増補本居宣長全集第六巻、吉川弘文館、1926年8月25日増訂再版
 
(291) 國號考    本居宣長考
 
   大八嶋國《オホヤシマクニ》
 
皇大御國《スメラオホミクニ》の號《ナ》、神代に二つあり、一(ツ)には大八嶋國《オホヤシマクニ》、二(ツ)には葦原中國《アシハラノナカツクニ》なり、その大八嶋國といふは、古事記に、伊邪那岐命伊邪那美命御合《イザナギノミコトイザナミノミコトミアヒマシテ》、生2子淡道之穗之狹別嶋《ミコアハヂノホノサワケノシマヲ》1、次(ニ)生2伊豫之二名嶋《イヨノフタナノシマヲ》1、次(ニ)生2隱伎之三子嶋《オキノミツゴノシマヲ》1、次(ニ)生2筑紫嶋《ツクシノシマヲ》1、次(ニ)生2伊伎嶋《イキノシマヲ》1、次(ニ)生2津嶋《ツシマヲ》1、次(ニ)生2佐度嶋《サドノシマヲ》1、次(ニ)生2大倭豐秋津嶋《オホヤマトトヨアキヅシマヲ》1、故因此八嶋先所生《カレコノヤシマゾマヅウミマセルクニナルニヨリテ》、謂《イフ》2大八嶋國《オホヤシマクニト》1と見えたり、書紀にも、生坐《ウミマセ》る次第《ツイデ》などは、傳々《ツタヘ/\》異《コト》なれども、八(ツ)の數は同(ジ)くて、由是《コレニヨリテ》始2起《オコレリ》大八洲國之號《オホヤシマクニトイフナハ》1焉とあり、そも/\志麻《シマ》とは、周廻《メグ》りに界限《カギリ》のありて、一區《ヒトツボ》なる域《トコロ》をいふ名なり、然云《シカイフ》本の意は、しまるしゞまるせまるせばしなどいふ言と同じきなるべし、これらも、取《トリ》はなち曠《ムナシ》く界限《カギリ》なくはあらで、界限《カギリ》ありて、とりしまれる意よりいふ言なればなり、されば志麻《シマ》てふ名も、本はかならず海のみならず、國中《クニナカ》にて山川などのめぐれる地《トコロ》にもいへりと見ゆ、そのよしは下條《シモノクダリ》なる秋津嶋のところにいふを見てしるべし、又この大八嶋などいふ名のごとく、いと大きなるにもいへれば、必しも小《チヒサ》きをのみいへるにもあらず、但し小《チヒサ》くて海の中にあるは、殊にめぐりの界限《カギリ》も炳焉《イチジル》ければ、專《モハラ》さる地《トコロ》のみの名の如くにもおのづからなれるなり、さて嶋洲などの字をあてゝ書るも、その海の周《メグ》れる地《トコロを》いふ一かたにつきてなり、されどこれらの字に泥《ナヅ》みて、必もとより海の中なるをのみいひ、又|小《チヒサ》きをのみいふ名なりとな思ひあやまりそ、凡《スベ》て皇國《ミクニ》の言に漢字《カラモジ》をあてたるは、全《マタ》くあたれるもあり、又かたへは當《アタ》りて、かたへはあたらざるも多かるを、後(ノ)世には、たゞひたぶるに字にのみよる故に、言の本の意を誤《アヤマ》(292)ることのみ多きぞかし、さてこの大八嶋の嶋も、海の周《メグ》りて隔《ヘナ》れる一界《ヒトツボ》の國をいへるにて、その例は、書紀の神代(ノ)卷に、三韓(ノ)國をも韓郷之嶋《カラクニノシマ》といひ、万葉集の哥には、海をへだてゝは、大和(ノ)國の方をさしても倭嶋《ヤマトジマ》とよみ、又此大八嶋をすべても、倭嶋根《ヤマトシマネ》とよめるなど是なり、さて八嶋としもいふは、海を隔《ヘダ》てずて一連《ヒトツヾキ》なるをば、幾國《イクヽニ》にまれ一嶋《ヒトシマ》として、その數八(ツ)なればなり、かくてその八《ヤ》は例の彌《イヤ》にて、もとはたゞ嶋の數の多《オホ》かる意の號《ナ》なりけむを、やゝ後に八つの意にとりて、その數をとゝのへていひ傳へたるかとも疑《ウタガ》はるめれども、古事記にしるされたる八つにて、畿内《ウチツクニ》七道《ナヽミチ》の諸國《クニ/”\》みな備《ソナ》はり、又|他《ホカ》の嶋々は一(ツ)もまじらずして、餘《アマ》れるもなく足《タラ》ざるもなければ、本より八(ツ)の數は動《ウゴ》かざるにこそ、書紀の傳々《ヅタヘ/\》には、此内に他《ホカ》の嶋々もまじれゝば、八(ツ)の數|動《ウゴ》けれども、古事記の正しきにつきて定むべきなり、さて此|號《ナ》は、外國《トツクニ》に對《ムカ》はず、ひとりだちて天の下を統言《スベイフ》號《ナ》なり、八千矛《ヤチホコノ》神の御哥に、夜斯麻久爾《ヤシマクニ》とよみたまひ、倭建命《ヤマトダケノミコト》の御言《ミコト》に、吾者《アレハ》、坐《マシ/\テ》2纏向《マキムクノ》之|日代宮《ヒシロノミヤニ》1所2知《シロシメス》大八嶋國《オホヤシマクニ》1、大帶日子於斯呂和氣天皇之御子《オホタラシヒコオシロワケノスメラミコトノミコ》とのりたまひ、孝徳天皇の詔《ミコト》にも、現爲明神《アキツミカミト》御《シロシメス》2八島國《ヤシマクニ》1天皇《スメラミコト》とのり給へり、公式令の詔書式にも、朝廷の大事に用ひらるゝ詔には、明神《アキツミカミト》御2宇《シロシメス》大八洲《オホヤシマ》1天皇詔旨《スメラガオホミコトラマ》、とのりたまふと見えたり、
 
    葦原中國《アシハラノナカツクニ》 水穗國《ミヅホノクニ》をも附《ツケ》いふ
 
葦原(ノ)中(ツ)國とは、もと天つ神代に、高天原《タカマノハラ》よりいへる號《ナ》にして、此御國ながらいへる號《ナ》にはあらず、さて此號の意は、いといと上つ代には、四方《ヨモ》の海べたはこと/”\く葦原にて、其中に國處《クニドコロ》は在りて、上方《カミツカタ》より見下《ミクダ》せば、葦原のめぐれる中に見えける故に、高天(ノ)原よりかくは名づけたるなり、かれ古事記書紀に、此|號《ナ》はおはく天上《アメ》にしていふ言にのみ見えたり、心をつりて考ふべし、その中に此御國にていへるも、いと稀《マレ》にはなきにしもあらざれども、そは御孫命《ミマノノミコト》の天降坐《アモリマシ》て後には、此御國にても、もと天上《アメ》にありていひならへる號《ナ》をもて呼《ヨ》べることも有しよりおこれるなり、さてよもの海邊《ウミベ》のこと/”\(293)に葦原なりしことは、續後紀に、仁明天皇の四十の御賀《ミホギコト》に、興福寺の僧等《ホウシドモ》の献れる長歌に、日本乃《ヒノモトノ》、野馬臺能國遠《ヤマトノクニヲ》、賀美侶伎能《カミロギノ》、宿那毘古那加《スクナビコナガ》、葦菅遠《アシスゲヲ》、殖生志川々《ウヱオフシツヽ》、國固米《クニカタメ》、造介牟與理《ツクリケムヨリ》、云々、とよめる、此事今傳はれる古書《イニシヘブミ》どもには見えざれども、かくよめるは、必そのかみ據《ヨリドコロ》ありけむ、さればもと、大穴牟遲《オホナムヂ》少名昆古那《スクナビコナ》二柱(ノ)御神《ミカミ》の、國造堅《クニツクリカタ》めむために、植生《ウヱオフ》し廻《メグ》らしたまへるなりけり、かくて中音のころまでも、海の渚《ナギサ》には、いづくにも葦の多かりしこと、世々の哥どもなどを見てもしるべし、さて此葦原(ノ)中(ツ)國てふ號には、くさ/”\説《トケルコト》あれども、皆古への意にかなはず、そのわろき由《ヨシ》は、ことごとに論《アゲツラ》はむもわづらはしければ、もらしつ、
又これを豐葦原之水穗國《トヨアシハラノミヅホノクニ》ともいへり、豐《トヨ》は美稱《タヽヘコト》にて、大八嶋の大《オホ》のたぐひなり、そは此(ノ)國|號《ナ》へすべて係《カヽ》れり、葦のみにかけて云にはあらず、葦原は上件《カミノクダリ》にいへるが如し、水は字は借字《カリモジ》にて、物のうるはしきをほむる言にて、これは穗をほめたるなり、書紀に瑞(ノ)字を書れたるはあたらず、彼《カノ》字につきて、祥瑞などの意とな思ひまがへそ、穗《ホ》は稻穗《イナボ》をいへり、葦のにはあらず、凡て稻穗をたゞに穗《ホ》とのみいへるは、万葉に秋穗《アキノホ》などもいひ、書紀に、天照大神《アマテラスオホミカミ》又《マタ》勅曰《ノリタマハク》、以吾高天原所御齋庭之穗亦《アガタカマノハラニキコシメスユニハノホモ》、當御於吾兒《アガミコノミコトニキコシメサシムベシ》とあるがごとし、さて皇國《ミクニ》は、萬(ツ)の事も物も、異國《アダシクニ》にはまされる中にも、稻は殊に万(ノ)國に比《タグ》ひなく、はるかにすぐれて、いと美好《メデタ》きこと、神代よりかくのごとく深き由緒《ユヱヨシ》のありて、今に至るまでまことに水穗國《ミヅホノクニ》の名に負《オ》へるたふとさ、いふもさらなるを、天の下の諸人《モロビト》、かゝるめでたき稻をしも朝夕《アサヨヒ》に給《タウ》べながら、皇神《スメカミ》の御惠《ミメグミ》をおほろかに思ひなすへきわざかは、そも/\人は命《イノチ》ばかり重《オモ》き物はなきを、それ續《ツギ》てながらふることは、もはら稻の功《チカラ》にしあれば、世にこればかり重《オモ》く貴《タフト》き寶は何物かあらむ、その稻のかばかりすぐれてめでたきにも、皇國の萬(ノ)國にすぐれて、最《モトモ》尊《タフト》きほどはいちじるきものぞ、
 
