラノコト》1。】嘆息曰《ナゲキケラク》。一女之身《ヒトリノヲミナノミ》。易《ヤスキコト》v滅《ケ》如《ゴトシ》v露《ツユノ》。三雄之志《ミタリノヲトコノコヽロ》。難《カタキコト》v平《ニキビ》如《ゴトシトイヒテ》v石《イハノ》。遂乃《スナハチ》※[人扁+方]2※[人扁+皇]《タチモトホリ》池上《イケノホトリニ》1。沈2没《シヅミキ》水底《ミナソコニ》1。於時《トキニ》其壯士等《ヲトコラ》。不《ズ》v勝《タヘ》2哀頽之至《カナシミニ》1。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2所心《オモヒヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
字曰鬘兒(分註)の四字、舊本こゝには無て、三首の下に、娘子字曰鬘兒也、とあり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、縵(ノ)兒は、傳未(ダ)詳ならず、縵(ノ)字は、字書に、※[糸+曾]無v文也、とあれども、書紀、此(ノ)集、其(ノ)餘《ホカ》の古書等の中にも、縵※[草冠/縵]は、皆鬘と通(ハシ)用たり、(字書に、縵與v蔓同、とはあり、)○※[人扁+方]2※[人扁+皇]は、(拾穗本には、彷徨と作り、)文粹一(ノ)卷に、臥而睡(リ)起(テ)※[人扁+方]2※[人扁+皇]、とあり、彷徨なるべきを、人に從ひて書ること、漢籍にも見ゆ、徘徊を俳※[人偏+回]と作る例も、古書にあり、同類なり、〔頭注、【三體詩首註、文選云、彷彿又作2彷彿1、山谷文集往々作2※[人偏+方]佛1、】○頽(ノ)字、舊本※[秀+頁]に誤、今は古寫小本に從つ、
 
(287)3788 無耳之《ミヽナシノ》。池羊蹄恨之《イケシウラメシ》。吾妹兒之《ワギモコガ》。來乍潜者《キツヽカヅカバ》。水波將涸《ミヅハカレナム》。
 
無耳之池《ミヽナシノイケ》は、大和(ノ)國無耳山(ノ)邊にある池なり、○池羊蹄恨之《イケシウラメシ》は、羊蹄は、之《シ》の假字にて、十(ノ)卷に、世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》とある處に、既く具(ク)云る如し、さて之《シ》は、その一(ト)すぢなるを、重く思はする辭にて、一(ト)すぢに深く恨めし、といふなり、恨之《ウラメシ》は、妹にかけて聞べし、池を恨むるには非ず、○將涸は、舊訓に、カレナム〔四字右○〕とある宜し、(略解に、水の淺び行を、あせといふが古ければ、かれなむとあるは、わろし、と云れど、涸《カル》と淺《アス》とは、固《モトヨリ》異なるをや、)○歌(ノ)意は、無耳の池に潜(キ)する妹は、一(ト)すぢに深く恨めし、かやうに常に通ひ來つゝ、此(ノ)池に潜せば、水盡て涸なむ、となり、存生《イキ》てある妹が潜するやうに見なして、其(ノ)妹を深く恨むるやうに云なして、悲情をつよく含めたり、(大和物語に、昔奈良の帝につかうまつる采女ありけり、帝をかぎりなくめでたき物になむ思ひ奉りける、帝めしてけり、さてのち又もめさゞりければ、かぎりなく心うしと思ひけり、夜みそかに出て、猿澤の池に身をなげてけり、帝はえしろしめさゞりけるを、事のついでありて、人の奏しければ、きこしめしてけり、いといたうあはれがり給うて、池の邊におほみゆき給うて、猿澤の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし、とよみ給うけり、とあるは、今の歌を換たる、つくりもの語なるべし、)
 
3789 足曳之《アシヒキノ》。山縵之兒《ヤマカヅラノコ》。今日往跡《ケフユクト》。吾爾告世婆《ワレニノリセバ》。還來麻之乎《ハヤクコマシヲ》。
 
(288)山縵之兒《ヤマカヅラノコ》は、縵兒《カヅラノコ》へ、山葛《ヤマカヅラ》といひかけたるなり、山葛《ヤマカヅラ》は、日影葛をいふ、十四に、安之比奇能夜麻可都良加氣《アシヒキノヤマカヅラカゲ》云々、とあるを、おもひ合(ス)べし、○還來麻之乎は、或説に、還は迅のめやまりにて、ハヤクコマシヲ〔七字右○〕とよむべし、といへり、(又|當時《ソノコロ》旅行《タビユキ》などせしこと有て、還來ましを、といふかともおもへど、さにはあらじ、或説に從(ル)べし、)○歌(ノ)意は、縵(ノ)兒が、無耳の池の方に、今日身を沈没《シヅメ》に行といふ事を、吾に一言告たらましかば、迅く來て留めましものを、然《サ》とも知ざりし事こそ、悔しけれ、となり、
 
3790 足曳之《アシヒキノ》。山縵之兒《ヤマカヅラノコ》。如今日《ケフノゴト》。何隈乎《イヅレノクマヲ》。見管來爾監《ミツヽキニケム》。
 
山(ノ)字、舊本玉に誤、今は歌林良材集に、此(ノ)歌を引たるに、山とあるに從つ、○管(ノ)字、古寫小本には、乍と作り、○歌(ノ)意は、さきに縵(ノ)兒が身を沈し時、今日わが來しごとく、池上の隈々を廻りつゝ、何(レ)の隈よりか、身を投むと見つゝ來にけむ、となり、○此(ノ)集に載たる、勝鹿(ノ)眞間娘子、葦(ノ)屋(ノ)菟原處女、此(ノ)卷の櫻(ノ)兒、縵(ノ)兒、など、皆容貌|美麗《ウルハシ》かりしが故に、壯士等の挌競によりて、身を失《ウシナ》へり、あはれなりけることなり、
 
昔《ムカシ》有《アリ》2老翁《ヲキナ》1。號2曰《イフ》竹取翁《タカトリノヲヂト》1也。此翁《コノヲヂ》。季春之月《ヤヨヒバカリニ》。登《ノボリ》v丘《ヲカニ》遠望《クニミスルトキ》。忽|値《アヘリキ》2煮《ニル》v羮《アツモノヲ》之|九箇女子《コヽノヲトメニ》1也。百嬌《モヽノコビ》無《ナク》v儔《タグヒ》。花容《ハナノスガタ》無《ナシ》v止《ナラビ》。于時《トキニ》娘子等《ヲトメラ》。呼《ヨビ》2老翁《ヲヂヲ》1〓《ワラヒテ》曰《イフ》2舛父《ヲヂ》來《キテ》乎|吹《フケト》2此鍋火《コノヒヲ》1也。於是《コヽニ》翁《ヲヂ》曰。唯唯《ヲヲトイヒテ》。漸《ヤヽ》※[走+多]徐行《ユキテ》。著2接《ツキタリキ》座上《シキヰノホトリニ》1。良久《シマラクアリテ》娘子等《ヲトメラ》。皆共《ミナトモニ》含咲《シタヱミ》。相推(289)讓之曰《アヒオシユヅリケラク》。阿誰《タレソ》呼《ヨビシ》2此翁《コノヲヂヲ》1哉。爾乃《スナハチ》竹取翁謝之曰《タカトリノヲヂノイフ》。非慮之外《オモヒノホカニ》偶2逢《アヒ》神仙《ヒジリニ》1。迷惑《マドヘル》之|心《コヽロ》無敢所禁《タヘガタシ》。近狎之罪《チカクナレシツミ》。希2贖《アガナヒマヲサム》以《モチテ》v謌《ウタ》。即作歌一首并短歌《スナハチヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
竹取翁はタカトリノヲヂ〔七字右○〕と訓べきにや、堀川百首に、懷舊、中納言師時、春をかにのぼりて見けむたかとりのこゝのゝこらが事をしぞ思ふ、顯昭も、竹取、たかとり、たけとり、古(ヘ)來《ヨリ》二(タ)やうに訓れど、たかとりとあるかた、しかるべからむよし、既くさだせり、或説に、記紀に、其所v棄竹刀終成2竹林《タカハラト》1、故號2彼地1曰2竹屋《タカヤト》1云々、又遂(ニ)登2長屋之|竹島《タカシマニ1、とも、又人(ノ)名に竹葉瀬《タカハセ》といふあるなどを、合(セ)思ふに、竹某とあるをば、すべてタカ〔二字右○〕某と云が、古(ヘ)なるべし、仙覺が抄にもタカトリ〔四字右○〕とあり、酒槽《サカフネ》、酒杯《サカツキ》などいふ例を、合(セ)考(フ)べし、と云り、○煮羮、古寫本に、華美と作るは誤なるべし、○無止は、契冲云、止は匹の誤なるべし、○〓は嗤の誤か、○叔(ノ)字、舊本舛に誤れり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、○鍋(ノ)字、舊本は燭、古寫本に※[火+曷]と作るは誤なり、元暦本に從つ、○唯唯、古寫本に、唯之と作るはわろし、○※[走+多](ノ)字、拾穗本に趨と作り、類聚抄に移と作るはわろし、○此(ノ)集《フミ》の中に、仙女に逢ることを載たるは、三(ノ)卷仙(ノ)柘(ノ)枝(ノ)歌、五(ノ)卷に、山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)松浦河にて、仙女にあひて贈答せる歌、九(ノ)卷浦島(ノ)子、澄(ノ)江(ノ)浦にて、仙女にあへることをよめる歌、さては此(ノ)竹取翁なり、抑々此等のことにつきて、余(レ)ことさらに、おもひよれる義《スヂ》ありといへども、今略きて云ず、いかにとなれば、余が此|集《フミ》を註解《トキコトワ》れる素懷《モトツコヽロ》は、今よりゆくさき、古學《フルコトマナビ》に志《コヽロ》あらむ人の、いかにもして、あ(290)がれりし代の語味風致を、潭探《フカクタヅ》ね熟(ク)思ひえて、質直《ナホクタヾシ》かりし、上古のありかたをも、うかゞひ見むための一助《タヅキ》ともならむと、切《セメ》て物せるなれば、大かた古(ヘ)風《ザマ》、古(ヘ)義《コヽロ》のすぢをはなれたらむことは、この前なるも、後なるも、たゞ大概にして、さしおきつるなり、さて其(レガ)中にも、浦島(ノ)子をよめると、こゝなるは、いと長(キ)篇なるを、浦島(ノ)子をよめるは、口風もゆるやかにして、句調もよくとゝのひて、あはれにかなしく聞えたり、こゝなるは、まづ例の、うるさきあだし國の故事などとりまじへて、ほどよく序をも歌をも、とゝのへりし物と見ゆるを、歌詞こよなくさかしだち、句調よくもきこえず、口氣こち/\しく、なほくたゞしく、おだやかなりける、上(ツ)代の雅致《タヾシキテブリ》は、あとかたなく失《スタ》れりしものと見ゆる中に、尾《ハテ》のかたに至りて、あるが中にも、うるさき外(ツ)國事を、もの/\しく引用ひたるなどつたなしとも、つたなくきこゆかし、(人麻呂、赤人は更なり、金村、蟲萬呂などの長歌を、細精《クハシ》く味(ヒ)見て、詞氣のまされる拙れるを、くらべ見よ、)されば、後世《ノチノチ》文字をも寫(シ)誤(リ)、訓をも唱(ヘ)譌(リ)などせるは、もとより句調の正しからぬ故にこそあらめ、さはいへど、今(ノ)京(ヨリ)以降《コナタ》のことは、古語をいたく轉訛《アヤマ》れることは、未(ダ)なかりし代のことなれば、しかすがに捨《ステ》おくべきわざにはあらざれば、よく讀(ミ)かむがふべきことにてはあるなり、されど、一首の意も、うるはしく、きはやかには解得《キヽエ》がたく、且《ハタ》語の條々《ヲヂ/\》にも、しどけなくて通《キコ》えがたかるも多し、さはあれど、一首も大意《オホカタノコヽロ》は通《キコ》え、語次も大概は、然《カク》やとは量《オモ》はるゝなり、そ(291)の中に、こよなくきこえがたきをば、強て解ず、さる意にやとおもひよれるすぢは、余が考へたるも、人の説《イヘ》るをも註《シル》しつるなり、猶そのところ/”\を見て考(フ)べし、○まづ一首の大意をとりすべて云ば、娘子等が老翁《オキナ》の姿をわらひしにつきて、老翁の身の、はやくうるはしかりしことをよめるなり、さてそのうるはしかりしやうは、緑子の時より、童子のころにいたるまでは、或は母にうだかれ、或はうるはしき木綿肩衣を著、又袖著衣を著などして、何のあかぬすぢなく生(ヒ)たちぬるに、男ざかりのほどは、わかき女どもが、吾をしたひて、いかでわれにめでうつくしまれむとて、髪を結もし、解もし、いろ/\やうをかへなどし、あるはうつくしき衣紐などをとり著飾(リ)て、とにかく心をつくし、又|稻置丁女《イナキヲトメ》が、われを懸想《ケサウ》すとては、よろしき襪《シタウヅ》黒沓《クリクツ》などをおくり、すなはちそれをはきて、庭に立てあるきめぐれば、そのみやびかさを、ほのかに聞付て、母のまもる女が、うるはしき絹(ノ)帶をおくり、すなはちそれをとりかざりて、野山をゆけば、心なき鳥も雲も、わが姿にめづるけはひあり、京大路を行ば、官女舍人も吾を見て、こはそもいづくの子ぞや、としたひおもひしなり、かくまでめではやされし身なりしを、今また老はてゝぞ、かく醜《ミニク》き老翁《オキナ》にはなりぬる、されど娘子たち、しかわらひたまふなよ、そこたちもおいはてなば、またわかき人にわらはれなまし、君聞ずや、いにしへから人の原轂が、おい人を贈りし車を、持かへりし物がたりもあるぞかし、と云なり、これ一首の大概(292)なり、まづかく意得おきて、條下條下《ヲヂヲヂ》に云るを見べし、
 
3791 緑子之《ミドリゴノ》。若子蚊見庭《ワグゴガミニハ》。垂乳爲《タラチシ》。母所懷《ハヽニウダカエ》。搓襁《スキカクル》。平生蚊見庭《ハフコガミニハ》。結經方衣《ユフカタキヌ》。氷津裡丹縫服《ヒツラニヌヒキ》。頸著之《クビツキノ》。童子蚊見庭《ワラハガミニハ》。結幡《ユヒハタノ》。袂著衣《ソテツケコロモ》。服我矣《キシワレヲ》。丹因子等何《アニヨルコラガ》。四千庭《ヨチニハ》。三名之綿《ミナノワタ》。蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》。信櫛持《マクシモチ》。於是蚊寸垂《カタニカキタレ》。取束《トリタガネ》。擧而裳纒見《アゲテモマキミ》。解亂《トキミダリ》。童兒丹成見《ワラハニナシミ》。羅《クレナヰノ》。丹津蚊經色丹《ニツカフイロニ》。名著來《ナツカシキ》。紫之《ムラサキノ》。大綾之衣《オホアヤノコロモ》。墨江之《スミノエノ》。遠里小野之《ヲリノヲヌノ》。眞榛持《マハリモチ》。丹穗之爲衣丹《ニホシシキヌニ》。狛錦《コマニシキ》。紐丹縫著《ヒモニヌヒツケ》。刺部重部《サヽヘカサナヘ》。波累服《ナミカサネキ》。打十八爲《ウチソヤシ》。麻續兒等《ヲミノコラ》。蟻衣之《アリキヌノ》。寶之子等蚊《タカラノコラガ》。打栲《ウツタヘ》。者經而織布《ハヘテオルヌノ》。日暴之《ヒザラシノ》。朝手作尾《アサテヅクリヲ》。信巾裳成《シキモナス》。者〔□で囲む〕之寸丹取爲支《シキニトリシキ》。屋所經《ホコロヘル》。稻寸丁女蚊《イナキヲトメガ》。妻問迹《ツマドフト》。我丹所來爲《アニソタバリシ》。彼方之《ウキカタノ》。二綾裏沓《フタヤシタクツ》。飛鳥《トブトリノ》。飛鳥壯蚊《アスカヲトコガ》。霖禁《ナガメイミ》。縫爲黒沓《ヌヒシクリクツ》。刺佩而《サシハキテ》。庭立《ニハニタチ》。往退《ユキモトホレバ》。莫立《オモトジノ》。禁尾迹女蚊《モラスヲトメガ》。髣髴聞而《ホノキヽテ》。我丹所來爲《アニソタバリシ》。水縹《ミハナダノ》。絹帶尾《キヌノオビヲ》。引帶成《ヒコビナス》。韓帶丹取爲《カロビニトラシ》。海神之《ワタツミノ》。殿盖丹《トノヽイラカニ》。飛翔《トビカケル》。爲輕如來《スガルノゴトキ》。腰細丹《コシホソニ》。取餝氷《トリカザラヒ》。眞十鏡《マソカヾミ》。取雙懸而《トリナメカケテ》。己蚊杲《オノガカホ》。還氷見乍《カヘラヒミツヽ》。春避而《ハルサリテ》。野邊尾廻者《ヌヘヲメグレバ》。面白見《オモシロミ》。我矣思經蚊《アレヲオモヘカ》。狹野津鳥《サヌツドリ》。來鳴翔經《キナキカケラフ》。秋避而《アキサリテ》。山邊尾往者《ヤマヘヲユケバ》。名津蚊爲迹《ナツカシト》。我矣思經蚊《アレヲオモヘカ》。天雲裳《アマクモモ》。行田菜引《イユキタナビキ》。還立《カヘリタチ》。路尾所來者《オホチヲケレバ》。打氷刺《ウチヒサス》。宮尾見名《ミヤヲミナ》。刺竹之《サスダケノ》。舍人壯裳《トネリヲトコモ》。忍經等氷《シヌフラヒ》。還等氷見乍《カヘラヒミツヽ》。誰子其迹哉《タガコソトヤ》。所思而在《オモハレテアル》。如是所爲故爲《カクソシコシ》。古部《イニシヘノ》。狹狹寸爲我哉《ササキシアレヤ》。端寸八爲《ハシキヤシ》。今日八方子等丹《ケフヤモコラニ》。五十狹邇迹哉《イソサニトヤ》。所思而在《オモハレテアル》。如是所爲故爲《カクソシコシ》。古(293)部之《イニシヘノ》。賢人藻《サカシキヒトモ》。後之世之《ノチノヨノ》。堅監將爲迹《カヾミニセムト》。老人矣《オイヒトヲ》。送爲車《オクリシクルマ》。持還來《モチカヘリコシ》。
 
縁子《ミドリゴ》は、二(ノ)卷人麻呂(ノ)妻死れるをかなしめる、或本(ノ)歌に、緑兒之乞哭別《ミドリコノコヒナクゴトニ》とある處に具(ク)云り、○若子蚊身庭《ワクゴガミニハ》とは、若子《ワクゴ》は、三(ノ)卷に、皮爲酢寸久米能若子我《ハタススキクメノワクゴガ》、とある歌に具(ク)云り、見庭《ミニハ》は、(借(リ)字)身にはなり、さてこゝは、今村(ノ)樂、若子の時にはといふ意なり、次のはふ兒が身には、童子が身にはといふも、同意なり、と云り、時にはを、身にはといふことは、いかゞなるいひざまなれど、此(ノ)歌にては、まことにその意ときこえたり、○垂乳爲《タラチシ》は、五(ノ)卷に、多羅知新能波々何手波奈例《タラチシノハヽガテハナレ》云々、又|多良遲子能波々何目美受提《タラチシノハヽガメミズテ》などあり、(岡部氏が、爲は禰の誤と云るは、從がたし、)荒木田氏、垂乳爲《タラチシ》の爲《シ》は、知《チ》に通ふ言にて、手摩乳《テナヅチ》、足摩乳《アシナヅチ》の乳《チ》に同じく、したしみあがまへることなり、たらちねといふも、根《ネ》は、汝根《ナネ》、彦根《ヒコネ》、兒屋根《コヤネ》などいふ根《ネ》にて、あがまへる言なれば、同意なり、と云り、○母所懷は、ハヽニウダカエ〔七字右○〕と訓べし、ウダカエ〔四字右○〕は、いだかれといふ意なり、(凡て抱をイダク〔三字右○〕と云は、後(ノ)世の轉語なり、又十四に、武太伎《ムダキ》とあれど、それは東語に然云るか、又は身抱《ムウダキ》といふことなるべければ、なべてはしか訓べきにあらず、ウダク〔三字右○〕と云ぞ、正しき古語なる、)抑《ソモ/\》ウダク〔三字右○〕といふ言の意は、腕纏《ウデマク》なり、(此(ノ)意を人皆しらず、余が考(ヘ)得たるなり、)なほ既く三(ノ)卷に具(ク)註り、○搓襁は、スキカクル〔五字右○〕と訓べし、搓は、(ヨル〔二字右○〕と訓(ム)字にて、カク〔二字右○〕と訓べき義なし、又拾穗本に※[衣+差]と作《カケ》る、これもいかゞなり、※[衣+差](ハ)衣(ノ)長(キ)貌と見えたればなり、)挂(ノ)字の寫誤などにこそ、襁は字鏡に、(294)襁(ハ)負兒帶也、須支《スキ》、また襁(ハ)束(ル)2小兒(ヲ)背(ニ)1帶(ナリ)、須支《スキ》、とあり、(こは今(ノ)俗に、スク〔二字右○〕といふものなり、)さてこゝは、襁《スキ》を束《カケ》て負ばかりの、ほとほひをいふにて、未(ダ)幼稚《イトキナ》きを云り、さてこの襁を、古來タスキ〔三字右○〕と訓來れるは、いかゞあらむ、(タスキ〔三字右○〕ならば、手襁と書べし、襁のみにては、字足はず、書紀にも手襁《タスキ》と書り、さて契冲が、源氏物語薄雲に、ひめ君の、たすきゆひ賜へるむねつきぞ、うつくしけさそひて見えたまへる、枕草子に、あまにそぎたるちごのめに、かみのおほひたるをかきはやらで、うちかたぶきて物などみる、いとうつくし、たすきかけにゆひたる、こしのかみの白うをかしげなるも、みるにうつくし、又いみじうこえたるちごの、ふたつばかりなるが、白ううつくしきが、ふたあゐのうすものなど、きぬながくて、たすきあげたるが、はひ出くるも、いとうつくし、とあるを引るは、後ながら、こゝに最よしありて聞ゆ、宇津保物語姫松に、十のみこ、四ばかりにて、御くじ振分にて、白くうつくしげに肥て、御ぞは、こきあやのうちき、あはせのはかま、たすきがげにて、えびそめのきのなほし着て、かはらけとりて、いで給云々、とも見ゆ、なほ小兒のたすき結たること、中音には往々あるべし、又今(ノ)世に小兒の夏の頃、腹服とて、腹より左右脇かけたるものを、紐さして、上は頸の下、下は腰の上にてゆへる有(ル)も、たすきといひしものに、似かよひてきこゆれば、タスキ〔三字右○〕にても有べくや、されど今はなほ手(ノ)字なきに依て、字鏡のまゝに、スキ〔二字右○〕とはよみつるなり、)さて此(ノ)句は次(ノ)句へ連くべし、(荒木田氏が、タスキカ(295)ケ〔五字右○〕と訓て、上に付しは誤なり、)○平生蚊見庭(古寫本に、平(ノ)字を乎と作るは誤、又生の下に、之(ノ)字あるは、衍なり、)は、ハフコガミニハ〔七字右○〕と訓り、平生を、ハフコ〔三字右○〕と訓たるは、義疎きやうなれども、こは決《キハメ》て舊本《モトヨリ》の訓なるべし、(荒木田氏が、生は子(ノ)字の誤なり、と云るは、中々誤なり、余(レ)も、さきには、平は這(フ)貌なるよしもて、書しものにて、生は子なるべし、とおもひしは、あしかりけり、)緑兒より童子までの中間にて、這めぐるころほひをいふべければ、這子《ハフコ》といふなり、さて平生の字は、意得がてなるを、(古來人の疑ふことなり、)熟々考(フ)るに、論語に、久要不v忘2平生之言(ヲ)1、とありて、弘安國(ガ)註に、平生(ハ)猶(シ)2少時1、とあるに依(レ)りと見えたれば、少時を、即(チ)這めぐる少兒の意に取(レ)るものなり、○結經方衣《ユフカタキヌ》は、木綿肩衣《ユフカタキヌ》なり、(結經方は、ともに借(リ)字のみ、)肩衣は、袖なき衣を、肩に打挂著(ル)を云、小兒の專(ラ)服しものと見ゆ、(古今著聞集廿(ノ)卷に、下臈の着る、手なしといふ布着物を着て云云とあり、彼(ノ)頃になりて、下ざまの者の專ら着し物なるべし、今(ノ)俗に田舍にて云ソウタ〔三字右○〕の類なり、)五(ノ)卷に、布可多衣《ヌノカタキヌ》ともよめり、今(ノ)世に、肩衣と呼《イフ》物も、その所有《モチヒトコロ》は異《カハ》れども、袖なきをいふは、同意なり、○氷津裡丹縫服《ヒツラニヌヒキ》は、本居氏、氷津裡は、純裏《ヒタウラ》なり、十二に純裏衣とよめり、さてタウ〔二字右○〕の約ツ〔右○〕なれば、ヒタウラ〔四字右○〕をヒツラ〔三字右○〕と云べし、と云り、(荒木田氏は、氷を水に改めて、シツウラ〔四字右○〕とよみて、倭文を裡に縫つけたるなり、と云れどいかゞ、)○頸著之は、舊本に、クビツキノ〔五字右○〕とよめるに從べし、さてこれは、目刺などいふ類にて、髪の末の、頸を衝ほどなるを云べし、(荒木(296)田氏は、これをも上(ノ)句につけて、クビツキシ〔五字右○〕とよめるはわろし、)○童子蚊見庭《ワラハガミニハ》(蚊(ノ)字、拾穗本には之と作り、)は、童子をワラハ〔三字右○〕と訓こと、二(ノ)卷に具(ク)云り、こゝは童子の時にはの意なり、○結幡《ユヒハタ》は、夾纈《カウケチ》なり、字鏡に、纈(ハ)結(テ)v帛(ヲ)以染(テ)得v色(ヲ)也、由波太《ユハタ》、和名抄に、夾纈、此間(ニハ)云2加宇介知《カウケチト》1、とあり、(ゆはたといふは轉略なり、ゆひはたといふぞ、正しき名ならむ、)結《ユヒ》くゝりて染たる服《ハタ》といふなり、服《ハタ》は、凡て機にて織たるをいふ稱《ナ》にて、既く具(ク)云り、○袂著衣《ソテツケゴロモ》は、上の肩衣と對(ヘ)見るに、これはやうやう人となれるほどにて、袖著たる衣を著るさまなり、廿(ノ)卷に、宮人乃蘇泥都氣其呂母《ミヤヒトノソテツキゴロモ》云云、(但しこれは、官服はことに端袖を着る故に云るなれば、今とはことかはれり、されど同言なるゆゑに、こゝに引つるなり、)○服我矣《キシアレヲ》は、翁の當昔のさまを云なり、こゝにて、翁の成長《ナリタチ》のことは、云(ヒ)終《トヂ》めたり、さて此(ノ)次に、翁の漸《ヤヽ》長《ヒトヽナ》りて、壯なりしほどに至れることなくては、言足ぬこゝちすれど、其は省きて、然思はせたるにや、○丹因子等何は、いかなる意とも解がたし、(岡部氏は、丹因は、因と付とは意通へば、集中、丹つかふ妹とよめるにひとしく、紅顔を云りと、云れど、そは強解なり、樂云、丹因子等何は、必ニツカフコラガ〔七字右○〕とよまゝほしき所なり、いかにといふに、下に麻續の子、寶の子、稻寸をとめのたぐひ、みないやしき女を云れば、こゝは必(ズ)よろしき女をいはでは、理わろし、されど字の誤、いまだおもひえず、と云るもいかゞ、寶の子は、良(キ)人の女をいへるに非ずや、又契冲は、似合たる子等がなりと云り、さらば同年齡の女等をい(297)ふべし、されど猶いかゞ、)さて此(ノ)句より已下は、翁の壯なりしほど、女等の思ひをかけしことを云り、とは聞えたり、今按(フ)に、丹の上に、我(ノ)字の脱しにて、アニヨルコラガ〔七字右○〕ならむか、我が壯なりしほど思ひつきて靡き依る女等が、と云意なるべきにや、(荒木田氏も、既く丹の上に吾(ノ)字を補へり、但しワニヨスコラガ〔七字右○〕と訓しは、意得ず、)○四千庭《ヨチニハ》とは、四千《ヨチ》は、五(ノ)卷に、余知古良等手多豆佐波利提阿蘇比家武等伎能佐迦利乎《ヨチコラトテタヅサハリテアソビケムトキノサカリヲ》云々、十四に、許乃河泊爾安佐奈安良布兒奈禮毛安禮毛余知乎曾母底流伊泥兒多婆里爾《コノカハニアサナアラフコナレモフレモヨチヲソモテルイデコタバリニ》、などある余知《ヨチ》は、同じころほひの子をいふことなれば、こゝもその意なるべし、(されど庭《ニハ》と云ること、おだやかにきこえず、)我が壯なりしほど、思ひつきて靡き依る女の、唯一人には限らず、同じ年齡の女等、我も我もと云々せし、といふ意とは思はれたり、已上二句は、猶能考(フ)べし、(本居氏は、丹因四千子等我見庭《ニヨレルヨチコラガミニハ》、と有つらむを、見を落して亂れたるなり、と云れど、こゝより下は、女等のことを云て、上の翁のことを云るとは異なれば、其(ノ)對《ナミ》には意得がたし、)○三名之綿《ミナノワタ》は、枕詞にて、蜷腸《ミナノワタ》なり、既く五(ノ)卷に出(ツ)、○蚊黒爲髪尾は、カグロシカミヲ〔七字右○〕と訓べし、爲は、この翁の歌の内に、多くシ〔右○〕の借(リ)字に用ひたれば、必(ズ)シ、と訓べし、(略解に、かぐろなると訓るは非ず、いかにとなれば、この長歌反歌に、爲(ノ)字を用ひたること、通計《スベ》て廿四字ある中に、二字は將爲何爲と書れば、正訓なり、三字は、ス〔右○〕の借(リ)字、十八字は、正しくシ〔右○〕の借(リ)字に用ひたりとみゆれば、こゝのみ、ナル〔二字右○〕と訓べきにあらず、又岡部氏は爲は伎の誤(298)なるべし、と云れど、わろし、それは他處の例には叶ひたれども、總て尋常の歌詞のいひざまならぬは、此(ノ)作者《ヨミビト》の僻《クセ》と見えたればなり、そのうへ伎の假字は、この歌に用ひたる例もなければ、さらなり、)蚊黒伎《カグロキ》といふべきを、(五(ノ)卷に、迦具漏伎可美爾《カグロキカミニ》、とあればなり、)爲《シ》としもいへるは※[立心偏+可]怜《ウマ》き國てふこを、體言には、宇麻斯國《ウマシクニ》と云ば、其(ノ)格にて、こゝも爲《シ》といへるなるべし、さて蚊黒《カグロ》の蚊《カ》は、そへことばにて、たゞ黒きなり、此(ノ)詞五(ノ)卷、七(ノ)卷、十三(ノ)卷等にも出て、既く具(ク)云り、(二(ノ)卷上|香青生《カアヲナル》の下に云、)○信櫛持(信(ノ)字、古寫小本には眞と作り、こはいづれにも有べし、)は、マクシモチ〔五字右○〕と訓べし、(持をモテ〔二字右○〕とよめるはわろし、必(ズ)モチ〔二字右○〕と訓べき謂《ヨシ》は、一(ノ)卷(ノ)初、御製歌の下に具(ク)云り、)七(ノ)卷に、眞櫛用掻上栲島《マクシモチカヽゲタクシマ》、とも見えたり、○於是蚊寸垂は、是は肩(ノ)字の寫誤りなるべし、草書混(ヒ)易し、カタニカキタリ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、於是《コヽニ》は、添たる詞なり、と云るは、甚つたなし、また荒木田氏が、古事記(ノ)歌に、麻用賀伎許邇加岐多禮《マヨガキコニカキタレ》、とあるを引て、コニカキタリ〔六字右○〕とよめるも、甚非し、古事記なるは、濃《コ》に掻垂(レ)といふ意なれば、こゝにはあづからず、また或人(ノ)考もあれど、わろければいはず、)女子、四五歳ばかりのほどより、髪の末を切(ル)を、深をぎと云、それ過て、八歳のほどまでは、よきほどに切て、末を放ち垂る、其を放髪《ハナリノカミ》とも、振分髪《フリワケガミ》とも云、それよりやゝ後は、十四五歳のほどとなりて、男するまで、切ずて長からしむと見ゆ、(九(ノ)卷に、菟原處女之八年兒之片生乃時從小放爾髪多久麻底爾《ウナヒヲトメガヤトセコノカタオヒノトキユヲハナリニカミタクマテニ》、)こゝはやうやく、十歳をも餘れるほどなるべければ、(299)末延たる故、肩に掻垂(リ)と云るなり、伊勢物語に、振分髪も肩過ぬ、と云ると、同じこゝろばえなるべし、又此(ノ)次に、擧而裳纒見《アゲテモマキミ》、童兒丹成見《ワラハニナシミ》、と云るをも、對へおもふべし、○取束は、トリタカネ〔五字右○〕と訓べし、二(ノ)卷に、多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪此來不見爾掻上津良武香《タケバヌレタカネバナガキイモガカミコノゴロミヌニカヽゲツラムカ》とあり、猶彼處に云る事を引合(セ)考(フ)べし、○擧而裳纏見《アゲテモマキミ》は、或(ハ)は擧て纏もしたりといふなり、擧《アゲ》は、此(ノ)下に、橘寺之長屋爾吾率宿之童女波奈理波髪上都良武香《タチバナノテラノナガヤニアガヰネシウナヰハナリハカミアゲツラムカ》、とよめり、これは男したるほどの、さまにすることなり、見《ミ》は負見《オヒミ》、抱見《ウダキミ》の見《ミ》にて、彼《シカ》もし、此《カク》もするときにいふ詞なり、次の成見《ナシミ》もおなじくて、今と對へり、この見《ミ》の言の例は、既く具(ク)云り、○解亂は、トキミダシ〔五字右○〕と訓べし、○童兒丹成見《ワラハニナシミ》(兒(ノ)字、舊本に見と作るは誤、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、あるは童兒に成しもしたりといふなり、これは童子放《ウナヰハナリ》を、和良波《ワラハ》と云(ヘ)ば、髪を雙方へふり分るを、いふなり、以上十句は、我に靡き依たる女等が、髪を肩に、かき垂、あるは、擧て結もし、あるは又童兒になしても見など、せるさまを云るなり、そも/\かくさま/”\にせることは、かの翁《ヲヂ》の、若くて美麗《ウルハシ》かりしはどなれば、女等のいかにもして、我(レ)さきに彼(ノ)男に寵愛《ウルハシミ》せらればやと一向《ヒタスラ》に心を盡して、おもひよれるが故なり、(しかるを、略解に、髪を或はあげ、或は解などして、人まねするは、女童の常するわざぞとしも云るは、いかに、さては只|無用言《イタヅラゴト》になるをや、)○羅は、紅(ノ)字の寫誤れるなるべし、クレナヰノ〔五字右○〕と訓べし、丹《ニ》を云むがためなり、さて此(ノ)句より下は、男に寵愛《ウツクシミ》せられむがため(300)に、女等が身にさま/”\の装飾《ヨソヒ》したるさまを云、○丹津蚊經色丹は、ニヅカフイロニ〔七字右○〕と訓べし、(本居氏は、羅(ノ)字を此(ノ)句に付て、羅はサ〔右○〕の假字に用(ヒ)たり、さて色の下丹は衍字にて、羅丹津蚊經《サニツカフ》、色名著來《イロナツカシキ》と訓べし、と云れど、羅を、サ〔右○〕の假字に用ひたりとせむこといかゞ、但し七(ノ)卷に、住吉之云々、昔之清羅とある、清羅は、サヤケサ〔四字右○〕にて、羅はサ〔右○〕の假字なりと思へるめれど、彼《ソ》は一本に、清霜にあるによれば、キヨシモ〔四字右○〕にて、舊本は誤字なること決《ウツナ》し、故(レ)此(ノ)説は用《トラ》ず、)丹津蚊經《ニツカフ》は丹都部良布《ニツラフ》といふと同言にて、既く具(ク)云り、○名著來《ナツカシキ》は、馴著《ナツカ》しきなり、(荒木田氏が、名著は、並着《ナミツク》意なりといひしはわろし、此あたりの、凡ての解(キ)ざまも、いとわろし、)七(ノ)卷に、麻衣着者夏樫《アサコロモケレバナツカシ》、ともよめり、既く云り、已上三句は、大綾の衣へかけて意得べし、○大綾之衣《オホアヤノコロモ》は、文《アヤ》の大なる衣をいふべし、○遠里大野は、ヲリノヲヌ〔五字右○〕と訓べし、七(ノ)卷に、住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノヲリノヲヌノマハリモテスレルコロモノサカリスギヌル》、とある處に、本居氏(ノ)説を引て、具(ク)云り、○眞榛持は、マハリモチ〔五字右○〕と訓べし、眞《マ》は美稱なり、榛は品物解に具(ク)云り、○丹穗之爲衣丹《ニホシシキヌニ》は、令《シヽ》v染《ニホ》衣になり、凡て木草、また赤土などにて、摺て衣を染るを、爾保布《ニホフ》と云り、八(ノ)卷に、草枕客行人毛行觸者爾保比叡倍久毛開流芽子香聞《クサマクラタビユクヒトモユキフラバニホヒヌベクモサケルハギカモ》、十(ノ)卷に、事更爾衣者不摺佳人部爲咲野之芽子爾丹穗日而將居《コトサラニコロモハスラジヲミナヘシサキヌノハギニニホヒテヲラム》、一(ノ)卷に、岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《キシノハニフニニホハサマシヲ》、などなほ甚多し、既くも具(ク)云り、○狛錦《コマニシキ》は高麗《コマノ》國にて、織出せる錦なり、十一に、狛錦※[糸+刃]片叙《コマニシキヒモノカタヘゾ》、又、狛錦※[糸+刃]解開《コマニシキヒモトキアケテ》、十二に、高麗錦※[糸+刃]之結毛《コマニシキヒモノムスビモ》、織部司式に、白地|高麗錦《コマニシキ》一疋(ノ)料、絲七斤四兩云々、な(301)ど見えたり、既《サキ》にも云り、○※[糸+刃]丹縫着《ヒモニヌヒツケ》(着(ノ)字、古寫小本に无(キ)は、脱たるなり、)は、衣の紐に縫著るなり、よろしき衣のさまなり、○刺部重部は、サヽヘカサナヘ〔七字右○〕と訓べし、(サシカサネ〔五字右○〕を伸たる言なり、但しサヽヘ〔三字右○〕を約れば、サセ〔二字右○〕となれば、少しいかゞと思ふべけれど、しからず、押《オシ》をも、伸云ときは、オサヘ〔三字右○〕と、いふと、こゝは同(シ)格なり、オサヘ〔三字右○〕を約れば、オセ〔二字右○〕となれど、押《オシ》を伸るときは、必(ズ)オサヘ〔三字右○〕と第四言へ轉《ウツ》す例なり、准(ヘ)知べし、)さてかく伸云は、其(ノ)指重(ネ)する事の緩なるをいふことなり、指重《サシカサネ》といふ時は、然爲る事を、さしつけて急にいふことなるを、指《サヽ》へ重《カサナ》へといふ時は、然爲る事の、緩なる形をいへるにて、緩急《ユルヤカナルトスミヤカナル》との差別《ケヂメ》あるを思べし、(無用に伸縮して、云るにはあらず、)かくて、刺は、紐にかけて云、重は、衣にかけて云るなり、)○從來この刺部重部を、訓得たる人なし、略解に、部はめなり、めはみに同じくて、刺み重みなり、と云るは、例もなき強解なり、又荒木田氏が、部は竝なりと云るは、さらによしなし、)○波累服《ナミガサネキ》は、(波は借(リ)字)竝重著《ナミカサネキ》なり、(一説に、波は取(ノ)字の誤にて、トリカサネ〔五字右○〕かと云り、)以上十三句は、翁の壯なりしほど、思ひつきたる女等の、身にさま/”\の装飾《ヨソヒ》して、いかでうつくしまれむとて、我さきにと、心をつくせるさまと、きこゆ、○打十八爲《ウツソヤシ》は、麻續《ヲミ》の枕詞なり、打十《ウツソ》は、(借字)全麻《ウツソ》の義なるべきよし、令集解、又常陸風土記などを引て、一(ノ)卷に具(ク)云り、八爲《ヤシ》は縱惠八師《ヨシヱヤシ》、愛八師《ハシキヤシ》などの八師《ヤシ》に同じ、(略解、又荒木田氏などが、ウチソハシ〔五字右○〕とよめるは、いとわろし、反歌に、端寸八爲《ハシキヤシ》とあるをば見ず(302)や、又平(ノ)春海が、八爲(ノ)二字は、烏の一字の誤なるべし、と云るは、ヤシ〔二字右○〕と訓べき謂をも、をさ/\得しらず、一(ノ)卷なるに泥て、強たる説なり、烏(ノ)字、をヲ〔右○〕に用ること、此(ノ)歌の例にあらず、太《イミジキ》誤なり、凡て古書を疎忽《オホカタ》に讀すぐして、古語を諍ひ解むとするは、近(キ)世の學者の常にて、最々なげかしくかたはらいたきわざなりけり、)一(ノ)卷に、打麻乎麻續王《ウツソヲヲミノオホキミ》云々と見えたり、さて此(ノ)句より、下は、貴賤の女に限らず、翁の壯なりしほど、心よせたるさまを云、○麻續兒等《ヲミノコラ》は、(續(ノ)字、拾穗本には續と作り、されど續(ノ)字を、ウム〔二字右○〕といふに用ひたること、既く云るが如し、)苧績《ヲウム》ことを業《ナリ》とする女を云(フ)、こは賤者の女子なり、(略解に、女は苧績を業とする故に、女子等といふことにいへりと云るは、いさゝかたがへり、)四時祭式に、麻續等《ヲミラ》機殿祭並雜用料云々、東市司式に、續麻《ヲウミノ》※[こざと+廛]など見えたり、○蟻衣之《アリキヌノ》は、寶《タカラ》といはむ料なり、よき衣をば、寶物《タカラモノ》とする故なり、蟻衣のことは、四(ノ)卷、人麻呂(ノ)歌に、珠衣乃狹藍左謂沈《アリキヌノサヰサヰシヅミ》云々、とある下に、具(ク)云るを披(キ)見て、考(フ)べし、○寶之子等《タカラノコラ》は、良(キ)人の女子を、賛て云るなるべし、九(ノ)卷に、錦綾之中丹裹有齊兒《ニシキアヤノナカニクヽメルイハヒコ》とよめる心なり、と契冲云り、(荒木田氏が、田税《タチカラ》の子等なりと云るは、意得ず、)○打栲《ウツタヘ》は、打《ウツ》は、打麻《ウツソ》の打《ウツ》なり、これも一(ノ)卷に云るを、披(キ)見て考(フ)べし栲《タヘ》は、絹布の總名なり、○者經而織布《ハヘテオルヌノ》は、(者を上(ノ)句へ付て、打栲者《ウツタヘハ》といふは穩ならず、必(ス)下(ノ)句に付べし、)引延《ヒキハヘ》て織(ル)布といふなり、○日暴之(暴(ノ)字、拾穗本には曝と作り、)は、ヒサラシノ〔五字右○〕と訓べし、麻《ヲ》はまづ水に漬て、後に日に暴すなり、故(レ)かく云り、○朝手作《アサテヅクリ》は、(朝は借(リ)字、)(303)麻紵《アサテヅクリ》なり、紵は、和名抄に、白絲布(ハ)天都久利乃奴乃《テヅクリノヌノ》、字鏡に、紵繍(ハ)弖豆久利《テヅクリ》、とあり、既く十四に、多麻河泊爾左良須弖豆久利《タマガハニサラステヅクリ》云々、とある處に具(ク)云り、○信巾裳成《シキモナス》は、契冲、信巾裳《シキモ》は、重裳《シキモ》にて、かさぬるをいふかと云り、今按(フ)に、大甞祭式に、凡御2大甞殿(ニ)1之時云々、敷衾三條云々、縫殿寮式に、六月神今食御服云々、敷被一條(一疋)云々、新甞會御服云々、敷望※[こざと+施の旁]布《シキマウダヌノ》云々、正月齋會衆僧法服云々、赤練敷被二條(別一疋)云々、など見えたる敷《シキ》に同じく舗裳《シキモ》の義にて、茵褥《シトネ》の類をいふか、(荒木田氏が、醜裳なり、と云るは意得ず、)成《ナス》は如《ナス》なるべし、されどこはなほ意得ず、さるはシキ〔二字右○〕に、信巾の假字を用ひしとせむこと、いさゝか心ゆかず、まして巾(ノ)字は、集中に都て假字に用ひたる例なければ、信は、上の信櫛《マクシ》の例に眞《マ》なるべく、巾は手巾などの類にやとおもはるゝなり、(調布を手巾とすることは、大甞祭式に、手巾料(ノ)調布三端二丈四尺、並以2官物1分2付兩國1、と見えたり、)こは猶よく考(フ)べきことなり、○者之寸丹取爲支は、者は衍字にて(シキニトリシキ〔七字右○〕と訓て、重《シキリ》に取(リ)敷(キ)か、(荒木田氏が、之寸丹取を句にして、醜にとらしなり、と云るは、意得ず、)以上十句は、同じ年齡のなみ/\の女等に、思ひつかれたるのみに非ず、良(キ)人の女、賤者の女さへも、我に心うつして、さま/”\の絹布などを、舗裳の如く取敷て、容《カタチ》づくりすることにのみ、心を用ひたる謂にや、〔頭註、【之寸丹取を句にして、醜にとらしなりと云、爲支を下に付て爲支屋所經とする歟、荒木田氏説、更に考ふべし、】〕○屋所經(古寫小本に、屋經所とあり、)は、ヤドニフル〔五字右○〕と訓るは、ヤド〔二字右○〕を屋所と書るものとせるか、おぼつかなし、(304)又次下にも、經は、へ〔右○〕とフ〔右○〕の借(リ)字にのみ用ひたり、(されば、フル〔二字右○〕とは訓がたし、諸説《コトドモ》あれど、皆強解にて、用(ル)に足ず、)反歌に、丹穗所經迹《ニホヘレド》とあるを思へば、所經は、ヘル〔二字右○〕の借字なること著《イチジル》し、是によりて考(フ)るに、屋は逞(ノ)字を寫誤れるなどにやあらむ、逞(ハ)誇也、と字書に見えたり、されば逞所經にて、ホコロヘル〔五字右○〕と訓べし、五(ノ)卷に、安禮乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰《アレヲオキテヒトハアラジトホコロヘド》、とあり、こゝは丁女《ヲトメ》が、己が美貌に誇れる意もあるべく、また稻置《イナキ》は邑の長なれば、又人もなきごと、女心に誇れる意もあるべし、○稻寸丁女《イナキヲトメ》とは、稻寸《イナキ》は、成務天皇(ノ)紀に、縣邑(ニ)置2稻置(ヲ)1、允恭天皇(ノ)紀に、初皇后隨v母(ニ)在v家(ニ)、獨遊(タマフ)2苑中(ニ)1、時(ニ)闘鷄(ノ)國(ノ)造從2傍(ノ)徑1行之云々、然當2其日(ニ)1不v知2貴者(ヲ)1、於v是皇后赦2死刑(ヲ)1、貶(シテ)2其姓(ヲ)1謂2稻置(ト)1、とあり、契冲が、稻置は、今(ノ)世に、名手といふほどのものにや、それが女なれば、稻置丁女《イナキヲトメ》といへるなるべし、と云り、(契冲、又|稻舂《イナツキ》をとめといふを、つもじを略きたるなるべし、と云り、十四に、伊禰都氣波可加流安我手乎《イネツケバカカルアガテヲ》、又、於志弖伊奈等伊禰波都可禰杼《オシテイナトイネハツカネド》云々、神樂歌に、さゝなみやしがの唐崎や、みしねつくをみなよ、など見え、造酒司式に、新甞會白黒二酒料云々、舂稻仕女四人云々、大炊寮式に、凡供御料稻粟竝用2官田云々1、舂米女丁八人云々などあれば、よしあれど、稻舂を略きて、稻寸といはむことは、甘心《アマナハ》れず、)丁女《ヲトメ》と書るは、九(ノ)卷に、丁子《ヲトコ》とある處に具(ク)云り、○妻問迹《ツマドフト》(迹(ノ)字、古寫小本には跡と作り、)は、娉《ツマドヒ》すとて、といふ意なり、妻問は、三(ノ)卷眞間娘子(ガ)墓(ノ)歌に、廬屋立妻問爲家武《フセヤタテツマドヒシケム》、とある處に具(ク)云り、こゝは娉の物とて、次に云る云々のもの(305)を賚せるなり、古事記雄略天皇(ノ)條に、即幸2行其(ノ)若日下部(ノ)王之許(ニ)1、賜2入其犬(ヲ)1令v詔、是物者今日得v道之奇物(ナリ)、故(レ)都摩杼比之《ツマドヒノ》物(ト)云而|賜入《タマヒキ》也、とあり、○我丹所來爲は、次下にもかく見えたり、今按(フ)に、共に來は、賚(ノ)字の貝(ノ)畫の滅て、誤れるなるべし、(玉篇に、賚(ハ)與也賜也、とあり、)さてこゝは、ワニソタバリシ〔七字右○〕と訓べし、タバリ〔三字右○〕は、賜りといふに同じ、賤者より、良人へ物贈れるをも、受る方よりは、賜《タマハ》るといふは古(ヘ)の常なり、(又ワニソオコセシ〔七字右○〕とも訓べし、十八に、思良多麻能伊保郡都度比乎手爾牟須妣於許世牟安麻波牟賀思久母安流香《シラタマノイホツツドヒヲテニムスビオコセムアマハムカシクモアルカ》、十九に、紅之八鹽爾染而於己勢多流服之襴毛《クレナヰノヤシホニシメテオコセタルコロモノスソモ》、などあり、古言なり、さて今(ノ)世に、申(シ)越(ス)など云越(ス)は、於許須《オコス》の省かりたる言なり、しかるを、越(ノ)字の義と心得、於許須《オコス》といふをば、御越《オコス》といふことゝおもひて、此方より彼處へいひやるをも、申(シ)越など云は、甚非なり、こはことのついでにいふのみなり、)さてその賚《タマハ》れりし物は何々ぞ、浮方之《ウキカタノ》云々の品々なりといふ意を、かりに補《クハ》へて意得べし、その云々の品々を身に佩て、云々すればと、つゞく意なり、○彼方之は、岡部氏が、彼は浮(ノ)字の誤にて、ウキカタノ〔五字右○〕なるべし、と云り、淨方は、浮形《ウキカタ》にて、浮文《ウキモム》を云なるべし、織部司式に、浮物一疋、(長四丈廣二尺)料絲六斤二分云々、枕册子に、紅梅のかたもむ、うきもむの御|衣《ソ》ともに云々とあり、固文《カタモム》は、錦のやうに織付し紋をいふ、浮文《ウキモム》は、唐織のごとしとぞ、○二綾裏沓《フタヤシタクツ》とは、二綾《フタヤ》は、二色綾をいふか、主計式に、凡諸國輸調云々、三色綾十丁成v疋、(また一※[穴/果]綾、二※[穴/果]綾、三※[穴/果]綾、七※[穴/果]綾、小花綾、小鸚鵡綾、(306)薔薇綾、二花綾、菜花綾、竝上絲國七丁成v疋云々、とある、この二葉凌、二花綾などにもあらむかとおもへど、なほ二色なるべし、)織部司式に、年料云々、二色綾八疋云々、(また雜織云々、一※[穴/果]二※[穴/果]及菱小花等綾、各一疋料云々、)など見ゆ、裏沓《シタクツ》は襪《シタクツ》なり、和名抄に、説文(ニ)云、襪(ハ)足衣也、字亦作v襪(ニ)、和名|之太久頭《シタクツ》、字鏡に、※[衣+未]襪※[衣+未]※[皮+未](ハ)、皆同|志太久豆《シタクツ》、また韈(ハ)志太久豆《シタクツ》、などあり、綾して製れるは上品の襪なり、衣服令に、錦襪、掃部寮式に、凡設v座者、皇太子錦草塾、(襪錦表長副錦縁縹東※[糸+施の旁]裏、)と見えたり、(和名抄に、辨色立成(ニ)云、錦鞋以v綵(ヲ)爲v之、形如2皮履(ノ)1、綵(ハ)綾綵也、)○飛鳥《トブトリノ》は、枕詞なり、一(ノ)卷に具(ク)云り、○飛鳥壯蚊《アスカサトコガ》(壯(ノ)下、拾穗本には、士(ノ)字あり、されば舊本には、士(ノ)字の落しものぞともいふべけれども、しからず、)は、昔飛鳥の里に、鞜よく作りし人のありしにや、又は飛鳥は氏にて、鞜作るに名高きが有しにや、と岡部氏云り、猶考べし、さて壯(ノ)字のみにて、ヲトコ〔三字右○〕とよめる例、十(ノ)卷に、月人壯《ツキヒトヲトコ》、此(ノ)次に舍人壯《トネリヲトコ》などあり、○霖禁《ナガメイミ》は、革鞜は、日能(キ)ときぬるが、黒き色のよきにやあらむ、と岡部氏云り、本居氏は、長雨の時は、外にすべき業ならざれば、家の内に居て、鞜をぬふをいふにや、俗に云、雨ふりしごとゝ云意なり、と云り、○黒沓《クリクツ》は、和名抄に、唐韻(ニ)云、草(ヲ)曰(ヒ)v〓(ト)、麻(ヲ)曰(フ)v〓(ト)、革(ヲ)曰(フ)v履(ト)、和名並|久豆《クツ》、用2鞜(ノ)字1、また唐令(ニ)云、諸(ノ)〓履並(ニ)烏色、〓(ハ)重皮底、履(ハ)單皮底、和名與v履同(シ)、衣服令に、烏皮沓《クリカハ)クツ》、(義解云、謂烏皮(トハ)者|皀《クリ》皮也、〓者高(キ)鼻(ノ)履(ナリ)、)兵庫寮式に、大儀撃2鉦鼓(ヲ)1人著2云々白布(ノ)襪|烏〓《クリクツヲ》1云々、と見ゆ、さて以上六句は、丁女《ヲトメ》の思ひつきて、物を賚れる事を云、二綾裏沓、及この黒鞜(307)は、皆稻寸丁女が賚物なり、かにかくに心をつくして、思ひ慕ふ故、しかせるなり、○刺佩而《サシハキテ》は、襪のうへに、烏鞜を、指著てなり、皆丁女が賚物なり、○庭立《ニハニタチ》は、翁が庭に出立(ツ)さまなり、○住退は、必《キハメ》て誤字なるべし、故(レ)按(フ)に、住は往、退は廻の誤にて、ユキモトホレバ〔七字右○〕なるべきか、庭に出立て、かゆきかくゆきしつゝ往廻《ユキメグ》れば、といふなり、荒木田氏も、住を往に推(シ)改て、かくよめり、○莫立は、甚意得かてなるを、せめて思ひめぐらすに、まづ一(ツ)には、莫は母負の二字、立は之の誤寫にやあらむ、さらばオモトジノ〔五字右○〕と訓べし、六(ノ)卷に、妣刀自爾吾者愛兒叙《オモトジニアレハマナゴゾ》、廿(ノ)卷に、阿母刀自母多麻爾母賀母夜《アモトジモタマニモガモヤ》云々、(曾禰(ノ)好忠集長歌に、於母刀自《オモトジ》の乳房《チブサ》の報い云々、)負(ノ)字をトジ〔二字右○〕と訓(ム)例は、此(ノ)下に、女豆兒乃負《メツコノトジ》、と見えたり、二(ツ)には、莫は、母父の二字の誤寫にもあるべし、さらばオモチチノ〔五字右○〕と訓べし、母父《オモチヽ》と云る例は、集中に甚多し、この二(ノ)説、いづれ是《ヨ》けむ、(此(ノ)中に、字につきて云ば、母父の二字ぞ、莫(ノ)字に、今少(シ)混(レ)易かるべければ、後の説や可《ヨ》からむ、)但(シ)集中にも、女子は、大かた母の守事を作(ミ)て、父は關《アヅカ》り知らぬよしなれば、なほ前の説|可《ヨ》からむにや、見む人考へ閲《エラ》みてよ、○禁尾迹女蚊は、モラスヲトメガ〔七字右○〕と訓べし、モラス〔三字右○〕は、守《モル》の伸りたるにて、守(リ)給ふといふほどの意なり、禁(ノ)字は、禁衛《イサメマモ》る義もて書り、十二に、靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳《タマシアヘバアヒネシモノヲヲヤマダノシシタモルゴトハヽシモラスモ》、と見えたり、○彷彿聞而《ホノキヽテ》は、翁の若かりしほど、庭に立、往(キ)廻れる容貌の風流《ミヤビ》を、さる良(キ)人の女までも、ほのかに傳(ヘ)聞てなり、○我丹所來爲は、來は賚(ノ)字の誤にて、ワニソタバリシ〔七字右○〕と(308)訓べきこと、上に云るが如し、此は次の絹(ノ)帶へかけて意得べし、こゝもその賚《タマ》れりし物は何ぞ、水縹《ミハナダノ》云々の品なりといふ意を、かりにくはへて意得べし、その品を身に佩て云々すれば、とつゞく意なり、○水縹《ミハナタ》は、契冲、水色のはなだといふ心なり、と云り、又思ふに、水《ミ》は(借(リ)字にて、)眞《マ》といふに同じく、美稱《ホメコトバ》にてもあるべし、縹は青白色(ナリ)、とあり、字鏡に、※[并+色](ハ)縹也|波奈太《ハナダ》、とあり、言(ノ)意は、花織《ハナハタ》なるべし、花とは、月草(ノ)花をいふ、織《ハタ》とは、機して織《オ》れる絹布(ノ)類をいふ稱なること、上の結幡《ユヒハタ》の下に云るが如し、縹の帶は、催馬樂石川に、伊之加波乃古末宇止爾《イシカハノコマウトニ》、於比乎止良禮天《オビヲトラレテ》、加良支久以須留伊加名留於比曾《カラキクイスルイカナルオビソ》、波名大乃於比乃《ハナダノオビノ》、名加波太衣太留《ナカハダエル》、と見ゆ、○絹帶《キヌノオビ》は、母のもるをとめが賚《タバ》れるなり、四時祭式下云、凡香取(ノ)神宮樂人装束者、令2國司(ニ)1付領云々、(云々舞妓八人料云々、絹帶八條云々、)和名抄に、陸詞(カ)切韻(ニ)云、絹(ハ)※[糸+曾]帛也、和名|岐奴《キヌ》、○引帶成は、ヒコビナス〔五字右○〕と今村(ノ)樂訓り(キオ〔二字右○〕は、コ〔右○〕と切る、)和名抄に、陸詞(カ)曰、衿(ハ)小帶也、釋名(ニ)云、衿(ハ)禁也、禁不v得2解散1也、和名|比岐於比《ヒキオビ》、とあり、江次第にも、引帶見えたり、此は引帶の如くの意なるべし、荒木田氏(ガ)云、引帶は、今幼稚の兒の服の縫付たる帶をひこびと云(フ)は是(レ)なり、又源氏しひが本に、おびはかなげにしなして、ずゞ、ひきかくしてもたまへり、哢花抄に云、かけ帶のことなり、帶と云は、からきぬにそひたるものなり、小腰引腰とてあるなり、と云り、この引腰引帶に似たり、考(フ)べし、)○韓帶丹取爲は、カロビニトラシ〔七字右○〕と訓べし、(馬(ノ)腹帶をもハロビ〔三字右○〕と云と同(シ)例なり、ラオ〔二字右○〕の切ロ〔右○〕、字鏡に、(309)※[革+延](ハ)波呂比《ハロビ》、)韓帶は、弾正臺式に、凡紀伊(ノ)石帶隱文王者、及定摺石帶參議以上、刻鏤金銀帶及唐帶、五位以上、並聽2著用1。と見ゆ、荒木田氏云、こなたの帶は、衣服の外に取はなして、別なるを、異國の帶は、直に服に縫付て引帶なるにや、さるを韓帶とはいふにやあらむ、縹の絹を、さる帶に取なして、著たるなり、と云り、(和名抄に、唐※[韵の旁](ニ)云、※[糸+辟](ハ)織v絲(ヲ)爲v帶(ト)也、今按(ニ)加良久美《カラクミ》、といふとも見えたり、)○海神《ワタツミ》は、綿津見《ワタツミノ》神なり、○殿蓋《トノヽイラカ》は、殿《トノ》といふ言(ノ)意は、一(ノ)卷に具(ク)云り、蓋は、岡部氏イラカ〔三字右○〕と訓る宜し、和名抄居宅(ノ)具に、釋名(ニ)云、屋脊曰v甍(ト)、言(ハ)在v上(ニ)覆2家屋(ヲ)1也、和名|伊良賀《イラカ》、神代紀に、穿2殿甍《イラカヲ》1、など見えたり、○飛翔《トビカケル》は、仁徳天皇(ノ)紀(ノ)歌に、破夜歩佐波阿梅珥能朋利等弭箇慨梨《ハヤブサハアメニノボリトビカケリ》云々、と見ゆ、さて野山こそあらめ、海神の殿をいひ出しは心得ずと、岡部氏云るは、信にさることなり、(但し所由《ユヱ》なくして、たゞに海(ノ)宮をいふべきにあらねば、例のさる外(ツ)國の故事などはありつらむ、されどこゝは、さまで物遠きことを、設(ケ)出べき處にもあらず、)すべてかゝる異樣なることを、設(ケ)出たるなど、此(ノ)作者《ヨミビト》の僻なりけり、○爲輕《スガル》は、〓羸《スガル》なり、品物解に其(ク)云(リ)、○腰細丹《コシホソニ》は、九(ノ)卷|珠名娘子《タマナヲトメ》をよめる歌に、腰細之須輕娘子之《コシホソノスガルヲトメガ》、とあり、○取餝氷《トリカザラヒ》、(餝(ノ)字、拾穗本に飾と作り、)は、取かざりの伸りたるなり、(ラヒ〔二字右○〕の切リ〔右○〕、)伸て云よしは、上にことわれる如し、かの韓帶を、細き腰に装束《カザリ》なり、○眞十鏡《マソカヾミ》は、眞澄鏡《マスミカヾミ》にて、既く具く云り、○取雙懸而《トリナメカケテ》は、鏡を前後に懸て、容貌を相|映《ウツ》し見て、かたちつくろひをする故に、かく云るなり、○己蚊杲《オノガカホ》(杲(ノ)字、舊本果に誤、今改(ツ)、)は、己之貌《オノガカホ》なり、(310)杲(ノ)字は、カウ〔二字右○〕の音を轉して、貌《カホ》の假字に用ひたり、集中に、見杲石《ミガホシ》、朝杲《アサガホ》など書り、さて可保《カホ》とは、身體《ムクロ》の總《スベ》ての形容《ナリ》をいふ言なり、猶九(ノ)卷珠名をよめる歌に、其姿之端正爾《ソノカホノキラ/\シキニ》とある處に、具(ク)云り、(後(ノ)世、たゞ面をのみ云ことゝ意得るはあらず、後拾遺集に、人しれずかほには袖をおほひつゝなくばかりをぞなぐさめにする、とあるなどは、はやく轉れるなり、)○還氷見乍《カヘヲヒミツヽ》(還の下、一本に等(ノ)字あり、)は、装束するさまなり、さて此(ノ)句の下に、装束してといふ詞を、かりにくはへて意得べし、(荒木田氏が、此間に、吾丹所來爲の一句を補《クハ》へたるは、ひがことなり、又其(ノ)説ども皆あたらず、)○春避而《ハルサリテ》は、春に成ての意なり、既く一(ノ)卷に具(ク)註《イヘ》り、○野邊尾回者はヌヘヲメグレバ〔七字右○〕と訓べし、(回者は、モトホレバ〔五字右○〕と訓べくも思へども、こゝはメグレバ〔四字右○〕と訓べし、)十七に、乎美奈敝之佐伎多流野邊乎由伎米具利《ヲミナヘシサキタルヌヘヲユキメグリ》云々、(とあればなり、)さて以上十六句は、翁の若かりしほど、貌をとり装束りて、媚ありきしありさまを云るなり、○面白見《オモシロミ》は、七(ノ)卷に、烏玉之夜渡月乎※[立心偏+可]怜《ヌバタマノヨワタルツキヲオモシロミ》云々、とあり、既く具(ク)註(ヘ)り、愛美《メデウツクシ》む意なり、○我矣思經蚊《アレヲオモヘカ》は、我を可愛《ウツクシ》く思へばかの意なり、○狹野津鳥《サヌツトリ》は、狹《サ》は美稱にて、野津鳥《ヌツトリ》は雉子《キヾシ》なり、(たゞひろく野に居鳥を云るにはあらず、)十三に、野鳥雉動《ヌツトリキヾシハトヨム》云々、とあり、なほ後處に、古事記、書紀を引て云り、さて元(ト)は、野津鳥は、雉子といふべき枕詞なりしを、即(チ)かく云て、雉子のことゝせるは、青丹吉《アヲニヨシ》を、奈良《ナラ》、虚見津《ソラミツ》を、倭《ヤマト》と云ことゝせる類なり、○來鳴翔經《キナキカケラフ》は、雉子すらも、己《ワ》が風流《ミヤビ》たる容儀《スガタ》をめでなつかしみてか、來鳴(311)翔り親《ムツ》るゝとなり、翔經《カケラフ》は、翔《カケ》ル〔右○〕の伸りたるなり、(ラフ〔二字右○〕の切ル〔右○〕、)○名津蚊爲《ナツカシ》は、馴著《ナツカ》しにて、上に出たり、○行田菜引《イユキタナビキ》(田(ノ)字、古寫本に、思と作るは誤なり、)は、心なき天雲までも、吾をめでなつかしく思へばか、行靡くとなり、さて古寫小本に、イユキタナビキ〔七字右○〕とあれば、行の上に、伊(ノ)字脱しなるべし、三(ノ)卷|不盡山《フジノヤマノ》歌に、白雲母伊去波伐加利《シラクモモイユキハバカリ》、とあるをも、考(ヘ)合すべし、かくてこは、野津鳥の對句なれば、何ぞ外にいふべきこともあるべきを、雲をしもよめるは、契冲が云し如く、から國秦青が悲歌の、響遏2行雲1、又文選播安仁(ガ)、楊仲武(ノ)誄に、歸鳥〓〓、行雲徘徊、などあるを、思ひよせて云るなるべし、かゝる物遠き、外(ツ)國の故事など設(ケ)出たるも、此(ノ)作者の僻なり、○還立《カヘリタチ》は、野邊より還り發《タチ》なり、○路尾所來者は、オホチヲケレバ〔七字右○〕と訓べし、路《オホチ》は京大路《ミヤコオホチ》なり、和名抄に、唐※[韵の旁](ニ)云道路云々、四聲字苑(ニ)云、路(ハ)阡陌(ノ)總名也、和名|於保美知《オホミチ》とあり、ケレバ〔三字右○〕は、來ければの縮れるなり、(クレハ〔三字右○〕とよみては、所(ノ)字あまりてわろし、)十七に、使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》、とあり、○打日刺《ウチヒサス》は、枕詞なり、既く云り、○宮尾見名《ミヤヲミナ》は、官女をいふ、後宮職員令義解に、宮人、(謂婦人(ノ)任官者之總號也、)とある、これなり、(天智天皇(ノ)紀には、宮人をメシヲムナ〔五字右○〕と訓り、集中に宮人《ミヤビト》とよめるは別なり、)○刺竹之《サスダケノ》は、宮《ミヤ》また君《キミ》とも云へかゝる枕詞なり、既く云り、こゝは宮《ミヤノ》舍人の意得にて云るなり、○舍人壯《トネリヲトコ》は、舍人《トネリ》は既く云り、壯《ヲトコ》は上に見ゆ、○忍經等氷《シヌフラヒ》(等(ノ)字、古寫小本には无(シ)、)は、慕ひ賞愛《メデウツク》しみといふに同じ、慕は常には、シヌビ、シヌブ〔六字右○〕と用《ハタラ》くを、又シヌブル〔四字右○〕とも用《ハタラ》けば、伸てシヌブ(312)ラヒ〔五字右○〕ともいふなり、○還氷見乍《カヘラヒミツヽ》(還の下、拾穗本には、等(ノ)字あり、)は、わが容儀《スガタ》の風流《ミヤビ》を顧望《カヘリミ》しつつとなり、○誰子其迹哉《タガコソトヤ》は、誰(ガ)家の子ぞとゝなり、哉《ヤ》は、余《ヨ》といふに同じ辭なり、五(ノ)卷遊2於松浦河(ニ)1、序に、僕(レ)問(テ)曰(ク)誰(ガ)郷誰(ガ)家(ノ)兒等《コラゾ》、拾遺集神樂歌に、白銀《シロカネ》の目貫《メヌキ》の劔《タチ》をさげ佩《ハキ》て奈良《ナラ》の京《ミヤコ》をねるは誰子《タガコ》ぞ、○所思而在は、オモハレテアル〔七字右○〕と訓べし、そもあれは、誰(カ)家の子ぞやと、思はれてありけると、當昔のことを今云なり、○如是所爲故爲は、カクゾシコシ〔六字右○〕と訓べし、かくのごとくぞ爲て來りしといふ意なり、(カクゾシコナル〔七字右○〕と訓て、かくの如く老て、醜き人となりし、と云意に見る説は甚非し、爲(ノ)字は、此(ノ)歌にて、ナル〔二字右○〕と云に用ひぬ例なるをもおもへ、)○古部《イニシヘ》は、翁の當昔若年のほどを云、○狹狹寸爲我哉《ササキシアレヤ》とは、狹狹寸《ササキ》は、さゝめくことにて、女どもにあひまじはりて、さゝめきさわぎしを云、落窪物語に、四の君の御乳母、かのとのなりける人を、知たりけるをよろこび給て、さゝめきさわぎ給うて、ふみやらせ給ふめりといへば云々、源氏物語朝顔に、ゆめ/\いさら川なども、なれ/\しやとて、せちにさゝめきかたらひ給へど、なに事にかあらむ、などある、さゝめきも同言にや、榮花物語に、そゝき立て云々、源氏物語鈴蟲に、さまかはりたるいとなみに、そゝきあへる、いとあはれなるに云々、狹衣に、若宮おはして、そそきありき給ふ、などあるをゝきも、同じ辭なるべし、又古事記神武天皇(ノ)條に、爾(ニ)其(ノ)美人驚(テ)而立走(リ)、伊須々岐伎《イスヽキキ》、大殿祭(ノ)詞に、夜女能伊須々伎《ヨメノイスヽヤ》云々、事无久《コトナク》などあるも、伊《イ》は、發語にて、同言に(313)や、又源氏横笛に、うちわらひてなにとも思ひたらず、いとそゝかしうはひおりさせ、さわぎ給ふとあるも、そゝきをはたらかし云るなるべし、又大殿祭詞に、取葺計留草乃噪伎《トリフケルカヤノソヽキ》(古語(ニ)云|蘇々伎《ソヽキ》)无久《ナク》とあるは、物は異《カハ》れども言は同じ、哉《ヤ》は、輕く添たる詞なり、○端寸八爲《ハシキヤシ》は、愛《ハシ》き哉《ヤ》しにて、既く具(ク)云り、此は下の子等といふへ係れり、○今日八方《ケフヤモ》は、これも八方《ヤモ》は、常は疑ひて歎息く辭ながら、此《コヽ》は輕く添たる物と聞ゆ、○五十狹邇迹哉《イサニトヤ》とは、五十狹《イサ》は不知《イサ》にて、十一に、不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》、とある處に、具(ク)云るが如し、邇《ニ》は、阿那邇夜斯《アナニヤシ》の邇《ニ》にて、輕き詞なり、(荒木田氏が、不知を、しらにといふ邇《ニ》なり、と云るは、あらず)哉《ヤ》は、疑の哉《ヤ》にて、今日しも、愛子等《ハシキコラ》に、さありとは、いざ不知とおもはれてやある、といふ意なり、翁の身の若かりしほどのことを、かくかにかくあげつらひいひ聞えても、かく老衰《オイハテ》の身となれゝば、今は諸《ウベナ》はずやあるらむ、といふなり、○所思而在は、オモハレテアル〔七字右○〕と訓べし、○如是所爲故爲《カクソシコシ》は、上の如く、かくの如くぞ爲《シ》て來りしなり、子等には、不知《イサ》とやおもはれてある、されどもかくど爲來りしと、打かへし、ねもごろにいふなり、○古部之《イニシヘノ》、これより以下は、漢國の故事を擧て、老を尊ふべきためしを云なり、○賢人は、サカシキヒト〔六字右○〕と訓べし、(カシコキヒト〔六字右○〕とよめるは、甚誤なり、をも/\むかしより、サカシキ〔四字右○〕と、カシコ〔四字右○〕とを、混雜《ヒトツ》になせるは、いと/\非にて、そは余(レ)が具(キ)辨(ヘ)あり、)三(ノ)卷讃(ル)v酒(ヲ)歌に、古之七賢人等毛《イニシヘノナヽノサカシキヒトタチモ》、とある下に云るを、考(ヘ)合(ス)べし、○堅鹽將爲迹は、カヾミニセムト〔七字右○〕と(314)訓べし、廿(ノ)卷家持(ノ)卿喩(ス)v族(ヲ)歌に、美流比等乃可多里都藝弖弖伎久比等能可我見爾世武乎《ミルヒトノカタリツギテテキクヒトノカガミニセムヲ》、とあるを思(ヒ)合すべし、(本居氏は、堅監は、鑒の誤なるべし、と云れど、なほ本のまゝなるべし、)監與v鑒同と字註に見えたれば、監(ノ)字にてカヾミ〔三字右○〕と訓べく、堅は衍文ともいふべけれど、堅監にて、カガミ〔三字右○〕と訓まじきにもあらず、又思ふに、カタギニセムト〔七字右○〕とも訓べし、靈異記、已作v寺(ヲ)用2其寺(ノ)物(ヲ)1作(テ)v牛(ト)役縁(ノ)條に、此(ノ)事可v備(フ)2季葉楷模《スヱノヨノカタギニ》1、註に、楷模(ハ)二合|加多岐《カタギ》、とあり、和名抄に、唐韻(ニ)云、模(ハ)法也、形也、俗語云、加太岐《カタギ》、と見ゆ、加多岐《カタギ》は、形木《カタギ》の義にて、規模の事なり、されば堅監は、規鑒の義にて書るならむ、又|堅監《カタカヾミ》をも約れば、加多岐《カタギ》とはなれり、○持還來は、モチカヘリコシ〔七字右○〕と訓べし、此は漢國原穀と云しものゝうるさき故事なり、孝子傳(ニ)云、原穀者不v知2何許人(トイフヲ)1、祖年老(テ)》、父母厭(ヒ)患(フ)之、意(ニ)欲《オモフ》v棄(ムト)之、穀年十五、涕泣苦諌(ス)、父母不v從、乃作v輿舁棄之、穀乃隨收(メテ)v輿歸(ル)、父|謂《イヒケラク》之曰、爾《ナムヂ》焉(ゾ)用(ヒム)2此凶具(ヲ)1、穀(カ)曰(ク)、乃後父老不v能2更作(ルコト)1、得(テ)v是(ヲ)以收之耳、父感悟愧懼、乃載(テ)v祖(ヲ)歸(リ)、侍養更成(シキ)2純孝(ヲ)1、と云り、かゝる故事あれば、老たりとて厭ひ棄べきにあらず、身さかりなるそこたちも、後やがて老はてなば、己が今咲はるゝ如く、又若き人に嗤れなむものぞと、娘子を戒(メ)めたるなり、○歌(ノ)意は、首に云るを合(セ)見て考(フ)べし、すべて此(ノ)長歌、こちたき漢國の故事を主としてよめるなど、いとうるさく、人麻呂赤人の餘風は、きよく失り果て、今さだかに解得がたきふしども多くなむ、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
(315)3792 死者木苑《シナバコソ》。相不見在目《アヒミズアラメ》。生而在者《イキテアラバ》。白髪子等丹《シロカミコラニ》。不生在目八方《オヒザラメヤモ》。
 
木苑(木(ノ)字、舊本水に誤、類聚抄、古寫本、拾穗本等に從つ、苑(ノ)字、類聚抄に、薨と作るはいかゞ、)は、コソ〔二字右○〕なり、苑をソ〔右○〕と云は、崇神天皇(ノ)紀に、其(ノ)軍衆脅退、則追2破於河北(ニ)1、而斬(ルコト)v首(ヲ)過v半(ニ)、屍骨多溢(リキ)、故(レ)號2其處1、曰2羽振苑《ハフリソト》1、とあり、○白髪は、シロカミ〔四字右○〕と訓べし、十七に、布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマデニ》、拾遺集十五に、黒髪にしろ髪交り老る迄かゝる戀にはいまだ逢なくに、などあり、○不生の生(ノ)字、類聚抄に、なきはわろし、○歌(ノ)意は、早く死たらばこそ、白髪の生(ヒ)む時節を相見ずあらめ、存命《イキナガラヘ》てだにあらば、終に老はてゝ、子等にも、白髪生など、いと醜《ミニク》くなりなむものを、となり、
 
3793 白髪爲《シロカミシ》。子等母生名者《コラモオヒナバ》。如是《カクノゴト》。將若異子等丹《ワカケムコラニ》。所詈金目八《ノラエカネメヤ》。
 
第一二の句は、シロカミシコラモオヒナバ〔十二字右○〕、と今村(ノ)樂が訓たる宜し、シラガシテコラモイキナバ〔十二字右○〕とよむは、いとよろしからず、)爲《シ》は、其(ノ)一(ト)すぢなるをいふ助辭なり、○如是《カクノゴト》は、廿(ノ)卷に、夜麻夫伎乃花能左香利爾加久乃其等伎美乎見麻久波知登世爾母我母《ヤマブキノハナノサカリニカクノゴトキミヲミマクハチトセニモガモ》、古事記雄略天皇(ノ)御歌に、斯漏多閇能蘇弖岐蘇那布《シロタヘノソテキソナフ》、多古牟良爾阿牟加岐都岐《タコムラニアムガキツキ》、曾能阿牟袁阿岐豆波夜具比《ソノアムヲアキツハヤクヒ》、加久能碁登那爾淤波牟登《カクノゴトナニオハムト》、蘇良美都夜麻登能久爾袁阿岐豆志麻登布《ソラミツヤマトノクニヲアキヅシマトフ》、などあり、○將若異、こはいさゝか心得がたき字《モジ》づかひなれども、集中の一(ツ)の書樣《カキザマ》と見えたり、ワカケム〔四字右○〕とよむ、ケ〔右○〕の言を知さむために、異(ノ)字を添たるなり、七(ノ)卷に、從《ヨリ》2標之《シメシ》1、十(ノ)卷に、吾《ワレ》可《ベシ》2戀奴《コヒヌ》1、十三に、故可《ワレカ》將《ム》2戀奈《コヒナ》1、なども見(316)えたり、皆此(ノ)例なり、○所詈金目八《ノラエカネメヤ》は、嗚呼《アハレ》詈れじとすとも、詈れずある事を得むやは、といふなり、金《カネ》は、集中に多く不得《カネ》と書る如く、しかあらむと心に欲《ネガ》ふことの、つひにその本意を得ざるをいふ辭なり、目《メ》は牟《ム》の通へるなり、八《ヤ》は、也八《ヤハ》の也《ヤ》なり、○歌(ノ)意は、子等も年老て、ひたすらに白髪生なば、今かく吾が汝等に詈るゝ如く、若き子等に、又詈れわらはれなましものを、となり、
 
娘子等和歌九首《ヲトメラコタフルウタコヽノツ》。
 
3794 端寸八爲《ハシキヤシ》。老夫之歌丹《オキナノウタニ》。大欲寸《オホホシキ》。九兒等哉《コヽノヽコラヤ》。蚊間毛而將居《カマケテヲラム》。
 
老夫《オキナ》は、和名抄に、孫〓(カ)切韻(ニ)云、翁(ハ)老人也、和名|於岐奈《オキナ》、と見えたり、十七に、之許都於吉奈《シコツオキナ》、十八に、多比能於伎奈《タビノオキナ》、又、於吉奈佐備勢牟《オキナサビセム》、など假字書せり、續後紀十五、尾張(ノ)連濱主(ガ)》歌に、那那都義乃美與爾萬和倍留毛毛知萬利止遠乃於支奈能萬飛多天萬川流《ナナツギノミヨニマワヘルモモチマリトヲノオキナノマヒタテマツル》、○大欲寸《オホホシキ》は、集中に鬱悒と書てオホヽシキ〔五字右○〕とよめり、今もそれと同言にて、よろづおろそけなる兒等といふならむ、(契冲が、大に欲きにて、壽命を貪するなりと云るは、非ず、)老夫の歌に感服《カマケ》て、娘子が身を卑下《クダリ》てかく云なり、○九兒等哉は、コヽノヽコラヤ〔七字右○〕と訓べし、(荒木田氏がコヽノコラカモ〔七字右○〕、とよめるは非じ、)○蚊間毛而將居《カマケテテラム》は、契冲、感じてをらむなり、皇極天皇(ノ)紀に、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、便|感《カマケテ》所《ルヲ》v遇《メグマ》而語(テ)2舍人(ニ)1曰(ク)云々、孝徳天皇(ノ)紀には、減の字を、かまけてとも、おとしてとも訓り、今は感の字の心なり、(317)と云り、今村(ノ)樂は、蚊間毛《カマケ》は、負《マケ》にて、蚊《カ》は、可青《カアヲ》、可黒《カグロ》などいふ可《カ》にて、たゞにそへいふ言なり、負《マケ》したがひてをらむなり、と云り、荒木田氏は、信濃(ノ)國善光寺にては、迷惑がるといふやうの事を、かまけると云り、是(レ)古言にて、右の歌、その意にてよく聞えたり、同(ジ)國内ながら、上田邊にて、働くやうの事を、かまけると云るは、古意に違へり、と云り、猶考(フ)べし、○歌(ノ)意は、よろづおろそけなる心に、遠慮なくて、いつまでも、かくて壯にあらむ物と思ひおごりつるに、思はずも老夫の歌におどろかされて、九箇女子のこらず、皆其(ノ)道理に感じ服《シタガ》ひてや居む、となるべし、
 
3795 辱尾忍《ハヂヲシヌヒ》。辱尾黙《ハヂヲモダリテ》。無事《コトモナク》。物不言先丹《モノイハヌサキニ》。我者將依《アレハヨリナム》。
 
辱尾忍《ハヂヲシヌヒ》(尾(ノ)字、類聚抄に無はわろし、)は、愚なる吾(ガ)身の、恥かしとおもふことをも堪(ヘ)忍びてといふなり、○辱尾黙は、ハヂヲモダリテ〔七字右○〕と訓べし、(モダシテ〔四字右○〕と訓はわろし、)自(ラ)黙るを云ばなり、黙の言は、既く具(ク)云り、契冲云、班固が妹の班昭が作れる、女誡七篇(ニ)云、忍(ビ)v辱(ヲ)含(ミ)v垢《ハヂヲ》、常(ニ)若(シ)2畏懼(スルガ)1、とあり、竹取(ノ)翁、すでに故事を引てよみつれば、仙女も此(ノ)女誡の心にてや、辱を忍び辱を黙てとは、よみ侍りけむ、と云り、○無事《コトモナク》は、無事平穩に、と云なり、○物不言先丹《モノイハヌサキニ》は、彼是《カニカク》論《ロウ》じいふこともなき前に、となり、○我者將依《アレハヨリナム》は、吾は翁に服從《シタガ》ひなむ、となり、○歌(ノ)意は、翁にかく詈《ノリ》かへさるゝを聞(ク)に、いかにも理當然《コトワリ》なれば、事も無く、とかく論じ言ぬ前に、はやく翁に服從なむ、となり、さて此は、最初《イヤサキ》に從むと云るなれば、吾者《アレハ》と云り、これより下は、此(ノ)歌をうけて、吾も/\と云(318)るなれば、我藻《アレモ》とよめり、
 
3796 否藻諾藻《イナモヲモ》。隨欲《ホリノマニ/\》。可赦《ユルスベキ》。貌所見哉《カタチハミエヤ》。我藻將將《アレモヨリナム》。
 
否藻諾藻は、イナモヲモ〔五字右○〕と訓べし、俗に伊也《イヤ》も遠々《ヲヽ》もといふに同じ、否《イナ》はうけがはぬ言、諸《ヲ》は、人のいらへに、唯々《ヲヽ》といふに同じく、諾《ウケガ》ふ言なり、鳴門(ノ)中將物語に、人のめし侍る御いらへに、男はよと申(シ)、女はをと申なり、古今著聞集に、人のめす御いらへに、男はよと申し、女はをと申すなり、とあり、源氏物語行幸に、いづらこの近江(ノ)君、こなたにとめせば、をといとけざやかに聞えて、出來たり、とある、其(レ)なり、(但し古(ヘ)は、男女ともに、をと云しなり、)後撰集に、親のまもりける女を、いなともせとも、いひ放てとまうしければ、いなせとも云放たれずうきものは身を心ともせぬ世なりけり、とあるも、せは、をを寫し誤れるにて、いなともをとも、又いなをともとありしなるべし、(人のいらへに、せといひたる例なければなり、仁賢天皇(ノ)紀に、諾(ノ)字をセ〔右○〕と訓るは、この後撰の誤にまよへるより出たる、非訓《ヒガヨミ》なるべし、)さて又後に、この諾を宇《ウ》とも云り、(源(ノ)信明集歌に、今日の内にいなともうともいひはてよ人だのめなることなせられそ、袖中抄(ノ)歌に、くもとりのあやのいなうもおもほえず君をあひ見てさだの經ぬれば、拾玉集(ノ)歌にも、なやうや、とあり、)○隨欲は、ホリノマニマニ〔七字右○〕と訓べし、○可赦《ユルスベキ》は、(赦は借(リ)字)可(キ)v許(ス)なり、○貌所見哉は、カタチハミエヤ〔七字右○〕と訓べし、哉《ヤ》は、水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》、雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》、など云る哉《ヤ》と同じく、(319)乞望ふ意の言なり、(契冲が、かたち見えめやと訓て、かくおもふ心はあれど、心は色もなきものなれは、外にあらはれてかたちの見えむや、されどまことの心をもちて、吾もよりなむとなり、と云るは、物遠し、)○歌(ノ)意は、かゝるうへは、否《イナ》をも諾《ヲ》をもいはず、翁の欲せむまゝに、同輩《ワナミ》の娘子《ヲトメ》も、皆|許容《ユルス》べき容貌《カタチ》に見えよかし、いで吾も從ひなむを、と云るなり、
 
3797 死藻生藻《シニモイキモ》。同心跡《オヤジコヽロト》。結而爲《ムスビテシ》。友八違《トモヤタガハム》。我藻將依《アレモヨリナム》。
 
同心跡《オヤジコヽロト》(跡(ノ)字、類聚抄、拾穗本等には迹と作り、)は、十二に、幼婦者|同情《オヤジコヽロニ》、とあり、同を古言に、オヤジ〔三字右○〕といふことは既く具(ク)云り、○結《ムスビ》は、約束《ムスビチギリ》なり、九(ノ)卷詠(ル)2浦島子(ヲ)1歌に、加吉結常世爾至《カキムスビトコヨニイタリ》、とよめり、字鏡に、期(ハ)契約也、要也、阿比牟須比波加留《アヒムスビハカル》、○友八違は、トモヤタガハム〔七字右○〕と訓べし、友に乖違《ソムキタガ》はむやは、といふなり、(略解に、八は不の誤にて、ともにたがはずとありしなるべし、と云るは、ひがことなり、)○歌(ノ)意は、死ぬべき事も、生てあるべき事も、何によらず、同(ジ)心にせむと、堅く契り約びし友に、乖違《タガ》はむやは、いで/\、吾も翁に從なむ、となり、
 
3798 何爲迹《ナニストカ》。違將居《タガヒハヲラム》。否藻諾藻《イナモヲモ》。友之波波《トモノナミナミ》。我裳將依《アレモヨリナム》。
 
何爲迹は、迹の下に、蚊(ノ)字などの落しなるべし、ナニストカ〔五字右○〕と訓べし、(本居氏は、迹は邇の誤にて、ナニセムニ〔五字右○〕と訓べし、と云れど、わろし、凡て此(ノ)長歌短歌、ニ〔右○〕には皆丹(ノ)字をのみ用ひたれば、こゝのみ邇(ノ)字を書りともおもはれねばなり、)四(ノ)卷に、中中煮黙毛有益呼何爲跡香相見始兼(320)不遂爾《ナカナカニモダモアラマシヲナニストカアヒミソメケムトゲザラナクニ》、九(ノ)卷に、何爲跡歟身乎田名知而《ナニストカミヲタナシリテ》云々、などよめり、何とてかといふ意なり、○波波《ナミナミ》は、竝竝《ナミナミ》なり、○歌(ノ)意は、何とてか、我(レ)獨友に乖違ひ居むやは、友の竝々に、いで我も翁に從なむ、となり、
 
3799 豈藻不在《アニモアラヌ》。自身之柄《オノガミノカラ》。人子之《ヒトノコシ》。事藻不盡《コトモツクサジ》。我藻將依《アレモヨリナム》。
 
豈藻不在《アニモアラヌ》とは、アニ《アニ》は、何に通ふ言にて、何の能《ノウ》もなき、といふ意なり、と荒木田氏云るが如し、○自身之柄《オノガミノカラ》、とは、柄《カラ》は故《ユヱ》といふに同言にて、こゝは、何もあらぬ己が身なるものをの意なり、○人子《ヒトノコ》は、同輩《トモガラ》の娘子等《ヲトメラ》を云なり、他(ノ)子の義《コヽロ》なり、○事藻不盡《コトモツクサジ》は、(事は借(リ)字、)不《ジ》v令《シメ》v盡(サ)v言(ヲモ)なり、言を盡すとは、いな從(ハ)じや、從へよなどいひて、すゝめいざなふよしなり、○歌(ノ)意は、何の能もむなき己が身なる物を、我をすゝめいざなふとて、同輩の言を盡し費さしめぬさきに、吾もはやく翁によりなむ、となり、
 
3800 者田爲爲寸《ハタススキ》。穗庭莫出《ホニハイデジト》。思而有《シヌヒタル》。情者所知《コヽロハシレツ》。我藻將依《アレモヨリナム》。
 
者田爲爲寸《ハタススキ》は、枕詞なり、○穗庭莫出《ホニハイデジト》は、色に出しては、顯はさじとゝいふ意なり、穗《ホ》は何にまれ、物のそれと著《イチジル》くあらはれ出るをいふ言なり、○思而有は、シヌヒタル〔五字右○〕と訓べし、堪忍びてある意なり、○情者所知は、ココロハシレツ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、いで色にはあらはさじと、堪忍びたる意底《コヽロ》は、翁に頓《トク》相あらはされたるからは、彼是《カニカク》いふ事なしに、いざわれも從なむと(321)なり、
 
3801 墨之江之《スミノエノ》。岸野之榛丹《キシノヌハリニ》。丹穗所經迹《ニホヘレド》。丹穗葉寐我八《ニホハヌアレヤ》。丹穗氷而將居《ニホヒテヲラム》。
 
岸野之榛は、荒木田氏云、野之の二字入まがひたるにて、岸野之榛《キシノヌハリ》なるべし、と云り、さもあるべし、野榛《ヌハリ》は、一(ノ)卷に、狹野榛《サヌハリ》とある處に云り、又品物解にも具(ク)云、○丹穗所經迹《ニホヘレド》は、雖《ド》v令《セレ》v染《ニホハ》の意なり、(ハセ〔二字右○〕は、ヘ〔右○〕と約る、)こは雖《ド》v令《セレ》v響《トヨマ》を、トヨメレド〔五字右○〕といふと全(ク)同(ジ)例の活用《ハタラキ》なり、八(ノ)卷に、平山乎令丹黄葉《ナラヤマヲニホフモミチバ》云々、とあるも、令《ス》v丹《ニホハ》を、ニホフ〔三字右○〕といへるなり、(ハス〔二字右○〕は、フ〔右○〕と約る、)○我八は、アレヤ〔三字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は墨(ノ)江の岸の野榛を、摺(リ)著て染たれども、ふつゝかなる衣なれば、なつかしき色に染あへざる事の如く、もとよりはえなき吾(ガ)身なれど、信服《ウケシタガ》ひたる翁の事なれば、心のかぎりなまめき媚てや從《ヨリ》居む、となるべし、(本居氏、にほふは、うつる意にて、榛の色にうつらしむとすれど、うつらぬ我といふにて、墨(ノ)江のはりにてすれど、色のうつらぬ如く、物にうつらぬ我なれども、翁にはうつりよらむとなり、と云り、これもさる事ながら、次の歌の丹穗氷因將《ニホヒヨリナム》とあるを思ふに、なほ媚(ビ)從(フ)意なるべし、又荒木田氏が、丹穗氷而將居《ニホヒテヲラム》を、赤面して恥る意に見たるは、いかゞなり、)
 
3802 春之野乃《ハルノヌノ》。下草靡《シタクサナビキ》。我藻依《アレモヨリ》。丹穗氷因將《ニホヒヨリナム》。友之隨意《トモノマニマニ》。
 
乃(ノ)字、古寫小本には之と作り、○下草《シタクサ》は、十一に、櫻麻乃苧原之下草《サクラヲノヲフノシタクサ》云々、とよめり、現存六帖に、(322)下草、里わかず春の日影はてらせどもまだ露ほさぬ谷の下草、○困將《ヨリナム》は、將因と書べきを、かく書るゴとき例は、集中に往々《コレカレ》あり、○歌(ノ)意は、春(ノ)野の下草の、一(ト)方に靡(キ)依(ル)如く、吾も同輩の娘子とともに、媚(ビ)從ひ依なむ、となり、十四に、武藏野乃久佐波母呂武吉可毛可久母伎美我麻爾末爾吾者余利爾思乎《ムザシヌノクサハモロムキカモカクモキミガマニマニアハヨリニシヲ》、(草によせて靡(キ)依(ル)を云ること、今と同じ、)
 
昔者《ムカシ》有《アリキ》2壯士《ヲトコト》與《ト》2美女《ヲトメ》1也。【姓名未詳。】不《ズテ》v告《シラセ》2二親《チヽハヽニ》1。竊爲交接《シヌヒアヒタリキ》。於時娘子之意《トキニヲトメノコヽロニ》。欲《オモヒテ》2親《オヤニ》令《セマク》1v知《シラ》。因作歌詠《ウタヨミテ》。送2與《オクレル》其夫《ソノセニ》1歌曰《ソノウタ》。
 
親令、拾穗本には、令親と作り、○因(ノ)字、類聚抄には自と作り、○夫(ノ)字、舊本父に誤、今は古寫小本、官本、拾穗本等に從つ、
 
3803 隱耳《コモリノミ》。戀者辛苦《コフレバクルシ》。山葉從《ヤマノハニ》。出來月之《イデクルツキノ》。顯者如何《アラハサバイカニ》。
 
隱耳は、コモリノミ〔五字右○〕と訓べし、十(ノ)卷に、隱耳戀者苦瞿麥之花爾開出與朝旦將見《コモリノミコフレバクルシナデシコガハナニサキデヨアサナサナミム》、十一に、隱庭戀而死鞆三苑原之鷄冠草花乃色二出目八方《コモリニハコヒテシヌトモミソノフノカラヰノハナノイロニデメヤモ》、○第三四の句は、顯を云む料の序なり、○顯者如何《アラハサバイカニ》は、顯《アラ》はしなばいかゞあらむ、と問かけたる詞なり、七(ノ)卷に、玉津島能見而伊座青丹吉平城有人之待間者如何《タマヅシマヨクミテイマセアヲニヨシナラナルヒトノマチトハバイカニ》、又、大海之波者畏然有十方神乎齋禮而船出爲者如何《オホウミノナミハカシコシシカレドモカミヲイハヒテフナデセバイカニ》、古事記に、故(レ)以吾(カ)身(ノ)成(リ)餘(レル)處(ヲ)、刺d塞《サシフタギ》汝(ガ)身(ノ)不《ザル》2成(リ)合(ハ)1處(ニ)u而《テ》、爲《オモフハ》v生(ミ)2成(ムト)國土(ヲ)1奈何《イカニ》、などあるに同じ、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
〔右或(ヒトノ)曰。男有(リト)2答(ヘ)歌1者《イヘリ》。未v得2探(リ)求(ルコトヲ)1也。〕
(323)右(ノ)字、古寫小本には无て、或曰已下、歌の下に小書せり、
 
昔者《ムカシ》有《アリケリ》2壯士《ヲトコ》1。新《アラタニ》成《シテ》2婚禮《ヨバヒ》1也。未《ヌニ》v經《アラ》2幾時《イクダモ》1。忽《タチマチニ》爲《ナリテ》2驛使《ハユマツカヒト》1。會期《アフトキ》無《ナシ》v日《ヒ》。於是娘子《コヽニヲトメ》。感慟悽愴《カナシミテ》。沈臥疾※[病垂/尓]《ヤマヒニコヤレリキ》。累《ヘテ》v年《トシ》之後《ノチ》。壯士還來《ヲトコカヘリキテ》。覆命既了《カヘリコトマヲシヲヘテ》。乃詣相視《スナハチユキアヒミルニ》。而|娘子之姿容《ヲトメノカホ》。疲羸甚異《イタクミツレテ》。言語哽咽《コトトヒムセビキ》。于時壯士哀嘆流涙《トキニヲトコカナシミテ》。裁歌口號《ウタヨミセル》。其歌一首《ソノウタヒトツ》。
 
※[病垂/尓]の字は、疹に通(ハシ)用たるならむ、
 
3804 如是耳爾《カクノミニ》。有家流物乎《アリケルモノヲ》。猪名川之《ヰナガハノ》。奧乎深目而《オキヲフカメテ》。吾念有來《アガオモヘリケル》。
 
第一二(ノ)句は、三(ノ)卷に、如如是耳爾有家類物乎芽子花咲而有哉跡問之君波母《カクノミニアリケルモノヲハギガハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》、十二に、如如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將着跡吾念有家留《カクノミニアリケルキミキヌナラバシタニモキムトアガモヘリケル》、○猪名川之《ヰナガハノ》は、次の句をいはむ料に云るなり、猪名《ヰナ》は、和名抄に、攝津(ノ)國河邊(ノ)郡|爲奈《ヰナ》、とある地なり、三(ノ)卷に、猪名野《ヰナヌ》、七(ノ)卷に、居名野《ヰナヌ》、又、居名野湖《ヰナノミナト》など見えたり、(皆同(ジ)地なり、)川は、十一に、四長鳥居名山響爾行水乃《シナガトリヰナガハトヨミユクミヅノ》云々、とある、是なり、○奧乎深目而《オキヲフカメテ》は、契冲云、第十四に、行末をかくるを、おくをかぬるとよめり、今のおきを深めては、其(ノ)こゝろなりと、云り、○歌(ノ)意は、かくばかりに、我を待わび戀やせて、しぬべくならむとはしらずして、只行末をかねてのみ、あがおもひたりしが、今夏更悔しと、云るなるべし、
 
娘子臥《ヲトメフシナガラ》聞《キヽテ》2夫君之歌《セノキミノウタヲ》1。從v枕擧v頭(ヲ)應v聲(ニ)和歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
(324)3805 鳥玉之《ヌバタマノ》。黒髪所沾而《クロカミヌレテ》。沫沫雪之《アワユキノ》。零也來座《フルニヤキマス》。幾許戀者《コヽダコフレバ》。
 
零也來座は、フルニヤキマス〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、そこばく戀しく思ひしに、其(ノ)かひありて、沫雪の零(ル)に黒髪沾て、からうして來座せるにやあらむ、となり、契冲云、わが身を置て、くろかみヌれてと、をとこのうへをいたはりよめるが、あはれなり、
〔今按(ニ)。此(ノ)歌。其(ノ)夫被v使。既(ニ)經2累載(ヲ)1。而當(テ)2還時(ニ)1雪落之冬也。因v斯(ニ)娘子作2此沫雪之句(ヲ)1歟。〕
 
娘子《ヲトメガ》贈2與《オクレル》夫《セニ》1歌一首《ウタヒトツ》1〔八字各○で囲む〕。
 
3806 事之有者《コトシアラバ》。小泊瀬山乃《ヲハツセヤマノ》。石城爾母《イハキニモ》。隱者共爾《コモラバトモニ》。莫思吾背《ナオモヒワガセ》。
 
事之有者《コトシアラバ》は、四(ノ)卷に、吾背子波物莫念事之有者火爾毛水爾毛吾莫亡國《ワガセコハモノトナオモホシコトシアラバヒニモミヅニモワレナケナクニ》、とよめり、○石城は、イシキ〔三字右○〕とも、イハキ〔三字右○〕とも訓べし、契冲、天智天皇(ノ)紀(ニ)云、皇太子謂2羣臣1曰、吾奉2皇太后、天皇之所1v勅、憂2恤萬民(ヲ)1之、故不v起2石槨之《イシキノ》役(ヲ)1、此(ノ)集第九、處女墓をよめる歌に、玉ほこのみちのべちかくいはかまへつくれるつかを、とよめる、これ石城なり、と云り、○莫思吾背《ナオモヒワガセ》は、四(ノ)卷に、他辭乎繁言痛不相有寸心在如莫思吾背《ヒトゴトヲシゲミコチタミアハザリキコヽロアルゴトナオモヒワガセ》、○歌(ノ)意は、しのびて相かたらふことのあらはれて、父母のせめいみじくして、もし事の出來りつゝ、共に死ぬとも、同じおくつきに埋もらむものぞ、いつまでも、心にかはりはあるべからねば、いで彼此《カニカク》物念ふことなかれ、となり、○常陸風土記、新治郡(ノ)條に、自v郡以東五十里、在2笠間村1、越2通道路(ヲ)1、稱2葦穗山(ト)1、古老曰、古(ヘ)有2山賊1、名(ヲ)稱2油置賣命(ト)1、今社中(ニ)在2(325)石屋1、俗歌曰、許智多難〔艱歟〕波畢婆頭勢夜麻能伊波歸爾母爲弖許母郎牟奈古非叙和支母《コチタカバヲハツセヤマノイハキニモヰテコモラムナコヒソワギモ》、とあるは、今の歌を取て、少《イサヽ》か句を換《カヘ》て、彼地《カシコ》に歌(ヒ)傳(ヘ)たるなるべし、
 
右傳云《ミギイヒツテケラク》。時《ムカシ》有《アリケリ》2女子《ヲミナ》1。不《ズテ》v知《シラセ》2父母《チヽハヽニ》1竊2接《シヌヒアヒタリキ》2壯士《ヲトコニ》1也。壯士《ヲトコ》※[立心偏+束]2※[立心偏+易]《カシコミテ》其親呵嘖《ソノオヤノコロビヲ》1。稍《ヤヽ》有《アリ》2猶豫之意《イザヨフコヽロ》1。因《ヨリテ》v此《コレニ》娘子《ヲトメ》裁2作《ヨミテ》此謌《コノウタヲ》1。贈2與《オクレリトイヘリ》其夫《ソノセニ》1也。
 
前采女詠歌一首《サキノウネベガヨメルウタヒトツ》〔七字各○で囲む〕。
 
3807 安積香山《アサカヤマ》。影副所見《カゲサヘミユル》。山井之《ヤマノヰノ》。淺心乎《アサキコヽロヲ》。吾念莫國《アガモハナクニ》。
 
安積香山《アサカヤマ》は、和名抄に、陸奥(ノ)國安穩(ノ)(阿佐加《アサカ》)郡、とある、其郡の山なり、八(ノ)卷に、待時而落鐘禮能雨令零收朝香山之將黄變《トキマチテシグレノアメノシキフレバアサカノヤマノウツロヒヌラム》とも見えたり、(此は同(ジ)山か、さて後に名高き安積(ノ)沼も、此(ノ)山の麓にあり、沼は今は田となりて、いさゝか形のみ殘れりとぞ、又二(ノ)卷に、淺香乃浦《アサカノウラ》、十一に、朝香方《アサカガメ》とあるは、別地《コトトコロ》なり、)○影副所見《カグサヘミユル》は、水の清明《サヤカ》なるをいふなり、十三に、天雲之影塞所見隱來笶長谷之河者《アマクモノカゲサヘミユルコモリクノハツセノカハハ》云々、と見えたり、○山井《ヤマノヰ》は、やがて安積山の井泉にて、淺をいはむためなり、山(ノ)井は、人の深く穿まうけたるとは異にて、水淺きものなればなり、(郡山より二里許西の方、片平と云村に、山の井ありて、采女が塚と云もありと、池川(ノ)春水が紀行にしるせり、)○歌(ノ)意は、本(ノ)句は序にて、吾は淺はかなる心を思ひはせぬ物なるを、何故に、王の意の和《ナゴ》み給はぬにや、といふこころを、ふくませたるなり、
 
(326)右歌傳云《ミギノウタハイヒツテケラク》。葛城王《カヅラキノオホキミ》。遣《ツカハサエシ》2于|陸奥國《ミチノクノクニニ》1之時《トキ》。國司祇※[様の旁]緩怠異甚於時《クニノミコトモチアヘシラフコトオロソカナリケレバ》。王意《オホキミノコヽロニ》不《ズ》v悦《ヨロコビ》怒色顯面《オモホデリマシテ》。雖《ドモ》v設《マケシカ》2飲饌《ミアヘヲ》1、不《ザリキ》v肯《シタマハ》2宴樂《ウタゲヲモ》1。於是《コヽニ》有《アリテ》2前采女風流娘子《サキノウネベミサヲヲトメ》1。左手《ヒダリノテニ》捧《サヽゲ》v觴《サカヅキヲ》右手《ミギノテニ》持《モチ》v水《ミヅヲ》。撃《ウチテ》2之|王膝《オホキミノミヒザニ》1。而|詠《ヨミキ》2此歌《コノウタヲ》1。爾乃王意解脱《コヽニオホキミノコヽロナゴミテ》。樂2飲《ウタゲアソビキトイヘリ》終日《ヒネモスニ》1。
 
葛城(ノ)王は、契冲、いづれにか侍らむ、伊豫(ノ)國風土記云、湯(ノ)郡、天皇等於v湯幸行降坐五度也、以2上宮聖徳(ノ)皇子(ヲ)1爲2一度(ト)、及侍高麗(ノ)慧總僧、葛城(ノ)王等也、天武天皇(ノ)紀云、八年秋七月己卯、朔乙未、四位葛城(ノ)王卒、次に左(ノ)大臣橘(ノ)朝臣諸兄を初(メ)葛城(ノ)王と名づく、此(ノ)三人の中に、天武天皇(ノ)紀に見えたる葛城(ノ)王なるべき歟、その故は、伊豫風土記は、文拙ければ信じがたし、橘(ノ)朝臣は、家持ことに知音なり、と見えたれば、當時の事にて、右(ノ)歌傳云と云べからず、第六(ノ)卷に、橘(ノ)姓をたまふ時の御製をのせ、第八に、右(ノ)大臣橘(ノ)家宴歌を載たり、もし左(ノ)大臣、いまだ葛城(ノ)王なりける時なりとも、左大臣の事なりと註すべしとおぼゆ、と云り、○前(ノ)采女は、天武天皇の御時より以往に、京に上れりし采女の暇あきて、此(ノ)ほど國に下り居しなり、續紀に、大寶二年四月壬子、令d筑紫(ノ)七國、及越後(ノ)國(ヲシテ)、簡2點采女兵衛1貢u之、但陸奥(ノ)國勿v貢(ルコト)、と見えて、此年より以後は、陸奥より采女を貢る事止たるなるべし、○右(ノ)手持v水云々は、契冲云、これ山(ノ)井といはむため、またたはぶれごとによせて、怒をやはらげしめむがためなり、古今集序に、たはぶれよりよみて、と云るは、此ゆゑなり、○撃2之王膝(ニ)1(撃(ノ)字、古寫小本に、繋と作るは非なり、)は、本居氏、膝に水をうちそゝぐなり、俗(327)にも水を打(ツ)と云こと、これなり、と云り、○此(ノ)字、舊本には其と作り、官本、拾穗本等に從つ、○王意解脱云々、古今集序(ニ)云、難波津の歌は、みかどのおほむはじめなり、安積山のことのはゝ、采女の戯より作て、(かづらきのおほきみを、みちのおくへつかはしたりけるに、國(ノ)司ことおろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、采女なりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、)このふたうたは、うたの父母のやうにてぞ、てならふ人のはじめにもしける、大和物語に、昔(シ)大納言の女、いとうつくしうてもち給ひたりけるを、みかどに奉らむとてかしづき給うける、内舍人にてありける人、いかでか見けむ、此(ノ)むすめを見て云々、かきいだきて馬にのせて、みちのくにへにげていにけり、安積(ノ)郡安積(ノ)山といふ所に庵を造りて、この女をすゑて、里に出つゝ、物など求めて來つゝくはせて、年月を經てありへけり云々、山の井にいきてかげを見れば、わがありしかたちにもあらず、あやしきやうになりにけり、いとはづかしと思ひけり、さてよみたりける、安積山陰さへ、見ゆる山の井の淺くは人を思ふ物かは、とよみて、木に書付て、庵に來て死けり、とあるは、今の歌によりて、つくれる物語なり、
 
鄙人作歌一首《イヤシキヒトノヨメルウタヒトツ》〔六字各○で囲む〕
 
3808 墨江之《スミノエノ》。小集樂爾出而《ヲヅメニイデテ》。寤爾毛《マサメニモ》。己妻尚乎《オノヅマスラヲ》。鏡登見津藻《カヾミトミツモ》。
 
(328)小集樂は、舊本に、ヲヅメ〔三字右○〕、とよめり、是(レ)古言にや、略解に、住吉(ノ)梅園(ノ)日向(ガ)説を擧て云、住吉民間の風俗に、毎年二月廿日より廿二日に至るまで、饗膳を連ね酒盃を設(ケ)、宴飲合樂、遊戯蹈躍、心の行所を縱にす、先(ヅ)別に水火を改め、神供を大神に獻(リ)、神前に詣て千度拜回をなす、故に昔(シ)より、此遊を名づけて千度講といふ、或は明神講、又は時梨講などいへり、小集は、此(ノ)遊の事かと云り、(已上)又ヲベラ〔三字右○〕と訓る本もあり、仙覺(ガ)云、有(ル)抄(ニ)云、をべらとは、ゐなかものゝ、出あつまりて遊ぶを云なり、それに住吉には、年ごとにをべら井《ひ袖中》とてあそぶ、とあり、この義にて、此(ノ)歌の第二(ノ)句をべらにいでゝと云るなり、(已上)ヲベラ〔三字右○〕といふも古言なるべし、(孰(レ)か是《ヨ》けむ、猶能考(フ)べし、)袖中抄(ニ)云、世俗の詞に、物をほめてゆゝしげなるを、をべらひかなと申(ス)は、このあそびをいふより、ことおこれるにや、○寤爾毛は、(ウヽツニモ〔五字右○〕と訓るに依(リ)て、契冲は、さだかなる心なりと云り、)今按(フ)に、寤の上に、眞(ノ)字などの脱たるにはあらぬにや、もしさあらば、マサメニモ〔五字右○〕と訓べし、(寤は借(リ)字なり、)正目《マサメ》にもの義なり、十三に、犬馬鏡正目君乎相見天者社《マソカゞミマサメニキミヲアヒミテバコソ》、佛足石碑(ノ)御歌に、與伎比止乃麻佐米爾美祁牟美阿止須良乎《ヨキヒトノマサメニミケムミアトスラヲ》云々、また麻爲多利弖麻佐米爾彌祁牟阿止乃止毛志佐乎《マヰタリテマサメニミケムアトノトモシサヲ》、など見ゆ、○己妻尚乎《オノヅマスラヲ》は、つねに相見るには、さのみめでたからぬを、この會衆の中にて、他女に比べ見れば、ことに秀《スグ》れてめづらしくおもはるれば、己妻にてある其(レ)さへをといふ意に、尚《スラ》の言を添て、かく云り、尚乎《スラヲ》は、俗にさへをと云むが如し、○鏡登見津藻《カヾミトミツモ》は、己妻の顔(329)容端正《カホキラキラシ》きにめでゝ、鏡の如く、大切に思ひて見つるよ、となり、藻《モ》は歎息辭なり、珠と鏡は、上古より至寶《スグレタルタカラ》とするものなればなり、(契冲が、十一の、まそかゞみ手にとりもちて朝な/\見れども君はあくこともなし、とある歌を引て、己が妻のかほよきは、みるにあかず、朝な朝なの鏡と覺ゆるこゝろなり、といへども、さてはいひたらず、)十三に、眞珠奈須我念妹毛鏡成我念妹毛《マタマナスアガモフイモモカヾミナスアガモフイモモ》云々、(珠鏡の如く、大切に思ふ妹のよしなり、)とあるをも併(セ)考(フ)べし、○歌(ノ)意は、住吉の小集樂の會衆の中に出て、他女に比べ見れば、殊に秀れて、端正《キラ/\》しく美しく思はるれば、常になれ親しむ己(ガ)妻にてある其さへを、今更鏡の如く、大切に思ひて見つるよ、となり、
 
右傳云《ミギイヒツテケラク》。昔者鄙人《ムカシイヤシキヒトアリ》。【姓名未詳也。】于時郷里男女《トキニサトノヲトコヲミナ》。衆集野遊《ツドヒテヌノアソビセリキ》。是會集之中《コノツドヒノウチニ》。有《アリ》2鄙人夫婦《イヤシキヒトノメヲ》1。其婦容姿端正《ソノメカホキラ/\シキコト》秀《スグレタリ》2於|衆諸《モロヒトニ》1。乃彼鄙人之意《スナハチカノヲトコノコヽロ》。彌2増《イヤマサリテ》愛《ウツクシム》v妻《メヲ》之|情《コヽロ》1。而|作《ヨミテ》2斯歌《コノウタヲ》1讃2嘆《ホメタリキ》美貌《キラ/\シキヲ》1也。
 
者(ノ)字の下、有(ノ)字を脱せるか、又は者は、有の寫誤にてもあるべし、○會衆の衆(ノ)字、拾穗本には集と作り、○讃(ノ)字、拾穗本には、賛と作り、
 
娘子怨恨作獻歌一首《ヲトメガウラミヨミテタテマツレルウタヒトツ》〔九字各○で囲む〕
 
3809 商變《アキカヘシ》。領爲跡之御法《シラセトノミノリ》。有者許曾《アラバコソ》。吾下衣《アガシタゴロモ》。變賜米《カヘシタバラメ》。
 
商變はアキカヘシ〔五字右○〕と訓べし、(アキカハリ〔五字右○〕とよめるはわろし、)契冲云、商變は、すでに物とあた(330)ひとを、とりかはして後に、たちまちに變じて、あるひはものをわろしとして、あたひを取かへし、あるひはあたひをやすしとして、ものを取かへすなり、○領爲跡之御法は、契冲、さやうの事を、ほしいまゝにせよとの、法令あらばこを、といふなり、しらすは、令《ラ》v領《シ》せといふこゝろなれば、あきなひて變ずる事を、自由ならしむるをいへり、此(ノ)領(ノ)字、下に奥國領君《オキツクニシラセルキミ》、第十にも、しらせて、とよめりと云り、今按(フ)に、シラセトノミノリ〔八字傍点〕と訓べし、さやうの事を、自由にせよとの御法令《ミノリ》といふ意なればなり、○吾下衣《アガシタゴロモ》は、十五に、之呂多侶能安我之多其呂母宇思奈波受毛弖禮和我世故多太爾安布麻※[人偏+弖]爾《シロタヘノアガシタゴロモウシナハズモテレワガセコタダニアフマデニ》、○變賜米、(變(ノ)字、古寫本、拾穗本等には反と作り、)カヘシタバラメ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、商變する事をゆるし給ひて、自由にせよとの御法令あらばこそ、それに准らへて我(ガ)奉りし寄物《カタミ》の衣を、我にかへし給はらめ、さる御掟もなきに、いかでわが下衣をば、かへし給ふぞと、うらみたるなり、
 
右傳云《ミギイヒツテケラク》。時《ムカシ》有《アリ》2所幸幸娘子《ウルハシミセラレシヲトメ》1也。【姓名未詳。】寵薄之後《コヽロウツロヘルノチ》。還2賜《カヘシタバリキ》寄物《カタミヲ》1。【俗云可多美。】於是娘子《コヽニヲトメ》。怨恨聊《ウラミテイサヽカ》作《ヨミテ》2斯歌《コノウタヲ》1獻上《タテマツリキ》。
 
娘子怨恨作歌一首《ヲトメガウラミテヨメルウタヒトツ》〔八字各○で囲む〕。
 
3810 味飯乎《ウマイヒヲ》。水爾釀成《ミヅニカミナシ》。吾待之《アガマチシ》。代者曾無《カヒハカツテナシ》。直爾之不有者《タヾニシアラネバ》。
 
味飯は、ウマイヒ〔四字右○〕と訓べし、味《ウマ》は、甘美《ウマシ》と美稱《ホムルコト》なり、○水爾釀成《ミヅニカミナシ》(爾(ノ)字、類聚抄には人と作り、)は、酒(331)に造(リ)成し、といふなり、酒を造を可牟《カム》と、いふこと、四(ノ)卷に既く具(ク)云り、○代者曾無は、カヒハカツテナシ〔七字右○〕と訓べし、カヒ〔二字右○〕は代(ノ)字(ノ)意にて、カハリ〔三字右○〕の約まれるなり、(竹取物語中納言石(ノ)上もろたりの、子安貝を得むとせしことを云るところに、こゝの具顔見むと、御くしもたげ、御手を廣げ給へるに、燕のまりおけるふるくそを、にぎりたまへるなり、それを見給ひて、あな貝なのわざやとのたまひけるよりぞ、思ふに違ふ事をば、貝《カヒ》なしといひけると云るは、ことさらに滑稽《タハブレ》につくりいへるにて、言の眞の義には非ず、又新千載集に、津守國冬、海原や浪に漂ふ葦芽《アシカビ》のかひ有國と成れるかしこさ、とよめるは、芽は可備《カビ》の濁音、代《カヒ》は清音なるを、さるわきまへもなくて云るか、はた言の通ふまゝによめるか、いかにまれ此(ノ)歌に依て、かひ有、かひ無のかひを、芽《カビ》の義ぞといふ説は論にたらず)曾《カツテ》は、更々《サラ/\》と云むがごとし、七(ノ)卷に、常者曾不念物乎《ツネハカツテオモハヌモノヲ》、
 
十(ノ)卷に、木高者曾木不殖《コタカクハカツテキウヱジ》、十二に、名者曾不告《ナハカツテノラジ》、神代紀上に、凡此(ノ)惡事曾《アシキコトカツテ》无(シ)2息時《ヤムトキ》1、などあるにおなじ、○直爾之不有者《タヾニシアラネバ》は、傳註に、正身不來と云る、その心なり、○歌(ノ)意は、夫の君をひた待に待(ツ)とて、待酒をつくり、設け置たるに、此(ノ)ほど他妻にかたらひ給ひて、吾許來ましたまふ事なければ、其代は更々なし、となり、四(ノ)卷に、爲君釀之待酒安野獨哉將飲友無二思手《キミガタメカミシマチサケヤスノヌニヒトリヤノマムトモナシニシテ》、
 
右傳云《ミギイヒツテケラク》。昔《ムカシ》有《アリ》2娘子《ヲトメ》1也。相2別《ワカレ》其夫《ソノセニ》1。望戀經年《トシヲヘテコヒワタリキ》。爾時夫君《サルアヒダニセノキミ》。更《サラニ》娶《エテ》2他妻《アダシツマヲ》1。正身《ミヅカラハ》不《ズテ》v來《コ》。徒《タヾニ》贈《オコセリキ》2裹物《ツトヲ》1。因《ヨリ》v此《コレニ》娘子《ヲトメ》。作《ヨミテ》2此恨歌《コノウラミノウタヲ》1。還酬之也《カヘシオクレリキ》。
 
(332)昔の下、古寫小本に者(ノ)字あり、○爾(ノ)字、類聚抄には于と作り、拾穗本には无(シ)、○酬(ノ)字、古寫本には※[酉+羽]と作り、
 
娘子〔二字各○で囲む〕《ヲトメガ》戀《コフル》2夫君《セノキミヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
3811 左耳通良布《サニヅラフ》。君之三言等《キミガミコトト》。玉梓乃《タマヅサノ》。使毛不來者《ツカヒモコネバ》。憶病《オモヒヤム》。吾身一曾《ワガミヒトツソ》。千磐破《チハヤブル》。神爾毛莫負《カミニモナオホセ》。卜部座《ウラベマセ》。龜毛莫燒曾《カメモナヤキソ》。戀之久爾《コホシクニ》。痛吾身曾《イタキワガミソ》。伊知白苦《イチシロク》。身爾染保里《ミニシミトホリ》。村肝乃《ムラキモノ》。心碎而《コヽロクダケテ》。將死命《シナムイノチ》。爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》。今更《イマサラニ》。君可吾乎喚《キミガアヲヨブ》。足千根乃《タラチネノ》。母之御事歟《ハヽノミコトカ》。百不足《モヽタラズ》。八十乃衢爾《ヤソノチマタニ》。夕占爾毛《ユフケニモ》。卜爾毛曾問《ウラニモソトフ》。應死吾之故《シヌベキアガユヱ》。
 
左耳通良布《サニヅラフ》は、顔面の紅光《ニホヘ》るを、美稱《ホメイヘ》る詞にて既く三(ノ)卷に、委(ク)云る如し、○君之三言等《キミガミコトト》は、君が御詞を持てといふ謂にきこゆ、二(ノ)卷に、三吉野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久《ミヨシヌノタママツガエハハシキカモキミガミコトヲモチテカヨハク》、とあるに、此は意同じ、○千磐破《チハヤブル》(磐(ノ)字、古寫小本、拾穗本等に、盤と作るはわろし、)は、神の枕詞なり、既く委(ク)云り、○神爾毛莫負《カミニモナオホセ》は、神の祟(リ)ぞなど、云(ヒ)負することなかれ、といふなり、十四に和伎毛古爾安我古非思奈婆曾和敝可毛加未爾於保世牟己許呂思良受弖《ワギモコニアガコヒシナバソコヲカモカミニオホセムココロシラズテ》、伊勢物語に、人しれずわが戀しなばあぢきなくいづれの神になき名おほせむ、○卜部座《ウラベマセ》は、卜部《ウラベ》を令座《マサセ》にて、招き座《オハサ》しめて、といふ意なり、(マセ〔二字右○〕はマサセ〔三字右○〕の約れるなり、)座《マセ》は、處女乎座《ヲトメヲマセ》などいふ座《マヤ》にて、俗に招待して、といふほどの謂《コヽロ》なり、○龜毛莫燒曾《カメモナヤキソ》は、龜を灼《ヤキ》て卜術《ウラワザ》をなすことなかれとい(333)ふなり、龜を灼(ク)は、此頃漢國(ノ)傳の龜卜の、もはら世に行はれしよりいへり、○戀之久爾《コホシクニ》は、戀しくあるに、といふに同じ、寒けくあるにを、寒久爾《サムケクニ》といふと、同例なり、○伊知白苦《イチシロク》は、いと/\白く分明《アキラカ》に、誰が目にも其としらるゝをいふことにて、誰が目にも見ゆる如く、痩羸へたるをいふ、○身爾染保里は、岡部氏云、染の下、等を脱せり、染の木と、等の草書とまがひて、書落したるなりと云り、ミニシミトホリ〔七字右○〕と訓べし、係戀の苦痛の、身(ノ)裏に深く染徹りたる謂なり、○爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》は、契冲が、古今集哀傷、在原(ノ)しげはるが歌の詞書にいはく、かひのくにゝ、あひしりて、侍(リ)ける人とぶらはむとて、まかりける道中にて、にはかにやまひをして、いまや/\となりにければ云々、と云るを引る、そのこゝろなり、○今更《イマサラニ》は、今更しかすとも、かひなきことなるにの意を、含めていへるなり、○君可吾乎喚《キミカアヲヨブ》は、吾を喚(ブ)は、夫(ノ)君かtといふなり、可《カ》は疑の辭なり、これは絶入なむとする時、枕上に來て、よびいかすをいふなり、○母之御事歟《ハヽノミコトカ》とは、御事《ミコト》は、命《ミコト》にて、尊(ミ)稱なり、歟《カ》は疑の辭なり、これは上の、吾乎喚《アヲヨブ》へかけて心得べし、(略解に、此を下の夕占爾毛卜爾毛といふに係て、母の辻占問、あるは龜卜して問歟といふなり、と云るはわろし、御事歟といひては、毛曾問と云るに應《カナ》はざれば、さる謂にはあらず、)今更に吾を喚なるは、夫(ノ)君歟、又母(ノ)命歟、と云るなり、○百不足《モヽタラズ》は、枕詞なり、既く出(ツ)、○八十乃衢爾《ヤソノチマタニ》は、十一に、事靈八十衢夕占問《コトタマヲヤソノチマタニユフケトヒ》云々、○夕占爾毛卜爾毛曾問《ユフケニモウラニモソトフ》は、十一に、夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷《ユフケニモウラニモノレルコヨヒダニ》云々、とある(334)を考(ヘ)合(ス)べし、此夕占に問(ヒ)、龜卜に問(ヒ)などするは、なべて親族兄弟などのするわざなり、(夫(ノ)君また母は、枕上に來て、喚いかす意に、云終めたれば、此(ノ)卜術にはあづからざるよしなり、能せずはまぎれぬべし、)いかにすとも、今は活べき吾に非ざる物を、との謂なり、○應死吾之故は、シヌベキアガユヱ〔八字右○〕と訓べし、死ぬべき吾なるものをの意なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3812 卜部乎毛《ウラベヲモ》。八十乃衢毛《ヤソノチマタモ》。占雖問《ウラトヘド》。君乎相見《キミヲアヒミム》。多時不知毛《タドキシラズモ》。
 
歌(ノ)意は、卜部をも招き致して、卜術をなし、親族を八十の衢に出しやりて、夕占をも問(ヘ)ど、更に蘇《ヨミカヘ》りなむといふ兆なければ、又ありし日の如く、君を相見むといふ爲方をしらず、さても悲しや、となり、
 
〔或本(ノ)反歌(ニ)曰。 3813 吾命者《ワガイノチハ》。惜雲不有《ヲシクモアラズ》。散追良布《サニヅラフ》。君爾依而曾《キミニヨリテソ》。長欲爲《ナガクホリセシ》。〕
 
右傳云《ミギイヒツテケラク》。時《ムカシ》有《アリケリ》2娘子《ヲトメ》1。【姓車持氏也。】其夫久逕年序不作往來《ソノセトシヲヘテカヨハズ》。于時娘子《トキニヲトメ》。係戀傷心《イキノヲニコヒツヽ》。沈2臥《コヤレリキ》痾※[病垂/尓]《ヤマヒニ》1。痩2羸《ミツレテ》日異《ヒニケニ》。忽臨泉路《タチマチミマカリナムトス》。於是《コヽニ》遣《ツカハシテ》v使《ツカヒヲ》。喚《ヨブ》2其夫君《ソノセノキミヲ》1。來而乃歔欷流涕《キテスナハチナゲキツツ》口2號《ヨミテ》斯歌《コノウタヲ》1。登時逝没也《スナハチミマカリキ》。
娘子車持氏は、傳知べからず、○久(ノ)字、古寫小本に人と作るはわろし、又拾穗本には无(シ)、○作(ノ)字、拾穗本には、无(シ)、○痾(ノ)字、類聚抄には病と作り、○痩(ノ)字類聚抄には疲と作り、
 
(335)壯士〔二字各○で囲む〕《ヲトコガ》贈《オクレル》2娘子父母〔四字各○で囲む〕《ヲトメノチヽハヽニ》1。歌一首《ウタヒトツ》。
 
3814 眞珠者《シラタマハ》。緒絶爲爾伎登《ヲダエシニキト》。聞之故爾《キヽシユヱニ》。其緒復貫《ソノヲマタヌキ》。吾玉爾將爲《アガタマニセム》。
 
眞珠《シラタマ》は、和名抄に、日本紀私記(ニ)云、眞珠(ハ)之良多麻《シラタマ》、○故爾《ユヱニ》は、大かた古歌にいへるは、なるものを、と意得る例なるを、こゝは、今(ノ)世にも當云如き、故爾《ユヱニ》なり、○歌(ノ)意は、眞珠は、本(ト)貫たりし其(ノ)緒は、緒絶して斷離れたリと聞つるからに、吾(ガ)緒を又其眞珠に貫て、吾(ガ)物にせむと思ふはいかに、となり、譬へたる謂は。下註に著《アラハ》なり、七(ノ)卷に、照左豆我|手爾纒古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テニマキフルスタマモガモソノヲハカヘテアガタマニセム》、
 
答歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
3815 白玉之《シラタマノ》。緒絶者信《ヲダエハマコト》。雖然《シカレドモ》。其緒又貫《ソノヲマタヌキ》。人持去家有《ヒトモテイニケリ》。
 
白玉、類聚抄には、眞珠と作り、○有(ノ)字は、里の誤なり、○歌(ノ)意は、白珠を、本貫たりし其(ノ)緒は、緒絶して斷離たりと、其方《ソナタ》の聞給ふは信に然《サ》なり、然れども又其玉を、他人の緒に貫て、外に持て去けり、となり、これも譬へたる謂は、下註に明けし、
 
右傳云《ミギイヒツテケラク》。時《ムカシ》有《アリ》2娘子《ヲトメ》1。夫君《セノキミニ》見《ラエテ》v棄《ステ》改2適《アラタメユキヽ》他氏《ヒトノイヘニ》1也。于時《トキニ》或|有《アリテ》2壯士《ヲトコ》1。不《ズテ》v知《シラ》2改適《アラタメユクヲ》1。此歌贈遣《コノウタヲオクリテ》。請2誂《コヒキ》於|女之父母者《ヲミナノオヤニ》1。於是父母之意《コヽニオヤオモヒケラク》。壯士《ヲトコ》未《オモヒテ》v聞《シラジト》2委曲之旨《ツバラナルサマヲ》1。乃依彼歌報送《スナハチカノウタニコタヘガテリ》。以|顯《アラハセリキトイヘリ》2改適之縁《アラタメユキシヨシヲ》1也。
 
(336)依(ノ)字、類聚抄には、作と作る、然るべし、○彼(ノ)字は、此を誤れるか、
 
穗積親王御誦〔一字○で囲む〕謌一首《ホヅミノミコノウタハセルウタヒトツ》。
 
3816 家爾有之《イヘニアリシ》。櫃爾※[金+巣]刺《ヒツニクギサシ》。藏而師《ヲサメテシ》。戀乃奴之《コヒノヤツコノ》。束見懸而《ツカミカヽリテ》。
 
櫃爾※[金+巣]刺《ヒツニクギサシ》、とは、櫃は、和名抄に、蒋魴(ガ)切韻(ニ)云、櫃(ハ)似(テ)v厨(ニ)向(テ)v上(ニ)開闔(スル)器也、和名|比都《ヒツ》、俗(ニ)有2長櫃、韓櫃、折櫃、小櫃等之名1、※[金+巣]は、同抄に、唐韻(ニ)云、〓(ハ)銕※[金+巣]也、楊氏漢語抄(ニ)云、※[金+巣]子(ハ)藏乃賀岐《クラノカギ》、辨色立成(ニ)云、藏(ノ)鑰、本居氏、和名抄には、藏乃賀岐《クラノカギ》とあれど、※[金+巣]は、加岐《カギ》には非ず、今ジヤウ〔三字右○〕と云ものなり、故(レ)本にザウ〔二字右○〕と訓を付たり、されど師は、廿(ノ)卷の歌に依て、クギ〔二字右○〕とよまれき、信(ト)に古(ヘ)は※[金+巣]をも然云つらむ、と云り、(廿(ノ)卷に、牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之《ムラタマノクルニクギサシカタメトシ》云々、とある是なり、源氏物語朝貌に、こぼこぼと引て、じやうのいといたくさびにければ、あかずとうれふるを、とあれば、彼(ノ)頃は、はやく字音のまゝに唱(ヘ)しなるべし、又落窪物語に、くるゝ戸のひさし、ふたまあるへやの醋酒魚など云々、いとあらゝかにおし入て、手づからついさして、じやうつよくさしていぬ、とあるは、枢戸の※[金+巣]なり、此と廿(ノ)卷とを考(ヘ)合せて古(ヘ)は久枳《クギ》と云しを思(フ)べし、)主計式に、凡諸國輸庸、云々四丁、塗漆著(タル)v※[金+巣]韓櫃一合云々、○戀乃奴《コヒノヤツコ》は、十一、十二の卷などにもよめり、戀情の身心を苦しむるを、賤奴に譬へて、罵(リ)惡みたるなり、(俊頼朝臣の、したひくる戀の奴の旅にても身のくせなれや夕とゞろきは、とよまれたるは、今の歌を本とせられしなれど、いさゝか心得がてな(337)る歌なり、)○束見懸而《ツカミカヽリテ》は、四(ノ)卷に、戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有《コヒハイマハアラジトワレハオモヘルヲイヅクコヒソツカミカヽレル》、○歌(ノ)意は、戀の奴といふ曲者が、又しても、※[手偏+益]《ツカ》みかゝりて、身を苦しむるが、惡《ニク》く厭はしさに、更に出て活用《ハタラカ》さじとて、家にありつる櫃に藏めて、※[金+巣]さしかためてし、となり、(此(ノ)歌は、上に曾乃夜何《ソノヤナニ》等の言なければ、てきといふこと、※[氏/一]爾袁波《テニヲハ》のとゝのへのさだまりなれど、然《サ》いひてはよろしからぬ故に、ことさらにたがへて、てしと宣へるなり、なほこの例證、三(ノ)卷、七(ノ)卷、八(ノ)卷などに出たる歌にもあり、考(ヘ)合(ス)べし、委き事は、余が別に著せる鍼嚢偏格(ノ)部、第六種の下に云るを、照(シ)見べし、又八(ノ)卷に、去年之春相有之君爾戀爾手師櫻花者迎來良之母《コゾノハルアヘリシキミニコヒニテシサクラノハナハムカヘケラシモ》、とあるも、この同例と聞えたれど、彼は戀爾手伎《コヒニテキ》を誤れるならむ、とおもひ定めて然註しつ、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツハ》。穗積親王宴飲之日酒酣之時《ホヅミノミコノウタゲシタマフトキ》。好《イツモ》誦《ウタヒテ》2斯歌《コノウタヲ》1以|爲《シタマヘリ》2恒賞《アソビクサト》1也
 
河村王誦歌二首〔七字各○で囲む〕《カハムラノオホキミノウタヒタマヘルウタフタツ》
 
3817 可流羽須波《カルウスハ》。田廬乃毛等爾《タブセノモトニ》。吾兄子者《ワガセコハ》。二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》。立麻爲所見《タチマセリミユ》。【田廬者多夫世反。】
 
可流羽須《カルウス》は、下に佐比豆留夜辛碓爾舂《サヒヅルヤカラウスニツキ》云々、和名抄に、祝尚丘(ガ)切韻(ニ)云、碓(ハ)踏具也、和名|賀良宇須《カラウス》、字鏡に、磑(ハ)加良宇須《カラウス》、とあり、今は良《ラ》を流《ル》に通(ハ)して云るなり、さて本居氏、加良宇須《カラウス》と云は、杵に柄のある由にて、柄臼《カラウス》なり、韓臼《カラウス》の意にはあらずと云り、(三代實録三十六に、元慶三年九月廿五日壬子、是夜鴨河辛橋火、燒2斷太半(ヲ)1、とあるも、柄橋《カラハシ》なるべし、欄干あるを云なるべし、其(ノ)他|加(338)良楫《ラカヂ》、加良櫓《カラロ》、加良笠《カラカサ》、加良竿《カラサヲ》などの加良《カラ》も柄《カラ》なり、)さて柄臼《カラウス》は、田廬《タブセ》のもとに立(チ)の意に云るなるべし、○田廬《タブセ》は、八(ノ)卷に、黙不有五百代小田乎苅亂田廬爾居者京師所念《モダアラズイホシロヲダヲカリミダリタブセニヲレハミヤコシオモホユ》、○二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》は、十八に、夏野能佐由利能波奈能花咲爾爾布夫爾惠美弖《ナツノヌノサユリノハナノハナヱミニニフブニヱミテ》云々、とよめり、俗に、にこ/\と咲(ヒ)てと云に同じ、○立麻爲所見(立(ノ)下、類聚抄に弖(ノ)字あれど、いかゞ、)は、タチマセリミユ〔七字右○〕と訓べし、マセル〔三字右○〕いふべきを、如此云て歌ひ絶《キル》は、古(ヘ)風なり、古事記清寧天皇(ノ)條(ノ)歌に、志毘賀波多傳爾都麻多弖理美由《シビガハタデニツマタテリミユ》、集中には、恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》、また安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《アマノイサリハトモシアヘリミユ》、などもよめり、○註の多夫世反の夫(ノ)字、古寫小本には布と作り、反(ノ)字、官本、古寫小本、拾穗本等には、也と作り、○歌(ノ)意は、柄臼は田廬のもとに立(チ)、吾夫子はにこ/\と咲て、戸口に來て立座るが、をかしく喜《コノマ》しく見ゆる、といふにや、
 
3818 朝霞《アサガスミ》。香火屋之下乃《カヒヤガシタニ》。鳴川津《ナクカハヅ》。之努比管有常《シヌヒツヽアリト》。將告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》。
 
朝霞《アサガスミ》は、枕詞なり、○香火屋之下乃《カヒヤガシタニ》は、十(ノ)卷に、朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦《アサガスミカヒヤガシタニナクカハヅ》、とありて、そこに具(ク)云り、今は乃は爾の誤なるべし、○之努比管有常《シヌヒツヽアリト》は、蝦の聲を賞《メデ》つゝありとゝいふなり、○將告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》は、嗚呼《アヽ》かくと我(カ)思ふ人に、告やらむ兒もがなあれかしとなり、欲得《ガモ》は、我《ガ》は乞望(ノ)辭、母《モ》は、歎息きたる辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右歌二首《ミギノウタフタツハ》。河村王宴居之時《カハムラノオホキミノウタゲセルトキ》。彈《ヒキテ》v琴《コト》而。即先《スナハチマヅ》誦《ヨミテ》2此歌《コノウタヲ》1。以|爲《シタマヒキ》2常行《アソビクサト》1也。
 
(339)河村(ノ)王は續紀に、寶龜八年十一月己酉朔戊辰、授2无位川村(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、十年十一月甲午、爲2少納言(ト)1、延暦元年閏正月庚子、爲2阿波(ノ)守(ト)1、七年二月丙子、爲2大舍人(ノ)頭(ト)1、八年四月丙戌、爲2備後(ノ)森1、九年九月己巳從五位上、とあり、
 
小鯛王吟歌二首〔七字各○で囲む〕《ヲタヒノオホキミノウタヒタマルウタフタツ》
 
3819 暮立之《ユフタチノ》。雨打零者《アメウチフレバ》。春日野之《カスガヌノ》。草花之末乃《ヲバナガウレノ》。白露於母保遊《シラツユオモホユ》。
 
此(ノ)歌、十(ノ)卷に既く出たり、そこには、打零者《ウチフレバ》を落毎《フルゴトニ》、また未《ウレ》を上《ウヘ》とせり、
 
3820 夕附日《ユフヅクヒ》。指哉河邊爾《サスヤカハヘニ》。構屋之《ツクルヤノ》。形乎宜美《カタヲヨロシミ》。諸所因來《ウベソヨリクル》。
 
夕附日《ユフヅクヒ》云々は、日影もて、山河殿家の美麗なる形を、たゝへいふ事、古(ヘ)の常なり、古今集に、夕月夜《ユフヅクヨ》指や岡邊の松の葉の云々と、あるは、此歌(ノ)によれるにや、○形乎宜美《カタヲヨロシミ》は、形が宜しき故にとなり、○諾所因來は、ウベソヨリクル〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、夕日のはなやかにさす川邊に、こゝろある人の、よしありて作り構へたる家には、所がらといひ、人がらといひ、あまたの人の、ここによりくるは、げにことわりぞ、となり、(六帖に、夕づくひさすや岡邊に作る屋のかたちをよしみ鹿ぞよりくる、と載たるは、後に誦誤りたるなり、)
 
右歌二首《ミギノウタフタツハ》。小鯛王宴居之日《ヲタヒノオホキミノウタゲノヒ》。取《トル》v琴《コトヲ》登時必先《スナハチマヅ》吟2詠《ウタヒタマヒキ》此歌《コノウタヲ》1也。
〔小鯛(ノ)王者。更(ノ)名(ハ)置始(ノ)多久美(トイフ)斯人也。〕
 
(340)小鯛(ノ)王は、傳未(タ)詳ならず、○小鯛王云々の小註を、舊本には、歌也の下に、其(ノ)字ありて、連書せり、今は古寫小本に從つ、
 
兒部女王〓歌一首《コベノオホキミノアザケリノウタヒトツ》。
 
兒部(ノ)女王は、傳未(タ)詳ならず、大和(ノ)國十市(ノ)郡子部(ノ)神社は、よしあるか、○〓は、嗤の誤か、字鏡に、嗤※[嗤の旁]同戯也、阿佐介留《アサケル》、又|曾志留《ソシル》、又|和良布《ワラフ》、
 
3821 美麗物《ウマシモノ》。何所不飽矣《イヅクアカジヲ》。坂門等之《サカドラシ》。角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》。四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》。
 
美麗物は、ウマシモノ〔五字右○〕と訓べし、○何所不飽矣は、イヅクアカジヲ〔七字右○〕と訓べし、○坂門等之《サカドラシ》は尺度《サカド》氏なり、等《ラ》は、そのもと、其(ノ)類を總ていふ事にて、一人にかぎりたることには非ざれども、なほ一人のうへにも添云るは、古(ヘ)人語のせまらざりし故なり、と知べし、之《シ》は、その一(ト)すぢなるをいふ助辭なり、○角乃布久禮《ツヌノフクレ》は、契冲、ふくれは、※[皮+暴]《フクレ》の字なり、角のふくれは、見にくゝ賤しきものゝかたちを、鬼にたとへていふこゝろなり、又牛鹿の角など、皆下のふくれたれば、さやうのいやしきかほつきしたらむをとこに、おもひつきて、などしぐひあひたるぞと、あざけりわらはるゝ心にや、源氏末摘花に、下がちなるおもやうと云り、と云り、※[皮+暴]は、和名抄に、※[皮+暴](ハ)肉(ノ)噴起也、和名|布久流《フクル》、字鏡に、※[皮+爾](ハ)不久留《フクル》、現報靈異記に、肥(ハ)不久禮天《フクレテ》、○四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》、(爾(ノ)字、類聚抄には丹と作り、)本居氏、古事記の、美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》の麻《マ》は、うまなり、具波比《グハヒ》は麻《マ》より連(ク)故に、(341)具《グ》と濁れども、古(ハ)頭を濁る例なければ、本は久波比《クハヒ》にて、久比阿比《クヒアヒ》の約りたる言なり、凡(ソ)物二(ツ)が一(ツ)に合を、久比阿布《クヒアフ》と云(フ)、此(ノ)四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》、とある、是なり、是も四《シ》より連く故に、具《グ》と濁る、此《コヽ》と同じ、今(ノ)世(ノ)俗に、物を作り合すを、しくはすといふも、即(チ)此(ノ)しぐひあはすの約りたるなり、又俗に、物のぐはひの、善《ヨ》き惡《アシ》きといふも、くひあひの善惡なりと云り、さて此(ノ)句の上に、何故《ナニユヱ》にといふ詞を、かりに補《クハ》へてきくべし、何故に四具比相《シグヒアヒ》にけむ、といふ意なればなり、古今集に、久方の光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ、とあるも、第三(ノ)句の下に、何故にといふ詞を、くはへて、何故に、しづ心なく花の散らむ、ときくに同じ例なり、○歌(ノ)意は、姓も高く容も美しき人なれば、いづく心にあきたらぬことはあらじを、さる高姓美人の心をうけひかずして、尺度氏の娘子は、何故に、彼(ノ)下姓醜士を、一(ト)すぢに好みて婚娶《アヒ》にけむぞと、嗤りたるなり、〔頭註、【此歌一の考あり、事長ければ、別lこ隨筆にしるす、】〕
 
右時《ミギムカシ》有《アリキ》2娘子《ヲトメ》1。【姓尺度氏也。】此娘子《コノヲトメ》不《ズテ》v聽《キカ》2高姓美人之所誂《タフトクウマシヲトコノツマトフヲ》1。應2許《キヽキ》2下姓醜士之所誂《イヤシキシコヲノツマトフヲ》也。於是兒部女王《コヽニコベノオホキミ》。裁2作《ヨミテ》此歌《コノウタヲ》1。嗤2咲《アザケリタマフ》彼愚《ソノカタクナシキヲ》1也。
 
娘子尺度氏は傳未(タ)詳ならず、坂門(ノ)人足、同氏なるべし、○醜(ノ)字、舊本には※[女+鬼]と作り、今は拾穗本に從つ、○〓は、嗤の誤歟、
 
古歌曰《フルウタニイハク》。
 
(342)3822 橘《タチバナノ》。寺之長屋爾《テラノナガヤニ》。吾率宿之《アガヰネシ》。童女波奈理波《ウナヰハナリハ》。髪止都良武可《カミアゲツラムカ》。
 
橘寺《タチバナノテラ》は、元亨釋書十五に、推古、十四年秋七月、帝請(テ)2太子(ヲ)1講(ス)2勝鬘經(ヲ)1、太子披2袈裟(ヲ)1握(テ)2※[鹿/主]尾(ヲ)1、坐2師子(ノ)座(ニ)1、儀則如2沙門(ノ)1、講已(テ)天|雨《フラス》2蓮華(ヲ)1大(サ)三尺、帝大(ニ)喜(タマフ)、即(チ)其地(ニ)建2伽藍(ヲ)1、今(ノ)橘寺是也、とあり、太子傳暦にも見ゆ、大和(ノ)國飛鳥の邊なり、○長屋《ナガヤ》は、棟長く造れる屋にて、今いふもしかなり、源氏物語夕顔に、つれ/”\なるまゝに、みなみのはしとみあるながやに、わたりきつゝ、車のおとすれば、わかきものども、のぞきなどすべかめるに云々、○吾率宿之《アガヰネシ》(率(ノ)字、拾穗本には※[巒の山が十]と作り、)は、吾が率《ヒキヰ》て宿しといふなり、古事記、穗々手見(ノ)命(ノ)和歌に、意岐都登里加毛度久斯麻邇和賀葦泥斯伊毛波和須禮士余能許登碁登邇《オキツトリカモドクシマニワガヰネシイモハワスレジヨノコトゴトニ》、○童女波奈理《ウナヰハナリ》とは、宇奈爲《ウナヰ》は、和名抄に、後漢書(ノ)註(ニ)云、髫髪(ハ)俗用2垂髪(ノ)二字(ヲ)1、謂(フ)2之童子(ノ)垂髪(ト)1也、和名|宇奈爲《ウナヰ》、字鏡に、禿(ハ)髪至v肩(ニ)垂貌、宇奈非《ウナヰ》、とありて、男女にわたりていふ稱《ナ》なるを、此に童女《ウナヰ》と書るは、女なる謂を知せたるのみなり、波奈理《ハナリ》は、放(リ)髪にて、七(ノ)卷に、未通女等之放髪乎木綿山《ヲトメラガハナリノカミヲユフノヤマ》、とありて、そこに具(ク)云り、なほ九(ノ)卷、十一(ノ)卷、十四(ノ)卷などにも、髪を故《ハナリ》にすること見えたり、○髪上都良武可《カミアゲツラムカ》は、この頃は、年のよきほどになりて、髪あげしつらむかとなり、髪をあぐることも、既く具(ク)云り、允恭天皇(ノ)紀(ニ)云、妾自2結髪《カミアゲシ1陪2於後宮(ニ)1、既經2多年(ヲ)1云云、○歌(ノ)意は、さきに吾(カ)率て宿し、其(ノ)放(リ)髪の童女は、此(ノ)頃年長(ケ)人となりて、髪上しつらむか、とおもひやりたるなり、六帖に、この歌を、寺(ノ)部に載て、橘の寺の長屋に一目見し、うなゐは今は髪(343)あげつらむ、とせり、
〔右(ノ)歌。椎野(ノ)連長年(カ)説(ニ)曰。夫(レ)寺家之屋者。不v有2俗人寢處1。亦※[人偏+稱の旁]2若冠女1。曰2放髪丱1矣。然(レハ)則腰(ノ)句已(ニ)云2放髪丱1者。尾句不v可3重云2著冠之辭1也。改(メテ)曰。橘之。光有《テレル》長屋爾。吾率宿之。宇奈爲放|爾《ニ》。髪擧都良武可。〕
椎野(ノ)連長年は、傳未(タ)詳ならず、○説(ノ)字、舊本には脉と作り、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、○亦※[人偏+稱の旁]若冠女、拾穗本には、※[人偏+稱の旁]を稱、若を弱と作り、契冲、おしはかるに、若は著にて、そのうへに、未(ノ)字の脱たるなるべし、下に著冠といへり、疑ふべからず、と云り、○丱(ノ)字、二(ツ)ながら舊本に仆、類聚抄に、非と作るは誤なり、今は官本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○腰(ノ)字、舊本には腹と作り、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、○著(ノ)字、拾穗本には若と作り、○也(ノ)字、舊本には哉と作り、古寫小本に從つ、○改(ノ)字、舊本には決と作り、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、○宇奈爲放爾は、者を爾と改めたるは誤なり、必(ス)者ならでは、通《キコ》えがたし、○この長年が説は、かた/”\誤多し、寺家之屋者云々、もとより寺は、俗人の寢處にあらぬ事は、さらなれども、竊《シヌビ》て率て來て寢しこと、いかでなからむ、契冲、舒明天皇(ノ)紀(ニ)云、唯兄(タル)子|毛津《ケツ》、逃2匿《ニゲカクリテ》于尼寺(ノ)瓦舍(ニ)1、即(チ)※[(女/女)+干]《オカシキ》2一(リ)二(リノ)尼(ヲ)1、於是一(リノ)尼|嫉妬《ネタミテ》令v顯(サ)、圍(ミテ)v寺(ヲ)將v捕(ムト)、乃出(テ)之入2畝傍《ウネビ》山(ニ)1、因以《カレ》探(ルニ)v山(ヲ)、毛津走(テ)無v所v入(ル)、刺v頸(ヲ)而死(キ)、と云り、かゝることさへあるものをや、と云るごとし、されど彼はいみじき事なり、此は他處の童女を吾(カ)率行て、寺の長屋に宿りしといふなれば、あるまじきにもあらず、又さのみ罪すべきにもあらざるが故に、歌(344)に作て、世に傳へたるなるべし、同人又云、長年が、うなゐはなりはといひたれば、かみあげつらむかといふべからずといふは、此(ノ)歌をいかに意得けむ、わが率宿しうなゐはなりはといふは、過にしかたをいへり、髪あげつらむかは、今はかみあげつらむかといふに、さまたげなし、
 
長忌寸意吉麻呂歌八首《ナガノイミキオキマロガウタヤツ》
 
3824 刺名倍爾《サスナベニ》。湯和可世子等《ユワカセコドモ》。櫟津乃《イチヒツノ》。檜橋從來許武《ヒハシヨリコム》。狐爾安牟佐武《キツニアムサム》。
 
刺名倍《サスナベ》は、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、銚(ハ)燒器(ナリ)、似2〓〓(ニ)1而上(ニ)有v鐶也、辨色立成(ニ)云、銚子(ハ)佐之奈閇《サシナベ》、俗(ニ)云|佐須奈倍《サスナベ》、字鏡に、鍋(ハ)佐須奈戸《サスナベ》、〓(ハ)推(ナリ)、左須奈戸《サスナベ》、とあり、和名抄に、佐之奈閇《サシナベ》といふを雅とし、佐須奈倍《サスナベ》といふを俗といへるはいかゞ、すべて彼(ノ)抄に、俗云といへること、甚いかゞなり、されば今は字鏡によりて、なほ佐須奈陪《サスナベ》といふを古として、然訓り、○櫟津《イチヒツ》は、允恭天皇(ノ)紀に、到2倭(ノ)春日(ニ)1、食(ス)2于櫟井(ノ)上1、とあり、こゝなるべし、(續紀九(ノ)卷に、正八位下大伴(ノ)櫟津(ノ)連子老、といふもみゆ、)○檜橋從來武《ヒハシヨリコム》、(來の下、舊本に許(ノ)字あるは衍なり、類聚抄に无ぞ宜しき、但(シ)彼(ノ)抄には、武(ノ)字もなし、こはあるぞ宜しき、)檜橋《ヒハシ》は、檜(ノ)材にて造れる橋なるべし、○狐爾安牟佐牟《キツニアムサム》とは、狐《キツ》はきつねなり、品物解に云、伎都《キツ》とのみいへるは、伊勢物語に、夜も明ばきつにはめなむ、とよめり、安牟佐武《アムサム》は、將v令v浴なり、(或歌に、信濃なるなすのみゆをもあむさばや人をはぐゝみ病やむべく、)○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
(345)右一首《ミギノヒトウタハ》。傳云《イヒツテケラク》。一時衆集宴飲也《アルトキヒト/”\ツドヒテウタゲス》。於時夜漏三更《トキニヨフケテ》所2聞《キコユ》狐聲《キツネノコヱ》1。爾乃衆諸《スナハチヒトビト》誘《イザナヒケラク》2
 
奥麿《オキマロヲ》1曰、關《カケテ》2此饌具雜器《コノクサグサノウツハモノ》。狐聲《キツネノコヱ》。河橋《カハハシ》等物(ニ)1。併作歌者《ウタヨメトイヘリ》。即《スナハチ》應《コタヘテ》v聲《コヱニ》作《ヨメリ》2此歌《コノウタヲ》1也。
 
集(ノ)字、拾穗本には會と作り、○於時の時(ノ)字、官本、拾穗本等には、是と作り、○奥(ノ)字、舊本には興と作り、古寫本、拾穗本等に從つ、○關此饌具は、銚子、湯、櫟、檜、これなるべし、○併(ノ)字、舊本に、但と作るは誤なり、古寫小本、拾穗本等に從つ、
 
3825 食薦敷《スコモシキ》。蔓菁煮將來《アヲナニモチコ》。※[木+梁]爾《ウツバリニ》。行騰懸而《ムカハキカケテ》。息此君《ヤスムコノキミ》。
 
食薦敷《スコモシキ》は、饌具を置(ク)料にすることなり、食薦《スコモ》は、和名抄厨膳(ノ)具に、唐式(ニ)曰、〓鍋食單各一、漢語抄(ニ)云、食單(ハ)須古毛《スコモ》、延喜式に、食薦《スコモ》、又|葉薦《スコモ》など見ゆ、西宮記には、舗2簀薦《スコモノ》肴物(ヲ)1、と見えたり、谷川氏云、類聚雜要に、簀薦は、竹を御簾の樣に編て、生半絹《キビラ》を裏に付るなりと見ゆ、後二條(ノ)院御製に、ちはやぶる神のすこもに霜さえてその曉は今もわすれず、大甞會の義なるべし、大饗のつくゑの下にしくは、すゞしのうらつけたること、まさすけに見えたり、○蔓菁※[者/火]將來(將(ノ)字、官本には持と作り、)は、アヲナニモチコ〔七字右○〕と訓べし、蔓菁《アヲナ》は、品物解に云、○※[木+梁]《ウツバリ》は、和名抄に、唐韻(ニ)云、梁(ハ)棟梁也、爾雅(ニ)云、〓瘤謂2之染(ト)1、和名|宇都都波利《ウツハリ》、字鏡に、※[木+梁](ハ)宇豆波利《ウツハリ》、とあり、※[木+梁]は俗字にや、と契冲云り、○行騰《ムカハキ》(騰(ノ)字、拾穗本傍書に、〓イとあり、)は、和名抄に、釋名(ニ)云、行〓(ハ)行騰也、言(ハ)裹v脚可2以跳騰(ス)1、輕便也、和名|无加波岐《ムカハキ》、字鏡に、〓(ハ)騰也、牟加波支《ムカハキ》、また〓〓(ハ)行騰也、牟加波支《ムカハキ》、○息《ヤスム》は、一(ノ)卷に、冷夜乎息(346)言无久《サムキヨヲヤスムコトナク》、と見えたり、○歌(ノ)意は、行騰を※[木+梁]に脱(キ)かけて息む此(ノ)公よ、いで食單敷設て、蔓菁持來れとなり、
 
右一首〔三字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》。詠《ヨメル》2行騰《ムカハキ》。蔓菁《アヲナ》。食薦《スコモ》。屋※[木+梁]《ヤノウツハリヲ》1歌《ウタ》。
 
※[木+梁](ノ)字、拾穗本には梁と作り、古寫小本に、棟と作るは誤、
 
3826 蓮葉者《ハチスバハ》。如是許曾有物《カクコソアルモノ》。意吉麻呂之《オキマロガ》。家在物者《イヘナルモノハ》。宇毛乃葉爾有之《ウモノハニアラシ》。
 
蓮《ハチス》は、品物解に云、○如是許曾有物は、カクコソアルモノ〔八字右○〕と訓べし、(アレモ〔三字右○〕とよめるは、甚わろし、)さて物《モノ》の下に、奈禮《ナレ》といふ言を、假に加へて、かくの如くにこそある物なれ、といふ意に見べし、かく許曾《コソ》の辭を、物《モノ》といふ言にて結《トヂ》めたる例、此(ノ)下にも馬爾己曾布毛太志可久物《ウマニコソフモダシカクモノ》とあり、○宇毛《ウモ》(宇(ノ)字、古寫本には※[草がんむり/宇]と作り、)は芋《イモ》なり、これ古(キ)稱なるべし、魚《イヲ》をも、古(ヘ)はみな宇袁《ウヲ》と云しに准へて、伊《イ》を宇《ウ》といふことの、古(ヘ)なるをさとるべし、(然るを略解に、宇は伊の誤かと云るは、中々のひがことなりけり、)なほ芋は、品物解にも云う、○歌(ノ)意は、蓮葉は、かやう/\の物にてこそあるなれ、此(ノ)奥麿が家にある物は、蓮にてはなくて、芋の葉にてあるらし、となり、芋の葉は、蓮の葉によく似たれば、かく云るなるべし、さてかやう/\の物といふは、圖《カタ》にあらはし、或は言にいひなどして、かやう/\の物にてこそあるなれと、さとしたるこゝろ持なり、
 
右一首〔三字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》。詠《ヨメル》2荷葉《ハチスバヲ》1歌《ウタ》。
 
(347)3827 一二之目《ヒトフタノ》。耳不有《メノミニアラズ》。五六《イツヽムツ》。三四佐倍有《ミツヨツサヘアリ》。雙六乃佐叡《スグロクノサエ》。
 
佐倍有の下、類聚抄に來(ノ)字ありて、初句を、イチニノ〔四字右○〕、第三四(ノ)句を、ゴロクサムシサヘアリケリ〔十二字右○〕とよめり、○雙六乃佐叡《スグロクノサエ》とは、雙六《スグロク》は、和名抄に、兼名苑ニ云、双六子、一名六采、今按(ニ)、〓奕是也、俗(ニ)云須久呂久《スグロク》、(全※[さんずい+析]兵制録に、雙六呼(テ)曰2新五六古《スゴロク》1、これに依ば、消息《セウソク》をセウソコ〔四字右○〕と云る類に、スゴロコ〔四字右○〕と呼し事ありしなるべし、されどかく呼ること、他に見當らず、拾遺集十九にも、すぐろくのいちはに立る他妻の逢てやみなむ物にやはあらぬ、と見えたり、)佐叡《サエ》は、和名抄に、双六(ノ)菜、楊氏漢語抄(ニ)云、頭子(ハ)双六乃佐以《スグロクノサイ》、枕册子に、双六うつをり、かたきの佐以《サイ》きゝたるこそ、うらやましけれ、催馬樂大芹に、五六|加戸之伊知六乃佐以也四三佐伊也《カヘシイチロクノサイヤシサムサイヤ》、とも見ゆ、今の歌によれば、古(ヘ)は佐衣《サエ》と呼しなるべし、才《サイ》をも、佐衣《サエ》と唱(ヘ)しに准ふべし、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首〔三字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》。詠《ヨメル》2雙六頭子《スグロクノサエヲ》1歌《ウタ》。。
 
3828 香塗流《コリタケル》。塔爾莫依《タフニナヨリソ》。川隅乃《カハクマノ》。屎鮒喫有《クソフナハメル》。痛女奴《イタキメヤツコ》。
 
香塗流とは、香はコリ〔二字右○〕と訓て、古言なり、字音に非ず、こはもと加乎理《カヲリ》の切りたる言なり、(カヲ〔二字右○〕の切コ〔右○〕)皇極天皇(ノ)紀に、燒v香《コリヲ》、齋宮式忌詞に、堂(ヲ)稱2香燃《コリタキト》1、など見えたり、さて諸の佛籍に、塗香といふ事の多くある、其は佛身に香を塗(ル)ことなり、今は塔なれば、燒とこそいふべけれ、塗と云る事、似つかはしからず、されば此は、もと香焚流などありけむを、塗香といふことあるに混て(348)書誤れるならむ、さらばコリタケル〔五字右○〕と訓べし、○塔は、和名抄に、孫※[立心偏+面](カ)切韻(ニ)云、齊楚曰v塔(ト)、内典(ニ)有2多寶佛塔、石塔、抄塔、泥塔等1、又云、唐韻(ニ)云、一曾(ハ)重屋也、和名|太布乃古之《タフノコシ》、(一曾は、層を誤れるか、)齋宮式忌詞には、塔(ヲ)稱2阿良々岐《アラヽギト》1、と云り・、塔は、此方にても、もとより字(ノ)音のまゝに、多布《タフ》と稱しなり、蝶《テフ》菊《キク》などの例の如し、故(レ)和名|太布乃古之《タフノコシ》とは云るなり、○川隅《カハクマ》とは、隅は、隈に通(ハシ)用ひたること、既《サキ》に例あり、さてこゝに、川《カハ》といへるは、即|厠《カハヤ》のことなり、今(ノ)世に、兒の尿《ユバリ》屎《クソ》を受る器を、婦女の詞に於川《オカハ》といふも、厠《カハヤ》を川とのみ稱し事の遺れるなるべし、かくて厠は、和名抄に、釋名(ニ)云、厠或謂2之〓(ト)1、言(ハ)至穢處、宜3常修治(シテ)使2潔清(ナラ)1也、和名|加波夜《カハヤ》、と見えて、加波夜《カハヤ》といふも、即(チ)川屋《カハヤ》の義にて、其は本居氏(ノ)説に、古(ヘ)厠は、溝流《ミゾ》の上に造りて、まりたる屎《クソ》は、やがて其(ノ)水に流失る如く構たる故に、河屋とは云なり、今(ノ)世にも、如此構たるもあるなり、と云る如し、(下學集に、高野山云々、不v令3人人留(メ)2不潔(ヲ)於此(ノ)山(ニ)1、故糞屋必架2河上(ニ)1、而流2不淨(ヲ)1也、由v是高野一山呼2東|司《スヲ》1曰2河屋(ト)1也、とあるは、高野山に限りて、河屋といふ如くきこえて、いかゞなれど、河屋といふ名の義はたがはず、契冲が、かはやといふは、かはる/\行ば、交屋といふ心の名なり、と云るはあらじ、)さてこゝは、實にはたゞ川の隈なり、(川と云るに、厠をもたせたるのみにて、實の厠を云るにはあらず、)○屎鮒《クソフナ》は、川隈は塵芥のより集ひて、いときたなきものなり、そこにをる鮒なる故、いやしめてかく云るなり、(契冲が、葛にくそ葛有ごとく、ふなの中に、さる名おひたるが有なるべ(349)しと云るは、あらず、)○痛女奴《イタキメヤツコ》は、はなはだしき女奴といふにて、賤しきものゝ至極《キハミ》の義なり、孝徳天皇(ノ)紀に、事瑕之婢《コトサカノメノヤツコ》、和名抄に、説文(ニ)云、婢(ハ)女之卑稱也、和名|夜豆古《ヤツコ》、とあり、(今按(フ)に夜の上に、女(ノ)字落たるにて、女夜豆古《メヤツコ》にはあらざるか、)○歌(ノ)意は、香燃る塔は、清淨にて、尊みうやまふべき物のきはみなれば、川隈の塵芥の間に交り居る、きたなき屎鮒を漁て喫《ハメ》る、卑賤《イヤ》しき女奴は、かりにもなよりつきぞ、となり、
 
右一首〔三字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》詠《ヨメル》2香《コリ》。塔《タフ》。厠《カハヤ》。屎《クソ》。鮒《フナ》。奴《ヤツコヲ》1歌《ウタ》。
 
屎鮒は、屎と鮒と二物なり、それを歌には、一物になしてよめるなり、
 
3829 醤酢爾《ヒシホスニ》。※[草がんむり/(禾+禾)]都伎合而《ヒルツキカテテ》。鯛願《タヒネガフ》。吾爾勿所見《ワレニナミセソ》。水葱乃煮物《ナギノアツモノ》。
 
醤酢《ヒシホス》は、醤《ヒシホ》と酢《ス》と二(ツ)なり、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、醤(フ)豆〓也、和名|比之保《ヒシホ》、又いはく、本草(ニ)云、酢(ハ)酒(ノ)味酸(ク)温(ニシテ)无v毒、和名|須《ス》、○※[草がんむり/(禾+禾)]都伎合而《ヒルツキカテテ》、(※[草がんむり/(禾+禾)](ノ)字、舊本は〓に誤、古寫本、古寫小本、拾穗本等には、蒜と作り、)は、※[草がんむり/(禾+禾)]《ヒル》は搗合《ツキカテ》てなり、※[草がんむり/(禾+禾)]《ヒル》は品物解に云り、契冲云、和名抄(ニ)云、食療經(ニ)云、搗蒜〓、(比流豆木《ヒルツキ》、)四聲字苑(ニ)云、〓(訓|安布《アフ》、一云|阿倍毛乃《アヘモノ》、)擣2薑蒜(ヲ)1以v醋(ヲ)和之、かてゝは、あはする意なり、又まじふるなり、俗に事をとりあはするを、かてゝ、くはへてなどいひ、人の我をまじへぬを、かてぬなど申(ス)めり、和名によれば、ひるつきは、さいふもの有て體なれど、今はひるを搗あはせてと、用の詞になして見べし、和名抄に、唐韻(ニ)云、〓(ハ)雜飯也、和名|加之木加天《カシキカテ》、とあるも、加天《カテ》は合なりと云り、推古天(350)皇(ノ)紀に、不v知2沈木(ヲ)1、以交(テヽ)v薪(ニ)燒2於竈(ニ)1、とあり、(塵添※[土+蓋]嚢抄に、文選西京(ノ)賦云、鬻《ヒサグニ》v良《ヨキヲ》雜《カテヽ》v苦《アシキヲ》、とあり、三教指歸に、曲蓬|揉《カタリヌル》v麻(ニ)不(ルニ)v扶(ケ)自(ラ)直、などある、皆まじはる意なりと云り、池川(ノ)春水が、常陸(ノ)國笠間領|差潮《サイソ》、と云處にあそび、村長なる者の方にやどりけるに、あるじ、あり合のかてめしにても、まゐらすべしやといひけるゆゑに、そもかて飯《メシ》とは、いかなるものぞと尋ねけるに、かゝる物ぞとて、やがて持出たるを見れば、米粟に、大根の切干(シ)をまじへて、炊きたりし飯なりしと、其(ノ)紀行にしるせり、このかても、雜(フ)る意にて同じ、)本居氏云、人(ノ)名に、和(ノ)字を加都《カツ》とよむも、是(ノ)意なり、○鯛願は、タヒネガフ〔五字右○〕と訓べし、(略解に、タヒモガモ〔五字右○〕とよめるは、いとわろし、)鯛は品物解に云、○水葱乃煮物《ナギノアツモノ》は、水葱は、三(ノ)卷に出(ツ)、品物解に云(フ)、煮物は、數冲云、煮れば物のあつくなる故にかけるなるべしと云り、和名抄に、楚辭(ノ)註(ニ)云」有(ヲ)v菜曰v羮(ト)、无(ヲ)v菜曰v〓(ト)、和名||阿豆毛乃《アツモノ》、字鏡に、〓(ハ)羮之類也、牛乃阿豆毛乃《ウシノアツモノ》、また〓〓(ハ)豕|乃肉乃阿豆毛刀《ノシヽノアツモノ》、などあり、○歌(ノ)意は醤と酢とに、蒜を搗まじへて、鯛もがな、これをかけてくらはむものをと、濃厚なる物をねがふ吾なれば、淡薄なる水葱の羮などは、見することなかれ、となり、
 
右一首〔三字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》詠《ヨメル》2酢《ス》。醤《ヒシホ》。〓《ヒル》。鯛《タヒ》。水葱《ナギヲ》1歌《ウタ》。
 
〓(ノ)字、舊本〓に誤、今は類聚抄に從つ、〓は蒜に同じ、古寫小本、拾穗本等には、これをも蒜と作り、
 
(351)3830 玉掃《タマバヽキ》。苅來鎌麻呂《カリコカママロ》。室乃樹與《ムロノキト》。棗本《ナツメガモトヲ》。可吉將掃爲《カキハカムタメ》。
 
玉掃《タマバヽキ》(掃字、拾穗本には帚と作り、本居氏、掃(ノ)字を帚に用ひたる例は、字書には見えねども、波々伎《ハヽキ》は、羽掃《ハハキ》の意にて、體用の差《タガヒ》のみなれば、御國には、古(ヘ)通(ハシ)用ひけむ、古事記上に、鷺(ヲ)爲2掃持(ト)1と書りと云り、)は、この歌のうへにては、草(ノ)名なり、さてこれは、地膚のことなるべし、和名抄に、本草(ニ)云、地膚一名地葵、和名|邇波久佐《ニハクサ》、一(ニ)云、末木久佐《マキクサ》、と見えて、玉ばゝきといふよしは載ざれども漢國には、地膚の異名を、玉帚、玉〓などもいひ、多識篇には、和名|波々幾岐《ハヽキヽ》と記し、今も世に波波岐久佐《ハハキクサ》とて、まさしくはゝきにゆひて用ふるなり、はやく契冲も然云り、今按(フ)に、字鏡に、〓〓(ハ)二字|波々支《ハヽキ》、また〓(ハ)波々支《ハヽキ》と見えたり、是も地膚にや、猶品物解に委(ク)云るを、併(セ)考(フ)べし、廿(ノ)卷に、賜(テ)2玉箒(ヲ)1肆宴とありて、始春乃波都禰乃家布能多麻婆波伎《ハツハルノハツネノケフノタマハヽキ》云々、と咏るは、玉つけたる帚にて、今とは異なり、○苅來鎌麻呂《カリコカママロ》(苅(ノ)字、拾穗本には刈と作り、)は、刈來れ鎌麻呂よとおほせたる意なり、鎌麻呂は、たゞ鎌なるを、奴僕の名にいひなせしなり、○棗《ナツメ》は、品物解に云、○可吉將掃《カキハカム》とは、可吉《カキ》は掻《カキ》にて、手して物する事に添いふ辭なり、大伴の大津の松原可吉掃て、吾立待むなどもよめり、○歌(ノ)意は、室の木の本と、棗の木の本とを、落葉或は塵芥など掃ひ避て、清淨《キヨ》からしめむが爲に、玉掃を刈て來れ、鎌麻呂よと、令せたるなり、
 
右一首〔三字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》詠《ヨメル》2玉《タマ》。掃《ハヽキ》。鎌《カマ》。天木香《ムロ》。棗《ナツメヲ》1歌《ウタ》。
 
(352)玉掃は、玉と、掃と二(ツ)物なり、それを歌には、玉掃《タマハヽキ》と云、一(ツ)物の名に併てよめるナリ、(契冲をはじめ、こを玉掃といふものと意得たるは、ひがことなり、)○天木香(木(ノ)字、舊本水に誤、類聚抄、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、既く三(ノ)卷にも見えたり品物解に具(ク)云り、
 
3831 池神《イケカミノ》。力士※[人偏+舞]可母《リキシマヒカモ》。白鷺乃《シラサギノ》。桙啄持而《ホコクヒモチテ》。飛渡良武《トビワタルラム》。
 
池神《イケガミ》は、契冲、海よりはじめて、井池にいたるまで、神あらずといふことなし、鷺の木枝くはへて、飛ありくは、池の神の出て、鉾を横たへもちて、力士まひし給ふか、といふ心なりと云り、岡部氏は、池神は、神は借(リ)字にて、大和(ノ)國十市(ノ)郡池上(ノ)郷あり、彼地の祭の、わざをきのさまなるべしと云り、孰(レ)是《ヨ》けむ、猶考(フ)べし、○力士※[人偏+舞]《リキシマヒ》は、契冲、いにしへ力士まひとて、鉾を持てまふ舞の有けるなるべし、神の手力あるを、力士といふ、執金剛を、金剛力士といふも、ちからによりて得たる名なり、と云り、○桙啄持而《ホコクヒモチテ》(桙(ノ)字、拾穗本に鉾と作るは既く云るごとく、さがしらに改めしなり、)は、木の枝をくはへたるを、桙に見なしてかくはいふなり、十(ノ)卷に、春霞流共爾青柳之枝啄持而鶯鳴毛《ハルガスミナガルヽナベニアヲヤギノエダクヒモチテウグヒスナクモ》、(啄持《クヒモツ》といふ語は、古事記にも、爾其鼠咋2持其鳴鏑(ヲ)1出來而奉(リキ)也、とあり、)源氏物語胡蝶に、みづとりの、つがひをはなれずあそびつゝ、ほそきえだどもをくひとびちがふと云り、契冲云、此(ノ)鷺の木をくはへて飛は、すつくる料なるを、かくよめるなるべし、〔頭註、【毛詩に有v〓有v〓〓彼乘黄、夙夜在v公、在v公、明々、振々鷺、鷺于下、鼓咽々、醉言舞、干〓樂兮、(振々群飛貌、鷺々羽舞者所v持、或坐或伏、如2鷺之下1也、)猶考合べし、】〕○歌(ノ)意は、白鷺の桙をくはへ(353)て、飛わたりありきめぐるは、池神の力士※[人偏+舞]にてかあるらむ、さても見事や、となり、
 
右一首〔三字各○で囲む〕《ミギヒトウタハ》。詠《ヨメル》2白鷺《シラサギノ》啄《クヒテ》v木《キヲ》飛《トブヲ》1歌《ウタ》。
 
忌部首《イミベノオビトガ》。詠《ヨメル》2數種物《クサグサノモノヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
忌部(ノ)首は、黒麻呂なるべし、黒麻呂が傳は、六(ノ)卷下に委(ク)云り、此(ノ)下にも、此(ノ)人の作《ウタ》見えたり、舊本に、名忘失也、と註したれど、もとより名の知(レ)たる人をも、略きて書る事、前後に多きをや、
 
3832 枳《カラタチノ》。棘原苅除《ウバラカリソケ》。曾氣〔二字□で囲む〕倉將立《クラタテム》。屎遠麻禮《クソトホクマレ》。櫛造刀自《クシツクルトジ》。
 
枳《カラタチ》は、品物解に云り、○棘原苅除(苅(ノ)字、拾穗本には刈と作り、)は、ウマラカリソケ〔七字右○〕と訓べし、棘原は、字書に、凡有v刺《ハリ》者皆曰v棘(ト)、とある意なり、さて此はウバラ〔三字右○〕と訓べきなれど、廿(ノ)卷に、美知乃倍乃宇萬良能宇禮爾波保麻米乃《ミチノベノウマラノウレニハホマメノ》、とあるに依て、ウマラ〔三字右○〕と訓つ、刈除《カリソケ》は、十四に、安可見夜麻久左禰可利曾氣《アカミヤマクサネカリソケ》云々、(貫之集に、澤邊なる眞菰刈そけ菖蒲草袖さへ泥て今日や暮さむ、)とよめり、除の下曾氣の二字は、今按(フ)に、本は註文にて、反云2曾氣(ト)1、などありしが、反云の二字脱しより、曾氣の二字|混《マギ》れて本文とはなれるにやあらむ、(さてかく註せる所由は、除(ノ)字にては、乃久《ノク》とも、於久《オク》ともよまるゝが故に、訓(ミ)違はせじとて、しるせるなるべし、)○屎遠麻禮《クソトホクマレ》は、古事記に、須佐之男(ノ)命云々、屎麻理散、クソマリチヲシ》、書紀に、送糞此云2倶蘇摩屡《クソマルト》1、とあり、麻流《マル》は、大小便をすることなり、竹取物語に、燕の麻利《マリ》置る舊糞《フルクソ》、などあり、又今(ノ)世に、大小便を取(ル)器をマル〔二字右○〕と云も、此(ノ)言ぞと、本居氏(354)云り、○櫛造刀自《クシツクルトジ》は、櫛はもはら女の造りし故に、云るなるべし、刀自《トジ》は女の稱にて、四(ノ)卷に具(ク)云り、○歌(ノ)意は、枳(ノ)棘原を刈掃(ヒ)除て、此(ノ)地に倉を造(リ)立むと思ふぞ、屎を遠き方にして、此(ノ)近きあたりを穢す事なかれ、櫛造る女よ、となり、
 
境部王《サカヒベノオホキミノ》。詠《ヨミタマヘル》2數種物《クサグサノモノヲ》1歌《ウタ》一首〔二字各○で囲む〕《ウタヒトツ》【穗積親王之子也。】
 
境部(ノ)王は、續紀に、養老元年正月乙巳、授2无位坂合部(ノ)王(ニ)從四位下(ヲ)1、十月戊寅、益v封(ヲ)、五年六月辛丑、爲2治部(ノ)卿(ト)1、懷風藻に、從四位上治部(ノ)卿境部(ノ)王二首、(年二十五、)
 
3833 虎爾乘《トラニノリ》。古屋乎越而《フルヤヲコヱテ》。青淵爾《アヲブチニ》。鮫龍取將來《ミツチトリコム》。劔刀毛我《ツルギタチモガ》。
 
古屋《フルヤ》は、神樂歌に、伊曾乃加美不留也遠止古乃多知毛可奈久美乃遠志天天美也知加與波牟《イソノカミフルヤヲトコノタチモガナクミノヲシテテミヤチカヨハム》、とよめる、不留也《フルヤ》これにや、○青淵《アヲフチ》は、契冲云、あを/\と見ゆる淵なり、枕册子に、名おそろしきもの、青ふち、○鮫龍は、官本、水戸本等に、ミツチ〔三字右○〕と訓る是《ヨ》し、契冲、鮫は蛟にあらたむべし、と云り、和名抄に、説文(ニ)云、蛟(ハ)龍(ノ)屬也、和名|美豆知《ミツチ》、日本紀(ニ)用2大※[虫+礼の旁]二字1、名(ノ)義は、本居氏、美《ミ》は、龍※[虫+也]の類の稱《ナ》なり、又|※[靈の巫が龍]《オカミ》、蛇《ヘミ》、蛟《ハミ》などの美《ミ》も此(レ)なり、又日讀(ミ)の巳《ミ》も、此(ノ)意なるべし、豆《ツ》は例の之《ノ》に通ふ辭、知《チ》は尊(ミ)稱にて、野椎《ヌツチ》などの例のごとし、と云り、○釼(ノ)字、拾穗本には釼と作り、○歌(ノ)意は、古屋を、虎に乘て越行て、青淵に至りて、蛟龍を殺獲《トリ》て來む、嗚呼《アハレ》釼刀もがなあれかし、となり、此は契冲もいひし如く、何ぞ故事などのありて、よまれしならむ、未(タ)考(ヘ)得ず、書紀仁徳天皇(ノ)卷に、六十七(355)年、吉備(ノ)中(ノ)國笠(ノ)臣(ノ)祖縣守が、水に入て、※[虫+礼の旁]を斬しこと見えたり、
 
作者未詳歌一首《ヨミヒトシラザルウタヒトツ》。
 
者(ノ)字、古寫小本には主と作り、○此も詠2數種(ノ)物(ヲ)1歌なり、
 
3834 成棗《ナシナツメ》。寸三二粟嗣《キミニアハツギ》。延田葛乃《ハフクズノ》。後毛將相跡《ノチモアハムト》。葵花咲《アホヒハナサク》。
 
成棗《ナシナツメ》とは、成《ナシ》は梨《ナシ》なり、さて梨《ナシ》と棗《ナツメ》の木實《キミ》といふ意にとりなして、黍《キミ》といふへつゞけたるにや、○寸三二粟嗣《キミニアハツギ》とは、寸三《キミ》は黍《キミ》なり、さてこの二句は、君に逢ことのたえずとつゞく心に云り、と契冲が云る如し、君に逢嗣《アヒツギ》なり、○延田葛乃《ハフクズノ》(田(ノ)字、舊本由に誤、類聚抄、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、後相をいはむ料なり、葛のはひわかれたるが、又末にて延あふゆゑ、かくはつゞけたるなり、狹根葛《サネカヅラ》後も相むなどよめるに同じ、○後毛將相跡《ノチモアハムト》は、後々も絶ず逢むとて、といふなり、○葵花咲《アホヒハナサク》とは、葵は、和名抄に、阿布比《アフヒ》とあれど、今は字鏡に、峯岸(ハ)阿保比《アホヒ》、とあるに依て訓つ、さて葵を、逢(フ)意にとりなして、後も逢むとて、そのしるしに、名にし負葵花咲(ク)、と云るなり、○歌(ノ)意は、かく今日の如く、主人の君に續きて、後々も絶ず相見て、共に宴飲せむとて、そのしるしに、相《アフ》と名にし負たる、葵花咲ならむ、となり、是は人のあるじまうけしたるところに、そのあるものをよめるなるべし、と契冲云り、さもあるべし、梨《ナシ》、棗《ナツメ》、黍《キミ》、粟《アハ》、田葛《クズ》、葵《アホヒ》、六種なり、葵も菜蔬(ノ)類にて、品物解に云るが如し、
 
(356)萬葉集古義十六卷之上 終
 
(357)萬葉集古義十六卷之下
 
 
獻《タテマツレル》2新田部親王《ニヒタベノミコノ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
3835 勝間田之《カツマタノ》。池者我知《イケハアレシル》。蓮無《ハチスナシ》。然言君之《シカイフキミガ》。鬚無如之《ヒゲナキゴトシ》。
 
勝間田之池《カツマタノイケ》は、左の傳によるに、奈良(ノ)都のほとりにありしなるべし、枕册子に、池はかつまたの池、後拾遺集十八に、鳥も居で幾代經ぬらむ勝間田の池にはい|ゐ《ひ歟》の跡だにもなし、現存六帖に、勝間田のいけるは何ぞつれなしの草のさてしも老にける身よ、良玉集に、道濟物へまかりける道に、昔の勝間田の池とて、いひの跡ばかり見えけるに、朽立るいひなかりせば勝間田の昔の池と誰か知まし、○鬚無如之(鬚(ノ)字、舊本に鬢、古寫小本に、髪と作るは誤なり、今は官本に從つ、又拾穗本には、髭と作り、又如之を、古寫小本に、之加と作てガゴト〔三字右○〕とよめる、此もわろし、)は、ヒゲナキゴトシ〔七字右○〕と訓べし、和名抄に、説文(ニ)云、髭(ハ)口上(ノ)鬚也、和名|加美豆比介《カミツヒゲ》、鬚髯(ハ)頤下(ノ)毛也、和名|之毛豆比介《シモツヒゲ》、とあり、比宜《ヒゲ》は、口の上下にわたりて總いふ稱なり、名(ノ)義は秀毛《ヒゲ》なりといふ、さもあるべし、○歌(ノ)意は、左の傳に云る如く、親王、勝間田(ノ)池を見そなはして、水影濤々蓮(358)花灼々、と婦に語らせ賜へるに、わざと信《ウケ》がはぬかほして、いな/\勝間田の池は、われよく案内を知(リ)て侍るに、蓮は一莖《ヒトモト》もなし、其は譬へば、然詔ふ君が鬚の無が如し、と戯(レ)申せるにて、信には、蓮の多くあるを、反りてかくいひ、又鬚無と云るも彼(ノ)親王、きはめたる大鬚にておはしましけむを、戯にうち反《モトリ》て、かく云るなり、(大和物語に、かずならぬ身におくよひの白玉は光見えさす物にぞ有ける、とよみて、たてまつりければ、見給うて、あな面白の玉の歌よみやとなむ、のたまうける、とあるも、あまりに嘲り給へる故に、醜の歌よみとはのたまはずして、わざとその反《ウラ》に、玉のうたよみとのたまへるなり、事はかはれど、反《ウラ》を云る意ばえは、同じかりけり、)
 
右或有人聞之曰《ミギアルヒトツタヘケラク》。新田部親王《ニヒタベノミコ》。出2遊《イデマシテ》于|堵裡《ミサトニ》1。御2見《メシテ》勝間田之池《カツマタノイケヲ》1。感《メデタマヒ》2諸|御心之中《ミコヽロノウチニ》1。還《カヘリマシテ》v自《ヨリ》2彼池《ソノイケ》1。不忍憐愛《シヌヒカネテ》。於時|語《》2婦人《》1曰《》。今日遊行《ケフユキテ》。見《ミシニ》2勝間田池《カツマタノイケヲ》1。水影濤濤《ミヅミチタヽヘテ》。蓮花灼灼《ハチステリカヾヤケリ》。可憐斷腸不可得言《ソノオモシロサカギリナシ》。爾乃婦人《コヽニヲミナ》。作《ヨミテ》2此戯歌《コノタハレウタヲ》1。專輙吟詠《スナハチウタヒキトイヘリ》也。
 
堵裡は、堵(ノ)字、古寫小本、拾穗本等には、都と作り、堵と都と通(ハシ)用(ヒ)たること、一(ノ)卷に、近江(ノ)舊堵、三(ノ)卷に、難波(ノ)堵、など書る例あり、今は奈良(ノ)都の裡といふなるべし、○諸(ノ)字、舊本には緒と作り、今は袖中抄に諸と作るに從つ、○憐愛の憐(ノ)字、類聚抄、古寫本、拾穗本等には、怜と作り、○時(ノ)字、類聚抄には是と作り、○濤濤、古寫小本、拾穗本等には蕩々と作り、○可憐、類聚抄、舌寫本、官本等には※[立心偏+可]怜と作り、○不可の可(ノ)字、古寫本に無(キ)はわろし、
 
(359)謗《ソシレル》2佞人《ネヂケビトヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
3836 奈良山乃《ナラヤマノ》。兒手柏之《コノテカシハノ》。兩面爾《フタオモニ》。左毛右毛《カニモカクニモ》。佞人之友《ネヂケビトノトモ》。
 
兒手柏《コノテカシハ》は、品物解に出(ツ)、此(ノ)下にも云り、○兩面爾《フタオモニ》の爾(ノ)字、一本には無て、フタオモテ〔五字右○〕と訓り、さて此(レ)までは、左毛右毛《カニモカクニモ》と云む料の序にて、風の吹時、葉の裏表の著(ル)く見ゆれば、兩面と云るなり、○左毛右毛《カニモカクニモ》は、四(ノ)卷に、白髪生流事者不念戀水者鹿煮藻闕二毛求而將行《シラガオフルコトハオモハズナミダヲバカニモカクニモモトメテユカム》、又、奈何度使之來流君乎社左右裳待難爲禮《ナニストカツカヒノキツルキミヲコソカニモカクニモマチカテニスレ》、などあり、○侫人之友《ネヂケビトノトモ》は、侫人《ネヂケヒト》の徒黨《トモガラ》なり、侫《ネヂケ》は、かげろふの日記に、つかさめしに、いとねぢけたるものに、大輔などいはれぬれば云々、いとねぢけたるべし、源氏物語帚木に、いと口惜く、ねぢけがましきおぼえだになくば、空蝉に、すべていとねぢけたる所なく、をかしげなる人、と見えたり、未通女に、ねぢけがましきさまにて、おとゞも聞おほす所侍りなむ、横笛に、いとねぢけたる色好み哉とて、更科日記に、かう立ぬとならば、さても宮づかへのかたにもたちなれ、世にまぎれたるも、ねぢけがましきおぼえもなきほどは、おのづから人のやうにも、おぼしもてなさせ給ふやうもあらまし、四季物語に、心はねぢけまがりて、(侫字、字鏡には、カタム〔三字右○〕と訓たれど、此はさはよみがたし、)○歌(ノ)意は、左より見ても、右より見ても、好ましき方なく、とかくにうるさく惡《ニク》ましき、侫人の徒黨にてあるぞ、となるべし、契冲云、第廿防人が歌にも、ちばの野のこのてがしはのほゝまれどあやにかなしみおきてたか(360)きぬ、能因歌枕にいはく、かしはをば、この手がしはといふ、ひらてともいふと云々、このてがしはとて、別にあらず、只かしはなり、小兒の手によく似たる故にいふなり、かへるの手に似たれば、かへでといふがごとし、兩面爾《フタオモニ》とは手にたなごゝろとたなうらとあるによせて、風などのふく時、うらおもてをみすれば、かにもかくにもねぢけ人とつゞけむためなり、〔頭註、【大和志に、兒手柏、漢名未v詳、山中所在有v之、奈良坂特多葉、如2粘黐樹1、而濶短、或三尖、恰似2小兒掌1、四時不v凋、白花黒實、】〕
 
右歌一首《ミギノウタヒトツハ》。博士消奈|公〔○で囲む〕行文大夫作之《ハカセセナノキミユキフミノマヘツキミガヨメル》。
 
消奈行文は、(消は、セウ〔二字右○〕の略音を、セ〔右○〕に用ひたるものか、略解には、背の誤ならむ、と云り、續紀、懷風藻等、こと/”\く背奈とあれば、然もあるべきにや、)消奈の下、公(ノ)字脱たるなるべし、と契冲云り、續紀に、養老五年正月戊申潮甲戌、詔曰、文人武士國家所v重、醫卜方術古今斯崇、云々、明經第二博士正七位上背奈(ノ)公行文(ニ)、賜2※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口1、また神龜四年十二月丁亥、云々、授2正六位上背奈(ノ)公行文(ニ)從五位下(ヲ)1、懷風藻に、從五位下大學(ノ)助背奈(ノ)王行文二首、年六十二、(今按(フ)に、これに王とあるは、公の誤にや、續紀に、天平十九年六月辛亥、正六位下背奈福信、外正七位下背奈大山等八人賜2背奈(ノ)王姓1、と見えて、行文はいまだ王(ノ)姓を賜はざりけるさきに、みまかれりけるなるべければなり、)
 
詠《ヨメル》2荷葉《ハチスバヲ》1歌一首《ウタヒトツ》〔六字各○で囲む〕。
 
(361)3837 久堅之《ヒサカタノ》。雨毛落奴可《アメモフラヌカ》。蓮葉爾《ハチスバニ》。渟在水乃《タマレルミヅノ》。玉爾似將有見《タマニニタルミム》。
 
第一二(ノ)句は、四(ノ)卷にも見えたり、○蓮葉爾《ハチスバニ》、(葉(ノ)字、舊本には荷と作り、荷(ハ)芙〓蓮也とて、已(ニ)發《ハナサキ》たる蓮を云へば、たがへり、今は古寫小本に、葉とあるに從つ、)十三に、御佩乎釼池之蓮葉爾渟有水之往方無我爲時爾《ミハカシヲツルギノイケノハチスバニタマレルミヅノユクヘナクアガスルトキニ》云々、○玉爾似將有見は、將有は、有將を顛倒《イレタガヘ》たるなるべし、タマニニタルミム〔八字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、いかで雨もがな降かし、さらば蓮葉に渟れる水の露まさりて、玉に似たるを見べきに、となり
 
右歌一首《ミギノウタヒトツハ》。傳云《イヒツテケラク》。有《アリ》2右兵衛《ミギノツハモノトネリ》1【姓名未詳。】多|能《タヘタリ》2歌作之藝《ウタヨミスルコトニ》1也。于時府家《トキニツカサノイヘ》備2設《マケ》酒食《サケサカナヲ1。饗2宴《アヘス》府官人等《ツカサビトタチヲ》1。於是饌食盛之《コヽニケヲモルニ》。皆《ミナ》用《モチフ》2荷葉《ハチスバヲ》1。諸人酒酣謌舞《モロヒトサケタケナハニシテウタマヒ》駱驛。乃|誘《イザナヒテ》2兵衛《ツハモノトネリヲ》1云。開《カケテ》2其荷葉《ソノハチスバニ》1而。作《ヨメ》v歌《ウタヲ》者《トイヘリ》。登時《スナハチ》應《コタヘテ》v聲《コヱニ》作《ヨメリ》2斯歌《コノウタヲ》1也。
 
註の姓名舊本には姓氏とあり、今は類聚抄に從つ、○駱驛は、絡繹と音通へば、同義なるべし、字書に、絡繹(ハ)連屬不(ナリ)v絶、と見ゆ、文粹に、行人徃馬駱2驛於翠廉之下(ニ)1、○開は、關の誤なり、○作歌の間、舊本に此(ノ)字あり、類聚抄、古寫本等に无(キ)ぞ宜き、
 
無《ナキ》2心《コヽロノ》所《トコロ》1v著《ツク》歌二首《ウタフタツ》。
 
無心所著とは、契冲、これは濱成式に云る雜會體なり、式(ニ)云、和歌三種體、一者求韻、二者|査《杳歟》體、三者雅體、査《杳歟》體別有2七種1、一雜會、資人久米(ノ)廣足(ガ)歌(ニ)云、かすが山みねこぐ舟の藥師でらあはぢの(362)島のからすきのつら、牛馬犬鼠等一處如2相會1、无v有2雅意1、故雜會(ナリ)、源氏物語とこなつに、あふみの君が歌、草わかみひたちの海のいかゞさきいかであひみむ田子の浦浪、女御の返し、ひたちなるするがの海のすまの浦に浪立出よ箱崎の松、これら今の无心所著の類なり、と云り、(但し源氏物語なるは、無心所著の類に通ひては聞ゆれど、設けてしか作《ヨメ》るにはあらず、もとよりひねり出られたる歌なれど、其は作者の拙き故に、本末うちあはず、意の貫かぬにこそあれ、されば彼(ノ)物語なるは、おしこめて、今の無心所著の類なりとは、いひがたかるべし、)
 
3838 吾妹兒之《ワギモコガ》。額爾生流《ヌカニオヒタル》。雙六乃《スグロクノ》。事負乃牛之《コトヒノウシノ》。倉上之瘡《クラノヘノカサ》。
 
額は、ヌカ〔二字右○〕と訓べし、(集中、ヌカ〔二字右○〕の借(リ)字に、額(ノ)字を書ること往々あり、ぬかは、ひたひのことなり、和名抄には、額を比太飛《ヒタヒ》とあれど、其は中山(ノ)嚴水云、和名抄容飾(ノ)具に、蔽髪(ハ)稱名(ニ)云、蔽2髪前1爲v飾、和名|比太飛《ヒタヒ》、とありて、此(ノ)訓より、移轉て額の訓となれるにて、額の本訓にはあらじ、と云り、さることなり、)姓氏録に、額田部湯坐(ノ)連(ハ)、天津彦根(ノ)命(ノ)子、明立《アケタツ》天(ノ)御影(ノ)命之後也、允恭天皇(ノ)御世(ニ)、被v遣2薩摩(ノ)國(ニ)1、平2隼人(ヲ)1、復奏之日《カヘリコトマヲスヒ》、獻2御馬一疋(ヲ)1、額《ヌカニ》有2町形(ノ)廻毛《ツムシ》1、天皇|喜《ヨロコバシテ》之賜2姓|額田部《ヌカタベヲ》1也、また額田部(ノ)※[人偏+弖]田(ノ)連(ハ)同(シ)神(ノ)(天津彦根)三世(ノ)孫、意富伊我都(ノ)命之後也、允恭天皇(ノ)御世(ニ)、獻2額田《ヌカタノ》馬(ヲ)1、天皇|勅《ノリタマハク》、此(ノ)馬(ノ)額《ヌカハ》如(シトノタマヘリ)2田(ノ)町(ノ)1、仍《カレ》賜2姓|額田《ヌカタノ》連(ヲ)1、とあり、これらにて、ヌカ〔二字右○〕と云しを知べし、○事負乃牛《コトヒノウシ》は、和名抄に、特牛(ハ)頭大牛也、古度比《コトヒ》、九(ノ)卷に、牡牛《コトヒウシ》とあり、品物解に出(ツ)、
 
(363)3839 吾兄子之《ワガセコガ》。犢鼻爾爲流《タフサキニセル》。都夫禮石之《ツブレイシノ》。吉野乃山爾《ヨシヌノヤマニ》。氷魚曾懸有《ヒヲソサガレル》。【懸有反云佐我禮流。】
 
犢鼻《タフサキ》は、犢鼻褌とあるべきを、此には褌(ノ)字を略きて書るか、神代紀にも犢鼻《タフサキ》とあれば、脱たるには非じ、和名抄に、方言註云、袴(ニシテ)而无(キヲ)v跨謂2之褌(ト)1、和名|須万之毛能《スマシモノ》、一(ニ)云|知比佐岐毛乃《チヒサキモノ》、(按(フ)に、須万之毛能《スマシモノ》、また知比佐岐毛乃《チヒサキモノ》、といへる言(ノ)義は、いまだ考(ヘ)得ざれども、袴而無v跨とあるを思ふに、こは後にいふ膚袴《ハダハカマ》なるべし、源平盛衰記に、はだはかまをかきと見え、下學集に、膚袴《ハダハカマ》とあるこれなり、此は袴の如くにして、跨なく、たけ短くて、膝の邊にまで至るものなり、犢鼻褌のうへにはきしものと見えたり、)史記(ニ)云、司馬相加著2特鼻褌(ヲ)1、韋昭(ガ)曰、今(ノ)三尺(ノ)布作v之、形如2牛鼻1者也、唐韻(ニ)云、※[衣+公](ハ)小褌也、楊氏漢語抄云、※[衣+公]子(ハ)毛乃之太乃太不佐岐《モノシタノタフサキ》、一(ニ)云水子、と見えたり、(此(レ)今(ノ)俗に云ふんどしにて、くはしくは毛乃之多乃多不佐岐《モノシタノタフサキ》、といひしにや、されど通《ツネ》には、たゞ多布佐岐《タフサキ》とのみ云りしと見ゆ、さて多布佐岐《タフサキ》は、股塞《マタフサギ》の意なりと云説あり、まことに理はさることながら、股《マタ》を略きて、多《タ》とのみ云むこと、うけがたければ、猶別意なるべし、犢鼻褌といふ字義は、下學集に、犢鼻褌(ハ)男根衣也、男根如2犢鼻1故云、と云れど、布(ニテ)作v之、形如2牛(ノ》鼻(ノ)1、とあれば、褌の形につきて、いへる名にこそあらめ、しかるに天野(ノ)借景が塩尻わいふものを見るに、足の三里の上に、犢鼻穴といふありて、褌の、かの犢鼻穴に至れるを、犢鼻褌と名づけたるよし記せり、もしその説のごとくならば、褌の形につきて、いへる名にもあらじか、げに男根によれりとする(364)も、褌の形につきたりといふも、うけがたき説どもなり、かくて中昔の未に、手綱といひ、またはだの帶とも、下帶とも云たる、皆今(ノ)俗のふんどしのことにて、犢鼻褌と全(ラ)同物なり、今も田舍にて、ふんどしとも、下帶とも云り、)宇治拾遺十二、賀茂の祭の日、眞はだかにて、たふさきばかりをして、から鮭太刀にはきて、やせたる女牛に乘て云々、今昔物語十(ノ)卷相撲強力(ノ)條に、長居は庭に床子に尻かけて候(ヒ)ける、それもたちて、たふさきかけて、ねり出たり、云々、(契冲が正濫抄にいはく、袖中抄に、ひをりの日を、釋《トケ》る所に、かちのしりを、うしろより前へ引(キ)、たふさきて、とかゝれたるを思へば、たふさくといふ用言を、體にいひなせるなり、今も東の人は、たふさきと申(ス)よし、或人語り申(シ)き、此(レ)をふんどしといへるは、乞食者のよのる長歌にある、ふもだしの轉れるか、ふもだしは蹈黙《フモダシ》なり、布毛《フモノ》切|保《ホ》なる故に、つゞめてほだしと云り、あらき馬の、人を蹈などするも、ほだしをかけつればやむ故に、もだすといへり、褌《ハカマ》をかけたるさまの似たれば、かく名付たるにやと云るが如し、但し褌《ハカマ》をかけたるさまの、と云るは、いさゝかまぎらはし、たふさきを帶たる形の、馬に絆《フモダシ》かけたるに似たる故に、賤き者の、ふもだしといふべきを訛りて、ふんどしとは云るなるべし、伊勢氏、今も安房(ノ)國の人は、ふんどしといはず、たふさきといふなりと云り、土佐(ノ)國香美(ノ)郡大忍(ノ)山里の者、近き代まで、ふんどしを、たふさきといひけるとなり、)○都夫禮石《ツブレイシ》は圓石《ツブライシ》なり、書紀に、圓(ノ)字をツブラ〔三字右○〕と訓り、ツブレ、ツブラ〔六字右○〕音通(フ)、倭姫(ノ)世(365)記に、圓奈留《ツブラナル》有《アリ》2小山《コヤマ》1支《キ》、其所乎都不良止號支《ソコヲツブラトナヅケキ》、○氷魚曾懸有《ヒヲソサガレル》は、氷魚《ヒヲ》は、和名抄(ニ)云、考聲切韻(ニ)云、※[魚+小](ハ)白小魚(ノ)名也、似2※[魚+白]魚1、長一二寸者也、今按(ニ)、俗(ニ)云|氷魚《ヒヲ》是也、宮内省式、諸國例貢(ノ)御贄に、山城平栗子氷魚鱸、と見ゆ、懸(ノ)字サガル〔三字右○〕と訓る例は、古事記中(ツ)卷垂仁天皇(ノ)條に、取2懸《トリサガリテ》樹(ノ)枝(ニ)1而欲v死(ムト)、故(レ)號2其地1謂2懸木《サガリキト》1、今云2相樂(ト)1、靈異記に、懸(ハ)左加禮留《サガレル》、和名抄に、懸疣(ハ)、佐賀利布須倍《サガリフスベ》、などあり、○註の我(ノ)字、舊本に家と作るは非なり、今は官本に從つ、
 
右歌者《ミギノウタハ》。舍人親王《トネリノミコ》。令《ノリゴチ》2侍座《モトコビトニ》1曰《タマハク》。或《モシ》有《アラバ》d作《ヨム》2無《ナキ》v所《トコロ》v由《ヨル》之|歌《ウタヲ》1者《ヒト》u。賜2以《タバラムトノリタマヘリ》錢帛《ゼニキヌヲ》1。于時大舍人安倍朝臣子祖父《トキニオホトネリアベノアソミコオヂ》。乃《スナハチ》作《ヨミテ》2斯歌《コノウタヲ》1獻上《タテマツル》。登時《スナハチ》以|所《トコロノ》v募《ツノル》物|錢二千文給之也《ゼニフタヲチタマヘリキ》。
 
作2無v所v由之歌1は、たゞ當時の戯興なるべし、契冲云、天武天皇(ノ)紀(ニ)云、朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯、御(シ)2大極殿(ニ)1、而賜2宴(ヲ)於諸王卿(ニ)1、是日詔曰、朕問2王卿(ニ)1以2無端事《アトナシゴトヲ》1、仍對言(ニ)得(ハ)v實(ヲ)必有v賜云々、丁巳、是日問(ニ)2群臣(ニ)以2無端事《アトナシゴトヲ1、則當時《トキニ》得(バ)v實(ヲ)重(テ)給2綿※[糸+施の旁](ヲ)1、此(ノ)あとなしごとゝあるは、いかなることゝしらねど、およそ此(ノ)たぐひにや、○子祖父は、傳未(ダ)詳ならず、但し續紀に、大寶三年七月甲午、從五位下引田朝臣祖父爲2武藏(ノ)守(ト)1、と見えて、其(ノ)後慶雲元年に、此(ノ)引田氏本姓に復りて、阿倍(ノ)朝臣と改めたるよし見ゆ、されば續紀に祖父とあるは、子(ノ)字を脱せるにて、今の子祖父なるべしと云説あり、親王と同時の人なれば、さもあるべきか、○千(ノ)字、古寫小本、拾穗本等には、萬と作り、
 
池田朝臣《イケダノアソミガ》。嗤《アザケル》2大神朝臣奥守《オホミワノアソミオキモリヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
(366)池田(ノ)朝臣は、眞枚《マヒヲ》なるべし、續紀に、天平寶字八年十月己丑、從八位上池田(ノ)朝臣眞枚(ニ)授2從五位下(ヲ)1、神護景雲二年十一月己亥、爲2※[手偏+僉]※[手偏+交]兵庫軍監(ト)1、寶龜元年十月辛亥、爲2上野(ノ)介(ト)1、五年三月甲辰、爲2少納言(ト)1、八年正月甲寅朔戊寅、爲2員外(ノ)少納言(ト)1、十年六月辛亥、爲2少納言(ト)1、十一年三月丙寅朔乙酉、爲2長門(ノ)守(ト)1、延暦六年二月庚辰、爲2鎭守副將軍(ト)1、八年六月甲戌、征東將軍奏云々、左中軍別將從五位下池田(ノ)朝臣眞枚云々等議云々、九月丁未、符節征東大將軍紀(ノ)朝臣古佐美、至v自2陸奥1、進2節刀(ヲ)1、戊午、勅遣2云々等於太政官曹司(ニ)1、勘2問征東將軍等逗留敗軍之状(ヲ)1云々、鎭守副將軍從五位下池田(ノ)朝臣眞枚云々等、各申2其由(ヲ)1、並皆承伏、於是詔曰云々、又鎭守副將軍從五位下池田(ノ)朝臣眞枚云々等、愚頑畏拙《カタクナニヲヂナク》之弖、進退失(ヒ)v度(ヲ)、軍(ノ)期《チギリ》乎毛|闕怠《カキオコタレ》利、今|法《ノリ》乎|※[手偏+僉]《カムガフル》爾、眞枚者|解《トリ》v官《ツカサヲ》取《トル》v冠《カヽフリヲ》倍久在、然(レドモ)云々、眞枚者|日上《ヒカミ》乃|湊《ミナトニ》之※[氏/一]、溺《オボルヽ》軍乎|扶※[手偏+丞]《タスケスク》閇留|勞《イサヲ》爾|縁《ヨリ》弖奈母、取v冠(ヲ)罪波免(シ)賜弖、官(サ)乎乃未|解《トリ》賜比云々、と見えたり、舊本に、池田(ノ)朝臣名忘失也、と註したれど、もとより名の知(レ)たる人をも、略きて書ること、前後に多きをや、○嗤(ノ)字、舊本〓と作り、類聚抄に從つ、次々なるも同じ、古寫小本には、嗤の上に咲(ノ)字あり、○奥守は、續紀に寶字八年正月乙巳、正六位下大神(ノ)朝臣奥守(ニ)授2從五位下(ヲ)1。
 
3840 寺寺之《テラテラノ》。女餓鬼申久《メガキマヲサク》。大神乃《オホミワノ》。男餓鬼被賜而《ヲガキタバリテ》。其子將播《ソノコウマハム》。
 
女餓鬼申久《メガキマヲサク》は、まづ寺院には、餓鬼《ガキ》をつくり置ことありて、其(レ)に男女あれば、女餓鬼《メガキ》と云り、四(ノ)(367)卷にも餓鬼《ガキ》をよめり、和名抄鬼魅(ノ)類に、孫※[立心偏+面](ガ)切韻(ニ)曰、餓鬼(ハ)鬼也、餓訓與v飢同、久飢也、内典(ニ)云餓鬼(ハ)、其喉如v針(ノ)、不v得v飲v水(ヲ)、見v水、則變v成v火(ト)、和名|加岐《ガキ》、と見ゆ、申久《マヲサク》は、麻乎須《マヲス》の伸りたるにて、(サク〔二字右○〕の切ス〔右○〕、)申すやうはと云むが如し、云久《イハク》は、伊布《イフ》の伸りたるにて、(ハク〔二字右○〕の切フ〔右○〕、)云(フ)やうはといふ意なるに准ふべし、○將播(播の下に、拾穗本に良(ノ)字ありて、ハラママム〔四字右○〕とよめるは、みだりなり、)は、契冲が、ウマハム〔四字右○〕とよめる宜し、允恭天皇(ノ)紀に、蕃息《ウマハリ》、雄略天皇(ノ)紀に、産兒《ウマハリ》、蔓生《ウマハリ》、仁賢天皇(ノ)紀に、殖《ウマハル》、靈異記に利《ウマハル》、○歌(ノ)意は、奥守が其(ノ)身の甚《イタク》痩たるを嗤て、寺々の女餓鬼《メガキ》が申(ス)やうは、わが夫《セ》に大神氏の男餓鬼《ヲガキ》を給《タマ》はり、夫婦となりて、其子|滋《オホク》蕃息《ウマハ》む、となり、
 
大神朝臣奥守報嗤歌一首《オホミワノアソミオキモリガコタヘアザケルウタヒトツ》。
 
嗤の下、古寫小本、拾穗本等に、咲(ノ)字あり、
 
3841 佛造《ホトケツクル》。眞朱不足者《マソホタラズバ》。水渟《ミヅタマル》。池田乃阿曾我《イケタノアソガ》。鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》。
 
眞朱は、マソホ〔三字右○〕と訓べし、十四に、麻可禰布久爾布能曾保乃伊呂爾低弖《マカネフクニフノソホノイロニデテ》云々、十三に、赤曾朋舟曾朋舟爾《アケノソホブネソホブネニ》、(朱舟《ソホブネ》なり、)和名抄圖繪(ノ)具に、考聲切韻(ニ)云、丹砂(ハ)似2朱砂(ニ)1而不2鮮明1者也、和名|邇《ニ》、本草(ニ)云、※[石+朱]砂最上者謂2之光明砂(ト)1、(和名抄にはかくあれども、邇《ニ》とは、古(ヘ)はたゞにひろく土を云しなり、されば彼(ノ)頃になりては、丹土《ニニ》といふべきを、つゞめて邇《ニ》と云るにや、)○水渟《ミヅタマル》は、池の枕詞なり、書紀大鷦鷯(ノ)皇子(ノ)御歌に、瀰豆多摩蘆豫佐瀰能伊戒阿《ミヅタマルヨサミノイケニ》云々、○池田乃阿曾《イケダノアソ》は、阿曾《アソ》とは、姓の朝臣(368)に關りて云るには非ず、(本居氏の、阿曾《アソ》は、阿曾美《アソミ》の省なり、と云るは、たがへり、某|乃阿曾美《ノアソミ》と云阿曾美も、吾兄臣《アセオミ》の縮れるにて、親み崇めて云理は、たがはざれども、言(ノ)義は、各々異なりと知べし、いかにとなれば、阿曾美《アソミ》は、阿世於美《アセオミ》の縮なるに、その美《ミ》を省きすてゝ云べき理にあらざればなり、もし吉兄臣《アセオミ》を省きたる言ならば、たゞに吾兄《アセ》とこそ云べきなれ、(吾兄子《アセコ》の縮れる言にて、(セコ〔二字右○〕の切ソ〔右○〕、)親み崇めていふ辭なり、某|乃阿曾《ノアソ》と云ること、古事記仁徳天皇(ノ)大御歌に、多麻岐波流宇知能阿曾《タマキハルウチノアソ》云々、(建内(ノ)宿禰をさして詔へるなり、)書紀神功皇后(ノ)卷忽熊(ノ)王(ノ)歌に、多摩枳波屡于知能阿曾餓《タマキハルウチノアソガ》云々、熊之凝(ガ)歌に、多摩岐波屡于池能阿曾餓《タママキハルウチノアソガ》云々、と見え、さては此(ノ)集をおきて後々には、をさ/\見えず、(古本松島日記に、在五のあそのごとく、うら山しくなどゝひとりごちぬる云々、かのあきたゞのあその尼たづねまゐるに云々、とあるのみなり、)某|乃朝臣《ノアソム》と云る事は、をり/\見えたり、(某|乃朝臣《ノアソム》とも、又たゞ人に對ひて、朝臣《アソム》とのみ云ることも見ゆ、みな姓に關りて云るには非ず、只親(ミ)辭なり、)およそ姓名の下に、かくざまにそへて云は、皆親み崇めて、云ことにて、其(ノ)中に、いたく恭ひ尊みては、某|之命《ノミコト》と云、(神(ノ)名の下に附て云を始めて、父之命《チヽノミコト》、母之命《ハヽノミコト》など云、又さらぬ人にも、夫之命《ツマノミコト》、弟之命《オトノミコト》など云ることも古(ヘ)は多し、)其(ノ)次には、某|之大人《ノウシ》と云、(神代紀に、三熊之大人《ミクマノウシ》、齋之大人《イハヒノウシ》など見え、用明天皇(ノ)紀に、語2大伴(ノ)金村(ノ)大連(ニ)1曰、今群臣圖v卿《ウシヲ》とも見ゆ、)其(ノ)次には、某(ノ)子、(古事記、書紀、神武天皇(ノ)條に、大久米(ノ)命を、久米能古《クメノコ》(369)とよみ、書紀雄略天皇(ノ)卷(ノ)歌に、吉備(ノ)臣尾代と云人を、嗚之慮能古《ヲシロノコ》とよみ、推古天皇(ノ)卷に、蘇我(ノ)馬子を、蘇我能古羅《ソガノコラ》と詔ひ、集中に、水江浦島子《ミヅノエノウラシマノコ》とよめる類なり、)某(ノ)宿禰《スクネ》、(書紀崇神天皇(ノ)卷に、穗積(ノ)臣大水口(ノ)宿禰、と見え、垂仁天皇(ノ)卷に、大倭(ノ)直長尾市(ノ)宿禰、などあるたぐひ、姓は臣、また直なれば、宿禰は、姓に關からざる親辭なるを知べし、此餘書紀には往々あり、)某(ノ)臣《オミ》、(書紀仁徳天皇(ノ)卷に、小泊瀬(ノ)造賢遺(ノ)臣と見えたり、これも姓は造なれば、臣は姓にあづからざる親辭なるを知べし、)某(ノ)眞人《マヒト》なども云り、(東大寺造立供養記に、藤原(ノ)秀平(ノ)眞人、新猿樂記に、八郎眞人など見え、又榮花物語初花に、ものよかりける眞人《マウト》かな、落窪物語に、眞人《マウト》の小盗人は、足白くこそ侍らめ云々、など、また眞人等《マウトタチ》の、かういたうはやるざうしきかな、源氏物語帚木に、此(ノ)姉君や、眞人《マウト》の後の親、浮舟に、眞人《マウト》は、何しにこゝには、たび/\まゐるぞととふ云々、けしきある眞人《マクト》かな、なども、見えたり、)此(ノ)他に、某(ノ)公《キミ》、(雄略天皇(ノ)紀に、吾(ガ)主《アロジ》大伴(ノ)公《キミ》、土佐日記に、業平の君《キミ》、枕册子に、公任の君《キミ》、安法法師集に、前(ノ)和泉(ノ)守順の君《キミ》、和泉(ノ)守やすひらの君《キミ》、など見えたる類なり、古事記、應神天皇の、大雀(ノ)命に詔ふ御詞には、佐邪岐阿藝《サザキアギ》とあり、)(某(ノ)翁《オヂ》、十七(ノ)歌に、山田(ノ)史君麿を、佐夜麻太乃乎治《サヤマダノヲヂ》、とよめり、)某(ノ)伯父《ヲヂ》(安閑天皇(ノ)紀に、天皇、大伴(ノ)大連金村を、大伴(ノ)伯父《ヲヂ》と詔へり、)など、をりにふれて云ることも、古書に見えたり、(言しげければ、こと/”\に其(ノ)例を云ず、又人に對ひて、たゞ首《オビト》と呼ることもあり、)さて中古より以降は、大方某(ノ)主《ヌシ》と云ことになりて、(土佐日記(370)に、阿倍(ノ)仲麿のぬし、貫之集に、肥後(ノ)守藤原のときすけと云ぬしの、又秋立日殿上のぬしたちの、大和物語に、故源大納言のきみたゞふさのぬしの御むすめ、源氏物語浮舟に、まら人のぬし來てな、見えぞや、大鏡八(ノ)卷に、其東遊の歌、貫之のぬしぞかし、今昔物語に、此(ノ)鬢たゝらと云は、守のぬしの鬢の落たるなり、山家集に、泉のぬしかくれて、袖中抄に、文時(ノ)卿聞て、順のぬし得知じ/\とぞうなづかれける、太田道灌慕京集に、北條(ノ)憲定のぬし、など見え、東鑑には、ことに多く見えたり、)おのづから自除の云樣はすたれはてゝ、をさ/\知(ル)人もなきごとくになりたり、○鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》は、赤鼻の上を穿て、朱砂をとれと令せたるなり、契冲云(ク)、俗に云|柘榴《ザクロ》鼻にて、あかゝりければなり、源氏物語末採花に、あなかたわと見ゆるものは、御はななりけり、云々、さきのかたすこしたりて、色付たるほど、ことのほかうたてあり、又云(ク)、此あか鼻を、かきつけにほはして見たまふに云々、○歌(ノ)意は、佛像を造る彩色(ノ)具に、朱を用ふる故に、その朱砂が足ずば、池田(ノ)吾兄子《アソ》が鼻の上を穿れ、赤鼻なれば、決て朱砂多からむぞと、佛師に令せたるさまなり、
或云〔二字□で囲む〕
この二字、古寫小本、拾穗本等には无し、此《コヽ》は字の脱たるならむ、
 
平群朝臣《ヘグリノアソミガ》。嗤2咲《アザケル》穗積朝臣《ホヅミノアソミヲ》1歌一首〔二字各○で囲む〕《ウタヒトツ》。
 
(371)平群(ノ)朝臣は、廣成なるべし、續紀に、天平九年九月己亥、正六位上平群(ノ)朝臣廣成(ニ)、(在唐未歸、)授2外從五位下(ヲ)1、十一年十月丙戌、入唐使判官外從五位下平群(ノ)朝臣廣成、并渤海客等入v京、十一月辛卯、平群(ノ)朝臣廣成等拜朝、十二月己卯、授2正五位上1、十五年六月丁酉、爲2刑部(ノ)大輔(ト)1、十六年九月甲戌、爲2東山道(ノ)巡察使(ト)1、十八年三月壬戌、爲2式部(ノ)大輔(ト)1、九月己巳、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、十九年正月丙申、授2從四位下(ヲ)1、勝寶二年正月乙巳、授2從四位上(ヲ)1、四年五月辛未、爲2武藏(ノ)守1、五年正月庚午、從四位上平群(ノ)朝臣廣成、と見えたり、咲穗積朝臣の五字、舊本にはなし、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、穗積(ノ)朝臣は、老人なるべし、續紀に、天平九年九月己亥、正六位上穗積(ノ)朝臣老人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十二年壬戌、2左京(ノ)亮(ト)1、十八年四月癸卯、授2從五位下(ヲ)1、九月戊辰、爲2内藏(ノ)頭(ト)1、
 
3842 小兒等《ワクゴトモ》。草者勿苅《クサハナカリソ》。八穗蓼乎《ヤホタデヲ》。穗積乃阿曾我《ホヅミノアソガ》。腋草乎可禮《ワキクサヲカレ》。
 
小兒等は、ワクゴトモ〔五字右○〕と訓べし、十三に、少子等率和出將見《ワクゴトモイザワイデミム》云々、○草者勿苅《クサハナカリソ》は、七(ノ)卷に、此崗草苅小子然苅《コノヲカニクサカルワクゴシカナカリソネ》云々、○八穗蓼乎《ヤホタデヲ》は、枕詞なり、彌穗蓼《ヤホタデ》の穗を採《ツム》といふ意にかゝれるなり、(八穗蓼《ヤホタデ》は、曾禰(ノ)好忠集に、八穗蓼も河原を見れば老にけり辛しや吾も年をつみつゝ、とも見ゆ、)○腋草《ワキクサ》は、腋の下の毛を云、○歌(ノ)意は、草刈小兒等は、遠く野に出て、草を尋て刈事なかれ、草を刈むとならば、穗積の吾兄子《アソ》が、腋草の多かるをかれ、となり、穗積氏の、腋の下の毛の多かりけるを、嗤ていへるなり、
 
(372)穗積朝臣和歌一首《ホヅミノアソミガコタフルウタヒトツ》。
 
3843 何所曾《イヅクソ》。眞朱穿岳《マソホホルヲカ》。薦疊《コモタヽミ》。平群乃阿曾我《ヘグリノアソガ》。鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》。
 
何所曾は、イヅクソ〔四字右○〕と訓べし、(イヅクニソ〔五字右○〕とよめるはめろし、)何處かの意なり、○薦疊《コモタヽミ》は、枕詞なり、かく屬けたる意は、疊の重《ヘ》と云なり、重《ヘ》は、二重《フタヘ》三重《ミヘ》の重《ヘ》にて、重《カサ》ねることなり、疊《タヽミ》は、菰草などを幾重も編(ミ)重ねて、造れる物なる故に、云るなり、此(ノ)下に、八重疊平群乃山《ヤヘタヽミヘグリノヤマ》、古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、多多美許母弊具埋能夜麻能《タタミコモヘグリノヤマノ》云々、などあり、又十一に、疊薦隔編數《タヽミコモヘダテアムカズ》、十二に、疊薦重編數《タヽミコモカサネアムカズ》、などあり、これらにて、重《ヘ》といふ由を思ふべし、○鼻の下、類聚抄に乃(ノ)字あり、○歌(ノ)意は、何處か、眞朱穿岳《マソホホルヲカ》なるぞや、何處にもあらじ、平群(ノ)吾兄子《アソ》が、鼻(ノ)上にこそ、色よき朱砂《マソホ》はあるなれ、されば他處にもとむることなくして、かれが鼻(ノ)上を穿れ、といひて、これも平群氏の赤鼻を嗤るなり、
 
土師宿彌水通《ハニシノスクネミミチガ》。笑2咲《アザケル》巨勢朝臣豐人黒色《コセノアソミトヨヒトガクロイロヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
水痛が傳は、四(ノ)卷上に委(ク)云り、五(ノ)卷太宰梅花(ノ)歌には、土師氏御通とあり、○豐人は、傳未(ダ)詳ならず、舊本には、笑咲黒色歌一首、とのみあり、古寫本に從つ、
 
3844 烏玉之《ヌバタマノ》。斐太乃大黒《ヒダノオホクロ》。毎見《ミルゴトニ》。巨勢乃小黒之《コセノヲクロシ》。所念可聞《オモホユルカモ》。
 
烏玉之《ヌバタマノ》は、黒《クロ》といふへ屬《カヽ》れる枕詞なり、○斐太乃大黒《ヒダノオホクロ》は、斐太(ノ)朝臣の容貌の、極めて黒色なる(373)を、馬に比べて云るなり、斐太は、巨勢(ノ)斐太(ノ)朝臣島村が子なるよし、左の傳に見えたる如し、契冲、黒といへば、馬と聞ゆるなり、甲斐の黒駒などいひて、くろきに名馬は聞ゆるなるべし、と云り、信にさも有べし、○毎見の下、類聚抄に人(ノ)字あるはニ〔右○〕の假字なり、○巨勢乃小黒《コセノヲクロ》は、巨勢(ノ)朝臣の容貌の黒色を馬に比べて云るなり、後徳大寺左大臣實定(ノ)公(ノ)庭槐抄(ニ)云(ク)、治承二年三月廿二日云々、天皇行2幸春日社(ニ)1云々、是依2駿足(ニ)1也、(號2小黒1、)と見えたるをも、考(ヘ)合(ス)べし、さて斐太氏は、勝れて色黒く、巨勢氏は、それにつぎたれば、大小を以て別(チ)云るなるべし、○歌(ノ)意は、いみじく黒色なる斐太の大黒を見(ル)たびに、巨勢の小黒の事が、一(ト)すぢに思ひ出さるゝ哉、さても此も彼も極めたる黒色やと、嗤りたるなり、契冲云、第六に、大納言大伴(ノ)卿、やまと路のきびのこしまを過て行ば筑紫の小島おもほえむかも、たはぶれと、まことゝことなれど、うたのやう似たり、
 
巨勢朝臣豐人答歌一首《コセノアソミトヨヒトガコタフルウタヒトツ》。
 
3845 造駒《コマツクル》。土師乃志婢麻呂《ハシノシビマロ》。白久有者《シロクアレバ》。諾欲將有《ウベホシカラム》。其黒色乎《ソノクロイロヲ》。
 
造駒《コマツクル》は、土師の職は、埴を以て、種々《クサ/”\》の物象《モノカタ》を造るが故に、今土師氏なれば、かくいへり、さてその埴以(テ)造(ル)物は、何といふ定(マリ)はなけれど、かの駒犬などいふものゝ類を、もはらとつくる故に、むねとある一方につきて、駒を云て、大黒小黒と云るに答へたるなり、土師の事は、神代紀上(374)に、天(ノ)穗日(ノ)命(ハ)、此(レ)出雲(ノ)臣、武藏(ノ)國(ノ)造、土師(ノ)連等(ガ)遠祖也、垂仁天皇(ノ)紀に、三十二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛(ノ)命薨、臨(テ)v葬(ニ)有v日焉、天皇詔2群卿(ニ)1曰、從(フ)v死《シニヒトニ》之道、知《シリヌ》v不《ズトイフコトヲ》v可《ヨカラ》、今此行之《コノタビノ》葬(ハ)奈之爲何《イカニセマシ》、於是野見(ノ)宿禰進曰(ク)、云々、喚2上《メサゲテ》出雲(ノ)國之|土師壹佰人《ハニシドモヽヒトヲ》1、自(ラ)領(テ)2土師等《ハニシドモヲ》1、取(リ)v埴(ヲ)以|造2作《ツクリテ》人馬及|種々物《クサ/”\ノモノヽ》形(ヲ)1、獻2于天皇(ニ)1曰云々、天皇厚(ク)賞(タマヒ)2野見宿禰之|功《イサヲヲ》1、亦賜2鍛地《カタシノトコロヲ》1、即|任《ヨサシタマヒ》2土部職《ハニシノツカサニ》1、因改(テ)2本(ノ)姓(ヲ)1謂2土部(ノ)臣(ト)1云々、所謂野見(ノ)宿禰(ハ)是土部(ノ)連等之始祖也、さて土師は、ハニシ〔三字右○〕とも、ハシ〔二字右○〕とも古(ヘ)より唱(ヘ)けむ、故(レ)此(ノ)歌などにては、ハシ〔二字右○〕と訓べきことなり、和名抄に、和泉(ノ)國大鳥(ノ)郡土師(ハ)波爾之《ハニシ》、上野(ノ)國緑野(ノ)郡土師(ハ)波爾之《ハニシ》、備前(ノ)國邑久(ノ)郡土師(ハ)反之《ハムシ》、阿波(ノ)國名方(ノ)西(ノ)郡土師(ハ)波之《ハシ》、筑前(ノ)國穗波(ノ)郡土師(ハ)波之《ハシ》、などあり、(これらにて知べし、)又黄櫨をも、和名抄には、波爾之《ハニシ》とあるを、古事記、書紀には波士《ハジ》とあり、これも今の例に同じ、○白久有者(久(ノ)字、舊本には爾と作り、今は類聚抄に從つ、)は、シロクアレバ〔六字右○〕と訓べし、契冲云(ク)、源氏物語に、色は雪はづかしうしろくて、さをにといへるがごとし、俗にも、なましらけたりといへり、○歌(ノ)意は、大黒小黒の駒象を、埴もて造る志婢麻呂が、自(ラ)色白(ロ)なれば不自由にて、しか黒色の欲からむは、げにも尤《コトワリ》なることぞ、となり、
 
右歌者《ミギノウタハ》。傳云《イヒツテケラク》。有《アリ》2大舍人土師宿禰水通《オホトネリハニシノスクネミミチトイフヒト》1。字《アザナヲバ》曰《イヘリ》2志婢麻呂《シビマロト》1也。於時大舍人巨勢朝臣豐人《トキニオホトネリコセノアソミトヨヒト》。字《アザナヲバ》曰《イヘリ》2正月麻呂《ムツキマロト》1。與|巨勢斐太朝臣《コセヒダノアソミ》【名字忘之也。島村大夫之男也。】兩人《フタリ》。並此彼《ミナ》。貌黒色烏《カホクロカリキ》。於是土師宿禰水通《コヽニハニシノスクネミミチ》。作《ヨミテ》2斯歌《コノウタヲ》1嗤咲者《アザケリヌ》。而巨勢朝臣豐人《カクテコセノアソミトヨヒト》。聞《キヽテ》v之《コレヲ》即《スナハチ》作《ヨミテ》2(375)和歌《コタヘノウタヲ》1酬咲也《ムクイアザケリキトイヘリ》。
 
水通(水(ノ)字類聚抄に、山と作るは誤なり、)は上に出(ツ)、○字のことは、二(ノ)卷に具(ク)云り、○巨勢斐太(ノ)朝臣は、名は傳はらず、島村の子にて、續紀に、養老三年五月己丑朔癸卯、從七位上巨勢斐太(ノ)臣大男等二人並賜2朝臣姓(ヲ)1、と見ゆ、この大男の同族なるべし、○註の名字は、俗に名前《ナマヘ》といふ意なり、○島村(村(ノ)字、舊本に无は脱たるなり、今は類聚抄、官本、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、續紀に、天平九年九月癸亥、正六位下巨勢斐太(ノ)朝臣島村(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十六年閏正月乙亥、天皇行2幸難波(ノ)宮(ニ)1云々、二月丙申、云々、巨勢(ノ)朝臣島村二人爲2平城(ノ)宮(ノ)留守(ト)1、九月甲戌、爲2南海道(ノ)巡察使(ト)1、十七年正月己未朔乙丑、授2外從五位上1、十八年五月戊午、授2從五位下(ヲ)1、同九月己巳、爲2刑部(ノ)少輔(ト)1、○烏(ノ)字は、焉と通(ハシ)用、和名抄装束都烏帽の註に、俗訛(テ)烏爲v焉(ニ)、今按(ニ)、烏焉或(ハ)通(ス)、見2文選(ノ)註、玉篇等(ニ)1、○於是の下、土師宿禰の四字、者而の下、巨勢(ノ)朝臣の四字、古寫小本には无(シ)、○結《ハテ》の也(ノ)字、古寫本には无(シ)、
 
戯《タハムレニ》嗤《アザケル》v僧《ホウシヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
3846 法師等之《ホウシラガ》。鬢乃剃※[木+兀]《ヒゲノソリクヒ》。馬繋《ウマツナギ》。痛勿引曾《イタクナヒキソ》。僧半甘《ホウシナカラカム》。
 
鬢乃剃※[木+兀]《ヒゲノソリクヒ》、(※[木+兀](ノ)字、拾穗本には、※[木+厥]と作り、)鬢は、鬚の誤寫なるべし、(類聚抄には髪、古寫小本には鬢と作れど、わろし、)古(ヘ)より、僧《ホウシ》は、髪をも鬚をも剔けるなれば、かく云り、孝徳天皇(ノ)紀に、古人(ノ)大兄、(376)即位を辭(ミ)て僧と成給ふ時に、法興寺に詣給ひ、佛殿と塔の間にて、髯髪を剔除て、袈裟を披著給ふこと見え、又源氏物語夢(ノ)浮橋に、髪鬚《カミヒゲ》を剃たる法師だに、あやしき心は失ぬもあなり、なども見えたり、剃枕とは、剔たる鬚の趾へ、いさゝか生出たるをいふ、竹木の切(リ)※[木+兀]といふに同じ、〔頭註、【法師、和名抄に、玄蕃寮、保宇之萬良比止乃豆加佐、とあり、法は入聲にて、漢音ハフ、呉音はホフなり、然るをホウと呼來れこと、ゆゑあるべし、】〕○半甘《ナカラカム》は、(契冲が、なからにならむといふ心なり、と云る、理はさることなれど、いさゝか言の由を盡さず、又一説に、將《ム》v泣《ナカ》といふ言の伸りたるなり、と云るもわろし、)半缺《ナカラカヽ》むといふことなり、(カヽ〔二字右○〕の切カ〔右○〕、)僧(ノ)面を傷ひて、半を缺《カヽ》むといへるなり、鬚を引拔たりとて、半の缺るばかりの事はなき理なれど、事をいみじく云むとて云るなり、○歌(ノ)意は、僧が鬚の剃※[木+兀]の甚しければ便宜しとて、其(レ)に馬繋ぎて、いたく引ことなかれ、若(シ)いたく引ときは、鬚を引拔て傷ひ破り、僧(ノ)面の半を缺むぞ、となり、
 
法師報歌一首《ホウシガコタフルウタヒトツ》。
 
3847 檀越也《ダムヲチヤ》。然勿言《シカモナイヒソ》。※[氏/一]戸等我《サトヲサラガ》。課役徴者《エツキハタラバ》。汝毛半甘《ナレモナカラカム》。
 
檀越也《ダムヲチヤ》は、檀越《ダムヲチ》とは、檀那《ダムナ》と云と同じことなり、漢國にて、譯して布施と云、新澤には、主とも云とぞ、(俗に、賤者より、良人を稱て檀那と云は、新譯の意なるべし、)財施とて、在家《ヨニアルヒト》の貨財の施を受て居る謂にて、僧徒より在家をさして、檀越《ダムヲチ》と云なるべし、(唯識論に、施有2三種1、謂2財施、無(377)畏施(ト)、法施1、)大乘義章に、初言v檀者外國(ノ)語、此(ニハ)云2布施1、以2己財事(ヲ)1、分布(シテ)與v他(ニ)、名之爲v布(ト)、※[立心偏+輟の旁]《ヤメテ》v己(ヲ)惠v人(ヲ)、目v之爲v施(ト)、と見えたり、也《ヤ》は與《ヨ》といはむが如し、十四に、奈勢能古夜《ナセノコヤ》とある夜《ヤ》に同(ジ)、○※[氏/一]戸等我は、※[氏/一]は五十(ノ)二字の誤、戸の下に、長(ノ)字脱たるにて、五十戸長等我《サトヲサラガ》とありしなるべし、五(ノ)卷貧窮問答(ノ)歌に、楚取五十戸良我許惠波寐屋度麻※[人偏+弖]來立呼比奴《シモトトルサトヲサガコヱハネヤドマデキタチヨバヒヌ》、とある、良は、長(ノ)字の誤にて、五十戸(ヲ)爲v里(ト)、と見えて、五十戸長は、里長《サトヲサ》なるよし、彼處に委(ク)云るを考(ヘ)合(ス)べし、(本居氏、※[氏/一]戸は戸長の誤にて、イヘヲサラガ〔六字右○〕と訓べし、と云るはいかゞ、家長は、一家の主を云ことにて、一里の長をいふことならねばなり、)○課役徴者は、書紀に課役をオホセツカフ〔六字右○〕ともエツキ〔三字右○〕とも訓り、賦役令に、課役並徴(ス)、また免v課(ヲ)徴v役(ヲ)、また課役倶(ニ)免(ス)、など見えて、此《コヽ》の課役も、課《ミツキ》と役《エダチ》との二(ツ)を云ば、エツキハタラバ〔七字右○〕、と訓べし、徴《ハタル》は責徴《セメハタ》ることなり、○歌(ノ)意は、いで檀越よ、さやうにいふことなかれ、今こそさやうにいふなれ、里長に課役《ミツキエダチ》せめはたられなば、汝も其(ノ)持る銀米を虚損して、なからを缺むぞ、僧の身にしては、里長に課役を徴れむ恐なければ、其(ノ)安きこと、汝に十倍せり、と戯答へたるなり、
 
夢裡作歌一首《イメノウチニヨメルウタヒトツ》。
 
3848 荒城田乃《アラキタノ》。子師田乃稻乎《シシタノイネヲ》。倉爾擧蔵而《クラニコメテ》。阿奈于稻于稻志《アナヒネヒネシ》。吾戀良久者《アガコフラクハ》。
 
荒城田《アラキタ》は、新墾田《アラキタ》をいふなるべし、荒城《アラキ》は、(借(リ)字にて、)新掻《アラキ》なり、漢籍にて、墾(ノ)字をアラキバリ〔五字右○〕と(378)訓來れるは、新掻治《アラキバリ》にて、同言なり、七(ノ)卷に、湯種蒔荒木之小田矣求跡《ユタネマクアラキノヲタヲモトメムト》云々、とよめり、(契冲は、神名帳に、大和(ノ)國宇智(ノ)郡荒木(ノ)神社、と載られたる、そこなるべしと云れど、なほ地(ノ)名にはあらじ、)○子師田《シシタ》は、猪鹿《シシ》のつく田を云り、十二に、靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳《タマシアヘバアヒネシモノヲヲヤマタノシシタモルゴトハヽシモラスモ》、○擧藏は、コメ〔二字右○〕と訓べし、(伊勢物語に、倉にこめてしほり給ふとある、事は異なれど、言は同じ、)又ツミ〔二字右○〕とも訓べし、(詞花集に、今上大甞會悠紀方御屏風に、近江(ノ)國いたくらの山田に、稻を多く刈つめり、これを人見たるかたかきたる所をよめる、板倉の山田につめる稻を見て治れる世の程を知哉、新古今集に、近江のや坂田の稼をかけつみて道ある御代の始にぞつく、などあり、)○阿奈于稻于稻志は阿奈《アナ》は、歎息の聲なり、于稻は、契冲、于は干の誤なり、干稻共に訓を用て、ヒネヒネ〔四字右○〕と訓べし、(本居氏云(ク)續紀に中臣部(ノ)干稻麻呂といふ人名見ゆ、これも必(ズ)ヒネマロ〔四字右○〕と訓べし、と云り、)と云り、是によるべし、物語書に、人の貌のやう/\壯《サカリ》に滿とゝのひ行を、ねびゆくとも、ねびまさるともいひ、又今の俗にも、さやうなることを、ひねたりなどいふ、皆同言にて物の盛に滿たるをいふことなるべし、さて本(ノ)句よりは、屯倉《クラ》に納《コメ》たる稻穀の充滿《ミチ》たるよしにいひつゞけ、承たる方にては、戀の情の滿盛なるよしなり、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は序にて、吾(ガ)女を戀しく思ふ情は、此(ノ)ほど充滿て、さても嗚呼《アハレ》苦しや、となり、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツ》。忌部首黒麿《イミベノオビトクロマロガ》。夢裡《イメノウチニ》作《ヨミテ》2此戀歌《コノコヒノウタヲ》1贈《オクリ》v友《トモニ》。覺而《サメテ》令《シムルニ》2誦習《ウタハ》如《ゴトシトイフ》v前《モトノ》。
 
(379)忌部(ノ)首黒麻呂が傳は、六(ノ)卷(ノ)下に委(ク)云り、○令(ノ)字、舊本不に誤れり、今は官本に從つ、○習は、二(ノ)卷に、夢裏|習賜《トナヘタマフ》御歌、とあり、
 
厭《イトフ》2世間《ヨノナカノ》無《ナキヲ》1v常《ツネ》歌三首《ウタミツ》。
 
厭(ノ)字、類聚抄には〓と作り、○三(ノ)字、舊本二と作り、今は古寫小本に從つ、
 
3849 生死之《イキシニノ》。二海乎《フタツノウミヲ》。厭見《イトハシミ》。潮干乃山乎《シホヒノヤマヲ》。之努比鶴鴨《シヌヒツルカモ》。
 
生死之二海《イキシニノフタツノウミ》云々とは、生(レ)たり、死たりする、世間の二(ツ)の憂苦におぼるゝを、生死の苦海とて、海に譬へていふこと、佛徒の常なり、これ則題詞に、厭2世間(ノ)無常(ヲ)1、といへる意なり、(華嚴經に、何能度2生死海(ヲ)1、入2佛智海(ニ)1、とあるは、何ぞ生死の海をわたりて、佛智海に入むや、生死の海を經ずして、直に佛智海に入む、との謂なり、此(ノ)歌も、其意なるべし、)○厭(ノ)字、類聚抄には〓と作り、○潮干乃山《シホヒノヤマ》といふは、契冲、彼岸なり、しほのひるを、生死海のかわきたるになして、それをしのぶといふは、、無爲の樂果をねがふなり、潮干の山は、本よりさいふ名所あるを、心を借(リ)て用ひたるべし、といへり、これ佛籍にいはゆる佛智海をわたりたるを、彼岸に至ると云にたとへたるならむ、彼岸に至るを、涅槃とも寂靜とも云て、すなはち常樂我靜の四徳の都と云とぞ、これをたとへて、生死二海の、潮の乾たる山と云なるべし、○歌(ノ)意は、生(レ)たり、死たりする世(ノ)間の二の苦海に、おぼれ居る事の厭はしさに、その苦海の潮の乾きて、常樂我靜の四徳をそなへた(380)る無爲の境界に至む事を、ねがはしくしのびつる哉、となり、
 
3850 世間之《ヨノナカノ》。繁借廬爾《シキカリイホニ》。住住而《スミスミテ》。將至國之《イタラムクニノ》。多附不知聞《タヅキシラズモ》。
 
繁借廬《シキカリイホ》とは、本居氏云、繁は借字にて、醜《シキ》なり、古事記に、穢繁國とあるは、キタナキシキクニ〔八字右○〕と訓べし、十三に、小屋《ヲヤ》の四忌屋《シキヤ》に、鬼《シコ》の四忌手《シキテ》などある四忌《シキ》に同じ、さて其(ノ)醜《シキ》といふも、佛法にて、此(ノ)世を穢士といふ意にて、借廬とは、此(ノ)世を假の世といふ意もてよめるなり、○將至國《イタラムクニ》とは、いはゆる極樂淨土をいふなり、○歌(ノ)意は、此(ノ)世の穢土に、かやうに住々ては、いつか無念無心の極樂淨土に至らむといふ、てだて爲方もしられず、さてもはやく、至らまほしや、となり、○舊本、此間》に、右歌二首云々、としるして、以上二首を結び理れるは、錯《マギ》れたるなり、
 
3851 鯨魚取《イサナトリ》。海哉死爲流《ウミヤシニスル》。山哉死爲流《ヤマヤシニスル》。死許曾《シネコソ》。海者潮干而《ウミハシホヒテ》。山者枯爲禮《ヤマハカレスレ》。
 
鯨魚取《イサナトリ》は、海の枕詞なり、○海哉死爲流《ウミヤシニスル》は、海やは、死する事のあらむ、死る事はあらじ、との意なり、○山哉死爲流《ヤマヤシニスル》は、山やは死する事のあらむ、死る事はあらじ、との意なり、○死許曾《シネコソ》は、死《シネ》ばこその謂なり、○歌(ノ)意は、海は死る事あらじ、山は死る事あらじと思ひたるに、然は非ず、死るといふことのあればこそ、海は潮乾、山は枯る事のあれ、となり、契冲、正報の人身等は、無常なりと、おもへども、依報の山海等は、常住なるやうにおもへるを、おどろかしてよめるなり、
神代紀上(ニ)云、復《マタ》使|青山變枯《アヲヤマヲカラヤマニナシ》、第十三に、高山と海こそは、山のまにかくもうつなひ、海のまに(381)しかたゞならの、人はあだものぞ、空蝉の世人、これはしばらく、人のはかなきに對して、海山を常なるやうにいへり、今の歌は、つひに變懷にいたることをよめば、ことわりたがはず、と云り、依報正報とは、僧家に、依報は、法のひろまる土地をさして云、正報は、法をさしあてゝ云ことゝぞ、○此(ノ)一首、舊本、次の心乎之《コヽロヲシ》云々の歌の後に入て、左に、右歌一首とあり、今は古寫小本、拾穗本等に從て正しつ、此(ノ)歌も、無常をむねとよめるなれば、此間に入らむこと、尤なればなり、
 
右歌三首《ミギノウタミツハ》。河原寺之佛堂裡《カハラデラノホトケトノヽウチノ》在《アリ》2倭琴面《ヤマトコトノオモニ》1也。
 
右歌三首云々、舊本には、右の鯨魚取《イサナトリ》云々の歌件になくて、右歌二首云々としるせり、今は古寫小本、拾穗本等に從つ、○河原寺は舒明天皇(ノ)紀に、十一年秋七月詔(ニ)曰、今年造2作大宮及大寺(ヲ)1、則以2百濟川(ノ)側《ホトリヲ》1爲2宮處(ト)1、是以西(ノ)民(ハ)造v宮(ヲ)、東(ノ)民(ハ)作v寺(ヲ)、便以2書(ノ)直縣(ヲ)1爲2大匠(ト)1、十二月、於2百濟川(ノ)側(ニ)建2九|重《コシノ》塔(ヲ)1、孝徳天皇(ノ)紀に、四年六月、多造(テ)2佛菩薩(ノ)像(ヲ)1、安2置於川原寺(ニ)1、天武天皇(ノ)紀に、二年三月云々、是月聚2書生1、始寫2一切經(ヲ)於川原寺(ニ)1、十一年三月甲午朔丁卯、爲2天王體不豫1之、三日誦2輕於大官大寺川原寺飛鳥寺(ニ)1因以v稻納2三寺(ニ)1、各有v差、十四年八月甲戌朔丙戌、幸2于川原寺(ニ)1、施2稻(ヲ)於衆僧(ニ)1、九月甲辰朔丁卯云々、(以下十一年三月云々の文に同(シ)、)朱鳥元年夏四月庚午朔壬午、爲v饗2新羅(ノ)客等(ヲ)1、運2川原寺(ノ)伎樂(ヲ)於筑紫(ニ)1、仍以2皇后(ノ)宮之私稻五十束(ヲ)1納2于川原寺(ニ)1、五月庚子朔癸亥、天皇|體不安《ヤクサミタマフ》、因以(382)於2川原寺(ニ)1、説(シム)2藥師經(ヲ)1、六月己巳朔丁亥、勅遣2百(ノ)官人等(ヲ)於川原寺(ニ)1、爲2燃燈供養1、○倭(ノ)字、舊本侫に誤、今は類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、○也(ノ)字、舊本に之に誤、今改、類聚抄、古寫小本等には无(シ)、
 
藐姑※[身+矢]山歌一首《ハコヤノヤマノウタヒトツ》。
 
此(ノ)七字、舊本には无(シ)、古寫小本には、藐姑※[身+矢]山(ノ)歌一首、作主未詳と、としるせり、
 
3852 心乎之《コヽロヲシ》。無何有乃郷爾《ムガウノサトニ》。置而有者《オキテアラバ》。藐姑山能山乎《ハコヤノヤマヲ》。見末久知香谿務《ミマクチカケム》。
 
無何有乃郷《ムガウノサト》は、莊子に、彼至人者、歸2精神乎無始(ニ)1、而甘2冥乎無何有之郷(ニ)1、又云、周※[行人偏+扁]咸三者、異v名同v實、其指一也、嘗相與游2乎無何有之宮(ニ)1、同合而諭2無所終窮1乎、又云、惠子謂2莊子1曰、吾有2大樹1、人謂2之樗1云々、荘子曰云々、今子有2大樹1、患2其無1v用、何不v樹2之於無何有之郷廣莫之野1、又云、厭則又乘2夫莽眇之鳥1、以出2六極之外1、而遊2無何有之郷1、以處2壙※[土+艮]之野1、とあり、無爲自然なる心を、たとへたるなり、○藐姑※[身+矢]能山《ハコヤノヤマ》(姑(ノ)字、舊本に孤と作るは、音の近き故、暗に寫し誤れるなるべし、今は類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、)は、莊子に、藐姑射山有2神人1居焉、肌膚若2氷雪1、綽約若2處子1、不v食2五穀1、吸v風飲v露、乘2雲氣1御2飛龍1、而遊2四海之外(ニ)1、其神凝使d物不2疵癘1、而年穀熟u、と見ゆ、至靈の仙境を云り、後に天皇の大御位おり居させ給ふ處を、仙洞と申し、其を藐姑射山と申ならへるも、至靈の境に譬へて、祝奉れるなり、(千載集十(ノ)卷に、動無(キ)猶萬代ぞ頼むべき藐姑射の山の峯の松風、百千度浦島が子は歸るともはこやの山はときはなるべし、などあるを始めて、後々(383)仙洞を、かくよめる歌、いと多し、)今はそれにはあらず、○見末久知香谿務《ミマクチカケム》は、見む事の近からむと云が如し、見末久《ミマク》は、將《ム》v見《ミ》の伸りたるにて、見む事がといふ意、谿務《ケム》は、からむといふ意なり、○歌(ノ)意は、人の心をだに、無爲自然の境界に置てあしらましかば、かの至靈仙室の藐姑射の山をも、目前に見つべき事の近からむ、となり、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツハ》。作主未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
作主未詳の四字、舊本には無(シ)、古寫小本、拾穗本等に從てしるせり、
 
嗤2咲《アザケル》痩人《ヤセヒトヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
3853 石麻呂爾《イハマロニ》。吾物申《アレモノマヲス》。夏痩爾《ナツヤセニ》。吉跡云物曾《ヨシトイフモノゾ》。武奈伎取喫《ムナギトリメセ》。【反云賣世也。】
 
吾物申《アレモノマヲス》は、古事記仁徳天皇(ノ)條(ノ)歌に
夜麻志呂能都都紀能美夜邇也母能麻哀須《ヤマシロノツツキノミヤニモノマヲス》云々、古今集旋頭歌に、打渡す彼方人に物申(ス)吾(レ)云々、などあり、人に對ひて、恭ひて告《イフ》ことを、麻乎須《マヲス》と云り、○武奈伎取食《ムナギトリメセ》とは、武奈伎《ムナギ》は※[魚+壇の旁]《ムナギ》なり、品物解に云、取食《トリメセ》は、漁《トリ》て御食《メシ》賜へ、となり、八(ノ)卷、紀(ノ)女郎が家持(ノ)卿に茅花を贈れる歌に、戯奴之爲吾手母須麻爾春野爾拔流茅花曾御食而肥座《ワケガタメアガテモスマニハルノヌニヌケルチハナソメシテコエマセ》、○歌(ノ)意は、石麻呂に吾(レ)物を告(シ)まゐらすことあり、夏痩の症に用《タビ》て、功能のありといふ物ぞ、※[魚+壇の旁]を漁て御食《メシ》賜へ、となり、○註の五字、舊本には、賣世《メセノ》反也、とあり、古寫小本に從つ、但(シ)彼(ノ)本に反を又に誤、今改(ム)、拾穗本には、食此云2賣世《メセト》1、とあり、(384)○拾穗本に、此處に、報答歌一首、とあるは、歌(ノ)意を得解ぬ謾人のわざなり、
 
