近藤芳樹、萬葉集註疏 
第一冊
 
先大父寄居府君行状
近藤氏之先。蓋甞仕2尾張侯1而微。家世歴數。不v可2得而考1。至2庄左衛門君1。始來藉2長藩1以2馬術1仕爲2馬術家1。居2于萩城1。明暦三年歿。傳2于左兵衛君、小右衛門君、正左衛門君1。皆以2養子1入嗣。歴2左平治君1及2菊之允君1。未娶以v疾致仕。弟林之允君嗣。幼。納2内藤氏之子左源太1攝焉。妻以2左平治君之女1。繼2林之允君1者小右衛門君。繼2小右衛門君1者小二郁君。天保十年。小二部君歿而無v嗣。近藤氏絶。於v是大父始以2國學1名.藩主夙聞2大父名1。將2以v時辟用1。適松齋村田翁及勝間田※[さんずい+彎]翁等。亦交擧2大父1。乃遂命2大父1。入承2小二郎君之後1。因更2馬術家1。以2國學家1仕。實爲2庄左衛門君十世之孫1。大父諱芳樹。初名裕。稱2晋一部1。古木、緑陰、丹霞、寄居子菴。皆其號也。本生田中氏。周防國吉敷郡岩淵村農家之子。父曰2源吉1。母岡氏。源吉君有2三子1。仲吉藏、季友次郎。而大父爲2其長子1。享和元年辛酉夏五月二十五日生。少好2讀書1。不v喜d執2耒耜1以事c于?畝u。會d郷人延2筑前儒士原古處1。授c子弟業u。乃從受2句讀1。甞旱。村中乏v水。至2人各自守v田以灌漑1。大父亦以2乳命1往。讀2書隴上1。終日而無v所v得v水。父怒。即收v書不2復令1v得v讀。而終不2以v是自廢1。潜就2書肆1。酬v價借覧。蓋年十七八矣。始讀2源氏物語1而悦v之。曰。曾聞2紫氏難1v讀。今則不v然。又愛2唐白氏之文1。謂2其曠達之氣有1v足2以自養1也。文政初。辭v家遊學。自2浪華1如2紀州1。謁2藤垣内本居先生于和歌山1。先生視v之異2諸弟子1。一日代2先生1爲2諸生1講2紫氏1。先生從v傍聽v之稱v善。大父窃喜曰。予説果不v差矣。與2同門加納諸平1有2切偲之交1。諸平善作v歌。尤長2古體1。大父殊推2重之1。居數年。還在2浪華1。再抵2和歌山1。本居先生遇v之益厚。將3遂子2養之1。大父辭謝遜歸。入2京師1見2頼山陽1。問2律令于阿浪介山田翁1。與2書諸平1。論2 大友皇子之事1曰。即位之禮未v行。不v得v列2之 正統1。作2日本史1者非也。諸平曰。宜d據2事實1爲uv正。水史得v之。乃著2正統論1辨v之。諸平終屈。大父雖v好v遊。行用不2自給1。故所v至必有v所v主。在2和歌山1有2本居氏1。在2京師1有2山田氏1。而在2浪華1則有2醫家小串眞佐人者1。凡所2與遊1。多當世名士。而亦不2甚擇1v人。雖2一技一能1悉取焉。眞佐人毎語2諸生1曰。斯人必成v名矣。及d既膺2藩辟1。請遊c筑紫u。有d甞同寓2于小串氏1者u。與道2往事1服2其知言1云。十年正月十二日。妣岡氏歿。天保初。藝人作2嚴島圖繪1。大父往與2其事1。爲v人作v歌題2白藏主圖1。句中偶用2鄭子公食指動故事1。爲2杏坪頼翁所1v知。既而歸v國。或居2萩城1。或居2岩淵1。聚2子弟1論v文講v書。於v是田中芳樹之講説。歌2謠城中1。九年上2書藩主1。請d校2江家次第1上uv梓。明年二月遊2京師1。六月歸v國。十一月再遊。又明年十月。藩命召還嗣2近藤氏1。自v是常居2萩城1。十一月有v命召入講v書賦v歌。時諸儒臣有v召。輙以2諸生1自從。於v是亦命諸生倶入。賜v題徴v歌獻v文。稱v旨。賜v物賞2其教養有1v素。弘化四年三月十日。考源吉君歿。仲子嗣v家。嘉永二年。更2國學家1稱2儒者家1。掌v講2習國朝故事1。特旨給2學生二十口食1。開2塾城下1。命曰2抄宗寮1。五年二月遊2筑紫1。自2長崎1出2佐賀1。見2草場佩川1。燕2見於蓮池老君1。將v之2鹿兒島1。聞3國有2内訌1不v果。過2楊川1。立花侯迎v之。使2儒臣西原晃樹行1v命。還道2日田1。訪2廣瀬淡※[窗/心]1。六月歸v國。後又遊2南海1。講2書宇和島學館1。六年三月。藩主如2江戸1。臨v發命從v行。乃請後數日上v程。道2山陽東海1。所v過探v勝弔v古。四月達2于江戸1。其在2江戸1。掌v視2公膳1。與2邸學有備館事1。同2中村伊助1侍2公講莚1。常就2安積艮齋1正焉。明年二月歸v國。道出2越後1。過2會津1講2書日新館1。還居2京攝間1數月。安政三年遊2雲石二州1。五年正月如2京師1。四月歸v國。文久二年在2京師1。大父爲v人温良。與v物無v忤。然氣雅剛。有2與論爭1。則不v龍2少容1。必屈v人而後止。偶與2藩士1會。共論2當世顯貴人忠奸1。不v合。言極劇烈。少壯輩意頗不v平。邸吏懼2其生1v變。密諭避去。八月命探2藩祖遣蹟于越後1。明年三月還過2京師1。謁2藩世子于嵯峨天龍寺1。六月歸v國復命。八月復以v命如2京師1。元治元年五月歸v國。八月使2安藝及加賀1。既發在v途。使命中變。終不v果v行。更命與2藩學明倫館事1。補2講師1。尋轉2助教1。兼2國學講師1。七月受v命纂2録武門故事1。曰2武家故實部類用掛1。十一月又命編2輯藩祖事蹟1。參2密用方1。慶應二年十月。命撰2葬祭新式1。明年三月成上v之。明治二年正月。命入2京師1。建【丁】議興2國教1、信2爵賞1、禁【丙】庶人濫拜【乙】
神宮【甲】。九月自2京師1如2奈良1。先v是。朝廷賜v號祀2藩祖洞春公1。藩主將2新造1v宮。欲3事一沿2古典1。乃命旁捜2神祠故事1。於v是如2奈良1。※[言+句]2春日神式1。且謀v興2古樂1也。三年猶在2京師1。二月座2門生某之事1。拘2於藩邸1。無v何有v命歸v國。適廢v藩置v縣。任2山口縣少屬1。兼2補一等教授1。後改授2十二等官1。罷2教授1。撰2縣地誌1。遂徙居2山口1。八年地誌未v成。五月徴東上。依2木戸内閣顧問之薦1也。補2宮内省九等出仕1。八月罷2出仕1。更命2皇學御用掛1。初宮内省有2歌道御用掛1。而無2皇學御用掛1。有v之自2大父1始。九年一月。入侍2 歌莚1。與2福羽議官1竝命爲2點者1。後宮中新年歌莚。必拜2此命1。三月准2奏任1。毎【丁】 朝廷有v事。欲【丙】稽2於古1而施【乙】於今【甲】。輙必與議焉。 歴期故事。 皇兄弟 皇子稱2親王1。必依2 勅宣1。蓋始2于 光仁
光孝朝1。會2宮内省議將1v廢v之。下2議皇學歌道御用掛1。大父與2諸學士1。各上v議賛v之。自v是 皇子生即稱2親王1。 皇女稱2内親王1。無2復 勅宣1。著爲v令。五月從2 東巡1著2十符菅薦1上v之。十月改2皇學歌道兩御用掛1。併稱2文學御用掛1。大父與2三條西季知卿、福羽議官、高崎侍從番長1竝受v命。卜2宅于四谷仲町1居v之。先v是三年七月。 詔追2謚 大友皇子1曰2 弘文天皇1。至v此大父投2書要路1。頗論2可否1。慨d世之學者謬列2諸 皇統世次1。樹c異於日本紀u也。又以2 後宮之稱不1v合2古制1。上書請2改撰1。不v省。十二月 勅2文學御用掛1。撰2萬葉集注疏1。依2大父請1也。後及2致仕1。遂 勅止v之。十年一月。講2書 御前1。自v是一月進講。歳以爲v例。於v是史館修2 歴代皇親系譜1。依2慶雲格1。降及2五世王1。稿成上v之。或疑稽2諸齊衡彈正奏1。宜v從2大寶制1。因議將v正v之。特下2大父1議v之。四月上v議曰。謹按2大寶令1。自2 親王1五世。不v在2 皇親之限1。惟得2王名1。而慶雲天平。徇v情濫v恩。固一代之制。乃至2延暦1。遂停2後格1。一依2令條1。蓋九等之族。上不v上2五世1。下不v下2五世1。親盡故也。請從v所v議。削2五世王1。 制可。十一月敍2從七位1。十一年十二月。建議請d制2明治喪祭禮1。普頒c府縣u。曰近世喪祭。人各爲v禮。飲v酒食v肉。遊從無v度。莫2或以爲1v異。人情之亂。風俗之變。宜3及v今救v之。使2民徳有1v所v歸焉。八月 車駕 幸2北陸東海1。復命從v行。作2陸道記1。 勅2宮内大輔杉孫七郎1。撰v序行v之。十二年五月。會2木戸公三囘忌于岩倉右大臣第1。疾作。十月請致仕。 優旨超2陞從六位1。賜v金聽v所v請。今茲二月二十九日没。年八十。事聞。賜v資厚葬。三月四日。葬2于青山塋域1。大父既徴。在v職五年。 朝廷憫2其老1。特降2 恩澤1。敷召侍2 内宴1。賜v題上v歌。及v歿又有v命。上2歌集及寫眞1。平生於v酒無2涓滴之量1。
上甞 御2寒香亭1觀v梅。賜2宴諸文臣1。大父亦召入。親賜2 御觴1。 手酌賜焉。大父拜受引v滿。無2復難色1。退語2家人1曰。此酒不v可2復得1。雖v死臣不2敢辭1耳。前後三娶。或死或出。有2一子1。殤。後終無v子。養2藩醫松岡良齋之子1、有v故出v之。更請2藩主命。養2門人佐甲久要1嗣v家。即大人也。大父之學。蓋最邃2於律令制度1。其在2京師1。出2入公卿之門1。多讀2其家記秘説1。以自質2諸所1v聞。有2令義解標注之著1。博引旁證。撮v要拔v粹。以惠2於後學1。甞爲v人作v文。或譏2其平易近1v俗。大父曰。作v文.不v當v使2人難1v讀。譬2之行1v水。避v高就v下。莫2之或激1。莫2之或塞1。曲折緩急。順2其自然1。而姿致在2其中1矣。若夫艱深鈎棘。徒尚2古高1。則文不v足v用也。至3其言2紫氏1。則云。艶麗柔順。尤得2婦人之正1。人皆知v之。而不2善學1v之。所2以不1v免v有2脂粉之態1。蓋大父有v深2詣於紫氏1。以謂。有2魯史筆削之意1。欲v爲2之注1而不v果也。所v著有2標注令義解校本、標注職原抄校本、江家次第校本、大祓執中抄、四禮考、皇國名義考、古風三體考、正統諭、源語奥旨、明治孝節録、阿武乃杣板、風月集、月波集、丹霞日記、十符菅薦、陸道記、寄居歌談、歌談贅言、寄居隨筆、寄居歌文集等1。而四禮考、歌談贅言。今皆不v存v稿。武家故實部類未v成v稿。欲d梓2亡友靜間三積所v校新葉集1行c于世u。甞請2之宮内省1。亦終不v成。家大人召2久敬喪次1。親説2大父平生1。令d状2其行事1以藏c于家u。明治十三年十二月。不肖孫久敬奉2大人命1謹録。
 
 
萬葉集註疏卷一
 
   雜歌《クサ/\ノウタ》
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノミヨ》
 
 天皇御製歌《スメラミコトノオホミウタ》
 
泊瀬朝倉宮は雄略天皇の都にて帝王編年紀に城上郡磐坂谷也また大和志に在2城上郡黒崎岩坂二村間といへり○御宇は玉篇に御(ハ)治也宇(ハ)四方上下とありて治宇はヲサムと訓み來れゝば靈異記にも御(ハ)乎左女多比之《ヲサメタヒシ》宇は阿米乃志多《アメノシタ》また續紀卷卅に天下治給之とあれどこはアメノシタシロシメシシとよむが正しきなり。そは記に白檮宮治2天下1とあるを此集卷廿に可之婆良能宇禰備乃宮爾美也婆之良布刀之利多弖々安米能之多之良志賣之祁流《カシハラノウネビノミヤニミヤバシラフトシリタテアメノシタシラシメシケル》とあるをあはせて知べし○此下に大泊瀬稚武天皇の七字あるは後に書添へたるものなり。除くべし
 
籠毛與美籠母乳《カタマモヨミカタマモチ》。布久思毛與美夫君志持《フグシモヨミフグシモチ》。此岳爾菜採須兒《コノヲカニナツマスコ》。家告閉名告沙根《イヘノラヘナノラサネ》。虚見津山跡乃國者《ソラミツヤマトノクニハ》。押奈戸手吾許曾居《オシナベテアレコソヲレ》。師吉名倍手吾己曾座《シキナベテアレコソマセ》。我許曾者背齒告目《アヲコソハセトシノラメ》。家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》
籠は芳樹云、カツマと訓べし。堅津間《カタツマ》の約《ツヾメ》にて編る竹の目の堅く密《シマ》りたる籠《コ》なり。記に无間勝間之小船《マナシカツマノヲブネ》と見えたるは水の洩り入らさらむが爲に目を堅く密《シ》め作れるゆゑに无間《マナシ》といへるなり。こゝはそれとは異にてただ若菜を摘《ツ》み入るる爲の小さき籠《コ》ながら少女の手に提げ持つ器なるゆに目細《メゴマ》に美《ウツ》くしく作れるものにて委しくは六帖に「結びおきしかたみの籠だになかりせば何にしのぶの草をつままし」とよめる如く勝間《カツマ》の籠《コ》といふべけれど歌にはしかつづけ難ければただカツマモヨとのたまへるなり。【紀に堅間とあるもカツマと訓べし。後世になりてはおほくカタミといへり正徹のなぐさめ草に「里の子せりかなにかかたみにつみもちたる」とあるこことおなじ】これをコモヨと訓べきよし雅澄いへれど非なり、コとてはしらべもあしきのみならず記に八目之|荒籠《アラコ》、紀に大目荒籠などの荒籠にむかへて必ずカツマと訓までは目細《メゴマ》の籠《コ》なるよし知られぬなり○毛與《モヨ》は毛夜《モヤ》に同じき助辭にて記に「阿波母與賣《アハモヨメ》にしあれば」卷二に「吾者毛夜《アハモヤ》安見兒得たり」などみゆ○美籠《ミカツマ》の美は美稱なり○母乳は持なり○布久思《フグシ》は堀串《ホリクシ》なり、ホリのリはホラン、ホリ、ホル、ホレとやうの活用《ハタラ》く辭なれば義はホの一言にあり、そのホをフに通はしてフグシとのたまへるなり、和名抄に唐演]、※[金+巉の旁]犂鐵、又土具也。漢語抄云。加奈布久之《カナフグシ》とある類にて若菜の根をさし剪て堀り取るものなり○此岳《コノヲカ》は天皇の立出おはします丘にて名義は尾處《ヲカ》なり。記に香山之|畝尾《ウネヲ》などとみえたる山の裾野の小高き處の事にて處は字の如し、住處《スミカ》在處《アリカ》などのカ皆同じ○菜摘須兒《ナツマスコ》のツマスはツムの伸ばりたるにて採むに比ぶれはいささか尊むかたになれる辭なり、卷十七に「をとめらが春菜都麻須等《アカナツマスト》」とあるに同じ、こは蹈をフマス、立をタタス、刈をカラス、渡をワタラスなどいへる同例なり○家告閉《イヘノラヘ》を版本家吉閑と作るは誤にてイヘノラヘと訓べし。ラヘの約レなるゆゑに告禮《ノレ》の義なり。雅澄は閑は勢の草より誤れるにて家ノラセなり、卷三に「よし名者告世父母《ナハノラセオヤハ》知とも」の告勢に同しといへり○名告沙根《ナノラサネ》も雅澄云。沙は勢の轉にて名告勢《ナノラセ》に根の添たるなり、此根は希望《ネガフ》辭なり。委しくいへば家告沙根名告沙根《イヘノラサネナノラサネ》なるを一つの根にこめてのたまへるなり【中古の詞に名告レと乞ふを名ノリネ、刈レと乞ふを刈リネといふも全く同じけれど用格いささか異なり】といへり〔頭注、告勢に同じの勢は世の誤なるべし〕○虚見津《ソラミツ》は枕詞なり○山跡乃國《ヤマトノクニ》は今の畿内の大和なり。名義は芳樹考るに和處《ヤハト》なり、神武天皇以來久しく都し玉ひし處にて人氣の和《ヤハ》らげる國なるよしなり。ハとマとは近く通へり。仁徳天皇の津國|日女島《ヒメシマ》に雁の子産る事を建内宿禰にとはせ玉へる御製に「蘇良美郡夜麻登能久邇爾雁子産《ソラミツヤマトノクニニカリコウム》ときくや」と詔へるヤマトは後世皇國の惣號にいへるヤマトにはあらず。また畿内の大和にもあらねば高津宮のある津國をヤマトとのたまへるものなり。また績紀に天平十二年に山城相樂郡の恭仁郷に郡を遷し給ひて同十三年十一月に勅曰號(テ)爲2大養徳恭仁《オホヤマトクニノ》大宮1とみえたる恭仁は山城の地名なるをかくのたまへるこれら都のある處を夜麻登といへる明證なり。さればここは雄略天皇の宮敷ませる泊漸朝倉のあたりを山跡《ヤマト》とのたまへるものなり○押奈戸手《オシナベテ》、師吉奈倍手《シキナベテ》の押と師吉とは語をかへて文《アヤ》なせるのみにて同じ義なり、吉、版本告に作るは誤なり。押とは山跡の國内をのこる方なく押わたしてなり、師吉とは山跡の國内をことごとく知《シロ》しめす義にて祝詞等に太知立とも太敷立《フトシキタテ》とも通はしてありと記傳にみゆ○吾許曾居《アレコソヲレ》も吾許曾座《アレコソマセ》も居と座と言をかへて文《アヤ》なせるのみ○我許曾者《アヲコソハ》の曾字版本脱たり、我の下にヲをそへてみるべし○背齒告目《セトシノラメ》の背《セ》は夫《セ》なり。齒《トシ》は齡《トシ》の省字なればトシの辭に假用たり○御製の意は左手に勝間を提げ右手に布久思をとりて菜をつます女兒よ、汝の家はいづこぞ、朕《アレ》に告《ノ》れ、名は何といふぞ、朕《アレ》に告《ノ》れ、然らば朕汝を宮中にめして嬪御の員に備へん、此國はことごとく押なべて朕《ア》が知《シロ》しめす國なれば朕がいふことに背くものなし、朕をこそ夫《セ》として家をも名をもいふべけれ、とのたまへるなり。此一首上六句ただかつまを持ちふぐしをとりで若菜つむさまをつづりたまへるのみにて女の容貌《スガタにはのたまひ及ぼさねどもその華※[豐+盍]《キラキラ》しきさまその温柔《シトヤカ》なるふりの言外に溢れたる靜かにうたひこころみてこれを思ふべし。また下六句は天皇御自らの御うへを詔玉へり、そは女兒の身のうへを明させんとての御事にてその上と下との中間に家ノラヘ名ノラサネの二句を置玉へり。一首の旨とある所はこの二句なり。故に末三句「吾こそは背としのらめ家をも名をも」と結《トヂ》めて中二句にかへし合せたまへるここに眼をつけずば御うたの本意知られざらまし、これまでの注者この菜摘む女兒を等閑に看做ししゆゑにあたら御製をうまく解き得ざりしなり、さて此女兒よしや貴族の子にもせよかりそめにも主上の行幸《イデ》おはします御あたり近く立さまよひ菜摘み遊びつつ立隱れなどもせずまた天皇もそを遠ざけ玉はで親しく御歌を詠《ヨ》みかけ玉へるなど後世よりおもへばあやしきまで君民の際にも尊卑の隔なかりしさまの見えたるかかればこそ天下も穩《オダヒ》に治りたりけれ、これなん誠にかのもろこし人のほこりいふなる關雎麟趾の詩にも立まさりてめでたき御製とぞいひつべき。卷端におかれたるもうべなるかな
 
高市崗本宮《タケチノヲカモトノミヤニ》御宇天皇代
 
天皇|登《ノボリマシテ》2香具山《カグヤマニ》1望國之時御製歌《クニミシタマヘルトキノオホミウタ》
 
此宮は高市郡飛鳥岡にあり。故に岡本宮といふ。舒明紀に二年冬十月天皇遷2於飛鳥岡傍1是謂2岡本宮1と見ゆ○版本に息長足日廣額天皇の八字あるは後人の加筆なるゆえに除けり
 
山常庭村山有等《ヤマトニハムラヤマアレド》。取與呂布天乃香具山《トリヨロフアメノカグヤマ》。騰立國見乎爲者《ノボリタチクニミヲスレバ》。國原波煙立籠《クニバラハケムリタチコメ》。海原波加萬目立多都《ウナバラハカマメタチタツ》。※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニゾ》。蜻島八間跡能國者《アキツシマヤマトノクニハ》
 
山常庭《ヤマトニハ》の庭は爾波に借てかける字にて他國に對へて此|大和《ヤマト》にはといふてにをはの詞なり。村山は群山《ムラヤマ》にて朕《ア》が都とせる所の四方には山|群《ムラ》がりておほかれどその群山《ムラヤマ》の中に殊更に天香山はと此山を取出でのたまへるゆゑに有等《アレド》の等もじいと重し○取與呂布《トリヨロフ》とは草木の茂れるさまも山(ノ)容のうるはしき事も皆足りととのへるよしにて【後世甲冑をヨロヒといふも小手すねあてに至るまでことごとく足りととのへるゆゑにいへるなり】香具山を譽めたる言なり。さて後世に至るまで此山に限りて天乃《アメノ》といふ言を添へいふは神代に高天原なる香具山の降《モ》り〔頭注、降の一字にモとかなつけたるは筆者の誤かもしくは天の字を脱せるか〕落たりといふ説ありて伊豫風土記に伊豫郡自2郡家1以東北在(リ)2天山(ニ)1。倭(ニ)在(リ)2天(ノ)加具山1。自v天|天降時《アモリシトキ》二(ニ)分(レ)而以片端者|天2降《アモリ》於倭國(ニ)1以片端者|天2降《アモレリ》於此土(ニ)1と見えたり。集中に天降付天之芳來山とよみたる此故事によれるなり○騰立國見乎爲者《ノボリタチクニミヲスレバ》は上句天ノカグ山と言ひ斷《キリ》ててにをはの字《モジ》なき故に騰立の頭《ウヘ》に其山にてふ言を加へてこころうべし。國見は國の四方を望《ミサ》け玉ふをいふ○國原波煙立籠《クニバラハケブリタチコメ》の國原は岡本の都は更にもいはず香具山より見ゆる限の村々里々にて原とは廣き所のことなり。その村里の民の竈賑ひて煙の立籠めたるをのたまへるなり。煙は炊煙にて民富まざれば繁くたたず。故に民の貧富は炊煙にて知らるるなり。さればただ煙の立つとは異なり。日本紀竟宴に藤原時平の「高殿にのぼりてみれば天《アメ》の下|四方《ヨモ》に煙りて今ぞ富みぬる」と高津宮の故事をよまれたる同義ながら四方ニケフリテよりは立コメといひたらんかた煙の賑はへるさま見るがごとし。こを雅澄は煙立龍とある舊本に從ひて版本に籠の字をかきながらタツと旁訓つけたるを善しとしてタチタツとよみたれどさては下の立多都《タチタツ》と同じくて調べもわろく賑ひたつ状にも叶ひがたし。猶考・略解に從ふべし○海原波《ウナバラハ》は香具山の麓なる埴安池をいへるにて古は池をも海といへること卷三の獵路池を海といひ同卷に不盡山の絶頂なる池をも海といへるにて知べし。原は國原の原に同じ○加萬目、芳樹云。加萬目は水鳥の惣稱にて考、略解などに鴎のこととせるは泥めるなり。すべて味鴨《アヂカモ》鴛鴨《ヲシカモ》葦鴨《アシカモ》の類みな鴨群《カモメ》と云べければここはその種の水烏の群れゐるをもて加萬目と宣へるなり。さればカマメはカモメに同じ。卷三には鴨妻《カモメ》とあり。婁は群の假字なり。鴎もその一種にてはあるべし。但土佐人武藤平道云。鴎は海に住む鳥なり。海近き所の池にはすみもすべけれど大和は海なき國なれば鴎は居るべき所にあらず。といへるによれば鴎にはあらざる事しるし。さるをカモメの名の鴎の事となれるはいつごろよりか。思ふにそは夫木集に「寛平御時大井にてかもめ水になれたる、躬恒、すきをればいさごのいろにまがふ鳥てまどふばかりなれにけるかな」とあり。いさごのいろにまがふは白鴎なれば今いふかもめなること疑ひなし。さるを大井にてとかけるはたまたま難波の海より山城の大井川まで上り來たるならんか。和名抄に鴎【和名加毛目】水鳥也。兼名苑云。一名江※[燕の烈火が鳥]また類聚名義抄に鴎水鳥かもめ、江※[燕の烈火が鳥]かもめと見えたれば今の京よりこなたの書にはかく鴎をかもめと定めたり。されど萬葉のころカマメといひしは鴎の一種にかぎれるにはあらで上件にいへるがごとくなるべし〇立多都《タチタツ》は或は立てまた居、或は立てまた居て水面を去らず遊ぶさまなり。古義に往來の船に驚かされてしばしばたつなどいへるは更に合はず。こは民富み物處得たるさまをかくとりなしたまへるにて烟タチコメが仁政の民に至れる驗。鴎〔頭注、ここに鴎の字を書ける前説にたかへり加萬目と改むべし〕立チタツが仁政の物に及べる驗のみえたるを天皇の御自らの御うへに係れる事なるゆゑにただ烟と鴎との實景を述べ玉へるのみなり。されどもよく翫び味へばおのづから其義の知らるるぞかし○※[立心偏+可]怜の二字版本下上に誤れり。例によりて改む。諸注此二字をウマシと訓みたれど非なり。芳樹勘るにこは字鏡に※[言+慈](ハ)※[立心偏+可]怜也。心樂也。於毛志呂志【新撰萬葉集に讃2梅柳之※[立心偏+可]怜1とあるもオモシロキなり】といへるによりてオモシロシと訓べし。民賑ひ物處を得たるを見そなはしてこころに樂しくおぼす事にてウマシとは意少し異なり。さて※[立心偏+可]怜國曾の四字をウマシクニゾと一句によめれどこは※[立心偏+可]怜《オモシロキ》【句】國曾《クニゾ》【句】と五言三言に訓みこれにつづけて蜻島【句】八間跡能國者【句】と五言七言となして五三七五〔頭注、五三五七なるべし〕と結めたまへるものにてこれ長歌の一格集中におほし。御製の意は明らかなり
 
天皇|遊2獵《ミカリシタマヘル》内野1之|時《トキ》中皇命《ナカチヒメミコノ》使2間人連《ハシヒトノムラジオユヲシテ》1獻歌《タテマツラセタマフウタ》
 
内野は大和の宇知郡にある野なり○中《ナカチ》皇命の命は女の誤なり。中皇女は孝徳天皇の皇后間人皇女の事にて舒明天皇の御子なり。即ちその紀に立2寶(ノ)皇女1爲2皇后(ト)1。后生2二男一女(ヲ)1。一(ヲ)曰2葛城(ノ)皇子(ト)1。二(ヲ)曰2間人(ノ)皇女1。三(ヲ)曰2大海皇子1。と見えて葛城と大海との中に生れませる皇女なるゆゑに中皇女といへり。【中はナカチと訓べし。集中十四に等能乃奈可知とあり】紀にはもはら間人皇女また間人皇后とみゆ。舊くより御乳母の姓を御子の名とし玉ふ例《ナラハシ》あり。文徳實録卷一に未v機天皇誕生。有2乳母1姓神野。先朝之制毎2皇子生1以2乳母姓1爲2之名1焉。故以2神野1爲2天皇諱1とあり。されば間人の御名は御乳母の氏にて老はその乳母の兄弟なるべく乳母につきて御親しみあるゆゑに此者をもて歌を奉らしめたまへるものなり。孝徳紀五年二月の件に小乙下中臣間人連老とみえたるが此人なり。かくて此歌代匠紀には中皇女の仰にて老が作て奉れるなり。もし皇女のよませたまひて老をして奏ぜせしめたまへるならば御歌とあるべしといへるさることなり
 
八隅知之我大王乃《ヤスミシシワガオホギミノ》。朝庭取撫賜《アシタニハトリナデタマヒ》。夕庭伊縁立之《ユフベニハイヨセタテテシ》。御執乃梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》。奈加弭乃音爲奈利《ナカハヅノオトスナリ》。朝獵爾今立須良思《アサガリニイマタタスラシ》。暮獵爾今他田渚良之《ユフカリニイマタタスラシ》。御執能梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》。奈加弭乃音爲奈里《ナカハヅノオトスナリ》
 
八隅知之は枕辭なり。欽明紀に安《ヤスミマサン》2玄室1また續紀〔頭注、校正者云。續紀は續後紀の誤か〕五に其人等乃|和美安美應爲相言部《ニギミヤスミスベクアヒイヘ》また撰集抄に「清凉紫宸の間にやすみし玉ひて」などあるヤスミに同じく垂拱《ソデタレ》て安らかに世をしろしめす事にて【八隅の字はただ假てかけるのみ。天武紀續紀などに安殿《ヤスミドノ》とあるまた大極殿を太安《オホヤス》殿などいふも皆此義もて稱《タタ》へたるなり】ヤスミの美はマミムメの活用《ハタラキ》なり。即ち今世にヤスンズルといふが安ミスルの音便に壊れたるなり。かゝればヤスミはもと用言なるを【ヤスマン、ヤスミヤスム、ヤスメ】體言にして知之とつづけたるなり。そのシシは雅澄がいへる如くシラスにて足ラスを多ス、借ラスを可ス、減ラスを閇す、登ラスを能煩須、除ラスを阿麻スなどいふを思へば知ラスをも斯須といひけむこと知べし。然らば八隅知須《ヤスミシス》とこそいふべきに知之《シシ》としもいへるはうたふ語の一格にて青丹余之《アホニヨシ》奈良、鯨魚等利《イサナドリ》海《ウミ》とつづくると同例なりと記傳にいへり○我大王《ワガオホキミ》の我《ワガ》は親しみていふ辭なり。記に和賀意富岐美とあり。【此集十八に和我於保伎美加母また廿に和我於保伎美加母などあるによりて我字|和賀《ワガ》と訓べし。傳十八に和賀を萬葉には假字には和期吾期などあり。此は下の意《オ》へつづく故に賀意《ガオ》約まりて期《ゴ》となるを長く詠《ウタ》へばおのづから期意《ゴオ》となるなり。さる故に是はただ吾大君とつづく時のみのことなるを凡て吾を和期と心得るはひがごとなり〔頭注、細註の結文にト云ヘリの四字を脱せり〕】大王《オホキミ》は大君《オホキミ》と同じく天皇をさし奉れり。但大君とは天皇のみならず皇子以下なべて皇族の方々を稱《イ》ふ詞にて集中その例いとおほけれどここは天皇をさせるなり○朝はアシダと訓むべし。明時《アクシダ》の義なり。卷十四に「よひなはこなにあけぬ思太《シダ》くる」また「あほ思太《シダ》もあはのへ思太《シダ》も」など此外にもいと多き詞なるが皆時といふ意に用ゐたり。【朝をアサといふもアシタの約まれるなり】俗言に往クをユキシナ、還ルをカヘリシナなどいふシナもシダに同じく時の義なり。【雅澄は卷十一ニ「奥浪《オキツナミ》へなみの來よるさだのうらの此|左多《サダ》過て後こひんかも」てふ歌の左太も同言たるべしといへり。芳樹これによりておもふに源氏物語などに女の若き盛りの過たるをサダ過タリとあるを諸注に善惡をいふ定めのほどの過たるにて定《サダ》の義とおもへるは非にてこれも女の婚《トツ》ぐ時《サダ》の過たるよしなるべし】庭は爾波の辭《テニヲハ》にて夕庭《ユフベニハ》のニハに對《ムカ》へいへるなり○取撫賜《トリナデタマヒ》とは手に取持て撫《ナ》でもてあそび玉ふをいふ。そは朝《アシタ》には御獵に出たたせ玉はんとてまづ御手に取たまふなり○夕庭伊縁立之《ユフベニハイヨセタテテシ》の伊は發語なり。縁立之《ヨセタテテシ》は御獵はてて行宮《カリミヤ》に還幸《カヘラ》せたまへば御あたり近く縁《ヨ》せたてて置かせ玉ふなり。弓はもとより上一人をはじめ下々に至るまで寶として貴《タフト》ぶ物にはあれどここはさる意を含みてよめるにはあらず。【雅澄が説はあらす】こは御獵の時の現在《マノアタリ》のさまにて天皇の朝より夕まで御獵に御心すさみ玉ふさまを云つづけたるのみ○御執乃《ミトラシノ》の御《ミ》は天皇の御手に執給ふ弓なるゆゑにかくいへり。執之は執の伸りたる辭にて御佩之劍《ミハカシノツルギ》といふ佩《ハカシ》に同じ。雄略紀に天皇用v弓《ミタラシヲ》云々とあるも御みづからの御弓をいふ。トラシとタラシと同じ○梓弓《アヅサユミ》は梓の丸木弓なり。【兵庫寮式に凡御梓弓一張とみえたり】○奈加弭乃《ナカハツノ》の奈加弭は宣長云。中筈なり。古の弓に此製あり。芳樹云。本筈《モトハヅ》末筈《スヱハヅ》に對へて中筈といふ。こは矢を番《ツガ》ふ處の名にてここに音スナリとあるこれ矢を番ひて放つ響をいへるにて本と末とには其音のあるべくもあらねば中筈なることしるし。卷二に取持流弓波受乃驟《トリモタルユハズノサワギ》とあるも中筈の音なり。吾友佐々木春夫法隆寺所藏の丸木弓の圖をもたるに中筈あり。丸木弓ならんには矢を懸る所なくては射がたし。さればそこを中筈といはんことさもあるべし。【但田安宗建の玉函叢説に奈加筈は長筈なり。そは音あらしめん料に筈に玉鈴などを掛る故に筈をながくしたるをかくいふなり。といはれたり猶よく考ふべし】○音爲奈利《オトスナリ》はその中筈の音するを中皇女の御使に御獵場にまわりし老がまぢかく聞たるをいへり○朝獵爾今立須良之《アサカリニイマタタスラシ》は今立給ふらしの意なり○暮獵爾《ユフカリニ》云々はまことは朝獵のみにて再び夕獵に出たたせたまへるにはあらざらめどこは朝庭夕庭をうけて丈《アヤ》なしたるなるべし。故に反歌にはただ朝布麻須とのみありて夕のことはなし○今他田渚良之《イマタタスラシ》上に同じ○御執能梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》云々の四句は上にいひたることを再びいへるなり。さて短歌は更にもいはず長歌といへども結句《トヂメ》は七言なるが例なるをこの歌は本のかたにも「奈加弭のおとすなり」といひ末にもまた「なか弭の音すなり」と云て五言もて結《トヂ》めたるはいとめづらし○歌意は天皇の朝には御手に取もたして御獵に出玉ひ夕には行宮にかへらせ玉ひて物に縁せたておかせ玉ふ御弓の音がするは今朝獵に出まし給ひぬらんといへるなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
こは長歌に添ひたる反歌《ミジカウタ》なり。美自加宇多《ミジカウタ》と訓べし。考、略解その外これを加遍志宇多《カヘシウタ》とよめれど非なり。ひろく集中を通はして見るに卷一の長歌の端書に幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麻呂作歌竝短歌とありて奥の三十一言の歌の所に反歌とかきまた或は長歌のかたに輕皇子宿2于安騎野1時柿本朝臣人麻呂作歌とありて竝短歌の三字は旡く奥の三十一言の歌の處に短歌とあり.また或は從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌とのみありて奥の三十一言の歌の所に反歌とあり。卷二に明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首竝短歌とありて奥の三十一言の所にも短歌とあり。これより以下卷三より卷二十に至てその書樣《カキザマ》種々なれどおほくは長歌の端書に歌竝短歌として奥の三十一言の所にはおほかた反歌とかける例なり。【また卷十九には短歌を反詠とかき卷十七には短歌二首を二絶ともかけり】されば反歌とあるも短歌といへるに同じくてこれを反とかけるは芳樹按ふに短と段と音通ひて段の草を古書に※[草書]《タン》とかけるが多し。此|※[草書]《タン》を短に假り用ゐたるがいつとなく反になれるなり。故に集中に此反字を假字に用ゐたる例卷十一に「人事の繁き間もりて相《アヘリ》とも八反《ハタ》吾上に事のしげけん」とある如き將《ハタ》に借て書たるをみるべし。されば反歌はもとより音によめばタンカにて訓によめばミジカウタなり。古今集眞名序に逮2于素盞鳴尊1到2出雲國1始有2三十一字之詠1今反歌之作也といひてまさしく三十一言なるを反歌といへる明證なり。舊く仙覺が抄、京極定家の長歌短歌説等を始め中古の書どもにはみな反を短とかよはしてミジカウタとよませたり。後世になりて反を短に通はすべきよし勘へ出たるは伏水の龍草廬といふものなり。そのよし伴蒿蹊の閑田次筆にみゆ。委しくは予が著はせる古風三體考にいへり
 
玉刻春内乃大野馬數而朝布麻須等六《タマキハルウチノオホヌニウマナメテアサフマスラム》。其草深野《ソノクサフカヌ》
 
玉刻春は枕辭なり○内乃大野《ウチノオホヌ》は大和の宇智郡の野なり。野は努《ヌ》と訓べし【集中にも卷五に波流能能爾《ハルノノニ》、卷十八に夏能能之《ナツノノノ》のなど野を乃《ノ》とよめるもみゆれどこは奈良の御代のすゑよりかつかついひそめたるなるべし。舊くはみなヌと訓めり】○馬數而《ウマナメテ》は天皇の扈從の諸臣と馬を乘ならべ賜へるをいへり。然るを數字をナメテと訓るはその馬の數多きゆゑに多ければおのづから竝ぶを以てかくかけるなり。さて馬は宇麻と訓べし。後世假名に無麻《ムマ》とかくは誤なり。集中卷廿に牟麻能都米《ムマノツメ》とあれどこは和名砂に馬和名|無萬《ムマ》などかけるに倣へるにて〔頭注、和名抄に馬和名無萬などかけるに倣へるにて云々此集の文字を和名抄によりてかけりしやう聞ゆるはいかか但和名抄に馬和名無萬なとあるに倣ひて後人の寫し誤れるにてなどあるべきを書誤れるにや〕卷十七に字麻奈米弖とあるが正しきなり。【梅を牟米といへるもこれに同じ】されば和名抄にも漢語抄、日本紀私記、本朝式、辨色立成、和名本草などを引たる所にはいづれも宇麻《ウマ》とあり。無萬《ムマ》とかき始めたるは和名抄の出來たる頃よりなるべし。此事古義に委しくいへり○朝布麻須等六《アサフマスラム》は朝とく獵場に出給ひて鳥獣の深き草村に猶伏し隱れて居るを蹈起し蹈みたてたまふらむといへるなり○其草深野《ソノクサフカヌ》の其は二句の内の大野をさせるなり。此野草深き野あるゆゑにかくいへるなり【考、略解にクサフケノと訓み夜ノフケユクと田ノフケ田とを同格とおもひて引るは誤なり。夜のふけゆくにはフケ、フク、フクル、フクレと活用きてフケ田のフケとは異なるをや
 
《イデマセル》2讃岐國安益郡《サヌキノクニアヤノコホリニ》1之時《トキ》軍王《イクサノオホキミノ》《ミテ》v山《ヤマヲ》作歌《ヨミタマヘルウタ》
 
舒明紀十一年十二月に幸2于伊豫温湯宮1。十二年夏四月至v自2伊豫1。便居2厩坂宮1とみゆ。此時ついでに讃岐にも幸ありしならん。幸はイデマセルと訓べし。記傳云。行幸を古くは伊傳麻之《イデマシ》と云り。【萬葉に行幸幸行などあるも然訓べし】また紀に天皇ならでも幸行《イデマシ》と多くかけり。此語もとは出る意に云つるにも有べけれど必さならでもただ行賜ふにも來賜ふにもいへり。【今の俗語に御出ナサルといふを行にも來にも用るも同じ心ばへなり】天智紀童謠に「うちはしのつめのあそびに伊提麻栖古《イデマセコ》云々|伊提麻志能《イデマシノ》」また萬葉八に「やみならばうべも來まさじ梅花さける月夜に伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》〔頭注、麻左自常屋の下になとありの結語を脱せり〕」○讃岐の岐を記傳に濁音とせれど天智紀、持統紀に讃吉とあれば清てよむべし○安益郡は和名抄に讃岐國阿野【綾】郡【國府】とあり。後拾遺集にあやの川原とよめる歌みゆ。ここなるべL○軍王勘ふる所なし。王はオホギミと訓べし。但上代に某王と御名の下にある王はみなミコと唱來しを後に親王といふ號出來てより親王をミコといひ親王ならぬ諸王をオホギミと唱へわくる事となれり【その親王の號は天武紀四年に始てみえたれどなほそれより以前に起りつらん。さるにより彼頃に既《ハヤ》く親王をミコ、諸王をオホギミと唱ふる定にはなれるなるべし。オホギミといふは汎稱にて天皇を始め親王諸王皇族の限にはみな渉れる名なればまことは親王をばミコノオホギミ、諸王をばミヨノオホギミ、イツヨノオホギミなど云べきを親王にはオホギミの字を除き諸王をば三世五世などの字を除きて名目としたるは簡便に隨へるなり】
 
霞立長春日乃《カスミタツナガキハルヒノ》。晩家流和豆肝之良受《クレニケルワヅキモシラズ》。村肝乃心乎痛見《ムラキモノココロヲイタミ》。奴要子鳥卜歎居者《ヌエコドリウラナゲヲレバ》。球手次懸乃宜久《タマダスキカケノヨロシク》。遠神吾大王乃《トホツカミワガオホキミノ》。行幸能山越風乃《イデマシノヤマコスカゼノ》。獨座吾衣手爾《ヒトリヲルワガコロモデニ》。朝夕爾還此奴禮婆《アサヨヒニカヘラヒヌレバ》。丈夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》。草枕客爾之有者《クサマクラタビニシアレバ》。思遣鶴寸乎白土《オモヒヤルタヅキヲシラニ》。綱能浦之海處女等之《ツナノウラノアマヲトメラガ》。燒塩乃念曾所燒《ヤクシホノオモヒゾヤクル》。吾下情《ワガシタゴコロ》
 
