底本、平凡社、喜田貞吉著作集(全14巻)第二巻 古墳墓年代の研究、4200円
1979年6月25日 初版第1刷発行
 
古墳の年代を定むることについて(坪井博士の丸山古墳の年代推定説を論ず)
殉死の禁と古代の墓
『考古界』記者和田千吉君と古墳墓年代考定の方法を論じて考古家諸賢の示教を乞う
古墳墓雑考
「古墳墓雑考」付録
上古の陵墓――太古より奈良朝末に至る
古墳墓の年代について(高橋健自君の評言に答う)
再び古墳墓の年代について、付棺槨の意義について(高橋健自君の評言に答う)
古墳墓年代の研究
いわゆる阿波式石棺について笠井君に答う
阿波の古墳墓に関する笠井君の再駁文について
高橋・関野両君の槨と壙との説について
棺・槨・壙再弁(古墳墓年代研究続稿)
『肥後に於ける装飾ある古墳及横穴』を読む
俗伝上の遺物・遣蹟――特に円光大師の石棺というもの
埴輪考(土師部考別編)
栗隈の県とその古墳墓の研究
上総飯野の内裏塚と須恵国造
本邦古代墳墓の沿革
前方後円墳の起原および沿革に関する臆説
 
 
(3) 古墳の年代を定むることについて(坪井博士の丸山古墳の年代推定説を論ず)
 
 古墳を見て、これは何人の墳墓なりやとの疑問を起すは一般の人情なり。しかして常人のこれを成すところは、深くその時代をきわめず(もちろん、きわめぬつもりにはならざるべきも、思考その辺まで至らぬなり)、直ちにその地に著名なりし史上の人物に引きつけて、為に下総|小御門《こみかど》なる公家塚を、南北朝ごろの藤原師賢の塚となし、摂津安倍野なる大名塚を、おなじ時代の北畠顕家の墓となすがごとき、はなはだしき誤謬に陥るなり。学者のなすところは然らず、これを史上の人物に擬するに先だち、まずその古墳の形式および埋蔵物等を調査して、その時代を研究せんとするなり。古墳の時代の推定は、とうてい不可能のことにはあらず、少くも、理想上、比較研究の結果ほぼ誤らざる推定を得べき期に、到達すべきを信じて疑わざるなり、しかれども、今にしてこれをなすは、すこぶる困難なるものあるを思う。著名なる史上の人物の墳墓として、伝来の疑うべからざるものは、もとよりその時代について、毫末の疑いなく、これをもって他の古墳の時代を推定するの標準となすべきものなれども、今日多数の世人が認めて、すでに人物を推定し得たりしとなすところも、学者の見てもって、はなはだ疑うべしとなすものすこぶる多く、標準をこれに取らんには、大いに注意を要するものあるなり。諸陵寮の推定せる歴代の御陵墓についてすら、すこぶる学者の疑いを挟むも(4)の多し、いわんやその他をや。しかもこれらを標準として、他を推さんとするにあっては、けだし、危からずとせず。
 昨年九州に遊び、福岡県糸島郡に、数多の古墳の存在するを見たり。この時、同伴の里人は、しきりにその古墳の、およそ何年前のものなるべきかを問う。余はもとより、これを推定する能わざるがゆえに、今日においては、とうてい不可能なるべきよしを説きしも、彼首肯せずして曰く、さきに大学より出張せられし八木先生は、多く年代を説きて誤らざりきと。暗に余が無識を笑うに似たり。けだし、この地はかつて八木奘三郎氏の巡回せしところ、八木氏は古墳の年代を三期間に分つの定義を有す、載せて『日本考古学』にあり。思うに、氏はこの定義に照らして、時代を推定せられしものならんか。いまだその詳説を知らねば、ここにこれを評論する能わざるをうらむ。
 近ごろ坪井理学博士の、芝公園丸山古墳の時代に関する考説あり、載せて『古蹟』第二号にあり。その説くところ秩序明晰、けだし、古墳の時代推定の方法の範となすべし。博士の所説の大意は、これを摘録すればほぼ左のごとし。
 一、この古墳には埴輪あり、ゆえに垂仁天皇三十二年より古からず、すなわち今を距る千九百年より古からず。
 二、埴輪制継続の時期と、瓢形墳墓盛衰の跡とによりて考うれば、今を去る千三百年より新しからず。
 三、これを足利公園の古墳に比するに、芝の方やや新しきがごとし。足利のにも埴輪ありて、垂仁以後のものなれば、芝のはなお、それよりも後なるべし。
 四、これを武蔵北埼玉郡小見の古墳に比するに、小見の方、埋蔵物やや芝のよりもはるかに新し。しかして小見の古墳は、根岸武香氏が安閑天皇時代のものと考定したるものなれば、芝のは、安閑帝よりはるかに古かるべし。
 五、されば芝の古墳はおよそ応神・仁徳のころのものにして、今を去るおよそ一千六百年のころ一貴人を葬りし所(5)ならん。
 右の論法は、まず時代の両端を定め、次第に巳知のものに照らして、前後より年代を締め来り、もって、約一千六百年前との論結に到達せるものにして、その研究の方法としては、毫も間然するところなきを信ず。しかれども、その論結を得るに至れる、前提については、余輩すこぶる異議なき能わず。すなわちいささか愚見を述べて博士の高教を乞わんとす。博士といえども、もとより右の推測をもって満足せらるるにはあらず、「年代人物等に関する、史学家の説に接するを得れば、喜んで耳を傾けませうが、之に接しない間は、史の闕けた所を補ふ意を以て、仮に前の説を提出し置くのであります」と言われたり。事に憤重なる学者の態度として、敬服の至りなり。しかも、ただその保存意見中に、「その年代は今を距るおよそ千六百年前」と記せられんとするに至りては、たとえ博士は、仮にこれを述べらるるの意志なりとも、多数の世人は、学界に信用ある博士の言を重んじて、これをおよそ千六百年前のものと確信し、これを標準として、他を測るに至るべきの恐れあり、これ余が、年代に関する自己の考説なきにかかわらず、あえて愚見を陳して、いささか論評を試み、博士の高教を乞わんとするゆえんなり。
 博士はこれを約千六百年前のものと論結せらる。余も、この約千六百年前という年代に関しては、あるいは然らんと思う。しかれども、ただ、あるいは然らんと思うのみにして、もとより論拠なく、これを千四百年前のものといい、千五百年前のものというものありとも、これに対して、反証を提出する能わざると同様に、千六百年前のものということについても、これに対して反証をも確信をも提出する能わず、ただ博士の論拠とせらるるところに異議あるがゆえに、その論拠によりて得たる論結の、約千六百年前ということについて、また異議なき能わざるなり。
 博士の論拠に関して、余輩の疑点は左のごとし。
 一、小見古墳が安閑帝の時代のものなりという考説は、正確なりや。
(6) 二、埴輪あるがゆえに垂仁天皇以後のものなりとの説は果して信ずべきか。
 三、垂仁天皇三十二年以後なるがゆえに、今を距る千九百年より古からず、応神・仁徳の御代に当るがゆえに、約千六百年前なりというがごときは、『日本紀』の紀年に従えるものなるが、学術上古墳の年代を推定するにも、なおこの紀年に盲従すべきや。
 余輩は博士を信ずる厚きがゆえに、その古墳が足利のより新しく、小見のよりも大いに古しとのことに関しては、ことごとく博士の高見に従わん。埴輪制継続の時期と、瓢形墳墓盛衰の跡とによりて、これを千三百年前より新しからずというにも、全然同意す。足利の古墳が垂仁以後のものにして芝のがこれより新しきものなれば、足利のが今を距る千九百年より古からざるがゆえに、芝のは約千六百年前のものというは、その間に三百年の差ありて、少し飛び過ぎるようなれども、まずこれにも異議を挟まざるべし。されば、右の三疑点にして解決せられなば、もって他を問うの要なきなり。
 1 武蔵北埼玉部小見の古墳が、安閑帝の御代のものなりとは果して信ずべきか
 根岸氏は、小見の古墳をもって、武蔵国造笠原|直《あたい》使主《おみ》の墳墓ならんとせらる、その理由は(『史料通信叢誌』による)「安閑天皇紀」に、武蔵国造笠原直使主という人見えて、しかしてその村が小見村なり、使主《おみ》・小見《をみ》、仮字はちがえど、音通なり。しかして隣境に笠原村あり、これは『和名抄』の笠原郷なるべければ、小見村も、もとは笠原郷の中なりしなるべし。されば、小見村は、笠原の使主の居地にして、この古墳はすなわち使主の墳墓ならんというにあり。一見はなはだ面白き着眼なれども、余をもってこれを見れば、いまだ尽さざるところあるに似たり。
 笠原郷が笠原氏の出所なることは、もとより疑いなからん、しかれども、国造たる笠原氏が、代々その氏の名を負える地に、土着せざるべからざる理なし、小見村が、使主の名を負えりというも、一の仮定説に過ぎず。されば、国(7)造笠原使主の墳墓が、小見村にありとのことを決するには今、いっそうの調査を要す。よしや笠原の使主の墳墓が、この地方にありと仮定するも、問題に上れる古墳が、果して使主のなりや、否やを測定するは、はなはだ困難なり。もしこの地方が果して国造の居地なりとすれば、その先代の墳墓も、その子孫の墳墓も、必ずなかるべからず。現に根岸氏の記するところによるも、右の墳墓の東南にも、一大石槨の露出するものあるを示すにあらずや、この古墳は果して何人のに擬定すべきか。古史に見ゆる著名の人物は、笠原の使主一人に限れりとも史に逸する有力者はこのほかにはなはだ多きを思わざるべからず。されば、余輩は右の古墳をもって決して笠原の使主のに非ずとの反証を提出し能わざるも、決して使主のなりという徴証を認むる能わざるなり。しかるに今博士は、この古墳を安閑帝の御代のものと定めて、これを標準として説を立てらる。余輩のその論結を疑うところ、ここにあり。
 2 垂仁天皇殉死を禁じ、埴輪土偶をもってこれに代えたりとの説は信ずべきか
 『日本紀』によるに、垂仁天皇二十八年、皇弟倭彦命薨ず、その葬儀に当りて、近習のものを集めて、ことごとく生きながら墓のめぐりに埋め立つ。数日死せず、昼夜泣き叫ぶ。ついに死して腐敗し、犬、烏集りてこれを喰う。天皇その泣哭の声を聞きて、深くこれを憐み、殉死を禁ず。しかるに、三十二年皇后薨ず。その葬式に際して、さきにすでに殉死を禁じたれば、陵のほとり淋しく、事欠けたるさまにて、儀式整わず。すなわち野見宿禰の創意によりて、土偶を墓の周囲に樹つることとし、その本国出雲より、土工一百人を呼びて、土にて人馬その他種々のものを作らしめ、もって生人に代えたり。これを埴輪とも立て物ともいう。これより野見宿禰の後裔は、代々土師氏として、天皇の葬儀を掌ることとなれり云々、と。
 右の説はよく人の口にするところなれども、その記事すこぶる疑わしきものあり。
(一) 殉死とは果して右にいえるがごとく、生きたる人を、そのまま墳墓の周辺に立たせて、はては餓死させ、犬や(8)烏の餌食たらしむるものなりや。孝徳天皇が殉死を禁じ給いし勅語の中に、あるいは自殺して殉い、あるいは絞殺して殉わしめ、あるいは強いて死したる人の馬を殉わしむる風ありしことを述べられたるは、後の世のことなれども、もって古えを推すに足るべく、垂仁天皇以前といえども、なお芝丸山古墳の陪塚に見るがごとく、これを同時に死せしめて、その主の墓側に葬りしにほかならざりしならん。『魏志』にわが国の古俗を記する、またこの趣あり。されば右の『日本紀』の記事は埴輪の用の廃れたる後に、埴輪の形より推測したる想像にして信を措くに足らざるべし。
(二) 垂仁天皇以後果して殉死は廃せられしか。史を按ずるに、田道問守が垂仁天皇の陵前に死し、隼人某が、雄略天皇の陵前に死せしの類あり。あるいは自殺し、あるいは絞殺して、殉死せしむるもの多かりしがゆえに、孝徳天皇の禁令も発布せられしなり。されば埴輪が殉死の代りとなりたりとは、信じがたし、されば右の『日本紀』の記事は、埴輪の用の廃れたる後に、その形より推測したる想像説にして、信を措くに足らざるべし。
(三) 埴輪は果して殉死の代理なるべきか。これを実物について見るに、埴輪には、人形あるいは馬、鳥等の形したるもあれど、多数はかかるものにあらずして、単に円筒なるに過ぎず。しかしてこの円筒を墳墓の周辺へ、幾重にも並べて、垣根を作れるなり。その垣根は古墳の外濠外の堤上にもあれば(応神天皇陵のごとし)、築き山の麓にも、半腹にも、はてはその頂上にまでも(河内辺にて実見したるところ多くは然り)ありて、永久腐朽せざる材料をもって、墳墓の周辺に、八重垣を作りたるに外ならざるなり。これをもって殉死の代理とは、決して信じがたし。古えは宮殿に八重垣をめぐらしたりしこと、八雲立つの歌にても想像せらるべく、堀をもってこれを囲むほどの墳墓に、また八重垣をめぐらしたるべきは、まさにあり得べきところなり。今円筒を見るに、多くは、縦に無数の線条ありて、横にまた、これを束ねたるがごとき線ありて、これを周る。思うに、今日萩等の枝を束ねて、垣を作るがごとく、(9)木の枝などを束ねたる形を摸せしものならん。されば、その配置の状より見るも、その形状および模様より考うるも、はじめは、木の枝などの束ねたるものを、数多並べて、八重垣(あるいは一重垣)を作りたりしを、それにては、間もなく朽ち果つるゆえに、土にてその形を摸せしにほかならざるべし。今日にても、鄭重にするには、墓の周辺に、木柵の代りに、石を切り合して、玉垣を作るを思うべし。その玉垣なる埴輪中に、人形あるいは動物の形したるもののあるは、神仏の前に、二王あるいは、狛犬、狐、猪鹿などを、その神仏の使役者《つかわしめ》として、並べ置くと同じ思想より出でしものにて、埴輪の変態なり。すでに土製の垣根を発明したる以上は、次にこの発明に到達することはきわめて容易なるべし。されば埴輪は殉死とは全く関係なきものなり。右の『日本紀』の記事は、埴輪の用の廃れたる後に、その形より推測したる想像説にして、信を措くに足らざるべし。
 果してしからば垂仁殉死を禁じ、土師氏がその代りに埴輪を作り始めたりとの説は、信ずるに足らず。『古事記』には、垂仁天皇の御代に石作部と土師部とを定めたりとのみありて、詳説なし。
 土師氏の本拠なる菅原の伏見は、垂仁天皇陵の北方にありて、その北方に日葉酸媛皇后の陵あれば、土師氏の祖先がこの地へ来りしについて、この天皇と皇后とについて、種々の伝説を伝え、ことに土師氏は、葬儀に関係するにより他より賎民視せられて、対等の交際をなす能わざりしかば、特にその祖先に関して、立派なる由緒を作為なしたるものにてもあらんか。浅草の弾左衛門が、頼朝以来種々の来歴を有するがごとく、語り伝えたるをも思うべし。
 されば、垂仁帝の御代に土師部を定めたりとて、その前に埴輪なかりしとは限りがたし、ただ野見宿禰をして、その部民を統事せしむるの制度を定めたるに過ぎざるべきのみ。なお垂仁帝の御代に石作部を定めたりとの石を用うることが、この時より始まりしとは信じがたきがごとし。
 されば余輩は、普通の国史としては垂仁天皇が殉死を禁ぜられたる仁恵を、否定するを好まざれども、学者が研究(10)考証のうえに、なおこれを応用して、古墳の年代を推定せんとするには、いまだにわかに、賛成する能わざるなり。
 3 『日本紀』の年代は学者が考証のうえに適用し得べきか
 こは已決の問題なり。星野博士のこれに関する考説は、載せて往年の雑誌『文』にあり。那珂博士の考説、また載せて、『文』および『史学雑誌』にあり。吉田東伍氏の考説は、『日韓古史断』に見えたり。諸先輩の説多少の異同はあるも、たいていわが紀元は、六百年ばかり故意に延長したり、ゆえに神武紀元を、外国の史に対照せんには六百年ばかりを減ぜざるべからずというには、多くの学者は、ほとんど一致せり。はなはだしきに至りては、とうてい明かならぬ年代なればついでに六十年を減じ、西暦と同様になせば、計算上きわめて便ならんとの説をなす人さえあるなり。『日本紀』の紀年を、最も頑固に弁護する、故落合直澄翁すら、その著『帝国紀年私案』において、とうてい『日本紀』の記する年代を説明しかねて、はなはだしき修正を加えたり。されば古史における『日本紀』の年代は、学者が考証のうえにはそのままには応用しがたきものなり。されば、今某遺物が、よしや垂仁天皇の御代のものなりと仮定するも、これを「垂仁天皇の御代のものなり」というは可なり、これを「約千九百年前のものなり」というは学術上きわめて不可なり、約千六百年前というも、また然り、こは学界已決の問題なれば、坪井博士あにこれを知らざらんや、しかも知りてなおかの言あるは、通俗の解しがたきに従われたるものならんのみ。しかれども、学術的に古墳の年代を推定せんとする、学者の態度としては、余はいまだにわかにこれに賛成する能わざるなり。
 古墳を見てその何人の墳墓なりやを推定せんとするは、一般世人の情なり。古墳を見てその時代を推定せんとするは一般学者の情なり。人物を推定せんとする、多数においておそらくは難し。時代を推定せんとする、いまだその望みなしとせず、しかれども今の時にあたりて、研究のいまだ十分ならざる基礎の上に、短き局限の間に時代を考定せんとするは、あるいは世を誤るなくんば幸いなり。
 
(11) 殉死の禁と古代の墓
 
 殉死とは、死にしたがうということで、人が死んだ時に、他の人がこれにしたがって死ぬることをいうのであります。もとより道理にかなわぬことではありますが、遠い昔にもその後の世にも、これがしばしば行われました。この世で、多くの人を使って何の不足もなく暮らしておった人が、ただ一人で死んでいっては、その後何かにつけて不自由であろうというところから、生前に傍らについておった人が、死後までもその人の供をするに至るのは、自然の人情でありましょう。もとより忌《いや》がるのを無理やりに供さしたのもありましょうし、自ら進んで供したのもありましょうし、なかには死後までも供をするというほどの深い意味でなくとも、最も親しかった人に先へ死なれて、もはや生きておっても何の楽しみもないというところから、絶望のあまり、悲しみの極み、殉死したのも少からんことでありましたろう。ともかくも殉死ということは、遠い昔から後の世までも、しばしば行われたのであります。徳川時代では、将軍や大名の死んだ時、その最も親しかった近臣が、まま、追い腹を切るということがありました。これは、主(12)君の後を追うて切腹して死ぬので、いずれも自ら進んで殉死したのであります。かの、今もしばしば行われる情死すなわち心中というものも、普通の場合には、男女いずれか一人が死なねばならぬ仕誼となって死ぬ時に、最も親しい片対手《かたあいて》が、そのお相伴をするのでありますから、ある意味からいうと、そのお相伴の方は殉死するのであるといってよろしい。無理心中の場合では、これは明かに忌がるものを無理やりに殉死せしめるのであります。かく殉死ということは、実は今日でもなお行われておるので、禁じても禁じても、全く禁じきることはできるものでありません。殉死の禁止のことの最も古く見えておるのは垂仁天皇の御代で、これほどの歴史の本にも見えておる、野見宿禰の思い付いた、土人形をもって殉死に代えたという名高い事柄でありますから、皆様御承知のこと、今更精しくは申しますまい。しかしその頃の殉死はどういうふうであったか、これは調べてみたいものであります。
 垂仁天皇の御代の殉死御禁制のことを書き伝えておるのほ、『日本紀』という古書で、それには次の通りのことを書いてあります。「垂仁天皇の二十八年に、御弟の倭彦命がなくなられた。そこで御葬式に当って、近習者をことごとく生きながらお墓のぐるりに埋め立てたところが、それが数日死なないで、昼も夜も泣き叫び、とうとう死んで腐ってしまった。後には犬や烏が集ってこれを喰った。」と見えております。なんと残忍極まることではありませんか。天皇は、その生きながら埋められたものの泣き叫ぶ声をお聞きになって、いかにも不憫であると思し召され、「誰も生命は惜しいもの、それを死なせるはいかにも可愛想であるから、これは古来の習慣ではあるが、いまより断然やめることにしよう」と、仰せられました。誠にお情深いなされ方で、後にこの天皇の御名前を垂仁と申しあげたのも、かような事柄に基いたものと思われます。ところがその後四年目に、皇后日葉酸媛命がおかくれになりました。その御葬式に当って、古来の習慣たる殉死ということがもはや行えないので、なんだかもの足らんところがあって、なにぶんにも御葬式の儀が整いません。この時のことであります、野見宿禰が土人形を発明して、殉死者の代りに墓のぐ(13)るりに立てることになったと申すのは。これでようやく儀式も整い、人も殺さないで済むこととなりました。
 以上は、殉死の有様とその禁制とに関する古伝説の大要であります。殉死者の代りとなった土人形はいわゆる埴輪で、埴《はに》とは土のこと、輪のように墓のまわりに立てた土物、ということであります。この埴輪たる土物は、必ずしも人形には限りません。『日本紀』にも、人馬および種々の物の形を作るとありまして、実に種々雑多のものが古代の墓から発見せられます。その中で最も多いのは円い筒形のもので、それがたくさん並んでおるところは、まるでいくつもいくつも壷を並べたようでありますから、俗にこれを千壷などといっておるところがあります、これについで多いのは人形で、馬や鳥や、その他の動物、物品などは、まず類の少い方と見えます。
 この埴輪は、実に輪状《わなり》に墓のまわりを取り巻いておるので、大きな墓になると、三重にも四重にも、ないし七重八重にも取り巻いておるようでありまして、その数幾百千に及び、実に驚くべきおびただしい数であります。一例を応神天皇陵で申してみれば、そのお壕の外の松原の問にある千壷は、およそ一尺内外を隔てて八、九寸|径《わたり》の円筒《まるきつつ》が並んでおるのでありますから、もちろん今日では壊れたり埋まったりして、一部しか見えませんが、これが全体完全しておった時のことを想像してみますと、お壕の周囲十余町(歟)の所に並んでおる、最外の一列(もちろんその内部にはさらに幾重もあるものと思われますが)のみにても、少くも二千余の多数に上るのであります。
 談話《はなし》が少し脇道《わき》にそれますが、この応神天皇陵の千壷のことについては、興味ある譚が右の『日本紀』に載せてあります。それは雄略天皇の御時のことで、河内の飛鳥部郡(すなわち後の安宿郡のことで今の南河内郡の中)の人、田辺伯孫というものの娘が、古市郡(これも今の南河内郡の中で、応神天皇陵はこの郡中にあります)の人、書加龍《ふみのかりよう》というものの妻となっておりましたが、それが女子を産みました。そこで伯孫は聟の家へ賀《よろこび》に往って、月夜にこの応神天皇陵のほとりまで帰ってきましたところが、たいそう立派な赤馬に騎《の》ってくるものに出合いました。その馬は(14)「龍のごとくとび、鴻《かり》のごとくかける。」とありまして、実に駿足で、そのうえ形もきわめて見事で、伯孫の騎っておる斑馬《まだらうま》と並んで走りますと、たちまちに赤馬の方が走り越して、見えんようになります。伯孫はそれが欲しくてたまらない。赤馬の騎者《のりて》がこれを察して、換えてくれましたから、伯孫は大喜びで騎って帰り、厩につなぎ、秣を喰わせてその夜は寐ました。さて翌朝になってみると、これはいかなこと、厩には土馬が立っておるばかり。伯孫大いに驚いて、捜してみますと、昨夜取り換えて貰った斑馬は、応神天皇陵の土馬の間に立っておりましたということであります。
 これは一つのお噺しに過ぎないのでありましょうが、ともかくも勅撰の国史に明記してあるほどで、最も名高かった噺しとみえます。またこれによって、応神天皇陵の埴輪のなかには、土馬がいくつもあったこともわかり、われらが今日御陵のお壕の外の松原の間で、埴輪円筒のわずかに地面上に表われておるのを数えつつ通行することができるように、雄略天皇のころにも、そこを馬に乗ったりなどして、通行しておったこともわかります。またこの御陵の埴輪はことに名高く、その土馬には、霊があるものとして信ぜられておったものと思われます。応神天皇陵は、河内国南河内郡古市村大字誉田で、関西鉄道柏原駅から、河内鉄道に乗りかえ、古市で下りると、つい近処であります。あるいはすぐ柏原駅から行ってもよろしい。この地方へお通りの方は、ついでに、御覧になるがよろしい。古代の墳墓の有様(この事は次回にくわしく申すつもりであります)や、ことに埴輪の並んでおる様子が、ほぼ想像せられます。御陵へはむろん上《のぼ》られませんが、近所の荒墓などについて見ますと、二重三重に並んでおった有様が、よくわかるのもあります。大和、河内、和泉あたりの人は、少し注意さえすれば、これらの知識を得る機会が多かろうと思います。
 さて『日本紀』の、垂仁天皇が殉死を禁ぜられた時の記事や、埴輪の並んでおる有様から推測しますと、古代の殉(15)死というものは、墓の周囲《ぐるり》へ(もちろん身分相当にではありましょうが)近習の人を幾人も幾人も、忌がるのをつかまえて、生きながら腰から下だけ土へ埋めて、身体半分を上に表わし、これを輪のように並ばせ、それが泣き疲れ、餓《う》え飢《かつ》えて、死ぬるようにしたものと思われます。実に残酷極まる所為《しわざ》ではありませんか。しかしこれは果して事実でありましたろうか。また古来の殉死というものを、果して、この時に禁じ得たでありましょうか。埴輪は果して殉死の代理でありましょうか。古代の墳墓についてその実地を調べ、またその後の歴史上の事実などからして研究してみますると、大いに、疑いを起さねばならんのであります。
 殉死の方法に関する疑問
 さて、第一に考えてみたいのは、古代の殉死は、果して、前回に申したように、近習の人を生きながら墓の周囲へ埋め、しかも、スッパリ埋めてしまうのではなく、腰から上を出して、それを二列にも、三列にも、ないし五、六列にも並ばせて、墓場に人間の八重垣を築くがごとくにしたものでありましたろうか。これは、常識で考えても、どうも、事実とは思われません。その人垣を作っておる殉死者が、泣き疲れ、餓え飢えて、ことごとく立往生を遂げ、ことごとく立ち腐りに腐るようでほ、その惨状見るに忍びないばかりでなく、第一、不潔極まることで、最も清潔を崇んだわが古俗と相容れません。次に、かかる惨状が、昔から行われていたとしますれば、垂仁天皇の二十八年に至って、始めて、天皇の御気が付かれたと申すのも、いっこう辻褄の合わぬ話のように思われます。ことに、実際の墳墓についてみましても、殉死者は、チャンと数人の屍体を並べて、合葬してあるのであります。
 殉死者合葬の墓の実例
(16) 先年、東京芝公園内の丸山の古墳を発掘しました時、その中央に大きな墓があって、その周囲に、いくつも、小さい墓がありました。そして、その小さい墓の中からは、どれもどれも、数人分の骨や、武器が出ました。思うに、これは殉死者で、同時に死んだものを合葬したのに相違ありますまい。これから見ますと、殉死は、決して、立往生や、立ち腐りではありません。
 孝徳天皇のお禁じになった殉死の方法
 後に、孝徳天皇も、殉死を禁ぜられておりますが、その時の詔の文面で見ますると、殉死というものは、引続き、孝徳天皇の御代まで、旧俗として行われておったようでありまして、その方法は、あるいは自殺して殉い、あるいは人を絞殺《しめころ》して殉わしめ、あるいは死者の馬を殉わしめたとあります。この旧俗というのは、いつごろから行われたのか知りませんが、思うに、垂仁天皇以前といえども、殉死の方法は、この通りであったに相違ないと思います。シナの『魏志』という書に、わが国のことを書いてあるなかにも、このような風習のあったことをいっております。それこれ考え合してみますと、どうも、『日本紀』の垂仁天皇の条にある殉死の記事は、信じられません。思うに、これは、埴輪の形や、死んでおる模様から思い付いた付会説《こじつけせつ》でありましょう。
 殉死禁止令の空文。埴輪は殉死者の代理にあらず
 殉死が、事実において、この時限り禁止せられたのでもなく、埴輪が、事実上、殉死の代理となっておらんことは、右に述べた事柄から、たいてい、推測ができるのであります。それは、例の芝公園の古墳の近傍から埴輪の破片《こわれ》の出たことで、すでに、一つの墓に、埴輪と、殉死者の屍体と、共に現われたとしますれば、その起原はともかくも、事実において、埴輪に、殉死者の代理をするほどの功能のないことが、明かでありましょう。また、かりに、埴輪を、垂仁天皇の三十二年に始まったものとしますれば、埴輪ある墳墓、すなわち、垂仁天皇三十二年以後の墳墓から、殉(17)死者の多数の屍体が発見せられたのでありますから、殉死の禁が、事実上行われなかったことが明かでありましょうし、また、よしや、埴輪が、この時に始まったということを信じないにしても、孝徳天皇が、殉死の旧俗を厳禁せられたのを見ますれば、殉死ということは、明かに、垂仁天皇以後にも、行われておるということが、知られるのであります。なお、垂仁天皇以後の歴史を見てゆきますと、殉死の実例ともいうべきものが、そちこち、見えております。すでに、垂仁天皇崩御の後、その御陵に向って、田道間守《たじまもり》という人が、泣き哀しんだきわみ、ついに死にましたとか、雄略天皇を葬った時、隼人|某《なにがし》が、これも、御陵の側で泣き叫んで、七日間食を絶って死んだなどと見えております。これも、やはり、殉死といわねばなりますまい。否、形式的に、自殺したり、絞殺したりするのよりも、この方が、むしろ、真の殉死でありましょう。埴輪の土人形が、墓の側に端然と立っておるのは、あるいは、そのはじめ、この、田道間守や、隼人のように、死に至るまで陵墓の側に侍しておるような、真の意味においての殉死者を形どったのであったかも知れません。現今、大和の垂仁天皇陵(生駒郡都跡村大字尼ケ辻)の側の小さい塚の一つは、田道問守の墓だと伝えております。また、隼人某は、有司が、厚く天皇陵の北に葬ったとありますから、これも、あるいは、今日に現存しておるでありましょう(雄略天皇陵は、今、南河内郡高鷲村大字南島泉にある塚がそれと定っておりますが、ある学者は、同村東大塚の大塚がそれであろうといっております)。
 陪壕のこと
 こういうふうに、墳墓の側にある小さい塚を、陪塚といいます。芝公園内丸山の殉死者を合葬してあった塚も、すなわち陪塚で、ここのは五、六個もあるかと記憶しておりますが、通例、大きな墳墓にほ、陪塚があって、その数、多いのになると、十余の多きに達しております。陪塚は、必ずしも、殉死者を葬ったものとは限りますまいが、垂仁天皇以後の諸帝陵と定まっておるものの陪塚のなかにも、按外、殉死者を合葬したものがあるかも知れないと思われ(18)ます。
 土師部
 右のように申しますると、垂仁天皇が殉死を禁ぜられたとか、野見宿禰が土師部《はにしべ》を率いて、殉死の代りに、埴輪の土物を作ったとか申すことは、全く、跡形もない嘘かと申すに、必ずしも、そうとも思われません。『古事記』という、『日本紀』よりもいっそう古い歴史の書には、殉死のことや、埴輪のことなどは見えておりませんが、その代り、垂仁天皇の御代に、石祝作《いしきづくり》と土師部とをお定めになったことが、見えております。石祝作とは、石棺や、また石槨と申して、墳墓の中の、俗にいう岩屋などを作る職人で、土師部とは、土器《かわらけ》を作る職人の組合のようなものであります。
土器と申すなかには、むろん、埴輪や、種々の祭器などを主としておるので、土師部は、もっぱら、葬祭のことを掌ることとなりました。土師部の長がすなわち野見宿禰であります。かく、この御代に、石祝作や、土師部をお定めになったと申すのも、このころ、皇室の御威勢がたいそう盛んになりまして、御陵墓のごときも、非常に大きなものを作るようになり、したがって、葬祭に関する専任の職人を置かれたものと思います。現に、垂仁天皇陵や、皇后日葉酸媛命の御陵などは、非常に大きなもので、これより後、ますます、大きいのができ、ついに、仁徳天皇陵に至って、極まるということになっておりますのをみても、これが、推測されるのであります。したがって、垂仁天皇の御代、ことに、その皇后陵からして、埴輪の人形なども、大いに、整うてまいったのでありましょう。また、垂仁と申すお名前からみましても、殉死は不憫なものであると思召されて、御禁止になったことと思われます。ただ、この御禁止は、その後、励行せられなかったけれども、ともかくも、殉死の御禁止やら、土師部の御取り立てやらがあったものでありますから、埴輪人形の有様などに付会して、野見宿禰の子孫たる土師氏において、『日本紀』に見えておるような説を語り伝えたものと思われます。土師氏は、葬儀を掌るものでありましたから、なお、今日、火葬を掌る隠(19)坊が人から嫌われるように、世人から擯斥せられて、対等の交際をしてくれないような賎民となりました。しかし、高貴の御火葬をはじめ、手広く、一般の葬儀を掌って、全国各地にその部下を有し、はなはだ富有で、勢力があったに相違ありませんから、その祖先のことに関しても、いくらか、都合のよい説を語り伝えたのかも知れません。
 あまり長くなりましたから、殉死に関することはこれで止めて、ついでながら、古代の墳墓のことを少々述べておきましょう。
 古墳と横穴
 一概に古代の墳墓というなかにも、ここに述べるのは、太古から、奈良朝のころまでも行われたと思われるもので、通例は、饅頭形か、または、饅頭形のを二つ並べたような、すなわち瓢箪形をなした盛り土であります。これを、考古学者などの仲間では、古墳といっております。古墳とは古い墳《つか》ということで、どんな種類の墳墓でも、古代のものは、皆、古墳に相違ないのでありますが、そのなかでも、特に、盛り土をした塚の分を、かくいうのであります。古墳と同時代のもので、盛り土をせず、山の麓や、半腹などに、横に穴を掘って作ったものを、横穴といいます。これも古代の墳墓に相違ないのでありますが、この横穴のことは、後に述べましょう。
 古墳の大いさ
 一概に古墳といっても、その大小に至っては、はなはだしい差があります。小さいのでは、直径一、二間くらいの土饅頭もありますが、大きいのになりますと、まるで、自然の小山のように見えるくらい、これが、どうして、人間の力で、土を盛り上げてできたかと思われるほどであります。
 仁徳天皇の大山陵
 今日、世に知られておる古墳で、一番大きいのは、和泉国堺市の東にある仁徳天皇陵で、俗に大山陵《だいせんりよう》といいますが、(20)全く山のようで、その盛り土の外側には、三重のお濠があって、その周囲が、一千五百十間とあります。すなわち、二十五町十間であります。お濠の内側、すなわち、盛り土の麓の周囲でも、十数町なることと思われます。この陵をお築きなされたころには、もちろん土木工事も今日のように発達しておらず、大がかりの道具もなく、一荷ずつ、畚《ふご》かもっこかで土を運んで来ては、積み上げたに相違ないのであります。なんと盛んなものではありませんか。仁徳天皇は御殿の破れたのをも修繕をしなかったほどにも、御倹約で、民を仁《いつく》しまれた御方でありましたが、御陵の築造には、たいそう御奮発になったもので、御自分の御陵もこの通りでありますが、前回に述べました、御父応神天皇の御陵は、これについで、日本第二ともいわれるくらい、また、天皇の三十五年におかくれになって、三十七年に御葬式のあった、皇后磐之媛命の御陵も、今、なお、奈良市の西の方にありますが、ずいぶん大きな方であります。天皇御自身の御陵は、崩御の年より二十一年前から、御築造に着手して、履中天皇の五年に御葬式がありましたので、前後通じて、満二十五年と一ケ月を築造に費しております。幾百千の人夫を御使役になったか知りませんが、いずれ、天皇の御徳を慕うて、庶民子のごとく集まるというふうに、毎日毎日、盛んな工事があったに相違ありません。天皇の御名前を、大鷦鷯尊《おおさざきのみこと》と申しあげるのも、古史にほ、妙な伝説を書いてありますが、ある人の説に、これは、日本一の大きな御陵《みささぎ》にお鎮まりになったお方でありますから、それで、大陵《おおささぎ》の尊と後世から申上げたのであろうといっております。
 古墳築造の大工事 例の一
 いずれに致しても、古代の墳墓は、その築造に、たいそう力を費しましたものであります。大和の磯城郡織田村大字箸中に、箸墓というのがありますが、これは、崇神天皇の十年に築いた、倭迹々姫命の御墓と申すことで、これには、今は、周りにお濠はなく、直ちに盛り土になっておりますが、その周囲が四百六十三間八分とあります。(21)すなわち七町四十三間余で、このころのにしては、ことに大きい方でありますから、これは、とても人間業ではあるまい、神が作ったのであろうということで、『日本紀』には、「この墓は、昼は人これを作り、夜は神これを作る。大坂山の石を運んで作るに、山から墓まで、人が続いて、石を、次から次へと手渡しに渡して運んだ。」と伝えております。大坂山とこことは東西三、四里も離れておる所。その間に、人が続いたというのを見ても、大工事の様子が知られます。
 例の二
 いま一つ、古墳築造の大工事である実例を申しますと、神功皇后が、三韓御征伐から凱旋なさる時に、※[鹿/弭]坂《かごさか》・忍熊《おしくま》の二王が、これを播磨の明石で待ち受けて、攻めようと致しました。この時、二王は、詐って、明石に仲哀天皇の御陵を作るのであると吹聴して、播磨から淡路まで、明石海峡に船橋をかけて、淡路から石を明石まで運ぶように見せかけ、その人足どもに、ことごとく武器を持たせて、皇后の御船を待ち受けたとあります。御陵を作るのは嘘でありましたけれども、ともかく、このころ、御陵を作るとさえいえば、このくらいの大袈裟なことをしても、人が怪しまなんだことがわかります。
 孝徳天皇の墳墓制限令
 御陵墓の最も大きなのは、広神、仁徳、履中等の諸天皇ので、それからだんだん小さくなっております。思うに、臣下のも同様でありましょう。孝徳天皇の御代のころになりましては、はなはだ小さいもので、先代の盛んであったころとは、まるで比較にもならんほどでありますが、それでも、なお、上下とも一般に、よほど力を費したもので、墓を作るがために人民が貧乏するということが、天皇の詔の中に見えております。そこで、天皇は、この弊害を除くお目的で、墳墓制限令を御発布になっております。これを見ますると、どのくらいの大きさの墓には、どのくらいの(22)人夫を要したかと申すことが、ほぼ、推測し得られます。これによると、諸王以上の墓を作るのには人夫七千人、上臣のには二千五百人、下臣のには、七百五十人、以下、百人、五十人に至り、庶人は単に埋めるに止めしめたとあります。そして、七千人の人夫を役した王以上の墓の大きさはどのくらいかといいますと、石槨(いわゆる塚穴のことで、これは後にいうぺし)の長さが九尺に広さが五尺、外の大きさが、わずかに、方九|尋《ひろ》、高さ五尋。一尋を約一間とすれば、九間に五間で、古墳としては、いたって小さい方である。これから思うと、仁徳天皇の大山陵のごときは二十五年間に使役した人夫の数、幾千万人に上りましたろうか、全く想像ができないほどでありましょう。
 古墳の形状
 古墳の形は、一口にいえば、まず、饅頭形か、瓢箪形で、その形から、種々の名がついておるのがあります。まず、饅頭形のには、丸山とか、瓢箪形のには、瓢箪山、茶臼山、二子山などが普通で、お稲荷様で名高い河内の瓢箪山、大阪天王寺のかたわらの荒墓として古来名高い茶臼山(天王寺の山号を荒陵山というのもこの荒墓があるがため)など、その著しい例。このほか、大塚とか、何塚とか、塚という名の付いておるものは、たいてい古墳で、地名に何塚とある所には、たいてい古墳があることがわかり、よしや、今、古墳はなくとも、昔あったことを推測せられます。
 古墳の周囲の濠
 平坦な地にある大きな古墳には、周囲に堀をめぐらして、水を溜めてあるのが普通であります。ことに大きなのには、二重にも、三重にも(大山陵のは三重)なっております。もちろん、今はなくても、もとはあったと思われるもの、始めからなかったと思われるものもあります。
 石槨・岩屋・岩戸
 古墳の盛り土のうちには、通例、石槨といって、石で作った室があります。これは、俗に岩屋というもので、その(23)口に、石の戸すなわちいわゆる岩戸を立てて、土で被うてありますから、完全な古墳では、外からその室は見えませんが、古くなって、土が崩れ、岩戸が取れて、自然にその穴の口が表われたり、人が、その中にある物を取ろうがために発《あば》いたりなどして、穴の出ておるのがたくさんにあります。これを塚穴といって、古くから、これに関する噺しが『宇治拾遺物語』などの古書にも出ておりますが、後には、人が、これが墓であるということを忘れて、種々の想像説を付け、あるいは人がむかし穴居しておった時代の住宅だとか、それにしては、構造が大袈裟ですから、鬼が住んでいたのだとか、あるいは、太古に火の雨の降った時があって、これを防ぐために、石の室を作って隠れたのだとか、種々のことを伝えておる所があります。所々に、何々の窟《いわや》だとか、火雨塚《ひざめづか》だとかいっておるのは、多くはこの塚穴で、伊勢の神宮にある、俗に天の岩戸だなどといっておる穴も、実は、古墳の石槨だとのことであります。
 石槨の構造
 石槨の大きさや、形状は、いろいろありますが、一般に、這入り口が狭くて、低くて、二、三尺も中へ這い込むと、中では、立っていても、頭も打たんほど高く、また、広くもなっています。これを、大きな石を積み重ねて作ってあるのでありますから、久しい間に、上の盛り土が、すっかり、雨などのために流れて、なくなって、単に、大きな石ばかりを積んで作った穴だけが残っておることがあります。人がこれを見て不審を起し、何のために、このようなものを作ったかということがわからんものでありますから、これを鬼が作ったものとして、鬼の雪隠だなどと伝えておる所があります。
 副葬品
 石槨の口は、普通に南に向いて開け、その中には、屍体を蔵め、祭器として、種々の形の土器《かわらけ》を入れてあるのが普通であります、その屍体には、生きていた時のように、種々の装飾品で飾ってあったものでありますから、屍体や、(24)その他の朽ちるだけのものは朽ちてしまって、曲玉その他種々の玉や、金環や、刀剣、甲、冑、その他種々の石器などが、石槨の中から発見せられることがあります。
 棺の有無
 また、石槨の中には、別に石棺を置いて、それに屍体を蔵めてあるもの、あるいは、石槨がなくして、ただちに石棺を土に埋めたと思われるもの、あるいは、石槨も石棺もなく、始めから木棺か何かに屍体を蔵めておいて、それが朽ちてしまったのだと思われるものもありまして、一概にいうことのできんのは、無論であります。
 石棺は石で作った箱で、これにも、種々の形はありますが、大和、河内などのように、古墳の多い所へ行きますと、自然と古墳から石棺の表われておるのがあります。なかには、石棺を手水鉢に代用したり、その蓋の転がっておるのを見て、鬼の俎だなどといっておる所もあります。
 土器に関する俗説の一例
 石槨の中には、飲食物を盛るべき土器が、普通に、いくつも並んでおるものでありますから、あるいは、この窟には、目に見えぬ神がおって、この器物を人民に貸すのであるとの伝説を生じて、これに、家具の窟などという名を付けておる所も、所々にあります。
 古墳に関する知識の幼稚
 古墳に関する知識の開けた今日から見ますと、実に不思議なようでありますが、昔時は、人が、塚穴に関して、種種のことを想像しておったのも、あながち無理ではありますまい。今日でも、田舎などで、道普請や、開墾の時などに、石槨に掘りあてて、驚いた例がいくつもあります。新聞紙などでも、これに関して、不思議なもののように報道してあるのを、しばしば見受けることがあります。
(25) 古墳に関する古人の観察の数例
 これは、古人の観察でありますから、もとより、一笑にも値しませんが、しかし、古墳の有様や、古人のこれに関する説などを知ることができて、はなはだおもしろいと思いますから、『河内名所図絵』の中から、二つ三つ、書きぬいてみましょう。
 千塚 千塚村、服部川村、及び法蔵寺山内(旧高安郡)に多し。大石を左右に峙て、上にも又、蓋覆《ふた》し、門関の如く、口の広さ五、六尺より壱丈なるものありてきまらず、奥の長さ六、七間許、中の広さ、方一丈、方二丈なるものあり、高さも、又、丈余にして、定まらず、小なるもあり、中なるもあり、大なるもあり(以上は石槨のあらわれたるもののことをいいましたので、寸法は、少々、長きに過ぎるようでありますが、ちょっと見たばかりで、精密にはからなんだものと見えます)。法蔵寺境内にも、粗《ほぼ》、六、七十箇所も見えたり。それより山中に甚多し。数の多きによりて、千塚と呼ぷ。何れも南向きにして、窟中より陶器(すなわち祭器に用いたる土器)の品類、或は、金環、鉄針、練石の類出る。土人諺に云ふ。太古、恙虫出でて、人民を悩ます。其時、こゝに篭りて、難を免るとぞ。又の諺には、天下旱の時、火の雨降るとて、此塚穴をこしらへ、こゝに隠れ住みしといふ。云々。
 石宝殿 明光寺(旧交野郡打上村)より壱町ばかり奥にあり。按ずるに、石棺の発きたるものなり。又、近年、此側にて、金銅の壷、大さ壱尺余のものを掘り出す。其おもさ六貫目あり。中に白骨を蔵む。云々(壷に白骨を蔵む云云は、火葬した骨の事で僧道昭が火葬を創めてから、奈良朝前後にはすこぶる行われ、骨を、この類の壷に戒めて葬った例も所々にて発見せられております)。
 八十塚 同村にあり、由縁不詳。八十は其数の多きを云ふ。
 このほか、『河内志』六冊中、古墳に関する記事が四十箇所以上もあり、河内全体で、古墳の現存しておるものは、(26)千以上もあろうと思われます。いま一つ、『播磨名所図絵』の記事を補っておきましょう。
 岩家《いわや》。舞子の浜街道より二、三丁北の山より、つづき十丁ばかりの間、奥の峯に至り、其数三十六あり間口一間ばかり、深さ二間余、高さ一間ばかりにて、大小打ち交り、大石を以て作る。屋根は二間余程にて、大なり。門口一段低く入れり。これ皆古への墓なり。土に埋れたるもの、雨露にたたかれ、かく顕れしものなり。太古の人家などと云ふ説は用ふべからず、所々に此類多し(これは、石槨の全形あらわれたるものなり)。
 石屋《いわや》。加古川の西方、升田地の北、池尻村にあり。戸口一間半、高さ五尺にみたず。内は地下りに行く事三間ばかりにして、横二間、奥へ四間、高さ一間ばかりに、広くなりて、左右天井とも、皆大石を以てたゝみたり。これ、上に云ふ上古の墓なり。入りて見るべし、俗に児《ちご》が窟《いわや》といふ。
 かかる類のものは、他の諸国にも、多いもので、また、古墳から出たものを持っておるものも多くありますから、平素少し注意しておれば、これに関する知識を得ることは、容易であります。
 埴輪新説
 古墳の盛り土に、しばしば、埴輪の立っていたことは、前にすでに申した通りでありますから、精しくは繰り返しません。もとより、今日では、年代も久しく経っておるものでありますから、昔のままに立っておるのも見ることはできませんが、それが、土に埋まったり、あるいは上部は欠けて、下部だけ残ったりなどして、ともかくも、昔並んでおった有様を想像するに足るものは、前にも申した応神天皇陵や、その近所の古墳で、いくらも見ることができます。埴輪の用は、書物で書いてあるところでは、垂仁天皇の御代に野見宿禰が思いついて、殉死の代用としたのだとありますが、それの信じがたいことは、前に、すでに、述べました通り、それならば、何のためかと申すに、私の考えでは、これは、墓のために作つた垣根だと思います。古墳の周囲に濠があると申すのも、もちろん墓の防禦で、動(27)物の侵入を遮るために相違ありませんが、このほかに、また、もとは、住宅の周囲に垣根を結いまわしたように、墓にも垣根を作ったかと思われます。
 埴輪は永久性の八重垣
 住宅の周囲の垣根は、素戔鳴尊の、「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに、八重垣作る其八重垣を」という歌によっても想像せられる通り、これは雲が八重垣を作ったのであるが、高貴の宮殿には、幾重にも、垣根を繞らしたものであったことと思われます。それと同じように、墓にも垣根を輪のように繞らしたのでありましたが、墓は永久的の物でありまして、木の垣根では容易に朽ちる恐れがありますから、いつのころか、土で作った筒を並べて、すなわち埴物《はにもの》で墓の周囲に輪を作って、それで、垣根の代用と致したものでありましょう。これすなわち埴輪で、今日でも有力な人の墓には、永久朽ちないように、石の玉垣を作るのからしても、想像することができます。それで、埴輪の円筒を見ますと、縦や、斜めに、幾筋も刷毛目のように筋があって、横に、また、これを束ねたように筋がありますのは、木の枝を束ねた形を表わしたものと想像せられます。いずれ、太古の垣根は、鋸や鑿などを使って、大きな木を割って作ったのではなく、やはり、このように、木の枝を束ねて、それを並べたものであったに相違ありません。埴輪円筒の下部に穴のあいておるのは、これへ木でも通して、土に立てた時に、仆れないようにしたものと思われます。かくて、世間の建築技術は進歩しても、葬式に関することは、なるべく古えの遺風を伝えるものでありますから、この埴輪で、昔のままの垣根の様を伝えたのでありましょう。
 埴輸の土偶《つちにんぎよう》やその他の物像の説明
 すでに、埴輪円筒の発明なり、使用なりがある以上は、その上に一つの意匠を加えて、人・馬、その他の物の形を作り加え、生前に、その人に仕えておったように、永久に墓の中に鎮まっておる人のために、永久にその墓前に立っ(28)てこれに仕えることを示すようになるのは、自然の順序と思います。なお、神社の前に、弓矢を取った門衛(俗に左大臣、右大臣あるいは矢大臣などといいますが、大臣が門番する気づかいありません)や、狛犬を置いたり、あるいは神馬の石像を置き、特に、天満宮に牛、稲荷に狐、護王神社に猪など、それぞれ、その神の使わしめの物の形を石で作って置き、あるいは、寺の門に仁王の像を並べておくなどと、同じ思想から起ったものでありましょう。
 埴輪に関する記事の一例
 『播磨風土記』に、埴輪の記事がありますから、少々書き抜いて、その模様を示しましょう。
 千壷《せんつぼ》西垂水街道(須磨と舞子との間)遊女塚より、一丁ばかり西にあり。一堆の丘(すなわち古墳の盛り土のことであります)にありて、周囲一尺五寸許の陶壷(すなわち埴輪円筒のこと)数百ばかり、車輪のごとく埋めて、幾重も然り。これ、いにしへの荒陵にて、諸国に此類多し。すでに、当国姫路の辺、国分寺の東に、霞の月山と云ふあり、周囲に千壷ありて、車輪の如し。又同国加西郡玉野と云へる所に、四塚と云ふ物、千壷ありて車輪の如し、云々。
 右の記事で、埴輪の並んでおる様子は、よくわかりましょう。
 横穴の所在と形状
 古墳のことは、精しく述べていては、際限がありませんから、まずこのくらいにしておきまして、終りに、横穴のことを述べておきましょう。
 横穴とは、前にもいった通り、山の麓や半腹に、横へ掘り込んである穴であります。穴はたいてい南向きで、山の質は、砂岩か何かで、穴が掘りやすく、ちょつと崩れない質の岩の所を択んで掘っております。横穴の形は、一と口に申すと、古墳の石槨と同じことで、石槨は石を積み重ねて石室《いしむろ》を作り、横穴は自然の山へ石室をうがったの相違があるばかりだと思えば大きな間違いはありません。これも、その口は、石戸をもって被い、その当時はどうでありま(29)したか知りませんが、今では、通例、土がかぶさって、木や草が生えて、外からは知れないこととなっております。穴の中は、石槨の中と同じことで、遺骨があったり、土器や、刀剣、甲、冑、玉類、金環などが存在しておることなど、きわめてよく似ております。また、その中の品物の性質によって、古墳と同じ年代か、あまり違わぬ年代のものと思われます。また、横穴からも、しばしば、二つ、または三つの死体が出るので、殉死者の墓だと知られるのもあります。思うに、穴を穿つに便利のよい岩のある所では、横穴が行われ(もちろん古墳も並び行われ)、この便宜のない所では、人工で山を作った、いわゆる、古墳が行われたものでありましょう。
 横穴研究の不便
 横穴は古墳のように人の目に付きませんから、あまり多くは、世に知られておりません。もし、知られておるものとしますれば、古くから口が開いておるもので、すでに、昔の人が、その中の物品を取り出した跡でありますから、人が、これは墓であるとは気がつかず、たいていは、太古の穴居の時の穴だなどと解釈しております。したがって、研究も、古墳のようには、よく届いておりません。
 吉見の百穴
 横穴で名高いのは、埼玉県の鴻巣町の西の方の、吉見の百穴《ひやくあな》であります。これは、もと、少ししか露われていなかったのを、二十年ばかり前に、学者が研究して、だんだん別の穴を発見し、今では、二百何十という数になっております。これも、もとは穴居の穴だという説になっておりますが、私は、どこまでも墓であると信じます。もっとも、ここの横穴からは、遺骨や、墓の中へ入れた物品は、きわめて少々しか出ませず、穴の中には、人の出入した証拠なども残っていたものですから、穴居という説の出るのも、もっともでありますが、しかし、これは、いったん発掘せられて、中の物を取り出し、その穴を物置にでも利用したものと思われます。このすぐ側に松山城がある(30)のでありますから、城の付属の倉庫に利用したかも知れません。いずれにしても、いったん発掘せられたものであることは、その地の字を「百穴」と古来いい来っておるのでわかります。もし二つか三つかの穴しか知られていなかったものなれば、二つ穴とか三つ穴とかいう地名が起りそうなものを、「百穴」といったところを見ますれば、前にいうた千塚、八十塚《やそづか》などと同じく、たくさんの穴という意味で、百穴といったとよりほかほ解釈できないのであります。先年学者がこれを研究した時は、それがいったん埋まって、世に忘れられたのを、再び発掘したのでありましたから、横穴研究の最好材料ではなかったのであろうと思います。この百穴から、少し離れて、やはり山続きに、いくつも横穴のあらわれたのがありますが、これは、まだ研究してないようでありますから、これもよく調査しましたならば、何百という数に上り、なかには、まだ手のつかんものもあるであろうと思います。
 滑河の耀窟
 下総の滑河町(成田鉄道滑川駅の近傍)の付近にも、いくつも横穴があらわれています。これは、小山の麓にあるので、山上に耀窟神社というのがあって、伊都之尾羽張神を祀ったと伝えております。この耀窟と申すのは、輝く窟と申すことで、伊都之尾羽張神は、神代史に、天安河の河上の窟に住んでおられたということでありますから、古く、ここに、一つの横穴を発見し、その穴が輝いておったという説でもあって、耀窟という名も起り、窟というところから、穴居の古伝のある伊都之尾羽張神を祀ったものと思われます。ところが、たしか明治二十五年とか聞きましたが、水害があった後、埋防修覆のため、その辺の山麓の土を掘り取っておったところが、新たに、いくつもの横穴を発見しました。その多数は、石戸もチャンと閉っていて、埋葬当時のまま、少しも手をつけたことのないもの、石戸を除くと、なかには、人骨や、武器その他のものの存在すること、少しも、古墳の石槨内のものと変らないのでありました。もちろん、穴も穿ったままで、多く人の出入した形跡も見えませんのであります。されば、吉見の百穴の方のは、(31)穴居の跡を墓に利用したとも、墓の跡を住居あるいはその他の用向に利用したとも説がつきますが、この滑河のに至っては、始めから墓の目的で穴を掘り、今日に至るまで、その他のことに利用せられた例《ためし》がないのでありますから、横穴が、古墳と同じく、古代の墓であることは、もほや疑いないものであろうと思います。ただし、惜しいことには、滑河の穴は、吉見のとは違って、その道に暗い人夫の手で発掘せられて、学者の研究の十分届いておらんので、いささか、物足らん心地が致します。
 なお、古代の墓については、述べたいことがいくらもありますが、あまり長くなりますから、ここで筆を止めましょう。
 
 
(33) 『考古界』記者和田千吉君と古墳墓年代考定の方法を論じて考古家諸賢の示教を乞う
 
        一
 
 和田千吉君足下。
 足下が考古学に堪能なる、特に古墳墓の事に精通せらるるは斯界の斉しく認むるところ、余輩の常に仰慕してやまざるところなりとす。古墳墓および古墳墓関係物以外の古代遺物はなはだ少きわが国において(石器時代遺物はしばらく除く)その古代史を攻究し、特にその古代歴史地理を調査せんには、必ず材料を古墳墓および関係遺物に求めざるべからず。学界が足下に期待するところはなはだ大なるべきは論をまたざるなり。足下つとに古物採集家として令名あるのみならず、職を東京帝室博物館に奉じ、いながらに全国の古墳墓発見遺物を蒐集して、ことごとくこれを薬篭中のものとなし、研鑽ここに年を重ね、蘊蓄海嶽の大に比すべし。いわんや足下久しく身を考古学会の要部に置き、あまねく天下同学の士と研究を交換して、常に学界進歩の木鐸たるをや。事に古墳墓の研究に従うもの、必ず重きを足下の言に置き、足下の所説をもって憑拠とせざるなし。今や足下新たに考古学会編輯主任の旧職に復り、親しく雑(34)誌『考古界』を編輯せらる。真にこれ学界の慶事なり。しかして余輩は足下が再就職編輯主任としての最初の誌上において、足下の最も精通せらるる古墳墓の年代に関し、懇切なる示教を辱うすることを得たり。何らの光栄ぞや。
 1 古墳墓年代研究の必要
 余輩不敏、日本歴史地理学研究者の末班を汚すこと年あり。いまだその獲るところ多からずといえども、しかも斯学研究の必要上、世の古墳墓の研究に関して常に多大の注意を払う。しかして特に古墳墓年代考定の方法に関する研究の一日も早く進捗せんことを渇望するや切なり。古墳墓年代の考定は実に古墳墓研究上最も重要なる事項なり。古墳墓の年代にして不定ならんか、たとい千の墳墓を調査し、万の類品を陳ぬるとも、畢竟其の地に某の墳墓あり、某某の物品を出したり、その物品と類似のものは某々の墳墓よりも出でたり、いつのころかは知らねど、透き昔にはかかる品物を用いたる時代もありたりなどいうのほか、学問上ほとんど何らの価値なきものなり。その報告や、たとい千万を重ぬるとも単に報告のみ、研究にあらざるなり。これを考古学というは当らず、よろしく好古と称すべきものなりとす。しかれども、かくのごときは無益なると同時に無害なり。賞すべきことにあらねど、また事に妨げなし。余輩の恐るるところは、年代考定に関する研究の進歩せざるがために、誤りたる考定のしばしば発表せらるることにあり。ことにその誤りたる考定が、万一考古学者として世人に信用を博せる人士によりてなされたらんには、その世人を誤り学界の進歩を妨ぐる甚大なるあらんを恐るるなり。余輩が古墳墓研究者に望むに年代の考定をもって重しとする。あに故なからんや。
 わが国において古墳墓の調査が一部人士の注意に上りたるは由来すこぶる古し。公設の機関をもってその発掘品を蒐集し、その研究が考古学中の主要なる部分として中央の学界に提出せらるるに至りてより数うるも、すでに二十余の星霜を経たり。しかして、その東京帝室博物館、東京帝国大学等に集まれる発掘品の数は、実に山積をもって形容(35)すべきほどの多きに達せり。しかるにもかかわらず、その研究の結果が、なおいまだ古墳墓の年代を考定するの域に到らざるは、余輩局外者の密かにもって遺憾少からずとなすところなり。けだし、考古学者その人多しといえども、しかもその攻究する範囲広くして、特に古墳墓にもっぱらなる能わざりしによるならん。この際にありて学界幸いに足下あり。学界の足下に嘱望する多きとともに、足下の学界に対する責任また大なりと言わざるべからず。
 2 将軍塚付近の小古墳墓に関する余輩の観察
 和田千吉君足下。昨年五月京都将軍塚付近において、その近傍に散在せる数多の小古墳墓の一の発掘せらるるや、余輩たまたまかの地にありて親しくその発掘の状を調査するを得たり。当時余輩は該地が平安朝における墳墓の地ならざるべからざるゆえんを考え、該墳墓の外形が宇治木幡における藤原時代の墳墓に類似し、その上に五輪の石塔を安置せるは絵巻物と記録との斉しく伝うる平安朝の墳墓と相一致し、しかしてその棺槨の状態が大和・河内地方において多く見るを得るところのものとすこぶる趣を異にするよりして、該墳墓はその近傍に散在せる数多の小墳墓とともに、おそらくは平安朝初期における「あまり有力でなかつた貴族」の墳墓ならんと考定し、平安朝の墳墓のいまだ考古学者によりて多く注意せられざる今日――露骨に余輩の所信をいえば、その実、平安朝の墳墓をも斯道学者によりて奈良朝以前のもののごとく誤認せられたるべき虞れある今日、――において、歴史地理学上よりほぼ平安朝の墳墓たるべき由を考定し得べき希望ある墳墓を調査するの機を得たるは、実に学界の慶事なりと信じ、その趣を『歴史地理』編輯者に向って通信し置きたり。文は「京都便り」と題して、載せて同誌第十一巻第六号にあり。
 和田千吉君足下。余輩は実に歴史地理学上の見地よりして、今もって将軍塚付近を平安朝の墓原なりと信ずるなり。しかしてその墓原に散在する数多の小墳墓の一は、当然当時の墳墓ならざるべからずと信ずるなり。実に余輩は足下の示教を辱うしたる今日においても、なおかく信ぜんとするなり。その詳細の説明は後項に譲り、今はただ、余輩が(36)歴史地理学研究者の末班に列する一員として、足下の示教に盲従し、唯々として余輩の所信を放棄する能わざるゆえんを一言せんとす。
 3 右に関する考古家の所説
 余輩の「京都便り」は単に余輩の観察したる結果を述べたるものにして、いまだその理由を説明するに及ばざりき。しかして該記事の『歴史地理』によりて発表せらるるや、学界の多数は余輩の所説を迎うるに嘲笑をもってしたりしがごとし。その失考を鳴らすの声の余輩の耳朶に触れたるもののみにても、ただに二、三にはあらざりしなり。六月余輩の東都に帰りし後、考古学会員中特に古墳墓の事に深き注意を払わるる岩井武俊氏の考証『日出新聞』に出でたり。該考証は、事実に誤謬あるのみならず、問題に上れる墳墓は坂上田村麿の墓にもあらず、花園天皇の陵にもあらずなどと、あたかも犬は猫にあらず、また鼠にもあらずというがごとき、学問上ほとんど一笑に付すべき事項をば、さすがに目暗千人に見する新聞種とて、いと親切に記述し、結局該墳墓は古墳期末すなわち奈良朝以前のものなりと論結したりと記憶す。しかして氏は、その中に余輩の所説の一部を引用し、やや嘲弄的態度をもってこれを批評したり。当時余輩は切抜通信によりてこれを知るを得たるも、あえて説明するの要を認めずとして、これを放任したり。
 和田千吉君足下。余輩はあえて学界多数の嘲笑と愚弄とをもって意に介するほどの狭量なるものにあらざるなり。しかれども、余輩は、学界の多数がこれを顧みずして、余輩の希望する方面に新研究を積まんともせざるを黙視する能わざるなり。ことに、現に足下の編輯せらるる『考古界』のごとき学界の重鎮たる雑誌上において余輩の所説を誤り伝え、余輩の思いもよらざる点において、世人をして余輩の所説を誤解し嘲笑せしむるの材料を供給せらるるは、余輩の堪うる能わざるところなり。『考古界』第七篇第三号には、新聞記事によりて、余輩が該古墳を平安朝末期の(37)中流武人の墳墓なるべき由を説きたりと記せられたり。こは実に新聞記事のままに記述せられたるものなるべし。しかれども、新聞記者が伝聞によりて匆卒に掲げたる記事と、所説者自身が責任ある学会の機関雑誌『歴史地理』上に掲げたる「京都便り」と、その軽重いかんぞや。余輩は当時の『考古界』編者が『歴史地理』の記載を顧みずして、信憑しがたき新聞記事に基き、右の事実を報道せられたるを惜む。当時余輩はその「末期」とあるに心づかざりしかば、毫も意に介するところなく、ついで岩井氏の考証同誌上に出でたれども、当時すこぶる多忙なりしがうえに事直接余輩に関せざれば、あえて弁を挟むことなかりき。しかるに本年五月、余輩再び京都に到り、二、三の人と打ち寄りて古墳談を交換せし際、某氏より余輩が該墳墓をもって平安末期となすの理由を質され、始めてその説の出所を知りて大いに驚きたり。ここにおいて余輩は、とりあえずその正誤文一篇を草し、匆卒『考古界』編者に致したり。これ足下の知了せらるるところなり。その時余輩は、筆のついでをもって『考古界』所載岩井氏の該古墳に関する研究中、棺槨の寸法の事実に相違して、世を誤ることあるべきを慮り、これが訂正を付記したりき。これまた現に足下の知了せらるるところなり。しかして足下の宏量なる、直ちに余輩の要求を容れてその全文を本年六月発行『考古界』第八篇第三号の誌上に掲げ、さらに自ら陣頭に立ち、当時の『考古界』記者と岩井氏とに代りて、該古墳が古墳期末すなわち奈良朝以前なるべき考証を述べ、もって余輩に示教せられたり。余輩あにこれを感謝せざらんや。しかれども足下。乞う余輩の過言を許せ。足下の説くところは毫も該古墳が平安朝初期のものにあらざるゆえんを証せざるなり。余輩足下の示教を感謝すといえども、しかも不幸にしてこれに盲従する能わざるなり。
 和田千吉君足下。足下の古墳墓の事に精通せらるる天下まれに見るところなり。しかして余輩の古墳墓に関する知識の浅薄なる、自らよく足下と日を同じうして語るべきあらざるを信ずるなり。しかれども足下、余輩またおのずから余輩の見解あり。足下すでに陣頭に立ちて余輩を迎えらる。余輩不敏なりといえども幸いにこれに対して応戦する(38)の光栄を得んかな。
 しかり、余輩は実に足下の挑戦に対して応戦するの光栄を有す。しかれども余輩のあえて教えを乞わんとするところは、必ずしも単に足下のみにあらざるなり。いやしくも古墳墓の年代に関して足下と同一の、もしくは類似の見解を有せらるる考古学者諸賢に対しては、余輩はかねていつかは示教を仰ぐの機を得て、研究の進捗を図らんことを欲したりしなり。幸いなるかなここに足下あり。将軍塚付近の古墳墓年代に関してこれら考古学者諸賢の代表者となり、自ら陣頭に立ちて余輩をさし招かる。これ余輩が特に足下に対して論戦を交換せんとするゆえんなり。幸いに余輩を誤解するなかれ。余輩はあえて温厚篤実なる足下に対し、いたずらに大言壮語して一時の快を貪らんとするものにあらざるなり。余輩はここに告白す。余輩は誠心誠意、古墳墓年代考定に関する研究の進捗を希望するほかまた他あらざるなり。将軍塚付近の古墳墓をもって平安朝のものなりとなす余輩の所見の、全然誤りなりきとの結論に到達すること、あるいはこれあらん。これをもって奈良朝以前のものなりとなす足下ら諸賢の高説の、果して正当なりきと証明せらるる時期またこれなきを保せず。しかれども、かくのごときはそもそも末なり。余輩の望むところは古墳墓年代考定の方法にあり。余輩は実に、足下の余輩に示教されたるがごとき方法によりては、とうてい科学的結論として正当なる年代を考定する能わぎるぺきを恐る。余輩の論ぜんとするところ実にここにあり。足下ならびに足下と同一なる、もしくは類似せる意見を有せらるる考古学者諸賢、幸いに余輩の微衷を容れて、さらに示教を吝むなかれ。
 4 古墳墓年代考定に関する考古家の所説
 和田千吉君足下。余輩はさきに足下に対して、現今のわが考古学界がいまだ古墳墓の年代を考定するの域に到達せざるもの遠きことを明言せり。ここにおいて足下あるいは言わん。こは汝が斯界の現状に無識なるによるのみ。多数の考古学者は現に年代考定に関して系統的研究を積み、その効果すこぶる見るべきものありと。しかり。余輩もまた(39)実に某々ら諸賢がいわゆる古墳時代なるものを定め、さらにその時代を数期に区分し、某期の様式は斯々なり、某期には斯々の様式ありなどと説けるものあるを知る。わが考古学者中、斯学に関して最も多くの著書を有する八木奘三郎君は、奈良朝の終りをもって古墳時代の終末期とし、神代よりその終末期に至るまでを三期に分かたれたり。しかしてその各期についてそれぞれ共通の様式を示されたり。しかれども余輩の見るところによれば、実際には氏の規定に符合せざるもののはなはだ多きを思う。氏ももとよりその除外例はなはだ多かるべきことを説かれたりといえども、除外例の方もし普通たるに近からんには、時代の区分、畢竟無意味に終らんことを恐る。前記岩井武俊君は、いわゆる古墳時代をもって七期(?)に分かちたりとか伝聞す。いまだその信否を確めずといえども、かつて、「古墳期の名称は八木奘三郎氏の著書に従ふ」と明記せられたるによれば、だいたい八木君の時代区分に類似せるものならんと思わる。ただし、将軍塚付近発掘の墳墓をもって、「形式構造から推すと古墳期末に属するものであらう」といい、「石槨遺物の鑑定によれば、此古墳は先づ奈良朝に達せざる以前のものなる事」といわれたるところによれば、明かに古墳期末をもって奈良朝以前にありと認定せらるるなり。この点において岩井君は八木君よりもさらに一歩を進むるものあれども、いずれにしても余輩は、岩井君に対してもまた八木君に対したる懸念と同一の懸念を禁ずる能わざるなり。はなはだ失礼なる申分ながら、余輩は実に右両君のなすところにては、もって古墳墓の正当なる年代を考定するの域に達するになお多少の余地ありと言わざるを得ざるなり。しかして和田君足下。余輩の古墳墓精通者として畏敬する足下が、岩井君の所説に賛成せらるるを見て、余輩はなはだこれを惑う。『考古界』編輯主任として足下の先任たりし帝室博物館学芸委員高橋健自君は、現に博物館歴史部にありて古墳墓に関する事項を担任せられ、斯道に造詣最も深き先進の名士なり。しかして氏のいわゆる古墳時代が、「主として推古天皇以前なり」というに至りては、余輩ことに深く惑うところなき能わざるなり。これを奈良朝末以前という。余輩すでに信ずる能わず。これを奈良朝に達せ(40)ざる以前という。余輩さらに信ずる能わず。いわんやこれを主として推古天皇以前に限らんとするにおいてをや。
 5『考古界』記者の古墳の定義
 和田千古君足下。足下らがもって古墳期末となすものはそもそも何を標準として定むるか。これを『考古界』記者水鳥君の文に見る、曰く、
  土を盛り上げて何物かを埋蔵したるあれば、世俗以て古墳となす。夫れ古墳を汎意に解すれば、数十年を経たる墓所も亦然らざるなし。況や数百年を経たるものをや。然れども、吾人の所謂古墳とは、一の術語にして、少くとも千数百年以前に於ける貴人の墳墓をいふなり。
と。余輩いまだ水鳥君の何人なるを知らず、またこれを究むるの要を認めずといえども、古墳の術語として右の定義の発表せられてよりここに三間年、いまだ考古学会済々たる多士の何人によりても異論を挿まれざるを見れば、少くも該会要部の責任ある諸賢はこれ是認せらるるものと解せざるを得ざるなり。これを一千数百年前と限る。奈良朝末は今より千百二、三十年前なれば一千数百年前というには当らず。けだし奈良朝以前、おそらくは主としていわゆる推古天皇以前を指せるならん。およそ学者が自己の使用する術語に自己任意の定義を付するは、他に故障を生ぜざる限りはほとんどその自由権内にあるものなり。されば、考古学者が推古天皇朝以前の墳墓を特に古墳と名づけ、その以後の墳墓は、たといその形式、実質においていかなる類似ありとも措いて問わず、これを呼ぶに他の名称をもってせんこと、また各自の勝手なるべし。しかれども和田千吉君足下。かくのごときはあまりに無造作なる命名法にあらずや。しかしてさらにその定義を実地に応用し、問題に上れる古墳墓は古墳なるがゆえに千数百年前のものなり。もしくほ奈良朝に達せざるものなり。推古天皇以前のものなりなどと速断するものあらんには、あまりにしても乱暴ならずや。しかれども安んぜよ、足下らは古墳墓に精通せらるるの人士なり。何人か足下らを誣うるにかくのごとき(41)無造作なる命名法を採用し、かくのごとき乱暴なる判断を下すの徒なりとの事をもってせんや。足下らが古墳時代をもって推古天皇以前なりとし、もしくは奈良朝に達せざる以前なりとなすには、必ず確乎たる拠ろあらん。推古天皇以後、もしくは奈良朝以後には、学者が認めて古墳となすがごとき形式の墳墓を作らざりしとの十分なる説明あらん。余輩が示教を乞わんとするところ、まずここにあるなり。
 およそ甲の墳墓をもって学術上古墳なりといい、乙の墳墓をもって学術上古墳にあらずと言わんには、その間に実体上判然たる区別なかるべからず。もし水鳥君の言のごとく、少くも千数百年前のものにあらざれば、決して学術上古墳というべからずとせんには、しかして足下らのいわゆる古墳が普通に世人のいわゆる高塚に近き意味のものならんには、足下らは千数百年前以後、もしくは推古天皇朝以後、もしくは奈良朝に達せざる時代以後には、決して高塚を作らざりしと解せらるるか。あるいは高塚はこれを作りたることあれども、そば前代のものと同一列に古墳と称すべからざるほどに判然たる相違あるものなりとせらるるか。
 乞う、余輩をもっていたずらに難問を提出するものとなすなかれ。余輩は記録と実地との研究上、普通にいわゆる古墳が奈良朝は無論のこと、平安朝に至るまでもなお築造せられたりと信ずるなり、将軍塚付近において発掘せられたる古墳をもって、依然平安朝のものと信ずるなり。しかして、足下がこれをもって奈良朝以前のものなりとなすの理由は論理学の範囲を超脱せるものにして、決して科学的結論にあらずと信ずるなり。かく信ずるがゆえにあえて難問を提出し、足下らの明晰なる教示を得てもって自ら啓発するところあらんとするなり。乞う、号を逐いてその然るゆえんを弁ぜん。
 
(42)      二
 
 1 再び、将軍壕付近古墳に関する考古家の所説
 和田千吉君足下。
 本誌八月号において余輩は足下の挑戦に応じ、古墳墓年代考定の方法に関して足下と論戦を開始し、博くこれを世の考古家諸賢に質すの好機を得たり。爾後余輩は、余輩同志の開催にかかれる小田原講演会に臨みて事務に鞅掌中、不図健康を損し、湯藥に親しむことここに四旬余の久しきに及べり。その間なお余輩は、旧約を果さんがために病を押して西国に客遊する約二旬に及びしが、その別府温泉場に客たるの際、縟中筆を執りて論戦の続稿を草し、これを本誌編者のもとに郵致したり。これ八月十三日のころなりき。しかるに該郵便物はいかなるゆえにか中途に紛失して先方に達せず、ために、本誌九月号においてこれが掲載を見るを得ざるの失態を生じ、議論を中絶して礼を足下に失するの結果となれり。ここにまず事情を具して足下の寛宥を乞わん。帰京後足下の学会より送致せられたる『考古界』第八篇第四号を見るに、中に岩井甍堂氏の余輩に対する一文あり。将軍塚付近の古墳の棺槨に関する余輩の調査を是認せらるるとともに、前には、「石槨の形式構造から推すと古墳期末(貞吉曰く、奈良朝に達せざる前の意)に属するものであらう。」(『考古界』第七篇第五号、二二四頁)と言われたる同氏は、今回は、ややその態度を変じて、「奈良朝以前のものたりとの断定を下すに至りし有力なる根拠は、其古墳の形状と、石槨の構造、大サ等によりしよりも、寧ろ、大体に於て遺物の研究によりしものに有之候。」と述べられたり。しかも、そのいわゆる遺物なるものは、刀剣および甲の被片と、足下らの認めて斧となす鉄器とのみにして、岩井氏自身も、「之れ丈けの遺物に依て此の発掘の墳墓の時代を推定するといふ事は容易に出来ないが……」(『考古界』第七篇第五号、二二九頁)と言われたるものなり。し(43)かるに氏はその結論に至りてすなわち曰く、「彼此の事実を綜合すれば、此の古墳の奈良朝に達せざる以前のものなりし事は容易に肯かるゝ次第にて、聊かの疑ひもこれなき事と存じ申し候。」と。足下よ、「惚れてこれを観れば痘痕《あばた》も靨《えくぼ》となる。」ということあり。これ直観直覚をもって事物を解決せんとするものに対して好個頂門の一針なり。しかして今岩井氏のなすところ、またこの一針を加うるを要するものなりとは見給わずや。岩井氏の今回の所論は大体において足下の所論に賛成し、これを祖述敷衍せるのみ、もし岩井氏の採られたる研究方法が、足下ら一般考古学者の平常採らるるところと多く背馳するものにあらずとせば、考古学者の遺物年代考定の方法は、あまりとしても無造作ならずや。足下らは平常多くの遺物に親しみ、卓越なる眼識を有せらるべければ、多くの場合においてその鑑定の正鵠を失するがごときことはなかるべきも、しかもその結論たる、独断的、否むしろ神来的にして、科学的結論として具眼者を心服せしむるの威力に乏しきの憾ありとは感じ給わずや。余輩重ねて岩井氏の論文を見るに及び、かねて考古家諸賢に問わんと欲せしところにつきて、さらに切実にその必要を感ずるに至れり、すなわち病間禿筆を呵してさきに失われたる続稿を改め、ここに再び足下に見えんとす。
 和田千吉君足下。古墳墓年代考定に関して余輩が考古家諸賢に希望を述ぶる、あえて今日に始まれるにあらず。回顧すれば明治三十六年の初めのころなりき。余輩当時感ずるところありて「古墳の年代を定むることについて」と題せる一篇の論文を草し、これを『歴史地理』第五巻第三号に掲げて、斯道先輩の示教を乞いたり。当時余輩の説きしところ、今日にしてこれを見るに、もとより多少の補正を要するものありといえども、しかも論旨の大体においては、毫も変更すべきところあるを見ず。しかして、今、余輩が足下の挑戦に応ずる陣法と武器と、ともに当時使用のそれらを繰り返し、これを敷衍するに過ぎざるなり。図らざりき学界のすべてが日進月歩の状態にある現世において、ひとり古墳墓に閲し、考古学の門外漢なる余輩をして、満六年前の旧説を繰り返さしめんとは。
(44) 足下。善く泳ぐものはしばしば水に溺る。単に古墳墓関係の古代遺物と言わず、いやしくも古代の物品を調査してその年代を考定せんには、必ず多数の遺物に接して、その形式、実質を深く脳裏に印象せしめ、これを比較し、これを類別するの間、知らず識らず、遺物中の其々に共通して、言うべからざる妙味の存するものあるを悟得するの域に達せざるべからず。しかして余輩は、余輩の畏敬する考古家諸賢が、多くは業《すで》に已《すで》にこの域に到達し、もしくはこれに近づき給えるを疑わず。しかれども足下。善く泳ぐものは水に溺る。事物を直観するの極み四囲の事物を閑却し、時にはなはだしき超論理的結論に陥るの弊害あるを足下は見ずや。堤上傍観者の言、必ずしも捨つべからず。
 余輩かつて建築学者との間に古建築物年代考定の方法に関して議論を交換したることありき。こは、足下ら諸賢のひとしく知悉せらるるところなるべきをもって、今あえてこれが詳細を説明せざれども、余輩をして、ここにあらかじめ、当時における余輩の論旨が、今日において余輩の足下ら諸賢に対し陳弁せんとするところと毫末の相違なきものたりしことを明言せしめよ。しかして、当時余輩が余輩の所論の一例を法隆寺古建築物の年代に取りたりしと同じく、足下ら諸賢に対する余輩の所論の一例として、あたかも足下の余輩に対して提供せられたる将軍塚付近の一小古墳墓を採択せしめよ。
 2 右に関する『考古界』記者の意見
 足下が『考古界』前任記者と岩井君とに代り、岩井君の所説に全然賛成を表して、将軍塚付近の小古墳墓を奈良朝以前のものなること確実なりと断ぜられたる理由を観るに、曰く、
(一) 将軍塚付近に発見されたる小古墳墓の棺槨の形式、寸法は、播磨において従来多く調査せられたるものに相当し、あえて珍しきものにあらず。これらの墳墓は播磨の到るところに散布し、いずれも山上に限られたるもののごとく、内部よりは人骨のほか遺物を出すことなく、まま刀身を発見することあり、時に付近において管玉を拾得せしもあ(45)れど、概して遺物なきを常とす。
(二) 右の例に相当する棺槨中、ある一よりは釧二、管玉一、刀一を発見し、ある他の一よりは漢鏡二、出雲石曲玉二、硝子曲玉一、小玉百三十三、直刀数片を出せり。
(三) 将軍塚付近の墳墓より出でたる鎧の破片、両刃の剣、刀、斧の四点はいずれも平安朝初期時代のものにあらず、播磨なる類似の棺槨より発見せし遺物、ことに漢鏡のごとき、また、みな平安朝初期のものにあらず。したがって将軍塚付近の墳墓が平安朝初期のものにあらずして、岩井君の説くところのごとく、奈良朝以前のものたるは確実なり。墳上より発見せられたる五輪塔のごときは、いずれの地にても遺蹟の数度使用せらるること珍らしからねば、後世のものにして、あえて省るに足らず。
 足下が『考古界』第八篇第三号において説かれたるところ大要右のごとし。あらかじめまず足下のこれを認められんことを望む。
 3 右の批評
 足下の右の文によりて、余輩は、将軍塚付近の小墳墓が有する棺槨と類似の棺槨を有する墳墓が、播磨の到るところに存在することを知れり。しかれども足下、播磨が奈良朝に達せざる以前において絶滅し、その以後においては該地に住民なかりきとの立証を得るにあらざるよりは、遺物なき該形式の墳墓が、奈良朝以前のものなりとの結論には到達せざるなり。ここにおいてか足下はさらにその副葬品が奈良朝以前のものたることに言及せらる。これ余輩が切に考古家諸賢の示教を煩わさんと欲する問題に到着せるものなり。余輩足下の説を忖度するに、曰く、該形式の棺槨のある二個より其々の古器物を出したり。これらのものはいずれも平安朝初期のものにあらず。ゆえに該形式の棺槨を有する墳墓はいずれも平安朝初期のものにあらずして、奈良朝に達せざる以前のものなりと。足下は直接にかくは(46)明言し給わざれども、議論の帰するところは必ずかくあらざるべからざるなり。ここにおいて余輩まず疑わざるべからざるものあり。足下は言わずや、該形式の棺槨中には、副葬品なきをもって普通とすと。しからば多数の副葬品を有せる二個の墳墓はけだし異数のものなり。異数の二例をもって播磨の到る処に存在すといわるるほどの多数のものを率し、単に棺槨の類似のみをもって一切の墳墓をことごとく同一時代のものとなし、しかもその異数の例のものがたまたま奈良朝以前のものを出したりとて、一切の墳墓がことごとく奈良朝およびその以後のものたる能わずとは、いかにしても窮屈千万なる解釈ならずや。しかれども、この疑問はしばらくこれを措かん。足下は将軍塚付近の墳墓それ自身がまた奈良朝以前の品を出したるがゆえに、確実に奈良朝以前のものたるを知られたるにて、播磨における類例のごときは畢竟、一の傍証に供せられたるに過ぎざればなり。
 ここにおいて余輩はあえて足下に問わん。いかなる推理よりして、足下は、足下の列挙せる曲玉、釧、刀剣、漢鏡等、播磨にて発見せられたりという器物が、必ず奈良朝に達せざる以前のものなりとの断定を得られたるか。よしやかりにこれらの器物が足下らの信ぜらるるごとく、奈良朝以前において使用せられたるものなりとて、何によりて足下は、これらの器物が奈良朝およびその以後において毫も使用せられざりきとの断定を得られたるか。さらにこれらの器物が奈良朝およびその以後において使用せられざりきと仮定すとも、足下はいかにしてこれらの器物が全然世に失われ、もしくは決して墳墓中に副葬せられざりきとの断定を得られたるか。しかしてこれらの器物を有する墳墓は必ず奈良朝以前のものたること確実なりとの結論に到着せられたるか。播磨における例はしばらくこれを措き、単に問題に上れる将軍塚付近の小古墳より出でたる古器物について具体的にこれを論ぜんか。その鎧や、刀剣や、斧や、いずれもあるいは奈良朝以前において使用せられたる品なるべし。その鎧が果していわゆる短甲なりや、あるいは他の種類のものなりや、破片はなはだ僅少にして、十分これを明かにするを得ずといえども、いずれにしても、奈良朝(47)より平安朝に及びて、革甲と相並びて鉄甲の行われし争うべからざる事実を足下は認めずや。されば、よしや該品が果して短甲にして、挂甲の類の多く行われたる奈良朝以後においては、普通に使用せられざりきと仮定すとも、革甲を奨励せる政府が依然として鉄、革両様の甲の使用を命ぜるがごとく、その所有者がこれをも使用したりとは想像し得られずや。さらにその遺愛品を副葬したりと想像することにおいて何らの矛盾を生ずべきか。次にその刀剣につきて言わん。極端なる岩井君のごときに至りては、「其刀身につきても僅かに一断片に過ぎず候へども、其の反りの無きは直刀なりし事疑なし」として、これをもって該古墳を奈良朝以前たるの証とせられたれども、もし果して然らんには、同君は奈良朝およびその以後の刀は、源平時代以後において見るがごとき反りあるものなりきと解せらるるにや。暴論もまたはなはだしからずや。しかして博識なる足下またこれをしも是認せられんとするか。もしそれいわゆる斧に至りては、余輩の寡聞なる、多くその類例を知らざりしが、足下の好意により、足下らの管せらるる東京帝室博物館の数多の蔵品を見るに及び、正倉院文書などに見えたる手斧の粗製品なることを理解することを得たり。これ余輩が曩日の不明を恥じ、切に足下の示教を謝するところなれども、しかもこれがために毫もその品が奈良朝以前のものなることを証せざるなり。すでに正倉院文書に多く見ゆ。奈良朝において普通に使用せられしや明かならずや。しかしてこれと相接続せる平安朝初期において、この斧が存在せざりきとせば、果していかなる形式の手斧がこれに代りて世に使用せられたりと解せらるるか。
 論じてここに至れば、将軍塚付近墳墓より発掘せられたる一切の副葬品は、毫も該墳墓が奈良朝以前のものならざるべからざる理由を示さざると同時に、さらに該墳墓が平安朝のものたるべからざる理由をも示さざるにあらずや。ここにおいてか足下は播磨なる類例を提出せられたり。しかれども足下。すでに言えるごとく、稀れに多数の副葬品を有したる墳墓ありとて、他の一切の副葬品なき墳墓をも、単に棺槨類似のみの理由をもって、同一時代のものなり(48)となさんは――ことに奈良朝以前というごとき、ある限定せられたる同一時代のものなりとなさんは――あまりに御都合過ぎたる論断ならずや。ことに、その副葬品を発見したる墳墓なりとて、余輩が将軍塚付近の墳墓の発掘品につきて、逐次査定を遂げたると同一の方法によりて査定せんには、足下はとうてい該墳墓が奈良朝以前のものならざるべからずとの理由を提供するに苦しまるるなるべし。果してしからば播磨における数多の例は、足下の議論を主張するにおいて、何らの重きをなさず、余輩の議論に対して、何らの累を成さざるにあらずや。
 4 考古家の研究は往々直観的考察に馳せて論理を誤る
 和田干吉君足下。請う、過言を許せ、足下らはあまりに多く古墳墓に関する知識を有するがゆえに、かえって直観的考察にのみ依頼して四囲の事情を極めず、いまだ論理の階段を経ずして直ちに「確実なり」との結論に到着せられたり。足下らは実に考古学に精通せらるるの人士なり、特に古墳墓のことに関しては、実に学界における憑拠者《オーソリチー》なり。この点においては余輩、実に足下らを畏敬し、常に教えを乞うを楽しむ。本論を草するに当りても、余輩は実物につき実例につき、足下らによりて啓発せられたるところ多く、この論文が直接に間接に、足下らに負うところ少からざるなり。しかれども足下、不幸にして多少記録上より古代の実情に通じ、論理学の一端をも解したる余輩は、単に専門家たるのゆえをもって、足下の「確実なり」との証言に盲従する能わざるなり。学問のことは必ずしも師長避くべからず、親疎問うべからず。乞う、余輩をしてことごとく余輩の信ずるところを言わしめよ。考古学に対する余輩の知識ははなはだ浅薄なり。多く足下らの指導是正に依頼しつつ、研究を重ぬるを得ん。かくのごとくにして学問は進歩すべきなり。
 足下。将軍塚付近の古墳墓の副葬品が、それ自身確実に該墳墓の奈良朝以前のものたることを証せざるとともに、また、該墳墓が平安朝のものにあらざることをも証せざるの理由はすでに貴意を得たるならんと信ず。播磨における(49)ものまた然り。ここにおいて余輩は、さらに進んで足下らのいわゆる古墳時代なるものについて考察せんとす。これ一切の議論の根本なればなり。
 足下。足下らは古墳墓に関して該博なる知識を有せらる。しかして、その該博なる知識より帰納して、考古学上古墳時代なる一時期を画せらる。いわゆる古墳時代の限界につきては、足下ら同人諸賢の間においても、必ずしも同一ならざるべけれども、足下は「古墳期末即ち奈良朝に達せざる以前」という岩井君の説に賛せられ、足下の前任記者水鳥君は、「少くも千数百年前、即ち推古天皇朝以前」なりと定めらるるなり。この定義にして確実ならんには、もはや多くを問うを要せず、問題に上れる古墳は古墳なるがゆえに推古朝以前なり、もしくは奈良朝以前なりと断定せんこと、はなはだ無造作ならずや。
 5 推古朝以後の墳墓の形式に関する質疑
 請う試みに足下に問わん。足下は推古朝以後において、もしくは奈良朝およびその以後において、足下らが認めて古墳となすがごとき墳墓は、絶対に作られざりきと認めらるるか。人を葬るに石室を作らず、盛り土をもなさず、現今行わるるがごとく深く土を穿ちて屍体を埋葬せしものなりきと信ぜらるるか。もし果してしからば足下ははなはだしく誤れり。記録と事実とは明かにその然らざるを証するなり。さらに試みに問わん。足下は推古朝以後において、もしくは奈良朝およびその以後において、足下らが認めて古墳と称するものは全く跡を絶ち、これらとは全く形式内容を異にしたるいかなる墳墓が造られ、足下らが認めて古墳と称するものより発見せらるる古器物は全く世に失われ、これらとは全く性質を異にしたるいかなる器物が使用せられたりと信ぜらるるか、四囲の情況と当代の事情とを毫も顧みることなく、はなはだ簡単に余輩の所説を卻けて岩井君の所説を確実なりと保証せらるる足下は、必ず余輩のこの質問に対して明答を与うるの義務ありと信ず。
(50) 8 歴史的年代に関する考古家の誤解
 試みに余輩に聴け。余輩は足下らが認めて推古朝以前、もしくは奈良朝以前のものなりとなす墳墓中には、少からず奈良朝もしくは平安朝のものをも混じたるにあらざるかを疑うなり。しかして、足下らが認めて推古朝以前、もしくは奈良朝以前に限られたりとなす古器物中には、少からず奈良朝以後、もしくは平安朝以後の古器物を混じ、および、前後相通じて使用せられたるものをも交えたるにはあらざるかを疑うなり。推古朝より奈良朝初に至る七十余年、奈良朝初より平安朝初に至るまた七十余年、通じて前後わずかに約百五十年に過ぎず。この間、隋唐との交通始まり、郡県制度採用せられ、仏教の隆盛に赴きたるがごときことはありといえども、かつて一大天変地異の都邑を破壊し、住民を鏖殺したることありしにもあらねば、異種族征服移転等のことありて、住民のすべてが入れ替りたるがごときことありしにもあらず。政治の中心は依然として同一地方にあり、その人民は依然として同一人民なり。ただその前後において異なりとするところは、従来韓土を経て、もしくは直接に、漢魏六朝の文明の影響を受けたりしものが、さらに直接に隋唐の文明の影響を受くるに至りたりとの相違あるのみ。漢魏六朝の文明と隋唐の文明と、その間多少の相違あるべきことは余輩またこれを認む。しかれども、その相違や、主として年代の経過の結果にして、多くは同−地方において同一種族間に発生せしものなり。隋の文帝南北朝を合併し、唐の高祖隋に代る。ともに政治上の一大変革なり。しかれども、その文明は、一声の撃柝によりて局面の一変するがごとく、しかく変易すべきものにあらず。したがってその前後における相違は、決して、旧幕時代におけるわが国の文明と、その当時の西洋諸国の文明との相違のはなはだしきと日を同じうして談ずべきにあらざるなり。ことに隋唐の文明の輸入や、僅々屈指して数うるばかりの遣隋使・遣唐使の派遣と、学生・学僧の留学と、唐僧等の来朝等とによりてなされたるもの、これを近世西洋文明の輸入の激甚なるに比すべくもあらざるなり。
(51) したがって、隋唐の文明輸入が、従来すでに韓土との比較的頻繁なる交通等により漢魏六朝の文明の影響を受けたりしわが国の風俗器物等に及ぼせる影響は、決して、現今のわが国が西洋文明の影響を受けて風俗器物の上に変更を来したるがごとき比にあらざるなり。乞う虚心坦懐に考一考せられよ。西洋諸国との交通始まりてよりここに五十年、これを推古朝より奈良朝初に至り、もしくは奈良朝初より平安朝初に至る間の年数に比するに、すでにその三分の二を経過せり。その間生じたる社会の風俗日常の器物の相違は実に非常のものなり。しかるにもかかわらず、今日の葬儀をもって五十年前のそれに比するに、きわめて少数の神葬および基督教による葬儀とを除けば、最大多数の仏葬において果していかなる判然たる区別かある。足下幸いに思いをここに致さば、足下がもって確実なりとなすところの、はなはだしく確実ならざるを悟らん。
 7 歴史的年代の意義
 足下よ。推古朝といい、奈良朝といい、平安朝というは、一枚の板の表面に現われたる木理の継続せるがごときものなり。しかしてその間相拒るわずかに一百五十年に過ぎざるなり。これを人生の変遷に引き当てんか。一世三十年としてわずかに五世なり。祖父より孫に至るまでの間なり。もしさらにこれを奈良朝初と平安朝初との間のこととせんか、その間わずかに七十余年なり。特に高齢ならざるほどの人もなお生存するの時代なり。その相違や、決して元朝、明朝、清朝の相違にもあらねば、アツシリヤ、エジプト、ギリシヤの相違にもあらざるなり。しかも足下はなお、この間において葬儀の習慣の上に、日常の器物の上に、判然として相冒さざる区別ありとなし、他の一切の事情はあえて顧みるに及ばず、単に棺槨と発掘品との形式のみより、確実に墳墓の時代を甄別し得べしとなすか。かりに足下の播州にて調査せし墳墓が奈良朝以前のものなりと定むるも可なり。しかもこれと類似の棺槨を有する将軍塚付近の墳墓が、確実に奈良朝以前のものたらざるべからざる理由毛頭あることなし。またかりに足下が認めて奈良朝以(52)前のものなりとなす古器物が、果して奈良朝以前に限られたりと定むるも可なり。しかもこれを蔵したる将軍塚付近の墳墓が確実に奈良朝以前のものたらざるべからざる理由また、毛頭あることなきはすでに論じたるがごとし。いわんや足下が認めて奈良朝前なりとなす前提の、とうてい仮定の域を脱せざるものなるをや。実物のみより古墳墓の年代を考定せんこと、またたよりなからずや。しかもなお足下は判決を下して曰く、奈良朝以前たること確実なりと。ああ、なんらの確実ぞや。かかる判決に対しては、余輩は単に実物に関する理論のみよりして、十分控訴上告の余地あるものと認むるなり。
 8 社会の変遷と個人の経過とを混同する弊
 足下。実物研究者はしばしば人間社会の変遷と一個人の経過とを混同するの弊あり。人集りて社会をなし、社会は時々刻々変遷す。しかれども人類の集りて社会をなせるは、四肢五管の集りて一個の人間をなせると必ずしも精密に同一ならず。四肢五管は相依りて人体をなし、決して相背叛しつつ活動することなけれども、社会を組織する個人は常に必ずしも、しかく相共同せざるなり。もちろん適者は生存し、不適者は滅亡し、いわゆる自然淘汰によりて変遷すといえども、ある期間は全く背叛したる状態のものも並び存することあり。いわんや、やや形式を異にする程度のものをや。なんぞ社会に現われたる各事項の変遷を推すに、一個人の変遷発達の跡をもって比喩するを得んや。しかるに世の実物研究者は、往々社会の変遷を見る、なお一個人の変遷のごとくし、同一時代に二種の異りたる風俗、技術等の並び行わるるを認めざらんとす。なんぞ事理を誣うるのはなはだしきや。しかも足下のなすところまた、まさにこれに類す。余輩が実物に関する見解の足下と異なるところ実にここにあり。この点にして解決せられずんば、足下の所見と余輩の所見と、とうてい一致するの期なからん。乞う余輩をしていささか余輩の実物研究に関する卑見を吐露せしめよ。しかして後、将軍塚付近の墳墓の平安朝のものなりとなす余輩の考究に及ばん。
 
(53)        三
 
 和田千吉君足下。
 本誌十月号において余輩は、足下ら考古学者諸賢の多数が、遺物に関してあまりに多くの知識を有せらるるがゆえに、かえって直観的考察にのみ依頼して四囲の事情を閑却し、いわゆる善く泳ぐものは水に溺るるの結果を生ずることを論じ、さらに進みて、足下らの主張せらるる「古墳時代」と称するものの範囲について疑いを挿み、問題に上れる将軍塚付近の一小古墳墓が、その形式、内容ともそれ自身決して奈良朝以前のものたることを証せざると同時に、また、平安朝のものたるべからざることをも証せざるゆえんを論弁し、結局実物研究者の研究があまりに直線的に、超論理的にして、社会の変遷発達を見る、なお一個人の変遷発達を見るがごとくし、同一時代に二種の異なりたる風俗、技術等の並び行わるるの事実を認めざらんとするの非を難じたり。しかして余輩は、本号における余輩の実物研究に関する卑見を吐露し、足下らのいわゆる古墳時代なるものの上に及び、もって足下ら諸賢の反省を求めんことを約したりしが、該論文を印刷に付して後、足下の編輯せらちる『考古界』第八篇第五号を接手し、足下の筆に成れる「古物遺跡と土俗と記録」と題する評論を読むに及びて、あだかも余輩が本号において論ぜんと欲する題目に触れたるを見、ますます痛切に余輩に本論あるの必要を感じたり。
 足下の評論は本誌八月号における前任記者故小林雨塔君の「古物調査と記録の研究」と題する評論に対する弁駁なり。今や小林君すでに逝いて幽冥その処を異にし、もはやこれに答うる能わざれども、しかも足下の評論は、少しく記録の研究の何物なるかを解するものの、とうてい首肯する能わざるほどにも論理の羈絆を超脱せるものなれば、地下の小林君を待たずとも、これに答うるに本誌記者必ずその人あるべきを信ず。なんぞ必ずしも余(54)輩局外者の容啄を要せん。しかれども足下、余輩がここに吐露せんとする実物研究上の卑見は、あまりに足下の言うところと背馳するがゆえに、論弁の便宜上、まず足下の評論に対して弁ずるところあらしめよ。
 1 記録と遺跡とに関する『考古界』記者の所説
 足下曰く、「古代の遺物遺跡が之を説明するに関はらず、記録研究に一致せざると称して、之を否認するの理なし」と。また曰く、「実物研究と記録研究の結果と一致せざるものあり。此の如き場合は全然実物によりて証明せざるべからず」と。足下さらにまた曰く、「記録研究によりて決定されたる墳墓を祀り、宮殿の建築を見るに至りしものも、実際はそれよりも非常に古き時代のものなること、或は、記録により某時代の仏寺と定まれるものも、寺内出す処の礎石并残瓦の紋様によりて、より古き時代のものなるを証せらるゝの類は、皆記録研究のみを生命とせるの結果なり」と。しかして足下は最後に論結して曰く、「記録調査と古物研究の或者とは、相須つべきは勿論なるも、記録研究に重きを置き、論理上之を推定して、古物遺跡の解釈を誤まらざるこそ望ましけれ。」と。ああ、なんらの大胆なる論評ぞや。しかもこれ足下らの平常採らるる研究方法を露骨に発表せられたるところにして、余輩の根本より意見を異にし、足下と議論を交換して、一般考古家諸賢の示教を煩わさんと欲する要点に接触せるものなり。
 2 記録研究の意義
 和田君足下。失礼ながら足下は記録研究の意義を解し給えりや。論理的推定の意義を解し給えりや。記録研究とはあらゆる記録の妄信の謂にあらざるなり。論理上の推定とは三百的に堅白同異の弁をもって対手を眩惑せしめ、牽強付会をあえてするの謂にあらざるなり。何物か論理に背きて正当の結論を得るものあらん。もし記録の研究にして背論理的なるあらんか、その研究は明かに誤れるなり。実物上の研究が論理に背けるあらんか、その研究の取るに足らざる言をまたざるなり。思うに論理上云々の言は、勢いに乗じたる足下の失言ならん。今あえて追究せず、もっぱら(55)記録につきて弁ぜん。足下。単に記録というも、その包含するところはすこぶる多く、真あり偽あり、正あり誤あり、信ずべきあり信ずべからざるあり。同一記録の中にありても、各事項によりてあるいは採るべきものあり、あるいは捨つべきものもあるなり。ここにおいてか記録研究の必要起る。ことごとく書を信ずれば書なきにしかずの言は物古りにたり。これを比較しこれを研究して、是を是とし、非を非とし、その間に真相を捕捉せんとするもの、これ記録の研究にあらずや。記録研究者も人なり。神にあらざるなり。時として誤解もあらん、僻見もあらん。しかれども足下、羮に懲りて膾を吹き給うなかれ。記録研究の結果、論理上正当に決定せられたらんものは、他の何物をもってするも決して動かすべからざるものなり。もし動かさるべくば、これ誤りて研究せられたるものなり。論理上の錯誤あるものなり。実物研究に重きを置く論者はしばしばいう、「記録研究の結果は水掛論に終る。」と。しかれども足下、水掛論に終ることあるは記録研究の不十分なりし結果なりとは知り給わずや。もとより現時学界に提供せられたる記録は、かつてありしもののうち、その小部分を存するものたるに過ぎず。したがって、記録をもって過去の一切の事蹟を明かにし得べしとは何人も思考し得ざるところなるや論なし。されば、多くの場合において、研究者は、現在学界に提供せられたる材料をもってして、その最良《ベスト》をなすに満足せざるべからざることあり。しかれども、記録の正当なる研究によりて得たる結果は、他の何物をもってするも決して動かすべからざるの威力あるものなりとは思し給わずや。足下よ。万一、足下の説かるるがごとく、記録研究の結果と実物研究の結果と相一致せざる場合あらば、その両者のいずれか一が、もしくは双方が誤謬に陥れるものなることはなはだ明かならずや。真事実に二個なし、とうてい相一致せざるものの両立を許さず。しかしてこの場合において、記録の研究正しきを得ば、実物に関する見解の誤謬なること言をまたざるべきは、いやしくも常識あるものの必ず認めざるべからざるところにあらずや。しかるに足下はすなわち曰く、「実物研究と記録研究の結果と一致せざるものあり。此の如き場合は全然実物によりて証明せざ(56)るべからず」と。何らの暴言ぞや。もとより記録研究の結果が、実物研究の結果と一致せずとて、ただちにその実物研究の結果を否認すべき道理なきはあえて足下の言をまたず。しかれども記録研究の結果が正当にして、もはやこれを疑うの余地なきものにありては、これと一致せざる実物上の観察は、たとい何人によりてなされたりとも、全然誤謬として否認せざるべからざるは論をまたざるにあらずや。
 3 遺物の鑑定に関する記録の価値
 古代の遺物に関する鑑定は、とうていその基礎を記録の上に置かざるべからず。一切の記録を離れて、いかにして遺物の年代を定むべきか。記録と相背きてなされたる鑑定は、これ一の空想否むしろ妄想にして、科学的結論にあらず。もし幸いに適中することあらば、そは俗にいわゆるマグレ当りにして、学問上なんらの価値なきものとす。足下は、記録研究によりて決定せられ、祀られ、宮殿を営まれたるほどの墳墓が、実際はそれよりも非常に古き時代のものなることあるの事実によりて、記録研究の価値を疑わる。しかれども、こは記録研究者にとりて案外千万なる言い懸りなり。
 4 公家塚と大名塚との研究
 足下のいわゆる記録研究の結果決定せられたる墳墓を祀り、宮殿を造営すとは、摂津安倍野なる大名塚を北畠顕家卿の墳墓として、付近に安倍野神社を建て、下総小御門の公家塚を藤原師賢卿の墳墓としてそこに小御門神社を建てたるの類か。もし果してしからば足下ははなはだしくその根本を誤れり。何人か記録研究の結果として大名塚を顕家卿の墓なりとし、公家塚を師賢卿の墓なりと定めたるものぞ。足下はこの二墓の考定に関する来由を知り給えりや。この二墓のことにつきては余輩すでに論弁あり、『歴史地理』第二巻第二号に掲げたり。ついて一覧せられんことを望む。公家塚をもって師賢卿の墓なりとなす説の出所は、『佐倉風土記』に、塚を公家塚といい、師賢は公(57)家にして下総に死したるがゆえに、この両者を連想して、「恐くは師賢の墓歟」といえるにあり。しかるに、「であるかも知れん」といいしものが、なんらの新証拠を加うることなしに、ついには「である」となりたるものなり。足下、かかる場合において足下は、この「である」といえる某故人の記事によりその墳墓を顕彰し、神社を造営するに至りたるものをもって、これを記録研究の結果なりと認めらるるか。幸いに記憶せよ、余輩の仲間にては決してかくのごときものをもって記録研究の結果なりとは言わざるなり。しかして記録を研究せざりし結果なりとは言うなり。論理に背きて妄断したるものなりとは言うなり。いやしくも真摯なる態度をもって記録を研究せんか、なんぞ単に公家塚というほかほとんどなんらの根拠なき想像説によりて、これを師賢の墳墓なりとは言わん。かくのごときは故雨塔君のいわゆる「誠に当にならぬ記録に依拠したる考察」にして、余輩の与せざるところなるを知らざるか。大名塚を顕家卿の墳墓なりというもまた然り。その説たる単に顕家、安倍野に戦死すというのほか、なんらの拠るところなきものなり。しかるに記録研究の結果は、顕家の死所は安倍野にあらずして泉州石津なることを示せり。しかるにもかかわらず、一、二杜撰なる地理書の言を盲信して、ただちにこれを顕家の墓となさんは、記録を研究せざるの結果なり。何ぞこれをしも記録研究の結果推定したるものなりと言わんや。足下曰く、「考古学による実物観察は、史家が記録のみによりて唱ふるが如き容易のものにあらず」と。なんらの放言ぞ。記録の研究とは足下の親らるるがごとき、かかる容易なるものにあらざるなり。足下、世に記録研究の何物なるかを解せざるものあり。ある一、二の卑近なる記録を取りて、その信ずべからざるを見るや、これに対してなんらの研究を加うることなく、すなわち揚言して曰く、記録信ずるに足らずと。足下は自ら記録の研究を等閑にせずといい、記録を愛すと言わる。余輩は決して足下が右のごとき徒と伍を同じうするものにあらざるを信ずといえども、しかも世のいまだ深く足下を知らざるものは、あるいは単に足下の右の言に徴して、足下を目するに右の徒輩の同類なりとするものあらんことを虞る。足下幸いに自重せら(58)るるところあれ。単に売僧のいい加減に偽作せし縁起、訳のわからぬ口碑の筆録、得手勝手なる想像説を記したる随筆の類の記事を見て、なんらの研究をこれに加えず、ただちに実物を云々せんとするは史家の態度にあらず。しかも足下はかかる徒輩をもって言をなす。これ大いに史家を侮辱せるものなり。余輩は再言せん。記録研究とは決して足下の明言せらるるごとき、かかる容易なるものにあらざるなりと。実物研究の基礎は、とうてい記録研究の結果に盲従して、その上に築かれざるべからず。足下の提出せられたる例をもってこれを示さん。足下は、「記録により某時代の仏寺と定まれるものも、寺内出す処の礎石并残瓦の紋様によりて、より古き時代のものなるを証せらるゝ」ことありと言わる。ここに余輩をして中言せしめよ。足下のいわゆる「記録により」とは、余輩のすでに古墳墓につきて弁明せるごとく、その実は「記録を研究せざりしにより、」もしくは「記録の研究を誤りしにより」の誤謬なるべきことを。さて、右にいわゆる残礎、瓦当等の形式により、記録研究の粗漏の結果、誤り信ぜられたりし時代よりも実際には古き建築物なることを知れりとは、いかなる場合を言うか。思うに、その礎石、瓦当等が卑俗の記録の伝うる時代よりもいっそう古き某時代の形式なりとして、考古学者によりて認められたる形式を具えたる場合を言えるならん。かかる場合においていわゆる形式と時代との一致を断言せんには、さらにいっそうの考慮を要するものあれども、今しばらくこれを措き、余輩はまず、いわゆる考古学者の認めたる時代の形式につきて疑いを挿むに十分の権利を有することをここに足下に弁明せん。
 5 礎石に関する研究
 足下。足下はここに礎石と瓦当等との例証を提出せらる。これ実に余輩のついて論ぜんとせしところのものなり。乞う、まず礎石について言をなさしめよ。余輩寡聞短識、いまだ残礎について多くを知るところなしといえども、余輩の見聞するところ、あるいは自然石をそのままに並べたるあり。あるいは自然石の一部に工を施して突起したる柱(59)受けを作れるあり。あるいは反対に柱底を挿入すべく穴を穿ちたるもあり。あるいは全体を丸く刻み、さらにその上に柱受けを作れるあり。柱受けの中部にさらに突起を設け、柱底の凹所に挿入すべく作れるあり。反対に柱受け中に小孔を穿ち、柱底の凸起を受くる設備のものもあり。あるいは全体に蓮弁を現わしたるもあり。特に塔婆の心柱のごときに至りては、あるいは舎利または陀羅尼を納めんがためにか比較的大なる穴を穿てるものもあるなり。かくのごとく、その形式種々あるがゆえに、足下らの間には、これにつきて研究を重ねられたる結果、某の形式は某の時代のものなり、某の時代にはさらに某の形式に変じたりとの見解を有せらるるならん。さればこそ足下は礎石によりて記録の誤りを正し、寺院建築物の時代を定むるを得ることを説かれたるなれ。余輩といえども、某の時代には某の形式が比較的多く行われたりとの事実の存在については、十分にこれを認むるの雅量を有す。しかれども足下、礎石に加工するの技術が何人かによりて案出せられたる後なりとて、他のある技師が自然石のままの礎石をも使用し得るの場合を想像し得られずや。礎石に蓮弁を付するの意匠がすでに世に実行せらるるの時代において、丸形の礎石がこれと同時に使用せられたりとは想像し得られずや。天平時代の其々の寺院の礎石に其々の加工ありたりとて、自然石を用いたる某国分寺をもってはるかに天平以前より存在せし建築物を国分寺に応用したりと言わんは、あまりに強弁ならずや。失礼ながら、足下らは千百中一、二を存するごとき僅少の遺物上より帰納せる知識をもって、ただちにこれを全体の上に応用せられんとするなり。足下らが記録上より真にその年代を確かめ得たる寺院建築物の数ははなはだ少かるべし。しかしてそのはなはだ僅少なる建築物中、某の時代に属するものの礎石が、通じて某の形式を有したりとて、ただちにその形式をもってその時代を代表せるものとなし、他の同一の形式を有する礎石を見ては、足下らはただちにこれをもって、なんら記録のこれを証明するものなきにかかわらず、前者と同一時代のものなること確実なりとせらるるなり。しかして他のこれを疑うを容さざらんとするなり。足下は必ず足下らが認めて某時代の礎石なりと(60)なすところの多くの類例を有せらるるならん。しかもそのうち真に記録上その物自身その時代のものたることを証明するもの果していくばくかある。いたずらに多きを誇るを已めよ、いわゆる類例中の多数は、単に類似の形式なりとのゆえをもって同一架上に列せられたるに過ぎざるものにして、これをもって同一形式のものなりとは言うを得べきも、決してこれをもって同一時代のものなりと断言するを得ざるものなり。されば、真に記録の研究上時代を定め得たる仏寺にして、その建築物の有する礎石が足下らの認めて前時代のものとなすものならんには、こは明かに足下らの認定の誤謬を証するものにして、同一形式の礎石が前後の時代を通じて使用せられたりし確証となすべきものならずや。しかも足下は軽々に曰く、「或は記録により某時代の仏寺と定まれるものも、寺内出す処の礎石并残瓦の紋様によりて、より古き時代のものなるを証せらる」と。本末を顛倒するまたはなはだしからずや。瓦の紋様に関する余輩の見解また、全然右に述ぶるところと同一なり。ある考古学者は法隆寺式の紋様を有する瓦を見ればただちに推古時代のものとなす。しかして、多くの注意を記録の研究に払うことなしに、その瓦を有する建築物をもってことごとく推古時代のものとなさんとす。しかも、瓦そのものがただちに推古時代のものたるを証するのはなはだ僅少なるに注意せざるなり。考古学者の架上には、数十百の古瓦陳列せらるべし。紋様の摺本千をもって数うるに至るべし。しかれども足下、その数十百といい数千というは、形式上の類別をなし、形式変遷の順序を調査するには足るべきも、形式変遷の順序が必ずしもただちに時代変遷の順序と精密に一致するものにあらざるを知らば、これをもって歴史上の時代を云為し、記録研究の結果を排してその年代を定めんとするの妄なる、はなはだ明かならずや。
 6 技師の流派と芸術上の様式
 足下。遺物形式上の調査は、その技師の流派を示すうえには最も有効なるべきも、とうてい記録研究の助けを借るにあらざれは、明かにその時代を定むるを得ざるものたること、ほぼ貴意を得たるならん。試みにこれを実例につき(61)て言わんか。遠く他を求むるまでもなく、本号所載の八代国治君の興福寺北円堂の年代およびその仏像の年代と作者とに関する記録上の研究について、虚心坦懐にこれを沈思熟慮せられなば、思い半ばに過ぐるものあらん。多くの考古学者・芸術史家が、単に自己の任意に定めたる形式と時代との関係より、または何ら研究を加えざる卑俗なる記録の妄信より、ほとんど確定せられたるもののごとく云為せられたる年代が、明かに誤謬なりしことは、ここに八代君によりて十分に立証せられたり。これ明かに考古学者・芸術史家の多くが定むる形式と時代との関係の信ずるに足らざるものなることを証するものにあらずや、もし然らずと言わば、これ明かに現今の考古学者・芸術史家多数の眼識が、いまだ各時代の形式を識別するに足らざることを表白せるものにあらずや。
 7 法隆寺・興福寺等における古建築物の年代に関する誤解
 足下。ひとり興福寺北円堂とその仏像とのみならず、かつて余輩の本誌上において立証せし法隆寺の金堂・塔婆・中門、法起寺・法輪寺の両塔婆、薬師寺東塔、唐招提寺講堂・金堂、薬師寺本尊等の年代のごとき、いずれか記録の研究によりて考古学者・芸術史家が形式上より、もしくは卑俗なる記録の妄信より考定せし年代に対して訂正を加えたるものにあらざる。足下あるいは言わん、これらの建築物および仏像に関する年代説はいまだ議論終結せず、今なお未決のものなりと。余輩は密かにかく偶語する人々あるを聞く。足下にしてまたもし真にかく信ぜらるるならば、幸いに余輩に向って余輩の所論の誤謬を指摘せよ。余輩かの考説を発表してよりここに五閲年。その当時にありてはこれに対してはなはだ多くの論弁を聞きしも、その一切を弁駁し悉くしたる余輩の最後の弁駁に対しては、今に至りてついになんらの反対説の発表せられたるものなきなり。少くもその反対説は余輩の見聞に上らざるなり。もし考古学者、芸術史家の間にありて、なお依然旧説を維持し、もしくは余輩の所説を疑うものあらば、なんぞ堂々とこれを公表せざる。学問上の議論には遠慮は無用なり。学説はその当時学界に提供せられたる一切の材料によりて(62)最良をなしたるものにより決定せざるべからず。記録の研究と言わず、実物の調査といわず、新材料発見せられて学説の変ずるは毫も不思議にあらず。かくのごとくにして学問は進歩すべし。いたずらに他日の新説の出でんことを顧慮して、逡巡遅疑するところあらんか。これ学に忠なるものにあらず。ことに、反対意見を有せらるるの士にして、なお沈黙を守らるるがごときあらんには、これ学界の最大恨事なりと言わざるべからざるなり。されば、余輩はなんら反対説の現れざる現下の状況よりして、法隆寺以下の古建築物、薬師寺本尊等に関して今日までになされたる実物観察者の考説は、いずれもその根抵を誤りたるものにして、少くも記録によりて考定せられたる学説に対し、これと対抗するの威力なきものたることを断言するに躊躇せざるなり。記録研究の前における実物観察の価値、それかくのごとし。かくてもなお足下は、「実物研究と記録研究の結果と一致せざる場合には、全然実物によりて証明せざるべからず」との前言を繰り返されんとするか。
 8 小野道風書『和漢朗詠集』
 足下。昔者小野道風の書きたりと言う『和漢朗詠集』を所持したるものあり。人のその年代の協うまじき由を難ずれば、さればこそ稀有のものなれとて、ますます珍重したりという。平安朝において始めて行われたる形式が、奈良朝以前にありきと言わんには、この愚なる蔵書家に類するならんも、足下は公任以後のすべての人が『朗詠集』を筆写するの権利を有せりとは認め拾わずや。記録を伴わざる実物上の観察は、時として時代の上限を画するを得ることあるも、とうてい精確にその下限をなすを得ざるなり。さればこそ多くの芸術史家・考古学者が認めて推古時代なりとなす法隆寺式の建築・彫刻等が、その実は天智以後、奈良朝のころまでも引き続きて行われ、定朝作と認められたる仏像が、その実は数代後の運慶の作たるがごとき齟齬も起るなれ。記録と離れたる実物上の研究は、とうてい精確に年代を考定するに足らざるなり。足下は将軍塚付近の中古墳墓が確実に平安朝のものにあらざる証拠として、播州(63)なる類似の石槨中より発見されたる漢鏡を提出せらる。曰く、「殊に漢鏡の如きも皆平安初期のものたらざるは知らるべき処にして、岩井君の説く如く奈良朝以前のものたるは確実なりとす」と。これはまたまさに右に説くところに該当せるものにして、その議論の超論理的なる、いまさらにこれを繰り返すの愚をなすに忍びずといえども、余輩がさきに足下に約せし実物に関する余輩の卑見を吐露するの一の順序として、あだかも足下の提出せる鏡鑑につきて、足下ら考古学者の研究を批評するところあらしめよ。足下の前任記者高橋健自君は、あだかも足下の『考古界』誌上において「本邦鏡鑑沿革考」を連載せられつつあり。その稿を続がるることすでに一個年半に及び、なおいまだ終結に至らずといえども、しかも余輩のつきて論ぜんとするところは、すでに発表せられたる部分において悉くされたれば、余輩はまず次号において右に関する卑見を吐露し、次をもって実物研究の弁に及び、最後に将軍塚付近の古墳墓に関する余輩の考説に及ばんとす。
 