3854 痩痩母《ヤスヤスモ》。生有者將在乎《イケラバアラムヲ》。波多也波多《ハタヤハタ》。武奈伎乎漁取跡《ムナギヲトルト》。河爾流勿《カハニナガルナ》。
 
痩々母は、ヤス/\モ〔五字右○〕と訓て、(ヤセ/\〔四字右○〕と訓るはわろし、)痩乍《ヤセツヽ》もといふに同じ、痩ながらにも、といはむが如し、(十一に、中中二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻刈管《ナカナカニキミニコヒズバヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツヽ》、この尾(ノ)句或本(ノ)歌には、珠藻刈刈《タマモカルカル》とありて、刈乍《カリツヽ》と刈刈《カルカル》とは、同意なり、これに准(ヘ)知べし、)○在(ノ)字、類聚抄、古寫小本には、有と作り、○波多也波多《ハタヤハタ》は、四(ノ)卷に、神左夫跡不欲者不有八也多八如是爲而後二佐夫之家牟可聞《カムサブトイナニハアラズハタヤハタカクシテノチニサブシケムカモ》、とある、八也多八は、八多也八多《ハタヤハタ》の誤にて、今と同じ、波多《ハタ》は、そのもと心に欲《ネガ》ふことならねど、外にすべきすぢなくて、止ことなくするをいふ詞なり、此も漁業するは、そのもと、心に欲はぬことなるべけれど、夏痩の妙藥なれば、外にすべきすぢなし、止ことなく※[魚+壇の旁]を漁(リ)たまへ、との意なり、也《ヤ》は與《ヨ》と云むが如し、○漁(ノ)字、類聚抄には採と作り、○歌(ノ)意は、痩たる形體の、いかにも見苦しくいとほし、されば心に欲ふことならずとも、※[魚+壇の旁]を漁て御食て肥賜へ、さりながら、しか痩たる身は、力(ラ)なく輕くて流れ易ければ、あしくして、河に流れたまふな、いやとよ、見苦しくはあれども、なほ痩ながらも、生てあらむ方、まさりてあるべければ、危き業なし賜ひそ、となり、
 
右《ミギ》有《アリ》2吉田錬老《ヨシダノムラジオユトイフヒト》1。字《アザナヲバ》曰《イヘリ》2石麻呂《イハマロト》1。所《ユル》v謂《イハ》仁教|之子也《ノコナリ》。其老爲人身體甚疫《ソノオユカタチイタクヤセタリ》。雖《ドモ》2多(385)喫飲《オホクノミクラヘドモ》。形|似《ゴトシ》2飢饉《ウヱヒトノ》1。因《ヨリテ》v此《コレニ》大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。聊《イサヽカ》作《ヨミテ》2斯歌《コノウタヲ》1以|爲《ヌ》2戯咲《アザケリ》1也。
 
吉田(ノ)連老は、傳未(ダ)詳ならず、契冲は、續紀に、寶龜九年二月辛巳、内藥(ノ)佐外從五位下吉田(ノ)連古麻呂爲2兼豐前介1、とある、古は石の誤にて、この人なるべし、と云れど、字《アザナ》を記すべきに非ねば、別人《コトビト》なり、)○仁教(教(ノ)字、類聚抄には敬と作り、)は、石麻呂の父(ノ)名なり、本居氏、吉田(ノ)連は、續紀九、續後紀六、文徳寶録二等に出て、もと百濟(ノ)國より出たれば、仁教などいふ字音の名あるべし、と云り、姓氏録には、任那(ノ)國より出るよし、見ゆ、○痩(ノ)字、舊本疲に誤、類聚抄、古寫小本、拾穗本等に從つ、○飢饉の下、古寫小本には人(ノ)字あり、拾穗本には飢人とあり、
 
高宮王《タカミヤノオホキミノ》。詠《ヨミタマヘル》2數種物《クサグサノモノヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
高宮(ノ)王は、傳未(タ)詳ならず、
 
3855 葛英爾。延於保登禮流《ハヒオホトレル》。屎葛《クソカヅラ》。絶事無《タユルコトナク》。宦將爲《ミヤツカヘセム》。
 
葛英爾(葛英、類聚抄、拾穗本等には、※[草がんむり/皀]英と作り、又古寫本に、葛を〓と作るは、※[草がんむり/皀](ノ)字なるべし、)は、岡部氏は、クズハナニ〔五字右○〕とか、クズノウヘニ〔六字右○〕とか訓べし、と云り、契冲は、舊訓フヂノキニ〔五字右○〕とあるに依(ル)に、葛英は、※[草がんむり/皀]莢を誤れるなるべし、和名抄葛(ノ)類に、※[草がんむり/皀]莢、本草(ニ)云、※[草がんむり/皀]莢、和名|加波良布知《カハラフヂ》、是俗(ニ)云蛇結、とあり、と云り、猶考(フ)べし、○延於保登禮流《ハヒオホトレル》は、蔓(ヒ)はびこれるをいふ、枕册子に、秋の野のおしなべたるをかしさには、芒《スヽキ》こそあれ、末のいと濃(ク)蘇芳にて、朝雰に沾て打靡きたるは、さ(386)ばかりの物やはある、されど秋のはてぞ見所なき、色々に亂れ咲たりし花の、形も無う見所なう散にたる後、冬の末まで首の白く、於保登禮《オホトレ》たるも知ず、むかし思出がほに、風になみより、ひゞらきたてるめる、人にこそ似たれ、源氏物語東屋に、ほどもなうあけぬるこゝちするに、鳥などはなかで、おほぢゝかき所に、於保登禮《オホトレ》たる聲して、いかにとか、きゝもしらぬなのりをして、打むれて行などぞきこゆる、手習に、かみのすその、にはかに於保登禮《オホトレ》たるやうに、しどけなくさへそがれたる、むつかしきことゝもいはで、つくろはむ人もがな、○屎葛《クソカヅラ》は、品物解に云、これまでは、絶事無《タユルコトナク》をいはむ料の序なり、○宦(ノ)字、舊本に官とあるは誤なり、(古寫小本に宮と作るは、其(ノ)下に仕(ノ)字などの脱たるものか、又は宦の誤か、)今は拾穗本に從つ、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
3856 婆羅門乃《バラモムノ》。作有流小田乎《ツクレルヲタヲ》。喫烏《ハムカラス》。瞼腫而《マナブタハレテ》。幡幢爾居《ハタホコニヲリ》。
 
婆羅門《バラモム》(婆(ノ)字、類聚抄には波と作り、)は、契冲、梵語の波羅憾摩は、清淨の義なり、これを略して婆羅門《バラモム》といひ、猶略して梵とのみいへり、天竺に四姓あり、婆羅門《バラモム》は、梵天種姓にて、淨行をもととし、廣學多智にして、國家の宰臣ともなるものなり、漢土の士、本朝の武士、やゝこれに似たり、今かうしもよみ出られたる、その故を知ず、當座に人の所望などにょりてよまれて、たゞものゝふやうの名のみなるか、といへり、○瞼腫而《マナブタハレテ》、(瞼(ノ)字、舊本※[月+僉]に誤、古寫本に※[貝+令]と作るも誤、)(387)今は類聚抄、古寫小本等に從つ、契冲云(ク)、烏は、まことに瞼の腫たるやうに見ゆる鳥なり、○幡幢爾居《ハタホコニヲリ》とは、幡幢《ハタホコ》は、和名抄に、華嚴經(ノ)偈(ニ)云、寶幢諸幡蓋、大舍人寮式に、懸幡桙四枚、など見ゆ、居をヲリ〔二字右○〕と訓(ム)例は、既く具(ク)云り、○歌(ノ)意は、きこえたるまゝにて、他に深き旨もあらぬにや、契冲又云、此(ノ)歌は、婆羅門《バラモム》、田《タ》、烏《カラス》、瞼《マナブタ》、幡幢《ハタホコ》以上五種、初の歌は、※[草がんむり/皀]莢、屎葛《クソカヅラ》二種、都合七種を、二首によめるなり、
 
戀《コフル》2夫君《セノキミヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
3857 飯喫騰《イヒハメド》。味母不在《ウマクモアラズ》。雖行往《アルケドモ》。安久毛不有《ヤスクモアラズ》。赤根佐須《アカネサス》。君之情志《キミガコヽロシ》。忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
 
飯喫騰は、イヒハメド〔五字右○〕と訓べし、喫を波牟《ハム》といふ例、既く一(ノ)卷に具(ク)云り、○味母不在《ウマクモアラズ》、書紀十九に、食不v甘v味、寐不v安v席、竹取物語に、加久耶姫《カクヤヒメ》を見まほしうて、物もくはず思ひつゝ、彼(ノ)家に行て、たゞずみありきけれども、かひあるべくもあらず、など見えたり、○赤根佐須《アカネサス》は、紅顔を云り、十(ノ)卷に、朱羅引色妙子《アカラビクシキタヘノコ》云々、十一に、朱引秦不經《アカラビクハダモフレズテ》云々、など云る類なり、○忘可禰津藻《ワスレカネツモ》、(藻(ノ)字、古寫小本には裳と作り、)藻《モ》は歎息(ノ)辭なり、忘れむと思へど忘(ル)ることを得ず、さても戀しく思はるゝ事や、となり、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツハ》。傳云《イヒツテケラク》。佐爲王《サヰノオホキミ》。有《アリ》2近習婢《マカタチ》1也。于時《トキニ》宿直《トノヰノ》不《ナク》v遑《マ》、夫君《セノキミ》難《ガタシ》v遇《アヒ》。感情馳結《コヽロイタクムスボホレ》。係戀實深《オモヒマコトニフカシ》。於是《コヽニ》當《アタル》v宿《トノヰニ》之|夜《ヨ》。夢裡相見《イメノウチニアヒミル》。覺寤探抱《オドロキテカキサクレドモ》曾|無《ズ》v觸《フレ》v手《テニモ》。爾乃哽咽歔欷《スナハチカナシミ》。(388)高聲《タカク》吟2詠《ウタヒキ》此歌《コノウタヲ》1。因王聞之《カレオホキミキカシテ》。哀慟《アハレミタマヒ》。永《トコシヘニ》免《ユルシキ》2侍宿《トノヰスルコトヲ》1也。
 
佐爲王は、諸兄大臣の弟なり、佐爲は、サヰ〔二字右○〕なり、(スケタメ〔四字右○〕とある訓は、後人のしわざなり、)傳は、六(ノ)卷に出(ツ)、○夢裡相見云々は、四(ノ)卷に、夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者《イメノアヒハクルシカリケリオドロキテカキサグレドモテニモフレネバ》、十二に、愛等念吾妹乎夢見起而探爾无之不怜《ウツクシトアガモフイモヲイメニミテオキテサグルニナキガサブシサ》、とある意なり、○咽(ノ)字、舊本※[口+周]に誤、類聚抄、古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○宿也の下、古寫小本、拾穗本等に姓名未詳の四字、細書せり、
 
戀歌二首《コヒノウタフタツ》。
 
此(ノ)四字、舊本にはなし、目録には、又戀歌二首、とあり、拾穗本には、戀夫君歌二首、作者未詳、としるせり、
 
3858 比來之《コノコロノ》。吾戀力《アガコヒチカラ》。記集《シルシツメ》。功爾申者《クウニマヲサバ》。五位乃冠《ゴヰノカヾフリ》。
 
吾戀力《アガコヒチカラ》は、吾(カ)戀しく思ふ苦勞を、といふなり、力《チカラ》は、苦勞《イタヅキ》なり、契冲、周禮(ニ)、平功曰v勲(ト)、國功曰v功、民功曰v庸(ト)、事功曰v勞(ト)、治功曰v力(ト)、戰功曰v多(ト)、此(ノ)集第四に、戀艸を力車に七車積て戀らく吾(ガ)心から、源氏物語あさがほに、かみさびにける、とし月のらう、かぞへられ侍るに、とあり、といへり、朝がほの返事に、らうなどは、しづかにやさだめきこえさすべうはべらんと、きこえ出たまへり、胡蝶に、宮大將は、おほな/\なほざりことを、打出給ふべきにあらず、又餘(リ)物のほど知ぬやうならむも御あり樣に違へり、其(ノ)きはよりしも、志の趣に隨ひて、あはれをもわさまへ、らうを(389)もかぞへ給へると聞え給へば、君は嘯(キ)ておはする、そはめいとをかしげなり、螢に、兵部卿の宮などは、まめやかにせめきこえ給ふ、御らうのほどはいくばくならぬに云々、○記集は、シルシツメ〔五字右○〕と訓べし、欽明天皇(ノ)紀に、薦集部《コモツメベノ》首、和名抄に、山城國乙訓郡物集、(毛豆女《モヅメ》)駿河(ノ)國駿河(ノ)郡矢集、(也都女《ヤツメ》)など見えて、集をツメ〔二字右○〕と訓ること多し、大和物語(ノ)歌に、わたつみと人や見るらむあふ事の、なみだをふさになきつめつれば、源氏物語朝貌に、かきつめて昔戀しき雪も夜にあはれをそふる鴛の浮宿か、若菜に、こゝらおもひつめつるとしごろのはてに云々、世のさだめなさを心に思ひつめてなどある、つめも集なり、○歌(ノ)意は、比來久しく幾重ともしらず、吾(ガ)戀しく思ふ苦勞の數を、籍に書録し集めて、功功にして官に奏し立ば、いたく賞感《ホメアゲ》られて、やがて、五位の冠を賜はらむこと決《ウツナ》し、となり、
 
3859 頃者之《コノゴロノ》。吾戀力《アガコヒチカラ》。不給者《タバラズバ》。京〓爾《ミサコツカサニ》。出而將訴《イデテウタヘム》。
 
不給者《タバラズバ》は、戀力の賞を賜らずば、となり、○京〓《ミサトツカサ》は、和名抄に、職員令(ニ)云、左京職(ハ)比多利乃美佐止豆加佐《ヒダリノミサトヅカサ》、右京職(ハ)美岐乃美佐止豆加佐《ミギノミサトヅカサ》、とあり、(この京をミヤコ〔三字右○〕と訓はわろし、)本居氏、みやこといふは、廣くわたれる名なれども、其(ノ)中に、皇大宮に關らず、たゞ京の内のことをいふには、みさとゝいへり、和名抄に云々、(右(ニ)引)書紀にも、京をミサト〔三字右○〕と訓る所々あり、孝徳天皇(ノ)紀に、凡京《ミサトニハ》毎(ニ)v坊《マチ》置v長、などあるを以て、みやこといふことのけぢめを知べし、十(ノ)卷に、山遠《ヤマトホキ》京|爾之有者《ニシアレバ》、こ(390)れも京はミサト〔三字右○〕と訓べし、といへり、○歌(ノ)意は、比來久しく、幾重ともしらず、吾(ガ)戀しく思ふ苦勞の數を録し集めて、功功にして、官にまうし立ば、やがてその賞を賜はらむこと決《ウツナ》けれど、もし賞を賜はらぬ時は、いで自(ラ)京職に出て、苦勞の數をかぞへ擧て、訴(ヘ)申さむぞ、となり、
 
右歌二首《ミギノウタフタツハ》。作者未詳《ヨミヒトシラズ》。
 
作者未詳の四字、舊本になきは、脱たるものか、今は拾穗本に從てしるしつ、
 
筑前國志賀白水郎歌十首《ツクシノミチノクチノクニシカノアマガウタトヲ》。
 
白水、類聚抄には、泉と作り、
 
3860 王之《オホキミノ》。不遣爾《ツカハサナクニ》。情進爾《サカシラニ》。行之荒雄良《ユキシアラヲラ》。奥爾袖振《オキニソデフル》。
 
情進《サカシラ》は、常には、俗にかしこだてといふ意につかひたるを、此《コヽ》は心まかせといふことにきこえたり、なほ佐可志良《サカシラ》といふ言は、三(ノ)卷帥大伴(ノ)卿(ノ)讃v酒(ヲ)歌に、具(ク)註り、○荒雄良《アラヲラ》とは、荒雄《アラヲ》は漁夫の名にて、良《ラ》は添たる辭なり、名の下に添いふは、憶良等《オクララ》などいふが如し、○奥爾袖振《オキニソテフル》は、おぼるゝ時の體をいへり、神代紀(ノ)下に、潮至v頭(ニ)則擧(テ)v手(ヲ)瓢掌《タヒロカス》、とある類なり、○歌(ノ)意は、勅命ならば、辭《イナ》むべきに非ず、止事なし、此はさる勅命にてもなきことなるに、私の心まかせに、友人の言をうけひき、從ひて行し荒雄が、逆浪に溺れて、海の澳に瓢ひ袖ふるさまの、いといたくいとほし、となり、
 
(391)3861 荒雄良乎《アラヲラヲ》。將來可不來可等《コムカコジカト》。飯盛而《イヒモリテ》。門爾出立《カドニイデタチ》。雖待不來座《マテドキマサズ》。
 
將來可不來可等《コムカコジカト》(等(ノ)字、古寫小本には登と作り、)は、十(ノ)卷に、梅花咲而落去者吾妹乎來香不凍香跡吾待乃木曾《ウメノハナサキテチリナバワギモコヲコムカコジカトアガマツノキソ》、○飯盛而《イヒモリテ》は、妻の待(ツ)さまなり、伊勢物語に、てづからいひかひとりて、けこのうつはものにもりけるを云々、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君の荒雄は、まだ歸賜はじか、もはや歸り來まさむかと、家(ノ)内には飯盛設て、門に出立て、今か/\と妻は待居(レ)ど、歸來まさず、となり、
 
3862 志賀乃山《シカノヤマ》。痛勿伐《イタクナキリソ》。荒雄良我《アラヲラガ》。余須可乃山跡《ヨスカノヤマト》。見管將偲《ミツヽシヌハム》。
 
余須可《ヨスカ》は、所縁波可《ヨセハカ》の縮れる言にて、三(ノ)卷に、吾妹子之入爾之山乎因鹿跡叙念《ワギモコガイリニシヤマヲヨスカトゾモフ》とある處に具(ク)註り、書紀に、因(ノ)字、資(ノ)字をヨスカ〔三字右○〕とよめり、○歌(ノ)意は、荒雄が世に在しほど、常に見遣てなぐさみし山なれば、其(ノ)山を所縁ある處と思ひ定めて、吾も常に見やりて、亡人のかたみに、慕ひつつあらむと思ふぞ、志加の山の木をいたく伐(リ)採て、荒(ラ)し損ふ事なかれ、となるべし、
 
3863 荒雄良我《アラヲラガ》。去爾之日從《ユキニシヒヨリ》。志賀乃安麻乃《シカノアマノ》。大浦田沼者《オホウラタヌハ》。不樂有哉《サブシカラズヤ》。
 
志賀乃安麻乃大浦田沼《シカノアマノオホウラタヌ》は、本居氏、志加《シカ》は、上古より海士の名高き所なれば、海士の大浦といふべし、と云り、田沼《タヌ》は、その浦回にある田にまかする沼水をいふべし、荒雄が行て歸らねば、田作の業も廢れたるよしなり、○不樂有哉は、サブシカルカモ〔七字右○〕と訓《ヨマ》るべけれど、心行ず、今按(フ)に、有の上に不(ノ)字落たるなるべし、さらばサブシカラズヤ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、荒雄が他に出(392)行し日より、水まかせ田かへしなど、業《ナリ》はひ辛勞《イタヅ》く人もなければ、その志加の大浦田沼のあたりは、見處なく、さぶ/\しからずやは、となり、
 
3864 官許會《ツカサコソ》。指弖毛遣米《サシテモヤラメ》。情出爾《サカシラニ》。行之荒雄良《ユキシアラヲラ》。波爾袖振《ナミニソテフル》。
 
官許曾《ツカサコソ》は、官ならばこそといふほどの意なり、官《ツカサ》とは、その任《マカ》られたる官職を云、十八に、於保伎見能等保能美可等等《オホキミノトホノミカドト》、未伎太未不官乃末爾末《マキタマフツカサノマニマ》、美由伎布流古之爾久太利來《ミユキフルコシニクダリキ》、とよめるに同じ、○指弖毛遣米《サシテモヤラメ》は、差(シ)科(セ)て遣すべき理なれの意なり、指《サシ》は、書紀に、差2良家(ノ)子(ヲ)1爲2使者(ト)1、軍防令に、凡差2兵士(ヲ)1、と見えたる、差《サシ》なり、(匡謬正俗に、科2發士馬(ヲ)1、謂v之爲v差、と見ゆ、官府語なり、と谷川氏云り、)○歌(ノ)意は、その身のあづかりうけもちたる官職ならばこそ、朝より差(シ)科(セ)て遣すべき理なれ、さる事にあらず、私の心まかせに、友人の言を、たやすくうけひき從ひて行し、荒雄が逆浪に溺れて、海中に飄ひ袖ふるさまの、いたういとほし、となり、
 
3865 荒雄良者《アラヲラハ》。妻子之産業乎婆《メコノナリヲバ》。不念呂《オモハズロ》。年之八歳乎《トシノヤトセヲ》。待騰來不座《マテドキマサズ》。
 
不念呂《オモハズロ》は、念はずあるらむ、といふ意と聞えたり、○年之八歳《トシノヤトセ》は、年之三歳《トシノミトセ》、年之五歳《トシノイツトセ》、などいふ類なり、さて此に八歳《ヤトヤ》とある、八《ヤ》は借(リ)字にて、彌歳《ヤトセ》といふなるべし、歳をトセ〔二字右○〕といふは、年經《トシヘ》の縮たる言なる由、既く云る如し、○歌(ノ)意は、荒雄は、吾(ガ)家の妻子が、海藻刈《メカリ》鹽燒《シホヤキ》、或は水まかせ、田殖などする産業を、見はからはむとは念はずあるらむ、其(ノ)由は、この年の彌年《ヤトセ》、歸(リ)來むやと待(393)居れど、さら/\歸り來給はぬ、となり、十五に、比等能宇宇流田者宇惠麻佐受伊麻佐良爾久
爾和可禮之弖安禮波伊可爾勢武《ヒトノウウルタハウエマサズイマサラニクニワカレシテアレハイカニセム》、
 
3866 奥鳥《オキツトリ》。鴨云船之《カモトフフネノ》。還來者《カヘリコバ》。也良乃埼守《ヤラノサキモリ》。早告許曾《ハヤクツゲコソ》。
 
奥鳥《オキツトリ》は、枕辭なり、古事記、火遠理(ノ)命(ノ)御歌に、意岐都登理加毛度久斯麻邇《オキツトリカモドクシマニ》云々、○鴨云船《カモトフフネ》は、鴨は、水によく浮ぶ鳥なる故に、船の輕迅《ハヤ》さを稱《ホメ》て名とせるなり、いはゆる、鳥(ノ)磐※[木+豫]樟船、天(ノ)鳩船、また速鳥など、皆鳥にかたどりて、船に名づけたる如し、なほ船に名づくる事は、書紀に、應神天皇五年、課2伊豆(ノ)國(ニ)1令v造v船(ヲ)、名曰2枯野(ト)1、續紀に、寶字七年八月辛未朔壬午、初遣2高麗(ノ)國(ニ)1船(ノ)名曰2能登1、云々、なども見えたり、○也良乃埼《ヤラノサキ》(埼字、拾穗本には崎と作り、次なるも同じ、)は、筑前(ノ)國早良(ノ)郡にありて、殘島の出崎なり、今はあやまりて荒崎といふよし、貝原氏名寄に云り、○歌(ノ)意は、荒雄が乘て行し鴨といふ船の、此方に舳向(ケ)て漕歸るさまを見付たらば、也良の埼守よ、とる物もとりあへず、早く吾に告來れかし、となり、
 
3867 奥鳥《オツキトリ》。鴨云舟者《カモトフフネハ》。也良乃埼《ヤラノサキ》。多未弖※[手偏+旁]來跡《タミテコギクト》。所聞衣許奴可聞《キコエコヌカモ》。
 
多未弖《タミテ》は、回而《タミテ》なり、めぐりてといはむが如し、○所聞衣許奴可聞(衣(ノ)字、舊本に禮とあるは誤なり、)は、キコエコヌカモ〔七字右○〕と訓べし、(舊訓に、キカレコヌカモ〔七字右○〕とあるは、舊本字の誤れるまゝに訓るなれば、論のかぎりに非ず、しかるを略解に、わすられを、わすらえといふ如く、禮《レ》と延《エ》と(394)は常に通へば、キコエ〔三字右○〕をキカレ〔三字右○〕と云るなり、と云るは、非なり、わすらえを、わすられといふは、必(ズ)延《エ》といふべきを、後に轉りて、禮《レ》と云たるなり、凡て禮《レ》と延《エ》とは、ただに通ふ言にあらず、)聞え來よかし、とねがふなり、さてキコエ〔三字右○〕のエ〔右○〕の言は、所(ノ)字にあたれゝば、衣は無用にあまれる如くなれども、集中に、所偲由《シヌハユ》など書る例に同じ、既《サキ》に具(ク)云たりき、○歌(ノ)意は、荒雄が乘て行し、鴨といふ船の、也良の埼をめぐりて、漕歸り來るといふことの、人傳にもがな、早く聞え來よかし、さても待遠や、となり、
 
3868 奥去哉《オキユクヤ》。赤羅小船爾《アカラヲブネニ》。裹遣者《ツトヤラバ》。若人見而《ケダシヒトミテ》。解披見鴨《トキアケミムカモ》。
 
奥去哉《オキユクヤ》は、奥の方へ漕行を云、哉《ヤ》は、天知也《アメシルヤ》、高知也《タカシルヤ》の也《ヤ》に同じく、助語なり、○赤羅小船《アカラヲブネ》は、赤之曾朋船舶《アケノソホブネ》といへるに同じく、朱塗《ソホヌリ》の舟なり、○若人見而は、ケダシヒトミテ〔七字右○〕と訓べし、若(ノ)字ケダシ〔三字右○〕と訓べき例、既く具(ク)云り、○解披見鴨は、トキアケミムカモ〔八字右○〕と訓り、○歌(ノ)意は、奥の方へ※[手偏+旁]行(ク)赤羅小舟にことづけて、荒雄が許へ裹物《ツト》を贈らば、若(シ)人の解(キ)披て見なむか、さても心もとなしや、となり、
 
3869 大舶爾《オホブネニ》。小船引副《ヲブネヒキソヘ》。可豆久登毛《カヅクトモ》。志賀乃荒雄爾《シカノアラヲニ》。潜將相八方《カヅキアハメヤモ》。
 
小船引副《ヲブネヒキソヘ》とは、小船《ヲブネ》は、大船《オホブネ》に對て云り、和名抄に、唐韵(ニ)云、艇(ハ)小船也、漢語抄(ニ)云、艇(ハ)乎夫彌《ヲブネ》、游艇(ハ)波之布禰《ハシフネ》と見えたる是なり、大船に小船をさへ引副て、數多《フマタ》人しての意なり、○可豆久登毛《カヅクトモ》は、(395)たとひ海(ノ)底に潜(キ)入て、探(リ)求(ム)ともの意なり(契冲が、かづくは、舟こぎあるくをいふ、と云るは、あらず、)○歌(ノ)意は、大船に小船をさへ引副て、數人して漕めぐり、たとひ海(ノ)底に潜(キ)入て探り求むとも、志加の荒雄に、今又あふことはあらじ、さても悔しや悲しや、となり、
 
右《ミギ》以|神龜年中《ジムキノトシ》。大宰府《オホミコトモチノツカサ》。差《サシテ》2筑前國宗像郡之百姓《ツクシノミチノクチノクニムナカタノコホリノオホミタカラ》。宗形部津麻呂《ムナカタベノツマロヲ》1。充《アツ》2對馬《ツシマノ》送《オクル》v粮《カテヲ》舶※[手偏+施の旁]師《フネノカヂトリニ》1也。于時津麻呂《トキニツマロ》。詣《ユキテ》2於|滓屋郡志賀村白水郎《カスヤノコホリシカノムラノアマ》。荒雄之許《アラヲガモトニ》1語曰《カタリケラク》。僕《アレ》有《アリ》2小事《コト》1。若疑《モシ》不《ジ》v許《ユルサ》歟《カ》。荒雄答曰《アラヲコタヘケラク》。走《アレ》雖《ドモ》v異《カハレ》v郡《コホリ》。同《アヒノルコト》v船《フネニ》日久《ヒサシ》。志《コヽロザシ》篤《アツシ》2兄弟《ハラカラヨリ》1。在《トモ》2於|殉死《トモニシヌ》1豈復辭《ナソモイナマム》哉。津麻呂曰《ツマロガイハク》。府官《ツカサ》差《サシテ》v僕《アレヲ》充《アツ》2對馬《ツシマノ》送《オクル》v粮《カテヲ》舶※[木+施の旁]師《フネノカヂトリニ》1。客齒袁老《ヨハヒオトロヘ》不《ズ》v堪《タエ》2海路《ウミツヂニ》1。故來※[衣+弖]候《カレキタリサモラフ》。願《ネガハクハ》垂《テヨ》2相替《アヒカハリ》1矣。於是荒雄《コヽニアラヲ》。許諾遂《ウベナヒツヒニ》從《シタガヒ》2彼事《ソノコトニ》1。自《ヨリ》2肥前國松浦縣美彌良久埼《ヒノミチノクチノクニマツラガタミミラクノサキ》1發舶《フナダチシテ》。直《タヾニ》射《サシテ》2對馬《ツシマヲ》1渡《ワタル》v海《ウミヲ》。登時《スナハチ》忽|天暗冥《ソラクラガリ》。暴風《ヨコシマカゼ》交《マジリテ》v雨《アメニ》。竟《ツヒニ》無《ナクシテ》2順風《オヒテ》1。沈2没《シヅミキ》海中《ウミニ》1焉。因斯妻子等《カレメコラ》。不2勝《カネテ》犢慕《シヌヒ》1裁2作《ヨメリ》此謌《コノウタヲ》1。或《アルヒハ》云。筑前國守山上憶良臣《ツクシノミチノクチノクニノカミヤマノヘノオクラノオミ》。悲2感《カナシミ》妻子之傷《メコノイタミヲ》1。述《ノベテ》v志《コヽロザシヲ》而|作《ヨメリトイヘリ》2此歌《コノウタヲ》1。
 
宗形部(ノ)津麻呂は、傳未(タ)詳ならず、○對馬送粮舶は、主税式上に、凡筑前筑後肥前肥後豐前豐後等(ノ)國、毎毎穀二千石、漕2送對馬島1、以充2島司及防人等(ノ)粮(ニ)1、雜式に、凡運2漕對馬島粮1者、毎v國作v番以v次運送、○※[手偏+施の旁]師は、和名秒に、唐韵(ニ)云、※[舟+施の旁](ハ)正v船木也、楊氏漢語抄(ニ)云、柁(ハ)船尾也、或作v※[木+施の旁]、和語|多伊之《タイシ》、今按(ニ)船人呼2挾抄(ヲ)1爲2舵師(ト)1是(ナリ)、○滓屋郡、(滓(ノ)字、舊本に澤と作るは誤なり、今は古寫小本、拾穗本等に(396)從つ、官本には糟と作り、)神名帳に、糟屋(ノ)郡志加(ノ)海(ノ)神社、和名抄に、糟屋(ノ)郡|志珂《シカ》、○白水郎荒雄は、偉未(タ)詳ならず、○走は、玉篇に僕也、とあり、○志篤の下、古寫小本、拾穗本等に、は、如(ノ)字あり、○殉死は、玉篇に、用v人送v死也、○相替の替(ノ)字、舊本に、賛と作るは誤なり、古寫本に從つ、古寫小本、拾穗本等には、代と作り、○美禰良久埼(彌(ノ)字、舊本禰に誤、今は古寫小本に從(ツ)、埼(ノ)字、拾穗本には崎と作り、)は、續後記六(ノ)卷に、松浦(ノ)郡|旻樂《ミヽラクノ》埼、と見えたり、かげろふ日記に、いづれの國とかや、みゝらくの島となむいふなるなど、くち/”\かたるをきくに、いとしらまほしう、かなしうおぼえて、かくぞいはるゝ、ありとだによそにても見む名にし負(ハ)ば吾(レ)に聞せよみゝらくの島、といふを、せうとなる人聞て、それもなく/\、いづことか音にのみ聞みゝらくの島隱にし人を尋む、(契冲云、顔昭法師の袖中抄(ニ)云、みゝらくのわがひの本の島ならばけふもみかげにあはましものを、此(ノ)歌は、俊朝(ノ)朝臣(ノ)歌なり、その詞にいはく、尼うへうせ給うて後、みゝらくの島のことを、おもひてよめる、とあり、今考(ニ)2能因坤元儀(ヲ)1云(ク)、肥前(ノ)國ちかの島、此島に、ひゝらこのさきといふ處あり、其ところには、夜となれば、死たる人あらはれて、父子相見ると云々、俊頼、わがひのもとのしまならばと、詠るは、日本にあらずと存する歟、考(ニ)2萬葉集第十六(ヲ)1曰(ク)、自2肥前(ノ)國松浦縣美彌良久(ノ)崎1發船と云々、此(ノ)國といふことは一定なり、能因は、ひゝらこといひたれど、俊頼みゝらくとよみたるはたがはず、如v此の事、慥(ニ)考2本文1可v詠也、不v然は僻事出來なりと云(397)り、〔頭註、【續後記、承和四年七月癸未、太宰府馳傳言、遣唐三ケ船共指2松浦郡旻樂埼1發行、】〕○沈2没海中1、續紀に、寶龜三年十二月己未、太宰府言、壹岐(ノ)島(ノ)掾從六位上上(ノ)村主墨繩等、送2年粮(ヲ)於對馬島(ニ)1、俄(ニ)遭2逆風1船破人没、所v載之穀隨復漂失、謹※[手偏+僉]2天平寶字四年(ノ)格(ヲ)1、漂失之物、以2部領使公廨1填滿、而墨繩等(ノ)款云、漕送之期不v違2常例1、但風波之災、非2力能制1、船破人没、足v爲2明證1、府量所v申實難2黙止1、望請自今以後評2定虚實1徴免許之、とあるを考(ヘ)合(ス)すべし、○特慕(ノ)字、舊本犢暴に誤、古寫小本、拾穗本等に從つ、○億良の下臣(ノ)字、古寫小本には无(シ)、
 
無名|歌六首《ウタムツ》。
 
此五字、舊本にはなし、古寫小本に從つ、舊本目録にも、かくしるせり、
 
3870 紫乃《ムラサキノ》。粉滷乃海爾《コカタノウミニ》。潜鳥《カヅクトリ》。珠潜出者《タマカヅキデバ》。吾玉爾將爲《アガタマニセム》。
 
紫乃《ムラサキノ》は、枕詞なり、契冲云(ク)、紫の色の濃《コ》といふこゝろにつゞけたり、○粉滷乃海《コカタノウミ》は、十二に、吾妹兒乎外耳哉將見越懈乃子難乃懈乃島楢名君《ワギモコヲヨソノミヤミムコシノウミノコカタノウミノシマナラナクニ》、とあると同處か、さらば越にあるなるべし、(契冲云(ク)、清原(ノ)元輔家集に云、中つかさがあるところにまかりたりしに、貝をこにいれて侍りしに、浪間分みるかひしなし伊勢(ノ)海のいづれこかたのなごりなるらむ、これによれば、伊勢にも、こかたといふ處のあるにこそ、)○歌(ノ)意は、本居氏云、此(ノ)歌、水鳥の水底へ没るを見てよめる歌なり、鳥の水へ入るさま、海人の珠かづきに入に似たる故に、此(ノ)鳥も珠をかづき出たらば、(398)吾玉にせむと、たはぶれよめるなり、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツ》。
 
3872 吾門之《ワガカドノ》。榎實毛利喫《エノミモリハム》。百千鳥《モヽチドリ》。千鳥者雖來《チドリハクレド》。君曾不來座《キミソキマサヌ》。
 
毛利喫《エノミモリハム》は、守啄《モリハム》なり、其(ノ)實のある所を離れず、目守居《マモリヰ》て啄《ハム》をいふなり、毛利《モリ》は、今(ノ)世に、角小豆《サヽゲ》を毛流《モル》などいふ毛流《モル》も、その處を離れず目守居て、つみ取より云るにて、同言なり、(盛喫《モリハム》といふ説はわろし、又契冲が、毛利《モリ》と牟禮《ムレ》と音通ずれば、群居て喫(ム)意にやといへるもあらず、)○百千鳥《モヽチトリ》は、百津鳥《モヽツトリ》といふにて、數多の鳥をいふ、(略解に、千鳥と重ね云れば、百千鳥は、字の如くなること知べし、と云るはあらず、)○千鳥《チドリ》は、字の如く意得べし、(鳥(ノ)名にはあらず、)十七に、朝※[獣偏+葛]爾伊保都登里多底夕※[獣偏+葛]爾知登理布美多底《アサガリニイホツトリタテユフガリニチドリフミタテ》云々、とあるは、五百鳥千鳥《イホツトリチトリ》と連(ネ)云(ヒ)、今は百鳥千鳥《モヽツトリチトリ》と云るなり、(又按(フ)に、千鳥は上を打疊《ウチカサネ》て百千鳥百千鳥《モヽチトリモヽチドリ》と云べきを、省きて云るか、さらば百津鳥津鳥《モヽツトリツトリ》といふにて、千鳥の字(ノ)意にあらず、舟材伐木爾伐《フナギキリキニキリ》、茅草刈草刈《チカヤカリカヤカリ》、東屋《アヅマヤ》のまや、月夜よし夜よしなど云る類とすべし、されどなほ前説に依るべし、)○來座の間、類聚抄に、安(ノ)字あるは衍か、○歌(ノ)意は、吾(ガ)門の榎(ノ)實を守啄とて、吾(ガ)待もせぬ鳥は、百千と數多群來つゝ、無用に囂しきを、吾(ガ)待君は、さらに音づれも爲給はず、となり、
 
3873 吾門爾《ワガカドニ》。千鳥數鳴《チドリシバナク》。起余起余《オキヨオキヨ》。我一夜妻《ワガヒトヨヅマ》 人爾所知名《ヒトニシラユナ》
 
(399)千鳥數鳴《チドリシバナク》は、十一に、可旭千鳥數鳴白細乃君之手枕未厭君《アケヌベシチドリシバナクシロタヘノキミガタマクライマダアカナクニ》、とあるにて、心得べし、○一夜妻《ヒトヨヅマ》は、契冲云(ク)、常は遊女を一夜妻と云(ヘ)ど、これは一夜逢(フ)妻を、おして云るなるべし、按(フ)に、妻と書るは借(リ)字にて、夫《ツマ》なるべし、○歌(ノ)意は、吾(カ)門の前に、千鳥が屡《シバ/\》鳴よ、これにて思へば、夜は明方近く成ぬるべし、興《オキ》給へ興《オキ》給へ、興(キ)別るゝは、本意なけれども、人に知(ラ)れなば、又あふこともなりがたかるべし、今夜たゞ一夜、密びて來て相宿し給ふ夫《ツマ》よ、あしくして人にしられ給ふな、よくして、人にしらさず、今より行さき、幾夜も通ひ來給へ、となり、神樂歌に、庭鳥はかけろと鳴ぬなり起よ、起よ、わがかとよつま人もこそみれ、とあるは、今の歌を、うたひ換(ヘ)たるなり、(契冲云、かとよつまは、一夜妻を、日とよつまとかきけむが、日の字のかとなれるなるべし、と云り、さもあるべし、)
 
右歌二首《ミギノウタフタツ》。
 
3871 角島之《ツヌシマノ》。迫門乃稚海藻者《セトノワカメハ》。人之共《ヒトノムタ》。荒有之可杼《アラカリシカド》。吾共者和海藻《アガムタハニキメ》。
 
角島《ツヌシマ》は、兵部省式に、長門(ノ)國角島牛牧、○稚海藻は、ワカメ〔三字右○〕と訓べし、稚《ワカ》は、稚草《ワカクサ》、稚菜《ワカナ》の稚《ワカ》なり、○人之共《ヒトノムタ》、吾共《アガムタ》は、つねは人と共に、吾と共に、といふ意にいふことなるを、此《コヽ》はいさゝかそれとは異にて、人のため、吾がたか、といふほどのことにきこえたり、○荒有之可杼《アラカリシカド》は疎《ウト》かりしかども、上云むが如し、荒《アラ》は、疎《ウト》といふ意なること、既くかた/”\云り、○和海藻は、ニキメ〔三字右○〕と訓べ(400)し、(これをも、ワカメ〔三字右○〕とよめるは非なり、稚と和と、一首の中に、かく字を替て書たれば、必(ズ)ニキメ〔三字右○〕なり、和名抄にも、海藻和名|爾木米《ニキメ》、俗用2和布(ヲ)1、とあり、)猶品物解に云、○歌(ノ)意は、角島の迫門の稚海藻は、人の取得むとせしには、疎く離りて、つれなかりしを、吾が心になびきしたがひて、なこやかにむつれつゝ、うつくしき和海藻ぞと悦べるなり、此は稚海藻を、弱く盛なる女に譬へて云るなり、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツ》。
 
3874 所※[身+矢]鹿乎《イユシヽヲ》。認河邊之《ツナグカハヘノ》。和草《ワカクサノ》。身若可倍爾《ミノワカカヘニ》。佐宿之兒等波母《サネシコラハモ》。
 
所※[身+矢]鹿乎は、イユシヽヲ〔五字右○〕と訓べし、○認河邊之は、書紀の御歌に依て、ツナグカハヘノ〔七字右○〕と訓べし、手を負たる鹿の逃行て、河邊の若草を喫をる意にて、云るなるべし、その草に付ては、足を留むる故に、ををやがて繋ぐとは云るなるべし、認(ノ)字は、留《トヾム》る意にとりて書るか、三(ノ)卷に、大夫爾認有神曾《マスラヲニトメタルカミソ》、とあり、(但しこの認有はツキタル〔四字右○〕にてもあるべし、三(ノ)卷に委(ク)いへり、)○和草は、ワカクサノ〔五字右○〕と訓べし、本居氏云(ク)、和の下に、加(ノ)字脱たるか、いかにまれ、ワカ〔二字右○〕草なるべし、○身若可倍爾《ミノワカカヘニ》(若(ノ)字、拾穗本には、弱と作り、)は、いさゝか心得がてなり、(契冲が、身わかきかひにといへる心歟、身の若きかひありて、もろともにねし兒等はと、絶て後、尋るやうによめるなり、と云り、可比《カヒ》を、可倍《カヘ》と云むこといかゞなり、又岡部氏は、倍《ヘ》は於《ウヘ》の意にて、若き時にといふなり、とい(401)へれど、うべなひがたし、)古事記雄略天皇(ノ)御歌に、比氣多能和加久流須婆良《ヒケタノワカクルスバラ》、和加久閇爾韋泥弖麻斯母能淤伊爾祁流加母《ワカクヘニヰネテマシモノオイニケルカモ》、とあるにつきて、本居氏、和加久閇爾《ワカクヘニ》は、今の若可倍《ワカガヘ》と同(シ)言と聞ゆ、閇《ヘ》は、伊爾斯閇《イニシヘ》、牟可斯閇《ムカシヘ》、などの閇《ヘ》なるべし、されば若かりし間にと云意と聞ゆ、といへり、○佐宿之兒等波母《サネシコラハモ》、(宿(ノ)字、古寫小本には禰と作り、)佐宿之《サネシ》は、相宿せしを云、兒等《コラ》は女を云り、波母《ハモ》は、歎息きて、いづらと尋ね慕ふ意の辭なり、○歌(ノ)意は、身の弱かりし間に、相宿せし女に、絶て久しくなりぬれば、此(ノ)ほど其(ノ)女は、いかにかなりぬらむ、いづらやと尋ね慕ひたるなり、此(ノ)歌は、書紀齊明天皇(ノ)御歌に、伊喩之之乎都那遇何播杯能倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰阿我謨婆儺倶爾《イユシシヲツナグカハヘノワカクサノワカクアリキトアガモハナクニ》、とあるを、歌ひ換(ヘ)たるなるべし、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツ》。
 
3875 琴酒乎《コトサケヲ》。押垂小野從《オシタルヲヌユ》。出流水《イヅルミヅ》。奴流久波不出《ヌルクハイデズ》。寒水之《マシミヅノ》。心毛計夜爾《コヽロモケヤニ》。所念《オモホユル》。音之少寸《オトノスクナキ》。道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》。少寸四《スクナキヨ》。道爾相佐婆《ミチニアハサバ》。伊呂雅世流《イロケセル》。菅笠小笠《スガガサヲガサ》。吾宇奈雅流《アガウナゲル》。珠乃七條《タマノナヽツヲ》。取替毛《トリカヘモ》。將申物乎《マヲサムモノヲ》。少寸|四〔○で囲む〕《スクナキヨ》。道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》。
 
琴酒乎《コトサケヲ》は、契冲、琴をば押へ、酒をばたるゝによりて、押垂小野《オシタルヲヌ》とはつゞけたりといへり、いぶかし、本居氏は、誤字なるべしと云う、(橘(ノ)枝直(ガ)説に、琴は美の誤にて、ウマサケヲ〔五字右○〕なるべしと云(402)るは、いかゞ、)○押垂小野《オシタルヲヌ》は、地(ノ)名なるべし、東鑑に、押垂《オシタル》齋藤左衛門(ノ)尉、といふあり、又岡部氏は、小は水の誤にて、押垂水野從《オシタルミヌユ》なるべし、垂水《タルミ》は名水の地なり、押は、上よりいひ下す縁のみにて、きならの里などの類なり、と云り、○奴流久波不出《ヌルクハイデズ》は、急に湧出るよしにて、清泉のさまなり、神代紀に、下瀬是太弱《シモツセハハナハダヌルシ》、○寒水之は、マシミヅノ〔五字右○〕と訓べし、(舊訓に、ヒヤミヅノ〔五字右○〕とあるは、俗なり、)一(ノ)卷に御井之清水《ミヰノマシミヅ》と見えたり、さて此(レ)より、下の音之《オトノ》と云るにつゞく意なり、泉は瀧などゝ異《カハ》りて、音に立ず、靜に湧出るより、音の少きとつゞくなるべし、次(ノ)二句は、暫此(ノ)一句の上に、めぐらして意得べし、○心毛計夜爾《コヽロモケヤニ》は、心も潔《イサギヨ》くといふ義なり、(岡部氏は、計は斜の誤にて、コヽロモサヤニ〔七字右○〕なるべしと云れど、わろし、又契冲が、心もけやは、心もきやといふ心なり、いとつめたき水を手にくみ、もしはのめば、身もひえ、心もきや/\とおぼゆるによせて、おもふ人のうるはしき聲を、道にて聞て、きものつぶるゝ心地するを、かたどれりといへるは、非なり、思ひよらず、ふと行遇たらむには、肝のつぶるゝ事も、あるべき理なれば、こゝはさる謂には非ず、計夜《ケヤ》は、寒水之《マシミヅノ》といふより、直に續たる意には非ず、心も潔くおぼゆる清水の、音のすくなき、とつゞく意にて、おもふ人には、あへかしと思へる趣なるおや、)雄略天皇(ノ)紀に、大貴《ハナハダケヤカ》、榮花物語とりべ野に、池の上に、おなじ色々さま/”\のもみぢのにしきうつりて、水のけさやかに見えて、いみじうめでたきに、石蔭に、月のいみじうあかきに、おはしましゝ所の、けさ(403)やかに見ゆれば、つぼすみれに、夜目にもけさやかに見ゆる、鶴の毛衣のほどもことなり、御賀に、所々のあげはり、へいまむなどの色けさやかに、綱の色おどろおどろしきまで、赤う見えたる、枕草子《異本》に、正月十日、空いとくらう、雲もあつく見えながら、さすがに日は、いとけさやかにてりたるに云々、いとあきらかにはれたる所は、今すこしけさやかにめでたう云々、うちにかきたる梅の折枝などの、けさやかに見えたるこそをかしけれ、源氏物語葵に、、いとらうたげなる髪どものすそ、はなやかにそぎわたして、浮(キ)紋のうへのはかまにかゝれるほど、けさやかに見ゆ、行幸に、いつら此(ノ)近江(ノ)君、こなたにとめせば、唯《ヲ》といとけさやかに聞えて、出來たり、とも見えたり、清水の清淨《キヨラ》にして、心も潔くおぼゆる謂なり、○所念《オモホユル》、これ※[しんにょう+台]《マデ》は、音之《オトノ》といはむ料の序なり、奴流久波不出心毛計夜爾所念寒水之音之少寸《ヌルクハイデズコヽロモケヤニオモホユルマシミヅノオトノスクナキ》、とつゞく意なり、かく暫(ク)句を置換(ヘ)て心得べし、○音之少寸《オトノスクナキ》は、人音《ヒトオト》の少きにて、閑靜《シヅカ》なる地のよしなり、○道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》は、道にてがな、いかで逢(ヘ)かしといふなり、以上二句共に七言なり、所謂《イハユル》問答體なり、○少寸四《スクナキヨ》は、音の少きよしなり、上に音之《オトノ》と云れば、こゝにては省けり、四《ヨ》は哉《ヤ》といふに同じく、助辭なり、○道爾相佐婆《ミチニアハサバ》は、道に遇給はゞと云むが如し、○伊呂雅世流《イロケセル》は、雅は※[奚+隹](ノ)字の寫(シ)誤なり、伊呂《イロ》は、伊呂兄《イロセ》、伊呂弟《イロト》、などの伊呂《イロ》なり、又|郎子《イラツコ》、郎女《イラツメ》、入彦《イリビコ》、入姫《イリヒメ》、などの伊羅《イラ》、入《イリ》に同じく、親(シ)み愛(シ)みて云|稱《ナ》なり、(略解に、呂は毛の誤にて、いもけせるか、といへるは非ず※[奚+隹]世流《ケセル》は、古事記(ノ)歌に、那賀(404)祁勢流《ナガケセル》、四(ノ)卷に、葢世流衣之《ケセルコロモノ》、などあり、著有《ケセル》なり、○菅笠小笠《スガガサヲガサ》は、笠を重(ネ)云るなり、菅笠と小笠と、二(ツ)にあらず、○吾宇奈雅流《アガウナゲル》は、吾(ガ)頸にかけたるなり、古事記高比賣命(ノ)歌に、於登多那婆多能宇那賀世流多麻能美須麻流《オトタナバタノウナガセルタマノミスマル》云々、神代紀に、素戔嗚(ノ)尊以2其(ノ)頸所嬰五百箇御統之瓊《ミクビニウナケルイホツノミスマルノタマヲ》云々、などあり、古(ヘ)は男女共に、珠を緒に貫(キ)て、頭にも頸にも手にも足にも、飾りしことなり、伊邪那岐(ノ)命(ノ)御頸珠を、天照大御神に、賜こと、又火遠理(ノ)命の御装束に、御頸(ノ)之|※[王+與]《タマ》、など古事記に見えたり、又大神宮式にも、頸玉、手玉、足玉緒云々、とあり、又幡媛、物部(ノ)尾輿の瓔珞《クビタマ》を偸《ヌスミ》て、春日(ノ)皇后に獻りしことも、安閑天皇(ノ)紀に見えたり、○珠乃七條《タマノナヽツヲ》(條(ノ)字、拾穗本には〓と作り、)は、只數の多かるをいへり、必(ス)數の七に限れるには非ず、○取替毛將申物乎《トリカヘモマヲサムモノヲ》は、菅笠を吾(ガ)賜り、珠(ノ)條を妹に贈り、互に取代しまゐらせて、形見とせむ物をとなり、將申《マヲサム》は、參らせむといふに同じ、麻乎須《マヲス》は、口に言(フ)事に限らず、對《サキ》の人を恭ひて物する事を、すべていふ言なり、さて男女契を約びて、互に形見の物を取かはすは、古(ヘ)の常のならひなり、○少寸四《スクナキヨ》これも上にいへると同じく、人音の少きなり、四《ヨ》は必(ス)こゝにもあるべきが、舊本には落たるなるべし、今姑(ク)補つ、○道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》、已上二句は、反復《ウチカヘシ》て、其(ノ)深切に思ふよしを、顯はしたるなり、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツ》。
 
豐前國白水郎歌一首《トヨクニノミチノクチノアマガウタヒトツ》。
 
(405)白水、類聚抄には、泉と作り、
 
3876 豐國《トヨクニノ》。企玖乃池奈流《キクノイケナル》。菱之宇禮乎《ヒシノウレヲ》。採跡也妹之《ツムトヤイモガ》。御袖所沾計武《ミソデヌレケム》。
 
企玖乃池《キクノイケ》は、豐(ノ)前國|企救《キクノ》郡にある池なり、七(ノ)卷に、聞之濱《キクノハマ》、十二に聞濱《キクノハマ》、又、聞人長濱《キクノナガハマ》、又、聞乃高濱《キクノタカハマ》、などよめり、(令(ノ)義解には、規矩(ノ)郡とみゆ、)○御袖《ミソデ》は、御衣《》、御帶《ミケシミオビ》などいふに同じく、御《ミ》は美稱なり、愛(シ)と思ふ妹なれば、美(メ)ていへり、(賂解に、左右の袖をいふと云るは、あらず、)○歌(ノ)意は、豐國の企救の池にある、菱の未を摘採とて、妹が御袖の、しか沾けるならむか、となり、七(ノ)卷に、君爲浮沼池菱採我染袖沾在哉《キミガタメウキヌノイケノヒシツムトワガソメシソデヌレニケムカモ》、
 
豐後國白水郎歌一首《トヨクニノミチノシリノアマガウタヒトツ》。
 
3877 紅爾《クレナヰニ》。染而之衣《ソメテシコロモ》。雨零而《アメフリテ》。爾保比波雖爲《ニホヒハストモ》。移波米也毛《ウツロハメヤモ》。
 
歌(ノ)意は、深く染てし衣なれば、降雨に濕て、紅《クレナヰノ》色の艶《ニホヒ》はまさるとも、うつろひはせじ、となり、
 
能登國歌三首《ノトノクニノウタミツ》。
 
3878 ※[土+皆]楯《ハシタテノ》。熊來乃夜良爾新羅斧《クマキノヤラニシラキヲノ》。墮入和之《オトシイレワシ》。河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]《カケテカケテ》。勿鳴爲曾禰《ナナカシソネ》。浮出流夜登《ウキイヅルヤト》。將見和之《ミムワシ》
 
※[土+皆]楯《ハシタテノ》(※[土+皆](ノ)字、拾穗本には階と作り、次なるも同じ、)は、枕詞なり、楯と書るは借字にて、梯立《ハシタテ》なり、其(ノ)梯立の事は、七(ノ)卷|橋立倉椅山《ハシタテノクラハシヤマ》、とある歌に就て、既く委(ク)註たり、さて熊來と屬きたるは、(冠辭考(406)に、棚をかまふる木を、くま木といふ故に、梯樹の熊木とはつゞけしけや、とあるは、いかに云るにか、その心得がたし、)組木《クミキ》の義にとりて云るなるべし、さるは屋舍をはじめ、すべて居宅(ノ)具は、何(レ)も材を組合せて造る中にも、梯立は、左右《コナタカナタ》のもてあひよく組て造るものなれば、取たてゝしかいふべく、殊に古(ヘ)の梯立は、後(ノ)世の如く、巧に構たるものにはあらで、繩葛の類して、組合せて造りしなれば、いよ/\組木とはいふべきものなり、○熊來乃夜良とは、熊木《クマキ》は、和名抄に、能登(ノ)國能登(ノ)郡熊來(ハ)久萬岐《クマキ》、十七に、能登(ノ)郡從2香島(ノ)津1發v船、行2射《サシテ》熊來(ノ)村1往(ク)時作(ル)歌二首、とあり、夜良《ヤラ》は、舊説に、水の底なる泥を、北國の俗に、いひならへり、と云り、上總、下總のあたりにては、沼澤などの、蘆蒋生たるやうの所を、也良《ヤラ》といふとぞ、○新羅斧《シラキヲノ》は、契冲云(ク)、新羅よりわたれる斧なり、欽明天皇(ノ)紀(ニ)云(ク)、十五年冬十二月、百濟王聖明、獻2好錦二匹、〓〓一領、斧三百口(ヲ)於我天朝(ニ)1、この中に斧三百口と云るは、くだら斧なれば、これに准じて知べし、又この國の斧にても、新羅につくるかたちにせば、鮮羅斧《シラキヲノ》といふべし、○墜入和之《オトシイレワシ》を本居氏、和之《ワシ》は、たゞ調(ヘ)にそへていふ辭なり、催馬樂などに、此(ノ)類のそへ辭多しといへり、(契冲が、わしは、汝といふこゝろなり、と云るはわろし、)○河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]《カケテカケテ》は、懸而偲《カケテシヌフ》などいふ懸而《カケテ》にて、心詞に懸て泣(ク)意なをを、打かへして云るなり、○將見和之は、ミムワシ〔四字右○〕と訓べし、和之《ワシ》は上に同(シ)、○歌(ノ)意は、左註によるに、愚人の、斧を熊來《クマキ》の海底に誤(リ)墮して、いかにして浮出來むと、汀に立て號泣《ナキサケ》び居るを見て、し(407)懸て泣ことなかれ、斧の水上に浮ぶべき理なきを、といふにや、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツハ》。傳云《イヒツテケラク》。或有愚人《アルカタクナヒト》。斧《ヲノヽ》墮《オチテ》2海底《ウミニ》1。而|不《ザリシカバ》v解《サトラ》2鐵沈《カネシヅキテ》無《ザルコトヲ》1v理浮水《ウカバ》1。聊作此歌口吟《イサヽカコノウタヲヨミテ》爲喩《サトセリキ》也。
 
3879 ※[土+皆]楯《ハシタテノ》。熊來酒屋爾《クマキサカヤニ》。眞奴良留《マヌラル》、奴和之《ヤツコワシ》。佐須比立《サスヒタテ》。率而來奈麻之乎《ヰテキナマシヲ》。眞奴良留奴和之《マヌラルヤツコワシ》。
 
酒屋《サカヤ》は、酒を收(メ)買屋なり、踐祚大甞祭式に、凡云々、所作|盛屋《モリモノヤ》一宇、酒屋一宇云々、皆以板葺云々、酒殿といふ類なり、催馬樂に、酒殿はひろし眞廣し、と云り、○眞奴良留《マヌラル》は、まづ眞《マ》は、そのもと美稱なるを、種々に通(ハ)し用ひたる中に、褒賞《ホム》る方にも、全備《トヽノ》ひたる方にも、勝秀《スグ》れたる方にも、正中《タヾナカ》なる方にも、その用《ツカ》ひ處によりて、少《イサヽカ》意異れり、其(ノ)中唯|褒賞《ホメ》る方には、眞木《マキ》、眞草《マクサ》、眞鴨《マカモ》、眞男牡鹿《マヲシカ》などいひ、全備《トヽノ》ひたる方には、眞手《マテ》、眞袖《マソデ》、眞楫《マカヂ》などいひ、勝秀《スグ》れたる方には、眞金《マカネ》、眞玉《マタマ》などいひ、(この勝秀《スグ》れたる方に云は、褒賞《ホム》る方に云ると大方同じく、差別なきが如く、唯|眞鴨《マカモ》、眞男牡鹿《マヲシカ》などいふは、賞《ホメ》たるのみの事なるに、眞金《マカネ》、眞玉《マタマ》などは、黒金《クロカネ》、荒玉《アラタマ》などいふに封へて、その勝秀《スグ》れたるを、稱たるのみの異《タガヒ》なりと知べし、)正中《タヾナカ》なる方に云るは、眞言《マコト》、眞白《マシロ》など云類なり、(虚僞のまじはりなく、あるがまゝを、正言《タヾコト》にいふを、眞言《マコト》といひ、黒青などの色のまじはりなく、正白《タヾシロ》に白きを眞白《マシロ》と云(ヘ)ば、此等をば、正中なる方に云り、とせり、)さて奴良留《ヌラル》は、契冲云し如(408)く、所《ル》v罵《ノラ》にて、其(ノ)眞《マ》は、眞言《マコト》、眞白《マシロ》などの眞《マ》にて、他の言をまじへず、正罵《タヾノリ》に罵《ノラ》るゝ謂にて、眞所罵《マヌラル》とは云るなるべし、眞《マ》云々と用言の頭に、眞《マ》の言を冠らせて云は、眞悲久《マカナシク》、眞幸久《マサキク》など云るに同じ、○奴和之《ヤツコワシ》とは、奴《ヤツコ》は賤奴の者を云、和之《ワシ》は、本居氏云(ク)、上の歌なるに同じく、調(ヘ)にそへたる辭なり、○佐須比立《サスヒタテ》は、契冲云(ク)、誘立《サソヒタテ》なり、○歌(ノ)意は、熊來の酒屋にて、醉しれて、狂ひさわぎなどする賤奴あるを、酒屋を守る者のいみじく罵《ノ》るを見て、よめるにて、しか罵(ラ)るゝ奴を、誘(ヒ)立て引(キ)率て來て、罵せじ物をと、云るなるべし、終の二句、上に云ることを反復《ウチカヘ》して云るは、其(ノ)深切なる意を顯はせるなり、例多し、
 
右一首《ミギヒトウタ》。
 
3880 所聞多禰乃《カシマネノ》。机之島能《ツクヱノシマノ》。小螺乎《シタタミヲ》。伊拾持來而《イヒロヒモチキテ》。石以《イシモチ》。都追伎破夫利《ツツキハフリ》。早川爾《ハヤカハニ》。洗濯《アラヒスヽギ》。辛鹽爾《カラシホニ》。古胡登毛美《ココトモミ》。高坏爾盛《タカツキニモリ》。机爾立而《ツクヱニタテテ》。母爾奉都也《ハヽニマツリツヤ》。目豆兒乃負《メツコノトジ》。父爾獻都也《チヽニマツリツヤ》。身女兒乃負《ミメツコノトジ》。
 
所多禰乃は、義を得て、カシマネノ〔五字右○〕と岡部氏の訓るぞ宜しき、(舊訓に、ソモタネノ〔五字右○〕とあるは、よしなし、)和名抄に、能登(ノ)國能登(ノ)郡加島(ハ)加之万《カシマ》、と見ゆ、そこにある山の嶺をいふべし、○机島《ツクヱノシマノ》、此(レ)も加島《カシマ》にあるなるべし、加島の嶺上にある、机(ノ)島といふにあらず、その嶺に近きわたりにあるを、云るなるべし、○小螺《シタタミ》は、品物解に云り、○伊《イ》は、物をいひ出す頭におくそへ言なり、○(409)都追伎破夫利《ツツキハフリ》は、啄屠《ツヽキハフリ》なり、破夫利は、ハフリ〔三字右○〕と訓べし、(ヤブリ〔三字右○〕と訓むはわろし、)古事記崇神天皇(ノ)條に、亦|斬2波布理《キリハフリキ》其(ノ)軍士(ヲ)1、故(レ)號2其地1謂2波布埋會能《ハフリソノト》1云々、出雲風土記に、大魚之支太衝別而《オホヲノキタツキワケテ》、波多須々支穗振別而《ハタスヽキホフリワケテ》、などある、皆同言なり、(但しこゝに、夫(ノ)字を用ひたるは正しからず、布《フ》は必(ス)清べきなり、)○洗濯は、アラヒスヽギ〔六字右○〕と訓べし、靈異記に、洒(ハ)所々岐弖《スヽキテ》、とあり、○辛塩《カラシホ》(塩(ノ)字、拾穗本には鹽と作り、)は、五(ノ)卷に、鹹塩遠灌知布其等久《カラシホヲスヽグチフゴトク》、とあり、○古胡《ココ》は、もむに鳴(ル)音を云り、源氏物語に、こほ/\と云るに同じ、○高杯《タカツキ》(杯(ノ)字、拾穗本には坏と作り、)は、踐祚大甞祭式に、多加須伎《タカスキ》八十口、類聚雜要に、土高杯《ハシタカツキ》、本朝月令に、高橋氏文云、云々見2阿西山(ノ)※[木+危]葉(ヲ)1(天《テ》)高次《タカスキ》八枚※[夾+立刀]作云々、(高坏《タカツキ》とも高次《タカスキ》ともいへる、みな同じことなり、ツ〔右○〕とス〔右○〕と通(ハ)し云る例多し、)江家次第一、四方拜(ノ)事(ノ)條に、件灯机上、更又置2折敷、高坏(ヲ)1其上居之、供2立春(ノ)水1事(ノ)條に、土高抔上置2折敷(ヲ)1、伊勢物語に、女がたより、其(ノ)水海《ミル》を高杯に盛て、柏を覆(ヒ)て出したり云々、榮花物語音樂に、佛の御前に、螺鈿の高坏ども、こがねの佛器どもを居つゝ奉らせ賜へり、源氏物語柏木に、御うぶやしなひ、よのつねのをしき、ついがさね、たかつきなどのこゝろばえもことさらに、寄生に、宮の御まへにも、せむかうのをしき十二して、たかつきどもにて、ふずくまゐらせ給へり云々、したむのたかつき、ふぢのむらごのうちしきに、をりえだぬひたり、云々、古今著聞集に、高坏にさかな物すゑて、もて來て居(ヱ)たり云々、など見えたり、○机爾立而《ツクヱニタテテ》、(机(ノ)字、舊本に※[示+几]に誤、古寫小本、拾穗本(410)等に從つ、)机《ツクヱ》は、和名抄に、唐韻(ニ)云、机(ハ)案(ノ)屬也、史記(ニ)云(ク)、持v案(ヲ)進v食(ヲ)、和名|都久惠《ツクヱ》、古事記に、具《ソナヘテ》2百取机代物《モヽトリノツクヱシロモノヲ》1爲2御饗《ミアヱヲ》1、神代紀に、兼設(ケ)2饌百机一《モヽトリノツクヱモノヲ》、木工寮式に、棚案、別脚案、※[木+若]《シモト》案、水案、懸案、板案、居水〓案、無手中取案、などいふもの見ゆ、典藥寮式に、黒木案、四時祭式に、八足案二脚、臨時祭式に、八足机一脚、など見えたり、立《タテ》は凡て物を上へ※[敬/手]《サヽグ》るをいふ言にて、此の机(ノ)上に載置て、獻るをいふなり、三代實録、大神宮式等に、酒立女《サカタテメ》と見えたるも、酒を※[敬/手]る女といふ義の稱にて、立《タテ》の言全(ラ)同じ、さて立麻都流《タテマツル》といふ立(テ)は、こ、の立(テ)にて、上へ※[敬/手]て獻る意なり、故(レ)古書に、多弖麻都流《タヲマツル》といふに、立奉《タテマツル》と多く書るは、このよしなり、(しかるを、物を獻上《タテマツ》るにはあらで、たゞ崇めいふ時に、たとへば見たてまつる、相たてまつるなどいふは、後のことにて、古(ヘ)にはかつてなきことなり、心をつけて考(フ)べし、)〔頭註、【遷却崇神祭詞に、横山之如久八物爾置所足※[人偏+弖]、とある、八物は几物を誤れるなり、貞觀儀式及臨時祭式の朕魂祭條に、大膳職造酒司供八代物、とある八代物は、几代物を誤れるなり、】〕○奉都也《マツリツヤ》は、進上《タテマツ》りつるやいかに、と問意なり、○目豆兒乃負《メツコノトジ》とは、目豆兒《メツコ》は、目は借(リ)字、豆《ツ》は、國津《クニツ》、奥津《オキツ》の津《ツ》にて、女津兒《メツコ》なり、負《トジ》は、契冲云(ク)、今按に、ふたつながら刀自《トジ》と訓べきか、和名抄(ニ)云(ク)、劉向(カ)列女傳(ニ)云(ク)、古語(ニ)老母(ヲ)爲v負(ト)、漢書王媼武負位引之、今按(ニ)、俗人謂2老女(ヲ)1爲v※[刀/目]、字從v目也、今訛以v貝爲v自歟、今按(ニ)、和名|度之《トジ》、此集第四に、わが子の戸自《トジ》とよみたれば、何となく女の總名と聞ゆと云り、此(ノ)説に依べし、、なほ刀自《トジ》のことは、既く四(ノ)卷に具(ク)云り、考(ヘ)合(ス)べし、○身女兒は、ミメツコ〔四字右○〕と訓べし、宮地(ノ)春樹翁云(ク)、是は上に云る女豆兒《メツコ》を再び云て、身《ミ》は褒る辭にて、(411)眞女津兒《ミメツコ》といふなるべしと云り、是《シカ》なり、
 
越中國歌四首《コシノミチノナカノクニノウタヨツ》。
 
四首の中、前二首は越中、後二首は越後なり、なほ次にいふべし、
 
3881 大野路者《オホヌヂハ》。繁道森徑《シゲチノモリヂ》。之氣久登毛《シケクトモ》。君志通者《キミシカヨハバ》。徑者廣計武《ミチハヒロケム》。
 
大野《オホヌ》は、和名抄に、越中(ノ)國礪波(ノ)郡大野(ハ)於保乃《オホノ》、○繁道森徑は、シゲチノモリヂ〔七字右○〕と訓べし、森《モリ》とは、毛流《モル》の體言《ヰコトバ》になりたるにて、木の繁りて高くなりたる所を云、十(ノ)卷に、朝旦吾見柳《アサナ/\アガミルヤナギ》云々、森爾早奈禮《モリニハヤナレ》と見ゆ、源氏物語蓬生に、かたもなくあれたる家の木立しげく、もりのやうなるをすぎ給ふ、とあるをも、思(ヒ)合(ス)べし、神社をモリ〔二字右○〕といふも、神の座す處は、必(ズ)木の高く繁りたるものなればいふ、さて食物なこどを盛(ル)といふも、毛流《モル》の言は、一(ツ)なるべし、○歌(ノ)意は、大野路は草木生(ヒ)茂りつゝさしもうるさき繁路にてはあるなり、たとひさまで繁くとも、一すぢに此處を徃來道《カヨヒヂ》と定め賜ひて、君が通ひ賜はゞ、草木刈(リ)除《ソケ》て、清からしめむなれば、道は廣からむぞ、となり、
 
3882 澁溪乃《シブタニノ》。二上山爾《フタカミヤマニ》。鷲曾子産跡云《ワシゾコムトイフ》。指羽爾毛《サシハニモ》。君之御爲爾《キミガミタメニ》。鷲曾子生跡云《ワシゾコムトイフ》。
 
澁溪《シブタニ》(溪(ノ)字、拾穗本には、谿と作り、)は、十七越中(ノ)國(ノ)歌に、思夫多爾《シブタニ》と見ゆ、(凡て五首あり、)十九に、過2澁溪(ノ)埼(ヲ)1見2巖上(ノ)樹(ヲ)1歌云々、又遊2覽布勢(ノ)水海(ニ)1歌の中にもよめり、射水(ノ)郡なり、○二上山《フタカミヤマ》、これも十(412)七、十八、十九の卷々に、あまたよめり、十九には蓋上《フタカミ》山とも書り、續紀に、越中(ノ)國射水(ノ)郡二上(ノ)神と見ゆ、○子産跡云《コムトイフ》は、古事記仁徳天皇(ノ)御歌に、蘇良美都夜麻登能久邇爾加理古牟登岐久夜《ソラミツヤマトノクニニカリコムトキクヤ》、○指羽《サシハ》は、和名抄服玩(ノ)具に、翳(ハ)和名|波《ハ》、臨時祭式度會(ノ)宮装束の中に、紫翳一枚、菅(ノ)翳一枚云々、儀式帳に、紫(ノ)刺羽一柄、菅刺羽、又内匠寮式に、伊勢初齋院装束云々、大翳《オホハ》筥二合料、波太板四枚云々、野宮装束云々、翳《サシハノ》柏形四枚云々、掃部寮式に、元日平旦云々、執翳《ハトリ》者座2於東西戸前(ニ)1、など見えたり、古(ヘ)は鷲(ノ)羽を以て、翳《サシハ》を造れるなるべし、○君之御爲爾《キミガミタメニ》は、十(ノ)卷に、風散花橘叫袖受而爲君御跡思鶴鴨《カゼニチルハナタチバナヲソデニウケテキミガミタメトシヌヒツルカモ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は澁溪(ノ)の二上山に、鷲ぞ子を産といふなる、其はその羽の、君が翳にもなれかしとて、君が御爲に、子を産とぞいふなる、となり、
 
3883 伊夜彦《イヤヒコ》。於能禮神佐備《オノレカムサビ》。青雲乃《アヲクモノ》。田名引日良《タナビクヒスラ》。※[雨/沐]曾保零《コサメソホフル》。
 
伊夜彦《イヤヒコ》は、神名帳に、越後(ノ)國蒲原(ノ)郡|伊夜比古《イヤヒコノ》神社、(名神大、)續後紀に、承和九年十月壬戌、奉v授2越後(ノ)國無位伊夜比古(ノ)神社從五位下(ヲ)1、など見ゆ、〔頭注、義經記に、越後の國くかみといふ所にあがりて、見くらまちに宿をかり、あくればやひこの大明神を拜み奉りて云々、】〕○於能禮神佐備《オノレカミサビ》は、自神々《オノヅカラカウ/\》しく、物ふりたるを云べし、十七立山(ノ)賦に、許其志可毛伊波能可牟佐備《コゴシカモモイハノカムサビ》、とあり、舊本に、一云|安奈爾可牟佐備《アナニカムサビ》、と註せり、(此は用べからず、安夜爾《アヤニ》といふべきを、安奈爾《アナニ》と云る例なし、安夜《アヤ》と安奈《アナ》とは、固(リ)異言なればなり、其(ノ)由三(ノ)卷に具(ク)詳り、但しこゝの奈は、夜の誤寫(シ)にてもやあらむ、)○青雲《アヲクモ》は、見放る虚空《オホソラ》の色の蒼蒼《アヲアヲ》と見ゆるを云な(413)り、今(ノ)世にも雲も無(ク)霽《ハレ》たる虚空《ソラ》を、青雲《アヲクモ》と云り、(但(シ)然らば、棚引(ク)とはいふまじければ、いかゞとおもふ人もあるべけれど、虚空の蒼《アヲ》きを雲に見なして、青雲と云るからは、其(ノ)縁に、たなびくともいふまじきに非ず、青色の雲はあるべからねば、たゞ虚空の蒼きをいふなることは、論なし、)二(ノ)卷に、向南山陣雲之青雲之《キタヤマニタナビククモノアヲクモノ》、十三に、青雲之向伏國乃《アヲクモノムカブスクニノ》、十四に、安乎久毛能伊※[人偏+弖]來和伎母兒《アヲクモノイデコワギモコ》、古事記神武天皇(ノ)條に、青雲之白肩津《アヲクモノシラカタノツ》、祈年祭(ノ)祝詞に、青雲能靄極《アヲクモノタナビクキハミ》、これら青雲《アヲクモ》と云る例なり、○田名引日良は、日の下に須(ノ)字の脱たるなり、タナビクヒスラ〔七字右○〕と訓べし、よく虚空《ソラ》の晴たる日にさへの意なり、○※[雨/沐]曾保零《コサメソホフル》、(※[雨/沐](ノ)字、官本、拾穗本等には霖と作り、霖はナガアメ〔四字右○〕なれば、舊本のまゝにてコサメ〔三字右○〕なるべし、)※[雨/沐]は、和名抄に兼名苑(ニ)云、細雨、一名※[雨/脉]※[雨/沐]小雨也、和名|古左女《コサメ》、とあり、曾保零《ソホフル》は、そぼそぼと零(ル)なり、(俗に云、しよぼしよぼ雨のことなり、)古今集題詞に、三月の朔日より、竊《シノヒ》に人に物云て、後に雨の曾保雰《ソホフリ》けるに作《ヨミ》て遣はしける、後撰集に、八月中の十日許(リ)に、雨のそほふりける日云々、新古今集に、春雨のそほふる空のをやみせずおつる涙に花ぞ散ける、○歌(ノ)意は、彌彦の神のます高山の彌高く、おのづから神々しく物ふりて、虚空《ソラ》のよく晴たる日にさへ、小雨のそぼそぼふるとなり、高山には、時ならず雨のふるものなれば、かくよめるなり、一(ノ)卷に三吉野之耳我嶺爾《ミヨシヌノミカネノタケニ》、時無曾雪者落家留《トキナクソユキハフリケル》、間無骨雨者零計類《マナクソアメハフリケル》、九(ノ)卷に、時登無雲居雨零筑波嶺乎清照《トキトナククモヰアメフルツクハネヲキヨクテラシテ》、などよめり、○此(ノ)歌と、次なると二首は、越後の彌彦山を、越中の人の(414)見放てよめるなるべし、これによりて、越中(ノ)國(ノ)歌の中に入(レ)るならむ、又契冲は、續紀(ニ)云(ク)、大寶二年三月甲申、分2越中(ノ)國四郡1屬2越後(ノ)國(ニ)1、かゝれば、彌彦は、今は越後なるを、此(ノ)歌は大寶二年已前に、よめるなるべし、と云り、
 
3884 伊夜彦乃《イヤヒコノ》。神乃布本《カミノフモトニ》。今日良毛加鹿乃《ケフラモカカノ》。伏良武《フセルラム》。皮服著而《カハコロモキテ》。角附奈我良《ツヌツケナガラ》。
 
神乃布本《カミノフモト》は、神《カミ》とは即(チ)山を云るなり、例多し、布本《フモト》は、麓《フモト》なり、言(ノ)義は、端本《ハモト》なるべし、(ハ〔右○〕とフ〔右○〕は親(ク)通(フ)、)神代紀上に、麓(ハ)山足(ヲ)曰v麓(ト)、此云2簸耶磨《ハヤマト》1、○今日良毛加鹿乃《ケフラモカカノ》、句なり、良《ラ》は助辭なり、加《カ》は、良武《ラム》の下にめぐらして意得べし、○皮服著而《カハコロモキテ》は、鹿の毛皮を、かく云なせるなり、應神天皇(ノ)紀に、天皇幸(シテ)2淡路(ニ)1、而|遊獵《ミカリシタマフ》之、於是天皇|西望之《ニシノカタヲミサケタマヘバ》、數十麋鹿《アマタノヲホシカ》浮《ヨリ》v海|來《マヰキテ》之、便入(ヌ)2于播磨(ノ)鹿子(ノ)水門(ニ)1、天皇謂2左右(ニ)1曰、其何麋鹿(ソ)也、泛2巨海1多(ニ)來(ル)、爰(ニ)左右共(ニ)視而奇(ム)、則遣(テ)v使(ヲ)令v察、使者至(テ)見(ニ)皆人也、唯以2著《ツケル》v角鹿(ノ)皮1爲《セリ》2衣服《キモノト》1耳、思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、今日此(ノ)頃、及服著て角附ながら彌彦山の麓に鹿の伏るならむか、となり、
 
乞食者詠二首《ホカヒヒトノウタフタツ》。
 
乞食者は、和名抄乞盗(ノ)類に、列子(ニ)云(ク)、齊(ニ)有2貧者1、常(ニ)乞2於城市(ニ)1、乞兒(カ)曰、天下之辱莫v過2於是(ニ)1、楊氏漢語抄(ニ)云、乞索兒、保加比比止《ホカヒヒト》、今按(ニ)、乞索兒(ハ)即乞兒是也、和名|加多井《カタヰ》と見ゆ、(契冲(カ)正濫抄に、保加比人《ホカヒヒト》といふは、日本紀に、弄(ノ)字をほかひとよめり、ことぶきといふに同じく、人を祝ふなり、乞丐の(415)輩、人の心を取て、祝ひて物を乞ば名つくるか、加多井とは、道のかたはらなどに居て、物をこへば傍居《カタヰ》の義歟、癩人を、俗にかたゐといひならへりと云り、按に、保可比《ホカヒ》は、大殿壽《オホトノホカヒ》、酒壽《サカホカヒ》などの壽《ホカヒ》にて、人(ノ)家の門に立て、くさ/”\の壽詞《ホカヒゴト》をうたひて物を乞(ヒ)ありくよりいへるなるべし、土佐日記に、此(ノ)楫取は、日も得|計《ハカラ》はぬ加多井《カタヰ》なりけり、とあるも、楫取を賤しめ罵て、乞食《カタヒ》と云るなり、さて此《コヽ》は、乞食者が自(ラ)物乞(フ)ために、此(ノ)歌をうたひ行《アリ》きしなるべし、乞食者が、今新に作《ヨメ》るといふにはあらず、枕册子に、乞食の尼法師が歌ふ詞に、夜は誰と寢む、常陸の介と寢む、寢たる肌もよし、此が未|甚《イト》多かり、としるせる類なり、古今集漢文序に、其餘業2和歌(ヲ)1者綿々不v絶、及彼(ノ)時變2澆漓(ニ)1、人貴2奢淫(ヲ)1、浮詞雲(ノゴトク)興、艶流泉(ノゴトク)涌、其實皆落(チ)、其(ノ)花孤榮、至v有(ニ)d好色之家以v此爲2花鳥之使(ト)1、乞食之客以v此爲c活計之媒(ト)u、と有をも思(ヒ)合(ス)べし、
 
3885 伊刀古《イトコ》。名兄乃君《ナセノキミ》。居居而《ヲリヲリテ》。物爾伊行跡《モノニイユクト》波〔□で囲む〕。韓國乃《カラクニノ》。虎云神乎《トラトフカミヲ》。生取爾《イケトリニ》。八頭取持來《ヤツトリモチキ》。其皮乎《ソノカハヲ》。多多彌爾刺《タタミニサシ》。八重疊《ヤヘタヽミ》。平羣乃山爾《ヘグリノヤマニ》。四月與《ウツキト》。五月間爾《サツキノホドニ》。藥獵《クスリガリ》。仕流時爾《ツカフルトキニ》。足引乃《アシヒキノ》。此片山爾《コノカタヤマニ》。二立《フタツタツ》。伊智比何本爾《イチヒガモトニ》。梓弓《アヅサユミ》。八多婆佐彌《ヤツタバサミ》。比米加夫良《ヒメカブラ》。八多婆左彌《ヤツタバサミ》。宍待跡《シヽマツト》。吾居時爾《アガヲルトキニ》。佐男鹿乃《サヲシカノ》。來立《キタチ》來〔□で囲む〕嘆久《ナゲカク》。頓爾《タチマチニ》。吾可死《アレハシヌベシ》。王爾《オホキミニ》。吾仕牟《アレハツカヘム》。吾角者《アガツヌハ》。御笠乃波夜詩《ミカサノハヤシ》。吾耳者《アガミヽハ》。御墨坩《ミスミノツボ》。吾目良波《アガメラハ》。眞墨乃鏡《マスミノカヾミ》。吾爪者《アガツメハ》。御弓之弓波受《ミユミノユハズ》。吾毛等者《アガケラハ》。御筆波夜斯《ミフデノハヤシ》。吾皮者《アガカハハ》。御箱皮爾《ミハコノカハニ》。吾宍者《アガシヽハ》。御奈麻須波(416)夜志《ミナマスハヤシ》。吾伎毛母《アガキモモ》。御奈麻須波夜之《ミナマスハヤシ》。吾美義波《アガミゲハ》。御塩乃波夜之《ミシホノハヤシ》。耆矣奴《オヒハテヌ》。吾身一爾《アガミヒトツニ》。七重花佐久《ナヽヘハナサク》。八重花生跡《ヤヘハナサクト》。白賞尼《マヲシハヤサネ》。白賞尼《マヲシハヤサネ》。
 
伊刀古は、イトコ〔三字右○〕と訓べし(イトフルキ〔五字右○〕とよめるは、わろし)伊刀《イト》は、親(ム)辭にて、愛賞《イトホシ》き子といふなり、神樂歌篠波に、佐佐奈美也志加之加良左支也《ササナミヤシガノカラサキヤ》、見之禰川久乎見名刀與佐佐也《ミシネツクヲミナノヨササヤ》、曾禮毛加禮毛加毛《ソレモカレモカモ》、伊止己世仁万伊止己世仁世牟也《イトコセニマイトコセニセムヤ》、風俗歌|知知良良《チチララ》に、伊止古世乃加止仁|天宇止比《・調度提》佐介天《イトコモセノカドニテウドヒサケテ》云々、紫式部日記に、伊刀姫君《イトヒメキミ》の式部の乳母云々、又|伊刀宮《イトミヤ》いだき奉らむと、殿のたまふを云々、(今の世にもいと幼稚《ヲサナキ》子を伊刀《イト》といへり、)など見えたり、(又古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌に」伊刀古夜能伊毛能美許等《イトコヤノイモノミコト》、とある夜能は、能夜を下上に寫(シ)誤れるにて、伊刀古能夜《イトコノヤ》なるべきか、と本居氏は云り、(又從父兄弟を伊刀古《イトコ》といふも、兄弟《ハラカラ》の子は、吾(カ)子に亞《ツギ》て親愛《イトホシ》きものなれば云るにて、もとは其(ノ)父母共《オヤドモ》呼し名なるが、轉ひて、其(ノ)人共呼ことになれるにて、同言なるべし、さて本居氏、伊刀古《イトコ》云々より、八重疊《ヤヘタヽミ》までは、平|群《クリ》と云|序《ハシカザリ》なるが、居々而《ヲリ/\テ》と云を思へは、年久しく同居《アヒズミ》せる者の状なれば、名兄《ナセ》とは、妻の夫を云さまによめる語なり、然れば此は、夫を親睦しみて、伊刀古《イトコ》と云りといへり、然なり、○居々而《ヲリ/\テ》は、夫婦《メヲ》共に、年久しく相住|居々而《ヲリ/\テ》なり、○物爾伊行跡《モノニイユクト》波は、伊《イ》は、物を言出す頭におくそへ語なり、物にゆくといふ詞は、中昔の詞に甚多し、某處と慥に行(ク)處をさして云(ハ)でも宜しく、何方にまれ、唯大らかに云て、事足處に(417)いふことなり、貫之集に、又もこそ物へ行人我(ガ)惜め涙の限(リ)君に泣乍、人は不知《イザ》我は昔の忘れねば物へと聞て哀とぞ思ふ、などあるに同じ、跡《ト》は、とての跡《ト》なり、波は衍文なるべし、さて此(ノ)句に、物へ行とて、行至りてといふ詞を、假に加へて意得べし、○韓國《カヲクニ》は、字の如く三韓國をいふなり、○虎云神《トラトフカミ》は、和名抄に、説文(ニ)云(ク)、虎(ハ)山獣之君也、止良《トラ》、とある如く、獣類の中にも、秀《スグ》れたるものなれば、神とは云り、欽明天皇(ノ)紀に、六年冬十一月、膳(ノ)臣|巴提便《ハスヒ》、還(テ)v自2百濟1言(サク)、臣被(トキ)v遣v使(ニ)妻子相逐去《ヤカラヲシタガヘテ》、行2至(リ)百濟(ノ)濱《ウミベタニ》1、(濱(ハ)海濱也、)日晩(テ)停宿《ヤドリキ》、小兒《ワクゴ》忽亡(テ)不v知v所v之《ユク》、其夜大雪(フリキ、天曉《ヨアケテ》始|求《モトムルニ》、有2虎(ノ)連跡1、臣乃帶v刀(ヲ)、尋(テ)至2巖岫(ニ)1、拔v刀(ヲ)曰、敬2受《カシコミ》絲綸《ミコトヲ》1、※[句+力]2勞《タシナミ》陸海《ウミヤマニ》1、櫛v風(ニ)沐v雨(ニ)、藉v草(ヲ)班v荊(ヲ)者、爲d愛2其子1令v紹2父(ノ)業(ヲ)1也、惟汝(ハ)威神《カシコキカミナリ》愛v子(ヲ)一也、今夜兒亡、追(テ)v蹤(ヲ)覓至、不v畏2亡命1、欲v報(ト)故(ニ)來(ツ)、既而其(ノ)虎進寄開v口欲v噬(ムト)、巴提便忽申2左(ノ)手1、執2其(ノ)虎舌(ヲ)1、右(ノ)手(ニテ)刺殺、剥2取(リテ)皮1還(リキ)、と見ゆ、又|狼《オホカミ》をも、汝貴族神《カシコキカミナリ》と云ること、同紀に見えたり、○八頭《ヤツ》は、其(ノ)數多きを云り、(頭と書るは、鳥獣をかぞふるに、一頭二頭といふ故にかけり、既く云り、)○多多彌爾刺《タタミニサシ》は、皮疊は、絲もて刺(シ)貫て造る故に、刺(シ)といへり、菅薦などにて造るをば、編(ム)と云り、○八重疊《ヤヘタヽミ》は、平群《ヘグリ》の枕詞にて、此までは、八重疊を云む料の序なり、さてかくつゞけたる意は、上に薦疊平群《コモタヽミヘグリ》とある處に具(ク)云り、八重疊は、神代紀下に、海神《ワタツミノカミ》於是|舗2設《シキ》八重席薦《ヤヘタヽミヲ》1以|延内之《ヰテイリタマフ》、一書(ニ)云、海(ノ)神自迎|延入《ヰテイリ》、乃|舗2設《シキ》海驢《ミチノ》皮|八重《ヤヘヲ》1、使《シメ》v坐《マサ》2其(ノ)上(ニ)1、○平群乃山《ヘグリノヤマ》は、和名抄に、大和(ノ)國平群(ノ)郡平群(ハ)倍久利《ヘグリ》、○四月與《ウツキト》云々、藥獵《クスリガリ》は、推古天皇(ノ)紀に、十九年夏五月五日、藥2獵菟田野(ニ)1、(418)取2鷄鳴時(ヲ)1、集2于藤原(ノ)池上1、以2會明1乃往之、粟田(ノ)細目(ノ)臣(ヲ)爲2前部領1、額田(ノ)比羅夫爲2後部領(ト)1、云々、廿年夏五月五日、藥獵之、集2于羽田(ニ)1、以相連參趣2於朝(ニ)1、其(ノ)装束如2菟田之獵1、二十二年夏五月五日藥獵也、と見ゆ、夏獵とて、鹿のわか角をとる獵なり、(通證に、藥(ハ)謂2鹿茸(ヲ)1、月令(ニ)、仲夏鹿角解、別録(ニ)曰、四月五月、解v角時取陰乾、)さて書紀には、五月五日に、必(ズ)藥獵爲給ふ事の濫觴を云るにて、其(ノ)後も、なべては其(ノ)日に限りたるにはあらで、大かたは四月五月の間にせるならむ、十七四月五日、獨居2平城(ノ)舊宅(ニ)1家持卿のよめる歌に、加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里《カキツバタキヌニスリツケマスラヲノキソヒカリスルツキハキニケリ》、とあるも、藥獵を云るなるべし、○仕流《ツカフル》と云るは、公の御爲に狩する故に云るなり、奉仕《ツカヘマツル》をいふなり、○此片山爾《コノカタヤマニ》、書紀顯宗天皇(ノ)室壽(ノ)御詞に、脚日木此傍山牡鹿之角擧《アシヒキノコノカタヤマニサヲシカノツヌサヽゲ》云々、○二立(二の下、古寫本に走(ノ)字あるは、いかゞ、)は、フタツタツ〔五字右○〕と訓べし、○伊智比《イチヒ》は、櫟《イチヒ》にて、品物解に云り、○八多婆佐彌《ヤツタバサミ》は、狩人の、あまた弓を手挾み滞《モテ》る意なり、○比米加夫良《ヒメカブラ》は、本居氏、比米《ヒメ》とは、木などの割目をいふ、樋目《ヒメ》の意ならむか、俗言に、比米和流々《ヒメワルヽ》、比和流々《ヒワルル》、比毘和流々《ヒヾワルヽ》、など云|比毘《ヒヾ》も、比米《ヒメ》の訛なるべし、和名抄に、〓(ハ)比美《ヒミ》、俗に、は比毘《ヒヾ》と云、是も比米《ヒメ》なるべし、八目鳴鏑《ヤツメナリカブラ》といふは、鏃に孔のいくつもあるをいへば、比米鏑《ヒメカブラ》も、其(ノ)孔を長く樋にえりたるを云なるべし、又古事記上(ツ)卷に、氷目矢《ヒメヤ》とあるは、こゝのとは、固(リ)別なれども、比米《ヒメ》と云(フ)名の意は、同じかるべし、と云り、(契冲が、蟇目鏑矢のことなりと云るは、非ず、)○完待跡《シヽマツト》、(完は、宍(ノ)字に通はせるなり、)鹿《シヽ》(419)を待《マツ》とてなり、古事記雄略天皇(ノ)歌に、夜須美斯志和賀淤富岐美能《ヤスミシシワガオホキミノ》、斯志麻都登阿具良爾伊麻志《シシマツトアグラニイマシ》云々、○來立來嘆久は、下の來は衍字なり、キタチナゲカク〔七字右○〕と訓べし、來立嘆くやうは、と云が如し、○頓爾は、タチマチニ〔五字右○〕と訓べし、九(ノ)卷に、頓情消失奴《タチマチニコヽロケウセヌ》とあり、此より終まで、鹿の自(ラ)いへる趣なり、○吾仕牟《アレハツカヘム》とは、狩に獲《エラ》れし鹿の身の餘る所なく、天皇の供御等に、用らるゝを云り、○御笠乃波夜詩《ミカサノハヤシ》とは、御笠《ミカサ》は、和名抄に、毛詩註(ニ)云、笠(ハ)所2以禦1v雨(ヲ)也、和名|加佐《カサ》、史記音義(ニ)云、※[竹/登](ハ)笠(ノ)有v柄也、俗(ニ)云|於保加佐《オホカサ》、齋院司式に、大笠二蓋、内藏寮式に、女使料云々、大笠一蓋、(已上内侍料、)内匠寮式に、大笠柄二枚、(加志部、)料檜榑一村、春宮坊式に、云々東宮駕輦(云々若微雨(ハ)主殿令、)史以上一人執2大笠(ヲ)1、雜式に、凡|大※[竹/登]《オホカサ》聽2妃已下三位已上、及大臣嫡妻1云々、とあり、この※[竹/登]をこゝには云るなり、波夜詩《ハヤシ》は、令《シ》v榮《ハヤ》の意にて、榮映《ハエ》あらしむるをいふなり、林《ハヤシ》といふも、即(チ)もと其意にて、樹木の繁りて榮《ハヤ》す謂なり、さてかの※[竹/登]《オホカサ》の項に、鹿(ノ)角をたてゝ、飾とすること有となむ、○御墨坩《ミスミノツボ》(坩(ノ)字、拾穗本には、坪と作り、)は、和名抄に、漢語抄(ニ)云、墨斗(ハ)須美都保《スミツボ》、坩《ツボ》は、同書瓦器(ノ)類に、楊氏漢語抄(ニ)云、坩(ハ)壺也、和名|都保《ツボ》、と云り、さて契冲が云る如く、鹿の耳を、墨の坩に用るにはあらず、御墨の坩に似たる故に、假て云るなり、○目良《メラ》の良《ラ》は、助辭なり、次の毛等《ケラ》の等《ラ》と同じ、○眞墨乃鏡《マスミノカヾミ》は、これも鹿の目を、鏡に用るにてはなけれども、似たることなれば、假ていふなり、○御弓之弓波受《ミユミノユハズ》は、和名抄に、釋名(ニ)云、弓末(ヲ)曰v※[弓+肅](ト)、和名|由美波數《ユミハズ》、と云り、古事記には、弓端《ユハズ》と書り、波受《ハズ》(420)は、弓末の端にありて、角又骨などにて造る物なり、(兵庫寮式に、凡御梓弓一張云々、其料云々、鹿角一隻※[弓+付]料、長一尺云々、又云々造2※[弓+付]角1長功日十枚、中功日八枚、短功日六枚、高橋氏文に、磐鹿六※[獣偏+葛](ノ)命、以2角弭之弓(ヲ)1、當2遊魚之中(ニ)1、即著v弭而出、齋宮式忌詞に、優婆塞(ヲ)稱2角筈《ツノハズト》1など見えたり、)鹿(ノ)爪にても造しにやあらむ、○御筆波夜斯《ミフデノハヤシ》は、圖書寮式に、凡寫年料仁王經十九部云々、兎毛筆七管、鹿毛筆二管(堺料)云々、また凡兎毛筆一管、寫眞行書一百五十張云々、鹿毛筆一管、界六百張、など見えたり、○御箱皮爾《ミハコノカハニ》は、御箱の※[巾+巴]、または※[代/巾]などをもいふべし、左馬寮式に、凡行幸(ニハ)云云、御笠※[代/巾]、胡床※[代/巾]、鞭※[代/巾]、筥※[代/巾]、各一口、(竝各加2油絹(ノ)※[巾+巴](ヲ)1、)○吾完者《アガシヽハ》(完は宍なり)は、吾肉《アガシヽ》はなり、○御奈麻須《ミナマス》は、和名抄に、唐韵(ニ)云、膾(ハ)細切肉也、和名|奈万須《ナマス》、○吾伎毛母《アガキモモ》は、吾肝膽《アガキモ》をもなり、肉のみならず、肝膽さへをも、と云なり、母《モ》の言に心を附べし、○吾美義波《アガミギハ》は、和名抄毛群(ノ)體に、爾雅集註(ニ)云、獣呑v※[草がんむり/鄒の左]噬反出而嚼、牛曰v※[齒+台](ト)、羊曰v※[齒+曳]麋鹿曰v※[齒+益](ト)、已上三字皆|邇介加无《ニゲカム》、今按(ニ)、俗(ニ)謂2麋鹿(ノ)戻(ヲ)1、爲2味氣《ミゲト》1、是(ナリ)、(玉篇に、〓俗作v屎也、と見ゆ、後に轉て、麋鹿の屎を、美宜《ミゲ》といひしにや、)字鏡に、※[肉+玄](ハ)三介《ミゲ》などあり、こゝに美義《ミギ》とあるが本にて、後に訛りて、美宜《ミゲ》とも邇宜《ニゲ》とも云るなるべし、(但(シ)義(ノ)字をゲ〔右○〕の假字に用ひしことも、古き物に往々見えたれど、集中には例なし、故(レ)必(ズ)こゝはミギ〔二字右○〕なり、)○御塩乃波夜之《ミシホノハヤシ》は、鹽を合(セ)て〓《シヽヒシホ》に造るをいふなるべし、和名抄に、爾雅註(ニ)云、〓(ハ)肉醤也、和名|之々比之保《シヽヒシホ》、とある是なり、○耆矣奴《オイハテヌ》は、老果《オイハテ》ぬると云如し、老はてゝ、何の益なき吾(ガ)身の、料《ハカ》らず榮花(421)にあふよしなり、○七重花《ナヽヘハナ》云々は、七重《ナヽヘ》にも八重《ヤヘ》にも、花咲如き、幸(ヒ)にあふことよ、といふなり、よろこぶやうにいひて、裏《シタ》には痛《ナゲ》くなり生(ノ)字サク〔二字右○〕と訓(ム)例は、既く具(ク)云り、○白賞尼白賞尼《マヲシハヤサネマヲシハヤサネ》は、老はてゝ何の益なき吾(ガ)身の、料らず榮花にあふことを歡べるよし、公に奏し賞《ハヤ》させ給はれかしと、うち反して鹿の自(ラ)いへるよしなり、そも/\賞《ハヤス》は令《ス》v榮《ハヤ》にて、前に波夜詩《ハヤシ》と云る言のはたらきたるなり、其は此處に云如く、何にまれ其(ノ)物のために、榮《ハエ》あらしむるを云言にて、花をもてはやすなど云も、花の榮《ハエ》あらしむる意にて同言なり、古今集に、山高み人もすさめぬ櫻花|甚《イタ》くなわびそ吾(レ)見はやさむ、後拾遺集に、何に菊色染かへし薫ふらむ花もてはやす人もなき世に、又俗に、人のうへを吹擧するを、はやしたつる、などいふも、同意なりと知べし、
 
右歌一首《ミギノウタヒトツハ》。爲《タメニ》v鹿《シカノ》述《ノベテ》v痛《オモヒヲ》作《ヨメリ》之也。
 
爲v鹿述v痛とは、御獵にあひて、鹿の命とらるゝ事を、實は痛《カナ》しみいとほしみたるなれど、其(ノ)詞をかしくいひなして作《ヨメ》るを、それに曲節をつけて、おもしろく歌ひ行《アリ》き、人(ノ)家の門に立て、物乞しなり、歌詞のさま、いかにも乞食者のうたひし詠、と見えたり、述(ル)v痛(ヲ)ことは、仁徳天皇(ノ)紀に、三十八年秋七月、天皇與2皇后1居2高臺《タカトノニ》1而|避暑《スヾミマス》、時|毎夜《ヨル/\》自2菟餓野1有2聞《キコユ》鹿(ノ)鳴1、其(ノ)聲寥亮《サヤカニシテ》而悲之、共起2可憐之情(ヲ)1、及2月盡《ツコモリニ》1以鹿鳴不v聆(エ)、爰天皇語2皇后(ニ)1曰、當是夕《コヨヒ》而鹿不v鳴、其何由焉《ナニノヨシニカ》、明日猪名(ノ)縣(ノ)佐伯部獻2苞苴(ヲ)1、天皇令(テ)2膳夫《カシハデニ》1以|問曰《トハシメタマハク》、其苞苴何物也、對言《コタヘマヲサク》牡鹿也、問《トハシメタマヘバ》2之何處(ノ)鹿(ゾト)1也、曰《マヲシキ》2兎餓野(ナリト)1、時天皇(422)|以爲《オモホシメサク》、是苞苴者必(ス)其鳴《カノナキシ》鹿(ナラム)也、因謂2皇后(ニ)曰、朕比有2懷抱1聞2鹿(ノ)聲(ヲ)1而|慰之《コヽロナゴミキ》、今|推《オシハカルニ》2佐伯部(ノ)獲v鹿之日夜及山野《ヲ》1、即當2鳴(シ)鹿(ニ)1。其人雖(ドモ)d不v知2朕之夢(ヲ)1、以適逢|※[獣偏+爾]獲《エツラメ》u、猶不v已(ムコトヲ)、而有v恨、故(レ)佐伯部(ヲ)不v欲v近2於|皇居《オホミヤニ》1、乃令2有司(ニ)1、移2郷《ツカハス》于安藝(ノ)渟田《ヌタニ》1、此今(ノ)渟田(ノ)佐伯部之祖也、と見えたる類なり、
 
3886 忍照八《オシテルヤ》。難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》。廬作《イホツクリ》。難麻理弖居《ナマリテヲル》。葦河爾乎《アシガニヲ》 王召跡《オホキミメスト》。何爲牟爾《ナニセムニ》 吾乎召良米夜《アヲメスラメヤ》。明久《アキラケク》。吾知事乎《アハシルコトヲ》。歌人跡《ウタヒトト》。和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》。笛吹跡《フエフキト》。和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》。琴引跡《コトヒキト》。和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》。彼毛《カモカクモ》。命受牟等《ミコトウケムト》。今日今日跡《ケフケフト》。飛鳥爾到《アスカニイタリ》。雖立《オカネドモ》。置勿爾到《オキナニイタリ》。雖不策《ツカネドモ》。都久怒爾到《ツクヌニイタリ》。東《ヒムカシノ》。中門由《ナカノミカドユ》。參納來弖《マヰリキテ》。命受例婆《ミコトウクレバ》。馬爾己曾《ウマニコソ》。布毛太志可久物《フモダシカクモノ》。牛爾己曾《ウシニコソ》。鼻繩波久例《ハナナハハクレ》。足引乃《アシヒキノ》。此片山乃《カノカタヤマノ》。毛武爾禮乎《モムニレヲ》。五百枝波伎垂《イホエハキタリ》。天光夜《アマテルヤ》。日乃異爾干《ヒノケニホシ》。佐比豆留夜《サヒヅルヤ》。辛碓爾舂《カラウスニツキ》。庭立《ニハニタツ》。碓子爾舂《スリウスニツキ》。忍光八《オシテルヤ》。難波乃小江乃《ナニハノヲエノ》。始垂乎《ハツタレヲ》。辛久垂來弖《カラクタリキテ》。陶人乃《スヱヒトノ》。所作瓶乎《ツクレルカメヲ》。今日往《ケフユキテ》。明日取持來《アストリモチキ》。吾目良爾《ワガメラニ》。塩漆給《シホヌリタビ》。時賞毛《モチハヤスモ》。時賞毛《モチハヤスモ》。
 
忽照八《オシテルヤ》は、枕詞なり、既く云り、○小江《ヲエ》とは、小《ヲ》は、小川《ヲガハ》、小野《ヲヌ》などの小《ヲ》に同じ、○廬作《イホツクリ》は、蟹が穴は、人の居宅《スマヰ》の如くなれば、比《タトヘ》て云り、○難麻理弖居《ナマリテヲル》は、隱《ナマリ》て居《ヲル》なり、隱《カクル》を、古言に、難麻流《ナマル》とも、難婆流《ナバル》とも云ること、既く(ク)云り、○葦河爾《アシガニ》は、契冲云(ク)、蟹は、蘆邊によくをるものなればいへり、俗に葦原蟹《アシハラガニ》といふには、かぎるべからず、と云り、今村(ノ)樂、葦《アシ》は借(リ)字にて、求食蟹《アサリガニ》なり、葦鶴《アシタヅ》の葦《アシ》も(423)同じと云り、○王召跡《オホキミノメスト》は、天皇の召(シ)給ふとぞ、うけたまはる、といふ意なり、此(レ)より終まで蟹の自(ラ)いへる趣なり、○何爲牟爾《ナニセムニ》云々は、何の能もなき吾なるに、何故に吾を召(シ)給ふことぞ、と疑ふ意なり、何爲牟爾《ナニセムニ》は、何故にといふ如し、○明久《アキラケク》云々は、吾が何の能もなきことは、明かに、いちじるく知れたるものを、といふなり、事乎《コトヲ》は、物乎《モノヲ》といふに同じ、○歌人跡《ウタヒトト》は、歌人《ウタヒト》とてといふなり、歌人《ウタヒト》は、歌を作《ヨム》人にはあらず、歌を謠《ウタ》ふ人をいふ、八(ノ)卷佛前(ニテ)唱歌の左に、右冬十月、皇后宮之維摩講終日供養、大唐高麗等種々音樂、爾乃唱2此(ノ)謌詞(ヲ)1、彈琴《コトヒキ》者云々、歌子《ウタヒト》者云々、この歌子《ウタヒト》と云る是なり、大嘗祭式に、歌人《ウタヒト》二十人、歌女《ウタメ》二十人云々、また悠紀(ノ)國(ノ)司、引2歌人(ヲ)1入v自2同門1、就2版位(ニ)1奏2國風(ヲ)1、四時祭式に云々、坐定大臣命2召使(ヲ)1令v喚2治部(ヲ)1、令2歌女(ヲ)參入1云々、歌者《ウタヒト》始奏云々、大神宮式に、歌長《ウタヲサ》三人、など見ゆ、契冲、蟹の白き沫を吐(ク)時に、聲の聞ゆる故に、歌能(ク)うたふと大君のきこしめして、めさるゝといふ心なり、と云り、此は歌うたふ樣には見ゆれども、實には歌能(ク)うたひは得爲ぬものを、歌人ときこしめして、吾を召給ふらむや、といふなり、○笛吹跡《フエフキト》は、笛吹《フエフキ》とて、といふなり、四時祭式に、神祇(ノ)伯、召2御琴彈某甲(ヲ)1(二人共稱v唯(ト)、)次喚2笛工《フエフキ》某甲(ヲ)1、(二人共稱v唯(ト)、)大嘗祭式に、門部語部|楢笛工《ナラノフエフキ》、竝青※[手偏+皆]布衫云々、隼人司式に、凡踐祚大嘗(ノ)日云々、悠紀入官人竝彈琴吹笛云々、參2入御在所屏外(ニ)1云々、宮内省式大齋(ノ)條に、國栖十二人、笛工五人、など見ゆ、これも蟹の沫ふくが、笛吹樣には見ゆれども、實には笛能(ク)吹は得爲ぬ物を、笛吹ときこしめして、吾(424)を召給ふらむや、といふなり、○琴引跡《コトヒキト》は、琴引《コトヒキ》とて、といふなり、四時祭式に、官人以下装束料云々、彈琴二人云々、各青摺袍一領袴一腰、大嘗祭式に、凡齋服者云々、神祇官(ノ)伯以下彈琴以上十三人、各榛藍摺錦袍一領、白袴一腰、など見ゆ、これも蟹は、長き爪あれば、琴よく彈べく見ゆれども、實には琴よく彈は得爲ぬ物を、琴引ときこしめして、吾を召給ふらむや、といふなり、○彼此毛は、此(ノ)字、舊本には脱たり、カモカクモ〔五字右○〕と訓べし、ともかうも、といふなり、○令受牟等は、ミコトウケムト〔七字右○〕と訓べし、吾は歌人《ウタヒト》にも、笛吹《フエフキ》にも、琴彈《コトヒキ》にもあらねば、めし給ふべきやうはなきに、何故にか召(シ)給ふらむ、よしやそは、とまれかうまれ、命《ミコト》受むとて、となり、○今日今日跡《ケフケフト》は、飛鳥《アスカ》をいはむ爲の枕詞の如し、今日明日《ケフアス》と屬《ツヾ》けたる意なるを、わざとをかしく云たるなり、次に云る趣を考(ヘ)合(ス)べし、○飛鳥爾到《アスカニイタリ》(鳥(ノ)字、舊本烏に誤、古寫小本に從つ、)は、契冲云(ク)飛鳥に帝都《ミヤコ》のあるゆゑに、君にめされて、難波よりまゐりて、飛鳥にいたる、となり、飛鳥に皇居し給へる天皇は、先(ツ)允恭天皇は、遠(ツ)飛鳥(ノ)宮におはしまし、顯宗天皇は、近(ツ)飛鳥(ノ)八釣(ノ)宮におはしまし、舒明天皇は、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮におはしまし、皇極天皇は、明日香(ノ)川原(ノ)宮におはしまし、天武天皇は飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮におはしまし、持統天皇、文武天皇は、同藤原(ノ)宮におはしまし、元明天皇和銅三年、平城に遷らせ給へるまで、猶藤原(ノ)宮にまし/\ければ、此(レ)は元明天皇の初までによめる作《ウタ》なるべし、○雖立は、これも置勿《オキナ》といはむための枕詞の如くいへりと聞ゆ、按(フ)に、立は置(ノ)字(425)の草書を誤れるにて、置の上に、不(ノ)字の脱たるにて、雖不置置《オカネドモオク》といへるにやあらむ、雖不策都久《ツカネドモツク》とあるに照(シ)考(フ)べし、○置勿《オキナ》は、地(ノ)名なるべし、未(ダ)考(ヘ)得ず、本居氏は、誤字にや、といへり、○雖不策《ツカネドモ》は、これも都久怒《ツクヌ》をいはむための枕詞の如し、○都久怒《ツクヌ》は大和(ノ)國|桃花鳥野《ツキヌ》なるべしと云り、○中門由は、ナカノミカドユ〔七字右○〕なり、皇宮には、中門掖門あれば、かく云り、○布毛太志可久物《フモダシカクモノ》、(物(ノ)字、古寫小本に、毛と作るは、わろし、)布毛太志《フモダシ》は、和名抄に、釋名(ニ)云、絆(ハ)半也、物使d半行(ノ)不uv得2自|縱(ナルコトヲ)1也、和名|保太之《ホダシ》、とあり、(これは布毛太志《フモダシ》の縮れるなり、布毛《フモ》の切|保《ホ》、)扶桑拾葉集、藤原(ノ)肅が作れる、かやぐきといふ文に、牛のはな繩さゝれ、馬のふもだしかくらむは、げにわびしかるべき世にしもありけるかなや云々、とあり、(今世犢鼻褌を、ふんどしといふは、このふもだしを訛れるなり、人の犢鼻褌つけたるさまの、馬にふもだしかけれるが如くなれば、いへるなるべし、)さて物の言にて、上の馬爾己曾《ウマニコソ》を結《トヂ》めたるなり、己曾《コソ》といひて物《モノ》と結《トヂ》むること、此(ノ)上に例あり、○鼻繩波久例《ハナナハハクレ》とは、鼻繩《ハナナハ》は、和名抄車具に、蒼頡篇云、縻(ハ)牛※[革+橿の旁]也、和名|波奈都良《ハナヅラ》、字書(ニ)云、泰(ハ)牛(ノ)鼻環也、漢語抄(ニ)云、泰(ハ)牛乃波奈岐《ウシノハナキ》、とあり、鼻繩《ハナナハ》、鼻蔓《ハナヅラ》は一(ツ)なり、(波奈岐《ハナキ》は、その繩蔓を附る環をいふべし、)波久《ハク》は、弓の弦を波久《ハク》などいふ波久《ハク》にて、既く具(ク)云り、此は蟹の絆《ホダシ》かけられ、鼻繩さゝれなどするよしにはあらず、馬牛こそ、さる苦しき目にあふことのあるものなれ、吾はさる類にあらねば、何も苦しめらるゝ事はあらじと、安むじ居しに、思はず辛き目にあふよ、といへ(426)る謂なり、○毛武爾禮《モムニレ》は、契冲、百楡《モヽニレ》にて、楡《ニレ》の木の多きをいふなるべし、にれの木は皮をはぎて、日にほしてうすにつき、粉にして賤《シヅ》がくふ物なり、内膳式(ニ)云、楡皮一千枚、(別長一尺五寸、廣四寸、)搗得粉二石、(枚別二合、)右楡皮、年中雜御菜竝羮等料、これを見れば、天子の供御にも用る物と見えたり、楡餅とて、餅にし侍るよしなり、葉をも賤はくひ侍るとかやと云り、民部式下に、凡供御笋藕及雜菜|楡《ニレノ》皮、仰2畿内1令2供進1、とも見えたり、さて和名抄に、爾雅註(ニ)云、楡之皮色白名v枌(ト)、和名|夜仁禮《ヤニレ》、とあれど、爾禮《ニレ》とのみも云り、なほ品物解に具(ク)云、○五百枝波伎垂《イホエハギタリ》は、皮を多く剥垂《ハギタル》るを云なり、○天光夜《アマテルヤ》は、日をいはむためなり、夜《ヤ》は、天知也《アメシルヤ》、高知也《タカシルヤ》、などいふ夜《ヤ》なり、○日乃異《ヒノケ》とは、異《ケ》は借(リ)字にて、日之氣《ヒノケ》なり、契冲が、詩(ノ)角弓に、雨《フレル》雪※[さんずい+(鹿/れっか)]々(タリ)、見(レバ)v※[日+見]《ヒノケヲ》曰消、(※[日+見](ハ)日氣也、)とあるを引る如し、○佐比豆留夜《サヒヅルヤ》は、韓《カラ》の枕詞なり、言佐敝久韓《コトサヘクカラ》とつゞきたるに意同じ、○辛碓爾舂《カラウスニツキ》、辛碓《カラウス》は、柄碓《カラウス》なり、上に云り、舂(ノ)字、舊本春に誤、古寫小本、拾穗本等に從つ、○次なるも同じ、○庭立《ニハニタツ》の下、古寫本に、乎(ノ)字あるはいかゞ、○碓子は、本居氏、磑子《スリウス》の誤かと云り、さもあるべし、和名抄に、兼名苑(ニ)云、磑(ハ)一名※[石+妻]、磨※[龍/石]也、唐韻(ニ)云、磨※[龍/石](ハ)磑也、和名|須利宇數《スリウス》、とあり、楡(ノ)皮を、柄碓《カラウス》にて疎《オホカタ》にこなして、さて又|磑子《スリウス》にて、密《ネモゴロ》に舂なり、○始垂《ハツタレ》は、初て垂たる鹽にて、よき鹽の謂《ヨシ》なり、○辛久垂來而《カラクタリキテ》は、辛く垂て拜來ての謂なり、○陶人《スヱヒト》は、陶器《スヱモノ》を造る人をいふ、和名抄に荘子(ニ)云、陶者曰、我|治《冶歟》v埴(ヲ)(訓2須惠毛乃豆久流《スヱモノツクルト》1、(黏埴(ヲ)爲v器(ヲ)者、俗(ニ)云呼爲2造手陶者(ト)1是乎、大神宮式、九月神甞祭(ノ)條に、父(427)及御笥作、木綿作、忌鍛冶、陶器作、御笠縫、日祈御巫、御馬飼、内人(二人)等九人云々、度會(ノ)宮(ノ)條に、木綿作、御巫、忌鍛冶、御笠縫、陶器作、御笥作、御馬飼、内人(二人)等八人、○所作瓶乎《ツクレルカメヲ》(瓶(ノ)字、拾穗本には※[瓦+缶]と作り、)は、作れる瓶を、明日持來て、とつゞく意なるべし、其(ノ)瓶に、楡(ノ)粉に鹽を合て、蟹を漬(ケ)おく料《タメ》なり、○今日徃《ケフユキテ》云々は、今日往(キ)て、陶工に令せ、瓶を造らせて、やがて明日取(リ)持|來《コ》と、急に〓に爲給ふと云るにや、○塩漆給は、シホヌリタマヒ〔七字右○〕と訓べし、○時賞毛は、モチハヤスモ〔六字右○〕と訓べし、時賞の二字モテハヤス〔五字右○〕と訓(ム)べきことぞと、本居氏云り、(但(シ)モテ〔二字右○〕といふはわろし、必(ズ)モチ〔二字右○〕と訓べきことなり、)毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、今までは世に隱れ居て、何の賞《ハエ》なくありしに、料らずも此(ノ)度天皇にめされて、供御となり、吾(ガ)身の榮《ハヤ》さるゝ事、嗚呼《アヽ》さても懽《ウレ》しや辱《カタジケナ》しや、と深く喜べる謂なり、中間には、辛き目にあふことを、苦しきやうに云て、終に賞《ハヤ》さるゝ事を懽て、結めたり、さて此(ノ)歌に云る如く、古(ヘ)は蟹を大御饌《オホミケ》に用ひられしことは、古事記應神天皇(ノ)條に於是天皇、任《ナガラ》v令v取2其大御酒盞(ヲ)1而御歌曰、許能迦邇夜伊豆久能迦邇《コノカニヤイヅクノカニ》云々、かくよみませるは、契冲も云し如く、其(ノ)時の御饗《ミアヘ》の御肴《ミサカナ》に、蟹の有つるに寄てな1り、三代實録三十五に、攝津(ノ)國|蟹胥《シヽヒシホ》、陸奥(ノ)國鹿(ノ)※[月+昔]、莫3以爲v贄(ト)奉(ルコト)2御膳(ニ)1、(説文に、胥(ハ)蟹〓也、と見ゆ、)これらにて知べし、
 
右歌一首《ミギウタヒトツハ》。爲《タメニ》v蟹《カニノ》述《ノベテ》v痛《オモヒヲ》作《ヨメリ》之也。
 
爲v蟹述v痛は、上に爲v鹿出v痛と云るに、全(ラ)意同じ、なほ彼(ノ)處に云るを併(セ)考(フ)べし、
 
(428)怕物歌三首《オドロシキモノヽウタミツ》。
 
怕物歌、(怕(ノ)字、舊本 に誤れり、古寫小本、拾穗本等に從つ、)字書に、怕(ハ)恐也と見ゆ、オドロシキモノヽウタ〔十字右○〕と訓べし、續紀三十四(ノ)詔に、其人等乃和美安美應爲久相言部《カノヒトラノニギミヤスミスベクアヒイヘ》、驚呂之伎事行奈世曾《オドロシキコトワザナセソ》、
 
3887 天爾有哉《アメナルヤ》。神樂良能小野爾《ササラノヲヌニ》。茅草苅《チカヤカリ》。草苅婆可爾《カヤカリバカニ》。鶉平立毛《ウヅラヲタツモ》。
 
天爾有哉《アメナルヤ》は、天上にあるといふなり、哉《ヤ》は、淡海之哉《アフミノヤ》の哉《ヤ》に同じ、古事記上卷(ノ)歌に、阿米那流夜淤登多那婆多能《アメナルヤオトタナバタノ》云々、○神樂良能小野《ササラノヲヌ》は、三(ノ)卷に、天有左佐羅能小野之七相菅手取持而《アメナルササラノヲヌノイハヒスゲテニトリモチテ》云々、とよめり、天上にある野なり、さて其(ノ)野のさま、きはめて物すごく、おそろしき處ぞと、かたりつたへたるなるべし、此(ノ)歌、其(ノ)野に到てよめるとにはあらねども、怕(シキ)物の限(リ)をいはむとて、今とりいでゝよめるなり、(契冲が、さゝらの小野は、大和にあるなるべし、月(ノ)別名曰2佐散良《ササラ》壯士(ト)1也、とあれば、天にある月といふ心に、つゞけたるなり、と云たるに依て、誰も然心得たるはあらず、佐左良形《ササラガタ》、佐左良荻《ササラヲギ》、なども云て、佐左良《ササラ》とのみいふが、月の事ならねば、いかでか然はつづけ云む、)○草苅婆可爾《カヤカリバカニ》は、草苅最中《カヤカルタヾナカ》にといはむが如し、(契冲が、刈ばかは、刈場にて、かは助辭なるべしと云るはあらず、)刈婆可《カリバカ》は、四(ノ)卷、十(ノ)卷にもよめり、○鶉乎立毛《ウヅラヲタツモ》は、鶉を令《ス》v立《タヽ》の意なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、嗚呼《アヽ》さても怕しや、といへるなり、(岡部氏の、乎は之の誤なるべしと云るは、中々にわろし、)○歌(ノ)意は、きはめて物すごく心ぼそき、左佐良《ササラ》の小野に獨立入(リ)て、茅草刈最中(429)に、さらぬだにあるを、草刈(ル)動《サワ》ぎに、足もとより鶉を今立たるは、思ひよらず、何物ならむと身心もひえ、肝ただしひも消入ばかり、嗚呼《アヽ》さても怕しや、すさまじや、となり、契冲云(ク)、俗にも、ふとしたる事をば、あしもとより鳥の立とて、肝のつぶるゝ事にいひならへば、何心なく草かる手もとより、鶉のたゝむは、おそろしかるべき上(ヘ)に、さゝらの小野は、ふかき野にて、おそろしきやうに、その比いへる所にこそ、
 
3888 奧國《オキツクニ》。領君之《シラスキミガ》。染屋形《シメヤカタ》。黄染乃屋形《キシメノヤカタ》。神之門渡《カミガトワタル》。
 
奧國《オキツクニ》は、海路を隔《ヘダテ》たる島國《シマクニ》なり、壹岐《ユキ》對馬《ツシマ》などの如し、○領君之(領(ノ)字、古寫本に預と作るは誤なり、又領の下、類聚抄に之(ノ)字あるは衍なり、)は、シラスキミガ〔六字右○〕と訓べし、その國の司を云、○染屋形《シメヤカタ》は、彩色舟屋形《イロドレルフナヤカタ》なり、屋形《ヤカタ》は、和名抄に、唐韵(ニ)云、※[蓬の草がんむりが竹]※[まだれ/卑](ハ)舟上(ノ)屋也、釋名(ニ)云、舟上(ノ)屋謂2之廬(ト)1、言象2廬舍1也、和名|布奈夜加太《フナヤカタ》、(また大藏禮(ニ)云、車蓋二十八※[朝の月が燎の旁]、以象2列星(ニ)1也、俗云車(ノ)屋形、夜加太《ヤカタ》、)土佐日記に、舟屋形《フナヤカタ》の塵もちり、空行(ク)雲も漂ひぬとぞいふなる、とあり、枕册子に、舟のみち云々、屋形といふ物にぞ、おはすとも見ゆ、○黄染乃屋形《キシメノヤカタ》は、前の句を反復《ウチカヘ》して、なほ其(ノ)色を具《クハ》しく云るなり、且古(ヘ)は、舟を朱《アケ》にも、黄にも、彩色《イロド》りけむ、○神之門《カミガト》は、海(ノ)渡門を云、神とは、可畏《カシコ》きものゝ極を云なる故に、荒海の海門を神と云り、門《ト》は、迫門《セト》、鳴門《ナルト》の門《ト》なり、(神は、こゝにては海神をいふにはあらず、)七(ノ)卷に、塩滿者如何將爲跡香方便海之神我手渡海部未通女等《シホミタバイカニセムトカワタツミノカミガテワタルアマヲトメドモ》、とある手は、戸の誤、(430)神之戸《カミガト》にて、今と同じ、抑々神とは、何物にまれ、すぐれて恐惶《カシコ》きものを云名にて、十八に、珠洲乃安麻能於伎都美可未爾《ススノアマノオキツミカミニ》、伊和多利弖加都伎等流登伊布《イワタリテカヅキトルトイフ》、とあるも、荒海をかしこみて、御神《ミカミ》と云り、ときこえたり、猶七(ノ)卷に具(ク)註るを考(ヘ)合(ス)べし、さて何にても、彩色せる美麗《ウツクシ》き物は、海神《ワタツミ》の欲(リ)する物なれば、もし海神に見入(レ)られなば、いかゞせむと、甚(ク)恐怖《オソル》るなり、土佐日記に、舟に乘初し日より、舟には紅|深《コキ》よき衣著ず、其(レ)は海(ノ)神におぢてといひて、なにのあしかげにことつけて、ほやのつまのいすし、すしあはひをぞ、心にもあらぬ、脛《ハギ》にあげて見せける、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、○歌(ノ)意は、海上遙に隔れる、奥つ國を領すとて、司(ノ)君が、黄染の舟屋形を漕行に、可恐《カシコシ》とも可恐《カシコ》き、荒海の神が門を渡るをりしも、さらぬだにきはめて、恐《オソロ》しく危ふきに、まして染屋形なれば、もし海神に見入られなば、いかゞせむと、いよ/\心ぼそく、怕ろしさに堪がたしとなり、
 
3889 人魂乃《ヒトタマノ》。佐青有公之《サヲナルキミガ》。但獨《タヾヒトリ》。相有之雨夜葉《アヘリシアマヨハ》。非左思所念《ヒサシクオモホユ》。
 
人魂《ヒトタマ》は、死人《シニヒト》の魂《タマ》をいふ、(魂は、平常に人(ノ)身にあれど、これは必(ズ)死人の魂なり、)世にいふ幽靈なり、(契冲が、人のたましひの、火のやうにてとぶをいふなり、と云る、其は紀略に、昌泰二年二月二日未(ノ)時流星出、自2空中南東1歴、遂殞2于地(ニ)1、其(ノ)聲如v雷、尾長五六尺許、觀者奇怪、謂2之人魂(ト)1、と云る類を云るなり、されど今は、それには限るべからず、)菅原(ノ)孝標《タカスヱノ》朝臣(ノ)女(ノ)更科日記に、此(ノ)曉に、い(431)みじくおほきなる人たまのたちて、京さまへなむ來ぬるとかたれど、ともの人などのにこそはと思ひ、ゆゝしきさまにおもひだによらむやは、○佐青有公之《サヲナルキミガ》(公(ノ)字、拾穗本には、君と作り、)は、幽靈の色の青さめて見ゆるをいふなり、(東鑑廿一に、建暦三年八月十八日子(ノ)尅、將軍家出2御南面(ニ)1、于時燈消人定、悄然無v音云々、及2丑(ノ)尅1如v夢、而青女一人奔2融前庭(ヲ)1頻(ニ)雖2令v問之給(フト)1遂以不2名謁1、漸至2門外1之程、俄(ニ)有2光物1、頗如2松明1云々、とあり、思(ヒ)合(ス)べし、)佐青《サヲ》は、佐《サ》は美稱にて、眞青《マアヲ》といふに同じ、(今(ノ)俗に、まつさを、といへり、無名抄に、色まさをになりて、物もいはずとあり、)さて白色のあまり過ぬれば、必(ス)青み出來るもりなり、人の顔も、白色過たれば、あをく見ゆるなり、源氏物語未摘花に、色は雪恥かしく白うてさをに、若菜に、色はさをに白くうつくしげに、など云り、さて公爾《キミニ》と云ずして、公之《キミガ》と云るは、道などにて、自然《オノヅカラ》に行(キ)遇(ヒ)たるを云なり、二(ノ)卷に天數凡津子之相日《サヽナミノオホツノコガアヒシヒニ》、とあると、同格なり、彼處に、具(ク)云り、○但(ノ)字、舊本に但と作るは誤、類聚抄、古寫小本等に從つ、○雨夜の下、類聚抄に乃(ノ)字あり、これに依ば、アマヨノ〔四字右○〕と訓て、葉(ノ)字は、次(ノ)句へ屬べきか、猶考(フ)べし、○非左思所念は、思の下に、久(ノ)字脱たるにて、ヒサシクオモホユ〔八字右○〕なるべしと云り、本居氏は、葉非左思は、誤字なるべしと云り、猶考べし、○歌(ノ)意は、雨夜の闇きに、唯獨道行は、さらでだに心もとなくて、物おそろしきことかぎりもなきものなるに、まして幽靈の眞佐青《マサヲ》なる君が行逢たるは、たちまち心肝も消失るやうにおぼえて、其(ノ)おそろしさは、忘るゝ(432)をりなく、久しくおもはるゝよ、といへるにや、
 
萬葉集古義十六卷之下 終
 
(433)萬葉集古義十七卷之上
 
此(ノ)卷は、すべて日記のやうに載られたり、
 
天平二年庚午《テムピヤウフタトセトイフトシカノエウマ》。冬十一月《シモツキ》。大宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツキミノ》。被《レ》v任《ヨサヽ》2大納言《オホキモノマヲスツカサニ》1【兼帥如舊。】上《ノボリタマフ》v京《ミヤコニ》之時《トキ》。陪從人等《トモヒトラ》。別2取《ワカレテ》海路《ウミツチニ》1入《ムカヘリ》v京《ミヤコニ》。於是《コヽニ》悲2傷《カナシミ》※[羈の馬が奇]旅《タビヲ》1。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2所心《オモヒヲ》1作歌十首《ヨメルウタトヲ》。
 
大伴(ノ)卿は旅人(ノ)卿なり、○被v任2大納言(ニ)1は、公卿補任に、天平二年十月一日、任2大納言(ニ)1、とある、これなり、此(ノ)事紀(ノ)文には漏たり、十月に大納言に任られて、十一月に京に上られけるなるべし、○陪從人、(陪(ノ)字、元暦本并官本には※[人偏+兼]と作り、字書に、※[人偏+兼]從(ハ)使屬(ナリ)、とあり、人(ノ)字、元暦本には無(シ))、和銅元年三月乙卯、勅(シテ)2太宰府(ノ)帥大貳并三關及尾張(ノ)守等(ニ)1、始(テ)給(フ)2※[人偏+兼]仗《トモヒトヲ1、其員、帥(ニ)八人、大貳及尾張(ノ)守(ニ)四人、三關(ノ)國守(ニ)二人云々、と續紀に見えたり、
 
3890 和我勢兒乎《ワガセコヲ》。安我松原欲《アガマツバラヨ》。見度婆《ミワタセバ》。安麻乎等女登母《アマヲトメドモ》。多麻藻可流美由《タマモカルミユ》。
 
和我勢兒乎《ワガセコヲ》は、枕詞なり、吾夫《ワガセ》が來座《キマス》を、吾(ガ)待と云意につゞけたり、六(ノ)卷聖武天皇(ノ)大御歌に、妹爾戀《イモニコヒ》吾乃|松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡《マツバラミワタセバシホヒノカタニタヅナキワタル》、とあるも、吾自松原《アガマツバラヨ》とありしが誤れるにて、今の(434)歌と同じつゞけなるよし、本居氏(ノ)説を擧て、彼(ノ)處に云り、○安我松原欲《フガマツバラヨ》は、十(ノ)卷に、風吹者黄葉散乍少雲吾松原清在莫國《カゼフケバモミチ
カふ《l》》《チリツヽスクナクモアガマツバラノキヨカラナクニ》、とあるは、吾(ガ)住(ム)方の松原を云、今の吾は、上よりの縁にいひかけたるのみにて、いづくにまれ、たゞ松原をいふことにて、此によめるは、筑前の海濱にある松原なるべし、欲《ヨ》は從《ヨ》にて、木(ノ)間より見渡す意なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。三野連石守作《ミヌノムラジイソモリガヨメル》。
 
石守は、傳八卷(ノ)下に出つ、
 
3891 荒津乃海《アラツノウミ》。之保悲思保美知《シホヒシホミチ》。時波安禮登《トキハアレド》。伊頭禮乃時加《イヅレノトキカ》。吾孤悲射良牟《アガコヒザラム》。
 
荒津《アラツ》は、筑前にあり、十二、十五にも見えたり、〔頭註、【略解、和名抄、筑前宗像郡小荒大荒、】〕○之保悲思保美知《シホヒシホミチ》は、伊勢物語に、岩間より生るみるめしつれなくば、潮干潮滿かひもありなむ、○歌(ノ)意は、荒津の海の潮は、時ありて滿乾のあることなれど、吾(ガ)妹を戀しく思ふ事は、いつと云時もさらになし、といへるにて、餘《ホカ》にかくれたるところなし、廿(ノ)卷に、伊奈美野乃安可良我之波々等伎波安禮騰伎美乎安我毛布登伎波佐禰奈之《イナミヌノアカラガシハヽトキハアレドキミヲアガモフトキハサネナシ》、古今集に、駿河なる田子の浦浪立ぬ日はあれども君にこひぬ日はなし、
 
3892 伊蘇其登爾《イソゴトニ》。海夫乃釣船《アマノツリブネ》。波底爾家利《ハテニケリ》。我船波底牟《ワガフネハテム》。伊蘇乃之良奈久《イソノシラナク》。
 
歌(ノ)意は、海夫《アマ》の釣舟は、磯邊ごとに泊《ハテ》たれど、吾は案内もしらねば、いづこに泊むと云ことの(435)しられぬこと、となり、又漁舟の心にまかせて、物おもひなげに泊《ハテ》たるを、うらやみて、自《ミ ラ》は公事にて、心にまかせぬを、歎きたる意もあるべし、
 
3893 作日許曾《キノフコソ》。敷奈底婆勢之可《フナテハセシカ》。伊佐魚取《イサナトリ》。比治奇乃奈太乎《ヒヂキノナダヲ》。今日見都流香母《ケフミツルカモ》。
 
伊佐魚取《イサナトリ》は、枕詞なり、海とつゞきたるに同じ、○比治奇乃奈太《ヒヂキノナダ》は、契冲、河海抄を引て云、孫姫式、あふときはますみのかゞみはなるればひゞきのなだのなみもとゞろに、忠見集、年をへてひゞきのなだにしづむ舟なみのよするをまつにぞありける、此(ノ)うたのことばには、としごろ攝津(ノ)國にさぶらひけるを、といへり、しかれば當國(ノ)名所歟、袖中抄(ニ)顯昭云、ひぢきのなだは、播磨にあり、俗説には、ひゞきのなだとも云と云々、李部王記云、天|徳《慶河海》四年|六《正河海》月十一日、是日備前備中淡路等飛驛至2備前(ニ)1、使v申(サ)云、賊船(純友等也《二艘河海アリ》、)從2響(ノ)奈多1捨v舟(ヲ)曉(ニ)通(ル)、疑(クハ)入v京(ニ)歟云々、(以上河海、)こゝに此(ノ)次に、淡路島、武庫などよみたれば、淡路よりは、西のほどにあたる歟、李部王記に、備前備中淡路等の使、賊舟のひゞきのなだより、曉に遁る、といへるによらば、備後よりなほ西にや、といへり、源氏物語玉葛に、ひゞきのなだもなだらかに過ぬ云々、と見えたり、本|比治奇《ヒヂキ》なるを、後に比妣奇《ヒビキ》と訛れるなるべし、〔頭註、【忠見家集に、伊豫に下るに、よしあるうかれめに、音にきゝ目にはまだみぬはりまなるひゞきのなだと聞はまことか、】〕○歌(ノ)意、かくれなし、發船《フナダチ》して日を經ず、日治奇《ヒヂキ》の灘を見つるを懽《ヨロコ》べるか、又は船の早くすゝみ行ことに、驚きたるにもあるべし、古今集に、昨日こそさなへ取しかいつの間(436)に稻葉そよぎて秋風の吹、此(ノ)集十(ノ)卷にも、昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來《キノフコソトシハハテシカハルカスミカスガノヤマニハヤタチニケリ》、などあるに、語(ノ)勢類(ヒ)たり、
 
3894 淡路島《アハヂシマ》。刀和多流船乃《トワタルフネノ》。可治麻爾毛《カヂマニモ》。吾波和須禮受《アレハワスレズ》。伊弊乎之曾於毛布《イヘヲシソオモフ》。
 
刀《ト》は、海門《ウナト》をいふなるべし、○可治麻爾毛《カヂマニモ》は、※[楫+戈]取間《カヂトルマ》にもの謂《ヨシ》にて、暫《シバシ》の間にもの意なり、十八にも、多流比女能宇良乎許具不禰可治末爾毛《タルヒメノウラヲコグフネカヂマニモ》、奈良之和義敝乎和須禮※[氏/一]於母倍也《ナラノワギヘヲワスレテオモヘヤ》、とあり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、○元暦本に、此(ノ)次に、大船乃《オホブネノ》云々、海未通女《アマヲトメ》云々、多麻波夜須《タマハヤス》云々、家爾底母《イヘニテモ》云々、大海乃《オホウミノ》云々、と次第《ツイデ》て、其左に、右九首云々、とあり、
 
3895 多麻波夜須《タマハヤス》。武庫能和多里爾《ムコノワタリニ》。天傳《アマヅタフ》。日能久禮由氣婆《ヒノクレユケバ》。家乎之曾於毛布《イヘヲシソオモフ》。
 
多麻波夜須《ハヤス》は、本居氏云、玉映《タマハユ》と云ことなり、由《ユ》を延(ヘ)て、夜須《ヤス》と云は、古言の格なり、令《ス》v映《ハヤ》の意にはあらじ、さて武庫《ムコ》の枕詞とせるは、玉映《タマハユ》むかしきと云(フ)つゞけなり、玉の光るは、めでたき物なれば云り、心にかなひて愛《ウツクシ》く思ふを、古(ヘ)むかしきといひき、○天傳《アマヅタフ》は、これもまくら詞なり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、
 
3896 家爾底母《イヘニテモ》。多由多敷命《タユタフイノチ》。浪乃宇倍爾《ナミノウヘニ》。宇伎底之乎禮八《ウキテシヲレバ》。於久香之良受母《オクカシラズモ》。
 
宇伎底之乎禮八《ウキテシヲレバ》、舊本に、思之乎禮婆とありて、註に、一云宇伎底之乎禮八、とあり、元暦本、類聚抄等にも、宇伎底之云々、とあり、かくあるかた理叶ひたれば、今從つ、之《シ》の辭は、浮居ることの、(437)一(ト)すぢに危ふき謂《コヽロ》を、思はせむがためにおきたるなり、○於久香《オクカ》は、奥處《オクカ》にて、行極りたる處をいふ言なり、既く徃々《コレカレ》見えたり、○歌(ノ)意、家はたしかなる住處なるすら、身命《イノチ》は定めがたきものなるに、まして、浪(ノ)上に浮びて居れば、いとゞ奥處しらず、一(ト)すぢに危ふくおぼつかなし、となり、さて命の定めがたきを、浪の縁に、多由多敷《タユタフ》とは云るなり、
 
3897 大海乃《オホウミノ》。於久可母之良受《オクカモシラズ》。由久和禮乎《ユクワレヲ》。何時伎麻佐武等《イツキマサムト》。問之兒等波母《トヒシコラハモ》。
 
歌(ノ)意は、大海の行極りたる處の、はかりしられず徃(ク)なる吾を、いつまた筑紫に歸り來座むことぞと、問し子《コ》等はいづらや、と尋慕へるなり、この兒等《コラ》は、筑前にて相訓し女をいふ、
 
3898 大船乃《オホブネノ》。宇倍爾之居婆《ウヘニシヲレバ》。安麻久毛乃《アマクモノ》。多度伎毛思良受《タドキモシラズ》。歌乞和我世《ウタガタワガセ》。
 
爾之《ニシ》、と云る辭に力(ラ)あり、すべて爾之《ニシ》とつらねたる辭は、さだかにしかりとする處に、おく辭なり、此《コヽ》は、尾(ノ)句にめぐらして意得べし、○安麻久毛乃《アマクモノ》は、まくら詞なり、天の雲の根《ネ》係《カヽ》る處なきをもて、手著不知《タヅキシラズ》と云にいひかけたり、○歌乞和我世、舊本此(ノ)歌の下に、諸本如此可尋之、とあるは、この歌乞をうたがひて、仙覺などが註したるなるべし、古寫本、官本、拾穗本、古寫小本等には、此(ノ)註なし、岡部氏云、十二に、歌方毛曰《ウタガタモイヒ》つゝもあるか云々、他卷にも此(ノ)詞ありて、ウタガタ〔四字右○〕は、あやふく不定なるよしなり、然れはこの乞は、方を誤たるにて、ウタガタワガセ〔七字右○〕といふならむ、と云るぞ宜き、和我世《ワガセ》は、同船の輩をさすなるべし、○歌(ノ)意は、大海の波(ノ)上に浮びて居れ(438)ば、何處をよすがとたよるべき處もしられず、まことに危ふきことぞ吾(ガ)兄よ、といへるなり、
 
3899 海未通女《アマヲトメ》。伊射里多久火能《イザリタクヒノ》。於煩保之久《オホホシク》。都努乃松原《ツヌノマツバラ》。於母保由流可聞《オモホユルカモ》。
 
本(ノ)二句は序にて、漁火のほのかにおぼろなるよしに、いひつゞけたり、○於煩保久《オホホシク》は、おぼろ/\しくといふにて、ほの/”\と云が如し、○都努乃松原《ツヌノマツバラ》は、和名抄に、攝津(ノ)國武庫(ノ)郡津門(ハ)都刀《ツト》、とあるところの松原なるべし、三(ノ)卷に、吾妹兒二猪名野者令見都名次山角松原何時可將示《ワギモコニイナヌハミセツナスキヤマツヌノマツバライツカシメサム》、とある歌に、委(ク)註り、○歌(ノ)意は、都の方にむきてこぎ來れば、はや都努《ツヌ》の松原の風景の、ほのぼのと目の前にうかびておぼゆる哉、さても歡しや、となり、
 
右九首《ミギノコヽノウタハ》。作者不審姓名《ヨミビトシラズ》。
 
十年七月七日之夜《トヽセトイフトシフミツキノナヌカノヨ》。獨《ヒトリ》仰《ミテ》2天漢《アマノガハヲ》1。聊|述《ノブル》v懷《オモヒヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
歌(ノ)字、舊本にはなし、目録に從つ、
 
3900 多奈波多之《タナバタシ》。船乘須良之《フナノリスラシ》。麻蘇鏡《マソカヾミ》。吉欲伎月夜爾《キヨキツクヨニ》。雲起和多流《クモタチワタル》。
 
多奈波多之《タナバタシ》は、織女之《タナバタシ》にて、之《シノ》辭は、此(ノ)上にいへるに同じ、今ぞ織女の舟乘するならしと、その一(ト)すぢにしか思ふよしを、重く思はせたる辭なり、○麻蘇鏡《マソカヾミ》は、枕詞なり、○雲起和多流《クモタチワタル》は、織女の儀容《ヨソヒ》を、人に見せじと、雲の起わたり覆ふ意なり、と大神(ノ)眞潮翁の説《イヘ》る、さもあるべし、(略解に、雲を浪に見なしたるなり、といへるは、うべなひがたき説なり、)○歌(ノ)意は、清く照たる月(439)夜に、天(ノ)原に雲の起わたれるは、今ぞ織女の舟出したまふならし、それ故、その織女のよそひを人に見せじと、雲の起わたるならむ、といふなるべし、さて牽牛こそ、舟にのりてわたるよし、いひならはしたるに、織女の舟のりは、いさゝかうたがはしけれど、此はかの牽牛の妻迎(ヘ)舟ともよめれば、其(ノ)迎舟に乘て、わたるよしに云るなるべし、そも/\この牽牛織女のことは、もとえせ漢人の浮説より興《ハジマ》りて、かの漢國にても、くさ/”\のはかなきことゞもを詩文にも作りならはしたれば、今強(チ)に、事實を論ふべきことにもあらずなむ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
作(ノ)字、舊本にはなし、元暦本、古寫本等に從つ、
 
十二年十二月九日《トヽセマリフタトセトイフトシシモツキノコヽノカノヒ》。追2和《オヒテヨメル》太宰之時梅花《オホミコトモチノトキノウメノハナノウタヲ》1新歌六首《ニヒウタムツ》。
 
十二以下八字、舊本には此處になし、今は古寫小本に從つ、○追和は、五(ノ)卷に、梅花(ノ)歌三十三首并序ありて、其は天平二年正月十三日、帥大伴(ノ)卿(ノ)家にて、會ありし時の事なり、それを十二年に至りて、家持の追和へられたるなり、十九にも、こゝの如く見えたり、
 
3901 民布由都藝《ミフユスギ》。芳流波吉多禮登《ハルハキタレド》。烏梅能芳奈《ウメノハナ》。君爾之安良禰婆《キミニシアラネバ》。遠流人毛奈之《ヲルヒトモナシ》。
 
民布由都藝は、民布由《ミフユ》とは、御冬《ミフユ》にて、眞冬《マフユ》といふが如し、(本居氏の、御春《ミハル》、御夏《ミナツ》、御秋《ミアキ》てふ言の例(440)も聞えねば、御冬《ミフユ》とせむことおぼつかなし、と云るは、甚《イト》偏《カタオチ》なり、さらば、春方《ハルヘ》とはいへども、夏方《ナツヘ》、秋方《アキヘ》、冬方《フユヘ》とはいはぬを、なにとかはせむ、○或説に、前漢書東方朔(ガ)傳に、朔年十三、學2書三冬1、文史足v用(ルニ)云々、とあるを引て、三冬の意かといへるは、謂《イハ》れぬことなり、)さて都藝は、盡《ツキ》ならば、藝の濁音(ノ)字は、用まじきによりて思ふに、都は須の誤寫にて、過《スギ》なるべし、さらば集中に、春過而夏來良之《ハルスギテナツキタルラシ》、などよめると、同例とすべし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、此は五(ノ)卷に、武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米《ムツキタチハルノキタラバカクシコソウメヲヲリツヽタヌシキヲヘメ》、と云るに、和《ナゾラ》へられたるなり、
 
3902 烏梅乃花《ウメノハナ》。美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》。安里登母也《アリトモヤ》。如此乃未君波《カクノミキミハ》。見禮登安可爾勢牟《ミレドアカニセム》
 
美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》は、契冲が、眞山《ミヤマ》と繁《シミ》になり、といへる如し、さてこの等《ト》は、集中に、家等住《イヘトスム》、また玉等將拾《タマトヒリハム》など云、古今集に、今日來ずは明日は雪とぞふりなまし、などある等《ト》にて、某《コレ》と變《ナリ》て、某《カレ》と化(シ)てなどやうの意に聞ゆる辭なり、なほ開卷、雄略天皇(ノ)大御歌に、委(ク)註り、されば、此《コヽ》も眞山《ミヤマ》と化《ナリ》て縫《シミ》に、といはむが如し、○安里登母也《アリトモヤ》は、雖《トモ》v有《アリ》也《ヤ》なり、也《ヤ》は終にめぐらし、さて可《カ》と云意に聞べし、○君《キミ》は、梅(ノ)花を指していふなるべし、其方《ソナタ》といふが如し、梅(ノ)花を君《キミ》と云ること、五(ノ)卷にも見えたり、○安可爾勢牟《アカニセム》(勢(ノ)字、舊本には氣と作り、今は古寫本、官本等に從つ、)は、安可爾《アカニ》(441)は、不v飽にて、不v知を之良爾《シラニ》といふと同例なり、此(ノ)卷(ノ)下にも、安加爾等《アカニト》とあり、さてこゝは、不《ヌ》2飽足《アキタラ》1物《モノ》に爲む、といふほどの意なるべし、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花よ、およそ物は、多きと少きよにより、愛賞《メヅ》る心も異《カハ》るならひなるに、そなたにおきては、たとひ眞山《ミヤマ》の繁きが如くに開(キ)滿てありとも、いふ心はなくて、かくの如く見れど、不v飽・足《アキタラズ》ものにのみおもはむか、となり、
 
3903 春雨爾《ハルサメニ》。毛延之楊奈疑可《モエシヤナギカ》。烏梅乃花《ウメノハナ》。尊母爾於久禮奴《トモニオクレヌ》。常乃物香聞《ツネノモノカモ》。
 
物の下、古寫本、官本、姶穗本、或校本等に、能(ノ)字あり、○歌(ノ)意は、中山(ノ)嚴水、此は梅の花咲たるそのの青柳は云々、とよめるに、和へたるなり、此(ノ)芽《メ》はる青柳は、つぎてふれる春雨に萌しにや、但しいつも梅に後れぬ常の物にて、かくやあるらむ、といへるなるべし、可は等の誤なりとする説は、從べからず、といへり、
 
3904 宇梅能花《ウメノハナ》。伊都波乎良自等《イツハヲラジト》。伊登波禰登《イトハネド》。佐吉乃盛波《サキノサカリハ》。乎思吉物奈利《ヲシキモノナリ》。
 
歌(ノ)意、梅(ノ)花は、とりわきて、いつは折(ル)まじと、折取(ル)を厭《イト》ふにはあらねども、盛に咲たる時のみは惜まれて、甚折うき物なり、といへるなるべし、(略解に、自は目の誤にて、ヲラメト〔四字右○〕はヲラムト〔四字右○〕の意なり、といへれど、猶もとのまゝにて、よくきこえたるをや、そのうへ此(ノ)歌の書ざまにては、目(ノ)字をメ〔右○〕の假字に用ひしとは、おもはれず、)
 
3905 遊内乃《アソブヒノ》。多努之吉庭爾《タヌシキニハニ》。梅柳《ウメヤナギ》。乎理加謝思底婆《ヲリカザシテバ》。意毛比奈美可毛《オモヒナミカモ》。
 
(442)遊内乃は、本居氏、内は日の誤にて、アソブヒノ〔五字右○〕ならむ、といへり、これに從べし、○乎里加謝思底婆《ヲリカザシテバ》は、折頭指《ヲリカザシ》たらばの意なり、○意毛比奈美可毛《オモヒナミカモ》は、思(ヒ)無らむか、さても折まほしや、と云意なり、この美《ミ》の辭は、未來《ユクサキ》を兼ていふ一(ノ)格にて、既く委(ク)云り、毛《モ》は歎息(ノ)辭にて、さても云々と云意にあたれり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
3906 御苑布能《ミソノフノ》。百木乃宇梅乃《モヽキノウメノ》。落花之《チルハナノ》。安米爾登妣安我里《アメニトビアガリ》。雪等敷里家牟《ユキトフリケム》。
 
百木乃宇梅《モヽキノウメ》は、數株《アマタ》の梅《ウメノキ》をいふ、六(ノ)卷に、百樹成山者木高之《モヽキナルヤマハコダカシ》、とよめるは、諸木《キギ》のうへにていひ、今は梅にかぎれり、○安米爾登妣安我里《アメニトビアガリ》は、天に飛(ビ)上《アガ》りにて、鳥などの虚空《ソラ》に飛のぼるごとくに、花の散亂るゝをいへり、仁徳天皇(ノ)紀(ノ)歌に、破夜歩佐波阿梅珥能朋利等弭箇慨梨伊菟岐餓宇倍能娑莽岐等羅佐泥《ハヤブサハアメニノボリトビカケリイツキガウヘノサザキトラサネ》、○雪等敷里家牟《ユキトフリケム》は、雪と化《ナリ》て降けむの意なり、明日は雪とぞ降なましの、雪とに同じ、○歌(ノ)意、は數株の梅(ノ)花の散て、大空に上《アガ》りて、かく雪となりて降つらむ、となり、
 
右大伴宿禰家持作《ミギオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
右の下、舊本には、天平十二年十一月九日(一(ノ)字、元暦本には二と作り、)と記せり、今は古寫小本に從て、上に出せり、
 
十三年二月《トヽセマリミトセトイフトシノキサラギ》。讃《ホムル》2三香原新都《ミカノハラノニヒミヤコヲ》1歌首并短謌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(443)十三以下五字、舊本には、此處になし、目録には、同十三年二月、とあり、○新都は、即(チ)久邇《クニノ》都なり、六(ノ)卷にも見えたり、又|布當《フタギノ》宮とも稱(ヘ)り、彼(ノ)卷に委(ク)註たりき、
 
3907 山背乃《ヤマシロノ》。久迩能美夜古波《クニノミヤコハ》。春佐禮播《ハルサレバ》。花咲乎乎理《ハナサキヲヲリ》。秋左禮婆《アキサレバ》。黄葉爾保比《モミチバニホヒ》。於婆勢流《オバセル》。泉河乃《イヅミノカハノ》。可美都瀬爾《カミツセニ》。宇知橋和多之《ウチハシワタシ》。余登瀬爾波《ヨドセニハ》。宇枳橋和多之《ウキハシワタシ》。安里我欲比《アリガヨヒ》。都加倍麻都良武《ツカヘマツラム》。萬代麻弖爾《ヨロヅヨマデニ》。
 
花咲乎乎理《ハナサキヲヲリ》は、枝も撓《タワ》むばかりに、咲(キ)滿たるを云、既く出たり、○黄葉爾保比《モミチバニホヒ》の下、拾穗本には美(ノ)字あり、それによらば、モミチニホヒミ〔七字右○〕と訓べし、黄葉艶《モミチバニホ》ひもしの意なり、○於婆勢流《オバセル》は、帶有《オベル》の伸りたるなり、婆勢《バセ》を切れば、辨《ベ》となれり、帶(ヒ)賜へる、と云むが如し、こは立有《タテル》を多々勢流《タヽセル》、往有《ユケル》を由可勢流《ユカセル》など云と、同(シ)格の語なり、久邇の都の帶(ヒ)賜へる泉河と云意に、崇めて云るなり、(略解に、オバセル〔四字右○〕は帶にせるなり、といへるは、意は大《イミジク》異《コト》なることなけれども、語の説《トキ》ざま、よろしからず、)○泉河《イヅミノカハ》は、既く出(デ)つ、○宇知橋《ウチハシ》は、既く委(ク)註り、○、余登瀬爾波《ヨドセニハ》は、水の淀める所にはの謂なり、余登瀬《ヨドセ》は、河瀬の中に、水の淀む處を云なるべし、七(ノ)卷に、氏河齒與杼湍無之阿自呂人舟召音越乞所聞《ウヂガハハヨドセナカラシアジロヒトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》、とあり、爾波《ニハ》は、他の瀬にむかへて云る詞なり、○宇枳橋《ウキハシ》は、古事記上(ツ)卷に、詔2天津日子番能邇々藝《アマツヒコホノニヽギノ》命(ニ)1、而|離《ハナレ》2天之石位《アメノイハクラ》1、押2分《オシワケ》天之八重多那雲《アメノヤヘタナクモヲ》1而《テ》、伊都能知和伎知和伎※[氏/一]《イツノチワキチワキテ》、於《ニ》2天浮橋《アメノウキハシ》、宇岐士摩理《ウキジマリ》、蘇理多々斯底《ソリタヽシテ》云々、(書紀にも同じさまに見ゆ、)とある浮橋《ウキハシ》は、名は同じ(444)けれど、其はいはゆる天之梯《アメノハシタテ》のことにて、其(ノ)形いさゝか異《カハレ》るにやあらむ、神代紀に、又事2汝(カ)往來遊v海(ニ)之具1、高橋浮橋及天鳥船亦將供造《タカハシウキハシマタアメノトリフネモツクリソナヘム》、とある浮橋《ウキハシ》と同物なるべし、さて其は高橋《タカハシ》に對へたれば、筏など浮(ヘ)たらむ如く、水に浸し浮て、假にわたせる橋をいふならむ、紀略に、延磨二十年五月甲戌、勅(ス)諸國調庸入貢、而或川(ニ)无v橋、或津(ニ)乏v舟、民(ノ)憂不v少、令3路次諸國貢調之時、津濟設2舟※[楫+戈]浮橋等1、長(ク)爲(ヨ)2恆例(ト)1、和名抄に、魏略五行志(ニ)云、洛水浮橋、和名|宇岐波之《ウキハシ》、とあり、○歌(ノ)意は、久邇の新都は、春は花咲滿(テ)、秋は黄葉の艶《ニホ》ひわたりて、甚も盛りなる大宮所なれば、泉(ノ)河の上(ツ)瀬の急きには、打橋渡し、淀瀬のぬるきには、浮橋わたして、ありつゝ往來《カヨヒ》て、萬代までに仕(ヘ)奉らむぞ、となり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
3908 楯並而《タヽナメテ》。伊豆美乃河波乃《イヅミノカハノ》。水緒多要受《ミヲタエズ》。都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》。大宮所《オホミヤトコロ》。
 
楯並而は、枕詞なり、古事記に依て、(次に引、)タヽナメテ〔五字右○〕と訓べし、楯をタヽ〔二字右○〕と云は、稻《イネ》をイナ〔二字右○〕、酒《サケ》をサカ〔二字右○〕、船《フネ》をフナ〔二字右○〕と云などゝ同格なり、と本居氏の云る如し、仲哀天皇紀に、倭(ノ)國狹城(ノ)盾列(ノ)陵とありて、註に、盾列此云2多々邪美《タヽナミト》1、とあり、(神名式に、丹波(ノ)國多紀(ノ)郡川内|多々奴比《タヽヌヒノ》神社、)さてこの枕詞、二(ツ)の意あるべし、一(ツ)には、楯を立(テ)ならべて射るといふ意に、伊《イ》の一言へかゝれる歟、さるは合戰には、先(ツ)楯を立て、敵の矢に中るまじく、身を防(ギ)て、弓射るものなればなり、二(ツ)には、契(445)冲も説し如く、泉川は、崇神天皇紀に、更避2那羅山(ニ)1、而進到2輪韓河(ニ)1、埴安彦挾(テ)v河屯之、各|相挑《イドミキ》焉、故(レ)時(ノ)人改號2其河(ヲ)1曰2挑河《イドミガハト》1、今謂(ハ)2泉河《イヅミガハト》1訛也、とある如く、もと挑《イドミ》河なれば、楯をたて竝べて、互に挑《イド》む意につゞきたる歟、いづれにてもあるべし、さて古事記神武天皇(ノ)御大歌に、多々那米弖伊那佐能夜麻能《タヽナメテイナサノヤマノ》云々、とあるも、伊《イ》の一言へかけてのたまへる歟、又是(レ)は實に楯を竝ぶるを、詔へるにもありぬべし、○水緒多要受《ミヲタエズ》は、水脈《ミヲ》不v絶なり、此(ノ)詞、九(ノ)卷、十二(ノ)卷にも見えたり、さて此(ノ)歌は、水緒《ミヲ》と云までは、不v絶をいはむとての序なり、○歌(ノ)意は、此(ノ)久邇の大宮所に、萬代までに、絶ず奉仕《ツカヘマツラ》む、となり、
 
右右馬寮頭境部宿禰老麿作《ミギミギノウマノツカサノカミサカヒベノスクネオユマロガヨメル》也。
 
右右の間、舊本には、天平十三年二月の七字あり、今は上に出せる故、此處を除つ、○寮(ノ)字、古寫小本、元暦本、類聚抄等にはなし、○老麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
四月二日《ウツキノフツカノヒ》。詠《ヨメル》2零公鳥《ホトヽギスヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
四月二日の四字、舊本には此處になし、今は古寫小本、并目録によりて記しつ、
 
3909 多知婆奈波《タチバナハ》。常花爾毛歟《トコハナニモガ》。保登等藝須《ホトトギス》。周無等來鳴者《スムトキナカバ》。伎可奴日奈家牟《キカヌヒナケム》。
 
常花《トコハナ》は、常《トコ》しへに、いつも散(リ)失ることなくてある花、といふなり、常《トコ》は、常葉《トコハ》、常磐《トキハ》、常闇《トコヤミ》などの常《トコ》の如し、○歌(ノ)意は、橘は常《トコ》しへに、いつもある花にてもがなあれかし、さらばその橘に住(ミ)宿る(446)とて、霍公鳥の來て鳴ならば、聞ぬ日はなからましを、となり、(○この歌より次々の歌の事を、一(ツ)に集めて、此(ノ)處に論ふべし、まづ此(ノ)二首の歌の中に、多知婆奈波常花爾毛歟《タチバナハトコハナニモガ》云々、と云るは、花の盛によめりとはなけれど、何とかや、咲の最中《モナカ》によめりと聞えて、今|開始《サキソメ》たる時に、よめるものとは思はれず、又此(ノ)次に、珠爾奴久安布知乎宅爾《タマニヌクアフチヲイヘニ》云々、と云るも、楝(ノ)花は、四月の末つかたより、五月かけて咲ものなるうへ、珠爾奴久《タマニヌク》と云るは、五月五日の藥玉《クスタマ》に貫(ク)ことなり、藥玉の事は、なほ次にいはむ、しかるを、これらを、四月二日によめるよし記せるは、いぶかしきことなり、もとより年の氣候につれて、花の遲速あることは、さることなれど、四月のはじめによめりとせむは、あまりに時はやし、八(ノ)卷にも、百枝刺於布流橘玉爾貫五月乎近美《モヽエサシオフルタチバナタマニヌクサツキヲチカミ》、安要奴我爾花咲爾家利《アエヌガニハナサキニケリ》、と家持(ノ)卿のよまれたる如く、昔來《ムカシヨリ》橘花《タチバナ》は、五月を待て盛に咲よしいひならへり、これも玉爾貫《タマニヌク》は、藥玉《クスタマ》になり、されば四月二日は、五月二日にてこそあらまほしけれ、此(ノ)次に、四月三日、家持(ノ)卿のよめる歌三首ありて、その小序《ハシコトバ》に、橙橘初咲とあるは、四月のはじめつかた、橘花のやゝ開始《サキソメ》たらむ年もあるべければ、其はさるかたに、たすけても聞るべきを、其歌に、安之比奇能山邊爾乎禮婆保登等藝須木際多知久吉奈可奴日波奈之《アシヒキノヤマヘニヲレバホトトギスコノマタチクキナカヌヒハナシ》、とある、もとより霍公鳥の鳴は、さるものながら、いかに山邊なればとて、木際立漏不鳴日者無《コノマタチクキナカヌヒハナシ》、と云る、あまりに盛に、屡《シバ/\》鳴よしなるも、五月のさまならずや、其(ノ)次に、保登等藝須奈爾乃情曾多知花乃多麻(447)奴久月之來鳴登餘牟流《ホトトギスナニノコヽロソタチバナノタマヌクツキシキナキトヨムル》、とある、まつ玉貫月《タマヌクツキ》と云るは、三(ノ)卷山前王の歌に、霍公鳥來鳴五月者《ホトヽギスキナクサツキハ》、 菖蒲花橘乎《アヤメグサバナタチバナヲ》、玉爾貫※[草冠/縵]爾將爲登《タマニヌキカヅラニセムト》云々、とある下《トコロ》に、既く委(ク)云る如く、玉に貫(キ)と云るは、藥玉《クスタマ》に實(ク)ことにて、其藥玉は、もと漢土の長命縷、あるは續命縷とも號《ナヅ》けて、五月五日、その縷を帶れば、萬(ツ)の病を辟《サク》るよしに云るに、ならへるにや、皇朝にも、古(ヘ)は五月五日、菖蒲、橘花、艾、そのほか雜(ノ)花|十種《トクサ》ばかりを、五色の縷《イト》にて貫(キ)とゝのへて、ひぢに佩し趣なり、其を藥玉と號けて、公よりは、群臣にも賜ひしよし見えたり、かゝればその玉に貫(ク)は、主《ムネ》とは五月五日の事なれど、すべて五月を、ひろく玉貫(ク)月と云りし趣、集中を見わたしてしられたり、しかればいよいよ四月三日は、五月三日ならでは、理叶ひがたきに似たり、其(ノ)次に、保登等藝須安不知能枝爾由吉底居者花波知良牟奈珠登見流麻泥《ホトトギスアフチノエダニユキテヰバハナハチラムナタマトミルマデ》、とある、これも楝(ノ)花は、前に云る如くなるうへ、四月のはじめに、散ぬべきばかり、盛に咲たるよし云むは、いよ/\おぼつかなきことなり、かくて其(ノ)次に、馬長(ノ)歌、赤人(ノ)歌ありて、其は年月詳ならざるよし記せれば事もなし、其(ノ)次に、天平十六年四月五日、家持(ノ)卿のよめる歌六首ありて、橘乃爾保弊流香可聞保登等藝須奈久欲乃雨爾宇都路比奴良牟《タチバナノニホヘルカカモホトトギスナクヨノアメニウツロヒヌラム》、とある、雨に濕(レ)て、橘花の香の消失たらむげによめるも、五月めきたり、其(ノ)次に載《アゲ》たる保登々藝須夜音奈都可思《ホトトギスヨコヱナツカシ》云々、橘乃爾保敝流苑爾《タチバナノニホヘルソノニ》云々の二首も、五月によめる歌にてありたし、其(ノ)次に、青丹余之奈良能美夜古波《アヲニヨシナラノミヤコハ》云々、とあるは、四月としても、五月としても、強(チ)に(448)難なかるべきか、其(ノ)次に、鶉鳴布流之登比等波《ウヅラナキフルシトヒトハ》云々、とあるも、五月ならまほし、其(ノ)次に、加吉都播多衣爾須里都氣《カキツハタキヌニスリツケ》云々、とあるは、燕子花《カキツハタ》は、春の末より夏かけて、もはらさかりに開(ク)ものなるうへ、藥獵《クスリガリ》も、四五月の間にせし趣なれば、四月にしても事なかるべきか、されどこれも、五月の作《ウタ》とせむに、難なきはさらなり、そも/\、上(ノ)件|都合《スベ》て十一首の歌は、はやく或人も疑ひいひしことにて、多くは五月によめりとせむかた、ふさはしげなれば、四月とあるは、いづれも五月を、後に寫し誤れるものともいふべけれど、三處に出たる四月を、こと/”\に五月に改めむも、いみじき私なれば、さておきて、なほ後の識者《モノシリビト》のさだめをまつにこそ、)
 
3910 珠爾奴久《タマニヌク》。安布知乎宅爾《アフチヲイヘニ》。宇惠多良婆《ウヱタラバ》。夜麻霍公鳥《ヤマホトヽギス》。可禮受許武可聞《カレズコムカモ》。
 
珠爾奴久《ダマニヌク》は、楝《アフチノ》花を、續命縷《クスタマ》に貫(キ)交(フ)ることなり、續命縷《クスタマ》のことは、さき/”\も多くよめり、○可禮受《カレズ》は、不離《カレズ》にて、絶ずと云むが如し、○歌(ノ)意は、續命縷《クスタマ》に貫(キ)交(フ)る楝《アフチ》を、宅の庭に植たらば、その花を賞《メデ》て、山霍公鳥の絶ず來て鳴べきか、さてもなつかしの鳥や、となり、
 
右大伴宿禰書持《ミギオホトモノスクネフミモチガ》。從《ヨリ》2奈良宅《ナラノイヘ》1。贈《オクル》2兄家持《アニヤカモチニ》1。
 
右の下、舊本には、四月二日の四字あり、今は上に出せる故に、此處を除つ、○家持の次に、舊本和歌二者の四字あり、官本、古寫本等になきぞ宜き、
 
四月三日《ウツキノミカノヒ》。和歌三首《コタフルウタミツ》。
 
(449)四月云々の八字、舊にはなし、古寫小本に從て記しつ、
 
橙橘初咲《タチバナハジメテサキ》。霍公鳥飜嚶《ホトヽギスナキカヘル》。對《アタリテ》2此時候《コノトキニ》1。※[言+巨]《ナゾモ》不《ザラ》v暢《ノベ》v志《コヽロヲ》。因《カレ》作《ヨミテ》2三首短歌《ミツノミジカウタヲ》1。以|散《ヤルニコソ》2欝結之緒《オホヽシキオモヒヲ》1 耳。
 
橙橘、和名抄に、橙(ハ)和名|安倍太知波奈《アベタチバナ》、とあれど、こゝは二字にて、たゞ多知《タチ》花のことに用ひたるなるべし、〔頭註、【橙橘花とありしを、もしは花字を脱せるにもあらむか、霍公鳥と云に對たればなり、】〕○嚶は、玉篇に、鳥鳴也、とあり、○候(ノ)字、侯と作るは非なり、今は拾穗本に從つ、
 
3911 安之比奇能《アシヒキノ》。山邊爾乎禮婆《ヤマヘニヲレバ》。保登等藝須《ホトトギス》。木際多知久吉《コノマタチクキ》。奈可奴日波奈之《ナカヌヒハナシ》。
 
多知久吉《タチクキ》は、立漏《タチカヽリ》なり、久吉《クキ》は、春之在者伯伯勞鳥之草具吉《ハルサレバモズノクサグキ》の、具吉《グキ》におなじ、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
3912 保登等藝須《ホトトギス》。奈爾乃情曾《ナニノコヽロソ》。多知花乃《タチバナノ》。多麻奴久月之《タマヌクツキシ》。來鳴登餘牟流《キナキトヨムル》。
 
奈爾乃情曾《ナニノコヽロソ》は、如何《イカ》なる心ぞ、といはむが如し、○多麻奴久月之《タマヌクツキシ》、天智天皇(ノ)紀(ノ)童謠《ワザウタ》に、多致播那播於能我曳多曳多那例々騰母陀麻爾農矩騰岐於野兒弘※[人偏+爾]農倶《タチバナハオノガエダエダナレヽドモタマニヌクトキオヤジヲニヌク》、とあり、之《シ》は、例のその一(ト)すぢなるを云辭なり、○歌(ノ)意は、橘の玉を貫(ク)月に、來鳴響むるほとゝぎすは、如何なる心ぞ、このごろ一(ト)すぢに鳴さわぐなるは、己が聲を、その玉に貫(キ)交へよとて歟、といへるにや、ほとゝぎすの聲を、玉に貫(ク)と云こと、前にもよみたればなり、
 
(450)3913 保登等藝須《ホトトギス》。安不知能枝爾《アフチノエダニ》。由吉底居者《ユキテヰバ》。花波知良牟奈《ハナハチラムナ》。珠登見流麻泥《タマトミルマデ》。
 
由吉底居者《ユキテヰバ》は、奈良を思ひやりていへるにて、奈良の大伴氏の家のあたりに、行て居ば、と云なるべし、○知良牟奈《チラムナ》とは、奈《ナ》は、歎息の聲にて、將《ム》v散《チラ》奈阿《ナア》といへるなり、○珠登見流麻泥《タマトミルマデ》は、上にも楝(ノ)花を、續命縷《クスダマ》に貫よしよみたれば、其(ノ)續命縷の、亂れ散かと見るまで、といへるなるべし、○歌(ノ)意は、奈良の大伴氏の家の風景を、思ひやりたるにて、かくれたるところなし、
 
右内舍人大伴宿禰家持《ミギウチトネリオホトモノスクネヤカモチガ》。從《ヨリ》2久邇京《クニノミヤコ》1。報2送《コタフ》弟書持《オトフミモチニ》1。
 
右の下、舊本には、四月三日の四字あり、今は上に出せる故に、此處を除つ、
 
思《シノフ》2霍公鳥《ホトヽギスヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。 田口朝臣馬長作《タグチノアソミウマヲサガヨメル》。
 
馬長は、傳未(ダ)詳ならず、○作(ノ)字、拾穗本にはなし、
 
3914 保登等藝須《ホトトギス》。今之來鳴者《イマシキナカバ》。餘呂豆代爾《ヨロヅヨニ》。可多理都具倍久《カタリツグベク》。所念可母《オモホユルカモ》。
 
今之《イマシ》、その時に正しく至りたるを云辭なり、土佐日記に、今し羽《ハネ》と云處に來ぬ、とあるに同じ、さて此(ノ)歌の今之《イマシ》とは、左の傳に、此(ノ)日といへるをさせり、○歌(ノ)意は、ほとゝぎすの、今此(ノ)日に來鳴たらば、萬代までに語り繼て、愛憐《ウツクシミ》すべくおぼゆるを、嗚呼《アハレ》いかで一聲もがな、來鳴てあれかしと、一(ト)すぢに慕へるなり、
〔右傳云。一時交遊集宴。此日此處。霍公鳥不v喧。仍作2件歌1。以陳2思慕之意1。但其宴所并年月。未v得v2詳(451)審1也。〕
 
山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒトガ》。詠《ヨメル》2春※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒスヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
3915 安之比奇能《アシヒキノ》。山谷古延底《ヤマタニコエテ》。野豆加佐爾《ヌヅカサニ》。今者鳴良武《イマハナクラム》。宇具比須乃許惠《ウグヒスノコヱ》。
 
野豆加佐《ヌヅカサ》は、契冲云、野のたかき所をいふなるべし、第廿にもよめり、第四には、きしのつかさとよみ、第十には、やまのつかさとよめり、おの/\そのたかき所をいふにこそ、○今者鳴良武《イマハナクラム》は、者(ノ)字は、もしは香の誤にて、イマカナクラム〔七字右○〕とありしにもあるべし、八(ノ)卷に、河津鳴甘南備河爾陰所見今哉開良武山振乃花《カハヅナクカムナビガハニカゲミエテイマヤサクラムヤマブキノハナ》、とあり、又此(ノ)卷(ノ)未に、宇具比須波伊麻波奈可牟等可多麻底波《ウグヒスハイマハナカムトカタマテバ》云々、とある今者《イマハ》の意にて、よまれしならば、もとのまゝにもあるべし、○歌(ノ)意は、奥深き山や谷を越て出で來て、野づかさに、今この頃、※[(貝+貝)/鳥]の鳴らむか、いざ行て聞む、となり、
〔右年月所處。未v得2詳審1。但隨2聞之時1。記2載於茲1。〕
 
十六年四月五日《トヽセマリムトセトイフトシウツキノイツカノヒ》。獨《ヒトリ》居《ヰテ》2平城故宅《ナラノフルヘニ》1。作歌六首《ヨメルウタムツ》。
 
3916 橘乃《タチバナノ》。爾保敝流香可聞《ニホヘルカカモ》。保登等藝須《ホトトギス》。奈久欲乃雨爾《ナクヨノアメニ》。宇都路比奴良牟《ウツロヒヌラム》。
 
可聞《カモ》の辭は、尾(ノ)句の終にうつして心得べし、可《カ》疑の辭、聞《モ》は歎息(ノ)辭なり、○宇都路比《ウツロヒ》は、此は香の失るをいへり、すべて、宇都路布《ウツロフ》とは、梢にある花、また葉の地に落(ツ)をも云(ヒ)、色の變《カハ》るをも、香の薄《ウス》くなるをもいふ言なり、さるは、其(ノ)本性の變《ウツロ》ひ易《カハ》るよりいふことにて、言の本は、何(452)にいふもみな一(ツ)なり、○歌(ノ)意は、ほとゝぎすの鳴(ク)夜の雨に濕(レ)て、橘(ノ)花の薫へる香の消失ぬらむか、さても惜や、となり、ほとゝぎすの鳴をいへるは、當時の風景をいへるのみにて、外に用あるにあらず、
 
3917 保登等藝須《ホトトギス》。夜音奈都可思《ヨコヱナツカシ》。安美指者《アミサヽバ》。花者須具等毛《ハナハスグトモ》。可禮受加奈可牟《カレズカナカム》。
 
安美指者《アミサヽバ》は、網張者《アミハラバ》といふが如し、綱張(リ)て、外へ遁さずしてあらばの意なり、新撰萬葉に、春霞網丹張※[穴/牛]花散者可移徒※[(貝+貝)/鳥]將駐《ハルカスミアミニハリコメハナチラバウツロヒヌベキウグヒストメム》、○花《ハナ》は、橘(ノ)花なり、○歌(ノ)意は、ほとゝぎすの、庭の橘に宿りて、夜鳴聲の一(ト)きはあはれになつかしく、聞ども/\飽ざるを、もし網を張て、外へ遁さずしてあらば、たとひ橘の花は散失るとも、絶ず鳴べきか、となり、
 
3918 橘乃《タチバナノ》。爾保敝流苑爾《ニホヘルソノニ》。保等登藝須《ホトトギス》。鳴等比登都具《ナクトヒトツグ》。安美佐散麻之乎《アミササマシヲ》。
 
比登都具《ヒトツグ》は、人告《ヒトツグ》なり、○歌(ノ)意は、橘花の薫へる他《ヨソ》の苑に、霍公鳥の來て鳴と人が告るが、もし吾(ガ)庭に來て鳴ならば、網を張て、外に遁さずあるべきものを、となるべし、
 
3919 青丹余之《アヲニヨシ》。奈良能美夜古波《ナラノミヤコハ》。布里奴禮登《フリヌレド》。毛等保登等藝須《モトホトトギス》。不鳴安良|奈〔○で囲む〕久爾《ナカズアラナクニ》。
 
青丹余之《アヲニヨシ》は、枕詞なり、○布里奴禮登《フリヌレド》とは、舊(キ)都となりぬれど、といはむが如し、これは久邇(ノ)新都のさかえたる頃なればいへり、○毛等保登等藝須《モトホトトギス》は集中に、舊なじみの人を、毛登都人《モトツヒト》といへると同じ意にて、ふるなじみの霍公鳥、といはむが如し、十(ノ)卷にも、本人霍公鳥《モトツヒトホトヽギス》、とよめり、(453)奈良は、舊(キ)都となりぬれど、都の盛なりし時來鳴し如く、ふるなじみの霍公鳥の、猶來鳴よしなり、(略解に、年々來鳴もの故に、もとほとゝぎすといふ、と云るは、さる謂に云るにも、あるべけれども、いさゝか云たらはず、)○安良奈久爾《アラナクニ》(奈(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、契冲説によりて、補加つ、)は、有ぬことなるをの謂なり、○歌(ノ)意は、奈良は舊(キ)都となりて、いかにも物ごとに、さびしくはなりゆけども、都の盛なりし時來鳴しごとく、ふるなじみのほとゝぎすは、昔忘れず、猶來鳴ことなるを、愛《メデ》ずあるべしやはとなり、古今集に、奈良のいそのかみ寺にて、ほとゝぎすの鳴をきゝて、素性法師、石(ノ)上ふるき都のほとゝぎす聲ばかりこそ昔なりけれ、又はやく住ける所にて、ほとゝぎすの啼けるを聞てよめる、忠岑、昔方《イニシヘ》や今もこひしきほとゝぎすふるさとにしも啼て來つらむ、
 
3920 鶉鳴《ウヅラナキ》。布流之登比等波《フルシトヒトハ》。於毛幣禮騰《オモヘレド》。花橘乃《ハナタチバナノ》。爾保敷許乃屋度《ニホフコノヤド》。
 
鶉鳴は、こゝは、ウヅラナキ〔五字右○〕と訓べし、鶉鳴(キ)て舊にし里、といふ意のつゞきなり、四(ノ)卷に、鶉鳴故從郷《ウヅラナクフリニシサトユ》云々、八(ノ)卷に、鶉鳴古郷之《ウヅラナクフリニシサトノ》云々、十一に、鶉鳴人之古家爾《ウヅラナクヒトノフルヘニ》云々、などあり、すべて鶉は、あれて人目なきところに、多くは鳴ものなれば、かくつゞけたり、伊勢物語に、年を經て住こし里を出て去ばいとゞ深草野とやなりなむ、返し、野とならばうづらと成て鳴居むかりにだにやは君は來ざらむ、六帖に、吾やどは鶉鳴(ク)まではあらはせじ小鷹手にすゑ來む人の爲、などあ(454)り、○歌(ノ)意は、鶉鳴まで荒て、舊にし里と、他《ヨノ》人はおもひおとしてあれど、然にはあらず、花橘のにほひて、おもしろき此(ノ)やどぞ、となり、
 
3921 加吉都播多《カキツハタ》。衣爾須里都氣《キヌニスリツケ》。麻須良雄乃《マスラヲノ》。服曾比獵須流《キソヒカリスル》。月者伎爾家里《ツキハキニケリ》。
 
本(ノ)二句は、七(ノ)卷、墨吉之淺澤小野之垣津幡衣爾摺著將衣日不知毛《スミノエノアササハヲヌノカキツハタキヌニスリツケキムヒシラズモ》、ともありて、草木の花、また黄土などもて、白絹を摺《ス》り綵《イロドリ》て服《キ》しこと、古(ヘ)のならはしなり、○服曾比獵須流《キソヒカリスル》は、本居氏、競狩《キソヒカリ》にはあらずして、服装《キヨソヒ》て狩をするなり、五(ノ)卷にも、ぬのかたきぬありのことごときそへども、と有(リ)、と云り、此に從べし、(競は、集中よりをちつかた、假字書に、みな伎保布《キホフ》とのみありて、伎曾布《キソフ》と云ることは例なきことなれば、競狩にあらざること、論なし、)さて服曾比《キソヒ》は、服装《キヨソヒ》にても、服襲《キオソヒ》にても、意は滯ることなけれど、古事記雄略天皇大御歌に、斯漏多閇能蘇弖岐蘇那布《シロタヘノソテキソナフ》、とあるは、服具《キソナ》ふにて、今の服装《キソフ》と云と全(ラ)同趣なれば、もと同言なるべし、されば、服曾布《キソフ》も即(チ)服具《キソフ》にてもあるべし、蘇那布《ソナフ》を、蘇布《ソフ》とも云は、占を、宇良那布《ウラナフ》とも宇良布《ウラフ》とも云と同じ例なり、獵は藥狩《クスリガリ》なり、十六乞食者(ノ)歌に、四月與五月間爾《ウツキトサツキノホトニ》、藥獵仕流時爾《クスリカリツカフルトキニ》、とよめり、但し書紀には、推古天皇(ノ)卷、天智天皇(ノ)卷に見えたる、共に、藥獵は、五月五日にする趣なれど、此(ノ)集にて見れば、必(ズ)それと限れるにはあらざりしこと、此(ノ)歌の端に、四月五日と記し、十六なるも、四五月の間にせし趣なるを思ふべし、○歌(ノ)意は、燕子花《カキツバタ》を絹に摺り綵《イロド》りて、狩衣に服装ひつゝ、丈夫の狩する(455)月は來にけり、となり、
 
右大伴宿禰家持作《ミギオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
右の下、舊本、六首歌者、天平十六年四月五日、獨居於平城故郷舊宅、といふ廿二字あり、今は元暦本になきに從つ、
 
十八年正月《トヽセマリヤトセトイフトシノムツキ》。白雪多零《ユキオホクフリ》。積《ツムコト》v地《ツチニ》數寸《フカシ》也。於時左大臣橘卿《トキニヒダリノオホマヘツキミタチバナノマヘツキミ》。率《ヰテ》2大納言藤原豐成朝臣及諸王臣等《ナカノモノマヲスツカサフヂハラノトヨナリノアソミトオホキミタチオミタチトヲ》1。參2入《マヰリテ》太上天皇御在所《オホキスメラミコトノミアラカニ》1。【中宮西院。】供奉《ツカヘマツリテ》掃《ハラフ》v雪《ユキヲ》。於是降詔大臣參議并諸王者《コヽニミコトノリシテオホマヘツキミオホマツリゴトヒトマタオホキミタチヲバ》。令《シメ》v侍《サモラハ》2于|大殿上《オホトノヽヘニ》1。諸卿大夫者《マヘツキミタチヲバ》。令《シメテ》v侍《サモラハ》2于|南細殿《ミナミノホソドノニ》1而則|賜酒肆宴《オホミキタマヒテトヨノアカリス》。勅曰《ミコトノリシタマハク》。汝諸王卿等《イマシオホキミタチマヘツキミタチ》。聊|賦《ヨミテ》2此雪《コノユキヲ》1。各《オノモ/\》奏《マヲセトノリタマヘリ》2其謌《ソノウタヲ》1。
 
十八の上に、舊本には天平(ノ)二字あり、元暦本にはなき、宜し、○正月の下、日を脱せるなるべし、○橘(ノ)卿は、諸兄(ノ)大臣なり、○大納言は、大は、中の誤にはあらざる歟、豐成(ノ)朝臣、此(ノ)時いまだ中納言なればなり、次に引(ク)傳を合(セ)見べし、○豐成(ノ)朝臣は、續紀に、神龜元年二月壬子、正六位藤原(ノ)朝臣豐成(ニ)授2從五位下(ヲ)1、天平四年正月甲子、從五位上、九年二月戊午、正五位上、九月己亥、從四位下、十二月辛亥、以2兵部(ノ)卿從四位下藤原朝臣豐成(ヲ)1、爲2參議(ト)1、十一年正月丙午、正四位下十二年二月甲子、行2幸難波(ノ)宮(ニ)1、以2云々正四位下兵部(ノ)卿藤原(ノ)朝臣豐成(ヲ)1爲2留守(ト)1、十月壬午、行2幸伊勢(ノ)國(ニ)1、以2云々兵部(ノ)卿兼中衛(ノ)大將正四位下藤原朝臣豐成(ヲ)1爲2留守1、十五年五月癸亥、授2從三位1爲2中納言(ト)1、十七(456)年八月癸丑、行2幸難波(ノ)宮(ニ)1、以2藤原(ノ)朝臣豐成(ヲ)1爲2留守(ト)1、十八年四月丙戌、爲2兼東海道(ノ)鎭撫使1、二十年三月壬辰、授2從二位(ヲ)1拜2大納言(ニ)1、勝寶元年四月甲午朔丁未、拜2右大臣(ニ)1、寶字元年五月丁卯、正二位、七月戊午、勅曰、右大臣豐成者、事v君(ニ)不忠、爲v臣不義(ナリ)云々、宜d停(シテ)2右大臣(ヲ)1、任c左降(シテ)太宰(ノ)員外(ノ)帥(ニ)u、八年九月戊申、復爲2右大臣(ト)1、賜2帶刀《タチハキ》四十人(ヲ)1、甲寅授2從一位(ヲ)1、發亥、勅(シテ)曰、逆臣仲麻呂、奏(ス)2右大臣藤原(ノ)朝臣豐成(ガ)不忠(ヲ)1、故(ニ)即左降(セリ)、今既知(テ)2讒詐(ナリシヲ)1復(ス)2其(ノ)官位(ヲ)1、宜d先日所(ノ)v下勅書官符等(ノ)類、悉(ク)皆燒却u、神護元年四月丙子、右大臣從一位藤原(ノ)朝臣豐成等上(テ)v表(ヲ)言(ス)云々、伏願奉v納2先代所(ノ)v賜功封(ヲ)1、少塞2天下之責(ヲ)1云々、詔(シテ)許(シタマフ)之、十一月甲申、右大臣從一位藤原(ノ)朝臣豐成薨、平城(ノ)朝正一位贈太政大臣武智麻呂之長子也、養老七年、以2内舍人兼兵部大丞(ヲ)1、神龜元年授2從五位下(ヲ)1、任2兵部少輔(ニ)1、頻(ニ)歴2顯要(ヲ)1、天平十四年至2從三位中務(ノ)卿兼中衛(ノ)大將(ニ)1、廿五年、自2中納言1、轉2大納言(ニ)1、感寶元年拜2右大臣(ニ)1、時其(ノ)弟大納言仲滿執v政(ヲ)專v權(ヲ)、勢傾2大臣(ヲ)1云々、左2降(シテ)大臣(ヲ)1爲2太宰(ノ)員外(ノ)帥(ト)1、大臣到2難波(ノ)別業(ニ)1、稱v病(ト)不v去、居八歳仲滿伏(シヌ)v誅(ニ)、即日復2本官(ニ)1、薨時年六十二、○諸臣、諸(ノ)字、元暦本にはなし、○太上天皇は、元明天皇なり、○西院、舊本に兩院と作るは非なり、今は古寫本、元暦本、拾穗本等に從つ、○供奉掃v雪は御前に侍ひて、雪を賞《メヅ》ることを、かしこみてかく書り、○南細殿、和名抄に、唐韵(ニ)云、廊(ハ)殿下(ノ)外屋也、和名|保曾止乃《ホソトノ》、○酒(ノ)字、舊本に海と作るは誤なり、今は古寫本、元暦本、官本、活本、拾穗本等に從つ、
 
左大臣橘宿禰《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノスクネノ》。應《ウケタマハル》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
(457)3922 布流由吉乃《フルユキノ》。之路髪麻泥爾《シロカミマデニ》。大皇爾《オホキミニ》。都可倍麻都禮婆《ツカヘマツレバ》。貴久母安流香《タフトクモアルカ》。
 
布流由吉乃《フルユキノ》は、即(チ)其(ノ)時の物をもて、白《シロ》といはむ料の枕詞とせり、○香《カ》は、哉《カ》なり、○歌(ノ)意は、白髪《シロカミ》になりて、老衰《オイオトロフ》るまで、くさ/”\深き恩澤《ミウツクシミ》を蒙《カヾフ》り、かやうの興ある折ふしにも、まづ最一《イヤサキ》に、召上《メシアゲ》られて、大御酒賜りなどするを思へば、げにも大御惠《オホミメグミ》の貴くもある哉、となり、諸兄大臣、和銅三年に從五位下になられしより、此(ノ)年まで三十七八年經、この後十餘年ありて、勝寶八年に、致仕したまへり、さればこの時はやよきほどの齢なれば、白髪までとのたまへるなり、
 
紀胡臣清人《キノアソミキヨヒトガ》。應《ウケタマハル》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
續紀に、和銅七年二月戊戌、詔2從六位上紀(ノ)朝臣清人、三《正八位下國史勝同上》宅臣藤麻呂(ニ)1、令v撰2國史1、靈龜元年正月癸巳、授2從五位下(ヲ)1、秋七月己丑、賜2從五位下紀(ノ)淨人數人(ニ)穀百斛(ヲ)1優(スト)2學士(ヲ)1也、養老元年七月庚申、賜2從五位下紀朝臣清人(ニ)穀一百斛(ヲ)1、優(スト)2學士(ヲ)1也、五年正月庚午詔2云々紀(ノ)朝臣清人云々等(ニ)1、退v朝之|令《後水》v侍2東宮1焉、甲戌詔曰、文人武士(ハ)國家所v重云々、因賜2從五位下紀(ノ)朝臣清人云々(ニ)各※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口(ヲ)1、七年正月丙子、授2從五位上(ヲ)1、天平四年十月丁亥、爲2右京亮(ト)1十三年七月辛亥、爲2治部(ノ)大輔兼文章博士(ト)1、十五年五月癸卯、授2正五位下(ヲ)1、十六年二月丙申、爲2平城宮(ノ)留守(ト)1、(閏正月乙亥行2幸難波(ノ)宮(ニ))1、〕十一月庚辰、授2從四位下1、十八年五月癸丑、爲2武藏守(ト)1、勝寶五年七月庚戌、散位從四位下紀(ノ)朝臣清人卒、
 
(458)3923 天下《アメノシタ》。須泥爾於保比底《スデニオホヒテ》。布流雪乃《フルユキノ》。比加里乎見禮婆《ヒカリヲミレバ》。多敷刀久母安流香《タフトクモアルカ》。
 
須泥爾《スデニ》は、本居氏云、常に云とは異にして、此《コ》は悉皆《コト/”\クミナ》と云意なり、古事記上(ツ)卷に、此(ノ)葦原(ノ)中(ツ)國者、隨v命|既獻《スデニタテマツラムヤ》也、同記序に、已《スデニ》因(テ)v訓(ニ)述者詞不逮(バ)v心(ニ)、書紀繼體天皇(ノ)卷には、全(ノ)字を、須傳爾《スデニ》とよめるも同意なり、既(ノ)字も本義は盡也と註せり、春秋などに、日有v食v之|既《ツク》と云類なり、然れば須傳爾《スデニ》と云言に、此(ノ)字を當たるも、もとは盡の義によれるにや、雅澄按に、既往の既は已也と註したれば、うるはしくは、スデニ〔三字右○〕とは訓べからず、ハヤク〔三字右○〕と訓べし、スデニ〔三字右○〕と訓ときは、盡也と註したる意得なり、されば、既(ノ)字に、もとより兩義あるを、おしなべて、スデニ〔三字右○〕と訓(ミ)、既往《ハヤク》の事をも、スデニ〔三字右○〕と云ことゝ意得たるは、後の誤なるべし、○香《カ》は、上の歌に同じく、哉《カ》、なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、雪の天(ノ)下にのこりなく降り覆ふを、天子の思光《ミヒカリ》のあまねきに比《タト》へたり、
 
紀朝臣男梶《キノアソミヲカヂガ》。應《ウケタマハル》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
續紀に、天平十五年五月癸卯、正六位上紀(ノ)朝臣小楫(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、六月丁酉、爲2弾正(ノ)弼(ト)1、十七年正月乙丑、授2從五位下1、十八年四月壬辰、爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、勝寶二年三月庚子、爲2山背(ノ)守(ト)1、六年十一月辛酉朔、東海道(ノ)巡察使、寶字四年正月戊寅、爲2和泉(ノ)守(ト)1、
 
3924 山乃可比《ヤマノカヒ》。曾許登母見延受《ソコトモミエズ》。乎登都日毛《ヲトツヒモ》。昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。由吉能布禮禮婆《ユキノフレレバ》。
 
山乃可比《ヤマノカヒ》は、山と山との間《アハヒ》をいへり、間《アハヒ》を可比《カヒ》と云は、麻那可比《マナカヒ》(目之間《マナカヒ》なり)などいふに同じ、(459)大殿祭詞に、今奥山乃大峽小峽爾立留木乎《イマオクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲ》云々、(字書に、山夾(ヲ)v水(ヲ)曰v峽(ト)、とあれど、此方にては、ただ山の間にのみ、此(ノ)字を用ひ來れり、)和名抄に、考聲切韻(ニ)云、峽(ハ)山間|陝《セバキ》處也、俗云、山乃加比《ヤマノカヒ》(俗云と云ることいかゞ、)とあり、古今集に、山のかひより、見ゆる白雲、山のかひある今日にやはあらぬ、などよめる、これなり、此(ノ)下には、夜麻可比《ヤマカヒ》ともよめり、さて雪の多く積りて、峽《カヒ》も埋るゝさまによみなしたり、○乎登都日《ヲトツヒ》は、彼津日《ヲチツヒ》にて、一昨日なり、彼《ヲチ》と云は、貫之の、昨日よりをちをばしらず、とよめる彼《ヲチ》、なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、梅(ノ)花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれゝば、これは今の歌の、面影をうつせるならむ、
 
葛井連諸會《フヂヰノムラジモロアヒガ》。應《ウケタマハル》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
續紀に、天平七年九月庚辰、先v是美作(ノ)守從五位下阿倍(ノ)朝臣帶麻呂等、故2殺(ス)四人(ヲ)1、其族人詣(テ)v官(ニ)申訴云々、正六位下葛井(ノ)連諸會云々等六人、坐《ツミセラル》v不(トイフニ)v理(メ)2訴人(ノ)事(ヲ)1、於是下(テ)2所司(ニ)1科斷(スルニ)、承伏既訖、有v詔竝宥(ム)之、十七年四月壬子、正六位上葛井(ノ)連諸會(ニ)、授2外從五位下(ヲ)1、十九年四月丁卯、爲2相摸(ノ)守(ト)1、寶字元年五月丁卯、授2從五位下(ヲ)1、
 
3925 新《アラタシキ》。年乃波自米爾《トシノハジメニ》。豐乃登之《トヨノトシ》。思流須登奈良思《シルストナラシ》。雪能敷禮流波《ユキノフレルハ》。
 
新は、アラタシキ〔五字右○〕と訓べし、(アタラシキ〔五字右○〕といふは、後世の轉訖なり、)この言既くたび/\云り、○波自米《ハジメ》の波(ノ)字、舊本に婆と作るはわろし、今は元暦本、古寫小本等に從つ、○豐乃登之《トヨノトシ》は、左(460)傳豐年の註に、五穀皆熟(スルヲ)爲2有年(ト)1大熟(ハ)大有年也、と見えたるが如し、雪を豐年の瑞《シルシ》とすることも、本(ト)漢國の説より起《ハジマ》れるなるべし、文選謝惠連(ガ)雪(ノ)賦に、盈(レハ)v尺(ニ)則呈2瑞(ヲ)於豐年(ニ)1、丈則表2殄(ヲ)於陰徳(ニ)1とあり、雪を佳瑞とすることは、なほ次に云べし、○思流須登奈良思《シルストナラシ》は、表《シル》すとに有《アル》らしと云なり、表《シルス》は、表《アラハス》v瑞《シルシヲ》と云意なり、續紀九(ノ)卷詔に、去年九月《コゾノナガツキ》、天地※[貝+兄]大端物顯來理《アメツチノタマヘルオホキシルシノモノアラハレケリ》云々、皇朕賀御世當顯見留物爾者不在《スメラアガミヨニアタリテアラハルルモノニハアラジ》、今將嗣坐御世名乎記而《イマツギマサムミヨノナヲシルシテ》、應來顯來留物爾在良志《コタヘキタリアラハレキタルモノニアルラシ》、止所念坐而《トオモホシマシテ》云々、とある記而《シルシテ》も、年(ノ)號とすべき端物《シルシノモノ》の表《アラハ》れたるを云るにて、今と同じ、本居氏云、凡てしるしは、しるすを體言になしたるにて、本一(ツ)言なり、○終の波(ノ)字、元暦本に、婆と作るはわろし、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、正月に雪の多く降るを豐年の瑞とするよしなり、からくに孝武帝、大明五年正月朔日、雪降、義泰以v衣(ヲ)受v雪(ヲ)爲2佳瑞(ト)1、とも見えて、正月に雪の降を、ことに佳瑞とすることも、もと漢にならへるなり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。應《ウケタマハル》v詔《ミコトノリヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
3926 大宮能《オホミヤノ》。宇知爾毛刀爾毛《ウチニモトニモ》。比賀流麻泥《ヒカルマデ》。零須白雪《フラスシラユキ》。見禮杼安可奴香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
宇知爾毛刀爾毛《ウチニモトニモ》は、内《ウチ》にも外《ト》にもなり、さて、内にも外にも零有《フレル》とつゞく意持なり、○零須、フラス〔三字右○〕にては、穩ならず、元暦本に、假字はフレル〔三字右○〕とあれば、須は流の誤にて、フレル〔三字右○〕なるべし、十九に、大宮能内毛外爾母米都良之久布禮留大雪莫踏禰乎之《オホミヤノウチニモトニモメヅラシクフレルオホユキナフミソネヲシ》、○歌(ノ)意は、此《コヽ》も彼《カシコ》も光《シカ》るまで、宮(461)城門の内にも外にも見事《ミゴト》に降(レ)る白雪の、見れども、見れども、さても飽ぬ車哉、となり、
 
藤原豐成朝臣《フヂハラノトヨナリノアソミ》。巨勢奈弖麻呂朝臣《コセノナデマロノアソミ》。大伴牛養宿禰《オホトモウシカヒノスクネ》。藤原仲麻呂朝臣《フヂハラノナカマロノアソミ》。三原王《ミハラノオホキミ》。智奴王《チヌノオホキミ》。船王《フネノオホキミ》。邑知王《オホチノオホキミ》。小田王《ヲタノオホキミ》。林王《ハヤシノオホキミ》。穗積朝臣老《ホヅミノアソミオユ》。小|治〔○で囲む〕田朝臣諸人《ヲハリタノアソミモロヒト》。小野朝臣鋼手《ヲヌノアソミツナテ》。高橋朝臣國足《タカハシノアソミクニタリ》。太朝臣コ太理《オホノアソミトコタリ》。高丘連河内《タカヲカノムラジカフチ》。秦忌寸朝元《ハタノイミキテウグエム》。楢原造東人《ナラハラノミヤツコアヅマヒト》。右件王卿等《ミギノクダリノオホキミマヘツキミタチ》。應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》作歌《ヨメルウタ》。依《マニマニ》v次《ツギテノ》奏之《マヲセリキ》。登時《スナハチ》不《ズ》v記《シルサ》2其歌漏失《ソノウタノモレシヲバ》1。但秦忌寸朝元者《タダハタノイミキテウグエムハ》。左大臣橘卿謔曰《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノマヘツキミノタハブレテノタマハク》。靡《ズバ》v堪《アヘ》v賦《ヨミ》v歌《ウタヲ》。以《モチテ》v麝《カホリケダモノ》贖之《アガヘトノリタマヘリ》。因《ヨリテ》v此《コレニ》黙止《モダリキ》也。
 
藤原豐成(ノ)朝臣は、傳上に委(ク)云り、○巨勢(ノ)奈底麻呂(ノ)朝臣(底(ノ)字、元暦本には弖と作り、)は、續紀に、天平元年三月甲午、正六位上巨勢(ノ)朝臣奈※[氏/一]麻呂(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、三年正月丙子、授2從五位下(ヲ)1、八年正月辛丑、授2正五位下(ヲ)1、九年八月甲子、爲d造2佛像1、司長官(ト)u、九月己亥、授2從四位下(ヲ)1、十年正月乙未、爲2民部卿(ト)1、十一年四月壬午、民部(ノ)卿兼春宮(ノ)大夫從四位下巨勢(ノ)朝臣奈※[氏/一]麻呂爲2參議(ト)1、十三年閏三月乙卯、授2從四位上(ヲ)1、四月辛丑、遣2從四位上巨勢(ノ)朝臣奈※[氏/一]麻呂云々等(ヲ)1、※[手偏+僉]d※[手偏+交](セシム)河内與2攝津1、相2爭河堤(ヲ)1所u、七月辛亥、從四位上勲十二等巨勢(ノ)朝臣奈※[氏/一]麻呂、爲2左大辨兼神祇(ノ)伯(ト)1、辛酉、授2正四位上(ヲ)1、竝賜以2金牙(ニテ)飾(レル)班《斑水》竹御杖1、九月乙卯、勅以2京都新(ニ)遷(セルヲ)1大2赦天下(ニ)1、奈底麻呂爲2造宮卿(ト)1、十四年二月丙子朔、授2從三位(ヲ)1、八月己亥、行2幸紫香樂(ノ)宮(ニ)1、以2奈底麻呂(ヲ)1爲2留守(ト)1、十二月庚子、云々(同上)十五年四月壬(462)申、云々(同上)五月癸卯、爲2中納言(ト)1、七月癸亥、行2幸紫香樂(ノ)宮(ニ)1以2奈底麻呂(ヲ)1爲2留守(ト)1、十六年丙申、持2留守宮所v給鈴印(ヲ)1詣2難波(ノ)宮(ニ)1、十七年八月癸丑、行2幸難波(ノ)宮(ニ)1、以2奈底麻呂(ヲ)1爲2留守爲1、九月丙申、奈底麻呂等言、巨勢(ノ)朝臣等久時(ヨリ)所v訴奴婢二百三人、今|既《停水》訴請v從v良、許之、十八年四月丙戌、兼2北陸山陰兩道(ノ)鎭撫使(ヲ)1、二十年二月己未、授2正三位(ヲ)1、勝寶元年四月甲午朔、授2從二位(ヲ)1爲2大納言(ト)1、五年三月辛未、大納言從二位兼神祇(ノ)伯造宮(ノ)卿巨勢(ノ)朝臣奈※[氏/一]麻呂薨、小治田(ノ)朝、小徳大海(ノ)之孫、淡海(ノ)朝、中納言大雲比登之子也、〔頭註、【補任、巨勢人臣爲御史大夫、(天智十年)】〕○大伴(ノ)牛養(ノ)宿禰、(養(ノ)字完暦本には飼と作り、)續紀に、和銅二年正月丙寅、從六位上大伴(ノ)宿禰牛養(ニ)授2從五位下(ヲ)1、三年五月戊午、爲2遠江(ノ)守(ト)1、七年三月乙卯、授2從五位上(ヲ)1、養老四年正月甲子、授2正五位下(ヲ)1、天平九年九月己亥、授2正五位上(ヲ)1、十年正月壬午、授2從四位下(ヲ)1、閏七月癸卯、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、十一年四月壬午、爲2參議(ト)1、十四年八月己亥、行2幸紫香樂(ノ)宮(ニ)1牛養(ヲ)爲2平城(ノ)留守(ト)1、十五年五月癸卯、授2從四位上(ヲ)1、十六年丙申、以2兵部(ノ)卿從四位上大伴(ノ)宿禰牛養云々(ヲ)1、爲2恭仁(ノ)宮(ノ)留守(ト)1、十七年正月乙丑、授2從三位(ヲ)1、十八年四月丙戌、爲2兼山陽道(ノ)鎭撫使(ト)1、勝寶元年四月甲午朔、授2正三位(ヲ)1爲2大納言(ト)1、閏五月壬戌、中納言正三位大伴(ノ)宿禰牛養薨、大徳咋子(ノ)連(ノ)孫、贈大錦中吹負之男(ナリ)、と見えたり、○藤原(ノ)仲麻呂(ノ)朝臣は、續紀に、天平六年正月己卯、正六位下藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十一年正月丙午、授2從五位上(ヲ)1、十二年正月庚子、授2正五位下(ヲ)1、十月丙子、爲2前(ノ)騎兵(ノ)大將軍(ト)1、(伊勢に行幸の爲なり、)十一月甲辰、授2正五位上(ヲ)1、十三年閏三月乙卯、授2從四位(463)下(ヲ)1、四月辛丑、遣2仲麿(ヲ)1※[手偏+僉]d※[手偏+交](セシム)河内與2攝津1相2爭河堤1所u、七月辛亥、爲2民部(ノ)卿1、十四年八月己亥、行2幸紫香樂宮(ニ)1、以2仲麿(ヲ)1爲2平城(ノ)留守1、十二月庚子、行2幸紫香樂(ノ)宮(ニ)1、仲麿(ヲ)爲2留守(ト)1、十五年五月癸卯、授2從四位上(ヲ)1、爲2參議(ト)1、六月丁酉、爲2左京(ノ)大夫(ト)1、十六年閏正月乙亥、行2幸難波(ノ)宮(ニ)1、以2仲麿(ヲ)1、爲2留守(ト)1、十七年正月乙丑、授2正四位上(ヲ)1、九月戊午、爲2近江(ノ)守(ト)1、十八年三月丁巳、式部(ノ)卿(ト)1、四月丙戌、爲2兼東山道(ノ)鎭撫使(ト)1、癸卯、授2從三位(ヲ)1、二十年三月壬辰、授2正三位(ヲ)1、藤寶元年七月甲午爲2大納言(ト)1、八月辛未、爲2兼紫微(ノ)令(ト)1、(補任云、中衛大將、中務(ノ)卿)二年正月乙巳、授2從二位1、四年四月乙酉、行2幸東大寺(ニ)1、云々、是夕天皇還2御大納言藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ノ)田村(ノ)第(ニ)1、以爲2御在所(ト)1、八歳十月癸卯、獻2東大寺(ニ)米一千斛、雜菜一千缶(ヲ)1、寶字元年四月辛巳、云々、先v是(ヨリ)仲麻呂招2大炊(ノ)王(ヲ)1居2於田村第1、是日云々、迎2大炊(ノ)王1、立爲2皇太子1、五月辛亥、天皇移2御田村(ノ)宮(ニ)1、爲v改2修大宮(ヲ)1也、丁卯以2云々仲麻呂(ヲ)1爲2紫微(ノ)内相(ト)1云々、其(ノ)官位録賜職分雜物者、皆准2大臣(ニ)1、二年八月甲子、任2大保(ニ)1勅曰云々、自今以後宜2姓(ノ)中加2惠美(ノ)二字(ヲ)1、禁v暴(ヲ)勝v強(ニ)止v戈(ヲ)靜v亂(ヲ)、故名(テ)曰2押勝(ト)1、朕舅之中汝卿良尚(シ)故字(シテ)稱2尚舅(ト)1、更(ニ)給2功封三千戸、功田一百町(ヲ)1、永(ク)爲2傳世之賜(ト)1、以表2不v常之勲(ヲ)1、別聽2鑄餞擧稻及用2惠美(ノ)家(ノ)印(ヲ)1、是日、大保從二位兼中衛(ノ)大將藤原(ノ)惠美(ノ)朝臣押勝云云等、奉v勅改2易官號(ヲ)1、云々、右大臣曰2大保(ト)1、三年正月甲午、宴2蕃客(ヲ)於田村(ノ)第(ニ)1、十一月壬辰、勅益2帶刀資人二十人(ヲ)1、通v前(ニ)四十人、四年正月丙寅、授2從一位(ヲ)1、高野(ノ)天皇口勅曰云々、藤原(ノ)惠美(ノ)朝臣|能大保乎《ノダイホウヲ》、大師《ダイシ》(太政大臣)乃官仁上奉止授賜夫《ノツカサニアゲマツルトノリタマフ》云々、即召2大師(ヲ)1、賜2隨身(ノ)〓(ヲ)1、十月壬戌、賜(フ)2大師(ニ)稻一百萬束(ヲ)1、(464)以v遷(スヲ)2都(ヲ)保良(ニ)1也、六年二月辛亥、授2正一位(ヲ)1、甲子、賜2近江(ノ)國淺井高島二郡(ノ)鐵穴(ノ)各處(ヲ)1、五月丙午、賜2帶刀資人六十人(ヲ)1、通v前一百人、八年九月丙申、爲2都督使(ト)1、畿内三關近江丹波播磨等(ノ)國(ニ)習(シム)2兵事(ヲ)1、乙巳、逆謀顯泄云々、是夜押勝走2近江(ニ)1、官軍追討、壬子、軍士石村(ノ)村主石楯、斬2押勝(ヲ)1、傳2首(ヲ)京師(ニ)1、押勝者、近江(ノ)朝、内大臣藤原朝臣鎌足(ノ)曾孫、平城(ノ)朝、贈太政大臣武智麻呂之第二子也、と見えたり、大師大傅大保と云は、もろこし周と云し代の三公なり、唐と云し代には、是を三師と云て、三公の上にたてたりしよし、そも/\この仲麻呂は、孝謙天皇の天(ノ)下しろしめししほどの政は、何事も心のまゝに奏《マヲ》し行へりしが、いみじく漢學を好みて、よろづ漢めきたる事殊に多く、官(ノ)名をさへに、ひたぶるに、かくからざまにはなしたりしなり、されば、この仲麻呂逆臣|誅《コロ》されて、ほどなく官(ノ)名をも改《カヘ》て舊に復されしなり、〔頭註、【詔詞解四、そも/\此の天皇を、皇太子に定め奉りしより始めて、すべて此ほどの政は、何事もみな此仲麻呂奴が、心のまゝに申行へりしなり、此奴は殊に、漢學を好みけるまゝに、此ほどは、よろづからめきたる事ことに多く、官名をさへに、かくひたぶるに、からにはなせるなり、故此後、同八年九月、此穢奴誅されて、同月に勅逆人仲麻呂執v政奏改2官名1、宜v復v舊焉と有、大師大傅大保といふは、もろこしの國の周の代の三公なり、又唐の代には是を三師といひて、三公の上にたてたりき、】〕○三原(ノ)王は、舍人(ノ)親王の御子にて、傳八(ノ)卷(ノ)下に引り、○智努(ノ)王は、續紀に、養老元年正月乙巳、授2無位智努(ノ)王(ニ)從四位下(ヲ)1、十月戊寅、益v封(ヲ)、(公卿補任云、養老二年九月丁未、爲2大舍人(ノ)頭(ト)1、)神龜五年十一月乙未、爲d造(ル)2山房(ヲ)1司(ノ)長官(ト)u、天平元年三月甲午、授2從四位上(ヲ)1、十一年三月癸丑、詔曰、得2從四位上治部(ノ)卿茅野(ノ)王等奏(ヲ)1※[人偏+稱の旁](ク)云々、十二年十一月甲辰、授2正四位下(ヲ)1、十三年八月丁亥、爲2木工(ノ)頭(ト)1、九月乙卯、爲2造(465)宮(ノ)卿(ト)1、十四年正月癸丑、賚2東※[糸+施の旁]六十疋、綿三百屯(ヲ)1、以v勤2造宮殿(ヲ)1也、八月癸未、詔曰、朕將v行2幸近江(ノ)國甲賀(ノ)郡紫香樂(ノ)村(ニ)1、即以2茅野王等四人(ヲ)1、爲d造2離宮(ヲ)1司(ト)u、十八年四月癸卯、授2正四位上(ヲ)1、十九年正月丙申、授2從三位(ヲ)1、勝寶四年八月乙丑、賜2文室(ノ)眞人(ノ)姓(ヲ)1、六年四月庚午、從三位文室(ノ)眞人珍努(ヲ)爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、寶字元年六月壬辰、爲2治部(ノ)卿(ト)1、二年六月丙辰、參議從三位文室(ノ)眞人知努、爲2出雲(ノ)守(ト)1、八月癸亥、知努等奉v勅(ヲ)改2易官號(ヲ)1、三年六月丙辰、參議從三位出雲(ノ)守文室眞人智努、及少僧都慈訓、奏v状云云、四年正月丙寅、爲2中納言(ト)1、六月乙丑、天平應眞仁正皇太后崩(ズ)、云々、以2知努等十二人(ヲ)1爲2山作司(ト)1、五年正月戊子、從三位文屋(ノ)眞人淨三授2正三位(ヲ)1、(淨三は、智努の事なり、名を改められしこと見えず、)十月壬戌、賜2稻四萬束(ヲ)1、六年正月癸未、爲2御史大夫(ト)1、八月丙寅、以2年老力哀(ヲ)1、優詔特聽2宮中持v扇策1v杖(ヲ)、十一月丁丑、遣2淨三等四人(ヲ)1、奉2幣(ヲ)於伊勢大神宮(ニ)1、十二月乙巳朔、爲2神祇(ノ)伯(ト)1、八年正月乙巳、授2從二位(ヲ)1、九月戊戌、致仕云々、仍賜2几杖并新錢十萬文(ヲ)1、丙午云々、又勅、前(ノ)大納言文室(ノ)眞人淨三、先縁v致2仕職分等(ヲ)1、雜物減v半(ヲ)者、宜d改2先勅1依v舊全賜u、景雲二年十月甲子、賜2太宰綿六千屯(ヲ)1、爲v買2新羅交開(ノ)物(ヲ)1也、寶龜元年十月丁酉、從二位文室(ノ)眞人淨三薨(ズ)、一品長(ノ)親王之子也、歴2職内外1、至2大納言(ニ)1、年老致仕、退2去私第(ニ)1、〔頭註、【公卿補任、天平寶字五年正月十四日、敍2正三位1、即改2名智奴1、爲2淨三1、】〕○船(ノ)王は、舍人(ノ)親王の御子にて、傳、六(ノ)卷下に見えたり、○邑知(ノ)王は、續紀に、(慶雲元年春正月癸巳、無位大市(ノ)王(ニ)授2從《正歟》四位下(ヲ)1、三年十一月戊申、從五位下大市(ノ)王(ヲ)爲2伊勢(ノ)守(ト)1とあるは、別人なり、天平十一年正月丙午、無位大市(ノ)王(ニ)(466)授2從四位下(ヲ)1、十五年六月丁酉、爲2刑部(ノ)卿(ト)1、十八年四月壬辰、爲2内匠(ノ)頭(ト)1、勝寶三年正月己酉、授2從四位上(ヲ)1、六年九月丙申、文室(ノ)眞人大市爲2大藏(ノ)卿(ト)1、寶字元年五月丁卯、文室(ノ)眞人大市(ニ)授2正四位下(ヲ)1、六月壬辰、爲2弾正(ノ)尹(ト)1、三年十一月丁卯、爲2節部(ノ)卿(ト)1、(大藏)五年六月己卯、賜2爵一級(ヲ)1、十月壬子朔、爲2出雲(ノ)守(ト)1、八年九月己卯、爲2民部(ノ)卿(ト)1、神護元年正月己亥、授2從三位(ヲ)1、二年七月乙亥、出雲(ノ)國按察使從三位文室(ノ)眞人大市(ヲ)爲2參議(ト)1、景雲二年十月甲子、賜2中務(ノ)卿從三位文室(ノ)眞人大市(ニ)太宰綿四千屯(ヲ)1、爲v買2新羅交開(ノ)物(ヲ)1也、寶龜元年十月己丑朔、授2正三位(ヲ)1、二年三月庚午、爲2大納言(ト)1、七月丁未、爲2兼弾正(ノ)尹(ト)1、十一月庚戌、敍2從二位(ニ)1、十二月戊午、爲2兼治部(ノ)卿(ト)1、三年二月癸丑、上表(シテ)乞2骸骨(ヲ)1、曰云々、詔報宜d隨2力(ノ)所(ニ)1v堪(ル)如v常(ノ)仕奉(ル)u、五年三月甲辰、爲2兼中務(ノ)卿(ト)1、八月戊申、重(テ)乞2致仕(セムト)1、詔云々、體力勇健、隨2時節1而朝參、因賜2御杖(ヲ)1、十一月甲辰、授2正二位(ヲ)1、十一年十一月戊子、前(ノ)大納言正二位文室(ノ)眞人邑珍薨(ズ)、二品長(ノ)親王之第七子也、天平中、授2從四位下(ヲ)1、拜2刑部(ノ)卿(ニ)1、勝寶四歳、賜2姓文室(ノ)眞人(ヲ)1、勝寶以後、宗室枝族陷v辜者衆(シ)、邑珍削v髪(ヲ)爲2沙門(ト)1、以v圖2自全(カラムコトヲ)1、寶龜(ノ)初、至2從二位大納言(ニ)1、年老致仕、有v詔不v許(シタマハ)、五年重乞2骸骨(ヲ)1、許(シタマフ)之、尋(デ)授2正二位(ヲ)1、薨時年七十七、○小田(ノ)王(小(ノ)字、舊本に山と作り、山田(ノ)王と云は、續紀に見えず、今は元暦本に從つ、)は、續紀に、天平六年正月己卯、無位小田(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十年閏七月癸卯、爲2大藏(ノ)大輔(ト)1、十六年二月丙申、以2木工(ノ)頭從五位|上《下歟》小田(ノ)王(ヲ)1、爲2恭仁(ノ)宮(ノ)留守(ト)1、十八年四月庚子、爲2因幡(ノ)守1、癸卯、授2從五位上(ヲ)1、勝寶元年十一月己未、由機須岐(ノ)國司從五位上小田(ノ)王授2從五位下(ヲ)1、庚申、(437)授2正五位上(ヲ)1、と見えたり、○林(ノ)王は、續紀に、天平十五年五月癸卯、無位林(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、六月丁酉、爲2圖書(ノ)頭(ト)1、寶字三年六月庚戌、無位林(ノ)王授2從四位下(ヲ)1、五年正月戊子、從五位下林(ノ)王(ニ)授2從五位上(ヲ)1、(五は二(ツ)ともに、四(ノ)字を誤れるか、)六年正月戊子、從四位下林(ノ)王爲2木工(ノ)頭(ト)1、(下は、上(ノ)字を誤れるか、)寶龜二年九月丙申、從四位上三島(ノ)王之男林(ノ)王(ニ)賜2姓山邊(ノ)眞人(ヲ)1、○穗積(ノ)朝臣老は、傳、三(ノ)卷上に見えたり、○小|治〔○で囲む〕田(ノ)朝臣諸人(治(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、)は、續紀に、天平元年三月甲午、正六位上小治田(ノ)朝臣諸人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、九年十二月壬戌、爲2散位(ノ)頭(ト)1、十年八月乙亥、爲2備《豐古寫是》後守1、十八年五月戊午、授2從五位下(ヲ)1、勝寶六年正月壬子、授2從五位上(ヲ)1、と見えたり、○小野(ノ)朝臣綱手(綱(ノ)字、舊本に網と作るは誤なり、)は、續紀に、天平十二年十一月甲辰、正六位上小野(ノ)朝臣綱手(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十五年六月丁酉、爲2内藏(ノ)頭(ト)1、十八年四月壬寅、爲2上野(ノ)守(ト)1、癸卯、授2從五位下(ヲ)1、○高橋(ノ)朝臣國足は、續紀に、天平十五年五月癸卯、正六位上高橋(ノ)朝臣國足(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十八年四月癸卯、授2從五位下(ヲ)1、閏九月戊子、爲2越後(ノ)守(ト)1、○太(ノ)朝臣徳太理は、續紀に、天平十七年正月乙丑、正六位上太(ノ)朝臣徳足(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十八年四月癸卯、授2從五位下(ヲ)1、○高丘(ノ)連河内は、傳、六(ノ)卷(ノ)下に見えたり、○秦(ノ)忌寸朝元は、續紀に、養老三年四月丁卯、秦(ノ)朝元賜2忌寸(ノ)姓(ヲ)1、五年正月甲戌、詔曰、云々、(二(ノ)卷津守(ノ)連通が傳に引が如し、)醫衝從六位下秦(ノ)朝元(ニ)賜2※[糸+施の旁]十疋、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口(ヲ)1、天平二年三月辛亥、太政官奏(シテ)※[人偏+稱の旁](ク)云々、又諸蕃異域、風俗不v同、若無2譯語1難2以通(ジ)1v事仍仰(セ)2云々秦(ノ)朝元云々等(468)五人(ニ)1、各取2弟子二人(ヲ)1、令v習(ハ)2漢語(ヲ)者《トイヘリ》、詔(シテ)竝(ニ)許(シタマフ)之、三年正月丙子、正六位上秦(ノ)忌寸朝元(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、七年四月戊申、授2外從五位上(ヲ)1、九年十二月壬戌、爲2圖書(ノ)頭(ト)1、十八年三月丁巳、爲2主計(ノ)頭(ト)1、懷風藻(ニ)云、辨正法師者、俗姓秦氏云々、大寶年中、遣2學唐國(ニ)1云々、有2子朝慶朝元1、法師及慶在v唐(ニ)死(レリ)、元歸(リ)2本朝(ニ)1、仕(テ)至2大夫(ニ)1、天平年中、拜2入唐(ノ)判官(ニ)1、到2大唐(ニ)1見2天子(ヲ)1、天子以2其父(ノ)故(ヲ)1、特(ニ)優詔、厚賞賜、還2至本朝(ニ)1、尋(デ)卒(レリ)、○楢原(ノ)造東人は、續紀に、天平十七年正月乙丑、正六位上楢原(ノ)造東人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十八年五月戊午、授2從五位下(ヲ)1、十九年三月乙丑、爲2駿河(ノ)守(ト)1、勝實二年三月戊戌、駿河(ノ)國(ノ)守從五位(ノ)下楢原(ノ)造東人等、於2部内廬原(ノ)郡多胡(ノ)浦濱(ニ)1、獲(テ)2黄金(ヲ)1獻(レリ)之、(練金一分、沙金一分、)於是東人等(ニ)賜2勤(ノ)臣(ノ)姓(ヲ)1、五月丙午、伊蘇志(ノ)臣束人之親族三十四人(ニ)、賜2姓伊蘇志(ノ)臣族(ヲ)1、十二年癸亥、授2從立位上(ヲ)1、寶字元年五月丁卯、授2正五位下(ヲ)1、○朝元者の下、歌を作こと能はざりしよし、數語ありしが、脱たるにや、○謔曰云云(謔(ノ)字、舊本諺と作り、集中謔諺通(ハシ)用たりとおぼゆること、かた/”\あり、但し今は、元暦本に謔と作る、正しきかたに從つ、)は、上に云るごとく、朝元は唐(ノ)國にて生れし人にて、醫術漢學の方には長《タケ》たれど、歌よむことは得ざりしからに、貴き贖物《アガモノ》を出せと、謔ていはれしなるべし、○麝は、和名抄に爾雅註(ニ)云、麝(ハ)脚似v〓(ニ)而有v香、と見ゆ、かくから國の物を、贖物に出せといはれしが、即(チ)謔なり、
 
大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。以|天平十八年閏七月《テムヒヤウトトセマリヤトセトイフトシノノチノフミツキニ》。被《レ》v任《マケラ》2越中國守《コシノミチノナカノクニノカミニ》1。即(チ)取七月《フミツキニ》。赴《ユク》2任(469)所《マケドコロニ》1。於時姑大伴坂上郎女《トキニヲバオホトモノサカノヘノイラツメガ》。贈《オクレル》2家持《ヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
閏七月いかゞ、傳寫の誤あるにや、夏六月に改むべし、續紀を考(フ)るに、六月壬寅、大伴(ノ)宿禰家持爲2越中(ノ)守(ト)1、と見えて、又九月に閏ありて、七月に閏なし、次の文に、取2七月1、とあれば、六月ならでは、次もかなひがたし、○越中(ノ)國(ノ)守、民部式に、越中(ノ)國上、職員令に、上國守一人、介一人、掾一人、目一人、史生三人、〔頭註、【纂疏云、越州者彼地有v坂、名曰2角鹿1、行人必踰2此坂1入2越※[糸+施の旁]1、故名曰v越也、】〕○姑は、玉篇に、父之姉妹(ナリ)、和名抄に、九族圖(ニ)云、伯母(和名|乎波《ヲバ》)今按(ニ)、父之姉也、また九族圖(ニ)云、叔母(和名同上)今按(ニ)、父之妹也、爾雅(ニ)云、父之姉妹(ヲ)爲v姑(ト)、とあり、(和名抄舊本はたがひあり、今は大須本に從て由り、)坂上(ノ)郎女は、旅人卿の妹なれば、家持の爲|姑《ヲバ》なり、又妻の母なれば外姑《シヒトメ》にてもあるなり、
 
3927 久佐麻久良《クサマクラ》。多妣由久吉美乎《タビユクキミヲ》。佐伎久安禮等《サキクアレト》。伊波比倍須惠都《イハヒヘスヱツ》。安我登許能弊爾《アガトコノベニ》。
 
久佐麻久良《クサマクヲ》は、まくら詞なり、○歌(ノ)意は、旅行(ク)君が平安《サキ》くあれとて、床の邊に忌瓮《イハヒベ》を居て、神祇を齋《イハ》ふぞ、となり、廿(ノ)卷追2痛防人悲別之心1歌にも、伊波比倍乎等許敝爾須惠弖《イハヒヘヲトコヘニスヱヲ》云々、とあり、古(ヘ)旅立る跡の床を齋《イハ》へること、かた/”\に見えたり、と略解にも云るが如し、(但し我(ガ)床の方《ベ》といへるは、古(ヘ)旅立る人の妻、或は親しき人、其床に臥守をこと有て、かくいへるか、と云るは、我《ア》がの言に、甚く泥めり、と見えたり、こは吾之《アガ》の言は甚輕くして、吾がいはひべを、床の方にす(470)ゑつ、といふほどに見てありぬべきことなるをや、)
 
3928 伊麻能其等《イマノゴト》。古非之久伎美我《コヒシクキミガ》。於毛保要婆《オモホエバ》。伊可爾加母世牟《イカニカモセム》。須流須邊乃奈左《スルスベノナサ》。
 
須流須邊乃奈左《スルスベノナサ》は、爲《ス》る爲方《スベ》の無也《ナサ》にて、爲《ナ》す爲方《シカタ》の無さ、いはむ方なし、といふが如し、(勢牟須辨《セムスベ》は、爲《ナサ》む爲方《シカタ》といふにあたりて、行さきをかねて云、須流須邊《スルスベ》は、爲《ナ》す爲方《シカタ》といふにあたりて、さしあたりたる即(チ)今を云との差別《ケヂメ》あり、しかるを略解に、するすべは、せむすべに同じと、一(ト)くゝりにいへるは、ときざま宜しからず、)○歌(ノ)意は、今別れむと臨《ス》る時の如く、別れて後後も、君が戀しく思はるゝならば、其(ノ)時いかにして、思に堪むや、されど其(レ)までもなし、今さしあたりて、爲る爲方のなきこと、たとへて云む方もなし、となり、(略解に、伎美我《キミガ》は、後に、君をといふ意なり、といへるは、たがへり、凡ておもふと云につゞくる時は、必(ズ)君をおもふ、妹をおもふなどやうにいひ、おもほゆるといふにつゞくる時は、君がおもゆる、妹がおもほゆるなどやうに云ことは、後とても、異なることなきをや、おもぼゆるは、思はるゝと云ことなればなり、)
 
更《マタ》贈《オクル》2越中國《コシノミチノナカノクニヽ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
更贈も同じ、姑大伴(ノ)坂上(ノ)郎女よりなり、
 
(471)3929 多妣爾伊仁思《タビニイニシ》。吉美志毛都藝底《キミシモツギテ》。伊米爾美由《イメニミユ》。安我加多孤悲乃《アガカタコヒノ》。思氣家禮婆可聞《シゲケレバカモ》。
 
吉美志毛《キミシモ》は、あるが中にも君が、と云ほどの意なり、志毛《シモ》は、數ある物の中をとり出て云辭なり、○歌(ノ)意は、世(ノ)中には、さま/”\の物思(ヒ)あるが中にも、此(ノ)ほど他《ホカ》のことなく、旅に出行し君が、つゞきて毎夜《ヨゴト》に夢に見ゆるは、そこにも我を思へるが故に、吾(ガ)夢に、吾が入來れる歟、いなさはあらで、我(ガ)片思ひのしげきが故に、思ひねの夢に見ゆる歟、さても寐ても寤《サメ》ても、戀しく思はるゝ事哉、となり、古今集に、君をのみおもひねにせし夢なれば我(ガ)心から見つるなりけり
 
3930 美知乃奈加《ミチノナカ》。久爾都美可未波《クニツミカミハ》。多妣由伎母《タビユキモ》。之思良奴伎美乎《シシラヌキミヲ》。米具美多麻波奈《メグミタマハナ》。
 
美知乃奈加《ミチノナカ》は、越中をば、越之道之中《コシノミチノナカ》と云が故なり、○久爾都美可未《クニツミカミ》は國津御神《クニツミカミ》にて、國中《クニウチ》に座す御神を云、(地祇《クニツカミ》といふ義には非ず、)既く一(ノ)卷、樂浪乃國都美神乃浦佐備而《サヽナミノクニツミカミノウラサビテ》云々の歌に、委(ク)註り、○之思良奴伎美《シシラヌキミ》は、爲《シ》不v知(ラ)君にて、未(ダ)旅行を爲て試みたることもなきを云、家持(ノ)卿、いまだ三十歳にもたらぬほどなれば、姑《ヲバ》の情|然《サル》ことなり、○米具美多麻波奈《メグミタマハナ》は、契冲、惠み給はねといふなり、と云るが如し、即(チ)奈《ナ》は禰《ネ》と通ひて、希望(フ)辭なり、いかで惠み給へかし、と希ふ意な(472)り、其(ノ)禰《ネ》の辭は、一(ノ)卷雄略天皇(ノ)大御歌に、名告沙根《ナノラサネ》とある所に、委(ク)註るが如し、さて奈《ナ》と通(ハシ)云るは、集中には、此(ノ)一首の外に見ゆることなし、佛足石(ノ)歌に、和多志多麻波奈《ワタシタマハナ》、また須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》、などあるこの奈《ナ》は禰《ネ》に通(ハシ)云るにて、濟《ワタシ》し給へかし、救《スク》ひ給へかしと希へる意にて、今の歌に同じ、又續紀十五詔に、一二人乎治賜波奈止那毛所思須等奏賜止詔《ヒトリフタリヲヲサメタハナトナモオモホストマヲシタマフトノル》、とあるも、今の歌なるに、全(ラ)同じ、○歌の意かくれなし、親族愛情深くあはれにこそ、
 
平群氏女郎《ヘグリウヂノイラツメガ》。贈《オクレル》2越中守大伴宿禰家持《コシノミチノナカノカミオホトモノスクネヤカモチニ》1歌十二首《ウタトヲマリフタツ》。
 
平群氏(ノ)女郎は、傳未(ダ)詳ならず、
 
3931 吉美爾餘里《キミニヨリ》。吾名波須泥爾《ワガナハスデニ》。多都多山《タツタヤマ》。絶多流孤悲乃《タエタルコヒノ》。之氣吉許呂可母《シゲキコロカモ》。
 
須泥《スデ》は、盡《コト/”\ク》と云ことにて、此(ノ)上に註たる如し、こゝは、四方に廣く殘りなくと云ほどの意なり、既往《ハヤク》のことを、須泥爾《スデニ》と云たることは、古(ヘ)にあることなし、(さればこゝは、既徃《ハヤ》く名の立たる謂にはあらず、)○多都多山《タツタヤマ》は、上よりは、名の立といひかけ、下に連けるは、多都《タツ》を斷《タツ》の意に取て、斷絶《タツタユ》と係れるなるべし、(略解に、立田山は、繁と云へつゞくなるべし、といへれど、さる意にはあらじ、)さて女郎平群氏なれば、即(チ)平群(ノ)郡に住て、其所の名處をいへるにやあらむ、○歌(ノ)意は、君故に、吾(ガ)名は四方に廣く、殘りなく立たりしが、廣く名の立たるうへは、今更思ひ放つべきにもあらぬを、かく遙に別れ居て、絶たる中の戀情の、さても繁きこの頃にもある哉、とな(473)り、さて此(ノ)歌、右に云如く、立田山に、兩(ツ)の用をもたせて、こちたくいひめぐらせれど、調のなだらかに聞えて、耳立ざるは、妙《すぐ》れたる歌よみなるべし、
 
3932 須麻比等乃《スマヒトノ》。海邊都禰佐良受《ウミヘツネサラズ》。夜久之保能《ヤクシホノ》。可良吉戀乎母《カラキコヒヲモ》。安禮波須流香物《アレハスルカ》。
 
海邊都禰左良安《ウミヘツネサラズ》は、常に海邊を離《ハナレ》ずしての意なり、○安禮波《アレハ》は吾者《アレハ》なり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて、かくれたるところなし、
 
3933 阿里佐利底《アリサリテ》。能知毛相牟等《ノチモアハムト》。於母倍許曾《オモヘコソ》。都由能伊乃知母《ツユノイノチモ》。都藝都追和多禮《ツギツツワタレ》。
 
阿里佐利底《アリサリテ》は、在之在而《アリシアリテ》なり、之阿《シアノ》切|佐《サ》となれり、さてたゞに在々而《アリ/\》と云(ハ)ずして、かく云るは、在々《アリ/\》て思ふことの一(ト)すぢなるを、重く思はせむとての詞なり、之《シ》の辭は、すべてその一(ト)すぢなるを、とりたてゝおもく思はする處におく詞なればなり、春佐禮婆《ハルサレバ》、秋佐禮婆《アキサレバ》などいふも、春之在者《ハルシアレバ》、秋之在者《アキシアレバ》、といふにて、同例なり、猶この言の事、既く委(ク)註り、(略解に、去《サル》は、年月時日の經行ことなり、といへるは、解得ずといふべし、)○於母倍許曾《オモヘコソ》は、思(ヘ)ばこその意なり、(但し略解に、オモヘコソ〔五字右○〕は、オモヘバコソ〔六字右○〕のバ〔右○〕を略けり、といへるは、甚(ク)うちつけなり、すべて後(ノ)世、口(チ)づきたる言を準則として、古言を解むとするゆゑに、さる誤あり、そも/\古(ヘ)は、オモヘコソ、コ(474)アレコソ、シカレコソ、オモヘカモ、コフレカモ、シカレカモ〔オモヘコソ〜右○〕、など云て、オモヘバコソ、コフレバコソ、シカレバコソ、オモヘバカモ、コフレバカモ、シカレバカモ〔オモヘバコソ〜五字右○〕、と云意に聞ゆること、さだまれる格にて、故に設て、省きたるにはあらざるをや、すべて略と云は、本|具《ソナハ》りたる言を、略き除《ノゾ》くを云稱なり、古言に、オモヘコソ〔五字右○〕と云に、オモヘバコソ〔六字右○〕の意を具へたれば、略と云べきにあらず、およそ後(ノ)世人の、古言を解に、かゝる處に心を著ずして、謾に略轉のさだせること多くして、其を今こと/”\に訂《タヾ》しいはむも、いとわづらはしきことになむ、)○歌(ノ)意は、在ながらへ居て、君が任國より歸り來まして、後にも相見むと、一(ト)すぢにたのみに思へばこそ、はかなき露(ノ)命をも續き存《ナガラ》へて、月日を過すことには侍れ、となり、
 
3934 奈加奈可爾《ナカナカニ》。之奈婆夜須家牟《シナバヤスケム》。伎美我目乎《キミガメヲ》。美受比佐奈良婆《ミズヒサナラバ》。須敵奈可流倍思《スベナカルベシ》。
 
伎美我目乎《キミガメヲ》は、君之儀容《キミガスガタ》を、と云むが如し、すべて君之目《キミガメ》、妹之目《イモガメ》など云は、君之儀容《キミガスガタ》、妹之儀容《イモガスガタ》と云意なり、その目《メ》は、所見《ミエ》の約れる言にて、彼方《カシコ》の儀容《スガタ》の此方《コナタ》に所見《ミユル》を云ことなればなり、○歌(ノ)意は、君が儀容《スガタ》を、久しく見ずてあらば、思(ヒ)に堪がたく、爲方《スベ》のなかるべしと思へば、死たらば、なまなかに、心の安からましを、となり、十一に、中々二死者安六出日之入別不知吾四久流四毛《ナカ/\ニシナバヤスケムイヅルヒノイルワキシラヌアレシクルシモ》、
 
(475)3935 許母利奴能《コモリヌノ》。之多由孤悲安麻里《シタユコヒアマリ》。志良奈美能《シラナミノ》。伊地之路久伊泥奴《イチシロクイデヌ》。比登乃師流倍久《ヒトノシルベク》。
 
此(ノ)一首、既く十二に出て、彼所に註り、
 
3936 久佐麻久良《クサマクラ》。多妣爾之婆之婆《タビニシバシバ》。可久能未也《カクノミヤ》。伎美乎夜利都追《キミヲヤリツツ》。安我孤悲乎良牟《アガコヒヲラム》。
 
之婆之婆《シバシバ》は、屡《シバ/\》なり、此は尾(ノ)句の上にうつして意得べし、屡吾憩《シバ/\アガコヒ》とつゞく意なり、(略解に、しばしばと云るは、さきに久邇の京へ行(キ)、今又越中へ行をいふ、といへるは、ひがことなり、)○可久能未也《カクノミヤ》は、第四(ノ)句の下へうつして意得べし、旅に君を遣(リ)つゝ、如此耳《カクノミ》や屡吾戀將居《シバ/\アガコヒヲラム》と次第《ツイ》づべし、次下に、可久能未也安我故非乎浪牟《カクノミヤアガコヒヲラム》、とあるに、相(ヒ)照すべし、○歌(ノ)意、君が旅に出行つゝあれば、吾は後れて居て、如此《カク》ばかり、屡《シバ/\》戀しく思ひつゝ、月日を過さむ歟、となり、
 
3937 草枕《クサマクラ》。多妣伊爾之伎美我《タビイニシキミガ》。可敝里許牟《カヘリコム》。月日乎之良牟《ツキヒヲシラム》。須邊能思良難久《スベノシラナク》。
 
歌(ノ)意は、旅に出行し君が、歸り來まさむ月日の程を、知べき爲方のしられぬことよ、となり、
 
3938 可久能未也《カクノミヤ》。安我故非乎浪牟《アガコヒヲラム》。奴婆多麻能《ヌバタマノ》。欲流乃比毛太爾《ヨルノヒモダニ》。登吉佐氣受之底《トキサケズシテ》。
 
歌(ノ)意は、君を除《オキ》て、他《ホカ》にあふべき人なければ、夜の紐をさへ解(キ)放《ハナサ》ずして、如此《カク》ばかりに戀しく(476)思ひつゝ、月日を過さむか、となり、(略解に、浪(ノ)字は、良の誤ならむか、と云るは、非ず、此(ノ)下に、加欲敷浪牟《カヨフラム》云々|此夜須我浪爾《コノヨスガラニ》、廿(ノ)卷に、牟浪多麻乃《ムラタマノ》云々など、かた/”\に用ひたるをや、)
 
3939 佐刀知加久《サトチカク》。伎美我奈里那婆《キミガナリナバ》。古非米也等《コヒメヤト》。母登奈於毛比此《モトナオモヒシ》。安連曾久夜思伎《アレソクヤシキ》。
 
母登奈《モトナ》は、俗にむざ/\と云むが如し、此言は、尾(ノ)句の久夜思伎《クヤシキ》の上にめぐらして聞べし、○歌(ノ)意は、君が家の、吾(ガ)里|隣《チカ》くなりなば、戀しく思はむやは、かく戀しく思ふことはあらじと、ひとへに思ひをりしかひもなく、今又かく旅に出行て、遠くなれるが、むざ/\と悔しき事、となり、此(ノ)女郎平群氏にて、即(チ)平群(ノ)郡に家居せしなるべし、さて天平十二三年の程、久邇(ノ)宮に都遷されしに、家持(ノ)卿は、其(ノ)新都にうつりをり、平群氏の人は、なほ本郷に居しなるべし、されば奈良(ノ)都なりし間《ホド》は、家持(ノ)卿の家に近く、久邇(ノ)都となりては、遠ざかれるなり、かくて程なく、同十五年に、久邇(ノ)宮の造作を停《トヾメ》られしかば、其(ノ)時もし奈良へ都をかへしうつされなば、家持(ノ)卿の家の近くならむ、と思ひたのみしことのかひもなく、今遙なる越路に別れぬるを、後悔《クヤメル》なるべし、
 
3940 餘呂豆代等《ヨロヅヨト》。許己呂波刀氣底《ココロハトケテ》。和我世古我《ワガセコガ》。都美之乎見都追《ツミシヲミツツ》。志乃備加禰都母《シノビカネツモ》。
 
(477)餘呂豆代等《ヨロヅヨト》(等(ノ)字、舊本には尓とあり、今は元暦本に從つ、)は、萬代《ヨロヅヨ》までと、と云意なり、○許己呂波刀氣底《ココロハトケテ》は、心者解而《コヽロハトケテ》にて、互に思ふ心の打解たるよしなり、○都美之乎見都追《ツミシヲミツツ》(乎(ノ)字、元暦本竝(ニ)官本には手と作り、ツミシテ〔四字右○〕にても、理(リ)聞ゆれど、なほ舊本に從つ、)は、※[手偏+付]《ツミ》しを見乍《ミツヽ》なり、都牟《ツム》は、廿(ノ)卷に、美母乃須蘇都美安氣可伎奈※[泥/土]《ミモノスソツミアケカキナデ》、古今集俳諧に、秋くれば野べにたはるゝ女郎花いづれの人かつまでみるべき、春霞棚引野べの若菜にもなり見てしがな人もつむやと、千載集俳諧に、六波羅密寺の講の導師にて、高座にのぼるほどに、聽聞の女房あしをつみ侍ければよめる、良喜法師、人の足をつむにて知ぬ吾方へ文おこせよとおもふなるべし、源氏紅葉(ノ)賀に、たちぬきたるかひなをとらへて、いといたうつみ給へれば云々、螢に、はづかしくて居たるを、うもれたりとひきつみ給へば、いとわりなし云々、かげろふ日記に、あがらじとて、うちもつみもし給へかし、といひつゞけらるれば云々、古今著聞集に、とかくためらひて行道の時、少(シ)足をつみて、其氣色を見せて云々、などある、都牟《ツム》に同じくて、つまむことなり、○歌(ノ)意は、萬代までと、相思ふ心の打解て、吾(ガ)夫子が、吾が手足などを※[手偏+付]《ツメ》りし其(ノ)時、まのあたりに相見ながら、今かく遙に別れ居て、慕《シノビ》に堪むとすれど、さても得堪(ヘ)忍ばれぬことよ、となり、(又|都美之手《ツミシテ》とあるによらば、吾(ガ)せこがとりてつめりし吾(ガ)手を、今見つゝ慕(ビ)に堪かぬるよしなり、)
 
3941 ※[(貝+貝)/鳥]能《ウグヒスノ》。奈久久良多爾爾《ナククラタニニ》。宇知波米底《ウチハメテ》。夜氣波之奴等母《ヤケハシヌトモ》。伎美乎之麻多武《キミヲシマタム》。
 
(478)※[(貝+貝)/鳥]能奈久《ウグヒスノナク》は、谷の形容をいへるのみにて、別に用あるには非ざるべし、○久良多爾々《クラタニヽ》(爾々《ニヽ》を、舊本に爾之と作るは誤なり、今は元暦本、官本、水戸本等に從つ、)は、谷《クラタニ》になり、古事記傳、闇淤加美《クラオカミノ》神の名(ノ)義を説《トケ》るところに云く、久良《クラ》は谷のことなり、大祓(ノ)詞に、高山末短山之末與理《タカヤマノスヱミジカヤマノスヱヨリ》、佐久那太理爾落多支都速川能《サクナダリニオチタギツハヤカハノ》云々、これ谷川の水の落來るさまにて、佐《サ》は眞《マ》に通ふ言、久那《クナ》は久良《クラ》に通ひて、谷のこと、(式に、近江(ノ)國栗太(ノ)郡なる、佐久奈度(ノ)神と云と、上の闇戸(ノ)神と云を、引合せておもふべし、)多理《タリ》は少《スクナ》くも多《オホ》くも、水の落るを云、(此(ノ)ことは、師の冠辭考、石走垂水《イハバシルタルミ》の下に委し、)谷と云名も、もと此(ノ)多理《タリ》の轉れるなるべし、萬葉十七に、云々とよめるも、かの久那太理《クナダリ》と通ひて、たゞ谷のことぞ、(※[骨+夸]《マタクラ》のクラ〔二字右○〕も、人の身にとりては、谷の如くなる處なる故の名なり、)又|諸國《クニ/”\》に、某|倉《クラ》と云地(ノ)名の多かるも、谷よりぞ出つらむといへり、○宇知波米底《ウチハメテ》は、打《ウチ》令《メ》v茹《ハ》而《テ》なり、波米《ハメ》は、古事記に、切伏大樹《キリフセシオホキニ》茹《ハメ》v矢《ヤヲ》、とある、茄《ハメ》に同じ、土佐日記に、ほと/\打はめつべしなどあり、此《コヽ》は谷の間へ、投入|茹《ハム》るよしなり、○夜氣波之奴等母《ヤケハシヌトモ》は、雖《トモ》爲《シヌ》v所《レハ》v燒《ヤカ》なり、(之奴等母《シヌトモ》は、雖《トモ》v死《シヌ》には非ず、思ひ混ふべからず、)さて此は、火葬にあふことを、かくいへるにやあらむ、○伎美乎之麻多武《キミヲシマタム》は、君を一(ト)すぢに待む、となり、○歌(ノ)意は、たとひ深き谷の間に投入|茹《ハメ》て、骸骨《カバネ》を燒《ヤカ》れは爲《シ》ぬとも、尚止ず、君をば一(ト)すぢに待むぞ、といへるにて、待意の浅からぬを、甚じくいへるなり、
 
(479)3942 麻都能波奈《マツノハナ》。花可受爾之毛《ハナカズニシモ》。和我勢故我《ワカセコガ》。於母敝良奈久爾《オモヘラナクニ》。母登奈佐吉都追《モトナサキツツ》。
 
麻都能波奈《マツノハナ》は、松花《マツ)ハナ》なり、俗にみどりといふもの、よきほどに立のびて、三月の末より四月かけて、其(ノ)みどりのもとに、穀粒《イヒツボ》のやうにて少し大きなるが、いくらともなく凝り生て、たゝけば、黄なる粉ちり飛ものを云て、漢籍に、松黄、松蕊など云もの、是なりと云り、さてそは、花の中にては花としもいふべくもなきものなれば、花數ならぬよしにいへり、○之毛《シモ》は、數ある物の中を取(リ)出て云辭なり、數ある花の中にも、花數にかずまへて思はぬよしを、思はせたるなり、○母登奈佐吉都追《モトナサキツツ》は、咲乍《サキツヽ》もとな戀る、と云意なり、佐吉都追《サキツツ》を上に、母登奈《モトナ》を下に置換(ヘ)て意得べし、さて色に出て、むざ/\戀しく思ふと云ことを、花の縁に、咲《サク》といへり、○歌(ノ)意は、松(ノ)花をば、花數に人のおもはぬごとく、あるが中にも、吾をば、君が物の數ならず思へることなるに、吾は色にさへ出つゝ、むざ/\と、いたづらに戀しく思ふことよ、となり、
〔右件十二首歌者。時時寄2便使1來贈。非v在2一度所1v送也。〕
送(ノ)字、拾穗本には贈と作り、
 
八月七日夜《ハツキノナヌカノヨ》。集《ツドヒテ》2于|守大伴宿禰家持舘《カミオホトモノスクネヤカモチガタチニ》1宴歌《ウタゲヌルウタ》。
 
舘は、和名抄に、唐韻(ニ)云、館《古歟》官反作v舘(ニ)客舍之也、和名|多知《タチ》一名|無知豆美《ムロツミ》、(知は、路を誤れるなり、)(480)〔頭註、【玉篇云、館古換切、舍也、康煕字典云、館、唐韻、古玩切、音貫、玉篇客舍、】〕
 
3943 秋田乃《アキノタノ》。穗牟伎見我底利《ホムキミガテリ》。和我勢古我《ワガセコガ》。布左多乎里家流《フサタヲリケル》。乎美奈敝之香物《ヲミナヘシカモ》。
 
穗牟伎見我底利《ホムキミガテリ》は、穗向見兼帶《ホムキミガテラ》なり、兼帶《ガテラ》は、一事に、また一事のそはりたるをいふ言にて、ここは、穗向を見るが主にて、それにそはりて、女郎花を折(リ)取たるよしなり、さて古くは、我底利《ガテリ》といへるを、後々は我底良《ガテラ》とのみ云り、かくて國(ノ)掾なれば當年《ソノトシ》の豐饒《アリカタ》、農民《タビト》のなりはひなどのやうを、見ありくことあるべければ、秋(ノ)田の穗向(キ)見るよしいへるなるべし、○和我勢古《ワガセコ》は、池主をさせり、家持(ノ)卿(ノ)館(ノ)宴に、池主の女郎花を折て持來られしこと、次の歌にてしられたり、○布佐多乎里家流《フサタヲリケル》は、總手折來有《フサタヲリケル》なり、總《フサ》は多きことを云、今俗に、ふつさりと云、是なり、八(ノ)卷にも、跡見乃岳邊之瞿麥花總手折《トミノヲカヘノナデシコノハナフサタヲリ》、とよめり、家流《ケル》は、(たゞの辭にあらず、)來家流《キケル》の約れるにて、(伎家《キケ》の切|家《ケ》、)來多流《キタル》と云に、同意なり、此(ノ)下に、使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、秋(ノ)田の穗向を見|兼滞《ガテラ》、吾(ガ)夫子が、多く手折て來《キタ》れる女郎花が、見れども見れどもあかず、さても見事なる花哉、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
3944 乎美奈敝之《ヲミナヘシ》。左伎多流野邊乎《サキタルヌヘヲ》。由伎米具利《ユキメグリ》。吉美乎念出《キミヲオモヒデ》。多母登保里伎奴《タモトホリキヌ》。
 