初句は長き春日のうららかなるをいはんとて置ける詞なり。上件にいへるごとく十一年の十二月に伊豫に行幸《イデマ》せればその翌年の三月頃還幸のついでに安益《アヤノ》郡に立よらせ給へるなるべし。霞《カスミ》のカスは幽《カスカ》のカスにてミは活用《ハタラク》【マミムメ】辭なり。春は草木の萠《モエ》立つ氣の煙りわたりて山野のながめ幽かに明らかならで夕のほど暮たると暮ぬとのけぢめもよく別らぬを「晩にけるわづきも知ず」といへるなり○和豆肝《ワヅキモ》のモは辭にてワヅキは古義云。ワキモシラズといふに中に豆もじのそはれるにや。十二に「中々にしなばやすけむ出る日のいるわきしらずわれし苦しも」とよめる如く旅に久しくありてふるさとをこひしく思ひくらして長き春日なればくるるわきもしらずとなるべしといへり。されどワキを和豆伎《ワヅキ》と云べくもあらねば猶豆は衍文とみて姑くワキモシラズと六言に訓てあるべし。卷四に「よるひると云別不知《イフワキシラニ》」卷十一に「月之有者明覧別裳不知而《ツキシアレバアクランワキモシラズシテ》」其外かれこれあり。といへり。げにワヅキと云詞外に例もなけれど考にも「分ち着《ツキ》も不知也|手着《タツギ》てふに似て少し異なり」といひ、略解もこれに依れば姑く隨ひてワヅキモと訓べき歟。さるは此一首の内に外に六言もなければ此一句のみかかるべくもあらぬここちす。猶よく考べし○村肝乃《ムラキモノ》は枕辭なり○心乎痛見《ココロヲイタミ》は宜長云。風を痛み、瀬を早み、春を淺み、秋深み、山高み、月清みなど乎を添へていひ除きてもいへれどミはサニの意になりて風をいたみは風が強《イタ》さに、瀬をはやみは瀬が早さにの意なりといへり○奴要子鳥《ヌエコトリ》は※[空+鳥]《ヌエ》といふ鳥のことなり。其鳥の鳴音の恨み哭《ヲラ》ぶが如きゆゑに卜歎《ウラナゲ》の枕辭とせり。卜《ウラ》は裏《ウラ》の借字なり。考云。裏歎《ウラナゲ》は下になげくにて忍音をいへり。然れば※[空+鳥]《ヌエ》よりは恨嶋《ウラナキ》と云て受る言は裏歎《ウラナゲ》なり。卷十七に「奴要鳥《ヌエトリ》の宇良奈氣《ウラナゲ》しつつ」云々○珠手次《タマダスキ》は懸《カケ》の枕辭なり。古義云。珠《タマ》は美稱とも云べけれと按ふに珠は借字にて把手次《タバダスキ》ならんか。婆と末と親く通へり。さて其|結法《カケヤウ》は左右の袖口より背《ウシロ》へ貫通《トホシ》て後のかたに引縮《ヒキシジ》めて結ぶを今俗にたまだすきといへり。古へのもしかせしをぞ云しならん。嵯峨野物語に「内々の鷹をつかふ時は大ををとりてたまたすきをあぐるなり」東齋隨筆に「米をば穀倉院よりめしよせて殿上の小庭にて貫首以下藏人出納など檢知して小舍人玉たすきして量りけり」などあるも今俗にいふと同じかるべし。さるは常に兩端をあはせ繋《ツナ》ぎて左右の袖をかかげ肩にかくるたすきとはいささか異《カハ》りて袖を甚《イタ》く引しじめ把《タバ》ぬるゆゑ把手次《タマダスキ》といふなるべし。【珠を美稱としては今俗にすべてかかる物にさる美稱をそへいふことなければいかがなり。且たすきの中に取わきてしかいへるもきこえがたきことなるをや】手次《タスキ》は神代紀に以v蘿爲2手襁1【多須枳】とありて字鏡に襁負兒帶也。須支【今俗には須氣《スケ》といへり】とあるを思へば兒を負帶をいふが本にて袖をかがぐる帶をば手よりかくる故に手須伎《タスキ》とはいふならん○縣乃宜久《カケノヨロシク》の縣は言に懸ていふことにて下に還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》とあるこれ風の袖を吹かへす事なるを袖のかへると家にかへると言同じく相應したるを喜ぶ意にて宜久《ヨロシク》の言は句を隔て還比《カヘラヒ》ヌレバにかかるなり。故に支といはずして久といへるものなり。卷十に子等名丹闕之宜《コラガナニカケノヨロシキ》朝妻之の闕《カケ》も同じ○遠神吾大王乃《トホツカミワガオホキミノ》の遠神は天皇は常人と境界《サカヒ》遙かに遠く隔たれる神なるよしにてかくいへり。大王《オホキミ》は上にもいへる如く皇族の泛稱にて親王諸王にもいへどもここは天皇を指し奉れるなり○行幸能山越風乃《イデマシノヤマコスカゼノ》は此度行幸ありし安益郡の山を吹越す風のとなり。端書に見山作歌とあればこの山こす風が一首の主なり【ヤマコシノカゼと訓めるはわろし】○獨座吾衣手爾《ヒトリヲルワガコロモデニ》の獨座は旅宿に獨をるにて家ならば妻子と共に物かたらひて長き日を慰めましをひとり淋しく居るままに立出て宿に對《ムカ》へる山をみればその山を吹こす風の吾衣手を吹かへすよしなり【衣手は袖 に同じ】○朝夕爾還比奴禮婆《アサヨヒニカヘラヒヌレバ》の朝ヨヒは【後世アサユフといふに同じ】晝のほどの朝より夕までの事にて夜いねたる事にはあらざるなり。故に徒然《ツレヅレ》のままに旅宿を出で山を見たるなり【然るを古義に山吹越す風にことに身にしみて寒さに堪がたければいよいよ本榔思《クニシヌビ》の情《ココロ》をますさまなり。妻とふたり宿《ネ》ばかかる山越の風もさのみ寒からじと思ふより云るがいとあはれなり。さて此詞にておもへば春もいまだはじめなりけるにや、二月も猶寒き年多ければ二月にや。といへる獨居を獨寢の事として解たるは反歌に寢夜不落《ヌルヨオチズ》とあるより勘へ及ぼしたる説と思はるれど晝の事なる證は端書に見v山作歌とあるにて明らかなり。夜る山を見ることはあるべくもあらねばなり。さて長歌にいひのこせる夜のさまをば反歌にいへるものなり。また吹風の寒きにつけて二月にやといへるなども非なり。その時節の二月比にはあるまじき事は上件に委しくいへるが如し〔頭注、委シクの三字衍なるべしそは上には翌年の三月頃還幸のついでに云々といへるまでにてしか委しくその時節につきて論へる件は見えたらぬをや〕】還比《カヘラヒ》ヌレバは立出て山をみれば山より吹越す風の袖を吹かへすにつきて去年の十二月より今年の春かけて久しく旅にをれば早く家に歸らまほしとおもふ時しもかく風に袖のかへるは家にかへるの前表にて心にうれしく思ふよしにて上の縣ノヨロシクが即ちここに係れるなり○丈夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》はわれは丈夫《マスラヲ》なればよしや旅に久しく居ればとてをめをめと心を痛め家を思ふなどやうのこころはもたじとかねておもへるをかく風に袖のかへるにつきても人情をばえ遁《ノガ》れあへず客《タビ》にしをればといふ意なり○思遣鶴寸乎白土《オモヒヤルタヅキヲシラニ》の思遣《オモヒヤル》はここは家を思ふ情をよそに遣り失ふをいふ。字鏡に跳※[足+肖](ハ)遊(バス)v意(ヲ)之貌、心也留とあり。古今集に「我戀はむなしき空にみちぬらし思ひやれども行かたもなし」とあるみな同じ義なり。和訓栞に神名式但馬國氣多郡に思往神社ありてオモヒヤリとよめりといへり。これらみなここの思遣にかなへり。類聚名義抄に想像【オモヒヤル】伊呂波字類抄に想像【オモヒヤル】遣懷【同】と見えたる想像はここの義《ココロ》ならねど遣懷はここのオモヒヤルに同じ。【萬葉には想像の義のオモヒヤルはなし】鶴寸《タヅキ》も白土《シラニ》も共に假字にて手着《タヅキ》を不知《シラニ》なり。タはそへたる詞ツキは古義に古今集に「人にあはんつきのなきには」とあるツキと同言にていづれのすぢに便りて寄著ば思ひをはるけやらんともしらぬをいふ。白土《シラニ》の爾《ニ》は不爾《ズニ》といふ意を含める古言なり【爾はもと自に同じく書紀の歌に和素羅珥《ワスラニ》また阿羅珥などいへる不忘《ワスラジ》不有《アラジ》といふ意にて珥も自も共に五十音第二位の言にて將然ときにいふ詞づかひの定なりしを後に那行の第二位の言を濁音に通はして自とのみ云て珥と云ことはうせはてたり。さて不知をシラニといふも其定シラジといふ意なるべきにそれとはまた異にて不知爾《シラズニ》といふ意を含みたる古のひとつのいひざまとなれり。然るに今京となりては絶失て必シラニといふべき勢ひの處をもなべて知ズとのみいふ事となれるは不便なることなり。かくいはではかなはぬ所おほかるをや。上古は詞づかひ狹かりしを後世になりて詞開けたりと思ふはかたはらいたきわざなり】○綱能浦《ツナノウラ》、和名抄に讃岐國鵜足郡津野【都野】とあるこれなり。但大町稻城といふ人は綱は綾の誤なり。アヤノウラと訓べし。即ち端書なる安益郡の浦なり。上件にひける和名抄の綾また景行紀に武卵王(ハ)是(レ)讃岐綾君之始祖也〔頭注、武卵王書紀の板本にはかくあれと其上に吉備宍戸武媛生武鼓王與十城別王其兄とつつけて書たれは卵は鼓の誤なること疑ひなしかかればここも其誤を正して引へし〕その外續紀、續後紀などにも綾氏あり。これらその據なり。【今は綾の北條、綾の南條とて二郡に分てり。安益郡もとより海を帶たればかの郡の海邊にて綾の浦とはよみたまへるなり。といへり】主計式に讃岐國調云々阿野郡輸2熬塩1とあるをおもへば綾の浦のかた燒鹽に縁あり。と古義にいへり。津野は安益郡ならねば綾のかた然るべきか。猶考べし○海處女は海人《アマ》は海上にで産業《ナリ》をなすものの通稱にて男女に渉れる名なり、それゆゑここのみならず卷六卷七卷九に海未通女《アマヲトメ》、また卷六に海童女《アマヲトメ》海※[女+感]嬬《アマヲトメ》などあるみな同じ。處女《ヲトメ》とかけるは壯なるを以てなり。されば記傳に倭建命の御歌に袁登賣能登許乃辨爾和賀淤岐斯都流岐能多知《ヲトメノトコノベニワガオキシツルギノタチ》云々とある美夜受比賣にて既に御合座て御刀をそこに置給ひしことなり。といへるが如くここに處女《ヲトメ》とかき此外にも本集に未通女《ヲトメ》などかけるは字を借て若き女の事に用ゐたるのみにていまだ嫁《トツ》がぬ童女をさしていへるにはあらざるなり。ゆめゆめ字に泥みて處女また未通女また童女などかけるをひたすらの童と見做すことなかれ【但此詞もと男を遠登古といへるに對へたる稱なれどヲトコとは童なるをばいはず。故に中昔に元服したるををとこになるといへり。然るに女は童なるをもヲトメとふは記傳にひたすらに若きを愛るがゆゑにやあらむといへり】○燒鹽乃《ヤクシホノ》までかけて三句【「綱の浦のあまをとめらがやく鹽の」の三句なり】は念曾所燒《オモヒゾヤクル》をいはん爲に其所のさまもて所燒《ヤクル》の序とせり○念曾所燒《オモヒゾヤクル》とは胸におもひの燃えこがるるをいふ。卷十三に我情燒毛吾有《ワガココロヤクモワレナリ》、十七に心爾波火佐倍毛要都追《ココロニハヒサヘモエツツ》、榮花物語に「あさましう心うき事をいひ出て人の御むねをやきこがし」【この胸はこの下情《シタゴコロ》に同じ】古今集に「人にあはんつきのなきにはおもひおきて胸はしり火に心やけをり」【この胸も下情なり】○吾下情《ワガシタゴコロ》の下は裏《シタ》なり。心のうちに隱《コメ》て表《ウヘ》に顯はさぬをいふ。下待《シタマチ》下問《シタドヒ》中延《シタバヘ》などの下《シタ》みなおなじ意にて心裏《シタ》のことなり。されば念ゾヤクルを下情《シタゴコロ》の下《シタ》にうつして表《ウハ》べには丈夫《マスラヲ》つくりてあらはしもせねど心の裏《ウチ》には還らまはしき思ひの燒が如く苦しきよしをよみたまへるなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
山越乃風乎時自見《ヤマゴシノカゼヲトキジミ》。寐夜不落家在妹乎《ヌルヨオチズイヘナルイモヲ》。懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》
 
時自見《トキジミ》は風の晝夜の分もなく時ならず吹をいふなり。此卷に「三よし野の耳我嶺《ミミガノミネ》に時自久《トキジク》ぞ雪はふるちふ」卷三【不盡山歌】「時自久曾《トキジクゾ》雪はふりける」【これらみな時ならす雪のふるをいへるなり】また【筑波山歌】「冬木なす時敷《トキシク》ときと見ずでゆかば」【こは上りて見るべき時にあらすとてなり】卷四に「いつもいつもきませわが背子時自異目やも」【いつとても時ならずと云ことあらめやはなり】卷八【六月の歌に】「非時《トキジク》藤のめづらしき」【時ならず咲る藤のなり】などあるにて意得《ココロウ》べし。橘を紀に非時香菓《トキジクノカグノコノミ》といふも夏よりなりて秋を經、冬の霜雪にもよく堪へまた採て後も久しく堪て腐敗《ソコナハ》れず時ならぬ比にもいつもある物なればなりと記傳にいへるが如し○寢夜不落《ヌルヨオチズ》は此卷に八十阿不落《ヤソクマオチズ》、卷四に「けせる衣の針目不落《ハリメオチズ》」などの如く一夜も落ずの意也○家在妹《イヘナルイモ》とは家に在る妻なり。記傳云。伊毛とは古へ夫婦にまれ兄弟にまれ他人《ヨソビト》どもにまれ男と女と雙ぶときに其女を指て云稱なり。然るをやや後には女どちの間にても稱《い》ふこととなれりき。さて妹字をしもかくは此稱に正しく當れる字のなき故に姑《シバラク》兄弟の間の伊毛に就て當たるものなり。ゆめ此字に泥みて言の本義を勿誤《ナアヤマ》りそ○懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》は心に懸て慕ひつなり。【略解はいささか解ざまたがへり】長歌に懸乃宜久《カケノヨロシク》とあるは言につきていひここは心につきていへるにて懸の義はおなじ。小竹《シヌ》びつは戀慕ふ意なり【すべて志奴布とは戀慕ふをも賞愛《メデウツクシ》むをも密隱《カク》るるをも堪忍《タフ》るをもいふ中に戀慕ふ意に用たるが多し。また古今よりこなたの歌には密隱《カク》るると堪忍《タフ》るとにいふが多し。古義に慕ふ意なると愛む意なるとは近くして相通ひて聞ゆること多し。いづれをかわきて之奴波无《シヌバム》とやうにいへるは愛む意ながら慕ふ意にもわたりてきこゆるがごとし。すべて愛《ウツクシ》まるるものをば慕ふものなれば落る處はひとつなり。さて又隱るる意なると堪る意なるとは近くしてこれも相通ひて聞ゆること多し。志奴比不得《シヌヒカネ》などいふに隠れかぬる意にも堪かぬる意にもわたりて聞ゆるがごとし。されば隱るるかたは堪へ忍ぶるより轉《ウツ》れるものなるべし。其は顯はにせまほしき事をも強て堪忍びて押へつつむ意より隱すことにもなれるなり。さてこの二つと慕ふ意たると愛む意たるとの二には意いと遠くして本より別言のごとく聞ゆれどもこれもよくおもへばもとは同言なるべし。さればそれとうはべには色に顯はさずおさへつつみて心の裏にて慕ひ愛む意より云へるにてこれも堪忍ふ方より出たることなるべし。此の言は清て唱ふべし】歌意。山を吹こし來る風のいつといふ時をも分たず眠らんとすれば吹き驚かすほどに家にととまり居る妻のことを心にかけて慕《シヌ》びのみ明す事よといへるなり
 
右檢2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰。紀曰。天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午。幸2于伊豫温湯宮1云云。一書云。是時宮前在2二樹木1。此之二樹班鳩此米二鳥大集。時勅多掛2稻穗1而養v之。乃作v歌云々。若疑從2此便1幸之歟
 
こは題詞の下に紀を引ていへる如く十一年の十二月伊豫に行幸ありて十二年に還幸ありしかばそのおほん便《ツイデ》に讃岐國に立よらせたまへるにこそ。さるにとりては一書云々の四十五字をここに載せたるは无用《イタヅラ》なる事なり。こは古義に三卷赤人の伊與の湯にてよめる歌の處に引べしといへり
 
明日香川原宮御宇天皇代《アスカノカハラノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノミヨ》 【天豐財重日足姫天皇(例によれば除くべし)】
 
明日香は大和國高市郡飛鳥なり。川原宮は同郡岡本飛鳥二村の間にあり○天皇は齊明天皇なり〔頭注、齊明天皇の齊明は皇極の誤なるべし〕。但皇極紀に元年十二月壬午朔壬寅天皇|遷2移《ウツリマス》小墾田宮1。二年夏四月庚辰朔丁未自2權宮1移2幸《ウツリイデマス》飛鳥板葢新宮1【權宮とあるは上の小墾田宮の注に或本云遷2於東宮南庭之權宮1とみえたるこれなり】と見え齊明紀に至り元年【中略】是冬災2飛鳥板葢宮1。故遷2居飛鳥川原宮1。川原宮に御座《マシ》し事は見えざれどもそは脱漏《モレ》たるものにて二年の末より四年までの間に川原宮へ遷り座しなり。諸陵式に越智(ノ)崗上(ノ)陵【飛鳥川原宮御宇皇極天皇。大和國高市郡。兆城東西五町南北五町。陵戸五烟】とあるにて灼然《シル》し。神皇正統紀に「壬寅の年即位、大倭の明日香川原宮にまします」とあり。其外皇代紀、如是院年代紀、皇年代略紀、神明鏡、時代難事等にも皇極天皇明日香(ノ)川原(ノ)宮に御宇しよし記せり。併せ考ふべし
 
額田王歌《ヌカタノオホキミノウタ》
 
天武紀に天皇初娶2鏡王(ノ)女《ムスメ》額田姫王1生2十市皇女1【鏡王の下諸本女字を脱せり。今校本に從ふ】とある鏡王またの名を額田王といへり。即ち此|金野《アキノヌ》の歌よみ玉へるが其人なり。亡友加納諸平云。この鏡王の女《ムスメ》鏡(ノ)女王に天智天皇の賜ひし御製に「妹が家も繼て見ましを山跡有《ヤマトナル》大島(ノ)嶺《ネ》に家もあらましを」と見えたる大島嶺は葛城山に連なれる山の名なるべく即ち平群郡なる證は後紀大同三年九月戊戌幸2神泉苑1。有v勅令2從五位下平群朝臣如是麻呂(ヲシテ)作1v歌(ヲ)曰。伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可於保志万乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留。皇帝歡悦即授2從五位上1【類史】と平群朝臣が身の沈めるを大島の尾花の裔とよめるにて知るべし。また卷八鏡王(ノ)女歌「神奈備乃伊波瀬之杜乃喚子鳥いたくななきそ吾戀まさる」とある石瀬杜も平群郡神南村東車瀬村にありて六帖に「立田山たちなば君が名ををしみいはせの杜のいはじとぞおもふ」ともよみあはせたり。猶いはば大和國城上郡粟原寺の塔の露盤の銘に此粟原寺者仲臣朝臣大島云々|奉d爲《オホンタメ》大倭國淨美原(ノ)宮(ニ)治《シロシメス》2天下1天皇(ノ)時云々u敬造2伽檻1之尓故比賣朝臣額田云々と見えたる中臣大島の名と比賣朝田額田の名と共に地名なるぺければ平群郡に額田大島嶺ある證とすべし。さてその額田に住れしかば其《ソ》を地名|以《モ》て世には額田(ノ)王といひけめどこは稱名《タタヘナ》にて諱は鏡なりけん。かかれば額田は稱名、王は姓、鏡は名とやうにこころうべくこそ。さて此王の世に用られし事ども集中齊明天皇の從駕にて近江、紀伊、伊豫にものし給ひ天智の御代には天皇と内大臣と春秋の競ひし給へりし判者にもなり玉ひ蒲生野の御狩に天武天皇に歌奉り持統の御代に弓削皇子との贈答、また同じ天皇吉野より松枝を贈りて王を祝ひ給ひけんとおぼしきに酬奉れる歌などあり。子孫たちの年歴より推すに推古の御時にうまれて持統の御代には齢八十にもあまりておはしけん。女君ふたり持たまへり。一人は居地《ヰドコロ》によりて額田姫王といひ一人は諱によりて鏡女王といへり。【この姫王たちの事はその歌のある所にくはしくいふべし】猶つばらに嚶々筆話にみえたり。然るを考にここの歌の題を額田姫王作歌と改めて女王とし略解は本のままに額田王歌とは載せたれども考に隨ひてこを女王なりと註し古義も是によりたるみないみじき誤にて男王なる證つぎつぎいふをみるべし
 
金野乃美草苅茸《アキノヌノヲバナカリフキ》、屋杼禮里志兎道乃宮子能《ヤドレリシウヂノミヤコノ》。借五百磯所念《カリイホシオモホユ》
 
初句秋に金字を借れるは五行に配して秋は金なればなり○美草は宣長云ヲバナと訓べし。貞觀儀式大嘗祭條に次黒酒十缶云々以2美草1飾v之また次倉代十與云々飾學以2美草1と見えて延喜式も同じ。然れば必ず一種の草名なり。古へ薄を美草と書ならへるなるべし。眞草の意ならんには式などに美草と美字を假字に書べきよしなし。といへり。【古義にこの説を難《モド》きて式に召2市人1令v奏2調獻物料絹1以2美木1爲v軸云々とあるを引き美草美木はたた美しき草木をいへりと思はるれどもこにはあづからぬ事なるべしといへり。けにこはさもあるべし。かからば美草はビサウと訓べく美木はビボクと訓てこと物なり】是をもておもふにいかにも美草をミクサと訓むこと例もなければなはヲバナと訓んや然るべからん。元暦本にもしかよめり。卷八に「波太須珠寸尾花|逆葺《ヲバナサカフキ》くろ木もて造れるやどは萬代までに」卷十に「※[虫+廷]野之尾花苅副《アキツヌノヲバナカリソヘ》秋はぎの花を葺核《フカサネ》君がかりほに」などと屋葺をばみな尾花とあり。これによれば美草をばヲバナと訓べくおぼゆ○屋杼禮里志《ヤドレリシ》は過去の辭にてむかしやどれりし事のありしよしなり○兎道乃宮子《ウヂノミヤコ》は山城の宇治郡に造られし行宮のある處の事にてコは所《コ》なり。ここは大和より近江にゆく路次にて山水の望《ナガメ》宜しき所なるゆゑに既《ハヤ》く雖宮を建置せ玉へるなるべし。さるは此程齊明天皇の御代なれど大政はみな皇太子【天智】の御心のままなりしゆゑに近江の地形|叡覧《ミソナハセ》奉らんとて天皇をも進め行幸を促し玉ひつらんが宇治に御心とまりて一日二日はとどまりもし玉へりけんとおもはるればその時などの歌にやとおぼし。宮子としもよみ玉へるはただ一夜の御旅舍《ミタビヤドリ》にはあらざりけんとおもはる〇借五百磯併念《カリイホシオモホユ》【磯板本機に誤れり】は假廬所思《カリイホオモホユ》なり。こは從駕の人々の假廬《カリイホ》なり○歌意は近江に行幸の時山水の眺望《ナガメ》よしとて宇治の離宮にとどまらせ玉ひしをり從駕の人々の旅やどりせし借廬のをかしかりし事の異所《ヨソ》よりも身にしみて今におもはるるよとなり
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰。一書曰。戊申年幸比良宮大御歌。但紀曰。五年春正月己卯朔辛巳天皇|至《カヘリマセリ》v自2紀温湯1。三月戊寅朔天皇幸2吉野宮1而|肆宴《トヨノアカリキコシメス》焉。庚辰天皇|幸《イデマセリ》2近江之平浦(ニ)1。
 
戊申は孝徳天皇の大化四年なれば明日香川原の宮に關係なし。されど宇治は比良宮の行幸の路なるゆゑに旁例に引たるか。また五年云々は齊明紀にまさしくあり。齊明は再祚の御謚にて此集明日香川原宮と後岡本宮とを別ちたればもし此歌齊明天皇五年の行幸のをりのならば後岡本宮と題《シル》すべきなり。さればこれはた旁例に引たるのみ歟
 
後崗本宮御字天皇代《ノチノオカモトノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノミヨ》
 
古義云。後崗本宮【崗字類聚抄拾穗本并袋冊子に引けるにも岡と作れり】は高市郡岡村にありて今も飛鳥(ノ)岡といふ。かの川原宮の東北の方なりとぞ。齊明紀云。元年云々是冬災2飛鳥(ノ)板葢(ノ)宮1。故|遷居《ウツリヰマス》飛鳥(ノ)川原宮(ニ)1。二年云々是歳於2飛鳥岡本1更定2宮地《ミヤドコロ》1云々。遂|起《タツ》2宮室《オホミヤ》1天皇乃|遷《ウツリマシキ》號曰2後(ノ)飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ト)1。
額田王歌
 
熟田津爾船乘世武登《ニギタヅニフナノリセムト》。月待者潮毛可奈比沼《ツキマテバシホモカナヒヌ》。今者許霓乞菜《イマハコギテナ》
 
熟田津は齊明紀に伊豫熟田津石湯行宮【熟田津此云※[人偏+爾]枳陀豆】と見えて神名式に温泉郡湯神社あり。これ石湯行宮の所なるべし。かかれば熟田津は温泉郡なり○船乘世武登《フナノリセムト》の登はトテの意なり。古義云。古言にはトテといへる言なし。【延喜式鎭火祭祝詞にただ一つあり】此卷に神佐備世須登《カンサビセスト》云々「高殿乎高知座而《タカドノヲタカシリマシテ》云々山神乃奉御調等春部《ヤマヅミノマツルミツキトハルベ》は花かざしもち」云々大御食爾仕奉等上瀬爾鵜川乎立《オホミケニツカヘマツルトカミツセニウガハヲタテ》云々また其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》云々また「亦打山行來跡見良武《マツチヤマユキクトミラン》」卷二に「倭邊遣登佐夜《ヤマトヘヤルトサヨ》ふけて」また「妹待跡吾立《イモマツトワガタチ》ぬれぬ」などいとおほし。皆トテに同じ○潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》といふに月出て潮も船の行かたに向へるなり。毛もじ玩味ふべし。ただ可奈比沼《カナヒヌ》の一言にて月に隨へる潮の船の行くにかなへるさま見るが如くつづけられたり○今者許藝乞菜《イマハコギコナ》の乞は田中道麿が弖の誤といへるに從ふべし。後世コギテムといふに同じ。【古義にナは急ムは緩の差別あり。ただテナとテムと同じきにもあらず。例を推て考るにみなしかり。さるを古今集の比よりナといふべきをもみなムといふこととなれるはあさましといへり】書紀を勘ふるに七年春正月丁酉朔壬寅御船西征始就2于海路1。甲辰御船到2于大伯《オホクノ》海1。庚戌御船泊2于伊豫熟田津石湯宮1とみゆ。これ外蕃の亂をしづめたまはんとて筑紫にいでましの時のことにて壬寅は即ち正月六日。甲辰は同じき八日。庚戊は十四日なり。その石湯行宮には數日ととまらせたまひてさて西のかたに向はせ玉ひけん。歌意。熟由津の行宮に暫らくおはしまししかばいざや明曉は出帆せんとよるよりその支度どもありておのおの曉月の出るをまてば潮もまた御船を下すかたに向ひてかなひたり。いまだあけはてずとも今は漕てんとよめるなり
 
右檢(ルニ)2山上(ノ)憶良大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇太后幸(セリ)2于伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1。後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始(テ)就(キ)2于海路(ニ)1。庚戌御船|泊《ハツ》2于伊豫(ノ)熟田津|石湯《イソノユノ》行宮(ニ)1。天皇御2覧(シ)昔日《ムカシヨリ》猶存之物1富時《ソノトキ》忽起(シタマヒテ)2感愛之情(ヲ)1所以《コノユヱニ》因|製《ヨミタマヒテ》2歌詠《ミウタ》2爲之哀傷《カナシミタマヒキ》也。即《ヤガテ》此歌者天皇御製(ナリ)焉。但額田王歌者別有2四首1
 
飛鳥岡本宮より伊豫湯宮まで三十五字は舒明天皇の時の事にて今齊明天皇の伊豫行幸の證に引るはいたくたがへり。略解に舒明紀九年に此幸无くて十年十月にありといへり。されど十年十月なるは有間湯宮なるをかくいへる略解の※[鹿三つ]漏もはなはだし。古義には九年丁酉は十一年己亥の誤なり。上軍王の歌の左註に書紀を引て十一年十二月己巳朔壬午とあると月日の支干全同きを思ふべし。九年と十一年とただ一年へだてたるのみにて月日の支干同じかるべき事なし○天皇御覧より下は憶良のそへたる詞なり。されど此歌を齊明天皇の御製とするはあらじとおもはるればこの注は取がたし
 
《イデマシシ》2于紀(ノ)温泉《ユニ》1之時額田(ノ)王(ノ)作歌
 
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本
 
この歌ふるくより諸家の注釋くさくさあれどもみなうまく解得たりとおぼゆるはなし。故に別記に諸説を擧て後考を竢むとす
 
中皇命從2于紀伊(ノ)温泉1之時御歌
 
命は女の寫誤なるべし。委しく上にいへり。古義云。此皇女は高市岡本宮に御宇し舒明天皇の皇女間人(ノ)皇女の更名とおもはるればかの崗本宮標注〔頭注、標注は標中の誤なるべし〕に中皇女としるしたるは論无し。さて孝徳天皇の皇后になりたまひたればそれより後は間人大后と申せり。故天智紀にも間人大后薨と記されたり。かくてもし難波長柄豐碕宮御宇天皇代と申す總標ありてその標中に收《イリ》たる御歌ならんには御名をば省きて大后とか皇后とかしるしてあるべし。然るに孝徳天皇ははやく崩り坐て此は後岡本宮御宇舒明天皇の御代の標中に收たれば大后とはしるし申すべくもあらず。況て皇太后《オホミオヤ》とは申すべくもあらねばなほもとのままに間人の大后とあらば混ふべくはなけれども后にのぼりまししを御名を憚らず記すべくもなければここには難波長柄豐崎宮御宇天皇大后とあらば然るべき事なれどしかことごとしくきはやかに記さむは此集の例にあらず。故此御代のほどまでも前にいまだ皇女にてましし時の更名の中皇女と申せるがやがて通稱の如く世に稱しならへるままに歌集などにもしかしるし申せるによりて此標中にはかくしるしたるにこそあらめ
 
君之齒母吾代毛所知哉《キミガヨモワガヨモシレヤ》。磐代乃岡之草根乎《イハシロノヲカノクサネヲ》。去來結手名《イザムスビテナ》
 
者之齒母の齒は齡なり○吾代毛の代も齡なり。ここに君といひ次に吾セ コとよみたまへるは御兄中大兄にいざなはれてやおはしけむ。さらばこの君とあるは中大兄の御事なり。所知哉《シレヤ》の哉は助辭にてただ知レと仰する意なり。知レとは領掌《シリツカサド》れと云ことなり。宣長は哉は武の誤にて所知武《シラム》なるべしといへり○磐代は紀伊國日高郡の地名なり○草根はクサネと訓てただ草のことにて根はそへたる言なり【これを契冲は式子内税親王のこれを取て「岩代の岡のかやねに」とよみ玉へるによりてカヤネとよめれどここは草根《クサネ》なり】○去來結手名《イザムスビテナ》のイザはさそふ詞テナはテムに同じ【ナとムと緩急のあるよし上にいへり】さるはいづこにもあれわかき松枝や色よき草やを結びて後に逢ひみむことを契るならはし古へありしなるべくここはことに都を離れて心細くおもほすあまりのすさびならんにはかならずしかありけむかし。卷二に「岩代の岸の松枝むすぴけん人はかへりてまたみけむかも」また「岩代の野中にたてる結松心もとけず古おもほゆ」また「後みむと君が結べる磐代の小松がうれをまたみけむかも」また卷六に活道岡松下飲歌に「たまきはる壽《イノチ》はしらず松之枝を結《ムスブ》情《ココロ》は長くとぞおもふ」また卷廿中臣清磨朝臣之宅宴歌に「やちくさの花はうつろふ等伎波奈流麻都能左要太乎われは牟須波奈」などみえたる皆行末を契れる歌どもなるがその中に草にかけたるはいと少なし。ただ此御歌と卷十二なる「妹門|去過《コエスギ》かねて草結《クサムスブ》風吹解な又かへりみん」の二首は草もて契れるなり【伊勢物語にうらわかみねよげにみゆるわかくさを人の結ばん事をしぞおもふ」とあるも此集の草の故事にもとづきてよめるなるべくまた拾遺集にある男の松を結びてつかはしたりければよみ人しらず「何せんにむすびそめけんいはしろの松は久しきものとしるしる」後拾遺集「はちのもとなりける人の松をむすびておこせて侍りければ」云々は此集なる結松の故事にもとづきてよめるなるべし】○御歌の意は、君が齡の長きほど吾よはひの久しきほどをもしりて行末を護りくれよ。その後の證《シルシ》に此いはしろの岡の草を君と共にいざ結びでむ。とのたまへるなり。イザの詞にて中大兄をもすすめて結ばしめ玉ふこと言外にみゆ
 
吾勢子波借廬作良須《ワガセコハカリホツクラス》。草無者小松下乃《カヤナクバコマツガモトノ》。草乎苅核《クサヲカラサネ》
 
吾勢子は中大兄をさしてのたまへるなり【中皇女の御爲に中大兄は御同腹の御兄なり上にいへり】〇借廬作良須《カリホツクラス》の借廬は旅宿にて古は旅客の爲に設けし家などもをさをさなかりしゆゑにみな假屋を建てやどりしかばかくよみ玉へるなり○草無者《カヤナクバ》のカヤは假屋《カリホ》を葺く科の草にてこはむねと薄をいふ【されば上の歌の草根はクサネと訓べくここは屋を葺くかたにつきてカヤと訓べきなり】○小松下乃《コマツガモトノ》にて小松多き野は眺望おもしろき處なるものなればふとそなたに眼をつけ玉へるに花さける草などもあるを實景によりてのたまへるなり○草乎苅核《クサヲカラサネ》の草は古訓のままにクサと訓べし。サネは名告沙根《ナノラサネ》のサネに同じく希望の詞なり○歌意。この紀伊の御遊日本紀に所見なければいつともしられねど卷十に「※[虫+廷]野の尾花かりそへ秋芽子の花乎葺核君之借廬《ハナヲフカサネキミガカリホニ》」とある歌と同じく必ず秋のほどなりけむ。そは吾背子よ。かりほつくり玉ふ草なくばあの小松が下などにおもしろき草の花さきたるおほかるを苅てかやに用ゐ玉へ。とのたまへるがごとくきこゆるによりてかくいふなり。今齊明紀を勘ふるに四年冬十月庚戌朔甲子幸2紀(ノ)温湯1とみえ五年春正月己卯朔辛巳天皇至v自2紀(ノ)温湯1とみえてこたびは冬より春かけて紀温湯にとどまり玉へり。中大兄も間人大后もその供奉にてまししかば中大兄このついてに太后を誘ひここかしこ逍遥し玉へる時よみ玉へれはなるべし。湯宮におちつかせ玉ひて後は有馬の皇子の事ありて御遊覧などあるべきならねばまだ十月の間なりし事しるし。冬の行幸にて草花などあるべき時ともおもはれぬよしいふ人もあれど十月は冬深き時にもあらず紀伊は暖國なればそのほどまではなは草花ののこれるもあるべければかくよませ玉へるなるべし
 
吾欲之子島羽見遠《ワガホリシコシマハミシヲ》。底深伎阿胡根能浦乃《ソコフカキアコネノウラノ》。珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》
 
吾欲之《ワガホリシ》はかねて吾見まほしく思ひしなり○子島羽見遠《コシマハミシヲ》【舊本に野島波見世追とあれど今或本に隨ふ。但之字は板本をもて補ふ】子島は紀伊名草郡若山より今道三里ばかり北に兒島と云あり。今人家千五六百戸許ありて船の泊る湊なりとぞ。【阿胡根浦近き處に今も野島といふ里あり。それにもやとも思へどこは島ならねばかなはず】さて此島今は名所のことかける書にも見えたらぬをかく吾欲之とさへのたまへるは倭《ヤマト》よりは紀伊は隣國にて往かよへる人の多かりし所なればおのづから聞しめしおかせて見まほしくおぼししなるべし○底深伎《ソコフカキ》は珠は底深き海ならではなければなり○阿胡根《アコネ》は日高郡鹽屋浦の南に野島里といふありてそこの海邊を阿胡禰浦といふとぞ○珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》の珠は鰒珠《アハビタマ》なり。不拾をヒリハヌと訓るは卷十五に「おきつ白玉|比利比弖《ヒリヒオテ》ゆかな」また「おきつ之良多麻比利《シラタマヒリ》へれど」また「いへづとに可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》」また十八に「多麻母比利波牟《タマモヒリハム》」など古義にあげたる假字の例をみるべし○御歌の意はかねて見まほしく思ひし兒島をば見しをこの阿胡根の浦の底深くて珠の拾はれねば都人にもちかへりて示すべき裹《ツト》もなきが口をしき事とのたまへるなり【底深くて玉の拾はれぬよしにはよみ玉へれどまことに阿胡根のあたりへはおはしまさぬことを口をしくかくつづけ玉へるなるべし】
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰。天皇御製云々
 
ここに天皇御製歌とあるは此一首は齊明天皇の御製なりと類聚歌林にありといふことなるべし
 
中大兄三山御歌《ナカチオホエノミツヤマノミウタ》
 
板本に近江宮御宇天皇の七字を中大兄に引つづけて大字にかけるはわろし。こは本註なれば本文よりは小さくかくべし○中大兄は天智天皇にて舒明紀に二年春正月丁卯朔戊寅立2寶皇女1爲2皇后1。后生2二男一女1。一曰2葛城皇子1とある葛城皇子の御事なり。かく后腹の第一の皇子なるを中といへるは古人大兄の御弟なるを以てのゆゑなり【古人大兄は夫人法提郎媛のうめる皇子なり。葛城皇子は皇后寶皇女のうみ玉へる皇子なり。舒明紀二年の件に皇后のかたをさきに夫人のかたを後に列ねてあるゆゑにふとみては葛城皇子が古人皇子よりも御兄なるが如くおもはるれどさにあらず。紀は皇后夫人の位次を以てついでたるものなり。まことは古人皇子が葛城皇子よりもさきにうまれ玉へり。孝徳紀に皇極の御位を中大兄に傳へむとし玉ふよしを中大兄より鎌足に語り玉へる時古人大兄殿下之兄也方今古人大兄座而殿下陟天皇位便違人弟恭遜之心と鎌足のいはれたるを以て上古は嫡庶の別《ケジメ》なかりしを知るべし。そは皇后夫人などいふ字をあてて尊卑の別ちを建てたるは後のことにて皇女にまれ臣女にまれ天皇の御し玉へるはみな御妻《ミメ》なり。その出自《モト》につきては寶皇女と法提郎媛とは懸《ハルカ》に隔たりて尊卑わかれたりといへども生《ナ》しませる御子は共に同じ天皇の御血統ゆゑわかちなし。されば古人大兄につぎてあれませるゆゑに葛城皇子をば中大兄と申せるものなり】大兄とは私記に昔稱2皇子1爲2大兄1又稱2近臣1爲2少兄1とあり。此義なり【少兄は宿禰に同じ。記傳に古はただ臣等を尊み親みて云る稱にして姓の加婆禰にねれるは淨御原の御代より始まれり】〇三山は高山《カグヤマ》。雲根火山。耳梨山なり。續紀和鋼元年二月の詔に四禽叶v圖三山作v鎭とあり。考云。是はこの三山を見まして詠み玉へるにはあらず。播磨國印南郡に往ましし時そこの神集《カンヅメ》でふ所につけて古事のありしを聞てよみ玉へるなり【今も神爪村といふ所あり。そこなりといへり】
 
高山波雲根火雄男志等《カグヤマハウネビヲヲシト》。耳梨與相諍競伎《ミミナシトアヒアラソヒキ》。神代從如此爾有良之《カミヨヨリカクナルラシ》。古昔母然爾有許曾《イニシヘモシカナレコソ》。虚蝉毛嬬乎《ウツセミモツマヲ》。相挌良思吉《アラソフラシキ》
 
高山《カグヤマ》は迦具山《カグヤマ》のことなり【高山とも香山ともかくはカウの音のウをクニ轉用ゐたるなり】○雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》は畝火を愛《ヲ》しとなり○耳梨與相諍競伎《ミミナシトアヒアラソヒキ》は高山《カグヤマ》と耳梨とは男山なり。畝火《ウネビ》は女山にてその女山の畝火を高山と耳梨との二箇《フタツ》の男山が得て妻にせんと互に相あらをひし故事のあるを引出てのたまへるなり、この三山のうち香山と耳梨とは十市郡。畝火は高市郡にて八木村の南にあり。今は慈明寺山といふよしなり。三山ともにみな一里ばかりの間にありて鼎の三足の如くなりとぞ。然るを考には雲根火雄男志の雄男志を書紀に雄拔などの字をヲヲシとよめるによりて男神とし香山を女神といひたるに略解もこれに從ひ反歌の香山與耳梨山與相之時とあるを男神女神の相婚《アヒ》し事なりといへれど男女相婚は隱處《クミド》に寢《イネ》てのわさなれば阿菩大神の來り見玉はん事あるべくもあらねば香山耳梨は共に男山にてこれあひ諍《アラソ》へるを相之時《アヒシトキ》とよめるものなれば考、略解ともにこの御歌をば解得ざりしを畝火を女山なりとさだめたるは備中人木下幸文がはじめなり。其説さやさや草子に見えたり。四十年ばかりもむかしに芳樹その書をよみてこの御歌の意を瞭然《アキラカ》に辨へたりき。さるは畝火の女山なる證は記に安寧天皇の御陵をいへる件に畝火山之美富登《ミホド》と見え懿徳紀に畝火山南|御陰《ミホド》井上陵【諸陵式にはこを御蔭井上陵とあれど蔭は陰の誤なるべし】とある陰《ホド》は火處《ホド》の義にて女陰の事なるよし記傳に委しくいへれば幸文が言更に動くまじくおぼゆ。さて後に古義を見るに大神(ノ)眞潮といふ人の考へたるよしにて同説を載せたるは幸文と眞潮とその前後は知らねどおなじ心におもひ得たるいといとおむかし○神代從《カミヨヨリ》とは上つ代よりといふ事にて人世に對《ムカ》へいふ神代にはあらず○如此爾有良之《カクナルラシ》と六言によむべし。妻をあらそふ事は上つ代よりかくの如くなるらしとのたまへるなり。故に如此《カク》は香山耳梨の諍ひをさし給へるなり○古昔母《イニシヘモ》は往《イニ》シ方《ヘ》モにて過去《スキイニ》し方をいふ詞なれば即ち上句の神代を古昔《イニシヘ》とのたまへるなり○然爾有許曾《シカナレコソ》も六言なり。シカはサに約れば俗にサヤウニといふに同じ○虚蝉毛《ウツセミモ》は現身《ウツセミ》モの借字にて現《ウツヽ》に存《ア》る人をいふ○嬬乎《ツマヲ》と三言なり○相挌良思吉《アラソフラシキ》こは七言なり。相挌の二字をアラソフ〔頭注、校正者云。相挌の二字をアラソフの下に脱文あるべし〕卷二に相競《アラソフ》卷十に相爭《アラソフ》など相字をそへ挌の字を用ゐしは卷十六の詞書に有2壮士1共誂2此娘1而捐v生挌競とかけり。良思吉のキは俗にイといふにおなし【今俗にラシイといふこれなり】ラシキとつづけたる例は推古紀に「おほきみの菟伽破須羅志枳《ツカハスラシキ》」またコソよりラシキと結ひたるは卷六に「諾石社《ウベシコソ》みる人ことにかたりつぎ偲家良思吉《シヌビケラシキ》」此外コソをキに結ひたるは紀、萬葉を始め後世の物語などにもいと多し○いま反歌によりて按ふにこの御歌播磨におはしましし時よませ給へるなり。播磨に下らせ給ひし事書紀にはみえねども齊明紀に七年春正月丁酉朔壬虎御船西征始就于海路。甲辰御船到于大伯海この時播磨までは陸路より下らせ玉ひ印南野にてよませ玉へる歟。此外に勘ふべきよしなし。されど播磨にての御歌なることは更に疑ひなし。御歌の意は。香山の神と耳梨山の神とが畝火の女神を妻にせんといたく相あらそひたりといふ故事のこの印南にのこりてあるを思へば男女のうへは神代よりかくの如くなるらし。神代といふばかりの古しへよりさやうにあればこそ今に至りて現身の人も妻をあらそふなれとよみ玉へるなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
高山與耳梨山與《カグヤマトミミナシヤマト》。相之時立見爾来之《アヒシトキタチテミニコシ》。伊奈美國波良《イナミクニハラ》
 
相之時《アヒシトキ》とは高山《カグヤマ》と耳梨《ミミナシ》とのふたつの男山が共に畝火の女山を妻にせんと相あらそひ戰ひし時といふ事なり。【これを高山と耳梨とが婚會《アヒ》しとおもへるはいたく〔頭注、校正者云。いたくはいたきの誤か〕誤なり】會《ア》ひ戰ふを會《アフ》とのみいふ證は神功紀に宇摩比等破。于摩譬苫奴知野。伊徒姑播茂。【古本茂を夜に作れり】伊徒姑奴池。伊装阿波那。また多摩岐波屡。于池能阿層俄。波羅濃知波。異佐誤阿例椰。伊装阿波那とみえて此|阿波那《アハナ》は會《アヒ》戰むと云ことを會《アフ》とのみいへるなり【古義に毛詩に肆伐2大商1會《アヘル》朝清明とありて會朝は會戰之旦也とあり。から國にても會戰ふことを會とのみもいへり】○立見爾來之《タチテミニコシ》はかの阿菩大神が出雲國を立て大和國に行てみむとてこの印南まで來給ひしをいふ。さてかく見爾來之とのみあれど播磨風土記に出雲國阿苔大神聞2大和國畝火香山耳梨三山相闘1以v此欲v諌v山〔頭注、校正者云。諫山の山は止か〕上來之時到2於此處1乃聞2闘止1覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神阜《カムヲカ》【阜字今内務省に藏れる古本には集を阜とせりと猿渡容盛かいへるに隨て改む】之覆形《ノフセガタ》と見えて阿菩大神はただ見に來ませるのみにあらずその闘諍を諌め止めんとてなり○伊奈美國波良は和名秒に播磨國印南【伊奈美】郡とあり。卷三に稻日野また稻見の海。卷六に稻日野能大海乃原と見えて海近き處なること阿菩大神の船を覆て坐しにても知られたり。此野は當國《ソノクニ》にてはいと廣き野とおもはる。道ゆきぶりに「いなみ野といふははるかにおしはれて四方にくまなくあさぢかれわたりてやうやう下もえいづるもいとけうあり」とみゆ【今も播磨の鹿古川の西に神爪《カムツメ》といふ地名遺れり】○御歌の意は。かぐ山、耳梨山の兩男神が畝火の女神を得むとて相戰ひしを諫めとどめんとて阿菩大神が出雲を立ておはししに其闘諍やみぬときこしめしてとまらせ給ひし印南の國はここぞと從ひ奉れる人々に示し給へるなり。さるは此皇子文學に御志厚くて神代よりの故實《フルコト》をも學び明め給ひ博識におはしまししままに神爪《カムヅメ》に遺り傳はれる事跡につきてかく兩山のあらそひより阿菩の神の來ませる事に至るまで委しく長短の御歌につらね給へるものなり【此皇子の鎌足と共に南淵先生のもとに周孔の道を學びにかよひ給ひし事などの皇極紀にみえたるを以て儒學のみにおりたちたまへりしが如く思へる人おほし。されどこは密かに國事を謀りかたりひ給はんとての謀なればあながちに儒學に耽り玉ひてにはあらざるなり】
 
渡津海乃豐旗雲爾《ワタツミノトヨハタクモニ》。伊理比沙之今夜月夜《イリヒサシコヨヒノツクヨ》。清明己曾《アキラケクコソ》
 
渡津海《ワタツミ》は海神の御名なれどここはただ海の事にいへるなり。記傳に海を和多と云は渡ると云事なり。津は助辭。見は毛知の約りにて海津持てふ意なり。これ海を持つ神なればなり。その神名をただ海の事にいふは此神の名より轉《ウツ》れるにていと上代には神名の外にワタツミてふことはみえず。海を然云は大津飛鳥などのころよりや始りけむ【ワタツウミと云はいよよ後のひがことなり。タを濁るもわろし】○豐旗雲《トヨハタクモ》は豐は稱辭《タタヘコトバ》にて豐秋津洲《トヨアキツシマ》、豐葦原《トヨアシハラ》などの豐の如くゆたかに大きなるかたちをいへるなり。旗雲は旗の靡ける如く棚引たる雲をいふ【道晃親王御本に旗雲古語也。海雲映2夕日1赤色似v旗也と注し玉へり】文徳實録に天安二年六月庚子有2白雲1竟v天自v艮至v坤。時人謂2之旗雲1○伊理比沙之《イリヒサシ》は入日|指《サ》し也。豐旗雲に入日の映《ニホ》ひて紅色を帶たるを云。俗に夕照《ユフヤケ》すれば天氣なりといふ夕照《ユフヤケ》の事なり○月夜はツクヨと訓べし。ツクヨとはただ月をいふ。【月の夜といふことにはあらず】卷十五に由布豆久欲《ユフヅクヨ》。卷二十に都久欲《ツクヨ》と見え古今集に「ゆふづくよさすや岡への松の葉の」云々とよめるなどみなユフ月といふことにてヨもじは添《ソハ》りたるものなり○清明己曾《アキラケクコソ》、考にもアキラケクコソと訓て「スミアカクなど訓しは萬葉をえわきまへぬものぞ」といひ略解もこれに從へり。古義にはキヨクテリコソとよみてアキラケクと云は古言にあらずといへれど安部眞貞云。卷二十「しきしまのやまとのくにに安伎良氣伎名におふともの心つとめよ」と假字もてかければ古言にあらずといふべからず。拾遺集に「萬代をあきらけくみん鏡山ちとせのほどはちりもくもらじ」とあるも萬葉によりて用ゐし詞なりといへり。これらを以て古義の非なるを知べし○御歌の意。海上の豐旗雲〔頭注、ゐしに作るべきか、(どの部分についての頭注か、不明)〕に入日さし匂ひて夕照《ユフヤケ》したれば今宵は晴天に疑ひなし。月あきらかなるべくこそ。大和に住む者の波に照る月みるはめづらしき事なれば夜すがら翫ふべしとのたまへるなり【夫木集法性寺入道關白「入日さす豐旗雲のけしきにてこよひの月は空にしりにき」と詠れしはこの和歌をとり給へるなり】
 
右一首(ノ)歌今案不v似2反歌(ニ)1也。但舊本以2此歌(ヲ)1載2於反歌(ニ)1。故今猶載(ス)v此(ニ)歟。亦紀曰。天豐財重日足姫天皇(ノ)先《サキノ》四年乙巳立(テ)爲天皇爲2皇太子1
 
左註に不似反歌といへるは反歌をカヘシウタと訓みて長歌の意を反《カヘ》しうたふものとのみおもへるよりかくいへるなり。されども上に論《アゲツラ》へる如く反は短と同じくて長歌の長に對へかけるのみなれば長歌に无き事なりとていかでかよまざらん。さればここも然にて長歌また前の短歌にただ三山の事を述給ひさしもおもしろき播磨の海の月の眺めに及ぼし給はざりしゆゑ其時この一首をよみそへ給へるものなり。さらに似不似を以ていふべきにはあらじとおもふべし○先四年は皇極天皇の四年なり。先とはこの齊明天皇の標下に先の事を引たるが故先後まぎれしめざらんがためなり。爲天皇の三字は衍にてこの四年乙巳に中大兄の皇太子に立玉へること皇極紀にみゆ
 
近江大津宮御宇天皇代《アフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノミヨ》
 
大津宮は志賀郡なり。後紀延暦十三年十一月云々近江國滋賀郡古津者先帝舊都。今接輦下可d追2昔號1改稱c大津uと見えて今も大津といへり。天智紀六年三月辛酉朔己卯遷2都于近江1とあるこれなり
 
天皇|詔《ミコトノラシテ》2内大臣藤原朝臣《ウチノオホオミフヂハラノアソミニ》1競2憐《アラソハシメタマフ》春山萬花之艶《ハルヤマノハナオイロ》。秋山千葉之彩《アキヤマノモミチノニホヒヲ》1時額田(ノ)王|以歌判之歌《ウタモチテコトワレルソノウタ》
 