         四
 
 1 高橋健自君の「本邦鏡鑑沿革考」
 和田千吉君足下。
 余輩足下の挑戦に応じ、古墳墓年代考定のことに関して論弁を重ぬる、すでに三三、今またさらにその第四回をものせんとす。余輩の学友の、あるいは目のあたり余輩に対して、あるいは遠く書を寄せて、余輩に勧告するに温厚なる足下を迫窮するの挙をやめんことをもってするもの、ただに二、三のみにあらず。しかれども、余輩は足下が必ずよく余輩の真意のあるところを了解して、毫も意に介し給うことなきを信ず。余輩あに言葉尻を捉えて足下を窘むるを事とするものならんや。足下は実に本邦考古学者の唯一の団体なる考古学会の幹部にありて、斯界の機関雑誌たる(64)『考古界』の編輯を担当せらる。余輩が足下をもって現時の考古学者多数の研究を代表するものと認め、これと論弁を交換せんことを楽しむもの、あに以《ゆえ》なしとせんや。いわんや足下の論説するところ、多くは他の先輩諸氏の常に口にし筆にするところと一致せるをや。余輩は、足下の余輩に対する挑戦をもって、その形式においては足下の筆によりて公にせられたれども、その実際においては、斯界多数の人々の現時における研究方法を表明せるものとして、喜んでその挑戦に応じ、足下と古墳墓研究の方法を論ずるものなり。されば、余輩の相対して論ずるところはもとより足下にあれども、足下と類似の意見を有せらるる一切の考古学者諸賢は、ことごとく余輩のついて教えを乞わんとするところなり。あにあえて温厚なる足下を追窮して一時の快を貪るものならんや。ここに第四回を草するに際し、余輩の態度を明かにして世人の誤解を除かんとす。
 足下。余輩は前回において、斯道の先輩たる高橋健自君の「本邦鏡鑑沿革考」を論評してもって実物研究の弁に及ばんことを約せりき。しかして、今やまさにその約を履行するの期に達せり。高橋君の鏡鑑考は多くの点において余輩が足下と論ぜんとする古墳墓年代考定のことに接触せり。その研究の方法たる、また足下が古墳墓について採らるるところと全然その揆を一にせり。ことに足下が将軍塚付近の一小古墳墓をもって奈良朝以前のものたること確実なりとなす証拠として、播磨なる類似の石槨中より漢鏡を発見せりとの事実をもってせられたるの関係により、ここに高橋君の鏡鑑考を批評せんは余輩の論旨を明かにするうえにおいて、最も適切なりと信ずるなり。
 高橋君の「本邦鏡鑑沿革考」は『考古界』第七篇第一号、三号、五号、九号、一二号、第八篇第三号の誌上に連載しあり。いまだその中途にありて、氏の考説の全部を窺知するを得ずといえども、すでに氏のいわゆる漢式時代、唐式時代を終りて、余輩の本論に必要なる部分はここに尽きたれば、しばらく該沿革考に現われたる氏の鏡鑑時代説を観察し、さらに鏡鑑と古墳墓の年代とに関する氏の学説に及び、もって、現時多数の考古学者によりて採用せらるる(65)年代研究の方法を論評せんとす。しかして、この論評はただちに余輩が足下と古墳墓年代考定の方法を論ぜんとする本論の要点たるものなることをここに明言す。
 2 八木奘三郎君の鏡鑑説
 わが考古学者にして鏡鑑につき系統的研究を発表せるもの、前に八木奘三郎君の「鏡鑑説」あり、『考古便覧』中に収む。これを高橋君の沿革考に比するに、八木君が海獣葡萄鏡をもって漢鏡なりとなす旧説の必ずしも排斥しがたきを論ずるに対し、高橋君が断然これを唐鏡なりとするがごとき、彼此意見を異にするの類なきにあらずといえども、その時代の区分等大体においては双方相似たるものなりとす。八木君以前においても、もとより鏡鑑につきて説をなしたる先輩その人に乏しからず。しかれども、各時代の鏡鑑につきて纏まりたる系統的研究をなし、かつこれを発表せられたるもの、けだし八木君をもって嚆矢となすがごとし。氏や実にわが考古学界において、鏡鑑に関する研究の発表に先鞭を着けたるの栄誉を有せらるるを疑わず。されど、高橋君の研究がさらにその後に出でて、豊富なる材料と該博なる知識とにより、前者の説の足らざるを補いつつ論述せられたる沿革考の、いっそう精密なるものあるに如かざるを覚ゆ。されば、余輩は今しばらく該沿革考をもって現時の考古学界における最も進歩したる研究となし、もって卑見を開陳せん。
 3 「本邦鏡鑑沿革考」の時代の分け方
 高橋君曰く、
  鏡は様式変遷の大勢より三時代に区分するを適当なりとす。第一漢式時代、第二唐式時代、第三和式時代是れなり。
と。氏が本朝所伝の鏡鑑につきて、その様式を三種に分かたるることは、余輩のあえて異議を挿まざるところ、一般(66)考古学者また必ずこれに一致せらるることならんと信ず。しかれども、その様式をもってただちに歴史上の時代に配合せしめんには、憤重なる注意を要するものなくんばあらず。しかも氏は軽々に断じて曰く、
  漢式時代とは即ち古墳時代にして、主として推古天皇以前なり。
  唐式時代とは奈良朝を中心として美術史上謂ふところの推古時代乃至弘仁時代を包括せり。
  和式時代とは藤原時代以後徳川時代末を云ふなり。
と。氏の沿革考は実にこの見地の上に組織せらる。
 4 鏡鑑と古墳墓の年代
 しかして氏はすこぶる厳格にその時代論を歴史的年代の上に当て箝められんとするなり。ただに歴史的年代の上にこれを当て箝めらるるのみならず、古墳墓の年代考定につきても、氏が認めて推古以前のものなりとなす漢式鏡を発見する類のものにあらずんば、学術上これを古墳と称せざらんとするまでの確信を有せらるるなり。氏曰く、
  葡萄鏡(氏の認めて唐式鏡となすもの)の発掘せられたるところは一種の塚には相違なけれども、同時発見の遺物を検するに、漢式諸鏡に伴ふべき所謂古墳時代の遺物にあらず(『考古界』第八篇第三号、一二七頁)。
  葡萄鏡の一石郭中より発見せられたる故を以て、その漢式なるべきを唱道するものありとも、伯牙鏡に至りては、その唐式なるを否定するものよもあらざるべし。世の一概に古墳と云ふもの、未必しも吾人の古墳にあらざるなり(同一二八貢)。
と。しかもかくのごときの確信をもって鏡鑑を古墳墓年代考定のうえに応用せらるるもの、ひとり高橋君のみにあらず。足下が漢式鏡を発見したる播磨の小古墳墓をもって奈良朝以前のものなりと断定せらるること、またまさに高橋君と揆を一にせらるるなり。
(67) 5 鏡鑑の形式と歴史的年代
 和田君足下。しばらく余輩をして高橋君が鏡鑑年代推定の理由とするところを考察せしめよ。氏が推古天皇朝以後宇多天皇のころまでをもって唐式鏡のもっぱら行われし時代とし、漢式鏡使用の時代をもって推古天皇以前に限られたる理由につきては、概括して明言せられたるものを見ず。しかれども、氏がこの時をもって漢式・唐式の境界となされたるは、推古天皇以後は隋唐との交通盛んに行われしかば、この時代以後は隋唐の製作品輸入せられ、わが邦にてもこれを模造複製し、多く唐風芸術の影響を受けたれども、その以前はいわゆる漢魏六朝の代に属し、したがってわが芸術上多少その影響を受けたりと認められたるによるもののごとし。しかして、宇多天皇朝をもって唐式・和式の境界とせらるるもまた同一理由にして、この時代に遣唐使の派遣中止せられ、したがって唐物の輸入もやみ、わが邦にても別途の芸術発達せるものなりと解せらるるに似たり。氏曰く、
  漢式時代とは考古学上所謂古墳時代にして、主として推古天皇以前を指すものなり。この時代は一般に我が国固有の特性が芸術の上に現はされたる時代にして、彼の勾玉埴輪等の如き、支那大陸に類例なき遺物を認め得べき時代なり(『考古界』第七篇第三号、一一一頁)。
  唐式時代とは奈良朝を中心として、上は仏教興隆の気運を成したる推古天皇の頃より、下は遣唐使停止せられ、日唐の交通断絶するに至りたる宇多天皇の頃までを包括せり。この間は我が朝挙って唐朝文化の輸入に努力したる時代にして、芸術界に於ても、唐制模倣の風潮実に海内に澎湃たりしなり(『考古界』第八篇第三号、一二五頁)。
と。すなわち知る、氏が年代を定むる、主として彼我交通の関係によれることを。しかして氏は、唐との交通の盛んなる時代には従前の漢式鏡は全く廃して世に行われざるものたることを仮定して説をなされたり。かかる仮定は芸術史家・考古学者によりてしばしば適用せらるるところ、従来学者が法隆寺以下の古建築物の年代考定を誤りたる、職(68)としてこれに由らずんはあらず。すでに言えるごとく、余輩といえども、某の時代に某様式の芸術が多く行われたり、普通に行われたりとの事実の存在を承認す。しかれども、またこれと相並びて、その様式以外のものが、その時代に行われたるべき事実をも認むるなり。いわんや甲時代に普通の形式と乙時代に普通の形式との過渡期においてをや。なんぞ芸術上の様式の変遷によりて、明かに歴史的年代を定むるを得べけんや。しかるに高橋君は曰く、
  肥後国玉名郡江田にて発掘せられたる獣帯鏡と同式なるもの、甞て和泉国なる仁徳天皇陵より発見せられしことあり。同時の発見品中には、古史に「狛剣」といへる太刀の一種にして、六朝の初より製作せられたる儀刀もありしなり。然るに此の江田発掘の遺物中にも其の制之れと近似せる狛剣ありしは、吾人の特に注意せしところなり。此の鏡の六朝式なること、如上の事実にも徴せらるべし(『考古界』第七篇第一二号、五〇八頁)。
と。また曰く、
  大和興福寺金堂須弥壇下より発掘せられたる八花双鸞鏡は最よく唐式時代の特色を発揮せり。興福寺は奈良朝の初同国高市郡なる厩坂寺を奈良の地に移したるものにして、この鏡はその際埋蔵せられたること疑なければ、その唐式時代に属すべきこと既に明白なり(『考古界』第八篇第三号、一二七百)。
と。すなわち氏はシナ六朝時代に相当せるわが仁徳天皇の山陵より出でて、六朝時代の儀刀を伴える鏡は六朝式鏡なり、シナ唐朝に相当せるわが奈良朝の興福寺須弥壇下より出でたる鏡は明白に唐式鏡なりと言わるるなり。
 6 右の批評
 足下、余輩もまた鑑定上の事実としては、高橋君がもって唐式鏡なりとなす興福寺発見の八花變鸞鏡の様式をもって、シナ唐朝において普通に行われたる形式のものなりと認むるなり。高橋君がもって六朝鏡なりとなす江田発掘のいわゆる獣帯鏡の様式が、六朝のころに多く行われたるものなりとのことにつきても、必ずしもこれを否認するの理(69)由を有せざるなり。しかれども足下、高橋君がもって六朝式鏡なり唐式鏡なりと断定する理由として、仁徳天皇陵は六朝時代のもの、興福寺は唐朝時代のものたることを引用し、この事実あるによりて明白にその時代のものなりと断言せらるるの研究方法に関しては、遺憾ながら反対せざるを得ざるなり。事実は六朝式鏡たり唐式鏡たりとも、その鑑定がかかる理由によりてなされたるものならんには、そははなはだ危峻なる鑑定にして、極端に言わばむしろ偶然の暗合とも称すべく、断じて論理的結論によりて得たる断定にあらず、学術上その価値はなはだ少きものなりと言わざるべからざるなり。足下よ、徳川時代に足下らのいわゆる唐式鏡が製作せられざりしと同じく、唐朝の盛時にありては漢代に普通に行われたりし幾何学的紋様を有する形式の鏡は多く製作せられざりしなるべし。しかれども、漢代鏡と唐代鏡との相違は主として図案の相違にあり。したがってその変遷は明治の今日、玻璃鏡がもっぱら行われて金属鏡の使用がほとんどその跡を絶たんとするがごとき場合をもって比較すべきにあらざるなり。いわんやその漢式・唐式の過渡の時代をや。さらにいわんやその鏡がわが邦に輸入せられ、わが邦にて複製模造せられ、わが意匠のうえに影響を与えたるうえにつきて論ぜんとするにおいてをや。しかるに高橋君は軽々に断じて曰く、六朝時代に相当する仁徳天皇陵より出でたるがゆえに六朝式鏡なり、唐朝時代に相当する奈良朝の興福寺より出でたるがゆえに唐式鏡なりと。その理由とするところもとより単にこれのみにあらざれども、これまた明かに有力なる理由の一となれるなり。その判定や、簡明はすなわち簡明なりといえども、論理上明かに誤謬なるをいかんせん。
 足下。かく言わば足下は、また、「論理上之を推定して解釈を誤る勿れ」との前言を繰り返されん。乞う現実をもってこれを比喩せんか。明治の今日にありては玻璃鏡もっぱら行われ、金属鏡はほとんどその跡を絶ちたるがごとき芸術上に一大激変ありたれども、しかもなお神殿に供せらるる鏡鑑は、多くは金属鏡なるにあらずや。ことにその金属鏡たる、近世の柄鏡にあらざる円鏡を普通とするにあらずや。荘厳なる地鎮祭、上棟式等に使用せらるるものまた然(70)り。この場合において足下は、その金属鏡を使用したる建築物をもって明治以前のものなりと断定するを是認せんとせらるるか。余が郷里においては棟札に永楽通宝を貼付するの習慣あり。現時においてなお実際に行わる。この場合において足下らは、該家屋が明治の新築なるのゆえをもって、永楽銭を明治時代の普通の銭貨とし、もしくは、永楽銭の伴えるゆえをもって、該家屋を室町時代の建築なりと論断するの勇気ありや。すでにその断定を是認する能わず、またこれを論断するの勇気なくば、足下は、仁徳陵より出で、興福寺より出でたるのゆえをもって、ただちにこれを六朝式鏡とし、これを唐式鏡となすの説を是認するの権利なきものなり。したがって足下が漢式鏡を納めたる古墳墓が必ず奈良朝前のものなりと断定せられたる所説の成立せざることまた、明白ならずや。
 7 様式変遷に関する考古家の観察
 和田千吉君足下。高橋君の「本邦鏡鑑沿革考」が、その様式の変遷と歴史上の年代との関係において、論理上明白なる過誤を犯せることにつきては、もはやこれを承認せられたるならんと信ず。しかれどもかくのごときはそもそも末なり。余輩がつきて論評せんとするところは、さらにその根本に遡りて、いわゆる様式の変遷に関する氏の観察点に存す。高橋君の様式に関する観察は、従来多くの芸術史家が陥りたると同じく、同一の時代において二種の異りたる様式の芸術が並び行わるるの事実を認めざらんとするなり。流派を異にする技術家の並び存在することを認めざらんとするなり。社会の変遷を見る、なお一個人の変遷を見るがごとく、甲より乙、乙より丙と順次変遷するものなりと認めんとするなり。紅顔の少年より漸次白頭の老翁となるがごとく、社会の事物はことごとく順次変遷するものなりと認めんとするなり。しかして、甲の様式と乙の様式との中間には、必ず緑髪の少年と白髪の老翁との中間に胡麻塩頭の時代あるがごとく、これが連絡を保つべき様式ありと解せらるるなり。技術古拙なるがゆえに前代のものとし、技術円熟せるがゆえに後代のものとし、拙劣なる技術家と、熟繰なる技術家とが同時に存在することを認めざらんと(71)するなり。余輩といえども、その実際においては、往々その認定の事実と符合することあるを認むといえども、そは実に「往々」なり、一切の場合にあらざるなり。論理上の結論としては決してかくのごとき断定を得べきにあらざるなり。 8 右の批評
 足下よ。芸術上甲の様式の盛んに行わるる時代において、これと様式を異にしたる他の芸術の他邦より輸入せられ、あるいは創始せらるることの事実を絶対に認め得ざるか。すでに他の様式の芸術輸入せられ、もしくは創始せられたる場合においては、その中間に立ちて両者の連絡を保つべきものはかえって両者並存の後にあるべきことを想像し得られざるか。 しかして、他の様式の芸術行わるる場合には旧来の様式は全く廃るるものなりと認めざるべからざるか。余輩は足下が右の三個の場合について、必ず余輩の提言に肯定を与えらるべきを信ず。
 9 シナ考古図譜に関する研究
 しかるに高橋君は非常なる識見と英断とをもって論定して曰く、
  博古図録の漢鳳馬鑑、金索の漢双獅竟等の菱花鏡なるを見て、支那に於て斯くありたらんには、我が上古の漢式鏡にも亦菱花鏡あるべしなど云ふものあらむ。然れども斯くの如き言は所謂悉く書を信ずるものにして、毫も実物の研究を試みざる徒の謬見なり。苟も芸術を解せば、是等の諸鏡の漢式ならざること一目瞭然たるべし(『考古界』第七第第三号、一一五頁)。
 また曰く、
  下野雀宮村、遠江曾我村等にて発見せられたる四神四獣鏡の紋様を視るに、神像獣形の流暢なる、廻鸞走龍の活動せる、到底漢式前期の諸鏡に見るべからず。明かに能く六朝式の特色を発揮せり。博古図録以下之を以て漢代と(72)なすもの固より誤れり(『考古界』第七篇第一二号、五一〇頁)。
と。しかして氏はさらにまた曰く、
  大和松山より発掘せられたる海獣葡萄鏡は、紐は獣形より成り、内外両区共に葡萄唐草を以て飾り、内区には獣形、外区には蝶鳥を配置し、縁には半開の花に似たるものを配置せり。全般の様式の前代諸鏡と異なるは一目瞭然たるべく、旋転せる蔓草疾駆せる動物、一として唐式時代の特色を発揮せざるはなく、内区なる獣形※[獣偏+俊の旁]猊と、縁なる蕾状の紋様とは、六朝以来変遷進化の跡をたどるべく、彎曲せる葡萄と外区なる胡蝶小禽とは、当代新興の様式なりとす。博古図録以下の書何れも葡萄鏡を以て漢代のものとなせり。世人のそのまゝ之を信ずるものまた少からず。独のヒルトの如き、亦之を漢代の遺物となし、しかも西暦第一世紀に属し、漢代諸鏡中最古の様式なるべきを論ぜり。ヒ氏の葡萄紋の支那固有のものにあらずして、其の起原遠く西方希臘にありといふこと、既に動くまじき説なれども、其の時代説に至りては、吾人の同意する能はざるところなり。博古図録、西清古鑑、金索等に於ける鏡に関する誤謬は今更論ずるを要せざるべし(『考古界』第八篇第三号、一二七頁)。
と。なんらの大胆なる放言ぞや。
 10 葡萄鏡が漢鏡にあらずとの説の批評
 余輩は従来『博古図録』以下の説を賛してその鳳馬鑑・葡萄鑑等をもって明かに漢代創始のものなりと信ずるものの一人なり。そのこれを信ずるもの、あにことごとく書を信じて然るものならんや。しかも高橋君はすなわち言う。「斯の如きは毫も実物の研究を試みざる徒の謬見なり」と。これ真摯なる学徒に加うるに忍ぶべからざる侮辱をもってしたるにあらずして何ぞ。しかれども、翻って思うに、余輩は実に高橋君のこれをあえてせる識見と英断とには敬服せざるを得ず。しかして、足下がまた氏と同一の意見を抱持せらるるを聞きて、わが考古学界の風潮が古来の旧套(73)を脱却し、あえて他を顧慮するなく、各自の自由意思に任せて、これが研究を積むを得るに至れるを喜ぶものなり。高橋君の「本邦鏡鑑沿革考」は実に自家の識見をもって、鏡鑑の年代を鑑定せるものにして、必ずしも漢土考古家の所説に拘束せられず、宋朝以後八百年間の考古家らが、相率いて漢代のものとなし、本朝学者の多くがまたこれを信ずる鏡鑑をも、同一時代に二個の異りたる様式の芸術が並び存在せずとの仮定の上に築かれたる識見をもって、はなはだ簡単にこれを唐代のものと断ぜられたるものなり。その勇気や実に敬服するに値せり。しかれども足下、余輩はその勇気に服するとともに、実はその所説を聴きて後もなお断定の当否を疑わざるを得ざるなり。余輩はあえて高橋君の研究机上に上されたる鏡鑑材料をもって少数なりとは言わず。現に氏がいわゆる漢式諸鏡にして、氏の実見に係り、発掘地の明かなるもののみにても、すでに十三類二十九種百三十一面に達せるなり。しかれども足下、かくのごときの数は漢土において世に行われたりし数に比するに、実に九牛の一毛なり。幸いに考一考せよ、かくのごときの材料は、もと漢土において盛んに鋳造せられたるもののきわめて少数がわが国に伝来し、しかしてさらにこれを複製模造せるものはあるべきも、しかもその中のさらにきわめて少数が千数百年の後に保存せられ、しかしてそのきわめて少数中のさらにさらにきわめて少数が幸いに発見せられて、学者の研究机上に上されたるに過ぎざるにあらずや。これを、みずからかの地にありて、多くの実物に接し、これに関する所伝を調査研究し、浩幹なる考古図譜を編纂せるシナ歴代の考古家が、八百年来かつて疑わんともせざる旧説を一朝にして覆さんとす。しかもそのこれを覆さんとする理由が、単に同一時代に二個の異りたる様式並び行わるることなしとの仮定説の上に置かれたるものなるにおいては、勇はすなわち勇なりといえども、その大胆なる実に一驚のほかなきなり。しかも右の仮定説や、とうてい証明し得べからざるもの、したがってその大胆なる論断は畢竟、一の放言にして、とうてい証明せらるるの期なきものなり。
 かくいえばとて足下。余輩をもって単に『博古図録』以下シナ歴代の考古家の図譜をもって毫も誤謬なきものとな(74)し、これに盲従せんとするものとなすなかれ。わが『集古拾種』所収のある物につきて疑問を挿むことある余輩は、またこれらの考古図譜につきて疑いを挿むの権利あることを信ず。したがってその憑拠十分ならざるものに向っては、余輩は懐疑の眼をもってこれを視、さら、にこれが研究を積まんことを欲す。
 ことごとく書を信ずれば書なきにしかずの語、必ずしも高橋君をまちて後知らざるなり。しかれども足下、信ずべからざるものを混ずるがゆえに、漢土の考古図譜載するところ、ことごとく信ずべからざるか。高橋君は「博古図録、西清古鑑、金索等に於ける鏡に関せる誤謬は今更論ずるを要せざるべし」として、軽々しくこれを放擲せらる。これ学に忠なるものの態度にあらず。余輩が大声疾呼、記録研究の要あるを唱うるもの実にここにあり。乞う余輩をして、その一例として高橋君のまさに論述せる海獣葡萄鏡につきて弁を重ねしめよ。
 11 葡萄鏡が漢鏡なるべき理由の一
 足下。海獣葡萄鏡は『博古図録』以下歴代の考古図譜がことごとくもって漢代のものと断定せるものなり。しかしてその模様が西域を経て輸入せられたるものなることにつきては、近時の学者のすべて一致するところなり。しかも漢代には西域との交通頻繁に行わる。葡萄模様が漢代鏡の鏡背を飾る、まことに自然にあらずや。されば、この間もし、漢代において幾何学的紋様以外の他の紋様がこれと並び行わるることなしとの仮定説をだに容れずば、海獣葡萄鏡が漢鏡なるにおいてなんらの支障なきものあり。しかも、すでに言えるごとく、右の仮定説はとうてい証明せられざるもの、葡萄鏡が漢代のものにあらずとの理由はとうてい成立せざるなり。すでにその理由なし、漢鏡なりとの旧説の保存さるべきは当然ならずや。いわんや、葡萄鏡が漠代のものなりとのことを立証すべき二個の有力なる理由の存在するをや。
 足下。言うまでもなく『博古図録』は宋の徽宗皇帝の撰にかかり、今を距る約八百年のむかしになる、宋天下を一統し(75)てよりこの時に至るまで約百五十年、五代僭偽の諸国を討滅して四百余州に君臨せる大宋国皇帝の富と勢いとをもって、代々前代の遺物を蒐集す。天下の珍品奇什のはなはだ多く帝室の宝庫に集まりたらんこと想像するに難からず。すでに天下の珍品奇什はなはだ多く帝室の宝庫に集まる。これを管理する吏員中、必ずやはなはだ見聞に富み眼識に長じたるものを生じたること疑いを容れざるなり。しかして『博古図録』は、実にこれらの見聞に富み眼識に長じたる考古学者が、帝庫に充積せる遺物を調査し、これを精選してその伝うべきを録したるものなり。その尋常一様の考古図にあらざること知るべし。しかるにもかかわらず、彼らが多数の鏡鑑を調査するに際して、その紋様の特に人の注意を引くに足るべき海獣葡萄鏡をもって、宋を距る五十年前までも継続したりし唐朝創始のものなりや、はた八百年前にすでに滅亡せる漢代以来のものなりやを誤るがごときことあるべきか。多数の鏡鑑の中にもこの葡萄鏡は特に人目を引き、人の嗜好に適するがゆえに、後世においても多く複製模造せられたり。余輩の見るところによれば、近時輸入せらるる葡萄鏡中には、ただに唐代鋳造のものと言わず、宋、元、明より、おそらくは清朝に至りてなお模造せらるるものを混ずるにあらざるかを疑う。されば、鏡の齢よりすれば唐代のもあるべく、宋代のもあるべし。しかるに、『博古図録』がこれをもって漢代のものなりと明記し、爾後考古家いずれもこれを賛成するもの、必ず帝室の記録上確たる所伝の拠ろありたるを疑わざるなり。『博古図録』といえども、葡萄鏡をもってことごとく漢代のものなりとなすにあらず。現にその三十巻には、唐鹿鳳葡萄鑑、唐海獣葡萄鑑を収むるに見ても、その漢といい唐というもの、けだし必ず拠るところあるものにして、決して高橋君らの信ぜらるるごとく、杜撰なる認定にあらざるを知らん。その漢といい唐という。たとえば明治の今日において、奈良朝の品と徳川時代の品とを比較せんがごときものなり。単に眼識のうえより言わんも、われらが奈良朝の品を徳川時代の物なりと誤らざると同じく、これをもって唐朝創始にあらずとする鑑定の信ずべき、智者をまって後、解すべきにあらざるなり。『博古図録』といえども、もとより誤り(76)なきを保せず。しかれども、特に海獣葡萄鏡に関する鑑定の信ずべき理由かくのごとし。信ずべきを信じ、信ずべからざるを捨つ、これ記録研究の必要あるゆえんにして、善く書を読むものの任務ならずや。むべなるかな、爾後八百年、シナ歴朝の考古家の、一として異議をこれに挿むことなきこと。しかして、さらに泰西芸術の研究者の、またこれと一致してその漢代の物たるを是認すること。 足下。余輩は記録の研究よりして、海獣葡萄鏡が唐代創始のものなるべからざることを論じたり。しかれども記録の研究を粗にし様式の訝査に重きを置かるる足下らは、心中なお密かにこれを首肯せざるものあらん。ここにおいて余輩はさらに様式上より葡萄鏡が漢代創始のものたることを論ぜんとす。
 12 葡萄鏡が漢鏡なるべき理由の二
 足下。葡萄鏡の現今世に存するものはなはだ多し。その輸入せられてわが邦にあるもののみにても、その数少からざるなり。しかれども、その多数が後世の複製模造なることは疑いなく、真に漢代鋳造のものは、けだし寥々たるものならん。したがって、そのわが邦に現存するもののなかには、足下らが認めて漢式となすがごとき、幾何学的紋様を有するもの多からざるべしといえども、漢土における葡萄鏡中には、明かに足下らのいわゆる漢代の様式を具うるもの少からざるなり。実例をもってこれを示さんか。普通の葡萄鏡は、高橋君のすでに説かれたるがごとく、その紐は獣形よりなり、内外両区ともに葡萄唐草をもって飾り、別にその間幾何学的紋様を配することなしといえども、なかには大いにこれと趣を異にするもの存するなり。たとえば『博古図録』巻二十九(三十一丁)所収、漢海馬葡萄鑑第五のごとし。その紐は獣形にあらずして普通の鏡鑑に見るところのもののごとく、また、内外区の中間および外縁に接しては普通の漢式鏡に見るがごとき種々の幾何学的紋様を表わせるなり。同巻(二十八丁裏)所収、漢海馬鑑またこの類なり。さらに『金索』巻六所収、海馬蒲桃寛第二、『西清古鑑』巻三十九所収、漢海獣葡萄鑑第二、同第十一、(77)同第十二の類いずれも皆然り。これらの諸境、その外区にあるいは走獣および葡萄を配し、あるいは飛禽を表わせるなど、多少の相違はありとも、その間に鋸歯紋、櫛歯紋等数個の帯を配合せるは、唐代以後普通に行われたる鏡鑑において多く見ざるところなり。されば、獣紐にして幾何学的紋様を帯びざる普通の葡萄鏡を見ることなしに、単にこの類の葡萄鏡のみを見ば、これをもって漢代のものとなさんに、何人も多く躊躇するところなかるべきなり。しかも飛禽走獣の意匠はすでに古くよりこれあり。『西清古鑑』所載、漢長宜子孫鑑第一、漢四乳鑑第三、『金索』所載、漢太山神人竟の類皆然り。その器物に獣形を付し印章に獣紐を付するの意匠また漢においてすでに存せりとせば、西域との交通によりて新たに葡萄模様の輸入されたる暁において、ここに海獣葡萄鏡を生ぜんは、その間ただ転一歩の変のみ。漢代に海獣葡萄鏡ある、なんぞ怪しむをもちいん。その紐の獣形をなさざる、幾何学的紋様の数帯を有する類のものは、普通の漢式鏡と、普通の葡萄鏡との中間に立ちて、双方の連絡を保てるものなり。この中間物の意匠がまず創始せられて、普通の葡萄鏡がさらにその一転より生ぜるものなりや、あるいは普通の葡萄鏡の意匠がまず輸入せられて、後にこの中間物が彼此の折衷より起れりやに至りては容易に判断しがたし。しかれども、すでに普通の漢式を帯びたるこの中間物ある以上、葡萄鏡の意匠が漢代において創始せられたるものなるべきことを想像せんに、なんらの障礙を生ぜざるにあらずや。葡萄鏡すでに創始せらる。その意匠大いに世人の嗜好に適し、これより幾何学的紋様は漸次その跡を絶ちて、浮模様的意匠次第に採用せられ、ついには普通唐代において見るがごとき様式を現出せしならん。しかも、世人の嗜好に適したる葡萄鏡また依然としてこれと併び行われしものなりと解せんは、最も穏かなる解釈なるべし。もしかく解せんには、高橋君が、
  葡萄鏡にして若し漢式に属すべきものならむには、勾玉金環の類と共に発見せられた数十百の諸鏡中、少くも一二面の葡萄鏡はあるべき筈なり。然れども、吾人は未だかゝる例を聞かざるなり。之に反して正倉院御物中には他(78)の唐式諸鏡と共に多くの葡萄鏡あり。東大寺三月堂の天蓋よりも此の種の鏡の発見ありしなど、皆是れ葡萄鏡の唐式時代に属すべきを証明せるものなり(『考古界』第八篇第三号、一二七頁)。
と言われたる疑問も、また容易に解釈せらるるなり。なんとなれば、葡萄鏡は畢竟数十百種の漢代鏡中のただ一種なり、数十百種の漢代鏡ことごとくわが古墳墓中より発見せらるる次第にもあらざるに、ひとり葡萄鏡の発見少きのゆえをもってその漢代なるを疑わんは理由なきものなり。
 13 古墳発掘品と葡萄鏡
 現に古墳墓より発見せらるるものは、その当時実際に輸入せられたる数に比するに、実に千百中の一、二に過ぎざるなり。しかもその一、二中に見ること少きのゆえをもって、他の千百中に存在の有無を疑わんは早計ならずや。いわんやその古墳墓中より発見せらるるもの、また絶無にあらざるをや。現に高橋君の沿革考中に引用せる松山の発掘品のほか、三河幡豆郡なる古墳よりも一面を発掘し、京都法科大学生西田某君また大和古墳発見の一面を蔵す。東京帝室博物館美術工芸部陳列、栃木子爵家伝来の古鏡中、また数面の葡萄鏡あり、その出自をつまびらかにせずといえども、またその古墳発掘品にあらざるを保せざるなり、しかしてその中に普通の葡萄鏡のごとく獣紐ならざるもの一面を蔵するは特に注意すべきことなりとす。もしそれ正倉院御物および東大寺三月堂天蓋に葡萄鏡あるのゆえをもって、該鏡が必ず唐朝創始のものなりと言わんは、事理あまりに明白にして、余輩はむしろこれが弁解の辞に苦しまずんばあらず。すでに言えるごとく、『博古図録』また現に唐代の葡萄鏡を認む。唐代鋳造のものの盛んに我に輸入せられたること、時に前代のものをも輸入すること、前代に輸入せられたるものの帝室に保存せられしこと、前代のものを新たに複製再鋳すること、いずれも想像するに難からざるにあらずや。正倉院御物と三月堂天蓋とに葡萄鏡ある、その漢代創始たるにおいて何の妨ぐるところぞ。論者あるいは言わん、しからば『博古図録』以下、なんぞ唐代の葡萄(79)鏡を載することの少きやと。余答えて曰わん。唐代以後のものはあまりに多くして珍しからねば、その選に滴れたるものならんと。
 海獣葡萄鏡すでに漢代において創始せられたりとすれば、高橋君がもって漢代のものにあらざること一目瞭然たりとせし『金索』巻六所収の漢双獅竟、『博古図録』巻二十九所収の漢鳳馬鑑、その他同巻所収漢海馬※[獣偏+俊の旁猊鑑のごとき八菱鏡の、鏡背に虫鳥走獣の類を配し、獣紐を付したるものの漢代に存在し得べきは論なく、したがって高橋君が菱花鏡は唐代に至りて創始せられたりとの説も成立せざることとなるなり。
 14 様式の変遷と年代の経過
 和田君足下。余輩は高橋君の海獣葡萄鏡の説につきて多弁を費したり。しかれども、こは単にその著しきものにつきて一例を述べたるに過ぎざるなり。鏡鑑につきて余輩の論ぜんとするところ、さらに他にあり。一般の遺物に関して論ぜんとするところ、さらに大いに他にあるなり。これを「本邦鏡鑑沿革考」について見る。高橋君はつまびらかに多数の鏡鑑を比較して、その形状、その実質、鏡面の凸起の度、背面の部分の多少、銘文の有無および書体、紋様の種類、紐の大小・形状、乳の高低・有無等、数多の点を研究し、その某々の条件を具備するものを漢式となし、さらに他の某々の条件を具備するものを唐式となす。その様式によれる分類はなはだ明瞭なり。しかして余輩また氏の認めて漢式というものが漢魏六朝等の代に多く行われ、唐式と称するものが隋唐の代に多く行われたるべきを信ぜんとす。しかれども足下、これを漢式といい唐式というは、単に学者が研究上の便宜よりかりに命名せるもののみ、命名は学者の任意なり。はなはだしく他の誤解を招くものにあらずんば、あえて他より拘束せらるるところあるべからず。しかれども、これを漢式(もしくは漢魏六朝式)と名付けたるがゆえに漢魏六朝時代に限られ、これを唐式と名付けたるがゆえに隋唐時代に限らるるものと思わば大いなる誤りなり。賢明なる足下もとよりこれを知らん。高橋君また(80)その沿革考において両期の中間に位せるもの、もとより少からざるを言明せらるるなり(『考古界』第七篇第九号、三九四頁)。しかもその年代を説くにおいてはすなわち言う。わが朝における漢式時代とはすなわち古墳時代にして主として推古天皇以前なり。唐式時代とは上は推古天皇のころ(すなわち日隋交通始りしころ)より、下は遣唐使停止せられて日唐の交通断絶するに至りたる宇多天皇のころまでを包括せりと。すなわち知る、氏のいわゆる漢式時代とは隋唐との交通のいまだ始まらざる以前にして、唐式時代とは隋唐との交通の継続せる期間に限らるるを。しかして足下はすなわち曰く、将軍塚付近の墳墓と類似の形式を有する墳墓より出でたる遺物、ことに漢鏡のごとき、皆平安初期のものたらざるは知らるべきところにして、岩井君の説くところのごとく、奈良朝以前のものたるは確実なりとすと。かくのごときものは実に様式と年代とを極端に混同せるものにして、なお、法隆寺式一類の建築物を任意に推古式と名付け、すでに推古式なるがゆえに推古天皇朝創建のままなりと言わんとするがごときもののみ。足下、これを漢式といい唐式というは足下ら考古家の任意の命名なり。任意の命名、なんぞ社会上現実の事蹟を拘束するを得んや。ひとり海獣葡萄鏡のみならず、一切の鏡鑑についてこれを言うを得べし。ひとり鏡鑑のみならず、一切の古代遺物についてまた理論上これを明言するを得べし。しかも足下は今においてなお、足下らが任意に漢式なりと命名せる鏡鑑の出でたるがゆえに播磨なる一小古墳をば隋唐との交通のいまだ始まらざる推古以前のものとなし、しかしてこの古墳墓の棺槨と類似の棺槨を有するのゆえをもって将軍塚付近の小古墳墓もまた奈良朝以前のものたること確実なりと言わんとせらるるか。
 高橋君の「本邦鏡鑑沿革考」につきては、余輩の論ずべきものなお多し。しかれども、事の直接に本論に関するもののほかは、議論の散漫を避けんがために今すべてこれを措く。足下。高橋君の沿革考は実に考古学界における最も進歩したる研究なり。しかもその年代に関する考説に至りては余輩と所見を異にすること実に右のごとく大なり。し(81)かして、余輩のこの評論はただちにもって足下の古墳墓年代考定方法を論じたるものたることを承認せられよ。
 本論すでに四回に亙り、時まさに年末に際す。旧稿を新年に継ぐは本誌編者の好まざるところ、いわんや新年の誌上に墳墓を論ずるをや。すなわち、ここにいったん本論を完結し、その平安朝墳墓に関し、特に将軍塚付近の小墳墓に関する余輩の考説につきては、さらに春陽適当の時をもって、筆硯を新たにし、標題を改めて足下に目見えんとす。妄言多罪。
 
(83) 古墳墓雑考
 
       l 緒  論
 
 1 歴史地理学および史学と古墳墓の研究
 歴史地理学の研究はこれを地理の実際に考え、これを記録の所伝に徹し、彼是あいまって始めてその目的に到達するを庶幾すべきものなりとす。しかるに現在、地理の示すところ、必ずしも過去における地理の実際にあらず。ことにその人事に関する遺物・遺蹟等に至りては、多くは埋没して世に忘れられ、湮滅して全く蹟を絶ち、あるいは誤解訛伝によりてその真相を窺知し難きに至れるもの少からずして、これに頼りて過去の状態を明かにせんとするには、材料きわめて不足なりと言わざるべからず。またそのいわゆる遺物・遺蹟として数うべきもののごときも、住民常に木造の家におり、主として木製の器具を使用せしわが邦にありては、その種類きわめて少く、わずかに古人の遺せる墳墓その他少しばかりの石塁、寺院址、金属器、珠玉、陶器等の実物等によりて、研究の歩を進むべきものあるに過ぎず。ただ幸いにして、古代人士の築造せし墳墓はその規模すこぶる偉大にして、往々石室、石棺の類を有し、ことに屍体を葬(84)るに際しては、日常使用の什具、死者遺愛の宝器等、すこぶる高価貴重の物品をも惜気なく墳墓中に副葬する習慣ありしがうえに、また、墳墓築造の一形式として、土偶等をその上に、もしくは畔に立つるの制の久しく行われたりしかば、後人はこれによりて古代文明の実際、拓殖進歩の事情、交通機関の経路、古人生活の状態等を明かにし得るところ少からず。古墳墓は実に古代人事地理研究上最も重要なる材料を供給するものなりと言わざるべからざるなり。されば、世の考古学者が古墳墓をもってその研究対象物の主要なるものとなすと同じく、歴史地理学者がわが古代の人事地理を研究し、邦人発展の蹟を明かにせんには、まず指を古墳墓およびその関係遺物に屈せざるべからざるなり。古墳墓が歴史地理学研究材料中、重要の地位を占むるものなること、前述のごとし。しかしてさらにこれを一般史学、特に古代史研究者の方面より観察せんに、またその重要資料なるべきこと、あえて前者に譲らざるものありて存するなり。なんぞや、歴史家が過去の事蹟を研究するには、まず重きを記録文書の調査に置くべきこともちろんなりといえども、しかもいわゆる記録文書なるものは、決してあらゆる過去の事蹟を伝うるものにあらざることを忘るべからず。殊に古代に遡るに従いて、その資料ははなはだしく欠乏し、とうていこれのみに頼りては当時の真相を明かにする能わざること言をまたず。いわんやそのわずかに存する古代史料なるものも、その大部分は事皇室に関するもののみにして、民間の事蹟ははなはだしく閑却せらるるものなるをや。されば、これのみによりて表社会の事情、古代人民の状態を知らんとするは、木に縁りて魚を求むるよりもいっそう困難なる事業なりと言わざるべからず。しかしてこの闕を補うべきものは実に古代の遺物・遺蹟にして、しかもその遺物・遺蹟中には、いわゆる古墳墓およびその関係遺物が最大部分を占むるものなることを思わば、一般史学研究者また古墳墓の研究をゆるがせにすべからざるは明かなりとす。余輩がここに「古墳墓雑考」と題する論文を連載して、斯道諸賢の一顧を煩わさんとするもの、原因実にここにあり。
 2 世人の古墳墓に関する知識
(85) 古墳墓の研究が、歴史学者、特に歴史地理学研究者にとりて必要なるは上述のごとし。したがって余輩は一般史家に向って深き注意をこれに払われんことを希望するとともに、また広く世人をして古墳墓に関する知識を獲得せしめ、これを尊重し、これを保存し、これが研究者に対して必要なる材料を供給するの途を開かしめんことを望まざるを得ず。古墳墓に関する知識の浅薄なる者は、往々にしてこれを毀損して憚らず。あるいは迷信に囚われてこれを尊重する代りに、学者のこれに対する研究を拒むがごときこと、またあえて珍らしからず。あるいはその古墳墓なることをのみ知りて、その時代を解せざるの結果、時としては、はなはだしき見当違いの史上の人物をもってこれに擬定し、碑を建て、祠を設け、ために大いに世人を欺き、後世を誤るもの決して少きにあらざるなり。
 いわゆる古墳墓とは、吾人祖先の屍体を葬りたる墳墓なり。今や邦人の多数は、中世以降多年の変乱の後を承けて、その直接の祖先を忘れたれども、しかも偉大なる墳墓を遺せるがごとき人々は、いずれも古代の有力者として、邦人共同の祖先と仰ぐべきものなれば、その子孫たる邦人は、その祖先の墳墓について必ず十分の知識を有し、これを尊重し、これを研究するの途を知らざるべからず。しかるにもかかわらず、彼らの多数は古墳墓に対して、なんら自己と相関せざるもののごとく解し、これを捨てて顧みず。そのはなはだしきに至りては、その墳墓たることをすらも知らざるもの少からざるなり。無智の人民が古墳墓をもって古人穴居の蹟とし、あるいは火雨《ひざめ》の難を避けんがために築造せるものなりとせしがごとき時代も、遠き昔にはあらざるなり。子孫としておのが祖先の営みたる墳墓の形式を忘却すというがごときは、今の青年、少年らにとりてほとんど信じがたきほどのことなるべけれども、古墳墓の一種なる横穴と称するものが、科学的研究を積みたる一部の学者の間にすら近きころまで先人穴居の蹟として解せられ、今においてなおこれを信ずるもの少からざることを思わば、古人の無智必ずしも深く咎むべからざるなり。今試みに彼らが誤解の二、三の実例を示さんに、
(86) 『河内名所図絵』に曰く。
  高安郡の山里、郡川のほとりは千塚とて太古の窟多し。其中より陶器出る。これ神代よりの品物にして、猿田彦命の製り給ひしやらん。
 これ塚穴をもって神代諸神穴居の窟とするなり。
 同書また曰う。
  千塚。千塚村服部川村及法蔵寺山内に多し。大石を左右に峠て、上にも亦蓋覆し、門関の如く、口の広さ五六尺より一丈なるもありて極らず。奥の長さ六七間ばかり、中の広さ方一丈、方二丈なるもあり。高さも亦丈余にして定らず。云云。何れも南向にして窟中より陶器の品類或は金環鉄針練石の類出る。土人諺に云。大昔恙虫出でて人民を悩ます。其の時こゝに篭りて難を免るとぞ。又の諺には、天下の旱の時火の雨降るとて、比の塚穴を拵へ、こゝに隠れ住みしと云ふ。云云。
 これは恙虫というものをもって、猛獣毒蛇の類のごとく解し、塚穴はその襲撃を避けんがために設けしものなりとなせしと見ゆ。また火雨の伝説のごときは各地にありて、ためにその塚に火雨塚の名あるものすら多し。本誌第一巻第四号に、伊豆三島在(駿河駿東郡の内)なる火雨塚について、
  里俗火雨塚と称するは、富士へ近接したる地なれば、噴火の際之に逃匿して難を避けたるよりの称ならんか。
との意見を寄せられたる会員ありき。けだし、現代の知識と俗伝との調和を試みんとせしものなり。 また、阿波国の旧事を録せる『粟の落穂』には、
  阿波郡西林村にヤノ塚と云ふあり。里人の説に、昔村人の内に客ある時など、膳椀何十人前明日貸し給はれと此の塚穴の口にて願ひ置きて、明日彼所に至れば出だしたるを持帰り使ひ、用すみてもとの穴に戻し置く事なりしに、(87)或時其の通りにして借りし内の損じたるを、其の断りをもせで戻しゝ後は、願へども貸さすと云へり。又美馬郡|郡里《こほざと》村|宗重《むねしげ》と云ふ所の塚穴にも同じ説を云ひ、麻殖郡森藤村、美馬郡箸倉山の麓、勝浦郡|日開野《ひがいの》村などにも同説あり
 とぞ。云云。須本人松花の説に云。淡路国三原郡下内膳村先山に大磐戸といふ大岩洞あり。土人伝へ云。五十年已前まで本坊客采の時は膳部など注書して、窟前に置くに、忽然として乞ふ如く出してあり。之を運び取りて設客の用にし、又清めて窟前に置くに、翌朝いづこへやらん取入てなし。膳部のみにあらず雑具何にても乞ふ所の物得ざると云ふ事なし。寛延中より此の事絶えたりと聞ゆと云へり。云云。
 これは塚穴に土器などの多く存在せLより起りし俗伝なるべく、さきに余輩が本誌神寵石号(第一五巻第三号)において記述せし周防|石城《いわき》山の岩境《いわさか》なる、俗称山姥の穴と称する石窟につきても、これと全然同一なる伝説あり。これは塚穴ならねど、けだし他の塚穴について有せし俗説のこれに転用せられしものなり。また因幡八頭郡中佐治村大字高山なる神滝付近に膳の穴というありて、これには往古富有なる老女この穴に住み、里人の依頼に応じて膳椀など貸したりとの伝説ありという。これらはいずれも、塚穴に異人住せりとの思想より起れるものなり。
 あるいは鬼の岩屋と称し、あるいは土蜘妹の遺蹟と唱え、あるいは蝦夷塚など呼べるもの、また各地にその伝え多し。いずれも異種族人民の穴居の蹟となすなり。なかにも豊後速見郡北石垣村なる鬼岩屋と称する塚穴が、景行天皇紀に土蜘妹の住みしという鼠の岩窟すなわちこれなりと称せらるるがごときは、最も著しき例なりとす。
 右はいずれも塚穴に関する俗伝なるが、古墳墓の一種なるいわゆる横穴なるものにつきては、穴居の蹟なりとして解せらるる場合さらに多きがごとし。下総滑川に耀窟山と称する丘陵あり。丘上に耀窟神社ありて伊都尾羽張《いつのおはばり》神を祀る。この神は『古事記』に天の安川の川上の窟に在りとある神にして、けだし、丘腹なる横穴群中の或る一が早く発見されて、これを穴居の古伝ある神の住窟として付会せしものならん。このほか、古人穴居の窟として世に信ぜ(88)らるる横穴は、全国各地に散在するなり。
 かくのごときの俗伝は、到る処に存して一々列挙するの煩に堪えず。およそこの種の俗伝たる、今にしてこれを見るに、まことに憫笑に値すといえども、これをその当時の事情について考うるに、その間またすこぶる恕すべきものなくんばあらず。けだし、南北朝以来戦乱相踵ぎて住民の居地を転ぜしものはなはだ多く、古伝、旧説多くこの間に失われ、村落、都邑また往々にしてこの間に興廃を経、ついには祖先が墳墓の形式をも忘却して、その塚穴の露出するを見るに及びては、これをその当時の墳墓築造の工事と比較して、とうていこれと同一の目的をもって造られたりと信ずる能わず。何がゆえに古人がかくのごとき巨大なる石材を用いて岩窟を造りたりやの理由を解するに苦しみ、ついにはこれを鬼神の所為に帰し、異人の俗伝に付会し、奇怪なる事蹟のもとにこれが解説を求めて、もって満足せんとするに至るなり。これ、しかしながら交通不便にして、見聞きわめて狭かりし時代の人々にとりては、無理ならぬことと言わざるべからず。
 今や考古の学ようやく開けて、古墳墓に関する研究も次第に進み、世人また往々にして観て以てその古墳墓なることを理解し得るの程度に達したりといえども、しかもなお一般人士の間にありては、これに関する知識の浅薄なる、まことに笑うに堪えたるもの少きにあらず。試みにこれを日常発行の新聞記事に見よ。その観察の粗漏なる、解説の杜撰なる、比々として皆然るにあらずや。あるいは明かに奈良朝以前と認むべき墳墓に付会するに鎌倉南北朝ころの人士をもってし、あるいはその形式上大化前後と解せらるる墳墓に付会するに、きわめて上代の人士をもってするの類は、あえて珍らしからず。その思想の幼稚なる、むしろ憫まざるべからざるなり。
 かくのごとく古墳墓に関する知識の浅薄なるとともに、これを尊重せんとするの念に乏しく、破壊して毫も憚らざるもの多し。頃日余輩、古墳墓調査の目的をもって大和・河内の地方に遊ぶや、到る処においてその新たに破壊せら(89)れ、または現に破壊せられつつあるを見たり。なかにも大和南葛城郡の諸地方にありては、ほとんど塚穴をもって唯一の石材供給場となすの観あるところすらもなきにあらざりき。けだし比較的少しばかりの労力をもってこれを切り出すを得るのみならず、時として珠玉、鏡鑑、土器等を発掘し、意外の獲得あるがためなりという(別項「山口千塚」の記事参照。またさきに同一の目的をもって大分県下に旅行せしさいにありては、古墳墓群集地として有名なる庄原《しようのはる》のごとき、今やほとんど化して耕地となり、その四十幾個の円塚はわずかに数個を存するのみにして、しかもその数個すら現に人夫の鍬の先に漸次その形を失いつつあるを目撃せり。およそ人口の増殖と文明の進歩とは、時としてこれら不毛の地を墾きて収穫を得べき耕地とするを必要とす。あるいは交通線路の開通のために心ならずも古墳墓を破壊するの避けがたき場合を来すことなきにあらずといえども、しかもこれすら余輩ははなはだ痛惜の感を禁ぜざるなり。しかるを、いわんや単に石材を求め、副葬品の利を貪らんがためにこれを破壊発掘するものをや。かくのごときの風潮盛んなるに至りては、遠からずして古人墳墓の地は多く世に跡を絶ち、ただに祖先を崇敬するの道に背くのみならず、後人をしてほとんど古代の状況を知る能わざらしむるに至るの遠きにあらざらんことを恐る。しかもかくのごときは、これ実に主として世人が古墳墓に関する知識に乏しく、古墳墓とその地方および地方人との相関する次第を解せざるに基くものならざるべからず。もし彼らにしてこれに関する多くの知識を有せんには、いたずらにこれを破壊するがごとき暴挙なきのみならず、やむを得ずこれを発掘する場合にありても、十分にこれを研究して永くその実際を後に伝うるの道を講ずるを得べく、時としてはかえってその破壊発掘のためにこれが研究の好機を得て、学界を利するところ少きにあらざるべきなり。余輩がここに「古墳墓雑考」と題する論文を連載して、これが知識の普及を図らんとするもの、その原因また実にここにあり。
 3 古墳墓の研究と余輩の立場
(90) 同じく古墳墓なり。しかもこれを研究する者の立脚地いかんによりて自らその重しとするところを異にするなき能わず。古墳墓の研究が学界の注意に上れる由来すこぶる久し。諸陵寮が御陵墓調査の必要より明治の初年以来これが研究に力を用いらるることはさらにも言わず、明治十九年のころ東京人類学会設立せられ、幾多博学の士の人類学攻究材料中の一として潜心これが調査に従事せらるるあり。ついで明治二十八、九年のころに至り、考古学会さらに創立されて、また古墳墓をその研究事項中の主要なるものとし、済々たる多士の相寄りてこれが研鑽に従事せらるるあり。ことに前者は東京帝国大学なる人類学教室を根拠とし、後者は東京帝室博物館歴史部をその本城とし、ともに豊富なる資料と研究の便宜とを有して、各機関雑誌を発行し、ただに同人諸氏の研究の結果を発表するのみならず、広く天下同好の報告をも世に紹介し、その学界に貢献するところきわめて多く、古墳墓の研究すこぶる精緻なる域に達せるものあるを疑わず。しかれども、これらおのおのその目的とするところを異にし、ある点に関しては、進歩なおすこぶる遅々たるものあり。余輩が史学者の一員として、また歴史地理学研究者として、まず知らんと欲する古墳墓年代攻究のことのごときは、むしろ後廻しとなりて、余輩の期待するところ、いまだ必ずしもその供給するところとならざるかの憾みなきにあらず。もとより人類学者、考古学者の諸氏といえども、墳墓の年代考定のことをもって無用なりとし、これをゆるがせにせらるるにはあらざるべし。ただ他の事項の急なるによりて、研究のここにもっぱらなる能わざるがためならんのみ。されどその原因はいかにもあれ、斯界現下の状態においては、古墳墓を見てその年代の概略をだも定め得るの期に達せんことの前途すこぶる遼遠なるがごとき感あるは、学界の慶事にあらず。乞う余輩の過言を許せ。斯道学者の中には業に已に古墳墓年代考定のことに関して意見を発表せられたるものなきにあらざるなり。ただその発表せられたるものが、多くは独断的に流れ、他を首肯せしむるの権威に乏しく、余輩が記録研究の結果より得たるところと、はなはだしく相背馳するもの少きにあらざるの憾みあるをいかんせん。試みにすでに発表せられた(91)る二、三学者の説についてこれを観察せんか。ある論者はいわゆる古墳なるものの築造されたる時代を推古天皇以前に限らんとし、しかして他の論者はこれを奈良朝末に限らんとするがごときことあり。しかも余輩の見るところをもってすれば、土を盛りて高塚を築き、あるいは山腹に横穴を穿ちて墓を造り、しかして棺槨を蔵し、刀剣・土器・鏡鑑等を副葬するがごとき葬儀の制は、平安朝を通じてなお行われ、さらにその後の時代にまでも実施されたりしがごとく信ぜらるるなり。またある論者は埴輪を墓上墓畔に立つる風習の行われたりし時代をもって大化を限りとし、他の論者はこれを奈良朝ごろに及ぼさんとす。しかも余輩の見るところをもってすれば、少くも畿内地方の墳墓においては、大化を距る遠き以前において埴輪を立つるの風習はすでに廃滅したりと信ずるものなり。もとより一切の古墳墓研究者の見るところ、必ずしもことごとく然りと言うにはあらず。なかには余輩とその所見を一にせるものもあるべし。余輩に向って口づから余輩と類似の意見を抱ける旨を述べられたる者またこれなきにあらず。しかれども、従来考古学に関する著書において、また専門学術雑誌上において、その発表せられたる古墳墓の年代考定に関する論説の多数が、不幸にして余輩とはなはだしく所見を異にせるもの多きは事実なり。されば余輩は、すでに明治三十六年中において、「古墳の年代を定むることについて」と題する一篇の論文を本誌第五巻第三号に掲げて、斯道先輩の示教を求めたることあり。その他古墳墓のことに関して所見を発表したること、ただに両三度のみにあらず。降って明治四十一年のころ、京都将軍塚付近に一小古墳の発掘せらるるや、当時あたかも余輩該地にありて、これを調査するの機を得たりしかば、余輩がかねて歴史地理学上の見地より、これらの地方が平安朝時代の墓地にして、ここに散在せる数多の小古墳は必ず平安朝当時の墳墓たるべきことを信ずべき理由あるによりて、匆々その意見の一端を発表せしに、たちまち一、二の考古学者の反対を受け、むしろ嘲笑的態度をもってこれを迎えられたり。ここにおいて余輩は、これに対して古墳墓年代考定の方法を論じ、もって考古家諸賢の示教を乞いしが、その後これに関し、何らの反響を聞く(92)を得ず。余輩また宿痾の再発と俗務の繁忙とによりて稿を重ぬる能わずして、荏苒歳月を経過せり。しかれども、翻って思うに、余輩が史学者として、特に歴史地理学研究者として希望するところが、世の古墳墓研究者の重きを置くところにあらざる以上、これら諸氏に向って深くこれを求むるは、いたずらに難きを人に責むるものならざるべからず。すでに学界現下の状態が、余輩の期待するところに副わざる以上、余輩はまたおのずから余輩の立場よりして、観察を重ね、もって古代史研究の基礎を作り古代人事地理上の真相を明かにせんことを期せざるべからざるなり。
 余輩不敏、もとより自らあえてこれに当るに足らざるを知る。しかれども、漢祚の定まる、陳渉・呉広のこれが先をなしたるに基づくことを思わば、余輩の努力必ずしもあえて辞すべからざるなり。余輩が「古墳墓雑考」の題下に、続々余輩の所見を発表せんとするもの、その原因実にここにあり。幸いに先覚諸氏の指導を辱うして、事にこれが研究に従うを得んか。
 「古墳墓雑考」は実に古墳墓に関する雑考なり。その編述するところあらかじめ腹案あるにあらず。組織の整えるにもあらず。ただ余輩が研究上得たるところを、秩序もなく、筆に任せて考証、論述せんとするあるのみ。もしそれ単に古墳墓に関する事実の報告のごときは、これを「雑考」の付録として、続々「説苑」欄内に発表せんとす。前号所載河内軽墓の石棺に関する記事然り。本号所載の山口千塚、南河内の石棺等の記事また然り。世間同好の諸君、幸いに事実の報道を吝むなかれ。学術の研究は、豊富なる資料より帰納して、その目的地に到達するを得べきなり。
 
      二 蘇我馬子桃原墓の推定
 
 1 馬子の邸=島宮=島庄
(93) 皇極天皇の飛鳥板蓋の新宮にましまして天が下知ろしめしけるころ、誰謡い出すともなく、種々の童謡行われたり。その中に、
  遥々に琴ぞ聞ゆる島の薮原
というあり。間もなく蘇我入鹿は新宮の大極殿において誅戮に遇い、いわゆる大化の大改革は成就せり。この時に解するものは曰く、右の童謡は、宮殿島の大臣の家に接して起ち、中大兄皇子中臣鎌足と密かに大義を企てて入鹿を誅戮せんと謀れることをいえるなりと。その説明の当否はともかくもとして、いわゆる島の薮原は今の大和高市郡高市村大字島の圧の地にして、大臣蘇我馬子かつてこの地の飛鳥川のほとりに邸宅を起し、庭中に小池を設け、小島を池中に興したりと称する処なり。よりて時人馬子を称して島の大臣というと『曰本紀』に見ゆ。間もなく皇極天皇はこの馬子の邸に接して飛鳥板蓋の新宮を営み給い、その大極殿にて入鹿の誅戮の事あり。その後天武天皇またこの地に宮殿を営み給う。これすなわち島の宮にして、天皇はやがてこれを皇太子草壁皇子に譲り給う。『曰本紀』に、壬申乱後天皇倭の京に詣《いた》りて島の宮に御し、ついで島の宮より岡本宮に移る。五年天皇島の宮に御して宴すなどあるもの、すなわちこれなり。宮殿の場所は今の岡の町より島の庄に渉りしもののごとし。もともと島と岡とは異名同地にして、したがって島の宮のことを一には岡の宮とも申す。島の宮にましましてついにその宮に薨去し給いし草壁皇太子を追尊して、岡宮御字天皇《おかのみやにあめがしたしろしめすすめらみこと》と申すはこれがためなり。畢竟、岡とも島とも共通に唱えたりしものを、後に二つに呼びわけたることと推察せらる。しかしてその島の宮の域内には、もとの島の大臣馬子の邸ももちろん包含せられたることなるべしと信ず。『万葉集』に、草壁皇太子の薨去を悼みて島の宮の舎人らの詠ぜし短歌二十余首を収む。その中には、庭中の池のこと、池中の島のことなどを詠めるもの多く、しかしてこれすなわち馬子が邸中に設けたる池および島と同一のものなることを想像するに足る。さてその島の宮は、草壁皇太子薨去の後ついに法捨して寺となす。(94)「東大寺奴婢籍帳」に小治田禅院《おはりだでら》とあるもの、すなわちこれにして、おそらくは今の岡寺、すなわち龍蓋寺の起原なるべし。俗説に、同寺は飛鳥岡本宮を賜わりて寺となしたるものなりという。しかれどもこれは岡本宮にあらずして必ず岡の宮の誤りなるべし。由来、岡宮と岡本宮とはしばしば混同せらる。岡宮御宇天皇の御事を古くより岡本天皇などと申し奉ることもあり。もって俗説の誤謬の由来を察すべし。かくてその島の地は、中世荘園となりて島の庄という。その庄の名、今日に伝わりて島の庄村と称するなり。なお、これらの皇宮址のことにつきては、すこぶる論弁を要するものあり、他日、飛鳥京の沿革を論ずるさいにおいてさらに精しくこれを述べんとするがゆえに、今はすべて簡略に付し、単に島の庄と馬子との問に右の関係あることを明かにするに止めて、もって本題に移らんとす。
 2 馬子の桃原墓と島の庄の石舞台
 飛鳥の岡の町より南へ行けばただちに島の圧にして、路傍に小学校の建物あり。その校舎の南を東へ、多武峰道を進めばやがて道路の右方に当って巨大なる岩石が田圃の間に積み重なれるものあるを見る。これは古墳墓の石槨の露出せる、いわゆるドルメンなるものにして、本篇述べんとする島の庄の石舞台なり。
 馬子の死するや桃原墓に葬ると『日本紀』にあり。由来、大臣にして薨逝したるもの、あになんぞ馬子一人のみならん。しかるに『日本紀』には、この馬子の墓に限りて、特に異なる事件のありしにもあらざるに、その墓名を掲記するなり。けだし、いわゆる桃原墓が『曰本紀』編纂のさいにおいてことに有名なるものなりしがためならん。嬌僭なる馬子の墓が尋常一様のものにあらざりしならんとのことは、その威勢の隆盛なりしことよりしても想像され得ることなれども、なおまた『日本紀』のこの特別の記事によりて、さらにその感を深くするを得べし。さてそのいわゆる桃原の地はいずこなりや。河内の上の太子、すなわち叡福寺の近処にも、馬子の桃原の墓と称するものあり。世間普通の説には、多くこの方を取れるがごとし。しかもこれは路傍のきわめて小なる土饅頭の上に、凝灰岩をもって作れる(95)多重塔の立てるあるのみにして、決して嬌僭なる馬子の墳と目すべきほどのものにあらず。あるいはこの地、聖徳太子の御廟に近きがゆえに、遺族あるいは後人が、馬子のために供養の塔婆を建立せしものなりやいまだ知るべからずといえども、決してこれをもってただちに馬子の屍体を葬りたる桃原の墓なりとはいうべからず。しかのみならず、桃原の地は決して河内にあらず。雄略天皇の七年、任那国司|吉備田狭《きびのたさ》の子|弟君《おとぎみ》の妻樟媛あり。「国家を思ふの情深く、君臣の義切に、忠は白日に諭え、節は青松に冠たり」というほどの烈婦にして、その夫および夫の父の、韓地にありて謀叛せるを憎み、ついに、最愛の夫を殺してその屍を隠し、百済所献の技師、職工等を率いて帰れり。この時天皇は大伴大連室屋に詔して、東漢直掬《やまとのあやのあたいつか》に命じ、これらの技師、職工等を上桃原《かみつももはら》・下桃原《しもつももはら》・真神原《まかみのはら》の三所に居らしめたりとあり。この三所のうち真神原は後に飛鳥の法興寺を起したる処にして、天武天皇の飛鳥浄見原宮またその地に営まれたること『万葉集』の歌に見え、大略今の飛鳥の町の辺なるべし(このことは他日「飛鳥京考」にて詳論すべし)。さてその真神原と並びて、東漢直によって選定されたる桃原の地は、果していずこなるべきか。今これを正確にいう能わざれども、おそらくは今の飛鳥の地ならざるべからず。決してこれを河内に求むべきにあらざるなり。東漢直は漢の阿知使主《あちのおみ》の子孫にして、大和高市郡|槍前《ひのくま》を中心として、あまねく郡内に蔓延したる族人なり。その人によりて飛鳥なる真神原と相並びて選定され、しかしてそこには飛鳥の島の地におりたる島の大臣の墳墓ありとせば、いわゆる桃原の地と飛鳥との間に、ある地理上の関係あるを認めざるを得ず。その真神原の近所なる、しかも島の大臣の邸宅の地なる島の庄において非常に宏大なる墳墓ありて、しかして、この地方には他にかかる偉大なる墳墓の主人公として擬定すべきほどの人物かつてなかりしとすれば、もしその墳墓の形式が島の大臣時代のものに相当することを確め得る以上は、しばらくその地をもっていわゆる桃原とし、その墓をもって馬子の桃原墓なるべしと仮定して、はなはだしく不可なきを信ず。しかして余輩の研究の結果によれば、石舞台なるものの墳墓としての形式は、これも『日
 
(96) 第一図 石舞台 第二図 石舞台 (上)東面,(下)西面     
 
本紀』に明記して今もなお今木の地に現存せる、蘇我蝦夷・入鹿父子の大陵、・小陵と類似するのみならず、その他種々の点より考証して、この時代に普通に行われたる形式なりと断言するに躊躇せざるなり。しかしながらこの蝦夷・入鹿父子の双陵の考証ならびにこの時代の墳墓の形式については、他日別に詳説するの予定なれば、ここにはまず右の石舞台と馬子との間に、ある連鎖の存することを示すのみに止め、さらに進んで石舞台そのものの実際につきて観察せんとす。
 3 石舞台の実地調査
 石舞台は偉大なる一の古墳墓なり。所在は多武蜂の西麓にして、天武天皇の御代の五年に「南淵山・細川山を禁じて並に草刈り薪樵ることなからしむ」とある、その細川山の足の西に引きたる緩斜面の地なり。その地勢を案ずるに、昔は桃原ともいいたるべき原野たりしことを推測するに足る。問題に上れる墳墓は南向にして、もとは一大石槨を蔽いたる円塚なりしがごときも、今は盛り土の全部を失いて、槨を組み立てたる巨石のみがドルメンとなりて残存せるのみ。ただしその石材の全部がことごとく露われたるにはあらず。その裾の方の大部分はむろん土中に埋まり、土砂は玄室および羨道の内部にまで流れ込みてこれを埋め、わずかに玄室の天井石および四壁を作れる巨石の上部のみが地上に露出せるに過ぎず。要するに、石槨を組み立てたる巨石の高き部分のみがドルメンとなって露わるるのみ。口絵の写真はその西方よりこれを望めるものにして、向って最も右に
 
(97) 第三図 石舞台(右)玄室西壁,(左)玄室前壁(第二図ハに当る)
 
見ゆる巨石はすなわち玄室の天井と羨道の天井との間を接続せるもの、またその上方にあるもの、および最も左方にある二個は、実に玄室の天井を作成せるものなりとす。しかして、羨道の天井石のごときは全部土中に埋まり見ることを得ず。ただその場所のみはさすがに耕作地とはなさず、芝地のままに存して南の方に延び、その南端の畔に羨道正面の口を塞げる岩戸の一部分を露出す。写真に「羨道入口」と標したる場所すなわちこれなり。その芝地は四近の水田よりも高きこと約二尺なりとす。 石槨の内部は前すでにいえるごとく、石材の間隙より流れ込める土砂にて深く埋まり、もとよりその底部を見るを得ず。羨道のごときもその入口塞がりて、這い入ることすら能わざるなり。ただわずかに玄室の右壁と後壁(東北隅)との間に空隙ありて、身を屈してそこより室内に入り、もって内部を調査するを得。玄室内に立って羨道部を望めば、羨道の天井に近き部分のみわずかに開け、これも玄室同様深く土をもって埋められ、その中を覗くことすらも能わず。しかもかく土をもって深く埋められたる現在の玄室の底部は、なお四近の稲田の面よりも約四尺の低所にあり。これによりて察するに、現在の四周の稲田の面は、これを当初の地面に比するに、少くも一丈以上の高さを有せるものなりと思わるるなり。
 玄室は長さ約二丈五尺、幅約一丈に達す。しかして高さはその下部が土砂のために埋まりたれば、これを測ることを得ざれども、現在露出せる部分のみにても(98)約一丈の高さあり。さらにその下部がかりに約六尺埋まれるものとすれば(これは羨道の高さをかりに八尺としてなり)高さ約一丈六尺となる。次に羨道の幅約七尺、高さは玄室より望みて約二尺の露出を見るがゆえに、かりにその下部約六尺の埋没として高さ約八尺、長さはとうてい精密に測るを得ねども、羨道の上部に当れる芝地の長さを約三丈六尺とし、これに玄室前部の石の大きさなどを加えて推算するに、大約四丈四尺となる。かくて羨道の入口より玄室の奥壁までの総計約六丈九尺、すなわち十一問半となる。すなわち前掲第一図のごとし。
 第一図は用石の数およびその配置の状を示したるものなり。ただしその羨道部はこれを見るを得ざるがゆえに単に想像図を示せるのみ。その周石は花崗岩にして、写真にても知るを得べきごとく、すべてはなはだ大なる石材を使用せり。試みにその二、三をいわんに、まず幅一丈、奥行二丈五尺という大なる玄室の天井は第二図イ、ロの二個の巨石をもって蔽われ、しかもその二個中の後方の石のごときは、長さ一丈六、七尺、幅一丈四、五尺、高さ約九尺に達せるなり。また玄室の正面、すなわち玄室の天井と羨道部の天井との間の接続部は幅一丈、高さ八尺にして、これまた全部一石をもって作らる。その石の大きさ幅的一丈五尺、高さ約九尺五寸に達せるなり。その石材の積み方を大略見取図をもって示せば第二図のごとし。
 石材は谷川にありて久しく流水のために磨滅せられ、その稜角を失えるものにして、その比較的平らなる面を内壁に使用せるなり。その室内より望める石材の積み方は大略右の見取図(第三図)のごとくにして、この石槨たる、ただにその規模の大なるのみならず、かく巨石のみを使用して作成せる点において、これまた世上稀れに見るところなりというべきなり。
 4 世に知られたる大石槨の比較
 およそ石槨の大なるもの、今日まで世に知られたるところにては、まず大和高市郡白檀村大字五条野(99)の脇なる丸山の石槨を推さざるを得ず。この塚はもと燈明寺塚といい、かつては天武・持統両天皇合葬の檜隈《ひのくま》大内陵として擬定せられたりしものなり。今はその形状によりてこれを丸山といい、別にその西北にある小形の塚を燈明寺塚と呼ぶ。けだし、名義を誤れるなり。
 この丸山の石槨は古来種々の調査ありて、北浦定政の『打墨縄』には羨道十四間半、奥室四間とあり。通計十八間半なり。また堤惟徳の調べには羨道七丈三尺(十二間一尺)、奥室長三文(五間)、幅一丈一尺(一間と五尺)とありて、前者とやや差あり。その後明治二十五年に放野淵龍潜氏が奈良県の命によりて親しく調査せしところによれば、羨道十一間四尺、奥室三間余とあり。通計約十四間四尺すなわち八丈八尺余なりとす。野淵氏のこの調査また必ずしもその精確を保しがたしといえども、氏は前二者の調査を知了してのうえのことなれば、これらに対して比較的信用すべきものなるべく、ことに該墳墓は現今宮内省より御陵墓参考地として保管上石槨の入口を塞ぎ、人のこれを見るを許さざるがゆえに、余輩は実地につきて再びこれを調査するを得ず、しばらく右の野淵氏の数を信じてこれに従うのほかなきなり。
 ここにおいて余輩は、まず右野淵氏の調査に基づきて五条野丸山の石槨を八丈八尺すなわち十四間四尺と定め、これをもってその他の普通に大石槨なりと称せらるるものに比するに、その規模実に抜群にして、他にこれに続くべきほどのものあることなし。素人は往々にして数十畳の石室あり、数十間の羨道ありなどと称するも、その言うところ多くは信ずべからず。余の親しく調査せるものの中には、この石舞台を除いては、古来有名なる筑後浮羽郡椿子村重定のをもって最大とす。しかもそれすら奥行ようやく八間に達するに過ぎず。その他のものに至りては、肥後八代郡大野村〕のが七間一尺六寸(福原岱郎氏の調査による)、次は大和南葛城郡葛村が|水泥《みどろ》にある今木の大陵すなわち蘇我蝦夷の塚および同郡|稲宿《いないど》村の新宮塚がともに約六間五尺、同国磯城郡阿倍村文殊
 
(100) 第四図 大石槨奥行比較図(大野のほかはみな余の調査にかかるものなり)
五条野丸山
島庄石舞台
筑後重定
肥後大野
今木大陵
大和稲宿
阿倍文殊
今木小陵
 
の切石の石槨が六間四尺余にして、今木の小陵すなわち入鹿の墓これに次ぐ。このほか五、六間という程度のものに至りては、他にその類例すこぶる多し。しかしてこの島の庄なる石舞台は、まさに五条野のと重定のとの中間に位するものにして、今日学界に知られたる石槨中、実に日本第二の大きさのものなりというべきなり。しかも右の第一に数うべき五条野のは、わずかに故人の調査せるものあるのみにして、今日これを見るを得ざるものなれば、余輩が古墳墓研究上親しく調査し得べく、かつ最も信を置くを得べきものにては、実はこの島の庄石槨をもって最大なるものとなさざるべからず。 今参考のために普通に大石槨と認められたるもののうち、特に著名なるものを選びて比較図を製してこれを示さん。最も普通なる石槨はまず奥行三間内外にして、まれには一間内外という小なるものもあり。ただしこれは今論ずる限りにあらず。
 5 総 括
 要するに島の庄の石舞台は、
 一、その石槨として甚大なる点において、
 二、その用材の甚大なる点において、
 三、盛り土を除去せるがために石材の積み工合をよく観察し得る点において、
(101)右の三個条より、余輩はいわゆる石舞台をもって考古学上最も大切なる標本の一として推奨せんとす。しかのみならず、その所在の島の庄の地の歴史的関係よりして、すでに述べたるごとく余輩は歴史地理学上特殊の興味をもってこれに対するものなり。
 馬子の邸宅がこの近地にして、その墓の所在たる桃原またこの地方なるべきがうえに、馬子の桃原墓には別に取り出でて述ぶべきほどの異事あるにあらざるにかかわらず、『曰本紀』がこれを特書せることより見るも、必ずやその墓が特別に著しきものならざるべからざる等、種々の事情を綜合して、しかしてこれに対してこの墓がかく日本に一、二を争うほどの巨大なるものなりとの事実は(その形式がまた当代のものなりとのことは余輩の宿論なり。これは別に述ぶべし)桃原墓とこの石舞台とを接近せしむるに十分有力なる証拠となるべきものなりとす。馬子の死去は推古天皇の三十四年五月にして、その翌三年三月天皇崩ず。この年飢饉にして五穀登熟せず。天皇これを憂い、遺詔して特に陵を起すことなく、厚葬を止めて竹田皇子の陵に合葬せしめ給う。かくてその遺詔はただちに実行せられ、この年九月に大葬は無事終了せり。しかして馬子の墓はこの時に至るもなお成らず。『日本紀』に、
  九月葬礼畢りて嗣位未だ走らず、是時に当って蘇我蝦夷大臣と為り、独り嗣位を定めんと欲す。云云。更に境部臣(摩理勢)に問はしめて曰く、誰王をか天皇と為さん。答へて曰く、是より先大臣親ら問へるの日、僕啓する事既に訖りぬ。今何ぞ更に亦伝以て告げんやと。乃ち大いに忿って起ちて行く。適々是の時蘇我氏の諸族等悉く集って島の大臣の為に墓を造り、墓所に次《やど》れり。爰に摩理勢臣墓所の廬を壊ちて蘇我の田家に退きて仕へず。云云。
とあり。三十四年の五月より、三十六年の九月に至り、有力なる蘇我の一族諸氏がことごとく集まり、墓地に鷹廬を結びてこれに常在し、しかして事に従いながら、二年余にして成就せざりしほどの桃原の墓は、必ず宏大のものならざるべからず。天皇が特に薄葬を遺詔せられたるもの、実は眼前にこの大工事を視そなわして、深く感じ給うところあ(102)りし結果なりやいまだ知るべからず。しかしてこの宏大なる桃原の墓に当つるに、この稀有の大石槨なる石舞台をもってするは、あに適当なる擬定ならずや。
 6 余 談
 この石舞台をもって馬子の墓に擬するは、必ずしも余輩のみにあらず。すでに『日本書紀通証』これを言えり。曰く、「島の荘村に荒墳あり、疑らくは是れ桃原墓」と。しかしながらこの説多く世人の注意するところとならず。大和の地誌かつて一もこれを言えるものなし。まれにこれに着目するものあるも、しかもいまだこれを賛するものを見ず。故飯田大人の『日本書紀通釈』にはこの説を引きて、しかも「信じ難し」として排斥す。余輩は、大人が何故にこれを信じ難しと断言せられたるかを知らず。しかれども、余輩は石槨制研究の結果と、前述のごとき数多の関係とによりて、これを馬子の墓に擬定することの理由あるものなるを思う。ただし『通証』のいわゆる荒墳なるものが、果してこの石舞台なりや、あるいは他の荒墳なりや、いまだ明かならず。島の庄の地の荒噴、今は見るべきもの他に多からざれども、もと必ずしもこの石舞台のみには限らざるべく、現に『大和志』にも「島庄村に荒墳二あり」とあり。果してしからば『通証』いうところ必ずしもこの石舞台なりとは限るべからず。ただ余輩は『通証』の説いかんにかかわらず、前記の理由によりて石舞台すなわち桃原墓なりと言わんとするなり。
 石舞台の名義は何を意味するか、かく見事なる墳墓たるにかかわらず、地誌その他の書のこれを記するもの少く、したがってこれに関して説明を下したるものを見ず。あるいは思う、この石槨もとは盛り土に蔽われて人目を引かず、後にいうがごとく、現今のごとくドルメン状をなせるは比較的近年のことにはあらざるか。延宝年間の著なる『和州旧蹟幽考』には、浄見原宮の事を「細川村より四、五町西なり。」と記して、さてその次に、
  その近き所に石太屋とて陵あり。
(103)とあり。記事きわめて簡単なれども、石太屋《いしぶとや》の名は看過すべからず。今日いわゆる石舞台の名称が、この石太屋の転訛なることは毫末の疑いを容れざるなり。しからば石太屋とはいかなる義か。これまた理由不詳なれども、あるいはその文の示すごとく、大き石をもって作りたる屋というほどの意味ならんも知るべからず。
 この荒境が現今のごとくに石材を露出していわゆるドルメンとなれるは、果していつのころのことなるか。この近傍には都塚を始めとして、類似の形式の墳墓多きも、いずれも盛り土をそのままに存し、かくドルメンとなれるものあることなし。果してしからば、これは決して風雨などの作用によりて自然に積土を崩壊し、かくのごときの現状をなすに至れるものにあらずして、必ずやその付近の地を開墾して稲田となすに際し、妨害となるべき塚を取り崩して、しかもその用材のあまりに宏大なるがために、これをのみ取り残したるものと解すべきものならん。四囲の稲田の面が石室の底よりもはるかに高きは、この塚の盛り土を崩して付近を平《な》らしたる結果なりと思わる。しかしてその時代は果して如何。『幽考』に陵ありといい、『大和志』に荒墳二ありといい、『通証』にも「島の圧の荒墳」とありて、いずれも普通の古墳墓のごとく記し、別にかく巨巌森々たる様につき一言をも費さざるは、あるいはその当時なお旧形のままを存せしものにはあらざるか。普通の地誌が一言これに及ぱざるもの、また現今のごとく人目を惹くほどのものにあらざりしためならんも知るべからず。あるいはこの山麓の斜面を拓きて田地となしたる時代を調査するを得ば、もってこれを推測するを得るならんと信ず。
 
      三 蘇我蝦夷・入鹿父子の墓
 
 1 今木双墓に関する国史の記事
 蘇我氏の専横を極むるや、往々にして僭擬の挙動あり、皇極天皇元年、蝦夷葛城の高宮に祖廟を立て、八※[人偏+肖]の舞を(104)なす。翌二年十月蝦夷病あるや、ひそかに紫冠を子入鹿に授けて大臣の位に擬し、またその弟を物部の大臣と号して外祖母物部守屋の妹の財を横領す。三年入鹿家を甘梼《あまかし》岡に双べ立て、父蝦夷の家を号して、上宮門《うえのみかど》と呼び、おのが家を号して谷宮門《はざまのみかど》といい、子女を呼びて王子と称し、家の外には城柵を作り、門の傍には兵庫を設け、力人をして兵を持してこれを守らしめ、また別に畝傍山の東に家を起し、池を穿ちて城となし、庫を建てて箭を備え、つねに五十の兵士を従え、身を繞らしめて出入す。また健人《ちからひと》を名づけて東方※[人偏+賓]従者《あずまのひとりへ(ママ)》といい、氏々の人ら入りてその門を守る。名づけて祖子孺者《おやつこわらわ》と曰う。漢直《あやのあたい》ら、もっぱら二門を守るとあり。かくのごとき不臣の挙動多かりしが中において、今日なおその旧態を存し、当時の覇者の状を観るべきものを今木の双墓とす。『日本紀』に曰く、
  皇極天皇元年蘇我大臣蝦夷尽く挙国の民並に百八十部曲《ももやそとものお》を発して予め双墓を今木に造る。一を大陵と曰ひ、大臣の墓となす。一を小陵と曰ひ、入鹿臣の墓となす。望むらくは死して後人を労せしむることなけんと。更に悉く上宮乳部《かみつみやのみぶ》の民を聚めて塋兆所《はかどころ》に役使す。是に於て上宮大娘姫王発憤して嘆じて曰く、蘇我臣専ら国政を擅にして多く無礼をなす。天に二日なく国に二王なし。何に由つてか任意に封民を役せんと。これより恨を結びて遂に倶に亡ぼさる。
と。ことごとく挙国の公民を徴発してなお足らず、さらに百八十部曲を発して聖徳太子の私民に及ぶ。百八十とは数の多きことの謂にして、蝦夷、公民のほかさらにことごとく部曲の私民をも徴発せるをいえるなり。けだし、蝦夷・入鹿の父子、ひそかにおのが罪の天人ともに憎むところなるを知り、自ら護衛の法に講ずるとともに、あらかじめ死後の計をなし、その屍体委棄の辱を免れんとせしものならん。果して四年六月入鹿大極殿において誅戮に遭い、東方※[人偏+賓]従者と祖子孺者と、ともにその用をなさず、父蝦夷またついに難を免るる能わざりき。しかれども、蘇我父子の罪たる、ただ父祖以来の勢いに乗じたるのみ。その挙動、往々僭擬に渉り、ことに聖徳太子の遺族を害したるがごとき、(105)とうてい許すべからずといえどむ、しかもいまだ必ずしも叛逆をもって論ずべきにあらず。されば中大兄皇子は、彼らが名家の正統たるを憐み給いてにや、屍を待つに刑死者の例を用いず、特に墓に葬ることを許し、かつ哭泣するを得しめ給う。けだし正式の葬送を認許し給いしものにして、その墓が前記今木の双墓なるべきは勿論なりとす。
 しかるにここに一説あり、曰く、
  抑蝦夷父子甚しき大罪ありて戮せられし人なれば、其の死屍をば散梟して罪をも諸人に示すべきなれども、其を宥め給ひて屍を墓に葬り、また哭泣するを許すなどあるに、いかでか彼の今木に予め作り置ける大陵小陵など云ふべき塚に葬ることを得ん。必ず別処にいと仮初に墓をば作りしことと知られたり。今飛鳥寺の近き辺に五輪の石の小きが残りて、入鹿の墓と云ひ伝ふ。これらはよしあらんも知り難し。かへす/”\も彼の大陵小陵にはあらじ。
と。『日本書紀通釈』の説すなわちこれなり。これ一理あるに似たれども、余輩は依然として、これを今木の双墓に葬りたりとせる『日本書紀通証』等の旧説を是なりと信ず。なんとなれば、すでに刑死者の例を用いずして正式の葬送を認許する以上、あらかじめ準備せる寿蔵をのみ忌むべしとも思われず。またもしこれに葬るを許さざりきとならば、その寿蔵と葬送とについて特別の記事ある『日本紀』には、必ずやまたその間の事情をも記載すべきはずなるにあらずや。ことに『日本紀』には、「之を墓に葬るを許す」と明記す。墓と墳とはその字義多少の相違あれども、当時の習慣にては、墓とは必ず石槨封土を有するものなりしこと、大化改新の大詔、大宝律令の制定等によりて明かにして、単に地を掘って埋むる類のものは、当時わが邦にてこれを墓とは謂わざりしなり。されば大化の詔には、庶民の葬儀単に地に収埋すべきことを命じて、墓を作るを言わず、墓には必ず玄室の広狭、封土の大小を述べ、これを諸王諸臣に限りたり。さらに「大宝令」の規定に至りては、一層厳格なる制限を設け、およそ墓を作るを得るものは、三位以上の有位者、別祖および氏宗に限ることとし、以外はすべて墓を営むを得ざることとせり。果してしからば、『日本(106)紀』にこれを墓に葬り哭泣するを許すとある以上、その墓たる必ず石槨封土を有する類のものにして、これやがて同書の上文に見ゆる今木の双墓を指せるものなりと解すること、最も妥当なりとせざるべからず。『日本紀』が特に寿蔵築造の事、葬儀哭泣の事を記するは、必ずや該書編纂当時に、蘇我父子の双墓として信ぜられたるものが今木に存し、その宏壮なるをもってはなはだ著明なりしことを明示するものと謂うべく、しかしてこれ実に蘇我父子の屍体を葬りたる墓として信ぜられたるものならざるべからざるなり。
 2 入鹿の二つ塚と称せられたる双墓
 世に入鹿の墓と称せらるるもの、大和高市郡の飛鳥と石川とにあり。ともに五輪塔婆にしてその由来を知らず。前者は飛鳥法興寺址にあり。後者は馬子が石川精舎の廃址と称せらるる本明尼寺畔にあり。飛鳥のは『大和名所図絵』に「荒墳飛鳥にあり、俗に入鹿の塚と云ふ」とあるのみにして、『旧蹟幽考』を始め、古き地誌に一も所見なく、石川のは、『名所図絵』にすらも見るところなし。おそらくはいずれも後の世に言い出だせる俗説にして、これらの寺が蘇我氏に縁故深きより、なんらかの供養のために建てられたる塔婆をもってこれに付会せしものならん。しかしてこの両者以外、旧葛上郡(今、南葛城郡)葛《くず》村大字古瀬字|水泥《みどろ》に俗に入鹿の二つ塚と称するものあり。本誌前号「蘇我馬子桃原墓の推定」中にいえる今木の大陵・小陵これなり。この塚を今木の双墓なりといえることは由来すこぶる古く、延宝年間の『旧蹟幽考』に「玉林抄」を引きて、
  双墓。仲範のいはく、今木野|滑谷岡《なめはざまおか》、吉野川の北、巨勢の里の南にあり。といえり。しかしてその後の地誌、ことごとくこれを踏襲す。けだし、代々かく語り伝えしものならん。今これを入鹿の二つ塚と称するは、入鹿の名の俗耳に馴れたるより、訛り伝えたるのみ。しかして余輩は、この古伝の真にして、いわゆる二つ塚が『曰本紀』の記述せる今木の双墓たるべきことを信ずるなり。二つ塚はその名のごとく二個の塚に(107)して、両者約一町の間隔を保ち、一は大にして東北にあり、一は小にして西南にあり.石槨南面にして、やや東に偏す。その大なるものは、すなわちいわゆる今木大陵に当つべく、小なるものは、すなわちいわゆる今木小陵に当つべし。大陵の方は今同地の素封家西尾氏の邸内にあり。槨内一物を止めず、修築を加えて植木|温室《むろ》に使用す。羨道高さ約五尺八寸、幅約五尺九寸、長さ的二丈三尺、玄室高さ約一丈一尺、幅約九尺、長さ約一丈八尺。その石の積み方は口絵写真によりて想像するを得べし。これを前号所載桃原墓に比するに、規模小なりといえども、しかもこの種の石槨中にては、すこぶる偉大なる部に属す。その発掘されて遺物を取り出されたる時代は明かならず。西尾氏がこれを修築せしさいには、底部より排水用の土管を発掘せしのみにて、また他に一物を存せざりきという。土管は径約七寸の円筒にして、現に西尾氏庭園中に保存せらる。小陵の方は同氏の邸外小径の傍にあり。羨道の入口は土壌をもって埋められ、わずかに匍匐して入るべし。羨道長さ約二丈二尺、幅約五尺、玄室長さ約一丈五尺、幅約六尺七寸、高さは下部埋もれたればつまびらかならず。中に二個の石棺を収む。一は玄室にあり、一は羨道にあり。羨道にある方はその両側ほとんど左右両壁に近接し、人は体を横にしてわずかにその傍を通過し、玄室に入るを得べし。およそ一構内二石棺あるの例は大和高市郡五条野の丸山、同菖蒲池等、その他にも類例に乏しからざれども、かくその一を羨道内に置くものに至りては、余の寡聞なる、いまだその例あるを聞かざるなり。石棺は俗に練り石と称せらるる凝灰岩よりなり、両者ともに長方形掘抜式の普通のものにして、上に屋根形の蓋を蔽う。その大きさ、玄室にある方長さ約七尺、幅約四尺三寸。高さは下部土壌に埋まりて精密に測りがたし。蓋の長さおよび幅は身の長さおよび幅より約四、五寸大に、厚さ約一尺二寸に及ぶ。蓋には前後に各一、左右に各二、合して六個の突起あり。蓋の前部はいつのころにか破壊されて、内部なる副葬品は全く奪い去られたり。羨道内にある石棺は形式ほぼ前者に類すれども、製作すこぶる精好なり。その長さ約七尺四寸、幅四尺一寸、高さはまた底部土壌に埋まりたれば、精密には知り
 
(108) 第五図 今木小陵内の蓮花紋ある石棺〔入力者注、略〕
 
がたけれども、ほぼ長さと幅とに准じ、類推して知るべし。蓋の大きさまた身にかなう。この石棺は前述のごとく、羨道部の中に位置すること、すでに異数なるがうえに、さらにその蓋の前後の突起の面に、六葉複弁を有する蓮花紋を刻せるなど、すこぶる特異なるものなり。石棺の突起面に装飾を施せるものは往々にしてその例なきにあらず。筑後月の岡の石棺、最近に発見されたる河内小山村城山の石棺等、ともにその円形の中央を穿ちて蛇目形になせり。されど、蓮花紋をこれに刻するに至りては、いまだ一も他に類例あるを聞かざるなり。しかしてこの蓮花紋は、明かに仏法渡来後その影響を被りたることを示せるものにして、東京帝室博物館所蔵の蓮花紋を有する陶棺とともに、考古学材料中の双珍となすべく、墳墓の時代研究の上に一好材料を提供するものなりとす。しかしてこの石棺の蓮花紋は蓋の周縁六個の突起中、単にその前後の二個にのみに存す、左右両側のものにつきてはこれを見るを得ず。ここにおいて人あるいはその何がゆえに左右両側の突起に装飾(?)を略せるかを疑うものあり。しかれども仔細にこれを検するに、当初は左右両側の四個にも、またともに同様の蓮花紋を刻せしも、これを羨道内に運び入るるに際し、羨道の幅狭くして入るるに困難なりしかば、匆卒これを削り去りしものなるを知るべし。そは両側の突起が前後の両者に比してはなはだ短きと、その面の彫琢はなはだ粗雑にして、他の部分の琢磨を施せるがごときに比すべくもあらざるによりて知らるるなり。しかして、この左右両側の突起を削り去れるの事実は、たまたま以てこの石棺が後に合葬せられたるものなることを示し、考古学上はなはだ有益なる材料を提供するものな(109)りとす。およそ一の墳墓中に後より屍体を合葬するの事は、これを実地につき、これを記録に徴して、その例証はなはだ多く、中には石槨なき一墳墓内に二個ないし三個の石棺を並べ埋めたるがごときもあり、また、一石槨の玄室内に二個の石棺を並べ置けるもあり、あるいはその一を石槨内に置き、他の一を石槨外に埋めたるがごとき場合もあるなり。
 以上の類例のうち、石槨なき墳墓の場合はややその趣を異にするがゆえに、しばらくこれを除き、後の両者について考察するに、玄室広き場合はこれを玄室内に収め、玄室狭くして後の一個を収蔵しがたき場合には、やむを得ずこれを石槨外に埋めしものなりと解せざるべからず。しかして、今問題に上れる水泥二つ塚なる羨道内の石棺は、まさに右の両者の中間の場合にあるものにして、これを玄室内に入るる能わざりしも、しかもなお羨道内においてこれを置くの余地ありしがゆえに、その左右の突起を削除してこれを運び入れたるものなりと解すべきなり。この石棺またかつて蓋を一方に動かし、内部の副葬品を奪い去りて、瓦礫を投入せるのほか、今は一物を存ぜざるもののごとし。
 3 今の水泥の地と古えの今木の境域
 水泥なるいわゆる入鹿の二つ塚が、『曰本紀』にいわゆる今木の双墓なりとの旧説につきては、世間往々にしてこれを疑うものなきにあらず。曰く、
  二つ塚の所在地なる水泥は葛上郡|古瀬《こせ》村の中にして、古えのいわゆる巨勢《こせ》の地に当り、今木《いまき》は現に吉野郡大淀村の中にして、明かに前者とその所属の郡を異にす。その地にある墳墓を今木に作れる双墓に当てんこと、地理の許さざるところなり(『考古界』第五篇第四号、山中樵氏の説摘要)。
と。しかれども、こは必ずしももって反対の証左となすに足らざるのみならず、地勢を案じ、沿革を研究すれば、水泥が古代今木の中なりしことの証左を発見し得べく、かえって有力なる論拠を付加すべきものなりとす。
(110) 今木は今来《いまき》の義にして、シナより新たに渡来せる帰化人をいう。よりてあるいは新漢《いまき》また新《いまき》の文字を用う。『曰本紀』雄略天皇の条に、坂合黒彦皇子と眉輪王と、新漢槻本《いまきのつきもと》の南丘に合葬すとあり。推古天皇の朝、留学生を隋に遣わすや、中に新漢人《いまきのあやひと》大国、新漢人日文あり。日文はすなわち有名なる旻法師なり。これら新来漢人の居地を今来という。『日本紀』欽明天皇七年の条に、倭国今来《やまとのくにいまき》郡と言う。五年春檜隈の人川原民直《かわらのたみのあたい》、宮楼《みや》に登りて良駒を見、これを買い取りて飼育せしに、よく十八丈の大内丘の壑を超えたり云々との事を記す。大内丘は天武・持統両天皇を合葬し奉れる檜隈大内陵の所在にして、けだし、当時今の高市郡檜隈地方より今の吉野郡今木地方へわたりて、別に一区をなし、今来の名をもって呼びしものならん。欽明天皇の朝にこれを郡というは、後の制によりて追記せしに過ぎざるべきも、大化以後なおこの地方が久しく一郡をなせしことは奈良朝の初期に吉野地方をもって一の地方行政区となし、吉野監を建てしさい、吉野今来の二郡を管せしめしことによりて知らるるなり(吉野監の二郡を管すること「律書残篇」による)。そもそも檜隈の地は、応神天皇が漢人|阿知使主《あちのおみ》の党のために与え給いし地にして、これよりその族この地方に繁延し、ついに新来の漢人をもって一郡を建つるに至りしなり。後に吉野監廃せられて大和国に合し、今来郡廃せられて高市・吉野の両郡に入る。すなわち東北なる檜隈地方は高市郡に入り、西南なる今来(後に今木)の地方は吉野郡に入りしなり。今来の漢人蘇我氏に心服す、漢直《あやのあたい》その甘梼岡の邸を守り、入鹿の誅せらるるや漢直ら眷属を※[手偏+總の旁]聚し、甲を※[手偏+環の旁]し兵を持し、蝦夷を助けて軍陣を設けしこと『日本紀』にあり。最後までも蘇我氏のために尽さんとせしものは、実にこの漢土の帰化人なりしなり。しかして、これら漢人の本拠たる今来の地が、蘇我馬子の墓地として点定せらるること、理においてまさに然るべきことなり。果してしからば、いわゆる今来の境域やいかん。葛上郡と高市・吉野両郡との境界は、北方にては重坂《へさ》川に由り、南方にては河東の山嶺に由る。これ現在の状態なり。しかして、いわゆる二つ塚所在の水泥の地は、古瀬とともに重坂川の西に位し、南葛城郡の管下にあるなり。この形勢にして果して古代の(111)ままならんには、いかにも論者の説のごとく、水泥なる墳墓をもって今木の双墓に当てんことはとうてい不可能なるべし。しかれども、つらつら地勢を案ずるに、重坂の上流はその両岸に狭小なる平地を有するのみにして、村落はこの両岸に同一の歩調をもって発達すべきも、いまだこれをもって自然地理的に行政区の境界となすに足らざるなり。しかしてこれより以東は山地相続きて、その間天然的の境界なく、西には国見山・鉢伏山より、朝町を経て南に連なれる山嶺ありて、西の方葛城川流域との間に分水嶺をなす。されば、吉野・高市両郡と葛城郡との自然地理的境界を求めんには、必ずこの分水嶺をもってせざるべからず。葛城郡は地勢上、とうてい葛城川の流域地方をもってその本体となすべきものなり。果してしからば古瀬・水泥等の地は、よろしく南葛城郡の管轄を脱して高市・吉野等に属すべきものなりとす。しかしてこのことたる、単に地勢についてこれを言うのみならず、余輩が歴史地理学的研究の結果は、よくこれを立証するを得るなり。なんぞや。それ古瀬の地たる、これ古えの巨勢の地にして、武内宿禰の族たる巨勢氏ここにおり、巨勢山口神社、巨勢寺の遺址等、今もなお現にこの地にあり。しかも巨勢郷は 「倭名抄」に高市郡に属す。重坂川以西の地が、古え葛城郡の中ならずして、高市郡に属せしこと、この一事のみをもっても、なおかつこれを証するを得べし。人あるいは檜隈の西北なる越《こし》村をもって古えの巨勢なりとし、もって古瀬の巨勢たることを疑わんとす。しかれども、越は『万葉集』に越《おち》の野などと詠める所にして、古えの越智《おち》に当り、おそらくは檜前郷に属せしものならん。高市・吉野両郡と、葛城郡との郡界が古今において著しき変動あることは、上述の事実以外、さらに条里制の研究によりて立証さるべく、葛城郡の南部が、前記国見山・鉢伏山より朝町を経て南に連なり、重坂川と葛城川との分水嶺をなせる山嶺によりて限られたりしことは、明かにこれを知るを得べし。ただしこの事は説明すこぶる複雑にわたるがゆえに、今これを簡単に述ぶるを得ず、他日条里の研究発表のさいに譲り、しばらく余輩の言を信ぜられんことを乞わざるを得ず。されど、今簡単にその研究の結果のみを約言せんに、大和平野の条里は中央の大道を分(112)界として東西両条里区に分ち、旧葛上郡は西条里区において三十二条以南の地を占め、しかしてその里を数うるには、郡の東界所在の地を一里とし、しかして順次西に数うるなり。しかるに、この方法によりて「春日若宮御社領大和伴田東西御庄注進状」その他古文書・古記録に散見せる葛城南部地方の条里を調査するに、今の境界にては一も符合するものなく、ことごとくその里の初発点を重坂・葛城両川の分水嶺に取れるを見る。これ明かに葛城郡東境の位置を示せるものにして、やがて古瀬の地が高市郡巨勢郷に属し、水泥が吉野郡今木の中なりしことを証するものなりとす。
 さて水泥の地すでに古え今木の中なりしことを知らば、ここにある大小二個の相並べる塚が、今木の双墓たりとの古説は、地理上よりの批難を免るるのみならず、かえって有力なる後援を得たるものなりというべきなり。
 4 いわゆる二つ塚の形式と規模
 さらに二つの塚をもって今木の双墓なりとなすことにつき二個の反対論あり。一はその形式より、一はその規模の大小よりなり。前者はいまだ特にこの塚について説を立てたるものを聞かざれども、一部の考古学者の中には、石槨・石棺等を有し、直刀・鏡鑑・珠玉等を発見する類の、考古学者のいわゆる古墳をもって、必ず推古朝以前のものとなすの論者あり。この説よりいわば、いわゆる二つ塚が推古朝よりも後なる蝦夷・入鹿の墓なりとしては認めがたきこととなるなり。しかれども、このことについては、余輩は記録と実地との研究より、十分の反対意見を有し、大化前後の墳墓が、普通に古墳として認めらるる、石槨式のものなりしことを確信するものなり。されど、これまた今これを本篇中に述ぶるにはあまりに議論複雑にわたるがゆえに、これを他日の発表に委し、しばらく読者が余輩の言を信ぜられんことを乞わざるを得ず。ただし、きわめて簡単にその二、三の証明を求むれば、『日本紀』大化改新のさいの墳墓制限に関する詔に、当時の墳墓必ず石槨と封土とを有することをいい、大宝の賊盗律また塚墓に棺槨あることを示し、また、古記録と条里制の研究とより明かにこれを決定し得べき天武・持統両天皇合葬の大内陵が、はなはだ(113)見事なる石槨を有する塚なること(この御陵の考証は他日あらためて発表すべし)の事実のみによりても、なお思い半ばに過ぐるものあらん。されば水泥の二つ塚は、その形式上より今木の双墓なるを妨げざるのみならず、かえって墳墓としての形式が当時の葬法に合い、ことに蓮花紋を有する石棺によりて、その仏教の影響を受くること多き時代のものなるを示し、蘇我父子の墓たる証明上、はなはだ有力なる後援を得るものなりというべきなり。蓮花紋は普通八弁にして、さらに再分して十六弁となるを常とす。しかれども、その比較的古き時代のものにありては、往々にして六弁のものなきにあらず。しかしてこの石棺が六弁の蓮花紋を有するもの、たまたま以てその時代を示すに有力なる材料たらずんばあらざるなり。
 次にその規模の上よりの反対説は、該墳墓が驕僭なる蘇我父子のものとしてはあまりに小に過ぐというにあり。曰く、
  『曰本紀』の該墳墓築造に関する記事によれば、その工事は普通の墳墓営造にあらずして、よほど大規模のものならざるべからず。ことに上宮大娘姫王の発憤して歎き給える言は、さらにその観念を強むるものあり。しかるにこの塚は普通の規模にして、その小陵と称せらるるもののごときは、むしろ普通のものよりも小にして粗略なり(『考古界』第五篇第四号、山中樵氏の説摘要)。
 しかれども、こは時勢と『日本紀』の記事の性質とを看過せる説ならずんはあらず。およそ古史の事を記する、事に縁りて筆し、事なければ略す。されば墳墓築造工事のごときも、『日本紀』全部を通じてその記事ある僅々指を屈するに過ぎず。記事あるがゆえに必ずしも特別に偉大なるものならざるべからざるの理なし。蝦夷驕僭にして挙国の公民、部曲の私民を徴発し、ついに上宮太子遺族の憤るところとなりて、他日、上宮家滅亡の因をなすに至りしことは墳墓築造以上の大事なり。『曰本紀』が今木双墓のことを記する、畢竟これあるがためのみ。その挙国の公民、百(114)八十部曲の私民を徴発すというもの、これ形容に過ぎたる文飾の致すところにして、必ずしもその文字通りに解するを要せず。もとよりその工事が、当時において非常に大規模のものたりしことはこれを認めざるを得ずといえども、しかもこれがために今木双墓が他に類例なきまでに偉大のものならざるべからざるの理なし。試みにこれを大化改新のさいにおける墳墓制限の詔について見よ。最大なる王以上の墓といえども、なお石槨の長さ九尺、広さ五尺、高さ若干、封土の径九尋、高さ五尋に過ぎざるにあらずや。これを現今存する古墳中に求むるに、はなはだ小なるの感なくんばあらず。しかもこれを作るに単功七千の役夫を要す。これに対して水泥現存の二つ塚を見る、挙国民を徹し、百八十の部曲を発すというもの、必ずしも文飾のみにあらざるなり。次に上臣の墓は、石槨の大さ右に准ずるも、封土は径七尋、高さ三尋たるに過ぎず。下臣の墓に至りては、封土径わずかに五尋、高さ僅々二尋半たるに過ぎず。しかしてその使用の石材のごときは、皇族以下ことごとく小石を用いよと規定す。もとよりこの制限令たる、当時の驕者の風を矯め、葬送を質素ならしめんとの目的に出でしものなれば、これをもってただちにその以前の墳墓の大さを測るべきにあらねど、いかに質素を旨とすとはいえ、一躍してその前代のものよりも非常に隔絶せる小規模のものを強制すべきにあらず。およそ墳墓の構造、大小、形状等、もとより多少の例外あるは免れずといえども、だいたい年代を逐いて隆替変遷するものにして、はなはだ宏大なる墳墓の盛んに行われたる時代が、たちまちに一変して貴顕富豪ことごとく小規模のものに甘んずるの時代に遷移すべきにあらず。石槨の絶大なるもの、これを大和島の庄の石舞台に見る。しかして余輩はこれをもって蘇我馬子が桃原墓に擬せんとすること、前号すでにこれを説けり。けだし、当時石槨を大にして、世に誇るの風習その極に達せしものなるべし。河内|機長《しなが》なる聖徳太子の御墓は、今その内部を窺うこと能わざれども、記するところによれば御窟の広さ丈間三間ばかりなりとあり。「丈問三間ばかり」の意義今これをつまびらかにせず。されど、ともかくもその玄室内に長さ六尺五寸ないし八尺、幅三尺ないし三尺七寸の御棺三個を(115)納めてなお余地多きことを思うに、室内はなはだ宏大なりしものなることは想像するに余りあり。かく偉大なる墳墓盛んに行われて、当時すでにその弊に堪えざるものあり、推古天皇は万乗の尊をもって特に薄葬を詔し給い、竹田皇子の墓に合葬せしめ給えり。さればこの後の墳墓が、これを前代に比してすこぶる狭小のものとなりけんこと、毫末の疑いを容れず。これより後十九年、大化二年における墳墓の規定は上述のごとし。この間において今木の双墓は築造せらる。今、水泥の二つ塚をもってこれを島の圧の石舞台に比するに、すこぶる小規模のものたりといえども、さらにこれを大化の規定に比するに、その石槨の宏壮なる、その用材の偉大なる、ともに同日をもって談ずべきにあらず。これを驕僭なる蘇我父子の墓とせんに、あに恰当ならずとせんや。しかしてこの墓築造の後四年にして大化の墳墓制限の詔は発せらる。この制限必ずしもその文字通りに遵奉されたりとのみは信ずべからずとするも、この後の墳墓がこれを前代に比してすこぶる狭小のものとなりたりけんことは、想像に難からず。おそらくは今木の双墓は本邦大古墳の最後にして、水泥なる二つ塚、明かにこれを吾人の前に示せるものなりというべし。なんぞ狭小なるのゆえをもって、これを今木の双墓ならずといわんや。
 5 結 論
 水泥の二つ塚は古来、蘇我父子が今木の墓なりとして語り伝えらるるものなり。その所在地がもと今木の中なりしことは条里制研究の上より十分に証明し得べきこと上述のごとく、その墳墓の構造が余輩の実地の調査と記録の研究とより知り得たるかぎりにおいて、ことごとく当時の形式に適合すること上述のごとく、しかしてこれをその当時の情勢に考えて、驕僭なる蘇我父子の墓たるに恰当することまた上述のごとしとすれば、その他に今木地方において大小二つの塚の相並べるものにして、これに適当すべきを発見せざるかぎり、余輩は古伝を信じてこれを蝦夷・入鹿の大陵・小陵なりと断言するになんらの支障を感ぜざるなり。しかして余輩の調査によれば、いわゆる今木の地方にお(116)いて一もこれに該当すべき他の墳墓あることなく、またかつて存在せりとの伝説をも聞かざるなり。されば余輩はこの二つ塚をもって今木の双墓なりと断定し、もって墳墓の時代を鑑定するの一好標本たらしめんとするものなり。すなわち西尾氏の邸内なるものは蝦夷の墓にして、その邸外なるものは入鹿の墓なり。蝦夷の大陵は石棺つとに壊されて蹟を止めざるも、入鹿の小陵は棺槨ともに幸いにその旧形を保ち、なお後より他の一石棺を羨道内に運び入れたるがごとき珍奇なる合葬例を吾人に示す。ことにその石棺たる、蓋の突起部に蓮花紋を刻したるがごときは、他に類例なきものとして、これを瓦当の蓮弁と比較し、考古学上有益なる資料を供給するものというべく、おそらくはこれ入鹿の妻の屍を納めたるものなるべし。
 余輩は蘇我父子の驕僭を憎む。しかれども、彼らが驕僭なりしのゆえをもってその死屍に鞭つことを欲せざるなり。いわんや今木の双墓たる、上述の理由によりて古代史上、考古学上はなはだ有益なる好材料なれば、余輩はこれをもって古代名士の記念物たる以外、ある特別の意味をもってこれを世に紹介し、これが保存の道を講ぜんことを希望す。
 
      四 檜隈大内陵
 
 天武天皇と持統天皇とを合葬し奉りたる檜隈大内陵《ひのくまおおうちりょう》は、大和国高市郡白橿村大字五条野なる里俗丸山と称する塚なりといい、あるいは同郡高市村大字野口なる里俗王の墓もしくは王墓山と称する塚なりといい、古来両説あり。『山陵志』『聖跡図志』『陵墓一隅抄』『大和志』『山陵考略』(山川正宣著)、『打墨縄』(北浦定政著)等多くこの前説を採る。また、『前王廟陵記』(松下見林著)、『山陵図絵』(京都大学蔵)、『山陵考』(水島永政著)等は後説による。元禄年中、いったん、野口なる王墓山をそれと決定し、修理を加えしが、幕末に至りこれを捨てて新たに五条野の方を取り、明治の調査またこれに従い、後、高山寺文書中より「阿不幾乃山陵記《あおきのさんりようき》」を発見するに及びて、再び野口の方に改(117)めたりという。「阿不幾乃山陵記」とは、四条天皇の文暦二年(すなわち嘉禎元年)三月二十日に、一賊の大内陵を発掘し、陵中の宝物を盗みたるさい、その陵内に入りて実地を視察せるものの記し置けるところなり。この山陵発掘のことは、藤原定家の『明月記』を始めとして、『百錬抄』『編年集成』等にも見え、なかにも『編年集成』には、この陵発掘につき、近辺・南都ならびに京中の諸人多く陵中に入り、御骨等を拝し奉るとあれば、右の記は、これらの人々のうちのものの筆録なるべし。
 「阿不幾乃山陵記」には、その陵が天武天皇陵たることを明記せずといえども、しかもつまびらかに陵内の御有様を記し、かつその地を野口と号する由をいえり。しかして「諸陵雑事注文」には、天武天皇陵を大和青木御陵と記す。これらの記事と、野口なる王墓山の実際とを合せ考えて、王の墓すなわち阿不幾(青木とあるも同じ)の山陵にして、これやがて天武・持統両天皇の陵なることを知るべし。宮内省が五条野の丸山を捨てて野口の王の墓を取れる、理由ありというべし。
 しかれども、世なお疑いをこの決定に容るるものなきにあらず。曰く、文暦二年に賊の発きしものが果して青木御陵にして、「阿不幾乃山陵記」の記するところそれなりとするも、この記の詳細の記事の中に、御棺ならびに御骨を記するに陵中ただ一個あることを言えるのみにして、女帝の御棺ならびに御骨につきて一言の及ぶものなし。しからば、いわゆる青木の山陵が、果して両帝合葬の大内陵なりや否や疑わしと。
 しかれども、持統天皇の御遺骸はこれを火葬に付し奉りたれば、普通の御棺に納め奉るべきにあらず。普通の例、火葬の遺骨は金属・陶器もしくは玻璃の壷に納む。『明月記』の記するごとくんば、賊が筥を盗まんがために、女帝の御骨のごときはこれを路傍に捨て去りたるを、さらに拾い奉りたる趣に見ゆ。すなわち阿不幾山陵中には、御遺骸を納めたる一個の御棺のほかに、別に荼毘に付し奉れる御遺骸を納めたる銀器のありしことを示せるなり。「山陵記」(118)のこれを記せざるは、その記者の実見せるさいは、すでに賊のこれを持ち去りたる後にて、もはや陵中に存在せざりしためなるべく、その御棺のただ一個のみなること、かえって両帝合葬の御陵たるを証明するものというべし。かつや文暦のころは鎌倉時代の初期にして、朝威やや衰えたりといえども、なお恒例の御儀式のごときすべて行われ、山陵の所在を失して他の墳墓をそれと誤り認むべきにあらず。かつて仁明天皇のころ、大和奈良の西方なる神功皇后陵と成務天皇陵とを取り違えたる前例なきにあらざるも、こは同所に同一の形をなせる陵墓のあまた群集せる地なれば、図録を見ざる軽卒の勅使が、土人の口碑に基きてさる誤りをなせしこともあるべし。しかれども、野口の地のごときは付近に誤るべき墳墓もなく、ことに山陵発掘というがごとき一大事実に際しては、いっそう鄭重にこれを調査すべきはずなれば、いかんぞ大内陵と他の陵とを永く誤認するがごときことあらん。ことに賊の発掘の結果、御遺骸を納めたる一個の御棺と、荼毘の御遺骸を納めたる御銀筥とが陵中に存在せしことを確め得たるの一事は、現実にその大内陵たることを証したるものというべきなり。
 五条野の丸山は本誌前々号「蘇我馬子桃原墓の推定」中に述べたる有名なる大石槨を有する墳墓にして、中に二個の石棺あり。これを大内陵に擬定せLは全くこれあるがためのみ。しかるに、一墳二棺を有するの例はあえて珍らしからず。近く同村の菖蒲池にもあり。単にこれのみをもって、両帝合葬の御陵なりと認定すべき理由は毫もこれあることなし。しかのみならず、持統天皇の御遺骸は火葬に付し奉りたるものなれば、御合葬とはいうといえども、ために陵内二個の御棺あるべからず。この点よりいえば、丸山に二個の石棺あるの一事は、かえってその大内陵ならざる反証とも見るべきものならん。
 野口の王墓山が大内山陵なるべきことは前述の理由のみによりても、もはや疑いを容るべきにあらねど、なおここに、さらに条里の研究よりして、これを立証すべきものあり。「西大寺三宝料田園目録」に曰く、
 