    夜麻登《ヤマト》 秋津嶋《アキツシマ》師木嶋《シキシマ》をも附《ツケ》いふ
 
(294)夜麻登《ヤマト》といふは、もと畿内《ウチツクニ》なる大和《オホヤマト》一國《ヒトクニ》の名なるを、神武天皇此國に大宮しきませりしよりして、後の御代/\の京《ミヤコ》も、みな此|國内《クヌチ》なりける故に、おのづから天の下の大名《オホナ》にもなれるなり、さて此名は、邇藝速日命《ニギハヤビノミコト》のあまくだらしゝ時に、虚空見倭國《ソラミツヤマトノクニ》といへる古語《フルコト》ありて、神代よりの名なり、又それよりさきに、八千矛《ヤチホコノ》神の御哥に、やまとの一本すゝきとあれども、そば此國の名をよみたまへるにはあらじとぞおもふ、又書紀の神武(ノ)御卷の未に、昔伊弉諾尊《ムカシイザナギノミコト》目《ホメテ》2此(ノ)國(ヲ)1曰《ノリタマフ》2日本者浦安國《ヤマトハウラヤスグニ》、細戈千足國《クハシボコチダルクニ》、磯輪上秀眞國《シワノボルホツマクニト》1とも見えたり、かくて神武天皇は此國に宮しきましけるによりて、神日本磐余彦尊《カムヤマトイハレビコノミコト》と大御名《オホミナ》を稱奉《タヽヘマツ》れり、然るをかへりて、此大御名より起《オコ》りて國の名ともなれりといふは、いみしきひがことなり、又或説に、夜麻登といふは、神代より天の下の大名なりしを、神武天皇の御代よりして、わきて帝都《ミヤコ》の一國の名にもなれるなり、其故は、此天皇(ノ)御卷に、皇輿巡幸因《スメラミコトクニメグリマセルチナミニ》、登(テ)2腋上※[口+兼]聞丘《ワキノカミノホヽマノヲカニ》、而|廻2望《ミサケテ》國状《クニガタヲ》1曰(ク)、妍哉乎國之獲《アナニヤクニヲエツ》矣、雖《ナレドモ》2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサグニ》1、猶2如《ゴトシ》蜻蛉之臀※[口+占]《アキヅノトナメセルガ》焉、由《ヨリ》v是《コレ》始《ハジメテ》有2秋津洲之號《アキヅシマトフナ》1也、昔《ムカシ》伊弉諾(ノ)尊|目《ホメテ》2此(ノ)國(ヲ)1曰云々、とある秋津洲も浦安國も、みな天の下の大名なれば、夜麻登もはやく伊邪那岐(ノ)命の御時より大名と聞え、又神代紀に迺生2大日本豐秋津洲《オホヤマトトヨアキヅシマヲ》1と見え、又|狹野《サヌノ》尊云々、後《ノチニ》撥2平《コトムケ》天(ノ)下(ヲ)1奄2有《シロシメス》八洲《ヤシマクニ》1、故《カレ》復加號《ミナヲタヽヘテ》曰《マヲス》2神日本磐余彦尊《カムヤマトイハレビコノミコトヽ》1などゝある、これらみな神代より天の下の大名なりしおもむきなりといへるは、みな誤(リ)なり、まづかの秋津洲《アキヅシマ》も、大和の國内《クヌチ》の地名《トコロノナ》なり、天の下をすべいふにはあらず、そは廻2望《ミサケテ》國状《クニガタヲ》1とあるにても知べし、いとも廣《ヒロ》き天下の形状《カタチ》は、※[口+兼]間丘《ホヽマノヲカ》より一目《ヒトメ》にはいかでか見わたしたまふべき、又|内木綿之眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサグニ》とのたまへるも、狹《セバ》き國といふ事なるをおもふべし、猶此地の事は、下に別《コト》に委《クハシ》くいふべし、又|浦安國《ウラヤスグニ》といふも、一國のことなるを、釋日本紀などにも、天の下の大名として説《トキ》たるはひがことなり、大和は海なければ、浦安とはいふべからずと、疑《ウタガ》ふ人もありぬべけれど、浦は借字《カリモジ》にて、うらさびしうらがなしなどのうらの意なり、万葉十四の卷に、うらやすにさぬる夜ぞなきなどよめるにてもしるべし、また生2大日本豐秋津洲《オホヤマトトヨアキヅシマヲ》1とあるは、天の下の大號《オホナ》にもなりての後の世よりいへ(295)る語《コトバ》にして、神代の當昔《ソノカミ》の言《コト》にはあらず、秋津洲といふ號も、上に見えたるごとく、神武天皇の御代より始まれるにてさとるべし、そも/\神代より、大八嶋國葦原(ノ)中(ツ)國などいひしに、其號をあげずして、生2大日本《オホヤマトヲ》1としもいへるはいかにといふに、かの二つの號《ナ》は、八洲《ヤシマ》を惣《スベ》たる大號《オホナ》なるに、これはそのうちの七洲《ナヽシマ》をのぞきて、一洲《ヒトシマ》をいふ所なればなり、かくて此一洲の大號は別《コト》になき故に、しばらく大日本《オホヤマト》とはいへり、夜麻登《ヤマト》は一國の名なるが、天の下に大號にもなり、又一國の内にて、わきて京師《ミヤコ》をさしてもいひて、廣《ヒロ》くも狹《セバ》くも用ひらるゝ號なるが故なり、そは筑紫《ツクシ》といふも伊豫《イヨ》といふも、一國の名なるを、九國四國の大名にもして、筑紫洲《ツクシノシマ》伊豫之二名洲《イヨノフタナノシマ》などいへる例に同じ、又|狹野尊《サヌノミコト》云々とある文《コトバ》のさまは、天(ノ)下の大號を取て神日本云々《カムヤマトシカ/\》とは稱《タヽ》へ奉れるごと聞ゆめれど、然《シカ》にはあらず、これも皇京《ミヤコ》しき坐《マセ》る國の名をとれる大御名なり、かゝれば夜麻登《ヤマト》といふは、本よりの大號にはあらず、一國の名より轉《ウツ》れること疑ひもなし、すべてもとは狹《セバ》き名の、後に廣《ヒロ》くなれる例おほし、出羽《イデハ》加賀《カヾ》なども、もとは郡《コホリ》の名なりしを取て、國の名とはせられつること國史に見え、そのほか駿河(ノ)國駿河(ノ)郡駿河(ノ)郷、出雲(ノ)國出雲(ノ)郡出雲(ノ)郷、安藝(ノ)國安藝(ノ)郡安藝(ノ)郷、大隅(ノ)國大隅(ノ)郡大隅(ノ)郷なども、もと郷名《サトノナ》なるが郡の名にもなり、郡の名の國(ノ)名にもなれりと聞ゆるをや、書紀の崇神(ノ)御卷の哥に、椰磨等那殊於朋望能農之能《ヤマトナスオホモノヌシノ》とある大物主《オホモノヌシ」》神は、天(ノ)下を經營成《ツクリナシ》たまへりしかば、此|椰磨等《ヤマト》は大號のごとく聞ゆめれど、こはたとへば後(ノ)世の語に、日本一《ニツホンイチ》の剛《カウ》の者《モノ》といふなる日本は、皇國のことなれども、意はおのづから天地のあひだにならぴなき剛の者と聞ゆるがごとくにて、古へ大和の京の時は、その一國の名をいひて、おのづから天の下の事にもなれるにて、猶天(ノ)下をすべいへるにはあらず、さればこれは、意は天(ノ)下をいへるなれども、言はなほ一國の夜麻登《ヤマト》なり、かくてやうやくうちまかせたる大號にもなれりと見えて、古事記に、仁徳天皇|日女嶋《ヒメジマ》に幸《イデマ》せる時、其嶋にて雁が卵《コ》をうめるを、建内宿禰命《タケウチノスクネノミコト》に其事とはせたまへる大御哥に、たまきはる、内のあそ、汝《ナ》こそは、世の長《ナガ》の人、そら見つ、やまとの國に、鴈《カリ》子産《コム》と、きくや、これに答《コタ》へ奉れる(296)哥にも、そらみつ倭《ヤマト》の國に、鴈《カリ》子産《コム》と、いまだきかず、とよまれたり、日女嶋は津(ノ)國にあり、書紀には二首《フタウタ》ともに、秋津嶋《アキヅシマ》やまとゝ有て、地《トコロ》も河内(ノ)國|茨田堤《マムタノツヽミ》に雁《カリ》産《コウム》とあり、いづれにまれ大和の國内《クヌチ》にはあらず、又雁の産《コウ》むことは、すべて皇國にてはめづらしければ、此(ノ)夜麻登《ヤマト》はまさしく天の下の大號《オホナ》なり、さて一國の名をもて天(ノ)下の大名とする事は、もろこしの國にても代々の例なれは、夜麻登もかれにならへるかと、疑《ウタガ》ふ人あれども、仁徳天皇の御世に、はやく御哥にもよませたまふばかりいひなれつる事なれば、いかでか然らむ、そのかみかの國籍《クニブミ》は、既《スデ》に渡りまうで來《キ》つれども、かの國の事を然《シカ》ばかりならひたまふことは、いまだあらざりき、然るに萬の事、かの國のふりをならふことになれる後の世の心をもて見《ミ》るから、神代より有り來《キ》つる事どもをすら、皆かれにならへるかとはうたがふなり、かならずしもならはざれども、こゝとかしこと、おのづから心ばへの相通《アヒカヨ》へることも多かりかし、