吉美《キミ》は、家持(ノ)卿をさせり、○多母登保里《タモトホリ》は、多《タ》はそへたる辭にて、廻《モトホリ》なり、○歌(ノ)意は、女郎花の咲(481)たる野邊をなつかしみて、彼方此方《カナタコナタ》往廻り、遊びありきしものから、なほ君と共に携りて來ざりし事を、あかず口惜き事に思ひ出でて、この女郎花を折(リ)取て、野邊を廻りて、此處に持來ぬ、となり、
 
3945 安吉能欲波《アキノヨハ》。阿加登吉左牟之《アカトキサムシ》。思路多倍乃《シロタヘノ》。妹之衣袖《イモガコロモテ》。伎牟餘之母我毛《キムヨシモガモ》。
 
歌(ノ)意は、秋(ノ)夜の曉はとりわきて、寒く苦しきに堪られぬを、いかで妹が衣を借て著て、此(ノ)寒さを凌ぐべきよしもがなあれかし、となり、任國にて、はる/”\京の妹を思へるさまあはれなり、
 
3946 保登等藝須《ホトトギス》。奈伎底須疑爾之《ナキテスギニシ》。乎加備可良《ヲカビカラ》。秋風吹奴《アキカゼフキヌ》。余之母安良奈久爾《ヨシモアラナクニ》。
 
乎加備可良《ヲカビカラ》は、從《カラ》2岡傍《ヲカビ》1なり、可良《カラ》は、從《ヨリ》と云に同じ、○余之母安良奈久爾《ヨシモアラナクニ》は、本居氏、余之《ヨシ》は、よそりなくとよゆるに同じくて、よりどころ、よすがを云なり、其(ノ)よすがは即(チ)妹なり、といへり、今按(フ)に、此(ノ)余之《ヨシ》は、爲方《シカタ》と云意か、八(ノ)卷に、白雪乎不令消將置吉者可聞奈吉《シラユキチケタズテオカムヨシハカモナキ》、又後の歌に、人づてならでいふよしもがな、など云よしは、爲方《シカタ》といふ意に見て、よく通えたり、されば此《コヽ》も、爲方《シカタ》もあらぬことなるを、といへるにて、其爲方は、即(チ)妹と相寢することなれば、落る所は、上の説に同じ、○歌(ノ)意は、夏の頃、霍公鳥の鳴て、過し其(ノ)岡傍《ヲカビ》より、秋風のそよ/\吹來て、寒さに堪がたきに、妹と相寢すべき爲方もなきことなるを、いかにしてか凌がむ、となり、
 
(482)右三首《ミギノミウタハ》。掾大伴宿禰地主作《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガヨメル》。
 
3947 氣佐能安佐氣《ケサノアサケ》。秋風左牟之《アキカゼサムシ》。登保都比等《トホツヒト》。加里我來鳴牟《カリガキナカム》。等伎知可美香物《トキチカミカモ》。
 
登保都比登《トホツヒト》は、(こゝは枕詞にあらず、)鴈は遠き國より、遙に來るものなれば、かくいへり、さて草木鳥虫の類をも、人と云(フ)は古(ハ)のならはしなり、十二に、遠津人獵道之池爾《トホツヒトカリヂノイケニ》云々、(これは枕詞なり、)そこに委(ク)云り、○歌(ノ)意は、今朝の朝開に、そよ/\と吹來る秋風の、そゞろに肌寒し、これは鴈が來鳴べき時節の、近くなれるが故ならむ、さても物あはれに、心ぼそく思はるゝ事哉、となり、
 
3948 安麻射可流《アマザカル》。比奈爾月歴奴《ヒナニツキヘヌ》。之可禮登毛《シカレドモ》。由比底之※[糸+刃]乎《ユヒテシヒモヲ》。登伎毛安氣奈久爾《トキモアケナクニ》。
 
登伎毛安氣奈久爾《トキモアケナクニ》は、解《トキ》も不《ナク》v開《アケ》になり、十一に、紐鏡能登香山誰故君來座在紐不開寐《ヒモカヾミノトカノヤマハタガユヱソキミキマセルニヒモアケズネム》、ともよめり、又廿(ノ)卷に、多可麻刀能乎婆奈布伎故酒歌風爾比毛等伎安氣奈多太奈良受等母《タカマトノヲバナフキコスアキカゼニヒモトキアケナタダナラズトモ》、とも見えたり、○歌(ノ)意は、夷《ヒナ》の國に、あまたの月日は經たり、しかれども、吾は二心なければ、妹が堅く結てし紐を、其(ノ)儘解も開ずして、吾はあることなるを、妹が心はいかならむ、おぼつかなし、といふ謂を含めたるなるべし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
(483)3949 安麻射加流《アマザカル》。比奈爾安流和禮乎《ヒナニアルワレヲ》。宇多我多毛《ウタガタモ》。比母毛登吉佐氣底《ヒモモトキサケズ》。於毛保須良米也《オモホスラメヤ》。
 
宇多我多毛《ウタガタモ》は、暫《シバシ》もの意なり、十二、十五にもあり、此(ノ)上にも見えたり、既く委(ク)註り、○比母毛登吉佐氣底《ヒモモトキサケズ》、(毛(ノ)字、古寫本、類聚抄等にはなし、)底は、受(ノ)字の誤寫なるべし、(底にては、解べきやうなし、契冲は、底を濁りて、紐も解さけずしての意ぞ、といへれど、不v避而と云べきを、佐氣傳《サケデ》とやうにいへること、古(ヘ)はをさ/\あることなし、)さて此(ノ)一句は、初句の上に置て意得べし、さるは此(ノ)上、また次の歌と同じく、自(ラ)紐を解避ずしてあるを、いへればなり、○歌(ノ)意は、妹が結びし紐をも解避ずして、夷にある吾を、妹は吾(ガ)如此《カク》思ふ如くに、暫も所思《オモホス》らむやは、となるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。掾大伴宿禰池主《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシ》。
 
例によるに、作(ノ)字を脱せるならむ、
 
3950 伊弊爾之底《イヘニシテ》。由比底師比毛乎《ユヒテシヒモヲ》。登吉佐氣受《トキサケズ》。念意緒《オモフコヽロヲ》。多禮賀思良牟母《タレカシラムモ》。
 
母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、京の家にして、妹が結てし紐を解避ずして、吾(ガ)おもふ心をば、妹ならずて誰かは知べき、されば、たゞ此(ノ)一言を告たく思へど、さる爲方もなきが、歎(カ)しく口惜や、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチノヨメル》。
 
(484)3951  日晩之乃《ヒグラシノ》。奈吉奴流登吉波《ナキヌルトキハ》。乎美奈弊之《ヲミナヘシ》。佐伎多流野邊乎《サキタルヌヘヲ》。遊吉追都見倍之《シユキツツミベ》。
 
歌(ノ)意は、晩蝉《ヒグラシ》のなく夕ぐれになりなば、其(ノ)女《ヲミナ》と云名にめでゝ、女郎花《ヲミナヘシ》のさきたる野べをだに見つゝ、せめて旅の心を、なぐさめやらむ、となるべし、○今按に、第二(ノ)句、鳴奈牟時者《ナキナムトキハ》、とあるべきを、かくいへるは、いさゝかいぶかし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大目秦忌寸八千島《オホキフミヒトハタノイミキヤチシマ》。
 
大目は、オホキフミヒト〔七字右○〕と訓べし、和名抄に、本朝職員令、二方品員等所v載云々、國(ニ)曰v目(ト)云々、(皆|佐官《サクワム》、)とあれど、すべて諸官の主典を、フミヒト〔四字右○〕と云ぞ、古(ヘ)の稱なる、然るを、昔より佐官と云たるは、いかなるよしにか、いぶかしきよし、本居氏もはやくいへり、さて又これを、さう官とも云は、佐を引のべたるにて、女房《ニヨウバウ》、牡丹《ボウタン》などいふ類なり、設《マケ》を、麻宇氣《マウケ》、八日《ヤカ》を、夜宇可《ヤウカ》などいへる類も、やゝ古く見えたり、(今按(フ)に、越中は大國ならねば、目《フミヒト》一人なり、越中は上國なれど、古本後紀に、延暦廿三年六月、定2越中國1爲2上國l、とあれば、それまでは中國なりしなるべし、此(ノ)上に云(ヘ)る如し、大國ならでは、目《フミヒト》に大少なし、しかるを、此《コヽ》に大目とあれば、少目もありしことしるべし、但續紀に、寶龜六年三月乙未、始(テ)置2越中但馬因幡伯耆(ニ)大少目員(ヲ)1、と有ば、彼(ノ)ほどよりは、越中に大少目を置れしを、既《ハヤ》く此(ノ)頃も大國に准へて、大少の目を竝(ベ)置れてありしにこそ、)○八千(485)島(千(ノ)字、元暦本には十と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、○例によるに、此も末(ノ)作(ノ)字を脱せるならむ、
 
古歌一首《フルウタヒトツ》。【大原高安眞人作。年月不v審。但隨2聞時1。記2載茲1焉。】
 
この註、家持(ノ)卿の詞なり、○高安は、續紀に、天平十一年四月甲子、詔曰、省2從四位上高安(ノ)王等、去年十月二十九日表(ヲ)1、具知2意趣(ヲ)1、云々、今依v所v請賜2大原(ノ)眞人之姓(ヲ)1、子々相承歴2萬代1而無(シ)v絶(コト)、十二年十一月甲辰、從四位上大原(ノ)眞人高安(ニ)授2正四位下(ヲ)1、十四年十二月庚寅、正四位下大原(ノ)眞人高安卒、
 
3952 伊毛我伊弊爾《イモガイヘニ》。伊久理能母里乃《イクリノモリノ》。藤花《フヂノハナ》。伊麻許牟春毛《イマコムハルモ》。都禰加久之見牟《ツネカクシミム》。
 
伊毛我伊弊爾《イモガイヘニ》は、枕詞なり、妹(ガ)家に行《イク》といひ下したり、○伊久理能母里《イクリノモリ》は、略解に、神名帳に、越後(ノ)國蒲原(ノ)郡伊久禮(ノ)神社あり、禮《レ》と里《リ》と通へば、是ならむ、といへり、○伊麻許牟《イマコム》は、又來むといふ意なり、古今集に、今日よりは今《イマ》來む年の昨日をぞ、土佐日記に、一うたにことのあかねば今一(ツ)、などある今《イマ》も、又《マタ》と云意にて、同じ、(大鏡五(ノ)卷に、ちひさき御唐櫃ひとよろひに、かたつかたは御烏帽子、今かたつかたには、したうづを、ひとからうとづゝ、御手づから、つとぬひいれさせ給ひけるを、七(ノ)卷に、女君と申は、今の小一條院の女御、今一所は、故中務(ノ)卿具平親王と申、などある今も同じ、今(ノ)世にも、かくざまにいへることあり、)○歌(ノ)意は、伊久里《イクリ》の神社の藤(ノ)花の、見るにあかずおもしろければ、此(ノ)春のみならず、又來む春も、常に通ひ來て、今日の如く、如此(486)こそは、一(ト)すぢに見はやさめ、となり、○此(ノ)歌、拾穗本には、奴婆多麻乃《ヌバタマノ》云々の下、奈呉能安麻能《ナゴノアマノ》云々の上に次でたり、
 
右一首《ミギノヒトウタ》。傳誦《ツタヘヨムハ》。僧玄勝是也《ホウシゲムシヨウナリ》。
 
玄勝は、傳未(ダ)詳ならず、
○此(ノ)間に、左の題詞のありしが、脱たるなるべし、
 
3953 鴈我禰波《カリガネハ》。都可比爾許牟等《ツカヒニコムト》。佐和久良武《サワクラム》。秋風左無美《アキカゼサムミ》。曾乃可波能倍爾《ソノカハノベニ》。
 
佐和久良武《サワクラム》は、喧《サワグ》らむにて、佐和久《サワク》は、喧《カマビス》しく聲々に鳴(キ)響むことなり、○歌(ノ)意は、秋風寒くなりぬれば、雁は使に來むと、其(ノ)京の川(ノ)邊に、喧しく鳴響むらむ、と思ひやれるなり、雁の便のこと、既くかた/”\に出たり、
 
3954 馬並底《ウマナメテ》。伊射宇知由可奈《イザウチユカナ》。思夫多爾能《シブタニノ》。伎欲吉伊蘇未爾《キヨキイソミニ》。與須流奈彌見爾《ヨスルナミミニ》。
 
伊射宇知由可奈《イザウチユカナ》は、馬を扣《ウチ》て率往《イザユカ》な、と云るなり、(略解に、ウチ〔二字右○〕は詞ぞ、と云るは、くはしからず、)往奈《ユカナ》は、將《ム》v往《ユカ》と思ふ心の急《イソ》がるゝ時にいふ詞なり、既く委(ク)註り、○伊蘇未(未(ノ)字、舊本末に誤れり、今改つ、)は、磯廻《イソミ》なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチ》。
 
3955 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。欲波布氣奴良之《ヨハフケヌラシ》。多末久之氣《タマクシゲ》。敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》。月加多夫伎(487)奴《ツキカタブキヌ》。
 
奴婆多麻乃《ヌバタマノ》、また多末久之氣《タマクシゲ》は、共に枕詞なり、○敷多我美夜麻《フタガミヤマ》は、越中(ノ)國|二上山《フタガミヤマ》なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。史生土師宿禰道良《フミヒトハニシノスクネミチヨシ》。
 
史生は、越中(ノ)國(ノ)史生なり、職員令に、上國、守一人、介一人、掾一人、目一人、史生三人、とあり、文使《フミツカヒ》を主る者なり、和名抄に、職員令云、史生(俗二音如v賞、)今按(ニ)、官局以上、及諸國一分皆謂2之史生(ト)1、一分(トハ)者、著(シ)俸斷之分法(ニ)、長官五分、次官四分、判官三分、典主二分、史生一分之義也、○道良は、傳未(ダ)詳ならず、
 
大目秦忌寸八千島之舘宴歌一首《オホキフミヒトハタノイミキヤチシマガタチニテウタゲスルウタヒトツ》。
 
千(ノ)字、元暦本には、十と作り、
 
3956 奈呉能安麻能《ナゴノアマノ》。都里須流布禰波《ツリスルフネハ》。伊麻許曾婆《イマコソハ》。敷奈太那宇知底《フナダナウチテ》。安倍底許藝泥米《アヘテコギデメ》。
 
奈呉《ナゴ》は、越中(ノ)國射水(ノ)郡にあり、○敷奈太那宇知底《フナダナウチテ》、和名抄に、野王按(ニ)、※[木+世](ハ)大船(ノ)旁(ノ)板也、和名|布奈太那《フナダナ》、榮花物語に、水の面も所なくうきたるほどに、舟にこと/”\なる棚と云物、をかしくつくりて云々、契冲、古今集の、ほり江こぐたなゝし小舟、といふ歌につきて、顯昭(ノ)註云、たなゝし小(488)舟とは、ちひさき舟には、ふなだなのなきなり、萬葉に、棚無小船《タナナシヲブネ》とかけり、ふなだなとは、かいとて、ふねの左右のそばに、えんのやうに、板をうちつけたるなり、それをふみてもあるくなり、とものかたにつけたるを、したなといふ、尻のたななり、(已上)今の歌は、櫓かいをもて、こぎやるさま、うつやうなるを云なるべし、といへり、又本居氏、今もふなだなをかしましくうつ事有(リ)、其(ノ)音に魚のよりくるなり、と云り、猶考(フ)べし、○安倍底《アベテ》は、喘而《アベテ》なり、三(ノ)卷に委(ク)註り、○歌(ノ)意は、此(ノ)客屋に、風流士《ミヤビヲ》の集ひ來て、蒼海《アヲウナバラ》を望《ミヤ》る折しもなれば、今こそは、海人の釣舟の舟棚打て、喘《アヘギ》て漕(ギ)出べき時なれ、さらば、一きは興を益べきに、となるべし、
〔右館之客屋。居望2蒼海1、仍主人八千島作2此歌1也。〕
海(ノ)字、元暦本には波と作り、○千(ノ)字、元暦本には十と作り、
 
哀2傷《カナシム》長逝之弟《ミマカレルオトヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
3957 安麻射加流《アマザカル》。比奈乎佐米爾等《ヒナヲサメニト》。大王能《オホキミノ》。麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》。出而許之《イデテコシ》。和禮乎於久流登《ワレヲオクルト》。青丹余之《アオニヨシ》。奈良夜麻須疑底《ナラヤマスギテ》。泉河《イヅミガハ》 伎欲吉可波良爾《キヨキカハラニ》。馬駐《ウマトヾメ》。和可禮之時爾《ワカレシトキニ》。好去而《マサキクテ》。安禮可敝里許牟《アレカヘリコム》。平久《タヒラケク》。伊波比底待登《イハヒテマテト》。可多良比底《カタラヒテ》。許之比乃伎波美《コシヒノキハミ》。多麻保許能《タマホコノ》。道乎多騰保美《ミチヲタドホミ》。山河能《ヤマカハノ》。敝奈里底安禮婆《ヘナリテアレバ》。孤悲之家口《コヒシケク》。氣奈我枳物能乎《ケナガキモノヲ》。見麻久保里《ミマクホリ》。念間爾《オモフアヒダニ》。多麻豆左能《タマヅサノ》。使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》。宇禮之(489)美登《ウレシミト》。安我麻知刀敷爾《アガマチトフニ》。於餘豆禮能《オヨヅレノ》。多波許登等可毛《タハコトトカモ》。波之伎余思《ハシキヨシ》。奈弟乃美許等《ナオトノミコト》。奈爾之加母《ナニシカモ》。時之波安良牟乎《トキシハアラムヲ》。波太須酒吉《ハタススキ》。穗出秋乃《ホニヅルアキノ》。芽子花《ハギノハナ》。爾保敝流屋戸乎《ニホヘルヤドヲ》。【言斯人爲性。好2愛花草花樹1。而多植2於寝院之庭1。故謂2之花薫庭1也。】安佐爾波爾《アサニハニ》。伊泥多知奈良之《イデタチナラシ》。暮庭爾《ユフニハニ》。敷美多比良氣受《フミタヒラゲズ》。佐保能宇知乃《サホノウチノ》。里乎往過《サトヲユキスギ》。【佐保山火葬。故謂2之佐保乃宇知乃。佐刀乎由吉須疑1。】安之比紀乃《アシヒキノ》。山能許奴禮爾《ヤマノコヌレニ》。白雲爾《シラクモニ》。多知多奈妣久等《タチタナビクト》。安禮爾都氣都流《アレニツゲツル》。
 
比奈乎佐米爾等《ヒナヲサメニト》は、夷治《ヒナヲサメ》にとての意にて、越中の任に下れることをいへり、○麻氣乃麻爾未爾《マケノマニマニ》は、任之隨意《マケノマニマニ》なり、○好去而は、マサキクテ〔五字右○〕と訓べし、好去をマサキク〔四字右○〕とよむこと、九(ノ)卷に、既く委(ク)註り、○安禮可敝里許牟《アレカヘリコム》は、吾還來《アレカヘリコ》むにて、家持(ノ)卿の自(ラ)弟に語(ラ)るゝなり、○平久伊波比底待登《タヒラケクイハヒテマテト》は、其方《ソナタ》にも、平《タヒラ》けく安《ヤス》けくありて、齋清《イハヒキヨ》めて、神祇《カミタチ》に?りつゝ、吾を待てよと、弟に言(ヒ)令《オホ》する謂なり、○許之比乃伎波美《コシヒノキハミ》は、別(レ)來し日の極といふにて、別れし其(ノ)日より、といふ意なり、○多騰保美《タドホミ》とは、多《タ》は、そへたる辭にて、遠《トホ》みなり、遠《トホ》みは、遠《トホ》さにの意なり、○。山河能敝奈里底安禮婆《ヤマカハノヘナリテアレバ》は、山と河との隔《ヘダヽ》りて在者《アレバ》なり、○氣奈我枳《ケナガキ》は、別れ來て後、戀しく思ふ月日の長きを云、氣《ケ》は、來經《キヘ》にて、月日を云、○使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》は、使之來有者《ツカヒノケレバ》にて、家禮《ケレ》は、來家禮《キケレ》の約りたる辭なれば、來多禮者《キタレバ》と云に、同(シ)意なり、猶この言、一(ノ)卷に委(ク)註り、此(ノ)上にも云り、(略解に、家は來《ク》の誤にてもあるべし、といへるは、甚誤なり、こゝは唯|來禮婆《クレバ》とのみにては、理いひたらはねば、必(ズ)家禮(490)婆《ケレバ》ならでは、叶ひがたきをや、)○宇禮之美登《ウレシミト》は、懽《ウレシ》みと云に同じ、懽《ウレ》しさにの意なり、登《ト》は助辭なり、○安我麻知等敷爾《アガマナトフニ》は、家持(ノ)卿の、吾が京の使を待得て問(フ)にの意なり、○於餘豆禮能多婆許登等可毛《オヨヅレノタハコトトカモ》は、於餘豆禮《オヨヅレ》、多婆許登《タハコト》は、三(ノ)卷に、於余頭禮可吾聞都流《オヨヅレカアガキヽツル》、狂言加我聞都流母《タハコトカアガキヽツルモ》、とある歌に委(ク)註り、等《ト》は、同卷に、逆言之狂言等可聞高山之石穗乃上爾君之臥有《オヨヅレノタハコトトカモタカヤマノイハホノウヘニキミガコヤセル》、とあるに同じく、この等《ト》は、續紀宣命に、天皇詔旨止勅大命《スメラガオホミコトトノリタマフオホミコトト》、と多くある止《ト》に同じく、爾弖《ニテ》と云意なり、さて此《コヽ》は、結尾《ハテ》に至りて、安禮爾都氣都流《アレニツゲツル》と云にて應《ウケ》たれば、狂言《タハコト》にて云々、と吾(レ)に告(ゲ)つる歟《カ》、と謂《イフ》にて、使(ノ)言を聞て、信とうけがはぬよしなり、毛《モ》は歎息(ノ)辭にて、流言狂言にてあるらむか、よも眞實《マコト》にはあらじ、と驚(キ)嘆きたるよしなり、○奈弟《ナオト》とは、奈《ナ》は親(ミ)辭にて、奈兄《ナセ》、奈妹《ナニモ》、奈姉《ナネ》など云が如し、(略解に、奈弟をナセ〔二字右○〕とよめるは、甚じき誤なり、證に引出たる物も、みなあたらぬことなり、なほ二(ノ)卷、丹生乃河《ニホノカハ》云々戀痛吾弟《コヒタムアオト》、とある處にいへるを、考(ヘ)合せて知べし、)古事記清寧天皇(ノ)條に、爾一少子(ノ)曰(ク)、汝兄先※[人偏+舞]《ナセマヅマヒタマヘ》、其(ノ)兄亦曰(ク)汝弟先※[人偏+舞]《ナオトマヅマヒタマヘ》云々、○波太須酒吉《ハタススキ》、波(ノ)字、舊本に婆と作るはわろし、今は元暦本に從つ、○穗出秋乃《ホニヅルアキノ》、神功皇后(ノ)紀に、幡萩穗出吾也《ハタスヽキホニデシアレヤ》云々、○註の言斯人已下廿六字、家持(ノ)卿の自註なり、○安佐爾波爾《アサニハニ》云々、敷美多比良氣受《フミタヒラゲズ》は、花草花樹を好愛《コノミ》て、庭(ノ)面にうゑおきながら、いまだ朝庭夕庭に立出て、ならさず、ふみ平げぬ間に、身まかれるよしなり、安佐爾波《アサニハ》、暮庭《ユフニハ》は、朝のほど夕(ヘ)の間《ホド》、出立(ツ)庭(ノ)面を云、敷美多比良氣受《フミタヒラゲズ》は、不《ズ》2蹈平《フミナラサ》1と云に同じ、さて此(ノ)一(ツ)(491)の不《ズ》の言にて、上を帶《カネ》たれば、ならさず平げず、と云意となれり、後撰集に、松も引若菜もつまずなりぬるを、とあるに同じ例なり、○註の佐保山已下廿一字、舊本には、一首の終に、大字にて、本の行に記せり、今は古寫小本に從て、上に出し、且小字とせり、これも家持(ノ)卿の自註なり、○許奴禮《コヌレ》は、木未《コノウレ》なり、宇禮《ウレ》は、末枝《ウラエ》の約れるなり、(ラエ〔二字右○〕の切レ〔右○〕となれり、)○白雲爾《シラクモニ》云々は、火葬《ヤキハフリ》せるを云り、
 
3958 麻佐吉久登《マサキクト》。伊比底之物能乎《イヒテシモノヲ》。白雲爾《シラクモニ》。多知多奈妣久登《タチタナビクト》。伎氣婆可奈思物《キケバカナシモ》。
 
歌(ノ)意は、眞幸《マサキ》く在て、吾(ガ)任國より歸るを待《マテ》と言てし物を、そのかひもなく、火葬《ヤキハフリ》せられし煙の、白雲に立たなびくと聞ば、さて/\悲しや、と歎きたるなり、
 
3959 可加良牟等《カカラムト》。可禰底思理世婆《カネテシリセバ》。古之能宇美乃《コシノウミノ》。安里蘇乃奈美母《アリソノナミモ》。見世麻之物能乎《ミセマシモノヲ》。
 
歌(ノ)意は、契冲、かくはかなかるべき人と、かねてしりたらましかば、我をおくりし時、そのまゝいざなひて、此(ノ)越の海の、おもしろき荒磯の浪をも、見せましものをとなり、といへり、(契冲又云、此(ノ)ありそと云は、たゞあらいそなり、こしの國に、ありそと云ところあり、と云は、此(ノ)歌によりてあやまれるか、)五(ノ)卷に、久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎爾與斯久奴知許等其等美世摩(492)斯母乃乎《クヤシカモカクシラマセバアヲニヨシクヌチコトゴトミセマシモノヲシモノヲ》、とあるに似たる歌なり、又十八の初に、奈美多知久夜等見底可敝利許牟《ナミタチクヤトミテカヘリコム》、とよめるにて、奈良人の、ことに海浪をめづらしみせしこと、おもひやるべし、
 
右天平十八年秋九月二十五日《ミギテムヒヤウトヽセマリヤトセトイフトシナガツキノハツカマリイツカノヒ》。越中守大伴宿禰家持《コシノミチノナカノカミオホトモノスクネヤカモチガ》。遙《ハルカニ》聞《キヽ》2弟喪《オトノモヲ》1。感傷作之也《カナシミテヨメルナリ》。
 
相歡歌二首《アヘルヲヨロコブウタフタツ》。
 
首の下、舊本に、越中守大伴宿禰家痔作の十字あり、元暦本にはなし、
 
3960 庭爾敷流《ニハニフル》。雪波知敝之久《ユキハチヘシク》。思加乃未爾《シカノミニ》。於母比底伎美乎《オモヒテキミヲ》。安我麻多奈久爾《アガマタナクニ》。
 
雪波知敝之久《ユキハチヘシク》は、雪はかやうに千重《チヘ》に降(リ)重《シク》となり、さて庭(ノ)上の雪を見て、雪はあの如し、吾は然らず、との意を含めたるなり、雪乃《ユキノ》と云ずして、雪波《ユキハ》と云る、波《ハ》の辭に、意を付べし、○思加乃未爾《シカノミニ》は、然耳《シカノミ》にゝて、雪は千里に降(リ)重《シキ》れども、吾は然のみにあらず、との謂《ヨシ》なり、○安我麻多奈久爾《アガマタナクニ》は、(契冲、これは常の見《ミ》なくに、言《イハ》なくに、などいふなくにはあらず、吾(ガ)待(ツ)にといふにて、なくは詞なり、第三に、草枕たびのやどりにたがつまか國忘れたる家またなくに、これは家にまたむにの心を、またなくにといへるにて、あらきをあらけなくと云類なり、といへり、誠に此(ノ)歌、さやうに聞えたれば、余《オノレ》も初には、さることゝうべなひ居たりしに、さては雪波《ユキハ》と云る波《ハ》の言、穩ならざるにつき、よく思へば、其(ノ)意に非ず、)吾(ガ)待は爲ぬものなるをの意なり、○歌(ノ)意(493)は、雪の、庭に千重に降(リ)重《シキ》るけしきの、面白くはあれど、雪はもろくはかなきものなれば、かやうに降重りたるも、やがて跡方なく消失るものなり、吾はその雪の如く、時として思ふのみにて待はせず、いつと云定もなく、戀しく思ひ居しことなるを、そのかひありて、此(ノ)度君が京より、本任に歸(リ)來て、逢るが懽しき、となるべし、
 
3961 白浪乃《シラナミノ》。余須流伊蘇未乎《ヨスルイソミヲ》。※[手偏+旁]船乃《コグフネノ》。可治登流間奈久《カヂトルマナク》。於母保要之伎美《オモホエシキミ》。
 
未(ノ)字、これも舊本に、未と作るは誤なり、今改つ、○本(ノ)句は、間無《マナク》といはむ料の序にて、浪荒き磯廻《イソミ》を漕船の、楫取(ル)に間《ヒマ》無《ナキ》を以て、つゞけ下したり、○歌(ノ)意は、間無(ク)慕ひ思ひしに、そのかひありて、今日君に逢へるが懽しき、といふなるべし、
 
右《ミギ》以|天平十八年八月《テムヒヤウトヽセマリヤトセトイフトシノハツキ》。掾大伴宿禰池主《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガ》。附《ツキテ》2大帳使(ニ)1。赴2向《オモムキ》京師《ミヤコニ》1。而|同年十一月《オヤジトシノシモツキ》。還2到《カヘレリ》本任《モトノツカサニ》1。仍設詩酒之宴彈絲飲樂《カレウタゲシテコトフエノアソビセリ》。是日也白雪忽降《トキニユキフリテ》。積《ツム》v地《ツチニ》尺餘此時也《ヒトサカマリナリキ》。復漁夫之船《マタアマノフネ》。入《イリ》v海《ウミニ》浮《ウカブ》v瀾《ナミニ》。爰守大伴宿禰家持《コヽニカミオホトモノスクネヤカモチガ》。寄情二眺聊《フタツノモノヲミテイサヽカ》裁《ノブ》2所心《オモヒヲ》1。
 
大帳使は、調庸正税の損益等を記せる大帳を、諸國より、京師に持て上る使なり、委くは民部式に、處々に見ゆ、○樂(ノ)字、元暦本には、宴と作り、○二眺とは、雪と船との眺望なり、○池主は、一族ながら、ことに心もかなひてしたしく、越中に任《マカ》られし内、ことに家持(ノ)卿のかたらはれし(494)こと、此(ノ)卷の下に見えたり、さるかたらひなるを、使にて京師に上り、職などかはりやせむと思はれしに、つゝみなく歸られしを、よろこび思はれしこと、此詞にも歌にもあらはなり、
 
十九年春二月二十日《トヽセマリコヽノトセトイフトシキサラギノハツカノヒ》。忽《タチマチ》沈《シヅミ》2〓疾《ヤマヒニ》1。殆《ホト/\》臨《ス》2泉路《ミウセナムト》1。仍《カレ》作《ヨミテ》2謌詞《ウタヲ》1。以|申《ノブル》2悲緒《カナシミヲ》1一首并短歌《ヒトウタマタミジカウタ》。
 
十九云々の九字、舊本には此處になし、○沈(ノ)字、舊本に洗と作るは誤なり、今は元暦本、拾穗本等に從つ、仙覺抄には、染と作り、○〓(ノ)字、舊本に枉と作るは誤なり、今は一本に從つ、〓は、字書に、羸也弱也、と見えたり、○悲(ノ)字、定家卿萬事には、愁と作り、
 
3962 大王能《オホキミノ》。麻氣能麻爾麻爾《マケノマニマニ》。大夫之《マスラヲノ》。情布里於許之《コヽロフリオコシ》。安思比奇能《アシヒキノ》。山坂古延底《ヤマサカコエテ》。安麻射加流《アマザカル》。比奈爾久太理伎《ヒナニクダリキ》。伊伎太爾毛《イキダニモ》。伊麻太夜須米受《イマダヤスメズ》。年月毛《トシツキモ》。伊久良母阿良奴爾《イクラモアラヌニ》。宇都世美能《ウツセミノ》。代人奈禮婆《ヨノヒトナレバ》。宇知奈妣吉《ウチナビキ》。等許爾許伊布之《トコニコイフシ》。伊多家苦之《イタケクシ》。日異益《ヒニケニマサル》。多良知禰乃《タラチネノ》。波波能美許等乃《ハハノミコトノ》。大船乃《オホブネノ》。由久良由久良爾《ユクラユクラニ》。思多呉非爾《シタゴヒニ》。伊都可聞許武等《イツカモコムト》。麻多須良牟《マタスラム》。情左夫之苦《コヽロサブシク》。波之吉與志《ハシキヨシ》。都麻能美許登母《ツマノミコトモ》。安氣久禮婆《アケクレバ》。門爾餘里多知《カドニヨリタチ》。己呂母泥乎《コロモデヲ》。遠理加敝之都追《ヲリカヘシツツ》。由布佐禮婆《ユフサレバ》。登許宇知波良比《トコウチハラヒ》。奴婆多麻能《ヌバタマノ》。黒髪之吉底《クロカミシキテ》。伊都之加登《イツシカト》。奈氣可須良牟曾《ナゲカスラムゾ》。伊母毛勢母《イモモセモ》。和可伎兒等毛波《ワカキコドモハ》。乎知許知爾《ヲチコチニ》。佐和吉奈久良牟《サワキナクラム》。多(495)麻保己能《タマホコノ》。美知乎多騰保弥《ミチヲタドホミ》。間使毛《マツカヒモ》。夜流余之母奈之《ヤルトシモナシ》。於母保之伎《オモホシキ》。許登都底夜良受《コトツテヤラズ》。孤布流爾思《コフルニシ》。情波母要奴《コヽロハモエヌ》。多麻伎波流《タマキハル》。伊乃知乎之家騰《イノチヲシケド》。世牟須辨能《セムスベノ》。多騰伎乎之良爾《タドキヲシラニ》。加苦思底也《カクシテヤ》。安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》。奈氣枳布勢良武《ナゲキフセラム》。
 
比奈爾久太理伎《ヒナニクダリキ》(伎(ノ)字、阿野本に弖と作り、)は、夷《ヒナ》に下(リ)來なり、○伊伎太爾毛伊麻太夜須米受《イキダニモイマダヤスメズ》は、俗に息も續ず、といふ意にて、未(ダ)旅のつかれをも息《ヤス》めぬほどを云、去年の秋、任に下られたれば、息をやすめずと云ばかりにはあらねど、旅の憂苦をつよくいはむとてなり、○宇知奈妣吉《ウチナビキ》、は、病に〓《ツカ》れて、草などの靡偃《ナビキフス》ごとくに、怯軟《ナヨヤカ》に打(チ)臥す容《サマ》をいへり、○許伊布之《コイフシ》は、反倒《コイフシ》にて、ころびふし、と云むが如し、○伊多家苦之は、イタケクシ〔五字右○〕と訓べし、伊多家苦《イタケク》は、痛苦を云、之《シ》はその一(ト)すぢなるを、重く思はする辭なり、○波々能美許等乃《ハヽノミコトノ》、家持(ノ)卿の母君、當時在世なり、續紀に、天應元年八月、云々、家持爲2左大辨兼春宮(ノ)大夫(ト)1、先v是遭2母(ノ)憂(ニ)1解v任、至v是復(ル)焉、とあるを思ふべし、○由久良由久良《ユクラユクラ》は、動搖動搖《ユクラユクラ》にて、物思(ヒ)に心《ムネ》の動《サワ》ぐを云、○思多呉非爾《シタゴヒニ》は、裏戀《シタゴヒ》になり、○麻多須良武《マタスラム》は、待(チ)給ふらむ、といふ意なり、○情左夫之苦《コヽロサブシク》は、心不樂《コヽロサブシク》なり、○都麻能美許登母《ツマノミコトモ》は、母君を主とたてゝ云る故に、それにつれて、妻(ノ)君もと云へるなり、母《モ》の辭に心を付べし、○安氣久禮婆《アケクレパ》は、明來者《アケクレバ》にて、下の夕去者《ユフサレバ》に對《ムカ》へる詞なり、○己呂母泥乎《コロモデヲ》云々は、門に倚立て、妻の待(チ)居る形容《サマ》を、想《オモヒヤリ》ていへるなり、(略解に、衣手を折(リ)返しは、袖を折かへしぬれば、夢に見ると(496)云諺のありしなり、といへるは、こゝによしなし、さるはこゝは、明(ケ)來ば云々、と云よりつゞきて、寢る時を云ことならねばなり、○奴婆《ヌバ》の婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は古寫小本に從つ、○奈氣可須良牟曾《ナゲカスラムソ》は、嘆き給ふらむぞ、といふ意なり、○伊母毛勢母《イモモセモ》云々は、此(ノ)妹兄《イモセ》は、家持(ノ)卿の子の兄《セ》と妹《イモ》となり、と契冲云るが如し、續紀に、延暦四年八月庚寅、中納言從三位大伴(ノ)宿禰家持死(ヌ)云々、死後二十餘日、其(ノ)屍未v葬、大伴(ノ)繼良竹良等、殺2種繼(ヲ)1事發覺、下v嶽(ニ)案驗之、事連2家持等(ニ)1、由v是追(テ)除v名(ヲ)、其息永主等竝|家《處國史》流焉、と見えて、この息永主の姉妹等をとり總《スベ》て、妹兄とは云るなるべし、○和可伎兒等毛波《ワカキコドモハ》は、その息男息女等の中に、幼年なるは、と云なるべし、○乎知許知爾《ヲチコチニ》云々は、彼此《ヲチコチ》に、喧《サワガ》しく泣(キ)ありくらむ、と云にて、幼稚《ヲサナキ》兒の形容なり、五(ノ)卷に、五月蠅奈周佐和久兒等遠《サバヘナスサワクコドモヲ》、宇都弖々波死波不知《ウツテヽハシニハシラズ》、見乍阿禮婆心波母延農《ミツヽアレバコヽロハモエヌ》云々、○間使《マツカヒ》は、字(ノ)意の如く、彼方此方《コナタカナタ》の間《マ》をとりもつ使をいへり、○情波母要奴《コヽロハモエヌ》は、一(ノ)卷に、燒塩乃念曾所燒《ヤクシホノオモヒソヤクル》、と云るに同意味なり、此(ノ)下に、心爾波火佐倍毛要都追《コヽロニハヒサヘモエツツ》、十三に、我情燒毛吾有《アガコヽロヤクモアレナリ》、などもあり、新撰萬葉に、人緒念心之熾者身緒曾燒烟立※[石+弖]者不見物幹《ヒトヲオモフコヽロノオキハミヲソヤクケブリタツトハミエヌモノカラ》、古今集に、むねはしり火に心やけをり、榮花物語に、あさましう心うき事をいひ出て、人の御むねをやきこがし、なげきをおふ云々、○乎之家騰《ヲシケド》は、雖《ド》2惜有《ヲシケレ》1の意なり、(賂解に、ヲシケレドモ〔六字右○〕の略なり、といへるは、ひがことなり、略言と云ものには非ず、略言のことは、既くさきざきにもいへり、すべて古言には、雖v近、雖v遠など云類を、近《チカ》ケド〔二字右○〕、遠《トホ》(497)ケド〔二字右○〕とのみ云て、近《チカ》ケレド〔三字右○〕、遠《トホ》ケレド〔三字右○〕など云たることなし、さるはもと、近ケリ〔二字右○〕、近ケル〔二字右○〕、近ケレ〔二字右○〕、遠ケリ〔二字右○〕、遠ケル〔二字右○〕、遠ケレ〔二字右○〕など、リルレ〔三字右○〕の活用《ハタラキ》なきことなるが故に、みだりにレド〔二字右○〕とはいふべからざる定なればなり、古言の精嚴《オゴソカ》なること、これ一(ツ)にても思ふべし、しかるを、今(ノ)京よりこなたは、ひたぶるに、詞のなだらみたるを好むことになりて、古(ヘ)の格にもとりたるはたらきざまの出來たりしこと、許多《ソコバク》なり、雖《ド》v高《タカケ》、雖《ド》v長《ナガケ》、雖《ド》v深《フカケ》、雖《ド》v惜《ヲシケ》など云類をも、皆准(ヘ)知(ル)べきことなり、しからば雖v咲、雖v鳴などの類をも、咲《サケ》ド〔右○〕、鳴《ナケ》ド〔右○〕とのみ云て、咲《サケ》レド〔二字右○〕、鳴《ナケ》レド〔二字右○〕、とは、云まじき理なり、と思ふ人あるべけれど、其は各別《コト/\》なり、その故は、咲《サケ》リ〔右○〕、咲《サケ》ル〔右○〕、咲《サケ》レ〔右○〕、鳴《ナケ》リ〔右○〕、鳴《ナケ》ル〔右○〕、鳴《ナケ》レ〔右○〕など、もとより、リルレ〔三字右○〕の活用あることなればなり、混ふべからず、これにてヲシケド〔四字右○〕は、ヲシケレド〔五字右○〕の略にはあらざるを知べし、ヲシケド〔四字右○〕と云は、今(ノ)世に、ヲシケレド〔五字右○〕と云意なりとはいふべし、○加苦思底也《カクシテヤ》は、加此爲而哉《カクシテヤ》なり、哉《ヤ》の言は、結尾《トヂメ》の布勢良武《フセラム》の下につけて、意得べし、○安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》は、荒夫《アラシヲ》さへに、といはむが如し、安良志乎《アラシヲ》は、丈夫《マスラヲ》と云に同じ意なり、廿(ノ)卷に、阿良志乎母多志夜波婆可流《アラシヲモタシヤハバカル》、又、阿良之乎乃伊乎佐太波佐美《アラシヲノイヲサダハサミ》、○奈氣枳布勢良武《ナゲキフセラム》は、歎き臥《フシ》て有む哉《ヤ》、となり、○契冲云、此(ノ)歌の初は、五(ノ)卷、山上(ノ)憶良(ノ)妻の、身まかられける時よまれたる、長歌の初を學びて、大かたおなじやうによまれたり、
 
3963 世間波《ヨノナカハ》。加受奈吉物能可《カズナキモノカ》。春花乃《ハルハナノ》。知里能麻可比爾《チリノマガヒニ》。思奴倍吉於母倍婆《シヌベキオモヘバ》。
 
(498)歌(ノ)意は、花の散(リ)亂《マガ》ふ如く、微《ハカナ》く死失《シニウス》べきことを思へば、世(ノ)間の人の齡《ヨハヒ》は、年月の數の少きものにてある哉、となり、此(ノ)下にも、餘乃奈加波可受奈枳毛能賀《ヨノナカハカズナキモノカ》、奈具佐牟流己等母安良牟等《ナグサムルコトモフラムト》云々、廿(ノ)卷にも、宇都世美波加受奈吉身奈利《ウツセミハハカズナキミナリ》、ともよめり、
 
3964 山河乃《ヤマカハノ》。曾伎敝乎登保美《ソキヘヲトホミ》。波之吉余思《ハシキヨシ》。伊母乎安比見受《イモヲアヒミズ》。可久夜奈氣加牟《カクヤナゲカム》。
 
曾伎敝《ソキヘ》は、避方《ソキヘ》にて、遠避(カ)りたる處の極(ミ)を云言なり、三(ノ)卷に、委(ク)註り、○歌(ノ)意は、山と河との遙に隔りて遠きが故に、京の家なる妹をあひ見ずして、加此《カク》歎きつゝのみ臥て在む歟となり、
 
右越中國守之舘《ミギコシノミチノナカノクニノカミノタチニテ》。臥《フシ》v病《ヤマヒニ》悲傷《カナシミ》。聊|作《ヨメリ》2此歌《コノウタヲ》1。
 
右の下、舊本には、天平十九年春二月二十日の十一字あり、今は上に出せる故に、此處を除つ、
 
二十年二月二十九日《ハタトセトイフトシキサラギノハツカマリコヽノカノヒ》。守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクレル》2掾大伴宿禰池主《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシニ》1悲歌二首《カナシミノウタフタツ》。
 
二十年云々の九字、舊本には此處になし、○二首の下、古寫小本、竝(ニ)舊本目録に、竝序(ノ)二字あるは、後人のおほろかに見て、しるせるなるべし、左の文は序にあらず、書牘なり、
 
忽沈2〓疾(ニ)1。累旬痛苦(ス)。?2恃(テ)百神(ヲ)1。且得(レドモ)2消損(ヲ)1。所|由《ナホ》身體疼(ミ)羸(レ)。筋力怯軟(クシテ)。未v堪v(ルニ)展v謝(ヲ)。係戀彌深(シ)。方今《イマ》春(ノ)朝春(ノ)花、流2馥《ニホヒ》於春(ノ)苑(ニ)1。春(ノ)暮春(ノ)※[(貝+貝)/鳥]。囀2聲《ナク》於春(ノ)林(ニ)1。對《アタリテ》2此(ノ)節候(ニ)1。琴翠ツv翫(ビツ)矣。雖v有(ト)2乘興之感1。不v耐2策杖之勞(ニ)1。獨臥(テ)2帷幄之裏(ニ)1。聊作(テ)2寸分之謌(ヲ)1。(499)輕奉(リ)2机下(ニ)1。犯解2玉頤(ヲ)1。其(ノ)詞(ニ)曰。
 
〓(ノ)字、これも舊本には、枉に誤れり、○累旬痛苦云々、係戀彌深は、月日經てわづらひしゆゑに、神に祈などして、やう/\おこたりざまにはなり侍れど、なほさはやぎあへねば、聞えまほしきことも、心に叶はずして、いとゞそなたのしのばるゝとなり、○流馥は、香のみつるを云、○對此節候云々、(候(ノ)字、舊本に侯と作るは誤なり、今は拾穗本、古寫小本等に從つ、)は、春日ののどかなるまゝに、花鳥の興に催されて、うかれ遊ぶべきを、杖による手力なくて、たれこめてのみ侍るゆゑに、此(ノ)歌をよみて、みせまゐらする、といふなり、○垂ヘ、樽、※[土+尊]など書に同じ、○策杖は、杖策を倒せるならむ、○帷幄、(帷(ノ)字、舊本に惟と作るは誤なり、今は拾穗本、古寫小本等に從つ、)和名抄に、帷(ハ)和名|加太比良《カタヒラ》、幄(ハ)和名|阿計波利《アゲハリ》、○寸分之謌は、いさゝか寸分の志を、短歌に述たるを云べし、○犯解玉頤(頤(ノ)字、舊本に〓と作るは誤なり、今は一本、拾穗本等に從つ、)は、無禮ながら、おして御笑草にまゐらする、と云なり、漢書匡衡(ガ)傳に、匡説v詩(ヲ)解2人頤(ヲ)1、註に、如淳曰、使2v人笑不1v能v止、とあり、
 
3965 波流能波奈《ハルノハナ》。伊麻波左加里爾《イマハサカリニ》。仁保布良牟《ニホフラム》。乎里底加射佐武《ヲリテカザサム》。多治可良毛我母《タヂカラモガモ》。
 
多治可良毛我母《タヂカラモガモ》は、嗚呼《アハレ》手力《タヂカラ》もがなあれかし、さらば折(リ)挿頭《カザシ》て、心をなぐさむべきに、となり、(500)わづらひたるゆゑに、力(ラ)なきを歎きて、かくいへり、手力(ラ)は、三(ノ)卷に、石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》、とある歌に、委(ク)註り、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、不v耐2策杖之勞(ニ)1といへる如く、病勞れたる故に、春(ノ)花春(ノ)※[(貝+貝)/鳥]の節候《トキ》を、いたづらに過しやらむことを、深く惜みたるなり、
 
3966 宇具比須乃《ウグヒスノ》。奈枳知良須良武《ナキチラスラム》。春花《ハルノハナ》。伊都思香伎美登《イツシカキミト》。多乎加里射左牟《タホリカザサム》。
 
歌(ノ)意、病(ノ)後はやくさはやぎはてゝ、野山にもろともに立出て、※[(貝+貝)/鳥]の來鳴(キ)蹈ちらすらむ春(ノ)花を、君と翫《モテアソ》ばゝや、とねがひいそぐなり、
 
天平二十年二月廿九日《タテヒヤウハタトセトイフトシキサラギノハツカマリコヽノカノヒ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
天平云々の十七字は、右に附たる言なり、もとより書牘に記されたるまゝを、此(ノ)處に書るものなれば、贅《アマ》れるに非ず、略解に、二十年は、十九年の誤なるべし、下に至て、二十年正月云々とあり、といへり、此(ノ)説しからず、下の二十年は、二十一年の一(ノ)字を脱せるなるべし、なほ下にいふ、
三月二日《ヤヨヒノフツカノヒ》。掾大伴宿禰池主《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガ》。報2贈《コタフル》守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》〔三月〜各○で囲む〕。
 
この標、舊本に无(キ)は、脱たるなり、
 
忽辱(クス)2芳音(ヲ)1。翰苑凌(ギ)v雲(ヲ)。兼|垂《タマハル》2倭詩《ウタヲ》1。詞林舒v錦(ヲ)。以吟以詠《ウタヒナガメテ》。能※[益+蜀]2戀緒(ヲ)1。春(ノ)朝和氣。固(リ)〔三字各○で囲む〕可(ク)v樂(シム)。暮(ノ)春(ノ)風景。最可(シ)v怜(レム)。紅桃灼灼(トシテ)。戯蝶廻(テ)v花(ヲ)※[人偏+舞](ヒ)。翠柳依依(トシテ)。矯※[(貝+貝)/鳥]隱(テ)v葉(ニ)歌(フ)。可樂(501)哉《タヌシキカモ》。淡交促(シテ)v席(ヲ)。得(テ)v意(ヲ)忘(ル)v言(ヲ)。樂矣美矣。幽襟足(レリ)v賞(シムニ)哉。豈|慮乎《ハカリキヤ》。蘭寢u(テ)v※[草がんむり/聚](ヲ)。琴趨ウ(ムトハ)v用(ルヽコト)。空(シク)過(サバ)2令節(ヲ)1。物色輕(ラム)v人(ヲ)乎。所v怨(ル)有(リ)v此(ニ)。不v能2然〔○で囲む〕黙止(コトヲ)1。俗語(ニ)云。以v藤續(トイヘリ)v錦(ニ)。聊擬2談咲(ニ)1耳。
 
翰苑凌v雲は、文のめでたくよきをほめたることなり、史記司馬相如(ガ)傳に、相加既奏2大人之頌(ヲ)1、天子大説(ビ)、※[風+票]々有2凌v雲之氣1、似d游2天地之間1意(ニ)u、○倭詩は、すなはち歌なり、○※[益+蜀]2戀緒1は、こゝろのはるけなぐさむなり、○春可の間、脱文あるべし、嘗(ミ)に補はゞ、春朝和氣|固《モトヨリ》可v樂などありしが、落たるなるべし、○春暮、舊本に暮春と作るは、上下に寫誤れるなるべし、上家持(ノ)卿より贈られける書に、春朝云々春暮云々とあるに、報へられたれば、こゝも春朝云々春暮云々とあるべきこと疑なし、故(レ)今改つ、○灼灼は、毛詩傳に華之盛也、とあり、○戯蝶は、盧照鄰(ガ)春曉(ノ)詩に、戯蝶亂(テ)依v※[草がんむり/聚](ニ)、○嬌※[(貝+貝)/鳥]は、遊仙窟に、嬌※[(貝+貝)/鳥]亂2於錦枝(ニ)1、とあり、張何(ガ)蜀江濯錦(ノ)賦に、戯蝶時(ニ)※[しんにょう+堯]、嬌※[(貝+貝)/鳥]欲v弄(ムト)、○淡交促v席云々は、おもふどちあひ賞遊ふべきをりなりと云て、家持(ノ)卿の春朝春花云々、と云おこされたるに、こたふるなり、淡交は、莊子に、君子之交淡(キコト)如v水(ノ)、小人之交甘(キコト)若v醴(ノ)、促席は、左太冲(カ)蜀都賦に、合樽促v席(ヲ)、引滿相罰、とあり、○得v意忘v言は、莊子に見ゆ、心のあひかなひて、打とけたるなり、○幽襟は、みやびたるこゝろなり、○蘭寢u(テ)v※[草がんむり/聚](ヲ)とは、風流才士の相見えぬに、たとへたり、○物色輕v人乎は、物色は、花鳥をさすなるべし、其をめではやすことをせずば、花鳥に輕《アナ》(502)づられなむか、となり、○有は、在(ノ)字の誤なり、○以v藤續v錦は、いとめでたき歌文に答へまゐらせむは、藤の荒布を以て、錦のよき衣に續たらむが如し、と卑下《クダ》りたる詞なり、
 
3967 夜麻可比爾《ヤマカヒニ》。佐家流佐久良乎《サケルサクラヲ》。多太比等米《タダヒトメ》。伎美爾彌西底婆《キミニミセテバ》。奈爾乎可於母波牟《ナニヲカオモハム》。
 
夜麻可比爾《ヤマカヒニ》(可(ノ)字、元暦本に、我と作るによらば、濁て唱(フ)べし、)は、山峽《ヤマカヒ》になり、峽《カヒ》は、此(ノ)上にも見えたり、十(ノ)卷にも、足日木之山間照櫻花《アシヒキノヤマカヒテラスサクラバナ》、と既く見えたり、○彌西底婆《ミセテバ》は、令《セ》v見《ミ》て有ばなり、○歌(ノ)意は、この山峽《ヤマカヒ》に面白く咲る櫻を、君と共に居て、飽まで愛はやすことはかなはずとも、せめてたゞ一目にても見せまゐらせてあらば、何事をも思はじ、となり、
 
3968 宇具比須能《ウグヒスノ》。伎奈久夜麻夫伎《キナクヤマブキ》。宇多賀多母《ウタガタモ》。伎美我手敷禮受《キミガテフレズ》。波奈知良米夜母《ハナチラメヤモ》。
 
宇多賀多呼《ウタガタモ》は、暫《シバシ》もといはむが如し、此(ノ)上にも出たり、○歌(ノ)意は、※[(貝+貝)/鳥]の來鳴、このおもしろき山振の花よ、しばしだにも、君が手觸(レ)しめずて、花のちるべきことかは、嗚呼《アハレ》手ふれし後こそ、ちらぱちりなめ、となり、
 
姑洗二日《ヤヨヒノフツカノヒ》。掾大伴宿禰池主《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシ》。
 
姑洗(姑(ノ)字、舊本に沾とかけるは誤なり、今改つ、)云々の十一字は、右に附たる言なり、姑洗は三(503)月の異名なり、白虎通に、三月謂2之姑洗(ト)1何(ソ)、姑(ハ)者故也、洗(ハ)者鮮也、言(ハ)萬物皆去(テ)v故(ヲ)就(キ)2其新(ニ)1、莫v不(ルコト)2鮮明(ナラ)1也、律暦志に、洗(ハ)※[潔の旁]也、言(ハ)陽氣洗v物(ヲ)辜《カナラズ》※[潔の旁](スル)之也、位2於辰1、在2三月(ニ)1、と見えたり、
 
三月三日《ヤヨヒノミカノヒ》。守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチガ》〔十一字各○で囲む〕。更贈歌一首并短歌《サラニオクレルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
含弘之コ。垂(レ)2恩(ヲ)蓬體(ニ)1。不貲之思。報(ヘ)2慰(シム)陋心(ニ)1。載荷2末春(ヲ)1、無v堪(ルコト)v所(ニ)v喩(ル)也。但以稚時不v渉(ラ)2遊藝之庭1。横翰之藻。自乏(シ)2于彫蟲(ニ)1焉。幼年未v※[しんにょう+至]2山柿之門(ニ)1。裁v歌之趣。詞(ヲ)失(フ)2乎※[草がんむり/聚]林(ニ)1矣。爰辱(クス)2以v藤續(トイフ)v錦(ニ)之言(ヲ)1。更|題《シルス》2將v石(ヲ)同(クスル)v瓊(ニ)之詠(ヲ)1。固《マコトニ》是俗愚懷癖。不v能2黙止1。仍捧2數行(ヲ)1。式酬(フ)2嗤咲1。其(ノ)詞(ニ)曰。
 
合弘は、易に出たる字なり、大コを云、○蓬體は、五卷に蓬身とあるに同じく、吾(ガ)身を卑下《クダ》りたるなり、毛詩に、自2伯之東(セシ)1、首如2飛蓬(ノ)1、と云(ヘ)るによりて、蓬頭と常にいへば、蓬頭の體と云義にていへるにや、○不貲は、貲は、字書に通作v※[此/言](ニ)、また※[此/言]與v貲同(シ)、とも註して、不※[此/言]と云に同じ、不※[此/言]は史記に出て、註に不v可2※[此/言]量1、とあり、○載荷未春は、本居氏、載2荷來眷1の誤なり、と云る、信に然もあるべし、來眷は、池主の歌文をおくれるを云、○遊藝は、論語によれり、物學ぶことを云、○横翰之藻は、文をかくことを云、○乏2乎彫蟲1は、文道にくらきを云なるべし、唐(ノ)盧※[人偏+巽](ガ)詩に、仰v天(ヲ)歌2聖道(ヲ)1、猶愧v乏2雕蟲(ニ)1、○※[しんにょう+至](ノ)字、拾穗本には〓、古本には過と作り、○山柿は、赤人、人麻呂なり、○※[草がんむり/聚]林は、藻林と云に同じきを、上に横翰之藻といへる故に、字をかへて書るか、○爰辱云々は、錦に(504)續と云ことのかたじけなさに、更に又石を以て、瓊にまぎらはしまゐらするは、おろかなる歌よみの癖ぞ、と云なるべし、○固(ノ)字、舊本には因、古寫本には思と作り、今は古本に從つ、○懷癖は、歌よむ癖あるを云べし、○式酬(式(ノ)字、古本に或とあるは、いかゞ、)酬(ノ)字、舊本※[酉+羽]に誤れり、拾穗本等に從つ、
 
3969 於保吉民能《オホキミノ》。麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》。之奈射加流《シナザカル》。故之乎袁佐米爾《コシヲヲサメニ》。伊泥底許之《イデテコシ》。麻須良和禮須良《マスラワレスラ》。余能奈可乃《ヨノナカノ》。都禰之奈家禮婆《ツネシナケレバ》。宇知奈妣伎《ウチナビキ》。登許爾己伊布之《トコニコイフシ》。伊多家苦乃《イタケクノ》。日異麻世婆《ヒニケニマセバ》。可奈之家口《カナシケク》。許己爾思出《ココニオモヒデ》。伊良奈家久《イラナケク》。曾許爾念出《ソコニオモヒデ》。奈氣久蘇良《ナゲクソラ》。夜須家奈久爾《ヤスケナクニ》。於母布蘇良《オモフソラ》。久流之伎母能乎《クルシキモノヲ》。安之比紀能《アシヒキノ》。夜麻伎弊奈里底《ヤマキヘナリテ》。多麻保許乃《タマホコノ》。美知能等保家婆《ミチノトホケバ》。間使毛《マツカヒモ》。遣縁毛奈美《ヤルヨシモナミ》。於母保之吉《オモホシキ》。許等毛可欲波受《コトモカヨハズ》。多麻伎波流《タマキハル》。伊能知乎之家登《イノチヲシケド》。勢牟須辨能《セムスベノ》。多騰吉乎之良爾《タドキヲシラニ》。隱居而《コモリヰテ》。念奈氣加比《オモヒナゲカヒ》。奈具佐牟流《ナグサムル》。許己呂波奈之爾《ココロハナシニ》。春花乃《ハルハナノ》。佐家流左加里爾《サケルサカリニ》。於毛敷度知《オモフドチ》。多乎里可射佐受《タヲリカザサズ》。波流乃野能《ハルノヌノ》。之氣美登妣久久《シゲミトビクク》。※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒスノ》。音太爾伎加受《コヱダニキカズ》。乎登賣良我《ヲトメラガ》。春菜都麻須等《ハルナツマスト》。久禮奈爲能《クレナヰノ》。赤裳乃須蘇能《アカモノスソノ》。波流佐米爾《ハルサメニ》。爾保比比豆知底《ニホヒヒヅチテ》。加欲敷良牟《カヨフラム》。時盛乎《トキノサカリヲ》。伊多豆良爾《イタヅラニ》。須具之夜里都禮《スグシヤリツレ》。思努波勢流《シヌハセル》。君之心乎《キミガコヽロヲ》。宇流波之美《ウルハシミ》。此夜須我浪爾《コノヨスガラニ》。伊母(505)禰受爾《イモネズニ》。今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》。孤悲都追曾乎流《コヒツツソヲル》。
 
之奈射加流《シナザカル》は、まくら詞なり、このまくら詞、十八、十九の卷々にも見えたり、その中十九に、科坂在《シナサカル》、と書たり、此は、契冲、舒明天皇(ノ)紀に、十一年冬十二月己巳朔壬午、幸(ス)2于伊豫(ノ)温湯(ノ)宮(ニ)1、是月於2百濟川(ノ)側(ニ)建(ツ)2九|重《コシノ》塔(ヲ)1、と見え、又層級の字をもコシ〔二字右○〕とよめり、しなは階の級《シナ》なれば、それを降りて避(ル)心に、しなざかるこしとはつゞけたり、と云るは、いさゝか聞とりがたき説なれど、故之《コシ》を層《コシ》の義とせるは、さることにやあらむ、故(レ)思ふに、之奈《シナ》とは、等級の意にて、層《コシ》に一層二層の級々《シナ/”\》あれば、級々《シナ/”\》離《サカ》る層《コシ》といふにて、離《サカル》は、地の方より、空の方に、高く段々に離るを云にやあらむ、(冠辭考に、科坂在と書しを正訓として、階坂ある越の國てふ意とすべし、といへるは、いかにぞや、凡《オヨ》そ山坂ある國は、なほ他にも多くあるを、越(ノ)國にかぎりて云るはいかに、且《ソノウヘ》坂てふ言は、もと級所《シナカ》の意なるを、その之奈《シナ》を約(メ)て、佐可《サカ》と云るなれば、級級所《シナシナカ》とは、重ねて云べき理なし、古語に重(ネ)辭は多かれど、かくざまに重ね云るは、例も理もあることなし、)○麻須良和禮須良《マスラワレスラ》は、丈夫吾尚《マスラワレスラ》にて大丈夫《マスラヲ》とある吾さへに、といはむか如し、○余能奈可乃《ヨノナカノ》と云より以下十四句、病に苦めるさまをのべたり、○宇知奈妣伎《ウチナビキ》以下四句は、上の長歌にも出たり、○伊多家苦乃《イタケクノ》、上には伊多家苦之《イタケクシ》とあれば此《コヽ》も本は、乃は之(ノ)字なりけむを、ノ〔右○〕と訓たるより、寫誤れるにはあらざる歟、但しこゝは、イタケクノ〔五字右○〕にても難はなし、○可奈之家口《カナシケク》云々四句は、古(506)事記應神天皇(ノ)條、宇遲能和紀郎子(ノ)御歌に、伊良那祁久曾許爾淤母比傳《イラナケクソコニオモヒデ》、加那志祁久許々爾淤母比傳《カナシケクコヽニオモヒデ》云々、とあるを其(ノ)まゝにとられたり、○許己爾思出曾許爾念出《ココニオモヒデソコニオモヒデ》は、此(レ)に就ては思ひ出(テ)、彼(レ)に就ては思出(テ)、といはむが如し、其(ノ)思ひ出るは、即(チ)本郷のことなり、(池主をさして云るにはあらじ、)○伊良奈家久《イ ラ ナ ナ ク》は、契冲、大和物語に、我(ガ)さまの、いといらなくなり|た《にけ本書》るを、おもひはかるに、《いと本書》はしたなくて、蘆も打捨て走りにけり、和名抄に、苛音何、和名|伊良《イラ》、小草生v刺(ヲ)也、これによらば、無v苛の意か、と云り、此(ノ)説によるときは、いらだついきほひなく、病に羸《ツカ》れて、心よわく思ふよしか、(又古事記傳に、稻掛(ノ)大平が説を引て、伊良《イラ》は、郎子《イラツコ》、郎女《イラツメ》などの伊良《イラ》にて、人を親《シタシ》み、めぐく思ふ意にて、都祁久《ナケク》は、ハシタナク〔五字右○〕などの那久《ナク》の如く、添たる辭ならむかといへり、とあり、なほ考ふべし、〔頭註、【岡部氏云苛無にて、利心も無と云が如し、】【日本紀歌詞師説、伊羅那鷄區は、疼なけくなるべし、那鷄区は、無けくにはあらで、切なることを切なくといふ類に、其形容を云とき、ナクともナケクとも、添云辭なり、伊羅那區思ふと云は、疼々と心にしみて、憂苦事に思ふよしなるべし、辛き物を味ふるとき、心臓に徹りて、いらいらとすると云、それなり、俗に魚?又芒刺などに中りて、いらつくと云もそれなり、萬葉十七に、云々とあるは、全今の御歌に本づきてよめりと見ゆるに、悲しけく此に思出と云ては、下に歎く空安からなくにと應け、伊良奈家久彼に思出と云ては、下に思ふ空苦しき物をと應たれば、悲しく歎く疼なく念ふと云ことな、引延ていへるなり、よくその語路を味ひて、其意をさとるべきなり、弘〓按に、此は師の後考なり、此説によるべくおぼゆ、】〕○つれ/”\草に、數珠おしすり、印こと/”\しくむすび出などして、いらなくふるまひて云々、とあるは、異樣にふるまふさまなり、今の伊良奈久《イラナク》の詞の、轉りたるものならむ、○奈氣久蘇良《ナゲクソラ》、於母布蘇良《オモフソラ》は、嘆く心、思ふ心といふが如し、既く出(ツ)、○夜須家久奈久爾《ヤスケナクニ》、(家の下久(ノ)字、(507)舊本になきは、脱たるなり、今は一本に從つ、)十九に、嘆蘇良夜須家久奈久爾《ナゲクソラヤスケクナクニ》、とあり、○夜麻伎弊奈里底《ヤマキヘナリテ》は、山を來り隔りて、と云なり、○等保家婆《トホケバ》(婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は古寫小本に從つ、)は、遠ければの意なり、○乎之家登《ヲシケド》は、雖《ドモ》v惜《ヲシケレ》の意なり、○念奈氣加比《オモヒナゲカヒ》は、思ひ嘆きの伸りたるなり、かく伸て云は、率爾《カリソメ》ならず、長く引續きて、經ず歎くよしなり、○春花乃《ハルハナノ》と云より以下十八句は、たれこめて、春の面白き時節を、いたづらに過しつるを歎きたるなり、○登妣久々《トビクヽ》は、飛漏《トビクヽ》るなり、○春菜都麻須等《ハルナツマスト》は、春菜《ハルナ》を摘(ミ)賜ふとての意なり、(春奈をワカナ〔三字右○〕と訓るは、わろし、)都麻項《ツマス》は、都牟《ツム》の延りたるにて、摘賜(フ)と云に同じ、等《ト》は等天《トテ》の等《ト》なり、○須具之夜里都禮《スグシヤリツレ》は、過し遣つればの意なり、○思努波勢流《シヌハセル》は、吾を慕(ビ)給へる、と云むが如し、さきに池主より贈れる歌に、家持(ノ)卿を愛み慕へる趣あるをいへり、○君之心乎《キミガコヽロヲ》、この乎《ヲ》は、風乎疾《カゼヲイタミ》、瀬乎速《セヲハヤミ》などの乎《ヲ》にて、こゝは之(ノ)といふ意に聞べし、君は池主をさせり、○宇流波之美《ウルハシミ》(舊本に宇を牟に、波を沈に誤れり、今は古寫本、元暦本、拾穗本等に從つ、)は、愛《ウルハ》しさにの意なり、○今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》は、今日も終《シメラ》になり、十三には、、日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》、とよめり、既く註(シ)つ、○孤(ノ)字、舊本に※[手偏+爪]と作るは誤なり、今は古寫小本に從つ、
 
3970 安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻左久良婆奈《ヤマサクラバナ》。比等目太爾《ヒトメダニ》。伎美等之見底婆《キミトシミテバ》。安禮古非米夜母《アレコヒメヤモ》。
 
見底婆《ミテバ》は、見て有ば、といふが如し、○歌(ノ)意は、かく面白く咲たる山櫻を、飽まで、愛翫《メデハヤ》す事はか(508)なはずとも、せめてたゞ一目ばかりなりとも、君と共に見てあらば、かくまで戀しくは思はじ、さても一(ト)すぢに、君と共に見まほしや、となり、
 
3971 夜麻扶枳能《ヤマブキノ》。之氣美登※[田+比]久久《シゲミトビクク》。※[(貝+貝)/鳥]能《ウグヒスノ》。許惠乎聞良牟《コヱヲキクラム》。伎美波登母之毛《キミハトモシモ》。
 
登母之毛《トモシモ》は、羨《ウラヤマ》しもといはむが如し、○歌(ノ)意は、面白く咲たる山振の花のしげき間を、飛漏る※[(貝+貝)/鳥]を聞てなぐさむらむ君は、さてもうらやましやと、病にたれこめ居て、池主をうらやめるなり、さきに池主より贈れる歌に、宇具比須能伎奈久夜麻夫伎宇多賀多母伎美我手敷禮受波奈知良米夜母《ウグヒスノキナクヤマブキウタガタモキミガテフレズハナチラメヤモ》、とあるに、和へられたり、
 
3972 伊泥多多武《イデタタム》。知加良乎奈美等《チカラヲナミト》。許母里爲底《コモリヰテ》。伎彌爾故布流爾《キミニコフルニ》。許己度母奈思《ココロドモナシ》。
 
泥(ノ)字、舊本に尼と作るは誤なり、今は元暦本、古寫小本等に從つ、○知加良乎奈美等《チカラヲナミト》は、力(ラ)が無さにの意にて、等《ト》は助辭なり、○許己呂度《ココロド》は、心神《コヽロド》にて、利心《トゴヽロ》と云に同じ、既く、あまた出たり、○歌(ノ)意は、病後なれば、發(チ)出て行む力(ラ)が無さに、たれこめ居て、君をのみ戀しく思ふに、心神もさらになし、となり、
 
三月三日《ヤヨヒノミカノヒ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
三月云々の十字も、右に附たる言なり、○持(ノ)字、舊本には脱たり、官本、古寫小本等にあるぞよき、
 
萬葉集古義十七卷之上 終
 
(509)萬葉集古義十七卷之下
 
晩春三日《ヤヨヒノミカノヒ》。遊覽(スル)七言(ノ)詩一首并序《カラウタヒトツマタハシカキ》。
 
七言の二字、舊本には晩春の上にあり、今は拾穗本に從つ、○詩(ノ)字、舊本にはなし、今は拾穗本に從つ、
 
上巳(ノ)名辰。暮春(ノ)麗景。桃花照(シテ)v瞼(ヲ)。以分(ツ)v紅(ヲ)。柳(ノ)色含(テ)v苔(ヲ)。而競(フ)v緑(ヲ)。于時《トキニ》也。携(ヘテ)v手(ヲ)曠(ク)望《ミヤリ》2江河之畔(ヲ)1。訪(テ)v酒(ヲ)※[向+しんにょう](ニ)遏2野客之家(ニ)1。既而也。琴嵩セv性(ヲ)。蘭契和(グ)v光(ヲ)。嗟乎。今日所(ハ)v恨(ル)。コ星已少歟。若不v扣2寂含之章(ヲ)1。何以※[手偏+慮](ム)2逍遙之趣(ヲ)1。忽課(テ)2短筆(ニ)1。聊勒2四韻(ヲ)1云爾。
 
上巳は、三月三日の事、後漢禮儀志に出(ヅ)、上は初《ハジメ》のことなり、もろこし漢と云し代までは、三月初の巳の日を、俗節とさだめたりしを、魏(ノ)文帝と云しが時より後は、三月三日を用ることゝはなれりしかども、猶もとの名の存《マヽ》に、上巳と稱ことなり、○名辰は、佳節などゝ云に同じ、○含莟は、含黛か、含眉の誤なるべし、と略解にいへり、○訪酒(酒(ノ)字、舊本に須と作るは誤なり、今は、古寫本、元暦本、拾穗本等に從つ、)は、酒店を尋行を云なるべし、○遏(ノ)字、元暦本には遇と作り、(510)拾聽本に過と作る、是《シカ》るべし、○琴(ノ)字、舊本には開と作り、今は古寫本、元暦本、拾穗本、古寫小本等に從つ、○蘭契和v光は、友どちの親しき意なり、蘭契は、易に、同心之言其|臭(キコト)如v蘭(ノ)とあるによれり、和v光は、老子の和v光(ヲ)同v塵(ニ)より出たり、○徳星已少は、家持(ノ)卿などのおはさぬを、あかず恨しきよしにいへり、徳星は、賢人の、聚ることなり、異苑に出たり、○若不v扣2寂含之章1(之(ノ)字、舊本にはなし、今は拾穗本に從つ、)は、文選陸機(カ)文賦に、叩2寂寞(ヲ)1而求2音韻(ヲ)1、註に、寂寞(ハ)無聲也、とあるをとり、また蜀都(ノ)賦に、楊雄含v章(ヲ)而挺生(ス)、とあるをとり合せて、扣2寂含之章(ヲ)1といへるにや、若(シ)寂《ヒソ》まりかへりて、そこに含たる章を叩きたてゝ、しひてひねり出ずば、何を以て云々の意なるべし、○逍(ノ)字、舊本に趙と作るは誤なり、拾穗本等に從つ、
 
餘春(ノ)媚日宜2怜賞(ス)1。上巳(ノ)風光足(レリ)2覽遊(スルニ)1。柳陌臨(テ)v江(ニ)縟《マダラニシ》2※[衣+玄]服(ヲ)1。桃源通(テ)v海(ニ)泛(ブ)2仙舟(ヲ)1。雲※[壘の土が缶]酌(テ)v桂(ヲ)三清堪(ヘ)。羽爵催(シテ)v人(ヲ)九曲流(ル)。縱(マニ)醉(ヒ)陶心忘(レ)2彼我(ヲ)1。酩酊無(シ)3處(トシテ)不(ルコト)2淹(シク)留(ラ)1。
 
三月四日《ヤヨヒノヨカノヒ》。大伴宿禰池主《オホトモノスクネイケヌシ》。
 
三月云々の十字も、右に附たる言なり三月三日、遊覽の詩文をしらべとゝのへて、同四日に贈りたる故に、かくしるしたるなり、○次下の文に、更承2賜書1、とあるによるに、此(ノ)間に、家持(ノ)卿より、右の詩文に和へられて、池主へ贈られたる詩歌などありしが、脱たるなるべし、又は甚頓にものせしゆゑに、其(ノ)詞などに、あかぬところのありて、更に訂し改めて、後に書加へむと(511)て、始《ハヤク》省きて載られざりしが、其(ノ)まゝに傳れるにもあるべし、下文にも、七歩成v章、また山柿謌泉比v此如v蔑、などいへれば、詩また歌などありしなるべし、たゞ書牘のみにては、あらざりしこと、さらなり、
 
掾大伴宿禰池主《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガ》。報贈歌二首《コタフルウタフタツ》〔十二字各○で囲む〕。
 
報贈は、前にも云ごとく、家持(ノ)卿より贈られし詩文などのありしに、こたへられしなり、
 
昨日述(ベ)2短懷(ヲ)1。今朝※[さんずい+于](ス)2耳目(ヲ)1。更(ニ)承(ハリ)2賜書(ヲ)1。且奉(ル)2不次(ヲ)1。死罪死罪謹(ミ)言(ス)。不v遺(レ)2下賤(ヲ)1。頻(ニ)惠(ム)2コ音(ヲ)1。英雲星氣。逸調過(タリ)v人(ニ)。智水仁山。既※[韋+媼の旁](ミ)2琳瑯之光彩(ヲ)1。潘江陸海。自(ラ)坐(リ)2詩書之廊廟(ニ)1。騁(セ)2思(ヲ)非常(ニ)1。託(ケ)2情(ヲ)有理(ニ)1。七歩(ニ)成(シ)v章(ヲ)。數篇滿(ツ)v紙(ニ)。巧(ニ)遣(リ)2愁人之重患(ヲ)1。能除(ク)2戀者之積思(ヲ)1。山柿(ノ)謌泉。比(フルニ)v此(ニ)如(シ)v蔑(キガ)。彫龍(ノ)筆海。粲然(トシテ)得v看(ルコトヲ)矣。方(ニ)知(ヌ)2僕之有(ルコトヲ)1v幸也。敬(テ)和(ル)歌。其(ノ)詞(ニ)云。
 
昨日云々は、上(ノ)件の三日遊覽(ノ)詩竝序を、昨四日にしらべとゝのへて、家持(ノ)卿へ見せに贈りしによりて、昨日述2短懷1と云、さて即日、家持卿より、其に和へられて、詩歌などのありしによりて、その謝《ヨロコビ》に、今五日、左の長歌短歌など贈りし故に、今朝※[さんずい+于]2耳目(ヲ)1、とはいへるなるべし、○更承2賜書1(賜(ノ)字、官本には贈と作り、舊本に從べし、)は、立かへりて、家持(ノ)卿より、三日遊覽(ノ)詩文に和へて、池主へ贈られしがありしを云り、家持(ノ)卿より、池主へ贈られしこと度々なれば、更賜とは(512)云るなり、かくてそのおこせられし詩歌などの、いと速なりしに驚きて、下文にも、七歩成v章(ヲ)といひ、あるはその勝れたるを美《タヽヘ》て、山柿謌泉云々などいへるなるべし、○死罪死罪、舊本には、一(ツ)の死罪(ノ)二字なし、今は古寫本、拾穗本等に從つ、○且奉2不次1云々は、池主より、言(フ)ことを卑下《クダ》りて、かしこまりたるなり、○英雲星氣は、氣品の高きをほめたる詞なるべし、古本には、英靈星送と作り、なほ考(フ)べし、○逸調は、家持(ノ)卿の詩歌の調の、すぐれたるをほめたるなり、○智水仁山は、論語に、智者(ハ)樂v水(ヲ)仁者(ハ)樂v山(ヲ)、と云より出たり、○琳※[王+郎]は、尚書禹貢に、球琳琅※[王+干]、とありて、玉のことなり、○潘江陸海とは、潘は潘安仁、陸は陸士衡とて、唐の六朝に、名高き文人どものことなり、其(ノ)文才のはかりなきを、江海にたとへて云り、○坐2詩書之廊廟1とは、常に道藝の中に身を置よしなり、○七歩成v章は、世説に出て、詩を作ることの速なるを云、○彫龍は、史記に出(ヅ)、文彩のこまやかなるを云、○筆海は、李善(ガ)上(ル)2文選註(ヲ)1表に出たり、○粲然は、あざやかなるを云、
 
3973 憶保枳美能《オホキミノ》。彌許等可之古美《ミコトカシコミ》。安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻野佐波良受《ヤマヌサハラズ》。安麻射可流《アマザカル》。比奈毛乎佐牟流《ヒナモヲサムル》。麻須良袁夜《マスラヲヤ》。奈爾可母能毛布《ナニカモノモフ》。安乎爾余之《アヲニヨシ》。奈良治伎可欲布《ナラヂキカヨフ》。多麻豆佐能《タマヅサノ》。都可比多要米也《ツカヒタエメヤ》。己母理古非《コモリコヒ》。伊枳豆伎和多利《イキヅキワタリ》。之多毛比爾《シタモヒニ》。奈氣可布和賀勢《ナゲカフワガセ》。伊爾之敝由《イニシヘユ》。伊比都藝久良之《イヒツギクラク》。餘乃奈加波《ヨノナカハ》。可受奈(513)枳毛能曾《カズナキモノソ》。奈具佐牟流《ナグサムル》。己等母安良牟等《コトモアラムト》。佐刀妣等能《サトビトノ》。安禮爾都具良久《アレニツグラク》。夜麻備爾波《ヤマビニハ》。佐久良婆奈知利《サクラバナチリ》。可保等利能《カホドリノ》。麻奈久之婆奈久《マナクシバナク》。春野爾《ハルノヌニ》。須美禮乎都牟等《スミレヲツムト》。之路多倍乃《シロタヘノ》。蘇泥乎利可弊之《ソデヲリカヘシ》。久禮奈爲能《クレナヰノ》。安可毛須蘇妣伎《アカモスソビキ》。乎登賣良波《ヲトメラハ》。於毛比美太禮底《オモヒミダレテ》。伎美麻都等《キミマツト》。宇良呉悲須奈里《ウラゴヒスナリ》。己許呂具志《ココログシ》。伊謝美爾由加奈《イザミニユカナ》。許等波多奈由比《コトハタナユヒ》。
 
夜麻野佐婆良受《ヤマヌサハラズ》は、山野《ヤマヌ》不《ズ》v障《サハラ》にて、如何《イカ》なる嶮《サガシキ》處をも、とゞこほらず、しのぎふみこゆる丈夫のさまを云り、○比奈毛乎佐牟流《ヒナモヲサムル》は、夷《ヒナ》を治《ヲサム》るなり、毛《モ》の辭は、上にめぐらして、山野と云にかけて見べし、いかなる嶮しき山野にも障らずふみ超て、夷を治むる謂《ヨシ》なり、(略解に、毛は乎の誤なるべし、といへるは、中々にわろし、)○麻須良袁夜《マスラヲヤ》は、丈夫《マスラヲ》にして哉《ヤ》、と云むが如し、丈夫は家持(ノ)卿をさせり、○奈爾可母能毛布《ナニカモノモフ》は、何か物思ふにて、何《ナム》ぞ物思ひをせむ、といはむが如し、以上二句の意は、嶮岨《サガシキ》山野にも障らず蹈(ミ)超徃て、夷を治むるほどの武き大丈夫にして、何《ナム》ぞおれ/\しく、物思(ヒ)を爲給はむや、と謂なり、さて夜《ヤ》と云、可《カ》と云るは、たちまち疑の詞重りて、いかにぞや思はるれども、此は一(ツ)の哉《ヤ》の言は、輕く見ることにて、古歌には例多きことなり、なほ此(ノ)事、二(ノ)卷(ノ)下に、委(ク)辨へたるを、合(セ)見て考ふべし、○奈良治伎可欲布《ナラヂキカヨフ》は、寧樂道來通《ナラヂキカヨフ》なり、○都可比多要米也《ツカヒタエメヤ》は、使の絶ることは、あるまじきによりて、然《サ》のみ嘆き悲み賜ふことなかれ(514)と、家持(ノ)卿を慰むるなり、○己母理古非《コモリコヒ》は、隱り居て戀しく思(フ)なり、○伊伎豆伎和多利《イキヅキワタリ》は、息衝《イキヅキ》て、月日を過すを云、○之多毛比爾《シタモヒニ》(爾、舊本余に誤れり、)は、裏思《シタモヒ》になり、○奈氣可布和賀勢《ナゲカフワガセ》は、家持(ノ)卿をさせり、按(フ)に、奈氣可布《ナゲカフ》は、もと奈氣可須《ナゲカス》とありけむを、反歌にも、奈氣加布《ナゲカフ》とあるより、ゆくりなく、後に見まがへて、寫し誤れるなるべし、其(ノ)由は、奈宜可布《ナゲカフ》は、自(ラ)のうへに云、奈宜可須《ナゲカス》は、他の上に云ことにて、もとより自他の差別あることなればなり、此は和賀勢《ワガセ》と云につづきたれば、他の上を云ることは、更なるをや、さて奈氣可須《ナゲカス》は、嘆き賜ふ、と云ほどの意なり、○久良之の之は、久(ノ)字の誤なり、改べし、來るやうは、と云如し、○餘乃奈加波《ヨノナカハ》云々、二句上に出(ツ)、○毛能曾の曾(ノ)字、舊本に賀と作るはわろし、今は古寫本、元暦本、官本、拾穗本等に從つ、○安禮爾都具良久《アレニツグラク》は、吾に告るやうは、と云如し、○夜麻備爾波《ヤマビニハ》は、山傍にはなり、爾波《ニハ》は、他處に對へていふ言なり、山傍には云々、春野には云々、といふ意なり、さて已下十餘句は、里人の語(ル)ことをのべたるなり、○可保等利能《カホトリノ》云々、二句、三(ノ)卷、六(ノ)卷、十(ノ)卷にもよめり、○春野爾《ハルノヌニ》は、春野爾波《ハルノヌニハ》云云、乎登賣良我《ヲトメラガ》云々と云べきを、波《ハ》の言を此《コヽ》に除きて、次の乎登賣良波《ヲトメラハ》の波《ハ》にもたせて、其(ノ)意を調《トヽノ》へたるなり、○蘇泥乎利可弊之《ソデヲリカヘシ》は、婦女の菜摘(ム)さまなり、古(ヘ)常の衣服の袖も長かりし故に、摘(ミ)菜などするにも折返せしゆゑに、いふなるべし、○伎美《キミ》は、家持(ノ)卿をさせり、○宇良呉悲須奈里《ウラゴヒスナリ》、(須(ノ)字、舊本に次と作るは誤なり、今は阿野家本、官本、古寫本等に從つ、)此(ノ)下に、かやうに(515)告《ツゲ》つるぞと云詞を、加へて聞べし、○己許呂具志《ココログシ》は、心になつかしまるゝ意なり、と中山(ノ)嚴水云り、○許等波多奈由比は、本居氏云、由比は、思禮の誤なるべし、十三に、事者棚知《コトハタナシレ》とあるも、必(ズ)タナシレ〔四字右○〕とよむべき語の勢なり、さて許等《コト》は、集中に、ことさけば、ことふらば、古今集に、ことならばなどある殊《コト》なり、かくてタナシレ〔四字右○〕は、詳ならざれども、大かたのやうを以ていはゞ、今俗語に、云々と人に物をいひつけて、さやうに心得よ、といふに似たり、十三なるは、人に告ることなかれ、さやうに心得よなり、こゝなるは、上に云る、世(ノ)中は數なきものぞ、里人も云々と告るなり、然れば、春の野山に遊びて、心をやるべきことぞ、さやうに心得たまへ、いざ共に見にゆかむといふなり、と云り、但し許等《コト》は如《ゴト》なり、(殊とかけるは借(リ)字にて、字(ノ)義にはあらず、)さればこゝは、かくの如くに心得よ、といふ意にきこえたり、なほ許等《コト》と云言の義は、七(ノ)卷下に、委(ク)云り、また多奈《タナ》の言は、一(ノ)卷に出て、既く委(ク)註り、九(ノ)卷にも、金門爾之人乃來立者夜中母身者田菜不知出曾相來《カナトニシヒトノキタテバヨナカニモミハタナシラニイデヽソアヒケル》、とあり、○歌(ノ)意は、初(ノ)句より、多麻豆佐能都可比多要米也《タマヅサノツカヒタエメヤ》、といふまでは、家持(ノ)卿をなぐさめ、己母理古非《コモリコヒ》といふより餘乃奈加波可受奈枳毛能曾《ヨノナカハハカズナキモノソ》、といふまでは、家持(ノ)卿のなやまるゝを、共になげき、奈具佐牟流己等母安良牟等《ナグサムルコトモアラムト》、といふより伎美麻都等宇良呉悲須奈里《キミマツトウラゴヒスナリ》、といふまでは、里人のことばをあげて、己許呂具志《ココログシ》と云より、家持(ノ)卿をもよほして、野遊にいざなふなり、と契冲も云たるが如し、
 
(516)3974 夜麻夫枳波《ヤマブキハ》。比爾比爾佐伎奴《ヒニヒニサキヌ》。宇流波之等《ウルハシト》。安我毛布伎美波《アガモフキミハ》。思久思久於毛保由《シクシクオモホユ》。
 
歌(ノ)意は、山吹は日に日に咲たり、愛しく吾思ふ君は、其(ノ)花の日々に咲ごとく、重々《シク/\》に慕はる、となり、
 
3975 和賀勢故爾《ワガセコニ》。古非須弊奈賀利《コヒスベナカリ》。安之可伎能《アシカキノ》。保可爾奈氣加布《ホカニナゲカフ》。安禮之可奈思母《アレシカナシモ》。
 
古非須弊奈加利《コヒスベナカリ》は、戀しく思ふことの、爲方《スベ》無さにの意なり、十二に、吾妹兒爾戀爲便名鴈《ワギモコニコヒスベナカリ》、とあるに同じ、○安之可伎能《アシカキノ》は、枕詞なり、○保可爾奈氣加布《ホカニナゲカフ》は、外《ホカ》に嘆息《ナゲカフ》にて、家持(ノ)卿は守、池主は掾にて、隔り居られし故に、如此云り、さて奈氣加布《ナグカフ》は、奈宜久《ナゲク》の伸りたる言にて、引續きて絶ず嘆くを云なること、此(ノ)上にもいへり、○歌(ノ)意は、他に隔り居て、吾(ガ)兄子を戀しく思ふことの爲方無さに、絶ず引續きて、嘆(キ)暮す吾(ガ)身の、さても一(ト)すぢにかなしや、となり、
 
三月五日《ヤヨヒノイツカノヒ》。大伴宿禰池主《オホトモノスクネイケヌシ》。
 
三月云々の十字も、右に附たる言なり、
 
守大伴宿禰《カミオホトモノスクネヤカモチガ》。更報詩一首并短歌《コタフルカラウタヒトツマタミジカウタ》〔右〜各○で囲む〕。
 
昨暮|來《タマハル》使(ヲ)。幸也。以垂2晩春遊覽之詩(ヲ)1。今朝累(ヌ)v信(ヲ)。辱也。以|※[貝+兄]《タマハル》2相招望野之歌(ヲ)1。一(タビ)(517)看(テ)2玉藻(ヲ)1。稍寫(シ)2鬱結(ヲ)1。二(タビ)吟(ヒテ)2秀句(ヲ)1。已※[益+蜀](ク)2愁緒1(ヲ)。非(ハ)2此(ノ)〓翫(ニ)1。孰能暢(ベム)v心(ヲ)乎。但惟下僕《タヾアレ》。稟性難(ク)v彫(リ)。闇神靡(シ)v瑩(クコト)。握(レバ)v翰(ヲ)腐(シ)v毫(ヲ)。對(ヘバ)v研(ニ)忘(ル)v渇(ヲ)。終日因流(シテ)。綴(レトモ)之不v能。所謂《イハユル》文章(ノ)天骨。習(ヘドモ)之不v得也。豈堪(ム)3探(リ)v字(ヲ)勒(シテ)v韻(ヲ)。叶2和(スルニ)雅篇(ニ)1哉。抑々聞(ク)2鄙里(ノ)少兒(ニ)1。古(ノ)人言無(シト)v不(ハ)v酬(イ)。聊裁2拙詠(ヲ)1。敬(テ)擬(ス)2解咲(ニ)1焉。如今《イマ》賦(シ)v言(ヲ)勒(シ)v韻(ヲ)。同(クス)2斯雅作之篇(ニ)1。豈殊(ナラム)3將(テ)v石(ヲ)同(クシ)v瓊(ニ)唱(ルニ)2聲遊(ノ)走曲(ヲ)1歟。抑小兒(ノ)譬(フ)2※[にすい+監]※[言+陷の旁](ニ)1。敬(テ)寫(シ)2葉喘(ニ)1。式(テ)擬(ス)v亂(ニ)曰。
 
昨暮來v使(ヲ)云々、この處よくせずばまがひぬべし、昨暮來v使は、池主の許より、三日遊覽(ノ)詩を、昨四日に持來し、その使なり、さて家持(ノ)卿の、それに和へられたるに、又|謝《コタ》へて、上件の長歌等を今五日に、池主より贈りしを、今朝累v信とは云るなり、○累v信(ヲ)は、使の度かさなるを云、○相招望野は、家持(ノ)卿をもよほして、野遊に招きいざなへる長歌なれば、云るなり、○此〓翫とは、歌の趣の面白きを云なるべし、○難v彫は、論語に、朽木(ハ)不v可v彫(ル)也、とあるによりて、性のつたなきよしに卑下《クダ》りて云るなり、○闇神靡v瑩は、心の闇きよしなり、○腐v毫とは、歌文作らむとして考る間に、久しく時を移して、筆毫を腐らすな意なり、○忘v渇は、硯のひるをもわすれて、歌文を考るに、時をうつすを云べし、○因流(因(ノ)字、古寫本、拾穗本等には目と作り、それもいかゞ、)は、因循などの誤歟、と略解に云り、○所謂云々、歌文作ることの上手は、生れつきによることにて、吾等學びたりとても、及ばぬことぞ、となり、○豈堪云々は、吾等文才乏しくて、よき作に和(518)ふることあたはぬといふ意なり、○探v字勒v韻は、次韻のことなり、○抑聞云々は、吾が里の小兒すら、古人言無v不v酬と云ことは、よく知て居るほどのことなれば、つたなしとても、酬ずはあるべからず、と云意なるべし、○言無v不v酬、(酬(ノ)字、舊本※[酉+羽]に誤れり、今は拾穗本、古寫小本等に從つ、)毛詩に、無2徳不1v報、無2言不1v酬、○解咲は、解2人頤1、と云に同じ意にて、卑下りていへるなるべし、○如今(今(ノ)字、舊本令に誤れり、今は古寫本、拾穗本等に從つ、)已下三十八字、古本には細書せり、○唱2聲遊(ノ)走曲1歟、(遊字、活字本には極と作り、走(ノ)字、拾穗本には之と作り、)は、いかなる謂ならむ、考へがたし、脱字などあるべきか、○小兒譬※[にすい+監]※[言+餡の旁]は、※[言+餡の旁](ノ)字一本、活字本、拾穗本、古寫小本等には、謠と作り、これによりて思ふに、もとは譬2小兒(ノ)濫謠(ニ)1、とありしを、錯《アヤマ》れるものか、○亂は、字書に、詞之卒(リノ)章(ヲ)曰v亂(ト)、亂者理也、史記屈賈(ガ)傳(ニ)索隱曰、王師叔云、亂者理也、所3以發2理辭指(ヲ)1、總撮2其要(ヲ)1、重理2前意(ヲ)1也、
 
七言一首。
 
抄春(ノ)餘日媚景麗(シ)。初巳(ノ)和風拂(テ)自(ラ)輕(シ)。來燕銜(テ)v泥(ヲ)賀(テ)v宇(ヲ)入(ル)。歸鴻引(テ)v蘆(ヲ)※[しんにょう+回]《ハルカニ》赴v瀛(ニ)。聞(ク)君(ガ)嘯侶新(ニ)流(スコトヲ)v曲(ヲ)。禊飲催(シテ)v爵(ヲ)泛2河(ノ)清(キニ)1。雖v欲(スレ)3追2尋此(ノ)良宴(ヲ)1。還(テ)知(ヌ)染※[こざと+奧](シテ)脚(ノ)※[足+令]※[足+丁](スルコトヲ)。
 
※[しんにょう+回](ノ)字、拾穗本、古寫本等には※[しんにょう+向]と作り、○此良宴、舊本に、良此宴とあるは、顛《タガ》へり、○※[こざと+奧](ノ)字、古寫本、拾穗本には、懊と作り、
 
(519)短歌二首《ミジカウタフタツ》。
 
3976 佐家理等母《サケリトモ》。之良受之安良婆《シラズシアラバ》。母太毛安良牟《モダモアラム》。己能夜萬夫吉乎《コノヤマブキヲ》。美勢追都母等奈《ミセツツモトナ》。
 
母太毛安良牟《モダモアラム》は、黙《モダ》も在《アラ》むにて、たゞ何ともなしにあらむ、といふ意なり、既く出(ツ)、伊勢物語に、たゞなほやは在べき、とある、なほと母太《モダ》とは、同意の詞なり、○美勢追都母等奈《ミセツツモトナ》、三(ノ)卷に、如是故爾不見跡云物乎樂浪乃舊都乎令見乍本名《カクユヱニミズトイフモノヲサヽナミノフルキミヤコヲミセツヽモトナ》、○歌(ノ)意は、山吹の咲てあると云ことを、しらずしてあらば、たゞ何ともなくてあるべきを、むざ/\と其(ノ)花を見せつゝ、いとゞ戀しく思ふ心を、まさらしむるよ、となり、池主より贈らるゝ歌に、夜麻扶枳波比爾比爾佐伎奴《ヤマブキハヒニヒニサキヌ》、とよみて、山吹を折て、右の歌にそへておくられしに、こたへられしななべし、此(ノ)歌十(ノ)卷に、山振《ヤマブキ》と秋芽子《アキハギ》とかはりたるのみにて、全(ラ)同じきあり、古歌を用ひて、家持(ノ)卿は節《ヲリ》にかなへられしにやあらむ、
 
3977 安之可伎能《アシカキノ》。保加爾母伎美我《ホカニモキミガ》。余里多多志《ヨリタタシ》。孤悲家禮許曾波《コヒケレコソハ》。伊米爾見要家禮《イメニミエケレ》。
 
第一二(ノ)句は、池主の贈れる歌をうけていへり、母《モ》は、吾(ガ)如く君もの謂《ヨシ》なり、○余里多多志《ヨリタタシ》は、倚(リ)立賜ひ、と云むが如し、○孤悲家禮許曾波《コヒケレコソハ》(曾(ノ)字、官本に古と作るは誤なり、許多《コヽバ》と云べき處に(520)非ればなり、波(ノ)字、舊本には婆と作り、今は古寫小本に從つ、)は、戀しく思へればこそ、といはむが如し、○歌(ノ)意は、君を吾(ガ)戀しく思ふ如く、君も蘆垣の外に倚(リ)立賜ひて、つら/\吾を戀しく思ひたまへればこそ、吾(ガ)夢に通來座て、見えつるなれ、となるべし、
 
三月五日《ヤヨヒノイツカノヒ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。臥《コヤリテ》v病《ヤミ》作《ヨメル》之。
 
三月云々の十四字も、右に附たる言なり、これも即日に、報へられたるなり、
 
述《ノブル》2戀緒《コヒノコヽロヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
3978 妹毛吾毛《イモモアレモ》。許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》。多具弊禮登《タグヘレド》。伊夜奈都可之久《イヤナツカシク》。相見婆《アヒミレバ》。登許波都波奈爾《トコハツハナニ》。情具之《コヽログシ》。眼具之毛奈之爾《メグシモナシニ》。波思家夜之《ハシケヤシ》。安我於久豆麻《アガオクヅマ》。大王能《オホキミノ》。美許登加之古美《ミコトカシコミ》。阿之比奇能《アシヒキノ》。夜麻古要奴由伎《ヤマコエヌユキ》。安麻射加流《アマザカル》。比奈乎左米爾等《ヒナヲサメニト》。別來之《ワカレコシ》。曾乃日乃伎波美《ソノヒノキハミ》。荒璞能《アラタマノ》。登之由吉我弊利《トシユキガヘリ》。春花乃《ハルハナノ》。宇都呂布麻泥爾《ウツロフマデニ》。相見祢婆《アヒミネバ》。伊多母須弊奈美《イタモスベナミ》。之伎多倍能《シキタヘノ》。蘇泥可弊之都追《ソデカヘシツツ》。宿夜於知受《ヌルヨオチズ》。伊米爾波見禮登《イメニハミレド》。宇都追爾之《ウツツニシ》。多太爾安良禰婆《タダニアラネバ》。孤悲之家口《コヒシケク》。知弊爾都母里奴《チヘニツモリヌ》。近在者《チカクアラバ》。加弊利爾太仁母《カヘリニダニモ》。宇知由吉底《ウチユキテ》。妹我多麻久良《イモガタマクラ》。佐之加倍底《サシカヘテ》。禰天蒙許萬思乎《ネテモコマシヲ》。多麻保己乃《タマホコノ》。路波之騰保久《ミチハシドホク》。關左閉爾《セキサヘニ》。敝奈里底安禮許曾《ヘナリテアレコソ》。與思惠夜之《ヨシヱヤシ》。餘志播安良武曾《ヨシハアラムソ》。霍公鳥《ホトヽギス》。來鳴牟都奇爾《キナカムツキニ》。伊都之加母《イツシカモ》。波夜(521)久奈里那牟《ハヤクナリナム》。宇乃花能《ウノハナノ》。爾保弊流山乎《ニホヘルヤマヲ》。余曾能未母《ヨソノミモ》。布里佐氣見都追《フリサケミツツ》。淡海路爾《アフミヂニ》。伊由伎能里多知《イユキノリタチ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良乃吾家爾《ナラノワガヘニ》。奴要鳥能《ヌエトリノ》。宇良奈氣之都追《ウラナゲシツツ》。思多戀爾《シタコヒニ》。於毛比宇良夫禮《オモヒウラブレ》。可度爾多知《カドニタチ》。由布氣刀比都追《ユフケトヒツツ》。吾乎麻都等《アヲマツト》。奈須良牟妹乎《ナスラムイモヲ》。安比底早見牟《アヒテハヤミム》。
 
許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》は、心者同《コヽロハオヤジ》にて、此《コヽ》は他心《ホカコヽロ》はもたず、同じ思(ヒ)にて、といふほどの意なり、同を古言に於夜自《オヤジ》と云こと、既く云り、○多具弊禮登伊夜奈都可之久《タグヘレドイヤナツカシク》は、相副て在ども、あくことなく、いよ/\懷《ナツ》かしく愛《ウツク》しく、といふ意なり、次に別(レ)來しことをいはむ下形なり、○相見婆《アヒミレバ》云云(四句)は、相見れば、いつも初花を見るが如くに、心にも目にも、なつかしくうるはしく思ふよしなり、登許《トコ》は、常葉《トコハ》、常花《トコハナ》など云如く、常しなへにいつも初花の如くなるをいへるなり、○情具之眼具之毛奈之爾《コヽログシメグシモナシニ》は、中山(ノ)嚴水云、この奈之爾《ナシニ》は、無《ナシ》にの意にあらず、怪《ケ》しきを、怪《ケ》しからぬといふなどゝ同例にて、たゞ詞なり、心にも目にもなつかしと思ふを云ことなり、といへり、なほ九(ノ)卷に、目串毛勿見《メグシモナミソ》、とある處に、委(ク)註り、○安我於久豆麻《アガオクヅマ》(麻の下、古寫小本には、波(ノ)字あれどなき方よろし、)は、略解に、奥におもふとよめるは、深く思ふを云、是も深く思ふ妻なり、といへり、さてこゝは、吾(ガ)妻にといふ意にて亨の相見禰婆《アヒミネパ》と云に應《カケ》て心得べし○夜麻古要奴由伎《ヤマコエヌユキ》は、山を越(エ)野を往(ク)にて、遠く隔り來しさまをいへり、○曾乃日乃伎波美《ソノヒノキハミ》は、其(ノ)日よりこの(522)かた、と云意なり、此(ノ)上にも見えたり、○伊多母須弊奈美《イタモスベナミ》は、甚《イト》も爲方無《スベナ》さにの意なり、○蘇泥可弊之都追《ソデカヘシツツ》云々、衣をうらがへして寢れば、思ふ人の夢に見ゆるよしよめる歌、往々《トコロ/”\》に見えたり、袖かへすも同じことなり、○宿夜於知受《ヌルヨオチズ》は、寢(ル)夜不v漏(レ)、といはむが如し、○多太爾安良禰婆《タダニアラネバ》は、直《タヾ》に逢ねばといはむが如し、○加弊利爾太仁母《カヘリニダニモ》は、俗に立がへりになりとも、といふが如し、六(ノ)卷同じ家持卿の歌に、關無者還爾谷藻打行而妹之手枕卷手宿益乎《セキナクバカヘリニダニモウチエキテイモガタマクラマキテネマシヲ》、と見えたり、○路波之騰保久《ミチハシドホク》は、道間遠《ミチハシドホク》にて、道の間の遠きを云り、○關左閇爾《セキサヘニ》は、關までに、といはむが如し、道の遠きうへに、關までの意なり、○弊奈里底安禮許曾《ヘナリテアレコソ》は、隔《ヘナリ》て有ればこその意なり、さて此(ノ)句の下に、言を含めて心得べし、隔て有ばこそ、得心にも任せあへね、と云謂なり、○與思惠夜之餘志播安良武曾《ヨシヱヤシヨシハアラムソ》は、縱《ヨシ》や爲方《シカタ》はあらむ物ぞ、と思案を得たるさまなり、上に歎きの意をいひつくして、又思(ヒ)かへして、自(ラ)心をなぐさむるなり、○爾保弊流山乎《ニホヘルヤマヲ》は、卯(ノ)花の清白《キヨラ》に映《テリ》て咲る山を、と云なり、○余曾能未母《ヨソノミモ》は、外《ヨソ》に耳《ノミ》も、といはむが如し、○伊由伎能里多知《イユキノリタチ》は、伊《イ》は、物をいひ出す頭におくそへ言なり、往(キ)乘(リ)發(テ)にて、船に乘を云り、○奴要烏能《ヌエトリノ》は、まくら詞なり、○宇良奈氣之都追《ウラナゲシツツ》は、裏歎爲乍《ウラナゲシツヽ》なり、家(ノ)妻が目(ラ)を慕ひ歎くさまなり、○思多戀爾《シタコヒニ》は、裏戀《シタコヒ》になり、既く出(ツ)、○於毛比宇良夫禮《オモヒウラブレ》は、思(ヒ)に苦み憂ひ疲れたるを云、○由布氣刀比都追《ユフケトヒツツ》は、夕卜問乍《ユフケトヒツツ》なり、既く出(デ)つ、○吾乎麻都等《アヲマツト》は、吾を待(ツ)とての意なり、○奈須良牟《ナスラム》は、寢《ネ》給ふらむ、と云むが如し、奈須《ナス》(523)は、奴《ヌ》の伸りたる言なり、(奈須《ナス》の切|奴《ヌ》となれり、)三(ノ)卷に、枕等卷而奈世流君香聞《マクラトマキテナセルキミカモ》、とある奈世流《ナセル》も、寢有《ナセル》にて同言なり、さて獨寢して妻が待らむ、と思ひやりて、よめるなり、○安比底早見牟《アヒテハヤミム》は、早く相て見む、と云むが如し、(略解に、安比《アヒ》は由伎《ユキ》の誤ならむ、といへれど、なほもとのまゝなるべし、)
 
3979 安良多麻乃《アラタマノ》。登之可弊流麻泥《トシカヘルマデ》。安比見禰婆《アヒミネバ》。許己呂母之努爾《ココロモシヌニ》、於母保由流香聞《オモホユルカモ》。
 
許己呂母之努爾《ココロモシヌニ》は、物思(ヒ)につけて、心も萎《シナ》やぎて、と云なり、三(ノ)卷に、淡海之海夕波千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバコヽロモシヌニイニシヘオモホユ》、とあるに同じ、○歌(ノ)意は、一年の月日の暮て、又立かへり、春になるまで、久しく相見ねば、憂ひ苦しみ心も萎《シナヤ》ぎて、さても家路戀しく思はるゝ哉、となり、
 
3980 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。伊米爾波母等奈《イメニハモトナ》。宇比見禮騰《ウヒミレド》。多太爾安良禰婆《タダニアラネバ》。孤悲夜麻受家里《コヒヤマズケリ》。
 
本(ノ)一二(ノ)句のつゞき、十一、十二にも見えたり、母等奈《モトナ》は、尾(ノ)句の上にめぐらして意得べし、○孤悲夜麻受家里《コヒヤマズケリ》は、戀止ざりけり、と云意の處を、かくざまに云るは、古風の詞なり、尚不如家里《ナホシカズケリ》、見禮度安可受介利《ミレドアカズケリ》、などよめるも同じ、○歌(ノ)意は、夢になりとも相見ば、心のなぐさむべき理なるに、唯夢ばかりにて、現在《ウツヽ》に直《タヾ》しく相見る事のなければ、むざ/\と戀しく思ふ心は、な(524)ほ止ざりけり、となり、
 
3981 安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻伎弊奈里底《ヤマキヘナリテ》。等保家騰母《トホケドモ》。許己呂之遊氣婆《ココロシユケバ》。伊米爾美要家里《イメニミエケリ》。
 
許己呂之遊氣婆《ココロシユケバ》は、妹が當《アタリ》になり、之《シ》は、その一(ト)すぢなるを、重く思はする辭なり、○歌(ノ)意は、山を隔て遠くはあれども、一(ト)すぢに戀しく思ふ吾(ガ)心の、妹が當に行ば、身こそ遠く隔てあるなれ、夢にはたび/\妹が見えけり、となり、四(ノ)卷は、天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳情志行者戀流物可聞《アマクモノソクヘノキハミトホケドモコヽロノユケバコフルモノカモ》、
 
3982 春花能《ハルハナノ》。宇都路布麻泥爾《ウツロフマデニ》。相見禰婆《アヒミネバ》。月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》。伊母麻都良牟曾《イモマツラムソ》。
 
月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》は、月日を教《カゾ》へつゝ、といふに同じ、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、自(ラ)の心に引くらべて、家の妹が情をおしはかれるなり、
 
右三月二十曰夜裏《ミギヤヨヒノハツカノヨ》。忽《タチマチ》兮|起《オコシテ》2戀情《コヒノコヽロヲ》1作《ヨメル》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
立夏四月《ウツキタチ》。既《ハヤク》經《ヘテ》2累日《ヒカズ》1。而|由《ナホ》不《ズ》v聞《キカ》2霍公鳥喧《ホトヽギスノコヱヲ》1。因作恨歌二首《カレウラミテヨメルウタフタツ》。
 
作恨は、恨作とありしが顛《イリタガ》へる歟、
 
3983 安思比奇能《アシヒキノ》。夜麻毛知可吉乎《ヤマモチカキヲ》。保登等藝須《ホトトギス》。都奇多都麻泥爾《ツキタツマデニ》。奈仁加吉奈可奴《ナニカキナカヌ》。
 
(525)歌(ノ)意は、山も近き處なれば、ほとゝぎすはいとはやく鳴ぬべきを、なにとて四月の節に入て日を累《フ》るまで、來鳴ぬことぞ、となり、
 
3984 多麻爾奴久《タマニヌク》。波奈多知婆奈乎《ハナタチバナヲ》。等毛之美思《トモシミシ》。己能和我佐刀爾《コノワガサトニ》。伎奈可受安流良之《キナカズアルラシ》。
 
等毛之美思《トモシミシ》は、乏《トモ》しく少《スク》なさにの意なり、思《シ》は、例のその一(ト)すぢなるを、重く思はする辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、初の歌に、とがむるやうに云て、此(ノ)歌には、自(ラ)そをことわれるやうに、よみなしたり、
 
霍公鳥者《ホトヽギスハ》。立夏之日《ウツキタツヒ》。來鳴必定《カナラズキナキヌ》。又越中風土《マタコシノミチノナカノクニザマ》。希2有《マレナリ》橙橘《タチバナ》1也、因《ヨリテ》v此《コレニ》大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。感2發《カマケテ》於懷(ヲ)1。聊|裁《ヨメリ》2此歌《コノウタヲ》1。【三月二十九日。】月定言《ナ》
 
霍公鳥者、立夏之日來鳴必定は、契冲云、今も其(ノ)比鳴なれども、さのみ時候などのやうに、定まれる事ならず、昔(シ)はたがはざる儀に申ならはせりと見ゆ、當集第十八四月一日宴(ノ)歌に、をりあかしこよひはのまむほとゝぎすあけむあしたは鳴わたらむぞ、(左の註云、)二日應2立夏節(ニ)1、故謂2之|明旦《アケムアシタ》將《ムト》1v喧《ナカ》也、また第十九二十四(三月)應2立夏四月節(ニ)1也、因v此(ニ)二十三日之暮、忽思2霍公鳥曉喧聲(ヲ)1作歌、つね人もおきつゝ聞ど霍公鳥此(ノ)曉に來なく始こゑ、又同、月たちし日よりをきつゝうちしのびまてどきなかぬほとゝぎすかも、拾遺夏、春かけてきかむともこそ思ひ(526)しか山郭公おそく鳴らむ、猶有べし、○橙橘は、たゞたちばなのことなり、上にも出(ツ)、○三月云云の六字、舊本には、本行に書り、今は古本に從て、細書せり、
 
二上山賦一首《フタガミヤマノウタヒトツ》。【此山者。在2射水郡1也。】
 
賦は、卜商詩(ノ)序に、故詩有2六義1焉、一(ニ)曰風、二(ニ)曰賦云々、註に、賦者敷2陳其事(ヲ)1而直(ニ)言(フ)之者也、釋名に、敷(ハ)布2其義(ヲ)1謂2之(ヲ)賦(ト)1、○此山云々の八字、舊本に本行とせり、今は古本、拾穗本、古寫小本等に從て細書せり、○在(ノ)字、舊本には有に誤れり、○射水(ノ)郡は、和名抄に、越中(ノ)國射水(ノ)郡|伊美豆《イミヅ》、國造本紀に、伊彌頭《イミヅノ》國(ノ)造、〔頭註、【國造本紀に、伊彌頭國造志賀高穴穩朝御世、宗我同祖、建内足尼孫大河音足尼定2賜國造1、】〕
 
3985 伊美都河泊《イミヅガハ》。伊由伎米具禮流《イユキメグレル》。多麻久之氣《タマクシゲ》。布多我美山者《フタガミヤマハ》。波流波奈乃《ハルバナノ》。佐家流左加利爾《サケルサカリニ》。安吉能葉乃《アキノハノ》。爾保弊流等伎爾《ニホヘルトキニ》。出立底《イデタチテ》。布里佐氣見禮婆《フリサケミレバ》。可牟加良夜《カムカラヤ》。曾許婆多敷刀伎《ソコバタフトキ》。夜麻可良夜《ヤマカラヤ》。見我保之加良武《ミガホシカラム》。須賣可未能《スメカミノ》。須蘇未乃夜麻能《スソミノヤマノ》。之夫多爾能《シブタニノ》。佐吉乃安里蘇爾《サキノアリソニ》。阿佐奈藝爾《アサナギニ》。餘須流之良奈美《ヨスルシラナミ》。由敷奈藝爾《ユフナギニ》。美知久流之保能《ミチクルシホノ》。伊夜麻之爾《イヤマシニ》。多由流許登奈久《タユルコトナク》。伊爾之弊由《イニシヘユ》。伊麻乃乎都豆爾《イマノヲツヅニ》。可久之許曾《カクシコソ》。見流比登其等爾《ミルヒトゴトニ》。加氣底之努波米《カケテシノハメ》。
 
伊由伎米具禮流《イユキメグレル》は、伊《イ》は、物をいひ出す頭におくそへ言なり、行廻有《ユキメグレル》にて、射水河の二上山を廻れるを云、○可牟加良夜《カムカラヤ》、夜麻可良夜《ヤマカラヤ》は、神故哉《カミユヱヤ》、山故哉《ヤマユヱヤ》、といふに同じ、神とは即(チ)山をさして(527)いへり、さて然見るは、其山の尋常《ヨノツネ》に異《カハ》りて、ことに奇《アヤシ》く靈《クスシ》きをかしこみて云る稱なり、此(ノ)次下に、すき/”\に見えたるも、みな同趣なり、(契冲、續紀に、寶龜十一年十二月甲辰、越中(ノ)國射水(ノ)郡二上(ノ)神、礪波(ノ)郡高瀬(ノ)神、並叙2從五位下(ニ)1、とあるを引たれど、こゝは必(ズ)某(ノ)神とさしたるには非じ、)二(ノ)卷に、玉藻吉讃岐國者《タマモヨシサヌキノクニハ》、國柄加見雖不飽《クニカラカミレドモアカヌ》、神柄加幾許貴寸《カミカラコヽダタフトキ》云々、の歌の註、考(ヘ)合(ス)べし、神《カミ》を可牟《カム》といふは、神隨《カムナガラ》、神集《カムツドヒ》など云る例、甚多し、此は上《カミ》を、上道《カムツミチ》、上縣《カムツアガタ》などいふとき、カムと云(フ)、月夜《ツクヨ》、月讀《ツクヨミ》などいふ時は、月《ツキ》をツク〔二字右○〕、身實《ムサネ》、身體《ムクロ》など云時は、身をム〔右○〕と云に皆同じ、これらはいづれも、五十音の第二位を、連言の便に、第三位に轉じたるものなり、雅澄按に、神|可良《カラ》、山|可良《カラ》などいふは、神故、山故の意なり、(家《イヘ》ガラ〔二字右○〕、身《ミ》ガラ〔二字右○〕、人《ヒト》ガラ〔二字右○〕、世《ヨ》ガラ〔二字右○〕、日《ヒ》ガラ〔二字右○〕、手《テ》ガラ〔二字右○〕、所《トコロ》ガラ〔二字右○〕、などいふも、そのもと、家故、身故、人故などの轉りたるもの、とおぼゆるに、後には、ガラ〔二字右○〕と濁りて、家|幹《ガラ》、身|幹《ガラ》、人|幹《ガラ》などいふ意と、心得る事となれゝど、古(ヘ)にいへるは、しかにはあらず、)月|可良《カラ》といへば月故、身|可良《カラ》といべば身故と云意になるに同じ、されば月故の意なるを、ツクカラ〔四字右○〕、身故の意なるを、ムカラ〔三字右○〕とはいふまじきなれば、可牟《カム》は、もとは可美《カミ》なりけむを、神在隨《カムナガラ》など、可牟《カム》と云ることの多きに目なれたるより、必(ズ)ふと寫し誤れるにぞあらむ、續紀聖武天皇(ノ)御製歌に、可未可良斯多布度久安流羅之、とあるをも、考(ヘ)合(ス)べし、○曾許婆多敷刀伎《ソコバタフトキ》は、許多貴《ソコバタフトキ》なり、○須賣加未能《スメカミノ》云云は、契冲、須賣神《スメカミ》とは、二上山を、やがて神といへり、澀溪山は、その裾にありて、そのさきを、澁(528)溪の岬《サキ》といへり、と云るが如し、さて須賣加未能《スメカミノ》と云より下八句は、即(チ)其(ノ)地の景を以て、彌益にをいはむ料の序とせるなり、○須蘇未《スソミ》は、裾廻《スソミ》なり、山の裾の邊を云、裾は麓の方なり、九(ノ)卷に、筑波嶺乃須蘇廻乃田井爾《ツクハネノスソミノタヰニ》、とよめるが如し、○美知久流之保能《ミチクルシホノ》云々、四(ノ)卷に、從蘆邊滿來塩乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシヘヨリミチクルシホノイヤマシニオモヘカキミガワスレカネツル》、十二、十三にも、同じやうによめり、○伊麻乃乎都豆爾《イマノヲツヅニ》は、今之現在《イマノウツツ》になり、五(ノ)卷に、可武奈何良可武佐備伊麻須久志美多麻伊麻能遠都豆爾多布刀伎呂可※[人偏+舞]《カムナガラカムサビイマスクシミタマイマノヲツヅニタフトキロカモ》、○加氣底之努波米《カケテシヌハメ》は、心にも思ひ、言にもいひ出して、賞愛《メデウツクシ》みせめ、となり、
 
3986 之夫多爾能《シブタニノ》。佐伎能安里蘇爾《サキノアリソニ》。與須流奈美《ヨスルナミ》。伊夜思久思久爾《イヤシクシクニ》。伊爾之敝於母保由《イニシヘオモホユ》。
 
伊爾之敝於母保由《イニシヘオモホユ》といへるは、此(ノ)山につきて、神代の古事などありてよめるなるべし、(たゞ時に感じて、かくいへるのみには非じかし、)○歌(ノ)意は、本(ノ)句は、即(チ)目に觸たる處をいひて序とせるにて、此(ノ)山の神さび物ふりたる形儀《サマ》を見れば、昔ありけむやうの、いよ/\頻々《シキリ/\》に思ひ出さる、となり、
 
3987 多麻久之氣《タマクシゲ》。敷多我美也麻爾《フタガミヤマニ》。鳴鳥能《ナクトリノ》。許惠乃孤悲思吉《コヱノコヒシキ》。登岐波伎爾家里《トキハキニケリ》。
 
歌(ノ)意は、二上山に、鳴(ク)鳥の聲のなつかしく、うつくしき時節は來にけり、となり、契冲云、三月三十日の歌なれば、此(ノ)鳥といへるは、ほとゝぎすなるべし、十八、十九にも、二上山に、霍公鳥をよ(529)みあはせたり、
 
右三月三十日《ミギヤヨヒノツゴモリノヒ》。依《ツケテ》v興《コトニ》作《ヨメル》之。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
四月十六日夜《ウヅキノトヲカマリムカノヒノヨ》裏。遙《ハルカニ》聞《キヽテ》2霍公鳥喧《ホトヽギスノコヱヲ》1。述《ノブル》v懷《オモヒヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
3988 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。都奇爾牟加比底《ツキニムカヒテ》。保登等藝須《ホトトギス》。奈久於登波流氣之《ナクオトハルケシ》。佐刀騰保美可聞《サトドホミカモ》。
 
都奇爾牟加比底《ツキニムカヒテ》、十九にも兩處見えたり、○奈久於登《ナクオト》は鳴聲《ナクコヱ》と云に同じ、五(ノ)卷に、于遇比須能於登《ウグヒスノオト》、とある處に、なほ云り、(かげろふの日記に、※[(貝+貝)/鳥]ばかりぞ、いつしかとおとしたるを、あはれときく、云々、いと奥山は、鳥の聲もせぬものなりければ、※[(貝+貝)/鳥]だにおとせず、云々、これらも聲を於登《オト》といへるなり、)○歌(ノ)意は、月の出るかたに向ひて、なくほとゝぎすの聲の遙《ハル/”\》に聞ゆるは、吾(ガ)をる里より遠きが故なるらし、さてもなつかしの聲や、いかで近く聞まほし、となり、
 
右大伴宿禰家持作《ミギオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
右の下、元暦本に、一首(ノ)二字あり、
 
大目秦忌寸八千島之舘《オホキフミヒトハタノイミキヤチシマノタチニテ》。餞《ウマノハナムケスル》2守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチヲ》1宴歌二首《ウタゲノウタフタツ》。
 
3989 奈呉能宇美能《ナゴノウミノ》。意吉都之良奈美《オキツシラナミ》。志苦思苦爾《シクシクニ》。於毛保要武可母《オモホエムカモ》。多知和可禮奈波《タチワカレナバ》。
 
(530)本(ノ)二句は、重々《シク/\》にといはむ料の序なり、○歌(ノ)意は、君が京師の方へ、立別れて行賜ひなば、吾は遺(リ)居て、頻々に君が戀しく思はれむか、さても別れ難や、となり、○此は、主人八千島より贈りたる歌なるべし、
 
3990 利我勢故波《ワガセコハ》。多麻爾母我毛奈《タマニモガモナ》。手爾麻伎底《テニマキテ》。見都追由可牟乎《ミツツユカムヲ》。於吉底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》。
 
和我、舊本に我加と作るは誤なり、今は古寫小本に從つ、○多麻爾母我毛奈《タマニモガモナ》は、玉にてもがなあれかしなあ、と云なり、二(ノ)卷に、放居而吾戀君《サカリヰテアガコフルキミ》、玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》、衣有者脱時毛無《キヌナラバヌグトキモナク》、吾戀《アガコヒム》云々、○於吉※[氏/一]伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》は、遺《ノコ》し置て、徃《イカ》ば惜からむ、となり、○歌(ノ)意は、吾兄子を遺し置て徃ば、名殘惜からむ、されば吾兄子は、玉にてもがなあれかしなあ、さらば手に纏持て、見愛つゝ行べきものを、となり、○此は、家持(ノ)卿より答へられたる歌なるべし、
 
右守大伴宿禰家持《ミギカミオホトモノスクネヤカモチガ》。以《モチテ》2正税帳(ヲ)1。須《ス》v入《マヰラムト》2京師《ミヤコニ》1。仍《カレ》作《ヨミテ》2此謌《コノウタヲ》1。聊|陳《ノブ》2相別歎《ワカレノナゲキヲ》1。【四月二十日。】
 
四月二十日の五字、舊本には本行とせり、今は古本に細書せるに從つ、
 
遊2覽《アソベル》布勢水海《フセノミヅウミニ》1賦一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》【此海者。在2射水郡舊江村1也。】
 
布勢水海は、自註に云る如し、但し和名抄には、越中(ノ)國射水(ノ)郡古江(ノ)(布留江《フルエ》)郷、ありて、布勢《フセ》と舊江《フルエ》は比郷《ナラビ》なるを、水海は舊江《フルエ》に屬るにやあらむ、○在(ノ)字、舊本有に誤れり、拾穗本に、異本に在(531)と作るよし見えたり、○舊江(ノ)村は、下に云、十九にも出(ツ、
 
3991 物能乃敷能《モノノフノ》。夜蘇等母乃乎能《ヤソトモノヲノ》。於毛布度知《オモフドチ》。許己呂也良武等《ココロヤラムト》。宇麻奈米底《ウマナメテ》。宇知久知夫利乃《ウチクチブリノ》。之良奈美能《シラナミノ》。安里蘇爾與須流《アリソニヨスル》。之夫多爾能《シブタニノ》。佐吉多母登保理《サキタモトホリ》。麻都太要能《マツダエノ》。奈我波麻須義底《ナガハマスギテ》。宇奈比河波《ウナヒガハ》。伎欲吉勢其等爾《キヨキセゴトニ》。宇加波多知《ウカハタチ》。可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》。見都禮騰母《ミツレドモ》。曾許母安加爾等《ソコモアカニト》。布勢能宇彌爾《フセノウミニ》。布禰宇氣須惠底《フネウケスヱテ》。於伎敝許藝《オキヘコギ》。邊爾己伎見禮婆《ヘニコギミレバ》。奈藝左爾波《ナギサニハ》。安遲牟良佐和伎《アヂムラサワキ》。之麻未爾波《シマミニハ》。許奴禮波奈左吉《コヌレハナサキ》。許己婆久毛《ココバクモ》。見乃佐夜氣吉加《ミノサヤケキカ》。多麻久之氣《タマクシゲ》。布多我弥夜麻爾《フタガミヤマニ》。波布都多能《ハフツタノ》。由伎波和可禮受《ユキハワカレズ》。安里我欲比《アリガヨヒ》。伊夜登之能波爾《イヤトシノハニ》。於母布度知《オモフドチ》。可久思安蘇婆牟《カクシアソバム》。異麻母見流其等《イマモミルゴト》。
 
許己呂也良武等《ココロヤラムト》は、心《コヽロ》將《ム》v遣《ヤラ》とにて、慰《ナグサマ》むとて、と云意なり、○宇麻奈米底《ウマナメテ》、此(ノ)句にて、しばらく絶(リ)て、次の三句を隔て、之夫多爾能《シブタニノ》云々と云へつゞけて意得べし、澁溪の岬を、馬竝て廻る謂なればなり、此處よくせずばまがひぬべし、(契冲が、馬ならべてむちうつ、と云意に、つゞけたるなり、といへるは、ひがごとなり、)○宇知久知夫利乃《ウチクチブリノ》は、契沖も云る如く、彼此觸之《ヲチコチブリノ》なり、浪の彼方此方へ觸るゝ謂なり、○麻都太要《マツダエ》は、下の長歌にも見えて、地(ノ)名なり、○奈我波麻《ナガハマ》は、松田江《マツダエ》の海濱の、長々としたるを云なるべし、○宇奈比河波《ウナヒガハ》は、和名抄に、越中(ノ)國射水(ノ)郡宇納(ハ)宇奈美《ウナミ》、(532)とある地の河なり、さて此(ノ)句より下三句は、可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》をいはむとての序なり、此(ノ)處よくせずばまがひぬべし、家持(ノ)卿の、親《ミヅカラ》その鵜つかふ業|爲《シ》たまふ由には非ず、すべて鵜をつかふ人は、彼方此方行めぐるものなれば、たゞ右徃左徃《カユキカクユキ》と云む料のみに、其地《ソコ》の宇納河《ウナヒガハ》もて、設け云るなり、○曾許母安加爾等《ソコモアカニト》は、其《ソレ》も不v飽とて、と云なり、○奈義左爾波《ナギサニハ》は、渚《ナギサ》にはなり、爾波《ニハ》とは、他の處にむかへていふ詞なり、○之麻未爾波《シマミニハ》は、島廻《シマミ》にはなり、爾波《ニハ》は、上の如し、○許奴禮《コヌレ》は、木末《コノウレ》の約りたるなり、木未《コノウレ》は、木之末枝《コノウラエ》にて、宇禮《ウレ》も、もと末枝《ウラエ》の約りたるものなり、○許己婆久毛《ココバクモ》は、許多《コヽバク》もなり、○見乃佐夜氣吉加《ミノサヤケキカ》は、見ることの清明《サヤカ》に面白さ哉の意なり、○多麻久之氣《タマクシゲ》已下三句は徃者《ユキハ》不《ズ》v別《ワカレ》、といはむ料の序なり、○由伎波和可禮受《ユキハワカレズ》は、かた/”\に徃(キ)別れ去(ル)ことはなくしての意なり、○安里我欲比《アリガヨヒ》は、住(リ)つゝ徃來《カヨヒ》ての意なり、○於母布度知《オモフドチ》云々、今の如くに後々も、此(ノ)衆中《トモガラ》思ふ共《ドチ》と遊ばむ、となり、○異麻母見流其等《イマモミルゴト》は、今目の前に見る如くもの意なり、母《モ》は、今を主とたてゝ、後の度を客として云るなり、さればこの毛《モ》の辭は、其等《ゴト》の下にめぐらして意得べし、今眼前に見て賞愛《ウツクシ》む如く、又後の度も、かやうに遊ばむ、との謂《ヨシ》なり、此(ノ)詞集中に甚多し、
 
3992 布勢能宇美能《フセノウミノ》。意枳都之良奈美《オキツシラナミ》。安利我欲比《アリガヨヒ》。伊夜登偲能波爾《イヤトシノハニ》。見都追思努播牟《ミツツシヌハム》。
 
(533)歌(ノ)意は、年毎年毎《トシゴトトシゴト》に、在(リ)つゝ徃來《カヨ》ひ來て、この布勢の海の、沖津白浪の面白きけしきを見つゝ、めで遊ばむ、となり、(略解に、沖つ浪のよせかへるを以て、序とせり、といへるは、あらず、)
 
右守大伴宿禰家詞作《ミギカミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。【四月廿四日。】
 
四月云々の五字、舊本には本行とせり、今は古本に細書せるに從つ、
 
敬d和《コタヘマヲス》遊2覽《アソビタマヘル》布勢水海《フセノミヅウミニ》1賦《ウタニ》u一首并一絶《ウタヒトツマタミジカウタヒトツ》。
 
一絶は、長歌を賦と書るより、短歌一首を、絶句の意に、かくしるせり、
 
3993 布治奈美波《フヂナミハ》。佐岐弖知理爾伎《サキテチリニキ》。宇能波奈波《ウノハナハ》。伊麻曾佐可理等《イマソサカリト》。安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻爾毛野爾毛《ヤマニモヌニモ》。保登等藝須《ホトトギス》。奈伎之等與米婆《ナキシトヨメバ》。宇知奈妣久《ウチナビク》。許己呂毛之努爾《ココロモシノニ》。曾己乎之母《ソコヲシモ》。宇良胡非之美等《ウラコヒシミト》。於毛布度知《オモフドチ》。宇麻宇知牟禮底《ウマウチムレテ》。多豆佐波理《タヅサハリ》。伊泥多知美禮婆《イデタチミレバ》。伊美豆河泊《イミヅガハ》。美奈刀能須登利《ミナトノスドリ》。安佐奈藝爾《アサナギニ》。可多爾安佐里之《カタニアサリシ》。思保美底婆《シホミテバ》。都麻欲妣可波須《ツマヨビカハス》。等母之伎爾《トモシキニ》。美都追須疑由伎《ミツツスギユキ》。之夫多爾能《シブタニノ》。安利蘇乃佐伎爾《アリソノサキニ》。於枳追奈美《オキツナミ》。余勢久流多麻母《ヨセクルタマモ》。可多與理爾《カタヨリニ》。可都良爾都久理《カヅラニツクリ》。伊毛我多米《イモガタメ》。底爾麻吉母知底《テニマキモチテ》。宇良具波之《ウラグハシ》。布勢能美豆宇彌爾《フセノミヅウミニ》。阿麻夫禰爾《アマブネニ》。麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》。之路多倍能《シロタヘノ》。蘇泥布理可邊之《ソデフリカヘシ》。阿登毛比底《アドモヒテ》。和賀己藝由氣婆《ワガコギユケバ》。乎布能佐伎《ヲフノサキ》。波奈知利麻我比《ハナチリマガヒ》。奈伎佐爾波《ナギサニハ》。阿之賀(534)毛佐和伎《アシガモサワキ》。佐射禮奈美《サザレナミ》。多知底毛爲底母《タチテモヰテモ》。己藝米具利《コギメグリ》。美禮登母安可受《ミレドモアカズ》。安伎佐良婆《アキサラバ》。毛美知能等伎爾《モミチノトキニ》。波流佐良婆《ハルサラバ》。波奈能佐可利爾《ハナノサカリニ》。可毛加久母《カモカクモ》。伎美我麻爾麻等《キミガマニマト》。可久之許曾《カクシコソ》。美母安吉良米米《ミモアキラメメ》。多由流比安良米也《タユルヒアラメヤ》。
 
布治奈美波《フヂナミハ》は、藤(ノ)花は過去《チリ》、宇乃花《ウノハナ》は全盛《イマサカリ》と云るにて、波《ハ》は、此(ノ)物と彼(ノ)物と、對偶《ムカヘナラ》べて云ときに、用ふる辭なり、○佐岐弖知理爾伎《サキテチリニキ》は、開て散にけり、と云が如し、伎《キ》は、さきにありしことを、今かたるてにをはなり、○宇知奈妣久《ウチナビク》と云るは、心の花鳥に靡き依るを、云なるべし、○曾己乎之母《ソコヲシモ》は、其《ソコ》をしもなり、之母《シモ》は、多かる物の中を、取出ていふ助辭なり、この山河の風景は、いつと云とり分もなき中に、卯(ノ)花、霍公鳥などの盛は、ことにすぐれて、面白き時節ぞ、と思はせむがために云る辭なり、○宇良胡非之美等《ウラコヒシミト》は、心戀《ウラコヒ》しさに、と云意なり、等《ト》は、助辭なり、○宇麻宇知牟禮底《ウマウチムレテ》は、馬打群而《ウマウチムレテ》にて、馬竝而《ウマナメテ》と云るに同じ、打《ウチ》は例のいひおこす辭なり、(鞭を打(ツ)意にはあらず、)○多豆佐波理《タヅサハリ》は、※[手偏+雋]有《タヅサハリ》なり、○須等利《スドリ》は河洲に住(ム)鳥を云、既くいへり、○可多爾安佐里之《カタニアサリシ》は、滷《カタ》に求食爲《アサリシ》にて、滷は、干滷なり、○等母之伎爾《トモシキニ》は、愛《メヅラ》しきにの意なり、○可多與理爾《カタヨリニ》は、片寄《カタヨリ》になり、さてこの一句は、次(ノ)句へは連かず、上の於枳追奈美《オキツナミ》の下に、置かへて意得べし、奥つ浪の片寄(リ)に依(セ)來る、その玉藻の意なればなり、○可都良爾都久理《カヅラニツクリ》は、※[草冠/縵]《カヅラ》に製《ツクリ》なり、さて古(ヘ)のならはしにて、梅柳などはさるものにて、藻の類をも、※[草冠/縵]に製りて飾りしなり、伊勢物語に、わた(535)つみのかざしにさすといはふ藻も、とよめるも、古(ヘ)藻の類をも頭刺《カザシ》にし、※[草冠/縵]《カヅラ》に製《ツク》れることの有によりて、よめる證なり、○宇良具波之《ウラグハシ》は心細《ウラグハシ》にて、心に愛るを云詞なり、此は心細《ウラグハシ》き布勢の海と云意に、其(ノ)海を愛《メデ》ていへり、○阿麻夫禰爾《アマブネニ》は、海舟《アマブネ》ににて、海人が乘(ル)舟に乘(リ)たるを云、○麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》は、眞※[楫+戈]榜貫《マカヂカイヌキ》なり、※[楫+戈]は今云|櫓《ロ》なり、榜《カイ》は、今の櫓に似てちひさきものを、今もかいと云、又其(ノ)象《カタ》を圖《カキ》て服章《シルシ》ともせる、此なり、十八にも、眞可伊可氣《マカイカケ》、又、眞可伊繁頁《マカイシヾヌキ》とあり、和名抄に、※[楫+戈](ハ)使2舟(ヲ)捷(ク)疾(カラ)1也、和名|加遲《カヂ》、また在v旁(ニ)撥v水(ヲ)曰v櫂(ト)、字亦作v棹(ニ)、漢語抄(ニ)云|加伊《カイ》、と見えたり、○蘇泥布理可邊之《ソデフリカヘシ》は、楫榜を取て舟をこぐに、袖の飜るを云、○阿登毛比底《アドモヒテ》は、率而《アドモヒテ》なり、既く出(ツ)、○乎布能佐伎《ヲフノサキ》は、地(ノ)名なり、○波奈知利麻我比《ハナチリマガヒ》は、卯(ノ)花の散|亂《マガ》ふをいへり、○佐射禮奈美《サザレナミ》は、興居《タチヰ》をいはむ料の序なり、○多知底毛爲底母《タチテモヰテモ》は、興ても居てもにて、さま/”\にして見るさまなり、さて此(ノ)一句は、次の一句を隔て、美禮登母安可受《ミレドモアカズ》の上におきて意得べし、漕廻り、立て見居て見れども不飽、とつゞく意なり、○安伎佐良婆《アキサラバ》云々、波流佐良婆《ハルサラバ》云々は、末を兼ていへり、○可毛加久母《カモカクモ》云々は、とにもかくにも、君が心任《コヽロマヽ》に隨《シタガ》ひて、共に見つゝ遊ばむの意なり、○麻爾麻等《マニマト》、中院家本、元暦本、古寫小本等には、等を爾と作り、いづれにてもありぬべし、○美母安吉良米米《ミモアキラメメ》は、見もし、明らめもせめ、と云意なり、見は、見愛《ミメヅ》る方にて云、明らめは、心を晴《ハル》かする方にて云り、○多由流比安良米也《タユルヒアラメヤ》は、絶る日|將《ム》v有《アラ》やは、絶る日なしに、春秋に遊ばむの意なり、
 
(536)3994 之良奈美能《シラナミノ》。與世久流多麻毛《ヨセクルタマモ》。余能安比太母《ヨノアヒダモ》 都藝底民仁許武《ツギテミニコム》。吉欲伎波麻備乎《キヨキハマビヲ》。
 
本(ノ)二句は、海濱にありふる物を云て、やがて序とせるにて、契冲も云る如く、玉藻の節《ヨ》といひかけたるなるべし、十九に、靡珠藻乃節間毛《ナビクタマモノフシノマモ》、とあるに同じつゞけなり、○余能安比太母《ヨノアヒグモ》は、本居氏、世間《ヨノアヒダ》もにて、生涯《ヨノカギリ》もと云意なり、と云るが如し、○波麻備《ハマビ》は、濱傍《ハマビ》なり、○歌(ノ)意は、たゞ一日二日のみにて止べきにあらず、わが生涯も絶ることなく續きて、此(ノ)清くて面白き濱傍《ハマビ》を、見に來む、となり、
 
右掾大伴宿禰池主作《ミギマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガヨメル》。【四月廿六日追和。】
 
四月云々の七字、舊本には、本行に書り、古本細書せるに從つ、
 
四月廿六日《ウツキノハツカマリムカノヒ》。椽大伴宿禰池主之舘《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガタチニテ》。餞《ウマノハナムケスル》2税帳使|守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチヲ》1宴謌并古歌四首《ウタゲノウタマタフルウタヨツ》。
 
餞(ノ)字、舊本に錢と作るは誤なり、拾穗本に從つ、丸并已下五字、古本にはなし、
 
3995 多麻保許乃《タマホコノ》。美知爾伊泥多知《ミチニイデタチ》。和可禮奈婆《ワカレナバ》。見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》。孤悲思家武可母《コヒシケムカモ》。
 
見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》(舊本、佐の下に、等(ノ)字あるは衍なり、今は元暦本、古寫本、古寫小本、拾穗本等に(537)無(キ)に從つ、)は、佐《サ》は、そへ言にて、不《ヌ》v見《ミ》日《ヒ》數多《マネミ》なり、相見ぬ日の數の、多くなるがゆゑにの意なり、○歌(ノ)意は、道に出發て、京師の方へ別れ去なば、漸々相見ぬ日の數の多くなるが故に、いよ/\君が態しく思はれむか、さても別れ難や、となり、○舊本註に、一云、不見日久彌戀之家牟加母、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
3996 和我勢古我《ワガセコガ》。久爾弊麻之奈婆《クニヘマシナバ》。保等登藝須《ホトトギス》。奈可牟佐都寄波《ナカムサツキハ》。佐夫之家牟可母《サブシケムカモ》。
 
久爾弊麻之奈婆《クニヘマシナバ》は、税帳使にて、本津國《モトツクニ》の奈良へおはしましなば、と云なり、○歌(ノ)意は、霍公鳥の聲を聞時は、憂をも晴しやるならひなるに、吾兄子が奈良へおはしましなば、吾はそれとは引かへて、五月に至りて、ほとゝぎすの聲を聞度に、君が此處におはしまさば、共に聞べきにと思ひて、いとゞ心を苦しめむか、さても別れ難や、となり、
 
3997 安禮奈之等《アレナシト》。奈和備和我勢故《ナワビワガセコ》。保登等藝須《ホトトギス》。奈可牟佐都奇波《ナカムサツキハ》。多麻乎奴香佐禰《タマヲヌカサネ》。
 
歌(ノ)意は、吾無(シ)とて、わびたまふことなかれ、吾(ガ)兄子よ、ほとゝぎすの鳴五月になりなば、橘を玉(538)に貫て、心をなぐさめ給へかし、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守大伴宿禰家持和《カミオホトモノスクネヤカモチガコタフ》。
 
石川朝臣水通《イシカハノアソミミトホシガ》。橘歌一首《タチバナノウタヒトツ》。
 
水通は、傳未(ダ)詳ならず、
 
和我夜度能《ワガヤドノ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。波奈其米爾《ハナゴメニ》。多麻爾曾安我奴久《タマニソアカヌク》。麻多婆苦流之美《マタバクルシミ》。
 
波奈其米爾《ハナゴメニ》は、契冲、花ともになり、後撰集伊勢が歌に、根ごめに風のふきもこさなむ、とよめるも、根ともに吹おこせよ、といへるなり、花ごのに玉にぬくとは、橘(ノ)實のあかみて、もてはやすべき比のとほければ、といふこゝろなり、といへり、○歌(ノ)意は、橘(ノ)子《ミ》の熟《アカ》みて、玉に貫べき頃に至るを待(タ)ば、待遠く苦しからむとて、猶花のある中に、花と共に、子《ミ》を玉に貫ぞ、となり、○此は古歌ながら、當時の興に協ひたれば、誦《トナヘ》たるならむ、
 
右一首《ミギノヒトウタ》。傳誦主人大伴伴宿禰池主云《ツタヘヨムハアルジオホトモノスクネイケヌシナリキ》爾。
 
守大伴宿禰家持舘《カミオホトモノスクネヤカモチガタチニテ》。飲宴歌一首《サケノミスルヒノウタヒトツ》。【四月二十六日】
 
3999 美夜故弊爾《ミヤコヘニ》。多都日知可豆久《タツヒチカヅク》。安久麻底爾《アクマテニ》。安比見而由可奈《アヒミテユカナ》。故布流比於保家牟《コフルヒオホケム》。
 
歌(ノ)意は、京の方に發(チ)て趣く日間近くなりぬれば、かくて別れて後、戀しく思ふ日の多からむ(539)によりて、今飽足までに、相見てこそゆかめ、となり
 
立山賦一首并短歌《タチヤマノウタヒトツマタミジカウタ》。【此山者在2新河郡1也。】
 
立山、今はたてやまと云《イヘ》ども、古(ヘ)は多知山《タチヤマ》と唱り、○在(ノ)字、舊本有と作るは誤なり、類聚抄、拾穗本、古寫小本等に從つ、○新河郡、(河(ノ)字、官本には川と作り、)和名抄に、越中(ノ)國新河(ノ)郡|爾布加波《ニフカハ》、と見えたり、(爾比《ニヒ》を爾布《ニフ》といへるは、訛れるなり、)三代實録に、貞觀九年二月廿七日、越中(ノ)國正五位上新川(ノ)神、
 
4000 安麻射可流《アマザカル》。比奈爾名可加須《ヒナニナカカス》。古思能奈可《コシノナカ》。久奴知許登其等《クヌチコトゴト》。夜麻波之母《ヤマハシモ》。之自爾安禮登毛《シジニアレドモ》。加波波之母《カハハシモ》。佐波爾由氣等毛《サハニユケドモ》。須賣加未能《スメカミノ》。宇之波伎伊麻須《ウシハキイマス》。爾比可波能《ニヒカハノ》。曾能多知夜麻爾《ソノタチヤマニ》。等許奈都爾《トコナツニ》。由伎布理之伎底《ユキフリシキテ》。於婆勢流《オバセル》。可多加比河波能《カタカヒガハノ》。伎欲吉瀬爾《キヨキセニ》。安佐欲比其等爾《アサヨヒゴトニ》。多都奇利能《タツキリノ》。於毛比須疑米夜《オモヒスギメヤ》。安里我欲比《アリガヨヒ》。伊夜登之能播仁《イヤトシノハニ》。余増能未母《ヨソノミモ》。布利佐氣見都都《フリサケミツツ》。余呂豆餘能《ヨロヅヨノ》。可多良比具佐等《カタラヒグサト》。伊末太見奴《イマダミヌ》。比等爾母都氣牟《ヒトニモツゲム》。於登能未毛《オトノミモ》。名能未母伎吉底《ナノミモキキテ》。登母之夫流我禰《トモシブルガネ》。
 
比奈爾名可加須《ヒナニナカカス》は、夷《ヒナ》に名懸《ナカヽ》すなり、可加須《カカス》は、契冲、延喜式、紀伊(ノ)國|國懸《クニカヽスノ》神社を引たる如し、さて可加須《カカス》は、懸《ケ》賜ふと云が如し、山を貴みて、懸たまふ、と云意に云るなり、二(ノ)卷に、御名爾懸世(540)流飛鳥河《ミナニカヽセルアスカガハ》、とよめるも、明日香(ノ)皇女の御名に懸賜へると云なり、十六に、妹之名爾紫繋櫻《イモガナニカヽセルサクラ》、と云るも、櫻兒と云女(ノ)名に、懸たまへる櫻と云るにて、皆同意なり、さてこゝは、立山《タチヤマ》と云名に懸《カヽ》りて、高く秀《ヒデ》て立(チ)登れるを云なるべし、夷《ヒナ》と云に名を懸《カク》、と云には非ず、夷(ノ)國にありて、立山と云名に懸りて、高く立(テ)る謂《ヨシ》ならむ、○古思能奈可《コシノナカ》は、越中《コシノナカ》なり、越中を、常は古思能美知乃中《コシノミチノナカ》と云を、古(ヘ)はかくも云けるなるべし、○久奴知許登其等《クヌチコトゴト》は、國内盡《クヌチコト/”\》なり、五(ノ)卷に、阿乎爾與斯久奴知許等其等《アヲニヨシクヌチコトゴト》、とよめるに同じ、○之自爾安禮登毛《シジニアレドモ》は、繁《シヾ》に雖《ドモ》v有《アレ》にて、多く有どもといふに同じ、○佐波爾由氣等毛《サハニユケドモ》は、多《サハ》に雖《ドモ》v逝《ユケ》にて、逝《ユク》は流れ逝(ク)を云、○須賣加未《スメカミ》は、此(ノ)立山に坐す神をさして云るなり、○宇之波伎伊麻須《ウシハキイマス》は、主佩坐《ウシハキイマス》にて、主として、其(ノ)地を領(リ)坐すを云、古言なり、五(ノ)卷、六(ノ)卷、九(ノ)卷等に出て、既く委(ク)註り、○等許奈都爾《トコナツニ》は、本居氏云、奈都《ナツ》は、能杼《ノド》と通ひて、等許奈都《トコナツ》は、のどかに久しき意なり、草のとこなつといふ名も、花ののどかに久しくあるよしの名なり、なでしこも、のどしこにて、同じ意なり、○於婆勢流《オバセル》は、所帶《オバセル》なり、四言一句なり、帶(セ)賜へる、と云が如し、立山の滞《オベ》る片貝河《カタカヒガハ》の謂なり、さて此句より下五句は、序なり、○可多加比河波《カタカヒガハ》は、立山の麓の方にある河なるべし、○多都奇利能《タツキリノ》は、霧の消失るを過《スグ》ると云(ヘ)ば、思ひ過るをいはむとての序なり、○於毛比須疑米夜《オノヒスギギメヤ》は、此(ノ)山河のあはれさの、一度見れば心留りて、外《ヨソ》に思ひ過し難きよしなり、○余増能未母《ヨソノミモ》(増(ノ)字、官本には曾と作り、)は、外《ヨリ》に耳《ノミ》もといふに同じ、○布利佐氣見(541)都々《フリサケミツヽ》は、その山の秀《ヒデ》て、高く天《ソラ》に進みたる故に、振放仰見乍《フリサケミツヽ》といふなり、○可多良比具佐等《カタラヒグサト》は、語種《カタラヒグサ》となり、具佐《グサ》は、目醒《メサマ》し草《グサ》、志奴布草《シヌフグサ》などやうに、多く云草にて、種《タネ》と云が如し、こゝはほ俗にはなしの種《タネ》といふに同じ、山河の面白きけしきの、萬代にいひつぎかたりつぐべき種《タネ》とすべくおもはるゝをいへり、○於登能未毛《オトノミモ》は、山河の勝れたる風景を、人の語る音にばかり聞《キヽ》ても、と云なり、聞《キヽ》は、次(ノ)句にてすべて云り、○名能未母伎吉底《ナノミモキキテ》は、名ばかり聞ても、といふが如し、さてこの名は、たゞ山(ノ)名を云にはあらで、山のすべての儀形《スガタ》をいふなるべし、すべて儀形を名と云こと、上に既く云り、○登母之夫流我禰《トモシブルガネ》は、羨《ウラヤマ》しがる料《タメ》にと、いはむが如し、
 
4001 多知夜麻爾《タチヤマニ》。布里於家流由伎乎《フリオケルユキヲ》。登己奈都爾《トコナツニ》。見禮等母安可受《ミレドモアカズ》。加武|奈〔○で囲む〕賀良奈良之《カムナガラナラシ》。
 
加武奈賀良奈良之《カムナガラナラシ》(奈賀良の奈(ノ)字、舊本になきは、決《キハメ》て脱たるものなり、神柄《カミカラ》、國柄《クニカラ》など云|柄《カラ》は、故《カラ》の意なり、こゝもその意ならば、加美加良《カミカラ》とあるぺし、加武賀良《カムガラ》とは云べくもあらねば、賀の濁音の字をかけるは、奈賀良とありしが所由《ユヱ》ならむ、)は、神在隨《カムナガラ》にあるらし、といはむが如し、神《カミ》は即(チ)山をさしていへり、○歌(ノ)意は、立山に、とこしへにふりおける雪を、見れども見足《ミアカ》ず、さるは其(ノ)山即(チ)靈《クシヒ》なる神にてましますがまゝに、風致のすぐれて興あればなるらし、となり、一三二四五と、句を次第て聞べし、
 
(542)4002 可多加比能《カタカヒノ》。可波能瀬伎欲久《カハノセキヨク》。由久美豆能《ユクミヅノ》。多由流許登奈久《》タユルコトナク。安里我欲比見牟《アリガヨヒミム》。
 
歌(ノ)意、本(ノ)句は序にて示くれたるところなし、一(ノ)卷に、雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》、
 
四月二十七日《ウツキノハツカマリナヌカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
敬2和《コタヘマヲス》立山賦《タチヤマノウタニ》1一首并二絶《ウタヒトツマタミジカウタフタツ》。
 
4003 阿佐比左之《アサヒサシ》。曾我比爾見由流《ソガヒニミユル》。可無奈我良《カムナガラ》。彌奈爾於婆勢流《ミナニオハセル》。之良久母能《シラクモノ》。知邊乎於之和氣《チヘヲオシワケ》。安麻曾曾理《アマソソリ》。多可吉多知夜麻《タカキタチヤマ》。布由奈都登《フユナツト》。和久許等母奈久《ワクコトモナク》。之路多倍爾《シロタヘニ》。遊吉波布里於吉底《ユキハフリオキテ》。伊爾之邊遊《イニシヘユ》。阿理吉仁家禮婆《アリキニケレバ》。許其志可毛《コゴシカモ》。伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》。多末伎波流《タマキハル》。伊久代經爾家牟《イクヨヘニケム》。多知底爲底《タチテヰテ》。見禮登毛安夜之《ミレドモアヤシ》。彌禰太可美《ミネダカミ》。多爾乎布可美等《タニヲフカミト》。於知多藝都《オチタギツ》。吉欲伎可敷知爾《キヨキカフチニ》。安佐左良受《アササラズ》。綺利多知和多利《キリタチワタリ》。由布佐禮婆《ユフサレバ》。久毛爲多奈※[田+比]吉《クモヰタナビキ》。久毛爲奈須《クモヰナス》。己許呂毛之努爾《ココロモシヌニ》。多都奇理能《タツキリノ》。於毛比須具佐受《オモヒスグサズ》。由久美豆乃《ユクミヅノ》。於等母佐夜氣久《オトモサヤケク》。與呂豆余爾《ヨロヅヨニ》。伊比都藝由可牟《イヒツギユカム》。加波之多要受波《カハシタエズハ》。
 
阿佐比左之《アサヒサシ》は、(略解に、常見やる所より、朝日のさすに向ひて、見ゆる方なり、といへるは、穩な(543)らず、)背向《ソガヒ》に所《ユル》v見《ミ》、といはむとての、まくら詞におけるなるべし、すべて朝日のさす方には、羞明《マバユク》て、直に向ひ難きものなれば、かくつゞけたるなるべし、十四に、可美都氣努麻具波思麻度爾安佐日左指麻伎良波之母奈安利都追見禮婆《カミツケヌマグハシマドニアサヒサシマキラハシモナアリツツミレバ》、とあるも、朝日のさして、目嫌《マキラハ》しと云かけたるにて、朝日の方に、直に向ひ難きよしなり、(目嫌《マキラハシ》は羞明《マバユシ》と云に同じ、)故(レ)此に准へて、今の趣をもさとるべし、○曾我比爾見由流《ソガヒニミユル》は、國府の方より、背向に見ゆるを云なるべし、○可無奈我良《カムナガラ》は、神在隨《カムナガラ》にて、神とはすなはち此(レ)も山をいふなるべし、○彌奈爾於婆勢流《ミナニオハセル》(婆(ノ)字は書たれども、清て唱ふべし、)は、御名《ミナ》に所《セル》v負《オハ》にて、此(ノ)山の高く秀て、天《アメ》に進《ソヽ》り立るゆゑに、立山と御名に負せ賜へる、といふなるべし、○之良久母能《シラクモノ》云々は、高く秀たる形容《サマ》をいへり、○安麻曾々理《アマソヽリ》は、天進《アマソヽリ》にて、天に進み登りて高きを云、古事記に火須勢理(ノ)命とあるを、書紀には、火闌降《ホノスソリノ》命、(註に、火闌降此云2褒能須素里《ホノスソリ》1、とあり、)その一書には、火酢芹《ホスセリノ》命と記し、又一書には、火進《ホスヽミノ》命と見えて、須勢理《スセリ》、須曾埋《スソリ》、曾々埋《ソヽリ》、須々理《スヽリ》、須々美《スヽミ》と云も、皆同言なり、(今俗に、人の心の浮立進むを、そゝると云も、同じ言なり、と本居氏云り、)此(ノ)集九(ノ)卷菟原處女(カ)墓の長歌に、廬八燎須酒師競《フセヤタキススシキホヒ》、とよめる須酒師《ススシ》も同言にて、進み競ふ意なるを、合(セ)考(フ)べし、(須々理《スヽリ》とも、須々師《スヽシ》とも用《ハタラ》くは、離を波奈理《ハナリ》とも、波奈師《ハナシ》とも用《ハタラ》かし言と、全(ク)同(ジ)例なり、)○阿里吉仁家禮婆《アリキニケレバ》は、在來《アリキ》にければなり、○許其志可毛《コゴシカモ》は、凝々《コヾ》し哉《カモ》にて、三(ノ)卷に、島山之宜國跡《シマヤマノヨロシキクニト》、極此疑伊豫能高嶺乃《コヾシカモイヨノタカネノ》云々、とある歌に委(ク)註り、(544)○伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》は、巖之神然備《イハノカムサビ》にて、巖《イハ》の神々《カウ/”\》しく物ふりたるを云り、○多末伎波流《タマキハル》は、代《ヨ》といはむとての枕詞なり、○彌禰太可美《ミネダカミ》は、峯が高さにの意なり、さて此(ノ)句より下八句は、心も之努《シヌ》に思ひ過さず、をいはむとての下形なり、○多爾乎布可美等《タニヲフカミト》は、谷が深さにの意にて、等《ト》は助辭なり、峯高く谷が深さに、遠く激《タギ》り落る水の清きさまなり、○吉欲伎可敷知爾《キヨキカフチニ》は、清河内《キヨキカフチ》になり、河内《カフチ》は、可多加比《カタカヒ》河の廻れる處を云、○久毛爲多奈※[田+比]吉《クモヰタナビキ》は、雲※[雨/非]※[雨/微]《クモタナビキ》なり、爲《ヰ》はたゞそへたる言にて、居《ヰ》る意にあらず、既く云り、○久毛爲奈須《クモヰナス》は、如《ゴトク》v雲《クモノ》と云に同じ、さて次(ノ)句につづける意は、雲の靡くが如く、心のしぬゝに萎《シナ》やぎ靡くよしなり、○由久美豆乃《ユクミヅノ》と云より、結句までの意は、此(ノ)河の絶ずてだにあるならば、必(ズ)遊覽して愛《メヅ》べき地ぞと云ことを、萬代までも、たしがにいひ續(ギ)往(ク)べきものぞ、となり、○於等母佐夜氣久《オトモサヤケク》は、音も清《サヤケ》くにて、清《サヤケ》くとは、人の音なひいひ傳ふることの、慥《タシカ》なる意なり、
 
4004 多知夜麻爾《タチヤマニ》。布里於家流由伎能《フリオケルユキノ》。登許奈都爾《トコナツニ》。氣受底和多流波《ケズテワタルハ》。可無奈我良等曾《カムナガラトソ》。
 
可無奈我良等曾《カムナガラトソ》は、(上に、加武賀良奈良之、とあるも、武の下に奈(ノ)字脱たるものにて、今の同言なること、彼所にいへる如し、)神在隨《カムナガラ》とてぞ、と云意なり、此も神は、すなはち山をさして云こと、上に出たる歌と同じ、○歌(ノ)意は、立山に、零置有《フリオケル》雪の、とこしへに消ずして、年月を在わたる(545)は、其(ノ)山の神《アヤ》しく靈《クシビ》なる神にてましますがまゝにて、然有《シカリ》とぞ、となり、
 
4005 於知多藝都《オチタギツ》。可多加比我波能《カタカカヒガハノ》。多延奴期等《タエヌゴト》。伊麻見流比等母《イマミルヒトモ》。夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》。
 
歌(ノ)意は、今かく來て見る人々も、河流《カハセ》の不《ヌ》v絶《タエ》如く、いつまでも常に通ひ來て見はやさむ、となり、
 
右掾大伴宿根池主和之《ミギマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガコタフ》。【四月廿八日。】
 
四月云々の五字、舊本には本行とせり、前後の例のまゝに、細書せり、
 
入《マヰラムコト》v京《ミヤコニ》漸近《ヤヽチカク》。悲情《カナシミノコヽロ》難《ガタクテ》v撥《ハラヒ》。述《ノブル》v懷《オモヒヲ》歌〔○で囲む〕一首并一絶《ウタヒトツマタミジカウタヒトツ》。
 
4006 可伎加蘇布《カキカソフ》。敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》。可牟佐備底《カムサビテ》。多底流都我能奇《タテルツガノキ》。毛等母延毛《モトモエモ》。於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》。波之伎與之《ハシキヨシ》。和我世乃伎美乎《ワガセノキミヲ》。安佐左良受《アササラズ》。安比底許登騰比《アヒテコトドヒ》。由布佐禮婆《ユフサレバ》。手多豆佐波利底《テタヅサハリテ》。伊美豆河波《イミヅガハ》。吉欲伎可布知爾《キヨキカフチニ》。伊泥多知底《イデタチテ》。和我多知彌禮婆《ワガタチミレバ》。安由能加是《アユノカゼ》。伊多久之布氣婆《イタクシフケバ》。美奈刀爾波《ミナトニハ》。之良奈美多可彌《シラナミタカミ》。都麻欲夫等《ツマヨブト》。須騰理波佐和久《スドリハサワク》。安之可流等《アシカルト》。安麻乃乎夫禰波《アマノヲブネハ》。伊里延許具《イリエコグ》。加遲能於等多可之《カヂノオトタカシ》。曾己乎之毛《ソコヲシモ》。安夜爾登母志美《アヤニトモシミ》。之怒比都追《シヌヒツツ》。安蘇夫佐香理乎《アソブサカリヲ》。須賣呂伎能《スメロキノ》。乎須久爾奈禮婆《ヲスクニナレバ》。美許登母知《ミコトモチ》。多知和可禮(546)奈婆《タチワカレナバ》。於久禮多流《オクレタル》。吉民婆安禮騰母《キミハアレドモ》。多麻保許乃《タマホコノ》。美知由久和禮播《ミチユクワレハ》。之良久毛能《シラクモノ》。多奈妣久夜麻乎《タナビクヤマヲ》。伊波禰布美《イハネフミ》。古要弊奈利奈婆《コエヘナリナバ》。孤悲之家久《コヒシケク》。氣乃奈我家牟曾《ケノナガケムソ》。則許母倍婆《ソコモヘバ》。許己呂志伊多思《ココロシイタシ》。保等登藝須《ホトトギス》。許惠爾安倍奴久《コヱニアヘヌク》。多麻爾母我《タマニモガ》。手爾麻吉毛知底《テニマキモチテ》。安佐欲比爾《アサヨヒニ》。見都追由可牟乎《ミツツユカムヲ》。於伎底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》。
 
可伎加蘇布《カキカソフ》は、二《フタ》と云言にかゝる枕詞なり、可伎《カキ》は、手して物する事に、そへいふ辭なり、指《ユビ》を折(リ)て、一二幾許《ヒトツフタツイクツ》、と數《カゾ》ふる意につゞけたり、八(ノ)卷に、秋野咲有花乎指折可伎數者七種花《アキノヌニサキタルハナヲオヨビヲリカキカゾフレバナヽクサノハナ》、○可牟佐備底《カムサビテ》は、樛《ヅガ》の年を經て、物ふり神々しきを云、○毛等母延毛《モトモエモ》は、幹《モト》も枝《エ》もなり、さて此は、契冲も云る如く、幹枝《モトエ》は、大伴氏の嫡庶に比べて、家持(ノ)卿目を幹とし、池主を枝としてよめりと見ゆ、さて樛木《ツガノキ》をしも、ことに取(リ)出たるは、集中に、樛木之彌續嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》、とよみなれたるうへ、常磐木にて、枝葉|繁茂《シゲ》るものなれば、家の久しきを、祝(フ)意を含めて云るにこそ、○於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》は、同常磐《オヤジトキハ》ににて、常磐は、もと磐をいふより出て、物の堅くて常に不《ヌ》v變(ラ)を、何にても云(フ)言なり、○和我世乃伎美《ワガセノキミ》は、池主をさせり、○安佐左良受《アササラズ》は、朝《アサ》不《ズ》v離《サラ》にて、此(ノ)上にも見ゆ、集中に多き詞なり、毎日《ヒゴト》といふ意に用たり、○安比底許登騰比《アヒテコトドヒ》は、會而言語《アヒテコトドヒ》なり、言語《コトドヒ》は、物言《モノイフ》といふに同意なり、○安由能加是《アユノカゼ》は、下の歌の自註に、越(ノ)俗語、東風(ヲ)謂2之|安由乃可是《アユノカゼト》1也、とあり、今も安以乃可是《アイノカゼ》(547)と云由、契冲云り、(毛詩に習々谷風《ヤハラカナルアユノカゼ》云々、註に、谷風(ハ)東風也、とあり、この谷風を、アユノカカゼ〔五字右○〕と、むかしの博士の訓るを思へば、越(ノ)俗より出て、京人なども、しかいへるにや、)○曾己乎之毛《ソコヲシモ》は、其《ソレ》をしもなり、之毛《シモ》は、多かる物の中を、とり出ていふ辭なり、○安夜爾登母志美《アヤニトモシミ》は、奇《アヤ》に愛《メヅラ》しさに、と云意なり、○之怒比都追《シヌヒツツ》は、賞乍《メデツヽ》といはむが如し、○安蘇夫佐香埋乎《フソブサカリヲ》は、遊盛《アソブサカリ》をにて、遊ぶ最中《モナカ》を、と云が如し、此(ノ)上に加欲敷浪牟時盛乎《カヨフラムトキノサカリヲ》、伊多豆良爾須具之夜里都禮《イタヅラニスグシヤリツレ》、とあり、○乎須久爾《ヲスクニ》は、食國《ヲスクニ》なり、○美許登母知《ミコトモチ》は、御言持《ミコトモチ》なり、すべて官事を取行ふは、天皇の大命を承賜り、戴(キ)持てものすれば、いへり、持《モチ》は、次の長歌に、乎須久爾能許等登里毛知底《ヲスクニノコトトリモチチ》、とある、持《モチ》に同じ、又司また宰を、ミコトモチ〔五字右○〕と云も、同じ意の名ぞ、○吉民波安禮騰母《キミハアレドモ》は、君はさて雖《ドモ》v在(レ)、といふ意なり、君は池主をさす、安禮騰母《アレドモ》は、二(ノ)卷に、君名者雖有吾名之惜毛《キミガナハアレドアガナシヲシモ》、とよめる、雖有《アレド》に同じ、互に相別《ワカレ》の悲(ミ)はなきにしもあらず、されど吾(ガ)歎にくらべては、君はなほ堪忍ばるべくもあれど、といふが如し、○古要弊奈利奈婆《コエヘナリナバ》は、越隔《コエヘナ》りなばなり、○氣乃奈我家牟曾《ケノナガケムソ》は、月日の間の、長からむぞ、と云なり、○曾許母倍婆《ソコモヘバ》は、其《ソレ》を思へばなり、○許惠爾安倍奴久《コヱニアヘヌク》は、聲に令《セ》v合《アハ》貫《ヌク》なり、霍公鳥の鳴ころ、橘を玉に貫(ク)故に、令《セ》v合《アハ》貫《ヌク》とよめり、八(ノ)卷に、霍公鳥痛寞鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトヽギスイタクナナキソナガコヱヲサツキノタマニアヘヌクマデニ》、とあり、○多麻爾母我《タマニモガ》は、玉にもがなあれかしの意なり、此(ノ)上に、和我勢故波多麻爾母我毛奈手爾麻伎底見都道由加牟乎於吉底伊加婆乎思《ワガセコハタマニモガモナテニマキテミツツユカムヲオキテイカバヲシ》、とあり、此《コヽ》によめる多麻《タマ》は、續命縷《クスダマ》なり、(548)○於伎底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》は、遺《ノコ》し置て往ば惜からむ、となり、上にもあり、
 
4007 和我勢故婆《ワガセコハ》。多麻爾母我毛奈《タマニモガモナ》。保等登伎須《ホトトギス》。許惠爾安倍奴伎《コヱニアヘヌキ》。手爾麻伎底由加牟《テニマキテユカム》。
 
歌(ノ)意は、吾(ガ)兄子は、續命縷《クスダマ》にてもがなあれかしな(ア)、さらば霍公鳥の聲に令《セ》v合《アハ》貫(キ)て、手に纏持て、賞《メデ》つゝ行べきを、となり、
 
右大伴宿禰家持《ミギオホトモノスクネヤカモチガ》。贈《オクル》2椽大伴宿禰池主《マツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシニ》1。【四月卅日。】
 
忽見2入v京述v懷之作(ヲ)1。生(ナガラノ)別(ルヽ)悲(ミ)兮。斷(ツコト)v腸(ヲ)萬回。怨緒難(シ)v禁《ノゾキ》。聊奉(ズ)2所心(ヲ)1一首并二絶《ウタヒトツマタミジカウタフタツ》。
 
兮(ノ)字、元暦本に、号と作るは、非なるべし、
 
4008 安遠爾與之《アヲニヨシ》。奈良乎伎波奈禮《ナラヲキハナレ》。阿麻射可流《アマザカル》。比奈爾波安禮登《ヒナニハアレド》。和賀勢故乎《ワガセコヲ》。見都追志乎禮婆《ミツツシヲレバ》。於毛比夜流《オモヒヤル》。許等母安利之乎《コトモアリシヲ》。於保伎美乃《オホキミノ》。美許等可之古美《ミコトカシコミ》。乎須久爾能《ヲスクニノ》。許等登理毛知底《コトトリモチテ》。和可久佐能《ワカクサノ》。安由比多豆久利《アユヒタヅクリ》。無良等理能《ムラトリノ》。安佐太知伊奈婆《アサダチイナバ》。於久禮多流《オクレタル》。阿禮也可奈之伎《アレヤカナシキ》。多妣爾由久《タビニユク》。伎美可母孤悲無《キミカモコヒム》。於毛布蘇良《オモフソラ》。夜須久安良禰婆《ヤスクアラネバ》。奈氣可久乎《ナゲカクヲ》。等騰米毛可禰底《トドメモカネテ》。見和多勢婆《ミワタセバ》。宇能婆奈夜麻乃《ウノハナヤマノ》。保等登藝須《ホトトギス》。禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》。安佐疑理能《アサギリノ》。美太流流許己呂《ミダルルココロ》。許登爾伊泥底《コトニイデテ》。伊波婆由遊思美《イハバユユシミ》。刀奈美夜麻《トナミヤマ》。多牟氣能可(549)味爾《タムケノカミニ》。奴佐麻都里《ヌサマツリ》。安我許比能麻久《アガコヒノマク》。波之家夜之《ハシケヤシ》。吉美賀多太可乎《キミガタダカヲ》。麻佐吉久毛《マサキクモ》。安里多母等保利《アリタモトホリ》。都奇多多婆《ツキタタバ》。等伎毛可波佐受《トキモカハサズ》。奈泥之故我《ナデシコガ》。波奈乃佐可里爾《ハナノサカリニ》。阿比見之米等曾《アヒミシメトゾ》。
 
和賀勢故《ワガセコ》は、家持(ノ)卿をさせり、○於毛比夜流《オモヒヤル》は、憂思《モノオモヒ》を遣(リ)失ふを云て、慰む意なり、○許等母安利之乎《コトモアリシヲ》は、事も有し物をの意なり、田舍の旅居の、なべては物憂かる中にも、又、吾(ガ)兄子を相見つゝ居れば、慰む事もありし謂なり、母《モ》の辭味ふべし、○許等登里毛知底《コトトリモチテ》は、官事を執(リ)持て、と云なり、登里毛知《トリモチ》は、古事記に、思金(ノ)神|者《ハ》、取2持《トリモチテ》前《マヘノ》事(ヲ)1爲(ス)v政、十八に、於保伎見能未伎能未爾末爾等里毛知底都可布流久爾能《オホキミノマキノマニマニトリモチテツカフルクニノ》、三代實録廿九(ノ)詔に、右大臣藤原(ノ)朝臣|波《ハ》、内外乃政乎取持天《ウチトノマツリゴトヲトリモチテ》、勤仕奉己止夙夜《イソシクツカヘマツルコトアサヨヒ》不《ズ》v懈《オコタラ》、などあるに同じ、○和可久佐能《ワカクサノ》は、枕詞なるべし、(略解に、足結《アユヒ》は、和名抄に、行纏(ハ)唐式(ニ)云、諸府(ノ)衛士、人別(ニ)行纏一具、本朝式(ニ)云、脛巾、俗(ニ)云|波々支《ハヽキ》、新抄本草(ニ)云、※[草がんむり/囹]、和名|以知比《イチヒ》、今俗(ニ)編v※[草がんむり/囹]爲2行纏(ト)1、故附出(ス)、とある、此(ノ)類にて、革もてはゞきを作れば、若草《ワカクサ》の足結といふなり、と云れど、いかゞ、若芽の草は、いと弱《ヨワ》く軟《ヤハラカ》にて、足結《アユヒ》の類には、製りがたかるべきをや、且《マタ》足結《アユヒ》は、行縢《ムカバキ》、脛巾《ハヾキ》などとは異なる物にて、袴をかゝげて、膝のあたりにて結固むる帶を云ことゝきこえたれば、若草にて製らむこと、いよ/\いかゞなり、なほ足結のことは、七(ノ)上に既く委(ク)云り、)今按(フ)に、此は若草の脆《アユフ》といふ意につゞけたる歟、安由布《アユフ》は、即(チ)脆《モロ》く柔《ヤハラカ》なる事を云言とおぼえた(550)り、さるは字書に、脆(ノ)字を註して、小?(ニシテ)易(キヲ)v斷曰v脆(ト)、とある意にて、若芽の草の柔に脆《モロ》きより、つづけたるならむ、さてその安由布《フユフ》を、安由久《アユク》とも用《ハタラ》かし云しなるべし、志奴布《シヌフ》を、志奴久《シヌク》とも用《ハタラ》かすと、同例なり、廿(ノ)卷に、以母加去々里波》阿用久奈米加母《イモガコヽリハアヨクナメカモ》、とある、阿用久《アヨク》も、脆《アヨ》くにて、もろき意ときこゆればなり、されば安由布《アユフ》、安用布《アヨフ》、安由久《アユク》、安用久《アヨク》など通(ハ)し用《ハタラ》かして、同言とおもはるゝなり、かくて危《アヤフ》く、危《アヤ》ぶむなど云なるも、もとこの安由布《フユフ》より出たるならむ、猶考(フ)べし、○安由比多豆久利《アユヒタヅクリ》とは、安由比《フユヒ》は、脚帶《アユヒ》にて、既く註り、多豆久利《タヅクリ》は、(略解に、手して作ればいふ、と云るは、あらず、此は旅發(ツ)時のさまを云る處なれば、さる時に臨て、脚帶を頓《ニハカ》に製《ツク》るべきにあらず、(手装《タヅクリ》にて、手《タ》はそへたる辭、豆久利《ツクリ》は、豆久羅比《ツクラヒ》と云に同じ、(羅比《ラヒノ》切|利《リ》、)皇極天皇(ノ)紀(ノ)歌に、野麻騰能飫斯能毘稜栖嗚倭※[手偏+施の旁]羅務騰阿庸比※[手偏+施の旁]豆矩梨擧始豆矩羅符母《ヤマトノオシノヒロセヲワタラムトアヨヒタヅクリコシヅクラフモ》、とあるも、脚帶を装《ツクラ》ひて、河(ノ)瀬を渡らむとするさまを云るを、思(ヒ)合(ス)べし、今の歌は、即(チ)此(ノ)歌によれるものなり、○無良等理能《ムラトリノ》は、まくら詞なり、○安佐太知伊奈婆《アサダチイナバ》は、旅はいつも朝とく發(ツ)ものなればいへり、今は古事記八千矛(ノ)神(ノ)御歌を、まねびたり、○於久禮多流《オクレタル》云々、伎美可母孤悲無《キミカモコヒム》(四句)は、遺《オク》れ居る吾が、君を慕ふ心が、悲しかるべき歟、族に行君が、吾を戀しく思ふ心の悲しかるべき歟、さても吾が君を慕ひ思ふ心には、くらべぐるしかるべし、其(ノ)ゆゑは、吾は思ふ空《ソラ》不《アラズ》v安《ヤスク》云々、といふ意につゞけたるなるべし、上の家持(ノ)卿(ノ)歌に、於久禮多流吉民波安禮騰母《オクレタルキミハアレドモ》、と云に應へたり、○(551)奈氣可久乎《ナゲカクヲ》は、歎《ナグ》くをの伸りたるにて、歎く事をといふ意なり、うくつらくを、うけくつらけくなど云類なり、○宇能波奈夜麻《ウノハナヤマ》は、契冲云、只卯(ノ)花の多くさける山を、おしていへり、上に、うの花のにほへる山、とよめるが加し、第十にも、うの花山とも、うの花へからともよめり、、○禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》は、哭耳《ネノミ》し所泣《ナカユ》にて、之《シ》は、その一すぢに泣(カ)るゝよしをいふ辭なり、奈可由《ナカユ》は、泣(カ)ると云に同じ、○安佐疑理能《アサギリノ》は、枕詞なり、すべて霧は、散(リ)散(リ)に亂《ミダ》れたなびくものなれば、亂《ミダレ》といはむ料なり、○伊波婆由遊思美《イハバユユシミ》は、言《イハ》ば忌々《ユヽ》しからむとて、と云なり、打出してこと/”\しく言(ハ)ば、忌憚《イミハヾカ》らしからむとて、黙止居《モダヲ》る謂なり、○刀奈美夜麻《トナミヤマ》は、和名抄に、越中(ノ)國礪波(ノ)郡、とあり、そこにて、名高き山なり、○多牟氣能可味《タムケノカミ》は、山の頂上《タムケ》に坐(シ)て、旅行(キ)を守(リ)坐(ス)神なり、和名抄に、唐韻(ニ)云、※[示+易](ハ)道上(ノ)祭、一(ニ)云道神也、和名|太無介乃加美《タムケノカミ》、とあり、又三代實録に、元慶二年五月八日、授2越中(ノ)國手向(ノ)神(ニ)從五位下(ヲ)1、とあるは、こゝの手向に坐(ス)神にや、猶尋ぬべし、さて多牟氣《タムケ》と云は、もと、山の坂路の頂上にては、越行人の、旅路の平安《サキ》からむことを祈《イノリ》て、神に手向《タムケ》するより云ことにて、今(ノ)俗《ヨ》に、これを峠《タウゲ》と云は、すなはち多牟氣《タムケ》の音便に頽《クヅ》れたるものなり、三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》、とあるも、寧樂《ナラ》山の峠をいへるなり、かくて十五に、美故之治能多武氣爾多知弖《ミコシヂノタムケニタチテ》、と見えたると、六(ノ)卷に、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女の相坂山の上にて、木綿疊手向乃山《ユフタヽミタムケノヤマ》、とよまれたると、さて今の歌などを考(ヘ)合するに、何(レ)の山にまれ、越行人の坂路の頂上にて、手向《タムケ》する(552)地をいへりしことなるを、寧樂《ナラ》山の手向は、古(ク)よりことに名高く、誰も必(ズ)彼處にて、手向することにきはまりたるが故に、後には山(ノ)名となりしとおぼえて、古今集※[羈の馬が奇]旅に、朱雀院の寧樂におはしましける時に、手向山にてよめる、菅原(ノ)朝臣、此たびは幣も取あへず手向山云々、と見えたり、なほ三(ノ)卷(ノ)上にも、委(ク)云り、○安我許比能麻久《アガコヒノマク》は、吾乞祈《アガコヒ)マ》くにて、能麻久《ノマク》は、即|祈《ノム》の延りたる言にて、いのることなり、こゝは吾(ガ)乞《コヒ》いのるやうは、と云意なり、○波之家夜之吉美賀多太可乎《ハシケヤシキミガタダカヲ》、此(ノ)二句は、次の六句を隔て、結句の上におきて、意得べし、君が多太可《タグカ》を令《シメ》2相見《アヒミ》1とぞ、と云意につゞきたればなり、多太可《タダカ》は、既くあまた見えたり、○麻佐吉久母《マサキクモ》は、眞辛《マサキ》くもなり、○安里多母等保利《アリタモトホリ》は、在手廻《アリタモトホリ》なり、在廻《アリメグリ》といはむが如し、年月と共に、在(リ)在(リ)て廻り逢むの意なり、○等伎毛可波佐受《トキモカハサズ》は、時も不《ズ》v令《サ》v易《カハ》にて、來年の此(ノ)時にあたるほどを過さずして、と謂なり、續後紀十(ノ)卷に、五月詔曰云々、時毛換左須《トキモカハサズ》甘雨|令《シメ》v零《フラ》賜倍止《タマヘト》、○阿比見之米等曾《アヒミシメトソ》、上の安我許比能麻久《アガコヒノマク》に應《コタ》へたり、吾乞祈《ガコヒイノ》るやうは云々、瞿麥の花の盛なる時に、令《シメ》2相見《アヒミ》1給へとてぞ、となり三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不離相見染跡衣《サホスギテナラノタムケニオクヌサハイモヲメカレズアヒミシメトソ》、
 
4009 多麻保許能《タマホコノ》。美知能可未多知《ミチノカミタチ》。麻比波勢牟《マヒハセム》。安賀於毛布伎美乎《アガオモキミヲ》。奈都可之美勢余《ナツカシミセヨ》。
 
麻比波勢牟《マヒハセム》は、幣者《マヒハ》將《ム》v爲《セ》なり、(すなはち麻比《マヒ》は、賄賂《マヒナヒ》の麻比《マヒ》なり、麻比奈比《マヒナヒ》と云|奈比《ナヒ》は、卜《ウラ》を卜(553)奈比《ウラナヒ》、商《アキ》を商奈比《アキナヒ》など云ごとく、活用《ハタラ》かぬ言に付て、用《ハタラ》かす言なり、さて後(ノ)世は、理ならぬ物を贈るを麻比奈比《マヒナヒ》と云ことなれど、古(ヘ)にいへるは、それにはあらず、俗に云|捧物《サヽゲモノ》を、麻比《マヒ》といへるなり、)○奈都可之美勢余《ナツカシミセヨ》は、奈都可之牟《ナツカシム》とは、親《シタ》しみ愛《ウツク》しむを云言にて、愛《ウツクシ》み賜ひて、恙無《ツヽミナカ》らむことを護《マモ》らしめ給へ、となり、伊勢物語に、わがせしがごとうるはしみせよ、とよゆるに同じ語(ノ)勢なり、○歌(ノ)意は、旅行(キ)の道路に座ます神々等に、捧(ゲ)物して祈り申さむぞ、吾(ガ)思(フ)君を愛しみ賜ひて、恙無らむことを、護らしめ給へよ、となり、此(ノ)上大伴(ノ)坂上(ノ)郎女の歌に、美知乃奈加久爾都美可未波多妣由伎母之思良奴伎美乎米具美多麻波奈《ミチノナカクニツミカミハタビユキモシシラヌキミヲメグミタマハナ》、契冲云、此(ノ)歌は、大かた上の郎女を取てよまれたり、當時の妙手人のしたはれたること、みるべし、
 
4010 宇良故非之《ウラコヒシ》。和賀勢能伎美波《ワガセノキミハ》。奈泥之故我《ナデシコガ》。波奈爾毛我母奈《ハナニモガモナ》。安佐奈佐奈見牟《アサナサナミム》。
 
宇良故非之《ウラコヒシ》は、心戀《ウラコヒ》しきといふ意なり、○波奈爾毛我母奈《ハナニモガモナ》は、花にてもがなあれかしな(ア)と云意なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、三(ノ)卷に、石竹之其花爾毛我朝旦手取持而不戀日將無《ナデシコガソノハナニモガアサナサナテニトリモチテコヒヌヒナケム》
 
右大伴宿禰池主《ミギオホトモノスクネイケヌシガ》。報贈和歌《コタフルウタ》。【五月二日。】
 
二日、目録に五日と作るは、用べからず、
 
(554)思《シヌヒ》2放逸鷹《ソラセルタカヲ》1。夢見感悦《イメニミテヨロコビ》。作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
悦(ノ)字、定家卿萬事には、慟と作り、
 
4011 大王乃《オホキミノ》。等保能美可度等《トホノミカドト》。美雪落《ミユキフル》。越登名爾於弊流《コシトナニオヘル》。安麻射可流《アマザカル》。比奈爾之安禮婆《ヒナニシアレバ》。山高美《ヤマタカミ》。河登保之呂思《カハトホシロシ》。野乎比呂美《ヌヲヒロミ》。久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》。安由波之流《アユハシル》。奈都能左加利等《ナツノサカリト》。之麻都等里《シマツトリ》。鵜養我登母波《ウカヒガトモハ》。由久加波乃《ユクカハノ》。伎欲吉瀬其等爾《キヨキセゴトニ》。可賀里左之《カガリサシ》。奈豆左比能保流《ナヅサヒノボル》。露霜乃《ツユシモノ》。安伎爾伊多禮婆《アキニイタレバ》。野毛佐波爾《ヌモサハニ》。等里須太家里等《トリスダケリト》。麻須良乎能《マスラヲノ》。登母伊射奈比底《トモイザナヒテ》。多加波之母《タカハシモ》。安麻多安禮等母《アマタアレドモ》。矢形尾乃《ヤカタヲノ》。安我大黒爾《アガオホクロニ》。【大黒者。蒼鷹之名也。】之良奴里能《シラヌリノ》。鈴登里都氣底《スヾトリツケテ》。朝※[獣偏+葛]爾《アサガリニ》。伊保都登里多底《イホツトリタテ》。暮※[獣偏+葛]爾《ユフガリニ》。知登理布美多底《チドリフミタテ》。於敷其等迩《オフゴトニ》。由流須許等奈久《ユルスコトナク》。手放毛《タバナレモ》。乎知母可夜須伎《ヲチモカヤスキ》。許禮乎於伎底《コレヲオキテ》。麻多波安里我多之《マタハアリガタシ》。左奈良弊流《サナラベル》。多可波奈家牟等《タカハナケムト》。情爾波《コヽロニハ》。於毛比保許里底《オモヒホコリテ》。惠麻比都追《ヱマヒツツ》。和多流安比太爾《ワタルアヒダニ》。多夫禮多流《タブレタル》。之許都於吉奈乃《シコツオキナノ》。許等太爾母《コトダニモ》。吾爾波都氣受《ワレニハツゲズ》。等乃具母利《トノグモリ》。安米能布流日乎《アメノフルヒヲ》。等我理須等《トガリスト》。名乃未乎能里底《ナノミヲノリテ》。三島野乎《ミシマヌヲ》。曾我比爾見都追《ソガヒニミツツ》。二上《フタガミノ》。山登妣古要底《ヤマトビコエテ》。久母我久理《クモガクリ》。可氣理伊爾伎等《カケリイニキト》。可弊理伎底《カヘリキテ》。之波夫禮都具禮《シハブレツグレ》。呼久餘思乃《ヲクヨシノ》。曾許爾奈家禮婆《ソコニナケレバ》。伊敷須弊能《イフスベノ》。多騰伎乎之良爾《タドキヲシラニ》。心爾波《コヽロニハ》。(555)火佐倍毛要都追《ヒサヘモエツツ》。於母比孤悲《オモヒコヒ》。伊伎豆吉安麻利《イキヅキアマリ》。氣太之久毛《ケダシクモ》。安布許等安里也等《アフコトアリヤト》。安之比奇能《アシヒキノ》。乎底母許乃毛爾《ヲテモコノモニ》。等奈美波里《トナミハリ》。母利弊乎須惠底《モリベヲスヱテ》。知波夜夫流《チハヤブル》。神社爾《カミノヤシロニ》。底流鏡《テルカヾミ》。之都爾等里蘇倍《シヅニトリソヘ》。己比能美底《コヒノミテ》。安我麻都等吉爾《アガマツトキニ》。乎登賣良我《ヲトメラガ》。伊米爾都具良久《イメニツグラク》。奈我古敷流《ナガコフル》。曾能保追多加波《ソノホツタカハ》。麻追太要乃《マツダエノ》。波麻由伎具良之《ハマユキグラシ》。都奈之等流《ツナシトル》。比美乃江過底《ヒミノエスギテ》。多古能之麻《タコノシマ》。等妣多毛登保里《トビタモトホリ》。安之我母乃《アシガモノ》。須太久舊江爾《スダクフルエニ》。乎等都日毛《ヲトツヒモ》。伎能敷母安里追《キノフモアリツ》。知加久安良婆《チカクアラバ》。伊麻布都可太未《イマフツカダミ》。等保久安良婆《トホクアラバ》。奈奴可乃乎知波《ナヌカノヲチハ》。須疑米也母《スギメヤモ》。伎奈牟和我勢故《キナムワガセコ》。禰毛許呂爾《ネモコロニ》。奈孤悲曾余等曾《ナコヒソヨトソ》。伊麻爾都氣都流《イマニツゲツル》。
 
等保能美可度等《トホノミカドト》、等(ノ)字、舊本に、曾と作るは誤なり、今例に據て改つ、三(ノ)卷に、大王能遠乃朝廷等蟻通島門乎見者神代之所念《オホキミノトホノミカドトアリガヨフシマトヲミレバカミヨシオモホユ》、五(ノ)卷長歌に、大王能等保乃朝廷等《ホキミノトホノミカドト》、斯良農比筑紫國爾《シラヌヒツクシノクニニ》、泣子那須斯多比枳摩斯提《ナクコナスシタヒキマシテ》云々、十五に、須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロキノトホノミカドト》、可良國爾和多流和我世波《カラクニニワタルワガセハ》云々、十八に、於保伎見能等保能美可等々《オホキミノトホノミカドヽ》、末伎太未不官乃末爾未《マキタマフツカサノマニマ》、美由伎布流古之爾久太利來《ミユキフルコシニクダリキ》云々、廿(ノ)卷に天皇乃等保能朝廷等《》、之良奴日筑紫國波《スメロキノトホノミカドトシラヌヒツクシノクニハ》云々、などあり、(これらによりて、必等の誤なることを知つ、曾とありては、語とゝのはぬことなり、)遠之朝廷《トホノミカド》は、三(ノ)卷に既く委(ク)註り、此《コヽ》は越中(ノ)國府をさして云り、等《ト》は、とある、或はとありて、とも云意に用たり、此《コヽ》はとあるの意なり、○美雪(556)落《ミユキフル》云々は、御雪落《ミユキフル》の詞、名に負有《オヘル》と云に係りて御雪落越《ミユキフルコシ》と、古(ヘ)より名に負(ヒ)持(チ)來しごとく、雪深き夷の國にてあれば、と云意なり、○山高美《ヤマダカミ》は、山高くして、と云意なり、(この美《ミ》は、次の野乎比呂美《ヌヲヒロミ》の美《ミ》とは、用ひざまいさゝか異れり、)此(ノ)言の事、既く委(ク)註り、○河登保之呂思《カハトホシロシ》は、三(ノ)卷に明日香能舊京師者《アスカノフルキミヤコハ》、山高三河登保志呂之《ヤマタカミカハトホシロシ》、とある處に註り、○野乎呂比美《ヌヲヒロミ》は、野が廣さにの意なり、○久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》、此(ノ)許曾《コソ》、と云て、吉《キ》と結る例、一(ノ)卷に委(ク)註り、○安由波之流奈都能左加利等《アユハシルナツノサカリト》は、(漢籍にて、所謂盛夏の義にあらず、)夏の點走る盛、といはむが如し、○之麻都等里《シマツトリ》は、まくら詞なり、鵜《ウ》はもはら海(ノ)島に棲《スム》ものなれば、島の鳥《トリ》鵜《ウ》といひかけたるなり、庭つ鳥|鷄《カケ》、野つ鳥|雉《キヾシ》、奥つ鳥|鴨《カモ》、などよめると同例なり、十九に、島津鳥※[盧+鳥]養等母奈倍《シマツトリウカヒトモナヘ》、古事記神武天皇(ノ)大御歌に、志麻都登理宇加比賀登母《シマツトリウカヒガトモ》、とあり、和名抄に、辨色立成(ニ)云、大(ヲ)曰2※[盧+鳥]孳(ト)1、日本紀私記(ニ)云|志万豆止利《シマツトリ》、小(ヲ)曰2鵜※[胡+鳥](ト)1、俗(ニ)云|宇《ウ》、と見ゆ、(此に大小を以て、島つ鳥と、宇《ウ》とを分てるは非なり、又|宇《ウ》を俗(ニ)云としるせるも、いかにぞや、)かゝれば、やゝ後には、うけはりたる鳥(ノ)名となれり、と聞えたるを、古(ク)はたゞ枕詞にのみ云り、猶品物解に委(ク)云り、○登母《トモ》は、伴《トモ》にて、ともがらを云、○可賀里左之《カガリサシ》は、和名抄に、漢書陳勝(ガ)傳(ニ)云、夜篝v火(ヲ)、師説(ニ)云、比乎加々利爾須《ヒヲカヾリニス》、按(ニ)、漁者以v鐵(ヲ)作v篝(ヲ)盛v火(ヲ)照(ス)v水(ヲ)者名之、此類乎、とあり、左之《サシ》は、篝火を照(ス)を云、○奈豆左比能保流《ナヅサヒノボル》は、浪漬傍沂《ナヅサヒノボル》なり、○露霜乃《ツユシモノ》は、秋のまくら詞なり、○等里須太家里等《トリスダケリト》は、鳥多集有《トリスダケリ》となり、七(ノ)卷に、鳥者簀竹跡君者音文不爲《トリハスダケドキミハオトモセズ》、十一に、葦(557)鴨之多集池水雖溢《アシカモノスダクイケミヅハフルトモ》、伊勢物語に、むぐらおひてあれたるやどのうれたきはかりにもおにのすだくなりけり、などあり、さて此《コヽ》にいへる鳥は、もはら鶉、雉の類を云り、○多加波之母《タカハシモ》は、鷹者《タカハ》しもなり、之母《シモ》は、多かる物の中を、とり出ていふ助辭なり、○矢形尾《ヤカタヲ》は、袖中抄に、やかたをとは、鷹の相經には、屋像尾《ヤカタヲ》、町方尾《マチカタヲ》、とて、二の樣をあげたり、やかたとは、屋の棟のやうにさがりふにきりたるを云、町かたとは、田の町のやうに、よこざまに、うるはしうきりたるなるべし、古歌云、もがみ山すかけし日より心して生したてたる屋像尾の鷹、と見えたり、禰津松鴎軒記に、屋形尾《ヤカタヲ》と云は、尾の數十三有(リ)、尾のふの切(リ)樣八文字なり、三ふきりに、だむ/\しろく、こますりのごとく、星有べし、といへり、忠峯集に、山ふかみすかけせしより心ありてまもりかへけるやかたをの鷹、詞花集、最嚴法師、みかりのゝしばしの戀はさもあらばあれそり果ぬるかやかたをの鷹、今按(フ)に、此に矢形と書るは、借(リ)字にて、屋像《ヤカタ》の義なり、〔頭註、【白鷹記、尾はやかたふにきれて、だんだんしろし云々、】〕○安我大黒《アガオホクロ》とは、安我《アガ》は吾《アガ》にて、親(ミ)辭、大黒《オホクロ》は註に、蒼鷹之名也、とある如く、鷹に負せたる名なり、馬犬猫の類、みな人家に畜ふものには、名をつけしこと、古(ヘ)より例ありて、その事かた/”\に見えたり、十六に、ぬば玉のひだの大黒《オホクロ》みるごとにこせの小黒しおもほゆるかも、これも馬(ノ)名を云るなるべし、平城天皇の御鷹を、磐手《イハテ》と名づけしこと、大和物語に見えて、下に引り、○之良奴里能鈴《シラヌリノスヾ》は、銀砂《シロカネノコ》燒(キ)付たるなるべしと云り、延喜式三(ノ)卷、八十島祭(ノ)料註文(558)の中に、白塗鈴八十口、とあり、又顯宗天皇(ノ)紀に、繩(ノ)端(ニ)懸v鐸《ヌリテヲ》、垂仁天皇(ノ)紀に、鐸石別《ヌテシワケノ》命、和名抄に、楊氏漢語抄(ニ)云、鈴子(ハ)須々《スヾ》、三禮圖(ニ)云、鐸(ハ)今之鈴、とあり、奴里泥《ヌリデ》の奴里《ヌリ》も、白奴里《シラヌリ》の奴里《ヌリ》に同じきにや、〔頭註、【歌袋、しらぬりのすゞ、白くぬりたるにや、又は白銀などしてつくれるを、しかみたてゝ、白塗といふにてもあるべし、和訓栞、定家卿鷹歌に、勅ありてみゆきふりぬるくたら野の鷹の鷺毛もしらぬりの鈴、】〕○朝※[獣偏+葛]爾《アサガリニ》云々、暮※[獣偏+葛]爾《ユフガリニ》云々、一(ノ)卷に、朝獵爾今立須良之《サガリニイマタヽスラシ》、暮獵爾今他田渚良之《アユフガリニイマタタスラシ》、とあるを初にて、かくざまに、朝暮の獵を云ること多し、○伊保都登里多底《イホツトリタテ》は、五百津鳥令立《イホツトリタテ》にて、五百津《イホツ》は、數の多きを云、令立《タテ》は、鳥のふしかくれたるをおどろかし、令《セ》v立《タヽ》て、鷹をあはするなり、○知登理布美多底《チドリフミタテ》は、千鳥《チドリ》令《テ》2蹈立《フミタ》1、なり、千鳥も、數多き鳥を云、十六に、百千鳥千鳥者雖來《モヽチドリチドリハクレド》、六(ノ)卷に、朝獵爾十六履起《アサガリニシシフミオコシ》、夕狩爾十里※[足+榻の旁]立《ユフガリニトリフミタテ》、○於敷其等爾《オフゴトニ》は、毎《ゴトニ》v逐《オフ》なり、○由流須許等奈久《ユルスコトナク》は、無(ク)v免(スコト)にて、放《ハナ》てば追(ヒ)、追(ヘ)ば必(ズ)獲るを云、雄略天皇(ノ)紀に、二年冬十月丙子、幸(ス)2御馬瀬(ニ)1、命(テ)2虞人《サツヒトニ》1縱獵《テミカリシタマヘリ》、凌重※[山+獻]赴長莽]《ヌニデヤマニイリ》、未及移影《ヒモカタブカネバ》、※[獣偏+爾]什七八毎獵《オフゴトニユルスコトナク》、大獲鳥獣將盡《サチオホクテトリモシヽモツキナムトス》、とあり、此處に考(ヘ)合すべし、○手放毛《タバナレモ》云々は、鳥にあはする時、手許《テモト》をはなれて行こと易きを云、十四に、佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾手婆奈禮乎思美奈吉思兒良波母《サキモリニタチシアサケノカナトデニタバナレヲシミナキシコラハモ》、これ物はかはれども、同言なり、又後京極殿鷹三百首に、たばなしの鷹の心を春かけてまけかちおはみよくやつかはむ、これに依ば、こゝもタバナシモ〔五字右○〕と訓べきか、〔頭註、【歌袋、西園寺、ひとよりにばなしぬれば云々、】〕○乎知母可夜須伎《ヲチモカヤスキ》とは、乎知《ヲチ》は乎知還《ヲチカヘ》り鳴(ク)など、多くよめる乎知《ヲチ》にて、何にても、本の處へかへり來るを云言なり、可夜須伎《カヤスキ》は、易《ヤス》きに(559)て、可《カ》は、集中に、可青《カアヲ》、可黒《カクロ》、可縁《カヨル》など云る類にて、そへたる辭なり、源氏物語にも、可易《カヤス》き、可弱《カヨワ》きなど云り、さて手許《テモト》を放(ル)ることも、手許へ還り來ることも、易く速なる鷹にて、能《ワザ》の逸《スグ》れてよきをいへり、〔頭註、【和訓栞、埃嚢抄に、欽明紀の隨心を、かやすきと訓せり、印本には、やすらかにとよめり、古點にや、】〕○許禮乎於伎底《コレヲオキテ》は此《コレ》を除而《オキテ》なり、○麻多波安里我多之《マタハアリガタシ》は、又者《マタハ》難《ガタシ》v在《アリ》なり、○左奈良弊流《サナラベル》は、指竝有《サシナラベル》なるべし、(弊(ノ)字は書たれども、なほ濁るべし、習有《ナラヘル》にはあらざるべし、〉此(ノ)大黒に指(シ)竝ぶべき鷹は、又無むとおもひ誇《ホコ》るなり、○情爾波《コヽロニハ》は、他《ヒト》の心はしらず、吾情には云々、といへるなり、爾波《ニハ》とは、他(ノ)物に對へて云詞なればなり、○於毛比保許里底《オモヒホコリテ》は、思誇而《オモヒホコリテ》なり、五(ノ)卷に、安禮乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰《アレヲオキテヒトハアラジトホコロヘド》云々、○惠麻比都追《ヱマヒツツ》は、咲乍《ヱマヒツヽ》なり、自得して、悦びほこるさまなり、○和多流安比太爾《ワタルアヒダニ》は、月日を經渡る間になり、○多夫禮多流《タブレタル》は、狂而在《タブレタル》なり、齊明天皇(ノ)紀に、狂心《タブレコヽロ》、續紀廿(ノ)卷(ノ)詔に、狂迷遍流頑奈留奴心乎波《タブレマドヘルカダクナナルヤツコノコヽロヲバ》云々、また惡逆在奴久奈多夫禮麻度比奈良麻呂《キタナクサカサマナルヤツコクナタブレマドヒナラマロ》、古麻呂等伊《コマロライ》云々、久奈多夫禮良爾所※[言+圭]百姓波《クナタブレラニアザムカエタルタミドモハ》云々、○之許都於吉奈《シコツオキナ》は、醜津翁《シコツオキナ》にて、醜《シコ》は、しこのますらを、しこほととぎす、しこのしこ草の類にて、惡み罵(リ)て云|稱《ナ》なり、翁《オキナ》は山田(ノ)史君麻呂をさせり、下(ノ)註に見(エ)たり、〔頭註、【推古天皇紀、二十年、是歳自2百濟國1有2化來者1、其面身皆斑白、若有2白癩1者乎、惡3其異2於人1、欲v棄2海中島1、然其人曰、若惡2臣之斑皮1者、白斑牛馬、不v可v畜2於國中1、亦臣有2小才1、能構2山嶽之形1、其留v臣而用則爲v國有v利、何空之棄2海島1耶、於是聽2其辭1以不v棄、仍令v構2須彌山形、及呉橋於南殿1、時人號2其人1曰2路子工1、亦名2芝耆摩呂1、】〕○許等太爾母《コトダニモ》云々は、言《コト》をなりとも、告知すべき理なるに、然《サ》とも吾には不v告と云にて、言《コト》とは、巨細《コマカ》なることを、しか/”\と斷(リ)て(560)言(フ)意にて、この吾が逸物の鷹をすゑて出ることを、よくつまびらかに、告ざりしなるべし、○等乃具母利《トノグモリ》は、棚曇《タナグモリ》と云に同じ、既く出つ、○名乃未乎能里底《ナノミヲノリテ》は、鳥狩《トガリ》すると云ことを、大やうに告たるのみにての意なり、名《ナ》とは、その謂をさして云、さてこの詞にて見れば、ふつに皆ざるにはあらざれども、鷹の惜まるゝ意より、悔(イ)恨(ム)る由をつよく云るなり、さて此(ノ)句の下に、狩に出たるよしを略きて、含ませたり、○三島野《ミシマヌ》は、和名抄に、射水(ノ)郡|三島《ミシマ》、○可氣理伊爾伎等《カケリイニキト》は、翔《カケ》り去《イニ》けりとゝ云にて、鷹のそれたるを云、伎《キ》は、さきにありしことを、今かたるてにをはなり、○之波夫禮都具禮《シハブレツグレ》は、咳告《シハブレツグ》ればの意なり、老人のいひ出むやうなく、かなしく心にせまり、しはぶきまはり告るさま、みるやうによみなされたり、○呼久餘思乃《ヲクヨシノ》は、招術之《ヲクシカタノ》と云が如し、招《ヲク》とは、まねきよすることなり、古事記上(ツ)卷天降(ノ)條に、於是副2賜|其遠岐斯《カノヲキシ》八尺勾※[王+總の旁]鏡云々(ヲ)1而詔者云々、(これ天照大御神の、天の石屋戸に隱り坐しとき、まねきよせ奉りし※[王+總の旁]鏡を云るなり、)神代(ノ)紀に、風招をカザヲキ〔四字右○〕とよめり、十九に、月立之日欲里乎伎都追敲自奴比麻低騰伎奈可奴霍公鳥可毛《ツキタチシヒヨリヲキツツウチシヌヒマテドキナカヌホトヽギスカモ》、拾遺集に、はしたかのをきゑにせむとかまへたる云々、とあるも、招餌《ヲキヱ》なり、媒鳥を乎等利《ヲトリ》と云も、(和名抄に見ゆ、)招鳥《ヲキトリ》の義なるべし、餘思《ヨシ》は、後に、人づてならでいふよしもがな、といへる餘思《ヨシ》にて、術《シカタ》のことなり、集中にはいと多き詞なり、三(ノ)卷に、衣手乃別今夜從妹毛吾母甚戀名相因乎奈美《コロモテノワカルコヨヒユイモモアレモイタクコヒムナアフヨシヲナミ》、といへる類、其(レ)なり、○曾許爾奈家禮婆《ソコニナケレバ》は、其《ソコ》に無ればなり、○伊(561)敷須弊乃《イフスベノ》云々、鷹のそれたることを聞(キ)、あきれて物もいはれぬさまなり、大和物語に、おなじみかど、(平城天皇)かりいとかしこくこのみ給うけり、みちの國いはでの郡より奉れる御鷹、よになくかしこかりければ、になうおぼして、御手たかにし給うけり、名をばいはでとなむつけ給へりける、それをかのみちに心ありて、つかうまつり給ける、大納言にあづけ給へり、いかゞし給ひけむ、そらし給うてけり、心きもをまどはしてもとむるに、さらに見出ず、いかがせむとて、内にまゐり、御鷹のうせたるよしを奏し給ふに、みかど物もの給はせず、云々、此(ノ)御鷹のもとむるに侍らぬこと、いかさまにもし侍らむ、などか仰事したまはぬ、と奏し給ふときに、みかぜ、いはでおもふぞいふにまされる、との給ひけり、かくのみの給はせて、こと事もの給はざりけり、御心に、いといふかひなく、をしくおぼさるゝになむ有ける、此(ノ)物語のやう、今の歌をまねびて、かけるにやあらむ、○火佐倍毛要都追《ヒサヘモエツツ》は、思ひ焦《コガ》るゝさまなり、集中に、思曾所燒《オモヒソヤクル》など云る類なり、七(ノ)卷には、冬隱春乃大野乎燒人者燒不足香毛吾情熾《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハヤキタラネカモアガコヽロヤク》、ともあり、今は腹立のさまなり、○伊伎豆伎安麻利《イキヅキアマリ》は、息衝餘《イキヅキアマリ》にて、息衝《イキヅキ》は、ため息をつくことなり、○氣太之久毛《ケダシクモ》は、若《モシ》もといふがごとし、○安布許等安里也等《アフコトアリヤト》は、もとめ逢(フ)ことあらむかと、といふ意なり、○安之比奇能《アシヒキノ)、此は枕詞を、即(チ)山のことゝしてよめり、菅原大臣の、あしひきのこなたかなたに道はあれど、とよみ給へるに同じ、○乎底母許乃毛爾《ヲテモコノモニ》は、彼面此面《ヲテモコノモ》になり、十四に、安思我(562)良能乎底毛許乃母《アシガラノヲテモコノモ》、とも、筑波禰乃乎※[氏/一]毛許能母《ツクハネノヲテモコノモ》、ともよめり、○等奈美波里《トナミハリ》は、鳥網張《トナミハリ》なり、十三に、鳥網張坂手過《トナミハリサカテチスギ》、とも見ゆ、鳥之網《トノアミ》の縮れるなり、(ノア〔二字右○〕はナ〔右○〕と約れり、)和名抄には、爾雅(ニ)曰、鳥罟謂2之羅(ト)1、和名|度利阿美《トリアミ》、とあり、○母利弊乎須惠底《モリベヲスヱテ》は、守部《モリベ》を居而《スヱテ》なり、(弊の清音の字をば書たれども、濁るべし、)鷹のもしやかへると見せしむるなり、○底流鏡《テルカヾミ》は、照鏡《テルカヾミ》にて、明鏡を云、○之都爾等里蘇倍《シヅニトリソヘ》は倭文《シヅ》に取副《トリソヘ》なり、明鏡を倭文幣《シヅヌサ》に取そへて、神に奉るなり、○己比能美底《コヒノミテ》は、乞祈而《コヒノミテ》なり、○乎登賣良我伊米爾都具良久《ヲトメラガイメニツグラク》は、夢に少女《ヲトメ》のありて告るやうは、といふが如し、夢に何處《イヅチ》ともなく少女の入來て告るさまなり、即(チ)かの祈申せし神の靈《ミタマ》の、少女と化《ナリ》て、夢に見え給ふよしなり、○奈我古敷流《ナガコフル》は、汝之戀《ナガコフ》るなり、○保追多加《ホツタカ》は、秀津鷹《ホツタカ》にて、秀逸《スグ》れたる鷹を云、秀《ホ》は、木の秀枝《ホツエ》、相撲の最手《ホテ》など云が如し、土佐(ノ)國の最御崎《ホツミサキ》も、秀《スグ》れてさし出たる岬《ミサキ》なれば、云るにて同じ、○麻都太要《マツダエ》は、地(ノ)名、上に出(ツ)、○都奈之等流《ツナシトル》は、※[魚+制]漁《ツナシトル》なり、※[魚+制]《ツナシ》は、品物解に云、○比美乃江《ヒミノエ》は、射水(ノ)郡にある地(ノ)名なり、平家物語七(ノ)卷、倶梨伽羅落しの條に、こゝに氷見《ヒミ》の湊を渡らむと爲給ひけるが、折節潮滿て、深さ淺さを知ざりければ、木曾殿まづ策《ハカリゴト》に、鞍おき馬十疋計おひ入られたりければ、くらづめひたる程にて、相違なく、向ひの岸にぞつきにける、○多古能之麻《タコノシマ》、(これも射水(ノ)郡にあり、)十八に、多胡乃佐伎《タコノサキ》、十九に、多※[示+古]乃浦《タコノウラ》、とよめる處の島なり、○等妣多毛登保里《トビタモトホリ》は、飛廻《トビモトホ》りなり、多《タ》はそへたる詞なり、○安之我母能《アシガモノ》云々、十一に、葦鴨之(563)多集池水雖溢《アシガモノスダクイケミヅハフルトモ》云々、○舊江《フルエ》は、和名抄に、射水(ノ)郡古江(ハ)布留江《フルエ》、とあり、上にも見えたり、左の傳註には、即(チ)古江と書《シル》せり、○乎等都日《ヲトツヒ》は、彼津日《ヲトツヒ》にて、一昨日を云(フ)、上に出たり、○知加久安良波《チカクアラバ》云云、十三長歌に、久有者今七日許《ヒサニアラバイマナヌカバカリ》、早有者今二日許《ハヤクアラバイマフツカバカリ》、將有等曾君者聞之二二勿戀吾妹《アラムトソキミハキコシシナコヒソワギモ》、今の歌は、此(ノ)歌にもとづきて、よまれたるならむ、八(ノ)卷に、吾屋前乃芽子花咲見來益今二日許有將落《ワガヤドノハギノハナサケリミニキマセイマフツカバカリアラバチリナム》、とも見ゆ、○伊麻布都可太未《イマフツカダミ》(未(ノ)字、元暦本には米と作り、其を用ふべきか、今(ノ)世碁うつ人の詞に、間の事を太米《ダメ》といへり、それと同じきにや、)は、岡部氏云、北國にては、いくらばかりと云事を、いくらだみと云といへり、然らば二日ばかりなり、といへり、これに從べし、家持(ノ)卿、越(ノ)國の俗語のまゝに、東風を阿由乃風《アユノカゼ》ともよまれたれば、此も古(ヘ)より、彼(ノ)國の俗語をそのまゝに、よまれたるなるべし、(略解に、春海が、未は爾の誤か、といへるよしいへれど、太爾《ダニ》と云べき所にあらず、)◎奈奴可乃宇知波《ナヌカノウチハ》云々、九(ノ)卷に、吾去者七日不過龍田彦《ワガユキハナヌカハスギジタツタヒコ》、勤此花乎風爾莫落《ユメコノハナヲカゼニナチラシ》、○伎奈牟和我勢故《キナムワガセコ》は、將來吾兄子《キナムワガセコ》よ、と云意なり、將來《キナム》は鷹のかへり來なむ、となり、○伊麻爾都氣都流《イメニツゲツル》は、麻は米の誤なり、と岡部氏の云る如し、夢《イメ》に告《ツゲ》つるなり、
 
4012 矢形尾能《ヤカタヲノ》。多加乎手爾須惠《タカヲテニスヱ》。美之麻野爾《ミシマヌニ》。可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》。都奇曾倍爾家流《ツキソヘニケル》。
 
歌(ノ)意は、鷹の歸り來らぬゆゑ、三島野にて、獵せぬ日の數多くして、むなしく月日をぞ過しつ(564)る、となり、
 
4013 二上能《フタガミノ》。乎底母許能母爾《ヲテモコノモニ》。安美佐之底《アミサシテ》。安我麻都多可乎《アガマツタカヲ》。伊米爾都氣追母《イメニツゲツモ》。
 
伊米爾都氣追母《イメニツゲツモ》は、夢《イメ》に告《ツゲ》つにて、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、二上山の彼面此面《ヲテモコノモ》に、網《アミ》張設《ハリマケ》て吾(ガ)待居鷹の、幾程なく歸り來らむ、と夢に告つるは、さてもうれしや、となり、
 
4014 麻追我弊里《マツガヘリ》。之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》。佐夜麻太乃《サヤマダノ》。乎治我我其日爾《ヲヂガソノヒニ》。母等米安波受家牟《モトメアズケム》。
 
本(ノ)二句は、九(ノ)卷に、松反四臂而有八羽三栗中上不來麻呂等言八子《マツガヘリシヒテアレヤモミツグリノナカスギテコズマツトイヘヤコ 》、とあるに同じく、松反《マツガヘリ》は強《シヒ》の枕詞とは聞えたれど、如何なることにて、然いふと云|所由《ユヱ》を、未(ダ)詳には辨(ヘ)得ず、なほ九(ノ)卷に云たるをも、照(シ)見て考(フ)べし、○佐夜麻太乃乎治《サヤマダノヲヂ》は、佐《サ》はそへたる辭なり、山田の翁《チヂ》にて君麻呂をさして云り、○母等米安波受家牟《モトメアハズケム》は、求《モト》め相ざりけむ、と謂(フ)なり、○歌(ノ)意は、(略解に、待は却て強事なるか、山田の翁が、手放しつる日に求れども、鷹にあはざりけむ、といふ意なるべし、といへれど、もしさる謂ならば、安流可母《アルカモ》と云べき例にこそあれ、すべて古言の用格の例を見集めて、強にてあるか、と云意には、通えがたきをさとるべし、たとひ又其(ノ)謂に聞ても、一首の意穩ならぬことなるをや、又契冲も、強てあるかといふ意に、ときなしたれど、すべて古言の(565)格にかなはざれば、とかくあげて、ことわるまでもなからむ、)吾(ガ)待居(ル)鷹の、幾程なく歸り來《キタ》らむ、と夢に告つるは、強言にてあらむやは、強言には非じ、されば近き間に歸り來《キタ》るべきなれば、そらしたる其(ノ)日に、とかく心を盡して、くはしく求めなば、求めあはぬことはあらじを、然のみ心をもつくさずして、いかでもとめあはざりけむ、さても恨めしきことやと、惡みたるにや、猶考(フ)べし、
 
4015 情爾波《コヽロニハ》。由流布許等奈久《ユルブコトナク》。須加能夜麻《スカノヤマ》。須可奈久能未也《スカナクノミヤ》。孤悲和多利奈牟《コヒワタリナム》。
 
情爾波《コヽロニハ》とは、求る事業《コトワザ》には、つゞきては得堪ざれども、中情《コヽロノウチ》には、一日片時も慢《ユル》ぶ事なく、と云なり、爾波《ニハ》とは、すべて他にむかへて云ことなること、上にもたび/\いへり、さればこゝは、情《コヽロ》を業《ワザ》にむかへていへるなり、○由流布許等奈久《ユルブコトナク》は、慢《ユル》ぶ事無(ク)にて、惜む心の慢《ユル》び怠ることなきよしなり、○須加能夜麻《スカノヤマ》は、山(ノ)名なり、源平盛衰記三十に、越中(ノ)國に須川《スカ》山と云あり、是なるべし、○須可奈久《スカナク》は、字鏡に、※[口+喜]※[口+羅](ハ)心中不2悦樂(マ)1貌、坐(テ)歎(ク)貌、須加奈加留《スカナカル》、催馬樂蘆垣に、菅の根のすかなきことをわれはきくかな、これらを考(ヘ)合(セ)て、其(ノ)意をさとるべし、(岡部氏が、無《ナク》2由處《ヨスカ》1の略語なり、と云るは、おぼつかなし、)○歌(ノ)意は、求めありく事業にこそ得堪ざれ、心(ノ)中には、一日片時も慢《ユル》び怠る事なくて、すかなくのみ戀しく思ひつゝ、月日を經度りなむか、となるべし、
 
(566)右射水(ノ)郡古江(ノ)村(ニテ)。取2獲(タリ)蒼鷹(ヲ)1。形容美麗(クテ)。※[執/鳥](ルコト)v雉(ヲ)秀(タリ)v群(ニ)也。於時《トキニ》養吏《タカカヒ》山田(ノ)史君麿。調試失(ヒ)v節(ヲ)。野獵乖(ク)v候(ニ)。搏(ル)v風(ニ)之翅。高(ク)翔(リ)匿(ル)v雲(ニ)。腐鼠之餌。呼(ビ)留(ルニ)靡(シ)v驗(シ)。於是《コヽニ》張(リ)2設(テ)羅網(ヲ)1。窺2乎非常(ヲ)1。奉2幣神祇(ニ)1。恃(ム)2乎不(ルヲ)1v虞(ラ)也。粤《コヽニ》以|夢裏《イメニ》有(リ)2娘子1。喩(シテ)曰。使君《キミ》勿(レ)d作(テ)2苦念(ヲ)1。空(ニ)費(スコト)c精神(ヲ)u。放逸《ソラセル》彼(ノ)鷹。獲(リ)得(ムコト)未幾《チカケム》矣哉。須臾(アリテ)覺寤(シテ)。有2悦《ヨロコビテ》於懷(ニ)1。因作2却(ス)v恨(ヲ)之歌(ヲ)1。式旌(ス)2感信(ヲ)1。守大伴(ノ)宿禰家持。【九月二十六日作也。】
 
蒼鷹は、和名抄に、廣雅(ニ)云、三歳名2青鷹白鷹(ト)1、と見え、隋(ノ)魏彦深(ガ)鷹(ノ)賦に、三歳成v蒼(ト)、とあり、○※[執/鳥]《ツカミトル》は、撃殺v鳥(ヲ)也、と説文にあり、○調試は、手ならし、合せ試みなどすることなり、○養吏《タカヽヒ》、これはかりそめに、かゝれたるものにて、史とあるが、君麻呂が本職なるべし、と契冲云り、○君麿は、傳未(ダ)詳ならず、○搏v風之翅(翅、舊本※[走+羽]に誤、拾穗本に從つ、)は、いと高く飛上る貌をいへり、○腐鼠之餌云々は、小鳥の好むものなれば、目もとゞめぬなり、○時(ノ)字、舊本には特と作り、今は拾穗本に從つ、○粤(ノ)字、舊本に奥と作るは誤なり、今は古寫小本に從つ、○使君は、國守の唐名なり、○精(ノ)字、舊本に情と作るは、誤なり、○未(ノ)字、舊本に末と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本、古寫小本等に從つ、○却恨は、恨をやむる意なり、○式旌2感信1は、さま/”\に心を盡せし驗のあることを、此(ノ)歌よみて、旌《アラハ》すよしなり、
 
高市連黒人謌一首《タケチノムラジクロヒトガウタヒトツ》。【年月未審。】
 
(567)4016 賣比能野能《メヒノヌノ》。須須吉於之奈倍《ススキオシナベ》。布流由伎爾《フルユキニ》。夜度加流家敷之《ヤドカルケフシ》。可奈之久於毛倍遊《カナシクオモホユ》。
 
賣比能野《メヒノヌ》は、和名抄に、越中(ノ)國婦負(ノ)郡(ハ)禰比《ネヒ》、とあり、婦(ノ)字ネ〔右○〕とは訓べからず、此歌の如く、本(ト)賣比《メヒ》なりけむを後に訛《ヨコナマ》れるなるべし、(略解云、春海云、負は老女のことなれば、ねびたる女と云義か、又青木(ノ)敦書が郡名考に、婦負を、當時官家に用る文書に、姉負と書と有(リ)、これに依(レ)ば、禰比《ネヒ》ととなふるは、よしあるか、とあり、今按(フ)に、越中(ノ)國婦負(ノ)郡にまします神に、鵜坂姉比※[口+羊]《ウサカアネヒメノ》神、鵜坂妻比※[口+羊]《ウサカメヒメノ》神と申すあり、鵜坂も婦負(ノ)郡の地(ノ)名なり、この姉比※[口+羊]《アネヒメ》、妻比※[口+羊]《メヒメ》、すなはち郡名に由あることか、この神のことは、下に三代實録を引ていへり、)○保(ノ)字、舊本に倍と作るは誤なり、○歌(ノ)意は、旅の憂《ウケク》あるが中にも、婦負野《メヒノ》の芒《スヽキ》を、押伏(セ)靡(カ)して降雪の、寒さに堪がたきを忍(ビ)て、旅宿する今日ぞ、一(ト)すぢに苦《クル》しく悲《カナ》しく思はるゝ、となり、
 
右《ミギ》傳2誦《ツタヘヨムハ》此謌《コノウタヲ》1。三國眞人五百國是《ミクニノマヒトイホクニナリ》也。
 
謌(ノ)字、舊本に誦と作るは、誤なり、○五百國は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二十|一〔○で囲む〕年春正月二十九日《ハタトセマリヒトヽセトイフトシムツキノハツカマリコヽノカノヒ》。作歌《ヨメルウタ》。
 
二十云々の十三字、舊本にはなくして、下に至りて、右四首天平二十云々、と記せり、今は前々の例に從て、此に記しつ、○一(ノ)卷、舊本下に出せるに脱たり、契冲云、廿年は、已《サキ》に有(リ)、次第を按(フ)る(568)に、一(ノ)字あるべし、次の十八(ノ)卷の發端も、廿一年三月にて、前後年次よく相かなへり、○作歌(ノ)二字、舊本下に出せるになし、今は古寫小本に從つ、
 
4017 東風《アユノカゼ》。【越俗語。東風謂2之安由乃可是1也。】伊多久布久良之《イタクフクラシ》。奈呉乃安麻能《ナゴノアマノ》。都利須流乎夫禰《ツリスルヲブネ》。許藝可久流見由《コギカクルミユ》。
 
歌(ノ)意は、荒(キ)風を避むが爲に、磯かげなどに漕(ギ)隱るが見ゆるよしにて、他にかくれたるところなし、(六帖に、春風のいたく吹らし奈呉の海人の釣する小舟さしかへる見ゆ、と改(メ)て出せり、
 
4018 美奈刀可是《ミナトカゼ》。佐牟久布久良之《サムクフクラシ》。奈呉乃江爾《ナゴノエニ》。都麻欲比可波之《ツマヨビカハシ》。多豆左波爾奈久《タヅサハニナク》。
 
是(ノ)字、舊本には世と作り、今は拾穗本に從つ、○舊本註に、一云多豆佐和久奈里、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
4019 安麻射可流《アマザカル》。比奈等毛之流久《ヒナトモシルク》。許己太久母《ココダクモ》。之氣伎孤悲可毛《シゲキコヒカモ》。奈具流日毛奈久《ナグルヒモナク》。
 
ヒナトモシルクヒナ
比奈等毛之流久《》、は、夷《》と云も著《シル》くなり、○奈具流日章奈久《ナグルヒモナク》は、和《ナグ》る日も無(ク)にて、知《ナグ》るは、戀しく思ひ苦しむ心の、をさまり和《ナゴ》まる謂なり、○歌(ノ)意は、京に遠き夷の國方《クニヘ》に、別れ來しと云ことも著く、心の和《ナグ》さむ日もなく、さてもそこばくしげき戀にてもある哉、となり、一二五三四、と(569)句を次第て聞べし、
 
4020 故之能宇美能《コシノウミノ》。信濃《シナヌ》【濱(ノ)名也。】乃波麻乎《ノハマヲ》。由伎久良之《ユキクラシ》。奈我伎波流比毛《ナガキハルヒモ》。和須禮底於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》。
 
信濃乃波麻《シナヌノハマ》は、射水(ノ)郡にある海濱の名にや、越後(ノ)國にも、信濃川といふあり、越中、越後共に信濃に隣《サカ》ひたり、海川に信濃の名あるは、所由《ユヱ》あるべし、夫木集に、越の海や信濃の濱の秋風に木曾のあさ衣かりぞ鳴なる、と有、〔頭註、【東遊記、越後國新潟は、信濃川其外の川と落合て、海に入る所なり、此川を信濃川といふは、此川の水上は、信州犀川筑摩川にて、其國善光寺の邊にも、既に大河なり、それより新潟までは、五六十里經て、其間大小の川々流れ入る故、かくばかりの大河と成、】〕○於毛倍《オモヘ》は、そへいふ辭なり、○歌(ノ)意は、なぐさむることもありやと、信濃の濱の長き海方を行廻り、日を暮せれど、長き日すがら、京の事を得忘れむやは、得忘れず戀しき、と云なるべし、
 
右四首《ミギノヨウタハ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
四首の下、舊本に、天平二十年春正月二十九日の十二字あり、今は上に出せる故に、此處を除つ、
 
礪波郡雄神河邊《トナミノコホリヲカミノカハヘニテ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
雄神(ノ)河は、神名式に、越中(ノ)國礪波(ノ)郡雄神社、と見ゆ、
 
4021 乎加未河泊《ヲカミガハ》。久禮奈爲爾保布《クレナヰホフ》。乎等賣良之《ヲトメラシ》。葦附《アシツキ》【水松之類。】等流登《トルト》。湍爾多多須良(570)之《セニタタスラシ》。
乎等賣良之《ヲトメラシ》の之《シ》は、例のその一すぢを、重く思はする處におく助辭なり、さて此(ノ)辭は、上の紅映《クレナヰホフ》と云へかけて意得べし、○葦附《アシツキ》は、品物解に出り、○歌(ノ)意は、雄神河の河面《カハヅラ》が紅映《クレナヰニホ》ふよ、これは少女等が葦附取(ル)とて、河(ノ)瀬に立賜ふらし、それ故に、その女の装束にてらされて、一(ト)すぢに紅色に映《ニホ》ひわたるならむ、となり、七(ノ)卷に、黒牛乃海紅丹穗經百磯城乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノミクレナヰニホフモヽシキノオホミヤヒトシアサリスラシモ》、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、また五(ノ)卷にも、麻都良河波可波能世比可利阿由都流等多々勢流伊毛河毛能須蘇奴例奴《マツラガハカハノセヒカリアユツルトタヽセルイモガモノスソヌレヌ》、とも見えたり、
 
婦負郡《メヒノコホリニテ》。渡《ワタル》2※[盧+鳥]坂河《ウサカガハヲ》1邊〔□で囲む〕時《トキ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
※[盧+鳥]坂河は、神名式に、婦負(ノ)郡鵜坂(ノ)神社、と見ゆ、續後記に、承和十二年九月乙巳朔、奉v授2越中(ノ)國婦負(ノ)郡從五位下鵜坂(ノ)神(ニ)從五位上(ヲ)1、三代實録に、貞觀五年八月十五日乙亥、越中(ノ)國正六位上鵜坂姉比※[口+羊](ノ)神、鵜坂妻比※[口+羊](ノ)神、並授2從五位下1、
 
4022 宇佐可河泊《ウサカガハ》。和多流瀬於保美《ワタルセオホミ》。許乃安我馬乃《コノアガマノ》。安我枳乃美豆爾《アガキノミヅニ》。伎奴奴禮爾家里《キヌヌレニケリ》。
 
許乃安我馬乃《コノアガマノ》は、此吾馬之《コノアガマノ》なり、○安我枳《アガキ》は、足掻《アガキ》にて、既く二(ノ)卷に委(ク)註り、○歌(ノ)意は、※[盧+鳥]坂河を渡るに、渡瀬の多きが故に、吾(ガ)此(ノ)乘(レル)る馬の、足掻《アガ》く激《タギリ》の水に、衣は沾にけり、となり、
 
(571)見《ミテ》2潜※[盧+鳥]人《ウツカフヒトヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
4023 賣比河波能《メヒガハノ》。波夜伎瀬其等爾《ハヤキセゴトニ》。可我里佐之《カガリサシ》。夜蘇登毛乃乎波《ヤソトモノヲハ》。宇加波多知家里《ウカハタチケリ》。
 
可我里佐之《カガリサシ》は、篝火《カヾリヒ》を照すを云、○夜蘇登毛乃乎《ヤソトモノヲ》は、八十伴之男《ヤソトモノヲ》なり、此は漁夫《アマ》にはあらで下司、家令などを云べし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
新河郡《ニヒカハノコホリニテ》渡《ワタル》2延槻河《ハヒツキガハヲ》1時《トキ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
延槻は、契冲云、今かの國には、はやつきと所のもの申侍るよしなり、
 
4024 多知夜麻乃《タチヤマノ》。由吉之久良之毛《ユキシクラシモ》。波比都奇能《ハヒツキノ》。可波能和多理瀬《カハノワタリセ》。安夫美都加須毛《アブミツカスモ》。
 
由吉之久良之毛《ユキシクラシモ》は、本居氏、由吉之《ユキシ》の之《シ》は、助辭にて、雪消《ユキキユ》らしもなり、消るをク〔右○〕といふは、めづらしけれども、書紀に、居をウ〔右○〕と訓(ム)註もあり、又乾をフ〔右○〕と訓註もあれば、消《キユ》も、古言にはク〔右○〕といへるなるべし、と云り、(これ然なり、雪《ユキ》敷《シク》らしも、ともきこゆれども、さにはあらず、)按に、之《シ》の助辭は、これも例のその一(ト)すぢを云辭なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○安夫美都加須毛《アブミツカスモ》は、安夫美《アブミ》は鐙なり、和名抄に、蒋魴(ガ)切韻(ニ)云、鐙(ハ)兩邊承v脚(ヲ)具也、和名|阿布美《アブミ》、とあり、足蹈《アブミ》の義なり、都加須《ツカス》は、令《ス》v浸《ツカ》にて、浸《ツカ》らすと云むが如し、すなはちひたらすることなり、河水の益て、鐙をひたらする謂な(572)り、摘《ツム》、刈《カル》を摘須《ツマス》、刈須《カラス》など云例とは、いさゝか異なり、さて浸《シタ》るを都久《ツク》と云は、七(ノ)卷に、廣瀬川袖衝許《ヒロセガハソテツクバカリ》、と云る衝《ツク》に同じ、(袖漬許《ソテツクスバカリ》なり、)毛《モ》は歎思(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、延槻の河の、渡(リ)瀬の水深くて吾(ガ)乘て渡る馬の鐙を浸らしむるよ、これは立山に降積置る雪の、春日の暖(カ)さに、のこりなく一(ト)すぢに消て、流れ出たる故に、水のいたく益れるならし、さても渡り難《ガタ》や、となり、
 
赴2參《マヰルニ》氣多大神宮《ケタノオホカミノミヤニ》1。行《ユク》2海邊《ウミヘヲ》1之時《トキ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
氣多、舊本には氣比と作り、今は契冲、多に改めたるに從つ、契冲云、是は能登(ノ)國羽咋(ノ)郡にまします御神なり、聖武天皇(ノ)紀に、天平十三年十二月、能登國并2起中國(ニ)1、これによりて、越中(ノ)守なれども、能登をも、兼て治めらるゝ故に、參《マヰ》でらるゝなり、延喜武神名帳を考(フ)るに、羽咋(ノ)郡十四座、下註に、大一座小十三座、かくして、神(ノ)名を越《載歟》るには、大社のよし註することなし、これ漏脱なり、同第三(ノ)卷、名神祭二百八十五座の中に、神(ノ)名を擧る中にいはく、氣多(ノ)神社一座、(能登(ノ)國)これにて知りぬ、神名《帳アル歟》下卷には、神社の下に、名神大の註を落せるなり、又第三(ニ)云、能登國氣多(ノ)神宮司准2小初位官(ニ)1、(以2神封(ヲ)1給之、)續紀(ニ)云、景雲二年十月甲子、充2能登(ノ)國氣多(ノ)神(ニ)封二十戸、田二町(ヲ)1、寶龜元年八月辛卯、遣2神祇(ノ)員外少史正七位上中臣(ノ)葛野連飯麻呂(ヲ)1、奉2幣帛(ヲ)於越前(ノ)國氣比(ノ)神、能登(ノ)國氣多(ノ)神(ニ)1延暦三年三月丁亥、叙2從三位氣多(ノ)神(ヲ)正三位(ニ)1、續日本後紀(ニ)云、承和元年九月癸酉、坐(ス)2能登(ノ)國(ニ)1正三位勲一等氣多(ノ)大神宮(ノ)禰宜祝二人(ニ)始(テ)令v把v笏(ヲ)、文徳天皇實録(ニ)云、嘉祥三年六月戊申、能登(ノ)(573)國氣多大神(ニ)授2從二位(ヲ)1、齊衡二年五月辛亥、詔(シテ)2能登(ノ)國氣多(ノ)大神宮寺(ニ)1、置2常住僧聽度三人(ヲ)1、永々不v絶、三代實録(ニ)云、貞觀元年正月廿七日甲申、奉v授2能登(ノ)國正二位勲一等氣多(ノ)神(ニ)從一位(ヲ)1、順(ノ)集(ニ)云、天元三年春能登《◎守脱カ、》て下る云々、神のます氣多のみやま木しげくとも分て祈らむ君ひとりをば、
 
4025 之乎路可良《シヲヂカラ》。多太古要久禮婆《タダコエクレバ》。波久比能海《ハクヒノウミ》。安佐奈藝思多理《アサナギシタリ》。船梶母我毛《フネカヂモガモ》。
 
之乎路可良《シヲヂカラ》とは、之乎路《シヲヂ》は、神名帳に、能登(ノ)國羽咋(ノ)郡志乎(ノ)神社、とある、其地の道路を云、古今集に、しをの山さしでの磯、とよめる同處なるべし、可良《カラ》は、從《ヨリ》と云に同じ、○波久比能海《ハクヒノウミ》は、和名抄に、能登(ノ)國|羽咋《ハクヒノ》郡|羽咋《ハクヒ》、とあり、○歌(ノ)意は、之乎道《シヲヂ》より直越《タヾコエ》に越來れば、羽咋の海|朝和《アサナギ》して、さてものどかなるけしきや、いかで船※[楫+戈]もがなあれかし、さらば乘(リ)廻りて遊ぶべきを、となり、
 
能登郡《ノトノコホリニテ》。從《ヨリ》2香島津《カシマノツ》1發船《》フナデシテ。射《サシテ》2熊來村《クマキノムラヲ》1往時《ユクトキ》。作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
能の上に、拾穗本に、過(ノ)字あり、いかゞ、○香島は、和名抄に、能登(ノ)郡加島(ハ)加之萬《カシマ》、○船の下、舊本に、行於の二字あり、今は古寫一本、拾穗本等に无(キ)に從つ、○射は、十六にも、自2肥前(ノ)國松浦(ノ)縣美彌良久(ノ)埼1發v舶、直|射《サシテ》2對馬(ヲ)1渡v海(ヲ)、とあり、○熊來は、和名抄に、能登(ノ)郡熊來、(久萬岐《クマキ》)十六に、能登(ノ)國(ノ)歌に、
※[土+皆]楯熊來乃夜良爾《ハシタテノクマキノヤラニ》、又、※[土+皆]楯熊來酒屋爾《ハシタテノクマキサカヤニ》、
 
4026 登夫佐多底《トブサタテ》。船木伎流等伊布《フナキキルトイフ》。能登乃島山《ノトノシマヤマ》。今日見者《ケフミレバ》。許太知之氣思物《コダチシゲシモ》。伊(574)久代神備曾《イクヨカムビソ》。
 
旋頭歌なり、○登夫佐多底《トブサタテ》は、三(ノ)卷に、鳥總立足柄山爾船木伐《トブサタチアシガラヤマニフナキキリ》云々、の歌に、既く註り、○布(ノ)字、舊本に有と作るは誤なり、今は官本に從つ、○物《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○神備《カムビ》は、神佐備《カムサビ》といはむが如し、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、三代實録四十四に、元慶七年十月廿九日壬戌、勅(シテ)令d能登(ノ)國(ヲシテ)禁(セ)c伐2損(スルコトヲ)羽咋(ノ)郡福良泊山(ノ)木(ヲ)1、渤海(ノ)客、著2北陸道(ノ)岸(ニ)1之時、必(ズ)造2還舶(ヲ)於此(ノ)山(ニ)1、住民伐採或煩v無(コトヲ)v材、故(ニ)豫(メ)禁(シ)v伐(コトヲ)2大木(ヲ)1、勿(シム)妨(ルコト)2民業(ヲ)1、とあるにて、その木立しげくして、船材の出しこと思ひやるべし、
 
4027 香島欲里《カシマヨリ》。久麻吉乎左之底《クマキヲサシテ》。許具布禰能《コグフネノ》。可治等流間奈久《カヂトルマナク》。京師之於母保由《ミヤコシオモホユ》。
 
可治等流間奈久《カヂトルマナク》は、此(ノ)上にも見えたり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、香島(ノ)津より、熊來(ノ)村を射《サシ》て漕(ギ)渡る船の、※[楫+戈]取に間《ヒマ》なきを以て、つゞけ下したる序にて、しばしの間もやまず京師の方の、一(ト)すぢに戀しく思はるゝよ、となり、
 
鳳至郡《フヽシノコホリニテ》。渡《ワタル》2饒石河《ニギシカハヲ》1之時《トキ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
鳳至(鳳、舊本は凰に誤、拾穗本、古寫小本等に從つ、)和名抄に、能登國鳳至郡(ハ)不布志《フフシ》、○饒石河、契冲云、後にこれをあやまりて、にしき川とよめり、錦川の如し、〔頭註、【奥義抄に、にしき川とせる歟、】〕
 
4028 伊毛爾安波受《イモニアハズ》。比左思久奈里奴《ヒサシクナリヌ》。爾藝之河波《ニギシガハ》。伎吉瀬其登爾《キヨキセゴトニ》。美奈宇良(575)波倍底奈《ミナウラハヘテナ》。
 
美奈宇良波倍底奈《ミナウラハヘテナ》は、水占《ミナウラ》令《ヘ》v合《ア》てななるべし、水占《ミナウラ》は、石占《イシウラ》、足占《アウラ》の類なるべし、神武天皇(ノ)紀に、天皇大御夢の訓《ヲシヘ》のまゝに、天(ノ)香山の埴をもて、八十平※[分/瓦]《ヤソヒラカ》、天《アメ》の手抉八十枚《タクジリヤソヒラ》、また嚴※[分/瓦]《イヅヘ》をつくらしめ賜ひ、さて嚴※[分/瓦]を以て、丹生《ニフ》の川に沈めて、占《ウラ》ひましゝことあり、さる類の占方《ウラカタ》、古(ヘ)よりありしならむ、波倍《ハヘ》は令《ヘ》v合《ア》にや、波(ノ)字、官本にはなし、猶考(フ)べし、奈《ナ》は牟《ム》を急(ク)云るなり、○歌(ノ)意は、妹にあはずして、年月久しくなりぬれば、戀しく思ふに堪がたきを、かくてはいつ相見むといふこと、おぼつかなし、この饒石河の清き瀬毎に水占《ミナウラ》して、いつは家に歸り著(キ)て、たしかに妹に相見むといふことを占《ウラナ》はむとなるべし、
 
從《ヨリ》2珠洲郡《ススノコホリ》1發船《フナデシテ》。還《カヘル》2太沼郡《オホミノサトニ》1之時《トキ》。泊《ハテヽ》2長濱灣《ナガハマノウラニ》1。仰2見《ミテ》月光《ツキヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
珠洲は、和名抄に、能登(ノ)國珠洲(ノ)那|須々《スヽ》、式に、珠洲郡|須々《スヽノ》神社、○太沼(ノ)郡、(太沼、元暦本には治布と作り、いかゞ、)契冲云、能登は、四郡こゝにみな出て、大沼(ノ)郡といふは、越中にもなし、和名抄を考(フ)るに、羽咋(ノ)郡に太海(ノ)(於保美《オホミ》)郷あり、延槻河をわたりて、羽咋(ノ)郡にまします氣多(ノ)大神宮にまうでて、能登(ノ)郡より鳳至(ノ)郡にいたり、それより珠洲《スス》にいたりて、船にて、また羽咋(ノ)郡へ還らるゝなるべし、しかれば海郷の二字を誤て、沼郡となせるなるべし、○長濱(ノ)灣(ハ)、和名抄に、能登(ノ)郡長濱(ハ)奈加波萬《ナガハマ》、とあり、灣は水曲也、と見ゆ、○仰(ノ)字、舊本に、作と作るは、誤なり、今は古寫本、古寫小本(576)等に、從つ、元暦本には、此(ノ)字なし、
 
4029 珠洲能宇美爾《ススノウミニ》。安佐比良伎之底《アサビラキシテ》。許藝久禮婆《コギクレバ》。奈我波麻能宇良爾《ナガハマノウラニ》。都奇底理爾家里《ツキテリニケリ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるところなし、珠洲《ススノ》海を、朝に發船《フナダチ》して、月の出る頃、長濱に到れるなり、
 
右(ノ)件(ノ)謌詞者《ウタハ》。依《ヨリテ》2春(ノ)出擧(ニ)1。巡2行《メグル》諸郡《コホリコホリヲ》1。當時《スナハチ》所《ゴトニ》v屬《ツク》v目《メニ》作之《ヨメル》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
依2春出擧1、雜令義解に、凡公私以2財物(ヲ)1出擧|者《セラバ》、(謂公(トハ)者公廨之物(ヲ)イフ也、)任《マヽニ》依2私契(ニ)1官不(レ)v爲v理(スルコト)、(謂凡以v物出息(セバ)者、雖2是官物(ナリト)1不d毎經(テ)2官司1以爲c判理(スルコトヲ)u、任(ニ)修《ツクリテ》2私(ノ)契(ヲ)1和擧《アマナヒテ》取(ル)v利(ヲ)、故云(ヘリ)2官不1v爲v理(スルコトヲ)也、)凡以2稻粟(ヲ)1、出擧(セラバ)者、(謂此條(モ)亦包(タリ)2公私(ヲ)1、故(ニ)下(ノ)文(ニ)云、其(ノ)官(ヘ)半倍(ト)也、)任依(テ)2私(ノ)契(ニ)1、官不(レ)v爲v理(スルコトヲ)、仍以2一年(ヲ)1爲v斷《カギリト》、(謂春(ノ)時擧(ヒ)受(ケテ)以2秋冬(ヲ)1報(ス)、是(ヲ)爲2一年(ト)1也、)不v得v過(スコトヲ)2一倍(ニ)1其官(ハ)半倍(セヨ)、竝不(レ)v得d因(テ)2舊本(ニ)1令(シテ)v生(セ)v利(ヲ)、及廻(シテ)v利(ヲ)爲(ルコトヲ)uv本(ト)、若(シ)家資盡(キナバ)亦准(ゼヨ)2上條(ニ)1、(謂役(シテ)v身折(クヲイフ)v庸(ヲ)、)凡出擧(ハ)兩《フタリノ》情和同(シテ)私(ニ)契(セシメヨ)、取(ルコト)v利過(セラバ)2正條(ニ)1者、任《マヽニ》人糺(シ)告(ヨ)、利物竝給(ヘ)2糺(サム)人1、○屬目は、史記に、※[手偏+晉]紳屬v目、註に屬(ハ)猶v註(ノ)也、
 
怨《ウラム》2※[(貝+貝)/鳥]晩哢《ウグヒスノオソキヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
4030 宇具比須波《ウグヒスハ》。伊麻波奈可牟等《イマハナカムト》。可多麻底波《カタマテバ》。可須美多奈妣吉《カスミタナビキ》。都奇波倍爾都追《ツキノヘニツツ》。
 
可多麻底波《カタマテバ》は、片待者《カタマテバ》にて、此《コヽ》は片待《カタマツ》に、と云むが如し、片待《カタマツ》とは、偏《カタヨリ》て待(ツ)意にて、ひとへに待(ツ)を(577)云、○歌(ノ)意は、※[(貝+貝)/鳥]は今は鳴むか、今は鳴むかと、偏《ヒトヘ》に待《マツ》に、霞は棚引て月日は經ながら、未(ダ)鳴ぬは、さても怨めしや、となり、
 
造酒歌一首《ミキタテマツルウタヒトツ》。
 
造酒は、酒《サケ》を造《カム》ことを云字なれど、此は酒を釀《カミ》て、神に獻ることを、主といへる歌なれば、姑(ク)ミキタテマツル〔七字右○〕と訓り、さて造酒《カメルサグ》を、大祝詞《フトノリト》を宣祓《ノリハラヒ》て、齋(ミ)清まはりて、神に獻れば、歌には、そのさまをいへるなり、かくて造酒式に、祭神九座、二坐(ハ)(酒彌豆男《サカミヅヲノ》神|酒彌豆女《サカミヅメノ》神、)竝(ニ)從五位上、四座(ハ)(竈神、)三座(ハ)(從五位上|大邑刀自《オホキオホトジ》、從五位下|小邑刀自《スナキオホトジ》、次(ノ)邑刀自」《オホトジ》、)と見ゆ(竈神とは、奥津比古(ノ)神、奥津比賣(ノ)神に、火産靈(ノ)神と庭火(ノ)神を合せ祭れるならむ、これによりて、四座と云るなるべし、)されば、造《カム》v酒《サケ》には、もはら此(ノ)神等を祭ることなるべし、今はその造《カメ》る酒を獻るよしなれば、其(ノ)獻りし神は何(レ)の神とも知がたし、さて酒幣《サカマヒ》と云ことあり、麻比《マヒ》とは、神に獻る物にも、人に贈る物にも、すべていふことなれは、神に獻る酒をば、酒幣《サカマヒ》とも云べき理なれども、其は豐樂《トヨノアカリ》の時に、臣に賜はる禄物の類にのみかぎりて、酒幣乃物《サカマヒノモノ》といひて、神に獻るにいへることなし、理にのみ就ば、誤つことありなむ、こはことのついでにいへるのみなり、
 
4031 奈加等美乃《ナカトミノ》、敷刀能里等其等《フトノリトゴト》。伊比波良倍《イヒハラヘ》。安賀布伊能知毛《アガフイノチモ》。多我多米爾奈禮《タガタメニナレ》。
 
(578)奈加等美乃《ナカトミノ》は、祝詞式に、凡祭祀(ノ)祝詞者、御殿御門等《オホトノミドラハ》齋部氏祝詞(ス)、以外《ホカノ》諸(ノ)祭(ハ)中臣氏祝詞(ス)、神樂酒殿(ノ)歌に、天(ノ)はらふりさけみれば、八重雲のくもの中なる雲の中とみの、天の小すげをさきはらひ、いのりしことはけふの日のため、あなこなや、わがすへの神のかみろきのみけこ、○敷刀能里等其等《フトノリトゴト》は、古事記に、天(ノ)兒屋(ノ)命|布刀詔戸事?白而《フトノリトゴトネギマヲシテ》云々、書紀に、乃使3天(ノ)兒屋(ノ)命(ニ)、掌2其(ノ)解除之太諄辭《ハラヘノフトノリトヲ》1而|宣之《ノラシム》焉、太諄辭、此云2布斗能理斗《フトノリト》1、大祓詞に、大中臣|天津祝詞乃太祝詞事乎宣《アマツノリトノフトノリトゴトヲノレ》、また月次祭(ノ)祝詞、鎭火祭(ノ》祝詞にも見ゆ、名(ノ)義、敷刀《フト》は、太(ノ)字を書るごとく、稱辭《タヽヘゴト》なり、能里等其等《ノリトゴト》は、本居氏云、宣説言《ノリトキゴト》なるべし、能流《ノル》は、必(ズ)しも貴人の命ならでも、人に物を言聞するを云、彼(ノ)大祓(ノ)詞に、大中臣に宣《ノレ》と云るが如し、その外にも例、いと多かり、(今云、神祇令に、中臣2祝詞(ヲ)1、とある義解に、謂宣者布也、祝者賛辭也云々、とあり、)説《トキ》は、書紀に太諄辭と書る、諄(ノ)字(説文に、告曉之熟也、といへり、)の意なり、久度久《クドク》と云言も、此(ノ)のりときごとの意に近し、俊頼(ノ)歌に、はじめなき罪のつもりのかなしさをぬかのこゑ/”\くどきつるかな、○伊比波良倍《イヒハラヘ》は、本居氏云、波良倍《ハラヘ》は、令《ハセ》v祓《ハラ》の約たる言にて、人に令《セシム》るを云、罪咎ある人に負する祓など是なり、これ人に祓はするなり、書紀に、祓具此云2波羅閇都母能《ハラヘツモノト》1、とある、これ須佐能男(ノ)命に負せて、せしむる祓具なればなり、此(ノ)歌も、人に負する祓にはあらねど、人に誂《アツラヘ》て令《シム》v爲《セ》る祓なるべし、伊勢物語に、おむやうじかむなき召(シ)て、戀せじと云|祓具《ハラヘノグ》してなむ行ける、と云る類なるべし、○安賀布伊能知毛《アガフイノチモ》は、(579)贖命《アガフイノチヲ》もにて、ありとある罪科を贖《アガナヒ》て、神の御心を和《ナゴ》め奉り、全《マタ》く長からむことを願ふ命もと謂《イフ》なり、さて岡部氏、神に獻る酒は、齋清まはりて、自《ミ》ら釀て、その釀る瓶のまゝに奉るなり、仍て端に造酒と書り、さて其(ノ)酒瓶を奉りて命を贖ふなり、端に造酒と書たれば、酒はいはでも聞ゆ、と云り、○多我多米爾奈禮《タガタメニナレ》とは、奈禮《ナレ》は、汝《ナレ》にて、誰が爲《タメ》ぞ、汝《ナ》が爲にこそあれ、といふ意にて、かく言(ヒ)て、女に贈りしなるべし、といへり、今按(フ)に、爾奈禮《ニナレ》と云る詞、平穩《オダヤカ》ならず聞ゆ、(契冲は、誰が爲になれや、故郷の妹がためにこそ、といふなるべし、と云れど、奈禮《ナレ》とのみにて、なれやと云意には通《ヰコ》えがたし、又或人は、奈は阿の誤にて、タガタメニアレ〔七字右○〕とありしなるべし、といへれど、それもいかヾ、)爾は、若くは、可(ノ)字の誤にはあらざるべき歟、さらば二(ノ)卷に、神樂浪乃大山守者誰爲可山爾標結君毛不有國《ササナミノオホヤマモリハタガタメカヤマニシメユフキミモアラナクニ》、とあるに同じく、多我多米可《タガタメカ》にて、誰爲曾《タガタメゾ》と云と同意なり、さて奈禮《ナレ》は、汝《ナレ》よと云意にて、誰爲《タガタメ》ぞ、誰爲《タガタメ》にあらず、汝《ナレ》よと謂にやあらむ、○歌(ノ)意は、祝部《ハフリ》して、中臣氏の宣太宣説言《ノルフトノリトゴト》を言令祓《イヒハラヘ》て、(本居氏云、此(ノ)歌は、太祝詞言《フトノリトゴト》を、中臣がいひはらへ、といふ意かとも聞ゆれど、然にはあらじ、祓(ノ)詞をさして、中臣のふとのりと言といへるなり、)齋(ミ)清め酒を造《カミ》て、其(ノ)酒を贖物に奉りて、命長からむことを、神に願ふも、誰(ガ)爲ならず、そこの爲にこそあるなれ、汝よといふなるべし、十一に、玉久世清川原身祓齋命妹爲《ヤマシロノクセノカハラニミソギシテイハフイノチモイモガタメコソ》、(玉久世清川原は、山背久世川原とありしを、誤れるなるべし、)十二に、時風吹飯乃濱出居乍贖命者勝之爲社《トキツカゼフケヒノハマニイデヰツヽアガフイノチハイモガタメコソ》、な(580)どあるを思(ヒ)合(ス)べし、
 