(119) 第六図 五条野野口地方条里図〔入力者注、略〕
 
  高市郡卅一条二坪内御廟東辺二段【字青木】所当米一石四斗五升、弘安八年十一月十一日僧善円光明真言修中料田寄之也
と。ここに三十一条二坪とは、三十一条二里の誤写なること明かなり。何となれば、およそ条里を記するに当りて、条よりただちに坪に続くべき理由なければなり。しかしてこの条里の記事によりて、青木の御廟すなわち大内山陵が、明かに高市郡三十一条二里内にあるを知る。この記事は、先輩すでにこれに着目し、大内陵の所在地は三十一条なるに、丸山は五条の野にあるものなれば、条里において明かに相違ありとのことより、五条野の丸山を否定するの理由となせり。されど、当時大和平野の条里の蹟いまだ明かならざりしかば、論じて肯綮に当るを得ざりしが、余輩の親しく調査せる結果によれば、五条野は高市郡三十条に当り、野口は三十一条に当る。橘寺と川原寺との間より正しく東西の方向を取りて西に通ずる道路は、まさに三十条と三十一条との境界の一部をなせるもののごとし。しかして野口の王の墓、実にその三十一条二里に当るなり。三十条なる地に五条野の名ある理由は明かならず。あるいは御廟野などといいしが訛りしものか。そはともかくも、三十一条二里なる御廟に青木の字あるを知れることは、「諸陵雑事注文」「阿不幾乃山陵記」等とあいまちて、いっそう正確に天武・持統両天皇合葬の大内山陵が、いわゆる野口の王墓山なることを立証するものというべきなり。
(120) 野口の王墓山すでに大内山陵なること明白なる以上は、恐れ多きことにはあれど、これをもって考古学上この時代の墳墓の一標本として、最も尊重すべき資料を供給するものといわざるべからず。今やこの陵は宮内省より鄭重なる修理を加え奉り、もはや再び陵内の御有様を拝し奉るべくもあらねど、幸いにして「阿不幾乃山陵記」を始めとし、諸書のこれを記するもの少からざるがゆえに、左にこれを摘録し、いささか註解を加えて研究者の参考に供せんとす。
 「阿不幾乃山陵記」に曰く、
  件陵形八角、石壇一|匝《めぐり》一町許歟、五重也。此五重ノ峯、有2森十余株1。南面有2石門1、門前ニ有2石橋1。
と。これ陵の外形を示せるもの。円丘の麓を八角に作り、結界石を繰らせるものなるべし。円丘の麓に結界石を繞らせるは、河内|上《かみ》の太子なる聖徳太子の御墓、同国通法寺なる源頼信・義家の墳を見て類推すべし。シナ・朝鮮の陵墓にはこの実例多し。この結界石は里人の取り去りしものか、後に存在せざりしがごとし。「一町詐歟」とはその陵の根廻りを目測して言えるなり。『廟陵記』に根廻り九十五間とあり。やや相違あれども粗略なる調査にはこのくらいの誤りはあるべし。円丘五重をなす。墳に階段あるものはその例多し。五条野の丸山、太子の聖徳太子の御墓等多く然り。舒明天皇の忍坂陵は、ために段々塚の名さえあるなり。石槨南面す。石門とはけだしその入り口を言えるなり。およそ石槨羨道の入口、すなわちいわゆる羨門は、通例土中に埋没すれども、こは多年堆積せる土壌によりて自然に埋もれたるものにして、本来は外部に露出せしむるを原則とす。そは、ある石槨または横穴の入り口の装飾によりて察するを得べく、聖徳太子の御墓のごときは、現今は知らず、維新前までは明かに槨内に入りてこれを拝することを得るごとく作られたりしものにして、『太子伝絵巻』所載の絵またこれを証す。その他、『古事記』垂仁天皇の条には、田道問守が陵の戸に橘の実を懸けたることをいい、威奈大村の墓誌には、「空対2泉門1」の語あり。また『日本霊異記』には、人木墓の戸に歌を書きて立てたりとの記事もあり。これらの記事またもって傍証となすに足らんか。円丘の周(121)囲に湟あり。石橋を架して内外相通ぜしもののごとし。「山陵記」また曰く、
  御陵ノ内ニ有2内外陣1。先外陣方丈間詐歟、皆馬瑙也。天井高七尺許、此モ馬瑙無2継目1、一枚ヲ打覆。内陣ノ広南北一丈四五尺、東西一丈許。内陣有2金銅ノ妻戸1。広左右扉各三尺五寸、七尺。扉厚一寸五分、高六尺五寸。左右ノ腋柱、広四寸五分、厚四寸、マクサ(※[木+眉])三寸、鼠走り三寸、冠木《かぶき》広四寸五分、厚四寸【已上金銅】、扉ノ金物六、内小四【三寸五分許】、大二【四寸許皆金】、已上形如2蓮花1返花。古不ノ形師子也。内陣三方上下皆馬瑙歟。朱塗也。
以上、石槨内部の御有様を述ぶ。内外陣とは玄室と羨道とをいう。「外陣方丈間許」とは一丈四方の謂か。丈間の語、聖徳太子御廟内の図にもあり。『廟陵記』には、野口の王の墓入口高さ七尺三寸五分と註す。「皆馬瑙也」とは花崗岩の切石よりなれるをしか見誤りたるならん。これを文殊(磯城郡安倍村阿倍)および越《こし》(高市郡坂合村越)に現存せる切石の石槨について見るに、斧鑿を加えたる花崗岩の面は、これを燈火の薄明りの下に見るに、あるいは大理石とも見紛うばかり見事なるものなり。大理石のことを古え瑪瑙という。南都薬師寺の瑪瑙の須弥壇、飛鳥川原寺の瑪瑙の礎石など称するもの皆然り。古墳墓に関して知識なき輩が陵内の荘厳なるに驚き、天皇の威霊に畏み、匆卒薄明りのもとにこれを見んに、大理石と誤認せしこと故なきにあらざるべし。この陵の石槨の切石よりなれることは、左の見取図によりても知るを得べし。
(−)元禄十年御改山陵図 (ニ)廟陵記 (三)聖蹟図誌 (四)大和名所図絵 
 第七図 大内山陵羨門見取図 〔入力者注、以上の四図略〕
 
(122) 右四図の中、(一)(二)と(三)(四)とは、すこぶるその形を異にするがごときも、こは古墳墓の知識なき画工が、意をもって描けるがためにして、(一)(二)の方むしろ真を写せるに近きものなるべく、いずれにしてもその彫琢を加えたる石よりなれるは明かなり。『大和志』にこの塚のことを記して、
  其の墓、窟中方丈余、大石五片を以てし、磨※[龍/石]精巧なり。而して今半ば毀る。
とあり。磨※[龍/石]精巧の語またもってその切石よりなれるを証するに足る。
 およそ全部を切石より作れる石槨にして、現在見るを得べきものは、まず指を前記文殊および越の両者に屈すべし。しかしてこの両者ともに一枚石をもって玄室の天井を蔽う。今この「山陵記」また、「馬瑙無2継目1、一枚ヲ打覆」というもの、もって両者を髣髴せしむ。玄室の入口に扉あり。木造にして金銅をもって飾れるがごとし。左右両扉、腋柱、※[木+眉]《まぐさ》、鼠走り、冠木等に関して詳細なる記事あるは、もってその構造、大小を知るの好資料というべし。これを鎌倉なるあまたの横穴について観るに、その玄室の入口に当りて腋柱を填め込み、扉を付すべき構造をなせるもの少からず。これあるいはもって類推すべきに似たり(河内飛鳥にも切石よりなれる右槨ある由梅原氏報告せらる。なお調査すべし)。
 「山陵記」またさらに曰く、
  御棺張物也【以v布張v之入v角也】朱塗、長七尺、広二尺五寸許、深二尺五寸許也。御棺ノ蓋ハ木也。朱塗。御棺ノ床ノ金銅厚五分。床上ヲ彫透。左右ニ八、尻頭ニ四、クリカタ四【尻二頭二】。御骨首は普通【ヨリスコシ大也】其色赤黒也。御脛骨長一尺六寸、肘長一尺四寸。御棺内ニ二紅御衣ノ朽タル少々在v之。盗人取残物等被v移2橘寺内1。石御帯一筋。其形ハ以v銀兵庫クサリニシテ、以2種々玉1※[食+芳]v之。石二アリ、形如2連銭1。表手石長三寸、石色如2水精1、似2王帯1。御枕以2金銀珠玉1飾v之。似2唐物1、依v難v及2言語1不v註v之。仮令其形如v皷、金銅桶一【納一斗許歟】居v床。其形如2礼盤1。※[金+巣]《くさり》少々クリカタ一在v之。
(123) 又此外、御念珠一連在v之、三匝ノ琥珀御念珠ヲ、以2鋼ノ糸1貫v之。而多武峯法師取了。又彼御棺中ニ鋼カケカネ二在v之。
と。これは玄室内部の御有様を述べたるものなり。御棺張物にして蓋は木なりとあるによれば石棺にあらずして木棺なりしがごとし。『和州旧蹟幽考』にはこの陵を倭彦命の身狭桃花鳥坂墓《むさのつさかのはか》に擬し、
  橘寺より西七、八町ばかり、俗に生ながら埋ける墳といへり。思ふに倭彦命の陵にこそ侍らめ、石棺あらはに見えたり。
とあり。されどここに石棺というは、石槨のことなるべし。古人の記したるもの、往々石槨と石棺とを混同し、あるいは両者を通用せるもの多し。一説に、この陵と欽明天皇陵との中間路傍に、俗に鬼雪隠《おにのせついん》・鬼俎《おにのまないた》とて、いと大なる一種異風の石棺の蓋と身と離れたるがあるを、この陵より取り出だせるものなりといえり。『大和志』に、
  倭彦命墓、在所未だ詳ならず、或は曰ふ野口村にありと云云。石棺・石蓋路傍に棄て置く。俗に鬼厠・鬼|肉几《まないた》と呼ぶ。
とあり。されど、こは高橋健自君もかつて『考古学会雑誌』の誌上に論ぜられたるがごとく、全く別物なること明かなり。よりて案ずるに、『日本紀』に天智天皇の勅を記して、
  我れ皇太后天皇(斉明天皇の御事)の勅し給ふ所を奉《うけたまわ》り、万民を憂へ恤むの故に、石槨《いしき》の役を起さず。冀ふ所は永代に以て鏡誡とせよ。
とあり。ここに石槨の役とは、今日考古学者間にいうところの石槨にあらずして、石棺のことなるべし。棺と槨とはその字義において多少の相違あり、『和名抄』に、「槨、和名|於保土古《おほどこ》、周v棺者也」とあり。
 また『康煕字典』には「考経註」を引きて、「周(ルヲ)v尸(ヲ)為(ス)v棺(ト)、周v棺為v槨」とあり。要するに、槨はさらに棺の外部を(124)被うものにして、いわゆる外箱なり。現今特に考古学者の間に用いらるる石槨の語は、あるいはその用法を誤れるものならん。今のいわゆる石槨は、ある形式の墳墓中一の必要なる構造にして、大化改新のさいの墳墓制限の詔に、内の※[門/活]さいくばく、内の高さいくばくなどと称する「内」に当り、厳密に言えばこれ当時の墓の主要部なるべく、古くはこれを塚穴または墓穴といい、直接屍体を納むる棺槨の具とは相関せざるなり。棺槨については同じ詔に「棺槨は以て骨を朽すに足る」とあり。
 また「大宝律」には、
  塚墓に於て狐狢を燻べ、而して棺槨を焼くものは杖一百。
ともあり。これらまた、いわゆる棺槨は直接屍体を納むるの具にして、さらにこれを安置する石室にあらざるを示せるなり(このことなお他日詳論すべければ今はすべて簡略に従う)。しかして、現今いわゆる石棺の中、さらに木棺を納めたりと思しく、木片および金釘の存するものあり。この場合今のいわゆる石棺は、棺を周れるものにして明かに石槨というべきものなり。本居翁はさすがにこの用法を明かにせられたりと見え、『古事記伝』に、
  内《うち》(ノ)棺《き》は上代より木以(テ)造れりと見ゆれば、此に石棺(垂仁天皇条日葉酸媛皇后葬送の条)とあるは外《そと》(ノ)槨《き》なるべし。己さきに大和国を見めぐりし時、十市郡安倍村の近き処に窟のある、やゝ深く入て奥に、石槨《いしき》の上は屋根の形に作りて高さも竪も横も六尺ばかりなるが立てるを見つ(喜田按ずるに、これは文殊より東の方、山を廻りたる所に、蜜柑畑の上方にある塚なるべし)。此正しく上代の貴人の墓と見えたれば、石棺と云るはかゝるものなるべし。
と言われたり。されば、天智天皇の仰せられたる石槨の役とは、今いう石槨にあらずして石棺なり。天皇は御母斉明天皇および孝徳天皇の皇后|間人《はしひと》皇女を同一陵内に合葬し奉りたるなれば、この点よりいうも、また大化の墳墓制より見るも、その陵に今のいわゆる石槨ありしことは明かにして、ただ石棺を作り拾わず、これをもって永制たらしめん(125)と仰せ給いしものならん。
 さてこの天智天皇の勅が果していつのころまで行われたりしかはさらに研究を要する問題なれども、ともかくも、事ごとに大津宮御宇天皇の制め給いしところを祖述せし近き時代には、必ずその制のごとくなりしことを信ずべく、したがってこの御陵の御棺が石棺にあらざること、まことに然るべきことなりとす。この点よりいうも、五条野丸山に二個の石棺を有することは、その大内陵にあらざる証拠の一とすべきものなるべし。
 御棺いまだ朽ちず、御遺骨もほぼ完存し、御衣の一部さえ朽ちながら遺れることは、文暦二年が天皇崩御よりわずかに五百五十年の後なることよりして首肯さるべく、密閉されたる石室中にありては、かほどの保存は当然のことなるべし。
 御副葬品は賊の取り去りたるほかにもなお多かりしなるべく、またその御品のはなはだ見事なりしことは、「言語に及び難きによりて之を註せず」の語によりて知るべきも、御玉帯・御念珠等のほか、いちいちこれを知るを得ざるを憾む。このほか、持統天皇の御灰骨を納め奉りし御銀筥は、賊の取り去りたればこの記文中になきこと当然にして、そは上にすでに述べたり。
 要するに「阿不幾乃山陵記」は、この御陵が大内陵なることを定むるうえにおいて、最も重要なる資料たるのみならず、考古学上当代の陵墓制中の一例を知るべきほとんど唯一の好資料というべく、余輩はこれによりて畏くも大内陵を研究し奉り、古墳墓制を調査するうえに、一大光明を得たるの感なくんばあらざるなり。
 因みにいう。五条野なる丸山は、もと燈明寺塚といい、『和州旧蹟幽考』には、
  陵。燈明寺塚と俗にいへり。石棺二つ見えたり。いづれの陵にやありけん。軽の町より十町南にして大道の西なり。
(126)とのみありて、延宝のころにはこれを燈明寺塚と称し、いまだこれをもって大内陵に擬定するの説は起らざりしと見ゆ。今はその形によりて丸山と呼び、その西北方なる一小墳を称して燈明寺塚という。名称の転訛りなり。この類他にも多かるべし。この丸山はその名のごとく一の円丘にして、南面に羨門あり。今はこれを塞ぎて入るを得ず。遺憾なり。羨門はこれを露出せしむるを法とすること上述のごとし。余輩は、その内部を毀損し、もしくは故人に対して不敬の所為なきかぎり、なるべくこれを開かれんことを希望するものなり。一説この塚は円丘にあらずして一大前方後円の塚なりという。田中教忠氏が『考古界』(第五篇第六号)に寄せたる「阿不幾乃山陵記考証」引谷森翁の文に見ゆ。近時、高橋健自君など、またこの説を採らる。その説に曰く、この塚は斜めに西北に向える大塚にして、周湟の跡なお存し、いわゆる丸山はその後円部のみを称するなりと。しかれども、これに関しては余輩別に説あり。種々の点よりしてこの説に首肯するを難ずるものなり。されど議論あまりに枝葉に渉るがゆえに、今は省略に従わん。
 
      五 河内国分山船氏の墳墓
 
 河内国南河内郡のうち旧安宿郡国分村に一丘陵あり。大和川その東より北の麓を繞り、川を隔てて近く平尾山に対す。平尾山はすなわち本誌前号に梅原末治氏の記述せられたる千塚の所在地にして、道明寺村領に属するものなり。丘陵中央において括《くび》れ、地勢おのずから二部となりてほぼ瓢形をなし、瓢の尻に当る方はすなわち東部にして高く、海抜約三百五十尺に達し、頭に当る方はすなわち西部にして低く、海抜約二百十五尺なり。その頭部の南腹に国分神社あり。西端に国分小学校あり。この丘陵はすなわち船氏墳墓の地として知られたる、旧名松岡山なるものなり。墓は瓢の頭部すなわち国分神社背後の頂にあり。西西南より東東北に向い、数個嶺に並びて存在す。その最左端(西端)のもの最も大なり。これを茶臼山と称す。円丘にして高さ約九十尺、もと葺くに白礫をもってす。近時(127)国分神社の参詣者が、ある迷信上よりこれを拾い去るがゆえに、はなはだしくその数を減じたりという。
 茶臼山の右(東東北)に接せるもの、また円丘にして、規模前者に比してすこぶる小。その葺くに白礫をもってすること前者に同じ。ただし今は全く開墾せられて桃畠となる。しかして、その以東の諸墳また皆その厄に遭えり。
 松岡山をもって船氏の墓地なりということは、かつてその墳丘の一より墓誌を出したるによりて知るを得たるなり。墓誌は銅版にして、もと河内古市なる西琳寺の蔵なりしが、いま三井源右衛門氏の有に帰す。銅版長さ九寸七分、濶二寸二分、面背に文を刻す。本誌口絵掲ぐるところ、その拓本なり(高橋健自氏所蔵拓本による)。文に曰く(傍訓および割証は喜田の加うるところ)。
  惟船氏故|王後首《おうごのおふと》者是(レ)船氏中祖|王智仁首《おうちじんのおふとノ》児|那沛故首《なはいこのおふと》之子也。生v於2乎沙陀宮《おさだのみやに》治天下天皇《あめがしたしろしめすすめらみこと》(訳語田宮御宇天皇にして敏達天皇と申す)之世1、奉3仕(シ)於2等由羅宮《とゆらのみやに》治天下天皇《あめがしたしろしめすすめらみこと》(豊浦宮御宇天皇にして推古天皇と申す)之朝1、至(ル)v於2阿須迦宮治天 下天皇《あすかのみやにあめがしたしろしめすすめらみこと》(飛鳥宮御宇天皇にして舒明天皇と申す)之朝1。天皇照見(シテ)知(リ)3其(ノ)才(ノ)異(ニシテ)仕(エテ)有(ルヲ)2勲功1、勅(シテ)賜(イ)2官位大仁(ヲ)1、品(ヲ)為(ス)2第三(ト)1。殞3亡(ス)於2阿須迦天皇之末、歳次辛丑(舒明天皇十三年)十二月三日庚寅1。故戊辰年(天智天皇七年にして、死去より二十八年目なり)十二月|殯3葬《おさめほうむる》於2松岳山《まつおかやまノ》上1。共(ニ)2婦安理能故能刀自《つまありのこのとじト》1同(クシ)v墓(ヲ)、其(ノ)大兄|刀羅古首《とらこのおふと》之墓(ニ)並(ビ)作(ル)v墓(ヲ)也。即為(ナリ)d安2保(シ)万代之霊基(ヲ)1牢c固(ニセンガ)永劫之宝地(ヲ)u。也。
 死去より殯葬まで実に満二十七年を費し、その妻とともにその兄刀羅古の墓に並びて葬れることを示す。築墓の大事業にしてこれをなすの容易ならざりしを見るべし。
 
第八図 大和川を隔てて北方より国分山を望む〔入力者注、略〕
 
(128)しかして、かくこれを鄭重にするはもって万代の霊基を安保し、永劫の宝地を牢固にせんがためなりしという。その墓のいかに鄭重に作られしかを見るべし。『皇朝金石苑』には、この殯葬の年の戊辰を皇極天皇三年の甲辰の誤りならんとし、かつ曰く、それにてもなお四ケ年を費せること、緩慢疑うべしと。しかれども、これ古代葬送の実際を知らざるの言なり。墓誌現存してその誤写ならざること明かなるがうえに、墓誌の記者がその葬儀執行の現在の年の干支を誤るべき道理もなければ、こは正しく二十八年目の戊辰に葬りしものにして、その間毫末の疑いを容るるの余地なきものとす。 さて、この墓誌の出でたる塚は、松岡山数個の墳丘中果していずれの塚なりや、今これを知れるものなし。されど、藤原貞幹の説として故栗田博士の『新撰姓氏録考証』に引かれたるところによるに、
  藤原貞幹云、大兄刀羅古は辰孫王の子太阿郎王なり。刀羅古太阿郎俗音近し。太阿郎王の墓は申位にあり、王後の墓は寅位にあり、故に並作るとほ云へるなり。
と。貞幹は親しくこの地を調査したるの人、当時明かに王後の墓の果していずれなりやを知悉せしを疑わず。しかして曰く、太阿郎王の墓申位(西西南)にあり、王後の墓寅位(東東北)にありと。貞幹が刀羅古をもって太阿郎王なりとなすことにつきては、余自ら異見を有す。しかれども、ともかくも貞幹がこれをその祖先なる太阿郎王の墓なりとし、しかして申位にありとするものは、疑いもなく、西西南端(すなわち申位)にありて最大なる茶臼山なるべければ、これと並びて寅位にありというものは、必ずその右に位して現に桃畠となれる墳丘ならざるべからず。貞幹親しくこの地を調査して、その著『好古日録』に記して曰く、
  河内安宿郡松岡山は古昔|船史《ふなのふひと》の塋城也。古墓三所猶存す。其の西に在る者(喜田いう、これすなわち茶臼山なり)高九丈許、上に碑二枚を立つ。
(129)と。かくていわゆる碑なるものを図示す。この石現にいま茶臼山にあり(第九図中前後の孔ある平石なり)。貞幹がもって王後の墓となすところのものが、この茶臼山の東に近接せる円塚なること疑いを容れず。しかして貞幹のこの認定は、全くその塚より墓誌を発見したるの事実に基づけるものなるべければ、これをもって王後の墓なりとなすにおいて疑いあるべからざるなり。
 王後の墓すでに茶臼山の東(即ち西より第二)なる塚なること疑うべからず。しかれども、これと並べる刀羅古の墓が果してその西なる茶臼山なるべきや、あるいは反対に、さらにその東に並べる円塚なりやにつきては別に調査を要するものあり。『新撰姓氏録考証』引くところ、松岡山墳墓の図なるものあり、余いまだこれを見るを得ざるを憾みとす。されど、貞幹が茶臼山をもって刀羅古の墓なりと認定せるゆえんのものは、刀羅古をもって先祖太阿郎王なりと解せるがために、これに当つるに最大なるものをもってせるものなるべきことは疑いなきに似たり。しかるに、余輩の解するところによれば、墓誌にいわゆる大兄刀羅古なるものは、決して太阿郎王にあらずして、その文字の示せるごとく王後の長兄ならざるべからず。しからば、これに当つるに最大なるものをもってせんこと、必ずしも当れりといい難し。管見によれば、王後が先祖なる太阿郎王の墓はこの松岡山にあるにあらずして、おそらくは旧丹南郡寺山、すなわち今のいわゆる羽曳山にありしものなるべく、いわゆる茶臼山は、おそらくは船氏の祖王辰爾の墓ならんと思考するなり。何をもってこれを言う。延暦十八年菅野真道ら奏して曰く、
  己等の先祖|葛井《ふじい》・船《ふな》・津《つ》三氏の墓地河内国丹比郡野中寺の以南に在り。名づけて寺山と曰ふ。子孫相守り累世侵さず。而して今樵夫市をなし、冢樹を採伐し、先祖の幽魂永く帰する所を失ふ。伏して乞ふ旧によりて禁ぜしめん。
と。今これら諸氏の系図を見るに、葛井・船・津三氏はともに辰孫王の曾孫午定君すなわち『姓氏録』にいわゆる塩君より分派す。辰孫王の子太阿郎王、太阿郎王の子亥陽君、亥陽君の子午定君なり。その系左のごとし。
(130)百済国仇首王孫
辰孫王――――太阿郎王――――亥陽君――午定君――味沙………(葛井氏)
(一名智宗王 (仁徳朝近侍) (一塩君)      辰爾………(船氏)
応仁朝帰化(                   (智仁君)
                         麻呂………(津氏)
                         (一名牛)
 右の系図は延暦九年菅野真道上奏の文によりて作れるもの、菅野はすなわち津氏の改名せるところにして、船氏の祖辰爾はすなわち敏達天皇の朝に仕えて一切の史官の解する能わざりし表文を読み、叡感に預りし王辰爾その人なり。しかしてその一族にはなお宮原宿禰・中科宿禰《なかしなのすくね》・白猪史《しらいのふびと》らあり。宮原宿禰は『姓氏録』に、菅野朝臣同祖、塩君の男知仁君の後なりとあり。知仁君はすなわち墓誌にいわゆる王智仁にして、船氏の祖王辰爾のことなり。延暦十年船氏の族今道ら八人に、居地によりて宮原宿禰の姓を賜う。中科宿禰はこれも『姓氏録』に菅野朝臣同祖、塩君孫宇志の後なりとあり。宇志は『日本紀』敏達天皇条に船史王辰爾が弟牛に姓を賜いて津史《つのふひと》となすとある牛にして、塩君の子なり。この津氏のことを『姓氏録』には塩君の男麻呂君の後とありて、正しく菅野真道の奏言に合う。果してしからば、麻呂すなわち宇志にして、『姓氏録』に宇志を塩君の孫とあるは、おそらくは子の誤りなるべし。延暦十年津氏の族巨都雄ら七人に居地によりて中科宿禰を賜う。白猪史は欽明天皇の朝味沙の子|胆津《いつ》の賜わりたる姓にして、養老四年改めて葛井氏となれり。
 かくその一族すこぶる繁延せしも、いずれも午定君すなわち塩君より分岐せしところにして、辰孫王より午定君までの四人は、これら諸氏の共同の祖先というべき人々なり。しかして菅野真道らはすなわち曰く、己等の先祖葛井・船・津三氏の墓地寺山にありと。果してしからば、辰孫王・大阿郎王らの墳墓は、当然この寺山にありと解すべきもののごとし。寺山の北に野中寺あり。その北方に藤井寺村あり。藤井寺村はけだし葛井氏本居の地にして、寺はその(131)氏寺ならん。さらにその北方に津堂村あり。けだし津氏の名を負えるものか。『延喜式』に河内国丹比郡大津神社の三座あり。これ津氏の祖神を祀れるにはあらざるか。船氏また丹比郡におりしこと、『続日本紀』文武天皇四年の条(道昭伝)および『三代実録』貞観九年の条等に見ゆ。かく、これらの一族いずれも丹比郡にありて、しかしてその共同の祖先の墓同郡寺山にありということ、事情最も適切なるを覚ゆ。
 貞幹が刀羅古首を太阿郎王なりとなすは、単に発音のやや似たるかのごとき観あるによるのみ。他に深き理由あるを見出す能わず。しかも刀羅古は墓誌に明かに大兄《おおえ》とあり。古語に大兄ということ、必ずしも長兄に限らず。『書紀』の私記(『古事記伝』所引)に、「昔皇子を称して大兄となし、又近臣を称して少兄と為す、宿禰の義少兄に取るなり」とあり。皇族にありては、日嗣の御子を大兄と称せしがごとし。ただしこは船氏墓誌の場合には当て嵌むべきにあらず。船史王後の大兄刀羅古とは、疑いもなくその長兄なるべし。よりて墓誌によりて試みに王辰爾以下の系図を作らば左のごとし。
 王辰爾――那沛故――刀羅古
           王後――安理故能刀自
 王後は推古天皇の十六年に、唐の使者裴世清接待のために掌客に任ぜられし船史王乎(本書王平とあり、けだし王乎の誤り)なるべし。那沛故といい、刀羅古といい、王乎という。いずれも名の下に「コ」を付す。これなお蘇我馬子、中臣|御食子《みけこ》などのごとく、このころ多く行われたる命名なるべし。皇極天皇の朝船史|恵尺《えさか》(一に恵釈に作る)あり。蘇我蝦夷焼くところの「国記」を得て中大兄皇子に献ず。その子に有名なる元興寺の道昭和尚あり。その他船氏の人々の国史に著わるるもの少からざるも、しかも刀羅古のことに至りては、古書一も見るところなし。されば果してその(132)階級のいかなりしかを知るを得ず。したがってその墓の大小等を推測するの資を有せずといえども、王後の墓に比してその規模はなはだしく偉大なる茶臼山をもって、刀羅古の墓に擬せんは、おそらくは当らざらん。しかるに王後の墓の右(東東北)に並べるものほ、その形状、大小ほぼ王後のと相似て、はなはだしく時代を異にするものとは思われず。これけだし、墓誌に並びて作れりという大兄刀羅古の墓なるべし。
 茶臼山すでに刀羅古の墓にあらず。しからばこの偉大なる円塚は果して何人の墓としてこれを擬定すべきか。管見には、これをもって船氏の祖王辰爾に擬するを至当とするものなり。なんぞや。墓誌を案ずるに、船史王後ならびにその妻、王後の大兄刀羅古、ともに墓をこの松岡山に占む。しかして、その墓にほとんど接してさらに他の数基の墳墓の相並べるあり。その間規模に大小の差ありといえども、大体においてその形状ともに円塚にして、しかも他に類例少き白礫を葺けることのごとき、ほぼ同一形式のもとに作られ、ことに彼此正しく一列をなせるがごとき点によりて考うるに、これらの墳墓はいずれも船氏の墳墓として、『好古日録』すでにいえるごとく、松岡山すなわち国分山は畢竟、船氏の塋域なりと解すべし。しかしてその最端景勝の地を占め、他に比してことに偉大なる茶臼山は、これをその祖王辰爾の墓に擬せんこと、最も適当なる見解ならずや。ここにおいて人あるいは曰わん、船氏代々の墓地としては、松岡山に墳墓の数少きをいかんと。しかれども、古えの法、必ずしも人ごとに墳墓を作るものにあらず。ただ祖先の墳墓のみはその家の誇りとして最も著しく作ること、これ古代の習慣なり。大伴家持の歌に、
  大伴の遠つ神祖《かむおや》の奥《おく》つきは著《しる》く占め立て人の知るべく
とあり。各家祖先の墳墓を著しく作り、普通の場合には家族中の死者は皆その墓域中に合葬せらるるなり。やや後のことにはあれど、「大宝令」の規定にほ、別祖ならびに三位以上のもの、もしくは氏の宗にあらざれば墓を作ることを得ずとあり。しかして王後は位大仁に上り、まさに三位以上に当る。その特別に墓を作れる、誠にこの規定に合う(133)ものと謂うべく、しかして他に墳墓の数の多からざるは、船氏にこの資格を有するものの少かりしためなりとも解するを得べし。船氏の名国史に見ゆるもの多し。しかも多くは位階六位、七位の間におる。その著しき墳墓なきは当然のことなるべし。
 茶臼山は寛永六年、いったん賊のために発かれ、石棺中の朱を奪われたり。副葬品もこの時に紛失せしものまた少きにあらざらん。いま国分神社所蔵漢鏡三面あり。三面ともに銘帯あり、好古家の垂涎措かざるべきもの。現に国分村西尾良一氏これを保管す。口絵の写真に掲ぐるものこれなり。箱の真に記あり。曰く、
  此御鏡国分平野屋勘三郎ちやうす山にて見いだし、則天王の御宝物にて依v有v是、上り候敬白
    寛永六年四月廿八日                 四郎左衛門
                              左助
                              新右衛門
                              太郎兵衛
                              総助
                              弥左衛門
と。けだし当時賊の遺棄せしものなり。山頂に平石二面あり。中央に穴を有し、南北に相対して立つ。貞幹はこれをもって無字の碑なりとし、その『好古日録』に図を出す。幅四尺余、高さは下部土中に埋もれたれば精密に知り難きも、露出の分四、五尺もあるべし。中央に円孔あり、径二寸ばかりか。その一には別に穴を穿ちかけて中止せる蹟あり。貞幹これを解して曰く、
  幹往年訪古の為南遊す。一石橋を過るに橋板一孔を穿つあり。正しく碑石なり。何れの時何れの墓より移して橋となせしや。面背隻字をえらず。全く下棺に用ふる古制に倣ふ者なり。
 
(134) 第九図 茶臼山頂上石棺蓋ならびに有孔平石(蓋上の円柱は某県令の建つるところ)〔入力者注、略〕
 
と。
 維新後堺県令某氏、再びこれを発掘して刀剣・珠玉・鏡鑑・土器等種々の副葬品を得たりという。今その種類、形状等をつまびらかにせざるを憾みとす。ただその中の一石器、形歯車に似て、その歯深く、かつ一方に流るるものあり。質は緑泥岩にして、これを歯輪石と名づけ、故神田孝平氏によりて『人類学雑誌』にその図を出せり。今はその発掘の蹟に石棺の蓋露出し、上に円柱無字の碑を立つ。けだし発掘者たる県令某氏のなすところ、その意解すべからず。蓋は斧鑿を加えたる平石にして、一端に突起あり。長さ一丈二尺余、幅後端にて四尺八寸、中央にて三尺三寸、前端にて二尺七寸五分なり。しかして貞幹のいわゆる無字の碑二枚は今なお旧形のままにその前後に相対して立てるなり。よりて思うに、貞幹のいわゆる無字の碑は、その実碑にはあらずして、石棺の蓋を下すさい、突起に懸けたる縄を支うるの用に供せしものなるべく、貞幹が「下棺に用ふる古制」というもの、当れるに似たり。石棺の蓋の平石にして、その端に突起あるもの、大和南葛城郡室の大墓(俗に武内宿禰の墓という。かつては『廟陵記』などによりて孝安天皇陵に擬せられたるものなり)にその例あり。ただしこれは前後の両端に二個ずつありて、すこぶるこの国分山のとは趣を異にす。石棺の構造は外部よりこれを見るを得ざるも、だいたい切石を組み合せて作れるもののごとく、その外部には、平たき割石をもって棺に接して槨を作りしもののごとし。その形式たる、余輩の寡聞なる、いまだ他に類例あるを知らざるものにして、さらにこれを発掘して調査せんには、たとい副葬品のすべては某県令によりて取り去られたる後なりとするも、なお考古学上はなはだ有益なる研究を遂げ得べしと信ず。付近に埴輪の(135)破片あり。
 これを要するに、国分山すなわち古えのいわゆる松岡山は、わが国古代の文学史上に功績著しき船氏の墓地にして、その左端の茶臼山は、中にも特に有名なる王辰爾の墳墓に擬定すべく、その次なるは墓誌によりて王後の墓なること著しく、第三のものはその兄刀羅古の墓たることを知るべきものなり。その他、「国記」を灰燼中に求めたる恵尺(道昭の父)の墓のごときも、その墳墓中に存するなるべし。しかるにその茶臼山はかつて賊に発かれたるがうえに、重ねて懸令某のために損われ、王後・刀羅古の両墓また今や桃畠と化し去りて、幽魂ために永くその帰するところを失い、万代の霊基を安保にし、永劫の宝地を牢固にせんと期せしものも、今はいたずらに墳丘の遺形と土器の破片の散乱せるとによりて、古墳墓なることを知るを得るのみとなれるの現状にあり。これ実に後人が古代偉人を待つの道ならんや。余輩は切にこれが適当なる保存の方法を講ぜられんことを地方の有志に希望するものなり。
 
(137) 「古墳墓雑考」付録
 
      一 河内軽墓の掘抜石棺について
 
 河内国中河内郡古市村大字軽墓は来目皇子の御墓のある埴生山の西北麓に当り、本邦第二の大陵たる応神天皇の誉田陵《こんだりよう》を始めとして、前方後円式の大小の陵墓、墳丘付近に散在す。村落を出でて西すること三町、用水池の西に峰が塚と称する荒陵あり。また前方後円にして西に向い、周湟の跡を存して、その西南部なお水を湛う。伝えて日本武尊白鳥陵という。古市なる白鳥神社一名|伊岐宮《いきのみや》はもとこの墳上にありて、今もこの地一帯の小字を伊岐谷と称すとぞ。この荒陵を西に距る一町余、小松林の中にまた一小墳あり。位置は埴生山東側の尾の上にして、同地浅野誠太郎氏の持山にあり。今は大いにその原形を損したれども、もとまた西向瓢形の塚らしく、埴輪の破片はなはだ多く散乱し、後丘上より三個の埴輪円筒を発掘せり。今はその場所に地主浅野氏の小亭あり。亭の西南方、瓢形墳の腰部の左側(西向瓢形墳の南隅)に偏してもと石の露出せるあり。山に松茸を生ずるがゆえに浅野氏、僕を役してこれを守らしめしが、そのもの湯を沸さんとして土瓶を托すべき石を求めんとし、右の石を発掘せしに、案外にも巨大なる平石にして、し
 
(138) 第一図 軽墓の掘抜石棺〔入力者注、略〕
 
かも三枚まで並列し、その下方さらに室あるを発見せり。すなわち地主立会いのうえ、これを除けば、東西北三方、石垣をもって築き上げ、底に泥土を敷ける深さ二尺ばかりの空室あり、さらにその土を穿つに下に石棺あり。さきに底と思いしものは蓋石の間隙より泥土の流れ込みて石棺を埋みたるものなりしなり。すなわち、さらにその石棺を発掘してこれを検せんとせしも、巨大にしてこれを動かすべからず。かつ全部一石よりなりて、これが入口を求むべからず。やむなくその屋根を穿ち中を窺いしに、南方より泥土の流れ入れるを知り、すなわち南に口あるを発見せり。写真に、左上部に石を置けるごとく見ゆるは実にこの時に穿てる穴を他の有合せの石にて蔽えるものなり。これよりさらにその南部を穿ち、ようやくにして写真の示すがごとき全形を掘り出すことを得たり。
 棺は俗に煉り石と称する凝灰岩よりなり、屋根形をなせる掘り抜きのものなれども、普通の掘抜石棺のごとく蓋と身と離るるものにあらずして全部一石よりなり、前方より寝棺を挿入すべきがごとく横に穴を穿てるものなり。棺の前方に入口の穴あるものは、必ずしも類例に乏しからず。その最も有名なるものには筑紫の国造磐井の墓として世に知られたる筑後国八女郡下広川村大字一条なる石人山(前方後円墳の名)の石棺あり。ただしこれは蓋と身と別なるのみならず、身また五個の平石を切り合せて作れるいわゆる組み立て石棺にして、蓋には普通の石棺に見るがごとき縄掛の突起あり(この石人山のことにつきて他日、本誌上に説明を掲ぐべし)、また、『人類学会雑誌』上に大野雲外氏の報告せる伊豆田方郡北江間村横穴中の石棺も前方に穴ありて、これは掘抜石棺なれども、また蓋と身とは別石よりなれるなり。なおこの類のもの出雲簸川郡塩冶村にもあれど、この軽墓の石棺の全部一石より
 
(139) 第二図 軽墓の掘抜石棺(右)前面上方より見たる図,(左)屋根を上方より見下したる図〔入力者注、略〕
 
なれるがごときものは、余輩の寡聞なる、いまだ他に類例あるを聞かざるなり。
 棺の大きさ、外部にて長さ約八尺二寸、幅約四尺二寸、高さ約五尺五分。そのうち屋根の分高さ七寸、棟の頂長さ七尺五分、幅三尺、穴は方形をなし、奥行約七尺一寸、高さ二尺一寸、横二尺九寸なり。その全形は写真のみにては明瞭を欠くをもって、ここに毀損せざりし前の形を復原して挿入す。
 石棺は切石よりなれる台石の上に安置せらる。石棺の左右および後方には、一尺ないし二、三尺大の割石をもって棺に密接して石壁を設け、棺の上方約二尺の空地を存して石蓋を施す。石槨の内法《うちのり》に密接したる石棺を槨内に置きたるの形なれども、しかも普通に石槨を設け、その中に石棺を安んずるの類にあらずして、まず石棺を安置し、その左右および後方にこれと密接して石垣を積み、上に石蓋を蔽いしものなること疑いを容れず。
 石棺の前面すなわち入口の部は、かつて発掘せられたりしものと見えて、石蓋を存せず、泥土は雨水の浸潤によりて内部に流れ入り、中には土器の破片と骨片とのほか一物をも存せざりし由なり。槨の羨道とおぼしき部分も破壊せられ、土に蔽われしものなるべく、原形を見るべからざれども写真の右方(入口の前)に見ゆる石垣は、羨道の右壁をなせしものなりとす。
 以上記述するところ、ほぼ該石棺の実際を悉くす。なお持主浅野氏において、毀損の部分を修理し、保存の途を図るべしとのことなれば、有志の士は親しくついてこの珍奇なる石棺に研究を加えられんことを望む。余輩の寡聞なる、いまだ世にかかる珍奇なる石棺の類例あるを知らず、すくなくも従来学界に提供せられたるものの中には、かく全部一石よりなれる掘抜式のもの(140)あるを聞かざるなり。したがって、他と比較研究を加えて、これが時代を講究せんには、副葬品を奪われたるこの石棺のみにてはあまりに材料僅少なるの憾みあり。しかれども、これをその製作より見るに、この地方に普通に存在する前方後円式もしくは瓢形式の墳墓中に見るべき棺槨とははなはだしく趣を異にし、ことにその位置が瓢形丘の腰部左側に設けられたる事実よりして観察するに、決してその瓢形丘の墳墓当初の主人公のにはあらず、丘上に小亭を作らんとして発掘せし埴輪を置きたるさいとは時代を異にするを疑わざるなり。けだし、後に子孫をその祖先の塋域中に葬りしものか。かかることは世その類例多し。しからずは、寄生的に他の屍を葬りしものと解すべく、その時代は、この地方において普通に見るところの家屋形石棺よりも後れ、すくなくも奈良朝を上らざるものなるべく思わる。ただし、こは試みに言うのみにして、時代を断言せんには、さらに古墳墓学上十分の研究を積みたる後ならざるべからざるは勿論なりとす。
 これを要するに、この石棺は他にいまだ類例を見ざる、最も珍奇なるものとして推奨すべく、余輩は浅野氏の発見によりて、学界に考古学上この有益なる一新材料を加えたるを喜ぷ。
 因みにいう。大和檜隈なる鬼の雪隠・鬼の俎と称する石棺は、前方に入口を有すること、この石棺に似たれど、これは二石よりなり、かつ、全形を家屋形に作れるにはあらず。なおこの類のもの河内西浦山徳楽山に発見されたりとの報あり。また二石よりなるも、形式すこぶるこの軽墓のに似たり。親しく調査の上記述するところあるべし。
 
       二 南河内の珍らしい石棺
 
 前号に写真を掲げ、略解説を付しておいた河内軽墓の一石よりなれる石棺は、従来いまだかつて学界に紹介されざりし珍奇なもので、その作り方といい、石槨の有様といい、今においてなお他に類例を見ざるものだが、その
 
(141) 第三図 徳楽山の石棺(上)全形想像図,(下)原状想像図〔入力者注、略〕
 
後の河内地方踏査において、さらに他の珍らしい三個の石棺を見てきた。いずれも石棺をそのまま土中に埋めた類のもので、軽墓のごとく石槨を伴っておらぬから、これがために軽墓のに類例を加えたとはいえないが、しかし石棺そのもののみについていえば、作り方に精粗の差違こそあれ、大体において同一系統のものというべきものである。
 その第一は本号口絵に写真を掲げておいた徳楽山現存のものだ。山は南河内郡西浦村蔵の内領で、軽墓の石棺を発見した山とは岡続きの南の方だ。
 この石棺は写真でもだいたい想像することができる通り、その半身を山腹に露出しておるもので、口は南に向い、大体の形は軽墓のに似ておるけれども、しかもこれには石槨なく、かつ、蓋と身とは別の石で、その身もまた二個の石を継ぎ合せて作ってある。またその形にも多少の違いがあって、石棺に関してさらに学界に一新報告を加えたというべきものだ。しかしてその蓋は、別の石から出来ておるとはいうものの、決して棺の中へ屍体を収めて後に施すがごとき普通の石蓋とは性質の違ったもので、上下が別石よりなることは、ただ細工をするうえの都合からばかりだ。出来上った結果は全部シックリと切り合せて、一見一石とも見るべきほどのものとなっておる。したがって蓋は取り外ずしすべきものでなく、むろん縄掛け用の突起などもない。全く軽墓のと同じく、据え付けた後に前面の口から木の寝棺をでも挿入したものとしか解されない。しかし、その口は軽墓のとはやや違って、普通横穴の入り口に見るがごとく、上下左右から作り出しがあっていったん狭くなり、さらに内部に至りて広くなっておる。これは三つの石を合せて作ったから、こんな器用な細工が(142)できたものであろう。穴の奥行は六尺三寸一分、幅は正面の入口で一尺七寸五分、作り出しの狭くなったところで一尺四寸五分、内部で二尺五分、高さが正面入口で一尺四寸四分、作り出しの狭いところで一尺二寸、内部で一尺三寸七分、石棺の高さと長さとは全形が露われていないから量ることができぬが、幅は三尺六寸で、石質は例の練り石と称する凝灰岩だ。
 この石棺(その中へ木棺を挿入したものとすれば、あるいは石槨というべきものかは知らぬが、しばらくその外形から石棺と呼んでおく)について、ことに奇態なのは、その前部のみ立派に屋根形に作って、三分の一くらいの場所から奥の方は麁い面のままに放置し、あまり彫琢を加えてないことだ。これは、この種の石棺が、各地にある横穴や、あるいは今も琉球に行われておる墓のように、その入り口をのみ露わして、奥の方は盛り土に埋めておいたことを示すもので、古墳墓のある形式上、最も貴重な証拠物だと思う。今は多年の風雨に浸蝕され、草刈る童の鎌の先にかかって、その前部も大いに原形を損じ、写真のみでは十分にこれを暁ることができないから、試みに当初の有様を復原して、見れば前図の通り。
 前号所掲の軽墓の石棺といい、この徳楽山石棺といい、埴生岡にかかる異形なる石棺の存することは古墳墓調査上注意すべき事項である。軽墓石棺の所在の付近には古瓦の破片はなはだ多く散在して、一見その廃寺址たるを知ることができる。瓦は普通奈良朝ころの寺院において見るものと類して八葉複弁の蓮花を表わし(地主浅野氏所蔵)、唐草瓦にもまた当時代の特徴を有するものがある(地主林氏所蔵)。土人あるいはその地をゼンショージ山という。延暦十八年三月菅野真道らの奏言に「己等の先祖|葛井《ふじい》・船《ふな》・津《つ》三氏の墓地河内国|丹比《たじひ》郡野中寺以南にあり、名けて寺山と曰ふ。子孫相守つて累世侵さず、而して今樵夫市を成し、冢樹を採伐す。先祖の幽魂永く帰する所を失ふ。伏して請ふ旧によりて禁ぜしめん。」とある。この寺山すなわちいわゆるゼンショージ山で、古瓦の出る所まさにその寺址に相違な
 
(143)  第四図 叡福寺の石棺 (上)側面,(下)正面 〔入力者注、略〕
 
い。その山に異様な石棺が発見されたことは、この葛井・船・津等の家柄との間になんらかの関係があるのではなかろうか。言うまでもなくこれらの諸氏は百済王家の一族で、かの鳥羽に墨書した高麗の表文を読んで名高い王辰爾の兄弟から分れたものだ。なおこの中の船氏の墳墓は旧安宿郡松岳山にもあって、これについては別に研究したものがあるから、他日筆を改めて記述しよう。
 次に第二、第三に数うべきものは、軽墓のや徳楽山のともやや違って、しかも性質においてすこぶるこの両者と似ておるものだ。その一つは上の太子として知られた南河内郡(旧石川郡)磯長《しなが》村大字太子の叡福寺境内続きで、延享年中に高屋連|枚人《ひらひと》の墓誌を発見した場所にある。その地は後世寺の墓地となったものと見えて、あまたの石塔婆が並んでおるのみならず、石棺そのものの上にも古い多重塔が立っておる。石棺は非常に大きく、今は蓋のみで、身の方は深く土中に埋まっておるのかは知らぬが見ることができない。今ではつまり蓋が多重塔の台石となっておる形だ。蓋の長さは八尺四寸四分、幅四尺八寸三分、高さ二尺一寸二分の一枚石で、一尺四分の厚さを残して内部は弓状に刳り込んである。この蓋また普通見るごとき縄掛けの突起がなく、しかも非常に大きくて容易に動かしがたいことから察すれば、これまた徳楽山のと同じく蓋を重ねて据え着けにし、前面に穴があってそれから寝棺を挿入したものとより解することができない。その図は上の通り。
 この石棺が果して高屋連枚人のであるとすれば、墓誌によって年代ならびに身分、家柄等をも知ることができて、古墳墓研究上はなはだ有益なる資料と言わねばならぬ。枚人の墓誌は現に叡福寺に蔵し、今は国宝となっておる。その文は、
(144)  故正六位上常陸国
  大目高屋連枚人之
  墓宝亀七年歳次丙
  辰十一月乙卯朔廿
  八日壬午葬
とある。位はやっと正六位上、官はわずかに大国の大目ほどの身分で、それにしては石棺が大に過ぐるかの感がないでもないが、奈良朝末ごろには身分によるの制も弛んで、家の貧富に応じ実力相当のものを造ったのであったかも知れぬ。墓誌長さ八寸六分、幅六寸、厚さ三寸九分。石は赭白色にして粗質なる砂岩らしく見える。俗に天日焼の磚と称し、狩谷※[木+夜]斎は「石に似て石に非ず、瓦に似て瓦に非ず、土砂合成して未だ火化を経ざるもの」といっておる。文字は陰刻で、同形の石を重ねて蓋としてある。その発見の次第は『河内名所図絵』に、「上の太子の東愛染堂の辺、田圃の間にあり、延享年中此地より墓誌を掘り出す」とある。また『好古小録』には、「河内国石河郡□□山崩れてあらはる」といい、『古京遺文』また同様の記事であるが、これは山名も聞き漏らしたほどだから、山崩れてあらわれたというのもどこまで信じてよいか否かわからぬ。しかし、この程の墓誌は石棺の外へおいたものであろうから、掘り出したのであっても、山崩れで露われたのでもさしつかえはない。
 今一つはこの高屋連の墓誌の出た場所から東へ行くこと約十三町、山田村で、村中仏陀寺の東門前にある。その外に露われた屋根の形は、右に述べた石棺の蓋と全然同じ形をしたもので、その郡はもと石川郡、村は山田村というところから、土地の人はこれを蘇我倉山田石川麿の墳といっておる。石川麿の墳というもの、山城の相楽郡にもあるが、おそらくは共に事実でなかろう。しかしこの山田村のは、『河内名所図絵』にもすでに山田麿墓山田村仏陀(145)寺境内にありと見えておるほどで、前々からいったものと見える。この塚は、今は寺の境外で、山本亀吉という人の所有地内に属し、長さ四間、横三間、高さ三尺ばかりの土饅頭で、その上に石棺が露出しておるのである。これを上から見たところは全く叡福寺の高屋連の墓誌の出た地の石棺と同様であるが、しかし彼は石棺の蓋が身と離れ、蓋の内面に弓状の刳り込みがあるに対して、これは軽墓の掘抜石棺式で、屋根も身も一石からできておる。しかして、その方向は軽墓のや徳楽山のと同様、南面に口があって、それから寝棺を挿し込んだものと思われる。口の作り方はやや徳楽山式で、軽墓のよりも込み入ってはおるが、内部の様子は全く軽墓式である。つまり軽墓の石棺の屋根にいくらか丸みを付け、入り口に所作を施したならば、この山田麿の石棺になるのだ。ただし彼は外部に棺と密接した石槨があり、これにはないという著しい相違のあることを忘れてはならぬ。
 この山田麿のという石棺は、高屋連や軽墓のよりは小さく、徳楽山のよりやや大きい。すなわち穴の奥行が六尺四寸一分、外の長さが七尺三寸、幅が四尺という見当だ。穴の高さや外部の高さは下方が土に埋まっていて量ることができないが、要するに、外形が高屋連のと同一形式で、それを軽墓式に一石で造り上げたならこの山田麿のになるわけだ。これまた異風なる石棺の一として、学界に新材料の報告を加えたものだと言わねばならぬ。
 要するに軽墓以下の四石棺は、各自形式なり製作なりにおいて相違はあるが、いずれも蓋を取り外ずしするものではなく、前面に口があって、そこから寝棺を挿入したものらしく思わるる点において共通の性質を有するものといってよい。わずかに二回の踏査中に、この四個の、しかもそれぞれに多少の異同のある学界未知の石棺を調査することができたのから考えてみると、河内にはまだまだほかにもこの類の、もしくはこれと変った新材料があるであろうと思う。しかして、高橋健自君を始めとして多くの人士が多年漁りにあさったところの大和平野は、こことはわずかに山一つを隔てたのみなるにかかわらず、一もこの種の石棺がなく、ただわずかに多少の類似をいうべきものは檜前な(146)る鬼の雪隠・鬼の俎と称する石棺があるばかりなるに反して、河内にこの種のものが多いことは、古墳墓研究者の大いに注意せねばならぬことと思う。
  因にいう。高屋連の墓誌とともに口絵に掲げたのは、該墓誌所蔵の叡福寺境内なる聖徳太子御廟の正面の写真である。御廟は階段を有する円塚で、南面して羨道が開け、石槨内には御母間人皇后、聖徳太子、御妃膳郎女の三個の御石棺があるそうである。絶新前までは時として信者の入室参拝を許したそうであるが、今は宮内省において厳重にこれを守り、中を窺い奉ることはできぬ。しかしこの御墓が聖徳太子のであることは、伝世して毫末も疑いのないところで、もってこの時代の墳墓制を見るべき一好標本となすべきものである。
 
      三 大和南葛城郡山口の千塚
 
 人は死すべきもの、死すれば普通に墓に葬らるべきものと相場が極っておる以上(もっとも大蔵《だいぞう》といって、全く骨を散らしてしまうこともないではないが)、いやしくも人の群集地があれば墓の群集地のあるのは不思議のないもの。墓の群集地はすなわちいわゆる墓原《はかはら》で、その各地に存在しておること、苦も今も変りはなく、それが古代の土を盛った塚の群集であると、俗にこれを千塚などという。しかし昔時のものとなると、久しい間にあるいは埋没して世に忘れられ、あるいは破壊されて全く跡を絶ち、群集のままを今日に保存しておるものは少いといってもよい。ことに立派な棺槨を備え、貴重品を副葬してあるような偉大なる塚墓となると、そう誰でもが作り、どこにでもあるものではない。したがっていわゆる千塚なるものは、今日ではむしろ珍しい遺蹟としてこれを研究し、これが保存を図るべきものである。
 千塚の古来著名なるもの、大和では山辺郡|萱生《かよう》の千塚・高市郡|鳥屋《とりや》の千塚、河内で中河内郡(旧高安郡)
 
(147) 第五図 山口千塚の一部見取図〔入力者注、略〕
 
東部山地|千塚《せんづか》村の千塚などである。しかし、実地について調べてみれば、このほかにもまだまだ千塚と号すべきものは多い。五十・六十の古墳墓群は、どこの国にもあるといってよいくらいである。なかにも近ごろ余の踏査した大和の南葛城郡忍海村大字山口の千塚、同郡秋津村大字室の陣笠山千塚、河内中河内郡(旧大県郡)堅下村大字高井田在の道明寺山千塚などは、その著しいものだ。本号の口絵にある写真は、その山口千塚の一部で、写真に入れる場所は、左の見取図中の「ハ」「ニ」「ホ」「ヘ」「ト」「チ」のあたりである。「ハ」の杉が茂っておる塚の上には小祠がある。口絵の写真の右端に見えるのがすなわちこれだ。山口村は大和の西境を限っておる葛城山脈の東麓で、いわゆる山の口に当るの地、西より流れ下る谷川の北側、すなわちいわゆる河の陽に当る場所に、古塚は累々として存在しておる。しかしながら、いつのころよりかこの地方は大部分開墾せられて水田となり、古塚の多数は開墾当時発掘の難に遭って原形を失った。が、しかもなお、今もってこれらの山田の畔には石槨の蓋石や天井石などの露出しておるものが少くない。否、山田の畔という畔には、ほとんど塚石の出ておらぬ所が少いといってもよいくらいだ。現に余が踏査した昨年十二月十日には、その中の一つを発掘して石槨の石を壊し、建築用の石材を割り出しておるところであった。中から石棺ならびに土器、小玉などが少からず取り出されていた。塚石を取りて建築用土木工事用の石材とすることはこの地方一帯に行われておることで、場所によっては塚石がほとんど唯一の石材供給場と見做されておる所もある。それで、この見取図に見えておるあたり(148)は、幸いにして水田に適しないがために、今もってやや原形を存してはおるのであるが、しかもそれすら近年になって著しく破壊された。図中の「イ」「ロ」「ナ」「ラ」「ム」「ウ」「ヰ」「ノ」「オ」などは、今はことごとくその塚石を取り去られて、わずかに盛り土の一部を止め得るばかり。中にも「ロ」の塚のごときは、明治二十五年中に故野淵龍潜氏が奈良県の命を受けて調査した時の見取図を見ると、石槨奥室の奥にさらに狭い室があって、わかりやすくいわば前後に羨道があるというべき形をなし、すこぶる珍奇なものであったのだ。そこで、自分は試みにこれを発掘者について問うてみたが、果してその男は余が未見のことに熟知せるに驚いたらしい顔して、「いかにもこれは変った塚で、奥の蓋石を取ると、ちょうど盛り土の下へ前後に通り抜けの随道ができるような工合なので、これは妙だ妙だと語り合いながら壊したのです」と答えた。実に珍物を惜しいことしてくれたもので、いまさら小言いっても追い付かぬ次第。玄室の奥にさらに狭長なる一室のあるのは、余の知れるところでは河内道明寺山にただ一個の例があるのみだが、あるいはその類であったかも知れぬ。 だいたい古墳墓発掘ということは、その持主にとって三重の利益がある。第一に石材が比較的少い労力で得られる。第二に時としては金環・曲玉・土器などを発掘するという儲け物があって、鵜の目鷹の目の古道具屋が遺失物法の網をくぐって高価に買って行く。さて第三にはその石材を取ってしまった跡が、不毛の地変じて良田畠となるというわけである。この旨い味を知ったものどもが、盛んに発掘、破壊を試みるのはあえて無理のないことだ。国家はすべからくこれに対して適当の方法を講ずるの必要がある。
 右のごとき次第であるから、現在幸いに破壊を免れておるものでも、いつその儕輩と同一の運命に陥るかもわからぬ。この危い運命におるものがこの見取図に表われておるもののみでも二十近くはある。これより下方の田畠の畔、あるいは岡の尾の上にあるものは、数限りもないことであろう。なかにも「ハ」より「ヨ」に至る間の十数個は、道(149)路に面して一列に口を開き、あたかも割棟長屋をでも見るようなふうで、確かに各地の千塚中にも類の少い一奇観である。ことにその割棟長屋然たる各室は、他に類が少いほどの小さいものが多数で、なかには高さ四尺、幅が底部で二尺二寸、天井で一尺五寸、奥行六尺というがごときは、珍中の珍といわねはならぬ。またこれらの各室は、それぞれに円塚を有するものではなく、山腹へ横穴式に石槨を作ったものらしくも見えるもので、この点からいっても、珍物として推奨したいと思う。
 山口の千塚は実にこの忍海地方の古代における発展の状を示すべき唯一の証拠物件である。この地方人士の共同の祖先が万歳を期して安らけく眠っておる場所である。しかしてこの千塚は特に考古学上からいっても種々珍材料を供給すべきものが少からんのである。しかるにもかかわらず、この地方の人士がこれを破壊して毫も顧みないのは、いかにも心ない次第といわねはならぬ。しかして余のこの苦言は、他の一切の古墳墓についても言うべきもので、今この山口の千塚を紹介するに際し、切に有志の注意を喚起しておきたいと思う。
 
       四 古墳墓雑記三則
 
 1 二重三重の濠を繞らした珍らしい塚――仁徳陵(和泉)・磐之媛陵(大和)・鬼塚(筑後)・権現塚(筑後)
古墳墓の周囲に濠《ほり》を繞らしたものの多いことはいまさらいうまでもないが、なかには二重あるいは三重に作ったのもある。垣根に八重垣があるごとく、濠に八重濠があってもさしつかえはないはずだ。古来二重濠の有名なのは和泉なる仁徳天皇の大山陵で、これは一大前方後円墳を取り巻いて、立派なものが存しておる。実は三重だとのことで、その最も外のも修築されたと聞いたが、近ごろ参拝の機を得ないで、そのいかに修築されたかは知らぬ。
 河内なる応神天皇の御陵もその一部にはお濠外の土堤すなわちいわゆる中山の外に空濠の址が存しておる。中山に(151)は埴輪が立派に列をなしていた址が存して、普通の濠外の地とは趣を異にし、明かに御陵の一部なるを知ることができる。しかし、その外にもと濠があったとしても、それは空濠で、古くからこれを越えて人が出入したものと見え、すでに『日本紀』には、雄略天皇の御代に安宿郡の田辺伯孫《たなべのはくそん》という人が、その聟の書加龍《ふみのかりよう》の古市郡の家より帰る途中に、この陵の傍を過ぎて、埴輪の馬に乗って帰った話が見えておる。
 大和奈良市の西方にも二重に濠を繞らした塚がある。位置は水上池の北で、今も外濠の西と南の二辺には水を湛えておる。この塚は字をヒシャゲ山といい、古くは平城天皇の楊梅陵に擬定されたこともあったが、今は仁徳天皇の皇后磐之媛命の御陵と定まった。皇后陵は『曰本紀』に那羅山に葬るとあるのみで詳細の記事はない。『延喜式』には平城阪上陵とある。陵の兆域は東西一町、南北一町とあればさまで大きなものとも思われぬが、これは『延喜式』の方が間違いだとでもいうのであろう。ヒシャゲ山は『廟陵記』に高さ十二間(一に十六間)、根廻り百八十七間、池幅一町ないし四十間とある。陸地測量部の二万分一図で見ても、東西二町、南北三町の兆域というべきほどのものだ。その塚の字をヒシャゲ山というのは、おそらくは、瓢山の訛であろう。前方後円丘の見事なもので、それに二重の堀を繞らしたならば、なかなか一町四方の兆域では納まりようもない。しかるにこの故障あるにかかわらず、これをもって磐之媛の陵と定めたのは、全くその濠を重ねたところが仁徳天皇の大山陵に似ておるので、御夫婦同一形式に作られたものであろうとの推定からだというものがある。まさかそのようなこともなかろうが、ともかくかかる俗説を生み出すまでにも、濠を重ねた墳墓は稀なものだ。
 ところが筑後久留米市の南方、大善寺村字宮本には、珍らしくも濠を重ねたものが二つまでも並んでおる。しかもその一つが三重の濠なるに至っては最も珍とすべしだ。鉄道鹿児島線荒木駅より西すること約二十町、一を御塚といい、一を権現塚という。御塚は鬼塚の訛で、古く書いたものには必ず鬼塚とある。(151)鬼塚は三重濠の方で、南に位置し、『筑後将士軍談』の著者矢野一貞の調査に、
  直立三丈四尺、周り七十五丈、溝三匝、外溝百二十丈、濶一丈二尺【外堤頗る破壊す】、中溝一丈五尺、内溝二丈七尺、三溝共に清水常に充満す。
とある。今は外濠のごときほとんど形を存せざるまでに破られ、一部分は墓地となっておる。次に中濠は空濠として存し、内濠のみ完全に存しておるが、これも早晩破壊の運命を免れないかも知れぬ。地方の人士なり、塚の所有者なりは、かかる珍らしいものをば特に注意して、保存の道を講ぜられたいものである。
 権現塚は御塚の東北で、塚そのものはやや前者よりも小さいが、濠の方は前者よりもはるかに大きく、濠は二重だけれども、双方の外塚の周囲を比べてみるとかえって権現塚の方が長い。同じ矢野氏の調査によると、
  直立三丈、周り五十丈、溝二匝、外溝周百三十丈、広さ内溝と共に三丈六尺、水涸れたり。
とある。今は外濠の一部は全く原形を失い、これを不正形に掘り拡げて農家の用水池となし、内濠は一部を埋めて外部より丘上まで陸続きとなっておる。
 御塚、権現塚ともに原形は円塚らしく、ただし御塚の方は一部分崩されて足を伸ばし、小前方の形をなしておる。かかる円塚に二重濠、三重濠のあるのは、ことに珍と言わねばならぬ。
 豊後庄の原の蓬莱山にも二重濠があるとのことで、ことに前号余白録にもある通り、『豊国小史』には真ん丸の濠を繞らした図まで出ておるが、これは後人の作った競馬場で、塚は普通の瓢形式のものである。
 以上余輩の実見したところ、円塚では筑後のが二つ、前方後円塚では仁徳天皇陵と同皇后陵とのが二つ。強いて数えれば(?)を付して応神天皇陵くらいのもので、ほかに濠を重ねたものを知らぬ。なお博識なる諸賢の報道を煩わしたいものだ。
(152) 2 磐井の石棺とその突起に刻した獅子頭
 筑紫国造磐井の墓として知られた筑後八女郡一条村の石人山は前方後円の大きな墳墓で、後丘の頂上に例の通り石棺がある。棺は組み立て式で、屋根形のもので、蓋に縄懸けの突起があることは普通だが、その普通のと異なるところは正面に入口のあることだ。その大部分は土に埋まり、わずかに前面を露わすのみで、全形を見ることができぬから、精密な寸尺は言えないが、前面の穴から這い込んで内部を測ってみると、蓋は一石の掘り抜きで、船底形に穿ち、内法《うちのり》長さ七尺四寸五分、幅三尺三寸五分、高さは底に土砂が流れ込んでおって精密に測ることができぬが、露出の分が前面で二尺一寸五分、奥で三尺一寸五分だ。次に棺の身の方は四方各一枚石で、正面の方に幅一尺三寸、高さ一尺二寸(露出部)の方形の穴を開けてある。棺の正面に穴のあるのは、前号ならびに前々号に掲げておいた河内の掘抜石棺に似ておるが、彼は屋根形の蓋を開くはずのではなく、これは蓋に縄掛け突起があって、全く取り外ずしする式なのだ。それで強いて比較を求めるなら、伊豆国田方郡江間村横穴内の石棺、出雲国簸川郡塩冶村石槨内の石棺くらいだが、これはいずれも石室内にあって、石人山の埋め込み式のものとは同日に語ることができぬ。
 ことにこの石棺について、古来人々の珍としておったものは、正面の突起の彫刻(?)だ。石棺の蓋の縄掛け突起に彫刻のあるのは、大和南葛城郡|水泥《みどろ》の入鹿の墓にある石棺にも例があって、これは六弁の蓮華を刻んである。しかして余輩の寡聞なる、いまだこのほかに類例あるを知らない。ところがこの磐井の石棺には、獅子頭が刻んであるという。ある有名なる人の説に、九州人は獅子を理想としておる。古くすでに磐井の石棺に獅子頭を彫刻したのは、全くその理想を表示したのだと論じたとも聞いた。なるほど獅子頭とも見れば見らるるもので、棺の外形はほぼ第六図の通りである。
 この獅子頭と称するものは、古くは人面と解しておったようである。嘉永年問の『筑後将士軍談』ならびに慶応年
 
(153) 第六図 磐井の石棺(単位は尺)(左上)『筑後将士軍談』所載の図(左下)「慶応年間奉加帳」所載の図 〔入力者注、略〕
 
間の堂宇修繕奉加帳の図は、ともに人面と解しておる。もって、ともかくも古くから異形なる突起として認められておったことがわかる。ところがその実は珍らしいものでも何でもない。世間にありふれた普通の縄掛け突起にほかならんのである。このことはすでに古墳墓通の柴田常恵君の認めたところで、先ごろ同地出張の際にこれを説明したが、久しく信じ来ったこととて、地方の人は容易に首肯しなかったそうだ。ところが、余も年初に第二回目の調査を試みて、いよいよその普通の突起に過ぎざることを信じ、何か獲物はないかとそこらあたりをあさっておるうちに、偶然にもその突起の破片を発見した。これをいわゆる獅子頭なるものに重ねてみると、全く符節を合すがごとくピッタリと合って、普通の突起になってしまった。数十年前よりすでに人面だの獅子頭だのと言われておったのをみれば、この突起が欠けてそのあとが人面とも獅子頭とも見らるるようになった由来はすこぶる久しいものだが、その破片が明治の今日に至って偶然発見されたのは、奇縁と言わねばならぬ。しかもこれによって問題は落着し、数十年来の疑問は氷解された。この貴重な証拠物件発見の際に立ち合われたのは久留米高等女学校教諭で、考古通たる黒岩万次郎君と、特に石人通で近く石人写真帳を発行しようと尽力しておらるる水田高等小学校長近本甲五郎君とだ。証拠物たる破片は近本君に保管を依顛しておいた。これは永く保存してほしいものである。
 3 横穴に安置せられたる石棺と陶棺
 横穴が墳墓である以上、その石室は塚における石槨と同様で、したがってその中に棺を納めることがあるのは少しも不審のないこと。もちろん屍体をただちに石の床の上に横たえた例も多いが、現に棺がないからとて、ただち(154)に当初より棺はなかったものと速断することはできぬ。木棺は年月の経つとともに全く腐朽して濠もその形を存せざるに至るは普通である。すでに横穴内に石棺・陶棺がある以上、木棺があったことを想像するのは至当なことであろう。
 さて横穴内の石棺については、古く大野雲外氏が『人類学雑誌』で、伊豆田方郡江間村のを紹介された。これは右にも述べたごとく、正面に穴のある珍奇なものだ。
 また、河内玉手村安福寺の横穴中の一に石棺のあることは、同じ雑誌で山崎直方君が報告されたことがあるが、これは江間のとは違って作り付けである。換言すれば横穴を穿つ時に特に石棺形に石を切り残したものである。
 これはただ一個であるが、これと同様な、しかもはなはだ見事なものが同じ河内の道明寺山にいくつもある。道明寺山の麓に横穴群のあることは、前号所載「大和葛城郡山口の千塚」の項中にもちょっと述べておいたが、ちょっと数えてみたところで開口しておるものが三、四十は確かにある。そのほかに、なお石蓋を被うたままのものもいくつか見える。また土に埋れておるものなども少からぬことであろうから、よくよく穿鑿すればよほどの数に上ることであろうと思われる。この横穴群の中には、奥に石棺を作り付けてあるものがいくつもある。余の這入った十四、五個の穴だけにでも四個あることを実見した。これによってみると、一体にこの地の横穴には石棺が多いものといってもよかろうと思う。その大なるものは、棺の内法が長さ七尺五分、幅二尺四寸五分、深さ一尺七寸、外壁の厚さ七寸六分というのがある。この石棺について注意すべきは、どれにも蓋のないことだ。中にも蓋を置けば置きうるものもあるが、中には全く当初より蓋を付することのできないようなものもある。されば、石棺とはいうものの、普通の石棺とは違って、深い掘り込みのある石の床というのが当っておるかも知れぬ。したがってその中へは一個人の屍体を収めるのではなくして、鎌倉のある横穴のごとく、また琉球の墳墓のごとく、あまたの人骨を、後へ後へと収めた(155)ものであろうと思われる。なお柩槨中の人骨のことについては、「古墳墓雑考」本論中で述べる予定であるからここには略するが、ともかくこの道明寺山の横穴は、その墳墓としての性質を研究するうえにおいて貴重なる材料だと思う。横穴内に石床を設け、これに凹みを付けてその中へ数多の骨を置くの例は、鎌倉の横穴においてはなはだ多く見ることができる。
 次に前記玉手の安福寺の横穴群の一個から、先年陶棺の破片を発見した。相は普通のであるが、それが横穴内から発見されたということは、江間の石棺と相まって珍らしい例といわねはならぬ。その実物は安福寺に蔵しておる。
 
 
(157) 上古の陵墓――太古より奈良朝末に至る
 
 1 緒 言
 本編は余輩がかねて古代墳墓の制を研究するの資料として、国史・記録等に散見する上代の陵墓に関する記事を摘録せるものの中より、今回「皇陵」号の発行に際して、特に先皇陵および皇后、その他皇親の陵墓中著しきものにつきて、文献徴すべきものを抄記し、陵制変遷に関する管見をその首に付して、同好の参考に供せんとするものなり。されば、記するところ、いずれもそのいまだ荒廃に委せられざりし昔時の状態にして、中世以降一時その伝を逸し、その所を失い、近時ようやくにして調査を了し、修理し、復原したる現状となんら相関するところなし。これ真に陵墓を調査し、陵制を研究せんとするものの参考たるべきを信ずればなり。覧ん人時にその現状と異なるものあるを怪しむなかれ。間々その実地につきて云云せるものあるも、こは考古学的見地よりして、旧時の状態を推測せるのみ、昭代の修理復原と没交渉なるは勿論なりとす。 (大正二年十一月二日貞吉謹識)
 2 厚葬の風/大宝の陵制/奈良朝陵戸の数/陵戸と守戸/夙と守戸/仮陵戸
 わが上古の俗、すこぶる葬儀を重んじ、墳墓の結構はなはだ鄭重なりき。されば、歴代天皇・皇后、その他皇親の墳(158)墓に至りては、その制ことに厳重にして、これが修理、保存の道また欠くるところなかりしを疑わず。大宝の制、治部省に諸陵司あり、諸陵正《しよりようのかみ》一人、正六位上、陵の霊を祭り、喪葬・凶礼・諸陵および陵戸の名籍等のことを掌る。陵霊を祭るとは十二月|荷前《のざき》奉幣のことを謂えるなり。奈良朝の初葉における陵戸の数、常陵守および墓守八十四戸、内|倭国《やまとのくに》三十七戸、河内国三十七戸、津国《つのくに》(後の摂津国)五戸、山代国五戸あり。また借《かりの》陵守および墓守百五十(?)戸、内|平城京《ならのみやこ》二十五戸、倭国五十八戸、河内国五十七戸、山代国三戸、伊勢国三戸、紀伊国三戸ありて、通計二百三十四戸なりき。借陵守とは『延喜式』にいわゆる守戸にして、陵戸不足のさい、付近の百姓を徴発してこれに宛てしもの。持統天皇五年の詔に「凡そ天皇の陵戸は五戸以上を置け。自余の王等有功者には三戸を置け。若し陵戸不足せば百姓を以て宛て、其の徭役を免じて三年に一とたび替へよ」とあるものこれなり。けだし陵戸は賎民中にありても特に身分賎しく、その職業たる世人の忌むところなりしかば、永く良民を採りてこれに宛つるに忍びず、ために三年交替とせしものならん。しかるに、「大宝令」の制によれば、「凡そ先皇の陵には陵戸を置いて守らしめよ、陵戸にあらずして守らしめんには、十年に一たび替へよ」とあり。前に三年交代とせしものを、ここに至りて十年とせしなり。大和・河内地方に夙《しゆく》と称する一種の部落ありと、みずから土師《はじ》の後裔なりと称し、陵墓と特別の関係あるを伝うるものあり。けだし前記の守戸が世襲的のものとなり、ついには一種他より区別せらるる部落となりしものなるべし。しかれども、もとこれ別あり、ここにおいて『延喜式』には陵戸と守戸とを区別して録上す。しかして別に仁明皇后藤原順子の後山科陵のみには仮陵戸というもの五烟を録す。守戸はもといわゆる借陵守なりしも、このころすでに世襲的のものなり、この陵のは新たに点定せしものなりしかば、特にこの別をなせしものならんか。『政事要略』康保元年十二月の太政官符にも仮陵戸あり。
 3 諸陵司と諸陵寮
(159) 諸陵司は天平元年八月五日の詔により、官制を改め陞せて寮となる。諸陵頭《しよりうのかみ》一人従五位上。職掌前に同じけれども、これを陞せたるは陵墓の扱いをいっそう鄭重にせしゆえんなり。
 4 陵墓の守護と保存/山陵の誤認/陵墓の荒廃
 律令を案ずるに、先皇の陵には陵戸もしくは守戸五烟を専属せしめてこれが守護に任じ、その兆域内には他の葬埋しもしくは耕牧樵採するを禁じ、謀って山陵を毀つものは謀大逆をもって論じ、これを八虐の一に置く。ことに『延喜式』の規定するところによれば、「凡そ諸陵墓は毎年二月十日官人を差遣して巡検し、其の兆域垣溝若し損壊するあらば、守戸をして修理せしめ、専当の官人巡りて検校を加ふ」とありて、当時これが修理保存をゆるがせにせざりし状見るべきなり。しかれども、上代の陵墓これを標示するの墓碑あることなく、ために同一形状をなして相並べるものにありては、平安朝の盛時においてなおかつ時に彼是誤認のことなきにあらず、陵畔の愚民またその尊厳を忘れ、時に冒涜を加え奉ることなきにあらざりき。『続日本後紀』承和十年の条に曰く、
  四月己末朔|楯列《たたなみ》(大和生駒郡)の陵守等言ふ、去月十八日食時山陵鳴る事二度、其声雷の如く。即ち赤気飄風の如く離(南方)を指して飛び去る。申の時亦鳴る。其の気初の如く。兌(西方)を指して飛び亘ると。参議正躬王を遣はして検校を加へしむるに、陵木を伐る事七十七株、※[木+若]木《しもと》等に至りては勝《あ》げて計ふべからず。便ち陵守長百済春継を勘当して上奏す。己卯(二十一日)参議従四位上藤原朝臣助、掃部頭従五位坂上大宿禰正野等をして楯並北南の二山陵に謝し奉らしむ。去る三月十八日奇異あるに依りて、図録を捜検するに二つの楯列山陵あり。北は則ち神功皇后の陵、南は則ち成務天皇の陵なり。世人相伝へて南陵を以て神功皇后の陵となす。偏へに是れ口伝により、神功皇后の崇ある毎に空しく成務天皇陵に謝す。先年神功皇后の崇によりて作る所の弓剣の類、誤って成務天皇陵に進らす。今日改めて神功皇后陵に奉る。
(160)と。当時官に図録あり、守るに陵戸、守戸あり。しかもなお愚民その尊厳を冒涜し、官使山陵を誤認するの怪事あり(このこと後章神功皇后陵下記するところを見よ)。後世王綱ようやく弛緩して、荷前奉幣のこと行われず、諸陵寮ついに廃するに至りては、歴朝至尊の山陵また守るところなく、陵戸、守戸の民あるいは逃亡してその迹を失し、あるいは他に職を求めてみずから衣食し、鼠賊の棺槨を発いて宝器を奪うも禁ずるなく、豪族の墳丘を城廓に利用する、また止むる能わず、ついにその伝を逸し、その所を失い、茫乎としてまた尋ぬるに由なきもの多きに至れり。
 5 既存の陵墓/各時代陵墓の標本
 かくのごとく、陵墓荒廃して、また尋ぬべからざるもの多き間にありて、しかもなお古来厳然として尊崇の標的となり、後の研究者をして当時の制を窺うを得しむるものなきにあらず。河内古市なる応神天皇の誉田《こんだ》陵、和泉|百舌鳥耳原《もずのみみはら》なる仁徳天皇の大山《だいせん》陵、河内石川なる聖徳太子|磯長《しなが》の陵のごときこれなり。このほか孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命《やまとととひももそひめのみこと》の箸の墓、また古伝をその名に止め、その他天武・持統両天皇合葬の檜隈《ひのくま》大内陵などのごとく、これに関する伝説、あるいは記録等より推定して、決して誤ることなきものまた少からず。されば、これらをもっておのおの当代陵墓の標本とし、これを記録と地名とに徴し、古墳墓制の変遷に考えて、ある程度まではほほ上世陵制を髣髴たらしむるを得るものあるを思う。
 6 『延喜式』所載の陵墓数/『延喜式』以外の古代山陵/香久山の荒陵/奈良朝未以前皇后および皇親の数と陵墓/荒陵、荒墓と近畿の古墳墓
 上世の陵墓、国史の記事往々にしてこれに及ぶものなきにあらざれども、いずれも記して精ならず。ただ『延喜式』諸陵寮の条、録するところ、数においてやや整えりとなす。その数、奈良朝末以前に属するもの、神代三陵、神武帝より光仁帝に至る帝王陵(神功皇后および岡宮天皇、春日宮天皇陵を含む)四十九、皇后陵三、皇親および外戚、功臣らの(161)墓(仁徳皇后磐之姫命、飯豊天皇、安閑皇后春日山田皇女、継体皇后手白香皇女、欽明皇后石姫皇女墓等を含む)二十九あり。これを実地に徴するに、これら陵墓以外、大和・河内等畿内各地に存して、帝王・皇后陵もしくは皇親高貴の基とも認むべき偉大なる古代の墳墓はなはだ多し。けだし『延喜式』録するところ、もとその一部に過ぎざるなり。これを史に徴するも、『続日本紀』文武天皇四年八月条に、宇尼備《うねぴ》・賀久山《かぐやま》・成会《なりあい》山陵および吉野の宮の辺の樹木、ゆえなくして凋枯するの記事あり。宇尼備山陵はすなわち神武天皇の畝傍山東北陵(もしくは安寧天皇の畝傍山西南陵、または懿徳天皇の畝傍山南陵など)なるべきも、賀久山陵および成会山陵に至りては他に見る所なし。『延喜式』に押坂彦人大兄皇子の成相墓あり。皇子は舒明天皇の御父にませば、その墓をかつては陵と称せしことありしものか。『延喜式』にもこの墓守戸五烟ありて、その数、山陵に准ずるを見れば、しばらくこれをもって右の成会山陵に擬すべきか。さるにても賀久山陵ついに徴すべきなし。今大和香久山の南麓に古墳墓石槨の露出せるものあり。俗に天岩戸と称す。あるいはこれかつて香久山陵として崇敬奉祀せられしものか。しかも『延喜式』これを載せず。つとに諸陵寮の手を離れて奉幣の例より除外され、ついにかく荒陵《あらはか》となりおわりしものか。今『大日本史』后妃および皇子女列伝収むるところを見るに、奈良朝末以前の皇后(神功皇后を除く)三十九人、皇妃五十人。ほかに夫人、嬪等の称をもって後宮に重きをなせしもの少からず。皇子女に至りては、実に百七十皇子(追尊天皇を除く)、百十八皇女の多きに及ぶなり。しかもこれただ幸いにその御名の古史記録に伝われるもののみ。実際にはなおその以外にも少からざりしならん。もしそれ皇孫以下一般皇親の数に至りては、ついに窺知する能わざるなり。しかして、これら多数の皇后・皇妃・皇親の御方々、多くはそれぞれに陵墓おわすべく、しかも『延喜式』録するところ、皇后・皇親に属するものわずかに、二十余に過ぎずとせば、その余の三百五十数陵墓は、延喜のころにおいてすでに諸陵寮の保管を離れ、その多数はいつしか荒陵、荒墓となりおわりしものと解せざるべからず。大和・河内等を始めとして各地に多く存する偉大なる古墳墓が、必ず
 
(162) 第一図 三重に濠を周らし,三段に築きたる前方後円の塚
 第二図 濠を周らしたる円き塚 〔入力者注、いずれも略〕
 
しもことごとく皇室に関係あるもののみとは限らず、その中にはもとより多数の権臣・豪族・有力者の墳墓あるべきも、しかも前記三百五十数陵墓中のあるものが、少からずその中に混在せるを認めざるべからざるなり。
 7 難波の荒陵
 荒陵の史に見ゆるもの、大阪四天王寺畔茶臼山をもって最古とす。この塚、偉大なる前方後円墳にして、周湟あり。一見高貴の陵墓たるを思わしむ。しかも聖徳太子がここに四天王寺を興すにあたりては、すでに荒陵たりき。さらに古く、『日本紀』仁徳天皇五十八年条に、荒陵松林の南道にたちまち両歴木《ふたつのくぬぎ》生えたりとある荒陵、またこの茶臼山なり。偉大なる陵墓の荒廃に帰する、由来古しと謂うべし。
 8 陵墓の修理保存
 陵墓荒廃の由来、かくのごとく古し。中世以降朝廷の紀綱ようやく弛み、ことに戦国乱離の世、皇室式微を極め、人のまたこれを顧みるなく、村は荒れ、民は散じ、先皇の陵を城郭として顧みざるがごとき乱世の久しきを経て、世その伝を忘れ、また容易に尋ぬべからざるもの多きに至れる、まことにやむを得ざるなり。徳川幕府の世、尊皇の気運ようやく熱し、志士有司のこれを尋ねて修理保存に意を用うるあり。明治の昭代に及びて官さらに攻究を重ね、代
 
(163) 第三図 三段に築きたる方形の墳
 第四図 下方三段なる上円下方の塚 〔入力者注、いずれも略〕
 
代の陵墓得るにしたがいてこれを修理し、今や歴朝の帝陵ほとんど漏らすなく、皇后ならびに皇親の陵墓また少からず修理の完成を見るに至れり。盛んなりと謂うぺし。
 9 古墳墓形式上の二大時期/前期墳墓の特徴/車塚(前方後円)
 近時考古の学ようやく開け、古墳墓に関する研究、またすこぶる長足の進歩をなし、いまだその形式上より精密に時代を判定するの程度に達せざるを憾むといえども、しかも大体についてこれを言わんには、墳丘の形状、構造等より、ほぼ時代の前後を知るに足るものなきにあらず。今かりにこれを前後の二期に大別せんか。前期のものは通例塚の最高部に石槨あり。石槨は竪穴式にして、石棺をその中に安んずるを常とす。中には石槨のみにして石棺の存せざるあり。石棺のみを埋めて石槨なきものもあれども、位置その他の関係より、問題の墳墓が、この期に属するものなるか、はた後期のものなるかば容易に判するを得べし。塚の形にほ瓢形あり、円形あり。瓢形墳の最も完備したるものは、いわゆる車塚にして、前後の二丘に分れ、周湟あり、後丘高くして円く、前丘低くして方なり。よりて前方後円式墳墓などと称す。前後両丘を通じて通例三、四層の階段をなす。両丘相連る所やや低く、その両側に小円丘あり。蒲生氏の『山陵志』これを形容して曰く、「其の円くして高きは蓋を張るが如きなり、方(164)にして平なるは衡を置くが如きなり、前後相接し其の間稍卑く、而して左右に円丘あり其の下壇に倚るは両輪の如きなり」と、これなり。
 10 墳墓の周湟/仁徳陵の陪葬
 湟《ほり》は通例一周するのみなれども、時として二重、三重なるあり。仁徳天皇の大山陵のごときは実に三重湟を有する好適例となす。筑後大善寺には円墳にして三重湟を有する二個の例あり。二重湟を有するものは摂津三島郡なる今城塚(かつて継体天皇陵と擬定されたるもの)、大和奈良西方なる現在磐之媛皇后陵と定まれるものなど、好例なり。単湟のものに至りては最も普通にして、枚挙にいとまあらず。かくのごとき前方後円墳にありては、後丘の頂上に横穴を設く。ただし時として前丘その他所々に陪葬せる場合また少からず。明治五年九月、仁徳天皇陵前丘東南隅の一角崩れ、竪穴式石槨露わる。中に石棺あり、甲冑・玻璃器などを蔵す。けだし、皇親もしくは近臣を天皇陵に陪葬せるものなり。その他、半腹・丘麓などより石棺を発見せる例はすこぶる多し。いずれも陪葬なり。
 11 埴輪は八重垣
 墳丘の頂上および各階段ならびに周湟の外境等にほ通例数重に埴輪の列を繰らす。けだし八重垣を設くるなり。埴輪については、あるいはこれを土止めの設備なりといい、あるいは古伝のままに殉死者に代うる告朔の※[牛偏+氣]羊なりなどと称すれども、余輩はその性質上、断じて不朽性の八重垣にして、なお宮殿に柴籬もしくは木柵等にて八重垣を繞らせると、同意義なりと考うるなり。なお後に言うところを見よ。
 12 前期の円墳
 前期の円形墳にありては、外観すこぶる後期のものに似たれども、頂上に竪穴式石槨を有する、はた周囲に埴輪を繞らせるなど、すべて瓢形墳の場合と同じく、その完備せるものには周湟あり、階段あり。瓢形墳と異なるところな(165)きもの少からず。その瓢形・円形の両者、時を同じうして行われたりしことは、応神陵・仁徳陵を始めとして、偉大なる瓢形墳の有する陪塚が、多くは円形墳なるにて知るべく、したがって、その瓢形のものは高貴にして、円形のものは比較的卑賎のものたりしを察すべし。陪塚中にも瓢形にして、時に周湟を繞らせるものなどあり。こはその中にも比較的高貴の方を葬りしものなるべし。
 13 後期墳墓の特徴/大化薄葬の詔/大化墳墓制限令/殉死および副葬品の禁/壕穴式墳墓/墓を営むの資格/合葬と陪葬
 後期の墳墓はいずれも円墳もしくは方墳にして、横穴式石槨を有するを常とす。その著しき標本として見るべきものは聖徳太子の磯長墓にして、南面して入口あり、槨内に三個の石棺を安んず。維新前までは、崇敬の徒、時にその槨内に入りてこれを参拝するを得しかば、目のあたりこれを実見せるものなお存す。これより後の墳墓は多くこの式にして、大和今木なる蘇我蝦夷・入鹿父子の双墓と称するものを始めとして、この類最も多し。大化改新のさい、詔して墳墓の大きさを制限し給い、薄葬を命じ給う。詔に曰く、
  朕聞く西土の君其の民を戒めて曰く、古の葬は高きに因りて墓となす、封《つちつ》かず、樹うゑず、棺槨は以て骨を朽《く》たすに足り、衣衿は以て宍《しし》を朽《く》たすに足るのみ。故に吾れ此の丘墟不食の地を営《たつく》りて、代を易へんの後、其の所を知らざらしめんと欲す。金銀銅鉄を蔵むることなかれ。一に瓦器を以て古の塗車蒭霊の義に合《かな》へよ。棺は際会に漆ぬり、奠は三たび過飯せよ。含ましむるに珠玉を以てすることなかれ。珠の襦《こしころも》玉の※[木+甲]《よろい》を施《お》くことなかれ。これ愚俗の為す所なり。
 又曰く、葬は蔵なり。人の見るを得ざらんことを欲するなり。廼者《このごろ》我が民の貧絶専ら墓を営《つく》るに由れり。爰に其の制を陳べて尊卑別あらしむ。夫れ王より以上の墓は其の内の長さ九尺、濶さ五尺(貞吉按ず、高さを脱するか)、其の外域は方九尋、高さ五尋。一千人を役し七日に訖らしめよ。其の葬時の帷帳等には白布を用ひ、※[車+需]車あり。上臣の(166)墓は其の内の長さ濶さ及び高さは皆上に准ぜよ。其の外域は方七尋、高さ三尋、五百人を役して五日に訖らしめよ。其の葬時の帷帳等には白布を用ひ、担ひて行く。下臣の墓は其の内の長さ濶さ及び高さ皆上に准ぜよ。其の外域は方五尋、高さ二尋半、二百五十人を役して三日に訖らしめよ。其の葬時の帷帳等に白布を用ふること亦上に准ぜよ。大仁・小仁の墓は其の内の長さ九尺、高さ・濶さ各四尺。封かず、平ならしめよ。一百人を役して一日に訖らしめよ。大礼以下小智以上の墓は皆大仁に准じ、五十人を役して一日に訖らしめよ。
 凡そ王以下小智以上の墓は宜しく小石を用ひよ。其の帷帳等には宜しく白布を用ひよ。庶人|亡《し》なば地に収め埋め、其の帷帳等には麁布を用ふべし。一日も停むることなかれ。
 凡そ王以下庶民に至るまで殯を営むを得ざれ。
 凡そ畿内より諸国等に及ぶまで、宜しく一所に定めて収埋せしめよ。※[さんずい+于]穢《けがら》はしく処々に散埋するを得ざれ。
 凡そ人死亡の時に、若くは経して自ら殉ひ、或は人を絞して殉はしめ、及び強ひて亡人の馬を殉へ、或は亡人の為に宝を墓に蔵め、或は亡人の為に髪を断ち股を刺して誄す。此の如きの旧俗一に皆悉くやめよ。【(原註)、或本に曰く金銀錦綾五綵を蔵むることなかれ。又曰く凡そ諸臣より民に至るまで金銀を用ふることを得ざれ】縦し詔に違ひて禁ずる所を犯すあらば、必ず其の族を罪せん。
と。こはもとより皇親以下諸臣・庶民の墳墓葬埋に関することにして、必ずしも帝陵の制を示せるにはあらねど、またもって当時陵儀の次第を見るべく、その外というは墳丘にして、内というは内部なる石槨の玄室を指せること、実地について明かにするを得べし。すなわち大化ごろの墳墓はいずれも石室を有するものにて、今日各地に存在する塚穴と称するもの皆これに属す。もっとも現今見るところの多数の横穴式石槨を有する墳墓は、多くは一家族のものにして個人のにはあらず。そは「大宝喪葬令」に、
  凡そ三位以上及び別祖、氏宗は並に墓を営むことを得。以外はすべからず。墓を営むを得と雖も若し大蔵せんと欲せば聴せ。
とあるによりて知るべし。すなわち単独に墓を作るを得る資格あるものは、三位以上、もしくは別族の始祖、氏中の宗長に限る。以外のものは勢いそれらの墓城中に合葬もしくは陪葬せざるを得ざるなり。実地についてこれを見るに、往々一墳数棺を蔵し、一穴数屍を容るるものの多き、実にこれがためなり。今日なお琉球にては一家一墓を有し、家族はことごとく同一墓穴中に葬らるるもの、けだしこの遺風を伝うるなり。帝王陵においても往々合葬のことあり。安閑天皇の皇后春日山田皇女および皇妹神前皇女を天皇陵に合葬し、敏達天皇を母后の陵に葬り、推古天皇を竹田皇子の墓に葬り、持統天皇を天武天皇陵に合葬し奉るがごとき、皆これなり。しかしてこの天武・持統両天皇合葬の檜隈大内山陵は、文暦二年賊のために発かれ、宝物を奪われたることありて、その記事幸いに後世に伝わり、ために明かにその陵を指定するを得るものにして、円墳にして横穴式石槨あること、実地について知るを得べく、少くも聖徳太子の御頃より、天武・持統の御頃までは、この後期の墳制の行われたりしことを立証するを得べきものなりとす。
 14 方 墳
 方墳の適例としては現今用明天皇の河内磯長原陵と定まれる陵を推すべし。その他、河内|羽曳《はびき》山なる来目皇子墓と定まれる塚、大和奈良市なる玄※[目+方]僧正墓と称する塚など、皆この例なり。しかしてこれらの方墳が、また当代の円墳と同一形式の横穴式石槨を有することは、右の来目皇子墓と定れる塚についてこれを知るを得べし。
 15 埴輪と殉死
 この後期の墳墓の特徴としてさらに注意すべきは、通例埴輪の存在せざることと、石室の大なる割合に墳丘の小なることとなり。埴輪は『日本紀』に、垂仁天皇の御代、日葉酸媛皇后を葬るに当り、野見宿禰の考案にて、殉死に代えて墓畔に置けるものなりとあれども、こはおそらく埴輪制廃してより年久しく、これに関する知識全く失われたる(168)後の俗伝なるべし。これを実地に徴するに、埴輪は通例、柴を束ねたるがごとき形を表わしたる円筒にして、とうてい不朽性の八重垣と解せざるべからざるもの。その土偶・土馬のごときは、稀に円筒の間に交れるのみにして、決して埴輪その物をもってことごとく殉死の代物と見るべきにあらず。さればもし右の伝説を信ぜんか、従来よりありし埴輪円筒の八重垣の間に、殉死に代うべき土偶・土馬の類を置くに至りたりと解すべきのみ。いわゆる埴輪その物は、全然殉死と没交渉のものならざるべからず。しかしてこの埴輪は、後期に至りてはもはや行われざりしものなるべし。
 16 前後両期の特徴比較
 以上述べし前後両期の特徴を約言すれば、
 前期 形状は瓢形または円形にして通例頂上に竪穴式石槨あり、埴輪の伴うを常とす。その完備したるものには周湟あり。往々墳丘の他の部分に陪葬の棺槨を有することあり。
 後期 形状は普通円形にして(稀に方形墳あり)横穴式石槨を有し、埴輪の伴わざるを常とす。往々石槨の内外に陪葬・合葬せることあり。石槨の偉大なる割合に墳丘の小さくなれる、またこの期の特徴とす。
となる。ただし、こは最も普通のものを謂えるにて、種々の変状・異態あるはもとよりそのところなり。これを精密に調査せんには、同期中にありてもさらにその時代の前後を判するを得べけんも、今はこれを明言するの期に達せざるを憾む。
 17 前後両期特徴の混淆
 現存の古墳墓中、時に瓢形(もしくは円形)にして埴輪を有し、しかも横穴式石槨あるあり、あるいは頂上に前期の竪穴式石槨を有し、麓に後期の横穴式石槨を有するあり。かくのごときは前期の墳墓を後に改造せしものなるべし。ただし、前後両期の中間に位するもの、また理論上その存在を認めざるべからず。ただ、いまだ明かにこれを発見せざるのみ。
(169)18 前期墳墓の時代/箸の墓と安閑陵
 さて、前後両期の別、果して右のごとしとすれば、いわゆる前期はいつのころより始まりていつのころまで継続し、後期はいつのころより始まりていつのころまで継続せるかを決すること、本論に取りて最も重要なる問題なりとす。しかも余輩いまだ明かにこれを言う能わざるなり。これを実地について見るに、前期の前方後円式墳墓の最も偉大にして、かつ最も完備せるものを仁徳天皇陵とし、応神天皇陵これにつぎ、履中天皇陵またこれにつぐ。しからばこの式の墳墓は仁徳天皇の御字(天皇陵は御在世中に作らしめ給える寿綾なり)を最盛とし、前後に延長してその期間を求めざるべからず。しかして孝霊天皇の皇女倭迹々日百襲姫命の墓なりと『日本紀』によりて伝えらるる大和箸中なる箸の墓が、また一の偉大なる前方後円墳なることを思わば、このころすでにこの形式の陵墓行われたりしことを認めざるべからず。また畠山尚順のために高屋城として利用されたる安閑天皇陵が、またこの形式なるを思わば、いわゆる前期は、箸の墓のころすでに行われて仁徳天皇のころ隆盛を極め、以下少くも安閑天皇の御代ころまでは継続せしものなりと見ざるべからず。しかして推古天皇朝に薨じたる聖徳太子が、後期の御墓に葬られ給えるを見れば、少くもこのころすでに後期式陵墓が行われたりしを認めざるべからず。年代を按ずるに安閑天皇を葬り奉りてより、聖徳太子の薨去までわずかに八十余年なり。前後両期の遷移、この間にありきと謂うを得べきに似たり。
 19 後期墳墓の時代/蘇我氏累代の墓/檜隈大内陵
 後期の横穴式石槨を有する陵墓制の最も隆盛なりしは、推古天皇の御代ころより、大化に至るの際なりしがごとし。蘇我馬子の桃原墓なりと擬定せらるる(『歴史地理』第一九巻第四号を見よ)大和島の庄なる石舞台のごとき、前後稀に見るの大石槨を有し、その子の蝦夷、孫入鹿の今木の双墓(『歴史地理』第一九巻第五号を見よ)のごときも、結構これについで偉大なるものなりとす。推古天皇の崩御は、あたかも馬子の墓造営の際にあり。天皇その(170)厚葬の弊を忌み給いてにや、特に薄葬を遺詔し給い、新たに墓を興すことなく、竹田皇子の墓に合葬せしめ給う。しかもなお厚葬の弊は革らざりしにや、後に大化薄葬の詔あり。降って天武・持統両天皇合葬の檜隈大内陵にありては、玄室の広さ南北一丈四、五尺、東西一丈ばかり、切石をもって構成せられ、室内の宝物、善美言語に絶すというほどなれば、厚葬は依然として行われしを見るべく、その石室は現今、付近地方にしばしば見るを得る切石の石槨の類の偉大なるものなりしが、その後元明天皇さらに薄葬を遺詔し給い、その陵方三町、高さ三丈、これよりのち高陵を作らずと『扶桑略記』にあれば、このころよりまた陵制改まりしものと見るべきか。
 20 神代三陵/神武天皇陵/山陵兆域に関する注意
 史を按ずるに、神代三陵、遼遠にして、陵形の記事また尋ぬべからず。神武天皇は崩じて畝傍山東北陵に葬り奉ると『日本紀』にあり。『延喜式』これに従い、さらにその兆域を録して東西一町、南北二町とす。比較的小規模の山陵なり。しかして『古事記』はさらにその位置を詳記して、御陵は畝火山の北方「白梼尾上」にありとなす。これを白梼《かし》の尾の上と読みて畝傍山の北方半腹に求めんとするものと、白梼尾《かしお》のほとりと読みて、山北の平地に求めんとするものと、古来両説あり。いずれにしてもその陵形を判ずべきたよりなし。ただその兆域が東西一町、南北二町というよりして、南北に長き瓢形墳ならざりしかとも思わるれども、『延喜式』録するところの兆域、必ずしも常に陵形を示せるものにあらず。墳丘は小なるも、その付近の地を広く兆城中に編入する場合多ければなり。現に押坂彦人大兄皇子の成相墓のごとき、兆城東西十五町、南北二十町という。片岡丘陵南部の地は、ほとんどその兆域内に編入せられたりし形なり。しかもその墳丘のしかく大なるものにあらざりしことは、これを実地に尋ぬるも、はた当時の趨勢に徴するも、想像しやすきのことなりとす。ただし、この兆域の記事について注意すべきは、いわゆる兆域の示せる数よりも小なる墳丘の存在はこれを認むべきも、兆域よりも大なる墳丘は、とうていこれを容るべからざることなり。(171)なんとなれば、陵墓の墳丘の一部分を割いてこれをその陵墓の兆域となすがごときことあるべからざればなり。されば、『延喜式』の示せる兆域の広袤は、その陵墓を決定する上において、すこぶる有力なる資料となる場合少からざるを忘るべからず。
 21 綏靖天皇陵
 綏靖天皇陵は桃花鳥田丘上《つきだのおかのうえ》にありとあり。兆域東西一町、南北一町とあれば、丘陵上の小円墳なりしもののごとく解せらるるも、またその詳細を知るべからず。
 22 安寧天皇陵
 安寧天皇陵は畝傍山の南、御陰井上《みほとのいのうえ》にありとあり。『延喜式』これを西南とす。そのいずれか是なるを知らず。兆域東西三町、南北二町とあれば、前両帝陵よりも遥かに宏大なりしものとす。
 23 懿徳天皇陵
 懿徳天皇陵は畝傍山の南真名子の上にありとあり。兆域東西一町、南北一町、綏靖陵に比すべし。以上の四帝陵いずれも畝傍山の辺にして、丘陵上にありしもののごとし。
 24 孝昭天皇陵
 孝昭天皇陵は掖上博多山上とあり。南葛城郡にして、東西六町、南北六町といえば、広く山上の地をその兆域内に収めたりしものと解せらる。
 25 孝安天皇陵
 孝安天皇陵また南葛城郡にあり、玉手丘上陵という。兆域また東西六町、南北六町にして、所在地の形勢および広袤すべて孝昭陵に似たり。
(172) 28 孝霊天皇陵/箸墓
 孝霊天皇陵は片丘馬坂陵という。『古事記』にはこれを馬坂上陵とあり。片岡とは北葛城郡王寺駅の東南より、旧広瀬郡と葛下郡との間を遠く南に延び、高田駅の西北に達する丘陵の称なるべく、この丘陵の東部南部には、偉大なる前方後円式の古墳墓数多散在す。しかしてこの片丘馬坂陵、東西五町、南北五町という。その兆域の点より言えば応神陵もしくは履中陵と同一にして、彼此相比してその規模すこぶる宏大なりしと察せらる。ただし、その域山地に渉れば、特に付近の地を域内に編入せしにてもあるべきか。皇女倭迹々日百襲姫命の箸墓、磯城郡箸中村にあり。箸中は、箸の墓の義、その墓『日本紀』によりてつとに認識せらるるところにして、墳丘の裾周り四百六十三間の偉大なる前方後円丘なり。馬坂陵以前の陵制、これを窺知するに由なきもこの箸墓に基づきて考うれば、またもって当代の帝王陵が同じく前方後円にして、すこぶる偉大なるものの存在し得べきことを許すべし。箸墓のことは『日本紀』壬申乱の記事中にもあり、所伝の由来古きを見るべし。
 27 孝元天皇陵
 孝元天皇陵は剣他の島の上にあり。『古事記』には剣池の中の岡の上の陵とあり。剣池は応神天皇の十二午に灌漑のために作れる所。皇陵の地これがために島となりしものか。兆城東西二町、南北一町という。けだしまた丘上に営まれたるもの。
 28 開化天皇陵
 開化天皇陵は『日本紀』に春日|率川《いさかわ》坂本陵とあり。『古事記』および『日本紀』の一本にこれを阪上陵という。『延喜式』これによる。兆城東西五段(すなわち三十間)、南北五段といえば、きわめて小規模の陵なりきと察せらる。けだしその地後に平城《なら》左京の中に編入せられたれば、陵域も四方より削られ、宏大なる地を占むる能わざりしものか。こ(173)れを前後の時代の陵墓に比して、あまりに狭小の感感なきにあらず。
 29 崇神天皇陵
 崇神天皇陵は『式』に山辺道上《やまのべのみちのうえ》陵という。『古事記』には山辺道勾之岡上《やまのべのみちのまがりのおかのうえ》とあり。旧城上郡に属し、開化陵と同じく、大和平野東側山麓にありしもの。兆城東西二町、南北二町。
 30 垂仁天皇陵/伏見の双陵/日葉酢媛皇后陵/土師部と石祝作/倭彦命墓/殉死禁止の伝説
 垂仁天皇陵は菅原伏見東陵という。『古事記』には菅原御立野の中にありと見えて、従来の丘陵山腹等の地を離れ、平野に営まれ給いしものと見ゆ。兆城東西二町、南北二町といえば、その西に相並べる安康天皇陵の菅原伏見西陵、東西二町、南北三町というものよりも、すこぶる小規模なりしものと見ゆ。もとより兆域のみをもって墳丘の大小を判すべからざること、前に言えるがごとくなれども、遠き古えの陵墓は、山地にある特別のもののほかは、通例兆域は墳丘(外湟あればその外堤)と一致せるがごときをもって見れば、ほぼこれによりて規模の大様を察すべく、少くも東西二町、南北二町という兆域内に、その以上の大陵を容るる能わざるは論なし。この陵『続日本紀』には櫛見山陵とあり。櫛は節の誤りにて、同じくふしみならんかとの説あり。その位置『霊異記』に、天皇陵の北なる佐紀村の語あれば、ほぼこれを推定すべきか。皇后日葉酸媛命の陵は狭木《さぎ》(佐紀に同じ)の寺間《てらま》にあり。天皇陵と南北相対せしものと見ゆ。この陵『延喜式』載せず、つとに諸陵寮の管理を離れしものか。この皇后陵を築くに当り、石祝作《いしきつくり》を定め、また土師部《はにしべ》を定め給いきと『古事記』にある伝説は、『日本紀』に野見宿禰が始めて土をもって人馬および種々の物を作り墓畔に立てたりというの伝説とあいまって、墳墓制変遷上注意すべきものなり。天皇の同母弟倭彦命の墓は身狭桃花鳥坂《むさのつきさか》にあり。この葬儀に際し、生きながら近習のものを墓畔に立て、泣吟の声、日夜絶えず。天皇これを憐れみ殉死を禁じ給いしと『日本紀』に見ゆ。所在は宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵の付近なるべし。かつては今の天武・(174)持統両帝合葬の檜隈大内陵をこれに擬せしことありしも、その当らざるや論なし。
 31 景行天皇陵/日本式尊陵
 景行天皇陵はまた『式』に山辺道上陵という。東西二町、南北二町。崇神天皇陵と位置といい、規模といい、両々相対比せるもののごとし。皇子日本式尊陵は白鳥の故事によりて伊勢|能褒野《のぼの》・大和琴弾原・河内古市の三処にこれを伝う。しかも『延喜式』載するところ単に能褒野墓一処あるのみ。兆域方二町。
 32 成務天皇陵
 成務天皇陵は古く盾列陵と称す。『延喜式』にはこれを神功皇后陵に対して、狭城盾列池《さきのたたなみいけ》後陵とあり。兆城東西一町、南北三町。この陵はかつて神功皇后陵と誤認せられたる事蹟によりて著名なるもの。ただしその神功陵との位置の関係についてはなお攻究の余地あり、次に言うべし。康平六年興福寺の僧静範この陵を発きて宝物を奪う。「律」に謀大逆に当る。しかも官議して宝物を返納し、これを伊豆に流す。僧俗連坐遠流さるるもの十六人。
 33 仲哀天皇陵
 仲哀天皇陵は河内恵我の長野にあり。允恭天皇の北陵に対して西陵と称す。『扶桑略記』にはこれを改葬となす。豊浦の殯宮よりここに移し奉りしを謂うか。一説播磨明石に一とたび葬り奉ると。こは※[鹿/弭]坂・忍熊二王が帝陵を明石に起すと揚言せしことの記事より起りし訛伝か。この陵兆域方二町。位置は允恭天皇陵と併せ考うべきものとす。
 34 神功皇后陵/神功陵と成務陵との位置の疑問/楯列陵に関する『山陵志』の所説
 神功皇后陵は成務天皇陵と相並ぷ。また古く盾列陵と称し、『式』には狭城盾列池上陵とあり。池はもと佐紀丘陵の麓にあり、旧西大寺所伝なる「京北斑田図」に京北一条一里二里に楯列里の名を記し、一里二十六坪に楯列池とあり。また、二里一の坪に池上田の名を記するのみならず、その東に神功皇后陵敷地とあり。その位置成務稜の北方に(175)ありて、そ神功陵たることにつき、毫末の疑いを容るるの余地なきに似たり。承和の時、土人相伝えて南陵をもって神功皇后陵とし北陵を成務天皇陵とす。官すなわち図録を検するに、北陵はすなわち神功陵、南陵はすなわち成務陵とあり。よりて、さきに南陵に捧げし宝物を改めて北陵に奉れりという。ここにおいてか累代久しく陵側に住し、身陵守の任に当り、あるいは朝夕これを崇敬拝礼する土人の所伝と、写字生の筆端によりて謄写されたるいわゆる官の図録と、いずれか信ずべきかの疑問を生ずべし。いわんやその陵が霊験ことに新たかに、世の崇敬他に異なる神功皇后陵なるにおいてをや。しかして後世なお土俗、成務陵の南なる陵(実は東南陵)をもって神功陵とし、世人奉賽、安産を祈願す。図録の言うところ、『延喜式』これに一致し、「京北斑田図」またこれに副うといえども、しかもこれらは皆出所を一にする官庁の記録なり。この官の記録と千余年間変らざる俗伝と、果していずれに適従すべきかはとうてい永久の疑問なり。蒲生氏『山陵志』に曰く、
  成務陵、狭城盾列池の後にあり。東南は則ち神功后の陵、池上にあり。陵の旁に鳥居あり、土人歳時に后の祀を奉ず。廟陵記史を引いて曰く、承和元年盾列山陵災異あるを以て、図録を閲して之を観るに、北は則ち神功后、南は則ち成務帝の陵なり。因て疑ふ、今の指す所、亦承和以後更に復其の誤を伝ふるなりと。然りと雖諸陵式は是れ延喜中論定する所、豈に誤あらんや。蓋承和に閲する所の図録反つて是れ誤あり。而して当時未だ深く考へざりしのみ。
と。蒲生氏の言うところは楯列地所在の考証を誤るがゆえに、『延喜式』の陵名を採りて主張するところあるも、その実『延喜式』のいうところ、またいわゆる図録と一致するものなること、前記のごとし。ただ承和のころ陵守すでにこれを称え、爾後千年間土人なおこれを認むるの点に至りては、軽々に排斥し去る能わざるものあらん。
 35 応神天皇陵/誉田陵の埴輪土馬/稚郎子皇子墓
(176) 応神天皇陵は河内の恵我|藻伏《もふし》岡にあり。俗に誉田《こんだ》陵と称す。雄略天皇九年安宿《あすかべ》郡の人|田辺史伯孫《たなべのふひとはくそん》、その女の嫁して古市郡の人書首加龍《ふみのおびとかりよう》の妻となれるが児を産せるを賀し、月夜に騎してこの陵下を過ぐるに、赤馬に騎れるものに逢う。その馬逸物駿足、伯孫請うて己が馬と交換し、翌朝見るに埴輪の土馬なりき。すなわち往いて誉田陵を見るに、昨夜交換せる馬陵畔土馬の間にありきと。誉田陵周湟の外堤俗に中山と称す。今なお埴輪円筒の並列せる痕跡歴々徴すべし。かつてはここに土馬の多く樹《た》てられたりしものと見ゆ。この陵兆城東西五町、南北五町、その墳丘の大なる、仁徳陵につぎ、実に海内第二となす。陵畔、応神天皇を祀れる誉田八幡宮あり。古来世の崇敬厚く、ために山陵また冒さるるなく、伝を存して後世に至る。陵側、陪塚多し、陵とともに当代陵墓の好標本たり。皇子菟道稚郎子墓は山城宇治にあり。兆城東西十二町、南北十二町。広く山地を占む。薨じて菟道山の上に葬るとあれば、宇治河北山地の大部、ほとんど皆この兆域内に編入せられたりしものと見ゆ。
 36 仁徳天皇陵
 仁徳天皇陵はいわゆる大山陵にして、和泉|百舌鳥耳原《もずのみみはら》にあり。位置によりて中陵と称す。兆城東西八町、南北八町。けだし陪塚の域なども含めるなり。繞らすに三重の湟をもってし、規模の大なる実に海内第一となす。天皇仁徳、民を憐む慈父のごとく、その寿陵を営まるるや、庶民子来、この大を成せしものか。明治五年その前丘の乗南角崩れ、陪葬の石槨を発見せしこと、前段に述べたり。誉田陵とともにまた当代陵墓の標本たるべし。
 37 履中天皇陵
 履中天皇陵は大山陵の西南にあり。位置によりて百舌鳥耳原南陵と称す。兆城東西五町、南北五町。大さ誉田陵につぐべし。
 38 反正天皇陵 (177)反正天皇陵は大山陵の北にあり。位置によりて百舌鳥耳原北陵と称す。これを前二者に比するに規模すこぶる小。兆城東西三町、南北二町。
 39 允恭天皇陵
 允恭天皇陵は仲哀天皇長野西陵の近傍にあり。これに対して恵我長野北陵と称す。兆城東西三町、南北二町とあれば、あるいは東西の方向を採りたる瓢形墳かとも解せらるれど、確かならず。西陵と兆域位置を対比し考うべきものなりとす。
 40 安康天皇陵
 安康天皇陵は、大和菅原の伏見にあり。伏見は平城右京二坊三坊の辺に当る。垂仁天皇の東陵に対して西陵と称す。兆城東西二町、南北三町。これを垂仁陵に比するに、規模すこぶる宏大なりしもののごとし。陵形はこれを当代前後の陵墓と対比し、同じく周湟を有せる偉大なる前方後円陵たりしや必せり。いわんや豪邁なる雄略天皇によりて築かれたるもの、規模の大、察するに難からず。
 41 雄略天皇陵
 雄略天皇陵は河内丹比の高鷲原陵という。兆城東西三町、南北三町。これを前三代の陵に比して規模さらに宏大なり。天皇の朝、南シナ呉国との交通も行われて、技巧すこぶる進み、加うるに天皇豪邁の資を有し給い、陵威大いに張る。その陵の雄偉また察するに難からず。陣形はむろん前方後円なりしなるべし。
 42 清寧天皇陵
 清寧天皇陵は河内|坂門《さかと》原陵という。『和名抄』に古市郡|尺度《さかと》郷あり。陵の兆域方二町。
 43 飯豊天皇陵
(178) 飯豊天皇陵、『延喜式』に大和葛下郡埴口墓とす。『日本紀』には葛城埴日丘陵に作る。兆域方一町、けだし小陵なり。『扶桑略記』には一説に河内古市郡坂門原南陵に葬るともあり。
 44 顕宗天皇陵/磐杯丘陵に関する『山陵志』の説
 顕宗天皇陵は傍丘磐杯丘《かたおかいわつきおか》南陵と称す。武烈天皇の北陵に対するなり。傍丘はすなわち片丘にして、孝霊天皇の馬坂陵のある丘陵なり。武烈陵とともに兆域東西二町・南北三町の大陵とす。これを前後の陵制に徴するにまた必ず前方後円の墳丘たりしを疑わず。『山陵志』に曰く、
  今傍丘の南※[山+禺]を岡荘となす。即ち片岡の別荘の名なり。築山村あり、其の南を陵家村となす。而して南北各古墳を存す。因て以為《おもえ》らく、築山は是れ磐杯の磐を省き、杯を更めて築と為すなり。陵家は甞て陵戸を宅《お》くを以て之に名づく。今之を検するに、北陵甚だ高壮。武烈の寿陵其の侈想ふべし。而して南陵は乃ち平地の築く所、頗る卑小。顕宗の天下を有つは仁倹を躬らす。亦其の験ならずや。
 45 仁賢天皇陵
 仁賢天皇陵は埴生坂本陵という。河内埴生坂の麓なり。兆域方二町。
 46 武烈天皇陵
 武烈天皇の傍丘磐杯丘北陵。前記南陵の条に見ゆ。
 47 継体天皇陵/郡界の疑義/皇后手白香皇女陵
 継体天皇の摂津三島藍野陵、島上郡にあり。兆域方三町。この地東西に相対してほぼ同規模の両瓢形墳あり。東なるは今城《いまき》塚と称し二重湟あり、島上郡に属し、西なるは茶臼山と称し、単湟を繞らし、島下郡に属す。両郡の境界古今変遷あるか。延喜式内島下郡太田神社、茶白塚の西畔にあり。この社の位置古えより移動なかりしも(179)のとすれば、茶臼塚は延喜のころよりすでに島下郡の域たりしに近きか。皇后手白香皇女陵は大和山辺にあり。『式』に衾田墓と称す。兆域方二町、守戸なく、崇神陵の陵守これを兼ぬ。
 48 安閑天皇陵/皇后春日山田皇女陵と神前皇女墓
 安閑天皇陵ほ河内古市の高屋丘にあり。畠山尚順によりて高屋城の本丸に利用せられたりということにて著名なり。『式』に兆城東西一町、南北一町半とあれば南北に延びたる瓢形墳らしく察せらるれど、当時この高屋城を安閑帝御廟と称せしこと、またその伝えありしことと思わる。『日本紀』には皇后春日山田皇女および皇妹神前皇女をこの陵に合葬すとあれども、『延喜式』には別に兆域方二町なる春日山田皇后古市高屋墓を録す。後に改葬せるにや、いかん。
 49 宣化天皇陵/皇后橘皇女陵
 宣化天皇陵は大和高市郡|身狭桃花鳥坂《むさのつきさか》の上にあり。兆域方二町。皇后橘皇女およぴその孺子を合せ葬る。弘法大師益田池碑に、「左2龍寺1右2鳥陵1」とあり。龍寺は龍蓋寺にして鳥陵すなわちこの宣化陵なるべし。
 50 欽明天皇陵/欽明陵石人の話/欽明陵石材の精巧
 欽明天皇陵は檜隈坂合陵という。また高市郡にあり。方四町。これを前二代に比するにすこぶる大なり。推古天皇二十八年、砂礫をもって檜隈陵上に葺《し》くとあるものこれ。ただし古墳墓を葺くに砂礫をもってする、必ずしもこの陵に限らず。ちなみにいう。『今昔物語』元明天皇陵点定恵和尚語に、「今昔、元明天皇の失給へりける時、陵取らんが為に大織冠の御一男定恵和尚と申しける人を差して大和国へ遣はしけり。然れば吉野の郡蔵橋山の峯多武峯の岸重かる後に峯あり。云々。其麓に戌亥の方に広き所あり。其を取つ。軽寺の南なり。此れ元明天皇の檜前《ひのくま》の陵なり。石の鬼形共を廻、池辺陵の墓畔に立て、微妙《いみじ》く造れる石など、外には勝れたり。」とあり。ここに、元明陵というは言う(180)までもなく欽明陵の誤りにして、定恵その位置を撰定せりということ、もちろんまた年代の許さざるところなれども、鬼形の石造物を羅列し、微妙く造れる石など、外には勝れたりとのことは、当時の実際を目撃したる説として、尊重すべし。石の鬼形とは、今も存する異形の石人にて、いったん付近の田に埋もれたりしを、元禄年間発見す。『大和名所図絵』に曰く、「欽明天皇陵云云。此の山に石仏四体あり。内三体は背にも一面づゝありて両面の像なり。又二体は膝の傍にも面貌の如きものあり。これを数ふれば四躯九面なり。元禄十五年十月五日、平田村池田といふ所にして振出せし石像なり云云。」と。いわゆる石仏が『今昔物語』にいわゆる「石の鬼形」と同物なるべきは論なし。しかして「他に勝りて微妙く造れる石」のこと、また実あり。明治二十三年中、文学博士三宅米吉氏この地を過ぎて、偶然塚穴の破壊さるるに会せらる。当時の氏の記事に曰く、「此の塚内部の構造は例の方形なる玄室に、羨道つき、入口は南に向へるものなるが、其の石材は実に巨大なるものにて、中には長一丈許幅五尺もあるものあり。而して皆磨※[龍/石]精工、必ず由ある陵墓と見えたり云云。」と、この塚必ずしも『延喜式』にいわゆる檜隈坂合陵ならざるべきも、もしその陵の陪塚ならんには、もって本陵の構造が「微妙く造れる石など外に勝れ」たるべきを推測すべき好材料ならざるべきか。付記して後の研究の資となす。
 51 敏達天皇陵/母后石姫皇女陵
 敏達天皇陵、河内|磯長《しなが》中尾陵と称す。兆域方三町。域内に母后石姫皇女の磯長原陵あり。『日本紀』に、崇峻天皇四年、訳語田《おさだ》天皇(敏達)を磯長陵に葬る、これその妣《はは》皇后所葬の陵なりとあり。けだし母后の陵に合葬し奉りしもの。当時帝王陵と皇后陵と、規模においてさまで逕庭なかりしを知る。なお磯長陵のことにつきては次項を見よ。
 52 用明天皇陵/磯長陵の疑義/聖徳太子墓
 用明天皇陵また河内磯長にあり。兆城東西二町、南北三町。初め大和磐余池の上の陵に葬り、推古天皇元年に至り、(181)さらに磯長に改葬すと『日本紀』にあり、『古事記』には御陵は石寸掖上《いわれのわきがみ》にあり、後に科長《しなが》中陵に遷すとあるを、『延喜式』には磯長原陵に作る。しかも石姫皇女の磯長原陵が敏達の磯長中尾陵の域内にありということ、名称混同しやすく、彼此やや矛盾するに似たり。けだし用明陵が磯長中尾陵にして、敏達陵は磯長原陵たるべきものか。皇子聖徳皇太子の墓同じく磯長にあり。墓畔叡福寺あり、上の太子と称し、世相伝えてこの墓を崇祀す。円墳にして横穴式石槨あり、当代陵墓の標本たるべきこと前すでに言えり。
 53 崇峻天皇陵
 崇峻天皇は非命に崩じ給い、即日これを倉梯岡陵に葬り奉ると『日本紀』にあり。至尊の大葬を即日執行すること、前後未曾有の例なり。したがってそのいわゆる倉梯岡陵のごとき、いかなる形式のものなりけん。『延喜式』にも陵地ならびに陵戸なしとあり。陵地なき山陵とはいかなる意味か。
 54 推古天皇陵
 推古天皇陵は磯長山田陵という。位置敏達・用明二代の陵と相近し。兆域方二町、もと竹田皇子の墓にして、天皇薄葬を遺詔し、特に陵を興すことをなさざりしこと、前すでに述べたり。もって当時皇親の墳墓また帝陵に応用さるるほどの規模ありしを知るべし。康平三年賦のこの山陵を発くこと『扶桑略記』に見ゆ。
 55 舒明天皇陵/田村皇女陵/大伴皇女墓/鏡女王墓/押坂彦人大兄皇子墓
 舒明天皇陵は大和忍坂にあり、押坂内陵と称す。『延喜式』に兆域東西九町、南北六町。けだし、付近の山地を広く域内に収めしなり。陵域内に御生母田村皇女押坂墓、欽明天皇の皇女大伴皇女の押坂内墓、および鏡女王の押坂墓の存在を録す。もっていわゆる兆域がしばしば墳丘その物以外の広地を含めるを見るべし。天皇の御父押坂彦人大兄皇子の成相墓は大和広瀬郡にあり。『続日本紀』に成会山陵とあるものこれか。『弘福寺文書』に「広湍郡瓦山一処、(182)北は船椅路より成相の木の下に至る」とあり、同書また、同郡真野条七成柏里の名を録す。もってその所在を知るべく、けだし片岡丘陵の一部なり。『延喜式』兆城東西十五町、南北二十町。丘陵の南部ほとんどその域内に入る。
 56 孝徳天皇陵
 孝徳天皇陵はまた河内磯長にあり。大阪磯長陵と称す。兆城東西五町、南北五町。けだし山地なり。
 57 皇極・斉明天皇陵/石櫛の役を廃す/石槨と石棺/檜隈大内陵と石槨/皇后間人皇女陵/大田皇女/茅淳王墓
 皇極・斉明天皇陵は大和の越智にあり越智崗上陵と称す。兆城東西五町、南北五町。天皇筑紫遠征の中に崩じ給い、天智天皇遺詔に基づき陵に石槨の役を起さず。詔に曰く、「我れ皇太后天皇の勅し給ふ所を奉じ、万民を憂へ恤むの故に、石槨の役を起さず、冀ふ所は永代に以て鏡誡とせよ」と。ここに石槨というは、今日考古学者問に普通にいわゆる石槨、すなわち石をもって積み上げたる墓穴の謂にあらずして、木棺を納むる石櫃、すなわち今日普通にいわゆる石棺の謂なるべし。字義を按ずるに棺は屍を容るるもの、槨はその外箱なり。しかして今日いわゆる石棺なる物の多数は、さらにその中に木棺を納むる容器にして、これすなわち石槨なり。斉明天皇御葬送に際し、遺詔の旨を体して石槨の役を起さず、もって永世の鏡誡とする天智天皇の施設は、いわゆる「近江大津宮御宇天皇の天地と与に長く、日月と与に遠く改《かわ》るまじき常の典《のり》」として、爾後歴代天皇の常に遵奉し給えるところ。陵墓に関するこの制、また永く行われしを疑わず。天武・持統両天皇の檜隈大内陵が、見事なる切石の石室(すなわち今日いわゆる石槨)を有し、御装飾善美を極むるにかかわらず、御棺が木製たりしとのことは、これあに天智天皇が永く石槨の役を廃し給える結果なるなからんや。文武天皇三年、越智・山科二陵を修造す。越智はすなわち斉明陵にして、山科は天智陵なり。天智天皇遺詔によりて薄葬に従いしも、文武天皇至孝にして忍び給わざるところあり、ためにこの挙に出で給いしものならん。斉明天皇葬送と同時に、孝徳天皇の皇后間人皇女を同陵内に合葬し奉り、同日に皇孫大田皇女を陵前の墓に葬る。ま(183)た天皇の御父茅渟王の墓は大和片岡にあり、『延喜式』に葦田墓と称。兆城東西五町、南北五町なり。
 58 天智天皇陵/山科陵永世不除/山科陵一異説
 天智天皇山科陵、『扶桑略記』には山城宇治郡山科郷北山にありとあり。天皇崩じて間もなく壬申の乱あり。これより先、朝廷、美濃・尾張両国司に宣して山陵を造らんがためにあらかじめ人夫を差定せしも、いまだ成るに至らずして乱起る。その修造は文武天皇三年越智山陵とともに行われしか。しかも陵はその前すでにあり、『万葉集』に額田王が山科陵を過る時の歌を収む。兆域東西十四町。南北十四町。先皇の陵には陵戸五烟を法とす。しかして山科陵特に六烟あり。他の山陵は御代の遠近により漸次国忌より除去するにも、ひとり山科陵は永世除かず、特別の尊崇ありき。『扶桑略記』一異説を記して曰く、天皇馬に駕して山科郷に幸しさらに還御なし、永く山林に交り、崩所を知らず。ただ履沓の落ちし処をもってその山陵となすと。けだし、天皇の徳を尊むのあまり、その仙化し給えることを言えるなり。
  59 弘文天皇陵
 弘文天皇陵『延喜式』録するところなし。壬申の乱、天皇山前に崩じ、将軍大伴|吹負《ふけい》、天皇の御首級を捧げて美濃不破宮に至り、天武天皇に献ず。その陵につきては史に記するところなし。大津宮の西北山中に崇福寺あり。天智天皇の創建し給うところ。壬申の乱後大津宮は廃するも寺は依然たり。しかして天皇崩後、天位に即かるべき予約ありし倭姫皇后の御行衛、また史に記するところなし。今かりに想像を逞しうせんか。壬申の乱後、皇后はこの崇福寺に入りて先皇および弘文天皇の冥福を修し給い、したがって弘文陵またこの地に営まれしにはあらざるかと。今崇福寺址数多の当代式の墳墓あり。その中最も大なるもの、今石槨内に不動の石像を安置するなり。一説膳所なる茶臼山を天皇陵と称す。前方後円式墳丘にして時代隔絶す。
(184) 60 天武天皇陵/「阿不幾乃山陵記」/大内陵石室羨道あり/羨道玄室皆切石よりなる/大内陵木棺
 天武天皇陵は大和|檜前《ひのくま》にあり。持統天皇元年十月より築造し、二年十一月ここに葬り奉る。檜隈大内陵と称す。後青木御陵と称す。青木の名「諸陵雑事注文」「西大寺田園目録」等に見ゆ。兆城東西五町、南北四町。文暦二年賊のこれを発きし時の記事「阿不幾乃山陵記」あり。山陵内外の模様を記する、すこぶる詳細にして、当時の陵制の標本を説明するものあるをもって、左にこれを摘記し、いささか説明を加うべし。「記」に曰く、
  件陵形八角、石壇一匝一町詐歟、五重也(貞いう、円丘を結界石にて八角に作れるものか。また墳丘五段をなせしものと見ゆ)。此五重ノ峯、有2森十余株1。南面有2石門1(貞いう、羨道入口なり。入口は外に露われ石戸あり。泉門あるいは石戸等の語往々古史・古歌に見ゆ)。門前ニ有2石橋1。此石門ヲ盗人等、纔人一身通(ル)許(リ)切(リ)開(ク)。御陵ノ内ニ有2内外陣1(貞いう、内陣とは玄室にして外陣は羨道をいう)。先(ズ)外陣方丈間詐歟。皆馬脳也(貞いう、当時大理石を瑪瑙という。薬師寺本尊瑪瑙の須弥壇、川原寺瑪瑙の礎石のごとき皆しかり。ここには石室を作れる花崗岩の切石を燈火に照らしかく誤認せしものならん)。天井高七尺許。此モ馬脳、無2継目1一枚ヲ打覆(ト)云(貞いう、羨道玄室の天井を一枚石にて作れる例往々これあり)。内陣ノ広、南北一丈四五尺、東西一丈許。内陣有2金銅ノ妻戸1(貞いう、切石にて作れる石槨に、戸を入れたる溝の存する例他にもあり)。広(サ)左右扉各三尺五寸、七尺(貞いう、三尺五寸の扉二枚にて七尺、観音開きとなりしものならん)。扉厚(サ)一寸五分、高(サ)六尺五寸。左右ノ腋柱、広(サ)四寸五分、厚(サ)四寸。マクサ(貞いう、楯にて扉の上に横に渡す梁なり)三寸、鼠走(リ)(貞いう、扉の上の横木なり)三寸、冠木広(サ)四寸五分、厚四寸【已上金銅】、扉ノ金物六、内小四【三寸五分許】大二【四寸許皆金】、已上形如2蓮花返花1。古ノ形師子也。内陣三方上下皆馬脳歟。朱塗也(貞いう、石槨に朱を施せるもの他にも例多し)。御棺張物也【以v布張v之入v角也。】、(貞いう、木棺の上を張りしもののごとし)。朱塗。長(サ)七尺、広(サ)二尺五寸許、深(サ)二尺五寸許也。御棺ノ蓋ハ木也。朱塗。御棺ノ床ノ金銅厚(サ)五分、床上ヲ彫透。左右ニ八、尻頭ニ四、クリカタ四【尻二頭二】。御骨首ハ普通【ヨリスコシ大也】、其色(185)赤黒也。御脛骨長一尺六寸、肘長一尺四寸。御棺内ニ紅御衣ノ朽タル少々在v之。盗人取残物等被v移2橋寺内1。石御帯一筋、其形ハ以v銀兵庫クサリニシテ、以2種々玉1飾v之。石二アリ、形如2連銭1。表手石長(サ)三寸、石色如2水精1、似2玉帯1。御枕以2金銀珠玉1飾v之。似2唐物1、依v難v及2言語1不v注v之。仮令(ヘパ)其形如v鼓。金銅桶一【納2一斗許1歟】居v床。其形如2礼盤1。※[金+巣]《クサリ》少々クリカタ一在v之。又此外、御念珠一連在v之。三匝ノ琥珀御念珠ヲ以2銅ノ糸1貫v之。而多武峯法師取了。又彼御棺中ニ銅カケカネ二在v之。已上記如v此。
 61 『明月記』の山陵発掘記事
 右は盗人の取り残したる御物につきての記載なれども、記者が「言語に及び難きによりて之を注せず」といえるほどにて、その精好美麗なる、宛然正倉院御物中の逸物を拝観するの感あり。金銅桶とは、陵内に合葬し奉れる持統天皇御火葬の御遺骨を納め奉れる函にや。『明月記』にこの時のことを記して、
  文暦二年四月廿二日甲申発2山陵1盗事。天武天皇大内山陵云云。只白骨相遺。又御白髪猶残云云。六月六日※[日+章]尋入来之次、談d奉v見2山陵1者伝伝説u。毎v聞増2哀慟之思1。於2御陵1者又奉v固由有2其聞1。定簡略歟。於2女帝御骨1者、為v犯2用銀筥1奉v棄2路頭1了。
とあり。ここに銀筥というは前の金銅桶とかなわず。あるいは御遺骨を納めたりし銀筥は賊これを取り去りて存せず、前記金銅桶は別の容器なりきとも解すべきか。『明月記』伝聞を記す、その詳細を知らず。文暦は天武天皇御葬送より後約五百五十一年。石室よく密閉されしかば当時なお御木棺、御遺骨および室内の木製の設備、ならびに装飾具なども保存されしものと拝察せらる(なおこの陵のこと『歴史地理』第一九巻第六号記するところを見よ)。
 62 持統天皇陵/天皇御火葬の始め/高市皇子墓
 持挽天皇陵、天武天皇陵と同じ。右に述ぶ。大宝三年飛鳥岡に火葬して後、この陵に合葬し奉る。実に天皇御火葬(186)の始めなり。これより後、火葬をもって普通とす。高市皇子の三立岡墓は大和広瀬郡にあり。兆城東西六町、南北四町。「弘福寺文書」に、広湍郡瓦山一処、東従2御立路坂1至2坂合部1とある御立路すなわち三立岡の道なるべし。皇子葬送に際し、城上《きのえ》の殯宮のこと『万葉集』の歌にあり。道百済原を過ぐ。同文書広瑞郡二十一条五里三十一坪、三十二坪、三十三坪に当りて木戸《きのえ》池あり、条里の調査によりて地点明示すべし。同郡百済村より、西に進み、片岡丘陵の東麓に当る。いわゆる御立路はその北方なるべく、三立岡の地また推すべし。
 63 岡宮天皇陵
 岡宮天皇(草壁皇太子)真弓岡陵。高市郡真弓にあり。兆城東西三町、南北三町。太子飛鳥の島の宮に薨じ、この真弓に葬る。当時の歌『万葉集』に収むるところ多し。
 64 文武天皇陵
 文武天皇陵、檜前《ひのくま》にあり。檜隈安古岡上陵という。兆域方三町。慶雲四年飛鳥岡に火葬して、ここに葬り奉る。
 65 元明天皇陵/元明天皇薄葬の遺詔/山陵と刻字の碑/元明陵と陵制の変遷/墓碑の先遷
 元明天皇陵、平城京北にあり、奈保山東陵と称す。兆城東西三町、南北五町。名は元正天皇の西陵に対するなり。天皇位を元正天皇に譲り給い、太上天皇にましまししが、養老五年十月右大臣長屋王・参議藤原房前を召して詔したまわく、「朕聞く、万物の生、死あらずといふことなし。此れ則ち天地の理なり。奚んぞ哀悲すべけん。葬を厚うして業を破り、服を重ねて生を傷ことは朕甚だ之を取らず。朕崩ずるの後は宜しく大和国添上郡|蔵宝山薙良岑《さほやまよらのみね》に於て竃を造りて火葬し、他処に改むることなかれ。謚号は其国其郡朝廷馭宇天皇と称して、後世に流伝すべし。又皇帝万機を摂断せんこと、一に平日に同じく、王侯卿相及び文武の百官、輒く職掌を離れ、喪車に迫ひ従ふことを得ざれ。各本司を守り、事を視ること恒の如くせよ。其の近侍の官並に五衛府は務めて厳警を加へ、周衛何侯して、以て不虞に備へ(187)よ。」と。越えて四日、さらに詔したまわく、「葬事に須ふる所一事以上、前勅に准依し、闕失を致す勿れ。其の※[車+需]車霊駕の具には、金玉を刻み鏤ばめ、丹青を絵き※[食+芳]ることを得ざれ。素薄是れを用ひ、卑謙是れに順へ。仍りて丘体鑿つ無れ。山に就て竃を作り、棘を※[草冠/殳]り場を開きて即ち喪処とせよ。又其の地には皆常葉の樹を殖え、即ち刻字の碑を立てよ」と。かくて十二月崩じ給うや遺詔によりてこれを椎山陵に葬るに喪儀を用い給わざりき。さきに持統・文武両天皇の大葬に際しては、いったん飛鳥岡に火葬し奉り、後これを他の陵に移し葬り奉りき。しかるに元明天皇は、丘体鑿つなく山につきて竃を作り、火葬して他処に改むるなかれと遺詔し給う。果してしからばこの山陵は、従来のごとく石室を構え墳丘を起すの類にはあらざりしがごとし。『扶桑略記』に陵高さ三丈方三町、これより以後高陵を作らずとあり。これより以後とは元明陵をも含むものか。高さ三丈という、墳丘を起したるに似たれど、遺詔にして遵奉されんか、高処につき御火葬所を構えたるもの。その高さ三丈というは、兆域内におけるその高処を指せるか。つまびらかならず。特にその刻字の碑につきては、注意すべきものあり。墓に碑あること、雄略天皇朝に雷を捉りて死したる小子部栖軽《ちいさこべすがる》の墓碑のこと『霊異記』に見ゆ。あるいは後の建設を誤伝せしかいまだ知るべからざれども、『日本紀』に記載せる藤原鎌足墓碑のことは疑うべからず。「大宝令」には、「凡て墓は皆碑を立てよ。其の官姓名の墓と記せよ」とありて、墓には碑を立つるを正式とせしもののごとし。その後世に存するものなきは(稀にあるも偽物の疑いあり)、年代の久しき間に、後人によりて取り去られ、あるいは埋没して見るべからずなりしものか。しかして元明天皇特に刻字の碑を遺詔し給う。後世、奈良般若坂春日社内に函石と称するあり。伝えて天皇陵碑となす。文久年中、幕府山陵を修造してこれを域内に移す。今や文字磨滅剥蝕、一字の読むべきなきも、かつてこれを摺りたりという文に曰く、
  大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲太上天皇之陵是其所也。養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉葬
(188)と。この碑の真偽いかんは別問題とするも、ともかくこの陵に遺詔に基づき碑を樹てたりしことは疑うべからず。種種の点において陵刷上一革新をなせしものと謂うべきにや。
 66 元正天皇陵
 元正天皇陵、奈保山西陵と称す。兆城東西三町、南北五町。始め天平二十年四月崩じ給うや、山作司を任じて営陵のことに従わしめ、佐保山陵に火葬し奉る。その山作司を任じてより火葬までわずかに七日。陵の簡易なりしこと知るべし。天平勝宝二年十月に至りて、さらにこれを奈保山陵に改葬し奉る。
 67 宮子夫人陵
 千尋葛藤高知天宮姫尊(文武天皇夫人藤原宮古娘、孝謙天皇尊んで大皇太后と称す)佐保山西陵、また平城京北に当る。名称は仁正皇后の東陵に対してなり。太后天平勝宝六年七月十九日崩御、二十日造山司を命じ、八月四日これを火葬し奉る。その間十四日なり。兆域東西十二町、南北十二町とありて、佐保山の大部ほとんどその域内に編入されしもののごとし。
 68 聖武天皇陵
 聖武天皇佐保山南陵、兆域東四段、西七町、南北七町。位置を按ずるに、その域まさに西において西陵に接すべし。その東に仁正皇后(光明皇后)の佐保山東陵あり、兆城東三町、西四段、南北七町といえば、また東においてただちに仁正陵に接し、両陵相距るわずかに八段(四十八間)に過ぎず。天皇天平勝宝八歳五月二日崩、三日山作司を任じ、十九日葬り奉る。その間十六日なり。葬の儀仏に奉るずがごとく、供具に師子座、香炉、天子の座、金輪の幢《はた》、大小の宝幢、花縵《けまん》、蓋繖の類あり。路にありては笛人をして行道の曲を奏せしむ。また葬儀の異例を啓き給えるもの。
 69 淳仁天皇陵
(189) 淳仁天皇淡路陵。三原郡にあり、兆域方六町。
 70 幸謙・称徳天皇陵
 孝謙、称徳天皇高野陵。添下郡にあり、兆域東西五町、南北三町。西大寺所伝「京北部粧田図」(現東大文科蔵)に、右京一条二坊北辺の東北隅に当り、本願天皇御陵と注す。天皇本寺を草創し給う。その陵けだし寺に伝うるところありしもの、もってその位置を明かにすべし。
 71 春日宮天皇陵
 春日宮天皇(光仁天皇御父施基皇子)田原西陵、添上郡にあり、名称は光仁天皇の東陵に対す。兆域東西九町、南北九町、また広く山地を占むるなり。
 72 光仁天皇陵
 光仁天皇田原東陵。兆城東西八町、南北九町。初め広岡山陵に葬り、後この陵に改葬し奉れるなり。
 73 結論/皇陵参拝の指導のみ
 以上ほぼ奈良朝末以前における陵墓の文献徴すべき重なるものを録しおわれり。桓武天皇山城に遷り給い、世態一新、これより後、陵墓また多く山城にあり。爾後の記事すべて宮地学士の文に委ね、今言及せず。本編もと主として上古皇陵に関する古書の記事を網羅するを目的とす。したがって古墳墓制を説くに当りても、主として近畿地方特に高貴に関すと認めらるるもののみに止まり、あえて一般墳墓の攻究に及ばず。これを中国地方と、九州地方と、関東地方等とに比するに、各地それぞれに特異の墳墓制あり。近畿においても、また異様の棺槨、変態の葬法を見る少からず。広くこれらを比較研究し、一般古墳募制の研究に及ばば、その高貴陵墓の調査上に資する、もとより利益多からんも、今次「皇陵」号発行の動機たる、現在皇陵参拝の指導として、尊皇至誠の要求に応ぜんとするものなれ(190)ば、その学術的研究のごとき、もと本号の目的とするところにあらず。ただ本号を手にして皇陵を巡拝せらるる諸賢が、幸いに本編によりてその古えを追懐し、今の盛況に随喜し、かたわら考古学的趣味を喚起して一般古墳墓に注意し、これを尊重するの念慮を生ずるに至るあらば余輩の望足れり、ゆえに今あえて深く論及せず。      (大正二年十一月、於京都後二条天皇北白河陵畔仮寓貞吉謹記)
 