夜麻登といふは、もと山邊《ヤマノベノ》郡(ノ)倭郷《ヤマトノサト》より始れる名なりと、くはしく師の万葉考(ノ)別記に見えたり、これにあまたの論《アゲヅラヒ》あり、まづ此倭(ノ)郷は、和名抄には、城下《シキノシモノ》郡大和(ハ)於保夜末止《オホヤマト》と見えたるを、神名帳には、山(ノ)邊(ノ)郡|大和坐大國魂《オホヤマトニマスオホクニミタマノ》神社と有て、郡のたがへるを、師は城(ノ)下(ノ)郡に入れるを、後の事なりといはれつれども、はやく續紀の天平寶字二年の文にも、城(ノ)下(ノ)郡|大和《オホヤマトノ》神山とあれば、もと城(ノ)下(ノ)郡なりしが、後に山(ノ)邊(ノ)郡には入れるなるべし、かの御社《ミヤシロ》今も新泉村といふに在て、山(ノ)邊(ノ)郡なり、すべて和名抄は後に出來つれども、諸國《クニ/”\ノ》郡郷の名は、奈良朝《ナラノミカド》のころしるせる物によりて、そのまゝを擧《アゲ》たりと見ゆれば、かへりて神名帳よりはふるきこともあるなり、さて又此郷を紀などには、やまとゝのみいへるを、和名抄に於保夜未止《オホヤマト》とあるは、今の京になりての唱へなるかといはれつれども、垂仁紀に大倭直《オホヤマトノアタヘ》と見え、右の續紀の文にも大和《オホヤマト》とあるをや、一國《ヒトクニ》を大和《オホヤマト》といふから、此郷の名にも同じく大《オホ》てふ言を加《クハ》へたるなり、さて夜麻登といふはもとかの郷より始まりて、後に一國の名にもなれりといふは、上に引る諸國《クニ/”\》の例どもゝおほかれば、まことに論(ヒ)なきがごとし、然れども猶(297)よく考るに、此名はもとより一國の名なるを、かの郷(ノ)名は、後に倭大國御魂《ヤマトノオホクニミタマノ》神の鎮座《シヅマリマセ》るによりて、とり分て一國の名を負《オフ》せて、その郷《サト》をも倭《ヤマト》とはいふなるべし、今の世に伊勢の國内《クヌチ》にても、大御神の宮のべの里をさして、殊《コト》に伊勢といふと、同じ心ばへなり、他所《アダシトコロ》にも此例猶有べきなり、然るに書紀(ノ)神武(ノ)御卷に、以(テ)2珍彦《ウヅビコヲ》1爲2倭(ノ)國造《クニノミヤツコト》1とあるは疑《ウタガ》はし、其故は、まづ此倭は師のいはれつるごとく、倭(ノ)郷の事なり、然るにかの大國魂《オホクニミタマノ》神は、もと天皇の大殿の内に祭りたまへりしを、崇神天皇の六年に、始めて他所《コトヽコロ》にはうつして祭りたまひ、同七年に、市磯長尾市《イチシノナガヲヂ》てふ人を、神主としたまへり、又垂仁(ノ)御卷に、一(ツ)の傳へをあげていはく、是(ノ)時(ニ)倭(ノ)大神|著《カヽリテ》2穗積臣遠祖大水口宿禰《ホヅミノオミノオヤオホミナクチノスクネニ》1而|誨之曰《ヲシヘタマハク》云々、時(ニ)天皇聞(テ)2是(ノ)言(ヲ)1、則(チ)命《オホセテ》2中臣(ノ)連(ノ)祖|探湯主《クカヌシニ》1而|卜《ウラナフニ》2之|誰人以《イヅレノヒトヲモテ》令(メムト)1v祭(ラ)2大倭(ノ)大神(ヲ)1、即|渟名城稚姫命《ヌナキノワカヒメノミコト》食卜《ウラニアヘリ》焉、因《カレ》以命(セテ)2渟名城(ノ)稚姫(ノ)命(ニ)1、定(メ)2神地《カムドコロヲ》於|穴磯邑《アナジノムラニ》1、祀《イツキマツラシム》2於|大市長岡岬《オホイチノナガヲノサキニ》1、然(ルニ)是(ノ)渟名城(ノ)稚姫(ノ)命既(ニ)身躰悉痩弱《ミヽコト/”\ニヤサカミテ》、以|不《ズ》2能祭《エマツリタマハ》1、是(ヲ)以(テ)命(セテ)2大倭(ノ)直《アタヘノ》祖|長尾市《ナガヲヂノ》宿禰(ニ)1令(メキ)v祭(ラ)矣、とあり、かゝれば此(ノ)大國魂《オホクニミタマノ》神の倭(ノ)郷に鎮座《シヅマリマ》せるは、崇神か垂仁の御世よりなれば、神武の御代に倭と云(フ)郷(ノ)名はあるべからず、もし此崇神の御代より前《サキ》に、はやくその名あらば、祀(ル)2於倭(ノ)邑(ニ)1などあるべきに、さはあらで、定(メ)2神地(ヲ)於|穴磯《アナジノ》邑(ニ)1、祀(ル)2於大市(ノ)長岡岬《ナガヲノサキニ》1とあるは、いまだ倭てふ郷(ノ)名はあらざりし故なり、穴磯《アナジ》大市《オホイチ》はともに、後には城上《シキノカミノ》郡に入れゝども.此わたり城(ノ)上城(ノ)下山(ノ)邊三郡|堺《サカヒ》ちかきところなれば、そのかみは大名《オホナ》を穴磯《アナジ》といひて、そのうちなる大市の長岡《ナガヲ》といふ地《トコロ》なりけむを、此大倭(ノ)大神の鎮(リ)座《マセ》る故に、その後に倭(ノ)郷とは名づけたりけむ、さてかの長尾市《ナガヲヂノ》宿禰は、姓氏録によるに、かの宇豆彦《ウヅビコ》の後胤《ノチ》にて、倭(ノ)國造《クニノミヤツコ》の祖なり、然れども此|長尾市《ナガヲヂ》の世は、いまだ倭(ノ)國(ノ)造といふ職《ヅカサ》にもあらず、その姓《カバネ》にてもあらずと見えて、垂仁(ノ)御卷三年七年廿五年のところに見えたるに、みな倭(ノ)直祖《アタヘノオヤ》とのみ有て、直《タゞ》に倭(ノ)直《アタヘ》とも國(ノ)造とも見えたることはなし、雄畧(ノ)御卷に至りてぞ、此氏はじめて倭(ノ)國(ノ)造とは見えたる、然れば此氏の倭(ノ)國(ノ)造といふになれるは、かの長尾市(ノ)宿禰の、大倭(ノ)大神を祭る神主となりてのうへ、其後のことなりけむを、書紀に珍産《ウヅビコ》を倭(ノ)國(ノ)造とすとあるは、子孫の(298)職號《ツカサノナ》を始祖《ハジメノオヤ》へもさかのぼしてかたり傳へたるを取て記《シル》されたるものなるべし、抑神武天皇の御代には、道臣《ミチノオミノ》命|大久米《オホクメノ》命などぞ、功《イサヲ》最《モトモ》大きなるを、此|臣《オミ》たちすら、居(ラシム)2于|筑坂邑《ツキサカノムラニエ1などのみありて、その國(ノ)造としたまふ事は見えざれば、ましてつぎ/\の人どもをや、但しかの長尾市(ノ)宿禰も、いやしからぬ臣《ミ》とは聞えたれば.始祖《ハジメノオヤ》珍彦《ウヅビコ》の世より、かの長岡岬《ナガヲノサキ》のあたりの地を賜《タマハ》りて、知《シリ》傳へてはありけむ、長尾市《ナガヲヂ》てふ名も、長岡岬《ナガヲノサキ》てふ地(ノ)名によれりと聞えたり、さて倭(ノ)大神と申すは、大倭一國の國御魂《クニミタマノ》神に坐《マス》故の御號《ミナ》にして、鎭(リ)座《マセ》る地名《トコロノナ》によれる御號《ミナ》にはあらず、故《カレ》崇神垂仁の御世のころ倭てふ郷(ノ)名はいまだ聞えざれども、此神の御號《ミナ》はもとより有しなり、さて郷(ノ)名の倭は、仁徳天皇の大后《オホギサキ》石姫《イハノヒメノ》命の御哥に、始めて見えたり、をだて山、やまとをすぎ、とあるこれなり、さて又藤原(ノ)御井の哥に、日本《ヤマト》の青香具山《アヲカグヤマ》といひ、また幸(シヽ)2吉野(ノ)宮(ニ)1時の哥に、倭には、鳴てか來《ク》らむ、よぶこ鳥、云々といへるも、ともに大和の國内にして、さらに倭といへるは、かの山(ノ)邊(ノ)郡のやまとを、藤原(ノ)都のあたりまでも冠らせいひなれしなりといはれつるも論《アゲツラヒ》あり、都《ミヤコ》の名をこそ、かたはらの郡までも及ぼしていふべけれ、かへりて隣《トナリノ》郡の郷(ノ)名を、何の由《ヨシ》にかは都あたりまで冠らせいふべき、もしまた藤原(ノ)都あたりまでも倭(ノ)郷の内なりとせば、同じ倭(ノ)郷の内にしてさらにやまとゝいはむは、倭(ノ)國内にしてさらにやまとゝいはむも同じ事ならずや、さればこれも、かの伊勢といふ例と同じ心ばへにて、同じ倭(ノ)國の内ながらも、殊《コト》に京師《ミヤコ》のあたりをさして、倭とはいへるなり、香具《カグ》山は、藤原(ノ)都の東(ノ)方にならぴていと近し、吉野にてよめる哥も同じ意なり、かゝればこは万葉考の説はわろくて、冠辭考のしき嶋の條に、一國の名を都に負《オフ》せていへるなり、といはれつるかたぞ宜しかりける、夜麻登《ヤマト》といふ名の意は、萬葉考の一つの考へに、此國は四方みな山門《ヤマド》より出入れば、山門《ヤマトノ》國と名を負《オヘ》るなれと有て、そのよし委くしるされたり、此説ぞ宜しかるべき、又己が考へあり、そはまづ書紀(ノ)神武(ノ)御卷に、天皇の御言に、此國の事を、聞《キクニ》2於|鹽土老翁曰《シホツヽノヲヂノイヘルヲ》1、東(ノカタニ)有(リ)2美地《ヨキクニ》1、青山四周《アヲヤマヨモニメグレリ》云々と見え、又|大己貴《オホナムヂノ》命は、玉墻内國《タマガキノウツクニ》と目《ナヅ》けたまひ、又古事記|倭建《ヤマトダケノ》命の御哥(299)に、夜麻登波《ヤマトハ》、久爾能麻本呂波《クニノマホロバ》、多々那豆久《タヽナヅク》、阿袁加岐夜麻《アヲカキヤマ》、碁母禮流《ゴモレル》、夜麻登志《ヤマトシ》、宇流波斯《ウルハシ》、とよみたまひ、又|石比賣《イハヒメノ》命の御哥に、袁陀弖夜麻夜麻登《ヲダテヤマヤマト》云々、とよみたまふ、此比賣命の御哥なるは、かの倭郷をのたまへるなれども、袁陀弖夜麻《ヲダテヤマ》といふは、一國の倭によれる枕詞にて、楯《タテ》を立並《タテナラ》べたる如くに、山のめぐれるをのたまへるなり、右の件《クダリ》の古言《フルコト》どもみな、此國は山の周廻《メグ》れる中にあることをいへるなれば、夜麻《ヤマ》の山なることは論なし、登《ト》には三つの考へあり、一つには、登《ト》は庭《ト》にて、山處《ヤマト》の意なるべし.處を登《ト》とのみいへるは、立處《タチド》伏處《フシド》寐處《ネド》竈處《カマド》井處《ヰド》祓處《ハラヒド》足處《アト》などの例のごとし、又止(ノ)字を古《フル》く登《ト》と訓《ヨ》むこと、書紀の私記に.古語(ニ)謂(テ)2居住(ヲ)1爲(ス)v止《トゝ》とあり、字書にも、居共住共注し、説文に處(ノ)字を止也と注し、玉篇に、處(ノ)字を居也と注したるなどをも思ふべし、二つには、登《ト》は都富《ツホ》の約《ツヾ》まりたるにて、山都富《ヤマツホ》なるべし、都《ツ》は例の之《ノ》に通ふ助辭《ヤスメコトバ》、富《ホ》は字は假字《カナ》にて、すべて物につゝまれこもりたる處をいへる古言なり、されば是又山のめぐれるよしをもて負《オ》へる名なり、そのよしを委《クハシ》くいはむには、應神天皇の、葛野を望坐《ミサケマシ》てよませたまへる大御哥に、知婆能《チバノ》、加豆怒袁美禮婆《カヅヌヲミレバ》、毛毛知陀流《モモチダル》、夜邇波母美由《ヤニハモミユ》、久爾能富母美由《クニノホモミユ》とあるは、葛野のあたりは、今の平安京《タヒラノミヤコ》の地《トコロ》なれば、山のめぐりてつゝみたる中に在て、山代《ヤマシロノ》國の奥區《オクドコロ》なるをもて、國の富《ホ》とのたまへるなり、さてこれに、かの倭建(ノ)命の御哥に、夜麻登波《ヤマトハ》、久爾能麻本呂波《クニノマホロバ》云々,阿袁加岐夜麻《アヲアカキヤマ》、碁母禮流《ゴモレル》、夜麻登《ヤマト》云々、とある御哥を合せて見べし、麻本呂波《マホロバ》の麻《マ》は眞《マ》、呂波《ロバ》は助辭にて、これも久爾能本《クニノホ》なり、又書紀には此御哥を、景行天皇の大御哥とし.