内大臣藤原朝臣は鎌足公なり。この内大臣は後世の内大臣とは異にて名義。内は内外の内にて天皇の御側ら近く候ひ輔佐し給ふよしなり。されは左右の大臣を外として内字をば負せたるものにて舊くは建内宿禰を内能阿曾といひ後にては藤原仲麻呂を内相といひしに同じく後世の攝政關白の如きものなり【太政大臣と職の義は同じくて名の義は異なり。さるは太政大臣左大臣右大臣は共に太政官の長官にて外の大政を輔佐する職の如し。但師2範一人1鹽2梅帝道1たるはこの内大臣と同じきをや。猶此事は標注職原抄校本にいへり】されど内大臣に任《マ》け玉へるは天智紀八年此公の薨じ玉はむとせし時の事にて此長歌の出來しは其年知られずといへども公の内臣といひしほどの事なるべし。そは孝徳天皇の御位に即せ玉へる日内臣となし玉へり。孝徳紀の初めに是日以2大錦冠1授2中臣鎌子連1爲2内臣1増v封若干戸云々、鎌子連懷2至忠之誠1據2宰臣之勢1處2官司之上1。故進退※[廢を病垂に]置計從事立【續紀の養老五年に藤原房前の内臣になられし條にも計2會内外1輔2翼帝業1と見えたり】と見えたり。かく處2官司之上1とあるをおもふにこの時既に大臣に同じ。さるを何故に大臣とはなし給はざるぞといふにこの頃もいまだ上世の制度のままにて臣の姓より大臣を任《マ》け連の姓より大連を任けらるる例なりしかば【但大化五年に大伴長徳連を右大臣とし玉へり。これ臣姓ならぬ人の大臣になれるにて鎌足とおほかたおなじころなればこのほどより制度みだれそめたり】公は中臣氏にて姓連なれば大連にはなり玉ひて難なけれど大臣にはなしがたければまづ臣といふにして後に大字をそへ玉はん基礎《モトヰ》を構へさせ玉へるなりけり。故に内臣とても内大臣にいくばくのけぢめはなく主上の御側に候らひ官司《ツカサ/\》の上に居て事執られしなりけり。かくてこの大臣を古義にオホマヘツキミと訓るはわろし。こは大臣大連と對へる官名とおなじければオホオミと訓べし○競燐《アラソハシメタマフ》とは内大臣に詔して花紅葉の風情を辨へゐる人々を召集《メシツド》へいづれに心よするかと競《アラソ》はしめ玉ひてそを額田王に判《コトワラ》せ玉ふなり。かかる判者にさへ補《マ》け玉へるを以て額田王の女王ならざる事を知べし。さてこの春秋のあらそひの事ふるき歌集物語どもにおほかれどこの長歌をもて濫觴とすべし
 
冬木成春去來者《フユコモリハルサリクレバ》。不喧有之鳥毛來嶋奴《ナカザリシトリモキナキヌ》。不開有之花毛佐家禮杼《サカザリシハナモサケレド》。山乎茂入雨毛不取《ヤマヲシミイリテモトラズ》。草深執手母不見《クサフカミトリテモミズ》。秋山乃木葉乎見而者《アキヤマノコノハヲミテハ》。黄葉乎婆取而曾思奴布《モミヅヲバトリテゾシ》。青乎者置而曾歎久《アヲキヲバオキテゾナゲク》。曾許之恨之《ソコシウラメシ》。秋山吾者《アキヤマワレハ》
 
冬木成の成は盛の畫を省きて書るなるべし。皇國の古書どもに省畫を用ゐたる蜈蚣を呉公、健を建、弦を玄、村を寸、醜を鬼、枳を只、伎を支、倭を委、趾を止などみなしかり。冬木成《フユコモリ》は春の枕辭なり【義は冬|隱《コモ》れる木芽の張出るより春に冠らせたるものなるべし。古義には生氣萌《フユケモリ》なり。フユは恩頼《ミタマノフユ》のフユにて物の利生するを云。モリは物の初めて萌《モラ》すをいふ。春に至れば萬物の生氣《フユケ》を萌すゆゑにこの枕詞はあるなりといへり】○春去來者《ハルサリクレバ》は春サレバ、秋サレバ、朝サレバ、夕サレバなどとよめる此集に多くてサレもサリに同じくみな其時になるをいふ。【去往《サリイヌ》る意にはあらず】今の俗《ヨ》の言《コト》に夜を夕《ユフ》サリとも夜《ヨ》サリとも云は此より出たる言なるべしと記傳にみえまた集中に夕去者春去者といへるは夕ニシアレバ春ニシアレバの義なり。シア反サ也。よて一處に春之在者と書てハルサレバとよめり。神樂歌に「いなのほのもろほにされば」といへるも同じ。後世夕ザレ春ザレなどサを濁るは非ずと倭訓栞にみゆ【このモロホニサレバは卷廿に「おほきみのみこと爾佐例波《ニサレバ》」とあるに同じく命ニシアレバの義なればモロホニアレバなるべし】これらに依ておもふにここの春去來者《ハルサリクレバ》は春ニシアレバにて云もてゆけば春ノコロナレバといふ意なり【春になりたるよしにはあらず】○不喧有之鳥毛來鳴奴《ナカザリシトリモキナキヌ》は冬は鳴ずありし鳥も來なきぬとなり。冬より待しこころ此詞にこもれりと古義にいへり○不開有之花毛佐家禮杼《サカザリシハナモサケレド》は冬は咲ずありし花も咲てあれどもなり。以上六句春の優れたることを述てさて佐家禮杼《サケレド》のドはドモの意なるゆゑ春の方人の花を誇るを云おとさむとて雖《ド》といひたるなり○山乎茂《ヤマヲシミ》は枝葉萌出て茂くなれるをいへるにて茂《シ》ミは茂《シゲ》サニの義なり〇入而毛不取《イリテモトラズ》の取は聽の誤にて山に入て來鳴く鳥の音も聽ずといへるなり。聽と取と草書よく似たりと大神景井がいへるよし古義にみゆ。然れども此歌もと花と紅葉との事を旨としてよめれば鳥聲には及べからず。猶本のままにて入テモ不取とあるかたによるべし○草深《クサフカミ》は山乎茂《ヤマヲシミ》が木立《コダチ》の事ゆゑそれに對へて草ガ深サニといへるなり○執手母不見《トリテモミズ》は咲たる花を手に執ても見ずの義《ココロ》なり。さるは花蔭に立よりて枝を手に執り香を嗅《カ》ぎ色を愛《メデ》親しむを執といへるなるべし。さてここまでが春なるを春はかくの如く木茂く草深くて花鳥を見きくに猶あかぬ事のおほきよしを述べたり○黄葉乎婆取而曾思奴布《モミヅヲバトリテゾシヌブ》ここはモミヂとよむはわろし。モミとは緋色の總稱にてツはそを活用《ハタラ》かす詞なり。【モミダム、モミヂ、モミヅ、モミデと四段ニ活用《ハタラク》なり】乎婆は下に青乎婆とあるに對へて秋の木葉の紅葉したるもありもみぢせずていまだ青きもあるをその紅葉したるをばといふ意のヲバなり。取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》の取は折取《ヲリトル》の義にて思奴布は賞愛《メデウツクシム》をいふ。【シヌブといふ詞はその用ゐかた種種あれどここは賞愛《メデウツクシ》むの意なり】○青乎者《アヲキヲバ》はいまだ黄葉せぬをいふ。置而曾歎久《オキテゾナゲク》は折りとらで枝にそのまま置て歎くなり。ナゲクは長息《ナガイキ》の約にて憂喜に拘らず物を惜む意より長息《ナガイキ》突くをいふ詞なればここは紅葉のいまだ染やらで青きを歎くなり○曾許之恨之《ソコシウラメシ》のソコは山乎茂以下の四句をさす。シは助辭。恨は木立茂く草深くておもふままに遊ばれぬが春山の恨みなるよしなり○秋山吾者《アキヤマワレハ》は春山よりも秋山のかた吾はまさりてあはれと思ふとの意なり○歌意は春秋の遊びいつれに心引かるるぞといはむに春の山は冬のほどきかざりし鳥も啼きさかざりし花もさきてさまざまおもしろけれど木立茂り草深くしてその處に入りたちあるは聲をききあるは枝ををりとるにも便りあし。秋の山はやうやううら枯行ままに物淋しけれど木の葉のもみづをみればかくもうつくしき色に染出られたるかなと手にとりで賞《メデ》うつくしまる。その中にいまだ染あへぬ青き葉もまじれるをば手にとりもせずそのままおきてああをしきものかなと長息《ナゲカ》るれどそはいささかの恨みなれば秋山が吾はよしとおもふぞといはれたるなり。古義にたをやめの情をもてことわり給へるなりといへるはいかなる事とも聞えがたし。此歌の判者額田王は上に諸平が説を引ていへる如く男王にましませどそは舊註どもに女王の説あるに從へるなるべし。女王ならんには何ゆゑに秋にこころのひかるるぞ。源氏物語若菜に「女は春をあはれむとふるき人のいひおき侍りけるげにさなん侍りける」とみえて黄葉に心ひくがたをやめの情とはいひがたからん【猶この春秋のあらそひは源氏物語、拾遺集などを始め諸書にあまたみえたれどかならず春とも秋とも定まらぬがうちに秋のまさるさまなるがおほけれど煩はしさに載せず】
 
額田王《ヌカタノオホキミノ》《クダリマス》2近江國《アフミノクニニ》1時《トキ》作歌《ヨミタマヘルウタ》 井戸王即和歌〔六字二重□で囲む〕
 
左註にみえたる如く近江に遷都の時の歌なり。井戸王云々の六字をここに載せたるはその義しられず。除くべし
【古義には此六字綜麻形の歌の端詞とせり】
 
味酒三輪乃山《ウマサケミワノヤマ》。青丹吉奈良能山乃《アヲニヨシナラノヤマノ》。山際伊隱萬代《ヤマノマニイカクルマデ》。道隈伊積流萬代爾《ミチノクマイサカルマデニ〔頭注、イサカルとかな付けたる注にたがへりイツモルに改むべし〕》。委曲毛見管行武雄《ツバラニモミツヽユカムヲ》。數々毛見放武八萬雄《シバシバモミサケンヤマヲ》。情無雲乃《ココロナククモノ》。隱障倍之也《カクサフベシヤ》
 
味酒は三輪の枕詞なり。崇神紀に宇麻佐開瀰和能等能能《ウマサケミワノトノノ》。また此集卷四「味酒呼三輪《ウマサケヲミワ》のはふりが」などあり。味《ウマ》は甘美《ウマ》しと賛《ホム》る辭なり。酒とはサカエの切《ツヅマ》れるにて是を飲めば心も面も榮ゆるよしなり。三輪とつづくる意は神に供ふる酒を美和《ミワ》といふより美酒之神酒《ウマサケノミワ》てふ意にかくはつづけたり。神酒を美和といへるは崇神紀、舒明紀に神酒《ミワ》。和名抄に日本紀私記云。神酒、和語云美和。此集卷二に哭澤之神社爾三輪須惠雖祷祈《ナキサハノモリニミワスヱノマメドモ》。卷十三に五十串立神酒座奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルカムヌシノ》などあり。三輪乃山の下にヲの言を添て見るべしと略解にいへり。かかる處にヲを省ける例下にひける卷十一の「奥藻《オキツモ》隱《カク》さふ浪」といへる其外多し。さるは飛鳥岡本宮より三輪へ今の道二里ばかり三輪より奈良へ四里餘ありて其間地平らかなれば奈良坂の上までも三輪山みゆとぞ。さればこの句は三輪ノ山といひ斷てその三輪の山を隱るるまで見るよしなれば略解にいへる如くヲをそへてみればよく聞ゆるなり○青丹吉奈良能山乃《アヲニヨシナラノヤマノ》。青丹は枕辭なり。古義云|青土《アヲニ》は賦役令に青士一合五勺。内匠寮式に大寒日立2諸門1土偶人十二枚、土牛十二頭、料(ノ)青土二|升《斗カ》云々。常陸國風土記久慈郡條に河内里云々|所有土色《ソコナルニノイロ》如2青紺1。用v畫麗之、俗《ヨニ》云2阿乎爾《アヲニ》1。或云2加支川爾《カキツニ》1と見えたる阿乎爾《アヲニ》は即ち青土なり。【加支川爾は畫著土《カキツニ》なるべし】爾《ニ》は土の惣名にて赤土《アカニ》、白土《シラニ》、赫《ソホニ》、埴《ハニ》、また八百土《ヤホニ》、また初土《ハツニ》中土《ナカツニ》、極土《シハニ》。【記の應神天皇の御歌にみゆ】なほ青士は後にも源氏物語に「あをにに柳のかざみ」。空穗物語に「春日祭の下づかへはあをにに柳かさね著たり」。【即青土の義なり。東鑑に紺|青土《アヲニ》打(ノ)水干袴又紺|青土《アヲニ》(ノ)打上などもみえたり】黏は字鏡に挺謂作2泥物1也|禰也須《ネヤス》とあり。土黏《ニネヤシ》のニネを切《ツヅ》めてニといひヤをヨに通はしてアヲニヨシとはいへるなり。神武紀に天皇|前年秋九月《イニシトシノナガヅキ》潜2取《ヒソカニトリ》天香山之埴土《ハニヲ》1以造2八十平瓮《ヤソヒラカヲ》1云々。故《カレ》號(テ)2取《トリシ》土《ツチ》處1曰2埴安《ハニヤス》1とあるも埴黏《ハニネヤス》といふ由なるを思ひ合すべし。ヤとヨと通ふは愛夜志《ハシキヤシ》とも愛余志《ハシキヨシ》とも云類にて常の事なり。さて袖中抄に「奈良坂に昔は青(キ)土のありけるなり。それを取て繪かく丹につかひけるによかりけるなり」といへるは據ありしなるべし。かかれば古へ奈良山には多く青土有て名産にぞありけむ。【今も畫家に奈良緑青とて用るものあるよしなり。但今緑青といふものは土にはあらねど自然《オノヅカラ》の土氣にて後までも奈良にはよき緑青出るなるべし。十三に緑青吉《アヲニヨシ》とかき醫心方に緑青和名安乎仁とあるをみればふるく緑青とかけるは即青土にてそは令抄に青土者破v石取2其中1也。用2彩色1とあれば銅より取るは後にてもとは石中より取しとみゆ】かくて眉畫き繪畫くには青士を黏《ネヤ》して用ゐるゆゑに其青土を黏《ネヤ》す奈良とはつづけしなるべし。然らば阿乎爾余須《アヲニヨス》といふべきを志としもいへるは枕詞の格《サダメ》なり○奈良能山《ナラノヤマ》は大和の添上郡那良より山城の相樂郡へ越る路にて今も那良坂といへり。卷三に佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》ともみえて此奈良坂の峠《タウゲ》を過ぎて山城にも近江にも遠くは東山の國々にも行けばここが旅路の始めの手向にして途中の平安を神に祈る處なり○山際伊隱萬代《ヤマノマニイカクルマデ》は奈良の山の山際《ヤマアヒ》に入て三輪山の隱るる處までもの意なり。山際をヤマノマと訓むは集中例いとおほし。際の下從字を脱せる歟。山ノマユとあるべし。と考にはいへれどさやうに脱か誤かとのみいひてほしいままに字を或は加へ或は改めなどすれば讀み易くはなれど證なきかぎりは快からず。されど言を加へて訓むは例多し。ここはヤマノマニと際にニもじをそへて心得べし。卷九に細川瀬《ホソカハノセニ》と瀬にニもじをそへたるも同じ。伊隱のイはそへたる言なり。伊積《イツモル》のも同じ○道隈《ミチノクマ》とは道は彼方此方《カナタコナタ》に曲りたるものゆゑ長途《ナガミチ》なればその曲りたる隈の多く積り來るゆゑにかくいへるにて或は卷二に「此道の八十隈|毎《ゴトニ》」また卷廿に「毛母久麻能美知はきにしを」などの八十隈百隈といへるこれなり。伊積流萬代爾《イツモルマデニ》の積流を略解にはイサカルと訓みたれど考にもイツモルと訓み其外かく訓めるがおほければ今もこれに從ひつ。マデニのニ山際《ヤマノマニ》といふ處にてはニを略きたれどここのニは上の伊隱萬代《イカクルマデ》をも共にうけて重き辭《テニヲハ》なるゆゑに爾と正しくかけり。委曲毛見管行武雄《ツバラニモミツツユカンヲ》は三輪山をつばらにも見つつ行むものをなり。管《ツツ》は借字にて乍《ツツ》なり。宣長云。ツツは此をもしながら彼をも爲るといふ辭なり。さればここは行ながら山を看るなり○數々毛見放武八萬雄はタビタビモなり。考には一本に數の一字なるを取て一字をば衍としたれど卷十一に「吹風にあらば數々應相物《シバシバアフベキモノヲ》」卷十三に「數々《シバシバ》におもはぬ人は」などあればここも二字重ねてかきつらむ。除くはわろし。見放武八萬雄《ミサケンヤマヲ》の放《サケ》は振放《フリサケ》見るといふ放《サケ》に同じく遠く放れて見るをいふ。この詞見サケ、見サク、見サクル、見サクレと活《ハタラ》く如くおもはるるを古義には卷三「ゆくさにはふたり吾《アガ》みし此崎を獨すぐれば情《ココロ》悲哀《カナシモ》」の末句を一本に見毛左可受伎濃《ミモサカスキヌ》とあるによりてミサカンと訓めり。いかがあらん【安部眞貞は左可受の可は計の誤にはあらぬにやといへり。もし古義にいへるごとく見放《ミサカ》ンならんにはミサカン、ミサキ、ミサク、ミサケと活用べきをさる詞古書にいまだ見あたらねば猶從ひがたし】○情無《ココロナク》は雲の情无きをいふ○雲乃《クモノ》三言なり○隱障倍之也《カクサフベシヤ》は隱すべしやはの意なり。カクサフは隱スの伸たるなり。【サフはスと約まる。障をかけるは借字なり】卷十一に奥藻隱障浪五百重浪《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミ》の隱障《カクサフ》もここに同じ。また弘仁式【儺祭の詞に】伊麻佐布倍志《イマサフベシ》とあるも座《イマス》を伸てイマサフといへるなり○歌意。三輪山は我家に近くて形ちもよろしくおもしろき山なるを此度近江に移るにつきて此山の眺望も今日を限りとおもへば遠く奈良阪の峠を越《コエ》てその山際《ヤマノマ》に三輪山の姿の隱るるまでかへりみかへりみしその飛鳥より奈良阪まで長途《ナガミチ》の間こなたに曲りかなたに曲りて多くの里數を積るまでに山の體《サマ》を委曲《ツバラ》にも見放《ミサケ》おきて餘波《ナゴリ》をとどめんと思ふを情无くも雲の隱せるかな。かく隱すべき事かは、と雲をうらむが如くよまれたるなり。古義に此歌は下近江國時と題したれば未《イマダ》近江に遷都し給はぬ前|公《オホヤケゴト》にまれ私《ワタクシ》にまれゆゑありて下らるとてよまれたるなりといへるはあらず。遷都の時は各家を移しもてゆくゆゑに常の行幸などとは事かはりて此王なども供奉の列にはおはしまさぬなるべし。さるは主上の御遷りにさきたたれしかまたは後れられしかは知らねども遷都の時の歌なる證は三輪山に餘波をとどめられたるの切《フカキ》をもて知べし
 
三輪山乎然毛隱賀《ミワヤマヲシカモカクスカ》。雲谷裳情有南畝《クモダニモココロアラナン》。可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
然毛隱賀《シカモカクスカ》のシカはサと約ればさやうにも隱すかの意なり。カは哉《カナ》にて歎息の辭なり。かくすとも折々は雲間もあるべきをさてさて甚しき隱しやうかなの意なり。【古今集に「みわ山をしかもかくすか春がすみ人にしられぬ花やさくらん」と貫之のよめるも此詞をとれるなり】○雲谷裳《クモダニモ》のダニは俗に云ナリトモなり。情有南畝《ココロアラナム》は雲なりとも心ありてくれよかしと希ふ意にて此ダニの辭に外には更に情《ココロ》ある者は无き事を含めり○可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》は長歌の結句に同じ○歌意。都遷しとて人々みな今めかしきかたに心うつし諂らひて妻子引連ね雜具を荷はせなどさわがしくいそぎものする中にひとり靜かに出たち向ふ物から猶本郷に心ひかれて【長歌には心旡クといはれしかど〔頭注、ここの細注「せめて雲たに情ありて」の下に移さでは聞えがたき心地す]】せめて雲だに情ありて晴わたりわが餘波《ナゴリ》をしくおもふ三輪山をよくみせよかし。かく立隱すべき事かはとよまれしなりそもそも天智天皇かく御代々々久しくすみ玉ひし宮所《ミヤコ》を置て近江に遷らせ玉ひしはいかなるゆゑにかありけん今より勘《カンガ》へしられずといへども【柿本人麿すら此遷都をいぶかしみたり】近江のかた便りあしかりけむほどは年もへずして天武天皇の大和にかへらせ給へるにて知るべし。天智紀六年三月辛酉朔己卯遷2都于近江1。是時天下百性不v願2遷都1。諷諫者多童謠亦多云々とみえたるひとり額田王のみならんや、人みな近江に遷るをばうれへ歎きしとおもはる。されどこの帝改新の業を好みて舊慣をまもり給はぬがおほん性《サガ》なりしかば新都を營みて百性の心をおどろかし給ひさて萬つの政に手を著け給はんの叡慮なりしならん
 
右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰。遷2都近江國1時御2覧三輪山1御歌焉。日本書紀曰。六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷2都于近江1
 
類聚歌林に御覧御歌とあるによれば天智天皇かまたは大海人皇子の御歌なるがごとし、されどこの歌林たのみがたければなほ端書に從ひて額田王の歌とすべし
 
綜麻形乃林始乃《ミワヤマノハヤシノモトノ》。狹野榛能衣爾著成《サヌハリノキヌニツクナス》。目爾都久和我勢《メニツクワガセ》
 
綜麻形は考云。記に三輪の大神うるはしさ男と成て活玉依ひめの許へよるよる通ひ玉へるを姫その男君の家所を知ばやとて卷子《ヘソ》の紡紵《ウミヲ》をひそかに針して男の裔《スソ》につけたるを君は引て歸りぬ。さてあとに紵はただ三勾《ミワゲ》ぞのこりたりける。やがて其いと筋をとめつつ尋れば御室山の神社に到りぬ。故にその山を三輪山といふ。さるからに其紵の三※[營の呂が糸]《ミワゲ》のこれる形を思ひ得て綜麻形と書なせるなればミワヤマと訓べし。と荷田東麻呂いへりとぞ。此設從ふべし。古義にはヘソガタとよめり。【こははやく記傳にも萬葉の綜麻形を或人ヘソガタと訓るも捨がたき訓なりといへり】そは崇神紀に大綜麻杵《オホヘソキ》といふ人名もみえたれば然訓むべくもおもはるれどここは三勾《ミワゲ》のこれる故事よりかける字なればヘソガタと訓むは中々ひがことなり。そは形《カタ》の字をそへたるも三勾《ミワゲ》をたしかに知らせん爲なればミワヤマと訓むこと論なし。略解に仙覺註に土左國風土記云。神河訓2三輪川1【中略】皇女思v奇以2綜麻1貫v針及2壯士之曉去1也以v針貫v襴。及v旦也著v之云々を引けり。これも綜麻《ヘソ》の故事より三輪の名のおこれるを以てここの綜麻形のミワヤマなるを知べし○林始乃はハヤシノモトノと訓べし○狹野榛能《サヌハリノ》。狹はマに通ひてその物を稱《タタ》へ云にそふる言なればこは野榛《ヌハリ》なり。和名抄の草類のうちに王孫。本草云。一名黄孫。和名|沼波利久佐《ヌハリクサ》。此間云2豆知波利《ツチハリ》1。また字鏡に藥。豆知波利とあるものなり。卷七に「吾やどに生土針從心毛《オフルツチハリココロユモ》おもはぬ人の衣《キヌ》に須良由奈《スラユナ》」と見えて衣に摺りて色のよくつく物とおもはる○衣爾著成《キヌニツクナス》の成《ナス》は借字にて如《ナス》の意なり。如クといはんに同じ。衣《キヌ》に著《ツ》く如《ゴトク》といへるなり○目爾都久《メニツク》は彼|波里《ハリ》の色の衣に著くが如く目に著く吾背《ワカセ》よといへるなり○歌意。三輪山の麓の木立しげき林のもとに生ひたる野はりは衣に摺《ス》るにいとよく其色のつくものなるがその色のよく著く如くわが背の君が目につく事よ。人目あれば見ぬふりをすれど兎角目に著きやすしとよめるなり
 
右一首歌今按不v似2和《コタヘ》歌1。但舊本載2于此次1。故以猶載焉
 
左往にいへる如く和歌とはおもはれず。されど綜麻形《ミワヤマ》とよみたるゆゑに上の三輪山と同類とこころえてここに載せたもものなるべし
 
天皇|遊2獵《ミカリシタマヘル》蒲生野《カマフヌニ》1時|額田王作歌《ヌカタノオホキミノヨメルウタ》
 
和名抄近江の蒲生郡の東生《ヒガシフ》西生《ニシフ》と見えたる此野なるべし
 
茜草指武良前野逝《アカネサスムラサキヌユキ》。標野行野守者不見哉《シメヌユキヌモリハミズヤ》。君之袖布流《キミガソデフル》
 
茜草指は紫の枕辭なり。古の紫はその色今のとは異なり。和名抄染色具に兼名苑注云。茜可2以染1v緋者也。和名阿加禰と見え縫殴寮式雜染用度の中に深緋綾一匹【綿紬、絲紬、東※[糸+施の旁]亦同】茜大四十斤。紫草三十斤云々。かく緋色を染るに茜と紫とを用ゐたり。故おもふに紫の色も今のとは異にて赤みを含めるものなるべし。サスとは日影ノサス、月影ノサスなど云意にて紫に茜のさし交りたるなればかくいへるなり。論語に紫之奪v朱とあるもて其色のさまを知べし。かくて武良前野逝《ムラサキヌユキ》とは紫草の生る野を行くよしにて次句の標野行《シメヌユキ》も御遊獵のために標《シ》め置せ給へる野を行といふことなり。【されば武良前野、標野は共に地名にはあらざるなり】○野守《ヌモリ》は其野を守る者をさす。さて此歌の三つの野字みなヌと訓へき事論なきを略解にみなノと訓るはわろし。さるは奈良の御代の比よりはやや古言壞れ野をノとよむ事も出來て卷五に「波流能々爾《ハルノノニ》」卷十七に「志乃備《シノビ》」卷十八に「多能之氣久《タノシケク》」また「夏能々之《ナツノノノ》」卷二十に「和乎之乃布良之《ワヲシノブラシ》」などみえたり。【卷十四に須我能安良能爾《スカノアラノニ》また可美都氣乃《カミツケノ》とあるは東語にははやく野《ヌ》を能《ノ》ともいひしか。但宣長云。可美都氣乃《カミツケノ》の乃字は奴の誤なるべし。凡て此國の名をよめるうた十二首ある中に乃といへるは只一つにて餘はみな奴なるをおもふべしといへり】また卷十八に「多流比賣野宇良乎《タルヒメノウラヲ》こぎつつ」また「奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》」また「受利蘇野米具利《アリソノメグリ》」また「伊都波多野佐加《イツハタノサカ》に袖ふれ」また「須久奈比古奈野神代《スクナヒコナノカミヨ》より」卷二十に「安伎野波疑波良《アキノハギハラ》」など野字を之の意の假字にせるもあれば奈良の御代もやや末に至ては野を之《ノ》といふことにはなれりけん。【されどなほ彼此までは野を奴とかけるもおほかりしを今京となりて以後《ノチ》は野をノとのみいひてヌとはたえていはざるをたまたま片鄙には古言遺りて土佐日記に「寅卯の時ばかりにぬじまといふ所を過て」とあるは阿波の野島なり。こは其所の人の言のままにヌジマとかかれたるものなり】かかれば近江の朝の比には野《ヌ》をノとはかつていはざりしなり○君之袖布流《キミガソデフル》の君は皇太子をさす。さて諸註此|作者《ヨミヌシ》の額田王を女王の事なりとして大海人皇子のややもすれば女王のかたにむかひ懸想の形状をなし玉ふを女官〔頭注、女官は女王にてはあらぬか猶女官なりや〕に從へる警衛《マモリ》の者の見咎めもやせんと恐れてよみ給へるやうに解けれど蒲生野は都に遠からぬ所にて久しく留り玉ふべき御遊獵の度にもあらねば後妃たちを率ゐ玉ふべきにあらず。即天智紀にも七年五月五日縦2獵於蒲生野1。于時大皇弟内臣及羣臣皆悉從焉とあれども女官の供奉の事はみえず。さればこの歌は額田王のかねて大海人皇子を諫め奉らんとおぼしたりしかど折なかりしかばこの御獵の時に臨みて密かによみて皇子の心をおどろかし玉へるにてもしも他人の洩れ聞ても難あらじと紫野標野によせて當日の事のごとくよみなし玉へれどまことはもと皇子の娶《メ》し玉ひし額田姫王後に天智天皇に仕て寵を承け玉ひしを皇子なほもとの契を忘れずをりをり妻《ツマ》どひし玉へる事のあるを父の額田王も知りてはゐらるれど皇子には心寄せことなればその御中を離たんとはしたまはで其色に溺れて【紫野にたとへたりこれなり】人の妻となれるもの【標野これなり】になづさひ袖ふりて慕しきさまをし野守〔頭注、野守云々注と細注とをおきたかへるなるへし。詞の理もて推せは注に女王を守るものになみられ玉ひそとして細注に野守これなりとありて上の標野と同樣にかくへき話のさまなり〕【女王をまもるものをいふ】になみられ玉ひそと密かに喩されたるなり。さればかねておもひ玉へることをこの御獵の時によみたまへるにて蒲生野にての實景にはあらじと知べし
 
皇太子答御歌《ヒツギノミコノコタヘマセルミウタ》 明日香宮御宇天皇
 
この皇太子は天武天皇なり。故に本註に明日香宮御宇天皇とあり。明日香宮は明日香淨御原宮のことなり。天武ならんにはうるはしくは皇太弟とかくべきを歌書のはし書なるゆゑにしどけなくて皇太子と記せるなり。また本註もいまだ皇太弟にまししほどの御事なるゆゑに清御原の字を省きかけり。この天皇は推古三十一年癸未降誕。天智七年戊辰二月戊寅爲2皇太弟1と皇年代略記にみゆ。推古三十一年より天智七年まで四十六年經たれば大海人皇子の四十六歳の御時なり
 
紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》。爾苦久有者人嬬故爾《ニククアラバヒトツマユヱニ》。吾戀目八方《ワガコヒメヤモ》
 
紫草能《ムラサキノ》は上に紫野逝《ムラサキノユキ》とあるをうけて艶妻《ニホヘルイモ》の枕辭としたまへり○爾保敝類《ニホヘル》は香の匂へるにはあらず紅顔《カホ》のきらきらしく光澤《ツヤ》あるをいふ。卷十三に茵花香未通女《ツツジハナニホヘルヲトメ》といへる類なり。妹乎《イモヲ》のヲは俗にガといふが如し○爾苦久有者《ニククアラバ》は憎くあらばにて愛《ハシ》クアラバの反對《ウラ》なり。卷十に「吾こそは憎毛《ニクヽモ》あらめ」とあり〇人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》は人嬬ナルモノヲの意にて人嬬とは他人の妻をいふ。額田女王はこの時天智の御妻《ミメ》にておはしまししゆゑにかくのたまへるなり○吾戀目八毛《ワレコヒメヤモ》〔頭注、吾戀目八方、吾字本文にはワカとかなせりこゝのワレとあるは誤なるべし〕のヤはヤハの意モは歎息の辭なり○御歌の意。額田王の禁の玉ふをうけて足下《ソコ》のわれを誡めらるるはさることなれどもとより憎くおもはば今はかく人嬬なるものをわれこひめや。然|足下《ソコ》の目にもとまるばかり【袖ふるをさす】戀しくおもふは憎からぬによりての事ぞとのたまへるなり。さるは天智天皇の御妻にてまします姫王の事をかくあらはにのたまへるはその父王への御和歌《ミコタヘウタ》にて人の知るまじき事なればなり。古義の説はわろし。天武この時御齡四十六歳にて今の世のさまをもていはんには他人《ヒト》の妻などに懸想し玉はんはあるまじき事の如くなれど、この姫王はもと天武の娶《メシ》て御子さへありし御中なればさもありけん。かつむかしの人は今の世の人の如く二十《ハタチ》ばかりになればおよすげて表面《ウハベ》を長《ヲトナ》しくもてつけつくれる僞飾なく三十までも四十までも其身だに健かに壯なれば色にも耽るがならはしなりしかばかかる事もありしぞかし。抑天智天皇さばかり後世までも中興の英主とたふとび奉る帝におはしませどもこは鎌足と心をあはせて入鹿を滅し玉ひしより御生涯いたく鎌足を愛敬したまひ内大臣【後世の攝關の如し。そは予別にくはしくいへり】の高官にすすめたまひまた後世に至り藤原氏朝權を恣にするに及びてみづからの家の祖先を尊くせんが爲に天皇をさへ推し崇めて中興の君とせり。【天武は天智の如く權臣を重みしたまはざりし事別記にくはしくいふべし】そは皇極、孝徳、齊明の御三代皇太子ながらに大政を輔佐《タス》けその際に後世いはゆる封建に似たりし古來の制度を改めて國司を置き郡領を任けなどしたまひし制《ミサダメ》どもは容易《タヤス》からぬ事どもなりしをもいささかの亂《ミダレ》なく執行ひ玉ひて實に中興の稱《ナ》に恥たまはぬ君なれども當時にては因循の事をよろこぶが人情ゆゑ天智の御《ミ》しわざを漢風をまねびたまふなど譏りし人もありしなるべく古人大兄の天智をさして韓人《カラヒト》とのたまへるも此大兄のみならず世の人さるあだ名を呼たりしにやありけん。もとより御性質もおしたちたる所おはしましてなつかしきかたはおくれたりけんとおぼしきは孝徳紀【四年】にそのほどは津國に都し玉へりしを皇太子【天智】奏して倭京にうつらんと請玉ひしかど天皇許したまはざりしかば天皇ひとりを津國におき皇祖母尊、間人皇后を始め皇弟たちをも率ゐましてやまとに遷り玉へりき。これら強情《ココロコハ》き所なくてはなしがたきことなりかし。さるおほん本性なりしゆゑに額田姫王の天武とは御子をさへ生《ナ》さしめ玉へる御中なるをよしやそのほどかれがれになりたりしにもせよ御弟の皇子の婚《トツ》きたまへる女王を娶《メ》し玉へるはなさけある御行ひとは云がたからん歟。かかればこそ額田王の天武の密通をあながちにとどめんともせでただ心を著けたまへるのみにてその御答歌もかくうけばりたるさまにはしたまへるなるべし
 
紀曰。天皇七年丁卯夏五月五日縱2獵於蒲生野1。于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉從焉
 
紀は天智紀なり。丁卯は戊辰の寫誤。五月五日の獵《カリ》は藥獵なり。藥獵とは鹿茸を取るために獵するなり。和名抄毛體に鹿茸は鹿(ノ)角(ノ)初生也。和名|鹿乃和加豆乃《カノワカツノ》とあり。此事の始て見えたるは推古紀十九年五月五日その後二十年の五月五日にもあり。されば五月五日を旨とする事なれども卷十六に「四月與五月間爾藥獵《ウヅキトサツキノホドニクスリカリ》つかふる時に」また卷十七に「かきつばた衣《キヌ》にすりつけますらをの服曾比《キソヒ》獵《カリ》する月は來にけり」と家持のよまれしは四月五日なれば四月五月の際《アハヒ》の事なるべし
 
明日香清御原宮御宇天皇代《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノミヨ》 天渟中原瀛眞人天皇〔頭注、舊註を存したる。例にたかへり〕
 
此宮は大和志に在2高市郡|上居《ジヤウキヨ》村1とみゆ。【上居は浄御を字音に呼なせるなるべしと古義にいへり】天武紀元年に是歳營2宮室於岡本宮南1即《ソノ》冬遷(テ)以居《マシマシキ》焉。是謂2飛鳥淨御原宮1
 
十市皇女《トヲチノヒメミコ》參2赴《マヰタマヘル》於|伊勢神宮《イセノカミノミヤニ》1時《トキ》《ミテ》2波多横山巖《ハタノヨコヤマノイハホヲ》1吹黄刀自作歌《フキノトジノヨメルウタ》
 
十市はトヲチと訓べし。諸註和名抄郡名【止保知】とあるによりてトホチとよみたり。記傳にも凡て地名の假名には尋常《ヨノツネ》に異なる事のままあるなりといひて和名抄をたすけたれど此抄〔頭注、此抄とあるは彼抄に作るべきか〕には外にも假字の違ひあれば證としがたし。猶ただしくトヲチとすべし。地名にはあらねど集中卷三に十縁《トヲヨル》ミコ卷八に枝モ十尾《トヲヲ》になど其外にもトヲといふ言に十を假りたるがおほければなり。皇女は天武紀二年に初娶2鏡王(ノ)女額田姫王1生2十市(ノ)皇女1とみえたれど年月の記してあらねばいつと云事知られず。おもふに天智天皇の皇太子にてまししほどの事にて天武天皇はいまだ皇子にておはしし時の事なるべし。さて同紀の七年夏四月丁亥朔癸巳十市皇女|卒然《ニハカニ》病發薨2於宮中1とあるはやや年たけ玉ひてなるべくこれよりさき同紀四年二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閉皇女參2赴於伊勢神宮1と見えたるは十歳にあまり玉へるほどとおもはる。波多横山は考云。神名式に伊勢國壹志郡波多神社。和名抄に同郡に八太郷あり。こは菅笠日紀にも「雲出川の川上にて川へをのほりゆくあたりのけしきいとよし。大きなるいはほども山にも道のほとりにも川の中にもいとおほし」とあり。古義に伊勢の松阪より初瀬越して大和へゆく道の伊勢のうちに今も八多里《ハダノサト》あり。其一里ばかり彼方にカイトウといふ村に横山あり。そこに大なる巖ども川邊にも多し。これならん。といへり。大和志に山邊郡といへるは非なり。吹黄刀自は額田女王、鏡女王の母にて額田王の妾なりしからに皇女を養育《ヒタシ》まつりて侍女の如きさまにてさふらひこの供奉をもして此歌を詠て奉りしなるべし。故端書にも阿閉皇女をば除けるなり、これによりておもふに皇女は刀自の爲には孫の列にあたり玉ふなり
 
河上乃湯都磐村二《カハノヘノユツイハムラニ》。草武左受常丹毛冀名《クサムサズツネニモカモナ》。常處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》
 
河上乃《カハノヘノ》、考にはカハツラノと訓み詞の玉緒にはカハラノと四言に訓れど略解にカハノベとあるに從ふべし。へは山上《ヤマノヘ》、野上《ヌノヘ》などのへにて藤原我宇倍《フチハラガウヘ》。高野原之字倍《タカヌハラガウヘ》などあるウヘも同し【ウヘとはいへど上下のウヘにはあらで其あたりと云ことなれば川のあたりの意なり】○湯津磐村《ユツイハムラ》は記傳に五百箇磐石《イホツイハムラ》と神代紀に見えたる字の如く磐の數多く群がりたてるをいふ。【イホを約ればヨなれどヨとユとは近く通ふ響なるゆゑにユツといへるなり】といへれど亡友六人部是香云。石村に湯津《ユツ》といふは威嚴《イツ》の義なり。大磐石に對《ムカ》へばおのづから恐怖《ヲチカシコ》まるるものなればその稜威《イツ》々々しき形相《アリサマ》を稱《タタヘ》て湯津石村と云るなるべし。祝詞に彼|夜見門《ヨミト》に塞《サヤリ》ます千引磐石《チヒキノイハホ》をさして湯津石村の如《ゴト》塞座《サヤリマシ》とあるをもても五百箇《イホツ》の義には非るを悟るべし。といへるも理《コトワリ》なる説なり○草武左受《クサムサズ》はムスとは生《ム》スなり。産靈《ムスヒ》の産《ムス》に同じ。今もムスコ、ムスメなどいふムス皆おなじ。卷三に「鉾杉のもとに薛生《コケムス》までに」とある如く木石など舊きはみな苔|生《ム》せり。ここも横山の巖の苔の生《ム》したるをみて序に用ゐたれどまことは受《ズ》もじ以て苔むさぬかたに取かへていつまでも常にかはり玉はずもがな。此巖のとこしなへなるが如く少女の御姿のままにして.と祝ひ壽《コトブ》けるなり【考には常處女煮手《トコヲトメニテ》をとこしへに若き女にてならんを願へりといへるは吹黄刀自のみづからをとコをとめにてとよめるとおもへるなり。古義もこれによりて解ける共にひがごとなり。上にいへる如く刀自は皇女の祖母にあたれる女なれば此時すでに四十以上の老女なるべし。いかでか我身のことにかくよむべき。皇女を祝ひ奉れること明らかなり】
 
吹黄刀自未v詳也。但紀曰。天皇四年乙亥〔頭注、校正者云。四年乙亥の下春二月乙亥の五宇脱か〕朔丁亥十市皇女阿閇皇女參2赴於伊勢神宮1
 
紀は天武紀なり。上に天武紀を引ていへる如く十市皇女は天武の御子なれど阿閉皇女は天智の御子なり。天智紀には阿閇に作れり。後に天下しろしめして元明天皇と謚せるが此皇女なり
 
麻續王《ヲミノオホキミ》《ナガサレタマヒシ》2於伊勢(ノ)國伊良處島《イラゴノシマニ》1之|時《トキ》人哀傷《ヒトカナシミテ》作歌
 
麻續王【續は績に同じ。字彙に績は續也とあり。和名抄伊勢國多氣郡麻續、乎宇美とみえたるもて、續をも宇美と訓む例を知るべし。此外古書に多し】天武紀に四年夏四月甲戌朔辛卯三位麻續王有v罪流2于因幡(ニ)1。一子流2伊豆島1。一子流2血鹿島1とみゆ【この紀の事は左註の下にいふべし】○伊良虞島は志陽略志に伊良湖(ガ)崎在2伊良湖村(ニ)1。此地者三河國渥美郡也此地去2神島1一里以近混志摩國とあり今渥美郡也といへるはさることなれど混志摩國とは書ざまのあしきなり志摩に混じたること更になし。さるは著聞集にも伊勢國いらごのわたりとみえたり。然るを松平忠敏が云へるは今三河國渥美郡南西の海邊に洲崎ありて伊良胡崎といへり。古圖によれば往古《イニシヘ》は此所島にてありしが砂を吹寄せて地の續きたるにやあらん。その洲崎を少し沖にはなれて龜島といへるがあり。といへり。芳樹おもふに龜島は志陽略志の神島なるべし。そは今も伊勢の内の由なれば龜島につづける伊良胡ももとは伊勢の内なりしなるべし。但海上の遠近をもていへば參河のかたいと近くて【今は地つづきて參河の渥美郡に屬したるばかりなれば參河に近きことしるべし】伊勢にはやや遠し。此伊良胡崎より尾張の熱田まで廿一里、伊勢の大湊まで八里、志摩の鳥羽まで五里なり。坂士佛の大神宮參詣記に「海の境國の境をながめやるに伊良虞島なるみがたはかしこにやとおもひやり」といへり。【士佛伊良虞と鳴海とを近き所の如く書なしたるやうなれどこはこの二所ともに世にきこえたる名所なるゆゑにとりわきて載せたるのみにてはるかに東の方參河の地方に伊良虞といふがみゆるをかなたにやとおもひ北の方に鳴海といふがみゆるをあなたにやと思へるまゝにかけるものなり。そのうち伊良虞は三河の渥美郡の西邊に地つづきて士佛のころも島にはあらざりつらめど此集によりておほやうにはかけるなるべし】また正廣日記に「大江といふ所より船にのりいらごのわたりとてすさまじき所をこし侍るに」とあるをみれば伊勢より參河にわたる海門《ウナト》なりけり。考にも五十良兒は參河國の崎なり。其崎いとながくさし出て志摩のたぶしの崎と遙かにむかへり。といへり。【なほ此島のこと次にいへり】さて紀によるに麻續王に子二人ありて一人は伊豆、一人は血鹿に流されたる、從罪さへかくのごとくなるは麻續王の罪何事にかしられねどおぼろげならぬ事なるべし【獄令に遠中近の三流の定め見えたれど天武の御世にはいまださることはなかりけん。三流のさだめを以ていへば刑部省式によるに伊勢は近流のうちなるべし。王の子たちは連座とおもはるゝにそれすら伊豆島、血鹿島とあればこれ遠流なり。さるを首罪の麻續王はかへりて近流なるはいかなるよしならん。おもふに首罪といへどもその身王の三位にて重くおはしつれば子達よりも輕かりしか。または子達の方が首にて父王は從なりしもはかり難し
 
打麻乎麻續王《ウチソヲヲミノオホキミ》。白水郎有哉射等籠荷四間乃《アマナレヤイラゴガシマノ》。珠藻苅麻須《タマモカリマス》
 
打麻《ウチソ》は神祇令集解に麻續連等麻續而|敷和《ウツハタノ》御衣《ミソ》織奉云々。敷和者宇都波多也とあるウツはうつくしき義なり。冠辭考に此歌を注して「うつくしき麻《ソ》をうむ」とかかれりといへり。【麻をソと訓むは卷九に直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヲモニハオリキテ》とあるサヲの約ソなるゆゑにサヲの義なりと安部眞貞いへり】されば打《ウチ》は借字にて美《ウツ》なり。乎《ヲ》は能《ノ》に同じ。打麻《ウチソ》の麻續《ヲミ》とかかるなり○王《オホキミ》は大君《オホキミ》の義にて天皇より以下皇族のかぎりをみな大君《オホキミ》といふ。然るを親王の號出來しより【天武紀四年の件に始めてみえたり】親王をミコ、親王ならぬ諸王をオホキミといふこととなれり。されど親王をミコとのみ稱《トナ》ふるは言を省けるにて正しくはミコノオホキミと申すべくこれに淮へて二世王をフタヨノオホキミ、三世王をミヨノオホキミ、四世王をヨヨノオホキミと申すべし○白水郎有哉《アマナレヤ》【白水を二合して泉とせるは麻呂を麿とかける類にて正しくはここの如く書くべし。されど集中にも卷六卷七などには泉郎ともあり】とは海人《アマ》にあればにやの意なり。海人《アマ》を白水郎《アマ》とかくは和名抄に白水郎。日本紀私記にいふ漁人阿末。辨色立成云。白水郎。和名同v上とあり。書紀の中にも見えたり【倭訓栞云。日本紀に白水郎をアマとよめるは白水はもと地名。郎は漁郎の如し。崑崙奴の類にて水によく沈むよし代醉編に見えたりといへり】○珠藻苅麻須《タマモカリマス》の珠は藻を稱《タタ》へていへるなり。麻須《マス》はイマスなり。刈ておはしますといはんが如し○歌意。麻續王はかねてやむごとなき人と聞つるに今その姿をみれば海人にてやおはすらん。かくいらこが島に玉藻かりていますよ。といへるなり。こはまことには三位の王にてまします貴人なれば流罪の身なりとてもみづから玉藻かるなどいふことはあらざらめど配所のわびしきさまをふかくいとほしみよめるなるべし。人哀傷作歌と題詞にある即これなり
 
麻續王|聞之感傷和歌《コレヲキキカナシミコタヘタマヘルウタ》
 
空蝉之命乎惜美《ウツセミノイノチヲヲシミ》。浪爾所濕伊良虞能島之《ナミニヌレイラコノシマノ》。玉藻苅食《タマモカリハム》
 
空蝉《ウツセミ》は命の枕詞なり。顯《ウツツ》にある人の命といふ事にて空蝉は借字なること上にいへり○玉藻苅食は食は古義に。ハムと訓べし【袖中抄にカリシクとありてカリハムともよめりといへり】後世にはハムてふ語は鳥獣のうへにのみいふこととなれれど古は人にもいへり。【古ハムといふにおなじされどクフとハムとの語意を考るにハムは咽に下すにつきていひクフはもはらくはへ持ことにいへり。卷十に枝啄持而《エダクヒモチテ》。卷十三に年魚矣令咋《アユヲクハシメ》。卷十六に鉾啄持而《ホコクヒモチテ》。記に鼠|咋持《クヒモチ》其鳴鏑など古の用ゐざまかくのごとし】卷五に「宇利波米波小兒《ウリハメバコドモ》おもほゆ久利波米波《クリハメバ》ましてしぬばゆ」などいへるこれなり。【今世朝ハン、夕ハンといへるハンに飯の字音かと思ひしかどこれも朝食《アサハミ》夕食《ユフハミ》のうつれるなるべし】といへるハムとクフとの別かくの如くなるべし。然共字鏡に啄久不。又波牟。囓久良不又波牟と見えて同じ意に用ゐたればクフとハムとにいとしもかはりめは无きが如し但ここはハムとよむかたまさるべし○歌意。かく浪にぬれて玉藻を苅つつ海人のわざをするはいとわびしく悲しければかかる苦しきめを見んより死たらんこそ中々にまさらめとはおもふ物からさすがに命のをしさにかくみづから玉藻をかりて食《ハ》むぞと云て上の歌に答へられたるなり
 
右案2日本紀1曰。天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯三品麻續玉有v罪流2于因幡1。一子流2伊豆〔頭注、校正者云。伊豆の下島字脱か〕1一子流2血鹿島1也。是云配2于伊勢國伊良虞島1者若疑後人縁2歌辭1而誤記乎
 
戊戌朔乙卯を紀には甲戌朔辛卯。また三品を紀には三位とあり。されば此左註は誤なり○紀によりて流于因幡とする時は伊良虞島因幡にもあるなるべし。されど伊勢なるが名高ければまことは因幡なれど伊勢に混《マガ》ひたりとおもはる。猶よく考べし【常陸風土記に板來《イタコ》村近臨2海濱1安2置驛家1。此謂2板來之驛1。其四榎木成v林。飛鳥淨御原天皇之世遣2流麻續王1之居處とみゆ。これによりて芳樹おもふは板來《イタコ》は伊良虞の訛りてかくなれるにはあらぬにや。猶考べし。ラとタと通ふ言なり
 