 
(191) 古墳墓の年代について(高橋健自君の評言に答う)
 
 回顧すれば明治三十六年の初めのころなりき、余感ずるところあり、「古墳の年代を定むることについて」と題する一小篇を草して、雑誌『歴史地理』第五巻第三号に掲げ、考古学者の一顧を煩わしたることあり。当時これに対してなんらの反響を聞くことを得ず、そのままにして沈黙裡に葬られおわりしが、その後四十一年五月京都に客遊して、たまたま同地将軍塚付近に一小古墳墓の発掘せらるるに遭遇し、親しくこれを調査するの機会を得て、その墳墓が平安朝初期のものなるべきを思い、これを当時の本誌編者に通信せしより、端なくも一場の論戦を交換するの機会を生じたり。けだし、当時多数の考古学者の間にては、いわゆる古墳なるものをもって遅くも奈良朝末期前のものなりとし、もしくは奈良朝以前のものなりとし、ことに当時考古学会の幹事なる高橋健自君のごときに至りては、これをもって主として推古天皇以前なりとの持説を主張せられ、その「本邦鏡鑑沿革考」においても、「鏡鑑の漢式時代とは即ち古墳時代にして、主として推古天皇以前なり」(『考古界』第七篇第一号、一九頁)と明言せられ、同じく幹
事なりし和田千吉君また、「考古学上古墳と称するものは主として仏教を知らざる時代の墳墓なり」として、これはさらに一歩を進め、主としてこれを欽明天皇以前に限定せんとさえ試みられたるほどなりき。されば、これをもって平(192)安朝初期の墳墓なりとする余輩の認定は、当時はなはだしき嘲笑をもって、否、むしろ愚弄をもって迎えられ、中にも某氏のごときは、『日出新聞』紙上に考説を投書して、余輩に与うるに聞くに忍びざる冷評をすらもってするに至りき。かくて翌四十二年六月、当時の『考古界』記者和田千吉君は、同誌前任記者高橋健自君および当時余輩に対して反対論を発表せられし岩井武俊君に代り、みずから陣頭に立ちて「将軍塚付近の古墳に関する喜田君の説に就て」と題する一文を同誌第八篇第三号に掲げ、これを傍例により遺物に考えて、その古墳が「奈良朝以前のものたるは確実なり」と批判し、余輩に対して挑戦せられたり。しかれども、これもとより余輩の同意する能わざるところ、あに一言なきを得んや。すなわち匆々筆を馳せて「『考古界』記者和田千吉君と古墳墓年代考定の方法を論じて、考古家諸賢の示教を乞う」と題せる一文を草し、これを『歴史地理』第十四巻第二、四、五、六の四号に連載して、そのしかるべからざるゆえんを弁じたり。
 当時余輩の論じたるところは、その対象を前記和田君の批判文に取りたりしも、これもとより氏が考古学会編輯主任たる地位によりてこれを択びたるのみ。期するところは高橋君を始めとして、一般考古家諸賢の示教を得んとするにありき。果せるかな、学に忠なる高橋君は、翌四十三年一月発行の『考古界』第八篇第十号において、「鏡鑑沿革考に対する喜田博士の評論に答ふ」と題して、余輩の論文中、特に氏の「鏡鑑沿革考」に関する部分に対してのみ、一矢を報いられたり。しかも氏の論文はもとより余輩の首肯し能わざるところ。すなわちさらにこれに答えて、改めて示教を求むべかりしが、年初雪を冒して中国、九州にいわゆる神篭石遺蹟を探りてより、帰来宿痾再発し、ために薬餌に親しむこと数旬、加うるに「神篭石号」の発刊と、これに関する研究と起稿とに時日を要する多く、ことに引続き学年度末に際して公務はなはだしく多忙を極め、ついに荏苒答弁の機を失したるが上に、後にして冷静これを考うれば、氏の駁文に答えんには、だいたい余輩の前文を繰り返すこととなるべきものなりしかば、ためにつ(193)いにこれを草するに至ちず、和田君もまた余輩の文に答うるところなくして、この論戦はまたおのずから中止しおわれり。
 爾来四星霜、古墳墓に関する研究は駸々として進み、余輩もまた微力ながらも本務の余暇をもって思いをこれに潜め、蘇我馬子の桃原墓、蝦夷・入鹿の今木の双墓、天武・持統両天皇合葬の檜前大内陵等、高橋君らのいわゆる古墳時代以後の古墳墓に関する考説を試みて、これを『歴史地理』に掲げ、また石槨の変遷に関する管見を人類学会に発表して、世に問うところあり。客歳末『歴史地理』臨時号として「皇陵」を発行するや、また「上古の陵墓」と題する一文を巻首に掲げて、そのうち奈良朝末以前の古墳墓制の変遷に論及したりき。
 余輩の「上古の陵墓」中に論じたる古墳墓、年代に関する管見は、だいたい古墳墓に前後の二期ありて、そのもの差異は種々の点において現わるるも、特にその石槨について言えば、前期のものは頂上に竪穴式石槨を設け、後期のは半腹または丘麓に横穴式石槨を設くるを常としたりと謂うにありき。しかるに学に忠なる高橋君は、たちまち評論一編を『考古学雑誌』第四巻第七号に掲げ、余輩に対して示教を賜わる。余あに喜びてかつ謝せざらんや。
 ここにおいて余輩のまず説示せざるべからざるものは、余輩のもって上古陵墓制中の後期と称するものの時期なり。余輩は大化前後を中心として、盛んに横穴式石槨を有する墳墓の行われたるを信じ、上は聖徳太子の磯長墓、下は天武・持統両天皇の大内陵、またこの横穴式石槨を有することを言えり。もとよりその継続時期は、さらにその前後に及びたらんも、特に右の両者をもって、その時代における該式墳墓の存在の証明とせるものなり。すなわち余輩のいわゆる上古陵墓期の後期とは、主としてかつて高橋君らのもって古墳時代以後となせしところに属するものなり。しかるに、ああしかるに、時は最後の解決者なりき。さきにいわゆる古墳時代をもって主として推古天皇以前に限り、「考古学者間の術語としては、単に土を盛り上げて何物かを埋蔵しありたりとて、之は古墳とは云はず、所謂古墳と(194)は、少くも千数百年前に於ける貴人の墳墓に限る」とせられし高橋君は、今やこの前説を捨てて、推古天皇以後奈良朝に至るまでも、なお余輩のいわゆる後期式の古墳、すなわち考古学者問の術語においてのある形式の古墳の存在を承認せられ、余輩が古墳を前後両期に分ちし差異、特徴に対して、だいたい同意を致され、両期墳墓の外形および埴輪の有無について、いずれも賛成致され、特に埴輪と殉死との関係、一石槨内にその家族のものが漸々合葬されたることの管見につきては、双手を揚げて大賛成致されたるなり。これ実に日本考古学の一大進歩にして、余輩の深く学界のために慶してかつ賀せざるべからずとするところとす。高橋君は実にわが考古学界の元老にして、特に古墳墓研究者中の先達なり。氏や実に古墳墓の研究上はなはだ多くの便宜と機会とを有せらるるなり。かくのごときの好地位にありて、斯界屈指の経歴と声望とを有せらるる氏にして、この尊敬すべき学者的態度をもってここに前説を放棄し、余輩の管見の一部に同じて、ますますその研究を進められんには、余輩が歴史地理学上の必要より、かねて斯道学者に向って切望せし古墳墓年代考定のことを完了するの時期は、氏によりて近く実現されんとすなり。ここにおいて余輩は、学界のために再びこれを慶し、かつ賀せずんばあらず。
 余輩は氏に対して実に多大なる希望を有す。ここにおいて余輩が、氏と意見を異にする点につきて忌憚なき考説を披瀝し、もって氏の参考となさんは、学界のため切実にその必要を感ずるところなりとす。ここにおいてか本編あり。乞う、しばらく余輩に聴け。
 氏はだいたいにおいて余輩の所見に同意されながら、なお「細かな点」に至りては、平常考えらるるところと相違ありとて、左の三点を提示し、もって余輩の一考を求めらる。
(一) 石槨の様式において氏は、余輩がもって後期の特徴となすところの横穴式石槨をもって、きわめて古き時代より存するものとし、奈良朝に至るまで、なおこれを見るべく、竪穴式石槨はむしろ後に起りて、余のいわゆる後(195)期時代にも行われたりとせらるること。
(二) 外形いわゆる前期式に属して、瓢形もしくは円形冢墓をなし、埴輪を有しながら、しかもまた同時に横穴を有する場合、この横穴は必ずしも後より作りたりと考え難しとのこと。
(三) 天智天皇の詔中に見ゆる石槨は、依然、考古学者間にいわゆる石槨にして、いわゆる石棺の意義なりとは認められずとのこと。
 以上の三点、氏はこれを「細かな点」と言わるれども、しからず。なかんずく第一、第二の両点のごときは、余輩の新研究の骨子とも謂うべきものにして、氏によりてこの二点の同意を得ざることは、氏が双手を挙げて大賛成致されたるあらゆる事項よりも、余輩によりて重大なる要点なりとす。
 これを論ずるにおいて余輩は、まずあらかじめ氏の承認を得ざるべからざることあり。氏があまりに厳格に、あるいは余輩の言外に、意をもって余輩の所説を判断せられざらんこと、これなり。余輩が従来口を極めて、芸術史家および考古学者に対して論ずるところ、常にこの点にあり。しかして今次の高橋君の論文、またこの点において、遺憾なく発現せられたるを見る。なんぞや。余輩はかねて事物の変遷は撃柝一声、舞台面の変化するがごとく、しかく急激に変移するものにあらずと信ず。したがって余輩の所説、常に厳格にこれが変遷の時期と事項とを限定せざるなり。いわんや君が評論に上りし「上古の陵墓」のごとき、主として畿内地方における陵墓研究の参考となさんとするにあるがゆえに、記して精密ならざるをや。ゆえに曰く「通例某々なり」、曰く「某々なるを常とす」と。ことに余輩は明言して曰く、
  本編もと、主として上古皇陵に関する古書の記事を網羅するを目的とす。したがって古墳墓制を説くに当りても、主として近畿地方、特に高貴に関すと認めらるるもののみに止まり、あえて一般墳墓の攻究に及ばず。これを中国(196)地方と、九州地方と、関東地方等とに比するに、各地それぞれに特異の墳墓制あり。近畿においても、また異様の棺槨、変態の葬法を見る少からず。広くこれらを比較研究し、一般古墳墓制の研究に及ばば、その高貴陵墓の調査上に資する、もとより利益多からんも……今あえて深く論及せず。
と。これあえて遁辞にあらず。一は皇陵研究を目的とするためにもあれど、また一は、実に余輩の知識がこれ以上明言するの程度に達せざるがためなり。否、事物の性質が、しかく明瞭に判断すべきものにあらざるがためなり。されば余輩は、まずこの点について、高橋君ならびに読者諸賢の、思いをここに致されんことを望まざるを得ず。しかるに高橋君は往々にしてすこぶる厳格にこれを解し、曰く、
  博士は後期の古墳には、専ら横穴があると論ぜられてある。而して其の前後両期といふのは、安閑天皇から聖徳太子の頃の間に境界線を認められてある。換言すれば安閑天皇の御陵までは前期の特徴が備はり、聖徳太子の御墓からは後期の制が認められる事を述べて居られる。さうして見ると、横穴式石槨は、如何に古くとも宣化天皇より以前にはないといふことにならざるを得ない。
と。これ余輩の実に案外なりとするところなりとす。余輩は曰く、
(一) 後期の墳墓は……横穴式石槨を有するを常とす。
(二) 前期の墳墓は少くも安閑天皇の御代ころまでは継続せしものなりと見ざるべからず。……少くも聖徳太子のころ、すでに後期式陵墓が行われたりしを認めざるべからず。
と。ここにおいて第一に、余輩はまず、余輩が後期の墳墓が必ずしも横穴式石槨を有するもののみなりと思惟せざるものなることを承認されんことを望む。余輩はこの期の墳墓が横穴式石槨を有するを常とすと信ず。しかもこは高貴権門の徒、もしくは一項一家族の屍を蔵むる類のものの間に普通に行われたるものにして、しからざる場合において(197)は、一個人の墳墓に往々竪穴式のものの存在するを熟知するなり。現に天武天皇丁丑すなわち六年の墓誌を有する小野|毛人《えみし》の墳のごときは、明かに竪穴式なり。ただ前期式竪穴と多少形式を異にするあるのみ。余輩が説いてここに及ばざりしは、これをもってこの時代に普通なるものなりとは信ぜず、また陵墓を説くにその必要を認めざりしがためなり。しかれども、余輩は、その後平安朝に至りては、かえって多くこの式の墳墓制が行われたりきと信ずるなり。かつて問題に上りたる将軍塚付近の墳墓を始めとして、平安朝時代の葬地として認めらるる島部野およびその山続きなる東福寺山の数多の墳墓、特に明治十四年に発掘されて今は九条兼実の墓と定まれる月輪の墓、およびその年近お壷の滝において去る四十四年十二月に発掘されたる小古墳のごとき、皆この類なり。しかしてかくのごとき形式のものは、むろん平安朝になりて始まりしにはあらず。少くも天武朝小野毛人の墓を始め、いわゆる前期時代より継続せしならんも、余輩のもって上古の後期となす時代には、横穴式のもの普通にして、この類のもの比較的少かりしに、のち横穴式のもの次第に減じて、平安朝に至りては、この式のもの普通に行わるるに至りしものなりと信ずるなり。しかも余輩はこれと同時に、平安朝に至りても、なお横穴式のものまた並び行われたりしならんとのことを否認するものにあらず。したがって横穴式墳墓の始期というとも、あえて聖徳太子をもって初めとはせず。もちろん安閑天皇以前よりも存在すべく、これと同時に、前期式のものもまた聖徳太子以後にも存すべし。ただその当時に普通と認むるものにつきてこれを言い、少くも安閑天皇までは、なお前期式墳墓の行われし証あり、聖徳太子のころ、すでに後期式のもの行われし証ありとするのみ。したがってその普通とするところについてこれを言わんに、「両期の遷移この間にありと謂うを得べきに似たり」となす余輩の言、なんらの支障あるを見ざるなり。しかるに高橋君は意をもってこれを迎え、余輩の所説をもって後期にはもっばら横穴式石槨行わると論じたりとして、「常とす」を「もっぱら」と改め、これに対して痛撃を加えらる。これ余輩の堪えざるところなりとす。
(198) そはとまれ、かくまれ、余輩はだいたいにおいて、なお、前期には主として.竪穴式石槨行われ、後期(ここに後期とは上古の後期すなわち奈良朝末以前のみについていう)には主として横穴式石槨行われたりきと信じ、氏の弁駁について、反対の意見を表せんとす。
 氏はまず、わが古伝説なる伊奘冊尊の黄泉国、および天照大神の天岩屋戸をもって、横穴式石槨の思想の発現とし、これをもってきわめて古き時代より、この式の墳墓ありし一証とせられんとす。しかり、余輩もまた右の古伝説をもって、横穴式石槨の思想の発現と信ずる点において氏に一致す。しかれども、これあるがためにきわめて古き時代よりこの式の墳墓ありきとは解せざるなり。氏がすでに反対論者のまさに言わんとするところとして予想せらるるごとく、この伝説をもって横穴式石槨の普通に行われたる時代に生じたるものとし、もってきわめて古き時代の証とはならずと信ずるなり。氏は「竪穴式石槨の消滅して、横穴式石槨の行はれたるは安閑天皇以後聖徳太子の頃まで八十年間に属する事であるから……右の伝説構成期は記紀編纂の当時に対して、其の間約一世紀或は一世紀半に過ぎない事となる……あまりに非常識なる次第ではなからうか」と論じて、厳格なる意味をもって勝手に反対者の説を構成し、これを駁せらる。これ余輩の関せざるところ。余輩は必ずしも横穴式墳墓の創始をもって、「紀記」編纂前一世紀もしくは一世紀半の前と謂うがごとき、近きものなりとは思考せず、高句麗との交通起るに及び、漸々輸入されたる形式なりと信ぜんとす。しかも、余輩はまた、古伝説がわずか一、二世紀の間にても、よくその当時の風習によりて、ある新色彩を加え得べきことを信ずるなり。
 余輩は事実上、近畿において余輩の親しく知れる限りの数十百の埴輪を有する前期式墳墓が、ほとんどことごとく竪穴式のものにして、河内瓢箪山等きわめて少しばかりのもののほか、横穴を有するを見聞せず。また余輩の近畿において親しく踏査せる数百の横穴石槨式墳墓が、ほとんどことごとく埴輪を有せざるものなるの確乎たる事(199)実を有す。しかしてその稀れに京都|太秦《うずまさ》の天塚のごとく、瓢形墳にして二個の横穴石槨を有するもののごときは、もとよりもって普通と認定すべきにあらず、かつ明かに後より改造せりと認めらるるものなり。こはさらに後に言うべし。しかして九州その他近畿以外他地方における余輩の観察もまた同じ結果を示せるなり。この事実にして幸いにはなはだしく誤らずば、古伝説の横穴式墳墓思想の発現時期、またもって察すべきなり。実に奈良朝人士は、その当時の墳墓制を見て、眼前の垂仁天皇陵にすら、横穴の存在を古伝説中に語り伝えたりしなり。『古事記』に曰く、田道間守橘子を「天皇之|御陵戸《みはかのと》」に献ずと。陵戸はすなわち横穴入口の岩戸なり。陵は菅原の伏見にあり、今日天皇陵と定まれるもの、よしや学問上疑問を挟む余地ありとするも、これと相並べる双陵の一が、近傍のあらゆる前方後円陵と趣を異にし、ただ一つ横穴式石槨を有したりきとは想像すべからず。しかして『古事記』の古伝説これをいう。古伝説を考古学上に応用せんとするもの、注意せざるべからず。
 次に高橋君は、陶棺新古の実例によりて、少しばかりの新式陶棺と認むべきものが、竪穴式石槨中にありたるを証とし、余輩のいわゆる後期時代に竪穴の存在を言わる。これ余輩の全然一致するところ。前記小野毛人墓、また最も正確なる一証として提供し得べく、余輩が認めて平安朝墳墓となすもの、また多く然なるを知るなり。なお例とするは畏けれども、孝明天皇、英照皇太后、明治天皇三陛下の御陵、またことごとく竪穴石槨にてましますなりと漏れ承る。余輩のいわゆる後期時代において、竪穴式石槨の存する勿論なり。ただその多数について、普通とするところを言えるのみ。氏のごとく、意をもって余輩の言わざるところを補い、余輩が「常とす」といえるものを「もっぱら」と改めて後、始めてこの弁駁は成立すべく、しかもその弁駁の対手は、余輩にはあらざるなり。
 第二に余は後期に埴輪の存在せざるを信ずる結果として、後期式石槨を有しながら、しかも前期式の外形をなし、埴輪を有するものにありては、これを後より改造せるなるべしと信じたり。しかるに高橋君はこれを信ぜずとして、(200)当初より、埴輪とともに横穴式石槨の存せしものありたるべきを言明せらる。余輩といえども、もとより理論上両形式の過渡期において、その中間物として双方の形式を具備せるものの存在すべきを思う。ゆえに曰く、
  前後両期の中間に位するもの、また理論上、その存在を認めざるべからず。ただいまだ明かにこれを発見せざるのみ。
と。もし高橋君にして、幸いにその中間物の確証を提供せられなば、もって両者変遷の状を見るを得て、研究上多大の利益を獲得するなるべし。しかも余輩の寡聞なる、いまだこれを発見せざるのみ。余輩もとより前期式墳墓にして横穴式石槨を有するものの往々にして存するを知る。筑後吉田なる岩戸山椿子なる重定の大石槨、およびその付近の円丘に存する石槨、若宮八幡境内の日の岡のごとき、皆その著しきものなりとす。前記瓢箪山および天塚等、またその例なるべし。しかれどもこれらの数例、いずれも余輩の観察せる限りにては、後の改造なりと信ぜらるるなり。改造の最も著しき例としては、肥後玉名郡繁根木村なる、頂上に石棺を有し、麓に横穴石室を設けたるものを推すべし。この場合において、一墳両穴を有するものの一が、必ず後より設けられたるべきことを認めらるるの雅量ある高橋君は、また必ずその横穴をもって、後より在来の前期墳墓に寄生して設けられたるべきことを承認するに躊躇されざるべしと信ず。しかしてすでにこれを承認せらるる以上、頂上に竪穴式石槨もしくは石棺の存在を認めずとも、これを後の改造と認定せんは、ただ転一歩ならんのみ。高橋君は頂上なる旧石槨を破壊し、もしくは石棺を移動して、新たに横穴式石槨を設くることを、不可能とせらるるがごとし。しかれども、改築のことはしばしば実際に例証を見るのみならず、奈良朝末においても、有力者が祖先のために偉大なる墳墓を営造するの事実ある以上、祖先の墳墓を改造して、これに当代式の大石室を設け、子孫永くこれに合葬せらるるの塋域となさんは、まさにしかるべきことなりとす。かの重定大石槨のごとき、瓢形墳にして埴輪を有し、横に横穴式大石槨あ(201)り、奥壁に高く石槨を設くるもの、思うにかつて頂上に安んぜられし祖先の遺骨を、ここに改め安置せしものと察せらるるなり。大伴家持の詠に曰く、
  大伴の遠つ神祖《かんおや》の墳墓《おくつき》は著《し》るく占め立て人の知るべく
 家持は奈良朝末の人なり。奈良朝末において遠祖のために世人の仰望すべき偉大なる墳墓を営造すべしという。むろん、その墳たる一族の合葬さるべき性質のものなるべく、これは新たに営造せんとするものなれども、同一思想より、在来の墳墓を改造し、もって一族の墳墓となさんことは、想像するに難からざるなり。言うまでもなく、瓢形墳は後丘の頂上を主体として、前方よりこれに向って拝すべく作成せられたるものにして、普通は南面すれども、その所在の位置の都合によりては、必ずしもしからず。しかもその頂上なる棺の方向は、必ず前方に向えるなり。すなわち知る、その両丘の相連れる方向は屍体安置の位置に対して、明かに意義あるものなることを。しかるに瓢形墳にして横穴式石槨あるものを見るに、その穴の方向多く南面にして、必ずしも墳の方向と一致せず。これけだし、墳の方向に関する意義が失われて後、当代の形式に準じ、単にその墳丘を利用し、南面して石室を設けたるものならざるべからず。後期の石室は南面を普通とす。ただし、位置の都合により必ずしもしかるを得ず。したがって一墳二穴を有するもののごときにありては、その南面せるものをもってまず造られ、しからざるものは後に寄生せしものと断ずべきに似たり。しかして、その利用する墳丘は通例自家のものなるべきも、また必ずしも祖先のものとは限らず、他の荒陵《あらはか》をもってする、また可なり。したがって在来の石槨・石棺をそのままに存するも可なり、改造移置する、また可ならざるべからず。なんぞ父祖の石槨を破壊し去りて、さらに新槨を構うるをもって、祖先の祭祀を重んずる国民性にかなわずと謂わんや。
 論じてここに至り、さらに弁ぜざるべからざるは、高橋君が大和見瀬なる丸山大古墳に関する見解なり。(202)この墳は、かつて天武・持統両天皇合葬の大内陵と誤認されたりしものにして、氏はこれをもって横穴式大石槨を有する偉大の瓢形墳なりと解せらるるなり。余輩といえども、瓢形墳にして埴輪を有し、しかも後期式横穴を有する中間物の存在を信ぜんとす。しかしてその実例の学界に提示されんことも望むや切なり。しかれども、この丸山墳に至りては、遺憾ながらとうていこれに同意する能わざるなり。余はかつて高橋君より親しくこの墳が瓢形墳なるべきことを聞き、その後も再三再四実地につきて蹈査し、これを多年墳上の耕転に従事せる農夫について聞くに、とうてい氏の見解に一致し得べき材料を発見せざるなり。けだし、同墳は細長く延びたる丘陵の一端に近く設けられたる一大円墳のみ。丸山の名、実にその真を伝うるものと謂うべし。されど、今かりにこれをもって前方後円墳とせんか、種種の不都合を生ぜざるを得ず。近畿の前方後円墳には、その前方部もまた必ず幾分の隆起を見、通例埴輪を伴うべきものなるに、この丸山にはいささかも前方部の隆起を見ず。また、かつて埴輪の破片をだも発見されざるなり。しかして氏のもって後円部なりと目せらるるものは、その実、隆然たる円丘にして、普通の瓢形墳の後丘に似ず。また、その丘陵の下部にはなんら階段なくして、特にこの円丘部にのみ数層の階段を有する等、これを全体としては体を成さず。この円丘のみをもってして、立派に後期式円墳の特徴を具備するなり。けだし、この墳の築造者は丘陵の一端に近く墳墓を営み、さらにその墳墓所在の丘陵を切断して湟を設けたりしものか。要するにこの丸山は、とうてい前期式墳墓にはあらざるなり。余輩はその位置より、またその偉大なる点より、これを桃原および今木の墳墓の形式と比較して、あるいはこれを当代随一の豪族として、かつ驕奢を極めたりし蘇我馬子が、その父母稲目夫妻のために設けたる合葬墳に擬すべきにあらじかと思惟す。もとよりこれ確証あるにはあらず、試みに言い驚かし置くのみ。
 これを要するに、埴輪を伴える瓢形填または円墳は、頂上に竪穴式石槨を有し、もしくはその場所にただちに石棺または木棺を理むるを常とするものにして、これを本邦人固有の葬法とすべし。しかるに、後期に至りて横穴式石槨(203)の多く行わるることとなれるは、これは韓土との交通より、高句麗の葬法を輸入せるものにて、その一族合葬に便宜なるより、人口ようやく多く、土地を節約せざるべからざるに至りては、死者あるごとに新たに墳塋を起すの労を省くの利とあいまって、この式の墳墓の流行を来ししものならん。したがってこの式の墳墓の普通に行わるるに至りしは、余輩のいわゆる後期時代にあれども、その輸入はさらに古かるべく、決して高橋君のごとく、「いかに古くとも宣化天皇以前には無い」などと窮屈なる解釈をなすべきにあらざるなり。したがってまた後期時代においても、旧式の竪穴式石槨は、やや形式を変じて依然継続し、平安朝に至りて再び盛んに行わるるに至り、さらに形式を変じつつ、徳川時代を経て、明治・大正に至るまでなお行わるることば、これを承認せざるべからず。余輩の上古陵墓における前期、後期をいうものは、畢竟その大体について論ずるのみ。決して同時代に二種の形式のもの並び行われずとするがごとき、窮屈なる解釈をなすなかれ。
 ちなみにいう、高橋君は余輩の語を解し、「後期には円墳、稀には方墳が行はれ、湟がない」として、これに対して賛意を表せらる。これ余の感謝するところなれども、余輩は、その実、いまだかつて「湟がない」とは言わざるなり。後期の墳墓、普通には周湟を存せざれども、必ずしも湟なきをもって後期の特徴とまでは断言せざるなり。現に延暦十一年には、崇道天皇の「家下に隍を置き、濫穢せしむるなかれ」とあり。周湟は濫穢を防ぐためなり。その存在もとより差支えなし。ただ前期のそれのごとく大ならざりしがゆえに、多く埋没せしならんのみ、しかして見瀬丸山の周湟と見ゆるもの、もし果してしからんには、またけだし、この類ならんのみ。余輩はここに氏の賛意を表せられたるにかかわらず、氏の賛成されざる方面に余輩の持説を明かにせんとす。
 最後に氏は、石棺と石槨との見解に関する余輩の見解を難ぜらる。これ余輩も実にもって難となすところなりとす。余は実に大和|樋《いぶり》野において、いわゆる石棺中に石枕の作り出しあるものを実見せり。筑後石神山に(204)おいて、さらに一相中二個の石枕の作り付けあるのを実見せり。氏の提供せる博物館陳列のもの、またその一例なり。さればいわゆる石棺をもって、必ず常に木棺の外函となすことについては、余輩はなはだこれに惑う。ゆえに曰く、「今日いわゆる石棺なるものの多数は、さらにその中に木棺を納むるの容器にして、これすなわち石槨なり。」と。こは字義より試みに言えるのみ。しかして、正当に字義を解すれば、さらにその中に木棺を納めざる前記の例のごときものは、これ槨にあらずして棺なり。この場合は棺を略して、普通に石槨とするものをただちにこれにあてたるもの、かかる形式の葬法並び行われたりと解するもまた可ならずや。氏は『魏志』を引きてわが国に棺あり槨なしとし、「支那人の所謂槨はなかつたものであらう」と論ぜらる。いかにも『魏志』の文によればかくも解せらるれども、こは倭人のことにして、必ずしも本邦人の風俗とのみ見るべからず。普通にはいわゆる倭人をもってただちに本邦人と解すれども、余輩の信ずるところはしからず。余輩は倭人をもって隼人の熟化雑婚になれるものなりとし、したがってその風俗をもってただちにこれを邦人の風俗とは解し難しとするなり。この理由は他日発表の期あるべし。そはともかくも、倭人の俗「棺あり槨なし」としても、本邦人必ずしも然るにあらざりしことは、『北史』に、
  死者斂むるに棺※[木+醇の旁]を以てす。親賓屍に就いて歌舞す。妻子兄弟白布を以て服を制す。貴人三年殯し、貴人日を卜して※[病垂/(夾/土)]む。
とあるによりて明かなり、※[木+醇の旁]は槨なり。当時の本邦人は葬るに棺と槨とをもってせしなり。『魏志』は九州倭人の俗をのみ見て事を記し、『北史』は大和朝廷と交通してその俗を記するもの。由来、シナの史籍は後出のもの、ただちに前出のものを蹈襲するを例とす。されば『魏志』一とたび棺あり槨なしの語をなしてより、『晋書』『南史』『梁書』皆これに倣う。しかるに『北史』ひとり『魏志』の後に出でて、正確なる見聞により、前史を訂正して棺槨あるをいい、『隋書』またこれに従う。もって本邦の俗、当時棺槨ありしを見るべく、『魏志』の言がもって一般本邦人を率すべか(205)らざるを知るべし。かくて天智天皇ひとたび永久に石槨の役を廃すべきを詔し給い、明かにその後の造営の証ある大内陵、もしくは小野毛人墳において、考古学者のいわゆる石槨はありて石棺のなきを思うに、考古学者のいわゆる石棺は、その正しき字義のごとく天智天皇の詔にいわゆる石槨に当り、考古学者のいわゆる石槨は天皇の詔と相関せず、墳墓構造上の一要件として依然存在する墓穴ならんとすること、依然不可ならざるに似たり。しかも余輩なお決せざるところあり、あえて固執せず。高橋君ら世の考古学者諸賢が、多くの類例を提供して、これを明かにするの期あらんことを希望す。
 終りに臨んで高橋君が余輩の論文を精読紹介せられ、余輩をしてさらにこの文をなすの機会を与えられたるを謝す。もしそれ平安朝以後の墳墓に至りては、本編のあえて関せざるところ、しかも余輩は、かつて問題に上りし将軍塚付近の小古墳群を始め、明かに平安朝王公貴紳の葬地たる鳥部野、木幡山等に無数に散在せる小円墳をもってこれまた考古学者諸賢の術語としての古墳と認め、さらにこの方面の研究を積まれんことを希望せざるを得ず。かくのごとくにして考古学はますます進み、余輩の歴史地理学は、ために多大の恩恵を被るべきなり。(大正三・三・十六、徹夜起稿)
  同じ横穴石槨でも、上方《かみがた》と山陰地方と九州と、それぞれに形式の違ったものがある。上方では多数が単室だが、九州には数室連続したのが多く、出雲伯耆あたりには、一枚の大きな切石の中央に穴をあけて、それを室の境界にしたのが多い。もってこの制が韓地伝来の道筋を示しているかの感がある。
 なお石槨、石棺については、他日詳しい発表を試みたい希望を有している。
 
 
(207) 再び古墳墓の年代について、付棺槨の意義について(高橋健自君の評言に答う)
 
      一 緒  言
 
 考古学において全然門外漢たる我輩は、ここに斯界の耆宿たる高橋君に対し、再び古墳墓に関して意見を交換するの光栄を有す。
 我輩が本誌四月号に掲載を請いし古墳墓年代に関する論文につきて、篤学なる高橋君は、ただちに翌五月号において、我輩門外漢の蒙を憐れみ給いてにや、きわめてお手柔かなる評言を賜わりたり。これ我輩の切に感謝するところなれども、我輩はかねて我輩がきわめて狭少なる知識と常識上の判断とより試みに帰納せる管見の、専門学者の前になんらの権威なかるべきを想い、その論文が高橋君によりて木端微塵《こつぱみじん》に粉砕せらるべきを予期して、内々ビクビクものたるとともに、実はこれによりてこの研究が、さらに一進境に到達すべきことを期待したりしに、今この評言のきわめてお手柔かなる小手先のあしらいなるに遇い、ほっと一と息つくとともに、いささか拍子抜けの感なき能わざるなり。したがってこれに対して、我輩がここに本誌の余白を藉り、再び発表せんとするところのものが、こ(208)れを前文に比してほとんどなんらの進歩を見ず、ほぼ前文の祖述敷衍に止まることは、日進月歩の学界に顧みて、遺憾少からずとなす。しかも事情またやむこと能わざるなり。
 高橋君は我輩の所説に対して、それが我輩新研究中の重大なる要点であるだけそれだけ、いっそう賛成すること能わずとして、だいたいにおいて左の反対意見を繰り返さる。
 一、概論としていえば、横穴式石槨の方が古く行われ、竪穴式石槨の方がむしろ後に起ったであろうと主張する(第九号五五二頁)。また神代説話の横穴思想は後世現出のものでなく(第九号五五三−四頁)陶棺新古の実例は、横穴が古く竪穴が新しいとのことを証明する(第九号五五四−五頁)。
 二、下野長岡の古墳の横穴式石槨の玄室の頂上に一大埴輪円筒の樹てられてあったのは、最初ここに竪穴式石槨の存在したことを認めることの出来ない証拠であるのに、喜田にはこれに対するなんらの弁明がない(第九号五五五頁)。また大伴家持の歌に関する喜田の解釈は間違っている(第九号五五六頁)。
 三、いわゆる石棺中にさらに木棺のあった証拠の挙らない限りは、石棺は、やほり石棺として置くが穏当であろう。かつて大和の「鬼の俎」「鬼の厠」をもって一種の石槨だと考えたこともあったが、あれはやはり石棺と認むべきもので、さきに訂正して置いた。したがって天智天皇の詔中の石槨はやほり今日考古学者のいわゆる石槨であろう(第九号五五九頁以下撮要)。
 高橋君の反対意見は大要右のごとくにして、問題はだいたいにおいて古墳墓棺槨形式の前後と、棺槨の意義との二つに分る。なおこれに付随して種々の論点あれども、それらは比較的重要なるものならねば、まず主として右の三点につきて愚見を開陳し、便宜その他の諸点に及ばんとす。
 
(209)       二 まず論戦の態度について弁ず
 
 これを開陳するに先だち、我輩は、まずもって氏の一顧を請わざるべからざるものあるを感ず。我輩の「皇陵」号において述べしところは、すでに言えるがごとく、もともと考古学専門雑誌上において、高橋君のごとき専門家を対手として論議するものとは撰を異にし、単に皇陵を説くの参考までに、漠然と不完全なる研究の結果を吐露したるに過ぎずして、ために氏の誤解を招きしの点あり、ついに氏を煩わすに至る。これ一に我輩記述不備の結果として、お気の毒に堪えず。しかれども、我輩が後に本誌上において、氏の所説に対して論弁したるところのものは、当時における我輩の知識の最善《ペスト》を尽くしたるものなりき。しかして氏のこれを観る、我輩が胡魔化してなりとも議論に勝ちさえすれば可なりとの態度をもって、氏に対したりと解せらるるもののごとく、学説の論戦上、遺憾ならずとせず。氏曰く、「博士は云々とて遁げられた。」(第九号五五四頁)、「博士は云々の理由を説明せられない。」(第九号五五五頁)、「云々として遁げられるのであらうか」(第九号五五六頁)と。我輩不敏なりといえども、その学説を闘わすのさいにおいて、あえて遁げも隠れも致さず、また顧みて他を言うの陋をなさず。正々堂々その所信を披歴して識者の是正を請わんとするのほか、また他事あることなし。高橋君幸いに、まず我輩の態度を諒とせられんことを請う。
 氏はまた、近畿において氏の親しく蹈査されたる結果を説きて、瓢形古墳には特に石槨などというほどの構えなく、単に石棺のみのがむしろ多数を占めたるようなりとして、我輩がことごとく竪穴式石槨を有すと言いたるかのごとく、これを駁せらる(第九号五四五頁)。我輩はいかにも「皇陵」号において、古墳墓前後両期の形式を比較し、後期のものが普通横穴式石槨を有するに対して、前期のものが通例竪穴式石槨を有することを言えり。これ一は相対の文辞上の結果より出でたる行文の勢いによれるものなれども、だいたいについてこれを言わんには、いわゆる前期式墳墓に石(211)槨なくして石棺のみのものが多数なりとするも、これむしろその石槨を省略したるものと解すべきものなるべければ、いわゆる前後の時代における竪横の形式上の比較としては、われわれ素人同士の間には、必ずしも訂正せざるべからざるほどのものにあらじと思う。されど、こはいわゆる素人間の大体論なり。専門雑誌上において、高橋君のごとき専門家と厳格なる研究を交換するには、そのままにては、説明なおすこぶる不備なるの憾みあるをもって、これを本誌上に説く場合には、明かに両者を区別せり。曰く、
  余輩は事実上、近畿において余輩の親しく知れる限りの数十百の埴輪を有する前期式墳墓が、ほとんどことごとく竪穴式のものにして、河内瓢箪山等きわめて少しばかりのもののほか、横穴を有するを見聞せず。また余輩の近畿において親しく蹈査せる数百の横穴石槨式墳墓が、ほとんどことごとく埴輪を有せざるものなるの確乎たる事実を有す。
と。かく我輩はことさらに意を用いて、一は単に竪穴式といい、一は特に横穴石槨式といい、両々対比してその間区別あるを明かにせり。けだし瓢形墳等の頂上に、ただちに石棺もしくは木棺等を埋めたるものは、これ竪穴石槨を略せるものにして、形式上同じく竪穴式と称すべきものなりと信じたればなり。さればその葬法の由来を説明せる条においては、さらにつまびらかにこれを説明して、
  埴輪を伴える瓢形填または円墳は、頂上に竪穴式石槨を有し、もしくはその場所にただちに石棺または木棺を理むるを常とするものにして、これを本邦人固有の葬法とすべし。しかるに、後期に至りて横穴式石槨の多く行わるることとなれるは、これは韓土との交通より、高句麗の葬法を輸入せるものにて云々。
といい、後期式のものが横穴石槨式墳墓なるに対して、前期式のものが、必ずしも竪穴式石槨を有するにあらざることを明かにしたり。しかるにもかかわらず、いかなればか高橋君の周到なる炯眼が、たちまち我輩のこの苦心せる行(212)文を軽々に看過して、氏の蹈査の結果によれば前期式の墳墓必ずしも石槨を有せずとて、あたかも我輩が説けると類似のことを説き、もって我輩の所説を駁すとせらる。遺憾ならずとせず。しかもこの弁駁の対手は実に我輩にはあらず。これけだし、さきに我輩の「主として」といえるを「もっぱら」と解せられたる類なり。すなわち論戦の初めにおいて、特に記して氏の反省を請わんとす。
 
       三 漢式鏡の時代を推古天皇朝と限ることについて
 
 高橋君はまた、我輩が前文において、氏のかつて明言せられたる「鏡鑑の漢式時代とは即ち古墳時代にして、主として推古天皇以前なり」との語を引用したるに対し、
  彼の文中に「漢式時代とは主として推古天皇以前なり」と記したのは、鏡其のものゝ様式上の沿革を歴史上の時代に当て嵌めたもので云々(第九号五五一頁)。
とて、古鏡と古墳墓とに関する弁明を試みられたり。しかれども、我輩がかの文を引用せし趣意は、氏が当時、いわゆる古墳時代をもって主として推古天皇以前なりとして限定せられたることを言えるものにして、事、鏡鑑に関せざるなり。しかも氏は、その肝腎なる「即ち古墳時代にして」の九字を削除してこれが弁明を試みられたれば、そのせっかくの弁明も、我輩の聞くべく期待せしところと全然没交渉のものとなりおわれり。これまた我輩の、遺憾なりとするところなり。
 我輩の前文は実に事、鏡鑑に関せず。しかれども氏が今ここに「即ち古墳時代にして」の九字を削除せられながら、なおかつ鏡鑑の漢式時代なるものをもって歴史上の時代に当て嵌むるに当り、これを主として推古天皇以前なりとするの前説を維持し、ことに「学界日進月歩の今日なほ依然として改める必要を認めない」として、そのままに主張せ(212)らるるにおいては、ついでながら一言なかるべからず。すなわち、また本編の初めにおいて、氏の一顧を煩わさんとす。氏曰く、
  推古天皇以後でも鏡を墳中に副葬することは行はれない理由は未だ発見されない。随つて隋唐の鏡も墳中から発見されさうなものであるが、吾輩の寡聞なる、嘗て之を耳にしないから、唐式時代の鏡は、漢式時代のそれの如く、其の資料を古墳発掘遺物中に求められぬ事を述べたのである(第九号五五一頁)。
と。氏がここに主として推古天皇以前と限定せられたるの理由は、推古天皇朝にはすでに六朝その終りを告げて、隋唐の代始まりたればというにあるか、あるいは推古天皇朝より隋唐との直接の交通始まりたれば、漢魏六朝式の鏡鑑の輸入は止みて、これより隋唐式鏡鑑のみ輸入されたるべしというにあるか、我輩いまだその詳細なる説明に接せざれば、これを忖度するを得ざれども、そのいずれにもせよ、我輩の不敏なる、いまだ依りてもってこれを推古天皇以前なりと限定することの可なるを知らざるなり。我輩寡聞、多くの事例を知らず。しかれども、まずもって氏らのいわゆる唐式鏡が、全然わが古墳墓中より発見せられずとの事実を信ずるに躊躇せざるを得ず。現に先年河内中津山(仲津姫皇后陵と定れる瓢形墳)南の大瓢形墳西側くびれめの半腹より、金釘(木棺に用いしものか)、土器その他の遺物とともに、いわゆる唐式鏡は発見せられたりきと聞く。我輩いまだ親しくこれを見たるにあらねば、ここに真否を保証し得ずといえども、実物は東京博物館にある由なれば、氏はつとに熟知せらるべく、その唐式鏡ということがもし事実ならば、またもってその一例に供すべし。古墳より唐式鏡は出でずとの予断を有せらるる氏は、あるいはこれをもって墳墓にあらず、墳墓の一部に寄生せる経塚の類なりとも解せらるるならん。しかれども、こは、唐式鏡は墳墓より出でず、墳墓より発掘せらるる鏡は漢式鏡に限るとの前提予想の結果として始めて言うべきものにして、経筒その他、該地が経塚なりとの絶対証明あるにあらざるよりは、第一解釈としては、普通塚墓の一部より発見せらるる陪葬(213)墳の一として、後より該塋域内に葬られたりしものとなすを至当とせん。されど今かりに、右の第一解釈が誤謬なりとするも、氏もすでに認めらるるごとく、推古天皇以後といえども鏡を墳中に副葬することの行われざる理由のいまだ発見せられざる以上、当時すでに唐式鏡の輸入ありたらんにほ、理論上その鏡はまた古墳墓中より発見せらるることあるべきを期待せざるべからざるにあらずや。大化の改新に際して孝徳天皇詔したまわく、「金銀鋼鉄を蔵むる事なかれ、含ましむるに珠玉を以てする事なかれ、珠の襦《こしごろも》玉の※[木+甲]《よろい》を施《お》くことなかれ」と、これより鏡鑑を副葬するの習慣もあるいは止みたるならん。推古初年よりここに至るわずかに五十三年、その末年よりは実に十七年の短日月に過ぎざれば、このころかりに唐式鏡の輸入ありて、これを墳中に副葬したりとて、これを太古以来の無数の塚墓に比するに、その数きわめて僅少なるべければ、その実例がいまだ多く氏のごとき専門学者の見聞にだも上らざる、ゆえなきにあらず。しかも理論としては、とうていこれを絶無なりとほ謂うべからざるなり。されど百歩を譲りてかりに氏に従い、唐式鏡は絶対に古墳墓中より発見せられずとならば、たといシナにおいて当時王朝は隋、唐と変りたりとも、少くも大化以前においては、依然いわゆる漢式鏡が行われて、いわゆる唐式鏡はいまだわが国に輸入せらるるに至らざりしものなりと解せざるべからず。漢魏六朝と隋唐と、彼此その王者の姓を異にすとも、同じくこれ漢人によりて、同じく黄河、揚子江の地方に興されたるもの。その文明はいわゆる撃柝一声にして変転すべきにあらず。隋唐の初年にはなお漢式鏡行われたるべく、いわゆる唐式鏡出ずるに及びても、なお幾年かは前代式のもの並び行われたるべきを想像せんこと、これ最も自然にあらずや。されば、六朝が推古前四年に終りを告げ、隋唐との直接交通が推古天皇十五年(実は八年なるべきも)に始まりたりとても、それがためにいわゆる漢式鏡時代をもって、主として推古天皇以前なりと限定すべきなんらの理由を発見せざるなり。否、推古以前といえども、大化に至るまではなお鏡鑑が副葬せられたりきと信ずべき理由ありて、しかも事実上、墳墓中より唐式鏡が発見せられずとならば、いわゆる(214)氏の漢式時代をもって、これを大化に及ぼすもまた可なるにあらずや。けだし正倉院において見るがごとき唐式鏡の輸入時代は、大化改新の令によりてもはや鏡鑑を副葬するの習慣が廃せられたる後なるぺければ、その鏡が墳墓中より発見せらるることなきの理由は、それによりて解すべきものなるべし。すなわちかりに隋唐の代にはいわゆる漢式鏡、全然跡を絶ち、彼我直接の交通によりて唐式鏡多く輸入せられたりと想像せんには、理論上、少くも推古以後大化以前の墳墓よりは唐式鏡を発見することあるべきを認めざるべからず。また、わが古墳墓より唐式鏡、絶対に発見せられずとならば、少くも大化まではいわゆる漢式鏡時代なりしものと見るべく、これを限るに推古をもってすべきにあらず。この点において高橋君は「ジレソマ」に罹り給えるなり。もしまた、氏がいわゆる推古以前と限定せられたることが、厳格に推古天皇朝をいえるにあらず、いわゆる「主として」にて、推古より大化に至る短年月間のことのごときは措いて問わずとの意ならんには、これを特に推古と指定すること畢竟無意味なり。崇峻天皇以前というも可なり、舒明天皇以前というもまた可ならずや。さらに大化以前という最も可ならずや。要するに我輩はいずれの方面より見るも、これを主として推古天皇以前なりと限定するの可なるを知らず。いわんやこれを、いわゆる古墳時代と一致せしめんとするにおいてをや。
 枝葉の論弁思いのほかに長文に渉れり。いでこれより本題に入りて、氏が依然賛成する能わずとせらるる主要の三個条につき、いささか管見を吐露すべし。
 
      四 古伝説を考古学および史学に応用することについて
 
 第一に氏は、「横穴式石槨の方が古く行はれ、竪穴式石槨の方がむしろ後に起つたであらう」と主張せらるる理由として、依然神代説話をその証拠の一とせらる。しかしてこれに関する余の弁明を評して、「決して穏当とは思はれな(215)い」の、一語の下に排斥し、我輩が「紀記」の古伝説必ずしもその当時の実際を示さざる一例として、垂仁天皇陵に御陵戸《みはかのと》すなわち横穴式石槨の入口あることを語り伝えたる『古事記』の文を引用せるに対して、氏は、
  これは既に本居翁もいはれた通り、同書に「天の石屋戸に※[さんずい+于]気《うけ》伏せて」とあると同じく、陵戸は陵外とも書くべく、つまり陵前といふ意に解するのである。
とし、「古伝説を史学の上に取扱ふ場合には、須らく慎重なる態度を取るべきである」との史学研究法上の注意をまで賜わりたり。感謝の至りなりといえども、実もって痛み入らざるを得ず。いかにも本居翁は氏の言わるるごとくに「御陵戸」の文字を解せられたり。しかれども翁にも千慮に一失あり。翁の説なるがゆえに後人はこれに従わざるべからざるの義務あることなし。試みに『古事記』を開いて氏の引ける天の岩屋戸の条を見られよ。
  天照大御神|見畏《みかしこ》みて、天石屋戸《あめのいわやど》を閉《た》てゝ、刺《さ》しこもりましましき。
 天照大御神怪しとおもほして、天石屋戸を細めに開きて、内より告《の》り給へるは云々。
戸を閉《た》ててさし篭るといい、戸を細めに開きて内より告《の》り給うという。これあに入口に開閉すべき石屋の戸その物をさすにあらずや。しかもその前後二つの石屋戸の文の中間において、「天の石屋戸に※[さんずい+于]気《うけ》伏せて云々」とある石屋戸をのみ、ひとり石屋外の意に解せんとするは、我輩その何のゆえなるを知らず。我輩はこの場合においても、また、石戸その物の前に※[さんずい+于]気伏せて、鈿女命が神懸りせしものなりと語り伝えたりしを信ずるなり。ここに「戸」といいたりとて、必ず戸その物の上に「※[さんずい+于]気伏せ」たりと解せざるべからずとせば、そはあまりに窮屈ならずや。しかして我輩は、田道間守が橘果を垂仁天皇陵の「御陵《みはか》の戸」に献《たてまつ》り置きたりというをもって、同じ意味において、御陵の横穴式石槨入口の石戸の前に置きたることを語り伝えたりと信ずるなり。なんぞことさらに御陵《みはか》の外《そと》と解するを要せん。我輩はここに氏の提供せられたる石屋戸の類例をもって、さらに明かに前説を主張せんとす。されど、そはいかにも(216)あれ、およそ古伝説なるものの中には、もとよりその伝えられたる古代の実際を、そのままに示せるものも間々あるべけれども、中にはその以後の時代の思想を古えに及ぼし、これをその説話せらるる当代のこととして、語り伝うることのまたはなはだ多かるべきは、いやしくも史学研究法の一端を解し、古伝説を史学の上に応用せんとするほどのもののつとに了得するところなり。さればかりに百歩を氏に譲りて、天石屋戸と、垂仁陵の戸と、ともに石戸その物を指すにあらずして、外《そと》の意義なりとし、我輩の提言を撤回すとせんも、神代において伊奘冊尊が崩後、横穴式の室内にましましたりとの古伝説のみをもって、ただちに墳墓の横穴式石槨が、太古より存したりとのことを言わんは、これ明かに史学研究法を無視せるものにして、論理学的錯誤《ロジカルフアラシー》に陥れるものならざるべからず。いかんぞこれより合理的結論を生ずべけんや。されば、今(しばらく高橋君の語を借らんには)「古伝説を史学及び考古学上に応用する場合には須らく慎重なる態度を取るべく、かくの如き筆法を以て我が神代説話より横穴式石槨の存在を推定せんとするは、決して穏当とは思はれず」とも言わんかな。いわんや氏もすでに認めらるるごとく、比較的古代のものと信ぜらるる埴輪を有するいわゆる前期式の墳墓が、きわめて少しばかりの例外を除くのほか、ことごとく竪穴式(石槨あるもあり、またなきもありとも)にして、比較的新しと信ぜらるる埴輪を有せざる墳墓が、大多数横穴石槨式なるの動かすべからざる反証を提供するあるをや。
 
      五 陶棺の新古と石槨との関係について
 
 次に高橋君は、氏ら考古学者が一般に認めて新式なりとなす陶棺が、美作および備前において、二つまで竪穴式石槨中に発見せられ、いくつかの認めて旧式となす陶棺が、和田氏などの実験によって、大概横穴式石槨中に発見されたりとの事実より、「此の一斑が華に全豹を知る資料たるを得ば、我々の満足するところである」(第七号四二五頁)と(217)いわる。しかしてこれに対する我輩の弁明をもってはなはだしく不十分なりとし、新式陶棺の横穴式石槨より発見されたる少からざる例がいずれにありやと反問して、ぜひとも「弁駁の対手になつて欲しい」と挑まる。しからば及ばずながらいささかお対手申さん。我輩はもとより考古学において門外漢なれば、氏のごとき専門家に対してその反問に応じ、満足なる材料を提供し得べくもあらず。ただわずかに蓄積し得たる不十分なる知識と、いささか修養し得たるところの常識的思考とをもって、氏ら専門家の提供せらるる材料の上に、合理的判断を試みんとするあるのみ。しかしてさきに氏の提供せられたる二個のいわゆる新式陶棺は、これ全く少しばかりの実例にして、これが竪穴式石槨中に発見せられたりとて、もとよりもって氏が期待せらるるがごとく、これによりて全豹を知るの料とはなし難かるべく、いずれにしても我輩の所論において、あえて軽重をなすものにあらずと信じたりしがゆえに、これについて深く論及するに至らざりき。しかも氏は今において、なおこの一小斑の事実をもって、幸いに全豹を知るの資料たらんとの希望を有せらるるなり。しからば試みに問わん。氏は氏らが認めて旧式陶棺となし、また新式陶棺となすところのものが、ほぼ歴史時代上果していつのころのものなりと認定せらるるか、またその認定は、いかなる合理的証明の上に設立せられたるものなるかと。これを氏の曩記の文に徴するに、博物館陳列の備前発掘の新式陶棺には、天智天皇ころより文武天皇ころまでくらいの瓦当に見るごとき蓮華紋ありと言われたるによりて見れば、いわゆる新式の陶棺は、ほぼ天智−文武朝ごろ、すなわち我輩のいわゆる上古墳墓の後期時代中のある時代に当るものなりとし、これよりも旧式なりと認めらるる陶棺は、あるいは我輩のいわゆる前期時代に当れるものなりとせらるるもののごとく、さてこそ前期時代に横穴式石槨行われ、竪穴式石槨はむしろ後に起りて、我輩のいわゆる後期時代に行わるとの氏の議論も出でたるなれ。実に氏は、「此の事実によつても、石槨の横穴式なると、竪穴式なると、何れが古制で、何れが新式であるかを論定したのである」と公言せらるるなり。しかれども我輩のごとき疑い深き門外漢は、いわゆる常識(218)判断の上より、いかに専門家の所説なりとはいえ、右のごときはなはだ極《きわ》どき認定に盲従して、これに合理的同意を表する能わざるなり。第一に我輩は、氏らが認めて新式なりとし、また旧式なりとするところにつきて、その年代を疑うの懸念を有す。ことに提供せられたる実例は、ほとんど一地方に限られたる、きわめて僅少の数なり、他に陶棺に関して正確なる多数の材料の発見せられざる間は、しばらくその上に設定せられたる仮定説に満足せざるを得ざること、これ学問進歩上の一経路として、もとよりやむを得ずといえども、これは実にやむを得ざるに出ずるものにして、これを我輩の提唱し、氏のだいたいにおいて賛同せられたる前後両期式墳墓の広く各地方に渉り、数百千の多数を算え得べきものに比して、けだし同日の論にあらざるなり。
 我輩はまず、いわゆる新式陶棺に存する紋様をもって、天智天皇より文武天皇ごろまでくらいの瓦当の蓮華紋に似たりとなすところの認定につきても、これを判断の料とするうえに、また甚大の危懼を感ぜざるを得ざるなり。試みに思え、天智天皇初年より文武天皇初年まではわずかに三十六年、その末年より末年まではわずかに三十七年を経たるに過ぎず。この僅少の年月間において、瓦当文様の変遷が、しかく精密に指示せられ得ぺきまでに著しく異同を生じたりしか。また何によりてこれを知るを得しか。これ我輩の常に世の芸術史家、考古学者の所説に対して疑いを挟むところなり。某寺址発見の瓦当と言わんは可なり。某寺式瓦当と言わんこと、またあるいは可なり。しかもこれをもって某時代の瓦当なりと認定せんには、甚大の警戒を要とす。いわんや千百年において僅々三、四十年の時代を指定せんとするにおいてをや。さらにいわんや京畿の某の時代の某寺址発見の瓦当の例をもって、地方発見の石棺に施されたる紋様に応用せんとするにおいてをや。氏らが認めて推古時代のものとなさんとする法隆寺式単弁の蓮華紋瓦当に酷似するものが、往々にして地方の国分寺址等より発見せられ巴紋瓦当の行わるる代において、梵鐘の撞座に旧式蓮華紋が依然行わるるの実例は、氏らの熟知せらるるところなるべし。さればそのいわゆる旧式のものがおおむね横(219)穴式石槨中より発見せられ、いわゆる新式のものがきわめて僅少なる曩記二個の実例以外の物までも、なお竪穴式石槨より発見せらるると仮定しても、そのいわゆる旧式のものが、我輩のいわゆる後期式横穴石槨時代のものにして、いわゆる新式のものが、さらにその以後すなわち将軍塚・鳥部野・東福寺山・木幡山等において見るがごとき、新竪穴式時代のものにあらざるなきか、これまた保し難かるべきにあらずや。要するに一地方における僅少の例は、もって全豹を推すに足らず。我輩は依然として、近畿その他における数十百千の前後両期の墳墓より帰納して、竪穴式のものまず行われ、韓土の影響を受けて横穴式石槨ようやく起り、一族同穴の風習盛んなるに及んで、この横穴式石槨は一般に行わるるに至りしならんと信ずるなり。
 
      六 古墳墓の改造について、付家持の歌の弁
 
 第二に氏は、我輩が氏の提供せられたる下野長岡瓦塚頂上の円筒の実例に対して、特に弁明するところなかりしをもって、これを答弁の不備として追窮せらる。されどこは我輩に取りて迷惑のことなり。我輩はすでに「頂上に竪穴式石槨もしくは石棺の存在を認めずとも、これを後の改造と認定せんは、ただ転一歩ならんのみ」と明言し、これにて十分弁明を終えたるつもりなりき。実に氏の提供せられたる長岡の瓦塚には、当初頂上に棺槨を有し、その上に円筒の存在せしものなるべし、しかも後にその横側に横穴式石槨を設くるに当り、旧棺槨を除きてその霊を新槨内に安置し、しかも頂上なる埴輪は、これを原のごとくに復したりと解せんに、なんら不都合あるを見ず。ゆえに曰く、
  したがって在来の石槨、石棺をそのままに存するも可なり、改造移置する、また可ならざるべからず。なんぞ父祖の石槨を破壊し去りて、さらに新槨を構うるをもって、祖先の祭祀を重んずる国民性にかなわずと謂わんや。
(220)と。我輩は実に理論として、前後両式の中間物の存在すべきを認むるものなれば、その実例が氏のごとき専門学者によりて提供せられんことは、常に鶴首翹望するところにして、その実例の出現は、我輩の所論に毛頭の軽重をなすものにあらざれども、この長岡なる瓦塚の例のごとくんば、依然これを後の改造と見て、なんら支障なきものと謂わざるべからざるなり。
 次に氏は、この古墳墓改造のことに関して、我輩が大伴家持の、「大伴の遠つ神祖《かんおや》のおくつきは著《し》るく占め立て人の知るべく」の歌を引きたるを難じて、「之米多弖《しめたて》」は棟木《しめぎ》を立つるとか、標縄《しめなわ》を張るとか、すべて衆人の目標となるものなれば、喜田の解釈は誤れり。したがって古語の解釈を根本から誤って得られたる結論は、いささかも祖先墳墓改造の証拠とはならずと言わる。実に鹿持氏の『万葉古義』を始めとして、従来の万葉を解するもの、多く氏のごとき説を採る。けだし彼らはいずれも古墳墓について知識を有せず、改造の事実あるを知らざりしかば、さる解釈に満足せざるを得ざりしなり。しかれども、墳墓に碑を建つべきことならば、「大宝令」の規定するところ、家持ことさらにこれを言うに及ばざるべく、また単に一時的腐朽性の標木または標縄(標縄は立つとは言うまじけれど)を立てよと言うに至りては、これを陸奥産金祝賀の歌の反歌としては、あまりに仰山ならずや。ことにその歌詞を見るに、著《し》るくしめ立つべきものは遠祖の墳墓《おくつき》その物なり。遠祖の墳墓は他の知るべく著《し》るくしめ立てよというなり。家持、産金の瑞を賀して祖先の忠勇を頌し、もってその子孫が祖名を失墜せざるべきを戒む。ここにその遠祖のために偉大なる墳墓を営造して衆の仰ぎ望むところたらしめんことを述ぶる、あに恰当ならずや。しかるに、考古学者たる高橋君は、依然として考古学の知識なかりし時代の旧解釈を踏襲して、その以外の説を容《ゆ》るさず。無条件に我輩の考古学的新釈を「根本から誤れるもの」として、これを放棄せらる。あまりに残酷ならずや。されど歌詞の解釈にはいかようとも理窟は付けらるべく、我輩の古墳墓説はこの歌解のいかんにかかわらず依然として存立すべければ、便宜(221)これを撤回せんもまた可なるべく、この以上深く論弁するの要なかるぺし。
 
       七 大和見瀬付近丸山について
 
 大和見瀬町付近の丸山墳墓に至りては、氏もすでに極力論議するに及ばずとせらるるものなれば、我輩また多言するの要なし。されど氏が、「ゴーランド」と称する外客の意見が氏と同説なりきとの理由をもって、我輩の説を排し、氏の説を確むるの一助とせんとせらるるがごとき態度を採らるるに至りては、日本国に生れ、いささか古墳墓を見るに慣れたる我輩として、多少情なき感なくんばあらず。我輩もとより考古学において門外漢たり、古墳墓上の知識、またすこぶる浅薄なるを自認すといえども、しかもなお多年、歴史地理学上の見地より、ほぼ各地方に渉りて蹈査見聞せる古墳墓の数、すでに百千をもって算すべく、親しく該丸山に臨み、これが調査を重ねたることも、すでに四、五回に及びて、やや確信し得たるところあるを思う。しかるに図らざりき、我輩多年の観察の結果が専門学者たる高橋君によりて、外客一瞥の結果と対比して軽重せられんとは。
 
       八 棺・槨・墳の字義と「天智紀」の文とについて
 
 第三の棺槨の別に関しては、すでに言えるごとく、我輩なおいまだ決せざるところあり、あえて固執せず。さらに他日の研究を積みて、詳細発表の機あらんことを期するがゆえに、ここに深く論及するを欲せず。しかりといえども、氏が棺槨の意義の前説を固執して、「天智紀」に見えたる石槨の文字をまでも、今日考古学者のいわゆる石槨すなわち墓穴と同一なりとの説を繰り返さるるに至りては、我輩古代史研究者たるの立場よりして、一言なかるべからざるなり。言うまでもなく、わが国において漢字を使用するに際しては、往々にして誤用せるものもあるべく、時代により(222)て意義の変遷を来せることもまたこれなきにあらざるべきは、学徒のあらかじめ承知し置かざるぺからざるところ。したがって今日考古学者間に石槨と称するものが、漢字の意義より言えば明かに誤用なりというとも、必ずしももってただちに古代のいわゆる石槨は今の石槨にあらずとも断ずべからず。我輩としても、今にしてにわかにその用語を改定すべしとまで謂うにはあらず。されど古史の記事に対してただちに今日の用語をもって解せんとするには、すべからく憤重なる研究を要とす。漢土にては古来わが考古学者のいわゆる石槨すなわち墓穴をもって、断じて槨とはいわず、常にこれを壙と称す。こは歴代の史籍文学のひとしく証明せるところにして、壙は墓穴なり、槨は棺を周るなり、棺は屍を蔵むるなりと解し、その用例判然として紊れず、煩わしくここにこれを例示せずとも、試みに字書あるいは『佩文韻府』の類を繙き給わば、容易に首肯せらるべく、現在においてもシナにては、なお依然墓穴を壙と称して槨とは言わざるよしなり。またわが国にても古来その間に区別あり、塚穴、墓穴などを称する場合には、常に穴・坑・壙などと呼びて、決して槨とは呼ばざりしなり。そは、代々の記録明かにこれを証するのみならず、近く明治天皇および照憲皇太后の御陵について、常にこれを御宝壙と申し奉れることは、日常の新聞紙上にも見えて、氏らのひとしく知り給うところなり。御宝壙中に御石槨を安んじ、御石槨中に御木槨を安んじ、御棺をさらにその御木槨中に蔵む。こは江戸時代末期以来、復旧せられたる御制にして、その以前御薄葬の時代には、必ずしもかくのごとくならざりきといえども、なお決して御壙と御槨とを混同するがごときことはなかりき。さらにこれを平安朝の例に見るに、『類衆雑例』に後一条天皇御葬送の事を記して、
  兼房朝臣等八人御棺を舁《か》きて槨中に安じ……駕輿丁等二十人之を伝荷し……漸く山作所に向ふ……
とあり。ここに御槨はまたその字義のごとく御棺の外箱にして、駕輿丁これを担いて山作所に向うものなれば、もとより壙とは別にして、現今考古学者のいわゆる槨にはあらず。また、嵯峨天皇の遺詔には、
(223)葬は蔵なり、人の見るを得ざるを欲するなり。而して重ぬるに棺槨を以てし、繞らすに松炭を以てし、枯※[月+昔]を千載に期し、久容を一壙に留むるは、已に帰真の現に乖き、甚だ謂《いわ》れなきなり。……是を以て朝に死せば夕に葬り、夕に死せば朝に葬らんと欲す。棺を作る厚からず、之を覆ふに席を以てし、約するに黒葛を以てす、……※[こざとへん+杭の旁]を穿つ浅深縦横棺を容るべし。……
とあり。ここに棺・槨・杭というはともに漢土における文字の用法のままなり。しかして天皇は特に薄葬を命じ給い、御棺を席に包みてこれを槨に代え、もって宝※[こざとへん+杭の旁](壙と同じ)中に埋めしめ給いしものにして、かくのごとき薄葬の制、もって他の範となす能わざれども、当時また棺・槨・壙等の文字の別は、厳として紊れざりしを知るなり。いわんや天智天皇朝のごとき、万事漢土の制を輸入するの際においてをや。当時、詔勅起草の任に当れる史官は、いずれも韓漢帰化文筆の士なりしなるべく、その大詔中に使用せられたる「石槨」の文字が、いかでその字義を誤りて、宝壙と混同せらるべけんや。さらにいわんや天智天皇後において、檜隈大内陵を始めとして、考古学者のいわゆる石槨の例の多く繰り返さるるをや。天智天皇の政令は万世の軌範として、歴朝常に遵奉せられ、天皇の陵は国忌の典に預りて永世除かず。庚午の年籍は永久の標準として決して動かされざるに、天皇が万世の鏡誡たるべしと宣し給いし石槨不作の一事が、いかでただちにその次の代において被らるべけんや。しかるにもかかわらず、氏は単に少数のいわゆる石棺(すなわちその実石槨)に石枕の作り付けあり、あるいはさらにその中に木棺を納むるに適せざるがごときものありとのことと、天智天皇大詔の御趣意は薄葬という経済上の点よりなるべきに、天武天皇陵の場合、立派なる切石のいわゆる石槨(すなわち宝壙)を作ると、それに相応するいわゆる石棺(すなわち石槨)を作ると、いずれか多くの費用を要するかとのことのほか、なんら的確なる理由を具することなしに、依然天智天皇大詔中の石槨を、漢字の原義と、当時の時代思想と、ならびに後世の用例とに反して、現今の考古学者間にいわゆる石槨、すなわち墓穴の意義ならん(224)とせらるるは、我輩の了解する能わざるところなりとす。天智天皇薄葬の御趣意より永久に石槨を廃すべきことを命じ給いたりとて、後の君臣が先帝を尊むの至情のあまり、その大詔の文義に反せざる範囲において、天武天皇大内陵の設備を鄭重になし奉らんことは、あえて不思議にあらず。戊申詔書発布せられて、某省官吏が一般に仕出屋の弁当を廃したるがために、従来よりも数倍の費用と手数とをかけて、自宅より弁当を取り寄せ給う公達もあることを思うべし。
 次に氏は、河内徳楽山における石棺(実は一小石槨)調査の結果として、さきに氏が正しき意味においてこれを石槨なりと解し給いし「鬼の俎」「鬼の厠」までをも、その前説を改めてこれまた石棺なりとするに至られたり。これ実に斯学の退歩として、氏のために惜しまざるを得ず。試みに思え、棺とはただちにその中に屍を蔵むるものの名にあらずや。しからばすなわちその製なる、屍を収めて葬所に運搬し得るものならざるべからず。もしかりにしからずして、あらかじめ墓所に安置するものまたこれを棺と称し得べしとするも、少くもその葬時に際し、蓋を開きて屍体をその中に納め得べきものならざるべからず。しかるに「鬼の俎」「鬼の厠」(河内なる石宝殿はその完備せるものなり)のごときは、とうてい葬送に際して運搬し得べからざるは勿論、葬時においてその蓋を開くことだも不可能なるものなり。そは必ずしも形大にして重量重しとの理由のみならず、あらかじめその蓋を開くべき縄掛等の設備なきにて知らるるなり(「鬼の俎」「鬼の厠」および河内なる「石宝殿」のことは『歴史地理』五月号に梅原末治君の記事あり。その説明の終りに、これらを石棺とし、「石宝殿」を槨内にあるがごとく説けるはいかがなれど、実体はほぼこれによりて明かなりとす)。しからば蓋は開かず当初より据置のままとして、その横口より棺にも納めざる剥き出しのままの屍体を、無残にもそのままに押し込むものなりと想像せんか。賎民非人の葬式ならばいざ知らず、かかる大工事をも起すほどの有力者を葬るに、あにかかる残酷なる所置あるぺけんや。なおさらに言わば、氏はこの大なる工事を行うに要する数月間、最(225)も腐敗しやすき屍体を棺にも納めずそのままにいずれかに安置し置き、これを剥き出しのままに墓所まで抱き行きしものなりと想像し得べしとするか。あるいはいったんは棺に蔵めありしも、葬時に際してこれを引き出し、蛆|集《たか》り、肉爛れ、四肢バラバラとなりたる屍体をこの墓所に作り付けたる棺中に蔵めたりと想像せられんとするか。世なんぞかかる没義道のことあらんや。あるいはあらかじめ葬儀屋の類に仕入れの石棺ありて、死後ただちにこれを買い整え、いまだ屍体の腐敗せざる前に葬りたりとも想像し得ぺけんも、こは稀有のことのみ、事実において古代有力者の葬儀は死後数月数年を経過するを常とす。この間あに木製棺の類なくして屍体を保存するを得ぺけんや。「鬼の俎」「鬼の厠」一類のものは、必ず横口よりさらに木棺を挿入すべき石槨なりとして解するほか、とうてい他に解説の法あるべからざるなり。氏が徳楽山なるいわゆる石棺(すなわち石槨)の小なるをもってこれを疑わるるは、いちおうもっともなるがごときも、その大小はあえて問題とはならず。今日においても小児のために作らるる棺が、これを大人のに比してすこぶる狭小なるものあるを氏は見給わずや。しかしてその小棺を挿入する石槨が、また小なるべきことを氏は承認し難しとせらるるか(なおいわば「石宝殿」一類のものはその入口の外には多く彫琢を加えず、ことに「鬼の厠」のごときは、左右側において石の厚さまでも異なるほどにて、もと土にて埋み、入口をのみ露わしたりしものにて、この点よりいわば、むしろ壙に当るべく、断じて棺とは謂うべからざるなり)。
 我輩は実に石枕の作り付けある考古学者のいわゆる石棺についてはなはだ惑う。しかれども、人死して後これらのいわゆる石棺を作り、墳丘を起し、およびその他葬儀に要する種々の設備をなす期間を通じて、最も腐放しやすき屍体を棺にも納めず、そのままに安置し置くべしとはとうてい信ずる能わざるなり。されば、人ことごとくあらかじめ寿蔵を作り、死すればただちにこれに葬るべきの準備ありたりとのことを承認するか、あるいは葬儀屋の仕入品が到る処に常に準備されたりとのことを想像し得ざる限りは、いわゆる石棺(すなわち石槨)内には、必ずまず木棺中に納(226)められたる屍を容るるものなりと解せざるべからず。われら門外漢は氏の反問に対して、具体的にいわゆる石棺内さらに木棺を収めたりとの積極的証拠を提供する能わざるを悲しむといえども、我輩は素人的常識判断上よりして、とうてい腐敗したる屍体を剥き出しのままに墓内に送り得べしと信ずる能わざるがゆえに、あえてこれを謂うのみ。されば、氏にしてなおいわゆる石棺は木棺の容器にあらずして、その中にただちに剥き出しの屍体を納むるなりとの前説を固執せらるるならんには、すべからくまずそのいわゆる石棺が造られ、墳丘その他の設備が整頓するまでの間、屍体はいかにして保存されたりやとのことにつき、合理的解釈を下さざるべからず。しからずして単に少しばかりの作り付け石枕の解釈に苦しむとの理由より、これ槨にあらず棺なり、直接尻体を納むるものなりと言われんは、(試みに氏の語を借らんには)実に危険なる研究法なりと言うべからんなり。あるいは思う、古人の葬法、あるいは現に琉球に行わるるごとき骨洗の式ありて、木棺を納れ難き式の石棺には、その白骨を安置したるにはあらざりしか、我輩いまだこれを断言するほどの確信なきも、あらゆる石棺をこれ槨にあらずして棺なりと解せんは、はなはだ困難なりと思う。
 終りに臨んで我輩は、ここに「天智紀」の詔に見ゆる石槨は考古学者のいわゆる石棺にして、その中さらに木棺を容るべく、考古学者のいわゆる石槨とは、その字義と周例とを誤れるものにして、その実、墓穴もしくは塚穴(漢語にては壙)と謂うべきものなることを再言するとともに、余輩の本編が、その第八項、すなわち棺槨のことに関する本項以外において、ことごとく考古学者普通の慣用に従い、壙と称すべきものを槨といい、槨と称すべきものを棺といえるものなることを述べて、読者の混雑誤解することなからんことを希望すというのみ。  (大正三年五月十四日稿)
 
 
(227) 古墳墓年代の研究
 
      一 緒  言
 
 遺物・遺蹟の研究が、わが歴史地理学上重要なる地位を占むることは、今さらに言うまでもなし。しかして、それらの遺物・遺蹟中において、さらに最も重要なる地位を占むるものは、実に古代人士の遺せる墳墓なりとす。都市や、城塞や、殿堂や、祭壇や、他の諸国にありては古代研究上必須なる好資料たる場合多けれども、木造建築を主とせるわが邦にありては、それらの遺虞の後世に残存せるものはなはだ少く、これによりてわれらの祖先の生活状態を知り、その発展の蹟をつまびらかにせんにはすこぶる物足らざる感なき能わず。しかるにひとり古墳墓にありては、構造往往すこぶる偉大にして、その内部には当時の日用器具を始めとし、珍品貴什を蔵する少からざるのみならず、その周囲に樹立せる埴輪土偶中には、種々の形態を摸してよく当時の風俗の実際を示すに足るもの多く、まことにこれ古代研究上、絶好無二の資料たりと謂うべし。しかれども、築造その俗を革めてより以来数百歳、物換り星移りて、人は往事を忘却し、祖先の墳墓を目するに時に先人穴居の蹟となし、あるいはこれに名づくるに鬼の岩屋・火雨塚《ひざめづか》等の称(228)をもってするに至る。されば晩近、考古の学ようやく開け、斯道の研究者が主としてその精力を古墳墓の調査に集中すること、ここに三十年に近からんとするに及びても、なお時にそのある形式のものをもって古人の住屋なりと誤信することあり。したがってその年代のごときに至りては、ほとんど依拠すべきの定説あるなく、あるいは副葬品の時代の鑑定よりしてこれを推古朝以前に限定せんとし、あるいは単に漠然とこれを大化以前の物なりと論じ、あるいは奈良朝を下らざるものなりと云為し、ついには石器使用人民の時代を先史時代と言うに対して、古墳墓築造時代を原史時代と称するを普通とするに至る。ことにその形式の前後については、あるいは隧道を有するいわゆる横穴式墓穴を有するものを最古のものとなし、あるいは竪穴式墓穴をもって横穴式のものの変形とし、その隧道を失うに至りしものなりと説くなど、学者の間にありても、ただ各自根拠薄弱なる推測説を下すをもって満足せざるを得ざるの現況にあり。したがって世人のこれを観る、ほとんど形式と時代とに頓着なく、はなはだしきに至りては、あるいは単にその地名の類似等よりして、埴輪を有する偉大なる前方後円墳に擬するに、平安朝における某親王の御墓をもってし、群集円墳中のある一をもって、南北朝ころの公卿の塚なりとなすに至れるものあり。されば、歴史家がこれを自己の研究資料として採用せんには、甚大の警戒を要すべきは言うまでもなく、特に歴史地理学上、その分布形式等の上よりその地の拓殖隆替の蹟を論ぜんとする場合にありては、眼前に無数の絶好資料を有しながら、ほとんどこれを自己の研究に応用する能わず、ほとんど宝の山に入りながら手を空しうして傍観するの感なきを得ざるなり。
 余もと考古学において門外漢たり。したがって、おのずから考古学的にこれら古墳墓を研究したることなく、これに関して知識を有するはなはだ浅薄なりといえども、せめては古墳墓形式等の上より、ほぼこれが年代の大要をにても推定し得るの域に到達するを得ば、わが歴史地理学上、甚大の利便を享有するを得べしと思うの念切なるをもって、常に意を考古学者のこれらの研究および報告に注ぎ、また親しく各地を抜渉してその実際を踏査し、その見聞する所、(229)本州・四国・九州を通じて百千を算するに至る。その中、記録上その他の事情よりして、明かに史上の某々の墳なりと確定し得べきものは、ほとんど屈指の数に過ぎざれども、その地の沿革上よりして、ほぼ年代を考定し得べきものまた少からず。すなわち、これらの標準となるべきものを根拠とし、多数の材料より類接帰納し、これを古書に徴し、これを古伝に考えて、今やその形式の前後、年代の早晩につきて、みずから多少会得するところあるを覚ゆるに至れり。もとよりこれ一の仮定説なり。いまだもって定説として学界に発表すべきにあらざるなり。しかれども、かくのごときの研究は、決して単独一時の事業として成功すべきにあらず。必ずや多人数多年の研鑽を重ね、甲論乙駁の末において、漸次その真相に近づくべきものなれば、もし各自自重して所見の発表に躊躇すること、現時の状態のごとくならんには、とうてい著しき進歩を見るべからず、その完成の域に達せんは、実に百年河清を俟つがごとくなるべし。ここにおいてか余みずから揣らず、古墳墓年代研究における陳呉をもって任じ、隗より始めてあえて未熟の学説を発表せんとす。幸いに斯道専門学者諸賢の一顧を得て、その不合理、不完全の点を補われ、いささかにても完全の域に近づくを得ば、これひとり余輩の喜びのみならず、実に学界の慶事なり。もしそれ忌憚なき弁難攻撃を賜わるあらんは、これ最も余輩の歓迎するところなりとす。なんとなれば、これが肯定の材料は多く余輩の眼に映じ、反対の材料は往々にしてその注意を逸しやすくして、説の公平を期する、すこぶる困難なるの事情あればなり。
 
       二 古墳墓とは何ぞや
 
 古墳墓の年代を研究するに当りては、最初にその定義を定むるの要あり。従来、考古学者の普通に称うるところによれば、封土を有する墓を一般に古墳と称し、封土を有せずして単に丘陵の半腹等を穿ちて石室を設けたる種類の墓を横穴と称す。しかれども、これはなはだ曖昧なる、かつ誤解しやすき称呼なりとす。なんとなれば、いわゆる古墳(230)の中にも、いわゆる横穴と同一形式の横穴を有するものはなはだ多く、京畿地方の群集項のごときは、大多数この種に属するものなりとす。ただその横穴との相違は、一は巨石を積み重ねて石室を作り、これを土にて覆いたるものにて、他は自然の山腹に同様の穴を掘り込みたる別あるのみ。されば後者をして横穴と称すべくは、前者また横穴と称して差支えなかるべし。また、古墳とは「古代の墳」の義にして、「墳」は墳丘を有することの称たるべきも、すでにこれをもって一般墳墓の意義に用うる以上、いわゆる古墳は古代墳墓の義なりと解せらるべく、したがっていわゆる横穴もまた古墳の一なりと謂わざるべからざるなり。けだし、当初古墳・横穴の称を定めし際には、いわゆる横穴をもって古人穴居の跡なりと考えたる結果なりしものなるぺければ、すでにこれまた墳墓なりと決定せられたる今日にありては、よろしくその称を改むべきものなりとす。余輩の考うるところによれば、いわゆる横穴はこれ古墳墓中の一形式たること勿論にして、これを封土を有する墳墓すなわち従来いわゆる古墳と区別せんよりも、いわゆる古墳中の横穴式石室を有するものと同列に位置せしめ、これを竪穴式のものと区別するを妥当と信ずるなり。これを表示すれば左のごとし。
           石室を有するもの………………………………
    竪穴式のもの
           石室なく単に棺槨を蔵するもの………………従来古墳と称するもの
古墳墓       
           石を積みて石室を作り、封土を有するもの
    横穴式のもの
           自然の山腹に石室を穿ちたるもの………従来横穴と称するもの
 すなわち余輩のいわゆる古墳墓とは、従来いわゆる古墳と横穴との総称にして、これを古墳墓と称するは、漠然古式の墳墓と謂うくらいの軽き意味たるに過ぎず。さればこれを歴史上の年代に引き当て、某の時代までを古墳墓時代なりなどと定むる能わず。したがって、これをもって原史時代など称すべきにあらざるはもちろん、地方によりては(231)遥かに後の代までも行われて、各地必ずしもその時代を一にせざりしものなりと信ず。現に琉球においては、今なお横穴式墳墓を築造するなり。されば、もしこの古式墳墓を築造する時代をもって古墳時代と称すべくは、琉球は現に古墳墓時代にありと謂わざるべからず。否、近く明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御陵のごときも、漏れ承るところによれば、だいたいにおいて竪穴式古墳墓の形式に則り給えるものなれば、これまた学術上古墳墓の一と称し奉らざるべからざるものなり。すなわち、いわゆる古墳墓とは、必ずしもその年代について謂うにあらずして、その形式上の称呼なりとすべく、現今、普通民間に行わるるごとき、平地を掘りて棺を埋め、多くの場合には封土なく、単にその上に墓標を樹つる類の墳墓にあらざる古式のものの称なりと定むべきものとす。
 
      三 古墳墓年代考定の困難
 
 本邦考古の学開けてよりここに三十余年、その間学者の注意は古墳墓の調査に対して払わるること最も多く、博物館・陳列室等には無数の副葬品蒐集せられ、その比較研究のごときはすこぶる精緻の域に到達せるにかかわらず、われらが歴史地理学上に最重要なりとしてその結果に嘱望せる年代研究の一事に至りては、その進歩遅々として、今においてなお依拠すべきの定説を聞くを得ざるはなんぞや。これ、けだし年代を明示すべき標準物を得るの困難と、その比較調査の便宜を欠くの事情あるとによらずんばあらず。
 人あるいは言わん。古墳墓の年代につきてはすでに斯道学者間に相当の研究の重ねられたるありて、十数年来その説の発表せられたるもの、その数少からざるにあらずや。しかるをいかんぞこれを無視して、その研究いまだ進歩せずというやと。しかり。余輩といえどもまた、つとに年代による古墳形式の変遷に関して、某々氏らの学説ありしを知る。またかつて其々古墳につきて、其々氏らの考古学的見地より、その年代を推考せられたるを知る。しかれども、(232)余輩は不幸にして、これらの諸説に首肯するには、あまりに多くの反対材料を有するをいかんせん。
 およそ古墳墓の年代を考定するには、従来二様の流派あり。一はもっぱらその所在の地名、伝説、ならびに旧記等に基づくものにして、従来、歴朝の陵墓その他忠臣義士の墳墓の発見考定せられたる、多くこの方法に属し、その二は主として墳墓の形式、副葬品の性質等に基づくものにして、近来考古学者の常に採らんとするところたり。もとより考古学者、あえて旧記・伝説等を疎外するにあらず、旧来の研究者また必ずしも墳墓の形式内容を顧みぎりしにあらざるも、勢いその長ずるところに阿り、ために論じて誤謬に陥れる場合少しとせざるなり。ことに考古学的知識なき読書子が、覚束なき少しばかりの材料の下に、超論理的考定を施したるものにありては、正鵠を得たるものむしろ偶然と称すべく、偉大なる前方後円墳を、その地名よりして平安朝中期の皇族に擬定し、群集円墳の一をその名称よりして南北朝時代の名士に付会するのはなはだしき誤りをなせること、その数決して少きにあらざるなり。したがって、この方法によりて考定せられたる古墳墓にありては、学者がこれによりてその公称せらるる人物の時代の墓制を知るべき標準となすにおいて、すべからく多大の警戒を要すべきものなりとす。
 右の考定方法に比すれば、考古学者のなすところ、すこぶる合理的にして、その研究の価値もとより同日の談にあらず。かれらは古墳墓の形式・構造・内容等を調査し、これを既知の標準に対照し、比較研究の結果、彼是の新古を定め、もってほぼその年代を推定せんとするなり。この時に当り、幸いに彼是を比較してその新古を甄別するの眼識にして誤るなく、またその標準なるものにして正しからんには、その考定の結果はほぼ正しきものとして、是認せらるべきなり。
 しかれども、余輩は常に、まずこの眼識なるものにつきて危険を感ず。もとよりだいたいの比較においては、多少斯道の心得あらんほどのものにありて、必ず大過なかるべきも、その精緻の域に至りては、いわゆる「心持ち」にし(233)て、口これを言うべからず、論じて対手を趣向せしむる能わざるものなれば、同じ考古学者と称せらるる人々の中にありても、各人互いに所見を異にする場合なきにあらざるべく、とうてい絶対的正確を保証すべからざるものなりとす。されど、こはむしろ些事なり。余輩はかれらがもって標準となさんとするものにつきて、常に甚大の危険を感ぜざるを得ざるなり。余輩の知れる限りにおいて、現存古墳墓中明かにその主を知るを得べきものは、僅々十数基を数うるに過ぎざるなり。しかもその多くは、かつて心なきものによりて発掘せられて、その副葬品は奪われ、その外部は崩され、ほとんど原形を知るを得ざるものなりとす。ここにおいてか、やむを得ず、類似の墳墓のいまだ幸いに多く攪拌せられざるものにつきて研究し、もってその時代の標準となさんとするなり。明かにその主を知るを得るものにありては、もって的確にその年代を考定するを得ぺけんも、単に外形これと相類せりというに至りては、時代の標準となすにおいて多少薄弱の感なき能わず。なんとなれば、類似の外形を有する墳墓制が、いかなる年代の間継続せしかを明かにする能わざれはなり。かかる場合にありては、ただ多数の材料につき帰納することによりて、比較的正確なる結果を求むるほか、また方法あるべからず。しかもその比較研究上困難を感ずることはその優秀なるものは、多くはこれ帝室の御陵墓として、もとより凡人の域内に入るをだに許されざるもの、またそのしからざるものにても、これを発掘調査するに種々の故障と大なる労力とを要し、とうてい微力なる学者のよくなし得べきところにあらず。されば従来古墳墓の調査研究せられたるものは、多くは道路開鑿、耕地開墾等のさいにおいて、無知識なる労働者によりて偶然発掘せられたるものにかかり、その発掘品は幸いに法規によりて官に致されたりとするも、その重要なる部分は往々にして隠蔽せられ、また、かれらがもって価値なしとするものにありては、心なく破壊、投棄せられてまた見るべからず。学者がこれを聞きて親しくこれに臨むのさいは、原形ほとんど見るべからずなれるを常とするなり。そのいかに多数の遺物が博物館・陳列室に蒐集せらるるとも、研究の効果の挙ること少き、まことにやむを得ざるなり。
 