麻本呂波《マホロバ》を、摩保邏摩《マホラマ》とありて、釋紀に私記(ニ)曰(ク)、師説(ニ)謂(ク)、鳥|之《ノ》和支乃之太乃毛乎《ワキノシタノケヲ》爲2保羅磨《ホラバト》1也、摩《マハ》謂(フ)2眞實(ヲ)1也、言《コヽロハ》腋羽乃古止久掩藏《ワキノハノゴトクオホヒカクセル》之國|也《ナリ》、案(スルニ)奥區|也《ナリ》、今(ノ)俗(ノ)謂(フハ)2保呂羽《ホロバト》1訛(リ)也《ナリ》云々、今案、大和(ノ)國(ハ)者奥區|之《ノ》由(シ)褒美也といへる、これも山の周廻《メグ》れる中につゝまれこもりたるよしなり、但し鳥腋弱乃古止久《トリノワキノハノゴトク》といへるは、いさゝかたがへるか、かの羽《ハ》に譬へてまほらまといふにはあらず、されど鳥の保羅羽《ホラバ》も、翅《ツバサ》の内につゝまれこもれる羽といふ意にて、羅は助辭なるべければ、保《ホ》といふ言の意は同じきなり、又古言に、ふゝまるほゝまる、又(300)ふほごもりなどいへるも、布《フ》と保《ホ》とは通ふ音《コヱ》にて、含《フク》まれこもれる意、また懷《フトコロ》も、今伊勢人などは即(チ)ほところともいひて、これも衣《コロモ》につゝまれこもれる所をいふ、中昔《ナカムカシ》の言に山ぶところといへるも、人の懷《フトコロ》にたとへたるにはあらず、ただ山にこもれる地《トコロ》といふ意なり、又書紀(ノ)神武(ノ)卷に此倭を、秀眞國《ホツマクニ》とほめたまへるよし見えたる、此|秀《ホ》も同じ意なるに、秀(ノ)字をしも書《カヽ》れたるは、上に引る古言どもにみな此國をば、山のめぐれるを以て美稱《ホメタヽ》へて、勝《スグ》れたる事にいへれば、おのづから此字の意にも相通ふなり、されど言の本の意は、浪秀《ナミノホ》などの秀《ホ》とは異《コト》なれば.此字の意にはあらず、然るを契冲などが、かの摩保邏摩《マホラマ》、又萬葉集の五の卷九の卷十八の卷などに、國之麻保良《クニノマホラ》とよめるなど、みな眞秀《マホ》の意なりとして、かの私記の説を、おほつかなしといへるは、中々に考への至らざるなり、かの萬葉の哥どもなるは、山のめぐれる意にもあらず、又|眞秀《マホ》の意にもあらず、たゞ國といへるまでにて、麻保良《マホラ》はいと輕《カロ》くて、意なきがごとく聞ゆめるは、上つ代よりいひなれたる言の、意の幾重《イクヘ》も轉《ウヅ》り變《カハ》れる物なるべし、又|眞原《マハラ》の意ぞといふ説も.かの應神天皇の大御哥に、富《ホ》とのみよませたまへるにかなはず、すべてかゝることは、そのもとをよく考へ明《アキ》らめて、末の轉《ウツ》れる方にはなづむまじきわざなるをや、三つには、登《ト》は、宇都《ウツ》の宇《ウ》を省《ハブ》き、都《ツ》を通はしいへるにて、山宇都《ヤマウツ》の國なるべし、かくてその宇郡《ウツ》は、うつほ無戸室《ウツムロ》などの宇都《ウツ》ならむかとも思へども、なほ内《ウチ》といふことなるべし、古(ヘ)に内を宇都《ウヅ》といへる例多し、其中に万葉の哥に.垣内《カキツ》とあるは、垣都《カキツ》とも書て、假字《カナ》に可伎郡《カキツ》とあると同じければ、然《シカ》訓《ヨム》べきことしるし、今(ノ)本にかきうちとよめるはわろし、さればこれ、内をうつといひ、その宇《ウ》を省《ハブ》けることをも兼たる例なり、さて今(ノ)世に、垣内と書て加伊登《カイト》と唱ふる地(ノ)名、ここかしこにあるは、加伎都カキツ》の轉《ウツ》れるにて、字は本のまゝに書(キ)傳へたるものなり、これ又|宇郡《ウツ》の都《ツ》を登《ト》ともいふべき例なり、なほ都《ツ》と登《ト》と通ふ例もつね多き中に、上に引る應神天皇の大御哥には、葛野を加豆怒《カヅヌ》とよみたまへるに、和名抄などには加止乃《カドノ》と見え、參河(ノ)國の郷(ノ)名の磯泊《シハヅ》を、和名抄には之波止《シハド》としるし、萬葉に高圓《タカマト》を高松ともおほく書るなどは、ことに(301)近《チカ》し、さてかの青墻山《アヲガキヤマ》ごもれるとあると、玉墻内國《タマガキノウツクニ》とあるとを思ひ合せて、山内國《ヤマウツノクニ》と名づくべきことをさとるべし、玉墻内國《タマガキノウツクニ》とは、玉墻を造りめぐらしたらむ如くに、山の周《メグ》れる内なる國といふ意なればなり、上件《カムノクダリ》師の山門《ヤマト》の説と、己が此(ノ)三つの考へとのうち、見む人心のよらむかたをとりてよ、此國の名には、古へよりとり/”\の説どもあれども、みなよろしからず、一つ二つ論《アゲツラ》はゞ、まづ書紀(ノ)私記に、天地|剖判《ワカレテ》、泥海|未《・ス》(タ)v乾(カ)、是(ヲ)以(テ)栖(テ)v山(ニ)往來(ス)、因(テ)多(シ)2蹤跡1、故(ニ)曰2山跡《ヤマトヽ》1、山謂(ヒ)2之(ヲ)耶麻《ヤマト》1、跡謂(フ)2之(ヲ)止《トヽ》1、又古語(ニ)謂(テ)2居住(ヲ)1爲(ス)v止《トヽ》1、言《コヽロハ》止2住(スルナリ)於山(ニ)1也といへるは、もとより天(ノ)下の大號《オホナ》と見ていへる説なれば誤(リ)なり、また泥濕未(タ)v乾(カ)などいへるみな、ふるくより山跡と書《カキ》ならへる文《モ》字につきて、おしはかりに設《マウ》けたる妄説《ミダリゴト》なり、泥濕の乾《カワカ》ざりし事も、山に住《スミ》し事も、古書に見えたることなし、書紀(ノ)神代(ノ)卷に、古(ヘ)國稚地稚《クニワカクツチワカクシテ》などいへる事はあれども、これは國も人もいまだ出來《イデコ》ぬさきの事なれば、山に佳《スム》などいふべき時にはあらずかし、然るを契冲が、此名をもと一國の名と見て、和州にかぎりて泥濕のかわかざるべきにあらずといひて、此私記の説を取《トラ》ざりしは、さる事なるに、なほ山跡の字になづみて、和州は四面みな山なれば.往來の跡《アト》山におほかるべしといひて、萬葉集におほく山跡と書るなどを證《シルシ》に引るは、ひがことなり、山に往來の跡のおほからむからに、國の名に負《オフ》べくもあらず、もし山に住《スム》とならば、猶さもいふべけれど.その説をとらざるうへは、跡《ト》の意はいはれず、すべて古(ヘ)は字《モジ》の義《コヽロ》にはかゝはらず、訓《ヨミ》の通へば、いづれにまれ借《カリ》て書る例おほかる中に、地(ノ)名などはことに借字《カリモジ》のおほかるを、契冲などは、猶|文字《モジ》になづみ世間《ヨ》のくせのうせざりしぞかし、さて又萬葉考の、かの倭(ノ)郷を名の本とせられたる説に、大坂門《オホサカド》木門《キド》などの如く、上つ代に此郷より東《ヒムカシ》へ越る山門《ヤマト》有て名づけつらむ、といはれつるは、從《シタガ》ひがたし。其故は、大和(ノ)國こそまことに四方みな山門《ヤマト》より出入れば、其説いはれたれ、かの郷のあたりは、然《シカ》いふべき地《トロ甘》のさまにもあらず、又さる古き證《シルシ》もなくして、たゞ上つ代に東へこゆる山門ありて名づけつらむとは、みだりなればなり、おしてかくいはゞ、山近き地は、何處《イヅク》にても然いはるべし、そのう(302)へかの郷の名を本とするは、いかゞなること、上に委くいへるが如くなるをや、又或人の説に、大和は伊駒山の東南なる國なれば、山外《ヤマト》の意なり.かの山の北なる國を山背《ヤマシロ》といふにてしるべし、といへるもわろし、東南を外《ト》といふべき由なく、山背《ヤマシロ》てふ國(ノ)名も、伊駒山によれるにはあらず.かれは大和を主《ムネ》として、その北の方の山の後《ウシロ》なるよしなり、されば山背に對《ムカ》へては、倭は山内《ヤマウチ》とこそいふぺけれ、外《ト》とはいかでかいはむ、そのうへ外《ト》といひては、かの青垣山《アヲカキヤマ》ごもれるなどおほくある古證どもにもそむけり、又倭は、北なる奈良坂《ナラザカ》の方のみ山|低《ヒキ》くして開《ヒラ》けたるをもて、山門《ヤマトノ》國といふ、といへるも心得ず、かの師の考への如く、四方みな山門より出(テ)入(ラ)むにこそさは名づくべけれ、その中に一かた山|低《ヒキ》きにつきて山門《ヤマト》といはむは、似たる事ながらいたく違《タガ》へる物をや、又或説に、伊弉諾《イザナギ》伊弉冉《イザナミノ》尊の大八洲《オホヤシマ》を生《ウミ》ます時に、始めに大日本豐秋津洲《オホヤマトトヨアキヅシマ》を生坐《ウミマセ》る故に、やまとは八洲本《ヤシマモト》といふ意の一名なりといふは、七洲《ナヽシマ》を除《ノゾ》きての大號《オホナ》につきていへるなれば、かなはず、そのうへ八洲を生《ウミ》ませる次第《ツイデ》も、古事記には、大倭は終《ヲハ》りなるをや.又契冲が説に、釋名に山(ハ)産(ナリ)也、産2生(スルナリ)萬物(ヲ)1也といへるを引て、嘉號なる故に天(ノ)下の惣名に用ひらるゝよしいへるは、古(ヘ)の意にあらず、後に萬の事學問ざたになりての世にこそ、諸國《クニ/”\ノ》郡郷(ノ)名など.好字《ヨキモジ》を着《ツケ》よ嘉名《ヨキナ》を取《ト》れなどいふことも有りつれ、夜麻登《ヤマト》といふが天の下の大號《オホナ》になれるは、上つ代よりのことなれば、さるさだあるべくもあらぬをや、
