文學博士 芳賀矢一著 國民性十論 東京【合資會社】富山房發行
 
(1)  亡き父の御靈にこの書を捧げて
 刷卷を手に取りもちてまつそおもふ
   庭のをしへのとほきむかしを
 天翔り見そなはすらむとしつきを
   あたに過さぬ心はかりは
 
國民性十論目次
 序 言…………………………………………………一
 一、忠君愛國…………………………………………四
 二、祖先を崇び、家名を重んず…………………三五
 三、現世的、實際約………………………………六五
 四、草木を愛し、自然を喜ぶ……………………九一
 五、樂天洒落……………………………………一一七
 六、淡泊瀟洒……………………………………一四三
 七、繊麗繊巧……………………………………一六四
 八、清淨潔白……………………………………一八二
 九、禮節作法……………………………………二〇四
 十、温和寛恕……………………………………二三〇
 結語…………………………………‥…………二五五
 
(1)國民性十論     文學博士  芳賀矢一述
 
   序言
 
人物の傳記をみればまづ「容貌魁偉力能扛鼎」といふ如き體格を述べて、それから「幼而岐嶷頴敏」などと、その心性方面を記述して居る。箇人を知るにも民族を知るにもその理は同樣で必ず體格、心性の兩方面を見定めなければならぬ〔箇人〜傍点〕。各種の民族には毛髪皮膚の色の相違ばかりでなく、亦各其民族的性質が存在する。同じ日本でも奥州人と九州人とでは自ら地方的差別があるが、日本人全體を一つに見て歐(2)羅巴人と比較すれば、亦自ら日本人としての特質が認められる。欧羅巴人は皆同樣に見えても、英佛獨露は其言語の異るが如く、亦各英佛獨露の特性を備へて居る。國民の性質はその國の文化に影響して、政體、法律、言語、文學、風俗、習慣等に印象を與へるものであるが政體、法律、言語、文學、風俗、習慣等の文化の要素は亦逆に國民の性質を形造る〔國民の性質は〜傍点〕。しかも一民族の文化は獨立して純粹に發達することは無くして、必ず他の民族の文化と融和し、混合することを免れぬものでその發達は之によりて起り、その結果はいよ/\複雜なものとなる〔その發達〜傍点〕。
新大陸の發見、舊教派の傳道、探險事業、殖民政策等、世界の近世史は東西文明の接觸を促進し、今日は世界の各人種が共(3)同の舞臺に活動して居る時代である。近世の精神科學は常に比較的研究、歴史的研究の方法により、或は宗教、或は言語、或は美術、或は文藝、民族の異同を論じ、國民の特性を發揮するに力めて居る。萬般の事情に於て、一方には世界をまるめて一團とする傾向があると同時に一方には益國家分立主義が行はれる〔萬般〜傍点〕。露西亞のツアーは平和會議の主唱者であるが、其領土内には絶えず猶太人の虐殺が行はれる。日英の同盟、米國の援助があるかとおもへば、太平洋の沿岸には、常に黄人排斥の聲が高い。今の時は我は彼を知らねばならぬと同時に我は亦我自らを知らねばならぬ〔今の〜傍点〕。我國は早くから支那の文化を受け、支那を通じて印度の文明をも受けた。しかも今日の東洋諸國は皆萎靡振はない(4)間に、我國ばかりは世界強國の班に入つた。輓近西洋文明輸入の効果も亦著しくあらはれつゝある。我國の文化はどんな風に印度支那の文明に影響せられたか。我國民は如何なる程度まで之を消化し、又自己を發展させたか。我等は今日の幸運を思ふと同時に、亦深く自ら今後を戒めなければならぬ。過去を知つて且將來を熟慮せねばならぬ〔我國の〜傍点〕。
 
   一 忠君愛國
 
余が獨逸留學中、或年の天長節の祝宴に、日本の近世史に關係あり、日本の勲章を帶びて居る男爵シーボルト〔五字傍線〕氏の演説を聽いて、其中の一節に感じた事がある。同氏の言は「西洋各國の革命は國王に對する不滿から起つて、其結果はいつ(5)も王室の權威を縮少し、或は全く顛覆するものであるが、日本のは之に反して、革命毎に皇室の稜威を益し、繁榮を増進すると」いふ意味であつた。これは如何にもよく我國體の萬國に異なつたことを言明したものといはねばならぬ〔これ〜傍点〕。即ちかの大化改新といひ、明治維新といふ政治上の二大變動は我國なればこそ極めて容易に成就して、雨降つて地固まるといふ結果が得られたのである。新しい文化に接して之を採用する必要の生じた時、制度改正の詔勅が一度煥發すれば、祖先以來の領土領民も差出し、既得將來の權利も悉く打ち棄てゝ、唯々諾々として、大命を承るいふことは、決して外國人にはあり得べからざる事實である。これであればこそ我國民は萬世一系といふ國體を維持し、時代の進(6)歩に伴つて進歩したのである。かういふ場合には外國では必ず國王と人民との衝突を免れぬ。一旦人民と衝突すれば國王が散々な目に逢はされた例は枚擧に暇が無い。國外へ出奔する位は愚なこと、遂には刑場に引出され、斷頭臺上の露と消えるといふ英國、佛國の歴史などは、日本人の目からは殆ど信ぜられぬ沙汰であつて、小學から中學にはいつて始めて外國の歴史を學ぶものは、何人も必ず外國史に惨酷無道の事が多いのに驚くに相違ない。元來革命といふ語は天之命維革といふ語から出たので、今日は外國語のRevolutionといふ語に當てゝ用ゐるが、支那人は昔から天子は天の命を受けて百姓を治めるものだといふ思想を根本として居る。それ故聖人賢者たる以上は、誰が代つて天(7)子になつても構はぬのである〔支那〜傍点〕。これが爲に歴代二十四朝、長い朝廷でも三百年とは續かず、その時には天の命が革つたものと覺悟して、平氣で新しい天子を戴いて居る。かういふ國々には決して大化の改新や明治の維新の樣な改革が行はれる筈はない。英吉利の貴族は今でも大きな領地をもつて居る、獨逸の國もさうである。日本國民の皇室に對する考は古今東西全く類例が無いのである〔日本〜傍点〕。西洋諸國の帝王も、支那の天子も、國民の間から起つて、若しくは權力を以て、若しくは與望により、遂に帝王の位を羸ち得たのである。素生を洗ひ祖先を正せば、同等の國民である。之が諸外國民の王室に對する考であらう。日本人は皇室を我々國民とは一種別なものと見て居る。支那には(8)「王侯將相何有種」といふ語があるが、日本人は帝王といふ位は國民の決して覬覦すべきものでないと、誰も教へはしないが、祖先以來さう考へて居た。長い歴史の中には皇家に弓を引いたものも無い事は無いが、天子の位をねらふ樣な考は決して無い、大日本史には源義朝や、源義仲が叛臣傳に入れてある。これは天子に向つて敵對した事の大義名分を正したので、本より皇室を陷れようとした謀反人では無い。いづれも皇室の寵を失つた悔しまぎれに手向ひした亂暴人に過ぎぬ。多くは朝廷の或官位を得たい。それが得られぬ爲に騷動を起して我儘を通さうといふ輩で、叛臣と雖も朝廷の尊さを忘れぬものである〔いづ〜傍点〕。平將門も檢非違使になれなかつた爲に謀反したのである。唯一人弓削道(9)鏡といふ坊主が、佛法、王法を一つにして自分がその位に坐らうといふ不屆な了簡を起したが、忠誠な臣民の聲は八幡の神託となつて、忽ち之を排斥した。其外には一人も無い〔忠誠〜傍点〕。藤原氏が廢立を行つたといつても、自分のむすめの生んだ皇子を皇位につかせたいといふ慾望で、これが即ち人間としての最大慾望であつた。その欲望さへ達すれば、
 この世をば我世とぞおもふ望月のかけたることもなしとおもへば
と言つて大滿足したのである。