(234)     四 年代の標準たるべき古墳墓
 
 現存の古墳墓幾千幾万、余輩の親しく見聞せるもののみにてもすでに千以上を数うべきも、その中果して学術上真に年代を知るの標準となすべきものに至りては、僅々十数を算するに過ぎざるべきこと、前すでに述べたるがごとし。なかんずく、新たに記録より証拠立てられて、正確なる決定を見るに至りたるものを天武・持統両天皇合葬の檜隈大内《ひのくまおおうち》陵なりとす。この陵は円丘にして階段を有し、南面して横穴式石室開口す。石はいずれも彫琢を加えたる巨大の切石にして、室内種々の副葬品あり。天武天皇の御棺は木にして、持統天皇の御遺骸は荼毘に付し銀製の筥中に納め奉れり。その詳細の状「阿不幾《あおき》乃山陵記」に記したれば、幸いに千二百余歳の後において、委曲を拝し奉るを得(『歴史地理』第一九巻第六号所載拙稿「檜隈大内陵」参照)。これによりて余輩は持統天皇の御代のころに、かくのごとき形式の墳墓が行われたりしを知り、もって最も正確なる時代の標準の一となすを得るなり。
 記してここに至り、余輩はいわゆる「時代の標準」なる語につき一言説明するの要あるを認む。余輩は実に大内陵をもって「この時代の一標準」なりといえり。これを従来の経験に徴するに、余輩のかくのごときの語は、往々にして「この時代を代表するもの」の義に解せられ、ためにこの時代にはもっばらかくのごとき形式のもののみ行われたりとなすもののごとく誤らるることあるなり。しかれども余輩は、当代の墳墓、ことごとくかくのごとくなりきとは信ぜず。ただかくのごとき形式の墳墓、当代に存しきと言うに止まるのみ。したがってこれと異なりたる形式の墳墓が当代に並び行われたりとて、もとよりなんら妨ぐるところなきなり。現に洛北高野村なる小野|毛人《えみし》の墳のごとき、天武天皇を葬り奉りたるよりも前十年、丁丑の年に営まれたりしものにして、やや嶮しき山の尾崎に位置し、竪穴式石室あり。上を平石をもって蔽い、さらに小封土を有せしもののごとく、中に鍍金銅製の墓誌を蔵す。かくの(235)ごときの墳墓また明かにこの時代に行われたりしものにして、またもって時代の一標準となすべきものとす。 南河内|磯長《しなが》なる聖徳太子の御墓は、俗称上の太子なる叡福寺の境内にあり。太子の宗教的崇拝を得給えるは由来きわめて久しく、叡福寺その開基の顛末をつまびらかにせずといえども、けだし太子信仰の余り、その御墳を崇敬して、ここに営まれたりしものなりと解すべく、したがってこの寺によりて守られたる太子の御墓も疑問あるべからず。しかしてこの御墓は山の中腹に営まれたる円丘にして、南面して開口する横穴式石室を有し給えるなり。室内三個の御石廓(俗称、石棺、このこと後に弁ずべし)を安置す。中央は太子の御生母穴穂部間人《あなほべはしひと》皇后、東は太子、西は太子妃 膳臣《かしわでのおみ》女のなりと申す。けだし母后の陵として用意せる御墳に合葬し奉りしものか。『日本紀』によるに、太子は推古天皇二十九辛巳年二月五日に薨じ給い、この月磯長陵に葬り奉るとあり。太子の薨去については、法隆寺釈迦仏後背銘、ならびに中宮寺天寿国曼陀羅等、ともに翌壬午年二月二十二日となす。従うべきに似たり。しかも即月葬り奉れりとの『日本紀』の記事は、必ず承くるところあるものなるべく、これまた排すべからず。しかも現に見るごときの御墳、これを即月に営みて、葬送を了し奉るべくもあらず(ちなみにいう、明治天皇および昭憲皇太后御大葬は崩御後月余にして挙げさせ給いしも、御陵築造工事ほその後に行わせらるるにて、陵制また太子御葬式の場合とは異なり)。しかるに、前記仏像光背銘および、曼陀羅の文によるに、母后は前年十二月二十一日に崩じ給い、翌年二月二十一日王妃薨逝、翌日太子登遐となす。しかして、御壙穴中、中央に母后の御槨を安んずるによるも、この御墳がもと間人皇后のために営まれたりしを知るに足らんか。合葬のことは当時普通に行われしもののごとし。現に安閑天皇陵には、皇后および皇妹を合葬し奉り、宣化天皇陵にも、また皇后および孺子某皇子を合葬し奉るあり。また欽明天皇夫人|堅塩《きたし》媛は、いったん他に葬りしも、後にこれを改葬して天皇陵に合せ、敏達天皇はこれをその石《いわ》姫皇后陵に合葬し奉り、推古天皇はこれを竹田皇子の陵に納め奉るなど、当時代々の至尊ほとんどことごとく合葬の例により給えり。至尊すでにし(236)かり、いわんやその以下をや。もって太子合葬の事情を察すべし。あるいはいう、太子生前に自己の御墓を営み給いたりと。事は『聖徳太子伝暦』に見ゆ。けだし寿蔵にして、その先例すでに仁徳天皇にあり。『太子伝暦』後の著なりといえども、すでに平安朝の古書なり、その説必ず承くるところあるべし。崇峻天皇のごときも、崩じて即日これを葬り奉る。また必ず寿蔵ありしなるべし。しからずしていかんぞ即日葬り奉るのことあるを得んや。すなわち知る、聖徳太子のころには寿蔵および合葬の風習あり、その合葬はこれを同一壙内に納め、墳は円丘にして南面せる横穴式壙を有し、棺はさらにこれを石槨に納めて境内に安置するの葬法ありしことを。しかもこれと同時に他の葬法の併せ行われたるべきことを想像せんは勿論なりとす(同じ横穴式墓墳を有する塚にありても、合葬の場合その屍を納めたる槨を壙外に置く場合あり、後にいうべし)。安閑天皇陵は南河内古市の西南高屋にあり。前方後円墳にして西西南面す。この陵は室町時代の末葉、畠山氏の城内に取り込まれ、畏くもその本丸は、陵上最高部に設けられたりしなり。当時、世人明かにこれが安閑天皇陵なることを知れり。『応仁後記』に曰く、
  抑此の高屋の城は、安閑天皇の御廟所なりけるを、要害よき所なりとて、尚順始めて城廓に取り立て居住せられしが、霊神の崇にや程なく落城したりける。
また、『続応仁後記』には、
  当城は昔安閑帝御廟所の跡なり。恐れ敬みて本丸をば遠ざけ、二の丸に居住す。
とあり。帝陵の世に忘れらるるに至りしは、多く戦国乱離、皇室式微の際にあり。されば当時なお明かに安閑天皇陵なりとして知られたりしこの陵は、これその伝承疑いなきものなるべく、これを『日本紀』に天皇を旧市《ふるいち》高屋丘陵に葬ると記し、『延喜式』もまた同一名称を伝うるに徴して、古市付近のこの陵を安閑天皇陵なりと推定せんこと、当然なりと謂わざるべからず。この陵、前後の長さ約一町半、左右の幅一町余。これを『延喜式』に徴するに、該書(237)には東西一町、南北一町五段とあり。今この陵について見るに、方向西西南面なるがゆえに、前後の長さ一町半というもの、『式』の南北一町五段というとすこぶる方向を異にするの疑いあり。しかれども、古書に方位を誤れるの例はすこぶる多く、ことに墳墓は南面するものその多きにおるをもって、その左右前後の方向により、これを東西南北と記述せしものならんか。その後の著作なる『扶桑略記』には、これを高三丈、方二町とす。三文というはほぼ当る、方二町というは四囲に兆域を拡めたりしものか。皇后春日山田皇女は、『日本紀』に天皇と合葬のことに見ゆ。しかるに『延喜式』には、別に皇后御墓として方二町の兆域を置く。不審なきにあらず。あるいは当時の合葬とは、聖徳太子|磯長《しなが》墓、もしくは天武天皇檜隈大内陵のごとく、同一境内に並べ安置するにはあらずして、後の死者のために新たに墳丘を起さず、従来の墳墓の兆域内に葬るの謂か(同一墳丘中に別の壙を作って葬れる例また少からず、後に言うべし)。『河内名所図絵』によるに、その編纂当時、すなわち享和元年より八十年ばかり前、すなわち享保のころに、安閑天皇陵の土砂崩れてその中より朱など多く出で、これに交りて玻璃製の碗《まり》出づ。亘り四寸、深さ二寸八分、廻りならびに底一面に星のごとく円形連ると。この珠碗《たままり》、後に古市西琳寺の蔵に帰せしが、寺廃して行くところを知らず。これによりて余輩は、安閑天皇の御代のころにすでに玻璃器あり、これを副葬し、また屍体を朱詰にして葬る風習ありしことを知るを得たり。もとよりその崩壊して現われたるもの、果して天皇の御遺骸を納め奉りたる御壙なるべきか、あるいは天皇陵域に陪葬せられたる他の人の壙なるべきか、今これをつまびらかにするを得ずといえども、ともかく天皇の時代を距る遠からざるものなることはこれを推知するに難からざるなり。しかしてその天皇陵現存の外形によりて、当時、前方後円陵が行われ、陵には埴輪を廻らし、陵の周囲に湟を設くるの風習ありしことを知るを得るなり。
 仁徳天皇の百舌鳥耳原《もずのみみはら》中陵は、和泉堺市の東方にあり。南南西に面せる偉大の前方後円墳にして、外に二重の湟を(238)廻らし(あるいは三重なりという、今修理して三重の湟存す)、四近に数多の陪塚を有す。陪塚の多数は円墳なれども、中に瓢形のもの前方後円のものあり、陵の高さ前方丘において約十四間、後円丘において約十六間四尺、中間の低部において約十間五尺、墳の惣根廻り七百二十間なりと『堺鑑』にあり(『泉州志』には根廻り七百六十三間とあり)。周湟二重、外堤の長さ千二百八十三間、中堤の長さ九百五十五間(『泉州志』による)、今の兆域周囲一千五百十間に達す。その偉大なる、全国第一位におり、宛然丘陵のごとく、大山《だいせん》陵の称、実に世を欺かず、旧来の伝承、その仁徳帝陵なるにおいて、いささかも疑いなきものなりとす。明治五年九月、前方丘東南隅の一部崩壊し、竪穴式墓穴を露出す。中に組合式石槨あり、甲冑・刀剣・玻璃器等、数多の副葬品あり。当時精密にこれを調査したるの記事、幸いに世に伝わりて、墳槨等の構造・形状・大小より、副葬品の種類性質等を知るを得たるとともに、かくのごときの墳墓には、後円丘の頂上に、その主を葬るのほか、墳丘の他の部分にも、同一形式の竪穴壙を作り、他の屍を陪葬するの風習ありしことを確むるを得たり(このことは他の墳丘についても往々その例を見る)。けだしこの壙と槨と、もとより天皇の御遺骸を蔵め奉りたるものにあらず、おそらくは皇族もしくは重臣の陪葬せられたるものなるべきなり。先年、周湟を修理し、湟中より各種の埴輪の破片を発見す。形式もって見るべし。また、この大山陵陪塚の一は、去る明治四十五年六月発掘せられ、故理学博士坪井正五郎君ならびに助手柴田常恵君ら、親しくこれに立ち合い精密なる調査を加えられたれば、当時の墳墓の一は、ここに最も学術的に学界に提供せらるるに至れり。これによりて余輩は、当時高貴の御陵の外にその臣下がいかなる形式によりて葬られたりしかを知るを得たり。該陪塚また埴輪あり、その内部よりは甚大なる瑯※[王+千](?)の曲玉のほか、漢鏡・刀剣、諸種の珠玉等現われたれども、棺槨と称すべきものを見ず。その代りに長さ丈余の独木舟形のものあり。けだし、土壙を作り、屍を舟に載せて葬りたるもの、棺を船ということ古今その俗あり。しかしてこの塚その実体を証す、最も珍とすべく、かくのごときもの、また当時葬送の一形式とすべ(239)きなり。
 河内古市なる応神天皇|恵我藻伏崗《えがのもふしのおか》陵は、俗に誉田《こんだ》陵という。大きさ大山陵に次ぐほどの大前方後円陵にして、北北西面し、周湟をめぐらす。湟の外部に周堤あり中山と称す。松林あり、林間今なお埴輪の並立せし形迹見るべし。今やその上部はことごとく失われたれども、かつてはその間に土馬の交りしを証すべき文『日本紀』にあり。曰く、
  雄略天皇九年七月、河内国言さく。飛鳥戸《あすかべ》郡の人|田辺史伯孫《たなべのふひとはくそん》の女は古市郡の入|書首加龍《ふみのおびとかりよう》の妻なり。伯孫|女《むすめ》の児を産めるを聞きて、往いて聟の家に賀して、月夜|蓬※[草冠/累]丘《いちびこのおか》の誉田《ほんだ》陵下を還り、赤駿《あかうま》に騎れる者に逢ふ。其の馬時に※[さんずい+獲の旁]略《もこよか》にして龍の如く※[者/羽]《と》び、※[(火三つ)+欠]《あからさま》に聳《たか》く擢でゝ、鴻の如く驚く。異体蓬生、殊相逸発す。伯孫就きて視て心に之を欲し、乃ち乗れる所の※[馬+總の旁]馬《まだらうま》に鞭ちて頭を斉しく轡を並ぶ。時に赤駿|超《こ》え※[手偏+慮]《の》びて塵埃に絶し、駆《はし》り驚きて滅没よりも迅かなり。こゝに於て騎馬後れて怠足し、復《また》追ふべからず。其の駿に乗れる者伯孫が欲する所を知りて、仍て停つて馬を換へて相辞して別を取る。伯孫駿を得て甚だ歓び、驟りて厩に入り鞍を解いて馬に株《まぐさかい》て眠る。其の明旦に赤駿変じて土馬となれり。伯孫心に之を異とし、還りて誉田陵に※[爪/見]《もと》むるに、乃ち騎馬の土馬の間にあるを見る。取って代へて換ふる所の土馬を置く。
と。事や奇。一の寓言に過ぎざるべきも、ともかく誉田陵周堤上に埴輪並列し、その中に土馬の交りて存せしことはこの伝説によりて証明せらるべく、これを現形に考え、もって埴輪排列の状を察する一好資料とすべし。陵畔数個の陪塚あり。いずれも埴輪を廻らし、そのあるものは瓢形をなして、数重の埴輪列あり。前面なる一円塚は安政元年に発掘せられて、頂上より馬具その他の副葬品を多く発掘せり。陵畔誉田八幡宮あり。応神天皇を祀り奉る。後冷泉天皇朝の鎮座という。陵の伝承、毫末の疑いあるべからず。その陪塚とともにまた当代の好標本なるべきものとす。
(240) 大和磯城郡|箸中《はしなか》村なる箸陵《はしのはか》は『日本紀』に伝えて孝霊天皇の皇女|倭迹迹日百襲《やまとととひももそ》姫の御墓(崇神天皇朝の造営)と称す。西面せる前方後円陵にして、今は周湟を存せず。陵の根廻り四百六十三間、また大墳の一なり。この陵築造の事情『日本紀』につまびらかなり。その指すところ、今の箸中の陵なることは、地名によりても徴すべく、伝承誤りなかるべし。しかして余輩は少くも奈良朝初の人士によりて、崇神天皇のころすでにこの形式の墳墓が築造せられたりきと信ぜられしことを確信し、もって当代墳墓の一標準となすべしと思うなり。右のほか、なお明かにその時代を示すべき墳墓少しばかりなきにあらずといえども、今一々列挙の煩を省く。余輩は少くも前記数個の好標準を得て、これを記録に考え、実地に徴し、多少墳墓形式変遷の蹟をたどるべき希望を有するなり。乞う、以下章を改めてこれを論ぜん。
 
      五 竪穴式と横穴式とはいずれか古き
 
 古墳墓に竪穴式石室を有するものと、横穴式石室を有するものとの両様あることは、前すでにこれを説けり。しかしてこの両様の形式中、そのいずれを古しとし、いずれを新しとすべきかにつきては、余輩の寡聞なる、いまだ十分学術的説明を加えたる意見の発表せられたるを見ず。しかれども、既出の書籍雑誌等に記載せられ、学会に演説せられ、もしくは平常座談のさいに吐露せらるる斯道学者の抱懐する意見は、多くは横穴式のものを古しとし、竪穴式のものはその後に起れるもの、もしくは横穴式のものの変態せるものなりとし、そのしからざるものにありても、横穴式のものをもって太古すなわちいわゆる神代より存在する形式なりとなすもの少からざるがごとし。本邦考古学の著において先鞭をつけられたる八木奘三郎氏の『日本考古学』は、いわゆる古墳時代を第一期【神代】、第二期【神武帝より推古帝に至る】、第三期【推古帝より奈良朝末に至る】に分ち、第一期の墳すでに簡単なる横穴式墓墳ありとして、氏の信ぜらるる実例が伊諾冊尊黄泉国(241)条の古伝説、また天照大神天岩屋戸篭りの条の古伝説と一致せることを説かれ、さらに第二期の瓢形墳につきても、また整然たる横穴式墓墳を図示せられ、余輩のいわゆる竪穴式壙穴につきてはほとんど論及せらるるところなきなり。すなわち知る、古墳墓内の横穴は、太古以来横穴をもって終始するものなりと解せられたりしことを。もとよりこれ十数年前の著なり。爾後、学界の進歩は著大なるものあれば、八木氏が今日に至りてなおこの見解を持せらるるか否かをつまびらかにせずといえども、氏の著は最も広く民間に流布したれば、氏の著によりて独学的に古墳墓のことを云為する地方の考古学者の間には、この説の最も広く信ぜらるるは疑いを容れざるなり。
 否、ただに地方の独学者のみならず、また十数年前の本書の著者たる八木氏のみならず、斯道の先輩として、また本書の検閲者として、余輩の最も畏敬する故坪井理学博士のごときは、最後までも同様の見解を有し給いしがごとし。そは博士が親しく調査し給いし河内小山村城山古墳につきて、博士の絶筆とも目すべき報告文(本篇は博士の逝去によりついに未完のままとなれり)に、該墳の竪穴式横穴のことを叙して、
  石槨には外部からの連絡を示す通路の有るのを常としますが、此の壙穴(貞吉いう、博士は本篇において特に横穴式のものを石槨と称し、竪穴式のものを壙穴と称せらるるなり)には之を欠いて居ります。併し遺つて居る天井石が、前壁よりも前の方に覆ひ出て居る。恰も通路の天井石の如き観を呈して居まして、其の下の空間に成つて居るべき所に、割り石が詰まつて居るのでありますから、前壁の一部分は通路を閉ぢた形に模してあるとも見られるのであります。
と述べられ、さらに棺槨大小の関係を説きて後、
  斯く推究して見ると此の横穴は、大石槨の作られた時期に次ぐ時のものと云ふべく、尚ほ壙穴が極端に狭くなれば、周壁は終に石棺に接触して、事実上土若くは土と石との混合で石棺を埋めた事と成るので有りますから、此の横穴は石棺の埋められた時期、即ち石槨の設けの無い時期に先だつ時のものと考へて宜からうと思ひます。念の為(242)順序を立てゝ三時期の関係を表示すれば次の通り。
        第一期 石槨の内に据える
大石棺の処置  第二期 壙穴の内に据える
        第三期 塚の中に築き篭める
  城山古墳の場合は此所に掲げた第二の時期に当たるのであります。
と論結せられたり。ここに石槨とは余のいわゆる横穴式石室にして、壙穴とは、竪穴式石室に対し博士の特に使用せられたるものなり。これを石槨といい、また横穴ということにつきては、余おのずから意見あり、後に述ぷべければ、今はただ、博士がこの場合、かく用いられたりというに止めん。
 さて博士は、八木氏の『日本考古学』にいえるがごとく、横穴式石室をもって古墳墓の有する墓穴の本体なりとし、竪穴式のものの存在を認められたる後も、なおこれをもって前者の変態なるがごとく解せられ、これを時代よりいえば、横穴式のもの最も古く、竪穴式のものはこれに次ぎて起れるものなりとせられたるなり。しかして博士のこの学説は博士が最後の研究の一にして、実にその絶筆として発表せられたるものなりしなり。
 余輩はすでに物故されたる博士の所説について、今多くを言うを欲せず。しかしてかくのごときの説は、ひとり八木氏と博士とのみならず、今においてなお広く行わるるなり。近く高橋健自君、余輩がさきに本誌臨時増刊「皇陵」中に、竪穴古く横穴新しかるべきことを述べたるを評して、
  我々の信ずる所では、横穴式石槨はズツト古い時分から行はれたものであると思ふ。否我々の採用し得べき資料の範囲では、横穴式石槨は極めて古い時代からあつたもので、苟くも堂々と墳墓らしいものを築き得べき身分ある人は、横穴式石槨に葬られるのが当時普通であつたらうと思ふ。記録の不十分であつた当時の思想界には、貴人の(243)屍骸を葬るといふ事柄に対して、横穴式石槨といふ観念が一要素として必ず連想される底のものであつたらうと信ずるのである。
といい、かくて八木氏と同じく冊尊貴泉国の条、大神天岩屋戸の条の古伝説を引用せられ、
  竪穴式石槨の方は横穴式石槨に比べると、寧ろ後に起つて、博士の便宜上定められた後期にも行はれたことゝ考へて居る。随つて一般論から云へば、横穴式石槨の方が竪穴式石槨よりも古いと思はれる。
と論じ、陶棺の新古と、その発見されたる穴の形式とにつきて、説明せられたり。
 右の高橋君の説につきては、余ただちにその見解を異にする次第を開陳し、その後さらに氏と意見を交換するところありしが、要するに高橋君といい、故坪井博士といい、また八木君といい、いずれも考古学界の一方を代表せらるる雄将が、その説に多少の相違はあれども、ともに横穴式のものを古しとし、竪穴式のものを比較的新しとする点において一致せらるるを見れば、斯界多数の人士の信ずるところ、またおそらくしかるものなるべし。
 しかれども、余輩は、幸いに後に出でてこれら数多の学説を咀嚼玩味、ことに親しく多数実例を見るを得たれば、さきに高橋君より『考古学雑誌』上において、二度の説示を煩わしながら、今においてなおこれに賛同する能わざるなり。以下、節を逐いてそのしかるゆえんを説かん。
 
      六 埴輪の存否と壙穴の新古
 
 等しく竪穴式壙穴という。平安朝の墳墓しかり、鎌倉・室町・徳川時代の墳墓またしかり。畏くも孝明天皇・英照皇太后・明治天皇・照憲皇太后等の御陵、また竪穴式御壙を有し給うと漏れ承る。明治・大正の今日一般庶民の葬らるるもの、また実に竪穴式横穴によるなり。ただ普通の場合にありては、石をもってその外界を形成することなきが(244)ために、棺をその土壙中に置き、土をもってこれを理むるの処作とともに、その竪穴式土壙は消滅して、いわゆる壙穴なく、単に棺を土中に埋めたるの観を呈するに至るのみ。さればこれを形式上より論ぜんには、依然竪穴式系統のものと謂わざるべからず。しからば竪穴式壙穴はその創始の当初より、明治・大正の今日まで、なお継続するものなりと謂うべきに似たり。しかれども余輩は、ここに特にこの種の墳墓と埴輪との関係につきて観察し、もつてその年代を考定するの料となさんとす。
 古墳墓のある物が埴輪を伴えることは、世人のすでにひとしく知悉せるところ、またここに※[口+奴]々するを要とせず。しかれどもそのいかなる墳墓に伴えるかにつきては、古来いまだ定説あるを聞かざるなり。埴輪|樹物《たてもの》の起源については、何人も知るごとく、『日本紀』垂仁天皇の条にその記事あり。天皇の三十二年に皇后日葉酢媛命薨じ給い、その御葬儀に際して従前の殉死者を墓側に葬ることの代りに、野見宿禰これを考案したりというなり。もし果してしからんには、埴輪ある墳墓は早くも垂仁天皇三十二年を上らざるものと謂わざるべからず。現に某墳墓の年代を考定する場合において、この筆法により説をなされたる学者もありき。しかれども現今の学者は多くこれを信ぜんとはせざるなり。炯眼なる八木氏のごときは、早くすでにこれをその『日本考古学』において排斥し、
  近来の学者は彼の土偶・土馬の類が此時に※[日+方]《はじま》れるにて、円筒の類は其の以前よりありしならんと説けり。こは一の推論たるに過ぎずと雖、広く人智の発達上より鑑れば、如何なるものも俄然として火山の爆発するものにあらざれば、其の風の以前より行はれしことは事実と見て可ならん。
とて、いわゆる近来の学者の説に賛同せられたり。しかもなお、氏は、土偶・土馬の類をもって垂仁天皇朝に始まるとの説を保留せらる。果してしからば土偶・土馬の類を有する墳墓は、これを垂仁天皇以後のものなりとせらるるに似たり。しかれども余輩は埴輪その物の実際と、伝説の性質とよりして、これを首肯するを難しとす。
(245) 『日本紀』に曰く、
  垂仁天皇二十八年天皇の母弟倭彦命薨ず。十一月倭彦命を身狭《むさ》の桃花鳥坂《つきさか》に葬る。こゝに近習の者を集《つど》へて悉く生きながら陵域に埋め立つ。数日死なずして昼夜泣き吟《のどよ》ふ。遂に死して爛※[自/死]《くちくさ》りぬ。犬烏聚り※[口+敢]《は》む。天皇此の泣吟の声を聞きて心に悲傷あり。群卿に詔して曰く、夫れ生の愛する所を以て殉《したが》ひ亡《うしな》はしむるは、是れ甚だ傷《いたま》しきわざなり、其の古風と雖、良《よ》からずば何ぞ従はん、自今以後議して殉はしむるを止めよ。
と。かくして三十二年皇后日葉酢媛命薨ずるに及び、野見宿禰の建策により、出雲より土部一百人を招き、埴輪を作りて殉死者に代えたりという。けだし、埴輪をもって、その殉死の近習が墓側にその身体を半ば埋められながら、並列せるの状を模せりと解するなり。
 余輩は今にして古えの葬儀に際し、いかなる方法によりてその近習を殉せしめしかを知るを得ず。しかれども、大化改新のさいの詔の示し給うごとくんば、「若くは経して自ら殉ひ、或は人を絞して殉はしめ、及び強ちに亡人の馬を殉ふ」とありて、あるいは自殺し、あるいは絞死せらるるの別ありとも、ともかくその死者を墓に葬るものにして、決して、生きながらこれを墓側に埋め立て、その餓死するを待つの類にはあらざるなり。大化五年、蘇我倉山田石川麻呂、冤によりて死するや、妻子の死に殉ずるもの八。これみずから経して殉ずるの実例なり。太古の世いかに人情風俗を異にすとも、いかんぞ数多の人を生きながら墓側に並立せしめ、泣哭せしめ、餓死せしめ、犬烏をしてその腐屍を※[口+敢]ましむるがごときことを想像すべけんや。いわんや、はなはだしく死穢を忌むの風習ある本邦古代においてをや。よりて思うに、右の伝説たる代々葬儀を職とせる土師氏が、その祖業の由来を説明せんがために、埴輪の墓側に並立せる現形を見て唱え出せしものなるべく、これを垂仁天皇の御代のことに託したるは、土師氏の本居が菅原の伏見にありて、ここに垂仁天皇陵あり、皇后陵またこれより遠からざる狭城《さき》の寺間《てらま》にあればならんか。ただし『古事記』(246)にも、皇后御葬儀のさいに、石祝作《いしきづくり》(石※[木+醇の旁]作の誤りか)を定め、また土師部を定めたりとあれば、別に葬儀上一時期をなせるの伝説ありしものにや。
 そはともかくもとして、古代における殉死の実際が、『日本紀』いうごとく生きながら墓側に立たしめたるものなるべからずとせば、いわゆる樹物《たてもの》として、墓側に立てる埴輪をもって殉死の代用物なりとするの説は、もとより信ずべからず。いわんや埴輪その物の多数は、人物その他の動物の形体を表わすものにあらずして、単にある一定の形式によれる円筒なるにおいてをや。またその物体を表わすものも、必ずしも死に殉わしむべき人類もしくは動物に限るにあらずして、家屋・器具等を模するものまた少からざるをや。
 ここにおいてか学者あるいは説をなして曰く、埴輪の用は墳丘の土壌の崩壊を防がんがために、「土止め」の意味をもって作られたるなりと。余輩は実にこの意味において、近く明治某年のころ、大和奈良付近なる大山守命御墓と定まれる塚の修築に際し、数多の埴輪を模造して、四周に埋めたりしを聞く。しかれども、このこともし実ならんには、むしろ当事者の戯れと解すべく、もって往世の埴輪の用を律すべからざるなり。埴輪にして墳丘の半腹に羅列せんには、偶然の結果としてあるいは土止めの用をもなすべし。しかれども埴輪の位置、必ずしも丘の半腹に限らず、その単列のものにありては、多くはその丘麓を繞れるもののごとく、また複列のものにありては、しばしば平地に下りて、周濠の外堤上を囲繞するものもあるなり。前号所載応神天皇誉田陵の土馬のごとき、実に俚俗中山と称うる外堤上の埴輪にして、今日なおその円筒の松林問に並列するを見るなり。また奈良市西なる大鍋・小鍋の二大陵のごとき、あるいは石人をもって有名なる筑後吉田の岩戸山のごとき、いずれも今なおその場上に埴輪の存在を実見すべし。しかしてこの二、三の例、もって他を推すに足らん。されば実際丘腹にありて土止めの用をなすべしと思わるるものは、複列を有する場合におけるある列に限られたるものにして、一般の場合に(247)おいては、決して土止めのために設けられたりとは解すべからざるなり。
 管見によれば埴輪は墳墓のために設けられたる不朽性の籬なりと信ず。古代の住屋、通例籬を有す。あるいは柴垣といい、玉垣といい、瑞垣《みずがき》といい、磯城《しき》といい、磐境《いわさか》といい、神籬《ひもろぎ》という。いずれも籬の一種なり。しかしてこれを鄭重にせんには、周濠を繞らす場合もあるべく、垣を多く重ぬる場合もあるべし。この垣を多く重ねたるものを八重垣と称す。「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに、八重垣つくる其の八重垣を」の詠、玩味すべし。今も伊勢皇太神宮には、板垣・玉垣・瑞垣等、数重の垣を設け給えるなり。墳墓の制これを鄭重にする場合に多く周濠を設く。しかして濠に二重もしくは三重なるあり。この場合いかんぞ八重垣なからんや。比較的小規模の塚が丘麓に単列の埴輪を有し、雄大なるものが往々にして三列もしくは四列・五列の埴輪を有するもの、実にこの一重垣と八重垣との別ならずんばあらず。しかしてその垣たるや、普通の住屋にありては、あるいは岩石をもって築く場合もあるべけれども、多くは柴垣の名の示すがごとく、植物性の材料をもってするを常とすべく、これには生垣《いけがき》と、刈り取りたる柴をもって作る場合との別あるべきも、普通には後者多きにおるなるべし。しかしていわゆる埴輪円筒は、実にこの後者、すなわち柴を束ねて作れる形状を模するなり。かれらは実に縄にて束《たば》ねたるの状を表わせる二、三条の横線と、束ねられたる柴の形を表わせる無数の縦線とを有す。稀にしからざるものあるも、こは千百中の一のみ。世あるいはこの稀有の例をもって、埴輪円筒が柴の束ねたる形を模すとのことを否定せんとするあれども、こは稀に白毛のものあるがゆえに、烏を黒しというほ誤りなりと言わんがごときのみ。埴輪はとうてい永久的の墳墓に対し、不朽性の垣根を設けたるものなりと解せざるべからず。しかしてその円筒の間に、土偶・土馬・土鳥等、種々の物体を模するものの存するは、いわゆる死に事《つこ》うる生に事うるが如く、死者に対して生者の要すべきものを供したるにほかならず。しからば埴輪の本体はどこまでも垣根なり、しかしてすでにこの垣根の円筒あらんには、その円筒の一部を変形せしめて、土偶・土(248)馬等をその上に置かんは、ただ転一歩のみ。これがために埴輪をもって殉死の代用なりとの説はとうてい成立すべからざるなり。これをもって殉死の代用なりとなすの説は、埴輪制廃してより年久しく、これに関する知識失われたる後の俗伝なるべし。
 埴輪にして殉死の代用にあらずとせば、「垂仁紀」の野見宿禰に関する伝説は信ずべからず。「垂仁紀」の野見宿禰に関する伝説にして信ずべからずとせば、埴輪の起源はとうてい文献上より求むべからざるなり。ここにおいてか余輩は、埴輪をもって余輩が今日記録もしくは伝説によりて知るを得る以前より存するものなりと言わんとす。なんとなれば、余輩は古代墳墓の標準とすべき、安閑天皇の古市高屋陵、仁徳天皇の大山陵にも、また応神天皇の誉田《こんだ》陵にも、ないし孝霊天皇皇女の御墓なりと古代より信ぜられたる箸墓《はしのはか》にも、あるいほこれらと同形式なる多くの古代墳墓にも、いずれも埴輪の存在するを知ればなり。少くも崇神天皇のころの墳墓には埴輪あり。しかして余輩はその以前においては、神武天皇が大和朝廷を開き給えりとのことのほか、ほとんど歴史上なんら具体的の事実を知るを得ざるものにて、古語にも崇神天皇を肇国天下天皇《はつくにしらすすめらみこと》と申すほどなれば、余輩がここに埴輪をもって、歴史上余輩の知識の及ぷ以前より存在すと言わんは、必ずしも単に放言とのみ退くべきにあらざるを思う。されば、さらに崇神天皇以前において、埴輪を使用せざりし時代の存在が証明せられざる限り、少くも余輩は、埴輪を伴える墳墓中には、きわめて古き時代のものも存在すべきことを承認すべきなり。
 次に埴輪の廃滅期につきては、文献の明かにこれを示せるものなきがゆえに、あるいはこれを推古天皇のころとし、あるいはこれを大化のころとし、あるいはさらに奈良朝にまで存在せりと説くものあれども、いずれも確乎たる証左あるにあらず。余輩の見るところによれば、あるいはさらにこれよりも古き時代において、その用すでに廃せられたるにあらざるかを思わざるを得ず。なんとなれば、前すでに言えるごとく、埴輪創始に関する伝説が、埴輪の実施止(249)みて後、年を経ること久しく、世人がその何物なるかにつきて全然知識を失い、これに対して適当なる解釈を下すを得ざるに至りて、始めて唱え出されたる説なるべく解せらるるによりてなり。しかれども、単に年を経る久しとのみにては、ほぼいつのころなりやを定めんにはあまりに漠然たり。これを実例について言わんに、天武・持統両天皇を合葬し奉れる檜前大内陵のごとき形式の墳墓には決して埴輪あることなく、聖徳太子磯長墓またしかり。しからば、少くも推古天皇の御代には、埴輪を有せざる墳墓が営造せられたりしことを認めざるべからず。果してしからば比較的新しき墳墓の中には、埴輪を伴わざるものの存在すべきことを承認せざるを得ざるなり。
 以上二つの場合を合せ考えて、余輩は、埴輪を有する墳墓は比較的古きものにして、たといその時代に埴輪を有せざるものまたこれありきとするも、少くも埴輪を有せざるものの中には、埴輪を有するものよりも、新しきものの存在すべきことを承認す。
 さらに埴輪を伴える墳墓の形式を考察するに、瓢形墳(もしくは前方後円墳)あり、円墳ありて、その外形、必ずしも一ならずといえども、その横穴に至りては竪穴式なるを常とし、横穴を有するものには、埴輪なきを常とするの事実を認む。もとより稀に例外のものなきにあらずといえども、こほ別に解釈を要すべきものにして、余輩の親しく見聞せるところにては、少くも百中九十七、八までは、この則を紊すことあるなし。この多数より帰納して、余輩は、竪穴式のものをもって古しとし、横穴式のものをもって新しとするの断定に到達せざるを得ざるなり。すなわち箸墓・誉田《こんだ》陵・大山陵・古市高屋陵一類の前方後円墳(もしくは瓢形墳)およびこれと同時代のものと認むべきその陪塚たる円墳は、通例埴輪と竪穴式壙穴とを有するものにして古く、磯長陵・檜隈大内陵一類の円墳は、通例横穴式壙穴を有して埴輪なく、比較的その年代新しきものなりと断定せざるを得ざるなり。さらに換言すれば、大体において、単に埴輪との関係より見るも、竪穴式壙穴を有するものには比較的古きものあり、横穴式壙穴を有するものはこれよりも(250)新しと断定せざるを得ざるなり。
 ここにおいて余輩は、特に一言の説明を加うる必要あるを感ず。余輩は右において埴輪を伴える墳墓が竪穴式なるを常とし、横穴式のものは埴輪を伴わざるを常とすることを言いき。しかれども、いまだ竪穴式のもの必ず埴輪を伴い、埴輪を伴わざるもの必ず横穴式なりとは言わざるなり。すでに埴輪制廃滅期以後にも竪穴式横穴は行われて、明治・大正の今日にまで継続することは前すでに言えるがごとし。現に天武天皇朝営造の小野毛人の塚は竪穴式にして、しかも埴輪なきなり。京都内山なる九条兼実の墳のごとき、その他京都付近に多く存する平安朝時代の墳墓と目すべきもの、いずれも竪穴式なりとす。同じく竪穴式なる明治天皇陵および、昭憲皇太后陵には埴輪土偶を埋め給えりと承るも、こは古制をもって論ずるの限りにあらず。
 次に説明すべき、埴輪を有しながらしかも横穴式墟穴を有するものの事実上存在することなり。余輩は現に京都|太秦《うずまさ》なる天塚、筑後椿子なる重定の横穴式大壙穴を有する瓢形墳、その付近の円墳、同国若宮八幡境内なる日岡墳等においてこれを実見す。石人をもって有名なる同国吉田の岩戸山のごときも、また実に二個の横穴式壙穴を有したりしなり(余さきに河内瓢箪山をもって、またその一例に置きしも、その後の調査によるに狐を飼育すべく後に作れるがごときをもって今これを除く)。しかれども、かくのごときは、横穴式壙穴の制行われて後、従来の墳丘を改造せしものなりと解すべきに似たり。右に列挙せる僅少の例証中にも、二個までも一墳二壙を有するものあるを思うに、少くもその一が後より作られたるべきことば何人も異議なかるべく、すでにその一を後より作り得べしとせば、他の一をもまた後より作れりと解せんは、わずかに転一歩ならんのみ。さらにこのことにつきて適切なる証拠たるべきものは、肥後国玉名郡繁根木村なる、頂上に石棺(これを棺ということにつきては後に論ずべし、しばらく通称に従う)を有し丘麓に横穴式壙穴を有するもの(『考古学会雑誌』第二編第四号)なり。この場合においてそのいずれか(251)が後より作られたるべきことは、何人も首肯し得べく、しかして多数の類例よりして、頂上なる石棺の方古く、横穴は後より作られたりと解すべし。さればその他の場合にありても、これを後の改造となさんはまさにしかるべきことなりとせん。されどかりにこれらは当初より埴輪を有し、しかして横穴式壙穴が営まれたりとせんには、これ両者の中間に立つぺき特例にして、その存在は、多数より帰納せる大体論の上になんらの影響を来さざるものなりとす。しかもこはかりに百歩を譲りての論なり。余輩、依然これをもって後の改造なりとするの説を保留し、中間物をもって他に求めんとす。こは後に説くべし。
 
       七 合葬の風習と横穴式壙穴
 
 すでに三たび回を重ねたる余輩の「古墳墓年代の研究」は、今や記録上より古代合葬の風の盛んなりしことを論じ、これを実地に考えて、横穴式壙穴の年代に及ぶの順序となれり。
 一般的の観察として、竪穴式壙穴を有する墳墓が古く行われ、横穴式壙穴を有するもの後に起りたるべきことは、第四節に列挙する少しばかりの年代標準たるべき墳墓と、第六節所論の埴輪と壙穴との関係とのみより推論しても、なおかつこれを断定するを得べきなれども、余輩はさらに合葬の風習の調査よりして、いっそうこれを確実にするを得べきを思う。
 史を案ずるに、合葬の行わるること由来すこぶる古し。神功皇后摂政元年二月、皇后紀伊国に詣《いた》り、太子に日高に会して、群臣と忍熊王を攻めんことを議し、さらに小竹宮《しぬのみや》に遷り給う。時に昼暗くして夜のごときもの数日。よりて推問せしむるに、曰く、小竹祝《しぬのはふり》と天野祝《あまののはふり》とともに善友たり。小竹祝|病《やん》で死す。天野祝泣て曰く、われ生きて交友たり。なんぞ死して穴を同じうすることなからんやと。すなわち屍の側に伏して自死す。よって合葬す、云云。すなわち墓(252)を開いてこれを視れば実なり。ゆえにさらに棺※[木+親]を改め、おのおの、処を異にしてこれを埋む云云。以上『日本紀』の記するところ。けだし合葬の初見か。
 雄略天皇が大臣葛城|円《つぶら》を坂合黒彦皇子および眉輪王とともに燔き殺し給うや、坂合部連贄宿禰、皇子の屍を抱いて共に焼死す。舎人ら骨を択ぶ能わず。すなわちこれを一棺に盛り、新漢槻木《いまきのあやのつきもと》の南丘に合葬す。これ合葬のものに見ゆる第二か。
 同じ天皇、市辺押磐皇子を近江の来田綿《くたわた》の蚊屋野《かやの》に害し給うや、帳内《とねり》佐伯部売輪《さえきべのうるわ》その屍を抱いて号泣す。天皇またこれを殺し給う。皇子の遺子|弘計《おけ》即位し給うに及び、父皇子の屍を野中に求め給うに、売輪の屍と交りて、御骨を分ち難し。時に売輪の上歯堕ちたりしことを言うものあり。よりてようやく髑髏を別つことを得たれども、四肢諸骨とうてい区別し難し。すなわち雙陵を蚊屋野中に起し、彼此相似せて、葬儀異なるなし。こは合葬というとやや趣を異にすれども、当初野中にこれを埋めしさいにありては事実上同穴にして、後にこれを別つに至りても、その雙陵のおのおのが、共に合葬の性質を帯ぶるものと謂うべきなり。
 以上は史に見ゆる合葬の先縦にして、事実はもちろん、この以外にも多かりしなるべく、もって合葬のことが古く行われたりしことを徴するに足る。しかれども、さらにこれを玩味熟考するに、これらの事実はいずれも、ある異常なる場合、すなわち生前特別に深交ありしもの、あるいはその遺骨を別つべからざるもの、ほとんど遺棄的に取り理められたるもの等にして、決して普通平常のことにあらざるなり。ことに小竹・天野両社の祝《はふり》を合葬したりしがために天変あり、これを分葬するに及びて常に復したりというがごときは、その間にいかなる意味の寓するかを解するに苦しめども、ともかく合葬が普通ならざりしことの一傍証となすべきに似たり。
 さらにこれを実地について調査するに、試みに第四節に列挙せる年代の標準たるべき墳墓の示すところに基づき、(253)この時代の墳墓としてまず擬定すべきもの、すなわち頂上に竪穴式壙穴を有し、もしくは壙穴を存せずしてただちに棺槨を蔵し、墳丘の外部に埴輪の存するがごとき、余輩のいわゆる前期式の墳墓には、きわめて稀なる例のほか、通例同一壙内に、もしくは同一棺槨内に、二個以上の屍を納めたりし形跡を見ざるなり。同一墳丘中に数個の棺槨を蔵し、もしくは横穴を営める場合ほ多々これあり。例えば既記仁徳天皇陵のごとき、天皇の御道骸はもちろん後円部の頂上に永き眠りにつかせ給えるならんも、別にその前方部東隅の中腹において一の竪穴壙露出せしこと、世人の知るところなり。ただにこの一壙のみならず、かくのごとき偉大なる墳丘内には、各所に屍体の陪葬せられたるものあるべし。従来普通に学者の認めしところにては、高貴の殉死者、もしくは近親・故旧・従者らの屍は、これを陪塚内に葬るものなりとなせしがごときも、事実においては必ずしもしからず。偉大なる墳丘にありては、その後円部の頂上のみならず、種々の個所より副葬品と見るべき遺物を発掘するの実例、枚挙にいとまあらざるなり。大和南葛城郡にありて、俗に武内宿禰の墓として知らるる室大墓《むろのおおはか》のごときも、その後円部の頂上には普通の例のごとく棺槨を蔵しながら、別に先年その前方部より数多の遣物を発見せりと聞く。大和櫟本付近なる鑵子塚のごときは、明かに前方部の頂上にいわゆる石棺の露出するを見る、もって類推すべきか。また河内古市付近なる墓山と称する一大前方後円墳にありては、後円の頂上に二個の相並べる凹みあり。けだしかつて壙穴を開き、もしくほ棺槨を発《あば》けるものにして、もとこの所に二個の屍を並べて、別々に葬りたりしもののごとし。同じ河内の允恭天皇陵畔の小円墳の一なる俗称長持山と称するものには、二個の石の長持すなわちいわゆる石棺の、上部に露出せるを見る。かかる例は他にも多く、越前吉田郡なる石船山、周防吉敷郡なる小丸山、また二個のいわゆる石棺を蔵すと聞く。また筑後三池郡上楠田の石神山には、円丘上実に三個のいわゆる石棺の並列して存するを見るなり。
 かくのごとく、一の墳丘内に数多の壙穴を有し、もしくは棺槨を蔵するは、けだし塚を造るの難工事を避けて、在(254)来の塚にその家族もしくは関係者を陪葬せしものなるべく、これを同一塋域内に葬るとは謂うを得べきも、決して同穴合葬の義にあらざるなり。これをシナ古代の例について見るに、合葬と陪葬との別あり。合葬のこと太古にこれを見ざるも、周以来すでにこれあり。『家語』に、「詩に曰く、死すれば則ち同穴と。周公より以来※[示+付]葬あり」とせるもの、もって古えを察すべし。しかも同穴の墳のほか、別に陪葬のことまた普通に行わる。唐の高祖の顕陵には、順聖皇后を合葬し、別に太妃・公主・諸王公二十五人を陪葬す。また太宗の昭陵には、陪葬の数一百五十五人(あるいは一百六十七人)の多きに及ぷ。これらはいかなる方法をもってせしかを明かにせずといえども、わが邦における陪塚がまたその主塚に対する陪葬なるべき以外、主塚の一部に葬るものをもって、またこれら陪葬の一なりと解せんこと、必ずしも不可ならず。ただし『隋書』を案ずるに、文帝の皇后独孤氏の崩ずるや、これを太陵に葬り、ついで文帝の崩ずるに及び同陵に合葬す。同墳にして異穴なりとあり。」同墳異穴のものをもって合葬ということ、また例なきにあらず。余輩がもって旧式墳墓なりとする安閑帝陵に皇后春日山田皇女と皇妹神前皇女とを合葬すというがごとき、この方法によりたるものなるべきか。『延喜式』に皇后陵を別にせるものは、この同墳異穴のものを改葬せし結果ならん。しかしてそのかくのごときに至りたるゆえんのものは、当時シナより合葬の俗、移入せられたるも、当代の旧式墳がその合葬に適せざりしがためなるべく、要するに、かかる古式の墳墓を築造せし時代には、合葬のことはいまだ普通ならざりしなり。
 しかるに、ここにただ一つ、前記石神山三個のいわゆる石棺中の最大なるものには、二個の石枕の相並びて作り出しとなり、存在するを見る。これ実に余輩の知れる唯一の異例なり。けだし他にもこれあらん。しかもその数は比較的少く、むしろ稀有の例とすべきは疑うべからずして、旧式時代に稀に行われたる合葬の一実例と做すべきものとす。
 これに反して、余輩のいわゆる後期式壙穴なる横穴にありては、同一壙内に数個の棺槨を蔵し、もしくほ数多の屍(255)体を存するの例はなはだ多し。否、むしろ、一壙中ただ一屍を蔵するの場合は、かえって少かりしにあらざるかを思わしむるものあるなり。これを実地に徴するに、河内磯長なる聖徳太子御墓には、壙内三個の棺槨を蔵し、大和檜前なる大内陵に、天武・持統両天皇の御棺を納め奉れることは前記のごとし。かつてこの大内陵と誤認されたりし大和五条野の丸山、その近傍なる菖蒲池塚、南葛城なる蘇我入鹿墓、出雲塩冶なる森山氏邸内の円墳など、その例多し。美作苫田郡香々美村なる一壙内四陶棺を有せしもののごとき、またその著しき例とすべきか。『太宰管内志』によるに、豊前京都郡御所山には、壙内に石棺ありて、棺内屍体一を蔵し、別に石棺外に三個の屍体ありたりという(ここにいう石棺が石槨なるべきことは後に弁ずべし)。こは幸いにしてよく保存されたりし一例にして、もって他を類推すべく、普通に壙内ただ一棺槨を有すと思惟せらるるものも、その実は時として数多の屍体の合葬せられたりしことあるべきを想像せざるべからず。また前記南葛城なる蘇我入鹿の墓には、壙内玄室に一棺槨を蔵し、その羨道にまた別の棺槨を納む。けだし玄室小にして後の棺槨を容るる能わざりしためにして、後者が後日に搬入せられたりしことは、その横側なる縄掛突起が、搬入の便のために切り取られあるにて知るを得べし。しかもこは、なお辛うじてその羨道中に搬入するを得しものなるが、とうていこれを容るる能わざる場合にありては、その壙外封土中にこれを埋むることあり。同じ南葛城|樋《いぶり》野なる権現堂畔円塚において現にこれを見る。その他一壙内に数個の屍体あることはむしろ普通の例にして、新たにこれを発掘し、幸いに屍体の保有さるるものについて験するに、屍体ただ一個のみなる場合はむしろ稀有と称すべきに似たり。先年、故坪井理学博士が東京芝公園内丸山にて調査せられたる数個の小円墳が、いずれも数多の屍を蔵せしは、その適切なる例と見るべきなり。
 かかる場合にありて、従来これを解するものは、往々これらの数屍をもって同時に葬られたりしものとなし、ためにあるいはこれを戦死の場合ならんと想像し、あるいはもって同時に殉死せし者の墓となす。しかれども余輩は、事(256)実上到るところに合葬墳の存在を認め、これらをもってことごとく戦死者もしくほ殉死者の合葬せられたるものなりと想像する能わざるがゆえに、これをもって後より漸次合葬せられたるものなりとの新解釈を下さんとするなり。これを史に徴するに、前記年代の標準たるべき古墳墓の条に記したるごとき、いわゆる後期の横穴式壙穴の行われし時代にありては、前期の合葬がむしろ特例なりしに反して、高貴の御間においてすら、頻々としてそのことの実行せられしを見る。聖徳太子御墓と天武・持統両天皇の檜前大内陵との御事は申すまでもなし。安閑・宣化・欽明・敏達・推古の諸帝陵、またいずれも合葬の例により給えること、前すでに述べたり。その安閑陵が旧式墳にして、しかも合葬のことある、当時合葬の風ようやく移入せられ、もって合葬に便利なる新式横穴墳の制の移入せらるるに至る過渡時代と見るべきか。宣化・欽明両帝の陵制、これをつまびらかにすべき材料を有せざれども、おそらくは依然旧式墳なりしならんか。崇峻帝崩じて即日葬る。これはすでに準備せられたる寿蔵ありしか、もしくは推古帝を竹田皇子の陵に葬るといえるごとく、すでに存せし某皇親の陵墓に合葬し奉りしものか。いずれにしても当時はもはや新式墳の行われしことを察するに難からず。用明天皇崩後、蘇我馬子、物部守屋を殺す。守屋の資人捕鳥部萬またこれに死し、朝廷その屍を八段に斬りて梟するや、萬の犬その首級を噛えて古墓に収め置き、横に枕側に臥して前に飢死すと『日本紀』にあり。その事情を見るに、いわゆる古墓は横穴式壙穴なりしもののごとし。河内なる韓人らの間には、つとに新式墳墓の行われたりしものか。敏達天皇崩じて広瀬に殯斂し、久しく葬らず。用明天皇崩じてまずこれを磐余池上陵に葬り、崇峻天皇四年に至りて始めて敏達帝を河内磯長なる母后の陵に合葬し奉る。けだし新式墳墓の制により給いしものなるべし。ついで推古天皇元年に至り、さきにいつたん大和に葬り奉りし用明天皇をもこの河内磯長に改葬し奉る。当代の制に改め給いしものか。かくて推古天皇に至り、竹田皇子の磯長の陵に合せ葬らしめ給いしこと前記のごとし。『以文会筆記』に曰く、「推古天皇陵、壙の広さ方一文五六尺許、上下四方磐石を以て畳み、中に石棺二(257)つ並べり。其棺磨石にして、至つて精巧なり。右は推古天皇、左は竹田皇子なり」と。けだしまた新式墳にして、もっていわゆる合葬の状を見るべし。次に斉明天皇|小市岡上《おちのおかのうえ》陵もまた間人《はしひと》皇女を合葬し奉る。またもとより新式葬なるべし。至尊葬費を節し、続々新式墳に合葬せられ給うことすでにしかり。いわんや臣民をや。大化の改新に至り、特に詔して薄葬を令し、王以下小智位以上の墳墓の大きさを定め給う。しかして曰く、庶人亡する時は地に収め埋めよと。地に収め埋むとは墳丘を起さざるの謂にして、けだし墓を営まざるなり。『古事記』に雄略天皇が近江の市辺押磐皇子を害し給える時の状を記して、「馬※[木+宿]《うまぷね》に入れて、土と等しく理みき」とあるもの、これまた墓を営まざるを謂えるなるべく、大化の制庶人は皆この例による。当時ただ有位者のみ、墓を造るを許されたりしなり。このさいにおいて、右の有位者の家族らは、死していずれに葬らるべきか。思うに必ずその墓を造るを得る有位者の墓中に合葬せられたるなるべし。元来大化に墳墓の制限を設け給える旨趣は、一は人口次第に増加して土地の価ようやく貴くなりしがために、いたずらに墳墓のためにその有用なる地を喪失するの弊を少からしめんとし、一は当時の厚葬の俗を矯正せんとし給うにありき。詔に曰く、「吾れ此の丘墟不食の地を営して、代を易へんの後其の所を知らざらしめんと欲す」と、また曰く、「このごろ我が民の貧絶なること、専ら墓を営るに由れり。ここに其の制を陳べて尊卑別あらしむ。」と。事情もって見るべし。しかしてかくのごときの事情は、大化に至りて突如として起れるにあらず。推古天皇、遺詔して特に陵を起さず、在来の皇親の墓に合葬せしめ給いしもの、また実にこの御趣意にほかならざりき。その前々代より行わるる合葬、また必ず然なりしを疑わず。かくて文武天皇の「大宝令」を制定せらるるに至りては、さらにその制限を厳にして、墓を営むを得るの資格を、三位以上と定めたり。『令集解』引古記に曰く、諸王諸臣四位以下皆墓を営むを得ずと。しかしてこの以外のものにありては単に氏の宗および別祖のみよくこれをなす。氏の宗とは宗家の家長なり。別祖とは新たに一家を創立せるものなり。この両者は四位以下なりとも、また無位なりとも、なおよく(258)墓を営むを得。しかしてその家族は、この氏の宗もしくは別祖の墓に合葬せられざるべからず。しからずして単独に墓を営むを得るものは、実に三位以上に限られたりしなり。しかもその三位以上の人の墳墓といえども、その中に妻子一族らを合葬し得べきは勿論なりとす。ここにおいてか後期の横穴式壙穴が、数個の棺槨もしくは屍体を蔵するの理由もって解すべく、かれらが決して戦死者もしくは殉死者の合葬にあらざるの事実、明かなりと謂うべきなり。
 当時の制度と風習と実にかくのごとし。位階三位に達せざるものは、その宗家の家長もしくは祖先の墳墓中に合葬されざるべからず。ここにおいて祖墓の語はしばしば古書の上に散見す。文武天皇慶雲三年の詔に曰く、「氏々の祖墓及び百姓の宅辺に樹を栽えて林と為す、並に周二、三十計歩は禁ずる限にあらず」と。当時すでに普通の氏々にはただ一個の祖墓あるを例としたりしがごとし。延暦十八年および大同元年の官符またこれを繰り返す。しかもこの祖墓のこと、大化以後において始まれるにあらず。また一般人民にのみ限られたるにあらず。皇極天皇の元年、蘇我蝦夷己が祖廟を葛城高宮に立つ。これは後より造れるものに似たれども、またもって各家祖墓ありしを知る。『万葉集』収むるところ、大伴家持の歌に、
  大伴の遠つ神祖《かんおや》の墳墓《おくつき》はしるく占め立て人の知るべく
とあるもの、また祖墓を著しく造らんことを言えるなり。これらの蘇我氏・大伴氏の祖墓のごときは、もって特例とすべきも、一般百姓にありては、ただ祖墓一個のみを有するを例とし、以外のものはこれに合葬せらるるか、もしくは大蔵に付するのほか、屍体を処分するにまた他の方法あらざりしものなりとす(大蔵とは『令集解』引古記に、全く骨をもって除散するなりとあり)。
 かくのごとき合葬の風習は、もと大陸より移入されたるものなるべきも、しかもまた葬儀の費を節約せんがために盛んに行われたるものなるべければ、これを前期の墳墓の、その丘上に竪穴式墓壙を有するものにつきて各所に寄生(259)的に掘り埋むること、仁徳陳以下、前記数多の類例において見るごとくせんよりは、さらにこれを後期の墳墓の横穴式墓壙内に並べ安置するをもっていっそう便利なりとすべきは明々白々の事実なりとす。今も琉球にては、現に各戸一個の横穴式壙穴を有し、一家族内の死者は、皆その墓内に逐次合葬せらるるなり。もってわが古代を類推すべく、かくのごとくにして、横穴式墓壙を有する後期の墳墓は、合葬の風習のまず盛んに行わるるに随いて、漸次一般に行わるるに至りしもののごとし。
 横穴式の壙穴はもと大陸に起る。はじめは王者の葬にのみ限らるるものとして、諸侯以下の模倣を許さざりき。春秋のさい、晋の文公周室に大功あり、隧を墓に造るを許されんことを請う。周の襄王これを許さず、曰く、王の章なりと。隧とは玄室に通ずる羨道の謂なり。杜預の註に曰く、「地を闢いて路を通ずるを隧といふ。此れ乃ち王者の葬礼なり、諸侯は皆柩を懸けて下す」と。柩を懸けて下すとは竪穴式壙穴に柩を釣り下ぐるの謂にして、シナにおいては少くも晋の文公ごろまでは、天子のほか、横穴式壙穴を営むものなかりしを知る。
 しかるに、周室いよいよ衰え、諸侯いずれも王号を僭称して、いわゆる戦国の世となるに及びては、三代の葬法紊れて諸侯もひそかに隧を設くるに至りしなるべく、その風高句麗に伝わり、新羅・百済に及び、ついにはわが国にも伝来せしもののごとし。関野・今西・谷井ら諸氏の調査によるに、北部朝鮮および遼東地方における高句麗時代の墳墓多く横穴式なりという。慶州地方における新羅の墳には、横穴式壙を有するものと、しからざるものとあり。その横穴なきものは古く、横穴あるものは比較的新しきものとすべく、けだし高句麗の葬法を伝えしものなりと解すべし。
 これをわが国の古墳墓について見るに、竪穴式横穴を有する前期の墳は、杜預のいわゆる「柩を懸けて下す」ものにして、応神・仁徳・履中等の諸帝陵を始めとして、古代の帝王陵いずれも隧すなわち羨道を有せず。その制、シナ(260)古代における諸侯の葬法に似たり。しかもその埴輪を有し、縄掛凸起ある石槨(普通に石棺というもの)を存するがごときは、シナ・朝鮮等、大陸においてその類例を見ざるところ。これおのずから本邦において発達せしところにして、もって本邦固有の葬法とすべし。けだし、竪穴を設けてこれに柩を埋むることは、これ最も自然の葬法なれば、わが古代の墳墓が竪穴式なる、必ずしもシナ古代の諸侯の墳に倣いしにあらず、おのずから彼此暗合せしならんのみ。しかしてその後に起れる横穴式壙穴を有するものが、大陸伝来の葬風によれるものなるべきは、ほとんど疑いを容るるの余地なきに似たり。しかしてその伝来の時期をもって、合葬の風の盛んに行われし時代にありとする余輩の見解は、あたかもこのころ盛んに外国文物の輸入に努めし時代なりし事実と相啓発して、すこぶるその理由ありと言うを得べしと信ずるなり。
 
      八 棺・槨・壙の弁(上)
 
 1 緒 論
 回を重ねて古墳墓年代の解決に努力しつつあるこの論文を読み給いし読者諸賢は、余輩が常に棺・槨・壙の用語について、はなはだしく困難を感じつつあることを覚知し給いしならん。余輩は実にわが考古学著間において使用せられ、余輩もかつてこれに従いたりし棺・槨・壙の語をもって、今やすこぶる妥当ならずと信ずるに至れるなり。否、ただに妥当ならずというのみにあらず。しばしば、はなはだしき誤解に陥り、混雑を招くべきものなりと信ずるなり。このことにつきては、さきに高橋健自君と古墳墓に関して意見を交換したるさいにも、簡単にこれに論及し、かつ、棺槨の別に関しては、すでに言えるごとく、我輩なおいまだ決せざるところあり、あえて固執せず。さらに他日の研究を積みて、詳細発表の機あらんことを期するがゆえに、ここに深く論及するを欲せず(『考古学雑誌』第四巻第(261)一〇号)。
と述べて、その後の研究を保留したりき。かくして目下発表中の論文においても、「いわゆる石槨すなわち墓壙」「石槨すなわち俗にいわゆる石棺」などと、きわめて煩わしき記述の方法を用い、もってその説明を後に期したりしが、今や実にその説明を発表すべき機会に到達せり。
 余輩は実に近時わが考古学者間に用いらるる「石槨」の語をもって、明々白々なる誤解と認め、これに代うるに「壙」の称をもってせんとするものなり。壙は墓穴なり。漢字の本家なるシナにおいて三千年来一貫してかく使用せられ、爾来本邦はもとより、朝鮮等においても常にこれに従い、もって現時に及べるなり。しかしてこの改称に伴いて、余輩はさらに、従来考古学者間において石棺と称せらるるものも、その実多くは石槨なるべきを信じ、その制度変遷等についても、歴史上また考古学上、十分研究を加うるの要あるを認むるものなり。
 論者あるいは謂う。汝の説あるいは是ならん。これを攻究するもとより可なり。されどかりにこれを是なりとするも、すでに一般の本邦考古学者によりて多年使用せらるる用語をまでも改めんとするは、全く無用なるべく、要はその事実を明かにすれば足れるにあらずや。現にシナあるいは朝鮮において郡よりも下位にあるべき「県」の文字をもって、わが邦にありては上位の行政区画の名に使用し、しかもこれにつきて、何人も異議を挟まざるを思うべしと。
 論者の言一理あり。しかれども、槨・壙と郡・県と、おのずからその関係を異にす。明治維新後、府県の名称を定めたるさいには、従来の郡代代官支配の地をそのまま県に引き直したるもの多く、その代官には、つとに県令の異名ありしがうえに、廃藩置県後の府県もその数約三百の多きに及び、したがってその管轄区域は狭少なるもの多数を占め、かつ新置の県と在来の郡とはその間行政上いささかも階級的関係なかりしものなりしなり。しかるに、後に制度改正、府県廃合の結果、府県ほ数郡を兼ぬることとなり、ついに現在見るごとき不都合なるものとなりたるものなれば、こ(262)れまた改むるの機会だにあらば、これを改むるを勝れりとすれども、しかもまたやむを得ざるものあるなり。しかるに、棺・槨・壙等の場合に至りては、もと純然たる誤解に基づけるものにして、郡県の称呼が歴史的変遷を有するとおのずから区別あり。明かに古書の用法および現時シナ・朝鮮等において用いらるるところと相違して、学者がこれを古史料に基づき研究せんとする場合において、はなはだしく誤謬と混雑とを招致するの虞れあるのみならず、同じく壙穴なるものについて、そのあるものは石槨と称し、あるものは横穴と称し、さらに他のあるものについては、壙穴の名をもって呼ばざるべからざるがごとき不都合を生ずるなり(このことは後に詳論すべし)。ことに近時わが考古学者によりて、着々進行中なる朝鮮・満洲等の考古学的調査の結果を発表せらるる場合などにおいても、せっかくの研究がかの地の学者の理解を得ず、もしくは嘲りを招くことなしとも限らざるなり。なお、さらに進んで思うに、往世シナ文明のわが国に影響したることはなはだ多く、その墳墓葬儀の上に及べるものまた少からざるは、多少彼が文献を調査するもののつとに認むるところ。されば、わが古墳墓を研究して、これを遺せし国民の性質・時代・系統等を明かにせんには、単に実物その物の調査のみに満足せず、必ずや彼が豊富なる文献をもって、すべからくわが薬籠中のものとなさざるべからず。しかるにこのさいにおいて、なおその用語一定せず、彼の墳と称するものをもって我は槨と称し、もしくは意義漠然たる横穴などと号し、彼の槨と称するものをさらに他の名称をもって呼ばざるを得ざるがごときは、いたずらに混雑を重ぬるのみにして、往々誤謬に陥るのほか、なんらの益なきものなりと謂わざるべからざるなり。
 しかれども、余輩のかくいうはわが考古学者間の用語が、明かに漢字の意義に違い、古来の用例に背けることを認めたる上の論なり。わが考古学者問には、余輩の現に全然賛成し、あるいほさらに余輩の所論の上に出でんとするもの少からざるも、しかもなお旧説を墨守して、わがいわゆる石槨が漢字の「壙」に相当することを認めながらも、なおわが国にては古来これを槨と称したるものなりとなし、はては天智天皇の詔にいわゆる「石槨」をまでもこれすな(263)わち「壙」なりとなさんとするものまた少からざがゆえに、以下、項を分ちて、つまぴらかにこれを論述するところあらんとす。
 2 壙の意義、用例およぴその種類
 壙は墓穴なり、屍を地中に埋めんとするには必ずまず穴を穿ちてこれを容るるの準備作業なかるべからず。この穴すなわち壙なり。されば壙はいかなる墓にも必ず伴えるものなりとす。しかれども、壙必ずしも永く保存さるるものにあらず。屍を納めたる棺槨を壙中に置き、土をもってその空所を充填すれば、これと同時にその壙は失わるるなり。されど、もしその地の土質堅固にして、特別になんらの設備を加うることなく、または土をもって空所を充填せずとも崩壊の虞れなくして、よくその原形を保つを得るか、あるいは石もしくは磚の類をもってその周囲を固め、これが崩壊を防ぐの設備を施したる場合には、壙は永く存在すべし。この場合においてわが考古学者間には、その壙の横穴式なる時は、これを石槨(石をもって固めたるもの)、もしくは横穴(その設備なきもの)と称す。磚をもってしたるものは本邦にその例少ければ、いまだ多く問題に上らざれども、類推するに必ず磚槨と称せんとするなるべし。しかして竪穴式の時はあるいは壙穴と称し、あるいはこれをも石槨と称し、いまだその用語に一定せるものなきがごとし。その壙穴と称するは可なり。その他の称呼は古書の決して言わざるところなり。
 わが邦にありては、古来壙を称して「あな」「はかあな」「つかあな」「つかや」「いわき」などと呼び、「穴」「坑」「壙」「墓穴」「塚穴」「塚屋」「石城」等の文字を用う。これを至尊の御上について宝穴・宝壙等の文字を用うることは、近く先帝ならびに照憲皇太后両陛下の御大喪に関して、しばしば新聞雑誌等の記事に散見し、世人の知悉せるところなり。後世その墳墓たることを忘るるに及びて、あるいはこれを穴居の蹟とし、岩屋・岩室・やぐら・人穴などと呼ぶに至れるも、こは本論のあずかるところにあらざるなり。
(264) そのこれを「あな」と称し、もしくはこれを塚穴と号するのことは、あまりに普通なれば例示に及ばず。『今昔物語』に、美濃国の方へ行ける下衆男《げすおとこ》の、近江の篠原なる墓穴に雨やどりして、鬼にあえる話あり。肥後の書生が鬼に追われて同じく墓穴に隠れたる話あり。ともに横穴式墓壙なるべし。『宇治拾遺物語』には、塚屋の中に狐数多の子を育つるの話あり、『続世継』忠胤僧都の歌に、
  まことにや君が塚屋を毀つなる世には勝れるこゝめありけり
といえる塚屋また同じく墓場なるべし。『今昔物語』に、西の京の鷹飼の夢に、嵯峨野の大なる墓屋の中に年来住めりと見えたる話の墓屋また同じきか。『万葉集』に
  事しあらば小初瀬《おはつせ》山の石城《いわき》にも篭らばともにな思ひそ我が夫《せ》
とある石城また、墳墓の石室を謂えるなるべし。
 シナおよびシナの文化をそのままに承けたる朝鮮において、古往近来これを壙と称することは言うまでもなし。あるいは時にこれを石室と称す。唐の「喪葬令」に「諸葬には石を以て棺・※[木+醇の旁]及び石室を為るを得ず。」とあり。宋またこれに倣う。朝鮮また時にこの称呼あり。『増補東国文献備考』に、
  睿宗戊子十一月世祖大王を光陵に葬る。初め世祖遺命して石室を用ふるなからしむ。云云。
  世宗二年元敬王后陵寝の石室の蓋石広く厚くして、輸び難し。云云。
 また、朝鮮李朝所依の礼書たる『五礼儀』にも、
  葬を治する、塋域を開き、後土を祀り、壙を穿ち、南面を開いて羨道となし、石室を作り蓋石を加ふ。云云。
 あるいはまた単に穴と称す。『家礼』作灰隔の条に、
  楊復曰く、先生寥子晦に答へて曰く、問ふ所の葬法従来講究するに、木槨瀝青亦益なきに似たり。但し穴の底に(265)於ては先づ炭屑を舗き之を築く、厚さ一寸許。云云。
 『詩経』に、「臨2其穴1惴々其慄。」とある穴また同じ。
 朝鮮李朝の王陵については、しばしば神穴の語用いらる。
 その磚をもって造れるもの、これを磚壙と称す。『稽神録』に、
  呉の興沈彬少にして道を好む。恒に其の子を誡めて云ふ、吾が居る所の堂中は、正に是れ吉地なり。死すれば則に之を葬れと。卒するに及びて其の言の如く地を掘り、自然の磚壙を得たり。製造甚だ精にして、磚土皆呉興の字あり。
と見ゆ。その石をもって造れるものに石壙の称あり。『増補東国文献備考』所載英祖の教書に、
  灰久くして石と成る。即ち一石壙なり。云云。
の語あり。シナにありても石をもってするの実例少からず。唐の制、石をもって石室を作るを得ずとあるもの、またもって以前石室ありし証とすべし。されどすでに石をもって作るを得ずと規定せし以上は、爾後の墓壙は磚を用いて作りしものか。しかもなお、宋の世往々石を用うるものあり。『朱子語類』に、
  先生長子を葬る、其の壙石を用ふ。上蓋厚一寸許、六段之を横湊す。両旁及び底五寸許。
と。司馬氏『書儀』にも石槨を記し、温公みずからこれを解して曰く、
  喪葬令に、葬るに石を以て棺※[木+醇の旁]及び石室を為すを得ずとは、其の侈靡桓司馬の如きものを謂ふ。此れはたゞ石を以て土を禦ぐのみ。違令にあらざるなり。
と。石をもって土の崩壊を防ぐの設備を施したるものこれ石室にあらずとは、すこぶる牽強付会に似たれども、温公当時の壙、ただ簡単に石を積み、その意、真に土壌を禦ぐのみにて、けだし法の精神を取り、形骸に囚われざること(266)を謂えるならん。しかもこれまた石壙の一とすべし。また、『西京雑記』に、
  楊貴字は王孫、京兆の人なり。生時厚く自ら奉養し、死して卒に終南山に裸葬す。其の子孫土を掘り、石を鑿ち、深きこと七尺にして屍を下し、上復之を蓋ふに石を以てす。
とあるもの、またもって石壙というべくや。
 あるいはこれを玄宮と称す。『五礼儀』に、
  玄宮門外に至りて大棺を安じ、輪※[擧の手を車]を以て羨道に捧入し、玄宮内の榻上に安ず。云云。
 あるいは塚蔵の語あり。『西京雑記』に、
  広川王去疾、好んで亡頼の少年を衆め遊猟畢戈度なし、国内の塚蔵一々皆発掘す。
と。けだしまた壙なるべし。『詩経』の箋註に、穴を解して、
  穴とは塚壙中を謂ふなり。
とある塚壙また同じ。
 かく壙には種々の種類と異称とありといえども、いまだもってこれを槨と称する者あることなし。わが邦にてこれを槨と称する、それ何人に始まれるかを知らざれども、管見によれば、あるいは蒲生氏の『山陵志』その説の火元なんらか。『五畿内志』のごときは、あるいは岩窟と称し、墓窟と号するも、いまだこれを石槨と言わず、『山陵志』また玄室の文字を用いて、必ずしもただちにこれを石槨と称せずといえども、その「古者棺槨」の制を論じて、「檀弓」の
  棺(ハ)周(リ)v於v衣、槨(ハ)周(リ)v於v棺、土(ハ)周(ル)v於v※[木+醇の旁]。
の語を引き、さらに『西京雑記』の、
(267)  魏の襄王の冢皆文石を以て※[木+醇の旁]となす。高さ八尺許、広狭四十人を容る。手を以て※[木+醇の旁]を※[手偏+門]《あく》れば、滑液新なるが如し。
  幽王の冢甚だ高壮、羨門既に開く、皆是れ石堊。
の二節を引用し、考案をこれに付して曰く、
  併せて之を考ふるに、今の陵内の玄室亦之を槨と謂ふ歟。
と。かくてまた天智天皇が、石槨の役を廃すべきことの詔を解し、
  按ずるに石槨とは玄室を陵内に穿治するを謂ふ。
となせり。これよりのち古墳墓をいうもの、往々にして横穴式墓壙を称して石槨という。上条良材の『陵墓考』のごときこれなり。しかれども、心ある当路の学者が依然として壙の称を用い、これを槨と言わざりしことは、代々の至尊、将軍、侯伯の葬儀の記事において常にこれを見るべく、民間にありてもさきに引ける『以文会筆記』の推古天皇陵記事には、なお「壙」の字を用いたるなり。
 蒲生氏が『西京雑記』中の襄王と幽王との冢の例を引きこれを併考したる結果、壙を槨なりと解せしは確かにその引例と見解とを誤れるなり。『西京雑記』の冢墓の記事は、すでにその著者の明言せるごとく、広川王去疾が、ことごとく国内の冢蔵を発掘し、その数|勝《あ》げて算うべからざるが中に、奇異なるもの百数ありて、さらにその中より、ここに猛なるもの特に著者のために十ばかりを説き、著者さらにその中よりしてただ六件のみを録上するものなれば、これ皆珍中の珍、奇中の奇なるものなり。珍中の珍、奇中の奇なるもの、もって一般を律するの例となすべからざるは、識者を俟たずして明かなるところ、しかして蒲生氏この明かなる過誤に陥る、惜しむべきなり。しかもその珍奇なる二個の例も、いまだもってこれを壙とするの証左たるべきにあらず。襄王の槨文石をもってこれを作り、高さ八尺、四十人を容るべしといえば一見いかにも宏大にして、とうてい棺の外箱として解し難きに似たれども、試みにいわゆ(268)る四十人を容るるの地を計るに、一人縦一尺五寸、横二尺を要すべしとして、縦七尺五寸、横一丈六尺の槨中には、優に四十人を容るるを得べし。長さ一丈六月、幅七尺五寸、高さ八尺の槨、大はすなわち大なれども、王者の葬儀において、必ずしもあり得べからざるにあらず。珍中の珍、奇中の奇として第一に指を屈せられたる襄王の槨が、かくのごときの容積のものなりとて、あえて必ずしもこれを壙なりと解するを要せざるなり。これよりも『後漢書』に見ゆる明帝寿蔵の石槨の、広さ一丈二尺、長さ二丈五尺というもの、遥かに大なるべし。しかも槨はとうてい槨なり、壙にあらざるなり。『魏志』の沃沮の俗を記する、葬に木槨長さ十余丈のものを作るという。しかもこれまた槨なり、壙にあらざるなり。また、蒲生氏の引ける幽王の冢のごときは、羨門すでに開けて単に壙内の石堊を見るというのみ。蒲生氏がこれを槨なりとするの証に用いられたるの意ついに解すべからざるなり。もしそれ「檀弓」の語に至りては、後世王者の宏壮なる石壙もしくは磚壙の設備を謂うにあらず。単に土壙内に槨を安んじ、土をもってその壙の空所を充填するを謂えるのみ。故に曰く、「葬は蔵なり、蔵は人の見るを得ざるを欲するなり」と。もってその趣意とするところを察すべく、槨はどこまでも槨にして、壙にあらず。壙・槨・棺の相対して用いられたるの例は枚挙にいとまあらざるほどの多数なるにかかわらず、蒲生氏がこれを捨てて顧みざりしは、むしろ奇と謂うべきなり。槨と棺とにつきては、改めて後に論ずべきも、試みにその三者相対せる適切なる例証の二、三を左に摘記せん。『家礼』治棺の条に、
  司馬温公曰く、棺は厚からん事を欲す。然れども太《はなは》だ厚ければ重くして以て遠きに致し難し。又高大に地を占むるを必とせず。壙中をして寛ならしむれば、摧毀を致し易し。宜しく深く之を戒むべし。※[木+醇の旁]は聖人の制する所、古より之を用ふと雖、然れども板木歳久しうして終に腐爛に帰し、徒らに壙中をして寛大にして牢固なる能はざらしむ。之を用ひざるの愈《まさ》れりと為すに如かざるなり。
とあり。これは※[木+醇の旁]を無用とするの論なれども、しかも棺・槨・壙の三者、古来常に相伴えるを見るべし。また同書逐(269)穿鑿の条に、
  人家の墓、壙・槨・棺は切に太だ大なるべからず。まさに壙をして僅に能く槨を容れしめ、槨をして僅に能く棺を容れしむれば乃ち善し。
とも見ゆ。わが嵯峨天皇の遺詔に、
  葬は蔵なり、人の見るを得ざるを欲するなり。而して重ぬるに棺槨を以てし、繞らすに松炭を以てし、枯※[月+昔]を千載に期し、久容を一壙に留むるは已に帰真の現に乖き、甚だ謂なきなり。
と仰せられ給いしことは、さきに高橋君との論弁のさいにも引用せしところにして、わが邦の用例また同一なるを見るべし。「天保諒闇記」の光格天皇御棺槨の図を拝するに、宝壙中に御石槨を安んじ、御石槨中に御木槨を安んじ、御木槨中に御棺を安んず。しかしてその御石槨は、あらかじめ壙中に設備せるもの。御棺はこれを御木槨中に納め奉り、これを舁きて、陵所に送り奉るものなり。明治・大正の制また実にしかりと承る。これまたもって棺・槨・壙の性質を明かにすべきもの。墓穴を壙と称することは、三千年来今日に至りて毫も変ずるところなきなり。
 しかるに、近時のわが学者間の用例は、この明かなる字義と用法とに違い、横穴式石室を目して石槨となし、あえて怪しまんともせず。時にあるいは古書の石槨というものをもって、強いてこれに擬せんとす。危うからずとせず。石槨とは石をもって造れる槨なり。壙中に安んずべきものなり。試みにその著しき例を示さんか、『家礼』作灰隔の条に曰く、
  穴(壙なり)底に於ては先づ炭屑を鋪き、之を築く厚さ一寸許、其の上には即ち沙灰を鋪き、四傍には即ち炭屑を用ふ、厚さ一寸許。下は先に鋪く所の者と相接して之を築く。既に平にして然して後に石槨を其の上に安ず。
と。壙中に炭屑を敷き、その上に石槨を安んず。いかんぞ石槨これすなわち壙なりと言わんや。
(270) さらにこれを言わんに、墓壙必ずしも横穴式のみならず。また必ずしも石室のみに限らざるなり。すでに言えるごとく、わが最古の制は竪穴式にして、その制今日に及び、その壙たる、また常に石をもって畳むを必とせず。むしろ土壙中に棺槨を安んじ、土をもってその空所を充填するがために、土壙はその作業とともに消滅するをもって普通とすといえども、しかもこれがためにその中なる棺槨が、その性質を変じて壙となるべきにあらず。棺槨は依然として棺槨たるべきなり。もしそれ横穴式のものに至りては、その地の地層、土質のいかんにより、石を用うることをなさず、単に穿ちたるままに止むる場合はなはだ多し。この類のものの中には、かつて研究者によりて古人穴居の遺蹟なりと誤認せられ、ために「古墳」なる語に対して「横穴」の称をもって呼ばれたるもの多く、今なお一般にこの称を襲用すといえども、その不可なることはすでに第二節「古墳墓とほ何ぞや」中において述べたるがごとくにして、これまたいわゆる石槨なる壙穴と全然同一性質のものなりと謂わざるべからざるなり。この種の壙につきては、新たに発見調査せるものもあれば、後に至りてさらにこれを詳論すべし。
 ともかくも壙には数多の種類あり。しかるにその中のある一種なる横穴式石室のみを石槨と名づけしは、これをもってわが古墳構造上の本体なりと解せしがためなるべく、したがって新たに竪穴式石室の存在に接するに及びては、これに対して同じく石槨の称を用うるを憚り、故坪井理学博士は、これをもっていわゆる石槨の変態なりとし、特に壙穴の称をもって呼び給いしこと、前すでに述べたるがごとし。されども、横穴式のものとても同じくこれ壙穴なる以上、その壙穴中のある種類のもののみに壙穴の称をもっぱらにせしむべきにあらず。ことにその他のものに対して、明かに別物の名称なる石槨の称を用い、あるいは意義きわめて漠然たる横穴の称を用うるなど、きわめて不条理なる、かつ混雑しやすき名称は、新材料多く提供せられ、研究大いに進みたる今日においては、必ずこれを改めざるべからず。
 あるいば竪穴式壙穴を称して石棺ということあり。近時新聞紙の記事等に、しばしば散見す。これもとより素人の(271)観察なれば、学説の攻究上、あえて歯牙にかくるに足らざれども、かくのごときの誤解、またその由来古きを知らざるべからず。『山城名勝志』に、洛北高野村なる小野毛人の墳のことを記して、
  高野川の北に崇道天皇の社あり。其の山上一町許。人之を踏めば則ち響を成すの地あり。土人之を怪む年|旧《ひさ》し。慶長十八年癸丑十二月、土人高村政重之を掘り、石棺を得たり、内に金牌一枚あり、云云。
となす。ここに石棺とは明かに現時存する竪穴壙なり。しかるにこの壙を延宝元年、墓誌を再び理むるさいに作れる鋼函の蓋の銘には、石槨となす。しかして狩谷※[木+夜]斎の『古京遺文』またこれに倣えり。俗間においてはあるいはこれを「石のからと」と称す。石の辛櫃の義なり。右高野村所有文書「小野毛人之御位牌掘出し候時之年号之事」と題するものに、
  彦太夫・又五郎と申す二人天皇山に柴かりに行、石のからとを見付、掘出し、長さ八尺五寸、横幅三尺五寸、深さ三尺五寸の石のからとの内に、かねの毛人の位牌御座候を取り出し、云云。
石の辛櫃とは、次項に説くべきがごとく、今のいわゆる石棺すなわち余のいわゆる石槨の称にして、もとより壙のことにあらざるも、俚人菽麦を弁ぜず、かく伝唱せしものなるべし。記録・伝聞に基づき、古墳墓のことを調査せんとするもの、注意せざるべからず。
 要するに、物質は石にもあれ、磚にもあれ、形式は竪穴にもあれ、横穴にもあれ、墓穴の周囲の土の崩壊を防がんがために設備したるものは、すべてこれ壙なりと解すべし。また、土窟にもあれ岩窟にもあれ、単にこれを穿ちたるままにて、なんら特別の設備を加えずとも崩壊の虞れなきいわゆる横穴の類のものが、当然壙の一種なるべきは言うまでもなし(いわゆる横穴のことほなお後節において論ずべし)。
 3 槨の意義、用例およびその種類
(272) 壙に関する前項の所論を読み給いし読者諸賢は、これを槨と称することの不可なる理由を十分理解し給えるなるべし。したがって、槨の何物なるかは、おのずから明かにして、今にしてさらにこれを説くを要せざるに似たれども、しかもなおまた論ずべきもの少からず。
 『釈名』に曰く「槨は廓なり。廓落表に取るの意なり」と。方※[聲の耳が心]曰く、「槨の棺に於ける、城の郭あるが如きなり」と。槨の意義明かなりと謂うべし。「檀弓」に曰く、「槨は棺を周る」と。槨の棺における、その外箱として、これを保護するものにして、その性質上より、明かに壙と別あるを観るべし。物質の木たり、石たり、構造の組合せたり、彫り抜きたる、あえて問うところにあらざるなり。
 これをシナについて見る。葬の青ば蔵なり、屍を蔵むるなり。「葬」の字は草上屍を置きさらに被うに草をもってするなり。これけだし原始的葬儀の実際なるべし。あるいは「※[葬/土]」の字を用う。俗字なりと称すといえども、意また通ず。その後ようやく棺槨を用うる制起る。伝えて黄帝これを始むという。東夷の制、棺あり槨なきもの多し。漢史の特にここに注目して、これを言うこと多きは、そのみずから中国となすものに比して、葬儀の整わざるを指摘するの意あるか。『魏志』東夷の葬儀に関する記事を見るに、
 扶余 其の死、夏月皆氷を用ふ。人を殺して葬に殉ふ。多きものは百数、葬を厚くし、棺あり槨なし。
 高句麗 男女既に嫁娶すれば、便ち稍送終の衣を作る。葬を厚くし、金銀財幣死を送るに尽く。石を積みて封となし、松柏を列ね種う。(棺槨の記事なし)
 東沃沮 其の葬、大なる木槨を作る、長さ十余丈。一頭を開きて戸と作し、新に死するものは皆仮りに之を埋め、才《わずか》に形を覆はしめ、皮肉尽くれば乃ち骨を取りて槨中に置く。挙家皆一槨を共にす。木を刻する生ける形の如く、死に随ふもの数と為す。又瓦※[金+歴]あり、米を其の中に置き編して之を槨の戸の辺に懸く。(273)韓、其の葬、」柩あり、槨なし、牛馬に乗るを知らず。牛馬死を送るに尽く。
 倭人 其の死、棺あり槨なし、土を封じて塚を作る。始め死す、喪を停むる十余日、当時肉を食はず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飲酒す。已に葬れば家を挙げて水中に詣り、※[さんずい+操の旁]す。卑弥乎死す、大いに冢を作る、径百余歩、葬に殉ふもの奴婢百余人。
などあり。ここに倭人とは太古わが九州地方に繁延せし種族にして、おのずからわがいわゆる大和民族と別なり。こは別に論ずるの機あるべし。沃沮の俗、一大木槨を作り、挙家これを共にし、骨をその中に収むというもの、槨の一種として最も注目すべきものありとす。
 槨の字たる木に従う。木をもって作るを本体とす。「檀弓」に栢槨あり。『喪大記』に、君は松槨、大夫は柏槨、士は雑木槨と見ゆ。あるいは葦槨あり。『越絶書』に、禹を会稽に葬る。葦※[木+醇の旁]桐棺とあるこれなり。わが嵯峨天皇薄葬を命じ給い、棺を覆うに席をもってし、黒葛をもって約し、これを壙中に容れしむ。かくのごときのもの、あるいは席槨と申し奉るべくや。呉王闔閭の銅※[木+醇の旁]のごときは、絶えてなくしてわずかにありと伝うるもの。特に攻究するの価値なしとす。
 もしそれわが邦にてはなはだ多く発見せらるる石槨、すなわち普通にいわゆる石棺のごときに至りては、ほとんどわが邦の特有と謂うべく、これをシナ・朝鮮等に求むるに、絶えて得るところなし。シナにありては、魏の大夫の桓※[鬼+隹]ひとり石※[木+醇の旁]を作る。けだし独創とすべきに似たり。「檀弓」に、
  子済曰く、……苦老夫子宋に居り、桓司馬が自ら石※[木+醇の旁]を為《つく》るを見る。三年にして成らず。夫子曰く、是の如きは其れ靡なり。死の速に朽つるの愈れるに如かざるなりと。
とあり。呉澄その「自ら」の語を解して曰く、
(274)  自は猶独のごときなり。天子より庶人に至る皆是れ木槨なり。(桓※[鬼+隹])其の朽腐し易きを慮りて、独り自ら石槨を為すなり。
と。『水経注』にその石槨の状を記して、
  石を画し、鑿して冢となす。今人之を石※[木+醇の旁]と謂ふ者なり。郭二重あり、石作工巧。
という。その謂うところ、構造を明かにする能わずといえども、けだし普通にあらず。
 前項引くところ『西京雑記』の魏の襄王の塚の石※[木+醇の旁]、また奇中の奇、珍中の珍として、無数の冢墓中より選ばれたるもの、もとより普通にあらず。
 『西京雑記』また、縢公東都門において地を掘る三尺、石※[木+醇の旁]を得たるの記事あり。これ一の奇談として採録せるもの、事実の有無すでに疑うべく、またもとより普通にあらず。
 秦始皇の陵高さ五十余丈、周囲五里有余。石※[木+醇の旁]を游館となす。事は『漢書』劉向伝劉向上疏中に見ゆ。顔師古これを解して曰く、
  多く石を累ねて※[木+醇の旁]を壙中に作り、次で離宮別館となすなり。
と。始皇の驕奢にして始めてこれあり。またもとより普通にあらざるは明かなり。
 漢の文帝覇陵に至り、群臣を顧みて曰く、北山の石をもって※[木+醇の旁]となし、紵絮を用いて※[昔+斤]《き》り陳ね、その間に流さば、あに動かすべけんやと。けだし盗のために発かるるを虞るるなり。左右皆善しと曰う。張釈之進んで曰く、その中欲すべきあらしめば、南山を錮すといえどもなお隙あり、その中欲すべきなからしめば、石※[木+醇の旁]なしといえどもまた何ぞ※[戚/心]《うれ》えんやと。文帝善と称す。もって厚葬の風ありし漢の帝王陵、また石※[木+醇の旁]なきを例としたるを見る。
 後漢の明帝、寿陵を作る。石※[木+醇の旁]広さ一丈二尺、長さ二丈五尺と。事は「明帝本紀」にあり。けだし物に見ゆる石槨(275)の最大なるものとす。しかももとより各帝これあるにあらざるなり。
 魏の文帝奢侈を戒め、薄葬を命ず。あらかじめ寿陵を造り、制して曰く、
  寿陵山に因りて体をなし、封樹すること無かれ。寝殿を立て、園邑を造り、神道を通ずる無かれ。夫れ葬は蔵なり、人の見るを得ざるを欲するなり。云云。棺※[木+醇の旁]は以て骨を朽すに足り、衣衾は以て肉を朽すに足るのみ。故に吾れ此の丘墟不食の地を営み、易代の後をして、其の処を知らざらしめんと欲す。葦炭を施《お》くこと無かれ。金銀銅鉄を蔵むる事なかれ、一に瓦器を以て古への塗車芻霊の義に合へよ。棺はたゞ際会に漆して三たび過せよ。飯含珠玉を以てすること無かれ、珠襦玉匣を施く事無かれ。云云。
これより後、葬儀すこぶる簡易なり。もとより石槨あるべからず。
 唐の制、石をもって棺・槨・石室を作るを得ざることを規定明示し、宋またこれに従うこと前すでに言えり。しかもなお、時に事実上、石をもって槨を作ることなきにはあらざりき。『家礼』作灰隔の条の注に、
  楊氏復曰く、云云。但、法中石槨を用ふるを許さず。故に此に敢て全石を用ひず、たゞ数片を以て合成す。庶幾くは法の意に戻らざらんか。
と。全石を用いざるがゆえに石槨の禁令に戻らずとは、これまたすこぶる牽強付会の感あれども、けだし曩記司馬氏『書儀』の石壙に関する弁解と同じく、法の精神を汲み、質素なる組合せ石槨を作りしものならんか。
 あるいは木槨の内に充填するに砂と石灰との混和物をもってし、ために年を経るに従い、おのずから一石槨の用をなすことあり。同書同条に、
  問ふ、槨外灰と沙土とを雑へたるものを用ふべきか否か。朱子曰く、たゞ純《もつば》ら炭末を用ひて之を槨外に置き、槨内は沙を和したる石灰を以て実たせよ。或は曰く、純ら灰を用ふべきか、否か。曰く、純灰恐らくは実ならじ。須(276)らく雑ふるに篩過の細沙を以てすべし。之を久うして灰沙相乳入し、其の堅き事石槨の如し。
とあり。わが邦においても、あるいは時に炭末を敷き、あるいは漆喰を加うるものある、またこの類のものか。朝鮮また石槨なきを普通とす。近年しばしば斯道学者によりて報告を得る高句麗王の墳のごとき、その石壙(すなわち報告にいわゆる石槨)のいかにも壮麗なるに似ず、中に石槨と認むべきものなしという。けだし木製棺槨を安んじたりしものなるべし。新羅・百済の墳また石槨なきを常とす。百済蓋鹵王二十一年、挙国の民を発して城郭を築き、また石を郁里河に取り、槨を作りて、父の骨を葬る。その槨の制、今これを知るを得ずといえども、けだし異例なるがゆえに史に特記するものなり。李朝山陵の法、主としてシナに基づくも、なおいわゆる高麗王陵の装飾設備に類するものあり。『五礼儀』に、
  壙を穿ち南面を開いて羨道となし、石室を作り、蓋石を加ふ。云云。蓋石内天の形を画き、四房の石青龍・白虎・玄武・朱雀を画く。鎖を作り門扉を閉ぢ、石門の倚石外に便房を作る。云云。
と見ゆ。しかしてまた石槨を備えずという。顕宗十四年、寧陵改修に際し、議あり、当時左議政、宋時烈の疏に曰く、
  夫れ古への帝王皆石槨を用ふ。石槨の地気を隔截する、必ず石灰に倍す。其の福禄の盛後世比すべきにあらず。
と。こは漢土のことを言えるなるべきも、その事実にあらざることは、前すでに述ぶるがごとし。宋時烈けだし誤解せるなり。しかもこの言によりて、李朝の王陵また石槨を用いざりしを知るべし。
 近時しばしば朝鮮にて発掘せられたる高麗朝墳墓の小石函(普通に石棺と称するもの)の、往々にして内地に致さるるあり。板石《スレート》あるいは角閃片岩の類の薄片を組み合せ、四神像あるいは十二神像を刻し、多く銘板を伴う。これを槨というべきか、棺というべきか、あるいは壙の内部に施して、その崩壊を防ぐの設備すなわち一小石壙なるべきかについては議論あらん。余輩いまだその発掘の状に関して詳報を聞くを得ざれども、その内部には荼毘したる遺骨あり(277)という。荼毘したる遺骨の容器、なおこれを棺槨という得べくぱ、これまた槨というべきものか。ともかくもこれは高麗朝に限りたる一変態と見るべきものなり。
 論じてここに至れば、本邦古墳墓内よりはなはだ多く発見せらるる俗称石の辛櫃《からと》、すなわちいわゆる石棺が、果して石棺なるべきか、はた石槨と称すべきものなりやば、ほぼ明瞭なるべしと信ず。されど、これ実に本邦の特有にして、わが民族の発明とも称すべきもの。その名称につきても古来おのずから用例のあることなれば、しかく軽々に論断し難きものあるを思う。さらに項を分ち、次にこれを論究するところあるべし。
 
      九 棺・槨・壙の弁(下)
 
 1 棺の意義、用例およびその種類、付石槨と石棺との弁
 棺は屍を容るるの器なり。その物質のいかんに関せず、直接屍体を容るるもの、これを棺と称すべし。『説文』に、「棺は関なり、尸を掩ふ所以なり」とあり。『釈名』には、「棺は関なり、関閉なり」とあり。義もって見るべし。その字、木に従う。木材をもって造るを本体とす。桐棺あり、柏棺あり、梓・※[穀の禾が木・樟・松・楸・楡・※[木+卑]等の棺あり、雑木棺あり。あるいは革をもって作ることあり。その数また一なるを必とせず。「檀弓」に、
  天子の棺四重、水※[兄の口を凹]革棺之を被ふ、其の厚さ三寸、※[木+也]棺一、梓棺二、皆周る。
とあり。『西京雑記』には、魏の襄王の冢革棺あり、厚さ数寸、累積十余重、力よく閃く能わずして止むとあり。しかももとより普通にあらず。
 「檀弓」またいう、「有虞氏瓦棺」と。『西京雑記』には、「袁※[央/皿]の冢瓦を以て棺槨とす」と。シナ古代時にまた瓦棺ありしを見る。しかもこれまた普通にあらず。古書あるいはまた石棺あり、銅棺あり、玉棺ありしことを伝う。またも(278)とより普通にあらざるなり。
 唐宋の制、石をもって棺を作るを得ざること既記のごとし。しかして事実上石棺の行われたることを聞かざるなり。
 朝鮮またしかり。
 わが国においても、もとより造棺の材が木なるべきは論なし。『日本紀』に、素戔鳴尊樹種を植えしめ給うや、揚言して曰く、「杉及び※[木+豫]樟《くす》は浮宝(船)となすべし、檜は瑞宮《みずのみあらか》を為るの材となすべし、※[木+皮]《まき》は顯見蒼生《うつくしきあおひとぐさ》の奥津棄戸《おきつすたへ》に将臥之具《もちふさんそなえ》になすべし」と。「奥津棄戸将臥之具」とは、解して葬具となす。まさにしかるべし。わが古俗、上は帝王より下庶民に至るまで、死後ただちに葬ることをなさず、あるいは数日、あるいは数十日、あるいは数月数年に亘り、殯斂して後、墓内に送るを例とせしもののごとし。しかしてこれ実に、偉大なる墳墓を築造し、石室・石槨(いわゆる石棺)等を準備せんがためには、必要なる時日なりしなるべし。大化の制、庶民死する時は地に収め埋め、一日も停むるを得ず、王以下庶民に至るまで、殯を営むを得ずと規定す。こは当時、唐土薄葬の影響により、改新の政において極端にこれを戒め給いしものにして、この禁令かえってその以前の風習のしからざりしことを反証するものと謂うべし。すでに殯すという。腐敗しやすき屍体をそのままに床上に安置すべきにあらず。太古天稚彦の死するや、その妻子天より降り来り、柩を将て天に上り、喪屋を作りて殯哭す。『古事記』に、これを日|八日《やか》、夜|八夜《やよ》という。「八《や》」とは多数の義なり。また『魏志』倭人伝には「停喪十余日」とあり。こは必ずしもただちにもってわが大和民族のこととはなすべからざるも、この点においては彼此相似たり。しかしてこれ実に古代人士が、太古の葬儀の法として信ぜしところなりとす。「曲礼」に曰く、牀にあるを尸といい、棺にあるを柩というと。殯斂に際して必ず屍体を棺に納めざるべからざるは、言を俟たざるなり。しかして後これを壙内に送り、あらかじめ設備せられたる石の辛櫃すなわち石槨中に安んず。これ高貴豪族葬儀の通法たりしものなるべし。
(279) 人あるいは謂う。倭人の俗、棺あり槨なし。屍体はただちにいわゆる石棺、すなわち石の辛櫃中に置かれたるものにして、これすなわち棺なるの証たるべしと。しかれども、すでに言えるごとく、『魏志』にいわゆる倭人とは太古九州地方に任せし種族にして、これただちに大和民族なりとは謂うべからず。また屍を木棺に容るることなくして、いわゆる石の辛櫃を準備し、墳丘を築造する長き期間を、いかにして屍体を保存せしと想像せんとするか。わが大和民族の俗、葬には棺と槨とあり、倭人の槨なきと同じからず。推古天皇朝、小野妹子、隋に使し、隋使裴世清の一行これを送りて我に来る。隋亡びて唐起り、彼我の交通ますます頻繁に、隋唐人すこぶるわが大和民族に関する智識を得たり。しかしてその『北史』および『隋書』には、依然我を認めて「倭」となすにかかわらず、『魏志』以下累代の書の相承けて「有v棺無v※[木+醇の旁]」の語をなせるを訂正し、記して曰く、
  死者斂るに棺※[木+醇の旁]を以てす。親賓屍に就いて歌舞し、妻子兄弟白布を以て服を制す。貴人三年殯し、庶人日を卜して※[病垂/夾/土]す。葬に及びて屍を船上に置き、陸地に之を牽き、或は小輿を以てす。
と。これ必ずしも中ごろ俗を改めたりとのみ見るべからず。ここに屍を船上に置くとは、屍を船に納むるの意か、あるいは柩を船に載するの意か、いまだこれをつまびらかにするを得ざれども、今も納棺のことを「船入り」と称することあり。また仁徳天皇陪塚より、独木舟形の木材を発掘したることあれば、往古あるいは船をもって棺に代え、もしくは船形の棺を作り、引いては棺を「ふね」と称したるか。もしくは、水槽を「みずぶね」と称するごとく、かかる形のものを一般に「ふね」と呼びしものか。
 ともかくも屍体はその殯斂の間にも、また墓中に移送するさいにも、必ずなんらかの器に納めざるべからず。その器すなわち棺なり。しからば葬儀に際して運搬する能わざる、いわゆる石棺すなわち石の辛櫃は、これ棺の容器にして、すなわち槨なるべく、その中さらに棺ありしことを想像せざるべからざるなり。ただ腐朽して後世に保存されざ(280)るのみ。
 論者あるいはいう。果してその中に木棺ありしならんには、たとい木材は腐朽して存せずとも、必ず釘を発見せざるべからざるにあらずやと。しかり、時として木片および釘を発見することなきにあらず。しかもこは稀有にして、多くの場合これなきを常とするは、これ鉄釘を使用せざりし結果ならんのみ。木板を縫合する、木釘にても可なり、竹釘にても可なり。シナの制、棺を束ぬるに釘を用いず。「檀弓」に棺を束ぬる縦二行、横三行と定む。疏に、「棺束とは古へ棺木に釘なきが故に、皮を用て之を束合す」と。木棺必ずしも鉄釘を要せざるなり。
 論者あるいはいう。辛櫃形をなせる石棺は、あるいはその中に木棺を納めたりきと想像するを得ぺけん。しかれども、白瓜あるいは円筒を縦断したる形のものに至りては、とうてい木棺を納むるに適せざるにあらずやと。しかり、余輩も実にその解決に苦しむ。しかれども、棺は必ずしも方形なるを要せず、いわゆる船形のものも存在すべく、現に台湾土人間に行わるるごとき、組合せ式円筒形のものまたあり得べく、すでに革棺ということあれば、席棺また想像せられ得べし。これらはすべからく多数の類例により、墳墓の形式系統を調査し、しかして後始めて断をなすべきなり。
 論者あるいはさらにいう。白瓜形のもの、円筒形のもの、またあるいはかく解することを得ん。されど中には内部にただちに屍体を置くべく、石枕の作り出しとなれるものの、稀に存するあるをいかんと。このことについては、余輩今なおはなはだ惑う。しかれども、かつて高橋君に対して述べたるがごとく、かくのごときの墳丘を起し、かくのごときの設備をなすの間、腐放しやすき屍体をいかにして保存し、いかにして墓所に運搬せしかを一考しなば、必ずそれがある容器に納められたりしことを認めざるべからざるにあらずや。人あるいは言わん、そはあらかじめ石作部《いしつくりべ》の準備せる石棺を買い来りてこれに納め、墳丘・石室等の準備成りて後、これを墓地に運搬するまた可ならずやと。(281)しかれども、これ事実不可能のことなり。組合わせ石棺のごときはもとよりとうてい運搬すべきにあらず。また大和南葛城郡|樋《いぶり》野の石棺のごとき、幅三尺七寸、長さ七尺四寸五分(高さは下部土中に埋まりて不明)、蓋の高さ一尺八寸に及べるほどの刳抜大石棺(?)を、葬送に際していかにしてかの傾斜面の丘陵上に引き上げ、いかにしてかの窮屈なる羨道内に搬入するを得んや。さればとて、いったん棺に蔵め、数月もしくは十数月殯斂して腐敗せる屍体を、わざわざ引き出してさらに境内備え附けの石棺(?)内に移すべしとは、とうてい想像するを得ざるなり。よりて思うに、すでに言えるごとく、古者わが葬法の一に、今も琉球に行わるるごとき骨洗いのことありて、いったん喪屋に殯斂の後、その屍体を出して腐敗物を洗除し、白骨のみをほぼ原形に整えて、墓内に葬りしにはあらざるか。東沃沮の俗、かりに屍体を埋め、皮肉尽きて骨を取りこれを槨中に置くというもの、参考とすべし。すでに西北、沃沮の往時にかの風あり、西南、琉球の現時にこの俗あり。その中間に位するわが古代また、ある一部にこの法の行われたりけんことを想像せんは、全然不可能にあらじ。「大宝令」には墳墓を営むを得るものの資格を制限し、しかもその資格あるものも、「大蔵せんと欲するものは聴《ゆる》せ」とあり。古記にこれを解して曰く、
  大蔵とは全く骨を以て除散するを謂ふなり。若し骨を以て墓に置かんとする、亦其の意に任ずるなり。
とあり。学者あるいは大蔵は火蔵の誤写にして、火葬の義ならんという。しかれども、かくては、「骨をもって除散す」となす古記の説、解し難し。例に引き奉るは畏けれども、後年淳和天皇は遺詔して陵を起さず、御骨を粉砕し、大原野の西山の嶺上に散布せしめ給う。これいわゆる大蔵なるべきか。けだし、地下のある局所に葬ることをなさず、広く天地間にこれを蔵するの意なるべし。しかしてかくのごときは必ずしも淳和天皇の御創意にはあらざるべく、従来民間に行われたるところを、天皇万乗の御身をもって行わしめ給いしならんのみ。仁明天皇承和九年十月、左右京職および東西悲田院に勅して、島田および鴨河原等の髑髏を焼かしむ。すべて五千五百余頭。これ平安京市民が屍を(282)葬らずして、その骨を除散せしものなるべく、いわゆる大蔵たるべきか。淳和天皇の御場合は御遺骸を荼毘に付し奉れるものなれども、後者の場合にありてはしからざりき。『続日本紀』によるに、本邦火葬の始めは文武天皇四年三月、道昭和尚の葬を始めとす。しからば、翌年頒布の「大宝令」に火葬の規定あるべくもあらず。
 論者あるいはいう、賦役令および軍防令に屍を焼くのことあり。しからば『続日本紀』が道昭をもって、本邦火葬の始めとなすは誤りなるべきかと。他の論者いう。現存の令文は養老の修正を経たるものなれば、火葬のことある怪しむに足らず。しからば大蔵また火蔵の誤字と見るも可ならんと。しかれども、大蔵につきては古記の註解あり。古記は古令の註なれば、大蔵の文養老の修正なるべからず。しからば、賦役令、軍防令の屍を焼くのことは、しばらく養老改修の文なりとするも、大蔵は大宝の古文なり。当時火葬いまだ多く行われずとすれば、この文は火葬の義にあらず。いわんや古記の説の註釈のしかく解すべからざるあるをや。
 大蔵の方法、今これをつまびらかにするを得ざれども、思うに屍体のままにこれを風葬にするにはあらずして、なんらかの方法にてこれを保存し、いわゆる皮肉尽くるを待ちてこれを処分せしものなるべきか。しかしてその骨はこれを除散するを常とすといえども、墓を営むを得るの資格あるものは、これを除散せずして墓に置くまた可なりといえるものなるべし。果してしからば、かの石枕の作り付けあるもののごときは、この「骨を墓に置く」の例に当るべきものか。しからばこれ火葬の場合の骨壷と同じく、おのずから別問題なり。ただし、こは試みに言えるのみ、なお他日の攻究を期し、特に識者の高論を俟つ。
 ともかくも俗にいわゆる石の辛櫃はこれ石棺にあらずして石槨と謂うべきものなり。しかしてその物たる、形状種種あれども、いずれもわが邦の発明にして、本邦特有とすべきものとす。その起原つまびらかならざれども、『古事記』に垂仁天皇の御代に石祝部を定むといい、『姓氏録』に、
(283)  石作連、火明命六世孫、建真利根命之後也。垂仁天皇御世、皇后日葉酢媛命の御為に、石棺を作りて之を献す。乃ち姓石作連公を賜ふなり。
とあるによりて、この時に始まれるならんと説くものあり。あるいはまた、この両者を綜合して、『古事記』の石祝部はすなわち石棺部の誤写なりとなすものあり。されど、『姓氏録』の記事は単に石作連の家伝にして、この時までいわゆる石棺なかりしとのことにはあらず。『古事記』の文、またこの時に部曲を定めたりと言うまでにて、ともにもっていわゆる石棺がこの御代に始まれりとの証とはならざるなり。そのこれを石棺ということについては、別途の研究を要す。斉明天皇薄葬を遺命し給い、その御葬儀に際して天智天皇石槨の役を起さず、永代にもって鏡誡とせよと詔し給いき。当時、唐朝の文化盛んに輸入せられ、その制度は多くわが準拠とするところとなる。石槨の役を廃し給いしもの、もとより民を憐み給うの聖慮に出でしを疑わずといえども、しかもまた、おのずから彼の制度の影響を受けしものならずとせず。しからばその指すところの石槨が何物なるべきかは、言わずして明かなるべし。爾後の陵墓なお石室を有するの実証多々あるに反して、檜隈大内陵を始めとして、小野毛人・伊奈大村・小治田安寓侶等の墳いずれもいわゆる石の辛櫃なきを見るも、また天智天皇の石槨と仰せ給いしものが、『山陵志』以後のいわゆる石槨なる石室にはあらずして、いわゆる石棺なる石の辛櫃そのものなるを察すべきにあらずや。果してしからば、『古事記』の石祝部は石棺部の誤りにあらずして、その実、石※[木+醇の旁]部の誤写なるべし。『姓氏録』なる石棺も、あるいはまた石※[木+醇の旁]の誤写なるやも知れずと思えど、試みに四、五の異本について調査したるに、いずれも石棺とのみあれば、必ずしも誤写なりとは断じ難し。けだし『姓氏録』編纂のころは、石槨の役廃せられてよりすでに百四、五十年を経過し、ことに火葬流行して、葬法大いに改まりたれば、このシナに類例なき本邦特有なる葬具に対して、いかなる漢字を用うべきかを忘れ、「イシキ」と称する邦語に当つるに、匆率に「石棺」の文字をもってせしものならんか。されば『姓氏録』に(284)石棺とありたりとて、その実は天智天皇の詔中の石槨と同物にして、これを漢字の意義より謂うも、石槨と称するを至当とすべきなり。されど、もとこれ本邦特有のものなり。墳の場合とは異にして、これに名づくるに必ずしもシナの用例に拘泥せざるべからざるにはあらず。ことに千百年以前すでにこれを石棺と称したる例あり、今時また一般にこれを石棺と呼ぶを常とするにおいては、便宜上これを石棺となさんこと、必ずしも不可ならず。『法然上人行状絵図』にも、
  ひそかに御棺の石の櫃の蓋を開くに、面像活ける如くにして、異香芳馥せり。貴しなど言へば更なり。
とありて、また御棺の文字を用いたり。さればこれを棺ということについては、絶対に反対せんとするにあらねど、かりに『日本紀』の天智天皇の詔なる石槨の方が、字義に相当すとすれば、『日本紀』にある正しきものを取るべきか、『姓氏録』にある誤れるものを取るべきか。この場合において前者は正しくとも今は一般に用いられず、後者は誤りなれども一般に使用せらるるものなることを考慮に加えて、慎重に判断したきものと思う。
 次に『法然上人行状絵図』に石の櫃ということは、これ古くわが邦特有のこの葬具を指せし語なり。『宇治拾遺物語』世尊寺に死人を掘り出す事の条に、
  塚を掘り崩すに、中に石の辛櫃あり。あけて見れば、尼の年廿五六ばかりなる、色うつくしくて唇の色など露かはらで、ゑも言はず美しげなる、寝入たる様にて臥したり。……あさましがりて人々立ちこみて見る程に、乾の方より風吹きければ、いろ/\なる塵になんなりて失せにけり。金の坏《つき》より外の物露とまらず、云云。
とあり。古くは「イシキ」といい、その制廃せられて後には、その形によりて石の辛櫃と呼びしものと見ゆ。今も俗間には、普通に「石のからと」と称し、はては竪穴式壙穴を発見するも、なお時にこの語をなすことあるは、前すでに述べたるがごとし。
(285) いわゆる石棺のほかに、種々の形したる陶棺あり、これまた本邦特有のものとすべし。このことについては、なお便宜後章において述ぶるところあらんとす。
 (本章の起稿についてほ、桑原博士ならびに富岡謙蔵君よりシナのことに関し、また今西学士より朝鮮のことに関し、ともに有益なる材料を貸与せられ、また注意を与えられたり。付記して感謝の意を表す。)
 (付) 二、三の用語の説明
 棺・槨・壙の弁を終りたるにつき、ここに余輩をして、以下使用せんとする二、三の術語について説明するところあらしめよ。
 壙 墓穴をいう。その竪穴式のものを縦壙と称し、横穴式のものを横壙と称すべし。
   縦壙にありては石あるいは磚の類をもってその内部を固め、もって土壌の崩壊を防ぎ、兼ねて壙の形を整うるの設備を施したるものと、この設備なきものとあり。前者は、便宜上これを縦石壙もしくは縦磚壙と称すべし。後者にありては、棺槨をその中に納め四傍の空隙を土あるいは小石をもって充たすがために、この作業と同時に壙は消滅すべきも、本来縦壙たるの性質においては一なり。しかしてこの場合、上部に石蓋を施したると、しからざるものとあり。
 横壙にありては、これまた石あるいは磚の類をもってこれを固めたると、しからざるものとあり。前者は従来普通に槨と称せられたりしものにして、便宜上かりにこれを横石壙もしくは横磚壙と称すべし。後者は従来普通に横穴と称せられたりしものにして、その性質により、岩窟壙あるいは土窟壙と称すべきか。なおこのことは、また便宜後節において論ずべし。
 石棺 巨石を刳り抜き、あるいは数片の板石を組み合せて作れるものにて、俗にいわゆる石の辛櫃なり。こは前節(286)論ずるごとく、天智天皇の詔に石槨とあるに当り、その性質上また槨と称すべきに似たれども、従来普通に石槨の語をもって壙の意義に使用するの習慣ありて、今にわかにこの物を呼ぶに石槨の称をもってせんは、いたずらに読者の誤解を招くの虞れあるゆえに、しばらく本邦普通の用例に従いて、少くも以下本編においてはこれを石棺と称すべし。この物たる、けだし本邦特有のものなれば、必ずしも厳格に漢字の用例を遵守するにも及ばざるべきか。ただし、近時、至尊・高貴御葬送のさいに御石槨と称するものが、これと性質を一にせるものなるは論なし。他日「壙」の語、普通に行われ、もはやいわゆる石棺をもって石槨と改称すとも、あえて誤解を招くの虞れなきに至りて、その用語を改めんはもとより妨げず。
 縦壙の小なるものにして、四壁を板石をもって畳めるものにありては、従来しばしば石棺の名をもって呼ばれたる場合なきにあらず。棺槨と壙との区別に関しては、前項においていささか説明するところありたれども、なお、さらに左のごとく明かにこれが説明を下さんとす。
 「内部の広狭と用材のいかんとを問わず、いやしくも墓穴の崩壊を防ぎ、もしくはその穴の形を整えんがための設備ならば、すべてこれを壙とすべし。石棺槨はその刳り抜きたると、組合せたるとを問わず、これを壙内に安置せんとする場合には、容易に安置し得る形式のものならざるべからず。」
 もとよりそのいずれにも属し難き除外例のものもあるべし。例えば大和檜前なる鬼厠、鬼俎のごとし。しかれども、これはその内部にのみ彫琢を施し、外部は荒石のままにて、あえて人に示すべく設備せられたるものにあらず、当初より土中に埋むべく作られたるものなれば、強いて区別せんにはむしろ壙に属するものとすべきなり。
 陶棺 右に准じて知るべし。なお、後に述ぶるところあらんとす。
 
(287)      一〇 再び合葬と壙穴とについて(正誤)
 
 余輩はさきに合葬と壙穴との関係を論じ、太古縦壙のもっぱら行われ、墓側に往々埴輪の樹てられたりし時代には、合葬のこと普通にあらず、その後、死者あるごとに墓を営むの容易ならざるがため、合葬の風習ようやく起りて、当時移入されたる横壙式墳墓がこれに便なるより、この式のもの多く行わるるに至りしものなるべきことを説きたり。しかして、縦壙式墳墓にありては、「きわめて稀なる例のほか、通例同一壙内に二個以上の屍を納めたりし形跡を見」ざることを述べて、いわゆるきわめて稀なる例として、筑後石神山の石棺のことを引きたりしが、これ余輩の誤解にして、必ずしも常にしかるにはあらざりき。豊後西国東郡田原村なる灰土山の小縦壙には、鏡・剣・玉等の副葬品を有しつつ、二個の屍体相並びて横たわりき。美作国分寺付近畝山にも、同国苫田郡高野村証仙寺にも、二個の白骨が、小縦壙内に相並べるものを発見しき。ことに、東京芝公園内なる丸山の古墳群のごときは、各壙いずれも数個の屍体を蔵したりしなり。この丸山古墳のことは、つとに故坪井博士によりて調査せられ、報告は当時種々の雑誌上に掲げられしが、その壙に関しては、いまだ明確なる説明に接せず、あるいは横壙らしく解せられしがままに、余輩はかつてこれを数屍を蔵する横壙の例として引用せしことすらありき。しかるに、今やさらに親しくその墳丘の形を見、博士が雑誌『古蹟』上に掲げられたりし見取図についてこれを精査するに、少くもその中の大部分は純然たる縦壙にして、中に二個だけは入口らしき石の欠所あれども、その欠所の羨門としてはあまりに狭小なると、その室のあまりに低きと、周壁の石の積み方等より考うるに、依然縦壙と見るを可とすべきものなりき。
 今これらの数例によりて、余輩が縦壙には合葬のこと、はなはだ少かるべく説きたりしことの誤りなりしを知るとともに、この旧式墳墓にも、ある場合には屍体の多数が合葬せらるることの少からざりしを明かにし、この合葬が横(288)壙式の移入によりて、いっそう便利となりしことを知るを得たり。すなわち記して前説の誤れるを正し、余が知識のはなはだ浅薄なりしを懺悔す。
 