右大伴宿禰家持作之《ミギオオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
明治三十一年六月二十五日 印刷
明治三十一年七月  一日 發行
大正  二年三月 廿五日 再版印刷
大正  二年三月 三十日 再版發行
(萬葉集古義第六奧附)
非賣品(不許複製)
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發行者 吉川半七
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印刷者 岡村竹四郎
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印刷所 東洋印刷株式會社
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發行所 國書刊行曾
 
宮内省
御原本
 
(1)萬葉集古義十八卷之上
 
天平二十|一〔○で囲む〕年《テムヒヤウハタトセマリヒトヽセトイフトシ》。春三月二十三日《ヤヨヒノハツカマリミカノヒ》。左大臣橘家之使者造酒司令史田邊史福麿《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノイヘノツカヒサケノツカサノフミヒトタノベノフミヒトサキマロヲ》。饗《アヘス》2于|守大伴宿禰家持舘《カミオホトモノスクネヤカモチガタチニ》1。爰《コヽニ》作《ヨミ》2新歌《ニヒウタヲ》1。并《マタ》便|誦《ウタヒテ》2古詠《フルウタヲ》1。各《オノモ/\》述《ノブ》2心緒《オモヒヲ》1。
 
二十一年、舊本に一(ノ)字なし、契冲、廿一年ならざれば、年月次第相かなはぬを、後人の理に暗くして、廿一年改元なれば、暦代を記すに、廿一年なきにより誤れりと思ひ誤りて、除きたるべければ、今補へり、と云り、此(レ)に從(リ)つ、既く十七、故之能宇美能信濃乃波麻乎《コシノウミノシナヌノハマヲ》云々、の歌の前にも云り、○二十三日、いかゞなり、下の自註に、前件云々、二十四日云々、とあればなり、若(シ)は此《コヽ》も、四日を三日に誤れるか、又契冲も云る如く、廿三日使者到著にて、廿四日に宴ありしならば、二十三日云々到著、至2于二十四日1饗云々、などやうにこそあるべけれ、○橘家(目録には橘郷と作り、)は、諸兄公なり、○田邊(ノ)史福麻呂(史(ノ)字、舊本にはなし、目禄竝(ニ)古寫本に從つ、)は、既く六(ノ)卷にも見えたり、傳未(ダ)詳ならず、續紀聖武天皇天平十一年四月、正六位上田邊(ノ)史難波(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、とある、これ福麻呂の親族なるべし、と契冲云り、又雄略天皇(ノ)紀に、田邊(ノ)史伯孫といふもの(2)あり、これ先祖か、と云り、此集十五に、田邊(ノ)秋庭と云人もあり、又同族なるべし、此(ノ)福麻呂は、歌をことに好まれしと見えて、私に集めおかれたること、六(ノ)卷、九(ノ)卷等に見えたり、かくて此人、本職は造酒司(ノ)令史《フミヒト》なるが、所以《ユヱ》ありて、諸兄大臣の使者《ツカヒ》を奉りて、越中に下りしによりて、守の館にて饗宴《アヘ》せられしものと見ゆ、○于の下、元暦本に時(ノ)字あるは、衍なるべし、○作(ノ)字、舊本にはなし、今は古寫本、類聚抄、拾穗本等に從つ、○便(ノ)字、舊本に使と作るは誤なり、今は元暦本、官本、古寫本等に從つ、○各述心緒、此(ノ)四字、略解に、はなち書て、題とせるは甚誤なり、此は下に、前件十首云々、とあるまでを總たる標なれば、必(ズ)舊本の如く續け書べき處なり、若(シ)以下四首のみにあづかる題としては、各と云こと、理なきをや、(四首共に、福麻呂のうたへるなればなり、)
 
4032 奈呉乃宇美爾《ナゴノウミニ》。布禰之麻志可勢《フネシマシカセ》。於伎爾伊泥※[氏/一]《オキニイデテ》。奈美多知久夜等《ナミタチクヤト》。見底可敝利許牟《ミテカヘリコム》。
 
奈呉《ナゴ》は、越中にあり、既く出つ、○布禰之麻志可勢《フネシマシカセ》は、舟暫《フネシマシ》令《セ》v借《カ》なり、○奈美多知久夜等《ナミタチクヤト》は、浪立來哉《ナミタチクヤ》となり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、平城の京人、大海の浪をめづらしみしてよめるなり、十七に、可加良牟等可禰底思理世婆古之能宇美乃安里蘇乃奈美母見世麻之物能乎《カカラムトカネテシリセバコシノウミノアリソノナミモミセマシモノヲ》、
 
4033 奈美多底波《ナミタテバ》。奈呉能宇良未爾《ナゴノウラミニ》。余流可比乃《ヨルカヒノ》。末奈伎孤悲爾曾《マナキコヒニソ》。等之波倍爾(3)家流《トシハヘニケル》。
 
宇良未《ウラミ》(未(ノ)字、舊本に末と作るは誤なり、今改つ、)は、浦廻《ウラミ》なり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、浪の興(ツ)まゝに、浦廻による貝の間無(キ)をもて、戀しく思ふ心の、間無(キ)につゞけ下したる序にて、かくれたるところなし、六帖に、來て見ればなごの浦まによる貝の拾もあへず君ぞ戀しき、似たる歌なり、○一説に、末奈伎の末(ノ)字は、未の誤にて、上よりは、見の肉《ミ》といひかけたるにて、無《ナキ》v實《ミ》戀《コヒ》にはあらずや、十一に、住吉の濱によるちふうつせ貝|實《ミ》なきこともてわれこひめやも、とあるを、考(ヘ)合(ス)べし、といへり、此も通ゆ、但し十一なるは、空石花貝《ウツセガヒ》にて、無《ナキ》v實《ミ》と云までにかゝれり、件の説のごとくならば、今はたゞの貝なれば、實《ミ》と云までに係りて、無(キ)の言まではかゝらぬなるべし、布留《フル》の早田《ワサダ》の穗には出ずの類とすべし、
 
4034 奈呉能宇美爾《ナゴノウミニ》。之保能波夜悲波《シホノハヤヒバ》。安佐里之爾《アサリシニ》。伊泥牟等多豆波《イデムトタヅハ》。伊麻曾奈久奈流《イマソナクナル》
 
歌(ノ)意は、奈呉《ナゴ》の海の干潟になりなば、鶴が求食《アサリ》しに急《ハヤ》く出むとて、今ぞ鳴なる、となり、見るやうなる歌なり、
 
4035 保等登藝須《ホトトギス》。伊等布登伎奈之《イトフトキナシ》。安夜賣具佐《アヤメグサ》。加豆良爾勢武日《カヅラニセムヒ》。許由奈伎和多禮《コユナキワタレ》。
 
(4)勢(ノ)字、阿野家本に、藝と作るは非《ワロ》し、○此(ノ)歌、十(ノ)卷に、既く出て、彼處に註り、標《ハシジメ》に便誦2古詠(ヲ)1とある、此(レ)なり、
 
右四首《ミギノヨウタハ》。田邊史福麿《タノベノフミヒトサキマロ》。
 
于時《ソノトキ》期3之《チギリキ》明日《アス》將《ムト》v遊2覽《アソバ》布勢水海《フセノミヅウミニ》1。仍《カレ》述《ノベテ》v懷《オモヒヲ》各作歌《オノモ/\ヨメルウタ》。
 
之は、本居氏云(ク)、云の誤なるべし、
 
4036 伊可爾世流《イカニセル》。布勢能宇良曾毛《フセノウラソモ》。許己太久爾《ココダクニ》。吉民我彌世武等《キミガミセムト》。和禮乎等登牟流《ワレヲトドムル》。
 
伊可爾世流《イカニセル》は、如何爲有《イカニシタル》と云むが如し、世(ノ)字、元暦本、阿野家本、古寫本、拾穗本等に安と作り、如何《イカ》に在《アル》にても意同じ、○許己太久爾《ココダクニ》は、許多《ココダク》になり、さて此(ノ)句は、終(ノ)句の上に置かへて意得べし、○歌(ノ)意、いかばかり面白き布勢の浦にてあればぞよ、君が吾に令《セム》v見《ミ》とて、さて/\許多《コヽダク》に留むる、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。田邊史福麿《タノベノフミヒトサキマロ》。
 
4037 乎敷乃佐吉《ヲフノサキ》。許藝多母等保里《コギタモトホリ》。比禰毛須爾《ヒネモスニ》。美等母安久倍伎《ミトモアクベキ》。宇良爾安良奈久爾《ウラニアラナクニ》。
 
乎敷乃佐吉《ヲフノサキ》、十七にも、乎布能佐伎《ヲフノサキ》
波奈知利麻我比《ハナチリマガヒ》、とよめり、○美等母安久倍伎《ミトモアクベキ》は、雖《トモ》v見《ミ》可《ベキ》v飽《アク》(5)なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、○舊本に、一云|伎美我等波須母《キミガトハスモ》、と、註せり、これは第二(ノ)句なり、等波須母《トハス》は、問《トフ》の伸りたるにて、問(ヒ)賜ふと云が如し(波須《ハス》は、布《フ》と切《ツヾマ》れり、)仁徳天皇(ノ)紀、武内(ノ)宿禰(ノ)歌に、和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》、とあるに同じ、さて此は、福麻呂が、いかにせる布勢の浦ぞもとよめるによりて、君が問賜ふその地は、終日に雖《トモ》v見《ミ》飽まじき、浦のさまにてあることなるを、遊覽《アソバ》ずしてあるべしやは、と云意を含めて、答へたるなり、契冲云、此(ノ)集所々に、一云とて、句などかはれることあるは、作者もとよりふたつによめるもあり、又異本あるによりて、後に註したるもあるべし、古今集に、山高み人もすさめぬさくら花、といへる歌に註して、又はさととほみ人もすさめぬ山ざくら、といひ、わすらるゝ身をうぢ橋の中絶て、といふ歌の下(ノ)句を、又はこなたかなたに人もかよはず、といへるたぐひなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4038 多麻久之氣《タマクシゲ》。伊都之可安氣牟《イツシカアケム》。布勢能宇美能《フセノウミノ》。宇良乎由伎都追《ウラヲユキツツ》。多麻母比利波牟《タマモヒリハム》。
 
多麻久之氣《タマクシゲ》は、將《ム》v明《アケ》といふにかゝれる枕詞なり、○伊都之可安氣牟《イツシカアケム》は、何時《イツ》か夜の將《ム》v明《アケ》、早く明よかしと、一(ト)すぢに明むことをねがへるなり、その一(ト)すぢにねがへる意は、之《シ》の辭にて、しかきこえたり、○多麻母比利波牟《タマモヒリハム》は、玉藻《タマモ》將《ム》v拾《ヒリハ》なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
(6)4039 於等能未爾《オトノミニ》。伎吉底目爾見奴《キキテメニミヌ》。布勢能宇良乎《フセノウラヲ》。見受波能保良自《ミズハノボラジ》。等之波倍奴等母《トシハヘヌトモ》。
 
能保良自《ノボラジ》は、京《ミヤコ》へ不《ジ》v上《ノボラ》なり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、
 
4040 布勢能宇良乎《フセノウラヲ》。由吉底之見弖婆《ユキテシミテバ》。毛母之綺能《モモシキノ》。於保美夜比等爾《オホミヤヒトニ》。可多利都藝底牟《カタリツギテム》。
 
見弖婆《ミテバ》(婆、舊本には波と作り、今は元暦本、阿野家本等に從つ、)は、見たらばの意なり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、
 
4041 宇梅能波奈《ウメノハナ》。佐伎知流曾能爾《サキチルソノニ》。和禮由可牟《ワレユカム》。伎美我都可比乎《キミガツカヒヲ》。可多麻知我底良《カタマチガテラ》。
 
歌(ノ)意は、福麻呂が旅館へ、家持(ノ)卿の使の來らむを偏待《カタマチ》がてらに、彼(ノ)館の苑に出行て、梅(ノ)花を見む、となり、○此(ノ)歌、十(ノ)卷に出たるに全(ラ)同じ、福麻呂、古歌の時にかなへるを、誦られたるなり、題標《ハシジメ》に、誦2古詠(ヲ)1、とあるは、此等なり、契冲云、第十九(ノ)二月三日の歌に、梅柳をよみて、左の自註(ニ)云、但越中(ノ)風土、梅花柳絮、三月初咲耳、今は三月二十四日の歌なれば、都にては、梅はあとなくちりたれば、いとめづらしくもてあそび、此(ノ)古歌を思ひ出、打誦したるなるべし、
 
4042 敷治奈美能《フヂナミノ》。佐伎由久見禮婆《サキユクミレバ》。保等登藝須《ホトトギス》。奈久倍吉登伎爾《ナクベキトキニ》。知可豆伎爾(7)家里《チカヅキニケリ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるところなし、貫之集に、ほとゝぎす鳴べき時は藤の花さけるをみれば近づきにけり、
 
右五首《ミギノイツウタハ》。田邊史福麿《タノベノフミヒトサキマロ》。
 
4043 安須能比能《アスノヒノ》。敷勢能宇良未能《フセノウラミノ》。布治奈美爾《フヂナミニ》。氣太之伎奈可受《ケダシキナカズ》。知良之底牟可母《チラシテムカモ》。
 
安須能比能《アスノヒノ》云々は、明日《アス》往《ユキ》て見むと期《チギ》れゝば、如此いへり、さて今日《ケフ》を氣布能比《ケフノヒ》、明日《アス》を安須能比《アスノヒ》といへること、古言に例おほし、○宇良未《ウラミ》は、(これも未(ノ)字、舊本末に誤れり、今改めつ、)浦廻《ウラミ》なり、○氣太之伎奈可受《ケダシキナカズ》、(受(ノ)字、舊本には須と作り、今は元暦本に從つ、)は、若(シ)不2來鳴1して、といはむが如し、此は霍公鳥をいへり、○歌(ノ)意は、明日布勢の湖《ミヅウミ》を往て見むに、藤もさかりなるべきを、若(シ)霍公鳥の來鳴ずして、徒に花の散過なば、さてもいかばかり口惜からましとおもふを、いかで藤もさかりに、霍公鳥も來鳴てあれかし、と希ふなり、○舊本註に、一頭云保等登藝須、とあり、此にては蓋(シ)不2來鳴1といへるに、理よくかなひたり、本のまゝにては、業平の、雨のふる日、藤を折て人につかはすとて、ぬれつゝぞしひてをりつる、とよまれたる類に心得べし、と契冲いへり、
 
(8)右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持和之《オホトモノスクネヤカモチガコタフ》。
 
前件十首歌者《カミノクダリトウタハ》。二十四日宴作《ハツカマリヨカノヒノウタゲニヨメル》之。
 
凡十二首の中、二首は(保等登藝須伊等布登伎奈之《ホトトギスイトフトキナシ》云々と、宇梅能波奈佐伎知流曾能爾《ウメノハナハナサキチルソノニ》云々とは、福麻呂の誦たる、)古歌なれば、除て十首としるせるなるべし、この自註にて、共に二十四日の宴なることしられたり、
 
二十五日《ハツカマリイツカノヒ》。往《ユク》2布勢水海《フセノミヅウミニ》1道中《ミチ》。馬上口號二首《ウマニノリナガラヨメルウタフタツ》。
 
口號、雄略天皇(ノ)紀に、天皇乃|口號曰云々《ミクチヅカラウタヒタマハク》、とあり、齊明天皇(ノ)紀にも同じこと見ゆ、(これを舊訓に、クツウタ〔四字右○〕とあるは、いかゞなり、)○號の下、拾穗本には歌(ノ)字あり、
 
4044 波萬部余里《ハマヘヨリ》。和我宇知由可波《ワガウチユカバ》。宇美邊欲利《ウミヘヨリ》。牟可倍母許奴可《ムカヘモコヌカ》。安麻能都里夫禰《アマノツリブネ》。
 
和我宇知由可波《ワガウチユカバ》は、馬に乘(リ)て、鞭打《ムチウチ》て吾(ガ)行ばの意なり、宇知《ウチ》は辭にあらず、馬に鞭打《ムチウツ》ことなり、集中に、打徃《ウチユク》といへるは、多くは其意なり、○牟可倍母許奴可《ムカヘモコヌカ》は、迎へにもがな來《キタ》れかし、と希ふなり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、たゞ興に、はかなくいへるのみなり、
 
4045 於伎敝欲里《オキヘヨリ》。美知久流之保能《ミチクルシホノ》。伊也麻之爾《イヤマシニ》。安我毛布伎見我《アガモフキミガ》。彌不根可母加禮《ミフネカモカレ》。
 
(9)本(ノ)二句は、彌益《イヤマシ》といはむための序なり、四(ノ)卷に、從蘆邊滿來鹽乃彌益荷食歟君之忘金鶴《アシヘヨリミチクルシホノイヤマシニオモヘカキミガワスレカネツル》、○安我毛布伎見我《アガモフキミガ》は、吾思君之《アガモフヰミガ》なり、福麻呂を指ていへり、○彌不根可母加禮《ミフネカモカレ》は、御舟歟《ミフネカ》も彼《カレ》にて、彼が君が御舟歟、さてもうれしや、といふ意なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
此(ノ)九字、舊本になきは脱たるなり、但し目録には、題詞に、二十五日、大伴(ノ)宿禰家持、往2布勢水海1云々、とあり、
 
至《イタリテ》2水海《ミヅウミニ》1遊覽《アソブ》之|時《トキ》。各《オノモ/\》述《ノベテ》v懷《オモヒヲ》作歌六首《ヨメルウタムツ》。
 
至水海、舊本には至氷邊と作り、今は目録竝(ニ)官本、元暦本、古寫本、類聚抄等に從つ、また一本には、垂氷邊《タルヒベ》と作り、下の歌に、垂姫乃埼《タルヒメノサキ》と多くよみたれば、是しかるべし、ベ〔右○〕とメ〔右○〕とは、通ふ例多し、と中山(ノ)嚴水はいひたりき、(但しもし垂氷邊ならば、遊覽垂氷邊云々とこそ、あるべきことなれ、そのうへに、往2布勢水海1道中云々、とあれば、こゝは至2水海1云々ならむこそ、理はあるべけれ、)○六首(ノ)二字、舊本にはなし、目録によりつ、
 
4046 可牟佐夫流《カムサブル》。多流比女能佐吉《タルヒメノサキ》。許伎米具利《コギメグリ》。見禮登裳安可受《ミレドモアカズ》。伊加爾和禮世牟《イカニワレセム》。
 
多流比女能佐吉《タルヒメノサキ》は、布勢(ノ)湖の中にある名處なるべし、十九にも、垂姫爾藤浪咲而《タルヒメニフヂナミサキテ》、とよめり、○(10)伊加爾和禮世牟《イカニワレセム》は、見れどあかぬあまりに、此(ノ)上は如何にとか吾(ガ)爲む、となり、十四に、可美都氣努安蘇能麻素武良可伎武太伎奴禮杼安加奴乎安杼加安我世牟《カミツケヌアソノマソムラカキムダキヌレドアカヌヲアドカアガセム》、とよめるに同じ、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。田邊史福麿《タノベノフミヒトサキマロ》。
 
4047 多流比賣野《タルヒメノ》。宇良乎許藝都追《ウラヲコギツツ》。介敷乃日波《ケフノヒハ》。多奴之久安曾敝《タヌシクアソベ》。移比都支爾勢牟《イヒツギニセム》。
 
野は、此《コヽ》はノ〔右○〕の假字にて、之《ノ》の意なり、○波(ノ)字、舊本には婆と作り、今は阿野家本に從つ、○多奴之久安曾敝《タヌシクアソベ》、(奴(ノ)字、官本には努と作り、)九(ノ)卷に、夏草之茂者雖在今日之樂者《ナツクサノシゲクハアレドケフノタヌシサ》、古語拾遺に、阿那多能志《アナタノシ》、などあり、樂しく遊びたまへ、吾も隨ひて、與に慰みつゝの謂なり、○移比都伎爾勢牟《イヒツギニセム》は、三(ノ)卷赤人の不盡(ノ)山の歌に、語告言繼將徃《カタリツギイヒツギユカム》、とよめるに同じ、○歌(ノ)意は、垂姫の浦を漕めぐりつつ、今日は樂しく遊びたまへ、吾も隨ひて共に慰みつゝ、未(ダ)見ぬ人へいひつぎて、羨《ウラヤマ》しがらせむ、となるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。遊行女婦土師《ウカレメハニシ》。
 
土師は、傳未(ダ)詳ならず、越中の遊女なるべし、此(ノ)下にも見えたり、古(ヘ)は田舍の遊女にすら、かゝる歌よみありけり、今の京人まさにしかむや、
 
(11)4048 多流比女能《タルヒメノ》。宇良乎許具不禰《ウラヲコグフネ》。可治末爾母《カヂマニモ》。奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》。和須禮底於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》。
 
不禰、舊本には夫禰と作り、夫は濁音(ノ)字なれば、此に叶ひがたし、(但し、取はづして、清音の不(ノ)字を用ふべき所に、夫(ノ)字をかけること、集中に一二所見えたれど、)今は元暦本に從つ、○可治末爾母《カヂマニモ》は、※[楫+戈]取間《カヂトルアヒダ》にもの謂《ヨシ》にて、しばらくの間《マ》にもといふ意になれり、○吾藝敝《ワギヘ》は、吾家《ワギヘ》なり、○和須禮底於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》は、將《ム》v忘《ワスレ》哉者《ヤハ》、といふに同じ、思《オモヘ》は、輕く添たる辭なり、○歌(ノ)意、本(ノ)二句は、親く目に觸《フル》るものもて序にいへるにて、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰〔二字各○で囲む〕家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
宿禰(ノ)二字、舊本になきは、脱たるなるべし、
 
4049 於呂可爾曾《オロカニソ》。和禮波於母比之《ワレハオモヒシ》。乎不乃宇良能《ヲフノウラノ》。安利蘇野米具利《アリソノメグリ》。見禮度安可須介利《ミレドアカスケリ》。
 
於呂可爾曾《オロカニソ》は、凡《オヨソ》にぞといはむが如し、○安可須介利《アカスケリ》は、不《ズ》v飽《アカ》ありけり、といふに同じ、古風の詞づかひなり、○歌(ノ)意、乎不《ヲフ》の浦の荒磯のめぐりの風景、見に不v飽面白し、かゝるを未(ダ)見ぬさきに、凡《オホヨソ》になみ/\のところならむと思ひはかりしは、あらぬことなりけり、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。田邊史福麿《タノベノフミヒトサキマロ》。
 
(12)4050 米豆良之伎《メヅラシキ》。吉美我伎麻佐婆《キミガキマサバ》。奈家等伊比之《ナケトイヒシ》。夜麻保等登藝須《ヤマホトトギス》。奈爾加伎奈可奴《ナニカキナカヌ》。
 
婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は阿野家本に從つ、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、霍公鳥に、必(ズ)鳴(ケ)といひつけしやうに、はかなくいへるは、歌のならはしなり、八(ノ)卷にも、霍公鳥鳴之登時君之家爾往跡追者將至鴨《ホトヽギスナキシスナハチキミガイヘニユケトオヒシハイタリケムカモ》、とあり、さて此時、三月二十五日なれど、既く立夏の節に入たる時に、よめるやうなり、されど此(ノ)時、立夏の節に入たりとせむこと、疑はしければ、年月日の誤などあるべきにや、猶考(フ)べし、○此(ノ)歌、十九に、爾を騰に改て、長歌の反歌とせり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。掾久米朝臣廣繩《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハ》。
 
廣繩は傳未(ダ)詳ならず、これよりさき、越中(ノ)國(ノ)掾は、池主なりしを、次下に、越前(ノ)國掾大伴(ノ)宿禰池主と見えたれば、池主は越中より越前に移されたる、(天平二十年冬の間なるべし、)その代(リ)に廣繩の任られたるなるべし、
 
4051 多胡乃佐伎《タコノサキ》。許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》。保登等藝須《ホトトギス》。伎奈伎等余末婆《キナキトヨマバ》。波太古非米夜母《ハタコヒメヤモ》。
 
多胡乃佐伎《タコノサキ》、射水(ノ)郡にあり、十七に、多古《タコ》の嶋とある處の崎なり、○許能久鹿之氣爾《コノクレシゲニ》は、木晩繁《コノクレシゲ》になめ三(ノ)卷に、櫻花木晩茂爾《サクラバナコノクレシゲニ》云々、○伎奈伎等余末婆《キナキトヨマバ》、(末(ノ)字、舊本に米と作るは、誤寫なること(13)著ければ改めつ、こゝは現に鳴ことを、いへるところならねば、トヨメバ〔四字右○〕とは、いふべからねばなり、又婆(ノ)字、舊本に波と作、次(ノ)句の波を婆と作るは顛倒なり、今は元暦本に從つ、)は、來鳴《キナキ》令《マ》v響《トヨ》者《バ》なり、○波太《ハタ》は、そのもと心に欲《ネガ》はぬことなれど、外にすべきすぢなくて、止ことなくするをいふ詞なり、○歌(ノ)意は、霍公鳥を戀しく思ふにつけて、かく物思(ヒ)をするは、そのもと心に欲はぬことなれども、堪難くして戀しく思ふに、いかで木陰の晩く、繁りそひたる如くに、しげく來鳴響もせかし、嗚呼《アハレ》さらば、かくまでこひしく物思ひはすまじきを、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
前件八首歌者《カミノクダリヤウタハ》。二十五日作《ハツカマリイツカノヒヨメル》之。
 
八首、舊本に、十五首と作るは、後人のあしく意得て、書ひがめたるなり、
 
掾久米朝臣廣繩之舘《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハガタチニテ》。饗《アヘスル》2田邊史福麿《タノベノフミヒトサキマロヲ》1。宴歌四首《ウタゲノウタヨツ》。
 
此は、福磨、橘家の使者の事竟て、程なく歸京に臨《ナ》れるによりて、掾の館にて、饗宴《アヘ》せられしなるべし、
 
4052 保登等藝須《ホトトギス》。伊麻奈可受之弖《イマナカズシテ》。安須古要牟《アスコエム》。夜麻爾奈久等母《ヤマニナクトモ》。之流思安良米夜母《シルシアラメヤモ》。
 
歌(ノ)意、今日の宴席に鳴ずして、明日我(ガ)獨かへる山道にて鳴とも、嗚呼《アハレ》かひはあらじを、となり、(14)歸京必(ズ)明日ならずとも、かくいふべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。田邊史福麿《タノベノフミヒトサキマロ》。
 
4053 許能久禮爾《コノクレニ》。奈里奴流母能乎《ナリヌルモノヲ》。保等登藝須《ホトトギス》。奈爾加伎奈可奴《ナニカキナカヌ》。伎美爾安敝流等吉《キミニアヘルトキ》。
 
許能久禮爾《コノクレニ》は、上に云る如し、○伎美《キミ》は、福麻呂をさしていへり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、十(ノ)卷に、難相君爾逢有夜霍公鳥他時從者今社鳴目《アヒガタキキミニアヘルヨホトヽギスアタシトキヨハイマコソナカメ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。久米朝臣廣繩《クメノアソミヒロナハ》。
 
4054 保等登藝須《ホトトギス》。許欲奈枳和多禮《コヨナキワタレ》。登毛之備乎《トモシビヲ》。都久欲爾奈蘇倍《ツクヨニナソヘ》。曾能可氣母見牟《ソノカゲモミム》。
 
許欲奈枳和多禮《コヨナキワタレ》は、此間《ココ》を鳴(キ)渡れ、といふに同じ、集中に多き詞なり、○歌(ノ)意は、闇(ノ)夜なれば、燈火の影のあきらかなるを、月になぞらへて、その飛(ビ)過るかげをも見むぞ、此間《ココ》を鳴(キ)わたれ、霍公鳥よ、となり、
 
4055 可敝流未能《カヘルミノ》。美知由可牟日波《ミチユカムヒハ》。伊都波多野《イツハタノ》。佐加爾蘇泥布禮《サカニソデフレ》。和禮乎事於毛波婆《ワレヲシオモハバ》。
 
可敝流未能《カヘルミノ》(未(ノ)字、これも舊本に、末と作るは誤なり、)は、可敝流廻之《カヘルミノ》なり、可敝流《カヘル》は、敦賀(ノ)郡にあ(15)りて、中古の歌どもに、歸《カヘル》山と多くよみたる其(ノ)地なり、(契冲、十一に、かへらまに君こそわれを、と云る歌を引て、こゝも、歸るさの道ゆかむ日はなり、といへるはあらず、)和名抄に、越前(ノ)國敦賀(ノ)郡鹿蒜(ハ)加倍留《カヘル》、神名帳に、越前(ノ)國敦賀(ノ)郡|加比留《カヒルノ》神社、又鹿蒜(ノ)神社、又鹿蒜田(ノ)口(ノ)神社、兵部式に、越前(ノ)國驛馬、鹿蒜五疋と見えて、可敝流《カヘル》、と云るも、可比留《カヒル》といへるも、みな同地なり、さて未《ミ》は、島廻《シマミ》、浦廻《ウラミ》、磯廻《イソミ》など多くいふ廻《ミ》にて、毛登保理《モトホリ》の約りたる言なり、かくて地(ノ)名の下に附て、某廻《ナニミ》といふは、めづらしけれど、古(ヘ)はいへることなるべし、六卷にも、千沼回《チヌミ》とよめる、これ同例なり、○伊都波多《イツハタ》は、帳に、越前(ノ)國敦賀(ノ)郡五幡(ノ)神社、枕册子に、山は云々、いつはた山、後撰集、よみ人しらず、君をのみいつはたとおもふこしなれば往來の道ははるけからじを、新古今集、別、伊勢、わすれなむよにもこしぢのかへる山いつはた人にあはむとすらむ、紫式部(ノ)家集に、ゆきめぐりたれもみやこにかへる山いつはたときくほどのはるけさ、仙覺云、越中より越前の國へ越るに、二の道あり、いつはたごえは海津へ出、きのめごえは敦賀の津へ出るなり、きのめごえは、ことにさがしき道なり、といへり、○佐加爾蘇泥布禮《サカニソデフレ》は、坂にて袖振(レ)よ、といふなり、十四に、比能具禮爾宇須比乃夜麻乎古由流日波勢奈能我素低母佐夜爾布良思都《ヒノグレニウスヒノヤマヲコユルヒハセナノガソテモサヤニフラシツ》、○和禮乎事於毛波婆《ワレヲシオモハバ》は、吾を一すぢに思はゞ、となり、事《シ》は、その一(ト)すぢなることを、重く思はする助辭なり、事(ノ)字は、此(ノ)集清音の所に用たり、此(ノ)下に故事部《コシヘ》、また、伊家流思留事安里《イケルシルシアリ》、とかけり、○歌(ノ)(16)意は、別(レ)を慕ふ吾を、汝も實に一(ト)すぢに相思ふとならば、かへる山を越往む時、その五幡坂にて、袖振て、われをさしまねき給ひてよ、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
前件四首〔二字各○で囲む〕歌者《カミノクダリヨウタハ》。二十六日作之《ハツカマリムカノヒヨメル》。
 
四首(ノ)二字、舊本に脱たり、例によりて補つ、
 
太上皇《オホキスメラミコト》。【清足姫天皇也。】御2在《イマス》於|難波宮《ナニハノミヤニ》1之時哥七首《トキノウタナヽツ》。
 
太上の下、天(ノ)字、を脱せる歟、此は元正天皇なり、續紀に、日本根子高瑞淨足姫(ノ)天皇(ハ)、天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天真(天武)之孫、日竝知(ノ)皇子(ノ)尊之皇女也、云々、靈龜元年九月庚辰、受(テ)v禅(ヲ)即(タマフ)2位(ニ)于大極殿(ニ)1、二年(靈龜)十一月辛卯、大嘗(アリ)、由機《ユキ》遠江、須機《スキ》但馬、神龜元年二月甲午、天皇禅(タマフ)2位(ヲ)於皇太子(ニ)1、(聖武)天平二十年四月庚申、太上天皇崩(タマフ)2於寢殿(ニ)1、春秋《ミトシ》六十有九、丁卯、火2葬(マツル)太上天皇(ヲ)於佐保山(ノ)陵(ニ)1、勝寶二年十月癸酉、太上天皇(ヲ)改2葬於奈保山(ノ)陵(ニ)1、諸寮式に、奈保山(ノ)西(ノ)陵、(平城(ノ)宮御宇淨足姫(ノ)天皇、在2大和(ノ)國添上(ノ)郡(ニ)1、兆域東西三町南北五町、守戸四烟、)と見えたり、左の七首は、太上天皇御在世のほど、ありしことを、天平二十一年春三月の末に、傳(ヘ)聞たるが故に、此間にしるせるなり、○註の六字、舊本には首(ノ)字の下にあり、今は拾穂本に從て、皇(ノ)字の下に收つ、
 
左大臣橘宿禰歌一首《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノスクネノウタヒトツ》。
 
(17)4056 保里江爾波《ホリエニハ》。多麻之可麻之乎《タマシカマシヲ》。大皇乎《オホキミヲ》。美敷禰許我牟登《ミフネコガムト》。可年弖之里勢婆《カネテシリセバ》。
 
保里江爾波《ホリエニハ》とは、保里江《ホリエ》は難波堀江なり、爾波《ニハ》は、他の所にむかへていふ詞にて、こゝは、他所はさてあるべけれど、この堀江には、との謂なり、○大皇乎《オホキミヲ》は、大皇之《オホキミノ》といはむが如し、乎《ヲ》と乃《ノ》と同韵にて通へり、と契冲もいへるが如し、又|此《コヽ》は、乃(ノ)字を、寫(シ)誤れるにてもあるべし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、十九に、同卿、牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之座牟等知者玉之可麻思乎《ムグラハフイヤシキヤドモオホキミノマサムトシラバタマシカマシヲ》、六(ノ)卷、十一(ノ)卷にも、似たる歌あり、(新拾遺集、旅、亭子院、なにはにみゆきの時、貞數親王、君がため浪の玉しくみつのはま行過がたしおりてひろはむ、こゝの歌をとり給へるなり、と契冲いへり、)
 
御製歌一首《ミヨミマセルオホミウタヒトツ》 和。
 
御製は、元正天皇の御こたへの歌なり、○和(ノ)字は、後人の書加へしなるべし、と略解に云れど、此(ノ)下にも、右一首大伴宿禰家持和、とあれば、然にはあらず、十九にも、右云々掾久米(ノ)朝臣廣繩和、とあり、
 
4057 多萬之賀受《タマシカズ》。伎美我久伊弖伊布《キミガクイテイフ》。保里江爾波《ホリエニハ》。多麻之伎美弖弖《タマシキミテテ》。都藝弖可欲波牟《ツギテカヨハム》。
 
大御歌(ノ)意は、兼て玉敷(キ)設(ケ)て置ましものを、敷ずありしが悔しき事と、そこのいふ堀江には、朕(レ)(18)良《シラ》玉を敷(キ)滿て、繼々に通ひ來むほどに、しか悔ることなかれ、と詔へるなり、○舊本註に、或云|多麻古伎之伎弖《タマコキシキテ》、とあり、古伎《コキ》は、稻を扱《コク》、桑を扱《コク》など云|扱《コク》にて、緒に貫たる數々の玉を、こきおろす御意なり、(略解に、コキ〔二字右○〕は、カキ〔二字右○〕といふにひとしく、詞なり、と云るは、いみじきひがごとなり、
 
右件二首歌者《ミギノクダリノフタウタハ》。御船《ミフネ》泝《ノボリテ》v江《エヨリ》遊宴《ウタゲスル》之|日《ヒ》。左大臣奏并御製《ヒダリノオホマヘツキミノマヲスウタマタオホミウタ》。
 
二首、舊本一首に誤り、又右(ノ)字の下にあり、今改(メ)つ、
 
御製歌一首《ミヨミマセルオホミウタ》。
 
官本傍註に、元正、とあり、
 
4058 多知婆奈能《タチバナノ》。登乎能多知婆奈《トノノタチバナ》。夜都代爾母《ヤツヨニモ》。安禮波和須禮自《アレハワスレジ》。許乃多知婆奈乎《コノタチバナヲ》。
 
登乎能多知波奈は、乎は、乃(ノ)字の誤なるべし、(略解に、登乎能は、登能之とありしを、誤れるなるべし、といへれど、此(ノ)歌の書ざまにては、之の正字を用ひしとも、おもはれず、)殿之橘《トノノタチバナ》なり、次下にも、等能乃多知波奈《トノノタチバナ》、とあり、○夜都代《ヤツヨ》は、彌津代《ヤツヨ》なり、○大御歌(ノ)意は、橘(ノ)卿の殿の橘の、彌(ツ)代に榮る如く、末長く、いつまでも、この橘の芳香《カグハシミ》を、朕は忘れじと詔ひて、すなはち橘(ノ)卿の、忠功のすぐれ給へるを、比《タト》へ給へるなり、
 
(19)河内女王歌一首《カフチノオホキミノウタヒトツ》。
 
河内女王は、續紀に、天平十一年正月丙午、從四位下河内女王(ニ)授2從四位上(ヲ)1、二十年三月壬辰、授2正四位下1、寶字二年八月庚子朔、正四位上河内(ノ)女王(ニ)授2從三位1、寶龜四年正月丁丑朔、授2無位河内女王(ニ)本(ノ)位正三位(ヲ)1、十年十二月己未、正二位河内(ノ)女王薨、淨廣壹高市皇子之女也、
 
4059 多知婆奈能《タチバナノ》。之多泥流爾波爾《シタデルニハニ》。等能多弖天《トノタテテ》。佐可彌豆伎伊麻須《サカミヅキイマス》。和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》。
 
之多泥流《シタデル》は、下照《シタデル》にて、橘花の地まで照徹れるを云、猶次の歌にいふべし、十九に、春苑紅爾保布桃花下照道爾出立※[女+感]嬬《ハルノソノクレナヰニホフモヽノハナシタデルミチニイデタテヲトメ》、十五に、安之比奇能山下比可流毛美知葉能《アシヒキノヤマシタヒカルモミチハノ》、六(ノ)卷に、巖者山下耀錦成花咲乎呼理《イハホニハヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヲリ》、などあり、○佐可彌豆伎伊麻須《サカミヅキイマス》は、酒宴し坐ますなり、と契冲いへる如し、此(ノ)下に、左加美都伎安蘇比奈具禮止《サカミヅキアソビナグレド》云々、十九に、酒見附榮流今日之安夜爾貴左《サカミヅキサカユルケフノアヤニタフトサ》、古事記雄略天皇(ノ)大御歌に、祁布母加母佐加美豆久良斯多加比加流比能美夜比登《ケフモカモサカミヅクラシタカヒカルヒノミヤヒト》云々、本居氏、佐加美豆久《サカミヅク》は、宴樂《ウタゲ》のことなり、然云(フ)言の意は、師云、萬葉廿に、美豆久白玉《ミヅクシラタマ》、とある、美豆久《ミヅク》と同じくて、沈醉、淵醉など云が如し、と云れき、今思ふに、海行者美都久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、とあるなども、水に所漬《ツカル》ことなれば、酒に所漬《ツカル》よしにて云にや、又思ふには、神名帳に、造酒(ノ)司(ニ)坐(ス)酒殿(ノ)神二座、酒彌豆男《サカミヅヲノ》神、酒彌豆女《サカミヅメノ》神、姓氏録酒部(ノ)公(ノ)條に、大鷦鷯(ノ)天皇(ノ)御代(ニ)從2韓國1參來《マヰキツル》人、兄曾々保利《エソヽホリ》、弟曾々保利《オトソヽホリ》、二人、天皇|勅《ノリタマヘバ》(20)v有(ルト)2何(ノ)才(カ)1、白《マヲシケレバ》v有(リト)2造v酒(ヲ)之才1、令v造2御酒(ヲ)1、於是《コヽニ》賜(ヒテ)2麻呂(ヲ)1、號《イヒ》酒看都子《サカミヅコト》1、賜(ヒテ)2山鹿此※[口+羊](ヲ)1、號《イフ》2酒看都女《サカミヅメト》1、因《カレ》以《ヲ》2酒看都《サカミヅ》1爲《ス》v氏(ト)、などある、酒美豆《サカミヅ》は即(チ)酒のことにて、然云意は、榮水《サカミヅ》なるべし、かくて酒宴《ウタゲ》するを、佐加美豆久《サカミヅク》と云は、榮水飽《サカミヅアク》にて、酒を飽まで飲樂《ノミアソ》ぶよしにもやあらむと、古事記傳四十二(ノ)卷にいヘり、○和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》は、元正天皇をさし奉れり、可母《カモ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
粟田女王歌一首《アハタノオホキミノウタヒトツ》。
 
粟田(ノ)女王は、續紀に、養老七年正月丙子、粟田(ノ)女王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、天平十一年正月丙午、授2從四位上1、二十年三月壬辰、正四位下粟田(ノ)女王(ニ)授2正四位上(ヲ)1、寶字五年六月己卯、從三位栗田(ノ)女王(ニ)進2一階(ヲ)1、八年五月庚子、五三位粟田(ノ)女王薨、○一首(ノ)二字、舊本にはなし、目録竝(ニ)古寫本に從つ、
 
4060 都寄麻知弖《ツキマチテ》。伊敝爾波由可牟《イヘニハユカム》。和我佐世流《ワガサセル》。安加良多知婆奈《アカラタチバナ》。可氣爾見要都追《カゲニミエツツ》。
 
和我佐世流《ワガサセル》は、吾挿有《ワガサセル》なす挿預《カザセ》るをいへり、○安加良多知婆奈《アカラタチバナ》、書紀應神天皇(ノ)御歌に、髪長《カミナガ》媛を橘によせて、府保語茂利阿伽例蘆塢等※[口+羊]《フホゴモリアカレルヲトメ》、とよませ給へるにつきて、荒木田氏、是は橘(ノ)子《ミ》の熟して照有《テレル》を、紅顔の少女に譬賜へる言ぞ、とおもへりしかど、含隱《フホゴモリ》は花にこそいふべけれ、子《ミ》に含《フホ》といふ言の、あるべくもあらねば、子《ミ》とおもへりしはあらざりけり、萬葉十八に云々(21)この二首(河内(ノ)女王(ノ)歌、粟田(ノ)女王(ノ)歌なり、)の志多泥流《シタデル》は、赤照にて、安加良多知婆奈《アカラタチバナ》は、子《ミ》の照れるをいふ言と、まつはおもはるれど、其次の歌に、奈都能欲波《ナツノヨハ》云々、とありて、夏の行幸なるに、實を賞むは時節《ヲリ》違へり、故(レ)考(フ)るに志多泥流《シタデル》は、下照《シタデル》にて、いと白く咲たる花の、庭まで照れるをいふ、下照姫《シタデルヒメ》といふ神(ノ)名も、下つ國にまで照れる意なるをおもへ、さてあからたちばなも、花の白く清く、明らかなるをいふなるべし、しからば、あかれる少女《ヲトメ》も、容儀《スガタ》のうるはしく映有《テレル》にこそあれ、といへり、此(ノ)説によるべし、○可氣爾見要都追《カゲニミエツツ》は、影に所見乍《ミエツヽ》、面白からむ、といふ意を含ませたるなり、○歌(ノ)意は、吾挿頭にさせる、あから橘花の月影に映《テラ》されたらば、いみじく興あるべしとおもへば、酒宴に樂《アソビ》て、月の出るを待て、私の家にはかへらむ、となり、
 
右件三首〔二字各○で囲む〕歌者《ミギノクダリノミウタハ》。在《イマシテ》2於|左大臣橘卿之宅《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノマヘツキミノイヘニ》1。肆宴御歌并奏歌《トヨノアカリキコシメスオホミウタマタマヲスウタ》也。
 
肆宴、雄略天皇(ノ)紀に因命(テ)v酒兮|肆宴《トヨノアカリキコシメス》云々、
 
4061 保里江欲里《ホリエヨリ》。水乎妣吉之都追《ミヲビキシツツ》。美布禰左須《ミフネサス》。之津乎能登母波《シヅヲノトモハ》。加波能瀬麻宇勢《カハノセマウセ》。
 
水乎妣吉之都追《ミヲビキシツツ》は、十五に、太多牟可布美奴面乎左指天《タヾムカフミヌメヲサシテ》、之保麻知弖美乎婢後由氣婆《シホマチテミヲビキユケバ》、とある所に委(ク)云り、水脈《ミヲ》に從(ヒ)て漕(キ)行を云、和名抄に、水脈船(ハ)美乎比伎能布禰《ミヲビキノフネ》、○之津乎能登母波《シヅヲノトモハ》は、賤男之徒者《シヅヲノトモハ》なり、そも/\賤しき者を之豆《シツ》と云は、沈《シヅ》なるべし、民間に身のかゞまり沈《シヅ》みをる(22)意の稱なるべし、(契冲、もろこしにも、いやしきものを布衣といふごとく、わが國にも、倭文は、いにしへのいやしきもの、衣にするものにて、それにつき、名付たりと見えたり、といへるはあらず、倭文は、古(ヘ)貴人も常に服賜へる趣なるをや、)雅澄竊(ニ)按(フ)に、御舟の棹さす男も、專(ラ)賤者のすることなれば、賤男《シヅヲ》といはむはたがはざれど、棹さす男を、ひろく打まかせて、踐男《シヅヲ》といはむこと、今少し心行ぬことなり、故(レ)之津乎《シヅヲ》は、棹取男《シヅヲ》にて、古(ヘ)棹さす男の稱にてはあらざりしか、棹取《サヲトル》を約れば、之津《シヅ》となれり、(サヲ〔二字右○〕の切ソ〔右○〕なるをシ〔右○〕に轉じ、トル〔二字右○〕の切ツ〔右○〕となれり、)棹取と云ことは、古事記(ノ)應神天皇(ノ)條(ノ)歌に、知波夜夫流宇遲能和多理邇佐袁斗理邇波夜祁牟比登斯和賀毛舌邇許牟《チハヤブルウヂノワタリニサヲトリニハヤケムヒトシワガモコニコム》、とあり、○加波能瀬麻宇勢《カハノセマウセ》は、河(ノ)瀬をよくとりまかなひて、御船の難《ナヅム》まじく仕(ヘ)奉れ、と云意なるべし、こゝの麻宇須《マウス》は、天(ノ)下申(ス)など云申(ス)と同言にて、とり行ひ仕(ヘ)奉るをいへり、(申の假字は、古事記仁徳天皇(ノ)條(ノ)歌に、母能麻袁須《モノマヲス》、雄略天皇(ノ)大御歌に、意當麻幣爾麻袁須《オホマヘニマヲス》などあるを初めて、集中にも多くは然云り、故(レ)本居氏は、宇は乎の誤れる歟といはれたる、さることなれど、此(ノ)下に、美知能久乃小田在山爾金有等麻宇之多麻敝禮《ミチノクノヲダナルヤマニコガネアリトマウシタマヘレ》云々、廿(ノ)卷に、於夜爾麻宇佐禰《オヤニマウサネ》、ともあれば、奈良(ノ)朝の季より、音便に、麻宇須《マウス》ともいへるなるべし、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
4062 奈都乃欲汲《ナツノヨハ》。美知多豆多都之《ミチタヅタヅシ》。布禰爾能里《フネニノリ》。可波乃瀬其等爾《カハノセゴトニ》。佐乎左指能(23)保禮《サヲサシノボレ》。
 
多豆多都之《タヅタヅシ》は、後(ノ)世の言に、たど/\しと云に同じ、○佐乎《サヲ》は、和名抄に、唐韻(ニ)云、〓(ハ)字亦作v※[竹/高](ニ)、棹竿也、方言(ニ)云、刺v船竹也、和名|佐乎《サヲ》、○歌(ノ)意、かくれなし、五月闇なれば、行さき見えず、道たど/\し、河瀬毎によく心して、御船の棹さして、江を泝れ、といふなるべし、
 
右件二首〔二字各○で囲む〕歌者《ミギノクダリノフタウタハ》。御船《ミフネ》以《ヒキテ》2綱手《ツナデ》1。泝《ノボリ》v江《エヨリ》遊宴《ウタゲセル》之|日作《ヒヨメリ》也。傳誦《ツタヘヨム》之|人《ヒトハ》。田邊史福麿是也《タノベノフミヒトサキマロナリ》。
 
二首の二字、舊本にはなし、類聚抄にあるに依(レ)り、但(シ)歌(ノ)字の下にあれど、今例によりて、上に收つ、○綱手、和名抄に、唐韻(ニ)云、牽〓(ハ)挽v船繩血、訓|豆奈天《ツナデ》、○傳誦之人云々は、上(ノ)件七首を、福麻呂の傳誦へるを聞て、記せるよしなり、さるは福麻呂越中に下りて、家持(ノ)卿に語れるによりてなるべし、
 
後追和橘歌二首《ノチニオヒテナゾラフルタチバナノウタフタツ》。
 
4063 等許余物能《トコヨモノ》。己能多知婆奈能《コノタチバナノ》。伊夜※[氏/一]里爾《イヤテリニ》。和期大皇波《ワゴオホキミハ》。伊麻毛見流其登《イマモミルゴト》。
 
等許余物能《トコヨモノ》は、常世物《トコヨモノ》と云なり、橘は、もと田道間守が、常世(ノ)國より、持還り來つるものなれば云り、○伊麻毛見流其登《イマモミルゴト》は、今目(ノ)前に見る如く、後々もの意なり、毛《モ》は、今を主とたてゝ、後を客としていへる詞なり、毛《モ》の辭は、如《ゴト》の下にめぐらして、意得べし、集中に例多し、○歌(ノ)意は、此(ノ)橘(24)花の彌照《イヤテリ》に、てりあからへまして、吾(ガ)大皇は、今目の前に見奉る如く、後々も末長く榮え坐ませ、といふなるべし、
 
4064 大皇波《オホキミハ》。等吉波爾麻佐牟《トキハニマサム》。多知婆奈能《タチバナノ》。等能乃多知波奈《トノノタチバナ》。比多底里爾之※[氏/一]《ヒタデリニシテ》。
 
比多底里《ヒタデリ》は、常照《ヒタデリ》にて、ひたすらにてるを云(フ)、ひたすらは、俗にひたものといふに同じ、常《ヒタ》は、常陸《ヒタチ》の常《ヒタ》なり、五(ノ)卷に、直土《ヒタツチ》、神代(ノ)紀に、頓丘此云2※[田+比]陀烏《ヒタヲト》1、などあるみな同じ、○歌(ノ)意、かくれなし、契冲云、此(ノ)二首は、河内(ノ)女王と、粟田(ノ)女王との歌に、和へられたるなるべし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
射水郡驛舘之屋柱題著歌一首《イミヅノコホリノウマヤノハシラニカキツクルウタヒトツ》。
 
驛舘、兵部式に、越中(ノ)國驛馬布勢五疋、と見えて、和名抄に、射水(ノ)郡|布西《フセ》、とあれば、布勢(ノ)驛なるべし、○屋柱題著は、柱に、書つくること、是等を初といふべき歟、中比さま/”\、市などの柱に、歌など書付ること見えたり、今順禮などするひな人、其(ノ)道すがら、あまた己が所名など、書付通るも、遺風と見れば、つたなからずや、と契冲云り、
 
4065 安佐妣良伎《アサビラキ》。伊里江許具奈流《イリエコグナル》。可治能於登乃《カヂノオトノ》。都婆良都婆良爾《ツバラツバラニ》。吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》。
 
本(ノ)句は、曲々《ツバラ/\》といはむための序に、目に觸るものもて設けたるなり、※[楫+戈]の水に觸て鳴(ル)音の、都(25)婆良都婆良《ツバラツバラ》とやうに聞ゆればつゞけたり、○都婆良都婆良爾《ツバラツバラニ》(上の婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は異本に從つ、)は、曲々《ツバラ/\》になり、三(ノ)卷に、淺茅原曲々二物念者《アサヂハラツバラ/\ニモノモヘバ》云々、十九に、奥山之八峯乃海石榴都婆良可爾《オクヤマノヤツヲノツバキツバラカニ》云々、書紀(二十三)に、曲擧《ツバヒラケク》、とあり、こゝは本郷を思ふ心の、細に切なる意なり、○吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》とは、吾家《ワギヘ》は、本郷の吾(ガ)家なり、吾家は、ワギヘ〔三字右○〕ともワガヘ〔三字右○〕とも訓べし、既く委(ク)註り、之《シ》は、その一(ト)すぢなるを重く思はする辭にて、吾(ガ)家の一(ト)すぢに戀しく思はる、となり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、○此(ノ)一首も、同三月の末つかたに見聞たるが故に、此間に記せるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。山上臣作《ヤマノヘノオミガヨメル》。不《ズ》v審《シラ》v名《ナヲ》。或云。憶良大夫之男《オクラノマヘツキミノムスコトイヘリ》。但|其正名未詳《ソノナサダカナラズ》也。
 
山上臣は、傳未(ダ)詳ならず、○億良大夫之男、越中に到れること、考るところなし、
 
詠《ヨメル》2庭中牛麥花《ニハノナデシコノハナヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
牛麥花は、即(チ)瞿麥花なり、(契冲云、一切經音義第十二(ニ)曰、瞿此(ニ)謂云v牛(ト)、これにつきて、瞿麥を今牛麥とかけるを思ふに、瞿麥の瞿は、梵語なりとしられたり、牛を梵語に瞿といふ、あるひは遇の字を用ゆ、瞿も梵語には濁音に用たり、秘密藏の經軌におほく見えたり、瞿と牛と、梵漢ことなれど、自然に音相通へり、かゝること往々にあり」○歌(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、目録并(ニ)拾穗本にあるぞよき、
 
(26)4070 比登母等能《ヒトモトノ》。奈泥之故宇惠之《ナデシコウヱシ》。曾能許己呂《ソノココロ》。多禮爾見世牟等《タレニミセムト》。於母比曾米家牟《オモヒソケム》。
 
歌(ノ)意、誰が爲に非ず、はじめより貴僧に見せむとてこそ、この一本の瞿麥を、さま/”\心をつくして、殖生したるに、京師に上り給へば、その花を見すべきよしなく、いたづらになるが、惜き事、となり、
 
右先國師從僧清見《ミギサキノコクシノズソウセイケム》。可《トス》v入《マヰノボラム》2京師《ミヤコニ》1。因《カレ》設《マケテ》2飲饌《アルジヲ》1饗宴《ウタゲス》。于時主人大伴宿禰家持《トキニアロジオホトモノスクネヤカモチ》。作《ヨミテ》2此歌詞《コノウタヲ》1。送《オクレリキ》2酒清見《サケヲセイケムニ》1也。
 
國師は、越中(ノ)國師なり、續紀に、大寶二年二月丁巳、任2諸國國師(ヲ)1、延暦二年冬十月庚戌、治部省言云々、大上國(ハ)各任2大國師一人少國師一人(ヲ)1、中下國(ハ)各任2國師一人(ヲ)1、許之、類聚三代格に、弘仁十三年三月辛亥、太政官符云々、至2于延暦十年1、改2國師(ヲ)1、稱2講師(ト)1、云々、○清見は、傳未(ダ)詳ならず、○可(ノ)字は、欲の、誤にや、と契冲いへり、○因(ノ)字、或本に日と作り、○送酒清見は、契冲、酒をさすをいふなるべし、といへり、遊仙窟に、兒《ワレ》與《タメニ》2少府公(ノ)1送v酒(ヲ)、
 
重作歌二首〔五字各○で囲む〕《マタヨメルウタフタツ》。
 
4071 之奈射可流《シナザカル》。故之能吉美能等《コシノキミノト》。可久之許曾《カクシコソ》。楊奈疑可豆良枳《ヤナギカヅラキ》。多努之久安蘇婆米《タヌシクアソバメ》。
 
(27)之奈射可流《シナザカル》は、枕詞なり、既く出たり、○故之能吉美能等《コシノキミノト》は、與《ト》2越君《コシノキミ》1なり、吉美能《キミノ》の能《ノ》は助辭なり、(略解に、崇詞なり、といへるは、あたらず、)既く三(ノ)卷|志斐能《シヒノ》とある歌に委(ク)註り、ひらき考(フ)べし、元暦本、古寫本、拾穗本等には、吉美良《キミラ》とあり、君等《キミラ》なり、さて越(ノ)君とは、自註に、郡司已下子弟已上諸人、とある、これなり、然らば君等とある方や、理にかなひたるべからむ、○可豆良枳《カヅラキ》は、※[草冠/縵]《カヅラ》にするをいふ古言なり、此(ノ)下にも、安夜女具佐余母疑可豆良伎《アヤメグサヨモギカヅラキ》、とあり、○歌(ノ)意は、毎v春に、如《ゴト》v此(ノ)越(ノ)君等と、柳を※[草冠/縵]に製《シ》つゝ、集宴して、一(ト)すぢに樂しみ遊べきことにこそあれ、となり、
 
右郡司已下《ミギコホリノツカサヨリシモ》。子弟(ヨリ)已上《カミ》。諸人《モロヒト》多2集《アリ》此會《コノツドヒニ》1。因守大伴宿禰家持《カレカミオホトモノスクネヤカモチ》。作《ヨメル》2此歌《コノウタヲ》1也。
 
弟(ノ)字、舊本茅に誤、今は元暦本、古寫本、拾穗本等に從つ、
 
4072 奴婆多麻能《ヌバタマノ》。欲和多流都奇乎《ヨワタルツキヲ》。伊久欲布等《イクヨフト》。余美都追伊毛波《ヨミツツイモハ》。和禮麻都良牟曾《ワレマツラムソ》。
 
奴婆多麻能《ヌバタマノ》(婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は元暦本によりつ、)は、例のまくら詞なり、○余美都追《ヨミツツ》は、數乍《カゾヘツヽ》といはむが如し、○歌(ノ)意は、夫に別れて、これまではや若干夜を經たり、今幾夜經たらば歸り來座むと、月の夜渡る數を數計《カゾヘ》つゝ、家の妹は、吾を待らむぞ、となり、本郷の妻女の待らむ心を、月光につきて、おもひやれるなり、此も家持作なるべし、
 
右此夕月光遲流《ミギコノユフヘツキノヒカリオソクナガレテ》。和風《ナゴヤカナルカゼ》稍扇《ヤヽタチヌ》。即《スナハチ》因《ヨリテ》v屬《フルヽニ》v目《メニ》。聊|作《ヨメリ》2此歌《コノウタヲ》1也。
 
(28)上(ノ)件三首、年月日は記されざれども、その集宴、同三月の末つかたにありしによりて、此間にしるされたるなるべし、
 
越前國掾大伴宿禰池主《コシノミチノクチノクニノマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガ》。來贈歌三首《オクレルウタミツ》。
 
以2今月十四日1。到2來《》深見(ノ)村(ニ)1。望2拜彼(ノ)北方(ヲ)1。常(ニ)念(フコト)2報徳(ヲ)1。何(レノ)日(カ)能休(ム)。兼《マタ》以《ヨリテ》2隣近(ニ)1、忽増2戀|緒〔○で囲む〕(ヲ)1。加以《シカノミニアラズ》先(ノ)書(ニ)云。暮春可v惜。促(コト)v膝(ヲ)未《セムト》vレ期《イツトカ》。生別(ノ)悲兮。夫復何(ヲカ)言(ム)。臨《ムカヒテ》v紙(ニ)悽斷。奉状不備。
深見(ノ)村は、加賀(ノ)郡に在(リ)、兵部式に、加賀(ノ)國驛馬、(深見五疋、)とあり、此(ノ)下、同人の書牘に、今月十五日、到2來部下加賀(ノ)郡境(ニ)1、面蔭(ヲ)見2射水之郷(ニ)1、戀緒(ヲ)結2深海之村(ニ)1、云々、と見ゆ、深海は、やがて深見なり、弘仁十四年に、越前(ノ)國を割て、加賀(ノ)國を置れたれば、其(ノ)以往は、越前(ノ)部下にてありしなり、○望2拜彼北方1は、越中(ノ)府は、越前の北方にあたればなり、○戀の下、緒(ノ)字を脱せるなるべし、○先書云、云々、かくあれば、これよりさき、家持(ノ)卿より、池主へ書牘を贈られしなり、其(ノ)書に云々とありしといふなり、○悽斷は、悽愴斷腸をつゞめて書たるなるべし、
 
一|古人云《イニシヘヒトノイヘラク》。
 
古人云としるせるは、十一(ノ)人麻呂集(ノ)歌に、月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレバクニハオヤジソヤマヘナリウツクシイモガヘナリタルカモ》、此(ノ)歌を、當時にかなふやうに、少し句を換たれど、歌(ノ)意は、全(ラ)古人のにたがはねば、かくしるせるなり、
 
(29)4073 都奇見禮婆《ツキミレバ》。於奈自久爾奈里《オナジクニナリ》。夜麻許曾波《ヤマコソハ》。伎美我安多里乎《キミガアタリヲ》。敝太弖多里家禮《ヘダテタリケレ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるところなし、十五に、安麻射可流比奈爾母月波弖禮々杼母伊毛曾等保久波和可禮伎爾家流《アマザカルヒナニモツキハテレヽドモイモソトホクハワカレキニケル》、
 
一|屬《ツキテ》v物《モノニ》發《ノブ》v思《オモヒヲ》。
 
屬物とは、屬は、後々の歌(ノ)題に、寄といふに似たり、物は此《コヽ》は櫻なり、○此は、池主の自の作なり、
 
4074 櫻花《サクラバナ》。今曾盛等《イマソサカリト》。雖人云《ヒトハイヘド》。我|波〔○で囲む〕佐夫之毛《アレハサブシモ》。伎美止之不在者《キミトシアラネバ》。
 
波(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、○歌(ノ)意は、櫻花は、今最中の盛にて、愛たき時ぞ、と世人はいへども、吾は君に離れて獨居れば、樂しからず、さても一(ト)すぢに、君が戀しく思はれて苦しや、となり、四(ノ)卷岳本(ノ)天皇(ノ)御製に、山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左夫思惠君二四不有者《ヤマノハニアヂムラサワキユクナレドアレハサブシヱキミニシアラネバ》、
 
一|所心歌《オモヒヲノブルウタ》。
 
歌(ノ)字、舊本に耳と作るは、いかゞなり、今は官本并(ニ)拾穗本に從つ、
 
4075 安必意毛波受《アヒオモハズ》。安流良牟伎美乎《アルラムキミヲ》。安夜思苦毛《アヤシクモ》。奈氣伎和多流香《ナゲキワタルカ》。比登能等布麻泥《ヒトノトフマデ》。
 
歌(ノ)意は、君を我が思ふ如くに、君は我をば、思はずあるらむものを、何所由《ナニユヱ》に、しかばかり物思(ヒ)(30)やつれ賜ふぞと、人のとがむるまでに歎きて、月日を過すは、さても何ごとぞと、自《ミ》も怪まるる哉、となり、男女相聞のさまに、をかしくよみなされたり、拾遺集、兼盛、しのぶれど色に出にけり我(ガ)戀は物やおもふと人のとふまで、
 
三月十五日《ヤヨヒノトヲカマリイツカノヒ》。大伴宿禰池主《オホトモノスクネイケヌシ》。
 
越中國守大伴宿禰〔二字各○で囲む〕家持《コシノミチノナカノクニノカミオホトモノスクネヤカモチガ》。報僧歌四首《コタフルウタヨツ》。
 
宿禰二字、舊本には脱たり、
 
一|答《コタフ》2古人云《イニシヘヒトノウタニ》1。
 
4076 安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻波奈久毛我《ヤマハナクモガ》。都奇見禮婆《ツキミレバ》。於奈自伎佐刀乎《オナジキサトヲ》。許己呂敝太底都《ココロヘダテツ》。
 
歌(ノ)意、月見つゝ、かたみに思ひやる心には、へだてなきものから、山を界ひ、里を隔て、相見ることの叶はねば、いかでその隔になれる山は、なくてもがなあれかし、となり、未(ノ)句は、同じ心なるを、里を隔てつと云意なるべし、里と心とを、姑(ク)おき換て心得べし、
 
一|答《コタヘ》2屬《ツキテ》v物《モノニ》發《ノブニ》1v思《オモヒヲ》。兼《マタ》詠《ヨメル》2云|遷任舊宅西北隅櫻樹《ウツシヨサシテフリニシイヘノニシキタノスミノサクラノキヲ》1。
 
物(ノ)字、舊本には目と作り、今は中(ノ)院家本に從つ、上にも屬物とあれば、此も同じかるべければなり、○舊宅は、池主の先職越中(ノ)掾(ノ)館なり、池主は、既く越前に遷任れ、家持(ノ)卿は、なほ越中(ノ)守に(31)て、親く池主の舊宅の櫻を見て、よまれたるなり、
 
4077 和我勢故我《ワガセコガ》。故流伎可吉都能《フルキカキツノ》。佐具良波奈《サクラバナ》。伊麻太敷布賣利《イマダフフメリ》。比等目見爾許禰《ヒトメミニコネ》。
 
和我勢故《ワガセコ》は、地主をさせり、○布流伎可吉都《フルキカキツ》は、舊垣内《フルキカキツ》なり、即(チ)所謂舊宅(ノ)西北(ノ)隅の垣内を云、○具は、濁音(ノ)字なるを、取はづして用たるなるべし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、唯一目見に來よと云て、我(ガ)戀しく思ふ心のほどをあらはせるが、あはれにおもしろし、
 
一|答《コタフ》2所心《オモヒヲノブニ》1。即|以《ヲ》2古人之跡《フルコト》1代《カヘタリ》2今日之意《ケフノコヽロニ》1。
 
古人之跡とは、古歌を云なるべし、十二に、戀云者薄事有雖然我者不忘戀者死十方《コヒトイヘバウスキコトナリシカレドモアレハワスレジコヒハシヌトモ》、といへる歌を取て、句を換たるものか、
 
4078 故敷等伊布波《コフトイフハ》。衣毛名豆氣多理《エモナヅケタリ》。伊布須敝能《イフスベノ》。多豆伎母奈吉波《タヅキモナキハ》。安賀未奈里家利《アガミナリケリ》。
 
故敷等伊布波《コフトイフハ》は、戀と云(フ)者(ハ)なり、○衣毛名豆氣多理《エモナヅケタリ》は、略解に、淺くも名づけたるなり、えならぬのえに同じ、といへるが如し、伊勢物語に、いへばえにいはねばむねにさわがれて心一(ツ)に歎く比かな、とよめるえも同じかるべし、○歌(ノ)意、我(ガ)思ふ心は、戀《コフ》と云ばかりの、世のつねのことにあらず、云(フ)爲方《スベ》のたづきもなく、名づけやうもなきは、我(ガ)身のうへなれば、戀《コフ》などいはむ(32)は、甚淺はかなることなれば、相思ふ、思はぬなど、云ばかりのことにはあらず、となり、此も男女相聞のさまに取なして、かけ歌に答へられたり、
 
一|更屬目《マタモノニツキテヨメル》。
 
屬(ノ)字、舊本には※[目+属]と作り、※[目+属]は俗(ノ)矚(ノ)字也、矚(ハ)視之甚也、とありて、屬とたがへり、通用の字ならねば、後人の誤なり、故(レ)今改つ、
 
4079 美之麻野爾《ミシマヌニ》。可須美多奈妣伎《カスミタナビキ》。之可須我爾《シカスガニ》。伎乃敷毛家布毛《キノフモケフモ》。由伎波敷里都追《ユキハフリツツ》。
 
美之麻野《ミシマヌ》は、和名抄に、射水(ノ)郡三島(ハ)美之萬《ミシマ》、○之可須我爾《シカスガニ》は、さすがにと云に同じ、十(ノ)卷に、見雪者未冬有然爲蟹春霞立梅者散乍《ユキミレバイマダフユナリシカスガニハルガスミタツウメハチリツヽ》、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、越中なれば、三月|中旬《ナカバ》猶雪ふれるなり、八(ノ)卷に、從明日者春菜將採跡標之野爾昨日毛今日日雪波布利管《アスヨリハハルナツマムトシメシヌニキノフモケフモユキハフリツヽ》、
 
三月十六日《ヤヨヒノトヲカマリムカノヒ》。大伴宿禰家持〔六字各○で囲む〕《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
上(ノ)件四首は、前に三月十五日の日附《ヒヅケ》にて、越前(ノ)掾より贈來《オク》れる、三首の歌の答(ヘ)なり、しかるに同十六日の日附にて、報贈《コタヘ》られたりとせむは、あまりに速なるに過たり、且月日の次第を推に、三月廿六日に作る歌の後、四月一日によめる歌の前に入たれば、熟(ク)按(フ)に、三月二十六日とありしを、二(ノ)字を後に脱せるものにてもあらむか、
 
(33)四月一日《ウツキノツキタチノヒ》。掾久米朝臣廣繩之舘宴歌四首《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハガタチニテウタゲセルウタヨツ》。
 
4066 宇能花能《ウノハナノ》 佐久都奇多知奴《サクツキタチヌ》 保等登藝須《ホトトギス》 伎奈吉等與米余《キナキトヨメヨ》 敷布美多里登母《フフミタリトモ》。
 
敷布美多里登母《フフミタリトモ》(美(ノ)字、舊本には里と作り、岡部氏、含みをフヽモリ〔四字右○〕ともいへば、里は誤にはあらじ、といへり、繁《シゲ》みをも志宜利《シゲリ》とも云(ヘ)ば、まことに然なり、されど敷布里《フフリ》と云る例、外に見えたることなければ、今は阿野家本、官本、拾穗本等に、美と作るによりつ、)は、雖《トモ》2含(ミ)而有《テアリ》1にて、つぼみてありとも、と云ふ意なり、○歌(ノ)意は、卯(ノ)花は、たとひいまだつぼみては有(リ)とも、其(ノ)開(ク)時候になりたるからは、ほとゝぎすは來鳴令v響よ、となり、
 
右一首《ミギヒトウタハ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
4067 敷多我美能《フタガミノ》。夜麻爾許母禮流《ヤマニコモレル》。保等登藝須《ホトトギス》。伊麻母奈加奴香《イマモナカヌカ》。伎美爾伎可勢牟《キミニキカセム》。
 
伊麻母奈加奴香《イマモナカヌカ》は、今もがな鳴(ケ)かしの謂なり、○妓、一本、官本等には伎と作り、○歌(ノ)億、かくれたるところなし、十九にも、二上之峯於乃繁爾許毛里爾之霍公鳥待騰未來奈賀受《フタガミノヲノヘノシヾニコモリニシホトヽギスマテドイマダキナカズ》、とよめり、八(ノ)卷に、物部乃石瀬之社乃霍公鳥今毛鳴奴香山之常影爾《モノヽフノイハセノモリノホトヽギスイマモナカヌカヤマノトカゲニ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。遊行女婦土師作《ウカレメハニシガヨメル》之。
 
(34)4068 乎里安加之《ヲリアカシ》。許余比波能麻牟《コヨヒハノマム》。保登等藝須《ホトトギス》。安氣卑安之多波《アケムアシタハ》。奈伎和多良牟曾《ナキワタラムソ》。
 
乎里安加之《ヲリアカシ》は、居明《ヲリアカシ》にて、起(キ)つゝ明すをいふ言なり、二(ノ)卷に、居明而君乎者將待《ヰアカシテキミヲバマタム》云々、○許余比波能麻牟《コヨヒハノマム》は、今夜者《コヨヒハ》將《ム》v飲《ノマ》にて、酒宴を爲む、と謂なり、○歌(ノ)意は、この翌朝《ツトメテ》は、立夏の節にあたれば必(ズ)霍公鳥の初音もらして鳴渡るべければ、夜もすがら酒飲しつゝ、待明さむぞ、となり、
〔二日應立夏節。故謂之明旦將喧也。〕
この目註、官本によりて小書せり、○應立夏節云々、十七に、霍公鳥者、立夏之日來鳴必定(セリ)、十九に、二十四日應2立夏四月節1也、因v此二十三日之暮、忽思2霍公鳥曉喧聲(ヲ)1作而歌云々、應(ノ)字は、按ふに、こゝなるも、十九なるも、ともに膺にはあらざるか、五(ノ)卷書牘の文に、孟秋膺節と見えたればなり、
 
右一首《ミギヒトウタハ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
4069 安須欲里波《アスヨリハ》。都藝弖伎許要牟《ツギテキコエム》。保登等藝須《ホトトギス》。比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》。古非和多流加母《コヒワタルカモ》。
 
比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》は、九(ノ)卷に、一夜耳宿有之柄二《ヒトヨノミネタリシカラニ》、岑上之櫻花考瀧之瀬從落墮而流《ヲノウヘノサクラノハナハタギノセヨタギチテナガル》、又神代紀に、雖《イフトモ》2復天(ツ)神(ト)1何能一夜之間《ナゾモヒトヨノカラニ》令《ヲ》v人《ヒト》有娠乎《ハラマシメムヤ》、とあるによりて、舊説|一夜之間《ヒトヨノカラ》の意とせり、今按(フ)に、此
(35)は一夜の故《カラ》にといふなるべし、故《カラ》は、人妻故《ヒトヅマユヱ》になど云|故《ユヱ》と、同意の言なり、されば此《コヽ》も、たゞ一夜許(リ)なるものを、と云意とすべし、(人妻故《ヒトヅマユヱ》にも、人妻なるものをの意なるに、准ふべし、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。羽咋郡《ハクヒノコホリノ》擬|主帳能登臣《フミヒトノトノオミ》乙美(ガ)作《ヨメル》。
 
羽咋(ノ)郡、和名抄に、能登(ノ)國羽咋(ノ)郡(ハ)波久比《ハクヒ》、○擬主帳、(帳、舊本に張と作るは誤なり、古寫本に從つ、)擬は準也像也、とあり、擬侍從の擬の如し、主帳はフミヒト〔四字右○〕と訓べし、和名抄に、佑《佐歟》官、國(ニ)曰v目(ト)、郡(ニ)曰2主帳(ト)1、職員令に、大郡主帳三人、掌d受v事(ヲ)上v抄(ヲ)、勘2署文案(ヲ)1、※[手偏+僉]2出稽失1、讀c申(コトヲ)公文(ヲ)u、餘(ノ)主帳準v此(ニ)、上郡二人、中郡一人、下郡一人、〔頭註、【略解、擬といへるは、文章生の擬生の如くなるべし、】〕○能登(ノ)臣乙美(臣(ノ)字、舊本巨に誤れり、今は古本に從つ、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
姑大伴氏坂上郎女《ヲバオホトモウヂサカノヘノイラツメガ》。來2贈《オクレル》越中守大伴宿禰家持《コシノミチノナカノカミオホトモノスクネヤカモチニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
4080 都禰比等能《ツネヒトノ》。故布登伊敷欲利波《コフトイフヨリハ》。安麻里爾弖《アマリニテ》。和禮波之奴倍久《ワレハシヌベク》。奈里爾多良受也《ナリニタラズヤ》。
 
都禰比等能《ツネヒトノ》は、平常人之《ツネヒトノ》、なり、(比《ヒ》は、清て唱ふべし、契冲、此人を清てよめば、常に人のと聞ゆ、濁てよめば、よのつねの人のと聞ゆ、濁るをよしとすべし、と云り、此は後(ノ)世のならはしを以て、古(ヘ)をことわれるなり、古(ヘ)は、人を清ても、なほよのつねの人と云ことになれるなり、)○安麻里(36)爾弖《アマリニテ》は、餘過《アマリスギ》てと云むが如し、○奈里爾多良受也《ナリニタラズヤ》は、成にて不《ズ》v在《アラ》哉《ヤ》成たり、と云なり、○歌(ノ)意、かくれなし、古今集に、戀しとはたが名付けむことならむ死《シヌ》とぞたゞにいふべかりける、
 
4081 可多於毛比遠《カタオモヒヲ》。宇萬爾布都麻爾《ウマニフツマニ》。於保世母天《オホセモテ》。故事部爾夜良波《コシヘニヤラバ》。比登加多波牟可母《ヒトカタハムカモ》。
 
布都麻《フツマ》は、太馬《フトウマ》なり、等宇《トウ》の切|都《ツ》、太《フト》くたくましき馬をいふなり、○於保世母天《オホセモテ》は、令《セ》2負持《オヒモタ》1而《テ》といはむが如し、母天《モテ》は、令《セ》v持《モタ》の約れる言なり、(タセ〔二字右○〕の切テ〔右○〕、)思(ヒ)を馬に令《スル》v負《オハ》を云、四(ノ)卷廣河(ノ)女王(ノ)歌に、戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄《コヒクサヲチカラクルマニナヽクルマツツミテコフラクアガコヽロカラ》、とある類なり、○比登加多波牟可母《ヒトカタハムカモ》は、人《ヒト》將《ム》v※[言+玄]《タハ》かもなり、加多布《カタフ》は、十四に、阿之賀利乃和乎可鷄夜麻能可頭乃木能和乎可豆佐禰母可豆佐可受等母《アシガリノワヲカケヤマノカヅノキノワヲカヅサネモカヅサカズトモ》、(吾《ワ》を※[言+玄]《カヅ》はさね、※[言+玄]はしがたくともの意なり、)後撰集に、山風の花(ノ)香|※[言+玄]《カドフ》麓には春の霞ぞほだしなりける、字鏡に、※[言+玄](ハ)折曲也、加止布《カドフ》、又|久自久《クジク》、とあり、※[言+玄]は、字書に誘也とも、詐也とも註したり、加騰布《カドフ》、加豆布《カヅフ》、加多布《カタフ》、は通ひて同言と見えたり、さてこの言、もと詐《イツハリ》て誘《サソ》ひ出し行意なるべければ、此は人の物を詐《イツハリ》て、しばし此方に見せ賜へなど云て、謾(リ)に持去(ル)意にいへるなるべし、かくて十四の歌によるに、可豆布《カヅフ》と豆《ヅ》を濁りて唱へし言と思はるれば、其を通はして、可騰布《カドフ》、可陀布《カダフ》と、騰《ド》、陀《ダ》を濁りて唱ふべきに、此處《コヽ》に多の清音の字を用たるは、正しからざるにや、しかれども、詳《サダカ》に定めがたき旨《ムネ》もあれば、今は此(ノ)歌には、多の清音を書るに從て、姑(ク)清て(37)唱へつ、○歌(ノ)意は、わが片思ひのこよなく重《シゲ》きを、太馬《フトウマ》に負(ヒ)持せて、其方《ソナタ》に遣むとおもへれども、しか爲ば、若(シ)道中にて人の見て、みだりに取て持去むか、さても心もとなしや、と戯て云なるべし、
 
越中守大伴宿禰家持《ミチノナカノカミオホトモノスクネヤカモチガ》。報歌二首《コタフルウタフタツ》。
 
舊本に、報歌并所心三首とあるは、まぎらはし、今は目録によりて改つ、
 
4082 安萬射可流《アマザカル》。比奈能都夜故爾《ヒナノヤツコニ》。安米比度之《アメヒトシ》。可久古非須良波《カクコヒセレバ》。伊家流思留事安里《イケルシルシアリ》。
 
比奈能都夜故爾、(元暦本に、能(ノ)字なくて、ヒナツヤツコニ〔七字右○〕とかな付たり、誤なるべし、)本居氏、大平(ガ)説に、都夜故は、夜都故を誤れるなりと云り、まことにしかるべし、國府を、みやこといふべきよしなし、遠《トホ》の朝廷《ミカド》といふとは、事のさまかはれり、と云り、(因《チナミ》に云(ハ)む、近き頃、江戸なる高田(ノ)與清といふ人のかける、棟梁集と云物に、東都稱呼辨と云ことを書るやう、あづまのみやこといへる稱は、江戸名所記、鎌倉禅興寺の鐘のことがきなどに出て、はやく寛文と云年の頃に聞えたるを、世(ノ)人、物部氏がみだり言に起れりと思ふは、いみじきひがことなり、そは古き物に、太宰府を西都と云、古き時の詩に、鎌倉を東都といひ、萬葉十八(ノ)卷の歌に、安萬射可流比奈能美夜故爾《アマザカルヒナノミヤコニ》云々、と見ゆ、千蔭が略解に、本居(ノ)宣長云、云々と云説を載たれど、中々にひがこ(38)となり、こは仙覺抄十九(ノ)卷に、都夜故と書て、ミヤコ〔三字右○〕とよむことは、傍訓の證據もありぬべし、たとへば、後(ノ)岡本(ノ)朝臣左大紫蘇我(ノ)連を、或は蘇我(ノ)連羅志ともかけり、連の一字ムラジ〔三字右○〕なれども、すゑに羅志の二字を書具せり、又この集十六(ノ)卷、能登(ノ)國(ノ)歌に、つくゑの島のしたゞみをいひろひもちきていしもちて、といふ次の句に、都々伎破夫利とかけり、破の一字ヤブリ〔三字右○〕ともよみつべし、然してすゑに夫利の二字を書具せり、今の歌のミヤコ〔三字右○〕も、又などか都夜故と書ざらむ、次にその心をいはゞ、ミヤコ〔三字右○〕とは王城をいふ、しかるにヒナノミヤコ〔六字右○〕といふは、諸國の國府は、田舍にとりてのみやこなれば、ひなのみやこといふべし云々、とあり、類聚三代格に、太宰府の南都、菅家後草に、都府樓、南浦文集に、薩摩(ノ)國都、和名抄に、遠江(ノ)國引佐(ノ)郡京田、常陸(ノ)國久慈(ノ)郡都、讃岐(ノ)國山田(ノ)郡宮所、豐前(ノ)國郡(ノ)名京都云々など見えたり、(已上)かくいさゝか據あることゞもを、こちたく引出たり、雅澄按に、右の棟梁集の作者、群書はひろくも見たるおもむきなれども、あはれわが古學には、こよなくつたなく、くらかりしことこそ、かへす/”\もくちをしけれ、そも/\かの太宰府を西都、鎌倉を東都など云ること、やゝ古きものに見えたるは、はやく名分の正しからずなれりしかとも、おもはるれど、彼等は漢文樣によりて書るものなれば、都は必しも天子の所居のよしにはあらで、たゞ人の都《サカリ》に會《ツド》へる地の意にてこぞ書つらめ、字書に、小(ヲ)曰v邑(ト)、大(ヲ)曰v都(ト)、などあるごとく、漢國にて、必(ズ)京師のことにかぎらずて、(39)都といへりしこと例多ければ、此方にても其(ノ)定にて、太宰府竝(ニ)鎌倉などをも、都といへりしとせば、ゆるす方もありぬべし、但し此方にては古(ヘ)より都(ノ)字は、うるはしくは、天子の所居にかぎりて、用ひられしと見ゆれば、たとひ漢文樣にもあれ、他處にはこの字を用《ツカ》はむこと、あかずなめげなることなれど、さばかりのことは、はやく謾(リ)になれりしこと多ければ、其(ノ)論は、まづしばらくさしおきつべし、今の都夜故を、仙覺抄にミヤコ〔三字右○〕と訓(メ)るは、其頃より以前、はやくしかよめりけむを規範《ノリ》として、後(ノ)世人の意に、なべて國府を夷《ヒナ》の都《ミヤコ》といふことゝ、はかなく心得しなり、今の歌、もしミヤコ〔三字右○〕ならむには、都の下夜故(ノ)二字に、何の用に書りとかせむ、集中に、所思由《オモホユ》、不知爾《シラニ》、などやうに書ることもあれど、そは其(ノ)趣異れり、又蘇我(ノ)連を連雁志と書し類も、古(ヘ)稀にはありしことなるべし、然れども姓氏名の類には、殊にさるべき謂《ヨシ》のありて、省きもし加へもしたることあることにて、さらに此(ノ)集の歌の書樣に相例ずべきことなどには非ず、又十六の破夫利は、ハブリ〔三字右○〕》なるを、ヤブリ〔三字右○〕とよむは誤なり、但し其はヤブリ〔三字右○〕にても用言なれば、都夜古を、ミヤコ〔三字右○〕とよむべき證にはならざるをや、そのうへ、此(ノ)歌は、天人《アメヒト》と云に對へたれば、奴《ヤツコ》にてこそ、をかしく興ありぬべきことなれば、げにも大平が、夜都故の誤なりといへるは、確論なるを、中々に、ひがことなりと云て、己が東のみやこの説を立むとおもふは、そも/\あさましくきたなき心にぞありける、次に和名抄に出たる郡郷の名に、京とあ(40)るを引たるも、みなひがことなり、抑々地(ノ)名は、皆所據ありて、負せたるものなればなり、いで、其(ノ)由は、景行天皇(ノ)紀にも、天皇遂幸2筑紫(ニ)1、到2豐前(ノ)國長峽(ノ)縣(ニ)1興2行宮(ヲ)1而居(シキ)、號2其處《ソコ》1曰(キ)v京(ト)也、また豐後(ノ)風土記に、宮處《ミヤコ》野(ハ)朽網郷所在之野、起2行宮(ヲ)於此野(ニ)1因《カレ》名(ク)、また肥前(ノ)風土記、神埼(ノ)郡、宮處(ノ)郷云々、於此村造2行宮(ヲ)1因曰2宮處(ノ)郷(ト)1、などいへる類の、由縁ありて負せたるなるべければ、鄙《ヒナ》のみやこと云ことの證とするに足ず、そも/\王城を御屋《ミヤ》と云、其(ノ)御屋《ミヤ》建る地をさして、御屋處《ミヤコ》と申すことなれば、すべて天皇の大坐々《オホマシ/\》給ふ處をおきて、美夜故《ミヤコ》といへることは、かつて古典に例なきことなるをや、そも/\かの棟梁集は、其(ノ)文はた自細註せるなど、一わたりよみすぐすすら、つたなくてわづらはしきが中に、此みやこの辨などは、ことにいみじき人まどへのわざなれば、ことのついでに、うるさけれど、辨へ正しつるなり、)○安米比度之《アメヒトシ》は、天人之《アメヒトシ》なり、之《シ》は、例のその一すぢなることを、重く思はする助辭なり、天人《アメヒト》は、十(ノ)卷(ノ)七夕(ノ)歌にもよめり、契冲云、第十三に、久かたの都とつゞけてよめるごとく、天子のまします所にすむ、坂上(ノ)郎女なれば、天女《アマツメ》にいひなせり、(竹取物語に、天人《アマヒト》の中に、もたせたる箱あり、あまの羽衣いれり云々、天人《アマヒト》おそしと心もとながり給ひ、榮花物語に、もしは天人《アマヒト》の、天くだりたるかと見えたり、狹衣に、中將の笛の音に、あま人だに聞すぐし給はで、源氏物語寄生に、いにしへ天人《アマヒト》のかけりて琵琶の手をしへけるは、枕册子に、琴《キム》なども、天人《アマヒト》おるばかりひきて、いとわろき人なり、など見(41)えたる、これらはみな、いはゆる天人《テムニム》のことなり、さて物語書などにある天人を、みなあま人と唱來たるを合(セ)思ふに、今も米は末(ノ)字の誤寫にて、安末此度《アマヒト》にはあらざる歟、)○可久古非須良波は、須良は、勢列か世列の誤なるべし、如此戀爲有者《カクコヒセレバ》なり、可久《カク》は、志可《シカ》と云むが如し、可久《カク》と志可《シカ》とは、彼此の差異ありて、もと通ふ言ならねど、通はし云る謂既くいへり、○歌(ノ)意、郎女より贈れる歌に、つね人のこふといふよりはあまりにて、といへるをうけて、よのつねならぬ天女の、しかわれを一(ト)すぢにこひ給ふとなれば、吾は生たるかひあり、となり、
 
4083 都禰能孤悲《ツネノコヒ》。伊麻太夜麻奴爾《イマダヤマヌニ》。美夜古欲利《ミヤコヨリ》。宇麻爾古非許婆《ウマニコヒコバ》。爾奈比安倍牟可母《ニナヒアヘムカモ》。
 
歌(ノ)意は、わが常々戀しく思ふ心のいまだ息《ヤマ》ぬ上に、都より戀の重荷を太馬《フトウマ》に負せておこせたらば、さても荷ひ堪じょ、となり、人かたはむかもと云をうけて、人の戀を、重荷にいひなしたり、
 
別《コトニ》所《ノブ》v心《オモヒヲ》一首《ヒトウタ》。
 
又別に思ふ所を陳たる意なり、
 
4084 安可登吉爾《アカトキニ》。名能里奈久奈流《ナノリナクナル》。保登等藝須《ホトトギス》。伊夜米豆良之久《イヤメヅラシク》。於毛保由流香母《オモホユルカモ》。
 
(42)安可登吉《アカトキ》は曉《アカトキ》なり、○名能里奈久奈流《ナノリナクナル》は、霍公鳥は、己が名をいひて、保登々藝須《ホトヽギス》保登々藝須《ホトヽギス》、と聞ゆるやうに、鳴ゆゑにいへり、○歌(ノ)意は、曉に名のり啼霍公鳥の、めづらしきにたぐへて、坂上(ノ)郎女の、都より贈れる歌詞の、さてもうれしく、なつかしく思はるゝ哉、となるべし、
 
右四日《ミギヨカノヒ》。附《ツケテ》v使《ツカヒニ》贈2上《オクル》京師《ミヤコニ》。
 
四日は、四月四日なるべし、
 
天平感寶元年五月五日《テムヒヤクカムハウハジメノトシサツキノイツカノヒ》。饗《アヘスル》d東大寺之《ヒムカシノオホテラノ》占《シムル》2墾地《ハリトコロヲ》1使僧平榮等《ツカヒノホウシヘイエイラヲ》u于時《トキ》。守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチガ》。送《オクレル》2酒僧《サケヲホウシニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
天平感寶は、續紀に、天平勝寶元年四月丁未、改2天平二十一年(ヲ)1爲2天平感寶元年(ト)1云々、七月甲午云々、是日改(テ)2感寶元年(ヲ)1爲2勝寶元年(ト)1、と見ゆ、かゝれば天平勝寶元年四月より七月まで、しばしの間、感寶の年號はありしなり、○占2墾地1使僧、(占(ノ)宇、舊本に古と作るは誤なり、今は目録、拾穗本に從つ、)續紀に、聖武天皇、天平勝寶元年夏四月甲午朔勅に、云々又|寺々爾墾田地許奉利《テラ/”\ニニハリタノトコロユルシマツリ》云云、とあるは、墾開《ハリ》て田となすべき地を占《シム》ることを、許したまふを云、許(ス)とは、公より捨《ヨセ》賜ふにはあらで、私に買(ヒ)得、或は檀越の施入を受納(レ)などして、其(ノ)寺の墾田の地とすることを、ゆるさるゝなりと云り、天平感寶元年閏五月癸丑、詔|捨《ホドユス》2大安藥師元興興福東大五寺(ニ)1、各云々、墾田(ノ)地一百町云々、法隆寺(ニハ)云々、墾田(ノ)地一百町、崇福香山藥師建興法華四寺(ニハ)各云々、墾田(ノ)地一百町(ヲ)云(43)云、と見えたる、これは公より賜へるにて、許(ス)とあるとは別なり、故(レ)其量一百町なり、同年秋七月乙巳、定2諸寺墾田地1、とありて、其(ノ)墾田の地の量を定められたるに、四千町、二千町、一千町、五百町、四百町など、こよなく多かるは、かの許されたまふなり、さて占2墾地(ヲ)1使と、右の墾田地を占ることを、四月朔の勅に許されたるにつきての使となるべし、○平榮は、傳未(ダ)詳ならず、○送酒は、盃をさすを云べし、上にも見ゆ、
 
4085 夜岐多知乎《ヤキタチヲ》。刀奈美能勢伎爾《トナミノセキニ》。安須欲里波《アスヨリハ》。毛利敝夜里蘇倍《モリベヤリソヘ》。伎美乎登登米牟《キミヲトドメム》。
 
夜岐多知乎《ヤキタチチ》は、まくら詞なり、燒大刀之利《ヤキタチノト》とかゝれり、(しかるを、今までの註者等、燒大刀《ヤキタチ》を磨《トグ》といふ意なり、と解來れるは、いみじきひがごとなり、)燒大刀《ヤキタチ》は、燒てつくれる刀《タチ》にて、四(ノ)卷、六(ノ)卷にも見えたり、さて乎《ヲ》は之《ノ》に通ふ辭にて、既く前に例どもを擧て、詳に辨へつ、合(セ)考(フ)べし、○刀奈美能勢伎《トナミノセキ》は、越中(ノ)國礪波(ノ)關なり、○毛利敝夜里蘇倍《モリベヤリソヘ》は、守部遣副《モリベヤリソヘ》なり、守部《モリベ》は、關を守者の部《ムレ》なり、遣副《ヤリソヘ》とは、もとよりあるが上に、員をまして置よしなり、○伎美《キミ》は、平榮をさすなるべし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
同月九日《オヤジツキノコヽノカノヒ》。諸僚《ツカサ/”\》會《ツドヒテ》2少目秦伊美吉石竹之舘《スナキフミヒトハタノイミキイハタケノタチニ》1飲宴《ウタゲス》。於時主人《ソノトキアルジ》造《ツクリテ》2百合花縵三枚《ユリノハナカヅラミツヲ》1。疊2置《カサネオキ》豆器《アブラツキニ》1。捧2贈《サヽグ》賓客《マラヒトニ》1。各《オノモ/\》賦《ヲ》2此縵《ソノカヅラヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
(44)少目は、越中(ノ)國の少目なり、石竹は、このほと、八位にて越中の少目なりけむを次々に歴のぼりて、この感寶元年よりは、十六年を經て、外從五位下を授《タマハ》れるなるべし、○秦(ノ)伊美吉石竹は、續紀に、寶字八年十月庚午、正六位上秦(ノ)忌寸伊波太氣(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、寶龜五年三月甲辰、爲2飛騨(ノ)守(ト)1、七年三月癸巳、外從來位下秦(ノ)忌寸石竹爲2播磨介(ト)1、とあり、伊美吉は、天平二十年五月己丑、右大史正六位上秦(ノ)老等、一千二百餘烟、賜2伊美吉(ノ)姓(ヲ)1、と見ゆ、さて寶字三年十月辛丑、天下諸姓著2君(ノ)字(ヲ)者、換以2公(ノ)字(ヲ)1、伊美吉以2忌寸(ヲ)1、と見えて、猶この感寶の頃は、伊美吉とかきしなり、○縵は、鬘と通(ハシ)書り、書紀同じ、○三枚、元暦本には、三枝と作り、○豆器は、略解に、大平云、歌に二首まで燈のことをよめれば、豆は燈歟、といへり、○作歌、歌(ノ)字、舊本にはなし、目録には、作(ノ)字なくて歌(ノ)字あり、互に一字を脱せるなるべし、故(レ)今は拾穗本に從つ、
 
4086 安夫良火能《アブラヒノ》。比可里爾見由流《ヒカリニミユル》。利我可豆良《ワガカヅラ》。佐由利能波奈能《サユリハナノ》。惠麻波之伎香母《ヱマハシキカモ》。
 
安夫良火《アブラヒ》は、燈火《トモシビ》なり、延喜式に、燈盞を、アブラツキ〔五字右○〕とよめり、○和我可豆良《ワガカヅラ》は、人々各、主人の製《ツク》れる花縵をさせるがゆゑに、かくいへり、○佐由利《サユリ》は、(契冲、わさゆりなり、早蕨《サワラビ》、早苗《サナヘ》などの如し、といへるはあらず、)五月百合《サユリ》なるべし、五月蠅《サバヘ》、五月桃《サモヽ》などの例をおもふべし、猶品物解に云、○惠麻波之伎香母《ヱマハシキカモ》は、花の咲《サク》を惠牟《ヱム》といふからに、かくいひ下したり、七(ノ)卷に、道邊之草(45)深由利乃花咲爾咲之柄二妻常可云也《ミチノベノクサフカユリノハナヱミニヱマシヽカラニツマトイフベシヤ》、○歌(ノ)意は、燈火の光に映《テラ》されて見ゆる、縵の百合(ノ)花の咲《ヱマヒ》の、さてもうるはしく、見事なる事哉、となり、主人の造れる縵を、美賞《ホメ》たるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
4087 等毛之火能《トモシヒノ》。比可里爾見由流《ヒカリニミユル》。佐由理婆奈《サユリバナ》。由利毛安波牟等《ユリモアハムト》。於母比曾米弖伎《オモヒソメテキ》。
 
本(ノ)句は、百合花《ユリノハナ》の景色を云て、即(チ)由利《ユリ》をいはむ料の序とせり、次下の歌、竝(ニ)八(ノ)卷、廿(ノ)卷にも、同じさまにつゞけたり、○末(ノ)句は、後《ノチ》も將《ム》v逢《アハ》と思(ヒ)始てきなり、後《ノチ》を由利《ユリ》と云こと、上にあまた見えたり、伎《キ》は、さきにありしことを、今語る辭なり、○歌(ノ)意は、此(ノ)會宴のこよなくおもしろきにつきて、又後にも、かゝる興ある會にあはむ、とはやくより思ひてけり、となるべし、(略解に、かねてより、此(ノ)會集を戀たりしとなり、といへるは、誤なり、さては家持(ノ)卿の和(ヘ)歌に、由利毛安波牟等於毛倍許曾《ユリモアハムトオモヘコソ》云々、とあるにも、かけ合ざるをや、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。介内藏伊美吉繩麿《スケウチノクラノイミキナハマロ》。
 
4088 左由理婆奈《サユリバナ》。由利毛安波牟等《ユリモアハムト》。於毛倍許曾《オモヘコソ》。伊末能麻左可母《イマノマサカモ》。宇流波之美須禮《ウルハシミスレ》。
 
婆(ノ)字、舊本には、波と作り、今は元暦本に從つ、○於毛倍許曾《オモヘコソ》は、思へばこその意なり、○宇流波(46)之美須禮《ウルハシミスレ》は、古事記上に、愛友《ウルハシキトモ》、書紀神功皇后(ノ)卷に、善友《ウルハシキトモ》、伊勢物語に、昔いとうるはしき友ありけり、など見えたり、本居氏、凡て友の交のむつましきをば、宇流波志《ウルハシ》と云り、此の宇流波之美須禮《ウルハシミスレ》とよめるも、睦く交るを云り、俗に云、中の善《ヨキ》なり、といへり、さてこゝは、後(ノ)世の言にていはゞ、善《ウルハ》しんずれ、といふ意なり、○歌(ノ)意は、そこのの賜ふ如く、又後にも、かゝる興なる會にあはむと思へばこそ、さしあたりたる今も、かく睦くあひかたらへ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴家持《オホトモノヤカモチ》。和。
 
短歌《ミジカウタ》。
 
獨2居《ヒトリヰテ》幄裏《アゲハリノウチニ》1。遙2聞《キヽテ》霍公鳥喧《ホトヽギスノネヲ》1。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》并|短歌《ミジカウタ》。
幄裏、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、幄(ハ)大帳也、和名|阿計波利《アゲハリ》、
 
4089 高御座《タカミクラ》。安麻乃日繼登《アマノヒツギト》。須賣呂伎能《スメロキノ》。可未能美許登能《カミノミコトノ》。伎己之乎須《キコシヲス》。久爾能麻保良爾《クニノマホラニ》。山乎之毛《ヤマヲシモ》。佐波爾於保美等《サハニオホミト》。百鳥能《モヽトリノ》。來居弖奈久許惠《キヰテナクコヱ》。春佐禮婆《ハルサレバ》。伎吉乃可奈之母《キキノカナシモ》。伊豆禮乎可《イヅレヲカ》。和枳弖之努波无《ワキテシヌハム》。宇能花乃《ウノハナノ》。佐久月多弖婆《サクツキタテバ》。米都良之久《メヅラシク》。鳴保等登藝須《ナクホトトギス》。安夜女具佐《アヤメグサ》。珠奴久麻泥爾《タマヌクマデニ》。比流久良之《ヒルクラシ》。欲和多之伎氣騰《ヨワタシキケド》。伎久其等爾《キクゴトニ》。許己呂都呉枳弖《ココロウゴキテ》。宇知奈氣伎《ウチナゲキ》。安波禮能登里等《アハレノトリト》。伊波奴登枳奈思《イハヌトキナシ》。
 
(47)高御座安麻乃日繼登《タカミクラアマノヒツギト》云々、此(ノ)下にも、多可美久良安麻能日嗣等《タカミクラアマノヒツギト》、天下志良之賣師家類《アメノシタシラシメシケル》、須賣呂伎乃可未能美許等能《スメロキノカミノミコトノ》云々、とあり、此は高御座《タカミクラ》に大坐《オホマシ》まして、天(ノ)下しろしめし賜ふ、天之日繼天皇《アマノヒツギスメロキ》といふ意のつゞきなり、大殿祭(ノ)詞に、高天原爾神留坐須皇親神魯企神魯美之命以弖《タカマノハラニカムヅマリマススメラガムツカムロキカムロミノミコトモチテ》、皇御孫之命乎《スメミマノミコトヲ》、天津高御座爾座弖《アマツタカミクラニマシテ》、天津璽乃劔鏡乎捧持賜天《アマツシルシノカヾミツルギヲサヽゲモチタマヒテ》、言壽宣志久《コトホギノリタマヒシク》、皇我宇都御子皇御孫之命《スメラアガウヅノミコスメミマノミコト》、此乃天津高御座爾坐弖《コノアマツタカミクラニマシテ》、天津日嗣乎萬千秋乃長秋爾《アマツヒツギヲヨロヅチアキノナガアキニ》、大八洲豐葦原瑞穗之國乎安國止平氣久所知食言寄奉賜比弖《オホヤシマトヨアシハラノミヅホノクニヲヤスクニトタヒラケクシロシメセトコトヨサシマツリタマヒテ》、云々、續紀一(ノ)卷文武天皇(ノ)詔に、此天津日嗣高御座之業止《コノアマツヒツギタカミクラノワザト》、現御神止大八島國所知《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメス》、倭根子天皇命授賜比負賜布《ヤマトネコノスメラミコトノサヅケタマヒオホセタマフ》、貴支高支廣支厚支大命乎《タフトキタカキヒロキアツキオホミコトヲ》、受賜利恐座弖《ウケタマハリカシコミマシテ》、此乃食國天下乎調賜比平賜比《コノヲスクニアメノシタヲトヽノヘタマヒタヒラゲタマヒ》云々、などあるにて知べし、さてその高御座《タカミクラ》と云ものは、内匠寮式に、凡毎レv元正前一日、官人率2木工(ノ)長上雜等(ヲ)1、装2飾太極殿高御座(ヲ)1、(蓋作2八角(ニ)1、角別上(ニ)立2小鳳像(ヲ)1、下(ニ)以2玉幡(ヲ)1、毎v面懸2鏡三面(ヲ)1、當v頂(ニ)著2大鏡一面(ヲ)1、蓋(ノ)上立2大鳳像(ヲ)1、總鳳像九雙、鏡二十五面云々、)とあり、本居氏云、高御座《タカミクラ》は、天の御座《ミクラ》といはむが如し、高《タカ》とは、天《アメ》をいふ、たゞ高きよしにはあらず、天皇の御座《ミクラ》は、即(チ)高天原《タカマノハラ》にして、天照大御神のまします御座《ミクラ》を、受(ケ)傳へますよしをもて、高御座《タカミクラ》とは申すなり、といへり、登《ト》は、にてといはむが如し、天之日繼《アマノヒツギ》にてと云意なり、○可未能美許登能《カミノミコトノ》、天皇は、現御神《アキツミカミ》に座ますがゆゑに、かく申せり、既くあまた出たり、○伎己之乎須《キコシヲス》は、所聞食《キコシヲス》なり、所知看《シロシメス》と云に同意なり、これも既く委(ク)註り、○久爾能麻保良爾《クニノマホラニ》、五(ノ)卷に、(48)許能提羅周日月能斯多波《コノテラスヒツキノシタハ》、云々|企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》云々、九(ノ)卷に、言借石國之眞保良乎委曲爾示賜者《イブカリシクニノマホラヲツバラカニシメシタマヘバ》云々、など見えたり、抑々この語は、もと古事記倭建(ノ)命(ノ)御歌に、夜麻登波久爾能麻保呂波《ヤマトハクニノマホロハ》、多々那豆久阿袁加岐夜麻碁母禮流《タヽナヅクアヲカキヤマゴモレル》、夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》、(書紀には、此(ノ)御歌を、景行天皇の大御歌として、麻本呂波《マホロハ》を摩保邏麻《マホラマ》、とあり、)とあるに本づきたるなり、麻本呂波《マホロハ》と云言(ノ)意は、麻《マ》は眞《マ》、呂波《ロハ》は助辭と聞えて、同記應神天皇(ノ)大御歌に、知婆能加豆怒袁美禮波《チバノカヅヌヲミレバ》、毛々知陀流夜邇波母美由《モヽチタルヤニハモミユ》、久爾能富母美由《クニノホモミユ》、とある、國《クニ》の富《ホ》に同じく、大和(ノ)國は、青山四《アヲヤマヨモニメグレ》周るがゆゑに、倭者《ヤマトハ》國《クニ》の富《ホ》と詔へるにて、その富《ホ》と云は、保々麻留《ホヽマル》、府保語茂留《フホゴモル》、など云ると同意にて、もと含《フヽ》まり隱《コモ》れるを云古言なり、かくて此(ノ)集にいへる國之眞保良《クニノマホラ》は、必(ズ)さる意にてよめるにはあらず、たゞ國といふことを、彼(ノ)御歌の古語を假(リ)て、言を文《カザ》りなしたるのみなり猶此(ノ)言の義、本居氏國號考に、甚詳に辨へいひたるを見て考(フ)べし、さてこれまでの意は、天皇の所知看《シロシメス》天(ノ)下の中に、此(ノ)越中の國に云々、といふ謂なるを、かく文にいひなせるなり、○山乎之毛《ヤマヲシモ》は、乎《ヲ》は之《ガ》と云むが如し、之毛《シモ》は、多かる物の中をとり出ていふ助辭なり、此は諸國《クニ/”\》に山の多かる中にも、この越中は、ことにすぐれて、山が多さに、と云意につゞきたり、○佐波爾於保美等《サハニオホミト》は、佐波《サハ》は、多きことを云古言にて、多《サハ》に多《オホ》みと重ね云り、同じ意の詞をも、言異なれば、重ね云る事、古言に例多し、豫兼而《アラカジメカネテ》とも、木末之上《コヌレノウヘ》とも、奥方之方《オキヘノカタ》とも云類なり、(後の物語書などにも、いとい(49)たうなど云ること多し、)等《ト》は、助辭なり、○百鳥《モヽトリ》は、數々《カズ/\》の鳥を云、五(ノ)卷、六(ノ)卷にもよめり、十六には、千鳥《チドリ》とも百千鳥《モヽチドリ》ともよみ、十七には、朝※[獣偏+葛]爾五百津鳥多底《アサガリニイホツトリタテ》、暮※[獣偏+葛]爾知登理布美多庭《ユフガリニチドリフミタテ》、ともよみたり、古今集にも、百千鳥さへづる春は物ごとにあらたまれどもわれぞふりゆく、○春佐禮婆《ハルサレバ》、此(ノ)一句は、上の百鳥能《モヽチドリノ》の前へうつして心得べし、春になれば、百鳥の來居て鳴(ク)聲を聞て、憐《カナシ》む謂なり、○伎吉能可奈之母《キキノカナシモ》は、聞之憐愛《キヽノカナシ》もなり、可奈之《カナシ》は、數種《イロイロ》の春鳥の聲を、めでうつくしむ意なり、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○伊豆禮乎可《イヅレヲカ》云々は、春鳥の聲をほめて、さて霍公鳥と孰れを取わきて、ことに賞《メデ》むと云るにて、霍公鳥の晝夜《ヨルヒル》聞(ケ)ど、飽ず怜《オモシロ》きことをいはむ下形なり、貫之集、五月五日、鳥の音はあまたあれどもほとゝぎす鳴なる聲は五月なりけり、〔頭註、【いつも初音のこゝちこそすれ、と云は、此歌よりよまれたるにやといへり、】〕○比流久良之《ヒルクラシ》は、晝《ヒル》令《シ》v暮《クラ》にて、終日の謂なり、○欲和多之伎氣騰《ヨワタシキケド》は、夜《ヨ》令《シ》v亘《ワタ》雖《ド》v聞《キケ》にて、終夜聞ことを謂り、○許己呂豆呉枳弖は、岡部氏云、豆は宇の誤なり、豆と宇と通ふべし、見安てふ本にウゴキテ〔四字右○〕と有は、其(ノ)見し本に、宇とありしことしられたり、毎v聞におどろきて、心の動くよしなり、○宇知奈氣伎《ウチナゲキ》は、打歎《ウチナゲキ》にて、打はいひおこす辭なり、○安波
禮能登里等《アハレノトリト》云々は、嗟乎可憐《アハレオモシロ》の鳥や、といはぬときなし、となり、九(ノ)卷に、掻霧雨零夜乎霍公鳥鳴而去成※[立心偏+可]怜其鳥《カキキラシアメノフルヨヲホトヽギスナキテユクナリアハレソノトリ》、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(50)4090 由具敝奈久《ユクヘナク》。安里和多流登毛《アリワタルトモ》。保等登藝須《ホトトギス》。奈枳之和多良婆《ナキシワタラバ》。可久夜思努波牟《カクヤシヌハム》。
 
歌(ノ)意、何方《イヅク》をばかりと往方《ユクヘ》定めなくて飛(ビ)渡りゆくとも、今の如く、鳴て往ならば、何處《イヅク》にても、わが如此《カク》あはれの鳥といひて、うつくしむ如くにや、きく人毎に、一(ト)すぢにめで興ぜられむ、といへるなるべし、(或説に、ほとゝぎすは、本より行方もしらぬものながら、さりともこゝに又立かへり鳴わたらば、かく慕《シノバ》むといへるなり、といへれど、いかゞなり、)〔頭注、【代匠記、かくばかりあはれと思ふ人のやどをおきて、あらぬかたへととび過る、との心なり、】〕
 
4091 宇能花能《ウノハナノ》。開爾之奈氣婆《サクニシナケバ》。保等得藝須《ホトトギス》。伊夜米豆良之毛《イトメヅラシモ》。名能里奈久奈倍《ナノリナクナベ》。
 
開爾之奈氣婆《サクニシナケバ》は、卯(ノ)花の開(ク)時に必(ズ)鳴者《ナケバ》、と云なり、之《シ》の助辭に、ことに力(ラ)ありて聞ゆ、(元暦本に、登聞爾之奈氣婆、と作りて、トモニシナケバ〔七字右○〕とよめり、なほ舊本の方まさりておぼゆ、)○名能里奈久奈倍《ナノリナクナベ》は、此は名告《ナノリ》鳴につれて、と云ほどの意と聞えたり、○歌(ノ)意は、卯の花のさく時に、必(ズ)時をたがへず、名告鳴につれても、さても奇妙なる鳥やと、いよ/\めづらしく、めで興ぜらるゝなるべし、
 
4092 保登等藝須《ホトトギス》。伊登禰多家口波《イトネタケクハ》。橘能《タチバナノ》。播奈治流等吉爾《ハナチルトキニ》。伎奈吉登余牟流《キナキトヨムル》。
 
伊登禰多家口波《イトネタケクハ》は、甚《イト》慨《ネタ》ましくあるは、と云意なり、禰多家伎波《ネタケキハ》と云ては、後世の詞づかひに(51)なるなり、口波《クハ》と云て、ねたけくあるは、と云ふ意に示ふ古言の定(リ)なり、禰多口《ネタク》は、古事記の、嫉妬《ネタミタマフ》、(仁徳天皇(ノ)條)書紀に、爲慨憤時《ネタミツヽアルトキ》、(神武天皇(ノ)卷)慷慨《ネタミツヽ》、(履中天皇(ノ)卷)所(ノ)v嫌《ネタシトオモフ》之人、(崇神天皇(ノ)卷)靈異記に、惻、(禰太武《ネタム》)遊仙窟に、故々《ネタマシガホ》などあり、○治(ノ)濁音の字を用たるは、取はづしてかけるなるべし、清て唱べし、○歌(ノ)意、ほとゝぎすの、甚ねたましくおもはるゝは、橘の花散時に、しきりに來鳴響て、物思はするゆゑぞ、と云なるべし、
 
右四首《ミギノヨウタハ》。十日《トヲカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
行《ユク》2英遠浦《アヲノウラヲ》1之日《トキ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
英遠浦、此《コヽ》のみに出たり、越中にあるなるべし、
 
4093 安乎能宇良爾《アヲノウラニ》。餘須流之良奈美《ヨスルシラナミ》。伊夜末之爾《イヤマシニ》。多知之伎與世久《タチシキヨセク》。安由乎伊多美可聞《アユヲイタミカモ》。
 
多知之伎與世久《タチシキヨセク》は、起重寄來《タチシキヨセク》なり、(起《タチ》し來寄來《キヨセク》と云にはあらず、)○安由乎伊多美可聞《アユヲイタミカモ》は、東風《アユノカゼ》が疾《イタ》さに歟《カ》もなり、安由《アユ》は、十七の東風伊多久布久良之《アユノカゼイタクフクラシ》、と云歌の自註に見えたり、聞《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は,英遠《アヲ》の浦によする白浪の、いよ/\高く重(リ)に寄來るは、東風の疾く吹故にてかあらむ、さてもいみじく浪の高きことや、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴禰宿家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
(52)賀《コトホク》2陸奥國《ミチノクノクニヨリ》出《イダセル》v金《クガネヲ》詔書《ミコトノリヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
出v金(ヲ)は、續紀に、天平勝寶元年二月丁巳、陸奥(ノ)國始(テ)貢2黄金(ヲ)1、於是奉(テ)v幣(ヲ)以告2畿内七道(ノ)諸社(ニ)1、四月乙卯、陸奥守從三位百濟(ノ)王慶福、貢2黄金九百兩(ヲ)1、と見ゆ、○詔書は、同四月甲午朔、天皇幸2東大寺(ニ)1、御2盧舍那佛(ノ)像(ノ)前殿(ニ)1、北面對v佛(ニ)云々、勅遣(シ)2左大臣橘(ノ)宿禰諸兄(ヲ)1、白(サク)v佛(ニ)云々、天皇羅我命《スメラガオホミコトラマト》、盧舍那像能大前仁奏賜部止奏久《ルサナノミカタノオホマヘニマヲシタマフトマヲサク》、此大倭國者《コノオホヤマトノクニハ》、天地開闢以來爾《アメツチノハジメヨリコナタニ》、黄金波人國用理獻言波有登毛《クガネハヒトクニヨリタテマツルコトハアレドモ》、斯地者無物土念部流仁《コノクニニハナキモノトオモヘルニ》、聞看食國中能東方《キコシメスヲスクニノウチノヒムカシノカタ》、陸奥國守從五位上百濟王敬福伊《ミチノクノクニノカミヒロキイツヽノクラヰノカミツシナクタラノコニキシキヤウフクイ》、部内小田郡仁黄金在奏※[氏/一]獻《クニノウチヲタノコホリニクガネアリトマテシテタテマツレリ》、此遠聞食《コヲキコシメシ》、驚伎悦備貴備念久波《オドロキヨロコビタフトビオモホサクハ》、盧舍那佛乃慈賜比《ルサナホトケノメグミタマヒ》、福波倍賜物爾在止念閉《サキハヘタモフモノニアリトオモヘ》、受賜里恐理戴持《ウケタマハリカシコマリイタヾキモチ》、百官乃人等率天《モヽノツカサノヒトドモヲヰテ》、禮拜仕奉事遠《ヲロガミツカヘマツルコトヲ》、挂畏三寶乃大前爾恐美恐美三寶乃大前爾恐美恐美毛奏賜波久止奏《カケマクモカシコキホトケノオホマヘニカシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス》、とある、それにつゞきて、從三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣、現神御宇倭根子天皇詔旨宣大命《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲ》、親王諸王諸臣百官人等《ミコタチオホキミタチオミタチモヽノツカサノヒトタチ》、天下公民衆聞食宣《アメノシタノオホミタカラモロ/\キコシメセトノル》、云々、食國乃東方陸奥國乃小田郡爾《ヲスクニノヒムカシノカタミチノクノクニノヲダノコホリニ》、金出在止奏弖進禮利《クガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》云々、といと長き詔詞あり、上なるは、佛像に詔賜へるにて、下なるは、もろ/\の人に宣聞しめ賜へる詔なり、今はこれ等をいへり、此(ノ)長歌は、その詔の詞を、多く摘とられたり、なほ歌の下にいふべし、
 
4094 葦原能《アシハラノ》。美豆保國乎《ミヅホノクニヲ》。安麻久太利《アマクダリ》。之良志賣之家流《シラシメシケル》。須賣呂伎能《スメロキノ》。神乃美許等能《カミノミコトノ》。御代可佐禰《ミヨカサネ》。天乃日嗣等《アマノヒツギト》。之良志久流《シラシクル》。伎美能御代御代《キミノミヨミヨ》。之伎麻世流《シキマセル》。(53)四方國爾波《ヨモノクニニハ》。山河乎《ヤマカハヲ》。比呂美安都美等《ヒロミアツミト》。多弖麻都流《タテマツル》。御調寶波《ミツキタカラハ》。可蘇倍衣受《カゾヘエズ》。都久之毛可禰都《ツクシモカネツ》。之加禮騰母《シカレドモ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。毛呂比登乎《モロヒトヲ》。伊射奈比多麻比《イザナヒタマヒ》。善事乎《ヨキコトヲ》。波自米多麻比弖《ハジメタマヒテ》。久我禰可毛《クガネカモ》。多能之氣久安良牟登《タノシケクアラムト》。於母保之弖《オモホシテ》。之多奈夜麻須爾《シタナヤマスニ》。鷄鳴《トリガナク》。東國乃《アヅマノクニノ》。美知能久乃《ミチノクノ》。小田在山爾《ヲタナルヤマニ》。金有等《クガネアリト》。麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》。御心乎《ミコヽロヲ》。安吉良米多麻比《アキラメタマヒ》。天地乃《アメツチノ》。神安比宇豆奈比《カミアヒウヅナヒ》。皇御祖乃《スメロキノ》。御霊多須氣弖《ミタマタスケテ》。遠代爾《トホキヨニ》。可可里之許登乎《カカリシコトヲ》。朕御世爾《アガミヨニ》。安良波之弖安禮婆《アラハシテアレバ》。御食國波《ヲスクニハ》。左可延牟物能等《サカエムモノト》。可牟奈我良《カムナガラ》。於毛保之賣之弖《オモホシメシテ》。毛能乃布能《モノノフノ》。八十伴雄乎《ヤソトモノヲヲ》。麻都呂倍乃《マツロヘノ》。牟氣乃麻爾麻爾《ムケノマニマニ》。老人毛《オイヒトモ》。女童兒毛《メノワラハコモ》。之我願《シガネガフ》。心太良比爾《コヽロダラヒニ》。撫賜《ナデタマヒ》。治賜婆《ヲサメタマヘバ》。許己乎之母《ココヲシモ》。安夜爾多敷刀美《アヤニタフトミ》。宇禮之家久《ウレシケク》。伊余與於母比弖《イヨヨオモヒテ》。大伴乃《オホトモノ》。遠都神祖乃《トホツカムオヤノ》。其名乎婆《ソノナヲバ》。大來目主等《オホクメヌシト》。於比母知弖《オヒモチテ》。都加倍之官《ツカヘシツカサ》。海行者《ウミユカバ》。美都久屍《ミヅクカバネ》。山行者《ヤマユカバ》。草牟須屍《クサムスカバネ》。大皇乃《オホキミノ》。敝爾許曾死米《ヘニコソシナメ》。可弊里見波《カヘリミハ》。勢自等許等太弖《セジトコトダテ》。大夫乃《マスラヲノ》。伎欲吉彼名乎《キヨキソノナヲ》。伊爾之敝欲《イニシヘヨ》。伊麻乃乎追通爾《イマノヲツツニ》。奈我佐敝流《ナガサヘル》。於夜乃子等毛曾《オヤノコドモソ》。大伴等《オホトモト》。佐伯乃氏者《サヘキノウヂハ》。人祖乃《ヒトノヤノ》。立流辭立《タツルコトダテ》。人子者《ヒトノコハ》。祖名不絶《オヤノナタヽズ》。大君爾《オホキミニ》。麻都呂布物能等《マツロフモノト》。伊比都雅流《イヒツゲル》。許等能都可左曾《コトノツカサソ》。梓弓《アヅサユミ》。手爾等里母知弖《テニトリモチテ》。劔大刀《ツルギタチ》。許之爾等里波伎《コシニトリハキ》。安佐麻毛利《アサマモリ》。由布能麻毛利爾《ユフノマモリニ》。大王乃《オホキミノ》。三門乃麻(54)毛利《ミカドノマモリ》。和禮乎於吉弖《ワレヲオキテ》。且比等波安良自等《マタヒトハアラジト》。伊夜多弖《イヤタテ》。於毛比之麻左流《オモヒシマサル》。大皇乃《オホキミノ》。御言能左吉乃《ミコトノサキノ》。聞貴美《キケバタフトミ》。
 
葦原能美豆保國乎《アシハラミヅホノクニヲ》、此(ノ)二句は、既くあまた處に出たり、保の下、能(ノ)字などを脱せるにや、又なくても、能《ノ》は訓付べし、○安麻久太利《アマクダリ》は、天降《アマクダリ》なり、天孫邇邇藝《アマツカミノミコニニギノ》命の降臨《ミアモリ》をさして申せり、天慶六年、日本紀竟宴(ノ)歌に、安志波羅能美都保能句爾々智發耶布留《アシハラノミヅホノクニニチハヤブル》、賀美武計與度蘇阿麻句多志鶏流《カミムケヨトゾゾアマクダシケル》、と見ゆ、こゝは詔詞に、高天原爾天隆坐之《タカマノハラヨリアモリマシ》、天皇御世乎始天《スメラガミヨヲハジメテ》、中今爾至麻※[氏/一]爾《ナカイマニイタルマデニ》、天皇御世御世《スメラガミヨミヨ》、天日嗣高御座爾坐※[氏/一]《アマツヒツギトタカミクラニマシテ》、治賜比惠賜來流《ヲサメタマヒメグミタマヒクル》、食國天下乃業止奈母《ヲスクニアメノシタノワザトナモ》、神奈我良母所念行久止宣大命《カムナガラモオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲ》、衆聞食宣《モロ/\キコシメセトノル》、(高天原爾の爾は、余(ノ)字の誤寫にて、もとは金余利《ヨリ》なりしが、後に利(ノ)字を、脱せしなるべし、)とある、これなり、○之良志賣之家流《シラシメシケル》は、所知着《シロシメシ》けるなり、○御代可佐禰《ミヨカサネ》は、次の句の下にうつして心得べし、皇祖《スメロキ》の神尊《カミノミコト》の天日嗣《アマツヒツギ》と御代重《ミヨカサ》ね所知來君《シラシメシクルキミ》の御代御代《ミヨミヨ》、と云意なればなり、○天乃日嗣等《アマノヒツギト》は、天之日嗣にて、と云意なり、○之良志久流《シラシクル》は、上古より今(ノ)世まで所知看來《シラシメシクル》、といはむがごとし、○伎美能御代御代《キミノミヨミヨ》は、御代御代《ミヨミヨ》の天皇を申せり、○之伎麻世流《シキマセル》は、布座在《シキマセル》なり、集中に、敷座國《シキマスクニ》と多くよめり、○四方國爾波《ヨモノクニニハ》とは、京畿《ウチツクニ》にむかへて云るなり、爾波《ニハ》は、對《ムカフ》ることありて云詞なればなり、○山河乎《ヤマカハヲ》は、山と河がの意なり、乎《ヲ》は之《ガ》と云むが如し、○比呂美安都美等《ヒロミアツミト》は、廣さに淳さにの意なり、廣は河につきていひ、淳は山につきていへり、等《ト》(55)は例の助辭なり、○御調寶《ミツキタカラ》は、諸國《クニ/”\》より貢上《タテマツ》るところの、山海の奇物を云、○可蘇倍衣受都久之毛可禰都《カゾヘエズツクシモカネツ》は、數へ盡さむとしても、員《カズ》多きが故に、數《カゾ》へ盡すことを得ず、と云意なり、初(ノ)句より此までは、皇孫降臨《スメミマノミコトノミアモリ》より、御代々國家《ミヨ/\ミカド》の豐饒《サカエ》ませるさまを、ほめ白《マウシ》ていへるなり、○之加禮騰母《シカレドモ》、此より下は、聖武天皇の盧遮那佛像《ルサナホトケノカタ》を造らせ賜へることを云り、この佛(ノ)像は、天平十五年に、紫香樂《シガラキノ》宮にて創《ハジメ》させ賜ひしが成(ラ)ずて、十七年に、平城に都移させ給へる後につくらせたまへる、東大寺の五丈の大佛なり、續紀に、天平十五年十月辛巳、詔曰云々、粤《コヽニ》以(テ)2天平十五年歳次發未十月十五日(ヲ)1、發(シテ)2菩薩(ノ)大願(ヲ)1、奉v造(リ)2盧舍那佛金銅(ノ)像一躯(ヲ)1云々、乙酉、皇帝御(ス)2紫香樂(ノ)宮(ニ)1、爲(メ)v奉v造(リ)2盧舍那佛(ノ)像(ヲ)1、始(テ)開2寺地(ヲ)1云々、と見えたるが、紫香樂《シガラキ》に都うつりのこと止にしかば、十七年に、平城に都《ミヤコ》移されてのちつくらせたまへる、その大像に、こと/”\く金泥を塗装むとおもほしめして、金をもとめさせ給ふに、金の少からむことを、憂苦みおもほしわたるに、勝寶元年(天平二十一年)二月と四月に、陸奥(ノ)國より黄金若干を貢りたれば、天皇|太《イミ》じく喜びおはしまして、みな大佛の料に用ひさせ給へり、○毛呂比登乎《モロヒトヲ》云々(八句)は、詔詞に、盧舍那佛作奉止爲※[氏/一]《ルサナホトケツクリマツルトシテ》、天坐神地坐祇乎祈?奉《アメニマスカミクニニマスカミヲイノリマツリ》、挂畏遠我皇天皇御世治※[氏/一]拜奉利《カケマクモカシコキトホスメロキヲハジメテミヨ/\ノスメラガミタマタチヲヲロガミツカヘマツリ》、衆人乎伊謝奈比率※[氏/一]仕奉心波《モロヒトヲイザナヒヒキヰテツカヘマツルコヽロハ》、禍息※[氏/一]善成《ワザハヒヤミテヨクナリ》、危變※[氏/一]全平牟等念※[氏/一]《アヤウキカハリテマタクタヒラカムトオモホシテ》、仕奉間爾《ツカヘマツルアヒダニ》、衆人波不成※[加/可]登疑《モロヒトハナラジカトウタガヒ》、朕波金少牟止念憂都々在爾《アレハクガネスクナケムトオモホシウレヒツヽアルニ》云々、(我皇より以下九字、誤脱あるべし、)とある意なり、佛像を造ら(56)しめ賜ふに付て、衆人を勸め誘ひ賜ひ佛の加護にて、禍息て善成、國家全平ならむ基を開《オコ》し賜ふ謂にて、善事を始の賜ひて、といへるならむ、(略解に、善事を始め賜ひては、諸のよきことをなし始給へるなり、くがねかも云々は、諸の善事の中にも、黄金を得ば、國民樂からむと思食てと云なり、といへるは、ひがごとなり、と中山(ノ)嚴水いへり、)○久我禰可毛《クガネカモ》とは、久我禰《クガネ》は、金《クガネ》なり、こゝにかく見えたれば、故我禰《コガネ》と云は、やゝ後の訛にて、久我禰《クガネ》と云ぞ、古(ヘ)なるべき、久我《クガ》殿の久我《クガ》をも、今はこがと唱めり、可《カ》は疑の辭、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○多能之氣久安良牟《タノシケクアラム》、此は詔詞の如く少氣久安良牟《スクナケクアラム》とあるべきを、かくあるはいかゞなり、若(シ)は多能之《タノシ》と云に、少《スクナ》の義あるか、(等毛之《トモシ》と云にも、樂《タノシ》き意なると、少《スクナ》き意なるとあればなり、又は等母之《トモシ》とありけむを、等母を多能に、寫誤《ウツシヒガ》めたるにもあらむか、樂ならば、多奴之《タヌシ》とあるべしともいふべけれど、はやく此頃は、奴《ヌ》を能《ノ》といへることもあれば、其はともかくもいふべし、)猶考(フ)べし、佛像に金泥を押むとおもふに、金は皇朝には出ず、異國より渡來るのみなれば、足(ラ)じかと憂ひ惱みおもほすよしなり、○登於母保之弖《トオモホシテ》は、と所思而《オモホシテ》なり、(前(ノ)句は、牟《ム》にて句絶《キリ》て、登《ト》は、此(ノ)句に付て訓べし、)○之多奈夜麻須爾《シタナヤマスニ》は、裏惱《シタナヤマ》すにゝて、詔詞に、念憂都々在爾《オモホシウレヒツヽアルニ》、とあるにあたれり、之多《シタ》は、裏心《シタコヽロ》、裏思《シタオモヒ》、裏戀《シタコヒ》などの裏《シタ》にて、言に出さずして、心一(ツ)に思ふを云り、さればこゝも、御心の裏《ウチ》に惱ましくおもほすよしなり、○鷄鳴《トリガナク》は、まくら詞なり、既(ク)あまた出たり、○小田在山爾《ヲダナルヤマニ》は、小田(ノ)郡に(57)在(ル)山(ニ)なり、かく詔詞の次下に、閏五月甲辰、出v金(ヲ)山(ノ)神主小田(ノ)郡日下部(ノ)深淵(ニ)授2外少初位下(ヲ)1、と見えたり、神名式に、小田(ノ)郡黄金山(ノ)神社、〔頭註、【享保三年戊戍、大坂小山屋平左衛門云、聖武天皇の時金出しは、南部の内早池峰山なり、此山に、其時掘し金のまぶ七所に有、はやちね大明神と云宮あり、一山悉く金なり、人取ことならず、神甚をしみ給ふ故なりと云、小山雜談、金銀など皆石中にまじりある、其石をくだきえりて金銀をとる、其石を礦と云、】〕○麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》は、奏賜《マウシタマ》へればの意なり、賜《タマフ》は尊む方にいふが定りなれど、尊き方に對ひて、自《ミラ》いふにも云る事多し、詔詞に、小田郡仁黄金在奏弖獻《ヲタノコホリニクガネアリトマヲシテタテマツレリ》云々、とあるこれなり、○御心乎安吉良米多麻比《ミコヽロヲアキラメタマヒ》は、裏惱《シタナヤ》ましたまひし御心を、晴け明らめ賜ひなり、さて此(ノ)二句の下に、しばらく所思食《オモホシメス》やうは、と云詞を、くはへて心得べし、○天地乃神安比宇豆奈比《アメツチノカミアヒウヅナヒ》は、詔詞に、天坐神地坐神乃相宇豆奈比奉佐枳波倍奉利《アメニマスカミクニニマスカミノアヒワヅナヒマツリサキハヘマツリ》、とあり、此(ノ)言、續紀他の宣命にもかた/”\見えたり、本居氏云、相宇豆奈比《アヒウヅナヒ》は、俗言に神の納受《ナフジユ》し賜ふ、といふに當れり、宇豆《ウヅ》は、珍御子《ウヅノミコ》、宇頭乃幣帛《ウヅノミテグラ》、宇頭乃御手《ウヅノミテ》、などある宇頭《ウヅ》にて、うるはしくめでたきを云、奈比《ナヒ》は活《ハタラ》かぬ言を、活用《ハタラ》かすに、添いふ辭にて、商《アキ》をするをあきなふ、いざといひてさそふを、いざなふ、諾《《ウベ》なりとするを、うべなふと云類にて、うづなひは、御世の政を、神の美好《ヨシ》とし賜ふ意なり、相《アヒ》は必しも互《タガヒ》にせねども、彼(レ)と此(レ)との間の事には、添ていふ言なり、又思ふに、仁徳天皇(ノ)紀に納(レテ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1將v爲(ムト)v妃(ト)、時(ニ)皇后不v聽、とある不聽をウナヅルサズ〔六字右○〕と訓るは、うなづきゆるさずといふことゝ聞ゆ、うなづくは、物語書などにも見えて、人のいふことを聽(キ)入(レ)ゆるす意にて、俗言に、合點するといふことな(58)り、さればウヅナヒ〔四字右○〕も、ウナヅキナヒ〔六字右○〕にもあらむか、件(リ)の二(ツ)、いづれにても、つひには同意にて、納受《ウケイレ》給ふよしなり、○皇御祖乃御靈多須氣弖《スメロキノミタマタスケテ》云々は、詔詞に、又天皇御靈多知乃惠賜比撫賜夫事依弖《マタスメロキノミタマタチノメグミタマヒナデタマフコトニヨリテ》、顯自示給夫物在自等念召波《アラハシシメシタマフモノナラシトオモホシメセバ》、受賜利歡受賜利《ウケタマハリヨロコビウケタマハリ》云々、とあり、皇御祖《スメロキ》は、先御代御代《サキツミヨミヨ》の天皇等をさして申せり、神功皇后(ノ)紀に、吾|被《カヾフリ》2神祇之教(ヲ)1、頼《ヨリ》2皇祖之靈(ニ)1云々、思(ヒ)合(ス)べし、○遠代爾《トホキヨニ》は、遠代よりと云意に見べし、○可可里之許登乎、岡部氏、上の可は、奈の誤にて、遠代に無有《ナカリ》し事をと云なり、と云り、元暦本には、一の可(ノ)字なし、是は奈(ノ)字を脱せるなるべし、詔詞に、天下遠《アメノシタヲ》、撫惠備賜事《ナデメグビタマフコト》、理爾坐君乃御代爾當※[氏/一]《コトハリニイマスキミノミヨニアタリテ》、可在物乎《アルベキモノヲ》、拙久多豆何奈伎朕時爾顯自示給禮波《ヲヂナクタヅカナキアガトキニアラハシシメシタマヘレバ》、辱美醜美奈母念須《カタジケナミハヅカシミナモオモホス》、とあるこれなり、○御食國波、元暦本には、御(ノ)字なし、いづれにてもヲスクニハ〔五字右○〕と訓べきなり、○左可延牟物能等《サカエムモノト》は、黄金《クガネ》の多くなりて、國家の富饒《トミサカエ》むとのみの謂《ヨシ》にはあらず、天皇の大御心のまゝに、佛(ノ)像を造り装りて、その佛の利益によりて、食國《ヲスクニ》天(ノ)下は繁昌《サカエ》む物ぞとおもほすよしなり、○可牟奈我良《カムナガラ】》、聖武天皇の神在隨《カムナガラ》なり、天皇は現御神《アキツミカミ》にましますが故に、即(チ)神と申せること、一(ノ)卷よりはじめて、おほき言なり、○毛能乃布能《モノノフノ》と云より治賜婆《ヲサメタマヘバ》と云まで十句は、金出し國郡の人を始て、諸臣百官老若男女に至るまで、ほど/\につけて、物賜り位あげ給へるを云り、詔詞に、是以朕一人夜波《コヽモチテアレヒトリヤハ》、貴大瑞乎受賜牟《タフトキオホキシルシヲウケタマハラム》、天下共頂受賜利歡流自理可在等《アメノシタトモニイタヾキウケタマハリヨロコバシユルシコトワリナルベシト》、神奈我良母念坐※[氏/一]奈母《カムナガラモオモホシマシテナモ》、衆乎惠賜比治賜比《モロ/\ヲメグミタマヒヲサメタマヒ》、御代年號爾字加賜久止宣《ミヨノナニモジクハヘタマハクトノリタマフ》、とあ(59)るこれなり、○麻都呂倍乃《マツロヘノ》は、令《ヘ》2服從《マツロ》1之《ノ》にて、皇化《ミオモムケ》に服《シタガ》ひ仕(ヘ)奉らしむるがためなり、○牟氣乃麻爾麻爾《ムケノマニマニ》は、令《ケ》v趣《ム》之任《ノマニ/\》なり、牟氣《ムケ》は、言趣《コトムケ》の牟氣《ムケ》にて、歸《オモム》き從はしむる謂なり、天皇の天(ノ)下萬民を恵み撫(テ)給ふは、服従《マツロ》ひ歸《オモム》き化《ツカ》しむる御わざなれば、かくいへり、○之我願《シガネガフ》は其之願《ソレガネガフ》なり、○心太良比爾《コヽロダラヒニ》は、心足《コヽロダリ》にの伸りたるなり、俗に腹一杯に、と云が如し、○許己乎之母《ココヲシモ》は、此《コレ》をしもなり、之母《シモ》は、多かる物の中をとり出ていふ辭なり、○宇禮之家久《ウレシケク》云々、このたび、あまねき御恩惠《ミウツクシミ》をほどこしたまひ、大伴佐伯氏のことを、さま/”\賞稱《ホメ》られて、家持(ノ)卿も、從五位下より從五位上に進られぬれば、いよ/\うれしく思ひて、さて大伴氏の、上(ツ)代より功勲《イソシ》かりしことを述るなり、○大伴能遠都神祖乃《オホトモノトホツカムオヤノ》、其名乎婆大來目主登《ソノナヲバオホクメヌシト》、於比母知弖都加倍之官《オヒモチテツカヘシツカサ》、此より大伴氏の遠(ツ)祖の、功勲《イソシ》かりしことを述たり、これは、大伴氏の遠祖天(ノ)忍日(ノ)命、道臣(ノ)命たちの、大來目《オホクメ》といふ部《ムレ》を帥て、軍事《ミイクサ》に功勲《イソ》しく仕(ヘ)奉りしによりて、即(チ)其(ノ)名を、大來目主《オホクメヌシ》と負持て、仕へし職と云なるべし、廿(ノ)卷家持(ノ)卿の喩v族歌に、比左加多能安麻能刀比良伎《ヒサカタノアマノトヒラキ》、多可知保乃多氣爾阿毛理之《タカチホノタケニアモリシ》、須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロキノカミノミヨヨリ》、波自由美乎多爾藝利母多之《ハジユミヲタニギリモタシ》、麻可胡也乎多婆左美蘇倍弖《マカゴヤヲタバサミソヘテ》、於保久米能麻須良多祁乎々《オホクメノマスラタケヲヽ》、佐吉爾多弖由伎登利於保世《サキニタテユキトリオホセ》、山河乎伊波禰左久美弖《ヤマカハヲイハネサクミテ》、布美等保利久爾麻藝之都都《フミトホリクニマギシツツ》、知波夜夫流神乎許等牟氣《チハヤブルカミヲコトムケ》、麻都呂倍奴比等乎母夜波之《マツロハヌヒトヲモヤハシ》、波吉伎欲米都可倍麻都里弖《ハキキヨメツカヘマツリテ》、安吉豆之萬夜萬登能久爾乃《アキヅシマヤマトノクニノ》、可之婆良能宇禰備乃宮爾《カシバラノウネビノミヤニ》、美也婆之良布刀之利(60)多弖※[氏/一]《ミヤバシラフトシリタテテ》、安米能之多之良志賣之祁流《アメノシタシラシメシケル》云々、と、あるは、瓊々杵(ノ)尊の降臨の時より、神武天皇の畝火(ノ)宮に御宇《アメノシタシロシメシ》しまで、大伴氏の遠祖の、代々事ある毎に、武事をもて、平國《クニムケ》の事にいそしかりしことを述たるなり、天(ノ)忍日(ノ)命のことは、神代紀皇孫降臨(ノ)條の一書に、高皇産靈(ノ)尊、以《ヲ》2眞床覆《衾《マトコオフフスマ》1裹《オホヒ》2天津彦國光彦火瓊々杵《アマツヒコクニテルヒコホノニヽギノ》尊(ニ)1、引2開《ヒキヒラキ》天磐戸《アメノイハトヲ》1、排2分《オシワケ》天八重雲《アメノヤヘグモヲ》1以|奉《マツリキ》v降《アマクダシ》之、于時大伴連遠祖天忍日命《ソノトキオホトモノムラジノオヤアメノオシヒノミコト》、帥《ヰテ》2來目部遠祖天※[木+患]津大來目《クメベノオヤアメノクシツオホクメヲ》1、背《ソビラニハ》負《オヒテ》2天磐靱《アメノイハユキヲ》1臂《タヾムキニハ》著《ハキ》2稜威高鞆《イツノタカトモヲ》1、手《テニハ》捉《トリ》2天梔弓天羽々矢《アメノハジユミアメノハヽヤヲ》1、及|取2持《トリモチ》八目鳴鏑《ヤツメカブラヲ》1、又|帶《ハキ》2頭槌劔《カブツチノツルギヲ》1而《テ》立《タヽシテ》2天孫之前《アマツカミノミサキニ》1、遊行降來《ユキクダリキ》、到《イタリマシ》2於|日向襲之高千穗※[木+患]日二上峯天浮橋《ヒムカノソノタカチホノクシヒニノフタガミノタケアマノウキハシニ》1、而《テ》、立《タヽシテ》2於|浮渚在之平地《ウキニマリタヒラニ》1膂宍空國《ソシヽノムナクニヲ》自《カラ》2頓丘《ヒタヲ》1覓《マギ》v國《クニ》行去《トホリ》、到《イタリマシキ》2於|吾田長屋笠狹御埼《アタノナガヤノkササノミサキニ》1、古語拾遺同條にも、仍|使《シメキ》d大伴氏遠祖天忍日命《オホトモウヂノオヤアメノオシヒノミコトニ》、帥《ヰテ》2來目部遠祖天※[木+患]津大來目《クメベノオヤアメノクシツオホクメヲ》1、帶《ハキ》v仗《ツハモノヲ》前駈《ミサキハラヒツカヘマツラ》u、と見えたり、姓氏録大伴(ノ)宿禰(ノ)條に、初天孫彦火(ノ)瓊瓊杵(ノ)尊(ノ)神駕之降《アマクダリマシヽトキ》也、天(ノ)押日(ノ)命|大來目部《オホクメベヲヰテ》立2於御前(ニ)1、降2于日向高千穗(ノ)峯(ニ)1、然後以2大來目部1爲2天(ノ)靱負部(ト)1、天(ノ)靭負之號起2於此1也、とあるは、件の書紀と、拾遺とに併(セ)考ふるに、天(ノ)押日(ノ)命帥2大來目部(ヲ)1、とありしが、帥(ノ)字の落たるなり、道(ノ)臣命のことは、神武天皇(ノ)紀に、大伴氏之遠祖日臣《オホトモウヂノオヤヒノオミノ》命、帥《ヰ》2大來目《オホクメヲ》1、督將元戎《ミイクサノヲサトシテ》、蹈啓行《ミサキニタチテヤマフミシ》、乃|尋《ヲ》2鳥所向《カラスノトビユクカタ》1仰視《アフギミツヽ》、而追之《ソノシリニタチテ》、遂|達《イタリマシキ》2于|蒐田下縣《ウダノシモツアガタニ》1、因《カレ》號《ヲ》2其所至之處《ソノイタリツキマセルトコロ》1、曰《ナツク》2菟田穿邑《ウダノウガチノムラト》1、于時《ソノトキ》勅2譽《ホメ》日臣《ヒノオミヲ》1曰《タマハク》、汝思而且勇加能《イマシイソシクヲヽシキノミニアラズ》有《アリ》2導之功《シルベノイサヲ》1、是以《コヽモチテ》改《アラタメテ》2汝名《イマシノナヲ》1爲《セヨトノリタマヒキ》2道臣《ミチノオミト》1、拾遺にも、逮2于神武天皇東征之年(ニ)1、大伴氏(ノ)遠祖《オヤ》日(ノ)臣(ノ)命、帥督將元戎《ミイクサノヲサトシテ》剪2除兇渠(ヲ)1、佐命之勲|無有比肩《フタツナカリキ》云々、日(ノ)臣(ノ)命帥2來目部(ヲ)1、衛2護《マモリ》宮門《ミカドヲ》1、掌2其開闔(ヲ)1云(61)云、と見えたり、これも書紀に併(セ)考(フ)るに、日(ノ)臣(ノ)命帥2大來目(ヲ)1督2將元戎1、とありしが、大來目の三字を脱せしなるべし、もとのまゝにては、督將元戎を帥てと云意になりて、文を成ざればなり、かゝれば、大伴氏(ノ)遠祖の、代々事ある毎に、大來目部を帥て、軍卒《イクサ》を督將《スベ》しなれば、大來目を帥る主、と云意にて、大伴氏遠祖等の號を、世に大來目主と負持せ、稱呼《ヨビナセ》るにて、一神の一名《マタノナヲ》、大來目主(ノ)命と申せるにはあらず、大來目主といふと、たゞに大來目と云とは、別なるを思ふべし、さて天津久米(ノ)命、また大久米(ノ)命とあるは、なほ別に考あれど、こゝには、要《ムネ》とあることならねば、略きていはず、○海行者《ウミユカバ》云々、詔詞に、又大伴佐伯宿禰波常母云久《マタオホトモサヘキノスクネハツネモイハク》、天皇朝守仕奉事顧奈伎人等爾阿禮波《スメラガミカドマモリツカヘマツルコトカヘリミナキヒトドモニアレバ》、汝多知乃祖止母乃云來久《イマシタチノオヤドモノイヒケラク》、海行波美豆久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、山行波草牟須屍《ヤマユカバクサムスカバネ》、王乃弊爾去曾死米《オホキミノヘニコソシナメ》、能杼爾波不死止《ノドニハシナジト》、云來流人等止奈母聞召須《イヒクルヒトドモトナモキコシメス》、是以遠天皇御世始※[氏/一]《コヽモチテトホスメロキノミヨヲハジメテ》、今朕御世爾當※[氏/一]母《イマアガミヨニアタリテモ》、内兵止心中古止波奈母遣須《ウチイクサトオモホシメシテナモツカハス》、故是以《カレコヽモチテ》、子波祖乃心成伊自子爾波可在《コハオヤノコヽロナスイシコニハアルベシ》、此心不失自※[氏/一]《コノコヽロウシナハズシテ》、明淨心以※[氏/一]《アカキキヨキコヽロモチテ》、仕奉止自※[氏/一]奈母《ツカヘマツレトシテナモ》、男女井※[氏/一]一二治賜夫《ヲノコメノコアハセテヒトリフタリヲサメタマフ》云々、とあるこれなり、この大伴佐伯氏の古語は、大伴氏の先祖より、代々云傳へ來りしなり、○美都久屍《ミヅクカバネ》は、水に漬《ツカ》る屍、と云なり、美都久《ミヅク》は、廿(ノ)卷にも、美豆久白玉《ミヅクシラタマ》とあるに同じ、○草牟須屍《クサムスカバネ》は、屍の上に草の生るをいふ、そも/\海にても山にても死なむといふことを、かくいへるは、めでたき古言なり、まことにいとふるく、先祖よりいひ來つることなるべし、と本居氏いへり、○大皇乃敝爾許曾死米《オホキミノヘニコソシナメ》は、天皇の方《ヘ》にてこ(62)そ、命を失はめ、と云なり、敝《ヘ》は、邊《ホトリ》の意なり、武士の俗諺の、御馬前《オウマサキ》の討死をこそせめ、といふが如し、さてこゝの語のすべての意は、天皇の御從《ミトモ》に仕奉(リ)て、もし海を行時に事あらば、天皇の御爲《ミタメ》に命をすてゝ、海(ノ)中にも沈みてむ、山を行(ク)時ならば、即(チ)山にて命をすてむといふなり、と本居氏いへり、○可弊里見波《カヘリミハ》云々、廿(ノ)卷に、登利我奈久安豆麻乎能故波《トリガナクアヅマヲノコハ》、伊田牟可比加弊里見世受弖《イデムカヒカヘリミセズテ》、伊佐美多流多家吉軍卒等《イサミタルタケキイクサト》、禰疑多麻比《ネギタマヒ》云々、また祁布與利波可敝里見奈久弖意富伎美乃之許乃美多弖等伊※[泥/土]多都和例波《ケフヨリハカヘリミナクテオホキミノシコノミタテトイデタツワレハ》、○許等太弖《コトダテ》(太(ノ)字、舊本に大と件るは誤なり、今改つ、)は、平常《ツネ》に異《カハ》りて、殊《コト》なることをするをいふ言なり、即(チ)言(ノ)義は、異立《コトダチ》なるべし、かくてこゝは、赤心不變の志を立ることの常人に異りて、いみじく竪きよしにて云るなるべし、さて此(ノ)言は、書紀仁徳天皇(ノ)大御歌に、于磨臂苔能多菟屡虚等太※[氏/一]于磋由豆流多由磨菟餓務珥奈雁倍※[氏/一]毛餓望《ウマヒトノタツルコトダテウサユヅルタユマツガムニナラベテモガモ》、古事記同天皇(ノ)條に、言立者足母阿賀迦爾嫉妬《コトダテバアシモアガカニネタミタマフ》、此(ノ)集廿(ノ)卷に、都加倍久流於夜能都加佐等《ツカヘクルオヤノツカサト》、許等太弖々佐豆氣多麻敝流《コトダテヽサヅケタマヘル》云々、續紀四(ノ)卷(ノ)詔に、此食國天下乎《コノヲスクニアメノシタヲ》、撫賜比慈賜事者《ナデタマヒメグミタマフコトハ》、辭立不在《コトダテニアラズ》、人祖乃《ヒトオヤノ》、意能賀弱兒乎養治事乃如久《オノガワクゴヲヤシナヒヒタスコトノゴトク》云々、十(ノ)卷(ノ)詔に、此者事立爾不有《コハコトダツニアラズ》、天爾日月在如《アメニヒツキアルゴト》、地爾山川有如《ツチニヤマカハアルゴト》云々、十七(ノ)卷(ノ)詔にも見ゆ、伊勢物語に、正月なれば、異立《コトダツ》とて、とあり、○伊爾之敝欲《イニシヘヨ》は、從《ヨ》v古《イニシヘ》なり、○伊麻乃乎追通爾《イマノヲツツニ》は、今之現在《イマノウツヽ》になり、十七に、伊爾之弊由伊麻乃乎都豆爾《イニシヘユイマノヲツツニ》、五(ノ)卷に、伊麻能遠都豆爾多布刀伎呂可※[人偏+舞]《イマノヲツツニタフトキロカモ》、○奈我佐敝流《ナガサヘル》は、所《ヘル》v流《ナガ》なり、所《レル》2傳有《ツタハ》1、といはむが如し、○於夜能子等(63)毛曾《オヤノコドモソ》は、先祖《オヤ》の子孫《コドモ》ぞよ、となり、○大伴等佐伯氏者《オホトモトサヘキノウヂハ》、姓氏録大伴(ノ)宿禰(ノ)條に、高皇産靈(ノ)尊五世(ノ)孫、天(ノ)押日(ノ)命之後也、(大伴(ノ)大田(ノ)宿禰(ノ)條には、高魂(ノ)命六世(ノ)孫天(ノ)押日(ノ)命之後也とあり、)云々、雄略天皇(ノ)御世、以2天(ノ)靱負(ヲ)1賜2大連(ノ)公(ニ)1、奏曰、衛v門(ヲ)開闔之務於v職|已《イト》重(シ)、若2一身1難v堪、望《イカデ》與2愚兒語1相(ヒ)併《ナラビテ》奉v衛2左右1、勅依v奏、是大伴佐伯(ノ)二氏、掌2左右開闔1之縁也、とあり、大連公とは、室屋大連のことなり、室屋(ノ)大連と、其(ノ)子語(ノ)連と相|併《ナラ》びて、御門の衛を仕(ヘ)奉られしが、その語(ノ)連の裔、佐伯氏となれるなり、佐伯(ノ)宿禰(ノ)條に、大伴(ノ)宿禰(ト)同祖、道(ノ)臣(ノ)命七世孫室屋(ノ)大連(ノ)公後也。とあり、續紀廿(ノ)卷、寶字元年七月、皇太后(ノ)詔に、又大伴佐伯宿禰等波《マタオホトモサヘキノスクネドモハ》、自《ヨリ》2遠天皇御世《トホスメロギノミヨ》1、内乃兵止爲而仕奉來《ウチノイクサトシテツカヘマツリキ》云々、同卷同月、橘(ノ)奈良麻呂(ノ)語に、大伴佐伯之族、此|擧《ミナ》前將(ニシテ)無(シ)v敵、とあり、○人祖《ヒトノヤ》は、たゞ祖にて、祖先なり、凡て古(ヘ)は、たゞ祖《オヤ》を、人之祖《ヒトノオヤ》、たゞ子《コ》を人之子《ヒトノコ》と云ることあり、人の親の心はやみにあらねども、又、千代もといのる人の子のため、などよめる歌も、これなり、(略解に、人のおやのたつること立云々は、總ての人を差(シ)て、遠祖のこと立しまゝにして、祖の名を不v斷《タヽ》仕(ヘ)奉れと、言繼言教ふべき氏ぞと云なり、といへるは、まぎらはし、これは人(ノ)祖を、他(ノ)祖と見たるよりの説か、)○人子《ヒトノコ》、これもたゞ子《コ》なり、○許等能都可佐曾《コトノツカサソ》、上の大伴等《オホトモト》と云より此まで(十句)の意は、大伴佐伯(ノ)二氏は、其(ノ)先祖《オヤ》の常人に異《カハ》りて、殊たる功を立たれば、其(ノ)子孫《コ》は、先祖《オヤ》の嘉名を斷《タヽ》ず、天皇に勲《イソシ》く仕(ヘ)奉らふ物ぞと、先祖《トホツオヤ》代々より言繼來れる職業《ツカサ》ぞよ、と云なるべし、○安佐麻毛利《アサマモリ》云々、三門乃麻毛利《ミカドノマモリ》、大(64)伴佐伯(ノ)二氏の宮門《ミカド》の開閉を掌ること、上に姓氏録を引たるごとし、大甞祭式に、伴伯伯各二人分(テ)就(キ)2南門左右外掖(ノ)胡床(ニ)1、待v時開v門云々、伴(ノ)宿禰一人、佐伯(ノ)宿禰一人、各率2門部八人(ヲ)於南門(ノ)外(ニ)1、通夜庭燎云々、伴佐伯氏各二人、開(キ)2大甞宮(ノ)南門(ヲ)1、云々、祭事已畢、百官各退、伴佐伯氏(ノ)人閇v門(ヲ)、とあり、なほ委しきことは、延喜式、江家次第等を考へて知べし、○和禮乎於吉弖《ワレチオキテ》云々、五(ノ)卷貧窮問答(ノ)歌に、志可登阿良農比宜可伎撫而《シカトアラヌヒゲカキナデテ》、安禮乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰《アレヲオキテヒトハアラジトホコロヘド》、○等伊夜多弖《トイヤタテ》は、と彌立《イヤタテ》にて、上に異立《コトダテ》といへるを受て、彌《イヨ/\》其《ソ》を立《タテ》るよしなり、此(ノ)前(ノ)句は、安良自《アラジ》にて句絶《キリ》て、等《ト》は、如此伊夜《カクノゴトイヤ》の上に附(ケ)て唱(フ)べし、(しかるを、契冲が、集中歌のもじ有餘不足あげてかぞふべからねど、此(ノ)うたはよくとゝのほりたれば、此(ノ)句も、伊夜多弖々《イヤタテヽ》にて有けむが、ひとつの弖(ノ)字うせたる歟、といへるは、まだしき考(ヘ)なり、○於毛比之麻左流《オモヒシマサル》は、心に歡《ウレシ》み彌《イヨ/\》念《オモヒ》を増(シ)て、一(ト)すぢに勇むよしなり、○大皇乃御言能左吉乃聞貴美《オホキミミコトノサキノキケバタフトミ》は、聞ば天皇の御詔の幸《サキ》の貴《タフト》さに、彌々思(ヒ)増ると云意なり、聞《キケバ》を上へうつして、御言能左吉乃貴美《ミコトノサキクタフトミ》とつゞけて心得べし、六(ノ)卷に、烏玉乃夜霧立而不清照有月夜乃見者悲沙《ヌバタマノヨギリノタチテオホヽシクテレルツクヨノミレバカナシサ》、とあるも、見者《ミレバ》を上へうつして、月夜乃悲沙《ツクヨノカナシサ》とつゞけて心得る言《コトバ》づかひにて、今の歌と全(ラ)同(ジ)例なり、舊本、左吉乃の下に註して、一(ニ)云乎、とあるは、用べからず、(此は古(ヘ)の言《コトバ》づかひを、よくもわきまへぬ人の、みだりに乃を乎に改め寫したる本のありしを、仙覺などが校合せるときに、註したるなるべし、左吉乎《サキヲ》にては、調(ベ)のはえなくきこゆる(65)を左吉乃《サキノ》と云るにてこそ、おもしろけれ、然るを略解に、一書の乎と、ある方よろし、と云るは、あさはかなる考(ヘ)なり、)さて幸《サキ》とは、御恩惠《ミウツクシミ》を施《ホドコ》して、臣等《ミヤツコラ》を幸《サキハ》へ饒《ニギハ》しめ賜ふよしにていへり、上に引(ル)如く、詔詞に、大伴佐伯宿禰波《オホトモサヘキノスクネハ》云々、男女并弖一二治賜夫《ヲノコメノコアハセテヒトリフタリヲサメタマフ》、とありて、その下文授位の中に、大伴氏、男には牛養、稻君、家持など、女には三原、佐伯氏、男には淨麻呂、常人、毛人、靺鞨など、女には美努麻女など、みな位或は官を進られたるよし見えたり、抑々この大伴佐伯を、かくとりわきて惠み賜ふことは、朝衛夕衛《アサマモリユフマモリ》、御門《ミカド》近く仕(ヘ)奉る所由《ヨシ》にぞあらむ、○舊本に註して云く、一云貴久之安禮婆、これも本文の方、まさりて聞えたり、
 
反歌三首《カヘシウタミツ》。
 
4095 大夫能《マスラヲノ》。許己呂於毛保由《ココロオモホユ》。於保伎美能《オホキミノ》。美許登能佐吉能《ミコトノサキノ》。聞者多布刀美《キケバタフトミ》。
 
佐吉能《サキノ》、舊本には、佐吉乎と作《ア》りて、註に一云能、とあり、これ長歌の如く、必(ズ)能とあるべきところなれば、今は一云とあるを用つ、○歌意は、幸《サキハ》へ惠み治め賜ふ御詔の、貴く歡《ヨロコ》ばしさに、丈夫の雄々《ヲヽ》しき心のいよ/\いさみておもほゆ、となり、○舊本註云、一云貴久之安禮婆、これも上の如し、
 
4096 大伴能《オホトモノ》。等保追可牟於夜能《トホツカムオヤノ》。於久都奇波《オクツキハ》。之流久之米多底《シルクシメタテ》。比等能之流倍久《ヒトノシルベク》。
 
(66)於久都奇《オクツキ》は、奥津城《オクツキ》にて、墓のことなり、○之流久之米多底《シルクシメタテ》は」其(レ)と灼然《イチシル》く、標結立《シメユヒタテ》よ、となり、多底《タテ》とのみにて、立《タテ》よといふ意に聞(ユ)るは、古言の例なり、○歌(ノ)意、かく上に述たるごとく、ことにすぐれて、勇事《ヲヽシキワザ》の職業《ツカサ》を立(テ)始たる、名高き先祖《トホツオヤ》なれば、其墓處にも、後々見る人の、誰もそれとしるべく、灼然《イチシル》く標《シメ》結《ユヒ》立よと、子孫《ウミノコ》に令《オホ》する如くによめるなり、契冲云、汝多知乃祖止母乃云來久《イマシタチノオヤドモノイヒクラク》、とある宣命の詞によりて、かくはよめるなるべし、
 
4097 須賣呂伎能《スメロキノ》。御代佐可延牟等《ミヨサカエムト》。阿頭麻奈流《アヅマナル》。美知能久夜麻爾《ミチノクヤマニ》。金花佐久《クガネハナサク》。
 
美知能久夜麻《ミチノクヤマ》は、即(チ)小田(ノ)郡の山にて、陸奥(ノ)國の山と謂《イフ》なり、山(ノ)名にはあらず、○金花佐久《クガネハナサク》、契冲云、山には、よろづの木の花咲ゆゑに、陸奥山には、金の花さけり、とよめり、奇妙の詞なり、(今昔物語廿六、能登(ノ)國掘v鐡者、行2佐渡(ノ)國(ニ)1掘(ル)v鐡語の條に、その鐵ねる者六人有けるが、長なりける者の、己等どち物語しける次に、佐渡(ノ)國にこそ、金の花咲たる所は有しかと云ける云々、これによりておもふに、いまかねのつると云ものを、古(ヘ)は花といひしなり、さればこゝの金花さくも、こがねのつるのあらはれ出しことを、いへるなり、と中山(ノ)嚴水云り、)○歌(ノ)意、天皇の大御心のまゝに、佛(ノ)像を造り装りたらば、必(ズ)その佛の利益によりて、御代は榮ゆべきなれば、皇朝の御代の昌《サカ》ゆべき兆《シルシ》に、東方《ヒムカシノカタ》陸奥山に、金の花さきたるなり、となるべし、○そも/\聖武天皇は、佛の道に、太《イミ》じく惑はせ給ひし天皇にまし/\ながら、神明《カミ》の御國へ佛法を弘めむこ(67)とは、しかすがに、神祇《カミタチ》の御心いかならむと、した恐しくおもほし給へるまに/\、くさ/”\神慮を和《ナゴ》めまつりて、さてつひに大願《イミジキネギゴト》を發させ給ひてぞ、天平十七年より、東大寺に盧舍那(ノ)佛像をば、つくらせ給ひし、これいはゆる五丈の大佛なり、さてその像のかぎり、金泥を塗装むとおもほしめして、金をもとめさせ給へれど、金のたらざらむことを憂苦み、したなやまし給へるに、勝寶元年にいたりて、陸奥(ノ)國より、黄金若干を貢りたれば、こと/”\くその大佛の料に用ひさせ給ひて、朕が此(ノ)度の業を、天神地祇《アマツカミクニツカミ》あひうべなひ給ひ、先(ツ)御代々々の皇祖等《スメロキタチ》の御靈たすけさせ姶ひて、心のまゝに佛像を造り装りてあれば、今よりはその佛の加護《マモリ》によりて、食國天(ノ)下は繁昌《サカエ》む物ぞと、こよなく喜びおもほしめしゝさまなり、しかるに此(ノ)ほどは、いまだ時代古かりし故に、大かたの世は正直《マナホ》にして、神代のまに/\、神祇の思頼をのみたのみをることなれば、朕が偏に佛道を信ぜむこと、人々の心いかならむと、御心しらひまし/\しよりして、かゝる大瑞を、朕一人やはうけたまはらむと詔ひて、金出し國郡の人を始めて、諸臣百官老若男女にいたるまで、ほど/\につけて、物賜り位あげなど爲たまひしは、より/\に天(ノ)下の人を、普く佛道に歸依《オモムカ》しめむの、御した心おはせばなるべし、かくてこの歌は、さばかり佛好《ホトケゴノミ》の天皇の詔書を、賀(ギ)奉りてよめるからは、いさゝかも佛意にそむきて、天皇の御心をもどきたるすぢのなきよしは、ところ/”\に註しつけたる詔詞の趣を、よ(68)く歌詞に引くらべて考へてしるべきことなり、しかるに、この長歌短歌ともに、詞の表《ウヘ》には、佛くさく、きたなきことなどをば、ひと言もまじへたることなく、みやびたる言のかぎりもて云(ヒ)ふせたるは、しかすがに、歌は神代のてぶりなれば、しかこちたきことなどいはむは、さらにさらにふさはしからぬことぞと、よくいにしへ風《ブリ》の歌の心に、はぢおもはれたるは、さはいへど、奇し奇しとも奇しき歌よみの口つきなればぞかし、歌とのみおもひて、そのさましらぬきはの、かけても及ぶべきことならめや、あはれ古風をまねふ徒は、このところかへすがへす味ひて、歌のさまをもしり、ことのこゝろをも得べきことになむ、
 
天平感寶元年五月十二日《テムヒヤウカムハウハジメノトシサツキノトヲカマリフツカノヒ》。於《ニテ》2越中國守舘《コシノミチノナカノクニノカミノタチ》1。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
萬葉集古義十八卷之上 終
 
(69)萬葉集古義十八卷之下
 
爲《タメ》d幸2行《イデマサム》芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1之時《トキノ》u。儲作歌一首并短歌《アラカジメヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
幸行は、行幸を顛倒《オキタガヘ》たるかとも思へど、かやうにかけること、古事記などには、ところ/”\に見え、書紀にもあり、其(ノ)他例あることなり、〔頭註、【遊幸《イデマシ》神代紀行、幸行崇神天皇紀、】〕○儲作と云こと、集中に往々《トコロ/”\》見えたり、其(ノ)藝のたしなみあさからざりしこと、思ひやるべし、
 
4098 多可美久良《タカミクラ》。安麻乃日嗣等《アマノヒツギト》。天下《アメノシタ》。志良之賣師家類《シラシメシケル》。須賣呂伎乃《スメロキノ》。可未能美許等能《カミノミコトノ》。可之古久母《カシコクモ》。波自米多麻比弖《ハジメタマヒテ》。多不刀久母《タフトクモ》。左太米多麻敝流《サダメタマヘル》。美與之努能《ミヨシヌノ》。許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》。安里我欲比《アリガヨヒ》。賣之多麻布良之《メシタマフラシ》。毛能乃敷能《モノノフノ》。夜蘇等母能乎毛《ヤソトモノヲモ》。於能我於敝流《オノガオヘル》。於能我名《オノガナ》負〔□で囲む〕名負《ナオヒ》。大王乃《オホキミノ》。麻氣能麻久麻久《マケノマニマニ》。此河能《コノカハノ》。多由流許等奈久《タユルコトナク》。此山能《コノヤマノ》。伊夜都藝都藝爾《イヤツギツギニ》。可久之許曾《カクシコソ》。都可倍麻都良米《ツカヘマツラメ》。伊夜等保奈我爾《イヤトホナガニ》。
 
初(ノ)二句は、既く上に出たり、○須賣呂伎乃《スメロキノ》云々、一(ノ)卷に、樂浪乃大津宮爾《サヽナミノオホツノミヤニ》、天下所知食兼《アメノシタシロシメシケム》、天皇之(70)神之御言能《スメロギノカミノミコトノ》云々、○可之古久母波自米多麻比弖《カシコクモハジメタマヒテ》云々、中山(ノ)嚴水、應神天皇(ノ)紀に、十九年冬十月戊戌朔、幸2吉野(ノ)宮(ニ)1時、國※[木+巣]人來朝《クニスヒトマヰケリ》之、因《カレ》以|釀酒《コサケヲ》獻(リ)2于天皇(ニ)1、而歌之曰云々、と有(リ)、是(レ)吉野(ノ)離宮のはじめなるべし、といへり、(略解に、齊明紀に、吉野(ノ)宮を作と有を引たるは、あたらぬことなり、其は改(メ)造られしなるべし、)○安里我欲比賣之多麻布良之《アリガヨヒメシタマフラシ》は、當代天皇の、在往來《アリガヨヨ》ひつゝ見《ミ》給ふらし、となり、(略解に、ありがよひは、其(ノ)繼々の天皇の幸し給へるをいふといひ、又この良之《ラシ》の詞は、卷(ノ)二に、問賜良之《トヒタマフラシ》、卷(ノ)廿に、つぎてめす良之《ラシ》などあると同じく、集中一(ツ)の格にて、常のラシ〔二字右○〕の意と異なり、といへるは、みな誤なり、)反歌に、余思努乃美夜乎安里我欲比賣須《ヨシヌノミヤヲアリガヨヒメス》、とあるを、相照して考(フ)べし、賣之《メシ》は、見《ミ》の伸りたる詞にて、見給《ミタマフ》と云意なり、なほ一(ノ)卷に、食國乎賣立賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》、とある處に、既く委(ク)註り、○於能我名負名負、本居氏、上の負(ノ)字を削去れり、其(レ)に從べし、さて己が家々の先祖より、相繼(ギ)仕(ヘ)奉り來る、其(ノ)職々を負て、と云なり、さて古(ヘ)は、氏々の職業《ワザ》各定まりて、世々相繼て仕(ヘ)奉りつれば、其(ノ)職《ワザ》即(チ)其(ノ)家の名なる故に、即(チ)其(ノ)職業《ワザ》を指ても、名《ナ》と云りと、なほ古事記傳三十九に、委(ク)辨(ヘ)いへり、○麻氣能麻久麻久は、任之隨意《マケノマニ/\》なり、久は、二字ともに、爾の誤にて、麻爾麻爾《マニマニ》とありしなるべし、さて、此(ノ)句は、下の都可倍麻都良米《ツカヘマツラメ》、とあるに屬て心得べし、○此河能《コノカハノ》云々、此山能《コノヤマノ》云々、一(ノ)卷幸2于吉野宮1之時人磨(ノ)作長歌に、此川乃絶事奈久《コノカハノタユルコトナク》、此山乃彌高良之《コノヤマノイヤタカヽラシ》云々、同卷(ノ)同人長歌に、樛木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》、三(ノ)卷赤人(ノ)長敦に、都賀乃樹乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》云々、十九に、(71)千代累彌嗣繼爾《チヨカサネイヤツギツギニ》、などあり、さて此《コヽ》より終までの意は、此(ノ)吉野の河の流の不v絶が如く、山の峯の連きたるが如くに、彌遠長く、萬代までも、今も仕(ヘ)奉るが如く、天皇のよざし給ふ大命のままに、一(ト)すぢに畏みて、仕(ヘ)奉るべきものにこそあれ、といへるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4099 伊爾之敝乎《イニシヘヲ》。於母保須良之母《オモホスラシモ》。和期於保伎美《ワゴオホキミ》。余思努乃美夜乎《ヨシヌノミヤヲ》。安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》。
 
伊爾之敝乎《イニシヘヲ》は、この吉野(ノ)離宮をはじめたまへる、古昔の御代をなり、○於母保須良之母《オモホスラシモ》は、さても御思慕《オモホシシタ》ひ給ふらし、となり、良之母《ラシモ》の母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》は、在往來御見《アリガヨヒメス》にて、在(リ)つゝかよひ見給ふ、と云意なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
4100 物能乃布能《モノノフノ》。夜蘇氏人毛《ヤソウヂヒトモ》。與之努河波《ヨシヌガハ》。多由流許等奈久《タユルコトナク》。都可倍追通見牟《ツカヘツツミム》。
 
歌(ノ)意は、吉野川の流(レ)の絶せぬごとく、長く久しく八十氏の官人等も、御供仕(ヘ)奉りつゝ、此(ノ)地の風景を、見はやさむ、となり、
 
爲《タメ》v贈《オクラムガ》2京家《ミヤコノイヘニ》1。願《ホリスル》2眞珠《シラタマヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
眞珠は、はやくたび/\出たり、鰒珠《アハビタマ》なり、允恭天皇(ノ)紀に、十四年秋九月、天皇|※[獣偏+葛]《ミカリシタマフ》于|淡路島《アハヂシマニ》1、終日《ヒノコト/”\カリクラシタマヘレド》不《タマハ》v獲2一獣《シヽヒトツダニ》1、島(ノ)神|祟之曰《タヽリテノリタマハク》、不(ル)v得《エタマハ》v獣(ヲ)者、是我之心《アガミコヽロゾ》也、赤石(ノ)海(ノ)底(ニ)有(リ)2眞珠《シラタマ》1、其《ソヲトリテ》祠《マツリタマハヾ》2於(72)|我《アガミマヘヲ》1、則|悉當v得v獣《コト/”\ニシヽエタマハムトノリタマヘリ》、爰《コヽニ》更|集《ツドヘテ》2處々之白水郎《トコロ/”\ノアマヲ》1、以|令《シメタマフニ》v探《カヅカ》2赤石(ノ)海(ノ)底(ニ)1、海深不v能v至v底《ソコフカミエカヅカザリキ》、唯有2一海人1《タヾヒトリアマアリ》曰《イフ》2男狹磯《ヲサシト》1、是《ソハ》阿波(ノ)國|長《ナガノ》邑(ノ)之海人也、勝《マサレヽバ》2於|諸海人《アダシアマモロ/\ニ》1、是腰(ニ)繋v繩(ヲ)入(キ)2海(ノ)底(ニ)1、差頃之出曰《シマシアリテイデキテイヘラク》、於海(ノ)底(ニ)有2大鰒《オホアハビ》1、其處|光《テレリトイフ》、諸人皆曰《ヒト/”\ミナイヘラク》、島(ノ)神(ノ)所請之珠《コハシヽタマハ》、殆《マコトニ》有《アラメトイフ》2是(ノ)鰒腹乎《アハビノハラヌチニコソ》1、亦入(テ)探《カヅカシメキ》之、爰(ニ)男狹磯、抱(キ)2大鰒(ヲ)1而|泛出之《ウカビイデテ》、乃|息絶以《イキタエテ》死《シニキ》2浪(ノ)上(ニ)1、既而《カクテ》下《オロシテ》v繩(ヲ)測(リシカバ)2海(ノ)底(ヲ)1、六十尋《ムツヒロバカリナリ》則《ヤガテ》割(ニ)v鰒(ヲ)實眞珠《マコトニシラタマ》有《アリキ》2腹中(ニ)1、其(ノ)大(サ)如2桃(ノ)子(ノ)1、乃祠(リタマヒテ)島(ノ)神(ヲ)1、而|※[獣偏+葛]之《ミカリシタマヘルニ》、多獲獣《ヤマサチオホカリキ》也、云々、和名抄に、日本紀私記云、眞珠(ハ)之良太麻《シラタマ》、とあり、十九に、奈呉乃海部之潜取云眞珠乃見我保之御面《ナゴノアマノカヅキトルチフシラタマノミガホシミオモ》云々
 
4101 珠洲乃安麻能《ススノアマノ》。於伎都美可未爾《オキツミカミニ》。伊和多利弖《イワタリテ》。可都伎等流登伊布《カヅキトルトイフ》。安波妣多麻《アハビタマ》。伊保知毛我母《イホチモガモ》。波之吉餘之《ハシキヨシ》。都麻乃美許登能《ツマノミコトノ》。許呂毛泥乃《コロモデノ》。和可禮之等吉欲《ワカレシトキヨ》。奴婆玉乃《ヌバタマノ》。夜床加多古里《ヨドコカタサリ》。安佐禰我美《アサネガミ》。可伎母氣頭良受《カキモケヅラズ》。伊泥※[氏/一]許之《イデテコシ》。月日余美都追《ツキヒヨミツツ》。奈氣久良牟《ナゲクラム》。心奈具佐余《コヽロナグサニ》。保登等藝須《ホトトギス》。伎奈久五月能《キナクサツキノ》。安夜女具佐《アヤメグサ》。波奈多知婆奈爾《ハナタチバナニ》。奴吉麻自倍《ヌキマジヘ》。可頭良爾世餘等《カヅラニセヨト》。都追美※[氏/一]夜良牟《ツツミテヤラム》。
 
珠洲《スス》は、能登(ノ)國珠洲(ノ)郡にあり、既く十七に見えたり、○於伎都美可未《オキツミカミ》は、奥津御神《オキツミカミ》なり、七(ノ)卷に、塩滿者如何將爲跡香方便海之神我手渡海部未通女等《シホミタバイカニセムトカワタツミノカミガトワタルアマヲトメドモ》、(手は、戸(ノ)字の誤なるべし、)ともよみて、海の波荒くて可畏《カシコ》き處を、御神《ミカミ》といへり、(契冲が、龍神のしれる海なれば、奥津御神とはいふ(73)なり、といへるは、あらず、)此(ノ)下に、和多都美能於枳都美夜敝爾多知和多里《ワタツミノオキツミヤヘニタチワタリ》云々、とあるは、即(チ)海(ノ)神(ノ)宮をいへり、○伊和多利弖《イワタリテ》は、伊《イ》は、例のそへことばなり、神代紀夷曲に、以和多邏素西渡以嗣筒播箇抱輔智《イワタラスセトイシカハカタフチ》、景行天皇(ノ)紀(ノ)歌に、阿佐志毛能瀰開能佐烏麼志魔弊菟吉瀰伊和多邏秀暮瀰開能佐烏麼志《アサシモノミケノサヲバシマヘツキミイワタラスモミケノサヲバシ》、などあるに同じ、○安波妣多麻《アハビタマ》は、即(チ)眞珠《シラタマ》なり、○伊保知毛我母《イホチモガモ》は、五百箇《イホチ》もがな、さても得まほしの意なり、(五百千《イホチ》と云にはあらず、)知《チ》は、波多知《ハタチ》、(二十)美曾知《ミソチ》、(三十)母々知《モヽチ》、百)知々《チヽ》、(千)など云|知《チ》にて、比登都《ヒトツ》、(一)布多都《フタツ》、(二)の都《ツ》と同じく、助辭にて、伊保都《イホツ》と云と同じことなり、古事記雄格天皇(ノ)條に、伊本知母賀母《イホチモガモ》、とあり、我《ガ》は、乞希(ノ)辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○波之吉餘之《ハシキヨシ》云云、この二句は、次の奴婆玉乃《ヌバタマノ》の上へつゞけて心得べし、○都麻乃美許登《ツマノミコト》は、家持(ノ)卿の妻女をさしていへり、○許呂毛泥乃《》云々、四(ノ)卷三方(ノ)沙彌(ガ)歌に、衣手乃別今夜從妹毛吾母甚戀名相因乎奈美《コロモデノコロモテノワカルコヨヒヨイモモアレモイタクコヒムナアフヨシヲナミ》、とあり、袖の別(レ)と云も同じ、○等吉欲《トキヨ》(欲(ノ)字、古本に能と作るは非なり、)は、從《ヨリ》v時《トキ》なり、○夜床加多古里《ヨドコカタサリ》、契冲、古は左の誤なるべし、といへり、これによるべし、片去《カタサリ》にて、夫の出去りしあとにて、妻の其(ノ)夫の臥(ス)べき床を避(リ)て、片方《カタヘ》によりて臥をいひて、もとその夫を恭ひてするわざなり、四(ノ)卷に、敷細之枕片去夢所見來之《シキタヘノマクラカタサルイメニミエコシ》、十三に、夜床片去《ヨドコカタサリ》、とあり、枕册子に、山は云々、片去《カタサリ》山こそ、誰に所おきけるにかとをかしけれ、同古本に、つちのそこに、いりゐて、うやまひきこえし、家の子きむだち、殿上などにては、けしきばかりこそ、うちかしこまりかたさりきこゆれ、(74)○安佐禰我美可伎母氣頭良受《アサネガミカキモケヅラズ》は、九(ノ)卷、十一(ノ)卷に、此(ノ)意の歌見えたり、妻のある状《カタチ》を云り、君なくばなど身よそはむの意なり、○月日余美都追《ツキヒヨミツツ》、十七に、春花能宇都路布麻泥爾相見禰婆月日餘美都追伊母《》麻都良牟曾《ハルハナノウツロフマデニアヒミネバツキヒヨミツツイモマツラムソ》、○心奈具佐余《コヽロナグサニ》、契冲、余は、尓の誤なるべし、といへるが如し、(元暦本に波と作れど、なほわろし、)次の短歌に、許己呂奈具左爾夜良無多米《ココロナグサニヤラムタメ》、とあるを思(フ)べし、令《メ》2心和《コヽロナグサ》1になり、十九にも、曾許由惠爾情奈具佐爾《ソコユヱニコヽロナグサニ》、霍公鳥喧始音乎《ホトヽギスナクハツコヱヲ》、橘珠爾安倍貫《タチバナノタマニアヘヌキ》、可頭良伎※[氏/一]遊波久與之母《カヅラキテアソバクヨシモ》云々、とあり、○保登等藝須伎奈久五月之《ホトトギスキナクサツキノ》云々、十(ノ)卷に、霍公鳥來鳴五月之短夜毛《ホトヽギスキナクサツキノミジカヨモ》云々、此下に、保止々支須支奈久五月能安夜女具佐《ホトヽギスキナクサツキノアヤメグサ》云々、十九に、霍公鳥來喧五月爾笑爾保布《ホトヽギスキナクサツキニサキニホフ》、などあり、三(ノ)卷に、霍公鳥鳴五月者《ホトヽギスナクサツキニハ》、菖蒲花橘乎《アヤメグサハナタチバナヲ》、玉爾貫※[草冠/縵]爾將爲等《タマニヌキカヅラニセムト》云々、とあるも、件の歌等に併(セ)思ふに、鳴の上に來(ノ)字の落たるにて、來鳴五月者《キナクサツキハ》とありしならむ、○奴吉麻自倍《ヌキマジヘ》、件の三(ノ)卷の玉爾貫を、一(ニ)云|貰交《ヌキマジヘ》、とあり、十九に、昌蒲花橘乎貫交可頭良久麻而爾《アヤメクサハナタチバナヲヌキマジヘカヅラクマデニ》云々、
 
反歌四首〔四字各○で囲む〕《カヘシウタヨツ》。
 
4102 白玉乎《シラタマヲ》。都都美※[氏/一]夜良波《ツツミテヤラナ》。安夜女具佐《アヤメグサ》。波奈多知婆奈爾《ハナタチバナニ》。安倍母奴久我禰《アヘモヌクガネ》。
 
都都美※[氏/一]夜良波、契冲、此(ノ)波は、もし那(ノ)字などをかきまがへたる歟、さらではアヘモヌクガネ〔七字右○〕といひては、うたのをさまらぬなり、と云り、まことにさることなり、那《ナ》は牟《ム》を急くいへる辭(75)なり、○安倍母奴久我禰《アヘモヌクガネ》は、令《セ》v合《アハ》も貫之根《ヌクガネ》なり、家(ノ)妻がいぶせき心をもといふ意を、母《モ》の言にてきかせたるなるべし、我禰《ガネ》は、料《タメ》と云むが如し、既く委(ク)云り、○歌(ノ)意は、菖蒲花橘に令《セ》v合《アハ》貫て、欝悒《イブセ》き心をも慰めむがために、眞珠を裹て、家の妻に、いざさらば贈らむ、となり、
 
4103  於伎都之麻《オキツシマ》。伊由伎和多里弖《イユキワタリテ》。可豆久知布《カヅクチフ》。安波妣多麻母我《アハビタマモガ》。都都々美弖夜良牟《ツツミテヤラム》。
 
可豆久知布《カヅクチフ》は、潜《カヅク》と云《イフ》なり、海部《アマ》が潜《カヅ》きて取《ト》ると、人の云意なり、○安波妣多麻母我《アハビタママモガ》は、鰒玉《アハビタマ》もがな、得まほしの意なり、我《ガ》は希望辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
4104 和伎母故我《ワギモコガ》。許己呂奈久佐爾《ココロナグサニ》。夜良無多米《ヤラムタメ》。於伎都之麻奈流《オキツシマナル》。之良多麻母我毛《シラタマモガモ》。
 
之良多麻母我毛《シラタマモガモ》は、眞珠《シラタマ》もがな、さても得ま欲し、となり、我《ガ》は乞希(ノ)辭、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、
 
4105 思良多麻能《シラタマノ》。伊保都都度比乎《イホツツドヒヲ》。手爾牟須妣《テニムスビ》。於許世牟安麻波《オコセムアマハ》。牟賀思久母安流香《ムガシクモアルカ》。
 
伊保都都度比乎《イホツツドヒヲ》は、五百箇集《イホツツドヒ》をなり、五百箇《イホツ》は、數多きをいへば、多(ク)の玉を貫(キ)集へたるを云り、十(ノ)卷七夕(ノ)歌に、水良玉五百都集解毛不見吾者干可太奴相日待爾《シラタマノイホツツドヒヲトキモミズアレハホシカタヌアハムヒマツニ》、古事記に、八尺勾※[耳+總の旁]之五百(76)津之美須麻流珠《ヤサカマガタマノイホツノミスマルノタマ》、神代紀に、八坂瓊之五百箇御統《ヤサカニノイホツノミスマル》云々、○手爾牟須妣《テニムスビ》は、すべて緒に貫たる玉は、多くは手に纒《マツ》ひ著るものなればいへり、○於許世牟《オコセム》は、此方へ賚《オク》り與《アタ》へむ、と云なり、十九に、吾妹子我可多見我※[氏/一]良等《ワギモコガカタミガテラト》、紅之八塩爾染而《クレナヰノヤシホニソメテ》、於己勢多流服之襴毛《オコセタルコロモノスソモ》云々、土佐日記に、講師物酒おこせたり、遊仙窟に、遣《オコス》とあり、(今(ノ)世、この於許須《オス》てふ詞を、御越《オコス》といふ義に心得て、俗文に、申(シ)越(ス)などいひ、且《マタ》此(レ)より彼へいひやることをも、申(シ)越と云は、ひがことなり、)○牟賀思久母安流香《ムガシクモアルカ》は、喜《ムガ》しくも有哉《アルカ》なり、牟賀思《ムガシ》とは、喜《ヨロコバ》しく、心にかなひたることに、いふ詞なり、靈異記に、喜(ハ)(ムガシビ〔四字右○〕)とあり、又神功皇后(ノ)紀に、我|王《コニキシ》必深|徳《オムガシミセム》2君王《キミヲ》1云々、相見(テ)欣感《オムガシミシ》厚(ク)禮(ヒテ)送(リ)遣(ル)之云々、延喜六年書紀竟宴(ノ)歌に、伊佐袁志久多陀斯岐瀰知乃於牟迦新佐斗弖曾和我那毛岐微波多末比斯《イサヲシクタダシキミチノオムカシサトテソワガナモキミハタマヒシ》、字鏡に、偉慶(ハ)於毛我志《オモガシ》、とあるも、同意の言なり、又續紀宣命に、多く宇牟賀斯《ウムガシ》といへるも、於《オ》を宇《ウ》に通(ハシ)云るにて、全(ラ)同言なり、(かくて牟加思《ムガシ》と云は、令《シ》v向《ムカ》にて、喜《ヨロコ》ばしく心にかなひたる方には、おのづから向はるゝより、令《シ》v向《ムカ》といひ、又|於牟加思《オムガシ》と云は、令《シ》2面向《オモムカ》1と云意にて、毛牟《モム》は牟《ム》と約るゆゑに、しかいへるにて、さて令《シ》2面向《オムカ》1は、令v向を、今少しくはしくいへることばにて、意は同じく、又|宇牟加思《ウムカシ》と云は、於牟加思《オムカシ》の於《オ》を通はしていへるにて、同言なるべくおもはるゝに、續紀宣命に、宇武何志《ウムガシ》、宇牟賀斯《ウムガシ》、宇牟我自《ウムガシ》など、ことごとに、濁音の字をかき、又こゝにも賀(ノ)字をかけるなどを思ふに、賀は必(ズ)濁る言にて、向《ムカ》しの義にはあらじ、異意ならむ、なほ(77)よく考(フ)べし、)○歌(ノ)意、これもかくれなし、○舊本(ノ)註に、一云我家牟伎波母、これはよむべきやうなし、誤字脱字あるべし、
 
右五月十四日《ミギサツキノトヲカマリヨカノヒ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモトガ》依《ツケテ》v興《コトニ》作《ヨメル》。
 
教2喩《サトス》史生尾張少咋《フミヒトヲハリノヲクヒヲ》1歌一首并2短歌1《ウタヒトツマタミジカウタ》
 
史生は、越中(ノ)國(ノ)史生なり、○尾張(ノ)少咋は、傳未(タ)詳ならず、
 
七出(ノ)例《サダメニ》云。
 
七出は、戸令(ノ)義解に、凡棄(テムコトハ)v妻(ヲ)須v有(ル)2七出之状1、一(ニハ)無(キ)v子、(謂雖v有2女子1、亦爲v無(ト)v子、更取(ルカ)2養子1故(ニ)、)二(ニハ)婬※[さんずい+失]、(謂※[女+搖の旁](ハ)者蕩(ナリ)也、※[さんずい+失](ハ)者過(ナリ)也、須(テ)2其(ノ)※[(女/女)+干](シ)訖(ルヲ)1、乃爲2婬※[さんずい+失](ト)1也、)三(ニハ)不(ル)v事(ヘ)2舅姑(ニ)1、(謂夫(ノ)父(ヲ)曰(ヒ)v舅、夫(ノ)母(ヲ)曰v姑(ト)、上(ノ)條(ニ)云、母(ノ)之昆弟(ヲ)曰(ヒ)v舅(ト)、父之姉妹(ヲ)曰(フ)v姑(ト)、一字兩訓、隨v事通用也(ス)、)四(ニ)口舌、(謂多言(ナルナリ)也、婦(ノ)有(ハ)2長舌1、維※[礪の旁]之階(ナリトイヘル)是也、)五(ニハ)盗竊、(謂雖v不(ト)v得v財(ヲ)、亦同2盗例(ニ)1也、)六(ニハ)妬忌、(謂以(スルヲ)v色曰(ヒ)v妬(ト)、以(スルヲ)v行(ヲ)曰v忌(ト)也、)七(ニハ)惡疾、皆夫|手書《テヅカラフミシテ》棄(テヨ)之、與2尊屬近親1同(ク)署(セヨ)、(謂尊屬近親相須(ツ)、即(チ)男家女家親屬共署(スルナリ)也、)若不(ハ)v解《シラ》v書(ヲ)畫(テ)v指(ヲ)爲《セヨ》v記(ト)、
 
但犯(セラバ)2一條(ヲ)1。即|合《ベシ》v出(サル)之。無(テ)2七出1輙|棄者《サラバ》。徒一年半《ミツカフツミヒトヽセマリムツキ》。
 
法曹至要抄に、引2戸婚律(ヲ)1云、妻(ニ)無2七出及義絶之状1、而出之者徒一年半、又條(ニ)云、私(ニ)聚2人妻(ヲ)1及嫁之者、徒一年半
 
三不去(ノ)例《サダメニ》云。
 
(78)三不去は戸令(ノ)義解に、雖v有(ト)2棄(ル)状1、有2三(ノ)不1v去、一(ニハ)經(タル)v持《タスクル》2舅姑之喪(ヲ)1、(謂持(ハ)猶2扶持(ノ)1也、)二(ニハ)娶《アヒシ》時賤(クテ)後(ニ)貴(キ)、(謂依(ルニ)v律(ニ)稱(スルハ)v貴(ト)者、皆據(テイフ)2三位以上(ニ)1、其五位以上(ハ)即爲2通貴(ト)1、但此條(ニ)曰(ハ)v貴(ト)者、直(ニ)謂2娶(シ)時貧苦下賤(ニシテ)、棄(ツル)日官位可(キヲ)1v稱(シツ)而已、不2必(シモ)五位以上(ナラ)1也、)三(ニハ)有(テ)v所v受(ル)無(キ)v所v歸(ス)、(謂無2主婚之人1、是(ヲ)爲v無v所v歸、言(ハ)不v窮(メシメ)也、)即犯(セラバ)2義絶淫※[さんずい+失]惡疾(ヲ)1、不(レ)v拘(ラ)2此令(ニ)1、○例(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は異本に從つ、○竊(ニ)按(フ)に、七出三去と云こと、皇朝のもとよりの風にあらず、よろづ漢風をとり交へて、制度《オキテ》られし代となりて後、これらはひたぶるに、異國《カノクニ》の制《サダメ》によられたるものなり、孔子家語本命解に、歸(ニ)有2七出三不去1、不v順(ハ)2父母(ニ)1者、無v子者、淫僻(ナル)者、嫉妬(ナル)者、惡疾(アル)者、多(キ)2口舌1者、竊盗(スル)者、三不去(ト)者、謂有(テ)v所v取無(キ)v所v歸(ス)、(一也、)與共更2三年之喪(ヲ)1、(二也、)先貧賤後富貴(ナル)(三也、)と見えたり、そも/\舅姑《オヤ》に孝《シタガ》はざるがごとき、淫《タハ》けたるがごとき、妬《ネタミ》ふかきがことき、多言《クチマメ》なるがごとき、盗《ヌス》む心あるがごときは、みな、婦のことわりに逆《タガ》ふことなれば、出し棄ずして止まじきを、その子無きがごときは、もとより欲《ネガ》ふところにあらざれば、婦のみさを正しく行儀《オコナヒ》だによくば、出さずとも、同姓の子を養《トリ》て子とし、或は妾などに子あらば、ことたるべし、妻に子なしとて出し棄むは、甚しく不仁《ツレナキ》わざなり、又惡疾出來らむがごときも、もとより欲ふところにあらざれば、もし同居するに堪ずば、別室におきて養ひ、一生《ヨ》を終《ヲヘ》しめても可《ヨ》けむを、淫《タハケ》たる心もなく、妬《ネタ》む心もなきものを、みすみすはふらかし棄て辱見せむは、また不仁《ツレナ》きことの重《キハミ》ならずや、かく事ごとに、こちたくわ(79)づらはしく、さだめごとすなるは、うちきくには、きはきはしく、いたりふかげなれど、あながちに、しかのみおこなはむとせば、中々になさけおくれて、はしたなきことこそおほからめ、さればしかさだめむは、いづかたにつけても、身じろきならぬわざなるべし、何事も大らかなりし、皇朝のもとよりの御さだめには、さるこまかなりしことはあることなし、然れども、はやくしかおきてられしことなれば、今この御制度《ミサダメ》を、もどくべしとにはあらぎれども、古學せむ輩は、かゝることの因て來れるもとをも、わきまへ知て置たきことなり、はやく外國《ヨソノクニ》にても、この七出の例《サダメ》をば、かにかくにつぶやける人も多しとぞ、後(ノ)世からぶみ郁離子と云ものに、或問2於都離子(ニ)1曰、在v律婦有2七出1、聖人之言與、曰、是後世薄夫之所v云、非2聖人意1也、夫婦人從v夫者也、淫也妬也不幸也多言也盗也五者、天下之惡徳也、婦而有焉出之宜也、惡疾之與v無v子、豈人之所v欲《ナラム》哉、非v所v欲而得之、其不幸也大矣、而出之忍矣我、夫婦(ハ)人倫之一也、婦以v夫爲v天、不v矜2其不幸(ヲ)1而遂棄之、豈天理哉、而以v是爲2典訓1、是教2不仁1、以賊2人道1也、仲尼歿而邪説作、懼2人之不1v信、而駕2聖人1、以逞2其説1、嗚呼聖人之不幸、而受v誣也久矣我哉、とあり、此はいはでもあるべきことなれど、事のちなみに、かつ/”\おどろかしおくにこそ、
 
雖(トモ)v犯(ス)2七出(ヲ)1。不《ズ》v合《ベカラ》v棄《サル》之。違者《タガヘラバ》杖一百。唯犯(レバ)2※[(女/女)+干]惡疾1得棄《サレ》之。
 
法曹至要鈔に、戸婚律云、雖v犯2七出(ヲ)1、有2三(ノ)不1v去、而出之者杖八十、追還令v復、若(シ)犯2惡疾及※[姦+干]1者、不v用2(80)此律(ヲ)1、又條(ニ)云、犯2義絶(ヲ)1、者離之、違者杖一百者、
 
兩妻(ノ)例《サダメニ》云。
有v妻更娶者。徒一年。女家杖一百離之。
 
法曹至要抄に、戸婚律(ニ)云、爲v婚(ヲ)而女家妄冒者杖一百、男家妄冒加2一等(ヲ)1、又條(ニ)云、以v妻(ヲ)爲v妾(ト)、以2女家婢1爲v妻(ト)者、徒一年、各還2正之1、云々、戸令に、凡棄(ラバ)v妻(ヲ)先由(レヨ)2祖父母父母(ニ)1、若無(バ)2祖父母父母1、夫得2自由(スルコトヲ)1云云、凡嫁(セム)v女(ヲ)棄(テムコト)v妻不(ハ)v由(ラ)2所由(ニ)1、皆不v成(サ)v婚(ヲ)、不v成v棄(ヲ)云々、
 
詔書(ニ)云。
愍1賜義夫節婦1。
 
續紀に、和銅七年六月廿八日、大赦、詔書(ニ)云云々、孝子順孫義夫節婦(ハ)、表2其門閭(ニ)1、終(ルマデ)v身勿(シメヨ)v事(ルコト)、賦役令に、凡孝子順孫義夫節婦、志行聞(エバ)2於國郡(ニ)1者、申(セ)2太政官(ニ)1、奏聞(シテ)表(セヨ)2其門閭(ニ)1、同籍悉(ニ)免(セ)2課役(ヲ)1、有(ラバ)2精誠通感(スルコトヲ)1者、別(ニ)加(ヘヨ)2優賞(ヲ)1謹2案《ツヽシミカムガフルニ》先件數條《カミノクダリノヲヂ/\ヲ》1。建法之基《ノリノモト》。化道之源《ミチノハジメナリ》也。然則義夫之道。情存無別。一家同財。豈|有《アルベシ》2忘v舊愛v新之志1哉《ヤ》。所以《カレ》綴2作《ヨミ》數行之歌(ヲ)1。令v悔2棄v舊之惑(ヲ)1。其(ノ)詞曰《コトバニイハク》。
 
豈有忘舊云々、十二に、橡之衣解
洗又打山古人爾者猶不如家利《ツルバミノキヌトキアラヒマツチヤマモトツヒトニハナホシカズケリ》、此意なるべし、
 
4106 於保奈牟知《オホナムヂ》。須久奈比古奈野《スイクナヒコナノ》。神代欲里《カミヨヨリ》。伊比都藝家良久《イヒツギケラシ》。父母乎《チヽハヽヲ》。見波多(81)布刀久《ミレバタフトク》。妻子見波《メコミレバ》。可奈之久米具之《カナシクメグシ》。宇都世美能《ウツセミノ》。余乃許等和利止《ヨノコトワリト》。可久佐末爾《カクサマニ》。伊比家流物能乎《イヒケルモノヲ》。世人能《ヨノヒトノ》。多都流許等太弖《タツルコトダテ》。知左能花《チサノハナノ》。佐家流沙加利爾《サケルサカリニ》。波之吉余之《ハシキヨシ》。曾能都末能古等《ソノツマノコト》。安沙余比爾《アサヨヒニ》。惠美美惠末須毛《ヱミミヱマズモ》。宇知奈氣支《ウチナゲキ》。可多里家末久波《カタリケマクハ》。等己之部爾《トコシヘニ》。可久之母安良米也《カクシモアラメヤ》。天地能《アメツチノ》。可未許等余勢天《カミコトヨセテ》。春花能《ハルハナノ》。佐可里裳安良牟等《サカリモアラムト》。末多之家牟《マタシケム》。等吉能沙加利曾《トキノサカリヲ》。波奈利居弖《ハナリヰテ》。奈介可須移母我《ナゲカスイモガ》。何時可毛《イツシカモ》。都可比能許牟等《ツカヒノコムト》。末多須良無《マタスラム》。心左夫之苦《コヽロサブシク》。南吹《ミナミフキ》。雪消益而《ユキケハフリテ》。射水河《イミヅガハ》。流水沫能《ウカブミナワノ》。余留弊奈美《ヨルベナミ》。左夫流其兒爾《サブルソノコニ》。比毛能緒能《ヒモノヲノ》。移都我利安比弖《イツガリアヒテ》。爾保騰里能《ニホドリノ》。布多理雙坐《フタリナラビヰ》。那呉能宇美能《ナゴノウミノ》。於支乎布可米天《オキヲフカメテ》。左度波世流《サドハセル》。支美我許己呂能《キミガココロノ》。須敝母須弊奈佐《スベモスベナサ》。【言佐夫流者、遊行女婦之字也。】
 
於保奈牟知《オホナムチ》云々、(四句)かやうにつゞけたること、三(ノ)卷六(ノ)卷七(ノ)卷等にも有て、既く委(ク)註せりき、○伊比都藝家良長之は、之は、久の誤なりと、本居氏云るごとし、云(ヒ)續けるやうは、と云が如し、○父母乎《チヽハヽヲ》云々(四句)は、五(ノ)卷山上(ノ)憶良(ガ)令v反2惑情(ヲ)1歌に、父母乎美禮婆多布斗斯《チヽハヽヲミレバタフトシ》、妻子美禮婆米具新宇都久志《メコミレバメグシウツクシ》、余能奈迦波加久敍許等和理《ヨノナカハカクゾコトワリ》、とよまれたるに同じ、○宇都世美能《ウツセミノ》云々(四句)は、十五に、與能奈可能都年能己等和利可久左麻爾奈里伎爾家良之須惠之多禰可良《ヨノナカノツネノコトワリカクサマニナリキニケラシスエシタネカラ》、とあるに似たり、○多都流許等太弖《タツルコトダテ》、(太(ノ)字、舊本大に誤れり、)此(ノ)上に、大伴等佐伯氏者人祖乃立流辭立《オホトモトサヘキノウジハヒトノオヤノタツルコトダテ》、とよめ(82)り、其(ノ)處に委(ク)註り、○知左能花《チサノハナ》は、品物解に具(ク)云り、○曾能都末能古《ソノツマノコ》は、少咋が本妻なり、○惠美美惠未須毛《ヱミミヱマズモ》は、咲《ヱミ》たり、或は不《ズ》v咲《ヱマ》にもの意なり、○可多里家米久波《カタリケマクハ》は、語りけむやうは、と謂なり、三(ノ)卷に角障經石寸之道乎朝不離將歸人乃念乍通計萬口波《ツヌサハフイハレノミチヲアササラズユキケムヒトノオモヒツヽカヨヒケマクハ》、とよめるに、其(ノ)樣同じ、○等己之部爾《トコシヘニ》云々(二句)は、常しなへに如此《カク》てのみ、一すぢに貧しく賤しくてあらむやは、と云なり、九(ノ)卷にも、常之陪爾夏冬往哉《トコシヘニナツフユユケヤ》云々、允恭天皇(ノ)紀、衣通(ノ)郎姫(ノ)歌に、等虚辭倍邇枳彌母阿閇椰毛《トコシヘニキミモアヘヤモ》云々、とよみたまへり、○天地能《アメツチノ》云々、(二句)四(ノ)卷笠(ノ)金村(ガ)長歌にも、見えたり、天神地祇《フマツカミクニツカミ》の事依《コトヨサ》して、と謂なり、○春花能《ハルハナノ》は、盛《サカリ》といはむとてのまくら詞にいへるなり、○作可里裳安良牟等《サカリモアラムト》(牟等(ノ)二字、舊本になきは、おちたるものなり、今は官本又或校本等に從つ、)は、盛《サカリ》も將《ム》v有《アラ》となり、さてその盛《サカリ》は、貧《マヅシ》の對《ウラ》にて、宮盛《トミサカリ》なるを云り、○末多之家牟《マタシケム》(末(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は官本又或校本等に從つ、)は、待(チ)賜ひけむ、と謂なり、○等吉能沙加利曾、契冲、曾は乎の誤なるべしといへり、此(レ)然るべし、盛《サカリ》の時もあるべし、と兼て待(チ)賜ひけむ、今その盛の時なるを、といふ意なり、○波居※[氏/一]、岡部氏、波は放の誤なるべしといへり、信に然なり、サカリヰテ〔五字右○〕とよむべし、二(ノ)卷に、離居而朝嘆君《ハナレヰテアサナゲクキミ》、放居而吾戀君《サカリヰテアガコフルキミ》、とあり、本妻の京にとゞまりて、少咋に離れ居るを云、○都可比能許牟等《ツカヒノコムト》は、少咋が使の將v來となり、○心左夫之苦《コヽロサブシク》は、本妻の心不樂《コヽロサブシク》なり、あはれにいひとれり、○南吹はミナミフキ〔五字右○〕とよむべし、南《ミナミ》とのみにて、南風のことゝ聞ゆるは、古事記仁徳(83)天皇(ノ)條に、夜麻登弊邇爾斯布岐阿宜※[氏/一]玖毛婆那禮《ヤマトヘニニシフキアゲテクモバナレ》、と見えたると同類なり、南風はあたゝかにして、雪消るゆゑにつゞけたり、伊勢物語に、その夜南の風ふきて、浪いと高し、○雪消益而は、此(ノ)下に、射水河雪消溢而《イミヅカハユキケハフリテ》とあるによりて、ユキケハフリテ〔七字右○〕とよめるよろし、(雪消を、由吉藝《ユキゲ》と藝《ゲ》を濁て唱ふるは、甚わろし、雪が消溢《キエハフ》れての意なればなり、)益は、溢の省文なるべし、(略解に、益は溢の誤なりといへど、さらずとも、)○流水沫能《ウカブミナワノ》以上三句は、無《ナミ》2縁方《ヨルヘ》1をいはむための章中の序なり、按に、流は浮の誤ならむ、○余留弊奈美《ヨルヘナミ》は、無《ナミ》2縁方《ヨルヘ》1にて、旅中にて、縁《ヨ》り恃《タノ》む女のなきまゝに、遊行女婦になれそめしといふ意に、つゞけ下したり、○左夫流其兒《サブルソノコ》とは、左夫流《サブル》は、自註に見えたるごとく、遊女の字《ナ》、其(ノ)兒は、女を親みて稱《イヘ》るなり、○比毛能緒能《ヒモノヲノ》は、紐之緒之《ヒモノヲノ》なり、次(ノ)句をいはむ料の枕詞なり、○移都我利安比弖《イツガリアヒテ》、九(ノ)卷に、豐國乃加波流波吾宅紐兒爾伊都我里座者革流波吾家《トヨクニノカハルハワギヘヒモノコニイツガリヲレバカハルハワギヘ》、とあり、契冲、移《イ》は發語、つがりあふなり、袋などの口を、※[金+巣]《クサリ》のやうにまつふを、つがるといふ、つがりあふも、其(ノ)心なり、今俗に、くさりあふといへる、これなりと云り、和名抄に、唐韻(ニ)云、※[金+巣](ハ)鐵※[金+巣]也、日本紀私記(ニ)云、賀奈都賀利《カナツガリ》、○爾保騰里能《ニホドリノ》云々、(二句)五(ノ)卷、憶良(ガ)歌にも見えたり、三(ノ)卷には、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》、ともよめり、同じ意なり、○那呉能宇美能於伎乎《ナゴノウミノオキヲ》(呉(ノ)字舊本に具と作るは誤なり、今は飛鳥井家本、阿野家本、古寫本、拾穗本等に從つ、)は、これも章中の序にて、深《フカ》めて惑有《サドハセル》と係れるなり、那呉《ナゴ》は、邪呉江《ナゴエ》とよめる同處にて、越中にある地の名なり、(84)後徳大寺(ノ)左大臣の歌に、奈呉の海の霞の間より詠れば入日をあらふ奥津白浪、○左度波世流《サドハセル》は、惑有《サドハセル》なり、(岡部氏、左《サ》は發語、問《トハ》せるにて、妻問のことゝすべしと云るは、用がたし、)惑《マド》ひ賜《タマ》へると云むが如し、○須敝母須弊奈佐《スベモスベナサ》は、諌め喩すべきしかたのなきこと、言(ヒ)盡しがたしと、ふかく惑へるを、歎き反復《カヘサ》ひいひたるなり、
 
反歌三首《カヘシウタミツ》。
 
4107 安乎爾與之《アヲニヨシ》。奈良爾安流伊毛我《ナラニアルイモガ》。多可多可爾《タカタカニ》。麻都良牟許己呂《マツラムココロ》。之可爾波安良司可《シカニハアラジカ》。
 
多可多可爾《タカタカニ》は、望待《ノゾミマツ》ときにいふ詞にて、既くあまた出たり、○之可爾波安良司可《シカニハアラジカ》(司は、自(ノ)字の誤歟、と本居氏いへり、)は、さやうにてはあるまじき歟、と云なり、此(ノ)一句、五卷令v反2惑情(ヲ)1長歌の終にもあり、○歌(ノ)意は、少咋が、本妻のことを打わすれて、遊女にふかく惑へることをも知ずして、奈良にある本妻が、とにかく心を苦めて、少咋が還り來む日を、今か/\と望み待らむにてあらずや、となり、
 
4108 左刀妣等能《サトビトノ》。見流目波豆可之《ミルメハヅカシ》。左夫流兒爾《サブルコニ》。佐度波須伎美我《サドハスキミガ》。美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》。
 
左刀妣等《サトビト》は、里人《サトビト》にて、其(ノ)里わたりにある、大やうの人をさしていへり、○佐度波須伎美我《サドハスキミガ》は、(85)惑有君之《サドハスキミガ》にて、惑《マド》ひ賜へる君が、と云むが如し、君は少咋をさせり、○美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》とは、美夜泥《ミヤデ》は、二(ノ)卷に、夢爾谷不見在之物乎鬱悒宮出毛爲鹿佐日之隈廻乎《イメニダニミザリシモノヲオホヽシクミヤデモスルカサヒノクマミヲ》、とよめれど、こゝは宮出《ミヤデ》といふべきよしなし、美は尼の誤にて、閨出《ネヤデ》歟と本居氏云り、さもあらむ歟、雅證竊(ニ)按(フ)に、此《コヽ》は宮出《ミヤデ》とはいふまじきが如くなれども、此《コ》は少咋が、遊女に甚《フカ》く惑ひて、彼が家に朝參《ミカドマヰリ》する如く通ふを、嘲哢《アザケ》りて、わざと宮出《ミヤデ》とはいへるなるべし、次下の歌に、遊女が家のことを、伊都伎之等能《イツギシトノ》とよめるも、同じこゝろばえなるを合(セ)考(フ)べし、之理夫利《シリブリ》は、後風《シリブリ》にて、うしろでといふが如し、(俗に、うしろつきといふに同じ、)○歌(ノ)意は、あだなる遊女に、ふかく惑ひなれむつびて、彼が家に朝參する如く、出入する後手《ウシロデ》を、衆人の見て、指さゝむことの、あはれはづかしやといひて、ふかく戒めたるなり、
 
4109 久禮奈爲波《クレナヰハ》。宇都呂布母能曾《ウツロフモノソ》。都流波美能《ツルハミノ》。奈禮爾之伎奴爾《ナレニシキヌニ》。奈保之可米夜母《ナホシカメヤモ》。
 
歌(ノ)意|紅《クレナヰ》を遊女にたとへ、橡《ツルハミ》を本妻にたとへたるにて、他にかくれたるところなし、忘v舊愛v新之志をふかく戒めたるなり、十二に、橡之《ツルバミノ》云々、(上に引るごとし、)
 
右五月十五日《ミギサツキノトヲカマリイツカノヒ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
先妻《モトノメ》不《ズ》v待《マタ》2夫君之喚使《セノキミノメスツカヒヲ》1。自來時作歌一首《ミヅカラキタルトキヨメルウタヒトツ》。
 
(86)君(ノ)字、舊本に妻と作るは誤なり、今は目録竝(ニ)古寫本、類聚抄、拾穗本等に從つ、
 
4110 左夫流兒我《サブルコガ》。伊都伎之等乃爾《イツギシトノニ》。須受可氣奴《スズカケヌ》。波由麻久太禮利《ハユマクダレリ》。佐刀毛等騰呂爾《サトモトドロニ》。
 
伊都伎之等能爾《イツギシトノニ》とは、まづ伊都伎《イツギ》は、上の長歌の移都我利《イツガリ》と同言にて、此《コナタ》よりいつぐ意のときには、伊都伎《イツギ》といひ、彼にいつがるゝ意のときには、伊都我里《イツガリ》と云て、彼此の差別《ケヂメ》あるのみなり、(たとへば、添《ソヒ》といふと、所《リ》v添《ソハ》と云との差別のごとし)されば伊都我里《イツガリ》は、其兒爾《ソノコニ》云々、移都我利《イツガリ》、紐兒爾伊都我里《ヒモノコニイツガリ》、など、某に伊都我里《イツガリ》といひ、此(ノ)歌は、左夫流兒我《サブルコガ》とて、伊都伎《イツギ》といひかけたれば、遊女が少咋をいつぐ意なり、等能《トノ》は、遊女が家をいふべし、遊女の誘(ヒ)引(キ)入るまに/\、少咋が宮中へ朝參するごとくに通ふを、わざと嘲哢《アザケ》りて、殿《トノ》といふなるべし、(略解に、殿は少咋が官舍を云といへるはたがへり、もし少咋が官舍ならば、左夫流兒乎《サブルコヲ》とこそあるべけれ、又左夫流兒が齋き祭れる殿といふにて、少咋が家を云と云説は、いよ/\わろし、)上の美夜泥《ミヤデ》に、照(シ)合(セ)て考(フ)べし、○須受可氣奴《スズカケヌ》は、鈴《スヾ》不《ヌ》v掛《カケ》なり、鈴《スヾ》は、驛鈴とて、官使の七道へおもむくときに、鈴を賜りて、驛路づたひに打ふりて過るを聞て、驛の長が、馬のまうけなどをすることなり、孝徳天皇(ノ)紀に、大化二年正月詔に、初(テ)脩2京師《ミサトヲ》1、置2畿内《ウチツ》國(ノ)司郡(ノ)司|關塞斥候防人驛馬傳馬《セキソコウカミサキモリハユマツタヘウマヲ》1、及造2ニ鈴契《スヾシルシヲ》1定2山河(ヲ)1云々、凡給(ハ)2驛馬傳馬(ヲ)1、皆依(レ)2鈴傳符刻《スヾツタヘノシルシキザミノ》數(ニ)1、凡|諸國《クニ/\》及牌關(ニハ)給(フ)2鈴契(ヲ)1、竝|長官《カミ》執(レ)、無(ハ)次官《スケ》執(レ)、天武天(87)皇(ノ)紀上、元年六月(ノ)條に、即遣(テ)2大分《オホキダノ》君|惠尺《ヱサカ》云々、于|留守司《トマリツカサ》高坂(ノ)王(ノモトニ)u而令v乞2驛鈴《ウマヤノスヾヲ》1云々、既而|惠尺《ヱサカ》等、至(テ)2留守司(ニ)1、擧(テ)2東宮之|命《ミコトヲ》1、乞2驛(ノ)鈴(ヲ)於高坂(ノ)王(ニ)1、然不(リキ)v聽(サ)矣、○波由麻久太禮利《ハユマクダレリ》(波(ノ)字、舊本に婆と作り、今は一本、類聚抄等に從つ、)は、驛馬下有《ハユマクダレリ》なり、波由麻《ハユマ》は、早馬《ハヤウマ》なり、夜宇《ヤウ》の切|由《ユ》、十一に、驛路爾引舟渡《ハユマヂニヒキフネワタシ》、十四に、須受我禰乃波由馬宇馬夜能《スズガネノハユマウマヤノ》、とあり、○佐刀毛等騰呂爾《サトモトドロニ》は、里《サト》も動響《トヾロ》になり、集中に、宮《ミヤ》も動響《トヾロ》に、瀧《タギ》もとゞろに、など多くよめり、今は人のいひさわぐをいへり、○歌(ノ)意は、驛(ノ)鈴をも掛ざる驛便《ハユマヅカヒ》の、京より下りて、遊女がもとに來着りと、里も動響《トヾロ》くばかりに、衆人のいひさわぐよと、少咋が本妻の、越中に下れるを比《タト》へていへるなり、さて驛(ノ)鈴をも掛ざるとは、先(キ)打もなく、不慮に下れりと云なるべし、と宮地(ノ)春樹(ノ)翁|説《イヘ》り、
 
同月十七日《オヤジツキノトヲカマリナヌカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
橘歌一首并短歌《タチバナノウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4111 可氣麻久母《カケマクモ》。安夜爾加之古思《アヤニカシコシ》。皇神祖乃《スメロキノ》。可見能大御世爾《カミノオホミヨニ》。田道間守《タヂマモリ》。常世爾和多利《トコヨニワタリ》。夜保許毛知《ヤホコモチ》。麻爲泥許之登布〔二字各○で囲む〕《マヰデコシトフ》。登吉時久能《トキジクノ》。香久乃菓子乎《カクノコノミヲ》。可之古久母《カシコクモ》。能許之多麻敝禮《ノコシタマヘレ》。國毛勢爾《クニモセニ》。於非多知左加延《オヒタチサカエ》。波流左禮婆《ハルサレバ》。孫枝毛伊都追《ヒコエモイツツ》。保登等藝須《ホトトギス》。奈久五月爾波《ナクサツキニハ》。波都波奈乎《ハツハナヲ》。延太爾多乎理弖《エダニタヲリテ》。乎登女良爾《ヲトメラニ》。都刀爾母夜里美《ツトニモヤリミ》。之路多倍能《シロタヘノ》。蘇泥爾毛古伎禮《ソデニモコキレ》。香具播之美《カグハシミ》。於枳弖(88)可良之美《オキテカラシミ》。安由流實波《アユルミハ》。多麻爾奴伎都追《タマニヌキツツ》。手爾麻吉弖《テニマキテ》。見禮騰毛安加受《ミレドモアカズ》。秋豆氣婆《アキヅケバ》。之具禮乃雨零《シグレノアメフリ》。阿之比奇能《アシヒキノ》。夜麻能許奴禮波《ヤマノコヌレハ》。久禮奈爲爾《クレナヰニ》。仁保比知禮止毛《ニホヒチレドモ》。多知波奈乃《タチバナノ》。成流其實者《ナレルソノミハ》。比太照爾《ヒタテリニ》。伊夜見我保之久《イヤミガホシク》。美由伎布流《ミユキフル》。冬爾伊多禮婆《フユニイタレバ》。霜於氣騰母《シモオケドモ》。其葉毛可禮受《ソノハモカレズ》。常磐奈須《トキハナス》。伊夜佐加波延爾《イヤサカハエニ》。之可禮許曾《シカレコソ》。神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》。與呂之奈倍《ヨロシナベ》。此橘乎《コノタチバナヲ》。等伎自久能《トキジクノ》。可久能木實等《カクノコノミト》。名附家良之母《ナヅケケラシモ》。
 
皇神祖《スメロキ》は、垂仁天皇を指(シ)奉れり、○田道間守《タヂマモリ》は、垂仁天皇(ノ)紀に、三年春三月|新羅王子《シラキノコニキシノコ》、天日槍來歸《アマノホホコマヰケリ》焉云々、とある處の自註に、故(レ)天日槍《アマノヒホコ》、娶《アヒテ》2但馬出島人太耳女麻多鳥《タヂマノイヅシマノヒトフトミヽガムスメマタヲニ》1、生《ウミ》2但馬諸助《タヂマノモロスケヲ》1也、諸助《モロスケ》生《ウミ》2但馬日楢杵《タヂマノヒナラキヲ》1、日楢杵《ヒナラキ》生《ウミ》2清彦《キヨヒコヲ》1、清彦《キヨヒコ》生《ウミキ》2田道問守《タヂマモリヲ》1之、姓氏録に、三宅(ノ)連(ハ)、新羅(ノ)國(ノ)王子、天(ノ)日桙(ノ)命之後也、また、橘守(ハ)、三宅(ノ)連同祖、天(ノ)日桙(ノ)命之後也、と見えたり、○常世爾和多利《トコヨニワタリ》は、古事記垂仁天皇(ノ)條に、天皇以(テ)2三宅(ノ)連等之祖、以(テ)2三宅連等之祖、名多遲摩毛理《ナハタヂマモリヲ》1遣《ツカハシ》2常世國《トコヨノクニニ》1、令《シメタマヒキ》v求《モトメ》2登岐士玖能加玖能木實《トキジクノカクノコノミヲ》1、故(レ)多遲摩毛理《タジマモリ》遂(ニ)到(リテ)2其(ノ)國(ニ)1、採《トリテ》2其(ノ)木(ノ)實(ヲ)1、以2縵八縵《カゲヤカゲ》、矛八矛《ホコヤホコ》1、將來《モチマヰキツル》之|間《アヒダ》、天皇|既崩《ハヤクカムアガリマシヌ》、爾多遲摩毛理《コヽニタヂマモリ》、分(テ)2縵四縵《カゲヨカゲ》、矛四矛《ホコヨホコヲ》、獻(リ)2于大后(ニ)1、以2縵四縵矛四矛(ヲ)1、獻(リ)2置(キ)天皇之御陵(ノ)戸(ニテ)1而、フ《サヽゲテ》2其(ノ)木(ノ)實(ヲ)1叫哭《サケビオラビテ》以、白(シテ)2常世國之登岐士玖能迦玖能木實持參上侍《トコヨノクニノトキジキクノカクノコノミヲモチマヰノボリテサモラフト》1、遂(ニ)叫哭死《オラビシニキ》也、其(ノ)登岐士玖能迦玖能木實者《トキジクノカクノコノミハ》、是今橘《イマノタチバナ》者|也《ナリ》、書紀に九十年春二月庚子(ノ)朔(ノヒ)、天皇|命《オホセテ》2田道間守(ニ)1、遣《ツカハシテ》2常世(ノ)國(ニ)1令《シメタマフ》v求《モトメ》2非時香菓《トキジクノカクノミヲ》1、今|謂《イフ》v橘《タチバナト》是也《モノナリ》。九十九年(89)秋七月戊午(ノ)朔(ノヒ)、天皇|崩《カムアガリマシキ》於|纏向宮《マキムクノミヤニ》1、時|御年百四十歳《ミトシモヽマリヨソチ》、冬十二月(ノ)癸卯(ノ)朔壬子(ノヒ)、葬《ハフリマツリキ》於|菅原伏見陵《スガハラノフシミノミサヽギニ》1、明(ル)年春三月(ノ)辛未(ノ)朔壬午(ノヒ)、田道間守《タヂマモリ》至《カヘレリ》v自《ヨリ》2常世國《トコヨノクニ》1、則賚物《モチマヰデキタルモノハ》也、非時香菓八竿八縵《トキジクノカクノコノミヤホコヤカゲ》焉、田道間守《タヂマモリ》、於是|泣悲歎之曰《ナゲキケラク》、受2命《カシコミ》天朝《オホキミノミコト》、遠往2絶域1、萬里蹈v浪、遙度2弱水1《タマキハルミヲアベキワタリテトホキサカヒニイタレリ》1、是常世國《ソモ/\トコヨノクニトイフハ》則|~仙祕區俗非v所v臻《カミナラヌモノユクベキトコロニアラズ》、是以往來之間自《カレユクサクサニイタクナヅミテ》、經《ナリヌ》十年《トヽセニ》1、豈期獨凌2峻瀾1更向2本土乎1乎《ヒトタビカノクニヽイタレルヒトノモトツクニヽマヰコムコトマコトニカタカラジヤ》、然|頼《カヾナフレバコソ》2聖帝之~靈《スメラミコトノミタマヲ》1、僅得2還來1《カラクシテマヰキツルナレ》、今天皇既崩《シカルヲスメラミコトハヤクカムアガリマシテ》、不《ズ》v得《エマヲサ》2復命《カヘリコト》1、臣《アレハ》雖《トモ》v生《イケリ》之亦何u矣《ナニノシルシカアラムトイヒテ》、乃|向《マヰデ》2天皇之陵《スメラミコトノミサヽギニ》1、叫哭而自死之《オラビサケビテシニキ》、群臣聞皆流v涙《ヨノヒトキヽテナミダオトサヾルハナカリキ》也、と見えたり、古事記傳に云るやう、縵四縵《カゲヨカゲ》、矛四矛《ホコヨホコ》云々は、縵《カゲ》と云るは、蔭橘子《カゲタチバナ》と云物、矛《ホコ》と云るは、矛橘子《ホコタチバナ》と云物なり、其は内膳式に、橘子四蔭、また橘子廿四蔭、桙橘子十枚、また橘子四蔭、桙橘子十枚、また橘子三十六蔭、桙橘子十五枚、などある是なり、其は各一種の橘の名には非ず、同じき橘ながら、採ざまの異《カハリ》あるなり、其(ノ)状はいかなりけむ、詳ならねど、今其(ノ)名に就て按ふに、蔭橘子とは、枝ながら折採て、葉も付ながらなるを云なるべし、凡て葉ある樹をば、常に蔭と云へばなり、桙橘子とは、やゝ長く折(リ)たる枝の葉を皆除き去て、實而已《ミノカギリ》著たるを云なるべし、其は其(ノ)状、上(ツ)代の矛の形に似たることぞありけむ、さて蔭橘子、矛橘子を、此にはたゞ縵又矛とのみ云て、橘子《タチバナ》と云(ハ)ざるは、上に既に、ときじくのかくのこのみと云(ヒ)、採2其(ノ)木(ノ)實(ヲ)1とも云れば、更(ニ)其(ノ)名をば云ぬぞ、雅語の例なる、さて又其(ノ)數を、若于縵《イクカゲ》、若干矛《イクホコ》と云るは、木を一木《ヒトキ》二木《フタキ》、里を一里《ヒトサト》二里《フタサト》、歌を一首《ヒトウタ》二首《フタウタ》と云類にて、數をも即《ヤガテ》其名(90)もて云るなり、此例常に多し、とある如し、○夜保許毛知《ヤホコモチ》は、八矛持《ヤホコモチ》にて、上に云る如し、○麻爲泥許之登布《マヰデコシトフ》は、參出來《マヰデコ》しと云《イフ》なり、舊本に登布(ノ)二字なきは、次の登吉の登と見まがへて、寫し脱したるものなり、故(レ)今姑(ク)この二字を補(ヘ)入たり、(本居氏は、麻爲泥許之《マヰデコシ》を、五言の一句とせれどあらず、さるは上古の長歌には、五言を重ね云たることも例あれどごの家持(ノ)卿の歌などには、さるさまなるは、一(ツ)も見えたることなければ、必(ズ)こゝも、七言一句にてこそありけめ、又舊來下の登吉を此(ノ)句へ屬て、參出來し時といふ意にとれるは、甚非なり、さてそれに從て、略解に、次の時支能を、時敷能《トキジクノ》の誤ならむといへるなど、いと/\あたらぬことなり、さるはここのつゞきざま、田道間守が、常世(ノ)國より持參出來《モチマヰデキタ》りし、非時《トキジク》の香菓《カグノコノミ》を云々、といふ意なるを、參出來《マヰデコ》し時と絶て、參出來りし其(ノ)時に、といふ意にしては、次の非時《トキジク》の香菓《カクノコノミ》を云々と云こと、事新になりて、上よりりつゞきざま理なし、よく語(ノ)勢を味(ヒ)見て、考ふべし、)○登吉時久能《トキジクノ》(久(ノ)字、舊本に支と作るは誤なり、今は異本に從つ、)は、非時之《トキジクノ》なり、夫木集に、常世よりかくのこのみを移し植て山ほとゝぎす時にしも鳴、○可之古久母《カシコクモ》は、皇朝の御はからひにて、恐くもと云意なり、(田道間守にかけては聞べからず、)次(ノ)句に、遺《ノコ》し賜へれと云るも、其(ノ)意なるがゆゑなり、○能許之多麻敝禮《ノコシタマヘレ》は、遺《ノコ》し賜有《タマヘ》れば、の意なり、○國毛勢爾《クニモセニ》は、國《クニ》も狹《セマ》きばかりに、と云意の詞にて、此《コヽ》は諸國《クニ/”\》に普く播《ホドコ》れるを云り、橘は、實をとり※[口+敢]《ハミ》て、飢をしのがしめむがために、諸國に(91)ほどこらして、道傍に植しめしなるべし、古事記應神天皇(ノ)御歌に、比流都美邇和賀由久美知能《ヒルツミニワガユクミチノ》、迦具波斯波那多知婆那波《カグハシハナタチバナハ》云々、(書紀にも見えたり、)とあるをも、合(セ)思(フ)べし、二(ノ)卷に橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》云々、とあるも、其(ノ)謂なり、雄略天皇(ノ)紀にも、餌香(ノ)市(ノ)邊(ノ)橋(ノ)本、とあるも其(レ)なり、これらにて、道路市邊などに遍《アマネ》く種《ウヱ》られしさま、思ひやるべし、其後も、なほます/\ほどこれることは、類聚三代格七(ノ)卷に、天平寶宇三年六月廿二日官符に、應3畿内七道諸國驛路兩邊遍種2菓樹1事、右東大寺普照法師奏状(ニ)※[人偏+稱の旁]、道路百姓來去不v絶、樹在2其(ノ)傍(ニ)1、足v息2疲乏1、夏(ハ)則就v蔭(ニ)避v熱(ヲ)、飢則摘v子※[口+敢]之、伏願城外道路兩邊栽2種菓子樹木(ヲ)1者、奉v勅依v奏(ニ)、(この事、元亨釋書(ノ)廿卷にも見えたり、)雜式に、凡諸國驛路邊値2菓樹(ヲ)1、令3往還人得2休息1、若無v水處量v便堀v井、など見えたる、これ必(ズ)橘にはかぎるべきにはあらねど、橘は菓子之長上、と聖武天皇の勅にもあるを思へば、もはら橘にこそありけめ、これらにて、いよ/\諸國に遍《アマネ》くほどこれるさま、思ひ知(ラ)れたり、○孫枝毛伊都追《ヒコエモイツツ》とは、孫枝《ヒコエ》は、五(ノ)卷梧桐(ノ)日本琴一面、(對馬(ノ)結石山(ノ)孫枝《ヒコエ》)字鏡に、※[木+少](ハ)木未也、木(ノ)細枝也、木高也、梢也、木乃枝《キノエダ》、又|比古江《ヒコエ》、とあり、枝より出る小枝を云り、和名抄に、蘖(ハ)比古波衣《ヒコハエ》、毛伊都追《モイツツ》は、萠乍《モイツヽ》なり、毛伊《モイ》と云は、萠《モエ》の本言なり、毛延《モエ》と云は、轉言なるべし、○波都波奈《ハツハナ》(下の波、舊本には婆と作り、今は一本に從つ、)は、初花《ハツハナ》なり、○延太爾多乎理弖《エダニタヲリテ》は、花を枝ながらに手折《タヲリ》て、といふなり、○都刀爾母夜里美《ツトニモヤリミ》は、裹《ツト》に遣《ヤリ》もしたり、と云意なり、○古伎禮《コキレ》は、扱入《コキイレ》なり、引(キ)入(レ)を比伎禮《ヒキレ》、掻(キ)入(レ)を(92)可伎禮《カキレ》といふが如し、十九にも、藤浪乃花奈都可之美《フヂナミノハナナツカシミ》、引攀而袖爾古伎禮都《ヒキヨヂテソデニコキレツ》云々、とあり、○香具播之美《カグハシミ》は、香細《カグハ》しさにの意なり、細《クハシ》は、秀《スグ》れて美《ヨ》きを云、○於枳弖可良之美《オキテカラシミ》は、措而《オキテ》令《シ》v枯《カラ》もしたり、の意なり、花の香のよきゆゑに、摘(ミ)採が惜くて、其(ノ)まゝ木に置て枯しもするよしなり、應神天皇(ノ)紀(ノ)御歌に、伽愚破志波那多智麼那《カグハシハナタチバナ》、辭豆曳羅波比等未那等利《シヅエラハヒトミナトリ》、保菟曳波等利委餓羅辭《ホツエハトリヰガラシ》、瀰菟愚利能那伽菟曳能《ミツグリノナカツエノ》、府保語茂利《フホゴモリ》云々、○安由流實《アユルミ》は、熟實《アユルミ》なり、八(ノ)卷橘の歌に、玉爾貫五月乎近美安要奴我爾花咲爾家利《タマニヌクサツキヲチカミアエヌガニハナサキニケリ》、十(ノ)卷に、秋就者水草花乃阿要奴蟹《アキヅケバミクサノハナノアエヌガニ》、などあり、既く註り、○許奴禮《コヌレ》は、木之末《コノウレ》の約れるなり、既くいへり、(夫木集に、仲實朝臣の歌に、うたかみや谷の許奴禮《コヌレ》にかくろへて風のよきたる花を見る哉、とあり、後(ノ)世に、許奴禮《コヌレ》とよめることめづらし、)○比太照《ヒタテリ》は、直照《ヒタテリ》にて、實の熟《ウレ》て赤くなれるを云、○霜於氣騰母《シモオケドモ》云々、六(ノ)卷に、橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝爾霜雖零益常葉之樹《タチバナハミサヘハナサヘソノハサヘエニシモフレドイヤトコハノキ》、續紀天平八年十一月丙戌、從三位葛城(ノ)王等(ノ)上表文に、和銅元年十一月二十五日御宴、天皇譽2忠誠之至1、賜2浮杯之橘(ヲ)1、勅(シテ)曰、橘者果子(ノ)之長上、人(ノ)所v好(ム)、柯凌2雪霜(ヲ)1、而繁茂(シ)、葉經2寒暑(ヲ)1而不v彫(マ)、與2珠玉1共(ニ)競v光、交2金銀1以逾美云々、○常磐奈須《トキハナス》は、常《トコ》しき磐《イハ》の如くと云意の古言にて、此《コヽ》はたゞ常住不變《イツモカハラズ》と、云よしに用(ヒ)たり、○伊夜佐加波延爾《イヤサカハエニ》は、彌榮《イヤサカハエ》になり、上に引(ク)應神天皇(ノ)御歌の未にも、阿伽例盧塢等※[口+羊]伊弉佐伽麼曳邪《アカレルヲトメイザサカバエナ》、とよませ給へり、さて此(ノ)句の下に、榮乍《サカヘツヽ》ありといふ詞を、はらませたり、○之可禮許曾《シカレコソ》は、然有《シカアレ》ばこその意なり、○神乃御代《カミノミヨ》(93)は、これも垂仁天皇の御代をさしていへり、即(チ)垂仁天皇の大命《オホミコト》おほせて、田道間守を常世(ノ)國に遣して、非時香菓《トキジクノカクノミ》を求めしめたまふ、とあればなり、(田道間守が、橘子をとりて還(リ)來れるは、既く崩御ましゝ後なれど、もと彼(ノ)天皇の大御心に出たることなれば、なほ彼(ノ)御代にかけて聞(ク)べきなり、又橘の名は、神代(ノ)紀にもあれば、まことの神代とも心得べきか、と契冲云るはわろし、)與呂之奈倍《ヨロシナベ》は、いかにも宜しく、相應したる意の處に用ふ言なり、既くあまた出たり、○等伎自久能《トキジクノ》云々、上に香具播之美《カグハシミ》云々、之具禮能雨零《シグレノアメフリ》云々、霜於爲騰母《シモオケドモ》云々とあるを應《ウケ》ていへり、よく霜雪をも凌(キ)て、非時《トキジクニ》いつも常磐に、其(ノ)實の香細《カグハ》しければ、非時香菓《トキジクノカクノコノミ》と名附けられしは、げにも宜しく、打|相應《アヒカナ》ひたることにてこそあるらし、となり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4112 橘波《タチバナハ》。花爾毛實爾母《ハナニモミニモ》。美都禮騰母《ミツレドモ》。移夜時自久爾《イヤトキジクニ》。奈保之見我保之《ナホシミガホシ》。
 
花爾毛實爾母《ハナニモミニモ》は、六(ノ)卷聖武天皇(ノ)御製に本《モトヅキ》てよめり、○美都禮騰母《ミツレドモ》は、雖《ドモ》2見有《ミツレ》1なり、○奈保之見我保之《ナホシミガホシ》は、猶之見之欲《ナホシミガホシ》なり、すべて猶《ナホ》の言に之《シ》をそへて、奈保保《ナホシ》と云ときは、猶《ナホ》の言重くなると知(ル)べし、俗にそれでもと云意にあたれり、花にても賞翫し、實にても賞翫したれど、それでも厭足ずに、なほ見たき謂なり、○歌(ノ)意は、橘は花をも實をも、熟々見て賞愛《メデ》つれども、それにても猶あき足ず、非時に、一(ト)すぢに見まほしく思はるゝぞ、となり、
 
(94)閏五月廿三日《ノチノサツキノハツカマリミカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
詠《ミテ》2庭中花《ニハノハナヲ》1作歌一首并2短歌1《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
詠(ノ)字、舊本になきは脱たるか、今は目録にあるに從つ、
 
4113 於保支見能《オホキミノ》。等保能美可等等《トホオミカドト》。末支太末不《マキタマフ》。官乃末爾末《ツカサノマニマ》。美由支布流《ミユキフル》。古之爾久多利來《コシニクダリキ》。安良多末能《アラタマノ》。等之乃五年《トシノイツトセ》。之吉多倍乃《シキタヘノ》。手枕末可受《タマクラマカズ》。比毛等可須《ヒモトカズ》。末呂宿乎須禮波《マロネヲスレバ》。移夫勢美等《イフセミト》。情奈具左爾《コヽロナグサニ》。奈泥之故乎《ナデシコヲ》。屋戸爾末枳於保之《ヤドニマキオホシ》。夏能能之《ナツノノノ》。佐由利比伎宇惠天《サユリヒキウヱテ》。開花乎《サクハナヲ》。移低見流其等爾《イデミルゴトニ》。那泥之古我《ナデシコガ》。曾乃波奈豆末爾《ソノハナヅマニ》。左由理花《サユリバナ》。由利母安波無等《ユリモアハムト》。奈具佐無流《ナクサムル》。許己呂之奈久波《ココロシナクバ》。安末射可流《アマザカル》。比奈爾一日毛《ヒナニヒトヒモ》。安流部久母安禮也《アルベクモアレヤ》。
 
於保支見能等保能美可等等《オホキミノトホオミカドト》は、大皇之遠朝廷《オホキミノトホオミカド》となり、此(ノ)二句、既くあまた出たり、こゝは越中(ノ)國府をさしていへり、等《ト》は、にてあるの意に用たる辭なり、さて此(ノ)句は、次(ノ)二句を隔て、美由伎布流《ミユキフル》といふへ屬《ツゞケ》て、心得べし、遠之朝廷《トホノミカド》にてある、御雪《ミユキ》の零《フル》、越《コシノ》國といふ意に、つゞきたればなり、○末伎太末不官乃末爾未《マキタマフツカサノマニマ》は、任賜官之隨《マキタマフツカサノマニマ》にて、官に任《ヨサ》され賜ふまゝに、其職を負持賜ひて、と云ほどの意なり、かくて他處に、末氣《マケ》賜ふと、多く云る、元(ト)その末氣《マケ》は、令《セ》v罷《マカラ》の切りたる言にて、可良勢《カラセ》の可良《カラ》は可《カ》と約り、可勢《カセ》は氣《ケ》と約るより云るものなり、さるは皇命似て、京外の國(95)々の官事に、任《ヨサ》し遣はす謂にて云、未伎《マキ》は罷《マカリ》の切りたる言にて、可利《カリ》は伎《キ》と約るより云たるものなり、さるは皇命を奉《ウケ》て、京(ノ)外の國々の官事に罷《マカ》る謂にて云う、さてそれよりして、何にまれ、その事に任ずる方よりは、末氣《マケ》と云、任ぜられたる事を、承る方にては、末伎《マキ》と云ことゝなれるなり、されば此所は、その官に任《ヨサ》されたるまゝに、其(ノ)職を負持賜ふよしにて、末伎《マキ》賜ふとはいへるなり、太は濁音(ノ)字なるを、取はづして、清音の處に用ひたり、○美由伎布流《ミユキフル》云々、十二にも三雪零越乃大山《ミユキフルコシノオホヤマ》、とよめり、越(ノ)國は雪深き地なれば云り、○等之能五年《トシノイツトセ》は、年之五年經《トシノイツトセ》なり、等勢《トセ》は、年經《トシヘ》の約りたる言なり、既く云り、こゝは在任のほどを、大略にいへり、○末呂宿乎須禮波《マロネヲスレバ》は、任國の内のさぶ/”\しきさまなり、末呂宿《マロネ》は、獨宿のことなり、○移夫勢美等《イフセミト》は、欝悒《イフセ》さにの意なり、夫《フ》は清て唱(フ)べし、夫は濁音(ノ)字ながら、此(レ)も取はづして、清音の處に用(ヒ)たるものなり、○奈具佐爾《ナグサニ》は、令《メ》v慰《ナグサ》にの意なり、○末枳於保之《マキオホシ》は、令《シ》2種生《マキオホ》1なり、○佐由利比伎宇惠天《サユリヒキウヱテ》は、五月百合引植而《サユリヒキウヱテ》なり、引《ヒキ》は、野にて、根を引(キ)來て、植る由なるべし、又たゞに添たる詞と見ても、よろしかるべし、○那泥之古我曾乃波奈豆末爾《ナデシコガソノハナヅマニ》は、瞿麥の如く、花やぎ愛《ウルハ》しき本郷の妻に、と云意を、かくいへり、瞿麥を庭に植て、その花を見るに付て、思ひ出すなり、(略解に、花づまは、瞿麥を愛て云よしいへるは、あたらぬことなり、)此より終までの意を、つゞめていはゞ、愛《ウルハ》しき本郷の妻に、後にも逢むと慰むる心なくば、一日も都に在得ましやは、と云意なるを、上の(96)瞿麥《ナデシコ》百合《ユリ》の二種の草花に便りて、したてたるものなり、○佐由理花《サユリバナ》は、由利《ユリ》と疊《カサネ》いはむ料なり、このつゞけ、この上にも二首あり、八(ノ)卷に、吾妹兒之家乃垣内乃佐由利花由利登云者不許云二似《ワギモコガイヘノカキツノサユリバナユリトイヘレバイナチフニニツ》、とあり、○由利毛《ユリモ》は、後《ノチ》にもと云意なり、十一には、路邊草深百合之後云妹命我知《ミチノベノクサフカユリノユリニチフイモガイノチヲアレシラメヤモ》、とたゞに後(ノ)字を、ユリ〔二字右○〕とも訓せり、○安流部久母安禮也《アルベクモアレヤ》は、可《ベク》v有《アル》も有哉《アレヤ》、あり堪《タフ》べくもなし、と云意なり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
4114 奈泥之故我《ナデシコガ》。花見流其等爾《ハナミルゴトニ》。乎登女良我《ヲトメラガ》。惠末比能爾保比《ヱマヒノニホヒ》。於母保由流可母《オモホユルカモ》。
 
歌(ノ)意は、瞿麥の花を出見るごとに、本郷の妻の、花艶《ハナ》やかなる咲顔《ヱマヒ》の、おもひ出られて、さても戀しく思はるゝ事かな、となり、
 
4115 佐由利花《サユリバナ》。由利母相等《ユリモアハムト》。之多波布流《シタバフル》。許己呂之奈久波《ココロシナクバ》。今日母倍米夜母《ケフモヘメヤモ》。
 
之多波布流《シタバフル》は、裏延《シタバフ》るなり、こゝは本郷にほどなく立かへりて、妻女にあはむと、あらまし、心裏におもひ居《スウ》る意なり、九(ノ)卷に、隱沼乃下延置而《コモリヌノシタバヘオキテ》、十四に、久毛利欲能阿我志多婆倍乎《クモリヨノアガシタバヘヲ》、○今日母倍米夜母《ケフモヘメヤモ》は、さても、今日一日も、堪て過し得むやは、といふなり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
(97)同《オヤジ》|閏五〔二字□で囲む〕|月二十六日《ツキノハツカマリムカノヒ》。大伴宿寝家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
閏五(ノ)字いたづらに重れり、削去べし、次下なるも同じ。
 
國掾久米朝臣廣繩《クニノマツリゴトヒトクメノアソミヒロナハ》。以《ニ》2天平二十年《テムヒヤウハタトセトイフトシ》1。附《ツキテ》2朝集使《マヰウゴナハルツカヒニ》1入《ノボリ》v京《ミヤコニ》。其事畢而《ソノコトヲハリテ》。天平感寶元年閏五月廿七日《テムヒヤウカムハウハジメノトシノチノサツキノハツカマリナヌカノヒ》。還2到《カヘル》本任《モトノツカサニ》1。仍長官之舘《カレカミノタチニ》。設詩酒宴樂飲《ウタゲアソベリ》。於時主人守大伴宿禰家持作歌一首并短歌《ソノトキアロジカミオホトモノスクネヤカモチガヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
朝集使は、四度使の一(ツ)なり、これは新年の賀儀に、のぼれるなるべし、式部式上に、凡太宰及國(ノ)司(ハ)、竝依(テ)v番朝(ノ)集(セヨ)、其史生(ハ)、不v在2朝集之限(ニ)1、自餘(ノ)雜事(ハ)竝聽(セ)2附申(スコトヲ)1、若目已上不v足者、聽(セ)2申v官差充(コトヲ)1、凡朝集使事了(テ)還(バ)國(ニ)者、皆待(テ)2神祇治部民部兵部等(ノ)移(ヲ)1、而後(ニ)録(シテ)2上日(ヲ)1申v官(ニ)請印(セヨ)、と見え、同式に、凡賀正之日(ニハ)、内外(ノ)諸司(ノ)五位以上解任之輩、未v得2解由(ヲ)1、(但宴會(ハ)不v在2聽限(ニ)1、五位郡(ノ)司亦同、)諸司(ノ)雜色人、諸國(ノ)四度使雜掌、及入京(ノ)郡司(ハ)皆聽(セ)2朝拜(スルコトヲ)1、即季冬(ノ)下旬、(大(ノ)月(ハ)廿八日、小(ノ)月(ハ)廿七日、)總(ヘ)2集(テ)諸司(ヲ)1、預(メ)令(メヨ)2習禮(セ)1、其(ノ)參議及二位以上(ハ)不v在2集例(ニ)1、ともあり、拾芥抄に、朝集堂、(應天門(ノ)内、會昌門(ノ)東西堂謂2之九間1、)と見えたり、○長官之舘(之(ノ)字、舊本に也と作るは誤なり、今は古寫本、類聚抄、拾穗本一本等に從つ、定家卿萬事には此(ノ)字なし、)は、國(ノ)守之館といふことなり、長官は、即(チ)守のことなればなり、
 
4116 於保支見能《オホキミノ》。末支能末爾末爾《マキノマニマニ》。等里毛知底《トリモチテ》。都可布流久爾能《ツカフルクニノ》。年内能《トシノウチノ》。許登可多禰母知《コトカタネモチ》。多末保許能《タマホコノ》。美知爾伊天多知《ミチニイデタチ》。伊波禰布美《イハネフミ》。也末古衣野由支《ヤマコエヌユキ》。(98)彌夜故敝爾《ミヤコヘニ》。末爲之和我世乎《マヰシワガセヲ》。安良多末乃《アラタマノ》。等之由吉我敝理《トシユキガヘリ》。月可佐禰《ツキカサネ》。美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》。故敷流曾良《コフルソラ》。夜須久之安良禰波《ヤスクシアラネバ》。保止止支須《ホトトギス》。支奈久五月能《キナクサツキノ》。安夜女具佐《アヤメグサ》。余母疑可豆良伎《ヨモギカヅラキ》。左加美都伎《サカミツキ》。安蘇比奈具禮止《アソビナグレド》。射水河《イミヅガハ》。雪消溢而《ユキゲハフリテ》。逝水能《ユクミヅノ》。伊夜末思爾乃未《イヤマシニノミ》。多豆我奈久《タヅガナク》。奈呉江能須氣能《ナゴエノスゲノ》。根毛己呂爾《ネモコロニ》。於母比牟須保禮《オモヒムスホレ》。奈介伎都都《ナゲキツツ》。安我末川君我《アガマツキミガ》。許登乎波里《コトヲハリ》。可敝利末可利天《カヘリマカリテ》。夏野能《ナツノヌノ》。佐由里能波奈能《サユリノハナノ》。花咲爾《ハナヱミニ》。爾布夫爾惠美天《ニフブニヱミテ》。阿波之多流《アハシタル》。今日乎波自米※[氏/一]《ケフヲハジメテ》。鏡奈須《カヾミナス》。可久之都禰見牟《カクシツネミム》。於毛我波利世須《オモガハリセズ》。
 