この頃出た物語や、草紙の類を見てもこの有樣はよく分る。落窪物語の落窪の君が幼少の頃繼母の爲に困苦を甞めたが、はては其夫が太政大臣になり、その息女を入内させた。(10)これが即ち人間としての最大出世、最大理想である。うつぼ物語の貴宮は多くの戀人の競爭の中心點となつたが、東宮に召される事となつては、最初からの競爭者はすべて手を引いて仕舞つた。光源氏も女三の宮を預る。狹衣大將も女一の宮を妻にする。うつぼの仲忠も女一の宮を妻にする。女としては皇后にもなれるが、男としては皇女に尚するのが最大出世、最大名譽である。源氏物語では光源氏の子が位に即くやうになるが、光源氏は皇子であるから其子が天子になつても、自分が院になつても差支はない。後世の文學を尋ねて見れば、足利時代の小説に今宵の少將といふのがあつて、長谷に參籠した時※[女+任]身して、後その子が天皇になる樣に作つたのが唯一あるが、この時代の小説は(11)佛の化身を説き、佛の利益を極端に説いて、不條理なのが多いから、たま/\かういふものも出來たかとおもはれる。平清盛は利己主義の結晶で、入る日を招き返したといふ傳説のある程であるが、これとても平氏といふた家柄で太政大臣といふ人臣の極位に上つたのを家門の大名譽と信じたのである。我儘が募つて法皇を幽閉しようとした時、小松重盛が、
 先祖にも未だ聞かざつし太政大臣を極めさせ給ふ。重盛が無才暗愚の身を以て、蓮府槐門の位に至る。しかのみならず國郡半ばは一門の所領となつて田園悉く一家の進止たり。これ希代の朝恩にあらずや。
と諫められたので、入道も弱り切つて、其言に從つたのであ(12)る。承久の役には、北條泰時がわざ/\途中から引返して。
 若し道のほとりにも、計らざるに辱く鳳輦を先立てゝ御旗を擧げられ、臨幸のけむぢうなる事も侍らんに參りあはば、其時の進退如何侍るべからむ。この一事を尋ね申さんとて一人馳せ侍りき。
といふに對して、義時は
 かしこくも問へる男かな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓引くことは如何あらん。さばかりの時は兜を脱ぎ、弓の弦をきりて、偏にかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。
と答へたのである。南北朝の爭は、實は皇室の御中が二つに割れたので、尊氏以下は北朝では將軍に任ぜられて居た(13)のであつた。尊氏は京都にに天子を戴いたればこそ、幕下に集るものもあつたので、全て朝廷に背いた朝敵ならば、誰も其下につくものはなかつたであらう。どんな野心があつても、皇室を外にしては何事も成就せぬのである。尊氏は唯征夷大將軍だけの野心で、もとより朝廷を輕んじたり、皇室を陷れようなどゝいふ非望は無いのである。支那の南北朝の爭や、三國の爭などゝ同等に見る事は出來ない。如何なる惡人でも、叛人でも、皇室を尊ぶ考は必ずもつて居たので、支那や諸外國の樣に、折がよければ、取つて代らうなどゝいふ考は毛頭微塵ないのである〔皇室を尊〜傍点〕。我國史の波瀾は皇族間の御確執か、否らざれは皇位の下で、權臣がたゞ其權力を爭ひ合つた現象に外ならぬのである〔我國史〜右○〕。(14)これが外國人の目からは不審に見える。我國民の性質を知らぬ人の目からは、萬世一系といふことが如何にも不可思議に感ぜられる。世界に唯一であるから、もとより不思議には相違ない。近い頃支那人が頻に日本の事を研究する序に、この事が不審の餘り、或人牢向つて平將門の事蹟を調査して呉れと頼んださうだ。笑止千萬の事である。又支那では頻りに維新の事實を調べて參考にしようとして居ると聞いたが、我國民が皇室に對する尊敬の念の如何なるものであるといふことを知らなければ、我國史の眞相は分る筈がない。ブールボンだの、ホーヘンツオレルンだの、ロマノフだの、劉氏だの、楊氏だの、愛親覺羅氏だのと、外國の朝家には皆姓や朝號があるが、我皇室にはない。この理由(15)が分らなければ、日本の歴史を理解することは出來まい。開闢以來君臣の分が定まつて居るといふことは、歴史上の事實からの説明を待たず、有史以前から我民族の脳裏に浸〔開闢〜右○〕み渡つた金言《モツトー》〔二字右○〕である。
試に日本の神話を見よ。我は上代の歴史と言はないで、敢て神話といふが、其神話の性質を察すれば、この國民性が最もよくあらはれて居る。我國の神話は外の國のとは違つて、我皇室を中心とした神話である。又我國土を中心とした神話である。天地剖分して後、伊弉諾、伊弉册の二神がおのころ島に下つて、まづ産まれたのは大八洲の島々である。即ち我日本の國土である。それに次いで、水や木や火の神を産まれ、女神は火を産んだ爲に遂にお崩れになつた。さ(16)て男神が夜見の國に行つて、女神を見られた爲、其穢をお洗ひになる時、目鼻からお出になつたのが、天照大神、月讀神、素盞烏神の三神であつた。この天照大神が即ち我皇室の御祖先であるといふのである。言を換へて言へば、日本國土と天照大神とは同じく伊弉諾尊の御子樣であつて即ち御兄弟である〔日本〜傍点〕。國土と皇室との離れぬ關係はこれで分るのである〔國土〜右○〕。
さて天照大神は高天原、月讀命は夜の國、素盞烏尊は海の國を治めるといふ定であつたが、その後天照大神の御孫の代、即ち彦火々瓊々杵尊の代になつて、この國土に天降つて君臨するといふ事になつた。元來天照大神の御兄弟として産れた國土であるから、之に向つて何人も異存をいふ理屈(17)はない。之より以前に素盞烏尊が出雲に行かれて、今は尊からは五代目の大國主尊になつて居るが、天孫と知つておとなしく服從して國を讓られたといふことになつた。之が後の世まで出雲|國造神壽詞《クニノミヤツコカムヨゴト》といつて代々朝廷で、その賀辭を述べられる事となつて傳はつた。即ち我國土は天孫の治むべき地であるといふことゝ、我國土を治める人は天孫の血統の外に無いといふ事は太古の神話を形成した要素になつて居るのである。大國主命が天孫と聞いておとなしく其國土をお讓りわたしになるといふ精神が、即ち大化改新や明治維新の場合にも同じく我國民の精神としてあらはれて居るのである〔即ち我國土〜傍点〕。
我國の神話は極めて平和である。八百萬の神はあつたが、(18)我天孫に向つて敵對行動を取つたものは無い。外國の神話には太陽をあらはした勇者の神が色々の妖怪に逢ひ、種種の怪物を退治する事が見えるが、我國にはそんな話は一つもない。窟戸隱れは御弟の素盞烏神の行爲に怒られた爲で、その時には八百萬の神が一同集會して其善後策を講じた。外國の太陽神の如く、或は幽閉せられたり、或は一時殺害せられて、又復活する樣な事は無い。荒ぶる神といふ語はあるが、荒ぶる行爲をした事は見えて居らぬ。八百萬の神はいづれもおとなしい忠義な神で、天つ神も、國つ神も、日神の御子孫の事業を補翼する事をのみ力めて居る。その事業を妨害したり、又はその國土を奪ひ取らうなどゝいふものは一人も無い〔天つ神〜傍点〕。誠に平和な神話である。神話は即(19)り我太古の國民の心性を反映したものではないか〔神話は〜右○〕。この太古の國民の精神には、明に君臣の分が定まつて居る。天孫の御血統が即ち帝位を繼ぐべき種で、其餘のものは皆この國土に居てその下に服從すべき種と定まつて居る。皇室は一種別なものである。我等國民よりは一段高いものである。これはカミ〔二字右○〕である。長上《カミ》である。神《カl》である。カミ〔二字右○〕といふ語は神、上、髮に通ずる語で、すべて上にあるものを意味する。今日でも宮中では陛下の事をお上《カミ》と唱へ奉るのである。又|雷《カミ》にも通ずるが、これは貴いから、畏しといふ意から轉じたのである。このカミといふ思想は太古以來今日に至るまで、我等日本人が皇室に對して常にもつて居るところで、同族中から成上つて氏姓をもつて居る帝王(20)に對する外國臣民の感想とは大差のある點である。柿本人丸が