      一一 封土および壙の方向を論じてその新古に及ぶ
 
 1 緒 言
 すでに節を重ねて論究したるところにより、埴輪を伴える縦壙式墳墓が古式にして、横壙を有して埴輪を伴わざる墳墓の比較的新式なるべきこと、および、棺・槨・壙の区別につきては、読者諸君はほぼ管見のあるところを了解し給いしならんと信ず。ここにおいて余輩は、さらに進んで封土と壙との方向の関係を観察し、これによりていっそうその形式の前後を明かにするの料とせんとす。
 言うまでもなく棺と槨とは葬具にして、屍体に付くもの、壙は墓穴にして、封土に伴うべきものなれば、その間明かに区別ありて、彼此混同すべきにあらず。かりに棺と槨との間に疑問を生ずる場合ありとも、棺槨と壙との間には問題あるべからず。よりて以下便宜上棺槨と壙とを引き離し、本章を終りたる後、さらに棺槨新古の問題に及ぶべし。
 さて本論に入るに先だち、さらに繰り返していささか弁ずべきことあり。余輩の所論はすでに言えるごとく、まずその大体につき、多数より帰納して、これが原則を発見し、さらに特殊の例の解説に及ばんとするにあり。しかるに博識なる斯道の諸賢は、往々にしてその豊富なる知識の中より、その異例なるものをもってただちに余輩の所論を疑わんとせらるるなり。余輩は信ず、ひとしくこれを古墳墓と称するが中にも、数多の流派系統あるべく、同一時代のもの、必ずしも同一形式にあらず、同一形式のもの、また必ずしも同一時代にあらず、古式のもの必ずしも新式のものよりも古からず、新式のものまた必ずしも古式のものよりも新しからず、ことに地方の異なるに従いて、その性質を(289)異にするもの必ず多かるべく、交通不便の当時にありては、甲地においてつとに絶滅せる形式が、なお乙地において盛んに行わるるがごときこと、また必ずしもこれなしとせざることを。しかしてこれを研究するについては、まずわが古代住民の種族について観察するの要あり。余輩は実に他の数多の史料よりして、わが古代住民中おのずから数種の別派ありしことを認むるなり。したがってその葬儀の慣習においても、またおのずから数種の系統ありしことを信ずるなり。余輩が歴史地理学上、古墳墓の研究に特殊の趣味を有するは、一はこの研究の結果によりてかれらの分布および移動の状態、ならびにその時代の前後等を窺知するを得るの希望を有すればなり。すでに住民中数派の別あり、その葬儀に数種の系統ありきとすれば、当時異族接触の結果として、その別種の系統の間には、おのずから両者を折衷せるものの存在せし事実を認めざるべからず。また同一種族に属するものといえども、時代によりて前後著しき相違あり、その住居の地方によりてまたおのずから多少の相違あるべきことを予想せざるべからず。余輩が本論の材料とせしところは、わが古代民族中の最優者たり、中堅なるべき天孫種族の人民の最も多く蕃殖し、隆盛を極めたりきと思考すべき近畿地方のものより、これを採ること最も多く、他地方のものといえども、主としてこれらと同一系統に属すべしと認めらるるものより、多くこれを求めたり。されば、これらと別系統に属するものにつきては、またおのずから別途の考究を重ねざるべからざるものあるべく、同一系統と認むべきものといえども、必ず種々の除外例あるべきは、あらかじめ覚悟せざるべからざるところなりとす。ゆえに本節においては、まずその一般普通のものにつきて観察を試み、次にその除外例中の著しきものとして、しばしば斯道の諸賢より注意と詰問とを蒙れるものの中、余輩のいわゆる前期式墳墓にして、しかも横穴式壙穴を有するものについて解説を試み、もっていっそう深く余輩の本論を確むるところあらんとす。
(290) 2 封土の方向
 古墳墓の封土には前方後円なるあり、その変態とも見るべき瓢形なるあり。日向地方に多き柄鏡式なるものあり。あるいは円墳あり、方墳あり、下方上円をなせるものありて、一定せざることは前すでにほぼこれを述べ、また読者諸賢のつとに知悉せらるるところなりとす。しかしてその円墳のものにありては、いわゆる環の端なきがごとくにして、外観上その方向を定むべからず、方墳にありても、外観上そのいずれを正面とすべきかを判ずるには、やや困難なる場合あるべきも、前方後円のものに至りては、いわゆるその前方部を正面とし、墳墓の主人公は、後円部の頂上に永久の眠りにつけるものなるべければ、封土の方向一目にして明かなりとす。しかしてその封土中に棺を安置すべく設けられたる墳の方向は、必ずその封土の方向と一致して、並行もしくは正交の関係あるべきは、常識よりしても容易に承認すべきところなり。瓢形墳にありてもまたしかり。日向の地方には、その前方部の長く延びて堤状をなせるもの多く、故坪井博士はこれに柄鏡塚の名を命じ給いきという。肥後阿蘇なる長目塚と称するもの、またややこれに類す。この種の墳においても、むろんその狭長の部を正面とすべし。しかして余輩の狭き知識が教うるところにては、壙の方向は大多数封土の方向と同一なり。その墳の現存せざるものも、理められたる棺の位置によりてこれを知るべし。稀に正交するものありといえども、こはむしろ除外例とすべきに似たり。
 円墳にありては、むろん外観上よりその封土の方向を知るべからざるも、前者の場合に徴して、その壙もしくは棺の位置方向によりて、これを定むることを得べく、もし埴輪にして完全に保存され、その配列の状をつまびらかにするを得ば、あるいはこれによりてこれを知るを得るあらんかと思わる。
 かく封土には必ず方向あるべきなれども、その方向は、前期式のものにありては、東西南北の空間の方位に対しては、必ずしも一定するところなきもののごとし。もとよりこれを一小地方の事実について見んには、ほぼ一定の方向(291)を取れるがごとき場合もなきにあらず。例えば奈良の西方なる古墳群のごとき、大鍋・小鍋を始めとして、成務天皇陵・神功皇后陵・磐之媛皇后陵、やや離れては垂仁天皇陵・開化天皇陵など、いずれも南面し、稀に東面せるものあれども、この地方においては、概して南面を普通とするがごとく見ゆるなり。これあるいはその北部に山を控うる地勢のためか。また日向東諸県郡本庄なるいわゆる四十八塚のごときは、多く西面し、筑後にて見るところ、磐井の石人山を始めとし、吉田なる岩戸山、浮羽なる日の岡・月の岡・重定の大石壙ある墳等、いずれもまた西面なれば、九州には西面のもの比較的多きがごとし。されど、阿蘇なる長目塚は東面し、鞍掛塚は東南面するがごとく、その他種種方向を異にするもの多くありて、全体として毫も一定の則なきなり。畿内においては、同じ大和平野中にても、東部磯城・山辺地方のものは、あるいは南面し(手白香皇后陵のごとき)、あるいは西西北面し(崇神天皇陵のごとき)、あるいは西西南面し(景行天皇陵および箸墓のごとき)、ただ東面のものあることなし。これ東に山を控えたるためか。されば西に山を負える広瀬地方のものには、これに反して東面、北面せるもの多し。河内道明寺古市地方のごとき平地には、最も乱雑にして、允恭天皇陵は正北面すれども、その西南なる仲姫皇后陵は西南面し、古室山墳はこれと相対し、その南なる小瓢形墳は南面し、さらにその南なる応神天皇誉田陵は西北北面し、また現に誉田陵の陪塚となれる墓山、その南方なる日本式尊陵等は西面し、先年大石棺を発掘せし津堂の城山墳のごときは東南面する等、なんら統一するところなきなり。
 しかるに、主塚と陪塚との関係については、その方向ほぼ一致せるもののごとし。允恭天皇陵は正北面し、その陪塚の一なる長持山(今は陪塚として保存されおらず)に露出せる二個の石棺、またともに同一方向を取る。応神天皇陵陪塚の一たる二つ塚は前方後円塚にして、その方向主陵に一致す。仁徳天皇陵の陪塚の一にして、その北側にある前方後円形のものまたしかり。また先年発掘され、問題の大曲玉を出せる円塚にありても、その中の舟形木材の方向、東(292)北より西南に向い、ほぼ主塚なる大山陵の方向に一致するなり。これらは少しばかりの例にして、もとよりもって全豹を知るに足らねど、試みに記して後の研究を俟つの料となす。
 3 横壙の方向
 かく前期式の墳墓にありては、全体としては方位上毫も定則あるを見ざれども、その各個につきてこれを観んには、少くもその封土の方向は、壙および棺の方向と一致するものなるを見るなり。しかるに、横壙を有する後期式の墳にありては、前期の封土の方位が一定せざるとは大いに趣を異にし、その大多数が南面せるを見る。稀にその地の形勢によりてやむを得ず東面し、あるいはきわめて稀に北面するものあれども、全体としては、南面の原則を失わず。中にはその方位の見当を誤り、多少東あるいは西に偏するあるも、そは測定の杜撰なりし結果にして、南面の原則を破るものにあらざるなり。
 横壙が南面して開口するは、もとシナにおいて、王者の墳として築かれたるものなれば、天子南面の意義によりしものか。後世王者ならぬ者なおこれを僭するに至りても、羨道は依然南方に向うを常とす。後世の陵墓のなお南面せしことは、唐『開元礼』に、改葬のさい、墳を開きて祝は羨道の南に立ち、北面することを記するものもってこれを証すべく、朝鮮の『五礼儀』にも、南面を開いて羨道を為《つく》るべきことを言えるは、前すでに引用せるがごとし。
 わが邦における横壙がその原をシナに発し、朝鮮を経て伝来せしものなるべきことは、前すでに述べたり。しかしてその式の墳墓の封土は、またおのずからシナ・朝鮮の制に倣い、円形なるを普通とするがゆえに、その外観のみよりして、墳の方向を定むるを得ざるがごときも、その墳は概して南面するがゆえに、もってほぼこれを知るを得べきなり。墳の入口は通例石をもってこれを塞ぐ。いわゆる石戸《いわと》なり。あるいは数多の片石、または栗石をもってすることあり。しかもその羨門は、往々これを外部に露出せしめ、もって所在を明かにしたりしものなるべければ、いまだ(293)埋没せざる以前にありては、むろん一見してその方向を知るを得べかりしなるべし。後世墳墓多く荒廃し、羨門土に埋まりて、人ついにその墓なることを忘るるに至るもの多く、しからざるものはつとに盗賊のために発掘せられて、いわゆる塚穴となりて存在す。この間にありてただひとり河内磯長なる聖徳太子の御墓のみは、古来叡福寺により厚く保護せられたりしがために、依然その羨門を露わしたるの旧形を保存せりという。
 墳墓の羨門が当初露出せしむべく営まれたりけんことば、同じく横壙の一種たる土窟・岩窟(従来いわゆる横穴)の構造、あるいは現に琉球に行わるる墳墓の構造を見ても察するを得べし。鎌倉なる無数の岩窟壙中には、明かに木扉を備えたりし証拠あるもの少からず。「阿不幾乃山陵記」によるに、檜隈大内陵にありても羨道と玄室との間に木扉ありき。もって類推すべし。しかしてこれらの土窟・岩窟ば、もとより土をもってその羨門を埋めたりきとは想像し得ざるものなり。中にも豊後高田町なる雷の岩窟壙のごときは、その室内の粗造たるに似ず、入口ははなはだしく荘厳に構作せられたり。また肥後岩野には、その入口の外部に、彫刻を施せるものあり。かくのごときもの、いかんぞ土をもってこれを埋めたりきと想像するを得んや。土窟・岩窟すでにその羨門を露出したりとせば、これと同一の性質を有し、ことに、はなはだしくその羨門を荘厳に装飾せる檜隈大内陵のごとき、またいかんぞこれを土中に没了したりと想像するを得んや。現に「阿不幾乃山陵記」によれば、鎌倉時代盗賊のこれを発きしさいまでも、この陵には明かにその羨門露出して、その前に階段さえ設けられたりしなり。曰く、くだんの陵形八角云云、南面に石門あり、門前に石橋あり、と。石橋とは、石の階段なり。古く階段をも「はし」と称す。今も梯を「はしご」と称するはその名残りなり。また磯長墓のことは、国宝となれる常陸上宮寺蔵鎌倉ごろの『聖徳太子一代絵巻』の絵に明証あり。その他、精好なる切石をもって羨門を荘厳にし、外部よりこれを観るべく作れるもの少からず。かく檜隈大内陵および磯長墓の羨門すでに明かに露出し、他にもまた例多しとせば、もってその他のものをも類推するを得べけんな(294)り。陵の戸もしくは泉門の語、古書に往々散見す。またもって証とすべし。
 ちなみにいう。諸陵寮において陵墓を修理せらるるを見るに、すでに羨門の埋没せるものばもとより、従来開口せるものをも、これをまた埋めて見るべからざらしめ、ついには「阿不幾乃山陵記」によりて、明かに露出を証せられたる大内陵にまでも及べりという。これあるいは保護上の必要より来りしかは知らねど、もと古制にあらじ。
 願わくは速かに旧時の態に復し、その羨門を露わすことにしたし。これただに陵墓の構造を明かにするのみならず、参拝者をしてこれに対していっそう敬虔の念を起さしむるゆえんなるべきなり。
 なお聞くところによれば、近時奈良県にては史蹟保存の挙あり、ために往々にして従来すでに開口せる荒陵の羨門を埋めて、入るべからず、見るべからざらしむるに至れるものありという。遺憾なりと謂うべし。史蹟の最も重要なる部分を隠匿して、人をして見るを得ざらしむ。これあに史蹟保存の真意ならんや。いわんやその原形たる、羨門露出を常態となすがごときにおいてをや。
 4 墳墓の方向と日光の映射
 羨門すでに露出す。墳丘の方向一見にして知るべきなり。その南面するは必ずしも天子南面の謂にはあらずして、単にシナ以来南面の風を踏襲するものなるべきも、一はまたわが邦にて古来日光の常に映射する地をもって地相の最良なるものとするの俗ありしによるものか。『古事記』に天孫降臨のさい、高千穂における瓊々杵尊の詔を記して曰く、「此の地は朝日の直刺《たださす》国、夕日の日照国なり。故《か》れ此の地ぞよき」と。龍田の風神祭の祝詞《のりと》にも、「我が宮は朝日の日向ふところ、夕日の日かくる処」とあり。これらは皆宮殿としての地相を述べたるものなれども、墳墓もまた、実にかくのごときの地を選びて造られたりしなり。『播磨風土記』に曰く、
  根日女老いて長逝す。時に皇子等大いに哀しみ、即ち小立を遣はして勅して曰く、朝夕日の隠れざるの地に墓を(295)造り、其の骨を蔵め、玉を以て墓を飾れよと。
と。これあに同一の思想に出ずるものにあらずや。俚伝往々にして「朝日さし夕日輝くの所」に埋蔵物あることを語る。事は故坪井博士によりて『人類学雑誌』上に詳説せられたり。すでにこの俗あり、羨門をして南に向わしむるの理由もって解すべきなり。しかしてこれを露出せしむるの要またこれによりて解すべきに似たり。
 5 壙の方向と棺の方向
 縦壙式墳墓にありては、土をもってその壙の全部を覆うがゆえに、その内部なる屍体がいずれの方角より日光を受くべき地位にあるも、あえて問うべきにあらず。ただ墓その物が朝日さし夕日輝くの所にあれば足れるなり。これ前期の墳が方向を一定にせず、後期の横壙式墳墓が、南面を普通とするゆえんならんか。しかるに南面せる横壙にありては、棺の方向は必ずしも壙の方向と同じからざるなり。かの縦壙の場合にありては、棺を壙中に置くに、棺と壙とその方向を一にするを普通とすれども、横壙の場合のしからざるもの多きは、これ壙の幅狭くして、棺を横に置き難きか、しからざるまでも、縦に置く方その扱い容易なるがためなるべく、されば、一壙にして数棺を有する場合には、往々にして彼此その方向を異にすることあるなり。かの有名なる出雲塩冶なる一壙二棺の塚のごとき、その一は奥壁に沿いて横に位置し、他の一は左壁に沿うて縦に位置す。『山陵志』によるに、五条野丸山内の石棺も、また一は北にありて南面し、一は東にありて西面すという。聖徳太子磯長墓にも、正面に間人皇后の御棺あり、太子および妃の御棺はその左右にありといえば、おそらくは前者は奥壁に沿い、後者はこれと直角に位置して左右の壁に沿い置かれたるならんと思わる。もしそれ土窟・岩窟の壙(いわゆる横穴)に至りては、屍体が壙の方向と直角に置かるるの設備あるものはなはだ多し。すなわち知る、横壙内における棺の方向は、必ずしも壙の方向と一致するを要せざることを。されば羨門は太陽の光を受けんがために南面すべきも、羨門なき前期の墳墓にありては、その封土の方向(296)はなんら太陽に関するところあらず、ただ日当りよき土地を選びて任意に営まれたりしものと解すべし。ただし、日向本庄の四十八塚のごとき、その多数が相率いて西に向えるものにありては、あるいは祖国の方法を示す等、なんらかの意味あるにあらざるやを保せざるなり。
 
        一二 前期式封土にして横壙を有するものの解釈
 
 以上は余輩が多数より帰納せし一般的原則なるが、実際には必ずしもしからざるものあり。余輩さきに縦壙と横壙といずれが古き形式なるかを観察し、さらにその縦壙を有すべき前期式の墳丘にして、後期式の横壙を有する場合につき、これをいかに解釈すべきかを論じて、なお後にこれを説くべきことを約したりしが、今や前節墳丘と壙との方向の観察上より、進んでこれを再説するの期に到達せり。陵墓形式の実際に精通せられたりし故谷森善臣翁、かつて言えらく、
  円墳は多くは正面に羨門あれども、前方後円の制にては、羨門は必ず左右或は後方にありて、正面にあらざる例なり(『考古界』第五編第六号、「阿不幾乃山陵記考証」引)。
と。ここに円墳の正面と言われたるは、すなわち羨門のある方をもってかく定められたるなるべければ、換言すれば羨門のある方に羨門ありと言うことにて、もとより異議あるべくもあらねど、前方後円墳の横壙を有する場合、羨門が正面になしとの事実は、翁が実際上より認識せられたる事実にして、これ最も玩味すべきところなりとす。
 前節に言えるごとく、前方後円墳あるいはこの系統に属する瓢形もしくは柄鏡式墳丘にありては、その頃の方向は、通例その後円内に葬られたる屍体の方向と一致す。かくて参拝者は、その正面より前丘上に登り、後丘に対して礼拝せしものなり。山陵において前丘に宣命場の称あるは、奉幣使参向のさい、ここにて宣命を読むとのことより言い出(297)だせしことならん。かくてこそ墳の方向には、その壙に対しておのずから意義あるなれ。しかるにその正面を避けて、左右あるいは後方に横壙を設けんには、その墳の方向は、その壙に対して全然無意義のものとなる。換言すれば、その墳はその横壙のために築かれたるにあらずして、前より存せし墳丘の一部に、横壙が寄生せしものなりと解せざるべからざるごとくなるなり。横壙が既成の封土に寄生して作らるべきことは、肥後高瀬在|繁根木《はねぎ》なる塚においてこれを見る。この塚は頂上に石棺を蔵する前期式墳墓として、しかもその西南腹に横壙を有するなり。これ明かに後より寄生せるものと解すべく、もって他の場合を類推解釈すべきなり。ただし谷森翁が、羨門必ず左右あるいは後方にありて、正面になしと言わるる事につきては、疑いなきにあらず。現に埼玉県小見なる二個の横壙を有する瓢形墳のごとき、墳の方向南北にして、しかもその横壙の一は、南面せるなり。けだし横壙の設けらるるは、墳の正面と言わず、側面と言わず、なんら墳の方向にかかわることなく、単に南面の場所を択びたるものならんのみ。
 されどその墳の後円上に在来のままにて死体の安置されたらんには、その正面を毀ちて、参拝の通路を塞ぐのことは、あるいはこれを避けたりしこともあらんか。いずれにしても、墳の方向に頓着なく設けられたる横壙は、後よりその墳に寄生せるものなりと解するを至当とせん。となれば、その横壙のために作られたる封土ならんには、その方向は必ず壙と一致すべかるべければなり。
 ことに明かにその寄生を証すべきものは、前方後円墳(もしくは瓢形墳)にして、二個の横壙を有する場合における壙の方向なり。これを実例に徴するに、筑後吉田なる岩戸山は、封土西面するがゆえに、その前方部と後円部との雙方に、南面して横壙を開きたりき。この壙今はなしといえども、その跡なお明かにこれを見るを得べし。前記小見の瓢形墳は南面(あるいは北面か)し、その南側に一壙を開くがために、他の一壙はやむを得ず東側において、やや東北に面して作られたり。京都|太秦《うずまさ》なる天塚は南南東に面するがゆえに、これに寄生して作られたる横壙は、一は前方部(298)の右側後方にありて南南西面し、一は後円部の右側にありて、西面して造られたり。この塚は、後円部の頂上深く穿たれ、かつてここに埋められたりし石棺の発掘せられたる跡を明示す。また近江石山村なる国分の大塚は東東北面して、その右側に当り前方部と後円部とに、南南東面せる二個の横壙を有するなり。
 以上四個の実例によりてこれを観るに、墳丘が東西に、もしくは東西に近き方向を取りて築かれたる場合には、これに寄生して作らるる横壙は、いずれも南面もしくは南面に近き方向を取るを得れども、しからざるものにありては、その一が南面もしくは南面に近き位置を取りたらんには、他の一はやむを得ず異りたる方向に満足せざるを得ざるものたるを知るべし。しかして、この後者の場合においては、南面せるものまず作られ、他のもの後に作られたるものなることを認むべし。しからば前者の場合にありても、そのいずれかの一が必ず他の一よりも後に作られたることを認めざるべからざるなり。かくてすでにその後より作られたるものが、既成の墳丘の一部を穿ちてここに営まれたることを認めんには、前に作られたるものもまた、既成の墳丘の一部を穿ちて営まれたるものなりと想像せんは、あえて難事にあらず。さらに進んで、ただ一個の横壙の場合にも、その方向が墳丘の方向となんら関係なくして営まれたるものをもって、後より寄生せるものなりと解せんこと、また最も自然なりと謂うべく、頂上に石棺を有する繁根木の場合のごときは勿論、そのこれなき場合にも、後より改造し改葬せるものと解すべきなり。すでにかく解せんこと、これ最も自然ならんには、その円墳の場合にありても、埴輪を有する前期式のものに営まれたる横壙は、また後より改造されたるものと解するを至当とすべく、縦壙の古くより存し、横壙の後に起れること、これによりても察すべきなり。
 さらにこれを埴輪の排列について考うるに、円墳にありては埴輪は必ずその屍体の安置されたる場所を中心とし、これを囲繞して一列もしくは数列に配置せらるるを常とするなり。前方後円墳にありては、その封土の形に倣いて数(299)重にこれを繞らせるほかに、別に後丘の頂上棺槨の埋められたる地域を円形に取り巻き、さらにこれより前方丘に向いて、二列に神道を作るを普通とするもののごとし。しかるに、もしその当初より墳丘内に横壙が営まれ、羨門外部に向って開かれたりきと想像せんには、その羨門と埴輪の排列との関係はいかにあるべきか。シナの陵墓にありては、羨門の前面にいわゆる神道を通じ、ここに神道の碑あり、石人・石獣左右に列をなして置かるるを常とす。もってわが前方後円丘の上部における埴輪の排列と比較すべし。わが邦にありては、いまだシナにて見るごときこの例あるを見ざれども、横壙を有する墳墓の羨門を塞ぎ、ここにも埴輪を繞らしたりきとは想像すべからず。さらにその上方において、墳丘の中央を囲繞して、羨門となんら関係なき埴輪列の存在を想像すべからざるなり。いわんや前方後円墳において、封土の方向にかかわらず、斜めに羨門の開口する場合のごときにおいてをや。埴輪列は畢竟、縦壙式墳墓においてこそその意義はあれ、横穴式墳墓にありては、その性質当初より埴輪列を按排するに適せざるなり。前期式墳墓に存する横壙は、とうてい後より改造せられたるものならざるべからず、縦壙の古くより存し、横壙の後に起れること、これによりてもまた察すべきものなりとす(なお言わば、仁徳天皇陵前丘の一角は、陪葬の縦壙の存するを知るものは、後の時代は横壙式陪葬が、前期式墳丘中に設けらるべきを認め得べきものなりとす)。
 なお、さらに前期式墳墓に寄生して、地平線下に土窟的横壙を設けたる実例の、少からず日向に存するあり。こはその地方に石少く、石壙を営み難きにより、やむを得ず墳丘下の堅土の層を穿ち、ここに土窟を営みたるものなるべく、これまた横壙が後より前期の墳墓に寄生して作らるるの最も有力なる例証とすべし。このことはさらに節を改めて、土窟または岩窟的横壙すなわちいわゆる横穴と併せ論ずべけれども、縦壙式墳墓の古くより存し、横壙が後に寄生して作られたることを証せんがために、その二、三を同国本庄の塚について調査せる書類(明治十年宮永真琴調査本庄村古陵墓見聞図説)より左に抄録すべし。
(300)  松原塚。先年此の塚の南址を発掘して畑となさんとする時に一壙を穿ち得たり。内に枯体骨及び鎧板等ありし由云々、
  猪塚。此の塚の南側に理芋坑を穿ちて一壙に陥没す。壙内枯骨の八尺許なるあり。風を見て忽然壊敗す。又八稜の実《(宝カ)》鏡一面を獲て、此を薩摩侯に献じたりと云云。
  轡塚。此の塚の南側、先年高妻新吉なるものゝ祖、麹窖を鑿ち※[穴/屯]※[穴/夕]に陥る。梯を下して其の内を探捜し、剣・鈴・※[金+庶]・鏃・鞍具を得たりと云云。
 この類の墳、他にも所伝はなはだ多く、今も現に同地武井新氏の宅前にその一を存す。地平面より下降して入るべし。しかしてこの墳が、埴輪を有する旧式墳の南側に多く発見せらるるなり。中には石にて畳めるものもあり。同書に、
  鈴塚。此塚南址に理芋坑あり。去る元治年間其の坑陥没して遂に一壙を得たり。其の濶を概するに、東西九尺許、南北二間余許、石を以て畳となす。四壁赧色、恰も朱の如し。内に諸器物を蔵貯す。駅鈴・太刀・鏃・※[金+庶]・玉・土器の類種々云々。
とあり。これらは他地方において多く発見せらるる、旧式墳内の横壙と全然同性質のものと解すべく、ただその所在が封土中にあるか、封土下すなわち地平線下にあるかの差あるのみ。
  (付言)「古墳墓年代の研究」、回を重ぬる七、節を重ぬる十二。その説くべきところいまだ半ばに及ばず、しかも同一の題目のあまり長編に渉りて、編者と読者の迷惑少からざるべきが上に、本誌また本号をもって巻を終れるをもって、以上ほぼ前後両期の形式を論了せるを機とし、ここにいったん本編の終りとなさんとす。自余の研究は、逐次題目を新たにして継続発表せんことを期す。(貞記)
 
 
(301) いわゆる阿波式石棺について笠井君に答う
 
      一 緒  言
 
 余が昨夏阿波小松島における講演のさいに、いささか古墳墓の沿革を述べて、談阿波国現存の遺蹟の上に及び、近時「阿波式石棺」の名でもって学界に紹介されたものが、必ずしも阿波特有のものでなく、また、石棺にもあらざることを――何の気もなく、きわめて簡単に、その当時それが笠井君の命名であったということにも記憶が朧気で、したがってこれを説くにむろん笠井君の名を指示した訳でもなく――きわめてアッサリと申し述べたところが、思いの外にもそれがはなはだしく笠井君の感触を害した。笠井君の見らるるところでは、余の簡単なる所説が氏の所説を全然否定し、かつ駁撃を加えたもので、また直接に氏を叱責したことに当るのだとのことである。かくて氏は、筆記僅々七、八行の余の所説に対して、無慮本誌一七、八頁に渉る長編の弁駁文を寄せて、これに対する答弁を、「一日も早く」、「詳細に」、「具体的に」、返答すべく求められた。それにも満足せず、さらに同一の文を郷土の日刊新聞に投じて、喜田の所論の筆法で行くと、「ピラミツドの年代を紀元後に降すことが出来るであらう」とか、喜(302)田の講演は「従来考古学雑誌・歴史地理等の誌上で、大抵伺ひずみになつて居るお説であつた」などと、すこぶる冷評的の文字を、用捨なく、考古学には全然没交渉なる郷国の人々の前にまで、羅列された。まことに思いの外のことである。時あたかも余、所用ありて帰郷中のこととて、斯学につきほとんど菽麦を弁ぜざるの読者は、しきりに余につきてこれが弁解を求めた。もしこれが専門雑誌上だけのことならば、あるいは答弁の価なきものとして、そのまま放置してもよかったかも知れぬ。しかし素人の前にまで吹聴して、これが答弁を促すの氏の熱心は、とうてい閑却に付することは出来ない。すなわち匆々筆を馳せて、一文を同紙に投じ、いささかこれに酬いておいた。しかもこれは素人相手の、ことに旅中なんらの材料をも有せざるさいの起稿であったから、はなはだ不十分なるを免れない。よってここに改めて本誌の余白を借り、さらに愚見を開陳して、氏の冷静なる判断を求めようと思う。
 さて、笠井君の弁駁はだいたい次の通りである。
 一、いわゆる阿波式石棺は果して大分県にも存するか。
 二、いわゆる阿波式石棺は果して壙穴か。
 三、阿波式石棺の名称は何故に不足か。
 四、喜田のいういわゆる阿波式石棺の埋葬法は事実に相違する。
 五、喜田はいわゆる阿波式石棺の時代を大化以後と断じている。その理由を聞きたい。
 これに対する小生のお答えは次の通り。
 一、しかり。全然同一のものは確と大分県に現存す。ただに大分県のみならず、他の諸地方にも同式のものはなはだ多く存在す。
 二、しかり。まさに判然と壙穴なり。決して石棺などと称すべきものにあらず。
(303) 三、石棺にあらざるものを石棺と称するは断じて許容すべからず。また阿波国特有にもあらず、阿波において始めて発見されたるにもあらぬものを、阿波式と名づけんは妥当ならず。
 四、簡単なる講演中における余の説明が、あらゆる場合を詳説せざるはもとよりなり。しかもその説くところ、だいたいにおいて差支えなし。
 五、余もそのすべてをもって大化以後なりとは思わず。またしかく断言したることなし。
 以下やや具体的にこれを説明致そう。
 
        二 いわゆる阿波式石棺は阿波の特有にあらず
 
 笠井君は余が「これまでの研究者は、こういう類のものは他には見ない、これは阿波に限るということで、阿波式石棺などと雑誌に書いてある」と申したのを、ひどく気にしておられる。実を申すと、余は当時大切な手帳を失ったために、手もとになんらの材料を有せず、ただ朧気に『考古学雑誌』において中井伊与太氏が君の文を手厳しく攻撃したことが頭の中に残っていて、それに阿波式石棺の文字のあったことを記憶しておったのみで、それが君の命名であるということまでには確かな記憶がなかったのであった。しかもそれが笠井君の御命名であったので、余が故意に君を侮辱でもしたかのごとく解せられたのは、誠にお気の毒のことである。なるほど笠井君の提出された文を詳しく見ると、余の述べたところは、多少の言い過ぎのようである。しかし笠井君とても、いわゆる阿波式石棺を説明して、「其構造も、埋葬の方法も、一種特別であつて、阿波国特産の緑泥片岩の板状をなしたもので、長方形に組合せたもの」だとあって見れば、素人相手の簡単な通俗講演に、それが阿波特有であるといったと申しても、しかるべく大目に見られるほどの雅量があってほしい。いわんや笠井君自身、余が大分県において同様のものの現存することを明言した(304)にかかわらず、なおこれを疑い、これを不安に思われ、「果して大分県にも存するか」と反問するにおいてをやで、これはいわゆる「問うに落ちずして語るに落つる」ものではなかろうか。氏が文字の上にこそ明示はなけれ、これをもって阿波特有と思っておられたことは、これによってもほぼ推測さるべきもので、何もそうむきになって、相手の言葉尻を捕え、難詰さるるにも当らぬではなかろうか。ことに余が素人相手の簡単なる講演に、そのくらいのことを言ったとて、これを考古学者なる高橋君と、専門雑誌上で専門的研究を交換するさいに「常とす」を「もっぱら」と改めて論じたことと比較して責められるに至っては、実に思いの外のことで、大いに場合が違うかと思う。しかし、これは畢竟言葉争いのつまらぬことだから、あまりかれこれは申しますまい。
 余の意見は必ずしもその材料が阿波国特産の緑泥片岩に限らずとも、同形式に出来たものは、学術上一つものに見てよかろうと思う。かく申しては、ためにまた大分県下の板碑論を担ぎ出されるかも知れぬ。しかしあれが明かに板碑系統のものだとは、余のつとに認めるところで、形式は似ているが、材料が板石でないから板碑とは言えぬ。通例板碑というものとは別だといったまでで、これも全然場合が違う。
 さて、いわゆる阿波式石棺と同形式のものは、明かに大分県地方にはいくらもある。これは御安心になってよろしい。余の実査したものでは、大分町の西南、庄の原の群集項中に、石室の構造、全然阿波の津田山や大原などのと同一様のものがいくつもあった。しかしてそれは余のいわゆる「塚の頂きに平たい石を並べて、小さい石室を作ったもの」で、余はこれをもって、この式の墳墓の完全なる形式だと信ずる。かく申すと、あるいは氏はそれをもって、埋葬法が違う。阿波のは塚の頂上ではなく、「丘陵上の適当な場所を掘って、そこへ棺を埋めた」ものであるといわれるかも知れぬ。それならば、同じ大分県の西国東郡田原村灰土山の上に、まさにその通りのがいくつもある。その一個は先年発掘し、石室暴露していたが、傍になお手の付かぬのがあって、余の指示のままに、そ(305)の一をその後同地の河野清美という人が発掘した。全然同じものである。このほかにも、同県には同形式のものがいくつもあるそうだ。
 灰土山の分は、寸法から、石質から、石の並べ方から、丘陵の上部を穿ってそこへ石室を掘り埋めたことから、全然阿波にあるものと同式である。しかしてその上に低い封土を存することは、あるいは笠井君のいわゆる「寸分違はぬもの」との注文に合わぬかも知れぬが、阿波のとても、それぞれにみんなが全然同一でなく、彼此寸分相違なきものだとほ言えぬ以上、このくらいの相違はやむを得ぬことで、これを同一式だというに差支えはない。否、これをもって、阿波において、現在表面に露出しているものの過去の形を教えるものだと思う。この外にも同式のものは多い。また筑後三池郡上楠田の石神山の続きにも、丘陵の上へ掘り込んだ、同じ形式のものを実見した。
 播磨にも同様のものが多いとは、同国出身の考古家和田君がつとに調査発表されたところで、これは斯道学者間には知れ渡っている著明の事実だ。むろん笠井君も御承知のはずである。中にも揖保郡半田山に存するもののごとき、和田君の見取図により、また直接説明を聞いたところでは、全然阿波にあるものと同じである。美作の同式のものも、しばしば学界に紹介せられている。
 讃岐摺鉢山の石塚の一つたる岩舟《いわふね》塚の東へ延びた枝の部分にも、同一式の小石室を見た。
 近江和邇なる小野神社脇にも二個の同式の小石室が現存するのを最近に実査した。
 沼田頼輔君の話では、備中吉備郡大井神社付近にも、都窪郡子位庄村にも、いくつもあるという。ことに谷井文学士の談によれば、紀伊にはこの式のものはなはだ多く、海草郡|岩橋《いわせ》には山の半腹の尾の上等に存する数、無慮数百に及ぶという。この報告は余にも実はいささか思いの外であった。余いまだこれを実見するに及ばないけれども、地を掘り、緑泥片岩の板石数片を用いて、長さ約六尺、幅一尺五、六寸、深さ一尺二、三寸の小石室(306)を作り、同一の板石数片をもって蓋とし、上に小封土あるものが多いといえば、これ全く阿波および豊後にて実見したものと同一なりと解してよかろうと思う。
 思うにこの種の遺蹟は、封土も壙も小さく、あまり目立たしくないので、学界に報告されることは比較的少いけれども、少くも本邦西部の諸地方には多く存するもので、なお高橋君・和田君などの意見によると、埼玉県冑山にも同式のものがあったという。これらはなおよく研究すべきことで、ともかくもそれがむろん阿波特有のものでも、また、阿波が本場でも、阿波のが始めて世に知られ、学界に紹介されたのでもないことは明かである。
 
      三 いわゆる阿波式石棺は純然たる壙穴なり
 
 笠井君は壙(すなわち従来いわゆる石槨)と槨(従来いわゆる石棺もたいていはこの中のものである)との区別につき、三ケ条の定義を立て、喜田も格別異議なかろうとして、左のごとく言われた。 一、石槨は大であって、天井が高く作られ、石棺は小であって、蓋石が低く覆われる。
 二、石槨は無数の塊状の石をもって室状に築かれ、石棺は少数の板状の石をもって箱状に組み合せられる。
 三、(異議なければ略す)
 ところが、余は右の二ケ条には全然反対である。異議有無どころの問題ではない。元来、壙と槨とは全然性質の違うもので、その別は、大小高低にはいささかも関係はない。シナには四十人を容るる石槨、すなわち君のいわゆる石棺もあれば、東沃沮には、十余丈の木槨もあった。本邦にも、先年発見された河内小山のなどは、長さが一丈一尺三寸、幅が五尺一寸五分、高さが七尺という、かなり大きいものである。しかるに、これに反して、高さ、幅各二、三尺くらいの壙は各地にいくらもある。試みに一例を君の最も熟知しておられるはずのわが阿波に取って見れば、(307)名東郡矢野村奥谷の山花氏の後の墓地側の円塚に現存せる横壙は、高さ一尺六寸、幅一尺八寸、奥行五尺ばかりに過ぎない。先年発掘したさいに、種々の遺物が出たそうだ。その構造は君のいわゆる無数の塊状の石をもって室状に築かれた円塚内の横穴で、いかに小さくとも、それがためにこれは石棺であるとは、まさかに君も申されますまい。君はいわゆる阿波式石棺を、石棺としてもなおむしろ小に過ぎると言われたが、赤ん坊のためには蜜柑箱でもなお間に合う現今の実例を考えられるがよろしい。壙の小さいのが異例だと思うなら、広く各地の実際を見られたい。
 次に石材の形状や、その数の多少も、壙と槨との別をなすうえに、なんらの問題とはならぬ。現に天武天皇陵の大石壙は、四方の壁および天井、いずれも一個の石で出来ていると承わる。君はあるいは、それは板石でないから不可だと言われるかも知らぬ。しからば埼玉県小見の一墳二壙を有するものはどうであろう。奥の室の高さが六尺六寸、幅が七尺二寸、奥行が八尺五寸、口の室が幅六尺九寸、奥行七尺八寸という大きな壙で、しかもその各壁はたいてい一枚の秩父石の板石で出来ている。君のいわゆる少数の板状の石をもって、箱状に組合せたものである。この類のものは鳥取県でもいくつも見た。しかもこれをもって石棺だとはいかに笠井君だとて、まさかに言われますまい。何も稀有のものではない。
 要するに君の定義はもって壙と槨とを別つ上に、なんらの理由とはならぬ。それを、喜田も異議はなかろうなど、自分ぎめに勝手に定めてかれこれ論じられようとは、まことに思いの外のことである。
 申すまでもなく、壙とは墓穴のことである。その壙が単に土を穿ったのみでは、自然に崩壊する虞れがあるから、簡単な葬儀では、普通に棺槨を中に安置した後、土をもってその空隙を充たす。かくてこれと同時に壙は消滅して、単に棺槨を土中に埋めた形となるのであるが、鄭重なものにあっては、あらかじめ土の崩れぬように、石でもってこれを防いだり、もしくは穴の形を整えるために、石を並べたりして、もってその穴の保存を図る。あるいは磚をもっ(308)てすることもある。その材料や、室の大小、形状のいかんにかかわらず、かくのごときものはことごとく皆壙である。しかして君のいわゆる阿波式石棺は、まさにこれに当るものである。これに反して、槨とは棺を容るるの器で、それを直接土中に埋めてあろうが、あるいは石壙中に安置してあろうが、それは勝手として、ともかくこれを壙中に安置しようと思えば、安置し得られるものでなければならぬ。これはわざわざ申さなくとも、少しく葬礼に関する古書をお読みになれば、おのずから御了解になるであろう。君の代表的のものとして掲げられた丈六寺山のもののごとき、ある特別なるものは、あるいは強いて安置しようとすれば、安置し得られるかも知れぬ。したがって、これを従来いわゆる石棺の一種だと思われたのも無理はないが、あれも四方の土を去れば外へ開いて崩れるべきもので、普通の石棺とは違う。しかしかりにこれは石棺といえるとしたところが、あれは特別のもので、君のいわゆる一般の阿波式石棺はそんなものではない。だいたい特別稀有なるものをもって、その形式のものの代表的だとするのは、学問研究上最も避くべきことだ。慎重なる研究には、これはむしろ例外として除き、他の一般普通のものに従わねばならぬ。しかして他の大多数のものは、君も御承知の通り、あるいは底がなかったり、あるいは数片の板石を並べてその下部を土中に埋め立てて作ったものである。これがどうしてこの条件に合おう。底に小石を並べたり、砂利を敷いたり、あるいは全然土ばかりであったりするものほ、全然一般の壙と択ぶところがないではないか。
 ことに君の説を読んで不思議に堪えないのは、その完全なものの構造は畿内地方で見る組合せ式の石棺と少しも異なるところがないのである、との君の弁明である。ここに君が完全なものと言われるのは、図をもって示された丈六寺山のであろうが、あれはただ底や四壁を一枚石で作ってあるというだけで、壙たるにおいて、少しも差支えはないのである。余は畿内地方における著名ないわゆる石棺の各形式について、ほぼ見聞を遂げたつもりであるが、果して畿内のどこにただ一つでも、そんなものがあるであろうか承りたい。余はむしろ君の「少しも異なるところがない」(309)との御説は「少しも似たところがない」の間違いだと申したいくらいである。君と余との間に、かくまで物の観察が違っているとは、実もって思いの外のことで、このようでほ、とうてい学問上の議論は出来ないかと心配する。いわんやそれは、単にある特別稀有な丈六寺山のについての観察であって、一般多数のものに至っては、大分・福岡・香川・岡山・兵庫・和歌山・滋賀・埼玉等のものと同じく、単に穴の崩壊を防ぎ、その形を整えるために板石を掘り立てたというに過ぎないにおいてをやだ。言うまでもなく畿内地方をはじめとして、その他各地に存するいわゆる石棺は壙中に安置し得べきもので、いわゆる阿波式石棺のごとく、四囲の土壌を除き去るとたちまち崩れてしまうべき類のものではない。
 要するに、君のいわゆる阿波式石棺は、全然壙である。棺とか槨とか名づくべきものでは断じてないのである。
 
      四 阿波式石棺の名称は妥当ならず
 
 それが明かに壙であるものを石棺と称するの不可なるは申すまでもない。この問題は、従来考古学者間に石棺と称するものがその実石槨で、従来石槨と称するものがその実壙であるとの余の新説とは全然没交渉である。それが従来いわゆる石棺すなわち余のいわゆる石槨であるならば、それを君が旧来の称呼に従い石棺と呼ばれんとするに、余輩もとより強いて異議を挟むものではない。否、余もまた便宜上しばらく旧称に従うことを欲するものである。しかしながら、従来の観察が誤りで、すでにそれが壙であること明白なる以上、従来誤ってこれを石棺と呼んだ例があるとしても、それはもちろん改むべきものである。実はこの種の壙をもって石棺と呼んだのは、あえて君に始まったのではない。明治二十四年中の香川君・鳥居君の報告、明治三十三年中の和田君の考証など、いずれも皆、石棺の名称を用いておらるる。しかしそれはなお考古学の研究幼稚の時代のことで、『山城名勝志』に洛北高野村な(310)る小野|毛人《えみし》の壙を石棺と書いたと同一筆法なるに過ぎない。されば当年の「石棺考」の著者和田君においても、今日ではつとにその説を捨てておられるはず。鳥居君・香川君にはまだ聞いてみる機会がないが、おそらく同意見であろうと思う。しかるに遥か後に出てこれを祖述した笠井君が、今日において何もひとりそれを自分の一身に引き受けて、頑張らるるにも当るまいと思う。しかも君は、たといそれが壙であるとしても、やはり石棺と呼ぶ方が穏当であろうなどと主張せられるのは、実にもって思いの外である。
 次にこれを阿波式ということばどうだ。君は阿波をもってこの種の遺蹟の本場であるとして、阿波式の名を適当と主張される、しかして、それが他にもあるとしても、朝鮮式山城が九州にあっても差支えないのと同じ理窟だと言われる。これまた実に思いの外である。九州にある朝鮮式山城は、明かに朝鮮人を使役して築き、もしくは系統上明かに同一と認め得べきものである。これを朝鮮式というはその系統を明示するもので、学術的命名である。しかるに、四国にも、九州にも、紀伊にも、中国にも、その他にも少なからず存するこの種の遣蹟について、何がゆえに君は阿波をもってこれが本場たることを認められんとするか。君が阿波以外のものについていまだ知識を有せられぬということは、なんら阿波が本場たるうえにおいて、理由とはならぬのである。それとも君は広く各地方の遺蹟を調査せられたうえで、阿波が本場たることを断ぜられたのであろうか。君はまた、かりに本場が他に奪わるるようなことがあるとしても、まず最初に発見され、最初に学界に報告され、研究されたのが阿波のそれであって見れば、これに阿波式の名を冠らせたところで、何の不都合もないと言われる。なるほど中央学界の雑誌にこの種の遺蹟の報告されたのは、香川・鳥居両君の執筆にかかる阿波のそれが最初であったかも知れない。しかしそれは阿波にこのような遺蹟があるとの報告に過ぎずして、それにももちろん阿波式などとは言っておられない。しかして他の地方にもこの種のもの多く存していることは、つとに知られていることで、それが阿波の特有である、阿波が本場であるなどとは、少な(311)くもある知識ある学者の間には、夢にも思われていないことであった。その後、明治三十三年中に、和田千吉君は「石棺考」を著わして、播磨の諸方にこの種の遺蹟の存在を報告されている。そのほか、所々にこの種の遺蹟の発見報告もあった。もっともそれは一々中央の学術雑誌上に報告された訳ではないけれども、直接間接に学者の知識に上った数は決して少くないのである。しかして、その特に雑誌上に報告されないのは、一はかえってそれが珍らしくないことを反証するものではなかろうか。しかるにそれを大正の学界において、今さら事々しう阿波式などと名告って出るに至っては、実に思いの外のことで、とうてい妥当なるものとして賛成が出来ないのである。もちろん君の執筆の論文において、君が便宜上命名せられることは、それは君の勝手である。なんら他の拘束を受くべき訳のものではない。ただ不適当なるものは他の用うるところとならず、また、かりにやむを得ず用いらるるとしても、常に不便不都合を訴えられるものなることを覚宿さるれば、それでよろしい。君は故坪井博士の弥生式土器の命名を例として引用しておられる。実に適当な引例である。当時学界唯一の権威たる博士の命名でありながら、あまり適当なものでなかった、かの名称は、近ごろでは次第に人が用いなくなりつつあるのである。他に新しい名を考えた学者もいろいろあったのである。坪井博士のごとき専門大家の命名にしてなおしかり。これはちょっと御参考までに申して置く。
 
      五 いわゆる阿波式石棺の埋葬法いかん
 
 笠井君は余が「塚の頂上に平たい石を並べて小さい石室を作ったもの」と申したのを間違いだとして、丈六寺山の例をだに見れば、ただちに否定することが出来ると述べておられる。すなわち余が「塚」と言ったのを否認して、「丘陵上の適当な場所を掘ってそこへ棺を埋めたもの」だとしておられるのである。しかして、氏も最初のほどは、本来あった封土が崩れたのかとも思われたが、丈六寺山の実例を見るに及んで右の断定がいよいよ正当であったことを知(312)って、大いに愉快を感ぜられたと述べておられる。
 ところが、余はこれと反対に、丈六寺山のを見るに及んで、かえってそれが本来塚の上にあるべき性質のものたることを確めたのである。なるほど阿波において、現在露出しているものについてのみこれを見れば、その封土の有無の明かならぬが多く、石室を形成する板石は、丘陵の表面を穿って、そこへ掘り埋められている。しかし、本来その上に封土のあったろうということは、播磨・紀伊・豊後等の類例から推測することも出来ようし、これを普通の推論からしても、上に封土を置かず、地面と平らに埋めて、なんら墳墓たることを示すの設備がなかったとは、想像し得られぬではないか。ことに豊後庄の原たる同形式の壙が明かに塚の上部に設けられたことから類推すると、その丘陵を穿って室を設けたものは、営造が簡略で、封土が低いためなるべく、しかも封土の高低は、そのいわゆる「塚」なるにおいてなんら支障を致すべきものではないのである。しかして、君が最も完全なるものとして、また代表的のものとして提供された丈六寺山のものは、君の図によってもほぼ知らるる通り、岩山の頂上に石室を設け、四囲の石を切り取って、その一部を円墳状に削り残してあるのである。これは明かにこの石室が本来円塚上に設けらるるを理想とするの証拠で、明治天皇陵、昭憲皇太后陵の御造営において、また実に同一の方法を採っておられるのである。しかして、それが盛り土でないというの理由をもって、何人か桃山陵を拝して、これ円塚にあらずと申すものがあろう。何人がこれをもって円墳の形式を襲うたものでないというものがあろうか。思うに丈六寺山のは、封土の崩壊、流失しやすきを避けて、自然の岩層を利用し、円墳の普通の形式に作成したもので、本来円き封土を有するを例としたものであった証拠とすべきものである。しかるに笠井君は反対に、これをもってその塚たることを否定するの料とせられ、余に望むに該遠蹟を緻密に蹈査、観察すべかりしことをもってせられたのは、実に思いの外のことである。余はむしろ、笠井君にして「緻密にこの遺蹟をだに調査されたならば、その埋葬法はもちろん、その他すべての問題はた(313)いてい解決されたであろう」と申したいくらいである。
 
      六 いわゆる阿波式石棺の年代いかん
 
 笠井君はまた、余がいわゆる阿波式石棺をもって、大化以後のものと断じたものとして、その理由の説明を要求されている。まことに思いの外である。余の演述のうち、どこにそういう意味が表われているであろうか。実を白状すれば、余の目下の研究ではいまだ古墳墓の年代を判然決定するまでに進んでおらぬ。ただ在来の諸説の上に一歩を進めて、幾分にてもその真相に近づかんことを希望して、今まさに『歴史地理』誌上において、引続き「古墳墓年代の研究」の論文を発表しつつあるところである。したがってかの講演にも、「時代は判然いえませぬ」と断ってあるほどで、これを大化以後と断ずべき理由もなく、また、しか断じたことも、思って見たこともないのである。余の講演は申すまでもなくきわめて通俗な、きわめて簡単な、素人相手のものであれば、君のごとき専門学者が、厳格なる態度をもって、一字一句を穴ぐり穿鑿するにおいては、不十分、不完全なる個所ははなほだ多いことでほあろうが、しかもその筆記の文においても、これを大化以後だと解すべきなんらの字句を発見し得ない。余は横穴式壙穴が少くとも聖徳太子の時に行われたことを言った。しかしそれは「少くとも」である。臣下の側において、漢韓帰化人らが、遥かにそれよりも以前の時代においてこれを実施していたかも知れないのである。しかして竪穴式壙穴は、太古から引き続き、この時代にも行われ、奈良朝・平安朝より、明治・大正の今日まで及んでいるので、「この種の新らしい方の竪穴式の墓」といったからとて、それが大化以後のものだとは、どこをどう見て言われたことであろう。ことに埴輪云々のことは、一般に竪穴式壙穴を有する墳墓のことを述べたので、それももちろん、ことごとくの墓にあるというではなく、また何も君のいわゆる阿波式石棺にのみ閲したものではない。しかして余のいわゆる「新らしい方の(314)竪穴式の墓」とは、かの横穴式墳墓の行われた時代というくらいの意味ではあるが、しかも、その「時代ば判然言えぬ」という断り書きは、常について廻っているものと解釈されたい。なんぞこれを大化以後などと断ずることをなそう。またこれを断じ得るくらいならば、今さら事々しく、『歴史地理』誌上に、「古墳墓年代の研究」について努力苦心するところはないのである。いたずらに他の言葉尻を捕えて責め立てんよりも、目下発表中の余の論文を精読されて、共々に研究の歩を進めることに尽力せられたいものである。「埴輪なきの理由を以て「ピラミツド」の年代を紀元後に降す」などと、真摯なる研究に従事しつつあるものを愚弄するがごとき言辞は、何とぞ御用捨に預りたい。余は旧式墳墓に普通埴輪ありとは言ったが、ことごとくがこれを有するとほ言わなかったはずである。後期式墳墓には通例埴輪なきことを言ったが、そのことごとくが埴鴇を有せぬとは言わなかったはずである。幸いに御一考を願いたい。
 とは言うものの余は実に今もって古墳墓の年代については「時代は判然言えませぬ」の語を繰り返さねばならぬを悲しむ者である。したがって、いかにそれが簡単なる通俗講演であったとはいえ、今、君の弁駁を受けて、講演筆記を再読し、阿波におけるこれらの遺蹟を「新らしい方の竪穴式の墓」だとのように、一概に言い去ってあるのを見ては、いかにも言い過ぎの感あることを自認せざるを得ぬ。笠井君がこれを「大化以後と断じた」と言われたのは冤罪であるが、しかし、この点に向って一撃を加えられたのは、確かに急処に適中している。実際、笠井君の言われたごとく、地方によりてそれぞれ特色を有するものなるがゆえに、かの講演筆記に見ゆるごとく、一概に論じ去ることは不可能であらねばならぬ。もっとも筆記には、新しい方の物の少からず存することをのみ述べて、その同系統に属する古い物の存否について、なんら言及してないのであるから、ことごとくこれを後期のものだと断じた訳ではなく、したがって必ずしもみずからその非難を引き受くるには及ばぬようではあるが、ともかくもこれを詳説しなかったのは不備たるを免れない。ただし、笠井君が、朱を多く出すことをもって特色とし、「むしろ前期に属するものかとの(315)疑こそ起れ」と言われたことについては、その事実を疑わざるを得ぬ。氏は氏の「阿波国古墳概説続篇」においても、「それらの石棺は凡て朱で詰めてある」と言われている。しかし余の見聞したところでは、むしろ多数は朱を認めぬようであった。これは事実の問題であるから、ここに一言を加え、なおその年代については、笠井君の注意に基づいて、さらに他日の研究を重ねたいと思う。一般古墳墓年代のことは、現に『歴史地理』誌上に連載中の論文を見て、十分の御批評を戴きたい。
 
      七 余  談
 
 古墳墓の研究は、わが歴史地理学上、また古代史の研究上、最も重要なものの一であって、余も及ばずながら常に注意を怠らず、西は九州の南端より、中国、四国、近畿、東海、北陸、関東の各地に渉り、機会あるごとにこの方面の視察を重ねて、親しく各種各様の墳墓を調査したいつもりでばあるが、まだまだなかなか材料が足りない。このくらいの知識で古墳墓のことをかれこれと論じようとするのは、いわゆる井蛙の譏りを免れないとは思うけれども、さればとていつまで遠慮していても、百年河清を待つがごとき結果となる虞れがあるので、みずから揣らずしばしば管見を発表している次第である。なお、これからますます研究を積んで、幾分か実らしい見解をなすを得るの期に到達せんことを希望しているのである。したがって、笠井君のごとき熱心なる研究者の助言批評は、最も希望するところで、この意味において、君の弁駁文については非常にこれを歓迎し、かつ感謝するところである。
 なお余計なことではあるが、笠井君は余が副葬品の研究もまた必要であることを申したことに対して、先年和田氏と意見を交換したさいには、古墳の年代をその道物によって判定することははなはだ危険で、不合理であるという説でありながら、今に至って突然これを言うははなはだ矛盾したようであるとし、これが説明を求められた。
(316) 余は実に、笠井君ほどのお方が、かかる浅薄な揚足取り見たようなことを言われるには驚かざるを得ないのである。誠に思いの外だとの辞をここにも繰り返さねばならぬのである。余はかつて和田君に対して「実物のみより古墳墓の年代を考定せんこと、またたよりなからずや」(『歴史地理』第一四巻第四号)とは申したが、実物研究の不必要を述べた覚えは毛頭ないのである。余ばかりではない。かりにも史学研究法の一端を解したほどのものに、さる言辞を弄することがあり得べきであろうか。また余が記録と実物とをいかに塩梅して研究しつつあるかは、現に『歴史地理』誌上で発表しつつあるところの余の論文を見られても明かなことではあるまいか。かくのごときのことに対してまでかれこれ弁明の辞を費すのは、あまりに大人気ないとは思えども、せっかくこれが説明を請われたることとて、ついでながらかくの通り。
 余の講演をもって「吾人は従来考古学雑誌・歴史地理等の誌上で大抵伺ひ済みになつて居るお説であつた」との冷評に対しては、誠にお気の毒様と申すのほかはない。小生にはあいにく学説に不断著と他所行《よそゆ》きとを区別するほどの豊富なる持ち合せがなかったのである。
 終りに臨んで、自説の擁護に熱心なる笠井君が、中井君の攻撃に対し、速かに真相を明かにせんことを望む。
 
(317) 阿波の古墳墓に関する笠井君の再駁文について
 
 笠井新也君の希望に応じて、余の本誌第九号に掲載を請いたる弁解文が、ゆくりなくも、はなはだしく氏の感情を害して、翌月の誌上に罵倒的駁文を見るに至ったのは、余の最も遺憾とするところなり。当初、笠井君の冷評的詰問文の本誌上に現わるるや、すでにも言えるごとく、これに答うる必要の有無につきて、いささか躊躇するところありしが、その後氏は、さらに同一の文を郷里の日刊新聞に掲げて、これが答弁を促されたり。当時、余の親しき友人は、氏の挙動を批評し、心裡を忖度して、氏にして真に学のために問題を解決せんとならば、専門雑誌上の質問のみにて充分なるに、さらにこれを日刊新聞紙上に転載せしめたるは、ことさらに先輩を罵倒して郷党にその名を売らんとするものなるべければ、これに対して学術的論戦を交うるは愚の極なるべしと忠告せり。しかれども余はこれを信ぜざりき。氏は実にわが郷里の新進として、国学院在学当時より熱心と俊秀との聞え高く、教鞭を郷里の学校に執りては温厚と篤学との定評あり。余が甥なるものの妻は、親しく氏の教鞭の下に同校を卒業し、深く氏に推服す。されば、余もまたつとに氏の将来に嘱望し、今回のことのごときも、もちろん善意にこれを解し、氏が熱心の結果として、なんら意に介せず、したがってその弁解のごときも、深く意を用うるなく、従来学友との間に交換するに慣れたる例の(318)筆法と辞令とをもってしたりしが、不幸にしてはなはだしく氏を興奮せしめたり。余は従来、他を冷評するものは、おのれ多少の冷評を蒙るも、笑ってこれを迎うるの雅懐あるべく、他を罵倒するものは、おのれ多少の罵倒を蒙るも、あえて意に解せざるの度量なかるべからずと信じたりしが、今や氏によりて最も適切に、その誤解なりしことを教訓せられたり。ここにおいて余は、まず氏を怒らしめたるの粗忽を恥ずるとともに、余が将来に取りて、好注意を与えられたるを謝す。
 第九号掲載の余が弁解の文は、実にはなはだしく氏を興奮せしむるまでに粗雑不注意なるものなりき。しかれども、その記述するところは、当時の余の知識において最良をつくしたりと信ずるものなり。しかも氏は興奮のあまりか否か、これをもって贅弁贅論といい、乱暴なる論法とし、馬鹿馬鹿しき定義と評し、愚論・詭弁・痴説等あらゆる罵倒的用語をもってこれを迎えられたり。かくのごときの罵倒は学術的論争において、なんらの軽重をなすものにあらず、余またいささかもこれを意に介するところなけれども、さらにこれに対して一々弁解の辞を費さんも、とうてい興奮せる氏の理解を得難かるべく、なんら事に益するところなかるべければ、他を誤らざる限りは、もはや一切お答致さぬこととすべし。ただ氏が今日において、氏のいわゆる阿波式石棺が、もはや阿波の特有にても、阿波が本場にてもなきことを了知せられたるに満足せんのみ。氏は「所謂阿波式石棺が阿波に特有であるなどゝは、未だ嘗て考へた事もなければ、勿論云った事もない」と言わる。しからばまことに結構なり。余は氏が最初の文に、「其の構造も埋葬も方法も一種特別のものである」といい、「阿波の遺蹟の一異彩である」となし、次回の文においてもなお、「阿波国は此の種の遺蹟の本場である」と明言せられ、余が大分県下にもこの種のものの存在することを指摘したるに対して、果して然るかとこれを疑い、いわゆる「問うに落ちずして語るに落つる」の態度を遺憾なく暴露されたるによりても、氏が当初かく考えられたりと認定したるをもって、はなはだしき誤りなりとは思わず。しかるに氏は今に至りて「嘗(319)て考へた事もない」と豪語し、「余の述べたところは多少の言い過ぎのようである」として、氏の熱心に対し花を持たせたるつもりの余の謙遜の辞をも冷笑し、余計な親切なりとせらる。これ一に論争の弊として、余の将来において大いに警戒すべきのもの、もって氏に謝すべく、あえて深く弁ぜざるべし。ただしその論争の弊の極まるところ、ついに一般読者を誤るべき考古学上の事実に至りては、一言説明するところなかるべからず。
 笠井君はその再駁文において、氏のいわゆる阿波式石棺を図示し、いかにも切石にて見事に作れるもののごとく表わされたり。しかしてその記述の文中にも、
  阿波式石棺の略式のものには、或は一側に数枚の石を以てしたものや、或は底のないやうなものが少くない、
といい、
  博士は余の前篇に於て、阿波式石棺の完全なものゝ一例として挙げた丈六寺山のものを以て、特別稀有の例外であると云って居られるが、あのやうなものは、別に稀有でもなければ例外でもない、否あれ以上完備したものが尚幾つでもある。
と記して、氏の図示されたるものが、いかにも少からず阿波に存在し、余が大多数しかりとなすものをもって、「是も少くない」くらいの程度のものと認められたり。しかれども、余の見聞によれるところはしからず。まずかの図の示すところはなはだしく自論に都合よき誇張あり、事実は決して図のごとき切石にあらず、ただ扁平なる割石を組み合せ、外部よりの土壌の圧迫によりて崩れざらんがために、切り欠きを有せるもののみ。しかして氏の「少くない」と言わるるものは、決して「少くない」くらいの程度にあらず。余の知れる限りにおいては、ただ丈六寺山の一個(それも昨年崩壊して今存せず)のみ一枚石の底を有し、他はことごとく氏のいわゆる略式のものなり。このことにつきては、なお念のため、郷里にありて遺蹟に精通せらるる田所市太氏に照会せしに、同氏も、他にあるを知らず。
 
(320) 第一図 阿波の古墳墓(イは土中に掘り埋めたる部分)〔入力者注、略〕
 
「之を稀有と言はんよりは、むしろ特殊と称すべし」との回答を得たり。なお聞くところによれば、過般笠井君も「丈六寺山のもの以外にかゝる例ありや」とのことを田所氏に照会し、同氏は「他にあるを知らず」と答えられしという。されば、少くもその当時までは、笠井君も丈六寺山以外に、かかるものの存在を知られざりしがごとし。しかるに今に至りてこれをもってあえて稀有にあらず、否、それ以上完全なるものいくつでもありと言わる。これあるいはまたいわゆる論争の弊として、氏をして強いてこの言をなさしめたるにはあらざるか。もししからんには、これ一に余が不注意の罪なり。深く氏と学界とに対して謝するとともに、みずから警むるところなかるべからず。されどもし幸いにしてしからず、その後の氏の調査によりて発見せられたるならんには、これ非常なる新事実なり、願わくはそのいくつでもある分の所在をことごとく詳細に示されたし。余、近く帰省の機あれば、その節親しく踏査して、自己のためには新知識を得、学界のためには新資料を報道するを得んことを楽しむものなり。ただし、いわゆる八坂神社の古記録の類や、斯道の知識少き素人の報導等は御免を蒙りたし。責任ある学者の研究において、さる不確実なるものを材料とすることの危険は、氏もつとに経験多かるべく、充分熟知せられたるべきはずなればなり。もしそれ伊豆夏梅木、筑前周船寺の古墳墓をもって、氏のいわゆる阿波式石棺の類とし、もってこれを証せんとせらるるに至りては、いささか早計なりと言わざるべからず。夏梅木のものはいまだ見ねば知らず。周船寺のは余親しくこれを踏査して、その明かに一種の壙なるを知る。ただかくのごとき構造の壙ありというのほか、なんら石棺たるの証明とはならざるものなり。かかる類は、従来横坑と称せられたる掘込の壙窟中にはその例はなはだ多し。これをもっ(321)て石棺とせらるることは、氏みずから氏のいわゆる石棺がこれすなわち壙なることを裏書せらるるものと言うべきなり。さればかりに百歩を譲りて、丈六寺山以上の完備せるもの二、三ありたらんとて、氏のいわゆる「古代の人間と雖もさう馬鹿正直」ではなく、臨機応変のことをなすくらいの融通は利くべければ、数百中の二、三は例外として論ずべく、もって大体論の軽重をなすに足らざるなり。阿波における大多数のものは右図のごとし。その底部には数個の平石もしくは砂利を敷き、あるいは全くこれなきも少からず。かくのごときものをもつて、壙とすべきか、棺とすべきかは、今日においてもはや問題にあらざるべし。ことにその大多数皆しかるものをもって、略式なりとするの不可は論外なりと謂わざるべからず。
 さらに氏は、余が丈六寺山の遺蹟をもって、岩石を切り取り円墳状に造れりといえるを見て、詭弁なりと批評し、氏の図を見て思い付きたる説なるべしと推測し、「其の背面を蹟査すれば、それが円墳でも何でもない事がわかる。博士は実際にこの遺蹟を踏査されたのであらうか。もし踏査されてゐて、尚かくの如き言をなされるに至つても、実に博士の誠意を疑はざらんと欲しても得ないのである」とまで極言せらる。温厚の評ある氏をしてこの言あるに至らしめしは、実に論争の弊の極端に達せるものとして、深く遺憾とせざるを得ず。失礼ながら氏の図は、その円墳状を示すにははなはだしく不完全なり。実地はなおいっそう明かにその切り残されたることを示す。その前面は今や崩壊して存せざれども、氏が、「背面を踏査すれば、それが円墳でも何でもない事がわかる」と言わるるその背面の一部は、今なお完全に存して、はなはだ明かにこれを見るを得べく、余は昨年田所氏とともに親しくこれを踏査し、本年また再び実地に臨みてこれを確かめたり。こは余ひとりこれを認むるのみならず、田所氏また同説にして、氏はさらにこれをもってこの古墳の特色なりとせらるるなり。笠井君たるもの、自己をもって他を忖るなくんば幸いなり。
 右読者の誤解を来すの虞れありと認むるところにつきて二、三を弁ず、あえて笠井君に対して駁せんとするにあら(322)ず。もしそれその以外のことに至りては、笠井君にして神気冷静に復したる後、虚心坦懐に余が文を熟読せられなば、おのずから明かなるべしと信ずるなり。
 
 
(323) 高橋・関野両君の槨と壙との説について
 
      一 緒  言
 
 余さきに『歴史地理』の誌上において古墳墓の年代を論じ、従来普通に考古学者間に用うるに慣れたる用語のあるものの誤謬を指摘し、棺・槨・壙の別に及びたることありき。しかるに、余が学説発表の方法の拙なりしためにや、高橋健自君ら一部の斯道学者の正当なる理解を得る能わず、中にも高橋君のごときは、依然旧説を保持し、余が説に反対して、『考古学雑誌』第五巻第十号および第六巻第八号の誌上に「石棺・石槨及び壙を論ず」との論文を公にし、これを弁駁せられたり。
 高橋君の論文は、上下の二篇に分る。その上篇においては石棺を論じ、下篇においては石槨および壙を論ぜらる。ここに石棺とは、大部分余がいわゆる石槨に当るものにして、石槨とは大要余のいわゆる石壙に当るなり。しかして氏は、別に壙の存在をも認め、地質の堅固なる地点に穿たれる横穴の類は、すなわちこれなりとし、その石をもって内部を築き上げたる場合(すなわち従来いわゆる石槨にして、氏の依然これを保持するもの)には、壙は外に隠れて見るべか(324)らず、もしくは葬儀に際し、土をもって空所を充填する作用と同時に、おのずから消滅するものとせらるるなり。かくて余輩が、石壙と同一物を表わす語なりと認むる「石室」をもって、これ壙(氏らのいわゆる石槨)にあらず、墳前別に営造したる一種の建造物なるべしとせらるるなり。
 しかれどもこれを倭漢古今の文献に徴するに、棺・槨・壙の区別の古往今来厳然として存し、識者のこれを用うる決して紊れざること、余が『歴史地理』誌上に引用せる証文によりて明かなり。しかるに高橋君は、余をもっていたずらに葬儀の風習の改まりたる後の時代の事例をもって、六朝以前の古制を推さんとするものなりとし、『家礼』および『五礼儀』等の録するところは宋以後の新制なれば、もって古代を律するに足らずとせらる。これ余の真意を了解せられざるものにして、むしろ意外とするところなり。言うまでもなく葬儀の風習は、太古以来はなはだ多くの変遷を経たり。なんぞ宋以後の新制をのみ言わんや。しかも棺・槨・壙の文字の用例に至りては、かつて異同あることなし。なんぞ古えに槨と称するものこれ後の壙にして、後の槨と称するものこれ古の槨にあらずやと言わんや。かくのごときのことは、あえて事珍らしく論ずるまでもなく、一とたび「檀弓」「既夕礼」「喪大記」「士喪礼」等、その他『礼記』『儀礼』『周礼』等の諸篇を始めとして、これに関する古今学者の注疏、唐・宋以下喪礼に関する諸書等を通読しなば、何人も容易にその別あるを会得すべきものなり。決して高橋君らの推測せらるるごとく、六朝以前の古制と、唐・宋以後の新制とにおいて、その間、用語に差異を生ぜしものにあらざるなり。ここにおいて余輩は、失礼ながら依然旧説を保持せんとせらるる諸賢に向つて、単に類書その他に引用せられたる古書中の片言隻句のみに依拠せらるることなく、進んでその原本を閲読し、判然として紊れざる用語の区別を自得せられんことを請わざるを得ず。
 棺・槨・壙の別は、余がすでに『歴史地理』において説けるところ、ほぼその要をつくしたり。今にして重ねてこ(325)れを論ぜんは、あまりに徒労に過ぐるの感なき能わず。ことに高橋君が『考古学雑誌』上に論ぜらるるところは、時にその証文の引用を過ち、根本においてはなはだしき誤解に陥られたるものにして、その結論の正を得ざる、まことにやむを得ざるものあり。今これを指摘してその誤りを正さんは、きわめて易々たることなれども、かくあまりに明白なる過失を誌上に公表せんは、衷心まことに忍びざるところあり。ことに漢字に通ずる識者の間には、その別つとに明瞭にして、さらにこれを論ずるは徒労に類するの嫌いなきにあらざれば、余はこれに対する答弁を差控うるをもって、穏当なりと思考しき。しかるにその後、本邦考古学元老の一人たる八木奘三郎君は、遥かに書を朝鮮より寄せて、『人類学雑誌』上に氏のこの説を謳歌せらるるあり。八木君によれば、高橋君の前後二回の記事は、ほとんど八木君の意見と一致するが上に、参考書のごときはさすが帝都の好位置におらるることとて、博引旁証、まず遺憾なき点にまで到達せりとせらるるなり。八木君のごとき、三十年に近く考古学を専攻せらるる先輩にしてすでにしかり。世のいわゆる考古学者諸氏が参考書に不自由を感じ、ために用語についても正当なる判断を得ざる、まことにやむを得ざるなり。ここにおいてか余輩は、高橋君に対する答弁必要の有無につき、やや疑惑を生じたり。たまたま関野博士、考古学会総会において甎の説を講演せらる。余不幸にして、親しくこれを聴くの機を得ざりしが、幸いにしてその後、氏の文は、氏自身の執筆によりて雑誌上に現われたり。すなわちついてこれを観るに、氏は従来考古学者のいわゆる石槨が、依然としてこれ石槨なるべきことを主張せられ、ただに余輩の説をもって誤解なりと明言せらるるのみならず、漢字の本源地たるシナの考古学者が、壙と棺・槨とを正しく区別して記述したる語をまでも引用して、「笑ふに堪へたり」とさえ放言せらるるに至れるなり。八木・関野の両君は、実に余らの畏敬する斯学の大家なり。世人の翹望して斯道の泰斗となすところなり。しかもなお相率いて、かくのごときはなはだしき謬説を確信せらる。余の再弁あにやむことを得んや。すなわち識者が徒労なりとするの譏りをも顧みず、ここに本誌の余白を藉りて、簡単に論述(326)するところあらんとす。
 棺・槨・壙の問題につきて、従来の説と余が説との間に最も多くの隔りを生じたるものを、槨と壙との別なりとす。そのいわゆる石棺に至りては、『歴史地理』説くところほぼ余が意見をつくせるも、その後の研究発見もあり、またさきに保留したりしものもありて、別に説くべきところ多く、今これを併せ論ぜんは、おのずから散漫に渉るの虞れあるがゆえに、本篇においては特に槨と壙とにつき言をなさんとす。けだし、石槨の問題にして解決しなば、従来いわゆる石棺の何物なるべきかは、ほぼおのずから明かなるべきが上に、関野博士の言わるるところは、もっぱら槨と壙との問題にのみ限られたれば、今、高橋・関野両君の所説を一括して、本誌上に弁ずるを便宜なりと考えたればなり。
 
       二 高橋君の石槨説を評す。附八木君の横穴非壙説を評す
 
 高橋君は、余が天智天皇の詔にいわゆる石槨をもって、従来考古学者のいわゆる石棺のある物なりとするの説を排し、『山陵志』以来の旧説を保持して、余の石壙となすものを依然石槨なりと主張せられ、その証をシナ古代の文献上に求めんと試みられたり。
 氏の主として引かるるところは、「白虎通」「檀弓」「喪大記」の文なり。しかしてなかんずく「檀弓」の文をもって、わが石壙すなわち従来いわゆる石槨と比較し、これ疑いもなくシナの古代にいわゆる槨なりと断ぜらる。氏はこの点において、実に根本の誤りに陥らる。その他の引用文に至りてほ、記述、壙と槨との別につきて明白を欠き、いかようにも解し得らるるものなれば、もって旁証に供すべきあらんも、本論すでに覆りたる以上は、氏らの主張に対して、なんらの用をもなさざるものなり。
(327) 氏の引かるる「白虎通」の文は、槨を解して、
  槨之為v言廓。所2以開廓|辟《ヒラキ》v土、無1v令v迫v棺也
とあるもの。これ槨の用を説きたるに過ぎず。古代の墓、石または甎をもって壙の内壁を保護するの設備なく、ただちに柩を壙中に置き、土をもってその空隙を墳充するなり。ここにおいて、土をして直接に棺に迫るなからしめんがために、棺の外箱なる槨を備う。されば「白虎通」のこの句は、今の問題になんら関係なきのみならず、かえって槨が棺の外箱にして、民らの想像さるるごとき、壙の内壁を謂うにあらざるの証ともすべきなり。
 次に「喪大記」の、
  棺槨之間、君容v※[木+兄]、大夫容v壷、士容v※[無+瓦]
の語は、槨が後世のごとくわずかに棺を容るるに足るの狭小なるものにあらざりしことを示せるに過ぎず。すでに言えるごとく、上代の葬、石または甎をもって墳の内壁を保護するのことなく、葬儀の作法終るとともに、壙は消滅して土ただちに槨に迫るものなれば、槨と壙との間に明器を置くに便ならず。ゆえに槨を大にして、棺と槨との間にこれを置けるのみ、なんぞ他意あらんや。
 ここにおいてか氏が引かれたる「檀弓」の文を観察するの要あり。これ氏が最も多く力説せられたるところなり。氏の引用文に曰く。
  天子之棺四重、水咒革棺被v之、其厚三寸、※[木+施の旁]棺一、梓棺二、四者皆周。……(イ)
また日く、
  四重之上下四方悉周匝也。……(ロ)
  惟槨不v周v下……………………(ハ)
(328)と。中にも氏はこの(ハ)の文をほとんど唯一の所依として、これをわが従来いわゆる石槨、すなわち石壙に比較し、槨は例えば箱の底なきがごときものなりとして、
  我が石槨ほ側面と上面とは厳然石を組みてあれども、底面は小石を敷き、粘土の類にて固めたるを常とす。是れ檀弓に謂ふところの槨は棺と異なり、下を周らざるものにあらずや。
と論結せらる。
 ここにおいて余は、氏がなんらかの書より、いわゆる「檀弓」の文を孫引せられたるにあらざるかを疑わざるを得ず。「檀弓」言うところは単に上引(イ)の文のみ。(ロ)および(ハ)はその文に見るを得ざるなり。ただし鄭玄その「周」の字を註して、「周(ハ)匝也」となす。その後孔穎達さらにその疏を著して、「四者皆周」の語を解し、
  四者皆周(トハ)者、謂2四重之棺〔四字右○〕1、上下四方悉周匝〔七字右○〕、唯棺(ハ)不v周(セ)〔四字右○〕、下(ニ)有v茵、上(ニ)有(ル)2抗席1故也。
となす。あるいは高橋君は、右の孔穎達の疏の中、自説に都合よき、圏点を施したるある一部分のみを摘取し、これを「檀弓」の文なりと誤り、証明に用いられたるにはあらざるか。昔者『釈日本紀』において、『山海経』の「蓋国(ハ)在(リ)2鉅燕(ノ)南、倭(ノ)北(ニ)1、倭(ハ)属(ス)v燕(ニ)」の句を誤り摘取して、「南倭・北倭属(ス)v燕(ニ)」となし、爾後、『異称日本伝』を始めとして、明治の学界にまでその誤りを襲いしことありき。今また高橋君これをなす。後のこれを襲うもののために一言する、その要なきにあらず。
 ここにおいてまず、余をして試みに古制の※[木+醇の旁]につきて、説述するところあらしめよ。※[木+醇の旁]は木に従う。木材をもって造れる棺の外被なり。葬に際してはまず壙を穿ち、壙内に槨を設け、槨の底に茵を置く。茵は柩とともに運びて槨に入るるなり。茵はシトネなり、棺の下に敷きて、棺をしてただちに土に接せざらしむるものなり。「既夕礼」に曰く、
  (上略)v茵用2疏布1、緇翦有v幅、縮二横三。
(329)と。鄭玄これを解して曰く、
  茵(ハ)所2以籍1v棺者。翦浅也。幅縁v之。
と。すなわち知る、茵とは縦(縮は縦なり)に木材二、横に木材三を置き、これに加うるに疏布をもってし、棺をその上に安んずべき設備たるを。かくてさらにその外に槨あるなり。槨の下を周せざるは、この茵あるがためなり。なんぞ高橋君の思惟せらるるごとく、わが従来いわゆる石槨すなわち石壙をもって比すべきものならんや。槨は下を周せず、また上をも周せざるなり。その上を周せざるは、棺をこれより懸下せんがためにして、すでに棺を下さば、※[木+醇の旁]上に抗木を置き、次に抗席を加う。「既夕礼」に曰く、
  坑木(ハ)横三、縮二。
と。注に曰く、
  抗(ハ)禦也。所3以禦2止土1者。其横(ハ)与v縮各足v掩v壙也。
と。壙を掩うに足るだけの長さの木材を縦横に組み合せ、※[木+醇の旁]上に置き、もって壙を掩うなり。かくてその上に抗席を加う。抗席三重、もって塵を禦ぐ。孔穎達が、茵と抗席とあるのゆえをもって、※[木+醇の旁]の上下を周せざるゆえんを解す。当を得たりと謂うべし。その抗木は※[木+醇の旁]上にありて壙を掩うに足るものなり。※[木+醇の旁]と壙との別ある、これによりても察すべし。
 ※[木+醇の旁]が箱の底板なきがごときものなりとの高橋君の説にして、すでにその出典の誤解なること明白となりし以上、氏が※[木+醇の旁]の説、ことごとくその拠る所を失えりと謂わざるべからず。氏が、
  我が石槨内に於て、棺、或は棺現存せずとも、屍体のありし所と四方壁面との間、諸種の遺物の配置あるは、斯界に知悉せらるゝ所なり。是れ白虎通に槨は土をして直接棺に迫らざらしむるものなるを説き、喪大記に、棺の外、(330) 槨の内に副産品を容るゝことをいへるものにあらずや。
と論ぜらるることのごときは、これ葬儀の変遷を無視せる説と謂うべし。「白虎通」「喪大記」等の記するところは、いまだ石または甎をもって壙の内壁を保護するの設備なき際のものなり。葬儀ようやく鄭重に赴き、石または甎をもって壙を築き上ぐるに及びて、ここに永久的の石壙または甎壙を生ず。かくて従来槨内に置きし明器は、これを槨外に置くを便とするに至るべし。なんぞ「白虎通」の文をもって、槨は常に直接土に接するのものなりとし、また「喪大記」の文をもって、石壙内の明器所在の位置を云為するを得んや。
 ※[木+醇の旁]はもと木をもって造るを本体とす。しかもこれを鄭重にするに及びて、永久的設備の法を講じ、石または甎をもって作るあり。石※[木+醇の旁]・甎※[木+醇の旁]これなり。また、天子の※[木+醇の旁]には、木材の外を石にて包めるあり。『周礼』夏官方相氏の条下に、
  大喪先※[匪の非が舊]、及v墓入v壙。以v戈撃2四隅1、※[區+敲の旁]2方良1。
とありて、孫怡譲の疏にこれを解し、
  壙(ハ)穿2地中1也。方良(ハ)罔両也。天子之※[木+醇の旁]、柏黄腸(ヲ)為v裏、而表(ハ)以v石焉。
となすものこれなり。柏の黄腸とは、相樹の中心にありて、黄色なる木理の部分を謂う。これを裏とし、石を表とすとは、柏※[木+醇の旁]の外部を被うに石をもってするなり。換言すれば、木槨・石槨相重なれるなり。しかして壙は別に存す。霊柩臺に及んで壙内に入り、方相氏戈をもって壙の四隅を撃ち罔両を退く。これ天子の葬なり。壙内に※[木+醇の旁]あり、※[木+醇の旁]はすなわち柏黄腸を裏とし、石を表とするもの。その※[木+醇の旁]と壙との間、方相氏戈を執りて四隅を撃ち、罔両を退くるの動作を演ずるに足るべき余地ある明かなり。いかんぞ壙これ石槨なりと謂わんや。
 さらにこれを氏の引用せると同じ「檀弓」中の、「公室視2豊碑1」の条下の疏に見よ。
(331)  案2春秋1、天子有v隧、以2羨道1下v棺、所2以用1v碑者、凡天子之葬、掘v地以爲2方壙1。漢書謂2之方中1。又方中之内、先累3※[木+醇の旁](ヲ)於2其方中1、南畔(ヲ)為2羨道1、以2唇車1載v柩至v壙、説而載以2龍※[車+盾]1。従2羨道1而入至2方中1。乃属3※[糸+弗]於2棺之緘1、従v上而下。棺入v於2※[木+醇の旁]之中1、於2此之時1、用2碑※[糸+率]1也。
 まず※[木+醇の旁]を方中すなわち壙内に累ね、霊柩壙内に至らば、すなわち※[糸+弗]を棺の緘に著け、上よりして棺を※[木+醇の旁]の中に入るという。壙・※[木+醇の旁]・棺の区別きわめて明瞭なり。これを余がさきに『歴史地理』誌上に引ける数多の証文と併せ見よ。三者の別、古来厳として紊るることなき、きわめて明かなりというべからずや。
 高橋君が従来のいわゆる横穴をもって、壙なることを承認せられたるはきわめてよし。しかもこれと同性質なる石壙をもって、壙にあらず石槨なりと言わるるに至りては、ついにその可なるを知らず。その石もしくは甎を用うるは土質粗にして崩壊するの虞れあるがためのみ。司馬氏『書儀』の自註に曰く、
  古老皆直下為v壙、而上実以v土也。今疏土之郷、亦直下為v壙、或以v石、或以v甎為v蔵。(中略)其堅土之郷、先鑿2※[土+延]道1、深若干尺、然後旁穿2窟室1、以為v壙。或以v甎範v之、或但為2土室1。と。甎をもってこれを範すると、ただに土室となすとは、時の宜しきに従うなり。その壙たるにおいてなんぞ相違あらん。わが邦において従来横穴と呼ばれたるものは、すなわち堅土の郷に穿たれたる土室にして、いわゆる旁穿壙なり。しかして高橋君そのすでに壙たることを承認せられながら、依然旧説に囚われ、「以v石為v蔵」のものをもって、これ壙にあらず槨なりとせらるるは、最も惜しむべし。
 もしそれ八木君が、高橋君の惜しむべきこの誤解の上に基づける諸説に渇仰讃嘆せられながら、かえってその横穴をもって壙なりとするの正説に反対せらるるに至りては、論外なり。氏は高橋君の引用せる司馬氏『書儀』の記事に、
  葬有2二法1、有2穿v地直下為v壙、置v柩以v土実v之者1。有d先鑿2※[土+延]道1、旁穿2土室1、※[手偏+竄]2柩於其中1者u。
(332)とありしにより、直下のものはいわゆる壙なるがゆえに壙と書せるも、※[土+延]道あるものは壙と異なるがためにことさらにその字を避けしに似たりとなし、「葬に二法ありと記して、葬有2二様土壙1一と書せざりしものゝ如し」とまで推論し、横穴葬壙説はおのずから消滅すべしと言われたり。しかれども、これ例の「南倭北倭」の類のみ。高橋君の引かれたるところはただ右の数文字に限られたれども、『書儀』の原文には、
  穿v壙葬有2二法1云云。
とありて、いわゆる二法のともに壙たるを述べ、ことにその自注には、右に引けるがごとく、「先づ※[土+延]道を鑿ち、云云、以て壙と為す」といい、また、「直下穿壙云云」、「坊穿之壙云云」などともあり、両者のともに壙たることを明記せるなり。いかんぞいわゆる横穴これ壙にあらずといわんや。
 すでに壙と槨との別、かく明かなる以上は、高橋君がこれに関する千言万語、畢竟空論に帰すべく、これに対して一々弁解するの要を見ず。なお詳細は余が旧稿「古墳墓年代の研究」中の「棺・槨・壙の弁」論ずるところを見らるべく、不日さらにその後を継いで、『歴史地理』誌上に委曲を論述するところあるべし。
 
      三 関野博士の槨と壙との説を評す
 
 すでに高橋君の説を評し、槨と壙との別を明かにしたる以上は、これに反対する説の採るべからざるは言うまでもなかるべし。しかしてここに関野博士の新説を評せんとするは、あまりに徒労に類すれども、しかも氏の所説のあまりに意表外にして、その自信のあまりに鞏固なるに感じ、いささか評言を呈して、敬意を表せんとす。
 関野博士は甎の研究よりして、その文に、穴・霊穴・※[山/廣](壙に同じ)・曠(同上)・宮室・神室・玄宮などの文字あるをもって、古え古墳の玄室を呼ぶにこれらの称ありしことを認められ、さらに甎文に、槨・冢槨・壁郭・霊郭・壁※[土+孚](333)等の文字あるによりて、その玄室の周界を限るところの※[土+專]築の四壁・天井はすなわち槨なりと論断せらるるなり。氏さらにこれを解して曰く、
  壙は穴なり。其の縦横・広狭を論ぜず、其の壁が土たると石たると※[土+專]たるとを問はざるなり。玄室亦壙に外ならず。故に前記の如く、此玄室の壁※[土+專]に穴・霊穴・※[山/廣]・曠(共に壙なり)等の文字を見はし、当時此の玄室を是等の名称を以て呼びたりし事を示せり。而も既に壙内に霊柩を安んずれば、他の※[土+專]文の如く、神室・玄宮、又は記録に散見するが如く、玄室・元宮等と称するを以て寧ろ妥当とすべし。
 槨は此壙(玄室)の周郭にして、其四壁・天井を木石若くは※[土+專]を以て築造せし部を云ふ。故に壙と槨とは自ら別なり。
と。氏は古墳の玄室をもって、これ壙なりとするの余輩の説を認められながら、なおその周壁・天井を槨なりとするの一新説を試み、もって石槨旧説の残塁を維持せんと努力せらるるなり。余あにその破天荒なる奇想に驚かざるを得んや。墓穴はこれ壙なり、しかしてその壙壁と天井とはこれ槨なりとは、倭漢古今の文献に徴して、ついに見るを得ざるの新説なりとす((補)『人類学雑誌』第三一巻第一号に、遠山荒次氏この説あるを後に見たり)。
 槨と壙との別はすでに説けるがごとし。もはや氏の新説を容るる余地なきは明かなり。しかも氏は非常なる自信をもってこれを主張せらるるなり。曰く、
  従来の考古学者は、少くとも多少の考ある者は、此の壙と槨とを混同せし事なし。現に高橋君の如き、玄室の内部を指す場合には石槨内の語を用ひられたり。然るに喜田博士は、従来の考古学者は壙を以て直に石槨と為せりとて、連りに攻撃せらるゝは全く誤解に出で、的なきに矢を放つものなり。但多くの所謂考古学者の中には、壙を以て直に石槨となせし者あらば、そは論外なり。
(334) 而も既に論ぜしが如く、石槨を以て囲まれたる内部亦壙たるを失はず。高橋君は之を以て石槨内と云ふを適当とすべく、壙と称すべからずと云はれたるは、千慮の一失たるべし。特に喜田博士が、壙の周壁即ち槨たるに気付かれず、槨は別に石壙若くは※[土+專]壙内へ安置せられ、其の内に棺を容るゝ者なるが如く考へらるゝは誤れり。我が古墳の石棺を以て石槨となされたるは、畢竟此の誤解より出でしなり。
 近世墓制の変遷するや、支那の学者往々古代に於ける槨の義を解せず。潜研堂金石文跋尾巻二に曰く、
  乾隆初云云、墓有2七壙1、壙中無2棺槨1云云、壙皆甎甃云云。
 壙皆甎甃なれば是れ※[土+專]槨にあらずや。然るに棺槨なしといふ、笑ふに堪へたり。此類少しとなさず。今西文学士は云云。余は墓壙を云ふときには常に玄室なる語を用ひ、墓壙の周郭を云ふときには常に石槨・木槨若くは※[土+專]槨なる文字を用ひ、明かに両者を区別し置けり。今西君惜むらくは壙・槨の別を知らず、喜田博士の謬見に随ひ、却つて余等の説を以て甚しき失態とせらる。かゝる見当違ひの批評こそ、甚しき失態にあらずして何ぞや。
と。『潜研堂金石文』の著者が、笑うに堪えたりと嘲られ、今西君が、はなはだしき失態なりとして罵られたるは、これ曲れるをもって直きを正さんとするもの、むしろ一の滑稽として看過すべきことなれども、わが考古学者が従来壙と槨とを区別し、多少の考えあるものは、決してこれを混同せしことなしと言わるるに至りては、事実上の問題として、氏の具体的証明を請わざるを得ず。余輩の寡聞なる、従来わが考古学者間において、壙と槨とを区別して用いしもの多きを知らず。高橋君のごときも、余が壙の説を発表して後、始めて壙なる語を使用せられしものなりと記憶す。余の狭き知識においては、始めて壙の語を学説上に使用せられたるは、明治四十五年七月発行『人類学雑誌』上における、故坪井理学博士の河内小山村城山古墳の調査報告にありと信ず。博士は、古墳墓の石室は横穴式なるを本体とすと解せられ、常にこれを石槨と呼ばれたり。しかるに今この古墳の室の構造の、その従来信ぜらるる(335)ところに反し、縦穴式なるに遭遇せられて、これをもまた石槨と呼ばんは紛淆の虞れありとし、特に壙穴の語を用いられたるなり。曰く、
  石棺の収めてある穴は、普通の石槨の様に、全部を石で畳んだものではなく、天上丈は大石であるが、周壁は土の所もあり、砂利の所もあり、割り石の所も有ると云ふ様な風でありますから、石槨と云はずに、壙穴と称する事にします。……
 石槨には外部からの連絡を示す通路の有るのを常としますが、此の壙穴には、之を欠いて居ります。……
 此の壙穴は、大石槨を作られた時期に次ぐ時のものと云ふべく、尚壙穴が極端に狭くなれば、周壁は終に石棺に接触して、事実上、土若しくは土と石との混合で、石棺を埋めた事と成るのでありますから……
と。これらの文においても、明かに穴その物を石槨と称せられたるを見る。けだし博士は、石槨には通路すなわち羨道のあるを常とすれども、この穴には羨道なく、構造異なるがゆえに、特に壙穴の新称を用うと言われたるなり。決して壙すなわち穴と、石槨とを区別して用いられたるにはあらず。したがってその新称の「壙穴」の語が、ただちに従来慣用の「石槨」に対して、同じく墓内の石室を示すに用いられたることは、明々白々の事実なりとす。元来坪井博士が、墓室その物を石槨と呼ばれたるは、おそらくは蒲生氏の『山陵志』に従われたるものなるべし。『山陵志』には、明かに「陵内之玄室、亦謂2之槨1歟」と記し、玄室と石槨とを同一視せるなり。しかして坪井博士これに従わる。博士にしてすでにしかり、その流れを汲む多くのわが考古学者が、穴その物をただちに石槨と称するに慣れたる、まことにゆえなきにあらず。考古学において最も多くの著書を有する八木君のごときも、その著書において壙の語を用いず、墓室その物を示すには常に石槨の称をもってし、時に槨室の語をさえも用いられたるなり。氏また坪井博士と同じく、古墳に縦穴の存在を疑い、昨年四月の『人類学雑誌』上において、「縦穴式石槨横穴式石槨とは何(336)ぞや」の文を寄せ、いわゆる横穴を図示して、「日本全国中の古墳石槨は殆ど此の類に属することは、何人も認むる所に有之候」と述べられ(その誤解については余その翌月の雑誌にて弁解せり)、かつ曰く、
  日本の石槨は其の構造の性質上より云へば横穴式なれども、併し石槨と横穴とは全然異る構造のもの有之候。故に、石槨の大部分は横穴式と称すべきも、横穴エコール石槨なりとは断ずべからず。
と。すなわち氏は明かに、最近までも穴その物に対して石槨の語を用いられたるなり。しかして関野博士はすなわち言う。「従来の考古学者は、少くとも多少の考ある者は、此の壙と槨とを混同せし事なし」と。しからばすなわち蒲生氏はもとより、坪井博士およびその流れを汲む八木君ら多数の考古学者諸氏は、ことごとく博士のいわゆる多少の考えだにもなき者なるべきか。否、ただに蒲生氏と、坪井博士と、八木君ら多数の考古学者とのみならず、関野博士自身においても、余が壙と槨との説を発表せし以前において、かつて槨と壙とを区別して記述せられたる一文あるを知らざるなり。忌憚なく言わば、氏自身また氏のいわゆる「多少の考」だもなきものなりしがごとし。試みにこれを最近の『朝鮮古蹟図譜』解説について見よ。玄室の語を羨道もしくは前室等と相対して用いられたる場合のほかは、たいてい玄室と槨とを同意義に用いられたり。さればその槨とあるものを玄室と改め、もしくは玄室とあるものを槨に換うるも、意また相通ずるを見るなり。今、少しばかりの実例についてこれを示さんか。
  (石巌洞古墳条)。前後二室より成る※[土+專]槨を有し東面せり。……玄室及び前室よりは刀等の副葬品を発見せり。……(一の三頁)
 ここに前後二室とは、玄室および前室をいうや明かなり。しかして玄室および前室よりなれる※[土+專]槨とは、これ室その物を指せるにあらずや。いかんぞこれを室の周郭のみを指せりと解するを得ん。
  (大同江面古墳(甲)条)。※[土+專]槨は一室より成り、四壁は上部に至るも殆ど内方に向つて彎曲せず、天井は恐らくは木(337)材を列べて構成せられしものならん(一の四頁)。
 ※[土+專]槨は一室よりなるという。これまた室その物を槨というにあらずしてなんぞや。しかしてその四壁と天井とを云云す。これ槨その物の四壁と天井とを謂うにあらずしてなんぞや。
  (大同江面古墳(東墳)条)。円墳にして前後両室を有する※[土+專]槨あり。天井は当初穹窿状をなし云云(一の五頁)。
 槨が室を有すとは、これあに室の内壁の謂ならんや。しかして槨の天井とは、これ室の天井の義にあらずして何ぞや。
  (内※[土+回の最後の画なし]古墳条)。此等の※[土+專]は蓋皆昔時玄室を築造するに用ひられしもの(一の七頁)。
 氏の説に従えば、※[土+專]は槨を築造する用材なるべきにあらずや。しかして玄室を築造すという。この「玄室」に代うるに、「槨」の字をもってせばいかん。
  (将軍墳陪塚条)。石槨は簡単にして三方花崗石を以て囲み云云(一の二二頁)。
 花崗石をもって囲まれたるものこれ玄室にして、氏の説に従わばこれを囲めるものすなわち石槨なるべきにあらずや。
  (星塚粂)。高句麗時代に普通なる石槨を有し、……玄室の壁の隅には柱及び一種奇異なる斗※[木+共]を図せり(二の一〇頁)。
  (雙※[木+盈]塚条)。玄室の四隅には亦斗※[木+共]を画き、北壁には楼閣中に夫妻の座像あり。……石槨の構造の奇なるのみならず、男女の人物車馬等を図する事多く……(二の一二頁)。
 氏は玄室の壁すなわち石槨なりというにあらずや。しかしてここに別に石槨を標出するはいかん。
  (青龍山西南麓古墳条)。石槨には板状の石材を組み合せて四壁となし、一大石を以て其上を覆ひしもの……(二(338)の一七頁)。
 玄室の四壁天井これを石槨といわんとするにあらずや。しかしてここに石槨の四壁天井をいうはいかん。
 かくのごときの例は随処に発見せらるべし。さらに著しきは、甲に玄室内(二の五頁)と呼べるものと同一物を指すに、乙には槨内(二の一四頁)の語をもってせるあり。その槨内とはすなわち玄室の内を示し、明かに玄室と槨とを同一視す。その槨内というもの、なんぞ槨その物を築成せる材料の間隙の謂ならんや。
 すなわち知る、問題に上れる『朝鮮古蹟図譜』においては、槨と玄室との用語の間に、判然たる区別をなすことなく、従来普通の慣例に従い、これを混同せることを。もとよりかくのごときは、おそらくは関野博士自身の執筆に係るものにあらざるべし。しかもその執筆者は、博士のいわゆる多少の考えだもなき考古学者たるの譏りを甘受すべく、これを統率する博士自身、また同一の責を免るる能わざるなり。関野博士統率の下に事に従う諸氏にしてすでにしかり。いわんや他の考古学者諸氏をや。余が槨と壙との説ある、なんぞ的なきに放つ矢なりとせんや。しかして今西君がこれを評して失態という、なんぞこれを見当違いの批評にして、はなはだしき失態なりと言わんや(ちなみにいう。関野博士は、墓壙をいうときには常に玄室なる語を用うと言われたれども、墓壙必ずしも玄室にあらず。数室連続の場合のごとき、その玄室以外のものまた壙と称すべし。また縦壙の場合、これをも玄室と謂うべきや否やを知らず)。
 しかれども、かくのごときはそもそも末なり。槨と壙との別、すでに説くところをもって明かなるべく、氏の誤解にしてすでに明かなる以上、さらにその上を論ずるの要なきに似たれども、氏は甎の文字より、これが新説を試みられたるものなれば、余もまたその同一なる材料よりして、直接に氏の誤解を訂す、その要なしとせず。
 博士の新説は実にその甎の文字より来る。けだし博士は、甎をもって墓内の壙をのみ築造せしものなることを予断し、その文字に穴・壙・室等の文字あり、また槨・※[土+孚]等の文字あるがゆえに、穴すなわち壙、すなわち玄室にして、(339)槨もまたその四壁天井を指せるなりとせらるるなり。しかれども、この予断すでに根柢において誤れり。甎の用なんぞ壙の四壁天井をのみ築成するに止まらんや。墓内の構造には壙あり、さらにその中に設けられたる槨あり、外に通ずる隧すなわち羨道あり。されば、壙を築くに用いられたる甎に穴・壙・室等の文字あると同じく、※[木+淳の旁]を築くに用いられたる甎に※[木+淳の旁]の文字ある、なんぞ怪しまんや。氏の引用せる同じ『千※[辟/瓦]亭専録』には、また富貴陽隧の甎をも収むるなり。その右側の文に曰く「万歳不敗」、上端の文に曰く「富貴陽隧」と、陸心源これを解して曰く。
  案隧隧道也。古者惟天子有v隧。後世臣下皆僭為v之。載延之西征記載彭城南有2亜父冢1、冢東北有2隧道1。見2大平御覧1。冢墓門、可v為2後世人臣用v隧之証1。此亦鳳皇冢中隧道磚也。
と。甎文に※[木+淳の旁]の字あるがゆえに、※[木+淳の旁]は玄室の周郭なりと言わんとする博士は、同じ甎文に隧の字あるがゆえに、隧もまた玄室と同一なりと解せんとせらるるか。なんぞかくのごとき没道理のことあらん。要は博士の予断の誤りに出ず。氏もし強いてこれを言われんとならば、まず甎は必ず壙すなわち氏のいわゆる玄室を構成するの料に限られたりとの事実を証明せざるべからず。少くとも氏の引用せる磚が、ことごとく壙の四壁天井に用いられたりしものなることを証明せざるべからず。しからざればその所論や、畢竟無意味なり。
 壙を造るに甎をもってするは常なり。隧すなわち羨道を造るに甎をもってするはまた常なり。しかして※[木+淳の旁]を造るに甎をもってする、また必ず多きを疑わず。陸心源その晋太康※[土+專]に注して曰く、
  棺之外、周(ラスニ)以v木、謂2之※[木+淳の旁]1、周(ラスニ)以v專、亦謂2之※[木+淳の旁]1。云云。夏之※[木+淳の旁]用v專。至v商而易(ルニ)以v木。至v周而有2用v石者1。桓司馬為2石槨1是也。木不v如2專之久1。石不v如2專之倹1。故後世用v專多。而用v木少。
と。その三代の制を謂うもの、必ずしもことごとく信ずべからずとするも、その※[木+淳の旁]を作るに甎を用うるものの多きは疑うべからず。しかしてその文に※[木+淳の旁]と記する、なんぞ怪しむに足らん。
(340) 甎文に穴・壙・室等の文字あるは、壙に用いたりしものなり。甎文に隧とあるは、羨道に用いたりしものなり。その※[木+淳の旁]とあるは、必ず※[木+淳の旁]に用いたりしものならざるべからず。余輩は関野博士と同じ甎の研究よりして、壙と隧との別物なるがごとく、また壙と※[木+淳の旁]との全然別物なることを立証せんとするものなり。
 
        四 結  語
 
  高橋君が従来いわゆる横穴をもって壙なりと承認しながら、その石をもって築成せるものを依然石槨なりとせらるるは、単に「檀弓」の孫引に誤られるものにして、最も惜しむべしとなす。関野君が玄室をもって壙なりとするの説を是認しながら、なお石槨とはその四壁天井をいうと論ぜらるるは、甎文の誤解に基づかれたること勿論なれども、しかも氏自身を始めとして、従来多少考えある考古学者が、ことごとくこれを区別したりと言わるるに至りては、強弁の嫌いなき能わず。しかれども、かりに百歩を譲りて、余が前節指摘せる氏らの『朝鮮古鏡図譜』の用例をもって、執筆者自身はこの区別をなしたるつもりなりとするも、槨がすでに壙の四壁天井の謂にあらざること明白なる以上、これを呼ぶに※[土+專]槨または石槨の語をもってせらるることは、とうていかの地の学者の理会を得ず、もしくは嘲りを招くことなしとも限らず、今西君のいわゆる「甚しき失態なり」との譏りはとうていこれを免るる能わざるなり。
 壙と槨との問題にしてすでに決すれば、いわゆる石棺の問題もすでに大半解決したるものと謂うべし。その別を説く、余輩のさきに『歴史地理』に載せたるところ、その大要をつくせり。しかれども、その後さらに文献と実地とより研究を重ね、新たに解説を得たるものまた少からず。壙内にシナの古書謂うところの槨に類したる石造物あるの例は、九州地方において多くこれを見たり。また、近畿地方にその例多き家根形石棺と呼ばるるものは、かの書にいわゆる※[木+淳の旁]に四阿ありというに当れるもののごとく、また河内小山村に発見されたるいわゆる石棺の、その蓋の上面に縦(341)横に木を組み合せたるがごとき形を表わせるは、これ※[木+淳の旁]上の坑木に型どれるものにあらずやと解せらるるなり、このほか、従来いわゆる石棺が多くはまた※[木+淳の旁]に当るものなるべきことの証明は多々これあり、しかれども、今これを論ぜんは、あまりに長文に渉るがゆえに、本編はもっぱら本誌に見えたる高橋・関野両君の槨と壙との説に対する論評に止め、さらにその全般に渉りては、『歴史地理』誌上における「古墳墓年代の研究」の稿をつぎ、該誌上において詳細論弁するところあらんとす。読者、彼此を併せ見られなぱ幸いはなはだし。
 
 
(343) 棺・槨・壙再弁(古墳墓年代研究続稿)
 