天皇御製歌《スメラミコトノオホミウタ》
 
ここにも比後の御製の如く天皇幸2于吉野宮1時云々などいふ題詞あるべきをただ天皇御製歌とのみ記せるは常行幸などとは事かはれる度の事なるゆゑにわざと委しくかかざるなり
 
三吉野之耳我嶺爾《ミヨシヌノミガネノタケニ》。時無曾雪者落家留《トキナクゾユキハフリケル》。間無曾雨者零計類《マナクゾアメハフリケル》。其雪乃時無如《ソノユキノトキナキガゴト》。其雨乃間無如《ソノアメノマナキガゴト》。隈毛不落念乍叙來《クマモオチズオモヒツツゾクル》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
三吉野は記【下巻】美延斯怒《ミエシヌ》。天智紀に曳之弩《エシヌ》などあれど次なる御製にも吉野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》とあればミヨシヌと訓べし○耳我嶺は考、略解などみなミミカノミ子と訓たれど吉野にさる名所あること古も今も聞及ばす。巻十三の長歌に御金高爾《ミカネノタケニ》とあるその歌體も詞もよく似たればこれによりてミカネノタケと訓べし。靈異記に金峯《カネノミタケ》。僧尼令義解に金嶺《カネノミタケ》、神名式に大和國吉野郡|金峯《カネノミタケ》神社、文徳實録三代實録に金峯神などとあるを始め諸書に金峯とかけるがおほかるを御《ミ》の言をそへたるは御吉野、御熊野などの例の如しと古義にいへり。芳樹云。ここにはまさしく耳我嶺とあるを巻十三の歌によりミカネノタケと訓るも強ごとのやうなり。よりておもふに耳をミの一言に訓て耳我嶺《ミガネ》にはあらぬか。耳をミとのみいへる例は記に前津見てふ人の名を紀に前津耳とかけるなどをみるべし。此外にもあるべし。さればここは耳を美稱として金嶺《カネノミタケ》に冠らせたるなるべければ嶺の下に今一字嶺の字ありしが脱たるにて耳我嶺々ミ《カネノタケ》なりしなるべし○時無曾は考に一本|時自久曾《トキジクゾ》とあるも意均しといへり。何時《イツ》と定りたる時も无く雪雨の降るよしなり○間無曾《マナクゾ》を考、略解にはヒマナクゾと訓れど古義にヒマてふ言古語ともおもはれねばマナクゾと訓べしといへるに從ふ○隈毛不落の隈は道の隈々なり、下なる其山道乎の句をもて知るべし。さてここに隈毛不落とのたまへるは路の遠近に拘らず山路は殊に隈々の多かるものなればなり○念乍叙來はオモヒツツゾクルと訓べし【考、略解にオを略けるはわろし】古義に來ルと行クとの別を辨へて行と來とは彼よりと此よりとのけぢめあることにて古人はひとつに通はしいひたるが如く聞ゆれどもよく考ればなほ別《ワカチ》あり。ここはそのおはしますかたを内ににして詔へるなり。かの「倭にはなきてか來らん」といへるも行ランといふべき所の如くなれども倭のかたを内にして來といへるなりといへるが如し○其山道乎の其字は耳我嶺《ミガノタケ》をさし玉へるなり○御歌の意は。此天皇の吉野のに入給へるは度々なるべければいつの時の御製にかたしかに知られねど天武紀に天命開別天皇四年冬十月庚辰天皇臥病【四年は天智紀にては十年なり。さるは七年に即位し玉ひて十年なるゆゑに四年と記せるものなり】云云。天皇勅2東宮1【東宮は天武天皇なり】授2鴻業1。乃辭譲之曰。臣之不幸元多病。何能保2社稷1。願陛下擧2天下1附2皇后1。仍立2大友皇子1宣v爲2儲君1。臣今日出家爲2陛下1欲v修2功徳1。天皇聽v之。即日出家法服。因以收2私兵器1悉納2於司1。壬午入2吉野宮1とみゆ。此時の事なるべし。比しも十月なりしかば※[林/下]のかたはしぐれの雨間なく降り奥のかたは深山のしるしと雪の時なくふるをその雨雪の間なく時无きが如く御思ひの止まずあるを山道の隈々をのこす處なく御心を苦しめ入來玉へるよしのみうたなり。さるは此御思ひは何事ぞといはんにおのれかく出家して吉野に籠りたたりとても天皇崩り玉はば大友皇子方の心よせの者ども軍を起して攻め來べし。その折はとせんかくせんなどの行さきの世の形勢を思ひつつ來玉へるなり【考、略解、古義などみな誤解なり】
 
或本歌 三芳野之耳我山爾《ミヨシヌノミカネノヤマニ》。時自久曾雪者落等言《トキジクゾユキハフルチフ》。無間曾雨者落等言《マナクゾアメハフルチフ》。其雪不時如《ソノユキノトキジクガゴト》。其雨無間如《ソノアメノマナキガゴト》。隈毛不堕思乍叙來《クマモオチズオモヒツツゾクル》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
等言《チフ》はトイフの約なれば人のしかいふよしをいふ辭なり。ここは天皇の御自らヤマにてよませたまへる御歌なればチフとては合はず
 
右句々相換。因v此重載焉
 
天皇《スメラミコト》《イデマシシ》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時《トキ》御製歌《ヨミマセルオホミウタ》
 
この行幸は天武紀に見えて左註に引たり。されどこは紀文によりて後人の記せるものなればこの外もありしことの紀に洩たるもはかりがたし○吉野宮は應神紀十九年冬十月戊戌朔幸2吉野宮1とあればいとふるし。齊明紀に二年作2吉野宮1とみえたるは改造なるべし
 
淑人乃良跡吉見而《ヨキヒトノヨシトヨクミテ》。好常言師芳野吉見與《ヨシトイヒシヨシヌヨクミヨ》。良人四来三《ヨキヒトヨクミツ》
 
淑人は詩經に淑人君子とつづけたれば善《ヨ》き人とよむべし。巻六に「韓衣《カラコロモ》きならの里の島まつに玉をし付む好人欲得《ヨキヒトモガモ》」この好人も淑人に同じ。これ誰とさし玉へるにはあらで吉野の遊べりし古の賢人なり○良跡吉見而の跡はトテの意。ここを勝《ヨキ》地とてよく見ての意なり。このヨクは善《ヨク》にはあらで巻六に委曲見《ヨクミナ》巻十に曲不見《ヨクミズテ》などある委曲の字の如く委しく見ての意なり○好常言師の好は善に同じく勝地《ヨキトコロ》ぞといひしとなり○芳野吉見與は從駕の人々によく見よとのたまへるなり○良人四來三の良人《ヨキヒト》は初句の淑人《ヨキヒト》なり。されば御歌の意は四句にて畢りたるを結句に打かへして再びヨキ人ヨクミツとのたまへるなり。略解に荷田御風はヨクミツとよめり。ヨクミツといふは上句を打かへして再びいひをさむる古歌の一體にてしからむ。といへり。三(ノ)字をミツと訓る例は巻十に三禮而毛有香《ミツれてもあるか》。また巻十六に三四佐倍有《ミツヨツサヘアリ》などあればここもミツと訓べし○按ふに此時(ノ)從駕の人々のうちに吉野を委曲《ヨク》しれる人は少なかりけん。ただ天皇のみ天智天皇の崩《カムサ》りましし時に此山に入玉ひて暫らくの間とどまらせたまひしかば吉野の事にはいと委しくその山川の形勝を相《ミ》しり玉へれども御自ら相《ミ》しりがほにはのたまはで此山はいにしへより代々の淑人《ヨキヒト》の地《トコロ》のさまを委しくみて善《ヨ》き所ぞといひし吉野なれば汝等もよく見よと教示《シメシ》給へるなり
 
藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノミヨ》
 
記傳云。此宮は萬葉一の長歌に依るにもと藤井が原と云|地《トコロ》なれば其《ソ》を略きて藤原とも云しなるべし。其地は香具山の西(ノ)方。耳成山の南(ノ)方なり持統紀の釋に遷2居《ウツリマス》藤原宮1。私記曰。師説此地未v詳。愚按氏族略記云。藤原宮在2高市郡鷺巣坂北地1と云り。香具山は十市郡なれども此宮は其西にて高市郡の地にぞありけむ【高市郡大原村をも藤原といふ。こは鎌足大臣の本居なり。故に藤原と云氏をば賜へり。されどその藤原と此藤原とは異なり。猶次なる大原の歌の件にいふべし】ここに都うつし玉へりし事は持統紀に四年十月壬申高市皇子觀2藤原宮地1。公卿百寮從焉とみえて八年の件に十二月庚戌朔乙卯還2居藤原宮1とあり【なほ藤原宮役民作歌の件にもいふべし】
 
天皇御製歌《スメラミコトノオホミウタ》
 
持統天皇なり。天皇は天智の第二女にましまして齊明天皇の三年に大海人皇子の妃となり玉ひ天智天皇の十年に皇子に從ひて吉野に入玉ひその後大海人皇子即位し玉ひて二年に皇后となり玉へり。かくて天武天皇崩りまして後五年經て四年に即位し玉へり。持統紀に四年春正月戊寅朔【中略】皇后即2天皇位1とあるこれなり。この天皇女帝におはしまししかど紀をみるに佐2天皇1定2天下1。毎(ニ)於2侍執之際1輙言及2政事1多v所2※[田+比]補1とあるを以て御代繼せ玉ひて後の事をもおもひやるべし。委しくは別に記せり
 
春過而夏來良之《ハルスギテナツキタルラシ》。白妙能衣乾有《シロタヘノコロモホシタリ》。天之香來山《アメノカグヤマ》
 
夏來良之はナツキタルラシと訓べし。キタルは來而有《キテアル》なり。【テアルの約タなり來をキタルと訓むことは俗言にも例あり】この上二句の如きのつつけざま集中にて卷十九に春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》。また卷十に寒過暖來良之《フユスギテハルキタルラシ》。卷十七に民布由都藝芳流波吉多禮登《ミフユツキハルハキタレト》これらみな同じくてただ春が過、夏が來るといふにはあらず。春かとおもへば、いつしか夏になりて月日のたつ事の早きをいへるなり○白妙の妙《タヘ》は借字なり。こは枕辭に用る詞なれどここは實の白布《シロタヘ》の衣なるよしなり。さるは衣服令に服色者白黄丹紫云々と見えて白は天皇の衣色。黄丹は皇太子の衣色。紫は三位以上の衣色なれば貴とき色なれどもそはむねとある時の表衣《ウヘノキヌ》のことにて男女とも常の服にはおしなべて白色を用ゐけん事古今集に「春日野のわかなつみにや白たへの袖ふりはへて人のゆくらん」とあるにてもしるし。紀傳にタヘは師説に絹布の類を總云名なりとあり。【絹の切をサイデといふは裂多閇な。また俗にいふ古手は古多閇なり。これらみなタヘを約めてテといふ例ぞ】かかれば白爾岐弖《シラニギテ》は木綿のこと。木綿は穀木皮以て織れる布にて古あまねく用たりしものなり。そは殊に白き物なる故に白多閇とも白由布とも白爾岐弖ともいふなり。とみゆ○衣乾有はコロモホシタリと訓べし○御製の意は。春までの衣はたたみてをさめおかん爲に乾し去年より箱にいれ置ける衣をば今著む料に濕氣などかわかさんとて香來山の麓かけてすむ家々に取出て乾せるがみゆるにつけて時節のうつりかはれる事をよませ給へるなりと契冲のいへるがごとし
 
《スグル》2近江荒都《アフミノアレタルミヤコヲ》1時《トキ》柿本朝臣人麻呂作歌《カキノモトノアソミヒトマロノヨメルウタ》
 
一本には柿本朝臣人麻呂過近江荒郡時作歌とあり。天智天皇六年飛鳥岡本より近江大津宮に遷りまし十年十二月に崩《カンサリ》給ひ明年【壬申】の亂をさまりて大海人皇子飛鳥の清御原の宮に天下知しめししかば近江の宮所《ミヤコ》は故郷《フルサト》となれり。此朝臣のここを過られしはいつの事にか年月はしられず.柿本氏は孝昭天皇の皇子天押帶日子命の後十六氏に別れたる中に柿本臣といふがありて臣の姓なりしに天武紀に十三年十一月戊申朔柿本臣賜v姓曰2朝臣1。これより朝臣になれり。姓氏録に依3家門有2柿樹1爲2柿本臣氏1と見ゆ。人麿は此氏人なれど父祖詳かならず。考別記云。崗本宮の頃に生れて藤原宮の和銅の始に身まかれるか。卷二挽歌の但馬皇女薨後云々【此皇女和銅元年六月薨】の下歌數ありて後在2石見國1死とみえ。其次に和銅四年としるして他人の歌あり【同三年奈良へ京うつされたり】すべて此人の歌の載たる次ても凡和銅の始までなり。齡はまづ朱雀三年四月日並知皇子命の殯宮の時此人の悼奉る長歌卷二にあり。蔭子の出身は二十一の年よりなると此歌のやうとを思ふに此時若くとも二十四五にやありつらん。かりにかく定おきて藤原宮の和銅二年までを數ふるに五十に至らでみまかられしなるべし。此人の歌に老たりと聞ゆるが無きにても知らる。且出身はかの日並知皇子の舍人【大舍人なり】其後に高市皇子命の皇太子の時も同じ舍人なるべ。第二の挽歌の言にて知らる。位はみまかりし時妻のよめる歌の端書に死とあれば〔頭注、死とあれば云々かきさまたしかならぬここちす。同じくは細注を注に移して「死とあれば六位より上にはあらじ。令制五位なれば卒此集も」とつつけ度なん〕六位より上にはあらじ。【五位なれば卒】此集もおほかた其定めなり。かつ五位ならばおのづから國史に載べくまた守なれば必ず任の時を國史に記さるるをすべてみえぬはこの任は椽目の間なりしなるべし。歌におきて其比より代々|及《シ》く人なく後世に言の葉の神とも神と尊ぶべきはこのぬしなり。其言ども龍の勢ひありて青雲の向伏きはみのものゝふとみゆるを近江の御軍の時はまだをさなくて仕へまつらねばいさをしをたつるよしなく歌にのみ萬代の名をとどめたるなり
 
玉手次畝火之山乃《タマタスキウネビノヤマノ》。橿原乃日知之御世從《カシハラノヒシリノミヨユ》。阿禮座師神之盡《アレマシシカミノコトゴト》。樛木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》。天下所知食之乎《アメノシタシロシメシシヲ》。虚見倭乎置而《ソラミツヤマトヲオキテ》。青丹吉平山乎越《アヲニヨシナラヤマヲコエ》〔頭注、平山乎越は注によれば平山越而とあるべし〕。何方御念計米可《イカサマニオモホシケメカ》。天離夷者雖有《アマサカルヒナニハアレド》。石走淡海國乃《イハバシルアフミノクニノ》。樂浪乃大津宮爾《サザナミノオホツノミヤニ》。天下所知兼《アメノシタシロシメシケン》。天皇之神之御言能《スメロギノカミノミコトノ》。大宮者此間等雖聞《オホミヤハココトキケドモ》。大殿者此間等雖云《オホトノハココトイヘドモ》。霞立春日香霧流《カスミタツハルヒカキレル》。夏草香繁成奴留《ナツクサカシゲクナリヌル》。百磯城之大宮處《モモシキノオホミヤドコロ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
玉手次のことは上【軍王の長歌】にいへり。ここは畝火にかかる枕辭なり。さるは襷《タスキ》を頸根《ウナネ》に結ぶよしにて頸根《ウナネ》とは項《ウナジ》より肩をかけていふ詞なり。襷はもはら肩にかくればかくいへるなり。さてウナネを約ればウネ。ムスビを約ればミとなれり。ミとヒとは親くかよへば玉手次畝火といへるものなり【記に宇那賀世流また紀に所嬰《ウナケル》などあるもみなおなじことなり。和名抄に項和名|宇奈之《ウナシ》。頸後也とみえてこれを頭面類に收れたれば俗にいふ頸骨《クビボネ》のことなれども玉タスキを畝火にかけたる言義をおもふに項《ウナジ》といふは肩のあたりまでも及ぶ詞なること明らかなり。古義に荷田在滿か説をもどけるはあまりに穿ち過たりといふべし】○橿原の宮所《ミヤコ》は神武紀に觀2夫畝傍山東南橿原地1者蓋國之|墺區《マホラ》乎。可v治v之。是月即命2有司1經2始帝宅1と見えてこの所はもと白檮木《カシノキ》原にてありしをその山林を披拂《ヒラキハラ》ひ宮殿を建築《タテ》たまへるなり。今は此地名は遺らざれども大宮所は畝火山の東南の麓に近き地なりし事書紀にて著明《シル》しと記傳にいへり〇日知ここは神武天皇をさし奉れるなり。日知てふことはもと天照大御神を指し奉れる言にてそは眞淵云。日知とは月讀命は夜之食國を知しめせとあるに對へて日之食國を知ますは大日女《オホヒルメ》の尊なり。これよりして天津日嗣しろしめす御孫《ミマ》の命を日知と申奉れり。【故にここなるは神武天皇なり】書紀に神聖などあるはからざまに字を改しにてそをば二字にてカミと訓なり。聖字に泥みて日知てふ言を誤る説おほかりといへり。【記傳には此は皇國の元よりの稱にはあらじ。聖字に就て設けたる訓なるべし。そは漢籍に聖人と云者の徳をほめて日月に譬へたることを取て日の如くして天下を知しめすと云意なるべし。といへれどこを日の如くして天下知しめすとやうにいへるはいかにぞや。聞とりがたし。いかにも言は神代より有來し言の如くもおもはれねどなほ眞淵の説さもやと思はるるなり】從はユと訓べし。ユリの意にてヨリに同じ。故にヨリをヨとのみもいへり。そのうちにてユとヨとは集中にいとあまたあれば擧る遑なし〔頭注、校正者云。擧る遑は擧るにか〕。ユリは卷二十に「みことかかぶり阿須由利也《アスユリヤ》」また續紀の詔に高天原由利《タカマノハラユリ》また高御座爾座初由利《タカミクラニイマシシハシメユリ》【中略】本由利行來《モトユリオコナヒコシ》などみゆ。今も常にいふ詞にて古今集よりこなたはユ、ユリ、ヨはたえてただヨリのみになれり。ここはユと訓べし○阿禮座師《アレマシシ》は記に安禮座之御子《アレマシシミコ》とあり。アラハレマシシといふ言にて【アラハの約アなり】此身の現はるるをいふ。續紀に御子之阿禮座牟《ミコノアレマサン》また月次祭祝詞に阿禮座皇子等《アレマスミコタチ》などみゆ。また允恭紀に皇后|産《アラシマス》2大泊瀬天皇1と産字をアラシマスと訓るは令《シメ》v生《アラ》座《マス》なり。【案に記傳に阿禮はウマレを切めたる言なりといへるは誤なり。ウマルルは母に所生《ウマルル》にて母を主《ムネ》として云ひ阿禮は現るる義にて子を主としていふ故其言は別なりと古義にみゆ】○神之盡云々の神は橿原の日知《ヒシリ》【神武】帝より御代々々の天皇を申せるなり。盡は其天皇等ことごとく御父のみかどより御子のみかどと樛木のつぎつぎに御位を讓り玉ひて繼せ玉へることにてこれを樛木乃彌繼嗣爾とはよめるなり。樛は卷三に都賀乃樹乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》。また卷十七に「かむさびてたてる都我能奇《ツガノキ》もともえもおやしときはに」。卷十九に「あしびきのやつをのうへの都我能木能伊也繼々爾《ツガノキノイヤツギツギニ》」。また卷六に四時爾生有刀我乃樹能彌繼嗣爾《シジニオヒタルツガノキノイヤツギツギニ》などあるにおなじ、木にて冠辭考に刀都ともに皆ツの音に用ゐたり。【刀はもとトの假字なれど稀にツにし用たり】さればツガは黄楊《ツゲ》の事ならん。和名抄に黄楊【豆介】色黄白。材堅者也といへり。【介字は古へカとケの二音に用ゐたれば黄楊をツガと唱へんも嫌あるべからず】さて此黄楊即とこ葉なれば嗣々てふ語に重ねて祝ふにもそむかず。且樛木とかきしは俗に犬ツゲともビンカとも云て本も枝もまがれる木あり。これ黄楊の類なれば同じく都賀といふべきものなり。といへり○天下はアメノシタと訓べし。卷二十に安米能之多《アメノシタ》また阿米能之多《アメノシタ》。また靈異記に宇【阿米乃志多】また類聚名義抄に宇【あめのした】また日本紀竟宴歌に阿馬能芝多《アメノシタ》また日本紀倭訓類林にも區宇【安梅能戸太】など舊くはみなかく訓めり。後世アメガシタといふはいたく俗《サト》びたり○所知食之乎《シロシメシシヲ》はしろしめしし物をの意にて句を隔て下の何方二《イカサマニ》につづくなり【略解は考の所知食來に従ひてシロシメシケルと訓れど穩ならず】○虚見《ソラミツ》は倭の枕辭にて上にみゆ。天爾滿とあるはわろし○倭乎置而の置は考に捨置なりといへるが如し○青丹吉は枕辭なり○平山越而は或本にかくあり。置而と越而との二つのテもじを「大津の宮に天下しろしめしけむ」へ及ぼして心得べし。平はナラスの義よりかけり。この平山《ナラヤマ》即ち奈良阪にて近江への路なり○何方《イカサマニ》は俗にドノヤウニといふにおなじ○所念計米可《オモホシケメカ》これも或本をとれり。メはムに通ひてオモホシケムカと疑へるなり。かくてこの「いかさまにおもほしけめか」の二句は上の「天下しろしめししを」の下に移して心得べし○天離《アマサカル》は夷の枕辭なり。冠辭考に都がたよりひなの國を望めば天と共に遠放《トホザカリ》てみゆるよしにて天サカルとは冠らせたりといへるがよし○夷者雖有《ヒナニハアレド》の夷は都の外をすべて何所《イヅク》にてもヒナといへりと記傳にみえたり、この説の如し【然るを古義にヒナとは皇都をさかりたる地をなべていふ名にはあらで方士につきて云し名なり。そは畿内よりさかりたる西方北方の國を比那といひ東方の國をアヅマといひしことにぞありける。と云て伊勢物語に陸奥の女の事を歌さへぞひなびたりける」源氏物語末摘花に末つむ花の侍女のことを「あやしうひなびたるかぎりにて」また常夏に近江君のことを「ただいとひなびあやしき」云々。東屋に常陸介のことを「ひなびたるかみにて」枕草紙に「ひなびなしからぬけしきしたる」また「家あるじいとひなびたり」重之集に「陸奥の子鶴の池にて。ちとせをばひなにてのみやすぐしけん子鶴の池といひて久しき」また源氏の蓬生に「今のとかにぞひなのわかれにおとるべし世の物がたりも聞えつくすべき」北院御室御集に「和泉國新家と云所にてしほ湯あみて京都へかへるとて。日數へしひなの住居をおもひ出はこひしかるべき旅の空かな」鴨長明海道記に「參河國に至りぬ云々ひなのすみかには月より外にながめなれたるものなし」阿佛の轉寢記に「ひなの長路におとろへはつる身も」などあるにておもへば中昔の季つかたよりはいつしか混亂《ミタレ》て皇都を離れし地をすべていふこととと意得しなり。上古は然らざりき。崇神紀に平2戎夷《ヒナ》1之状。景行紀に東(ノ)夷《ヒナ》之中。應神紀に東(ノ)蝦夷《ヒナ》。允恭紀に朝野《ミヤコヒナ》。また四夷《ヨモノヒナ》。顯宗紀に華夷《ミヤコヒナ》。持統紀に蠻所居《ヒナノヰドコロ》などあるはみな古に昧き人のつけし訓なり。そは記に毛々陀流都紀賀延波《モモダルツキカエハ》〔頭注、校正者云。毛々陀流都紀賀延波の下本都延波の四字脱か〕阿米袁淤幣理《アメヲオヘリ》。那加都延波阿豆麻袁淤幣理《ナカツエハアヅマヲオヘリ》。志豆延波比那袁淤幣理《シツエハヒナヲオヘリ》とあるこれヒナの方土につきて西方北方をいへる明證にはありける。なほその舊例をいはむに景行紀に巡2狩筑紫國1始到v夷守。また集中にては卷二に人麻呂の石見國にて死れるを作る歌に天離夷之荒野《アマサカルヒナノアラヌニ》。卷三に「天離夷之長道《アマサカルヒナノナガヂ》ゆこひくれば自明門《アカシノトヨリ》やまとしまみゆ」。卷四に丹比笠麻呂の筑紫に下る時「天佐我留夷乃國邊《アマサカルヒナノクニヘ》にただむかふ淡路をすぎ」。卷六石上乙麻呂配2土佐國1之時「天離夷部爾退《アマサカルヒナヘニマカル》」。また古今集「隱岐國に流され侍ける時篁朝臣。おもひきやひなの別におとろへて海士のなはたぎいさりせんとは」などあるこれら西方の國をいへる例なり。また十七、十八.十九などに越中國のことを安麻射可流比奈《アマサカルヒナ》とも夷放國ヒナサカルクニ》ともよめる多し、これ北力をヒナといへる證なり。東方をアツマとのみいひてヒナといへることは此集の比まではひとつも旡きにてヒナとはただに邊鄙をなべていふ名にはあらざりしことを曉るべし。といへるいと委しき考なり。されども阿豆麻《アヅマ》をおへり比那《ヒナ》をおへりの歌を以て古は東國をばヒナといはざりし證とするはうべなひがたし。いかにとなれば歌は調べによりてはおなじことをさへ重ねいふものなればこゝにヒナと阿豆麻《アヅマ》とを竝へいひたりとて東國をばヒナとにはざりしともいひがたからんか。よしや後人の訓るにもせよ紀に東夷の字をアヅマノヒナともあらずや。又西方北方の國をヒナといへりといへれど卷六に石上乙麻呂卿配2土佐1之時(ノ)歌に「おほきみの命かしこみ天離夷部爾退《アマサカルヒナヘニマカル》」とありて南方をもヒナといへり。既に西南北の三方をばヒナといへるにいかでか東方をのみヒナといはざる理あらん。委しき考なれどもとりがたし】近江は倭より丑寅にあたりてやや離れたる所なれば夷《ヒナ》にはあれどもといへるなり○石走淡海國乃《イハバシルアフミノクニノ》の石走を冠辭考にはイハバシノと訓たれど下なる藤原宮役民歌にも磐走淡海《イハバシルアフミ》卷七にも石走淡海《イハバシルアフミ》などみなイハバシルと訓てこは勢田より流れ宇治に落る所水の勢ひ激《ハゲ》しくてここを鹿飛《シシトビ》といへり。一面の巖にてその上を水の走《ハシ》る状《サマ》石走《イハハシ》るといひつべし。この所湖の尻にて水の増減なからしむる要《カナメ》なる所なればここを淡海の枕辭とせしものなるべし。アフミとは淡海《アハウミ》【潮ならぬ淡しき海をいふなり】の義なり○樂浪《ササナミ》乃大津宮爾の樂浪《ササナミ》は地名なり。記に出(テ)2沙々那美《ササナミ》1【こは會阪をこえて沙沙那美てふ地にいでたるなり】神功紀に狭々浪栗林《ササナミノクルス》。欽明紀に控《ヒキコス》2引船於|狹々波山《ササナミヤマニ》1。天武紀に會2於※[竹冠/(攸)]浪1などあり。紀傳云。志賀は古より廣き名にて郡名にもなれるをなほ古は沙々那美は志賀よりも廣き名にやありけむ。萬葉の歌どもに「沙々那美の志賀」と多くよみて、志賀の沙々那美」とよめるはなし。又九卷には樂浪の平山《ヒラヤマ》ともあれば比良のあたりまでかけたる名にぞありけん。綺語抄に今按近江國滋賀郡ささなみ山あり。志賀ノササナミと云べきをササナミヤ志賀ノと云傳へたるはあるやうあるにやあらむ【芳樹云。この綺語抄にいへるはやや後のことにて古へは志賀ノササナミとはいはでササナミノ志賀とこそいひたれ。古義に沙々那美は後々志賀郡なる一所の名となれるなるべし。今昔物語に志賀郡篠波山ともありて其頃はなほ地名なることを辨へたりしを後々は細浪《ササレナミ》のこととおもひ誤れること往々みえたり樂浪《ササナミ》とかけるは神代の石屋戸にて小竹葉《ササ》を打振り神樂《カミアソビ》せし古事により樂をササと訓せたるものなり】大津宮は今も大津といへるが其所なり〇天皇乃はスメロギノと訓て天智天皇をさせり。古義云。すべて集中に天皇とかけるは皆スメロギと訓べく皇、王、大皇、大王、大君などかけるはみなオホキミと訓べし。【さるを所によりては天皇をオホキミともよみ皇をスメロギともよめる類のみえたるは皆誤なり】凡て此集にはオホキミを天皇とは書ぬ例にて集中に吾皇【四ところ】吾王【九所】我王【二所】吾大皇【三所】吾大王【十九所】吾期大王【五所】和期於保伎美【一所】吾於富吉美【一所】和我於保伎美【一所】などみえたるが中にひとつも吾天皇とも我天皇とも吾期天皇とも和期天皇とも書る所のなきは天皇とかけるをはオホキミとはよまぎりし明證なり。さてスメロギとは御祖の天皇を申すことはさらにてそれより轉りて皇祖より當今までを兼て廣くも申せりしなり。【されば正しく當今御一人をさして申すことはかつて旡かりしを古今集のころよりスベラギと申て當今天皇のことのみをいへるはまた一轉したるものなり】さてここに天智を指て天皇と申せるを始て卷六に「やすみしし吾大王《わがおほきみ》の高しかすやまとの國は皇祖乃神《スメロギノカミ》の御代より」とある當今をさして大王《オホキミノ》といへるにて皇祖の字をスメロギと訓むことしるくその外十八に皇御祖《スメロギ》。また皇神祖《スメロギ》。また須賣呂伎《スメロギ》二十に天皇《スメロギ》。また須賣呂伎《スメロギ》などは正しく皇祖を申せることその前後の詞にて明かなり。此外に大皇《オホキミ》といへるにおなじさまなるも卷二に天皇之神之御子之《スメロギノカミノミコノ》。【こは志貴親王を皇祖神の御子孫といへるなり】十八に「須賣呂伎能《スメロギノ》御代さかえむと」。十九に「須賣呂伎《スメロギ》の御代萬代に」。卷三に「皇祖神《スメロギノカミノ》の御門に」。七に「皇祖《スメロギ》の神(ノ)宮人」。十一に、皇祖《スメロギ》乃神(ノ)御門」。二に「天皇《スメロギ》之しきます國」十八に須賣呂伎《スメロギ》の可未のみことのきこしをす國のますらに」。三に「皇神祖《スメロギ》の神のみことの敷ます國のことごと」などあるは皇祖の事を申て當今をもこめたり、さて十七に「須賣呂伎《スメロギ》のをす國なれば」。また「須賣呂伎《スメロギ》の敷ます國の」などあるは三に「大皇之《オホキミノ》しきます國」。十九に「大王《オホキミノ》の敷ます國」また、「吾大皇之伎《ワガオホキミシキ》ませばかも」などあると同じさまなから須賣呂伎《スメロギ》と申せるは皇祖より御代々々の天皇をかねてきこし食し敷ますよしなり。また十五に「須賣呂伎能《スメロギノ》とほのみかど」。二十に「天皇《スメロギ》のとほのみかど」などこれらも皇祖より御代々々天皇の遠朝廷と申せるにて意同じ。但五に「大王《オホキミ》のとほのみかど」。十七に「大王《オホキミ》のとほのみかど」。十八に「於保伎見《オホキミ》のとほのみかど」。三に「大王《オホキミ》のとほのみかど」ともあればオホキミもスメロギも同じ事ぞと思ふ人もあるべけれど然らず。是はオホキミと云て【當今御一代を申て】もスメロギと云て【皇祖よりを兼て申て】も通《キコ》ゆればかくかれにもこれにもいへりけむ。かかれば天皇《スメロギ》と大皇《オホキミ》とはそのけちめ明らかなること上件に云るがごとし。たまたま大君《オホキミ》と申すべき所を天皇とかけるは決《ウツナ》く誤なりと思ふべし。そはなほ下に云べし○神之御言《カミノミコト》は神《カミ》の尊《ミコト》なり○此間等雖聞《ココトキケドモ》の此間《ココ》また下なる此間等雖云《ココトイヘドモ》の此間《ココ》共に大津をさせるなり雖聞《キケドモ》は大津に來て舊跡はここなりときけどもの意。雖云は大津の者どもが舊跡はここなりといへどもの意なり○霞立春日香霧流夏草香繁成奴留《カスミタツハルヒカキレルナツグサカシゲクナリヌル》の四句は考によれり。さて考に宮どころはまさにここぞと聞。ここぞといへども春霞が立くもりて見せぬか。夏草がおひ繁りて隱せるか。と疑へるなり。春霞と云て又夏艸といへるは時たがひつと思ふ人もあるべけれどこは此宮のみえぬをいかなることぞと思ひまどひてをさなくいへるなればかく時をもたがへてよめるこそ中々あはれなれ。といへるがごとし○百磯城之《モモシキノ》は大宮の枕辭なり百は記に毛々知陀流《モモチタル》また毛々陀流《モモタル》などの百なり。磯城《シキ》は崇神紀に立2磯堅城神籬《シキノヒモロギヲ》1と見えたる磯堅城と同じく百《モモ》と多くの礎石《イシ》もて堅く造れる城の大宮といふことなり○見者悲毛《ミレバカナシモ》は板本に或云。見者左夫思毛とあり。いづれにてもあるべし。カナシは悲《カナシ》むことにも愛憐《ウツクシ》む事にも戀慕《シタ》ふ事にもいひて深く心に思ふことなり。毛は歎息《ナゲキ》の詞なり○歌意は。神武天皇より以來御世々々大和にのみ坐《マ》して天下知しめしたればその舊き御あとに從はせ玉ふべき事なるをいかやうにおぼしめしたればにか倭をばうちすて置て鄙《ヒナ》の近江に遷都し給へるはとまづいひて天智のみしわざを下に譏りたるものなり。さるはこの天皇遷都の御事のみならず何事をも改新《アラタ》め物し玉ふ御本性にましまして皇祖の御定めをもかく換へ給へる。そもおもほしおきてたるやうに末永く續かばこそあらめ。ただ御一代にてもとの大和に都はかへりてその御舊跡は荒れはてたるをたしかにさはいはで大宮はここときけども大殿はここといへどもさらにわがめにみえぬはいかなる事ならん。もしくは春霞の立おほひてみせぬか。夏草がおひしげりてみせぬか。と霞と草とにかこつけて大宮處をみればかなしといへるなり
 
反歌
 
樂浪之思賀乃辛崎《ササナミノシガノカラサキ》。雖幸有大宮人之《サキクアレドオホミヤビトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》
 
思賀乃辛崎《シガノカラサキ》は志賀郡にある地名なり○雖幸有《サキクアレド》は何にてもかはらず旡恙《ツツガナク》てあれどもの意なり。カラサキサキクと詞をかさねたるなり。卷十三にも志賀能韓崎幸有者《シガノカラサキサキクアラバ》とあり○大宮人《オホミヤビト》は大津の大宮に仕ふる人をさす。船麻知兼津《フネマチカネツ》の船は大宮人の乘て遊ぶ船なり。船を心あるものにして〔頭注、船を心あるものにしてとある心得かたし。辛崎をこころあるものにしてとこそいはめ〕此大津が都となりしよりは辛崎も近きあたりなれば大宮人が常に舟遊びして賑はしかりしに近頃はさる船の水際《ミギハ》によせ來むを待てども來らずと辛崎が歎くやうの意によめるにて辛崎はかはらで旡恙《ツツガナ》くあれども、都はかはりて船を寄る宮人もなく淋しとなり
 
左散難彌乃志我能大和太《ササナミノシガノオホワダ》。與杼六友昔人二《ヨドムトモムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》
 
大和太《オホワダ》の大は大津の大に同じぐ大きく廣き所をいふ。和太は水の曲りてわだかまれるをいふ言にて神武紀に釣《ツリス》2魚於|曲浦《ワダノウラ》1とある曲字の意なり。卷三、卷七に夢乃和太とある和太も同じ。この夢の和太を懷風藻には夢淵とあり。淵は必ず入まがりて水のよどむものなれば和太《ワダ》に淵字をあてたるものなり。千載集に「いつみ川水のみわだのふしつけに岩間のこほる冬はきにけり」とあるミワダも水曲《ミワダ》なり。山家集に「かはわだのよどみにとまる流れ木の浮橋わたすさみだれのころ」とあるカハワダも河曲《カハワダ》にてミワダに同じ。【このワタを渡と心得たるは非なり】さて浦の入まがりたる處はおのづからよどみとなれるゆゑにヨドムトモとうけたり【このヨドムトモを古義にむかし盛なりし世のままによどみてありともの意に解るはわるし。ただ今見る水のよどむにつきて感をおこせるなり】○昔人《ムカシノヒト》は天智の御世この大津にすみし人なり○亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》のメはムに通ひてヤモのヤはヤハに同じ。アハムヤはあふ事はえならじの意なり○歌意は。志賀の大和太の水が流れやらずよどみとどまりで居るは何ゆゑならむ。ここは昔は都にてありしゆゑ大宮人が舟遊びなどに來て賑ひし所なるを古郷となりてよりはかく淋しくなれり。水はさもしらでその舟遊びに來る昔の人をよどみて待つなるべし。たとへ待たりとて無益《アヂキナキ》事ぞ。昔の人にまたあふ事かならめや。といへるなり。そもそもこの長短の三首共に舊都の荒廢《アレ》たるを歎ける歌なるをその歎きの中に深く天皇を譏り奉る意のこもりたること上にいへるがごとし。さるは後世に至るまで中興の天皇と稱へ奉りて何事につけても此御代の御おきてを萬世に動くまじき法則とすれどもそは藤原氏執政よりこなたのことにて當時におき後言《シリウゴツ》人もなきにはあらざりけらし。【そのよし上にもいへり】人麻呂もこの天皇の御事の心に諾ひがたくおもはれしよりかくもよまれたるなるべし【なほ歴朝詔詞解をよみてしるべし】
 
高市古人|感2傷《カナシミテ》近江|舊堵《フルキミヤコヲ》1作歌 或書云高市連黒人
 
考云。こは歌の初句をよみ誤てさかしらに古人とせしものなり。黒人とあるに從ふべし。但黒人の傳はしられず【堵字のことは三の卷に委しく云ふべし】
 
古人爾和禮有哉《イニシヘノヒトニワレアレヤ》。樂浪乃故京乎見者悲寸《ササナミノフルキミヤコヲミレバカナシキ》
 
古人爾和禮有哉《イニシヘノヒトニワレアレヤ》は我は古の人にてあればにやの意なり。古人とは大津宮の盛なりし時にあひし人をいふ。有哉《アレヤ》はアレバヤの意なり。ヤは疑詞なり○見者悲寸《ミレバカナシキ》のキはヤの結びなり○歌意。われもし大津宮の時の人ならば昔の盛なりしことを知れるゆゑに今かく荒果たるをみて悲しまんもことわりなるをわれはさもあらぬにかくまで悲しきはあやしきことなりとなり
 
樂浪乃國都美神乃《ササナミノクニツミカミノ》。浦佐備而荒有京《ウラサビテアレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
國都美神は樂浪《サザナミ》の地《クニ》をうしはきます御神なり。【神名式に度會v(ノ)國(ツ)御神(ノ)社あり】浦佐備《ウラサビ》の浦《ウラ》は借字にて心《ウラ》なり。サビは勝佐備《カチサビ》・神佐備《カムサビ》・翁佐備《オキナサビ》などのサビに同じく勝サビは勝スサビ。神サビは神スサビ。翁サビは翁スサビなり。さてそのスサビは進むに同じ義にて善《ヨ》きに進むにも凶《アシキ》に進むにもいふ詞なり○歌意は。國津御神はその鎭り坐る境を護りて荒さぬ樣にこそし玉ふべきをここに都したまひし天智の御しわざが國津御神の御心にかなはぬにやあらん御心すさびしつひにかくの如く荒果たるをみればかなしもとよめるなり
 
《イデマセル》2于|紀伊《キノ》國(ニ)1時川島皇子御作歌《カハシマノミコノヨミマセルウタ》 或云山上憶良作
 
持統紀四年九月丁亥天皇幸2紀伊1。戊戌天皇至v自2紀伊1この時の事なるべし○川島皇子は天智天皇の皇子なり。天智紀七年に生れませり。母は忍海造小龍の女色夫古娘なり。天武紀十四年正月に授2淨大參位1。持統紀五年正月に増2封百戸1。通v前五百戸。九月己已朔丁丑淨大參皇子川島薨【懷風藻に詩一首を載せて位終2于淨大參1。時年三十五とみゆ。猶卷二にいふべし】
 
白浪乃濱松之枝乃《シラナミノハママツガエノ》。手向草幾代左右二賀《タムケグサイクヨマデニカ》。年乃經去良武《トシノヘヌラム》〔頭注、一云年者經爾計武此八字脱たり〕
 
白浪乃濱とは白浪の立さわぐ濱といふことなり。記に幣都那美曾邇奴岐宇弖《ヘツナミソニヌキウテ》とある傳に浪ノヨル磯などとこそいふべけれ。直《タダ》に浪磯《ナミソ》とては言つづかぬに似たれど萬葉に白浪乃濱とよめるも同格にてナミはナギの反にてもとは浪の立さわぐを云名なればナミソにで即波の立さわぐ磯と云意なり。土佐日記に「風による波のいそには鶯も春もえしらぬ花のみぞさく」これも浪ノイソとよめりといへり【白菅之眞野《シラスゲノマヌ》も白菅の生る眞野たり。炎乃春《カギロヒノハル》も炎のもゆる春といふことなればかくつづく例おほし】○濱松之枝乃手向草《ハママツガエノタムケグサ》は仙覺の註に「タムケグサとは神に奉るものなり。神に奉るものを松にかけおきたればかくよめるなりと云。この義常のことなり。あしからず。常陸風土記に香島郡の舊聞異事を註する所に海上(ノ)受是之《アセノ》孃子歌曰|伊夜是留之阿是乃古麻都爾《イヤセルノアゼノコマツニ》。由布悉弖々和乎布利彌由母《ユフシデテワヲフリミユモ》。阿是古志麻波母《アゼコシマハモ》云々〔頭注、註せる所歟〕是は濱松が枝の手向草などよめらんためし事と聞えたりし」云々といへり。草は種《クサ》なり。何にても手向の品をいふ。卷十三に「あふ阪山に手向草。ぬさとりおきて」とあるに同じ【源貞世の道ゆきぶりに「明石の浦は云々みどりの松のとしふかくて濱風になびき馴たる枝に手向草打しげりつゝ」とかけり。是はこゝの御歌の手向草を女蘿なりといふ舊説のあるによれるなり。されど此手向草は女蘿にはあらず】手向とは旅人の越ゆく山の上にて神を祭りて平らかならむことを祈るにいへり。【そはこれのみにはあらずすべて幣を取て手して神に奉るをばいづこにても手向草といふべし】故に今も山道の上ると下るとの境なる所をタウゲといふはタムケの訛れるなり○幾代左右二賀年乃經去良武《イクヨマデニカトシノヘヌラム》は松が枝に手向草をかけしは昔のことなるを幾代までか年のへぬらんと宣へるなり。芳樹おもふに此歌いたく解けがたけれども仙覺の注によりて濱松が枝に手向草をかけおきたるとして強ていはば此皇子三十五にて持統天皇の五年に薨玉へり。その前年に紀國の行幸ありて從駕《ミトモ》したまへるなるべし。この時吹上の濱などの如く眺望のおもしろき所に古松のたてるを浦人等がここはむかしより都人の手向草おきて行路の無難を祈り玉へる所なりなどゝ語るを聞し召てこの濱松の枝にかけしといふ手向種はもとより今はあるべきならねど其事をきゝてこれをおもふにその手向したりけん昔よりはおよそいく代までにか年のへぬらむ久しき事にこそといふ意なるべし。古義に或説に此卷の上に斉明天皇中皇女などの紀温泉の幸あり。斉明は皇子の御祖母、中皇女は御伯母なればさるをりにこの濱松のあたりにて手向せさせ給ひし事をよませ玉へるにこそ。といへるはおのれが説とはことなり。いかがあらん
 
日本紀曰。朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸2紀伊國1也
 
朱鳥の二字削るへし。朱鳥は天武の御代の年號にてこの元年丙戌に天皇崩じ給ひしゆゑ翌年丁亥に持統即位したまへり。これを持統天皇元年とす。それより四年へて庚寅に紀國の行幸ありし事紀にみえたり
 
《コエタマフ》2勢能山《セノヤマヲ》1時《トキ》阿閇皇女御作歌《アベノヒメミコノヨミタマヘルウタ》
 
勢能山は孝徳紀二年に九凡畿内《ウチツクニハ》東(ハ)自2名墾(ノ)横河1以來。南(ハ)自2紀伊(ノ)兄山1以來。西は自2赤石(ノ)櫛淵1以來。北(ハ)自2近江(ノ)狹々波合坂山1以來爲2畿内國1とありて紀伊のうちなり○阿閇皇女は天智天皇の御女なり。御母を姪娘《メヒノイラツメ》といふ。【天智紀七年の件にみえたり】續紀には宗我嬪とありて蘇我(ノ)山田(ノ)石川麻呂大臣之女也とあり。この皇女日並知皇子に適《アヒ》玉ひて文武天皇を生み玉へり。文武の崩後即位《クラヰニツカ》せ玉へり。元明天皇これなり○皇女の勢能山をこえたまひしは考に右と同じ度なるべしといへり。持統天皇に從ひ玉ひし時のことにて上の端書と同じ度のことなり
 
此也是倭爾四手者《コレヤコノヤマトニシテハ》。我戀流木路爾有去《ワガコフルキヂニアリトイフ》。名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》
〔頭注、是能《コノ》この能(ノ)字脱たり〕
 
此也是《コレヤコノ》は宣長云.是《コノ》はカノといふ意なり.すべてカノといふべきをコノといへる例多し。さて上のコレは今現に見る物をさしていふ。カノとは常に聞居る事、或は世に云習へる事などをさしていふ。コレヤカノ云々ナラムといふ意なり。といへるがごとし。さてヤの辭は結句までかけてこゝろうべし。卷十五に「巨禮也己能《コレヤコノ》名におふなるとのうづしほに、玉藻かるとふあまをとめども」とあるもこれに同じくこの少女《ヲトメノ》どもがかの鳴門のうづしほをも恐れず玉藻かるよし聞たるその海人の少女どもかと結句までかけてみる格なり【この外に此曾是《コレゾコノ》ともいへり。こは此ガカノ云々曾といふ意たり。但後撰集に「これや此ゆくも歸るもわかれつつ知るもしらぬもあふ坂の關」とよめるは一轉したるつかひざまにてこれが彼關所なるゆゑに行人もかへる人も外によき道はなくて皆あひあふといふより名に負へる逢坂の關かと名のゆPよしを疑へるなり。香川景樹かコレヤコノはこゝを始めてこす人のよめる歌なるやうにおもへるはあらず。この歌奈良の都の人ならばコレヤコノといへるもさもあるべし。されどその體山城の京の人のなるにたがひなければ都よりわづかに半里ばかりの地のことヲコレヤコノなど驚きがほにいふべきにあらねば往來の人の多くあひては別れ、わかれてはまたあふをみて逢坂と名づけたるならむとその名のよしを疑ひ思へるなり】〇倭爾四手者《ヤマトニシテハ》は大和デハといふが如し○我戀流《ワガコフル》は結句の勢につゞけてみるべし○木路有云《キヂニアリトフ》は木路にありといふの義なり○名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》は夫を背《セ》といふゆゑにわが戀る夫《セ》といふ名におふ山ぞとのたまへるなり○御歌意は。この皇女は日並知皇子【草壁皇子とも申せり】の妃にておはしまししに持統紀三年夏四月乙未皇太子草壁皇子尊薨とみえてはやく夫君《セノキミ》はかくれさせたまへり。その翌年八月に紀国の行幸あり。【皇太子の隠れ玉へりしより一年半ばかりになれり】皇女の夫《セノ》君を戀慕ひて歎きのみおはしますを慰めたまはんとて紀國に誘《イザナ》ひ給へるなるべし。故に我は大倭にありて去年の四月に夫《セ》を失ひて晝夜歎き戀《コフル》につけその夫《セ》の名におふ背《セ》といふ山は木路にありときゝしがこの山がかのわかこふる所の勢能山歟とのたまへる也。諸註夫君の薨の事をいはでたゞ大倭にしでわが戀る夫といふ名におふ山とのみいへるゆゑに倭ニシテハの詞いたづらごとになれり。夫《セ》が大倭には旡くて木路にありといふが御歌のほいなるをや
 
《イデマシシ》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1之時柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作歌《ヨメルウタ》
 