秋津嶋《アキヅシマ》は、古事記に、大倭帶日子國押人命《オホヤマトタラシヒコクニオシビトノミコト》、坐《マシ/\テ》2葛城室之秋津嶋宮《カヅラキノムロノアキヅシマノミヤニ》1治《シロシメシキ》2天(ノ)下1也と見え、書紀にも此御卷に、二年冬十月遷(ス)2都(ヲ)於|室地《ムロノトコロニ》1、是(ヲ)謂(フ)2秋津嶋(ノ)宮(ト)1と有て、もと此孝安天皇の都の地名《トコロノナ》なり、かの神武天皇の、猶2如《ゴトシ》蜻蛉之臀※[口+占]《トナメセルガ》1と詔《ノタマ》へりしは、即(チ)此地のことにて、かの大詔《オホミコト》より起《オコ》れる名なり、腋上《ワキノカミ》も※[口+兼]間丘《ホヽマノヲカ》も室《ムロ》も.みな相近きところにて、大和(ノ)國|葛上《カヅラキノカミノ》郡なり、さて孝安天皇の百餘年《モヽトセアマリ》久しく敷坐《シキマセ》りし京師《ミヤコ》の名なるから、秒津嶋倭《アキヅシマヤマト》とつゞけていひならひ、その倭に引れて、つひに天の下の大名《オホナ》にもなれることは.師木嶋《シキシマ》と全《モハラ》同じ例なり、次に委くいふを合せ見べし、然るにかの神武天(303)皇の國|状《ガタ》を御覧《ミソナハ》して.蜻蛉の臀※[口+占]《トナメ》せるが如しとのたまへるを、或《アル》は天の下のことゝし、或は大和一國の事とするから、此秋津嶋てふ名をも、然《シカ》心得《コヽロウ》めれども、然にはあらず、國状とあるにつきては、なほ疑ふ人もありぬぺけれど、古(ヘ)は後に郡郷などになれるほどの地《トコロ》をも某國《ソノクニ》といへる、常のことなれば、なにごとかあらむ、さて雄畧天皇の吉野に幸行《イデマシ》し時に、虻《アム》の御腕《ミタコムラ》を咋《クヒ》たるに、蜻蛉《アキヅ》飛來《トビキ》て、その虻《アム》を咋《クヒ》ける時の大御哥に、手《タ》こむらに、虻《アム》かきつき、其あむを、阿岐豆《アキヅ》はやくひ、かくのごと、名《ナ》に負《オハ》むと、そらみつ、倭《ヤマト》の國を、阿岐豆嶋《アキヅシマ》と云(フ)、とよませたまひ、それより其地《ソコ》を阿岐豆野と名づけられし事、古事記に見えたり、此御哥の意は、古(ヘ)より此倭(ノ)國を秋津嶋といふことは、今かくの如く、其名に負《オヒ》て蜻蛉《アキヅ》が功《イサヲ》あらむとてなり、とよみなしたまへるなれば、秋津嶋の事にはあづからず、然るを書紀には、此御哥の詞、はふ虫も、大君に、まつらふ、汝《ナ》がかたは置《オカ》む、秋津嶋倭《アキヅシマヤマト》とあり、是はすなはち汝が名におへる此秋津嶋倭(ノ)國に、形《カタ》をのこしおきて、此地《コヽ》を蜻蛉野《アキヅヌ》と名づけむ、とのたまふ意なるべし、されどこはよくせずば、此時の蜻蛉の功《イサヲ》によりて、國(ノ)名を秋津嶋と名づけたまへるごと聞えて、まぎれぬべし、さてまた秋津の津は、古事記書紀萬葉など古書《フルキフミ》にあまた出たる、假字《カナ》には皆|阿岐豆《アキヅ》と、濁音《ニゴルコヱ》の豆《ヅ》をのみ書て、清音《スムコヱ》の假字書るは一つもなし、後(ノ)世に清《スミ》てよむは訛《アヤマワ》なり、虫の名も同じ、又この嶋を洲《シマ》とも書るにつきて、阿岐豆須《アキヅス》ともいふは、ことにひがことなり、洲(ノ)字は須に用るはつねのことなれども、秋津洲《アキヅシマ》のとき然いふことは、例もなくことわりもかなはぬことなるをや、さて又海なき地《トコロ》に嶋といふ名のあることは、志麻《シマ》とは、もとは必しも海の中ならねども、山川などにまれ、周《メグ》れる界限《カギリ》のある地《トコロ》をいふ名なること、始にいへるが如くなれば、此秋津嶋なども.山のめぐれるをもていふなり、蜻蛉《アキヅ》の臀※[口+占]《トナメ》せるが如しとのたまへるも、青山《アヲヤマ》のめぐれるさまなるを思ふべし、またそのあたりを室《ムロ》といひしも、さる由にてつけたる名にやあらむ、猶|他《ホカ》にも例多し、書紀に、越《コシノ》國を大八洲の一つにとりて、越洲《コシノシマ》といへるも、海は隔《ヘダ》たらねども、彼(ノ)國は、いづくよりも山を隔《ヘダ》てゝ、別《コト》に一區《ヒトヅボ》なるが如くなればなるべく、筑紫の(304)宇佐を宇佐(ノ)嶋とあるも、山川などのめぐりて、一區の地なる故なり、又應神天皇の都は.大和(ノ)國高市(ノ)郡の輕《カル》といふ所なるを、輕嶋《カルシマ》といひ、欽明大皇の都は、師木《シキ》といふ所なるを、師木嶋《シキシマ》といへるなども皆同じ、此(ノ)餘《ホカ》にも海なき國々に、某嶋《ナニシマ》といふ地(ノ)名のおほかる、多くは此例にてぞつけつらむ、その中には、かならずいちじるき界限《サカヒ》はなき地《トコロ》をも、ことさらに一區《ヒトツボ》としめ定めて、名づけたるも有ぬべし、それもなづくる意は同じ事なりかし、
師木嶋《シキシマ》は、古事記に、天國押波流岐廣庭命者《アメクニオシハルキヒロニハノミコトハ》、坐《マシ/\テ》2師木嶋大宮《シキシマノホミヤニ》1治《シロシメシキ》2天(ノ)下1也と見え、書紀にも此御代の卷に、元年秋七月内子(ノ)朔己丑、遷(シタマフ)2都(ヲ)倭(ノ)國(ノ)磯城《シキノ》郡|磯城嶋《シキシマニ》1、仍《カレ》號2爲《イフ》磯城嶋金刺宮《シキシマノカナサシノミヤト》1と有て、もと此欽明天皇の都の地名《トコロノナ》なるを、萬葉集の哥どもに、しきしまのやまとの國とよめり、抑かくのごとくしきしまのやまとゝつゞけいへる意は、もとは大和一國をさしてにはあらず、京師《ミヤコ》をさしてやまとゝはいへるにて、しきしまの都《ミヤコ》といはむが如し、かの萬葉の哥に、やまとには、鳴てか來《ク》らむ、よぶこ鳥、とよめるやまとも.殊に京師《ミヤコ》をさしていへると同じ、又かの秋津嶋倭とつゞけいふも、もはら同じくて、本は秋津嶋の京《ミヤコ》といはむがごとし、さればその秋津しまも師木嶋も、共にみな京の名をいへるにて、國の名にはあらず、これらもし一國のことならば、倭の秋津嶋、倭のしきしまといはではことわりかなはず、さて本はいづれも右のごとく、京師《ミヤコ》をいへるなれども、かくつゞけなれては、やがて一國の倭にも轉《ウツ》して、秋津嶋やまとの國とも、しきしまの倭の國ともよめるは、枕詞のごとくにもなれるなり、さてまた轉《ウツ》りて、萬葉十九(ノ)卷に、立わかれ、君がいまさば、しき嶋の、人はわれじゝ、いはひてまたむとよめるは、大和(ノ)國をやがてしき嶋といへるなり、こはかの奈良《ナラ》を青によし、難波《ナニハ》をおしてるとのみいへるに似たり、さてまた倭にひかれて、つひに天の下の大號の如くになれることも、秋津嶋ともはら同じ、又哥の道をしきしまの道といふは、大號より出て、又|轉《ウツ》れるものなり、さて此|師木嶋《シキシマ》てふ名の起《オコ》りをとくに、崇神天皇と欽明天皇と二御代《フタミヨ》の都を兼ていふは誤(リ)なり、其故は、すべてかゝることに、古(ヘ)を考へ合せていふは、物しり人の(305)うへのわざにこそ有れ、世間《ヨノナカ》のなべての人は、たゞ何となく、さしあたりたる事よりこそはいひ出る物なれ、古(ヘ)を思ひていふものにはあらず、されば京《ミヤコ》をしき嶋といふも、たゞ欽明天皇の御時にいひならへる、當時《ソノトキ》の京の名を、他京《コトミヤコ》にうつりて後も猶云(ヘ)るが、おのづからなべての京の稱《ナ》のごとなれるなり、たとへば、もろこしにも唐《タウ》といへるが、後々の代までかの國の名になれる、それもたゞ李姓《リウヂ》の唐よりいひならへるにこそあれ、古(ヘ)の唐堯の唐をもかねていふにはあらざるがごとく.これも古(ヘ)の崇神天皇の京までを思ひていひならへるにはあらず、もしまたはやく崇神天皇の都よりいひ出たりとならば、後の欽明天皇の都までを待《マツ》べきにあらずかし、
又かの伊邪那岐(ノ)命の詔《ノタマ》へりし稱辭《タヽヘコト》どもの意、浦安國は、上にいへるが如し、細曳千足國《クハシボコチダルクニ》とは、細曳は知《チ》の枕詞にて、細は戈をほめたる詞なれば、久波斯《クハシ》と訓べし、知《チ》とつゞく意は、玉矛《タマボコ》の道といふと同じ、道も美《ミ》は御《ミ》にて、添《ソヘ》たる言なれば、枕詞はかならず知《チ》へ係《カヽ》れり、さるは古(ヘ)戈《ホコ》の柄に、知《チ》といふ處の有しなるべし、凡て手に取て引擧《ヒキアク》べき料に付《ツケ》たる物を、知《チ》と云例多し、今も幕などに乳《チ》と云ものこれなり、されば戈にても、取(リ)持(ツ)ところを然《サ》はいへるなるべし、さて枕詞よりつづきたる意は、此|知《チ》てふ言のうへのみにて、千足《チダル》の意は別《コト》なり、そは上に引る應神天皇の大御哥に、毛々知陀流《モヽチダル》、夜邇波母美由《ヤニハモミユ》とある、知陀流《チダル》これなり、此事は古事記傳に委くいへれば、こゝにははぶきつ、磯輪上秀眞國《シワノボルホツマクニ》は、磯輪上《シワノボル》は、これも枕詞とは聞えたれども、いかにいへるにか、いと心得がたし、されど強《シヒ》ていはゞ、磯輪《シワ》は皺《シワ》にて、波《ナミ》をいへるか、古今集なる壬生(ノ)忠峯が長哥に.立浪の、浪の皺《シワ》にや、おほゝれむとよめるも、もしくはもとより、浪を皺ともいへる事の有し故にや、と思はるればなり、もしさもあらば、上《ノボル》は浪の立のぼるなり、かくいふこゝろは、浪のたつを波《ナミ》の秀《ホ》といへること、書紀万葉などに見えたれば、波立のぼる秀《ホ》といふ意につゞきたるなるべし、故《カレ》上をもしばらく能煩流《ノボル》とは訓つ、されどこはこゝろみにいへるばかりなり、なほよく考ふべし、さてこれも、枕詞よりつゞきたる意は、右の如くにて、秀眞(306)國《ホツマクニ》の意は然らず、その秀《ホ》の意は上にいへり、かくて此三つは、たゞ畿内の大和(ノ)國をほめて、かくのたまへるのみにて、まさしき國(ノ)名にはあらず、故《カレ》書紀に目(テ)v之(ヲ)と書《カヽ》れたり、さればいふまでもあらず天の下の大號《オホナ》にもあらねども、倭のちなみにいさゝかこゝには擧《アゲ》つるなり、
 