未伎能未爾未爾《マキノマニマニ》は、任之隨意《マキノマニマニ》なり、末伎《マキ》、末氣《マケ》の事は、此(ノ)上にいへり、末氣《マケ》は、令《セ》v罷《マカラ》の約りたる言にて、その官事に任ずる方につきていひ、未伎《マキ》は、罷《マカリ》の約りたる言にて、その官事に任ぜられたるを、承る方につきて云言なり、しかればこゝは、末氣《マケ》の隨意《マニ/\》といふべきを、末伎《マキ》と云るは、たがへるに似たれど、又通はしても云るなるべし、末伎《マキ》と云、未氣《マケ》と云(フ)は、依を與志《ヨシ》と云|與勢《ヨセ》と云|差別《ケヂメ》のごとし、しかれども、又これも、互に通はし云ることも、常なるを思べし、○等里毛知底《トリモチテ》は、官事を執(リ)持(チ)而なり、古事記上(ツ)卷に、思兼(ノ)神(ハ)者、取(リ)2持(チテ)前(ノ)事(ヲ)1爲v政、十七に、乎須久爾能許等登里毛知底《ヲスクニノコトトリモチテ》、とよめり、○許登可多禰母知《コトカタネモチ》は、事結持《コトカタネモチ》なり、可多禰《カタネ》は、契冲、江次第一に、被《ラル》v結《カタネ》、とあるを引て、結束の義にて、つかねあつむるこゝろなり、といへり、(又略解に、俗に、かたげると云こ(99)とを、北國にては、かたねるといふよしいへり、もし其(ノ)意ならば、此も負持義なるべし、なは考(フ)べし、)○伊波禰布美《イハネフミ》云々は、道路の艱難をいへり、○末爲之和我世乎《マヰシワガセヲ》は、參《マヰ》し吾兄《ワガセ》をなり、○美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》は、不《ヌ》v見《ミ》日數多《ヒマネミ》にて、佐《サ》は、眞《マ》に通ふそへことばなり、末禰美《マネミ》は、數多き故にと云意の古言なり、十七に、多麻保許乃美知爾伊泥多知和可禮奈婆見奴日佐麻禰美孤悲思家武可母《タマホコノミチニイデタチワカレナバミヌヒサマネミコヒシケムカモ》、とあり、集中にあまた見えたり、○故敷流曾良《コフルソラ》云々、このつゞき、集中にあまた處あり、○可豆良伎《カヅラキ》は、※[草冠/縵]《カヅラ》に爲《ス》るを云、上に、楊奈疑可豆良枳《ヤナギカヅラキ》、といへり、○左加美都伎《サカミヅキ》は、上に出たり、酒宴のことなり、○安蘇比奈具禮止《アソビナグレド》は、遊びて慰むれどもの意なり、○射水河《イミヅガハ》と云より下三句は、彌益《イヤマシ》をいはむとての章中の序なり、○雪消溢而《ユキケハフリテ》、上にも雪消益而《ユキケハフリテ》とあり、○多豆我奈久《タヅガナク》は、鶴之鳴《タヅガナク》なり、以下二句、慇懃《ネモゴロ》をいはむとての序なり、○牟須保禮《ムスホレ》は、結《ムス》ぼほれと云に同じ、○安我末川《アガマツ》は、吾待《アガマツ》なり、この川(ノ)字をツ〔右○〕の假字に用ひたること、集中には、たゞこの一處のみなり、續紀宣命并續後紀にも、あまた處に用ひ、文徳天皇實録にも見え、古本催馬樂譜にも多く用ひたり、こは前をクマ〔二字右○〕とよみ、椅をハシ〔二字右○〕とよみたるたぐひにて、津に此(ノ)字を用ひたりし事の有しから、假字にも用たるにて、其(ノ)義尋ねがたし、平假字のつ※[つの草体](カ)等の字も、川の極草なり、片假字のツ※[ツの草体]等の字もこれなり、(しかるを、鬥の草書なりと、岡部氏がいへるは、ひがことなり、又仲哀天皇(ノ)紀、四十六年及四十九年(ノ)條等に、州(ノ)字をツ〔右○〕の假字に用、又釋紀秘訓に、州音都と見えた(100)れば、川は州(ノ)字の省文なりと云説あり、これもさることながら、あまり理を推究め過て、かへりて上古のありさまにもとれり、唯その本の埋のしられぬは、しれずとしてさしおくこそ、平穩なれ、いはゆる前《クマ》、椅《ハシ》等の、其(ノ)本の埋究め難きこと、いくらとかぎるべからざるをや、さて又釋紀に、肥人書の事を云る條に、其(ノ)字皆用2假名(ニ)1、或其(ノ)字不v明(ナラ)、或乃川等明(ニ)見(ユ)之、とある、肥人書は、肥前肥後の一國中にて、古(ヘ)通(ハシ)用(ヒ)し、一體の文字在しを云ならむと云説、さることなり、さてしかれば、乃川等の字は、もとより御國に用習へる假宇なるを、たま/\肥(ノ)國人の、其(ノ)まゝとり用ひ、さて其(ノ)字不v明と云ものは、かの肥(ノ)國ばかりの通字を云るなり、しかるをこの肥人書の事につきて、種々まぎらはしき説等あれども、みな甘《アマ》なひがたき事なり、こは事のついでにいふのみ、)○許登乎波里《コトヲハリ》は、朝集の事竟(リ)なり、○可敝利末可利天《カヘリマカリテ》は、京を罷りて、任國に還到りたるを云、○爾布夫爾惠美天《ニフブニエミテ》、十六に吾兄子者二布夫爾咲而《ワガセコハニフブニヱミテ》、といへり、常ににこ/\と咲ふと云に同じ、○阿波之多流《アハシタル》は、逢在《アヒタル》の伸りたるにて、逢(ヒ)賜ひてある、と云むが如し、此は對《サキ》の人を敬ひていへるなり、(俗に御目にかゝりたる、と云に同じ、)○今日乎波自米底《ケフヲハジメテ》は、八(ノ)卷に、娘部思秋芽子交蘆城野今日乎始而萬代爾將見《ヲミナヘシアキハギマジルアシキノヌケフヲハジメテヨロヅヨニミム》、○鏡奈須《カヾミナス》は、見《ミル》をいはむためなり、奈須《ナス》は、如《ゴトク》と云意の古言なり、○於毛我波利世須《オモガハリセズ》、書紀に、不易面來《オモガハリセズマウク》、續後紀、承和三各遣唐使に詔ふ大命に、今日乃己止變顔容世須《ケフノゴトオモガハリセズ》、早還參來止之底奈母《ハヤカクカヘリマヰコトシテナモ》、御酒肴賜久止勅《ミキサカナタマハクトノリタマフ》、
 
(101)反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
4117 許序能秋《コゾノアキ》。安比見之末爾末《アヒミシマニマ》。今日見波《ケフミレバ》。於毛夜目都良之《オモヤメヅラシ》。美夜古可多人《ミヤコカタヒト》。
 
末爾末、舊本には、末末爾とあり、今は元暦本、古寫本等に從つ、○於毛夜目都良之《オモヤメヅラシ》は、契冲、面彌珍《オモヤメヅ》らしなり、といへり、(八(ノ)卷に、於毛也者將見《オモヤハミエム》、とよめるは、此と同言にて、共に面輪《オモワ》を通はして、於毛夜《オモヤ》といへるにもあるべきか、)○美夜古可多比等《ミヤコカタヒト》は、廣繩の京の方より還り來たる故に、都の方の人といへり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
4118 可久之天母《カクシテモ》。安比見流毛能乎《アヒミルモノヲ》。須久奈久母《スクナクモ》。年月經禮婆《トシツキヘレバ》。古非之家禮夜母《コヒシケメヤモ》。
 
古非之家禮夜母は、禮(ノ)字いかゞ、こはもと米などの字なりけむを、此(ノ)歌の經禮婆、また次の歌の、家禮婆の禮に見まがへて、寫し誤れるにこそあらめ、かにかくにコヒシケメヤモ〔七字右○〕となくては、例にも理にも、たがへることなり、○歌(ノ)意は、如此爲《カクシ》て、今日も亦本意の如く、相見ることのあるものを、然とも思ひ縱《ユル》さずして、數多《アマタ》の年月を經たれば、戀しく思ひしことの、少くてありけむやは、さてもそこばくに戀しく思はれしこと、となり、末(ノ)句は、四三五と屬けて心得べし、
 
聞《キヽテ》2霍公鳥喧《ホトトギスノネヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
4119 伊爾之敝欲《イニシヘヨ》。之怒比爾家禮婆《シヌヒニケレバ》。保等登伎須《ホトトギス》。奈久許惠伎吉※[氏/一]《ナクコヱキキテ》。古非之吉物(102)能乎《コヒシキモノヲ》。
 
歌(ノ)意、古へより、なべて人の慕ひ來し鳥なれば、吾も其(ノ)如く、今鳴こゑをきゝて、懽《ウレ》しく愛《ウツクシ》まるるものを、いかで戀しく思はずしてあるべき、となり、略解(ニ)云、按(フ)に、未(ダ)相見ずして、慕はしくおもひし人に逢てよめる、譬喩歌ならむ歟、
 
爲《タメ》d向《マヰデム》v京《ミヤコニ》之時《トキ》。見《ミ》2貴人《ウマヒトヲ》1。及|相《アヒテ》2美人《ヲトメニ》1飲宴之日《ウタゲセムヒ》。述《ノベム》uv懷《オモヒヲ》。儲作歌二首《アラカジメヨメルウタフタツ》。
 
見2貴人1、相2美人1は、相見の字を割て用ひたるにて、相も見の義ならむ、
 
4120 見麻久保里《ミマクホリ》。於毛比之奈倍爾《オモヒシナベニ》。加都良賀氣《カヅラカケ》。香具波之君乎《カグハシキミヲ》。安比見都流賀母《アヒミツルカモ》。
 
賀都良賀氣《カヅラカゲ》云々は、舊説に、桂陰《カヅラカゲ》とせり、桂の陰の馥《カグハ》しき、といひかけたりといはむは、ことわりなきにしもあらず、されど此は、岡部氏の、君《キミ》といへるは、美人《ヲミナ》をさすにて、玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》を掛《カケ》て、心細《ウラグハ》しき君《キミ》をと云ならむ、且《マタ》此(ノ)香具波之《カグハシ》の香《カ》は、香青《カアヲ》などの如く發言にて、細《クハシ》きとほめ云言なり、といへり、此(ノ)説に從べき歟、(都の清音の字を用(ヒ)たるを思へば、※[草冠/縵]にはあらで、桂なるべくもおぼゆれど、此(ノ)卷などは、ことに字の清濁は、正しからざること多ければ、一向にはたのみがたし、又本居氏は、十四に、安之比奇能夜麻可都良加氣麻之波爾母衣可多伎可氣乎於吉夜可良佐武《アシヒキノヤマカヅラカケマシハニモエカタキカゲヲオキヤカラサム》、とよめると同じく、山※[草冠/縵]日陰《ヤマカヅラヒカゲ》なり、といへれど、蘿《ヒカゲ》を、かづら陰とは、いふべくもなし、)○歌(ノ)(103)意、かくれたるところなし、此(ノ)歌は、題詞に、相2美人1とある、これにて、相見たるを深く懽びたるなり、
 
4121 朝參乃《マヰリノ》。伎美我須我多乎《キミガスガタヲ》。美受比左爾《ミズヒサニ》。比奈爾之須米婆《ヒナニシスメバ》。安禮故非爾家里《アレコヒニケリ》。
 
朝參乃は、マヰリノ〔四字右○〕と四言によむべし、と岡部氏云り、宮中へ參るをいふべし、雄略天皇(ノ)紀に、臣連伴(ノ)造毎(ニ)v日|朝參《ミカドマヰリセヨ》、舒明天皇(ノ)紀に、群卿及百寮朝參已懈《マヘツキミタチモヽノツカサミカドマヰリイタクオコタレリ》、自v今卯(ノ)始(ニ)朝《マヰリテ》之、巳(ノ)後(ニ)退《マカレ》之、因《カレ》以v鐘(ヲ)爲(ム)v節《トヽノヘト》、天武天皇(ノ)紀に、云々二人勿v使2朝參《ミカドマヰリ》1、また諸文武官(ノ)人、及畿内有v位人等、孟月(ニハ)必|朝參《ミカドマヰリセヨ》、などあり、(かくはあれど、こゝはミカドマヰリノ〔七字右○〕とは、よむべからねば、マヰリノと訓外なし、本居氏は、朝參は誤字なるべし、朝戸出《アサトデ》などにや、といへり、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、此は題詞に、見2貴人(ヲ)1とあるにあたれり、○舊本註に、一頭云波之吉與思伊毛我須我多乎、とあり、かくては、此も美人をよめる歌とすべし、
 
同《オヤジ》閏五〔二字□で囲む〕月二十八日《ツキノハツマリヤカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
天平感寶元年閏五月六日以來《テムヒヤウカムハウハジメノトシノチノサツキノムカノヒヨリ》起《シテ》2少旱《ヒデリ》1。百姓田畝《オホミタカラノウヱシタ》稍《ヤヽ》有《アリ》2凋色《シボメルイロ》1也。至《イタリテ》2于|六月朔日《ミナツキノツキタチノヒニ》1。忽《タチマチニ》見《ミ》2雨雲之氣《アマケノクモヲ》1仍(テ)作雲歌一首《ヨメルウタヒトツ》。【短歌一絶。】
 
起は越の字の誤ならむか、(略解には、赴の誤か、といへり、いかゞ、)○稍(ノ)字、官本には稻と作り、○也(ノ)字、官本にはなし、○六月の上、官本には今(ノ)字あり、○短歌の上、官本、類聚抄、拾穗本等並定家(104)卿の萬事に、并(ノ)字あり、
 
4122 須賣呂伎能《スメロキノ》。之伎麻須久爾能《シキマスクニノ》。安米能之多《アメノシタ》。四方能美知爾波《ヨモノミチニハ》。宇麻乃都米《ウマノツメ》。伊都久須伎波美《イツクスキハミ》。布奈乃倍能《フナノヘノ》。伊波都流麻泥爾《イハツルマデニ》。伊爾之敝欲《イニシヘヨ》。伊麻乃乎都頭爾《イマノヲツツニ》。萬調《ヨロヅツキ》。麻都流都可佐等《マツルツカサト》。都久里多流《ツクリタル》。曾能奈里波比乎《ソノナリハヒヲ》。安米布良受《アメフラズ》。日能可左奈禮婆《ヒノカサナレバ》。宇惠之田毛《ウヱシタモ》。麻吉之波多氣毛《マキシハタケモ》。安佐其登爾《アサゴトニ》。之保美可禮由苦《シホミカレユク》。曾乎見禮婆《ソヲミレバ》。許己呂乎伊多美《ココロヲイタミ》。彌騰里兒能《ミドリコノ》。知許布我其登久《チコフガゴトク》。安麻都美豆《アマツミヅ》。安布藝弖曾麻都《アフギテソマツ》。安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻能多乎理爾《ヤマノタヲリニ》。許能見油流《コノミユル》。安麻能之良久母《アマノシラクモ》。和多都美能《ワタツミノ》。於枳都美夜敝爾《オキツミヤヘニ》。多知和多里《タチワタリ》。等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》。安米母多麻波禰《アメモタマハネ》。
 
四方能美知《ヨモノミチ》とは、此《コヽ》は日經《ヒノタテ》、日緯《ヒノヨコ》、影面《カゲトモ》、背面《ソトモ》を、汎《ヒロ》く四道《ヨモノミチ》といへるなるべし、成務天皇(ノ)紀に、以2東西(ヲ)1爲2日縱《ヒノタテト》1、南北(ヲ)爲2日横《ヒノヨコト》1、山陽《ヤマノミナミヲ》曰2影面《カゲトモ》1、山陰《ヤマノキタヲ》曰2背面《ソトモト》1、とあるこれなり、(これを七道に割て云ときは、東西は、東山道、東海道、西海道なり、南北は、南海遺、北陸道なり、山陽は、山陽道なり、山陰は、山陰道なり、こゝにいへる四道は、右の七道の中の、四道をいへるにはあらず、)書紀に、崇神天皇十年秋七月、詔《ノリ》2群卿《マヘツキミニ》1曰《タマハク》云々、其|選《サシテ》2群卿(ヲ)1遣(シ)2于|四方《ヨモニ》1、令(ヨ)v知(ラ)2朕(ガ)意(ヲ)1云々、九月以v某遣(シ)2北陸(ニ)1、某(ヲ)遣(シ)2東海(ニ)1、某(ヲ)遣(シ)2西道(ニ)1、某(ヲ)遣(ス)2丹波(ニ)1、云々、冬十月、詔2群臣(ニ)曰、云々、其|四道將軍等《ヨモノミチノイクサノキミタチ》、今忽發之《ハヤクタチテヨ》、これは北陸は、北陸道(105)なり、東海は東海道にて東山道を兼治(メ)しめ、西道は、西海道にて、南海道、山陽道を兼治しめ、丹波は、山陰道を治しめたまへるにやあらむ、○宇麻乃都米《ウマノツメ》は、馬爪《ウマノツメ》なり、廿(ノ)卷に、牟麻能都米都久志能佐伎爾《ムマノツメツクシノサキニ》云々、○伊都久須伎波美《イツクスキハミ》とは、伊《イ》は、例のそへことばにて、盡《ツク》す極《キハミ》なり、又按(フ)に、都久須《ツクス》は、令《ス》v衝《ツカ》を轉(ツ)しいへるか、令《シ》v衝《ツカ》至《イタ》る極《キハミ》といふにや、○布奈乃倍能《フナノヘノ》は、舟舳之《フナノヘノ》なり、○伊波都流麻泥爾《イハツルマデニ》、これも伊《イ》はそへことばにて、泊※[しんにょう+台]《ハツルマデ》になり、祈年祭(ノ)祝詞に、青海原者《アヲウナハラハ》、棹揖不干《サヲカヂホサズ》、舟舳能至留極《フナノヘノイタリトヾマルキハミ》、大海爾舟滿都々氣弖《オホウミニフネミチツヾケテ》、自《ヨリ》v陸《クガ》往道者《ユクミチハ》、荷緒縛堅※[氏/一]《ニノヲユヒカタメテ》、磐根木根履佐久彌※[氏/一]《イハネコノネフミサクミテ》、馬爪至留限長道《ウマノツメノイタリトヾマルカギリナガチ》無《ナ》v間《マ》久立都々氣弖《クタチツヾケテ》、○伊麻乃乎都頭爾《イマノヲツツニ》は、今之現《イマノウツヽ》になり、頭の濁音(ノ)字を用(ヒ)たるは、正しからず、清て唱(フ)べし、○萬調麻都流都可佐等《ヨロヅツキマツルツカサト》は、諸々の貢調《ミツキ》の中に、稻はその長上《ツカサ》なればいへり、○奈里波比《ナリハヒ》は、農業《ナリハヒ》なり、百姓の農業《ナリハ》ひ耕作《ツクレ》る田《タ》及(ヒ)陸田《ハタ》もの謂なり、○波多氣《ハタケ》、和名抄に、續捜神紀(ニ)云、江南(ノ)畠種v豆(ヲ)、畠一(ニ)云、陸田、和名|八太介《ハタケ》、また※[田+漢の旁](ハ)玉篇(ニ)耕麥也、唐韻(ニ)、※[田+漢の旁]耕田※[土+龍]、日本紀師説(ニ)、八太介《ハタケ》、また火田(ハ)、漢語鈔(ニ)云、也以八太《ヤイハタ》、※[田+樛の旁](ハ)、漢語鈔(ニ)云、也以八太《ヤイハタ》、なども見えたり、波多氣《ハタケ》は、陸田毛《ハタケ》の義なるべし、と中山(ノ)嚴水説り、(毛《ケ》は、すべて草木(ノ)類をいふべし、私記に、古者謂(テ)v木《キヲ》爲(リ)v介《ケト》、故(レ)今云(フ)2神今食《カムイマケト》1者《ハ》、古(ハ)謂(ヒキ)2神今木《カムイマケト》1矣、とあり、これは、今|神今食《カムイマケ》、と字に書を、古(ヘ)は神今木《カムイマケ》と書しと云ことなり、故(レ)木を介《ケ》と云ことの證とせるなり、改(テ)2山背(ヲ)1謂2山城(ト)1、と云るごときも、山背の字を改て、山城と書と云意なると、同じ例なり、さて古(ヘ)に木を氣《ケ》といへる例は、これかれあり、又草を氣《ケ》と云ることは、(106)苔《コケ》、菅《スゲ》、大角豆《ササゲ》、菌《タケ》など、草(ノ)名に氣《ケ》といへることの多きも、毛《ケ》の意なるべし、素素盞嗚(ノ)尊の鬚髯《ミヒゲ》杉《スギ》となり、胸毛《ミムナケ》檜《ヒノキ》となり、尻毛《ミシリケ》※[木+皮]《マキ》となり、眉毛《ミマヨノケ》※[木+豫]樟《クス》となれるより、木を毛《ケ》と云ことなり、と思ふ人もあるべけれど、それまではあらずて、大地に生る草木は、人畜の身の毛と同じきによりて、古(ヘ)は毛《ケ》といひしにこそあらめ、かくて陸田《ハタ》に種生《マキオホ》したる豆麥(ノ)類を、陸田毛《ハタケ》と云より轉りて、遂に其種る地を、稱《イフ》ことゝなれるなるべし、)○之保美可禮由苦《シホミカレユク》、(毛詩に、無2草未1v死《カレ》、無2木不1v萎《シホマ》、)續紀に、慶雲二年六月丙子、太政官奏(スラク)、比日亢旱(シテ)田園|※[火+焦]萎《カレシホミヌ》、養老六年秋七月丙子、詔曰、奉(テ)2幣(ヲ)名山(ニ)1、奠2祭(スレドモ)神祇(ヲ)1、甘雨未v降(ラ)、黎元失(ヘリ)v業(ヲ)、朕(ガ)之薄徳致(セル)2于此(ヲ)1歟《カ》、百姓何(ノ)罪(アリテカ)※[火+焦]萎《カレシホムコト》甚(シキ)矣、なども見ゆ、○曾乎《ソヲ》は、其《ソレ》をなり、○知許布我其登久《チコフガゴトク》は、乳《チ》を欲《ホシ》がりて乞(フ)が如くになり、○安麻都美豆《アマツミヅ》云々、雨は天雲《アマクモ》の中より降れるなれば、やがて天津水《アマツミヅ》と云、和名抄に、雨(ハ)、説文(ニ)云、水從(シテ)2雲中1而下(ル)也、和名|阿女《アメ》、景行天皇(ノ)紀に、山神之興v雲(ヲ)零v水(ヲ)、などあり、二卷に、大船之思憑天水仰而待爾《オホブネノオモヒタノミテアマツミヅアフギテマツニ》、(此(ノ)二(ノ)卷なるは、今の歌と同じつゞけながら、待をいはむとて、天津水《アマツミヅ》を、枕詞に設けたるなり、今の歌は、直にその天水《アマツミヅ》を仰(ギ)待(ツ)意なり、)十四に、可奈刀田乎安良我伎麻由美比賀刀禮婆阿米乎萬刀能須伎美乎等麻刀母《カナトタヲアラガキマユミヒガトレバアメヲマトノスキミヲトマトモ》、○夜麻能多乎理爾《ヤマノタヲリニ》、十三に、高山峯手折丹射目立十六待如《タカヤマノミネノタヲリニイメタテヽシヽマツガゴト》、とよめり、今は、雨雲の、高山の峯岫などにかゝれるを見て、いへるなるべし、○許能見由流《コノミユル》は、彼所見《カノミユル》といふが如し、目(ノ)前に所v見|彼《カ》の白雲、といふ意につゞきたり、源氏物語紅葉(ノ)賀、御門の御詞の中に、この見ゆ(107)る女房にまれ、又こなたかなたの人々など云々、○和多都美能於枳都美夜敝爾《ワタツミノオキツミヤヘニ》は、海神之奥津宮邊《ワタツミノオキツミヤヘ》になり、神代紀(ノ)上に、已而天照大神、則以(テ)2八坂瓊之曲玉1、浮2寄(テ)於天(ノ)眞名井(ニ)1、噛(ミ)2斷(チ)瓊端(ヲ)1、而吹(キ)出(ル)氣噴之中化生《イブキノミナカニナリマセル》神(ヲ)、號(ス)2市杵島姫(ノ)命(ト)1、是|居《マス》2于|遠瀛《オキツミヤニ》1者《カミナリ》也、これは、海濱《ヘツミヤ》、また中瀛《ナカツミヤ》といへるに對へて、市杵島姫(ノ)命の坐(ス)宮を、奥津宮《オキツミヤ》といへるなり、此所《コヽ》に云るは、海神(ノ)宮なり、○等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》は、棚陰合而《タナグモリアヒテ》、と云に同じ、○安米母多麻波禰《アメモタマハネ》は、海神に希ふなり、古事記上海(ノ)宮條に、綿津見(ノ)大神誨曰云々、其(ノ)兄作(ラ)2高田《アゲタヲ》1者《バ》、汝(ガ)命(ハ)營(リタマヘ)2下田《クボタヲ》1、其兄作(ラ)2下田(ヲ)1者《バ》、汝(ガ)命(ハ)營(リタマヘ)2高田(ヲ)1、爲v然者、吾《アレ》掌《シレル》v水(ヲ)故(ニ)、三年(ノ)間(ニ)、必(ズ)其(ノ)兄|貧窮《マヅシクナリナム》云々、と見えたる如く、海(ノ)神水を掌(リ)賜ふ故に、雨を乞つるなり、と本居氏云り、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4123 許能美由流《コノミユル》。久毛保妣許里弖《クモホビコリテ》。等能具毛理《トノグモリ》。安米毛布良奴可《アメモフラヌカ》。己許呂太良比爾《ココロダラヒニ》。
 
久毛保妣許里弖《クモホビコリテ》は、雲流而《クモハビコリテ》なり、○安來母布良奴可《アメモフラヌカ》は、雨もがな降(レ)かし、と望《ネガ》ふなり、○許己呂太良比爾《ココロダラヒニ》、上にも、老人毛女童兒毛《オイヒトモメノワラハコモ》、之我願心太良比爾《シガネガフコヽロダラヒニ》、撫治賜婆《ナデタマヒヲサメタマヘバ》云々、とあり、心に飽足ばかりに、といふ意なり、○歌(ノ)意は、高山の峯岫にかゝりて見ゆる彼(ノ)雨雲が、流《ハビコ》り棚陰合《タナグモリアヒ》て、百姓の心に飽足ばかりも、雨もがな降(レ)かし、となり、
 
(108)右二首《ミギノフタウタハ》。六月一日晩頭《ミナツキノツキタチノヒノユフグレ》。守大伴宿爾家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
賀《ヨロコブ》2雨落《アメヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
4124 和我保里之《ワガホリシ》。安米波布里伎奴《アメハフリキヌ》。可久之安良婆《カクシアラバ》。許登安氣世受杼母《コトアゲセズトモ》。登思波佐可延牟《トシハサカエム》。
 
和我保里之《ワガホリシ》は、吾欲《ワガホリ》しなり、○許登安氣世受杼母《コトアゲセズトモ》は、雖《トモ》v不《ズ》2言擧《コトアゲセ》1なり、言擧《コトアゲ》は、既く出たり、言に擧ていひたつるをいふ言なり、此《コヽ》は神祇にねぎごとするを、もはらといふなるべし、杼は濁音(ノ)字なるを、こゝに用たるは、正しからず、○登思波佐可延牟《トシハサカエム》は、年者《トシハ》將《ム》v榮《サカエ》なり、年《トシ》とは、五穀の中に專ら稻をいふ、祈年祭(ノ)祝詞に、御年皇神等能前爾白久《ミトシノスメカミタチノマヘニマヲサク》、皇神等能依左志奉牟奥津御年乎《スメカミタチノヨサシマツラムオキツミトシヲ》、手肱爾水沫畫垂《タナヒヂニミナワカキタリ》、向股爾泥畫寄※[氏/一]《ムカモヽニヒヂカキヨセテ》、取作牟奥津御年乎《トリツクラムオキツミトシヲ》、八束穗能伊加志穗爾《ヤツカホノイカシホニ》、皇神等能依左志奉者《スメカミタチノヨサシマツラバ》、とあるも、稻《イネ》を御年《ミトシ》といへるなり、(即(チ)祈年《トシコヒ》といふも、穀の豐熟を祈るよしの稱《ナ》、御年《ミトシノ》神と申すも、穀を掌(リ)賜ふゆゑの御稱《ミナ》ぞ、)本居氏云、年《トシ》は田寄《タヨシ》なり、然云(フ)故は、まづ登志《トシ》とは、穀のことなる、其は神の御靈《ミタマ》もて、田に成して、天皇に寄(シ)奉(リ)賜ふ故に云(ヘ)り、田より寄《ヨ》すと云こゝろにて、穀を登志《トシ》とはいふなり、(多與《タヨ》の切|登《ト》、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギヒトウタハ》。同月四日《オヤジツキノヨカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
七夕歌一首并短歌《ナヌカノヨノウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(109)4125 安麻泥良須《アマテラス》。可未能御代欲里《カミノミヨヨリ》。夜洲能河波《ヤスノガハ》。奈加爾敝太弖弖《ナカニヘダテテ》。牟可比太知《ムカヒタチ》。蘇泥布利可波之《ソデフリカハシ》。伊吉能乎爾《イキノヲニ》。奈氣加須古良《ナゲカスコラ》。和多里母理《ワタリモリ》。布禰毛麻宇氣受《フネモマウケズ》。波之太爾母《ハシダニモ》。和多之※[氏/一]安良波《ワタシテアラバ》。曾乃倍由母《ソノヘユモ》。伊由伎和多良之《イユキワタラシ》。多豆佐波利《タヅサハリ》。宇奈我既里爲※[氏/一]《ウナガケリヰテ》。於毛保之吉《オモホシキ》。許登母加多良比《コトモカタラヒ》。奈具左牟流《ナグサムル》。許己呂波安良牟乎《ココロハアラムヲ》。奈爾之可母《ナニシカモ》。安吉爾之安良禰波《アキニシアラネバ》。許等騰比能《コトドヒノ》。等毛之伎古良《トモシキコラ》。宇都世美能《ウツセミノ》。代人和禮毛《ヨノヒトワレモ》。許己乎之母《ココヲシモ》。安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》。往更《ユキカハル》。年波其登爾《トシノハゴトニ》。安麻乃波良《アマノハラ》。布里左氣見都追《フリサケミツツ》。伊比都藝爾須禮《イヒツギニスレ》。
 
安麻泥良須《アマテラス》云々云々、天照大御神《アマテラスオホミカミ》の御代より、と云なり、○夜洲能河波《ヤスノガハ》は、天の安河なり、既くあまた出たり、○奈加爾敝太弖弖《ナカニヘダテテ》云々、十(ノ)卷にも、乾坤之初時從天漢射向居而《アメツチノハジメノトキニアマノガハイムカヒヲリテ》云々、同卷の次上にも、久方天印等水無河隔而置之神世之恨《ヒサカタノアメノシルシトミナシガハヘダテテオキシカミヨシウラメシ》、などよめり、○伊吉能乎爾《イキノヲニ》は生之緒《イキノヲ》になり、命にかけて嘆くよしの云つゞけなり、○奈氣加須古良《ナゲカスコラ》は、嘆(キ)賜ふ子等《コラ》と云意にて、織女をさせり、○和多理母理《ワタリモリ》、十(ノ)卷に出たり、和名抄に、日本紀(ニ)云渡子、和名、和多之毛利《ワタシモリ》、一(ニ)云|和太利毛利《ワタリモリ》、○布禰毛麻宇氣受《フネモマウケズ》、此所にて、しばらく絶て心得べし、○辭曾乃倍由母《ソノヘユモ》は、自《ユ》2其上《ソノヘ》1もなり、母《モ》は、心まゝなることは、かなはずとも、せめて、といふ意に用たる辭なり、○伊由伎和多良之《イユキワタラシ》とは、伊《イ》は、例のそへことば、往渡《ユキワタラ》しにて、渡り往(キ)賜ひ、といはむが如し、○多豆佐波利《タヅサハリ》は、〓《タヅサハリ》り、○宇奈我既利(110)爲※[氏/一]《ウナガケリヰテ》は、男女|頸《ウナジ》に互に手をかけ合(セ)て居るを云なり、是を轉しては、いとちかくそひ居ることにもいふなり、と岡部氏(ノ)説なり、古事記上卷に、八千矛(ノ)神、將v婚2高志(ノ)國之沼河比賣(ニ)1云々、如此歌、即(チ)爲(シ)2宇岐由比1而《テ》、宇那賀氣理弖《ウナガケリテ》、至v今鎭坐也、宇都保物語にも、うながけり親のなでやしなひたまひしときは云々、とあり、○等毛之伎古良《トモシキコラ》は、乏子等《トモシキコラ》にて、織女をさせり、等毛之伎《トモシキ》は、乏少《トモシクスクナ》き意、言問(ヒ)交《カハ》すことの、乏《トモシ》く少き《スクナ》謂なり、○許己乎之母《ココヲシモ》(乎(ノ)字、舊本に、宇と作るは誤寫なり、今改つ、)は、此《コレ》をなり、之母《シモ》は、多かる物の中を、とり出ていふ辭なり、○安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》は、妙《アヤ》に奇《クスシ》みなり、安夜爾《アヤニ》の詞は、既く三(ノ)卷に委(ク)註り、(略解に、あやには嘆(ク)詞ぞと云るは、あたらぬことなり、)奇《クスシ》みは、めづらしくあやしさに、といふが如し、十九に、久須婆之伎《クスハシキ》とあるも、同言なり、又書紀に、奇(ノ)字をクシビ〔三字右○〕とよめるも同じ、續紀、稱徳天皇(ノ)詔に、特爾久須之久《コトニクスシク》、事乎思議許止極難之《コトヲオモヒハカルコトキハマリテカタシ》、などあり、(又源氏物語に、ほうけづきくすしからむ、枕册子に、物いみなどくすしうするものゝ、宇治拾遺に、物いみじくすしくいむやつは、などあるをはじめて、すべて中古の書に、くすしと云るは、言の樣いたくたがへり、これも本は同言なるべけれど、後に轉りたるものなるべし、)○年能波其登爾《トシノハゴトニ》、十九に、毎年謂2之|等之乃波《トシノハト》1、家持(ノ)卿の自註ありて、年乃波《トシノハ》と云に、毎年の意は具りたるを、かくいへるは、木末之未《コヌレノウレ》、奥方之方《オキヘノカタ》、などいへる類なるべし、○伊比都藝爾須禮《イヒツギニスレ》は、代々言繼《ヨヽイヒツギ》に爲《ス》れ、となり、さてこの終(ノ)句、禮《レ》と踏《トヂ》めたるは、上の許己乎之母《ココヲシモ》とある、之(111)母《シモ》の辭、許曾《コソ》に通ふゆゑなり、と本居氏(ノ)説詳(ラ)なり、(詞(ノ)玉緒に見ゆ、)
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
4126 安麻能我波《アマノガハ》。波志和多世良波《ハシワタセラバ》。曾能倍由母《ソノヘユモ》。伊和多良佐牟乎《イワタラサムヲ》。安吉爾安良受得物《アキニアラズトモ》。
 
波志和多世良波《ハシワタセラバ》は、橋を渡して有ばの意なり、○伊和多良佐牟乎《イワタラサムヲ》は、渡り賜て相見賜はむを、となり、伊《イ》は例のそへことばなり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
4127 夜須能河波《ヤスノガハ》。許牟可比太知弖《イムカヒダチテ》。等之乃古非《トシノコヒ》。氣奈我伎古良河《ケナガキコラガ》。都麻度比能欲曾《ツマドヒノヨソ》。
 
許牟可比太知弖は、(來向立而《コムカヒタチテ》なりと云説は、説に足ず、又岡部氏が、許は、此《コ》にて、此《コヽ》よりを、許由《コユ》といふに同じかるべし、といへるも、いかゞ、若(シ)其(ノ)意ならば、許由向立而《コユムキタチテ》、などやうになくては、言|足《タラ》はぬことなるをや、)今按(フ)に、許は、伊を草書にて、※[仔の草書]とかけるを、※[許の草書]と見て寫し誤りたるものなるべし、さらば、イムカヒタチテ〔七字右○〕と訓べし、伊《イ》は、例のそへことばにて、向立而《ムカヒタチテ》なり、十卷にも 天漢已向立而《アマノガハイムカヒタチテ》、又、天漢射向居而《アマノガハイムカヒヲリテ》、などあり、○等之能古非《トシノコヒ》は、年中の戀といふ意なり、一年にたゞ一夜あへば云り、十(ノ)卷に、年之戀今夜盡而《トシノコヒコヨヒツクシテ》、とよめり、○氣奈我伎古良河《ケナガキコラガ》は、來經長子等之《ケナガキコラガ》なり、月日長く、戀しく思ひ交《カハ》したる子等がの謂なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
(112)右七月七日《ミギフミヅキノナヌカノヒ》。仰2見《ミテ》天漢《アマノガハヲ》1。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
越前國掾大伴宿爾池主《コシノミチノクチノクニノマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガ》。來贈戯歌四首《オクレルタハレウタヨツ》。
 
忽辱(クス)2恩賜(ヲ)1。驚(キ)欣(ブコトノ)已深(シ)。心(ノ)中(ニ)含(ミ)v咲(ヲ)。獨座(テ)稍開(ケバ)。表裏不v同(カラ)。相違何異(レル)。推(シ)2量(ルニ)所由《ソノユヱヲ》1。率爾(ニ)作(ス)v策(ヲ)歟。明(ニ)知(ヌ)v如(キコトヲ)v言(ノ)。豈有(メ)2他(ノ)意1乎《ヤ》。凡貿2易(スル)本物(ヲ)1。其(ノ)罪不v輕(カラ)。正贓倍贓。宜2急并滿1。今勒(シテ)2風雲(ニ)1。發2遣《オクル》徴使(ヲ)1。早速返報(シタマヘ)。不v須(カラ)2延回(シタマフ)1。
 勝寶元年十一月十二日。物所(ル)2貿易(セ)1下吏。謹(テ)訴(フ)2
 貿易(ノ)人斷(ル)廳官司(ノ) 廳(ノ)下(ニ)1。
 
忽辱云々は、思ひかけなく、賜《タマモ)》にあづかれるに、鴛きてよろこぶなり、○表裏云々は、針袋のことなり、池主より、家持(ノ)卿の方へ、針袋を縫せて賜はれとて、絹を贈られたるを、それにまされる絹に取かへて、縫(ハ)せておこされしなるべし、それを表裏不v同相違何異(レル)と云て、とがめたる意なるべし、○推2量所由1云々は、ことのゆゑよしを推量るに、率爾に貿易の謀をなせるもの歟、といふなるべし、策は、玉篇に、謀也とある、其(ノ)意なり、○明知v如v意(如(ノ)字、舊本に加と作るは誤なり、今改つ、)云々は、池主が推量の言の如くなること、明かに知(ラ)れたり、豈有2他意1乎、外のわけにてはあらじ、となり、○凡と云より下は、甚じき戯言なり、○貿2易本物1云々は、池主よりおくれる絹を、取かへたるをいふなるべし、これによりて、其罪不v輕ととがむるなり、かやうに云(113)て、實は深く欣ぶ下心をあらはしたり、貿は、説文に易v財也とあり、本物は、名例律に、贓(ハ)謂盗八虐之贓、見(ニ)獲2本物(ヲ)1、とあり、池主よりあつらへおくれる本の物を、貿易《トリカヘ》たるよしなり、○正贓倍贓云々、正贓は、盗るものを、其(ノ)まゝにて償《ツクノ》はすることなり、倍贓とは、其(ノ)物、他人へ渡り失ぬれば、倍《マ》して償《ツクノ》はすることにて、たとへば盗める物數五(ツ)なれば、十にて償はすることなり、捕亡令、獄令義解、名例律等に見えたり、○宜2急并滿1(急(ノ)字、古寫本には、忽と作り、忽(ノ)字なるべし、)とは、正贓と倍贓とを、一(ツ)に并べて、急につくのへといふ義にやあらむ、○今勒2風雲1とは、書牘に記しておくるをいふにや、○發2遣徴使1とは、贓贖をせめ徴る使を、差立るをいふべし、○延回は延引と云に同じ、○勝寶元年、續紀に、聖武天皇感寶元年七月甲午、皇太子受(タマフ)v禅(ヲ)、是(ノ)日改(テ)2感寶元年(ヲ)1、爲2勝寶元年(ト)1、○物所2貿易1下吏は、我(ガ)物を、人に取かへられたる下吏にて、池主なり、○謹訴2貿易人云々1、貿易人は、人の物を引たがへたる盗人にて、家持(ノ)卿の方人のよしなり、斷官司は、やがて、家持(ノ)卿にて、盗人は方人なれば、其を家持(ノ)卿へ訴る樣に書なしたり、○廳下、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、廳(ハ)延v賓(ヲ)屋也、人衙也、萬豆利古止々乃《マツリゴトヽノ》、
 
別白(ス)。可怜《ウツクシミ》之意。不《ズ》v能《エ》2黙止(リ)1。聊|述《ヨミテ》2四詠《ヨウタヲ》1。唯擬(ス)2睡覺(ニ)1。
 
白(ノ)宇、舊本に日と作るは誤なり、今は一本に從つ、○可怜之意は、家持(ノ)卿の情意の厚きを、愛ていふべし、○唯擬2睡覺1(唯(ノ)字、舊本に准と作るは誤なり、今は一本、活本等に從つ、)は、目さましぐ(114)さになずらふ、となり、
 
4128 久佐麻久良《クサマクラ》。多比能於|伎〔○で囲む〕奈等《タビノオキナト》。於母保之天《オモホシテ》。波里曾多麻敝流《ハリソタマヘル》。奴波牟物能毛賀《ヌハムモノモガ》。
 
多妣能於伎奈等《タビノオキナト》云々は、池主を、旅《タビ》の翁《オキナ》と所思《オモホ》して、と自《ミヅカラ》云(フ)なり、旅のやつれに、衣服《コロモ》のほころびやぶるれば、其を縫む料にとおもほしてたまへるなり、といふ意にてよめり、廿(ノ)卷武藏(ノ)國防人(ガ)妻(ノ)歌に、久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆《クサマクラタビノマルネノヒモタエバ》、安我弖等都氣呂許禮乃波流母志《アガテトツケロコレノハルモシ》、(此之針以《コレノハリモチ》なり、)○奴波牟物能毛賀《ヌハムモノモガ》(賀(ノ)字、舊本に負と作るは誤なり、今は元暦本に從つ、)は、針は賜りてあれど、今縫つゞるべき衣も吾(ガ)身になければ、同じくは、其(ノ)縫(フ)べき衣もがな賜はれかし、と希ふなるべし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、池主より、家持(ノ)卿へ、針袋を縫せて賜らむことを、乞(ヒ)につかはしたれば、針をも入(レ)て賚《オコ》せしゆゑに、かくよめるなるべし、
 
4129 芳理夫久路《ハリブクロ》。等利安宜麻敝爾《トリアゲマヘニ》。於吉可邊佐倍波《オキカヘサヘバ》。於能等母於能夜《オノトモオノヤ》。宇良毛都藝多利《ウラモツギタリ》。
 
芳理夫久路《ハリブクロ》は、鍼嚢《ハリブクロ》なり、鍼を入る嚢なり、○可邊佐倍波《カヘサヘバ》は、裏《ウラ》の方を反《カヘ》して見れば、と云意なるべし、○於能等母於能夜《オノトモオノヤ》は、岡部氏(ノ)説に、表《オモテ》も表《オモテ》よなりといへり、(契冲は、己(レ)が袋とも己(レ)が袋ともやとなり、と云れどいかゞ、)○都藝多利《ツギタリ》は、色々の切(レ)をもて、續(ギ)合せて作《ツク》れるを賞《メヅ》るなり、(115)今(ノ)世にも、袋は然するなり、と本居氏云り、○歌(ノ)意は、賚《タマハ》りし針袋を取(リ)掲《アゲ》て、前に置て、裏の方をかへして見れば、さて/\よき袋かな、表《オモテ》も表《オモテ》にて、裏《ウラ》さへも、種々《クサ/”\》の絹を繼(ギ)交(ヘ)て、うるはしく宜しく縫(ヒ)製らせて賜へりと、美たるなるべし、(略解に、裏さへに綴てわろき袋かな、といへるなるべし、といへるは、表裏《ウラウヘ》の違あり、いかゞ、)
 
4130 波利夫久路《ハリブクロ》。應婢都都氣奈我良《オビツヅケナガラ》。佐刀其等邇《サトゴトニ》。天良佐比安流氣騰《テラサヒアルケド》。比等毛登賀米受《ヒトモトガメズ》。
 
應婢都都氣奈我良《オビツヅケナガラ》は、契冲、帶續《オビツヾケ》ながらなりといへり、其(ノ)袋は、唯一(ツ)のみなるまじければ、帶(ビ)續けといへるにや、和名抄行旅(ノ)具に、唐韻(ニ)云、〓(ハ)嚢之可v帶(フ)也、和名|於比不久呂《オビフクロ》、○天良佐比安流氣騰《テラサヒアルケド》は、契冲云、天良佐比《テラサヒ》は、照《テラ》しなり、錦やうのものを、表《オモテ》とせられければ、光彩あるゆゑに、てらさひあるくとはいへる歟、又衒の字にて、てらひあるけどゝいふこゝろ歟、これを見よかしといはぬばかりにするを、てらひあるくといふべし、といへり、今按(フ)に、初の照《テラシ》の説然るべし、さて照《テラ》しを、天良佐比《テラサヒ》と云は、餘《フマ》しを、安麻佐比《アマサヒ》と云と同格にて、言を緩《ノド》めていへるなり、○比等毛登賀米受《ヒトモトガメズ》は、契冲、過分の針袋なれど、越中(ノ)守殿より給りたりと聞て、人もとがめぬなり、又みづから旅の翁とよみたれば、行平の、翁さび人なとがめそ、とよめるやうに、分に應ぜねど、翁さびすと見て、人もとがめずといへる歟、といへり、後の説|可《ヨカ》らむ歟、○歌(ノ)意は、わが分際(116)には、不相應なるまで、うつくしく目につく針袋を、帶(ビ)續けながら、里毎に照かゞやかしてあるけど、今は吾身も老衰ねれば、老のすさみと思ひゆるして、人も殊にとがめずといふなるべし、催馬樂に、庭におふるからなづなは、よきななり、はれ、宮人のさぐる袋をおのれさげたり、
 
4131 等里我奈久《トリガナク》。安豆麻乎任之天《アヅマヲサシテ》。布佐倍之爾《フサヘシニ》。由可牟登於毛倍騰《ユカムトオモヘド》。與之母佐禰奈之《ヨシモサネナシ》。
 
布佐倍之爾《フサヘシニ》は、〈物の人に合應《アヒカナヒ》て幸あるを、布佐布《フサフ》と云(ヘ)ば、此は幸を得むとしてと云意なり、とする説は、此(ノ)歌に所由《ヨシ》なし、)今村(ノ)樂(ガ)説に、倍之《ヘシ》の約|比《ヒ》なれば、布佐布爾《フサヒニ》なり、さて布佐比《フサヒ》とは、今も我(ガ)身の上をほこり自慢するを、ふさると云に同じといへり、今按(フ)に、若(シ)は布は、於の誤寫にはあらざるか、さらば鎭《オサヘ》しになり、廿(ノ)卷に、之良奴比筑紫國波《シラヌヒツクシノクニハ》、安多麻毛流於佐倍乃城曾等《アタマモルオサヘノキソト》云云、とあるも、鎭之城《オサヘノキ》ぞ、と云意なり、陸奥(ノ)國におかるゝ鎭守府は、即(チ)東(ノ)國の鎭《オサヘ》なれば、其(ノ)鎭守府將軍などに往むと思ふを、云なるべし、○歌(ノ)意は、この針袋の、ことにうるはしく目につくゆゑに、里毎に照しあるけど、なほ飽足ざるゆゑに、いかでこの針袋を帶(ビ)つゞけて、東の國までもゆきて、ふさひほこらむとおもへど、まことに往べきよしのなきが、口をし、といふなるべし、又は、いかでこの針袋をおび續けて、鎭守府將軍などになりて、昂々《タケ/”\》しく思ひあがりほこ(117)りゆくとも、今はをさ/\はづかしかるまじければ、あはれさることに往ばやとおもへど、實に往べきよしもなし、といふなるべし、
 
右歌之返報歌者《ミギノウタノコタヘウタハ》。脱漏《モレテ》不《ズ》v得《エ》2探求《モトメ》1也。
 
これみづからの歌、并詞書の草藁《シタガキ》を、うしなはれたるよしの自註なり、此(ノ)返報など心にかなはざるゆゑに、六(ノ)卷(橘氏を賜(フ)ところ、)の自註とかはりて、伊勢物語に、今はわすれたり、とあるたぐひに、戯て書たるなるべし、されば右の歌并詞ともに、まことにわすれたるにはあらじ、なれど、わざと忘脱《ワスレ》たるやうに、記されたるにや、
 
更來贈歌二首《サラニオクレルウタフタツ》。
 
契冲云、池主初は越中(ノ)掾にて、家持に屬せられけるが、後には越前(ノ)掾にうつりて、加賀(ノ)郡より、更に此(ノ)書を、家持へ贈れるなり、
 
依(テ)d迎(フル)2驛使《ハユマツカヒヲ》1事(ニ)u。今月十五日。到2來《イタル》部下《クヌチ》加賀(ノ)郡(ノ)境(ニ)1。面蔭見(ハレ)2射水之郷(ニ)1。戀緒結(フ)2深海之村(ニ)1。身|異《アラネド》2胡馬(ニ)1。心悲(メリ)2北風(ヲ)1。乘(テ)v月(ニ)徘徊(リ)。曾無v所v爲。稍開(ク)2來封(ヲ)1。其(ノ)辭(ニ)云。著者先所v奉書返畏度v疑歟(トノリタマヘリ)。僕作2嘱羅(ヲ)1。且惱2使君(ヲ)1。夫乞v水(ヲ)得v酒(ヲ)。從來能口。論時合(ヘリ)v理(ニ)。何題(サメ)2強吏(ト)1乎《ヤ》。尋(テ)誦(ニ)2針袋(ノ)詠(ヲ)1。詞泉酌(メトモ)不v竭。抱v膝(ヲ)獨咲(フ)。能※[益+蜀]2旅愁(ヲ)1。陶然(トシテ)遣v日(ヲ)。何慮(ラム)何思(ム)。短筆不宣。
(118)勝寶元年十二月十五日。徴v物下司謹|上《テル》2不v伏使君 記 室(ニ)1。
 
迎2驛使1は、京より下向の上使を迎なるべし、○部下云々、部下は、部内といふに同じく、俗に支配下と云ことなり、加賀(ノ)郡は、今の加賀(ノ)國四郡の中にあり、そも/\加賀(ノ)國は、弘仁十四年、割2越前(ノ)國1(ヲ)1置2加賀(ノ)國(ヲ)1と見えたれば、この勝寶の頃は、越前(ノ)國の部下なること、論なし、○面蔭云々、面蔭は、おもかげなるべし、蔭は影と通(ハシ)作るならむ、面影の水にうつりて見はれ、戀の情を、深き海に結ぶといふ意に、いへるなるべし、射水深海は、前に家持(ノ)卿に陪《タグヒ》て、共に往來せし所なれば、慕へるなり、○身異云々(此(ノ)字、舊本に比と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)胡馬北風は、文選に見えて、胡馬は、北地に産たる馬なれば、其(ノ)方を慕ふを云、身胡馬にはあらねど、家持(ノ)卿のおはする越中は、越前より北に當れば、悲2北風(ヲ)1といへり、○曾無所爲は、戀情のせむすべなきをいふべし、○著者云々より、下十一字、家持(ノ)卿よりの來書にありし辭なるべし、されどその意得がたし、誤脱などあるべし、著者は、略解に、昔者の寫誤か、と或人いへり、とあり、さもあるべし、元暦本には、其(ノ)辭云著者を、其辭云々者と作り、○僕作囑羅は、囑は、字書に、付也とも、託也とも見ゆ、羅は、※[口+羅]の省字なるべし、(鳳皇鸚武など書る類なるべし、)※[口+羅]は、歌詞と見えたり、此は池主より、家持(ノ)卿へ、袋を縫せて給へと、あつらへたることならむ、と略解にいへり、○使君(119)は、國主の唐名《カラナ》なり、家持(ノ)卿をさす、○乞v水得v酒は、もとのよりは、よき絹にて縫ておこせたるに、たとへたるなるべし、遊仙窟に、乞v漿(ヲ)得v酒(ヲ)、舊來神口、打v兔(ヲ)得v※[鹿/韋]、非2意(ノ)所1v望、○何題強吏は、強吏は、無道の有司にて、家持(ノ)卿を、然《サ》にはあらずといふなるべし、○針袋詠とは、右歌之返報歌脱漏、とあるにて、池主の四詠に答へられたる、家持(ノ)卿の歌のことなり、○竭(ノ)字、舊本に渇と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、○不伏使君(伏(ノ)字、舊本に仗と作るは誤なるべし、今は拾穗本に從つ、)は、彼(ノ)の徴物をおこさねば、責てもかしこまり伏せぬ使君と、戯れていふ意なるべし、○記室(記、舊本に紀と作るは誤なり、今は元暦本、拾穗本等に從つ、)は、五(ノ)卷に出つ、下僚の書記の人をいふ言にて、侍者など書類なりとぞ、
 
別奉《コトニタテマツル》云云|歌二首《ウタフタツ》。
 
云々とは、こゝに不用の詞を略せるなり、
 
4132 多多佐爾毛《タタサニモ》。可爾母與己佐母《カニモヨコサモ》。夜都故等曾《ヤツコトソ》。安禮波安利家流《アレハアリケル》。奴之能等能度爾《ヌシノトノドニ》。
 
多多佐爾毛《タタサニモ》は、堅樣《タヽサ》にもなり、成務天皇(ノ)紀に、阡陌《タヽサノミチヨコサノミチ》云々、日縦日横《ヒノタヽシヒノヨコシ》、○可爾毛與己佐母《カニモヨコサモ》は、彼《カ》にも横樣《ヨコサ》もなり、此(ノ)二句は、竪《タテ》にも横《ヨコ》にも、彼《カ》にも此《カク》にもといふ意なるを、かくいへり、○夜都故等曾《ヤツコトソ》は、奴《ヤツコ》となりてぞの意なり、○安禮波《アレハ》は、我者《アレハ》なり、○奴之能等能度爾《ヌシノトノドニ》は、主《ヌシ》の殿外《トノド》にな(120)り、奴之《ヌシ》は、五(ノ)卷憶良(ノ)大夫の、師大伴(ノ)卿をさして、阿我農斯《アガヌシ》とよまれたるも、吾主《アガヌシ》と崇(メ)ていへるにて同じ、等能度《トノド》は、契冲、殿外《トノド》なり、日本紀崇神天皇の御歌に、みわのとのどとよませ給へるには、かはるべし、それはおしひらかねとあれば、殿戸《トノド》なり、家持は、大伴氏の棟梁と見えたれば、其(ノ)殿外にありて、やつこの禮をとるといふなり、といへり、○歌(ノ)意は、縱《タテ》にも横《ヨコ》にも、彼《カ》にも、此《カク》にも、吾は家持の主の殿外《トノド》に侍《サモ》らひ仕ふべき、奴にてぞありける、となり、
 
4133 波里夫久路《ハリブクロ》。己禮波多婆利奴《コレハタバリヌ》。須理夫久路《スリブクロ》。伊麻波衣天之可《イマハエテシカ》。於吉奈佐備勢牟《オキナサビセム》。
 
須理夫久路《スリブクロ》は、※[竹/鹿]袋《スリブクロ》なるべし、※[竹/鹿]《スリ》は、和名抄行旅(ノ)具に、説文(ニ)云、※[竹/鹿](ハ)竹篋也、楊氏漢語抄(ニ)云、※[竹/鹿]子(ハ)須利《スリ》、主鈴式に、凡行幸從駕内印、并驛鈴傳符等、皆納(テ)2漆(ノ)※[竹/鹿]子《スリニ》1、主鈴(ト)與2少納言1共(ニ)預(テ)供奉(セヨ)云々、とある是なり、さて須利《スリ》といへる名(ノ)義は、未(タ)詳には知(ラ)れねど、今(ノ)世にいふ皮籠《カハゴ》の類にて、旅客のもはら負て持ありく具なるが故に、行旅(ノ)具とせるなるべし、さてその※[竹/鹿]《スリ》を納る袋を、※[竹/鹿]袋《スリブクロ》といへるか、又は其(ノ)袋を、※[竹/鹿]代《スリシロ》に製(シ)たるを、やがて※[竹/鹿]袋《スリブクロ》といへるにもあるべし、(契冲、須理夫久路《スリブクロ》は、火燧《ヒウチ》をいるゝふくろなり、今もすり火打といへり、と云て、敦忠家集に、しのふ揩の袋に、火うちをそへて、物へ行人に贈れるよし見えたるを引たれど、すり火打と云は、石をすりて火を出す燧《ヒウチ》をいへるなるべければ、須理《スリ》とのみいはむに、須理燧《スリヒウチ》のこととはきこゆべくもあらず、且《ソノウヘ》(121)木をもみ、石をすりて、火を出すを、古(ヘ)は火を鑽出《キリイダ》すと云て、火鑽臼《ヒキリウス》、火鑽杵《ヒキリキネ》など云しとおぼえて、須流《スル》と云しことは聞ず、かの敦忠集にいへるも、忍草の葉にて揩たる袋のことなれば、たとひその袋を、須理袋《スリブクロ》と云しならむにも、揩袋《スリブクロ》の謂なれば、今の歌の須理袋《スリブクロ》には關《アヅカ》らぬことなり、公忠集に、ゐなかへ下る人に、白き嚢を、青き物してすりて、火打をそへてやるとて、打見ては思ひ出よと我やどの忍草してすれるなりけり、とあるは、かの敦忠集にいへると、一(ツ)事の混《マギ》れたるか、今姑(ク)訂しあへず、いかにまれ、色を揩たる袋のよしなれば、こゝに引て證すべきにあらず、○又こゝに、中山(ノ)嚴水、須理夫久路《スリブクロ》は、藥袋《クスリブクロ》なるべし、採桑老の舞の翁、藥袋を佩るよし聞り、又後ながら、室町時代の禮節の書にも、藥袋を佩ることありしとおぼえたり、翁の佩るものなれば、おきなさびせむといへるなるべしといへり、さることもあらむ歟、但し藥を、須理《スリ》とのみ云べきよし、其(ノ)證なきにや、さらば此(ノ)説も、なほいかゞなり、)旅《タビ》の翁《オキナ》なれば、佩《オビ》てありきめぐるに、相應《フサハ》しき※[竹/鹿]袋《スリブクロ》を今は得まほしといへるなるべし、○伊麻波の波(ノ)字舊本には婆と作り、今は類聚抄に從つ、○於吉奈佐備勢牟《オキナサビセム》は、翁めかむと謂《イフ》なり、佐備《サビ》は、神佐備《カムサビ》の佐備《サビ》にて、五(ノ)卷に、遠等※[口+羊]佐備《ヲトメサビ》とも、遠刀古佐備《ヲトコサビ》ともよめるに同じ、そも/\言(ノ)意は、然儀《シカブリ》の約れるにて、(志可《シカ》の切|佐《サ》、夫利《フリ》の切|備《ビ》、)然《サ》る儀《フルマヒ》をするを云言にて、此《コヽ》は翁めきたる儀《フリ》をするをいへり、(伊勢物語に、翁さび人なとがめそかり衣、けふはかりとそたづもなくなる、とあるは、せり(122)河行幸の時、鷹飼にて侍ひける翁の、狩衣のたもとに、鶴のかたをつくりて、かきつけたるよしなり、これは翁の狩場のなごりと思ふによりて、狩衣の袂に、鶴の形をぬひなど、心やりに花やかなるさましたるを、人なとがめそ、鷹飼も今日ばかりぞといふ意と聞えたり、古(ヘ)に云るは、翁佐備《オキナサビ》は、翁めき、壯士佐備《ヲトコサビ》は壯士《ヲトコ》めき、少女佐備《ヲトメサビ》は、少女《ヲトメ》めきといふことなるを、かの物語なるは、翁めかず、似氣なきふるまひしたるをいへり、ときこえたるは、言のもとを、後に心得たがへたるもの歟、)○歌(ノ)意は、針袋は既く賜りてあれど、あまりに花やぎすぎて目につけば、翁めかず、願くは、今は此(ノ)上にすり袋をもがな得まほし、さらば其を帶て、翁めきあるきめぐるべきものをといへるにや、さてすり袋は、行旅(ノ)具にして、必(ズ)老人のみ著るものにはあらねど、自《ミラ》老人なればかくいへるにや、
 
宴席《ウタゲノトキ》。詠《ヨメル》2雪月梅花《ユキツキウメノハナヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
4134 由吉乃宇倍爾《ユキノウヘニ》。天禮流都久欲爾《テレルツクヨニ》。烏梅能播奈《ウメノハナ》。乎理天於久良牟《ヲリテオクラム》。波之伎故毛我母《ハシキコモガモ》。
 
乎理天於久良牟《ヲリテオクラム》は、折て吾に贈り賜らむ、といふなるべし、○波之伎故毛我母《ハシキコモガモ》は、嗚呼《アハレ》愛《ハ》しき子もがなあれかし、の意なり、子《コ》は、女をさせり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。十二月《シハス》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチノヨメル》。
 
(123)作(ノ)字、舊本にはなし、今は元暦本官本等にあるに從(レリ)、
 
4135 和我勢故我《ワガセコガ》。許登等流奈倍爾《コトトルナベニ》。都禰比登乃《ツネヒトノ》。伊布奈宜吉思毛《イフナゲキシモ》。伊夜之伎麻須毛《イヤシキマスモ》。
 
和我勢故《ワガセコ》は、主人石竹をさすなるべし、○許登等流奈倍爾《コトトルナベニ》は、琴取竝《コトトルナベ》になり、石竹の琴《コト》彈《ヒケ》るなるべし、○都禰比登能《ツネヒトノ》は、尋常《ツネ》の人のなり、上にもよめり、○思毛《シモ》は、數ある物の中をとり出ていふ辭なり、○伊夜之伎麻須毛《イヤシキマスモ》は、彌重益《イヤシキマス》なり、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)兄子が、琴取て調《シラ》ぶるにつれて、尋常の人の歎くと云|歎慨《ナゲキ》しも、さても彌益りて、感情をもよほさるゝよ、となるべし、七(ノ)卷詠2和琴(ヲ)1歌に、琴取者嘆先立蓋毛琴之下樋爾嬬哉匿有《コトトレバナゲキサキダツケダシクモコトノシタヒニツマヤコモレル》、古今集に、奈良へまかりける時に、あれたる家に、女の琴彈けるを聞て、よみていれたりける、良岑の宗貞、わび人のすむべきやどと見るなべに、なげきくはゝる琴の音ぞする、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。少目秦伊美吉石竹舘宴《スクナキフミヒトハタノイミキイハタケガタチノウタゲニ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
天平勝寶二年正月二日《テムヒヤウシヨウハウフタトセトイフトシムツキノフツカノヒ》。於《ニテ》2國廳《クニノマツリゴトドノ》1。給2饗《アルジセル》諸郡司等《モロ/\ノコホリノツカサラヲ》1宴歌一首《ウタヒトツ》。
 
宴(ノ)字、古寫本にはなし、
 
4136 安之比奇能《アシヒキノ》。夜麻能許奴禮能《ヤマノコヌレノ》。保與等里天《ホヨトリテ》。可射之都良久波《カザシツラクハ》。知等世保久等曾《チトセホクトソ》。
 
(124)許奴禮《コヌレ》は、木之末《コノウレ》なり、(乃宇《ノウ》の切|奴《ヌ》、)末《ウレ》は末枝《ウラエ》なり、(良延《ラエ》の切|禮《レ》、)○保與《ホヨ》は、和名抄に、本草(ニ)云、寄生、一名寓生、和名|夜止里木《ヤドリキ》、一(ニ)云|保夜《ホヤ》、とあれど、保與《ホヨ》と云が古(ヘ)なるべし、字鏡にも、蔦(ハ)寄生(ナリ)保與《ホヨ》、とあり、契冲、ほやは或は古き木の俣《マタ》などに、こと木のはえ出たるをいふなり、こゝによめるは、かづらのことなり、第十九に、山下ひかげかづらけるとよめる、是なりといへり、按に、本草集解に、弘景(ガ)曰、寄生(ハ)、松上楊上楓上(ニ)皆有2形類一般1云々、葉圓(ク)青赤、厚澤(アリテ)易v折、勞(ニ)自(ラ)生2枝節(ヲ)1、冬夏生(シ)、四月花(サク)白(シ)、五月實(ル)赤(シ)、大如2小豆(ノ)1、と見ゆ、此(ノ)物なり、かづらのことゝするは、非なるべし、○可射之都良久波《カザシツラクハ》は、挿頭《カザシ》つる意はといふなり、良久《ラク》は、もと留《ル》の伸りたる詞にて、然《サ》るやうは、或は然《サ》る意は、といふ謂になれり、○知等世保久等曾《チトセホクトソ》は、千年祝《チトヤホク》とてぞ、といふなり、十九に、千年保伎保伎吉等餘毛之惠良惠良爾仕奉乎見之貴左《チトセホキホキキトヨモシヱラヱラニツカヘマツルヲミルガタフトサ》、又|青柳乃保都枝與治等理可豆良久波君之屋戸爾之千年保久等曾《アヲヤギノホツエヨヂトリカヅラクハキミガヤドニシチトセホクトソ》、などあり、保久《ホク》は言壽《コトホキ》、室壽《ムロホキ》、大殿保加比《オホトノホカヒ》、酒保加比《サカホカヒ》、など云るに同じ、(保加比《ホカヒ》は保伎《ホキ》と切れり、)祝壽等の字(ノ)意なり、大殿祭(ノ)祝詞に、言壽、古語(ニ)云、許止保企《コトホキ》、言2壽詞(ヲ)1、如(シ)2今(ノ)壽觴之國(ノ)1、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、寄生《ホヨ》は、多くは老木に生るものなれば、祝事にこれをかざせるにやあらむ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守大伴宿禰家持作之《カミオホトモノスクネヤカモトガヨメル》。
 
判官久米朝臣廣繩之館宴歌一首《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハガタチノウタゲノウタヒトツ》。
 
(125)判官は、掾《マツリゴトヒト》なり、十九にも、越前(ノ)判官大伴(ノ)宿禰池主とあり、此(ノ)上に、國守のことを長官と云、十九に、介のことを次官と書り、皆同例なり、和名抄に、本朝職員令二方品員等所v載云々、勘解由(ニ)曰2判官(ト)1云々、國(ニ)曰v掾(ト)云々(皆|萬豆利古止比等《マツリゴトヒト》、)
 
4137 牟都奇多都《ムツキタツ》。波流能波自米爾《ハルノハジメニ》。可久之都追《カクシツツ》。安比之惠美天婆《アヒシヱミテバ》。等枳自家米也母《トキジケメヤモ》。
 
安比之惠美天婆《アヒシヱミテバ》は、相咲《アヒヱミ》て在者《アラバ》、の意なり、之《シ》は、その一(ト)すぢを、重く思はする所におく助辭なり、○等枳自家米也母《トキジケメヤモ》は、さても非時《トキジク》あらむやはにて、何時とても、時ならずと云ことあらず、との意なり、四(ノ)卷に、何時何時來益我背子時自異目八方《イツモイツモキマセワガセコトキジケメヤモ》、とあるに同じ、なほ時自久《トキジク》と云ことは、一(ノ)卷に、山越乃風乎時自見《ヤマコシノカゼヲトキジミ》、とある所に、委(ク)註り、○歌(ノ)意は、年の始より宴樂《ウタゲ》しつゝ、一(ト)すぢに相歡てあることの、さても面白や、かくてあらむからに、何時は時ならずと云こともあるまじければ、常に相見て、飲樂《サケノミシアソバ》むぞ、となり、
 
同月五日《オヤジツキノイツカノヒ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
縁《ヨリテ》d※[手偏+僉]2察《ミサダムル》墾田地《ハリタノトコロヲ》1事《コトニ》u。宿《ヤドレル》2礪波郡主帳多治比部北里之家《トナミノコホリノフミヒトタヂヒベノキタサトガイヘニ》1于時《トキ》。忽《タチマチニ》。起《オコリ》2風雨《カゼアメ》1。不《ズテ》2得辭去《エカヘラ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
※[手偏+僉]2察墾田地1とは、公より、寺々に捨《ヨセ》賜ふ墾田の地を、※[手偏+僉]察《ミサダ》むる事なるべし、墾田の事は、上に、東(126)大寺之占2墾田(ヲ)1使(ノ)僧平榮、とある下に、いへる如し、○主帳(帳(ノ)字、舊本に張と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本等に從つ、)は、孝徳天皇(ノ)紀に、フミヒト〔四字右○〕とよめり、和名抄に、佐官(ハ)、本朝職員令、二方品員所v載云々、國(ニ)曰v目(ト)、郡(ニ)曰2主帳(ト)1、云々、(皆|佐官《サクハン》、)とあり、佐官と云は、いかなるよしにかあらむ、やや後の唱(ヘ)なるべし、前にもいへり、古くはみなフミヒト〔四字右○〕とのみ云り、職員令に、大郡主帳三人、掌(ル)d受(テ)v事(ヲ)上抄(シ)、勘(ヘ)2署文案(ヲ)1、※[手偏+僉](ヘ)2出(シ)稽失(ヲ)1、讀(ミ)c申(スコトヲ)公文(ヲ)u、餘(ノ)主帳准(セヨ)v此(ニ)、(上郡二人、中郡、下郡、小郡一人、)○北里は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4138 夜夫奈美能《ヤブナミノ》。佐刀爾夜度可里《サトニヤドカリ》。波流佐米爾《ハルサメニ》。許母理都追卑等《コモリツツムト》。伊母爾都宜都夜《イモニツゲツヤ》。
 
夜夫奈美能佐刀《ヤプナミノサト》は、神名帳に、越中(ノ)國礪波(ノ)郡|荊波《ヤブナミノ》神社とありて、(荊波は、ヤブナミ〔四字右○〕なり、舊本に、ウハラ〔三字右○〕と訓るは、よしもなきことなり、荊をヤブ〔二字右○〕と訓こと、和名抄に、新川(ノ)郡大荊(ハ)於保也布《オホヤプ》とあり、)北里が家居地なるべし、○許母理都追牟等《コモリツツムト》は、隱障《コモリツヽム》となり、六(ノ)卷に、雨隱三笠乃山乎《アマコモルミカサノヤマヲ》云々、四(ノ)卷に、雨障常爲公者《アマヅヽミツネスルキミハ》云々、又、雨乍見於君副而《アマヅヽミキミニタグヒテ》云々、又、石上零十方雨二將關哉《イソノカミフルトモアメニツヽマメヤ》云々、八卷に、雨障出而不行者《アマヅヽミイデテユカネバ》云々、十一に、雨乍見留之君我《アマヅヽミトマリシキミガ》云々、などあり、これらにて、其意を得べし、○伊母爾都宜都夜《イモニツゲツヤ》は、妹《イモ》に告《ツゲ》つる哉《ヤ》となり、この妹は、本郷の妻なり、本妻も越中に下られけるよし、十九にかた/”\見えたれど、未(ダ)此(ノ)ほどは、京に留り居れしと見えたればなり、越中へ下られ(127)けるは、大抵勝寶二年春の末つ方の事とおぼえたり、猶十九にいふべし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
二月十八日《キサラギノトヲカマリヤカノヒ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
八(ノ)字、目録并一本には一と作り、○家持作(ノ)三字、舊本になきは脱たるなり、古寫本、官本等に、此(ノ)三字あるぞ正しき、
 
萬葉集古義十八卷之下 終
 
(128)萬葉集古義十九卷之上
 
天平勝寶二年三月一日之暮《テムヒヤウシヨウハウフタトセトイフトシヤヨヒノツキタチノヒノユフヘ》。眺2※[目+属]《ミテ》春苑桃李花《ハルノソノノモヽスモヽノハナヲ》1。作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
矚は、韻會に、矚(ハ)視之基也、とあり、※[目+属]は、矚の俗字なり、○此(ノ)卷は、おほくは家持(ノ)卿の歌を載たり、卷(ノ)末に至りて、其(ノ)よしことわれり、
 
4139 春苑《ハルノソノ》。紅爾保布《クレナヰニホフ》。桃花《モヽノハナ》。下照道爾《シタデルミチニ》。出立※[女+感]嬬《イデタツヲトメ》。
 
下照道《シタデルミチ》は、紅色の地まで照徹《テリトホ》れるを云、十八に、多知婆奈能之多泥流爾波爾等能多弖天《タチバナノシタデルニハニトノタテテ》云々、
 
とある處に、既く委(ク)註り、又十五に、安之比奇能山下比可流毛美知葉能《アシヒキノヤマシタヒカルモミチバノ》、六(ノ)卷に、※[(貝+貝)/鳥]乃來鳴春部者《ウグヒスノキナクハルヘハ》、巖者山下耀《イハホニハヤマシタヒカリ》、錦成花咲乎呼里《ニシキナスハナサキヲヲリ》、など云る、山下耀《ヤマシタヒカル》も同意なるべし、詞花集に、夕されば何かいそがむ紅葉の下でる山はよるも越なむ、金葉集に、神無月しぐるゝまゝにくらぶ山下でるばかり紅葉しにけり、現存六帖に、枝をそめ浪をも染つもみち葉の下でる山の瀧つ白糸、下照《シタデル》は、下《シタ》は、二(ノ)卷に、秋山下部留妹《アキヤマノシタベルイモ》、十卷に、金山舌日下《アキヤマノシタビガシタ》、などある下《シタ》と同じくて、赤きことをいふ言ぞ、と云る説ありて、其は既くいへり、○歌(ノ)意は、桃(ノ)花の紅色の地まで照徹《テリトホ》りて、なつかしき(129)春(ノ)苑に、出立る美人《ヲトメ》の容儀《スガタ》の、共に光わたりて、艶《ウツク》しき事、といへるにて、他にかくれたるところなし、
 
4140 吾園之《ワガソノノ》。李花可《スモヽノハナカ》。庭爾落《ニハニフル》。波太禮能未《ハダレノイマダ》。遺有可母《ノコリタルカモ》。
 
波太禮《ハダレ》は、十(ノ)卷寄v雪相聞(ノ)歌に、小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴨將忘云者益所念《サヽノハニハダレフリオホヒケナバカモワスレムトイヘバマシテオモホユ》、とよめるに同じく、此《コヽ》は雪のことなり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)園の李の花の散布《チリシキ》たる歟、いなさはあらで降(リ)積し雪の未(ダ)消遺りたるにてある歟、さても見事のさまや、と云るにて、李(ノ)花の多くちりしきたるをほめて、殘雪かと、うたがへるさまによみなしたり、さて庭爾落《ニハニフル》とあるにて、その落花をよめりとはきこえたり、九(ノ)卷に、御食向南淵山之巖者落波太列可消遺有《ミケムカフミナフチヤマノイハホニハフレルハダレカキエノコリタル》、とある、又今の歌に考(ヘ)合(ス)べし、○右二首は、六帖に、桃と李との歌に載たり、
 
見《ミテ》2翻翔鴫《トビカケルシギヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
見といへるは、月(ノ)光などには、夜も見ゆるものなれば、かける歟、○翻翔は、トビカケル〔五字右○〕なり、韻會に、翻(ハ)飛(ナリ)、とあり、翻の上、舊本に飛(ノ)字あるは、あまれるに似たり、今は古寫本、元暦本等になきに從つ、目録にもなきぞよろしき、○鴫は、品物解に註り、鴫(ノ)字は、志藝《シギ》の一名《マタノナ》を田鳥《タドリ》といふがゆゑに、(和名抄に、※[龍/鳥](ハ)楊氏(ガ)抄(ニ)云、之木《シギ》、一(ニ)云|田鳥《タドリ》、)その一名の田鳥の二字を、一字に合(セ)作(キ)たるものなるべし、江次第には、即(チ)田鳥《シギ》、とあり、
 
(130)4141 春儲而《ハルマケテ》。物悲爾《モノガナシキニ》。三更而《サヨフケテ》。羽振鳴志藝《ハブキナクシギ》。誰田爾加頒牟《タガタニカハム》。
 
春儲而《ハルマケテ》は、字の如く、春を待設而《マチマウケテ》の意なり、○三更而《サヨフケテ》は、佐夜深《サヨフケ》てなり、佐《サ》は、そへ言なり、三更は、夜半《ヨナカ》を云漢字なり、戌の刻を初更と云、子の刻を三更と云、寅の刻を五更と云り、○羽振鳴《ハブキナク》とは、羽振《ハブキ》は、羽を振(ル)を云、俗に羽だゝきすると云、是なり、すべて鳥は鳴むとするとき、羽だゝきするものなれば、いへり、此(ノ)下に、打羽振鷄者鳴等母《ウチハブキカケハナケドモ》云々、とあり、さて此(ノ)詞、古今集に、五月待(ツ)山霍公鳥打羽ぶき今も鳴なむ去年のふる聲、とあるをも、併(セ)考(ヘ)て、羽振をハブキ〔三字右○〕とよむべし、ハフリ〔三字右○〕にはあらず、振をフキ〔二字右○〕と訓は、山振《ヤマブキ》の例なり、又此(ノ)下霍公鳥の歌に、羽觸爾如良須《ハフリニチラス》、また、鳴羽觸爾毛《ナクハフリニモ》、などよめるは、字の如く、羽の觸るよしにて、羽振《ハブキ》とは、言の原《モト》の趣《オモムキ》、少異《カハ》れり、思(ヒ)混ふべからず、(略解に、羽振《ハブキ》、羽觸《ハフリ》を同言の如(ク)説なせるは誤なり、)○誰田爾加頒牟《タガタニカハム》、(頒、舊本には須と作り、今は元暦本に頒牟と作てハム〔二字右○〕と點せるに從つ、頒は玉篇に、音斑と見えたれば、波《ハ》の假字に用たるならむ、)頒牟《ハム》は、食《ハム》なり、三代實録一(ノ)卷に載たる童謠に、大枝乎超天走越天《オホエヲコエテハシリコエテ》、走越天《ハシリコエテ》、騰加利躍止利超耶《アガリヲドリコエテ》、我那護毛留田仁耶《ワレヤマモルタニヤ》、捜阿左理食無志岐耶《サグリアサリハムシギヤ》、雄雄伊志岐耶《ヲヲイシギヤ》、とあり、(此(ノ)童謠の解、余が南京遺響に、詳にせり、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
二日《フツカノヒ》。攀《ヨヂテ》2柳黛《ヤナギヲ》1思《シヌフ》2京師《ミヤコヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
黛は、和名抄に、説文(ニ)云、黛(ハ)畫v眉(ヲ)墨也、和名|萬由須美《マユスミ》、とあり、此《コヽ》はたゞ眉の義にとりて、添て書る(131)のみなり、
 
4142 春日爾《ハルノヒニ》。張流柳乎《ハレルヤナギヲ》。取持而《トリモチテ》。見者京之《ミレバミヤコノ》。大路所思《オホヂシオモホユ》。
 
張流《ハレル》は、芽の萌(エ)出たるを云、○大路所思は、オホヂシオモホユ〔八字右○〕、と之《シ》の助辭を加(ヘ)入て訓べし、此(ノ)こと、既く例どもを擧て、甚詳にいへり、○歌(ノ)意は、芽の萌(エ)出たる柳(ノ)枝を折(リ)取て見れば、京大路の春の景色《ケハヒ》の、一(ト)すぢにおもひやらるゝぞ、となり、(略解に、京の大路の柳を思ひ出るなり、といへるは、甚偏なり、京を思ふは、必(ズ)柳にはかぎるべからず、こゝは、すべての風景を思ひやるよしなり、〉又契冲は、題に攀2柳黛1思2京師1、とかける、黛の字をかねて、此(ノ)心をあらはせり、京の大路をゆきかふ、かほよき人のまゆずみのにほひを、おもひいづるなり、といへり、其(ノ)謂もあるべきにや、十(ノ)卷に、梅花取持見者吾屋前之柳眉師所念可聞《ウメノハナトリモチミレバワガヤドノヤナギノマヨシオモホユルカモ》、五(ノ)卷に、宇梅能花乎理加射之都々毛呂比登能阿蘇夫遠美禮婆彌夜古之叙毛布《ウメノハナヲリカザシツヽモロヒトノアソブヲミレバミヤコシソモフ》、十四に、宇良毛奈久和我由久美知爾安乎夜宜乃波里※[氏/一]多弖禮婆物能毛比弖都母《ウラモナクワガユクミチニアヲヤギノハリテタテレバモノモヒデツモ》、
 
攀2折《ヲル》堅香子草花《カタカゴノハナヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
堅香子は、カタカゴ〔四字右○〕と訓(ム)をよしとす、春花開(ク)草(ノ)名なり、品物解に委(ク)註せり、
 
4143 物部乃《モノヽフノ》。八十《ヤソ》乃〔□で囲む〕|※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。※[手偏+邑]亂《クミマガフ》。寺井之於乃《テラヰノウヘノ》。堅香子之花《カタカゴノハナ》。
 
物部乃八十《モノヽフノヤソ》とつゞくること、既く委(ク)註せり、○八十乃※[女+感]嬬等之は、六帖に、やそをとめらが、と(132)て載たるに因て思ふに、乃は衍文《アヤマリ》にて、八十※[女+感]嬬等之《ヤソヲトメラガ》、と訓べし、(ヤソノヲトメガ〔七字右○〕と訓ては、等(ノ)字あまれゝばなり、)さて八十※[女+感]嬬等《ヤソヲトメラ》とは、數多《アマタ》の女等《ヲミナドモ》をいへるなり、○※[手偏+邑]亂《クミマガフ》は、數多して酌(ム)よしなり、※[手偏+邑]は、字書に酌也とあり、○寺井《テラヰ》は、契冲、井ある處の名なるべし、常の寺にある井ならば、八十の※[女+感]嬬等は、くみまがふべからす、といへり、○歌(ノ)意はごの我が攀《ヨヂ》て手折(レ)る花は、彼(ノ)寺井の水酌|亂《マガ》ふ、數多の美人《ヲトメ》の花容《ウツクシキカホ》に、はえあひよく、咲にほひたる、堅香子の花にてあるぞ、と云なるべし、(此(ノ)歌、六帖に、ものゝふのやそをとめらがふみどよむ寺井のうへのかたかしのはな、とて、木(ノ)部に收(レ)たるは誤なり、)
 
見《ミル》2歸鴈《カヘルカリヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
4144 燕來《ツバメクル》。時爾成奴等《トキニナリヌト》。鴈之鳴者《カリガネハ》。本郷思都追《クニシヌヒツツ》。雲隱喧《クモガクリナク》。
 
本郷思都追は、クニシヌヒツヽ〔七字右○〕、と訓べし、すべて吾(ガ)本郷を久爾《クニ》と云こと、古言なり、十(ノ)卷に、吾
屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞遊群《ワガヤドニナキシカリガネクモノヘニコヨヒナクナリクニヘカモユク》、廿卷に、宇奈波良爾霞多奈妣伎多頭我禰乃可奈之伎與比波久爾弊之於毛保由《ウナハラニカスミタナビキタヅガネノカナシキヨヒハクニヘシオモホユ》、又六(ノ)卷に、急令變賜根本國部爾《スムヤケクカヘシタマハネモトノクニヘニ》、此(ノ)下に、毛等能國家爾《モトノクニヘニ》、などあるも、皆同じ、(思(ノ)字、集中にシヌフ〔三字右○〕と訓ること、既く二(ノ)卷にあまた例どもを引て、甚詳くいへり、併(セ)考(フ)べし、(こゝは、オモヒツヽ〔五字右○〕とよみては、いとよろしからず、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、(から人も、鴈與v燕往來相反(ム)、といへるがごとし、)〔頭註、【蘇武曰、雁與v燕、往來相反、】
 
(133)4145 春設而《ハルマケテ》。如此歸等母《カクカヘルトモ》。秋風爾《アキカゼニ》。黄葉山乎《モミチムヤマヲ》。不超來有米也《コエコザラメヤ》。
 
黄葉山乎は、モミチムヤマヲ〔七字右○〕と訓べし、○超(ノ)字、阿野家本、或校本、官本等には、越と作り、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、鴈と云ことなきは、上の歌にゆづりたるものなり、○舊本、一(ニ)云春去者歸此鴈、と註せり、
 
夜裏《ヨル》聞《キク》2千鳥喧《チドリノナクヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
喧(ノ)字、官本には鳴と作り、
 
4146 夜具多知爾《ヨグタチニ》。寢覺而居者《ネザメテヲレバ》。河瀬尋《カハセトメ》。情毛之奴爾《コヽロモシヌニ》。鳴知等理賀毛《ナクチドリカモ》。
 
夜具多知爾《ヨグタチニ》は、夜降《ヨクダチ》になり、降《クダチ》は夜半過往《ヨナカスギユク》を云、さて久太知《クダチ》(久《ク》を清、太《ダ》を濁りて、)と唱ふべきを、具多知《クタチ》(具《グ》を濁り、多《タ》を清て、)と唱ふるは、古(ヘ)連言の音便にて、この事既(ク)委(ク)註り、○河瀬尋《カハセトメ》は、河瀬の方を尋て、鳴よしもて云り、さて尋《タヅヌ》ることを、等米《トメ》とよめるは、集中たゞ此(ノ)一所のみなり、(此《コヽ》の尋を、タヅネ〔三字右○〕とよみては、語路よろしからねば、必(ズ)トメ〔二字右○〕なるべし、)等米《トメ》と云も、古言にてはあるべし、古今集に、花ちれる水のまに/\等米《トメ》來れば、とよめるより、以來は、徃々《タビ/\》ある言なり、さて、此(ノ)句は、尾(ノ)句へ直に續て心得べし、○情毛之奴爾《コヽロモシヌニ》は、聞人の心も靡《シナ》やぐばかりに、といふ意なり、三(ノ)卷に、淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバコヽロモシヌニイニシヘオモホユ》、とあるをはじめて、ところどころに見えたる詞なり、○歌(ノ)意は、夜更るまゝに、寐覺して聞ば、心もしなやぎなびくばかり、さ(134)てもあはれに、河瀬の方を尋て、鳴千鳥の聲する哉、となり、
 
4147 夜降而《ヨグタチテ》。鳴河波知登里《ナクカハチドリ》。宇倍之許曾《ウベシコソ》。昔人母《ムカシノヒトモ》。之奴比來爾家禮《シヌヒキニケレ》。
 
歌(ノ)意は、夜更るまゝに、鳴(ク)河千鳥の声を聞ば、あはれをもよほさるゝにつけて、昔より、人の、一(ト)すぢに、物あはれなるものに聞なし來つるも、げにことわりにこそあれ、と思ひ合せたるなり、
 
聞《キク》2曉鳴※[矢+鳥]《アカトキニナクキヾシヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
4148 椙野爾《スギノヌニ》。左乎騰流※[矢+鳥]《サヲドルキヾシ》。灼然《イチシロク》。啼爾之毛將哭《ネニシモナカム》。己母利豆麻可母《コモリヅマカモ》。
 
椙野《スギノヌ》は、契冲、越中に、射水(ノ)郡は府なれば、そこにあるなるべし、と云り、椙は、もとは※[木+温の旁](ノ)字なるべけれど、古く椙と作なしたるなるべし、三(ノ)卷にも、此《コヽ》の如く椙と作り、なほ此(ノ)事、品物解に委(ク)辨(ヘ)たり、〔頭註、【東鑑一卷に椙山、】〕○左乎騰流《サヲドル》は、左《サ》は、例の眞《マ》に通ふ語にて、躍《ヲドル》なり、此(ノ)上に引たる三代實録童謠にも、鴫のことを、騰加利躍止利超天《アガリヲドリコエテ》、とあるに同じく、踊躍《ヲドリ》て歩《アリ》き動《サワグ》を云、○之毛《シモ》は、數ある物の中を取(リ)出ていふ辭なり、○可母《カモ》とは、可《カ》は、可波《カハ》の意、母《モ》は、歎息の辭なり、○此(ノ)歌相聞なるべし、歌(ノ)意は、本(ノ)二句は序にて、著然《イチジロク》啼《ネ》に出(シ)て、鳴べき吾(ガ)隱(リ)妻かは、人目をしのぶ隱妻なれば、かく音に出(シ)て泣べきにはあらざるを、さてもなほあるが中にも、堪忍びがたきことや、といふなるべし、さて此は、題に聞2曉鳴※[矢+鳥]とあれば、※[矢+鳥]の鳴を親く聞て、戀情を催さるゝに付て、即(チ)(135)その物を序にて、自《ミラ》の懷を述たるなり、(略解に、本居氏(ノ)説を擧て、四(ノ)句の語勢を思ふに、これは※[矢+鳥]のいちじるく鳴を、とがめたる意にて、かもは、かはの意なり、こもりづまとは、とがめてよめるから、設ていへるなり、こもりづまなれば、いかにおもへばとても、かくいちじろく鳴べきことかはとなりと云り、とあり、此は題に拘りたる説なるべし、但し、可母《カモ》を、かはの意なり、と云るは、大旨たがはざることなり、○鴨(ノ)長明集に、うきながらすぎ野のきじの聲立てさをどるばかり物をこそ思へ、夫木集に、御かりする人やきくらむすぎの野にさをどる雉子《キヾス》聲しきるなり、
 
4149 足引之《アシヒキノ》。八峯之※[矢+鳥]《ヤツヲノキヾシ》。鳴響《ナキトヨム》。朝開之霞《アサケノカスミ》。見者可奈之母《ミレバカナシモ》。
 
八峯《ヤツヲ》は、彌津峯《ヤツヲ》にて、彌《イヤ》がうへに、峯の疊《カサナ》りたるを云べし、○可奈之母《カナシモ》は、さても感嘆《カナ》しや、となり、可奈之《カナシ》は、可憐《アハレ》に感嘆《カナシ》まるゝを云、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
遙2聞《ハロ/”\キク》泝《ノボル》v江《カハヨリ》船人唱《フナヒトノウタヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
泝(ノ)字、舊本に、沂と作るは誤なり、○船人唱は、いはゆる船歌なり、土佐日記に、舟子かぢとりは、舟歌うたひ何とも思へらず、その歌ふ歌は云々、
 
4150 朝床爾《アサトコニ》。聞者遙之《キケバハルケシ》。射水河《イミヅガハ》。朝己藝思都追《アサコギシツツ》。唱船人《ウタフフナヒト》。
 
(136)歌(ノ)意は、朝の牀に臥ながら、船唱《フナウタ》を聞てよめるにて、かくれたるところなし、
 
三日《ミカノヒ》。守大伴宿禰家持之館カミオホトノモスクネヤカモチガタチニテ》。宴歌三首《ウタゲスルウタミツ》。
 
4151 今日之爲等《ケフノタメト》。思標之《オモヒテシメシ》。足引乃《アシヒキノ》。峯上之櫻《ヲノヘノサクラ》。如此開爾家里《カクサキニケリ》。
 
歌(ノ)意は三月三日の此(ノ)宴の節《ヲリ》から、咲てあらば、興あらむと思ひ儲て、標《シメ》おきし代《カヒ》ありて、かく山櫻の盛に咲けるが、あはれに面白し、となり、
 
4152 奥山之《オクヤマノ》。八峯乃海右榴《ヤツヲノツバキ》。都婆良可爾《ツバラカニ》。今日者久良佐禰《ケフハクラサネ》。大夫之徒《マスラヲノトモ》。
 
本(ノ)二句は、都婆良可《ツバラカ》といはむ料の序なり、廿(ノ)卷に、安之比奇能夜都乎乃都婆吉都良都良爾《アシヒキノヤツヲノツバキツラツラニ》云云、二(ノ)卷に、巨勢山乃列列椿都良都良爾《コセヤマノツラツラツバキツラツラニ》云々、などあり、なほ八峯《ヤツヲ》によみ合せたるは、七(ノ)卷に、足病之山海石榴開八岑越《アシヒキノヤマツバキサクヤツヲコエ》云々、ともあり、○都婆良可爾《ツバラカニ》は、委曲《ツバラカ》になり、三(ノ)卷に、淺茅原曲曲二物念者《アサヂハラツバラ/\ニモノモヘバ》、十八に、可治能於登乃都波良都波良爾吾家之於母保由《カヂノオトノツバラツバラニワギヘシオモホユ》、舒明天皇(ノ)紀に、曲擧《ツマビラケク》などあり、既く委(ク)註り、此《コヽ》は殘る方なく、極《キハ》め盡《ツク》す謂《ヨシ》なり、○歌(ノ)意は、委曲《ツマビラカ》に宴樂《ウタゲノアソビ》を極《キハ》め盡《ツク》して、今日一日を暮し給へかし、丈夫《マスラヲ》のともがらよ、となり、
 
4153 漢人毛《カラヒトモ》。※[木+伐]浮而《フネヲウカベテ》。遊云《アソブチフ》。今日曾和我勢故《ケフソワガセコ》。花縵世余《ハナカヅラセヨ》。
 
漢人毛《カラヒトモ》云々、もろこしにて、曲水(ノ)宴の行はれしこと、後漢書禮儀志に、三月上巳、官民竝(ニ)禊2飲(ス)于東流水(ノ)上(ニ)1、とあるをはじめて、かた/”\に見えたり、その起《ハジマ》れることは、彼方にても種々《クサ/”\》説《イフ》め(137)れど、詳なることは知(ラ)れず、かくてかの漢といひし代までは、三月|上巳《ハジメノミノヒ》を、曲水(ノ)宴日とさだめたりしを、魏(ノ)文帝と云しが時より後は、三月三日を用ることゝなれりしかども、猶もとの名を存《ノコ》して、上巳と稱《イフ》ことゝはなれり、さて皇朝には、顯宗天皇(ノ)紀に、元年三月上巳幸(シテ)2後|苑《ミソノニ》1曲水(ノ)宴(アリ)、とあるを初とす、これはまことの巳《ミ》の日なりしやうにも聞ゆれど、なほ三日なるべし、さてそれより後、此(ノ)宴の行はれしこと、徃々《トコロ/”\》に見えたり、かゝれば漢國に准ひて、皇朝に行はれし宴なるが故に、漢人毛《カラヒトモ》云々とはいへり、(皇朝にて、曲水(ノ)宴の盛に行はれしこと、後方にも聞えしによりて、禮樂合編と云から書《ブミ》に、日本三月三日、有2桃花曲水(ノ)宴1、と見えたるよしなり、)○※[木+伐]浮而《フネヲウカベテ》、(※[木+伐](ノ)字、舊本に〓と作るは、誤なることしるければ、今改つ、古寫本には※[木+筏]、拾穗本には筏と作り、)※[木+伐]は、字書に同v筏(ニ)、筏(ハ)説文(ニ)、海中(ノ)大船、又|※[木+孚]《イカダ》也、とあり、さて十三に、斧取而丹生檜山木折來而※[木+筏]爾作《ヲノトリテニフノヒヤマノキキリキテイカダニツクリ》、と見えたるうへ、一(ノ)卷に、眞木乃都麻手乎百不足五十日太爾作泝須良牟《マキノツマテヲモヽタラズイカダニツクリノボスラム》、(靈異記に、※[木+孚]※[木+伐]に合イカダ〔三字右○〕」とあれば、此《コヽ》もイカダ〔三字右○〕とよまむに、難なきに似たれども、なほ舊本のまゝに、フネヲ〔三字右○〕とよまむぞ穩なる、此《コヽ》は※[木+孚]《イカダ》にはあらで、眞の船なればなり、(新古今集にも、此(ノ)歌を、船をうかべて、と載たり、)○今日曾和我勢故《ケフソワガセコ》、この句は、今月曾《ケフソ》にて、しばらく絶《キリ》て心得べし、勢故《セコ》は、此(ノ)宴に集へる衆《ヒト/”\》をさす、○花縵世余《ハナカヅラセヨ》、(余(ノ)字、官本、或校本に奈と作、又袖中抄にも、せなとあり、ハナカヅラセナ〔七字右○〕にても、きこえはするものかち、なほセヨ〔二字右○〕といふぞ、上の和我勢故《ワガセコ》といへる(138)に、よくてりあひてきこゆ、)花縵《ハナカヅラ》は、時の花を絲に貫て、縵にかくるをいへり、時の花は、主と桃花を云なるべし、(三十二番職人歌合に、鬘捻(リ)、花かづらおち髪ならばひろひおきひねりつきてもうらましものを、二十一番職人歌合に、鬘ひねり、うつくしくかゝれとてしもうば御前はよめがかづらを捻らざりけむ、これみな花鬘なり、これは何の花とかぎりたることには、あらざるにや、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、(六帖に、から人の、舟をうかべてあそびける、と載たるは、いさゝかたがへり、)
 
八日《ヤカノヒ》。詠《ヨメル》2白大鷹《マシラフノタカヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
白大鷹は、左の歌詞によりて、マシラフノタカ〔七字右○〕とよめり、猶下にいふべし、和名抄に、廣雅(ニ)云、云云、三歳名v之青鷹白鷹(ト)1、今按(ニ)、青白(ハ)隨(テ)v色(ニ)名之、俗説(ニ)鷹(ノ)白者、不v論2雌雄(ヲ)1、皆名2之良太賀《シラタカト》1、不v論2青白(ヲ)1大者、皆名2於保太加《オホタカト》1、小者皆名2勢宇《セウト》1、漢語抄(ニ)、用2兄鷹(ノ)二字(ヲ)1爲v名(ト)、所v出(ル)未v詳(ナラ)、俗説(ニ)、雄鷹謂2之兄鷹(ト)1、雌鷹謂2之大鷹(ト)1也、
 
4154 安志比奇乃《アシヒキノ》。山坂超而《ヤマサカコエテ》。去更《ユキカハル》。年緒奈我久《トシノヲナガク》。科坂在《シナザカル》。故志爾之須米婆《コシニシスメバ》。大王之《オホキミノ》。敷座國者《シキマスクニハ》。京師乎母《ミヤコヲモ》。此間毛於夜自等《ココモオヤジト》。心爾波《コヽロニハ》。念毛能可良《オモフモノカラ》。語左氣《カタリサゲ》。見左久流人眼《ミサクルヒトメ》。乏等《トモシミト》。於毛比志繁《オモヒシシゲシ》。曾己由惠爾《ソコユヱニ》。情奈具也等《コヽロナグヤト》。秋附婆《アキヅケバ》。芽子開爾保布《ハギサキニホフ》。石瀬野爾《イハセヌニ》。馬太伎由吉※[氏/一]《ウマダキユキテ》。乎知許知爾《ヲチコチニ》。鳥布美立《トリフミタテ》。白塗之《シラヌリノ》。小鈴毛由良爾《ヲスヾモユラニ》。安(139)波勢也理《アハセヤリ》。布里左氣見都追《フリサケミツツ》。伊伎騰保流《イキドホル》。許己呂能宇知乎《ココロノウチヲ》。思延《オモヒノベ》。宇禮之備奈我良《ウレシビナガラ》。枕附《マクラヅク》。都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》。鳥座由比《トクラユヒ》。須惠弖曾我飼《スヱテソアガカフ》。眞白部乃多可《マシラフノタカ》。
 
初二句は、越にし、住者《スメバ》といふへかゝれり、京より多くの山坂を越て、越の國に下り住ば、といふ意につゞきたり、(略解に、初(メ)二句は、ユキカヘル〔五字右○〕といはむ序なり、といへるは、いみじきひがことなり、)○去更《ユキカハル》云々、十八にも、往更年能波其登爾《ユキカハルトシノハゴトニ》、とあり、○科坂在《シナザカル》は、級避《シナザカル》の借(リ)字にて、枕詞なり、此(ノ)詞、他處に之奈射可流《シナザカル》、と假字書せるによりて、射《ザ》の言濁るべし、さて級々避層《シナ/”\サカルコシ》と云意のつゞきなるよし、既く委(ク)註り、○故志爾之須米婆《コシニシスメバ》は、越《コシ》に住ばなり、爾之《ニシ》といへるは、さだかにしかりとする意を、思はせたる辭なり、○大王之《オホキミノ》云々、六(ノ)卷大伴(ノ)卿(ノ)歌に、八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曾念《ヤスミシシワガオホキミノヲスクニハヤマトモココモオヤジトソモフ》、○於夜自《オヤジ》は、同《オヤジ》なり、○語左氣見左久流人眼乏等《カタリサケミサクルヒトメトモシミト》、三(ノ)卷に、問放流親族兄弟無國爾《トヒサクルウガラハラガラナキクニニ》、五(ノ)卷に、石木乎母刀比佐氣斯良受《イハキヲモトヒサケシラズ》、ともあり、田舍《ヰナカ》なれば、物言て愁(ヒ)をやり過し、相見て思(ヒ)をやり失ふ人の、乏しさに、の意なり、續紀、光仁天皇(ノ)詔に、朕大臣誰爾加毛我語比佐氣牟《アガオホマヘツキミタレニカモアガカタラヒサケム》、誰爾加母我問比佐氣牟止《タレニカモアガトヒサケムト》云々、と見ゆ、等《ト》は助辭なり、○於毛比志《オモヒシ》の志《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを、重く思はする辭なり、○曾己由意爾《ソコユヱニ》は、其故《ソレユヱ》に、と云に同じ、○情奈具也等《コヽロナグヤト》は、心《コヽロ》慰《ナグサ》むやとて、といはむが如し、○石瀬野《イハセヌ》は、和名抄に、越中(ノ)國新川(ノ)郡石勢(ハ)伊波世《イハセ》、とあり、其所の野なり、○馬太伎由吉※[氏/一]《ウマダキユキテ》は、十四にも、可奈之伎我古麻波多具等毛《カナシキガコマハタグトモ》、とよめり、多具《タグ》は、たぐる(140)なり、手綱をたぐるを云、古今集に、あまの繩たぎ、とある、たぎの言も同じ、さて馬多藝《ウマタギ》と(多《タ》を清(ミ)藝《ギ》を濁りて、)唱(フ)べきを、太伎《ダキ》と(太《ダ》を濁り、伎《キ》を清て、)唱ふるは、古(ヘ)の一(ツ)の音便にて、此(ノ)上に、夜具多知《ヨグタチ》、とあるに同じ、○鳥布美立《トリフミタテ》は、六(ノ)卷に、朝獵爾十六履起《アサガリニシヽミオコシ》、夕狩爾十里※[足+榻の旁]立《ユフガリニトリフミタテヽ》、十七に、朝※[獣偏+葛]爾伊保都登里多底《アサガリニイホツトリタテ》、暮※[獣偏+葛]爾知登里布美多底《ユフガリニチドリフミタテ》、とよめり、草木を蹈(ミ)靡(ケ)て、鳥を令v立の意なり、○白塗之小鈴毛由良爾《シラヌリノヲスヾモユラニ》は、十七に、安我大黒爾之良奴里能鈴登里都氣底《アガオホグロニシラヌリノスヾトリツケテ》、とありて、そこに註つ、小鈴毛由良爾《エオスヾモユラニ》は、小鈴《ヲスヾ》も、※[王+倉]々《ユラ/\》になり、毛《モ》は語辭《カタリコトバ》なり、(略解に、毛由良《モユラ》は、眞由良《マユラ》なり、毛《モ》の詞下へ付べし、と云るは、あたらず、)由良《ユラ》は、すべて鈴玉の類の鳴(リ)響く音を云、既く委(ク)云り、○伊伎騰保流《イキドホル》は、神功皇后(ノ)紀、武内(ノ)宿禰(ノ)歌に、阿布瀰能瀰齊多能和多利珥伽豆區苔利梅珥志瀰曳泥麼異枳廼倍呂之茂《アフミノミセタノワタリニカヅクトリメニシミエネバイキドホロシモ》、字鏡に、怕(ハ)伊支度保留《ハイキドホル》、又、伊多彌宇禮不《イタミウレフ》、又、※[立心偏+絹の旁](ハ)伊支止呂志《イキドロシ》、などありて、心のむすぼほれふさがるをいふ、○宇禮之備奈我良《ウレシビナガラ》は、喜《ウレ》しく思ふまゝに、といはむが如し、宇禮之備《ウレシビ》は、宇禮之美《ウレシミ》と云に同じ、廿(ノ)卷に、可奈之備《カナシビ》、とあり、奈我良《ナガラ》は、神在隨《カムナガラ》、皇子隨《ミコナガラ》、などの在隨《ナガラ》に同じく、其(レ)が隨《マヽ》に、と云意なり、○枕附《マクラヅク》は、妻屋《ツマヤ》は、夜|夫婦《メヲ》相寢する處なれば、かくいへり、○都麻屋《ツマヤ》は、夫婦屋《ツマヤ》の義にて、今の奥座敷《オクザシキ》を云べし、さて越中(ノ)國府へ、妻君の下居られし事は、次下にも往々《トコロ/”\》見えたれど、此ほどは猶京(ノ)家に留られしなり、されど、國府にも、奥座敷はありしなり、妾婢の類をば、常にめしつかはれしこと、さらなればなり、(本居氏は、此(ノ)時家持の妻君の、越中へ下り居ら(141)れたれば、妻の居る屋と云なり、と云れど、次下の潜※[盧+鳥]歌にて見れば、此ほどは、妻君は京家に居れしなり、必(ズ)妻君の下り居られずとても、妻屋のあるべきことは、上にいへる如くなれば、強(チ)に泥むべきにあらず、又こゝに中山(ノ)嚴水(ガ)考(ヘ)あり、其(ノ)説に云く、今も鷹を飼には、ことに鳥屋をたてゝ其(ノ)鳥屋の中に、ほこを立て飼なれば、いにしへもしかせしなるべし、されば此(ノ)妻屋は、やがて今の鳥屋にて、鳥座《トクラ》は、すなはち今の矛なるべし、といへり、されど、鳥屋を都麻屋《ツマヤ》といふべき謂《ヨシ》もなく、且|枕附《マクラヅク》とさへいひたれば、此(ノ)説はよりがたきにや、)さて妻屋《ツマヤ》の中に、鳥座《トクラ》を造(リ)て養《カ》はれたるは、秘藏の故なり、と本居氏のいへるが如し、○鳥座由比《トクラユヒ》は、葛繩して結ひ合せて、鳥座を造れば、結《ユフ》といふべし、鳥座《トクラ》は、二(ノ)卷に出たり、○眞白部乃多可《マシラフノタカ》は、眞《マ》は美稱にて、白節《シラフ》の鷹なり、なほ品物解に委(ク)云り、(金葉集に、はしたかのしらふに色やまがふらむとかへる山に霰降なり、禰津松?軒記に、しろふのたかとは、白き所なくして、尾白なるをいふなり、袖中抄に、顯昭云、しらふの鷹とは、鷹にはあかふ、くろふ、しらふとて、三(ツ)の毛のある、そのしらふの中に、よくしろみたるを、ましらふといふ歟、)
 
反謌《カヘシウタ》。
 
4155 矢形尾乃《ヤカタヲノ》。麻之路能鷹乎《マシロノタカヲ》。屋戸爾須惠《ヤドニスヱ》。可伎奈泥見都追《カキナデミツツ》。飼久之余志毛《カハクシヨシモ》。
 
矢形尾《ヤカタヲ》は、屋像尾《ヤカタヲ》なり、十七に、矢形尾乃安我大黒爾《ヤカタヲノアガオホクロニ》、とある處に、委(ク)註り、○麻之路能鷹《マシロノタカ》は、長歌(142)によめる眞白部乃鷹《マシラフノタカ》に同じく、眞白《マシロノ》鷹なり、眞白《マシロ》と云詞は三(ノ)卷に、田兒之浦從打出而見者眞白衣不盡能高嶺爾雪波零家留《タコノウラヨウチデテミレバマシロクソフジノタカネニユキハフリケル》、と見ゆ、○屋戸《ヤド》は、即(チ)夫婦屋《ツマヤ》なり、○可伎奈泥《カキナデ》は、可伎《カキ》は、多く手して物することに、そへいふ語にて、愛みて撫育《ナデヤシナ》ふよしなり、○飼久之余之毛《カハクシヨシモ》は、飼久《カハク》は飼《カフ》の伸りたる言にて、飼事の、と云意なり、之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを重く思はする辭、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、飼事のさても一(ト)すぢに吉《ヨシ》や、となり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
潜※[盧+鳥]歌一首并短歌《ウツカフウタヒトツマタミジカウタ》。
 
并短歌の三字、舊本にはなし、目録、官本、拾穗本、并定家卿の萬事等にはあり、
 
4156 荒玉能《アラタマノ》。年往更《トシユキカハリ》。春去者《ハルサレバ》。花耳爾保布《ハナサキニホフ》。安之比奇能《アシヒキノ》。山下響《ヤマシタトヨミ》。墮多藝知《オチタギチ》。流辟田乃《ナガルサキタノ》。河瀬爾《カハノセニ》。年魚兒狹走《アユコサバシル》。島津鳥《シマツトリ》。※[盧+鳥]養等母奈倍《ウカヒトモナヘ》。可我理左之《カガリサシ》。奈頭佐比由氣婆《ナヅサヒユケバ》。吾妹子我《ワギモコガ》。可多見我※[氏/一]良等《カタミガテラト》。紅之《クレナヰノ》。八塩爾染而《ヤシホニソメテ》。於己勢多流《オコセタル》。服之襴毛《コロモノスソモ》。等寳利※[氏/一]濃禮奴《トホリテヌレヌ》。
 
花耳爾保布、略解に、耳は開の誤なるべし、といへり、ハナサキニホフ〔七字右○〕とよむべし、次下悲2世間無常1歌に、春去者花開爾保比《ハルサレバハナサキニホヒ》、○辟田乃河《サキタノカハ》、越中にあるべし、某(ノ)郡にあると云こと、未(ダ)詳ならず、○年魚兒狹走《アユコサバシリ》、三(ノ)卷に、河湍爾波年魚小狹走《カハセニハアユユサバシリ》、五(ノ)卷に、加波度爾波阿由故佐婆斯留《カハドニハアユコサバシル》、などあり、年魚兒《アユコ》は、今|小鮎《コアユ》といふ、此(レ)なり、集中に和可由《ワカユ》、(若鮎《ワカアユ》なり、)とよめるも同じ、狹《サ》は眞《マ》に通ふ詞にて(143)たゞ走《ハシル》なり、六(ノ)卷に、年魚走芳野之瀧爾《アユハシルヨシヌノタギニ》、ともよめり、○島津鳥《シマツトリ》は、※[盧+鳥]《ウ》のまくら詞なり、十七に出(デ)つ、○※[盧+鳥]養等母奈倍《ウカヒトモナヘ》は、※[盧+鳥]養徒《ウカヒガトモ》を令《ハセ》v伴《トモナ》なり、此(ノ)下長歌にも、麻須良乎々等毛奈倍立而《マスラヲヽトモナヘタテテ》云々、とあり、○可我理左之《カガリサシ》は篝指《カヾリサシ》なり、指《サシ》は、照《テラ》しと云むが如し、十七に、賣比河波能波夜伎瀬其等爾可我里佐之夜蘇登毛乃乎波宇加波多知家里《メヒガハノハヤキセゴトニカガリサシヤソトモノヲハウカハタチケリ》、和名抄燈火類に、漢書陳勝(ガ)傳(ニ)云、夜篝(ニス)v火(ヲ)、師説(ニ)云、比乎加々利邇須《ヒヲカヾリニス》、今按(ニ)、漁者以v※[金+截](ヲ)作v篝(ヲ)盛v火照v水(ヲ)者名之、此(ノ)類乎、竹器類に、説文(ニ)云、篝(ハ)竹器也、和名|加加里《カガリ》、など見えたり、○奈頭左比由氣波《ナヅサヒユケバ》(頭(ノ)字、舊本には津と作り、今は阿野家本に從つ、)は、浪漬傍往者《ナヅサヒユケバ》なり、此(ノ)言の事、既く委(ク)註り、(略解云、越前越中にては、多く川へおりたちて鵜を飼とぞ、こゝの多摩川なども、川瀬淺ければしかせり、)○吾妹子我《ワギモコガ》は、京(ノ)家に留れる家の妹が、と云なり、○可多見我※[氏/一]良等《カタミガテラト》云々は、妹が形見かた/”\に、贈り賚せるよしなり、我※[氏/一]良《ガテラ》は、兼帶《カヌ》る詞なり、○等寶利※[氏/一]濃禮奴《トホリテヌレヌ》は、徹而濕《トホリテヌレ》ぬるなり、二(ノ)卷に、敷細乃衣袖者通而沾奴《シキタヘノコロモノソテハトホリテヌレヌ》、
   
反歌《カヘシウタ》。
 
4157 紅《クレナヰノ》。衣爾保波之《コロモニホハシ》。辟田河《サキタガハ》。絶己等奈久《タユルコトナク》。吾等眷牟《アレカヘリミム》。
 
衣爾保波之《コロモニホハシ》は、衣の紅色を、川づらに令《シ》2光艶《ニホハ》1といふなり、七(ノ)卷に、黒牛之海紅丹穗經百磯城乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノミクレナヰニホフモヽシキノホミヤヒトシアサリスラシモ》、五(ノ)卷に、麻都良河可波能世比可利阿由都流等多々勢流伊毛河毛能須蘇奴例奴《マツラガハカハノセヒカリアユツルトタヽセルイモガモノスソヌレヌ》、○眷(ノ)字、舊本に看と作るは誤、元暦本、古寫本等に從つ、○歌(ノ)意、かくれたるところな(144)し、一(ノ)卷に、雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》、とあるによりてよまれしにや、
 
4158 毎年爾《トシノハニ》。鮎之走婆《アユシハシラバ》。左伎多河《サキタガハ》。※[盧+鳥]八頭可頭氣※[氏/一]《ウヤツカヅケテ》。河瀬多頭禰牟《カハセタヅネム》。
 
之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを、おもく思ほする辭なり、○※[盧+鳥]八頭可頭氣※[氏/一]《ウヤツカヅケテ》、十三にも、鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》、とあり、八頭《ヤツ》は、數多きをいふ詞なり、八頭とかけるは、禽獣をかぞふる、から文字《モジ》なり、十六に、虎云神乎生取爾八頭取持來《トラチフカミヲイケトリニヤツトリモチキ》、ともかけり、可頭氣※[氏/一]《カヅケテ》は、令《セ》v潜《カヅカ》而《テ》なり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、
季春三月九日《ヤヨヒノコヽノカノヒ》。擬《ヨリテ》2出擧之政(ニ)1。行《ユキ》2於|舊江村《フルエノムラニ》1。道上《ミチノホトリニテ》屬《ツクr》2目《メヲ》物花(ニ)1之詠《ウタ》。并《マタ》興中|所作之歌《ヨメルウタ》。
 
擬出擧之政、この擬(ノ)字は、いと輕く用る例多し、たゞ出擧の政を行はむために、と云意なり、と本居氏説なり、出擧とは、公の稻を出して、百姓に貸與《カシアタフ》るを云、雜令に、凡公私以2財物1出擧(セラバ)者云云、毎(ニ)2六十日1取(レ)v利(ヲ)、不(レ)v得v過(スコトヲ)2八分之一(ニ)1、雖v過(セリト)2四百八十日(ヲ)1、不(レ)v得v過(スコトヲ)2一倍(ニ)1云々、凡以2稻粟(ヲ)1出擧(セラバ)者、任《マヽニ》依(テ)2私契(ニ)1官不(レ)v爲v理(スルコトヲ)、仍以2一年(ヲ)1爲(ヨ)v斷《カギリト》、(謂春(ノ)時|擧《イヒ》受(ケテ)以2秋冬(ヲ)1報(ズ)、是(ヲ)爲2一年(ト)1也、)不(レ)v得v過(スコトヲ)2一倍(ニ)1、其官(ハ)半倍(セヨ)、主税式に、凡出2擧官稻(ヲ)1者、皆據(レ)2人多少(ニ)1、若(シ)可2加減(ス)1者、正税公廨各須2同數1、其(レ)出擧帳(ハ)、附(テ)2大帳使(ニ)1申2送(レ)官(ニ)1、法曹至要抄に、勝寶(ノ)年格(ニ)云、一應v禁2制(ス)出2擧(スルコトヲ)私稻(ヲ)1事云々、私稻|貸2與《カシ》百姓(ニ)1求v利(ヲ)、悉皆禁制者、今聞、京畿百姓、出2擧穎稻(ヲ)1、名(テ)云2錢財(ト)1、及2於秋時(ニ)1、償(ニ)以2正税(ヲ)1、如v此姦輩巧詐云々、○舊江(ノ)村は、射水(ノ)郡にあり、○物花、契冲云、花は華に作るべき歟、○此(ノ)數語は、此(ノ)已下長短合十首の總標なり、
 
(145)過《スギテ》2澁溪埼《シブタニノサキヲ》1。見《ミル》2巖上樹《イソノヘノキヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。【樹名都萬麻。】
 
都萬麻《ツママ》は、いかなる木にか、未(ダ)詳ならす、契冲、此(ノ)都萬麻《ツママ》といふ木は、北陸、あるひは田舍にのみある木なるべし、その故は、松杉柳櫻のごとくならば、見2巖上都萬麻1作歌とて、下の註あるべからず、巖上樹といひて、下にその名を註せるは、十七に、東風(越(ノ)俗語、東風謂2之安由乃可是(ト)1也、)と註し、葦附(水松之類、)と註をくはへたるたぐひに心得べし、六帖にも、木のたぐひの中に、つまゝとて、此(ノ)歌たゞ一首をのせ、そのほかに開及ばぬは、まれにも、みやこあたりには、なきものこそ侍りけめ、と云り、
 
4159 磯上之《イソノヘノ》。都萬麻乎見者《ツママヲミレバ》。根乎延而《ネヲハヘテ》。年深有之《トシフカヽラシ》。神佐備爾家里《カムサビニケリ》。
 
磯上《イソノヘ》は、石上《イソノヘ》なるべし、磯は借て書るなるべし、題に巖上とあればなり、(略解に、イソ〔二字右○〕とは、石をもいへど、こゝのいそのうへは、磯のあたりをいふ、といへるは、表裏を矢へるに似たる歟、)○枚乎延而《ネヲハヘテ》といへるにて、考(フ)れば、松などの如く、巖上に根をからみて、生(ヒ)著たるなるべし、○年深有之《トシフカヽラシ》は、年深くあるらしなり、年深(キ)とは、年久しきを云、三(ノ)卷に、昔看之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里《ムカシミシフルキツヽミハトシフカミイケノナギサニミクサオヒニケリ》、六(ノ)卷に、 一松幾代可歴流吹風乃聲之清者年深香聞《ヒトツマツイクヨカヘヌルフクカゼノオトノスメルハトシフカミカモ》、○歌(ノ)意は、巖(ノ)上の都萬麻《ツママ》の樹を見れば、年久しくふりたりとしるく、根深く蔓(ヒ)からみて、神々しくふるめきたり、となり、(現存六帖に、神さぶる磯の都萬麻《ツママ》の根を延て深くや人を下にしのばむ、磯の上は心してゆけ眞(146)砂路や根ばふ都萬麻《ツママ》に駒ぞつまづく、たつのゐるいそべの都萬麻《ツママ》世々かけていづれか久に年の經ぬらむ、などあるは、皆今の歌によりよめるものなり、
 
悲《カナシムノ》2世間《ヨノナカノ》無《ナキヲ》1v常《ツネ》歌一首并2短歌1《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4160 天地之《アメツチノ》。遠始欲《トホキハジメヨ》。俗中波《ヨノナカハ》。常無毛能等《ツネナキモノト》。語續《カタリツギ》。奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》。天原《アマノハラ》。振左氣見婆《フリサケミレバ》。照月毛《テルツキモ》。盈昃之家里《ミチカケシケリ》。安之比奇能《アシヒキノ》。山之木末毛《ヤマノコヌレモ》。春去婆《ハルサレバ》。花開爾保比《ハナサキニホヒ》。秋都氣婆《アキヅケバ》。露霜負而《ツユシモオヒテ》。風交《カゼマジリ》。毛美知落家利《モミチチリケリ》。宇都勢美母《ウツセミモ》。如是能未奈良之《カクノミナラシ》。紅能《クレナヰノ》。伊呂母宇都呂比《イロモウツロヒ》。奴婆多麻能《ヌバタマノ》。黒髪變《クロカミカハリ》。朝之咲《アサノヱミ》。暮加波良比《ユフヘカハラヒ》。吹風能《フクカゼノ》。見要奴我其登久《ミエヌガゴトク》。逝水能《ユクミヅノ》。登麻良奴其等久《トマラヌゴトク》。常毛奈久《ツネモナク》。宇都呂布見者《ウツロフミレバ》。爾波多豆美《ニハタヅミ》。流H《ナガルヽナミダ》。等騰米可禰都母《トドメカネツモ》。
 
遠始欲《トホキハジメヨ》は、自《ヨ》2遠始《トホキハジメ》1なり、○奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》は、流來者《ナガラヘキタレバ》なり、流《ナガラヘ》は、傳《ツタハリ》と云が如し、奈我良倍《ナガラヘ》は、奈我禮《ナガレ》の伸りたるにて、(良倍《ラヘ》の切|禮《レ》、)流《ナガレ》を緩に云るなり、八(ノ)卷に、沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アワユキカハダレニチルトミルマテニナガラヘチルハナニノハナソモ》、これ流《ナガレ》を奈我良倍《ナガラヘ》といへる例なり、さて十八に、伎欲吉彼名乎《キヨキソノナヲ》、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾奈我佐敝流《イニシヘヨイマノヲツツニナガサヘル》、とあるは、流有《ナガセル》の伸りたるにて、言(ノ)用格、今とは自他の差別あれど、(ツタフ〔三字右○〕と云と、ツタハル〔四字右○〕と云との差の如し、)傳《ツタハ》ることを、流《ナガル》といへる意は同じ、抑々|奈我留《ナガル》と云は、長く經行《ヘユク》ことをいふ言にて、時代の經行にも、雨雪などの、天より降るにも云て、(147)縱《タテ》にも横《ヨコ》にもいふことなり、(水に云も、經行物の中の一(ツ)にていへるなり、しかるを奈我留《ナガル》とは、たゞ水にのみつきていふことぞとこゝろ得、時代の經行ことにいひ、雨雪などの天より降を、奈我留《ナガル》と云は、水の流るゝにたとへて、いへることなりとおもふは、横にのみいふことを知て、縱にいふことをしらぬ、甚後(ノ)世の意にぞありける、さて略解に、此所を、ながらへきたれは、しか習ひ來れる、といふ意なり、と云るは、いみじきひがことなり、)さて者《ハ》をいはざるは、古語の常なり、上に委(ク)云り、○照月毛盈昃之家里《テルツキモミチカケシケリ》、三(ノ)卷、七(ノ)卷にもかくよめり、○毛美知落家利《モミチチリケリ》は、變紅《モミチ》て散けり、と云なり、知《チ》は用言なり、○宇都勢美母《ウツセミモ》は、現身《ウツシミ》もと云が如し、○紅能伊呂母宇都呂比《クレナヰノイロモウツロヒ》.は、紅顔も變易《ウツロヒ》と云なり、○朝之咲《アサノヱミ》云々、哀樂の朝暮にかはるを云、加波良比《カハラヒ》は、加波里《カハリ》の伸りたる言にて、緩に云るなり、○吹風能《フクカゼノ》云々、この四句は、十五挽歌にも、由久美都能可敝良奴其等久《ユクミヅノカヘラヌゴトク》、布久可是能美延奴我其登久《フクカゼノミエヌガゴトク》、安刀毛奈吉與能比登爾之弖《アトモナキヨノヒトニシテ》云々、とよめり、○爾波多豆美《ニハタヅミ》云々、二(ノ)卷に、御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴《ミタヽシシシマヲミルトキニハタヅミナガルヽナミダトメソカネツル》、○等騰米可禰都母《トドメカネツモ》は、嗚呼《アハレ》留《トヾ》めむと欲《オモ》へども、留《トヾ》むることを得《エ》せぬ哉、と云なり、等騰米《トドメ》は、令《メ》v留《トヾ》なり、留《トヾ》まらせ、と云が如し、さて五(ノ)卷に、等伎波奈周迦久斯母何母等意母閉騰母余能許等奈禮婆等登尾可祢都母《トキハナスカクシモガモトオモヘドモヨノコトナレバトドミカネツモ》、とあるに依(レ)ば、此《コヽ》も米は未(ノ)字の誤寫にて、等騰未《トドミ》とありしにや、と思ふ人もあるべきなれど、彼は自《ミ》留(ム)を等騰尾《トドミ》といひ、此は令《ラセ》v留《トヾマ》を等騰米《トドメ》といへるなり、令《マセ》v進《スヽ》を須々米《スヽメ》と云(ヒ)、自《ミ》進むを、須々美《スヽミ》(148)と云との差異《タガヒ》あることなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4161 言等波奴《コトトハヌ》。木尚春開《キスラハルサキ》。秋都氣婆《アキヅケバ》。毛美知遲良久波《モミチチラクハ》。常乎奈美許曾《ツネヲナミコソ》。
 
言等波奴《コトトハヌ》は、物言《モノイハ》ぬといふに同じ、四(ノ)卷に、事不問木尚味狹藍諸茅等之練乃村戸二所詐來《コトトハヌキスラアヂサヰモロチラガネリノムラトニアザムカエケリ》、五(ノ)卷に、許等々波奴樹爾波安里等母宇流波之吉伎美我手奈禮能許等爾之安流倍志《コトヽハヌキニハアリトモウルハシキキミガタナレノコトニシアルベシ》、○婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は類聚抄、古寫小本等に從つ、○毛美知遲良久波《モミチチラクハ》は、變紅《モミチ》て散(ル)事者の意なり、この毛美知《モミチ》も、用言に唱ふべし、變紅《モミチ》てといふ意なり、遲良久波《チラクハ》は、知留波《チルハ》の伸りたる言にて、散(ル)事は、と云意なり、(良久《ラク》の切|留《ル》、)遲の濁音(ノ)字を用たるは、正しからず、清て唱(フ)べし、○歌(ノ)意は、言も情もなき草木なれば、常住不變にして、久しかるべきに、其(レ)さへさはなくて、春に花さきて榮昌《サカ》え、秋は變紅《モミチ》て落枯《チル》は、無(キ)v常理(リ)を遁れぬゆゑにこそかくはあれ、となり、六(ノ)卷に、如此爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去《カクシツヽアソビノミコソクサキスラハルハサキツヽアキハチリユク》、九(ノ)卷に、山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散來《ヤマシロノクセノサギサカカミヨヨリハルハハリツヽアキハチリケリ》、○舊本註に、一云常無牟等曾、
 
4162 宇都世美能《ウツセミノ》。常無見者《ツネナキミレバ》。世間爾《ヨノナカニ》。情都氣受※[氏/一]《コヽロツケズテ》。念日曾於保伎《オモフヒソオホキ》。
 
未(ノ)句は、契冲が、心つけて思はぬ日ぞ多きといふ意なり、といへるが如し、(略解に、心つけずは、いはゆる執着せぬなり、おもふは、世間のありさまを觀念するなり、といへるは、例のいみじ(149)きひがことなり)、○歌(ノ)意は、世(ノ)間の常無きありさまを、つら/\思ひ見れば、誠に一日も心ゆるして、いたづらに過すべきにあらぬを、今まで此(ノ)無v常理に、心を附て思はざりし日ぞ多かりけると、今更驚きたるさまなり、○舊本に、一云嘆日曾於保吉、此は今※[しんにょう+台]心をつけずして、いたづらに過せしが、世(ノ)間の無(キ)v常を見て、今更歎く日ぞ多き、といふにや、
 
豫作七夕歌一首《アラカジメヨメルナヌカノヨノウタヒトツ》。
 
4163 妹之袖《イモガソテ》。和禮枕可牟《ワレマクラカム》。河湍爾《カハノセニ》。霧多知和多禮《キリタチワタレ》。左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》。
 
和禮枕可牟《ワレマクラカム》、(可(ノ)字、官本、或校本等に世と作たるは、マクラセム〔五字右○〕とよみたる點によりて、字を改めたるものにて、古言をしらぬ人のしわざなるべし、)すべて枕に爲《ス》ることを、枕可牟《マクラカム》とも、枕伎《マクラキ》とも、枕久《マクラク》とも、枕氣流《マクラケル》とも、活《ハタラ》かしていふこと、古言の常なり、※[草冠/縵]に爲《ス》ることを、※[草冠/縵]伎《カヅラギ》とも、※[草冠/縵]久《カヅラク》とも、さま/”\に活《ハタラカ》していふと、全(ラ)同例なり、五(ノ)卷に、伊可爾安良武日能等伎爾可母許惠之良武比等能比射乃倍和我麻久良可武《イカニアラムヒノトキニカモコヱシラムヒトノヒザノヘワガマクラカム》、○左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》は、左《サ》は、例の眞《マ》に通ふ辭にて、夜の不v更内にといはむが如し、十(ノ)卷に、吾瀬子乎莫越山能喚子鳥君喚變瀬夜之不深刀爾《ワガセコヲナコセノヤマノヨブコドリキミヨビカヘセヨノフケヌトニ》、十五に、和我屋度能麻都能葉見都々安禮麻多無波夜可反里麻世古非之奈奴刀爾《ワガヤドノマツノハミツヽアレマタムハヤカヘリマセコヒシナヌトニ》、など猶あり、みな同じ意なり、既く委(ク)註り、○歌(ノ)意は、天の川原に霧立わたれ、さらばその事のまぎれに、人目隱《シノ》びて、川をわたりゆきて、夜の更ぬ内に、妹が袖を枕にして、相寐せましを、となり、
 
(150)慕《シタフ》v振《フルフヲ》2勇士之名《マスラヲノナヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミシカウタ》。
 
慕v振2勇士之名1とは、家持(ノ)卿大伴氏なれば、武勇を勵む志の歌ども、集中にかた/”\見えたり、
 
4164 知智乃實乃《チチノミノ》。父能美許等《チヽノミコト》。波播蘇葉乃《ハハソバノ》。母能美己等《ハヽノミコト》。於保呂可爾《オホロカニ》。情盡而《コヽロツクシテ》。念良牟《オモフラム》。其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》。大夫夜《マスラヲヤ》。无奈之久可在《ムナシクアルベキ》。梓弓《アヅサユミ》。須惠布理於許之《スヱフリココシ》。投矢毛知《ナグヤモチ》。千尋射和多之《チヒロイワタシ》。劔刀《ツルギタチ》。許思爾等理波伎《コシニトリハキ》。安之比奇能《アシビキノ》。八峯布美越《ヤツヲフミコエ》。左之麻久流《サシマクル》。情不障《コヽロサヤラズ》。後代乃《ノチノヨノ》。可多利都具倍久《カタリツグベク》。名乎多都倍志母《ナヲタツベシモ》。
 
知智乃實乃《チチノミノ》(實(ノ)字、舊本に寶と作るは誤なり、今は元暦本、古寫本、拾穗本等に從つ、)は、父《チヽ》と疊《カサ》ねつゞけむための枕詞なり、契冲云、知智の實は、木(ノ)實なり、葉は楊梅《ヤモモヽ》の如くして、實は胡黏木《モチノキ》の子《ミ》の如し、伊豆國走湯の山、及伊豆の大島などにおほし、と仙覺云り、○波播蘇葉乃《ハハソバノ》は、母《ハヽ》と疊《カサ》ねつゞけむための枕詞なり、柞《ハヽソ》の木の葉なり、已上二種の木の事、品物解に出(ツ)、○於保呂可爾《オホロカニ》は、大凡《オホヨソ》にといはむが如し、八(ノ)卷藤原(ノ)廣嗣(ガ)歌にもよめり、於呂可《オロカ》といふも同じ、○其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》は、上の於保呂可爾《オホロカニ》云々、を應たり、父母の大凡《オホヨソ》に思(ヒ)給ふらむ、其(ノ)子にてあれやは、大凡《オホヨソ》に思ひて、そだてられしにあらず、深く心を盡し賜ひし吾(ガ)身なれば、さても空しく年月を過すべきにあらぬを、と云意につゞきたり、夜《ヤ》は、夜波《ヤハ》の夜《ヤ》なり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○大夫夜《マスラヲヤ》云々、六(ノ)卷憶良(ガ)歌に、士也母空應有萬代爾語續可名者不立之而《ヲノコヤモムナシカルベキヨロヅヨニカタリツグベキナハタテズシテ》、とあるによれり、即(チ)下に、右二首追2和山(151)上(ノ)憶良(ノ)臣1作歌、といへる是なり、さて丈夫夜《マスラヲヤ》の夜《ヤ》は、可在《アルベキ》の下へうつして心得べし、丈夫の空しくて可(シ)v在(ル)やはの意なればなり、○梓弓《アヅサユミ》云々、三(ノ)卷に大夫之弓上振起射都流失乎《マスラヲノユズエフリオコシイツルヤヲ》云々、十三に、梓弓弓腹振起《アヅサユミユハラフリオコシ》云々、神代紀上に、振2起《フリオコシ》弓繍《ユズヱ》1、○投矢毛知《ナグヤモチ》、十三に、葦邊經鴈之翅乎見別公之佩具之投箭之所思《アシヘユクカリノツバサヲミルゴトニキミガオバシシナグヤシオモホユ》、とある處に、委(ク)註り、神代紀に、於是取(テ)v矢(ヲ)還|投下之《ナゲオロシタマヒキ》、毛知《モチ》は持《モチ》なり、○千尋射和多之《チヒロイワタシ》は、遠《トホ》く射度《イワタ》す形容《サマ》をいへるなり、○劔刀《ツルギタチ》云々、欽明天皇(ノ)紀に、紀(ノ)男麻呂(ガ)曰、況復平安之世《タヒラケキヨニモ》、刀劔《ツルギタチ》不2離《ハキソフルハ》於|身《ミニ》1、蓋君子之武備不可以已《マスラヲノソナヘハヤムマジトナリ》、とあり、○左之麻久流《サシマクル》は、差任《サシマク》るなり、差任《サシマク》るは、官より令《セシ》むる方につきていへる詞なるべし、○情不障は、コヽロサヤラズ〔七字右○〕と訓べし、情と云も上に付て、差任る官の情と云なるべし、不障と云は、自《ミラ》の不v障なり、官より令《ヤシ》むる情を障《サヤ》らずいそしまむは、忠臣勇士の意なり、サヤル〔三字右○〕は、五(ノ)卷に、伊奈奈等思騰許良爾佐夜利奴《イナナトモヘドコラニサヤリヌ》、古事記神武天皇(ノ)大御歌に、志藝波佐夜良受伊須久波斯久治良佐夜流《シギハサヤラズイスクハシクヂラサヤル》云々、○後代乃《ノチノヨノ》云々、さても後の代の人の語(リ)繼べく、功名《イソシキナ》を立べきものぞ、となり、かの憶良(ガ)歌に、語繼可名者不立之而《カタリツグベキナハタテズシテ》、といへるに、和《コタ》へたり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4165 大夫者《マスラヲハ》。名乎之立倍之《ナヲシタツベシ》。後代爾《ノチノヨニ》。聞繼人毛《キヽツグヒトモ》。可多里都具我禰《カタリツグガネ》。
 
名乎之《ナヲシ》の之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなることを、おもく思はする助辭なり、○可多里都具我禰《カタリツグガネ》は、語(152)繼之根《カタリツグガネ》にて、語繼がために、といはむが如し、我根《ガネ》は、十(ノ)卷に、平城在人來管見之根《ナラナルヒトノキツミルルガネ》、とかける、これ正字にて、既《ハヤ》く委(ク)註り、(我爾《ガニ》と云詞とは、似て、もとより甚異なり、混ふべからず、)三(ノ)卷に、後將見人者語繼金《ノチミムヒトハカタリツグガネ》、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。追2和《オヒテナゾラフ》山上憶良臣作歌《ヤマノヘノオクラノオミガヨメルウタニ》1。
 
詠《ヨメル》2霍公鳥并時花《ホトトギスマタトキノハナヲ》1謌一首 并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4166 毎時爾《トキゴトニ》。伊夜目都良之久《イヤメヅラシク》。八千種爾《ヤチクサニ》。草木花左伎《クサキハナサキ》。喧鳥乃《ナクトリノ》。音毛更布《コヱモカハラフ》。耳爾聞《ミヽニキヽ》。眼爾視其等爾《メニミルゴトニ》。宇知嘆《ウチナゲキ》。之奈要宇良夫禮《シナエウラブレ》。之努比都追《シヌヒツツ》。有争波之爾《アリクルハシニ》。許能久禮能《コノクレノ》。四月之立者《ウツキシタテバ》。欲其母理爾《ヨゴモリニ》。鳴霍公鳥《ナクホトトギス》。從古昔《イニシヘヨ》。可多里都藝都流《カタリツギツル》。※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》。宇都之眞子可母《ウツシマゴカモ》。菖蒲《アヤメグサ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。※[女+感]嬬良我《ヲトメラガ》。珠貫麻泥爾《タマヌクマデニ》。赤根刺《アカネサス》。晝波之賣良爾《ヒルハシメラニ》。安之比奇乃《アシヒキノ》。八丘飛超《ヤツヲトビコエ》。夜干玉乃《ヌバタマノ》。夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》。曉《アカトキノ》。月爾向而《ツキニムカヒテ》。往還《ユキカヘリ》。喧等余牟禮杼《ナキトヨムレド》。何如將飽足《イカデアキタラム》。
 
毎時爾《トキゴトニ》云々、四時氣候のうつりかはるさまを云り、○喧鳥乃音毛更布《ナクトリノコヱモカハラフ》は、花のみにあらず、鳥の昔もといふ意に、毛《モ》といへるなり、更《カハル》は、春は※[(貝+貝)/鳥]、夏は霍公鳥の類なり、更布《カハラフ》は、更《カハル》の伸りたるなり、○宇知嘆《ウチナゲキ》、宇知《ウチ》は、例のそへいふ詞にて、歎息《ナゲキ》なり、○之奈要宇良夫禮《シナエウラブレ》は、二(ノ)卷に、夏草之念之奈要而志奴布良武妹之門將見《ナツクサノオモヒシナエテシヌフラムイモガカドミム》云々、十(ノ)卷に、於君戀之奈要浦觸吾居者秋風吹而月斜烏《キミニコヒシナエウラブレワガヲレバアキカゼフキテツキカタブキヌ》、な(153)どあり、既く註り、○有爭波之爾とは、契冲、上の花鳥のさま/”\の色音のおもしろさの、いづれとわきがたくて、あらそふあひだになり、と云り、二(ノ)卷に、去鳥乃相競端爾《ユクトリノフラソフハシニ》、とあり、波之《ハシ》は間《ハシ》なり、略解に、有爭は、相爭の誤ならむか、二(ノ)卷に、初競《アラソフ》、十卷に、相爭《アラソフ》などあるをおもふべし、と云り、本居氏は、爭は來の誤にて、アリクルハシニ〔七字右○〕なるべし、といへり、さもあるべき歟、猶考(フ)べし、○許能久禮能《コノクレノ》(下の能(ノ)字、舊本に罷と作るは、字書に罷(ハ)已(ム)也とあれば、闇《ヤミ》の借字に用たりと思ひて、後人のみだりに四を加へて、罷となせるものなるべし、木之晩闇《コノクレヤミ》といふこと、後(ノ)世の歌にこそあれ、此(ノ)集などにはあることなし、かれ今は、阿野家本、古寫本、拾穗本等に、能とあるによりつ、)は、木之晩之《コノクレノ》なり、木晩《コノクレ》の繁《シゲ》き四月《ウツキ》とつゞくなり、卯花之四月《ウノハナノウツキ》と云も、卯花《ウノハナ》の開《サ》く四月《ウツキ》と云意なるに、相例すべし、※[(貝+貝)/鳥]之春《ウグヒスノハル》とつゞくも、又※[(貝+貝)/鳥]の鳴く春の意にて、かくざまにつゞきたること、古歌に往々《コレカレ》あり、○欲其母理爾《ヨゴモリニ》は、夜隱《ヨゴモリ》になり、○※[(貝+貝)/鳥]之宇都之眞子可母《ウグヒスノウツシマコカモ》とは、宇都之《ウツシ》は現《ウツシ》なり、集中に、現心《ウツシコヽロ》とよめる現《ウツシ》に同じ、俗《ツネ》に正眞《シヤウシン》と云意なり、眞子《マコ》は、眞《マ》は美稱《ホメコトバ》にて、たゞ子《コ》と云ことを、美《ホメ》ていへるなり、されば、さてもまことに正眞の子にてあればか、といふ意なり、さてこゝにかくいへる意は、四月の初(メ)より、五月の中頃まで、日《ヒル》は終日《ヒネモス》夜《ヨル》は終夜《ヨスガラ》聞ども飽(キ)足(ラ)ぬは、げにも古昔《ムカシ》より人のいひ傳へたるごとく、霍公鳥は※[(貝+貝)/鳥]の正眞の子にてあればこそ、その親の聲のならひに、かくあくよなく、うるはしくめでたくはあるらめ、と云るなり、前後の詞(154)を照し見て、熟(ク)味ふべし、さて霍公鳥を、※[(貝+貝)/鳥]の子と云ことは、九(ノ)卷にも、※[(貝+貝)/鳥]之生卵乃中爾《ウグヒスノカヒコノナカニ》、霍公鳥獨所生而《ホトヽギスヒトリウマレテ》、己父爾似而者不鳴《シガチヽニニテハナカズ》、己母爾似而者不鳴《シガハヽニニテハナカズ》云々、と見えて、彼處に委(ク)註たりき、(江談抄に藍縷鳥者《ホトトギスハ》、※[(貝+貝)/鳥](ノ)子也、昔(シ)人(ノ)宅之樹蔭に、造(リ)v巣(ヲ)生v子(ヲ)、漸生長之比、近臨見(ハ)之、自v※[(貝+貝)/鳥]頗大鳥、羽毛漸具には舐2其羽1、即奇思之間ホトヽギスト〔六字右○〕鳴去了云々、)○赤根刺《アカネサス》は、まくら詞なり、既く出(デ)つ、○晝波之賣良爾《ヒルハシメラニ》は、終日の意なり、十七にもよめり、十三には、之彌良《シミラ》とよめり、同(ジ)言なり、○月爾向而《ツキニムカヒテ》、此(ノ)下にも、霍公鳥(ノ)歌に、暮去者向月而《ユフサレバツキニムカヒテ》云々|鳴等余米《ナキトヨメ》、とよめり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
4167 毎時《トキゴトニ》。彌米頭良之久《イヤメヅラシク》。咲花乎《サクハナヲ》。折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》。見良久之余志母《ミラクシヨシモ》。
 
折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》は、此(ノ)下山振(ノ)花を詠る歌にも、引攀而折毛不折毛毎見情奈疑牟等《ヒキヨヂテミルゴトニコヽロナギムト》云々、とあり、○見良久之余志母《ミラクシヨシモ》は見《ミル》事のさても一(ト)すぢに善《ヨシ》やの意なり、見良久《ミラク》は、見《ミル》の伸りたる言、之は、例の其一(ト)すぢなるを、おもく思はする辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、長歌には、花鳥を一(ツ)によみなし反歌には、鳥と花とを、一首別《ヒトウタゴト》によみわけたり、
 
4168 毎年爾《トシノハニ》。來喧毛能由惠《キナクモノユヱ》。霍公鳥《ホトトギス》。聞婆之努波久《キケバシヌハク》。不相日乎於保美《アハヌヒヲオホミ》。【毎年謂2之|等乃之波《トシノハト》1。】
 
本(ノ)二句は、毎年《トシゴトニ》鳴(ク)ものなるをの意なり、○之努波久《シヌハク》は、之努布《シヌフ》の伸(リ)たるにて、愛賞《メデウツクシマ》るゝ事よ、と云意なり、○不相日乎於保見《アハヌヒヲオホミ》は、聞ぬ日が多さにの意なり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、○毎(155)年云々の註、活字本、元暦本等にはなし、かくて元暦本には、トシゴトニ〔五字右○〕と點ぜり、これはよろしからず、
 
右二十日《ミギハツカノヒ》。雖v未v及v時。依《ツケテ》v興《コトニ》豫作《アラカジメヨメル》也。
 
爲《タメニ》2家婦《メガ》贈《オクラム》2在《イマス》v京《ミヤコニ》尊母《ハヽノミコトニ》1。所《ラエテ》v※[言+非]《アツラヘ》作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
家婦は、家持(ノ)卿の妻、坂上(ノ)大孃なり、此ほどは、家持(ノ)卿(ノ)妻の、任國へ下り居(ラ)れしなるべし、但し上の潜※[盧+鳥]歌にて見れば、其(ノ)ほどはなほ京に留り居(ラ)れしが、後に下られけるにやあらむ、○尊母は、坂上郎女にて、即(チ)家持(ノ)卿の叔母にて、又外姑なり、○※[言+非]は誂なるべし、
 
4169 霍公鳥《ホトトギス》。來喧五月爾《キナクサツキニ》。咲爾保布《サキニホフ》。花橘乃《ハナタチバナノ》。香|細〔○で囲む〕吉《カグハシキ》。於夜能御言《オヤノミコト》。朝暮爾《アサヨヒニ》。不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》。安麻射可流《アマザカル》。夷爾之居者《ヒナニシヲレバ》。安之比奇乃《アシヒキノ》。山乃多乎里爾《ヤマノタヲリニ》。立雲乎《タツクモヲ》。余曾能未見都追《ヨソノミミツツ》。嘆蘇良《ナゲクソラ》。夜須家奈久爾《ヤスケナクニ》。念蘇良《オモフソラ》。苦伎毛能乎《クルシキモノヲ》。奈呉乃海部之《ナゴノアマノ》。潜取云《カヅキトルチフ》。眞珠乃《シラタマノ》。見我保之御面《ミガホシミオモワ》。多太向《タダムカヒ》。將見時麻泥波《ミムトキマデハ》。松柏乃《マツカヘノ》。佐賀延伊麻佐禰《サカエイマサネ》。尊安我吉美《タフトキアガキミ》。【御面謂2之|美於毛和《ミオモワト》1。】
 
笑(ノ)字、舊本に笶と作るは誤なり、古寫小本に從つ、○花橘乃《ハナタチバナノ》と云までは、香細吉《カグハシキ》といはむための序なり、○香細吉《カグハシキ》、細(ノ)字、舊本になきは、脱たること著ければ、今補つ、十(ノ)卷に、香細寸花橘乎《カグハシキハナタチバナヲ》、(十八に、香具播之美《カグハシミ》、)三(ノ)卷に、名細寸《ナグハシヰ》ともあり、さて上の花橘乃《ハナタチバナノ》と云よりは、馨《カウバシ》き意にいひつゞけ(156)うけたるうへにては、香《カ》は、香青《カアヲ》、香縁《カヨル》、香易《カヤス》き、香弱《カヨワ》きなど云|香《カ》と同じく、そへことばにて、細は細女《クハシメ》などの例にて、美稀《ホメタヽ》へていへる言なるべし、十八に、香具波之君《カグハシキミ》、廿(ノ)卷にに、可具波志伎都久波能夜麻《カグハシキツクハノヤマ》、などよめるも、今と同じく、たゞ細《クハ》しき意なり、但し此(ノ)頃はやゝ轉りて、香の美きをいふより、すぐれてよきを美《ホメ》て云るにもあるべし、(香細吉《カグハシキ》の細(ノ)字、舊本脱たるに就て、香吉《カヲヨシミ》は、明徳惟(レ)馨(シ)といへるごとく、鼻に入ることを云のみにあらず、親の言をほめて橘の香の好になそらへたるよしに、契冲がいへるは、いまだしき説なり、)○於夜能御言《オヤノミコト》は、此《コヽ》にかける如く、親《オヤ》の御(ン)言なり、命《ミコト》と云にはあらず、四(ノ)卷に、梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御事乎聞之好毛《アヅサユミツマビクヨトノトホトニモキミガミコトヲキカシシヨシモ》、とあるも、事は借(リ)字にて、此《コヽ》と同じく御(ン)言なり、○朝暮爾は、アサヨヒニ〔五字右○〕といふぞ、古言のさだまりなる、(アサユフ〔四字右○〕と云は、後(ノ)世なり、)○不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》は、親の御(ン)言を不《ヌ》v聞《きか》日《ヒ》の數多く、と云なり、麻禰久《マネク》は、上に往々《トコロ/”\》見えたり、(契冲が、麻禰久《マネク》は間無《マナク》なり、禰《ネ》と奈《ナ》と通へり、さて不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》は、不《ヌ》v聞《キカ》間《マ》なくなり、といへるは非なり、遠境に、放り居る故に、不v聞日の數多きよしにこそあれ、不v聞間なくとては、毎日聞ことになりて、うらうへの意になるをや、)○山乃多乎里爾《ヤマノタヲリニ》、山の折たわめるを、手折《タヲリ》と云り、八(ノ)卷に、春山之開乃手烏里爾春菜採《ハルヤマノサキノタヲリニハルナツム》云々、とあるも、崎《サキ》の手折《タヲリ》なり、俗に、かひたをりといふ、これなりと云り、○余曾能未見都追《ヨソノミミツツ》は、外《ヨソ》に耳《ノミ》見乍《ミツヽ》なり、京の方にある山の手折に立(ツ)雲を、たゞ外目にばかり見やりつゝ、戀しく思ふよしなり、○夜須家久奈久(157)爾《ヤスケクナクニ》は、十七にも出たり、○奈呉乃海部之《ナゴノアマノ》已下三句は、見之欲《ミガホシ》といはむ料の序なり、白玉《シラタマ》の見まく欲《ホシ》きとつゞきたり、白玉《シラタマ》のいつも見まほしく愛らるゝ、御美貌《ウツクシキミカホ》のよしなり、人を賛《ホメ》て玉に比《タト》へたること、古(ヘ)より多し、古事記玉依比賣(ノ)歌に、阿加陀麻波袁佐閉比迦禮杼斯良多麻能岐美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《アカダマハヲサヘヒカレドシラタマノキミガヨソヒシタフトクアリケリ》、書紀武烈天皇(ノ)卷、太子(ノ)御歌に、擧騰我瀰爾枳謂屡箇皚比謎※[手偏+施の旁]摩離羅麼婀我褒屡※[手偏+施の旁]摩能婀波寐之羅陀魔《コトガミニキヰルカゲヒメタマナラバアガホルタマノアハビシラタマ》、後紀、桓武天皇の、百濟王明信に代りて製(ミ)たまへる御歌に、記美己蘇波和主黎多魯羅米爾記多麻乃多和也米和禮波都禰乃詩羅多麻《キミコソハワスレタルラメニキタマノタワヤメワレハツネノシラタマ》、とあり、源氏物語桐壺に、世になく、きよらなる玉の男(ノ)子御子さへうまれたまひぬ、紅葉(ノ)賀に、后腹の御子、玉の光かゞやきて、たぐひなき御おぼえにさへ物し給へば、うつぼ物語俊蔭に、玉の光かゞやくをのこを生つ、藏開に、わが國に見えたまはぬすがたがほおはする、玉のをのこの見えたまへるは、などあり、集中には、はやく五(ノ)卷に、白玉之吾子古日者《シラタマノワガコフルヒハ》、九(ノ)卷に、白玉之人乃其名矣《シラタマノヒトノソノナヲ》、ともよめり、(から國にも、毛詩に、有v女如v玉(ノ)などいへること多し、)○見我保之御面《ミガホシミオモワ》とは、見我保之《ミガホシ》は、見之欲《ミガホシ》にて、見《ミ》ま欲《ホシ》と云に同じ意なり、御面《ミオモワ》は九(ノ)卷に、望月之満有面輪二《モチヅキノタレルオモワニ》、とよめり、此(ノ)下にも、桃花紅色爾爾保比多流面輪能宇知爾《モヽノハナクレナヰイロニニホヒタルオモワノウチニ》、とあり、○松柏乃《カツカヘノ》(柏(ノ)字、拾穗本には栢と作り、)は、榮《サカエ》といはむためなり、柏は品物解に委(ク)註り、かくて松栢《マツカヘ》と熟《ツラネ》云ことは、もとより上古より、皇朝にていへることにはあらじ、(神代紀、八岐(ノ)大蛇をいへるところに、松栢生2於背上1、とあ(158)るも、もとより漢文なれば、論ふまでもなし、古事記に、其(ノ)身(ニ)生2蘿及檜※[木+温の旁]1、とあるは、古文なり、)此は漢籍論語に、歳寒(シテ)然後知2松栢之後(ルヽコトヲ)1v凋(ニ)、とあるよりはじめて、かしこの書には、かた/”\に見えたれば、今も漢文に本づきていへるなるべし、○尊安我吉美《タフトキアガキミ》、六(ノ)卷に、市原(ノ)王宴(ニ)?2父安貴(ノ)王(ヲ)1歌に、春草發後波落易巖成常磐爾座貴吾君《ハルクサハノチハチリヤスシイハホナストキハニイマセタフトキワガキミ》、とあるも、親君をのたまへるにて、今と同じ、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4170 白玉之《シラタマノ》。見我保之君乎《ミガホシキミヲ》。不見久爾《ミズヒサニ》。夷爾之乎禮婆《ヒナニシヲレバ》。伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》。
 
君《キミ》は、母君《ハヽキミ》なり、○伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》は、生《イケ》りとも無(シ)、といふとは異《コト》なり、等《ト》は、利心《トゴヽロ》の利《ト》にて生《イケ》る利《ト》もなしの意なり、と本居氏去り、既く委(ク)いへり、もし生《イケ》りとも無(シ)と云にて、等《ト》は常の語辭の等《ト》ならむには、流(ノ)字は、利か理かを、寫し誤《ヒガ》めたるものとすべし、しかする時は必(ズ)イケリトモ〔五字右○〕といふ格《サダマリ》にて、イケルトモ〔五字右○〕とは、いふまじき語なればなり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
二十四日《ハツカマリヨカノヒ》。應《アタレリ》2立夏四月節《ウツキタツヒノトキニ》1也。因《ヨリテ》v此《コレニ》二十三日之暮《ハツカマリミカノヒノユフヘ》。忽《タチマチ》思《シヌヒテ》2霍公鳥曉喧聲《ホトトギスノアカトキニナカムコヱヲ》1作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
應は、五(ノ)卷吉田(ノ)連宜の書牘に、孟秋|膺《アタル》節とあるに從ば、こゝも膺(ノ)字を誤れるにもあるべき歟、十八に見えたるも同じ、○十七に、霍公鳥者、立夏之日來鳴必定、十八に、乎里安加之許余比波能麻牟保登等藝須安氣牟安之多波奈伎和多良牟曾《ヲリアカシコヨヒハノマムホトトギスアケムアシタハナキワタラムソ》、その左註に、二日應2立夏節1、故謂2之明旦(159)將喧1也、
 
4171 常人毛《ツネヒトモ》。起都追聞曾《オキツツキクソ》。霍公鳥《ホトトギス》。此曉爾《コノアカトキニ》。來喧始音《キナケハツコヱ》。
 
常人毛《ツネヒトモ》は、此《コヽ》は俗に總分の人も、と云ことなり、十八に、都禰比等能故布登伊敷欲利波《ツネヒトノコフトイフヨリハ》、又、都禰比登能伊布奈宜吉思毛《ツネヒトノイフナゲキシモ》、などあり、みな同じ事なり、(庸人《ツネヒト》と云にはあらず、)○此曉《コノアカトキ》は、二十四日の曉なり、○來喧始音は、題詞によるに、キナケハツコヱ〔七字右○〕と訓べし、キナク〔三字右○〕とよみ來れるは誤なり、と中山(ノ)嚴水云り、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、此下に、月立之日欲里乎伎都追敲自努比麻低騰伎奈可奴霍公鳥可母《ツキタチシヒヨリヲキツツウチシヌヒマテドキナカヌホトトギスカモ》、契冲河社(ニ)云、つゝみの大宮にものきこえけるに、四月に郭公の聲を、ふたりながらきゝたりけるほどに、おろかになりたまひにければきこえけり、初聲をふしてやきゝしほとゝぎすきくにたがはぬこゝちこそすれ、萬葉第十九(ニ)云、常人毛云々、これもふしてきけばあしとて、おきて侍るなるべし、
 
4172 霍公鳥《ホトトギス》。來鳴響者《キナキトヨマバ》。草等良牟《クサトラム》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。屋戸爾波不殖而《ヤドニハウエズテ》。
 
草等良牟《クサトラム》、すべて草取とは、鳥の足して、木草の枚など、執り持て集《ヰ》ることを云なり、と本居氏説詳(ラ)なり、なほ十(ノ)卷に、月夜吉鳴霍公鳥欲見吾草取有見人毛欲得《ツクヨヨミナクホトトギスミガホレバイマクサトレリミムヒトモガモ》、とある歌に、委(ク)註り、(草とると云を、草を取(リ)除《スツ》る意として、橘を植たらば、そのしげみに、かくれて、見ゆまじければ、橘をばうゑじ、草を取りすてゝ、さはやかにして、ほとゝぎすの、鳴て飛わたるを見むと謂意なりと(160)する説は、非なり、)○歌(ノ)意は、霍公鳥の來鳴む時に、集《ヰ》て鳴べき料に、花橘を、屋外に殖つべきものにてありしを、殖ずして今更悔しき、となり、尾(ノ)句は、いひさして言をのこしたるなり、十(ノ)卷に、橘之林乎殖霍公鳥《タチバナノハヤシヲウヱムホトトギス》、常爾冬及住度金《ツネニフユマデスミワタルガネ》、これにても、霍公鳥の集《ヰ》て鳴べき料《マケ》に、橘を殖べかりしを、といふ意なるを知べし、
 
贈《オクレル》2京丹比家《ミヤコノタヂヒガイヘニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
丹比家は、此(ノ)下に、多治比(ノ)眞人土作、鷹主などいふ人見えたり、其等の人の家ならむ、
 
4173 妹乎不見《イモヲミズ》。越國敝爾《コシノクニヘニ》。經年婆《トシフレバ》。吾情度乃《アガコヽロドノ》。奈具流日毛無《ナグルヒモナシ》。
 
妹《ィモ》は、丹比氏にて、一類の女なるべし、○情度《コヽロド》は、多く心神《コヽロド》とかきたるに同じ、○奈具流《ナグル》は、和平《ナグル》にて、心の慰《ナグサ》む意なり、○歌(ノ)意は、丹比氏の妹を相見ずして、戀しくのみ思ひつゝ、越(ノ)國に年を經れば、吾(ガ)心神の和平《ナグ》る日とては、一日もなし、となり、
 
追2和《オヒテヨメル》筑紫太宰之時春苑梅《ツクシノオホミコトモチノトキノハルノソノヽウメヲ》1謌一首《ウタヒトツ》。
 
太宰之時とは、五(ノ)卷に見えて、(三十三首(ノ)梅(ノ)歌并序又追和歌あり、)旅人(ノ)卿|帥《カミ》たりし時、梅(ノ)花の集宴ありしを云、家持(ノ)卿は、其男なれば、殊にゆかしくて、慕はれたりと見えて、はやく十七にも見えたり、○春苑梅、苑(ノ)字、舊本に花と作るは誤なるべし、今改つ、一説に、十七(ノ)初に、追2和太宰之時梅花1新歌六首、と題して共に家持(ノ)卿の作なれば、こゝも春梅花とありしを、轉倒したるな(161)るべしといへり、
 
4174 春裏之《ハルノウチノ》。樂終者《タヌシキヲヘバ》。梅花《ウメノハナ》。手折乎伎都追《タヲリモチツツ》。遊爾可有《アソブニアルベシ》。
 
樂終者は、タヌシキヲヘバ〔七字右○〕とよみて、樂しきことを、極め盡さむとならば、と云意なり、(タノシミヲヘバ〔七字右○〕とよめるは非なり、又契冲が、タノシキハテバ〔七字右○〕とよみ改めしも、なほ非なり)終《ヲヘ》は、祝詞に、稱辭竟奉《タヽヘコトヲヘマツル》、とある竟《ヲヘ》に同じく、極め盡すをいふ言なり、既く五(ノ)卷に委(ク)註り、○手折乎伎都追は、(契冲が、手折置乍《タヲリオキツヽ》にて、目前に折て置つゝなり、於伎とかゝずして、乎伎とかけるは、乎と於と、音の通へるが故なりといへるは、いまだしき説なり、)本居氏、乎伎は、毛致の誤にて、タヲリモチツヽ〔七字右○〕ならむ、といへり、一説には、乎は手の誤にて、手折而來《タヲリテキ》つゝなるべし、と云り、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、五(ノ)卷梅花集宴歌に、武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米《ムツキタチハルノキタラバカクシコソウメヲヲリツツタヌシキヲヘメ》、又|鳥梅能波奈乎利弖加射世留母呂比得波家布能阿比太波多努斯久阿流倍斯《ウメノハナヲリテカザセルモロヒトハケフノアヒダハタヌシクアルベシシ》、これらに和《ナゾラ》へたるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。二十七日《ハツカマリナヌカノヒ》。依《ツケテ》v興《コトニ》作《ヨメル》之。
 
詠《ヨメル》2霍公鳥《ホトヽギスヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
4175 霍公鳥《ホトヽギス》。今來喧曾無《イマキナキソム》。菖蒲《アヤメグサ》。可都良久麻泥爾《カヅラクマデニ》。加流流日安良米也《カルルヒアラメヤ》。【毛能波三箇辭闕之。】
 
曾無《ソム》は、始《ソム》なり、○可都良久麻泥爾《カヅラクマデニ》は、※[草冠/縵]《カヅラ》に爲《ス》る日までに、の意なり、※[草冠/縵]に爲るを、※[草冠/縵]久《カヅラク》と云は、枕《マクラ》(162)にするを、枕久《マクラク》と云と、同じ例なり、○加流流日安良米也《カルルヒアラメヤ》は、離日將v有哉《カルヽヒメアラヤ》にて、不v鳴(カ)日はあらじ、の意なり、○歌(ノ)意、これもかくれなし、○毛能波《モノハ》云々、此(ノ)三箇《ミツ》の辭を除《オキ》てよまむとて、ことさらにまうけよまれたるがゆゑに、かく註されたり、古今集に、同じもじなき歌などいふ類なり、
 
4176 我門從《ワガカドヨ》。喧過度《ナキスギワタル》。霍公鳥《ホトヽギス》。伊夜奈都可之久《イヤナツカシク》。雖聞飽不足《キケドアキタラズ》。【毛能波※[氏/一]爾乎六箇辭闕之。】
 
歌(ノ)意、これもかくれなし、廿(ノ)卷に、保等登藝須麻豆奈久安佐氣伊可爾世婆《ホトトギスマヅナクアサケイカニセバ》、和我加度須疑自可多利都具麻※[泥/土]《ワガカドスギジカタリツグマデ》、○毛能波《モノハ》云々、此はまた右の三箇(ノ)辭の上に、※[氏/一]爾乎《テニヲ》の三箇(ノ)辭を加へて、除てよまれたるなり、此(ノ)六(ノ)辭、まことに專要《ムネ》とある語にて、これを除ては、甚よみがたき故に、ことさらに註されたること、上の如し、
 
四月三日《ウツキノミカノヒ》。贈《オクレル》2越前判官大伴宿禰池主《コシノミチノクチノマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシニ》1霍公鳥歌《ホトヽギスノウタ》。不《ズテ》v勝《タヘ》2感v舊之|意《オモヒニ》1述《ノブル》v懷《オモヒヲ》一首并短歌《ヒトウタマタミジカウタ》。
 
判官は、掾《マツリゴトヒト》なり、通(ハ)して判官とかくこと、前にいへるが如し、
 
4177 和我勢故等《ワガセコト》。手携而《テタヅサハリテ》。曉來者《アケクレバ》。出立向《イデタチムカヒ》。暮去者《ユフサレバ》。振放見都追《フリサケミツツ》。念暢《オモヒノベ》。見奈疑之山爾《ミナギシヤマニ》。八峯爾波《ヤツヲニハ》。霞多奈婢伎《カスミタナビキ》。谿敝爾波《タニヘニハ》。海石榴花咲《ツバキハナサキ》。宇良悲《ウラガナシ》。春之過者《ハルノスグレバ》。霍公鳥《ホトヽギス》。伊也之伎喧奴《イヤシキナキヌ》。獨耳《ヒトリノミ》。聞婆不怜毛《キケバサブシモ》。君與吾《キミトアレ》。隔而戀流《ヘダテテコフル》。利波山《トナミヤマ》。飛超去而《トビコエユキテ》。明立者《アケタヽバ》。松之佐枝爾《マツノサエダニ》。暮去者《ユフサラバ》。向月而《ツキニムカヒテ》。菖蒲《アヤメグサ》。玉貫麻泥爾《タマヌクマデニ》。鳴等余米《ナキトヨメ》。安寐不令宿《ヤスイシナサズ》。君(163)乎奈夜麻勢《キミヲナヤマセ》。
 
和我勢故《ワガセコ》は、池主を指り、○念暢《オモヒノベ》、(暢(ノ)字、舊本に鴨と作るは誤なり、今は元暦本に從つ、)此(ノ)上に思延宇禮之備奈我良《オモヒノベウレシビナガラ》、とあるに同じ、古今集長歌に、いかにして思ふ心をのばへまし、○見奈疑之山爾《ミナギシヤマニ》云々、見奈疑之《ミナギシ》は、見て慰みしといはむが如し、此(ノ)下に、毎見情奈疑牟等《ミルゴトニコヽロナギムト》、ともよめり、さて今は、池主越前(ノ)掾にて、家持(ノ)卿と隔り居《ヲラ》るれば、もと家持(ノ)卿と共に、越中に居れしほど、相共に見て慰みし其(ノ)山に云々、といへるなり、○宇良悲《ウラガナシ》は、心愛憐《ウラガナシ》にて、春の心おもしろきをいへり、(この宇良悲《ウラガナシ》は、契冲が、二(ノ)卷に、日並(ノ)皇子(ノ)尊の舍人が歌に、朝日てる島のみかどに鬱悒《オホヽシク》人音もせねばまうらかなしも、とよめるとは、たがひて、心おもしろき春の過れば、とつゞくなりといへる、さることなり、○伊夜之伎喧奴《イヤシキナキヌ》、此(ノ)下に、鳴鷄者彌及鳴杼《ナクカケハイヤシキナケド》、とあり、いよ/\重《シキ》りにつづきて鳴(ケ)ど、といふなり、五(ノ)卷に、久毛爾得夫久須利波牟用波美夜古彌婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之《クモニトブクスリハムヨハミヤコミバイヤシキアガミマタヲチヌベシ》、とある、伊夜之吉《イヤシキ》も、彌及《イヤシキ》にて吾身彌及又變若《アガミイヤシキマタヲチ》ぬべし、と云意なることを、今の歌どもにも考(ヘ)合せてさとるべし、(この歌を、賤吾身《イヤシキアガミ》と云意ときゝては、賤《イヤシキ》と云こと何の爲にいへりともきゝとりがたし、此ははやく彼(ノ)歌につきて、委(ク)註ることなれど、思ひ出るまゝに、さらにこゝにもしるしつるなり、)○聞婆不怜毛《キケバサブシモ》は、聞ばいよ/\君が戀しく思はれて、さてもさぶ/\しく苦《クル》しや、となり、不怜《サブシ》は、樂《タヌシ》き反對《ウラ》なれば、集中に、不怜、不樂と、多くかけり、○利(164)波山《トナミヤマ》、十七、十八にも出たり、○明立者、暮去者は、アケタヽバ、ユフサラバ〔十字右○〕とよむべし、いづれも未來をかけていふ辭なればなり、(舊訓は、あやまれり、よるべからず、)○安寢不令宿は、ヤスイシナサズ〔七字右○〕とよむべし、(舊訓に、ヤスイシナサデ〔七字右○〕とあるは、いさゝかわろし、すべて不v見不v聞などを、ミデ、キカデ〔五字右○〕などいふは、後(ノ)世のことなり、古言にあることなし、契冲、舊を改めて、ヤスイネシメデ〔七字右○〕とよめるも、なほ非なり、さて代匠記にいへることゞも、みなたがへり、)ヤスイ〔三字右○〕は、安く寐ること、シ〔右○〕は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを、重く思はする助辭、ナサズ〔三字右○〕は、不《ズ》v令《シメ》v寐《ネ》にて、安く寐《イネ》しめず、一(ト)すぢにしげく鳴(ケ)といふ意なり、既(ク)委(ク)註り、五卷に、夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》、とあり、○君乎奈夜麻勢《キミヲナヤマセ》は、池主(ノ)君を令《セ》v惱《ナヤマ》よ、と云なり、獨耳《ヒトリノミ》霍公鳥を聞ば、いよ/\君を戀しく思ひつゝ、心ぼそきに堪ずて、夜も快寐《ヤスイ》しがたければ、池主(ノ)君の住(ム)方へも飛往て、心を悩ましめて、安く寐しむることなかれと、霍公鳥に令せて、池主を惡むごとくに云なして、實は深情をあらはすなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4178 吾耳《アレノミシ》。聞婆不怜毛《キケバサブシモ》。霍公鳥《ホトヽギス》。丹生之山邊爾《ニフノヤマヘニ》。伊去鳴爾毛《イユキナケヤモ》。
 
吾耳は、アレノミシ〔五字右○〕とよむべし、(ヒトリノミ〔五字右○〕とよめるは、あまりしきことなり、)○丹生之山《ニフノヤマ》、和名抄に、越前(ノ)國丹生(ノ)郡丹生(ノ)郷あり、國(ノ)掾の館近き山なるべし、○伊去鳴爾毛は、(略解に、爾は南の誤にて、ナカナモ〔四字右○〕なるべし、といへれど、南の假字もいかゞなるうへ、鳴(ケ)かしと希ふことを、(165)鳴奈牟《ナカナム》とはいふべけれど、鳴奈毛《ナカナモ》といはむこと穩ならぬことなるをや、)爾は、もと夜字なりけむを、草書より混ひ誤れるなるべし、イユキナケヤモ〔七字右○〕と訓べし、すべて鳴夜毛《ナケヤモ》、行夜毛《ユケヤモ》、逢夜毛《アヘヤモ》、などやうにいふは、鳴《ナケ》かし、行《ユケ》かし、逢《アヘ》かしと望《ネガ》ふ意に用ふ、古言の例なればなり、○歌(ノ)意は、たゞ吾ひとりのみ聞ば、一(ト)すぢに心ぼそく、なやましきによりて、ほとゝぎすよ、丹生の山に往て、池主の館近く鳴(ケ)かし、となり、
 
4179 霍公鳥《ホトヽギス》。夜喧乎爲管《ヨナキヲシツヽ》。和我世兒乎《ワガセコヲ》。安宿勿令寐《ヤスイナナセソ》。由米情在《ユメコヽロアレ》。
 
夜喧乎爲管《ヨナキヲシツヽ》、二(ノ)卷に、佐太乃岡邊爾鳴鳥之夜鳴變布《サダノヲカヘニナクトリノヨナキカヘラフ》、十二に、小兒之夜哭乎爲乍《ワカキコノヨナキヲシツヽ》、などあり、○我和世兒《ワガセコ》、これも池主をさすこと、長歌に同じ、○安宿勿令寢は、ヤスイナナセソ〔七字右○〕と訓べし、安寢《ヤスイ》を勿《ナ》v令《シメ》v寢《ネ》ぞ、といふにて、畢意《オツルトコロ》は、勿《ナカレ》v令《シムコト》2安寢《ヤスクイネ》1、の意なり、(舊訓は、論ふにたらず、契冲が、ヤスイナネセソ〔七字右○〕とか、よむべしといへるも、いさゝかわろし、)○由來情在《ユメコヽロアレ》は、勤《ユメ》よ、心在(レ)、と云なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
不《ズ》v飽《アカ》d感《メヅル》2霍公鳥《ホトヽギスヲ》1之|情《コヽロニ》u。述《ノベテ》v懷《オモヒヲ》作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4180 春過而《ハルスギテ》。夏來向者《ナツキムカヘバ》。足檜木乃《アシヒキノ》。山呼等余米《ヤマヨビトヨメ》。左夜中尓《サヨナカニ》。鳴霍公鳥《ナクホトヽギス》。始音乎《ハツコヱヲ》。聞婆奈都可之《キケバナツカシ》。昌蒲《アヤメグサ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。貫交《ヌキマジヘ》。可頭良久麻而爾《カヅラクマテニ》。里響《サトトヨメ》。喧渡禮騰母《ナキワタレドモ》。尚之努波由《ナホシシヌハユ》。
 
(166)春過而《ハルスギテ》云々、一(ノ)卷持統天皇(ノ)御製歌に、春過而夏來良之《ハルスギテナツキタルラシ》、とよませ給へるによりて、よまれたるなるべし、○夏來向者《ナツキムカヘバ》、一卷に、日雙斯皇子命乃馬副而《ヒナミノミコノミコトノウマナメテ》、御獵立師斯時者來向《ミカリタヽシシトキハキムカフ》、○昌蒲、昌、官本、拾穗本、古寫小本等に、菖と作たれど、和名抄にも、養性要集(ニ)云、昌蒲一名(ハ)※[自/死]蒲、和名|阿夜女久佐《アヤメグサ》、とあるからは、論なし、舊本に從べし、(はやく契冲も、秘密の儀軌經の中にも、昌(ノ)字、艸に不v从してかけること多しといへり、略解に、昌は菖の誤歟といへるは、をさなし、)○可頭良久麻而爾《カヅラクマデニ》、(良(ノ)下、舊本に沼(ノ)字あるは、古語しらぬ後(ノ)世人の、みだりに加へしなり、阿野家本、中(ノ)院家本、并官本、古寫本、拾穗本等に、此(ノ)字無ぞよき、而(ノ)字、元暦本に泥と作るは、もとより論なけれども、而をデ〔右○〕の假字とせる例、往々《コレカレ》にありて、八(ノ)卷に、伊而座自常屋《イデマサジトヤ》、とある所に、詳にいひおきたるが如し、故(レ)此は、なほ舊本のまゝにてあるなり、)※[草冠/縵]に爲るまでに、といふ意なり、○尚之奴波由《ナホシシヌハユ》は、俗に、それでも賞翫せられると云意なり、すべて尚《ナホ》の言にシ〔右○〕をそへて、奈保之と云ときは、尚《ナホ》の言重くなると知べし、俗にそれでもと云意にあたれり、十二に、※[木+巨]※[木+若]越爾麥咋駒乃雖罵猶戀久思不勝烏《ウマセコシニムギハムコマノノラユレドナホシコフラクシヌビカネツモ》、廿(ノ)卷に、美都煩奈須可禮流身曾等波之禮々杼母奈保之禰我比都知等世能伊乃知乎《ミツボナスカレルミソトハシレヽドモナホシネガヒツチトセノイノチヲ》、などある、奈保之《ナホシ》の言に考へ合せて、その意をさとるべし、之奴波由《シヌハユ》は、愛賞《メデウツクシ》まるゝと云意にて、俗に賞翫せられる、と云にあたれり、
 
反歌三首《カヘシウタミツ》。
 
(167)4181 左夜深而《サヨフケテ》。曉月爾《アカトキツキニ》。影所見而《カゲミエテ》。喧霍公鳥《ナクホトヽギス》。聞者夏借《キケバナツカシ》。
 
曉月《アカトキツキ》は、在明月《アリアケツキ》なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、十八に、保等登藝須許欲奈枳和多禮登毛之備乎都久欲爾余蘇倍曾能可氣母見牟《ホトトギスコヨナキワタレトモシビヲツクヨニナソヘソノカゲモミム》、
 
4182 霍公鳥《ホトヽギス》。雖聞不足《キケドモアカズ》。網取爾《アミトリニ》。獲而奈都氣奈《トリテナツケナ》。可禮受鳴金《カレズナクガネ》。
 
網取《アミトリ》とは、網《アミ》を張《ハリ》て獲《トル》を云、○獲而奈都氣奈《トリテナツケナ》は、獲而將懷《トリテナツケナ》の意にて、下の奈《ナ》は、ことを強くいふときの辭なり、(たゞ奈都氣牟《ナツケム》と云とは異なり、牟《ム》と奈《ナ》との差別《ケヂメ》、はやく一(ノ)卷にくはしくいへり、)○可禮受鳴金《カレズナクガネ》は、不《ズ》v離《カレ》鳴之根《ナクガネ》なり、不《ズ》v絶《タエ》鳴がために、と云むが如し、○歌(ノ)意、かくれなし、十七に、保登等藝須夜音奈都可思安美指者花者須具等毛可禮受加奈可牟《ホトトギスヨコエナツカシアミサヽバハナハスグトモカレズカナカム》、
 
4183 霍公鳥《ホトヽギス》。飼通良婆《カヒトホセラバ》。今年經而《コトシヘテ》。來向夏波《キムカフナツハ》。麻豆將喧乎《マヅナキナムヲ》。
 
歌(ノ)意、網取《アミトリ》に獲《トリ》て懷《ナツケ》て、明(ル)年まで養通《カヒトホ》したらば、來む年の夏は尋常《ヨノツネ》のほとゝぎすに先(キ)立て、まづなきぬべきものを、いかで獲(リ)得ばやとなり、
 
從《ヨリ》2京師《ミヤコ》1贈來歌一首《オコセルウタヒトツ》。
 
これは京師に留れる、家持(ノ)卿の妹が、あによめの坂上(ノ)大孃が、夫(ノ)君をしたひて、越中へ下り居るを戀て、よみて贈(リ)來せるなり、さて此(ノ)下に至りて、今の歌の返歌二首ありて、その左註に、爲v贈2留女之女郎1、所v誂2家婦1作也、女郎者即大伴家持之妹、とあり、
 
(168)4184 山吹乃《ヤマブキノ》。花執持而《ハナトリモチテ》。都禮毛奈久《ツレモナク》。可禮爾之妹乎《カレニシイモヲ》。之奴比都流可毛《シヌヒツルカモ》。
 
都禮毛奈久《ツレモナク》とは、情おくれて、いとほしむべきことをも、よく堪しのびて、さりげなくするを云ことばなり、俗に氣づよくと云が如し、四(ノ)卷に、都禮毛無將有人乎獨念爾吾念者感毛安流香《ツレモナクアルラムヒトヲカタモヒニアレハオモヘバメグシクモアルカ》、十三に、※[さんずい+内]浪來依濱丹津烈裳無偃有公賀家道不知裳《ウラナミノキヨスルハマニツレモナクコヤセルキミガイヘヂシラズモ》、などあり、都禮無《ツレナク》ともよめり、同じことばなり、(契冲、つれなく、つれもなく、など云、つれは、頬なるべし、頬は顔のそばなれば、やがてかほなり、情なきことをも、よく堪て、さりげなきは、面目もなきことゝいふ意にて、いふなるべし、といへり、なほ考(フ)べし、)契冲、我を京にとゞめおきて、ひとり下れるを、うらむるやうにいひて、したふなり、といへるが如し、○可禮爾之妹《カレニシイモ》は、離《カレ》にし妹にて、即(チ)あによめ坂上(ノ)大孃をさせり、姉妹《アネイモ》、長《タケ》たる幼《ワカ》きをいはず、女どち互に妹《イモ》と云しことあり、男どち互に兄《セ》と云しが如し、仁賢天皇(ノ)紀に、古老不v言2兄弟長幼(ヲ)1、女(ハ)以v男稱v兄(ト)、男(ハ)以v女稱v妹(ト)、故(レ)云2於母亦兄於吾亦兄《オモニモセアレニモセト》1耳、とあるには、かぎるべからず、○歌(ノ)意は、山吹の花とりもちて、興ずるにつけても、われをつれなく、京にとゞめおきて、越中へ下り給ひしそなたのみを、戀しく思ひつる哉、となり、
 
右四月五日《ミギウツキノイツカノヒ》。從《ヨリ》2留《トヾマレル》v女《サトニ》之|女郎《イラツメ》1所送《オコセタルナリ》也。
 
留女は、留郷か、留京かの誤なるべし、と略解にいへるは、さることなり、下に出たるも同じ、○郎(ノ)字、舊本に良と作るは誤にや、今は古寫本、拾穗本等に從つ、
 
(169)詠《ヨメル》2山振花《ヤマブキノハナヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
花(ノ)字、定家卿萬事にはなし、
 
4185 宇都世美波《ウツセミハ》。戀乎繁美登《コヒヲシゲミト》。春麻氣※[氏/一]《ハルマケテ》。念繁波《オモヒシゲクバ》。引攀而《ヒキヨヂテ》。折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》。毎見《ミルゴトニ》。情奈疑牟等《コヽロナギムト》。繁山之《シゲヤマノ》。谿敝爾生流《タニヘニオフル》。山振乎《ヤマブキヲ》。屋戸爾引殖而《ヤドニヒキウヱテ》。朝露爾《アサツユニ》。仁保敝流花乎《ニホヘルハナヲ》。毎見《ミルゴトニ》。念者不止《オモヒハヤマズ》。戀志繁母《コヒシシゲシモ》。
 
宇都世美波《ウツセミハ》は、現身者《ウツシミハ》といふが如し、○戀乎繁美登《コヒヲシゲミト》は、戀が繁き故に、の意なり、登《ト》は、助辭なり、○念繁波は、オモヒシゲクバ〔七字右○〕と訓べし、思(ヒ)の繁からば、と云意なり、○折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》云々は、山吹を折ても翫《メデ》、折ずても賞《メデ》つゝ、心をなぐさまむとて、と云意なり、上に毎時彌米頭良之久咲花乎折毛不折毛見良久之余志毛《トキゴトニイヤメヅラシクサクハナヲヲリモヲラズモミラクシヨシモ》、○繁山《シゲヤマ》、七(ノ)卷にも、青山葉茂山邊《アヲヤマノハシゲキヤマヘ》、ともよめり、拾遺集雜戀に、よの中はいかゞはせまし繁山《シゲヤマ》の青葉の杉のしるしだになし、古今集にも、つくは山はやま繁山《シゲヤマ》、とよめり、○谿敝爾生流《タニヘニオフル》、重之集に、音もせで谷がくれなる山吹はたゞくちなしの色にぞありける、○引植而《ヒキウヱテ》、十八に、夏能能之佐由利比伎宇惠天《ナツノノノサユリヒキウヱテ》云々、○毎見《ミルゴトニ》云々、情をなぐさまむとて植たるを、毎見《ミルゴトニ》思(ヒ)の止(ム)ことはなくして、さても中々に、戀しく思ふ心のしげさのみ、一すぢに増ることよ、となり、
 
反詠《カヘシウタ》。
 
(170)詠(ノ)字、官本に謌と作(キ)、拾穗本には歌と作り、これらに從べきか、
 
4186 山吹乎《ヤマブキヲ》。屋戸爾殖※[氏/一]波《ヤドニウヱテハ》。見其等爾《ミルゴトニ》。念者不止《オモヒハヤマズ》。戀己曾益禮《コヒコソマサレ》。
 
殖※[氏/一]波《ウヱテハ》、波《ハ》は、清音なり、輕くきくべし、植たらばの意にはあらず、濁るべからず、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
六日《ムカノヒ》遊2覽《アソビテ》布勢水海《フセノミヅウミニ》1作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4187 念度知《オモフドチ》。大夫能《マスラヲノコノ》。許能久禮|能〔○で囲む〕《コノクレノ》。繁思乎《シゲキオモヒヲ》。見明良米《ミアキラメ》。情也良牟等《コヽロヤラムト》。布勢乃海爾《フセノウミニ》。小船都良奈米《ヲブネツラナメ》。眞可伊可氣《マカイカケ》。伊許藝米具禮婆《イコギメグレバ》。乎布能浦爾《ヲフノウラニ》。霞多奈妣伎《カスミタナビキ》。垂姫爾《タルヒメニ》。藤浪咲而《フヂナミサキテ》。濱淨久《ハマキヨク》。白波左和伎《シラナミサワキ》。及及爾《シクシクニ》。戀波末佐禮杼《コヒハマサレド》。今日耳《ケフノミニ》。飽足米夜母《アキタラメヤモ》。如是己曾《カクシコソ》。彌年乃波爾《イヤトシノハニ》。春花之《ハルハナノ》。繁盛爾《シゲキサカリニ》。秋葉能《アキノハノ》。黄色時爾《ニホヘルトキニ》。安里我欲比《アリガヨヒ》。見都追思努波米《ミツツシヌハメ》。此布勢能海乎《コノフセノウミヲ》。
 
許能久禮能《コノクレノ》、下の能(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、(古寫小本には、爾(ノ)字あり、それもよろしからず、)今補つ、此(ノ)上にも、許能久禮乃四月之立者《コノクレノウツキシタテバ》、下に、許能久禮乃繁溪邊乎《コノクレノシゲキタニヘヲ》、とあり、さて此は、繁《シゲキ》をいはむとて、枕詞に置るなり、○見明米《ミアキラメ》は、見て心を晴《ハルカ》すを云、(契冲、文選に、目察をミアキラム〔五字右○〕とよめるを引たれど、こゝは其(ノ)意には非ず、)○情也良牟等《コヽロヤラムト》は、鬱情《イフセキコヽロ》を晴《ハルカ》し遣むとての意なり、十一に、戀事意遣不得出行者山川 不知來《コフルコトコヽロヤリカネイデユケバヤマモカハヲモシラズキニケリ》、(遣(ノ)字、舊本に追と作るは誤なり、)十七に、於毛布
(171)度知許己呂也良牟等《オモフドチコヽロヤラムト》、○都良奈米《ヅラナメ》は、連《ツラネ》の伸りたるなり、奈米《ナメ》の切|禰《ネ》、(契冲が、列竝《ツラナメ》なり、といへるは、いさゝかたがへり、)漕(ギ)竝ぶることなり、十五に、和多都美能於枳敝乎見禮婆《》、伊射理須流マカイカケマカヂカケカイ
安麻能乎等女波小船乘都良々爾宇家里《ワタツミノオキヘヲミレバイザリスルアマノヲトメハヲブネノリツラヽニウケリ》、○眞可伊可氣《》、(或説に、眞※[楫+戈]懸《》なるべし、可伊《》は、淺き所に專ら用ふるものにて、深き所には用(ヒ)ず、少(シ)深き池も、※[舟+虜]ならでは、往來ならず、と云れども、眞可伊《マカイ》とあればとて(可伊《カイ》のみ用ひしとは、定むべからず、一舟に※[楫+戈]《カヂ》も可伊《カイ》も用ひしなるべければ、※[楫+戈]《カヂ》の方はいはずてもありしことは、自(ラ)知れたり、なほ次に引(ク)歌を考(フ)べし、)十七に、麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》、とあり、(これも※[楫+戈]《カヂ》と加伊《カイ》を用たりしなり、可伊《カイ》は、即(チ)今(ノ)世にも可伊《カイ》といふもの是なり、古(ヘ)加遲《カヂ》と云は、今(ノ)世にいふ※[舟+虜]《ロ》なり、今(ノ)世に加遲《カヂ》と云は、古(ヘ)多藝斯《タギシ》といへり、〔頭注、【櫂と※[楫+戈]との説は、二卷中に委く註り、可治は、和名抄に、釋名云、※[楫+戈]使2舟捷疾1也、兼名苑云、※[楫+戈]一名※[木+堯]、和名加遲、唐韻云、※[舟+虜]所2以進1v船也、とあれど、古にいへる可治はすなはち今の※[舟+虜]なり、多藝斯のことば十六下に出せり、】〕○乎布能浦《ヲフノウラ》、垂姫《タルヒメ》ともに、上に見えたり、○及及爾《シクシクニ》云々は、重々《シク/\》に、水海の風景を、めでうつくしむ心は益れども、飽足よしはさらになしとなり、戀《コヒ》とは、めでうつくしむ意なり、○黄色時爾は、ニホヘルトキニ〔七字右○〕と訓べし、十七に、波流波奈乃佐氣流左加利爾安吉乃葉乃爾保弊流等伎爾《ハルハナノサケルサカリニアキノハノニホヘルトキニ》、とあり、又此(ノ)下に、春花乃爾太要盛而《ハルハナノニホエサカエテ》、秋葉之爾保比爾照有《アキノハノニホヒニテレル》云々、とあるをも、考(ヘ)合(ス)べし、(畧解に、十七に、秋さらば、毛美知能等伎爾《モミチノトキニ》とあるによりて、こゝをも、モミチノトキニ〔七字右○〕とよめるは、例の甚偏なりといふべし、こゝは秋葉乃《アキノハノ》と云體言より、いひつゞけたれば、必(ズ)用言に承《ウク》べきさ(172)だまりにこそあれ、又舊訓のまゝにモミツルトキニ〔七字右○〕とよまむは、中々に妨なし、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4188 藤奈美能《フヂナミノ》。花盛爾《ハナノサカリニ》。如此許曾《カクシコソ》。浦己藝廻都追《ウラコギタミツツ》。年爾之努波米《トシニシヌハメ》。
 
己藝廻都追《コギタミツツ》とは、手廻《タモトホリ》の約りたるなり、漕廻《コギメグ》りつゝと云に同じ、○年爾之努波米《トシニシヌハメ》は、年とは、毎年の謂なり、之努波米《シヌハメ》は、將《メ》v愛《シヌハ》なり、此(ノ)之努布《シヌフ》は、めでうつくしむ意なり、俗に、賞翫すべきことなれ、と云意なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
贈《オクレル》2水烏越前判官大伴宿禰池主《ウヲコシノミチノクチノマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシニ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
水烏の字、六(ノ)卷に出たり、和名抄に、爾雅註(ニ)云、※[盧+鳥]〓(ハ)水烏也、
 
4189 天離《アマザカル》。夷等之在者《ヒナトシアレバ》。彼所此間毛《ソコココモ》。同許己呂曾《オヤジココロソ》。離家《イヘザカリ》。等之乃經去者《トシノヘヌレバ》。宇都勢美波《ウツセミハ》。物念之氣思《モノモヒシゲシ》。曾許由惠爾《ソコユヱニ》。情奈具左爾《コヽロナグサニ》。霍公鳥《ホトヽギス》。喧始音乎《ナクハツコヱヲ》。橘《タチバナノ》。珠爾安倍貫《タマニアヘヌキ》。可頭良伎※[氏/一]《カヅラキテ》。遊波久與〔二字各○で囲む〕之母《アソバクヨシモ》。麻須良乎乎《マスラヲヲ》。等毛《トモ》毛|奈倍立而《ナヘタチテ》。叔羅河《シクラガハ》。奈頭左比泝《ナヅサヒノボリ》。平瀬爾波《ヒラセニハ》。左泥刺渡《サデサシワタシ》。早湍爾波《ハヤキセニハ》。水烏乎潜都追《ウヲカヅケツツ》。月爾日爾《ツキニヒニ》。之可志安蘇婆祢《シカシアソバネ》。波之伎和我勢故《ハシキワガセコ》。
 
彼所此間毛《ソコココモ》云々は、共に同じ田舍《ヰナカ》なれば、彼所《ソナタ》も此間《コナタ》も、心は異ならず、と云意なり、○同許己呂曾《オヤジコヽロソ》、十八に、都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾波伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》、○情(173)奈具左爾《コヽロナグサニ》は、心慰《コヽロナグサ》めに、と云が如し、七(ノ)卷に、名草山事西在來吾戀千重一重名草目名國《ナグサヤマコトニシアリケリアガコフルチヘノヒトヘモナグサメナクニ》、○安倍貫《アヘヌキ》は、令《セ》v合《アハ》貫《ヌキ》なり、音(ノ)鳥は、玉に貫(カ)るゝ物にてはなけれども、橘を玉に貫(ク)時に、必(ズ)鳴ものなれば、霍公鳥の音を玉に貫交るよし、云ならはしたる歌多し、○遊波久與之母《アソバクヨシモ》は、遊ぶ事のさても善《ヨシ》や、の意なり、久與(ノ)二字、舊本にはなし、本居氏、遊波之母は、遊波久與之母《アソバクヨシモ》なるを、久與(ノ)二字脱たるなるべし、此(ノ)歌上に、曾許由惠爾《ソコユヱニ》といへるをおもへば、此《コノ》遊波久與之母《アソバクヨシモ》の句までは、家持(ノ)卿みづからの事をいへるにて、さて次の麻須良乎乎《マスラヲヲ》といふより、池主の事なり、されば一首の意は、吾もしか/\して遊べば、心なぐさみて、よろしく思ふなり、わがせこも、しかじかして遊びたまへ、といへるなりといへり、信にさることなり、この説によりて、今姑(ク)久與(ノ)二字を補入つるなり、(舊本に、遊波之母をタハルレハシモ〔七字右○〕と訓るは、論にたらず、契冲、タハルルハシモ〔七字右○〕とよみて、ハシモ〔三字右○〕愛(ノ)字のこゝろにて、たはるゝがよしといふなり、といへるも、なほ非なり、)○等毛奈倍立而(毛(ノ)下、今一(ツ)毛(ノ)宇あるは、衍文なり、古寫本、拾穗本、古寫小本等に、なきぞ宜しき、)は、ドモナヘタチテ〔七字右○〕とよむべし、等毛奈比《トモナヘ》は、令《ヘ》v伴《トモナ》なれば、(等毛奈比《トモナヒ》とはいはずて、)倍《ヘ》といひ、立而《タチテ》は、自《ミ》立(ツ)意なれば、タチテ〔三字右○〕と訓べきなり、○叔羅河《シクラガハ》、略解に、岡部氏(ノ)説を擧て云く、越前人云、今府に白鬼女《シラキメ》河あり、神名帳、越前(ノ)國敦賀(ノ)郡|白城《シラキノ》神社、又|信露貴彦《シロキヒコノ》神社あり、されば此(ノ)叔は、新の誤にて、シラキ〔三字右○〕河なるべしといはれき、元暦本、叔を升とあれば、彌々字近し、又或人云、神名帳に、(174)越前(ノ)國大野(ノ)郡、篠座《シヌクラノ》神社在(リ)、叔羅河《シクラガハ》は、篠座河《シヌクラカハ》か、といへり、此(ノ)説も近し、(以上略解、)契冲、しくら川は、越前にありとはいへれど、たしかに所據をいはざれば、たゞ推當にいへるにもあらむ、猶考(フ)べし、○平瀬《ヒラセ》は、平かにて、ゆるやかなる瀬をいふべし、○早湍《ハヤセ》は、平瀬《ヒラセ》の反對《ウラ》にて、流の急き湍《セ》なり、○水烏、烏舊本に鳥と作るは、誤なり、今改つ、古寫本には※[一/鳥]と作り、○之可志安蘇婆禰《シカシアソバネ》とは、之可《シカ》は、然《シカ》にて、さやうと云意なり、志《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを、おもく思はする助辭なり、さやうにして遊びて、一(ト)すぢに、心を慰め給ひね、といはむが如し、○舊本、此(ノ)歌の終に、江家の二字を註せり、元暦本、拾穗本、古寫小本等には、二字ともになし、本居氏、此は江家の人の此(ノ)歌の訓を附たるを記せるなり、凡て此(ノ)集の訓點、今こそ大抵は明らかになりて、さのみむつかしくもあらねど、中古には、甚難きことにせし故に、一首の訓を附たるをも功にして、かく記せるなり、入道殿讀出給なども記せる處あり、それらも、訓を附たるをいふなり、といへり、
 
反歌二首〔四字各○で囲む〕《カヘシウタフタツ》。
 
4190 叔羅河《シクラガハ》。湍乎尋都追《セヲタヅネツツ》。和我勢故波《ワガセコハ》。宇河波多多佐禰《ウカハタタサネ》。情奈具左爾《コヽロナグサニ》。
 
多多佐禰《タタサネ》は、立(チ)給ひね、と希ふ意なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、○舊本、此(ノ)歌の終にも、江家(ノ)二字を註せり、古寫本には、江説と朱書せり、元暦本、拾穗本等には、二字ともになし、上にいへる如し、
 
(175)4191 ※[盧+鳥]河立《ウカハタチ》。取左牟安由能《トラサムアユノ》。之我波多婆《シガハタハ》。吾等爾可伎無氣《アレニカキムケ》。念之念婆《オモヒシモハバ》。
 
取左卑《トラサム》は、取牟《トラム》の伸(リ)たる言にて、(良佐《ラサ》は良《ラ》と切る、)取給はむと云むが如し、○之我波多婆《シガハタハ》(波(ノ)字、舊本には婆と作り、今は阿野家本に從つ、婆(ノ)字も波と作べし、)は、其之鰭者《シガハタハ》なり、之我《シガ》は、其之《ソレガ》と云に同じ、已《ハヤク》あまた出たり、波多《ハタ》は、和名抄に、文選註(ニ)云、鰭《ハタハ》魚(ノ)背上(ノ)鬣也、和名|波太《ハタ》、俗(ニ)云、比禮《ヒレ》、神代紀、并祝詞式に、鰭廣物鰭狹物《ハタノヒロモノハタノサモノ》、など見えたり、古事記下(ツ)卷、袁祁(ノ)命(ノ)御歌に、斯本勢能那袁理袁美禮婆阿蘇尾久流志毘賀波多傳爾都麻多弖理美由《シホセノナヲリヲミレバアソビクルシビガハタデニツマタテリミユ》、ともあり、(契冲、二説を出せる中、一(ツ)には、波多《ハタ》は鰭《ハタ》かといへるはよし、一(ツ)に、波多《ハタ》は多《タ》と都《ツ》と通へる故に、初者《ハツハ》なり、初《ハツ》は初穗なり、第十に、ハタアラシ〔五字右○〕と七夕の歌によめるも、初《ハツ》あらしなりといへるは、わろし、十(ノ)卷に、ハタアラシ〔五字右○〕とよめりといへるは、旗荒木葉裳具世丹、とあるをいへるなり、かれは旗荒木末葉裳其世丹《ハタスヽキウラハモソヨニ》、とありしを、字を落しもし、誤りもしたるよし、はやくかしこにいひたるが如し、今の例に用がたきことなり、○吾等爾可伎無氣《アレニカキムケ》は、吾に掻向《カキムケ》よと云にて、吾に惠み給へといはむが如し、○念之念婆《オモヒシモハバ》は、之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを、重く思はする助辭にて、吾を一(ト)すぢに、深くおもひおもふとならばと云意なり、○歌(ノ)意は、吾等が君を深く思ふ如く、君も吾を一すぢに思ひ給ふとならば、わが進《マヰ》らせたる鵜をかづけて、鵜川に立て、獲給はむ其(ノ)鮎をば、まづ吾に惠み給へとなり、其之鰭《シガハタ》といへるは、たゞ詞の文《カザリ》にいへるのみにて、たゞ鮎をいふなるべし、
 
(176)右九日《ミギコヽノカノヒ》。附《ツケテ》v使《ツカヒニ》贈《オクル》之。
 
詠《ヨメル》2霍公鳥并藤花《ホトヽギスマタフヂノハナヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
上の歌(ノ)字、舊本にはなし、今は官本、拾穗本等に從つ、
 
4192 桃花《モヽノハナ》。紅色爾《クレナヰイロニ》。爾保比多流《ニホヒタル》。面輪乃宇知爾《オモワノウチニ》。青柳乃《アヲヤギノ》。細眉根乎《クハシマヨネヲ》。咲麻我理《ヱミマガリ》。朝影見都追《アサカゲミツツ》。※[女+感]嬬良我《ヲトメラガ》。手爾取持有《テニトリモタル》。眞鏡《マソカヾミ》。蓋上山爾《フタガミヤマニ》。許能久禮乃《コノクレノ》。繁谿邊乎《シゲキタニヘヲ》。呼等余米《ヨビトヨメ》。旦飛渡《アサトビワタリ》。暮月夜《ユフヅクヨ》。可蘇氣伎野邊《カソケキヌヘニ》。遙遙爾《ハロバロニ》。喧霍公鳥《ナクホトヽトギス》。立久々等《タチククト》。羽觸爾知良須《ハブリニチラス》。藤浪乃《フヂナミノ》。花奈都可之美《ハナナツカシミ》。引攀而《ヒキヨヂテ》。袖爾古伎禮都《ソデニコキレツ》。染婆染等母《シマバシムトモ》。
 
桃花《モヽノハナ》云々、青柳乃《アヲヤギノ》云々、五(ノ)卷、遊2於松浦河(ニ)1序に、花容無v雙、光儀無v匹、開2柳葉(ヲ)於眉中(ニ)1、發2桃花於頬上(ニ)1、とあり、桃花云は、艶有面輪《ニホヒタルオモワ》をいは心ためなり、○爾保比多流《ニホヒタル》は、※[豐+盍]有《ニホヒタル》にて、紅顔《アカラメルカホ》をいふ、○面輪《オモワ》、上に御面謂2之|美於毛和《ミオモワ》1、と自註あり、はやく彼處にもいへり、○細眉根乎は、(細はホソキ〔三字右○〕にても理はあり、さるは、から國にても、蛾眉連卷などいひて、人の眉の細くて連《マガ》れるを、蛾《ヒヽル》の眉にたとへしことあればなり、しかれども、)クハシマヨネ〔六字右○〕と訓べし、細《クハシ》は、美《ホメ》ていふ辭なり、(クハシ〔三字右○〕とは、何によらず、ひろく美《ホメ》ていふことなれば、細《ホソ》きことも、媚《ウツクシ》きことも、其(ノ)中にこもればなり、)細女《クハシメ》、細妹《クハシイモ》、また目細《マクハシ》、心細《ウラクハシ》などの細《クハシ》なり、眉は、マヨ〔二字右○〕といふ、古言なり、マユ〔二字右○〕といふは、やゝ後なり、又|眉根《マヨネ》、眉引《マヨビキ》、眉畫《マヨカキ》など云ときは、マユ〔二字右○〕のユ〔右○〕をヨ〔右○〕に轉して、木《キ》を、木葉《コノハ》、木實《コノミ》、火《ヒ》を、火中《ホナカ》、火※[火+陷の旁]《ホノホ》な(177)どいふ類に、連言の便にいへるなりとおもふも、ひがことなり、十四に、爾比具波麻欲《ニヒグハマヨ》、とあるにても、はなちて單にいふときも、マヨ〔二字右○〕と云しことを知べし、○咲麻我理《ヱミマガリ》は、笑(ム)時に眉の撓《マガ》るを云、(笑設《ヱミマケ》なりといふ説はわろし、我の濁音の字を用たれば、設《マケ》ならぬことは、論なし、)○朝影見都迫《アサカゲミツツ》は、朝に鏡を見るを云、○眞鏡《マソカヾミ》、初句より此(ノ)句までは、盖上山《フタガミヤマ》をいはむとての序なり、鏡筥《カヾミハコ》の蓋《フタ》と云意に云係たり、○呼等米爾は、此上に、足檜木乃山呼等余米左夜中爾鳴霍公鳥《アシヒキノヤマヨビトヨメサヨナカニナクホトトギス》、とあるをみれば、こゝもヨビトヨメ〔五字右○〕にや、米爾は、余米なりしを顛倒《オキタガヘ》、且《マタ》字を寫誤れるならむ、余と爾とかき違へること、集中第十に、告余叙來鶴《ツゲニゾキツル》、第十八に、心奈具佐余《コヽロナグサニ》、などある、余は、みな尓を誤れるなり、○可蘇氣伎野邊《カソケキヌヘヘニ》(邊(ノ)下、古寫小本には爾(ノ)字あり、)は、幽《カソ》けき野邊になり、此(ノ)卷(ノ)末にも、伊佐左村竹布久風能於等能可蘇氣伎《イササムラタケフクカゼノオトノカソケキ》、とあり、月影の幽《カスカ》なるを云、(雄略天皇(ノ)紀に、寒風肅然之晨《サムカゼカスカナルトキ》云々、)○立久久等《タチククト》は、立漏《タチクヽ》とての意なり、○羽觸《ハブリ》は、字の如く、羽のあたり、觸るを云、ハブリ〔三字右○〕と訓べし、(舊訓に、ハフレ〔三字右○〕とあるは、よろしからず、)道往觸《ミチユキブリ》、彼此觸《ヲチコチブリ、》など云|夫利《ブリ》に同じ、羽振《ハブリ》と云とは異なり、混ふべからず、○袖爾古伎禮都《ソテニコキレツソ》、袖《ソデ》に扱入《コキイレ》つなり、(古伎《コキ》は、扱《コキ》v稻(ヲ)の扱《コキ》なり、入《イレ》の伊《イ》は、扱《コキ》の餘韻に含れば、自省る例なり、略解に、コキ〔二字右○〕はカキ〔二字右○〕に同じく詞なり、と云るは、甚非なり、)八(ノ)卷に、引攀而折者可落梅花袖爾古寸入津染者雖染《ヒキヨヂテヲラバチルベミウメノハナソテニコキレツシマバシムトモ》、十八にも、之路多倍能蘇泥爾毛古伎禮《シロタヘノソデニモコキレ》、古今集にも、紅葉は、袖にこき入《イレ》て持出なむ、とあり、○染婆染等母《シマバシムトモ》は、よしや染《シマ》ば染《シム》とも厭はじ、(178)となり、
 
反|歌〔○で囲む〕《カヘシウタ》。
 
4193 霍公鳥《ホトトギス》。鳴羽觸爾毛《ナクハブリニモ》。落爾家利《チリニケリ》。盛過良志《サカリスグラシ》。藤奈美能花《フヂナミノハナ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるところなし、○舊本註に、一云|落奴倍美袖爾古伎禮都藤浪乃花《チリヌベミソテニコキレツフヂナミノハナ》也、とあり、也は添て書るのみなり、
 
同九日作《オヤジコヽノカノヒヨメル》之。
 
更《マタ》怨《ウラム》2霍公鳥喧晩《ホトトギスノナクコトオソキヲ》1歌三首《ウタミツ》。
 
4194 霍公鳥《ホトトギス》。喧渡奴等《ナキワタリヌト》。告禮騰毛《ツグレドモ》。吾聞都我受《アレキヽツガズ》。花波須疑都追《ハナハスギツツ》。
 
告禮騰毛《ツグレドモ》は、友人などよりなり、○聞都我受《キヽツガズ》は、繼て不v聞、といふなり、因《カレ》題に更怨と書り、十一に、吾妹兒乎聞都賀野邊靡合歡木《ワギモモコヲキヽツガヌヘノシナヒネブ》云々、○花《ハナ》は、藤をさせり、○歌(ノ)意、霍公鳥の度々鳴てわたりぬと、人は語れども、吾は只一聲聞たるのみにて、繼て聞ずして、藤の花は落過つゝ、くちをしきことよ、となり、
 
4195 吾幾許《アガコヽダ》。斯奴波久不知爾《シヌハクシラニ》。霍公鳥《ホトトギス》。伊頭敝能山乎《イヅヘノヤマヲ》。鳴可將超《ナキカコユラム》。
 
斯奴波久不知爾《シヌハクシラニ》は、慕ふ事を知(ラ)ずしての意なり、斯奴波久《シヌハク》は、之奴布《シヌフ》の伸(リ)たる言なり、これは
 
通《カヨフ》を可欲波久《カヨハク》、思《オモフ》を於母波久《オモハク》、問《トフ》を等波久《トハク》、逢《アフ》を阿波久《アハク》、云《イフ》を伊波久《イハク》など伸(ヘ)云と、みな同じ例な(179)り、さて可欲波久《カヨハク》と云(ヘ)ば、通《カヨ》ふ事《コト》と云意、於母波久《オモハク》といへば、思ふ事と云意になるに、准へて知べし、○伊頭敝能山《イヅヘノヤマ》は、何方之山《イヅカタノヤマ》といふなり、二(ノ)卷に、秋田之穗上霧相朝霞河時邊乃方二我戀將息《アキノタノホノヘニキラフアサカスミイヅヘノカタニアガコヒヤマム》、とある下に、委(ク)註り、十三には、何處邊《イヅクヘ》ともあり、曾丹集に、いづこへによなよな露のおけとてか稻葉を人のいそぎ刈らむ、このいづこへも同じ、○歌(ノ)意は、わがそこばく慕ひ待(ツ)心を知ずして、いたづらに、いつ方の山をか、ほとゝぎすの鳴て過らむ、となり、
 
4196 月立之《ツキタチシ》。日欲里乎伎都追《ヒヨリヲキツツ》。敲自努比《ウチシヌヒ》。麻低騰伎奈可奴《マテドキナカヌ》。霍公鳥可毛《ホトヽギスカモ》。
 
月立之《ツキタチシ》、契冲、この月立《ツキタツ》といふは、立夏にて、四月(ノ)節なり、上に、自註にくはしく見えたり、四月朔日にはあらず、と云るが如し、○乎伎《ヲキ》は招《ヲキ》なり、十七放逸鷹歌に、呼久餘思乃曾許爾奈家禮婆《ヲクヨシノソコニナケレバ》、拾遺集に、はしたかのをき餌《ヱ》にせむとかまへたる、などある、乎伎《ヲキ》皆同じくて、鳥の來|喰《ハム》べき餌《ヱ》などを設け置て、招《マネ》き待(ツ)をいふ詞なり、鷹の媒鳥《ヲトリ》といふも、招2引野雉(ヲ)1也と註《イヘ》るにて、招鳥《ヲキトリ》の義なるを思ふべし、○敲自努比《ウチシヌヒ》は、打慕《ウチシヌヒ》なり、敲《ウチ》は、例のそへたる辭なり、自は、濁音の字なれば、上の言より連く便に、自努比《ジヒ》と濁りて唱へしか、又は清て唱べきを、取はづして、此(ノ)字を用たるか、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
贈《オクレル》2京人《ミヤコヒトニ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
上に從2京師1贈來といへる歌あり、其(ノ)和《コタ》へなり、
 
(180)4197 妹爾似《イモニニル》。草等見之欲里《クサトミシヨリ》。吾標之《アガシメシ》。野邊之山吹《ヌヘノヤマブキ》。誰可手乎里之《タレカタヲリシ》。
 
妹爾似《イモニニル》云々は、山吹のうつくしさを、女の美貌に見なしたるなり、十一に、山振之爾保敝流妹之《ヤマブキノニホヘルイモガ》云々、とあり、○歌(ノ)意は、そこの美貌《カホ》に似て、うつくしき草と見てしより、甚(ク)愛《メデ》て、みだりに人に取せじと、我|領《シメ》置し、吾(ガ)本郷の野の山吹を、誰《タ》がそも手折しぞと、とがめたるなり、これは上に、山吹乃花執持而《ヤマブキノハナトリモチテ》云々と、家持(ノ)卿(ノ)妹より、家持(ノ)卿(ノ)妻坂上(ノ)大孃の、つれなくすておきて、ひとり越中に下られしを、わざといたくうらむるやうにいひなして、よみておくられたるを、家持(ノ)卿の、其(ノ)妻にかはりて、二首にて和へられたるなり、さて其(ノ)かけ歌に、實は慕へることを、わざと怨るやうにいはれたるを、又戯(レ)て、このごろ風《ホノ》かに聞ば、山吹を折取しとか、いでや本郷の野の山ぶきは、吾(ガ)愛しみ思ふ、そこの美貌になずらへて、大切に思へるより、しめゆひおきしことなれば、みだりに折(リ)とる人もあるまじきを、をも誰が手折しぞやと、とがめたる意にて、初二句の趣を、此(ノ)一首にて酬《コタフ》るなり、さて此(ノ)歌は、契冲、七(ノ)卷に、於君似草登見從我標之野山之淺茅人莫苅根《キミニニルクサトミシヨリアガシメシヌヤマノアサヂヒトナカリソネ》、此(ノ)歌にてよまれけるなるべし、といへるは、信にさることなり、
 
4198 都禮母奈久《ツレモナク》。可禮爾之毛能登《カレニシモノト》。人者雖云《ヒトハイヘド》。不相日麻禰美《アハヌヒマネミ》。念曾吾爲流《オモヒソアガスル》。
 
〔頭註、【契沖代匠記、つれもなくは、つれなくといふに同じ、無頬といふ意なるべし、つらは、顔のそばなれば、やがてかほなり、なさけなきことをも、よく堪てさりげなきは、面目もなきことゝいふ心にて、つれもなしとは、いふなるべし、】〕人《ヒト》とは、家持(ノ)卿の妹を指り、○麻禰美《マネミ》は、數《カズ》多《オホ》さにといふ意の古言、上にあ(181)また出たり、○歌(ノ)意は、吾をつれなくて離《カレ》にしと、そこにはの給へども、さにあらず、相見ぬ日の數多きによりて、吾こそ物思(ヒ)はすなれ、といへるなり、此はかけ歌に、都禮毛奈久可禮爾之《ツレモナクカレニシ》妹乎之努比都流可毛《イモヲシヌヒツルカモ》、とあるに、報《コタ》へられたるなり、
 
右《ミギ》、爲《タメニ》v贈《オクル》2留《トヾマレル》v女《サトニ》之|女郎《イラツメニ》1。所《ラエテ》v誂《アツラ》2家婦《メニ》1作《ヨメル》也。【女郎者。即大伴家持之妹。】
 
留女、これも留郷か、留京の誤なるべし、と略解にいへり、○家婦は、家持(ノ)卿の妻なり、
 
萬葉集古義十九卷之上 終
 
(182)萬葉集古義十九卷之中
 
十二日《トヲカマリフツカノヒ》。遊2覽《アソビ》布勢水海《フセノミヅウミニ》1。船2泊《フネトヾメ》於|多※[示+古]灣《タコノウラニ》1。望2見《ミテ》藤花《フヂノハナヲ》1。各《ヒト/”\》述《ノベテ》v懷《オモヒヲ》作歌四首《ヨメルウタヨツ》。
 
多※[示+古]灣(※[示+古](ノ)字、舊本に祐と作るは誤なり、今は元暦本、古寫本、古寫小本等に從つ、拾穗本には枯と作り、)は、射水(ノ)郡にあり、十七に、多古《タコ》の島《シマ》、十八に、多胡《タコ》の崎《サキ》、とある同處なり、灣は水曲也、とあり、
 
4199 藤奈美乃《フヂナミノ》。影成海之《カゲナルウミノ》。底清美《ソコキヨミ》。之都久石乎毛《シヅクイシヲモ》。珠等曾吾見流《タマトソアガミル》。
 
影成海《カゲナルウミ》とは、影之在海《カゲノアルウミ》にて、(乃阿《ノア》は、奈《ナ》と切れり、)影のうつりてある海、といふ意なり、○之都久石《シヅクイシ》とは、泥著石《シヅクイシ》といふなり、志都久《シヅク》は、既《サキ》に多く出たり、○歌(ノ)意は、海(ノ)水の底の清さに、藤(ノ)花もよく影をうつし、さてその影の映《ウツ》るによりて、いよ/\水の色もきらめきわたりて、沈著《シヅケ》る石をも、玉とぞ見なさるゝ、となり、十四に、信濃奈流知具麻能河泊能左射禮思母伎彌之布美※[氏/一]婆多麻等比呂波牟《シナヌナルチグマノカハノサザレシモキミシフミテバタマトヒロハム》、
 
(183)4200 多※[示+古]乃浦能《タコノウラノ》。底左倍爾保布《ソコサヘニホフ》。藤奈美乎《フヂナミヲ》。加射之※[氏/一]將去《カザシテユカム》。不見人之爲《ミヌヒトノタメ》。
 
次官内藏忌寸繩麻呂《スケウチノクラノイミキナハマロ》。
 
※[示+古]、舊本に祐と作るは誤なり、今は元暦本、古寫本、古寫小本等に從つ、下なるも同じ、拾穗本には、枯と作り、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、○次官は、介なり、次官は通稱なれば、かく書ること、守を長官、掾を判官と書ると全(ラ)同例なり、和名抄に、次官云々、國(ニ)曰v介(ト)云々、(已上皆|須介《スケ》、)
 
4201 伊佐左可爾《イササカニ》。念而來之乎《オモヒテコシヲ》。多※[示+古]乃浦爾《タコノウラニ》。開流藤見而《サケルフヂミテ》。一夜可經《ヒトヨヘヌベシ》。
 
判官久米朝臣廣繩《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハ》。
 
伊佐左可爾《イササカニ》は、伊佐左米爾《イササメニ》、と云と同じく、たゞかりそめになどいはむが如し、○歌(ノ)意、かくれなし、八(ノ)卷赤人(ノ)歌に、春野爾須美禮採爾等來師吾曾野乎奈都可之美一夜宿二來《ハルノヌニスミレツミニトコシアレソヌヲナツカシミヒトヨネニケル》、(今の歌を、朗詠に赤人のとて、いさゝめにおもひしものをたこのうらにさける藤なみ一夜ねぬべし、とあり、)
 
4202 藤奈美乎《フヂナミヲ》。借廬爾造《カリホニツクリ》。灣廻爲流《ウラミスル》。人等波不知爾《ヒトトハシラニ》。海部等可見良牟《アマトカミラム》。
 
久米朝臣繼麻呂《クメノアソミツグマロ》。
 
借廬爾造《カリホニツクリ》は、契冲、藤の陰にかくるゝを、借廬につくりとはいひなせるなり、といへる如し、○灣廻爲流は、ウラミスル〔五字右○〕と訓べし、浦廻《ウラミ》とは、常には浦之廻《ウラノメグリ》といふ意に、いふことなれど、こゝ(184)は其(レ)とは異にて、人の浦廻《ウラメグリ》をして、遊びありくをいへり、(しかるを、舊本に、アサリスル〔五字右○〕と訓(ミ)、略解に、イザリスル(ミ)と訓るは、皆|太《イミ》じき誤なり、其(ノ)ゆゑは、アサリ、イザリ〔六字右○〕は、海人の漁業するをいふことなれば、こゝに海人等可見良牟《アマトカミラム》、といへるに叶はず、なほ次に、歌(ノ)意を釋《トケ》るところを、併(セ)考へて、必(ズ)ウラミ〔三字右○〕と訓べきことを知べし、)三(ノ)卷に、大船二眞梶繁貫大王之御命恐磯廻爲鴨《オホブネニマカヂシヾヌキオホキミノミコトカシコミイソミスルカモ》、(この磯廻をも、アサリ〔三字右○〕とよめれど、今の歌に准へて、イソミ〔三字右○〕、とよむべし、これも石(ノ)上(ノ)大夫(ノ)歌にて、海人の漁業することをよかる歌ならねばなり、七(ノ)卷に、島廻爲等磯爾見之花風吹而波者雖縁不取不止《シマミストイソニミシハナカゼフキテナミハヨストモトラズハヤマジ》、(この島廻も、アサリ〔三字右○〕とよみたれど、シマミ〔三字右○〕とよむべきこと、上にいへるが如し、)又六(ノ)卷に、玉藻苅辛荷乃島爾島回爲流水烏二四毛有我家不念有六《タマモカルカラニノシマニシマミスルウニシモアレヤイヘモハザラム》、七(ノ)卷に、塩干者共滷爾出鳴鶴之音遠放磯回爲等霜《シホヒレバトモニガタニデナクタヅノコヱトホザカルイソミスラシモ》、(此(ノ)二首は、鳥の求食《アサリ》するさまをよめるなれば、アサリ〔三字右○〕とよめるはあたれり、されど此等も、島廻、磯廻とかけるからは、シマミ、イソミ〔六字右○〕とよみて、島廻《シマメグリ》、磯廻《イソメグリ》をして、求食《アザリ》するを云とせむに妨なければ、なほ今の歌になぞらへて、訓べきことなり、)○歌(ノ)意は、若(シ)外目《ヨソメ》に見む人は、吾を知ずして、漁業する海人と見らむ歟、吾等はさる類のものにはあらず、藤の花の陰に立もとほりて、あそびありく風雅士《ミヤビヲ》なるものを、といへるなり、(もしアサリスル〔五字右○〕といひては、海人ぞと人の見むも、げにことわりなれば、吾を漁業する海人と見らむ歟、と心づかひすべきにあらず、此(レ)にて、上に説《イヘ》ることを、いよ/\照(シ)考へてよ、)此(ノ)歌のこゝろばえに(185)よめる歌ども、上に數多見えたり、○繼麻呂、此(ノ)人、こゝの外に見えず、廣繩の男などにや、
 
恨《ウラム》2霍公鳥不喧《ホトトギスノナカヌヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
4203 家爾去而《イヘニユキテ》。奈爾乎將語《ナニヲカタラム》。安之比奇能《アシヒキノ》。山霍公鳥《ヤマホトトギス》。一音毛奈家《ヒトコヱモナケ》。
 
判官久米朝臣廣繩《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハ》。
 
歌(ノ)意、霍公鳥の一聲だに鳴ずば、家にかへりて、何をか語らむ、いかで唯一聲ばかりだに、鳴(ケ)かし、となり、
 
見《ミル》2攀折保寶葉《ヲレルホホガシハヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
保寶葉は、厚朴《ホヽガシハ》なり、品物解に委(ク)註り、〔頭註、【厚朴は、オホハノカシハにて、皇國には、ホヽガシハの程葉の大なる木の葉はなきなり、オは起言にてはぶき、ハノの約ホとなるを以て、ホヽカシハと云なりと知べし、和訓考、】〕
 
4204 吾勢枯我《ワガセコガ》。捧而持流《サヽゲテモタル》。保寶我之婆《ホホガシハ》。安多可毛似加《アタカモニルカ》。青蓋《アヲキキヌカサ》。
 
安多可毛似加《アタカモニルカ》は、宛然似哉《アタカモニルカ》なり、宛然《アタカモ》は、さながらと云ほどの意なり、(俗に、てうどと云に同じ、字書に、宛然猶2依然1、とあり、又恰(ノ)字をも、常に、アタカモ〔四字右○〕とよめり、恰(ハ)適當之辭、と字書に註せり、)○青蓋《アヲキキヌカサ》、儀制令(ノ)義解に、凡蓋(ハ)云々、一位(ハ)深(キ)緑、三位已上(ハ)紺、四位(ハ)縹、四品以上及一位(ハ)、頂(ノ)角(ニ)覆(テ)v錦(ヲ)垂(レ)v總(ヲ)云々、(五位已下には、蓋は、用(ハ)ざることにや、)○歌(ノ)意は、厚朴《ホヽカシハ》は、葉廣なるものゆゑに、緑蓋に見(186)なしたるにて、かくれたるところなし、○講師、玄蕃式に、凡諸國(ノ)講師(ニハ)、擇(テ)2年四十五以上、讀師(ニハ)、四十已上(ナラム)者(ヲ)1補(セヨ)之、但(シ)雖2階業已(ニ)滿之輩(ト)1、而年限未(ハ)v及、不v可2擬補(ス)1、また凡(ソ)延暦寺(ノ)三綱、一任之後、任2諸國(ノ)講讀師(ニ)1、其(ノ)上座、寺主(ハ)任(シ)2講師(ニ)1、都維那(ハ)任(セヨ)2讀師(ニ)1、とあり、三綱とは、上座、寺主、都維那を云り、延暦寺并に諸大寺の三鋼を經たる僧、諸國の講讀師に任《マケラ》れしと見ゆ、諸國とは、諸國の國分寺なり、これ各國《クニ/”\》の僧尼を司どる寺なり、委しきことは、玄蕃式を考ふべし、○僧惠行は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4205 皇祖神之《スメロキノ》。遠御代三世波《トホミヨミヨハ》。射布折《イシキヲリ》。酒飲等伊布曾《サケノムトイフソ》。此保寶我之波《コノホホガシハ》。
 
守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチ》。
 
遠御代三世波は、トホミヨ/\ハ〔六字右○〕はと訓べし、(諸(ノ)宣命に、遠天皇祖御世《トホスメロキノミヨ》云々、大井川行幸(ノ)序に、とほむかしにくらべて、後のけふをきかむ人、とあり、これ遠きを、遠《トホ》某と云る例なり、)遠(キ)古(ヘ)よりの御代御代者《ミヨミヨハ》、といふなり、(三世と書る字には、拘るべからず、)按(フ)に、波《ハ》の言平穩ならず、もしは、從(ノ)字などを誤れるにはあらざるか、○射布折《イシキヲリ》、契冲、伊《イ》はそへことばなり、古(ヘ)は、くふ物をも木の葉に盛(リ)、また柏など折(リ)敷(キ)て、其(ノ)上に居《スヱ》もしければ、椎の葉に盛(ル)ともよみ、膳夫を、かしはでともいひ、くふ物居(ウ)るを、をしきといふは、折(リ)敷(キ)といふ意なり、神供は、後までも、かしはにもるゆゑに、曾丹が歌に、榊取(ル)卯月になれば神山のならの葉柏もとつはもなし、延喜式の大嘗會の式、其(ノ)外供御料の註文に、青槲、于槲など、あまた所に見えたり、目本紀(ニ)(神武)云、(葉盤八枚、葉盤、此云2(187)※[田+比]羅耐《ヒラデト》1)和名抄(ニ)云、本朝式(ニ)云、十一月辰(ノ)日宴會、其(ノ)飲器(ハ)、參議已上(ハ)朱漆椀、五位以上(ハ)葉椀、(和語(ニ)云|久保天《クホテ》、)又云、漢語抄(ニ)云乘手、(比良天《ヒラデ》、已上契冲(ガ)代匠記、)さてこゝにいへるは、酒柏《ミキカシハ》にや、其は古事記應神天皇(ノ)條に、天皇|聞2看《キコシメス》豐(ノ)明1之日、髪長比賣、令v握2大御酒粕(ヲ)1、賜2其(ノ)太子(ニ)1、とありて、本居氏云、此(ノ)柏は、酒を受て飲(ム)葉なり、貞觀儀式、大嘗會(ノ)儀(ノ)中に、云々、次(ニ)神服男七十一人、著2揩(ノ)布(ノ)袗、并(ニ)日蔭縵(ヲ)1、各執(ル)2酒柏(ヲ)1、所謂(ル)酒粕(ハ)者、以2弓弦葉(ヲ)1挾(ミ)2白木(ニ)1、四重別(ニ)四枚在2左右(ニ)1、また午(ノ)日(ノ)儀に、次(ニ)神祇官中臣忌部及|小齋《ヲミノ》侍從以下、番上以上、左右(ニ)分(レ)入(ル)、造酒司人別(ニ)賜(フ)v柏(ヲ)、即(チ)受(テ)v酒(ヲ)而飲訖(テ)、以v柏(ヲ)爲(テ)v縵(ト)而和舞(ス)、と見ゆ、抑々酒を柏に受て飲(ム)事は、いと/\上(ツ)代のわざなりしが、定れる禮《ヰヤゴト》となりて、豐(ノ)明(リ)などには、必(ズ)其(ノ)事ありしなり、萬葉十九に云々、〈今の歌なり、)催馬樂(ノ)美濃山(ノ)歌に、美乃也萬爾之》々爾於比多留太萬加之波《ミノヤマニシヾニオヒタ》ルタマカシハ》、止與乃安可利爾安不加多乃之左也《トヨノアカリニアフガタノシサヤ》、安不加太乃之左也《アフガタノシサヤ》、(これ御酒柏《ミキカシハ》に用ひらるゝをいへり、)さて加志波《カシハ》と云は、もと一樹の名には非ず、何(レノ)樹にまれ、飲食《ゲ》に用る葉を云り、故(レ)書紀仁徳天皇(ノ)卷に、葉(ノ)字を書て、此云2箇始婆《カシハト》1とあり、然るに又某|賀志波《ガシハ》と名負たる樹も、古(ヘ)より彼此《コレカレ》とあるは、あるが中に、常によく用たる|ど《樹歟本ノマヽ》もを、然《サ》は名けたるなり、凡て上(ツ)代には、飲食《ケ》の具に多く葉を用ひしことにて、飯を炊くにも、甑《コシキ》に葉を敷(キ)もし、覆ひもして、炊きつるから、炊《カシキ》葉の意にて、加志波《カシハ》とは云(ル)なり、(已上古事記傳の説なり、)柏を飲食の具に用ひしこと、此(ノ)説等にて盡たり、類聚三代格に、大祓料物云々、抔六口、盤六口、柏十五把、(枚手六十枚料、)匏《ナリヒサゴ》四(188)柄、ともあり、(北史倭國傳に、俗无2盤俎1、藉《シクニ》以2  葉1、とあり、)しかるに、布折《シキヲリ》といへる、(上の契冲(ガ)説に依(ル)ときは、)折(リ)敷(ク)義ともいふべけれど、いかゞなり、一説には、布折は顛倒したるにて、射折布《イヲリシキ》なるべし、といへり、(しかれども、なほ酒を受て飲(ム)意とせむには、敷てふこと、いかゞなり、)岡部氏の説には、布折《シキヲリ》は、もとのまゝにて、頻折《シキヲリ》の意なるべし、といへり、然《サ》もあらむか、猶よく考(フ)べし、○歌(ノ)意は、遠き皇祖神の古(ヘ)の御代御代より、今に至るまで宴會の度に取(リ)あげられて、飲器に用ひらるゝと云ぞ、この保寶葉といへるにや、(現存六帖に、すべらきのみわそゝぎますほゝがしは大宮人のさゝげもつかも、)
 
還時《カヘルトキ》。濱上《ハマヘニテ》仰2見《ミル》月光《ツキヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
4206 之夫多爾乎《シブタニヲ》。指而吾行《サシテワガユク》。此濱爾《コノハマニ》。月夜安伎※[氏/一]牟《ツクヨアキテム》。馬之末時停息《ウマシマシトメ》。
 
守大伴宿禰家持《カミオホトモノスクネヤカモチ》。
 
之夫多爾《シブタニ》は、上に出つ、○月夜安伎※[氏/一]牟《ツクヨアキテム》は、月を飽まで見む、と云意なり、○馬之末時停息(末(ノ)字、舊本に未と作るは、誤なり、今は古寫本に從つ、)は、ウマシマシトメ〔七字右○〕と訓べし、暫(ク)馬を停《トメ》よと、馬の口取(ル)をのこなどに令《オホ》せたるなり、六(ノ)卷に、馬之歩抑止駐余住吉之岸乃黄土爾二保比而將去《ウマノアユミオシテトヾメヨスミノエノキシノハニフニニホヒテユカム》、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、○上(ノ)件(八首)皆同時(十二日)の歌なり、
 
二十二日《ハツカマリフツカノヒ》。贈《オクレル》2判官久米朝臣廣繩《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハニ》1。霍公鳥怨恨歌一首并短歌《ホトトギスノウラミノウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(189)鳥の下に、舊本、歌(ノ)字あるは衍なり、官本、古寫本、拾穗本等に、無ぞ宜き、
 
4207 此間爾之※[氏/一]《ココニシテ》。曾我比爾所見《ソガヒニミユル》。和我勢故我《ワガセコガ》。垣都能谿爾《カキツノタニニ》。安氣左禮婆《アケサレバ》。榛之狹枝爾《ハリノサエダニ》。暮左禮婆《ユフサレバ》。藤之繁美爾《フヂノシゲミニ》。遙遙爾《ハロバロニ》。鳴霍公鳥《ナクホトトギス》。吾屋戸能《ワガヤドノ》。殖木橘《ウヱキタチバナ》。花爾知流《ハナニチル》。時乎麻太之美《トキヲマタシミ》。伎奈加奈久《キナカナク》。曾許波不怨《ソコハウラミズ》。之可禮杼毛《シカレドモ》。谷可多頭伎※[氏/一]《タニカタヅキテ》。家居有《イヘヲレル》。君之聞都都《キミガキヽツツ》。追氣奈久毛宇之《ツゲナクモウシ》。
                
此間爾之※[氏/一]《ココニシテ》云々は、此處《ココ》にて背向《ソガヒ》に見ゆるにて、掾の館は、守(ノ)館より、背ける方にあるからいへり、爾之※[氏/一]《ニシテ》は、にてと云意なるを、かく之《シ》の言をそへて云るは、此間《ココ》にあることを、うけはりて、たしかにしらせむがためなり、○曾我比《ソガヒ》は、背向《ソガヒ》にて、既く往々《トコロ/”\》見えたり、○和我勢故《ワガセコ》は、廣繩をさせり、○垣都能谿《カキツノタニ》とは、墻内之谿《カキツノタニ》にて、掾(ノ)館の郭内にある谿をいふなるべし、(或説に、播磨風土記に、家内谷即(チ)是(レ)香山之谷、形如2垣廻1、故號2家内谷(ト)1、とあるを引て、垣のごとくめぐれる谷をいふ、といへるはいさゝか違へり、)○榛《ハリ》は既《サキ》にたび/\出たり、品物解に委(ク)註り、○鳴霍公鳥《ナクホトトギス》、以上六句は、廣繩が、霍公鳥を聞らむさまを、おしはかりていへるなり、さて此(ノ)句より、未の君之聞都々《キミガキヽツヽ》へ續けて意得べし、○殖木橘《ウヱキタチバナ》は、庭などに殖りてある橘を云、○花爾知流《ハナニチル》は、うつろふ意なり、○時乎麻多之美《トキヲマタシミ》は、契冲、時いまだしきなり、と云り、さらば此《コヽ》は、未《イマダ》しき故にの意なり、(美《ミ》は、山高美《ヤマタカミ》など云|美《ミ》と同じければなり、)此(ノ)時四月なれば、未(ダ)橘花の散(ル)時に至らざる(190)をいへり、今按(フ)に未《イマダ》は、伊麻陀《イマダ》の假字にて、陀《ダ》を濁れり、然るを此處に、清音の多(ノ)字を用ひ、また未《イマダ》の伊《イ》を省去《ハブキステ》て、麻陀《マダ》と云は、後(ノ)世にこそあれ、此集の頃にはをさ/\なきことなり、されば麻多之伎《マタシキ》と云と、未《イマダ》しきと云とは、同意にて、言の本は、各々別にこそありけめ、古今集に、五月來ば鳴もふりなむほとゝぎすまたしきほどの聲を聞ばや、とあるも、同言なり、又後(ノ)世の歌に、またきといふも、同じきにや、書紀七(ノ)卷に、豫《マタキ》懼(ルコト)、とあり、〔頭註、【古言釋通下末、そも/\麻多之伎は、待意より出たる言と思はるれば、多の言は必清て唱べきことなり、招と云も、をきは、俳優のをき〔二字右○〕にて、神にまれ人にまれ、そのもとよりの居所を立離れて、此方により來べくするより招き致らしむる謂なるか、その招き致らしむるは、或は樂き事或は笑はしき事などをして、それに愛でより來べきしわざをすることなれば、をかしくをかしきなどいふ詞も、そのもとは招と云言を活用して、云ることゝ見ゆるが、その例に准へて考るに、待をもまたしく〔四字右○〕ともまたしき〔四字右○〕とも、はたらかしいへりと聞えたり、】〕○伎奈加奈久《キナカナク》は、不《ナク》2來鳴《キナカ》1なり、○曾許波不怨《ソコハウラミズ》は、其(レ)は、不怨《ウラミズ》にて未(ダ)時至らざれば、來鳴ざるも、尤《コトハリ》なれば、其を怨《ウラメ》しくは思はず、と云意なり、○谷可多頭伎※[氏/一]《タニカタヅキテ》、六(ノ)卷に、名庭乃宮者不知魚取海片就而《ナニハノミヤハイサナトリウミカタヅキテ》、十(ノ)卷に、山片就而《ヤマカタヅキテ》、家居爲流君《イヘヲラスキミ》、などあるに准ふべし、○家居有は、イヘヲレル〔五字右○〕とよめる宜し、(舊訓にイヘヰセル〔五字右○〕とあるは、いとわろし、すべてイヘヰ〔三字右○〕といふこと、古言になきことなり、其はイヘヲル〔四字右○〕を家居と書るを、誤訓《ヒガヨミ》して、イヘヰ〔三字右○〕と云るより出たる言なるべし、但し、右の十(ノ)卷に、家居爲流君とあるのみは、イヘヰスルキミ〔七字右○〕と訓外なければ、イヘヰ〔三字右○〕といふも、古言ぞと思ふ人あるべけれど、さにはあらず、彼(ノ)歌も、流は、後人の加筆せるものにて、家居爲君《イヘヲラスキミ》と本はありしこと著《シル》し、)○君之聞郡都《キミガキヽツツ》、上の鳴霍公鳥《ナクホトヽギス》といふを應《ウケ》た(191)り、○追氣奈久毛宇之《ツゲナクモウシ》は、告ぬ事のさても憂《ウ》しや、と恨みたるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4208 吾幾許《アガコヽダ》。麻※[氏/一]騰來不鳴《マテドキナカヌ》。霍公鳥《ホトトギス》。比等里聞都追《ヒトリキヽツツ》。不告君可母《ツゲヌキミカモ》。
 
幾許《コヽダ》は、そこばくと云が如し、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
詠《ヨメル》2霍公鳥《ホトトギスヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4209 多爾知可久《タニチカク》。伊敝波乎禮騰母《イヘハヲレドモ》。許太加久※[氏/一]《コダカクテ》。佐刀波安禮騰母《サトハアレドモ》。保登等藝須《ホトトギス》。伊麻太伎奈加受《イマダキナカズ》。奈久許惠乎《ナクコヱヲ》。伎可麻久保理登《キカマクホリト》。安志多爾波《アシタニハ》。可度爾伊※[氏/一]多知《カドニイデタチ》。由布敝爾波《ユフベニハ》。多爾乎美和多之《タニヲミワタシ》。古布禮騰毛《コフレドモ》。比等己惠太爾母《ヒトコヱダニモ》。伊麻太伎己要受《イマダキコエズ》。
 
許太加久※[氏/一]《コダカクテ》云々は、里《サト》は木高《コダカ》くて雖《ドモ》v有《アレ》の意なり、○伎可麻久保理登《キカマクホリト》は、欲《ホリ》v聞《キカマク》とにて、聞ま欲《ホシ》とて、と云に同じ、登《ト》は登※[氏/一]《トテ》の意の登《ト》なり、○安之太爾波《アシタニハ》、すべて此(ノ)長歌一首に、太(ノ)字五(ツ)、多(ノ)字四(ツ)ある中に、此《コヽ》の他に太四(ツ)まで、必(ズ)濁るべき處に用ひ、多は四(ツ)ながら、必(ズ)清べき處に用ひて、清濁きはやかに別(レ)たり、故(レ)思ふに、安之太《アシダ》も、此處に、太(ノ)字を用たるを正(シ)として、太を濁るべきにや、さらば余がさきに、安之太《アシダ》は、明時《アケシダ》の義ならむといへるにも、よく協ふ事なり、此(ノ)事一(ノ)卷に、はつはついひおきたれど、なほ思ひよれるまゝに、更に此《コヽ》にもしるしつるなり、爾波《ニハ》とは、他にむ(192)かへていふ詞なり、こゝは、夕(ヘ)にむかへていへり、○廣繩の長歌、前後唯この一首のみなり、元來すき好まれざれども、家持(ノ)卿より、上件の如く、よみて贈來されたるゆゑに、黙止《モダル》ことを得ずして、よまれたるにや、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
此(ノ)二字、舊本にはなし、元暦本にあるに從つ、
 
4210 敷治奈美乃《フヂナミノ》。志氣里波須疑奴《シゲリハスギヌ》。安志比紀乃《アシヒキノ》。夜麻保登等藝須《ヤマホトトギス》。奈騰可伎奈賀奴《ナドカキナカヌ》。
 
志氣里《シゲリ》は、繁《シゲリ》にて、盛《サカリ》といはむが如し、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、十八に、同作者、米豆良之伎吉美我伎麻佐波奈家等伊比之夜麻保等登藝須奈爾加伎奈可奴《メヅラシキキミガキマサバナケトイヒシヤマホトトギスナニカキナカヌ》、
 
右二十三日《ミギハツカマリミカノヒ》。掾久米朝臣廣繩和《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハガコタフ》。
 
追2和《オヒテナゾラフル》處女墓歌《ヲトメハカノウタニ》1一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
和(ノ)字、目録并或校本、官本等には、同と作り、(文粹一(ノ)卷にも、奉v同2源(ノ)澄才子河原(ノ)院(ノ)賦(ニ)1、源順云々、とあり、小補韻會に、禮運(ニ)是謂2大同(ト)1、註(ニ)云、猶v和也、平也、周語(ニ)和同、註(ニ)一心不(ヲ)v二曰v同(ト)、と見ゆ、)九(ノ)卷に、田邊(ノ)福麻呂(ガ)集に出たる歌三首、高橋連蟲麻呂(ガ)集に出たる歌二首、以上六首の中、長歌二首あり、これらをさして、追て和へよめるなるべし、
 
(193)4211 古爾《イニシヘニ》。有家流和射乃《アリケルワザノ》。久須婆之伎《クスハシキ》。事跡言繼《コトトイヒツグ》。知努乎登古《チヌヲトコ》。宇奈比壯子乃《ウナヒヲトコノ》。宇都勢美能《ウツセミノ》。名乎競争登《ナヲアラソフト》。玉剋《タマキハル》。壽毛須底※[氏/一]《イノチモステテ》。相争爾《アヒトモニ》。嬬問爲家留《ツマドヒシケル》。※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。聞者悲左《キケバカナシサ》。春花乃《ハルハナノ》。爾太要盛而《ニホエサカエテ》。秋葉之《アキノハノ》。爾保比爾照有《ニホヒニテレル》。惜身之《アタラミノ》。壯尚《サカリヲスラニ》。大夫之《マスラヲノ》。語勞美《コトイトホシミ》。父母爾《チヽハヽニ》。啓別而《マヲシワカレテ》。離家《イヘサカリ》。海邊爾出立《ウミヘニデタチ》。朝暮爾《アサヨヒニ》。滿來潮之《ミチクルシホノ》。八隔浪爾《ヤヘナミニ》。靡珠藻乃《ナビクタマモノ》。節間毛《フシノマモ》。惜命乎《ヲシキイノチヲ》。露霜之《ツユシモノ》。過麻之爾家禮《スギマシニケレ》。奧墓乎《オクツキヲ》。此間定而《コヽトサダメテ》。後代之《ノチノヨノ》。聞繼人毛《キヽツグヒトモ》。伊也遠爾《イヤトホニ》。思努比爾勢餘等《シヌヒニセヨト》。黄楊小櫛《ツゲヲグシ》。之賀左志家良之《シガサシケラシ》。生而靡有《オヒテナビケリ》。
 
久須婆之伎《クスハシキ》は、希代なると云意なり、十八七夕(ノ)長歌に、許己乎之母安夜爾久須之彌《ココヲシモアヤニクスシミ》、とある處に、委(ク)註り、○知努乎登古宇奈比壯子《チヌヲトコウナヒヲトコ》は、和泉(ノ)國|血沼處士《チヌチトコ》、攝津(ノ)國|菟原處士《ウナヒヲトコ》なり、委く九(ノ)卷に註り、○相爭爾、岡部氏云、爭は、具か共の誤なるべし、アヒトモニ〔五字右○〕と訓べし、○※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》は、次の一句を隔て、春花乃《ハルハナノ》と云へ、直に續て意得べし、歌(ノ)意、※[女+感]嬬等之聞者《ヲトメラガキケバ》とつゞけるには非ざればなり、(又|※[女+感]嬬等《ヲトメラ》が事實《コト》を聞者《キケバ》、といふ意に、聞べき所にもあらず、)○聞者悲左《キケバカナシサ》は、處女がありし昔(シ)語(リ)を聞ば、その悲さたとへがたし、と歎きたるなり、さて此(ノ)一句は上よりも連かず、下へも續かず、たゞ中間にて、歎息《ナゲキ》すてたる詞なり、(又|余《オノ》がはじめおもひしは、このあたりは、※[女+感]嬬等之悲左聞者春花乃《ヲトメガカナシサキケバハルハナノ》云々、と言をおき換て、をと女らが悲しさや、さてそのありし事跡を聞ば、春花《ハルハナ》の云々、といふ意かとも思ひしかども、猶さにはあらじ、又或人は、悲左《カナシサ》は、處女が、二人の壯(194)子の爭て、妻問することを聞ば悲さにの意なり、されば悲左《カナシサ》といふより、下の父母爾《チヽハヽニ》云々といふに、つゞけて心得べし、と云るは、いとをさなき説なり、もし悲しさにの意ならむには、悲美《カナシミ》とこそいふべけれ、)今(ノ)世にも、長き物語などするをりには、その語の中間《ナカラ》にて、語の前後へ續かず、ふと歎息の詞を吐(ク)こと、まゝあることなり、○爾太要盛而《ニホエサカエテ》は、薫榮而《ニホエサカエテ》なり、爾太要《ニホエ》は、爾保比《ニホヒ》と云に同じ、(略解に、爾は志、太は奈の誤にて、シナエサカエテ〔七字右○〕なるべしと、岡部氏の説《イヘ》るよしいへれど、いみじきひがことなり、)猶此(ノ)言の事、既く十三に、爾太遙越賣《ニホエヲトメ》とある處に委(ク)釋り、併(セ)考(フ)べし、○惜身之壯尚《アタラミ)サカリヲスラニ》(壯(ノ)字、舊本に、莊と作るは誤なり、今は拾穗本、異本等に從つ、)は、身《ミ》の惜《アタラ》盛《サカリ》をすらにの意なり、尚《スラ》とは、幹《モト》はさるものにて、その枝葉までもといふ意の言なり、さればこゝは、人(ノ)身の壽の惜きは、もとよりさるものにて、その壯の齡にまであれば、いよ/\惜きものを、との謂なり、○大夫之《マスラヲノ》云々、九(ノ)卷に、母爾語久《ハヽニカタラク》、倭文手纏賤吾之故《シツタマキイヤシキアガユヱ》、大夫之荒爭見者《マスラヲノアラソフミレバ》、雖生應合有哉《イケリトモアフベクアレヤ》、宍串呂黄泉爾將待跡《シヽクシロヨミニマタムト》云々、とある下《トコロ》に、註しおきたりつる如く、この處女《ヲトメ》、血沼處士《チヌヲトコ》に心よせたれど、相競ふをとこのあるから、心のまゝにあふことも難ければ、互に自害して後に、來世の契を期《マタ》むと、心の内におもひ定めて、父母にいとまごひせしことを、云々|啓別而《マヲシワカレテ》といへるなるべし、さればこゝの大夫とあるは、血沼處士《チヌヲトコ》なり、○海邊爾出立は、ウミヘニデタチ〔七字右○〕と訓べし、(略解に、ウナヒニイデタチ〔八字右○〕と訓るは、例のいみじきひがことなり、すべて(195)海邊を、ウナヒ〔三字右○〕といふは、非なること、并《マタ》必(ズ)ウミヘ〔三字右○〕とよむべきことなど、既く委(ク)辨へたりき、○朝暮爾《アサヨヒニ》云々以下四句は、節間《フシノマ》をいはむとての序なり、○靡珠藻乃《ナビクタマモノ》云々、藻にも節々《フシ/\》あれば、藻の節間《フシノマ》といひ、さてその節と節とは、間の程なければ、たゞ暫ばかりの事にいへり、伊勢が歌に、難波潟短(キ)葦の節(ノ)間も逢で此(ノ)よを過してよとや、此と同じ、○露霜之《ツユシモノ》は、過《スギ》をいはむ料なり、露霜《ツユシモ》の微《モロ》く消失る如くに、過去《スギヌ》といふ意につゞきたり、○過麻之爾家禮《スギマシニケレ》、(禮、官本に流と作るは誤なり、)は、死座《スギマシ》にければの意なり、婆《バ》をいはざるは、古語のならひなり、○奥墓《オクツキ》は、既く委(ク)註り、書紀に丘墓《オクツキ》、○黄楊小櫛之賀左志家良之《ツゲヲグシシガサシケラシ》は、黄楊の小櫛を其之《ソレガ》(處女之《ヲトメガ》なり、)指(シ)けらし、と云なり、此は處女は自害せむとする時、兼てその墓地《オクツキトコロ》を定め置て、後(ノ)世のしのび種《グサ》にもなれとて、自《ミラ》頭に指(シ)たりける黄楊櫛をぬきて、其地《ソコ》に刺たりけるが、生(ヒ)出て、成木せしと云、かたりつたへのありしなるべし、古事記上に、伊邪那岐(ノ)命亦|刺《サヽセル》2其(ノ)右(ノ)御美豆良《ミミヅラニ》1之、湯津々間櫛引闕而投棄乃《ユツヽマグシヲヒキカキテナゲウテタマヘバ》生《オヒキ》v笋《タカムナ》、(書紀にも同じさまに見ゆ、)又書紀神代(ノ)下に、老翁即取2嚢(ノ)中(ノ)玄櫛(ヲ)1役(シカバ)v地(ニ)則化2成《ナリキ》五百箇竹林《イホツタカムラト》1、などあるを、併(セ)考(フ)べし、(山海經に、夸父與2日競1走(テ)逐v日(ヲ)、渇(シテ)欲v得v飲、飲2于河渭1、河渭不v足、飲2大澤1、未v至道渇而死、棄2其杖1化爲2※[登+おおざと]林(ト)1、)さてかゝれば、九(ノ)卷長歌の反歌に、墓上木枝靡有如聞陳努壯士爾之依仁家良信母《ハカノヘノコノエナビケリキヽシゴトチヌヲトコニシヨリニケラシモ》、とあるも、この黄楊櫛の生(ヒ)出たり、といひ傳へたる木を、いへるにやあらむ、
 
(196)反歌〔二字各○で囲む〕。
 
4212 乎等女等之《ヲトメラガ》。後能表跡《ノチノシルシト》。黄楊小櫛《ツゲヲグシ》。生更生而《オヒカハリオヒテ》。靡家良思母《ナビキケラシモ》。
 
生更生而《オヒカハリオヒテ》、三(ノ)卷伊與(ノ)温泉(ノ)長歌に、三湯之上方樹村乎見者《ミユノヘノコムラヲミレバ》、臣木毛生繼爾家里《オミノキモオヒツギニケリ》云々、この生繼《オヒツギ》とある如く、老木になりて、枯れば、又其(ノ)根より、新に生(ヒ)出生(ヒ)出するをいへり、○歌(ノ)意は、處女が後永き世の表《シルシ》となりて、黄楊櫛の生代生代《オヒカハリオヒカハリ》して、かく思ふ壯士の方に、靡き榮にけらし、さてもあはれや、となり、
 
右五月六日《ミギサツキノムカノヒ》。依《ツケテ》v興《コトニ》大伴宿爾家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
4213 安由乎疾美《アユヲイタミ》。奈呉能浦廻爾《ナゴノウラミニ》。與須流浪《ヨスルナミ》。伊夜千重之伎爾《イヤチヘシキニ》。戀渡可母《コヒワタルカモ》。
 
安由《アユ》は、東風なり、既く出(デ)つ、○浦廻は、ウラミ〔三字右○〕と訓べし、(ウラワ〔三字右○〕、又ウラマ〔三字右○〕など訓は非なり、)既く出て委(ク)いへり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、彌千重及《イヤチヘシキ》といはむ料の序にて、千重と重々《シキリ/\》に、其方を、さてもいよ/\戀しく思ひて、月日を經渡る事哉、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。贈《オクル》2京丹比家《ミヤコノタヂヒガイヘニ》1。
 
此上にも、贈2京(ノ)丹比(ガ)家(ニ)1歌とて、妹乎不見越國敝爾經年婆《イモヲミズコシノクニヘニトシフレバ》云々、とあり、丹比氏の女は、家持(ノ)卿の親類にぞありけむ、
 
挽歌一首并短歌《カナシミウタヒトツマタミジカウタ》。
 
(197)4214 天地之《アメツチノ》。初時從《ハジメノトキユ》。宇都曾美能《ウツソミノ》。八十伴男者《ヤソトモノヲハ》。大王爾《オホキミニ》。麻都呂布物跡《マツロフモノト》。定有《サダマレル》。官爾之在者《ツカサニシアレバ》。天皇之《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。夷放《ヒナザカル》。國乎治等《クニヲヲサムト》。足日木《アシヒキノ》。山河阻《ヤマカハヘナリ》。風雲爾《カゼクモニ》。言者雖通《コトハカヨヘド》。正不遇《タヾニアハヌ》。日之累者《ヒノカサナレバ》。思戀《オモヒコヒ》。氣衝居爾《イキヅキヲルニ》。玉桙之《タマホコノ》。道來人之《ミチクルヒトノ》。傳言爾《ツテコトニ》。吾爾語良久《アレニカタラク》。波之伎餘之《ハシキヨシ》。君者比來《キミハコノゴロ》。宇良佐備※[氏/一]《ウラサビテ》。嘆息伊麻須《ナゲカヒイマス》。世間之《ヨノナカノ》。厭家口都良家苦《ウケクツラケク》。開花毛《サクハナモ》。時爾宇都呂布《トキニウツロフ》。宇都勢美毛《ウツセミモ》。無常阿里家利《ツネナクアリケリ》。足千根之《タラチネノ》。御母之命《ミハヽノミコト》。何如可毛《ナニシカモ》。時之波將有乎《トキシハアラムヲ》。眞鏡《マソカヾミ》。見禮杼母不飽《ミレドモアカズ》。珠緒之《タマノヲノ》。惜盛爾《ヲシキサカリニ》。立霧之《タツキリノ》。失去如久《ウセヌルゴトク》。置露之《オクツユノ》。消去之如《ケヌルガゴトク》。玉藻成《タマモナス》。靡許伊臥《ナビキコイフシ》。逝水之《ユクミヅノ》。留不得常《トヾメカネキト》。狂言哉《タハコトヤ》。人之云都流《ヒトノイヒツル》。逆言乎《オヨヅレカ》。人之告都流《ヒトノツゲツル》。梓弧《アヅサユミ》。爪|引〔○で囲む〕夜音之《ツマビクヨトノ》。遠音爾毛《トホトニモ》。聞者悲弥《キケバカナシミ》。庭多豆水《ニハタヅミ》。流涕《ナガルヽナミダ》。留可禰都母《トヾメカネツモ》。
 