八隈知之吾大王之《ヤスミシシワガオホキミノ》。所聞食天下爾《キコシヲスアメノシタニ》。國者思毛澤二雖有《クニハシモサハニアレドモ》。山川之清河内跡《ヤマカハノキヨキカフチト》。御心乎吉野乃國之《ミコヽロヲヨシヌノクニノ》。花散相秋津乃野邊爾《ハナチラフアキツノヌヘニ》。宮柱太敷座波《ミヤバシラフトシキマセバ》。百磯城乃大宮人者《モヽシキノオホミヤビトハ》。船並※[氏/一]旦川渡《フネナメテアサカハワタリ》。舟競夕河渡《フナギホヒユフカハワタル》。此川乃絶事奈久《コノカハノタユルコトナク》。此山乃彌高良之《コノヤマノイヤタカヽラシ》。珠水激瀧之宮子波《オチタギツタキノミヤコハ》。見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》〔頭注、珠水激訓イハバシル歟〕
 
所聞食《キコシヲス》は記傳云。食《ヲス》はもと物を食ふことなり。
【書紀などに食をミヲシスとよみ、食物をヲシモノと云ひ、萬葉十二にヲシと云辭にも食を借れり】さて物を見も聞も食もみな他物を身に受け入るゝ意向じき故に見《ミス》とも、聞《キコス》とも、知《シラス》とも、食《ヲス》とも相通はして云こと多くして君の御國を治め有《タモ》ち坐すをも知《シラス》とも食《ヲス》とも【から國に食邑と云ことありて幾千戸を食などいふも自ら意のあへるなり】聞食《キコシヲス》とも申すなり。これ君の御國治め有《タモチ》坐(ス)は物を見が如く聞が如く、知が如く、食《ヲス》が如く御身に受入れ有《タモ》つ意あればなりといへり。芳樹これに依ておもふに奏字をマヲスとよみ、納言をモノマヲスツカサといふも皆同じくスはサシムの約れるにて御國治め玉ふべき事共を君に受有《ウケタモ》たしむるよりいふ詞なり。【されば義はヲの一言にあり】卷五に企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》。また卷十八に「すめろぎの神のみことの伎己之乎須久爾能麻保良爾《キコシヲスクニノマホラニ》」などの食《アオス》も君の受有《ウケモチ》て治め玉ふをいふことこゝに同じ○國者思毛《クニハシモ》のシモは助辭にておのづから多かる國のうちにても殊に吉野は〔頭注、校正者云。吉野はの下い脱か〕とよき國なるよしにおもはする詞なり○澤《サハ》は多《サハ》の借字なり○山川《ヤマカハ》は山と川となり。カハのカ清みて唱ふべし。卷七に「皆人のこふる三吉野今日みればうべもこひけり山川清見《ヤマカハキヨミ》」とある山川も同じ○清河内趾《キヨキカフチト》は芳樹おもふに山川の清くて善き河内の國なりといふ意にてこの河内の詞をば暫く山川に離ちて心得べし。そはこゝは水の行巡りて麓の里とは隔をなせる所といふやうなる意にて河内とは境界といはむが如くなればなり。【西國にて自らの家の敷地をさして此方のカフチになどいへるが即こゝのカフチと同じことなり】トはトテの意なり○御心乎《ミコヽロヲ》は天皇の御心に善《ヨ》しとみそなはすを推はかりていへるにて後世よりいへばおのづから枕辭の如きものなり。さればヲはヨといはんが如くなるべし。またはノに通へる歟と古義にいへり。吉野乃國《ヨシヌノクニ》は大和のうちの郡名にて國にはあらねどかゝる所を歌には國ともよめり。【泊瀬國などは郡にもあらぬをさへ國といへり】さるは傳に師説を引て國は界隈の義にて東にて垣をクネと云も此意なりといへり。されば吉野の境界《カフチ》なる秋津野といふことなり○花散相《ハナチラフ》は花散なり。【ラフの切ルなり。かくチルを延てチラフといふも同じ言ながらそのうちにおのづから緩急ありてちるとはたゞはら/\と散ることなるをチラフといへばゆるらかにたえずちるやうにおもはるゝこれ言に靈ありて妙なるところなり】秋津乃野邊《アキツノヌベ》は吉野の蜻蛉野《アキツヌ》なり。この邊《ヘ》清音に唱ふべきよし古義に煩はしきまで證を引て辨へたり○宮柱《ミヤバシラ》は吉野の離宮のことなり。太敷座波《フトシキマセバ》は傳云。祝詞等に太知立《フトシリタテ》とも太敷立《フトシキタテ》ともまた廣知立《ヒロシリタテ》ともあるそは師説に萬葉二に天皇之數座國《スメラギノシキマスクニ》と云ひ祈年祭詞に皇神能敷坐島《スメカミノシキマスシマ》云々など知坐《シリマス》を敷座《シキマス》と云たれば知《シリ》と敷《シキ》と同じとあり。此|稱辭《タヽヘゴト》を古來たゞ柱の上とのみ意得れどさにあらず。今考るに萬葉二に「みづほの國を神ながら太敷座而《フトシキマシテ》」また一に「太敷爲京《フトシカスミヤコ》を置て」また二に「飛鳥の清《キヨミ》の宮に神ながら太布座而《フトシキマシテ》」云々などある例を思ふに宮柱布刀斯理《ミヤバシラフトシリ》も其主の其営を知坐(ス)を云なり。布刀《フト》も右の萬葉に柱ならで國を知坐《シリマス》にも云ればたゞ廣く太きにといふ稱辭《タヽヘコトバ》なり。故《カレ》廣知《ヒロシリ》とも云るぞかし。かゝれば此語は專ら柱に係るにはあらず。其宮の主に係れる語なるを布刀《フト》といふが柱に縁《ヨシ》あるから宮柱|太《フトク》と云かけて兼て其宮をも祝《ホギ》たる物なり。神代紀に其造宮之制者柱則|高太《タカフトク》云々〔頭注、校正者云。高太の訓はタカクフトクか〕。また卷二に眞木柱太心者《マキバシラフトキコヽロハ》云々など柱は太《フトキ》を貴ぶなりといへり○大宮人は從駕の百官をいふ○船並※[氏/一]《フネナヘテ》は船を乘ならべての意なり〔頭注、船並※[氏/一]本文には並字ナメとあり〕。且川渡《アサカハワタリ》は朝のほど川のこなたにやどれる官人たちの渉りて出仕するさまなり○舟競《フナキホヒ》は夕べに出仕するさまなり。そはその官人のわれさきにと競ひすゝみて行宮に參《マ》入りいそしむをいへるなり。さるゆゑにこゝは船並てを夕川にもかり〔頭注、夕川にもかけ歟〕舟競を朝川にもかけてこゝろうべし。これを互體といふ○此川乃絶事奈久《コノカハノタユルコトナク》の此は上に川のことをいへるをうけて乃は如クの意のノなり。此川の如く絶る事旡くなり○此山乃彌高良之《コノヤマノイヤタカヽラシ》の此と乃とも上に同じ。イヤタカヽラシは續紀の詔に四方食國天下乃政乎彌高彌廣爾《ヨモノヲスクニアメノシタノマツリコトヲイヤタカニイヤヒロニ》。また祖乃門不滅彌高爾仕奉《オヤノカドホロボサズイヤタカニツカヘマツリ》の高に同じく吉野宮の御榮えを壽て此山の如く高からしといへるなり。されば以上の四句は山と川とにつきてことほき申せるなり。【卷六に芳野離宮者《ヨシヌノミヤハ》云々|其山之彌益々爾此河之絶事無《ソノヤマノイヤマスマスニコノカハノタユルコトナク》。また芳野宮者云々|此山乃盡者耳社此河乃絶者耳社《コノヤマノツキバノミコソコノカハノタエバノミコソ》などあるもみな此宮を壽ふけるたり】○珠水激《イハハシル》の三字は巖に激《アタ》りて水の玉ちるをうつしてかける字なれはイハバシルと訓べし。【誤字の説はわろし】瀧之宮子波《タキノミヤコハ》は瀧《タキ》の宮處《ミヤコ》にて今も夏箕川の下に宮(ノ)瀧村といふがあるは此宮の在し跡なるべしと略解にいへり○歌意は明らかなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
雖見飽奴吉野乃河之《ミレドアカヌヨシヌノカハノ》。常滑乃絶事無久《トコナメノタユルコトナク》。復還見牟《マタカヘリミム》
 
常滑《トコナメ》は考云。常《トコ》しなへに絶ぬ流れの石にはなめらかなるもののつけるものなり。そを即|體《コトバ》にトコナメと云へるなり。といへり。この説の如し。ノは如クの意なり。山川は巖おほくてその巖《イハホ》の際《アヒダ》巖のうへを水ながるゝゆゑに水苔《ミヅゴケ》など著て滑《ナメ》らかなるなり。卷十一に「常滑乃恐道《トコナメノカシコキミチ》ぞ」とあるは泊瀬路のことにて陸地《クガ》なれど陸地にも山中などには水気多くて滑《スベ》りがちなるをかくいへるなり。さればこゝはその常滑《トコナメ》をやがて水の事として絶る事旡くの序とし此度のみならずまたいく度も立歸り立歸り來てみむと飽ぬあまりによめるなり。堀川百首に「みなわまきとこなめはしるあなし川隙こそなけれ浪のしらゆふ」とよめるもトコナメハシルはやがて水のはしるといふ事なるをもおもふべし
 
安見知之吾大王《ヤスミシシワガオホキミ》。神長柄神佐備世須登《カムナガラカムサビセスト》。芳野川多事藝河内爾《ヨシヌカハタギツカフチニ》。高殿乎高知座而《タカドノヲタカシリマシテ》。上立國見乎爲波《ノボリタチクニミヲスレバ》。疊有青垣山《タヽナハルアヲカキヤマ》。山神乃奉御調等《ヤマツミノマツルミツギト》。春部者花挿頭持《ハルベハハナカザシモチ》。秋立者黄葉頭刺理《アキタテバモミヂカザセリ》〔頭注、頭刺利の下一云黄葉加射之〕。遊副川之神母《ユフカハノカミモ》。大御食爾仕奉等《オホミケニツカヘマツルト》。上瀬爾鵜川乎立《カミツセニウカハヲタテ》。下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタシ》。山川母依※[氏/一]奉流神乃御代鴨《ヤマカハモヨリテツカフルカミノミヨカモ》
 
神長柄《カムナガラ》の長柄は借字にて下なる役民の歌なる神隨爾有之《カムナガラナラシ》の隨字の義なり。孝徳紀に惟神我子應v治故寄《カムナガラモワガミコノシラサンモノトコトヨサシ》の註に謂d隨《シタガフモ》2神道1亦自(ラ)有(ヲ)c神道《カミノミチ》u也といへるをもて思へ。〔頭注、隨《シタガフモ》2神道1此訓可否しらず〕と考にいへり○神佐備世須登《カムサビセスト》のサビは勝佐備のサビと同じく進《スサ》ビの約まれるにてこゝは大王《オホキミ》は神にてますことはさらに申すまでもなきをその神にましましながらなほ人倫を離れて神々しきかたに進みたまはんとての意なり。傳に須佐之男《スサノヲ》と申す御名を或書に進雄《スサノヲ》とかけるも此意なりといへり。セスは爲《ス》の伸《ノビ》たる言にてシタマフといはむかごとし。トはトテなり。神さびしたまはんとて吉野に行幸したまへりとなり。こは下の山神川神を起さむ爲にまづ天皇を神サビセスといへるなり○芳野川《ヨシヌカハ》云々は芳野川のたぎち流るゝ河内に云事なり〔頭注、にと云事なりか〕○高殿《タカドノ》乎云々の高殿は高く造れる殿のよしにて高知座而《タカシリマシテ》は記の於2高天原1氷椽多迦斯理《ヒキタカシリ》の傳にタカシリはたゞ氷木《ヒキ》の事のみにあらず主の其宮を知坐をいふ。多迦も布刀と同く稱言《タヽヘゴト》なり。續紀の詔に天下乃政乎彌高爾彌廣爾云々。萬葉六に「神代より芳野宮爾《ヨシヌノミヤニ》ありかよひ高所知流者《タカシラセルハ》山川をよみ」此歌もてこゝろうべし。宮爾といへれど宮の高きを云にあらず。天皇の此宮を高知坐よしなり○上立《ノボリタチ》は人麿の自ら上りたちてなり。されば高知座而《タカシリマシテ》の下に供奉をして來りその高殿におのれもといふ意を含みてみるべし。國見乎爲波《クニミヲスレバ》は麓の里々を人麿の見渡すことなり。【國見のことは上の舒明の大御歌にみえたり】略解、古義等に上立《ノボリタチ》云々を天皇の御事としたれど芳樹おもふに天皇の神徳にまつろひて山神も川神もつかへ奉るさまなれば人麿の自ら見て自らおもへる所を述たるなること明らかなり。考にはたしかに云たらねばその意しられねどおのが説とおなじかるべし○疊有《タヽナハル》は傳に契冲、禮記に主佩垂則臣佩|委《タヽナハル》と云を引たり。此委の意なり。枕草子に「そばのかたに髪のうちたゝなはりてゆるらかなる」とあるも同じく長きものなどの縮《シヾ》まり倚合て疊《タヽ》まりたるを云【多々那豆久もタヽナハリナヅクを省きたるなり】青垣山《アヲカキヤマ》は青山の國の垣となりて周廻《メグ》れるを記に阿袁加岐夜麻碁母禮流夜麻登志宇流波斯《アヲカキヤマコモレルヤマトシウルハシ》。また出雲國造神賀詞に出雲國の青垣山内爾《アヲカキヤマノチニ》などみゆ。萬葉六には山といはずしてたゞ青垣|隠《コモリ》ともいへり。さればここは青山の垣の如くたゝみ重なりてあるをいへるなり○山神乃《ヤマツミノ》はヤマツミノと訓べし。こは山津持《ヤマツモチ》にて山を持ち掌る神なり。ツは助辭、」ミはモチの約にてヤマツミといへり。奉御調《マツルミツギ》とは山神《ヤマツミ》の天皇に奉る御調物《ミツギモノ》といふなり。御調とは民より公家《オホヤケ》に奉るものを租調徭といふ【租は田賦なり徭は公役なり】その三つの中にて調は國々所々の産物のことなれば吉野は山中ゆゑ春は産《オヒ》たつ所のはなを捧げもちて山神の御調に備ふるよしにいへるなり〇春部《ハルヘ》は春方《ハルヘ》なり。【略解云。古事記に御枕方御足方《ミマクラヘミアトヘ》とあり。山へ川へ等すべて方の意にてあきらけし】花挿頭持《ハナカサシモチ》は山の峯に咲たる花を山つみのかざしもて奉るに見なしていへるなり、【持《モチ》はそへたる言なりと考にいへるかごとし。見ツヽユクを見モテユクといへるなどにおなじ。さるを古義に嚴水とかいふ者の説を引て手に取もたでも持といふべし。とことごとしくいへるすべて歌のコトバをかくの如くときなすときは氣韻死して一首の意をさへあやまるに至ることあるものなり。よくよくくおもふべし】○秋立者黄葉頭刺理《アキタテバモミヂカザセリ》これも花をいへるにおなじ意なり○遊副川之神母《ユフカハノカミモ》〔頭注、遊副川々神母《ユフカハノカハノカミモ》傍訓おちたる歟〕は芳樹おもふに川字の下なる之は々の誤にて遊副川々神母《ユフカハカハノカミモ》なるべし。然らざれば調《シラベ》とゝのはず。遊副川《ユフカハ》は宮瀧の末に今ゆ川といふ所あり。そこならんか○大御食爾仕奉等《オホミケニツカヘマツルト》の大御《オホミ》は今つづめてオムといへり。食《ケ》は食物をいふ○上瀬爾鵜川乎立《カミツセニウカハヲタテ》のタテは令《セ》v立《タヽ》なり。【タセの約テ】こは鵜に魚を捕らする業を鵜川といひて其業するを立といへるなり。芳野の鵜川はいと舊くて神武紀に縁《ソヒテ》v水《カハニ》西行《ニシニイデマセバ》亦有2作《ウチテ》v梁《ヤナヲ》取v魚者1。天皇問v之。對曰《マヲシテマヲサク》。臣《アレハ》是|苞苴擔《ニヘモツ》之子(ト)。此則阿太養※[盧+鳥]部始祖《コハアタノウカヒノオヤ》也と見えてかく神武の御代より吉野にあることなり【この鵜飼はわか國〔頭注、わか國、皇國とか御國とかあらまほし〕の往古よりの業にて支那にはをさをさなきことなるよしなり】○下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタシ》の小網《サデ》は和名抄に※[糸+麗]【佐天《サテ》】網如2箕形1。狹v後廣v前名也とみゆ。今も漁人の用るものなり。されど芳樹おもふにこゝの小網《サデ》には合はぬこゝちす。そはいかにといふに刺渡《サシワタシ》とは川の此方《コナタ》の岸より彼方《カナタ》の岸まで張りわたしたるを云詞にて卷四に網兒《アコ》の山いほへ隠せるさでの埼|左手蠅師子《サデハヘシコ》が夢にしみゆる」とある蠅師《ハヘシ》も網を引延《ヒキハ》へたることなれば刺渡スにおなじまた神樂歌に「こも枕たかせのよどにや云々網おろしさでさしのぼる」とあるもさでを張てその網の兩端を人ふたりが持て川上のかたへ引のぼるをいへるなるべし。字類抄に※[糸+麗]《サデ》とあれどもたゞ取v魚具とのみいへればそのさまはいかなりけむしられず。されどこゝなる小網《サデ》は海に張る大網にむかへて小網をいへる名にて後世サデといふ物とは異なるか。和名抄に※[糸+麗]網如2箕形1云々は文選注を引たるなれば皇國にて古へ小網《サデ》といひしものゝ證にはなりがたし。猶よく考べし○山川母《ヤマカハモ》云々は山神も川神も諸共に依來て仕へ奉る天皇の御代かなど〔頭注、御代かなどにはあらずかなにてよみきりなるべし〕いふべきを天皇は神にしませば神の御代かもといへるなり〇歌意は。此吉野を好き所なりとおもほして谷水のたきり流るゝあたりなる離宮におはしませば山神は春は花を咲せ秋は紅葉を匂はせて天皇の御目を慰め奉らむためにこれをかざし捧げてみつぎものとなし川神は或は鵜川をたて或は小網《サデ》をはりわたして魚を捕り大御食《オホミケ》に仕へ奉りかくの如く山河の神が歸來《ヨリキ》て勞《イタヅ》きまつるは天皇はもとも尊とき神にしおはしませばなりといへるなり。さて歌の表にはあらはしたらねど裏には山川の神だにかゝれば臣民の仕奉ることは更にもいはざる意を合みて講ずべし。そもそもかく非情の山川を以て有情のものとなし山花をば山神の調物《ミツギモノ》と見たて川魚をば川神の御食《ミケ》に仕ふる物などとりなせるまことに考にいへる如く此大人ひとりのしわざなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
山河毛因而奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》。神長柄多藝津河内爾《カムナガラタギツカフチニ》。船出爲加母《フナデセスカモ》
 
本二句は長歌のとぢめの句におなじ。歌意は。古義云。一二四三五と句を序《ツイ》でゝ意得べし。臣民のみならず山川の神までも皈來《ヨリキ》て仕奉るこのたぎつ河内に神隨《カムナガラ》天皇の大御船出したまふを見奉るが貴き事にもあるかなとなり
 
右日本紀曰。三年己丑正月天皇|幸《イデマセリ》2吉野宮1。八月幸2吉野宮1。四年庚寅二月幸2吉野宮1。五月幸2吉野宮1。五年辛卯正月幸2吉野宮1。四月幸2吉野宮1者《トイヘリ》。未3詳(ニ)知2何月從駕作歌《イツレノトキノミトモニテヨメルウタナルヲ》1
 
《イデマセル》2于伊勢(ノ)國(ニ)1時留v京柿本朝臣人麿作歌
 
持統紀六年三月丙寅朔辛未天皇不v從v諫遂(ニ)幸2伊勢1云々。甲申賜d所過《スギマセル》志摩(ノ)百姓男女年八十以上(ニ)稻人(ゴトニ)五十束(ヲ)uと見えたれば伊勢のみならず志摩國までも行幸せる事しるくこゝの歌もみな志摩のうちの名所なれば端書にも幸2于志摩國1時と書くべきを伊勢とせられたるは志摩はもと伊勢につける小國なるゆゑ紀にも遂幸2伊勢1とあるに同じくその大なるを擧たるものなり。かくて此行幸のこと中納言三輪高市麿の【この中納言は後世の中納言とは異にて女帝にてましますゆゑ簾中にさふらひて物言す官にて中に大中少の中にはあらず中外の中なり。そのよし予が標註職原抄にわきまへたり】冠位《クラヰ》をさゝげて農作《ナリハヒ》の節《トキ》なればみゆきしたまふべからずと諫められしかど從ひ玉はで幸ありき。これを以ておもふに久しく天武天皇の皇后にておはしまししかばおのづから天武の雄拔《ヲヽシ》き御氣質《オンイキザシ》に似させたまひて諫臣の言などをも用ゐ玉はず女《メヽ》しくはおはしまさゞりしなるべし
 
嗚呼兒乃浦爾船乘爲良武《アゴノウラニフナノリスラム》。※[女+感]嬬等之珠裳乃須十二《ヲトメラガタマモノスソニ》。四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
嗚呼兒《アゴ》は和名抄に志摩國英虞郡あり。そこの浦なり○※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》は從駕《ミトモ》の女房をさせるなり。女帝にてましますゆゑ女房の供奉せしが多きなり○珠裳乃須十二《タマモノスソニ》は珠は美稱なり。裳は和名抄に釋名云。上曰v裾。下曰v裳【和名毛】と見えて裙も裳も共にモとよめども裙のかた表《ウヘ》にて裳のかたをば裏《ウチ》に着る衣なり。されどこゝはさるけぢめなどにかゝはるべき事にはあらでたゞ衣の裾のぬるゝをいへるのみなり○歌意は。女房は常に簾中にのみすみて海邊などをば見しことなければ此度|供奉《オホミトモ》つかうまつりてめづらしきまゝに何ごゝろなく渚に立出。うかうかと遊びたはふるゝほどに潮滿來て裳裾をぬらし周章《アハテ》〔頭注、周章《アワテ》なるべし〕さわぐらんと都よりおもひやりてよめるなり【考、略解に從ふべし。古義はわろし】
 
釧着手節乃崎二《クシロツクタフシノサキニ》。今毛可母大宮人之《イマモカモオホミヤヒトノ》。玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
釧着は版本釼着に作てタチハキノと訓れどいみじき誤なり。古義には釵着と作《カキ》てクシロマクと訓めり。其説に卷九に「わきもこは久志呂にあらなん左手の吾奥の手に纏而いなましを」此物古事記下卷にもみえ和名抄備中郷名に釧代【久志呂】ともあり。【この郷名はもと釧字のみにてありけむを和銅の制によりて代字をそへたるなるべし】同書農耕具に※[金+派の旁]、漢語抄云。加奈加岐《カナカキ》。一云|久之路《クシロ》服玩具に釧。比知万伎《ヒヂマキ》とあるは其頃ははやく服玩具にはクシロの稱《ナ》亡《ウセ》てたまたま農耕具に其名の存《ノコ》れるなるべし。着は卷の誤寫なるべきか。著卷草書混ひぬべし。上に引ける卷九の吾奥手爾纏而《ワガオクノテニマキテ》。また卷十二に玉釵卷宿妹《タマクシロマキネシイモ》。古事紀に女鳥(ノ)王|所纏《マカセル》2御手1之|玉釧《タマクシロ》などあるをおもへばもとは釵卷《クシロマク》とありしか。さてそは臂に纏《マク》具にて臂は即ち手節なれば枕辭にせるなり。〔頭注、校正者云。枕辭にせるなりの下と字脱か〕言義はこの説のごとくなれども字を釵とかける正しからず。芳樹云。此歌また卷十二に釵字を用ゐ記の女鳥王の玉釧も諸本に釵と作《カケ》るよし傳にみえたり。こはおもにに玉篇に釵釧とつゞけたる字のあれば釵も釧も同じ義とみなして作《カケ》るなるべし。されど釵は説文に笄屬と見え、釧は同書に臂環也と見え、和名抄に釧、在2臂上1者名v之爲v釧、比知萬岐とありてクシロの名はなし。こは當時《コノコロ》は釧をクシロと云ことはうせてなかりしゆゑにたゞヒチマキとのみ載せたるなるべし。和名抄備中郷名の釧代は國にて古より云なれし字のまゝに當時《コノコロ》も用るをそのまゝ引たるならんか。されば字義を正せば釵は髪指《カンザシ》にて釧は臂卷《ヒチマキ》なれば釵と作《カケ》るは誤にて釧と作《カケ》るが正しかるべし。故に傳、冠辭考、倭訓栞等には釵とあるをも改て釧とかけり。かくて字鏡を檢《ケミ》するに釧【太万支《タマキ》又|久自利《クシリ》】とみゆ。太万支《タマキ》は手纏にて久自利《クシリ》のリはロに通へばクシロに同じ。類聚名義抄には※[金+穿]釧【ひちまき、たまき、たまゝき、ひちのかざり、たゝら、釧正歟】と見えてこも※[金+爪]を釧と作《カ》くが正しとしてヒヂノカザリと訓めり。また伊呂波字類抄にも※[金+爪]【クシロ】とあれば【※[金+爪]は釧と作くべし】こゝも釧と改めかけるに從ふべし。さて着は卷の誤ならんといへる説さもやとはおもはるれど着も手節につくる義にてかなはぬ言ともおもはれねばもとの訓にしたがへり○手節乃崎《タブシノサキ》は和名抄志摩国答志郡答志郷あり。これなり○今毛可母《イマモカモ》は二つの母は助辭にてたゞ今哉《イマカ》なり○大宮人は從駕の人なり○歌意は。めづらしき供奉《ミトモ》して今ほどは手節の崎あたりになぐさみに玉藻かりなどしつゝ遊ぶらんとおもひやりて羨やめるなり【古義の説またたがへり】
 
潮左爲二五十良兒乃島邊《シホサヰニイラゴノシマベ》。榜船荷妹乘良六鹿《コグフネニイモノルラムカ》。荒島囘乎《アラキシマミヲ》
 
潮左爲《シホサヰ》は卷三に「塩左爲能浪《シホサヰノナミ》をかしこみ」卷十一に「牛窓之浪乃塩左猪爲島響《ウシマトノナミノシホサヰシマトヨミ》」卷十五に「於伎都志保佐爲多可久《オキツシホサヰタカク》たちきぬ」などみなおなじくヰはワギの約まれるにて潮噪《シホサワギ》なり〇五十良兒は考に參河國の崎なり。其崎いと長くさし出て志摩のたぶしの崎と遙に向へり。其間の海門《ウナト》に神島、大づゝみ、小づゝみなどいふ島どもあり。それらかけて古はいらごか島といひしか。此|島門《シマト》あたりは世に畏こき波のたつ所なり云々【上にくはしくいへり】○荒島囘乎《アラキシマミヲ》の囘をミと訓るは古義に云く。十七に志麻未《シマミ》とあり。囘《ミ》はモトホリの約りなり【モトを約てモとなりモホを約てまたモとなりモリを約てミとなれり】モトホリは十九に「大殿乃此母等保里能雪《オホトノノコノモトホリノユキ》なふみそね」とあり。メグリといふに同じ。【十八にアリソノ米具利《メグリ》とあり】さるは集中に行多毛登保里《ユキタモトホリ》などを行多味《ユキタミ》、榜多味《コギタミ》と多くいへるによりてシマミのミもモトホリの約りたる言なりと曉るべし。さて凡て囘はミとよむべき證は浦囘を四卷、九卷、十一卷に浦箕《ウラミ》とかき九卷に須蘇廻とあるを十七卷、廿卷に須蘇未《スソミ》、また隈囘とあるを五卷に久麻尾《クマミ》とかけり。【然るをこの未を誤て末とかける所も多し。宇良末、伊蘇末の如きこれなり。また九卷に「遊磯《アソビシイソ》麻みればかなしも」とある麻はマにはあらず麻をヲの假字に用ゐたるなり。また十五に伊蘇乃麻由とあるは磯の間從《マユ》にてもとより異なり。後撰集に「白波のよするいそまをこぐ船の」千載集に「もくづ火のいそまをわくるいさり舟」などあるもみな磯間なり。これらの例によれば廿卷に之麻米とある米も末の寫誤なるべし】といへり。このうらに未《ミ》と末《マ》とは相似たる字なればかへりて未《ミ》をば末《マ》の誤にやと疑ふ人もあらめと既に浦箕とかけるが多くまた卷三に磯前榜乎囘行者《イソノサキコギタミユケバ》と囘をミの假字に用たればシマヽともシマワとも訓べからす。これによりてシマミと訓つ○歌意は。伊勢志摩の際にても五十良兒《イラゴ》の島あたりはたつ波の恐こき所ときくを海上のめづらしきまゝに潮さゐの時にしも妹のるらむかあらき島曲《シマミ》なるものを。さる辨へもなくて。といへるにてこの一首は上の二首とはいさゝか異なり。さるは三首ながら同じ意にてよみたらんは手づゝなるわざなれば浪荒き名所をとり出て一ふしかへてよめるなり
 
當麻眞人麻呂妻作歌《タギマノマヒトマロガメヨメルウタ》〔頭注、妻《メノ》とあるべき歟〕
 
用明紀に麻呂子(ノ)皇子此當麻(ノ)公之先也。姓氏録に當麻眞人。用明(ノ)皇子麻呂古(ノ)王之後也。天武紀十三年十月己卯朔作2八色之姓1以混2天下萬姓1。一曰眞人。二曰朝臣と次第《ツイデ》られてその日當麻公に眞人の姓を給へり。【眞人はかくの如きの貴姓なり】當麻は履中紀に※[口+多]※[山+耆]摩《タギマ》とあり。【タヘマと云は訛なり】麻呂は行幸に供奉《ツカヘタテマツ》りてその妻の京に留まれるがよめるなり
 
吾勢枯波何所行良武《ワガセコハイヅクユクラム》。巳津物隠乃山乎《オキツモノナハリノヤマヲ》。今日香越等六《ケフカコユラム》
 
吾勢枯《ワガセ》は吾夫《ワガセコ》なり○何處《イヅク》は記に伊豆久《イヅク》とあり。卷五にも同じ假字にてあればイヅコとは訓べからず○巳津物《オキツモノ》の巳は起の省字にて【但禮月令に季夏之月其日戊巳。註巳之爲v言起也とあり。是によりてオキの假字に用ゐし歟】沖つ藻なり。藻は水底にかくれて生たる物なるゆゑに隠《ナバリ》の枕辭とせり○隠乃山《ナバリノヤマ》は和名紗に伊賀國名張郡名張【奈波利】とある所の山なり。隠字をナバリと訓むは卷十六に「難麻理弖《ナマリテ》をる葦かにの」といふ歌あり。これ難波江に穴つくりて隠れをる蟹のことなれば隠をナマリといふを通はしてナバリとも訓む證とすべし○歌意。伊勢より大和に下るには伊賀を經るこれを俗に伊賀越といふ。名張は此道にあり。故にわが夫《セコ》は何所あたりをかゆくらん。おほかた今日など名張山をこゆらん。とおもひやりてよめるなり。二句には道のほどをおほかたにいひてイヅクユクランといひ結句には今日は隠《ナバリ》の山あたりならんとさしていへる何所《イヅク》と隠《ナバリ》と相對ひて意を深めたるを味ひ知るべし
 
石上大臣從駕作《イソノカミオホマヘツギミノオホミトモツカヘマツリテヨメル》〔頭注、大臣《オホマヘツキミノ》此ノ削るべき歟〕
 
石上大臣は石上朝臣麻呂なり。和名秒に左右大臣は於保伊万宇智岐美《オホイマウチギミ》。古今集に「堀川のおほいまうちぎみ」などあるによらばオホキマヘツギミと唱ふべきが如くなれども此下元明天皇の御製に物部乃大臣《モノヽフノオホマヘツギミ》とみえ敏達紀に大臣《オホマウチギミ》とあるも音便に壞れたれど大をオホとのみよみてキをばそへぬ證とすべし。麻呂は慶雲元年に右大臣になられたれば此時はいまだ大臣にてはなかりしかど後を前にめぐらして記せるなり。この人は續紀養老元年三月癸卯の件に左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。帝深悼惜焉。爲v之罷v朝。詔云々贈2從一位1云々。大臣泊瀬朝庭大連物部目之後。難波朝衛部大華上宇麻呂之子也とあり。この伊勢の行幸は六年の三月なり。そのほどの官位ともに詳ならず。その後十年の件には直廣壹にて假に資人五十人を賜はられしこと紀にみえたり。これより文武元明の朝を經て左大臣の極官に至り七十八にて薨せられたりと公卿補任に載せたり
 
吾妹子乎去來見乃山乎《ワギモコヲイサミノヤマヲ》。高三香裳日本能不所見《タカミカモヤマトノミエヌ》。國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》はワガイモ【ガイの約ギなり】をつゝめてワギモといへり。こは親む辭なり吾妹子《ワギモコ》をいざみむといふをもてイサミの枕辭とせり○去來見乃山乎《イサミノヤマヲ》の去來見のイは考に楢山をフル衣着楢ノ山といひ下しゝ類にて佐美の山をイサミといひかけしにやとみゆ。荒木田久老云。二見の浦なる大夫松といへる大樹のたてる山なるべし。さるは倭姫世紀に佐見津彦、佐見津姫參相而御塩濱御塩山奉支といへるはこの二見浦なるを今もなほ彼山の麓に流るゝ小川を佐見川といへばこれぞ佐見の山なるをイの發語をそへて去來見《イサミ》の山とはつゞけしならん。此二見より阿胡に至りまさむには此山の東より南に折れて鳥羽に御船はつべきなれど二見が浦を出るほどは大和より越ましゝ山々も西のかたに遙に見放らるゝにこの山をしも榜廻りて東南に入ては大和のかたの見えずなりぬるをなげきてかくはよみたまへるなるべし。といへり。【坂士佛が大神宮參詣記に二見の浦に佐美明神とて古き神ましますとかけり】乎《ヲ》は辭《テニヲハ》なり○高三香裳《タカミカモ》は高サニカモの意にて香は疑の詞、裳は助辭なり○日本能不所見《ヤマトノミエヌ》は佐美の山の高さに大和のみえぬかとなり【日本の字ヤマトと訓むよしはおのれ早く征韓起原にいへり】○國遠見可聞《クニトホミカモ》の國字のうへにマタハといふ言をそへてみるべし○歌意は。吾妹子があたりをいさみんとおもひて家の方をかへりみれば佐美の山が高さにか大和がみえぬ。または國が遠くなりて大和がみえぬか、といへるなり。國遠ミカモの下に大和のミエヌの句をめぐらしてみるべし
 
右日本紀曰。朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以2淨廣肆廣瀬王等1爲留守官1。於v是中納言三輪朝臣高市麻呂脱2其冠位1※[敬/手]2上《サヽゲテ》於|朝《ミカドニ》1重(テ)諫曰。農作之前車駕未v可2以動(ス)1。辛未天皇不v從v諫遂(ニ)幸2伊勢1。五月乙丑朔庚午御(セリ)2阿胡(ノ)行宮(ニ)1
 
朱鳥の字は誤なり。持統天皇六年とすべし。さてこの行幸は紀を勘るに三月の辛未《ムユカノヒ》御發輦《イデタヽセ》たまひて乙酉《ハツカノヒ》車駕還宮《ミクルマカヘラセ》たまへり。故にこゝに五月乙丑朔庚午|御《マス》2阿胡(ノ)行宮1とのみありてはこゝの五月の庚午の二日になほ阿胡行宮に坐すが如くおもはる。こは紀の拔書なるを本書を檢るに庚午|御《マシ》2阿胡(ノ)行宮(ニ)1時進(リシ)v贄者云々と見えて伊勢より還幸の後五月庚午に過し三月行幸の時贄を進りし者に十年の調役雜※[人偏+徭の旁]を復《ユル》し玉ひし事を記せるなれば御2阿胡行宮1とのみにては聞えがたきなり
 
輕皇子《カルノミコ》宿2于《ヤトリマセル》安騎野《アキノヌニ》1時《トキ》柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作《ヨメル》〔頭注、安騎野《アキノヌ》此ノはなき方よき歟〕
 
考云。古本の旁注に皇子枝別記を引て文武少名珂瑠皇子、天武(ノ)皇太子草壁皇子尊【日並知皇子とも申せり】之子也といへり。此御父尊前にこゝに御獵ありし事卷二の歌にもみえて此たびの御獵もそり御あとを慕ひ玉ひてなり○安騎野は歌に阿騎乃大野とよみ天武紀に菟田郡云々到大野といひ神名式に宇陀郡阿紀神社とあるにても知らる。此御ことは王と申すべきを皇子とかきしは後よりたふとめるなり
 
八隅知之吾大王《ヤスミシシワガオホキミ》。高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》。神長柄神佐備世須登《カムナガラカムサビセスト》。太敷爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》。隱口乃泊瀬山者《コモリクノハツセノヤマハ》。眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》。石根禁樹押靡《イハガネノシモトオシナベ》。坂鳥乃朝越座而《サカトリノアサコエマシテ》。玉限夕去來者《カギロヒノユフサリクレバ》。三雪落阿騎乃大野爾《ミユキフルアキノオホヌニ》。旗須爲寸四能乎押靡《ハタススキシノヲオシナベ》。草枕多日夜取世爲《クサマクラタビヤドリセス》。古昔念而《イニシヘオモヒテ》
 
八隅知之《ヤスミシシ》は上にいへり○吾大王《ワガオホキミ》は輕皇子をさす。【皇子をもかくいふこと常なり】○高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》は記に多迦比迦流比能美古とありて傳に高は天、光は照と同じければ【萬葉に高照と多く書たり】日之御子とは天照す日神の御末と申すことなりといへり○神長柄《カムナガラ》云々の二句の事は上に釋《ト》けり。こゝは皇子は神にてましましながらいとい神々《カウ/\》しきかたに進み玉はんとて常おはします宮を離れて安騎野に出ますよしなり。さて世須登のトもじは多日夜取世須のセスまで係るなり。○太敷爲《フトシカス》はフト敷タマフにてミヤコの宮《ミヤ》にかゝるなり。さればこのミヤコは皇子の座ます宮處《ミヤコ》にて皇都をミヤコといふとは異なり。京の字は借てかけり。故《カレ》太敷爲《フトシカス》も皇子の太敷玉ふよしなり。置而の置は棄置ての意にはあらねば輕く看るべし。宮處ヲ出テといはんが如し【古今集に「君がけさあしたの霜のおきていなばこひしきごとにきえやわたらん」といふ歌のオキテイナバは寢たる牀を起て往なばの意に解けれどもこは霜の縁語なるゆゑにオキテといへるにてそは實は妹が家を出て行くことなり。そのオキテとこゝの置而と意同じ。なほ下にも置而の義を釋けり。併せ看るべし】〔頭注、太敷爲《フトシカス》云々の註義に於ては信に然ることなれども此歌の如きは皇子の御うへを天皇と同じさまに稱《タタ》へ申せれば京《ミヤコ》もたゞ皇都のことゝ見ても妨なかるべき歟。尚可考〕○隱口乃《コモリクノ》は泊瀬の枕辭なり。冠辭考云。記に許母理久能波都世《コモリクノハツセ》。また雄略紀に擧暮利矩能播都制《コモリクノハツセ》と見え萬葉には卷一に隱國《コモリク》また隱口《コモリク》、卷三に隱久《コモリク》、卷十三に隱來《コモリク》、また己母理久《コモリク》などさま/”\あれど隱國とかけるぞ正しからむ。山ふところ弘くかこみたる所なれば籠《コモ》り國《ク》の長谷《ハツセ》といふべきなり國《クニ》を久《ク》といふは吉野の久孺《クス》を國栖《クス》とかくがごとし。且紀萬葉に初瀬國、初瀬小國ともいひたり。といへるが如し。但古義に集中卷七に「みもろつく三輪山みれば隱口《コモリク》の始瀬《ハツセ》の檜原おもほゆるかも」十一に「長谷弓槻下《ハツセノユツキガモト》に吾隱在妻《ワガカクセルツマ》」【記に長谷之百枝槻ノ下ともあり】などあるとこの歌に眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》とあるを合せておもふに此山昔より木立繁盛なりしことしるければ隱と書たるは假字にして木盛處《コモリク》の長谷《ハツセ》と云なるべし。木繁く盛えたるを木盛《コモリ》といふこと古へ例多し。クは何處《イヅク》のクにて處をいふなり。といへるも棄難き説なり。よく勘へて采るべし。泊瀬は和名秒に大和國城上郡長谷【波都勢《ハツセ》】とあり。傳云。長谷《ハツセ》の名義未だ思ひ得ず。若くは此川大和の眞中を流れたる其|初《ハシメ》の瀬の意歟。川上は猶遠けれども國中《クニナカ》にては此|地《トコロ》ぞ上瀬なる。さで長谷とかくことは地《トコロ》のさまによりてなるべし。中古よりはハセともいへり【今はもはらハセとのみいへり】○眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》の眞木は檜なり。下に眞木佐苦檜乃嬬手《マキサクヒノツマテ》ともあり。芳樹云。和名抄に爾雅云。檜。柏葉松身【和名非】とみえ、神代紀に檜(ハ)可d以爲2瑞宮1之材といひて貴ぶべき木なれば眞の稱辭を冠らせて眞木といへるなるべし。さればマキは稱辭にて名にあらざるゆゑにたゞ歌に用ゐたるのみなり。故《カレ》檜字に非といふ訓はあれど麻岐といふ訓はなきなり。【此外に和名抄に※[木+皮]作v柱埋v之能不v腐者也。日本紀私記云。末木とあるこは神代紀檜の下に※[木+皮]《マキ》可3以爲2顯見蒼生奥津棄戸將臥之具《ウツシキアヲヒトクサノオキツスタヘモチフサンノモノ》1とあるは棺槨のことをいへるなり。こは土中に埋むるものなればその質の堅き木ならでは朽やすかるべし。※[木+皮]はv之能不v腐とあるをみるにその用《コト》に堪《タ》ふる木なるゆゑにたゝへてこれをも共にマキとはいへど檜と※[木+皮]とはいたく異なり混ふべからず】〔頭注、※[木+皮]《マキ》の名義は木理の卷たる故の名也と云説もあり〕荒山道乎《アラヤマミチヲ》のヲはナルヲの意にて上の泊瀬山者《ハツセノヤマハ》のハを結べる辭なり。はつせの山は眞木の繁く立て荒山道なるをと心得べし【ナルモノヲと云ふモノヲの三言をば添ふべからず】○石根禁樹押靡《イハガネノシモトオシナベ》の禁は※[林/之]の誤なり・シモトは芳樹云。字鏡に※[木+若]。志毛止。また※[代/木]【志毛止】とあり。和名抄には唐韻云。※[草冠/〓]【和名志毛止】木(ノ)細枝也。また字類抄には※[草冠/〓]【シモト木細枝】※[木+若]同とあるを以ておもふに若木の細枝の茂れるをいふなるべし。【考に繁本《シゲモト》の略なりといへるは小木の本たち繁きをいふがごとし。古今に「しもとゆふかつらぎ山」とよめる歌の歌註にしもとを切あつめて葛もてゆへば云々といへるは小木を切あつめて葛《カツラ》もて結ぶ事とおもはる。※[木+若]机といふものもその小木をならべて机としたるなり。和名抄其外に細枝なりとあるは説文〓字の註に木細枝也とあるを引けるのみにて皇國にて※[木+若]《シモト》といふものゝ實をば辨へざるがごとし。和名抄にはかかる事おほし】さればこゝは山道に小木の本立《モトタチ》繁くおひたるをおしなびかせて過玉ふをいふなり○坂鳥《サカトリ》も玉限《カギロヒ》もともに冠辭なり。限は蜻の誤なること卷十に玉蜻夕去來者《カギロヒノユフサリクレバ》とあるを證とすべし。カギロヒは夕かた野にたつ陽炎《カゲロフ》のことなり。【然るを玉蜻とかくは和名抄に蜻蛉和名加介呂布とあるは虫名なるを陽炎と言の同じきまゝに借て書けるなり】記に加藝漏肥能毛由流伊弊牟良《カギロヒノモユルイヘムラ》は※[火+玄]火《カギロヒ》の燃《モユ》る家群《イヘムラ》にて灘波の京《ミヤコ》の家々の燒失《ヤケウス》る炎《ホノホ》にてまことの火なり。これより轉《ウツ》りて後世糸ゆふなどいひて遠く望めばはのほのもゆるがごとく野べにたつなる陽炎《カゲロフ》のことにもいへり。【もとカギロヒなるが後に音便に壞れてカケロフとなれるなり】こは必ず夕陽のころたつものなり〇三雪落《ミユキフル》は阿騎乃大野《アキノオホヌ》の冬のけしきの寒くわびしきをいへるなり【古義には樂しかる京を置てかゝる雪降り寒き所に來たまへるさまを味ひみるべしといへれど近江の遷都のときの倭乎置而とは言同じくて意ことなり。こゝはたゞ父の皇子の御獵し玉ひし所といふを以てなつかしくおもほしめして來玉へるなれば置而といふも棄置而などの意にはあらず。たゞ一日二日とゞまらせ玉ふのみなればかの長歌の置てと同看《オナジクミル》べからず】○旗須爲寸四能乎押靡《ハタススキシノヲオシナベ》の旗は借字にて卷三に皮爲酢寸《ハタススキ》とある皮《ハタ》におなじく薄の穗は皮《ハタ》にこもりて開《サキ》出るものなればいふ。そを四能《シノ》の枕辭としたるなり。四能は記に小竹之苅杙《シノノカリクヒ》云々。此時歌曰。阿佐士怒波良《アサシヌハラ》云々の傳に小竹は御歌に士忍《シヌ》とあり。神功紀に小竹此云2之努1と見え万葉一にシヌヒツと云假字に小竹櫃と書き又細竹《シヌ》とも書り。和名抄に篠細竹也【和名之乃】とあり。【古は志怒《シヌ》といへるを後に志能といへり。然るに萬葉一に人麿の歌に四能とあるはめづらし】さて志怒《シヌ》とは細竹を始めて其外|薄《スヽキ》葦《アシ》などにも云てさる類の物の幹《カラ》の總名なるを專《モハラ》小竹細竹など書くは主とある物につきてなり。さて志怒《シヌ》てふ名の意はなよゝかに靡《シナ》ふよしなり。とあり。この説のごとし、こゝは枕字に旗須爲寸《ハタススキ》と云てさて薄の幹《シノ》を押靡かしてやどり玉ふをかくいへるにて四能乎押靡《シノヲオシナベ》とあるがいとよく草枕のさまにかなへり。さるにても四怒《シヌ》とこそあるべきを四能《シノ》といへるは後世めけれど奈良(ノ)朝のころよりやゝかゝる詞も出來れるか。または誤字か。定めがたし○草枕は旅の枕辭。多日夜取世須《タビヤドリセス》は旅宿りし玉ふの意なり。世須は上に神佐備世須とある世須に同じ○古昔念而《イニシヘオモヒテ》の古昔は父尊の御存生《ヨニイマソカリ》しほど度々御獵し玉ひし地ゆゑその古昔をおもほしてのよしなり。イニシヘは往《イニ》し方《ヘ》にて過去しそのかみをいふ詞なり【ムカシと同じくていさゝか意かはれり】○歌意。輕皇子その御父日並知皇子の世にいまそかりしほど折々御獵にまからせ玉ひし阿騎の大野をゆかしくおもほし常にやすみし玉へる宮處《ミヤコ》を置て朝とく立出給ひ泊瀬のあら山道の岩根に※[林/之]《シモト》の繁くおひたる中をおしわけおしわけおはしましてその夜いと寒く雪うちふれど尊とき御身にはさる大野の原には堪へ玉ふべきにあらねどいにしへ父尊のみかりしたまひし跡となつかしくおほしめすまゝに一夜|四能《シヌ》を枕として旅やどりせさせたまへり。とよめるなり。此歌上に※[林/之]樹押靡といひ下に四能乎《シノヲ》押靡といへるおなじく押靡てふ言なれど上なるはおしなびかして分行玉ふさま下なるは押靡して枕に結ぶさまにてその事異なるがみ雪ふる寒きころにしもさるたへうきわざをしたまへる状《サマ》のおのづからしらるゝやうに綴りなせる後人のおよばさるところなり
 
短歌《ミジカウタ》
 
反歌《ミジカウタ》とかけるに同じ。そのよし上にいへり
 
阿騎乃野爾宿旅人《アキノヌニヤドレルタビト》。打靡寐毛宿良目八方《ウチナビキイモヌラメヤモ》。古部念爾《イニシヘオモフニ》
 
宿旅人はヤドレyルタビトと訓べし。【推古紀に多比等《タビト》とあり】皇子を主として御供の人までをかけていへるなり○打靡《ウチナビキ》は足を長く伸し打解けて寐たるさまなり。寐《イ》とは寐入《ネイ》ることなり。打靡きて寐入ることのならめやはといへるにてうちなびきくつろぎては得寐ぬことなり○古部《イニシヘ》は長歌にいへるごとく日並知皇子のいにしへなり○歌意明らかなり
 