 大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも
と歌つたのもカミ〔二字右○〕即ち神といふ上代思想をいひあらはしたのである。其外「やすみしゝ我大君の、神ながら、神さびせすと」「天の原、石門をひらき、神上り上り、いましぬ」などゝいづれも神として詠むのである。「現神《アキツミカミ》【止】大八洲國知食《オホヤシマクニシロシメス》」と宣命にはあつて、アキツミカミ又はアラヒトカミ即ち現在生きてお出でなさる神といふ意である。漢字で書けば神と上とは違ふが國語では區別が無い〔漢字〜傍点〕。千本櫻に辨慶が實は安徳天皇のお安を蹈越えて足のすくばつたといふことがある。憲法第三條の「天皇は神聖にして侵すべからず」といふこと(21)はよく太古以來の國民の心をあらはしたものである〔憲法〜傍点〕。
皇室に對して敬虔の念を有することはこの通りであるが、たゞ神として恐れ、畏《カシコ》むばかりでは無い。皇室の事をオホヤケ〔四字右○〕(公)といふ。大家《オホヤケ》の義である。皇室に對しては我々は小家《コヤケ》である。即ち皇室は我等の本家、宗家〔四字傍点〕であるといふ考がある。この思想の中には皇室と國民との間に多くの親愛の意味が籠つて居る。統治者と被治者といふ問題ではなくして、心の底から上下互に親睦して居る趣がある。八百萬の神は皇孫の事業を翼賛する人々ばかりであるが、義理づくに服從しておそれて居るのではない。大本家の統領として親分として尊敬して居るのである。親子的關係が成立つて居るのである。親の命令は子として聽かねば(22)ならぬ。親の心を喜ばせねばならぬ。親からは何を與へられてもうれしい。親子の愛情は人の至情でこれがマゴコロである。このマゴコロが即ち忠である〔この〜傍点〕。忠といふ語は漢字の音であるが、日本に譯せばマメゴコロつまりマゴコロの外は無いのである。日本では忠も孝も同じ事でどちらも同じくマゴコロである〔日本〜右○〕。
このマゴコロを以て皇室に對するが國民の情である。 神のやうに尊んで、神のやうに畏れ、親のやうに頼みにして、親のやうにありがたくおもふ。それ故天皇の命とあればどんな事でも服從する。どんな事でも言付を聽く。いやいやするのではない。有難がつてするのである。土地返上〔いや〜傍点〕などは愚なこと、身命も喜んで差出すのである〔など〜右○〕。
(23) こゝをしもあやにたふとみ、うれしけくいよゝおもひて〔こゝ〜傍点〕、大伴の、遠つ神祖の、其名をば、大來目主と、おひもちて、仕へし官、海ゆかば、みづく屍、山行かば、草むすかばね、大皇のへにこそしなめ、かへりみはせじ、
といふ奉公の精神は即ちこゝで生ずるのである。「天地正大氣粹然鍾神州」といふその正大の氣も、「敷島の大和心を人とはゞ」といふその大和心も、皆このマゴコロをいふのであらう。元冠の役に大敵を追ひ拂つたのもこのマゴゴロの爲であらう。擧動には粗暴の嫌があつたにしても、ポーツマゥス談判以後の燒打事件も亦このマゴコロの發現とみるべきであらう。兄弟墻に鬩いでも、いざとなれば擧國一致外敵にあたるといふ精神、この皇室を保護し、この皇土を(24)維持しようといふ精神は、困難のあるごとに忽ちに發現して來る。李鴻章は政府と議會との衝突を見て、機乘ずべしと日清戰爭を開いたさうだが、所謂己を以て人を度つたもので、日本人の性質を知らなかつたのである。今頃になつて維新史を調べても事已に遲しといはねはならぬ〔今頃〜傍点〕。
このマゴコロ即ち皇室に對する忠の觀念が、武家時代に至つては、轉じて主從の關係の連鎖となつた〔武家〜傍点〕。これが即ち武士道の精髓なつたのである〔これ〜右○〕。自分の事へる主君にはマゴコロを以て盡す、即ち忠を盡して身命を吝まず、事ある時は馬前に討死するのが家來たるものゝ心掛となつた。頼朝は僧重源が君といつたのを戒めたが、徳川時代になつては諸侯は將軍に對して臣、諸侯の家來は陪臣といひ、孔孟(25)の教は常に圭從の關係に應用されて説かれた。元來日本で君臣といふものは、皇室と國民との關係の外にはない筈である。それ故「忠臣不v事2二君1」などゝいふ語は日本には通用せぬ筈であつたが主從の關係が君臣の關係になつてからは、これが始めて適用されることになつた〔それ〜傍点〕。
武士道として發輝された忠義は今昔物語にも已に見えるが、保元平治以來の軍記物語に於て最もよく見る事が出來る。義經記の辨慶、嗣信、忠信などもある、軍記物の戯曲化された謡曲に於ては鉢の木にも、藤榮にも、鳥追船にも、弱法師にも、土車にも安宅にも、臣節を示して居る。極端の場合に於ては、大義親を滅するの心で、主君の爲には自分の子を殺して身代りにする。これは謠曲の仲光、同じく七騎落の實(26)平に於てあらはれて居る。徳川時代の戯曲は、其思想を繼承して、手習鑑の松王丸の苦忠の如きはその一例である。本朝二十四孝、大塔宮※[日+義]鎧、平仮名盛衰記其他小説戯曲には澤山の例がある。主君の爲には耻を忍んで遂には復讐をする。謡曲の望月を古いところとして淨瑠璃、小説の材料となつたのみか、徳川時代には仇討は天下晴れての公許となつた。その中で最も名高いのが赤穂の四十七士である。泉岳寺の墓場處は今日といへども、線香は絶えない。忠臣藏の芝居はいつも大入で、見物の袂をしぼらせる。早い頃日本に來た西洋人はこの話を聞いて餘程驚嘆したものと見えて、假名手本忠臣藏は英語にも、佛語にも、獨語にも譯されて居る。その外義士に關する書籍は頗る多い。四十七(27)浪人といへば誰でも知つて居る。友人藤代禎輔氏が、獨逸のウイルデンブルフを訪うた時、同人も四十七士を材料として脚本を書いて見たいと言つたさうだ。かくの如き花々しい悲劇の材料を供給した、武士道の本義はマゴコロに歸着する。
武士道は士の守るものであつて、町人以下には及ばぬが、この精神はいつしか武士といはず、町人といはず、男といはず、女といはず、一般國民の間に擴がつてしまつた。奉公といふことは元來朝廷だけに對する詞であつたが、通常の雇人にも奉公人といふ語を用ゐる様になつた〔奉公といふ〜傍点〕。町人百姓の問にも義理の重んぜられた話は小説、淨瑠璃を初めとして、講談落語等の末にもあらはれて居る〔義理〜傍点〕。侠客は町人間の武士(28)道を代表したものである。賭博遊食の徒の間にも、親方、親分に對する犠牲的精神は維持せられて居つた。其本を正せは君臣の關係が、主從の關係にうつされた結果である〔其本〜右○〕。併し主從といつても其關係はどうしても君臣の關係程には至らぬのである。もと/\君臣の關係を主從に借りてうつしたのであるから、國民一般が皇室に對する様に、公方様にしても、殿様にしても全く別人種とは考へぬ。神と同一とは考へぬ。權力なり、恩義なりの爲に服從したとの考は失せぬ〔併し主從〜傍点〕。それ故尊氏の旗下に馳せ參じた武人の末は決して靜穩でなく、爭亂紛紜が絶えなかつた。下尅上といふ事が一般の風習になつて、將軍は管領の細川に壓伏せられ、細川は其臣の三好の爲に壓伏せられ、三好は又其臣の松永(29)の爲に壓伏せられ、松永は遂に將軍を弑するといふ有樣になつた。もと/\同一種であるから、折がよければ取つて第らうといふ考も起したのである〔もと〜右○〕。