此(ノ)歌、初十句は、皇大朝廷《スメラガオホミカドノ》の、嚴《イツク》しく重《イカ》しき謂《ヨシ》をいへるなり、そも/\臣連八十件緒《オオミムラジヤソトモノヲ》は、大王《オホキミ》の任賜《ヨサシタマ》ふ官職《ツカサ》のまに/\、かりにも他心をもたず、畏み敬ひまつりて、一道に從《シタガ》ひ服《マツロ》ひ奉ること、天地の初發《ハジメ》の時より定りたる、神隨《カムナガラ》の正しき道のまことなるが故に、古(ヘ)人の詞には、さる趣にいへること常なるを、後(ノ)世に、其をわすれたる人のあるこそ、本意なけれ、○天皇之、天は大と改作べし、此(ノ)事既く委(ク)辨(ヘ)云り、オホキミノ〔五字右○〕と訓べし、○夷放《ヒナザカル》とは、夷《ヒナ》の方に遠避《トホザカ》る意なり、天難《アマザカル》といふも、天の方に遠避る意、奥離《オキザカル》と云も、奥の方に遠避る意にて、皆同例なり、○國乎治(198)等《クニヲヲサムト》(治(ノ)字、舊本に冶と作るは誤なり、今は一本、拾穗本、古寫小本等に從つ、)は、任國に在(リ)て、官事を執(リ)行ふとて、と云意なり、○風雲爾《カゼクモニ》云々は、使の事なり、八(ノ)卷七夕(ノ)歌にも、風雲者二岸爾可浴倍杼母《カゼクモハフタツノキシニカヨヘドモ》、廿(ノ)卷に、伊倍加是波比爾比爾布氣等《イヘカゼハヒニヒニフケド》、又、美蘇良由久久母母都可比等《ミソラユククモモツカヒト》、などよめり、十八池主(ノ)書牘に、今勒2風雲(ニ)1發2遣徴使(ヲ)1、○氣衝居爾《イキヅキヲルニ》、これまでは、家持(ノ)卿の遠國に放り居る勞苦を述たり、○傳言《ツテコト》、雄略天皇(ノ)紀に、流言、また飛聞を、ツテコト〔四字右○〕とよめり、○吾爾語良久《アレニカタラク》は、吾に語るやうは、といふ意なり、○波之伎餘之君《ハシキヨシキミ》とは、左註にいへる、豐成(ノ)右大臣の二郎の君をさせり、○宇良左備※[氏/一]《ウラサビテ》は、心荒而《ウラサビテ》なり、○嘆息伊麻須《ナゲカヒイマス》は、母君の喪を愁嘆《ウレヒナゲキ》て座すなり、ナゲカヒ〔四字右○〕と云は、ナゲキ〔三字右○〕の伸りたるにて、打かたぶきて、絶ず歎きたまふさまを云るなり、○厭家口都良家苦《ウケクツラケク》は、憂き事よ、つらき事よ、といふほどの事なり、五(ノ)卷に、世間能宇計久都良計久《ヨノナカノウケクツラケク》、○時爾宇都呂布《トキニウツロフ》、は、時々《トキ/”\》にうつろひ散(ル)を云、○宇都勢美毛《ウツセミモ》(宇、舊本に守と作るは誤なり、今は古寫本、異本等に從つ、)は、現身《ウツシミ》もといはむが如し、○足千根之《タラチネノ》、は、母《ハヽ》のまくら詞にて、既くあまた出たり、○御母之命は、ミハヽノミコト〔七字右○〕とよむべし、○何如可毛《ナニシカモ》云々、三(ノ)卷に、時者霜何時毛將有乎《トキハシモイツモアラムヲ》と、あるを、今はおきかへてよめるなり、○珠緒《タマノヲ》は、身命《イノチ》といはむが如し、大神(ノ)景井云、十二に、玉緒乃徙心哉《タマノヲ)ウツシコヽロヤ》云々、とあるは、靈之緒之顯《タマノヲノウツシ》てふ意にて、靈之緒《タマノヲ》は、やがて命の事なり、と云るぞ宜き、緒《ヲ》は、生(ノ)緒など云|緒《ヲ》なり、されば此《コヽ》も、それに准へて意得べし、○立霧之《タツキリノ》云々、二(ノ)卷に、露己曾婆朝爾置(199)而《ツユコソハアシタニオキテ》、夕者消等言《ユフヘハキユトイヘ》、霧己曾婆夕立而《キリコソハユフヘニタチテ》、明者失等言《アシタハウストイヘ》云々、○玉藻成《タマモナス》、二(ノ)卷に、玉藻成靡寐之兒乎《タマモナスナビキネシコヲ》、十一に、敷栲之衣手離而玉藻成靡可宿濫和乎待難爾《シキタヘノコロモテカレテタマモナスナビキカヌラムワヲマチカテニ》、○靡許伊臥《ナビキコイフシ》、五(ノ)卷挽歌に、宇知那比枳許夜斯努禮《ウチバイキコヤシヌレ》、とあるに同じく、薨去《ミマカ》り給へるさまをいへり、○留不得常は、トヾミカネキト〔七字右○〕又はトヾミカネツト〔七字右○〕など訓べし、留ることを得ざりけりと、と云意なり、○狂言我、舊本に、狂を枉に誤れり、今改つ、タハコトヤ〔五字右○〕と訓べし、哉《ヤ》は、都流《ツル》の下にめぐらして意得べし、○逆言乎、乎は可の誤か、オヨヅレカ〔五字右○〕と訓べし、可《カ》も都流《ツル》の下にめぐらして意得べし、○梓弧《アツサユミ》、字書に、弧(ハ)弓(ノ)別名、又木弓(ナリ)、と見えたり、○爪引夜音之、(引(ノ)字、舊本になきは、脱たること著ければ、今姑(ク)補《クハ》へつ、)ツマビクヨトノ〔七字右○〕よむべし、四(ノ)卷に、梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御事乎聞之好毛《アヅサユミツマビクヨトノトホトニモキミガミコトヲキカクシヨシモ》、とあり、○遠音爾毛《トホトニモ》云々は、遙(カ)に聞てさへも、悲しさに堪(ヘ)がたくての謂なり、○庭多豆美《ニハタヅミ》云々、二(ノ)卷に、御立爲之島乎見時庭多泉流涙止曾金鶴《ミタヽシシシマヲミルトキニハタヅミナガルヽナミグトメソカネツル》、○留可禰都母《トヾメカネツモ》は、とゞめむとすれども、留むる事のさても得がたや、となり、
 
反歌二首《カヘシウタフタツ》。
 
4215 遠音毛《トホトニモ》。君之痛念跡《キミガナゲクト》。聞都禮婆《キヽツレバ》。哭耳所泣《ネノミシナカユ》。相念吾者《アヒモフアレハ》。
 
痛念は、義を得て、ナゲク〔三字右○〕とよませたり、(飛鳥井家本に、イタム〔三字右○〕とあるは、字には近きに似たれど、なほナゲク〔三字右○〕の方ぞ宜き、)○哭耳所泣《ネノミシナカユ》は、一(ト)すぢに哭に泣るゝばかりぞ、となり、○歌(ノ)意、かく(200)れたるところなし、
 
4216 世間之《ヨノナカノ》。無常事者《ツネナキコトハ》。知良牟乎《シルラムヲ》。情盡莫《コヽロツクスナ》。大夫爾之※[氏/一]《マスラヲニシテ》。
 
大夫爾之※[氏/一]《マスラヲニシテ》は、丈夫にてと云意なるを、かく之《シ》の言ををへていへるは、その丈夫なる事を、うけはりて、たしかにいはむがためなり、○歌(ノ)意は、世(ノ)間の無常は、今にはじめぬことなれば、兼てさることはしりてあるべきに、丈夫とある身にて、さばかりに心を盡して、なげき賜ふべきにあらず、心づよくし給へと、なぐさめてよめるなり
 
右大伴宿禰家持《ミギオホトモノスクネヤカモチガ》。弔《トブラヘル》2聟南右大臣家藤原二郎之喪慈母患《ムコミナミノミギノオホマヘツキミノイヘフヂハラノナカチコノハハノモ》1也。【五月二十七日。】
 
聟は、和名抄に、爾雅(ニ)云、女子之夫(ヲ)爲v壻(ト)、作2聟※[恐の心が耳]1、和名|無古《ムコ》、と見ゆ、迎子《ムコ》の義なるべし、○南右大臣、南は、南家にて、いはゆる藤原四門(南家、北家、式家、京家を云、南家は、武智麻呂、北家は房前、式家は式部(ノ)卿宇合、京家は、左京大夫麻呂なり、さて其(ノ)中三家は果給ひて、北家のみ榮(エ)給へり、)の一(ツ)にて、此(ノ)右大臣は、武智麻呂(ノ)長子豐成卿なり、勝寶元年四月丁未、以2大納言從二位藤原(ノ)朝臣豐成(ヲ)1拜2右大臣(ニ)1、と見ゆ、傳十七(ノ)上に委(ク)云り、○二郎は誰といふこと、未(ダ)詳ならず、○慈母は、豐成(ノ)卿の家室なり、
 
霖于雨晴日《ナガメハルヽヒ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
4217 宇能花乎《ウノハナヲ》。令腐霖雨之《クタスナガメノ》。始水逝《ミヅハナニ》。縁木積成《ヨルコツミナス》。將因兒毛我母《ヨラムコモガモ》。
 
(201)本(ノ)二句は、契冲、五月に長雨ふりて、卯(ノ)花をくさらするを、卯(ノ)花くだしといふなり、くだしとは、こゝに令腐とかきて、くだすと用によめるをくだしと體によみなして、五月雨の名とするは、此(ノ)歌よりはじまれる歟、卯花は四月の物なれ|ば《ど歟本ノマヽ》、多分五月にかゝるゆゑに、第十には、五月山卯の花月夜とよめり、又第十春相聞(ノ)歌に、はるさればうの花くだし我こえし妹が垣根はあれにけるかも、此(ノ)歌は、雨にくづるにあらず、わが度々うの花垣を越とて、つぼみをそこなひて、くだすなり、と云り、○始水逝、ミヅハナニ〔五字右○〕とよめり、突冲、みづはなは、俗に、水の出ばなといふに同じ、始をハナ〔二字右○〕といふは、鼻の字のこゝろなり、人の顔の中に、鼻はさし出て、先(ヅ)見ゆるものなれば、鼻の字を、やがてハジメ〔三字右○〕ともよめり、(已上契冲(ガ)代匠記、)中山(ノ)嚴水云、拾芥抄に、みづはつほのことを、みづはなといへれば、はじめて出し水をも、みづはなといふべし、略解に、春海、逝は邇の誤なるべし、といへり、とあり、さもあるべし、○縁木積成《ヨルコツミナス》、木積《コツミ》は、廿(ノ)卷に木糞とかけり、上にもあまた見えたり、成《ナス》は如《ナス》なり、さて此(ノ)句までは、因《ヨル》といはむための料《マケ》なり、○歌(ノ)意は、霧雨の水出に、木糞《コツミ》の磯際《イソヘ》に縁(リ)來るが如くに、嗚呼《アハレ》吾に歸(リ)來む女もがなあれかし、となり、
 
見《ミル》2漁夫火光《アマノイザリヒヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
漁火は、和名抄に、漁子(ハ)採v蘆(ヲ)捕v魚(ヲ)者也、和名|伊乎止利《イヲトリ》、漁父、一(ニ)云漁翁、無良岐美《ムラキミ》、辨色立成(ニ)云、白水郎、和名|阿萬《アマ》、日本紀私記(ニ)云、漁人|阿末《アマ》、萬葉集海人、とあり、その中に阿麻《アマ》と云ぞ、ひろき稱《ナ》なる、(202)○火光、同抄に、夜篝(ニス)v火(ヲ)、師説(ニ)云、比乎加加利邇須《ヒヲカガリニス》、今按(ニ)、漁者以v※[金+截](ヲ)作v篝(ニ)、盛|《火歟》照v水者名之、此類乎、
 
4218 鮪衝等《シビツクト》。海人之燭有《アマノトモセル》。伊射里火之《イザリヒノ》。保爾可將出《ホニカイダサム》。吾之下念乎《アガシタモヒヲ》。
 
鮪衝等《シビツクト》は、鮪をば、其(ノ)喉を窺《ネラ》ひて衝て捕ると云りと、古事記傳に云り、古事記下(ツ)卷袁祁(ノ)命(ノ)御歌に、意布袁余志斯尾都久阿麻余斯賀阿禮婆宇良胡本斯祁牟志毘都久志尾《オフヲヨシシビツクアマヨシガアレバウラコホシケムシビツクシビ》、とあり、此(ノ)集六(ノ)卷赤人(ノ)歌には、鮪釣《シビツル》とよめり、衝ても釣ても獲《トリ》しものと見えたり、等《ト》は、等弖《トテ》の意なり、○本(ノ)句は、保《ホ》といはむ料の序なり、○保爾可將出《ホニカイダサム》は、秀《ホ》に顯《アラハ》し出さむ歟、といふ意なり、秀《ホ》の言は既く委く註り、○歌(ノ)意は、密《シノ》び隱すに堪がたければ、今は吾心(ノ)裏の思ひを、表に顯はし出さむか、となり、契冲、第三、門部(ノ)王の歌に、みわたせばあかしの浦にたけるひのほにぞいでぬるいもにこふらく、此(ノ)歌を摸せられたりと見ゆ、といへり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。五月《サツキ》。
 
五月の下、日を脱せるか、古寫本には、二字ともになし、みながら落たるか、
 
4219 吾屋戸之《ワガヤドノ》。芽子開爾家理《ハギサキニケリ》。秋風之《アキカゼノ》。將吹乎待者《フカムヲマタバ》。伊等遠彌可毛《イトトホミカモ》
 
歌(ノ)意、かくれたるところなし、六月中旬に咲たる芽子なれば、秋風の吹むは甚遠し、といへり、八卷に、天平十二年六月に、非時《トキジクノ》藤(ノ)花と、芽子の黄葉とを、坂上(ノ)大孃に贈られたる、家持(ノ)卿の歌
 
二首あり、その芽子の歌、吾屋前之芽子乃下葉者秋風毛未吹者如此曾毛美照《ワガヤドノハギノシタハハアキカゼモイマダフカネバカクソモミテル》、
 
(203)右一首《ミギノヒトウタハ》。六月十五日《ミナツキノトヲカマリイツカノヒ》。見《ミテ》2芽子早花《ワサハギヲ》1作之《ヨメル》。
 
今も芽子の一種に、六月の中旬より、花開あり、
 
從《ヨリ》2京師《ミヤコ》1來贈歌一首井短歌《オコセルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4220 和多都民能《ワタツミノ》。可味能美許等乃《カミノミコトノ》。美久之宜爾《ミクシゲニ》。多久波比於伎※[氏/一]《タクハヒオキテ》。伊都久等布《イツクトフ》。多麻爾末佐里※[氏/一]《タマニマサリテ》。於毛敝里之《オモヘリシ》。安我故爾波安禮騰《アガコニハアレド》。宇都世美乃《ウツセミノ》。與能許等和利等《ヨノコトワリト》。麻須良乎能《マスラヲノ》。比伎能麻爾麻爾《ヒキノマニマニ》。之奈謝可流《シナザカル》。古之地乎左之※[氏/一]《コシヂヲサシテ》。波布都多能《ハフツタノ》。和可禮爾之欲理《ワカレニシヨリ》。於吉都奈美《オキツナミ》。等乎牟麻欲妣伎《トヲムマヨビキ》。於保夫禰能《オホブネノ》。由久良由久良耳《ユクラユクラニ》。於毛可宜爾《オモカゲニ》。毛得奈民延都都《モトナミエツツ》。可久古非婆《カクコヒバ》。意伊豆久安我未《オイヅクアガミ》。氣太志安倍牟可母《ケダシアヘムカモ》。
 
美久之宜爾《ミクシゲニ》は、御櫛笥《ミクシゲ》になり、○多久波比於伎※[氏/一]《タクハヒオキテ》は、貯置而《タクハヒオキテ》なり、○伊都久等布《イツクトフ》は、齋《イツク》と云(フ)なり、齋《イツク》とは、忌(ミ)清て大切にして、秘藏するよしなり、抑々海神は、かの鹽盈珠《シホミツタマ》、鹽乾珠《シホヒルタマ》をはじめとして、種々《クサ/”\》の寶珠《タカラ》を貯《タクハ》へ持給ふよしにて、かくいへり、○多麻爾末佐里底《タマニマサリテ》、五(ノ)卷に、銀母金母玉母奈爾世武爾麻佐禮留多可良古爾斯迦米夜母《シロカネモクガネモタマモナニセムニマサレルタカラコニシカメヤモ》、○安我故《アガコ》は、吾子《アガコ》にて、女子《ムスメ》の大孃をさせり、○麻須良乎《マスラヲ》は、聟の家持(ノ)卿をさせり、○比伎能麻爾麻爾《ヒキノマニマニ》は、引之隨意《ヒキノマニ/\》なり、六(ノ)卷に、皇之引乃眞爾眞荷春花乃遷日易《オホキミノヒキノマニマニハルハナノウツロヒカハリ》、とあり、こゝは家持(ノ)卿の、此方《コナタ》へと引(キ)誘ふまゝ、といふ義なり、古事記上(ツ)卷、八(204)千矛(ノ)神(ノ)御歌に、比氣登理能和賀比氣伊那波《ヒケトリノワガヒケイナバ》、とあるも、比氣《ヒケ》は所《ケ》v引《ヒ》にて、自他の差あるのみにて、今と同言なり、さて坂上(ノ)大孃は、今歳(勝寶二年)春の末つ方などにや、越中へは下られけるなるべし、上の潜※[盧+鳥]歌よまれける頃(三月の初ばかり、)は、未(ダ)下られざりしと見ゆること、其處にいへるが如し、○之奈謝可流《シナザカル》は、まくら詞なり、上に出たり、○波布都多能《ハフツタノ》は、別《ワカレ》といはむとての枕詞なり、二(ノ)卷に、延都多能別之來者《ハフツタノワカレシクレバ》、九(ノ)卷に、蔓乎多乃各各向向天雲乃別石往者《ハフツタノオノモオノモアマクモノワカレシユケバ》、などあり、○和我禮《ワカレ》は、別《ワカレ》なり、我の濁音の字を用たることよしなし、もとは加可等の字なりけむを、ふと寫(シ)誤れるなるべし、○於吉都奈美《オキツナミ》、これも等乎牟《トヲム》をいはむとてのまくら詞なり、奥波浪《オキツナミ》の、たゆたひ、うぬりたわむ意に、撓《トヲム》と云つゞけたり、○等乎牟麻欲比伎《トヲムマヨビキ》は、撓眉引《トヲムマヨビキ》なり、等乎牟《トヲム》は、多和牟《タワム》と云に同じ、上に細眉根咲麻我理《クハシマヨネヲヱミマガリ》、とあるに同じく、曲《マガ》り撓《タワ》みて、うるはしき眉引《マヨビキ》と云なり、(文選傅武仲(ガ)舞賦に、眉連媚(トシテ)以僧撓(レリ)兮、(眉引《マヨビキ》は、六(ノ)卷、十二(ノ)卷、十三(ノ)卷等に見えたり、○於保夫禰能《オホブネノ》は、これもまくら詞なり、このつゞき、上にあまた見えたり、○於毛可宜爾《オモカゲニ》云々は、撓眉引《トヲムマヨビキ》のうるはしき貌の、面影にむざと見ゆるよしなり、○意伊豆久安我未《オイヅクアガミ》は、契冲、老附吾身《オイヅクアガミ》なり、秋になるを、秋づけばとよめるごとく、老たるを、老付とはいへり、○氣太志安倍牟可母《ケダシアヘムカモ》は、蓋《ケダシ》將《ム》v堪《アヘ》かもなり、可《カ》は疑(ノ)辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、戀しくおもふに、よく堪(ヘ)忍(ヒ)て、又逢までの命、若(シ)在得ることもあらむか、さてもおぼつかなしや、となり、蓋《ケダシ》は若(シ)と云に同じ、既く委(ク)註り、
 
(205)反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4221 可久婆可里《カクバカリ》。古非之久志安良婆《コヒシクシアラバ》。末蘇可我彌《マソカガミ》。美奴比等吉奈久《ミヌヒトキナク》。安良麻之母能乎《アラマシモノヲ》。
 
古非之久志《コヒシクシ》の志《シ》は、その一(ト)すぢを、おもく思はせむがための助辭なり、(元暦本、飛鳥井家本、并(ニ)六帖等には、此(ノ)志(ノ)字なし、無ても妨はなけれども、ある方ぞ宜しき、此(ノ)助辭ことに力(ラ)あればなり、)○末蘇可我彌《マソカガミ》は、まくら詞なり、○美奴比等吉奈久《ミヌヒトキナク》は、契冲、不v見日も、不v見時も、無(ク)なりといへる如し、○歌(ノ)意は、かくまでに戀しく思はむものと、兼て思ひせば、常に比(ビ)居て、不v見日も不v見時もなくて、あるべかりしものを、と戀しく思ふあまりにいへるなり、人妻となりては、同じ京にても、別れ居(レ)ばかくいへるなり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。大伴氏坂上郎女《オホトモウヂサカノヘノイラツメガ》。賜《タマフ》2女子大孃《ムスメノオホイラツメニ》1也。
 
賜(ノ)字、官本には贈と作れど、家持(ノ)卿の私撰なれば、賜といふぞ理なる、此上に、坂(ノ)上郎女に尊母とさへ書たり、併(セ)思ふべし、
 
九月三日《ナガツキノミカノヒ》。宴歌二首《ウタゲノウタフタツ》。
 
廣繩(ノ)館にて、宴せしなるべし、
 
4222 許能之具禮《コノシグレ》。伊多久奈布里曾《イタクナフリソ》。和藝毛故爾《ワギモコニ》。美勢牟我多米爾《ミセムガタメニ》。母美知等里(206)※[氏/一]牟《モミチトリテム》。
 
歌(ノ)意は、京(ノ)家なる妻に、贈示さむがために、黄葉折取むとおもふぞ、此(ノ)〓雨《シグレ》甚《イタ》く降ことなかれ、となり、(六帖に、此しぐれいたくなふりそ吾妹子がつとに見せむともみぢ折てむ、とて、載たり、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。掾久米朝臣廣繩作《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハガヨメル》之。
 
4223 安乎爾與之《アヲニヨシ》。奈良比等美牟登《ナラヒトミムト》。和我世故我《ワガセコガ》。之米家牟毛美知《シメケムモミチ》。都知爾於知米也母《ツチニオチメヤモ》。
 
奈良比等《ナラヒト》は、廣繩(ノ)妻の京にあるをいふべし、(略解に、奈良人《ナラヒト》は、家持(ノ)卿|自《ミラ》をいふといへるは、いかゞ、)○和我世故《ワガセコ》は、廣繩をさせり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)兄子が、京に在(ル)妻(ノ)君に、折て贈て見せむがためと、しめおきたまへる黄葉なれば、いたづらにしては、非じと思ふを、さても〓雨《シグレ》の甚く降ことや、しかれども、かくまで心をこめて、しめたまへる黄葉なれば、たとひ〓雨はふるとも、地に墮て、いたづらになりはてはせじ、となり、此(ノ)歌は、同宴席ながら、廣繩に和へられたる歌なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
左の一首は、十月五日|某《タレ》ぞの宴席などに誦へたる歌なり、
 
(207)4224 朝霧之《アサギリノ》。多奈引田爲爾《タナビクタヰニ》。鳴鴈乎《ナクカリヲ》。留得哉《トヾメエメヤモ》。吾屋戸能波義《アガヤドノハギ》。
 
田爲《タヰ》は、たゞ田《タ》なり、爲《ヰ》の言に意なし、既く委(ク)辨(ヘ)云り、○留得哉は、トヾメエメヤモ〔七字右○〕と訓て、留め得よかし、と希《ネガ》ひたる詞とすべし、○誦たる意は、朝霧のたなびきたる田面の方をさして、はるばると鳴(キ)行(ク)雁を、いかで此處に留得よかし、吾(ガ)屋外の芽子(ノ)花よといふなり、さて左註によるときは、皇后の御作《ヨミタマ》へる意は、契冲もいひし如く、吉野へ行幸《イデマ》し給ふ天皇を、鳴(キ)往(ク)雁にたとへ、皇后の御みづからを、芽子(ノ)花によそへさせ給ふにもあらむ、(其時は、第四(ノ)句、少し斟酌あるべきか、)其を十月五日宴席などにて、東人が傳誦しなるべし、
 
右一首歌者《ミギノヒトウタハ》。幸《イデマシヽ》2於|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1之時《トキ》。藤原皇后御作《フヂハラノオホキサキノヨミマセルナリ》。但(シ)年月未2審詳《トシツキサダカナラズ》1。十月五日《カミナヅキノイツカノヒ》。河邊朝臣東人《カハヘノアソミアヅマヒトガ》。傳誦云爾《ツタヘヨメリ》。
 
幸2於吉野宮1は、聖武天皇なり、○皇后は、光明皇后なり、御傳八(ノ)下に云、○東人は、傳六(ノ)上に云、故ありて、このほど越中に下り居られしなるべし、○左の一首は、十月十六日餞宴に、作《ヨマ》れたる歌なり、
 
4225 足日木之《アシヒキノ》。山黄葉爾《ヤマノモミチニ》。四頭久相而《シヅクアヒテ》。將落山道乎《チラムヤマヂヲ》。公之越麻久《キミガコエマク》。
 
四頭久相而《シヅクアヒテ》は、雫落合而《シヅクオチアヒテ》といふほどの意ときこえたり、四頭久《シヅク》は、二(ノ)卷にも見えたり、○歌(ノ)意は、山の黄葉に雫の落合て、其(ノ)黄葉の散(ル)らむ山路を、君がひとり、わびしく心ぼそく越往むこ(208)との、いとほしく思ひやらるゝよ、となり、(六帖に、足引の山のもみぢにしづくあひておつる山邊を君や越らむ、とて載たるは、いさゝかわろし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。同月十六日《オヤジツキノトヲカマリムカノヒ》。餞2之《ウマノハナムケスル》朝集使少目秦伊美吉石竹《マヰウゴナハルツカヒスナキフミヒトハタノイミキイハタケヲ》1時《トキ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
餞之、之(ノ)字、目録にはなし、(中山(ノ)嚴水、略解に、之(ノ)字衍文とす、然るに、下文に、大納言藤原(ノ)家餞2之入唐使等(ヲ)1、又、閏三月云々、古慈悲(ノ)宿禰家餞2之入唐副使云々(ヲ)1、又、林(ノ)王(ノ)宅餞2之但馬按察使云々(ヲ)1、ともありて、みな之(ノ)字あれば、衍文にはあらじ、といへり、)○朝集使は、四度使の隨一《ヒトツ》なり、上に委(ク)辨へたり、(十八)〔頭註、【略解に石竹の下、之字あるべし、と云り、朝集使、雄略天皇紀に、國司郡司隨v時、朝集何不〓竭心府誡勅慇懃、】〕
 
雪日《ユキフルヒ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
4226 此雪之《コノユキノ》。消遺時爾《ケノコルトキニ》。去來歸奈《イザユカナ》。山橘之《ヤマタチバナノ》。實光將見《ミノテルモミム》。
 
去來歸奈《イザユカナ》は、去來《イザ》とは、いざなふ詞なり、歸《ユク》は、たゞ往《ユク》なり、奈《ナ》は、牟《ム》を急にいへるなり、○山橘《ヤマタチバナ》は、品物解にいへり、雪のふる頃、實の大きに、色こくうるはしくなるものなれば、實(ノ)光といへり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、廿(ノ)卷同作者、氣能己里能由伎爾阿倍弖流安之比奇能夜麻多知波奈乎都刀爾通彌許奈《ケノコリノユキニアヘテルアシヒキノヤマタチバナヲツトニツミコナ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。十一月《シハス》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチチガヨメル》之。
 
(209)月の下、日を脱せるならむ、
 
雪歌一首〔四字各○で囲む〕《ユキノウタヒトツ》并《マタ》短歌〔二字各○で囲む〕《ミジカウタ》。
 
目録に、三形(ノ)沙彌左大臣(ノ)歌二首とあるは、此所の左註を見誤りて、後人のしるせるものなれば、取に足ず、
 
4227 大殿之《オホトノノ》。此廻之《コノモトホリノ》。雪莫蹈禰《ユキナフミソネ》。數毛《シバ/\モ》。不零雪曾《フラザルユキソ》。山耳爾《ヤマノミニ》。零之雪曾《フリシユキソ》。由米縁勿《ユメヨルナ》。人哉《ヒトヤ》。莫履禰雪者《ナフミソネユキハ》。
 
此廻《コノモトホリ》は、此米具利《コノメグリ》と云に同じ、○由米縁勿《ユメヨルナ》は、勤《ユメ》よ、雪のあたりに縁(ル)こと勿れ、と云なり、○人哉《ヒトヤ》は、人余《ヒトヨ》と云に同じ、三言一句なり、○歌(ノ)意は、大殿のめぐりにふれる雪を、蹈ことなかれ、此(ノ)雪は山にのみ降て、この殿のあたりには、屡《シバ/\》も降ざる、いと/\希見《メヅラ》しき雪ぞ、勤《ユメ》よ勤《ユメ》よ、雪のあたりに依(リ)來て、雪を履けがすことなかれよ、となり、最《イト》古風の體なり、此(ノ)三方氏は、いくばくの古人ならぬを、ことにいみじく、古風を好まれけるなるべし、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4228 有都都毛《アリツツモ》。御見多麻波牟曾《メシタマハムソ》。大殿乃《オホトノノ》。此母等保里能《コノモトホリノ》。雪奈布美曾禰《ユキナフミソネ》。
 
有都都毛《アリツツモ》は、在々乍《アリ/\ツヽ》もの意なり、○御見多麻波牟曾《メシタマハムソ》は、左大臣の御覽じ給はむぞ、と云なり、御見は、メシ〔二字右○〕と訓て、御覽じと云意なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
(210)右二首歌者《ミギノフタウタハ》。三形沙彌《ミカタノサミガ》。承《ウケテ》2贈左大臣藤原北卿之語《オヒテタマヘルヒダリノオホマヘツキミフヂハラノキタノマヘツキミノコトヲ》1。作誦之《ヨメリ》也。聞之傳者《ソヲキヽツタフルハ》。笠朝臣子君《カサノアソミコキミナリ》。復後傳讀者《マタノチニツタヘヨムヒトハ》。越中國掾久米朝臣廣繩是《コシノミチノナカノクニノマツリゴトヒトクメノアソミヒロナハナリ》也。
 
北卿(北(ノ)字舊本此に誤、今は元暦本、古寫本等に從つ、)は、いはゆる北家の卿にて、房前大臣なり、天平九年十月丁未、贈2民部(ノ)卿正三位藤原(ノ)朝臣房前(ニ)正一位左大臣(ヲ)1、○作(ノ)字、元暦本に依と作るは、用べからず、○子君は、こゝの外に見えず、傳も詳ならず、○此左註の意は、雪のふる日、左大臣殿に侍候《サブラ》ふ人々と、御物語などしたまふ折から、左大臣の、めづらしく雪のふりたるを、いみじくめで給ひて、人のふみけがさむことを惜みて、のたまへる御詞を承て、やがて其(ノ)御詞を、沙彌が歌に作《ヨミ》なせし、といふなるべし、
 
天平勝寶〔四字□で囲む〕三年《ミトセ》。
 
此(ノ)卷の初より、件の雪(ノ)歌までに、天平勝寶二年に作《ヨメ》る歌、或は古歌を傳(ヘ)誦たるをも、同年のかぎり聞て記され、此より下、十月廿二日、左大辨紀(ノ)飯盛呂(ノ)朝臣(ノ)家(ノ)宴に作《ヨマ》れたる、梨(ノ)黄葉の歌まで、同三年に作《ヨメ》る歌、或は古歌を傳(ヘ)誦たるをも、同年のかぎり聞て記されたるゆゑに、此に如此あるなり、
 
4229 新《アラタシキ》。年之初者《トシノハジメハ》。彌年爾《イヤトシニ》。雪蹈平之《ユキフミナラシ》。常如此爾毛我《ツネカクニモガ》。
 
彌年爾《イヤトシニ》は、彌《イヤ》毎《ゴト》v年《トシ》爾《ニ》といはむが如し、○常如此爾毛我《ツネカクニモガ》。は、常に如v此にもがなあれかし、といふ(211)意なり、今按(フ)に、爾は、志か之の誤にて、カクシモガ〔五字右○〕なるべし、○歌(ノ)意は、新しき年の始ごとに、豐年の瑞に積れる雪を蹈平して、下司の人々と、館舍にて、おもしろき集宴をして、いつも如此あそびてしがな、となり、
 
右一首歌者《ミギノヒトウタハ》。正月二日《ムツキノフツカノヒ》。守舘集宴《カミノタチニテウタゲセリ》。於時零雪殊多《ソノトキユキフリツムコト》。積|尺〔○で囲む〕有四尺焉《ヒトサカマリヨキナリキ》。即主人大伴宿禰家持《スナハチアロジオホトモノスクネヤカモチ》作《ヨメル》2此歌《コノウタヲ》1也。
 
積有四尺は、略解に、積尺有四寸とありしが、かく誤れるなり、末に例ありと云り、下に大雪落積尺有二寸、とある、これなり、○年始に、其(ノ)國々下司に宴を賜ふ例あり、廿(ノ)卷終に註べし、
 
4230 落雪乎《フルユキヲ》。腰爾奈都美※[氏/一]《コシニナヅミテ》。參來之《マヰリコシ》。印毛有香《シルシモアルカ》。年之初爾《トシノハジメニ》。
 
腰爾奈都美※[氏/一]《コシニナヅミテ》、仁徳天皇(ノ)紀大御歌に、那珥波譬苔須儒赴禰苔羅齊許辭那豆瀰曾能赴尼苔羅
 
齊於朋瀰赴泥苔禮《ナニハヒトスズフネトラセコシナヅミソノフネトラセオホミフネトレ》、此(ノ)集四(ノ)卷に、如此爲而哉猶八將退不近道之間乎煩參來而《カクシテヤナホヤマカラムチカヽラヌミチノアヒダヲナヅミマヰキテ》、十(ノ)卷に、卷向之檜原丹立流春霞欝之思者名積米八方《マキムクノヒハラニタテルハルガスミオホニシモハバナヅミコメヤモ》、十三に、夏草乎腰爾莫積如何有哉人子故曾通簀文吾子《ナツクサヲコシニナヅミイカナルヤヒトノコユヱソカヨハスモアゴ》、などあり、こゝは悩頻《ナヅミ》て訊(ヒ)來し勞《イタヅキ》をいへり、上の歌の左註に、正月二日積こと尺に有《アマ》れるよし見えたれば、この歌よめるは三日にて、いよ/\深く、まことに腰にも悩《ナヅ》みけむこと、思ひやられたり、○印毛有香《シルシモアルカ》は、驗《シルシ》も有哉《アルカナ》なり、志留之《シルシ》は、代《カヒ》といはむが如し、○歌(ノ)意は、腰に至るまで、ふり積れる大雪に悩煩《ナヅミ》て訊(ヒ)來し、其(ノ)代《カヒ》ありて、さてもおもしろき年(ノ)始の集宴にあへる(212)哉、と歡ぶなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。三日《ミツカノヒ》。會2集《ツドヒテ》介内藏忌寸繩麻呂之舘《スケウチノクラノイミキナハマロガタチニ》1宴樂時《ウタゲセルトキ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
介の上、官本并仙覺抄に、越中(ノ)二字あり、○大伴の上、仙覺抄、古寫小本等に、守(ノ)字あり、
 
于時《ソノトキ》。積雪《ツモレルユキ》彫2成《ヱリナシ》重巖之趣《カサナルイハホノオモムキヲ》1。奇巧《タクミニ》綵2發《イロドリヒラク》草樹之花《クサキノハナヲ》1。屬《ツキテ》v此《コレニ》掾久米朝臣廣繩作歌一首《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハガヨメルウタヒトツ》。
 
彫2成重巖之趣1、(趣(ノ)字、舊本に起と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)榮華物語に、天地のうけたる年の始にはふるあわゆきも山となるらむ、
 
4231 奈泥之故波《ナデシコハ》。秋咲物乎《アキサクモノヲ》。君宅之《キミガイヘノ》。雪巖爾《ユキノイハホニ》。左家理家流可母《サケリケルカモ》。
 
雪巖爾は、ユキノイハホニ〔七字右○〕と訓るによるべし、(舊本はキハ〔三字右○〕とよめるはわろし、さては心違へり、)○歌(ノ)意、なでしこは、秋さくものにこそあれ、おもひがけなく、君(ガ)宅の雪の巖に咲りける哉、さてもめづらしや、となり、岡部氏、端詞を見るに、雪のつもれる巖上に、紅のなでしこの花を作りてさしたるなり、故に秋さく物をといへり、雪をなでしこと見しにはあらず、といへり、(古今集に、白雪の所もわかずふりしけばいはほにもさく花とこそ見れ、といへるは、雪を花と見たるにて、今とは意異れり、
 
遊行女婦蒲生娘子歌一首《ウカレメガマフノイラツメガウタヒトツ》。
(213)蒲生(ノ)娘子は、傳未(ダ)詳ならず、代匠記(ニ)云、いにしへは、うかれめやうのものも、かゝるおもしろき歌の、をりにあひたるをよめるに、今のおきな、まさにはぢざらむや、
 
4232 雪島《ユキノシマ》。巖爾殖有《イハホニタテル》。奈泥之故波《ナデシコハ》。干世爾開奴可《チヨニサカヌカ》。君之挿頭爾《キミガカザシニ》。
 
雪島《ユキノシマ》とは、造《ツク》り庭《ニハ》の島に雪のふり積れるを、かくいへり、(現存六帖に、雪しまのいはほにたてるそなれ松まつとなきよにしをれてぞふる、とあるは、雪島を、地(ノ)名と意得たるにや、いぶかし、)○奈泥之故《ナデシコ》は、これも上の歌に同じく、其(ノ)時のつくり花をいへり、○千世爾開奴可《チヨニサカヌカ》は、千世に開《サキ》てがなあれかし、となり、○君《キミ》とは、主人繩麻呂をいふべし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、集宴にあづかれるを歓て、主人を祝《ホキ》たるなり、
 
于是《コヽニ》。諸人酒酣《モロヒトサケタケナハニシテ》。更深鷄鳴《ヨフケトリナク》。因《ヨリテ》v此《コレニ》主人内藏伊美吉繩麻呂作歌一首《アロジウチノクラノイミキナハマロガヨメルウタヒトツ》。
 
是(ノ)字、異本には時と作り、
 
4233 打羽振《ウチハブキ》。鷄者鳴等母《カケハナクトモ》。如此許《カクバカリ》。零敷雪爾《フリシクユキニ》。君伊麻左米也母《キミイマサメヤモ》。
 
打羽振は、ウチハブキ〔五字右○〕と訓べし、(ウチハフリ〔五字右○〕とよめるはわろし、)此(ノ)上に云り、古今集に、五月待山ほとゝぎす打はぶき今もなかなむ去年の古聲、○鷄は、カケ〔二字右○〕とよむべし、(トリ〔二字右○〕とよめるはわろし、)次の歌なるも同じ、古事記、書紀をはじめ、此(ノ)集みなかゝるところには、可家《カケ》とのみよめればなり、○君伊麻左米也母《キミイマサメヤモ》は、嗚呼《アハレ》君が歸り座むやは、といはむが如し、すべて伊座《イマス》は、來(214)ることにも、歸ることにもいふ言なればなり、(しかるをイマス〔三字右○〕はイニマス〔四字右○〕の略言ぞと思ふは、いとあらぬことなり、)君《キミ》とは家持(ノ)卿を指り、也《ヤ》は、後(ノ)世の也波《ヤハ》の意、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、たとひ打羽ぶきて鷄鳴(キ)、夜は明往(ク)とも、かくまでいたくふる雪を凌ぎて、嗚呼歸りまさむやは、歸り賜ふことはあらじ、心せかれずに、宴をせむぞ、となり、
 
守大伴宿祢家持和歌一首《カミオホトモノスクネヤカモチガコタフルウタヒトツ》。
 
4234 鳴鷄者《ナクカケハ》。彌及鳴杼《イヤシキナケド》。落雪之《フルユキノ》。千重爾積許曾《チヘニツメコソ》。吾等立可※[氏/一]禰《アレタチカテネ》
 
彌及鳴杼《イヤシキナケド》は、上にも、霍公鳥伊也之伎喧奴《ホトトギスイヤシキナキヌ》、とよめり、○積許曾《ツメコソ》は、積者社《ツメバコソ》の意なり、○立可※[氏/一]禰《タチカテネ》は、立難《タチカテ》にすれ、といはむが如し、立《タツ》とは、發《タチ》て歸るなり、可※[氏/一]《カテ》は、難禰《カテネ》は、不《ネ》にて、上の許曾《コソ》の結(ビ)に、奴《ヌ》を禰《ネ》といへるなり、さて不《ヌ》v難《カテ》ならば立難《タチカテ》の反《ウラ》にて、立難《タチカテ》ならぬ意と聞ゆるを、立難《タチカテ》にするを、不《ヌ》2立難《タチカテ》1といはむは、いかゞなれど、これは難《カテ》にといふ意なるを、不《ナク》v難《カテ》にといへると、全(ラ)同例にて、待(ツ)にと云意なるを、不《ナク》v待《マタ》にと云(ヒ)、不《ザル》2所見《ミエ》1にと云意なるを、無《ナク》v不《ザラ》2所見《ミエ》1にと云るなど、皆同格にて、こゝもおつる所は、立難《タチカテ》にする意となれるなり、(入《イリ》かてぬ鴨、知《シリ》かてぬかもなどいふ加※[氏/一]奴《カテヌ》は、加禰都《カネツ》といふに通ひて、かねつる哉といふ意なり、思(ヒ)混《マガ》ふべからず、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、集宴のあかず面白きに、雪さへいみじく深く積れゝば、いとゞ立去難くするよしなり、
 
(215)太政大臣藤原家之縣犬養命婦《オホキマツリゴトノオホマヘツキミフヂハラノイヘノアガタノイヌカヒノヒメトネガ》。奉《タテマツレル》2天皇《スメラミコトニ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
太政大臣は、淡海公なり、按(フ)に、太政の上に、贈(ノ)字あるべきが、脱たるなるべし、養老四年八月癸未に薨たまひ、十月壬寅に、太政大臣正二位を贈(リ)たまへるよし、續紀に見えたればなり、淡海公傳は三(ノ)卷(ノ)中に、既く委くいへり、併考(フ)べし、さて彼(ノ)卷に、故太政大臣藤原家とあるも、故は贈を誤れるならむ、○縣(ノ)犬養(ノ)命婦は三千代にて、淡海公に嫁《アヒ》て、光明皇后などをうみ申されたり、其(ノ)前に、美努(ノ)王に嫁《アヒ》て、諸兄公などにも母親なり、さて三千代は、從四位下縣(ノ)犬養(ノ)宿禰東人の女なるよし、姓氏録に見えたり、續紀に、元正天皇、養老元年正月戊申、授2從四位上縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰三千代(ニ)從三位(ヲ)1、五年正月壬子、授2正三位(ヲ)1、五月乙丑、正三位縣(ノ)犬養(ノ)宿禰三千代、縁(テ)2入道(セルニ)1辭(ス)2食封資人(ヲ)1、優詔(シテ)不v聽(タマハ)、聖武天皇天平五年正月庚戌、内命婦正三位縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰三千代薨(ス)、遣2從四位下高安(ノ)王等(ヲ)1、監2護(シ)喪事(ヲ)1、賜(ヒ)2葬儀(ヲ)1、准(ジタマフ)2散三位(ニ)1、命婦(ハ)皇后之母也、十二月辛酉、遣2云々(ヲ)1、就(テ)2縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰(ノ)第(ニ)1、宣(テ)v詔(ヲ)、贈2從一位(ヲ)1、別(ニ)勅(シテ)莫(ラシム)v收(ルコト)2食封資人(ヲ)1、八年十一月丙戌、從三位葛城(ノ)王、從四位上佐爲(ノ)王等、上v表曰云々、葛城(ガ)親母(ハ)、贈從一位縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰、上歴2淨御原(ノ)朝廷(ヲ)1、下逮2藤原(ノ)大宮(ニ)1、事(テ)v君(ニ)致(シ)v命(ヲ)、移(シテ)v孝(ヲ)爲(シ)v忠(ト)、夙夜(ニ)忘v勞(ヲ)、累代竭(セリ)v力(ヲ)、和銅元年十一月云々、二十五日御宴、天皇譽2忠誠之至(ヲ)1、賜2浮杯之橘(ヲ)1、勅曰云々、是以(テ)汝(ガ)姓者賜(フナリ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1也、云々、是以臣葛城等、賜2橘(ノ)宿禰之姓(ヲ)1云々、廢帝寶字四年八月甲子、勅曰云々、其(ノ)先朝(ノ)太政大臣藤原(ノ)朝臣(ハ)者云々、宜d依2太公(ノ)故事(ニ)1追(テ)以2近江(ノ)國十二郡(ヲ)1、封(シテ)爲2淡海公(ト)u、(216)餘官如v故、以2繼室從一位縣(ノ)狗養(ノ)橘(ノ)宿禰(ヲ)1、贈2正一位(ヲ)1、爲2大夫人(ト)1、など見えたり、○天皇は、元明天皇、元正天皇、聖武天皇のうち、いづれのを指奉れりとも、定めがたし、
 
4235 天雲乎《アマクモヲ》。富呂爾布美安多之《ホロニフミアタシ》。鳴神毛《ナルカミモ》。今日爾益而《ケフニマサリテ》。可之古家米也母《カシコケメヤモ》。
 
富呂爾布美安多之《ホロニフミアタシ》とは、或説に、富呂《ホロ》は、散(ノ)字なるべし、神代紀上(ノ)卷に、※[就/足]散此云2倶穢簸羅々箇須《クヱハラヽカスト》1、とある、これなり、といへり、此(ノ)簸羅々《ハラヽ》と、富呂《ホロ》と通へば、さもあるべし、(俗に、ばら/\、ばらりつ、となど云に同じ、)安多之《アタシ》は、岡部氏、物語書に、あばたしといふ是にて、塚をあばく、又あばるるなどいふ、皆ひとし、といへり、(舊説に、アタシ〔三字右○〕は、ワタシ〔三字右○〕なりと云るは、非ず、雷の勢はげしく、鳴はためくをいふ言なるべし、古今集に、天(ノ)原ふみとゞろかし鳴(ル)雷も云々、○歌(ノ)意は、大空の雲を蹈散して、勢はげしく鳴はためく雷は、ものよりことにおそろしけれども、あなかしこ、今日日(ノ)神の御子とます、天皇の御前にめされて、かたじけなき詔を承り、畏《カシコマ》ることのかぎりなきには、嗚呼《アハレ》まさらじ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタ》。傳誦掾久米朝臣廣繩《ツタヘヨメルハマツリゴトヒトクメノアソミヒロナハ》也。
 
 
悲2傷《カナシム》死妻《ミマカレルメヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミミジカウタ》。【作主未詳。】
 
4236 天地之《アメツチノ》。神者無可禮也《カミハナカレヤ》。愛《ウツクシキ》。吾妻離流《アガツマサカル》。光神《ヒカルカミ》。鳴波多※[女+感]嬬《ナリハタヲトメ》。携手《テタヅサヒ》。共將有等《トモニアラムト》。念之爾《オモヒシニ》。情違奴《コヽロタガヒヌ》。將言爲便《イハムスベ》。將作爲便不知爾《セムスベシラニ》。木綿手次《ユフダスキ》。肩爾取挂《カタニトリカケ》。倭文幣乎《シヅヌサヲ》。手爾(217)取持而《テニトリモチテ》。勿令離等《ナサケソト》。和禮波雖?《ワレハノメレド》。卷而寐之《マキテネシ》。妹之手本者《イモガタモトハ》。雲爾多奈妣久《クモニタナビク》。
 
初四句は、妻の病臥しゝ時、天神地祇《アマツカミクニツカミ》に、祈願《イノリマヲ》しゝ驗なくして、死《ミマカ》れるから、神祇《カミタチ》を恨(ミ)奉るやうにいへり、○光神《ヒカルカミ》は、光雷《ヒカルカミ》にて、こゝはまくら詞なり、○鳴波多※[女+感]嬬、此ほ其(ノ)妻(ノ)名を鳴波多娘子《ナリハタヲトメ》、といへるか、さらば枕詞の光(ル)神は、鳴(リ)をいはむためなり、(契冲は、機織(ル)をとめ、といふ意に解なせり、機おる女を、機をとめといはむは、あまりに打まかせすぎたるいひざまなるべきにや、)又は、波多娘子《ハタヲトメ》といふが、名にてもあるべし、さらば枕詞よりは、鳴《ナリ》はためくといふ意に、いひかけたるなるべし、(契冲も、雷鳴(リ)はためく心に、いひかけたり、と云り、)はためくは、竹取物語に、六月のなりはためくに、とあり、(四季物語に、かみこと/”\しうなり、おどろ/\しうなりはためきて、)長笛賦に、雷叩鍛之|※[山/及]※[山/合]兮《ナリハタメクガゴトシ》、呉都賦に、雷※[石+昆]《ナリハタメイテ》、とあり、(冠辭考には、此(ノ)妻の名、を機娘《ハタヲトメ》と云しにや、苅幡戸辨《カリハタトベ》、栲幡千々比賣《タクハタチヾヒメ》など、女に幡もて名づけしこと多し、さて機は音する物なれば、鳴機《ナルハタ》ともいふ故に、鳴機娘《ナルハタヲトメ》とつゞけたり、といへり、)○情違奴《コヽロタガヒヌ》、二(ノ)卷日並(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)薨《スギタマ》ふ時、舍人等(ガ)作(ル)歌に、天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽツカヘマツリシコヽロタガヒヌ》、○木綿手次《ユフタスキ》と云より、下六句は、妻の病(ミ)臥しゝほど、神祇に祈願《ノミマヲ》しゝことを、立かへりていふなり、初(ノ)句に、その鋼《オホヨソ》を云て、こゝにその目《コワリ》を述たり、○倭文幣、文を舊本父に誤れり、今改む、幣を、舊本弊に誤れり、今は拾穗本に從つ、○雖?は、(舊本に、これをイノレド〔四字右○〕とよめるは、甚あたらぬことなり)ノメレド〔四字右○〕と訓べし、(過去し(218)事を、今いふことなれば、必(ズ)かく訓べし、イノレド〔四字右○〕にては、現在?りつゝあることになればなり、)木綿手繦肩《ユフタスキカタ》にとりかけ、倭文幣《シヅヌサ》を手に取(リ)持て、妻離(ケ)賜ふことなかれ、と慇懃《ネモコロ》に?りしかども、その驗なくして云々、との意なり、○妹之手本者《イモガタモトハ》云々は、火葬の煙の立なびくを、雲に見なしたるなり、三(ノ)卷に、土形(ノ)娘子を、泊瀬山に火葬せしとき、人麻呂の、伊佐夜歴雲《イサヨフクモ》、とよまれ、出雲(ノ)娘子を、吉野に火葬せし時も、霧有哉吉野山嶺霏〓《キリナレヤヨシヌノヤマノミネニタナビク》、とよまれたり、丈部(ノ)龍麻呂の死ける時も、大伴(ノ)三中の、於雲棚引《クモトタナビク》とよめり、其(ノ)餘《ホカ》かやうによめるは、皆火葬の煙をいふことなり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4237 寤爾等《ウツヽニト》。念※[氏/一]之可毛《オモヒテシカモ》。夢耳爾《イメノミニ》。手本卷寢等《タモトマキネト》。見者須便奈之《ミレバスベナシ》。
 
寤(ノ)字、舊本に寢と作るは誤なり、今は元暦本、拾穗本等に從つ、古寫本には※[寤のうがんむりが穴]と作り、○歌(ノ)意は、唯夢にのみ、相寢ると見ることのすべなさよ、いかで此(ノ)夢に相見ることを、その夢たることをわすれて、現に袂卷て寢とおもひなされよかし、さらば此(ノ)かなしみをも、なぐさまむにとなり、と中山(ノ)嚴水云り、按(フ)に、この念《オモフ》は、空蝉と念(ヒ)し時、又忘て念へやなど云念と同じく、輕き詞にて、初二句は、寤にありてしかもの謂にて、夢にのみ、相寢ると見ることのすべなければ、嗚呼かゝることの、寤にてありたきこと、と云るにや、
 
右二首《ミギノフタウタ》。傳誦遊行女婦蒲生是《ツタヘヨメルハウカレメガマフナリ》也。
 
(219)二月三日《キサラキノミカノヒ》。會2集《ツドヒテ》于|守舘《カミノタチニ》宴《ウタゲシテ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
三(ノ)字、目録并或本、拾穗本、古寫小本等には、二と作り、
 
4238 君之往《キミガユキ》。若久爾有婆《モシヒサナラバ》。梅柳《ウメヤナギ》。誰與共可《タレトトモニカ》。吾※[草冠/縵]可牟《アガカヅラカム》。
 
君之往《キミガユキ》は、二(ノ)卷、五(ノ)卷等にも出たり、往《ユキ》は旅行《タビユキ》なり、○歌(ノ)意は、君が旅行の若(シ)久しくて、三月《ヤヨヒ》を過《スグ》るまでも還り來まさずば、誰と共にか、梅柳を※[草冠/縵]にして、あそびなぐさむべき、となり、(略解に、梅を挿頭、柳を※[草冠/縵]にするなれど、一(ツ)にいひつゞけたり、といへるは、いかにぞや、五(ノ)卷に、波流楊奈宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈《ハルヤナギカヅラニヲリシウメノハナ》云々、とも見えて、古(ヘ)は梅をも※[草冠/縵]に造りしこと、論なきをや、)
 
右判官久米朝臣廣繩《ミギマツリゴトヒトクメノアソミヒロナハ》。以(チテ)2正税帳1、應《ス》v入《ノボラムトス》2京師《ヤコニ》1。仍守大伴宿禰家持《カレオホトモノスクネヤカモチ》。作《ヨメリ》2此歌《コノウタヲ》1也。但|越中風土《コシノミチノナカノクニザマ》。梅花柳絮《ウメヤナギ》。三月初咲《ヤヨヒニサキハジム》耳。
 
判官は、掾をいへること、上に度々見えたり、○正税帳、民部式に、凡進2正税帳(ヲ)1者、皆限2二月卅日以前(ヲ)1、竝申2送(レ)官(ニ)1、○越中(ノ)風土云々、十八にも、越中(ノ)風土希1有《マレナリ》橙橘1也、とあり、
 
詠《ヨメル》2霍公鳥《ホトトギスヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
4239 二上之《フタガミノ》。峯乃繁爾《ヲノヘノシヾニ》。許毛爾之波《コモリニシ》。霍公鳥待騰《ホトトギスマテド》。未來奈賀受《イマダキナカズ》。
 
繁爾《シヾニ》は、志宜美爾《シゲミニ》といはむが如し、繁き間にの意なり、○許毛爾之波、略解に、毛の下里を脱し、波は、衍文にて、許毛里爾之《コモリニシ》なるべし、といへり、十八に、敷多我美能夜麻爾許母禮流保等登藝(220)須伊麻母奈加奴香伎美爾妓可勢牟《フタガミノヤマニコモレルホトトギスイマモナカヌカキミニキカセム》、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右四月十六日《ミギウツキノトヲカマリムカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
春日祭神之日《カスガニテカミマツリセルホド》。藤原太后御作歌一首《フヂハラノオホキサキノヨミマセルミウタヒトツ》。即《スナハチ》賜《タマフ》2入唐大使藤原朝臣清河《モロコシニツカハスツカヒノカミフヂハラノアソミキヨカハニ》1。
 
春日祭神、この時、未(タ)今の四所明神は、ましまさゞれば、二月十一月、上(ノ)申(ノ)日の例祭にはあらず、(この例祭の始れるは、貞觀元年十一月九日なりといへり、)遣唐使の爲に、春日の地におきて、神祇を祭られしなり、續紀に、寶龜八年二月戊子、遣唐使拜(ス)2天神地祇(ヲ)於春日山(ノ)下(ニ)1云々、副使少野(ノ)朝巨石根、重(テ)修2祭禮(ヲ)1也、この例にひとし、○藤原(ノ)太后は、此上に藤原(ノ)皇后とあるに同じく、光明皇后にて、淡海公の女、房前公の妹にて、清河のためには、伯母にてまし/\き、○入唐大使藤原(ノ)朝臣清河は、續紀に、天平十二年十一月甲辰、五六位上藤原(ノ)朝臣清河(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十三年七月辛亥、爲2中務(ノ)少輔(ト)1、十五年五月癸卯、授2正五位下(ヲ)1、六月丁酉、爲2大養徳(ノ)守(ト)1、十七年正月乙丑、授2正五位上(ヲ)1、十八年四月癸卯、授2從四位下(ヲ)1、勝寶元年七月甲午、爲2參議(ト)1、三年九月己酉、任2遣唐使(ヲ)1以2從四位下藤原(ノ)朝臣清河(ヲ)1爲2大使(ト)1云々、三年二月庚午、遣唐使雜色(ノ)人一百十三人、叙v位有v差、四月丙辰、遣2云々等(ヲ)1、奉2幣帛(ヲ)於伊勢大神宮又畿内七道諸社(ニ)1、爲v令(ム)2遣唐使等平安(ナラ)1也、四年三月庚辰、遣唐使等拜v朝(ヲ)、閏三月丙辰、召2遣唐使副使已上(ヲ)於内裏(ニ)1、詔給2節刀(ヲ)1、仍授2大使從四位上藤原(ノ)朝臣清河(ニ)正四位下(ヲ)1云々、寶字四年二月辛亥、在v唐大使正四位下藤原(ノ)朝臣清河(ヲ)爲2文部(ノ)卿(ト)1、七年正月壬(221)子在v唐大使仁部卿正四位下藤原(ノ)清河(ヲ)爲2兼常陸守1、八年正月乙巳、授2從三位(ヲ)1、寶龜六年六月辛巳、以2云々(ヲ)1爲2遣唐大使(ト)1云々、七年四月壬申、御2前殿1賜2遣唐使(ニ)節刀(ヲ)1云々、賜2前(ノ)入唐大使藤原(ノ)清河(ニ)書(ヲ)1曰、汝奉2使(ヲ)絶域1、久經2年序(ヲ)1、忠誠遠著、消息有v聞、故今因2聘使1便命送之、仍賜2※[糸+施の旁]一百匹、細布一百端、砂金大一百兩1、宜能努力(シテ)共使v歸v朝(ニ)、十年二月乙亥、贈2故入唐大使從三位藤原(ノ)朝臣清河(ニ)從二位(ヲ)1、清河(ハ)、贈太政大臣房前之第四子也、勝寶五年、爲2大使(ト)1入唐、廻v日(ヲ)遭2逆風(ニ)1、漂2著唐國南邊驩州(ニ)1、時遇2土人反(スルニ)1、合v船被v害、清河僅(ニ)以v身免(ル)、遂(ニ)留2唐國(ニ)1不v得2歸朝(スルコト)1、前後十餘年、薨2於唐國(ニ)1云々、○清河の下、舊本に、參議從四位下遣唐使の九字を細書せり、後人の書加へしなり、古本に、なきぞ宜しき、
 
4240 大舶爾《オホブネニ》。眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》。此吾子乎《コノアゴヲ》。韓國邊遣《カラクニヘヤル》。伊波敝神多智《イハヘカミタチ》。
 
此吾子乎《コノアゴヲ》、(乎(ノ)字、古本に等と作るは、いかゞ、)清河は、光明皇后の御ために御甥なれば、親みて吾子《アゴ》との給へり、神武天皇(ノ)紀(ノ)御歌に、伽牟伽筮能伊齋能于瀰能《カムカゼノイセノウミノ》、於費異之珥夜異波臂茂等倍屡《オホイシニヤイハヒモトホル》、之多〓瀰能之多〓瀰能阿誤豫阿誤豫《シタヾミノシタヾミノアゴヨアゴヨ》、之多太瀰能異波比茂等倍難《シタダミノイハヒモトホリ》、于智弖之夜莽務于智弖之夜莽務《ウチテシヤマムウチテシヤマム》、とあれば、すべて若(キ)子をば、親族なるをはじめて、さらぬ他人をも呼て、阿誤《アゴ》といへること、後までもしかり、(谷州氏、和訓栞に、乳兒を呼てあごといひしこと、うつぼ物語にも見えたり、職人歌合に、あごやう管もてこよと書るも、是なり、あごぜとも見ゆ、菅家の幼き時、よみ給ふ歌とて、家集に、梅の花べにの色にも似たる哉あごが顔にもつくべかりけり、菅家系(222)圖に、菅公の幼名も阿兒と書り、吏部王記に、元興等の僧、童子なる時あごと名づくといひ、著聞集に、あご法師といふ小童子《ワラハ》といひ、後撰集に、亭子院に、いまあごとめしける人、新續古今集に、傀儡あご、又後小松院の御清所におあごあり、一休和尚は、あごが腹なりといへり、源氏の抄に、貫之が童名、内教坊のあごくぞといへるは、直に名にもつけたると見えたり、とあり、)〔頭註、【大鏡一に、一品の宮ののぼらせ給へりけるに、弁のめのとの御ともに候が、さしくしを左にさゝれたりければ、阿誤よ、などくしはあしくさしたるぞとこそ仰られけれ、】〕○伊波敝神多智《イハヘカミタチ》は、齋《イハ》ひ護《マモ》りて、平安《タヒラカ》にあらしめ給へ神等《カミタチ》よ、と云なり、神多智《カミタチ》は、即(チ)今日祭り奉り給ふ神祇なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
大使藤原朝臣清河歌一首《ツカヒノカミフヂハラノアソミキヨカハガウタヒトツ》。
イツ
 
4241 春日野爾《カスガヌニ》。伊都久三諸乃《イツクミモロノ》。梅花《ウメノハナ》。榮而在待《サカエテアリマテ》。還來麻泥《カヘリコムマデ》。
 
伊都久三諸《イツクミムロ》は、齋御室《イツクミムロ》なり、齋《イツク》は、此(ノ)下にも、住吉爾伊都久祝之《スミノエニイツクハフリノ》云々、古事記に、以伊都久神《モチイツクカミ》、又|伊都伎奉《イツキマツル》、又|邦祭《イツキマツル》、書紀に、爲2天孫1所祭《イツカレヨ》、ともあり、御室《ミムロ》は、神祇《カミタチ》を安置《マセ》奉る室《ムロ》にて、既く委(ク)註り、○歌(ノ)意は、本(ノ)句は、親《マノアタリ》の物をもて、榮といはむための序とせられたり、吾(ガ)韓國より還り來む日まで、榮え座して待給へと、皇后に申す謂なり、
 
大納言藤原家《オホキモノマヲスツカサフヂハラノマヘツキミノイヘニテ》。餞《ウマノハナムケスル》2之|入唐使等《モロコシニツカハスツカヒラヲ》1宴日歌一首《ヒノウタヒトツ》。【即主人卿作之。】
 
藤原(ノ)卿(卿(ノ)字、舊本にはなし、拾穗本に從てしるしつ、)は、仲麻呂(ノ)卿なり、勝寶元年七月甲午、爲2大(223)納言1、と續紀に見えたり、委しくは、十七(ノ)上にいへり、○即主人卿作之の六字、古本にはなし、此は大納言藤原卿家餞之入唐使等宴日歌三首、と題《シル》して、各々歌の左に、右一首主人云々、右一首民部(ノ)少輔云々、右一首大使云々、とあらまほしきところなり、
 
4242 天雲乃《アマクモノ》。去還奈牟《ユキカヘリナム》。毛能由惠爾《モノユヱニ》。念曾吾爲流《オモヒソアガスル》。別悲美《ワカレカナシミ》。
 
天雲乃《アマクモノ》は、枕詞なり、すべて雲《クモ》は、蒼天《オホソラ》を往還《ユキカヘリ》するものなれば、去還《ユキカヘリ》といひかけたり、古今集に、天雲のよそにも人のなりゆくかさすがに目には見ゆるものから、かへし、ゆき還りそらにのみしてふることはわがゐる山の風はやみなり、○毛能由惠爾《モノユヱニ》は、物なるをの意なり、○歌(ノ)意は、今別れ去て、又還り來むとは知(レ)るものから、別(レ)の悲しく心ぼそさに、かく物思(ヒ)をこそすれ、となり、
 
民部少輔多治比眞人土作作歌一首《タミノツカサノスナキスケタヂヒノマヒトハニシガヨメルウタヒトツ》。
 
多治比(ノ)眞人土作(比(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は一本に從つ、土(ノ)字、舊本古に誤、今は拾穗本、古寫本、古寫小本等に從つ、)は、天平十二年正月庚子、五六位上多治比(ノ)眞人土作(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十五年三月乙巳、筑前(ノ)國(ノ)司言(ス)、新羅(ノ)使薩※[にすい+食]金序貞等來朝(スト)、於是遣2從五位下多治比(ノ)眞人土作云々(ヲ)於筑前(ニ)1、※[手偏+僉]2※[手偏+交](セシム)客之事(ヲ)1、四月甲午、※[手偏+僉]2※[手偏+交]新羅(ノ)客(ヲ)1使多治比(ノ)眞人土作等言(ス)、新羅(ノ)使調(ヲ)改(テ)稱2土毛(ト)1、書(ノ)奧(ニ)注2物數(ヲ)1、稽(ルニ)之舊例(ニ)1大(ニ)失2常禮(ヲ)1云々、同六月丁酉、爲2攝津(ノ)介(ト)1、十八年四月壬辰、爲2民部少輔(ト)1、勝寶元(224)年八月辛未、爲2兼大忠(ト)1、(紫微)六年四月庚午、爲2尾張(ノ)守(ト)1、寶字元年五月丁卯、授2從五位上(ヲ)1、五年十一月丁酉、爲2西海道(ノ)節度副使(ト)1、七年正月壬子、授2正五位下(ヲ)1、八年四月戊寅、爲2文部(ノ)大輔(ト)1(式部也)、神護二年十一月丁巳、授2從四位下(ヲ)1、神護景雲二年二月癸巳、爲2左京(ノ)大夫(ト)1、讃岐守如v故、七月壬申朔、爲2治部(ノ)卿(ト)1、左京(ノ)大夫讃岐(ノ)守如v故、寶龜元年七月庚辰、爲2參議(ト)1、授2從四位上(ヲ)1、二年六月乙丑、參議治部(ノ)卿從四位上多治比(ノ)眞人土作卒、
 
4243 住吉爾《スミノエニ》。伊都久祝之《イツクハフリガ》。神言等《カムコトト》。行得毛來等毛《ユクトモクトモ》。舶波早家無《フネハハヤケム》。
 
住吉爾《スミノエニ》云々、住吉(ノ)大神は、古事記上(ツ)卷、伊邪那岐(ノ)大神御身滌の處に、其(ノ)底箇之男(ノ)命、中筒之男(ノ)命、上箇之男(ノ)命、三柱(ノ)神者、墨江之三前大神也《スミノエノミマヘノオホカミナリ》、と見えて、神名式に、攝津(ノ)國住吉(ノ)郡住吉(ニ)坐神四座、(名神大、月次相甞新甞、)とあり、四座といへるは、右の三前(ノ)大神の後に、神功皇后を合(セ)祭られたるなるべし、異國に使を遣はさるゝ時、住吉の大神を祭ることは、臨時祭式に、開2遣v唐(ニ)舶居(ヲ)1祭(住吉(ノ)社)云々、開2船居(ヲ)1時、神祇官差v使(ヲ)向v社(ニ)祭(ル)之、祝詞式に、遣唐使時奉幣の詞に、皇御孫尊乃御命以底《スメミマノミコトノミコトモチテ》、住吉爾稱辭竟奉留《スミノエニタヽヘコトヲヘマツル》、皇神等乃前爾申賜久《スメカミタチノマヘニマヲシタマハク》云々、など、かた/”\に見えたり、そも/\この大神は、海上を守りましますがゆゑに、遣唐使の時は、公よりも殊に、いみじく祷り申さるゝことにぞありける、(なほ次下に引(ク)神功皇后(ノ)紀の文、考(ヘ)合(ス)べし、)なほ六(ノ)卷石上(ノ)乙麻呂(ノ)卿、配2土左(ノ)國1之時長歌に、住吉乃荒人神船舳爾牛吐賜《スミノエノアラヒトカミフナノヘニウシハキタマヒ》云々、とある處に、この大神の事を委(ク)註り、併(セ)考(フ)べし、(225)又次下の長歌をも、照(シ)見べし、○神言等《カムコトト》は、神語《カムコト》に因《ヨリ》てといふほどの意なり、神言《カムコト》は、神に祷申す祝辭などをいふことなり、(竹取物語に、よごとをはなちて、立居泣々よばひ給ふこと、千度ばかりまうし給ふけにやあらむ、やう/\神なりやみぬ、とある、よごとは、則今の神言なるべし、)皇極天皇(ノ)紀に、國内(ノ)巫覡等、折(リ)2取(リ)枝葉(ヲ)1、懸2掛木綿1、伺2大臣(ノ)度v橋(ヲ)之時1(ヲ)、爭(テ)陳2神語入微《カムコトノタヘナル》之|説《コトヲ》1、天智天皇(ノ)紀に、中臣(ノ)金(ノ)連|命2宣《ノル》神言《カムコトヲ》1、續紀廿八に、出雲(ノ)國(ノ)造出雲(ノ)臣益方奏2神事(ヲ)1、(これは、かの神賀詞をいへり、)廿九詔に、因2神語《カムコトニ》1有v言2大中臣(ト)1云々、(これはかの大祓詞をいへり、)などあり、此(ノ)餘神の詔へる御詞、又すべて神事にあづかる言をば、ひろく神語《カムコト》といへること、古書に往々《コレカレ》見えたり、貞觀儀式に、造酒、神語(ニ)佐可都古《サカツコ》、また麁妙服、神語(ニ)所2謂《イヘル》阿良多倍《アラタヘト》1是也、また拍手四度、神語(ニ)所2謂《イヘル》八開手《ヤヒラテト》1是也、などの類思(ヒ)合(ス)べし、○行得毛來等毛《ユクトモクトモ》は、行時《ユクトキ》も來時《クトキ》もの意か、時《トキ》を等《ト》といへること、其(ノ)證は未(ダ)見當らず、(夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》など云|刀《ト》は、時の意にはあらじ、)尚考(フ)べし、又等は、たゞ助辭に七、行も來もの意か、(雖v往雖v來と云にはあらじ、)九(ノ)卷に、海若之何神乎齋祈者歟往方毛來方毛舟之早兼《ワタツミノイヅレノカミヲイノラバカユクヘモクヘモフネノハヤケム》、(徒方來方は、理明らかなり、)○歌(ノ)意は、住吉に大神を拜(キ)奉りて、海上の平安《サキカラ》むことを祷(リ)申す祝部《ハフリ》が、その神語《カムコト》によりて、往時も還來る時も、舟の滯ることなく、早からむぞ、となり、
 
大使藤原朝臣清河歌一首《ツカヒノカミフヂハラノアソミキヨカハガウタヒトツ》。
 
(226)4244 荒玉之《アラタマノ》。年緒長《トシノヲナガク》。吾念有《アガモヘル》。兒等爾可戀《コラニコフベキ》。月近附奴《ツキチカヅキヌ》。
 
兒等爾《コラニ》は、兒等乎《コラヲ》といはむが如し、兒等《コラ》は、妻をさすなるべし、○月近附奴《ツキチカヅキヌ》は、發船《フナダチ》する月の近着ぬ、となり、○歌(ノ)意は、年月長く、常に相見てかたらはむ、と思ひて在し、妻に別れて、戀しく思るべき時の近づきぬ、となり、末(ノ)句は、次下に載たる、阿倍(ノ)朝臣の、天雲能《アマクモノ》云々の歌を、とられしにはあらずや、○上(ノ)件五首は、清河大使たりし時の歌どもなり、
 
天平五年《テムヒヤウイツトセトイフトシ》。贈《オクレル》2入唐使《モロコシニツカハスツカヒニ》1歌一首短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。【作主未詳。】
 
入唐使、この時の大使は、多治比眞人廣成なり、此(ノ)時の歌、五(ノ)卷、八(ノ)卷、九(ノ)卷等にも見えたり、○作主未詳の四字、古本にはなし、
 
4245 虚見都《ソラミツ》。山跡乃國《ヤマトノクニ》。青丹與之《アヲニヨシ》。平城京歸由《ナラノミヤコユ》。忍照《オシテル》。難波爾久太里《ナニハニクダリ》。住吉乃《スミノエノ》。三津爾舶能利《ミツニフナノリ》。直渡《タヾワタリ》。日入國爾《ヒノイルクニニ》。所遣《ツカハサル》。和我勢能君乎《ワガセノキミヲ》。懸麻久乃《カケマクノ》。由由志恐伎《ユユシカシコキ》。墨吉乃《スミノエノ》。吾大御神《ワガオホミカミ》。舶乃倍爾《フナノヘニ》。宇之波伎座《ウシハキイマシ》。船騰毛爾《フナドモニ》。御立座而《ミタヽシマシテ》。佐之與良牟《サシヨラム》。礒乃埼埼《イソノサキザキ》。許藝波底牟《コギハテム》。泊泊爾《トマリトマリニ》。荒風《アラキカゼ》。浪爾安波世受《ナミニアハセズ》。平久《タヒラケク》。率而可敝理麻世《ヰテカヘリマセ》。毛等能國家爾《モトノミカドニ》。
 
虚見都《ソラミツ》は、(見は借(リ)字、)天御津《ソラミツ》にて、山跡《ヤマト》の枕詞なるよし、一(ノ)卷に委(ク)辨(ヘ)たり、○住吉乃三津《スミノエノミツ》云々、住(ノ)吉に三津《ミツ》といへるは、たゞ此(ノ)處のみなり、古事記下(ツ)卷仁徳天皇(ノ)條に、此(ノ)天皇之御世(ニ)云々、又定2(227)墨江之津(ヲ)1、書紀雄略天皇(ノ)卷に、十四年春正月、身狹(ノ)村主青等、共2呉(ノ)國(ノ)使1、將《ヰテ》2呉(ノ)所《ル》獻(レ)手末才伎《タナスヱノテヒト》云々等(ヲ)1、泊2於住吉(ノ)津(ニ)1云々、本居氏、三津《ミツ》は、この住吉(ノ)津を美稱《ホメ》て、御津《ミツ》と云るなり、といへり、又書紀に、神功皇后新羅より歸ります時、御船、攝津(ノ)國牟古(ノ)水門に入(リ)給はむとするに、御船回て不v進とき、底筒男、中筒男、表筒男(ノ)三神誨《ミハシラノカミヲシヘ》給はく、吾(ガ)和魂(ハ)居2大津(ノ)渟中倉之長峽《ヌナクラノナガヲニ》1使3因看2往來(ノ)船(ヲ)1、於是隨2神(ノ)教(ノ)1以鎭坐(シム)焉、則平(ニ)得v度v海(ヲ)、と見えたる、大津は、菟原(ノ)郡にして、かの住吉(ノ)大神の、菟原(ノ)郡に坐(シ)しほどより、其(ノ)地大津にてありしを、後に今の住吉(ノ)郡の住吉に、大神を遷奉り賜ひしまに/\、其津をも、共に移し定め賜へるなるべしと、古事記傳にいへり、さてこれまでは、奈良(ノ)京より難波に下り、難波より陸路を經て、住吉の津より發船せしと聞えたり、遣唐使は、ことに住吉(ノ)大神を拜(キ)祭ること、いみじく嚴重《オゴソカ》なりければ、其(ノ)大神のまします津より、船發せしにやあらむ、○直渡《タヾワタリ》は、唐國をさして、直乘《タヾノリ》にわたるよしなり、○日入國《ヒノイルクニ》は、唐國をいへり、書紀纂※[足+疏の旁]に、隋書傳曰、大業三年、其(ノ)王多利思比孤遣2使者(ヲ)1曰、聞(ク)海西菩薩天子、重2興佛法1、故遣2朝拜1、兼沙門數十人來(テ)學2佛法(ヲ)1、其(ノ)國(ノ)書(ニ)曰、日出(ル)處(ノ)天子、致2書(ヲ)日没(ル)處天子(ニ)1、無(ヤ)v恙云々、帝覽之不v悦、謂(テ)2鴻臚卿(ニ)曰、蠻夷既自謂2日出(ル)處(ノ)天子(ト)1、不v可v言2大唐之所(ト)1v名(ル)、(五雜俎に、倭國有d日出天子致2書(ヲ)日入天子1之語u、)○所遣は、ツカハサル〔五字右○〕と訓べし、五(ノ)卷、(今の歌と同時によめる、)憶良(ノ)臣(ノ)長歌に、唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》云々、○懸麻久乃《カケマクノ》云々、六(ノ)卷石(ノ)上(ノ)乙麻呂(ノ)卿、配2土左(ノ)國(ニ)1之時(ノ)歌に、繋卷裳湯々石恐石《カケマクモユヽシカシコシ》、(228)住吉乃荒人神《スミノエノアラヒトカミ》、船舳爾牛吐賜《フナノヘニウシハキタマヒ》、付賜將島之埼前《ツキタマハムシマノサキザキ》、依賜將礒乃埼前《ヨリタマハムシマノサキザキ》、荒浪風爾不令遇《アラキナミカゼニアハセズ》、莫管見身疾不有《ツヽミナクヤマヒアラセズ》、急令變賜根本國部爾《スムヤケクカヘシタマハネモトノクニヘニ》、とあるに似たり、○舶乃倍爾《フナノヘニ》は、船舳《フナノヘ》になり、(船之上《フナノヘ》にはあらず、)五(ノ)卷(今と同時の歌、)に、船舳爾《フナノヘニ》(反云2布奈能閇爾《フナノヘニト》1、)道引麻遠志《ミチビキマヲシ》、云々|船舳爾御手打掛弖《フナノヘニミテウチカケテ》云々、とあり、神功皇后(ノ)紀(ノ)始に見えたる、墨江(ノ)大神の御誨言《ミヲシヘコト》に、和魂《ニキミタマハ》服(テ)2玉身《ミミニ》而守|壽命《ミイノチヲ》1、荒魂《アラミタマハ》爲2先鋒《ミサキト》1而導(ム)2師船《ミイクサフネヲ》1、○宇之波伎《ウシハキ》は、五(ノ)卷よりはじめて、六(ノ)卷、九(ノ)卷、十七(ノ)卷などにも出て、既く委(ク)註り、○舶騰毛爾《フナドモニ》は、舶艫《フナドモ》になり、○御立座而《ミタヽシマシテ》、天皇|及《マタ》さるべき神の御うへを申すには、用言の頭《カミ》にも、御《ミ》の辭を冠《カウブラ》すること、御佩有《ミハカセル》、御娶坐《ミアヒマス》、御寢坐《ミネマス》、御哭泣《ミネナク》、などいふ、其(ノ)例なり、○率而可敝里麻世《ヰテカヘリマセ》は、引率《ヒキヰ》て、皇朝《ミカド》にかへりませと、大御神に祷(リ)申すなり、○毛等能國家爾は、書紀にも、中國、國家、大國、帝國などみなミカド〔三字右○〕とよめれば、これも舊本の如く、モトノミカドニ〔七字右○〕と訓てしかるべし、又右に引(ク)六(ノ)卷(ノ)歌に、本國部爾《モトノクニヘニ》とあるに依て、モトノクニヘニ〔七字右○〕と訓べきにや、さらば家は借(リ)字にて、國邊《クニヘ》になり、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4246 奥浪《オキツナミ》。邊波莫越《ヘナミナタチソ》。君之舶《キミガフネ》。許藝可敝里來而《コギカヘリキテ》。津爾泊麻泥《ツニハツルマデ》。
 
邊波莫越、略解に、越は起の誤にてはなきか、といへるは、信に然り、(廿(ノ)卷に、志保不尼乃弊古祖志良奈美《シホブネノヘコソシラナミ》、とよめるは、船の舳を浪の越(ス)を云れど、この歌にては、越(ス)といふこといかゞなれば(229)なり、)ヘナミナタチソ〔七字右○〕と訓べし、○歌(ノ)意は、吾が御船の還り來て、住吉の船津に泊るまでは、奥津浪も邊浪も、荒く起(ツ)ことなかれ、となり、
 
阿倍朝臣老人《アベノアソミオイヒトガ》。遣《ツカハサルヽ》v唐《モロコシニ》時《トキ》。奉《タテマツレル》v母《ハヽニ》悲別歌一首《カナシミノウタヒトツ》。
 
老人は、傳未(ダ)詳ならず、廣成の下司なるべし、
 
4247 天雲能《アマクモノ》。曾伎敝能伎波美《ソキヘノキハミ》。吾念有《アガモヘル》。伎美爾將別《キミニワカレム》。日近成奴《ヒチカクナリヌ》。
 
本(ノ)二句は、三(ノ)卷に、天雲乃曾久敝能極《アマクモノソクヘキハミ》、天地乃至流左右二《アメツチノイタレルマデニ》、四(ノ)卷に、天雲乃遠隔乃極遠鶴跡裳《アマクモノソキヘノキハミトホケドモ》、九(ノ)卷に、天雲乃退部乃限《アマクモノソキヘノカギリ》、又十七に、山河乃曾伎敝乎登保美《ヤマカハノソキヘヲトホミ》、ともあり、言(ノ)意は、三(ノ)卷に委(ク)註り、○歌(ノ)意は、吾(ガ)深く愛しく思へる君に、天雲の避隔《ソキヘ》の極み、遠く相別るべき日の、近く成ぬるよ、となり、吾念有伎美爾《アガモヘルキミニ》の言を、初(ノ)句の上へうつして意得べし、(略解に、天地の間に、みつるばかり思へるといふ意に、ときなせるはいかゞ、又契冲が、かぎりなく恩を報いばやと思ひ奉りし、といふこゝろを、行方の遠きによせていへり、といへるも、非なり、
 
右件八首〔二字各○で囲む〕歌者《ミギノクタリノヤウタハ》。傳誦之人《ツタヘヨメルヒト》。越中大目高安倉人種麻呂是也《コシノミチノナカノオホキフミヒトタカヤスクラヒトタネマロナリ》。但年月次者《タヾシトシツキノナミハ》。隨《マニマ》2聞之時《キケルトキノ》1。載於此《アゲタリ》焉。
 
大舶爾《オホブネニ》云々の歌より、長短合て八首をなせり、○種麻呂は、傳未(ダ)詳ならず、
 
以《ニ》2七月十七日《フミツキノトヲカマリナヌカノヒ》1。遷2任《ウツサレテ》少納言《スナキモノマヲスツカサニ》1。仍|作《ヨミテ》2悲別之歌《カナシミノウタヲ》1。贈2貽《オクレル》朝集使掾久米朝(230)臣廣繩之舘《マヰウゴナハルツカヒマツリゴトヒトクメノアソミヒロナハガタチニ》1二首《フタウタ》。
 
遷2任少納言(ニ)1の事、續紀并に舊本三(ノ)卷、傳註にも漏たり、○貽は、字彙に、遺也※[貝+兄]也、とあり、○朝集使云々は、廣繩は、さきに京に上りて、館にあらぬ間なれば、左の歌を作て、遺《ノコ》しとゞめられたるなるべし、
 
既滿2六載之期(ニ)1。忽(チ)値2遷替之運(ニ)1。於是別(ル)v舊《フリニシヒトニ》之悽。心中(ニ)鬱結。拭《ノゴフ》v※[さんずい+帝](ヲ)之袖。何以能|旱《カワカム》。因《カレ》作(テ)2悲歌《カナシミノウタ》二首(ヲ)1。式|遺《ノコセリ》2莫忘之志(ヲ)1。其(ノ)詞(ニ)曰。
 
六載之期、家持(ノ)卿、天平十八年七月に、越中に下られ、今勝實三年七月に、少納言にめされて、八月に京に上られけるゆゑに、全くは五年なれども、前後合て六載にわたれるから、かくしるせり、五(ノ)卷を合(セ)考(フ)るに、天平二年(この勝寶三年より、二十餘年已前、)十二月、帥大伴(ノ)旅人(ノ)卿の大納言に任《メサ》れて、京に上り給ふ時、憶良(ガ)家に餞する日、憶良のよめる歌に、阿麻社迦留比奈爾伊都等世周麻比都々美夜故能提夫利和周良延爾家利《アマザカルヒナニイツトセスマヒツヽミヤコノテブリワスラエニケリ》、(憶良の任、神龜三年より、天平二年に至りて、凡五年なれば、かくいふならむ、)かくて其(ノ)年もなほ交替なくして、其(ノ)次《ナミ》の歌に、阿我農斯能美多麻多麻比弖波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐宜多麻波禰《アガヌシノミタマタマヒテハルサラバナラノミヤコニメサゲタマハネ》、とあれば、天平三年に至りて、交替はせられけむ、(この事、なほ委(ク)は五(ノ)卷に註り)されば前後六年にわたりて、全くは五年を任限と定められたりとおぼえたり、しかるを此(ノ)後(この勝寶三年より、凡八箇年後、)天平寶(231)字二年の勅に、頃年國司交替皆以2四年(ヲ)1爲v限(ト)云々、自今以後宜d以2六歳(ヲ)1爲uv限、とあるは、いとうたがはしくおぼゆることになむ、○忽(ノ)字、舊本に、勿と作るは誤なり、今は一本拾穗本、古寫小本等に從つ、○能(ノ)字、官本になきはわろし、
 
4248 荒玉乃《アラタマノ》。年緒長久《トシノヲナガク》。相見※[氏/一]之《アヒミテシ》。彼心引《ソノコヽロヒキ》。將忘也毛《ワスラエメヤモ》。
 
彼心引《ソノコヽロヒキ》は、引《ヒキ》を用言に唱(フ)べし、其(ノ)心を引(キ)の意なり、同じ心の人なるゆゑに、心の引(カ)さるゝよしなり、續紀宣命に、己可心乃比岐比岐《オノガコヽロノヒキヒキ》、又、己可比伎比伎《オノガヒキヒキ》、などある、引《ヒキ》も同じ、○歌(ノ)意は、年月久しく相なれむつびてあれば、其(ノ)心の引されて、そこたちのことのわすれらむやは、さても得忘れあへじ、となり、
 
4249 伊波世野爾《イハセヌニ》。秋芽子之努藝《アキハギシヌギ》。馬竝《ウマナメテ》。始鷹獵太爾《ハツトガリダニ》。不爲哉將別《セズヤワカレム》。
 
伊波世野《イハセヌ》は、上に出(デ)つ、○之努藝《シヌギ》は、凌《シヌギ》なり、分入るを云、○始鷹獵《ハツトガリ》は、(契冲は、此(ノ)ハツトガリ〔五字右○〕は、大鷹のとや出したるを、つかひそむるなり、小鷹狩に、まぎらはすべからず、といへり、此(ノ)説はかへりていかゞなり、)小鷹狩なるべし、時八月なれば、小鷹狩によくかなへり、さて鷹獵は、義を得て書るにて、(鷹にて獵する意、)名(ノ)義は、獵《ガリ》v鳥《ト》なり、鳥は、※[矢+鳥]、鶉の類を云、此(ノ)ことはやく委(ク)註り、(契冲、トガリ〔三字右○〕は、とりがりにて、其(ノ)とりは、鷹をいふなり、と云るは、自他をたがへたり、鳥獵《トリガリ》の鳥は、獲《トラ》する鳥をいふことにこそあれ、)○歌(ノ)意は、芽子原に馬のりならべ分入て、石瀬野に小鷹(232)のあそびをなりとも、共に爲て、然《サ》て別れなば、なほなぐさむべき方もあるべきに、君がなき間なれば、その遊(ビ)をさへに得せずして、むなしく別れなむか、となるべし、
 
右八月四日贈《ミギハツキノヨカノヒオクリリキ》之。
 
便|附《サヅケ》2大帳使(ヲ)1。取《ニ》2八月五日《ハツキノイツカノヒ》1。應《ス》v入《ノボラムト》2京師《ミヤコニ》1。因《ヨリテ》v此《コレニ》以《ニ》2四日《ヨカノヒ》1。設《マウケ》2國厨之饌《クニノクリヤノモチヲ》1。於2介内藏伊美吉繩麻呂館《スケウチノクラノイミキナハマロガタチニ》1。餞之《ウマノハナムケス》。于時大伴宿祢家持作歌一首《ソノトキオホトモノスクネヤカモチガヨメルウタヒトツ》。
 
國厨、和名抄に、説文(ニ)云、厨(ハ)庖屋也、和名|久利夜《クリヤ》、
 
4250 之奈謝可流《シナザカル》。越爾五箇年《コシニイツトセ》。住住而《スミスミテ》。立別麻久《タチワカレマク》。惜初夜可毛《ヲシキヨヒカモ》。
 
五箇年《イツトセ》、さきに六載といへるは、六年にわたるをいひ、今は全く五年に滿たるをいへり、五(ノ)卷憶良(ノ)歌に、阿麻社迦留比奈爾伊都等世周麻比都々《アマザカルヒナニイツトセスマヒツヽ》云々、(全くは上に引り、)○立別麻久《タチワカレマク》は、立別牟《タチワカレム》の伸りたる言にて、此《コヽ》は立別れむことの、といふ意なり、○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、古今集に、おもふどちまとゐせるよはからにしきたゝまくをしきものにぞありける、
 
五日《イツカノヒ》。平旦上道《ツトメテミチダチス》。仍國司次官己下諸僚《カレクニノツカサスケヨリモロ/\ノツカサ/”\マデ》。皆共視送《ミナミオクリス》。於時射水郡大領安努君廣島《ソノトキイミヅノコホリノオホキミヤツコアヌノキミヒロシマガ》。門前之林中《カドノマヘノハヤシノウチニ》。預《アラカシメ》設《ナス》2饌餞之宴《ウマノハナムケノマケヲ》1。于時《トキニ》大帳使|大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。和《コタフル》2内藏伊美吉繩麿《ウチノクラノイミキナハマロカ》捧《サヽグ》v盞《サカヅキラ》之|歌《ウタニ》1。一首《ヒトウタ》。
 
平旦、天智天皇(ノ)紀には、トラノトキ〔五字右○〕とよめり、○上道、名例律に、ミチダチ〔四字右○〕、齊明天皇(ノ)紀に上路、訓(233)同じ、○諸僚、僚は官僚也と註す、掾目等を云り、○視送、古事記に、天皇|見送《ミオクリ》歌曰云々、廿(ノ)卷に、和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》、○大領は、和名抄に、國(ニ)曰v守(ト)、郡(ニ)曰2大領(ト)1、(已上|加美《カミ》、)孝徳天皇(ノ)紀に、大領《コホリノミヤツコ》、持統天皇(ノ)紀に、大領《コホリノミヤツコ》、孝徳天皇(ノ)紀に、郡(ノ)領《ミヤツコ》、同紀并持統天皇(ノ)紀に、少領《スケノミヤツコ》などあり、(顯昭(ガ)袖中抄に、又ゐなかに、大領、小領などいふものをば、おほのみやつこ、すけのみやつこ、などいふよし、口遊に見えたり、)オホミヤツコ〔六字右○〕と唱へしか、又書紀の訓と、和名抄とを合せて、カミノミヤツコ〔七字右○〕とも唱ふべきか、〔頭註、【西宮記に、大領古保乃見ヤツ古、北山抄に、古本、乃ミヤツコ、又大古本乃ミヤツコ、領(ハ)古本乃ミヤツ古、】〕○廣島は、傳も詳ならず、○捧盞之歌は、繩麻呂がよめるなり、此(ノ)歌こゝにもれたり、
 
4251 玉桙之《タマホコノ》。道爾出立《ミチニイデタチ》。往吾者《ユクアレハ》。公之事跡乎《キミガコトトヲ》。負而之將去《オヒテシユカム》。
 
公之事跡乎《キミガコトトヲ》、(岡部氏、事跡は、景跡、行跡の意にて、シワザ〔三字右○〕と訓べし、といへれど、いかゞなり、)本居氏、事跡《コトト》は、たゞ言にて、繩麻呂が歌をさして云歟、その歌を賞美して、京まで持てゆかむと云意なり、なほその歌の詞に、由《ヨル》こともありけめど、その歌は、こゝにあげざれば、知がたし、言をことゝと云る例は、狂言等《タハコトト》など云、是なりといへり、(本居氏又云、谷川氏和訓栞に、余が説をあげて、ことゝは離別の義なり、と云るは、古事記傳に、かの度2事戸1は、琴を婦家へ歸しやることにて、これ夫婦離別の表《シルシ》なることを云るを、見|混《マガ》へたるものなり、こゝは公之事跡を負て去むと云れば、それとは、太《イタ》く異なることなり、といへり、)猶考(フ)べし、○歌(ノ)意は、道に出立て往(ク)吾は、(234)君が言を賞美《ウツクシミ》して、一(ト)すぢに大切にして、京まで負持てゆかむ、といへるにや、
 
正税帳使掾久米朝臣廣繩《マツリゴトヒトクメノアソミヒロナハ》。事畢退任《コトヲハリテマケトコロニカヘレリ》。適2遇《ユキアヒ》於|越前國掾大伴宿禰池主之舘《コシノミチノクチノクニノマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガタチニ》1。仍|共飲樂《トモニウタゲス》也。于時久米朝臣廣繩《ソノトキクメノアソミヒロナハガ》。矚《ミテ》2芽子花《ハギノハナヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
正税帳使云々、上に二月三日の歌の左に、判官久米(ノ)朝臣廣繩、以2正税帳1應v入2京師1云々、と見えたり、池主は、家持(ノ)卿一族、殊に二三箇年前まで越中の掾にて、二(ツ)なき得意なりければ、其(ノ)館に宿られけるをりしも、廣繩も越中の任《マケトコロ》に退《カヘ》るに、これも立よりけるゆゑに、適遇て飲樂せられしなり、
 
4252 君之家爾《キミガイヘニ》。殖有芽子之《ウヱタルハギノ》。始花乎《ハツハナヲ》。折而挿頭奈《ヲリテカザサナ》。客別度知《タビワカルドチ》。
 
君《キミ》は、池主をさせり、○挿頭奈《カザサナ》(挿(ノ)字、舊本に※[手偏+卒]と作るは誤なり、今は拾穗本、古寫小本等に從つ、古寫本には〓と作り、下なるも同じ、)は挿頭《カザサ》むといふことを、急く言るなり、○客別度知《タビワカルドチ》は、家持(ノ)卿は、京師へ、自(ラ)は越中へ還るゆゑに、旅に別るる共《ドチ》、といふなり、度知《ドチ》は、俗に同志《ドウシ》といふ意なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
大伴宿禰家持和歌一首《オホトモノスクネヤカモチガコタフルウタヒトツ》。
 
4253 立而居而《タチテヰテ》。待登待可禰《マテドマチカネ》。伊泥※[氏/一]來之《イデテキテ》。君爾於是相《キミニコヽニアヒ》。挿頭都流波疑《カザシツルギ》。
 
伊泥※[氏/一]來之は、今按(フ)に、之(ノ)字は、弖の誤にて、イデテキテ〔五字右○〕なるべし、(なほ次に云を見て考(フ)べし、)挿(ノ)(235)字、上にいへるに同じ、○歌(ノ)意は、君《キミ》(廣繩)の下るを待(テ)ど、待得ざるに堪かねて、出て來て、適々こゝにて遇て、芽子(ノ)花を共にかざしつるかな、とよろこばるゝなり、さるは上にもいへる如く、廣繩の正税帳使にて、京に上りしが事畢て、任にまかりかへりけるをりしも、池主の館に立よりけるに、家持(ノ)卿の京に上るとて、來遇て飲樂せし時の歌なれば、わざとをかしく、廣繩を待かねて、出來しごとくにいはれたり、(しかるを、舊本の如く、伊泥※[氏/一]來之《イデテコシ》にては、自他の違ありて、解得がたきことなるを、古來註者等、この處に心の附ずして、略解などに、廣繩が、家持(ノ)卿を待かねて、池主の館まで出來りし意にときなせるは、ひがことなり、人にさしむかひて、其(ノ)人のうへのことを、立而居而《タチテヰテ》云々とは、云べき理にあらぬをや、熟々心をとゞめて味(フ)べし、)
 
向《マヰノボル》v京《ミヤコニ》路上《ミチニテ》。依《ツケ》v興《コトニ》預作《アラカジメヨメル》。侍《ハベリテ》v宴《トヨノアカリニ》應《ウケタマハル》v詔《ミコトノリヲ》歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
路(ノ)字、舊本に洛と作るは誤なり、目録、定家卿萬時に、路と作るぞ宜き、
 
4254 蜻島《アキヅシマ》。山跡國乎《ヤマトノクニヲ》。天雲爾《アマクモニ》。磐船浮《イハフネウカベ》。等母爾倍爾《トモニヘニ》。眞可伊繁貫《マカイシヾヌキ》。伊許藝都追《イコギツツ》。國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》。安母里麻之《アモリマシ》。掃平《ハラヒタヒラゲ》。千代累《チヨカサネ》。弥嗣繼爾《イヤツギツギニ》。所知來流《シラシクル》。天之日繼等《アマノヒツギト》。神奈我良《カムナガラ》。吾皇乃《ワガオホキミノ》。天下《アメノシタ》。治賜者《ヲサメタマヘバ》。物乃布能《モノノフノ》。八十友之雄乎《ヤソトモノヲヲ》。撫賜《ナデタマヒ》。等登能倍賜《トトノヘタマヒ》。食國之《ヲスクニノ》。四方之人乎母《ヨモノヒトヲモ》。安夫左波受《アブサハズ》。愍賜者《メグミタマヘバ》。從古昔《イニシヘユ》。無利之瑞《ナカリシシルシ》。多婢末祢久《タビマネク》。申多麻比奴《マヲシタマヒヌ》。手拱而《テウダキテ》。事無御代等《コトナキミヨト》。天地《アメツチ》。日月等登聞仁《ヒツキトトモニ》。萬世爾《ヨロヅヨニ》。記續牟曾《シルシツガムソ》。八隅知(236)之《ヤスミシシ》。吾大皇《ワガオホキミ》。秋花《アキノハナ》。之我色色爾《シガイロイロニ》。見賜《メシタマヒ》。明米多麻比《アキラメタマヒ》。酒見附《サカミヅキ》。榮流今日之《サカユルケフノ》。安夜爾貴左《アヤニタフトサ》。
 
天雲爾磐船浮《アマクモニイハフネウカベ》云々、浮はウカベ〔三字右○〕と訓べし、(ウケテ〔三字右○〕とよめるは、こゝはわろし、)此は、日子番能邇邇藝(ノ)命の降臨《ミアモリ》の御事をいへり、磐船《イハフネ》は、神武天皇(ノ)紀に、抑又聞2於鹽土(ノ)老翁(ニ)1、曰東(ニ)有2美地《ウマシクニ》1、青山四周《アヲヤマヨモニメグレリ》、其中(ニ)亦有d乘(テ)2天(ノ)磐船(ニ)1飛降(ル)者u、余謂(フニ)彼地《ソノクニハ》必當足d恢2弘天業(ヲ)1光c宅天下(ヲ)u、蓋(シ)六合之中心乎《クニノモナカナラム》厥《ソノ》飛降(ル)者《ヒトハ》、謂(フナラム)2是饒速日(ヲ)1歟、何|不《ザラム》2就而|都《ミヤシカ》1之乎、此(ノ)集三(ノ)卷に、久方乃天之探女之石船乃泊師高津者淺爾家留香裳《ヒサカタノアメノサグメガイハフネノハテシタカツハアセニケルカモ》、なは天(ノ)探女が磐船に乘て、難波(ノ)高津に泊《ハテ》しと云こと、攝津(ノ)風土記にも見えて、三(ノ)卷に引たるが如し、さて邇々藝(ノ)命の天降(リ)坐に、磐船に乘しゝといふことは、古事記、書紀等には載《アゲ》ざれども、かくいふ一(ツ)の古傳説のありしによりて、よまれしものなり、(しかるを略解に、神武天皇(ノ)紀に、饒速日(ノ)命の天(ノ)磐船に乘て、飛降ると云る詞をかりて、今は天孫の御事を申すなりといへるは、甚も甚も偏固《カタオチ》なる説なり、神代の御事跡を、詔(リ)を應《ウケ》て述らるゝに至りては、確據なき事は、よまるべきにあらざれば、註者等も、その心しらひをすべきことにこそあれ、なほざりに見て、みだりに論ふべきことには、あらざるを、その一(ト)かたにつきて、きはめ云は、いと/\あるまじく、かたはらいたきわざなりけり、いで磐船のことは、右に引(ク)如く、三(ノ)卷及攝津(ノ)風土記にも見えて、饒速日(ノ)命にのみかぎらざることも、證明《アキラカ》なることなるをや、)○等母爾(237)倍爾《トモニヘニ》は、艫《トモ》に舳《ヘ》になり、○眞可伊繁貫《マカイシヾヌキ》は、此(ノ)上にも、眞可伊可氣《マカイカケ》とよみて、可伊《カイ》のこと、其所《ソコ》にいへり、○伊許藝都追《イコギツツ》は、伊《イ》は、そへことばにて、磐船を※[手偏+旁]乍《コギツヽ》なり、○國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》は、國見爲賜而《クニミシタマヒテ》、といはむが如し、國見は、かの磐船にて、大虚を※[手偏+旁](キ)廻らしつゝ、こゝかしこ窺《ウカヾ》ひ見給ふよしなり、かの神武天皇(ノ)紀に、饒速日(ノ)命、乘2天(ノ)磐船(ニ)1而翔2行大虚(ヲ)1也、睨2是郷(ヲ)1而降之云々、とある、睨2是郷(ヲ)1と同意なり、さて國看之《クニミシ》の之《シ》は助辭なり、と門人源(ノ)嚴雄が云る、さることにて、例のその一(ト)すぢなることをいふ辭なり、(しかるを看之《ミシ》は、見之明牟流《ミシアキラムル》など云、見之《ミシ》と同言と心得て見《ミ》を見之《ミシ》ともいふとおもふは、ひがことなり、見之明牟流など云見之は、ミシ〔二字右○〕にあらず、メシ〔二字右○〕にて見《ミ》の伸りたる言なれば、見賜(フ)と云意なるをや、)勢志※[氏/一]《セシテ》は、爲賜而《シタマヒテ》と云意なり、○安母里麻之《アモリマシ》は、天降坐《アモリマシ》なり、既くあまた出たる詞なり、○掃平《ハラヒタヒラゲ》、廿(ノ)卷喩族歌に、比左加多能安麻能刀比良伎《ヒサカタノアマノトヒラキ》、多可知保乃多氣爾阿毛理之《タカチホノタケニアモリシ》、須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロキノカミノミヨヨリ》、云々|知波夜夫流神乎許等牟氣《チハヤブルカミヲコトムケ》、麻都呂波奴比等乎母夜波之《マツロハヌヒトヲモヤハシ》、波吉伎欲米都可倍麻都里弖《ハキキヨメツカヘマツリテ》云々、神代紀(ノ)下に、吾欲(フ)v令(ムト)2撥2平《ハラヒタヒラゲ》葦原(ノ)中(ツ)國之邪鬼(ヲ)1、出雲(ノ)國(ノ)造(ガ)神賀辭に、荒布留神等乎撥 平《アラブルカミドモヲハラヒタヒラゲ》、などあると同じく殘賊強暴横惡之神等《チハヤブルアラブルカミタチ》を、撥《ハラ》ひ平《タヒラ》げ給ふなり、初句より此(ノ)句までに、邇々藝(ノ)命の御故事を、述竟たるなり、○千代累《チヨカサネ》は、天壌無窮《アメツチノムタカキハトキハ》に、皇統《アマツヒツギ》の千萬御代《チヨロヅミヨ》を重ね給ふをいへり、○神奈我良《カムナガラ》は、さきにあまた出たる詞なり、神とましますが隨《マヽ》に、といふ意なり、此よりは、即(チ)當代天皇の御事をさして申せり、○八十友(238)之雄《ヤソトモノヲ》は、朝廷に仕奉る八十伴(ノ)男にて、百官をいへり、○等登能倍賜《トトノヘタマヒ》、二(ノ)卷に、御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアドモヒタマヒ》、齊流鼓之音者《トヽノフルツヅミノコヱハ》、三(ノ)卷に、網引爲跡網子調流海人之呼聲《アビキストアゴトヽノフルアマノヨビコヱ》、十(ノ)卷に、左男牡鹿之妻整登鳴音之《サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノ》、廿(ノ)卷に、安佐奈疑爾可故等登能倍《アサナギニカコトトノヘ》、又、夜蘇加奴伎可古登々能倍弖《ヤソカヌキカコトヽノヘテ》、などあり、舒明天皇(ノ)紀に、群卿及百寮、朝參已懈《ミカドマヰリヤヽオコタレリ》、自今卯(ノ)始(ニ)朝《》マヰリ之、巳(ノ)後(ニ)退之《マカデヨ》、因《カレ》以(テ)v鐘(ヲ)爲(ム)v節《トヽノヘト》、孝徳天皇(ノ)紀に、昔在《ムカシノ》天皇等(ノ)世、混2齋《ムラカシトヽノヘ》天(ノ)下(ヲ)1而治、及2逮于今(ニ)1分離(レテ)失v業(ヲ)、なども見ゆ、すべて登登能布《トトノフ》と云は、離散《チリハナル》るものを、呼(ヒ)立(テ)整齋《ソロフ》るを謂(フ)言なること、右の語にて心得べし、さればこゝは、朝廷に仕奉る百官人の、離散《チル》まじく、齋《トヽノ》へ、撫(テ)惠み賜ふよしなり、○四方之人《ヨモノヒト》は、四海萬民を云、○天安左波受、天は、末を誤りしものにて、アマサハズ〔五字右○〕は不《ズ》v餘《アマサハ》の意なり、と岡部氏云り、本居氏云、天は夫の誤にて、安夫左受《アブサズ》は、放《ハブラ》かさずなり、波夫流《ハブル》は、放(チ)棄(テ)遣る意の古言なり、波《ハ》と安《ア》と通(ヒ)て、溢《ハフル》も同じ、古事記下、輕(ノ)太子の伊余《イヨノ》湯に、流《ハナタ》れ給はむとせし時の御歌に、意富岐美袁斯麻爾波夫良婆《オホキミヲシマニハブラバ》、續紀卅一(ノ)詔に、彌麻之《ミマシ》大臣|之家内子等乎母《ノイヘヌチノコトヲモ》、波布埋不賜失下賜慈賜波牟《ハブリタマハズウシナヒタマハズメグミタマハム》、(ノ)此集十四に、久爾波布利禰爾多都久毛乎《クニハフリネニタツクモヲ》、など見ゆ、後の物語書などにも、波夫良加須《ハブラカス》とも、阿夫良加須《アブラカス》とも多く見ゆ、又死人を葬《ハフ》ると云も、家より出しやりて、野山に放《ハブ》らかす意にて、言の本は同じ、〔頭註、【源氏玉葛に、おとしあぶさずとりしたゝめ給ふ、手習に、あさましうて、うしなひ侍ぬと思たまへし人、世におちぶれてあるやうに、ひとのまねび侍りしかな、夢浮橋に、まだいとかくまでおちあふるべききはとは、おもひ給へざりしを、などあり、】〕(雅澄按に、物語文に、あぶると、はふると、用ひざまかはれり、はふるの方は、身をはふらかしなどいひ、(239)あぶるの方は、おとしあぶさず、おちあぶれなどいへり、元(ト)は同言なるが、後にいさゝか別れたるものならむか、又云、棄《スツ》る方に云ときは、島に波夫流《ハブル》なと、夫《フ》の言濁れるを、溢《アフル》る方に云ときは、國波布利《クニハフリ》など、布《フ》の言清て、もとより別言のごときこゆ、しかれども、本は同じ言なるが、後にいさゝか轉りて、清濁さへ別になりたるものとするか、又死人を葬《ハフ》ると云は、棄《スツ》る方に云、波夫流《ハブル》に意はちかきを、言は溢《アフル》る方に云と同じく、布《フ》を清て唱へ來れゝども、もとは、夫《ブ》を濁れるを、後に清て唱(フ)るは、正しからすとするか、本居氏(ノ)説は、未(ダ)盡ざる所あれば、これらのこと、猶よく考へ定むべし、)○愍賜者《メグミタマヘバ》、已上四句は、上の物乃布能《モノノフノ》云々の四句に對へて、普き大御惠の、四海萬民までに、流《シキ》およべるをいへり、古今集序に、普き掬《オホム》うつくしみの浪、八洲の外までながれ云々、○從古昔は、イニシヘヨ〔五字右○〕と訓べし、(ムカシヨリ〔五字右○〕と云は、やゝ後なり、)十七に、二所、伊爾之弊由《イニシヘユ》、又|伊爾之邊遊《イニシヘユ》、十八に、三所、伊爾之敝欲《イニシヘヨ》、廿(ノ)卷に、伊爾之敝由《イニシヘユ》、などあり、○無利之瑞は、ナカリシシルシ〔七字右○〕なり、(こゝの瑞を、舊本に、ミヅ〔二字右○〕とよめるは論に足ず、すべて志流斯《シルシ》と云は、吉《ヨキコト》にまれ、凶《アシキコト》にまれ、其(ノ)きざしの前表《カネテアラハ》るゝを志流須《シルス》と云、又、豐乃登之思流須登奈良思《トヨノトシシルストナラシ》とある、これなり、)其を體言になしたるものなり、此(ノ)瑞(ノ)字は、其(ノ)一(ト)かたに當て書るものにて、瑞祥《ヨキコト》の出來む、表《シルシ》の義を、しらせたるものなり、○多婢末彌久《タビマネク》(末(ノ)字、舊本に未と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)は、既《サキ》に多く出たり、續紀宣命に、遍數久《タビマネク》と書る、其(ノ)意なり、○申多麻比奴《マヲシタマヒヌ》は、奏賜《マヲシタマヒ》ぬな(240)り、度々《タビ/\》瑞祥《シルシ》のありしことを、朝廷へ奏すよしなり、賜《タマフ》は尊き方に就て云が常なるを、又尊き方へむかひていふにも、附て云ること、をり/\見えたり、○手拱而、六(ノ)卷に、手抱而我者御在《テウタキテアレハイマサム》とある例に依て、こゝもテウダキテ〔五字右○〕と訓べし、なほ彼處に委(ク)註り、(こゝは契冲が、書(ノ)武成(ニ)曰、惇(クシ)v信(ヲ)明(ニシ)v義(ヲ)、崇(ヒ)v徳(ヲ)推(シハカ)v功(ヲ)、垂拱而天下治、蔡註(ニ)曰、垂衣拱手而天下自(ラ)治(ル)、と云るを引たる、其(ノ)意なり、)○記續牟曾《シルシツカムソ》は、史官の絶ず記し繼むものぞ、となり、○秋花は、アキノハナ〔五字右○〕なり、時秋なるがゆゑにいへり、○之我色色爾《シガイロイロニ》は、其之種々《ソレガイロ/\》にの意なり、○見賜は、メシタマヒ〔五字右○〕と訓べし、見《ミ》を賣之《メシ》と云は、聞《キヽ》を伎可之《キカシ》、(伎許之《キコシ》とも、)知《シリ》を志良之《シラシ》、(志呂之《シロシ》とも、)と云と同じ格なり、(しかるを、此をミシタマヒ〔五字右○〕と訓は、大じき非なり、聞《キク》を伎々之賜《キヽシタマ》ふ、知《シル》を志理之賜《シリシタマ》ふといふ言なきに准(ヘ)て、ミシタマヒ〔五字右○〕とは、いふまじき理なるを曉(ル)べし、且《マタ》ミシ〔二字右○〕といふときは、聞をキヽシ〔三字右○〕知をシリシ〔三字右○〕など云例に同じくて、過去《スギニ》しことを云言にかぎれゝば、現在の御うへにはあたらざる言なるをや)、なほ此(ノ)言の事、既く委(ク)釋り、○明米多麻比《アキラメタマヒ》は、明白《アキラカ》に御覽じ給ひ、といふ意なり、續紀卅一(ノ)詔に、山川淨所者《ヤマカハノサヤケキトコロヲバ》、孰倶加母見行阿加良閇賜牟止《タレトヽモニカモミソナハシアカラヘタマハムト》、歎賜比《ナゲキタマヒ》云々、(本居氏云、阿加良閇《アカラヘ》は、明らめなり、すべて阿加《アカ》と明《アキ》とは、通ひて同じことぞ、)とあるに同じく、數種《クサ/”\》の秋(ノ)花を、おもしろみ御覽じ弄(ビ)給ふを云、契冲、これまで四句の意は、秋野の草花の種々あるを、それ/\に見弄ぶ如く、諸臣の才器をわかち、應にしたがひて、用ひ給ふことを云へり、と説り、(書紀廿四に、乞垂審察《コフフキラメタマヘ》、とあ(241)り、)今反歌を合(セ)考(フ)るに、さる意もあるべきにや、(古今集(ノ)序に、古(ヘ)の代々の帝、春の花の朝、秋の月の夜ごとに、さぶらふ人々をめして、事につけつゝ、歌をたてまつらしめ給ふ、或は花をこふとて便(リ)なき所にまどひ、或は月を思ふとて、しるべなき闇にたどれる心々を見給ひて、賢愚なりとしろしめしけむ、云々、此を合(セ)考(フ)べし、)○酒見附《サカミヅキ》は、十八に見えて、彼處にいへりき、酒宴のことなり、○榮流《サカユル》は、咲榮《ヱミサカ》え坐(ス)を云り、○安夜爾貴左《アヤニタフトサ》は、奇《アヤ》しきまでに、その貴さたとへむやうなし、との謂なり、○舊本、この長歌の下にも江(ノ)字あり、拾穗本、古寫小本等にはなし、前に云る如く、最後人の所爲《シワザ》なれば、除去つ、
 
反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
4255 秋花《アキノハナ》。種種爾有等《クサクサナレド》。色別爾《イロコトニ》。見之明良牟流《メシアキラムル》。今日之貴左《ケフノタフト サ》。
 
秋花、舊本、秋の下に時(ノ)字あり、さてもアキノハナ〔五字右○0》と訓に妨はなし、されど今は、古寫小本になきに從つ、○種種《クサグサ》は、長歌に色々と云ると同意なり、舊本種々の重點なし、種の一字にてもクサ/”\〔四字右○〕とよまるべけれど、今は、古寫小本にかくあるに從つ、○色別爾《イロコトニ》は、色々各別にといはむが如し、○歌(ノ)意は、長歌の末と同じ、
 
爲《ト》v壽《コトホカム》2左大臣橘卿《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノマヘツキミヲ》1。預作歌一首《アラカジメヨメルウタヒトツ》。
 
爲壽、(契冲、漢書に、爲壽、師古(ガ)曰、凡言v爲v壽、謂d進2爵(ヲ)于尊者(ニ)1、而獻(ルヲ)c無彊之壽(ヲ)u、とあるをひけり、)壽は、コ(242)トホク〔三字右○〕なり、酒壽《サカホガヒ》、言壽《コトホガヒ》など併(セ)考(フ)べし、上京の後、橘(ノ)卿にめされて、御酒賜らむときの料《マケ》に、豫《アラカジメ》作る壽歌なり、○橘(ノ)卿は、諸兄公なり、
 
4256 古昔爾《イニシヘニ》。君之三代經《キミガミヨヘテ》。仕家利《ツカヘケリ》。吾王波《ワガオホキミハ》。七世申禰《ナヽヨマヲサネ》。
 
本(ノ)三句、(契冲が代匠記に、武内(ノ)宿禰などの事にや、といへるは、うべなひがたし、略解に、諸兄公の母夫人縣(ノ)犬養は、天武、持統、文武の三代に仕奉りし故に、かくいへり、といへるは、いかゞ、抑々諸兄公の母親、縣(ノ)犬養(ノ)命婦は、聖武天皇天平五年正月に、薨ぜられたるよし、續紀に見えて、上に引たるごとくなるを、天武云々の三代にのみ、仕へ奉りしといへるは、いたくたがへり、又母親をさして、古昔爾《イニシヘニ》云々|仕家利《ツカヘケリ》と、打まかせていふべくもなし、)今按(フ)に、これも即(チ)橘(ノ)卿をいふべし、君は天皇をさし奉れり、さてこの橘(ノ)卿の事、續紀に、元明天皇和銅三年正月、授2無位葛木(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、と見えたるをはじめて、其(ノ)次に、元正天皇、聖武天皇の御代を經て、今孝謙天皇天平勝寶三年に至れゝば、當代を除て、聖武天皇より以往、三御代を經て、仕へ奉給ひしを云なるべし、當代を除て云(ハ)ざるは、御代の初つ方なればなり、故仕家利《カレツカヘケリ》と、既往《サキ》の事にいひ結《トヂ》めたり、(用明天皇(ノ)紀に、女(ヲ)曰2酢香手姫(ノ)皇女(ト)1、歴2三代(ヲ)1以奉2日神(ニ)1、○後拾遺集神祇に、祭主輔親、祖父父孫《オホヂチヽウマコ》輔親|三代《ミヨ》までに、いたゞきまつる皇大神《スメラオホムカミ》、これは自《ミ》の代を云るなり、)○吾大王《ワガオホキミ》は、これも橘(ノ)卿をさしていへり、(或校本に、王(ノ)字を主と作て、ワガオホヌシハ〔七字右○〕とよめるは、オホキミ〔四字右○〕といふ(243)ことを疑ひて、後人のみだりに改めたるなり、オホヌシ〔四字右○〕といふ詞は、あるべくもなし、)もと葛城(ノ)王なりけるがゆゑに、大王《オホキミ》と稱《イヘ》り、○七世申禰《ナヽヨマヲサネ》は、壽長く坐まして、今より將來數御代《サキ/”\アマタミヨ》の天皇に奉仕《ツカヘマツリ》て、政を執(リ)奏させ給ひねと、ことほくなり、七世《ナヽヨ》とは、數代といはむが如し、すべて數の多きを七と云ること、九(ノ)卷に、堅魚釣鯛釣矜《カツヲツリタヒツリホコリ》、及七日家爾毛不來而《ナヌカマデイヘニモコズテ》、十(ノ)卷に、春雨爾衣甚通哉《ハルサメニコロモハイタクトホラメヤ》、七日四零者七夜不來哉《ナヌカシフラバナヽヨコジトヤ》、十七に、知加久安良波伊麻布都可太未《チカクアラバイマフツカダミ》、等保久安良婆奈奴可乃宇知波須疑來也母《トホクアラバナヌカノウチハスギメヤモ》、神功皇后(ノ)紀に、先日教2天皇(ニ)1者誰(ノ)神也願知2真名(ヲ)1、逮(テ)2于七日七夜(ニ)1、乃答(テ)曰、云々、用明天皇(ノ)紀に、自呼v開(ケト)v門(ヲ)七廻《ナヽタビ》不《ズ》v應《コタヘ》、續後紀十五、尾張(ノ)連濱主、と云しが、歌に那々都義乃美與爾萬和倍留毛々知萬利止遠乃於支奈能萬飛多天萬川流《ナヽツギノミヨニマワヘルモヽチマリトヲノオキナノマヒタテマツル》、(この歌(ノ)意、委しきことは、余が南京遺響にしるせり、)十九興福寺(ノ)法師等(ガ)長歌に、是曾此常世之國度語良比弖七日經志加良《コレソコノトコヨノクニトカタラヒテナヌカヘシカラ》云々、など見えたる七《ナヽ》も多くは數多きことをいへるにて、同じ、○歌(ノ)意は、吾(ガ)王左(ノ)大臣には、既往《サキニ》三御代を歴て、功《イソ》しく仕へまし/\き、なほ今より將來《ユクサキ》數御代を經て、永く久しく、天(ノ)下の政をば執(リ)奏させ給ひねと、壽《ホキ》たるなり、○上(ノ)件荒玉乃云々の歌より此まで、長短九首は、少納言に遷任しより、京師に上り至るまでの歌を、載られたり、
 
萬葉集古義十九卷之中 終
 
(244)萬葉集古義十九卷之下
 
十月二十二日《カミナツキノハツカマリフツカノヒ》。於2左大辨紀飯麻呂朝臣家《ヒダリノオホキオホトモヒキノイヒマロノアソミガイヘニ》宴歌三首《ウタゲスルウタミツ》。
 
是より已下家持(ノ)卿京師に歸られて後の歌を載られたりと見ゆ、○飯麻呂は、續紀に、天平元年八月癸亥、外從五位下紀(ノ)朝臣飯麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、五年三月辛亥、授2從五位上(ヲ)1、十二年九月丁亥、藤原(ノ)朝臣廣嗣反(ス)、勅(シテ)以v某爲2大將軍(ト)1、從五位上紀(ノ)朝臣飯麻呂(ヲ)爲2副將軍(ト)1云々、十三年閏三月乙卯、授2從四位下(ヲ)1、同七月辛亥、春宮(ノ)大夫從四位下紀(ノ)朝臣飯麻呂(ヲ)爲2右大辨(ト)1、十六年九月甲戌、爲2畿内(ノ)巡察使(ト)1、十七年五月甲子、地震、遣2云々飯麻呂(ヲ)1掃2除(セシム)平城宮(ヲ)1、十八年九月己巳、爲2常陸(ノ)守(ト)1、天平勝寶元年二月壬戌、爲2大倭(ノ)守(ト)1、七月甲午、授2從四位上(ヲ)1、五年九月乙丑、爲2太宰(ノ)大貳(ト)1、六年四月庚午、爲2大藏(ノ)卿(ト)1、九月丙申、爲2右京(ノ)大夫(ト)1、十一年辛酉朔、爲2西海道巡察使(ト)1、寶字元年六月壬辰、爲2右《左歟》京(ノ)大夫(ト)1、七月乙卯爲2右《左歟》大辨(ト)1、八月庚辰、正四位下紀朝臣飯麻呂(ヲ)爲2參議(ト)1、二年八月甲子、參議紫微(ノ)大弼正四位下兼左大辨紀(ノ)朝臣飯麻呂等、奉v勅改2易(ス)官號(ヲ)1、三年六月庚戌、授2正四位上(ヲ)1、十一月丁卯、爲2義部卿(ト)1(刑部)、阿波守如v故、四年正月戊寅、爲2美作(ノ)守(ト)1、六年正月癸未、授2從三位(ヲ)1、七月丙申、散位從三位(245)紀(ノ)朝臣飯麻呂薨(ズ)、淡海朝大納言贈正三位大人之孫、平城(ノ)朝、式部(ノ)大輔正五位下古麻呂之長子也、仕(テ)至2正四位下左大辨(ニ)1、拜2參議(ヲ)1、授2從三位(ヲ)1、病久不v損(セ)、上v表(ヲ)乞2骸骨(ヲ)1、詔許之、と見ゆ、契冲、寶字元年にこそ、左大辨にはなられけるを、こゝには極官をかける歟、さらずば右大辨を誤けるにや、と云り、もし極官をもてしるされしとせば、參議とあるべし、さらば、右大辨と改べき歟、
 
4257 手束弓《タツカユミ》。手爾取持而《テニトリモチテ》。朝獵爾《アサガリニ》。君者立之奴《キミハタヽシヌ》。多奈久良能野爾《タナクラノヌニ》。
 
手束弓《タツカユミ》、契冲云、第五には、たつか杖ともよめり、弓もつかねてもつものなれば、手束弓《タツカユミ》とはいへり、古歌に、あさもよい紀の關守がたつか弓ゆるす時なくあがもへるきみ、此(ノ)歌をかたく執して、さのせきもりが弓ならでは、手束《タツカ》弓とはいふまじきやうにおもふは、ことぢに、にかはつけたるなり、○君者立之奴《キミハタヽシヌ》、(之(ノ)字、舊本には去と作り、今は仙覺校本に、松殿本、京兆本、基長(ノ)卿(ノ)本共に、去を之と作りとあるに從つ、)君は、天皇をさし奉るなるべし、立之奴《タゝシヌ》は、立(チ)給ひぬる、といはむが如し、○多奈久良能野《タナクラノヌ》は、神名式に、山城(ノ)國綴喜(ノ)郡棚倉孫(ノ)神社、(大、月次新嘗、)とある處の野なり、久邇(ノ)京より程近きよし、○歌(ノ)意は、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。治部卿船王傳誦之《ヲサマルツカサノカミフネノオホキミノツタヘヨメル》。久邇京都時歌《クニノミヤコノトキノウタナリ》。未2詳《シラズ》作主《ヨミヒト》1也。
 
船王は、傳六(ノ)卷(ノ)下に云り、治部(ノ)卿になり賜ひしこと、續紀に漏たり、
 
4258 明日香河《アスカガハ》。河戸乎清美《カハトヲキヨミ》。後居而《オクレヰテ》。戀者京《コフレバミヤコ》。彌遠曾伎奴《イヤトホソキヌ》。
 
(246)河門乎清美《カハトヲキヨミ》は、河戸《カハト》の清きが故にの意なり、(略解に、河戸を清みは、たゞ其(ノ)地のけしきのよきをいふのみ、と云るは、いさゝかわろし、清河邊爾《キヨキカハヘニ》とやうに云ずして、晴美《キヨミ》と云るには、要あることにこそ、)○遠曾伎奴《トホソキヌ》は、遠避《トホソキ》ぬる、といふなり、○歌(ノ)意は、思ふ人に遺《オク》れ居る、己が里の明日香河の清きが故に、思ふ人のあらば、共に出(テ)遊ぶべきをと戀しく思ふに、更に京の遷ひかはるまゝに、いよ/\其(ノ)思ふ人に遠ざかりぬるよ、といふなるべし、契冲云、此(ノ)歌は、飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮より、藤原(ノ)宮にうつらせ給ひ、藤原より奈良へうつらせ給ひて後、淨御原(ノ)宮にちかく住ける人のよめるなるべし、さればこそ、こふればみやこいよ/\遠のくとはよみけめ、第一に明日香(ノ)宮より、藤原へうつらせ給ふ時、志貴(ノ)皇子(ノ)御歌に、たわやめの袖ふきかへすあすか風都をとほみいたづらにふく、藤原の宮より、奈良へうつらせ給ふ時、元明天皇の御歌に、飛鳥のあすかの里をおきていなば君があたりは見えずかもあらむ、此(ノ)二首を引合(セ)て見べし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左中辨中臣朝臣清麻呂傳誦《ヒダリノナカノオホトモヒナカトミノアソミキヨマロガツタヘヨメル》。古京時歌也《フルキミヤコノトキノウタナリ》。
 
清麻呂は、續紀に、天平十五年五月癸卯、正六位上中臣(ノ)朝臣清麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、六月丁酉、爲2神祇|大《少歟》副(ト)1、十九年五月丙子朔、爲2尾張(ノ)守(ト)1、勝寶三年正月己酉、授2從五位上(ヲ)1、六年四月、爲2神祇(ノ)大副(ト)1、七月丙午、爲2左中辨(ト)1、寶字元年五月丁卯、授2正五位下(ヲ)1、三年六月庚戌、授2正五位上(ヲ)1、六年正月癸未、授2從四位下(ヲ)1、八月丁巳、令2文部(ノ)大輔從四位下中臣(ノ)朝臣清麻呂等(ヲ)1、侍2于中宮院(ニ)1、宣2傳勅旨(ヲ)1、十二月乙(247)已朔、爲2參議(ト)1、七年正月壬子、爲2左大辨(ト)1、四月丁亥、爲2兼攝津(ノ)大夫(ト)1、八年正月乙巳、授2四位上(ヲ)1、九月丙午、授2正四位下(ヲ)1、神護景雲元年正月己亥、授2勲四等(ヲ)1、十月辛未、行2幸紀伊(ノ)國(ニ)1、爲2御後次第司(ノ)長官(ト)1、十一月庚辰、詔曰、神祇(ノ)伯正四位下大中臣(ノ)朝臣清麻呂、其心如v名(ノ)、清愼勤勞、累(ニ)奉2神祇官(ヲ)1、朕見之誠(ニ)有v喜《嘉歟》焉、是以天皇|喜《嘉歟》曰、其(ノ)心如(シト)v名(ノ)、特(ニ)授2從三位(ヲ)1、景雲二年二月癸巳、爲2中納言(ト)1、神祇(ノ)伯如v故(ノ)、三年六月乙卯詔因2神語(ニ)1、有v言2大中臣(ト)1、而中臣(ノ)朝臣清麻呂、兩度任2神祇官(ニ)1、供奉無v失(スルコト)、是以賜2姓大中臣(ノ)朝臣(ト)1、寶龜元年十月己丑朔、授2正三位(ヲ)1、二年正月辛巳、大納言正三位大中臣(ノ)朝臣清麻呂(ヲ)爲2兼東宮(ノ)傅(ト)1、二月癸卯、左大臣暴病、詔攝2行大臣(ノ)事(ヲ)1、三月庚午爲2右大臣(ト)1、授2從二位(ヲ)1、十一月癸卯、行2大甞之事(ヲ)1、奏2神壽詞(ヲ)1、賜2※[糸+施の旁]六十疋(ヲ)1、三年二月戊辰、幸2右大臣(ノ)第(ニ)1、授2正二位(ヲ)1、五年十二月乙酉、上v表(ヲ)重乞2骸骨(ヲ)1、優詔(シテ)不v許(タマハ)、十一年四月辛丑、勅(ス)備前(ノ)國邑久(ノ)郡荒廢田一百餘町、賜2右大臣正二位大中臣(ノ)朝臣清麻呂(ニ)1、天應元年六月庚戌、上v表(ヲ)乞v身(ヲ)、詔許(シタマフ)、因賜2几杖(ヲ)1、延暦七年七月癸酉、前右大臣正二位大中臣(ノ)朝臣清麻呂薨(ス)、曾祖國子(ハ)、小治田(ノ)朝小徳冠、父(ハ)意美麻呂、中納言正四位上云々、薨時年八十七、○古京といへるは、奈良(ノ)京なるべし、當時は恭仁(ノ)都なればなり、
 
4259 十月《カミナツキ》。之具禮能常可《シグレノフレバ》。吾世古河《ワガセコガ》。屋戸乃黄葉《ヤドノモミチバ》。可落所見《チリヌベクミユ》。
 
十月を、可美那月《カミナツキ》といふ、名(ノ)義は既く委(ク)註り、○之具禮能常可、略解に、大平が説を裁て、常は零の誤なるべし、といへるは、甚宜し、又落の誤にてもあるべし、草書の形考(フ)べし、九(ノ)卷に、黄葉常(248)敷とあるも、常は落の誤ならむよし、其所《ソコ》に註《イヘ》り、併(セ)思(フ)べし、可は、方(ノ)字などの誤なるべし、さらば此(ノ)一句は、シグレノフレバ〔七字右○〕と訓べし、(可にては、尾(ノ)句にかけあはず、)○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。少納言大伴宿禰家持《スナキモノマヲシノツカサオホトモノスクネヤカモチガ》。當時|矚《ミテ》2梨黄葉《ナシノモミチヲ》1。作《ヨメリ》2此歌《コノウタヲ》1也。
 
梨(ノ)黄葉、十(ノ)卷に、黄葉之丹穗日者繁然鞆妻梨木乎手折可佐寒《モミチバノニホヒハシゲシシカレドモツマナシノキヲタヲリカザサム》、又、露霜寒夕之秋風丹黄葉爾來毛妻梨之木者《ツユシモモサムキユフベノアキカゼニモミチニケリモツマナシノキハ》、などあり、
 
天平勝寶〔四字□で囲む〕四年《ヨトセ》。
 
天平云々の六字、舊本こゝにはなくて、二首を載て、歌の左にあり、今は類聚抄に從て記しつ、但(シ)天平勝寶の四字は、前にゆづりて削るべし、五年の條にも、年號は前にゆづりて、五年とのみ記せり、さて件の梨(ノ)黄葉の歌より、上|新年之初者《アラタシキトシノハジメハ》云々、の歌までは、天平勝寶三年に作《ヨメ》る歌、或は古歌を傳(ヘ)誦たるをも、同年のかぎり聞て記され、此《コヽ》より下、十一月二十七日、林(ノ)王(ノ)宅(ニテ)餞宴歌三首までは、同四年に作る歌、或は古歌を傳(ヘ)誦たるをも、同年のかぎり聞て記されたるがゆゑ、必(ズ)此處に、かく紀年《トシ》の標あるべきことなり、
 
壬申年之亂《ミヅノエサルノトシノミダレ》。平定以後歌二首《タヒラギシノチノウタフタツ》。
 
壬申云々は、天武天皇元年にて、大友(ノ)皇子との御いくさなり、後々まで諸臣卒去贈位等につ(249)き、以2壬申年之功(ヲ)1、とあまたたび見えたり、又有v勤2勞於壬申(ノ)年(ノ)役(ニ)1、と年を經て褒賞《ホメ》給ふことも見えたり、寶字元年十二月壬子、太政官奏(シテ)曰、旌v功(ヲ)錫(ハ)v命(ヲ)、聖典(ノ)收v重(スル)、褒(メ)v善(ヲ)行(ハ)v封(ヲ)、明王(ノ)所v務(ル)、我(ガ)天下也、乙巳(ヨリ)以來、人々立v功(ヲ)、各得2封賞(ヲ)1、但大上中下雖v載2令條(ニ)1、功田(ノ)記文或落2其(ノ)品(ヲ)1、今故(ニ)比2※[手偏+交]昔(ノ)令(ヲ)1、議2定其品(ヲ)1、大織藤原(ノ)内大臣、乙巳年(ノ)功田一百町、大功(ハ)世々不v絶、贈小紫村國(ノ)連小依、壬申(ノ)年(ノ)功田十一町、贈正四位上文(ノ)忌寸禰麻呂、贈直大壹丸部(ノ)臣君手、並同年(ノ)功田各八町、贈直大壹文(ノ)忌寸智徳、同年(ノ)功田四町、贈小錦上置始(ノ)連菟、同年(ノ)功田五町、五人(ハ)並中功(ナリ)、合(シ)v傳(ヲ)2二世(ニ)1、正四位下下毛野(ノ)朝臣古麻呂、贈正五位上調(ノ)忌寸老人、從五位上伊吉(ノ)連博徳、從五位下伊余部(ノ)連馬養(ハ)、並(ニ)大寶二年、修(メシ)2律令(ヲ)1功田各十町、四人(ハ)並下功(ナリ)、合(シ)v傳(フ)2其(ノ)子(ニ)1、贈大錦上佐伯(ノ)連古麻呂、乙巳(ノ)年(ノ)功田三十町六段、被2他(ニ)駈卒(セ)1、效v力(ヲ)誅(ス)v姦(ヲ)、功有v(テ)v所v推、不v能v稱v大(ト)、依v令上功(ナリ)、合(シ)v傳(フ)1三世(ニ)1、從五位上尾治(ノ)宿禰大隅、壬申(ノ)年(ノ)功田三十町、淡海(ノ)朝廷諒陰之際、義興2警蹕(ヲ)1、潜(ニ)出2關東(ニ)1、于時大隅參迎(テ)奉v導、掃2清私第(ヲ)1、遂作2行宮(ヲ)1、供2助(ス)軍資(ヲ)1、其(ノ)功實(ニ)重(シ)、准(スレバ)v大(ニ)不v及(ハ)、比(スレバ)v中(ニ)有v餘、依v令(ニ)上功(ナリ)、合(シ)v傳(フ)2三世(ニ)1、贈大紫星川(ノ)臣麻呂、壬申年(ノ)功田四町、贈大錦下坂上(ノ)直熊毛、同年(ノ)功田六町、贈正四位下黄文(ノ)連大伴、同年(ノ)功田八町、贈小錦下文(ノ)直成覺、同年(ノ)功田四町、四人(ハ)並(ニ)歴2渉戎場(ヲ)1、輸v忠(ヲ)供v事(ニ)、立v功(ヲ)雖v異(ト)、勞効是同(シ)、比※[手偏+交]一同(ナリ)、村國(ノ)連小依等、依v令(ニ)中功、合(シ)v傳2二世(ニ)1、大錦下笠(ノ)臣志太留、告(シ)2吉野大兄(ガ)密(ヲ)1、功田二十町、所v告2微言(ヲ)1尋(テ)非2露驗(セルニ)1、雖v云2大事(ト)1、理合(シ)2輕重(ス)1、依v令(ニ)中功(ナリ)、合(シ)v傳(フ)2二世(ニ)1、從四位下上道(ノ)朝臣斐太都、天平寶字元年(ノ)功田二十町、知(テ)2人欲(ヲ)1v反(セムト)、告(テ)令(ム)2芟除(カ)1、論(250)實(ニ)雖v重(シト)、本非2專制(ニ)1、依v令上功(ナリ)、合(シ)v傳(フ)2三世1、小錦下坂合部(ノ)宿禰石敷、功田六町、奉2使(ヲ)唐國(ニ)1、漂2著賊洲(ニ)1、横斃可v矜(ム)、稱v功(ヲ)未v※[立心偏+篋の下半](ハ)、依v令(ニ)下功(ナリ)、合(シ)v傳(フ)2其(ノ)子(ニ)1、正五位上大和(ノ)宿禰長岡、從五位下陽胡(ノ)史眞身(ハ)、並(ニ)養老二年、修2律令(ヲ)1、功田各四町、外從五位下矢集(ノ)宿禰虫麻呂、外從五位下鹽屋(ノ)連吉麻呂(ハ)、並(ニ)同年(ノ)功田各五町、正六位上百濟(ノ)人成、同年(ノ)功田四町、五人(ハ)並(ニ)執2持(シテ)刀筆(ヲ)1、刪2定科條(ヲ)1、成功雖v多(ト)、事匪2匡難(ニ)1、比※[手偏+交]一同(ナリ)、下毛野(ノ)朝臣古麻呂等、依v令(ニ)下功(ナリ)、合(シ)v傳2其(ノ)子(ニ)1、と見えたり、壬申(ノ)年功田のさだ、かくの如し、功田の事は、こゝにことさらに用なけれど、壬申(ノ)年の亂のことを云因に引たるなり、○平定《タヒラギシ》、神代紀に、ムケシヅム〔五字右○〕と訓たり、
 
4260 皇者《オホキミハ》。神爾之座者《カミニシマセバ》。赤駒之《アカゴマノ》。腹婆布田井乎《ハラバフタヰヲ》。京師跡奈之都《ミヤコトナシツ》。
 
皇者《オホキミハ》云々、三(ノ)卷に、皇者神二四座者天雲之雷之上爾應爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマクモノイカツチノヘニイオリセルカモ》、又、皇者神爾之座者眞木之立荒山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセバマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》、などあるに同じ、爾之《ニシ》といへるは、さだかにしかりとする意を思はせたる辭なり、○赤駒之腹嬰布田爲乎《アカゴマノハラバフタヰヲ》、契冲、天武天皇(ノ)紀に、鯨(人(ノ)名也、)乘2白馬(ニ)1以逃之、馬墮2※[泥/土]《フカ》田(ニ)1、不v能2進行(コト)云々、とあるを引て、深田にて、駒も得進まで、はらばふなり、と云り、今按(フ)に、腹婆布《ハラバフ》は、駒にて田を耕《スク》ことにて、田をすくには、馬の速く歩むことなければ、匍匐《ハラバフ》ごとくに、見ゆるゆゑに、いふにもあるべし、(略解に、赤駒のはらばふとは、放ちおける馬をいふといへるは、いかなる意にていへるにか、)さてこゝは、たゞ水田のさまをいへるのみにて、みさかりなる京都のこと(251)を云むためなり、、腹婆布《ハラバフ》は、字鏡に、匍(ハ)匍匐也、葉良波比由久《ハラバヒユク》、靈異記に、匍匐(ハ)波良波不《ハラバフ》、などあり、田爲《タヰ》は、たゞ田《タ》なり爲《ヰ》の言に意なし、既く云り、○京師跡奈之都《ミヤコトナシツ》、六(ノ)卷に、荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿《アラヌラニサトハアレドモオホキミノシキマストキハミヤコトナリヌ》、○歌(ノ)意は、大王の神とも神とまします、ありがたき御徳によりて、水田なりし地を家並敷て、みさかりなる京都となしつるよ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大將軍贈右大臣大伴卿作《オホキイクサノキミオヒテタマヘルミギノオホマヘツキミオホトモノマヘツキミノヨミタマフ》。
 
大伴(ノ)卿は、御行(ノ)卿にて、四(ノ)卷左註にいはゆる高市(ノ)大卿これなり、書紀に、天武天皇四年三月乙巳朔庚申、諸王四位栗隈(ノ)王(ヲ)爲2兵政(ノ)官長(ト)1、小錦上大伴(ノ)連御行(ヲ)爲2大輔(ト)1、十三年十二月戊寅(ノ)朔己卯、大伴(ノ)連云々、五十氏賜v姓(ヲ)曰2宿禰(ト)1、十四年九月甲辰朔辛酉、是日云々、大伴(ノ)宿禰御行云々、凡十人賜2御衣袴(ヲ)1、持統天皇二年十一月乙卯朔乙丑、布勢(ノ)朝臣御主人、大伴宿禰御行|※[しんにょう+奇]《遞歟》進む誅(朱鳥元年九月、天武天皇崩に仍てなり、)五年正月癸酉朔乙酉増v封(ヲ)云々、大伴御行(ノ)宿禰八十戸、通(シテ)v前(ニ)三百戸、八月己亥朔辛亥、詔十八氏、(云々大伴云々、)上2進(ノ)祖等(ノ)墓記(ヲ)1、八年正月乙酉朔丙戌、以2正廣肆(ヲ)1授3直大壹布勢(ノ)朝臣御主人與(ニ)2大伴宿禰御行1、増v封人(コトニ)二百戸、通(シテ)v前《シテニ》五百戸、並(ニ)爲2氏(ノ)上(ト)1、十年十月己巳朔庚寅、假賜2資人八十人(ヲ)1、續紀に、文武天皇三年八月丁卯、授2正廣參(ヲ)1、大寶元年春正月己丑、大納言正廣參大伴(ノ)宿禰御行薨、帝甚悼惜(ミタマヘリ)之云々、宣v詔(ヲ)、贈2正廣貳右大臣(ヲ)1、御行(ハ)、難波朝(ノ)右大臣大紫長徳之子也、
 
(252)4261 大王者《オホキミハ》。神爾之座者《カミニシマセバ》。水鳥乃《ミヅトリノ》。須太久水奴乎《スダクミヌマヲ》。皇都常成都《ミヤコトナシツ》。【作者未詳】
 
須太久水奴麻《スダクミヌマ》は、多集水沼《スダクミヌマ》なり、十一に、葦鴫之多集池水《アシガモノスダクイケミヅ》云々、○歌(ノ)意、大かた上なるに同じ、
 
右件二首《ミギノクダリノフタウタハ》。天平勝寶四年〔六字□で囲む〕二月二日聞之《キサラギノフツカノヒキヽテ》。即|載《アグ》2於|茲《コヽニ》1也。
 
閏三月《ノチノヤヨヒ》。於《ニテ》2衛門督大伴古慈悲宿禰家《ユケヒノカミオホトモノコジヒノスクネガイヘ》1。餞2之《ウマノハナムケスル》入唐副使同胡麿宿繭等《モロコシニツカハスツカヒノスケオヤジコマロノスクネラヲ》1歌二首《ウタフタツ》。
 
三月の下、日を脱せるか、○古慈悲は、續紀に、天平九年九月癸巳、從六位上大伴宿禰|祐《※[示+古]歟下同》信備(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十一年正月丙午、授2從五位下(ヲ)1、十二年十一月甲辰、授2從五位上(ヲ)1、十四年四月甲午、河内(ノ)守祐志備(ニ)授2正五位下(ヲ)1、十八年三月己未、河内(ノ)國(ノ)守大伴(ノ)宿禰古慈斐解※[人偏+稱の旁](ス)、於2所部古市(ノ)郡内(ニ)1獲2白龜一頭(ヲ)1、十九年正月丙申、授2從四位下(ヲ)1、勝寶元年十一月己未、授2從四位上(ヲ)1、八年五月癸亥、出雲(ノ)國(ノ)守從四位上大伴(ノ)宿禰古慈斐、坐d誹2謗朝廷(ヲ)1、无(ニ)c人臣之禮u、禁2於左右衛士(ノ)府(ニ)1、丙寅、詔放免、寶字元年七月庚戌、土左(ノ)國(ノ)守大伴(ノ)古慈斐便(チ)流2任國(ニ)1、寶龜元年十一月癸未、復2無位大伴(ノ)宿禰古慈斐(ヲ)本位從四位上(ニ)1、十二月丙辰、爲2大和(ノ)守(ト)1、二年十一月丁未、授2正四位下(ヲ)1、六年正月己酉、授2從三位(ヲ)1、八年八月丁酉、大和(ノ)守從三位大伴(ノ)宿禰古慈斐薨(ズ)、飛鳥(ノ)朝|常道《ヒタチノ》頭贈大錦吹負之孫、平城(ノ)朝越前(ノ)按察使從四位下祖父麻呂之子也、少有2才幹1、略渉2書記(ニ)1起v家(ヲ)、大學(ノ)大允、贈太政大臣藤原(ノ)朝臣不比等、以v女妻(ス)之、勝寶年中、累(ニ)遷2從四位上衛門(ノ)督(ニ)1、俄(ニ)遷2出雲(ノ)守(ニ)1、自v見v疎v外、意常(ニ)欝々、紫微内相藤原(ノ)仲滿、(253)誣以3誹2謗朝廷1、左2降土左(ノ)守(ニ)1、促命之v任、未v幾勝寶八歳之亂、便流2土左(ニ)1、天皇宥v罪(ヲ)入v京(ニ)、以1其焦老(ヲ)1授2從三位(ヲ)1、薨時年八十三、この名、初のほどはみな※[示+古]信備とあるは、(古慈悲とは、清濁倒なり、)契冲もいひしごとく、小鮪《コシビ》などの義にて負たるなるべし、(天智天皇(ノ)紀に、吉士(ノ)小鮪《コシビ》、天武天皇(ノ)紀上に、民(ノ)直|小鮪《コシビ》など云あり、)後に古慈悲とのみ書たるは、所思《コヽロ》ありて改められけるなるべし、○入唐副使、これ清河大使たりしときの副使なり、○胡麻呂は、旅人卿の姪なるよし、四(ノ)卷に見ゆ、續紀に、天平十七年正月乙丑、五六位上大伴宿禰古麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、勝寶元年八月辛未、爲2左少辨(ト)1、二年九月己酉、爲2遣唐副使1、三年正月己酉、授2從五位上(ヲ)1、四年閏三月丙辰、召2遣唐(ノ)副使已上(ヲ)於内裏(ニ)1、詔賜(ヒ)2節刀1、仍云々副使從五位上大伴(ノ)宿禰古麻呂(ニ)授2從四位上(ヲ)1、六年正月壬子、入唐副使從四位上大伴(ノ)宿禰古麻呂來皈、四月庚午、爲2左大辨(ト)1、壬申、授2正四位下(ヲ)1、八歳五月乙卯、遣2云々等(ヲ)1奉2幣帛(ヲ)於伊勢大神宮(ニ)1、寶字元年六月壬辰、左大辨正四位下大伴(ノ)宿禰古麻呂爲2兼陸奥鎭守將軍(ト)1、同日爲2陸奥按察使(ト)1、甲辰、山背(ノ)王復告、橘(ノ)奈良麻呂、備2兵器1、謀圍2田村(ノ)宮(ヲ)1、古麻呂亦知2其情(ヲ)1、七月庚戌、下v嶽(ニ)拷掠窮問、杖下死、と見ゆ、謀反のことによりて、拷問せられてみまかれり、
 
4262 韓國爾《カラクニニ》。由伎多良波之※[氏/一]《ユキタラハシテ》。可敝里許牟《カヘリコム》。麻須良多家乎爾《マスラタケヲニ》。美伎多※[氏/一]麻都流《ミキタテマツル》。
 
由伎多良波之※[氏/一]《ユキタラハシテ》は、往滿足而《ユキタラハシテ》なり、往(キ)とゞきて、といはむが如し、此(ノ)詞に、公事を執(リ)行(ヒ)竟る意をもたせたり、○麻須良多家乎《マスラタケヲ》は、丈夫武雄《マスラタケヲ》なり、○美伎多※[氏/一]麻須流《ミキタテマツル》は、獻《タテマツル》2御酒《ミキ》1にて、爵《サカヅキ》を獻る(254)なり、客人をうやまひていへる詞なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。多治比眞人鷹主《タヂヒノマヒトタカヌシガ》。壽《コトホク》2副使大伴胡麿宿禰《ツカヒノスケオホトモノコマロノスクネヲ》1也。
 
鷹主、此集にはこゝのみに出たり、續紀に、寶字元年七月庚戌、詔更遣2藤原(ノ)永手等(ヲ)1、窮2問東人等(ヲ)1※[疑の旁が欠]云云々、其(ノ)衆者云々、多治比(ノ)鷹主云々、自餘衆者、闇裏不v見2其面(ヲ)1、
 
4263 梳毛見自《クシモミジ》。屋中毛波可自《ヤヌチモハカジ》。久左麻久良《クサマクラ》。多婢由久伎美乎《タビユクキミヲ》。伊波布等毛比※[氏/一]《イハフトモヒテ》。【作主未詳。】
 
梳毛見自《クシモミジ》、仙覺、人のものへ行たるあとには、三日家の庭はかず、つかふ櫛を見ずといふことのあるなり、といへり、今按(フ)に、見自《ミジ》は、たゞ目《メ》に不《ジ》v見《ミ》といふのみにはあらず、取(リ)見じといふにて、取(リ)持(テ)用ふまじ、と云(フ)義なるべし、○屋中毛波可自《ヤヌチモハカジ》、今(ノ)世にも、入の出去し跡を、やがて掃(ク)ことを忌(メ)り、本居氏(玉勝間十、)云、人の出行(キ)し跡を掃ことをいむは、葬の出ぬる跡を、はくわざある故なり、台記に、久壽二年十二月十七日、傳聞今夜亥(ノ)刻、高陽院人棺云々、即(チ)奉v遷(シ)2福勝院(ニ)1云々、出御之後、民部(ノ)大夫重成、以2竹箒(ヲ)1拂2御所(ヲ)1、○伊波布等毛比※[氏/一]《イハフトモヒテ》は、齋《イハフ》と思而《モヒテ》にて、齋《イハ》ふとて、と云むが如し、思《モフ》の辭輕く意得べし、齋《イハフ》とは、人の旅行し跡にて、家人の屋中を穢し過つことのあるまじく、齋(ミ)清めて愼み居るを云、若(シ)愼(マ)ずして屋中を穢し過つことのあるときは、その旅行人に禍あるべし、となり、十五新羅國に遣れし雪(ノ)連宅滿が、到2壹岐(ノ)島に1、忽遇2鬼病(ニ)1死去之時作歌に、可(255)良國爾和多流和我世波《カラクニニワタルワガセハ》、伊敝妣等能伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》、多太未可母安夜麻知之家牟《タタミカモアヤマチシケム》云々、(これ家人の齋ひ愼て不v待ばか、畳を過ち穢せるゆゑか、旅中にて、鬼病遇て死れる、と云意の歌なり、)又古事記下(ツ)卷、輕(ノ)太子の伊余(ノ)湯に流《ハナタレ》給はむとする時の御歌に、意富岐美袁斯麻爾波夫良婆布那阿麻理伊賀幣理許牟叙和賀多々彌由米《オホキミヲシマニハブラバフナアマリイガヘリコムゾワガタヽミユメ》、(吾(ガ)疊を齋愼《ユメ》なり、)ともあるごとく、屋中にても、疊は朝暮常に敷(キ)座(ル)具なれば、ことさら齋愼みて藏めたくはへ、又常に身に隨へし櫛巾の類までも、斂《ヲサ》めおきて、取いらふことなく、大切にするぞ、上古よりのならひにてありけむ、○歌(ノ)意、かくれなし、此は唐に遣(ハ)さるゝ人の妻の意に擬てよめるなるべし、
 
右件二首〔二字各○で囲む〕歌傳誦《ミギノクダリノフタウタツタヘヨメルハ》。大伴宿禰村上《オホトモノスクネムラカミ》。同清繼等是也《オヤジキヨツグラナリ》。
 
村上は、八(ノ)卷に出たり、○清繼は、こゝのみに出たり、傳未(ダ)詳ならず、
 
勅《ミコトノリシテ》2從四位上高麗朝臣福信《ヒロキヨツノクラヰノカミツシナコマノアソミフクシムニ》1。遣《ツカハシ》2於|難波《ナニハニ》1。賜《タマヘル》2酒肴入唐使藤原朝臣清河等《オホミキミサカナヲモロコシニツカハスツカヒフヂハラノアソミキヨカハラニ》1御歌一首并短歌《オホミウタヒトツマタミジカウタ》。
 
勅は、孝謙天皇のにて、聖武天皇の大御心なるべし、○福信は、字音に唱(フ)べし、續紀に、天平十年三月辛未、從六位上背奈(ノ)公福信(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、十一年七月乙未、授2從五位下(ヲ)1、十五年五月癸卯、從五位上背奈(ノ)王福信(ニ)授2正五位下(ヲ)1、六月丁酉、爲2春宮(ノ)亮(ト)1、十九年六月辛亥、賜2背奈(ノ)王(ノ)姓(ヲ)1、二十年二月己未、授2正五位上(ヲ)1、勝寶元年七月甲午、授2從四位下(ヲ)1、八月辛未、中衛(ノ)少將從四位下背奈(ノ)王福信(ヲ)(256)爲2兼紫微(ノ)少弼(ト)1、十一月己未、授2從四位上1、二年正月丙辰、賜2高麗(ノ)朝臣姓(ヲ)1、寶字元年五月丁卯、授2正四位下(ヲ)1、七月戊申、遣2高麗(ノ)朝臣福信等(ヲ)1、率v兵追2捕小野(ノ)東人、答本(ノ)忠節等(ヲ)1、並(ニ)皆捉獲禁2著左衛士府(ニ)1、四年正月戊寅、爲2信部(ノ)(民部)大輔(ト)1、七年正月壬子、爲2但馬(ノ)守(ト)1、神護元年正月乙亥、授2從三位(ヲ)1、景雲元年三月己巳、造宮(ノ)卿但馬(ノ)守從三位高麗(ノ)朝臣福信、爲2兼法王(ノ)宮(ノ)大夫(ト)1、寶龜元年八月丁巳、爲2兼武藏守(ト)1、四年二月壬申、初造宮(ノ)卿高麗(ノ)朝臣福信、專(ラ)知v造2作楊梅宮(ヲ)1、至v是宮成(ル)、七年三月癸巳、爲2兼近江(ノ)守(ト)1、十年三月戊午、從三位高麗(ノ)朝臣福信賜2姓(ヲ)高倉(ノ)朝臣(ト)1、天應元年五月乙丑、從三位高倉(ノ)朝臣福信(ヲ)爲2弾正(ノ)尹(ト)1、延暦二年六月丙寅、爲2兼武藏守(ト)1、四年二月丁未、上v表乞v身、優詔許(タマフ)之、賜2御杖並衾(ヲ)1、八年十月乙酉、散位從三位高倉(ノ)朝臣福信薨、福信(ハ)武藏(ノ)國高麗郡(ノ)人也、本姓背奈、其(ノ)祖福徳、屬2唐將李勣(ニ)1、拔2平攘城(ヲ)1、來2歸國家(ニ)1、居2武藏(ニ)1焉、福信即福徳之孫也、初任2右衛士(ノ)大志(ニ)1稍遷、天平中(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、任2春宮(ノ)亮1、勝寶(ノ)初、至2從四位紫微(ノ)少弼(ニ)1、改2本姓(ヲ)1賜2高麗(ノ)朝臣(ヲ)1、遷2信部(ノ)大輔(ニ)1、神護元年、授2從三位(ヲ)1拜2造宮(ノ)卿(ニ)1、兼2歴武藏近江(ノ)守(ヲ)1、寶龜十年上書言(ス)、臣云々、伏乞改2高麗(ヲ)1以爲2高倉(ト)1、詔(シテ)許(シタマフ)之、天應元年、遷2弾正(ノ)尹兼武藏守(ニ)1、延暦四年、上v表(ヲ)乞v身(ヲ)、以2散位(ヲ)1歸v第(ニ)焉、薨時年八十一、○賜酒肴云々の事、續記に漏たり、故(レ)左註にも、其(ノ)事見えたり、○御歌は、孝謙天皇の御製歌なり、(略解に、御の下、製(ノ)字を脱せり、と云るは、非なり、製(ノ)字のこと、既に辨たり、
 
4264 虚見都《ソラミツ》。山跡乃國波《ヤマトノクニハ》。水上波《ミヅノヘハ》。地往如久《ツチユクゴトク》。船上波《フナノヘハ》。床座如《トコニヲルゴト》。大神乃《オホカミノ》。鎭在國曾《イハヘルクニソ》。四(257)舶《ヨツノフネ》。舶能倍奈良倍《フナノヘナラベ》。平安《タヒラケク》。早渡來而《ハヤワタリキテ》。還事《カヘリコト》。奏日爾《マヲサムヒニ》。相飲酒曾《アヒノマムキソ》。斯豐御酒者《コノトヨミキハ》。
 
鎭在國曾、イハヘルクニソ〔七字右○〕と訓ぞ宜き、(舊訓に、シヅムルクニソ〔七字右○〕とあるは宜しからず、)守護《マモリ》ませる大神等《オホカミタチ》の、鎭座《イハヒ》ます國ぞ、と云意なり、上にも、伊波敝神多智《イハヘカミタチ》、とよめり、鎭《イハフ》は、鎭齋の義もて書るなり、七(ノ)卷旋頭歌に、三幣取神之祝我鎭齋杉原《ミヌサトリカミノハフリガイハフスギハラ》云々、續後紀十九、仁明天皇四十の御賀に、興福寺(ノ)僧等が獻れる長歌に、萬世鎭布《ヨロヅヨイハフ》云々、鎭牟止許曾《イハヽムトコソ》云々、鎭申世利《イハヒマヲセリ》云々、皇乎鎭倍利《キミヲイハヘリ》云々|鎭倍留事者《イハヘルコトハ》、などあり、さて初(ノ)御句より、此までの意を、とりすべていへば、この日本(ノ)國は、たとひ遠(キ)境にいたるとも、見はなしたまふことなくて、水(ノ)上は、地の上を往もかはることなく、船(ノ)上は、床座に居るも同じごとく、まもります大神等の、鎭齋《イハ》ひ座《マシマ》す御國なるぞ、との謂なり、○四舶《ヨツノフネ》は、大使《カミ》、副使《スケ》、判官《マツリゴトヒト》、主典《フミヒト》の船なり、○舶能倍奈良倍《フナノヘナラベ》は、舶舳並《フナノヘナラベ》なり、○還事《カヘリコト》は、古事記上に至《ナルマデ》2于三年(ニ)1不復奏《カヘリコトマヲサヾリキ》云々、神代(ノ)紀に、不報聞《カヘリコトマヲサヾリキ》、却2遷祟神(ヲ)1祝詞に、返言不申支《カヘリコトマヲサヾリキ》、神賀詞に、返事申給久《カヘリコトマヲシタマハク》、などかた/”\に見えたり、本居氏云、加敝理言《カヘリコト》は、使人の還て申言、と云意にて、加敝理《カヘリ》は、其(ノ)使に係る言なり、然るを、今(ノ)京になりて後、答(ヘ)歌を返しと云から、加敝理《カヘリ》言をも、彼方の答言の意、と思ふは、違へることなり、○相飲酒曾《アヒノマムキソ》云々、六(ノ)卷に、天平四年、聖武天皇、酒を節度使(ノ)卿等に賜へる時に、御製《ミヨミマセ》る長歌の未にも、將還來日相飲酒曾此豐御酒者《カヘリコムヒアヒノマムキソコノトヨミキハ》、とあり、○此(ノ)長歌、中院家本、阿野家本、古寫本等には、都波久乃曾爾の語(リ)辭の字を細書せり、古(ヘ)の一(ツ)の書法なり、
 
(258)4265 反歌一首《カヘシウタヒトツ》。
 
四船《ヨツノフネ》。早還來等《ハヤカヘリコト》。白香著《シラカツケ》。朕裳裾爾《アガモノスソニ》。鎭而將待《イハヒテマタム》。
 
早還來等《ハヤカヘリコト》は、早《ハヤ》く還《カヘ》り來《コ》よと、といふ意なり、○白香著《シラガツケ》は、三(ノ)卷坂上(ノ)郎女(ガ)祭神長歌に、奥山乃賢木之枝爾白香付木綿取付而《オクヤマノサカキノエダニシラガツクニフトリツケテ》云々、とあり、十二にも見えたり白香《シラガ》の事は、三(ノ)卷に、本居氏(ノ)説を擧ていへるごとく、白紙《シラガ》なるべし、さて白紙著木綿《シラガツクユフ》は、木綿に白紙を切かけて取添るを云べく、今の大御歌は、たゞ白紙のみを用ひ給ひしなるべし、されば此(ノ)御句は、シラガツケ〔五字右○〕と訓て、第四(ノ)御句の次へうつして意得べし、○鎭裳裾爾《アガモノスソニ》云々、御裳《ミモ》の裾に白紙著て、齋《イハ》ひ給はむこと、少しいかゞとおもはるれども、古(ヘ)せしわざにやありけむ、(一説に、裾のうちかひなどよみて、あふものなれば、祝て著(ケ)給ふか、と云り、いかゞあらむ、)かの五(ノ)卷に載たる、鎭懷石をよめる歌の端に、古老相傳(テ)曰、往者息長足日女(ノ)命、征2討(タマフ)新羅(ノ)國(ヲ)1之時、用2茲(ノ)兩(ノ)石(ヲ)1挿2著御袖之中(ニ)1、以爲2鎭懷(ヲ)1、とありて、註に、實(ハ)是御裳(ノ)中矣、と鬼え、(この御事を、書紀には、取v石(ヲ)挿v腰、といへり、)風土記には、挿2著裙(ノ)腰(ニ)1、とあれば、其(ノ)御事などを思食けることもあるべきか、(されど其は、懷姙《ミコハラマセ》る御腹を齋(ヒ)鎭賜ふなれば、事のさま異れり、)猶考(フ)べし、○大御歌(ノ)意は、唐に遣はさるゝ四の舶の、平安《サキ》く渡りて、早く還り來よと、吾(ガ)裳の裙に白紙を著つゝ、齋(ヒ)て待(チ)座(サ)むぞ、と詔ふなり、
〔右發2遣勅使1。并賜v酒樂宴之日月。未v得2詳審1也。〕
 
(259)爲《タメニ》v應《ウケタマハラムガ》v詔《ミコトノリヲ》儲作歌一首并短歌《アラカジメヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4266 安之比奇能《アシヒキノ》。八峯能宇倍能《ヤツヲノウヘノ》。都我能木能《ツガノキノ》。伊也繼繼爾《イヤツギツギニ》。松根能《マツガネノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。青丹余志《アヲニヨシ》。奈良能京師爾《ナラノミヤコニ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。國所知等《クニシラサムト》。安美知之《ヤスミシシ》。吾大皇乃《ワガオホキミノ》。神奈我良《カムナガラ》。於母保之賣志※[氏/一]《オモホシメシテ》。豐宴《トヨノアカリ》。見爲今日者《メスケフノヒハ》。毛能乃布能《モノノフノ》。八十伴雄能《ヤソトモノヲノ》。島山爾《シマヤマニ》。安可流橘《アカルタチバナ》。宇受爾指《ウズニサシ》。紐解放而《ヒモトキサケテ》。千年保伎《チトセホキ》。保吉等餘毛之《ホキトヨモシ》。惠良惠良爾《ヱラヱラニ》。仕奉乎《ツカヘマツルヲ》。見之貴者《ミルガタフトサ》。
 
八峯《ヤツヲ》は、彌津岑《ヤツヲ》なり、上にあまた見えたり、○都我能木能《ツガノキノ》は、枕詞なり、一(ノ)卷、三(ノ)卷、六(ノ)卷等にも見えたり、○松根能《マツガネノ》、これも枕詞なり、三(ノ)卷に、松根也遠久寸《マツガネヤトホクヒサシキ》、とつゞけたるが如く、遠長く蔓延《ハヒワタ》るを以て、不《ズ》v絶《タエ》といふ言につゞきたり、○豐宴《トヨノアカリ》、古事記に、豐明《トヨノアカリ》とも、豐樂《トヨノアカリ》とも書たり、書紀に、宴、また讌、宴樂、宴會、宴饗、肆宴、などあるをも然訓り、本居氏云、豐《トヨ》は、例の稱辭、明《アカリ》は、もと大御酒《オホミキ》を食《メシ》て、御御顔色《オホミカホ》の赤らみ坐(ス)を申せる言にて、大甞(ノ)祝詞に、天津御食乃長御食能遠御食登《アマツミケノナガミケノトホミケト》、皇御孫命乃大甞聞食牟爲故爾《スメミマノミコトノオホニヘキコシメサムタメノユヱニ》云々、千百五百秋爾《チアキノイホアキニ》、平久安久聞食弖《タヒラケクヤスラケクキコシメシテ》、豐明爾明坐牟皇御孫命能《トヨノアカリニアカリマサムスメミマノミコトノ》云々、中臣(ノ)壽詞に、(台記の大甞會(ノ)別記に載れり、)悠紀主基乃黒木白木乃大御酒遠《ユキスキノクロキシロキノオホミキヲ》、大倭根子天皇我《オホヤマトネコスメラガ》、天津御膳乃長御膳乃遠御膳止《アマツミケノナガミケノトホミケト》、汁仁毛實仁毛《シルニモミニモ》、赤丹乃穗仁所聞弖《アカニノホニキコシメシテ》、豐明仁明御坐弖《トヨノアカリニアカリマシ/\テ》云々、などある、是なり、さて此(レ)は、大甞、新甞には限らず、何時《イツ》にても云名なるを、後(ノ)世には、新甞の節會に(260)限れる如くにて、是を豐(ノ)明(ノ)節會と云りと、なほ古事記傳三十二に詳に註り、○見爲今日者は、メスケフノヒハ〔七字右○〕と訓べし、(舊訓に、ミセマスケフハ〔七字右○〕とあるは、論のかぎりにあらず、又略解などに、これをミシセスケフハ〔七字右○〕とよめるは、大じき非なり、ミシセス〔四字右○〕といふ詞、例もなく、あるべくもなし、)次の反歌、第四(ノ)句合(セ)見べし、三(ノ)卷に、見爲明光之《メシアキラメシ》とあるをはじめて、賣須《メス》に、見爲と書る例なほあり、賣之《メシ》、賣須《メス》といふ言の義は、既く委(ク)註り、今日をケフノヒ〔四字右○〕とよむ例も、既に云り、十(ノ)卷に、春野爾《ハルノヌニ》云々、來之今日者《コシケフノヒハ》云々、又、日低人可知今日《ヒクレナバヒトシリヌベシケフノヒノ》云々、○島山《シマヤマ》は、禁庭《オホウチ》の御池のl中島などいふべし、○八十伴雄能《ヤソトモノヲノ》は、八十伴男《ヤソトモノヲ》が、と云意なり、○安可流橘《アカルタチバナ》は、此(ノ)下にも、島山爾照有橘宇受爾左之《シマヤマニテレルタチバナウズニサシ》、とよめり、契冲、安可流《アカル》は、熟するなり、日本紀に、熟(ノ)字をアカム〔三字右○〕とよめり、應神天皇の御製に、髪長姫を橘によそへて、みつぐりのなかつえのあかれるをとめ、とよませ給へり、といへり、十八にも、和我佐世流安加良多知婆奈《ワガサセルアカラタチバナ》、とよめり、(但しこの十八なるは、夏の行幸の時の歌なれば、實にはあらで、花の白く清らなるをいふよし、荒木田氏(ノ)説を引て、彼處にいへり、)○宇受爾指《ウズニサシ》は、髻華《ウズ》に指なり、十三に、神主部之雲聚山蔭《カムヌシノウズノヤマカゲ》、とある歌に、委(ク)註り、○紐解放而《ヒモトキサケテ》は、宴樂に打とけたる形容を云るなり、五(ノ)卷に、紐解佐氣弖多知婆志利勢武《ヒモトキサケテタチバシリセム》、九(ノ)卷に、歡登紐之緒解而《ウレシミトヒモノヲトキテ》、家如解而曾遊《イヘノゴトトケテソアソブ》、などあり、同意なり、契冲、欽明天皇(ノ)紀に、願(ハ)王開v襟(ヲ)緩(ヘテ)v帶(ヲ)、恬然《シメヤカニ》自安、勿2深(ク)疑(ヒ)懼(ルコト)1、とあるを引たり、其(ノ)意もあるべし、○千年保伎《チトセホキ》は、十八に、安之比奇能夜麻能許奴禮能保與(261)等里天可射之都良久波知等世保久等曾《アシヒキノヤマノコヌレノホヨトリテカザシツラクハチトセホクトソ》、とある歌に委(ク)註り、此(ノ)卷(ノ)末にもあり、續後紀十九、與福寺(ノ)僧(ガ)長歌に、高御座萬世鎭布《タカミクラヨロヅヨイハフ》、五八能春爾在氣利《ヨソチノハルニアリケリ》、とある、萬世鎭布《ヨロヅヨイハフ》に意同じ、○保伎吉等餘毛之《ホサキトヨモシ》は、伎(ノ)字は、もと佐とありしを、上の千年保伎《チトセホキ》に見まがへて、寫し誤りしなり、保佐吉《ホサキ》は、神代(ノ)紀に、中臣(ノ)遠祖天(ノ)兒屋(ノ)命則以神祝々之、註に神祝々之、此云2加武保佐枳保佐枳枳《カムホサキホサキキト》1、とありて、保吉《ホキ》といふ、と同意なり、(しかるを、本居氏の、吉は言(ノ)字の誤にて、古事記倭建(ノ)命(ノ)段に、言動《イヒトヨミ》爲2御室樂(ヲ)1、とあるに同じく、保伎言動《ホキイヒトヨモ》しなるべし、といへるをはじめて、略解に、神功皇后(ノ)御歌に、このみきはわがみきならず、くしのかみとこよにいます、いはたゝすすくなみかみの、とよほきほきもとほし、かむほきほきくるほしまつりこしみきぞ、と有ば、保使吉《ホキキ》は、保伎保伎《ホキホキ》と重ねいふを、中略せる語か、といへるなどは、共にあたらぬ説なるを、余が考(ヘ)にて、いと易く明らかにはなりたるなり、)等餘毛之《トヨモシ》は、令饗《トヨモシ》にて、祝壽《ホカヒ》の聲の物に響き應《コタフ》るよしなり、此(ノ)詞の事、既く委(ク)註り、神代(ノ)紀に、扇《トヨモシ》v天(ヲ)扇《トヨモシ》v國《クニヲ》、とあるをも、考(ヘ)合(ス)べし、○惠良惠良爾《ヱラヱラニ》、神代(ノ)紀に、※[口+虐]樂を、ヱラク〔三字右○〕と訓(ミ)、(字書に、※[口+虐]同v※[口+據の旁]、※[口+據の旁](ハ)大笑也、)雄略天皇(ノ)紀には、歡喜盈懷を、ヱラキマス〔五字右○〕と訓り、續紀廿六、大甞會豐(ノ)明の詔に、黒紀白紀能御酒乎《クロキシロキノミキヲ》、赤丹乃保仁多末倍惠良伎《アカニノホニタマヘヱラキ》云々、又卅(ノ)卷詔にも、黒紀白紀乃御酒食倍《クロキシロキノミキタマヘ》惠良伎《ヱラキ》云々、とあり、本居氏云、惠良久《ヱラク》とは、咲(ミ)榮(エ)樂むを云、○左(ノ)字、阿野本并官本には、者と作り、いづれにもあるべし、○此(ノ)長歌の終にも、また舊本に、江説(ノ)二字を註り、今除去つ、(262)拾穗本、古寫小本等にはなし、上に委(ク)辨たり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4267 須賣呂伎能《スメロキノ》。御代萬代爾《ミヨヨロヅヨニ》。加是許曾《カクシコソ》。見爲安伎良目米《ミシアキラメメ》。立年之葉爾《タツトシノハニ》。
 
見爲安伎良來目《メシアキラメメ》は、見明《ミアキ》らめ賜はめ、といはむが如し、見爲をメシ〔二字右○〕と訓こと、上の長歌なると同じ、(略解に、ミシ〔二字右○〕とよめるは、大じき非なり、)○立年之葉爾《タツトシノハニ》、續後紀十九、興福寺(ノ)僧(ガ)長歌に、瀛津波起川毎年爾春波有禮度《オキツナミタツトシノハニハルハアレド》云々、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
天皇太后《スメラミコトヽオホキサキト》。共|幸《イデマシヽ》2於大納言藤原家《オホキモノマヲスツカサフヂハラノイヘニ》1之|日《ヒ》。黄葉澤蘭一株拔取《モミチセルサハアラヽキヒトモトヲヌキトリテ》。令《シメ》v持《モタ》2内侍|佐佐貴山君《ササキヤマノキミニ》1。遣2賜《タマヘル》大納言藤原卿并陪從大夫等《オホキモノマヲスツカサフヂハラノマヘツキミマタミトモノマヘツキミタチニ》1御歌一首《オホミウタヒトツ》。
 
天皇は、世に孝謙天皇と稱《マヲ》す、これにて、少《ワカ》くまし/\し時、阿倍(ノ)内親王と申しき、聖武天皇の皇女《ヒメミコ》にて、御母は、光明皇后にまし/\き、天平十年、皇太子にさだまり賜ひ、勝寶元年に、即位《アマツヒツギシロ》しめし、寶字二年、御位を、大炊(ノ)王(廢帝)に讓らせ腸ひしが、後その御位をおひおろし賜ひて、神護元年、ふたゝびあまつひつぎしろしめしき、これを高野(ノ)天皇と申し、世に稱徳天皇と稱す、これなり、その後大御病まし/\て、寶龜元年と云に、つひにかむあがりまし/\き、續紀に、寶字四年六月乙丑、天平應眞仁正皇太后(光明皇后)崩、聖式皇帝儲貳之日、納以爲v妃(ト)、神龜元(263)年、聖武天皇即位、授2正一位(ヲ)1爲2大夫人(ト)1、生2高野天皇及皇太子(ヲ)1云々、同紀に、天平十年正月壬午、立2阿倍(ノ)内親王(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、勝寶元年七月甲午、皇太子受v禅即2位於大極殿(ニ)1、寶字二年八月庚子朔、高野(ノ)天皇禅2位(ヲ)皇太子1、(大炊(ノ)王)神護元年十一月癸酉、先是廢帝既遷2淡路(ニ)1、天皇重臨2萬機(ヲ)1、寶龜元年八月癸巳、天皇崩2于西宮(ノ)寢殿(ニ)1、春秋五十三、丙午、葬2於大和(ノ)國添下(ノ)郡佐貴(ノ)郷高野山(ノ)陵(ニ)1、諸陵式に、高野(ノ)陵、(平城宮御宇天皇、在2大和(ノ)國添下(ノ)郡1、兆域東西五町南北三町、守戸五烟、)○太后は、光明皇后なり、傳八(ノ)卷下に、委(ク)註り、○藤原(ノ)家、(家の上、目録并(ニ)拾穗本に卿(ノ)字あり、これ然るべきに似たれども、この下にも、左大臣橘家とあれば、今は舊本に從つ、)仲麻呂(ガ)家なり、傳十七上に委(ク)註り、○澤蘭《サハアラヽキ》は、品物解に註り、○拔(ノ)字、舊本に※[木偏+拔の旁]と作るは、誤なり、拾穗本に從つ、○内侍は、宮女をいふなるべし、○佐々貴山(ノ)君は、傳未(ダ)詳ならず、此(ノ)姓は、雄略天皇(ノ)紀に、近江(ノ)狹々城(ノ)君韓※[代/巾]言(ス)云々、續紀に、天平十六年八月乙未、詔授2蒲生(ノ)郡(ノ)大領正八位上佐々貴山(ノ)君親人(ニ)從五位下云々、神前(ノ)郡(ノ)大領正八位下佐々貴山(ノ)君足人(ニ)正六位上(ヲ)1云々、勝寶八歳五月乙卯、太上天皇崩云々、丙辰、從五位下佐々貴山(ノ)君親人爲2養役夫司(ト)1、寶字三年七月丁卯、從五位下佐佐貴山(ノ)君親人(ヲ)爲2中宮(ノ)亮(ト)1、神護元年正月己亥、正六位上佐々貴山(ノ)公足人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、延暦四年正月癸亥、近江(ノ)國蒲生(ノ)郡(ノ)大領外從六位上佐々貴山(ノ)由氣比(ニ)、詔授2外從五位下(ヲ)1、六年戊寅從七位下佐々貴山(ノ)君賀比(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、など見ゆ、又神名式に近江(ノ)國蒲生(ノ)郡沙々貴(ノ)神社、とあり、契冲、次に見えたる命婦(264)は、すなはちこの内侍佐々貴山(ノ)君にて、親人がむすめなどにや、と云り、○陪從大夫は、行幸に供奉《ミトモツカヘマツ》れる諸臣なり、○御歌は、天皇のか、太后のか、わきまへがたし、
 
命婦誦曰《ヒメトネガトナヘテイヘラク》。
 
命婦、仁徳天皇(ノ)紀に、ヒメトネ〔四字右○〕、天武天皇(ノ)紀に、ヒメマチキミ〔六字右○〕と訓り、さてこれ契冲がいへる如く、右の内侍なるべし、〔頭註、【刀禰といふ禰のこと、古事記傳三十二、舎人の下に詳なり、】〕○誦曰は、澤蘭を、諸臣のさぶらふ所へ持行て、御歌を吟誦《ヨミトナ》ふるなり、
 
4268 此里者《コノサトハ》。繼而霜哉置《ツギテシモヤオク》。夏野爾《ナツノヌニ》。吾見之草波《アガミシクサハ》。毛美知多里家利《モミチタリケリ》。
 
御歌(ノ)意は、未(ダ)秋もふけねば、なべてはさのみ霜は置ざるを、夏野にて、近頃吾(ガ)見たりし草の色付たるは、此(ノ)里には、打つゞきて、早く霜の置る故にやあらむ、となり、(略解に、夏の野にて、さきに見させ給ひし草の色付たるは、此(ノ)里は、冬より打つ ゞきて、霜の置るかとなり、といへるは、まぎらはし、)
 
十一月八日《シモツキノヤカノヒ》。太上天皇《オホキスメラミコト》。在《イマシテ》2於|左大臣橘朝臣宅《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノアソミノイヘニ》1。肆宴歌四首《トヨノアカリキコシメスウタヨツ》。
 
太上天皇は、聖武天皇なり、此(ノ)四字、舊本になきは脱たるなり、目録にかくあるぞよき、○橘(ノ)朝臣は、諸兄公なり、續紀に、孝謙天皇勝寶二年正月乙巳、左大臣正一位橘(ノ)宿禰諸兄(ニ)賜2朝臣(ノ)姓(ヲ)1、と見ゆ、○肆宴、雄略天皇(ノ)終に、トヨノアカリ〔六字右○〕と訓り、上に委(ク)註り、
 
(265)4269 余曾能未爾《ヨソノミニ》。見者有之乎《ミツヽアリシヲ》。今日見者《ケフミレバ》。年爾不忘《トシニワスレズ》。所念可母《オモホエムカモ》。
 
見者有之乎は、者は、乍(ノ)字の誤なるべし、※[乍の草書]の草書を※[者の草書]と見て、誤寫《ヒガカキ》せしものなり、ミツヽアリシヲ〔七字右○〕と訓べし、(舊本に、ミレバアリシヲ〔七字右○〕とよめるは、いふにたらす、又ミテハアリシヲ〔七字右○〕と訓て、外《ヨソ》にのみ見ては、さてありしをと云御意なりと、助ていはゞいはるべけれど、平穩ならず、必(ズ)誤字なる事うつなし、〉十(ノ)卷に、外耳見筒戀牟紅乃末採花乃色不出友《ヨソノミニミツヽヲコヒムクレナヰノウレツムハナノイロニデズトモ》、○年爾不忘《トシニワスレズ》は、年中不v忘といふ意にて、不v忘間の久しき謂なり、すべて年に戀(フ)、年にしぬぶなど云は、一年にわたるを云ことなればなり、○大御歌(ノ)意は、今までは、此(ノ)宅を、たゞ外目にのみ見つゝ在(リ)來りしを、今かく入居て見たれば、甚興ありておもしろければ、今よりのち、年中久しく忘れずに、此(ノ)宅のことの慕はれむか、さても樂しや、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタ》。太上天皇御製《オホキスメラミコトノオホミウタ》。
 
製(ノ)字、舊本には歌とあり、今は古寫小本に從つ、
 
4270 牟具良波布《ムグラハフ》。伊也之伎屋戸母《イヤシキヤドモ》。大皇之《オホキミノ》。座牟等知者《マサムトシラバ》。玉之可麻思乎《タマシカマシヲ》。
 
歌(ノ)意は、大皇の幸《イデサマ》むものと、兼て知《シラ》ましかば、葎蔓(ヒ)わたれる賤しき宿にはあれども、掃ひ清めて、玉敷滿(テ)て待ましものを、不意《ユクリナク》いでませるによりて、かくはえなくもてなし得るが、かたじけなく侍る、となり、右の御製に和へ奉る心なり、六(ノ)卷に、豫公來座武跡知麻也婆門爾屋戸(266)爾毛玉敷益乎《アラカジメキミキマサムトシラマセバカドニヤドニモタマシカマシヲ》、十一に、念人將來跡知者八重六倉覆庭爾珠布益乎《オモフヒトコムトシリセバヤヘムグラオホヘルニハニタマシカマシヲ》、十八に、此(ノ)左大臣、保里江爾波多麻之可麻之乎大皇乎美敷禰許我牟登可年弖之里世婆《ホリエニハタマシカマシヲオホキミノミフネコガムトカネテシリセバ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左大臣橘卿《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノマヘツキミ》。
 
4271 松影乃《マツカゲノ》。清濱邊爾キヨキハマヘニ《》。玉敷者《タマシケバ》。君伎麻佐牟可《キミキマサムカ》。清濱邊爾《キヨキハマヘニ》。
 
清濱邊《キヨキハマヘ》は、或説に、此(ノ)左大臣、井手《ヰデ》に住ひ給へれば、井手(ノ)左大臣と名に呼(ヒ)來れり、さるやり水のほとりを、濱邊《ハマヘ》とはいへるなり、と云り、○歌(ノ)意は、この松陰の清き濱邊に、玉敷滿てあらば、大皇の繼て幸し給ひなむか、となり、終(ノ)句を打かへしいへるは、慇懃《ネモゴロ》に念ふ心をあらはせる、古歌のすがたなり、此(ノ)歌は、左大臣(ノ)歌をうけてよめり、大和物語に、さゞれなみまなくも岸をあらふなり汀きよきは君とまれとか、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右大辨藤原八束朝臣《ミギノオホキオホトモヒフヂハラノヤツカノアソミ》。
 
八束(ノ)朝臣は、傳三(ノ)卷に出しつ、
 
4272 天地爾《アメツチニ》。足之照而《タラハシテリテ》。吾大皇《ワガオホキミ》。之伎座婆可母《シキマセバカモ》。樂伎小里《タヌシキヲサト》。
 
足之照而は、若(シ)は照足之而とありしが、錯《マギ》れたるにはあらずや、テリタラハシテ〔七字右○〕とこそ、あらまほしけれ、○之伎座婆可母《シキマセバカモ》は、即(チ)左大臣(ノ)宅に、天皇の御在せばにや、嗚呼《アハレ》さても樂しきと、つづく意なり、可は疑辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○小里《ヲサト》は、即(チ)その宅地をさしていへり、小《ヲ》は、小泊瀬《ヲハツセ》、小(267)筑波《ヲツクハ》など云類にて、そへていふ詞なるべし、○歌(ノ)意は、天地の極み、普く御威光《ミヒカリ》の輝たらはせる我(ガ)大王の降臨《オホマシ》ませる、其(ノ)御徳によりてか、殊更に此(ノ)里の樂しくおもはるゝならむ、嗚呼さても尊や、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。少納言大伴宿禰家持《スナキモノマヲスツカサオホトモノスクネヤカモチ》。【未奏。】
 
二十五日《ハツカマリイツカノヒ》。新嘗會肆宴《ニヒナヘマツリノトヨノアカリリニ》。應《ウケタマハル》v詔《ミコトノリ》歌六首《ウタムツ》。
 
二十五日、新嘗會は、四時祭式下に丁一月、新嘗祭奠2幣(ヲ)案上(ニ)1神三百四座、(並大、)社一百九十八所、座別(ニ)云々、前一百六座、座別(ニ)云々、右中(ノ)卯(ノ)日、於2此(ノ)官齋院(ニ)1官人行(ヘ)v事(ヲ)云々、と見えて、中(ノ)卯(ノ)日に行(ハ)れけるとおぼゆるに、或説に、續紀を考(フ)るに、(十月甲戌朔、十二月癸酉朔、前後を以て按(フ)るに、十一月朔は、癸卯甲辰のうちなり、)二十五日は、卯にしても、辰にしても、終のなり、上古と中古とたがへるか、此(ノ)集の頃まで、始中終のさだはなかりけるにや、といへり、今按(フ)に、二(ノ)字は、若(シ)は衍《アヤマリ》にて、十五日にはあらざるか、十一月朔を癸卯と見るときは、十五日は丁巳なり、おほよそ新嘗會は、中(ノ)寅(ノ)日より事はじまりて、卯辰兩日、まさしく奠幣ありて、巳(ノ)日五位以上に宴を賜はり、午(ノ)日は、職事六位已下に宴を賜りしとおぼえたればなり、なほ考(フ)べし、○新嘗會は、此は即(チ)天平勝寶四年に行はれけるにて、毎年十一月の新甞祭の事なり、(踐祚大甞には非ず、但し後(ノ)世には、踐詐大甞祭をば、大甞と云、毎年行はるゝをば、新甞と云て分てれども、古(ヘ)は大甞、新甞と(268)云名目の差《カハリ》なし、いでその別なかりしことをいはむに、まづ古事記上(ツ)卷に、天照大御神云々、聞2看大甞1、とある、その同事を書紀には新甞と書し、同紀清寧天皇(ノ)卷に、同度のを、前には大甞、後には新甞と書き、又皇極天皇(ノ)踐祚大甞をも、新甞としるされ、又次に引(ク)神祇令にも、踐祚のをも、毎年のをも、共に大甞と書れ、北山抄にも、踐祚大甞祭、毎季大甞祭、とあるなどを思ふべし、)さてこれをば、ニヒナヘマツリ〔七字右○〕と訓べし、古事記下(ツ)卷、雄略天皇(ノ)條、三重(ノ)※[女+采]が歌、また太后の御歌に、爾比那閇夜《ニヒナヘヤ》、とある、これ正しき訓の據なり、(十四東歌に、多禮曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和我世乎夜里※[氏/一]伊波布許能戸乎《タレソコノヤノトオソブルニフナミニワガヤヲヤリテイハフコノトヲ》、とあるは、爾比那閇都《ニヒナヘ》を、東語にかくいへるなり、本居氏、新甞を、書紀にはニハノアヒ〔五字右○〕とも、ニハナヒ〔四字右○〕とも、ニハナヘ〔四字右○〕とも、ニヒナメ〔四字右○〕とも、ニヒヘ〔三字右○〕とも、ニハヒ〔三字右○〕とも、さま/”\に訓を附たれども、皆正しからず、といへり、)ニヒナヘ〔四字右○〕とは、新之饗《ニヒノアヘ》の約りたるなり、其は彼には、もはら朝家の祭式となれることなれど、その元(ト)は、然のみにあらず、貴賤なべて爲(シ)事にて、其は神祇にも奉り、人にも饗(ヘ)自《ミラ》も食(フ)》わざにてありしこと、十四下總(ノ)國の歌に、爾保杼里能可豆思加和世乎爾倍須登毛曾能可奈之伎乎刀爾多※[氏/一]米夜母《ニホドリノカヅシカワセヲニヘストモソノカナシキヲトニタテメヤモ》、とあるにつきて、いへるがごとし、(爾閇《ニヘ》は、即(チ)新之饗《ニヒノアヘ》の約りたるなり、)かゝれば新穀を以て饗するより、起《ハジマ》りたる稱なること知べし、さてやゝ後に、朝家の祭式となれるより、甞(ノ)字をば書たるなり、(ナヘ〔二字右○〕に云を、甞(ノ)字の義にかけては見べからず、)さるは漢土にては、嘗を秋社祭名とせる(269)故に、此(ノ)字を借たるなるべし、(本居氏云、甞(ノ)字を書は、しばらく朝家のニヘ〔二字右○〕に付て借たるなり、必しも此(ノ)字になづむべからず、又大甞、新甞は、十一月に行はせ給ふことなれども、秋に依(レ)る事なる故に、此(ノ)字をば書なり、と云る如し、さて大爾閇《オホニヘ》と云は、即大新饗《オホニヒナヘ》と云ことにて、大《オホ》は尊みて添たる言、新《ニヒ》は新穀の義なること、上にことわれるごとし、續紀廿六(ノ)詔には、大新甞ともあり、)職員令義解に、大甞(謂甞2新穀(ヲ)1以祭2神祇(ヲ)1也、朝者諸神之相甞祭り、夕者供2新穀(ヲ)於至尊1也、)神祇令義解に、凡大甞者、毎v世一度、國司行v事(ヲ)、以外毎年所司行v事、(謂所司者、在京諸司預2祭事1者也、)
 
4273 天地與《アメツチト》。相左可延牟等《アヒサカエムト》。大宮乎《オホミヤヲ》。都可倍麻都禮婆《ツカヘマツレバ》。貴久宇禮之伎《タフトクウレシキ》。
 
歌(ノ)意は、天地と共に長く久しく、大御代の相榮え坐むがためと、新甞大宮を造り仕奉れば、貴く歡しき、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大納言巨勢朝臣《オホキモノマヲスツカサコセノアソミ》。
 
巨勢(ノ)朝臣は、奈※[氏/一]麻呂なり、傳十七(ノ)上に委(ク)云り、
 
4274 天爾波母《アメニハモ》。五百都綱波布《イホツツナハフ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。國所知牟等《クニシラサムト》。五百都都奈波布《イホツツナハフ》。
 
天爾波母《アメニハモ》は、天《アメ》は、次に本居氏(ノ)説を引て云る如し、爾波《ニハ》は、他に對へていふ辭、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○五百都綱波布《イホツツナハフ》、本居氏云、綱波布《ツナハフ》は、如何なるにか、續紀十九に、聖武天皇(ノ)御母の謚を、千尋葛藤高知天宮姫《チヒロツナタカシルアマツミヤヒメノ》尊、と奉りたまふ、是も葛藤は、天(ツ)宮によれることなり、これに因て思へば、天《フメ》と(270)は、新甞宮の屋根を賀て云るにて、同じことならむ、(古事記傳に、登陀流天之御巣《トダルアマノミス》云々、天之《アマノ》と云は、今(ノ)世に、竈(ノ)上の炊烟《ケブリ》のかゝる處を、阿麻《アマ》と云て、尼《アマ》の音の如く呼ぶ、其(レ)にや、とあり、其(ノ)天《アマ》とは別か、)中山(ノ)嚴水、此《コ》はかりに造れる宮なれば、屋根は、たるき、えつりなどは用ひずして、多くの綱《ツナ》を縱横《タテヨコ》に引延(ヘ)て、その上を、假(リ)にかや以て取ふけるにや、旅の假廬なども、古(ヘ)はしかせしにこそ、さて今の俗、殿中ならで、猿樂芝居などする、くも天井と云ものをおもふに、是ももとは鋼延(ヘ)して、その上をとりふけるが、その綱引(キ)はへたる形の、蜘蛛のゐに似たれば、くも天井とはいひ傳へしにや、さらば古(ヘ)より習ひ傳へしことにて、即(チ)こゝの五百都綱《イホツツナ》といへる、なごりなるべし、結(ヒ)固めたる綱ならば、波布《ハフ》とはいふべきに非ず、されば此(ノ)綱《ツナ》は、假宮の屋根の料に、引はへたるを云こと著し、大嘗會標引の事、本朝世記にも見えたり、こゝに引べし、五百津綱延《イホツツナハフ》は、即(チ)この標のことなるべし、と云り、猶よく考(フ)べし、神代紀一書に、汝(ガ)應v住日隅(ノ)宮者、今當2供造1、即以2千尋栲繩1、結2百八十紐1、顯宗天皇(ノ)紀室壽に、築立稚室葛根《ツキタツルワカムロツナネ》、築立柱《ツキタツルハシラ》、大殿祭(ノ)詞に、此乃敷坐大宮地波《コノシキマスオホミヤトコロハ》、底津磐根乃極美《ソコツイハネノキハミ》、下津綱根《シタツツナネ》云々、出雲風土記に、五十足天(ノ)日栖(ノ)宮之、縱横御量、千尋栲綱持而、百八十結結下而、此(ノ)天(ノ)御量持而、所v造2天(ノ)下1、天神之宮造奉(ムト)請而云々、などあるを思ふに、上古の殿造は、大宮をはじめ、すべて多くの綱もて結(ヒ)堅めしこと、百八十結と云ことの多きもて、そのさましるべし、さてやゝ後に、柱《ハシラ》、桁《ケタ》、梁《ウツハリ》など、きはやかに構(ヘ)作り、削(リ)成(ス)世となりても、(271)なほ新甞宮は、上古のさまを思ひて、多くの綱を用ひしことなるべし、さらば結(ヒ)因めたる綱ならずともいふべからず、引延て結堅むるを、波布《ハフ》と云まじきにもあらず、さて百八十結《モヽヤソムスビ》と云も、五百都綱波布《イホツツナハフ》と云も、實は同じことなるべし、〔頭註、【綱事於延喜式可考、】〕○歌(ノ)意は、萬世に長(ク)久く、國しろしめさむと云|瑞《シルシ》に、新甞宮の屋根の上には、五百箇綱延《イホツツナハフ》ならむ、さても尊や歡しや、と五百箇の祝言を以て、新甞宮を賀(キ)申せるなるべし、○舊本、此歌の下に、似2古歌1而未詳の六字あり、最後人の書加へなること著ければ、削去つ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。式部卿石川年足朝臣《ノリノツカサノカミイシカハノトシタリノアソミ》。
 
年足は、續紀に、天平十一年六月甲申、賜2出雲(ノ)守從五位下石川(ノ)朝臣年足(ニ)※[糸+施の旁]三十疋、布六十端、正税三萬束(ヲ)1、賞2善政(ヲ)1也、十二年五月庚子、授2從五位上(ヲ)1、十五年五月癸卯、授2正五位下(ヲ)1、十六年九月甲戌、爲2東海道(ノ)巡察使(ト)1、十八年四月己酉、爲2陸奥守(ト)1、同月癸卯、授2正五位上(ヲ)1、九月己巳、爲2春宮(ノ)員外(ノ)亮(ト)1、十一月壬午、爲2兼左中辨(ト)1、十九年正月丙申、授2從四位下(ヲ)1、三月丙戌、爲2春宮(ノ)大夫(ト)1、勝寶元年七月甲午、授2從四位上(ヲ)1、八月辛未、式部(ノ)卿從四位上石川(ノ)朝臣年足爲2兼大弼(ト)1(紫微)、十一月己酉、八幡託宣向v京、甲寅、遣2參議從四位上石川(ノ)朝臣年足云々等(ヲ)1、以爲2迎神使(ト)1、三年四月丙辰、遣2參議左大辨從四位上石川(ノ)朝臣年足等(ヲ)1、奉2幣帛(ヲ)於伊勢大神宮(ニ)1、五年九月乙丑、授2從三位(ヲ)1、爲2太宰(ノ)帥1、寶宇元年六月壬辰、爲2神祇(ノ)伯(ト)1、同日爲2兵部(ノ)卿(ト)1、神祇(ノ)伯如v故(ノ)、八月庚辰、爲2中納言(ト)1、兵部(ノ)卿神祇(ノ)伯如v故(ノ)、二年八月(272)庚子朔、授2正三位(ヲ)1、三年丙辰、正三位中納言兼文部卿神祇(ノ)伯勲十二等石川(ノ)朝臣奏曰云々、伏乞作2別武1、與2律令1並行、四年正月丙寅、爲2御史大夫(ト)1、五年十月壬戌、賜2稻四萬束(ヲ)1、六年九月乙巳、御史大夫正三位兼文部(ノ)卿神祇(ノ)伯勲十二等石河(ノ)朝臣年足薨(ス)、時年七十五、詔(シテ)遣2攝津(ノ)大夫從四位下佐伯(ノ)宿禰今毛人、信部(ノ)大輔從五位上大伴(ノ)宿禰家持1、吊賻之、年足者、後(ノ)岡本(ノ)朝、大臣大紫蘇我(ノ)臣牟羅志(ガ)曾孫、平城(ノ)朝、左大辨從三位石足之長子也、率性廉勤、習2於治體(ニ)1起v家(ヲ)、補2少判事1、頻(ニ)歴2外任(ヲ)1、天平七年、授2從五位(ヲ)1、任2出雲(ノ)守(ニ)1、視v事數年、百姓安之、聖武皇帝善之、賜2※[糸+施の旁]三十疋、布六十端、當國(ノ)稻三萬束(ヲ)1、九年、至2從四位兼左中辨(ニ)1、拜2參議(ヲ)1、勝寶五年、授2從三位(ヲ)1、累(ニ)遷(テ)至2中納言兼文部(ノ)卿神祇(ノ)伯1、公務之閑、唯書是|悦《翫イ》、寶字二年、授2正三位(ヲ)1、轉2御史大夫(ニ)1、時勅2公卿(ニ)1各言2意見(ヲ)1、仍上2便宜1、作2別式二十卷(ヲ)1、各以3其政繋2於本司(ニ)1、雖v未2施行(ハ)1、頗有2據用(ルコト)1焉、と見えたり、文政三年庚辰三月廿六日、攝津(ノ)國島上(ノ)郡眞上(ノ)郷光徳寺村、莊屋、田中六右衛門と云ものゝ領《モタ》る地より、年足朝臣の墓誌を掘出せり、その墓誌(ニ)云、武内宿禰命子、宗我石川宿禰命十世孫、從三位行左大辨石川石足朝臣長子、御史大夫正三位兼行神祇伯年足朝臣、當平城宮御宇天皇之世、天平寶字六年、歳次壬寅九月内子朔乙巳、春歌七十有五、薨2于京宅1、以十二月乙巳朔壬申、葬2于攝津國島上郡白髪郷酒垂山墓1禮也、儀形百代、冠2蓋千年1、夜臺荒寂、松柏□□、嗚呼哀哉、とあり、松柏の下の闕たる二字は、含煙とありしなるべし、といへり、
 
(273)4275 天地與《アメツチト》。久萬※[氏/一]爾《ヒサシキマデニ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》。黒酒白酒乎《クロキシロキヲ》。
 
黒酒白酒乎《クロキシロキヲ》、續紀廿六(ノ)詔に、由紀須伎二國乃獻禮留黒紀白紀能神酒乎《ユキスキノフタクニノタテマツレルクロキシロキノミキヲ》云々、宇治左大臣頼長公の台記の、康治元年の大嘗會別記に載られたる、中臣壽詞に、悠紀主基乃黒木白木乃大御酒遠《ユキスキノクロキシロキノオホミキヲ》云々、(なほ白紀黒紀のこと、踐祚大嘗祭式、造酒式、宮内式、江次第十卷、新嘗會、節會次第等にも見ゆ、北山抄亦同じ、)本居氏云、黒紀白紀《クロキシロキ》は、色の黒さと白きと、二種の酒なり、上(ツ)代の酒の名にぞありけむ、其|造法《ツクリザマ》を考るに、儀式に、以2藥灰1、和2御酒(ニ)1、五斗和2内院白黒二酒(ニ)1、五斗和2大多米院白黒二酒(ニ)1、と見えたる、藥灰といふ物は、灰燒《ハヒヤキ》とて、此(ノ)灰を燒く役人有て、山に入て燒得ることなり、さて件の文に依に、此藥灰、白酒にすると、黒酒にするとの二種有(リ)て、各其を和《アハ》すに依て、其(ノ)色白と黒とになるごと、きこえたり、然るを造酒式には、新甞白黒二酒料云々、其(ノ)造(ルコト)v洒者云々、熟(シテ)後以2久佐木(ノ)灰三升(ヲ)1和2合一甕(ニ)1、是(ヲ)稱2黒貴《クロキト》1、其(ノ)一甕(ノ)不(ル)v和、是(ヲ)稱2白貴《シロキト》1、とあるは、かの儀式の、黒白共に灰を和《アハ》すと異なり、式の如きは、白酒は、灰は和《アハ》さざる、尋常の酒と聞えたり、世々を經るまゝに變りぬるにや、又中原(ノ)康富(ノ)記には、二酒共に醴洒なりとして、白(キ)者自(ラ)其(ノ)色也、黒(キ)者上(ヘニ)聊振2烏麻粉《クロゴマヲ》1、といへるは、又後の事にて、いさゝか其(ノ)色を見せたるのみなり、〔頭註、【弘仁式、新嘗會白黒二酒料云々、熟後以久佐木灰三升和合一甕|口《是歟》方稱黒貴、其一甕不和、是稱白貴、】〕○歌(ノ)意は、天地と共に、長く久しく萬代までに、黒酒白酒の御洒を造り、奉仕むぞ、となり、
 
(274)右一首《ミギノヒトウタハ》。從三位文屋智奴麻呂眞人《ヒロキミツノクラヰフムヤノチヌマロノマヒト》。
 
智奴麻呂は、智努(ノ)王のことにして、傳十七(ノ)上に、委(ク)云り、續紀に、勝寶四年八月乙丑、從三位智奴(ノ)王等(ニ)賜2文室(ノ)眞人(ノ)姓(ヲ)1、と見ゆ、後に名を淨三と改められしこと、既くいへり、さて續紀には、智努とのみあるを、こゝに麻呂(ノ)字加りたるはいかゞ、もし續紀には、二字を脱せるにもあらむ、
 
4276 島山爾《シマヤマニ》。照在橘《テレルタチバナ》。宇受爾左之《ウズニサシ》。仕奉者《ツカヘマツラナ》。卿大夫等《マヘツキミタチ》。
 
本(ノ)句は、此(ノ)上の長歌にも見えたり、但し彼處には、安可流橘《アカルタチバナ》とあり、こゝは照在と書たれば、なほ字のまゝに、テレル〔三字右○〕と訓べし、大嘗祭式に、阿波(ノ)國所v獻(ル)云々、乾羊蹄蹲※[※[氏/一]+鳥]橘子各十五籠云々、とあれど、それまではなく、たゞ非時にめでたき果なるが故に、賀て新嘗會に用ひしなるべし、○仕奉者は、者は名(ノ)字の寫誤なるべし、(七卷に、吾妹子之赤裳裙之將染※[泥/土]今日之※[雨/脉]霖爾吾共所沾名《ワギモコガアカモノスソノヒヅチナムケフノコサメニアレサヘヌレナ》、とある歌の名(ノ)字も、舊本には者と作(キ)、一本には名と作り、これ名を者に誤れる例なり、)ツカヘマツラナ〔七字右○〕と訓べじ、仕奉名《ツカヘマツラナ》は、將《ム》v奉《マツラ》v仕《ツカヘ》と云ことを、急くいふ時の言なり、既く委(ク)註り、(略解に、者は爲の誤にて、ツカヘマツラス〔七字右○〕か、といへるは非ず、又本居氏の、者は布の誤にて、ツカヘマツラフ〔七字右○〕ならむか、といへるもわろし、すべてかうやうに、卿大夫等《マヘツキミタチ》とやうに、いひ絶たるは、卿大夫等余《マヘツキミタチヨ》と呼かけ誘《イザナ》ふ意のある言(ヒ)樣にて、見賜《ミタマ》へ吾君《ワギミ》、いで來吾妹子《コワギモコ》、船出《フナデ》せむ子等《コラ》など云も、みな吾君余《ワギミヨ》、吾妹子余《ワギモコヨ》、子等余《コラヨ》、と呼(ビ)誘ふ意にて、今と同例なるを思ふべし、なほ此(ノ)事は(275)既に委(ク)辨(ヘ)云り、さればこゝは、マツラス〔四字右○〕にても、マツラフ〔四字右○〕にても、終(ノ)句に照應《カナ》はねばわろし、されば決《キハメ》て余が考の如く、名なりけむを知べし、)○歌(ノ)意は、島山に照光《テリアカ》れる橘を、髻華《ウズ》に挿《サシ》て、今日の新嘗宮に奉《マツラ》v仕《ツカヘ》む、いざ卿大夫よ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右大辨藤原八束朝臣《ミギノオホキオホトモヒフヂハラノヤツカノアソミ》。
 
4277 袖垂而《ソテタレテ》。伊射吾苑爾《イザワガソノニ》。※[(貝+貝)/鳥]乃《ウグヒスノ》。木傳令落《コヅタヒチラス》。梅花見爾《ウメノハナミニ》。
 
袖垂而《ソテタレテ》は、無事安らかに、樂み遊ぶさまを、いふなるべし、されば此(ノ)句は、終(ノ)句へつゞけて意得べし、○伊射吾苑爾《イザワガソノニ》は、いひさして、言を含ませたるなり、率而《ヰテ》將《ム》v行《ユカ》と云詞を加へて意得べし、○※[(貝+貝)/鳥]乃《ウグヒスノ》云々、※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒス》は、時にかなはぬ物なれど、梅をいはむ縁《チナミ》に、設けたるのみなり、十(ノ)卷に、何時鴨此夜之將明※[(貝+貝)/鳥]之木傳落梅花將見《イツシカモコノヨノアケムウグヒスノコヅタヒチラスウメノハナミム》、○歌(ノ)意は、袖垂て無v事|安樂《ヤスラ》に梅(ノ)花を見に、率《イザ》吾(ガ)苑に引率て行む、といふにて新嘗祭式の事執(リ)竟て、肆宴《トヨノアカリ》きこしめしゝ後、永手(ノ)朝臣の私宅へ、諸臣を誘《イザナ》ふ意なるべし、(契冲、江次第十(ノ)卷、新嘗會(ノ)装束次第を引て、此(ノ)日の興に、舞臺の四角三面に、梅柳を、樹《タテ》らるゝことのあれば、梅をよめるなるべし、といへれど、吾苑爾《ワガソノニ》とよまれたれば、私宅へ誘るゝこと、異議なかるべきにや、)次下の家持(ノ)卿の歌に、相照して考(フ)べし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大和國守藤原永手朝臣《オホヤマトノクニノカミフヂハラノナガテノアソミ》。
 
永手(ノ)朝臣、(手(ノ)字、舊本に、平と作るは誤なり、今は拾穗本に從つ、)續紀に、天平九年九月己亥、從六(276)位上藤原(ノ)朝臣永手(ニ)授2從五位下(ヲ)1、勝寶元年四月甲午朔、授2從四位下(ヲ)1、二年正月乙巳、授2從四位上(ヲ)1、四年十一月乙巳、爲2大倭(ノ)守(ト)1、六年正月壬子、授2從三位(ヲ)1、寶字元年四月辛巳、中務(ノ)卿藤原(ノ)朝臣永手等言(シテ)曰云々、五月丁卯、爲2中納言(ト)1、年正月壬子、爲2兵部(ノ)卿(ト1、八年九月乙巳、授2正三位(ヲ)1、神護元年正月己亥、授2勲二等(ヲ)1、九月癸丑、以2從二位藤原(ノ)朝臣永手(ヲ)1、爲2御装束司(ノ)長官(ト)1、以v欲v幸(ムト)2紀伊(ノ)國1也、二年正月甲子、以2大納言從二位藤原(ノ)朝臣永手(ヲ)1爲2右大臣(ト)1、同月發酉、幸2右大臣(ノ)第(ニ)1、授2正二位(ヲ)1云々、十月壬寅、詔(シテ)曰、右大臣藤原(ノ)朝臣|遠婆《ヲバ》左大臣|乃位授賜比治賜《ノクラヰサヅケタマヒヲサメタマフ》、神護景雲三年二月壬寅、幸2左大臣(ノ)第(ニ)1、授2從一位(ヲ)1、五月乙酉、賜2稻一十萬束(ヲ)1、寶龜元年六月辛丑、攝2知(シム)近衛外衛左右(ノ)兵衛(ノ)事(ヲ)1、八月癸巳、天皇崩(シタマフ)云々、左大臣從一位藤原(ノ)朝臣永手受2遺宣(ヲ)1曰云々、十月己丑朔、授2正一位(ヲ)、十二月乙未、賜2山背(ノ)國相樂(ノ)郡出水(ノ)郷山二百町(ヲ)1、庚戌、贈太政大臣(ノ)功封依v舊(ニ)賜之、二年二月癸卯、左大臣暴(ニ)病(セリ)、己酉、左大臣正一位藤原(ノ)朝臣永手薨(ス)、時年五十八、奈良(ノ)朝、僧太政大臣房前之第二子也、母(ヲ)曰2正二位牟漏(ノ)王(ト)1、以2累世相門(ナルヲ)1起v家(ヲ)授2從五位下(ヲ)1、勝寶九歳、至2從三位中納言兼式部(ノ)卿(ニ)1、寶字八年九月、任2大納言1授2從二位(ヲ)1、神護二年、拜2右大臣(ニ)1、授2從一位(ヲ)1、居二歳、轉(ス)2左大臣(ニ)1、寶龜元年、高野(ノ)天皇不※[余/心](ノ)時、道鏡、因2播籍(ノ)恩1、私勢振2内外(ニ)1云々、定v策遂(ニ)安2社稷(ヲ)1者、大臣之力居v多焉、及v薨(ニ)天皇甚痛惜(ミタマヘリ)之、とありて、光仁天皇の、深くいたみをしませ給へる詔も見えたり、
 
4278 足日木乃《アシヒキノ》。夜麻之多日影《ヤマシタヒカゲ》。可豆良家流《カヅラケル》。宇倍爾也左良爾《ウヘニヤサラニ》。梅乎之奴波牟《ウメヲシヌハム》。
 
(277)夜麻之多日影《ヤマシタヒカゲ》は、山下日蔭《ヤマシタヒカゲ》にて、其(ノ)日蔭草は、もはら山間に生るものなれば、山下とはいへるなるべし、古事記に、天(ノ)香山(ノ)之|天之日影《アメノヒカゲ》、書紀には、蘿と書て、此云2比軻礙《ヒカゲト》1と註し、古語拾遺には、蘿葛者|比可氣《ヒカゲ》、とも見えたるものにて、なほ此(ノ)草の事は、委く品物解に載(ク)、さて新嘗祭に預る人、小忌衣を著、日蔭を縵にかくること、上古よりの禮式なり、齋宮式、供2新甞(ニ)1料物に、日陰二荷とも、日影葛二荷とも見え、其(ノ)他北山抄、公事根源等にも、其(ノ)趣見えたり、かくて和名抄に、祭祀(ノ)具には、蘿蔓(ハ)、比加介加都良《ヒカゲカヅラ》、と見え、苔(ノ)類には、蘿(ハ)比加介《ヒカゲ》、と別に載たるにて思ふに、此(ノ)草、常には日蔭《ヒカゲ》とのみ云を、縵《カヅラ》に用る方につきては、日蔭縵《ヒカゲカヅラ》とぞ稱《イヒ》けむ、さて後々は此(ノ)草を用ることやみて、其(ノ)代(リ)に、絲をくみて用るを、日蔭の絲とぞ云める、○可豆良家流《カヅラケル》は、縵に爲《セ》るといふ意なり、此(ノ)言の事、上に云り、○歌(ノ)意は、日蔭縵をかざして、肆宴にあづかれる今日なれば、何一(ツ)あかぬことはあるまじきを、國(ノ)守のしかのたまへば、此(ノ)上に、又更に梅(ノ)花を賞《シノハ》むか、と云にて、上の國(ノ)守の歌に、和へられたるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。少納言大伴宿禰家持《スナキモノマヲスツカサオホトモノスクネヤカモチ》。
 
二十七日《ハツカマリナヌカノヒ》。林王宅《ハヤシノオホキミノイヘニテ》。餞《ウマノハナムケセル》2之|但馬按察使橘奈良麿朝臣《タヂマノアゼチシタチバナノナラマロノアソミヲ》1宴歌三首《ウタミツ》。
林(ノ)王は、傳十七(ノ)上に委(ク)云り、○按察使は、續紀に、養老三年秋七月庚子、始置2按察使(ヲ)1云々、其(ノ)所v管(スル)國司、若有3非違及侵2淫(スルコト)百姓(ヲ)1、則按察使|親自《ミヅカラ》巡省(シテ)、量(テ)v状黜陟(ス)、其(ノ)徒罪以下(ハ)斷決(シ)、流罪以上(ハ)録(テ)v状奏上(セヨ)、(278)若有2聲教條《々》修(リ)、部内肅(ミ)清(キコト)1、具(ニ)紀(テ)2善最1言上(セヨ)、丙午、補(ス)2按察使(ノ)典(ヲ)1、四年三月己巳、改2按察使(ノ)典(ヲ)1號2記事(ト)1、乙亥、按察使向v京、及巡2行屬國1之日、乘v傳(ニ)給v食(ヲ)、五年六月乙酉、太政官奏言(ス)、國郡(ノ)官人、漁2獵(シテ)黎元(ヲ)1、擾2亂朝憲(ヲ)1、故置2按察使(ヲ)1、糺2弾(シ)非違(ヲ)1、肅(シテ)2清(シム)※[(女/女)+干]詐(ヲ)1、既定2官位(ヲ)1、宜v有2料禄1、請以2按察使(ヲ)1准2正五位(ノ)官(ニ)1、賜(ハラム)2禄并公廨田六町、仕丁五人(ヲ)1、記事(ヲ)准(テ)2正七位(ノ)官(ニ)1、賜(ハラム)2禄并公廨田二町、仕丁二人(ヲ)1、並(ニ)折2留(テ)調物(ヲ)1便(ニ)給(ム)之、詔(シテ)曰、朕之肱股、民之父母、獨在2按察(ニ)1、寄重(ク)務繁(シ)、與2群臣1異(ナリ)、加2禄一倍(ヲ)1、便以2當土(ノ)物(ヲ)1、准度(テ)給(ヘ)之云々、○奈良麻呂は、諸兄公の第一男なり、傳、六(ノ)卷(ノ)下に出せり、
 
4279 能登河乃《ノトガハノ》。後者相牟《ノチハアハメド》。之麻之久母《シマシクモ》。別等伊倍婆《ワカルトイヘバ》。可奈之久母在香《カナシクモアルカ》。
 
能登河乃《ノトガハノ》は、登《ト》と知《チ》と親《チカ》く通ふゆゑに、都我乃樹之繼《ツガノキノツギ》と連《ツヾ》くる類にて、後《ノチ》をいはむ料の枕詞に設けたるなり、十二に、能登瀬乃河之後將合《ノトセノカハノノチモアハム》、とあるも同じ、四(ノ)卷に、後瀬山之後毛將合君《ノチセノヤマノノチモアハムキミ》、又、後湍山後毛將相常《ノチセヤマノチモアハムト》、などもあり、此(ノ)河は、十(ノ)卷に、能登河之水底并爾光及爾《ノトガハノミナソコサヘニテルマデニ》、とある歌に註り、○後者相牟、ノチニハアハム〔七字右○〕と訓ては、末(ノ)句に應《カナヒ》がたければ、此(ノ)句の下に、雖v然など云詞を、姑く加へて意得べきにや、(契冲、後には相むをと、をの字をそへて心得べし、と云る、同じこゝろばえなり、)されど猶穩ならざるごと思はるれば、若(シ)は、牟は、常(ノ)字などの誤寫にはあらざるか、さらば、ノチハアハメド〔七字右○〕と訓べし、(かくするときは末(ノ)句へよく照(リ)合て、たしかにきこゆ、と余はおもふを、)○之麻之久母《シマシクモ》は、暫《シバラク》もといふに同じ、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
(279)右一首《ミギノヒトウタハ》。治部卿船王《ヲサムルツカサノカミフネノオホキミ》。
 
治部(ノ)卿船(ノ)王は、船(ノ)親王と申しゝを、後に諸王に下されて、隱岐(ノ)國に流《ハナ》たれ賜ひき、さてそれよりさき、寶字四年に、中務(ノ)卿になり賜ひて、治部(ノ)卿になられしことは、續紀に見えず、なほ傳六(ノ)卷下に、委(ク)出せり、
 
4280 立別《タチワカレ》。君我伊麻左婆《キミガイマサバ》。之奇島能《シキシマノ》。人者和禮自久《ヒトハワレジク》。伊波比底麻多卑《イハヒテマタム》。
 
君我伊麻左婆《キミガイマサバ》は、君が往(キ)給はゞ、といふ意なり、すべて伊座《イマス》は、往(キ)給ふと云意にも、來給ふと云意にも用《ツカ》ふ詞なり、(しかるを略解に、いますは、去《イニ》ますの略ぞ、と云るは、言の由(リ)來る所を知ぬ説にて、例のいみじきひがことなり、さるは、此(ノ)歌などにては、去《イニ》まさばの略としても、意は聞ゆれど、人の此方へ來れるをも、君を伊座《イマセ》てとやうに、いへることの多き、それをも去《イニ》ませての略ぞといはむに、通《キコ》ゆべきかは、すべて一偏につきて、古言を説むとするときは、推及して、解(ケ)がたきことぞ多かる、なほ此言の事は、さきに委(ク)云たり、)○之奇島《シキシマ》は、大和(ノ)國をさす、抑々|之奇島《シキシマ》といふは、古事記に、天國押波流岐廣庭《アメクニオシハルキヒロニハノ》天皇者、(欽明天皇)坐2師木島《シキシマノ》大宮(ニ)1、治2天下1也、と見え、書紀にも、同天皇(ノ)卷に、元年秋七月丙子朔己丑、遷2都(ヲ)倭(ノ)國磯城(ノ)郡|磯城島《シキシマニ》1、仍號爲2磯城島金刺《シキシマノカナサシノ》宮(ト)1、とありて、此(ノ)天皇の都の地(ノ)名より起《ハジマ》りて、遂におのづから大和一國の號となれるものなり、かく都し給ふ地の名の、一國の名となれるは、秋津島《アキヅシマ》は、孝安天皇の都の地(ノ)名なるが、後に大和(280)一國の名となれると、全(ラ)同例なり、たとへば、夜麻登《ヤマト》といふも、もと一國の號なるが、古(ヘ)もはら大和(ノ)國に都し給ひしから、轉りてひろく天(ノ)下の總號となれるが如し、なほ本居氏の國號考合(セ)見べし、○人者和禮自久《ヒトハワレジク》、本居氏云、中昔の物語書に、女めきたるを、女しくといへるは、今の俗言に、女らしくといふにあたりて、すべて某《ナニ》らしくと云は、めくといふに、いと近き意なり、さればこゝも、和禮自久《ワレジク》は、我らしくの意にて、大和國の人は、たれも/\、君を我(ガ)身のことらしく祝《イハヒ》て待むなり、續紀廿二(ノ)詔に、又此家自久母《マタコノイヘジクモ》、藤原(ノ)乃|卿等乎波《マヘツキミタチヲバ》、掛畏聖天皇御世重弖《カケマクモカシコキヒジリノスメラミコトノミヨカサネテ》、於母自伎人乃自門波《オモジキヒトノウドカドハ》、茲賜比上賜來流家奈利《メグミタマヒアゲタマヒクルイヘナリ》、とあるも、藤原氏をば、なべてみな仲麻呂が家らしく、同じことにおぼしめさるゝよしなり、といへり、かげろふの日記に、たゞ今は此(ノ)大夫を、人々しくてあらせ給へなどばかりを、申給へとかくにぞ云々、とあるも、人々らしくの意なり、枕册子に、こま犬しくとあるも、こま犬めくと云意なるを、合(セ)思ふべし、○歌(ノ)意、君が但馬へ立(チ)別れ往(キ)給はゞ、大和(ノ)國の人は、誰も誰も、君を我(ガ)身のことらしく、齋祷《イハヒノミ》て、還り來坐む日を、待つゝ居むぞ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右京少進大伴宿禰黒麻呂《ミギノミサトツカサノスナキマツリゴトヒトオホトモノスクネクロマロ》。
 
右京の右(ノ)字、舊本にはなし、今は官本、古寫本、古寫小本等に從つ、○黒麻呂、こゝの外に見えず、傳未(ダ)詳ならず、
 
(281)4281 白雪能《シラユキノ》。布里之久山乎《フリシクヤマヲ》。越由可牟《コエユカム》。君乎曾母等奈《キミヲソモトナ》。伊吉能乎爾念《イキノヲニモフ》。【左大臣換尾云。伊伎能乎爾須流《イキノヲニスル》。然猶喩曰。如前誦之也。】
 
布里之久《フリシク》は、零重《フリシク》にて、重《シキリ》に零(ル)意なり、○伊吉能乎爾念《イキノヲニモフ》は、生緒《イキノヲ》に思《モフ》にて、命にかけて思ふよしなり、○歌(ノ)意は、白雪の重《シキ》りに零(ル)山を、艱難《カラク》して、越往(キ)賜はむ君を、いかに思ひても、益《シルシ》なきことなるに、なほ得堪ずして、いとほしくあはれに、命にかけて、むざと思ふぞ、となり、時十一月の晦がたにして、山陰道に趣むとするによりて、雪ふかき山道を、思ひやられたるなり、○註の意は、左大臣のおぼしめすやう、尾(ノ)句|生之緒《イキノヲ》に念《モフ》は、あまり理に過たるやうなれば、生之緒《イキノヲ》に爲《ス》るとあらむかた、穩ならむと思而(シ)て、一旦しか改め換られしなるべし、さてふたゝび玩味《アヂハヒ》たまひて、なほもとのまゝに、念《モフ》といふかた、理さだかならむとおぼしかへして、猶|喩《サト》して、如v前(ノ)誦(ヨ)之、との給ひしなり、諸兄公は、奈良麻呂の父君なれば、同じく、この宴席に、連られ給ひしなるべし、(こゝの文などを見て、後人、萬葉集は、諸兄公の撰ぞなどいふ説は、出來しにや、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。少納言大伴宿禰家持《スナキモノマヲスツカサオホトモノスクネヤカモチ》。
 
五年正月四日《イツトセトイフトシムツキヨカノヒ》。於《ニテ》2治部少輔石上朝臣宅嗣家《ヲサムルツカサノスナキスケイソノカミノアソミイヘツグガイヘ》。宴歌三首《ウタゲスルウタミツ》。
 
五年は、天平勝寶五年なり、年號は、前にゆづりて除《ハブケ》るなり、さて件(リ)の林(ノ)王(ノ)宅餞宴歌三首より、上壬申年之亂平定以後歌二首までは、天平勝寶四年に作《ヨメ》る歌、或は古歌を傳(ヘ)誦たるを、同年(282)のかぎり聞て記され、此《コヽ》より卷末までは、同五年に作る歌を、記されたるなり、○宅嗣は、續紀に、勝寶三年正月己酉、正六位下石上(ノ)朝臣宅嗣(ニ)授2從五位下(ヲ)1、寶字元年五月丁卯、授2從五位上1、六月壬辰、爲2相摸(ノ)守(ト)1、三年五月壬午、爲2參河(ノ)守(ト)1、五年正月壬寅、爲2上總(ノ)守(ト)1、十月癸酉、爲2遣唐(ノ)副使(ト)1、六年三月庚辰朔、罷《ヤメラル》、七年正月王子、爲2文部(ノ)(式部也)大輔(ト)1、侍從如v故(ノ)、八年正月己未、爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、十月丙寅、授正五位上(ヲ)、爲2常陸(ノ)守1、神護元年正月己亥、授2從四位下(ヲ)1、二月己巳爲2中衛(ノ)中將(ト)1、常陸(ノ)守如v故、二年正月甲子、左大辨從四位上石上朝臣宅嗣爲2參議(ト)1、丁未、授2正四位下(ヲ)1、神護景雲二年正月乙卯、授2從三位(ヲ)1、十月甲子、式部(ノ)卿從三位石上(ノ)朝臣宅嗣(ニ)賜2太宰(ノ)綿四十屯(ヲ)1、爲v買2新羅交開物(ヲ)1也、寶龜元年九月乙亥、爲2太宰(ノ)帥(ト)1、二年、三月庚午、爲2式部(ノ)卿(ト)1、十一月乙巳、爲2中納言(ト)1、六年十二月甲申、賜2姓(ヲ)物部(ノ)朝臣(ト)1、以2其(ノ)情願(ヲ)1也、八年十月辛卯、爲2兼中務(ノ)卿(ト)1、十年十一月甲申、勅(ス)、中納言從三位物部(ノ)朝臣宅嗣、宜d改2物部(ヲ)1賜c石上(ノ)朝臣(ヲ)u、十一年二月丙申朔、爲2大納言(ト)1、天應元年四月癸卯、授2正三位(ヲ)1、六月辛亥、大納言正三位兼式部(ノ)卿石上(ノ)朝臣宅嗣薨(ス)、詔(シテ)贈2正二位(ヲ)1、宅嗣(ハ)、左大臣從一位麻呂之孫、中納言從三位弟麻呂之子也云々、勝寶三年、授2從五位下(ヲ)1、任2治部(ノ)少輔(ニ)1、稍(ク)遷2文部(ノ)大輔(ニ)1、歴2居(ス)内外(ニ)1、景雲二年、至2參議從三位(ニ)1、寶龜(ノ)初、出(テ)爲2太宰(ノ)帥(ト)1、居無v幾、遷2式部(ノ)卿(ニ)1拜2中納言(ヲ)1、賜2姓(ヲ)物部(ノ)朝臣(ト)1、以2其(ノ)情願(ヲ)1也、尋兼2皇太子(ノ)傅(ヲ)1、改(テ)賜2姓(ヲ)石上(ノ)朝臣(ト)1、十一年轉2大納言(ニ)1、俄(クアリテ)加2正三位(ヲ)1、宅嗣辭容閑雅(ニシテ)有v名2於時(ニ)1、値2風景山水(ニ)1、時把(テ)v筆(ヲ)而題(ス)之、自2寶字1後、宅嗣及淡海(ノ)眞人三船、爲2文人之首(ト)1、所v著詩賦數十首(アリ)、世多(ク)傳(ヘ)誦之云(283)云、薨時年五十三、時(ノ)人悼(メリ)之、
 
4282 辭繁《コトシゲミ》。不相問爾《アヒトハナクニ》。梅花《ウメノハナ》。雪爾之乎禮※[氏/一]《ユキニシヲレテ》。宇都呂波牟可母《ウツロハムカモ》。
 
辭繁《コトシゲミ》は、(辭は借(リ)字、)事繁きによりての意なり、○不相問爾は、アヒトハナクニ〔七字右○〕と訓べし、(アヒトハザルニ〔七字右○〕と訓るは、わろし、)さて客人に見《レ》v訪《トハ》たるに、又主人より、客人の方を訪は、相訪《アヒトフ》なり、たとへば、相思といふも、此方よりも、彼方よりも思ふをいひて、たゞ一方より思ふは、片思《カタオモヒ》なれば、不2相思1と云が如し、されば、此(ノ)一二(ノ)句の意は、吾(カ)事業の繁きによりて、訪(ハ)れし其方《ソナタ》を、此方より不v訪(ハ)間にといふなり、(略解に、まらうとも、あるじの人も、たがひに訪(ハ)ざりしほどにの意なりといへるは、いとまぎらはしき解(キ)樣なり、今日宅嗣の宅へ、訪(ヒ)來し人に對ひて、主人より、互に訪(ハ)ずとは、いふべき理なし、訪(ハ)ざりしといふときは、過《スギ》去し方のことを、今云詞なれば、理あるに似たれども、此(ノ)句、相問(ハ)ザルニ〔三字右○〕と訓ても、相問(ハ)ナクニ〔三字右○〕とよみても、現在をいふことにて、意違ふことなり、又上に相訪(ハ)ザリシニ〔四字右○〕と云時は、終(ノ)句、宇都呂比爾家利《ウツロヒニケリ》とか、宇都呂比爾家牟《ウツロヒニケム》とかなくては、首尾調はざることなるをや、)、○雪爾之乎禮※[氏/一]《ユキニシヲレテ》は、雪のふるに損《ソコナ》はれ傷《イタミ》て、と云なり、今按(フ)に、之乎留《シヲル》と云言(ノ)義(ハ)は、荒折《サビヲル》と云なるべし、(サビ〔二字右○〕はシ〔右○〕と切れり、)荒《サビ》は心荒《ウラサビ》など云|荒《サビ》にて、損《そこ》ね全《マタ》からぬを云言なればなり、(志奈由《シナユ》と云詞も、荒萎《サビナユ》の義なるべし、)新撰萬葉に、打吹丹秋之草木之芝折禮者郁子山風緒荒芝云濫《ウチフクニアキノクサキノシヲルレバウベヤマカゼヲアラシテフラム》、とあるも、荒折《サビヲル》ればと云義として、よく協《カナ》へること(284)なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)事業の繁きにほだされて、君を相訪はぎざ間に、其方の庭の梅(ノ)花が、雪に損《ソコナ》はれ傷《イタ》みて、うつろひなむか、もし傷みて後に、訪(ヒ)まゐらせなば、いかに口惜からまし、されば速く訪(フ)べきものぞ、嗚呼さても心がゝりや、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主人石上朝臣宅嗣《アロジイソノカミノアソミイヘツグ》。
 
4283 梅花《ウメノハナ》。開有之中爾《サケルガナカニ》。布敷賣流波《フフメルハ》。戀哉許母禮留《コヒヤコモレル》。雪乎待等可《ユキヲマツトカ》。
 
母(ノ)字、舊本に、爾と作るは誤なり、今は、古寫本、活字本、古寫小本等に從つ、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花の開たる中に、なほ含《フク》めるが交りたるは、花も心して、心ある人の見に來むを、待(チ)戀る故に、開出ずしてこもれるにてかあらむ、もしさらずば、雪(ノ)中にさけば、しをれやすきに依て、雪のふる時を過さむと、待をるにてもあらむか、とにかくに、未(ダ)うつろふ時には至らねば、早く見に來給へと、主人の歌にならひて、もよほしいざなふ意なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。中務大輔茨田王《ナカノマツリゴトノツカサノオホキスケマムタノオホキミ》。
 
茨田(ノ)王は、續紀に、天平十一年正月丙午、無位茨田(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十二年十一月甲辰、授2從五位上(ヲ)1、十六年二月乙未、遣2少納言從五位上茨田(ノ)王(ヲ)于恭仁(ノ)宮(ニ)1、取(シム)2驛鈴内外印(ヲ)1、十八年九月戊辰、爲2宮内(ノ)大輔(ト)1、十九十一月丙子、爲2越中(ノ)守(ト)1、とあり、中務(ノ)大輔にれしことは、未(ダ)考へず、
 
4284 新《アラタシキ》。年始爾《トシノハジメニ》。思共《オモフドチ》。伊牟禮※[氏/一]乎禮婆《イムレテヲレバ》。宇禮之久母安流可《ウレシクモアルカ》。
 
(285)伊牟禮※[氏/一]乎禮婆《イムレテヲレバ》は、伊《イ》は、そへことばにて、群而居者《ムレテヲレバ》なり、○歌(ノ)意かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大膳大夫道祖王《オホカシハデノツカサノカミミチノヤノオホキミ》。
 
道祖王は、ミチノヤノ〔五字右○〕王と訓べし、(略解に、神代紀に、岐神此云2布那斗能加微《フナトノカミト》1と有て、則(チ)道祖(ノ)神なれば、しか訓べし、といへるは、よしなし、和名抄に、風俗通(ニ)云、共工氏之子好2遠遊(ヲ)1、故其(ノ)死後以爲v祖(ト)和名佐倍乃加美《サヘノカミ》、と見えて、佐閇乃神《サヘノカミ》は、船戸(ノ)神の一名とはおもはるれど、道祖の字を牽合(セ)たるは、さらに船戸(ノ)神に由なきことなり、)天武天皇の御孫、新田部(ノ)親王の御子なり、續紀に、天平九年九月己亥、無位道祖王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、十年閏七月癸卯爲2散位(ノ)頭(ト)1、十二年十一月甲辰、授2從四位上(ヲ)1、勝寶八歳五月乙卯、太上天皇崩2於寢殿(ニ)1、遺詔(シテ)以2中務(ノ)卿從四位上道祖(ノ)王(ヲ)、爲2皇太子(ト)1、寶字元年三月丁丑、皇太子道祖(ノ)王、身居2諒闇(ニ)1、志在2淫縱(ニ)1、雖v加2教勅(ヲ)1、曾无2改(メ)悔(ルコト)1云々、是日廢2皇太子(ヲ)1、以v王(ヲ)歸v第(ニ)、七月戊申云々、又遣v兵(ヲ)圍2道祖(ノ)王(ヲ)於右京(ノ)宅(ニ)1、庚戌、分2遣(シ)諸衛(ヲ)1掩2捕(ヘ)逆黨(ヲ)1、更遣2出雲(ノ)守從三位百濟(ノ)王敬福、太宰(ノ)帥正四位下船(ノ)王等五人(ヲ)1、卒(テ)2諸衛(ノ)人等(ヲ)1、防2衛(シテ)獄囚(ヲ)1、拷掠窮問(セシム)、黄文(改2名(ヲ)多夫禮《タブレト》1、)道祖(改2名|麻度比《マドヒト》1、)云々等並(ニ)杖下(ニ)死、
 
十一日《トヲカマリヒトヒノヒ》。大雪落積《オホユキツモレルコト》。尺有二寸《ヒトサカマリフタキ》。因《カレ》述《ノブル》2拙懷《オモヒヲ》1歌三首《ウタミツ》。
 
大雪、左傳隱公九年に、平地尺(ヲ)爲2大雪(ト)1、○述拙懷歌、契冲云、これ家持の撰なる故に、卑下の詞有(リ)て、作者の名なし、此(ノ)卷の終に、そのよしを註せり、たれか家持の撰にあらずといはむ、
 
(286)4285 大宮能《オホミヤノ》。内爾毛外爾母《ウチニモトニモ》。米都良之久《メヅラシク》。布禮留大雪《フレルオホユキ》。莫蹈禰乎之《ナフミソネヲシ》。
 
第一二の句は、十七にもよめり、○莫蹈禰乎之《ナフミソネヲシ》は、蹈こと勿れ惜し、となり、此(ノ)上三形(ノ)沙彌(ガ)歌、合(セ)見べし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
4286 御苑布能《ミソノフノ》。竹林爾《タケノハヤシニ》。※[(貝+貝)/鳥]波《ウグヒスハ》。之波奈吉爾之乎《シバナキニシヲ》。雪波布利都都《ユキハフリツツ》。
 
之波《シバ》は、屡《シバ》なり、波は濁りて唱べし、(清音(ノ)字を書るは、正しからず、)○終(ノ)句は、いひさして、餘寒の盡ざるさまをこめたり、○歌(ノ)意は、御薗生《ミソノフ》の竹の林に屡《シバ/\》※[(貝+貝)/鳥]は鳴にしものを、なほ雪は零つゝ、寒きことよ、となり、十(ノ)卷に、打靡春去來者然爲蟹天雲霧相雪者零管《ウチナビクハルサリクレバシカスガニアマクモキラフユキハフリツヽ》、
 
4287 ※[(貝+貝)/鳥]能《ウグヒスノ》。鳴之可伎都爾《ナキシカキツニ》。爾保敝理之《ニホヘリシ》。梅此雪爾《ウメコノユキニ》。宇都呂布良牟可《ウツロフラムカ》。
 
可伎都《カキツ》は、垣内《カキツ》なり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、嗣ぎ上の歌に引連てきくべし、雪者零乍《ユキハフリツヽ》を承て、此(ノ)雪にとよめり、
 
十二日《トヲカマリフツカノヒ》。侍《サモラヒテ》2於|内裏《オホウチニ》1。聞《キヽテ》2千鳥喧《チドリヲ》作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
4288 河渚爾母《カハスニモ》。雪波布禮禮之《ユキハフレレヤ》。営乃裏《ミヤノウチニ》。智杼利鳴良之《チドリナクラシ》。爲牟等己呂奈美《ヰムトコロナミ》。
 
雪波布禮禮之、本居氏、之は、也の誤なるべし、といへり、これに從べし、布禮禮也《フレレヤ》は、零て有(レ)ばにや、といふ意なり、布禮禮婆也《フレレバヤ》といふべき如くなるを、婆《バ》をいはざるは、古歌のならひなり、○爲牟等己呂奈美《ヰムトコロナミ》は、將《ム》v居《ヲラ》處の無(キ)故に、といふ意なり、○歌(ノ)意は、千鳥の常にすみなれし河洲に(287)も、雪の零(リ)てあれば、下(リ)居む所の無、故にや、宮(ノ)内に來居《キヰ》て鳴ならし、となり、契冲云、宮の中に聲のきこゆるを、來て鳴やうによみなせり、
 
二月十九日《キサラギノトヲカマリコヽノカノヒ》。於|左大臣橘家宴《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノイヘノウタケニ》。見《ミル》2攀折柳條《ヨヂトレルヤナギノエダヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
二の上、舊本に、十(ノ)字あるは衍なり、目録并に古寫小本、拾穗本等に、なきぞよき、
 
4289 青柳乃《アヲヤギノ》。保都枝與治等理《ホツエヨヂトリ》。可豆良久波《カヅラクハ》。君之屋戸爾之《キミガヤドニシ》。千年保久等曾《チトセホクトソ》。
 
保都枝與治等理《ホヅエヨヂトリ》は、秀枝攀執《ホツエヨヂトリ》なり、○可豆良久波《カヅラクハ》は、※[草冠/縵]に爲(ス)るは、といはむが如し、○千年保久等曾《チトセホクトソ》は、千年を祝《ホク》とてぞ、といふ意なり、此(ノ)上長歌にも、千年保伎《チトセホキ》とあり、なほ彼處に委(ク)云り、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、十八同作者(ノ)歌に、安之比奇能夜麻能許奴禮能保與等里天可射之都良久波知等世保久等曾《アシヒキノヤマノコヌレノホヨトリテカザシツラクハチトセホクトソ》、
 
二十三日《ハツカマリミカノヒ》。依《ツケテ》v興《コトニ》作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
4290 春野爾《ハルノヌニ》。霞多奈妣伎《カスミタナビキ》。宇良悲《ウラガナシ》。許能暮影爾《コノユフカゲニ》。※[(貝+貝)/鳥]奈久母《ウグヒスナクモ》。
 
宇良悲《ウラガナシ》は、心可憐《ウラガナ》しき、と云意に見べし、宇良《ウラ》は、心《コヽロ》にて、心戀《ウラコヒ》し、心細《ウラグハ》し、心《ウラ》めづらし、心待《ウラマツ》、心荒《ウラサブ》るなどの例なり、○歌(ノ)意は、春の野に、うら/\と霞のたなびきて、けはひおもしろきに、まして此(ノ)夕日の影さすかたに、心《ウラ》なつかしく※[(貝+貝)/鳥]のなくよ、さても興あるけしきや、となり、
 
4291 利我屋度能《ワガヤドノ》。伊佐左村竹《イササムラタケ》。布久風能《フクカゼノ》。於等能可蘇氣伎《オトノカソケキ》。許能由布敝可母《コノユフヘカモ》。
 
(288)伊佐左村竹《イササムラタケ》は、五十竹葉群竹《イサヽムラタケ》なり、(諸註、いさゝかなる群竹、といふ意に、説なせるはいかにぞや、群竹は、聚(マ)り群りて、多きをいふなるに、いかでか、少《イサゝカ》とはいふべからむ、)まづ佐佐《ササ》といふは、古事記上(ツ)卷に、手2草結《タグサニユヒ》天香山之小竹葉《アメノカグヤマノササバヲ》1而《テ》、とある註に、訓2小竹1云2佐々《サヽト》1、とありて、名(ノ)義は、竹葉の相觸て、佐(阿)佐(阿)《サアサア》と鳴り動く音より出たる名にて、もとは大(キナル)小(キ)に限らず、すべて竹(ノ)葉をいふ稱にてぞありけむ、(しかるを、小竹は、葉も茂くて、風などに觸て、もはら鳴(リ)易きから、ことに小(キ)竹の葉を、すべて佐々葉《サヽバ》といひ、それよりつひに、自(ラ)小竹の名を、佐佐《ササ》といふことにはなれるなるべし、)今俗にも、なべて竹葉を佐々《サヽ》といふなるは、自(ラ)上古の稱《ナ》の遺れるなるべし、さて、五十竹葉《イサヽ》といふよしは、五十《イ》は、數多きをいふ稱なり、抑々凡て物の數の許多《ソコバク》なるを、大方にいふとき、滿數をとりて、萬《ヨロヅ》某(萬代《ヨロヅヨ》、萬遍《ヨロヅタビ》、萬調《ヨロヅツキ》の類、)といひ、千《チ》某(千代《チヨ》、千株《チモト》、千種《チグサ》の類、)といひ、百《モヽ》某(百代《モヽヨ》、百樹《モヽキ》、百草《モヽクサ》の類、)といふは常の事なるを、又その半數をとりて、五百《イホ》某(五百代《イホシロ》、五百箇磐村《イホツイハムラ》の類、又|湯津楓《ユツカツラ》、湯津爪櫛《ユツツマクシ》なこど云|湯津《ユツ》も、五百箇《イホツ》の約言なれば同じ、)五十《イ》某、(五十槻《イツキ》、五十箇橿《イツカシ》、五十箇株柳《イツモトヤナギ》、五十箇藻《イツモ》、五十箇菜草《イツシバ》、などの類、)といひしとおぼえたり、されば、今の歌も、竹葉の茂く多かる謂にて、五十竹葉《イサヽ》とはいへりしとこそおもはるれ、されば、五十竹葉《イサヽ》は、五百竹葉《ユサヽ》といふと、(十(ノ)卷に、甚毛夜深勿行道邊之湯小竹之於爾霜降夜烏《ハナハダモヨフケテナユキミチノベノユササノウヘニシモノフルヨヲ》、とあり、)多(キ)少(ナキ)との相違あるに似たれども、實はみなその多く繁きをいひて、同じ意ばえの稱にぞありける、(五十《イ》は、さばかりの數にも非ねば、物のそこばく多きことをいふ稱とせむもいぶかしく、又|五百《イホ》にくらぶれば、(289)いかばかりぞや、相違ふことなれば、五百《イホ》といふと、五十《イ》といふと、一意とせむことも、いかにぞや思ふ人もあるべし、さおもはむ人のために、なほいふべし、すべて物の數多きを、大方にいふときは、たとへば七夜《ナヽヨ》來《コ》じとや、といふも、數夜重て來らじとや、といふ意、七世《ナゝヨ》申《マヲ》さね、といへば、數代重ねて政申さね、といふ意にきこゆるを、その七《ナヽ》は、いくばくならぬ數なれども、必(ズ)七《ナヽ》に過ざる意とはきこえざるが如く、五十といへばとて、必(ズ)五十を超じとはきこえぬことなり、又萬千と百とは、いかばかりか違ふことなれど、萬遍《ヨロヅタビ》といふも百遍《モヽタビ》といふも、たゞ數遍の意ときこえ、千草《チグサ》といふも、百草《モヽクサ》といふも、たゞ數種の意ときこえて、差別なきが如し、これらに准へて、五十と云も、落るところは、五百といふと同意になること、疑ふべからず、)○於等能可蘇氣伎《オトノカソケキ》は、音之肅然《オトノカソケキ》なり、(雄略天皇(ノ)紀に、肅然《カスカナル》とあり、きびしきさまをいへり、此(ノ)上霍公鳥(ノ)歌にも、暮月夜可蘇氣伎野邊《ユフヅクヨカソケキヌヘニ》云々、とあり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)家の庭の、多くの群竹の葉にそよそよと吹(ク)風の音の、肅《カス》かにさびしく、さても心ぼそき夕(ヘ)のけしきや、となり、新古今集に、窓近きいさゝむら竹風吹ば秋とおどろく夏の夜の夢、基俊家集に、夕さればさゝむら竹に吹風のそよぐ音こそ秋かよふらし、
 
二十五日《ハツカマリイツカノヒ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
4292 宇良宇良爾《ウラウラニ》。照流春日爾《テレルハルヒニ》。比婆理安我里《ヒバリアガリ》。情悲毛《コヽロカナシモ》。比登里志於母倍婆《ヒトリシオモヘバ》。
 
宇良宇良《ウラウラ》は、うらゝかといふに同じ、即(チ)左註の遲々の字をウラウラ〔四字右○〕とよめり、天を度り往(ク)日(290)の影の遲く緩かに※[日+宣]《アタヽカ》なるをいふ詞なるべし、江淡抄に、東行西行雲眇眇《トサマニユキカウザマニユキクモハルバル》、二月三月日遲々《キサラキヤヨヒヒウラ/\》、(遲々は、毛傳に、舒緩也、正義に、日長而※[日+宣]之意、故爲2舒緩(ト)1、字彙に、※[日+宣](ハ)日暖也、温也、)枕册子に、正月ついたちは、まいて空のけしきうら/\とめづらしく、かすみこめたるに云々、三月三日、うらうらとのどかにてりたる、○比婆理《ヒバリ》は、品物解に出(ツ)、○歌(ノ)意は、遲々《ウラ/\》と照れる春日の、暮がたく長きに、獨居て、一(ト)すぢに物思(ヒ)をすれば、〓〓《ヒバリ》り啼(キ)わたりて、さても、いとゞ悽惆《カナシミ》のもよほさるる事よ、となるべし、
 
春日遲遲《ハルノヒウラウラトシテ》。〓〓正啼《ヒバリマサニナク》。悽惆之意、非(バ)v歌(ニ)難(シ)v撥(ヒ)耳。仍作2此(ノ)歌(ヲ)1。式展2締緒(ヲ)1。但此(ノ)卷中。不v※[人偏+稱の旁]2作者名字(ヲ)1。徒録2年月所處縁起(ヲ)1者。皆大伴(ノ)宿禰家持。裁作(セル)歌詞也《ウタナリ》。
 
歌詞也の下、舊本に、異本左註也、の五字を註せり、官本并(ニ)活字本には、此(ノ)五字なし、此は仙覺などが、諸本を校合《カムガヘアハ》せしとき、春日云々の左註のなき本も、ある本もありしを、其(ノ)中、なきを證本とたておきて、一本によりて、この文をば加へしなるべし、故(レ)異本左註也、とは記せしものなり、さて右の左註は、もとより、家持(ノ)卿の手に成(リ)しものと見えたれば、ある方ぞ、古よりのまゝならむ、
 
萬葉集古義十九卷之下 終
 
(291)萬葉集古義二十卷之上
 
幸2行《イデマシヽ》於|山村《ヤマムラニ》1之時歌二首《トキノウタフタツ》。
 
山村は、和名抄に、大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡山村(ハ)也末無良《ヤマムラ》、欽明天皇(ノ)紀に、元年二月、百濟人己知部|投化《マヰケリ》、置2
倭(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡山村(ニ)1、今(ノ)山村己知部之|先《オヤ》也、
 
先太上天皇《サキノオホキスメラミコト》。詔《ミコトノリシ》2陪從王臣《オホミトモノオホキミオミニ》1曰《タマハク》。夫諸王卿等《イマシラモロモロ》。宣《ノリタマヒテ》d賦《ヨミテ》2和歌《コタヘウタヲ》1而|奏《マヲセト》u。即御口號曰《スナハチミウタヨミシタマハク》。
 
先太上天皇は、契冲もいひし如く、歌の後の註を見れば、當時《ソノカミ》(孝謙天皇)勝寶五年に、家持(ノ)卿の土麻呂に聞て載られたるよしなれば、元正天皇なり、(御傳は十八(ノ)上に出せり、)聖武天皇は、御在世なれば、たゞ太上天皇と載らるべきことなり、○和歌は、こたへ歌なり、○御口號は、ミウタヨミシタマハク〔十字右○〕と訓べし、(雄略天皇(ノ)紀に、口號をクツウタシヲ〔六字右○〕と訓たれど、古言にあらず、)
 
4293 安之比奇能《アシヒキノ》。山行之可婆《ヤマユキシカバ》。山人乃《ヤマビトノ》。和禮爾依志米之《ワレニエシメシ》。夜麻都刀曾許禮《ヤマツトソコレ》。
 
山行之可婆《ヤマユキシカバ》は、山村の幸なれば、詔へるなるべし、○山人《ヤマビト》は、さし賜ふ人あるにはあらじ、たゞ設けて詔へるなるべし、○和禮爾依志米之《ワレニエシメシ》は、朕に令《シメ》v獲《エ》しなり、○夜麻都刀《ヤマツト》は、山※[果/衣]《ヤマツト》にて、花紅(292)葉の類はさらにて、何にまれ、山にて獲て、家に持還り來て、貽《オク》る物を云、濱※[果/衣]《ハマツト》また道行※[果/衣]《ミチユキツト》などもよめり、○大御歌(ノ)意は、山村の山を過去《スギユキ》しかば、其(ノ)山人の、朕に奉りてし山※[果/衣]ぞ此(ノ)物なる、とのたまへるにて、花紅葉などを折て貽らせ給ふを、山守(ル)人などの奉れるやうに、よませたまへるなり、(略解に、本居氏(ノ)説を載て、山都刀とのたまへるは、即(チ)此(ノ)御歌をさしてのたまへるなり、といへり、さもあるべきにや、)
 
舍人親王《トネリノミコ》。應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》奉《マツレル》v和《コタヘ》御〔○で囲む〕歌一首《ミウタヒトツ》。
御(ノ)字、舊本に無(キ)は、脱たるなり、
 
4294 安之比奇能《アシヒキノ》。山爾由伎家牟《ヤマニユキケム》。夜麻牝等能《タマビトノ》。情母之良受《コヽロモシラズ》。山人夜多禮《ヤマビトヤタレ》。
 
山爾由伎家牟《ヤマニユキケム》云々は、元正天皇の幸行しを指(シ)奉りて、申(シ)賜へるなるべし、かく天皇をしも、山人《ヤマビト》とのたまへるは、いと無禮《ナメ》しきやうなれど、戯てわざと詔へるなるべし、○下の山人《ヤマビト》は、上の御製歌《オホミウタ》に詔へる山人にて、山※[果/衣]を奉りし人の謂なり、○御歌(ノ)意は、天皇の、山村の山へ往(キ)賜ふ思召もはかりしられず、又その山※[果/衣]を奉りしと詔へる山人は、いかなる人、誰にてかさぶらひし、とうたがひ賜へるやうによみなし賜へり、(略解に、本居氏(ノ)説を載て、三(ノ)句の山人は天皇、結句の山人は、御製にのたまへる山人にて、心もしらずとは、御製(ノ)意を得さとり賜はずして、かくのたまへる御意は、いかなることぞ、山人の得しめしとのたまへる山人は、誰にか、と(293)詔へる意に、ときなせり、さもあるべきにや、)中山(ノ)嚴水云、太上天皇をば、仙洞とも、仙宮とも申せば、即(チ)山人とは詔へるなり、さて今御製に、仙人の得しめし山※[果/衣]とのたまふが、その山に往(キ)賜ひし人は、すなはち山人にてましますに、その御信に山人と詔ふは、いかなる山人にや、しか詔ふ御こゝろも知(リ)奉らず、とのたまへるなるべし、といへり、續千載集、春、鎌倉(ノ)右大臣、みよしのゝ山に入けむ山人となり見てしがな花にあくやと、今の御歌を思はれしなるべし、
 