眞草苅荒野二者雖有《マクサカルアラヌニハアレド》。黄葉過去君之《モミチバノスギニシキミガ》。形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
眞草は薄茅などをいふ。さる草のみ繁りたれば賤男らが苅に來るより外は人目なき荒野にて皇子などの來玉ふべき所にはあらねどといふ意なり。苅字に心をつけて講ずべし○黄葉《モミチバノ》【黄字版本脱たり。古義云。眞恒か校本に一本黄葉とあり今これにしたがふ】は【卷十五に毛美知婆と假字にかけり】過《スギ》の枕辭なり。君は日並知皇子なり○形見跡曾來師《カタミトゾコシ》のトはトテの意コシは來玉ひしと云ことなり○歌意。こゝは眞草かる賤の男より外は來ぬ荒野なるを珂璃皇子は過去《スギ》玉ひにし日並知皇子の形見とてぞ來玉ひしといへるなり【古義におのがうへをいふがほにて皇子の御うへをいとほしみ奉れるなりといへるはあらず】
 
東野炎《ヒムガシノヌニカギロヒノ》。立所見而反見爲者《タツミエテカヘリミスレバ》。月西渡《ツキカタブキヌ》
 
東はヒムカシノとよむべし。日向《ヒムカ》しなり。【假名は推古紀に辟武伽とかけり。伽字すみて訓べし】和名抄攝津國の郡名東生【比牟我志奈里】と我の濁音にせるはやゝ後のことなり○野炎はヌニカギロヒノと訓べし。曙に東方の空のほのぼのと赤みてみゆるをいふ○反見《カヘリミ》は東のかたの明ゆくさまなるにつきて月はいかにと西のかたに臥かへりて臨めばなり〇月西渡はツキカタブキヌと訓べし【西渡をかくよめるは義訓なり】○歌意は。夜もうまくはいねられぬままに東のかたに面をしてうかゞひをれば長き夜やうやうしらみて陽炎のたつがみゆるまゝに月はいかがなれるとまた面を西になしかへりみすれば月もかたぶきてほのぼのと明ゆくけしきなりといへるなり【古義の思ひの外に夜のはやく明るを驚きたる意なりといへるはさらにこの歌の意になきことなり】
 
日雙斯皇子命《ヒナメシノミコノミコトノ》。馬副而御獵立師斯《ウマナメテミカリタヽシシ》。時者來向《トキハキムカフ》
 
日雙斯はヒナノシと訓べし。續紀に文武天皇の御事をいへるに天渟中原瀛眞人天皇之孫|日並知《ヒナメシ》皇子尊之弟二子也とありてこれ日並知《ヒナメシ》てふ御名の出たるはじめなれば薨《ミマカリ》玉へるまでは草壁皇子尊と申しゝを後に日並知《ヒナメシ》といふ謚をつけ奉らせたまへるなるべし。故《カレ》おもへばヒナメシのナメは馬並《ウマナメ》てといふナメに同じく並ブの義シはシリのリを省きたる言なるゆゑに知をシと訓るなり。日は天皇をさし奉れば天皇に相ならびて政知《マツリゴトシ》り玉へる意を以て謚としたるものなるべし。さるにより天武紀二年のはじめに立2正妃1爲2皇后1。后生2草壁皇子尊1とあるを始にてこの皇子にかぎり尊の字を加へてたふとべり。かくて持統紀三年夏四月癸未朔乙未皇太子草壁皇子尊薨その後廢帝紀天平寶字二年八月戊申に勅曰。日並知皇子命天下未v稱2天王1。追2崇尊號1一古今恒典。自今以後宜v奉v稱2岡宮御宇天皇1といふに至れり。實に世にいまそかりしほど持統統天皇女帝にておはしゝかば天皇に相並びで天下しろしめしゝなるべし。然るを集中に日並皇子尊と知《シ》字を省きてかけるは御名などはもはら二字に書く制《サダメ》なるによれるなり。【こゝは歌詞なるゆゑに日並斯《ヒナメシ》とかけるものなり】さてこゝに御名を歌によみこめたるはこれ謚たるによりてなり。されど草壁皇子命とは必ずよむべからざるなり○馬副而《ウマナメテ》とは御供の人々と共に馬を乘ならべてなり○御獵立師斯《ミカリタヽシシ》の立師《タヽシ》は立を伸《ノベ》てうやまひ詞としたるなり。斯は過去のシなり○時者來向《トキハキムカフ》の時は御獵の時にて獵はもはら冬より初春にかけてするものなり。【夏獵もあれどそは藥獵とて鹿茸をとる爲なれば異なり】故に人麿の此皇子尊の薨《カンサ》り玉へる時の長歌に「毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》はる冬かたまけて幸之宇陀乃大野《イデマシヽウダノオホヌ》はおもほえんかも」【阿騎の大野は宇陀郡にあるゆゑに宇陀乃大野ともいふ】と見えたる春季またこゝに「三雪《ミユキ》ふる阿騎の大野」とよめるによるに獵の時はもはら冬春なればこのほど皇子尊のいまそかりし世に御獵に出ましゝ時になれるよしなり。來向はキムカフと訓べし。その時節《トキ》の來り向へるよしなり○歌意は明らかなり
 
《ミヤツクリ》2藤原宮《フヂハラノミヤノ》1之《ニ》役民作歌《エタチノタミノヨメルウタ》〔頭注、營2藤原宮1營の字ある本予未(タ)v見〕
 
持統紀四年冬十月甲辰朔壬申高市皇子|觀《ミソナハス》2藤原(ノ)宮地1。公卿百寮|從《ミトモセリ》焉。十二月癸卯朔辛酉天皇幸2藤原1觀《ミソナハス》2宮地(ヲ)1。公卿百寮皆|從《ミトモツカヘマツレリ》焉。これを始にて六年五月に宮地の鎭祭あり。伊勢其外の諸社に遷都の奉幣ありなどして八年十二月に遷居《ウツリマ》せり。その大宮の造營の時役民のよめる歌なり○役民はエタチノタミと訓むべし。卷十六に課役徴者をエタチハタラバと訓み紀に役をエダチと訓めるを傳に延《エ》は充《アテ》の約りたる言か詳ならず。タチは民の其事に發起《タチオモム》くを云。卷十一に「宮材《ミヤキ》ひく泉のそまに立民《タツタミ》の」とある立におなじ。民は芳樹云。田持《タモチ》の義なり〔頭注、民の名義は田部《タベ》にはあらざる歟又|田群《タムレ》の義歟〕【こは君をキミといふ。其キミに對へてタミといへるなり。されば君の言義は傳に詳かならざるよしいへれど國持《クニモチ》の約めにて大八洲國を持《モチ》ち玉ふをむ君といひこれになぞらへて口分田を賜りてそを持《モチ》たるを民といふ。委しくは余が著はせる一君一民辨にいへり】その田は公より玉はれるものなればこれにつきて租《タチカラ》を出し、これにつきて調《ミツギモノ》を出し、これにつきで役《エダチ》に出るなり。造内裏などの如き大營造にはことに多くの役民《エタチノタミ》の集《ツド》ひ來ることにてこの長歌の如きはその役民の内ながら作者の名を隱せるゆゑにたゞ役民としるせるなり。役民とて賤しき者にはあらず。みな良民なれば多かる中には歌よむ人もあるべきこと外にも例あればさらに辨を竣つべからず。
 
八隅知之吾大王《ヤスミシシアガオホキミ》。高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》。荒妙乃藤原之宇倍爾《アラタヘノフヂハラガウヘニ》。食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》。都宮者高所知等《ミアラカハタカシラサムト》〔頭注、校正者云。高所知の下武の字脱か〕。神長柄所念奈戸二《カムナガラオモホスナベニ》。天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》。磐走淡海乃國之《イハバシルアフミノクニノ》。衣手能田上山之《コロモデノタナカミヤマノ》。眞木佐苦檜乃嬬手乎《マキサクヒノツマデヲ》。物乃布能八十氏河爾《モノノフノヤソウヂガハニ》。玉藻成浮倍流禮《タマモナスウカベナガセレ》。其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》。家忘身毛多奈不知《イヘワスレミモタナシラニ》〔頭注、多奈不知の不知の訓シラズの方よろしき歟〕。鴨自物水爾浮居而《カモジモノミヅニウキヰテ》。吾作日之御門爾《アガツクルヒノミカドニ》。不知國依巨勢道從《シラヌクニヨリコセヂヨリ》。我國者常世爾成牟《ワガクニハトコヨニナラム》。圖負留神龜毛《フミオヘルアヤシキカメモ》。新代登泉乃河爾《アラタヨトイヅミノカハニ》。持越流眞木乃都麻手乎《モチコセルマキノツマデヲ》。百不足五十日太爾作《モヽタラズイカダニツクリ》。泝須良牟伊蘇波久見者神隨爾有之《ノボスラムイソバクミレバカムナガラナラシ》
 
荒妙乃《アラタヘノ》は藤の枕辭なりアラタヘは和妙《ニギタヘ》にならべ云て荒は地《ヂ》の※[鹿三つ]《アラ》きなり。妙は絹布の類をすべいふ名なること白布《シロタヘ》とも云へるにて知べし。されば織かたの細かにて善きを和布《ニギタヘ》、※[鹿三つ]《アラ》くて惡きを荒布《アラタヘ》といふ。藤皮して織れるは殊に※[鹿三つ]く惡しければアラタヘノ藤とつゞけたるなり。集中に荒布《アラタヘ》、また紀に※[鹿三つ]布《アラタヘ》、古語拾遺に織布古語阿良多倍、祝詞式に荒多閇などみゆ。藤原我宇倍のウヘは上なり【山の上野の上などいふ上にて上下をいふウヘにはあらず。その邊《アタリ》といふにちかきことばなり】○食國《ヲスクニ》は天皇の聞しをす國といへるなり〔頭注、メシは食《ヲ》す事にて如此書くべき歟〕。賣之賜牟登《メシタマハムト》のメシは見給はむを伸てメシタマハムといへるなり。【さるは知をシラシ、聞をキコシなど云に同格の言なり】さればメシはヲス意にてキコシヲスともキコシメスともいへるにて知べし【上にいへり。今もわが防長の國などにて飯をメシと云もこれにおなじ〔頭注、飯をメシと云は防長のみならず〕】○都宮《ミアラカ》は考云。上に「太敷寸京《フトシカスミヤコ》をおきて」とよめるは京をすべいへり。ここはもはら宮殿のことなれば卷二に御在香乎《ミアラカヲ》高知座而とあるによりてよみつ。ミアラカは御在所《ミアリカ》なり○所念奈戸二《オモホスナベニ》の奈戸《ナベ》は並《ナベ》にて所念《オモホス》につれての意なり○天地毛《アメツチモ》は天神地祇《アメノカミツチノカミ》もといふ意なり。【上に山神河神を山川といへるもおなじ】天神地祇を天地とばかりいへるは卷十三に天地乎歎乞祷《アメツチヲナゲキコヒノミ》また卷廿に天地能加多米之久爾曾《アメツチノカタメシクニゾ》また續紀宣命に天地之心《アメツチノコヽロ》また天地乃宇倍奈彌由流之天《アメツチノウヘナミユルシテ》などこれなり。【但し同紀の宜命には天乃不授《アメノサズケザル》などいへる類もおほきははやく漢意めきたもなきにはあらねどなほさにはあらで舊くより天神地祇を天地とのみいへるなるべし】モは人に對へて人のみならず神もといふモなり。縁而有許曾《ヨリテアレコソ》は天神地祇も此御代に御心のよりてあるよしなり。さてこのコソは下にうくる言旡し。さるは縁《ヨリ》てあればこそかくあるらめとコソの下に言をそへてみる格なり。【下なる浮倍流禮《ウカベナガセレ》のレはこのコソには關係《アヅカ》らず】そはかく宮材《ミヤキ》どもを遠く運べるにいさゝかの障りもなきは天地の御心のよりてかくあるらめといふ意なり○磐走《イハハシル》云々は上にいへり○衣手能《コロモデノ》は田上《タナカミ》の枕辭なり。冠辭考に衣手ノ手長《タナガ》キてふ意にてタナカミにいひかけたるか。其タは式の祝詞に手長能大御世、手長乃御壽など云て發語なるもあれどこゝは袖とは衣《ソ》の手《テ》なるこゝろにていへば即衣手ノ手長とかさねいへるなるべし。古義にはタは手長《タナガ》などの如く發語における言多ければ此も枕辭よりはタの言をへだてゝ長《ナ》とつゞくなり。といへり。いづれにてもあるべし〇田上山《タナカミヤマ》は近江栗本郡なり。神功紀に多那伽瀰とみゆ○眞木佐苦《マキサク》は檜《ヒ》の枕辭なり。冠辭考云。眞木は檜なり。拆《サキ》たる檜てふことなるを用を冠辭とし體にかけたるなり。【古義にはサクは幸《サチ》にて言靈の幸《サキ》はふと同言にて其物の功用をなすをいふ言なり。こゝは眞木の功用をなす檜《ヒ》の材《ツマデ》とつゞけるなりといへり】嬬手《ツマテ》とは冠辭考云。麁木《アラキ》造りしたる材は角※[木+瓜]《カドツマ》のあればいふなり。神代紀に木國に齋へる五十猛神《イタケルノカミ》は木種《コタネ》を蒔生《マキオフ》し大屋津姫は家造《イヘツクリ》に幸《サキ》をなし※[木+瓜]津姫《ツマツヒメ》はその材を守り給ふもても知べし。手《テ》は物に添いふ辭なり○物乃布能は枕詞なり。傳云。上代には凡て人は武勇《タケ》きを尊みつる故に人を賛《ホメ》ても母能々布《モノノフ》といひ又朝廷に仕奉る人をも惣て然云り。【さてモノノフに物部と書ては母能能辨《モノノベ》と混るれどもフとベとは通ふ音にて清濁の異《カハリ》はあれども相近きゆゑに古より通はしてぞかけりりん。その物部《モノノベ》といふ者は一部《ヒトトモ》の武士《タケヲ》にて其《ソ》は上代に殊に勇て武事の勝れたる輩なりし故に其《ソノ》部《トモ》を殊《コト》に武士部《モノノフベ》とはなづけられしなり】といへり。さればモノヽフとモノヽベとはいさゝかの異《カハリメ》あり。【卷三に物乃部能八十氏河《モノノフノヤソウチカハ》。卷十一に物部乃《モノノフノ》八十氏川。卷十三に物部之《モノノフノ》氏川渡これらモノヽフとよまでは八十氏につゞかず。また崇神紀に物部《モノヽベ》。姓氏録に物部《モノノベ》とあるなどは武士部《モノノフベ》のフを省けるにてベは群の約メたるをベにうつせるなり】こゝは物乃布《モノノフ》の八十氏とつゞけてその武士《タケヲ》さては官《ツカサ》に居る氏人|等《タチ》の多かるをかくいへるなり。さてこの氏河《ウチカハ》は即山城國宇治郡なる宇治川のことなり○玉藻成《タマモナス》は枕詞なり。浮倍流禮《ウカベナガセレ》は流セレバのバを略ける一格にて例多し。田上山にて伐し材を一木つゝ水のまにまに氏河にうかべ流してそを取あげ泉川【木津川とも云】に持越すなり。【今世の意もておもへば宇治川を下して淀まで至らしめそこより筏にして木津川を上《ノボ》すが勞《イタツキ》も少なからんとおもはるれど持越流《モチコセル》の詞によるに必ず宇治にて取あげ木津川まで陸路を送れりとみゆ】○其乎取登散知久御民毛《ソヲトルトサワグミタミモ》は宇治川のうちにて木津川に近き處の水邊に集ひ居て材の流れ來るに隨ひ御民等が立さわぎつゝこれを陸に取あぐるなり。宇治川は水勢|速《ハヤ》くて泛び來る木の取とめ難ければこを川下に流しやらじとて御民らがさわぐさま見るがごとし。御民とは芳樹云。御田持《ミタミ》の義なり。【言義上にいへり】田はみな公《オホヤケ》のものなれば御字《ミモジ》を冠せたるものにて朝廷《オホヤケ》の御田《ミタ》といはんがごとし。上親王公卿より下良賤の民に至るまで御田《ミタ》たまはらぬ者は一人もなし。その給はる田を口分田といふ。されば百姓のもじをオホミタカラとよめるも大御田族《オホミタカラ》の義にて〔頭注、大御田族《オホミタカラ》の説おもしろし〕御民と意同じ。こゝなる御民《ミタミ》はその親王公卿などの類《タグヒ》ならぬ普通の良賤なり。御民毛のモもじ意あり。下にいふべし○家忘《イヘワスレ》はこの度造内裏の事に仕奉《ツカヘマツル》とて妻子《メコ》の事をもわすれの意なり。身毛多奈不知《ミモタナシラズ》は吾身のうへをも尋ねしらずといふことにて【わが身のいかにならんをもいとはぬといふ意なり】公の御爲《ミタメ》に家をもわすれ身をもすてゝとなり○鴨自物《カモジモノ》の自物《ジモノ》は芳樹おもふに卷三に水鴨成《ミカモナス》とあり。この成《ナス》とおなじければ鴨の如くとこゝろ得べし〔頭注、自物《ジモノ》は状之《ザマノ》の意と大平の説けるもわろからぬ歟〕。水爾浮居《ミヅニウキヰ》の枕詞なり○吾作日之御門爾《ワガツクルヒノミカドニ》より以下の九句は泉乃河《イヅミノカハ》の序なり。こはもとより大宮造に離れぬ事どもを以て序としその句どもの中に材木を運ぶことのみならで四方の民の來り仕奉《ツカヘマツル》さまを盡しいへるが巧みに思ひ構へたる所にして集中の長歌には外にもその類ひあり。さればこゝに吾作《アガツクル》とある吾《アガ》は此歌を作《ヨ》める役民《エタチノタミ》の吾《アガ》にて上なる散和久御民《サワグミタミ》もとある民にはあらず。そは御民毛《ミタミモ》といへるモもじはこゝの吾《アガ》を主としてこの營造をばわれらがむねと擔當居《ニナヒヲ》ることを思はせて材木を運ぶ民も皆家わすれ身もたなしらず仕へ奉れば營作の事を掌るわれらは更にもいはぬ意を含めり。さて日之御門《ヒノミカド》は日の朝廷といふことにて日は即ち天皇を指し奉れるなり。卷五に高光日御朝廷《タカヒカルヒノミカド》とあり○不知國依《シラヌクニヨリ》は四方の國々をさせるなり。こは巨勢道從《コセヂヨリ》に封へていへるなり。巨勢路は藤原宮の南にありて紀國に通ふ大路なり。下に幸于紀伊國時と端書ありて「巨勢山のつらつら椿」といふ歌あり。考にこれはその諸の不知《シラヌ》國々より奉る中に一つの道の事を云て他の道々よりもまゐるを知らせたり。故に從の下陸ヨリの事は惣て略けり。といへるがごとし。芳樹おもふにこゝの意は四方のしらぬ國々より役にさゝれて上る民また造營用度の品など運ぶがそのうちにて紀伊は近國なるゆゑに巨勢路をへて民を上せもし物を運びもするがことさらに多きまゝに拔き出でかくいへるなり。さで逆《サカサマ》に七言五言を以てあやなせるは卷十六の長歌に「うなゐこの。丹《ニ》なすこら。丹津蚊經色丹《ニツカフイロニ》。名著來《ナツカシキ》。紫之。おほあやのころも」と七言五言を以て文《アヤ》なせるも同じくて一格也。然るを不知國依巨勢路從《シラヌクニヨリコセヂヨリ》と依字を巨勢に屬《ツケ》て解ける説のあるは調べのあしきのみならずさる言のあるべきにあらねばさらに用べからず。かくて此二つのヨリの下に多くの役民《エタチノタミ》多くの物品《モノシナ》の上ることを省きてかくの如く下の上に靡き隨ふ御代なれば我國は云々と壽《コトホ》き申せるなり○我國者《ワガクニハ》はわが大八洲の國はなり。常世爾成牟《トコヨニナラム》の常世《トコヨ》は傳云。字の如く常《トコ》とはにして不變《カハラヌ》よしにいへるなり。紀に「まひするをみな登許余《トコヨ》にもかも」紀に常世之浪重波歸《トコヨノナミノシキナミノヨル》國也などみな同じ○圖負留神龜毛《フミオヘルアヤシキカメモ》は龜負v圖出2洛水1といふ漢籍によりて言をなせり。皇國にても治部省式の大瑞に神龜とあり。此御代に神龜の出たることはなけれど壽《コトブ》きてその神龜もいづべしと泉川へ云かけたるなり○新代登泉乃河爾《アラタヨトイヅミノカハニ》の新代は古義云。久老云。新はアラタにてアタラは惜む意。後世混じて新をも惜をも共にアタラといふことにはなれるなり。卷廿に年月波安良多《トシツキハアラタ》々々々【版本は誤なり】また新年乃波自米《アタラシキトシノハジメ》とあるをも古葉類葉抄にはアラタシキとよめりといへり。廿卷なる歌は六帖にもアラタアラタとあり。また十二に「新夜(ノ)一夜《ヒトヨモ》【夜を麻に誤れり】不落《オチズ》」もその下に荒田夜之全夜毛不落《アラタヨノヒトヨモオチズ》とあるこれらにていよいよ新をアラタと云し事しるし。泉の河は山城相樂郡にあり。今の木津川なり○持越流《モチコセル》は宇治川よりあげて陸路を泉川まで持越るなり。【泉川に持こしてまたそこより淀川を下すやうに思へる説はいたく誤なり。いかに古人なればとてさる迂遠《マハリトホキ》事をなすべきかは】眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》は即|檜乃嬬手《ヒノツマデ》の事なり〇百不足《モヽタラズ》は五十《イ》の枕辭なり。【タラヌといはでタラズといへるは枕辭なればな】五十日太太爾作《イカダニツクリ》は筏に作りなり○泝須良牟神隨爾有之《ノボスラム》とは此歌よめる人の異所《コトナルトコロ》よりおもひやれるなり。泝《ノボス》とは宇治川より持越《モチコシ》て泉川にて筏に組みそれより川上にさしのぼして奈良路を陸より宮地に運ぶなり○伊蘇波久見者《イソバクミレバ》のイソバクは勤《イソ》バクにて勞《イタツ》き勤《イソ》しむことなり〔頭注、伊蘇波久《イソハク》〕の波は清音なるべき歟〕。敏達紀に勤をイソシキと訓り。仲哀紀に天皇即美2五十迹手1曰2伊蘇志1また續紀に、多胡浦に黄金を得てこれを獻り勤臣姓を玉へるなどのイソみなイソバクのイソに同じ。字鏡に仂勤也。伊曾志久とみゆ。バクはコヽバクなどのバクに同じ。宣長云。伊蘇波久見者は宮地へ運び來るを目前にみたるをいへり。上の良牟《ラム》とこの見者《ミレバ》を相照して心得べし云々。この説のごとし【されど筏にして運ぶ水路の説は宣長のいへるはいみじき誤なり。そは次に辨ふべし】○神隨爾有之《カムナガラナラシ》はわが天皇は神にておはしますまゝにの意なり。【神隨は既に出】○歌意は。芳樹云。藤原の地に大宮をつくらして天下を統御《シロシメ》さむと天皇のおもほすまゝにやがてその宮材を近江國の田上山より伐り出したるいと大きなる檜《ヒ》の荒木《ツマデ》なるを一木づゝ山城國宇治川に流しそれより陸路を泉川に持越さしむるに宇治より淀までの間は水の流もいとはげしくてともすればそのかたにうかび落むとするを民丁《タミ》らがこゝにて取とめむと立さわぎつゝさばかりの早川に家を忘れ身を捨て飛入り/\引あげつゝまた泉川に持運びゆくなり。されば鴨自物水爾浮居而《カモジモノミヅニウキヰテ》といへるまでが即此意にてこゝまでを一段とす。さてかの宇治川より持越る材木を泉川にて筏につくりこれより川上のかたにさし上せ奈良阪の麓に近き【今は木津といふ】所にてその筏を解きまたそこより宮地まで陸路を運ぶ事をまた云々と云て一段とせり。その間に吾作《ワガツクル》より新代登《アラタヨト》までの九句は宮地の現在の状を云て神龜《アヤシキカメ》も出づと泉川にかけて御代を壽ぶけるなり。されば大宮《オホミヤ》の造營をよめる歌にはあれど旨とは田上の材木を長途の勞《イタヅキ》をもおもはず運ぶを賞譽《ホメ》てよめるなれば宣長の泝《ノボ》スランは筏にしてのぼすをば見ぬゆゑに推はかりに良牟といひ伊蘇バクミレバは陸路を宮地に運びゆくをば見たるまゝに見者《ミレバ》とよめりといへるごとくなり。よりておもへば宮材の運送《モチハコビ》を掌る小吏などの名を隱してたゞ役民の作《ヨメ》るとなせる者か【然るを宣長の説に此歌すべての趣は田上山上り伐出せる宮材を字遲川へくだしそをまた泉川に持越て筏に作りてその川より難波海に出し海よりまた紀川をな泝《ノボ》せて巨勢の道より藤原宮地に運び來るよしなりといへれど藤原の地紀の川のほとり近き所ならば陸路に人力を費さむもあぢきなしとてさる運ばし方をも行ふまじきにあらねど紀川より藤原に至らんにはその里程も近しといふにもあらず。且|信土山《マツチヤマ》などの山路もおほければ攝泉の海上を經あら波に筏をうかべて紀川にのりいれさかのぼりなどのやうの迂遠なることをなすべきにあらず。この説はいみじき誤解なり。これ巨勢路ヨリといふに惑へるよりおこれるものなれどこは上にいへる如くこの材木を運ぶ事にはあらざるなり。よくよく語脈をたづねて辨ふべし。古義も宣長の説によればこゝに取らず】この歌柿本人麻呂の口つきめきて等閑ならぬ言の葉なれば眞淵はいかなる人の隱れもてかゝる歌をしもよみけむ。時なるかな。と質歎せり
 
右日本紀曰。朱鳥七年癸巳秋八月幸2藤原宮地1。八年甲午春正月幸2藤原宮1。冬十二月庚戌朔乙卯遷2居藤原宮1
 
朱鳥七年とあるは誤なり。持統天皇七年と改むべし
 
《ヨリ》2明日香宮《アスカノミヤ》1遷2居《ウツリマシヽ》藤原宮《フチハラノミヤニ》1之後《ノチ》志貴皇子御作歌《シキノミコノヨミタマヘルウタ》
 
明日香宮は明日香淨御原宮の事にて天武天皇の都なり。然るを天皇朋後皇后御位に即せ玉ひて八年ばかり明日香宮にましゝが八年十二月に藤原宮にうつり玉へり。志貴皇子は天智紀七年二月云々又有2道君女伊羅都賣1生2施基皇子1とありて天智天皇の皇子にて續紀靈龜二年八月甲寅二品志貴親王薨。親王天智天皇第七之皇子也。寶龜元年追尊稱d御《マシヽ》2春日宮1天皇uとみゆ。こは光仁天皇の御父なりしによりてなり
 
※[女+采]女乃袖吹反《タヲヤメノソデフキカヘス》。明日香風京都乎遠見《アスカカゼミヤコヲトホミ》。無用爾布久《イタヅラニフク》
 
※[女+采]は考に※[女+委]の誤なり、※[女+委]は字書に弱好貌といへばタヲヤメなりといへれど芳樹おもふにこの※[女+采]女の※[女+采]は※[女+委]の誤にはあらず。玉篇に※[女+采]七宰切。釆(ル)v女也と見えて支那にてもふるくより※[女+采]字を女を釆擇《エラビ》とる事に用ゐしなるべく故に皇國にても記に三重※[女+采]《ミヘノウネベ》また集中に卷四に駿河|※[女+采]女《ウネベ》などあるそのウネベといふものは後宮職員令に凡諸氏々別貢v女。皆限2年三十以下十三以上1云々。其貢2釆女1者郡少領以上姉妹及女(ノ)形容端正者。皆申2中務省1奏問とある如く諸氏よりも郡少領以上よりも女を貢せしめ玉ふ。これみな釆女にてこの字を二合して※[女+采]とかけるその字義に至ては此間《コヽ》も支那もおなじ事なり【職員令の文に諸氏のかたには貢女とのみあるは諸氏は京都にすめる官人の事ゆゑその女おほかた形容端正なるべし。郡領などの鄙の者の女はよく擇ばすば形容端正なるがありがたかるべし。故に※[女+采]はむねと鄙より出で仕ふる女の事なり。されどそは字のさたにてウネベといふ詞は諸氏よりいづるにも鄙より出るにも皆云べし】後漢書皇后紀諭に置2美人宮人釆女三等1。とありて注に釆擇也とみえまた佛書の大智度諭また晋譯の華嚴經に※[女+采]女の字あり。當時佛教行はれし比なれば※[女+采]字漢籍よりはとらで佛書よりとりしなるべし。倭訓類林に※[女+采]女【太乎耶米】とあり○袖吹反《ソデフキカヘス》のカヘスは現在の詞なれば〔頭注、校正者云。詞なればのばはとか〕袖吹カヘシヽといふ意にきくべし。卷七に「おとにきき目者未見《メニハイマダミヌ》吉野川むつたのよどを今日みつる鴨」とよめる未見《イマダミヌ》もイマダ見ザリシの意なるに併せておもふべし○無用爾布久《イタヅラニフク》は卷十五、卷十七などに伊多豆良《イタヅラ》と假字書あり、何にまれ事の益なきをイタヅラといふ○歌意は。明日香の都の盛なりし時には朝廷《ミカド》に奉仕する麗《ウルハ》しき※[女+采]女《タヲヤメ》が宮門を出入せし度ごとにその花のたもとを飛鳥風が吹かへしつゝ賑やかなりしに藤原が都となりて後飛鳥よりは道とほければ風もいたづらにのみ吹て吹く益《カヒ》なきよとのたまへるなり。さるは持統天皇は天武天皇の皇后にて天武と共に明日香宮にましまし天下知しめしゝに天武の崩後は女帝にてましゝゆゑ下の歌にも「藤原の大宮づかへあれつげや處女が友はしきめさるらむ」とあるこれは藤原宮にてのことなれどいまだ藤原宮にうつり玉はぬほどもなほ召仕はるゝ官女おほかりしゆゑかく「※[女+采]女《タヲヤメ》の袖ふきかへす」と殊さらによみ玉へるにてたゞ京都の士庶の家にすめる女兒のことにはあらざるなり
 
藤原宮(ノ)御井(ノ)歌
 
八隅知之和期大王《ヤスミシシワゴオホキミ》高照日之皇子《タカテラスヒノミコ》麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフヂヰガハラニ》大御門始賜而《オホミカドハジメタマヒテ》埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシミシタマヘバ》日本乃青香具山者《ヤマトノアヲカグヤマハ》日經乃大御門爾《ヒノタテノオホミカドニ》春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサビタテリ》畝火乃此美豆山者《ウネビノコノミヅヤマハ》日緯能大御門爾《ヒノヨコノオホミカドニ》彌豆山跡山佐備伊座《ミヅヤマトヤマサビイマス》耳爲之青菅山者《ミヽナシノアヲスガヤマハ》背友乃大御門爾《ソトモノオホミカドニ》宜名倍神佐備立有《ヨロシナヘカムサビタテリ》名細吉野乃山者《ナグハシヨシヌノヤマハ》影友乃大御門從《カゲトモノオホミカドユ》雲居爾曾遠久有家留《クモヰニゾトホクアリケル》高知也天之御蔭《タカシルヤアメノミカゲ》天知也日之御影乃《アメシルヤヒノミカゲノ》水許曽波常爾有米《ミヅコソハトコシヘナラメ》御井之清水《ミヰノマシミヅ》
 
和期大王の和期は宣長云、即|我《ワガ》にて下の大《オホ》へつゞく故おのづから和期《ワゴ》といはるゝなり、さればたゞに我《ワレ》を和期《ワゴ》といふことはなし○※[鹿三つ]麁妙乃《アラタヘノ》は藤の枕詞なり藤井我原《フヂヰガハラ》は藤原のうちの地名なり。清水わく井のあるゆゑに名に負るなり○大御門《オホミカド》は大朝廷《オホミカド》なり○埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》のハニヤスは池の名にてその堤の上なり○在立之《アリタヽシ》は常にたえずこゝに立て眺望《ミハルカ》し玉ふをいふ。さればこの在《アリ》は在通《アリカヨヒ》。在待《アリマタシ》などの在《アリ》と同じ【在通は常にたえずかよふ事在待は常にたえず待つことなり】立之《タヽシ》は立《タ》ちの伸びたるなるがおのづから敬詞となれるなり○見之賜者《メシタマヘバ》の見之は古義云。志呂斯賣須《シロシメス》のメスと同語にて見《ミル》を尊び稱《イフ》詞《コトバ》なり。即立をタヽシといふに同格の言なり【メシはミと切《ツヅ》まる】卷六、卷二十に「おほきみの賣之思野邊爾波《メシシヌベニハ》」卷十八に「よしぬの美夜乎安里我欲比賣須《ミヤヲアリガヨヒメス》」などみな見玉ふことなれば【集中に見給《メシタマフ》。見之明良牟流《メシアキラムル》などあるをミシとよみてはいはゆる過去辭となりて語とゝのはず】メシと訓《ヨム》べし○日本乃《ヤマトノ》は芳樹云、和乃《ヤマトノ》借字なれど大和の一國のことにはあらで藤原の宮地をヤマトいへるなり。そはヤマトとはいづくにもあれ宮所《ミヤコ》の地をいふ稱なり。言義ヤマは和《ヤハ》にて【マとハとは近くかよふ言なり】京都《ミヤコ》の地《トコロ》は人の心の和《ヤハ》らげるよしもてつけたる稱なり。【國號考などの説はみなわろし】記に蘇良美都夜麻登能久邇爾加理古牟登岐久夜《ソラミツヤマトノクニニカリコムトキクヤ》とあるは仁徳天皇の津國高津宮にましゝ時その大宮に近き日女島に雁の卵うみたりしを建内宿禰に問はせ玉へる御製にてこのヤマト即ち京都《ミヤコ》の近處《チカホトリ》にとのたまはむがことし。また卷三に大日本久邇乃京者《オホヤマトクニノミヤコハ》とある久邇《クニ》は山城國相樂郡のうちなれども續紀にも大養徳恭仁大宮《オホヤマトクニノオホミヤ》とかけり。これらを以て思ふに和《ヤマト》は帝都のある所の名なることしるし。【然るに山城の平安城《タヒラノミヤコ》に移りたまひてよりは帝都をさしてヤマトといへることの聞えぬは桓武嵯峨などの御代はもはら漢學行はれたりしまゝにかゝる故實にはおもひよる人もなかりしにこそ。さて和《ヤマト》に日本の字を用ゐしことは集中いと多くて其うち卷十一に日本之室生乃毛桃《ヤマトノムリフノケモモ》。卷十三に日本之黄楊乃小櫛《ヤマトノツゲノヲグシ》などかけるはみな和《ヤマト》の國の事にてこれらは必しも帝都の處なるを以てかくいへるにはあらず。大和の國は神武天皇以來こゝかしこに宮所を置玉ひてその所みなヤマトといふゆゑにつひに國の名ともなれゝどヤマトの言義は和處《ヤマト》なれば必しも國の稱にはあらぬをつひに日本の字をさへかくよめる事とはなれるなり】青香具山者《アヲカグヤマハ》は木繁く榮えて蒼々《アヲ/\》としたるをいふ○日經乃《ヒノタテノ》は成務紀に隨《マニ/\》2阡陌《タヽサヨコサノ》1以定2邑里1因以2東西1、爲2日縱《ヒノタテ》1南北(ヲ)爲2日(ノ)横1山(ノ)陽《ミナミヲ》曰2影面《カゲトモ》1山陰曰2背面《ソトモ》(ト)1とありて【支那はこれにたがひて説文に路東西、爲v陌南北、爲v阡といへるは南北を經《タテ》とし東西を緯《ヨコ》としたるなり。これをもてわが古への制《ミサダメ》をたがふる事なかれ。これのみならず支那の字を借て此間《ココ》の名稱にあてたる物のかれとこれとたがへること多かるをさしもしらで猥に彼方の字義によりて誤ることいとおほかり】日經《ヒノタテ》は東西なれば日經乃大御門とは東に向へる御門はといはむがごとし○春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサビタテリ》の春は青の誤にてアヲと訓べし、次に彌豆《ミヅ》山といへるに對へても青山なるべしと宣長いへり。いはれたることながら春山にても聞えぬにあらねばなほもとのまゝにておきぬ。シミは茂《シ》みなり茂りて物さびたるよしなり○此美豆山《コノミヅヤマ》の美豆《ミヅ》は贊辭《ホメコトバ》にて瑞枝《ミヅエ》瑞垣《ミヅカキ》などのミヅに同じ○日緯能《ヒノヨコノ》はヒノヨコノと訓べし、さるは香山は東の御門に向へり。畝火山を西の御門に向ひたりとせんにはこれも日の縱《タテ》なれど當時《ソノカミ》の御門の置れし場《トコロ》西方ながらやゝ南によりてありしゆゑに日緯《ヒノヨコ》といへるか、または歌は文とは異にて言を綾なすものなるゆゑに實地にそむきたれどもかくいへるかはかり難し、山佐備伊座《ヤマサビイマス》の伊座《イマス》は上に立有《タテリ》とあるに同じく山さびてあるをいふなり【伊座《イマス》はおほくはうやまひ詞につかへどもこゝは然らず。但富士山を「日本のやまとの國の鎭とも座《イマス》神かも」とよめるは山をたふとびいへること神カモとあるにて知べし】○青菅山《アヲスガヤマ》の青《アヲ》は蒼々《アヲ/\》清々《スガ/\》しきよしにて畝火を青菅山といへるなれば菅《スガ》は清《スガ》にかりてかけるなり○背友《ソトモ》は背津面《ソツオモ》にて【ツオノ約ト】山陰《ヤマノキタ》を背面《ソトモ》と成務紀にあり。【上にひける】耳無は北の御門に當れるゆゑに背面《ソトモ》といへるなり○宜名倍《ヨロシナベ》は宜並《ヨロシナベ》にて宜しく足りとゝへる意なり、【集中におほき詞なり】○名細《ナクハシ》は名の細《クハ》しく人の耳に觸たるにて地の名の高きよしなり。その細《クハシ》は勇細《イスクハシ》、花細《ハナクハシ》、香細《カクハシ》、心細《ウラクハシ》など類多し、大御門從《オホミカドユ》のユはユリのリを略けるにてヨリを略きてヨと云に同じ、影友《カゲトモ》の友も借字にて影津面《カゲツオモ》の義なり、【背面に對へて心得べし】さて上に香具山、畝火、耳無の三山を擧たるはみな大内の近處なるゆゑに大御門に向ひたてるさまによめるを吉野は遙かに隔たりて遠きゆゑ影友の大御門より遠く見放《ミサケ》らるゝよしにいひて上の三山とは句法をかへたり○高知也《タカシルヤ》は高く知ります天《アメ》といへるなり。ヤは助辭なり。天之御蔭《アメノミカゲ》は即下なる日御影《ヒノミカゲ》に同じきを詞をかへて文《アヤ》なせるなり○天知也《アメシルヤ》は天知《アメシ》ります日といへるなり。日之御影乃《ヒノミカゲノ》云々は清水に日の御影の映照《ウツロ》ふよしにて御影といふにうつろふ意はこもれるなり、さてこゝはたゞ天津日《アマツヒ》の御影の映照《ウツロ》ふ水といふことなるを殊更に天と日とをわけもて綾なしいへるはこれ御井を贊るか主たるゆゑなり、さるを歌の意を深くたどらで此四句の言を詔詞もて解て天(ノ)御蔭日(ノ)御蔭登隱坐す御舎《ミアラカ》の水なりなどやうに古義其外の註釋にいへるはいみじきひがごとにて言こそ詔詞に似てもあれど意はさらにさることにはあらぬをや○歌意、古義に上に山を連ねたるをば四方を見はるかさせ玉ふことゝなし下に水をいへるをばその清きをめで玉ふことゝなして山と水とを異にせるはいまだこの歌を解き得ざるなり、こは端書にも御井の歌とありて帝都となりて人|多《サハ》に家ゐし住む所は殊に水の善き所を撰ばせ玉ふべき理にてこの藤原の地これに并《カナ》へるを贊せるなれば水を主とし山を客としていへるなり。そもそも水はいづくなるも地より涌くものにはあれど四方に山環りて翠に圍める所はその孕める氣のきよきゆゑに土の底を潜暢《クヽリ》來て井の水となりたるがいとめでたきなり、下なる山邊乃御井。卷七の石井の水などの(73ウ)水を贊《ホメ》たるをも類推《オシ》てしるべし。されどかくめでたき井のある所に都したまひて埴安の堤の上よりみはるかし玉へば四方の御門にむかひて翠ふかき山々立ならびことに吉野の山もとほく見えその山脈のこゝに通ひて氣の醸しなすところ果してかゝる御井となりたるに日の御影の映照《ウツロ》ひていよいよ常《トコ》とはに清く冷《ヒヤ》やかなる眞清水なるよといへるなり、漢籍の菅子に水者地之血氣、如2筋脈之通流1者也といへるをも併せ考へて山と水とをわけては解くへからず
 
短歌
 
藤原之大宮都加倍《フヂハラノオホミヤツカヘ》。安禮衝哉處女之友者《アレツゲヤヲトメガトモハ》。之吉召賀聞《シキメサルカモ》
 
大宮都加倍《オホミヤツカヘ》は大宮に奉仕するよしなり○安禮衝哉《アレツゲヤ》は考に生繼者《ウマレツゲバ》ニヤなりといへるに從ふべし【略解に宣長説アレツゲヤと訓ては終のカモの調とかけ合ず。哉は武の誤にてアレツカムなるべしといへれどこゝはアレツゲバニヤアラムといふアラムを省けるにて哉にて斷るゝなるべし】○處女之友《ヲトメガトモ》は少女《ヲトメ》が輩《トモ》の意なり○之吉召賀聞《シキメサルカモ》は重《シキ》の字をシキと訓る意にて頻といふも同じ。女帝におはしませば少女を多く召しつかひ玉ふことなり【宣長は結句之は乏の誤。召は呂の誤にて乏吉呂《トモシキロ》カモならんといへり】○一首の意は、藤原の宮にうつりましてよりその大宮づかへをする女官ともゝ年を逐ひ或は夫を設けて家にかへるもあり或は老て職《ツカサ》を辭《カヘ》すもあり或は病て臥《コヤ》すもあり或は死て迹なきもあるゆゑにその代りを補ひ玉はんとて頻《シキリ》に召さるれども生《ア》れつぎ生れつぎおひたつ處女どもなれば更に絶ることなく足ぬことなし、といへるなり、長歌には水をよみ短歌には大宮仕をする處女をよめるなり、【反歌といへは必ずしも長歌の意をかへしよむものぞとおもへるは反字の義を辨へぬ者の説なり】然るに古義にはこの大宮都加倍《オホミヤツカヘ》を大宮を新たに造ることゝせり、そは卷十三に「山邊のいしの原に内日さす大宮都加倍《オホミヤツカヘ》」また十九に「天地とあひさかえんと大宮乎都可倍《オホミヤヲツカヘ》まつれば」また祈年祭祝詞に瑞能御舎仕奉※[氏/一]《ミヅノミアラカツカヘマツリテ》などみな同じ。安禮衝哉はアレツクヤとよみて顯齋《アレツク》なるべし、顯《アレ》は顯露事《アラハニコト》、現人神《アラヒトカミ》などのアラと同言、齋《ツク》とは記の歌に美母呂爾都久夜多麻加伎《ミモロニツクヤタマカキ》などのツクにて敬ひ齋《キヨマハ》りて奉仕《ツカヘマツ》ることなり、朝廷に仕ふるをば顯露事につきてあれつくといひ神祇に奉仕ふるをば幽事《カミゴト》につきて忌齋《イツク》といへるなるべし、といへるも一説なれば併せ考へてそのさもやとおぼゆるに從ふべし
右歌作者未詳《ミギノウタヨミヒトシラズ》
 
大寶元年辛丑秋九月|太上天皇《オホキスメラミコト》《イデマセル》2紀伊國《キノクニヽ》1時《トキノ》
 
太上天皇は持統の御事なり。紀伊の幸は續紀文武天皇の大寶元年九月丁亥天皇幸2于紀伊(ノ)國1。冬十月戊午車駕自2紀伊1至と見え集中にては卷九に大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌とみゆ。【この大行は文武天皇の御事なり。そは崩座て未御謚奉らざりしほどに其幸のことを記せるゆゑ大行とはかけるなり。この幸九月より十月までの事ゆゑ九月とあるも十月とあるも違へるにはあらず】これによればこの幸持統天皇のみならず文武天皇も共にいでましゝを續紀に天皇とのみあるは天皇の上に太上天皇の四字を脱したることしるくこゝはまた太上天皇の下に天皇の二字を脱せることしるし
 
巨勢山乃列列椿《コセヤマノツラツラツバキ》。都良都良爾見乍思奈《ツラツラニミツヽオモフナ》。許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》
 
巨勢は和名抄の郷名に高市郡巨勢とあり。藤原宮より紀伊にゆくに經る道なり。列列椿《ツラツラツバキ》は多く生つらなりたるをいふ。和名抄に唐韻云。椿(ハ)木名也。和名豆波木。楊氏漢語抄云。海石榴とあり。都良々々爾《ツラツラニ》とは熟々《ツラ/\》にの意なり○見乍思奈はミツヽオモフナと訓るに從べし。考にナは言をいひおさふる辭なりとあり○歌意は。巨勢の山の山路に椿の多くならべ列ねて植たるをツラツラ椿といひてツラ/\の序に用ゐたり。さてその列なれる椿の木の間よりみわたせは眺望《ミワタシ》のいとおもしろきところなれば今は時秋なれども猶かゝるを春野のけしきはいかならんと見つゝおもふよしなり。古義にはこの歌は春よめる歌なるを端書に錯亂《ミダレ》あるを辨へずして秋の歌とせるはあらじといへれどしか端書を改めなんにはいかにもいはるべし。されど芳樹はおほくは原本につきてそのまゝに解《トカ》まほしくおもふなり
 
右一首坂門(ノ)人足
 
朝毛吉木人乏母《アサモヨシキヒトトモシモ》。亦打山行來跡見良武《マツチヤマユキクトミラム》。樹人友師母《キヒトトモシモ》
 
朝毛吉《アサモヨシ》は枕詞なり。和訓栞に麻裳吉木道爾入立眞土山と卷四の長歌にかけるを正義とす。これ麻裳《アサモ》を着《キル》といふ意につゞけたるなるべしといへり。かゝれば吉《ヨシ》は玉藻吉《タマモヨシ》、眞菅吉《マスゲヨシ》などのヨシに同じく助辭なり.木人《キヒト》は紀國《キノクニ》の人なり。乏母《トモシモ》はうらやましきにてモは歎く助語なり○亦土山《マツチヤマ》に亦打とかけるはタウの約ツなれば借てかけるなり。此山は大和より紀にこゆる所にありて大和に近き紀の山なり。行來跡見良武はユキクトミラムと訓べし。トはトテなり○歌意。此わたりなる紀人こそうらやましけれ。そは何がうらやましきぞといふに行とても來るとても常にけしきおもしろき山をみるらむが羨しとなり。さるはかく行幸の供奉にて委しくもえみず行過るにつけ紀人をうらやみたるものにて尾句は二句をふたゝひ云てその深くうらやむ意を述たるなり。古歌に例おほし
 
右一|調首淡海《ツキノオビトアフミ》
 
淡海は天武紀に元年六月辛酉朔甲申是日|發途《タチチ》入2東國1、是時元(ヨリ)從(ヘル)者《ヒト》云々調首淡海之|類《トモガラ》二十有餘人云云、績紀和銅二年正月丙寅正六位上調(ノ)連淡海授2從五位下1。同六年四月乙卯從五位上・養老七年正月丙子正五位上とあり、續紀によれば後に連姓を賜はれり
 
或本歌
 
河上乃列列椿《カハカミノツラツラツバキ》。都良都良爾雖見安可受《ツラツラニミレドモアカズ》。巨勢能春野者《コセノハルヌハ》
 
河上は卷三に「さゝれ浪いそ越道有能湍河《コセチナルノトセガハ》」とあり。こののとせ川の川上なるべし。略解云。これは春みてよめる歌にて此幸の時の事とは聞えずといへり
 
右一首春日(ノ)藏首《クラビト》
 
此人のことは次にいふべし
 
二年壬寅|太上《オホキ》天皇|幸《イデマシヽ》2于參河(ノ)國(ニ)1時《トキノ》
 
續紀大寶二年冬十月甲辰太上天皇幸2參河國1。行所2經過1尾張美濃伊勢伊賀等國郡司及百姓敍v位賜禄各有v差。十一月丙子朔戊子車駕至v自參河1とあり。上に紀伊國の幸ありしは九月なりき。九月は令條に於て要月の内なれども京都より遠からぬ所ゆゑ民を煩はしめ玉ふには至らず。參河國はやゝ遠ければ要月のうちにて民の煩ひもおほかるべきにより閑月を待て十月にいでましゝならん
 