この戰國時代に於ても毛利元就が即位の金を奉つたり、織田信長が勤王につとめたといふ事は兩氏が大に興る所以である。その結果は豐大閤の統一となり、徳川將軍の幕府となつたが、徳川瀑布が譜代、親藩、外様の區別で、如何にその統御策に苦心したかといふことを見ても、主從の關係が君臣の關係のやうに行かぬ事が分る。それ故尊王倒幕論の起つたと同時に、さすがの徳川も忽ちバタ/\と倒れて仕舞つた。臣、陪臣などゝ表向に稱へさせたことも〔それ故〜傍点〕實は借り物であつたからである。(30)武家の世公方樣の天下でも、國民は決して其上に天子樣のある事は忘れた事はない〔實は〜傍点〕。朝廷は常に名譽榮爵の本源であつて、頼朝も實朝も右府になり、實朝は之を名譽として、鶴岡に拜賀の禮を行うた時殺されたのである。徳川將軍以下各國の國持大名、城主等はそれ/”\家格に應じて、朝廷の爵位を名乘つて、「細川越中守」「酒井雅樂頭、戸田釆女正」などヽ稱へたのである。これ等の官職が名ばかりであつたことは、將軍家が東夷征伐時代の征夷大將軍の名を受け嗣いだのと同じ事である。大名の家來にも、玄蕃とか、主馬とか、釆女とか、官名を通稱としたのは、稍重臣の方に屬する。何右衛門、何兵衛と名乘るのは、兵衛府の名殘を止めたので、これは今日では山本大將の外は町人、百姓の外には殆んどな(31)くなつたが、何之丞、何之助、何介はまだいくらもある。我國民が如何に朝廷を尊奉し、その官職を重んじたかといふ事はこれでも分る。幕府の世と雖も國民は決して皇室を忘れたのでは無い。「内裏雛人形天皇の御宇とかや」の句の通り毎年の雛遊とともに小娘迄も知て居つたのである〔幕府〜傍点〕。一旦主從の關係にうつされた忠の解釋は、明治の維新とともに再び昔しの通り皇室に對するものと限られて仕舞つた。否明治の維新そのものは、その解釋を皇室に限るものとしで徳川幕府を打倒したのであつた〔一旦〜傍点〕。維新後は士農工商は皆平等になつて、こゝに一般國民が兵役に就くことになつた。陪臣、陪々臣の制度は廢せられて、いづれも天朝直參の臣となつた。久しい間武家で養成した武士道的精神(32)は今や天朝に向つてのみ捧げられる事になつた。武士町人にも行渡つて、小説、淨瑠璃の平民的文學にも反映して居る、國民の思想はその犠牲的精神を以て、國家の爲に身命を抛つ機會を見出したのである〔久し〜傍点〕。日露戰爭の當初には何故に日本兵が強いかといふ事は西洋人間の疑問であつた。米を食ふから強いともいひ、水をのむから強いともいひ、中には日本兵は米の握飯の中に梅干を入れて國旗の形にして食ふ。毎日國旗を食つて士氣を鼓舞して居るのだといふ人もあつた。このやうな物質的原因を以て強兵の出來る筈が無い。太古以來の皇室に對するマゴコロの表彰に外ならぬのである。唯このマゴコロの精神が萬世一系の國體を成した原因で東洋唯一の大強國となつた所以であ
(33)る〔唯こ〜傍点〕。我國は古來支那の文化に負ふところが多く、律令制度をはじめとして、一切の風俗習慣も支那から輸入したものは少なくないが、たゞ二十一史を讀み、二十二史を讀んでも、禅讓討伐の事だけ支那を學ばなかつたつたのである〔我國は古來〜右○〕。
伯林の凱旋路《ジーゲスアレー》の一端には、高幾十丈の凱旋塔の上に、金色燦爛たるゲルマニアの女神の像が置かれてある。これは獨逸の國家を代表する爲に、殊にゲルマニアと稱する空想的人物を作り出したのである。英國でも之と同樣ブリタニカ、佛國ではガリアといふ空想的人物を拵へて居る。政體幾たびも變り、王室屡々更代する外國に於て、古來の歴史を思念させ、國家的觀念を養成する必要上から自らかういふものを拵へ出したのである〔幾たび〜傍点〕。獨り我日本では國土と皇室(34)とは神話以來已に離るべからざるものである。國の爲家のためといふことは同一の意味と解釋せられる。「朕は即ち國家なり」とは我國の天皇にして始めて宣ふことの出來る詞である〔獨り〜右○〕。余は獨逸在留中、恰も普魯西建國二百年祭に遭遇したが、この時伯林の全部はイルミネーシヨンの光に不夜城の觀を呈したのにも拘らず、凱旋塔の上には一點の燈光を認めなかつた。凱旋塔は獨逸帝國の代表であるから、普魯西一國のものではない。バイエルンいや、ザクセンは王としてはプロシヤと同様である。プロシヤは覇者として獨逸國を統一して、獨逸帝の位に即いたのである。むかし新井白石は、朝鮮に對して徳川將軍を王と稱へさせんとした事は、白石が多數學者の非難を招いたのであるが、王の(35)稱號は暫く措いて、白石の見識は自ら他人を拔いて居るところがある。
 
  二 祖先を崇び家名を重んず
 
社會學上から上代のわが國家を見れば、いはゆる神祇政治(Theokratie)であつた。即ち祭政一致の情態で、前にもいつた如く、治者は神祇、上も神もひとしくカミであつた。政事は即ち祭祀で、ひとしくマツリゴトであつた。又一方から見れば宗族政治(Patriarchie)で、宗家が分家を支配したものであつた。公は即ち大家《オホヤケ》であつた。かういふ事は強ち我國に限つた事ではない。猶太の昔にも行はれたし、其他原始社會にはいくらも類例のある事である。たゞそれが太古か(36)ら今日まで持續し來つて立憲政治の今日まで殘つて居るといふ事が甚だ珍しいのである〔たゞ〜傍点〕。社會進化論の上に一特例を成したものといつて宜しい。支那の文明を吸収し、印度の教義を採用して、神儒佛合體で國家を治めるといふ聖徳太子の方針で、今日までの變遷をなして來たにも拘らずこの太古の政體に伴なふ所のカミ、ホヤケに對する尊崇心、敬虔の心即ちマゴコロを今日まで少しも失はず、それで何等の爭亂もなく、軋轢もなく、更に西洋の民主々義を入れて、立憲政體を爲し得たといふのが面白いところである〔それで〜傍点〕。このむかしながらの國體で、今日の世界の間に濶歩して行けるといふのが我國民の強みである〔この〜右○〕。
さてこの神祇政治、宗族政治の根本となつて居るものはい(37)ふまでもなて祖先崇拜であつて、祖先の功業を尊崇して之を畏敬し、之を仰慕する念がなければ、もとよりこの様な政體の成立つ所以がない。神話の神々は一方に於ては自然現象を代表されると同時に、一方では祖先の大功業者たる人々と一致せられたのである。天照大神は日神、月讀命は月神、素盞烏神は恐くは嵐の神であらうが、これと同時に我民族の中で殊にすぐれた尊むべき方々であつたに相違ない。思兼神や手力雄命や、天鈿女命や、猿田彦神や皆それぞれさういふ方々であつたらうとおもはれる。かういふ祖先の人々をまつつて、お祭をするといふこと、即ち共同の祖先を崇奉して、そこに一致團結の政治が行はれるといふことが、即ち神祇政治、宗族政治の本體である。天照大神が八(38)咫鏡を天孫に下されて之を視ることわれを見るが如くせよと仰せられたのは、即ち祖先崇拜といふことを明にせられたのである〔天照〜傍点〕。即ち三種の神器をお受け傳へになつたお方が、祖先の正統、政治上の元首で、いはゆるカミで、且つオホヤケであるのである。それであるから皇位の繼承には三種の神器が最も大事なものになつて居つて、壽永の役にもこれが大問題になり、南北朝にも、これが正僞の大問題を成して居るのである。