右天平勝寶五年五月《ミギテムヒヤウシヨウハウイツトセトイフトシノサツキ》。在《イマセル》2於|大納言藤原朝臣之家《オホキモノマヲスツカサフヂハラノアソミノイヘニ》1時《トキ》。依《ヨリテ》v奉《マヲスニ》v事《コトヲ》而|請問《コヒトフ》之|間《ホド》。少主鈴山田史《スナキスヾノツカサヤマタノフミヒト》土麿。語《カタリ》2少納言大伴宿禰家持《スナキモノマヲスツカサオホトモノスクネヤカモチニ》1曰《ケラク》。昔《サキニ》聞《キケリトイヒテ》2此言《コノコトヲ》1。即《スナハチ》誦《ヨメリキ》2此歌《コノウタヲ》1也。
 
藤原(ノ)朝臣は、仲麻呂なり、○請問之間(間(ノ)字、舊本に問と作るは誤なり、今は古寫本、拾穗本等に從つ、)は、家持(ノ)卿より仲麻呂へなり、少納言は、大納言の下職なれば、請問れしなるべし、○少主鈴は、職員令に、大主鈴二人、掌(ル)v出(シ)2納(ルコトヲ)鈴印傳符飛驛(ノ)函鈴(ヲ)1、少主鈴二人、掌(ルコト)同2大主鈴(ニ)1、○土麿、こゝのみに出たり、傳未(ダ)詳ならず、○少納言は、職員令義解に、少納言三人、掌d奏2宣(シ)小事(ヲ)1、謂公式令(ニ)所v謂請(ケ)2進(リ)鈴印(ヲ)1、及賜(フ)2衣服(ヲ)1、如(キ)v少(ノ)少事之類是也、)請(ケ)2進(リ)鈴印傳符(ヲ)1、進(リ)2付《サヅケ》飛驛(ノ)函鈴(ヲ)1、兼(テ)監(ルコトヲ)c官印(ヲ)u、(謂誰得v監2視《ミルコトヲ》蹈(セル)印(ヲ)1、其印(ハ)者、依(ルニ)v律(ニ)長官(ノ)執掌(ナリ)也、)其(ノ)少納言(ハ)、在2侍從員内(ニ)1、和名抄に、職員令(ニ)云、少納言(ハ)、須奈伊毛乃萬宇之《スナイモノマウシ》、とあり、これに依(ラ)ば、須奈岐毛乃麻乎之《スナキモノマヲシ》、と訓べし、但し彼(ノ)抄に、大納言(ハ)於保伊毛乃萬宇須(294)豆加佐《オホイモノマウスツカサ》、中納言(ハ)奈加乃毛乃萬宇須豆加佐《ナカノモノマウスツカサ》、などあるに依ば、此をも正しくは、須奈岐毛乃麻乎須都可佐《スナキモノマヲスツカサ》、とぞ唱けむ、さて須奈岐《スナキ》は、須久奈岐《スクナキ》の意なること顯然《アラハ》なるを、官府語に、もとより省きてかくぞ唱へけむ、すべて官府にては、口語の便なるを主として、繁きをいとへるなるべし、故(レ)後には、太政大臣《オホキマツリゴトノオホマヘツキミ》をも、政《マツリゴト》を省きて、太《オホ》き大臣《オホイマウチキミ》といへる類もあり、又やゝ後に、定考をかうぢやう、稱唯を、いせうと稱る類も、皆その便なるによれり、さて須奈岐《スナキ》を須奈伊《スナイ》と唱るは、やゝ後の音便にて、於保肢《ホホキ》を、於保伊《オホイ》と唱ふるに准ふべし、繼體天皇(ノ)紀に、少《スナキ》とある、これ古訓なり、すべて大少(大辨少辨、大史少史の類)の少、これになずらふべし、又|麻乎須《マヲス》を、麻宇須《マウス》と云も、後に轉れる言なること、前に度々いひたるが如し、
 
天平勝寶五年八月十二日《テムヒヤクシヨウハウイツトセトイフトシハツキノトヲカマリフツカノヒ》。二三大夫等《フタリミタリノマヘツキミタチ》。各《オノモ/\》提《ヒキサゲテ》2壺酒《サカツボヲ》1。登《ノボリ》2高圓野《タカマトヌニ》1。聊《イサヽカ》述《ノベテ》2所心《オモヒヲ》1作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
天平勝寶五年の六字、舊本にはなし、(其は、上の左註を承つぎて、略けるなるべし、)今は、官本、古寫本、古寫小本、拾穗本等、并(ニ)目録にあるに從つ、○登2高圓野(ニ)1とある、野は山上の野なり、この故に登とは云るなり、三(ノ)卷に、山部(ノ)宿禰赤人登2春日野(ニ)1作歌、とあるも、こゝに同じ1
 
4295 多可麻刀能《タカマトノ》。乎婆奈布伎故酒《ヲバナフキコス》。秋風爾《アキカゼニ》。比毛等伎安氣奈《ヒモトキアケナ》。多太奈良受等母《タダナラズトモ》。
 
比毛等伎安氣奈《ヒモトキアケナ》は、紐解開《ヒモトキアケ》むを、急《ハヤ》く云るなり、○多太奈良受等母《タダナラズトモ》は、十(ノ)卷に、吉哉雖不直奴延(295)鳥浦歎居告子鴨《ヨシエヤシタヾナラズトモヌエトリノウラナゲヲルトツゲムコモガモ》、十六に、味飯乎水爾釀成吾待之代者曾無直爾之不有者《ウマイヒヲミヅニカミナシアガマチシカヒハカツテナシタヾニシアラネバ》、(その歌の傳に、正身不v來、徒贈2※[果/衣]物1、とあるが如し、)などありて、直に相見ざることを、直に非ずといふは、古歌の常なり、さてこゝは、直に妹に交《アフ》にはあらずとも、の意なり、○歌(ノ)意は、高圓の尾花が末を吹越(ス)秋風を便にして、いざさらば、紐解開て、打とけ心|緩《ユル》めつゝ遊ばむ、(九(ノ)卷、大伴(ノ)卿の筑波山に登れる時の歌に、歡登紐之緒解而《ウレシミトヒモノヲトキテ》、家如解而曾遊《イヘノゴトトケテソアソブ》、とあるを、思(ヒ)合(ス)べし、)實に妹に交《アフ》には非ずとも、と戯ていへるなり、紐解は、女に交接《アフ》形容《サマ》をいふことなれば云り、(略解に、たゞならずともは、ただにあらむよりはの意なり、秋風吹ば、たゞにあらむよりは、衣の紐ときさけて凉みせむ、といふなり、といへるは、戯の意あることをだに、しらざりしものなり、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左京少進大伴宿禰池主《ヒダリノミサトツカサノスナキマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシ》。
 
左京(ノ)少進、十九に、右京(ノ)少進、とあり、
 
4296 安麻久母爾《アマクモニ》。可里曾奈久奈流《カリソナクナル》。多加麻刀能《タカマトノ》。波疑乃之多婆波《ハギノシタバハ》。毛美知安倍牟可聞《モミヂアヘムカモ》。
 
毛毛美知安倍牟可聞《モミヂアヘムカモ》は、黄變《モミチ》將《ム》v敢《アヘ》乎《カ》、にて、聞《モ》は、歎息(ノ)辭なり、いまだ黄變し敢ざりし下葉も、今は敢て黄變せむか、さてもなつかしく、思ひやらるゝぞ、となり、○歌(ノ)意は、鴈鴨《カリガネ》におどろきて、黄葉せむことをおもへるにて、かくれたるすぢなし、
 
(296)右一首《ミギノヒトウタハ》。左中辨中臣清麿朝臣《ヒダリノナカノオホトモヒナカトミノキヨマロノアソミ》。
 
左中辨は、續紀に、勝寶六年七月丙午、中臣(ノ)朝臣清麻呂(ヲ)爲2左中辨(ト)1、と見えて、この勝寶五年のほどは、いまだ左中辨ならざるを、こゝは後に、前にめぐらして記されたるものか、○清麻呂は、十九に見えて、傳(ハ)彼處に委(ク)いへり、
 
4297 乎美奈弊之《ヲミナヘシ》。安伎波疑之努藝《アキハギシヌギ》。左乎之可能《サヲシカノ》。都由和氣奈加牟《ツユワケナカム》。多加麻刀能野曾《タカマトノヌソ》。
 
本(ノ)二句は、八(ノ)卷に出つ、○之努藝《シヌギ》は、凌《シヌギ》にて、木草などのしげき中を、押分(ケ)往來《カヨフ》さまなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。少納言大伴宿禰家持《スナキモノマヲスツカサオホトモノスクネヤカモチ》。
 
六年正月四日《ムトセトイフトシムツキノヨカノヒ》。氏族人等《ヤカラドチ》。賀2集《ツドヒテ》于|小納言大伴宿禰家持之宅《スナキモノマヲスツカサオホトモノスクネヤカモチガイヘニ》1。宴飲歌三首《ウタゲスルウタミツ》。
 
4298 霜上爾《シモノヘニ》。安良禮多婆之里《アラレタバシリ》。伊夜麻之爾《イヤマシニ》。安禮婆麻爲許牟《アレハマヰコム》。年緒奈我久《トシノヲナガク》。【古今未詳。】
 
安良禮多婆之里《アラレタバシリ》は、霰飛走《アラレタバシリ》なり、(後にとばしるといふも、即(チ)飛走《トバシル》なり、又はし鷹のとかへるなど云も、飛還るにて、等《ト》の言同じ、)等夫《トブ》を多牟《タム》ともいへば、(天飛《アマトブ》を、天多牟《アマタム》ともいへり、)多走《タバシリ》とはいへるなり、鎌倉(ノ)右大臣、ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原、と(297)よまれたり、さて此(ノ)句までは序にて、霜の置たるうへに、又霰の降は、彌益《イヤマス》なることなれば、かくつゞきたり、○安禮婆麻爲許牟《アレハマヰコム》は、(婆の濁音の字を用たるは、正しからず、後に寫し誤れるなるべし、)吾者《アレハ》將《ム》2參來《マヰコ》1なり、○年緒《トシノヲ》は、年々|連《ツヾキ》て斷ざるを云、緒《ヲ》は、生緒《イキノヲ》、靈緒《タマノヲ》などいふ緒《ヲ》に同じ、○歌(ノ)意、かくれなし、○古今未詳は、時に應《カナ》へる古歌を誦たるか、即(チ)席にて新に作るか、未(ダ)詳ならずとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左兵衛督大伴宿禰千室《ヒダリノツハモノヽトネリノカミオホトモノスクネチムロ》。
         (ノ)
千室、(室(ノ)字舊本には、里と作り、今は官本、或校本、拾穗本、古寫本、古寫小本等に從つ、四(ノ)卷にも、大伴(ノ)宿禰千室、とあり、)傳未(ダ)詳ならず、續紀に、天平五年三月、同十月に大伴(ノ)小室といふ人見えたり、千室は、もし其(ノ)男などにて、室(ノ)字を繼てつけたるにや、といへり、
 
4299 年月波《トシツキハ》。安良多安良多爾《アラタアラタニ》。安比美禮騰《アヒミレド》。安哉毛布伎美波《アガモフキミハ》。安伎太良奴可母《アキタラヌカモ》。【古今未詳。】
 
安良多安良多爾《アラタアラタニ》(舊本には、安多良安多良爾と作り、今は、元暦本、官本、拾穗本等に從つ、六帖にも、あらた/\に、とあり、抑々をアタラシ〔四字右○〕と云は、後の訛なり、すべて安良多《アラタ》は新、安多良《アタラ》は惜にて、もとより別言なり、されば古書に、新を安多良《アタラ》といへることなし、混《マガフ》べからず、此(ノ)事既く委(ク)説り、)は、新々《アラタアラタ》になり、○歌(ノ)意、は、年月の新々に更る度毎に、相見れども、吾(ガ)愛しと思ふ君なれ(298)ば、さても飽足ことのなき哉、となり、時しも正月の初なれば、新年のことをよめるなり、○古今未詳、上にいへるごとし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。民部少丞大伴宿禰村上《タミノツカサノスナキマツリゴトヒトオホトモノスクネムラカミ》。
 
民部(ノ)少丞、この官になりしこと續紀には漏たり、寶龜二年四月、正六位上云々、とあれば、この時より以前のことなり、官位令に、八省少丞、從六位上なれば、當時勝寶六年にて、此(ノ)ほど、此(ノ)官にてぞありけむ、
 
4300 可須美多都《カスミタツ》。春初乎《ハルノハシメヲ》。家布能其等《ケフノゴト》。見牟登於毛倍婆《ミムトオモヘバ》。多努之等曾毛布《タヌシトソモフ》。
 
婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は元暦本に從つ、○歌(ノ)意は、いつまでもかはらず、今日の如くに、新年を重ねて、相見むとおもへば、樂しく歡しくぞ思ふ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左京少進大伴宿禰池主《ヒダリノミサトツカサノスナキマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシ》。
 
按に、當日《ソノヒ》氏族《ヒヤカラ》の集宴《ウタゲ》に、主人家持(ノ)卿の歌なきこと、さしもの逸好《スキモノ》、いかでかよまれざりけむ、と不審《イブ》かしきことなり、其(ノ)日のあるじまうけなど、事しげきに、公役《オホヤケワザ》など、さしつどふならひなればか、
 
七日《ナヌカノヒ》。天皇《スメラミコト》。太上天皇《オホキスメラミコト》。皇太后《オホミオヤ》。於《イマシテ》2東常宮南大殿《ヒムカシノミヤノミナミノオホトノニ》1。肆宴歌一首《トヨノアカリキコシメスウタヒトツ》。
 
七日は、正月七日なり、○天皇は、孝謙天皇なり、○太上天皇は、元正天皇なり、○皇太后は、光明(299)皇后なり、○於(ノ)字、目録には、在と作り、○東常宮云々、契冲、續記に、天平勝寶六年春正月丁酉朔、癸卯、天皇御(シテ)2東院(ニ)1宴2五位已上(ヲ)1、有(テ)v勅(リ)云々、おもふに此(ノ)日なり、といへり、
 
4301 伊奈美野乃《イナミヌノ》。安可良我之波波《アカラガシハハ》。等伎波安禮騰《トキハアレド》。伎美乎安我毛布《キミヲアガモフ》。登伎波佐禰奈之《トキハサネナシ》。
 
伊奈美野《イナミヌ》は、作者《ヨミヒト》播磨(ノ)守なるがゆゑに、部内《クニノウチ》の稻見野《イナミヌ》をよまれしなり、○安可良我之波《アカラガシハ》は、清淨柏《アカラガシハ》なるべし、既く荒木田氏(ノ)論を引て、委くいへるがことし、〈契冲、あからがしはは、色付たる柏をいへり、熟の字を、稻などのあからむと云に用たり、あから橘といへるも、熟して色づけるをいへり、木の葉の色づくも、熟する心あり、と云れど、柏《カシハ》はさのみ色つくものならねば、いかゞなり、又延喜式に、供御の料の于  かいを、諸方より貢ること見えたれど、干  にはあらぬこと勿論なり、)○佐禰奈之《サネナシ》は、信無《サネナシ》なり、さらになし、と云が如し、○歌(ノ)意は、稻見野の清淨柏《アカラガシハ》は、時ありて、御膳(ノ)具などに用ひらるゝを、君を忠信《マメヤカ》に思ひ奉る心は、いつと時を別(ク)こと、信《サラ》に無(シ)、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。播磨國守安宿王奏《ハリマノクニノカミアスカベノオオホキミマヲシタマヘリ》。【古今未詳。】
 
安宿(ノ)王は、天武天皇の御曾孫、高市(ノ)皇子(ノ)尊の御孫、左大臣長屋(ノ)王の子にて、母は、藤原(ノ)大臣不比等公の女なり、續紀に、天平九年九月己亥、無位安宿王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十月庚申、授2從五位下安宿(ノ)(300)王(ニ)從四位下(ヲ)1、十年閏七月爲2玄蕃(ノ)頭(ト)1、十二年十一月甲辰、授2從四位上(ヲ)1、十八年四月壬辰、爲2治部(ノ)卿(ト)1、勝寶元年八月辛未、爲2中務(ノ)大輔(ト)1、三年正月己酉、授2正四位下(ヲ)1、五年四月癸巳、爲2播磨(ノ)守(ト)1、六年九月丙申、爲2兼内匠(ノ)頭(ト)1、八歳十二月己酉、勅遣(シテ)2讃岐(ノ)守正四位下安宿(ノ)王(ヲ)於山階寺(ニ)1、講2梵網經(ヲ)1、寶字七年十月丙戌云々、天平元年長屋(ノ)王有(テ)v罪自盡、其(ノ)男某々皆|經《※[糸+至]》、時(ニ)安宿(ノ)王云々、以2藤原(ノ)太政大臣(ノ)女之所(ヲ)1v生、特(ニ)賜2不死(ヲ)1、寶字元年七月庚戌、安宿(ノ)王及妻子配2流佐渡(ニ)1、寶龜四年十月戊申、安宿(ノ)王(ニ)賜2姓高階(ノ)眞人(ヲ)1、和名抄に、河内(ノ)國安宿(ノ)郡(ハ)安須加倍《アスカベ》、とあり、雄略天皇(ノ)紀には、飛鳥戸《アスカベノ》郡と書《カヽ》れたり、姓氏録にも、飛鳥部《アスカベ、》飛鳥戸《アスカベ》、など見えたり、○古今未詳、上にいへるが如し、
 
三月十九日《ヤヨヒノトヲカマリコヽノカノヒ》。家持之庄門槻樹下《ヤカモチガナリトコロノカドノツキノキノモトニテ》。宴飲歌二首《ウタグスルウタフタツ》。
 
庄門、(韻會(ニ)云、莊説文(ニ)从v艸(ニ)从v壯(ニ)、廣韻(ニ)、田舍也、俗作v庄(ニ)非v是(ニ)、)これ家持(ノ)卿の山庄の門なり、山庄は、別業などいふ類なり、(庄を、郡郷などの類と思ふは誤なり、庄は、庄園にて、私田に有べし、公田には有まじ、)○槻樹(ノ)下云々、すべて樹(ノ)下をたよりて宴樂せること、古事記、雄略天皇(ノ)條に、天皇坐2長谷之百枝槻(ノ)下(ニ)1、爲2豐樂1之時云々、また書紀、天武天皇(ノ)卷、持統天皇(ノ)卷に、饗2云々於飛鳥寺(ノ)西(ノ)槻(ノ)下(ニ)1、と云ことも見えたり、集中六(ノ)卷に、登2活道(ノ)岡(ニ)1、集(テ)2一株(ノ)松(ノ)下(ニ)1飲歌、ともあり、
 
4302 夜麻布伎波《ヤマブキハ》。奈※[泥/土]都都於保佐牟《ナデツツオホサム》。安里都都母《アリツツモ》。伎美伎麻之都都《キミキマシツツ》。可※[身+矢]之多里家利《カザシタリケリ》。
 
(301)奈※[泥/土]都都於保佐牟《ナデツツオホサム》は、撫乍生《ナデツヽオホ》さむなり、○歌(ノ)意は、君(家持(ノ)卿)が在々つゝも、此(ノ)庄園へ來座て、吾(ガ)攀折て來し、吾(ガ)園の山吹を、挿頭《カザシ》たまひてあれば、この山吹は、撫愛《ナデウツクシミ》つゝ、大切に生育《オホス》べきものにてありけり、となり、此は自(ラ)の家園の山吹(ノ)花を、長谷の折て、家持(ノ)卿(ノ)庄園へ持來れるを、家持(ノ)卿の賞愛て挿頭《カザヽ》れつれば、かくよめるかるべし、さて此(ノ)歌、都都《ツヽ》と云詞三(ツ)あれど、ことさらに耳立ざるは、歌がらのすぐれたるゆゑなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。置始連長谷《オキソメノムラジハツセ》。
 
4303 和我勢故我《ワガセコガ》。夜度夜麻夫伎《ヤドノヤマブキ》。佐吉弖安良婆《サキテアラバ》。也麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》。伊夜登之能波爾《イヤトシノハニ》。
 
和我勢故《ワガセコ》は、長谷を指り、○歌(ノ)意は、吾兄子が家園の山吹の春ごとに、かくおもしろく見事に開てあるを、今日の如く、折持來て興じ賜はむとならば、吾も毎年の春、此(ノ)處に止ず來て、めではやさむぞ、となり、山吹《ヤマブキ》と云をうけて、不止《ヤマズ》とよめるは、古歌のならひなり、十(ノ)卷に、如是有者何如殖兼山振乃止時喪哭戀良苦念者《カクシアレバイカデウヱケムヤマブキノヤムトキモナクコフラクモヘバ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長谷《ハツセ》攀《ヨヂ》v花《ハナヲ》提《ヒキサゲテ》v壺《ツボヲ》到來《キタレリ》。因是大伴宿禰家持《カレオホトモノスクネヤカモチ》。作《ヨミテ》2此歌《コノウタヲ》1和《コタフ》之。
 
同月二十五日《オヤジツキノハツカマリイツカノヒ》。左大臣橘卿《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノマヘツキミ》。宴《ウタグシタマヘル》2于|山田御母之宅《ヤマダノミオモノイヘニテ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
山田(ノ)御母は、(山田(ノ)史|日女島《シメシマ》のことにて、考謙天皇の御乳母なりしが故に、御母と稱りしなり、)
 
(302)續紀に、天平勝寶元年七月甲午、皇太子(孝謙天皇)受v禅(ヲ)即位《アマツヒツギシロシメス》、乙未、正六位上山田(ノ)史日女島(ニ)授2從五位下(ヲ)1、天皇之乳母也、勝寶七年正月甲子(從五位上(上は、下の誤ならむ、)比賣島等七人(ニ)賜2山田(ノ)御井(ノ)宿禰(ノ)姓(ヲ)1、寶字元年八月戊寅、勅、故從五位下山田(ノ)三井(ノ)宿禰比賣島、縁(テ)v有(ニ)2阿※[女+爾]之勞1、褒2賜宿禰之姓(ヲ)1、恩波狂激餘及2傍親(ニ)1云々、理宜2追責(ム)1、可d除2御母之名(ヲ)1奪(リ)2宿禰之姓(ヲ)1、依v舊(ニ)從、山田(ノ)史(ニ)u、と見えたり、
 
4304 夜麻夫伎乃《ヤマブキノ》。花能左香利爾《ハナノサカリニ》。可久乃其等《カクノゴト》。伎美乎見麻久波《キミヲミマクハ》。知登世爾母我母《チトセニモガモ》。
 
伎美乎見麻久波《キミヲミマクハ》は、君を見むことは、と云意なり、君は、諸兄(ノ)大臣をさせり、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、時の興をおもしろみして、左大臣の命數の長からむことを祝、且吾(ガ)身の壽をさへに欲《ネガ》へり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。少納言大伴宿禰家持《スナキモノマヲスツカサオホトモノスクネヤカモチ》。矚《ミテ》2時花《トキノハナヲ》1作《ヨメル》。但|未出之間《イマダイダサザリシホド》。大臣《オホマヘツキミ》罷《ヤメタマヘルニヨリテ》v宴《ウタゲヲ》。而|不《ザリキ》v擧《アゲ》v詠《ヨミ》耳。
 
而の一下、還(ノ)字など脱しか、と略解にいへり、○擧(ノ)字、舊本に攀と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本等に從つ、
 
詠《ヨメル》2霍公鳥《ホトヽギスヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
(303)4305 許乃久禮能《コノクレノ》。之氣伎乎乃倍乎《シゲキヲノヘヲ》。保等登藝須《ホトトギス》。奈伎弖故由奈理《ナキテコユナリ》。伊麻之久良之母《イマシクラシモ》。
 
許乃久禮《コノクレ》はり木之暗《コノクレ》なり、後の歌に、木之下暗《コノシタヤミ》といふに同じ、○伊麻之久良之母《イマシクラシモ》は、今初めて、奥山より出て來《キタ》るらし、といふなり、伊麻之《イマシ》の之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを重く思はする助辭、母《モ》は歎息(ノ)辭にて、今こそ吾(ガ)待し霍公鳥の、初めて來ぬるならし、さても歡しやと、一(ト)すぢに深く喜べるなり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。四月《ウツキ》。大件宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
七夕歌八首《ナヌカノヒノヨノウタヤツ》。
 
4306 波都秋風《ハツアキカゼ》。須受之伎由布弊《スズシキユフヘ》。等香武等曾《トカムトソ》。比毛波牟須妣之《ヒモハムスビシ》。伊母爾安波牟多米《イモニアハムタメ》。
 
歌(ノ)意、かくれなし、牽牛《ヒコホシ》の意に擬《ナラヒ》てよめるなり、
 
4307 秋等伊弊婆《アキトイヘバ》。許己呂曾伊多伎《ココロソイタキ》。宇多弖家爾《ウタテケニ》。花爾奈蘇倍弖《ハナニナソヘテ》。見麻久保里香母《ミマクホリカモ》。
 
宇多弖家爾《ウタテケニ》ほ、轉異《ウタテケ》になり、宇多弖《ウタテ》の言(ノ)意は、既く十(ノ)卷に委(ク)説り、異《ケ》には、殊《コト》にといはむが如し、○奈蘇倍弖《ナソヘテ》は、なぞらへてと云むが如し、○見麻久保里香聞《ミマクホリカモ》は、見むことを欲《ホシ》みすればか、さ(304)ても心《コヽロ》痛《イタ》しや、の意なり、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、秋としいへば、必(ズ)織女の美貌《ウルハシキカホ》を、花になぞらへて見まほしく思へばにや、常よりも轉《ウタヽ》進《スヽミ》て、殊更に戀しくぞ思はるゝ、さても心痛しや、となり、一四五三二と句を次第て心得べし、此(ノ)歌も、牽牛《ヒコホシ》に擬《ナラヘ》るなり、
 
4308 波都乎婆奈《ハツヲバナ》。波名爾見牟登之《ハナニミムトシ》。安麻乃可波《アマノガハ》。弊奈里爾家良之《ヘナリニケラシ》。年緒奈我久《トシノヲナガク》。
 
波名爾見牟登之《ハナニミムトシ》は、花やかにめづらしく、相見むとて、と云意なり、之《シ》は例の其(ノ)一(ト)すぢなるを、重く思はする助辭なり、○歌(ノ)意は、秋立毎に、めづらしく花やかに相見むが爲にと、一(ト)すぢに思(ヒ)入たる故、わざと昔より天(ノ)漢を中に隔《ヘナ》りて、一年の間長く遠ざかり居(ル)ならし、となり、
 
4309 秋風爾《アキカゼニ》。奈妣久可波備能《ナビクカハビノ》。爾故具佐能《ニコグサノ》。爾古餘可爾之母《ニコヨカニシモ》。於毛保由流香母《オモホユルカモ》。
 
阿波備《カハビ》は、河傍《カハビ》なり、河《カハ》は即(チ)天(ノ)漢なり、○本(ノ)句は、爾古餘可《ニコヨカ》をいはむたのの序なり、十一にも、蘆垣之中之似兒草爾故余漢我其咲爲而人爾所知名《アシカキノナカノニコグサニコヨカニアレトヱマシテヒトニシラユナ》、とよめり、爾故具左《ニコグサ》は、品物解に説り、之母《シモ》は、數ある物の中を取(リ)出ていふ辭なり、こゝは世(ノ)間に、歡ばしく思はるゝことの數々ある中に、織女に相見むことの、ことにすぐれて、莞※[草がんむり/爾]《ニコヨカ》に思はるゝよしなり、○歌(ノ)意は、めづらしく織女に、相見むとおもふより、あるが中にも莞※[草がんむり/爾]《ニコヨカ》に、心咲《シタヱマ》はしくおもはるゝかな、さてもうれしや、となり、
 
4310 安吉佐禮婆《アキサレバ》。奇里多知和多流《キリタチワタル》。安麻能河波《アマノガハ》。伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》。都藝弖見牟(305)可母《ツギテミムカモ》。
 
第一二(ノ)句は、秋霧の立わたる風景をいへるのみなり、(牽牛の渡るを兼たる意はなし、)○伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》は、石並置者《イシナミオカバ》なり、石を並べ置て、石橋《イシバシ》と爲者《セバ》の意なり、石橋は、集中にあまたよめり、○歌(ノ)意は、天(ノ)河の渡(リ)瀬に、石を並べ置て、石橋とし、渡(リ)往來ふに便ならしめば、必(ズ)秋ならずとも、常に續て相見ることを得むか、さてもしか爲まほしや、となり、
 
4311 秋風爾《アキカゼニ》。伊麻香伊麻可等《イマカイマカト》。比母等伎弖《ヒモトキテ》。宇良麻知乎流爾《ウラマチヲルニ》。月可多夫伎奴《ツキカタブキヌ》。
 
宇良麻知乎流爾《ウラマチヲルニ》は、心待居《ウラマチヲル》になり、心待《ウラマツ》は、裏待《シタマツ》といはむが如し、○月可多夫伎奴《ツキカタブキヌ》、七日は夕月なるを、やがて夜更て、月の傾きたる意によみなしたり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、こは織女になりてよめり、
 
4312 秋草爾《アキグサニ》。於久之良都由能《オクシラツユノ》。守可受能未《アカズノミ》。安比見流毛乃乎《アヒミルモノヲ》。月乎之麻多牟《ツキヲシマタム》。
 
本(ノ)一二(ノ)句は、不《ズ》v飽《アカ》をいはむ料の序なり、秋の草花におく白露は、清潔《イサギヨ》くて、見(ル)に厭足《アキタラ》ぬものなれば、つゞけたり、○月《ツキ》は、月次《ツキナミ》の月なり、○歌(ノ)意は、飽(ク)世なく、親く愛《ウルハシ》く相見るものを、常にあふことのかなはずして、年に七月をのみ、一(ト)すぢに待て逢むか、となり、
 
4313 安乎奈美爾《アヲナミニ》。蘇弖佐閇奴禮弖《ソテサヘヌレテ》。許具布禰乃《コグフネノ》。可之布布流保刀爾《カシフルホトニ》。左欲布氣奈武可《サヨフケナムカ》。
 
(306)安乎奈美爾《アヲナミニ》は、青浪《アヲナミ》になり、八(ノ)卷にも、七夕(ノ)歌に、青浪爾望者多要奴《アヲナミニノゾミハタエヌ》、白雲爾※[さんずい+帝]盡奴《シラクモニナミダハツキヌ》云々、とあり、浪の青く見ゆるを云、○可之布》流保刀爾《カシフルホトニ》は、〓〓振間《カシフルホト》になり、〓〓《カシ》は、舟を繋ぎとヾむる木なり、七(ノ)卷、十五(ノ)卷にも見えたり、○歌(ノ)意は、〓〓《カシ》を振(リ)立て、舟を繋ぐ間に、夜の更なむかと、いそがるゝ心よりよめるなり、こは牽牛《ヒコボシ》になりてよめり、
 
右七月七日夕〔五字各○で囲む〕《ミギフミツキノナヌカノヨ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。獨《ヒトリ》仰《ミテ》2天漢《アマノガハヲ》1作《ヨメル》之。
 
4314 八千種爾《ヤチクサニ》。久佐奇乎宇惠弖《クサキヲウヱテ》。等伎其等爾《トキゴトニ》。佐加牟波奈乎之《サカムハナヲシ》。見都追思努波奈《ミツツシヌハナ》。
 
等伎其等爾《トキゴトニ》は、春秋の其(ノ)花さく時毎《トキゴト》になり、○思努波奈《シヌハナ》は、愛賞《シヌハ》ななり、眼(ノ)前に愛賞《メデウツクシム》ことを、古(ヘ)は思努布《シヌフ》と云しこと、一(ノ)卷額田(ノ)王(ノ)春秋(ノ)競の歌に委(ク)説り、さて思努波牟《シヌハム》と云は、緩《フユルヤカ》にて、思努波奈《シヌハナ》と云は、急《ニハカ》なることにいふよし、さきにたび/\云るが如し、○歌(ノ)意は、いでや八千種と、種々の草木を多く栽《ウヱ》ならべて、其(ノ)花さく時毎に見つゝ、一(ト)すぢに愛賞《シヌ》ばむ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。同月二十八日《オヤジツキノハツカマリヤカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
上に七月七日と云こなくては、同月と云こと、四月につゞくなり、これにても、脱文ありしことしられたり、
 
4315 宮人乃《ミヤヒトノ》。蘇泥都氣其呂母《ソデツケゴロモ》。安伎波疑爾《アキハギニ》。仁保比與呂之伎《ニホヒヨロシキ》。多加麻刀能美夜《タカマトノミヤ》。
 
(307)蘇泥都氣其呂母《ソデツケゴロモ》は、袖著衣《ソデツケゴロモ》なり、官服は皆|端袖《ハタソデ》を著れば、いふなるべし、と云り、十六に、結幡之袂著衣《ユヒハタノソデツケゴロモ》、ともよめり、○多加麻刀能美夜《タカマトノミヤ》は、高圓の離宮《トツミヤ》なり、此(ノ)下にも見ゆ、○歌(ノ)意は、宮人の衣の端袖の色の、うつくしくはなやかなるに、折しも芽子(ノ)花も盛に開《サキ》て映《ニホ》ひあふが、えもいはずよろしき、高圓の宮ぞ、となり、十五に、安伎波疑爾爾保敝流和我母《アキハギニニホヘルワガモ》、などよめるは、花に彩《イロド》り染《ソマ》りたるをいへど、こゝはたゞ映《テ》りあふをいふなるべし、(續後紀に、芽子を芳宜と書るは、もとより假字ながら、もしは今の歌の芳《ニホヒ》宜しき、と云意を、思はれしなどにや、)
 
4316 多可麻刀能《タカマトノ》。宮乃須蘇未乃《ミヤノスソミノ》。努都可佐爾《ヌツカサニ》。伊麻左家流良武《イマサケルラム》。乎美奈弊之波母《ヲミナヘシハモ》。
 
須蘇未《スソミ》は、裾廻《スソミ》なり、(略解に、未《ミ》は備《ビ》と通ひて、すそ方《ベ》なり、と云るは、物のさまは、いづれにしても、大《イタ》く異《カハリ》はなけれども、言の本を失なへる解ざまなり、未《ミ》は毛等保里《モトホリ》の切れるにて、磯廻《イソミ》など云|未《ミ》に同じきをや、)なほ此(ノ)言は、既く委(ク)註り、○努都可佐《ヌツカサ》は、野長《ヌツカサ》にて、野の高き處をいふ、十七にも見えたり、又集中に、山のつかさ、岸のつかさ、などもよめり、○乎美奈弊之波母《ヲミナヘシハモ》は、契冲、女郎花のにほひはいかにと、とひたづぬる意なり、と云るが如し、すべて波母《ハモ》は、歎息きて尋ね慕ふ意の辭なること、既くいへり、○歌(ノ)意は、高圓(ノ)野を想像《オモヒヤ》りてよめるにて、かくれなし、(末句は、今咲てあるらむ、その女郎花のにほひは、いかに愛しからむ、と尋ね慕ふ意なり、女郎花(308)は今咲るらむ、と倒(シ)ては聞べからず、)
 
4317 秋野爾波《アキヌニハ》。伊麻己曾由可米《イマコソユカメ》。母能乃布能《モノノフノ》。乎等古乎美奈能《ヲトコヲミナノ》。波奈爾保比見爾《ハナニホヒミニ》。
 
母能乃布能《モノノフノ》は、すべて朝廷に親く奉仕《ツカヘマツ》る人をば、男女にわたりて、古(ヘ)物部《モノヽフ)》といへる故に、かくいへるなり、○波奈爾保比《ハナニホヒ》は、此(ノ)下にも、見和多世婆牟加都乎能倍乃波奈爾保比弖里※[氏/一]多弖流波波之伎多我都麻《ミワタセバムカツヲノヘノハナニホヒテリテタテルハハシキタガツマ》、とあり、花艶《ハナニホヒ》なり、花《ハナ》やぎ媚艶《ナマメキニホ》ひ、ありきめぐり遊ぶを云なるべし、○歌(ノ)意は、此(ノ)上に、宮人乃蘇泥郡氣其呂母安伎波疑爾仁保比與呂之伎《ミヤヒトノソデツケゴロモアキハギニニホヒヨロシキ》、とよめるごとく、男女の宮人たち、花艶《ハナニホヒ》すとて、うちまじりつゝ遊ぶを見む爲に、今こそ秋野には行め、と云るなるべし、と中山(ノ)嚴水云る宜し、さらば三四五一二と句を次第《ツイデ》て意得べし、(略解に、千種の花のにほひ見に、男女打まじりて、今こそゆかめ、と云意にて、一五三四二と、句を次第して心得べし、といへるは、穩ならぬ説なり、舊き説に、乎等古乎美奈《ヲトコヲミナ》の花とは、をとこをみなへしの花と云べきを、あまりに長くなれば、略きていへるなり、さて男《ヲトコ》をみなへしと云は、大どちと云草の、女郎花に似て、花の白く咲(ク)をいふ、といひ、又白花なるを、をとこへしといひ、黄花なるを、をみなへしといふ、といへる類は、みな古(ヘ)にあらず、古學のすぢ開てより、かくざまの説どもの、ひがことなることを、わきまへしらぬは、世にをさ/\まれなれど、なほ初學の徒の、まどはむこと(309)を恐《オモ》て、かつ/”\しるしおくのみぞ、)
 
4318 安伎能野爾《アキノヌニ》。都由於弊流波疑乎《ツユオヘルハギヲ》。多乎良受弖《タヲラズテ》。安多良佐可里乎《アタラサカリヲ》。須具之弖牟登香《スグシテムトカ》。
 
安多良佐可里乎《アタラサカリヲ》は、惜盛《アタラサカリ》をなり、○具(ノ)字、阿野家本に、其と作るはわろし、須其之《スゴシ》と云は、古言にあらざればなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
4319 多可麻刀能《タカマトノ》。秋野乃宇倍能《アキヌノウヘノ》。安佐疑里爾《アサギリニ》。都麻欲夫乎之可《ツマヨブヲシカ》。伊泥多都良武可《イデタツラムカ》。
 
秋野乃宇倍《アキヌノウヘ》は、たゞ秋野のあたりにて、宇倍《ウヘ》は、藤原が上《ウヘ》、高野原《タカヌハラ》の上《ウヘ》など云|上《ウヘ》に同じ、下にも、多加麻刀能努乃宇倍能美夜《タカマトノヌノウヘノミヤ》、とよめり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
4320 麻須良男乃《マスラヲノ》。欲妣多天思加婆《ヨビタテマセバ》。左乎之加能《サヲシカノ》。牟奈和氣由可牟《ムナワケユカム》。安伎野波疑波良《アキヌハギハラ》。
 
欲妣多天思加婆《ヨビタテマセバ》は、中山(ノ)嚴水、此(ノ)詞かくては聞えず、末(ノ)句の牟奈和氣由可牟《ムナワケユカム》、といへるは、行(ク)末をかけていへることなればなり、されば此(ノ)思(ノ)字は、万志(ノ)二字を一字に誤(リ)しにはあらずや、と云り、信にさることなり、但(シ)呼立《ヨビタテ》マシカバ〔四字右○〕にては、八言の句になりて、耳立(ツ)なり、されば思加(ノ)二字は、萬世の誤などにや、さらばヨビタテマセバ〔七字右○〕と訓べし、さ、て呼(ヒ)立とは、鹿笛と云物を吹て(310)鹿を呼(ビ)寄るをいふなるべし、○牟奈和氣由可牟《ムナワケユカム》は、胸にて、芽子原を押(シ)分(ケ)行む、となり、鹿はすこし胸さし出たるやうにて、草むらを往來《カヨ》ふさまの、胸にてわくるごとく見ゆるを、かくよみなせり、八(ノ)卷にも、狹尾牡鹿乃胸別爾可毛秋芽子乃散過鷄類盛可毛行流《サヲシカノムナワケニカモアキハギノチリスギニケルサカリカモイヌル》、とよめり、○歌(ノ)意は、丈夫《マスラヲ》の鹿笛を吹て、呼(ビ)寄たらば、鹿の胸分往つゝ、いとヾ面白からむ秋の芽子原ぞ、となり、
 
右歌六首《ミギノウタムツハ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。獨《ヒトリ》憶《シヌヒテ》2秋野《アキノヌヲ》1。聯《イサヽカ》述《ノベテ》2拙懷《オモヒヲ》1作之《ヨメル》。
 
兵部少輔は、ツハモノヽツカサノスナキスケ〔十四字右○〕と訓べし、和名抄に、職員令(ニ)云、兵部省(ハ)都波毛乃乃都加佐《ツハモノノツカサ》、天武天皇紀に、兵政官《ツハモノヽツカサ》、○契冲云、家持の此(ノ)集撰ばれたること、これらのことばに見えたり、
 
天平勝寶七歳乙未二月《テムヒヤウシヨウハウナヽトセトイフトシキノトヒツジキサラキ》。相替《アヒカヘテ》遣《ツカハサルヽ》2筑紫諸國《ツクシノクニ/”\ニ》1防人等歌《サキモリラガウタ》。
 
七歳、續紀に、孝謙天皇、天平勝寶七年春正月甲子、勅(ス)、爲v有v所v思(フ)、宜d改(テ)2天平勝寶七年(ヲ)1、爲c天平勝寶七歳(ト)u、と見えて、同八歳、九歳まで、歳(ノ)字を用られしが、九歳八月十八日、天平寶字元年と改められしより後、年(ノ)字を用ひられたり、○防人は、軍防令義解に、凡兵士向v京(ニ)者、名(ク)2衛士(ト)1、火別(ニ)取(テ)2白丁五人(ヲ)1、充2火頭(ニ)1、守(ル)v邊者名2防人(ト)1、凡防人欲(セバ)v至(ムト)、所在(ノ)官司預爲2部分(ヲ)1、(謂官司者、防人(ノ)司也、預爲(レトハ)2部分(ヲ)1者、防人未v至之前、依(テ)v舊(ニ)差配(テ)、預爲2分目(ヲ)1、送2於太宰(ニ)1、防人至(レハ)即相替(ル)也、)防人至(テ)後(ノ)一日(ニ)、即共(ニ)2舊(ノ)人(ト)1分付(シ)、交替(シテ)使《シメヨ》v訖(ラ)、(謂主當之處、有2器仗等(ノ)類1、故云2分付(ト)1也、)守當之處(ハ)、毎v季|更《カハル/”\》代(ヘテ)、使《シメヨ》2苦樂均平(ナラ)1、と見え、靈異記に、(311)聖武天皇(ノ)御世、吉志(ノ)大麿統v兵(ヲ)前守《サキモリニ》所v點、應v經2三年1、〔頭註、【弘仁式十三、壹岐對馬防人、府官量之、差所部諸國、百姓強壯健勇者作番、令守之、】〕さて筑紫に防人を置れしことは、書紀に、天智天皇三年云々、是歳於2對馬島壹岐島筑紫(ノ)國等1、置2防人《サキモリト》與《トヲ》1v烽《スヽミ》、と見えたる、これその起《ハジメ》なるべし、かくて持統天皇三年二月甲申朔丙申、詔(シタマハク)筑紫(ノ)防人《サキモリ》滿(ル)2年限1者《モノハ》替(ヨ)、續紀に、聖武天皇天平二年九月己卯、停2諸國(ノ)防人(ヲ)1、九年癸巳、是日停2筑紫(ノ)防人(ヲ)1歸2于本郷(ニ)1、差(テ)2筑紫人(ヲ)1令v戍2壹岐對馬(ヲ)1、孝謙天皇天平寶字元年閏八月壬申、勅(シテ)曰、太宰府(ノ)防人、頃年差2坂東諸國(ノ)兵士(ヲ)1發遣(ス)、由是路次之國皆苦2供給(ニ)1、防人(ノ)産業(モ)亦難2辨濟(シ)1、自今已後、宜d差2西海道七國兵士合(セテ)一千人(ヲ)1、充2防人司(ニ)1、依v式(ニ)鎭戍(ス)、集v府(ニ)之日、便習2五教(ヲ)1、事具2別式(ニ)1、三年三月庚寅、太宰府言(ス)云々、太宰府(ハ)者、三面帶(ヒ)v海(ヲ)諸蕃|是《コヽニ》待、而自v罷(テ)2東國(ノ)防人(ヲ)1、邊戍日以荒散(セリ)、如《モシ》不慮之表(ニ)、萬一有(ハ)v變、何(ヲ)以(テカ)應(シ)v卒(ニ)、何(ヲ)以(テカ)示(ム)v威(ヲ)云々、勅云々、東國(ノ)防人(ハ)者、衆議不v允、仍不v依v請云々、稱徳天皇神護二年夏四月壬辰、太宰府言、防v賊(ヲ)戍v邊(ヲ)、本資2東國之軍(ニ)1、持v衆(ヲ)宣v威(ヲ)、非2是筑紫之兵(ニ)1、今割2筑前等(ノ)六國(ノ)兵士(ヲ)1、以爲2防人(ト)1、以2其所(ヲ)1v遺(ル)、分2番上下(ニ)1、人非2勇健(ニ)1、防守難v濟(シ)、望請東國(ノ)防人依v舊(ニ)配v戍(ニ)、勅修2理陸奥城柵(ヲ)1、多興2東國(ノ)力役(ヲ)1事、須d彼此通融、各得c其(ノ)軍(ヲ)u、今聞東國(ノ)防人、多留2筑紫(ニ)1、宜d加2※[手偏+僉]括(ヲ)1、且以配uv戍(ニ)、即隨(テ)2其(ノ)數(ニ)1簡2却(シ)六國所v點防人(ヲ)1、具v状(ヲ)奏來、計2其所1v欠、差2點東人(ヲ)1、以填2三十(ニ)1、斯乃東國(ノ)勞輕(ク)、西邊(ノ)兵足(ル)、と見えたり、かゝれば、既く聖武天皇天平九年に、東人を筑紫(ノ)防人に差ことを停(メ)られしを、この勝寶の頃は、また東人を、防人に充られしこと、此(ノ)處の文にて明なるを思ふに、筑紫人は、東人のごと強壯健勇《コハクタケ》から(312)ぬがゆゑに、邊賊の鎭戍に得堪ずして、なほ東人を差れしことは、其(ノ)後寶字元年の勅に、西海道(ノ)兵士一千人を、東國の防人にかへしめ賜ふよし、右に引たる如く見え、又神護二年の勅に、東人を差點して、三十に填よとあれば、なほ東國(ノ)人を、防人に差れしことは、止ざりしなり、續後紀に、承和十年八月戊寅、太宰府言(ス)、對馬島司言(ス)、去(ル)延暦年中、以2東國(ノ)人(ヲ)1配2防人(ニ)1、後又筑紫(ノ)人(ヲ)配2防人(ニ)1、而並停廢也、當2百姓(ヲ)1、去弘仁年中疫癘多死、急(ニ)有(ハ)2寇賊1何堪(ム)2防禦(ニ)1、望請准2舊例(ニ)1、以2筑紫(ノ)人(ヲ)1爲2防人(ト)1者、聽v之、と見えて、延暦年中に、東人を差れてより、その後は、永く東人を配ること停廢たるなるべし、
 
4321 可之古伎夜《カシコキヤ》。美許等加我布理《ミコトカガフリ》。阿須由利也《アスユリヤ》。加曳我伊牟多禰乎《カエガイムタネヲ》。伊牟奈之爾志弖《イムナシニシテ》。
 
可之古伎夜《カシコキヤ》は、畏哉《カシコキヤ》なり、勅命《ミコトノリ》を、畏《カシコ》み敬《ヰヤマ》ふよしなり、夜《ヤ》は助辭にて、余《ヨ》と云むが如し、○美許等加我布里《ミコトカガフリ》は、被《カヾフリ》v命《ミコト》なり、被《カヾフリ》は勅命《ミコトノリ》を戴き被《カウブ》るよしなり、加宇夫留《カウブル》を、加我布留《カガフル》と云は古言なり、五(ノ)卷にも、麻被引賀布利《アサブスマヒキカヾフリ》、とあり、○阿須由利也《アスユリヤ》は、從《ヨリ》2明日《アス》1哉《ヤ》なり、○加曳我伊牟多禰乎《カエガイムタネヲ》は、まづ加曳《カエ》は、契冲も、所の名なるべし、と云る、信にさることなり、(岡部氏云、加曳《カエ》ほ、遠江(ノ)國長(ノ)下(ノ)郡に、在なるべし、今其(ノ)郡に、かやば村あり、是等にや、)伊牟多禰《イムタネ》は、聞え難《カテ》なるを、(契冲、妹名根《イムナネ》なり、といへるは、穩ならず、又岡部氏が、夜共臥《イムタネ》にて、妹と共臥《ムタネ》することなるべし、といへるもあら(313)じ、)強て考(フ)るに、此も齋田嶺《イムタネ》などいふ山の名なるべし、さらば此(ノ)一句は、加曳《カエ》の地にある齋田嶺《イムタネ》を、といふなり、○伊牟奈之爾志弖《イムナシニシテ》は、妹無《イモナシ》に爲而《シテ》なり、此(ノ)句の下に、言を殘し含めたるなり、○歌(ノ)意は、畏《カシコ》き勅命《ミコトノリ》を被て、いなむべきにあらねば、明日よりは、加曳《カエ》の地の齋田嶺《イムタネ》の嶮《サガシ》き山を、妹なしにして、唯獨のみ超(エ)往むか、と云なるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。國造丁《クニノミヤツコノヨホロ》。長下郡《ナガノシモノコホリ》。物部秋持《モノヽベノアキモチ》。
 
國造丁は、國造より出せる人足をいふならむ、防人の往(ク)時の、道中の人足なるべし、丁は、戸令(ニ)云、凡男女三歳以下(ヲ)爲v黄(ト)、十六以下(ヲ)爲v少(ト)、廿以下(ヲ)爲(ヨ)v中(ト)、其(ノ)男(ハ)廿一(ヲ)爲(ヨ)v丁(ト)云々、續紀に、寶字元年四月詔曰云々、自今以後、宜d以2十八(ヲ)1爲2中男(ト)1、二十二以上(ヲ)成c正丁u、とあり、〔頭註、【軍防令に、凡兵向v京者、名2衛士1、火別取2白丁五人1、充2火頭1、守邊者、名2防人1云々、】〕白虎通に、丁(ハ)壯也、と見《ミ》え、文選に、漢の季陵が蘇武に報へたる書に、蘇武が年を丁年と書たる、その時の蘇武が年齡、廿歳ばかりなりければ、丁は、壯年のほどを云字なるべし、といへり、武烈天皇(ノ)紀に、三年十一月、發(シテ)2信濃(ノ)國(ノ)男丁《ヨホロヲ》1作(ラシム)2城像(ヲ)於水派(ノ)邑(ニ)1、とあり、榮花物語に、御ぐしなどいとをかしげにて、よほろばかりにおはします、金葉集に、みつきものはこぶよほろをかぞふれば、二萬の里人かずそひにけり、○長(ノ)下(ノ)郡、和名抄に、遠江(ノ)國長(ノ)上(長乃加美《ナガノカミ》)長(ノ)下、(准上、)○物部(ノ)秋持は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4322 和我都麻波《ワガツマハ》。伊多久古比良之《イタクコヒラシ》。乃牟美豆爾《ノムミヅニ》。加其佐倍美曳弖《カゴサヘミエテ》。余爾和須良(314)禮受《ヨニワスラレズ》。
 
伊多久古比良之《イタクコヒラシ》は、甚《イタク》戀《コフ》らしにて、我を甚く戀しくおもふらしの意なり、(古布良之《コフラシ》と云べきを、古比良之《コヒラシ》と云るは、東言ながら、古語にも、をり/\此(ノ)偏格あり、泣《イサ》つると云べきを、伊佐知流《イサチル》、荒《アラ》ぶると云べきを阿良毘流《アラビル》といへる類なり、)○加其佐倍美曳弖《カゴサヘミエテ》は、影副所見而《カゲサヘミエテ》なり、十三に、天雲之影塞所見《アマクモノカゲサヘミユル》、隱來笶長谷之河者《コモリクノハツセノカハハ》云々、十六に、安積香山影副所見山井之《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノ》云々、などあり、此《コヽ》はわが飲(ム)水に、吾(ガ)面のうつる、それにたぐひて、妻の面影の見ゆるやうに、おもはるゝなり、○余爾和須良禮受《ヨニワスラレズ》は、世《ヨ》に不《ズ》v所《レ》v忘《ワスラ》なり、世《ヨ》にとは、世《ヨ》にかなしく、世《ヨ》にこひしくなどの世《ヨ》にて、世(ノ)間に忘れられぬことの多くあるが中にも、殊にとりわきて忘れられず、と云意なり、三代實録に、貞觀八年、伴(ノ)善男、應天門を燒たること發れたる時の詔に、件(ノ)事波《コトハ》、世爾毛不在止思保之食天《ヨニモアヲジトオモホシメシテ》云々、伊勢集に、今はあの人は、世にもとはじ、何か頼み給ふ、清少納言が、世に逢坂の關はゆるさじ、とよめる、皆右の意なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主帳丁《フミヒトノヨホロ》。麁玉郡《アラタマノホリ》。若倭部身麿《ワカヤマベノムマロ》。
 
主帳丁(帳(ノ)字、舊本帳に誤れり、今は拾穗本に從つ、)は、主帳より出せる人足なるべし、主帳はフミヒト〔四字右○〕と訓べし、和名抄に、本朝職員令、二方品員等所v載郡(ニ)曰2主帳(ト)1云々、(皆|佐官《サクワム》)すべて佐官《サクワム》をば、古(ヘ)にはフミヒト〔四字右○〕と云しよし、さきにたび/\いへるごとし、職員令に、大都主帳二人、掌(ル)d受(テ)(315)v事(ヲ)上抄(シ)、勘(ヘ)2署(シ)文案(ヲ)1※[手偏+僉](ヘ)2出(シ)稽失(ヲ)1、讀(ミ)c申(スコトヲ)公文(ヲ)u、餘主帳准(ゼヨ)v之(ニ)、上郡主帳二人、中郡主帳一人、下郡主帳一人、小郡主帳一人、とあり、○麁玉(ノ)郡、和名抄に、遠江(ノ)國麁玉、(阿良多末《アラタマ》、今稱2有玉(ト)1、)續紀に、元明天皇靈龜元年五月乙巳、遠江地震、山崩壅2麁玉河(ヲ)1、水爲v之不v流云々、廢帝寶字五年七月辛丑、遠江(ノ)國荒玉河(ノ)堤決(ルコト)三百餘丈、役(シ)2單功三十萬三千七百餘人(ヲ)1、宛v粮(ヲ)修(メ)築(シム)、とあり、○若倭部(ノ)身麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4323 等伎騰吉乃《トキドキノ》。波奈波佐家登母《ハナハサケドモ》。奈爾須禮曾《ナニスレソ》。波波登布波奈乃《ハハトフハナノ》。佐吉泥己受毛牟《サキデコズケムム》。
 
奈爾須禮曾《ナニスレソ》は、何爲《ナニスレ》ぞにて、何爲歟《ナニスレカ》と云に同じく、何《ナニ》とすればか、といはむが如し、可《カ》と云べきを、曾《ソ》といへるは、古事記下(ツ)卷、雄略天皇(ノ)大御歌に、多禮曾意富麻幣爾麻哀須《タレソオホマヘニマヲス》、色葉歌にも、我世誰曾常《ワガヨタレソツネ》ならむ、などあり、○波波登布波奈乃《ハハトフハナノ》は、母《ハヽ》といふ花《ハナ》のなり、此《コ》は波波《ハハ》は、花(ノ)名にはあらざれども、花の如くに、愛《ウツク》しき母といふことを、かくいひなせり、○佐吉泥己受郁牟《サキデコズケムム》(泥(ノ)字、舊本には低と作り、今は元暦本に從つ、必(ズ)濁るべきところなればなり、)は、不《ザリ》2開出來《サキデコ》1けむなり、(略解に、咲|來《コ》ざらむの意なり、といへるは、いさゝかたがへり、けむと、ざらむとは、素より別言なればなり、)○歌(ノ)意は、旅に出て野山を往ば、其(ノ)時々につけて、さま/”\の花はさけども、何とすればか、花のごとくなる、愛しき母に逢(ハ)ぬことぞ、となり、孝徳天皇(ノ)紀歌に、模騰渠等爾婆那播左(316)該騰母那爾騰何母于都倶之伊母我磨陀左枳涅許農《モトゴトニハナハサケドモナニトカモウツクシイモガマダサキデコヌ》、これを本歌にしてよめるにや、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。防人《サキモリ》。山名郡《ヤマナノコホリ》。丈部眞麿《ハセツカベノママロ》。
 
山名(ノ)郡、和名抄に、遠江(ノ)國山名(ノ)郡、(也未奈《ヤマナ》○丈部(ノ)眞麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4324 等倍多保美《トヘタホミ》。志留波乃伊宗等《シルハノイソト》。爾閇乃宇良等《ニヘノウラト》。安比弖之阿良婆《アヒテシアラバ》。己等母加由波牟《コトハカユハム》。
 
等倍多保美《トヘタホミ》は、遠江《トホツアフミ》なり、和名抄に、遠江、(止保太阿不三《トホタアフミ》)、枕册子にも、とほたあふみ、とあり、等保都阿布美《トホツアフミ》といふべきを、古よりかくざまにもいひ、東語には、等閇多保美《トヘタホミ》、ともいへるなるべし、○志留波乃伊宗等《シルハノイソト》は、與《ト》2白羽磯《シルハノイソ》1なり、白羽《シルハ》は、略解(ニ)云、今遠江(ノ)國蓁原(ノ)郡白羽村、といふ有、しろわと唱へて、海邊なるよし、白羽(ノ)牧は、主税式に見ゆ、同處なるべし、○爾閇乃宇良等《ニヘノウラト》は、與《ト》2贄浦《ニヘノウラ》1なり、略解に、和名抄に、遠江(ノ)國濱名(ノ)郡に、贄代《ニヘシロ》といふ見ゆ、是なるべし、と云り、歌のやうを思ふに、贄《ニヘ》の浦は、わが家路の方にありて、白羽は、わが旅行方にあるにや、なほ尋ぬべし、○己等母加由波牟《コトハカユハム》は、言《コト》も將《ム》v通《カヨハ》なり、○歌(ノ)意は、白羽の磯と、贄の浦と、近く行相てあるならば、吾家なる妻と、言も通はすべきに、遠く隔りたるが悲しき、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。同郡丈部川相《オヤジコホリノハセツカベノカハヒ》。
 
丈部(ノ)川相は、傳未(ダ)詳ならず、
 
(317)4325 知知波波母《チチハハモ》。波奈爾母我毛夜《ハナニモガモヤ》。久佐麻久良《クサマクラ》。多妣波由久等母《タビハユクトモ》。佐佐己弖由加牟《ササゴテユカム》。
 
佐佐己弖由加牟《ササゴテユカム》は、※[敬/手]而《サヽゲテ》將《ム》v往《ユカ》なり、(己《ゴ》は、宜《ゲ》の轉れるなり、佐佐宜《ササゲ》は、指擧《サシアゲ》の切りたるなり、)○歌(ノ)意は、嗚呼《アハレ》父母は、草木の花にてもがなあれかし、さらば旅に往とも、いづくまでも※[敬/手]げ持て往べきを、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。佐野郡《サヤノコホリ》。丈部《ハセツカベノ》黒當。
 
佐野(ノ)郡、和名抄に、遠江(ノ)國|佐野《サヤノ》郡、續紀に、佐益《サヤノ》郡とあり、○丈部(ノ)黒當は、傳未(ダ)詳ならず黒當は、いかに唱(ヘ)しにか、
 
4326 父母我《チヽハヽガ》。等能能志利弊乃《トノノシリヘノ》。母母余具佐《モモヨグサ》。母母與伊弖麻勢《モモヨイデマセ》。和我伎多流麻弖《ワガキタルマデ》。
 
等能能志利弊乃《トノノシリヘ》は、殿《トノ》の後《シリヘ》なり、殿《トノ》は、父母の居處をいふべし、後《シリヘ》は、うしろのことなり、○母母余具佐《モモヨグサ》は、百代《モヽヨ》草といふ草(ノ)名なり、品物解に云、さて百代《モヽヨ》をいはむ料に取(リ)出たるなり、○母母與伊弖麻勢《モモヨイデマセ》は、百代出座《モヽヨイデマセ》にて、百代《モヽヨ》は、百歳《モヽトセ》なり、千歳《チトセ》を千代《チヨ》、萬歳《ヨロヅトセ》を萬代《ヨロヅヨ》と云に同じ、出座《イデマセ》は、御座《オハシマ》せ、といはむが如し、○和我伎多流麻弖《ワガキタルマデ》は、我(ガ)歸り來るまでの謂なり、(六帖には、いたるまでとあり、)○歌(ノ)意は、我(ガ)旅行の年月長くとも、百代までも、平安《サキ》くおはしまして、我(ガ)歸り來て相見むことを待給へ、となり、
 
(318)右一首《ミギノヒトウタハ》。同郡生玉部足國《オヤジコホリイクタマベノタリクニ》。
 
生玉部(ノ)足國(玉(ノ)字官本には王と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4327 和我都麻母《ワガツマモ》。畫爾可伎等良無《ヱニカキトラム》。伊豆麻母加《イツマモカ》。多比由久阿禮波《タビユクアレハ》。美都都志努波牟《ミツツシヌハム》。
 
伊豆麻母加《イツマモカ》は、暇《イトマ》も欲得《ガナ》なり、○阿禮波の波(ノ)字、元暦本に可と作るは、我之《アレガ》なるべし、舊本の方まされり、○美都都志努波牟《ミツツシヌハム》は、見乍《ミツヽ》將《ム》v愛《シヌバ》なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)妻のすがたを、うつし畫にかきとらむ暇もがなあれかし、さらば、其をだに、道すがら見つゝ、旅のなぐさめにせむを、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長下郡《ナガノシモノコホリ》。物部古麿《モノヽベノフルマロ》。
 
物部(ノ)古磨(古(ノ)宇、元暦本には等と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二月六日《キサラキムカノヒ》。防人部領使遠江國史生坂本朝臣人上《サキモリコトリツカヒトホツアフミノクニノフミヒトサカモトノアソミヒトカミガ》。進歌數十八首《タテマツレルウタノカズトヲマリヤツ》。但|有《アルハ》2拙劣歌十一首《ツタナキウタトヲマリヒトウタ》1不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
防人部領使は、推古天皇(ノ)紀に、十九年夏五月五日、藥2獵(ス)於兎田野(ニ)1、取《ニ》2鷄明時《アカトキ》1集2于藤原(ノ)池(ノ)上(ニ)1、以《ニ》2會明《アケグレ》1乃往之、栗田(ノ)細目(ノ)臣爲2前(ノ)部領《コトリト》1、額田部(ノ)比羅夫連爲2後(ノ)部領《コトリト》1、通證に、古等利《コトリハ》蓋|執《トリ》v事《コト》之義(ナラム)、といへり、契冲云、相撲にも、部領使あるゆゑに、ことりづかひは、相撲《スマヒ》にかぎる詞とおもへるは誤なり、○人上は、傳未(ダ)詳ならず、○十八首の内、七首を取載たるなり、
 
(319)4328 於保吉美能《オホキミノ》。美許等可之古美《ミコトカシコミ》。伊蘇爾布理《イソニフリ》。宇乃波良和多流《ウノハラワタル》。知知波波乎於伎弖《チチハハヲオキテ》。
 
伊蘇爾布理《イソニフリ》は、觸《フリ》2于|磯《イソニ》なり、磯に船の觸(リ)當るよしなり、四(ノ)卷に、大船乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者《オホブネヲコギノスヽミニイハニフリカヘラバカヘレイモニヨリテバ》、○宇乃波良和多流《ウノハラワタル》は、渡《ワタル》2海原《ウナハラ》1なり、○知知波波乎於伎弖《チチハハヲオキテ》は、家に父母を遺《ノコ》し置《オキ》てなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、海路の可畏《カシコ》きさま、おもひやるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。某郡〔二字各○で囲む〕|助丁《スケノヨホロ》。丈部造人麿《ハセツカベノミヤツコヒトマロ》。
 
一首の下、舊本に郡(ノ)名なきは、脱たるものなるべし、○助丁は、正丁を次《タス》くる丁なるべし、此(ノ)下にも見えたり、いづれの職にも、次官ある如く、丁にもあるなるべし、〔頭註、【仙覺云、十八歳爲2下丁1、據ある歟、】〕○人麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4329 夜蘇久爾波《ヤソクニハ》。那爾波爾都度比《ナニハニツドヒ》。布奈可射里《フナカザリ》。安我世武比呂乎《アガセムヒロヲ》。美毛比等母我母《ミモヒトモガモ》
 
夜蘇久爾波《ヤソクニハ》は、八十國者《ヤソクニハ》なり、諸《モロ/\》の國は、の謂なり、防人は、遠江より東の國々より出て、數多ければいふなるべし、○那爾波爾都度比《ナニハニツドヒ》は、集《ツドヒ》2于|難波《ナニハニ》1なり、○布奈可射里《フナカザリ》は、舟飾《フナカザリ》なり、舟艤《フナヨソヒ》といふに同じ、○安我世武比呂乎《アガセムヒロヲ》は、吾《アガ》將《ム》v爲《セ》日《ヒ》をなり、呂《ロ》は、等《ラ》と云に同じく、そへたる辭なり、○美毛比等毛我母《ミモヒトモガモ》は、嗚呼《アハレ》將《ム》v見《ミ》人もがなあれかしの意なり、○歌(ノ)意は、八十《ヤソ》と多くの國々の人の、(320)難波に集ひ舟出せむとて、我(レ)劣らじと、見事に舟を飾りよそひたるは、ほこらしくおもはるるを、いかで妻や子などに、一目見せばや、と思ふなり、さるをかく嗚呼《アハレ》將《ム》v見《ミ》人もがなあれかしと、大かたにいへるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。足下郡上丁《アシカラノシモノコホリカミツヨホロ》。丹比部國人《タヂヒベノクニヒト》。
 
足(ノ)下(ノ)郡、和名抄に、相摸(ノ)國足(ノ)上(足辛乃加美《アシカラノカミ》)足(ノ)下、(准v上)とあり、(和名抄舊印本に、足柄上下とあるは、例にたがへるひがことなり、校本に、柄(ノ)字なきぞ正しき、)○上丁は、此(ノ)上に、寶字二年の勅を引るごとく、十八爲2中男1、廿二以上成2正丁1、と見えたり、此(ノ)正丁のことにや、○國人は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4330 奈爾波都爾《ナニハヅニ》。余曾比余曾比弖《ヨソヒヨソヒテ》。氣布能日夜《ケフノヒヤ》。伊田弖麻可良武《イデテマカラム》。美流波波奈之爾《ミルヒトナシニ》。
 
余曾比余曾比弖《ヨソヒヨソヒテ》は、餝々而《ヨソヒヨソヒテ》なり、餝に餝て、と云が如し、神集《カミツドヒ》に集《ツドヒ》と云ことを、神集集《カミツドヒツドヒ》と云に同じ、さて餝《ヨソヒ》に餝《ヨソヒ》とは、餝《ヨソヒ》ごとのねもごろなる謂なり、舒明天皇(ノ)紀に、船卅艘乃|鼓《ツヾミ》吹《フエ》旗幟《ハタ》皆具(ニ)整餝《ヨソヘリ》、○日(ノ)字、六條本、古本、官本等には、比と作り、○伊田弖麻可良武《イデテマカラム》は、出而《イデテ》將《ム》v罷《マカラ》なり、難波津を發(チ)出るを云、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、右の歌には、將v見人もがなあれかし、といひ、是は見る母無(シ)に、といへるのみの異《カハリ》にて、心ばえみな同じ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。鎌倉郡上丁《カマクラノコホリノカミツヨホロ》。丸子連多麿《マロコノムラジオホマロ》。
 
(321)鎌倉(ノ)郡、和名抄に、相摸(ノ)國鎌倉(ノ)郡、(加末久良《カマクラ》)○丸子(ノ)連多麿は、傳未(ダ)詳ならず、丸子、續紀に多し、丸部《ワニベ》といふもあり、
 
二月七日《キサラキナヌカノヒ》。相模國防人部領使《サガムノクニノサモモリコトリツカヒ》。守從五位下藤原朝臣宿奈麿進歌數八首《カミヒロキイツヽノクラヰノシモツシナフヂハラノアソミスクナマロガタテマツレルウタノカズヤツ》。但|拙劣歌五首者《ツタナキウタイツツハ》。不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
宿奈麿は、續紀に、天平十八年四月癸卯、正六位下藤原(ノ)朝臣宿奈麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、同六月壬寅、爲2越前(ノ)守1、同九月癸亥、爲2上總(ノ)守(ト)1、勝寶四年十一月乙巳、爲2相摸(ノ)守(ト)1、寶字元年五月丁卯、授2從五位上(ヲ)1、六月壬辰、爲2民部(ノ)少輔(ト)1、三年十一月丁卯、爲2右中辨(ト)1、五年正月壬寅、爲2上野(ノ)守(ト)1、七年正月王子、爲2造宮(ノ)大輔(ト)1、上野(ノ)守如v故(ノ)、八年九月丙午、授2從四位下(ヲ)1、十月丙寅、授2正四位上(ヲ)1、爲2太宰(ノ)帥(ト)1、神護二年十一月丁巳、授2從三位(ヲ)1、景雲二年十一月癸未、兵部(ノ)卿從三位藤原(ノ)朝臣宿奈麻呂(ヲ)、爲2兼造法華寺(ノ)長官(ト)1、寶龜元年七月庚辰、爲2參議(ト)1、八月癸巳、天皇崩云々、爲2御装束司(ト)1、乙未、差2近江(ノ)國二百騎(ヲ)1、守2衛(セシム)朝廷(ヲ)1云々、爲2騎兵(ノ)司(ト)1、辛亥、爲2太《如本》宰(ノ)帥(ト)1、九月乙亥、爲2式部(ノ)卿(ト)1、造法華寺(ノ)長官如v故、十月己丑朔、從三位藤原(ノ)朝臣良繼(ニ)授2正三位(ヲ)1、二年三月庚午、爲2内臣(ト)1、五年正月丁未、授2從二位(ヲ)1、八年正月丙辰、爲2内大臣(ト)1、九月丙寅、内大臣從二位勲四等藤原(ノ)朝臣良繼薨(ス)、平城(ノ)朝(ノ)參議正三位式部(ノ)卿太宰(ノ)帥馬養之第二子也、天平十二年坐(テ)2兄廣嗣謀反(ニ)1流2于伊豆(ニ)1、十四年免(テ)v罪(ヲ)補2少判事(ニ)1、十八年、授2從五位1云々、寶龜二年、自2中納言1拜2内臣(ニ)1、賜2職封一千戸(ヲ)1、八年任2内大臣(ニ)1、薨時年六十二、贈2從一位(ヲ)1、とあり、後に宿奈(322)麿を、良繼と改められしなるべし、○八首の内三首を取(リ)載られたり、
 
追2痛《イタミテ》防人悲別之心《サキモリノワカレノコヽロヲ》1作歌一首并短哥《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4331 天皇乃《スメロキノ》。等保能朝廷等《トホノミカドト》。之良奴日《シラヌヒ》。筑紫國波《ツクシノクニハ》。安多麻毛流《アタマモル》。於佐敝乃城曾等《オサヘノキソト》。聞食《キコシヲス》。四方國爾波《ヨモノクニニハ》。比等佐波爾《ヒトサハニ》。美知弖波安禮杼《ミチテハアレド》。登利我奈久《トリガナク》。安豆麻乎能故波《アヅマヲノコハ》。伊田牟可比《イデムカヒ》。加弊里見世受弖《カヘリミセズテ》。伊佐美多流《イサミタル》。多家吉軍卒等《タケキイクサト》。禰疑多麻比《ネギタマヒ》。麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》。多良知禰乃《タラチネノ》。波波我目可禮弖《ハハガメカレテ》。若草能《ワカクサノ》。都麻乎母麻可受《ツマヲモマカズ》。安良多麻能《アラタマノ》。月日餘美都都《ツキヒヨミツツ》。安之我知流《アシガチル》。難波能美津爾《ナニハノミツニ》。大船爾《オホブネニ》。末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》。安佐奈藝爾《アサナギニ》。可故等登能倍《カコトトノヘ》。由布思保爾《ユフシホニ》。可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》。安騰母比弖《アドモヒテ》。許藝由久伎美波《コギユクキミハ》。奈美乃間乎《ナミノマヲ》。伊由伎佐具久美《イユキサグクミ》。麻佐吉久母《マサキクモ》。波夜久伊多里弖《ハヤクイタリテ》。大王乃《オホキミノ》。美許等能麻爾末《ミコトノマニマ》。麻須良男乃《マスラヲノ》。許己呂乎母知弖《ココロヲモチテ》。安里米具理《アリメグリ》。事之乎波良婆《コトシヲハラバ》。都都麻波受《ツツマハズ》。可敝理伎麻勢登《カヘリキマセト》。伊波比倍乎《イハヒヘヲ》。等許敝爾須惠弖《トコヘニスヱテ》。之路多倍能《シロタヘノ》。蘇田遠利加敝之《ソデヲリカヘシ》。奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。久路加美之伎弖《クロカミシキテ》。奈我伎氣遠《ナガキケヲ》。麻知可母戀牟《マチカモコヒム》。波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》。
 
天皇乃は、スメロキノ〔五字右○〕と訓る宜し、(略解にオホキミノ〔五字右○〕とよめるはわろし、)この差別のこと、既く委(ク)説り、)○等保能朝廷等《トホノミカドト》は、遠《トホ》の朝廷《ミカド》にてある、と云意なり、遠《トホ》の朝廷《ミカド》は、三(ノ)卷に既く註り、○(323)之良奴日《シラヌヒ》は、枕詞なり、既く註り、○安多麻毛流《アタマモル》は、六(ノ)卷にも、賊守筑紫爾至《アタマモルツクシニイタリ》、とよめり、書紀宣化天皇(ノ)卷に、元年夏五月辛丑朔、詔(シテ)曰、夫筑紫(ノ)國者、遐邇《クニ/”\ノ》之所2朝屆《マヰイタル》1、去來之《ユキキノ》所2蹟門(ニスル)1云々、天武天皇(ノ)卷(ノ)上に栗隈(ノ)王承(テ)v符(ヲ)對(テ)曰、筑紫(ノ)國者、元(ヨリ)戍《マモル》2邊賊之難《アタノワザハヒヲ》1也、○於佐敝乃城曾等《オサヘノキソト》(敝(ノ)字、舊本には倍と作り、今は古寫小本に從つ、)は、鎭之城《オサヘノキ》ぞとて、なり、寇賊《アタ》を鎭《オサ》へ防ぐ城のよしなり、○聞食《キコシヲス》は、既く出たり所知看《シロシメス》と云と、同じ意なり、次の四方國《ヨモノクニ》といふにつゞけて、意得べし、○安豆麻乎能故波《アヅマヲノコハ》は東男者《アズマヲノコハ》なり、反歌には、安豆麻乎等故《アヅマヲトコ》とあり、されば、乎能故《ヲノコ》、乎等故《ヲトコ》、いづれにもいひしなるべし、○伊田牟可比加弊里見世受弖《イデムカヒカヘリミセズテ》は、出向《イデムカヒ》不《ズ》v顧《カヘリミセ》而《テ》なり、十八に、可弊里見波勢自等許等太弖《カヘリミハセジトコトタテ》、とよみ、此(ノ)下にて、祁布與利波可敝里男奈久弖《ケフヨリハカヘリミナクテ》、とよめり、續紀に、景雲三年冬十月乙未朔、詔(シテ)曰、復|勅之久《ノリタマヒシク》、朕我東人爾《アガアヅマヒトニ》授《サヅケ》v刀《タチヲ》天《テ》、侍之牟留事波《サモラハシムルコトハ》、汝乃近護止之天《イマシノチカキマモリトシテ》、護近與止念天奈毛在《マモラシメヨトオモヒテナモアル》、是東人波《コノアヅマヒトハ》、常爾云久《ツネニイハク》、額爾方箭波立止毛《ヌカニハヤハタツトモ》、背波箭方不立止云天《セニハヤハタテジトイヒテ》、君乎一心乎以天護物曾《キミヲヒトツコヽロヲモチテマモルモノソ》、此心知天《コノコヽロシリテ》、汝都可弊止《イマシツカヘト》、勅比之御命乎《ノリタマヒシオホミコトヲ》不《ズ》v忘《ワスレ》、此状悟天《カクノサマサトリテ》、諸東國乃人等《アヅマノクニ/”\ノヒトドモ》、謹之末利奉侍禮《ツヽシマリツカヘマツレ》、と見ゆ、江次第に、三人任2坂東(ノ)掾(ニ)1、件(ノ)東海東山道多2驍勇之者1、仍以d練2弓馬1之者(ヲ)u用之歟、四季物語に、東の人の心は、大かたけだものゝやうにおぼいたり、さはいへども、かへりてかなしき心ざしをつくし、命にも身にもかへて、人をもすくひ、あまた眷屬ひきしたがへて、あたをもたすけためりし事など、人もいひつたへ、近う目にはみそなはしぬれば、京とても、ゐ中はづかしうこそ、とも見(324)えたり、すべて東人は、武勇のみならず、義氣の盛なりし事、詔詞にて思(ヒ)合せられたり、すべて東國人のすぐれて健き事は、後までもしかり、(平家物語に、大將軍平の維盛、齋藤(ノ)別當實盛を呼て、汝程の強弓精兵、東八箇國に、いか程あるぞと問しかば、實盛あざわらひて、君は實盛を大矢と思(シ)召(サ)るゝにこそ、某は纔十三束をこそ仕るなれ、實盛程射侍る者は、八箇國にはいくらも侍るなり、大矢と申すぢやうの者の、十五東に劣りて引は侍らず云々、などあるを、思(ヒ)合せて、その力強く、勢すべて武《タケ》かりしこと知(ラ)れたり、)○禰疑多麻比《ネギタマヒ》は、勞給《ネギタマ》ひなり、禰具《ネグ》は、禰疑良布《ネギラフ》と云に同じ、六(ノ)卷に、掻撫曾禰宜賜《カキナデソネギタマフ》、打撫曾禰宜賜《ウチナデソネギタマフ》、とある處に、委(ク)註り、○波波我目可禮弖《ハハガメカレテ》は、母之目離而《ハヽガメカレテ》にて、遠く離れ居て、母に見《マミ》ゆることのなきを云、○都麻乎母麻可受《ツマヲモマカズ》は、妻《ツマ》をも不《ズ》v纏《マカ》なり、相寢せぬをいふ、○月日餘美都都《ツキヒヨミツツ》は、月日《ツキヒ》を數乍《ヨミツヽ》なり、別を惜み、本郷《イヘヂ》を戀しく思ふ心より、一日々々をかぞふるならひなり、土佐日記にも、唯日の歴ぬる數を、今日|幾日《イクカ》二十日《ハツカ》三十日《ミソカ》と計《カゾフ》れば、拇《オヨビ》も損《ソコナ》はれぬべし、とあり、○安之我知流《アシガチル》は、蘆之散《アシガチル》にて、難波《ナニハ》の枕詞なり、蘆花《アシノハナ》の散を云、古事記安康天皇(ノ)條に、興《オコシテ》v軍《イクサヲ》待戰射出之矢《マチタヽカヒイイヅルヤ》、如《ゴトクナリキ》2葦來散《アシノキチルガ》1、とあり、○末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》は、眞榜繁貫《マカイシヾヌキ》なり、○可故等登能倍《コトトノヘ》は、水手整《カコトヽノ》へなり、○可治比伎乎里《カヂヒキヲリ》(治(ノ)字、舊本には知と作り、今は古寫小本に經つ、)は三(ノ)卷にも、行船乃梶引折而《ユクフネノカヂヒキヲリテ》、とよめり、七(ノ)卷にも、吾舟乃梶者莫引《ワガフネノカヂハナヒキソ》、とよめり、舟をこぐさまの、引たわめ折るごとくに見ゆるを云、○安騰母比弖《アドモヒテ》は、率而《アドモヒテ》なり、(325)○許藝由久伎美《コギユクキミ》とは、防人をさして云なるべし、防人の妻に擬《ナゾラヘ》ていふなるべし、○伊由伎佐具久美《イユキサグクミ》とは、伊《イ》はそへことばなり、往佐久美《ユキサクミ》にて、佐久美《サクミ》とは、浪の興居につれて、浮(キ)み沈(ミ)みして往を云、四(ノ)卷に、浪上乎五十行左具久美磐間乎射往廻《ナミノヘヲイユキサグクミイハノマヲイユキモトホリ》、とよめり、祈年祭祝詞に、磐根木板履佐久彌※[氏/一]《イハネコノネフミサクミテ》、とあり、○麻佐吉久母《マサキクモ》は、眞幸《マサキク》もなり、○美許等能麻爾末《ミコトノマニマ》は、隨《マニマ》v命《ミコトノ》なり、集中に多き詞なり、○安里米具里《アリメグリ》は、在々《アリ/\》て行(キ)廻り、と謂なり、○事之乎波良婆《コトシヲハラバ》、婆(ノ)字、舊本に波と作るはわろし、(今は元暦本、古寫小本等に從つ、)は、任事《トリモツコト》の竟《ヲハリ》なば、の謂なり、之《シ》は其(ノ)一(ト)すぢを、重く思はする辭なり、○都都麻波受《ツツマハズ》は、不《ズ》v恙《ツヽマハ》なり、○伊波比倍乎等許敝爾須惠弖《イハヒヘヲトコヘニスヱテ》は、居《スヱ》2忌瓮于床邊《イハヒヘヲトコヘニ》1而《テ》なり、三(ノ)卷に、枕邊爾齊戸乎居《マクラヘニイハヒヘチスヱ》、竹玉乎無間貫垂《タカタマヲシヾニヌキタリ》、とよめるをはじめて、あまた見えたることばなり、○蘇田遠利加敝之《ソデヲリカヘシ》は、衣を折(リ)かへし著て、夢に見むことを希ふを云り、衣を倒《カヘ》すときは、それに隨《ツレ》て、袖は自(ラ)かなる故に、袖と云るなり、○奈我伎氣遠《ナガキケヲ》は、長き來經《ケ》をにて、長き月日を、と云むが如し、○波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》は、愛妻等者《ハシキツマラハ》なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4332 麻須良男能《マスラヲノ》。由伎等里於比弖《ユキトリオヒテ》。伊田弖伊氣婆《イデテイケバ》。和可禮乎乎之美《ワカレヲヲシミ》。奈氣伎家牟都麻《ナゲキケムツマ》。
 
伊氣婆《イケバ》は、往者《イケバ》なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、妻の情を思ひやれるなり、
 
(326)4333 等里我奈久《トリガナク》。安豆麻乎等故能《アヅマヲトコノ》。都麻和可禮《ツマワカレ》。可奈之久安里家牟《カナシクアリケム》。 等之能乎奈我美《トシノヲナガミ》。
 
歌(ノ)意は、遠く別れ往てば、又歸り來て、相見むほどの年月久しきがゆゑに、妻と則るゝことの、さこそ悲しかりけめと、防人の情を思ひやれるなり、
 
右二月八日《ミギキサラキノヤカノヒ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4334 海原乎《ウナハラヲ》。等保久和多里弖《トホクワタリテ》。等之布等母《トシフトモ》。兒良我牟須敝流《コラガムスベル》。比毛等久奈由米《ヒモトクナユメ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、防人に、勤々《ユメ/\》紐解ことなかれと、家持(ノ)卿のいひ教ふるなり、
 
4335 今替《イマカハル》。爾比佐伎母利我《ニヒサキモリガ》。布奈弖須流《フナデスル》。宇奈波良乃宇倍爾《ウナハラノウヘニ》。奈美那佐伎曾禰《ナミナサキソネ》。
 
今替《イマカハル》は、新に交替《カハリ》て任《マケ》らるゝを云、今《イマ》は新《イマ》なり、新參《イママヰリ》、新熊野《イマクマノ》など云を、思(ヒ)合(ス)べし、○爾比佐伎母利《ニヒサキモリ》、七(ノ)卷に、今年去新島守之麻衣《コトシユクニヒサキモリガアサコロモ》、とよめり、○奈美那佐伎曾禰《ナミナサキソネ》は、浪勿開《ナミナサキ》そと云に、禰《ネ》の乞望辭のそはりたるなり、開《サキ》とは、六(ノ)卷に、四良名美乃五十開回有住吉能濱《シラナミノイサキモトヘルスミノエノハマ》、十四に、阿遲可麻能可多爾左久奈美《アヂカマノカタニサクナミ》、神代紀に、秀起浪穗之上《サキタテルナミノホノヘニ》云々、とあるに同じく、浪の興(チ)起るを云、さればこゝは、浪興ことなかれ、と希へるなり、(契冲、神武天皇(ノ)紀に、難波を、古(ヘ)は浪速《ナミハヤ》とも、浪華《ナミハナ》ともいひしよし見えたるを引て、浪を華に見立て、浪華《ナミハナ》といひ、華《ハナ》といふより、浪の華勿開《ハナナサキ》そといへるよしに説なせるは、いさゝかわろし、浪のさくと云は、華に擬《ナゾラ》へたるには非ねばなり、)○歌(ノ)意は、海路(327)浪發(チ)荒ることなく、恙なからむほどを祈望《コヒネガ》へるにて、かくれたるすぢなし、
 
4336 佐吉母利能《サキモリノ》。保里江己藝豆流《ホリエコギヅル》。伊豆手夫禰《イヅテブネ》。可治等流間奈久《カヂトルマナク》。戀波思氣家牟《コヒハシゲケム》。
 
本(ノ)句は、穿(リ)江を※[手偏+旁](ギ)出る防人の、伊豆手舟《イヅテブネ》と云意なり、穿(リ)江は、難波穿(リ)江なり、○伊豆手夫禰《イヅテブネ》は、契冲云、五手舟《イツテブネ》なり、櫓二丁立るを一手といふなれば、十丁立るを五手船といふなり、神代紀に、熊野諸手船《クマヌノモロテフネ》といへるは、櫓二丁立たる、早船やうの物と見えたり、應神天皇の、伊豆(ノ)國におほせて、つくらせたまへる、枯野《カラヌ》と云船あるによりて、伊豆出船《イヅデフネ》といふ説あれど、うけられず、伊豆手夫禰《イヅテブネ》とかけるも、伊豆出《イヅデ》船の心にあらず、此(ノ)下にいたりて、ほりえこぐいつての船、とよめるにも、また今のごとくかけり(已上)、今按(フ)に、二處ともに、伊豆とかけるを思ふに、立の意とせむことおぼつかなし、近頃江戸人橘(ノ)守部と云が云けらく、伊豆手船の手は、手人《テビト》などの手にて、作(ル)てふ義なるべし、伊豆(ノ)國は、上古より船を造るに巧なる國と見えて、書紀に、應神天皇五年冬十月、科2伊豆(ノ)國(ニ)1令v造v船(ヲ)云々、とあるをはじめて、其(ノ)後にも、これかれ造らしめられたること見ゆ、さて其(ノ)國にて造れるは更にもいはず、他國にて、其(ノ)製をまねび摸《ウツ》して造りたるをも、猶伊豆手船とぞいひけむ、されば此(ノ)歌、防人等を、難波津より公の船に乘せて、筑紫へやるなれど、なほそれをも、伊豆手船とはよめるなり、下に、保利江己具伊豆手乃船乃《ホリエコグイヅテノフネノ》云々、とある(328)も、皆その造り状に就ていへることしるし、といへり、此(ノ)説さもあらむか、○歌(ノ)意は、防人の情にたゆみなく、本郷の戀しく思はれむことを、船の※[楫+戈]取(ル)間無(ク)といひつゞけなしたり、
 
右三首《ミギノミウタハ》。九日《コヽノカノヒ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
三首の二字、舊本にはなし、拾穗本、古寫小本等並目録にあり、
 
4337 美豆等利乃《ミヅトリノ》。多知能己蘇伎爾《タチノイソギニ》。父母爾《チヽハヽニ》。毛能波須價爾弖《モノハズキニテ》。已麻叙久夜志伎《イマゾクヤシキ》。
 
美豆等利乃《ミヅトリノ》は、發之急《タチノイソギ》といはむ料のまくら詞なり、水鳥《ミヅトリ》は、物におどろきなどしては、急《スミヤカ》に飛(ビ)立ものなれば、つゞけたるなるべし、又たゞ發《タチ》と云言のみに、かゝれるにもあるべし、○毛能波須價爾弖《モノハズキニテ》は、物《モノ》不《ズ》v言《イハ》來《キ》にてなり、爾《ニ》の言は、已成《オチヰ》の奴《ヌ》のかよへるにて、來奈牟《キナム》、來奴《キヌ》、來禰《キネ》など、奈爾奴禰《ナニヌネ》の活用《ハタラキ》なり、(しかるを、略解に、來去《キイニ》てなり、とあるは、いみじき非《ヒガコト》なり、集中に、來去來《キニケリ》などやうに書る、去(ノ)字も皆借字と知(ル)べし、)○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、四(ノ)卷に、珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《アリキヌノサヰサヰシヅミイヘノモニモノイハズキニテオモヒカネツモ》、十四に、水都等利乃多々武與曾比爾伊母能良爾毛乃伊波受伎爾※[氏/一]於毛比可禰都毛《ミヅトリノタヽムヨソヒニイモノラニモノイハズキニテオモヒカネツモ》、旅に出(デ)立ことは、かねてよりおもひまうけながら、時にのぞみて、みなかくある習(ヒ)なり、およそ此(ノ)防人どもの歌、ことばはだみたれど、心まことありて、父母に孝《カウ》あり、妻をいつくしみ、子をおもへる、とり/”\にあはれなり、都の歌は、ふるくも、すこしかざれることもやといふべきを、これらを見て、いにしへ人のまことは、しられ侍りと、契冲い(329)へり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。上丁《カミツヨホロ》。有度部牛麿《ウトベノウシマロ》。
 
有度部(ノ)牛麿(部(ノ)字、舊本に郡と作るは誤なり、今は官本に從つ、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4338 多多美氣米《タタミケメ》。牟良自加已蘇乃《ムラジガイソノ》。波奈利蘇乃《ハナリソノ》。波波乎波奈例弖《ハハヲハナレテ》。由久我加奈之佐《ユクガカナシサ》。
 
多多美氣米《タタミケメ》は、諸註、疊薦《タヽミコモ》とせり、それに就て、契冲、延喜式に、榑一村《ヒハタヒトムラ》といひ、又日本紀に、絹一疋をも、ヒトムラ〔四字右○〕といひ、布一端をも、ヒトムラ〔四字右○〕といひたれば、薦一枚をも、ヒトムラ〔四字右○〕といへば、ヒトムラフタムラ〔八字右○〕と云心に、かくはつゞけたる歟、といへり、今按(フ)に、米(ノ)字は、布か不の誤にてもあるべきか、さらば直向《タヾムカフ》といふことを東詞に多々美氣布《タヾミケフ》と云るなるべし、然するときは、枕詞には非ず、四(ノ)卷に、直向淡路乎過《タヾムカフアハヂヲスギ》、十五に、多太牟可布美奴面乎左指天《タダムカフミヌメヲサシテ》、七(ノ)卷に、勢能山爾直向妹之山《セノヤマニタヾニムカヘルイモノヤマ》、などある類にて、直《タヾ》に指向《サシムカ》ふ處をいふ言なり、但し其(ノ)意ならば、多太《タダ》と濁音の字をかくべきに、多々と書るはいかゞなれど、偶々はとりはづして、不正字《タヾシカラヌモジ》を用たることも、集中に例少からねば、あながちに泥むべからず、(既く五(ノ)卷に、吾(ガ)盛甚(ク)降(チ)ぬを、和可佐可理伊多久久多知奴《ワガサカリイタククグチヌ》、と書るをも思ふべし、)はた此(ノ)歌に、牟良自我《ムラジガ》と書べきに、加の清音(ノ)字をかけるも、同類とすべし、○牟良自加已蘇《ムラジガイソ》は、駿河(ノ)國にある地名にや、尋ぬべし、〔頭註、【總國風土記に、鳥渡郡建崇寺、蘇我稻美連之願也、とあリ、も(330)し稻美連に所據ありて、連が磯と名づけたるならむもしるべからず、重ねて尋ぬべし、】〕○波奈利蘇乃《ハナリソノ》は、離磯之《ハナリソノ》なり、陸の方にさし離れたる磯をいふ、さてこれまでは、離而《ハナレテ》をいはむ料の序なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。助丁《スケノヨホロ》。生部道麿《イクベノミチマロ》。
 
道麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4339 久爾米具留《クニメグル》。阿等利加麻氣利《アトリカマケリ》。由伎米具別《ユキメグリ》。可比利久麻弖爾《カヒリクマデニ》。已波比弖麻多禰《イハヒテマタネ》。
 
久爾米具留《クニメグル》とは、防人の諸國《クニ/”\》を歴任(キ)て、みづから任所《ムケトコロ》に行(ク)を、國巡《クニメグル》といふなるべし、○阿等利加麻氣利《アトリカマケリ》は、大神(ノ)眞潮(ノ)翁の説に、阿等利《アトリ》は、當《アタリ》なり、加麻氣利《カマケリ》は、加《カ》は發語にて、負有《マケリ》なり、其(ノ)謂は、防人の年番の當《アタリ》に負有《マケリ》なり、年番に當るをば、人々|厭《イト》ふから、番にあたるを、負《マケ》とも云べくおぼゆといへり、この負有《マケリ》と説《イヘ》るは、まだしけれど、阿等利《アトリ》を、當《アタリ》なりといへるは、さることゝぞおばゆる、これによりて猶考(フ)るに、加《カ》は、右の説に同じくて、加青《カアヲ》、加黒《カクロ》、加易《カヤス》き、加弱《カヨワ》きなどの加にて、麻氣利《マケリ》は、任有《マケリ》なるべし、さらば、この二句は、國々《クニ/”\》を巡る防人の年番に當りて、任《マケ》られたり、といふ意なるべし、○由伎米具利《ユキメグリ》は、上の長歌に、安里米具里《アリメグリ》ともよめり、○末(ノ)句は、還り來までに齋《イハヒ》て待《マタ》ねなり、○歌(ノ)意は、國々を歴巡る防人の任《マケ》に充《アタ》りて、吾は遠(キ)國に趣くなれば、事竟て還り來むまで、いかで家人は神祇を齋祷て、待居てよかし、といふなり、
 
(331)右一首《ミギノヒトウタハ》。刑部虫麿《オサカベノムシマロ》。
刑部(ノ)虫麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4340 知知波波江《チチハハエ》。已波比弖麻多禰《イハヒテマタネ》。豆久志奈流《ツクシナル》。美豆久白玉《ミヅクシラタマ》。等里弖久麻弖爾《トリテクマデニ》。
 
知知波波江《チチハハエ》は、契冲、父母《チヽハヽ》よなり、といへり、今按(フ)に、集中に、菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》、紀之關守伊《キノセキモリイ》、などの伊《イ》を、東語に、江《エ》といへるなるべし、(稲城云、江は、波の重點、々とありしを、江と見て、誤れるなるべし、チヽハヽハ〔五字右○〕とあるべし、)○美豆久白玉《ミヅクシラタマ》は、水漬眞珠《ミヅクシラタマ》なり、水漬《ミヅク》は、十八に、海行者美都久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、とある、美都久《ミヅク》に同じ、○歌(ノ)意は、筑紫より、家づとに眞珠《シラタマ》を※[手偏+庶]《ヒロヒ》て歸り來るまで、父母よ、いかで神祇を齋祷て、吾を待居給ひてよかし、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。川原虫麿《カハラノムシマロ》。
 
川原(ノ)虫麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4341 多知波奈能《タチバナノ》。美衣利乃佐刀爾《ミエリノサトニ》。父乎於伎弖《チヽヲオキテ》。道乃長道波《ミチノナガチハ》。由伎加弖努加毛《ユキカテヌカモ》。
 
多知波奈能《タチバナノ》は、契冲、橘の實をえらぶと云意に、つゞけたり、といへり、さもあるべし、さらば枕詞なり、(後京極殿鷹三百首に、橘の身よりの毛衣かはるこそ名のある鷹のしるし成けれ、とあるは、今の歌によられしなり、)又は此(ノ)一句は、地(ノ)名などにもあるべし、橘《タチバナ》と云地の名、こゝかしこにあればなり、○美衣利乃佐刀《ミエリノサト》(衣(ノ)字、元暦本には、袁と作り、)は、本居氏云、和名抄に、駿河(ノ)國(332)志太(ノ)郡に夜梨(ノ)郷あり、夜は衣の誤歟、又こゝの衣は、夜の誤かといへり、(初句を、突冲(ノ)説の如く枕詞とするときは、夜は衣の誤にて、衣利《エリ》なるべし、)かくて初句を枕詞とするときは、衣利《エリ》郷(ノ)へ、美《ミ》の言ををへて、實撰《ミエリ》と云意に云係たるものなりとすべし、又初(ノ)句を地(ノ)名とするときは、美《ミ》は、御吉野《ミヨシヌ》などの御《ミ》にて、御衣利《ミエリ》といへるならむ、もしは衣利《エリ》は、夜利《ヤリ》の誤ならむにも、美《ミ》の言は同じ、○由伎加弖努加毛《ユキカテヌカモ》は、行不勝哉《ユキカテヌカモ》なり、○歌(ノ)意は、美衣利《ミエリ》の里に、父を遺《ノコ》し置て行むとすれど、心ひかれて、この長道の、さても行難きかな、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。丈部足麿《ハセツカベノタリマロ》。
 
丈部(ノ)足麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4342 麻氣婆之良《マケバシラ》。寶米弖豆久禮留《ホメテツクレル》。等乃能其等《トノノゴト》。己麻勢波波刀自《イマセハハトジ》。於米加波利勢受《オメカハリセズ》。
 
麻氣婆之良《マケバシラ》(氣(ノ)字、古寫小本には伎と作り、麻都能氣《マツノケ》などもあれば、舊本のまゝしかるべし、伎と作るは、がへりてさかしらに改めしなるべし、婆(ノ)字、舊本には、波と作り、宮柱をも、美也婆之良《ミヤバシラ》と假字書せれば、これはさもあるべし、)は、眞木柱《マキバシラ》なり、本居氏云、古(ヘ)に木《キ》を氣《ケ》とも云し例は、神代紀私記(ニ)曰、一兒、古事記及日木新抄並(ニ)云、謂d易(ツル)2子之|一木《ヒトツゲニ》1乎《カモト》u古者謂v木(ヲ)爲v介《ケト》、故今云2神今食《カムイマケト》1者、古謂2之神今木(ト)1矣云々、と云り、此(ノ)訓古き傳と聞えたり、猶書紀景行天皇(ノ)卷に、御木《ミケノ》川上とある(333)訓註に、木此云v開《ケト》1、又此(ノ)卷に、松(ノ)木を麻都能氣《マツノケ》とよめり、又近江の佐々木を、和名抄に篠笥《サヽケ》ともあり、といへり、(今云、上(ノ)件の私記の説、いさゝかまぎらはしけれど、古(ヘ)は木を介《ケ》と云し故に、今|神今食《カムイマケ》と云を、古(ヘ)は神今木と字に書て、神イマケケ〔三字右○〕と唱へしなりと云ことなり、木《キ》と介《ケ》と通ふ故に、今|神今食《カムイマケ》と云を、古(ヘ)は神今木《カムイマキ》と云しなりと云意に、ふとはきこゆれど、さにはあらず、)○寶米弖豆久禮留《ホメテツクレル》は、讃而造有《ホメテツクレル》なり、さま/”\に祝言《ホキコト》を稱《トナヘ》て造れるを云、顯宗天皇(ノ)紀に、爲2室壽1曰、築立稚室葛根《ツキタツルワカムロツナネ》、築立柱者《ツキタツルハシラハ》、此家長御心之鎭也云《コノイヘキミノミコヽロノシヅマリナリ》云々、古(ヘ)家造るには、すべてかゝる祝言のありしなるべし、○於米加波利勢受《オメカハリセズ》は、面變《オモカハリ》不《ズ》v爲《セ》なり、○歌(ノ)意は、祝言を稱《トナヘ》て、眞來柱高(ク)大く造れる殿の、動きゆるぐ事なくして、世に久しくあり歴る如くに、母刀自《ハヽトジ》も面變だにせずして、わが歸り來るまで、平安《サキ》く座《マシマ》せ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。坂田部首麿《サカタベノオビトマロ》。
 
坂田部(ノ)首麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4343 和呂多比波《ワロタビハ》。多比等於米保等《タビトオメホド》。己比爾志弖《コヒニシテ》。古米知夜須良牟《コメチヤスラム》。和可美可奈志母《ワガミカナシモ》。
 
和呂多比波《ワロタビハ》は、吾等旅者《ワロタビハ》なり、呂《ロ》は等《ラ》と同じく、添いふ辭にて、東詞にはことに多し、○多比等於米保等《タビトオメホド》は、旅《タビ》と雖《ド》v思《オモヘ》なり、○己比爾志弖《コヒニシテ》は、戀《コヒ》に爲而《シテ》なり、こゝは、戀しく思ふ故にして、とい(334)はむが如し、○古米知夜須良牟《コメチヤスラム》は、容顔持《カホモチ》將《ム》v痩《ヤスラ》なり、可保《カホ》は、古《コ》に切り、母《モ》は米《メ》に通へるゆゑに、可保持《カホモチ》を、古米知《コメチ》といへるなるべし、中昔物語書に、此(レ)を面持《オモモチ》といへり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)旅は、なみなみの旅ぞと思へど、たゞ旅の勞苦《イタヅキ》のみにはあらず、本郷に父母妻子などをのこしおきて、遠く別れ來ぬれば、其を戀しく思ふ故に、自(ラ)月に日に、容貌持《カホモチ》の痩衰《ヤセオトロ》へ行らむ吾(ガ)身の、さても悲しきことぞ、と云るなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。玉造部廣目《タマツクリベノヒロメ》。
 
玉造部(ノ)廣目、(廣(ノ)字、元暦本には度と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4344 和須良牟砥《ワスラムト》。努由伎夜麻由伎《ヌユキヤマユキ》。和禮久禮等《ワレクレド》。和我知知波波波《ワガチチハハハ》。和須例勢努加毛《ワスレセヌカモ》。
 
歌(ノ)意は、本郷の父母を、しばし思ひ忘れむと、野山を行て、心を慰むれども、更に得忘れずして、さても悲しき哉、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。商長首麿《アキヲサノオビトマロ》。
 
商長(ノ)首麿は、傳未(ダ)詳ならず、商長首の姓、姓氏録に見ゆ、その首は、加婆禰《カバネ》なり、今の首麿は名なるべし、
 
4345 和伎米故等《ワギメコト》。不多利和我見之《フタリワガミシ》。宇知江須流《ウチエスル》。須流河乃禰良波《スルガノネラハ》。苦不志久米(335)阿流可《クフシクメアルカ》。
 
和伎米故等《ワギメコト》は、吾妹子《ワギモコ》となり、○宇知江須流《ウチエスル》は、打寄《ウチヨス》るにて、駿河のまくら詞なり、既く三(ノ)卷に出(デ)つ、○禰良《ネラ》は嶺等《ネラ》にて、等《ラ》は添たる辭なり、嶺呂《ネロ》と多く東歌によめるに同じ、○苦不志久米阿流可《クフシクメアルカ》は、戀しくも有我《アルカ》なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。春日部麿《カスガベノマロ》。
 
春日部(ノ)麿は、傳未(ダ)詳ならず、契冲云、麿の上に字の落たるか、石上(ノ)麻呂、藤原(ノ)麻呂のたぐひに、此(ノ)まゝなる名か、
 
4346 知知波波我《チチハハガ》。可之良加伎奈弖《カシラカキナデ》。佐久安禮天《サクアレテ》。伊比之古度婆曾《イヒシコトバソ》。和須禮加禰津流《ワスレカネツル》。
 
可之良加伎奈弖《カシラカキナデ》は、わが頭髪《カシラ》などを、父母の掻撫《カキナデ》なり、わが黒髪を撫ずやありけむ、などやうによめる類にて、撫(デ)愛(シ)む形容《サマ》なり、此(ノ)下に、波波能美許等波美母乃須蘇都美安氣可伎奈※[泥/土]《ハハノミコトハミモノスソツミアゲカキナデ》云云、ともあり、○佐久安禮天《サクアレテ》は、幸《サキ》く在《アレ》となり、○伊比之古度婆曾《イヒシコトバソ》、或校本、仙覺抄、官本等に、古度婆曾《コトバソ》を、氣等婆是《ケトバソ》と作り、東詞に然も云べきことなれば、此も捨がたし、いづれにしても、云《イヒ》し詞《コトバ》ぞなり、○歌(ノ)意、かくれなし、契冲云、さながら、今見るやうなる歌なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。丈部稻麿《ハセツカベノイナマロ》。
 
(336)丈部(ノ)稻麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二月七日《キサラキノナヌカノヒ》。駿河國防人部領使《スルガノクニノサモモリコトリツカヒ》。守從五位下布勢朝臣人主《カミヒロキイツノクラヰノシモツシナフセノアソミヒトヌシ》。實進九日《マコトタテマツルハコヽノカノヒ》。歌數二十首《ウタノカズハタチ》。但拙劣歌十首者《ツタナキウタトヲハ》。不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
布勢(ノ)朝臣人主は、續紀に、勝寶六年四月癸未、太宰府言(ス)、入唐第四(ノ)船、判官五六位上布勢(ノ)朝臣人主等、來2泊(ツ)薩摩(ノ)國石籬(ノ)浦(ニ)1、同年七月丙午、授2從五位下(ヲ)1、爲2駿河(ノ)守(ト)1、寶字三年五月壬午、爲2右少辨(ト)1、四年正月癸未、爲2山陽道(ノ)巡察使(ト)1、七年正月壬子、授2從五位上1、爲2右京(ノ)亮(ト)1、四月丁亥、爲2文部(ノ)(式部)大輔(ト)1、八年四月戊寅、爲2上總(ノ)守(ト)1、景雲元年八月丙午、爲2式部(ノ)大輔(ト)1、三年六月乙巳、爲2出雲(ノ)守(ト)1、とあり、○實進(ハ)九日、こは此(ノ)前後みな九日の歌を載たるに、こゝに、七日の歌ありては、後々日の前後を人の疑はむことをおもひて、ことに九日に進れるよしを註し、ことわれるなるべし、○二十首の内、十首をとり載られたり、○十首(ノ)二字、舊本にはなし、古寫小本に從つ、
 
4347 伊閇爾之弖《イヘニシテ》。古非都都安良受波《コヒツツアラズハ》。奈我波氣流《ナガハケル》。多知爾奈里弖母《タチニナリテモ》。伊波非弖之加母《イハヒテシカモ》。
 
歌(ノ)意は、家に遺(リ)居て、戀しく思ひつゝあらむよりは、汝が佩有刀《ハケルタチ》に成てだに、汝が身を離れず、平安《サキ》からむことを齋ひて、あらまほしきものを、嗚呼《アハレ》さても思ふとごくならぬ事哉、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。國造丁《クニノミヤツコノヨホロ》。日下部使主三中之父歌《クサカベノオミミナカガチヽノウタ》。
 
(337)日下部(ノ)使主三中之父(日下(ノ)二字、舊本に早に誤れり、今は元暦本、官本、古寫本、古寫小本等に從つ、父(ノ)字、舊本には文に誤れり、今は官本、拾穗本、古寫本、古寫小本等に從つ、略解に、文は母(ノ)字の草書の誤なるべし、といへれど、いかに草書なりとて、母を文には、誤るべくもなし、答歌に母とよめり、といへれど、次の三中が歌も、必しも此(ノ)和(ヘ)歌なりとも見えず、右の歌は父のよめるなれど、次なるは、三中が、母を慕ひてよめりし歌と見ば、何てふことかあらむ、そのうへ、左註によるに、元は父母の歌共にありけむが、母の歌は拙劣れるから、取(リ)載ざりしにもあるべきをや、)は、傳未(ダ)詳ならず、使主は、顯宗天皇(ノ)紀に、使主此云2於彌《オミト》1、
 
4348 多良知禰乃《タラチネノ》。波波乎和加例弖《ハハヲワカレテ》。麻許等和例《マコトワレ》。多非乃加里保爾《タビノカリホニ》。夜須久禰牟加母《ヤスクネムカモ》。
 
波波乎和加例弖《ハハヲワカレテ》は、母《ハヽ》に別れて、と云に同じ、○麻許等和例《マコトワレ》は、信《マコト》に我《ワレ》なり、○夜須久禰牟加母《ヤスクネムカモ》は、安《ヤス》く寐《ネ》むかは、さても安くは得《エ》寐《ネ》じ、の謂なり、加《カ》は、後(ノ)世の加波《カハ》の加《カ》、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。國造丁《クニノミヤツコノヨホロ》。日下部使主三中《クサカベノオミミナカ》。
 
日下、これも舊本に早に誤れり、今は元暦本、拾穗本、古寫本、古寫小本に從つ、
 
4349 毛母久麻能《モモクマノ》。美知波紀爾志乎《ミチハキニシヲ》。麻多佐良爾《マタサラニ》。夜蘇志麻須義弖《ヤソシマスギテ》。和加例加由(338)可牟《ワカレカユカム》。
 
歌(ノ)意は、百隈《モヽクマ》の陸路《クガチ》を經來《ヘコ》しものを、又更に八十島の海路を過て、遠き境に別れ往むかと、海陸の勞をかけてよめり、難波より、發船するときの歌なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。助丁刑部直三野《スケノヨホロオサカベノアタヘミヌ》。
 
三野は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4350 爾波奈加能《ニハナカノ》。阿須波乃可美爾《アスハノカミニ》。古志波佐之《コシバサシ》。阿例波伊波波牟《》アレハイハハム。加倍理久麻※[人偏+弖]爾《カヘリクマデニ》。
 
爾波奈加能《ニハナカノ》は、庭中之《ニハナカノ》にて、庭の中央之《マナカノ》、と云が如し、(庭(ノ)内と云には非ず、)○阿須波乃可美《アスハノカミ》は、古事記上(ツ)卷に、大年(ノ)神、娶2天(ノ)知迦流美豆比賣《チカルミヅヒメニ》1、生子云々、次(ニ)阿須波《アスハノ》神、次(ニ)波比岐《ハヒキノ》神云々、と見ゆ、古事記傳十二に云るやう、阿須波《アスハノ》神、名(ノ)義未(ダ)考(ヘ)得ず、(されど甞に強て云ば、足場《アシバ》の意にや、足をアス〔二字右○〕と云は、地名の足羽《フスハ》など是なり、さて此(ノ)神は人の物へ行とても、萬(ヅ)の事業をなすとても、足蹈立る地を、守(リ)坐(ス)神なるが故に、家毎に祭りしにや、)波比岐《ハヒキノ》神、名(ノ)義は、是も未(ダ)思(ヒ)得ず、さて右の二    
神の事は、まづ祈年祭(ノ)祝詞に、座摩乃御巫乃稱辭竟奉《ヰガスリノミカムノコノタヽヘコトヲヘマツル》、皇神等能前爾白久《スメカミタチノマヘニマヲサク》、生井《イクヰ》、榮井《サクヰ》、津長井《ツナガヰ》、阿須波《アスハ》、波比支登《ハヒキト》、御名者白※[氏/一]《ミナハマヲシテ》、稱辭竟奉者《タヽヘコトヲヘマツラバ》、皇神能敷坐《スメカミノシキマス》、下都磐根爾宮柱太知立《シタツイハネニミヤバシラフトシリタテ》、高天原爾千木高知※[氏/一]《タカマノハラニチギタカシリテ》、皇御孫命乃瑞能御舍乎仕奉※[氏/一]《スメミマノミコトノミヅノミアラカヲツカヘマツリテ》、また月次祭祝詞にも、如此見ゆ、此神社は、神名帳に、宮中(ノ)(339)神卅六座の中に、座摩巫《ヰガスリノ巫神五座、(並大、月次新嘗、)生井(ノ)神、福井(ノ)神、綱長井(ノ)神、波比祇(ノ)神、阿須波(ノ)神とある、是なり、さて阿須波《アスハ》、波比岐《ハヒキ》二柱(ノ)神の、古より如此《カク》御井(ノ)神と、一(ツ)處にしも鎭座りしは、共に人(ノ)家庭《ヤニハ》に就る神なればなるべし、又貞觀儀式、延喜大甞祭式などを考るに、悠紀、主基の兩國、各齋郡に、齋院と云(フ)を構て、八神殿を造りて、御歳(ノ)神、高御魂(ノ)神、庭高津日(ノ)神、大御食(ノ)神、大宮女(ノ)神、事代主(ノ)神、阿須波(ノ)神、波比伎(ノ)神、この八柱(ノ)神を祭らる、抑々此(ノ)齋院は、御稻拔穗のためなる故に、御年(ノ)神、大御食(ノ)神などを祭られ、又其(ノ)庭を守(リ)坐(ス)故に、庭高津日(ノ)神を祭り、阿須波、波比岐(ノ)二神も祭らるゝ由あるなるべし、(拔穗より、其を京に運(ビ)送るまでの、種々の事を行ふ足場を守(リ)坐がために、阿須波(ノ)神をも祭らるゝなるべし、)萬葉二十に云々、(袖中抄に、上總(ノ)國に、阿須波と申す神おはす、と云るは、非なり、又|爾波奈加《ニハナカ》を、彼(ノ)國の地(ノ)名とする説もわろし、)此(ノ)歌に、庭中之《ニハナカノ》とよめるを以て、當昔《ソノカミ》民家の庭に、竈(ノ)神などと共に、此(ノ)阿須波(ノ)神をも、祭りしこと知べし、さて此(ノ)神を祭るうへは、庭高津日(ノ)神、波比岐(ノ)神などをも、向く祭りつらむ、(然るに、取分て阿須波乃神爾としもよめるは、旅行を祈る故なるべし、行(ク)前々《サキ/”\》足ふみ立る地を守(リ)坐(ス)故なり、若(シ)此を竈(ノ)神とせば、旅行を祈らむこと由なし、)さて右の歌は、未(ノ)二句を味ふに、彼(ノ)阿須波(ノ)神は、己が家のには非で、行前の宿々の家に祭れるを、伊波比《イハヒ》つゝ行む、とよめるなれば、何國にても、家ごとに祭ることしられたり、(或書に、攝津(ノ)國河邊(ノ)郡阿須波(ノ)神(ノ)祠、在2米谷村(ニ)1、今稱2荒神(ト)1、と云るも、此(ノ)神を祭(340)れるなるべし、)と見えたり、(已上)今按(フ)に、上の説の中、阿須波(ノ)神は、行前の宿々の家に祭れるをよめり、と云るは、直に諸人が歌と見たるよりの事なり、されど是は、左に云る如く、字の落たるにて、家に遺(リ)居る人のよめるものと思はるれば、遙なる旅に行(ク)人の、其(ノ)宿々の家の神に、木柴さして、いはゝむこと理なし、されば古(ヘ)は、何國にまれ、家ごとに祭りは爲けむなれど、此(ノ)歌なるは、其(ノ)家ののみを云ること著し、〔頭註、【通證鹿島本縁云、阿須波大明神社、在2下總國香取郡1、是祭2大己貴命兒阿須波命1也、旅行發駕之日就2此神1而祷、今俗稱2首途1曰2鹿島立1、此縁也、】〕○古志波佐之《コシバサシ》は、木芝指《コシバサシ》なり、古志波《コシバ》は、小柴《コシバ》にてもあるべし、)柴《シバ》を指(シ)廻して、御室を製(ル)なり、源氏物語賢木に、(野(ノ)宮のさまを、)物はかなげなるこしばをおほ垣にて、いたやども、あたりあたりいとかりそめなめり、とあるこしばに同じ、○加倍理久麻※[人偏+弖]爾《カヘリクマデニ》、爾(ノ)字、元暦本には泥と作り、○歌(ノ)意は、其方の還り來むまでは、此(ノ)家の庭中に鎭座す、阿須波(ノ)神に、木柴さし、御室を造り、慇懃に幣帛奉りて、旅行の恙なく平安からむことを、吾は祈祷りつゝ齋ひ拜《イツ》きて待居むぞ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主〔○で囲む〕帳丁《フミヒトノヨホロ》。若麻續部諸人《ワカヲミベノモロヒト》。
 
主(ノ)字、舊本に無は脱たるなり、前後の例に從て今補つ、○諸人は、傳未(ダ)詳ならず、此字の下に、父か母か、又は妻などの字のありしが、落たるなるべし、
 
4351 多妣己呂母《タビコロモ》。夜都伎可佐禰弖《ヤツキカサネテ》。伊努禮等母《イヌレドモ》。奈保波太佐牟志《ナホハダサムシ》。伊母爾志阿(3401)良禰婆《イモニシアラネバ》。
 
妣(ノ)字、舊本には比と作り、今は元暦本に從つ、○夜都伎可佐禰弖《ヤツキカサネテ》(都(ノ)字、舊本には豆と作り、今は元暦本に從つ、伎(ノ)字、倍と作る本はわろし、)は、彌津著襲而《ヤツキカサネテ》なり、○奈保波太佐牟志《ナホハダサムシ》は、猶膚寒《ナホハダサム》しなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。望陀郡上丁《ウマグタノコホリノカミツヨホロ》。玉作部國忍《タマツクリベノクニオシ》。
 
望陀(ノ)郡、和名抄に、上總(ノ)國望陀、(末宇太《マウタ》)とあれど、其は後に訛れるものにて、十四の歌に、宇麻具多《ウマグタ》とあるぞ、古(ヘ)の唱なる、書紀天武天皇(ノ)卷に大伴(ノ)連|馬來田《ウマグタ》と云人を、望多とも書たるをも、思ふべし、○國忍は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4352 美知乃倍乃《ミチノベノ》。宇萬良能宇禮爾《ウマラノウレニ》。波保麻米乃《ハホマメノ》。可良麻流伎美乎《カラマルキミヲ》。波可禮加由加牟《ハカレカユカム》。
 
宇萬良能宇禮爾《ウマラノウレニ》は、荊之末《ウマラノウレ》になり、○波保麻米乃《ハホマメノ》は、蔓豆之《ハフマメノ》なり、此(ノ)下にも、嶺延雲《ミネハフクモ》を、美禰波保久毛《ミネハホクモ》、とあり、契冲、和名抄に、辨色立成(ニ)云、※[草がんむり/偏]豆(ハ)(和名|阿知萬女《アチマメ》、)籬上(ノ)豆也、とあるを引て、是は※[草がんむり/扁]豆《アチマメ》の事なるべし、と云(ヘ)り、さてこれまでは、からまるをいはむ料の序なり、豆蔓《マメヅラ》は、荊《オドロ》などにはひかゝりからむものなればなり、○可良麻流伎美爾《カラマルキミニ》は、纏《マツハ》る君に、といはむが如し、契冲、からまるは、十三に、藤浪の思ひまつはしとよめる心なり、といへるが如し、○波可禮加由加牟《ハカレカユカム》は、離(342)哉《ハカレカ》將《ム》v往《ユカ》なり、神代紀に、廢渠槽、此云2秘波餓都《ヒハガツト》1、とあれば、波奈都《ハナツ》を波可都《ハカツ》、波奈禮《ハナレ》を波可禮《ハカレ》といひしにや、本居氏、波可禮《ハカレ》は、和可禮《ワカレ》なり、ハシル、ワシル、ハツカ、ワヅカ〔十二字右○〕など、波《ハ》と和《ワ》と通ふ例あり、といへり、此(ノ)説によるべし、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。天羽郡上丁《アマハノコホリノカミツヨホロ》。丈部鳥《ハセツカベノトリ》。
 
天羽(ノ)郡、和名抄に、上總(ノ)國天羽、(阿末波《アマハ》)○鳥は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4353 伊倍加是波《イヘカゼハ》。比爾比爾布氣等《ヒニヒニフケド》。和伎母古賀《ワギモコガ》。伊倍其登母遲弖《イヘゴトモチテ》。久流比等母奈之《クルヒトモナシ》。
 
伊倍加是《イヘカゼ》は、我(ガ)本郷の方より吹來るを、家風《イヘカゼ》といへるなり、後に、家の風とよむとは、言の樣かはれり、○伊倍其登《イヘゴト》は、家言《イヘゴト》にて、本郷の親妻などの言傳なり、○歌(ノ)意は、わが本郷のかたより、家風は、毎日毎日《ヒゴトヒゴト》に吹來れども、親妻などの言傳を、負(ヒ)持(チ)來る人は、一人だにもなし、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。朝夷郡上丁《アサヒナノコホリノカミツヨホロ》。丸子連大歳《マロコノムラジオホトシ》。
 
朝夷(ノ)郡、和名抄に、安房(ノ)國朝夷、(阿佐比奈《アサヒナ》)とあり、元正天皇、養老二年五月乙未、割(テ)2上總(ノ)國之平群、安房、朝夷、長狹(ノ)四郡(ヲ)1、置2安房(ノ)國(ヲ)1、その後聖武天皇、天平十三月十二月丙戌、安房(ノ)國并2上總國1、とあり、當時は、勝寶七年にて、上總(ノ)國にあはせられしほどなり、その後程なく、孝謙天皇、寶字元年五月乙卯、勅曰、云々、其能登、安房、和泉等(ノ)國、依v舊分立(ヨ)、と見えたり、○大歳は、傳未(ダ)詳ならず、
 
(343)4354 多知許毛乃《タチコモノ》。多知乃佐和伎爾《タチノサワキニ》。阿比美弖之《アヒミテシ》。伊母加己己呂波《イモガココロハ》。和須禮世奴可母《ワスレセヌカモ》。
 
多知許毛乃《タチコモノ》は、立鴨之《タチカモノ》にて、まくら詞なり、上に、置豆等利乃多知乃已蘇伎《ミヅトリノタチノイソギ》、とよめるに同じ、○伊母加己己呂波《イモガココロハ》は、妹が心の愛しさは、と云むが如し、十二に、神左備而巖爾生松根之君心者忘不得毛《カムサビテイハホニオフルマツガネノキミガコヽロハワスレカネツモ》、とあり、○和須禮世奴可母《ワスレセヌカモ》は、忌るゝ事を得爲ず、さても絶間なく、戀しく思はるゝこと哉、となり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長狹郡上丁《ナガサノコホリノカミツヨホロ》。丈部與呂麿《ハセツカベノヨロマロ》。
 
長狹(ノ)郡、和名抄に、安房(ノ)國長狹、(奈加佐《ナガサ》)○與呂麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4355 余曾爾能美《ヨソニノミ》。美弖夜和多良毛《ミテヤワタラモ》。奈爾波我多《ナニハガタ》。久毛爲爾美由流《クモヰニミユル》。志麻奈良奈久爾《シマナラナクニ》。
 
歌(ノ)意は、雲居の外に見ゆる島にても、なきことなるに、本郷の方を遙に見すてゝ、難波より發船して、遠き海路をわたり往むもの歟、となり、契冲もいへるごとく、此は、難波より西(ノ)方にある島々の、遙に望《ミサケ》らるゝを、雲居に見ゆる島とはよめるものなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。武※[身+矢]郡上丁《ムザノコホリノカミツヨホロ》。丈部山代《ハセツカベノヤマシロ》。
 
武※[身+矢](ノ)郡、和名抄に、上總(ノ)國|武射《ムザ》、○山代は、傳未(ダ)詳ならず、
 
(344)4356 和我波波能《ワガハハノ》。蘇弖母知奈弖※[氏/一]《ソテモチナデテ》。和我可良爾《ワガカラニ》。奈伎之許己呂乎《ナキシココロヲ》。和須良延努可母《ワスラエヌカモ》。
 
本(ノ)二句は、母《ハヽ》の自《ミ》の袖を持(テ)て、吾を撫《ナデ》ての意なり、此(ノ)上にも、知知波波我可之良加伎奈弖《チチハハガカシラカキナデ》云々、とよめり、下の長歌にも、同じ心ばえの詞あり、○和我可良爾《ワガカラニ》は、吾《ワガ》故《カラ》になり、○奈伎之許己呂乎《ナキシココロヲ》、今按(フ)に、此は泣《ナキ》し心之《コヽロノ》とあるべき處なり、此(ノ)乎《ヲ》は、十四に、多伎木許流河麻久良夜麻能許太流木乎麻都等奈我伊波婆古非都追夜安良牟《タキギコルカマクラヤマノコダルキヲマツトナガイハバコヒツツヤアラム》、とある乎《ヲ》に同じく、能《ノ》に通ふ言か、又は能、乃等の字を、寫し誤れるにもあるべし、(もしこれを、常の如く、泣し心乎《コヽロヲ》としては、和須良延努《ワスラエヌ》とあるに應はず、乎ならば、和須禮可禰都母《ワスレカネツモ》、などやうにあるべし、其(ノ)所以《ユヱ》は、忘らえぬは、自(ラ)忘れられぬを云、忘れ不得《カネ》つもは、忘(ル)ることを得ざるを云との差別《ケヂメ》にて、乃《ノ》と乎《ヲ》との異《カハリ》あるを知べし、此(ノ)例は、たとへば人のおもほゆると云と、人を思ふと云との差別のごとし、これ自然《オノヅカラシカ》ると、しか爲るとの異《カハリ》なればなり、この餘もみな、これに准へて知べし、)○和須良延努可毛《ワスラエヌカモ》、(延(ノ)字、舊本延に誤る、今は元暦本、古寫小本に從つ、)は不《ヌ》v所《エ》v忘《ワスラ》哉《カモ》なり、忘良禮《ワスラレ》を忘良延《ワスラエ》と云は、古言なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、いつくしみ孝養ともに、あはれなる歌なり、みやこの人およばむや、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。山邊郡上丁《ヤマノベノコホリノカミツヨホロ》。物部乎刀良《モノヽベノヲトラ》。
 
(345)山邊(ノ)郡、和名抄に、上總(ノ)國山邊、(也末乃倍《ヤマノベ》)○乎刀良(乎(ノ)字、舊本には、手と作り、今は一本に從つ、)は、ヲトラ〔三字右○〕と訓べし、傳未(ダ)詳ならず、
 
4357 阿之可伎能《アシカキノ》。久麻刀爾多知弖《クマトニタチテ》。和藝毛古我《ワギモコガ》。蘇弖毛志保保爾《ソテモシホホニ》。奈伎志曾母波由《ナキシソモハユ》。
 
久麻刀爾多知弖《クマトニタチテ》、契冲云、久麻刀《クマト》は、隈所《クマト》なるべし、女は人にしのぶものなれば、垣のまがれる隈などに立なり、といへり、(古事記に、久美度邇興而生子《クミドニオコシテウミマセルミコ》云々、とある、久美度《クミド》も、久麻刀《クマト》と言は通へど、いさゝか別なり、)○志保保《シホホ》は、契冲云、しは/\なり、○奈伎志曾母波由《ナキシソモハユ》は、(契冲、泣しぞ思はるなり、留《ル》と由《ユ》と同韻なり、といへり、そも/\古來|曾《ソ》の言を、例の語(リ)辭と意得たるは、深く考へざりしが故なり、かれ本居氏詞の玉緒にも、此(ノ)歌を、てにをはたがへる、歌の中にいれて、上にソ〔右○〕とあれば、思《モハ》ユル〔二字右○〕と結ぶべきを、ユ〔右○〕と結びたるは、ル〔右○〕もじたらで、とゝのはずとしるせり、)今按(フ)に、所念《オモホユ》を、東語に、曾母波由《ソモハユ》と云り、ときこえたり、於《オ》を曾《ソ》に通はし、保《ホ》を波《ハ》に通はしたるものなり、於《オ》と曾《ソ》とは同韻なるうへ、阿伊宇延於《アイウエオ》と、佐志須勢曾《サシスセソ》とは、殊に親(ク)通(ハ)し云たる例あること、余が雅言成※[さんずい+(薦の草がんむりなし/去]に委(ク)云り、披(キ)見てさとるべし、保《ホ》と波《ハ》と通し云ることはさらなり、(しかるを、元來|於《オ》を曾《ソ》と通(ハシ)云ることに心づかで、てにをはとゝのはずとおもへるは、いと本意なきことなり、東歌にも、さまでてにをはたがへる歌はなきを、自《ミヅカラ》おろそかに見すぐし(346)て、古歌に難《キズ》つくるこそいとほしけれ、)○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。市原郡上丁《イチハラノコホリノカミツヨホロ》。刑部直千國《オサカベノアタヘチクニ》。
 
市原(ノ)郡、和名抄に、上總(ノ)國市原、(伊知波良《イチハラ》)○千國は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4358 於保伎美乃《オホキミノ》。美許等加志古美《ミコトカシコミ》。伊弖久禮婆《イデクレバ》。和努等里都伎弖《ワヌトリツキテ》。伊比之古奈波毛《イヒシコナハモ》。
 
和努等里都伎弖《ワヌトリツキテ》は、契冲、我《ワ》に取著而《トリツキテ》なり、といへるが如し、下家持(ノ)卿の歌に、若草乃都麻波等里都吉《ワカクサノツマハトリツキ》、とよめるに同じ、さて和努《ワヌ》は、十四に、字倍兒余波和奴爾故布奈毛《ウベコナハワヌニコフナモ》、とよめれば、東詞に、我《ワレ》を和努《ワヌ》といひしとおぼゆ、しかればこゝも、和努爾《ワヌニ》とあるべきを、爾《ニ》の言なきは、省きていへるか、又|努爾《ヌニ》は、努《ヌ》と切れば、かくても和努爾《ワヌニ》と云意とは、聞ゆるなり、○伊比之古奈波毛《イヒシコナハモ》とは、伊比之《イヒシ》は、別れ難きことを言しなり、古奈《コナ》は、子等《コラ》と云に同じく、妻をさす、波毛《ハモ》は、尋慕ふ意の詞なり、○歌(ノ)意は、勅命《オホミコト》を奉畏《カシコミマツリ》、防人に發(チ)出る時に、吾(レ)に取(リ)著て、別れ難きことを、とかくいひし其(ノ)子等《コラ》はいづらや、と尋ね慕ふなり
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。種※[さんずい+此]郡上丁《スヱノコホリノカミツヨホロ》。物部龍《モノヽベノタツ》。
 
種※[さんずい+此](ノ)郡、※[さんずい+此]は淮(ノ)字の誤寫なり、和名抄に、上總(ノ)國周淮、季《スヱ》、○龍は傳未(ダ)詳ならず、
 
4359 都久之閉爾《ツクシヘニ》。敝牟加流布禰乃《ヘムカルフネノ》。伊都之加毛《イツシカモ》。都加敝麻都弖《ツカヘマツリテ》。久爾爾閉牟(347)可毛《クニニヘムカモ》。
 
都久之閉爾《ツクシヘニ》は、筑紫方《ツクシヘ》になり、○敝牟加流布禰乃《ヘムカルフネノ》は、舳向《ヘムカ》る舟之《フネノ》にて、筑紫の方へ舳前《ヘサキ》の向はるゝ船を云、下の長歌にも、安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等《アサナギニヘムケコガムト》、とよめり、○久爾爾閉牟加毛《クニニヘムカモ》は、本郷《クニ》に舳《ヘ》將《ム》v向《ムカ》なり、毛《モ》は牟《ム》に通ひて同じ、○歌(ノ)意は、防人に往(ク)とて、筑紫の方へ、舳前を向(ケ)て漕舟の到著て、事幸く恙(ミ)なく奉仕畢《ツカヘマツリヲヘ》て、何時か其(ノ)船を、又わが本郷の方へ舳前を向て、漕(ギ)還らむ、さても一(ト)すぢに待遠や、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。長柄郡上丁《ナガラノコホリノカミツヨホロ》。若麻續部羊《ワカヲミベノヒツジ》。
 
長柄(ノ)郡、和名抄に、上總(ノ)國長柄、(奈加良《ナガラ》)○羊(官本には串と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二月九日《キサラギコヽノカノヒ》。上總國防人部領使《カミツフサノクニノサモモリコトリツカヒ》。少目從七位下茨田連沙彌麿《スナヰフミヒトヒロキナヽツノクラヰノシモツシナマムタノムラジサミマロガ》。進歌數十九首《タテマツルウタノカズトヲマリコヽノツ》。但|拙劣歌|六首〔二字○で囲む〕者《ツタナキウタムツハ》。不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
茨田(ノ)連沙彌麿は、傳未(ダ)詳ならず、續紀に、文武天皇元年八月戊子朔、茨田(ノ)足島賜2姓(ヲ)連(ト)1、と見ゆ、同族にや、和名抄に、河内(ノ)國茨田、(萬牟多《マムタ》)とあり、本は宇萬良多《ウマラタ》なりけむを、後に訛りて、萬牟多となれるなるべし、○十九首の内、十三首をとり載られたり、
 
陳《ノブル》2私拙懷《オモヒヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
陳2私拙懷1歌、(歌(ノ)字、舊本に無(キ)は脱たるなるべし、今は古寫小本井(ニ)目録にあるに從つ、)これは難(348)波(ノ)宮の繁榮《ミサカエ》を奉稱《タヽヘマツリ》たるなり、しかるを、下に至りて、天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉、二十四日戊申、(此間疑脱2天皇(ノ)二字(ヲ)1、)太上天皇、皇太后、幸2行於河内(ノ)離宮(ニ)1、經信以2壬子1傳2幸於難波(ノ)宮(ニ)1也、と見えたるは、續紀に、天平勝寶八歳春二月戊申、行2册難波1、是日(ニ)至2河内(ノ)國(ニ)1、御2智識寺(ノ)南(ノ)行宮(ニ)1、壬子、行2至難波(ノ)宮(ニ)1御2東南新宮(ニ)1、三月甲寅朔、太上天皇幸2堀江(ノ)上(ニ)1、とある、其なるを、この勝寶七歳(ノ)春は、難波に行幸のありしよし、續紀に見えざるは、漏たるにやあらむとも思へど、しかにはあらじ、これは八歳(ノ)春、難波に行幸あらむとて、七歳の春より御用意《ミアラマシ》ありて、卿大夫を難波に下されしに、家持(ノ)卿兵部(ノ)少輔なりければ、兵器儀仗の事等を掌《シ》るによりて、下られしが、あらかじめ行幸のありしほど、の意になりて、よまれけるなるべし、
 
4360 天皇乃《スメロキノ》。等保伎美與爾毛《トホキミヨニモ》。於之弖流《オシテル》。難波乃久爾爾《ナニハノクニニ》。阿米能之多《アメノシタ》。之良志賣之伎等《シラシメシキト》。伊麻能乎爾《イマノヨニ》。多要受伊比都都《タエズイヒツツ》。可氣麻久毛《カケマクモ》。安夜爾可之古志《アヤニカシコシ》。可武奈我良《カムナガラ》。和其大王乃《ワゴオホキミノ》。宇知奈妣久《ウチナビク》。春初波《ハルノハジメハ》。夜知久佐爾《ヤチクサニ》。波奈佐伎爾保比《ハナサキニホヒ》。夜麻美禮婆《ヤマミレバ》。見能等母之久《ミノトモシク》。可波美禮婆《カハミレバ》。見乃佐夜氣久《ミノサヤケク》。母能其等爾《モノゴトニ》。佐可由流等伎登《サカユルトキト》。賣之多麻比《メシタマヒ》。安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》。之伎麻世流《シキマセル》。難波宮者《ナニハノミヤハ》。伎己之乎須《キコシヲス》。四方乃久爾欲里《ヨモノクニヨリ》。多弖麻都流《タテマツル》。美都奇能船者《ミツキノフネハ》。保理江欲里《ホリエヨリ》。美乎妣伎之都都《ミヲビキシツツ》。安佐奈藝爾《アサナギニ》。可治比伎能保理《カヂヒキノボリ》。由布之保爾《ユフシホニ》。佐乎佐之久太理《サヲサシクダリ》。安治牟(349)良能《アヂムラノ》。佐和伎伎保比弖《サワキキホヒテ》。波麻爾伊泥弖《ハマニイデテ》。海原見禮婆《ウナハラミレバ》。之良奈美乃《シラナミノ》。夜敝乎流我宇倍爾《ヤヘヲルガウヘニ》。安麻乎夫祢《アマヲブネ》。波良良爾宇伎弖《ハララニウキテ》。於保美氣爾《オホミケニ》。都加倍麻都流等《ツカヘマツルト》。乎知許知爾《ヲチコチニ》。伊※[身+矢]里都利家理《イザリツリケリ》。曾伎太久毛《ソキダクモ》。於藝呂奈伎可毛《オギロナキカモ》。己伎婆久母《コキバクモ》。由多氣伎可母《ユタケキカモ》。許己見禮婆《ココミレバ》。宇倍之神代由《ウベシカミヨユ》。波自米家良思母《ハジメケラシモ》。
 
天皇乃は、スメロキノ〔五字右○〕とよめるに從べし、(略解に、オホキミノ〔五字右○〕とよめるは、いみじきひがことなり、)○等保伎美與《トホキミヨ》とは、仁徳天皇の御代を指(セ)り、○於之弖流《オシテル》は、難波の枕詞なり、○伊麻能乎爾は、岡部氏の、乎は與の誤なり、といへる、然もあるべし、イマノヨニ〔五字右○〕と訓べし、今世《イマノヨ》になり、○可氣麻久母《カケマクモ》云々(二句)は、當代天皇の御うへにかけていへるなり、○可武奈我良《カムナガラ》は、神在隨《カムナガラ》にて、次の句の下におきて意得べし、吾大王《ワガオホキミ》の神在隨《カムナガラ》、と云意なればなり、○和其大王乃《ワゴオホキミノ》は、契冲も云る如く、大王乃《オホキミノ》と假によみ絶て、下の見給明給《メシタマヒアキラメタマヒ》といふにつゞけて意得べし、次(ノ)句の宇知奈妣久《ウチナビク》云々と云へ、直につゞけては聞べからず、○宇知奈妣久《ウチナビク》は、春《ハル》をいはむとてのまくら詞なり、○見能等母之久《ミノトモシク》は、見るにめづらしく、といはむが如し、○見乃佐夜氣久《ミノサヤケク》は、見るに清潔《イサギヨ》く、と云意なり、○賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》は、見(シ)給ひ明《アキラ》め給ひ、と云意なり、御目を悦ばし、御心をはるかしたまふ謂なり、○之伎麻世流《シキマセル》云々、これより下は、難波(ノ)宮の繁榮のさまをよめり、○伎己之乎須《キコシヲス》(乎(ノ)字、舊本には米と作り、いづれにもにるべし、今は元暦本、古寫本等(350)に從つ、)は、所聞食《キコシヲス》なり、○美乎妣伎之都々《ミヲビキシツヽ》は、水脉引爲乍《ミヲビキシツヽ》にて、船を水脉《ミヲ》の任《マヽ》に引(キ)泝るを云、此(ノ)詞既く出たり、○可治比伎能保里《カヂヒキノボリ》は、※[楫+戈]引泝《カヂヒキノボリ》なり、此も既く出つ、○安治牟良能《フヂムラノ》は、枕詞なり、既く出たり、○夜敝乎流成宇倍爾《ヤヘヲルガウヘニ》は、七(ノ)卷に、白浪之八重折之於丹《シラナミノヤヘヲルガウヘニ》云々、○波良良爾宇伎弖《ハララニウキテ》は、契冲、ちり/”\にうかぶなり、神代紀上云、若《ナス》2沫雪《アハユキ》1以※[就/足]散《キクヱハラヽカシ》、(※[就/足]散此云2具穢簸邏々箇須《クヱハラヽカスト》1)この葉のはら/\とちるなどいふも、これなるべし、第三に、苅薦《カリコモ》のみだれいづみゆあまのつりふね、といへる心なり、史記(ノ)夏本紀(ニ)云、其(ノ)土(ハ)白|壤《ハラヽケリ》、(孔安國(ガ)曰、土無(ヲ)v塊曰v壤(ト)、)孔安國が註の心にて、はらゝけりといふ語をみるに、これも今の土民など、つちのほろ/\とする、はら/\とするなどいへるに、おなじければ、散の字の意におなじ、と云り、字鏡に、毳(ハ)波良介志《ハラケシ》、又|知留《チル》、ともあり、○於保美氣爾《オホミケニ》云々、一(ノ)卷に、遊副川之神母《ユフガハノカミモ》、大御食爾仕奉等《オホミケニツカヘマツルト》、上瀬爾鵜川乎立《カミツセニウカハヲタテ》云々、○伊※[身+矢]里都利家理《イザリツリケリ》は、漁釣《イザリツリ》けりなり、伊※[身+矢]留《イザル》とは、ひろく魚|漁《トル》業するを云詞なり、(略解に、いざりは網引のことにいひ、つりは釣することなりと、分てるはいかゞ、十九に、鮪衝等漁人之燭有伊※[身+矢]里火之《シビツクトアマガトモセルイザリヒノ》云々、とあるにても、綱引にかぎらぬを思ふべし、)さて此處《ココ》は、伊※[身+矢]里《イザリ》の里《リ》は、都利《ツリ》の利《リ》に同じく、用言に唱(フ)べし、〈漁《イザリ》して釣《ツリ》けり、と云意にあらざればなり、)○曾伎太久《ソキダク》は、契冲云、そこばくと同じことなり、○於藝呂奈伎可毛《オギロナキカモ》は、於藝呂《オギロ》てふ言の義は、未(ダ)思(ヒ)得ざれども、於藝呂奈伎《オギロナキ》は、海上の廣く寛にして、至り極る限りの無(キ)を云言と聞えたり、可毛《カモ》は、哉《カモ》にて、歎息の辭なり、(略解(351)に、おぎろなきは、奥なきなり、きろの約こなれば、おくなきといふ意と成べし、といへるは、いかゞ、但し深き方にも、廣き方にも、至り極れる處を奥と云なれば、無v奥と云義とせむに、意はたがはざれども、於藝呂《オギロ》と、藝《ギ》の濁音の字を用ひたれば、奥と意は似たれども、言はもとより異なること著きをや、)頤(ノ)字をオギロ〔三字右○〕と訓も、もとおぎろなきといふべき理なるを、後人の謾(リ)に、わづらはしきをいとひて、オギロ〔三字右○〕と略訓せるものとこそおもはるれ、(頤(ノ)字は、字書に、幽深(ニシテ)難v見也、と註したればなり、但し頤は深き意に用る字なれど、深き方にも廣き方にも、極みのなきを、おぎろなきとは、いふべければ、其はいづれにしても、たがはざることなり、○契冲が、此の意を、わたの底は、いたりてふかき物とおもへど、君が大みけにとて、あまどものいざりしつりして、よきさかなどもたてまつるを見れば、そこばく深くはなきかとなり、といへるは、甚わろし、)○己伎婆久母《コキバクモ》は、己許婆久母《ココバクモ》と云に同じ、○由多氣伎可母《ユタケキカモ》、以上十二句の意は、數多の海部小舟《アマヲブネ》の散(リ)亂て、此方彼方に漁(リ)釣(リ)して、大御饌《オホミケ》の爲に、魚とりて奉獻《タテマツ》れど盡せぬを見れば、さても海は、許多く廣く極なく、寛なるものにてある哉、となり、○許己見禮婆《ココミレバ》は、此《コヽ》を見者《ミレバ》、といふ意なり、○宇倍之神代由波自米家良思母《ウベシカミヨユハジメケラシモ》は、諸國《クニ/”\》より獻る調貢も滿足《タラ》ひ、またこの海上の廣く寛にして、御饌物の盡せぬを見れば、げに神代に、此(ノ)難波(ノ)宮を草創《ハジ》め給ひしは、さても一(ト)すぢに理にこそありけらし、となり、神代とは仁徳天皇の御代を指て申せるなり、
 
(352)反歌《カヘシウタ》。
 
反歌(ノ)二字、舊本にはなし、拾穗本、古寫小本等に從つ、
 
4361 櫻花《サクラバナ》。伊麻佐可里奈里《イマサカリナリ》。難波乃海《ナニハノウミ》。於之弖流宮爾《オシテルミヤニ》。伎許之賣須奈倍《キコシメスナベ》。
 
伊麻佐可里奈里《イマサカリナリ》、三(ノ)卷に、青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフガゴトクイマサカリナリ》、八(ノ)卷に、茅花拔淺茅之原乃都保須美禮今盛有吾戀苦波《チバナヌクアサヂガハラノツホスミレイマサカリナリアガコフラクハ》、十(ノ)卷に、吾瀬子爾吾戀良久者奥山之馬醉花之今盛有《ワガセコニアガコフラクハオクヤマノアシビノハナノイマサカリナリ》、○於之弖流宮爾《オシテルミヤニ》といへるは、於之弖流《オシテル》は、難波の枕詞なるを、家持(ノ)卿の頃は、既くいひなれて、用を體にとりなして、上に難波乃海《ナニハノウミ》といひて、於之弖流宮《オシテルミヤ》と語を下上に置たるなど、漸々にはたらきがましく成たるものなり、と略解に、いへり、今按(フ)に、六(ノ)卷、十一(ノ)卷に、おしてると云に、臨照とかけるによるに、此(レ)も難波宮に 照臨《アメノシタシロ》し賜ふ意をこめて、おしてる宮とよめるにやあらむ、○歌(ノ)意は、此(ノ)難波(ノ)宮に、吾(ガ)大皇の敷座て、天(ノ)下を所聞看《キコシメス》につれて、折しも二月なれば、櫻(ノ)花も今さかりにて、いとゞあかず、貫《タフト》くめでたくありけり、と祝申せるなり、
 
4362 海原乃《ウナハラノ》。由多氣伎見都都《ユタケキミツツ》。安之我知流《アシガチル》。奈爾波爾等之波《ナニハニトシハ》。倍努倍久於毛保由《ヘヌベクオモホユ》。
 
由多氣伎見都都《ユタケキミツツ》は、海(ノ)上の廣く寛なるを見乍《ミツヽ》なり、契冲、海(ノ)上のひろ/”\とあるを、世のまつりごとのゆるやかなるに、下の心はよせたるなるべし、といへり、其(ノ)意もあるべし、三(ノ)卷に、廬(353)原乃清見之崎乃見穗乃浦乃寛見乍物念毛奈信《イホハラノキヨミガサキノミホノウラノユタケキミツヽモノモヒモナシ》、○安之我知流《アシガチル》は、枕詞なり、上に見えたり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、六(ノ)卷に、紅爾深染西情可母寧樂乃京師爾年之歴去倍吉《クレナヰニフカクシミニシコヽロカモナラノミヤコニトシノヘヌベキ》、
 
右二月十三日《ミギキサラギノトヲカマリミカノヒ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4363 奈爾波津爾《ナニハヅニ》。美布禰於呂須惠《ミフネオロスヱ》。夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》。伊麻波許伎奴等《イマハコギヌト》。伊母爾都氣許曾《イモニツゲコソ》。
 
美布禰於呂須惠《ミフネオロスヱ》は、御船下居《ミフネオロシスヱ》なり、官船なれば、御船《ミフネ》といへり、志須《シス》は、須《ス》と切れば、於呂志須惠《オロシスヱ》を、於呂須惠《オロスヱ》とはいへるなり、○夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》は、八十※[楫+戈]貫《ヤソカヌキ》なり、十二にも、八十梶懸《ヤソカカケ》、とよめり、數多の※[楫+戈]を立るを云、○伊麻波許伎奴等《イマハコギヌト》は、今者《イマハ》湊を漕(ギ)出ぬる、と云むが如し、今者《イマハ》とは、此(レ)まで二(タ)方にわたりし事の、一(ト)方に清く決《キハ》まれるをいふことばなり、一(ノ)卷に、潮毛可奈比沼今者許藝弖菜《シホモカナヒヌイマハコギテナ》、三(ノ)卷に、憶良等者今者將罷《オクララハイマハマカラム》、四(ノ)卷に、今者吾羽和備曾四二結類《イマハアハワビソシニケル》、又、戀者今葉不有常吾羽念乎《コヒハイマハアラジトアレハオモヘルヲ》、八(ノ)卷に、時者今者春爾成跡《トキハイマハハルニナリヌト》、出雲風土記に、今者國引訖詔而《イマハクニヒキヲヘヌトノリタマヒテ》、意宇社爾御杖衝立而《オウノヤシロニミツエツキタテテ》、意惠登詔《オヱトノリタマヒキ》、などあるを、考(ヘ)合せて知べし、今者《イマハ》と連云たる言は、いづくにありても、皆同義なり、○伊母爾都氣許曾《イモニツゲコソ》は、乞《イカ》で、家(ノ)妻に告てよかし、と東國の方へ徃人に、あつらへ言傳るやうによみなしたり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
4364 佐伎牟理爾《サキムリニ》。多多牟佐和伎爾《タタムサワキニ》。伊敝能伊毛何《イヘノイモガ》。奈流敝伎己等乎《ナルベキコトヲ》。伊波須伎(354)奴可母《イハズキヌカモ》。
 
佐伎牟埋爾《サキムリニ》(牟(ノ)字、元暦本には毛と作り、)は、防人《サキモリ》になり、○伊毛、元暦本には、伊牟と作り、佐伎毛理《サキモリ》をも、佐伎牟理《サキムリ》といへるからは、東語に、妹《イモ》を伊牟《イム》ともいひしなるべし、既く此(ノ)上にも、妹無《イモナシ》にしてを、伊牟奈之爾志弖《イムナシニシテ》、とよめり、○奈流敝伎己等乎《ナルベキコトヲ》(敝伎を、古寫小本には、倍吉と作り、)は、奈流《ナル》とは、すべて産業《ナリハヒ》をするを云、足乳根乃母之其業桑尚《タラチネノハヽガソノナルクハスラモ》云々、(七(ノ)卷)と云是なり、其を體言にして、奈利《ナリ》とも云り、五(ノ)卷に、比佐迦多能阿麻遲波等保斯奈保奈保爾伊弊爾可弊利提奈利乎斯麻佐爾《ヒサカタノアマヂハトホシナホナホニイヘニカヘリテナリヲシマサニ》、とある、これなり、されば、此《コヽ》は、産業にすべき事を、と云意なり、○伊波須伎奴可母《イハズキヌカモ》は、不《ズ》v言《イハ》來《キ》ぬる哉《カモ》なり、○歌(ノ)意は、吾が旅に行たる間、家(ノ)妻が産業にすべきことを、しか/”\と言|課《オホ》せて出で來べかりしを、急《イソ》ぎて發(チ)出(ヅ)とて、さやうの事をも言おかず來ぬるが、さても心もとなく、今更悔しき事かな、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。茨城郡《ウバラキノコホリ》。若舍人部廣足《ワカトネリベノヒロタリ》。
 
和名抄に、常陸(ノ)國茨城(ハ)牟波良岐《ムバラキ》、(牟は、字を寫誤れるか、また彼(ノ)抄の頃は、既く牟《ム》と唱(ヘ)誤れるか、)○若舍人部(ノ)廣足(若舍を、類聚抄には、君含と作り、いかゞ、廣(ノ)字、元暦本には、度と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4365 於之弖流夜《オシテルヤ》。奈爾波能津與利《ナニハノツヨリ》。布奈與曾比《フナヨソヒ》。阿例波許藝奴等《アレハコギヌト》。伊母爾都岐(355)許曾《イモニツギコソ》。
 
與利、元暦本には、由利と作り、いづれにもあるべし、○許藝奴等《コギヌト》は、漕出《コギイデ》ぬると、と云むが如し、○伊母爾都岐許曾《イモニツギコソ》は、妹《イモ》に告乞《ツゲコソ》なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
4366 比多知散思《ヒタチサシ》。由可牟加里母我《ユカムカリモガ》。阿我古比乎《アガコヒヲ》。志留志弖都祁弖《シルシテツケテ》。伊母爾志良世牟《イモニシラセム》。
 
志留志弖都祁弖《シルシテツケテ》は、書《フミ》に記《シル》して附《ツケ》て、と云なり、附《ツケ》ては、さづけてと云意なり、○歌(ノ)意、かくれなし、時歸鴈の節なれば、さてもいかで、常陸さして行む雁もがなあれかし、と希ふなり、十五に、安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都礙夜良武《アマトブヤカリヲツカヒニエテシカモナラノミヤコニコトツゲヤラム》、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。信太郡《シダノコホリ》。物部道足《モノヽベノミチタリ》。
 
信太(ノ)郡、和名抄に、常陸國信太、(志多《シタ》)○道足は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4367 阿我母弖能《アガモテノ》。和須例母之太波《ワスレモシダハ》。都久波尼乎《ツクハネヲ》。布利佐氣美都都《フリサケミツツ》。伊母波之奴波尼《イモハシヌハネ》。
 
阿我母弖能《アガモテノ》は、吾面之《アガモテノ》なり、○吾須例母之太波《ワスレモシダハ》は、將《ム》v忘《ワスレ》時《シダ》(ハ)者なり、之太《シダ》は、時《トキ》の古言なるよし、既く委(ク)辨(ヘ)いへり、十四に、阿我於毛乃和須禮牟之太波《フガオモノワスレムシダハ》云々、又、於母可多能和須禮牟之太波《オモカタノワスレムシダハ》云々、などよめり、○之奴波尼《シヌハネ》(尼(ノ)字、舊本に弖と作るは誤なり、今は元暦本、拾穗本、古寫小本等に從(356)つ、)は、慕《シヌ》ばねなり、尼《ネ》は、希望(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、たとひ別れて久しくなりぬとも、吾(ガ)面貌《オモテ》の容儀《カタチ》の忘らるゝ時はあるまじきなれど、年の歴ば、もし忘るゝこともありぬべし、然らむには、いよ/\相見ま欲《ホシ》く思はまし、その時は、いかで筑波嶺を仰ぎ望《ミヤリ》て、我なりと思ひて慕へかし、となり、此(ノ)小龍が家、筑波よりは東にあるなるべし、故(レ)夫の經行し筑波の方を見てしのべと、云なるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。茨城郡《ウバラキノコホリ》。占部小龍《ウラベノヲタツ》。
 
小龍は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4368 久自我波波《クジガハハ》。佐氣久阿利麻互《サケクアリマテ》。志富夫禰爾《シホブネニ》。麻可知之自奴伎《マカヂシジヌキ》。和波可倣里許牟《ワハカヘリコム》。
 
久自我波波《クジガハハ》は、久慈河者《クジガハハ》なり、久慈《クジノ》郡の河なり、山河の平安《サキ》からむことを希ふは、白埼はさきくありまて、などよめる類なり、○佐氣久阿利麻弖《サケクアリマテ》は、平安《サキク》て在々待《アリ/\マテ》、となり、契冲が、さきくありてまてなり、といへるは、いさゝかたがへり、この阿利《アリ》は、在通《アリガヨフ》など云|在《アリ》にて、在々《アリ/\》て絶ぬさまを云辭なればなり、)○志富夫禰《シホブネ》は、潮路をわたる船の義にて、河船に封へて、海船をいへり、既く十四に見えたり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。久慈郡《クジノコホリ》。丸子部佐壯《マロコベノスケヲ》。
(357)佐壯は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4369 都久波禰乃《ツクハネノ》。佐由流能波奈能《サユルノハナノ》。由等許爾母《ユトコニモ》。可奈之家伊母曾《カナシケイモソ》。比留毛可奈之祁《ヒルモカナシケ》。
 
佐由流能波奈能《サユルノハナノ》は、五月百合花之《サユリノハナノ》なり、さてこれまでは、由《ユ》の音を承て、由等許《ユトコ》といはむ料にて、序におけるなるべし、(略解に、一二(ノ)句は、さゆりの花の如く、愛《メデ》らるゝ妹といふなり、と云れど、さまで意をこめたるにはあらじ、)○由等許爾母《ユトコニモ》は、夜床《ヨトコ》にもなり、○可奈之家《カナシケ》は、ふたつ共に、愛憐《カナシキ》なり、○歌(ノ)意は、夜床《ヨトコ》に手枕を交《カハ》して寢る時も、憐《アハレ》に愛しく、晝相見る時も、燐に愛まれて、信《サラ》に厭世《アクヨ》なきものを、さる妻を家に遺しおきて、吾は遙なる海山を隔て、遠く別れ行が悲しき事、といふ情を、含ませたるなるべし、
 
4370 阿良例布理《アラレフリ》。可志麻能可美乎《カシマノカミヲ》。伊能利都都《イノリツツ》。須米良美久佐爾《スメラミクサニ》。和例波伎爾之乎《ワレハキニシヲ》。
 
阿良例布理《アラレフリ》は、枕詞なり、七(ノ)卷に出(ヅ)、○可志麻能可美《カシマノカミ》は、神名帳に、常陸(ノ)國鹿島(ノ)郡鹿島(ノ)神宮、(名神大、月次新甞、)此(ノ)神は、建御雷《タケミカヅチノ》神にまし/\て、天(ノ)下言向に大《イミ》じき御功まし/\けること、古書等にかくれもなければ、古(ヘ)より軍事には、まづ此(ノ)神を祈りしなり、○須米良美久佐《スメラミクサ》は、皇御軍《スメラミイクサ》なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)尊信奉《アガメマツ》るところの鹿島の神に祈願《コヒイノリ》て、官軍に《スメラミイクサ》出て來しものを、いかでいみ(358)じき功勲《イサヲ》を立ずして、歸り來るべしや、となり、古(ヘ)の東人の義氣、思ひやるべし、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。那賀郡上丁《ナカノコホリノカミツヨホロ》。大舍人部千文《オホトネリベノチフミ》。
 
那賀(ノ)郡、和名抄に、常陸(ノ)國|那珂《ナカ》、〇千文(元暦本には、子久と作り、古本、古寫本、活字本等には、文を丈と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4371 多知波奈乃《タチバナノ》。之多布久可是乃《シタフクカゼノ》。可具波志伎《カグハシキ》。都久波能夜麻乎《ツクハノヤマヲ》。古比須安良米可母《コヒズアラメカモ》。
 
本(ノ)二句は、序にて、橘の下吹(ク)風の香《カ》の細《クハシ》き、と云意につゞきて、さて承《ウケ》たる方にては、香の言に用なく、たゞ細《クハシ》きといふのみなり、○可具波志伎《カグハシキ》とは、可《カ》は、可青《カアヲ》、可黒《カクロ》、可易《カヤス》き、可依《カヨリ》、可弱《カヨワ》きなど云|可《カ》にて、たゞそへたる辭なり、具波志伎《クハシキ》は、心細《ウラグハシ》、目細《マグハシ》などの細《クハシ》にて、賞愛《メデウツクシマル》ることの細《コマカ》に深きを云詞なり、○古比須安良米可毛《コヒズアラメカモ》は、不《ズ》v戀《コヒ》將《メ》v在《アラ》かは、さてもなつかしやの意なり、○歌(ノ)意は、常に家人と共に見やりて、深く賞愛《メデウツク》しみし筑波山を、旅にある間、戀しく思はずてあられむかは、さてもなつかしや、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。助丁《スケノヨホロ》。占部廣方《ウラベノヒロカタ》。
 
郡名を出さゞるは、右の千文と同處なりけるが故にや、次下なるも、同じ、○廣方(元暦本には庶才と作り、古寫本には方を足と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
(359)4372 阿志加良能《アシガラノ》。美佐可多麻波理《ミサカタマハリ》。可閉理美須《カヘリミズ》。阿例波久江由久《アレハクエユク》。阿良志乎母《アラシヲモ》。多志夜波婆可流《タシヤハバカル》。不破乃世伎《フハノセキ》。久江弖和波由久《クエテワハユク》。牟麻能都米《ムマノツメ》。都久志能佐伎爾《ツクシノサキニ》。知麻利爲弖《チマリヰテ》。阿例波伊波波牟《アレハイハハム》。母呂母呂波《モロモロハ》。佐祁久等麻乎須《サケクトマヲス》。可閉利久麻弖爾《カヘリクマテニ》。
 
美佐可多麻波理《ミサカタマハリ》とは、美佐可《ミサカ》は、九(ノ)卷にも、足柄坂《アシガラサカ》を、鳥鳴東國能恐邪神之三坂爾《トリガナクフヅマノクニノカシコキヤカミサカニ》、とよめり、多麻波理《タマハリ》は、契冲が、長流(ガ)説を引て、多《タ》は助辭にて、只廻る意なり、といへる、これ宜し、多《タ》は、多毛登保留《タモトホル》など云|多《タ》に同じ、此(ノ)下に、美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》とあるも、廻《マハ》らばなり、(給《タマハリ》と云にはあらず、)○可閉理美須《カヘリミズ》は、不《ズ》v顧《カヘリミ》なり、さしも嶮《サガシ》き足柄の御坂を廻りて往(ク)とも、武夫《マスラヲ》なれば、顧(リ)見も爲ず、雄雄《ヲヲ》しき心をふるひおこして行(ク)、となり、○久江由久《クエユク》は、越行《コエユク》なり、○阿良志乎母《アラシヲモ》は、荒男《アラシチ》もなり、○多志夜波婆可流《タシヤハバカル》》は、立《タチ》よ憚《ハヾカ》るなり、多志《タシ》は、契冲、立《タチ》なりといへる如し、(略解に、志は知の草書の誤れるにて、タチヤハゞカル〔七字右○〕なるべし、といへるは、いみじきひがことなり、)凡て知《チ》と之《シ》とは通ふ例にて、ケチ、ケシ、ハナチ、ハナシ〔十字右○〕などいへる類、雅言にも多き中に、殊に東語には、知《チ》を志《シ》といへる例多し、父《チヽ》を志々《シヽ》、地《ツチ》を都之《ツシ》、持《モチ》を母之《モシ》、歩《カチ》を加之《カシ》などいふ類甚少からず、(これらの志をも、知の誤と云むは、いたく固陋《カタオチ》なり、)さて夜《ヤ》は助辭にで、與《ヨ》といふに同じ、(略解に、夜の言心得がたし、誤ならむ、といへるは、よく考(ヘ)ざりしなり、)かゝる處に夜《ヤ》の助辭をおかむは、いか(360)がしきやうなれども、此(ノ)下にも、月日者過者《ツキヒハスギハ》雖《ドモ》v往《ユケ》、と云ことを、都久比夜波須具波由氣等母《ツクヒヤハスグハユケドモ》云云と、夜《ヤ》の辭をおきてよめれば、東人の歌には、さることもありしをしるべし、さてかくいへる意は、不破は、古(ヘ)三關の一(ツ)にて、甚|嚴重《オゴソカ》なれば、荒雄《アラシヲ》すらも立(チ)憚りて、たやすく通ることかたしといへど、吾はゆゝしき武夫なれば、勅命を蒙《カヾブリ》て、いさゝか泥《ナヅ》み障《サハ》ることなく、易く蹈(ミ)越て行(ク)、と云なるべし、○牟麻能都米《ムマノツメ》は、まくら詞なり、契冲云、馬のつまづくといふ意につゞけたり、第十八に、馬のつのいつくすきはみといひたるには、心かはれり、又此(ノ)集に馬を宇麻《ウマ》とのみかきたるに、こゝに牟の字をかけるは、東歌故なるべし、といへり、さもあるべし、抱《ウダク》をも、十四、東歌には、牟陀伎《ムダキ》とよめり、これ東語に、宇《ウ》を牟《ム》といへる例なり、○知麻利爲弖《チマリヰテ》は、留居而《トマリヰテ》なりと、契冲いへる如し、知麻利《チマリ》は、五(ノ)卷に、宇奈原能邊爾母《ウナハラノヘニモ》、奥爾母《オキニモ》、神豆麻利宇志播吉伊麻須《カムヅマリウシハキイマス》云云、とよめる豆麻利《ツマリ》に同じくて、留《トヾマ》る意なり、○阿例波伊波波牟《フレハイハハム》は、吾(ガ)身のうへの恙《ツヽミ》無く奉仕《ツカヘマツラ》むことを、望祷《コヒノミ》て齋祝《イハヽ》むといふ意にも聞え、又本郷の父母妻子の平安《サキ》くあらむことを、願ふ謂にも聞えたり、○母呂母呂波《モロモロハ》は、諸者《モロ/\ハ》なり、これは本郷の親族《ヤガラ》をいふべし、諸《モロ/\》といへる例は、稱徳天皇(ノ)紀(ノ)詔に、天下能人民諸乎愍賜《アメノシタノヒトクサモロ/\ヲメグミタマヒ》云々、佛足石碑(ノ)歌に、都止水毛呂毛呂《ツトメモロモロ》などあり、○佐祁久等麻乎須《サケクトマヲス》は、平安《サキク》と申《マヲ》すにて、本郷に留れる親族諸は、吾が防人に奉仕《ツカヘマツリ》て、事竟て歸り來るまで、平安《サキ》くあらしめ給へと、神祇《カミタチ》に祈(ミ)申すといふ意なるべし、麻乎須《マヲス》とは、すべて尊貴《タフト》き方(361)にむかひて言《イフ》をいふ辭なれば、こゝは神祇《カミ》に祈(ミ)申す意なるべし、とはいふなり、○歌(ノ)意は、さしも嶮《サガシ》き足柄の御坂を廻りて、本郷の方をも顧(ミ)ず、をゝしき心をおこして行に、甚|嚴重《オゴソカ》なる不破の關なれば、なみ/\の武夫ならば、立憚るべきに、われはゆゝしき勇士にして、かたじけなくも勅命を奉て行ば、たやすく通行ぞ、今よりは筑紫の崎に留(リ)居て、本郷の親族、また吾(ガ)身の平安《サキ》からむことを祈つゝをらむ、本郷の親族諸は、吾(ガ)防人の事竟て、本郷に歸り來むまで、彼方も此方も、さきくあらしめ給へと、神祇に祈願《イノ》り申す、と云なるべし、此歌すべて詞のつゞけがらなどは、いかゞしく聞ゆるものから、ますら武夫の雄々《ヲヽ》しき実心は、いさゝか隱れもなく、言の表に著れて、いともめでたくむかしきうへ、ことに東人の長歌はめづらしければ、當皆《ソノカミ》國島が進《タテマツ》れる時に、拙劣しとてえり捨ずして、取(リ)載しこそありがたけれ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。倭文部可良麿《シツリベノカラマロ》。
 
倭文部(ノ)可良麿(文(ノ)字、舊本に父と作るは誤なり、今は元暦本、異本等に從つ、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二月十四日《キサラギノトヲカマリヨカノヒ》。常陸國部領防人使《ヒタチノクニノコトリサキモリツカヒ》。大目正七位上息長眞人國島進歌數十七首《オホキフミヒトオホキナヽツノクラヰノカミツシナオキナガノマヒトクニシマガタテマツレルウタノカズトヲマリナヽツ》。但|拙劣歌七首者《ツタナキウタナヽツハ》。不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
部領防人使、拾穗本には、防人部領使とあり、例によるに、まことにさもあるべし、但(シ)此(ノ)下武藏國、部領防人使云々とあるは、此と同じ、もとよりかく二様に云るか、又は二處共に改むべき(362)か、○息長(ノ)眞人國島(島(ノ)字、拾穗本には、※[こざと+烏]と作り、)は、續紀に、寶字六年正月癸未、正六位上息長(ノ)丹生(ノ)眞人國島(ニ)授2從五位下(ヲ)1、と見ゆ、○十七首、元暦本には、廿七首と作り、舊本に從ときは、十首をとり載られたり、○七首(ノ)二字、舊本にはなし、給穗本、古寫小本等に從てしるしつ、
 
萬葉集古義二十卷之上 終
 
(363)萬葉集古義二十卷之中
 
 
4373 祁布與利波《ケフヨリハ》。可敝里見奈久弖《カヘリミナクテ》。意富伎美乃《オホキミノ》。之許乃美多弖等《シコノミタテト》。伊※[泥/土]多都和例波《イデタツワレハ》。
 
之許乃美多弖等《シコノミタテト》は、醜之御楯《シコノミタテ》となり、醜《シコ》は、醜《シコ》のますら男、之許霍公鳥《シコホトヽギス》、之許津翁《シコツオキナ》、醜乃醜草《シコノシコクサ》などいふ之許《シコ》にて、罵輕《ノリイヤ》しめていふ辭なり、此《コヽ》は卑下《ヘリクダ》りて、みづから身を罵《ノル》辭なり、と契冲い へるが如し、御楯《ミタテ》は、崇峻天皇(ノ)紀に、捕鳥部《トヽリベノ》万(万(ハ)名也、)云々、號曰万(ハ)爲(テ)2天皇(ノ)楯《ミタテト》1將v効2其(ノ)勇(ヲ)1、而云々、とあるに同じ、契冲又云、異國のあたふせがむとて向ふは、敵軍の矢先の楯となるこゝろなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、家をも身をもおもはずて、唯一道に、公役を勵み勤《イソ》しむ武夫の志著れたり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。火長。今奉部與曾布《イママツリベノヨソフ》。
 
火長、(火(ノ)字、類聚抄に大と作るは誤なり、下々なるも同じ、)左右衛門式に、凡※[手偏+僉]2※[手偏+交](セム)在京(ノ)非違(ヲ)1者、佐一人、尉一人、志二人、府生一人、火長九人、(二人(ハ)看督、一人(ハ)案主、四人(ハ)佐尉(ノ)從各二人、志(ノ)從一人、府生(ノ)(364)從一人、)凡檢非違使(ノ)別當(ニハ)、充2隋身火長二人(ヲ)1、凡捉人防授(ノ)火長七八、(二人(ハ)守2獄所(ノ)未弾人(ヲ)1、四人(ハ)領2著※[金+犬](ノ)囚(ヲ)1、)凡毎月晦日(ニ)掃2除(セバ)宮中(ヲ)1者、差(テ)2將領(ノ)府生一人、火長四人(ヲ)1、送(レ)2民部省(ニ)1、凡諸門(ノ)厩亭(ハ)、便(ニ)令《シメヨ》2守門《ミカドモリノ》火長(ニ)衛護《マモラ》1云々、賦役令義解に、凡役(セハ)2丁匠(ヲ)1、皆十人(ノ)外給(テ)2一人(ヲ)1充(ヨ)2火頭(ニ)1、(謂火頭(トハ)者、厩丁(ヲイフ)也、執 《ツカサドル》2炊爨之事(ヲ)1、故(ニ)曰(リ)2火頭(ト)1、)軍防令義解に、凡兵士(ハ)十人(ヲ)爲(ヨ)2一火(ト)1云々、凡兵士向(テハ)v京(ニ)者、名2衛士(ト)1、火別(ニ)取2白丁五人(ヲ)1充(ヨ)2火頭(ニ)1、(謂※[益+蜀]免(ノ)之法、一(ニ)同(シ)2仕丁(ニ)1、其防人(ハ)者、不v充2火頭(ヲ)1也、)守(ル)邊者名2防人(ト)1、〔頭註、【この義解を見 れば、火長と火頭とことなりや、職達の人に尋ぬべし、】〕○今奉部與曾布は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4274 阿米都知乃《アメツチノ》。可美乎伊乃里弖《カミヲイノリテ》。佐都夜奴伎《サツヤヌキ》。都久之乃之麻乎《ツクシノシマヲ》。佐之弖伊久和例波《サシテユクワレハ》。
 
佐都夜奴伎《サツヤヌキ》は、幸失貫《サツヤヌキ》なり、幸矢《サツヤ》は既く委(ク)説り、貫《ヌキ》とは、略解に、本居氏(ノ)説を引て、靭《ユキ》胡※[竹/録]《ヤナグヒ》などへ、矢を貫(キ)入れてさすをいふなるべし、といへり、○都久之乃之麻《ツクシノシマ》は、今の九國を總て云り、(筑前筑後のみを云は、やゝ後なり、)古事記に、生2筑紫(ノ)島(ヲ)1、亦身一(ニシテ)而面有v四云々、○伊久、元暦本には、由久と作り、いづれにもあるべし、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。火長。大田部荒耳《オホタベノアラミヽ》。
 
大田部(ノ)荒耳(耳(ノ)字、官本には躬と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4375 麻都能氣乃《マツノケノ》。奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》。伊波妣等乃《イハビトノ》。和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》。多多理之(365)母己呂《タタリシモコロ》。
 
麻都能氣乃《マツノケノ》は、松木之《マツノキノ》なり、木を古言に氣《ケ》ともいへる例、此(ノ)上に、麻氣波之良《マケハシラ》とある歌に委(ク)註り、○伊波妣等《イハビト》は、家人《イヘビト》なり、此(ノ)下にも、家《イヘ》を伊波《イハ》とよめり、○和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》は、吾《ワレ》を見送《ミオク》るとて、となり、古事記顯宗天皇(ノ)條に、天皇|見送歌口《ミオクリマシテウタヒタマハク》云々、とあり、○多多理之母己呂《タタリシモコロ》は、契冲、立《タテ》りしが如《ゴト》しなり、第九、第十四に、もころとよめり、神代紀には、若の字をよめり、若と如と、おなじ意なり、といへるが如し、猶|母己呂《モコロ》の言は、既く九(ノ)卷に委(ク)註り、○歌(ノ)意は、道を來るに、松(ノ)木の並て立(テ)るを見れば、わが家を出(デ)發(チ)し間《ホド》、家族の吾を見送るとて、並(ビ)て立りしが如し、となり、何となき歌なれど、見るものにつけて、家人を思ひ出慕へる情、いとあはれなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。火長。物部眞島《モノヽベノマシマ》。
 
物部(ノ)眞島は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4376 多妣由伎爾《タビユキニ》。由久等之良受弖《ユクトシラズテ》。阿母志志爾《アモシシニ》。己等麻乎佐受弖《コトマヲサズテ》。伊麻叙久夜之氣《イマゾクヤシケ》。
 
阿母志志爾《アモシシニ》は、母父《オモチヽ》になり、於母《オモ》を、東語に阿母《アモ》といへり、又|知々《チヽ》を志々《シヽ》といふことも、此(ノ)上にいへるが如し、(略解に、※[おの草体+々]と書るを、志々に誤れるか、といへるは、甚謾なり、)○己等麻乎佐受弖《コトマヲサズテ》(乎(ノ)字、元暦本には宇と作り、乎とある方然るべし、)は、契冲、物申《モノマヲ》さずしてなり、物いはぬ草木(366)といふ心を、事とはぬ草木といへり、と云る如し、今按(フ)に、己等《コト》は、言《コト》にてもあるべし、事とふなど云も、言問《コトトフ》と云ことなればなり、されど己等申《コトマヲス》と云意は、物申《モノマヲ》すと云に同じ、さて麻乎須《マヲス》は、すべて尊き方にむかひて云をいへり、されば父母に聞《キコ》ゆべきことをも、聞え上ざりし謂なり、○久夜之氣《クヤシケ》は、悔しきなり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)かく防人に差れて行べしとも、兼て知ずて、日頃心を盡して、父母に、委細《ツブサ》に物申さゞりしが、今更悔しき事、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。寒川郡上丁《サムカハノコホリノカミツヨホロ》。川上巨老《カハカミノオホオユ》。
 
寒川(ノ)郡、和名抄に、下野(ノ)國寒川(ノ)郡、(佐無加波《サムカハ》、)○川上(ノ)巨老(巨(ノ)字、古寫本、類聚抄、古寫小本等には臣と作り、川上臣《カハカミノオミ》といふ姓とするか、)は、傳未(ダ)詳ならず、上の下に、部(ノ)字ありしが、脱たるなるべしと云説、さもあるべし、
 
4377 阿母刀自母《アモトジモ》。多麻爾母賀母夜《タマニモガモヤ》。伊多太伎弖《イタダキテ》。美都良乃奈可爾《ミヅラノナカニ》。阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》。
 
阿母刀自《アモトジ》とは、阿母《アモ》は、於母《オモ》にて、母刀自《ハヽトジ》と云に同じ、○美都良《ミヅラ》は、七(ノ)卷に、青角髪《アヲミヅラ》、和名抄に、四聲字苑(ニ)云、鬟(ハ)屈v髪(ヲ)也、和名|美豆良《ミヅラ》、源氏物語桐壺に、くわむざ御座、ひきいれのおとゞの御座御前にあり、さるの時にぞ、源氏まゐり給(フ)、みづらゆひ給へるつらつき、かほめにほひ、さまかへ給はむことをしげなり、澪標に、川原のおとどの御例をまねびて、わらは隨身を給ける、いと(367)をかしげにさうぞき、みづら結て、紫すそごのもとゆひなまめかしう、たけすがたとゝのひ、うつくしげにて、十人さまことに、今めかしう見ゆ、胡蝶に、龍頭鷁首を、からのよそひに、ことごとしうしつらひて、かぢとり棹さすわらはべ、みなみづらゆひて、もろこしだゝせて、さるおほきなる池の中に、さし出たれば、など見えたり、○阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》は、令《ヘ》v相《ア》纏《マカ》まくもなり、阿敝《アヘ》は、集中に、橘を玉に阿敝貫《アヘヌキ》などよめる阿敝《アヘ》に同じく、令《セ》v相《アハ》の縮れるなり、さて玉を鬟《ミヅラ》に纏(ク)ことは、天照大御神の御美豆羅《》に、八尺勾※[王+總の旁]之五百津之美須麻流之珠《ヤサカマガタマノイホツノミスマルノタマ》を纏《マカ》し給ひしこと、古事記、書紀に見えたるをはじめて、集中三(ノ)卷に、伊奈太吉爾伎須賣流玉者無二《イナダキニキスメルタマハフタツナシ》、とあるも、鬟《ミヅラ》に纏(ク)をいへり、○歌(ノ)意は、母君は、嗚呼《アハレ》玉にてもがなあれかし、さらば髪に令《セ》v相《アハ》纏て、戴(キ)さゝげて旅路へも持行ましものを、となり、源氏物語玉鬘に、このおはしますらむ女君、すぢことにうけ給れば、いと辱し、たゞなにがしが、わたくしの君と思ひ申て、いたゞきになむ、さゝげたてまつるべき云々、此(ノ)上に、知々波々母波奈爾母我母夜久佐麻久良多妣波由久等母佐々己弖由加牟《チヽハヽモハナニモガモヤクサマクラタビハユクトモサヽゴテユカム》、似たる歌なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。津守宿禰小黒栖《ツモリノスクネヲクルス》。
 
津守(ノ)宿禰小黒栖(禰(ノ)字、舊本に無(キ)は脱たるものなり、今は官本、古寫本、古寫小本、類聚抄、拾穗本等に從つ、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
(368)4378 都久比夜波《ツクヒヤハ》。須具波由氣等毛《スグハユケドモ》。阿母志志可《アモシシガ》。多麻乃須我多波《タマノスガタハ》。和須例西奈布母《ワスレセナフモ》。
 
都久比夜波《ツクヒヤハ》》は、月日者《ツキヒハ》なり、夜《ヤ》は助辭なり、かゝる處に、此(ノ)辭をおけるは、東歌なるが故なるべし、(諸説、夜をヨ〔右○〕とよみて、月日|夜者《ヨハ》の義とするは、太(ダ)非なり、月日夜《ツキヒヨ》とはいふべくもなし、且此(ノ)歌は、字音の假字のみを用て書たれば、もしヨ〔右○〕ならむには、欲(ノ)字などを、書べきことなるをや、)○須具波由氣等毛《スグハユケドモ》は、過《スギ》は雖《ソモ》v往《ユケ》なり、○阿母志志可《アモシシガ》は、母父之《アモシヽガ》なり、(略解に、こゝをも、志々は知知の誤なるべし、といへるは甚謾なり、)○多麻乃須我多《タマノスガタ》は、玉《タマ》の容姿《スガタ》にて、光儀を賛美たるなり、○和須例西奈布母《ワスレセナフモ》は、忘《ワス》れ不《ヌ》v爲《セ》もなり、○歌(ノ)意は、月日《ツキヒ》を歴れば、物毎大方は、善(キ)も惡きも、自ら忘れらるゝ習なるに、父母が玉のやうなる愛しき光儀《スガタ》は、さても一日片時も忘るゝ事のなきよ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。都賀郡上丁《ツガノコホリノカミツヨホロ》。中臣部足國《ナカトミベノタリクニ》。
 
都賀(ノ)郡、和名抄に、下野(ノ)國|都賀《ツガ》、○中臣部(ノ)足國は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4379 之良奈美乃《シラナミノ》。與曾流波麻倍爾《ヨソルハマヘニ》。和可例奈波《ワカレナバ》。伊刀毛須倍奈美《イトモスベナミ》。夜多妣蘇弖布流《ヤタビソデフル》。
 
與曾流《ヨソル》は、所依《ヨスル》なり、○伊刀毛須倍奈美《イトモスベナミ》は、甚《イト》も爲便《スベ》無《ナ》からむとて、と云意なり、抑々この美《ミ》の辭(369)の用ひ樣は、三(ノ)卷長歌に、不見而往者益而戀石見《ミズテユカバマシテコヒシミ》、云々、四(ノ)卷に、今夜之早開者爲便乎無美秋百夜乎願鶴鴨《コノヨラノハヤクアケナバスベヲナミアキノモヽヨヲネガヒツルカモ》、などあると同格にて、將來《ユクサキ》のことを豫《アラカジメ》いふ時につかふ一(ツ)の例にて、既く委(ク)辨云り、(これを常の如く、爲便《スベが無さに、と云意に見ては、甚く違ふことぞ、もしさる意に聞ときは、第三(ノ)句、和可禮伎底《ワカレキテ》などなくては叶はず、奈波《ナバ》は、未來《サキ》をかけていふ詞なればなり、)○夜多妣蘇弖布流《ヤタビソデフル》は、彌遍袖坂《ヤタビソデフル》にて、幾遍《イクカヘリ》も袖を振(ル)謂なり、○歌(ノ)意は、白浪の所依《ヨスル》遙(カ)の海濱に別(レ)去ば、いかに戀しく思ひても、見|交《カハ》すことも協《カナ》ふべからねば、いとゞ爲む方無らむとて、家近き内に、幾遍も袖を振、となり、袖振は、家を離れて、其(ノ)家の見ゆるかぎり、互に袖振て、其を見つゝ別を慕ふが爲なり、さて白浪の所依《ヨスル》濱邊とは、行向ふ難波より、西の海濱のことを、なほ家近き間にて豫云るなり、(註者、此を難波にての歌とするは、誤なり、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。足利郡上丁《アシカヾノコホリノカミツヨホロ》。大舍人部禰麿《オホトネリベノネマロ》。
 
足利郡、和名抄に、下野(ノ)國足利、(阿志加々《アシカヾ》)○大舍人部(ノ)禰麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4380 奈爾波刀乎《ナニハトヲ》。己岐※[泥/土]弖美例婆《コギデテミレバ》。可美佐夫流《カミサブル》。伊古麻多可禰爾《イコマタカネニ》。久毛曾多奈妣久《クモソタナビク》。
 
奈爾波刀《ナニハト》は、難波門《ナニハト》なり、(刀《ト》は津《ツ》にあらず、)門《ト》は、海門《ウナト》を云、夫木集に、生駒山花咲ぬらし難波とをこぎ出て見ればかゝる白雲、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、本郷の方の遠きだにあるに、京(370)のあたりさへ、雲居に離りぬるを歎きたるなり、古(ヘ)は東人にさへ、かゝる歌よむ人ありけり、今の雅士《ミヤビヲ》まさに及《シカ》むや、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。梁田郡上丁《ヤナタノコホリノカミツヨホロ》。大田部三成《オホタベノミナリ》。
 
梁田(ノ)郡、和名抄に、下野(ノ)國梁田、(夜奈多《ヤナタ》)○大田部(ノ)三成は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4381 久爾具爾乃《クニグニノ》。佐伎毛利都度比《サキモリツドヒ》。布奈能里弖《フナノリテ》。和可流乎美禮婆《ワカルヲミレバ》。伊刀母須弊奈之《イトモスベナシ》。
 
久(ノ)字、舊本に具と作るはわろし、今の元暦本、古寫小本等に從つ、○歌(ノ)意は、難波津に、諸國の防人集居て、各々船發(チ)して此(ノ)津を離れ去を見れば、甚も爲む方もなし、といふにて、東(ノ)國より難波まで、遠離り來しだにあるに、又此(ノ)地をも離れ去ば、更に別の心ちして、悲しきよしなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。河内郡上丁《カフチノコホリノカミツヨホロ》。神麻續部島麿《カムヲミベノシママロ》。
 
河内(ノ)郡、和名抄に、下野(ノ)國|河内《カフチ》、○神麻續部島麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4382 布多富我美《フタホガミ》。阿志氣比等奈里《アシケヒトナリ》。阿多由麻比《アタユマヒ》。和我須流等伎爾《ワガスルトキニ》。佐伎母里爾佐酒《サキモリサス》。
 
布多富我美《フタホガミ》、未(ダ)詳ならず、(或説に、二小腹《フタホガミ》なるべし、小腹と書(ク)につけて、腹即(チ)心なりとみゆ、物語ふみに、心に詠吟するを、はらにあぢはひといひ、又はらきたなく、はらあしき、といふも、心あ(371)しきなり、平家物語に、清盛を、はらぐろきと云るも、心あしきなり、されば二小腹《フタホガミ》は、二心《フタゴヽロ》にて、國(ノ)守郡(ノ)司など二心ありて、我(ガ)煩へるを知ながら、防人にさすを、かくよみなせるなるべし、といへり、此(ノ)説いかゞ、そも/\二心とは、彼にも好(ク)、此にも好《(キ)をこそいふことなれ、我(ガ)病を知ながら、憐《アハレ》まずして、防人に差は、無v心とこそいふべけれ、二心とはいふべきにあらず、又只腹をば、小腹《ホガミ》といふべくもあらずおもはるゝをや、又岡部氏(ノ)説に、二面神《フタカホカミ》惡き人と云にて、二面は、この手柏の二面《フタオモ》にといへるに同じく、是は軍團の司へ、賂を與へしをば受て、猶防人に差をにくみて、二面神ぞと云なり、とあるも、信がたし、神といへること、穩ならぬことなればなり、こゝに略解に、本居氏(ノ)説を載て云く、布多富我美《フタホガミ》は、兩小腹《フタホガミ》なり、ほがみと云は、股上《モヽカミ》の意なり、故に兩《フタ》ともいへり、百《モヽ》をもホ〔右○〕と云、五百《イホ》などの如し、阿多由麻比《アタユマヒ》は、疝病《アタヤマヒ》なり、さて初(ノ)句は、三(ノ)句の上へうつして意得べし、兩小腹疝病をする時に、防人に差ことよ、惡き人なりと云なり、といへり、此は前説等にくらべては、こよなき考(ヘ)とはきこゆれど、猶いかゞなり、其(ノ)由は、ほがみを、股上《モヽカミ》なりといへる、あたらぬことなり、富我美《ホガミ》は、陰上《ホトガミ》の意なり、保登《ホト》と云は、陰處《ホト》なれば、登《ト》の言を省て、保我美《ホガミ》と云べし、又|毛々《モヽ》を保《ホ》と云は、五百《イホ》、八百《ヤホ》等にかぎりたることにて、其(ノ)他に、毛々《モヽ》を保《ホ》と云ること例なし、さて又|小腹《ホカミ》を股上《モヽカミ》の意にしても、兩股《フタモヽ》とまではいふべきことなれど、小腹《ホガミ》と云たる上にては、兩《フタ》とはいふべきにあらず、但し片腹《カタハラ》とも云からは、兩小腹《フタホガミ》と(372)もいふべきことゝ思ふ人もあるべけれど、さらば諸小腹《モロホガミ》などはいふべし、兩種《フタクサ》あるものならねば、兩《フタ》とはいふべきにあらざるをや、かゝれば、余《オノレ》も前輩の説等に因循《ナラヒ》て、今嘗(ミ)に説《イフ》べし、)布多《フタ》は太《フト》なるべし、(多《タ》と刀《ト》とは親(ク)通へり、多奈妣久《タナビク》、等能妣久《トノビク》、多奈雲入《タナグモリ》、等能雲入《トノグモリ》、天等夫《アマトブ》、天多牟《アマタム》など云、これなり、)富我美《ホガミ》は、小腹《ホガミ》なりと云説によるべし、(和名抄に、釋名(ニ)云、自v臍以下謂2之水腹(ト)1、云小腹、和名古乃加美《コノガミ》、とありて、保我美《ホガミ》の稱は出さねども、和名抄には、かへりて古(ノ)名を漏せること他にも例多ければ、保我美《ホガミ》と云も古稱なるべし、又古乃は、保の一字の誤にて、保加美《ホガミ》なりけむも知べからず、)さて太小腹《フトホガミ》といへる意は、臍下の太《フト》く強暴《コハ》くて、物の憐を知(ラ)ぬよしにて、常に大膽なるといふ意なるべし、(から國にても強暴なるを、膽の太《フト》きよしに云(ヒ)ならへること多し、蒙求に、蜀志を引て、魏(ノ)將士憤發(シテ)殺2曾及維1、世語曰、維死時、見(レハ)2剖膽1如2斗(ノ)大(サノ)1、とあり、維(ハ)、姜維字(ハ)伯約といひし人のことなり、きはめて大膽なる人なりし故、死《コロ》されたる時、腹を割て膽を見れば、一斗の升の大さなりしと、世の物語にいへり、とのよしなり、)○阿志氣比等奈里《アシケヒトナリ》は、惡《アシ》き人《ヒト》なりなり、○阿多由麻比《アタユマヒ》は、本居氏、疝病《アタヤマヒ》なり、といへるに從(ル)べし、和名抄に、釋名(ニ)云、疝(ハ)腹急(ニ)痛(ム)也、阿太波良《アタハラ》、一云|之良太美《シラタミ》、とあり、(之良太美《シラタミ》は、解《キコエ》難し、今按に、良(ノ)下、太万以の三字ありしが、太(ノ)字の、二(ツ)あるより見まがへて、脱せるなるべし三善(ノ)爲康(ガ)童蒙頌韻に、疝※[病垂/鐶の旁]をシラタマイタミ〔七字右○〕と訓り、合(セ)考(フ)べし、シラタマ〔四字右○〕は、陰嚢のことなり、疝病は陰嚢を痛むものゆゑに、シ(373)ラタマイタミ〔七字右○〕とは云(フ)なり、)○佐伎母里爾佐酒《サキモリニサス》、(酒(ノ)字、元暦本には須と作り、)谷川氏云、匡謬正俗に、科2發(ス)士馬(ヲ)1謂v之爲v差(ト)、と見ゆ、官府語なり、書紀に、差2良家(ノ)子(ヲ)1爲2使者(ト)1、軍防令に、凡差2兵士(ヲ)1、と見えたる是なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)疝病《アタヤマヒ》を惱《ナヤ》める時に、押て防人に差(ス)は、大膽にして、憐愍《モノヽアハレ》をも知ず、惡き人にてありけりと、軍團の司などを惡みて、よめるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。那須郡上丁《ナスノコホリノカミツヨホロ》。大伴部廣成《オホトモベノヒロナリ》。
 
那須(ノ)郡、和名抄に、下野(ノ)國|那須《ナス》、○大伴部(ノ)廣成は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4383 都乃久爾乃《ツノクニノ》。宇美能奈伎佐爾《ウミノナギサニ》。布奈餘曾比《フナヨソヒ》。多志※[泥/土]毛等伎爾《タシデモトキニ》。阿母我米母我母《アモガメモガモ》。
 
多志※[泥/土]毛等伎爾《タシデモトキニ》は、發《ム》2將出《タチデ》1時《トキ》になり、(略解に、志は知の誤なるべし、といへるは誤なり、上に辨ふ、)○阿母我米母我母《アモガメモガモ》は、母《オモ》が目《メ》も欲《ガ》もにて、嗚呼《アハレ》母に相見るよしもがなあれかし、の意なり、○歌(ノ)意は、攝津の難波まで遠く別れ來て、又難波の渚より艤《フナヨソ》ひ乘發《ノリイダ》して、遙に離り徃ことなれば、いかで今一度、嗚呼《アハレ》母に相見るよしもがなあれかし、となり、東人の實心《マコヽロ》いとあはれ深し、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。塩屋郡上丁《シホノヤノコホリノカミツヨホロ》。丈部足人《ハセツカベノタリヒト》。
 
塩屋(ノ)郡、和名抄に、下野(ノ)國鹽屋、(之保乃夜《シホノヤ》)○丈部(ノ)足人(人(ノ)字、古寫本になきは、脱たるなるべし、)は、(374)傳未(ダ)詳ならず、
 
二月十四日《キサラキノトヲカマリヨカノヒ》。下野國防人部領使《シモツケヌノクニノサキモリコトリツカヒ》。正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首《オホキムツノクラヰノカミツシナタクチノアソミオホトガタテマツレルウタノカヅトヲマリヤツ》。但|拙劣歌七首者《ツタナキウタナヽツハ》不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
大戸は、續紀に、寶字四年正月丙虎、正六位上田口(ノ)朝臣大戸(ニ)授2從五位下(ヲ)1、六年正月戊子、爲2日向(ノ)守(ト)1、七年正月壬子、爲2兵馬(ノ)正(ト)1、八年正月己未、爲2上野(ノ)介(ト)1、寶龜八年正月庚申、授2從五位上(ヲ)1、と見えたり、○七首の字、舊本にはなし、古寫小本、拾穗本等にあるに從つ、○十八首の内、十一首をとり載られたり、
 
4384 阿加等伎乃《アカトキノ》。加波多例等枳爾《カハタレトキニ》。之麻加枳乎《シマカギヲ》。己枳爾之布禰乃《コギニシフネノ》。他都枳之良受母《タヅキシラズモ》。
 
阿加等伎《アカトキ》は、曉《アカトキ》なり、○加波多例等枳《カハタレトキ》は、彼は誰時《タレトキ》にて、曉の未(ダ)ほのぐらくて、人の面顔の其(レ)と見え分(キ)難きほどを云、契冲云、かはたれどきは、たそがれ時といふに同じ、およそ夕(ヘ)も曉もほのかなれば、人のかほもそれと見わきがたくて、名のりをきけば、夕(ヘ)をもかはたれ時といひ、曉をもたそがれ時といふべきを、いつとなく、たそがれは夕(ヘ)にいひならひて、曉にいはゞ、ことあたらしくなりぬべし、源氏物語初音に、花の香さそふ夕風の、のどかに打吹たるに、御前の梅やう/\紐解けて、あれはたれときなるに、とかけり、かはたれと云に同じ、○之麻加枳《シマカギ》(375)は、島陰《シマカゲ》なり、○歌(ノ)意、第四句までは序にて、主用は第五(ノ)一句のみにあり、かくて序の意は、曉のほのぐらきに、冲つ島陰を遙に漕出《コギユキ》し船は、何方の浦に、湊《ハツ》るとも知れねば、手著《タヅキ》知ずといひつゞけたるにて、さてかく妻子を置て、遠く西(ノ)海に赴くことなれば、行末おぼつかなく、何處をよすがとたのまむ手著も、さても知れぬこと、と云なるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。助丁海上郡海上國造《スケノヨホロウナカミノコホリウナカミノクニノミヤツコ》。他田日奉直得大理《イケダノヒマツリノアタヘトコタリ》。
 
海上(ノ)郡、和名抄に、下總(ノ)國海上、(宇奈加美《ウナカミ》)○他田(ノ)日奉(ノ)直得大理は、傳未(ダ)詳ならず、他田は、池田の寫誤ならむと云り、續紀卅八に、延暦四年正月癸亥、詔授2正六位下海上(ノ)國(ノ)造池田(ノ)日奉(ノ)直徳刀自(ニ)外從五位下(ヲ)1、とあるを考(ヘ)合(ス)べし、即(チ)徳刀自は、得大理が裔なるべし、三代實録四十七に、下總(ノ)國海上(ノ)郡(ノ)大領、外正六位上海上(ノ)國(ノ)造池田(ノ)日奉《ノ)直春岳、とも見ゆ、
 
4385 由古作枳爾《ユコサキニ》。奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》。志流敝爾波《シルヘニハ》。古乎等都麻乎等《コヲトツマヲト》。於枳弖等母枳奴《オキテトモキヌ》。
 
由古作枳《ユコサキ》は、行向《ユクサキ》なり、○奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》は、浪之音動《ナミノトユラヒ》なり、之《ノ》を奈《ナ》と云は、海之上《ウノカミ》、海之原《ウノハラ》などを、宇奈上《ウナカミ》、宇奈原《ウナハラ》など云に同例なり、惠良比《ヱラヒ》は、本居氏、ゆらひにて、ゆり動《トヨム》を云、と云り、○志流敝爾波《シルヘニハ》は、後方《シリヘ》にはなり、爾波《ニハ》は、他にむかへていふ辭なり、こゝは行(ク)向(キ)に對ていへり、○古乎等都麻乎等於枳弖等《コヲトツマヲトオキテト》の三(ツ)の等は、ト〔右○〕と訓べし、(ラ〔右○〕と訓るはわろし、此(ノ)前後の歌の書法による(376)に、もしラ〔右○〕ならば、良(ノ)字を書べし、訓を假字に用ひしとは思はれず、)この等《ト》は、曾《ソ》に似て輕き辭なり、例は、十四に、蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》、又、伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》、此(ノ)下に、伊※[泥/土]弖登阿我久流《イデテトアガクル》、など皆同じ、○歌(ノ)意、行向の海(ノ)上には、浪の音の動《ユ》り響《トヨミ》て、恐しきことかぎりなし、後方《シリヘ》には、妻や子を遺しおきて來ぬれば、戀しく思はるゝことしば/\なり、されば前にも後にも、心のゆくかたなくて、ひたすらに悲しきこと、といへるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。葛飾郡《カヅシカノコホリ》。私部石島《キサキベノイソシマ》。
 
葛飾(ノ)郡、和名抄には、下總(ノ)國葛餝、(加止志加《カトシカ》)とあれど、集中に可豆思加《カヅシカ》とあるぞ、古(ヘノ)稱なる、○私部(ノ)石島(私(ノ)字、舊本に和と作るは誤なり、今は元暦本、官本、拾穗本、古寫本等に從つ、島(ノ)字、元暦本に鳴と作るはいかゞ、)は、傳未(ダ)詳ならず、私部は、敏達天皇(ノ)紀に、六年春二月甲辰朔、置2私部《キサキベヲ》1、(通證に、前漢張放傳(ニ)、大官私官、服虔註(ニ)、私官(ハ)皇后之官、訓義盖本2于此(ニ)1、)姓氏録に、大私部、續紀、大寶三年の條に、私(ノ)小田、私(ノ)比都自、などいふ人も見えたり、
 
4386 和加加都乃《ワガカヅノ》。以都母等夜奈枳《イツモトヤナギ》。以都母伊都母《イツモイツモ》。於母加古比須奈《オモガコヒスナ》。奈理麻之都之母《ナリマシツシモ》。
 
和加加都乃《ワガカヅノ》(下の加(ノ)字、元暦本には可と作り、都(ノ)字、古寫小本に度とあるは、なか/\にさかしらなるべきか、)は、吾門之《ワガカドノ》なり、○以都母等夜奈枳《イツモトヤナギ》は、五十津株柳《イツモトヤナギ》にて五十津株《イツモト》は、樹株《コダチ》の多き(377)を云、(夫木集に、吾(ガ)やどのいつもと柳打靡くはなたの糸はくる人もなし、吾(ガ)門のいつもと柳いかにして宿によそなる春をしるらむ、吹風にいとみだれたる吾(ガ)やどのいつもと柳よりてこそ見め、などあるは、みな今の歌によれり、)以都《イツ》は、五橿《イツカシ》、伊都藻《イツモ》、五柴《イツシバ》などの伊都《イツ》と同じ、猶この言は、四(ノ)卷に、大原之此市柴《オホハラノコノイツシバ》、とある歌の條下《クダリ》に、委(ク)辨へたるを、考(ヘ)合(ス)べし、(諸註、文選陶淵明(ガ)五柳先生(ノ)傳に、宅邊有2五柳樹1、因以爲v號焉、とあるを引たれど、こゝにさらによしなきことなり、)さて此(レ)までは序にて、次の以都母以都母《イツモイツモ》をいはむ料なり、四(ノ)卷に、河上乃伊都藻之花乃何時何時《カハカミノイツモノハナノイツモイツモ》、十一に、道邊乃五柴原能何時毛何時宅《ミチノベノイツシバハラノイツモイツモ》、六帖に、八雲立出雲の浦のいつも/\、とよめる、皆こゝのつゞけに同じ、○於母加古比須奈《オモガコヒスナ》は、母之戀爲奈《オモガコヒスナ》なり、奈《ナ》は、歎息の意を含める助辭にて、俗に奈阿《ナア》と云が如し、古事記景行天皇(ノ)條(ノ)歌に、阿佐士怒波良許斯那豆牟蘇良波由賀受阿斯用由久那《アサジヌハラコシナヅムソラハユカズアシヨユクナ》、とある那に同じ、又奈(ノ)字、官本、仙覺抄、或校本等に須と作り、其に依ば、母之戀爲爲《オモガコヒスス》なるべし、十四に、可久須々曾《カクスヽソ》とあるも、如此爲々曾《カクスヽソ》といふ意にて、須々《スヽ》は今と同じ、されど猶|此《コヽ》は、舊本の方ぞ穩に聞ゆる、○奈理麻之都之母は、契冲も云る如く、都之は、もと都々と書るが、古筆のなだらかなるを、之と見て誤寫せるにて、ナリマシツヽモ〔七字右○〕なるべし、さて、技座乍《ナリマシツヽ》もにて、産業《ナリハヒ》を爲坐乍《シマシナガラ》もの意なり、此《コヽ》の奈理《ナリ》は、用言に唱(フ)べし、○歌(ノ)意は、母君の産業を爲坐ながらも、時わかず何時も/\、旅なる吾を戀しく思はしつゝおはすらむなあ、と歎きたる(378)なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。結城郡《ユフキノコホリ》。矢作部眞長《ヤハキベノマナガ》。
 
結城(ノ)郡、和名抄に、下總(ノ)國結城、(由不岐《ユフキ》)○矢作部(ノ)眞長は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4387 知波乃奴乃《チハノヌノ》。古乃弖加之波能《コノテカシハノ》。保保麻例等《ホホマレド》。阿夜爾加奈之美《アヤニカナシミ》。於枳弖他加枳奴《オキテタカキヌ》。
 
知波乃奴《チハノヌ》は、千葉(ノ)郡の野なり、○古乃弖加之波能《コノテカシハノ》は、兒手柏之《コノテカシハノ》なり、品物解に委(ク)云り、さて此までは、含《ホヽ》まるといはむ料の序なり、かくつゞける意は、契冲、ほゝまれどは、ふゝまれどにて、いまだ葉のひらきはてぬなり、といへるが如し、○保保麻例等《ホホマレド》は、雖《ド》v含《フヽマレ》なり、十四に、安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母《アドモヘカアジクマヤマノユヅルハノフフマルトキニカゼフカズカモ》、○於枳弖他加枳奴は、加は知の誤寫なるべし、置《オキ》て發來《タチキ》ぬなり、(略解に、他は和の誤にて、ワガキヌ〔四字右○〕なるべし、といへれど、他と和は、字形も遠きをや、)○歌(ノ)意、第四(ノ)句は、保保麻例等《ホホマレド》の上へうつして意得べし、文《アヤ》しきまでに愛憐《カナ》しさに、妹と我と、閨房《ネヤ》に含《フヽ》まり隱《コモ》りて、暫(シ)も放れ難き中なれど、防人に差れしうへは、いなむべくもあらずて、其(ノ)愛《カナ》しき妹を置て、發來《タチキ》ぬるよ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。千葉郡《チハノコホリ》。大田部足人《オホタベノタリヒト》。
 
千葉(ノ)郡、和名抄に、下總國千葉、(知波《チハ》)○大田部(ノ)足人(人(ノ)字、古寫本になきは、脱たるなるべし、)は、傳(379)未(ダ)詳ならず、
 
4388 多妣等弊等《タビトヘド》。麻多妣爾奈理奴《マタビニナリヌ》。以弊乃母加《イヘノモガ》。枳世之己呂母爾《キセシコロモニ》。阿加都枳爾迦理《アカツキニカリ》。
 
多妣等弊等《タビトヘド》は、雖《ド》v曰《イヘ》v旅《タビト》なり、等弊《トヘ》は、等伊弊《トイヘ》の約れる語なり、十四に、伊母我理登倍婆《イモガリトヘバ》、又、禰呂等敝奈加母《ネロトヘナカモ》、などあり、○麻多妣爾奈理奴《マタビニナリヌ》は、眞旅《マタビ》に成ぬなり、かくいへる意は、しばし家を立離れたるをも、遠く海山を隔て往たるをも、多妣《タビ》とはいへども、しばし家を離れたらむは、實には、多妣《タビ》といふばかりのこともなきを、吾は全く實《マコト》の多妣《タビ》に成來ぬるよ、となり、○以弊乃母加《イヘノモガ》は、家之妹之《イヘノイモガ》なり、(略解に、岡部氏(ノ)説を引て、伊母の伊(ノ)字脱たるか、と云るはわろし、)妹を母《モ》とのみいへる例は、既くいへり、○迦理《カリ》は、家理《ケリ》を、東語にかくもいへるなり、(略解に、迦は誤字かといへるは、あらず、)○歌(ノ)意は、旅と云中にも、吾(ガ)旅は全く實の旅にぞ成ぬる、さればこそ、遠く海山を隔て來て、あまたの月日を經るまゝに、家(ノ)妻が裁縫て著せてし其(ノ)衣に、垢づきにけれ、となり、十五に、和我多妣波比左思久安良思許能安我家流伊毛我許呂母能阿可都久見禮婆《ワガタビハヒサシクアラシコノアガケルイモガコロモノアカヅクミレバ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。占部虫麿《ウラベノムシマロ》。
 
同千葉(ノ)郡の人なるによりて、此に郡(ノ)名を略けるにや、上に例あり、○占部(ノ)虫麿(虫(ノ)字、類聚抄に出と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
(380)4389 志保不尼乃《シホブネノ》。弊古祖志良奈美《ヘコソシラナミ》。爾波志久母《ニハシクモ》。於不世他麻保加《オフセタマホカ》。於母波弊奈久爾《オモハヘナクニ》。
 
志保不尼《シホブネ》は、上に出(デ)つ、○弊古祖志良奈美《ヘコソシラナミ》は、舳越白浪《ヘコスシラナミ》にて、俄《ニハカ》を云む料の序なり、海(ノ)上の浪荒くて、船の舳を、打(チ)越ことの急《ニハカ》なるよしに、いひつゞけたり、○爾波志久母《ニハシクモ》は、俄《ニハ》しくもにて、急《ニハカ》にも、といはむが如し、志久《シク》は、辭なり、○於不世他麻保加《オフセタマホカ》は、科賜哉《オホセタマフカ》なり、科《オホセ》とは、防人に差科《サシオホ》すると云、於不世《オフセ》は、於保世《オホヤ》と通ひて同言なり、他麻保《タマホ》、他麻不《タマフ》、同じき如し、(略解に、他より令v負には、オホセ〔三字右○〕、自(ラ)負にはオフ〔二字右○〕の假字なるを、こゝに於不世《オフセ》とあるはいかゞなれど、通はしいへるならむ、といへり、)○於母波弊奈久爾《オモハヘナクニ》は、思合無《オモヒアヘナク》になり、比阿《ヒア》は、波《ハ》と約れり、○歌(ノ)意は、防人に差れむことは、掛ても思ひ合せざりしものを、さても急《ニハカ》にも、科《オホ》せ賜ふこと哉、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。印波郡《イニハノコホリ》。丈部道大歳《ハセツカベノアタヘオホトシ》。
 
印波(ノ)郡、和名抄に、下總(ノ)國印幡、とありて、訓註なし、イニハ〔三字右○〕にや、今はいむばと呼よし、略解にいへり、○丈部(ノ)直大歳(歳(ノ)字、古寫本には、麿と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4390 牟浪他麻乃《ムラタマノ》。久留爾久枳作之《クルニクギサシ》。加多米等之《カタメトシ》。以母加去去里波《イモガココリハ》。阿用久奈米加母《アヨクナメカモ》。
 
牟浪他麻乃《ムラタマノ》は、久留《クル》の枕詞なり、契冲、牟浪他麻《ムラタマ》は、群玉《ムラタマ》なり、第十五に、しらたまのいほつゝど(381)ひ、といへるが如し、といへり、さて群る玉のくるめく、と云意につゞきたり、(略解に、ヌバタマ〔四字右○〕を、東語にムラタマ〔四字右○〕といへるなり、樞《クル》と黒《クロ》と音通へば、この枕詞を冠らせたり、又もしくは、浪は波の誤かといへるは、あらぬことなり、)○久留爾久枳作之《クルニクギサシ》は、樞《クル》に釘刺《クギサシ》なり、樞《クル》は、戸樞《トノクルヽ》なり、十六に、家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏而師《イヘニアリシヒツニクギサシヲサメテシ》、ともよめり、さて此まで二句は、結《カタメ》といはむ料の序にて、戸(ノ)樞に釘を刺(シ)固る謂《ヨシ》に、いひつゞけたり、○加多米等之《カタメトシ》は、結《カタ》めてしなり、十四に、於保夫禰乎倍由毛登毛由毛可多米提之《オホブネヲヘユモトモユモカタメテシ》、とよめり、結《カタメ》は、要《チギ》り堅《カタ》むるを云、○以母加去去里波《イモガココリハ》は、妹之心者《イモガコヽロハ》なり、○阿用久奈米加母《アヨクナメカモ》は、危《アヤフ》く無《ナ》み歟《カ》もにて、嗚呼《アハレ》危くはあらじか、といふ意なり、阿夜布久《アヤフク》の夜布《ヤフ》を約むれば、阿由久《アユク》となる、其(ノ)由《ユ》を用《ヨ》に通(ハ)して、阿用久《アヨク》といへるなり、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、將來《スヱ》かけて期《チギ》り結《カタ》めてし中なれば、嗚呼《アハレ》妹が心の變《ウツロ》ふべきこともあらじか、となり、然思へば、今かく遙に別れ來れども、うしろ易かるべきことなるに、なほ得堪ずして、心の落居ぬこと、と云意を、含めたるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。※[獣偏+爰]島郡《サシマノコホリ》。刑部志加麿《オサカベノシカマロ》。
 
※[獣偏+爰]島(ノ)郡、和名抄に、下總ノ)※[獣偏+爰]島、(佐之万《サシマ》)○刑部(ノ)志加麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4391 久爾具爾乃《クニグニノ》。夜之呂乃加美爾《ヤシロノカミニ》。奴佐麻都理《ヌサマツリ》。阿加古比須奈牟《アガコヒスナム》。伊母賀加奈志作《イモガカナシサ》。
 
(382)阿加古比須奈牟《アガコヒスナム》は、本居氏の説《イヘ》る如く、贖祈將爲《アガコヒスラム》なり、贖祈《アガコヒ》とは、贖《アガ》ふ命などもよめる如く、罪過《ツミトガ》の代りに、贖《アガ》物を出して、神に祈願《コヒネグ》を云、奈牟《ナム》は、良牟《ラム》といふ意の東語なり、○歌(ノ)意は、後《オク》れ居る妻が、己が歴行|諸國《クニ/”\》の神社を、遙に拜み、幣帛を奉りて、己が爲に贖物出して、平安《サキカ》らむことを祈願つゝあるらむ、心の中の憐《カナシ》く愍《アハレ》なること、たとへがたし、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。結城郡《ユフキノコホリ》。忍海部五百麿《オシヌミベノイホマロ》。
 
忍海部(ノ)五百磨(五(ノ)字、壘聚抄に、なきは、脱たるにや)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4392 阿米都之乃《アメツシノ》。以都例乃可美乎《イヅレノカミヲ》。以乃良波加《イノラバカ》。有都久之波波爾《ウツクシハハニ》。麻多己等刀波牟《マタコトトハム》。
 
阿米都之《アメツシ》は、天地《アメツチ》なり、此(ノ)未にもかくあり、(略解に、都之は、都々と有しが、かく誤れるか、といへるは、非なり、)○有都久之波波《ウツクシハハ》は、愛母《ウツクシハヽ》にて、吾(ガ)親く愛く思ふ母なり、愛妹《ウツクシイモ》、愛妻《ウツクシツマ》などもいへり、(略解に、いつくしみ思ふ母といふなり、とあるは、いさゝかたがへるごとし、)○歌(ノ)意は、天神《アマツカミ》地祇《クニツカミ》の中に、いづれの神に祈祷《イノリ》てあらばか、其(ノ)神のちはひによりて、公役のかぎりにあらずして、愛しき母に、又物言交すよしのあらむ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。埴生郡《ハニフノコホリ》。大伴部麻與佐《オホトモベノマヨサ》。
 
埴生(ノ)郡、和名抄に、下總(ノ)國埴生、(波牟布《ハムフ》)とあれど、古(ヘ)は波爾布《ハニフ》と呼しなるべし、(波牟布《ハムフ》は、音便な(383)ればなり、)○大伴部(ノ)麻與佐は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4393 於保伎美能《オホキミノ》。美許等爾作例波《ミコトニサレバ》。知知波波乎《チチハハヲ》。以波比弊等於枳弖《イハヒヘトオキテ》。麻爲弖枳爾之乎《マヰデキニシヲ》。
 
美許等爾作例波《ミコトニサレバ》は、命《ミコト》にし有(レ)ばなり、之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢを、おもく思はする助辭なり、さて之阿《シア》を約て、佐《サ》と云るにて、春し有(レ)ば、秋し有(レ)ばを、春佐禮婆《ハルサレバ》、秋佐禮婆《アキサレバ》、と云と同例なり、(名草山言にしありけりと云歌を、袖中抄に、言にさりけりと擧て、さりけりは、しありけりなり、と云り、昔はかの歌をも、言にさりけりと誦たることありしなるべし、そのさりと云こと、今の歌のサレバ〔三字右○〕とあるに、全(ラ)同例なり、○以波比弊等於枳弖《イハヒヘトオキテ》は、齋瓮《イハヒヘ》と置而《オキテ》にて、齋瓮《イハヒヘ》と爲《シ》て置《オキ》て、といはむが如し、此(ノ)等《ト》の辭は、家《イヘ》と住(ム)、玉《タマ》と拾はむ、など云|等《ト》にて、としての意なり、さて父母を齋瓮として、大切に齋ひ置て來しよしなり、齋瓮は、神酒を釀て、床(ノ)上に居て、齋(ミ)清るものなれば、大切にする譬にいへるなり、○麻爲弖枳爾之乎《マヰデキニシヲ》(爾(ノ)字、舊本には麻と作り、今は元暦本、古寫本等に從つ、)は、參出來《マヰデキ》にしをな、り、乎《ヲ》は、物をの意なり、(略解に、乎《ヲ》は與《ヨ》の意なり、と云るは、たがへり、)本居氏云、凡て罷《マカル》は、貴《タフトキ》所より退去《サル》を云、參《マヰ》は貴所へ向行《ムキユク》を云、と云り、此(ノ)歌に參出《マヰデ》とよめるも、向行方《ムキユクカタ》の任所は官舍なれば、東人の貴て云るなるべし、此(ノ)下に防人の任所より還る事を、罷《マカ》るとよめるも、同意なり、○歌(ノ)意は、一(ト)すぢに尊く畏き、大皇の勅命なれば、理(リ)遁るべきにあら(384)ず、さはあれど、遙の旅路に趣くは、心ぼそくおぼつかなくはおもふものから、父母を齋瓮と爲て、大切に齋置て、別(レ)來にし物を、吾(ガ)還り來むまで、いかでか恙(ミ)なく平安《サキ》くまし坐ざるべき、と自(ラ)慰むるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。結城郡《ユフキノコホリ》。雀部廣島《サヽキベノヒロシマ》。
 
雀部(ノ)廣島は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4394 於保伎美能《オホキミノ》。美己等加之古美《ミコトカシコミ》。由美乃美仁《ユミノミニ》。佐尼加和多良牟《サネカワタラム》。奈賀氣己乃用乎《ナガケコノヨヲ》。
 
由美乃美仁《ユミノミニ》は、夢耳《ユミノミ》になり、○佐尼加和多良牟《サネカワタラム》は、佐寢歟《サネカ》將《ム》v渡《ワタラ》なり、佐尼《サネ》は、眞寢《マネ》にて、たゞに寢ることをもいへど、多くは男女相寢することにいへり、二(ノ)卷に、佐不寐者遂爾有勝麻之目《サネズハハツヒニアリカテマシモ》、又、左宿夜者幾毛不有延都多乃別之來者《サネシヨハイクダモアラズハフツタノワカレシクレバ》、三(ノ)卷に、吾妹子跡左宿之妻屋爾《ワギモコトサネシツマヤニ》、十四に、佐奴良久波多麻乃緒婆可里《サヌラクハタマノヲバカリ》、などある、此等《コレラ》は皆相寢するをいへり、今の歌も、此等に同じ、(諸註、此(ノ)第三四(ノ)句を、夢のみに、故郷のことを見て、さねかわたらむ、と云意に解なせるは、精《クハ》しからず、もし其(ノ)意ならば、直に夢のみに見てか渡らむ、などやうにいふべし、夢のみに佐尼加《サネカ》云々、とあるからは、夢に相寢するよしにこそあれ、)○歌(ノ)意、勅命を畏みて、遠き旅路に趣けば、此(ノ)長き夜を、たゞに夢に、妻と相寢するよしを見るのみにて、實に相見ることはなくして、月日を經渡らむ歟、(385)となり、結句は、第三句の上にうつして意得べし、(略解に、長き夜とはいへど、年月を渡らむの意なり、といへるは、まぎらはしき解《トキ》ざまなり、長き此(ノ)夜を、といへるは、夢に寢ると云にのみつゞけるにて、渡らむは、月日を經渡らむの意にこそあれ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。相馬郡《サウマノコホリ》。大伴部子羊《オホトモベノコヒツジ》。
 
相馬(ノ)郡、和名抄に、下總(ノ)國相馬、(佐宇萬《サウマ》)○大伴部(ノ)子羊(部(ノ)字、古寫本になきは、脱たるものなるべし、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二月十六日《キサラギノトヲカマリムカノヒ》。下總國防人部領使《シモツフサノクニノサキモリコトリツカヒ》。少目從七位下縣犬養宿禰淨人《スナキフミヒトヒロキナヽツノクラヰノシモツシナアガタノイヌカヒノスクネキヨヒトガ》。進歌數二十二首《タテマツレルウタノカズハタチマリフタツ》。但拙劣歌十一首〔三字○で囲む〕者《ツタナキウタトヲマリヒトツハ》。不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
淨人は、傳未(ダ)詳ならず、(逸史に、弘仁十四年正月、正六位上縣(ノ)犬養(ノ)宿禰淨人(ニ)授2從五位下(ヲ)1、とあるは、同名異人なり、)○二十二首の内、十一首をとり載られたり、
 
濁《ヒトリ》惜《ヲシメル》2龍田山櫻花《タツタヤマノサクラノハナヲ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
已下三首(ノ)歌は、二月十七日に、家持(ノ)卿の作《ヨマ》れたるよし、左に記せり、既《サキ》に二月十三日、難波(ノ)宮を作《ヨマ》れたる歌あり、さればこれも同じ度、事とり竟て、京に還り向はむとするほどに、よまれけるなるべし、故(レ)獨して惜まれしなるべし、
 
4395 多都多夜麻《タツタヤマ》。見都都古要許之《ミツツコエコシ》。佐久良波奈《サクラバナ》。知利加須疑奈牟《チリカスギナム》。利我可敝流(386)刀爾《ワガカヘルトニ》。
 
和我可敝流刀爾(ワガカヘルトニ》(爾(ノ)字、舊本には禰と作り、今は元暦本に從つ、)は、我還《ワガカヘ》る内《ウチ》に、と云むが如し、難波に至り、行幸のあらまし事竟て、道を還り來る内に、の意なり、刀爾《トニ》は、既くかたがた見えたり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
獨《ヒトリ》見《ミテ》2江水淨漂糞《エニウカベルコツミヲ》1。怨2恨《ウラミテ》貝玉《カヒタマノ》不《ザルヲ》1v依《ヨラ》作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
江水は、難波江《ナニハエ》なり、○糞、契冲、歌に許都美《コツミ》とよめり、第七、第十一、第十九に、こつみとよめるは、皆|木積《コツミ》とかけり、木の屑と見えたれば、もし木糞なりけるを、木の字をおとせるにや、さらずば上の卷々に、木積とはかきたれども、こつみは、たゞ何となく、あくたをいふにや、糞の字のみらば、あくたなり、と云り、
 
4396 保埋江欲利《ホリエヨリ》。安佐之保美知爾《アサシホミチニ》。與流許都美《ヨルコツミ》。可比爾安里世婆《カヒニアリセバ》。都刀爾勢
麻之乎《ツトニセマシヲ》。
 
歌(ノ)意、かくれなし、木糞《コツミ》の貝玉にてありせば、家※[果/衣]《イヘツト》にせましものを、と恨みたるなり、
 
在《ニテ》2舘門《タチノカド》1。見《ミテ》2江南|美女《ヲトメヲ》1作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
舘門は、離宮の南門なり、といへり、○江南は、堀江の南をいふべし、後紀に、天長二年三月癸酉、攝津國江南四郡隷2和泉(ノ)國(ニ)1、
 
(387)4397 見和多世波《ミワタセバ》。牟加都乎能倍乃《ムカツヲノヘノ》。波奈爾保比《ハナニホヒ》。弖里※[氏/一]多弖流波《テリテタテルハ》。波之伎多我都麻《ハシキタガツマ》。
 
牟加都乎能倍乃《ムカツヲノヘノ》は、向津峯上之《ムカツヲノヘノ》なり、抑々難波に峯上《ヲノヘ》といふべき、地はなけれど、本(ノ)二句は、たゞ花艶《ハナニホヒ》をいはむ料のみなれば、設ていへるなるべし、○波奈爾保比《ハナニホヒ》は、花艶《ハナニホヒ》なり、上に、乎等古乎美奈能波奈爾保比見爾《ヲトコヲミナノハナニホヒミニ》、とある下に、委(ク)いへるごとし、九(ノ)卷に、如花咲而立者《ハナノゴトヱミテタテレバ》、○流の下波(ノ)字、舊本に婆と作るは、正しからず、今は元暦本、古寫小本等に從つ、○歌(ノ)意は、花艶《ハナニホヒ》すとて、てり立るは誰が愛妻《ハシキツマ》ぞ、といへるなり、と中山(ノ)嚴水がいへるぞ宜き、本(ノ)二句は序の如し、(略解に、二三の句は、美女のたとへなり、といへるは、いさゝか云たらはず、)
 
右三首《ミギノミウタハ》。二月十七日《キサラギノトヲカマリナヌカノヒ》。兵部少輔大伴宿禰〔二字各○で囲む〕家持作《ツハモヽツカサスナキスケオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
爲《ナリテ》2防人情《サキモリノコヽロニ》1陳《ノベテ》v思《オモヒヲ》作歌一首并短歌《ヨメルウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4398 大王乃《オホキミノ》。美己等可之古美《ミコトカシコミ》。都麻和可禮《ツマワカレ》。可奈之久波安禮特《カナシクハアレド》。大夫|乃〔○で囲む〕《マスラヲノ》。情布里於許之《コヽロフリオコシ》。等里與曾比《トリヨソヒ》。門出乎須禮婆《カドデヲスレバ》。多良知禰乃《タラチネノ》。波波可伎奈※[泥/土]《ハハカキナデ》。若草乃《ワカクサノ》。都麻波等里都吉《ツマハトリツキ》。平久《タヒラケク》。和禮波伊波波牟《ワレハイハハム》。好去而《マサキクテ》。早還來等《ハヤカヘリコト》。麻蘇※[泥/土]毛知《マソデモチ》。奈美太乎能其比《ナミダヲノゴヒ》。牟世比都都《ムセビツツ》。言語須禮婆《コトトヒスレバ》。群鳥乃《ムラトリノ》。伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチカテニ》。等騰己保里《トドコホリ》。可弊里美之都都《カヘリミシツツ》。伊也等保爾《イヤトホニ》。國乎伎波奈例《クニヲキハナレ》。伊夜多可爾《イヤタカニ》。山乎故要須(388)疑《ヤマヲコエスギ》。安之我知流《アシガチル》。難波爾伎爲弖《ナニハニキヰテ》。由布之保爾《ユフシホニ》。船乎宇氣須惠《フネヲウケスヱ》。安佐奈藝爾《アサナギニ》。倍牟氣許我牟等《ヘムケコガムト》。佐毛良布等《サモラフト》。和我乎流等伎爾《ワガヲルトキニ》。春霞《ハルガスミ》。之麻未爾多知弖《シマミニタチテ》。多頭我禰乃《タヅガネノ》。悲鳴婆《カナシクナケバ》。波呂波呂爾《ハロバロニ》。伊弊乎於毛比※[泥/土]《イヘヲオモヒデ》。於比曾箭乃《オヒソヤノ》。曾與等奈流麻※[泥/土]《ソヨトナルマデ》。奈氣吉都流香母《ナゲキツルカモ》。
 
大夫の下、乃(ノ)字は、必(ズ)あるべきを、舊本に無(キ)は、落たるものなるべし、○情布里於許之《コヽロフリオコシ》は、十七にも、大王能麻氣能麻爾麻爾《オホキミノマケノマニマニ》、大夫之情布里於許之《マスラヲノコヽロフリオコシ》、と同(ジ)作者の歌にあり、自(ラ)心を勵まし勇むなり、○等里與曾比《トリヨソヒ》は、旅の装束《ヨソヒ》をするなり、古事記上(ツ)卷、八千矛神(ノ)御歌に、奴婆多麻能久路岐美郁斯遠《ヌバタマノクロキミケシヲ》、麻布夫佐爾登理與曾比《マツブサニトリヨソヒ》云々、○波波可伎奈※[泥/土]《ハハカキナデ》(※[泥/土](ノ)下、舊本に、泥(ノ)字あるは衍文なり、元暦本に、無(キ)をよしとす、)は、波波の下、今一(ツ)波(ノ)字脱たるにて、母者掻撫《ハヽハカキナデ》なるべし、次下に、都麻波等里都吉《ツマハトリツキ》、とあるに對へて、考(フ)べし、○都麻波等里都吉《ツマハトリツキ》(波(ノ)字、元暦本になきはわろし、)は、衣の裾《スソ》などに取(リ)著(キ)、と云なり、○平久《タヒラケク》云々は、防人に行(ク)人の平かならむことを、齋ひ祈らむの意と、誰も思ふ事なれど、さては平久等《タヒラケクト》となくては、言足はず、故(レ)按(フ)に、此は土佐日記に、和泉の國までと平かに願立、とあると同じく、己が心を平にして、丹誠《マコト》を盡して、祈願《コヒネガ》ふ謂《ヨシ》と聞えたり、○好去而は、マサキクテ〔五字右○〕と訓こと、既く委(ク)註り、この二句は、防人に行(ク)夫に、妻の申(ス)意なり、○早還來等《ハヤカヘリコト》は、早く還り來よと、といふなり、○牟世妣都都《ムセビツツ》、(妣(ノ)字、舊本には比と作り、今は古寫小本に從つ、)四(ノ)(389)卷に、言將問縁乃無者情耳咽乍有爾《コトトハムヨシノナケレバコヽロノミムセツヽアルニ》云々、とあり、○言語須禮婆《コトドヒスレバ》、此(ノ)下長歌にも、今日太仁母許等騰比勢牟等《ケフダニモコトドヒセムト》、とあるに同じく、言語《コトドヒ》は、物言(ヒ)語らふなり、○群鳥乃《ムラトリノ》は、枕詞なり、出立《イデタツ》と云に係れり、○等騰己保里《トドコホリ》は、滯《トヾコホリ》なり、本居氏云、等騰《トド》は留《トヾマル》なり、己保里《コホリ》は、凍《コホリ》と同言なり、行水も凍れば、止まればなり、四(ノ)卷に、衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛《コロモテニトリトドコホリナクコニモ》云々、○伊也等保爾《イヤトホニ》云々已下は、二(ノ)卷人麿(ノ)長歌に、彌遠爾里者放奴《イヤトホニサトハサカリヌ》、益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》、とあるによれり、○安之我知流《アシガチル》は、上に見えたり、○伎爲弖《キヰテ》は、來居而《キヰテ》なり、○船乎宇氣須惠《フネヲウケスヱ》は、下にも、奈爾波都爾船乎宇氣須惠《ナニハツニフネヲウケスヱ》、とあり、船を令《ケ》v浮《ウ》居《スヱ》なり、上(ノ)東歌に、美布禰於呂須惠《ミフネオロスヱ》、ともよめり、○倍牟氣許我牟等《ヘムケコガムト》は、舳向《ヘムケ》將《ム》v漕《コガ》となり、上に都久之閇爾敝牟加流布禰乃《ツクシヘニヘムカルフネノ》、とよめり、○佐毛良布等《サモラフト》は、候《サモラ》ふとての意なり(候《サモラフ》は、日和を待候《マチウカヾ》ふを云、既くかた/”\見えて、委(ク)註り、○之麻未《シマミ》(未(ノ)字、舊本に米と作るは誤なり、今は十七に、之麻未《シマミ》とあるに從て改めつ、)は、島廻《シマミ》なり、廻《ミ》の言は、既く委(ク)註り、(略解に、シマミ〔三字右○〕は島方《シマベ》の意なり、浦方《ウラべ》を浦簑《ウラミ》といへるに同じ、といへるは、たがへり、浦箕《ウラミ》、之麻未《シマミ》の未《ミ》は、毛等保里《モトホリ》の切なること、既くいへる如し、又略解に、未《ミ》は末の誤にて、シマヽ〔三字右○〕かといへるも、甚非なり、之麻末《シママ》と云言あることなし、)○悲鳴婆《カナシクナケバ》は、旅路の、心ぼそきに就て、物の音も哀(レ)に憐しく聞なさるゝなり、○波呂波呂爾《ハロバロニ》は、遙々《ハロバロ》になり、○於毛比※[泥/土]《オモヒデ》は、思出《オモヒデ》なり、○於比曾箭《オヒソヤ》は、負征箭《オヒソヤ》なり、和名抄に、唐式(ニ)、諸府衛士、人別(ニ)弓一張、征箭卅隻、征箭(ハ)和名|曾夜《ソヤ》、とあり、○曾與等奈流麻※[泥/土]《ソヨトナルマデ》云々、契冲云、曾(390)箭《ソヤ》といふをうけて、曾與《ソヨ》とはいへり、泣聲の高くひゞくにつけて、背に負たる征矢《ソヤ》も、そよぎてなる、といへり、又さくりあげて泣ば、聲によらねど、背に響て鳴ぬべし、といへり、十二に、左夜深而妹乎念出布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨《サヨフケテイモヲオモヒデシキタヘノマクラモソヨニナゲキツルカモ》、十三長歌に、此床乃比師跡鳴左右嘆鶴鴨《コノトコノヒシトナルマデナゲキツルカモ》、ともよめり、曾與《ソヨ》は戰《ソヨ》ぐ音を謂り、歎息の甚じき義《コヽロ》なり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
4399 宇奈波良爾《ウナハラニ》。霞多奈妣伎《カスミタナビキ》。多頭我禰乃《タヅガネノ》。可奈之伎與比波《カナシキヨヒハ》。久爾弊之於毛保由《クニヘシオモホユ》。
 
久爾弊《クニヘ》は、國方《クニヘ》なり、○歌(ノ)意は、海原に霞たなびきて、物あはれなるに、まして鶴が音のかなしく鳴夜は、いとど心ぼそくて、國方の一(ト)すぢに戀しく思はるゝよ、となり、
 
4400 伊弊於毛負等《イヘオモフト》。伊乎禰受乎禮婆《イヲネズヲレバ》。多頭我奈久《タヅガナク》。安之弊毛美要受《アシヘモミエズ》。波流乃可須美爾《ハルノカスミニ》。
 
歌(ノ)意、家を戀しく思ふとて、夜も寐ずしてのみ居に、春霞の立覆ひて、葦邊さへも見えず、まして、本郷の方をば、見やらむよしのなきことゝ、歎きたるなるべし、
 
右十九日《ミギトヲカマリコヽノカノヒ》。兵部少輔大伴宿禰家持作《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
4401 可良己呂茂《カラコロモ》。須曾爾等里都伎《スソニトリツキ》。奈苦古良乎《ナクコラヲ》。意伎弖曾伎怒也《オキテソキヌヤ》。意母奈之爾(391)志弖《オモナシニシテ》。
 
須曾爾等里都伎《スソニトリツキ》は、四(ノ)卷に、衣手爾取等騰己保里哭兒爾毛益有吾乎置而如何將爲《コロモテニトリトドコホリナクコニモマサレルアレヲオキテイカニセム》、とある如し、○意伎弖曾伎恕也《オキテソキヌヤ》は、置而《オキテ》ぞ來《キ》ぬるよ、といふなり、(置而避《オキテソキ》ぬやにはあらず、)○意母奈之爾志弖《オモナシニシテ》ほ、母無《オモナシ》にしてなり、○歌(ノ)意、此は契冲が云る如く、古良《コラ》は妻を云にあらず、己が小兒を云、意母《オモ》は、其(ノ)兒の母なり、さて作者大島は鰥《ヤモヲ》にて、其(ノ)母の無(ク)して、小兒の己のみを慕ひて、衣の裾に取(リ)附(キ)などするを、家に遺(シ)置て來ぬることの、あはれ悲しや、とよめるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。國造《クニノミヤツコ》。小縣郡《チヒサガタノコホリ》。他田舍人大島《ヲサダノトネリオホシマ》。
 
小縣(ノ)郡、(小(ノ)字、舊本には少と作り、今は元暦本に從つ、)和名抄に、信濃(ノ)國小縣、(知比佐加多《チヒサガタ》、)○他田(ノ)舍人大島は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4402 知波夜布留《チハヤブル》。賀美乃美佐賀爾《カミノミサカニ》。奴佐麻都里《ヌサマツリ》。伊波布伊能知波《イハフイノチハ》。意毛知知我多米《オモチチガタメ》。
 
賀美乃美佐賀《カミノミサカ》は、神之御坂《カミノミサカ》なり、神《カミ》とは、坂路の險阻《サガシ》きを畏みて云、九(ノ)卷は、足柄坂のことを、恐耶神之三坂《カシコキヤカミノミサカ》、とよめるも同じ、本居氏、古事記傳(二十八(ノ)三葉)科野之坂(ノ)神、とある處に云るやう、書紀に、日本武(ノ)尊(ハ)進2入《イリマシヌ》信濃(ニ)1、是(ノ)國也、山高(ク)谷幽(クテ)、翠嶺萬重(ナリ)、人|倚《ツキテ》v杖而難(ク)v升(リ)、巖嶮(ク)※[石+登]紆(リテ)、長峯數千(ナリ)、馬頓v轡而不v進《エユカ》、然(ニ)日本武(ノ)尊、披(キ)v烟(ヲ)陵(キテ)v霧(ヲ)、遙(ニ)徑(リ)2大山(ヲ)1、既逮(リテ)2于峯(ニ)1而飢之、食《ミヲシス》2於山中(ニ)1、山(ノ)神|令《メムトシテ》v苦《クルシ》v王《ミコヲ》、以|化《ナリテ》2白(キ)鹿(ニ)1、(392)立《キタチヌ》2於|王前《ミコノミマヘニ》1云々、とある、此(ノ)坂の事なり、萬葉廿に云々とよめるも、此(ノ)坂なり、此は古(ヘ)の官道《ミヤケミチ》にして、美濃(ノ)國惠奈(ノ)郡より、信濃(ノ)國伊奈(ノ)郡に越る國堺の坂なり、書紀推古天皇(ノ)卷三十五年五月、有v蠅聚集浮v虚(ニ)、以越2信濃(ノ)坂(ヲ)1、鳴音如v雷(ノ)、則東(ノカタ)至(リ)2上野(ノ)國(ニ)1而自散(ス)、齊明天皇(ノ)卷、六年科野(ノ)國言、蠅群(リテ)向v西(ニ)飛踰2巨坂(ヲ)1、大(サ)十圍許、高(ク)至(リキ)2蒼天(ニ)1、日本紀略に、天《縁記略本記》延三年七月廿九日、東國(ノ)民烟爲(ニ)v風多損、信濃(ノ)御坂路壞(レヌ)、などあり、抑々此(ノ)山は、今惠奈が嶽と云て、大山なり、式に、美濃(ノ)國惠奈(ノ)郡惠奈(ノ)神社坂本(ノ)神社あり、坂本は古(ヘ)の驛にして、此(ノ)驛より御坂を越て、信濃(ノ)國伊那(ノ)郡の阿智(ノ)驛に達《トホ》りしなり、いはゆる曾の原|伏屋《フセヤ》などは、御坂を下りて、阿智(ノ)驛に至るまでの間にありとぞ、式に、阿智(ノ)神社も見えたり、後に吉蘇路開けても、中音までは、なほ此(ノ)御坂の道を往來《カヨフ》ことゝなれり、古(ヘ)の御坂の道は、吉蘇路よりは南の方なり、續紀に、大寶二年十二月、始(テ)開2美濃(ノ)國岐蘇山(ノ)道(ヲ)1、和銅六年七月、美濃信濃二國之堺、徑道(ノ)險阻、往還艱難、仍通2吉蘇路(ヲ)1、とあり、徑道險阻云々とは、此(ノ)御坂のことなり、新古今集に、信濃の御坂のかたかきたる繪に、その原と云所に、旅人やどりて立あかしたるところを、藤原(ノ)輔尹(ノ)朝臣云々、今昔物語に、信濃(ノ)守藤原(ノ)陳忠、任畢て上るとて、御坂を越ける時に、馬に乘ながら梯《カケハシ》より深き谷に落入たる事を記せり、これらを見れば、中昔までも、此(ノ)御坂の道を往來《カヨヒ》しこと知られたり、後拾遺集に、爲善(ノ)朝臣、三河(ノ)守にて下り侍りけるに、すのまたと云わたりにおりゐて、信濃(ノ)御坂を見やりてよめる、能因法師、白雲の上より見ゆ(393)るあし引の山の高根や御坂なるらむ、是も此(ノ)御坂なり、然るを後の歌に、木曾御坂をよむより混《マギ》れて、此(レ)らをも、木曾の御坂のことゝ心得たるは、ひがことなり、たゞ御坂といひ、信濃(ノ)御坂といへるは、木曾の御坂にはあらず云々、と見えたり、(これによりて、岐蘇の御坂とする説はひがことなるを知べし、)〔頭註、【三代實録三十六、檢2舊記1。吉蘇小吉蘇兩村、是、惠奈郡繪上郷之地也、和銅六年七月、以2美濃信濃兩國之堺、徑路險隘往還甚難1、仍通2吉蘇路1、】〕〔信濃地名考に、後世古曾部入道、美濃國洲の股におりゐて、白雲のうへの高根とよめるは、古の神の御坂にて、今は野篶ふさがりて、人かよはず、と記せり、】〕○歌(ノ)意、神の御坂に幣帛奉りて、命の長く平安からむ事を、神に齋ひ祈る心は、誰が爲にあらず、母父が爲にこ    
そあれとなり、十七造酒(ノ)歌に、奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍安賀布伊能知毛多我多米爾奈禮《ナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘアガフイノチモタガタメニナレ》、十一に、玉久世清川原身祓爲齋命妹爲《ヤマシロノクセノカハラニミソギシテイハフイノチハイモガタメコソ》、(初二句は、山背久世川原とありしを、誤れるなるべし、)十二に、時風吹飯乃濱爾出居乍贖命者妹之爲社《トキツカゼフケヒノハマニイデヰツヽアガフイノチハイモガタメコソ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主帳《フミヒト》。埴科郡《》。神人部子忍男《ハニシナノコホリカムトベノコオシヲ》。
 
主帳、(帳(ノ)字、舊本に張と作るは誤なり、)契冲、按(フ)に帳の下に、丁(ノ)字脱たる歟、上見るべし、又下には、こゝに同じく丁(ノ)字なし、後の考(ヘ)を待べし、といへり、○埴科(ノ)郡、和名抄に、信濃(ノ)國埴科、(波爾志奈《ハニシナ》)○神人部(ノ)子忍男、忍(ノ)字、元暦本には思と作り、いかゞ)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4403 意保伎美能《オホキミノ》。美己等可之古美《ミコトカシコミ》。阿乎久牟乃《アヲクムノ》。等能妣久夜麻乎《トノビクヤマヲ》。古與弖伎怒加牟《コヨテキヌカム》。
 
(394)阿乎久牟《アヲクム》は、青雲《アヲクモ》なり、抑々青色の雲は無(キ)物なれども、只|大空虚《オホソラ》の蒼く見ゆるを然云なり、と本居氏の云るが如し、さて雲と云より虚空《ソラ》のおしなべてあまねく、蒼く見ゆるを、霏※[雨/微]《タナビク》とも云るなり、十六に、青雲乃田名引日須艮霖曾保零《アヲクモノタナヒクヒスラコサメソホフル》、とあり、○等能妣久《トノビク》(等能、舊本には多奈と作り、其は中々に後人のさかしらに、改めしものとこそおぼゆれ、故(レ)今は元暦本、古寫本、古本、六條本、又異本等に從つるなり、)は、霏※[雨/微]《タナビク》なり、等能《トノ》、多奈《タナ》、親(ク)通へり、多奈雲入《タナグモリ》、等能雲入《トノグモリ》も、集中に通(ハシ)よめり、○古與弖伎怒加牟《コヨテキヌカム》、(與(ノ)字、舊本に江と作る、これも中々に、後人のさかしらに改めしものなるべし、江の訓を假字に用たるも、心ゆかずおぼゆ、故(レ)今は元暦本、古寫本、或校本等に從つるなり、仙覺抄にもコヨテ〔三字右○〕とあり、怒(ノ)字、舊本に恕と作るは誤なり、今は異本に從つ、古寫小本には、怒加を奴可と作り、)越《コエ》て來ぬる哉《カモ》なり、○歌(ノ)意は、勅命にあれば、いなむべくもあらず、畏み奉りて、蒼天につゞける遙の山を越て、さても遠き旅路に來にけること哉、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。小長谷部笠麿《ヲハツセベノカサマロ》。
 
小長谷部(ノ)笠麿(小(ノ)字、舊本には少と作り、今は元暦本、官本等に依つ、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二月二十二日《キサラギノハツカマリフツカノヒ》。信濃國防人部領使《シナヌノクニノサキモリコトリツカヒ》。上道《ミチニテ》得《エテ》v病《ヤマヒヲ》不《ズ》v來《キタラ》。進歌數十二首《タテマツレルウタノカズトヲマリフタツ》。但|拙劣歌九首者《ツタナキウタコヽノツハ》不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
部領使の官位姓名を載ざるは、病によりて、京にのぼらざりし故に、未(ダ)詳ならざりしにや、又(395)は脱たるにもあらむ、○十二首の内三首を取載られたり、○九首の二字、舊本にはなし、拾穂本に從てしるしつ、
 
4404 奈爾波治乎《ナニハヂヲ》。由伎弖久麻弖等《ユキテクマテト》。和藝毛古賀《ワギモコガ》。都氣之非毛我乎《ツケシヒモガヲ》。多延爾氣流可母《タエニケルカモ》。
 
奈爾波治乎《ナニハヂヲ》(乎(ノ)字、古寫小本に爾とあるは、非なり、)は、難波道《ナニハヂ》をなり、○由伎弖久麻弖等《ユキテクマテト》は、往《ユキ》て還《カヘ》り來る迄とての意なり、○非毛我乎《ヒモガヲ》は、紐之緒《ヒモガヲ》なり、○歌(ノ)意は、難波道を歴て、西(ノ)海に趣き、公役竟て家に還(リ)來るまで、斷破れずしてあれとて、家(ノ)妻が堅く製り設て、吾に著し紐の緒の、斷にける哉、これにて見れば、實に月日久しく成にけるが、さても悲しきこと、ゝなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。助丁上毛野牛甘《スケノヨホロカミツケヌノウシカヒ》。
 
凡て此(ノ)上野(ノ)國(ノ)防人(ノ)歌四首共、郡(ノ)名を記さゞるは、いかなる所由にやあらむ、○上毛野(ノ)牛廿は、傳未(ダ)詳ならず、牛廿は、ウシカヒ〔四字右○〕なり、猪甘《ヰカヒ》、鷹甘《タカカヒ》、馬廿《ウマカヒ》など、古書に見えたり、
 
4405 和我伊母古我《ワガイモコガ》。志濃比爾西餘等《シヌヒニセヨト》。都氣志比毛《ツケシヒモ》。伊刀爾奈流等母《イトニナルトモ》。和波等可自等余《ワハトカジトヨ》。
 
和我伊母古《ワガイモコ》は、吾妹子《ワガイモコ》なり、これを雅言に、我伊《ガイ》を約めて藝《ギ》といひならへり、(又元暦本には古を等と作り、妹等といへること、集中に例あれど、此(ノ)歌、等(ノ)字四處に用たる、みなト〔右○〕の假字なれ(396)ば、こゝのみラ〔右○〕とは訓がたくおぼゆ、なほ舊本を正とすべし、)○志濃比爾西餘等《シヌヒニセヨト》は、慕《シヌヒ》に爲《セ》よとにて、吾を戀慕ふたよりに爲よとて、と云意なり、○歌(ノ)意は、愛しき家(ノ)妻が、自《ミラ》を慕ふたよりにせよとて、吾に著て與へし紐なれば、たとひ破はてゝ、絲のみになるとも、吾は解じ物よ、となり、十一に、獨寢等※[草がんむり/交]朽目八方綾席緒爾成及君乎之將待《ヒトリヌトコモクチメヤモアヤムシロヲニナルマデニキミヲシマタム》、意はすこしかはりたれど、似たる歌なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。朝倉益人《アサクラノマスヒト》。
 
朝倉(ノ)益人は、傳未(ダ)詳ならず、倉の下、部(ノ)字など脱歟、朝倉(ノ)君(ノ)姓、續紀等に見えたり、和名抄に、上野(ノ)國那波(ノ)郡朝倉、(阿佐久良《フサクラ》)
 
4406 和我伊波呂爾《ワガイハロニ》。由加毛比等母我《ユカモヒトモガ》。久佐麻久良《クサマクラ》。多妣波久流之等《タビハクルシト》。都氣夜良麻久母《ツゲヤラマクモ》。
 
和我伊波呂爾《ワガイハロニ》は、吾家《ワガイヘ》になり、家《イヘ》を、東言に伊波《イハ》と云こと、上に見えたり、呂《ロ》は助辭なり、○由加毛比等母我《ユカモヒトモガ》は、將《ム》v往《ユカ》人《ヒト》も欲《ガナ》なり、○都氣夜良麻久母《ツゲヤラマクモ》は、將《ム》2告遣《ツゲヤラ》1もにて、此《コ》は告遣(ラ)ましものをの意ときこえたり、上下野(ノ)國(ノ)歌に、美都良乃奈可爾阿敝麻可麻久母《ミツラノナカニアヘマカマクモ》、とある麻久母《マクモ》、考(ヘ)合(ス)べし、○歌(ノ)意、かくれたるところなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴部節麿《オホトモベノフシマロ》。
 
(397)大伴部(ノ)飾麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4407 比奈久母理《ヒナクモリ》。宇須比乃佐可乎《ウスヒノサカヲ》。古延志太爾《コエシダニ》。伊毛賀古比之久《イモガコヒシク》。和須良延奴可母《ワスラエヌカモ》。
 
比奈久母理《ヒナクモリ》は、枕詞なり、比奈《ヒナ》は、奈《ナ》と多《タ》と近《チカ》く通ふ例なれば、純《ヒタ》と云に同じ、久母理《クモリ》は、久具母理《クグモリ》なるべし、(神代紀に、溟※[さんずい+幸]而《クヾモリテ》|含《フヽメリ》牙《キザシヲ》、溟※[さんずい+幸]の字は、水(ノ)貌(ナリ)と字彙にあれど、クグモリ〔四字右○〕と訓るは、なほ水の流れ行むとして、流れあへず、凝滯《トヾコホ》れるやうの貌を云るなるべし、即(チ)徒然草に、いはゆるくゞもり聲の、くゞもりなり、)久具母理《クグモリ》は、許其母理《コゴモリ》と通ひて、流(ル)水の凍《コホリ》てとゞこほれるを云べし、宇須比《ウスヒ》と承《ウケ》たるは、集中に、宇須良比《ウスラヒ》とよめると同意なるべし、されば純溟※[さんずい+幸]薄氷《ヒタクヾモリウスヒ》と云|謂《ヨシ》につゞけるにやあらむ、(契冲、日のくもりて、影のうすき日といふ心に、つゞけたりといへるは、たがへり、もし日の陰《クモ》るよしの詞ならば、たゞにくもり日のなどやうに、いふべきところにこそあれ、)○字須比乃佐可《ウスヒノサカ》、既く出て委(ク)註り、○歌(ノ)意は、わづかに其(ノ)同國の碓日(ノ)坂を越しばかりにてさへも、妹が戀しく思はれて、さても忘られぬこと哉、かくては行末いかばかりにかは、戀しく思はれむ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。他田部子磐前《ヲサダベノコイハサキ》。
 
他田部(ノ)子磐前(他(ノ)字、舊本には池と作り、今は古寫本に從つ、磐(ノ)字、古寫本に盤と作るはよろし(398)からず、元暦本に※[敝/犬]と作るも、おぼつかなし、)は、傳未(ダ)詳ならず、子磐前は、名なるべし、(略解に、子は首の誤かといへれどいかゞ、子忍男《コオシヲ》の類なるべし、
 
二月二十三日《キサラキノハツカマリミカノヒ》。上野國防人部領使《カミツケヌノクニノサキモリコトリツカヒ》。大目正六位下上毛野君駿河《オホキフミヒトオホキムツノクラヰノシモツシナカミツケヌノキミスルガガ》。進歌數十二首※[草がんむり/]《タテマツレルウタノカズトヲマリフタツ》。但|拙劣歌八首者《ツタナキウタヤツハ》不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
上野(ノ)國、上(ノ)字、舊本には下に誤れり、今は目録、元暦本、官本、古寫本、拾穂本、定家卿萬事等に從つ、○上毛野(ノ)君駿河は、傳未(ダ)詳ならず、此(ノ)姓は、續紀に、勝寶二年三月戊戌、賜2中衛員外(ノ)少將從五位下田邊(ノ)史難波等(ニ)、上毛野(ノ)君(ノ)姓(ヲ)1、寶龜八年正月戊午、由邊(ノ)史廣本等五十四人(ニ)、賜2姓上毛野(ノ)公(ヲ)1、延暦十年四月乙未、近衛(ノ)將監從五位下兼常陸(ノ)大掾池原(ノ)公綱主等言、池原上毛野二氏之先、出v自2豐城入彦(ノ)命1、其(ノ)入彦(ノ)命(ノ)子孫、東國六腹(ノ)朝臣、各因2居地(ニ)1、賜v姓(ヲ)命v氏(ヲ)、斯乃古今所v同(キ)、百王不易也、伏望因2居地(ノ)名(ニ)1、蒙2賜住吉(ノ)朝臣(ト)1、勅2綱主兄弟二人(ニ)1、依v請(ニ)賜之、とあり、○十二首の内、四首をとり載られたり、○八首の二字、舊本にはなし、今は拾穗本、古寫本等に從つ、
 