引馬野爾仁保布榛原《ヒクマヌニニホフハリハラ》。入亂衣爾保波勢《イリミダリコロモニホハセ》。多鼻能知師爾《タビノシルシニ》
 
引馬野は遠江の敷智郡にあり。十六夜日記に「こよひはひくまの宿といふ所にとゞまる。この所のおほかたの名は濱松とぞいひし」とみゆ。和名抄に敷知郡濱松とあり。【飛鳥井雅康卿の富士歴覧記に「△とさやの中山との間に引馬の宿につきてあしたに野のあたりをみにまかりて」とあり】かゝれば濱松も舊き名にて引馬野|即《ヤガ》てその濱松のうちなる地名なりと思はる。考の別記に濱松の城のことを近頃まで引馬の城といひ、城の傍の坂を引馬坂といひ、其坂の上を少しゆけば大野あり。そを古は引馬野といひつと所にいひ傳へたり。此野今はみかたが原といふ。とみゆ。眞淵は此處の人なれば此論うべなふべし【力石重遠云。もと引馬城といひしを引と云もじ戰陣のいみ詞なりとて徳川家康濱松城と改められしとぞ】堯孝の覧富士記に「十六日はしもとを立て引馬の宿にもなりぬ。ひくま野は三河國とこそ思ひならはし侍るに遠江に侍るはいかなる事にか」と見え。飛鳥井雅世の宮士紀行に參河の八橋のつゞきに「引馬野も此國ぞかしいづくならん分明ならねど」とあるみなこの端書また上にひける續紀によりて參珂なりとおもへれどこは委しく尋ねざるのあやまちにてしか參河の幸のみの如くなれども十月より十一月に至て三十日の餘にもなれゝば其間に引馬野に遊ばせ玉ひしもはかり難くまた主上の幸はなくとも供奉の官人などの行たりけんもはかり難ければかく幸2于三河(ニ)1として遠江のうたのあるなるべし○榛原《ハリハラ》は萩の多かる原のよしにて即引馬野なり。和名抄敷智郡蓁原【波伊波良】と見えたるがこの榛原のことにて引馬野の内の郷名なるへければこゝは引馬野の蓁原とのみ云でも事たりぬべきをさては五七の句にならぬゆゑにその榛《ハリ》は僧衣にするものなれば仁保布《ニホフ》と云詞をそへて調《シラベ》をなせるなり。さて榛は摺衣にするものにて蓁ともかけり。蓁とかけるは衣服令に摺衣《スリキヌ》蓁、柴、橡、墨また天武紀に蓁摺御衣とみえ榛とかけるは踐祚大嘗祭式に榛《ハリ》藍摺(ノ)錦(ノ)袍一領とあり。これらを略解また記傳などに今ハムノ木といふものなるよしにいへれども榛木は野に入亂れて衣をにほはすなどいふべきさまのものにあらねば猶眞淵の萩なりといへるや符《カナ》ひたらん。芳樹按ふにハリとハギとはもと同音にてハギはハリ木のリを省けるなるべし。【リを省く例はいとおほし】さるは七草の内にかずまへられて草の類なれと其うちに一種木萩と云て全く木なるがあり。榛蓁はその木萩なるべく【但蓁は艸に從ひ榛は木に從ひてその字異なれど字書にも蓁與榛通といへればおなじことなり】その木萩はた花葉は常の萩にかはることなけれど幹《カラ》やゝ大きくて常のよりは本たちもまばらなるゆゑにモトアラノ木ハギともよめり。これを顯昭は大萩といへり。さて古書にハリといふ詞の同じきをもて俗にいふハンノ木にもまた木萩にも榛字をあてたるより惑はしくなれゝど記に登2坐《ノボリマシキ》榛上《ハリノキノウヘニ》1とありてよみ玉へる御歌に波理能紀能延陀《ハリノキノエダ》とあるハリは後にハシバミといふ木ならんか。こは字鏡に榛【叢生木曰榛。草叢生曰薄也。波自波彌】和名抄菓※[草冠/(瓜+瓜)]部に榛子。唐韻云。榛【和名波之波美】榛栗也。また名義抄に榛【はしばみ。はしかみ。とねりこ。一名金城】また字類抄に榛【はしばみ】とあり。こゝの榛はこれにはあらじ。かのいはゆるハンノ木ならんにはさのみなつかしげもなき木なれば「入みだれて衣にほはせ」などいふべきさまにもあらじをや。夫木集に爲家「ひくま野ににほふ萩原露ながらぬれてうつさむかたみばかりに」とあるはまたく此集によりてよめる歌なるをハギ原とあり。またやゝ後のものながら飛鳥井雅世の富士紀行に「旅人のゝるより外もひくまのゝ野邊の秋萩はなやみだれむ」などもこの榛原よりおもひよせたるうたなり。されば木萩なりといふが然るべからむ〇入亂《イリミダリ》は人々おほくいりみだれて摺衣にすといふ木萩に衣を染めにほはせよといへるなり。【蓁を萩と同物なりといふ説のあるは萩は草なるゆゑに野心わけゆけばおのづから袖にもそみつけどもいはゆるハンノ木にては野をわけゆくばかりにては染つくものならねばこゝの状《サマ》「入みだり衣にほはせ」といへるは木萩にて榛のハンにはあらじ。字は同じくてものはことなりとおもへるにて〔頭注、コトナリトオモヘルニテ言つゝきいかが〕實にしかるべくこそ】但歌はこれのみならず何事もしかけぢめ正しくはよむべきものならねばたゞ蓁すりの衣といふ事のあるをもて木萩多き原なればかくよめるならむか。されば字には榛とも蓁ともかけど同物なりと思ふべし○歌意は、引馬野は木萩の多かる所にてその木の咲匂ひてあればこの野に皆々入亂れて衣にすりつけにほはせよ。京都にかへる時の旅のしるしに。となり
 
右一首|長忌寸奥麻呂《ナガノイミキオキマロ》
 
卷二に意寸《オキ》麻呂とみゆ
 
何所爾可船泊爲良武《イヅクニカフナハテスラム》。安禮乃崎榜多味行之《アレノサキコギタミユキシ》。棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
船泊は船の行てとまるをいふ。あの船はいづくに泊るならんとなり○安禮乃崎《アレノサキ》參河の地名にみえず。歌枕名寄に參河の内に收《イ》れたれどこは此集によりて物せしなれば信《タノ》みがたし。美濃に似たる地名あれど歌のさま海上のけしきなれば符《カナ》はず○榜多味《コギタミ》は榜囘《コギマハル》なり【今俗にもまはり道せしをタメミチといへり。此タメもタミにおなし】○棚無小舟《タナナシヲフネ》は和名抄に※[木+世](ハ)大船(ノ)旁板也。不奈太那《フナタナ》とあり。小舟には其※[木+世]なければかくいふなり【古今集歌註〔頭注、校正者云。古今集歌註は顯註か〕に舟棚はセカイとて舟の左右のそばに縁のやうに板を打つけたるなり。それを蹈てもゆくなり。とみえたり。和訓栞にセカイのことを舟棚ともいふなりといへり。平家物語に「みな紅の扇の日出したるを舟のセカイにはさみて」また狹衣に「硯をセカイにとりいでゝ」などみえたり】○歌意は。海邊より沖のかたを見渡せば安禮の崎とてさし出たる洲さきのある所を棚も旡き小舟のこぎまはりてゆくがあの小船は今宵はいづくに泊《ハテ》てとまるらんとおもひやれるなり
 
右一首高市連黒人
 
譽謝女王《ヨサノオホキミノ》作歌
 
續紀慶雲三年六月丙申從四位下與射《ヨサ》女王卒とみゆ。女王はオホキミとよむべし【ヒメオホキミとよまんはわろし。さるは記などには男女ともに某王としるして某女王といへることなし。女を女王かくは字面のうへの別《ワイタメ》にこそあれ。奈良の比までもなほ口語には女王をもたゞ某於保伎美とそいひつらん。と宜長いへり
 
流經妻吹風之《ナガラフルユキフクカゼノ》。寒夜爾吾勢能君者《サムキヨニワガセノキミハ》。獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
初句は雪の長く降るをいへる詞にてナガラフルは流るゝなり。【ラフルの約はルヽなり】卷十「卷向《マキムク》の檜原《ヒハラ》もいまだ雲ゐねば子松之末由沫雪流《コマツガウレユアワユキナガル》」とある流《ナガル》は降ことなり。そをナガラフルといふ例は下に「浦さぶるこゝろさまねし久堅《ヒサカタ》の天之四具禮能流相見者《アメノシクレノナガラフミレバ》」とあり。されば妻字は久老が雪の誤なるべしといへるに從ふべし〔頭注、異本妻作v雪と校異本標註にいへり〕○歌意。十月に都をたゝせ玉ひて十一月にかへらせたまへればこの女王は京にまして雪ふく風の寒き夜に夫君の從駕《ミトモ》にてひとり旅宿に宿《ネ》たまふをおもひやり玉へるなり
 
長皇子御歌《ナガノミコノミウタ》
 
天武紀に次妃大江皇女生2長皇子1云々。また持統紀に七年正月辛卯朔壬辰以2淨廣貳1授2皇子長1かくて續紀慶雲元年正月に益2封二百戸1とかえ和銅七年正月にまた益2封二百戸1とみえて同紀の靈龜元年六月甲寅一品長親王薨。天武天皇第四之皇子也とあり【長をナガと訓むべき證は續妃神護元年十月の條に那我親王とみえたり】
 
暮相而朝面無美《ヨヒニアヒテアシタオモナミ》。隠爾加氣長妹之《ナバリニカケナガキイモガ》。廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
暮相而《ヨヒニアヒテ》は女の夜《ヨル》男に逢てといふ事にて朝面無美《アシタオモナミ》はその夜の明て男になほ對《ムカ》ひ居るが恥かしきを面無きといふ。面旡きゆゑに隠るゝを隠《ナバリ》にいひかけたるなり。されば上二句は隠《ナバリ》の序なり○隠《ナバリ》は伊賀の名張なり。上にいへり。【隠るゝことを古言にナバルともナマルともいふ】此度の幸《ミユキ》に伊賀を過ましゝことは續紀大寶二年十一月の件に所2經過1尾張美濃伊勢伊賀等國郡司云々と見えたるにてしるし。氣長《ケナガキ》のケはキヘの約にてこゝは來經ゆく月日の長きをいふと記傳にみゆ。妹《イモ》は皇子の御心よせの女の供奉《ミトモ》して行たりしをさしてのたまへる也○廬利爲里針武《イホリセリケム》の廬《イホリ》は假に設けつくれる舍をいふ【もとイホなるをイホリ、イホルと活用していへるをまた體言にしてイホリともいふなり】○歌意は。わが親しむ妹は今度の御供にて行たりしかば久しく相見ぬを今夜などや伊賀の名張に廬つくりて旅ねすらむかしとのたまへるなり
 
舍人娘子從駕作歌《トネノイラツメガオホミトモツカヘマツリテヨメルウタ》
 
舍人は氏なり。娘子はイラツメと訓べし。考云。娘子も氏の下にあるはみなイラツメと訓むことなり。何ぞといはゞ記に長田大郎女とあるを允恭紀に名形大娘皇女とかき紀に春日大郎女とあるを仁賢紀には春日娘子と書たる類いと多きを迎へて知ぬ云々。傳に景行紀に郎姫此云2異羅菟※[口+羊]1と見え天智紀に伊羅都賣。續紀【廿二】に藤原伊良豆賣などあり。また舒明紀に郎媛《イラツメ》。孝徳紀に娘《イラツメ》などあり。さて男に郎子《イラツコ》、女に郎女《イラツメ》といふイラはイロセ、イロトなどのイロまた入彦入姫などの入《イリ》と皆同言にして親み愛《ウツク》しみていふ稱なり。また末(ノ)珠名|娘子《ヲトメ》。眞間|娘子《ヲトメ》など字《アザナ》の下、地名の下などにある娘子はみなヲトメと訓む例なり
 
丈夫之獲物矢挿《マスラヲガサツヤタバサミ》。立向射圓方波《タチムカヒイルマトカタハ》。見爾清潔之《ミルニサヤケシ》
 
得物矢はサツヤと訓べし。サツはサチに同じくてその佐知は幸取《サキトリ》なり。キを省きトリを切《ツヽ》めてチと云へるなり。【トをチといふ例多し】さて幸《サチ》とは身の爲に吉き事をいふ。海にて魚を得るを海佐知《ウミサチ》。山にて獣を得るを山佐知《ヤマサチ》と云ふも凡て物を得るは身の爲に吉事なるゆゑに幸《サチ》といふなり。さればサツとサチと音かよへば得物矢《サツヤ》も幸矢《サチヤ》におなじ。神代紀|幸弓《サチユミ》とあり。弓矢はもと鳥獣を射て取る爲の具なれば得物矢《サツヤ》といへり。此外卷五に佐都由美《サツユミ》。卷三に佐都雄。卷十に薩雄。また佐豆人などのサツもみな同じ。【委しくは記傳をみるべし】手插《タバサミ》は卷二十に伊乎佐太波佐美《イヲサタバサミ》とあるタバサミに同じ○射流圓方波《イルマトカタハ》云々初句よりこの射流《イル》といふ言までは圓方《マトカタ》といはむ序にて圓方《マトカタ》は的形の假字なり。考云。神名式伊勢國多氣郡に服部麻刀方《ハトリマトカタノ》神社あり。風土記に的形浦者此浦地形似v的。故以爲v名也。今已跡絶成2江湖1也といへり○清潔之《サヤケシ》はうちはれて物の障りもなく明らかなるをいふ○此歌的形の浦を見わたすにいとさやけしといへる意なるをさては一首に詞のたらぬゆゑ「ますらをがさつ矢たばさみ立むかひ射る」といふ十九言をそへて成したるものなり。序歌はみなこの類なり。
 
三野連《ミヌノムラジ》名闕|入唐時《モロコシニツカハサレシトキ》春日藏首老作《カスガノクラビトオユガヨメル》
 
古義云。官本、中御門本、阿野本等の勘物に國史曰。大寶元年正月遣唐使民部卿粟田眞人朝臣以下百六十人乘2船五艘1小商監從七位下中宮少進美奴連岡麻呂云々とありて略解にはこの國史とあるを類聚國史とおもひたりげなれど類史にはみえずといへり。芳樹勘ふるに續紀大寶元年正月丁酉の件に遣唐使の官員を載せたるに執節使、大使、副使、大位、中位、小位、大録、小録ありて大録以上六人、小録二人にて此内に三野連某はみえず。續紀に脱文あるにもあらぬさまなれば勘物百六十人とあるによるに三野(ノ)連も必ず渡りしなるべし。この人續紀靈龜二年正月壬午授2美努連岡麻呂從五位下1とみゆれば岡麻呂なること疑なし。【端書に名闕とせしは後人の加筆なるべし】かくてこの岡麿何ゆゑに續紀に御使のうちに漏たるぞといふにそは勘物に小商監とみえたれば此人は産物交易のために從ひ渡れるにて小商監とあるに大商監もありし事知るべし。されど御使の列ならぬゆゑに續紀には載せられざるなるべし。勘物に從七位下中宮少進とあるは支那よりかへりて後の官位をもて記せるにてこの御使の發《タチ》たりしほどはいまだ從七位下などゝいふ位號は旡かりしなるべし○春日藏首老《カスガノクラビトオユ》は卷三なる古註に或云。辨基者春日藏首老之法師名也。續紀大寶元年三月壬辰令2僧辨紀還1v俗。代度一人。賜2姓春日倉音名老1。授2追大壹1。和銅七年正月甲子正六位上春日藏首老授2從五位下1また懷風藻に從五位下常陸介春日老【年五十二】とあり。春日は氏にて藏首《クラヒト》は姓《カバネ》なり。藏首《クラヒト》は倉を掌る官の姓になれるなり。其起り古語拾遺にみえたり。記傳に天武紀に次田(ノ)倉人《クラヒト》椹足《ムクタリ》。續紀廿七に春日|藏毘登《クラヒト》常麿。二十九に白鳥(ノ)椋人《クラヒト》廣。卅に秦倉人※[此/口]主《ハタノクラヒトアタヌシ》。萬葉十九に高安|倉人《クラヒト》種麻呂などみえ姓氏録にも池上|椋人《クラヒト》、河原藏人、日置藏人などあり。首を毘登《ヒト》と訓むは淤《オ》を省けるにて意は淤毘登《オヒト》なり【首《オヒト》をヒトと云て人とも書たる例は天武紀に忌部(ノ)首」|子首《コヒト》また三輪君|子首《コビト》などを子人《コヒト》とも書たり。また續紀卅に以2去天平寶字五歳1改2首《オビト》史《オブト》1如3並爲2毘登1。彼此難v分氏族混雜。於v事不v穩。宜v從2本字1とあるこれも首《オビト》をヒトといへる例なり。されば天平五年より此時までは首をも史をも毘登と記せり】と記傳にみゆ。
 
在根良對馬乃渡《アリネヨシツシマノワタリ》。渡中爾幣取向而《ワタナカニヌサトリムケテ》。早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
在根良。考には百舶(ノ)の誤。略解には布根盡の誤。古義には大夫根之とありしを大夫の二字を在に、之を良に誤れりといへり。この初句は實《マコト》に誤字なるべくもおもはるれど人々の説いづれがよきとも定めがたし。もとのまゝならば契沖の説に阿理袁とあるに同意なるべしといへるがそのアリヲの説こそとりがたからめど誤字ならじと思へるに芳樹は心ひかるゝなり。さるは記に阿理岐奴。卷十四、十五に安利伎奴などあるみな鮮衣《アリキヌ》なり。こゝの在もこれに同じく鮮《アリ》の意にて今も物のよくみゆるをアリアリトミユなどいへるに同じく對馬の島の渡中《ワタナカ》にありありとみゆること。根は島根の根。良は朝毛吉《アサモヨシ》などのヨシにて助辭なれば在根對馬とつゞく詞なるべし○對馬乃渡《ツシマノワタリ》は對馬に渡りゆくゆゑの名にはあらず。支那に渡る海なれどその支那と皇國との間に對馬のあるゆゑに對馬の渡といへるなり【世に玄界洋といへる所の西のかたの沖なるべし。漢籍には澣海とみえたり】○渡中《ワタナカ》のワタはワタツミのワタなり。海は渡る所なるゆゑにワタといふ。幣《ヌサ》は或説にノミグサの切なりといへり。ノミクサは祈《ノミ》種なり。【ノミ約〔頭注、校正者云ノミ約はのの字脱か〕ニなり。ニクの約ヌとなれり。これにサをそへてヌサといへるなり】傳に祷布佐《ネキフサ》といへるはたがへり。麻に限らず何にても神に手向る品をいふ○歌意は。其許《ソコ》にも此度|支那《モロコシ》に遣はさるゝ御使とゝもにまかり給ふよしなるが船出して彼土に渡り玉ふ日には對馬の渡とて恐《カシコ》き海をすぎ玉へば其所にて海神に幣を手向けよく祈祷《コヒノミ》てわたりゆきはやく歸り來《コ》られよかし。といへるなり
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオミオクラ》《アリシ》2大唐《モロコシニ》1時《トキ》《シヌビテ》2本郷《クニヲ》1歌《ヨメルウタ》
 
憶良は上に引ける大寶元年の遣唐使の官員のうちにて續紀に无位|山於《ヤマノヘノ》億良爲2小録1と見えたり、この歌はその時支那にありてよめるなり。此人の履歴は同紀に和銅七年正月甲子に授2從五位下1。靈龜二年四月壬申に爲2伯耆守1とあり。また養老五年正月庚午の詔に從五位下山上憶良等退朝之後令v侍2東宮1【この時憶良と共に侍せしめられしは佐爲王以下十六人なり】とみえたるは此人學才もあり詠歌も優れたりしゆゑなるべし○大唐は唐國と改めらるべき事なり【荻生茂卿はさばかり漢意の人なりしすら入唐、大唐など書く は吾を夷にしたるいひさま也と南留別志にそしれり】
 
去來子等早日本邊《イザコドモハヤヒノモトヘ》。大伴乃御津乃濱松《オホトモノミツノハママツ》。待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
去來子等《イザコドモ》の去來《イザ》はいざなひたつる詞にて子等《コドモ》は諸人をいふなり。されど子等《コドモ》の字に尊卑のけぢめは旡しといへども憶良この時少録にてもとも下等の官員なれば大使副使などをさしていふべきにあらず。こはおのが從者さては上にひける勘物に百六十人とあればその内には憶良のむつまじくする同等以下の人々もおほかめればそれらをいへるなるべし。卷三に「去來兒等《イザコドモ》やまとへ早白管の眞野の萩原〔頭注、校正者云。萩は榛か〕たをりてゆかん」卷六に去來兒等《イザコドモ》香椎のかたに白妙のそでさへぬれて明菜つみてむ」殊に卷二十に「伊射子等毛《イザコドモ》たはわざなせそ天地のかためし國ぞやまと島根は」とあるは少年の者を教喩すろうたにて子等毛《コドモ》の言よくあたれり。早日本邊はハヤヒノモトヘと訓べし。日本の字をヤマトと訓ること集中にみえたれどこゝは唐國にての歌なれば日本《ヒノモト》とよめること決《ウツ》なし〔頭注、決《ウツ》なしこれは決《ウツナ》しと書くべきにや〕。【支那を日末《ヒノスヱ》としてそれに對《ムカ》へたる日本《ヒノモト》なり】こは公式令の詔書式に明神御宇日本《アキツミカミトアメノシタシロシメスヒノモトノ》天皇(ノ)詔旨とありて義解に2大事1宣2於蕃國使1之辭也とみゆ。この日本の字ヒノモトと訓べし【ヤマトと訓《ヨメ》るは誤なり。そのよし芳樹が標註令義解に辨へたり】○大伴乃は枕辭。御津乃濱は記に御(ノ)前《サキ》とありて傳に古難波より船發《フナデ》するに主《ムネ》と此津より發《タチ》また此津に泊《ハテ》たりし事萬葉にあまたよめるがごとし。かくておのづから難波の内の一つの地名となれるなり、難波の古圖に高津の西方海邊に三津里御津濱あり、其處なるべし【其あたり今も大阪に三津寺町あり。三津寺は古今集詞書、江次第などにもみゆ。さて大伴乃御津とは稜威の意に續くるなり。イとミとは通ふ例なり。此大伴(ノ)御津のつゞけの事古より詳なる説なく冠辭考もよろしからず卷三に古義を引て委しく云り】といへり。濱松は待と重ねんとていへるなり○歌意明らかなり。
 
慶雲(ノ)三年《ミトセトイフトシ》丙午|幸《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時《トキ》〔頭注、丙午の下秋九月の三字を脱せり。但し本書の丙午は丙寅を誤れる也。其由を註にことわるべし〕
 
續紀慶雲三年九月丙寅行2幸難波1。十月壬午還宮とみえたるこれなり
 
志貴皇子御作歌《シキノミコノミウタ》
 
葦邊行鴨之羽我比爾《アシベユクカモノハガヒニ》。霜零而寒暮夕《シモフリテサムキユフベハ》。和之所念《ヤマトシオモホユ》
 
下句夕和の二字家の一字を誤たるにてイヘシオモホユなるべし〔頭注、校正者云。こゝのかきさままぎらはし〕。ヤマトに和字を用られしは奈良の朝よりの事にて慶雲までは倭字なりし事考にくはし。されどこはおもふに暮夕の二字にてユフベとよみ和は倭なりしを誤れるなるべし。倭之所念《ヤマトシオモホユ》とよめる例は卷三に「あへの島うのすむいすによる波の間なくこのごろ日本師所念《ヤマトシオモホユ》」卷七に「足がらのはこね飛こえゆく鶴の乏みれば日本之所念《ヤマトシオモホユ》」など猶あるべし。これらのヤマトみな都のことなり○御歌意は.難波江の葦へをさして飛ゆく鴨の羽交《ハガヒ》にさへ霜のふりて寒き夜はいねがたくて京都《ミヤコ》のかたが戀しくおもはるとなり
 
長皇子御歌
 
霰打安良禮松原《アラレウツアラレマツバラ》。住吉之弟日娘與《スミノエノオトヒヲトメト》。見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
霞打は二句の安良にかゝりて霰打おとの荒々しきをもて安良の枕詞とせり。この幸は九月なれば霰降る時節にはあらざるなり。安良禮の禮は考に羅の誤にてアララ松原なるべし。松の疎々《アラ/\》と立たるさまなり。アラアラを略きてアラヽといふはウラウラをウラヽ、ツラツラをツラヽの類なりといへり。此説の如く疎々《アラ/\》とたてる松原の事なるがおのづから地名にもなれる歟。日本紀略に延喜三年五月十九日授2攝津國|荒々《アラヽ》神(ニ)從五位下(ヲ)1、また姓氏録諸蕃に荒々公などある此地名によれる名なるべし【神功紀なる阿邏々摩菟麼邏《アララマツバラ》はこゝにはあらねどおなじことばなり】○住吉はスミノエと訓べし。攝津風土記に所3以稱2住吉《スミノエト》1者昔息長足比賣天皇世住吉大神【中略】到2沼名椋之長岡之前《ヌナクラノナガヲノサキ》1乃謂斯實(ニ)可v住之國(ト)。遂讃2稱之1云2眞住吉之國1。乃是定2神社1。今俗略v之直稱2須美之叡《スミノエト》1とあり【和名抄に攝津國住吉郡【須美與之】とあるは吉をのちに唱へ誤れるなり。古今集に「住よしとあまはつぐとも長居すな」と云歌もあり。山城の京になりてより云そめしなるべし】○弟日娘與《オトヒヲトメト》の弟日《オトヒ》は芳樹おもふに娘子《ヲトメ》の字なるべし。持統紀に弟國部弟日とあるは男の名なれど證とすべし。仁賢天皇の龍潜のとき播磨にて御自ら弟日僕《オトヒヤツコ》とのたまへる弟日《オトヒ》も語同じきをいかなるよしありて弟日僕とは名のらせ玉ひけん【億計王の起て※[人偏+舞]玉ひしかど御名を顯はしt玉はざりしかば弘計王次に起て舞ひ玉ひ遂に殊※[人偏+舞]《タツツマヒ》をなして倭者彼々茅原淺茅原弟日僕《ヤマトハソソチハラアサチハラオトヒヤツコ》是也とのたまへる弟日は兄弟をオトヾヒといふ言の如く聞ゆ。されどこれも兄弟のよしにはあらで弟日の日は奇靈《クシヒ》のヒより一轉して人名につくる言にて弟國部の弟日《オトヒ》も弟日娘の弟日《オトヒ》もともにおなじき歟】○歌意は。松原の下にヲもじをそへてあらゝ松原のおもしろきけしきを住吉の弟日と共にみれどもいつまでもあかぬながめかなとのたまへるなり【諸註に松原と娘とふたつ共にみれどもあかぬ意なりとおもへるはいかゞあらむ】
 
太上天皇《オホキスメラミコトノ》《イデマセル》2于|難波宮《ナニハノミヤニ》1時《トキノ》
 
太上天皇は持統天皇なり。御紀に十一年八月乙丑朔天皇定2策禁中1禅2天皇位於皇太子1とあるこれより持統を太上天皇と申せり。これ太上の尊號の始也。オホキスメラミコトとよむ。大《オホキ》とは古義云。祖なるかた兄なるかたにいふ詞なり。そは祖父母を大父《オホチ》、大母《オホハ》、曾祖父母を大大父《オホヽヽチ》、大大母《オホヽヽハ》、祖父の兄弟姉妹を大小父《オホヲチ》、大小母《オホヲハ》と云。又天皇の御祖母の后位に登りましゝを大大御祖《オホキオホミオヤ》と申す類すべて祖なるかたにつきて大といひまた兄なるかたをもいへるは長子の三位以上なるを大卿《オホマヘツキミ》【少卿にむかへていへり】また第一にあたる女を大孃《オホイラツメ》【二孃に對へていへり】また長子の妻を大婦《オホヨメ》【季子の妻を小婦と云に對ひたり】といふ類すべて兄なるかたを大《オホ》といへり。故天皇の大御父の天皇をば太《オホキ》といふ御稱を冠らせ奉るべき理なり【オリヰノミヤト申すは古稱にあらず】○幸2于難波宮1は續紀に文武天皇三年正月癸未是日幸2難波宮1。二月丁未車駕至v自2難波宮1とみえたるがこの太上天皇の御事なれば續紀の是日(ノ)の下太上天皇の四字を脱せるなるべし。されども持統は大寶二年十二月甲寅に崩《カムサリ》玉へれば慶雲三年丙午と標したる下に難波宮の幸あるべきにあらねばこゝは考にいへるごとく原本に錯亂あり。見ん人その心をして前後をよく勘へ正すべし
 
大伴乃高師能濱乃《オホトモノタカシノハマノ》。松之根乎枕宿杼《マツガネヲマキテシヌレド》。家之所偲由《イヘシシヌバユ》
 
大伴乃は高師の枕詞なり。高師は持統紀に河内國大鳥郡|高脚《タカシノ》海また神名式に和泉國大鳥郡|高石《タカシノ》神社靈異記に和泉國海中云々泊2于|高脚《タカシノ》濱1。今も高石村《タカシムラ》あり。【上田秋成云。高師濱は今高いしと里の名に呼り〇松むら立るまさこし〔頭注、校正者云まさこしはまさこちか〕にて清き濱邊なり】さて難波へ幸ましゝついでに隣國なれば幸ありしにや。また從駕の人の行到《イタリ》てよみしにや。【攝津志に高師を住吉郡といひ名所集などにも難波にありといへれど難波の古圖にも地名なければ從ひがたし】さて古義に和名抄に大和國高市【多介知《タケチ》】武藏國横見郡高生【多介布《タケフ》】佐渡國雜太都高家【多介倍《タケヘ》】また集中にも卷十|弓月我高《ユツキガタケ》、十三に吉野之高《ヨシヌノタケ》などみゆれば古はタケシと云けむか。若然らば大伴の健《タケ》シと云かけたるにて大伴乃御津とつゞけるも意ひとし。またもとよりタカシにても健《タケ》しと云意にして難旡し。といへり。されどもとタケシノハマならんの考はいかゞあらん〔頭注、たけしのはま此はまは濱の字を書くべきにや〕。そはタケシならでも冠辭考にこは健キといひかけしにや。【健を下へ云つゞくるには竹をタカ葉竹筵をタカムシロなどいふ類なり】とあるがやすらかにてよし○枕宿杼《マキナシヌレド》はマキテシヌレドと訓べし。【宣長これを誤字としてマキテヌルヨハなりといへれど解るゝかぎりは誤字の説には從ふべからず】マクは枕にするよしなり。神武紀に僵(シ)v屍(ヲ)枕《マキシ》v臂(ヲ)處。卷十に君之手毛未枕者《キミガテモイマダマカネバ》などのマクに同じ○家之所偲由《イヘシシヌバユ》の偲は慕ふ意なり。偲字は此間《ココ》にて造れる字にて名義抄に偲《したふ》また訓はつけたらねど字類抄にも偲と載せたり。【此字支那の字書にもみえたれど義いたく異なり】シヌバユはシヌバルといふことなり。【すべてシヌバレ、シヌバルといふべきをエ、ユといへる例いとおほし。齊明紀の倭須羅※[まだれ/臾]麻自珥《ワスラユマジニ》また卷五に「かくゆけば人に伊等波延」また「ねのみし奈可由」卷七に、「衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》」卷十五に「いのねら延奴に」などいとおほし○歌意は。高師の濱は海上の景色いとおもしろき所と聞て此度のみゆきの御とものついでに飽まで眺望《ナガメ》むと思ひて濱清き海邊の松が根を枕にして一夜ぬれども風景になぐさむかたよりも家のことが偲《シノバ》れて堪がたしとなり
 
右一首置始東人《ミギノヒトウタハオキソメノアツマビト》
 
孝徳紀天武紀等に置始連あり。同族なるべし
 
旅爾之而物戀之伎乃《タビニシテモノコホシキノ》。鳴事毛不所聞有世者《ナクコトモキコエザリセバ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》〔頭注、物戀傍訓モノコホとあるはいかゞモノコフにて可然思ゆ〕
 
物戀之伎《モノコホシキ》はモノコフヒシキといふに同じくて鷸《シギ》に云かけたるなり。【鷸《シギ》ならば之藝などゝ濁音の字にかくべきをいかにといふ人あれどもこは新古今に「凉しさは秋やかへりてはつせ川」とよめるは秋ヤカヘツテ恥といひかけたるが如くかゝるいひかけに至ては清濁にはよらざるなり。新古今は後世の集なれど古よりさる例なりけんとおもはる】さて鷸の鳥にシキといふてにをはをいひかけたるはあまり後世めけるやうに思ふ人もあるべけれど卷十二に「わぎもこに衣借香之《コロモカスカノ》よしき川」卷四に「わがせこを乞許世山《コチコセヤマ》と人はいへど」卷十四に「たきゞこるかまくら山にこたる木をまつとながいはゞ」などいとおほければさる類なしといふべからず。物は事に同じくて本郷《クニ》の事の何くれと戀しくおもはるゝをいふ○歌意。かく旅のやどりにしてねられぬまゝにくさ/”\の事を思ひ出で家のこひしきをりしも鷸《シギ》の聲の聞ゆるをきゝてかれもさだめて吾如く物戀ひてなくならん禽獣にてすらかゝる時は啼て堪《タ》ふ〔頭注、堪ふの下る宇脱か〕よとおもふにつけていさゝか心に慰む情出來たり。もし鷸のなく事もなかりせば本郷《イヘ》を戀ひて死なましとよめるなり
 
右一首高安大島
 
大伴乃美津能濱爾有《オホトモノミツノハマナル》。忘貝家爾有妹乎《ワスレガヒイヘナルイモヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
大伴乃《オホトモノ》は美津の枕詞なり。美津《ミツ》は御津にてもと京都に運《ハコ》ぶ諸物を載せたる船の着く津なるゆゑにいふ。近江に大津とである大も同じ意なり。大伴ノミツとつゞくは冠辭考に家持の歌に「大伴の遠つ神祖《カムオヤ》の其名をば大久目主登《オホクメヌシト》おひもちて」神武紀に瀰都々々志倶梅能固邏俄《ミツミツシクメノコラガ》てふ御ことば多きは大久米部のみならずそれつかさどる道臣命をもかねたまへり〔頭注、校正者云。八十二丁註にいへるとたがへるはいかに〕。然ればこゝは大伴の瀰都々々志《ミツミツシ》てふ意にて御津の濱に冠らせたるにや。といへり。この説のごとし。但ミツと云言義は古義に才徳《イキホヒ》勇威《カド》あるをいふ詞なり。そは顯宗紀に僕不才《アレミツナシ》。豈敢宣2揚(ムヤ)徳業1。繼體紀に寡人不才《アレミツナシ》。仁徳紀に僕《アレ》之|不佞《ミツナクテ》などの才佞の字をミツと訓たるもてミツミツシの意をさとるべし。大伴氏は世々|武勇《タケ》き事もて皇朝《ミカド》の御守衛《ミマモリ》たれば才徳《イキホヒ》勇威《カド》ある意もてミツに云かけしものなりといへるによるべ○忘貝《ワスレガヒ》は芳樹おもふに鰒の異名か。しかいふ故は卷十五の長歌に「和多都美能多麻伎能多麻乎《ワタツミノタマキノタマヲ》いへづとに妹にやらむと比里比等里袖にはいれてかへしやる使なければもてれどもしるしをなみとまたおきつるかも」と見えてその反歌に「多麻《タマ》のうらの於伎都之良多麻《オキツシラタマ》ひりへれどまたぞ置つるみるひとをなみ」「安伎《アキ》さらば我船はてん和須禮我比《ワスレガヒ》よせきておけれ沖つしら波」とある長歌の多麻《タマ》また反歌の之良多麻《シラタマ》は外にも例多くて鰒なること辨をまたず。そを家の妹にこ贈りやらむと思へども筑紫のかたへの行さなればせんかたなきゆゑ拾ひ取ながらまたそのまゝそこに置たるよしなるを今一首の反歌の意は秋にならば筑紫よりの歸さにまた此所に船|泊《ハテ》ぬべければ沖つしら浪よ忘貝をよせ來てこゝに置け。さらばその時拾ひとりてつとに持かへらん。といへるなれば此わすれ貝が即玉なること決《ウツ》なし〔頭注、決《ウツ》ナシこは決《ウツナ》シト書くべき歟〕。さて鰒は海底の巖に着き居り濱邊に打寄ることなどはなくて潜女《アマ》どもの波をわけいりてかつきあぐる物なれども此歌の外にも卷十三の長歌に「木國《キノクニ》の濱によるとふ鰒珠ひりはむと云て【中略】おきつ波來よる白珠《シラタマ》へつなみのよする白珠《シラタマ》」などよめり。そは歌は言葉の綾をなすを旨とすればかく旡き事をもよめるなり。實は卷六に「淡路乃野島之海子之海底奥津伊久利二鰒珠《アハヂノヌシマノアマノワタノソコオキツイクリニアハビタマ》さはに潜出《カツキデ》」卷七に「大海之水底照之石着玉《オホワタノミナソコテラシアハビタマ》いはひてとらん風なふきそね」卷十八の長歌に「珠洲乃《ススノ》あまのおきつみかみにいわたりて可都伎等流登伊布安波妣多麻《カツキトルトイフアハビタマ》」などいへる如し。かく海底に沈みて潜《カツ》きとる物は貝の類にては鮑より外にはをさをさある事なし。然るをまた卷十二に海處女潜取云忘貝《アマヲトメカツキトルトフワスレカヒ》とよみて忘貝をも鮑の如くかづき取といへれば忘貝は鮑なること更に疑なし。さて三句忘貝までは忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》の序なり○忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》のオモヘはそへたる辭にてワスレムヤなり。ヤはヤハにて反語なり○歌意は。かく從駕《オホミトモ》にて來て居《ヲ》れば供奉《ツカウマツ》る人々と共にかたらひもし遊びもして心を慰め旅のうさを忘るゝ事もおほかれど暫しもわかれ來し家なる妹の事をわすれんやはわすれはせじとなり
 
右一首|身人部王《ムトベノオホキミ》
 
六人部《ムトベ》ともかけり。續紀和銅三年正月甲子無位六人部王授2從四位下1と【板本交部王とあるは誤なり】みえてその後養老七年正月丙子に正四位下にすゝみ天平元年正月壬寅に卒《ミマカ》られたり
 
草枕客去君跡《クサマクラタビユクキミト》。知麻世婆岸之埴布爾《シラマセバキシノハニフニ》。仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
 
草枕は旅の枕詞なり。旅去君《タビユクキミ》は長皇子をさす。考に此皇子は今も旅なるに更に客去《タビユク》といふは京に歸り玉ふ時かといへり。此説の如く天皇難波宮に座てその供奉にて居玉へば暫しの間の行在の出仕なれど草枕する旅とは云がたし。されば天皇難波を發《タヽ》せ玉ひて都にかへらせ玉ふ御供に隨ふをば客去《タビユク》といふべし○知麻世婆《シラマセバ》早く歸らせ玉ふと知りまゐらせたらんにはといへるなり。岸之埴布《キシノハニフ》は住吉の岸の埴生《ハニフ》なり。卷六に岸乃黄土粉《キシノハニフ》また岸乃黄土《キシノハニフ》などあり。和名抄に埴(ハ)土黄而細密曰v埴《ハニト》【和名波爾】また字鑑に埴【黏爾土《ハニツチ》】又【波爾《ハニ》】字類抄に埴ハニなどゝみえたるこれなり。記傳に波邇《ハニ》とは色|美《ウルハ》しく艶《ニホ》ふ由の名にて光映土《ハニニ》の義にやあらん。そをもて衣を摺るなり。さればニホフとは黄士に觸て衣に其色の移り染るをいへり。布《フ》は茅生《チフ》、粟生《アハフ》などの生と同言にて黄土《ハニ》の在る地をいへり○歌意は。難波の宮に猶暫くおはしますらんとこそおもひつれ、かくはやくたびだちて歸らせ玉ふと知りたらましかばその旅の御衣を岸のはにふに艶《ニホ》ひやかに染てまゐらせましものを。といへるなり
 
右一首|清江娘子《スミノエノヲトメ》《タテマツレル》2長皇子(ニ)1〔頭注、姓氏未詳の註あり]
 
清江娘子は住吉に住る女にて菟原娘子など地名もて呼る例多し、清《スミ》と住《スミ》とは訓の同じきゆゑ通はしかけるなり。芳樹按ふに此娘子は上なる弟日娘《オトヒヲトメ》と同人にていはゆ遊行女婦《アソビ》の類なるべし。かくてこの埴生の歌は文武天皇三年の幸の時なるをかの弟日娘《オトヒヲトメ》とよみ玉へるは慶雲三年の幸の時のなればその間八年隔たれり。その大寶三年を弟日娘十六七歳なりとしても慶雲三年は二十三四歳なれば少しさだ過たりといへども猶貴人に交《マジハ》りて寵《ウツクシミ》をうくべきほどの齡なれば必ず同人なるべし【考、古義ともに此娘子を尋常《ヨノツネ》の女兒とみなして數年經るほどには人の妻ともなりてかく長皇子に物言ふことなどもあるまじとおもへるさまなれどうつなく遊女《ウカレメ》の類ひなり。集中かゝる娘子なほおほし】
 
太上天皇《オホキスメラミコト》《イデマシノ》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時高市連黒人(ノ)作歌
 
古義には大寶元年辛丑幸于云々とかきて大寶元年辛丑の六字舊本此所には旡く太上天皇幸于紀伊國時歌とある上にあるは錯亂《ミタレ》たるなり。此幸は續紀に大寶元年二月癸亥行2幸吉野離宮1その一本に癸亥の下に太上天皇の四字ありといへり。芳樹云。おのれいまだ癸亥の下に太上天皇の四字ある一本を見ず。故にたしかには云難けれども續紀大寶元年六月庚午太上天皇幸2吉野離宮1。秋七月辛巳車駕至v自2吉野離宮1とありてこれを類聚國史に校《アハセミ》るに太上天皇行幸の標下に文武天皇大寶元年六月庚午太上天皇幸2吉野雖宮1。秋七月辛已車駕至v自2吉野離宮1とある文を載せて二月癸亥の行幸をば載せず。載せざるは二月癸亥の度は當今の行幸にて太上天皇の行幸にあらざればなり。【類聚國史の天皇行幸上とある標を閲《ミ》なば必ず二月癸亥の行幸の載せてあるべきを惜いかな闕本になりて傳はらず】然るを古義に癸亥の下に太上天皇と書入れたる一本を信《タノ》みてかの吉野の幸を太上天皇とさだめたるはいみじきひがごとなり【詞の義【ココロ】、歌の解《トキコト》などは強《シヒ》たる説ありても事の害にはならざれどもかゝる事實のうへにつきては猥りに端書を改めなどすまじき事なり】
 
倭爾者鳴而歟來良武《ヤマトニハナキテカクラム》。呼兒鳥象乃中山《ヨブコドリキサノナカヤマ》。呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
倭《ヤマト》は皇郡《ミヤコ》さてはその近き四方《ヨモ》の地《トコロ》をいふ名なること上にいへり。この倭は藤原の京なり。鳴而歟來良武《ナキテカクラム》は鳴而行ランカなり。さるはユクとクとは往來のたがひありてさはかよはし難からんと思ふことなれどこは古義に委しく辨へしが如く皆其行かたを内にしていへるなり。そは卷十二に「湊入之《ミナトイリノ》あしわけ小船|障《サハリ》覇おほみ今來吾《イマコムワレ》をよどむとおもふな」【こは妹が家を内にして其方へ行くをコムとよめるなり】卷十四に「かすみゐるふじのやまびにわが伎奈婆《キナバ》いつちむきてか妹がなげかむ」【こはおのが家を離れて富士の麓に通ふ所のあるに行くをその女の許を内にして來ナバといへるなり。結句の妹は本妻なるべし】卷十五に「家島はくもゐにみえぬあがもへる心なぐやと早く伎弖《キテ》みむとおもひて大船をこぎわがゆけば」【こは家島といふ名をおのが住む家といふにとりなしてそこを内としてハヤク來テといへるにてこの來テ即行クといふに同じきは次句にワガコギユケバとあるにて知べし。されば來も行も同じ意なり】などあるを以て古義の説のさる事なるを知べし○呼子鳥《ヨブコドリ》はいかなる鳥ともたしかに知られず。芳樹云和名抄に喚子鳥、萬葉集云喚子鳥とのみみゆ。【字類抄にもたゞ呼千鳥とのみあり】古今餘材抄には和名抄はもろこしの書を引てその烏の事なりと釋せらるゝが例なるをさもなきは此國にのみある鳥にや。といへり。古人のよめる歌どもにつきて勘ふるに卷八に「よのつねにきくはくるしき喚子鳥こゑなつかしき時にはなりぬ」といふがみえて天平四年三月一日の作なるよし左註にいへり。春の半よりの聲を翫びけんとおもはる。卷八に「神なびのいはせの杜の喚子鳥いたくななきそ吾戀まさる」とあるをみれば物かなしき聲なるべし。卷十に「春日なる羽買の山ゆさほのうちへなきゆくなるはたれ呼子鳥」また「こたへぬになよびとよめそ呼子鳥さほの山へをのぼりくだりに」また「朝霧にしぬゝにぬれで呼子鳥三船の山ゆなきわたるみゆ」また古今集に「をちこちのたつきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥哉」後撰集に「呼子鳥をきゝて隣の家におくり侍ける。春道列樹。わがやどの花になゝきそ呼子鳥呼かひありて君もこなくに」後拾遺【春下】に「法輪に道命法師の侍けるとふらひにまかりわたるに呼子鳥のなき侍ければ。法圓法師。我獨きくものならば呼子鳥ふた聲まではなかせざらまし」これら皆春のうたなり。また卷十にあさかすみ八重山こえて呼孤鳥なきやなが來るやどもあらなくに」は夏歌の中にあり。夫木抄に「みなづきのなこしの山のよふこどりおほぬさにのみ聲のきこゆる」これも夏の歌なり。同惠慶法師「もみぢみてかへらんかたもおぼえぬを呼子鳥さへなく山路かな」秋のうたなり。歌集どもの中に冬によみたるをばいまだみあたらず。かく春のなかばより秋のすゑまで鳴く鳥にて集中なるは端書に呼子鳥を鳴たる〔頭注、校正者云。鳴は聞か〕よしはみえねどこは後世ぶりの題詠ならねばもとより其鳥をしりてよめることいはんも更にで後撰後拾遺なる、夫木抄の惠慶法師のなどは正しく聲を聞きてよめること端書にみゆれば當時《ソノコロ》までは皆人の知たる鳥なるを後世に至てつひに知れる人なくなれるなるべし。また古今餘材抄にある人萬葉集に※[空+鳥]《ヌエ》を奴要子鳥《ヌエコドリ》とよみたればヨブコドリも喚鳥といふ意にて子はそへたる字にや。また萬葉に「ぬえ鳥の喉《ノド》よびをるに」とよめるは喉聲《ノドコヱ》につぶやくやうになくをいへばヨブコ鳥もさるさまなる聲にてなけば名付たる歟。といへり。考別記になくこゑ物をよぶに似たればヨブコドリといふといへるはいかゞ。芳樹は契冲の説の如く喉《ノド》ヨビよりいでゝヨブコドリといふなるべしといへるが然るべからんとおもふなり。またその聲カホオ/\と聞ゆれば集には容鳥ともよみたり。ゐなか人のカツホオ鳥といふ即これなり。カンコ鳥も喚子鳥のよこなまり言なりといへり。これによれば容鳥《カホトリ》も同じものゝごとし。されど容鳥は形體《カホ》のうつくしき鳥の事なりといへるが然るべくさてはいよいよ物をよぶに似たりといふはいかゞなり。カツポウとなくがいかゞは呼ふやうには聞ゆる。こは「ぬえ鳥の喉《ノド》よひをるに」のヨビに同じく呼子鳥も喉聲《ノドコヱ》につぶやくやうになくゆゑ負せし名なることしるし。鶯をヒトクトナクといへど誰が耳にもヒトクとは聞えざるがごとくカツホオとなくを誰かは呼ぶやうには聞とるべき。されば名は物を呼ぶごとく聞なしてつけたるにはあらぬなるべし。されどその聲はこれよりさき東常縁もカツホオ/\となく鳥なりと定めたれば意義はあるべからす。彼鳥の春夏の長き日四方の梢やうやう青みてのどかなるゆふべに物ふかくなきたるはげになにとなくなつかしく聞なさるゝこゑなり。されば春夏をもて此鳥の時節としてまれには秋の末かけて啼おくれたるもあるべし。象乃中山《キサノナカヤマ》は卷三に象乃小川《キサノエオカハ》。卷六に象山《キサヤマ》とあり。秋津の宮近き所なり。今は喜佐谷《キサタニ》といふとぞ○呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》は啼て越るをいふ。鳥の名を呼子鳥といふゆゑに呼《ヨビ》ゾコユナルと詞をかさねてよめるなり○歌意は。呼子鳥の聲なつかしく鳴つゝ象《キサ》の中山《ナカヤマ》を越ゆるは定て倭《ミヤコ》のかたに來るなるらん。おのれは行幸のみともにて汝がしか呼つゝこゆとてもさそはれてかへる事もならぬを。とよめるなり
 