北畠親房卿が神皇正統記を書いたのもこれが爲である。語を換へていへば我國體上からいへば、どうしても祖先崇拜といふことを忘れてはならぬ。祖先崇拜は支那人にもあるが、支那などの革命の國では、之が國家と結付いては何の意味をもなさぬ。羅馬や希臘にも(39)あつたが、今は跡方がない。日本ではむかしの神祇政治、宗族政治の政體が今日まで連續して殘つて居るから、祖廟を貴み之を祭ることは大昔から今日まで政治とは離れられ〔祖先崇拜は支那人〜傍点〕ぬ關係をもつて居る。神武天皇が御即位の式に神籬を鳥見山に作つて祖宗をお祭りなされたのは即ち之が爲である。今日でも毎年一月四日の御政初には「先奏伊勢神宮之事」といふ事があるが、これは大寶令時代からの定まりである。之を以て單に昔からの習慣とみるのは間違である〔之を〜傍点〕。今日でも國家的意味のあることである〔今日〜右○〕。宣戰講和の詔勅を發し給ふときに大廟にお告げになることも、その意味からである。東郷大將が凱旋して大廟に參詣し伊藤統監が韓國に赴任するに就いて參宮を果すといふのも、この理由に(40)よるのである。宮中に賢所があつて、海外へ出向く人、又は歸朝した人などが、拜謁乳と同時に參拜を仰付られるのもこの政體の上からの意味をもつて居る。「日本は神國なり」と昔から人のいふのは之が爲である。神といつても後世に發達した各派の神道をいふのではない。全く宗教を離れての問題である。信仰の問題の宗教の自由といふことには何等の關係がない〔信仰〜右○〕。苟くも日本の國土に生れて、日本國の臣民たるものは、カミとオホヤケとに對するマゴコロから祖宗の靈を尊むといふ次第に外ならぬのである。太古からの國體に伴なつたことである〔苟く〜傍点〕。
朝廷に於て大廟を御崇敬になるばかりでなく、この事は深く國民の間には浸み渡つて居る。一生の中に一度は大神(41)宮に參らねばならぬとは、如何なる僻地を耕して居る農民でも常に思つて居る事である。拔參りといつて、殆ど無餞旅行をしてまでも陸續として出かけるのである。各郷各村に神明の社のあるのも、その御靈を分けた考である。伊勢の大廟は全國の家毎には必ず祭るのである。如何なる佛教のかたまり家でも、お伊勢樣は別物として、決してその信仰とは衝突せぬ。佛檀のある家にも神棚はある。佛檀の中にも先祖の位牌がある。これは決して神佛混淆の教が行はれた結果と見てはならぬ。いくら佛教に熱心な人でも皇室に對しては忠義心を失はないと同様、大神宮に對しては同じく崇敬の念を失はないのである。佛教信者の親房卿でも「日本は神國也」といふのである。佛教の説教を(42)主とした様な謠曲にも「日本は神國也」を繰返すのである。本地垂迹などゝいふことは佛教者が甘く我國體を洞察して説出したことで、これでなくては、日本には行はれなかつたのである。猛烈な勢を以て日本を席卷した佛教でも我國民性を壓服するわけには行かなかつた。やむを得ず、調和策を採つたのである。支那で孔子、老子についで垂迹説をやつたのと同じ筆法を以て、我國の神樣をそれに附會したのである。淨土眞宗で、他力の信心を説き、未來の極樂往生を説きながら、一方には頻に王法を守れと説いたのは、よく我國民性に投じて、眞宗の今日の盛大をなした一原因であらう。「佛は九善、王は十善」といふことがどこまでも國民の信じて居る金言である。然るに新しく輸入された基督(43)教は、やゝもすればこの點に於て國民と衝突する。耶蘇教を奉ずる人は神棚を置かぬ。上帝の外は何人にも頭を屈せぬと言つて、聖上の御像に禮拜することを拒んだり、大神宮にお參りしたりすることを嫌ふ。これは恐くは我國の宗廟を宗教と混同した誤解に本づくものであつて、我國體を知らぬからであらうとおもふ〔これ〜傍点〕。どんな人でも親の前に頭を下げることをいやがる理屈はない〔どん〜右○〕。大神宮の外我國には幾多の官國幣社がある。別格官幣社がある。其他縣社、郷社、村社がある。これは皆同じく祖先を崇ぶ主義から出たもので、其祭つてある人々は祖先の勲功ある人が多いのである。官國幣社の中には上代の事蹟のよく分らぬ神もある。併しいづれも祖宗の事業を助け(44)た方々には相違ない。別格官幣社には歴史上我國家に功勞のあつた人々、例へば湊川神社の楠正成、藤島神社の新田義貞、豐國神社の豐太閤、建勲神社の織田信長.東照宮の徳川家康、梨木神社の三條實萬といふ類である。明治になつてからも北白川宮の臺※[さんずい+彎]神社が臺※[さんずい+彎]に出來た。又靖國神社の樣な義勇奉公に一命を捐てた人々を一所に祀つたのも出來た。縣社、郷社等になつては舊藩祖であるとか、其地方を開いた人とか、又は特に其地方に功蹟を遺した人々を祭り、又他の大社の分靈を祀つたものである。いづれにしても我等の祖先の功勞のあつた人々を祭つたもので、之を尊むことは當然の處置である。外教の信者などは之をも嫌ふ樣であるが、これは東郷大將の偉勲を認めて之に敬禮す(45)るのと何等の變つた事はない〔いづれ〜傍点〕。西洋では到る處に功臣の石像、銅像等を立てゝ都會の飾りともし、尊敬の目的物として居る。獨逸などでは、維廉大帝、ビスマークのなどは全國大小の都市殆ど行くところとして無い處はない。しかも其人の忌日には其上に花環などを備へて敬意を表するのである。これは人の自然の情〔四字右○〕で、我國の神社はつまり之と同じ物である。彼は像を立て、我は神社に祭るだけの差別である。然るに銅像には敬意を表するが、神社にはお參りせぬといふのは矛盾である。どんな人でも親戚故舊の墓參はするのに、功臣の神社に參拜するのは不見識だの、信仰に背くのといふ理由は無い。つまり神といふ語に拘泥して宗教と混同する誤解から來て居るのである〔然る〜傍点〕。我國の憲(46)法では立派に宗教の自由を許してある。それにも拘らず、宗教の何たるに拘らず、國民としては賢所參拜も仰付られ、又國事に死すれば、靖國神社に合祭せられる。是は神社が宗教に關係の無いといふ證據である〔是は〜傍点〕。日露戰爭の際御用船の船長であつた外國人の船長も之に祭られた。我國事に殉したといふ點から祭られたのである。耶蘇教の宗旨の人を強ひて高天原に連れてゆかうといふのではない。祖先を崇拜する考が神社の崇敬であるから、今日でも子供が生れゝば三十日もしくは三十一日後には、お宮參りと稱へて神社に參詣する。どこの町内でも神樣があり、どこの村にも鎭守の社がある。死人を葬むる時にはお寺の坊さんを頼むが、めでたい時には神樣にお神酒をあげる。町内(47)のお祭には店を休んで若い者は、太鼓を叩きお輿をかつぎ廻り、小供までが喜んで騷ぎ廻つて居る。今年は豐年滿作ぢやといふので、鎭守の社の祭禮に山車を出す、村芝居をする。つまりその幸福を祝する意を祖先とともにし、其幸運を祖先に奉告するのである〔つまり〜傍点〕。
村は村、郷は郷、其最も大きいのが帝國としての太神宮の祭であつて、毎年の神甞祭は、一村一郷の豐年祭と其精神に於ては差別がない〔毎年〜傍点〕。其外大祭日になつて居る春秋二季の皇靈祭も、つまりは御祖先のお祭に外ならぬ。今はむかしと違ひ、氏神といつても都會などでは轉居移住が盛であるから、産土神といふのでもなく、唯その町内の住人の神となつて居るが、土着の人の多いところは、先祖代々之が産土神で(48)あつて、親も子も孫もそこへ宮參をし、そのお祭に遊んで大きくなつたとすれば、其産土神は眞に愛郷心の基礎となつて居るだらうとおもふ。