         一
 
 1 緒 言
 わが考古学者間に普通に使用せらるる「石槨」なる称呼が、蒲生氏の『山陵志』以来の誤解を継承せるものにして、その実石壙と称すべきものたるべく、したがって従来石棺として普通に知られたるところのものが、棺の外被たるべき「槨」に当り、天智天皇の詔中にいわゆる「石槨」すなわちこれなるべしとの論証は、余さきに古墳墓年代攻究のさい、その「棺・槨・壙の弁」中にこれを述べたり。当時、余のこれを論じたる趣旨は、単に従来の用語の誤謬を訂正せんというよりも、これによりていわゆる「石槨」の何物たるべきかを確定し、もってわが古墳墓年代考定の上に一好資料を提供せんとするにありき。この問題にして確定せずんば、史上最も重要なる資料を手にしながら、これをその研究上に適用し難きのみならず、時にははなはだしき誤謬に陥ることなしと謂うべからざるなり。故坪井理学博士のごとき着実なる研究大家においてすら、かつて常陸瓦会の古墳を調査せらるるに当り、その(344)石壙を見て、右の詔にいわゆる石槨なりと信ぜられたりしがために、これをもって天智天皇以前の物なりと考定せられたることありき。これ博士研究法の誤りにあらず、当時の用語の正しからざりしの致すところなり。博士の研究法は正し。これをその後の考古学者が、天智天皇以後において確かに石壙の築造せられたる事実を知悉しながら、なおかつ浸然天皇の詔は空文に終れるものなりとして、軽々にこれを看過せんとするものに比すれば、勝れること万々なりとす。天皇の施政は万世の標準として重んぜられ、後の政を言うもの、常に淡海朝廷の法を説く。中にもその石槨廃止の詔は、特に「万世の鏡誡」とせよとまで、厳格に定め給えるものなり。臨時の格として、令の不備を補い給えるものなり。いかんぞその御子天皇の御代において、たちまちこれを破りて顧みざるのことあるを想像し得んや。これ余がことにこの詔を重しとするゆえんなり。余のこの研究ある、あにやむを得んや。さればその論ずるところ、これを文字の母国たるシナ古代の葬儀の制に考え、さらにこれを爾後の文字の用例に徴し、またわが邦古来の文献に照らして、棺・槨・壙の文字が、シナにおいても、本邦においても、古往今来識者の間に使用せらるるところ、厳として紊れず、壙を呼ぶに槨をもってし、槨を呼ぶに棺をもってするがごときことの絶無なる次第を明かにしたりしなり。
 しかるに余の論文は、不幸にして一部考古学者諸氏の間に徹底せざりしものと見え、高橋健自君は余が「弁」の終るを俟ちて、その翌月の『考古学雑誌』(第五巻第一〇号)上に、「石棺石槨及び壙を論ず」と題し、まずその石棺に関する考説を発表せられ、爾後十閲月、本年四月発行の同誌(第六巻第八号)上において、さらにその稿をつぎ、石槨および壙に関する考説を発表して、依然旧説を保持し、余が意見を弁駁せられたり。
 高橋君の説によれば、氏は余の引用せる古今の例証の中にも、特に『家礼』および『五礼儀』等の文によりて、棺・槨・壙の別あることを十分に認められながら、しかもこは宋以後の新制にして、もってわが墳墓の参考とすべき六朝以前の古制を徴するに足らずとし、古制にありては、わが考古学者のいわゆる石槨が、シナのいわゆる槨に相当(345)し、したがってわが石棺と称せらるるものが、依然棺たるべく、壙とは通例石槨の外に隠れて見るぺからず、またその槨の設けなき時には、土をもって棺を理むるとともに、壙は消滅するものなりとせらるるなり。
 高橋君のこの説は、葬儀の古今の変遷と、文字の意義の変遷とを混同せられたるもののごとし。三代と、漢魏と、六朝と、唐宋と、それぞれに葬制に変遷あるべきも、棺は屍を容るるの器、槨は棺を容るるの器、壙はさらにこれを安置すべき墓穴なりとの点においては、前後毫末の異同あるを見ず。しかるに高橋君は、先入主となりて、ために古文の適当なる解説を誤られたるがうえに、さらに重要なる点において、引用文の字句にまでも誤りを重ねられたれば、ついにその結論は、最も明かなる誤謬に陥るのやむなきに至られたり。これ氏のためにも、また斯学のためにも、最も惜しむべしとなす。
 棺・槨・壙の別は、少しくシナの葬儀に関する書籍を通読しなば、随所に発見さるべきものにして、さらにこれに関して喋々せんは、ほとんど徒労に類するの感なしとせず。特に近く高橋君のなされたる過誤のごときは、最も明瞭なるものにして、今にしてこれを雑誌上に指摘せんは、ことさらに他人の過失を吹聴するの感ありて、衷心潔しとせざるところなれば、余はなるべくこれに対して、答弁を差控うるをもって穏当なりと考えたり。
 しかるにその後、日本考古学において最初の、かつ、最も多くの著書を有せらるる八木奘三郎君は、遠く朝鮮より書を『人類学雑誌』に寄せて、はなはだしく高橋君の研究に謳歌し、氏が帝都の好位置にありて参考書に自由なるを讃嘆し、その研究をもって、博引旁証まず遺憾なき点にまで到達せるものなりと激賞せられたり。しかのみならず、八木君は、さらに高橋君の上に出でて、高橋君がつとに余の説を容れ、従来普通に横穴と称せられたるものはこれ壙なりと認められたるの点をも否認し、ことごとくその旧説を維持せんと試みられたり。
 これと相前後して、ただに内地各所の古墳墓のみならず、さらに朝鮮・満州・シナ各地の古墳墓の実地にも通暁せら(346)るる関野工学博士は、過般の考古学会の総会に墓碑の研究を発表せられ、壙と槨との区別について余輩の説を確かむべき重要なる資料を提供せられながら、かえって反対に余が説を駁せられたり。しかのみならず博士は、従来普通の用例にも違いて、槨は壙の四壁・天井なりとの説を唱道せられたり。文は載せて『考古学雑誌』第六巻第十一号にあり。
 八木君の説は、高橋君がその一部分を抄録せる司馬氏『書儀』の文を、その抄録せられたる部分のみにつきてたやすく臆測を下されたるものにて、根本に誤りあり。したがって、これについて深く論ずるの要なけれども、氏のごとく多年斯学に没頭せらるる先覚にして、なおかくまで参考書に不自由を感ぜらるるを見るにおいて、斯界の前途に対し、慄然たらざるを得ざるものあり。
 関野博士は※[土+專]文研究の結果、その文に、穴とも、室とも、壙(曠・※[山/廣]等)とも、また槨(※[木+醇の旁]・※[土+孚]等)ともあるがゆえに墓穴すなわち玄室はこれ壙にして、その壙の崩壊せざらんがために築き上げたる四壁・天井すなわち槨なりとせらるるもののごとし。しかれども、こは※[土+專]がことごとく壙の四壁・天井をのみ築造する用材なりとの予測より得られたる結論にして、前提において根本の誤解あり、結論なんぞ正しきを得んや。壙は壙なり。槨は槨なり。その※[土+專]の文字に壙とあり槨とあるは、なお隧道を築ける※[土+專]に隧とあると同じ。しかして隧と槨とに別あるがごとく、槨と壙とにもまた別あり。その実例少からず本邦に現存す。いかんぞ槨すなわち壙の周郭なりと謂わんや。しかるにもかかわらず、博士は非常なる自信をもってこれを発表せられ、シナ学者の正当なる用法によれる槨と壙との使い分けを評しては、これを「笑ふに堪へたり」と嘲り、今西龍君の適切なる『朝鮮古蹟図譜』の批評に対しては、これを「見当違ひ」となし、「甚しき失態」と罵らるるに至る。しかのみならず博士は、その槨に対する新説を発表せらるるや、「従来の考古学者は、少くとも多少の考あるものは、此の壙と槨とを混同せしことなし」といい、「余等亦決して墓壙を槨と記せし(347)ことなし」と説き、「余は墓壙を云ふ時には常に玄室なる語を用ひ、墓壙の周郭を云ふときには、常に石槨・木槨、若くは※[土+專]槨なる語を用ひ、明かに両者を区別し置けり」となして、余が所論をもって、「的なきに矢を放つものなり」とまで冷評せられたり。これただに余に対する冷語たるのみならず、実に『山陵志』の著者蒲生氏を始めとし、放坪井理学博士以下、博士の流れを汲む現代多数の考古学者諸氏、ないしは関野博士自身の統率せらるる最近の『朝鮮古蹟図譜』解説の執筆者諸氏より、さらに博士自身の過去をまでも一括して、ことごとくこれ多少の考えだもなきものなりとして一掃せられたるものなり。他の諸氏に関する例証は措く。『朝鮮古蹟図譜』解説が、しばしば槨を墓内の室の意味に用いたるは、『考古学雑誌』上に指摘し置けり。これ博士が、「余等亦決して墓壙を槨と記せしことなし」と明言せられたるものなり。けだしこの解説は、博士自身の執筆にあらざるべし。しかも博士は、その統率者として、また博士のいわゆる「余等」の一員として、みずから欺けるの責任をいかんせん。ただし、用意周到なる博士自身が、余の壙・槨の問題を学界に提出したる以後に発表せられたる、「清洲輯安県及び平壌付近に於ける高句麗時代の遣蹟」(『考古学雑誌』第五巻第三、四号)には、さすがにこれを混用せらるることなかりき。博士は羨道に対して常に「玄室」の称を用い、博士の新説にいわゆる槨を表わす場合には、常に「壁」もしくは「天井」の語を用いて、前後五十七頁の大論文中、ただ一個所の外は「槨」の字なく、むろん「壙」の字をも使用せられざるなり。されば、当時博士が壙と槨とに対して、いかに解せられたりしか、今これを知るに由なけれども、その以前に発表せられたるものにありては、他の多数の考古学者諸氏と同じく、羨道に対して「石槨」の字を用い、玄室を図示してはこれをも「石槨」と明記し(その図は決して室の四壁天井をのみ表したるものにあらざるなり)、また、玄室の四壁・天井などあるべきところをも、石槨の四壁・天井などと記して、いささかも憚られざりしなり(例えば『考古学雑誌』第一巻第七号、第三巻第八号等)。けだし博士は、最近に槨の新解釈を得られたるがため、過去のすべてを忘却し給えるものにして、その熱心や敬慕す(348)べしといえども、これがために冷語せられ、罵倒せられ、多少の考えだもなきものなりとせらるるは、第三者の堪えざるところなりとす。
 八木君と関野博士とは、ともに本邦考古学の泰斗なり、しかも相率いて余が説に耳を藉さず、依然旧説を固執せらるることかくのごとし。学界の趨勢知るべきのみ。ここにおいてか余あに斯学のために一言なきを得んや。すなわち匆卒蕪文を草して、高橋君と関野博士とに対し、当面の弁解を『考古学雑誌』に投じたり。しかもその説くところは、単に両氏の論文に関する弁解のみ。今にして思うに、余がさきに発表したりし「棺・槨・壙の弁」は、叙述なお不備なるものあり、その後研究し得たるところまた少からず。前文が一部考古学者間に徹底せざりしものも、畢竟その叙述の不備なりしがためなるべければ、今ここに煩を厭わず、暫時中絶せし「古墳墓年代の研究」の稿を継ぎ、さらに「再弁」を草してその不備を補い、新たに得たるところをも加えて、もってその説を完からしめんは、最も時宜を得たるものなりと信ず。これ本篇あるゆえんなり。されば、その前説言えるところのごときは、多く略して繰り返さず。読者請う彼此を参照せられんことを。もしそれ本篇説くところ、これを従前発表の諸説に比して異同あらば、本篇をもって前説を訂せるものと解せられたし。
 2 棺の再弁
 棺の何物なるかは、前篇ほぼこれをつくしたり。その直接屍体を容るる具たるは言うまでもなし。したがって普通の場合、棺と地物との間に紛更を生ずべきことあるべからず。しかるに、従来わが邦にて石棺と称せらるるものが、多くの場合においてこれ石槨なりとする余の説に対して、論者あるいはその中に木棺を容るる適せざるものあるのゆえをもって、これまた依然棺なりと主張し、余が説の是認を難ぜんとす。ここにおいてかさらに棺の槨と異なるゆえんを明かにするの要あり。
(349) 言うまでもなく楷は木をもって作るを本体とす。ゆえに文字にも木に従わしむ。しかれども、棺必ず木製と限るべからず。「檀弓」に「有虞氏瓦棺」とあり。石棺・銅棺・革棺等の例また稀に存す。本邦の俗、今もなお屍体を甕《かめ》に納むることあり。これまた陶棺の一種とも認むべし。
 人死すれば屍体を棺に納む、これを柩という。「曲礼」に「在v※[將の旁を木に]曰v尸、在v棺曰v柩」とあり。葬儀に際しこの柩を墓に運ぷ。しからば、棺とは葬儀に際し、屍体を蔵めて墓処に運搬し得べきものならざるべからず。棺必ずしも単一ならず、「檀弓」に「天子之棺四重、水※[兒の臼を凹]革棺被v之」とあり。註に、「諸公三重、諸侯二重、大夫一重、士不v重」と見ゆ。たとい幾重なりとも、あらかじめ屍体を納めて殯所に安んじ、葬に際して墓に運ぶものは、ことごとくこれ棺なり。槨にあらざるなり。「檀弓」に「棺周v衣、※[木+醇の旁]周v棺」というもの、必ずしも棺を重ぬるの義にあらず。棺と※[木+醇の旁]と本来その性質を異にす。※[木+醇の旁]は当初よりこれを墓に構え、古代石壙・甎壙の設備なきさいにおいて、土をして直接棺に迫ることなからしめんがための外郭なり。しかして葬儀に際し、柩をこれに蔵むるを古制とす。こは改めて次節に詳説すべし。後世あるいは石槨中に別に木槨を重ね、時としてあらかじめその木槨中に柩を収め、これを墓所に運ぶことあり。『類聚雑例』に、後一条天皇御出棺のさいのことを記して、殯殿より御棺を出して槨中に安んじ、御輿長ら御輿を舁き下し、駕輿丁これを荷いて葬所に向い奉れる由見ゆるごときこれなり。かくのごときは葬儀の一変態なれども、しかもその御槨は、さきに殯殿に安置せし霊柩を、葬送に際して蔵め奉りし葬具にして、初めより御棺を重ねたるものとは、全く本来の義を異にす。「檀弓」に天子の棺四重といい、公・侯・大夫・士、それぞれ身分に応じて棺を重ぬるは、あらかじめこれを設備して屍を納め、いわゆる柩をなすものにして、決して葬儀に際し、さらにその柩を槨に蔵むるものと、同視すべきにあらざるなり。
 棺の用たる、すでに屍を納めて墓所に運ぶものなること明かなる以上、瓦棺といい、石棺といい、もしくは陶棺と(350)いうも、あらかじめ屍を納めて、これを墓所に運搬し得るものならざるべからず。初めより墓処に設置し、葬儀に際し屍を運びてこれに容るるものは、たとい中に木棺を蔵むるに適せず、直接その中に屍体を横たうるものなりとも、これ槨にして決して棺にあらざるなり。
 葬儀に際しては必ずしも、常に棺あるを要せず。『隋書』琉球伝に、
  其屍以2布帛1纏v之、裹《ツツムニ》以2葦草1、※[木+親]v土而殯。
とあり。『陳氏使琉球録』には、
  死者以2中之前後日暖1、水2浴其屍1、去2腐肉1、収2其骸骨1、以2布帛1纏v之、裹以2葦草1、※[木+親]v土而殯。
と見ゆ。もし「檀弓」の「棺は衣を周る」の義を広く解すれば、これらあるいは葦※[木+親]とも称すべきか。槨に葦槨あり、葦棺の称必ずしも不可ならず。されど屍体と骸骨と、その扱いに異同なかるべからず。こは次節槨の条下に論ずべし。隋の煬帝の崩ずるや、棺の準備なく、※[爿+木]席をもって屍を裹み、これを埋む。『隋書』にこれをも棺という。
  大業十三年十一月、唐公入2京師1、途尊v帝為2大上皇1、立2代王侑1為v帝、改2元義寧1。二年三月右屯衛将軍宇文化及等、以2驍果1為v乱、入犯2宮※[門/韋]1、上崩2于温室1。蕭后令2官人1、撤2※[爿+木]簀1為v棺、以埋v之。化及発後、右禦衛将軍陳稜、奉2梓宮于成象殿1、葬2呉公台下1。唐平2江南1之後、改葬2雷塘1。
 簀のごときも、屍を包まばすなわち棺と称して可なりと見ゆ。しからば、木棺を容るるに適せざる種類のわがいわゆる石棺のごときは、簀棺・席棺・帛棺の類を納めしものとも解すべし。なおこのことは次節に説くところを見よ。
 ともかくも、当初より墓処に設備するものはこれ棺にあらず。ゆえに葬儀に槨ありて棺なきものあり。『後漢書』に夫余の俗を記して、
  死則有v槨無v棺、殺v人殉v葬、多者以2百数1、其王葬用2玉匣1。
(351)とあり。由来『後漢書』は多く『魏志』の文によれるものにして、『魏志』には、「其死夏月皆用v氷、殺v人殉v葬、多者百数、厚葬有v棺無v槨。」とあれば、右の『後漢書』の文、あるいは誤写にあらずやと思われざるにあらざるも、その文すこぶる『魏志』と異なるが上に、『晋書』にも、「有v槨無v棺」とあれば、必ずしも誤写とのみ断ずべからず。『後漢書』が『魏志』を訂正せる場合また往々にしてこれなきにあらざれば、『魏志』が認めて棺となしたりしものを、『後漢書』はその用法よりして、これを槨なりと訂正したるにてもあるべきか。よしや『後漢書』と『晋書』とともに誤りなりとするも、文字に精通したるべき『後漢書』ならびに『晋書』の編者らが、相率いてこの誤りをなせるを見れば、葬儀に槨あり棺なきものの存在し得べきは明かなり。さらに李延寿の著なる『南史』高麗伝にも、また、
  其俗既嫁安、便梢作2送葬之衣1。死有v槨無v棺。
とあり。けだし屍を特に棺に納むることをなさず、布帛等の類をもって裹み、これを墓処に設備せる槨中に蔵めしものならんか。この場合、その屍を納むるもの、これ槨にして棺にあらず。余がさきに、木棺を容るるに適せざる様式の、わがいわゆる石棺の解決に苦しみ、「正当に字義を解すれば、さらにその中に木棺を納めざる前記の例(すなわち石枕を作りつけるもの)のごときものは、これ槨にあらずして棺なり。この場合は棺を略して、普通に石槨とするものをただちにこれにあてたるもの、かかる形式の葬法並び行われたりと解する、また可ならずや。」と説きたりしは、ここに思い及ばざるの誤りなりき。
 『越絶書』に呉王闔閭の塚、銅棺三重なることを記し、『西京雑記』に、魏の襄王の塚に革棺ありしことをいえるは、有虞氏瓦棺というと同じく、その用材の木ならざるのみにして、棺たるにおいて異あるなし。その石棺という、またしかり。わが邦にいわゆる石棺中にも、真に屍を納めてこれを墓処に運搬せし証あるものあらば、これすなわち棺と称すべきものならん。不幸にして余いまだ、そのかくのごときものあるを知らざるなり。中には小形にして、運搬に(352)堪うるものなきにあらざるも、これと全然同一形式の物が、重量はなはだ多くして、とうてい葬儀に際し移動すべくもあらず、もしくはその構造組合せ式にして、とうてい担荷に堪えざるもの多きにおいて、その小なるもののみこれ棺にして、他はしからずと謂うべからざるなり。
 陶棺と称するものまたしかり。その大なるものは往々二個を組合せて成り、もとより運搬に適せず。しからざるものも、あるいは重きに過ぎ、あるいは脆弱にして、担い行くべきにあらざるもの多し。ただし近時しばしば行わるる前記甕棺のごとき、あるいは九州地方において発見せらるる二個の甕を合せたるもののごときも、これ真の意味における陶棺というべきものか。なお石棺・陶棺のことは次節説くところを見よ。
 論者あるいはわがいわゆる石棺の形式が、往々にして木棺の形式に類似するものあるをもって、石棺は木棺の変遷したるものに過ぎずとなし、これをもって依然棺なるべきことを主張せんとす。しかれども、木材をもって組み立てたる木棺が、同じく木材をもって組み立てたる木槨に似たるべきことを思わば、この間題の解決はきわめて易々たるべし。いわんやわが石棺の形式が、必ずしも木棺の形式に類似したるにあらざるをや。これまた次節に詳説すべし。
 もしそれ荼毘に付したる遺骨を蔵むる木函に至りては、その形木棺に類すといえども(小治田安萬侶の例のごとき)、こは陶製もしくは金属製の骨壷と同じく、一の納骨器と解すべきものにして、もとより棺というべからず。嘉禎元年、賊の檜隈大内陵を発くや、「阿不幾乃山陵記」には、天武天皇の御遺骸を納め奉れる御棺のことを記したれども、持統天皇荼毘の御遺骨の上に及ばず。しかして『明月記』には、これを記して銀筥となし、御棺とは言わざるなり。もって例証とすべきか。高麗の墳墓内にある石函のごときも、普通に石棺と称すといえども、これまたもとより棺というべからず。その内部には荼毘したる遺骨を蔵め、時にはさらに小骨壷をも収めありという。しからばむしろ槨というべき類のものと解すべきに似たり。
(353)
 1 緒 言
 再び「棺・槨・壙の弁」を草して、前号にその棺の部を終りたる余輩は、ここに槨について稿を進むるの順序となれり。しかるに槨と壙とに関しては弁説すべきところすこぶる多く、前篇発表の後、新たに得たる材料また少からず、前説にも多少の補正を要するものあり、したがって、その記述やや長編に渉るの虞れあれば、編者と読者との便を図り、特に標題を改めてここに掲載を請うこととせり。ただし、その内容が依然「古墳墓年代の研究」中の一篇にして、前号所載「棺・槨・壙再弁」の続稿なるは勿論なり。
 言うまでもなく本邦考古学上において、余が槨として取り扱わんとするものは、従来普通にいわゆる石棺をもってその主なるものとなす。しかしてその石棺のとうてい棺たるべからざることは、前篇すでにその要をつくしたりしも、しかもなお高橋健自君のごときは、余輩のいわゆる壙をもってこれ石槨なりと主張せらるると同時に、従来いわゆる石棺が、依然としてこれ棺なりとの説を固執せられ、『考古学雑誌』上において、諄々としてこれを反覆せられたり。その壙と槨とのことについては、関野・八木両君の説またこれに及ぶものありしかば、便宜上これらを一括して、同誌上に弁解するところありしが、その石棺のことに至りては、該文中これを説きつくす能わざりしがゆえに、本篇において余が研究を補説するとともに、ついでながら、まず高橋君の所説の批評に及ばんとす。かくのごときはもとこれ余の本意にあらず。すでに述べたるがごとく、氏の所説根本において過誤の上に築成せられたるものなれば、当初余は、これに対する答弁を差控うるをもって穏当なりと信じたりしも、世上同意見を有せらるる学者の意外に少からざるを見て、事ついにここに及べるなり。読者幸いに余が真意を諒とし、余をもっていたずらに執拗なるものとなす(354)なかれ。
 2 まず高橋君の石棺論を評す
 高橋君の石棺論は、『考古学雑誌』第五巻第十号にあり。通編八項に分る。左に逐条その要を摘記し、これに対して一々愚見を開陳せんとす。
(イ)「棺の意義」において氏は、棺は屍を納るるものにて、もと一個の物体として移動せらるべきものなれども、葬制の沿革上、わが石棺のごとく、あらかじめ墓内に設備するものを生ずるに至りたりとなし、しかもこれまた棺たるを妨げずとせらる。しかして氏はさらに、棺には蓋・側・底を有するを必要とするも、その各部必ずしも一石よりなるを要とせず、木匠が幅狭き板を接ぎ合せて用うるがごとし。その横穴内に造り付けられたるものが、別に底を有せざるは、造作上の利便より出でたるものにて、依然棺たるを認むべし云云、と説示せらる。
 高橋君がここに棺をもって移動し得べき物体なりとせらるるはきわめてよし。その蓋・側・底を有するを必要とすること、また勿論なり。しかるに、あらかじめ墓内に設備し、特にいわゆる横穴内に造り付けたるものをまでも、これ棺なりとし、葬制沿革のしからしむるところと解せんとせらるるに至りては、断じて不可なり。棺は屍を容るるもの、すなわち柩として宿所に安置し、後これを墓所に運搬すべきものなり。また槨はあらかじめ墓所に設傭し、柩を運びてこれに蔵むべきものなれば、両者、本来判然たる区別あり。いかんぞ葬制の沿革としてこれを同一視すべけんや(槨のあらかじめ墓内に設備せらるべきものたることは後に説くべし)。
 次に(ロ)「古伝説に見えたる木棺と石棺」において、氏は、『古事記』垂仁天皇条に見えたる石祝部の文字をもって、『姓氏録』石作連条の、石棺を作りて献じたる趣に記することに対照して、真淵翁の説に従い、石棺部の誤写なりとなし、厚葬に伴われて、古来行われし木棺以外、石棺をも用うるに至りしなりとせらる。このことにつきては、(355)余が前篇すでに説き及ぶところありしに、高橋君がこれを省せられざりしは、遺憾なり。『日本紀』に天智天皇の詔を録して、「石槨の役」の語あり。ここに石槨とはもとより石壙の義にあらずして、従来いわゆる石棺なり(このことすでに説きたるところにてほぼ明かなるを信ずるも、なお斯道学者の一部の理解を得ざるがごときをもって、さらに詳論すべし)。しからば、天智天皇の御時は勿論、『日本紀』編纂の当時にありては、この類のものを呼ぶに石槨(右※[木+諄の旁]とあるも同じ)の称をもってせしは明かなり。しからばいかんぞこれと時を同じうする『古事記』において、その同一の物を指すに、ことさらに石棺の文字を用うべけんや。石祝部が石※[木+諄の旁]部の誤写なるべきは明かなり。『姓氏録』に石棺とあるは、石槨(すなわちいわゆる石棺)を造るの習慣廃して後の誤れる称呼に基づけるか、もしくはこれまた石※[木+諄の旁]の誤写なるべし。古代厚葬の風とともに、木棺以外いわゆる石棺の行われたりしは事実なり。しかもそのいわゆる石棺は、その実決して棺にあらず、あらかじめ墓内に設置して、柩を蔵する石槨なるべきなり。
 さらに(ハ)「石棺の種類」の条下において、氏はいわゆる石棺を(甲)刳抜式、(乙)組合式の二類に分ち、前者に割竹形・舟形・長持形・家形、後者に箱形・長持形・家形の区別あることを示されたり。その分類および命名につきては、余において多少の異議なき能わず、また氏の列挙せられたる以外にも、例えば河内の松岡山船氏の墓、大和の室《むろ》なる武内宿禰の墓と称せらるる塚等に現存するもののごとく、氏の分類のいずれにも属せざるものあり。その他、筑後久留米の日輪寺、肥後小島村なる千金甲《せごんこう》、ならびに同国六嘉村等に存する一種の石槨、およびこれも千金甲ならびに同国チブサン・阿蘇等、諸所の塚に見るべき他の形式の石槨等、いわゆる石棺と併せ論ずべきもの多くあれども、これらは氏が認めて石棺とするものにあらざれば、ために言及せられざりしなるべし。されば、氏が石棺の種類としてここに列挙せられたるは、石槨中のある形式のものに限られたるものなりとすべく、したがってここには深く論及せず。なお後に至りて詳説するところあるべし。
(356) もしそれ(ニ)「石棺は木棺の変遷に過ぎず」として論ぜらるるところに至りては、全部誤解の基礎の上に築き上げられたるものとして、氏の再考を請わざるを得ず。第一に氏は、氏のいわゆる割竹形石棺をもって、羽前衛守塚において発見せられたる、ある種類の木棺と同一性質のものなりとし、余がその木棺たることを否定せざるべきがために、いわゆる割竹形石棺の、また当然棺たるべきことを認めざるべからずとせらるるなり。しかれども、こは余に取りて案外のことなり。余あに衛守塚なるそれをもって、必ずしも木棺なりと認むるものならんや。衛守塚なる木製葬具は、羽柴氏の記事その大きさを明記せざれども、普通の荷車にては運搬し得ず、特に官府の大車を使用したりと言えば、その大なること想像せらるべく、したがってこれ屍を容れて墓に運びしものにあらずして、あらかじめ墓に設備せられたる木槨なりきと解すべきものなるべし。されば、果して氏の認めらるるごとく、氏のいわゆる割竹形石棺が、この形式の葬具の変態なりとするも、そはかえってそれが石棺にあらずして、石槨なるべき証とすべきものなるべし。なんぞこれをもってただちに石棺なりと言うを得んや。
 次に氏は、氏のいわゆる舟形石棺をもって、某々神社所伝の御舟代に比較し、『北史』および『隋書』の記事を引いて、シナ人間にかくのごとき棺を用うる俗なかりしものなるべしと論及せられたり。いわゆる舟形石棺が、独木舟に模して作れる石製物なるべきことは、余もまたこれを認む。しかしてあえて神社の御舟代をもってこれを類推するまでもなく、わが古代の葬儀において、事実上独木舟形の葬具を用いしことは、明かにこれを認むべし。こは余のすでに引用し、氏もまた例示せられたる仁徳天皇陵陪塚、および氏の新たに掲げられたる備中〕榊山古墳の例のほか、現に京都大学にその一片を蔵せる河内枚方なる御殿山古墳のそれのごときは、長さ約一丈五寸なる独木舟形木材の上に種々の遣物あり、さらにこれを蔽うに同形の木材をもってしたりしなり。しかもその独木舟形なるものは、必ずしも屍を蔵めて墓処に運びしものにあらずして、あらかじめ墓中に設備せられたる槨たるべきものなりとす。した(357)がってその変態たるいわゆる舟形石棺の槨たる、論なきにあらずや。
 ちなみにいう、余さきに『北史』および『隋書』の「葬時屍を船上に置く」の文を引きて、「ここに屍を船上に置くとは、屍を船に納むるの意か、あるいは柩を船に載するの意か、いまだこれをつまびらかにするを得ず云云、往古あるいは船をもって棺に代え、もしくは船形の棺を作り、引いては棺を『ふね』と称したるか云云」と説きたりしが(本誌第二五巻第毒、五三二頁、今にして思うに、解説不備なりき。『北史』等の文は、「死者斂(ルニ)以(テス)2棺※[木+諄の旁](ヲ)1、云云、及v葬置(キ)2屍(ヲ)船上(ニ)1、陸地牽(ク)v之(ヲ)、或(ハ)以(テス)2小輿(ヲ)1」とありて、棺槨は別にあり。ただこれを墓所に送るに、あるいは小輿をもってし、あるいは船に載するの風ありしをいえるのみ。ここに船に載するは、輿に載するに相当するものにして、橇を牽くがごとく、陸上これを牽いて墓所に到るものなり。こと棺槨に関せざるなり。けだし、わが古代の海部《あまべ》などにこの風ありて、隋使の注意を促せしものなるべし。されど、万一その船をもって、ただちに墓に埋めしものなりとせんも、そは既記後一条天皇の御葬送に際し、殯宮に安置せし霊柩(御棺に街遺骸を納め奉れるもの)を御槨に納め、駕輿丁これを担きて御陵に運び奉りし場合と同じく、柩をこれに納むるものにして、依然槨なりと解すべきものとす。
 もしそれ氏のいわゆる組合せ式長持形石棺をもって、シナ現代の木棺のあるものと比較し、本邦の特有なりと信ぜらるる古式墳墓にシナ式の石棺ありとせらるるに至りては、沙汰の限りなり。いわんや余が、そのシナ現代の木製葬具の木棺たるを認むべきがゆえに、いわゆる長持形石棺のまた棺たるを認めざるべからざるを言わるるにおいてをや。氏のいわゆる長持形石棺は、これ実に本邦創始のものなり、なんぞこれが起原をシナ木棺に求めんや。氏は石材の組合せ方と、特にその身の前後面における彫出し突起が、シナ現代の木棺における前後面の赤色装飾の部分に相当するとより、両者間の関係を聯想せんとせらるるも、六個の扁平なる材料をもって方形の箱を組み立てんに、その組合せ(358)方の彼此相類するは、むしろ当然ならんのみ、その前後面の突起に至りては、氏の例示されたる河内小山村津堂なるは一個ずつにして、偶然氏の例示のシナ木棺の装飾に暗合するも、明治五年仁徳天皇陵より発見せられしものにはおのおの二個ずつあり。これに反してシナの木棺には、全然この装飾を欠如するものあれば、もって両者間の関係を見るに足らざるなり。いわんやその蓋の、常に六個もしくは八個の突起を伴い、いささかもシナ木棺蓋を聯想せしむる能わざるをや。思うにその蓋に存する突起は、シナ古代の槨の上を蓋える抗木を摸せるものならん。抗木は横に三個、縦に二個の木材を組み合せたるものにて、その端は槨の外に出で、壙を掩うに足るものなり。今わがいわゆる石棺の蓋に存する突起を見るに、その実用上よりは移動に際し縄を掛くるに適するがごときも、本来の意匠はこれを抗木に基づけるものと解するを至当とすべし。中にも前記河内小山村津堂のそれのごときは、蓋の表面において縦横に格子模様をあらわし、その端ただちに突起に直通して、宛然抗木の状を呈するなり。けだし、シナ古代木槨の制を伝えて、わが創意によりこれを石製となせしもの。もって石槨と称すべく、棺と目すべきにあらず。なんぞこれをもってシナ現代の木棺と関係ありと言わんや。
 最後に氏は、いわゆる家形石棺をもって、これ舟形ないし長持形石棺の一段進歩したるものなれば、その石棺たるべきは、またおのずから了得せらるべしと言わる。しかも余をもってこれを観るに、その家形をなせるものは、シナ古代の槨に四阿ありといえるに相当するものにして、その四方に出ずる突起は、また抗木の余波と解すべきもののごとし。されば、これを形式上よりするも、かたがたもってその槨たるを認むべく、決して棺と言うべきにあらざるなり。いわんや氏の、これよりもやや原始的なりと認めらるる舟形ないし長持形のものの、すでに棺にあらずして槨たるべきをや。
 (ホ)「構造上より石棺の石槨ならざるを論ず」の条において、氏は、余が従来もって難解となせる石枕付石棺を提(359)出し、しきりに余に肉薄せらる。このことに関しては、すでに繰り返し言えるごとく、わが古代一部の間において、時に死体骨洗いの行われしことを想像して、これを解決せんのみ。このことは後に改めて論ずべし。しかるに高橋君は、わが古代の葬儀をもって、シナ漢代帝王の寿蔵に比し、その封土・塚蔵・棺槨等は、生前あらかじめ準備せるものにして、仁徳天皇・聖徳太子・蘇我蝦夷父子等の寿蔵の記事もって証とすべく、屍体は必ずしも木棺に容るることなく、釣台もしくは輿皐の類をもって、これを墓所に送り、そのまま石棺中に蔵めしものと解すべしとせらるるなり。しかもこれはなはだしく事実を無視するものなり。いかにもわが古書中、時に寿蔵の記事なきにあらず。しかもそはわずかに仁徳天皇と、蘇我父子らとにおいて見るべきのみにして、他の場合には、むしろ死後始めて墳丘を起し、葬儀に着手せしことを記するの実例多くこれあるなり。氏は聖徳太子|磯長《しなが》墓をも寿蔵の一例に挙げられたれども、こは古書の言わざるところ、けだし後の俗説なるべく、磯長墓、実は御母|間人《はしひと》皇后の陵にして、太子およびその妃はこれに合葬せられ給えるなり。しからばもって寿蔵の例とすべからず。これに反して、死後始めて造墓の工事に着手せし記事は多々これあり。神功皇后の韓土より凱旋し給うや、※[鹿/弭]坂・忍熊の二王、御父帝の山陵を赤石に起すと号し、淡路に船橋を架して皇后の帰途を擁せんとし給いき。崇神の皇女倭迹迹日百襲姫の薨ずるや、神人日夜相踵いで逢坂より石を手越しに運び、もって大墓を築成しき。蘇我馬子死するや、一族相集りて桃原に墓を起し、数年を費しようやく成りき。これらは、特別に事ありて史に録せられたるものなれども、もって他を類推すべく、このほか、古代帝王の御葬儀の、崩後数月ないし数年を費して行わるるを例とするごとき、いずれも寿蔵の設けなきを常とせし証とすべきなり。しかしてこの長年月の間、棺にも納めざる屍体を、いかにして殯所に保存し、いかにして墓所に運搬すべしとするか。古墳中より往々にして朱の発見せらるるあるは、実にこの殯斂のさいにおいて、屍体の腐敗を防ぐの用に供せられしものなり。いかんぞ木棺なしにこれを朱詰となすを得んや。しかれども、かりに百歩を譲り、石枕の作り(360)付けられたる石棺は、生前あらかじめ準備せられたるものにして、死後屍体は木棺に納むることなく、ただちにその中に移されたりとせんも、そは前号所引の「槨あり棺なし」に当るものにして、当初より墓所に設備せられたるものは、棺なくとももって槨と称すべく、決して棺と呼ぶべからざるなり。
(へ)「内部に木棺ありとも、石棺と称して可なり」と言わるるに至りては、強弁の嫌いなきにあらず。棺槨必ずしも一重ずつならず。たとい幾重なりとも、屍を納めて柩を成し、これを殯所に安んじ、さらに墓所に運搬するものならば、ことごとくこれ棺なり。たとい一重なりとも、あらかじめ墓所に設備し、柩を送りてこれに納むるものならばこれ槨なり。氏は昭徳院廟に四重の棺あり、溝口千種姫の墓に三重の棺ありとのことを例示せらるるも、その四重たり三重たるものが、ことごとく柩の一部を成して、墓所に運搬せられしものなりや否やを確かめざるべからず(なお言わば、後一条天皇御葬送の場合のごとく、殯宮より陵所に運ぶに当りて御槨に納むる場合もあるなり)。けだし、その中の一重もしくは二重は槨にして、あらかじめ墓地に設備せられたるものならん。要はその使用の目的いかんにあり。なんぞ軽々しく内部に木棺ありとも石棺と称して可なりとせん。
(ト)「支那における石棺」はどこまでも希有の例なりとす。高橋君はその文献伝うるところ少きも、実際には多からんと想像せらるるがごときも、そば根拠なき想像なり。否、棺が常に木にて作らるるを例とすることについては、証文多々あり。なんぞシナ古墳の研究がまさに闇黒界にあるのゆえをもって、他日の発見を期すとせんや。こは少しく古書を飜読せば、おのずから明かなるところなれば、氏の自得に依頼して、煩わしく言わざるべし。
(チ)「結論」として氏はいわゆる石棺の葬時における屍体の容器なることを言い、これと同式にして木製ならんには、その棺たるにおいて何人も異議なからんとし、余がいわゆる石棺の棺なるべからざることを言うは、畢竟その質が石たるのゆえのみと断定せらる。案外のことなり。その質がよしや石にもあれ、木にもあれ、はた磚にもあれ、あ(361)らかじめ墓処にありて柩を蔵むべきものならんには、これことごとく槨なり。また一重にもあれ、二重、三重にもあれ、屍を容れて柩を成すものならんにはこれことごとく棺なり。その間毫末の混雑を生ぜざるなり。
 これを要するに、高橋君がいわゆる石棺をもってこれ棺なりとせらるるの理由は、徹頭徹尾首肯すべからず。けだし氏は「檀弓」の疏を誤り摘取して、槨は下を周せず、すなわち底なきものなりと解せられたるがゆえに(このこと後に壙の条下において詳説すべし)、これをもって壙の石構え、すなわち従来いわゆる石槨に当て、したがってその中に存する石槨すなわち俗称石の辛櫃《からと》をもって、従来普通に誤り用いられたる石棺の称を正しとせらるるに似たり。これ最も惜しむべしとなす。
 従来普通にいわゆる石棺が、棺にあらずして石槨なるべきことは、すでにその要をつくしたりと信ず。しかれども、わが古代の石槨あにこれのみに止まらんや。以下項を逐いてその各種のものを説明し、槨そのものの本来の性質を明かにして、もって「槨の弁」を完からしめんとす。
 3 九州・中国地方における甎槨式の石槨(上)
 昨年十月、余本誌上に「槨再弁」の稿を掲げ、まず高橋健自君の『考古学雑誌』第五巻第十号において発表せられたる石棺論(すなわち余のいわゆる石槨中のある種類)を論評せしが、爾来他の研究の発表にのみ常に本誌面を費して、ために続稿の掲載を中絶することここに八ケ月の久しきに及びき。連載中の「倭人考」いまだ央に達せず、『魏志』倭人伝の解釈、女王卑弥平の研究、九州地方における古代の豪族と倭人との関係、本邦諸地方における倭人の分布と海部族との調査、銅剣・銅鉾・神籠石ならびにいわゆる弥生式土器系統の遺物・遺蹟に関する考古学的観察等、倭人について説を要するものすこぶる多く、また、かつてその発表を予告せし「秦人考」を始めとして、他に新たに識者の高教を請わんと欲するところのものまた少きにあらず。しかれども、本篇の中絶あまりに久しきに渉りて、当(362)事者たる高橋君を始め、古墳墓の研究に趣味を有せらるる読者諸賢に背くの罪また大ならずとせず。すなわちここに小閑を求めて前稿を継ぎ、もって槨の説を完からしめんとす。
 槨の何物なるかについては、余が前篇「棺・槨・壙の弁」中において多数の典拠を援引し、すでにこれを詳悉したれば、今重ねて説かず。要は、単に「棺を保護するがための外郭なり」と言うをもって足れりとせん。しかれども、これを実物に適用せんには、各民族各時代、それぞれ種々の変態あり。同一民族の同一時代における葬儀についても、人おのおのその好むところに従い、往々執るところを異にするある、またやむを得ざるなり。ここにおいてか、ひとしく槨と称すべきものにありても、はなはだしくその形式を異にし、一定の則をもって論ずべからざるものあり。時としては前項に説けるがごとく、棺なくして槨あるの葬法すら、実現せらるるに至るなり。余輩の槨について説をなさんとするもの、もと「天智紀」に見えたる「石槨」の語の、果して何を意味するかを明かにせんとするにあり。言うまでもなく、余輩はこれをもって、往々近畿その他の古墳墓中に存する、高橋君のいわゆる長持形石棺(例えば河内南河内郡小山村津堂なる前方後円墳にある類)もしくは同君のいわゆる家形石棺(例えば大和南葛城郡なる蘇我入鹿墓にある類)の類ならんと信ずるものなり。しかれども、わが邦における石槨の種類の、この以外にはなはだ多きはいうまでもなし。しかも不幸にして余がこの説、いまだ高橋君その他多くの考古学者諸君の理会を得る能わざるがゆえに、ここにまず本邦における各種の石槨について論究し、ついに右のいわゆる長持形もしくは家形石棺が、また石槨ならざるべからざるゆえんを明かにせんとす。
 従来、普通に考古学者によりて石槨の名をもって呼ばれたりし墓内の石室が、いずれも壙にして槨にあらざることは、今さら論ずるまでもなかるべし。こはすでに余が前篇説けるのみならず、その後さらに高橋・関野両君の反対説に対して、『考古学雑誌』第六巻第十二号の誌上に弁ずるところあり、かつ世の考古学者中、すでに往々この語を用(363)いらるるあるの現況にあれば、ここにこれが再説を略して、単に読者諸賢の前諸論文を往見せられんことを請うに止めん。しかれども、すでに墓内の石室が壙にして槨にあらざることの是認を得たる上において、論者あるいはなお『魏志』倭人伝の葬儀の記事により、倭人の俗、棺ありて槨なく、壙内にただちに棺を安んじたるものにて、従来いわゆる石棺は、依然としてこれ棺なりとの説を主張せらるるものまたこれあらん。現に高橋君のごときは、『考古学雑誌』第四巻第七号において「魏志に倭人に棺はあるけれども、櫛が無いことが書いてあるから、我が国には支那人の所謂槨はなかつたでもあらう」と明言し給えるなり。余輩の多言を費す、まことにやむを得ざるなり。
 シナの槨もと木材をもって造るを本体とす。ゆえに文字、木に従う。「三礼」その他古書の説くところ多くは皆しかり。周末においても稀に晋の桓※[鬼+隹]のごとく、石を鑿りてこれを造る者なきにあらず。しかもこは例外なり。「檀弓」に曰く、「昔者夫子宋に居り、桓司馬自ら石槨を為《つく》るを見る、三年にして成らず。夫子曰く、若是其靡なり、死の速に朽つるの愈《まさ》れるに如かざるなり」と。呉澄その「自」の字に注して曰く、自は猶独のごときなり。天子より庶人に至るまで、皆是れ木※[木+淳の旁]なり。其の朽腐し易きを慮りて、独り自ら石※[木+淳の旁]を為るなり」と。木槨の普通なる、もって見るべし。
 高句麗の墳その石室の構造鄭重を極むるものにありても、いまだ室内に石製の棺槨あるを見ず。けだしまた木材をもって造りたりしものなるべし。しかれども秦の始皇帝の陵のごときは、はなはだ大なる石槨の設ありしこと、文献明かにこれを徴すべく、漢代厚葬の風行わるるに及んで、その帝陵また多くこれを備えたりしこと言を俟たず。魏の文帝、薄葬を令し、その俗すこぶる改まるに至りしならんも、しかもなお六朝時代の墳墓、往々石槨・甎槨ありきと察せらる。唐の喪葬令、石をもって石室および棺槨を造るを禁じ、爾来もっぱら甎槨行われしがごとし。槨を築くに甎を用いしことの古くより存せしは、甎文に「槨」・「※[木+淳の旁]」等の文字あるもの多きことによりて証せらる。関野博士、(364)さきに『考古学雑誌』および『建築雑誌』の誌上において、他の甎文に「壙」等の文字あるによりて、槨とある甎も壙とある甎も、その使用の場所は相同じく、ただ壙は墓穴その物を意味し、槨は壙の四壁天井のみを指せりとの一新説を発表して、余輩の説を弁駁せられたるのみならず、従来壙を呼びて槨となせし多数の考古学者を始めとし、博士自身の過去および現に博士とともに調査に従事せられつつある諸賢をまでも一括して、ことごとくこれ多少の考えだもなきものなりとして罵倒せられたれども、しかもその誤解なることはきわめて明瞭にして、余すでにこれを弁じつくしたり(『考古学雑誌』第六巻第一二号)。しかしてその三国もしくは六朝ころの甎槨の風を移して造られたりとも認むべき石槨は、往々にしてわが九州および中国地方に存するなり。これ余輩がここに説かんとするところのものにして、実にさきに、後の詳説を予約せるところのものなりとす。
 4 九州・中国地方における甎槨式石槨(下)
 筑後久留米市日輪寺境内の古墳、肥後飽託郡小島町|千金甲《せごんこう》および上益城郡六嘉村井寺、ならびに備中都窪郡加茂村|造山《つくりやま》付近等の古墳の石室内において、一種特別の石造装置あることは、考古学者のつとに注目せしところにして、これに施されたる紋様のあるもののごときは、すでに建築学会の『文様集成』中に収録せられたるほどなりき。しかれども、その一種特別なる装置の果して何物なるべきかについては、いまだ学説の公にせられたるものあるを見ざりしなり。最近に発行せられたる『京都大学考古学研究報告』第一冊には、これを呼ぶに槨壁もしくは槨障の文字を用いらる。これ大体において余輩の同意するところにして、実に余輩がさきに一種の形式の石槨なりと明言したりしところのものなりとす。余始めその構造の普通のものに異なるを聞き、あるいは一種異様の壙なるべきかとの想像を抱きたりしことありしが、その後親しくこれを見るに及びて、明かにシナ式甎槨を模して造れる一種の石槨なるべきことを認知するを得るに至りしなり。すなわちまずこれに関する考説を発表して漸次他の形式のも(365)のに及び、もっていわゆる石棺のまた石槨たるべきゆえんを明かにせんとす。その数個の甎槨式石槨の中にありては、井寺のもの比較的整備せるがゆえに、便宜上しばらくこの類のものを井寺式と呼ばん。
 肥後井寺のは、第一図に示すがごとく、普通の羨道を有する石室の下部において、別に板状の切石をほぼその石壁に近接して組み合せ、長方形の箱状の一区画を構成するものにして、これには底石および天井と称すべきものなく、しかしてその石壁には、縦横の線をもって累甎状に区画したる中に、一種異様の紋様を彫刻せり。その内側の紋様は近く浜田氏によりて発表せられたる(『京大考古学研究報告』一)肥後宇土郡不知火村大字鴨籠なるいわゆる石棺の蓋、もしくは播磨多可郡黒田庄村大字大伏・越前吉田郡吉野村大字吉野堺・筑前糸島郡雷山村大字高上・豊後速見郡藤原村字鰐沢・下野足利郡足利町大字助戸などの古墳墓より発見せし鹿角製の剣頭(余が「久米部考」中に頭椎剣なるべしとして述べたる鷲嘴様の模様を組み合せたる意匠の彫刻なりといえるもの)等に刻せる紋様と全然同一系統のものに属す。この紋様につきては、他日改めて説をなすの機あるべし。千金甲の分は縦横線の区画の中に重環状のものと斜十字形のものとを交互に配し、また筑後浮羽郡重定古墳その他肥後の横穴等にある石人もしくは矢筒とも見るべき紋様を配布したり。
 次に備中造山付近の石壙内のは、その箱状の装置の中において、やや奥壁に近く別に一の板状の切石の隔障を設け、もってこれを前後の二区に分てり。余のこれを調査せしさいは、石室内に雨水充満して入るを得ず、わずかに竹竿をもってこれを探りしに過ぎざれは、もとよりその構造の詳細
 
 第一図 肥後井寺古墳壙穴(右)平面図 (左上)横断面,(左下)槨壁の彫刻の一部〔入力者注、図省略〕
 
(366)を見るを得ざりしも、これを親しく発掘せし者に聞き、かつて和田氏の手拓せられしところに見て、構造ほぼ井寺のに相類し、また紋様の彫刻は隔障にのみ存して、全然井寺のと同一意匠に成れることを知るを得たり。
 筑後日輪寺のは井寺・千金甲のと構造を同じくし、ただ切石の石構えの一部に突起を設けたると、これに施せる紋様の意匠のやや異なるものあるとの差あり。ただし精細にこれを見るに、その環状の紋様は千金甲のにおいてもまたこれを見るべく、これと交互に配せられたる一種の紋様は、実に井寺に見るところの或るものとその系統を同じくし、彼是また相関係するものなるを知るべく、特に累甎状の紋様はこの装置において、最も明かにこれを認むるを得べきなり。
 かくのごとく、右の数者その構造において、紋様の意匠において、おのおの多少の相違ありといえども、大体においてその切石の面を、縦横の線によりて方形もしくは長方形に区画し、これに種々の紋様を施せるものたるは一にして、これけだしシナの甎槨に擬し、その面に紋様を有する甎を積み重ねたる趣を模したるものなることは疑いを容るべからず。人あるいはこれをもって、その甎を模したりとしては区画のやや大に過ぎたるあるにあらざるかを疑う。しかれども、墓甎必ずしも一尺内外の物のみには限るべからず。現に小川博士が近くシナより将来して京大に蔵するもののごときは、長さ約三尺八寸、幅一尺五寸、厚さ四寸に達するなり。その区画の大なる、なんぞ妨げん。けだしわが井寺式の装置は、実にシナにおける壙内の甎槨に相当するものにして、かの地において甎を用うることの一般に行わるるに当り、その制を我に移したるものなりと解せざるべからず。しかして、そのこれを移すに当り、我には彫刻しやすき石材の豊富なるありしかば、彼において数多の甎を積み重ねて造る代りに、我は一の大なる切石を用い、しかもその面には依然甎を重ねたるがごとき彫刻を施せしものなるべし。その紋様の、時に累甎を模せりとしては多少軌を逸するものあるは、製作者の意匠によりて生じたる転訛なるべし。
(367) すでに言えるごとく、槨はもと棺の容器なり。文字、木に従う。木をもって造るを本体とせしならんも、シナにても古く土を焼いて造れるものまた少からざりしなり。「檀弓」に「夏后氏※[即/土]周」とあり。鄭玄これに注して曰く、
  火熟曰v※[即/土]、焼v土治、以周2于棺1也、或謂2之土周1、由v是也。
と。孔穎達さらにこれに疏して曰く、
  ※[即/土]v土為v陶冶v之、形大小得v容v棺也。
と。清人金鶚その『棺槨考』において、
  案、今人用v甎作v墓、四2周于棺1。或謂2之※[木+淳の旁]1、即※[即/土]周也。
といえるもの、けだし当を得たり。陸心源はその著『専録』に家※[木+淳の旁]の義を解して曰く、
  太平御覧引2古史考1、禹作2土※[即/土]1、以周v棺。湯作2木槨1、易2土※[即/土]1、土※[即/土]令壁、即今之専(甎)。蓋、棺之外、周以v木、謂2之※[木+淳の旁]1。周以v専、亦謂2之※[木+淳の旁]1。※[即/土]之外覆以v土、則謂2之冢1。故曰2冢※[木+淳の旁]1也。夏之※[木+淳の旁]用v専、至v商而易以v木。至v周而有v用v石者。桓司馬為2石※[土+專]1是也。木不v如2専之久1。石不v如2専之倹1。故後世用v専多、而用v木少(専は甎に同じ)。
と。清朝学者の解するところもって見るべし。三国六朝の墓、実に多く甎を用いて壙・槨および隧を造りしものならん。ここにおいてか当時の甎文に往々にして壙・槨または隧の文字存するなり。しかしてその葬風のわが邦に移さるるに及び、われはこれに代うるに石をもってするを便としながら、なおかつその面には甎を積み重ねたる模様を刻せるは、もってその変遷の蹟を示せるものなりとすべし。余輩がこれをもって甎を模したるものなりというは、ただにその面を方形もしくは長方形に区画したるあるのみならず、その狭き上縁においてすら、また長方形に画し、その画内に各一種の紋様を刻せるものあること、井寺および備中造山付近の塚においてこれを見るべく、これによりて、最(368)も適切に証せらると謂うべきに似たり。
 シナの槨もと蓋と底となきもの多かりしがごとし。「檀弓」に、
  天子之棺四重、水※[凹/儿]革棺被v之。其厚三寸。※[木+皮]棺一、梓棺二、四者皆周。棺束縮(縦)二、衡(横)三。袵毎束一。柏※[木+諄の旁]以v端、長六尺。
と。孔穎達これに疏して曰く、
  四者皆周者、四(ハ)四重也。周(ハ)※[市の一画目なし]也。謂2四重之棺上下四方悉周※[市の一画目なし]1也。惟※[木+諄の旁]不v周。下有v茵上有2抗席1故也。
と。ここに棺は四周し、※[木+諄の旁]は上下を周せずというは、棺に蓋・底あり、※[木+諄の旁]にこれを欠けるをいうなり。蓋・底なきものこれ槨の本体とすべきや否やについてはおのずから議論あり。しかも孔穎達のこれを言うは、当時蓋と底とを有せず、茵と抗席とをもってこれに代えたるもの普通なりしがためならずんばあらず。槨上抗を置く、抗木横三縦二、さらに抗席三を加えてもって土を止め塵を禦ぐの用に供す。茵は縦二横三、これに加うるに疏布をもってし、棺をその上に安んずるなり。
 これを上記いわゆる井寺式の装置について観るに、石材を積み重ねて造れる壙は別に存しながら、さらにその内部に、ほとんどこれと接して累甎状の紋様ある切石を立て繞らし、壙壁の下部を蔽いて壙内別に低き箱状をなすがごとき設備あるものは、もとより壙の装飾としてのみ見るべからず。しかしてその内部には必ず屍体を収めたる棺を安置せしものなるべければ、これ必ず槨に相当するものならざるべからず。「檀弓」の鄭注に、
  凡天子之葬、掘v地以為2方壙1。漢書謂2之方中1。又方中之内、先累2※[木+諄の旁]於其方中1、南畔為2羨道1。
といえるもの実にこれに匹敵するがごとし。
 人あるいは右の装置が、棺の容器なるべき槨としてはあまりに広きに過ぐるを怪しまん。しかれども槨必ずしも棺(369)の外部に密接するを要とせず。その寸法については古礼言うところありといえども、実際には必ずしも一定するにあらざるべし。いわんや移してこれをわが邦に行うにおいてをや。「喪大記」に曰く、
  棺槨之間、君容v※[木+兄]、大夫容v壷、士容v※[無+瓦]。
と。けだし明器を槨内に置くなり。棺を容れてなお余裕を存する、もとよりそのところなりとす。ことに肥後千金甲のそれのごときは、奥壁および左右の壁に近く、低き切石を立てて槨内に三床を設け、往々横穴墓壙に見るがごとく、数人合葬の形跡を示せるあり。井寺のもかつてこの区画ありきという。一槨数屍を容れんには、槨を大にして壙に接せしむるに至る、けだし当然なり。シナにも古来合葬の制あり。これを※[示+付]という。その合葬や、また後代のごとく穴をのみ同じうし、棺槨を別にせしものこれありしならんも、しかも一槨数棺を容るるの風、実に普通なりしがごとし。「檀弓」に、
  衛人之※[示+付]也離v之、魯人之※[示+付]也合v之。
と。孔疏これを解して曰く、
  衛之合葬以v物隔2二棺之間1、猶生時男女隔2居処1也。魯人則合2両棺1、置2樟中一無二別物隔1v之。
と。『朱子語類』にも「離之、合之」の語を解して、
  問、離(トハ)v之謂4以d一物u隔3両棺之間於2※[木+諄の旁]中1也。魯則両棺置2※[木+諄の旁]中1、無2別物隔1v之。魯衛之※[示+付]皆是二棺。共為2一※[木+諄の旁]1。是離合之有v異。朱子答曰、二棺共v※[木+諄の旁]。蓋古者之※[木+諄の旁]、乃合2衆材1為v之。故大小随2人所1v為。今用2全木1。別無v許3大木可2以為1v※[木+諄の旁]、故合葬者只同v穴而各用v※[木+諄の旁]也。
とあり。徐師曾また曰く、
  古老叢v木為v※[木+諄の旁]。一※[木+諄の旁]而両棺共v之。衛人以2別物1隔判。故曰v離。周人不v用2物隔1。故曰v合。夫婦之道、生別(370)同v室、死別同v※[木+諄の旁]。故善(トス)魯制1。後世※[木+諄の旁]用2全木1不v合2衆材1。故無2大※[木+諄の旁]1。別但同穴而已。
と。これに対して世間また異説なきにあらず。『読札通考』の編者徐乾学のごときは右の師曾の説を評して、
  徐氏之説謂2一※[木+諄の旁]而両棺共1v之。此必同v時共葬則可。如《モシ》不v同v時則葬v之、先後有v隔2数十年之久1者、豈有d因2後葬1而開c先葬之※[木+諄の旁]u乎。儻《モシ》予為2大※[木+諄の旁]1留待2後死者1、則古人言3豈周2於棺1、※[木+諄の旁]有d虚2其半1以俟v之之理u。尚一人而有2数妻1将v虚者、不v止2於半1。而開亦不v止2一次1矣。或久而其※[木+諄の旁]已朽、将3更易2其※[木+諄の旁]1乎。抑仍2其朽1而不v易乎。此是説之不v通者。吾謂離v之合v之、蓋以2両※[木+諄の旁]1相隔而不v並、謂2之離1。両※[木+諄の旁]相並而不v隔、謂2之合1。断非2一※[木+諄の旁]而両棺共1v之也。
といえり。乾学、後世の葬をのみ見て、古えに通ぜず、ゆえにこれを疑う。しかれども、その※[木+諄の旁]を同じうすることは孔頴達以来の解一貫して怪しまず。従わざるべからず。古えの※[木+諄の旁]、天子にありては厚さ一尺、庶人に至りてもなお五寸なりき。さればこれを造るに木をもってすといえども、壙内なお数十年を保つべし。いわんや甎槨・石槨の行わるるに至りてをや。わが井寺式石槨また実に後の合葬を予期して造れるもの、内部の広き、もとよりそのところなり。
 わが井寺式石槨、底なく、天井なし。いわゆる上下を周せざるものなり。底には通例扁平なる石片もしくは砂礫を布くこと、往々普通の壙に見るところのごとし。しかるに特に井寺のものにありては、もと奥壁に接して扁平なる切石を槨壁上に置き、もって槨の一部分を蔽いたりきという。この構造往々他の石壙にも見るところにして、従来普通に石棚の称をもって学界に報告せられたるものなり。これあるいは槨の一部に蓋を施せるものなりと謂うべきか。さらに井寺のには、その右壁上にも同様の装置ありしもののごとし。けだし墓の主人公の屍を安置すべく、特にこれを鄭重にせしものなるべく、その左の壁に接してまた床を設け、しかも蓋を加えざるものは、夫妻以外のもののために予備せるものにて、主客の差を明かにせしものならんか。『京都大学考古学研究報告』記するところによれば、井寺の槨(371)には奥床に鏡・剣あり、左右床に人骨ありきという。鏡・剣ある奥床にもと墓の主人公の屍の安置せられしことは想像するに難からず。同じ形式の同国日奈久町田川内の槨内にも三床ありて、その左床には二個の遺骨あり、右床には一個の遺骨ありきというもの、また参照すべし。ただし、その一部を蔽いて全部に至らざるものは、必ずしも「※[木+諄の旁]不v周」の原義を固執したるためのみにはあらずして、もと※[木+諄の旁]の内部低く、もし蔽うに全部をもってしなば、後にこれに入る能わざるがためもあるべし。ただし、その通路の上のみを残して左床また蓋を加え得ざるにはあらず。しかもこれなきは葬を鄭重にするの度において、主客の別を明かにしたりと解するを至当とせん。同国|石貫《いしぬき》の横穴において、奥床にのみ屋蓋を加え、左右床常にこれを欠くものもって参考とすべし。いずれにしても井寺式の装置が、甎を模したる石槨にして、もっぱらシナの制に則り、真の字義における槨の一種なるべきは毫末の疑いを容るべからざるものなりとす。肥後八代郡金剛村大鼠蔵・葦北郡日奈久町田川内・天草郡阿村大戸等の古墳にも、井寺式石槨と装置を同じくする右構えあるものあり。いずれも『京都大学考古学研究報告』第一冊に見ゆ。その壁面には上記諸墳と異にして、甎を重ねたるがごとき彫刻なしといえども、これまた同一系統に属する石槨と認むべきは疑いを容れず。けだしこの種のもの、もと井寺式の槨より転化したるものか、あるいはシナにおいてもと甎槨に対してかくのごとき石槨ありて、ただちにその制を模したりしものか、その由来はここにこれを明言する能わずといえども、ともかくもこれらがいずれも同一系統に属するものにして、上下を周せざる底の石槨なるべきは疑いを容れざるなり。
 すでに井寺式の装置が石槨の一種たるべきことを認むる以上、よしやその装置が壙の全部を蔽うことなくその一部にのみ組み立てられて、小さき長方形の箱状をなせるものなりとも、また同じく石槨としてこれを認むるに躊躇するところあるべからず。乞う、項を改めてそのしかるゆえんを観察せん。
 
(372) 5 壙内の一部に組み立てられたる一種の小石槨
 
 古墳石壙内において、切石または板状の割石をもって組み立てられたる長方形の箱状の装置を有するものあることは、余輩がしばしば各地において実見するところなり。大和南葛城郡葛村|稲宿《いないど》なる古墳の石壙中には、高橋君のいわゆる家形石棺一個を玄室の入口に近く安置せるほか、さらにその奥において、一個の石箱状の装置ありしもののごとし。今や破壊せられて原形を見る能わざれども、もとはいわゆる家形石棺と前後相対して、置かれたるものなるべく、今存するところほ長さ六、七尺の切石三枚にして、その一枚は壙の右側に近く壁と並行して、埋め立てられたり。けだし当初は他に二枚の小石ありて、前後の側をなしたりしを、その小なるものはつとに取り出されたるならん。今仆れて存する二枚の中、その一は石箱の左側をなし、一は蓋石たりしものならんか。こは必ず入口に近く存するいわゆる家形石棺よりも古く造られたる槨なるべし。その蓋あることは前記井寺式の槨と異なれども、すでに井寺の槨にも一部分に蓋を具えたるを見れば、もって彼是相比するに足るべく、その底なきことは一に井寺式石槨と同じ。ただその形小にして、壙底の一局部を占むるに過ぎざると、井寺式槨が壙の全部を蔽うものなるとの差あるのみ。
 筑前糸島郡周船寺村なる丸隈山は、俗に伊都県主の墳墓と称せられたる大古墳なり。普通の石室内に切石をもって二個相並べる箱状の小区画をなせるものにして、かつて『考古学雑誌』上において、笠井新也君によりて、氏のいわゆる阿波式石棺の一として例示せられるのものなり。現今は上に蓋石を見ず、当初よりこれなかりしものなりや否やは明かならず。当時余はこれをもって、かくのごとき設備ある一種の壙なりとして解すべしと考えたりしが、今にして思うに、これまた前者と同じく槨と認むべきものなりとす。ただその小なると、単一ならざるとの差あるのみ。この類のもの他にも多し。一々例示するに及ばず。
 駿河安倍郡豊田村小鹿において、大正四年九月に発掘せられたる一古墳は、石壙内に五個の石棺ありとし(373)て宮内省に報告せられたり。今ついてこれを見るに、第二図のごとき配置をなし、イ・ロの二者は凝灰岩を刳り抜きて造れるいわゆる家形石棺にして、ハ・ニの二者は扁平なる伊豆石の割石を埋め立てて箱状に組立てたるもの、ホは他の質の扁平なる自然石を組み合せて造れる同形の装置なりき。しかして後の三者は、いずれも伊豆石の割石をもって蓋を被いたりしものなりという。すなわち笠井君のいわゆる阿波式石棺に髣髴たるものなり。本年一月静岡市|清水《きよみず》公園の山頂において発掘せられたる古墳また石室内に四個の同種の装置を有す。今や全く取り除かれて原状を存せざれども、これを当時土工に従事せし者に聞き、これを側に積み重ねられたる用材と、発掘に立ち会いたる警官の手記とについて見るに、第三図のごとき配置をなせるものにして、その一と二とは小鹿古墳のハ、ニと全然相同じく、三と四とは扁平なる石灰石の河石にて造られたりしもののごとし。
 伊豆田方郡錦田村夏梅木において、大正四年三月に発掘せられたるものは、石室内六個の石棺ありきとして、当時新聞紙上に報道せられたり。これまたつとに被壊しつくされて、その原形を見るを得ざれども、今、後藤守一氏によりて、『考古学雑誌』に報告せられたるところによるに、また前二者と同一の構造にして、ただこれを右の二・四のごとく、縦に連続せしめたるの差異あるのみと解せらる。
 
 第二図 駿河小鹿古墳 壙穴平面図 第三図 駿河清水古墳 壙穴平面図 〔入力者注、図略〕
 
(374) 大和吉野郡大淀村北六田において高橋君の踏査されたるところのものは、同氏より直接聞くところによるに、全然いわゆる阿波式石棺と同様のものが、ただ一個石室内に設置されたりという。しからばこれまたただ一個なると数個なるとの差あるのみにして、いずれも前数者と同一形式のものなりと認定すべきに似たり。摂津三島郡福井村|海北《かいぼう》塚にもまた同種のもの存す。
 右述ぶるところ、小鹿以下清水・夏梅木・北六田等における石壙内の石造装置は、構造の点において前記稲宿および周船寺の石壙中のものとやや趣を異にするものありといえども、すでに彼をもって石槨なりと認むる以上、これもまた同じく石槨なりと解せんに、なんらの疑問あるべくもあらず。その北六田・海北塚以外のものは、いずれも数多の遺族が、槨を異にして一壙内に合葬せられたるものにして、徐乾学のいわゆる両※[木+諄の旁]相並びて隔てざるなり。孔穎達は「槨不v周」と説きたれども、こはかくのごとき槨またこれありしことを示せるのみにして、槨必ずしもことごとく底・蓋なきにあらざりしなり。「檀弓」に、
  棺周2於衣1、※[木+諄の旁]周2於棺1、土周2於※[木+諄の旁]1、
とあり。金鶚その『棺槨考』においてこれを論じて、右の文における三個の「周」の字、同一意義なる以上、※[木+諄の旁]また棺と同じく、上下四方を周するものならざるべからずといえり。これまた一理あり。『左伝』成公二年条宋文公の※[木+諄の旁]に四阿ありという。鄭玄これを解して曰く、
  阿(ハ)棟也、四角設v棟也。是為2四注※[木+諄の旁]1也。
と。「喪大記」槨の条の注に、
  天子之殯居v棺以2龍※[車+盾]1。攅木題湊、象2※[木+諄の旁]上四注1如v屋。以覆v之。尽塗v之。
また同条の疏に、
(375)  謂以2木頭1相湊、郷v内也。象2※[木+諄の旁]上之四注1以覆v之、如2屋形1。以v泥塗v之。
などある、いずれも槨に四注の蓋あるをいえるなり。すでに四注の蓋あり、石をもってこれを造るに当り、板石の蓋を加うる、なんぞ不可あらん。蓋の有無あえて槨たるにおいて妨げなきなり。なお、このことは項を改め屋蓋を有する石槨の条下に詳悉すべし。
 6 横穴式墓壙内における造り付けの石槨
 考古学者間に横穴の称をもって知られたる墓壙の内には、往々にしてその墳壁に並行し、一部分に低き隔障を鑿り残して、室内別に区画をなせるものあり。従来しばしばこれを呼ぶに「床」の名をもってす。その数、あるいは奥壁に沿いてただ一個を設くるあり。あるいは左右壁に沿いて二個を設け、あるいは奥壁と左右壁とに沿いて三個を設くるもあるなり。その底は壙底よりもやや高きを常とするがゆえに、呼んで床となさんも当れるに似たれども、その限界をなせる隔障は、いわゆる床の面よりも高く造られ、その上には往々にして死体を安置したるの証あれば、またもって槨と称すべきものに似たり。河内中河内郡堅下村大字高井田なる横穴群中に存するもののごときは、その隔障すこぶる高く、壙底より上ること二尺七、八寸、いわゆる床の面より上ること約二尺二寸に及ぶものあり。かくのごとき場合にありては、通例これを造り付けの石棺と称す。元来横穴式壙穴は、ただその製作において古墳の石壙と相違あるのみにして、性質においては両者ほとんど相同じく、ともに壙と称すべきものなり。されば横穴式壙内においても、普通に古墳石壙内に見るがごとき、いわゆる石棺を安んずるあり、いわゆる陶棺を安んずるあり、副葬品のごときもまた多くの場合において相似たりと認めらるるなり。司馬氏『書儀』に、
  堅土之郷、先鑿2※[土+延]道1、深若干尺、然後旁穿2窟室1、以為v壙。
とあるもの、やや形態を異にすれども、堅土を穿ち壙を造るというにおいては一なり。「或以v甎範v之、或但為2土(376)室1」は、いずれもただ「臨v時従v宜」なり。しからばわが横穴式墓壙内に設けられたる右等の装置は、古墳の石壙内に板石をもって設けられたる箱状の槨と同じく、またもって槨と称すべきものなりとす。
 右の装置、通例蓋なきを常とすれども、時としてまたこれを設くるものあるは、前記いわゆる阿波式石棺類似の槨に蓋あるがごときなり。伊豆田方郡江間村珍場なる横穴の一には、現に屋根形の蓋を具えたるあり。けだし槨に四阿あるものにして、当然造り付けの槨と認むべきものなり。
 
 
(377)『肥後に於ける装飾ある古墳及横穴』を読む
 
      一 概  評
 
 肥後および筑後地方において一種の装飾を有する古代墳墓の現存することは、つとに学界に紹介せられ、斯道学者の注意を惹くところなりしが、近来熊本県において遺蹟調査・保存の挙ありて、さらに少からざる新例を学界に提供するに至れり。わが浜田助教授ここに見るところあり、昨年末より本年初めに渉り、梅原教務嘱託を随えてその実地を調査し、そのうち肥後に関するものの研究を纏めて学界に報告せられたるもの、すなわち本書なり。
 古墳墓の研究の学界に報告せらるるもの、従来その数はなはだ多し。しかれども、かくのごとくそのある種類のものを網羅して、ある一貫したる系統の下に、その研究を発表したるものは、けだし本書をもって嚆矢とす。ことに著者が考古学者として、その纏りたる研究を発表するに当り、従来比較的学界の調査の手の届かざりし、かつその一地方に局限せられて、ある特別の意味あるべき、この装飾ある古墳横穴を採られたるは、選択当を得たりと謂うべし。これを肥後とのみ限られたるは、この種の研究報告としてやや遺憾なき能わざれども、しかもその説くところ、必要(378)上筑後および備中・常陸の古墳、ならびに本邦各地発見の一種の剣頭および埴輪等の、類似の文様にまで及び、ことにその報告もまた、漸次熊本県の残部および福岡県に及ばんとせらるる予定のよしなれば、今において深く問うを要せざるべし。
 著者の本書を発表せらるるや「其の目的の主とする所は事実の報告にありて、敢て学説の建立にあらず、たゞ之によりて学者将来の研究の資料を提供」(三頁)するにありと言う。その態度きわめてよし。しかして本書はほとんど遺憾なくその目的を達し得たるものと謂うを憚らざるなり。本書、章を分つこと六。その第六章後論を除きたる他の五個の章においては、ことごとく忠実なる事実の報道のみを事とし、本書本文百四頁中、実にその七十九頁と、四十六其の鮮明なる図版とは、全くこれがために費さるるなり。その第六章後論は、これを四節に分ち、第一・第二の両節においては、装飾模様の種類とその意義とを説き、第三節に装飾古墳に関する年代の臆説を試み、その第四節は結論として、この装飾古墳の他の古墳と異なる点あるは、年代上または民族上の差異に基づくにあらずして、単にシナ文化の影響として解するのほかなしと論ぜられたり。その装飾模様の種類と意義とを説き、装飾古墳の年代を論ずるは、装飾古墳存在の事実を報道する本書において、必要なることに属すといえども、本書の目的とするうえより言わば、そもそも末なり。結論として装飾古墳の由来を言うもの、また著者に取りて多大の興味を感ぜられたるところなるべきも、しかもこれを言わんがために、引いて九州古代の民族を論ぜらるるに至りては、本書に取りては畢竟一の余技ならんのみ。著者またあえてその謂うところの年代をもって決定的のものとするの野心なく、その民族論につきても、本書は「畢竟之が研究の資料を提供するに在りて、之が解決を直ちに試みんとするは今なほ困難とする所」(九九頁)なる由を告白せらるるほどなれば、著者においてあえて重きを置かれざるは明かなり。されば余輩は、この装飾模様の意義ならびに由来につきて多少の異りたる説明を試むるの余地あるを認め、これら古墳墓の年代についても、他方(379)面より今少しく攻究を重ぬるの必要を感じ、特にその民族観につきて、また装飾古墳墓の特にこの地方に多き理由の説明につきて、根本的に異りたる意見を抱持すとはいえども、そはおのずから別個の研究にして、本書に取りては畢竟枝葉の末のみ、その研究の結果がいかに落着するとも、もとよりあえて本書の価値に多くの軽重を加うるものにあらず。著者のこれらに関する見解は、著者みずから明言せらるるごとく、もと一の仮定の臆説に過ぎず。著者が忠実に提供せられたるこの有益なる幾多の資料によりて、幸いに学界の進歩を促し、これに由りて著者の仮定の臆説が成立を見るに至るとも、あるいは崩壊を招くに至るとも、そはもとより著者の希望に副うゆえんにして、またもって著者の満足とせらるるところなるべし。
 学界は実に多大なる感謝をもって著者のこの忠実なる、かつ用意周到なる調査報告を歓迎せるなり。著者の報告せられたるこれら古墳のあるものは、余輩すでに親しくこれを踏査せり。籍を中央学界に有する考古学者諸氏の中にも、すでにそのあるものを調査せられたるもの少きにあらず。しかれども、その全部を通じてかくのごとくこれを一書中に纏め、これが比較研究を自由になすを得るに至れるは、一に本書の賜なり。著者の調査と記述とはともに丁嚀懇切なり、挿入の実測図と写真と拓本とは、いずれも鮮明にして要領を得たり。余輩のごとくその遺蹟のいくばくかを実査せるものはもちろん、初めてこれに接する人々にありても、本書によりてよくその実地の状態を脳裏に描出印象するを得べく、読者はもはや親しくこれに臨むの必要なきまでにも、本書は実に用意周到なるものなり。余輩は実に本書をもって、考古学的遺蹟報告の白眉として、世に推奨するを憚らざるなり。特に余輩に取りては、目下古墳墓の年代研究に熱中し、倭人の民族的調査に没頭するさいにおいて、この倭人住居の地方、特に最後までかれらが肥人《くまびと》として残存したりと認めらるる地方に関して、多数の資料を忠実に提供せられたることにおいて、絶大の感謝を禁ずるを得ず。余輩の研究にもし向後多少の進歩を見るを得ば、これ一は実に本書の賜なり。以下本書を評するに当り、年代(380)につきて説をなし、民族につきて論を立つるにおいても、直接に本書より啓発せられたるところ少からざるなり。
 本書は実に考古学的報告として、ほとんど完璧に近きものなり。あえて多く言うべきものあるを見ず。ただここに余輩が本書を通読し、これを写真および実測図に対比するさいにおいて感じたるところを一言して、一は著者の考慮を促し、一は世の考古学的報告をなさんとする者に向って参考の資に供し、もって著者の賜に酬いんとするの一事あり。すなわち付記して概評をおわらんとす。そは実地の寸尺に関する数字の記述方法これなり。余輩初め本書を読み、その寸尺に関する数字の頻出することにおいて、すこぶる煩わしきを感じたり。さらにこれを実測図と対比することにおいて、彼此はなはだ多く齟齬するものあるを発見したり。寸尺の数字は実地を説明するにおいて必要欠くべからざるところ。もとよりこれを除く能わず。しかれども本書のごとく、はなはだ忠実に精密なる多数の実測図を伴える場合においては、特にその説明に必要なるものの外は、なるべくこれを実測図に譲りてはいかん。これただに記述と紙数とを節約し得るのみならず、読者をして容易に要領を脳裏に印象せしむるのうえにおいて、利益少からずと信ずるなり。本書においてその本文と実測図との間に齟齬を来せるもの多きは、著者が本文を記し終りたる後、さらに実地につきて再調を加え、もって実測図を調製せられたるがためなるべく、校正のさい、本文をこの新図によりて訂正するの暇なかりし結果なるべし。されば余輩は、これをもって、むしろその学に忠なるの態度を賞すべく、またその齟齬中の多数は、すでに再度の正誤表によりて訂正せられて、読者に取りてはなはだしき不足もなかるべければ、今にしてこれを追及するの要を見ず。また実測上些少の寸法の相違のことは、何人といえども免るる能わざるところにして、たとい些少の齟齬ありとても、これが研究の成果においては、ためになんらの不都合を生ぜざるべければ、あえて問うに及ばざるべきも、同一書中において、彼是矛盾を来せるものあるがごときは、ともかくも失態たらざるを得ず。しかしてこれを致せるゆえんのものは、また実に実測図以外本文中に、煩しく数字を羅列せるがためならず(381)んばあらず。されば将来の報告書は、差支えなき限りなるべく数字を実測図に譲り、またその実測図は、これを巻末の図版中に収むることなく、差支えなき限りなるべく本文中に挿入して、彼是対照の便に供せられたきものなりと思考す。
 さらにここに概評を終るに際し、本報告発表の形式につき、一言、著者浜田君に対して敬意を表せんとす。本書の成る、浜田・梅原両氏の調査に基づけるは言うまでもなし。その本文中のあるものと、実測図とが、梅原君の手を煩わしたることは余輩またこれを認む。著者梅原君が古墳の実際につき、造詣深きこと、またすでに学界の認むるところなり。しかれども這般の調査といい、また報告の編成といい、大部は実に浜田君の脳漿と手腕とを煩わしたるものにして、梅原君はその指導の下に、助成の労を執られたるに過ぎず。されば世間普通の場合には、本書はもっばら浜田君の著として、せいぜいその序言において、「梅原君を煩わす所多し」くらいのお世辞に終るを例とすべきなり。しかるに浜田君は、強いてこれを梅原君との合著として発表せられたり。かくのごときの内情を暴露することの可否いかんにつきては、余といえども一考せざるにあらず。またかくのごときの内情を暴露することが、かえって著者らの迷惑とするところなるべきを顧慮せざるにあらざるも、一将功成りて万骨枯るるを常とする当世にありて、浜田君の雅量と、よく後進を誘掖せらるるの態度とは、これを賞揚せざるべからず。すなわちあえて所感を付記す。謂う恕せよ。
 
        二 本書使用の術語につきて
 
 考古学上使用の術語には困難なるもの多し。その棺・槨・壙の用語のごとき、余輩の現に『歴史地理』誌上において攻究しつつあるところのものなり。また調査研究の進歩に伴い、新たに術語を作成せざるべからざるもの少きにあ(382)らず。余輩はこれらに対して、少くもわが考古学者間通用の術語の一定を希望するや久し。今本書を評するに当り、いささか所感を述ぶる、また徒労にあらざるを信ず。
 1 巨石建造物(一頁)
 巨石建造物なる術語の由来は、著者の加えられたる自註よりしてこれを知るを得たり。しかれども、わが古代墳墓をもって、だいたいにおいてその系統に属すと謂うを得べきや否やは疑いなき能わず。余輩がシナ上代の王者の陵の遺風なりと解する横口式の壙をもって、これに属せしめ、これと系統を一にすと認めらるる横穴をもこれに加えんとするは可なり。しかれども、わが上古陵墓のごとき縦穴壙の墳墓をまでも、ことごとく同系統中に置かんとせばいかん。余輩の信ずるところによれば、石室を有せずしてただちに石棺を埋め、もしくは単に木棺を埋めて、他になんら石製装置を発見せざるものは、これ縦穴式石室古墳の省略、もしくは堕落にあらずして、石室古墳はかえってこの式の古墳の発達せるものなりと解するなり。わが考古学者中には、古墳墓は横口式石室を有するを常なりとし、往々その石室なきものあるを見て、かえって奇怪に感ずるものなきにあらざるも、そは石室を有するものがたまたま多く後世に保存せられたるを目撃するに慣れたる結果にして、いまだ耒耜の難に遭わざる地方の古墳群には、石室なきもの多きにあるを常とするなり。また石室を有するものといえども、縦穴式壙にありては通例小石を積み重ねて造れるものにして、こは土壙の進歩せしものなりと解すべく、石棺また、もとこれなきを本体とすべし。したがってこれらの古墳墓をも包含して、ことごとく巨石建造物の系統に編入せんには、いまだ精しからざるの憾みなきにあらずと思考するなり。
 2 石 室
 従来考古学者問に普通に「石槨」なる誤りたる術語を使用せしものに対して、著者は往々「石室」なる語を用いら(383)る。石をもって集成せる壙に対して石室の語を用うること、シナ・朝鮮にもすでに前例あり。したがって著者のこれを用うる、あえて不可ならざれども、さらに一歩を進めて石壙の語を用いてはいかん。石壙の語また前例あり。しかしてその「壙」には古く「墓穴」なりとの解あれども、「室」の語には墓穴の意義あることなきを思うべし。
 3 古墳および横穴
 これ従来考古学者間普通の用例によれるもの、余輩また不満足ながら時にこの語を使用するなり。しかれども、横穴また一の古墳なり。これをもって墳墓にあらず、古人居住の址なりと解せし時代にありては、両者の名称を対比する、また可なりしならんも、今日の学界において、ことに著者新たに帝国大学に考古学講座を担任し、斯学界に一新機運を誘致せんとせらるるに当り、依然この誤解しやすき名称を踏襲するは遺憾なきにあらず。いわんや報告書の題名においてこれを用うるをや。
 4 槨壁(八頁等)・障壁(三八頁等)・槨障(同上)・障屏(二一頁等)
 槨は棺の容器にして、壙内に安置すべきものなり。その鄭重なるものに至りては、石または甎をもって造り、あらかじめこれを壙内に設備するあり。これを石槨または甎槨と称す。従来わが考古学者聞において、壙を成せる石室を石槨と称したりし誤解は今さら言うまでもなし。今著者この壙を表わすに「石室」の語をもってし、その石室内に設備せられたる一種の石造装置をもって「槨」と称す。最も可なり。井寺。千金甲および日輪寺等の古墳に見るもの、実に槨の一種なり。その槨内さらに板石をもってこれを数区に区画する場合において、本書はその区画をなせるものを呼びて障壁・槨障・障屏等の語をもってす。こは横穴古墳内において往々見るところの、いわゆる屍床の限界をなせる部分に相当するものなれば、これらを通じて何とか一定せる適当の名称を求めたきものなり。本書にはまた往々右と同一の語を、他の場合に混用せられたるところあり。図版三十四に大坊古墳石室内(384)槨障奥壁の語あるがごとき、これなり。ここに槨障なるものは、本文(五九頁)において、「石厨子とも称すべき槨」といえるものにして、井寺等におけるものとはすこぶる趣を異にせるもの。もし本文の方針に従えば、まさに槨の奥壁とあるべきものなり。かくのごとき混用、他にもあり。けだし用語一定せざるの致せるところのみ。もしそれ不知火村の古墳の石室をもって槨壁式(二五頁)なりと言わるるに至りては、誤解の虞れなきにあらず。槨壁とは必ずその外部に壙の存在を必要とす。しかしてこれは性質において全然石壙なり。その壙内に別に家屋形石槨(いわゆる石棺)を蔵するものなり。
 5 槨(五九頁等)・石槨(四三頁等)・石棺(二六頁、四七頁等)
 本書また、肥後・筑後地方の石壙内に多き、一種石厨子様の装置を呼ぶに、「槨」の語をもってす。これ実に余輩の意を得たるもの、双手を挙げて賛同の意を表すべし。筑後童男山古墳、肥後千金甲第三号古墳、同大坊古墳、同阿蘇お蔵穴古墳等において見るところの石厨子様のもの、もしくはこれと同一系統に属すと認めらるるものは、ひとしく皆石槨の一種なり。しかして余輩はこれをもって、井寺等における装置と、普通に石棺と称せらるるところの槨との中間に立つものなりと信ずるなり。
 本書また往々石槨・石棺の語を、種々の形式のものに対して使用せり。著者が不知火村なる壙内の文様ある掘抜式石槨をもって、旧例によりて「石棺」と呼べるは、今日の場合あえて異議を挿まず。この種のものがまた石槨の一種たるべきことば余の確信するところなれども、本邦においてこれを石棺と呼び来れること因襲すこぶる久しく、一方には石槨の語をもって壙の場合に誤用し来れる慣習の存するあるがゆえに、今にしてたちまち従来いわゆる石棺をもって石槨と呼び改めんには、彼是混淆するの虞れなきにあらず。ゆえに余輩はしばらく旧に従いてこれを石棺と呼ばんとするを妨げざるなり。しかれども、本書が阿村大戸南古墳(四六、四七頁)について、同じく板石をもって組(385)み合せて成れる長方形箱状の、二個の石製装置につき、その大なるを「石槨」と称し、小なるを「石棺」と称するに至りては、とうてい賛意を表する能わず。大なるものが石槨ならば小なるものまた石槨なるべし。現に本書には、千金甲第四号古墳につきて、後者と相譲らざるほどの大きさを有する類似の装置に対して、明かに「石槨」(二三頁)の語を使用せるなり。かくのごときも畢竟、用語の一定せざる結果のみ。しかして余輩は、かくのごとき類のものは、むしろ石壙の一種として解せんとするなり。
 6 直弧紋
 本書は井寺古墳の槨壁、不知火石棺の蓋、ある剣頭、埴輪の破片等に施せる、直線・弧線配合の一種の文様に付するに、「直弧紋」の名をもってす。しかも単に直線・弧線を配合するのみならんには、これらとは全く異りたる種々の形式の文様をも作成し得べく、直弧紋の名いまだもってその特徴を示すに足らざるなり。さればとては余輩は、いまだこれに代うるの適当なる名称を考え得ず。むしろ考古学者の理会に任せて、その最もよく完備せる、かつ最も多く学界に紹介せられたる、井寺古墳の名を取り、井寺式文様と名付けてはいかが。
 以上ただ読過のさい心づきたる数個の用語について言をなせるのみ。他にも協定を要すべきもの、またこれなきにあらざれども、あまりに煩わしければ今はすべて略しつ。
 
        三 装飾模様の種類とその意義とについて
 
 本書の装飾模様について下せる解説、だいたいにおいてわが意を得たり。そのいわゆる直弧紋をもって、組紐を巻きたる形より来れりとする点においては、いまだにわかに賛意を表する能わざるも、その大洋州に多しとの注意は、余輩に取りて良き材料を与えられたるものとして、感謝せざるを得ず。ただにこの模様のみならず、三角模様・丸模(386)様、また明かに南洋に多し。著者はこれをもって、「古代未開人の装飾に対する意匠の全く同軌に出ずるもの」(八八頁)として、偶合なりと解せんとせらるべきも、余はこれを土俗および文献に徴して、南方系統の意匠なりと解せんとするなり。トラック島の集会所には、好んで赤色の三角模様を用う。こは女陰の表章にして、青年はこれを見て少からず春情を挑発せらるるなりという。あるいは魚形より導かれたる三角模様ありと聞けり。しかして丸模様また少からざるなり。されば著者のいわゆる純模様式のものは、多く南方系統に属すと解し得らるるがごとし。その実物模写のものは、なお磐井の墳墓に石人・石馬を樹てたると、同意義に解すべきものならんか。これらのうち、その石人様のものは、当時の武人、特にこれらの地方における肥人・久米部等の態を模したるものならんと思考せらるるなり。特に千金甲第三号塚石室内、ならびに石貫横穴のあるものに刻せる刀剣が、いわゆる頭椎剣に類し、その剣が、もと久米部・隼人等の帯ぶるところなるを思うに、これらの地方に限りて特にこれらの装飾を有し、もしくは石人・石馬を樹てたる古墳墓の多く存する理由、おのずから解すべきものあるがごとし。余輩の頭椎剣なりと信ずるものは、往々にして九州その他本邦各地より発見せらるるところにして、その槌状をなせる鹿角製の剣頭には、いわゆる直弧紋を刻せること、本書引用せるところのごとし。これ久米部もしくは隼人の移住分布を示せるものにして、事は拙著「久米部考」に述べたるがごとし。本書またいわゆる直弧紋が近畿の古墳より発見せらるる埴輪の表面に存する事実を紹介せらる。これ最も有益なる資料を学界に提供せられたるものなり。埴輪の土偶が往々にして天孫民族のもって身を汚すの所為とするところの丹朱を顔面に施して、近習の隼人(もしくは倭人、久米部等)の態を表示せるもの少からざるの事実とあいまって、おそらくは彼らの有する楯等に施されたる文様が、この九州の一地方に多き古墳の装飾模様と、ある系統を有することを示せるものなりと謂うべきなり。
 
(387)      四 装飾古墳の年代について
 
 著者はこれら装飾古墳の年代について仮定年代表を製し、井寺・千金甲・日輪寺・不知火等のそれをもって最古とし、日奈久・鼠蔵・阿村および玉名墳は、前者の堕落的傾向を有するものなるがゆえに、これをその次の年代に列せんとす。考古学的研究者の態度として、だいたいにおいて異議あるべからず。しかれども、その文様のあるものが、応神・仁徳等、諸陵の埴輪の文様に似たるものあると、日輪寺の古墳より六朝ごろの鏡を模したりと思わるるものを出せりとのこととよりして、ただちにこれを西紀六世紀の初めより七世紀の初めころのものと仮定せんとせらるるは、範囲いささか狭く、最高限いささか低きに失せずやと思わるるなり。六世紀の初めはほぼ筑紫国造磐井全盛のころにして、七世紀の初めは聖徳太子の時代なり。今これを墳墓の形式について見んか。九州における倭人王の横口式墳を有する大古墳墓の制が、おそらくは漢魂の代において伝来し、しかして西晋初以後倭人と漢土との直接交通の中断せることを思うに、井寺式石槨は、あるいはその中断以前に漢土の風を移せしものの伝来せるなりと想像すべく、したがってこの種の墳墓年代の最高限は、これを神功皇后熊襲(倭人)征伐以前、遅くも西晋の初めに置くを至当なりと考うるなり。鑑鏡の年代を言うもの、いまだ絶対的信頼を置く能わず。日輪寺古墳より出でたるものが、よしや六朝式のものなりと認めらるるとも、これを三国末もしくは西晋のころに置きて、あえてはなはだしき差支えなかるべし。しかしてそのいわゆる直弧紋なるものが、応神・仁徳陵等の、ある埴輪の文様に似たりとのことは、これをもって応神・仁徳朝よりも遥かに後に置かんよりは、むしろ少くもその当時にまで、その最高局限を上し得べき一傍証を提供するものなりとも解し得ずや(ちなみにいう、仁徳の崩年は『古事記』によるに西紀四二七年にして、西晋の初期、倭人交通の最後は西紀二六六年なり)。
(388) 次に著者は、石貫の横穴をもって井寺の古墳よりは遅くとも古かるまじく、しかして井寺のを西紀六世紀ごろと定めたれば、これは六世紀の中ごろより、七世紀ごろまでのものなりと仮定せんと試みられたり。その最低年限を論ずるにおいて、奈良朝前後に至りて九州と畿内地方との間に、文化上の大なる差異あるべからずとの前提の下に、奈良朝もしくはそれに近き時代以前と定められたるは、理由において異議を容るるの余地あれども、結果においては異論あるべくもあらず。されど、その瓦茸屋蓋風の装置あるよりして、これが最高限度を六世紀の中ごろ、欽明天皇の代、仏教渡来のころを擬したるはいかん。大和朝廷とシナとの交通はすでにこれより前においてしばしば行わる。その通路に当る九州地方、またシナの影響を受くる多かりしを疑わず。その石貫における瓦葺屋蓋風の装置が、横穴内の造付石槨(本書にいわゆる石厨子)に施されたるは、当時この地方にかかる建築の実地に行われて、後に墳墓内にこれを模したりと解すべきか、はた、いまだその普通に行われざる以前において、シナにおけるかかる風を伝聞し、これを壙の装置に施したりと解すべきかは、おのずから一の問題たるべきも、余輩はその製作上の技巧よりして、いまだ親しく瓦茸の家屋に接せざる技術家の手になりたりと、解したく思うなり。したがってその年代の最高限は、井寺等の古墳の最高限の引上げと相伴いて、またその丸・三角等の原始的文様の、多く施されたることよりして、今少しく引き上げ得べきにあらずやと思わる。大村および京ケ峯等の横穴の最高限が、これに伴いてさらに引き上がるべきは異議なし。
 装飾ある古墳と伴いて、石人・石馬等を置ける古墳の、筑後・肥後地方に多きは、つとに学界に熟知せらるるところなり。しかしてその石人・石馬等は、埴輪土偶と同一性質のものにして、しかも石をもってこれを作るは、漢魏の制を移入せしものなるべく、もちろんその時代の最高限は、横口式壙の移入と伴い、漢魏時代倭人交通の時にあるべし。しかして筑後重定なる横口式大古墳の壙壁には、多くの石人類似の装飾ありて、すこぶる大村・京ケ峯(389)等の横穴入口付近に施せるものに似たり。千金甲第一号塚の石槨奥壁文様の一部もまたこれに類す。これらはいずれも石人の行われたる後に至りて、これを彫刻に模したるものなるべく、またもつて年代考定の一参考とすべきものなるべし。
 
      五 装飾古墳を築造せし民族について
 
 著者は肥後・筑後等に多く見るところの装飾古墳が、近畿その他の古墳に比して著しき差異ある原因をもって、年代相違のためにもあらず、民族相違のためにもあらず、「単に支那文化の影響として之を解すべきの外、考古学の研究は何者をも告ぐるものにあらず」(一〇三頁)と論結せられたり。著者が考古学者としてこの結論に到達せられたるは、まことに同情に値す。しかれども史家の見るところはしからず。少くも余輩は文献研究の結果と相啓発して、これをもって民族の差異に帰せんとするなり。著者はこの結論に達する経路において、一篇の民族論を試みられ、「原史時代に於ける九州住民は、其の名称の熊襲なるにもせよ、隼人なるにもせよ、或は倭人と称すべきものにもせよ、畢竟一個の日本人のみ、近畿地方の住民と何等人種上、或は種族上(「或は」以下の五字正誤表によりて削除)の差異を有するものにあらず」(一〇三頁)と論断せられたり。この論断は『史学雑誌』記者によりて、非常なる賞讃をもって迎えられたるものなれども、余輩は文献上より、はた遺物・遺蹟上より、根本的異見を有するものなり。余輩の九州古代民族論は、目下『歴史地理』上に連載中の「倭人考」において、逐次論述すべければ、ここにその詳細を説かざれども、今本書批評の必要上より、便宜左にその結論のみを開陳すべし。
 余輩は確信す、奈良朝ごろなお薩隅地方に蟠居して、言語・容貌・風俗等を異にすと認められ、法律上夷人として、はた外蕃類似のものとして、取り扱われたりし隼人なるものは、少くも天孫民族より見て、明かに異種族なりしに相(390)違なしと。隼人が奈良朝当時に異民族として認められたりしは事実なり。決して著者の謂うごとく、奈良朝ころの史家がしかく考えたりしものにあらずして、当時の政府が然《し》か公認して取り扱いしものなり。そは大要「倭人考」中の一篇なる「隼人考」において論述せり。しかして奈良朝ごろにおいて薩隅のみに住すと認められし隼人種族は、かつては九州全土より、四国・中国・近畿・東海・北陸等にまでも蔓延したりき。そは徳川時代において北海道にのみ住すと信ぜられたりし蝦夷が、かつては奥羽・関東より、引いては中国・九州にまで住居せしと同一状態の下にありきと考うるなり。しかもこれらの蝦夷は漸次熟化して、有史時代には北越・奥羽にのみこれを見るべきの有様となり、平安朝中ごろ以後に至りては、その奥羽のものも多く熟蝦夷となり、大和民族と混血し、風俗においてもすこぶる他の内地の俗と相類するに至りしものなり。しかして余輩は、漢魏時代においてシナと交通せし倭人なるものは、奥羽における平安朝中ごろ以後の蝦夷のこの状態と比すべきものなりと考うるなり。かくてその倭人は、つとにシナと交通せし結果として、往々シナの文物を移入し、墳墓の制のごときも、早くこれに倣いしもの多かりしがごとし。かくのごときはただに余輩がしかく直覚すと謂うにはあらず、一々確乎たる憑拠の上に得たる結論なり。ただここにこれを詳論するの暇なきを憾むのみ。しかしてその隼人はもと海幸彦にして、各地に海部として存するものまたこれに属し、中には農民と化し、山人となりしもまた少からざりき。かくてその混血熟化せるものは、漸次大和民族中に没入し、そのいまだ全く融合するに至らざるものは、奈良朝ごろにおいてなお国史に、染木綿をもって額髪結える肥人として区別せらるるなり。漢史にいわゆる倭人の多数は、奈良朝ごろに至りてはすでに多く大和民族中に没入しおわりたるなるべし。しかもその南部地方、すなわち隼人が依然夷人として残存せし薩隅に近き地方の倭人にありては、当時なお肥人として区別せらるる或るものを存せしなり。しかして余輩は、肥後・筑後等において石人・石馬を有し、あるいはこれら装飾を有する古墳墓の多きは、この肥人の遺せるものなりと考うるなり。かくのごとくにして、これらの(391)地方にのみこの特殊の古墳墓の多く存する理由は解せらるべし。彼らはシナと交通してその文化を受け、つとに横口式の墳墓を造るとともに、また一方においては天孫民族と同化して、副葬品等に彼此類似の風俗を有せしこと多きを示すといえども、なお奈良朝のころにまで、ある地方においては染木綿に額髪結えるがごとき固有の風俗の幾分を存し、時に隼人の反乱に党して立ちしほどにて、その帯ぶる刀剣には、後代までも隼人司の隼人が帯びたる頭椎の太刀を帯び、ある時代まで、いわゆる直弧紋および、丸模様・三角模様等、南方系統と思わるる装飾を墳墓に施すを廃せざりしなり。しかしてその墳墓が、特に肥後・筑後等に多きは、かくのごとき墳墓を造るの習俗ある時代において、この地方にのみ最も多くこの種族残存し、筑前・肥前等のものは、つとに熟化しおわりて、もはやこれを見る少かりしためならずんばあらず。しかれどもなお中国その他にもこの風を有する族なかりしにはあらず。『播磨風土記』には、日向肥人朝戸君の播磨に住せし伝説あり、「雄略紀」には播磨に御井隈人文石小麿の名見ゆるなり。備中に同系の墳墓ある、もって解すべし。もしそれ諸国の墳墓よりいわゆる直弧紋を付したる頭椎剣を発見し、近畿に同種の紋様ある埴輪を発見するがごときは、古史の記事の明かに示すがごとく、当時、肥人・隼人等が久米部の兵士として、もしくは貴顕の近習として、多く内地に移住したりし結果なりと解して通ずべきなり。
 余輩の確信、右のごとし。しかるに著者は文献深く徴するに足らずとし、「人種学的の調査完からず、言語学上の研究完からざる今日に於て」、もっぱら考古学上より説を立てたりと言わる。人種学上および言語学上よりわが民族を論ぜんとすることにおいては、余おのずから説あり。文献また明かに徴するに足るものあるは、すでに一部分『歴史地理』上にこれを説き、将来また引続きこれを説かんとするところなり。さればこれらは今しばらくこれを擱き、単に遺物・遺蹟の上より、試みに著者に一問を呈せんか。著者はこれらの古墳築造者をもって、「畢竟一個の日本人のみ、近畿地方の住民と何等差異なきものなり」と言わる。果してしからば何がためにこれら装飾ある古墳が、特に肥(392)後・筑後地方にのみ多く存して、筑前以北もしくは近畿にこれを見る、しかくはなはだ少きやと。著者ほ単に「支那文化の影響」としてこれを解せんとす。しかもシナと交通あるは、肥後・筑後地方よりも、むしろ筑前・肥前、もしくは近畿地方に多かるべきこと言を俟たず。しかるにもかかわらず、これらの地方に、これを見るなくして、比較的交通少かるべき肥後・筑後等にこれを見る多きはいかん。さらにその文様が、いわゆる直弧紋といい、きわめて簡単なる三角紋・丸形紋といい、むしろ南方系統に近くして、シナの文化に関係少かるべきはいかん。これらはことごとく人種と言語と文献とを離れて、単に遺物・遺蹟上よりのみ論ずるも、とうてい解釈し得ざるところなるべきにあらずや。
 これを人種学上の研究について言わんか、従来、人種学者が古代の遺骨を発見したる場合においては、常にこれをいわゆる日本人なるものの骨骼に比して説をなさんとするを見る。しかれども余輩は、この 「日本人の骨骼」なるものにつきて疑いを抱く。日本人とは余輩のいわゆる大和民族なり。その骨骼の示す計数は、極端より極端にまで渉り、いずれをもってその標準とすべきやに苦しまずんばあらざるなり。けだしいわゆる大和民族とは、天孫民族および天孫民族に混血同化したる土人の総称にして、風俗・習慣・言語・伝説においては、つとに皆同一なるものとなりおわれりといえども、骨骼においてはなお遠き祖先のそれを遺伝すること多かるべきなり。されば今日において、骨骼の調査のみよりこれをいわゆる日本人の骨骼に比較して、民族を決せんはすこぶる難事なりと謂わざるべからず。もとよりこれを成すの希望なきにあらざるべし。ただそのことの困難にして、これのみをもってしては、いまだにわかにいわゆる日本人なる大和民族と比較して、民族上の断定をなす能わざるべきものあるを言うのみ。さらにこれを言語学上の研究について言わんか。ある論者は倭人の言語中、日本語と同じきものあるのゆえをもって、彼是ただちに同一なりと言わんとす。しからば試みに問わん、漢魏時代の倭人と同一事情の下にありきと思考せらるるわが平安朝ご(393)ろの奥羽の熟蝦夷が、不完全ながら日本語を使用せりとて、彼らまた同一日本人なりと断定するの勇気あるかと。論者あるいほまた言う。日本語は近傍の他の国語と著しく相違せり。これ日本人がはなはだ遠き以前よりこの島国に渡来せる証なりと。しかれども言語は民族の接触混淆するよりして著しく変化すべし。しからば、土着先住民との混淆よりなり、久しくこの島国に孤立棲息せる大和民族の言語が、本来の天孫民族の言語をそのままに伝え得たりとは、何人かこれを証し得るものぞ。単語において、語法において、この島国渡来以前の天孫民族の語と、後の国語との間に著しき相違を来せるものあるべきは、何人も否定し得ざるところなるべきなり。さらにこれを現今教育ある日本人の使用する言語について見よ。その単語中にはシナ伝来のもの多きにおるにあらずや。これシナの文化の移入に伴いて比較的短年月間に来れるもの、『古事記』『万葉集』の時代より、僅々千二百年にしてこの著しき相違を来せるを見ば、思い半ばに過ぐるものあらん。さらにこれを僻陬なる無教育者の階級間に使用せらるる俗語について見よ。論者らが常に傍近諸国の民族の俗語と比較して説をなさるるわが雅言との間に著しき相違あるは、何人も認むべきところならずや。余輩は根本において、論者らが他の俗語を取りてわが雅言にのみ比較し、常に説をなさんとすることにおいてまた一の疑いを有するなり。わが邦は海島に孤立し、大陸の諸民族は壌を連ねて相接蝕す。同一語系に属する大陸の諸民族の言語が比較的相近く、孤立せるわが島国語がこれらとはやや遠き距離を有したりとて、なんぞ怪しむを須いんや。さらに論者は言う、わが数詞は他に類例なき特異なるものにして、同語系の大陸諸民族の数詞の彼是やや近きものあるに似ず。これ邦人がいまだ数詞の独立をなさざるほどの遠き以前より、この島国に来りし明証なりと。しかれども、高句麗において古くわが数詞と同一のものの行われたりしことは、内藤・新村両博士によりて、すでに証明せられたるにあらずや。もし論者の説のごとく、国語の数詞が果してウラルアルタイ語族中においても一種特異のものならんには、高句麗人は比較的天孫民族の最も近き親類なりとの結論に到達せずや。しかも後の朝鮮人(394)はつとにこの数詞を捨て、論者の博学にしてなおかつこれを知らざりしほどにも、世に忘れられたりしなり。けだし言語の変遷は、必ずしもある言語学者の思考せらるるがごとく、しかく長年月を要するにも限らざるものなるべきか。果してしからば言語のゆえをもって、邦人の「融合が早く既に原史時代以前に成立して、当時は人種上には九州も本土も一の日本人が住居せしもの」(一〇三頁)とのみ解すべきにあらざるなり。もしそれ「九州地方の地名に於て、アイヌ語以外に外国語を以て適当に解釈すべきもの⊥多く存するを知らず」(一〇一頁)と謂うがごときに至りては、九州地方の地名をアイヌ語をもって解し得るもの以外、ことごとく日本語をもって適当に解し得て後に謂うべきのみ。隼人の言語今これを知るを得ず。なんぞこれに起因するものなしと謂わんや。
 さらに遺物・遺蹟については、余輩はいわゆる弥生式土器をもってもと隼人系統の物なりとし、これを出だす石器時代遺蹟は、彼らの祖先の遺せるものなりと解するなり。しかるに彼らの多数はつとに天孫民族に熟化して、いわゆる大和民族中に投入し、土師部《はじべ》として永くその土器を製作せしがゆえに、後の大和民族の遺蹟よりは、朝鮮式のいわゆる斎部土器と伴いて、この系統の土器をも出だすなり。しかして余輩の観察するところによれば、著者の言わるるごとく、「此等九州の古墳に特殊の土器の存在するを聞かず、均しく祝部土器なり」(一〇二頁)というがごときは事実にあらず。近畿その他の地方の古墳よりも、祝部土器に伴いて弥生式系統の土器を出だすことあえて珍らしきにあらず。特に紀伊海部地方の古墳のごときは、ことに後者を多く混ずるなり。しかして九州地方の墳墓において、往々特にその著しきものあるは、余輩の多く実見せしところなり。かつて山城大住なる横穴より多くこの種の土器を出せしことは、畿内において珍らしき実例なれども、この地がもと大隅隼人の移住地として、室町時代にまでもなお隼人司との関係を保ちしことを思わば、これを九州地方の古墳に比して、おのずから釈然たるものあるに似たらずや。
 
(395)      六 結  論
 
 評論多岐に渉り、思いの外に長文となれり。しかもその第三節以下において説くところのものは、本書にとりては、むしろ末節なり。その論の当否いかんにかかわらず、あえて本書の価値の軽重をなすべきにあらざるなり。余輩の今この論をなすを得るもの、また一は本書によりて得たる新知識の賜なり。忠実なる著者の報告が、本来学者に新研究資料を与うるにありて、「敢て自ら学説を建立せんとするにあらず」とは、著者の巻初に公言せらるるところ、余輩、著者のこの誠意に酬いんがために、みずから揣《はか》らず管見を披瀝したり。しかもこれ真に著者の目的に副い、相ともに研究の歩を進めんとするの微意に出ずるもの、著者必ずこれを甘受せらるべきを信ずるなり。
 もしそれ余輩の九州古代住民に関する詳細なる研究は、逐次『歴史地理』に登載すべき「倭人考」について見よ。しかして余輩のこの研究が、直接、間接に、本書によりていかに多くの益を受けつつあるかを見よ。本書は実に考古学的研究報告として、よくその目的を達したるものなり。学者は本書によりて多大の利益を蒙るべきなり。ここに重ねてこの有益なる資料を提供せられたる著者に対つて敬意を表す。
 
 
(397) 俗伝上の遺物・遣蹟――特に円光大師の石棺というもの
 
 山城国乙訓郡なる浄土宗西山派の大本山、粟生《あおう》の光明寺本堂前向って右の方に、円光大師の御石棺と称するものがある。宗祖大師入寂の後、洛東大谷、すなわち今の知恩院のほとりに斂《おさ》め奉ったところが、後に叡山の山法師のために御墓を発《あば》かれ、御遺骸に凌辱を加えらるる虞れがあるというので、遺弟・宗徒らこれを遠く粟生に遷し、ここに荼毘に付し奉ったという尊い由緒付の遺物である。この改葬のことは『宗祖大師四十八巻伝』に委しく見えて、何人も承知のことではあるが、しかしそれには石棺とは書いてない。
 現在安置の御石棺と称するものは、普通に横口式壙すなわちいわゆる塚穴の中にある、屋根形四注式の石棺よりは古い形式のもので、その前後にのみ縄掛けの突起が出ている。この種の石棺(その実石槨)は、いわゆる長持形の石棺などと同じく、普通に埴輪を伴った方の、比較的古い形式の古墳墓に安置した石槨の一種である。余輩の狭い観察から得た推定では、この種の石棺すなわちその実石槨は、少くも近畿地方では、推古天皇ころには跡を絶った形式のものではなかろうかと思っている。しかるにそれが遠く下った円光大師の御石棺とあっては、多少考古学に素養のあるものは、まずもって首を傾けざるを得ぬ。
(398) ところが、最近に京都了蓮寺住職伊藤祐晃君の好意によって、宝永三年の義山和尚の「四十八巻伝翼賛随間記」という筆記を見たところが、その中にこの石棺について面白い記事があった。
  石の唐櫃《からと》とは通途《つうず》は四角なり。上人の唐櫃は円にして、経を巻きたる如くにして、両方に軸を出し(縄掛の突起を巻軸と見なし、割竹形なる全形を経巻と見なしたる点面白し)、蓋と身と合せ、其軸のところを銅にて包む様にしたるものなり。比の石唐櫃は、今は粟生光明寺にあり。往昔淀城主、何れの処にかありしを見て、物好に懇望して、書院の手水鉢に置きしに、手水を使ふもの或は目を舞はし、或は怪我などする者多し。依v之後に光明寺に納めらる。今影堂の前にて、竹にて垣し置く是なり。
とある。この貴重なる遺文によると、この石棺の蓋はもとどこかの古墳墓にあったもので、それを一時淀城の書院の手水鉢に使っておつたのを、後にこの寺に移したのであった。宝永のころにはまだこの記憶が存していたのである。石棺の蓋を手水鉢にした例は、今も河内玉手の安福寺などにある。
 粟生の付近には一体に古墳が多い。横口式の墳すなわち塚穴の開口しているのもあれば、埴輪のある古い形式のものもある。本堂西方、宗祖廟の後ろには、屋根形四注式の、その中でも比較的新しい形式の石棺の蓋を立てて、碑とした物がある。寺前の道路を右方(南)に進んだ途中の細い溝に、同式の組合せ石棺の底を橋にしたのも、自分の数年前(明治四十二年五月、同四十四年十月)参詣したころにはあった。今は寺内に移してあるそうである。また近所の奥海印寺村寂照寺の門前には、右の碑と同式の石棺の蓋が橋になっており、その東にも組合せ石棺の底を橋にしてある。また乙訓村長法寺の付近にも、三ケ所まで石棺を石橋としたのがある。かような有様で、この辺には古来石棺の発掘は珍らしくなかったのであった。
 また右の「翼賛随聞記」の文の続きに、
(399)  近頃参詣せる人曰く、今は不v見、定めて内へ取納め置くなるべし(いわゆる円光大師石棺のことなり)。又片は西の岡の在所【名を失う】に在り、所の路橋となってありしを、村の者嘗て辻堂を造《こしら》へ安置せり。思の外に村民に祟りて、或者に託して、我路にあって諸人に縁を結ぶにかゝる辻堂に納む云云。依て亦如v元橋とせり。今も疫病などのはやれば、彼橋に燈明を上げて供養し求v之、忽に平癒するなり。其の在所は光明寺より北の方へ三丁ばかり行いて、又東の方へ十町程も行くとなり。今其片を光明寺より所望すれども、処の重宝として合点せぬなり。今時も橋にして現在せり。
とある。これまた貴重な遺文で、その文やや明瞭を欠くの嫌いはあるが、前後の記事を対照して考えると、宝永のころには光明寺には今のいわゆる御石棺の蓋のみあって、身はなかったものらしい。今あるような石棺の身を橋にすることも、必ずしも不可能ではないが、今のが果してそれであるか否かは知らぬ。あるいは橋になっていたものは、これとは別な石棺の蓋であったかも知れぬ。当時、義山はその蓋のみを見て、これを身だと思い、両端の突起を経巻の軸と見立て、「蓋と身と合せ、其軸のところを銅にて包む様にした」と想像した。その実、今見るような身と蓋とならば、決して経巻の態と見立てるはずはなかろうと思われる。しからばそのある在所に橋になったというものは、今の身ではなかったと解するのが至当らしい。ともかくこの石棺がもと淀城に手水鉢にして置いたというのを見ても、蓋か身かその一つだけがあれば十分である。玉手の安福寺の手水鉢も割竹形石棺の蓋だけで、身の方はもとの土地に遺して置いたそう
 
  第一図 粟生光明寺本廟後方の碑(この裏面に碑文を刻す) 〔入力者注、図略〕
(400) 第二図 粟生光明寺安置円光大師御石棺 〔入力者注、図略〕
 
である。光明寺の石棺も、その蓋のみが淀城に移されて、崇りがあるというので光明寺へ納められたが、片方はもとのままに旧地に通っておったのであろう。石橋に使用せられておったものが、果してその片割れであったとすれば、それは今あるところの身ではなく、蓋と合していわゆる割竹形石棺をなすものであったのかも知れぬ。それならば蓋も身も似た形で、両方合して経巻の形とも見立てらるれば、橋となすにも適当である。大阪の茶臼山から出たと思われる長持形の石棺の蓋が、同地四天王寺の境内の溝の橋になっていたことも思い合される。
 その橋になっていた石棺の片方は、宝永のころまではなお存して、光明寺から蓋身具足せしむべく所望しても、村民これを処の重宝として、引渡しを肯んじなかつたとあってみれば、今のように完備して、本堂前に安置するようになったのは、その後いつのころにか、似合いの石棺の身をどこからか持って来て、取り合せたものであろう。挿入の見取図でも知らるるように、今存するところは蓋と身とがうまく出合わないようである。
 義山のいわゆるこの石棺の片方が石橋になっておった所在の名は、義山はこれを失念していたが、光明寺よりは北の方へ三町ばかり行って、また東の方へ十町ばかり行くとあって見れば、今の乙訓村大字井内に当るようである。もし果して義山の説のごとく、その石橋がこの蓋と組み合ったものであったならば、この石棺はいずれこの付近の古墳墓から出たものであろう。して見れば少くも円光大師よりは、六、七百年以上の古いものであらねはならぬ。淀城から光明寺へこの蓋の移された時はいつだか明かではないが、当時にあってはもちろん、それが円光大師の石棺として納められたはずはない。何となれば円光大師はこの寺で荼毘されたので、その石棺が他の塚に存するはずがなく、(401)したがって淀城に移されて手水鉢となった時代に、それが円光大師のだといい出すべきはずがあるべきではないからである。しかるにその手水鉢がもと石棺であるということから、迷信上いろいろの変事があつたがために、これを近所の(淀より粟生まで約二里)、ことにもとその石棺を発掘した付近の、光明寺へ納むるのに至ったのは、当然の成り行きであらねばならぬ。しかるにそれが光明寺の境内に置かるるに及んで、かつて大師の御棺をこの寺に運んだ古伝に思い寄せて、それを大師の御石棺だなどと言い出したものと見える。その実、円光大師のはもちろん木棺で、遺骸はその棺のままに焼かれたことは疑いを容れぬ。もちろん高僧に付き物の奇蹟は伝えられて、棺蓋を開けば上人の面貌存日のごとしとはいっておるけれども、まさか埋葬後多くの年を経た屍体を、棺から出して火葬に付したとは想像の限りでない。
 しかし現在の石棺をもって円光大師のだといい出したことも、由来久しいものである。すでに元禄十五年の『山州名跡志』に、
  石棺 在2堂前1。是則法然上人葬送の棺也。
といい、この石棺を担いで、大谷から太秦《うずまさ》へ、太秦から粟生へ運んだものだといっている。しからばこの石棺がある古墳から発掘されて淀城へ移され、淀城からさらに粟生に移され、ここにこの訛伝を生ずるに至ったのは、さらに多くの年代を経たものと察せられる。かくて伝説上の遺物は、ほとんど疑いなきものとして信ぜられるに至り、今はそれに接近して石の玉垣を繞らし、写真にも撮れぬようになってしまった。
 ところがこの石棺について、近時さらにいわゆる「伝説上の遺物」が付加されつつあるのは面白い。
 明治四十二年に自分が始めてこの寺に参詣した時、案内してくれた坊さんは、例によって円光大師の御石棺の由緒を説明してくれた。自分は謹んでそれを拝聴したが、さらに前記の宗祖廟の後ろの石棺蓋の碑の由来を尋ねるに及ん(402)で、案内の坊さんはそれが石棺であることすら御存じなかった。これはこの坊さんのみが御存じなかったのかも知れぬが、ともかく御存じなかったので、自分はそれがまた石棺の蓋であることを説明し、その石棺の底と思われるのが、南方の道路の橋になっていることをも話しておいた。ところがその後、明治四十四年に再び参詣した時には、前のとは別の坊さんが案内してくれて、例によって有り難く御石棺の説明をしてくれたうえに、さらに、この石棺は二重になっておって、その蓋の方は御本廟の後ろに碑になっており、底の方は下の道路の橋になっていると教えてくれた。数年前に自分がそれを石棺め蓋であると教えたことから得た知識を、その元と教えた自分に、飛んだ利息を付けて返してくれた訳である。まさかにそれが該寺公認の伝説になっている訳でもあるまいが、ともかく一部においてそんな伝説が成立しつつあるのは面白いと思った。不幸にして近時考古学の知識が普及し、この説が世に公認せらるる見込みはなさそうではあるが、俗伝上の遺物・遺蹟成立の順序を見るうえには、最も興味ある現象だと言わねばならぬ。
 かくのごとき実例は至るところに存在する。寺伝何とか、社伝何とかなどいう類、多くこの範囲を出でないのである。天智天皇九年、焼失後の再建に係る法隆寺金堂の壁画は、近ごろの芸術史家は白鳳期だとか、あるいはさらに新しいものだとか言っているが、鎌倉時代の寺伝では、これを鳥仏師のだといっておった。ところが明治時代に寺で発行(?)していた案内記には、さらに古い曇徴と変っている。何がゆえにそれが鳥仏師となり、何がゆえにそれが曇徴と変ったかの理由は不明だが、ともかく「伝説上の遺物」の性質を説明するうえに好材料たるを失わぬ。
 下総香取郡小御門村には文貞公(藤原師賢)の塚と称せられる古墳がある。この古墳が果していつごろのものであるかは、今さら問題ではないが、ともかくそれが文貞公のであると公認(?)せられた結果、そこに別格官幣小御門神社も出来、さらに付近に文貞公の夫人や姫君(?)の塚というものも出来ているとか聞いた。なお伝聞するところによると、神社の神宝として文貞公遺愛の品という古墳土器などがあるとも聞いた。まさかとは思えど、世間の(403)伝説上の遺物・遺蹟にはこの類が多いことを忘れてはならぬ。
 粟生の光明寺に遠からぬ乙訓寺には、弘法大師と八幡大菩薩との御合作の秘仏がある。また同名の鎌倉の光明寺には応神天皇御作の天照大神の御像がある。それが男体であるので、案内の小僧さんに訳を問うたところが、それだから当寺のはことに尊いと教えてくれた。小野道風の『和漢朗詠集』の故事も偲ばれて、興味ことに深からざるを得ぬ。
 聞き違ったことや、思い違ったことが本となって、確説動かぬようになる実例は世間に多い。故意に遺物を偽作し、伝説を捏造するがごときは論外だが、さる悪意がなくとも、誰かが「かも知れん」と言い出したことが、たちまちにして「であろう」となり、ついに「である」となるのはきわめて容易である。かくのごとくにして多くの伝説上の遺物・遺蹟は成立する。
 
 
(405) 埴輪考(土師部考別編)
 
      一 緒  言
 
 埴輪とは何ぞ、『日本紀』には別項「土師氏と土師部」の文中引けるごとく、野見宿禰が垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の御葬儀のさいに考案して、土をもって殉死者の代用物として造ったものだと書いてある。すなわち埴土をもって人馬および種々の物の形を造作して陵墓に立てたもので、それでこの土物を埴輪《はにわ》とも、また立物《たてもの》とも名づけたのだとある。この殉死者に代えたということによると、埴輪は本来殉死者の代表なるべき土偶が本体であるべきであるが、実際には人形ばかりではなく、いわゆる馬やその他種々の物の形があって、それを墓の周囲に立てたもので、今も往々古墳墓の畔からそれが発掘されるのである。古伝説には殉死者は生きながら墓の周囲に埋め立てる例だとあって、『古事記』にはそれを「人垣を立つ」とさえ書いてある。つまり生きた人間で墓の周囲に垣を造ったのであると信ぜられた。しかして埴輪はそれを模したものだといえば、埴輪とはけだし墓の周囲に輪のように立っている埴物《はにもの》の名であって、それでこの物を埴輪とも、また立物とも呼んだのであろう。しからば埴輪とはもと輪状をなした立物総体の名であっ(406)て、その一個一個は立物というべきものであろうが、後世では転じてその各個をも埴輪という例になっている。
 この伝説によって、世間では普通に埴輪といえば人形や、馬や、その他種々の形をなしたものと思っている。しかしながらこの伝説が果してどこまで信じ得られるものであろうか。また埴輪の実際が果してその言うところに適合し、埴輪の真意義が果してそれで説明され得るものであろうか。余輩はここにこれが伝説の価値を研究し、さらに進んでこれが考古学的観察を試みてみたいと思う。
 
       二 埴輪に関する古伝説の価値
 
 埴輪の起原に関する古伝説右のごとくであるから、埴輪のある古墳は少くも垂仁天皇以後のものだなどと速断するものが広い世間には今もってないでもない。かつては考古学者がある古墳の年代を論じた場合にも、立派にこの伝説を引用して、その年代の上限を定めたような例もあった。しかしながらこの伝説は、決して考古学上そう価値あるものではなかろう。別項「土師氏と土師部」中にも述べたごとく、埴輪を立てることが殉死者の態を模したのであるということそれ自身がすでに信じ難いのである。わが古代に殉死の俗があったことはこれを信じ得るにしても、それを生きながら墓の周囲に埋め立てて、いわゆる人垣を作ったなどとは、とうていあり得ないことである。孝徳天皇大化の新政に殉死を禁ぜられた。しかしそれは、絞殺したり、または自縊したりするのだとある。しかしてこれが真のわが古代の殉死の俗であって、大化のころまでもなお継続していたのであろう。しからば垂仁天皇が殉死を禁じ給うたという事実がすでに信じ難い。よしやこの御代に禁ぜられたことがあったとしても、その殉死たるや普通の殉死で、『古事記』に倭彦命の時に始めて陵に人垣を立つとあるのは、殉死の代りだとして伝えられた埴輪を見てからの想像から起った伝説と解せねばならぬ。つまり埴物を造り葬儀に預るを世職とする土師部が、埴輪を造ってこれを墓側に立(407)てるの例であるので、そんな伝説が起ったものであったと解せられるのである。しかしてそれを垂仁天皇の御代のこととし、皇后御葬儀のさいに始まったと伝えたのは、すでにも述べたごとく土師部の長たる土師氏が、垂仁天皇の陵側なる菅原の地を本居としていたためであろう。果してしからばこの伝説は、多くの部下を有してかなり勢力のあった土師氏が、その職掌柄、他から何となく嫌われる傾向あるについて、その家の貴種なることを明かにし、その職掌もかくかくの善良なる動機より起ったものであるとのことを知らしめるために唱え出した、普通世間にありふれた祖業説明伝説の類であったかも知れないのである。これはただに推測ばかりではなく、埴輪その物の実際からも幾分証明せらるべきものである。
 
       三 埴輪は永久的の牆垣
 
 埴輪に関する伝説右のごときがゆえに、普通には埴輪といえば人馬その他なんらかの形をなしたもののように解せられる場合が多く、これを絵に描きあらわすにも、何かの形をしたものがとかく選ばれる傾きである。これはただに右の伝説によるばかりでなく、写真やスケッチの世に紹介せられるも、考古家の筆に上るにも、蒐集家に採集さるるにも、ないし陳列棚に並べらるるにも、たいていは何かの形になったものが多く選ばれて、自然それのみが特に世人の目に触れるがためであろう。しかしながら事実は決してそんなものではない。『日本紀』にあるような「人馬及び種々の物の形」はむしろ稀有であって、埴輪の大多数は単に円筒をなしたに過ぎないものである。それが円塚や前方後円塚の周囲を取り巻いて、その「立物」をもって「埴輪」をなしているのである。『古事記』の「人垣」の語をもっていえば、これはまさに「埴垣」をなしているのである。
 埴輪の円筒は直径四、五寸から一尺以上にも及び、長さも二尺四、五寸から三、四尺にも及んだものがあったらしい。(408)それが場合によっては七、八寸から一尺くらいの間隔をおいて並列しているのもあり、あるいは数尺を隔ててまばらに置かれたものもある。播州垂水の五色塚と称する大前方後円墳ほ、俗に千壷とも呼ばれていたが、それはこの円筒を壷と見立てて、その数のはなはだ多かったことを示した名である。小さい塚ではその麓にただ一列に並べているに過ぎないが、大きな塚では麓にも、中腹にも、上部にも、さらに場合によっては外濠の堤上にも、それが幾列にも並んでおったようである。河内|譽田《こんだ》の応神天皇陵や、大和奈良付近の大ナベ古墳や、筑後吉田の岩戸山古墳のごときは、今も濠外の堤上にそれが認められる。円筒の形は普通はきわめて簡単なもので、腰に二重または三重くらいの帯を施し、両側に貫通した丸い孔を設け、上部はやや朝顔なりに開いたのもあって、たいていは竪に刷毛目《はけめ》を施してある。この貫通した丸い孔は、下部にあるものは木片をそれに挿入して、埋め立てたさいに据わりをよくするための設備とも解せられるが、その土上に顕われた部分にあるものは、これに横木を入れて左右にある埴輪と連結せしめるためのものであろう。しかも事実においてはその穴が正しく左右に向わずして、連結するためには都合の悪い方向に向ったのもあるが、それは孔その物の原意を失って、実際にはただこれを埋め立てるのみで十分安定を得ることが出来るので、横木を用うることが廃れ、ただ形式的に穿たれたる穴に過ぎないものらしい。
 今日でほ埴輪は多く破壊されて、いわゆる千壷の状をなして並列しているのを見かけることはない。稀には土壌の堆積のために蔽われて、ほとんど完全にその形態を土中に存するものもないではないが、多くはその露出の部が破壊されて、土中に保存された下部のみがおのおの輪状をなして、表面に並列して露われているのによって、わずかに痕跡を留めているに過ぎない。しかしそれによって試みに当初の状態を復原して見ると、これはどうしても垣根であったと解するのほかはない。もと柴束《しばたば》のごときものを並べ立てた形を模して、永久的に埴をもって造ったのであったであろう。その腹部に存する横帯はすなわち柴を束ねた形で、竪に施した刷毛目ほ束ねられたその小枝の状を示したも(409)のであろう。
 古えほ後世とほ違って野獣が多く、したがって住宅にはその夜間の侵入を防ぐために、多く垣根を必要としたものらしい。しかもその設備は敵を防ぐというほどの大袈裟なものではなく、普通は柴を束ね立ててこれを連結し、野獣の侵入を防ぐくらいのものであったであろう。柴をもって垣を造ることは宮殿にもあった。反正天皇の柴垣宮の名がこれを証する。これを鄭重にするには数重の垣を繞らす。素戔鳴尊の須賀の宮に奇稲田媛を娶り給うや、「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに、八重垣造る其の八重垣を」の御詠があったと伝えられている。八重垣とは必ずしも厳密に八個の垣根を重ねたというのではなく、幾重もの垣根を繞らして鄭重にその住宅を保護した意で、伊勢大神宮に今も四重の牆垣の設けのあるのは、これすなわち八重垣である。しかして永久的の墳墓にはそれを永久的に設備して、いわゆる埴輪をなしたものであろう。その簡単なものは単に一重の立物を並べるに留まるが、鄭重なのになると幾重にもこれを繞らしているのは、いわゆる埴物をもって八重垣を造ったものと解せられる。
 一説に埴輪は塚の土の崩れるのを防ぐための土止めであるという。この説も一時は有力であったものと見えて、かつて諸陵寮で奈良付近の某皇子の墓と認められた古墳修理のさいに、埴輪円筒を造ってこれを埋めたという話もある。しかしながら封土の流れるのを防ぐためには礫を葺くという方法が行われていた。あるいは表面に芝草を植えるという方法もあったであろう。されば埴輪の並列が偶然土止めの用をなしたとしても、それが埴輪本来の目的ではなかったに相違ない。
 