    倭の字
 
倭の字は、もともろこしの國よりつけたる名にて、その始めて見えたるは、前漢書(ノ)地理志に、東夷(ハ)天性柔順(ニシテ)、異(ナリ)2於三方|之《ノ》外(ニ)1、故(ニ)孔子悼(テ)2道(ノ)不(ルヲ)1v行(ハレ)、設(テ)2桴(ヲ)於海(ニ)1、欲(ス)v居(ムト)2九夷(ニ)1、有(ル)v以《ユヱ》也夫《カナ》、樂浪(ノ)海中(ニ)有(リ)2倭人1、分(テ)爲(ス)2百餘國(ト)1、以(テ)2歳時(ヲ)1來(テ)献見(ス)云、といへる是なり、その後の書どもにも、みなかく倭人といひ、又はぶきて倭とのみもいへり、さて倭とは、いかなる意にて名づけつるにか、その由はさだかに見えたる事はなけれども、かの漢書に、東夷天性柔順と書《カキ》出して、有(リ)2倭人1とつらねいへるを思へば、班固が意は、説文に、此倭(ノ)字の本義《モトノコヽロ》を、順(ナル)貌と注したると同じくて、柔順なる故に倭人とはいふと心得たるごとく聞ゆめり、されどそれも字につきてのおしはかりなるべし、また皇國の舊説《フルキコト》に、此(ノ)國|之《ノ》人、昔到(ル)2彼(ノ)國(ニ)1、唐人問(テ)云(ク)、汝(カ)國|之《ノ》名稱|如何《イカニ》 自(ラ)指(テ)2東方(ヲ)1答(テ)云(ク)、和奴國邪云々《ワヌクニヤトイヘリ》、和奴《ワヌハ》猶(シ)v言(ムカ)v我(ト)也、自(リ)v其(レ)後謂2之|和奴《ワヌ》國(ト)1也、と釋日本紀元々集などに載《ノセ》られたれども、これも信《ウケ》がたき説なり、そのゆゑは、まづ倭奴國《ワヌコク》といふ名は、後漢書にはじめて見えて、倭國|之《ノ》極南界|也《ナリ》とあれば、皇國の内の南の方の一國の名なるを、唐書などにこゝろえあやまりて、皇國の舊《モト》の大號《オホナ》のごとく書るを、そのゝちみな此誤りを傳《ツタ》へて、かしこにてもこゝにても、たゞさる事とのみ思ひ居《ヲ》るは、いみしきひがことなり、この事おのれ馭戎慨言につばらかに辨《ワキマ》へ論《アゲツラ》へり、されば倭奴《ワヌ》は、もとより國(ノ)名にまれ、又我といふ意にて答《コタ》へたるにまれ、皇國の内の一國の名なれば、これをもて大號《オホナ》の倭てふ意を説《トク》べきにあらず、又或説に、倭奴國を唐《モロコシノ》國の音《コヱ》にていへば、於能許《オノコ》にて、※[石+殷]馭廬嶋《オノコロシマ》といふ事なり、といへるもひがことなり、※[石+殷]馭廬嶋《オノゴロシマ》は、大八洲より先《サキ》には出來つれども、淡路《アハヂ》嶋のほ(307)とりにある一つの小嶋の名にこそあれ、神代より天の下の大|號《ナ》にいへることさらになし、然れば皇國人《ミクニビト》のいはぬ名を、外國《トツクニ》の人の知《シリ》て名づくべき由あらめやは.此説はもと、近き世に神道者といふものゝ、此おのごろ嶋を、皇國の本號《モトノナ》のごと説《トキ》なせるによりていへるなり、また倭奴國といふはおのころ嶋、おのころ嶋は丈夫《ヲノコ》鳴といふ意なりといふ説は、殊にあたらぬ事なり、こは於《オ》と袁《ヲ》と音《コヱ》の異《コト》なるをだにえしらぬみだりごとぞかし、
夜麻登《ヤマト》といふに、やがて此倭の字をあてゝ書(ク)事は、いと/\古(ヘ)よりのことゝ見えたり、古事記にもみな此字をかき、又書紀にも、日本と書て夜麻登と訓《ヨム》事は、神代卷に、此(レヲ)云(フ)2耶麻騰《ヤマトヽ》1と註あれども、倭の字を書るにはかゝる註もなければ、世にあまねく用ひならへることしられたり、すべて文字は、萬の物の名も何《ナニ》ももろこしの國のを借《カリ》用(フ)る例なれば、これもかの國より名づけて書る字を、そのまゝに用ひむ事、さもあるべきわざなり、然るを此字|嘉《ヨキ》號《ナ》にあらず、といひて嫌ふ人あれども、字の意はいかにもあれ、皇大御國《スメラオホミクニ》の號《ナ》となりては、すなはち嘉《ヨキ》號《ナ》なるをや、さて此倭の字、もろこしより名づけたるは、大號《オホナ》のみにて、畿内《ウチツクニ》のやまとをば、皇國人のいへるを聞てかけりとおぼしくて、後漢書魏志などに耶馬臺《ヤマト》、隋書北史などにも耶摩堆《ヤマト》といへり、然れども皇國にては、畿内のにも通《カヨ》はして、みな倭の字を用ひたり、
 