むかしの氏神といふのは、其名の示すが如く、其同族中の祖先の神であり、宗家の神である。藤原氏の氏神は春日神社で、藤原氏の盛な時分には一族どもの尊敬の中心であつた。竹田氏には竹田神社があり、橘氏には梅の宮があつた類で、すべてそれ/”\の氏の氏神があつたのである。我皇室が國家の中心であり、宗家であると同樣に、各自の家々にも又その本家の祖先、長者を尊んで、これに服從し、その命令を貴んで居るといふのが、我社會上の組織であつて、我國では社會上の單位が家であるといふのは、即ちこのわけから來る(49)のである〔我國〜傍点〕。藤原氏時代には氏の長者が即ち關白となるのであつて、大鏡などの攝關爭はつまり、この長者爭に外ならぬ。保元の亂も頼長の關白爭が原因となつたのである。徳川氏歴代の將軍は淳和奨學兩院別當源氏長者と稱したのである。
已に家を重んずる以上、その家には傳家の寶がある。武家の平氏には小烏丸の刀、源氏には髭切などがこれである。源爲義が保元の亂に召される前、傳家の鎧が風に吹き散つた夢を見た事がある。後世の芝居にもお家の寶の紛失がいつも大騷動の根本である〔後世〜傍点〕。大家《オホヤケ》に於て三種の神器を重んぜられるのと同じわけである〔大家〜右○〕。家紋〔二字傍点〕も決してかへてはならぬ。家の定紋をかへるといふこいは、中々やかましい(50)事であつた。
西洋の社會の單位は箇人であるから、箇人が相集つて國家を組織して居る。我國では國家は家の集合である〔我國〜傍点〕。そこに根本的の差別がある。今の民法はもとより西洋諸國の法律に準據して作られたのであるが、立法家はこの點に於ては大に苦心されたに相違ない。即ち全くの箇人主義を採らずして家族主義を加味せられて居る。親族篇、相續篇に於てこの事が大に認められる〔即ち〜傍点〕。今日の樣に世界交通の世の中となつて、人種も違ひ、國體も違ふたのが、彼我往來する世の中故、法律を拵へるのも中々むつかしい。我國の民法は我國民に摘要するは勿論だが、西洋人も我國に居る時は、我國の法律に支配されるわけだから、多少は斟酌せねば(51)ならず、之に就いては民法ばかりでなく、刑法でも、治罪法でも立法家は隨分苦心したものであらう。いまの遺族救助法などいふものは、家族主義からいへば、家長のところへ、その扶助がゆくべき筈であるが、これらは箇人生義になつて居つて、妻とか、子とか、卑屬親に金が渡る樣になつて居る。日露戰爭の論功行賞の金を親が押領したり、兄がくすねたりして遺族の困つたことなどは新聞紙上にも度々出て居つたが、その親や兄は、もとより不心得には相違ないとして、これは矢張家族主義と箇人生義とが混雜して居る今日の社會の状態を反映した現象であるといはねばならぬ〔これ〜傍点〕。家を重んずるところから氏姓の別がなか/\やかましい。「氏や育ち」「氏より育ち」などいふ通り、氏といふことはいつも(52)問題になる。むかしは姓氏を詐つたものに對して盟神探湯《クガタチ》といふことを命ぜられた事がある。これは人の姓を冒したり、僞つたりすることを正されたのである。新撰姓氏録といふ書物があつて、多くの姓氏を列ねてあるが、神別、皇別、蕃別などゝ素生、家柄をいふのがやかましいのである。前にあげた大伴家持の歌にも
 大伴の遠つ御祖のその名をば
といつて居る。これは祖先の名を汚すまいといふのである。軍記物語をみれば
 「宇多天皇九代の後胤、近江の國の住人、佐々木三郎義秀が四男、佐々木四郎高網、宇治川の先陣ぞやと」
と名乘るのは短い方で,
(53) 「音にも聞きつらん、目にもみよ。桓武天皇の苗裔、高望王より十一代、王氏をいでゝ遠からず、三浦大助義明が孫、和田小次郎義茂、生年十七歳、我とおもはんものは大將も郎當も寄つて組めとぞ呼ばゝりける」
 「八幡殿後三年の合戰に出羽の城金澤の城を攻め給ひし時、十六歳にして軍の眞先かけ、鳥海の三郎に左の眼のかぶとの鉢付の板に射つけられ、當の矢を射返して其敵を取りし鎌倉の權五郎が末葉、大庭の平太郎景能、同じく景親とぞ名乘たる」
などゝ長々しく名乘る。これはもとより軍記の作者が、この序にその人の素生をこゝに明すので、之を一々戰場に名乘つたのでもあるまいが、かういふ風に家名を忘れぬ、家名(54)を墮さぬといふことが武士道の一つの心掛となつて居つたのである〔かう〜傍点〕。
それ故成り上りの大名などには有名な系圖を書いて、箔をつけたことも幾らも例がある。さうでなければよい加減な系圖を拵へ、大抵は源中藤橘のどれかに屬する樣にこしらへて仕舞つたのである。豐太閤は最初平氏、中頃藤氏、遂に豐臣といふ姓を貰つた。何にせよ、この系譜を重んじた事は大變なもので、狂言記には系圖の爭がいくらもある。牛馬〔二字右○〕といふのに
 「中々承りました。我儘な事を申す。夫はともあれ。此方の馬にはとつと系圖がござる。彼が牛には系圖が御ざるまい。「何と馬の系圖がある。それなら語つて聞か(55)せ。「畏つて御座る。語りませう。夫馬は馬頭觀音の化身として佛の説きし法の船、月代國より漢土まで馬こそ負うて渡るなり。周の穆王の八匹の駒。扨項羽の望雲水。安禄山の※[馬+華]※[馬+留]なんどはいづれも千里をかくるなり。又管仲は旅に出で、俄に大雪降り、故郷へ歸らん道を忘れて、馬を放ちて其後を導にしつゝ歸りしも、馬の徳とぞ聞えける。扨日の本に名を得しは、天の斑駒初として、光源氏の大將の馬に稻乞、須磨、須磨の浦.金南寮、木の下、やよめなし月毛、鬼足毛源太。佐々木が名を揚げし生月、摺墨、太夫黒、雲の上には望月の駒迎せし逢阪の小阪の駒も心して、引く白馬の節會にも、牛のねり入る例なし。佛の前には繪馬をかけ、神には立つる幣の駒。駒北風に嘶けば、悪(56)魔はくわつと退きて目出度ことを競馬。又本歌にも「逢阪の關の清水にかげ見えて今や引くらん望月の駒」とこそあれ、牛とはござるまい。「扨も扨もこれは聞き事ぢや。彼も系圖があるか尋ねて見よう。やれ/\あの馬には系圖があるというて其子細を語つた。汝が牛にも系圖があるか。語れ
といふので、これから牛が又長々しく系圖を語り出すのである。酢薑〔二字右○〕といふのにも、
 其上薑などには甚う系圖の多い物ぢやが、其方が其酢などには系圖があるまい。「いや酢にこそ系圖がおぢやれ。「何ぢや酢にも系圖があるといふか。「中々おぢやる。「や少と聞きたうおぢやるの。「おゝ中々讀んで聞かせうか。(57)して位に負けたらば其方は賣子になるか。「をんでもない事。どちらなりとも賣子にならうず。「然らば是へ寄つて聞かせませ。昔推古天皇の御時に、一人の酢賣禁中を賣り廻る。其時わうゐん酢賣々々とわうゐん召されしが、すの門をするりと通り、簀子椽にすつくと立つておぢやる。其時透張障子をするりと明け、する/\とお出あつて、好きの御酒を下された。一つたべ、二つたべ、三つ目に御詠歌を下された。お主是を聞かうずるよ。「急いで聞かしやれ。「住吉の隈《スミ》に雀が巣をかけてさぞや雀は住みよかるらん」と下されて、是に増したる系圖はあるまい。賣子にならせませ。「まづ某に御聞きやれ。昔からく天皇の御時、薑賣と召されしが、から門のからりと通り、(58)から椽にかしこまる。其時わうゐん唐紙をからりと明けて、から/\と御覧あり。辛き御酒を下されたり。一つたべ、二つたべ三つ目に御肴とて、御歌を一首下された。これへ寄つて聞かせませ。「からしから物から木でたいてからいりにせん」と下された。これに増したる系圖はあるまい。お主賣子にならせませ。