      四 埴輪と偶人
 
 埴輪が本来垣根の意味で造られたのであったとしたならば、いわゆる「人馬及び種々の物の形」なるものは何であ(410)ろう。またそれがいかなる状態において墓に樹てられていたのであろうか。
 シナの陵墓には古く石人・石獣等を置く習慣がある。その習慣は朝鮮にも伝わって、かの地の王陵にはこれを見るのが普通である。その配置の方法たる、十二支像のごときはその方位に随って墓の周囲に並べてあるが、普通の石人・石獣はたいてい墓の正面神道の左右に相対して置くのが例である。この石人・石獣の俗はわが国にも伝わって、有名なる筑後八女郡下広川村一条なる筑紫国造磐井の墳墓だという石人山、同郡長峯村吉田なる岩戸山などの大古墳には、少からざる石人・石獣が置かれてあった。その他、肥後国玉名郡江田村の金冠や金の耳飾を出した塚を始めとして、他にもその例は少くない。中にも石人山のは石人・石獣のみではなかったと見えて、『筑後風土記』に、
  上妻の県《あがた》の南二里(今の十二町)に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周六丈(六十丈の誤りか)、墓田南北各六十丈、東西各四十丈、石人・石盾各六十枚、更々《こもごも》陳なりて四面に周匝《めぐ》る。東北の角に当つて一別区あり、号して衙頭と曰ふ【衙頭は政を致す所なり。】其の中に一石人あり、縦容地に立つ、号して解部《ときべ》と曰ふ。前に一人の裸形にして地に伏せるあり。号して偸人《ぬすぴと》と曰ふ【生きて猪を偸むがための仍決罪を擬す。】側に石猪四頭あり、贓物《ぬすみもの》と号す【贓物は盗物なり。】彼処に亦石馬三匹、石殿三間、石蔵二間あり。
とある。これによって見ると、これら石の立物は必ずしも神道の左右に並んでいるのではなく、墓を繞って置かれ、特にその一部には墓中の主人公が生前の行事を示した立物も置かれてあったようである。その石人・石獣等はシナの葬儀の風を輸入したものであろうが、配列の位置はすこぶるわが埴輪の列に似ている。けだしこれらの墳は、当時この地方に割拠して王号を僭称した倭人王らが、わが帝王陵と、シナの帝王陵との双方の制を模倣して築造したものであろう。このことはひとり石人・石馬についてのみ認められるのではない。石人山や江田の古墳に現存する石棺を見(411)るに、その埋蔵の位置や形状は、すべてわが上代の帝王陵に見るごときものであるが、しかもその石棺の前面に口を開いて、隧道を設けたところはシナの王者の古制に則ったものである。これを岩戸山や石人山について見るに、その塚の形は前方後円をなして明かに周濠を有し、埴輪を並列させたところ、一にわが上代の帝王陵に見る通りである。けだし彼らみずから王者をもって任じ、しかもその地西偏にありてシナに交通し、わが帝王陵に擬するとともにシナの王者の陵の風をも模したものと解せられる。かくて埴輪とともに石人・石獣等をも有し、しかもその石人・石獣等の配列法がシナに見るごとくならざるは、わが埴輪における偶人等の配列の制に倣ったものと解せられるのである。
 わが埴輪の表わした人馬その他の物像は、普通はその下部が円筒をなして、普通の埴輪円筒に見るがごとき横帯と円孔とをも有している。しかしてその偶人は殉死すべき近習の態を模したもので、その並列せる状は人垣の代りに造られたものだと信ぜられていたのであった。この伝説が事実に合わぬことはすでに述べた通りで、したがってその伝説の年代は埴輪本来の性質を忘れた後のものだとは思われるが、ともかくかかる伝説の存するのは、人馬その他の物像を模したものが並列せる円筒の中に交えて置かれたのであったがために相違ない。河内の誉田陵には今も濠の外堤上に埴輪並列の痕跡を認められるのであるが、その中には、かつて明かに土馬が交っていた。『日本紀』雄略天皇九年の条に、
  秋七月壬辰朔河内国言さく、飛鳥戸《あすかべ》郡の人|田辺史伯孫《たなべのふひとはくそん》の女は古市郡の人|書首加龍《ふみのおぴとかりよう》の妻なり。伯孫|女《むすめ》の児を産めるを聞きて、往いて聟の家に賀して、月夜に蓬※[草冠/累]丘《いちぴこおか》の誉田陵下を還り、赤駿《あかうま》に騎れる者に逢ふ。其馬時に※[さんずい+獲の旁]略《もこよか》にして龍の如く※[者/羽]《と》び、※[火三つ+欠]《あからさま》に聳《たか》く擢でゝ鴻の如く驚く。異体蓬生、殊相逸発す。伯孫就き視て心に之を欲し、乃ち乗れる所の※[馬+總の旁]馬《まだらうま》に鞭ちて頭を斉しく轡を並ぷ。時に赤駿|超《こ》え※[手偏+慮]《の》びて塵埃に絶し、駆《はし》り驚きて滅没よりも迅かなり。こゝに於て騎馬後れて怠足し、復《また》追ふべからず。其の駿に乗れる者伯孫が欲する所を知りて、仍て停つて馬を換へて相(412)辞して別を取る。伯孫駿を得て甚だ歓び、驟りて厩に入り鞍を解いて馬に秣《まぐさかい》て眠る。其の明旦に赤駿変じて土馬となれり。伯孫心に之を異とし、還りて誉田陵に覓《もと》むるに、乃ち※[馬+總の旁]馬の土馬の間にあるを見る。取つて代へて換ふる所の土馬を置く。
とある。いわゆる狐に抓まれたような噺であるが、こんな噺のあるのは周湟の堤上並列の埴輪の中に、明かに土馬のあったことを示したものである。
 以上述べたような見地からこれを考察すると、陵墓には前から垣牆の意味で埴輪が設けられてあって、いつのころよりかその円筒を応用して、上部に人馬および種々の物像を作りつけて、これを立てることになったのであろう。しかしてこの考案は、シナの石人・石獣等の制から得たものであるか、あるいはわが独創になったものであるかは明かでない。もし土師氏に関する伝説を生かして保存したい人は、野見宿禰がこれを創案して垂仁天皇の嘉納を得たと見てもよかろう。ともかくも埴輪は殉死の代りではない。死後なお生前に仕うるがごとく、近習の像をその陵墓の側に置いたもので、唐代の墳墓の壙内に収めた小土偶と同一性質のものと見るべく、あるいは殉死者の代りとして、在来の埴輪を応用したと解すべきものであろう。しかも埴輪には偶人ばかりではなく、いわゆる馬その他種々の物像があるので、なお生時に使用するものを明器として歿後にも従わしめると同じく、一方には壙内に真物または模造の品を蔵めるとともに、墓外にもこれを模造して並べたものであったと解する。
 なお特別のものは埴輪の列の一部に、もしくは列から離れて、別に適当な場所にこれを置いたものらしい。磐井の墳墓に解部・偸人・贓物が一別区に置かれたがごとく、また石殿・石蔵・石馬のそこに置かれたがごとく、埴物にもそれがあったであろうと思われる。埴輪列の一部が他と異なる状態に配置されたり、あるいは列から離れて、家屋形の埴輪の破片が発見されたりすることがある。現に大正元年に日向|斎殿原《さいとのはら》の古墳調査のさいにも、俗に事勝塚と称す(413)る円塚の麓と上部とから、これを繞った埴輪円筒の列を発見したが、その上列の東方の一局部には、四個菱形に相対して、異様の配置に置かれてあったのを実見した。思うに人馬もしくはなんらかの物像が、埴輪円筒列の一部に置かれたものであったらしい。またその頂上の南部にも、列から離れて数個の円筒の底部が発見され、その東方にも、ある特別の配置をなしたらしく円筒の底部が並んでいた。しかしてその付近から発掘された破片の中には、明かに家屋の一部と認められるもの、武具の一部と認められるものもあった。塚は通例南面しているものであるから、これらはおそらくその頂上に正面において、種々の物像を陳列したものであったであろう。シナの墓にはよく境内に家屋の模型を蔵めてあるが、わが邦ではそれをもやはり埴輪を利用して、もしくはそれと同じ方法で、墓上に安置したものであったのである。かくのごとく埴輪列から離れて置かれたものは、埴輪という語の原意から言わば、あるいはこれをその名をもって呼ぶのほ当らぬかも知れぬ。墓外に置かれた一種の明器で、立物というべきものであるかも知れぬ。しかしながら、墓側に列をなして繞れる各個の土物を埴輪と通称している今日、それと同じ形式をもって造られ、同じ意味をもって墓上に立てられてある以上、やはりそれは埴輪と呼んでしかるべきものであろう。
 
      五 埴輪の風習存続の時期
 
 わが墳墓に埴輪の立物を置くことがいつのころから始まったか、またそれがいつのころまで継続したかは、とうていこれを正確に定めることが出来ぬ。土師に関する伝説を信ずれば、野見宿禰以来ということになって来るが、しかもすでにいえるごとく、この伝説は考古学上あまり価値のないもので、いかに贔屓目に見ても、前からあった埴輪円筒に人物をつけて、殉死者の代りとしたというくらいにしか弁護することは出来ないのである。わが土師の民は埴輪のような赭色素焼の土器を作るに慣れている。しかしてその民が一方葬儀のことにも預かるようになっては、いつしか(414)そのお手の物なる窯物《やきもの》をもって永久的の垣牆を作ることに思い至るのは、けだし自然の道筋であらねばならぬ。この際にあってわが西※[土+垂]の豪族らは、今より二千余年前、漢の武帝が朝鮮を征してここに四郡を置いて以来、これと交通して直接間接に漢の文明をわれに輸入し、特に筑前|儺《な》(奴国)の県主《あがたぬし》のごときは、後漢の光武帝から倭の奴国王に封ぜられて、黄金の印をさえ与えられたほどであったから、これらの豪族らは各自王者をもって任じ、かの地の帝王陵の石人・石獣等の風をわれに輸入することも必ずこれありしことと信ずる。ただし、当時ただちにその石製のままの形をわれに移したか、あるいは微力のこれらの小王者らは、それを手軽な埴製に改めたかは明かでない。むろん石人山のごとく、埴輪とともに石製品を置いたものも往々あるにはあるが、「風土記」にも継体天皇朝の磐井の墓だとそれをいっているように、時代はやや下るものと解せられていた。ともかくも人馬その他の物象を墓上に置くことは、漢の風習の影響を受けて、それがわが国風に変化したものと認められるのである。しかしてその風は、大和朝廷治下の地方にも行われて、いわゆる埴輪立物をなしたものであろう。上方《かみがた》における秦漢人の移住もすこぶる古い時代のことであるから、漢土の葬風が必ずしも西※[土+垂]の豪族を経て伝わったとのみ解するの必要もなかろうが、ともかく墓上に人馬等を置くようになったのは、漢土の石人・石獣等の影響と解したい。しからば、いくら古く見ても二千年を上るものではないと解する。埴輪を有する古墳から発見せられる副葬品には、往々漢魏六朝時代の鏡鑑や、あるいはその模造鏡のあるのによっても、ほぼその時代は察せられよう。『日本紀』によれば、野見宿禰の献策した垂仁天皇の三十二年は、神武天皇即位紀元六百六十三年で、漢武帝の朝鮮を征した元封二年、三年のころからは、百十年ばかりの後であるから、時代はほぼ合うといってもよいようではあるが、この紀年の信ずべからざるは、学界すでに定説のあることだから今取らぬ。埴輪を有する墳墓は、たいていは余輩のいわゆる旧式のもので、大きな横口式の墳を有するシナ伝来式のものとは違い、墳丘の頂上に棺槨を蔵し(石室あるもあり、なきもあり、棺槨にも石造もあれば、木製・粘土製など(415)もあったらしい)、墳丘は前方後円または円形をなし、稀に方形のものもある。しかしてその石棺(実は石槨と呼ぶべきもの)にも、通例は長持形、蒲鉾形、割竹形、箱形等で、屋根形のものはあまり見かけぬようである。しかしこれは多く上方地方で見るところであって、いわゆる倭人王らの直接漢土の葬風を輸入した西※[土+垂]の地方では、必ずしもそうばかりは言われないようである。例えば、筑後浮羽郡千年村なる若宮八幡の境内の、日の岡・月の岡の両古墳のごとき、双方ともにはなはだしく年代に差違ありとは思えぬが、月の岡の方は余輩のいわゆる旧式墳で、頂上に長持形石棺を蔵しているにかかわらず、日の岡の方は横口式の一大石室をなし、その石壁の面には種々原始的な紋様が描かれてあるのである。また同郡朝田村重定なる一古墳のごときも、横口式の大きな墳を有して、その石壁にはまた原始的な種々なる紋様を施してあるのである。もっともこの両式古墳の年代が、いかに前後の相違ありやについては副葬品の精密なる比較研究を要することであるが、日の岡や重定のに関する材料を有せぬ今日、そこまで踏み込んで決定する方便なきを遺憾とする。しかしこの原始的紋様を有する墳墓が、畿内地方において前方後円の埴輪を有する式のものよりもそう遅いとほ考えられぬ。けだしいわゆる倭人王ともいうべき九州古代の豪族らは、一方では月の岡墳のごとく、ほとんど近畿の帝王陵のままのものをも築造し、一方では日の岡または重定の古墳のごとく、漢土の帝王陵に倣って大きな隧道を有する石室を構え、さらに一方には石人山や岩戸山古墳のごとく、双方を折衷してその特徴を併せ有するというようなものをも造ったのであったであろう。しかして上方地方においても、帰化の秦漢人らはみずから往々帝王の後と称しているので、その墳墓のごときも比較的早い時代からかの地の王者の陵を模して、隧道を有する横口式のものを造ったことはあったであろう。しかしかつて「皇陵」(日本歴史地理学会発行)において述べたごとく、わが古代の帝王陵においては、この種のものは御築きにならなかったようである。すなわち、いずれも余輩のいわゆる旧式のもので、多くは前方後円で埴輪を有している。しかして少くも欽明天皇陵のころまでは、(416)この式が行われたようであった。しかるに聖徳太子磯長墓(実は用明天皇の皇后、間人皇女陵に太子および妃を合葬し奉れるもの)は明かに隧道と石室とを有するものである。おそらく用明天皇ごろから、わが帝室においてもこの制を御採用になったものと思われる。これより以後、天武・持統両天皇合葬の檜隈大内陵のごとき、明かにこの式に属するもので、大化の新制に定められた墳墓制限令言うところの墓室の大きさのごときも、皆この種の墳墓であったことと解せられる。しかしてこの種の墳墓からは普通埴輪を発見せず、石棺のごときも長持形等はなくて、屋根形のものが多いようである。これすなわち余輩のいわゆるシナ制模倣の新式墳墓で、その種のものは古くからも存在していたであろうが、少くも上方地方においては仏教流布のころから多く行われ、帝室においてもこれを御採用になることとなったと信ずる。しからば埴輪の存続は、だいたいにおいて旧式墳墓と終始したもので、仏教流布のころから次第に行われなくなったものであろう。年代からいえばまず聖徳太子のころ、すなわち今より約千三百年前ころには、少くも上方地方では廃滅の運命に陥ったものといってよい。もっともその末期に近づくに従っては、葬儀の風も次第に変遷して、埴輪の本義も忘れられたであろうし、この脆弱なる遺物は多く破壊せられて原形を留むるもの少く、爾後百余年を経た『日本紀』編纂のころには、同書記するような伝説をも真面目に信ぜられるに至ったものらしい。一説に、『万葉集』巨勢朝臣豊人が、土師宿禰|水通《みみち》によってその黒色を嗤笑せられたに酬いた歌に、「駒造る土師の志婢麻呂白くあれば、うべ欲しからん其の黒いろを」という歌があるので、このころなお土師氏は土馬を造ったものだとして、埴輪制の存続を奈良朝ごろまでも下げようという説もあったけれども、それは遺物の実際と相容れない。またこの「駒造る」は土師の枕詞と解すべく、現実に土師氏が駒を造ったと解する必要はない。また実際土師部が土馬を造っていたがために、それを土師宿禰にかけて冷かしたとしても、その土馬を狭く埴輪と解する必要はなかろう。
 
(417)      六 結  論
 
 埴輪は一種の土師物である。土師器を焼く土師部が一方で葬儀のことに預かるので、おのずからこれを造って墓に立てた一の永久的牆垣である。その牆垣の存在を利用して、もしくはその円筒に新考案を加えて、人馬その他種々の物象を造って墓に立てるようになったのは、直接間接に漢土の陵墓の石人・石獣等に倣ったものか、そうでないにしても、その意義は同一で、生前に要した近習その他日常使用の器物に至るまで、死後なおこれを使用すべく墓に供えたものである。これを殉死の代りだと称し、その時代を垂仁天皇の御代に帰したのほ、垂仁天皇の陵側に本居を有した土師氏が、陵墓に関する自家の世職の起原を説明すべく、兼ねて自家の貴種たることを明かにすべく、代々語り伝えた家伝であったと解する。よしやそれが謂うごとく殉死の代りで、野見宿禰の創案になるとしても、牆垣なる埴輪その物は前代から存したもので、土偶人を立つることがこの時に始まったと謂うべきものであろう。しかし埴輪の表わすものは土偶人ばかりではなく、『日本紀』すでにいうごとく、馬その他種々の物象もあるのであるから、シナの陵墓に石人・石獣を立て、また土偶を始めとして家屋や竃等、物品の模造品を墳に蔵むる風習のあることから考えても、これはかの制から考案を得たでないとすれば、自然の人心の帰趨するところと謂わねばなるまい。しかしてこの風習はシナ風の隧を有する新式墳墓の盛んに行われるとともに次第に磨滅して、おそらく仏教流布のころには、あまり行われなくなったものであろう。かの不自然なる殉死の風を伝えたり、埴輪をもってこれに代えたという伝説の存したりすることは、埴輪の原始の状態と真の意義とが忘れられた後に起ったか、もしくは古い伝説が後に至って潤色されたものであろう。『古事記』に陵に人垣を立てたといい、『日本紀』に墓側に近習を生きながら埋め立てたなどいってあるのは、埴輪の列をもってことごとく偶人を並べ立てたものだと誤解し、その偶人を殉死者の代りと誤認した(418)がために、埴輪の並び立てる状態から古えの殉死の風を推測したものだと謂わねばならぬ。しからばこの殉死の風習を述べた伝説は、本末を顛倒したものである。
 埴輪については他にも論ずべきことがないではないが、あまりに長文に渉るの虞れがあるから本篇はしばらくここに筆を擱くことにする。
 
(419) 栗隈の県とその古墳墓の研究
 
      一 序  言
 
 畿内地方の古代帝王陵の雄大なることは言うまでもないが、地方においてもそれに劣らぬほどの古墳墓の存在はあえて珍らしくはない。そこでそれを見てその偉大の感に打たれたものは、往々にして皇族のお墓であろうとか、高貴に関係があるものではなかろうかなどと言い出す。大きな塚に大塚という名の付いた場合が多いので、それを王塚だと付会するに都合がよい事情がある。しかしそうそこにもここにも、皇族や高貴関係の御陵墓が存在しているものであろうか。昔の国造・県主らは往々にして系を皇胤に付会したものだ。しかしてある程度までは皇室においてもそれを認められたと見えて、『古事記』『日本紀』や、「国造本紀」『新撰姓氏録』などの記するところ、その趣に出来ているのが少くない。ことに景行天皇に八十皇子《やそみこ》おわして、その七十七王ほ諸国に封ぜられ給うたなどいう古伝説のごときは、この解説を下すものについてきわめて都合のよいものである。しかしこれが果してことごとく信ずべきものであるであろうか。いわゆる国造・県主らも、かつてはその地方にあって独立の首長をなしていたものであったに相違(420)ない。古語にこれをキミと称し、「君」の字を当ててある。その君らが大和朝延の御稜威《みいづ》に服して、付庸の形となって本領を安堵せられたものも多かったことであろう。中には反抗して滅ぼされ、その代りに他の土豪の新たに取り立てられたのもあろうし、皇族なり功臣なりの、実際その地に封ぜられたのもまた満更なかった訳ではあるまい。しかしてこれらはやはり君と称して、地方に偉大なる勢力を有し、大和朝廷に付庸の形になって、なおしばしば帝王陵といっても恥しからぬほどの墳墓を営造しておったものらしい。隋の使者わが推古天皇朝に来聘して、竹斯(筑紫)以東の諸国が大和(倭)に付庸していると見て帰ったのは、当時の実際の有様を示したものであったであろうと察せられる。ここにおいてか、これらの付庸国の君の上に立たれた大和朝廷の元首は、大君でありスベラギ(統君)であった。後にはその上下の懸隔がますます多くなって、大君の称はもつて元首の尊を示すにも足りなくなったとともに、地方の豪族は依然キミとは称しながらも、「君」の字を用うることを禁ぜられて、皆「公」の字に改められた。かくてついにはその「公」は卑しい姓《かばね》と解せられるようになり、ために「公」の姓を有するものは夷姓を脱せざるものとして、わざわざ願って「臣」その他の姓に陞さるることを希望するような奇態な現象を生ずるようにまでなってしまった。これらの変遷の詳細は、いずれ他の機会に発表を期することとして、ここには古墳墓の実際から、いわゆる国造・県主らの地方のキミが、果していつのころまでその偉大なる権力を擁していたかを証明すべく、栗隈県《くりくまのあがた》の実際を観察してみたい。
 栗隈県は山城国久世郡の地方で、今の久津川村の辺、すなわち『和名抄』にいわゆる栗隈郷の地を主として、その付近地方に及んでいたものらしい。その久津川村大字平川には偉大なる古墳が群集している。その中でも最も大きな車塚と称する前方後円墳は、明治二十七年に鉄道工事のために発掘されて、後の後円の上部から長持形石棺があらわれ、中から数面の鏡鑑その他の貴重なる遺品が多く発見された。かくてこの石棺は今京都大学の構内に移さ(421)れ、鏡鑑は奈良の関信太郎君の有に帰したが、関君その考古学上の貴重なる遺品をひとり秘蔵するに忍びず、京大教務嘱託梅原末治君に嘱して、『久津川古墳研究』なる一冊子を出版し、これを少数同好の士の間に頒たれた。当時、自分はさらに梅原君の依頼によって、記録上から栗前県《くりくまのあがた》に関する史料を蒐集し、「粟隈県」一篇を起稿して贈ったことであった。今その文をもととしてこの一篇を本誌に掲げ、古代の地方における豪族の状態を窺うの一端に供せんとする。
 
         二 栗隈県の開墾
 
 栗隈の県の名は『日本紀』仁徳天皇の条に始めて見えている。その十二年十月条に、「大溝を山背の栗隈の県に掘つて、以て田に潤《つ》く。是を以て其の百姓毎年豊年なり」とある。このころは各地にしきりに勧農工事が行われた時代であって、前年には有名なる難波の堀江を疏通して大和川の水をただちに西海に流したのみならず、淀河に茨田堤を築いて大いに河内平野の水害を除かれた。また翌十三年には大和に和珥《わに》の池を造り、河内に横野の堤を築き、十四年には大溝を河内の感玖《こんく》に掘って、石川の水を引き、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四処の郊原に潤《つ》けて、四万余|頃《けい》の田を得た。これがためにその処の百姓寛饒にして、凶年の患なしとある。けだしこの当時は三韓もわれに属して、わが国運大いに発展し、人口も盛んに増殖したので、糧食の必要上かく頻々たる勧農工事の必要もあり、天皇もこれに意を注ぎ給うたのであろう。かくてその結果ますます糧食も豊富となり、人口増殖して、国運とみに発展するの結果を呈したのであろう。天皇は御名を大サザギの尊と呼ばれ給うまでに、御生前において大きな御陵《みささぎ》を築造せしめ給うた君である。天皇はもちろん御仁徳の高くおわした君であって、宮室壊るるとも数年問御辛抱なされたと伝えられたほどであるから、御親らかかる大陵の築造をお命じになるとは思われぬが、当時富有であった庶民らが、天皇の御(422)徳を慕うのあまり、子のごとく来って工事にいそしんだためだとでも解すべきものであろう。ともかくその御陵は今も堺市の東に大山陵として、日本第一の大陵が厳然存在しているのである。しかして応神・履中等その前後の諸帝の山陵は、これにつぐの大いさを有するもので、当時国運の最も隆昌な時代であったことを遺跡の上に示しているのである。すなわちこれを古墳からいえば、仁徳天皇時代を中心として、最も大きなものを造った時代であったと解せられるのである。しかしてその時代の勧農工事の一として、この栗隈県の大溝は開鑿せられたのであった。その後推古天皇十五年にも、大和の高市池・藤原池・肩岡地・菅原池や、河内の戸苅池・依網《よさみ》池などとともに、山背の栗隈に大溝を掘ったとある。仁徳朝の大溝の修築もしくは拡張か、それともさらに別の大溝を設け給うたのかは不明であるが、この御代に栗隈県主の女と認められる栗隈黒女が、采女として宮中に仕えていたことと合せ考えて、当時栗隈氏なり、栗隈県なりが、相当に活躍していたものであることが察せられる。
 栗隈の大溝がいかなる地点にあったかは今これを明かにすることが出来ぬが、仁徳朝にこの溝築造の翌年に造った河内感玖の大溝が、石川の水を引いて郊原に潤《つ》いたとある例から察すると、やはり富野庄あたりから木津川の水を導いて、北方の平野に濯漑したものであったらしい。しかして特にそれを大溝とあってみれば、その工事の規模すこぶる大きなものであって、ために栗隈の地を利したことのすこぶる多かった有様が想像される。『山城志』に「栗隈大溝、長池町古堤尚存」とあるのは、果していかがなものか。ともかくもこの二度の大工事によって、いわゆる栗隈の県に多くの良田を得、栗隈県主の富有をしてさらに大なるに至らしめた事情は察せられる。
 
     三 栗隈の県地方の古墳墓
 
 古えの栗隈の県すなわち今の久津川村の地方には、今ほ上記の車塚の大前方後円項を始めとして、大小の古墳が少(423)からず存在している。中にも車塚は前後の長さ約八十六問、前面の広さ約五十二間、後円部の径約四十八間に達して、高さ前方部で約五間、後円部は約七間にも及んでいたらしい。今は一部分鉄道のために削られて、完全なる原形を見ることが出来ぬが、今残れる部分についてこれを見るも、もと階段状をなして埴輪を繞らしていたことは明かで、これを同じ型式の帝王陵のあるものに比しても、はなはだしき遜色なきほどのものである。その石棺は明治五年に仁徳天皇大山陵の一部が崩壊して現われた石棺と同型式のものである。さればその墳丘の形状といい、この石棺の型式といい、またその偉大なるところからいっても、その石棺内から発見された鏡鑑の年代から考えても、仁徳天皇朝を距るあまり遠からぬ時代の豪族の墳墓であって、おそらく当時富饒を致した栗隈県主の築造と解して、はなはだしい間違いはあるまいと思われる。この塚発見の鏡鑑は、たいてい、シナ六朝時代鏡の模造品であって、わが鏡作部によって作られたものである。しかしてわが仁徳天皇の時代は、しばしばシナと交通していたころであってみれば、その輸入の鏡鑑が模造されて、この墳墓に副葬されたとしても、年代はほぼ相当るものなのである。
 この地方にはもとさらに古墳が多かったものらしい。栗隈県主といってももとより一代限りのものではないから、その墳墓がいくつもあって不思議はないのである。しかしてわが帝室の御陵墓において仁徳天皇の大山陵を最大とし、その前後に同型式の陵墓の存すると同様に、この栗隈県主家においても、この車塚をもって最隆盛時代の墳墓として、その前後において少からぬ墳墓がこの地方において造られたのであったに相違ない。
 これらの古墳のことは、古くすでに徳川時代の地誌にも往々見えている。まず元禄の『山州名跡志』久世郡の条には、
 七塚 在2大久保民居西三町許1、小塚七つあり、其間二、三町を隔つ、四面に以v為2田畠1年々減少すと雖、以v有2奇怪1不穿と云。
(424) 指月塚 在2民居(平川村)巽1、伝云月見楼ありし所と、封地今尚高壇なり。
 車塚 在2同所東大和街道東1、形南北に亘て如v山。是則所2送※[葬の廾が土]1車を所v蔵也。
 同西方街道の西に大なる塚あり、是則送※[葬の廾が土]の塚なるべし、由縁不詳。
 鴻島 云v塚。在2車塚子丑間1。
 梶塚 在2車塚北1。
  右号土人の口称なり。総じて此辺に塚多し。土人の云く寛文年中に田間より長五尺余の骸骨出づ、其外朱沙多くありしと。
 また享保の『山城志』には、その久世郡の条に、
 荒墳 広野村・坊池村各一、寺田村・小倉村・富野村・伊勢田村各三、又十一在2久世村1、十五在2平川村1。
とある。実際にはこの以外にもなおあるべく、かつてはさらに多かつたに相違ない。しかしてこれらの墳墓の多数は、古えの栗隈野の地に属したものであった。降って貞享の『雍州府志』に至っては、 七帝陵 在2伏見南平川1。七陵儼然。土人称2七帝1。然不v知v為2何帝1也。其外山陵多在2斯辺1。惜哉不v詳2其実1也。
と書いて、これを帝陵に擬しているのである。これもとより土人の言を紹介したのみで、確かな説があったのではない。もちろん、これらの墳墓については、里人間にもなんらその人名に関して確かな語り伝えのなかったことは、前出の『山州名跡志』に、あるいは月見楼のあった所だといい、あるいは車を蔵めた塚だといい、あるいは由縁不詳といい、『山城志』に、いずれも荒墳とあるによって察せられる。しかるに後世に至っていろいろの付会説が出て来た。『宇治旧記』(宇治町皆川英三郎氏蔵)という写本には、
 粟隈墳 平川村大和街道東にあり。土人車塚と云。あやまり也。栗隈王の墳也。
(425) 栗隈墓 平川村大和街道の西にあり。首徳萬《おふととくまん》墓也、徳萬は天智天皇七年二月、女黒媛を嬪として水主《みぬし》内親王を生む。
 家士塚 同所の西北方にあり。首の家士等の塚なり。土人梶塚といふ。家士の誤なり。
などいっている。はなはだしく年代に無頓着な付会で、ただ古書に見える人名を勝手にこれに擬したに過ぎず、もとより採るに足らぬ説である。その車塚のごときの制は、決して天武天皇朝の栗隈王のごとき、さる下った時代のものではない。またその西方なる前方後円墳も、もとより徳萬などの時代のものではない。けだしこれらの古墳群は、さらに古い時代のこの地方豪族の墳墓として、その古墳の型式や副葬品からその年代を推定し、もって栗隈県の過去を語るの不文の記録であらねばならぬ。 しからばこの地方の豪族として、古えいかなる人物が史上に見えているであろうか。
 
     四 史上に見ゆる栗前《くりくま》氏
 
 栗隈の県のことは『曰本紀』仁徳天皇条に見ゆること既記の通りだが、その県主のことは一向物に見えておらぬ。粟隈氏の名は『新撰姓氏録』にも漏れている。しかしながら古く山城に粟前氏があり、富豪栗前氏が奈良時代以後に存在していたことは疑いを容れぬ。
 『続日本紀』神護景雲二年九月二十八日の条に、「正八位上|栗前《くりくまl(粟隈に同じ)連《むらじ》広耳に外《げ》従五位下を授く、貢献を以てなり」とある。これをその近い時代の傍例に徴するに、神護景雲三年に武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男が、商布一千五百反、稲七万四千束、墾田四十町、林六十町を称徳天皇御建立の西大寺に献じたので、死後外従五位下を追贈されたとのことがある。これは死後の追贈であるが、これに対して広耳のは、その当時に正八位上から一躍八階を踰(426)えて、外位にもせよともかく五位に叙せられたのであった。これは必ず多大の貢献をなしたものであったに相違ない。その後、延暦四年長岡遷都の時においても、広耳は役夫の粮食を給したという廉で、外従五位下から内位の従五位下に叙せられている。けだし彼は奈良朝末期における一大富豪であったと察せられる。この広耳二度の叙位の中間なる宝亀七年十月には、従六位下栗前連枝女が、三階を踰えて外従五位下に叙せられた。あるいは広耳の妻であったか、それとも宮人として仕えていた女であったか不明であるが、ともかく広耳の同族であったには相違ない。
 広耳の本貫は史これを逸して書いてない。しかしながら栗前をもって氏とすることと、長岡京役夫の粮食を給したということから、おそらく古えの栗隈の県の住人で、『和名抄』にいわゆる山城国久世郡栗隈郷、すなわちこの久津川村地方の富豪であったと解せられる。栗隈氏もと首《びぴと》姓で、天武天皇十二年に、その姓を陞して連《むらじ》を賜わったのであった。その家は由緒久しいものと見えて、すでに推古天皇朝に栗隈采女黒女《くりくまのうねめくろめ》という名が『日本紀』に見えている。采女は孝徳天皇大化二年の詔に、郡の少領以上の姉妹および子女の形容端正なるものを貢せよとある。大化の郡領は主として古えの国造・県主等の地方の豪族をもってこれに任じたのであるから、その前なる推古朝のこの粟隈の采女も、いずれかかる由緒ある家柄のものの女であったと察せられる。次に天智天皇朝には、栗隈首徳萬《くりくまのおふととくまん》の女|黒媛娘《くろひめのいらつめ》が後宮に侍して、その腹に水主皇女が生れられたとある。皇女、後に三品水主内親王となり、霊亀元年には位階相当の食封四百戸・位田五十町の外に、さらに封一百戸を益され、天平九年八月に至って薨ぜられた。その「水主」という御名前は、必ず栗隈郷に隣接した水主郷に因縁するものなるべく、その母方なる栗隈氏が、栗隈郷からこの水主郷地方をまでも領して、皇女あるいはその地に成長せられたものか、もしくはその地になんらかの関係があって、この御名を得拾うたものであったであろう。しかしてこれが年代を案ずるに、奈良朝末期の富豪栗前連広耳は、おそらくこの水主内親王の外祖父なる徳萬の玄孫くらいに当る人であったであろうと思われる。
(427) 天武天皇の皇子忍壁親王の王子山前王という方があって、その御子池原女王は、一時母家の姓を冒して臣籍に列し、栗前枝女《くりくまのえだめ》と称せられたとある。のち宝亀十一年に至って王爵に復せられたが、この女王の御生母すなわち山前王の妃もまた栗隈氏の女で、年代を案ずるに富豪広耳の叔母か姉妹かくらいであったことと察せられる。
 聖武天皇朝の左大臣正一位橘諸兄の祖父は、贈従二位栗隈王といい、天智天皇朝の筑紫率で、敏達天皇の皇子難波皇子の御子(一説、御孫)におわした。何がゆえにその御名を栗隈と称せられたかは不明であるが、いずれまたこの栗隈郷の地方に因縁を有し拾うたことは疑いを容れぬ。
 なお、さらに古いところを尋ねてみると、日本式尊の妃に山代の玖玖麻毛理比売《くくまもりひめ》という方があって、足鏡別《あしかがみわけ》王を生んだとある。『古事記伝』に「ククマはクリクマの約まれるにや、さだかならず。モリは守か、森か、これもさだかならず」とあるが、あるいはまたこの栗隈氏に縁があったのかも知れぬ。
 要するに栗隈氏は、大化以前より栗隈郷地方の豪族で、大化以後にもおそらく久世の郡領を世襲し、富有を極めたものであったであろう。
 この氏人は平安朝にもしばしば史上に散見している。嵯峨天皇弘仁十四年正月、正六位上栗前連名正に外従五位下を授け、淳和天皇天長九年正月、外従五位下栗前連名に外正五位下を授くとある(『類聚国史』)。この後者の単に「名」とあるのは名正の「正」字の誤脱で、おそらく前者と同一人であろう。このほか、仁明天皇の時に従五位下栗前真人永子、村上天皇の時に左少史栗前宿禰扶茂というのがあるが、姓《かばね》が違うので果して同族か否かはつまびらかでない。真人は皇胤に賜わる姓で、あるいは母姓を冒した皇族が賜わったものであるかも知れない。宿禰姓には連姓から陞されたものが多いので、あるいは嚢時の栗前連の改姓と見るが至当であろう。
 しかるにこの由緒ある栗隈氏が、平安朝の初期の編纂なる『新撰姓氏録』に出ていないのは奇態な現象である。(428)『姓氏録』は京および畿内賞籍の名家一千百八十二氏を網羅したもので、弘仁六年に出来たのである。しかもその弘仁十四年に、現に栗前連名正の叙位が立派に国史に録上せられていながら、それが本書に逸しているのは、栗隈氏当時本貫を畿外に移していたものか、あるいはゆえあって本系を提出しなかったものであろう。したがって今その家の出自を明かにするの史料を有せぬのは遺憾であるが、この家もと首姓を称し、栗隈郷の地に占拠した豪族であったとすれば、けだしもとは「仁徳天皇紀」に見える栗隈県の県主家であったものであろう。首《おぴと》は「成務天皇紀」に、国郡に長を立て、県邑に首を置くとある首で、通例一地方の領主たりしものの称した姓であった。しかして現に一方で県主と称し、一方で首姓を有したものに、賀茂県主の鴨首、志紀県主の志紀首、宇陀県主の菟田首、十市県主の十市首などの実例があって見れば、栗隈首はもと栗隈県主で、したがってその家から推古天皇朝に采女をも出し、その家は引続いて大化以後にも同地の豪族として存し、天智天皇の宮人黒媛娘もその家より出で、その皇女は隣郷水主の名を負い給い、奈良朝末期に至って特に尊皇心の篤き一大富豪として、広耳が現われるに至った事情も解せられるのである。あるいはその広耳の富有と貢献とは、かつて姻戚の関係を有したと思しき井手左大臣橘諸兄の栄達に負うところがあったのかも知れない。
 栗前氏が往時の県主時代から引続いて、この栗前郷の地にいたものとすれば、この地の古墳はもちろんその県主時代のものと解すべく、その帝王陵にも比すべきほどに雄大なることは、もって当時の国造・県主など呼ばれたものの社会的地位を見るに足るものであろう。しかしてこれを類推して、他の地方存在の偉大の古墳から、その地方往時の状況をも察すべきものであろう。
 
        栗隈の屯倉
 
(429) 栗隈の県の研究の一部として、ここにさらに屯倉《みやけ》が置かれたことを観察してみよう。
 栗隈の県は疑いもなく栗隈県主家相伝の私領であった。旧説あるいほ県をもって皇室御料の地だといったこともあったが、それは明かな誤解である。しかしながらここに別に栗隈の屯倉の名が古書に見えているのは注意せねばならぬ。『長能家集』に、
   くりこまの三宅といふ所に、秋小鷹狩しにまかりけるに、あこたにのくちに女郎花のたてるを見てよめる。
  山がけの田口に立てる女郎花、我ひとりのみ見るぞ悲しき
 また、
   くりこま三宅といふ所に、一もとの松あり。山の口に田ある所をよめる。
  たけくまにかくれたかへり、くりこまの、三宅の前に松たてるをか
などあるのがそれである。また『蜻蛉日記』に、初瀬より帰る途中に、
  三日といふに京につきぬべけれど、いたう暮ぬとて、山城の国くせのみやけといふ所にとまりぬ。
とある久世の屯倉も、けだし栗隈の屯倉と同じものであろう。
 この屯倉いつ置かれたものか、またいかなる沿革を有するものかは、ともに不明である。国造・県主等が相伝の所領の一部を皇室に献じて屯倉となした例はすこぶる多い。あるいは天皇の恩を謝せんがために、あるいは犯した罪を償わんがために、自己の所領の一部を献納するのである。栗隈の屯倉また、栗隈県主がいつのころにかその所領の一部を献じたものであろう。しからずば栗隈野のうちの空閑の地を、皇室御自身に開墾せしめられて、それを御料の屯倉となされたものだとのことも想像し得られないでもない。推古天皇十五年に、栗隈に大溝を掘ったとある記事の次に、「亦国毎に屯倉を置く」とあるのを見れば、あるいはこの年山背に置かれた屯倉が、すなわちこの栗隈の屯倉で(430)あったのかも知れぬ。『山州名跡志』には、大久保村(平川村の北方)の条下に、
  又称2栗隈三屯1、此所なる歟、三宅の号今無。
とあるが、大久保が三宅であったとのことは何によったか不明である。また『山城志』には、
  栗栖三宅【有2大久保村1。名区也】
と書いてある。この栗栖はおそらく栗隈の誤記であろう。あるいは栗隈山を栗駒山とも、約めて栗子《りこ》山ともいい、それを『保元物語』に栗栖山ともあれば、通じてかく用いたものであったかも知れぬ。それにしても、その屯倉地が大久保村だとのことは、徴証を尋ねたいものである。
 
      六 栗隈野、
 
 栗隈の県の地は仁徳天皇朝にすでに大溝を掘って水利を起し、次第に開墾の行き届いたことと思われるが、東部の山地に近い傾斜地は、なお久しく栗前野《くりくまの》として通っていた。大久保村落の東北なる広野の名は、あるいはその名残りを地名に留めたものであろう。ここに今、奈良鉄道新田駅がある。新田の名はその開墾の新らしいことを示したものであろう。都が山城に遷されてから後は、この地はしばしば天皇御遊猟の場所となっていた。桓武天皇延暦十一年二月二十七日、天皇栗前野に遊猟し給い、猟罷んで右大臣藤原朝臣是公の別業に御し、物を賜う各差ありという記事を始めとして、
 延暦十一年九月二十一日   同 十二年二月四日    同 十二年九月二十二日
 同 十三年正月二十五日   同 十五年九月二十一日  同 十七年九月二十四日
 同 十八年二月二十七日   同 十八年八月二十二日  同 十九年二月二十日
(431) 同 十九年九月二十三日  同 二十年八月二十五日  同 二十年十月七日
 同 二十三年八月l一十五日  弘仁二年十月二十四日   同 三年正月二十五日
 同 四年正月二十六日    同 四年十月二十四日   同 五年二月八日
 同 五年九月十日      同 六年十月二十五日   同 七年正月二十六日
 同 八年十月二十二日    同 九年二月七日     同 九年十月二十二日
 同 十一年正月二十六日   同 十三年二月七日    同 十四年二月十二日
 天長三年十月二日      同 六年十月二十八日   同 九年十一月二十三日
 同 十年十二月十三日    承和元年十月十一日    
などに、それぞれその記事が見えている。延暦十二年十一月二十六日に、栗倉野に遊猟すとあるのも同じ土地であろう。天長十年の条には栗隈山とあるが、やばり同地であったと解せられる。ここには前記藤原是公の別業もあれば、伊予親王の亭も遠からぬ巨椋池のほとりにあったと見えて、延暦十二年九月二十二日桓武天皇御遊猟のさいには伊予親王の江亭に御して、親王および左衛士督藤原雄友子弟に物を賜うともある。この外、遊猟とはないが、天長七年十一月二十五日には、淳和天皇栗前野に行幸し、山城国物を献ず、陪従の親王以下、野を暗んずる六位、および山城国の掾以上に禄を賜う、各差ありとある。当時栗前野は樹立生い茂って、野を暗んずるものの案内が必要であったと察せられる。しかして当時その山野に鹿雉などが多かったことは、『大和物語』の歌に、
  みかりする栗こま山の鹿よりも、ひとりぬる夜ぞわびしかりける
また、
  くりこまの山に朝まつ雉子よりも、かりに逢はゞと思ひしものを
(432)とあるによっても察せられる。また大中臣能宣の歌に、
  紅葉見る栗こま山の夕陰を、いざ我が宿にうつしもたらん
とあるのを見れば、紅葉の名所としても知られていたものらしい。
 
 
(433) 上総飯野の内裏塚と須恵国造
 
 大正十年八月九日、千葉県君津郡飯野村小学校長小熊吉蔵君の案内で同村の内裏塚を視察す、その発掘品をも一覧したことは、前号所載「学窓日誌」その日の条に書き留めておいた通りである。今前号の予約に基づいて、その視察から得た管見を左に披瀝する。
 
      一 須恵国造
 
 飯野平野はもとの上総国|周准《すえ》郡の地で、古えにいわゆる須恵《すえ》国造の根拠地であった。国造とは言うまでもなくその地土着の豪族で、祖孫世襲してその地方を領し、当初は小独立王国の状を呈し、皇化の布及とともに朝廷に仕えて本領の安堵を得、依然私地・私民を領して封建時代の大名のごときものであったのである。中にはもちろん皇族や功臣が、新たに朝廷から任命されたものも少くなかった。しかしてこの須恵国造のごときはおそらく前者に属するもので、日本武尊東征以前からこの地方に住し、次の御代に国造として任命されたと伝えられたものであろう。「国造本紀」に、成務天皇の朝茨城国造の祖|建許呂命《たけころのみこと》の児|大布日意弥命《おおふひおみのみこと》を国造に定め賜うとある。茨城国造は天津彦根命の孫筑(434)紫刀禰の後で、実に天孫系を標榜した家であった。その一族は『古事記』に、凡川内国造(河内)・額田部|湯坐《ゆえ》連(三河?)・木国造(紀伊)・倭田中直(大和)・山代国造(山城)・馬来田《まくた》国造(上総望陀郡)・道尻岐閇国造(磐城)・周芳国造(周防)・倭俺知国造(大和)・高市県主(大和)・蒲生|稲寸《いなぎ》(近江)・三枝部造《さえくさべのみやつこ》等の祖とあって、広く各地に分布し、さらに「国造本紀」には、そのほかにもこの」須恵国造および相模の師長《しなが》国造などがその族として伝えられているのである。天津彦根命は出雲国造の祖天穂日命などとともに、皇室の御先祖たる天忍穂耳尊の御兄弟におわす神だとある。けだし天孫瓊々杵尊の高千穂降臨とは別の経路を取って、この大八洲国に渡来されたという伝説を有していたもので、もと大和朝廷とは別に各地に繁延していた天孫族であったのであろう。しかしてこの須恵国造は、実にその後裔だと伝えていたのである。
 
        二 飯野平野の古墳群――内裏塚の発掘
 
 飯野の地方には比較的古い時代に属すと認められ、る古墳墓がかなり多い。けだし古えの須恵国造家関係のものが多いのであろう。中について最も大なるものはいわゆる内裏塚で、主軸は南南西に向い、長径約八十間、短径約四十間、後丘の高さ約六間、もと周濠を繞らした整備したる形の前方後円墳である。しかしてこれにつぐものを九条塚といい、これも周濠ある前方後円墳で、長さ約五十三間、径約二十五間、高さ約四間に達している。このほかにも三条塚・古塚・ワラビ塚および其々無名の前方後円墳があって、いずれも大体に南南西に向っている。また割見塚と称する方墳、自姫塚・守山塚、その他無名の円墳が、その付近に数基点在している。その白姫塚は明治二十六年四月発掘して、長方形の石室があったという。けだし縦穴式壙であったらしい。
 内裏塚の後円部は、頂上やや削平せられて、ここにもと無格社の八幡宮の祠があった。塚についてはなんらの伝説(435)も遺っておらぬが、ただ古来土地では特別に畏敬したもので、飯野の藩主でもその側を通るに馬より降りたといわれるくらい。もし塚の上で放尿でもしようものなら、たちまち罰が中ったと言われている。数十年前その付近の畠で偶然埴輪土偶の頭部を発見した。卜者か何かに見て貰ったら、親王様だということで、塚上の八幡社にこれを納めた。またその地に近い小塚の南脚からも、かつて二口の鍍金透し彫りの鞘を有する太刀を発見した。これも何か塚に由緒あるものとして、この神社に奉納した。これは衛府の太刀とか飾太刀とかいうべきものらしく、むろん古墳時代のものではない。けだし後人この塚を畏敬するのあまり、なんらかの信仰から奉納したものかも知れぬ。そんなこんなのことがあって、内裏塚の由緒はますます重きをなしていたところが、たまたま神社合祀の問題が起った。塚上の八幡社を他に併そうというのだ。そこでこのさい、しかるべき学者にこの塚の実地を調査して貰って、幸いにこれが何某親王の御墓だとか、何某の命の御陵とかでもいうようなことがわかったなら、この八幡社を他に移すどころではない、他の神社をここへ合併して、ますますこの塚の威霊を闡揚し、神社の荘厳を加えるようにしたいというのが、この塚発掘の動機をなしたものだ。この希望をもって前記の小熊吉蔵君と、八幡社の祠官木村某君とが、わざわざいわゆる親王様なる埴輪土偶の頭を東大人類学教室に持参して、故坪井博士の調査を請うた。かくて博士指導の下に柴田常恵君の発掘となり、その結果は、須恵国造のごとき大勢力家の威厳の下に営まれたものであろうが、果して何人を葬ったものかわからぬということになった。その調査報告は、柴田君の名で『人類学雑誌』に掲げられている。かくてその八幡社はついに領主保科家鎮守のお稲荷様なる飯野神社に合祀せられ、発掘品は一部宮内省へ、一部東大へ、他は前記親王様なる土偶の頭や飾太刀などとともに、その社に納まることとなった。塚上には、大正四年二月二十八日付で、「旧領主保科正貞十一代之後裔正昭書」とあって、「内裏塚」と刻した碑が建っている。
 右の次第で、調査の結果は依頼者の予期に副わなかったようではあるが、もともと予期が無理なので、墓誌銘でも(436)なき限り、古墳を掘ってみてそれが何某の墳墓であるなどと容易に決定さるべきものではない。それを決定し得ぬところに学者の慎重なる態度が伺われるのである。考古学の知識の皆無な明治初年ころのことならばいざ知らず、近ごろになってもなおしばしば無雑作に古墳墓の主が考定されて、ついには動かすべからざるものになる場合のあるを見て、自分は奇蹟と思っているのである。
 
       三 内裏塚調査の結果
 
 しかしながら内裏塚の調査は、学問上からはよほど有益なものであった。塚の形や、周囲の濠や、幾重もの埴輪を繞らしたところは、全く近畿に見る普通の前方後円墳と同一である。その後円部の頂上に、割石をもって積み上げた縦穴式壙(柴田君の報告に石槨とあるもの)のあることも、またこれらと同様であるが、その壙が二個相並んでいるところはすこぶる普通と趣を異にしている。柴田君の調査によると、両壙ともに塚の方向(南南西)に延びて、東のもの長さ一丈九尺、幅は底で二尺五寸ないし二尺九寸、上部で一尺八寸ないし二尺三寸、深さが二尺五寸ないし三尺五寸、西のもの長さ二丈五尺、幅は約三尺三寸、深さが約三尺九寸、両壙の間隔約一丈であったという。その場の位置が後丘の中央線を避けて、左右にほぼ均等の場所にあったのは珍らしい。だいたい古墳は一人限りのために造るという場合は比較的少く、『大宝令』にも、三位以上もしくは氏宗か別祖かでなければ、墓を営むを得ずとある。したがって特別の人のほかは、一墓数屍を収めたほずである。否、特別の人の墳墓でも、後に往々それへ合葬・陪葬・※[示+付]葬が行われているのである。したがって一壙内にも数体の遺骨があり、一墓内にも往々数壙を設けてあるのである。この一墳数壙ある場合は別として、一壙内に数屍が発見された時には、従来多くはそれをもって殉死者を同時に葬ったのだとか、流行病あるいは戦争のために死んだ者の合葬墓だとか解せられたようであったが、これは決してそんな訳では(437)ない。現にこの内裏塚の東噴からも二躯の遺骨が出て、柴田君の報告によれば、ともに成年男子らしかったという。一は必ず後から合葬したのであったに相違ない。
 次に一重数壙ある場合には、普通には当初墳墓営造のさいに主壙をその中央に造り、後にこれに陪葬すべく、適宜の地に他の壙を造るべきはずである。また事実そうなっている場合が多い。この内裏塚の東北の小円墳にも二個の縦壙があったが、一は大にして墳丘の中央部にあり、他はこれと並んで左側にあったという。これはその中央の大きな方が主壙で、初めに墳丘を造ったさいに設けられ、左の小さいのは後からそれに並べて造った陪葬の壙だ。しかるにこの内裏塚のは、大小の別はあるがともかく二個の壙が、中央線を離れて左右ほぼ均等の位置に並んで存在していたことは珍らしい現象と謂わねばならぬ。今その二個の壙の距離が一丈に及んでいるのを考えて見ると、その中間に幅三尺内外の壙を設けるの余地は十分にある、あるいは思う、もとこの中央に主壙があって、柴田君が先年発掘した左右の両壙は、後に陪葬のために設けられたものであるかも知れぬ。筑後三池郡上楠田の石神山という古墳には、頂上に三個の石棺があって、やはり中央とその左右とにあったという。ここの壙も多分そのような風であったと察せられる。しかしてその中央のがいつか発掘せられたので、その威霊を畏こんでここに神社が設けられ、この塚が特に土地の人々の畏敬するところとなったのではあるまいか。
 また柴田君の報告によれば、左右の壙内には発掘のさい、すでに土壌が充ちていて、一、二の埴輪片すらその中に交えていたという。その土壌はあるいは積み石の間隙から流れ込んだとも言われようが、埴輪片まで交えていたとあっては、あるいは社殿造営のさい、もしくは中央の壙が発掘されたさい、多少これらにも手を着けたのであったが、威霊を恐れてそのままにしたものかも知れないのである。発掘品については柴田君の報告に詳細をつくされているから、ここにそれを繰り返すの必要を認めぬが、塚や壙の大きな割合に遺品のはなはだしく貧弱なのは、これまたそれが主(438)壙でなくして 後に陪葬せられたものであることの傍証ともなるであろう。
 なおまた小熊君の配付された見取図によれば、東の小さい方の壙には二躯の遺骨が、ともに頭を北にして、前後して南と北とに安置せられ、その北方の遺骨の頭部に近く釿《ちような》と鎌、左右に各直刀二、また南方の遺骨の右に直刀一、左に鉄剣一、両遺骨の中間右方に鉄鏃が一束あったのみだという。かなり貧弱だと言わねばならぬ。また西の大なる方の壙からは、比較的豊富な遣物が出ているが、遺骨らしいものはなかったという。その遺物の中には、骨製鳴鏑のような珍らしいものや、※[金+交]具《びじよう》らしい鍍金の銅製金具や、きわめて粗末な製品ではあるが、和製らしい漢式鏡も一面あった。当時柴田君の発表された意見では、「甲(東)乙(西)の両石槨(壙)に就いて、人骨は甲に於てのみ発見せられたけれども、石槨の構造の大なる、鏡・鳴鏑などの発見品の種類と数量に富める等より推して、乙の方が此の古墳の主石槨であらう、而して両者共に斎瓶も玉もなく、構造も発見品も同様なのを以て見れば、両者殆ど同時に葬られたもので、乙の方は初から屍体を蔵めず、鏡を御魂代とした儀墓の類で、甲の方の二個の遺骨は、其の殉死者のものならざるかとも考へられる、其の築造の年代は、塚の規模の宏壮なるに比して、内部の石槨(壙)が割合に大ならず、玉も斎瓶もない事から推して、古墳としては少くも中期以後のもので、其の鉄鏃や鳴鏑を正倉院御物と比較した結果、推古朝前後から奈良朝以前のものと察せられる」ということであった。何しろ今から十五年も前の調査であって、当時いまだ考古学者の間に縦穴式壙のことがあまりよく知られていないほどの時代であったから、右のようなことに考定せられたのも無理ならぬことではあるが、研究のよほど進んだ今日では、あるいは柴田君もかかる見解は下されなかろうと思われる。
 
        四 内裏塚の年代に関する管見
 
(439) 自分の見るところによれば、この塚は推古天皇以後奈良朝以前というような、そんな新らしい時代のものではなくて、やはり近畿地方において前方後円式の帝王陵が盛んに行われたのと、同時代のものであると信ずる。横口式壙を有する墳墓は元来シナの陵墓の型式を輸入して、それから漸次わが国で発達したもので、これは塚の割合に壙が大きく、石材も巨大なものを使用してあるが、前方後円式のものはわが国で古く発達した型式で、塚の割合に壙が小さいのを常とする。この内裏塚の墳のごときは、むしろ比較的大なるものだといってもよい。しかしてこの型式の墳墓は、京畿の帝王陵では応神・仁徳諸帝から、安康・雄略諸帝のころまでを最隆盛期として、その前後にも及んで存在を見るのであるが、欽明・敏達諸帝のころがその最終期であるらしい。もちろん京畿の帝王陵をもって、必ずしもただちに遠く離れた東国地方のものを推すことの出来ない場合もないではないが、少くもこの内裏塚のごとく、ほとんどすべての点において京畿の帝王陵と一致しているもののごときは、やはり同じ時代において、地方の小領主たるこの地の豪族須恵の国造が、帝王陵の制に依って築造したものであって、決して推古朝などと、そんな降った時代のものではない。むろん奈良朝前などと引き下ぐべからざるものたることは、毫末の疑いを容れないのである。
 
      五 国造勢力の消長とその墳墓
 
 すでに述べたごとく、地方の国造は国のミヤツコと呼ばれて、天皇に対しては一の臣僚たるに過ぎないが、もとはそれぞれ小独立国の君主であった。中国・九州等西部地方にあっては彼らはつとにシナに交通して、シナの天子から王爵を授けられ、頭に王冠を戴き、王者の陵墓を営んだものであった。彼らは大和朝廷の御稜威の下に属し、本領の安堵を得て国造に任命せられて後も、なお往時の例をついで「君」の称号を有するものであった。天子に対しては一の臣僚であっても、その地方にあってはやはり王者の威厳を有するものであった。後に朝廷の威力のますます発展す(440)るとともに、彼らは次第にその勢力を失い、官使に対してまではなはだしく恭順の態度を取らねばならぬこととなった。安閑天皇の御代に内膳卿|膳臣《かしわでのおみ》大麻呂勅を奉じて、使を遣わして珠を伊甚《いじみ》(夷※[さんずい+((旡+旡)/隔の旁]郡)に求めしめた。しかるに伊甚国造ら京に詣《いた》ることおそく、時を踰えて命ぜられた珠を進めない。大麻呂大いに怒って国造らを縛し、その所由を推問した。そこで国造|稚子直《わくごのあたい》ら大いに恐懼し、後宮の内寝に逃れ匿れたところが、あいにくにも春日皇后それを御存知なく、内寝に入ってそれを見て驚愕顛倒されるという大騒ぎとなった。稚子直その闌入の罪を謝し、おのが所領を割いて伊甚屯倉を立て、これを皇后に献じた。これはたまたま事によって『日本紀』に採録された一例であるが、またもって当時すでに東国の国造がはなはだしく勢力を失っていたことを知るに足ろう。かくて中央政府から国司が派遣さるるに及んでは、もちろんその監督を受けて頤使に甘んじていたことであろう。大化改新後となっては、従来の国造は国司の下に郡領を世襲して、やっと祖先以来の関係を継承しているに過ぎず、もと一独立国の君主たることを示した「キミ」の姓《かばね》のごときも、奈良朝ごろになっては全く田舎者の卑姓となり、みずからこれを有するを恥じて、奏請して臣《おみ》の姓に降して貰った実例さえあるようになってしまったのである。かかる趨勢のうえから考えても、須恵のごとき小さい国の領主がこの内裏塚のごとき大墳墓を築造するのは、国造勢力の最も隆盛な時代であって、おそらく応神・仁徳諸帝の御代よりも、さらに遡り得るものではなかろうかとさえ察せられるのである。
 日本文化の東国に及んだのは遥かに遠い古えであって、斎部氏の所伝によれば、すでに神武天皇の御代において、斎部氏の祖先は房総地方に殖民したという(『古語拾遺』)。また中臣氏が鹿島・香取の二神を東国に祭ったのも、社伝によれば、神武天皇の御代だと言われるほどにも古い時代であった。このほか、年代その他についてなんらの所伝が遺っていなくても、現に東国の国造らには天孫系の天津彦根命や、天穂日命の後裔と称するものが少からず存在していたのである。
 
(441) (註) 天穂日命の後と称するもの、旡邪志(武蔵)国造・相武(相模)国造・上海上(上総海上郡)国造・菊麻(同市原郡菊麻郷)国造・伊甚(同夷※[さんずい+((旡+旡)/隔の旁]郡)国造・阿波(安房)国造・下海上(下総海上郡)国造・新治(常陸新治郡)国造・高(同多珂郡)国造等。
  天津彦根命の後と称するもの、師長(相模余綾郡師長郷)国造・須恵(上総周准郡)国造・馬来田(同望陀郡)国造・茨城(常陸茨城郡)国造等。
 
 かくのごとくにして日本文化はつとに東国に布及し、その有力者が地方の小王として、近畿の帝王陵に擬した墳墓を造るに至ったのも、古い時代からのことであったに相違ない。それが果して伝うるごとく神武天皇の御代からであったとはもちろん保証は出来ない。「紀記」の所伝によれば、大和朝廷の御稜威の東国に及んだのは、崇神天皇の御代の四道将軍派遣が最初で、次に皇子豊城入彦命の両毛地方平定のこともあるが、それは実はその孫彦狭島王の時のことだとも伝えられているのである。しかして特に房総地方については、景行天皇の御代の東夷征伐、引続いて同天皇の東国巡狩などのことによって著しく現われているのである。されば「国造本紀」に見える東国国造の任命は、大部分は次の御代なる成務天皇朝のこととして伝えられ、この須恵の国造のごときも、実にこの御代において定められたと言われているのである。しかしてそのころは、京畿においてもすでに偉大なる前方後円墳が築造された時代であってみれば、この東国においても一国の領主と認められたこの国造が、これに倣ってかかる前方後円墳を造ったとして、いっこう不思議はなかったはずである。これより後、朝廷の威力ますます重きをなすとともに、国造らの勢力は次第に失墜したはずであるから、この内裏塚をもって須恵国造最隆盛期のものだとすれば、おそらく広神・仁徳諸帝のころを降るべきものではなく、あるいほ成務天皇朝に任命せられたという、初代国造|大布日意弥命《おおふひおみのみこと》のために営まれたる墳墓であろうと考えられる。しかしてこの時代は実に京畿においても、この形式の墳墓の最隆盛期であったのである。(442)人あるいはこの塚発見の遺物のあまりに貧弱なるがために、さる隆盛期のものとして不適当だと言うかも知れぬ。しかしながらすでに言えるごとく、去る三十九年中に発掘せられた二個の墳は、おそらく後に陪葬すべく造られたもので、この塚の主壙ではなかったはずである。したがってその貧弱なのはやや降った時代の国造の副葬品として、あえて不思議はなかるべきである。柴田君は珠玉・陶器等の存在せぬのゆえをもって、この塚をやや新らしい時代のものだと考定せられたけれども、それはたまたまさる品を埋めなかったためであって、その後、明治四十三年に同君の調査された同型式のやや小なる九条塚からは、これらのものが刀剣・馬具などとともに出ているのを見れば、東国においてかかる塚を造る時代に、この程の物品を副葬しなかったとは言われない。これを傍例に徴するも、珠玉・陶器を有せざる古代の墳墓はあえて珍らしくなく、近畿地方の帝王陵ともいうべき前方後円の大墳墓のごときは、むしろ陶器を副葬しないのが普通だといってもよいのである。
 これを要するに、現在飯野村付近に散在している数多の古墳は、少くもその今日までに調査された分は縦壙を有する旧式のもので、大体において須恵国造繁昌期の築造と解せられる。ことにその中の最も大きなこの内裏塚のごときは、おそらく成務天皇朝に任命せられたと伝うる初代国造大布日意弥命のために築かれたものと仮定しても、歴史上、また考古学上、時代においてはなはだしい矛盾を来さざるものであろうと思われる。なおいっそう大事を取っていうならば、あるいはいわゆる初代国造以前、まだ皇化に服せず独立の小王をなしていた時代のものかも知れぬが、決して推古朝以後などと、そんな降った時代のものだとは思われない。
 
 
(443) 本邦古代墳墓の沿革
 
      一 古代墳墓概説
 
 今まで元気に立ち働いていたものも、いったん死んだとなると、そのままおけばたちまち腐敗して蛆が沸く。そこでなんとかこれを始末しなければならぬということは、原始人でもすでにこれを知っていたはずである。その方法の中で一番簡単なのは、屍体をその家においたまま生存者が他に逃れるということで、古語に奥津棄戸《おきつすたへ》とあるのは、これを語るものではなかろうかと解せられている。石器時代の竪穴遺蹟、例えば有名なる下総の姥山貝塚なる竪穴の中から、数体の人骨が現われたことのごときは、あるいはこれに当るものであるかも知れぬ。北海道のアイヌには、昔は死人のあった家を焼いて、別に住宅を造ってこれに移る習慣があったといわれている。わが古代においても、御代の代るごとに都移しの行われたことのごとき、やはり先帝崩御の家を去って、新たなる場所に宮殿を営むがためであるとも説明されているのである。
 時代がやや下って鄭重なる葬送が行われるようになっては、いわゆる古墳を造り、その中に壙すなわち墓穴を設け(444)て、それに屍体を収める。しかしてその壙に、竪穴があり、また横穴あることのごとき、太古竪穴あるいは横穴住居の行われた時代に、その住宅たる穴にそのまま屍体を留めたことから起った風習であるとも見れば見られぬことはない。しかし世の中が進んで、家屋が念入りのものとなり、容易に他に新築移転し難いような時代にあっては、これを死者に委ねて他に去るということも困難であるがゆえに、必要上、屍体を他に移してなんとか処理しなければならぬことになる。ここにおいてか、あるいはこれを水に流し、あるいはこれを空閑の地に放棄して自然の風化作用に任せ、あるいは火をもってこれを焼失し、あるいはこれを土中に埋めるというような、種々の方法が行われる。いわゆる水葬、風葬、火葬、土葬等の葬法が起ってくるのである。もちろんこれに関しては、一方から死者に対する宗教的思想について、考察するところがなければならぬことは無論であるが、だいたいとしてその屍体を処理する方法としては、以上の四者の他には出ないのである。
 現存の遺蹟からこれを見れば、わが邦では古く土葬が普通に行われたようである。しかしこれは土葬の場合の遺蹟のみが今日に見るを得るのであって、他の葬法によったものは、なんらその蹟を遺しておらぬのであるかも知れぬ。平安朝ごろの記録によると、屍を賀茂川に流したり、あるいは山に棄てたりしたことがはなはだ多く散見している。すなわち水葬、風葬も、同時に行われた訳である。その賀茂川に流すということも、実はあの浅い川に棄てるのであってみれば、その屍体は河原に曝されて、結果は風葬となるべきものである。仁明天皇の御代、承和九年に旱天が続いたので、これは屍体を天日に曝すがためであるということから、悲田院に命じて、賀茂川や島田河原に転がっている髑髏を納めしめたところが、その数五千五百に達したということが『続日本後紀』に見えている。これは実に驚くべき事実であるが、平安朝当時の京都の貧民らは、家族死するもこれを葬るほどの資力なく、やむを得ずかくのごとき処置に出たものであった。この他羅生門の楼上に、死骸が累々として横たわっていたことが『今昔物語』に見え、(445)また道路の傍に死人が捨てられていた事実は、はなはだ多く各種の記録に遺されているところである。中には行き倒れのままのも多かろうが、これらはいずれも、風葬というべき部類に属するものといってよい。
 火葬については、文武天皇の御代に道昭和尚の葬式がその始めであるといわれ、ついで文武天皇、持統天皇以下、代々の天皇多くこの方法によって御葬式を行わせられたことが、『続日本紀』以下の古書に往々見えている。むろん一般民衆にもそれが普通であり、土葬は特別の場合のみに行われたものであったことが、平安朝初期の著作である『日本霊異記』に、たまたま土葬の場合を記するには、一々その理由を書いてあることによって察せられる。特別の理由だになければ、火葬が普通であったのだ。もちろん実際上わが邦における火葬が、道昭和尚をもって始めとするものであったとは思われない。すでに「大宝令」には、行軍のさい兵士死することあらば、副将軍以上はこれを本国に送り返す、その以下の者はその死処において屍体を焼き埋めよということがある。また東国人が防人《さきもり》として九州に送られた場合、もし途中でその身死すれば、処に従い、棺を給うて焼き収めよと見えている。また「大宝令」には、特に墓を営み得る者の身分の資格を定めて、それ以外は墓を造るを得ざる規定であったが、しかし墓を営み得る身分の者といえども、もし大蔵せんと欲するものは聴《ゆる》せともある。ここの大蔵の意義は不明であるが、普通の葬法によって墳墓に埋葬するものでない以上、火葬あるいは風葬などによって、その屍体を処理するものであったに相違ない。もちろんこれらの規定は『令義解』の本文によって伝えられたもので、したがって人あるいはこれをもって、養老に改修されたところのいわゆる「養老令」の文であると解するものもあるであろうが、自分は種々の理由から、『令義解』の本文は、すなわち大体として「大宝令」のままであると信ずる。したがって火葬が、すでに道昭以前に存在したことの証拠になるべきものであると解せんとするのである。 しかしながら、水葬、風葬、火葬のごときは、むしろ特別の場合と謂うべく、屍体の処理はどこまでも、これを土(446)中に埋めるところの土葬なるものが本体でなければならぬ。かくていわゆる墳墓なるものは、本来土中に屍体を納める場合において造らるべきものである。しかし火葬が一般に行わるるようになっても、時としては淳和天皇の御場合のごとく、特に遺詔してその灰を風に任せて撒き散らさしめ、ために山陵を設けしめ給わなかったというがごとき異例もないではないが、これは特別の例であって、普通にはやはり火葬に付した遺骨を土中に納めて、ために墳墓を造営するということになった。けだしこれ従来の土葬の習慣から起ったもので、本来は焼いてしまえばさらにこれを土葬する必要はなかったものと思われる。元明天皇は遺詔して御遺骸を火葬に付し、御陵には刻字の碑を建てしめられたとある。すなわちこれを火葬に付し奉るとはいえども、やはり普通の通りの山陵を造り、そこに御碑を建てたもので、その碑の石と謂われるものは今も存し、文字は剥落して読み難くなっているがゆえに、今は新たにこれに模して別の碑を造り、もとの碑とともに御陵の上に安置し奉ってあるとのことである。
 ここにおいて、いわゆる墳墓なるものの定義をきめて置く必要がある。元来墳墓とは、普通の解釈からいえば、屍体はそのままであつても、またはこれを火葬に付したものであつても、ともかくこれを土中に埋葬したものをいうのである。しかしながら、厳格にこれをいえば、葬所ただちにこれ墳墓というのではなく、ある形式によって塚を造り、その中に屍体あるいは遺骨を納めた場合のみを称したものであったらしい。その風が段々と盛んになって、これがために費すところ多く、その弊害がはなはだしくなったために、孝徳天皇の大化改新に際し、特に詔して墳墓規模の制限を命ぜられた。王以上の墓はその内の長さ九尺、広さ五尺(高さ脱)、塚は外域方九尋、高さ五尋、一千人を役して七日に終らしめ、※[車+需]車ある。上臣の墓は、その内の長さ、広さ、および高さ、ともに王以上の墓に準じ、その外域は方七尋、高さ三尋、五百人を役して五日に終らしめ、担って行く。下臣の墓は、その内の長さ、広さ、および高さはともに上に準じ、その外域は方五尋、高さ二尋半、二百五十人を役して三日に終らしめ、大仁、小仁の位を有するものの(447)墓は、その内の長さ九尺、高さ、広さ各四尺、塚を造らずして平らかならしめ、一百人を役して一日に終らしむ。大礼以下小智以上の位を有するものの墓は、大仁に準じ、五十人を役して一日に終らしめ、庶人死する時は単に地に収めしむとある。しからば塚を造らざるものも、単に地に収めたものも、ともに墓であるに相違はないが、しかもさらにこれを「大宝令」について見るに、三位以上、および別祖、氏宗は、並びに墓を営むを得、その以外のものは墓を造るを得ずとの規定であった。『令義解』にこれを解して、墓とは家営の地をいうとある。しからば塚を造らぬものは、これを墓とはいわなかったものと謂わねばならぬ。墓を営み得る資格あるもの以外の屍体といえども、必ずしも火葬、水葬、風葬に付した訳ではない。しかしてこれを土中に理むる場合、塚を造らざるもの、すなわち三位以下または別祖、氏宗以外のものや、ないし庶人の場合には、各自その墓を有せざる訳で、あるいは祖墓、または氏宗の墓に合葬したのであったかも知れぬ。一墓中数屍体を蔵する例の各地に見られるのはこれがためであろう。しかし庶民の場合には、大化の制に見ゆるごとく、単に地に埋めるのみで、それは墓を営むを得ずという部類に属したと見るべきものであろう。
 以下もっぱら土葬の場合についてその沿革を述べてみたい。水葬、風葬、ないしその遺骨を埋葬しなかつた場合のごときは、なんら遺蹟を後に止めぬものであるがゆえに、たとえそれが広く行われたことであったとしても、後からこれを尋ねることが出来ぬ。したがって今はすべてこれらは問題の外に置くこととする。
 
      二 石器時代の墳墓
 
 わが石器時代人も、普通にはやはり屍体を土中に埋めたものであったらしい。当時土中に埋葬した遺骨が、近頃盛んに研究者によって発掘されるので、少くもこの方法による葬儀が行われていたことは疑いを容れぬ。もちろんそれ(448)以外に、いわゆる奥津棄戸の方法によって、屍体をそのままもとの住宅に遺棄したり、あるいは住宅なる竪穴をそのまま墓として、これにその屍体を埋めたり、その他水葬、風葬等の式によって、屍体を処理した場合もあったかも知れないが、幸いにしてこれを埋めた土質が遺骨を保存するに適当なる場合のほかは、今日これを尋ねてみる方法がない。
 屍体を土中に埋葬するに当っては、おそらく今も北海道のアイヌのなすごとく、筵の類をもってこれを包み、地面を掘って壙すなわち墓穴を造り、その中にこれを収めて、上から土をもって被うというような、至って簡単なものであったらしい。したがってその遺蹟を見ると、通例は単に遺骨のみが土中から発見されるという場合が多い。そのこれを葬るに当つては、膝を曲げて胴体をこれに倚りかからせるところの、いわゆる屈葬によったものが多いようであるが、しかし中には足を伸ばして横たえた、いわゆる伸展葬なるものも往々にして見られる。内地において発見せられたものには、副葬品を見る場合は少いが、それでも稀には土器をその付近に埋めたものもあり、おそらくその中には死者のための食物が盛られてあったものであろうと思われる。しからば土器を発見せざる場合にも、やはり食物がともに埋められたことであったろうと想像せられる。すでに食物をこれに伴わしめる以上、死者のために一と通りの衣服その他の調度は、あるいはこれに伴わせて置いたものであったことであろう。河内の国府遺蹟から発見された数体の遺骨には、当時において相当貴重であったはずの※[王+決の旁]状の耳飾が、耳に施されたままに葬られたと認むべき状態において発見された。その他、首に玉飾を巻いたままに葬られたと思われる例もあるが、しかし大体として、後代にまで遺されるような不朽質の副葬品は多くないのが常である。中には墓穴を小石で固めて、屍体をその中に収めたと認められたものもあれば、河内の国府で見た一つの例では、大きな土器の破片を面部に被せて、土が直接顔面に触るることを防いだという、死者に対する愛慕の情を表わしたものもある。特に死者が幼児である場合には、これを甕に納めて葬った例が多い。しかしその葬処を示すべく、表面にいかなる施設があったかは今にしてこれを知ることが(449)出来ぬ。もちろんいわゆる古墳に見るがごとき、塚すなわち封土を築いたものであったとは思われぬ。したがってかりに墓標その他の施設があったとしても、それが腐朽したならば、後代からその場処を知ることが出来なくなったものであるに相違ない。あるいはその上に石をおいて、その場処を示すというようなことがあったとも想像されるが、しかしそれは単に推測のみで、実際上遺物の上に証明することは出来ない。青森県南津軽郡山形村大字豊岡に、方言|石森《いしもり》と称する積石塚があり、今もその頂上に石棒が立っている。往時はこの付近に同じ類の積石塚がいくつもあったそうであるが、たいていは取り除かれて、今日はこれを見ることが出来ぬ。それにしてもこの石塚ならびにその上にたてられた石棒が、果して石器時代の物であるか否かが明かでないから、今は問題となすに足らぬ。この以外青森県の諸所から、なんらかの刃物の形をなした巨大な石器がしばしば発見されている。これはあるいは死者に持たせる武器として、葬儀用の目的をもって作られたもので、なおアイヌの墳墓に木製の槍を樹てる風習があつたと同様に、石器時代の葬式において墓に樹てたものではなかったかとも思われるが、それも確かでないから今は問題の外におく。北海道石狩国江別兵村において、一昨年はなはだ多数の石器時代墳墓の群集地が発見せられ、河野広道君や後藤寿一君によって調査された。これは竪穴をなしたもので、その中に屍体および種々の副葬品を納め、上から土をもって被うたのであったかと思われるが、今ではその土が沈んで、外観上いくらかの凹みをなしている。したがって当初その上に封土があつたとは思われぬ。あるいは当初その上に木標があったのかも知れぬが、それはもちろん今日において見るを得ぬ。墓穴はほぼ方形をなし、深さ三尺五、六寸、平面において一辺六尺内外、東西にやや長く、南北にやや短いのを常とするらしい。副葬品としては、壷形をしたいわゆる北海道式土器が多数で、一つの墓穴から三、四個ないし六、七個、多いのになると十三個に達したものもある。特に奇態なことには、他の遺蹟においては普通に見ることのない、一種の比較的狭長な、薄手の石鏃が多数に発見されることで、その最も多いのは、一穴(450)より九十九個を出した場合もある。その他九十八、八十七、六十三等、はなはだ多数に副葬されているのが多い。この石鏃には、黒曜石をもって、はなはだ精巧に、鋭利に作られたものも多いが、また粘板岩をもって、特に葬儀用として、それと同形のものを作ったかと思われる粗製品も多く、両者を交えて副葬したと認められる場合が少くない。その九十九個を出した穴のものには、その中の三十五個は黒曜石製の鋭利なもので、六十四個まではきわめて形式的な、粘板岩製の粗末なものであった。また九十八個を出した穴からは、八十七個までが黒曜石製で、ただ十二個が粘板岩製であったが、八十七個を出した穴からは、その三十五個が黒曜石製で、五十二個までが粘板岩製であった。けだし葬儀に際して数に不足を告げたがために、特に粗造な模造品を作ってこれを補ったものであるらしい。しからば石鏃を出すことの比較的少い場合にあつても、あるいは後世のアイヌが用いるところの竹製の鏃をもって、これに代えたものであったかとも思われる。この以外、往々内地において石器時代の曲玉等とともに発見されるところの、きわめて小型なる碧玉製、または鉄石英製の管玉、あるいは琥珀玉等が出ているが、中には一穴から扁平なる琥珀の小玉が、数百個も発見されたという場合が二つまでも知られている。その他、稀に石斧や、三角定規の一角を少し切り取つたというごとき異形の石器や、石匙なども発見されている。かくのごとき多数の副葬品を有する石器時代墳墓は、内地においていまだ発見されたことを聞かず、北海道においても、この江別兵村以外にはいまだ学界に報告せられたものあるを知らぬ。しかしながら、すでにこの江別の実例がある以上、石器時代において死者を葬るに際し、その生前に必要としたところのものを、死後にも死者に伴わせるという風習のあったことが認められる。後世のアイヌは、墓上に、杖、槍、その他日用の器具、特に婦人のためには縫針を伴わせる風習があった。その日用器具は多く実用品をもつてこれに充てたが、杖、槍、縫針の類は、特に木をもって巨大に模造したもので、それが今日では墓標のごとく誤認されている場合が多い。石器時代においても、あるいは普通には、木材その他腐朽性の物体をもって作られた(451)ものを副葬したがために、後世まで保存されないものであって、この江別兵村のごときは、特別の場合であったかも知れぬ。これに由って考えると、たまたま土中から土器、石器の類の発見される遺蹟のごときも、あるいはそれが墳墓の副葬品であって、屍体その他植物性器具は全く腐朽して痕をとどめず、その石器、土器のみがたまたま発見されたという場合も少くなかろうと思われる。
 アイヌは人死すれば現世とは別の世界に行って、現世におけると同様の生活をなすものだと信じている。したがって死者を葬るに際しては、現世において必要としたところのものをこれに伴わせ、その別離に対する愛惜の情の表現はきわめて深刻なものであるけれども、いったんこれを墓に葬った後には、再びその墓所を顧みないものであった。したがって墓には、永くその場所を示すべき墓標などの必要はなかったはずである。現在墓標と思われているところのものは、実に死者を送るに際して、これに伴わしむるべく作られた槍、杖、針等の、模造品たるにほかならぬのである。さればこれらの物体が腐朽亡失すれば、もはやその場所は不明となる。石器時代の墳墓においても、やはりそれと同様に、その葬儀はいかに鄭重であったとしても、これを葬り終った後には再びこれを顧みることなく、したがって後までもその場所を表示すべき、なんらの永久的施設があつたとは思われぬ。
 
      三 日本民族古代の墳墓
 
 ここに日本民族とは、人類学上いかなるものをいうかということについては、別に説明を要する大きな問題であるが、今はそんな面倒なことは省略して、単に常識に訴えて、お互いに日本民族だと思うているところのわれらの祖先が、古代に造った墳墓について観察してみたい。
 いわゆる日本民族として、すでにある一種の文化を有したわれらの祖先は、土を高く盛り上げて、いわゆる塚を造(452)り、その中に屍休を埋葬する設備を有する墳墓を築いた場合が多い。その場すなわち墓穴の構造には、上部から竪穴を設けて、その中に棺を収める形式のもの、また横から穴を穿って、その中に棺を収める形式のものと、二様の異なりたる構造がある。あるいは後者を簡略にして、丘陵あるいは山の斜面に横穴を設けて、その中に棺を納めるという類のものもある。わが考古学者の間には(前者の塚形をなしたものを古墳と称し、後者の単に横から穴を穿った略式のものを、特に横穴という例になっている。もし古墳という名称が、古代の墳墓であるという意味ならば、両者ともに疑いもなく古墳でなければならぬはずであるが、わが国で考古学の開け始めた時代の学説では、いわゆる横穴は墳墓ではなく、当時の人々の穴居の跡であるということに解釈されていたがために、自然その名称の上にもこの区別が起ったのであった。
 元来日本民族は、もと地面に竪穴を掘って、その上に屋根を覆うたという、きわめて簡単な室住居《むろずまい》をする風習であった。しかして人死すれば、そのままにその竪穴の中に死体を葬ってこれを墓となす、いわゆる奥津棄戸の葬法が行われていたものであったらしい。したがってその伝統を継いだはずのわが古代の墳墓は、自然竪穴であるべきはずで、わが皇室の御陵墓についてこれを見るも、少くも欽明、敏達の御代のころまでは、この式による御葬儀が行われたもののように拝察される。日本民族にはかつて横穴住居の風習が存在したとは認められぬ。もちろん自然の洞窟を利用して、雨露を凌いだということもあつたであろうが、それは常態ではなかった。したがって横穴式墳墓がわが古風に存したとは思われぬ。この横穴式の墳墓は、もとシナにおいて発達したものであったらしい。もっともシナにおいても、上古夏殿周三代のころにありては、これは天子にのみ限られて造られたもので、諸侯以下には許されなかった。周の衰うるや、諸侯それぞれ勢力を得て、その中には五覇なるものが輩出するに至つたが、その五覇の一たる晋の文公大いに王事に勤めたので、周の襄王これを徳として、その望むところを賞賜せんといったのに対し、文公は、「願(453)わくは墓に隧を造ることを得ん」と乞うた。しかるに襄王これを許さず。「隧は王者の章なり」といったとある。隧は隧道で、横より壙すなわち墓穴に通ずる道をいう。これに対して上より墓穴に通ずる諸侯以下の墓制の壙道を羨道という。「天子隧あり、諸侯以下羨道あり」という規定は、このころまでなお厳重に保たれたものであった。天子は至尊にして、その遺骸を葬るにも、臣下のものが陵上に上ってこれを踏むことを不敬とした。したがってこれを葬るにも、特に横より柩を納むるの方法が択ばれたものであったと解せられている。しかるに戦国時代となっては、諸侯往々にして王の名を僭称し、いわゆる戦国七雄割拠の世をなした。したがってかれらはその墳墓にも、みずから王者として隧道を有する横穴式壙穴を造ることになった。秦の始皇帝、天下を統一し、次いで漢にこれを譲るころになっては、王号はもはや一つの爵のごときものとなり、有功の臣僚、あるいは蛮夷の君にも、往々これを賜わる例となり、したがってかれらはみずから王者として、王の章たる隧道を有する陵墓を造ることとなった。かくてこの風がわが国にも伝わって、九州地方の倭人の酋長らが漢から王に封ぜられるに当って、やはりこの横口式墳墓を造ったもののようである。わが国における秦漢二氏の人々のごとくみずから帝王の後をもって任ずる人達も、おそらくこの種の墓を造っていたものだと思う。しかるにこの葬法は、棺を墓穴に納める場合にも、また後からこれに合葬する場合にも、この方が至って便利であるがために、自然この風広く行われるようになり、わが皇室の御陵墓においても、少くも用明天皇のころ以後は、普通にこの式が採用されるに至ったようである。当初、用明天皇の皇后陵として営まれ、次いで聖徳太子およびその妃を合葬し奉った河内の磯長墓は、明かにこの式によったもので、近い時代まで信者は横からその墓穴に入って、親しくこれを拝することが出来たものであった。近く明治天皇、英照皇太后、照憲皇太后の御陵は、わが古式に従って、竪穴式御宝壙を採用せられたものであったが、大正天皇の多摩陵はいかなるゆえにか、横口式の御構造になっていると承わる。
(454) 竪穴式による古い形式の墳墓は、通例比較的封土すなわち盛り土が大きく、その外形は前方後円墳、あるいは円墳をなし、これを鄭重にした場合には、その周囲に湟を繞らし、中には三重に及んでいるものもあり、湟の堤や塚山の半腹には、幾重にも埴輪列を繞らしてあるのが普通である。墓穴すなわち壙は、これを鄭重にする場合には石をもって築きあげて、石室を造り、その中に石槨、すなわち普通に考古学者によって石棺といわれているところのものを安置する。わが考古学者はどうしたことか、石をもって築いた壙、すなわち墓穴のことを石槨と称し、その中に安置さるべき石槨のことを石棺と呼ぶ例になっているが、これは明かに誤りである。しかしこれらはもちろん葬儀を鄭重にした場合であって、その簡単なものに至っては、石室を設けることなく、単に土壙の中に木棺を納め、ただちに土をもってこれを埋むるがゆえに、後になんらその遺構を見るを得ぬものが多い。隧道すなわち横口式の通路を有する墳墓は、通例円墳をなして埴輪を伴わぬ。その石室には大石を用いた場合が多く、墓穴すなわち壙の広大なる割合に封土が小さいのを常とする。いわゆる石棺すなわちその実石槨の形も、両者において相違がある。竪穴式の墳墓には長持形、割竹形、瓜形、舟形等と呼ばれる類のものが多く、横口式の墓穴を有するものには、通例屋根形のものが多い。
 しかしながら、これらはもちろん大体についていうのみで、厳密にこれを観察すれば、時には前方後円墳あるいは円墳で、埴輪を有するという古式のものでありながら、横口式の墓穴を伴うものがあり、あるいは長持形、舟形等の石棺を有しながら、埴輪を伴わぬものもある。あるいは一つの墳墓で、上部に竪穴式壙穴を有し、麓に横口式の隧道が開口しているものもあれば、一墳にして二個の横口式壙穴を有するものもあり、特に九州地方には、前方後円あるいは円墳にして、埴輪を有し、通例畿内地方の古い形式の墳墓に見るがごとく、その頂上に竪穴式壙穴を造り、しかもいわゆる石棺は家屋形で、しかもその石棺の横に口を開き、その前に小さい隧道を設け、シナの帝王陵に見るがごとき石人・石獣等を伴うというがごときものもある。かくのごときものは、おそらく古えの倭人王の墳墓として、一(455)方には大和朝廷に属して国造と呼ばれながら、一方ではシナの天子から王爵を与えられ、形式上両属であったことから、その墳墓も一方ではわが古代の帝王陵に模し、一方にはシナの王者の陵になぞらえて、両者の特徴をともに有するという形のものであったと解せられる。いずれにしても、除外例を尋ぬれば種々の形式構造のものが認められるが、大体としてわが国固有の墳墓は竪穴式で、埴輪を伴い、横口式のものは、シナの風習を輸入したものであったということが出来る。
 奈良朝以来火葬が盛んに行われるようになってからは、自然、従来のごとき郡重なる構造の墳墓が築かれなくなる。『扶桑略記』によると、元明天皇陵をもってわが国高陵の最後とするとある。しかしその後といえども、なお墳丘を起すの風は平安朝ころまでも行われておった。ただし、それはもちろん有力者のことであって、一般庶民は単に地を掘ってこれを埋めるとか、あるいは屍体を土葬・火葬に付することもなく、これを川に流し、あるいは山林に遺棄し、はなはだしきは羅生門の楼上にこれを捨てるというような、きわめて悲惨な状態が現出したのであった。
 いわゆる横穴なるものは、また一つの横口式の墳墓であって、わざわざ封土を築くことの代りに、自然の山、あるいは丘陵の半腹に壙穴を穿ったというに過ぎないものである。したがってその年代も、横口式壙穴を有する古墳と相似たものであることが、その副葬品によってからも知られるのであるが、土地の状況によっては、比較的後までもこの墳墓の形式は引き続き行われたものであった。鎌倉のごとき、住民の多いわりに平地が少く、しかもその四周をなせる丘陵は掘鑿にきわめて都合の好い地質であるがために、ここにはいわゆる横穴式の墳墓の風が長く行われて、鎌倉幕府の時代から室町時代まで、すなわち関東管領の栄えたころまでも継続していた。古河古松軒の『西遊雑記』によると、豊後の竹田地方では、天明、寛政のころまでも、まだこの風は行われていたとある。その構造は、普通には単に短い、狭い入口を有して、内部に一個の室を設けてあるに過ぎないが、中にはその隧道が一丈以上に及ぶものも(456)あり、奥室にはさらに幾多の別室を設けたというがごとき、かなり複雑なものもあり、あるいはその奥室に屍床を造りつけたものもあれば、いわゆる石棺を安置したものも往々にして認められる。
 琉球は争うて大なる墳墓を造る風習を有する所で、これがために開墾すべき地面がだんだんと狭くなり、ことにその幸美を競うことから、ために貧困に陥るという弊害がはなはだしいため、近年県令をもって、十坪以上の墳墓を造ることを禁じている。内地における大化改新ごろの状態は、まさにこれと同様であったらしく、孝徳天皇の墳墓制限に関する詔には、魏の文帝の薄葬の例を引用して、これを簡単にすべきことを命じ、「此の頃我が民の貧しきは、専ら墓を造るによる」と仰せられている。しかしその後といえども、なお家門の誉れとして、広大な墳墓を営む風が全く杜絶するまでに至ったのではなかったかと見えて、大伴家持の歌に、
  おほともの遠神祖《とおつかんおや》の奥津城《おくつき》は著《し》るく占《し》めたて人の知るべく
とある。しかし内地では、その後厚葬の風の衰えたことは上記の通りであるが、琉球では今日までなおそれが継続している。その墓の外形は時代によって変化があり、また人々の好みによりて、あるいは家形、あるいは亀甲形などと、種々の形のものが造られているが、本来珊瑚礁からなる島嶼として、自然の洞窟が多く、当初はそれを利用して、一部落共同にそれに葬り、あるいは一族をこれに合葬するという類が多く、特別の人にのみ単独の墳墓を造ったものであったらしい。しかるに後にはだんだんそれが贅沢になって、家ごとに宏大なる墓を有するようになり、各自華美を競うて、ついに今日の風を馴致するに至ったものであるが、大体として、わが古代のいわゆる横穴葬儀の風を伝えたものであるに疑いない。
 わが古代にはまた、余輩がかりに地下式土壙と称している一種の壙穴が広く行われていた。これはシナの古代に、諸侯以下の墳墓に用いられた式を簡単にしたもので、あるいは地下の横穴といった方が妥当であるかも知れない。シ(457)ナの古代の諸侯以下の墓は、王者の陵が横口式にして、隧道によって壙に通ずるのとは趣を異にして、墳丘内に壙を設けることは、王者の陵と同様ではあるが、その壙に横口を開き、上部から縦にこれに通ずる羨道を有するものであった。しかして後にはそれが簡略になって、堅土の場所には直下隧道を穿ち、その傍に窟室を設けて、これに棺を収める葬法のことが司馬温公の『書儀』に見えている。わがいわゆる地下式土壙はまさにこれと同様で、地中に横穴に見ると同じ土窟を穿ち、直下の羨道をもってその横口に通ずるものである。この式の墳墓は地上になんらの遺構を止めておらぬゆえに、容易に発見さるることがなく、たまたま陥落によって存在が知られた場合にも、危険を顧慮してただちにこれを埋めるとか、しからざる場合にもそのままこれを放置すれば、理由不明の陥落として凹地を止めるに過ぎないがために、わが考古学者の間にもあまり注意せられていない現状にあるのである。しかもその分布はすこぶる広く、西は九州の南部薩隅の地方より、東は相模、武蔵、下野などまで、しばしばそれが発見せられた。近くは大正十二年の震火災によって、東京の真ん中なる神田明神の社殿新築に際して、基礎工事の時にたまたまそれが発見せられた。これは一の羨道から、数個の壙に連絡する構造になっていた。相模にもこの種の数壙連絡のものがかつて中山毎吉氏によって調査された。大隅には中にいわゆる石棺を蔵するものもある。大体として地下に存する横穴といってしかるべきもので、年代もだいたい相似たものであったと思考せられる。
      四 墓  標
 
 近代の墳墓は封土を設けず、単に地を掘って柩を納め、その上に墓標を立てるに止まるのが普通である。太古いまだ文字の使用の一般に行われざる時代には、墓上に樹木を植えてこれを目標としたというのが普通であろう。しかし「大宝令」には、すでに「墓には碑を建てよ、具さに官姓名を記せよ」と規定してあって、『令義解』に「碑とは石を(458)刻し、文を銘するなり」と説明してある。したがって当時は、原則としては墳墓を営造し得るほどの身分のものは、その上に石碑を建てたはずであるが、今日に伝わっているのはきわめて少い。元明天皇は遺詔して碑を建てしめられ、その碑石といわるるものが今も遺っていることは前記の通りであるが、他の古墳についてこれの存するものは一つもないといってよい。けだし永い間に他に運ばれて、ついに失われてしまったのであろう。日向の東諸県郡の本庄四十八塚には鎌倉時代において同地の義門寺の僧が一々碑を建てたといわれているが、それも今日に存する物の一つもないことによると、この種の石碑が長い年代を通じて保存さるることの困難な事情が知られる。
 仏法が流行するに及んで、墓には石塔を建てることが普通となった。多くは五輪塔であるが、宝筐印塔、あるいは多重塔などもある。その塔に死者の法名あるいは俗名を刻して、墓碑に代えた場合もある。いわゆる板碑のごときもまた一種の石塔たるに他ならぬ。しかし後世では、仏像を刻してその船形の光背の形を模した、いわゆる船形石塔などの流行した時代もあった。近代は普通に方形の石碑をたてるようになったが、なお普通にそれをも石塔と称するのは、その意義を失った後の言葉の転訛であるに外ならぬ。
 しかしながら、実をいえば塔もまた本来は一種の墓標であったと謂ってよい。詳しくは率塔婆で、あるいは略して塔婆という。仏入滅後百年にして阿育王世に出で、仏の舎利を周ねく南閻提の諸国に分って、八万四千の宝塔を造ったとある。舎利はすなわち遺骨のことで、塔に舎利を蔵めるの行事は、すなわちこれをもって仏の墓墳に擬するの義である。わが国においても古代の塔には、必ず舎利を蔵める例であった。後に経文をもってこれに代えるのは、畢竟その本義を忘れた後の転訛である。その舎利を蔵むるの作法は、あるいはこれを心柱の頭に置き、あるいはこれを心柱礎中に置く。柱頭に置くものはけだし風葬の義なるべく、柱礎中に蔵するものは、土葬の意をあらわしたのであろう。そもそも造塔の起原は、屍体を埋めた墳丘の上に、塔の九輪棒の柱を建てたものであったらしく、それがそのま(459)まに発達したものが、叡山その他に往々見るところの相輪※[手偏+(尚/牙)]となる。束京帝大図書館前の池の中に立っている噴水塔もまたこの形である。またそれを簡単にしては、木製の角率塔婆や、板率塔婆となる。かのいわゆる板碑のごときも、畢竟は恒久的材料をもって造られた板率塔婆であるにほかならぬ。しかしてそれに種々の趣向を加えては多宝塔となり、三重、五重、七重、九重、十三重等の層塔となり、あるいは大陸に見るところの喇※[口+麻]塔等ともなる。五輪塔、宝筐印塔など言わるるところのものも、また畢竟は率塔婆の変形であるにほかならぬ。しからば石塔に法名、俗名あるいは死歿の年時等を記して、これを石碑に代用することも、塔婆本来の意義からいえば、その墓中に葬られた人のことをその墓標に記する訳で、けだしその本義にかなったものであると謂ってよい。
 琉球では通例、墓に墓標を立てぬ。それは村墓にしても、一族墓にしても、あるいは一家一墓を構えるものにしても、その村なり、一族なり、あるいはその家なりが続く間、決して忘れられることがないためであろう。
 北海道のアイヌは死者に持たせるために、木製の杖、槍、縫針などを墓上に建てる風習で、それをクワと称しているのは杖の義である。しかるにそれが次第に形式化して、墓標のごとく誤り解せられ、今ではそれに姓名を記するようにまでなっている。なおアイヌの墓標のことは、他日別に発表するの機を得たい。     (昭和八・五・三一)
 
 
(461) 前方後円墳の起原および沿革に関する臆説
 
      一 序  言
 
 本誌九月号において浜田京大教授は「前方後円墳の諸問題」と題して、いわゆる前方後円墳の持つ意義に関する従来の諸学説、その塚型の時代による変遷等を叙述せられ、その最後に、最盛期における該墳の形態はおそらく盾の形を模したものであろうとの新説を発表せられた。
 私はあえてこの新説に反対しようというのではない。なるほど上空からこれを俯瞰したり、あるいは平面図についてそのプランを観察したならば、何人もさる感じを起し得るであろう。これはなおかの近江の琵琶湖の名が、その平面図の琵琶の形に似ていることから呼ばれたと説明せらるると同様で、いかにも面白い思い付きであると思う。したがってかの大和|盾列《たたなみ》の地名のごときも、そこに盾形をなせる古墳が盾を並べたように並んでいるからとの御説明もまた御尤もであるとうなずかれる。しかしながら、われわれが親しくその境に臨んで琵琶湖を観望したさいにおいて、いかにしてもこれに対して琵琶という感じは起らない。しかしてそれと同様に、かの小鍋・大鍋以西の(462)群集墳をいかに観察したところで、どうしてもそれが盾を並べたというような感じを起し得ないのである。もともとかの琵琶湖という名が果していつごろから起ったのであろうか。私はまだこれを調査してはみないが、いずれにしてもそのころに精密な平面図が出来ていたとは思われず、また今日われわれがその実測図を見たところで、正直なところ琵琶らしい感じは起りにくいのである。そこで私はこの琵琶という湖水名をもって、あるいは竹生島なる弁才天の琵琶の故事から起ったのではないかと密かに思ってもみているのである。盾列の名の場合についてもまた同様で、それは古墳群集の形について呼ばれたのではなく、そこの地名としてはもとから狭城《さき》であり、その狭城の地の西部にあった池の名が、何かの理由でたまたま盾列と呼ばれていたのではないかと思っている。しかしそれはいずれにしても、浜田教授がその名からヒントを得られて、隆盛期の前方後円墳のプランが盾から思い付かれたであろうとする御説に軽重をなすものではない。ただし、それは単に築造者の描いた平面的プランについてだけのことで、その築き上がった立体的の墳丘その物について、どうしても盾らしい感じの起り得ぬ点においては、盾列の名について述べたところと同様であることは致し方がない。
 右の次第であるから、浜田教授提出の新説は興味ある一説として承りおくとともに、私は別に私の持説をここに提出して、教授をはじめ学界諸賢の批判を乞いたいと思う。
 
      二 いわゆる祭壇付加説
 
 浜田教授が前方部の意義に関する従来の諸説を列挙せられた中に、私をもって前方部祭壇付加説保持者として数えられている。大体においてそれに相違はない。しかし私は前方後円式古墳の前方部が、常に祭壇として使用せられたと主張するものではない。また当初からそれが祭壇として付加せられたと主張するものでもない。これについて私は(463)はやくから座談において、あるいは講話において、その説を述べたことはたびたびある。また何かの機会に何かに書いたことがあったかも知れぬが、何分にも粗製濫造品を無暗に書き散らした過去を有する私として、今記憶に存せぬ。もしあったとしたところで、どうで詳しいものではあるまい。そこで私はこの機会をもって、私のいわゆる祭壇付加説なるものについて、やや委曲に渉りて叙述してみたいと思う。
 ひと口に前方後円墳といっても、それには種々の地方的相違があり、また時代による変遷があることは浜田教授の述べられた通りで、それには何人も異議はあるまい。したがってこれを祭壇だといったからとて、常にその前方部が祭壇としてのみ使用せられたと画一に論ずべきものではない。また中には明かにその反証を示すような場合もあるのであるから、時代により、地方により、その意義においても種々の相違のあったことはこれを認めねばならぬ。たとえば大和丹波市町なる三島の天理教へ行く途中、左方に存する鑵子塚のごときは、前丘の頂上にいわゆる舟形石棺が露出している。大隅肝属郡串良なる大塚にも、前丘上部の、今は神社拝殿の床下に箱形小壙が露出しているという事実がある。かかる例は他にも多く、この場合とうていその前丘をもって祭壇視することは許されないのである。
 しからば祭壇説はとうてい成立し難きものであろうか。これにはまずもつて該型式墳墓の沿革を研究してみねばならぬ。
 
      三 前方部の起原は拝所あるいは参道の付設
 
 いわゆる前方後円墳の中には、立派に前丘が方墳状をなしたものもあり、また前面が三角形の底辺をなしたものもあり、あるいは前後両丘の接続部が低くなっているものも多く、さらにその低い接続部の左右に小円丘を付加したが(464)ごときものもあるのである。ここにおいて円墳・方墳結合説、円墳・三角墳結合説、あるいは左右陪塚付加説なども起るのであるが、しかしこれらは、むしろその型式の最も整備した時代の所産と見るべく、特に偉大なる陵墓にかかる種類の物が比較的多いのである。しかしながら、広くいわゆる前方後円墳についてこれを観るに、かかる型式のものは大体としては数において比較的少く、普通には双子山、あるいは瓢箪山、茶臼塚などと呼ばるるごとく、前方部の方形あるいは三角形の線の判然しないのがすこぶる多い。また肥後の阿蘇、日向の本庄、その他九州地方に多く見るがごとく、いわゆる前方部の上面は水平をなして、ただ長く前の方へ脚を出しているというに過ぎないところの、いわゆる柄鏡式のものも少くなく、中には日向西都原の男狭穂塚、筑後大善寺の鬼塚(あるいは御塚)のごとく、円墳の一部にきわめて短い方形の突出をなしているに過ぎないものも往々にして認められるのである。
 ここにおいて、以上述ぶるところの諸型式を通覧して考うるに、いわゆる前方部は必ずしも方稜を有して高く盛り上がるを要とせず、当初は単に円丘墳の前面に拝所あるいは参道を造るにあったものらしい。参道は古くシナでは神道と称し、神域なる墓所に通ずるの道で、シナ・朝鮮などの帝王陵にあっては、その左右に石人・石獣等を列べ立て、またそこに樹てた碑を神道碑と称している。わが国にありても三条実美公を始めとして、元勲の墓所に神道碑を賜わった例が少くない。元来、墓前にはこれを鄭重にする場合、普通に参道あるいは拝所が設けらるべきはずである。秋田県横手町の付近朝倉村|子吉山《こきちやま》に小石塚があり、丘形今は楕円をなして、東西約三間、南北約二間、高さ四尺ばかり、その丘の中央に火葬に付した遺骨を蔵する石櫃が二個、今は双方ともに無残にも破壊せられているが、この塚について特に興味を感ずることは、その前面に石を敷いて長い参道を造ってあることである。けだし参拝者はその参道によって丘側に進み、そこで拝をなしたことであろう。かかる参道すなわちいわゆる神道は、他にも多かったはずだと思われるが、石をでも敷いた場合でなければ後世に保存されぬ。しかし現今の墓地にも往々にしてこれを見ること(465)によって、古えの状態を察すべきである。
 しかしながら、右の子吉山の例にしても、今の墓地の参道にしても、またシナ・朝鮮などの帝王陵の場合にしても、いわゆる神道は常に墳丘の前の平地面に直通して設けられ、墳丘に接続して高く土を盛り上げたという例あるを知らぬ。
 今遡って墳墓の起原沿革を考うるに、少くもシナの太古においては通例屍体を草上に置き、さらに草をもってその上を蔽うたに過ぎないものであったらしく、漢字の「葬」の文字はよくこれを示している。さりとてこれを地上に放置したというのではあるまい。あるいは一方に水葬、風葬などもあつたではあろうが、最も普通なるべきものはもちろん屍体を土中に埋葬するもので、この場合、直接土壌に触るることを避けんがために、上下に草を置くというのが「葬」の字の起原であったと解する。河内国府遺蹟にて発見せられた石器時代遺骨の中には、その顔面を大きな土器の破片をもって蔽うた例があった。これも土が直接顔面に触れるを避けんがためで、けだし死者に対する愛情または尊敬の念の発露であったに相違ない。それがだんだんと鄭重になると、その上に封土すなわち墳丘を起すようになる。さらに石壙を設け、棺槨をこれに蔵するようにもなる。しかしこの場合、シナまたは朝鮮などでは、常に壙すなわち墓穴を封土の下部、あるいは地表面下に置く。しかして特にシナの古代にありては、少くも夏殷周三代の間は、王者の陵には封土の下部に隧道を設けて、横からその壙に通ずるを例とする。いわゆる横口式壙である。また諸侯以下の墳墓には、羨道を設けて上から直下その壙側に通ずる。これはわが国にも往々その実例を見るところの、いわゆる地下式壙におけるものと同様である。これけだし特に天子の尊厳を諸侯以下と区別したもので、天子の陵にその埋葬の後において決してその遺骸より上を踏ましめざるための設備であった。されば晋の文公、いわゆる覇者として王室に大功あり、その賞として墓に隧道を設けんことを謂うたが、隧は王者の章なりとの理由の下に襄王断乎としてこ(466)れを許さず、周室衰えたりといえどもなおこの威信を保つのゆえをもって、後世史家の賞讃を博しているのである。しかるに戦国時代になっては、諸侯ほしいままに王号を僭称して、その墓にも隧を有する王陵を模することとなり、さらに秦漢以後においては、臣下にも、また蕃夷の酋長にも、王号を授与する例となったがために、ここに横口式墳墓の制は濫用せられることになった。しかしそれにしてもその隧道の入口は通例地表面にあったはずで、したがって奉幣者の踏むところの神道を、その入口よりも高く設けることは出来ないのである(近時わが考古学者の間には、横口式の隧道を呼ぶにも通例羨道の名を用うることになっているが、これは文字の用法を誤ったものである)。
 しかるにわが国古代の葬法は、もと丘陵あるいは山地の高所を掘ってそこに屍体を埋葬したものであったと見えて、たとい高貴の陵墓にしても隧道あるいは羨道を設けず、壙は常に墳丘の頂上にあり、ただその上を石蓋をもって蔽い、あるいは土をもってただちに棺槨を埋むるに止まったもので、いわゆる竪穴式壙であった。この場合、封土の形は同じ円墳であっても、彼此その意味を異にし、シナあるいは朝鮮の封土は壙を保護すべくその上に設けられたものであり、わが国の封土は壙を造らんがためにあらかじめ築かれた墳丘なのである。
 元来、壙なるものは人間死後の永久の住処として設けられたもので、おのずからその生前における住居の態を模するを常とする。さればシナにおいては今も現に地方によって横穴住居が行われているほどで、その古代の穴居もまたおそらく横穴式であったらしく、したがってその墓壙を造るにも、横に入口を設くるの制を生じたものと解する。しかして特に王者にありては、その尊厳を示さんがために隧道をもってただちに横よりこれに通ずる。また諸侯以下の墳墓にありては、羨道によって直下その墳側に下り、やはり横口よりこれに通ずる。司馬温公の『書儀』に、堅土の郷にありては直下※[土+延]道を造り、傍に窟室を設くとあるもの、けだしこの式である。しかるにわが古代にありては、同じく穴居とはいってもこれは竪穴であった。したがってその墓壙を造るにも自然丘頂に竪穴式の窟室を設くる例とな(467)ったと考えられる。今日古墳を発掘して壙穴の存在を認めざるものは、もと土壌にしてこれに棺槨を蔵め、土をもって空処を埋むるとともに壙は消滅したものと解する。実は朝鮮民族もまたわが国と同じく竪穴住居であったはずである。しかし彼にありてはつとにシナと交通してその文化に憧れるところ多く、したがって墳墓にも先進隣国の葬法をそのままに輸入して、その壙もまた横口式に造るを常としたのであつたと解せられる。しかるにわが国にありては当初シナとの交通も繁からず、また朝鮮民族に比して民族的独立性が強かったがために、単に墳丘を起し、貴重品をも惜し気なく副葬するところまでは彼に倣つたが、壙の位置、構造等をまでも模するには至らなかったものと考えられるのである。かの埴輪円筒のごときもわが国独自の創作として、もとは死者の住居に対する永久的八重垣の意味をもって造られたもので、後にシナの石人・石獣を樹つるの風を模して、これに人馬その他の形を造り付けるに至ったものと考えられるのである。しかしてさらにその墳丘にはいわゆる前方部を付設して、他に見ざる陵型をも生ずるにも至ったのであった。
 しからばそのいわゆる前方部なるものは、いかなる意義をもって付設せられたか。すでに墓に封土を築いて、その中に壙を設くるという点においては彼此同一であったとしても、シナや朝鮮にありてはその壙が墳丘の下部なる低位置にあり、わが国ではその上部なる高位置を占めるという相違がある。したがってこれに対する奉幣者は、彼にあつてはその壙の位置よりも高所に登って、被葬者を瞰下してこれを拝するということは不可能であり、自然その拝所はこれを封土の麓よりも高位置に設けることが許されず、これに伴ってその参道のごときも、必ず平地面に設けられなければならぬはずである。しかるにわが国の墓制にありては、壙が高位置にあるがゆえに奉幣者も自然にいくらかでもこれに近づき、高い位置に進んで、これを拝することが許されるはずである。これは被葬者に対していくらかでも親しみをあらわす訳ではあるが、さりとも墳丘上に登ることはその恐れなきにあらず。ここにおいてか墳丘の前面に(468)小土壇を造り添えて、壙よりは低く、しかも被葬者に対していくらかでも近き位置に上ってこれを拝するということは、この場合最も選ばれた方法であったと思う。日向の男狭穂塚や、筑後の鬼塚の場合のごときはまさにこれに相当する。かくすることによって墳墓に対する奉幣者の位置も明確に指定せられ、墓制の上からもいっそうの完備を感ぜらるべきである。この場合、これを拝所といっても、また祭壇といっても差支えはなかったであろう。しかして、さらにこれを延長して平地よりは高き参道を造る。これすなわち、いわゆる柄鏡式なるもので、その最奥部は当然拝所または祭壇の所在であったであろう。しかしてこれはひとりわが国におけるごとき、竪穴式壙を有する墳墓の場合にのみ許さるべき型式であり、同時にシナ・朝鮮その他において、とうてい類例を見る能わざるゆえんでもあると思う。かくいえばとて、例えば日向の男狭穂塚のごとき、これが前方後円式墳墓の中の最も古く営まれたものとして解する必要はない。あるいはその付近に完備した女狭穂塚の前方後円墳が築造せられた後において、従来あった円墳にあれだけの拝所を造り添えたと解してもまた通ずべきである。
 
      四 祭壇から陵型の一部に
 
 当初は筑後の鬼塚に見るがごとく、円墳の前に短かき突起を付けたような小土壇の付設であったであろうところの前方部も、次第に尊厳を加うるとともに、いわゆる柄鏡塚のごとき長き参道を設くることとなり、奉幣者はおそらくその最奥なる円墳の麓にまで進んで、ここに臨時に祭壇を設けて奉拝の礼を尽くしたものであったと推測せらるるが、尊厳いよいよ加わりては、直接墳丘の下にまで進むを憚り、ついには参道の入口において奉幣の儀を奏するようになり、はてはその拝所をいっそう高く造り、墳丘との中間を低くして、遥かに被葬者の位置を見上げて拝礼するようになったものであろうと考えられる。しかも、ここに至ってはもはや従来の参道の意義は没却せられて、前丘は全く祭(469)壇としてのみ使用せらるることとなる。前方部において時に刀剣・土器等を発見し、しかもそこに棺槨存在の形迹がいささかも認められざるがごときものは、この際における奉幣物を埋めたものではなかつたかと思われるのである。私がかつて前方部祭壇説を唱えたのは、けだしこの謂であった。
 しかるに世の移るとともに尊厳ますます加わりては、奉幣者はもはや丘上に登ることなく、濠を隔ててその前方の壇上に臨時に祭壇を設け、そこで拝礼をなすようになる。かくては従来祭壇であった前方部は、全く陵形の一部として認められ、当初の意義は全く忘れられて、もと長方形なりし前方部も次第に前部において左右に張り出し、あるいは中間なる接続部の左右に小円丘を付加するなど、種々の新意匠が試みられる。なお兜の鍬形がもとは実用の鍬の先のごとく、相並行して上方に真っ直ぐに延びたものが次第に左右に張り出し、またその端の方を広くし、はてはこれを二段の弧形に造る等、種々の新意匠を試みて、ついに後世見るごとき鍬形をなすに至つたのと同一状態の下に変形したものと思われる。
 すでに前方部が陵型の一部として認められるようになっては、時としてはそこに後から死者を陪葬するようになる。いわゆる塋域に葬るものである。その中にも、前記大和丹波市町鑵子塚のごときは前方部の中央位置を占めているが、大隅の串良大塚なる箱形小壙は前方部の上面やや右寄りの所にあり、和泉なる大山陵には、明治五年に前方部右方稜部が崩壊して、丸石をもって築き上げた竪壙があらわれ、中にはいわゆる長持形石棺があり、また、その石棺外に冑および鎧二領、刀剣、玻璃器二個等が発見せられたという事実もある。ここに至ってはもはや前方部は参道でもなければ、また祭壇と見ることも出来ないのである。
 
(470)      五 前方後円墳とシナ式古墳との折衷型
 
 言うまでもなく、前方後円墳はその後円部なる円丘を主体とするもので、その形態のいかんにかかわらず、いわゆる前方部はその付属と認むべく、もしその前方部を切り離して、ただその後円部のみについてこれを観れば、普通の竪穴式墳を有する円墳とそう違ったものではなかるべきはずである。しかるに、事実においては、いわゆる前方後円式古墳にして下部に横口式壙を有するものがかなり多い。中にも筑後吉田の岩戸山、京都|太秦《うずまさ》の天塚《あまづか》、武蔵小見の瓢形墳のごとく、一墳二壙を有する例すらもまた少くないのである。
 また、一方にいわゆる前方後円墳のあるものには、竪穴式壙と横口式壙との両型式を兼ね有するというような場合もある。例えば、筑後人形原の石人山に見るように、その壙の位置は普通のごとく後丘の頂上にありながら、しかもその構造は、通例横口式壙に見るところのいわゆる屋根形石棺の形をなし、さらにその正面に口を開き、その前に小隧道を有するというがごときもの、これである。ちなみにいう。わが考古学者間にいわゆる石棺は、多くの場合において石槨と称するを至当とするが、それにも種々の型式があり、竪穴式壙に伴うものは通例長持形にして、稀に舟形、割竹形など称するものがあり、横口式壙に属するものは、通例いわゆる屋根形なるを常とする。これも固有の家造り、または葬法に基づくものであろう。
 けだし、かくのごとき種々の変態を呈することは、いずれももほやそれが前方後円なる意義を全然忘却して、これを一種の陵型と心得、シナ式の横口式壙をこれに配したものと解せられるのである。しかして、特に二個の壙を有するもののごときは、例えば前記和泉の大山陵、大和丹波市町の鑵子塚に見ると同じ意味において、少くもその一個は後にこれに陪葬したものと解すべく、中には従来存する前方後円墳を利用して、これに横口式壙を設けたという場合(471)もあろう。肥後高瀬駅付近なる繁根木《はねぎ》の古墳のごときは、頂上にはわが国固有の式によりて竪穴式壙を設け、しかもその下方に横口式壙を有するもので、疑いもなくその頂上のものは、後より後者に造り添えられたものであると考えられる。しかしてこれはもって他の前方後円墳利用の場合を推測すべきものでなければならぬ。
 また、前記筑後人形原なる石人山のごときは、『筑後風土記』謂うところの筑紫国造磐井の墓なるものに相当し、彼がわが天皇に対し奉りては一大有力なる国造として、その陵型といい、壙の位置といい、また埴輪を繞らすことといい、すべてわが国固有の式に拠りながら、しかも彼はまた一方において、みずから有力なる倭人王をもって任じ、その壙にはシナ古代の帝王陵の意義をあらわして、埴輪の外に石人、石獣などをも配したものと解せられるのである。けだし、これまた前方後円墳が一の陵型として認められた後の所産と解すべきものであろう。
 大体として、横口式壙を有する古墳は円丘であり、これは当初、おそらく九州地方において漢帝より倭人王に封ぜられたもの、あるいはみずから漢土の帝王の後をもって任ずる帰化人らの造り始めたもので、これまた後には全くその意義が忘れられて、一種の陵型として濫用せらるるに至ったのであったに相違ない。
 
      六 結  語
 
 いわゆる前方後円墳はわが国特有のものである。古墳文化の上においてわが国と最も関係多きシナにありても、また朝鮮にありても、全くその類例を見ないものである。ただ一個、朝鮮慶州において双丘連続する変態墳の存在を見るも、これはおそらく二基の円墳が接続したと見るべきもので、わが前方後円墳との間になんらの関係は認められない。かく、この陵型がひとりわが国においてのみ発達したゆえんのものは、シナあるいは朝鮮においては霊柩の安置場所が常に低位置にあり、わが国において特に墳丘の頂上に設けられるという点にのみ、始めてその起因が認めらるべ(472)きである。しかもいったんそれが発生した以上、後にその意義が忘れらるるに及んで種々の新意匠が加わる。その構築においても時の宜しきに従って種々の方法が採られるということもあろう。例えばかの大和五条野の丸山のごとき、もとその端のやや高まれる丘陵を低所より切り離し、さらにそれに加工して前方後円のプランを呈せしめ、しかしてその後円部に当る所に横口式壙を設け、さらにその上にいわゆる丸山なる円墳を盛り上げたものであるに相違ない。されば、単にその丸山と呼ばるる円墳のみをもって独立の一古墳と見ても差支えなく、しかもなお全体として前方後円型を呈していることは、それが一の陵型として認めらるることのすでに常識化していたことを物語るものでなければならぬ。しかしその起原説としては、どこまでもわが国特有の壙の位置の高く存するという関係から、高き参道または拝所が墳丘に接続して設けられたにあると解するを妥当と信ずる。浜田教授の新説発表を機会として、その驥尾に付してあえて従来の持論を訂補詳説すると、しかいう。 昭和十一・九・一七)
 
2006年10月31日(火)午後3時15分、入力終了、岡宮天皇陵を間近にする丘の上で。