    和の宇
 
和といふは、皇國にて後に改められたる字なり、さる故に、異國《アダシクニ》の書に、大號《オホナ》に此字を書ることさらになし、思ふにこれは、古(ヘ)より倭の字を用ひ來《キ》つれども、もと異國《アダシクニ》よりつけたる名にして、美《ヨキ》字《モジ》にもあらずとしてぞ、同音《オナジコヱ》の好《ヨキ》字《モヅ》をえらびて、改められたりけむ、さるは古へはたゞ、夜麻登《ヤマト》といふ名をのみむねとはして、文字はいかにまれ、假《カリ》の物なれば、よきあしきさだにも及ばず、あるまゝに倭の字を用ひ來《キ》にしを、やゝ後には、文字の好惡《ヨキアシ》きをもえらばるゝ事になれりしなりけり、さて此和の字の事、上に引る漢書の文、又|順《ナル》貌と注せるなどに、和順などゝもつゞくを合せておもへば、倭と字(308)義《モジノコヽロ》遠《トホ》からず、また書紀の繼體天皇(ノ)御卷の詔詞《オホミコトノコトバ》に、日本※[災の上半/邑]々《ヤマトヤハラギテ》名擅(ニ)2天(ノ)下(ニ)1云々とある、※[災の上半/邑]は※[※[災の上半/邑]+隹]と通ひて、詩の大雅に※[※[災の上半/邑]+隹]々といふ註に、鳳凰鳴之和也とも、和之至也ともいへる、又聖徳(ノ)太子《ミコノミコト》の憲法《ミノリ》の首《ハジメ》に、以(テ)v和(ヲ)爲(ス)v貴(ト)とある、又もろこしにて雍州といふは、もと王都の國の名なる故に、皇國にても後(ノ)世にこれにならひて、山城(ノ)國を雍州といふ、此雍(ノ)字も※[※[災の上半/邑]+隹]と通ひて、和也といふ註ある、これらみな由《ヨシ》あれば、いづれにまれその義《コヽロ》を取《トラ》れたるかとも思はるれど、それまでもあるべからず、すべての事後に考ふれば、おのづから由ある事どもは、くさ/”\いでくる物なり、また子華子てふ書には、太和之國といふこともあれども、これらはさらに由なし、
倭を、この和の字に改められつるは、いづれの御代にかと考(フ)るに、齋部《イミベノ》正通の神代(ノ)卷(ノ)口决に、天平勝寶(ニ)改(メテ)爲(ス)2大和(ト)1と見え、拾芥抄にも、天平勝寶年月日改(メテ)爲(ス)2大和(ト)1とあり、これらは後(ノ)世の書なれども、よりどころありげに聞ゆる故に、なほ古書どもを考へ見るに、まづ古事記はさらにもいはず、書紀にも和の字にかけることは見えず、續紀に至りて、はじめて此字にかけること見えたり、これによりて、かの天平勝寶とあるが、妄《ミダリ》にもあらざることをかつ/”\しりぬ、されども然《シカ》改められたることはしるされず、故《カレ》なほ委《クハシ》く彼紀を考ふるに、はじめのほどは倭の字をのみ書て、そのあひだには、和の字に書るは一つも見えず、元明天皇の御代、和銅六年五月の大命《オホミコト》に、畿内七道諸國郡郷(ノ)名|着《ツケヨ》2好字《ヨキモジヲ》1、とあれども、これは改(マ)らずと見えて、其後も猶もとのまゝに倭(ノ)字なり、さて聖武夫皇の御代、天平九年十二月丙寅、改(メテ)2大倭(ノ)國(ヲ)1爲(ス)2大養徳《オホヤマト》國(ト)1、同十九年三月辛卯、改(メ)2大養徳(ノ)國(ヲ)1依(テ)v舊(ニ)爲(ス)2大倭(ノ)國(ト)1とあれば、此時もなほ倭の字なりしことしられたり、其後も孝謙天皇の天平勝寶四年十一月乙己(ノ)日の下《トコロ》に、以2從四位上藤原(ノ)朝臣永手(ヲ)1爲(ス)2大倭守(ト)1とあるまでは、みな倭(ノ)字にて、その後天平寶字二年二月己巳(ノ)日の勅《オホミコト》に、はじめて大和(ノ)國と見えたる、これより後は、又みな和の字をのみかゝれたり、これにてまづ、勝寶四年十一月より、寶字二年二月までの間《アヒダ》に改められたりとはしられたり、それも何となく和の一字を書出せるに(309)はあるべからず、かの養徳と改められし時の例を思へば、此和の字も、かならず詔命《オホミコト》にて着《ツケ》られたりけむを、紀にはその事しるし漏《モラ》されたるなるべし、類聚國史などにも見えざれば、後に寫し脱《オト》せるにはあらじ、さて又萬葉集を考ふるに、十八の卷までには、哥にも詞にも、和の字を書る所はなくして、十九の卷、天平勝寶四年十一月二十五日、新嘗會(ノ)肆宴(ニ)、應v詔(ニ)和歌六首の中に、右一首大和(ノ)國(ノ)守藤原(ノ)永手(ノ)朝臣とある、これ和の字を書る始めなり、又二十(ノ)卷に、先太上天皇詔(シテ)2陪從(ノ)王臣(ニ)1曰(ク)、夫(レ)諸(ノ)王卿|等《ラ》宜(シ)d和歌(ヲ)1而奏(ス)u云々、右天平勝寶五年五月云々とある、これに始めて和歌とも書り、そも/\かの永手(ノ)朝臣を大倭(ノ)守とせられしは、上に引る紀の文のごとく、勝寶四年十一月乙己(ノ)日にて、乙己は二日なるに、そこに猶倭の字をかけると、此万葉に、その同月の二十五日の事に、和の字を書るとを引合せておもへば、まことに天平勝寶四年十一月の、三日より二十四日までのあひだに改められたるなりけり、さて又大倭(ノ)宿禰といふ姓《ウヂ》は、かの養徳《ヤマト》と改められし時も、その字にしたがひて、大養徳(ノ)宿禰とかゝれたれば、和の字に改まりたる時も、それにしたがふべきわざなるに、寶字元年六月の所までも、なほ倭(ノ)字をかきて、同年十二月の文より、始めて大和(ノ)宿禰とあり、そのころは既に姓氏の文字なども、私に心にまかせてはかゝず、必おほやけより勅《ミコトノリ》有て、定められし事なれば、國(ノ)名の和の字に成(リ)しとき、此姓の字も、然改むべき勅あるべきに、其後しばしなほ舊《モト》のまゝに書しは、此姓の字改むべき勅は、寶字元年に至りて有(リ)しなるべし、さて寶字元年の所に、此姓を大和(ノ)宿禰と書るにて、國(ノ)名の方は、それよりさきに既に改まりつること、いよよいちじるし、すべて續紀には、はじめに倭の字なるほどは、みな倭の字をのみ書て、和と書ることなく、和の字に書(キ)始めて後は、又みな和の字のみにて、倭を書雜《カキマジ》へたることはなければ、改められつる年月も、おのづから右のごとくには考へしらるゝなりけり、然るを田令の中に、大和と書る所あり、又書紀(ノ)崇神(ノ)御卷にも、和と書る所一つあり、又續紀八の卷にも、二所大和國とかき、和琴ともかき、又萬菓集七の卷にも和琴とかける、これらはみな後に寫し誤れるものなり、(310)その前にも後にもいとおほかるやまとに、みな倭の字をのみ書る中に、いとまれ/\に一つ二つ和と書(ク)べき由なければなり、後(ノ)世には、心にまかせて通はし書く故に、たゞ同じことゝ心得居て、ふと寫したがへたるなるべし、又和銅てふ年號もあれども、此和はやまとの義《コヽロ》にはあらず、さて上件《カムノクダリ》續紀に出たるは、皆|畿内《ウチツクニ》の大和|一國《ヒトクニ》の名の字にて、天の下の大號《オホナ》のやまとのさだにはあらず、大號のには、書紀よりして、おほくは日本といふ字を用ひられたりし故に、そのさだには及ばざりしにや、和の字に改まりて後も、畿内の國(ノ)名ならぬには、なほ倭の字をも廢《ステ》ずして、すなはち續紀などにも、倭根子天皇《ヤマトネコスメラミコト》などゝかゝれ、その外にもおほく見えたり、しかはあれども、大號も本はかの一國の名よりおこれるに、その本を改められつるうへは、何事にもみな、和の字を用ひむをや宜《ヨロ》しとはいふべからむ、
 