膏藥練といふのにも同樣に系圖を語り合つて居る。この滑稽は確かに社會の一面を反映したもので、如何にその時代に於て系圖を重んじたかゞ分る。此頃の小説でも皆系圖が正しい。物臭太郎もよく調べてみれば文徳天皇の御子二位の中將の子だといふ類である。一寸法師でも同樣。又柿本系圖といふのもある。萬世一系の帝室を戴く國民(59)であるから、其國民としても、系圖をやかましくいふのも無理はない〔萬世〜傍点〕。
系圖を絶やすまいとおもふから、實子のない場合に養子をする。尤も養子は古い時代には尠い。徳川時代家禄を世襲する樣になつては、家の斷絶を恐れて養子制が大に起つたのであらう。奉公人の中の役に立つものを引上げて、澤山ある娘に妻はせ、伊勢屋、三河屋などいふ暖簾をいくつにも分けて、本家、別家で一家の繁昌を希ふのも、つまりは家を大事とし、家が本位になつて居るからである。武士の家名を重んずるのも、町人が屋號を重んずるのも、其間の區別は無い〔武士〜傍点〕。家の主人即ち家長は一家の總くゝりで、何人も其命令を背くことが出來ぬ。家長の命に背いたものは勘當で(60)ある。親は小供を手打にしても構はぬ。生殺與奪の權は家長の手の中に收めてある。今日の民法は家族の者の特別財産も認めて居り、親の手打などはもとより禁じて、箇人としての自由を大分認めて居るが、昔はすべての財産が家長のものである。其次の繼續者は又其一切の權利を相續する。親の名までも讓りうける。名乘は區別の爲一字だけを讓つて爲義の子は義朝といひ、義朝の子は頼朝といふ風にいふが、伊勢屋五郎兵衛は息子の代になつてもやはり伊勢屋の五郎兵衛である。家の財産も貰ふ代りに、家の負債も辨償せねばならぬ。これは今の民法でも同様である。家長が其家長たる任務を離れたのが即ち隱居で、隱居は一切の家事を其繼續者にゆづつて繼續者のいふ事を聞く。(61)「老いては子に從ふ」のである。もとより隱居の財産は無い。まだ家長にならぬものは息子で、士分では之を部屋住と唱へた。繼續者には嫡子がなるのが通例で總領〔二字傍点〕といひ、家督〔二字傍点〕といふ。弟や庶子などは他家へ養子にいつて他の家長とならざる限りは、いはゆる厄介者である。併し養子に行つても家といふ權力の下に服さなければならぬから、養子となるのは隨分つらいものである。「粉糟三合持つたら養子になるな」といふ諺はこの意味である。強ち家附の息女の威張る事ばかりをいつたのではあるまい。それだから氣概のあるものは、養子にゆくのを嫌ふ。他姓を冒すのを男子の耻辱として居つた樣な風もあつた。すべて家が本位であるから、嫁の選擇も父母がする。父母の命令は嫌でも(62)いふことを聽かぬばならぬ。當人の妻ではなくして、家の※[女+息]《ヨメ》であるからである〔當人〜傍点〕。新夫新婦は中がよくても家風にあはぬといふので、生木を割かれる事がるる。父母は今日でも尚この樣に考へて居る人もあるが、明治の教育を受けた人は大に自由主義を主張する。今の家庭で新舊兩主義の衝突といふのは、つまり家長主義と箇人主義との調和せぬのをいふのである〔父母〜傍点〕。
支那も亦家族主義の國であつて、孔子の教は殊に孝を百行の本とする。これは日本に取つては都合のいゝ教義であつたが爲に、最も弘く行はれて、之が爲に又益其影響を蒙つた。「揚名於後世以顯父母孝之終也」といふので、出世をして家を興すのが第一の立派な仕事になつて居つた。家門の(63)名譽といふ事は支那人も大事にするのである。之に反して家名を墜す、家名を汚すといふ事は最大の耻辱である。武士の家で倅に不都合の事があれば先祖に済まぬからと言つて位牌で打擲する、或は腹を切らせる〔先祖〜傍点〕。乃至は手打にする。倅を励まさうとおもふ爲には、親が自殺する事さへある。四十七士の武林の母、小山田の父の樣な類である。召使の中に不義をするものがあれば、家の名を汚すといつて逐ひ出される。間違へば手打にもなる。「御手打の夫婦なりしを更衣」といふ蕪村の句は幸に手打を免れた男女の境遇をよんだのである。これは上流、中流の家はもとより、あまり名もない家に至るまでその精神は同一である。人々の品行を慎むのは其家名を墜さぬが爲である。自分一(64)箇の名譽の爲のみではなくして、父祖の名をも汚すからである。親族の面に泥を塗るを恐れるからである。先祖の位牌で打擲して意見を加へたといふのもその意味である。近い頃前田某といふものが露探といふ噂が立つて殺された。其妻の父は先祖に済まぬといつて、みす/\其息女に宿を借さなかつたといふ。これが即ちむかし氣質で、鎗の權三の芝居などにある樣な筋である。華巖の瀧に身を投げたり、淺間の噴火口に飛込んだり人は、明治の人物で、ただ自分の煩悶を消さうといふのである〔華巖〜傍点〕。家名の如何は一 向に頓着しない。今日では世間一般に家名といふことはあまり言はなくなつた〔家名の〜右○〕。
 
(65)    三 現世的、實際的
 
露西亞の軍隊の先頭には僧侶が十字架を捧げて士氣を鼓舞して進むのである。日本の軍人はただ皇室の爲、國家の爲に、一死を鴻毛の輕きに比する。赤穗四十七士が一意同心、打揃つて敵上野介の首を取つた時、何人が未來の地獄に落ちるか落ちまいかと心配したものがあらうか。大石良雄の辭世だとして傳はつて居るのは、
 身は棄てつ思ははれつ望月の心にかゝる浮雲もなし
の歌である。楠正成も、廣瀬中佐も「七生人間亡國賊」がその願である。人間の活動舞臺は人生である。死後の世の中を頓著するに及ばぬ〔人間〜傍点〕。我國の神話には未來の世に就いて(66)は何事もいつて居ない。死ねば夜見の國といふところへゆくといふ思想はあつた。それは地の下にあつて暗いところであるといふ考である。死ねば、土の下に葬るから、どこの國でもヘーヅといふ考は一致する。生物として死を嫌はぬものは無いから、死を忌むのも當然である。併し日本の上古人は死を忌んだ事はみえるが、死を恐れた事は見えて居らぬ。死んでから先がどうなるかといふ事に就ては何等の研究もして居らぬ。國土生成の項に於て物の生ずる所以は説いて居るが、物の滅亡に關しては少しも顧
慮して居らぬ〔本の上古人〜傍点〕。男神が夜見の國へいつて御歸りになつてからは、ただ死の穢を拂ひ去らうといふことばかりである。さうして澤山の御子が生れて來る。大なる生々主義であ(67)る。女神は一日千人づゝ殺すと盟はれたのに對して、男神は千五百人づゝ生まうと盟はれる。神話全體の性質が生を愛する主義で現在の世を重んじたものである〔神話〜右○〕。
生の本は食にある。我神話は農業を主とし、米穀に就いての神が澤山ある。年の豐凶は國民の禍福の分れる所であるから、之が第一の事になつて居る。毎年の神甞祭新甞祭は神代ながらの風俗で、今日まで殘つて居るのである。御即位の始には大甞會といつて、むかしから最も鄭重の儀式である。上代の文學の祝詞にも春日祭の祝詞は風の神を祭つたもの、廣瀬祭の祝詞は水の神を祭つたもの、祈年《トシゴヒ》祭は種下しの時に其年の豐稔を祈るためで、いづれも一年の豐凶に苦心したのである。その外大殿祭、御門祭、道饗祭等の(68)祝詞も皆邪神の來て現身に禍を及すことを恐れて之を拂ひのける考であつて、上古の祝詞には死後の冥福を祈つたものは一つも無い。