陳《ノブル》2防人悲別之情《キモリノワカレノコヽロヲ》1歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
4408 大王乃《オホキミノ》。麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》。島守爾《サキモリニ》。 和我多知久禮婆《ワガタチクレバ》。波波蘇婆能《ハハソバノ》。波波能美許等波《ハハノミコトハ》。美母乃須蘇《ミモノスソ》。都美安氣可伎奈※[泥/土]《ツミアゲカキナデ》。知知能未乃《チチノミノ》。知知能美許等波《チチノミコトハ》。多久頭怒能《タクヅヌノ》。之良比氣乃宇倍由《シラヒゲノウヘユ》。奈美太多利《ナミダタリ》。奈氣伎乃多婆久《ナゲキノタバク》。可胡自母乃《カコジモノ》。(399)多太比等里之※[氏/一]《タダヒトリシテ》。安佐刀※[泥/土]乃《アサトデノ》。可奈之伎吾子《カナシキアガコ》。安良多麻乃《アラタマノ》。等之能乎奈我久《トシノヲナガク》。安比美受波《アヒミズハ》。古非之久安流倍之《コヒシクアルベシ》。今日太仁母《ケフダニモ》。許等騰比勢武等《コトドヒセムト》。乎之美都都《オシミツツ》。可奈之備伊麻勢《カナシビイマセ》。若草之《ワカグサノ》。都麻母古騰母毛《ツマモコドモモ》。乎知己知爾《ヲチコチニ》。左波爾可久美爲《サハニカクミヰ》。春鳥乃《ハルトリノ》。己惠乃佐麻欲比《コヱノサマヨヒ》。之路多倍乃《シロタヘノ》。蘇※[泥/土]奈伎奴良之《ソデナキヌラシ》。多豆佐波里《タヅサハリ》。和可禮加弖爾等《ワカレカテニト》。比伎等騰米《ヒキトドメ》。之多比之毛能乎《シタヒシモノヲ》。天皇乃《オホキミノ》。美許等可之古美《ミコトカシコミ》。多麻保己乃《タマホコノ》。美知爾出立《ミチニイデタチ》。乎可乃佐伎《ヲカノサキ》。伊多牟流其等爾《イタムルゴトニ》。與呂頭多妣《ヨロヅタビ》。可弊里見之都追《カヘリミシツツ》。波呂波呂爾《ハロバロニ》。和可禮之久禮婆《ワカレシクレバ》。於毛布蘇良《オモフソラ》。夜須久母安良受《ヤスクモアラズ》。古布流蘇良《コフルソラ》。久流之伎毛乃乎《クルシキモノヲ》。宇都世美乃《ウツセミノ》。與能比等奈禮婆《ヨノヒトナレバ》。多麻伎波流《タマキハル》。伊能知母之良受《イノチモシラズ》。海原乃《ウナバラノ》。可之古伎美知乎《カシコキミチヲ》。之麻豆多比《シマヅタヒ》。伊己藝和多利弖《イコギワタリテ》。安里米具利《アリメグリ》。和我久流麻泥爾《ワガクルマデニ》。多比良氣久《タヒラケク》。於夜波伊麻佐禰《オヤハイマサネ》。都都美奈久《ツツミナク》。都麻波麻多世等《ツマハマタセト》。須美乃延能《スミノエノ》。安我須賣可未爾《アガスメカミニ》。奴佐麻都利《ヌサマツリ》。伊能里麻乎之弖《イノリマウシテ》。奈爾波都爾《ナニハツニ》。船乎宇氣須惠《フネヲウケスヱ》。夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》。可古登登能倍弖《カコトトノヘテ》。安佐婢良伎《アサビラキ》。和波己藝※[泥/土]奴等《ワガコギデヌト》。伊弊爾都氣己曾《イヘニツゲコソ》。
 
麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》は、任之隨意《マケノマニ/\》なり、○島守は、サキモリ〔四字右○〕なり、靈異記に、前守《サキモリ》とかけり、前に引り、防人とあるに同じ、○和我多知の和(ノ)字、舊本に、我と作るは誤なり、今は元暦本、拾穗本、古寫小(400)本等に從つ、○波波蘇婆能《ハハソバノ》、知知能未乃《チチノミノ》は、皆枕詞なり、十九に見えたり、○美母乃須蘇《ミモノスソ》云々は、卸裳《ミモ》の裾《スソ》抓擧掻撫《ソツミアゲカキナデ》にて、母の自(ラ)の裳裾をつまみあげて、子《コ》の頭《カシラ》、あるは衣裳を、掻撫(テ)つくろふさまなり、と略解にいへる宜し、母の裳を、子より崇《アガ》めて御裳《ミ》といへるなり、○多久頭怒能《タクヅヌノ》(怒(ノ)字、古寫小本には努と作り、)は、栲綱之《タクヅヌノ》にて、白《シラ》の枕詞なり、○之良比氣乃宇倍由《シラヒゲノウヘユ》は、白鬚《シラヒゲ》の上《ウヘ》にといはむが如し、鬚《ヒゲ》の上に、涙の落懸るよしなり、○奈氣伎乃多婆久《ナゲキノタバク》は、歎《ナゲ》きて宣賜《ノリタマハ》くなり、賜比《タマヒ》を多妣《タビ》、賜布《タマフ》を多夫《タブ》などいへば、賜波久《タマハク》を多婆久《タバク》ともいへり、○可胡自母乃《カコジモノ》は、鹿兒自物《カコジモノ》にて、獨の枕詞なり、○多太比等里之※[氏/一]《タダヒトリシテ》は、唯|獨子《ヒトリゴ》にして、といふ意なるべし、○安佐刀※[泥/土]《アサトデ》は、朝戸出《アサトデ》にて、旅立(ツ)朝を云、○可奈之伎《カナシキ》は、別(レ)の悲しきなり、○許等騰比《コトドヒ》は、言問《コトドヒ》にて、物言(ヒ)交《カハ》す事なり、○可奈之備伊麻世《カナシビイマセ》は、悲み座者《イマセバ》の意なり、(元暦本、拾穗本等に、伊麻世を、麻世婆と作り、此は理(リ)著くて通え易き物から、中々古語のさまにあらず、後のさかしらと聞えたり、)○若草之《ワカグサノ》は、都麻《ツマ》の枕詞なり、○乎知己知爾《ヲチコチニ》は、彼此《ヲチコチ》ににて、かなたこなたに、と云が如し、○佐波爾可久美爲《サハニカクミヰ》は、多《サハ》に圍居《カコミヰ》なり、契冲、第五卷貧窮問答(ノ)歌に、ちゝはゝは、枕のかたに、めこどもは、あとのかたに、か|く《こ本》み居てうれへさまよひ、と山上(ノ)憶良のよまれたるに、ならへりと見ゆ、と云り、○春鳥乃己惠乃佐麻欲比《ハルトリノコヱノサマヨヒ、》は、二(ノ)卷た、春鳥之佐麻欲此奴禮者《ハルトリノサマヨヒヌレバ》、とありて、佐麻欲比《サマヨヒ》の事は、そこに委(ク)註り、遊仙窟にも、沈吟《サマヨヒテ》とあり、此(ノ)所は、春の諸鳥《モヽトリ》の鳴(キ)吟《サマヨ》ふをもて、妻子の別(レ)を悲み、泣(キ)吟ふにいひ(401)つゞけたり、○和可禮加弖爾等《ワカレカテニト》は、難v別(レ)さにといはむが如し、等《ト》は助辭なり、○天皇乃は、大(ノ)字を天に誤れるなるべし、オホキミノ〔五字右○〕と訓べし、其(ノ)謂は既く委(ク)註り、○乎可乃佐伎《ヲカノサキ》、丘岬《ヲカノサキ》なり、之は、前後の例によるに、乃(ノ)字なるべきを、此(ノ)字を用たること心得がたし、後に誤たるにや、○伊多牟流其等爾《イタムルゴトニ》は、伊廻《イタム》る毎になり、伊《イ》は、伊往《イユク》、伊還《イカヘル》の伊《イ》の如し、多牟流《タムル》は、多毛等保流《タモトホル》といふに同じく、廻《メグ》るを云、十一に、崗前多未足道乎人莫通《ヲカノサキタミタルミチヲヒトナカヨヒソ》、とあるは、道の自(ラ)めぐれるを云、今は其を過(ギ)行(ク)人の廻るを云り、○與呂頭多妣《ヨロヅタビ》云々、(妣(ノ)字、舊本には、比と作り、今は官本、古寫小本等に從つ、)二(ノ)卷に、此道乃八十隈毎萬段顧爲騰《コノミチノヤソクマゴトニヨロヅタビカヘリミスレド》、○伊能知母之良受《イノチモシラズ》は、人の命は、いつと定めがたきものなれば、又歸り來て相見むまで、平安《サキ》からむ事のおぼつかなきを、遙々と別(レ)往て、久しく相見ざらむことを歎くなり、古今集離別(ノ)歌に、命だに心にかなふ物ならば何か別(レ)のかなしからまし、○安利米具利《アリメグリ》は、在々《アリ/\》て行(キ)》廻り、の意なり、○和我久流麻泥爾《ワガクルマデニ》は、吾《ワガ》還《カヘ》り來る迄に、の意なり、○麻多世等《マタセト》は、待《マテ》とを延たるにて、待(チ)給へと、といふほどの言なり、○須美乃延能《スミノエノ》云々、住吉(ノ)大神は、海(ノ)上を守護《マモ》り給ふ事、既く委(ク)云たるが如し、されば渡海の平安《サキカラ》む爲に、慇懃《ネモコロ》に、奉幣《ヌサタテマツリ》祈願《イノリゴト》するなり、○麻宇之、校異本に、古(ニ)宇作v乎とあり、○夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》は、八十※[楫+戈]貫《ヤソカヌキ》にて、上に見えたり、○安佐婢良伎《アサビラキ》は、朝開《アサビラキ》にて、朝に發舶《フナダチ》するを云詞なり、既くかたがたに見えたり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
(402)4409 伊弊妣等乃《イヘビトノ》。伊波倍爾可安良牟《イハヘニカアラム》。多比良氣久《タヒラケク》。布奈※[泥/土]波之奴等《》フナデハシヌト。於夜爾麻宇佐禰《オヤニマウサネ》。
 
宇(ノ)字、校異本に、古(ニ)作v乎、とあり、○歌(ノ)意、家人の慇懃《ネモコロ》に神を祭りて齋《イハ》へば、そのしるしにやあらむ、平安《タヒラカ》に發船《フナダチ》はしぬるぞと、いかで父母に告《マウシ》てよかし、となり、
 
4410 美蘇良由久《ミソラユク》。久母母都可比等《クモモツカヒト》。比等波伊倍等《ヒトハイヘド》。伊弊頭刀夜良武《イヘヅトヤラム》。多豆伎之良受母《タヅキシラズモ》。
 
歌(ノ)意は、虚空《ソラ》を歸來《ユキキ》する雲も、即(チ)人の使ぞ、と世(ノ)人はいへども、其(ノ)使すると云雲に屬《ツケ》て、家※[果/衣]《イヘヅト》を贈(リ)遣む爲方の、さてもしられぬ事よ、となり、風雲は二の岸にかよへども、風雲にことはかよへど、なども集中によめり、
 
4411 伊弊都刀爾《イヘヅトニ》。可比曾比里弊流《カヒソヒリヘル》。波麻奈美波《ハマナミハ》。伊也之久之久二《イヤシクシクニ》。多可久與須禮騰《タカクヨスレド》。
 
比里弊流《ヒリヘル》は、拾有《ヒニリヘル》なり、凡て拾《ヒロフ》を、比里布《ヒリフ》と云は古言なり、(元暦本に、里を呂と作るは、中々に後人のさかしらなるべし、)既く委(ク)註り、○波麻奈美《ハマナミ》は、濱浪《ハマナミ》なり、十一にもよめり、○歌(ノ)意は、濱邊《ハマヘ》に、浪は重々《シク/\》に高く打よすれども、家人を思ふ心の切なるによりて、沾《ヌレ》つゝ家※[果/衣]《イヘヅト》に貝を拾へるぞ、となり、
 
(403)4412 之麻可氣爾《シマカゲニ》。和我布爾波弖※[氏/一]《ワガフネハテテ》。都氣也良牟《ツゲヤラム》。都可比乎奈美也《ツカヒヲナミヤ》。古非都都由加牟《コヒツツユカム》。
 
歌(ノ)意、島陰《シマカゲ》に船泊る毎に、平安《タヒラカ》なるよしを、いかで家人に告やらむとはおもへども、其(ノ)使のなき故に、唯本郷を戀しく思ひつゝのみ徃むか、となり、
 
二月二十三日《キサラギノハツカマリミカノヒ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。
 
前後の例によるに、家持の下、作之の二字脱たるならむ、
 
4413 麻久良多知《マクラタチ》。己志爾等里波伎《コシニトリハキ》。麻可奈之伎《マカナシキ》。西呂我馬伎己無《セロガマキコム》。都久乃之良奈久《ツクノシラナク》。
 
麻久良多知《マクラタチ》は、枕刀《マクラタチ》なり、契冲、ものゝふは、寢る時も太刀を枕かみにたてゝぬれば、枕太刀《マクラタチ》とはいへり、と云り、倭建(ノ)命(ノ)御歌にも、登許能辨爾和賀淤岐斯都流岐能多知《トコノベニワガガオキシツルギノタチ》、とよみたまへるも、床の枕がみにおきたまへるをのたまへり、さてかく夜さへ枕がみをはなたねば、晝はさらなり、されば枕《マクラ》と云は、枕がみに置(ク)意より名《ナツケ》て、すべて常に身をはなたぬを、枕刀《マクラタチ》とは云なり、やゝ後ながら、枕雙紙《マクラサウシ》、枕詞《マクラコトバ》など云|枕《マクラ》も、其(ノ)意なるべし、なほ此(ノ)事余が委(キ)考あり、〔頭註、【略解、衣服令衛府云云、其志以上皀縵項巾皀位襖烏油帶烏装横刀、と有て、其以下皆烏装横刀を帶ることゝ見ゆれば、防人は黒漆刀なることしるし、さればまくらたちは、眞黒太刀なりと、翁はいはれき、東山左大臣名目抄、眞漆太刀六位用之、黒眞刀の考、】〕○麻可奈之伎《マカナシキ》は、眞憐《マカナシキ》なり、九(ノ)卷に、大橋之頭爾家有者心悲久獨去兒爾屋戸(404)借申尾《オホハシノツメニイヘアラバマカナシクヒトリユクコニヤドカサマシヲ》、○西呂我馬伎己無《セロガマキコム》は、夫《セ》か罷來《マキコ》むなり、呂《ロ》は助辭なり、罷來《マキコ》むは、任所《マケトコロ》より、罷《マカ》り歸《カヘ》り來《キタ》らむ、の謂《ヨシ》なり、○都久乃之良奈久《ツクノシラナク》は、月之《ツキノ》不《ナク》v知《シラ》、なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。上丁《カミツヨホロ》。那珂郡《ナカノコホリ》。槍前舍人石前之妻《ヒノクマノトネリイハサキガメ》。大伴眞足女《オホトモノマタリ》。
 
那珂(ノ)郡、和名抄に、武藏(ノ)國|那珂《ナカ》、○檜(ノ)前(ノ)舍人石前は、傳未(ダ)詳ならず、續紀に、寶龜元年九月己巳、上總(ノ)國海上(ノ)郡(ノ)人檜(ノ)前(ノ)舍人(ノ)直建麻呂、と云人見ゆ、同姓なり、○眞足女は、妻(ノ)名なり、女(ノ)字、舊本母に誤れり、今は官本、古寫本、古寫小本等に從つ、
 
4414 於保伎美乃《オホキミノ》。美己等可之古美《ミコトカシコミ》。宇都久之氣《ウツクシケ》。麻古我弖波奈禮《マコガテハナレ》。之末豆多比由久《シマヅタヒユク》。
 
宇都久之氣《ウツクシケ》は、愛《ウツク》しきなり、○麻古我弖波奈禮《マコガテハナレ》(禮(ノ)字、古寫本には利と作り、)は、眞子《マコ》が手《テ》離《ハナレ》にて、○眞子《マコ》とは、妻《メ》をいふなるべし、○歌(ノ)意、かくれなし、
右一首《ミギノヒトウタハ》。助丁《スケノヨホロ》。秩父郡《チヽブノコホリ》。大伴部少歳《オホトモベノヲトシ》。
 
秩父(ノ)郡、校異本に、異(ニ)※[ネ+失]作v秩、とあり、※[ネ+失]秩は同字なり、和名抄に、武藏(ノ)國秩父、(知々夫《チヽブ》)とあり、大伴部(ノ)少歳(少(ノ)字、古寫本には小と作り、)は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4415 志良多麻乎《シラタマヲ》。弖爾刀里母之弖《テニトリモシテ》。美流乃須母《ミルノスモ》。伊弊奈流伊母乎《イヘナルイモヲ》。麻多美弖毛也母《マタミテモヤモ》。
 
(405)弖爾弖里母之弖《テニトリモシテ》は、手《テ》に取持《トリモチ》てなり、(之、元暦本に、知とあるぞよき、と略解にいへるは、いみじきひがことなり、其は知とあるかた、中々にさかしらとこそおもはるれ、いかにとなれば、東語の例にて、知《チ》を之《シ》といへること、いと多かること、前後を考(ヘ)合て知べし、)此(ノ)下にも、鍼持《ハリモチ》を波流母之《ハルモシ》とよめり、○美流乃須母《ミルノスモ》は、如《ナス》v見《ミル》もなり、○麻多美弖母也母《マタミテモヤモ》は、(也母を、舊本に母也とあるは、倒に寫しあやまれるものなり、今は契冲(ノ)考によりて改めつ、)又《マタ》將《ム》v見《ミテ》哉《ヤ》もにて、也《ヤ》は也波《ヤハ》の也《ヤ》、母《モ》は嘆息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主帳《フミヒト》。荏原郡《エハラノコホリ》。物部歳徳《モノヽベノトシトコ》。
 
主帳、(帳(ノ)字、舊本に張と作るは誤なり、今は元暦本に從つ、)上にも、此《コヽ》と同じく主張とのみあり、共に丁(ノ)字の落たるもの歟、○荏原(ノ)郡、和名抄に武藏(ノ)國荏原、(江波良《エハラ》)○物部(ノ)歳徳は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4416 久佐麻久良《クサマクラ》。多比由久世奈我《タビユクセナガ》。麻流禰世婆《マルネセバ》。伊波奈流和禮波《イハナルワレハ》。比毛等加受禰牟《ヒモトカズネム》。
 
麻流禰世婆《マルネセバ》は、丸寢爲者《マルネセバ》なり、丸寢《マルネ》は、獨寢《ヒトリネ》の形《サマ》なり、麻呂《マロ》を麻流《マル》といふも、東語なるぺし、此(ノ)下にも見ゆ、○伊波奈流和禮波《イハナルワレハ》は、家《イヘ》に在吾者《アルワレハ》なり、○歌(ノ)意、かくれなし、夫《ヲ》歳徳が歌に答へたるなり、
 
(406)右一首《ミギノヒトウタハ》。妻椋椅部刀自賣《メクラハシベノトジメ》。
 
椋椅部(ノ)刀自賣は、傳未(ダ)詳ならず、椋椅部、姓氏録に見ゆ、倉橋部と書るに同じ、續紀に、景雲二年五月辛未、信濃(ノ)國水内(ノ)郡(ノ)人倉橋部(ノ)廣人、と云見えたり、和名抄に、上總(ノ)國海上(ノ)郡倉橋、(久良波之《クラハシ》とあり、
 
4417 阿加胡麻乎《アカゴマヲ》。夜麻努爾波賀志《ヤマヌニハカシ》。刀里加爾弖《トリカニテ》。多麻乃余許夜麻《タマノヨコヤマ》。加志由加也良牟《カシユカヤラム》。
 
阿加胡麻《アカゴマ》は、赤駒《アカゴマ》なり、○夜麻努爾波賀志《ヤマヌニハカシ》は、山野に令《シ》v放《ハナ》なり、上に美知乃倍乃宇萬良能宇禮爾波保麻米乃可良麻流伎美乎波可禮加由加牟《ミチノベノウマラノウレニハホマメノカラマルキミヲハカレカユカム》、とあるも、放《ハナ》れか行《ユカ》むときこえたり、○刀里加爾弖《トリカニテ》は、不2得《カニ》捕《トリ》1而《テ》なり、○多麻乃余許夜麻《タマノヨコヤマ》は、略解に、多摩(ノ)郡の多摩川の上に、今横山村といふ有て、其(ノ)あたり川に傍て、今道一里許つゞける山ありて、横山といふと云う、十四に、麻欲婢吉能與許夜麻敝呂《マヨビキノヨコヤマヘロ》、とよめるは、何處にまれ、たゞ横に連ける山にて、今の歌とは別なり、○加志由加也良牟《カシユカヤラム》は、從《ユ》v歩《カチ》歟《カ》將《ム》v遣《ヤラ》なり、(是をも略解に、志は知の誤れるかといへるは、非なり、)歩にて行しめむ歟、の意なり、○歌(ノ)意、本居氏、此は常に飼たる馬を、野山に放《ハナ》ちおきて、早速《スミヤカ》に捕へかねて、此(ノ)度|夫《ヲ》の旅行の間にあはず、馬はありながら、歩にてやらむことか、と歎くなり、多麻《タマ》の横山《ヨコヤマ》は、夫のこえてゆく山なり、と云り、
 
(407)右一首《ミギノヒトウタハ》。豐島郡上丁《トヨシマノコホリノカミツヨホロ》。椋椅部荒虫之妻宇遲部黒女《クラハシベノアラムシガメウヂベノクロメ》。
 
豐島(ノ)郡、和名抄に、武藏(ノ)國豐島、(止志末《トシマ》)○荒虫黒女、(黒(ノ)字完暦本には里と作り、)並に傳未(ダ)詳ならず、
 
4418 和我可度乃《ワガカドノ》。可多夜麻都婆伎《カタヤマツバキ》。麻己等奈禮《マコトナレ》。和我弖布禮奈奈《ワガテフレナナ》。都知爾於知母可毛《ツチニオチモカモ》。
 
可多夜麻都婆伎《カタヤマツバキ》は、傍山椿《カタヤマツバキ》なり、傍山《カタヤマ》は、顯宗天皇(ノ)紀に、脚日木此傍山顯《アシヒキノコノカタヤマ》、といひ、集中十二に、足檜木乃片山雉《アシヒキノカタヤマキヾシ》、などいへる傍山《カタヤマ》に同じ、廣足が家、山片就《ヤマカタツキ》て、門前に間近く椿のあるをいへるなるべし、(契冲が、かた山よりほりうゑし、吾門の椿なり、と云るは、いかゞなり、)○麻己等奈禮《マコトナレ》は、實《マコト》に汝《ナレ》なり、○和我弖布禮奈奈《ワガテフレナナ》は、吾手《ワガテ》不《ナク》v觸《フレ》と云なり、すべて東歌に奈奈《ナナ》といへるは、皆|不《ナク》と云に同じ、○都知爾於知母可毛《ツチニオチモカモ》は、地《ツチ》に將《ム》v墮《オチ》歟《カ》もなり、○歌(ノ)意、契冲、妻の色よきを、椿にたとへて、まことに汝、わが手觸ぬ間に、地におちむや、今やがて歸り來て、手折むをまて、となり、といへり、今按(フ)に、此はちぎりて、未(ダ)娶《メト》らざる女をいへるにて、契(リ)をばかはせる物から、遠く別れ居て、未(ダ)わが手觸ぬ間に、汝實におちぶれなむか、さても心がゝりや、と別(レ)に臨て、うしろめたく憐みたるなるべし、可毛《カモ》といへるに、心を附て考べし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。荏原郡上丁《エハラノコホリノカミツヨホロ》。物部廣足《モノヽベノヒロタリ》。
 
(408)荏(ノ)字、舊本※[草がんむり/住]に誤れり、○物部(ノ)廣足(足(ノ)字、元暦本に之と作るは、いがゞ、)は、傳未(ダ)詳ならず、續紀に、文武天皇二年五月丁丑、韓國(ノ)連廣足、天平三年正月丙子、物部(ノ)韓國(ノ)連廣足、又四年十月下亥(ノ)條、にも見ゆ、これは同名異人なるべし、
 
4419 伊波呂爾波《イハロニハ》。安之布多氣騰母《アシフタケドモ》。須美與氣乎《スミヨケヲ》。都久之爾伊多里※[氏/一]《ツクシニイタリテ》。古布志氣毛波母《コフシケモハモ》。
 
伊波呂爾波《イハロニハ》は、家《イヘ》に者《ハ》なり、呂《ロ》は助辭なり、○安之布《アシフ》は、葦火《アシヒ》なり、十一に、難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許増常目頬次吉《ナニハヒトアシビタクヤノスシタレドオノガツマコソツネメヅラシキ》、○須美與氣乎《スミヨケヲ》は、住吉《スミヨキ》をなり、○古布志氣毛波母《コフシケモハモ》は、戀《コヒ》しく將《ム》v思《オモハ》なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)家にては、葦火燒ていぶせくはあれども、猶住よくおもはるゝを、遠く筑紫に別れ往なば、いかばかりか戀しくのみ思はむ、と自(ラ)別れがたく思ふ意を、含ませたるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。橘樹郡上丁《タチバナノコホリノカミツヨホロ》。物部眞根《モノヽベノマネ》。
 
橘樹(ノ)郡、和名抄に、武藏國橘樹、(太知波奈《タチバナ》)○物部(ノ)眞根は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4420 久佐麻久良《クサマクラ》。多妣乃麻流禰乃《タビノマルネノ》。比毛多要婆《ヒモタエバ》。安我弖等都氣呂《アガテトツケロ》。許禮乃波流母志《コレノハルモシ》。
 
安我弖等却氣呂《アガテトツケロ》は、吾手《》アガテと思てつけよ、といふなり、十一に、此枕吾等念而枕手左宿座《》コノマクラアレトオモヒテマキテサネマセ、とよめ(409)るに似たり、○許禮乃波流母志《コレノハルモシ》は、此之鍼持《コレノハリモチ》なり、許禮乃《コレノ》は、許乃《コノ》と云に同じ、既く三(ノ)卷に、神左備居賀許禮能水島《カムサビマスカコレノミヅシマ》、とある歌に、例等を引て註り、母之《モシ》は、この上に例あり、○歌(ノ)意、旅中の獨宿に、若(シ)衣の紐の破《ヤレ》て斷なば、此(ノ)鍼を持て、吾(ガ)手と思食て附ませ、となり、十二に、針者有杼妹之無者將著哉跡吾乎令煩絶紐之緒《ハリハアレドイモガナケレバツケメヤトアレヲナヤマシタユルヒモガヲ》、十八に、久佐麻久良多比能於伎奈等於母保之天波里曾多麻敝流奴波牟物能毛賀《クサマクラタビノオキナトオモホシテハリソタマタマヘルヌハムモノモガ》、今の歌は、眞根が歌に、妻がこたへてよめるなり、契冲云、此(ノ)歌ことばは、今にかなはねど、心のあはれなる歌なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。妻《メ》。椋椅部弟女《クラハシベノオトメ》。
 
椋椅部(ノ)弟女は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4421 和我由伎乃《ワガユキノ》。伊伎都久之可婆《イキヅクシカバ》。安之我良乃《アシガラノ》。美禰波保久毛乎《ミネハホクモヲ》。美等登志怒波禰《ミトトシヌハネ》。
 
和我由伎乃《ワガユキノ》は、吾行之《ワガユキノ》にて、旅行を云り、○伊伎都久之可婆《イキヅクシカバ》は、息衝《イキヅカ》しから者《バ》なり、吾(ガ)旅行し後、息衝しく戀しく思はゞの意なり、○美禰波保久毛乎《ミネハホクモヲ》は、峯蔓雲《ミネハフクモ》をなり、峯づたひにたなびく雲は、葛《カヅラ》などの蔓に同じ、○美等登志怒波禰《ミトトシヌハネ》(怒(ノ)字、古寫小本には努と作り、)は、見乍賞《ミツヽシヌ》はねなり、○歌(ノ)意、吾(ガ)旅行の久しきがゆゑに、汝(ガ)息衝しきまで戀しく思はゞ、いかで足柄《アシガラ》山の峯にはふ雲を見|賞《メデ》つゝ、心を和《ナゴ》めてよかし、戀しく思はむは、理なれど、あまりにいたく戀情に苦しみ(410)て、身も疲勞《ツカレ》たらむには、中々に行末おぼつかなかるべし、よくして心を慰《ナグサ》めつゝ、平安《サキク》ありて、吾(ガ)還り來むほどを待てよ、となり、上に、阿我母弖能和須例母之太波都久波尼乎布利佐氣美都々伊母波之奴波尼《アガモテノワスレモシダハツクハネヲフリサケミツヽイモハシヌハネ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。都筑郡上丁《ツヽキノコホリノカミツヨホロ》。服部於田《ハトリベノオユ》。
 
都筑(ノ)郡、和名抄に、武藏(ノ)國都筑、(豆々伎《ツヽキ》)○服部(ノ)於田は傳未(ダ)詳ならず、略解云、田は由の誤か、老《オユ》といへる名、此(ノ)ごろ多し、
 
4422 和我世奈乎《ワガセナヲ》。都久之倍夜里弖《ツクシヘヤリテ》。宇都久之美《ウツクシミ》。於妣波等可奈奈《オビハトカナナ》。阿也爾加母禰毛《アヤニカモネモ》。
 
和我世奈乎《ワガセナヲ》は、吾夫名《ワガセナ》をなり、名《ナ》は親(ミ)辭なり、○宇都久之美《ウツクシミ》は、愛《ウツク》しく思ふ故にの意なり、○於妣波等可奈奈《オビハトカナナ》は、帶者《オビハ》不《ナク》v解《トカ》なり、○阿也爾加母禰毛《アヤニカモネモ》は、文《アヤ》に歟《カ》も將《ム》v寢《ネ》なり、文《アヤ》には、文《アヤ》に貴《タフトク》、文《アヤ》に悲しくなどの文《アヤ》にて、奇《アヤ》しきまでに、と云意の詞なり、(略解に、この阿也爾《アヤニ》を、歎く詞とせるは、大《イミ》じき誤なり、既く委(ク)辨(ヘ)云り、)こゝは奇しきまでに、戀しく思ひつゝ將《ム》v寢《ネ》歟《カ》の意なり、○歌(ノ)意、吾(ガ)夫名《セナ》を筑紫へ遣て、其をいとほしく愛しく思ふが故に、夜も帶を解ずして、奇しきまでに、戀しく思ひつゝ寢むか、さても慕はしや、となり、此は夫《ヲ》の於由《オユ》の歌に答へてよめるなり、○此(ノ)歌、下に昔年防人(ノ)歌の中に重出《フタヽビイデ》たり、但し彼處には、都久之倍《ツクシヘ》を都久志波《ツクシハ》といひ、於妣《オビ》を叡(411)比《エビ》といひ、禰毛《ネモ》を禰牟《ネム》といへるのみを異《カハ》れりとす、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。妻服部呰女《メハトリベノアタメ》。
 
服部(ノ)呰女は、傳未(ダ)詳ならず、呰女、アタメ〔三字右○〕なるべし、和名抄に、備中(ノ)國英賀(ノ)郡呰部、(安多《アタ》)參河(ノ)國碧海(ノ)郡|呰見《アタミ》、などあり。
 
4423 安之我良乃《アシガラノ》。美佐可爾多志弖《ミサカニタシテ》。蘇※[泥/土]布良波《ソデフラバ》。伊波奈流伊毛波《イハナルイモハ》。佐夜爾美毛可母《サヤニミモカモ》。
 
美佐可爾多志弖《ミサカニタシテ》は、御坂《ミサカ》に立而《タチテ》なり、(略解に、これらの志を、ことごとく知の誤か、といへるは、東語のやうをしらざりしなるべし、)○伊波奈流伊毛波《イハナルイモハ》は、家《イヘ》に在《アル》妹者《イモハ》なり、○佐夜爾美毛可母《サヤニミモカモ》は、清《サヤ》に將《ム》v見《ミ》歟《カ》もにて、清《サヤ》には明《アキラカ》にといふが如し、可《カ》は、疑(ノ)辭、母《モ》は歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、これも妻におくれるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。埼玉郡上丁《サキタマノコホリノカミツヨホロ》。藤原部等母麿《フヂハラベノトモマロ》。
 
埼玉(ノ)郡、和名抄に、武藏(ノ)國埼玉、(佐伊太未《サイタマ》)とあれど、集中に、佐吉多萬《サキタマ》とあるぞ、古(ヘ)の稱なる、○藤原部(ノ)等母麿は、傳未(ダ)詳ならず、
 
4424 伊呂夫可久《イロブカク》。世奈我許呂母波《セナガコロモハ》。曾米麻之乎《ソメマシヲ》。美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》。麻佐夜可爾美無《マサヤカニミム》。
 
(412)多婆良婆《タバラバ》は、本居氏云、此(ノ)上に、美佐可多麻波理《ミサカタマハリ》、とあると同じくて、まはらばなり、賜はるをも、たばるとも云、これと同じ例言なり、○麻佐夜可《マサヤカ》は、眞清《マサヤカ》なり、○歌(ノ)意は、夫(ノ)君の衣を、かねて色深く染てあるべかりしものを、さらば足柄(ノ)御坂に立て振(リ)給はむ袖を、明白《アキラカ》に見べきに、と日ごろさる心しらひもせざりしを、今更悔しむなり、右の歌の答(ヘ)なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。妻物部刀自賣《メモノヽベノトジメ》。
 
物部(ノ)刀自賣は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二月二十|幾〔○で囲む〕日《キサラギノハツカマリイクカノヒ》。武藏國部領防人使《ムザシノクニノコトリサキモリツカヒ》。掾正六位上安曇宿禰三國《マツリゴトヒトオホキムツノクラヰノカミツシナアヅミノスクネミクニガ》。進歌數二十首《タテマツレルウタノカズハタチ》。但|拙劣歌八首者《ツタナキウタヤツハ》不《ズ》2取載《アゲ》1之。
 
二十の下、字の脱たるなるべし、これよりさきに、廿三日の歌あればなり、○三國は、續紀に、廢帝寶字八年十月庚午、正六位上安曇(ノ)宿禰三國(ニ)授2從五位下(ヲ)1、と見ゆ、○二十首の内、十二首をとり載られたり、○八首の二字、舊本にはなし、拾穗本に從てしるしつ、
 
4425 佐伎母利爾《サキモリニ》。由久波多我世登《ユクハタガセト》。刀布比登乎《トフヒトヲ》。美流我登毛之佐《ミルガトモシサ》。毛乃母比毛世受《モノモヒモセズ》。
 
美流我登毛之佐《ミルガトモシサ》は、見之羨《ミルガウラヤマ》しさ、といはむが如し、凡て羨《ウラヤマ》しきことを、乏《トモ》しきといへること、集中にいくらもある詞なり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)夫(ノ)君の、防人にさゝれて發(デ)行を見て、あれは何處《イヅク》の誰(413)が夫ぞと、路行(キ)人などの、何の物思ひ氣《ゲ》もなしに問(フ)を見るが、羨《ウラヤマ》しさ、たとへていはむやうなし、となり、防人の發(ツ)時は、親族兄弟皆出て、路まで見送ることなれば、路行人などの見て、彼は誰ぞなど云て、さだするを見て、防人の妻のよめるなるべし、
 
4426 阿米都之乃《アメツシノ》。可未爾奴佐於伎《カミニヌサオキ》。伊波比都都《イハヒツツ》。伊麻世和我世奈《イマセワガセナ》。阿禮乎之毛波婆《アレヲシモハバ》。
 
阿米都之《アメツシ》は、天地《アメツチ》なり、上にも見えたり、凡て東語に知《チ》を之《シ》と通はし云る例既く云り、(略解に、都之は、都々の誤か、又は之は、知の誤か、といへるは、大《イミ》じき誤なり、)○可未爾奴佐於伎《カミニヌサオキ》(未(ノ)字、古寫本には米と作り、東言に、神を可米《カメ》ともいひしか、十四に、神に負せむを、加米爾於保世牟《カメニオホセム》、とあるをも思(フ)べし、されどなほ舊本を用べし、)は、幣帛《ヌサ》を置座《オキクラ》に居(ヱ)置て、神祇に奉る謂《ヨシ》なり、三(ノ)卷に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不離相見染跡衣《サホスギテナラノタムケニオクヌサハイモヲメカレズアヒミシメトソ》、とあるに同じ、○阿禮乎之毛波婆《アレヲシモハバ》は、吾を一(ト)すぢに深く思はゞの謂なり、之《シ》は、其(ノ)一(ト)すぢなるを、おもく思はする助辭なり、○歌(ノ)意は、吾を一(ト)すぢに深く愛しく思ひ給はゞ、天神地祇に幣帛奉りて、齋ひ祈りつゝ、吾(ガ)爲に平安《サキ》くはし座(セ)、吾(ガ)夫(ノ)君よ、となり、これも防人(ノ)妻の歌なり、
 
4427 伊波乃伊毛呂《イハノイモロ》。和乎之乃布良之《ワヲシノフラシ》。麻由須比爾《マユスビニ》。由須比之比毛乃《ユスビイシヒモノ》。登久良久毛倍婆《トクラクモヘバ》。
 
(414)伊波乃伊毛呂《イハノイモロ》は、家之妹《イヘ)イモ》なり、呂《ロ》は、例の助辭なり、○麻由須比爾《マユスビニ》は、眞結《マムスビ》になり、○登久良久毛倍婆《トクラクモヘバ》は、解《トク》るやうを思へば、と云意なり、良久《ラク》は、留《ル》の伸りたる辭なり、○歌(ノ)意は、眞結に結び堅めし吾(ガ)紐の、自(ラ)に解るやうを思へば、吾家の妹を戀しく思ふ如く、妹も吾を戀慕ふらし、となり、すべて、人に戀しく思はるれば、紐の自解るといふ諺の古(ヘ)ありし故に、かくよめるなり、
 
4428 和我世奈乎《ワガセナヲ》。都久志波夜利弖《ツクシハヤリテ》。宇都久之美《ウツクシミ》。叡比波登加奈奈《エビハトカナナ》。阿夜爾可毛禰牟《アヤニカモネム》。
 
都久志波《ツクシハ》は、筑紫《ツクシ》へなり、○叡比《エビ》は、帶《オビ》なり、校異本に、叡異(ニ)作v於、とあり、○此(ノ)歌、上に出て、既く註り、
 
4429 宇麻夜奈流《ウマヤナル》。奈波多都古麻乃《ナハタツコマノ》。於久流我弁《オクルガヘ》。伊毛我伊比之乎《イモガイヒシヲ》。於伎弖可奈之毛《オキテカナシモ》。
 
宇麻夜奈流《ウマヤナル》は、厩《ウマヤ》に在《アル》なり、厩に繋《ツナ》ぎ養《カヘ》るを云、○奈波多都古麻乃《ナハタツコマノ》は、繩斷駒之《ナハタツコマノ》なり、(拾遺集に、平(ノ)貞文、引よせばたゞにはよらで春駒の綱引するぞ繩斷《ナハタツ》ときく、)繋げる駒の繩を斷(チ)切(リ)て、主の行し跡を慕ひて駈(ケ)出るは、早き物なれば、後れず追(ヒ)及(ク)ことの譬にいへり、○於久流我弁《オクルガヘ》は、將《ム》v後《オクレ》やは、といふ意の東語なり、(略解に、十四に、かみつけのさのゝふなはしとりはなしおやはさくれどわは左可禮賀倍《サカレガヘ》、又、わがまづまひとはさくれどあさがほのとしさへこゞとわ(415)はさかる我倍《ガヘ、といへるは、我《ワレ》はさからねといふを、延轉して、吾は放らむや、さからず、と返る詞なり、今も是と同じく、おくるがへは、後れむや、といふ詞なり、といへる、畢竟は同意にて違はねども、延轉して云々といふこと解えがたし、こは東の方言にて、さからむやはと云意の言を、さかるがへ、おくれむとはと云意の言を、おくるがへと云ことなれば、其(ノ)然云本の意は、尋ぬべきことにあらざるをや、)さて此(ノ)詞の下に、等《ト》の辭を姑(ク)加へて意得べし、○歌(ノ)意は、防人に出(デ)發(ツ)時に、その妻の慕ひ惜みて、吾も後(レ)むやは後れはせじ、繩斷て駈(ケ)出る駒の、主《アルジ》を慕ふ如く、追(ヒ)及(キ)て、共に行むと、泣々いひつるを、遺し置て來ぬるが、さても悲しや、となり、
 
4430 阿良之乎乃《アラシヲノ》。伊乎佐太波佐美《イヲサダハサミ》。牟可比多知《ムカヒタチ》。可奈流麻之都美《カナルマシヅミ》。伊※[泥/土]弖登阿我久流《イデテトアガクル》。
 
阿良之乎《アラシヲ》は、荒男《アラシヲ》なり、上に見えたり、○伊乎佐太波佐美《イヲサダハサミ》は、伊《イ》は例のそへことばにて、小箭手挾《ヲサタバサミ》なるべし、小《ヲ》は、小琴《ヲゴト》、小笛《ヲフエ》などの小《ヲ》に同じく、これもそへたる辭なり、(小《チヒサ》き義《コヽロ》にはあらず、)箭を佐《サ》と云事は、十三に、投箭《ナグルサ》とある處に委(ク)註り、(諸説、伊乎佐《イヲサ》を五百矢とするはたがへり、五百は假字|伊保《イホ》なればなり、又五百の矢を手挾むことは、千手觀音ならでは、かなふまじきことぞ、と本居氏の云るが如し、)手挾《タハサミ》は、多婆佐美《タバサミ》と(多《タ》を清(ミ)婆《バ》を濁りて、)唱ふべきを、上より連(ク)便によりて、下の濁音を上に轉《ウツ》す、古言の一(ノ)格にて、十九に、夜久太知爾《ヨクダチニ》といふべきを、夜具多知爾《ヨグタチニ》(416)とよみ、馬多藝行弖《ウマタギユキテ》といふべきを、馬太伎由吉弖《ウマダキユキテ》、とよめるなど是なり、○牟可比多知《ムカヒタチ》は、向立《ムカヒタチ》なり、一(ノ)卷に、大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見爾潔之《マスラヲガサツヤタバサミタチムカヒイルマトカタハミルニサヤケシ》、此《コヽ》にいへるは、猪鹿に向ひて立(ツ)意なり、○可奈流麻之都美《カナルマシヅミ》は、可奈流麻《カナルマ》といふ言(ノ)義は通《キコ》え難けれど、矢を放つ間をいふ言なるべし、(岡部氏は、かなる間は、かなぐり放つ間なり、と云り、)さて獵人の鳥獣を射るには、見驚むことを恐れて、氣息を屏《ヲサ》めて、しのび/\にねらひて引放つ故に、可奈流間《カナルマ》を鎭《シヅ》み、とはいふなるべし、十四に、安思我良能乎※[氏/一]毛計乃毎爾佐須和奈乃可奈流麻之豆美許呂安禮比毛等久《アシガラノヲテモコノモニサスワナノカナルマシヅミコロアレヒモトク》、とあるも、羂《ワナ》のあやつりの弛《ハヅ》るゝ間を、氣息をしづめて、ひそかに獵人の伺ひ居るをいふなるべし、さて今の歌は、本は鎭《シヅミ》をいはむ料に、設けて云る序なるべし、○伊※[泥/土]弖登阿我久流《イデテトアガケル》は、出而曾吾來《イデテソアガクル》、といはむが如し、(略解に、※[泥/土]泥は、デ〔右○〕の濁音とネ〔右○〕とに通し用ふれば、イネテ〔三字右○〕と訓べし、出てにては、ことりりわろし、といへるは、中々にわろし、※[泥/土]をネ〔右○〕の假字に用ひたること、集中に例なければ、ひがことなり、又登は、曾の草書を誤れるならむ、といへるも誤なり、此は上にも云る如く、蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》、などいへる登《ト》に同じく、曾《ゾ》に似て輕き辭なり、但(シ)今の歌は、曾《ゾ》としてよく聞ゆることなれど、登《ト》と云るは、東人の歌なればなり、)○歌(ノ)意は、獵人の猪鹿を射る時、氣息をしづめて、ねらひよりて射放つごとく、別れの悲しさに、心のむせかへるをも、取みださずして、氣息を鎭めて、吾は發(チ)出てぞ行なる、となり、四(ノ)卷に、珠衣乃狹藍左謂沈家妹(417)爾物不語來而思金津裳《アリキヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキニテオモヒカネツモ》、
 
4431 佐左賀波乃《ササガハノ》。佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》。奈奈弁加流《ナナヘカル》。去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》。古侶賀波太波毛《コロガハダハモ》。
 
佐左賀波乃佐也久《ササガハノサヤク》は、小竹之葉之鳴動《サヽガハノサヤク》なり、佐也久《サヤク》は、風に動きて、佐也佐也《サヤサヤ》と鳴(ル)音を云、二(ノ)卷人麿(ノ)歌に、小竹之葉者三山毛清爾亂友《サヽガハハミヤマモサヤニサヤケドモ》云々、古今集俳諧(ノ)歌に、さかしらに、夏は人まね小竹の葉の佐也久霜夜《サヤクシモヨ》を吾(ガ)獨宿(ル)、とあるは、今の歌をとれるなるべし、○志毛用《シモヨ》、類聚抄には、志毛由《シモユ》とあり、夜《ヨ》を、東言に由《ユ》ともいひしなり、○奈奈弁加流《ナナヘカル》は、契冲、七重著《ナヽヘケ》るなり、といへり、今按(フ)に、さきの東歌に、辭の家理《ケリ》を迦里《カリ》とよめり、これに准(ヘ)考(ル)るに、加流《カル》も家流《ケル》に通ひて、著有《ケル》なるべし、)家流《ケル》は、著《キ》けるなり、古語にあまた見えたり、)さて七重《ナヽヘ》と云るは、多く著重ぬるよしなり、上に、夜都伎可佐禰弖《ヤツキカサネテ》、とよめる類なり、○去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》は、衣《コロモ》に益有《マサレル》なり、(益りて有といふ意なり、マサル〔三字右○〕と云とは異なり、マサル〔三字右○〕を通はして、マセル〔三字右○〕と云るにあらず、)佐禮《サレ》の切|世《セ》となれり、○古侶賀波太波毛《コロガハダハモ》は、子《コ》が膚《ハダ》はもなり、子《コ》とは、妻をさす、波毛《ハモ》は、尋ね慕ふ意の辭なり、○歌(ノ)意は、其寒き霜夜に、七重襲著《ナヽヘカサネキ》て寐る衣にも益りて、暖かなる妻が柔膚《ニギハダ》はも、いづらや、と旅に別れ居て尋ね慕ふよしなり、上に、多妣己呂母夜都伎可佐禰弖伊努禮等母奈保波太佐牟志伊母爾志阿良禰婆《タビコロモヤツキカサネテイヌレドモナホハダサムシイモニシアラネバ》、四(ノ)卷に、蒸被奈胡也我下丹雖臥妹不宿肌之寒霜《ムシフスマナゴヤガシタニフセレドモイモトシネヽバハダシサムシモ》、皆考(ヘ)合(ス)べし、
 
(418)4432 佐弁奈弁奴《サヘナヘヌ》。美許登爾阿禮婆《ミコトニアレバ》。可奈之伊毛我《カナシイモガ》。多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》。阿夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》。
 
佐弁奈弁奴《サヘナヘヌ》は、不《ヌ》v敢《アヘ》v障《サヘ》なり、勅命《オホミコト》なれば、辭《イナ》み障《サ》ふべきにあらぬを云、○美許登《ミコト》は、勅命《オホミコト》なり、○阿夜許可奈之毛《アヤニカナシモ》は、奇しきまでに、さても悲しやの謂なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右八首《ミギノヤウタハ》。昔年防人歌《サキツトシノサキモリノウタナリ》矣。主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君《》フミヒトウタヘノツカサノスナキフミヒトオホキナヽツノクラヰノカミツシナイハレノイミキモロキミガ。抄寫《カキツケテ》贈《オクレリ》2兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチニ》1。
主典は、和名抄に、佐官、本朝職員令二方品員等(ノ)所v載云云、勘解由(ニ)曰2主典(ト)1云々、(皆|佐《サ》官、)とあれど、其は中古よりこのかたの唱にて、すべて諸官の主典を、フミヒト〔四字右○〕と云(フ)ぞ古(ヘ)の稱なる、(佐官といふは、いかなるよしにか、いぶかしきよし、本居氏も既く云るが如し、さて又これをさうくわむともいふは、佐《サ》を音便にさうと呼るものなり、梅干《ウメボシ》をウメボウシ〔五字右○〕、牡丹《ボタム》をボウタム〔四字右○〕と云類なり、〉繼體天皇(ノ)紀に、録史《フムヒト》、天武天皇(ノ)紀に、録史《フムヒト》、録事《フムコト》、孝徳天皇(ノ)紀、持統天皇(ノ)紀に、主典《フムヒト》、孝徳天皇(ノ)紀に、主帳《フムヒト》、持統天皇(ノ)紀に、目《フムヒト》などあるは、古(ヘ)の訓のまゝなり、さて此に主典と云るは、某(ノ)國(ノ)目《フミヒト》をいへるなるべし、目を主典とかけるは、守介掾を、長官次官判官とあるに同例なり、さて此は刑部少録にて、國(ノ)目|兼《カケ》たるにや、○刑部少録は、ウタヘノツカサノスナキフミ人〔十四字右○〕と訓べし、和名抄に、職員令(ニ)云、刑部省|宇多倍多々須都加佐《ウタヘタヾススツカサ》、令(ノ)義解(ノ)訓に、ウタヘサダムルツカサ〔十字右○〕とあれ(419)ど、三代實録十(ノ)卷、貞觀七年三月七日、先v是(ヨリ)刑部省奏言(セラク)、承前の例訓(テ)2刑部省(ヲ)1、號2訴訟之司《ウタヘノツカサト》1、夫(レ)名不(レハ)v正(シカラ)則事不v從、又名(ハ)以召v實(ヲ)、事(ハ)以放v象(ヲ)、何以(テ)2判斷之司(ヲ)1、可(キ)v謂2訴訟之司(ト)1、望請訓(テ)2刑部省(ノ)三字(ヲ)1、將v號2判法《ノリコトワル》之司(ト)1、至v是(ニ)有v勅云、宜v號2定訟《ウタヘサダムル》之司(ト)1、とあれば、貞觀以往は、ウタヘノ〔四字右○〕司と唱へしこと、しられたり、天武天皇(ノ)紀に、刑官《ウタヘノ》事と見えたり、少をスナキ〔三字右○〕と訓よしは既く辨へたり、録は、和名抄に、本朝職員令二方品員等所v載、省(ニ)曰v録(ト)云々、(皆|佐《サ》官)とあれど、フミヒトと訓べきこと、上に委(ク)辨(ヘ)たるが如し、○諸君は、傳未(ダ)詳ならず、
 
三月三日《ヤヨヒノミカノヒ》。※[手偏+僉]2※[手偏+交]《カムガフル》防人《サキモリヲ》1勅使《ミカドツカヒ》。并兵部使人等《マタツハモノヽツカサノツカヒドモ》。同集飲宴作哥三首《トモニツドヒテウタゲスルトキヨメルウタミツ》。
 
使人は、家持(ノ)卿の下司等なり、
 
4433 阿佐奈佐奈《アサナサナ》。安我流比婆哩爾《アガルヒバリニ》。奈里弖之可《ナリテシカ》。美也古爾由伎弖《ミヤコニユキテ》。波夜加弊里許牟《ハヤカヘリコム》。
 
阿佐奈佐奈《アサナサナ》は、朝朝《アサアサ》にて、日日《ヒビ》といはむが如し、既くあまた出たる詞なり、○奈里弖之可《ナリテシカ》は、成《ナリ》たき哉《カナ》、と希ふ辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。勅使《ミカドツカヒ》。紫微大弼安倍沙美麿朝臣《シビノオホキスケアベノサミマロノアソミ》。
 
紫微(ノ)大弼、續紀に、孝謙天皇、勝寶元年九月戊戌、制(ス)2紫微中臺(ノ)官位(ヲ)1、令《カミ》一人正三位(ノ)官、大|弼《スケ》二人正四位下(ノ)官、少|弼《スケ》三人從四位下(ノ)官、大|忠《マツリゴトヒト》四人正五位下(ノ)官、少|忠《マツリゴトヒト》四人從五位下官、大|疏《フミヒト》四人從(420)六位上(ノ)官、少|疏《フミヒト》四人五七位上(ノ)官、寶字二年八月庚子朔、是日皇太子(大炊王)受(タマフ)v禅(ヲ)、甲子、是(ノ)日奉(テ)v勅(ヲ)改2易官號(ヲ)1、紫微中臺(ハ)、居v中(ニ)奉(テ)v勅(ヲ)頒(チ)2行(フ)諸司(ニ)1、如d地(ノ)承(テ)v天(ニ)亭c毒(スル)庶物(ヲ)u、故(レ)改(テ)爲2坤宮官1と見えたり、大弼はオホキスケ〔五字右○〕なり、和名抄に、次官、本朝職員令二方品員等所v載云々、彈正(ニ)曰v弼(ト)、(有2大小1)云々、(已上皆|須介《スケ》)○沙美麿は、續紀に、天平九年九月己亥、正六位上阿倍(ノ)朝臣佐美麻呂(ニ)授2從五位下(ヲ)1、十年閏七月癸卯、阿倍(ノ)朝臣沙彌爲2少納言(ト)1、十二年十一月甲辰、授2從五位上(ヲ)1、十四年八月癸未、將v幸2近江(ノ)國甲賀(ノ)郡紫香樂(ノ)村(ニ)1、甲午、以2阿倍(ノ)朝臣沙彌麻呂等六人(ヲ)1爲2前次第司(ト)1、十五年五月癸卯、授2正五位下(ヲ)1、十七年正月乙丑、授2正五位上(ヲ)1、十八年四月癸卯、授2從四位下(ヲ)1、勝寶元年四月甲午朔、授2從四位上(ヲ)1、奉字元年五月丁卯、授2正四位下(ヲ)1、同八月庚辰、爲2參議(ト)1、二年三月辛酉、中務(ノ)卿正四位下阿倍佐美麻呂卒、と見えて、此の紫微大弼の官は、紀中に漏たり
 
4434 比波里安我流《ヒバリアガル》。波流弊等佐夜爾《ハルベトサヤニ》。奈理奴禮婆《ナリヌレバ》。美夜古母美要受《》ミヤコモミエズ。可須美多奈妣久《カスミタナビク》。
 
波流弊等佐夜爾《ハルヘトサヤニ》は、春方《ハルヘ》と清《サヤ》になり、清《サヤ》は明白《アキラカ》なるを云詞にて、此はまぎれもなく、たしかに春になれるをいへりと聞えたり、岡部氏、夜は、倍か部の誤にて、ハルヘトサヘニ〔七字右○〕なり、といへり、猶考(フ)べし、○奴禮婆の婆(ノ)字、舊本には波と作り、今は古寫小本に從つ、○歌(ノ)意、今は時も三月にて、たしかに眞の春の氣色になりぬれば、さらでも遠き京の方を見やれど、いとゞ見えず、(421)霞の霏※[雲/微]《タナビ》き隔てたるよ、となり、
 
4435 乃敷賣里之《フフメリシ》。波奈乃波自米爾《ハナノハジメニ》。許之和禮夜《コシワレヤ》。知里奈牟能知爾《チリナムノチニ》。美夜古敝由可無《ミヤコヘユカム》。
 
歌(ノ)意は、花の含てある最中に、難波へ下り來しに、其(ノ)花の散過なむ後に、京へ歸り上らむか、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。
 
昔年相替防人歌一首《サキツトシアヒカハレルサキモリガウタヒトツ》。
 
昔年云々は、前の防人の太宰へ行道にてよめるを、後に聞てこゝに載たるなり、軍防令義解に、凡防人欲(セハ)v至(ムト)、所在官司預爲(レ)2部分(ヲ)1、(謂官司者防人(ノ)司(ヲイフ)也、預爲(レトハ)2部分(ヲ)1者、防人未(ル)v至(ラ)之前(ニ)、依(テ)v舊差(シ)配(テ)、預|爲《ツクリテ》2分目(ヲ)1、送(リ)2於太宰(ニ)1、防人至(レバ)即相替(ヲイフ)也、)防人至(テ)後(ノ)一日(ニ)、即共2舊(ノ)人(ト)1分付(シ)、交替(シテ)使(メヨ)v訖(ラ)、(謂主當之處(ニ)有2器仗等(ノ)類1、故云(フ)2分付(ト)1也、)
 
4436 夜未乃欲能《ヤミノヨノ》。由久左伎之良受《ユクサキシラズ》。由久和禮乎《ユクワレヲ》。伊都伎麻左牟等《イツキマサムト》。登比之古良波母《トヒシコラハモ》。
 
夜未乃欲能《ヤミノヨノ》は、行向不知《ユクサキシラズ》を云む料の枕詞なり、十二に、陰夜之田時不知山越而往座君乎者何時待《クモリヨノタドキモシラズヤマコエテイマスキミヲバイツトカマタム》、九(ノ)卷に、闇夜成思迷匍匐《ヤミヨナスオモヒマドハヒ》、十三に、雲入夜之迷間《クモリヨノマドヘルホトニ》、などよめる類なり、○由久左伎之良受《ユクサキシラズ》(422)は、未(ダ)筑紫の方は經知(ラ)ねば、行(ク)向(キ)知(ラ)ずともいふべけれど、此は妻子に別れて、かなしさに心もかきくれ、まどひゆくより、いへるなるべし、○歌(ノ)意は、行さきを知ず、悲しさにくれまどひつつ行(ク)吾を、戀慕ひて何時本郷には還り來まさむやと、泣々問し妻はもいづらや、と慕ひ尋る意なり、十七に、大海乃於久可母之良受由久和禮乎何時伎麻佐武等問之兒等波母《オホウミノオクカモシラズユクワレヲイツキマサムトトヒシコラハモ》、此は今の歌を少しかへて、時にかなへて吟たるにや、
 
先太上天皇《サキノオホキスメラミコトノ》。御2製《ミヨミマセル》霍公鳥《ホトヽギスヲ》1歌一首《オホミウタヒトツ》。
 
先(ノ)太上天皇は、元暦本、古寫本、古寫小本等に、一首の下に註して、日本根子高瑞日清足姫(ノ)天皇也、謚曰2元正天皇1、とあり、此處は、天平勝寶七歳の條下にて、孝謙天皇(ノ)御代にて、當時太上天皇は、聖武天皇にましませば、元正天皇を、先(ノ)太上とは申せるなり、(既く此(ノ)卷(ノ)初にも見ゆ、)
 
4437 富等登藝須《ホトトギス》。奈保毛奈賀那牟《ナホモナカナム》。母等都比等《モトツヒト》。可氣都都母等奈《カケツツモトナ》。安乎禰之奈久母《アヲネシナクモ》。
 
奈保毛奈賀那牟《ナホモナカナム》は、本居氏、岡部翁(ノ)説に、奈保《ナホ》は、奈保《ナホ》人などの奈保《ナホ》にて、なほざりに、大方になけとのたまふなりと云(ハ)れき、これにて一首聞ゆるに似たれども、よく思ふに、その意とは聞えず、猶考(フ)べし、といへり、(いかさまにも、大方に鳴(ケ)かしとおもほすを、奈保毛鳴那牟《ナホモナカナム》との給へりとせむこと、甚平穩ならぬことなり、もし岡部氏の説の意ならば、母太毛阿良那牟《モダモアラナム》などや
(423)うにこそあるべけれ、今按は下に述べし、)○母等都比等《モトツヒト》、契冲、これは元明天皇崩御の後などに、よませ給へる御歌にて、もとつ人は元明天皇をさゝせ給へるにやとぞうけ給はる、といへり、○可氣都都母等奈《カケツツモトナ》とは、可氣都都《カケツツ》は、御心に懸つゝなり、母等奈《モトナ》は、俗にむざとと云如し、○安乎禰之奈久母《アヲネシナクモ》とは、之《シ》は、例の其一(ト)すぢをおもく思はする辭、母《モ》は、歎息(ノ)辭にて、嗚呼《アハレ》令《ス》2吾哭泣《アヲネナカ》1なり、奈久《ナク》は、奈可須《ナカス》に同じ、可須《カス》は久《ク》に約れり、十四に、相模禰乃乎美禰美所久思和須禮久流伊毛我名欲妣※[氏/一]吾乎禰之奈久奈《サガムネノヲミネミソグシワスレクルイモガナヨビテアヲネシナクナ》、とあるも、下の奈《ナ》は、歎息(ノ)辭にて、吾を哭泣しむにて、今と同じ、○御製(ノ)意、今按(フ)に、此はたゞ霍公鳥を御製《ミヨミ》ませる御歌なるべきにや、(母等都人《モトツヒト》とあるを、まことの人ときゝたるより、諸説行過たりとおぼえたり、)まづ第三(ノ)御句は、第一(ノ)御句の上にうつして、十(ノ)卷に、本人霍公鳥乎也《モトツヒトホトヽギスヲヤ》、とよめるに同じく、前年に來鳴し鳥なるがゆゑに、本津人霍公鳥《モトツヒトホトヽギス》と詔へるなるべし、奈保毛奈賀那牟《ナホモナカナム》は、猶《ナホ》も鳴(カ)なむなるべし、唯一聲二聲《タヾヒトコヱフタコヱ》にては、足《アカ》ずおもほすより、猶も鳴(ケ)かしと思ほしめすなり、(奈伎那牟《ナキナム》と宣《ノタマ》はずして、奈加那牟《ナカナム》とのたまへるは、鳴(ケ)かしと希ひたまふ御意なればなり、)可氣都都《カケツツ》は、即(チ)霍公鳥を御心に懸つゝの意なり、此(ノ)に、保等登藝須可氣都都伎美我麻都可氣爾《ホトトギスカケツツキミガマツカゲニ》云々、とあるに同じ、さて本津人霍公鳥《モトツヒトホトヽギス》、猶も鳴なむ、懸つゝもとな、吾を哭《ネ》し泣《ナク》も、と詔へる御意は、前年にも來鳴し本つ霍公鳥よ、汝をば飽ずなつかしく思へば、此處に來居て鳴(ケ)かしと思ふに、唯一(ト)聲許にて、雲居の外に過(ギ)行て、(424)一(ト)すぢに汝を懸つゝ、むざと吾を哭に泣しむるよ、さてもいかで、猶も此處に來居つゝ、止ず鳴なむ、と詔へるなるべし、次の奉v和歌考(ヘ)合(ス)べし、
 
薩妙觀《サツメウクワムガ》應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
薩妙觀、(薩(ノ)字、舊本に※[こざと+經の旁]と作るは、誤寫しなること著し、又古寫本に障とあるも非なり、今は異本、拾藏本等并(ニ)續紀とによりてしるしつ、)此(ノ)下に、薩妙觀命婦と見ゆ、續紀に、元正天皇養老七年正月丙子、薩《※[こざと+經の旁]國史》妙觀(ニ)授2從五位上(ヲ)1、聖武天皇神龜元年正月辛未、從五位上薩妙觀賜2姓河上(ノ)忌寸(ヲ)1、天平九年二月戊午、天皇臨v朝(ニ)、授2從五位上河上(ノ)忌寸妙觀(ニ)正五位下(ヲ)1、と見えたり、
 
4438 保等登藝須《ホトトギス》。許許爾知可久乎《ココニチカクヲ》。伎奈伎弖余《キナキテヨ》。須疑奈無能知爾《スギナムノチニ》。之流志安良米夜母《シルシアラメヤモ》。
 
知可久乎《チカクヲ》の乎《ヲ》は、其(ノ)事を重く思はする時の助辭なり、○之流志《シルシ》は、書紀に、有何益とかきて、ナニノシルシカアラム〔十字右○〕とよめり、かひと云に近し、○歌(ノ)意、やよ霍公鳥、汝も猶も鳴(ケ)かしとの勅命なるぞ、此處に近く來居て鳴てよ、此時過て後には、いかばかり鳴とも、其(ノ)しるしあらじをや、嗚呼《アヽ》さても近く來居て、猶も鳴てよ、となり、契冲が、此(ノ)歌は、勅命を霍公鳥につたふるやうによめり、歌のさま、いとやさしくきこゆ、といへる、信に然なり、
 
冬日《フユノヒ》。幸《イデマシヽ》2于|靱負御井《ユケヒノミヰニ》1之時《トキ》。内命婦石川朝臣《ウチノヒメトネイシカハノアソミ》。【諱曰邑婆。】應《ウケタマハリテ》v詔《ミコトノリヲ》賦《ヨメル》v雪《ユキヲ》歌一首《ウタヒトツ》。
 
(425)靱負(ノ)御井は、續紀に、光仁天皇寶龜三年三月甲申、置2酒(ヲ)靱負(ノ)御井(ニ)1、賜d陪從五位已上及文士賦2曲水(ヲ)1者禄(ヲ)u有v差、と見ゆ、本居氏云、若(シ)靱負の府の内にある井を云(ル)にやあらむ、○石川(ノ)朝臣、三(ノ)卷に石川(ノ)命婦、四(ノ)卷に石川(ノ)内命婦とある人にて、大伴(ノ)安麻呂(ノ)卿の妻、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女の母と見えたり、○諱曰邑婆、(邑(ノ)字、舊本に色と作るは誤なり、今は古寫本、古寫小本、一本等に從つ、)この四字、舊本には一首の下にあり、邑婆はオホバ〔三字右○〕なり、
 
4439 麻都我延乃《マツガエノ》。都知爾都久麻※[泥/土]《ツチニツクマデ》。布流由伎乎《フルユキヲ》。美受弖也伊毛我《ミズテヤイモガ》。許母里乎流良牟《コモリヲルラム》。
 
本(ノ)句は、雪の重《シゲ》く積りて、松(ガ)枝の垂懸《タレサガ》れるさまをよめり、○末(ノ)句は、水主《ミヌシノ》内親王の、御病にこもれるをおもひて、天皇に代り奉りてよめるなり、○歌(ノ)意、左註にて明けし、
 
于時《ソノトキ》。水主内親王《ミヌシノヒメミコ》。寢膳不v安。累日|不《ズ》v參《マヰリタマハ》。因以此日太上天皇《カレコノヒオホキスメラミコト》。勅《ノリ》2侍嬬等《ミヤヲミナラニ》1曰《タマハク》。
 
爲《タメニ》2遣|水主内親王《ミヌシノヒメミコノ》1。賦雪作歌奉獻者《ユキヲヨミテタテマツレトノリタマヘリ》。於是諸命婦等《コヽニモロ/\ノヒメトネラ》。不2堪《カネタレバ》作歌《ウタヨミシ》1。而此(ノ)石川命婦《イシカハノヒメトネ》。獨《ヒトリ》作《ヨミテ》2此歌《コノウタヲ》1奏《マヲセリキ》之。
 
水主(ノ)内親王は、水主は、ミヌシ〔三字右○〕か、和名抄に、山城(ノ)國久世(ノ)郡|水主《ミヌシ》、といふ郷名あり、合(セ)考(フ)べし、又書紀の訓によるときはモヒトリ〔四字右○〕なるべし、書紀天智天皇(ノ)卷に、有2栗隈(ノ)首徳萬(ガ)女1曰2黒媛(ノ)娘(ト)1、生2水主《モヒトリノ》皇女(ヲ)1、續紀に、靈龜元年正月甲午、四品水主(ノ)内親王(ニ)益2封一百戸(ヲ)1、天平九年二月戊午、授2三品(ヲ)1、同(426)八月辛酉、三品水主(ノ)内親王薨、天智天皇之皇女也、と見えたり、○太上天皇は、聖武天皇なり、元正天皇ならば、先(ノ)太上天皇とあるべきなり、○侍嬬は、宮仕の女房なり、
 
右件四首《ミギノクダリノヨウタハ》。上總國大掾正六位上大原眞人今城傳誦《カミツフサノクニノオホキマツリゴトヒトオホキムツノクラヰノカミツシナオホハラノマヒトイマキツタヘヨメリキ》云爾。【年月未詳。】
 
上總國朝集使大掾大原眞人今城《カミツフサノクニノマヰウゴナハルツカヒオホキマツリゴトヒトオホハラノマヒトイマキガ》向《ムカヘル》v京《ミヤコニ》之時《トキ》。郡司妻女等餞之歌二首《コホリノツカサノメラガウマノハナムケセルウタフタツ》。
 
4440 安之我良乃《アシガラノ》。夜敝也麻故要※[氏/一]《ヤヘヤマコエテ》。伊麻之奈婆《イマシナバ》。多禮乎可伎美等《タレヲカキミト》。彌都都志努波牟《ミツツシヌハム》。
 
伊麻之奈婆《イマシナバ》は、伊《イ》はそへことばにて、座《マシ》なばなり、おはしましなばといふに、同じことなり、五(ノ)卷に、唐能遠境爾《モロコシノトホキサカヒニ》、都加波佐禮麻加利伊麻勢《ツカハサレマカリイマセ》、十二に、山越而伊座君乎者《ヤマコエテイマセキミヲバ》、十五に、大船乎安流美爾伊多之伊麻須君《オホブネヲアルミニイタシイマスキミ》、などある、みな同じことなり、(略解に、いましは、去《イニ》ましなり、といへるは、大《イミ》じきひがことなり、)○歌(ノ)意は、足柄の八重に疊なる山を越て、遠く京に還りおはしましなば、其(ノ)後誰をか君と見つゝ愛賞むぞ、他に親しむ人はさらにあらじをや、となり、
 
4441 多知之奈布《タチシナフ》。伎美我須我多乎《キミガスガタヲ》。和須禮受波《ワスレズバ》。與能可藝里爾夜《ヨノカギリニヤ》。故非和多里奈無《コヒワタリナム》。
 
多知之奈布は《タチシナフ》、立萎《タチシナフ》なり、十二(或本)に、誰葉野爾立志奈比垂菅根乃《タカハヌニタチシナヒタルスガノネノ》云々、とあり、さて此《コヽ》に之奈(427)布《シナフ》と云るは、容儀の軟柔《シナヤカ》にして、美麗《ウルハシ》きをいへり、十(ノ)卷に、率爾今毛欲見秋芽之四搓二將有妹之光儀乎《イサヽメニイマモミガホシアキハギノシナヒニアラムイモガスガタヲ》、とある四搓《シナヒ》に同じ、○與能可藝里爾夜《ヨノカギリニヤ》は、生涯《ヨノカギリ》に哉《ヤ》なり、生(ノ)涯は、世之盡《ヨノコト/”\》といはむが如し、古事記上(ツ)卷、穗々手見(ノ)命(ノ)御歌に、意岐都登埋加毛度久斯麻邇和賀韋泥斯伊毛波和須禮士余能許登碁登邇《オキツトリカモドクシマニワガヰネシイモハワスレジヨノコトゴトニ》、○歌(ノ)意は、軟柔《シナヤカ》にして美麗《ウルハ》しき君が容儀を、此(ノ)後得忘れずば、いつと云かぎりもなく、生てあらむほどは戀しく思ひつゝ、年月日を經度りなむか、となり、
 
五月九日《サツキコヽノカノヒ》。兵部少輔大伴宿禰家持之宅《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチガイヘニテ》。集宴歌四首《ウタゲセルウタヨツ》。
 
4442 和我勢故我《ワガセコガ》。夜度乃奈弖之故《ヤドノナデシコ》。比奈良倍弖《ヒナラベテ》。安米波布禮杼母《アメハフレドモ》。伊呂毛可波良受《イロモカハラズ》。
 
比奈良倍弖《ヒナラベテ》は、日並而《ヒナラベテ》にて、日を重て、の意なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、色も變らずといへるに、主人の懇情の變らぬを比《タト》へたる意もあるにや、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大原眞人今城《オホハラノマヒトイマキ》。
 
4443 比佐可多乃《ヒサカタノ》。安米波布里之久《アメハフリシク》。奈弖之故我《ナデシコガ》。伊夜波都波奈爾《イヤハツハナニ》。故非之伎和我勢《コヒシキワガセ》。
 
歌(ノ)意は、日を重て雨の零(リ)重りつゝ、鬱悒《オホヽ》しきにつきて、瞿麥の咲そふ初花の、彌めづらしくなつかしきが如くに、飽(ク)世なく愛しき吾(ガ)兄ぞ、と云なるべし、客に飽(カ)ぬ意を述たり、
 
(428)右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
4444 和我世故我《ワガセコガ》。夜度奈流波疑乃《ヤドナルハギノ》。波奈佐可牟《ハナサカム》。安伎能由布敝波《アキノユフヘハ》。和禮乎之努波世《ワレヲシヌハセ》。
 
歌(ノ)意、今來む秋に、この面白き、主人の庭の芽于(ノ)花の咲たらむ、其(ノ)夕ばえのあはれなるをりは、又吾(ガ)事を懸てしのばせ給へ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大原眞人今城《オホハラノマヒトイマキ》。
 
4445 宇具比須乃《ウグヒスノ》。許惠波須疑奴等《コヱハスギヌト》。於毛倍杼母《オモヘドモ》。之美爾之許己呂《シミニシココロ》。奈保古非爾家里《ナホコヒニケリ》。
之美爾之許己呂《シミニシココロ》は、
 
染《シミ》にし情《コヽロ》なり、六(ノ)卷に、紅爾深染西情可母寧樂乃京師爾年之歴去倍吉《クレナヰニフカクシミニシコヽロカモナラノミヤコニトシノヘヌベキ》、○歌(ノ)意、此(ノ)時五月なれば、鶯を賞《メヅ》る時節は過去《スギ》ぬれども、面白くおもひそみたる心からして、猶其(ノ)壁を聞ば、賞《ウツク》しく愛《メデ》たくありけり、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。即《スナハチ》聞《キヽテ》2※[(貝+貝)/鳥]哢《ウグヒスノナクヲ》1作之《ヨメル》。大伴宿爾家持《オホトモノスクネヤカモチ》。
 
即聞云々の六字、舊本此間になくして、歌詞の上に、即聞※[(貝+貝)/鳥]哢作歌一首と記せり、今は古寫小本に從てしるしつ、○即云々とは、集飲のをりから、即(チ)よめる謂なり、○哢は、字書に、鳥吟也、と註せり、さて夏の鶯めづらし、拾遺集夏(ノ)部に、山里の卯(ノ)花に鶯の鳴侍りけるを、平(ノ)公誠、卯(ノ)花を(429)散にし梅にまがへてや夏の垣根に鶯の鳴、枕册子に、鶯は、ふみなどにも、めでたき物につくり、聲よりはじめて、さまかたちも、さばかりあてにうつくしきほどよりは、九重のうちに鳴ぬぞいとわろき云々、夏秋の末まで、老聲に鳴て、蟲喰など、ようもあらぬ物は、名をつけかへていふぞ、口をしくすごきこゝちする云々、年立かへるなどをかしきことに、歌にもふみにもつくるなるは、なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし云々、祭のかへさ見るとて、雲林院知足院などのまへに、車を立たれば、郭公もしのはぬにやあらむ、鳴に、いとようまねび似せて、木高き木どもの中に、諸聲になきたるこそ、さすがにをかしけれ、
 
同月十一日《オヤジツキノトヲカマリヒトヒノヒ》。左大臣橘卿《ヒダリノオホマヘツキミタチバナノマヘツキミノ》。宴《ウタゲシタマフ》2右大辨丹比國人眞人之宅《ミギノオホキオホトモヒタヂヒノクニヒトノマヒトガイヘニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
橘(ノ)卿は、諸兄(ノ)大臣なり、○國人は、傳三(ノ)卷中に云へり。
 
4446 和我夜度爾《ワガヤドニ》。佐家流奈弖之故《サケルナデシコ》。麻比波勢牟《マヒハセム》。由米波奈知流奈《ユメハナチルナ》。伊也乎知爾左家《イヤヲチニサケ》。
 
麻比波勢牟《マヒハセム》は、幣者將爲《マヒハセム》なり、幣《マヒ》は、幣帛を主として、何にまれ、捧げ獻る物をいふことなり、(いはゆる賄賂のみにはかぎらず、)この詞既くあまた見たたり、○伊也乎知爾左家《イヤヲチニサケ》は、本居氏、乎知《ヲチ》は、初へ復ることを云古言にて、此《コヽ》はいよ/\いく度も、初へかへり/\して、たえずさけ(430)と云意なり、と云るが如し、猶|乎知《ヲチ》の事は、五(ノ)卷に、麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》、又、麻多越知奴倍之《マタヲチヌベシ》、十七に、手放毛乎知母可夜順伎《タバナレモヲチカモヤスキ》、など見えて、本居氏(ノ)説を擧て、委(ク)註り、○歌(ノ)意は、吾(ガ)庭に開(キ)たる瞿麥(ノ)花よ、よき捧げ物を進らせむぞ、其(ノ)捧げ物を納受して、彌々いく度も、初へかへり/\してたえずさけ、努々《ユメ/\》花の散失ると云ことなかれ、となり、瞿麥(ノ)花の散失ずして、彌咲益るによそへて、左大臣の繁榮を壽《コトホ》きたるなり、 
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。丹比國人眞人《タヂヒノマヒトクニヒトガ》。壽《コトホク》2左大臣《ヒダリノホマヘツキミヲ》1歌《ウタ》。
 
4447 麻比之都都《マヒシツツ》。伎美我於保世流《キミガオホセル》。奈弖之故我《ナデシコガ》。波奈乃未等波無《ハナノミトハム》。伎美奈良奈久爾《キミナラナクニ》。
 
歌(ノ)意は、勤々《ユメ/\》花散(ル)なと捧げ物をしつゝ、君が心を盡して、生育《オホシタテ》たる其(ノ)瞿麥は、げに面白けれども、其(ノ)花のみ愛《メデ》て、君を問べきにあらず、たとひ花はなくとも、訪ずてあるべき君ならぬことなるを、とのたまへるなり、(略解に、上(ノ)句は、花といはむ序にて、花のみとは、はな/”\しく實なきことにいへり、と云るは、いみじくたがへり、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左大臣和歌《ヒダリノオホマヘツキミノコタヘタマフウタ》。
 
和(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は元暦本、官本、古寫本等に從つ、
 
4448 安治佐爲能《アヂサヰノ》。夜敝佐久其等久《ヤヘサクゴトク》。夜都與爾乎《ヤツヨニヲ》。伊麻世和我勢故《イマセワガセコ》。美都都思努(431)波牟《ミツツシヌハム》。
 
安治佐爲《アヂサヰ》は、紫陽花《アヂサヰ》なり、既く出たり、品物解に、委(ク)註り、○夜敝佐久其等久《ヤヘサクゴトクゴトク》は、如《ゴトク》2彌重開《ヤヘサク》1なり、紫陽花は、其(ノ)花四ひらにして、彌重《ヤヘ》なるも一重《ヒトヘ》なるもあり、今はその彌重《ヤヘ》なるをよみ賜へり、彌重《ヤヘ》なるは、てまり花と云物の如く、多く叢《ムラガ》り重りて咲ゆゑに、彌重《ヤヘ》とはの給へり、八重《ヤヘ》にはあらず、○夜都與爾乎《ヤツヨニヲ》は、彌津代《ヤツヨ》にをなり、幾世《イクヨ》にも、といはむが如し、乎《ヲ》は、其(ノ)事を重くたしかに思はする時の助辭なり、○美都都思努波牟《ミツツシヌハム》は、見乍《ミツヽ》將《ム》v愛《シヌハ》なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、主人を壽(キ)給へるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左大臣《ヒダリノオホマヘツキミノ》。寄《ヨセテ》2味狹藍花《アヂサヰノハナニ》1詠《ヨミタマヘル》也。
 
十八日《トヲカマリヤカノヒ》。左大臣《ヒダリノオホマヘツキミノ》。宴《ウタゲシタマフ》2於|兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅《ツハモノヽツカサノカミタチバナノナラマロノアソミガイヘニ》1歌三首《ウタミツ》。
 
兵部(ノ)卿の職、紀(ノ)文に漏たり、○奈良麿(ノ)朝臣は、左大臣の子なり、傳六(ノ)卷(ノ)下に出(シツ)、
 
4449 奈弖之故我《ナデシコガ》。波奈等里母知弖《ハナトリモチテ》。宇都良宇都良《ウツラウツラ》。美麻久能富之伎《ミマクノホシキ》。吉美爾母安流加母《キミニモアルカモ》。
 
波奈等里母知弖《ハナトリモチテ》、十九に、山吹之花執持而《ヤマブキノハナトリモチテ》云々、○宇都良宇都良《ウツラウツラ》は、契冲、つら/\にて、熟の字なり、第一に、つら/\椿つら/\にとよめるに同じ、土佐日記にも、目もうつら/\鏡に神の心をこそは見つれ、とかけり、俗にも、花など心を入て見るをば、うつら/\と見る、とぞ申(432)める、と云り、此(ノ)下にも、夜都乎乃都婆吉都良都良爾《ヤツヲノツバキツラツラニ》、とよめり、○歌(ノ)意、瞿麥の花を折(リ)取持て、見るに見飽ぬごとく、さても熟《ツラ/\》に相見ま欲(シ)き君にてもある哉と、主人を愛《ウツクシ》みてよみ給へるなり、四(ノ)卷に、此(ノ)歌未(ノ)句全く同きあり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。治部卿船王《ヲサムルツカサノカミフネノオホキミ》。
 
船(ノ)王は、傳六(ノ)卷(ノ)下に出(シツ)、
 
4450 和我勢故我《ワガセコガ》。夜度能奈弖之故《ヤドノナデシコ》。知良米也母《チラメヤモ》。伊夜波都波奈爾《イヤツハナニ》。佐伎波麻須等母《サキハマストモ》。
 
知良米也母《チヲメヤモ》は、將《ム》v散《チラ》やは、の謂にて、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、瞿麥を賞て、主人を壽く意をそへたり、
 
4451 宇流波之美《ウルハシミ》。安我毛布伎美波《アガモフキミハ》。奈弖之故我《ナデシコガ》。波奈爾奈蘇倍弖《ハナニナソヘテ》。美禮杼安可奴香母《ミレドアカヌカモ》。
 
宇流波之美《ウルハシミ》は、愛《ウルハシ》みにて、こゝは愛《ウルハ》しう、といはむが如し、○奈曾倍《ナソヘ》は、並配《ナミソヘ》の意なるべし、與曾敝《ヨソヘ》は、依配《ヨリソヘ》の意なるを合(セ)思ふべし、此(ノ)卷(ノ)上にも、花爾奈蘇倍弖《ハナニナソヘテ》、とあり、○歌(ノ)意は、吾(ガ)愛しう思ふ君は、瞿麥の花に並配《ナゾヘ》て見れど、共に見飽ず、さてもめづらしく、うつくしくもある哉、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。兵部少輔大伴宿禰家持追作《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチガオヒテヨメル》。
 
(433)八月十三日《ハツキノトヲカマリミカノヒ》。在《ニテ》2内南安殿《ウチノミナミノヤスミトノ》1。肆宴歌二首《トヨノアカリシタマヘルトキノウタフタツ》。
 
内南安殿は、安殿《ヤスミトノ》に、内外南北の別(チ)ありし故に、いへるなるべし、天武天皇(ノ)紀に、十年春正月辛
 
未朔丁丑、天皇|御《マシ/\テ》2向(ノ)小殿(ニ)1而|宴之《トヨノアカリキコシメス》、是(ノ)日親王諸王(ヲ)引2入《メシ》内(ノ)安殿《ヤスミトノニ》1、諸臣皆|侍《サモラヒテ》2于外安殿(ニ)1、共|置酒以賜樂《オホミキタマハリテウタマヒセリ》、〔頭註、【通證、内安殿疑謂2小安殿1、江次第曰、小安殿、大極殿後房也、】〕
 
4552 乎等賣良我《ヲトメラガ》。多麻毛須蘇婢久《タマモスソビク》。許能爾波爾《コノニハニ》。安伎可是不吉弖《アキカゼフキテ》。波奈波知里都都《ハナハチリツツ》。
 
多麻毛須蘇婢久《タマモスソビク》は、玉裳裾引《タマモスソビク》なり、玉は裳を稱《ホム》る詞なり、一(ノ)卷に、嗚呼兒乃浦爾船乘爲良武※[女+感]嬬等之玉裳乃須十二四寶三都良武香《アコノウラニフネノリスラムヲトメラガタマモノスソニシホミツラムカ》、とある歌に、例を引て註せり、○波奈波知里都都《ハナハチリツツ》は、波奈《ハナ》とは、種々の草(ノ)花にて、芽子を主とするなるべし、都都《ツツ》の下に、さて/\興あるけしき哉、といふ意を、含めたるなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、乎等賣良《ヲトメラ》は、官女の伴《トモ》をさせり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。内匠頭《ウチノタクミノカミ》兼《カケタル》2播磨守《ハリマノカミ》1正四位下安宿王奏之《オホキヨツノクラヰノシモツシナアスカベノオホキミマヲシタマヘリ》。
 
安宿(ノ)王は、傳此(ノ)卷(ノ)上に出(シツ)、
 
4453 安吉加是能《アキカゼノ》。布伎古吉之家流《フキコキシケル》。波奈能爾波《ハナノニハ》。伎欲伎都久欲仁《キヨキツクヨニ》。美禮杼安賀奴香母《ミレドアカヌカモ》。
 
布伎古吉之家流《フキコキシケル》は、吹扱敷有《フキコキシケル》なり、契冲云、秋の花どもを、こきおろすごとくちらせるにより(434)て、かくいふなり、俊頼(ノ)朝臣の歌に、はげしさのみ山おろしは手もなくていかで木の葉をこきおろすらむ、○歌(ノ)意は、種々《クサ/”\》の花を、秋風の吹て、扱敷《コキシキ》たる庭を、清く照せる月夜に、見れども見れども、さても飽ぬこと哉、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。兵部少輔從五位上大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケヒロキイツヽノクラヰノカミツシナオホトモノスクネヤカモチ》。未奏。
 
兵部(ノ)少輔云々は、續紀に、勝寶六年四月庚午、從五位上大伴(ノ)宿禰家持(ヲ)爲2兵部(ノ)少輔(ト)1、と見えて、當時は勝寶七年八月なれば、從五位上兵部(ノ)少輔なり、しかるを官位令を考(フ)るに、七省の少輔は從五位下相當なれば、いさゝか疑あれど、續紀、當集共に、明に從五位上なれば、もとより誤にはあらじ、
 
十一月二十八日《シモツキノハツカマリヤカノヒ》。左大臣《ヒダリノオホマヘツキミ》集《ツドヒテ》2於|兵部卿橘奈良麿朝臣宅《ツハモノヽツカサノカミタチバナノナラマロノアソミガイヘニ》1。宴歌一首《ウタゲシタマフウタヒトツ》。
 
4454 高山乃《タカヤマノ》。伊波保爾於布流《イハホニオフル》。須我乃根能《スガノネノ》。禰母許呂其呂爾《ネモコロゴロニ》。布里於久白雪《フリオクシラユキ》。
 
高山は、地(ノ)名にあらず、何處にまれ、たゞ高き山なり、○歌(ノ)意、本(ノ)句は、禰毛許呂《ネモコロ》をのたまはむ料の序にて、未は、雪の野にも山にも、落《オツ》る隈《クマ》なく降(リ)積りたるさまを、よみたまへるのみなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。左大臣作《ヒダリノオホマヘツキミノヨミタマヘル》。
 
天平元年《テムヒヤウハジメノトシ》。班田之時使葛城王《タアガツトキノツカヒカヅラキノオホキミノ》。從《ヨリ》2山背國《ヤマシロノクニ》1。贈《オクリタマヘル》2薩妙觀命婦等所《サツメウクワムノヒメトネラガモトニ》1歌一首《ウタヒトツ》。【副芹子※[果/衣]。】
 
(435)天平元年に云々の事ありし時に、よみかはされし歌を、左大臣の誦賜へるを、今聞て載たるなり、故(レ)勝寶七年の條下に入(レ)り、○班田は、三(ノ)卷(ノ)下に、令(ノ)義解等を引て委(ク)云り、續紀に、聖武天皇天平元年十一月癸巳、任2京及畿内(ノ)班田司(ヲ)1云々、又阿波(ノ)國山背(ノ)國(ノ)陸田(ハ)者、不v問2高下(ヲ)1、皆悉(ニ)還(テ)v公(ニ)、即給(ハム)2當土(ノ)百姓(ニ)1、但在2山背(ノ)國(ニ)1三位已上(ノ)陸田(ハ)者、具(ニ)録2町段(ヲ)1、附(テ)v使(ニ)上奏(セヨ)、以外盡(ニ)收、開(テ)v荒(ヲ)爲(バ)v熟(ト)、兩國並(ニ)聽(ム)、と見えたる時の事なるべし、○葛城(ノ)王は、諸兄(ノ)大臣なり、○薩、舊本※[こざと+輕の旁]と作(キ)、古寫本、類聚抄には障と作り、今は拾穗本并(ニ)續紀に從てかけり、上にも見えたり、下なるも同じ、
 
4455 安可禰佐須《アカネサス》。 比流波多多婢弖《ヒルハタタビテ》。奴婆多麻乃《ヌバタマノ》。欲流乃伊刀末仁《ヨルノイトマニ》。都賣流芹子許禮《ツメルセリコレ》。
 
多多婢弖《タタビテ》は、策《タヽマ》を活動《ハタラカ》し云るにて、班田の事を、色々|策《ハカリ》つとむるを云(フ)なり、婢《ビ》は、そのさまを云なり、と本居氏云る如し、按(フ)に、婢《ビ》は、美夜婢《ミヤビ》の婢《ビ》にて、俗にめくといふに近き意なり、されば策《タヽマ》めきいそがはしき謂《ヨシ》なり、策《タヽマ》は、欽明天皇(ノ)紀に、於是天皇、命2神祇(ノ)伯1、敬受(タマフ)2策《タヽマヲ》於神祇(ニ)1云々、とあり、(略解に、賜《タビ》v田《タ》而《テ》なり、といへるは、言足はずて通《キコ》え難し、)〔頭註、【師説、たゝびて、第十五にいへ人のいはひまたねかたゝまかもあやまちしけむ、とよめるに同じかるべし、欽明紀云々、しからば婢は、何さびの備にて、たゝまめくなどいふにて、ひるは班田のことに、心をめぐらしはかりことめかしてひまなければ、いとまなる夜つめるせりなりと、こゝろざしをいたしたることをよみたり、】〕○歌(ノ)意、晝は班田の事を取(リ)行ひ、策《タヽマ》めき、いそがはしくつとむるに暇なきによりて、夜暗きに出て、辛《カラク》して此芹を採て進《マヰ》らするなれば、吾(ガ)志の深淺のほどを(436)知(リ)賜へ、となり。
 
薩妙觀命婦《サツメウクワムノヒメトネガ》。報贈歌一首《コタフルウタヒトツ》。
 
4456 麻須良乎等《マスラヲト》。於毛敝流母能乎《オモヘルモノヲ》。多知波吉※[氏/一]《タチハキテ》。可爾波乃多爲爾《カニハノタヰニ》。世理曾都美家流《セリソツミケル》。
 
可爾波乃多爲《カニハノタヰ》は、契冲、樺田井《カニハノタヰ》なり、雜式(ニ)云、凡山城(ノ)國泉川樺井(ノ)渡瀬者、官長率2東大寺(ノ)工等(ヲ)1、毎年九月上旬(ニ)造2假橋(ヲ)1、來年三月下旬壞收(メヨ)云々、此(ノ)泉川樺井(ノ)渡、とある處の事なるべし、といへり、今按(フ)に、和名抄に、山城(ノ)國相樂(ノ)郡蟹幡、(加無波多《カムハタ》)とあり、これ同地なるべし、又神名帳に、同郡 綺原《カムハタノハラニ》坐(ス)健伊那太比賣《タケイナダヒメノ》神社、とも見えたり、其(ノ)地を、今|綺田《カハタ》村と云よしなり、多爲《タヰ》は、たゞ田なり、既く委(ク)云り、〔頭註、【師説、かにはの田井、今かばたといへり、〕〔健伊那太比賣神社、綺田村の南一町許林中にあり、俗に梶原社と云、】〕○歌(ノ)意、君をばうるさきますら男とのみ思ひ居つるものを、刀《タチ》を佩《ハキ》ながら、樺《カニハ》の田居《タヰ》に下(リ)立て、此(ノ)芹を採て賜へるは、思ひしにはたがひて、げにも御情深くて、うれしきことにぞありける、といひて、左大臣の勞をめでゝ、和へたるなり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。左大臣讀之《ヒダリノオホマヘツキミヨミアゲタマヘリ》云爾。
 
讀は、誦と云に同じ、○云爾の下に、舊本、左大臣是葛城(ノ)王、後(ニ)賜2橘(ノ)姓(ヲ)1也、と註せるが如し、(但し此註は、後人の加筆なり、)活本には此(ノ)註なし、
 
萬葉集古義二十卷之中 終
 
(437)萬葉集古義二十卷之下
 
天平勝寶〔四字□で囲む〕八歳丙申《ヤトセトイフトシヒノエサル》。二月朔乙酉廿四日戊申《キサラキノツキタチキノトトリハツカマリヨカノヒツチノエサル》。天皇《スメラミコト》。太上天皇《オホキスメラミコト》。太〔□で囲む〕|皇太后《オホミオヤ》。幸2行《イデマシテ》於|河内離宮《カフチノトツミヤニ》1。經《ヘテ》2信|信〔○で囲む〕《ヨヲ》1。以|壬子《ミヅノエネニ》傳2幸《ウツリイデマシ》於|難波宮《ナニハノミヤニ》1也。三月七日《オヤジツキノハツカマリナヌカノヒ》。於《ニテ》2河内國伎人郷馬史國人之家《カフチノクニクレノサトノウマノフミヒトクニヒトガイヘ》1。宴歌三首《ウタゲシタマヘルトキノウタミツ》。
 
天平勝寶、前に天平勝寶七歳とあれば、此(ノ)四字、こゝには無て宜し、○戊申の下天皇(ノ)二字、舊本に無は脱たるなり、今は異本に從つ、續紀に、勝寶八歳春二月戊申、行2幸(ス)難波(ニ)1、是日至2河内(ノ)國(ニ)1、御(ス)2智識寺(ノ)南(ノ)行宮(ニ)1、己酉、天皇幸(シテ)2智識山下大里三宅家原鳥坂等六《七本書非歟》寺(ニ)1、禮v佛(ヲ)、庚戊、遣(シ)2内舍人(ヲ)於六寺(ニ)1誦(シ)v經(ヲ)、襯施(スルコト)有v差、壬子、大雨(フル)、賜(フコト)2河内(ノ)國諸社(ノ)祝禰宜等一百十八人(ニ)正税(ヲ)1、各有v差、是日行(テ)至2難波(ノ)宮(ニ)1、御(ス)2東南(ノ)新宮(ニ)1、三月甲寅朔、太上天皇幸(ス)2堀江(ノ)上《ホトリニ》1、乙卯、詔(シテ)免(ス)2河内攝津二國(ノ)田租(ヲ)1、戊午、遣(テ)2使(ヲ)攝津(ノ)國諸寺(ニ)1誦(シメ)v經、襯施(スルコト)有v差、とある是なり、(契冲云る如く、此(ノ)續紀の文に、太上天皇、皇太后も、諸共に幸ありけるよしあるべきが、漏たるなり、三月甲寅朔、太上天皇、幸2堀江(ノ)上(ニ)1、とあるも、突出なり、)○太皇太后は、契冲云るが如く、初の太(ノ)字は衍なり、又元暦本、古寫本、類聚抄等に、太皇(ノ)二字なきは、皇(ノ)(438)字を脱せるものなり、皇太后は、光明皇后にて、天皇の御母なり、此卷(ノ)初にも見えたり、○經信信、舊本に一(ツ)の信(ノ)字なきは、脱たること著ければ、今補入つ、信は、左博に、再宿(ヲ)爲v信(ト)、とあれば、戊申(二十四日)より壬子(二十八日)に至るまで、四宿を經給へるなれば、必《キハメ》て經2信信(ヲ)1とあるべきことなり、字彙に、爾雅(ニ)有v客信、信(トハ)言(ハ)四宿也、とも見えたり、○三月云々以下を、舊本には放ち書り、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從て連書り、かくて三月七日は誤なるべし、二月廿四日に河内(ノ)離宮に幸して、同廿八日に難波(ノ)宮に傳(リ)幸したまへれば、廿五日より廿七日までの内に、國人が宅にて飲宴ありしなるべければなり、故(レ)昔に云(ハ)ば、三月は、同月なりしを、圖書滅失たるより、つひに傳寫せし人の、三月と見まがへて、ひががきせるならむ、同月は、上の二月朔とあるをうけつぎたれば、二月なり、かくて二十七日とありしを、二十の字を落し失ひしものならむか、二月廿七日ならば、さもあるべければなり、八歳丙申二月朔乙酉、云々傳2幸於難波(ノ)宮(ニ)1也、と云までは、其(ノ)行幸の綱《オホムネ》をいへる文なれば、立かへりて、同月廿七日云々、と其(ノ)目《コワリ》をいへりとせば、然《サ》もあるべきことなり、もし三月七日云々、と以後の事をいへりとせば、上の文うきて、屬《ツゞ》きがたきを思ふべし、○伎人郷は、クレノサト〔五字右○〕と訓べし、推古天皇(ノ)紀、天武天皇(ノ)紀に伎《クレノ》樂、職員令(ノ)義解に、伎樂(謂呉樂(ナリ))と見えたり、伎人《クレ》は、雄略天皇(ノ)紀に、呉(ノ)坂とある處にて、今|喜連《キレ》と云所なりと云り、續紀に、勝寶二年五月辛亥、京中|驟《シバ/\》雨《フリ》、水潦汎溢(セリ)、又|伎人《クレ》茨田《マムダ》等(ノ)堤《ツヽミ》往々《トコロ/\》決(439)壞(セリ)、○馬(ノ)史國人、(史(ノ)字、舊本になきは、落たるなり、下に出たるには、史(ノ)字あればなり、校異本に、馬國(ノ)間異有2史字1、とあり、)續紀に、寶字八年十月己丑、從六位上馬(ノ)※[田+比]登國人(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、神護元年十二月辛卯、右京人外從五位下馬(ノ)※[田+比]登國人賜2姓武生(ノ)連(ヲ)1、と見ゆ、(史を※[田+比]登と書しこと、同紀に、寶龜元年九月壬戌、令旨云々、又以去天平勝寶九歳、改2首史姓(ヲ)1、並(ニ)爲2※[田+比]登(ト)1、彼此難v分、氏族混雜、於v事不v穩、宜v從2本字(ニ)1、と見えたり、)
 
4457 須美乃江能《スミノエノ》。波麻末都我根乃《ハママツガネノ》。之多婆倍弖《シタバヘテ》。和我見流乎努能《ワガミルヲヌノ》。久佐奈加利曾根《クサナカリソネ》。
 
須美乃江能《スミノエノ》云々、此(ノ)飲宴を、上(ノ)件にいへるごとく、二月廿七日の事とせば、難波(ノ)宮へ幸したまはむの、あらましありしほどにて、即《ヤガテ》住吉に至《ユカ》むと思ふより、其(ノ)地の風趣《サマ》をとり出て序として、主人國人を愛む情を述たるなるべし、されば本(ノ)二句は序にて、下延《シタバヘ》をいはむ料のみなり、○之多婆倍弖《シタバヘテ》は、下延而《シタバヘテ》にて、心の下におもひ置をいふ詞なり、はやくあまた處に出たる詞なり、○歌(ノ)意は、又も訪(ヒ)來て、賞愛《メデウツクシミ》なむと心の下に思ひ置て、今面白く吾見る小野の草を、後いかで情《コヽロ》なく人の刈荒すことなかれ、といひて、國人が宅の垣内にちかき野原のけはひ、或は見わたしの勝景《ケシキ》などを賞て、主人國人を愛む意を、もたせたるにやあらむ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。
 
(440)4458 爾保杼里乃《ニホドリノ》。於吉奈我河波半《オキナガガハハ》。多延奴等母《タエヌトモ》。伎美爾可多良武《キミニカタラム》。己等都奇米也母《コトツキメヤモ》。
 
爾保杼里乃《ニホドリノ》は、枕詞なり、契冲云、にほ鳥は息の長くて、水の中に久しく堪てかづけば、かくはつゞけたり、又第十四東歌に、をかものもころやさかどりいきづくいも、とたとへよめるに准ずれば、にほの水を出て、ためたる息を衝(ク)が長き意にて、息長川ともつゞけたりとも聞ゆ、○於吉奈我河波《オキナガガハ》は、息長《オキナガ》河にて、近江(ノ)國坂田(ノ)郡にあり、十三に、師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅《シナタツツクマサヌカタオキナガノヲチノコスゲ》、とある歌に、委(ク)註せり、○歌(ノ)意は、世に絶まじき息長《オキナガ》河の水は、たとひ絶ることありとも、君に相語《カタラ》はむ言は、更に盡すまじ、さても愛しや、となり、十五に、和多都美乃宇美爾伊弖多流思可麻河泊多延無日爾許曾安我故非夜麻米《ワタツミノウミニイデタルシカマガハタエムヒニコソアガコヒヤマメ》、さて今の歌は、河内にて近江の地(ノ)名をいへるは、處につけてはよしなけれど、歌の意の時に應《カナ》へるを以て、古歌を誦《ヨミ》たるなるべし、○舊本此(ノ)歌の下に、古新未詳と註せるは、右にいふごとく、他國の地名をよめれば、古歌を誦たる歟、又は新《イマ》よみ出たる歟詳ならず、といふ意もて、後人の書入たるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主人散位寮散位馬史國人《アロジトネノツカサノトネウマノフミヒトクニヒト》。
 
散位寮散位は、トネノツカサノトネ〔九字右○〕と訓べし、續紀に、養老二年四月癸酉、内外散任免2雜徭(ヲ)1、職員令に、散位寮、頭一人、掌2散位(ノ)(謂文武(ノ)散位皆總(テ)掌(ル)之也、)名帳朝集(ノ)(謂諸國(ノ)朝集使皆於2此寮1判(ルナリ)2其(441)上日(ヲ)1也、)事(ヲ)1、助一人、允一人、大屬一人、少屬一人、史生六人、使部廿人、直丁二人、とあり、
 
4459 蘆苅爾《アシカルト》。保里江許具奈流《ホリエコグナル》。可治能於等波《カヂノオトハ》。於保美也比等能《オホミヤヒトノ》。未奈伎久麻泥爾《ミナキクマデニ》。
 
蘆苅爾、按に、爾は等の誤寫なるべし、蘆苅《アシカル》とての意なればなり、○未奈伎久麻泥爾《ミナキクマデニ》の下、言を含め餘したり、從駕の大宮人の皆盡(ニ)聞までに音高し、との意なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、三(ノ)卷に、大宮之内二手所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲《オホミノウチマデキコユアビキストアゴトヽノフルアマノヨビコヱ》、とよめるごとく、從駕の公卿の皆聞驚くまで、蘆苅とて、漕出づゝ行(ク)舟の※[楫+戈](ノ)音、高く聞ゆるさまをよめり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。式部少丞大伴宿禰池主讀《ノリノツカサノスナキマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシヨミアグ》之。即云《スナハチイヘラク》。兵部大丞大原眞人今城《ツハモノヽツカサノオホキマツリゴトヒトオホハラノマヒトイマキ》。先日他所讀歌者也《サキツヒアダシトコロニテヨミアゲシウタナリトイヘリ》。
 
池主、今城、共にこゝに出たる職、紀文に漏たり、○これは古人の歌なるを、先日今城がある所にて誦《トナヘ》つるを、池主の傳(ヘ)聞居て、今又時の興に、此所にて、誦《ヨミ》つるよしなり、○以上三首は、國人(ガ)家(ノ)宴(ノ)歌なり、以下三首は、同時の歌にあらず、二月廿八日、難波(ノ)宮に幸して後の歌なるべし、三月朔、太上天皇堀江(ノ)上に幸せるよし、續紀に見えたれば、其ほど從駕《ミトモツカ》へて作れしならむか、
 
4460 保利江己具《ホリエコグ》。伊豆手乃船乃《イヅテノフネノ》。可治都久米《カヂツクメ》。於等之婆多知奴《オトシバタチヌ》。美乎波也美加母《ミヲハヤミカモ》。
 
(442)伊豆手乃船《イヅテノフネ》、上に出たり、○可治都久米《カヂツクメ》は、中山(ノ)嚴水云、※[楫+戈]を船のつくへかけて、かなたこなたへ引うごかすを、都久牟流《ツクムル》といふべし、さてその※[楫+戈]をつくむるには、きしりて音の高く聞ゆる物なれば、音しば立ぬとはいへるなるべし、十八に、※[楫+戈]の音のつばら/\に、とあるも、※[楫+戈]のつくにきしりてなる音なるべし、と云るぞ宜しき、(本居氏(ノ)説に、久は夫の誤にて、ツブメ〔三字右○〕なり、十八に、かぢのおとのつばら/\、とあると同じく、つぶらつぶらとかぢの水にふるゝ音なり、と云れど、※[楫+戈]の水かく音は、さばかり高く聞ゆる物にはあらざればいかゞ、水かく音は、少し許(リ)隔りては聞えず、つくにきしりてなる音は、遠くも聞ゆるものなり、試みて知べし、)〔頭註、【今昔物語將門純友謀叛伏誅語に、將平も口をつぐみて退ぬ、】〕○於等之婆多知奴《オトシバタチヌ》は、音屡起《オトシバタチ》ぬにて、屡々《シバ/\》に音の起《た》つを云、○美乎波也美加母《ミヲハヤミカモ》は、水脈が早き故にかの意にて、母《モ》は歎息の辭なり、○歌(ノ)意かくれなし、七(ノ)卷に、佐夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨《サヨフケテホリエコグナルマツラブネカヂノトタカシミヲハヤミカモ》、
 
4461 保里江欲利《ホリエヨリ》。美乎左香能保流《ミヲサカノボル》。梶音乃《カヂノトノ》。麻奈久曾奈良波《マナクソナラハ》。古非之可利家留《コヒシカリケル》。
 
歌意、本は間無《マナク》といはむ料の序にて、奈良の都の、間無《マナ》く戀しく思はるゝよしなり、
 
4462 布奈藝保布《フナギホフ》。保利江乃可波乃《ホリエノカハノ》。美奈伎波爾《ミナキハニ》。伎爲都都奈久波《キヰツツナクハ》。美夜故杼里香蒙《ミヤコドリカモ》。
 
(443)布奈藝保布《フナギホフ》は、舟競《フナギホフ》なり、我(レ)先にと競《アラソヒ》て、漕(ギ)出(デ)漕(ギ)入(リ)するを云、一(ノ)卷に、船並※[氏/一]旦川渡《フネナメテアサカハワタリ》、舟競夕河渡《フナギホヒユフカハワタル》、とよめり、九(ノ)卷には、水門入爾船己具如久歸香具禮人乃言時《ミナトイリニフネコグゴトクユキカグレヒトノイフトキ》、とよみ、此(ノ)上には、安佐奈藝爾可治比伎能保里《アサナギニカヂヒキノボリ》、由布之保爾佐乎佐之久太理《ユフシホニサヲサシクダリ》、安治牟良能佐和伎伎保比弖《アヂムラノサワキキホヒテ》云々、とよめり、○美夜古杼里香蒙《ミコドリカモ》は、都鳥歟《ミヤニドリカ》にて、豪《モ》は歎息(ノ)辭なり、都鳥は、品物解に云、○歌(ノ)意は、ひまなく舟の競(ヒ)て出入るほり江に、居來つゝなくなるは、吾(ガ)戀しく思ふ都の名負る都鳥か、さてもめづらしや、となり、
 
右三首《ミギノミウタハ》。江邊作《エノベニテヨメル》之。
 
三首の下に、月日のありしが、寫すとき脱せしなるべし、或は三月朔とありしを、落せるものか、契冲云、三首ともに家持の歌なり、第十九(ニ)云、但此(ノ)卷中不v稱2作者(ノ)名字1、徒(ニ)録2年月所處縁起(ヲ)1者、皆大伴(ノ)宿禰家持裁作(セル)歌詞也、これは十九(ノ)卷にかぎりていひたれど、准じて知べし、
 
4463 保等登藝須《ホトトギス》。麻豆奈久安佐氣《マヅナクアサケ》。伊可爾世婆《イカニセバ》。和我加度須疑自《ワガカドスギジ》。可多利都具麻※[泥/土]《カタリツグマデ》。
 
麻豆奈久安佐氣《マヅナクアサケ》は、先鳴朝開《マヅナクアサケ》なり、先《マヅ》とは、俗に先(ヅ)一(チ)番に、といふ意なり、先開花《マヅサクハナ》の先《マヅ》に同じ、古今集に、つらき人より先《マd》超《コエ》じとて、とある先《マヅ》も同じ意なり、さて上(ノ)件の布奈藝保布《フナギホフ》云々の歌まで三首は、皆さきによめるなり、或は三月朔に作るにもあるべし、此(ノ)歌と次なるとは、左に(444)二十日と記したるは、右の左註に、三首とある下に、月日を失へるにて、其は思ふに、右にいへるごとく、三月朔などありしなるべければ、其(ノ)三月と云をうけつぎて、三月廿日に、自(ラ)の家にてよめるなり、さて三月廿日に、此(ノ)鳥の鳴は、いと早くてめづらしければ、殊更に珍重《オモシロ》みせられたるなり、○歌(ノ)意は、此(ノ)朝開《アサケ》、霍公鳥の先(ヅ)一(チ)番に、來鳴初音のめづらかなるを、いかで友人にも告知せて、人皆も聞(キ)に來るまで、吾(ガ)門を過ずして、猶鳴やうには、いかにしてか留め得まし、とい へるなり、
 
4464 保等登藝須《ホトトギス》。可氣都都伎美我《カケツツキミヲ》。麻都可氣爾《マツカゲニ》。比毛等伎佐久流《ヒモトキサクル》。都奇知可都伎奴《ツキチカヅキヌ》。
 
可氣都都伎美我とは、可氣都々《カケツヽ》は、此(ノ)上に、富等登藝須《ホトトギス》云々|可氣都都母等奈《カケツツモトナ》、とあるに同じく、霍公鳥の鳴を心に懸乍《カケツヽ》なり、伎美我《キミヲ》は、たゞ松《マツ》をいはむ料に、設て云りと聞えたり、集中に、君松樹《キミマツノキ》、嬬松樹《ツママツノキ》などよめるが如し、但し、その君松《キミマツ》、嬬松《ツママツ》、などよめるは、君を待、妻を待(ツ)と云意なるに、君我《キミガ》と云ては理(リ)わろし、按(フ)に、我(ノ)字は、※[乎の草書]の草書を※[我の草書]と見て誤れるにはあらざるべきか、君乎《キミヲ》と云ときは、こゝに能(ク)かなひて聞ゆるなり、○歌(ノ)意は、霍公鳥の鳴音を心に懸つゝ、松陰に紐解(キ)放て、納凉《スヾミ》する時の間近く成ぬるよ、となり、
 
右二首《ミギノフタウタハ》。二十日《ハツカノヒ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチ》依《ツケテ》v興《コトニ》作《ヨメル》之。
 
(445)二十日は、三月二十日なること、上にいへるごとし、
 
喩《サトス》v族《ヤガラヲ》歌一首并短歌《ウタヒトツマタミジカウタ》。
 
喩は、玉篇に、曉《サトス》也、とあり、○并(ノ)字、舊本弁に誤れり、
 
4465 比左加多能《ヒサカタノ》。安麻能刀比良伎《アマノトヒラキ》。多可知保乃《タカチホノ》。多氣爾阿毛理之《タケニアモリシ》。須賣呂伎能《スメロキノ》。可未能御代欲利《カミノミヨヨリ》。波自由美乎《ハジユミヲ》。多爾藝利母多之《タニギリモタシ》。麻可胡也乎《マカコヤヲ》。多婆左美蘇倍弖《タハサミソヘテ》。於保久米能《オホクメノ》。麻須良多祁乎乎《マスラタケヲヲ》。佐吉爾多弖《サキニタテ》。由伎登利於保世《ユキトリオホセ》。山河乎《ヤマカハヲ》。伊波禰左久美弖《イハネサクミテ》。布美等保利《フミトホリ》。久爾麻藝之都都《クニマギシツツ》。知波夜夫流《チハヤブル》。神乎許等牟氣《カミヲコトムケ》。麻都呂倍奴《マツロヘヌ》。比等乎母夜波之《ヒトヲモヤハシ》。波吉伎欲米《ハキキヨメ》。都可倍麻都里弖《ツカヘマツリテ》。安吉豆之萬《アキヅシマ》。夜萬登能久爾乃《ヤマトノクニノ》。可之波良能《カシバラノ》。宇禰備乃宮爾《ウネビノミヤニ》。美也婆之良《ミヤバシラ》。布刀之利多弖※[氏/一]《フトシリタテテ》。安米能之多《アメノシタ》。之良志賣之祁流《シラシメシケル》。須賣呂伎能《スメロキノ》。安麻能日繼等《アマノヒツギト》。都藝弖久流《ツギテクル》。伎美能御代御代《キミノミヨミヨ》。加久左波奴《カクサハヌ》。安加吉許己呂乎《アカキココロヲ》。須賣良弊爾《スメラヘニ》。伎波米都久之弖《キハメツクシテ》。都加倍久流《ツカヘクル》。於夜能都可佐等《オヤノツカサト》。許等太弖※[氏/一]《コトダテテ》。佐豆氣多麻敝流《サヅケタマヘル》。宇美乃古能《ウミノコノ》。伊也都藝都岐爾《イヤツギツギニ》。美流比等乃《ミルヒトノ》。可多里都藝弖※[氏/一]《カタリツギテテ》。伎久比等能《キクヒトノ》。可我見爾世武乎《カガミニセムヲ》。安多良之伎《アタラシキ》。吉用伎曾乃名曾《キヨキソノナゾ》。於煩呂加爾《オホロカニ》。己許呂於母比弖《ココロオモヒテ》。牟奈許等母《ムナコトモ》。於夜乃名多都奈《オヤノナタツナ》。大伴乃《オホトモノ》。宇治等名爾於敝流《ウヂトナニオヘル》。麻須良乎能等(446)母《マスラヲノトモ》。
 
安麻能刀比良伎《アマノトヒラキ》は、天之戸開《アマノトヒラキ》なり、神代紀一書に、高皇産靈(ノ)尊、以2眞床覆衾(ヲ)1、※[果/衣](ミテ)2天津彦國光彦火(ノ)瓊々杵(ノ)尊(ヲ)1、則|引2開《ヒキヒラキ》天磐戸《アマノイハトヲ》1、拝2分《オシワケテ》天八重雲《アメノヤヘクモヲ》1、以奉降之《アマクダシマツリキ》云々、とある、是なり、○多可知保乃多氣《タカチホノタケ》は、古事記に、故爾詔2天津日子番能邇々藝之命(ニ)1、而|離《ハナレ》2天之石位《アメノイハクラ》1、押2分《オシワケ》天之八重多那雲《アメノヤヘタナクモヲ》1、而|伊都能知和岐知和岐※[氏/一]《イツノチワキチワキテ》、於《ニ》2天浮橋《アメノウキハシ》1宇岐士摩理蘇理多多斯※[氏/一]《ウキジマリソリタタシテ》、天2降坐《アモリマシキ》于|筑紫日向之高千穗之久士布流多氣《ツクシノヒムカノタカチホノクシブルタケニ》1、書紀に、皇孫《スメミマ》乃|離《ハナレ》2天磐座《アメノイハクラ》1、且|排2分《オシワケテ》天八重雲《アメノヤヘクモヲ》1、稜威之道別道別而《イツノチワキニチワキテ》、天2降《アモリマシキ》於|日向襲之高千穗峰《ヒムカノソノタカチホノタケニ》1矣、日向(ノ)國風土記に、臼杵(ノ)郡千鋪(ノ)郷、天孫|降臨時《アモラシヽトキ》、雲霧冥晦《クモキリクラクテ》、不《ズ》v辨2《ミモワカ》物色《モノヽイロ》1、天孫乃|拔《ヌキテ》2稻穗《イナホヲ》1散3之《チラシタマヒシカバ》四方《ヨモニ》1、忽開晴《タチマチニハレユキヽ》、因是《カレ》名2曰《ナヅケテ》千穗《チホノ》峯(トハ)1、和名抄に、臼杵(ノ)郡|智保《チホ》、○阿毛理《アモリ》は、天降《アメオリ》なり、二(ノ)卷よりはじめて往往《トコロドコロ》見えたり、○須賣呂伎能《スメロキノ》云々、邇々藝(ノ)命を指(シ)申せり、○波自由美《ハジユミ》、麻可胡也《マカコヤ》は、梔弓《ハジユミ》、眞鹿兒矢《マカコヤ》なり、古事記右に引文のつゞきに、故爾天(ノ)忍日(ノ)命、天津久米(ノ)命二人|取2負《トリオヒ》天之石靱《アメノイハユキヲ》1、取2佩《トリハキ》頭椎之大刀《クブツチノタチヲ》1、取2持《トリモチ》天之波士弓《アメノハジユミヲ》1、手2挾《タバサミ》天之眞鹿兒矢《アメノマカコヤヲ》1、立《タチ》2御前《ミサキニ》1而《テ》仕奉《ツカヘマツリキ》、故(レ)其(ノ)天(ノ)忍日(ノ)命、(此者大伴(ノ)連等之祖)天津久米(ノ)命(此者久米(ノ)直等之祖也、)云々、書紀には、手《テニハ》捉《トリテ》2天梔弓天羽羽矢《アメノハジユミアメノハハヤヲ》1云々、(梔此云2波茸(ト)1、)とあり、狗此等の事、本居氏、古事記傳に詳なり、○於保久米能《オホクメノ》云々、佐吉爾多弖《サキニタテ》は、上に引(ク)書紀一書の文のつゞきに、于時大伴連遠祖天(ノ)忍日(ノ)命、帥(ヰテ)2來目部(ノ)遠祖天(ノ)※[木+患]津大來目(ヲ)1云々、とあるをはじめて、神武天皇(ノ)卷に、是(ノ)時大伴氏之遠祖日(ノ)臣(ノ)命、帥(ヰテ)2大來目(ヲ)1督2將《キミトナリ》元戎《イクサノ》1、蹈《フミシ》v山《ヤマ》啓《ヒラキ》v行《ミチヲ》云々、又|初《ムカシ》天皇|草2(447)創《シロシメシヽ》天基《アマツヒツギ》1之|日《トキ》也、大伴氏之遠祖道(ノ)臣(ノ)命、帥(ヰテ)2大來目部(ヲ)1奉2承《ウケタマハリ》密策《シヌビノオホミコトヲ》1、以《モチテ》2諷歌倒語《シヘウタサカシマゴト》1、掃2蕩《ハラヒキ》妖氣《マカコトヲ》1、などある意にて、帥る所の大來目部を前に立て、平國《クニムケ》の功勲《イサヲ》を立しをいへるなり、十八に、大伴能遠津神祖乃《オホトモノトホツカムオヤノ》、其名乎婆大來目主登《ソノナヲバオホクメヌシト》、於比母知弖都加倍之官《オヒモチテツカヘシツカサ》云々、とあるも同意にて、大來目部を司る故に、即(チ)大來目主《オホクメヌシ》と稱しなり、大伴氏遠祖等の號を、世に大來目主《オホクメヌシ》と負持せ稱呼《ヨビナセ》る謂《ヨシ》など、委くは十八上に、云るを考(ヘ)合(ス)べし、○由伎登利於保世《ユキトリオホセ》は、靭取《ユキトリ》令《セ》v負《オホ》なり、姓氏録に、大伴(ノ)宿禰(ハ)高皇産靈(ノ)尊五世(ノ)孫、天(ノ)押日(ノ)命之後也、初天孫彦火(ノ)瓊々杵(ノ)尊、神駕之降《アマクダリタマヒシトキ》也、天(ノ)押日(ノ)命、大來目部(ヲヰテ》立2於御前1、降2于日向(ノ)高千穗(ノ)峯(ニ)1、然後以2大來目部(ヲ)1爲2天(ノ)靭負部(ト)1、靭負部之號起2於(ニ)此1也、雄略天皇(ノ)御代、以2天(ノ)靭負(ヲ)1、賜2大連(ノ)公(ニ)1、奏曰、衛門開闔之務、於v職已重、若(シ)有2一身難(キコト)1v堪、望與2愚兒語1相伴(テ)、奉v衛2左右(ヲ)1、勅依v奏(ニ)、是大伴佐伯二氏、掌2左右(ノ)開闔(ヲ)1之縁也、(これは、天押日(ノ)命帥2大來目部(ヲ)1、とありしが、帥(ノ)字の落たるなるべし、)と見えたり、○伊波禰左久美弖《イハネサクミテ》は、二(ノ)卷以下にかた/”\見えたり、○久爾麻藝之都都《クニマギシツツ》は、覓《マギ》v國《クニ》爲乍《シツヽ》なり、神代紀に、※[旅/肉]宍之空地《ソシヽノムナクニヲ》自(カラ)2頓丘(カヒタヲ)1覓國行去《クニマギトホリテ》云々、(覓國此云2矩貳磨儀《クニマギト》1、)○許等牟氣《コトムケ》は、古事記に、言趣とも、言向ともかけり、言(ノ)意は、本居氏古事記傳(ニ)云、言は(借(リ)字)事にて、事依《コトヨセ》事避《コトサケ》などの事《コト》と同じ、牟氣《ムケ》は、牟加世《ムカセ》にて、(加世《カセ》は氣《ケ》と切(ル)、)背《ソム》ける者を、此方へ令《スル》v向《ムカ》意の言なり、平(ノ)字を書て、牟氣《ムケ》とのみも云り、此方へ向(ク)は、即(チ)歸服《シタガフ》なり、○麻都呂倍奴は、倍は波の誤にて、不《ヌ》2服從《マツロハ》1なり、二(ノ)卷に不奉仕《マツロハヌ》、とあり、猶彼處に委(ク)註り、○比等乎母夜波之《ヒトヲモヤハシ》は、人をも令《シ》(448)v和《ヤハ》なり、服從《マツロハ》ず荒ぶる人をも、和《ヤハ》らぎ奉仕《ツカヘマツラ》しむる意なり、二(ノ)卷に、人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》、祝詞に、言直志和志《コトナホシヤハシ》(古語(ニ)云2夜波志《ヤハシト》1、)坐※[氏/一]《マシテ》云々、などあり、○波吉伎欲米《ハキキヨメ》は、掃清《ハキキヨメ》なり、○都可倍麻都里弖《ツカヘマツリテ》は、奉《マツリ》v仕《ツカヘ》而《テ》なり、已上、邇々藝(ノ)命の天降座し時よりはじめて、神武天皇の始馭天下《ハツクニシラシ》しまで、大伴氏の遠祖の、代々事ある毎に、武(キ)事《ワザ》をもて、平國《クニムケ》の事に功勲《イサヲ》ありしことを述たり、(しかるを、諸註、以上を、忍日(ノ)命の神代に功勲ありしことをいひ、已下を、神武天皇の時の事をいへり、とせるは、たがへることなり、上に皇祖《スメロキ》の神の御代より、とあるからは、神代の事のみに限るべからず、皇孫天降の時よりはじめて、神武天皇の御代までの事を兼て、いへること著きをや、○可之婆良能《カシバラノ》云々、古事記神武天皇(ノ)條に、故(レ)如《ゴト》v此《カクノ》言2向平和《コトムケヤハシ》荒夫琉神等《アラブルカミタチヲ》1、退2撥《ハラヒタヒラケタマヒ》不伏人等《マツロハヌヒトドモヲ》1而《テ》、坐(テ)2畝火之白梼原宮《ウネビノカシバラノミヤニ》1、治《シロシメシキ》2天下《アメノシタ》1、也云々、なほ書紀に詳なり、○美也婆之良《ミヤバシラ》云々、神武天皇(ノ)紀に、古語(ニ)稱d之《マヲシキ》曰|於《ニ》2畝傍之橿原《ウネビノカシバラ》1也、太2立宮柱《ミヤバシラフトシキタテ》於|底磐之根《ソコツイハネニ》1、峻2峙搏風《チギカタシリテ》於|高天之原《タカマノハラニ》1、而|始馭天下之天皇《ハツクニシラシヽスメラミコト》u、云々、○布刀之利多弖※[氏/一]《フトシリタテテ》は、太知立而《フトシリタテテ》にて、知《シリ》は、領《シリ》給ふ意なり、太敷《フトシキ》と云とは、言は異なれども、いひもて行ば、同じ意に落めり、高知《タカシリ》、高敷《タカシキ》など云を考(ヘ)合(ス)べし、○安麻能日繼等《アマノヒツギト》は、天之日嗣《アマノヒツギ》としての意なり、御代御代《ミヨミヨ》の天皇を申せり、○都藝弖久流《ツギテクル》は、次來《ツギテクル》なり、次第《ツギテ》の隨《マヽ》に繼(キ)來るよしなり、(繼而來《ツギテクル》と云にはあらず、弖《テ》は、而(ノ)字の意とはたがへり、)中昔以來の詞にていはゞ、ついでくる、と云ことなり、次下の可多里都藝弖々《カタリツギテヽ》も、ついでゝの意にて同じ、なほ此事、前に既く委(ク)註り、○加(449)久佐波奴《カクサハヌ》は、不《ヌ》v隱《カクサハ》なり、本居氏、カクス〔三字右○〕を、古言に延てカクサフ〔四字右○〕と云故に、カクサヌ〔四字右○〕をカクサハヌ〔五字右○〕とはいふなり、といへり、按(フ)に、これ事を緩にいひて宜しき處なるが故に、伸ていへるなり、(無用に、心まかせに伸縮したるにはあらず、)○安加吉許己呂《アカキココロ》は、赤心《アカキコヽロ》なり、赤《アカ》と明《アカ》と通ひて同じ、忠誠にして、黒心なき意なり、○須賣良弊爾《スメラヘニ》は、皇方《スメラヘ》になり、天皇の邊になり、十八に、大皇乃敝爾許曾死米《オホキミノヘニコソシナメ》、とよめるに同じ、○都加倍久流《ツカヘクル》は、仕來《ツカヘク》るにて、遠祖より繼々《ツギ/\》に、今も奉《マツル》v任《ツカヘ》意なり、(仕《ツカ》へ來しと云とは異なり、仕へ來しにては、今まで奉《マツリ》v仕《ツカヘ》來し謂にて、今より後は、然るも然らぬも、未(ダ)定らぬ意となるなり、これにても、古(ヘ)人の詞づかひの精《クハ》しきを思ふべし、)○於夜能都可佐等《オヤノツカサト》は、遠祖よりの職業《ツカサ》と、と云なり、忍日(ノ)命、道(ノ)臣(ノ)命以來、景行天皇(ノ)紀に、四十年秋七月癸末朔戊戌云々、日本武(ノ)尊|雄誥之曰《ヲタケビシタマハク》云々、今更東夷叛之、臣雖v勞(ケ)之頓(ニ)平(ム)2其(ノ)亂(ヲ)1云々、天皇則命(シテ)3吉備(ノ)武彦(ト)與(ニ)2大伴(ノ)武日(ノ)連1、令v從2日本武(ノ)尊(ニ)1云々、冬十月壬子朔癸丑、日本武(ノ)尊|發路《ミチダチシタマフ》之云々、至(テ)2甲斐(ノ)國(ニ)1、居2于酒折(ノ)宮(ニ)1云々、則居2是(ノ)宮(ニ)1、以2靫部(ヲ)1、賜2大伴(ノ)連之遠祖武日(ニ)1也、と見え、その後、大伴(ノ)室屋(ノ)大連、大伴(ノ)金村(ノ)連をはじめて、代々|忠功人《イソシヒト》相續けり、○許等太弖※[氏/一]《コトダテテ》は、事立而《コトダテテ》なり、古事記仁徳天皇(ノ)條に、其(ノ)大后石之日賣(ノ)命、甚多嫉妬《イタクウハナリネタミマシキ》、故(レ)天皇(ノ)所使《ツカハス》之|妾者《ミメタチハ》、不《ズ》v得2臨《エノゾカ》宮中《ミヤノウチヲ》1、言立者足母阿賀迦邇嫉妬《コトダテハアシモアガカニネタミマシキ》、續紀四(ノ)卷(ノ)詔に、天皇御世御世《スメラガミヨミヨ》、天豆日嗣止高御座爾坐而《アマツヒツギトタカミクラニマシテ》、此食國天下乎撫腸比慈賜事者《コノヲスクニアメノシタヲナデタマヒメグミタマフコトハ》、辭立不v在《コトダツニアラズ》、人祖乃意能賀弱兒乎養治事乃如久《ヒトノオヤノオノガワクゴヲヤシナヒヒタスコトノゴトク》、治賜比慈賜來葉止奈母《ヲサメタマヒメグミタマヒクルワザトナモ》、隨神所念行須《カムナガラオモホシメス》、十(ノ)卷詔(450)に、又《マタ》於《ニ》2天下政《アメノシタノマツリコト》1置而獨知倍伎物不有《オキテヒトリシルベキモノナラズ》、必母斯理幣能政有倍之《カナラズモシリヘノマツリコトアルベシ》、此者事立爾不有《コハコトダテニアラズ》、天爾日月在如《アメニヒツキアルゴト》、地爾山川有如《ツチニヤマカハアルゴト》、並坐而《ナラビマシテ》云々、十七詔に、云々|事立不有《コトタツニアラズ》云々、伊勢物語に、正月なれば、事立とて、大御酒《オホミキ》賜ひけり、などあるを、合せて考(フ)るに、平常《ツネ》ならぬ、異なる事するを事立《コトダツ》と云なり、と本居氏云り、○宇美乃古《ウミノコ》は、生之子《ウミノコ》にて、子々孫々の意なり、書紀に、子孫をウミノコ〔四字右○〕とよめるが如し、○可多里都藝弖※[氏/一]《カタリツギテテ》は、語次而《カタリヅギテ》なり、次第々々に語り繼ての意なり、次第《ツギテ》を、都藝※[氏/一]々《ツギテヽ》と用《ハタラ》かしいふは、掟を於伎※[氏/一]々《オキテヽ》といふに同格なり、つれ/”\草にも、高名の木のぼりといひし男、人をおきてゝ、たかき木にのぼせて、梢をきらせしに云々、とある、このおきてゝ、掟而《オキテテ》にて同格なり、○可我見爾世武乎《カガミニセムヲ》は、※[臨/金]《カヾミ》に爲むをなり、十六竹取(ノ)翁(ノ)長歌に、後之世之堅監將爲迹《ノチノヨノカヾミニセムト》、とあり、(から籍貞觀政要に、以v古爲v鏡、可v知2興替(ヲ)1、以v人爲v鏡、可v知2得失(ヲ)1、とあり、)○安多良之伎《アタラシキ》は、惜《アタラシ》きなり、穢し絶さむは惜き、と云義なり、(略解に、愛《メデタ》きよしに説るはたがへり、)○吉用伎曾乃名曾《キヨキソノナソ》は、すこしも穢れぬよしなり、(以上二句を、拾穗本には、吉用良之伎宅眞爾茂世武乎《キヨラシキタマニモセムヲ》、安加良之伎都流藝刀倶倍之《アカラシキツルギトグベシ》、伊爾之敝由安多良曾乃名曾《イニシヘユアタラソノナソ》、の六句と作り、今用ず、)○於煩呂加《オホロカ》は、大呂加《オホロカ》にて、呂《ロ》は、そへことば、加《カ》は、遙《ハルカ》、暖《アタヽカ》などの加《カ》にて、其(ノ)さまをいふ辭なり、大《オホ》は、細《コマカ》に精《クハ》しからぬを云詞にて、大《オホ》よそ、大方《オホカタ》など多くいふ大《オホ》にて、疎々《アラ/\》しき謂《ヨシ》なり、(俗に、大《オホ》ぐくり、大《オホ》さばきなど云|大《オホ》も同じ、)○牟奈計等《ムナコト》は、虚言《ムナコト》なり、此(ノ)言の事、既く委(ク)註り、左註に、縁2淡海(ノ)眞人三船(ガ)讒言(ニ)1云(451)云、とある、讒言は、無實言《ムナコト》なれども、さる實無《ミナ》き言にも、先祖《オヤ》の名を穢さぬやうに、心しらひをせよ、といふ意に、いひ下したり、○於夜乃名多都奈《オヤノナタツナ》は、遠祖之名《オヤノナ》を勿《ナ》v斷《タツ》なり、○大伴乃《オホトモノ》云々、先祖より代々、忠功《イサヲ》すぐれたる、大伴氏と、名に負たる健男《マスラヲ》の伴《トモ》よ、と古慈悲を教喩《ヲシヘサト》したるなり、
 
反歌《カヘシウタ》。
 
反歌の二字、舊本にはなし、拾穗本、古寫小本等に從つ、
 
4466 之奇志麻乃《シキシマノ》。夜末等能久爾爾《ヤマトノクニニ》。安伎良氣伎《アキラケキ》。名爾於布等毛能乎《ナニオフトモノヲ》。己許呂都刀米與《ココロツトメヨ》。
 
氣伎の伎を、古寫小本には久と作り、○歌(ノ)意、海内《アメノシタ》にあるが中にも、大伴氏は先祖より明けき清き名を負(ヒ)持(チ)來たる伴の緒ぞ、心を勵《ハゲマ》し勤《ツト》めて、忠功を立よ、となり、
 
4467 都流藝多知《ツルギタチ》。伊與餘刀具倍之《イヨヨトグベシ》。伊爾之敝由《イニシヘユ》。佐夜氣久於比弖《サヤケクオヒテ》。伎爾之曾乃名曾《キニシソノナソ》。
 
都流藝多知《ツルギタチ》は、まくら詞にて、研《トグ》をいはむ料なり、十三にも、劔刀磨之心乎《ツルギタチトギシコヽロヲ》、天雲爾念散之《アマクモニオモヒハフラシ》云々、とあり、○歌(ノ)意は、上古より大伴氏の名を汚《ケガ》し腐《クタ》すことなく、天(ノ)下に名高く、先祖より清明に負持來にし其(ノ)名ぞ、彌益《イヨ/\マス/\》精神《タマシヒ》を研《トギ》て、忠勤を勵ませよ、となり、
 
右《ミギ》緑《ヨリテ》2淡海眞人三船讒言《アフミノマヒトミフネガヨコセシニ》1。出雲守大伴古慈斐宿禰《イヅモノカミオホトモノコジヒノスクネ》解《トケヌ》v任《ツカサ》。是以家持《カレヤカモチ》作《ヨメリ》2此(452)歌《コノウタヲ》1也。
 
淡海(ノ)眞人三船、續紀に、勝寶三年正月辛亥、賜2無位御船(ノ)王(ニ)淡海(ノ)眞人(ノ)姓(ヲ)1、八年五月癸亥、出雲(ノ)國(ノ)守從四位上大伴(ノ)宿禰古慈斐、内豎淡海(ノ)眞人三船、坐(テ)d誹2謗朝廷(ヲ)無(ニ)c人臣之禮u、禁(セラル)2於左右衛士府(ニ)1、丙寅、詔(シテ)並放免(ス)、寶字四年正月癸未、尾張(ノ)介正六位上淡海(ノ)眞人三船(ヲ)爲2山陰道(ノ)使(ト)1、五年正月戊子、正六位上淡海(ノ)眞人御船(ニ)授2從五位下(ヲ)1、同月壬寅、爲2參河(ノ)守(ト)1、六年正月戊子、爲2文部(ノ)少輔(ト)1(式部)、八年八月己巳、爲2美作(ノ)守(ト)1、同九月丙午、授2正五位上(ヲ)1、神護二年二月丁未、賜2功田二十町(ヲ)1、同九月丙子、爲2東山道(ノ)使(ト)1、景雲元年三月己巳、爲2兵部(ノ)大輔(ト)1、六月癸未、勅(ス)、東山道(ノ)巡察使正五位上行兵部(ノ)大輔兼侍從勲三等淡海眞人三船云々、宜d解2見任(ヲ)1用懲c將來(ヲ)u、八月丙午、爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、寶龜二年七月丁未、爲2刑部(ノ)大輔(ト)1、三年四月庚午、大學(ノ)頭正五位上淡海(ノ)眞人三船爲2兼文章博士(ト)1、八年正月戊寅、爲2大判事(ト)1、九年二月庚子、爲2大學(ノ)頭(ト)1、十一年二月壬戌、授2從四位下(ヲ)1、天應元年十月己丑、爲2大學(ノ)頭(ト)1、延暦元年八月乙亥、爲2兼因幡(ノ)守(ト)1、文章(ノ)博士如v故、三年四月壬寅、爲刑部(ノ)大輔(ト)1、大學(ノ)頭因幡(ノ)守如v故、四年七月庚戌、刑部卿從四位下兼因幡(ノ)守淡海(ノ)眞人三船卒(ス)、三船(ハ)、大友親王之曾孫也、祖(ハ)葛野(ノ)王正四位上式部(ノ)卿、父(ハ)池邊(ノ)王從五位上内匠(ノ)頭(ナリ)、三船性識聽敏、渉2覽群書(ニ)1尤好2華札(ヲ)1、寶字元年、賜2姓淡海(ノ)眞人(ヲ)1、起v家(ヲ)、拜2式部(ノ)少丞(ニ)1、累(ニ)遷(テ)寶字中授2從五位下(ヲ)1、歴2式部(ノ)少輔參河美作(ノ)守(ヲ)1、八年、被v宛2造池使(ニ)1、往2近江(ノ)國(ニ)1、修2造陂池(ヲ)1、時惠美仲麻呂、適v自2宇治1、走(テ)據2近江(ニ)1、先遣2使者(ヲ)1調2發(セシム)兵馬(ヲ)1、三船在2勢多(ニ)1、與2使判官佐伯(ノ)宿(453)禰三野1共(ニ)捉2縛賊使及同惡之徒(ヲ)1、尋將軍日下部(ノ)宿禰子麻呂、佐伯(ノ)宿禰伊達等、率2數百騎(ヲ)1而至、燒2斷勢多(ノ)橋(ヲ)1、以故賊不v得v渡v江(ヲ)、奔2高島(ノ)郡(ニ)1、以v功(ヲ)授2正五位上勲三等(ヲ)1、除2近江(ノ)介(ヲ)1遷2中務(ノ)大輔兼侍從(ニ)1、尋補2東山道(ノ)巡察使(ニ)1、出(テ)而採2訪事1竟復奏、昇降不v慥(ナラ)、頗乖2朝旨(ニ)1、有v勅譴責之、出(テ)爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、遷2刑部(ノ)大輔(ニ)1、歴2大判事大學頭兼文章(ノ)博士(ヲ)1、寶龜末授2從四位下1、拜2刑部(ノ)卿兼因幡(ノ)守(ニ)1、卒時年六十四、と見えたり、○縁三船讒言云々、契冲云く、續紀によれば、勝寶八歳五月に、古慈悲も三船も共に罪有て、左右衛士(ノ)府に禁ぜらると見えたるを、こゝにはいかで三船の讒言にて、古慈悲は任を解るとかゝれけむ、知がたし、○悲(ノ)字、古寫本には裴、拾穗本には斐と作り、
 
臥病《ヤミテ》悲《カナシミ》v無《ナキヲ》v常《ツネ》。欲《シテ》2修道《オコナヒセマク》1作歌二首《ヨメルウタフタツ》。
 
修道、欽明天皇(ノ)紀に、出家修道《イヘデシテオコナヒセム》、とあり、
 
4468 宇都世美波《ウツセミハ》。加受奈吉身奈利《カズナキミナリ》。夜麻加波乃《ヤマカハノ》。佐夜氣吉見都都《サヤケキミツツ》。美知乎多豆禰奈《ミチヲタヅネナ》。
 
本(ノ)二句は、既く十七にも見えたり、現在の人の身は、いくばくの年の數も無(キ)をいふなるべし、○第三四(ノ)句は、本性清淨の理にたとへたり、と契冲いへり、本性清淨とは、佛説に、悉有2佛性1、とて、人(ノ)身はもとより、清淨の本性に生れ得て居るを云ことゝぞ、○歌(ノ)意は、人間無常の身なれば、しばしもおもひのどむべきにあらず、もとより悉有2佛性1と云人(ノ)身に生れ得て居るもの(454)なれば、煩腦におほはされず、凡夫のけがれをはなれさりて、本性清淨の佛理に立かへりみがきて、早く修道せむ、と急ぎ進めるなり、
 
4469 和多流日能《ワタルヒノ》。加氣爾伎保比弖《カゲニキホヒテ》。多豆禰弖奈《タヅネテナ》。伎欲吉曾能美知《キヨキソノミチ》。末多母安波無多米《マタモアハムタメ》。
 
本(ノ)二句は、光陰を惜み、競ふをいふなるべし、契冲、南史(ニ)陶侃云、大禹之聖人而惜2寸陰(ヲ)1、至(テハ)2於凡人(ニ)1可(シ)v惜(ム)2分陰(ヲ)1、とあるを引たる、其(ノ)意なり、○末多母安波無多米《マタモアハムタメ》は、契冲、生々世々値遇せむことを願へり、人身難(シ)v得、佛道難(シ)v會、といへり、○歌(ノ)意は、按に悉有2佛性1とて、もとより清淨の本性を受得て、生れ來りし此(ノ)身なれば、よし今はしばし、煩腦の雲におほはされてありとも、其をみがき清めて、又も本來の清淨の佛性にあはむがために、光陰を惜み競て、早く清淨の道を尋て修行せむと、急ぎ進めるなるべし、
 
願《ネガヒテ》v壽《イノチヲ》作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
4470 美都煩奈須《ミツボナス》。可禮流身曾等波《カレルミソトハ》。之禮禮杼母《シレレドモ》。奈保之禰我比都《ナホシネガヒツ》。知等世能伊乃知乎《チトセノイノチヲ》。
 
美都煩奈須《ミツボナス》は、如《ナス》2泡沫《ミツボ》1なり、五(ノ)卷に、水沫奈須《ミナワナス》云々、とあるに同じ、美都保《ミツボ》は、水粒《ミツボ》にて、泡沫の別名なり、粒《ツボ》は穀粒《コメツボ》の粒《ツボ》にて、泡沫《アワ》は、水の粒立るものなれば、かくいへり、古事記に、海水之|都夫(455)多都時《ツブタツトキ》、とある都夫《ツブ》に同じ、さてこゝは、佛籍に、人身を泡沫にたとへたるによりて、よめるものなり、金剛般若經に、一切有爲(ノ)法、如2夢幻泡影(ノ)1、如v露(ノ)亦如v電(ノ)、應v作2如是觀(ヲ)1、とあり、○可禮流身曾等波《カレルミソトハ》は、假有《カレル》身ぞとはなり、三(ノ)卷に、打蝉乃借有身在者《ウツセミノカルルミナレバ》、とよめるに同じ、十一に、月草之借有命在人乎《ツキクサノカリナルイノチナルヒトヲ》云々、ともあり、假合の身のはかなきことをいへるなり、以上は、五(ノ)卷、憶良(ノ)大夫、和d爲2熊凝1述c其志u歌の序に、假合之身易v滅、泡沫之命難(シ)v駐(メ)、とかゝれたるも同意なり、○我(ノ)字、舊本には可と作り、今は元暦本に從つ、○歌(ノ)意、佛經にも説れたるごとくに、假合泡沫のはかなき身ぞとは知ながら、猶貪生の凡情は離れ難くして、千歳の壽を、一(ト)すぢに願ひつるとなり、五(ノ)卷憶良大夫(ノ)歌に、水沫奈須微命母拷繩能千尋爾母何等慕久良志都《ミナワナスモロキイノチモタクナハノチヒロニモガトネガヒクラシツ》、倭文手纏數母不在身爾波在等千年爾母何等意母保由留加母《シツタマキカズニモアラヌミニハアレドチトセニモガトオモホユルカモ》、などある、今の歌(ノ)意に似たり、
 
以前歌六首《カミノムウタハ》。六月十七日《ミナツキノトヲカマリナヌカノヒ》。大伴宿爾家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
冬十二月五日夜《シモツキノイツカノヒノヨ》。少雷起鳴《カミナリ》。雪落覆庭《ユキフレリ》。忽懷感憐聊作短歌一首《カナシミテヨメルミジカウタヒトツ》。
 
少(ノ)字、官本、拾穗本等には、小と作り、
 
4471 氣能己里能《ケノコリノ》。由伎爾安倍弖流《ユキニアヘテル》。安之比奇之《アシヒキノ》。夜麻多知波奈乎《ヤマタチハナヲ》。都刀爾通彌許奈《ツトニツミコナ》。
 
氣能己里能《ケノコリノ》は、消殘之《ケノコリノ》なり、○由伎爾安倍弖流《ユキニアヘテル》は、雪に令合照《アヘテル》なり、安倍《アヘ》は、橘を玉に安倍貫《アヘヌキ》な(456)ど云|安倍《アヘ》なり、(安波世《アハセ》は、安倍《アヘ》と切れり、略解に、相照《アヒテル》なり、といへるは、いさゝかたがへり、相照ならば、たゞに安比弖流《アヒテル》とこそいはめ、安倍《アヘ》と云るからは、令《セ》v合《アハ》なるを知べし、)○歌(ノ)意は、今夜雪落れり、明日は、猶この雪の決《キハメ》て消のこるべし、その消のこりの雪に令合照《アヘテル》山橘の實を、明(ケ)なば早く行て、家※[果/衣]に採て持來むぞ、もとよりいはゆる假合泡沫のはかなきこの身なれば、雪の消はてむ後をたのむべきにあらず、と急げるにて、はかなき戯遊にてすらかゝれば、況(シ)て悉有佛性をさとりみがきて、修道せむことを、しばしものどむべきに非ず、といふ意を思ひ、裏に感憐を發してよめるなるべし、(略解に、此(ノ)時、やがらなど山方へ行ることありて、それを思ひてよまれしならむ、といへるは、意得ず、もし其(ノ)意ならば、通彌許禰《ツミコネ》とこそあるべけれ、許奈《コナ》とあるからは、家持(ノ)卿の自《ミ》採(ミ)來む、といはれたること、灼然《イチシル》し、)十九に、此雪之消遺時爾去來歸奈山橘之實光毛將見《コノユキノケノコルトキニイザユカナヤマタチバナノミノテルモミム》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。
 
八日《ヤカノヒ》。讃岐守安宿王等《サヌキノカミアスカベノオホキミタチ》。集《ツドヒテ》2於|出雲拯安宿奈杼麿之家《イヅモノマツリゴトヒトアスカベノナドマロガイヘニ》1。宴歌二首《ウタゲシタマフウタフタツ》。
 
八日は、十一月八日なり、○安宿(ノ)王は、傳上に出せり、續紀に、勝寶八歳十二月己酉、勅遣2讃岐(ノ)守正四位下安宿(ノ)王(ヲ)於山階寺(ニ)1、講(セシム2梵網經(ヲ)1、と見ゆ、○集宴は、奈杼麻呂の朝集使に差れて、京に上り居る間、安宿(ノ)王も京に上り居給ひて、その奈杼麿が本宅に集給ひしなるべし、○雲(ノ)字、舊本雪(457)に誤れり、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、○安宿奈杼磨、續紀に、稱徳天皇、天平神護元年正月已亥、正六位上百濟(ノ)安宿(ノ)公奈登麻呂(ニ)授2外從五位下(ヲ)1、とあり、
 
4472 於保吉美乃《オホキミノ》。美許等加之古美《ミコトカシコミ》。於保乃宇良乎《オホノウラヲ》。曾我比爾美都都《ソガヒニミツツ》。美也古敝能保流《ミヤコヘノボル》。
 
於保乃宇良《オホノウラ》は、岡部氏、於宇《オウ》を、後人|於保《オホ》と誤れるか、といへり、然もあるべし、和名抄に、出雪(ノ)國意宇(ノ)(於宇《オウ》)郡|意宇《オウ》とあり、三(ノ)卷に、飫海《オウノウミ》、四(ノ)卷に飫宇能海《オウノウミ》、とある是なり、○歌(ノ)意は、勅命によりて急ぐゆゑに、心をも留めず、面白き意宇《オウノ》浦を、背向に見すてゝ、京に上るが殘多きこと、ゝなり、此(ノ)歌は、出雲より上る道にてよまれたる意なるを、今日の宴席にて、吟《ウタヒ》たるなり、
 
右一首〔二字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》。拯安宿奈杼麿《マツリゴトヒトアスカベノナドマロ》。
 
一首(ノ)二字、舊本に無は落たるなり、○安(ノ)字、舊本に古に誤れり、古寫本、古寫小本等に從つ、
 
4473 宇知比左須《ウチヒサス》。美也古乃比等爾《ミヤコノヒトニ》。都氣麻久波《ツゲマクハ》。美之比乃其等久《ミシヒノゴトク》。安里等都氣己曾《アリトツゲコソ》。
 
歌(ノ)意は、都に上りなば、京人に告むやうは、昔相見し日の如く、吾は平安《タヒラカ》にて在と、告てよかし、と奈杼麿へあつらへつけ給ふなり、これもなほ、出雲國にありしほど、京師に上らむとするによりて、餞する日、守のよみたまへるを、今日の宴席にて吟《ウタヒ》たるなり、
 
(458)右一首《ミギノヒトウタハ》。守山背王歌也《カミヤマシロノオホキミノウタナリ》。主人安宿奈杼麿語云《アロジアスカベノナドマロカタリケラク》。奈杼麿《ナドマ》被《レ》v差《サヽ》2朝集便《マヰウコナハルツカヒニ》1。擬《ス》v入《マヰテムト》2京師《ミヤコニ》1。因《ヨリテ》v此《コレニ》餞之日《ウマノハナムケス》。各々《オノモ/\》作《ヨミテ》2此〔□で囲む〕|歌《ウタヲ》1。聊|陳《ノブ》2所心《オモヒヲ》1也。
 
守は、出雲(ノ)守なり、上の出雲(ノ)掾に帶て、こゝには出雲(ノ)二字を、省けるなり、○山背(ノ)王は、續紀に、天平十二年十一月甲申朔、无位山背(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、十八年九月戊辰、從四位下山背(ノ)王爲2右舍人(ノ)頭(ト)1、勝寶八歳十二月己酉、勅(シテ)遣2出雲(ノ)國(ノ)守從四位下山背(ノ)王(ヲ)於大安寺(ニ)1講2梵網經(ヲ)1、寶字元年五月丁卯、授2從四位上(ヲ)1、同六月壬辰、爲2但馬(ノ)守(ト)1、七月辛亥、授2從三位(ヲ)1、四年正月戊寅、從三位藤原(ノ)朝臣弟貞爲2坤官(ノ)大弼(ト)1、但馬(ノ)守如v故(ノ)、六年十二月乙巳朔、爲2參議(ト)1、七年十月丙戌、參議禮部卿從三位藤原(ノ)朝臣弟貞薨(ス)、弟貞(ハ)者、平城(ノ)朝(ノ)左大臣正二位長屋(ノ)王(ノ)子也、天平元年、長屋(ノ)王、有v罪自盡(ス)、其(ノ)男從四位下膳夫(ノ)王、無位桑田(ノ)王、葛木(ノ)王、鈎取(ノ)王、皆經(キヌ)《〓本書》、時(ニ)安宿(ノ)王、黄文(ノ)王、山背(ノ)王、并女教勝(モ)復合(シ)2從坐1、以2藤原(ノ)太政大臣之女|所1v生《ナルヲ》、特(ニ)賜2不死(ヲ)1、勝寶八歳、安宿黄文謀反(ス)、山背(ノ)王陰(ニ)上2其變(ヲ)1、高野天皇嘉(シタマヒテ)之、賜2姓藤原(ヲ)1、名(ヲ)曰2弟貞(ト)1、とあり、○此(ノ)字衍ならむ、
 
4474 武良等里乃《ムラトリノ》。安佐太知伊爾之《アサダチイニシ》。伎美我宇倍波《キミガウヘハ》。左夜加爾伎吉都《サヤカニキキツ》。於毛比之其等久《オモヒシゴトク》。 [一云 於毛比之母乃乎]
 
武良等里乃《ムラトリノ》は、まくら詞なり、上にあまた見えたり、○伎美我宇倍波《キミガウヘハ》は、君が身の上者《ウヘハ》といふ意なり、妹が上などもいへり、○左夜加爾伎吉都《サヤカニキキツ》は、明白《サヤカ》に聞《キヽ》つにて、たしかに聞つるといふ(459)意なり、(東齋隨筆に、伏見の修理のかみ俊鋼と聞えしは、宇治關白殿の御子と申侍れども、さやかならぬ事なれば、讃岐守橘の俊遠が子に定りて、橘の姓を名乘しか云々、このさやかに、全同じ、)○於毛比之基等久《オモヒシゴトク》は、聞ま欲《ホシ》く思ひし其如く、と云なるべし、舊本に、一云於毛比之母乃乎、とあるは、理(リ)然るべからず、○歌(ノ)意は、山背(ノ)王の歌に、見L日の如く在(リ)と告欲《ツゲコソ》、とあるを承て、出雲へ下り給ひし君が身の上の、平安《タヒラカ》にて座すことを、兼て思ひし如くに、たしかに聞つるが喜《ヨロコ》ばしきこと、ゝなり、此は家持(ノ)卿の京に在て、奈杼麿が傳《ツテ》に、王の歌を聞て、追和へられたるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。兵部少輔大伴宿禰家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチ》。後日《ノチニ》追2和《オヒテコタフル》出雲守山背王歌《イヅモノカミヤマシロノオホキミノウタニ》1作《ウタ》之。
 
廿三日《ハツカアマリミカノヒ》。集《ツドヒテ》2於|式部少丞大伴宿禰池主之宅《ノリノツカサノスナキマツリゴトヒトオホトモノスクネイケヌシガイヘニ》1。飲宴歌二首《ウタゲスルウタフタツ》。
 
丞(ノ)字、舊本に、〓と作るは誤なり、今は元暦本、類聚抄、拾穗本等に從つ、
 
4475 波都由伎波《ハツユキハ》。知敝爾布里之家《チヘニフリシケ》。故非之久能《コヒシクノ》。於保加流和禮波《オホカルワレハ》。美都都之努波牟《ミツツシヌハム》。
 
故非之久能《コヒシクノ》は、戀しき事のと云意を、かくいふは古語なり、○歌(ノ)意は、今日零初る雪は、繼て幾重も零積れ、世の間に戀しく思ふ事の多くて、煩はしき吾なれば、其を見愛《ミメデ》つゝ、心の慰《ナグサミ》に爲むぞ、となり、(略解に、今日初雪ふりぬ、後此(ノ)雪を見つゝ、けふの思ひ出草にせむとおもへば、千(460)重も降しきて、久しく殘れ、といふ意なり、といへるは、すこしいかゞ、)十(ノ)卷に沫雪千重零敷戀爲來食永我見偲《アワユキハチヘニフリシケコヒシクノケナガキアレハミツヽシヌハム》、
 
4476 於久夜麻能《オクヤマノ》。之伎美我波奈能《シキミガハナノ》。奈能其等也《ナノゴトヤ》。之久之久伎美爾《シクシクキミニ》。故非和多利奈無《コヒワタリナム》。
 
奈能其等也《ナノゴトヤ》(舊本に、奈能(ノ)二字なきは、上の波奈能に重りたる故に、傳寫す人の脱せるものなり、今は官本、古寫本、拾穗本等に從つ、六帖にも、此(ノ)歌を載て、第三(ノ)句名のことやとあり、)は、如《ゴト》v名《ナノ》哉《ヤ》なり、○歌(ノ)意は、之伎美《シキミ》が花の、重《シキ》と云名の如くに、今日よりは重々《シク/\》に、君を戀しく思ひつゝ、日月を過しなむか、となり、君とは主人を指り、樒《シキミガ》花は、春咲ものなれど、今は其(ノ)論までもなく、たゞ重《シキ》をいはむ料に、設(ケ)出たるなり、〔頭註、【曾根好忠集に、十一月をはり、あたご山樒の原に雪つもり花つむ人の跡だにもなし、】〕
 
右二首《ミギノフタウタハ》。兵部大丞大原眞人今城《ハモノヽツカサノオホキマツリゴトヒトオホハラノマヒト》。
 
智努女王卒後《チヌノオホキミノミウセタマヘルノチ》。圓方女王悲傷作歌一首《マトカタノオホキミノカナシミテヨミタマヘルウタヒウトツ》。
 
智努(ノ)女王は、續紀に、養老七年正月丙子、智努(ノ)女王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、神龜元年二月丙申、智努(ノ)王(ニ)授2從三位(ヲ)1、とあり、○圓方(ノ)女王は、續紀に、天平九年十月庚申、從五位下圓方(ノ)女王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、寶字七年正月壬子、從四位上圓方(ノ)王(ニ)授2姓四位上(ヲ)1、八年十月庚午、正四位上圓方(ノ)女王(ニ)授2從三位(ヲ)1、景雲二年正月壬子、授2正三位(ヲ)1、寶龜五年十二月丁亥、正三位圓方(ノ)王薨(ス)、平城(ノ)朝(ノ)左大臣從一位長屋(ノ)王女(461)也、と見えたり、
 
4477 由布義理爾《ユフギリニ》。知杼里乃奈吉志《チドリノナキシ》。佐保治乎婆《サホヂヲバ》。安良之也之弖牟《アラシヤシテム》。美流與之乎奈美《ミルヨシヲナミ》。
 
歌(ノ)意は、智努(ノ)女王の世に座ねば、今は相見むとて往來《カヨ》ふ人もなき故に、夕(ヘ)になれば、霧立て、千鳥の鳴し、面白き其(ノ)佐保道に、道のしば草生茂りなどして、荒しめやしてむ、と悲傷《カナシメ》るなり、智努(ノ)女王の家、佐保にありけるなるべし、六(ノ)卷寧樂(ノ)故郷を悲て作る歌に、刺竹之大宮人能《サスダケノオホミヤヒトノ》、蹈平之通之道者《フミナラシカヨヒシミチハ》、馬裳不行人裳往莫者《ウマモユカズヒトモユカネバ》、荒爾異類香聞《アレニケルカモ》、古今集に、七條の后うせたまひにけるのちによめる伊勢が長歌、又思(ヒ)合(ス)べし、
 
大原櫻井眞人《オホハラノサクラヰノマヒトガ》。行《ユク》2佐保川邊《サホガハノホトリヲ》1之時《トキ》。作歌一首《ヨメルウタヒトツ》。
 
櫻井(ノ)眞人は、續紀に、天平十六年二月丙申、大藏卿從四位下大原(ノ)眞人櫻井大輔(ヲ)、爲2恭仁(ノ)宮(ノ)留守1、と見ゆ、此(ノ)集八(ノ)卷に、遠江(ノ)守櫻井(ノ)王奉2天皇1歌一首とて、御答歌もありし其王なり、彼處に傳委(ク)出せり、
 
4478 佐保河波爾《サホガハニ》。許保里和多禮流《コホリワタレル》。宇須良婢乃《ウスラビノ》。宇須伎許己呂乎《ウスキココロヲ》。和我於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》。
 
宇須良婢《ウスラビ》は、薄氷《ウスラビ》なり、○歌(ノ)意、本は序にて、吾は薄き情ならず、深く思ふことなるを、さても人(462)のつれなきことよ、となり、これは思ふ人のもとに、佐保(ノ)邊を經て、通ひ給ふほどに、よみたまへるなるべし、
 
藤原夫人歌二首《フヂハラノオホトジノウタフタツ》。【淨御原(ノ)宮(ニ)御宇天皇之夫人也。字曰2氷上大刀自《ヒガミオホトジ》1也。 】
 
藤原(ノ)夫人は、傳二(ノ)卷(ノ)上に、委出せり、夫人、天武天皇(ノ)紀下に、又|夫人《オホトジ》藤原(ノ)【大職冠(ノ)大臣】女氷上(ノ)娘、生2但馬(ノ)皇女(ヲ)1、十一年春正月乙未朔壬子、氷上(ノ)夫人薨2于宮中(ニ)1、などありて、オホトジ〔四字右○〕と訓ことも、既(ク)委(ク)註り、○二首、舊本に一首と作り、略解改て二と作り、是然るべし、○註の宮(ノ)字、舊本になきは脱たるなり、今は元暦本、異本等にあるに從つ、
 
4479 安佐欲比爾《アサヨヒニ》。禰能未之奈氣婆《ネノミシナケバ》。夜伎多知能《ヤキタチノ》。刀其己呂毛安禮波《トゴコロモアレハ》。於母比加禰都毛《オモヒカネツモ》。
 
夜伎多知能《ヤキタチノ》は、枕詞なり、既く出たり、○刀其己呂毛安禮波《トゴコロモアレハ》は、利心《トゴヽロ》も吾者《アレハ》なり、○於母比加禰都毛《オモヒカネツモ》は、思(ヒ)に堪かねつるといふにて、毛《モ》は、歎息(ノ)辭なり、○歌(ノ)意は、朝夕となく、思(ヒ)にしづみて、一(ト)すぢに哭《ネ》をのみ泣ば、やう/に弱り行て、今ははりあふ利心もなく、思ひに堪忍かねつる事の、さても苦しや、となり、相聞にて、天武天皇を慕(ヒ)奉り給へる歌なるべし、
 
4480 可之故伎也《カシコキヤ》。安米乃美加度乎《アメノミカドヲ》。可氣都禮婆《カケツレバ》。禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》。安左欲比爾之弖《アサヨヒニシテ》。
 
(463)安米乃美加度《アメノミカド》は、天之朝廷《アメノミカド》なり、天《アメ》とは、皇朝《スメラミカド》を高天《タカマノ》原に比《ナズラ》へて稱《マヲ》す名にて、十三に、久堅之王都《ヒサカタノミヤコ》、とよめると同意なり、さて後(ノ)世は、天皇を即《ヤガテ》美加度《ミカド》と申せども、古(ヘ)はさることなし、(古今集につきて、あののみかどゝいふことのさだあれど、こゝに用なければ云ず、)此(ノ)歌も、たゞ朝廷にて、天皇の大坐朝廷《オホマシマスミカド》のことを、人の懸て言ば、天皇の御上《ミウヘ》を思(ヒ)出奉る意なり、○可氣都禮婆《カケツレバ》は、言に懸ていひつれば、の意なり、○之弖《シテ》は、其(ノ)事をうけはりて、他事なく物する時にいふ詞なり、○歌(ノ)意は、朝廷の事を、人の言に懸ていふにつけても、はや天皇の御うへを戀しく思ひ奉りて、朝夕となく、他事なく一(ト)すぢに、哭にのみ泣るゝよ、となり、○舊本、此(ノ)歌の下に、作者未詳とあるは、除去《ノゾク》べし、端の二首を一首と誤れるより、後人かく書入たるなるべし、と略解にいへり、
 
右件四首《ミギクダリノヨウタ》。傳讀兵部大丞大原今城《ツタヘヨムハツハモノヽツカサノオホキマツリゴトヒトオホハラノイマキ》。
 
件の四首も、二十三日に、傳誦たるなるべし、
 
勝寶〔二字□で囲む〕九歳三月四日《コヽノトセトイフトシヤヨヒノヨカノヒ》。於《ニテ》2兵部大丞大原眞人今城之宅《ツハモノヽツカサノオホキマツリゴトヒトオホハラノマヒトイマキガイヘ》1。宴歌二首《ウタゲスルウタフタツ》。
 
勝寶九歳、前に八歳(勝寶)十一月廿三日までの歌を次第て載たれば、此處にかくあるべきが、舊本になくして、次の六月二十三日の上に、勝寶九歳とあるは、錯亂《マガヒ》たるものなり、今は拾穗本に從つ、但(シ)勝寶(ノ)二字は、前にゆづりて除(ク)べし、○二首を、舊本一首に誤れり、今改つ、
 
(464)4481 安之比奇能《アシヒキノ》。夜都乎乃都婆吉《ヤツヲノツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。美等母安加米也《ミトモアカメヤ》。宇惠弖家流伎美《ウヱテケルキミ》。
 
夜都乎乃都婆吉《ヤツヲノツバキ》は、十九にも、奥山之八峯乃海石榴都婆良可爾《オクヤマノヤツヲノツバキツバラカニ》、とあり、○都良都良爾《ツラツラニ》は、熟《ツラ/\》になり、都婆吉《ツバキ》と云につゞきたるは、椿の枝の連々《ツラ/\》に連《ツラナ》れる意を、因みていひ下したり、一(ノ)卷に、列列椿都良都良爾《ツラ/\ツバキツラツラニ》、とよめり、○歌(ノ)意は、彌《ヤ》つ峯の椿を根こじて、庭にうつし殖たる、其(ノ)主人と椿とを並べ、て、つら/\見るに、共にあく世なくめづらし、となるべし、
 
右一首〔二字各○で囲む〕《ミギノヒトウタハ》。兵部少輔大伴|宿禰〔二字各○で囲む〕家持《ツハモノヽツカサノスナキスケオホトモノスクネヤカモチガ》屬《ミテ》2植椿《ツバキヲ》1作《ヨメル》。
 
一首、また宿禰ともに四字、舊本になきは脱たるなり、○屬は矚に同じく、目を附ることなり、
 
4482 保里延故要《ホリエコエ》。等保伎佐刀麻弖《トホキサトマテ》。於久利家流《オクリケル》。伎美我許己呂波《キミガココロハ》。和須良由麻之目《ワスラユマジモ》。
 
和須艮由麻之目《ワスラユマジモ》は、所《ル》v忘《ワスラ》まじにて、目《モ》は歎息(ノ)辭なり、齊明天皇(ノ)紀(ノ)御歌に、倭須羅〓麻自珥《ワスラユマジニ》と有(リ)、○歌(ノ)意は、自《ミ》(執弓)が播磨(ノ)介にて下る時に、難波穿江を渡り越て、尼(ガ)崎兵庫あたりまでも、はるばる送り來れる君が深情は、いつまでも忘らるまじ、さてもうれしや、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。播磨介藤原朝臣執弓《ハリマノスケフヂハラノアソミトリユミ》。赴《ユクトキノ》v任《マケトコロニ》別悲歌也《ワカレノウタナリ》。主人大原今城傳讀云爾《アロジオホハラノイマキツタヘヨメリキ》。
 
藤原(ノ)執弓、續紀に、寶字元年五月丁卯、正六位上藤原(ノ)朝臣執弓(ニ)授2從五位下(ヲ)1、とあり、○歌(ノ)字、舊本(465)になきは脱たるなるべし、今は目録并或本等に從つ、○傳讀は、此(ノ)宴の日、執弓が歌を、主人の誦吟へしなり、
 
勝寶九歳〔四字□で囲む〕六月廿三日《ミナツキノハツカマリミカノヒ》。於《ニテ》2大監物三形王之宅《オホキオロシモノヽツカサミカタノオホキミノイヘ》1。宴歌一首《ウタゲスルウタヒトツ》。
 
六月の上に、舊本勝寶九歳の四字あるは、錯亂《マガヘ》るなり、此(ノ)上に委しくいへり、○三形(ノ)王、續紀に、勝寶元年四月丁未、授2無位三形(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、寶字三年六月庚戌、授2從四位下(ヲ)1、七月丁卯、爲2木工(ノ)頭(ト)1、寶龜三年正月甲申、無位三方(ノ)王(ニ)授2從五位下(ヲ)1、(不詳)五年正月丁未、從五位下三方(ノ)王(ニ)授2從五位上(ヲ)1、三月甲辰、爲2備前(ノ)守(ト)1、八年正月庚申、授2正五位下(ヲ)1、十年正月甲子、正五位|上《下イ》三方(ノ)王(ニ)授2從四位下(ヲ)1、延暦元年閏正月辛丑、從四位下三方(ノ)王爲2日向(ノ)介(ト)1、以v黨2氷上(ノ)川繼1也、三月戊申、從四位下三方(ノ)王云々等三人、坐(テ)2同謀厭2魅(セルニ)乘輿(ヲ)1、詔減2死一等1、三方弓削並配2日向(ノ)國(ニ)1、(弓削(ハ)三方之妻也、)云々、とありて、大監物になり給へることは、紀文に見えず、○二首は、左に、宇都里由久《ウツリユク》云々、右兵衛大輔云々、とありて、其(ノ)次の左久波奈波《サクハナハ》云々、右一首云々、時花云々、右一首云々、とあれば、王宅の宴歌は二首のみと見たるよりのことなるべし、然れども、今の歌のさまを思ふに、三首ともに、王宅の宴歌と思はるれば、一首は、もしは後に、三首を誤れるにもあらむか、
 
4483 宇都里由久《ウツリユク》。時見其登爾《トキミルゴトニ》。許己呂伊多久《ココロイタク》。牟可之能比等之《ムカシノヒトシ》。於毛保由流加母《オモホユルカモ》。
 
(466)許己呂伊多久《ココロイタク》は三(ノ)卷に、時者霜何時毛將有乎情哀伊去吾妹可若子乎置而《トキハシモイツモアラムヲコヽロイタクイユクワギモカワカキコヲオキテ》、十一に、心哀何深目念始《コヽロイタクナニヽフカメテオモヒソメケム》、十四に、許己呂伊多美安我毛布伊宅我伊徴乃安多里可聞《ココロイタミアガモフイモガイヘノアタリカモ》、などあり、○歌(ノ)意は、移《ウツ》り變《カハ》りゆく時節《トキ》のけしきを見る度毎に、過去《スギニ》し昔の人の思ひ出られて、さても心痛ましや、となり、契冲、これは三形(ノ)王の父のおほきみ、たれとはしらねど、家持の得意にて、かくはよまれたるなるべし、といへり、
 
右兵部大輔大伴宿禰家持作《ミギツハモノヽツカサノオホキスケオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
にいへる如く、左の二首ともに、王(ノ)宅の宴歌にして、端に三首とあらむには、右(ノ)字の下に、ここも一首とあるべきことなるを、後に左の二首は、別時の作と見て、一首の二字を除きたるものにもあるべし、○兵部(ノ)大輔は、續紀に寶字元年六月壬辰(十六日)、從五位上大伴(ノ)宿禰家持爲2兵部大輔1、とあり、勝寶九歳は、即(チ)寶字元年なれば、此(ノ)時六月二十三日にて、はやく大輔なり、
 
4484 佐久波奈波《サクハナハ》。宇都呂布等伎安里《ウツロフトキアリ》。安之比奇乃《アシヒキノ》。夜麻須我乃禰之《ヤマスガノネシ》。奈我久波安利家里《ナガクハアリケリ》。
 
禰之《ネシ》の之《シ》は、例の其一(ト)すぢなるを、おもく思はする辭なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、文《ハナ/”\》しきものは、うつろひ易く、質《ナホ/\》しきもの、常とはなるをいへり、これは王(ノ)宅の島際《シマミ》に生たる山菅の、永く久しく、いつも常葉なるを賞て、はな/”\しき木草の花の、たゞ一時のさかりにて、よ(467)に變化《ウツロ》ひやすきをなげき、さて菅(ノ)根の長くとは、いひくだされしなるべし、此(ノ)下に、夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持《オホトモノスクネヤカモチガ》。悲2怜《カナシミテ》物色變化《モノノウツロヘルヲ》1作之《ヨメル》也。
 
4485 時花《トキノハナ》。伊夜米豆良之母《イヤメヅラシモ》。可久之許曾《カクシコソ》。賣之安伎良米免《メシアキラメメ》。阿伎多都其等爾《アキタツゴトニ》。
 
時花《トキノハナ》、此は秋時花《アキノハナ》をいへり、次下十二月十八日の歌に、三雪布流布由波祁布能未《ミユキフルフユハケフノミ》云々、とあれば、十九日立春なり、これより推(ス)に、六月十七八日の頃立秋なるべし、此(ノ)歌二十三日によまれたれば、秋とはいはれたるなるべし、○賣之安伎良米免《メシフキラメメ》(免(ノ)字、舊本に晩と作るはいかゞ、今は官本、中院家本等に從つ、)は、御見明《メシアキラ》めゝにて、見給ひ明め給はめ、といふ意なり、賣之《メシ》は、美《ミ》の伸りたる言にて、知《シリ》を志良之《シラシ》、聞《キヽ》を伎可之《キカシ》など云と同じく、あがめて云時に用《ツカ》ふ言なり、されば見給《ミタマヒ》と云と同じ意となれり、(世の古言を釋く人、賣之《メシ》は美之《ミシ》と云と通ひて同言ぞ、と云は、大《イミ》じき非《ヒガゴト》なり、(猶この言の事は、既く委(ク)釋り、)○歌(ノ)意は、時待得て、咲にほふ千種(ノ)花の、さてもいとどめづらしや、かくしつゝ今日諸友に賞愛《メデウツクシ》むごとく、何時《イツ》も秋の立(ツ)毎に見明らめて、一(ト)すぢに心をはるけ給はめ、と主人を慰《ナグサム》るなり、上の歌には、物盛必衰の理窟をいひたるに、自《ミラ》もとりて、これは物華を賞べき意を、のべられたるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持作《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
(468)天平寶字元年十一月十八日《テムヒヤウハウジハジメノトシシモツキノトヲカマリヤカノヒ》。於《ニテ》2内裏《オホウチ》1肆宴哥二首《トヨノアカリキコシメスウタフタツ》。
 
天平寶字、續紀に、宜(シ)d改(テ)2天平勝寶九歳八月十八日(ヲ)1、以爲c天平寶字元年(ト)u、○肆宴、この宴のこと、續紀に録《シル》されざるは漏たるにや、一説に、去し六月、橘(ノ)奈良萬呂逆意を企てられしを、山背(ノ)王みそかに奏告《マヲサ》るゝにより、事あらはれ、七八月に及て、こと/”\く罪過さだまり、事なく治るといへども、内々の宴なるゆゑ、記録に載ざるにもあるべし、又云、この十一月十八日は、新嘗會なるべし、新嘗會は、十一月中(ノ)卯日に行(ハ)るゝことなるに、續紀を推て考るに、此(ノ)日中(ノ)卯(ノ)日にあたれり、と云り、
 
4486 天地乎《アメツチヲ》。弖良須日月能《テラスヒツキノ》。極奈久《キハミナク》。阿流倍伎母能乎《アルベキモノヲ》。奈爾乎加於毛波牟《ナニヲカオモハム》。
 
日月は、字の如くヒツキ〔三字右○〕と訓べし、(舊訓もしかり、ツキジ〔三字右○〕と訓むは、こゝはいかゞなり、)すべて此(ノ)照す日月を云時には、比都奇《ヒツキ》といひ、年月日時を云ふには、都奇比《ツキヒ》といひて分てり、とおぼえたり、此(ノ)事、五(ノ)卷(ノ)上に既く委(ク)云たり、合(セ)考(フ)べし、○奈爾の下乎(ノ)字、舊本にはなし、今は元暦本、中院本、阿野本、古寫本等にあるに從つ、○御歌(ノ)意は、天皇の大御代は、天地月日と共に、長(ク)久く極(ミ)なかるべきものを、何の物思(ヒ)をかは爲む、となり、大御代の長(ク)久(キ)を祝給へるにて、新嘗會の時の御歌とすること、信にさもありぬべし、
 
右一首皇太子御歌《ミギノヒトウタハヒツギノミコノミウタ》。
 
(469)皇太子は、いはゆる廢帝なり、續紀に、廢帝諱(ハ)大炊(ノ)王、天(ノ)渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇之孫、一品舍人(ノ)親王之第七子也、母(ハ)當麻《タギマ》氏、名(ヲ)曰2山背(ト)1、上總(ノ)守、從五位下老之女也、天平寶字元年夏四月辛巳、迎(テ)2大炊(ノ)王(ヲ)1立爲2皇太子(ト)1、時年廿五、二年八月庚子朔、高野天皇禅2位(ヲ)於皇太子(ニ)1、皇太子受v禅、即2天皇位《アマツヒツギシロシメス》於大極殿(ニ)1云々、十一月辛卯、御2乾政官院(ニ)1、行2大嘗之事1、三年十一月戊寅、造2保良(ノ)宮(ヲ)1、五年十月壬戊、云々以遷2都(ヲ)保良(ニ)1也、己卯、詔曰、爲v改2作平城(ノ)宮(ヲ)1、暫移而御2近江(ノ)國保良(ノ)宮(ニ)1、六年三月甲辰、保良(ノ)宮諸殿及屋垣、分2配諸國(ニ)1、一時就v功、五月辛丑、高野天皇與v帝有v隙、於是車駕還2平城(ノ)宮(ニ)1、帝御2于中宮院(ニ)1、高野天皇御2于法華寺(ニ)1、八年十月壬申、高野天皇、遣2兵部(ノ)卿和氣(ノ)王、左兵衛(ノ)督山村(ノ)王、外衛(ノ)大將百濟(ノ)王敬福等(ヲ)1、率2兵數百(ヲ)1、圍(シム)2中宮院(ヲ)1、時帝|遽《ニハカニシテ》而未v及2衣履1、使者促之、數輩侍衛奔散(メ)、無2人可1v從、僅與2母家三兩人1、歩(ヨリ)到2圖書寮(ノ)西北之地(ニ)1、山村(ノ)王宣v詔曰、云々、今帝止之天侍人乎《イマスメラミコトトシテハベルヒトヲ》、此年己呂見仁《コノトシゴロミルニ》、其位仁毛《ソノクラヰニモ》不《ズ》v堪《タヘ》、是乃味仁《コレノミニ》不《ズ》v在アラ《》、今聞仁《イマキクニ》、仲麻呂止《ナカマロト》同《オヤジク》v心《ココロヲ》之天《シテ》、竊朕乎掃止謀家利《ミソカニアレヲハラフトハカリケリ》、云々、故是以《カレコヽモチテ》、帝位乎方退賜天《オホミクラヰヲバシリゾケタマヒテ》、親王乃位賜天《ミコノクラヰタマハリテ》、淡路國乃公止《アハヂノクニノキミト》、退賜止勅御命乎聞食止宣《シリゾケタマフトノリタマフオホミコトヲキコシメセトノル》、云々、勅曰、以2淡路(ノ)國(ヲ)1、賜2大炊(ノ)親王(ニ)1、神護元年二月乙亥、勅(ス)2淡路(ノ)國(ノ)守從五位下佐伯(ノ)宿補助(ニ)1、風(ニ)聞(ク)配2流彼(ノ)國(ニ)1、罪人稍致(セリト)2逃亡(ヲ)1、事如(シ)有v實、何以不v奏、汝簡2朕心(ヲ)1、往(テ)監2於彼1、事之動靜必須2早奏1、三月丙申、詔曰、云々、復有人方《マタアルヒトハ》、淡路仁侍坐流人乎率來天《アハヂニハベルヒトヲアドモヒキテ》、佐良仁帝止立天《サラニスメラミコトトタテテ》、天下乎治之米無等念天在人毛《アメノシタヲサメシメムトオモヒテアルヒトモ》、在良之止奈毛念《アルラシトナモオモフ》、云々、、何食此人乎復立無止念無《ニソコノヒトヲマタタテムトオモハム》、自今以後仁方《ナイマヨリノチニハ》、如《ゴト》v此《カクノ》久《ク》念天謀己止止止詔大命乎《オモヒテハカルコトヤメヨトノリタマフオホミコトヲ》、聞食倍止(470)宣《キコシメサヘトノル》、十月庚辰、淡路(ノ)公、不v勝2幽憤(ニ)1、踰(テ)v垣(ヲ)而逃(ル)、守佐伯(ノ)宿禰助、掾高屋(ノ)連並木等、率v兵(ヲ)邀v之、公還(テ)明日薨(ス)2於院中(ニ)1、と見えたり、實は弑《シ》せらるゝなるべし、といへり、諸陵式に、淡路(ノ)陵、廢帝、在2淡路(ノ)國三原(ノ)郡1、兆域東西六町、南北六町、守戸一烟、と見ゆ、續紀に、寶龜九年三月己巳、勅淡路(ノ)親王(ノ)墓、宜d稱2山陵(ト)1、其(ノ)先妣當麻氏(ノ)墓稱2御墓1、宛2近(ノ)百姓一戸1守(シム)u之、
 
4487 伊射子等毛《イザコドモ》。多波和射奈世曾《タハワザナセソ》。天地能《アメツチノ》。加多米之久爾曾《カタメシクニソ》。夜麻登之麻禰波《ヤマトシマネハ》。
 
多波和射奈世曾《タハワザナセソ》は、狂行勿爲《タハワザナセ》そなり、○歌(ノ)意、天皇《スメラミコト》の所知看此海内《シロシメスアマノシタ》は、天神地祇《アマツカミクニツカミ》の固め給ひし國なれば、いかにすとも動(ク)べきにあらざれば、畏《カシコ》み敬《ヰヤマ》ひて、狂《タハ》けたる行《オコナヒ》を爲《ナ》すこと勿れ、いざ人々よ、と云なり、契冲云、これは惠美(ノ)押勝の歌なれば、勝寶九年に、橘(ノ)奈良麻呂謀反の張本にて、事をなさむとせられけるに、あらはれて、おほくの人、配流死刑等にあへるをおもひてよまれけるなり、押勝は此(ノ)頃のきり人にて、手をあふれば、あつき威勢あるのみならず、奈良麻呂をはじめて、皆此(ノ)人の妬ふかく、人をおとしめらるゝを目にたてゝ、事をもくはだてられければ、日本島根《ヤマトシマネ》はうはべにて、下は、みづからの事をこめられけるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。内相|藤原朝臣奏《フヂハラノアソミノマヲシタマフ》之。
 
内相藤原(ノ)朝臣は、仲麻呂にて、所謂《イハユル》惠美押勝《ヱミノオシカツ》なり、内相は、續紀に、孝謙天皇、寶字元年五月丁卯、以2大納言從二位藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ヲ)1爲2紫微内相(ト)1、云々、詔曰、朕覽2周禮(ヲ)1、將相殊v道(ヲ)、政有2文武1、理亦宜(471)v然、是以新令之外、則《別歟》亦置2紫微内相一人(ヲ)1、令2内外諸(ノ)兵事(ヲ)1、其(ノ)官位禄賜職分雜物(ハ)者、皆准(ゼヨ)2大臣(ニ)1、と見ゆ、同二年八月に、勅して大保に任《ヨサ》され、又其ひろく民を惠《メグム》ことの美《ウリハシ》きこと、古より並なしとて、姓中に惠美《ヱミノ》二字を加へ、暴《アラ》きを押《オサ》へ、強《ツヨ》きに勝つ功ありとて、押勝《オシカツ》と云名を賜はり、同四年正月に從一位を授《タマハ》り、大師に上られ、同六年二月に正一位をたまはる、然るに頃日、弓削(ノ)道鏡と云僧を、常に高野天皇の御前近くめし侍らはせ賜ひ、御おぼえ殊に甚《イミ》じかりければ、押勝が權威さかりなりといへども、道鏡が恩寵、己(レ)が上にあることを憤りて、常に心よからず思ひしが、遂に太政官の印を私に用ひて、軍兵を呼(ビ)集(ヘ)、謀ごちけるを、同八年九月に、高野(ノ)天皇聞しめして、少納言山村(ノ)王を遺したまひて、其(ノ)印を取(リ)收めしのらるゝを、押勝聞て、其(ノ)子訓儒麻呂《クズマロ》して、其(ノ)印を奪はしむ、此(ノ)時坂上(ノ)刈田麿等に勅て、訓儒麿を射殺さしむ、押勝又矢田部(ノ)老と云ものして、甲冑を著せ馬に騎て、詔使をおびやかさしむ、紀(ノ)船守勅を承て老を射殺す、かくて押勝が官位功封等悉く削り除かる、其(ノ)夜押勝同類を召つれて、近江(ノ)國に走る、高島(ノ)郡三尾(ガ)埼にて、官軍にあひて、午の刻より申の刻まで戰ひしが、官軍つかれける所へ、藤原藏下麻呂、新手の軍衆を率て馳來り、攻かゝりければ、つひにかなはずして、其(ノ)妻子三四人と共に、船に乘むとせし所を、石村(ノ)村主石楯と云もの、押勝を生捕て討斬(シ)、其(ノ)首を京師に送り、妻子徒黨三十餘人を、みな江(ノ)頭にて斬殺せりと見ゆ、押勝は其(ノ)性聰敏、路渉2書記(ニ)1、又學v?、尤精2其術(ニ)1、と見(472)えたるに、其(ノ)終のかくよからざりしことこそ、あさましけれ、猶此(ノ)人の傳、十七(ノ)上に委(ク)出せり、
 
十二月十八日《シハスノトヲカマリヤカノヒ》。於《ニテ》2大監物三形王之宅《オホキオロシモノヽツカサミカタノオホキミノイヘ》1。宴歌三首《ウタゲスルウタミツ》。
 
4488 三雪布流《ミユキフル》。布由波祁布能未《フユハケフノミ》。※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》。奈加牟春敝波《ナカムハルヘハ》。安須爾之安流良之《アスニシアルラシ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、契冲云、十二月十八日に、冬は今日のみといへるは、十九日立春なりけるなるべし、下に、同廿三日に、家持のよまれたる歌に、いよ/\あきらかなり、(都奇餘米婆伊麻太冬奈里《メバイマダフユナリ》云々の歌をさす、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主人三形王《アロジミカタノオホキミ》。
 
4489 宇知奈婢久《ウチナビク》。波流乎知可美加《ハルヲチカミカ》。奴婆玉乃《ヌバタマノ》。己與比能都久欲《コヨヒノツクヨ》。可須美多流良牟《カスミタルラム》。
 
宇知奈婢久《ウチナビク》は、春《ハル》の枕詞なり、春は草木の弱くなよゝかに、しなひ靡くものなれば、かくつゞけたるなり、既く前々に多く出たり、○波流乎知可美加《ハルヲチカミカ》は、春が近き故にかの意なり、○歌(ノ)意、かくれなし、十(ノ)卷に、※[(貝+貝)/鳥]之春成良思春日山霞棚引夜目見侶《ウグヒスノハルニナルラシカスガヤマカスミタナビクヨメニミレドモ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大藏大輔甘南備伊香眞人《オホクラノツカサノオホキスケカムナビノイカゴノマヒト》。
 
大藏(ノ)大輔、或説に大輔恐(クハ)少輔ならむ、當時從五位上にて、後十三年を經て、寶龜三年正月正五位下に至る、少輔相當なるを知べし、といへり、猶次に引傳を合(セ)考(フ)べし、○伊香眞人は、續紀に、(473)天平十八年四月癸卯、授2無位伊香(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1、同八月丁亥、爲2雅樂(ノ)頭(ト)1、勝寶元年七月甲午、授2從五位上(ヲ)1、三年十月丙辰、從五位上伊香(ノ)王(ノ)男高城(ノ)王(ニ)賜2甘南備(ノ)眞人(ノ)姓(ヲ)1、(契冲云、これは紀のあやまりにや、此(ノ)集は、當時の事を家持のしるされたるに、甘南備(ノ)伊香(ノ)眞人とあれば、其(ノ)男高城(ノ)王は、おのづから甘南備なるべきことわりなり、高城(ノ)王に賜はりたらむには、いかでか伊香(ノ)王には、甘南備(ノ)眞人とかゝるべき、)寶字五年十月壬子朔、從五位上甘南備眞人伊香(ヲ)爲2美作介(ト)1、七年正月壬子、爲2備前(ノ)守(ト)1、八年正月己未、爲2主税(ノ)頭(ト)1、景雲二年閏六月乙巳、爲2越中(ノ)守(ト)1、寶龜三年正月甲申、授2正五位下1、八年正月庚申、授2正五位上(ヲ)1、とあり、大藏(ノ)輔になり給へることは、紀文に漏たるにや、
 
4490 安良多末能《アラタマノ》。等之由伎我敝理《トシユキカヘリ》。波流多多婆《ハルタタバ》。末豆和我夜度爾《マヅワガヤドニ》。宇具比須波奈家《ウグヒスハナケ》。
 
歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、王(ノ)宅の宴席なるに、自《ミ》の家に先(ヅ)鳴けといはむこと、いかゞしければ、これは主人の意に擬《ナリ》て、よまれしにやあらむ、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中弁大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
右中弁、紀文に見えず、自《ミ》誤らるべきよしなければ、紀の脱漏著し、○王(ノ)宅の宴歌は、上件の三首にて竟りたれば、左の歌は、宴席の歌にあらぬはさらなり、又歌のさまも、宴席のには、似つ(474)かはしからざればなり、しかれども、左註の尾《シリ》に、年月未詳と記したるを思へば、同じき宴席にて吟へたる歌の中にや、さらば上に宴歌三首とあるは、四首を誤れりとせむかとも思へど、十八日宴席の後、二十三日までの間に、傳へ聞たるまゝ、此間にしるされたるものか、
 
4491 於保吉宇美能《オホキウミノ》。美奈曾己布可久《ミナソコフカク》。於毛比都都《オモヒツツ》。毛婢伎奈良之思《モビキナラシシ》。須我波良能佐刀《スガハラノサト》。
 
於保吉宇美《オホキウミ》、神代紀に、溟渤《オホキウミ》以之|皷盪《ユスリ》、山岳《ヤマヲカ》爲之|鳴※[口+句]《トヨミキ》、和名抄に、溟渤、見2日本紀(ニ)1也、和名|於保伎宇三《オホキウミ》、とあり、於保宇美《オホウミ》にて然るべきを、昔來《ムカシヨリ》大伎海《オホキウミ》ともいひならはしたり、○毛婢伎奈良之思モビキナラシシ》は、裳引《モビキ》令《シ》v平《ナラ》しなり、十一に、赤裳下引《アカモスソビキ》、とも、又|紅之襴引道《クレナヰノスソビクミチ》、ともよみ、此(ノ)上にも、乎等賣良我多麻毛須蘇婢久許能爾波爾《ヲトメラガタマモスソビクコノニハニ》、とよめり、○須我波良能佐刀《スガハラノサト》は、神名帳に、大和(ノ)國添下(ノ)郡菅原(ノ)神社、諸陵式に、菅原(ノ)伏見(ノ)東(ノ)陵、(纏向(ノ)珠城(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)垂仁天皇、在2大和(ノ)國添下(ノ)郡1、)菅原(ノ)伏見(ノ)西(ノ)陵、(石上(ノ)穴穗(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)安康天皇、在2大和(ノ)國添下(ノ)郡(ニ)1、)と見ゆ、宿奈麻呂の家宅《イヘ》、又別莊など、彼地にありしなるべし、○歌(ノ)意は、契冲、かくばかりあだなる人の心をしらずして、大(キ)海の底の如く、我も深く人を思ひ、人の心をも深くたのみて、菅原の里に裳引《モビキ》平して在(リ)通ひし事の悔しき、となり、といへり、今按(フ)に、菅原の里に、在(リ)通ひしさまをいへりとせむは、女郎には、いさゝかふさはしからずおぼゆれば、女郎は、もとより菅原(ノ)里に住ひしなるべし、かくて宿奈麻呂の宅にまれ、別莊にま(475)れ、その近きあたりにありて、女郎の許に相住し馴しさまを、女なれば、裳引ならしゝといへるにや、さてかく最愛のおとろへ行て、遂に離別《ワカ》るゝにいたりしを、恨み悔ていへるなるべし、裳引《モビキ》平しゝは、そこに住馴しさまをいふなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。藤原宿奈麻呂朝臣之妻石川女郎《フヂハラノスクナマロノアソミガメイシカハノイラツメガ》。薄愛離別《シタシミオトロヘテノチ》。悲恨作歌也《カナシミテヨメルウタナリ》。【[年月未詳。】
 
宿奈麿の傳は、上(ノ)卷に、委(ク)出せり、○石川(ノ)女郎は、傳未(ダ)詳ならず、
 
二十三日《ハツカマリミカノヒ》。於《ニテ》2治部少輔大原今城眞人之宅《ヲサムルツカサノスナキスケオホハラノイマキノマヒトガイヘ》1。宴歌一首《ウタゲスルウタヒトツ》。
 
治部(ノ)少輔、續紀に、寶字元年六月壬辰、大原(ノ)眞人今城爲2治部(ノ)少輔(ト)1、と見えたり、○今城眞人、古寫小本には、眞人今城とかけり、
 
4492 都奇餘米婆《ツキヨメバ》。伊麻太冬奈里《イマダフユナリ》。之可須我爾《シカスガニ》。霞多奈婢久《カスミタナビク》。波流多知奴等可《ハルタチヌトカ》。
 
都奇餘米婆《ツキヨメバ》は、月次《ツキナミ》を數《ヨメ》ばなり、○歌(ノ)意は、月次を數《カゾ》ふれば、未(ダ)冬ながら、立春の節になりぬるしるしとてか、さすがに霞のたなびくよ、となり、これは月次を數ふれば、十二月廿三日なれど、既く四五日前に、立春の節なりければいへるなり、十(ノ)卷(ノ)初に、久方之天芳山此夕霞霏※[雨/微]春立下《ヒサカタノアメノカグヤマコノユフヘカスミタナビクハルタツラシモ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中弁大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
二年春正月三日《フタトセトイフトシムツキノミカノヒ》。召《メシテ》2侍從竪子王臣等《オモトヒトチヒサワラハオホキミタチオミタチヲ》1。令《シメ》v侍《サモラハ》2於|内裏之東屋垣下《オホウチノヒムカシノヤノミカキモトニ》1。(476)即|賜《タマヒテ》2玉箒《タマハヾキヲ》1肆宴《トヨノアカリキコシメス》。于|時《トキニ》内相|藤原朝臣《フヂハラノアソミ》奉《ウケタマハリテ》v勅《ミコトノリヲ》宣《ノリタマハク》。諸王卿等《オホキミタチマヘツキミタチヲ》。隨堪任意作歌并賦詩《コヽロノマヽニウタヨミフミツクレトノリタマヘリ》。仍《カレ》應《マニマ》2 詔旨《ミコトノリノ》1。各《オノモ/\》陳《ノベテ》2心緒《オモヒヲ》1作《ヨミ》v歌《ウタ》賦《ツクレリ》v詩《フミ》。【未得諸人之賦詩并作歌也。】
 
正月三日云々、此(ノ)日丙子にて、初子《ハツネノ》肆宴ありしなり、初子(ノ)宴、その濫觴をしらず、古く見えたるは、此をはじめとするか、但し此時にはじめて行はれしにはあらず、文徳天皇實録に、天安元年正月乙丑、禁中(ニ)有2由宴1、云々、昔者上月之中必(ズ)有2此(ノ)事1、時(ニ)謂2之子日(ノ)態1也、今日之宴修(ルト)2舊迹(ヲ)1也、とあり、〔頭註、【公事根源一、子日遊、是はむかし人人野へに出て、子日するとて、松を引けるなり、朱雀院圓融院三條院などの御時にも、此御遊は有けるにや、中にも圓融院の子日をせさせ給けるは、寛和元年二月十三日の事也、云々、○拾芥抄、正月子日登v岳何耶、傳云、正月子日登v岳、遠望2四方1、得2陰陽靜氣1、除2煩悩1之術也、(十節記)○扶桑略記、宇多天皇、寛平八年閏正月六日、有2子日宴1、行2北野雲林院1、云々、○菅家文章六、扈2從雲林院1、不v勝2感歎1、聊敍v所v觀、序云、予亦嘗聞2于故老1、曰、上陽子日野遊厭v老、】〕○東屋は、内裏にて、東方にあたれる處の屋舍なるべし、(春を東方に迎ふ意もあるにや、和名抄に、唐令(ニ)云、宮殿皆四阿、和名|阿豆萬夜《アヅマヤ》、とあるは、ここに由なし、)○垣下は、御垣下に召侍《メシサムラ》はしめ給ふと、卑下《ヘリクダリ》ていへる意にや、(源氏物語未通女に、凡垣下《オフシカイモト》あるじ、甚《ハナハダ》非常《ヒザウ》に侍りたうぶ、と見えたり、)○玉箒は、玉を飾りて造れる帚《ハヽキ》なるべし、其(ノ)さまのくはしきことは知べからず、(袖中抄に、初子の日、蓍《メド》といふ草を帚につくりて、蠶飼《コカヒ》屋を掃するを玉箒と云、といふ説をはじめて、後世種々の説をいへるは、みな今の歌によりて、推度《オシハカリ》にいへるのみにて、用るに足ず、)さて、これは諸卿大夫をめし侍らはしめて、子(ノ)日の肆宴きこしめす折から、時の興に賜へるなるべし、もし正月初子に、此(ノ)玉箒を臣下に賜(ハ)ること、定(477)まれる祝式にてありしならば、その趣物に見ゆべきことなるに、すべてそのさだなきからは、さる謂《ヨシ》にてはあらじ、又十六に、詠2玉掃鎌天木香棗《タマハヽキカマムロノキナツメヲ》1歌に、玉掃苅來鎌麻呂《タマハヽキカリコカママロ》云々、とある玉掃は、こゝにあづからず、(此(ノ)歌、題の意を、古來註者等心得誤たり、題は玉と掃と鎌と云々を詠ると云ことなり、さて草に玉婆波伎《タマバハキ》と名付たる草あるから、題の玉と掃とを一(ト)くゝりにして、かの玉帚《タマバヽキ》と云草を刈て來よ、といふ意に、よみなしたるものなり、猶委くは彼歌に註せり、)
 
4493 始春乃《ハツハルノ》。波都禰乃家布能《ハツネノケフノ》。多麻婆波伎《タマバハキ》。手爾等流可良爾テニトルカラニ《》。由良久多麻能乎《ユラクタマノヲ》。
 
由良久多麻能乎《ユラクタマノヲ》は、※[金+將]鳴玉之緒《ユラクタマノヲ》といへるるなり、由良久《ユラク》は、玉の※[金+將]々《ユラ/\》と鳴(リ)響くを云て、集中にあまた出たる辭なり、既く十(ノ)卷に委(ク)釋り、玉之緒《タマノヲ》といへるは、其(ノ)緒の由良久《ユラク》を云よしの詞つゞきと聞ゆれど、緒の鳴とは云べきにあらざれば、緒に貫る玉の※[金+將]鳴《ユラ》くよ、と云意を、語路に引れて、由良久玉之緒《ユラクタマノヲ》、とよまれたるなり、(由良久《ユラク》を、手玉《タタマ》の鳴(ル)を云、といふ説はあらず、玉帚《タマバヽキ》の玉なり、又|由良久《ユラク》を、命をのぶることゝ意得來れるは、命のことを、靈之緒《タマノヲ》といへることのあるによりて、推度《オシハカリ》に、しか思へるにて、いふにも足ぬ説なり、)○歌(ノ)意は、忝くも肆宴に侍ふ初子の今日しも、賜はせたる玉帚を戴き承て、手に取(リ)持からに、やがて其(ノ)飾れる緒玉の※[金+將]々《ユラ/\》と鳴響きて、時の興さへいとゞ益りて、殊更に有難くめづらし、といふなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中辨大伴宿禰家持作《ミギノナカオホトモヒオホトモノスクネヤカモチガヨメル》。但|依《ヨリテ》2大藏政《オホクラノツカサノマツリゴトニ》1。不《ザリキ》2堪奏《エマヲサ》1之也。
 
(478)依2大藏(ノ)政(ニ)1は、令(ノ)義解に、右大辨一人、掌(ル)v管(スルコトヲ)2兵部刑部大藏宮内(ヲ)1、餘(ハ)同2左大辨(ニ)1、右中辨(ニ)一人、掌(ルコト)同2右大辨(ニ)1、とあるを思(フ)べし、
 
4494 水鳥乃《ミヅトリノ》。可毛能羽能伊呂乃《カモノハノイロノ》。青馬乎《アヲウマヲ》。家布美流比等波《ケフミルヒトハ》。可藝利奈之等伊布《カギリナシトイフ》。
 
本(ノ)二句は、八(ノ)卷にも、水鳥之鴨乃羽色乃春山乃《ミヅトリノカモノハノイロノハルヤマノ》、とよめり、又|水鳥青羽山《ミヅトリノアヲハノヤマ》、とよめるも同意なり、(今の歌、六帖并官本には、かもの羽いろの、とあり、)○可藝利奈之等伊布《カギリナシトイフ》は、無《ナシ》v疆《カギリ》と云(フ)なり、○歌(ノ)意は、七日の今日にあたりて、青馬を見と見る人は、無《ナキ》v疆《カギリ》壽命《イノチ》をうくるぞと云なる、となり、抑々正月七日に、青馬を御覽じ給ふことは、からふみ禮記月令に、天子居2青陽(ノ)左介(ニ)1、乘2鸞路(ニ)1駕2倉龍(ニ)1、載2青※[旗の其が斤](ヲ)1衣2青衣(ヲ)1服2倉玉(ヲ)1、とありて、註に、倉與v蒼同(ジ)、馬八尺以上(ヲ)爲v龍(ト)、とあれば、倉龍は青馬なり、又帝皇世紀に、高辛氏之子、以2正月七日(ヲ)1、恆登v崗(ニ)、命2青衣(ノ)人(ニ)1、令v列2青馬七疋(ヲ)1、調2青陽之氣(ヲ)1、馬者主v陽(ヲ)、青者主v春(ヲ)、崗者萬物之始、人主之居、七者七曜之清、徴2陽氣之温(ヲ)1始也、とある、これらに本づきて、行はれけることなるべし、さて皇朝にて青馬を御覽じ給(フ)ことは、いつの御代よりの事にか、未(ダ)勘(ヘ)へず、〔頭註、【契冲、白馬節會は、天武天皇十年に始れりと云、といへり、】〕史籍に見えたるは、續後紀に、天長六年正月甲寅朔庚申、天皇御2紫宸殿(ニ)1、覽《ミソナハス》2青馬(ヲ)1、承和元年春正月壬子朔戊午、天皇御2豐樂殿(ニ)1、觀《ミソナハス》2青馬(ヲ)1、文徳天皇實録に、仁壽二年正月戊辰朔甲戊、幸2豐樂院(ニ)1、以|覽《ミソナハス》2青馬(ヲ)1、助(タマフトテ)2陽氣(ヲ)1也、三代實録に、貞觀二年春正月七日戊午、車駕幸2豐樂院(ニ)1、觀2覽青馬(ヲ)1、賜v宴(ヲ)奏v樂(ヲ)、賜v禄(ヲ)如2舊儀(ノ)1、などあれど、當時夫平寶字二年の(479)事にて、天長承和の頃よりは、七八十年ばかり以往《アナタ》なれば、はやくの年より行はれしを知(ル)べし、貞觀儀式に、正月七日(ノ)儀曰、云々、今日波正月七日乃豐樂聞食須日爾在《ケフハムツキノナヌカノヒノトヨノアカリキコシメスヒニアリ》、故是以御酒食閇惠良岐《カレコヽモチテミキタヘヱラキ》、常毛見留青岐馬見太萬比退止爲※[氏/一]奈毛《ツネモミルアヲキウマミタマヒシゾクトシテナモ》、酒幣乃御物賜波久止宣《サカマヒノミモノタマハクトノル》、延喜左馬寮式に、凡青馬二十疋(ハ)、自2十一月一日1、至2正月七日(ニ)1、二寮半分(シテ)飼(ヘ)之、(一疋互(ニ)飼、)近衛式に、凡正月七日青馬(ノ)※[有+龍]《クチトリノ》近衛(ハ)、著2皀※[糸+委]末額細有青摺(ノ)衫紫(ノ)小袖白布(ノ)帶横刀緋(ノ)脛巾帛(ノ)襪麻(ノ)鞋(ヲ)1、其(ノ)馬(ノ)前陣(ノ)近衛十人、装束同v※[有+龍]《クチトリニ》、とあり、さて此より後の記録等に、白馬(ノ)節會と書たるは、本居氏(ノ)説る如く、古(ヘ)よりの青馬を改めて、白馬とはせられたるなり、(白馬とせられたるは、河海砂に、東方朔十節記(ニ)曰、馬性以v白爲v本(ト)、天(ニ)有2自龍1、地(ニ)有2白馬1、秘抄に、同云、是日見2白馬(ヲ)1、年中邪氣遠去(テ)不v來、とある、本文によりたることなるべし、)さて紀(ノ)貫之(ノ)土佐日記に、七日になりぬ、同じ湊にあり、今日は白馬《アヲウマ》を思へど甲斐なし、唯浪の白きをぞ見る、とあるによりて思へば、延喜式に、青馬とあるは、なほ古(ヘ)よりのまゝにしるされたるものにて、延喜延長の頃に至りては、はやく白馬を用ひらるゝことにぞなれりけむ、〔頭註、【弘仁式十四、中宮式、七日左右馬寮允屬馬醫左右近衛、率白馬七疋、度御殿前畢、職司於廳前儲酒肴饗之、○紀略、天暦元年丁未正月七日癸巳、白馬宴、天暦は延喜より遙に後なれば、白馬とある勿論なり、】〕平(ノ)兼盛(ノ)集に、降雪に色も替らで牽ものを誰あをうまと名附初けむ、とある如く、白き馬を用ひられ、文《モジ》にも白馬と書(キ)ながら、語にはアヲウマ〔四字右○〕とのみ唱(ヘ)來れるは、猶古(ヘ)青馬なりし時の稱を存《ノコ》せるものなり、(しかるを、白馬と書て、アヲウマ〔四字右○〕と訓(ム)によりて、人皆心(480)得誤りて、古は實に青き馬なりしことをばえしらで、もとより白き馬と思ひ、古書どもに、青馬と書るをさへ、白き馬を然云りと思ふは、いみじきひがことなり、と本居氏玉勝間に記(ル)せるが如し、天武天皇(ノ)紀(ノ)上に、鯨乘2白馬1而以逃(ル)之、とある白馬を、アヲウマ〔四字右○〕と訓たる點も、青馬白馬と異《カハ》れるをしらで、一(ツ)に思ひ混《マガ》へたるよりの誤なり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。爲《タメニ》2七日侍宴《ナヌカノヒノトヨノアカリノ》1。右中弁大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。預2作《アラカジメヨメリ》此歌《コノウタヲ》1。但|依《ヨリ》2仁王|會事《ヲガミノコトニ》1。却以|六日《ムカノヒニ》。於《ニ》2内裏《オホウチ》1召《メシテ》2諸王卿等《モロ/\ノオホキミタチマヘツキミタチヲ》1。賜《タマヒ》v酒《サケヲ》肆宴《トヨノアカリキコシメシ》。給《タマヘルニ》v禄《モノ》因斯《ヨリテ》不《ザリキ》v奏《マヲサ》也。
 
仁王會、齊明天皇(ノ)紀に、六年五月辛丑朔戊申、是月設2仁王般若之|會《ヲガミヲ》1、とある、是始にや、毎年春行はるゝを、臨時仁王會といふよし、其(ノ)式、江家次第、秘抄等に見ゆ、〔頭註、【通證云、仁王護國般若波羅密經二卷、】〕○因斯不v奏也、肆宴六日に行はれて、青馬を牽れざりしゆゑに、歌出されざりけるなり、
 
六日《ムカノヒ》。内庭《オホニハニ》假《カリニ》植《ウヱテ》2樹木《キヲ》1。以|作《シテ》2林帷《カキシロト》1。而|爲《キコシメス》2肆宴《トヨノアカリ》1歌一首《ウタヒトツ》。
 
假植2樹木(ヲ)1以作2林帷(ト)1(帷、舊本惟に誤、古寫本、異本等に從つ、)は、假に木を植つらねて、帷の代(リ)になせるなり、和名抄に、釋名云、帷(ハ)圍也、以2自障1圍也、和名|加太比良《カタヒラ》、とあり、文粹前(ノ)中書王池亭(ノ)記に、夏條爲v帷(ヲ)、冬冰爲v鏡(ヲ)、とあり、(但これは、自然に帷となれるさまを云、今は設て帷の代に爲《ナ七》るなり、)又貞觀儀式に、正月七日儀曰、平明左右衛門、樹2梅柳(ヲ)於舞臺(ノ)四角及三面(ニ)1、掃部(ノ)寮、敷2稠薦於臺上(ニ)1、(481)内藏寮、以2縹帶(ヲ)1結2著梅柳(ノ)枝(ニ)1、剪v棉(ヲ)爲2花形(ト)1、以2南面(ヲ)1敷2薦(ノ)上(ニ)1、以v※[金+籤の竹冠なし](ヲ)爲2鎭子(ト)1、とあるを考合(ス)べし、〔頭註、【江次第、新嘗曾装束條に、尋常版位南去三許丈、構2立舞臺1、其上鋪v薦加2兩面1、置2鎭子1、其四面樹2梅柳1、其東西北面懸2亘帽額1、】〕○肆宴は、七日の節會なるが、仁王會(ノ)事によりて、六日に執行はれしなり、
 
4495 打奈婢久《ウチナビク》。波流等毛之流久《ハルトモシルク》。宇具比須波《ウグヒスハ》。宇惠木之樹間乎《ウヱキノコマヲ》。奈枳和多良奈牟《ナキワタラナム》。
 
波流等毛之流久《ハルトモシルク》は、春《ハル》と云ことも炳然《シルク》なり、○字惠木之樹間《ウヱキノコマ》、題詞に假植2樹木(ヲ)1とあるを、植木とはいへるなり、樹間《コマ》は、字の如し、木《キ》の間《マ》と云に同じ、頼政卿(ノ)歌に、住吉の松の樹間《コマ》より見度せば云々、かげろふの日記に、あげたるすどもうちおろして見やれば、こまより、火ふたとぼし、みとぼし見えたり、○歌意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中辨大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。【未奏。】
 
未(ノ)字、舊本には不と作か、今は古寫小本に從つ、
 
二月某日〔二字各○で囲む〕《キサラキノソレノヒ》。於《ニテ》2式部大輔中臣清麿朝臣之宅《ノリノツカサノオホキスケナカトミノキヨマロノアソミガイヘ》1。宴歌十首《ウタゲスルウタトヲ》。
 
二月の下、日を脱せり、○清麿は、傳十九(ノ)下に委(ク)出せり、
 
4496 宇良賣之久《ウラメシク》。伎美波母安流加《キミハモアルカ》。夜度乃烏梅能《ヤドノウメノ》。知利須具流麻※[泥/土]《チリスグルマデ》。美之米受安利家流《ミシメズアリケル》。
 
(482)歌(ノ)意は、庭の梅花の散(リ)過るまで、吾に不《ズ》v令《シメ》v見《ミセ》てありしは、心づよく、さても君は怨めしくもある哉、と戯れたるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。治部少輔大原今城眞人《ヲサムルツカサノスナキスケオホハラノイマキノマヒト》。
 
4497 美牟等伊波婆《ミムトイハバ》。伊奈等伊波米也《イナトイハメヤ》。
宇梅乃波奈《ウメノハナ》。知利須具流麻弖《チリスグルマテ》。伎美我伎麻左奴《キミガキマサヌ》。
 
左奴、舊本に世波と作るは誤なり、今は元暦本、阿野家本、飛鳥井家本、官本、類聚萬葉等に從つ、○歌(ノ)意は、梅(ノ)花を不《ズ》v令《シメ》v見《ミセ》とのたまへども、見むといはゞ、否《イナ》見せじといはめやは、散(リ)過るまで來座ぬ君こそ、中々に怨めしけれ、といひて、今城の歌に戯れ和へられたり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主人中臣清麿朝臣《アロジナカトミノキヨマロノアソミ》。
 
4498 波之伎余之《ハシキヨシ》。家布能安路自波《ケフノアロジハ》。伊蘇麻都能《イソマツノ》。都禰爾伊麻左禰《ツネニイマサネ》。伊麻母美流其等《イマモミルゴト》。
 
波之伎余之《ハシキヨシ》は、愛《ハシ》きやしにて、主人に係ていへり、○安路自《アロジ》は、主人《アロジ》なり、○伊蘇麻都能《イソマツノ》は、磯松之《イソマツノ》なり、此《コヽ》は都禰《ツネ》をいはむ料のまくら詞の如くに、目に觸る物を以ていへるなり、礒松《イソマツ》とは、庭の池の側《ホトリ》に植《タチ》たる松をいへり、凡(ソ)磯とは、海にかぎらず、河にも池にもいへり、下に、伊氣乃之良奈美伊蘇爾與也《イケノシラナミイソニヨセ》、とよめるも同じ、○伊麻母美流其等《イマモミルゴト》は、今目(ノ)前に見る如くもの意なり、(483)母《モ》は、今を主とたてゝ、後を客としていへる詞なり、さればこの母《モ》の詞は、其等《ゴト》の下にめぐらして心得べし、今眼(ノ)前に見る如く、遠長く、後までも常《トコ》しなへにおはしませ、との謂《ヨシ》なり、○歌(ノ)意は、愛《ウツク》しき今日の主人は、今眼(ノ)前に見る如く、千代萬代の後までも、面變(リ)することもなくて、常《トコ》しなへにおはしませかし、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中辨大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4499 和我勢故之《ワガセコシ》。可久志伎許散婆《カクシキコサバ》。安米都知乃《アメツチノ》。可未乎許比能美《カミヲコヒノミ》。奈我久等曾於毛布《ナガクトソオモフ》。
 
和我勢故之《ワガセコシ》は、家持(ノ)卿をさせり、之《シ》は、例の其(ノ)一(ト)すぢなるを、重く思はする助辭にて、古事記八田(ノ)若郎女(ノ)御歌に、意富岐美斯與新登岐許佐婆《オホキミシヨシトキコサバ》、とある斯《シ》に同じ、○可久志伎許散婆《カクシキコサバ》、この志《シ》も、上にいへるに同じき助辭にて、此《コヽ》はさやうに一すぢにの給はゞ、と云意なり、凡て伎許須《キコス》は、のたまふと云意にあたる古言なり、既く委(ク)註り、○許比能美《コヒノミ》は、乞祈《コヒノミ》なり、既くあまた見えたる詞なり、○歌(ノ)意は、愛《ウツクシ》き吾(ガ)兄が、吾をさやうにまで、一(ト)すぢに深切《ネモコロ》に思ひたまふとならば、吾も生るかひあり、されば、天神地祇《アマツカミクニツカミ》に祈願《コヒノミ》て、吾(ガ)壽の良からむことをこそおもはめ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主人中臣清麿朝臣《アロジナカトミノキヨマロノアソミ》。
 
4500 宇梅能波奈《ウメノハナ》。香乎加具波之美《カヲカグハシミ》。等保家杼母《トホケドモ》。己許呂母之努爾《ココロモシヌニ》。伎美乎之曾(484)於毛布《キミヲシソオモフ》。
 
等保家杼母《トホケドモ》は、雖《ドモ》v遠《トホケ》にて、互に家庭の隔れるを云、○歌(ノ)意は、主人の庭の梅(ノ)花の香の芳馥《カウバシ》きゆゑに、家處は隔りたれども、さらに疎くは思はず、情も靡《シナ》やぎて、主人の君をのみぞ、一(ト)ト》すぢになつかしく思ふとなり、主人の徳《ウツクシミ》を賞《メヅ》る意を下に思はせて、さて遠路をも厭《イト》はず慕ひ來れる謂を,述たるならむ、(梅(ノ)花の香の甚《ツヨ》くて、遠き處まで、薫《カホ》り來れる謂を、いへるにはあらず、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。治部大輔市原王《ヲサムルツカサノオホキスケイチハラノオホキミ》。
 
市原(ノ)王は、傳三(ノ)卷(ノ)下に、委(ク)出せり、
 
4501 夜知久佐能《ヤチクサノ》。波奈波宇都呂布《ハナハウツロフ》。等伎波奈流《トキハナル》。麻都能左要太乎《マツノサエダヲ》。和禮波牟須婆奈《ワレハムスバナ》。
 
歌(ノ)意は、八千種《ヤチケサ》の花は美艶《ハナヤカ》なれど、やがて變《ウツロ》ひ化《カハ》り易ければ、たのみがたし、吾は常磐の松の枝を結びて、行末かはらぬ契をかけばや、と云て、生人とかはらぬ契を結ばむ、といふ意を含めたるなるべし、此上に、佐久波奈波宇都呂布等伎安里安之比奇乃夜麻須我乃禰之奈我久波安利家里《サクハナハウツロフトキアリアシヒキノヤマスガノネシナガクハアリケリ》、六(ノ)卷に、春草者後落易巖成常磐爾座貴吾君《ハルクサハノチハチリヤスシイハホナストキハニイマセタフトキワガキミ》、とあり松の枝を結ぶことは、二(ノ)卷有間(ノ)皇子の御歌にも見えて、既く委(ク)註り、契冲、凡(ソ)むすぶは、玉むすびなどするごとく、物をとどむる心なり、今の世にも、社のあたりにある、むすばるべき草木などをば、何となくむすび(485)なれたるは、昔のならはしの遺れるなるべし、といへり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中辨大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4502 烏梅能波奈《ウメノハナ》。左伎知流波流能《サキチルハルノ》。奈我伎比乎《ナガキヒヲ》。美禮杼母安可奴《ミレドモアカヌ》。伊蘇爾母安流香母《イソニモアルカモ》。
 
歌(ノ)意は、此(ノ)庭の梅(ノ)花の、はら/\と散かふ池の磯のけしきをば、長き春の日を暮して、終日《ヒネモス》に見れども、さても飽足ずある哉、となり、十三に、云々二梶貫磯榜回乍《マカヂヌキイソコギタミツヽ》、島傳雖見不飽《シマヅタヒミレドモアカズ》、三吉野乃瀧動動《ミヨシヌノタギモトヾロニ》、落白浪《オツルシラナミ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大藏大輔甘南備伊香眞人《オホクラノツカサノオホスケカムナビノイカコノマヒト》。
 
4503 伎美我伊敝能《キミガイヘノ》。伊氣乃之良奈美《イケノシラナミ》。伊蘇爾與世《イソニヨセ》。之婆之婆美等母《シバシバミトモ》。安加無伎彌加毛《アカムキミカモ》。
 
本(ノ)句は、池の磯の面白き景色《ケシキ》を述て、やがて屡《シバ/”\》をいはむ料の序とせり、浪の絶ず、數々《シバ/”\》によせくる意につゞけ下したり、○伎彌加毛《キミカモ》は、君歟《キミカ》にて、毛《モ》は歎息(ノ)辭なり、後(ノ)世、君かはと云意に同じく、こゝは君哉《キミカナ》といふ意になるとはたがへり、この加毛《カモ》は、古今集(ノ)序に、こひざらめかもとあるかもに同じ、此(ノ)下に、知與爾和須禮牟和我於保伎美加母《チヨニワスレムワガオホキミカモ》、とあるも同じ、○歌(ノ)意は、數々《シバ/\》にいつまでも絶ず、相見《アヒミル》とても、さても飽べき君にてましますべしやは、となり、
 
(486)右一首《ミギノヒトウタハ》。右中弁大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4504 宇流波之等《ウルハシト》。阿我毛布伎美波《アガモフキミハ》。伊也比家爾《イヤヒケニ》。伎末勢和我世古《キマセワガセコ》。多由流日奈之爾《タユルヒナシニ》。
 
阿我毛布《アガモフ》は、吾思《アガモフ》なり、○伊也比家爾《イヤヒケニ》は、言(ノ)意は、彌日來經《イヤヒキヘ》にと云にて、彌日々《イヨ/\ヒヽ》にと云(フ)と、同意の古言なり、○世古、古寫本、拾穗本等に、古を呂と作り、世呂《セロ》と云こと、東歌には多けれども、京人の歌には、聞及ばぬことなれば、用《トル》べからず、○歌(ノ)意は、吾(ガ)愛しく思ふ吾(ガ)兄の君は、のたまふ如く、相見るにあく世なければ、いつまでも絶ることなしに、彌毎日毎日《イヨ/\ヒゴトヒゴト》に來り給へ、といひて、家持(ノ)卿に和へられたるなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主人中臣清麻呂朝臣《アロジナカトミノキヨマロノアソミ》。
 
4505 伊蘇能宇良爾《イソノウラニ》。都禰欲比伎須牟《ツネヨビキスム》。乎之杼里能《ヲシドリノ》。乎之伎安我未波《ヲシキアガミハ》。伎美我末仁麻爾《キミガマニマニ》。
 
伊蘇能宇良爾《イソノウラニ》は、磯之裏《イソノウラ》ににて、これも庭の池の磯なり、此(ノ)主人中臣氏の家の庭は、廣く興あるさまに造られけるなるべし、右件(リ)の歌どもに、磯の景色をあまたよめるにて、其(ノ)さま思ひやられたり、○都禰欲比伎須牟《ツネヨビキスム》は、常喚來棲《ツネヨビキスム》にて、常に友を喚(ビ)率て來り棲《スム》と云なり、契冲、此は友をさそひて、此(ノ)清麻呂(ノ)朝臣の許へ、常に來て遊ぶにたとへたり、といへり、さる意もあるべ(487)きにや、又上の伎美我伊敝能《キミガイヘノ》云々、の歌に同じく、こゝもたゞ池水に鳥の遊ぶさまを見て、やがて其を序によみなせるにて、本(ノ)句は、惜《ヲシ》きをいはむ料のみにてもあるべし、○乎之伎安我末波《ヲシキアガミハ》は、惜《ヲシ》き吾身者《アガミハ》と云ことなれど、歌の意は、惜き吾身にては有(レ)どもと云なり、(しか聞ずては、結句にかけ合(ハ)ぬことなり、)かやうに云て、さる意に聞ゆることも、古歌の一(ノ)格にてぞありけむ、九(ノ)卷長歌に、人跡成事者難乎《ヒトトナルコトハカタキヲ》、和久良婆爾成吾身者《ワクラバニナレルアガミハ》、死毛生毛君之隨意常《シニモイキモキミガマニマト》、念乍有之間《オモヒツヽアリシアヒダニ》云云、これを併(セ)考(フ)べし、(これも人に生るゝことは、得がたきことなるを、たまさかに、人界に生れ得たる吾(ガ)身にてはあれども、と云意にて、今と同じ、)猶この事、彼(ノ)歌につきても、既く釋り、○歌(ノ)意は、惜き吾(ガ)身にてはあれども、愛《ウツク》しき君が爲には、かにもかくにも許《ユル》し參《マヰ》らせむ、と身を主人に委任《ユダネマカ》せたるなり、十六に、死藻生藻同心跡結而爲友八違我藻將依《シニモイキモオヤジコヽロトムスビテシトモヤタガハムアレモヨリナム》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。治部少輔大原今城眞人《ヲサムルツカサノスナキスケオホハラノイマキマヒト》。
 
依《ツケテ》v興《トキニ》。各《オノモ/\》思《シヌヒテ》2高圓離宮處《タカマトノトツミヤトコロヲ》1。作歌五首《ヨメルウタイツツ》。
 
高圓(ノ)離宮處は、三笠山の内に存しなるべし、史籍に見えざるを思へば、此(ノ)離宮は、かりそめに造られけるにや、さてこれも右の宴席にて、時の興に、既往《サキ》に聖武天皇の高圓(ノ)離宮を造らせ給ひて、行幸《イデマ》しゝ事をいひ出て、各々のよまれたる歌なり、處とあるをみれば、宮は廢れての跡なるべし、此(ノ)卷の始にも、此(ノ)宮をよめる歌あり、
 
(488)4506 多加麻刀能《タカマトノ》。努乃宇倍能美也波《ヌノウヘノミヤハ》。安禮爾家里《アレニケリ》。多多志志伎美能《タタシシキミノ》。美與等保曾氣婆《ミヨトホソケバ》。
 
努乃宇倍能美也《ヌノウヘノミヤハ》は、野(ノ)上(ノ)宮なり、(新古今集に、顯昭、萩が花眞袖にかけて高圓の野(ノ)上(ノ)宮にひれふるやたれ、○多多志志伎美能《タタシシキミノ》、(舊本に、多々志伎伎美能とあるは、寫し誤れるものなり、今は官本、或校本等に從つ、)御立《タヽシ》し君之《キミノ》にて、立賜ひし君のと云意なり、聖武天皇を指奉れり、多多志《タタシ》は、多知《タチ》を延たる言にて、立(チ)賜ひと云と同意に用ふる古言なり、○美與等保曾氣婆《ミヨトホソケバ》は、御代遠避者《ミヨトホソケバ》にて、遠除《トホノケ》ば、遠《トホ》ざかれば、など云に同じ、○歌(ノ)意は、聖武天皇の度々に行幸《イデマ》したまひしほどは、尊く隆盛《サカリ》なりしを、其(ノ)御代の漸《ヤウ/\》遠ざかりゆくまゝに、自然《オノヅカラ》に、この高圓(ノ)離宮は廢れて荒にけり、これ一(ツ)にても、その御代の仰慕《シタ》はしさかぎりなしとなり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中弁大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4507 多加麻刀能《タカマトノ》。乎能宇倍乃美也波《ヲノウヘノミヤハ》。安禮奴等母《アレヌトモ》。多多志志伎美能《タタシシキミノ》 。美奈和須禮米也《ミナワスレメヤ》。
 
乎能宇倍乃美也《ヲノウヘノミヤ》、上の歌に野上宮《ヌノウヘノミヤ》とよみ、其(レ)に和へたる歌に峯上宮《ヲノウエhノミヤ》とあること、野《ヌ》と峯《ヲ》と、頓《タチマチ》に異《カハ》れること、いかゞここいふに、この高圓は、此(ノ)卷(ノ)上に、登2高圓野(ニ)1とあるを思ふに、山上即(チ)原野なりけるが故に、同じ離宮を、野上(ノ)宮とも峯上(ノ)宮とも云て、通えけるなり、○歌(ノ)意は、のたまふ(489)如く、高圓(ノ)離宮は廢れて荒にけり、されども度々行幸《イデマシ》し、天皇の御代の隆盛《サカリ》なりしことを、得忘れ申さむやは、いつまでも仰慕《シタ》ひ奉らむぞ、となり、右の歌に和へたるなり、二(ノ)卷に、明日香川明日左倍將見等念八方吾王御名忘世奴《アスカガハアスサヘミムトオモヘヤモワガオホキミノミナワスレセヌ》、上(ノ)宮聖徳法王帝(ノ)説に載たる、巨勢(ノ)三杖大夫(ガ)、上(ノ)宮|薨時歌《ミウセタマフトキノウタ》に、伊加留我乃止美能乎何波乃多叡波許曾和何於保支美乃彌奈和須良叡米《イカルガノトミノヲガハノタエバコソワガオホキミノミナワスラエメ》、(此(ノ)歌、拾遺集二十に、聖徳太子、片岡山(ノ)邊、道人の家におはしけるに、餓たる人道のほとりに臥り、太子の乘たまへる馬留りて行ず、鞭をあげてうちたまへど、しりへしりぞきてとどまる、太子すなはち馬よりおりて、うゑたる人のもとにあゆみ進み給て、紫のうへの御衣《ミソ》をぬぎて、うゑ人のうへにおほひたまふ、歌をよみてのたまはく、しなてるや片岡山に、いひにうゑてふせる旅人あはれ、おやなしになれ/\けめや、刺竹のきみはやなき、いひにうゑてこやせるたび人あはれあはれ、といふ歌なり、うゑ人かしらもたげて、御返しをたてまつる、いかるがやとみの緒川の絶ばこそ吾(ガ)大王の御名をわすれめ、と載たるより、世(ノ)人なべて、此(ノ)歌をまことにさる時のなりと、心得來つらめど、其は例の僧徒《ホウシラ》が妄誕《ウツハリ》に出たることにて、さらにさらに信《ウク》るに足ぬことなり、さるは書紀并當集等に、彼(ノ)太子の御歌をば載たれど、答歌はなし、まことに其(ノ)時のならむには、いかでか正しき書には漏さるべき、信には、この法王帝(ノ)説のごとく、巨勢(ノ)大夫のなりしを、後に僧家の徒《トモガラ》が、よきほどに文を僞り飾りて、餓者の答歌にとり(490)合せて、世(ノ)人を欺き惑はせたるなり、さてこの僞り言の事の、やゝ古く物に見えたるは、現報靈異記、政事要略、聖徳太子傳暦、古今集眞名序、本朝文粹等なり、なほ其の委(キ)論は、余(ガ)南京遺響にいひたれば、彼(ノ)書につきて考ふべし、今はかつ/”\おどろかしおくなり、)
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。治部少輔大原今城眞人《ヲサムルツカサノスナキスケオホハラノイマキノマヒト》。
 
大原(ノ)二字、舊本に無(キ)は、脱たるなり、今は類聚抄、古寫小本等に從つ、
 
4508 多可麻刀乃《タカマトノ》。努敝波布久受乃《ヌヘハフクズノ》。須惠都比爾《スヱツヒニ》。知與爾和須禮牟《チヨニワスレム》。和我於保伎美我母《ワガオホキミカモ》。
 
和我於保伎美我母《ワガオホキミカモ》は、天皇歟《オホキミカ》にて、母《モ》は、歎息(ノ)辭なり、さても吾(ガ)大皇かは、といはむが如し、上の安加無伎彌加毛《アカムキミカモ》、とありしに同じ、○歌(ノ)意は、高圓の野邊を蔓延《ハヒワタ》る葛の、末終に絶せぬごとく、千代を經《フ》とも忘れ奉らむ吾(ガ)大皇にてあれやは、幾千代を經《フ》とも、その恩澤《ミウツクシミ》のありがたかりしをば、さても得忘れ申さじ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。主人中臣清麻呂朝臣《アロジナカトミノキヨマロアソミ》。
 
4509 波布久受能《ハフクズノ》。多要受之努波牟《タエズシヌハム》。於保吉美乃《オホキミノ》。賣之思野邊爾波《シシヌヘニハ》。之米由布倍之母《メシメユフベシモ》。
 
波布久受能《ハフクズノ》は、此《コヽ》はやがて枕詞にとれり、○歌(ノ)意は、のたまふ如く絶ず忘れず慕ひ奉む其(ノ)大(491)皇の、御覽じ賜ひし野邊には、今より千歳の後の世までも、跡の絶せざらむが爲に、さても著く膀示《シメ》を結(ヒ)置べき物にてあるぞ、となり、上の歌に和へられたるなり、十八に、家持(ノ)卿、大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中辨大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4510 於保吉美乃《オホキミノ》。都藝弖賣須良之《ツギテメスラシ》。多加麻刀能《タカマトノ》。努敝美流其等爾《ヌヘミルゴトニ》。禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》。
 
都藝弖賣須良之《ツギテメスラシ》は、繼て御見《メシ》給へりし、と云意にて、退去《スギコ》し方のことをいへる詞なり、此は集中一格にて、其は二卷に、天皇崩之時太后御作歌に、八隅知之我大王之《ヤスミシシワガオホキミノ》、暮去者召賜良之《ユフサレバメシタマフラシ》、明來者問賜良志《アケクレバトヒタマフラシ》、神岳之山之黄葉乎《カミヲカノヤマノモミチヲ》、今日毛鴨問給麻思《ケフモカモトヒタマハマシ》、明日毛鴨召賜萬旨《アスモカモメシタマハマシ》云々、とある、召腸良之《メシタマフラシ》、問賜良志《トヒタマフラシ》も、召賜へりし、問賜へりしと云意にて、今と同じ、猶其(ノ)例は、彼(ノ)御歌の條下《シモ》に委(ク)註せり、○歌(ノ)意は、當時《ソノカミ》離宮の在し間、天皇の幸《イデマ》して御覽じ賜ひし、其(ノ)野を見る度に、昔を仰慕て一(ト)すぢに音にのみ泣るゝ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大蔵大輔甘南備伊香眞人《オホクラノツカサノオホキスケカムナビノイカコノマヒト》。
 
屬2目《ミテ》山齋《シマノイヘヲ》作歌三首《ヨメルウタミツ》。
 
山齋、こゝは、燕居之室(ヲ)曰v齋(ト)、と註せる意なるべし、契冲、これも同じ清萬呂(ノ)朝臣の庭に、築山の(492)ありて、書齋をそのあひだにつくられたるを、見るにつけての歌どもなり、といへるが如し、三(ノ)卷に、與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨《イモトシテフタリツクリシアガシマハコタカクシゲクナリニケルカモ》、とある山齋も、義を得て書るにて、同じきにや、(略解に、こゝの山齋はシマ〔二字右○〕と訓べし、といへる、其は歌に、許乃之麻《コノシマ》とあるには叶ひたれど、たゞ島とのみ意得ては、齋(ノ)字いかゞなり、)
 
4511 乎之能須牟《ヲシノスム》。伎美我許乃之麻《キミガコノシマ》。家布美禮婆《ケフミレバ》。安之婢乃波奈毛《アシビノハナモ》。左伎爾家流可母《サキニケルカモ》。
 
乎之能須牟《ヲシノスム》は、鴛鴦《ヲシ》の住《スム》にて、其(ノ)地の風趣《サマ》をいへるのみなり、○伎美我許乃之麻《キミガコノシマ》は、君之此島《キミガコノシマ》なり、君とは、主人清麻呂をなせり、島は、庭の泉水築山の類をすべて云ふなるよし、既くいへるが如し、○安之婢《アシビは、馬醉木《アシビ》なり、契冲、馬醉木ならむことを疑ひて、此(ノ)會の日、題に脱たれども、下の詞書に二月十日とあれば、十日よりさきなる頃、あせみのさくべきにあらず、おぼつかなし、といへり、然れども、この前年十二月十九日立春にて、すべて氣候もはやかりければ、陽地の處の草木などは、常より早く花の開《サケ》ることもあるべければ、疑べきにあらず、他花を、安之婢《アシビ》とよむべきよしなければなり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大監物御方王《オホキオロシモノヽツカサミカタノオホキミ》。
 
御方(ノ)王、上には三形(ノ)王とあり、同王なり、
 
(493)4512 伊氣美豆爾《イケミヅニ》。可氣左倍見要底《カゲサヘミエテ》。佐伎爾保布《サキニホフ》。安之婢乃波奈乎《アシビノハナヲ》。蘇弖爾古伎禮奈《ソテニコキレナ》。
 
蘇弖爾古伎禮奈《ソテニコキレナ》は、袖《ソテ》に將《ム》2扱入《コキイレ》1と急ぎ進めるなり、○歌(ノ)意は、庭の池の水に影のうつるまで、盛に開艶《サキニホ》ふ馬醉木《アシビ》の花の愛《ウルハ》しさを、たゞ目に見るのみにてはあき足ねば、いで/\袖に扱入(レ)て、賞翫《モチアソ》ばむ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中辨大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。
 
4513 伊蘇可氣乃《イソカゲノ》。美由流伊氣美豆《ミユルイケミヅ》。底流麻※[泥/土]爾《テルマデニ》。左家流安之婢乃《サケルアシビノ》。知良麻久乎思母《チラマクヲシモ》。
 
本(ノ)二句は、磯陰《イソカゲ》の所見《ミユル》池水にて、水の潔《イサギヨ》さに、磯陰のよくうつりて見ゆるよしなり、天雲の影さへみゆる泊瀬川の類なり、○歌(ノ)意は、いさぎよき池水の照ばかりに、咲にほひたを馬醉花の散なむ事は、さても惜き事ぞ、となり、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大藏大輔甘南備伊香眞人《オホクラノツカサノオホキスケカムナビノイカコノマヒト》。
 
二月十日《キサラキノトヲカノヒ》。於《ニテ》2内相(ノ)宅《イヘ》1。餞《ウマノハナムケスル》2勃海大使小野田守朝臣等《ボカイニツカハスツカヒノカミヲヌノタモリノアソミラヲ》1。宴歌一首《ウタゲノウタヒトツ》。
 
渤海大使、(古寫小本に、渤海の下に、高麗之國名也、と註せり、)舊唐書列傳に、渤海靺鞨大祚榮者、本高麗(ノ)別種也云々、其(ノ)地在2營州之東二千里1云々、新唐書列傳に、渤海(ハ)本粟末鞨附2高麗(ニ)1者、姓(ハ)(494)大氏云々、續紀に、神龜四年十二月丁亥、渤海郡(ノ)王(ノ)使高齊徳等八人入v京(ニ)云々、渤海郡者舊高麗(ノ)國也、淡海(ノ)朝廷、七年冬十月、唐將李※[責+力]伐2滅高麗(ヲ)1、其(ノ)後朝貢久絶(タリ)矣、至v是(ニ)渤海郡(ノ)王、遣《マヰワタシテ》2寧遠將軍高仁義等二十四人(ヲ)1朝聘(ス)云々、と見えたり、さて寶字二年二月、遣渤海使の事、續紀に載ずして、同年九月、小野(ノ)朝臣田守等、渤海より至れるよし見えたれば、はじめ遣渤海使に任られしより、歸朝《マヰカヘ》りしまでの事は、紀文に漏たる事しるし、○小野(ノ)田守、(小(ノ)字、舊本に少と作るはわろし、今は古寫本、古寫小本、拾穗本等に從つ、)續紀に、天平十九年正月丙申、正六位上小野(ノ)朝臣田守(ニ)授2從五位下(ヲ)1、勝寶元年閏五月甲午朔、爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、五年二月辛巳、爲2遣新羅大使(ト)1、六年四月庚午、爲2太宰(ノ)少貳(ト)1、寶字元年六月戊午、爲2刑部(ノ)少輔(ト)1、二年九月丁亥、小野(ノ)朝臣田守等至v自2渤海1、大使輔國大將軍兼將軍行木底州(ノ)刺史兼兵署少正開國公楊承慶已下廿三人、隨(テ)2由守(ニ)1來朝、便(チ)於《ニ》2越前(ノ)國1安置、十月丁卯、授2遣勃海大使從五位下小野(ノ)朝臣田守(ニ)從五位上(ヲ)1、十二月戊申、遣渤海使小野(ノ)朝臣田守等奏2唐國(ノ)消息(ヲ)1曰、云々、と見えたり、
 
4514 阿乎宇奈波良《アヲウナハラ》。加是奈美奈妣伎《カゼナミナビキ》。由久左久佐《ユクサクサ》。都都牟許等奈久《ツツムコトナク》。布禰波波夜家無《フネハハヤケム》。
 
阿乎宇奈波良《アヲウナハラ》は、蒼海原《アヲウナハラ》なり、土佐日記に載たる安倍(ノ)仲麻呂(ノ)歌に、蒼海原振仰見《アヲウナハラフリサケミレ》ば春日なる御笠の山に出し月かも、(これを古今集には、あまの原として載たるは、後に改めたるものか、)(495)和名抄に、四聲字苑(ニ)云、滄溟(ハ)阿乎宇三波良《アヲウミハラ》、とあれど、宇奈波良《ウナハラ》といふぞ古言なる、○加是奈美奈妣伎《カゼナミナビキ》は、風波靡《カゼナミナビキ》なり、奈妣久《ナビク》は、言(ノ)意|偃延《ナエビク》にて、(靡字も、字彙に、順也偃也、又施靡(ハ)連(ネ)延(ク)貌、など見ゆ、)起《タツ》の反《ウラ》をいふ言なれば、畢竟《オツルトコロ》は、風も波も發《タヽ》ず、海(ノ)上の和《ナゴ》みて靜なるよしなり、(風の吹(キ)靡(カ)する意にはあらず、)六(ノ)卷に、依賜將磯乃埼前《ヨリタマハムイソノサキ/”\》、荒浪風爾不令遇《アラキナミカゼニアハセズ》、草管見身疾不有《ツヽミナクヤマヒアラセズ》、急令變賜根本國部爾《スムヤケクカヘシタマハネモトノクニヘニ》、とあると、同意に落たり、○由久左久佐《ユクサクサ》は、行之太來之太《ユクシダクシダ》なり、之太《シダ》は佐《サ》と約る故にかくいへり、さてその之太《シダ》は、時と云と同じき古言なれば、こゝも行時來時《ユクトキクトキ》といふに同意なり、○都都牟許等奈久《ツツムコトナク》は、障《ツヽ》む事無(ク)なり、都都牟《ツツム》は、雨障《アマツヽミ》の障《ツヽミ》と同じく、障《サヤ》り泥《ナヅム》をいふ古言なり、續紀卅六(ノ)詔に、罷麻佐牟道波《マカリマサムミチハ》、平幸久都都牟事無久《タヒラケクサキクツツムコトナク》、宇志呂毛輕久安久通良世《ウシロモカロクヤスクトホラセ》云々、集中には、既くあまた見えたる詞なり、○歌(ノ)意、かくれたるすぢなし、九(ノ)卷に、海若之何神乎齊祈者歟往方來方毛舶之早兼《ワタツミノイヅレノカミヲイノラバカユクヘモクヘモフネノハヤケム》、十九に、住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無《スミノエニイツクハフリガカムコトトユクトモクトモフネハハヤケム》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。右中辨大伴宿禰家持《ミギノナカノオホトモヒオホトモノスクネヤカモチ》。【未誦之。】
 
七月五日《フミツキイツカノヒ》。於《ニテ》2治部少輔大原今城眞人宅《ヲサムルツカサノスナキスケオホハラノイマキノマヒトガイヘ》1。餞《ウマノハナムケスル》2因幡守大伴宿禰家持《イナバノカミオホトモノスクネヤカモチヲ》1。宴歌一首《ウタゲノウタヒトツ》。
 
因幡(ノ)守は續紀に、寶字二年六月丙辰、從五位上大伴(ノ)宿禰家持(ヲ)爲2因幡(ノ)守1、とあり、
 
4515 秋風乃《アキカゼノ》。須惠布伎奈婢久《スヱフキナビク》。波疑能花《ハギノハナ》。登毛爾加※[身+矢]左受《トモニカザサズ》。安比加和可禮牟《アヒカワカレム》。
 
(496)須惠布伎奈婢久《スヱフキナビク》は、末《スヱ》吹《フキ》令《ス》v靡《ナビカ》なり、加須《カス》、は久《ク》と約れり、奈婢久《ナビク》は、常には自《ラ》靡くをいヘど、此《コヽ》は靡かしむるをいへり、十(ノ)卷に、眞葛原名引秋風吹毎《マクズハラナビクアキカゼフクゴトニ》、阿太乃大野之芽子花散《アダノオホヌノハギガハナチル》、とあるも、令《ス》v靡《ナビカ》秋風の意にて、今と同じ、○安比加和可禮牟《アヒカワカレム》は、相共《アヒトモト》に別(レ)なむ歟《カ》、となり、加《カ》の辭は、末にうつして意得べし、○歌(ノ)意は、隱れなし、十九に、久米(ノ)朝臣廣繩と、家持(ノ)卿と別るときに臨《ナリ》て、矚2芽子(ノ)花(ヲ)1作歌に、君之家爾殖有芽子之始花乎折而挿頭奈客別度知《キミガイヘニウヱタルハギノハツハナヲヲリテカザサナタビワカルドチ》、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。大伴宿禰家持作之《オホトモノスクネヤカモチガヨメル》。
 
三年春正月一日《ミトセトイフトシムツキノツキタチノヒ》。於《ニテ》2因幡國廳《イナバノクニノマツリゴトトノ》1。賜2饗《アヘスル》國郡司等《ツカサビトラヲ》1之|宴歌一首《ウタゲノウタヒトツ》。
 
廳、書紀にはマツリゴトヤ〔六字右○〕とよめり、和名抄に、四聲字苑云、廳(ハ)延v賓(ヲ)屋也、人衙也、萬豆刺古止止乃《マツリゴトトノ》、とあり、儀制令(ノ)義解に、凡元日(ニハ)國司皆率(テ)2僚屬(謂僚(ハ)者同官(ナリ)也、屬(ハ)者統屬(ナリ)也、)郡司等(ヲ)1向(テ)v廳(ニ)朝拜(セヨ)、訖(リテ)者、長官受(ヨ)v賀(ヲ)、(謂受(ルヲイフ)2致敬之禮(ヲ)1也、若無(ハ)2長官1者、次官受(ヨ)v賀(ヲ)、其六位(ノ)長官(ハ)者止受(ヨ)2郡司(ノ)賀(ヲ)1、上(ノ)條(ニ)云若應(クハ)2致敬(ス)1者、准(セヨトイヘル)2下馬禮(ニ)1故也、)設(ケバ)v宴(ヲ)者聽(セ)、其(ノ)食(ハ)以2當處(ノ)官物及正倉(ヲ)1充(ヨ)、(謂官物(トハ)者郡稻(ナリ)也、正倉(トハ)者正税也、)所v須(ル)多少(ハ)從(ヘ)2別式(ニ)1、
 
4516 新《アラタシキ》。年之始乃《トシノハジメノ》。波都波流能《ハツハルノ》。家布敷流由伎能《ケフフルユキノ》。伊夜之家餘其騰《イヤシケヨゴト》。
 
新は、アラタシキ〔五字右○〕と訓べきこと、既く委(ク)釋るが如し、(後(ノ)世アラタシキ〔五字右○〕とアタラシキ〔五字右○〕とを混雜《ヒトツ》に意得たるは、言の似たるより誤れるものなり、古(ヘ)は新はアラタ〔三字右○〕、惜はアタラ〔三字右○〕とのみ云て、更(497)に混《マギ》るゝことなかりき、)○波都波流能家布《ハツハルノケフ》は、初春《ハツハル》の今日《ケフ》にて、元日なり、新年年之始《アラタシキトシノハジメ》といひ、初春《ハツハル》といへるは、同じ事をうちかへしていへるのみなり、○伊夜之家餘其騰《イヤシケヨゴト》は、彌重吉事《イヤシケヨゴト》なり、彌重《イヤシゲ》は、彌重《イヨ/\シキ》れ、と云なり、(即(チ)シキレ〔三字右○〕と云も、シケ〔二字右○〕と約れり、)五(ノ)卷に、伊也之吉阿何微麻多越知奴倍之《イヤシキアガミマタヲチヌベシ》、(彌重吾身《イヤシキアガミ》復《マタ》可《ベシ》2變若《ヲチヌ》1なり、)十九に、鳴鷄者彌及鳴杼《ナクカケハイヤシキナケド》、(なほ多き詞なり)などあるは、自《ミ》重《シキ》るを云、今は他《ヒト》のうへに重《シキ》れと令《オホ》するなり、餘其騰《ヨゴト》は、吉事《ヨゴト》と吉言《ヨゴト》と二種《フタクサ》ある中に、古事記雄略天皇(ノ)條に、一言主(ノ)大神の詔へる御詞に、吾者|雖《イヘドモ》2惡事《マガコトヽ》而|一言《ヒトコト》、雖《イヘドモ》2善事《ヨゴトヽ》1而|一言《ヒトコト》、言離之神《コトサカノカミ》、葛城之一言主之大神者《カヅラキノヒトコトヌシノオホカミナリ》也、とあると、今の歌なるとは吉事《ヨゴト》なり、書紀孝徳天皇(ノ)卷に、使《シメテ》2巨勢(ノ)大臣(ニ)奉賀《ヨゴトタテマツラ》1曰、公卿百官(ノ)人等奉賀《ヒトドモヨゴトタテマツラク》云々(ト)、奉賀訖再拜《ヨゴトタテマツリヲヘテヲロガミキ》、天智天皇(ノ)卷に、進(テ)2於殿前(ニ)1、奏《マヲス》2賀正事《ヨゴトヲ》1、持統天皇(ノ)卷に、神祇(ノ)伯中臣(ノ)大島(ノ)朝臣、讀(ミ)2天(ツ)神(ノ)壽詞《ヨゴトヲ》1畢(リテ)云々、神祇(ノ)伯中臣(ノ)朝臣大島、讀(ム)2天(ツ)神(ノ)壽詞《ヨゴトヲ》1、續紀に、延暦五年二月己巳、出雲(ノ)國(ノ)國(ノ)造出雲(ノ)臣國奏(ス)2神吉事《カムヨゴトヲ》1、などあるは、みな吉言《ヨゴト》の意なり、(本居氏云、凡てよごとゝ云るに、かく言と事との異あり、されど、古言には、其(ノ)字は多く言と事と相通はして書り、其(ノ)文によりて、辨ふべし、○歌(ノ)意は正月一日の今日しも、佳祥《ヨキシルシ》を表《アラハ》して、降(ル)雪の積(リ)重るが如くに、いよ/\益々吉事の重ねてあれ、となり、十七に、天平十八年正月、白雪多零、積v地數寸也、於時云々、葛井(ノ)連諸會應v詔歌に、新年乃波自米爾豐乃登之思流須登奈良思雪能敷禮流波《アラタシキトシノハジメニトヨノトシシルストナラシユキノフレルハ》、とある如く、年(ノ)始に雪の零を、豐年の瑞とするから、其(ノ)意を以てよまれたるなり、契冲、南宋(498)孝武帝(ガ)、大明五年正月朔日雪降(ル)、義泰以v衣(ヲ)受v雪(ヲ)爲2佳瑞(ト)1、といへり、文選謝靈運(ガ)雪賦に、盈v尺(ニ)則呈2瑞(ヲ)於豐年(ニ)1、〓《アガレバ》v丈(ニ)則表2※[さんずい+珍の旁]《ワザハヒヲ》於陰徳(ニ)1、とも見えたり、○そも/\此(ノ)集、卷(ノ)首《ハジメ》には、皇(ガ)大朝廷の大御威徳《オホミウツクシミ》の、二(ツ)なく尊《タフト》く崇《タカ》くましまして、天の日嗣高御座の業と、現《アキ》つ御神と神ながらしろしめす、大政事《オホキマツリゴト》の道の本教《モトツヲシヘ》は、臣連八十伴(ノ)緒より、天下の公民《オホミタカラ》男女にいたるまで、天皇朝廷《スメラガミカド》の敷《シキ》腸ひ行ひたまへる、天津法を、畏《カシコ》みまつり敬《ヰヤ》まひまつるより他なき謂を思はせて、雄略天皇の大御歌を載(ケ)て一部をとゝのへ、こゝに皇(ガ)朝廷の御威徳《ミウツクシミ》とともに、天地日月と長く久しく、いよいよ吉事の積り重りて、千萬御代まで、天(ノ)下の榮えむことを、自《ミ》ことほぎて、卷を尾《ヲヘ》られたるなるべし、
 
右一首《ミギノヒトウタハ》。守大伴宿禰家持作《カミオホトモノスクネヤカモチガヨメル》之。
 
萬葉集古義二十卷之下 終
 
明治三十一年六月 二十五日 印刷
明治三十一年七月   一日 發行
大正  二年六月  二十日 再版印刷
大正  二年六月 二十五日 再版發行
(萬葉集古義第七奧附)
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宮内省
御原本
        〔2015年1月16日(金)午後7時35分、入力終了〕