    日本《ニホム》 比能母登《ヒノモト》といふ事をも附いふ
 
日本《ニホム》とは、もとより比能母登《ヒノモト》といふ號《ナ》の有しを書《カケ》る文字にはあらず、異國《アダシクニヘ》へ示《シメ》さむために、ことさらに建《タテ》られたる號なり、公式令(ノ)詔書式に、明神御宇大八洲天皇詔旨とあるをば、義解に、用(ル)2於朝廷(ノ)大事(ニ)1之辭|也《ナリ》といひ、明神御宇日本天皇詔旨とあるをば、以(テ)2大事(ヲ)1宣(ル)2於蕃國(ノ)使(ニ)1之辭|也《ナリ》、といへるをもて知《シル》べし、さて此號を建《タテ》られたるは、いづれの御代ぞといふに、まづ古事記に此號見えず、又書紀皇極天皇の御卷までに、夜麻登《ヤマト》といふに日本とかゝれたるは、後に此紀を撰ばれし時に、改められたる物にして、そのかみの文字にはあらざるを、孝徳天皇即位、大化元年秋七月丁卯(ノ)朔丙子、高麗百済新羅|並《ミナ》遣(シテ)v使(ヲ)進(ル)v調《ミツギヲ》云々、巨勢《コセノ》徳大(ノ)臣詔(テ)2於高麗(ノ)使(ニ)1曰(ク)、明神《アキツミカミト》御2宇《シロシメス》日本《ニホム》1天皇詔旨《スメラガオホミコトラマトノリタマフ》云々、又詔(テ)2於百済(ノ)使(ニ)1曰、明神御宇日本天皇詔旨云々と見えたる、これぞ新《アラタ》に日本《ニホム》といふ號を建《タテ》て、示《シメ》したまへるはじめなりける、故《カレ》さき/”\の詔のさまとは異《コト》になむありける、また同二年二月甲午(ノ)朔戊申、天皇幸(テ)2宮(ノ)東(ノ)門(ニ)1、使《シマタマハク》2蘇我《ソガノ》右(ノ)大臣《オホオミニ》詔《オホミコト》曰《ノラ》1、明神《アキツミカミト》御2宇《シロシメス》日本《ニホム》1倭根子天皇詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓《ヤマトネコスメラガオホミコトラマトウゴナハリハムベルマヘツギミタチオミムラジクニノミヤツコトモノミヤツコトアメノシタノオホミタカラニノリタマフ》云々、これは異國人《アダシクニビト》に示す詔にはあらざ(311)れども、此號を建られて、始めたる詔なるが故に、かく宣《ノリ》て、皇朝《スメラミカド》の人どもにも、新號《アタラシキナ》を示したまへるなり、もし然らざれば、日本倭根子と、倭《ヤマト》へ重《カサ》ねて宣《ノリ》たまへるは、やまと/\と、同じことのいたづらに重《カサ》なるにあらずや、かゝればこの日本《ニホム》といふ號は、孝徳天皇の御世、大化元年にはじめて建られたることいちじるし、然るを世々の識者《モノシリビト》ども、かの文をよく考へざる故に、何《イヅ》れの御代より始まりしとも、えしらざるなり、すべて此孝徳の御世には、年號《ミヨノナ》なども始まり、その外も新《アラタ》に定められつる事ども多かれば、此號の出來しも、いよゝ由有ておぼゆるなり、さてこれをもろこしの書どもと引合せて驗《コヽロム》るに、隋の代までは倭とのみいへるを、唐にいたりて、始めて日本といふことは見えたり、新唐書に、日本(ハ)古(ヘノ)奴國|也《ナリ》云々、咸享元年遣(ハシテ)v使(ヲ)賀(ス)v平(ルコトヲ)2高麗(ヲ)1、後|稍《ヤヽ》習(ヒ)2夏音(ヲ)1、惡(ミテ)2倭(ノ)名(ヲ)1更(ニ)號(ス)2日本(ト)1、使者自(ラ)言(フ)d國近(シ)2日(ノ)所(ニ)1v出(ル)以(テ)爲(スト)uv名(ト)、或(フ)云(フ)3日本(ハ)乃小國(ナリ)、爲(メニ)v倭(ノ)所(ル)v并(セ)、故(ニ)冒(スト)2其號(ヲ)1、使者不v以(テセ)v情《マコトヲ》故(ニ)疑(ハシ)焉といへり、舊唐書には、倭と日本とを別《コト》に擧《アゲ》て、日本國(ハ)者倭國|之《ノ》別種(ナリ)也、以(テ)3其國在(ルヲ)2日(ノ)邊(ニ)1故(ニ)以(テ)2日本(ヲ)1爲(ス)v名(ト)、或(ハ)曰(フ)d倭國自(ラ)惡(テ)2其(ノ)名(ノ)不(ルヲ)1v雅(ナラ)、攻(テ)爲(スト)c日本(ト)u、或(ハ)曰(フ)3日本(ハ)舊《モトハ》小國(ナリ)、併(スト)2倭國(ノ)之地(ヲ)1といへり、これらを見るに、此|號《ナ》の出來ていまだいくほどもあらざりしころなる故に、彼(ノ)國にては、いまださだかには知らざりしなり、大化元年は、唐(ノ)太宗が世、貞觀十九年にあたれるを、かの咸亨元年は、その子高宗が世にて、天智天皇の九年にあたれば、廿五年後なり、その間《アヒダ》にも往來《ユキヽ》は有りつれども、なほかの國へは、もとのまゝにて御言《ミコト》は通《カヨ》はされて、日本といふ新號《アタラシキナ》の建《タチ》しことは、たゞ此方《コヽ》の人のわたくしに語《カタ》れるなどを、かつ/”\聞るばかりにぞ有けむ、さて後文武天皇の御代に、粟田(ノ)朝臣|眞人《マビト》を大御使につかはしゝをりよりぞ、かの國へも正《マサ》しく日本とはなのられける、此朝臣かしこにまかり着《ツキ》たりし時に、いづれの國の御使ぞととはれて、日本國の使なりと名のりしこと、續紀に見え、又かの舊唐書にもさき/”\の往來《ユキヽ》のことをば、みな倭國といふ方にしるして、日本國といふ方には、此|眞人《マビトノ》朝臣のまかりけるを始めとしてしるしたり、此時かの國は武后が世なりき、故《カレ》或説に此號を、唐(ノ)武后が時にかの國よりつけたるごとくにいへる(312)は、ひが事ながら此由なり、さて又三韓の一使には、大化元年にすなはち宣《ノリ》知らせたまひしこと、上に書紀を引ていへるがごとくなるを、その國の東國通鑑といふ書に、新羅の文武王十年のところに、倭國更(メテ)號(ス)2日本(ト)1、自(ラ)言(フ)d近(シ)2日(ノ)所(ニ)1v出(ル)以(テ)爲(スト)uv名(ト)、といへるは、唐の咸亨元年にあたりて、年も文も同じければ、かの唐書をとりて書たる物にて、論にたらず、すべて東國通鑑は、かくさまのうけがたき事のみぞおほかる、
日本としもつけたまへる號《ナ》の意は、萬(ノ)國を御照《ミテラ》しまします、日の大御神の生《アレ》ませる御國といふ意か、又は西蕃諸國《ニシノモロ/\ノミヤツコグニ》より、日の出る方にあたれる意か、此二つの中に、はじめのは殊にことわりにかなへれども、そのかみのすべての趣を思ふになほ後の意にてぞ名づけられたりけむ、かの推古天皇の御世に、日出處(ノ)天子とのたまひつかはしゝと同じこゝろばへなり、
夜麻登《ヤマト》といふに、日本といふもじを用ることは、書紀よりはじまれり、そはいまだ例なき事にて、世(ノ)人のまどふべき故に、神代(ノ)卷に、日本此(レヲ)云(フ)2耶麻騰《ヤマトヽ》1、下皆|效《ナラヘ》v此(ニ)、といふ訓注はあるなり、古事記は、大化の年よりはるかに後に出來つれども、すべての文字も何も、ふるく書(キ)傳へたるまゝにしるされて、夜麻登《ヤマト》にもみな倭(ノ)字をのみかきて、日本とかゝれたる所はひとつもなきを、書紀は、漢文をかざり、字をえらびてかゝれたる故に、あらたに此|嘉號《ヨキナ》をあてゝかゝれたるなり、但し畿内の一國のやまとには、おほく倭とかき、天の下の大號のには日本とかき、又一國の名の時も、おほやけにかゝれるをば日本とかゝれて、紀中《ヒトフミ》おほかた此例なり、人(ノ)名も此こゝろばへにて、天皇の大御《オホミ》には日本、さらぬ人のには倭とかゝれたり、神日本磐余彦《カムヤマトイワレビコノ》天皇|倭姫《ヤマトヒメノ》命などのごとし、日本武《ヤマトタケノ》尊は、天皇の大御父《オホミチヽ》に坐て、よろづ天皇とひとしきゆゑに、日本とはかゝれつるなり、
比能母登《ヒノモト》といふ號《ナ》は、古(ヘ)の書に見えず、日本《ニホム》といふは、意はその意なれども、もと異國《アダシクニ》へしめさむために設《マウ》けたまへる(313)なれば、ひのもとゝはよまず、始めより爾富牟《ニホム》牟と字音《モジゴヱ》にぞいひけむ、萬葉集に日本之とあるを、ひのもとのと訓《ヨメ》るところ多かるは、後(ノ)人の、しひて五言《イツコヱ》によまむためのひがことにて、皆|四言《ヨコヱ》にやまとのとよむべきなり、たゞ三の卷なる不盡《フジノ》山の長哥に、日本之《ヒノモトノ》、山跡國乃《ヤマトノクニノ》云々と1あると、續後紀十九(ノ)卷興福寺の僧《ホウシ》の長哥に、日本乃《ヒノモトノ》、野馬臺乃國遠《ヤマトノクニヲ》云々、また日本乃《ヒノモトノ》、倭之國波《ヤマトノクニハ》云々、などゝある、これらのみはひのもとのなり、されどこは國號《クニノナ》にいへるにはあらず、倭《ヤマト》といはむ枕詞なり、それにつきて、おのれいまだわかゝりし程に思へりしは、やまとを日本と書(ク)故に、その字のうちまかせたる訓《ヨミ》を、やがて枕詞におけるにて、春日《ハルヒ》の春日《カスガ》、飛鳥《トブトリ》の飛鳥《アスカ》、などゝ同じ例なりと思へりしは、あらざりき、まづ春日《ハルヒ》のかすがとは、春の日影のかすむといふ意につゞけ、飛鳥《トブトリ》のあすかとは、書紀に、天武天皇の十五年、改(メテ)v元(ヲ)曰(ヒ)2朱鳥《アカミトリノ》元(ノ)年(ト)1、仍(テ)名(ケテ)v(ヲ)宮曰(フト)2飛鳥淨御原宮《トブトリノキヨミバラノミヤト》1とある、これ朱鳥の祥瑞《シルシ》の出來つるをめでたまひて、年號《ミヨノナ》をも然《シカ》改めたまひ大宮の號をも、飛鳥《トブトリノ》云々とはつけたまひしなり、さればこれは、とぶとりの淨御原《キヨミバラノ》宮とよむべきなり、あすかの淨御原といはむは、本よりの地(ノ)名なれば、ことさらにこゝに、仍(テ)名(ケテ)v宮(ヲ)曰(フ)2云々《シカ/\ト》1などいふべきにあらざるをおもふべし、とぶ鳥とは、はふ虫といふと同じくて、たゞ鳥のことなり、さて大宮の號を然《シカ》いふから、その地(ノ)名にも冠らせて、飛鳥《トブトリノ》の明日香《アスカ》とはいへるなり、さてかすがを春日、明日香《アスカ》を飛鳥ともかくことは、いひなれたる枕詞の字もをて、やがてその地(ノ)名の字となせる物なり、そはかのあをによしおしてるなどいふ枕詞を、やがて奈良難波の事にしていへると、心ばへ相似たり、かゝれば春日《ハルヒ》のかすが、飛鳥《トブトリ》の明日香《アスカ》といふも、その地(ノ)名の字のうちまかせたる訓を枕詞になせるにはあらざれば、ひのもとのやまとも、然《シカ》にはあらず、又これは枕詞のひのもとてふ字をもて、國(ノ)名の夜麻登《ヤマト》の字として日本とかくにもあらざれば、かの二つの例にもあらず、ただ日の本つ國たる倭《ヤマト》といふ意にぞ有ける、それにとりて此枕詞、もしいと古《フル》くより有しことならば、孝徳天皇も、日本《ニホム》といふ名は、これをおもほしてや建《タテ》たまひけむ、されどかの不盡《フジノ》山の哥は、いとしも古《フル》からず、それよりあなたには見えざ(314)れば、こは日本《ニホム》といふ號のこゝろをおもひて、後にいひそめつるにもあらむか、その本末はわきまへがたくなむ、
 
    豐《トヨ》また大《オホ》てふ稱辭《タヽヘコト》
 
葦原(ノ)中(ツ)國秋津嶋などに、豐《トヨ》てふ言を冠らせて、豐葦原(ノ)中(ノ)國豐秋津嶋といひ、八嶋倭などには、大《オホ》てふ言を冠らせて、大八嶋大倭といふ、これらの國號のみにもあらず、凡て豐とも大ともいへる例多き、みな上つ代の稱辭《タヽヘコト》なり、然るを大日本《オホヤマト》などいふ大《オホ》は、もろこしの國にて、當代《ソノヨ》の國(ノ)號をたふとみて、大漢大唐などいふにならへる物ぞといふ説《コト》のあるは、古(ヘ)のことをしらぬ、例のおしあてのみだりごとなり、もし然いはゞ、かの豐葦原《トヨアシハラ》などの豐は、いかにとかいはむ、こはかの國にはさらに聞えぬ美稱《タヽヘナ》なるものをや、又もろこしにては、王の母を大后とはいふを、皇國の古(ヘ)には、當御代《ソノミヨ》の嫡后《ミムカヒメ》を大后《オホギサキ》と申せりき、これらも、大《オホ》といふこと、すべてかの國にならへるにあらざる證《シルシ》なり、然るを書紀には、古稱《フルキナ》をたがへて、大御母《オホミオヤ》をしも皇大后と記《シル》されたる、これぞ彼(ノ)國にならへるにては有ける、書紀にはかく、彼(ノ)國にならひてかゝれたる事もおほきからに、神代よりありこし事をも、かれと似たるをば、皆ならへるにやとは疑《ウタガ》ふなり、抑|大《オホ》てふ美稱《タヽヘナ》は、大臣《オホオミ》大連《オホムラジ》などいふたぐひ猶多し、みないと上つ代よりのことにて、大倭《オホヤマト》といへるも、古事記の景行天皇(ノ)御段《ミクダリ》に、熊曾建《クマソタケル》が詞に、大倭《オホヤマトノ》國と見え、また懿徳夫皇孝安天皇孝靈天皇孝元天皇などの大御名、又古事記には、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命《オホヤマトクニアレヒメノミコト》と、假字《カナ》に書る御名さへあるをや、大和と書《カキ》たるは、かならず意富夜麻登《オホヤマト》とよむことなり、和名抄に、畿内《ウチツクニ》の大和も、又その國の城下《シキノシモノ》郡なる大和(ノ)郷も、ともに於保夜萬止《オホヤマト》とあるをもて知べし、然るをつねの語《コトバ》に、たゞ夜麻登《ヤマト》とのみいふから、大(ノ)字の添《ソ》へるをも、たゞ夜麻登《ヤマト》とのみよみ、また夜麻登《ヤマト》といふに、かならず大(ノ)字を添《ソヘ》てかく事と心得たるなど、みなひがことなり、たゞ夜麻登《ヤマト》といふに(315)は、和(ノ)字のみかけり、但し諸國の名、又郡郷の名、皆必二字に書(ク)べしとの御定《ミサダメ》なれば、畿内の國(ノ)名、又その郷(ノ)名には、必大(ノ)字を添書《ソヘカキ》て、意冨夜麻登《オホヤマト》と訓《ヨム》ぞ正《タヾ》しかりける、
 
                2007年9月7日(金)午後4時20分、入力終了