上代の日本人は精神をタマといつた。玉と同じ語である。玉を装飾として、珍重することは、東西古今に變りはないが、赤玉といひ、青玉といひ、水江の玉といひ、曲玉といひ、我上代にも玉の事はしば/\見え居る。心をタマといつたのが本で、玉の語が後か。多分は玉といふ語から轉じて、心をタマといふ様になつただらうが、とにかく渾然として、玲瓏透徹曇のない、光明があつて貴いといふ點が兩者の同一語であらはされる所以だらうとおもふ。英語のSoulといふ語と同じ樣な語で、すべて吾人のこゝろのはたらきは皆タマ(69)の活動によると考へた。「やまとダマしひ」、「まけじダマしひ」など今日でもいふ。「あの人はたましひの坐つた人だ」ともいふ。上古の日本人はこのタマに二つの方面を認めた。即ち荒魂、和魂である。荒魂は強い方、和魂は柔い方である。神功皇后の三韓征伐の時に、住吉の明神が和魂服2玉身1而守2壽命1荒魂爲2先鋒1而導2師船1とあるので、その區別が分る。さてこの和《ニギ》魂のはたらきに幸《サキ》魂|奇《ケシ》魂といふことがある。日本書紀に、
  于v時神光照v海。忽然有2浮來者1。曰如吾不在者。汝何能平2此國1乎。由2吾在故1。汝得v建2其大造之績1矣。是時大己貴神問曰。然則汝是誰耶。對曰吾是汝之幸魂奇魂也。大己貴神曰。然廼知汝是吾之幸魂奇魂也。今欲2何處往1那。
(70)とあるのを見れば大己貴命は自身の靈魂が向ふから來たのを知らずに、誰かと咎めて、自分の靈魂と問答せられたのである〔大己〜傍点〕。人のタマは此樣に肉體を離れて活動することが出來るので、大己貴命はこの幸魂奇魂の助によつて事業をなされたといふのである。即ちタマに關する種々の考も現世の事業に就いての活動の功用を明にしたに過ぎぬ〔即ち〜傍点〕。このタマが人をうらんで人に祟るのが生靈《イキリヤウ》、いきすだまといふもので、源氏物語の六條御息所の生靈が、葵上を苦しめるといふのはこのタマのわるい方にはたらいたのである。勿論このタマが人の死後も肉體から離れて殘つて居るといふ信仰はあつた。さうして目にこそみえね、常に吾人の前後左右に居つて、吾人の行動に注意し、禍福にも干與する(71)といふ考はあつたのである。それであるから、祖先崇拜も成立つのである。又わるいタマに觸れぬ樣、良いタマに接する樣に祈つたのである。けれども死後のタマに就いてはたゞそれだけの考で〔けれ〜傍点〕、生前と何等の區別も無い〔生前〜右○〕。生前にも肉體を離れて活動することが出來たのである。死んでも同樣で、別段死後の事を心配し、苦勞する必要はないのである〔生前〜傍点〕。死後このタマが又生れ變つて牛や馬の體を受けて、生前の事業に就いての應報を受けるといふ樣なこと即ち因果應報、輪廻轉生といふ思想は全く佛教が日本人に吹き込んだ思想で、上代日本人のかつて知らぬ事柄であつた〔即ち〜傍点〕。要するに上代には因果應報の思想もなく、輪廻轉生の考も無く、幸はよき神のなす所作、禍はわるき神の所爲であると(72)のみ信じて居つた。因果應報の話は欽明天皇の時にはじめで見えて居る。それは秦大津父《ハタノオホツチ》といふものが、狼を助けた爲に、天皇の寵遇を得た話であるが、かういふ風に善根を施せば、善報を得るといふことを、現世のみならず、過去、現在、來來の三世にわたつて説いたのが佛敦の因果説で、此世で惡業をすれば未來の世では地獄に落ちるのみか、又生を替へて牛馬獣畜ともなるといふのであつて、これは日本靈異記をはじめとして今昔物語等に澤山の恐ろしい話を殘した。其中には印度支那の話が唯日本の場所と、日本の名とを借りて作りかへられた話がいくつとなくある。「因果な目に逢つた」とか「親の因果が子に報う」などといふものもこの思想である。
(73)佛教の傳來及び傳播とともに死後の事を案じる樣になつたのは當然の事であるが、併しそれにも拘らず、その佛教さへむしろ現世的傾向を帶びて來た〔併し〜傍点〕。奈良朝、平安朝を通じての佛法は現世祈祷の爲の佛法であつた〔奈良〜右○〕。佛教のわたり初の頃、始めて朝廷に容れられたのも、天皇の御病氣平癒の爲に僧を招かれたのであつた。爾來五穀が登らぬといつては佛寺を造る、大風洪水があつたといつては堂塔を建てる。天皇が御不豫、皇太后が御不例、皇太子が御病氣とあつて、寫經、講經、度僧、齋會等の行はれたことは續日本紀以下には如何にも頻繁にあらはれて居る。皇室もしくは國家の大事の時に佛法に頼りて其禍を轉じようといふので、この時には大抵之と同時に全國の神社へも奉幣せられたので(74)ある〔時に〜傍点〕。聖武天皇の天平十三年に,全國に國分寺を立てさせられたが、その時の詔を見ても、
  頃日年穀不v豐。疫病頻至〔八字傍点〕。慙懼交集。唯勞罪v。是以廣爲2蒼生1。遍求2景福1。故前年馳v驛。増飾2天下神宮1〔十字傍点〕。去歳普令2天下1。造2釋迦牟尼佛尊全像高一丈六尺各一餔1。并寫2大般若經各一部1。自今春已來。至2于秋稼1。風雨順序。五穀豐穣〔自今〜傍点〕此乃徴v誠啓v預靈※[貝+兄]如v答、云々
といふ語がある。即ち國民の幸福年の豐凶を顧念して佛法を尊ばれたのである。祈年祭や新甞祭と其精神は同じである〔祈年〜右○〕。殺生禁斷の令や禁酒令の出たのも皆同じ趣意で皇室に御不例があるか、大旱とか大水とか、國家の災異のあつた場合に限つたのである〔大旱〜傍点〕。つまりは〔大旱〜傍点〕むかしの祭政一致(75)のマツリを佛法まで擴張されただけである〔むか〜右○〕。佛教を現世の利益の爲に使つたのである〔佛教〜傍点〕。眞言秘密の佛教が行はれて、それが宮中に入り込んでからは、一月八日から十四日まで、最勝王經を講ぜられる齋會があり、又眞言院の修法があり、其外大元帥法、仁壽殿觀音供等色々あつたが、皆天皇の玉體を守る爲、國家の平和を祈る爲で、やはり、祝詞を唱へるのと同じであつた〔祝詞〜傍点〕。節折《ヨヲリ》の儀式、大祓の儀式と其動機目的に於て少しも變らぬのであつた〔節折〜傍点〕。前にもいつた通り、祝詞の大殿祭、御門祭、遷却祟神詞などはみな邪神を拒いで天皇の御身に禍なかれと祈るので、惡いタマに觸れぬ樣、禍の神の近づかぬ樣にといふ古代思想である。追儺もやはり同じ考である。「福は内、鬼は外」といふのは即ち之である。「笑ふ(76)門には福が來る」といふのも同じである。一年中の行事、節供といふものも皆年中の無事幸福を祈るのに外ならぬのである。七草の粥を食ふのも、小豆粥を食ふのも.皆同樣の意味をもつて居る。
それ故平安朝の世には、病氣の時には醫者を呼ぶよりもまづ坊主を呼ぶといふ風になつた。加持祈祷で病氣を直さうといふのである。枕草子に
 驗者の物の怪調ずとて、いみじうしたり顔に、獨鈷《ドコ》や珠數などをもたせて、せみこゑにしぼり出し、讀み居たれど、いさゝかさりげもなく護法もつかねば云々
とあるなどはこれで、これは利益《リヤク》のない場合である。其外、源氏物語をはじめ、物語日記に澤山の例のある事は誰でも(77)知つて居る。病氣の時ばかりでは無い。出産の時も同じ樣で、この時分には産科の醫者よりも、祈祷の坊主の方が缺くべからざるものであつた。まづ着帶の時から僧の加持があり、産月が近づくに從つて、色々の祈祷がはじまる。産氣が催せば僧正等があまたの僧侶を引つれて護持の爲に來る。いよ/\出産がすめば、湯殿でも加持がある。中宮御産日記部類といふ書に元永二年五月十八日皇子降誕の事を記してあつて、委しくその容子が分る。紫式部日記にも委しく書いてある。その外の物語類にも澤山ある。その祈祷にも五壇法、佛藥師法、尊星王法、金剛童子法、如法愛染王法、八具道供、千手供、金輪法、如法佛眼法、北斗法、六字法、八字文殊、烏瑟沙摩聖觀音法、華※[月+弖]法十一面護摩、炎摩天供、など色