大行天皇《サキノスメラミコト》《イデマセル》2于難波宮(ニ)1時(ノ)歌
 
文武天皇の御事なり。大行とは崩《カムサ》りましていまだ御謚奉らぬ間を申す稱なり。漢書音義に大行(ハ)不在之稱。天子崩未v有2謚號1。故稱2大行1。こゝにかくあるは慶雲四年の六月に天皇崩まして十一月に文武といふ御謚奉りたればその六月ほどの間に前年の幸の時の歌を傳聞たる人のかく録しおきたるをそのまゝに載せしなり。さてこの幸は古義に前に慶雲三年丙午幸2于難波宮1時歌と題せると同度と思はるゝにかく別てしるせるはいかにといふに前なるは當時に聞て書せるなるべく後なるは崩《カムサリ》ましてのち前年の幸の時の歌を聞傳へてしるせるがゆゑにかく大行天皇と別て題せるにやあらん
 
倭戀寐之不所宿爾《ヤマトコヒイノネラエヌニ》。情無此渚崎爾《コヽロナクコノスノサキニ》。多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
倭戀は皇都《ヤマト》をこひ思ひてなり。寐之不所宿《イノネラエヌニ》は卷十五に伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》と假字にかけり。さてイは寐入こと禰《ネ》は寐ることを泛《ヒロ》くいへり。故《カレ》イは體語のみにて用《ハタラ》かず。【朝寐《アサイ》味寐《ウマイ》などこれなり】ネはナともヌともおほく用《ハタラ》けり。【ナス、ヌルなどの類なり】故イヌル、イモネズ、イヲヤスクヌル、イコソネラレネなどいへり○情旡《コヽロナク》は結句につゞけてみるべし。【上の三輪山のうたにも此詞あり】此渚崎《コノスノサキ》は難波宮に近きをいふ。此の字意をつけて見るべし。俗に「ついそこの洲の崎で」といはむがごとし○多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》の多津《タヅ》は鶴《タヅ》なり。【郡留といふと同じ。俗に田鶴とかくは古書になき事なり】ナクベシヤのヤはヤハの意なり○歌意。さらぬだに皇都《ヤマト》の戀しくて宿《ネ》ても寐られぬものをついこゝの近き渚《ス》の崎《サキ》で斟酌《オモヒヤリ》もなく鶴のなくべき事かは。となり。鶴聲は物悲くて旅愁のそはるものなればなり
 
右一首|忍坂部乙麻呂《オサカベオトマロ》
 
玉藻苅奥敝波不榜《タマモカルオキヘハコガジ》。敷妙之枕之邊《シキタヘノマクラノホトリ》。忘可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
玉藻苅《タマモカル》は枕詞なり。奥《オキ》は邊《ヘ》に對《ムカ》へて遙なるかたをいふ。こゝは澳《オキ》のかたへ遠ざかりては榜《コガ》じとなり。奥は澳の省字歟○敷妙《シキタヘ》の敷《シキ》は今も夜|寐《ヌ》とて衾を敷くをフトンヲ敷クといへるこれにて籍《シ》ク布《タヘ》とつゞけて枕とも牀とも夜具におほくいへり○枕之邊《マクラノホトリ》は頭邊をマクラベとよめるに同じく旅宿の近き邊《ホトリ》といふ義なり。【夏目甕麿説に玉藻苅といひ敷妙ノ枕といへるは按ふに敷炒云々は妹と臥す寢牀にて玉藻は必ず沖に生ひ靡くものにて女の髪にたとへていへる歌集中におほし。こゝは旅中の歌なるゆゑ沖に漕出て玉藻のなびくをみれば家なる妹が敷妙の枕に髪をなびかせて寢たる姿のわすられぬよしによめるなりといへるはめづらしき一説なり。と本居豐頴いへり】邊は古義にホトリと訓べし【邊をアタリとよむこと集中例旡し】といへるに從ふ○忘可禰津藻《ワスレカネツモ》の可禰は卷三に停可得《トヾメカネ》。卷十一に有不得《アリマテカシヲ》などある不得の字の意にてこゝは忘れむとすれども忘れ得ざるをいふ○歌意。皆人は沖のかたに漕出て遊ばんといへどもわれは旅宿《タビネ》せし浦のほとりのあかず面白くて忘られねば遙なる沖へはこがじ。浦近き處を乘めぐりて心をやらん。とよめるなり。【上に引ける甕麿の説によれば此解は非なり】こは泛舟の歌なるをたゞ不榜《コガジ》といふ一言もて船に乘たるさまを盡せり。集中に此類多し
 
右一首|式部卿藤原宇合《ノリノツカサノカミフヂハラノウマカヒ》
 
この歌は目録に作主未詳歌とありて其下に式部卿藤原宇合とみえたれど考に此七年は後人のかけるなり。殊に宇合卿は此時まだ童にて御供すべからず。此歌老て聞ゆるをもおもへ。といへり。續紀天平九年八月丙午參議式部卿兼太宰帥正三位藤原朝臣宇合薨とあり。こゝに式部卿と書せるは後を前に廻らしたるなり。齡五十四にて薨ぜられし事懷風藻にあるもて推すに天武天皇の十三年にうまれられたり。此幸慶雲三年なれば廿三歳なり、この時父の史從二位なり。その蔭もて出身すれば二位の庶子なるゆゑに從六位上なるべけれど二十五以上ならでは授位なき令制なればいまだ出身をもせられぬほどにて旡位なりしなるべし。「まだ童にて」と考にいへるも理なり。されば從駕《ミトモ》の列にはあるべからねばこは目録に作主未詳とあるに從ひて宇合の名は削るべし。その後靈龜二年八月に五六位下藤原朝臣馬養爲遣唐副使とあり
 
長皇子御歌
 
吾妹子乎早見濱風《ワギモコヲハヤミハマカゼ》。倭有吾松椿《ヤマトナルアヲマツツバキ》。不吹有勿勤《フカザルナユメ》
 
吾妹子乎早見濱風《ワギモコヲハヤミハマカゼ》は旅より歸りてわきも子を早く見むといふにかけたる枕詞なり。早見濱は津國の地名歟【豐後に速見郡あれば長皇子筑紫に下りてよみ給へりといふ説もあり】○倭有《ヤマトナル》は京都《ヤマト》なる也。吾松椿《アヲマツツバキ》は京都《ヤマト》なる妹が吾《ア》を待といふに庭の松をかけその庭に椿もあるによりて松椿とつゞけ玉へるなり○不吹有勿勤《フカザルナユメ》のユメは考に忌《ユメ》にて物をつゝしむことなり。仍て集中に謹、齋、勤、努力などの字をかけりといへり。物ごとを純《ヒタ》すらにつとめてなすをいふ言なり。字鏡に※[加三つ]【由女々々】とあるも意を加へては勤め意を加へてはつとむるをもて字を造れるものなり。さればフカザルナは朝夕にたゆみなく意を加へて吹け。暫しもふかざる事なかれ。と風に課せてつとめしむるなり○歌意は。考に吾は妹を早くみまく思ひ妹はわれを待らん其間の便とせむに風だにつとめて怠らず吹かよへとよみ玉へり
 
大行天皇《サキノスメラミコトノ》《イデマセル》2于吉野(ノ)宮1時歌、〔頭注、大行天皇《サキノスメラミコトノ》此ノはなき方よき歟〕
 
大行天皇は文武天皇なり。この事はいつの事ともしられがたし。上に慶雲三年九月の難波の幸あればそのおなじ頃の事か。歌のさま秋風をよめるがごとし
 
見吉野乃山下風之《ミヨシヌノヤマノアラシノ》。寒久爾爲當也今夜毛《サムケクニハタヤコヨヒモ》。我獨宿牟《アガヒトリネム》
 
和名抄に孫※[立心偏+面]云。嵐(ハ)山下(ヨリ)出(ル)風也。和名|阿良志《アラシ》とあるによりて山下風とかけり。されど古義は荒風《アラシ》なり。卷十三に荒風とかけり。風をシといふは風神の名を志那都比古《シナツヒコ》といふシまた都牟志《ツムシ》などのシなり【東風《コチ》疾風《ハヤチ》などのチもおなじ】○寒久爾《サムケクニ》は寒クアルニの意なり。後世言にて寒支爾《サムケキニ》といふとはいさゝか意かはれり。そは卷四に「たくなはの永き命を欲苦波《ホシケクハ》たえずて人をみまくほりこそ」【こは永き命をほしけくおもふはの意なりこれをホシケキといふときは命ヲのヲをノとせざればかなはず】といふ歌も三句をホシケキハとしては調はず。また卷九長歌に「筑波嶺の吉久乎《ヨケクヲ》みれば」【こは吉ケクアルニの意に寒ケクニとおなじ】爲當は古義云。欽明紀に於是許勢臣問2王子惠1曰。爲當《ハタ》欲(ルカ)v留2此間(ニ)1。爲當《ハタ》欲(ルカ)v向(ント)2本郷(ニ)1また後紀の詔に常(ノ)政有(レ)v闕(ルコト)波可《バカ》。爲當《ハタ》神道有(レ)v妨(コト)波可《バカ》。職員令集解穴云。問此司寫書以下造墨以上|爲當《ハタ》司(ノ)設(ケ)歟。爲當《ハタ》分2給諸司1歟などみえたるはマタといふに近し。【此字漢籍にて左傳疏にみえたり】されど集中に用たるは爲當の字ハタと訓たるゆゑに言の同きを以て借ては書たれど意は異なり。集中にハタとよめる言義は眞淵云。爲當也とかきしは今夜も果して獨寐むやてふ意を得て書たるなり。故に古より此三字をハタヤと訓つ。然ればハタは果しててふ言ぞとすめり。常にハタト當ルといふは行はてゝ物に當る事にて終ニといふに近し。さてその果シテを本にてさしあたる事にも打つけてふ事にもいへり。これによりて星野千之といふ者この言を委しく解けり。その説に云。ハタは萬葉に爲當《ハタ》また將《ハタ》とかきて殆《ホド/\》の今一際進みたる言とせり。殆は字書に危也、近也、將也と注して何れも其物其事に甚《イト》近く危きをいふ。譬へば狂人の白刃をうちふりてわが鬢髪をかすりてほと/\疵をうけむとするが危也近也將也。その一際すゝみたるは災ひ遁るゝによしなく礑《ハタ》と行詰りたりと云べし。その礑《ハタ》は字書に底也と見えて是も行詰りたる意あればハタの言に當しなるべし。【爲當《ハタ》は已然|將《ハタ》は未然の意ありて文字の異なるにや】さてハタの言義は物と物と打合ひたる音より起りたるにて今も物の音をハタハタともバツタリともいふは其音によりてなり。されば殆《ホト/\》なども物の音より起りたるにて拾遺集「宮造るひだの工のてをのおとほど/\しかるめをもみしかな」といへる歌も斧の音のほと/\を以て「ほと/\危ふかるめをみし」といふにかけたり。此外物たゝくおとをほと/\といふもみな其音のほと/\と耳に聞ゆればなり。ハタもハタ/\もバツタリも殆《ホト/\》と同じくみなその音より出たるなりけり。音は物と物と迫りて聲たつるものなればそのハタを物の迫りたる詞と定めたるなるべし。といへる眞淵の解けるに合《カナ》へりとおもはる。集中卷六に「さをしかのなくなる山をこえゆかん日だにや君に當《ハタ》あはざらん」十一に「人事のしげき間もりてあへりとも八反《ハタ》吾うへに事のしげゝん」十五に「いのちあらばあふこともあらんわがゆゑは波太《ハタ》なおもひそいのちだにへば」十八に「たごのさきこのくれしげにほとゝぎす來なきとよまば波太《ハタ》こひめやも」古今集「ほとゝぎすはつ聲きけばあぢきなくぬしさだまらぬ戀せらるはた」などみなおなじ意なれば上にいへる言義によりてこれを解くべし
 
右一首|或云天皇御製歌《アルヒトノイハクスメラミコトノオホミウタナリ》
 
天皇は大行天皇にて文武の御事なり。考云。難波吉野などへの幸は御心すさびの爲なる事上のうたにもみゆ。然るにいかで此歌の如くなげき玉ふ事あらんといへり
 
宇治間山朝風寒之《ウチマヤマアサカゼサムシ》。旅爾師手衣應借《タビニシテコロモカスベキ》。妹毛有勿久爾《イモヽアラナクニ》
 
宇治間山は大和志云。在2吉野郡池田千俣村1○京にては妹にわかるゝ朝など寒ければ妹が衣をわれにかして着さすることもあるを旅にしてさる妹もあらぬをと歎けるなり。女の衣を男に借して着すること卷十四に「人づまとあぜかそをいはん然らばか隣の伎奴乎可里※[氏/一]伎奈波毛《キヌヲカリテキナハモ》」また大和物語に「をとこ女のきぬをかりきて今のつまのがりいきて」云々○娘毛有勿久爾《イモヽアラナクニ》のモはさる妹だにもの意、ナクニはヌニを延たるにてさる妹だにもあらば寒さも凌がるべきにさやうの妹もあらぬ物をといへるなり
 
右一首|長屋王《ナガヤノオホキミ》
 
續紀慶雲元年正月癸巳无位長屋王授2正四位上1【選敍令に凡蔭2皇親1者親王子從四位下とあり。此王は高市親王の子にておはしませば親王の子なるを以て出身の位は從四位下となるべきを无位よりたゞちに正四位上になり玉へるは御幼稚のほどより寄《ヨ》せ重くおはしゝ事しるべし】その後和銅二年に從三位にて宮内卿、三年に式部卿に轉り益2封百戸1その後正三位、養老二年に大納言。五年に從二位を授けて右大臣に任《マ》け玉ひ。神龜元年に正二位左大臣になり玉へり。かくの如く昇進とゞこほりなくすゝみしかばそねみ惡まれ玉ひて天平元年二月に漆部造君足、中臣宮處連東人といふ小人事王私(ニ)學2左道1欲v傾2國家1といふ事を密告せり。【これを大日本史に讃曰と書せり】こゝに於て同月癸酉令2王(ヲシテ)自盡1。其室二品吉備内親王、男膳夫王、桑田王、葛木王、釣取王等同亦自縊。乃※[のごめ/必]捉2家内人等1禁2著於左右衛士兵衛等府1〔頭注、※[のごめ/必]當作悉〕。甲戌遣v使葬2長屋王吉備内親王屍於生馬山1。仍勅曰。吉備内親王者旡v罪。宜2准v例送葬1。唯停2鼓吹1。長屋王者依v犯伏v誅。妹v准2罪人1莫v醜2其葬1とみえてその二日三日過て下毛野宿奈麿等七人王に交通せしに坐せられて流罪にあへり。【おもふに此時すでに聖武天皇の御代にて外戚藤原氏威權を恣にせしほどなれば此王の聰明なるを惡みてかゝる大獄を構へ興せるなるべし。そはいと事長ければ別にいふべし。さてかの讒奏せし東人は後に王の恩遇を蒙りし大伴子蟲と圍碁の席にて王の事をかたり出。子蟲憤怒に堪へず劍を拔てこれを斬たり】かくて同紀寶龜五年十二月丁亥正三位圓方王薨。平城朝左大臣從一位長屋王之女也とあるによれば後に罪旡事あらはれて從一位を贈らせ玉へるなるべし
 
和銅|元年戊申天皇御製歌《ハジメノトシノツチノエサルスメラミコトノオホミウタ》
 
和銅の上に寧樂宮御宇天皇代の標あるべきなり。此天皇は天津御代豐國成姫天皇にて後に元明と申奉れり。小名は阿閉皇女といへり。天智天皇の第四女なり。日並知皇子尊に適《ミアヒ》まして文武天皇を生玉へり。慶雲四年六月に文武崩りましゝかば七月に御位に即せ玉へり。かくて續紀和銅三年三月辛酉始遷2都于平城1と見えたればこの御製は和銅元年なればいまだ寧樂宮は旡かりしかばこゝにもと寧樂宮御宇天皇代の標ありては後人の惑ひにもなりぬべしとて等閑に削りしにやあらん
〔頭注、寧樂宮云々の標あるべしとの説一わたり謂れたるが如くなれど尚按ふに寧樂宮は此の集撰べる當時《ソノトキ》の皇都にて元明より光仁まで、七代此の宮に坐しかば上の大津藤原などの體裁には標しがたき歟。殊に元明より以後は年號ありて其の時代おのづから明らかなれば原より御代の標は記さゞりしにもあるべき歟。尚可考。】
 
大夫之鞆乃音爲奈利《マスラヲノトモノオトスナリ》。物部乃大臣《モノヽフノホマヘツギミ》。楯立良思毛《タテタツラシモ》
 
大夫《マスラヲ》は兵士なり。鞆は名義抄に鞆【未詳とも】とみゆ。未詳といへるは此字|此間《こヽ》にて造れる字なるゆゑにトモと訓み來りはすれどそ義詳ならぬよしにて未詳とは書《シル》しゝなるべし。されど紀に伊都之|竹鞆《タカトモ》【竹は高の借字】大神宮儀式帳に弓矢|鞆音不聞國《トモノトキコエヌクニ》。延喜式に鞆などみえ此外にも諸書に載せたれば未詳とはいふべきにあらず。記傳に師云。鞆は射《ユミイ》るに左臂に着る物にして形は吉部秘訓抄にも見え着たる樣は古畫にみゆといへり。さて此は何の料に着るぞといふに古歌などにも鞆にはみな音をいへるを思へば此物に弓絃《ユヅル》の觸《フレ》て鳴る音を高からしめむ爲なり。音をもて威《オド》すことかの鳴鏑《ナリカブラ》なども同じ。されば言義は音物《オトモノ》の省かりたるなるべし。【オを略く常にて物のノを略くは作物所をツクモトコロといふ類なり】とあり。和名抄に※[旱+皮]【和名|止毛《トモ》。楊氏漢語抄日本紀等用2鞆字1】在v臂避v弦具也といへるは以v皮※[旱+皮]v臂といへる字書の説によりてかけるにて此間《コナタ》の鞆にはかなはぬなり。されば鞆は此間にて作れる字なり。支那の字にあてんには※[旱+皮]なるべけれどその用ゐる〔頭注、用は用ゐ用う用うる用うれと活くべき歟率ゐ率う率うる率うれと同格なるべし 校正者云。率は一段〕さまは音をむねとしたるなれば※[旱+皮]字にはかなはぬをや○物部《モノヽフ》は上にいへる如く武藝《タケキワザ》もて仕奉る士の稱なり。大臣《オホマヘツギミ》は大前津公《オホマヘツキミ》にて天皇の御前《オマヘ》に候《サフラ》ふ公《キミ》といふことなり。されば後世左右の大臣のみをオホマヘツギミといふとは異にてこゝは官軍の大將といはんがごとし○楯の名義は敵より射る箭を防がむとて前にたつるものなればタテといふ。和名抄に楯一名※[木+滷の旁]。和名|太天《タテ》とあり。二句に鞆《トモ》ノオトスナリとあるは軍の調練の鞆のひゞきの御殿まで聞ゆるをのたまへるなり。結句に楯立良思毛《タテタツラシモ》とあるは楯|立《タテ》並ぶる事はきこえぬゆゑに鞆のおとにつきて楯を立る事をもそらにしろしめせるゆゑにラシシとのたまへるなり。ラシは俗にソウナといふに同じ○歌意は。武夫らが弓弦《ユヅル》のおとの鞆にふれてひゞくは大將軍が楯をつきならべさせて調練をするならしとよみたまへるなり。續記の和銅二年三月壬戌の件に陸奥越後の蝦夷等叛きしかば國々の軍兵を徴發《メ》し左大辨巨勢麻呂を陸奥鎭東將軍とし民部大輔佐伯石湯を征越後蝦夷將軍とし路をわけて討しめ玉へり。この蝦夷等が叛けること早く元年の冬朝廷に聞えしかば兵卒に調練せしめ玉ひしなるべし。考云。此御時みちのく越後の蝦夷《エミジ》らが叛きぬれば討手の使を遣さる。その御軍の手ならしあるに鞆のおとなどのかしましきを聞しめして御位のはじめに事あるを歎きおもほす御心よりかくはよましゝなるべし。此御うたにさる事までは聞えねど次の御こたへ歌と合せてしるきなり
 
御名部皇女奉和御歌《ミナヘノヒメミコノコタヘマツレルミウタ》
 
御名部皇女は天皇の御はらからの御姉なり。天智紀に次有3遠智娘弟1。生2御名部皇女(ト)與2阿部皇女1。續紀慶雲元年正月壬寅詔2御名部内親王1益2封一百戸1
 
吾大王物莫御念《アガオホキミモノナオモホシ》。須賣神乃嗣而賜流《スメカミノツギテタマヘル》。吾莫勿久爾《アレナケナクニ》
 
物莫御念《モノナオモホシ》は物ナオモホシソのソもじを省けるにて記に沼河日賣の阿夜爾那古斐伎許志《アヤニナコヒキコシ》とあるこれナコヒキコシソなり。かゝる類例多し○須賣神《スメカミ》は皇御祖神《スメミオヤカミ》の省かりたるにてことに高皇産靈、神皇産靈の二神をさし奉れるなり。さるは御代々の天皇もみなこの神の産靈《ムスビ》によりて生させ玉へれば皇神の御議《ミハカラヒ》にて皇統《ミチスヂ》の御子《ミコ》を繼々《ツギ/\》に生し出しめ天皇《スメラミコト》となし天皇ならぬ皇子皇女たちをば天皇に玉ひて輔翼《タスケ》となさしめ玉ふをもて嗣而賜流《ツギテタマヘル》とはのたまへるなり○吾莫勿久爾《アレナケナクニ》ナケは莫《ナ》カラム、莫《ナ》ケムといふに同じくてこゝは俗に吾ナカラウカといふ意にて吾アルモノヲとなるなり。御歌の意は芳樹云。吾天皇《アガオホキミ》よ。東北のかたほとりなる夷《エビス》どもが背きたりとてさのみそれにつきてあぢきなきものなおもひたまひそ。須賣神の産靈《ムスビ》によりて君を生《アレ》しめて御位を繼《ツガ》せ吾を生しめてその御位にます君の輔翼《タスケ》となし玉へれば吾たをやめながらも君をたすけて出陣する將卒どもをすゝめ面《オモ》むかしめん。さらば君の御徳澤《ミウツクシミ》によりてこたびの役勝むこと疑ひ侍らじ。吾がなくばこそ、吾しあれば、とのたまへるなり。さるは一首の語氣ほこらしげに聞えてひとわたりのうちぎきは女の御和歌《オンコタヘウタ》には自負に過たるやうに思はるゝまゝに結句の吾は君の誤ならんなどの説もあれど天皇御代の初に【慶雲四年七月に位に即せ玉ひて翌年に蝦夷の亂あり】蝦夷の亂あることを深く憂へ玉へるを御名部皇女は天皇と御はらからの御姉にて君臣の分《ワカチ》ありといへども親昵の情厚ければ慰めむとてわざとかく吾ナケナクニなどうけばりたるさまに嗚呼《ヲコ》しくのたまひて天皇の御鬱念をはるけ玉ふべくものしたまへるものなり
 
和銅(ノ)三年《ミトセトイフトシ》庚戌春三月《カノエイヌノヤヨヒ》《ヨリ》2藤原宮《フヂハラノミヤ》1遷2于《ウツリマセル》寧樂宮《ナラノミヤニ》1時《トキ》御輿《ミコシヲ》《トヾメテ》2長屋原《ナカヤノハラニ》1※[しんにょう+向]2望《カヘリミタマヒテ》古郷《フルサトヲ》1御作歌《ヨミマセルミウタ》【一書云太上天皇御製】
 
三月は續紀に和銅三年三月辛酉始遷2都于平城1とあるをもて版本は二月とあれど改めたり。宣長云。一書に太上天皇といへるは持統の御事にて文武の御代の人の書る詞なり。さるは持統の飛鳥より藤原へうつり玉へる時の御製とせるなりけり。また和銅云々の詞につきていはゞ和銅のころは持統天皇は崩《カムサ》り玉へれど文武の御時に申しならへるまゝになほ太上天皇とかけるなり。此歌のさまをおもふにまことに飛鳥より藤原宮へうつり玉ふ時の御うたなるべし。然るを和銅三年云々といへるは傳の誤なるべしといへり
 
飛鳥明日香能里乎《トブトリノアスカノサトヲ》。置而伊奈婆君之當者《オキテイナバキミガアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》〔頭注、一云君之當乎不見而香毛安良武 此註あり〕
 
飛鳥《トブトリ》は枕詞なり。冠辭考云。アスカてふ鳥の名を明日香の地に云かけてトブトリとは記しなるべし。そは白鳥の鷺阪《サキサカ》山、天飛《アマトブ》や輕路池《カリヂノイケ》などつゝけたる類なり。さるを古義には飛鳥の足輕《アスカ》といふことにて神の鎭座を宇志波久《ウシハク》と云を遷却崇神祝詞〔頭注、校正者云。崇は祟か〕には宇須波伎《ウスハキ》と云。和名抄に鹿尾菜【比須木毛《ヒズキモ》】を伊勢物語にはヒシキモとありてシとスとかくのごとく通はせり。さて正しく足をアスといへるは和名砂越前國足羽また越後國沼垂郡足羽などみな安須羽《アスハ》と註せり。輕をカとのみいふは和名抄近江愛知郡蚊野とありで神名式同郡に輕野神社あるなど輕をカとのみ云し證なり。といへる【古義にはいと委しく書《シル》せるをこゝはいたく省きものしつ】共に棄がたければならべ載せつ。【飛鳥の字をやがてアスカともよむはカスガを春日ととかく如くいひなれたる枕詞の字を以てその地名の字となせるものなり】明日香能里乎《アスカノサトヲ》は藤原より寧樂への端書によらで明日香より藤原にうつりましゝ時の大御歌とすべL○置而伊奈婆《オキテイナバ》の置は上の人麿の長歌に倭乎置《ヤマトヲオキテ》とある置に同じく明日香の里を棄置て藤原へいなばの意なり。君之當《キミガアタリ》の君は誰ともしられねど皇族の内にて親しくおはしめす御方の藤原〔頭注、校正者云。藤原は明日香か〕にのこり留まり玉へるがあるをさしてのたまへるなるべし○御歌意は。明日香を棄置て藤原にうつらむとするにこの長屋原よりはなほ古郷の※[しんにょう+向]かにみゆるをこゝをすぎてはいよ/\遠ざかりて古郷にのこりゐる君があたりもみえずなりなんとのたまへるなり
 
或本|從《ヨリ》2藤原(ノ)京《ミヤコ》1遷2于《ウツリマセル》寧樂宮《ナラノミヤニ》1時歌《トキノウタ》
 
或本の二字一本にはなくて或本にあればかくしるせるならんと略解にいへり
 
天皇乃御命畏美《オホキミノミコトカシコミ》。柔備爾之家乎擇《ニギビニシイヘヲステヽ》。隱國乃泊瀬乃川爾《コモリクノハツセノカハニ》。※[舟+共]浮而吾行河乃《フネウケテワガユクカハノ》。川隈之八十阿不落《カハクマノヤソクマオチズ》。萬段顧爲乍《ヨロヅタビカヘリミシツヽ》。玉桙乃道行晩《タマボコノミチユキクラシ》。青丹吉楢乃京師乃《アヲニヨシナラノミヤコノ》。佐保川爾伊去至而《サホガハニイユキイタリテ》。我宿有衣乃上從《ワガイネシアリソノウヘユ》。朝月夜清爾見者《アサヅクヨサヤカニミレバ》。栲乃穗爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》。磐床等川之氷凝冷夜乎息言無久《イハトコトカハノヒコホリサムキヨヲイコフコトナク》。通乍家爾《カヨヒツヽツクレルイヘニ》。千代二手來座牟公與《チヨマデニイマサムキミト》。吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
天皇乃はオホギミノと訓べし〔頭注、おほぎみキをにごること予未だ其據を詳にせず】。さるは此處當今天皇の御うへのみをさして申せる語なればスメロギとは申まじき理にてこのよし既く【過近江荒都歌】いへり。されば集中の例おほきみには卷三に玉《オホキミ》、卷六卷九卷十七卷十八卷二十に大王《オホキミ》。また卷三に大皇《オホキミ》とみえ假字にかけるは卷十四、十五、十七、廿に於保伎美《オホキミ》また卷廿に意保伎美《オホキミ》、十七に憶保枳美《オホキミ》また於保吉民《オホキミ》と見えて天皇の字をオホキミと訓までは合ひ難きはたゞこゝと卷六に天皇之行幸之隨《オホキミノイデマシノマニ》。卷十三に天皇之遣之萬々《オホキミノマケノマニ/\》の三度のみなり。既に其證三處もあれば天皇の天を大の誤ならんと古義にいへるは泥めるなり。天皇即オホキミ、オホキミ即天皇なれば天皇の字オホキミと訓たらんも何のことかあらむ。御命畏美《ミコトカシコミ》はおほ君の勅命をかしこまり奉ての意なり【考云。上代より天皇を恐み奉るが此御國の道なるゆゑ此言集中にも他書にもおほきなり。おほかたに見過すことなかれ〔頭注、考の一言道の大體を盡せり可v貴〕】○柔備爾之《ニギビニシ》の柔《ニギ》は柔和《ニギヤカ》なる意、ビは活用《ハタラ》く言なり。【荒備《アラビ》疎備《ウトビ》などのビもおなじ】卷三に「丹杵火爾之《ニキヒニシ》家ゆも出て」續紀詔に其人等乃和備安美應爲久相言部《カノヒトラノニギミヤスミスベクアヒイヘ》などみゆ。家乎擇《イヘヲステ》〔頭注、擇、略解サカリテと訓り。もと放なりけんを擇の略択と書しを見あやまれるならむと云り 校正者云。家乎擇はのははのか〕の家は藤原にある家なり○隱國乃は泊瀬にかゝる枕詞なり○※[舟+共]は和名抄に釋名曰。艇小而深者曰v※[舟+共]。今按太加世。世俗用2高瀬舟1とありてタカセは川を通ふ小舟なり。故に※[舟+共]字をかけり【新古今集に「たかせさすむつだのよどの楊原みどりもふかく霞む春かな」とあるタカセが即この舟なり】○川隈《カハクマ》は上に道隈《ミチノクマ》といへるに同じく川の曲りたる處をいふ。仁徳紀に箇波區莽《カハクマ》とあり。八十隈不落《ヤソクマオチズ》の八十《ヤソ》は川の隈の多かるをいひておのづから川路の遠きさまを思はせたるなり。不落《オチズ》は漏サズの意なり○萬段顧爲乍《ヨロヅタビカヘリミシツヽ》の萬《ヨロヅ》も上の八十に同じく共に數のおほきことにてそのおほき川隈を舟のまはる度ごとにいつも/\故郷のかたをかへりみるよしなり○玉桙乃《タマホコノ》は道の枕詞なり。芳樹勘ふるに玉桙は伊弉諾伊弉册二柱の天神より玉はり玉へる天の瓊矛にて瓊は玉なれば玉桙といへるなり。かくてこの玉桙は天神《アマツカミ》の御靈《ミタマ》にしてこの御靈《ミタマ》の奇妙《クシビ》なる神業《カムワザ》によりて國も産《ウマ》れ人も産れしいと尊きものにしあれば道につゞけたるなり。されば道とは御血《ミチ》の義にて天孫《スメミマ》の御血統《オホミチスヂ》百億萬年を經て絶ることなきをさせる言ながらその根本は二神の瓊矛を國中の柱としこをめぐりて交合《ミトノマグハヒ》し玉ひ御子を産み。玉へるに興れるなりけり〔頭注、玉桙の道とつゞくるの釋感伏々々〕。【故夫婦の道を道の原始《ハジメ》とす。これ伊弉諾伊弉册二神の交合《マグハヒ》し玉へる御血《ミチ》なり。此よし標注令義解校本に委しくいへり。冠辭考竝に古義などの説は尋常《オホカタ》の枕詞とみなして解けるゆゑに共にあやまれり】さて道行晩《ミチユキクラシ》は略解云。此川三輪にては三輪川ともいへど其始初潮なるゆゑにかくいへるにて未は廣瀬の河合にて落あふなればそこまで舟にて下りて河合より廣瀬川をさかのぼりて佐保川まで引のぼるなりといへるが如く廣瀬の河合までは※[木+〓]夫らが船のうへにて棹さしつゝ下りしが廣瀬川をさかのぼるに至て陸に下りて川邊の堤を綱もて引上るゆゑに道行晩《ミチユキクラシ》といへるなればこの道は川路の路にはあらで堤上の道なり○佐保川爾伊去至而《サホガハニイユキイタリテ》の伊は發語なり。かの堤傳ひに道を行きくらして佐保川に行至りそのまゝそこの汀に廬《イホリ》して寢たるなり【この汀に寐たるはむねとは此歌をよめる人その主人の家族などにて※[木+〓]夫らの類は汀上におりず舟にゐたるなるべし。さるはその舟いと小ささ※[舟+共]《タカセ》なれば乘て來《コ》し人みな舟に寐らるべきにあらねば川のありそに廬入《イホリ》せんことさもあるべし】○我宿有衣乃上從《ワガイネシアリソノウヘユ》の我はこの歌よめる舟のあるじの自ら我といへるなり。夜に入て佐保川に至れるゆゑ其夜は其處の川の荒磯に宿《ネ》たるなり。この二句舊くより我宿有衣乃上從《ワガネタルコロモノウヘユ》と訓み來りて強く〔頭注、校正者云。強くは強てか〕説をなせれども快く通《キコ》えたりといふにもあらぬを本居豐頴がいへる。紀人上野常朝といふ者の考に我宿有衣乃上從《ワガイネシアリソノウヘユ》と訓て即佐保川の汀をアリソといへるものなり。といへるかく訓むときはよく通《キコ》ゆ〔頭注、有衣乃上《アリソノウヘ》此説おもしろし尤可v從〕【考に衣を牀の誤とせしも衣にては聞えがたきゆゑなり。されどもとより非なるを常明が説はさることなり。アリソといへるは卷二に島之荒磯とあるは勾池の中島の荒磯なり。これに准て知るべし】○朝月夜《アサヅクヨ》は朝までのこりてある月なり。その殘月の實景をやがて清《サヤカ》の枕詞にとりなせり。清爾見者《サヤカニミレバ》のこれる月かげをありその廬《カリホ》より頭をあげてみるよしなり○栲乃穗爾《タヘノホニ》のタヘは白布のことなり。ホは秀《ホ》にて物の色のそれと顯れてみゆるをいふ。さてこは上にみえたる衣にてその衣は何色にもあれ霜のいたく降て栲《タヘ》のごとくにいと白く朝月夜に映《ハエ》てみゆるを穗《ホ》にといへるなり。【タヘの義は冠辭考に委し】夜之霜落《ヨルノシモフリ》は霜は朝もふり夕にもふるものゆゑことに夜の霜といへるなり。上に朝月夜とあるは目覺て起たる曉のこと、こゝに夜之霜といへるはいまだ臥て居る夜のほどのことなり。朝月夜と霜といとよくいひわかてり○磐牀等《イハトコト》は河氷|凝《コリ》て磐牀《イハトコ》となれるなり。床は常磐《トコトハ》などの床《トコ》にて堅きことなり。【俗言に今もいへり】川之氷凝《カハノヒコホリ》は古義にカハノヒコホリとよめるに從ふべし。氷を直にコホリといふは古今集「谷風にとくるこはりのひまごとに」とよめるなどや始ならん。卷二十に佐保河波爾許保里和多禮流宇須良婢乃《サホカハニコホリワタレルウスラヒノ》とある三句ウスラヒは薄氷《ウスラヒ》にて體言、コホリワタレルのコホリはふるくはコホリ、コホルなどゝ用言にのみいへれば氷の名はヒなり、ウスラヒといへるこれなり。凝は考、略解等みなコヽリとよめれど古義に上にひける卷二十の歌によりてコホリとよみたるがよし○冷夜乎はサムキヨヲと訓べし。此ヲはモノヲの意なり。息言無久《イコフコトナク》は考、略解等イコフと訓めり。字鏡に※[息+舌]、※[立心偏+曷]、※[食+旡]、三形同、却※[蠣の旁]反、息也、止也、伊已不。また字類抄には、息字其外くさ/”\の字を載せてイコフ、また名義抄にも※[息+舌]、※[舌+息]等をヤスム、イコフと訓《ヨマ》せたり。言は借字《カナ》。事なり。○通乍《カヨヒツヽ》は藤原の舊都より奈良の新京に通ひつゝなり。乍《ツヽ》の言にて幾度も通へるさまみえたる。作家爾《ツクレルイヘニ》この家主は何人にか知られざれとも公《キミ》とさしたる人これなり○千代二手來《チヨマデニ》の來は爾の誤なることしるし。座牟公與《イマサムキミト》の牟は版本多に作れゝど古本に據《ヨリ》て牟に改つ。吾毛通武《ワレモカヨハム》は主人《アルジ》の千代座《チヨマ》すやどなれば吾も千代まで通むの意なり○歌意は。初めに天皇の勅命を畏み奉りて久しく住なれし家を擇《ステ》。泊瀬川より遠く船路を下り。のぼりて佐保川に至り霜氷の寒き夜をもいとはずたび/\この船路をかよひつゝ造れる家に公は千代までおはしますべければ吾も常にかよひ來侍《キハベ》らんとよめるなり。かゝれば此歌をよめる人は貴人の造營の事に關係《アヅカ》りていたづきし人なるがみづからはいづくにまれ都をはなれて住るゆゑにワレモ通ハンと云るならん
 
反歌《ミジカウタ》
 
青丹吉寧樂乃家爾者《アヲニヨシナラノイヘニハ》。萬代爾吾母將通《ヨロヅヨニワレモカヨハム》。忘跡念勿《ワスルトモフナ》
 
二句にニハの辭《テニヲハ》をおけるいさゝか聞えがたきをこは外方に向へて他方の家にはゆかずとも君のます奈良の家にはの意なるべし○萬代ニは長歌に千代とあるに同じ。千も萬もたゞ久しきをいふ詞にては〔頭注、校正者云。詞にてはのは文字衍歟〕數の多少をばはからず。されば寧樂の家は萬代に君のますべき家なればわれも變《カハ》らず通はむ。たとへ久しき月日をへても忘れはし侍らねばわれきみをわすれやせんとおもひたまふことなかれ。といへるなり。舊くはオモフナをモフナといへり。延喜六年の日本紀竟宴に波志米度母弊波《ハシメトモヘバ》また土佐日紀に「いのりくるかざ間ともふを」と見えて當時までもなほいひたりき
 
右歌|作主未詳《ヨミビトシラズ》
 
和銅(ノ)五年壬子夏四月《イツトセトイフトシミツノエネノウヅキ》《ツカハサルヽ》2長田王于伊勢齊宮《ナガタノオホキミヲイセノイツキノミヤニ》1時《トキ》山邊御井作歌《ヤマノヘノミヰニテヨミマセルウタ》
 
長田王は續紀天平九年六月辛酉散位正四位下長田王卒と見えて無官なれどもこれよりさき衛門督攝津大夫等を經られたり。三代實録の貞觀元年十月に廣井女王者二品長親王之後也。曾祖二世從四位上長田王云々と見えたれば長親王の御子なり〇齊宮の齊は齋と通はし用ゐたり。大神の鎭り坐す宮をも齋宮といへること垂仁紀に興2宮于五十鈴川上1是謂2磯宮1【此イソもイスヾの義なるべし】とあるこれなり。また齋王の坐す宮をも齋宮といへり。古語拾遺に※[さんずい+自]2卷向(ノ)玉城朝1令3皇女倭姫命(ノ)奉2齋天照大神1【中略】因興2齋宮1令2倭姫命(ヲ)居1焉とあり。この端書なる齋宮は齋王のます宮のことなり
 
山邊乃御井乎見我底利《ヤマベノミヰヲミガテリ》。神風乃伊勢處女等《カムカゼノイセヲトメドモ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
考、略解にヤマノベノと訓るはわろし。今も東海道石藥師驛の東のかたに山邊村ありて御井の跡のこれりといへり。【東海道名所圖會にこゝは歌仙赤人の棲所と云。里の傍に赤人の硯水に汲れし清泉あり。貝原篤信吾嬬紀行に近き年までは禁裏より毎春試筆の硯水に汲み運ばせられしとなりといへり。とあるが此水なるべし。神名式に鈴鹿郡大井神社二座とあるはこの御井によしある神にはあらざるか。考べし】見我※[氏/一]利《ミガテリ》は見ガテラに同じ。卷七に向舟片待香光《ムカヘブネカタマチガテリ》。卷十七に秋田乃穗牟伎見我底利《アキタノホムキミガテリ》など皆同じく事のそはるをいふ詞にて此うたにては御井をみるが主にてそれにそはりて處女をみたるよしなり。またガテラといふ詞も既《ハヤ》くよりあり。卷十八に「君が使を可多麻知我底良《カタマチガテラ》」十九に「わきもこが可多見我底良《カタミガテラ》」古今集に「花みがてら」などみえてガテリにおなじ○神風乃《カムカゼノ》は伊勢の枕詞なり。記に加牟加是能伊勢能宇美能《カムカゼノイセノウミノ》【紀にもみえたり】とありて集中にも所々に見えたり。冠辭考にこは神風ノ息といふべきを略きてイの一語にいひかけたるなり。といへるを宜長もうべなへり。古義には二説あるがうちに伊勢とうけたる意はイスケシといふなるべし【イスケはイセと約る】記に其美人驚而立走|伊須々伎伎《イスヽキヽ》また亦名謂2比賣多々良伊須氣余理比賣《ヒメタヽライスケヨリヒメ》1と見えてイスヽキ、イスケはもはら同音にて物の平穩ならずいみじきを云言なり。さて神風とは卷二に「渡會の斎《イツキノ》宮ゆ神風爾いぶきまどはし」云々とある如く尋常《ヨノツネ》の風とたがひて平穩ならずいみじく烈しく吹風をいふことなれば神風のイスケシと云かけたるなるべし、といへり○伊勢處女等《イセヲトメドモ》は此國の少女にて容貌《カホ》すぐれし美女なるべし。地名をもて某處女と呼ぶは泊瀬處女《ハツセヲトメ》、菟原娘子《ウハラヲトメ》、可刀利娘子《カトリヲトメ》、古波陀娘子《コハタヲトメ》などのごとし。さてこゝに等《トモ》とあれば少女|數《カズ》多《オホ》かるやうにおもはるれど一人のうへにもいふ言なり、【妹等《イモラ》などいふヲも同じ】○歌意は.山邊の御井を見むとて來つるにおもひもかけず、伊勢處女《イセヲトメ》どもをもあひみつるかなとよめるなり
 
浦佐夫流情佐麻禰之《ウラサブルコヽロサマネシ》。久竪乃天之四具禮能《ヒサカタノアメノシグレノ》。流相見者《ナガラフミレバ》
 
浦佐夫流の浦は借字にて心《ウラ》なり。心の裏《ウチ》のさぶるよしなり。サブルは進《スサ》ブルにて寂莫《サビ》しきかたにすゝむをいふ【上に浦佐備而《ウラサビテ》の處にいへり】○情佐麻禰之《コヽロサマネシ》のサは發語にて筵をサムシロと云ひ、牡鹿《ヲシカ》をサヲシカといふ類なり。さてマネシは物の多きこと繁きことなり。【アマネシといふマネシもおなじ】卷十七に「たまほこの道にいでたちわかれなば見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》こひしけむかも」卷十八に「月かさね美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》こふる空やすくしあらねば」などこゝのサマネシに同じ○久堅乃《ヒサカタノ》は天の枕詞なり。言義は荒木田久老が日刺方《ヒサカタ》なりといへるがやすらかにて聞えたり。天之四具禮能《アメノシグレノ》は空ノシグレといふに同じ○流相《ナガラフ》は流《ナガ》ルをのべたる言ながらナガラフといへばその流るゝことの絶ぬさまにてこゝは時雨のしばしふることにはあらで引つゞき絶ず降るをいふなり。【散ルをチラフ、霧《キ》るをキラフ、語ルをカタラフなどの類なり】さて流相とかけるはナカレアフのレアの約ラなれば借てかけるなり。かく雨雪にナガルといふも古言に例ありて集中にみえたり○歌意は。しぐれのたえずふるをみればいとゞ寂しとおもふ心がしげくなりぬとよみたまへるなり。端書に四月とあれば時雨のをりにもあらで四方の梢の緑にけふりつゝ旅中といへども心のうきたつころなればかゝる歌よみ給ふべきにあらず。さればこは山邊の御井の歌と同じ時のにはあらで伊勢に久しくとゞまりたまひて秋冬の際によみ玉へるか、または次なる立田山の歌の如く異所にての歌ならん歟
 
海底奥津白波《ワタノソコオキツシラナミ》。立田山何時鹿越奈武《タツタヤマイツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》
 
上二句は立《タツ》をいはむとての序なり。さて此初句ワタノ原といひてもあしからぬを殊に海底《ワタノソコ》と底《ソコ》ふ言を用ゐしは古義云。奥《オキ》にかけんとてなり。卷五に和多能曾許意枳都布可延《ワタノソコオキツフカエ》といへるを思ふべし。底《ソコ》はオクにかよひて遠く至り極まれる言にて天常立《アメノトコタチ》を天底立《アメノソコタチ》ともいへるこれなり。故《カレ》「わたの底おきつ白波」とよめるなり。さる意をさとらで古今集にこれをとりて「風ふけばおきつしら波」とよめろはいとをさなし。【芳樹云。こはさる意をさとらでをさなく詠るにはあらず。初句をワタノ底としては句の雅《ミヤビ》かならず聞ゆるにより風フケバとゆるやかにおきたるなり。奈良の京と今の京との風調のかはりめこれにて知べそ】○立田山《タツタヤマ》は大和の平群部にて河内堺なり。何時鹿越奈武《イツカコエナム》はいつこゆる事にてあらむかと待どほに思ふ意なり○妹之當見武《イモガアタリミム》は立田山のあなたはやがて妹がすむ家のあたりにてこの山だにこゆれば妹があたりのみゆるゆゑにいつかも立田山をこえて妹があたりをみんとよみ玉へるなり。さて長田王の伊勢より都に歸り玉はんには立田山を越え玉ふべきよしはなければこは西國より歸る人の歌なるが錯亂《ミタレ》てこゝに入たるもはかり難し。またある人は長田王伊勢よりのかへさに公事にて津國にまかりたまへるもしるべからず。さては立田山をこえたまふべしといへり
 
右二首今案不v似2御井所作《ミヰノトコロノウタ》1、〔頭注、不v似2御井(ニテ)所(ルニ)1v作《ヨメ》とも訓ずべき歟〕若疑(ラクハ)當時誦之古歌歟《ソノトキクチスサミタマヒシフルウタカ》
 
長皇子《ナガノミコ》《ト》2志貴皇子《シキノミコ》1於《ニテ》2佐紀宮《サキノミヤ》1倶宴歌《ウタゲシタマフトキノウタ》
 
版本長皇子の上に寧樂宮の三字あれどもこは誤なること灼《シル》ければ除きつ○佐紀宮《サキノミヤ》は和名抄大和國添下郡佐紀。〔頭注、今超昇寺常福寺村陵村等併せて佐紀村となれり〕神名式に佐紀《サキ》。諸陵式に挾城《サキ》。記に挾木《サキ》之寺間陵。續紀に佐貴郷《サキノサト》などみゆ。記傳に萬葉十に「春日なる三笠の山に月も出ぬかも佐紀山《サキヤマ》に咲る櫻の花のみゆべく」また「をみなへし咲野《サキヌ》におふる白管自《シラツヽジ》」また「佳人部爲《ヲミナメシ》咲野《サキヌ》のはぎに」などみゆ.此地名今は无し。超昇寺村、常福寺村、山陵《ミサヽキ》村などのあたり佐紀郷《サキノサト》の地なるべしとあり○宴はウタダと訓む.記に樂の字をウタゲと訓て其傳に宇多宜《ウタゲ》は拍上《ウチアゲ》の約まりたる名なり。顯宗紀に手賞※[手偏+樛の旁]亮拍上賜吾常世等《タナソコモヤラヽニウチアゲタマヘアガトコヨタチ》とあるこれなり【釋に拍上賜者飲酒の義なり】酒を飲樂みて手を拍上《ウチアグ》るよりいへる名なり。竹取物語に「三日うちあげ遊ぶ」空物語〔頭注、空の下穗の字脱か〕にすべて七日七夜とよのあかりしてうちあげあそぶ」榮花物語に「酒をのみうちあげのゝしる」宇治拾遺物語に「酒まゐらせ遊ぶありさまうちあげたる拍子のよげに聞えければ」など引て委くいへり
 
秋去者今毛見如《アキサラバイマモミルゴト》。妻戀爾鹿將鳴山曾《ツマコヒニカナカムヤマゾ》。高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》
 
秋去者《アキサラバ》は秋ニナリナバの意なり。芳樹云。此秋サラバの秋は古今集に「梅がえに來ゐるうぐひす春かけてなけどもいまだ雪はふりつゝ」の春と同じ。この古今なるは暖かなる時節を春といへるにてこゝの秋去者の秋も相寂《モノサビ》しき時節をいへるなり。【さるは春カケテといふ詞おほかた冬より春かけての義にして解けれどもさにあらず。委しく寄居歌談にいへり】今毛見如《イマモミルゴト》の今《イマ》は此皇子たちの宴《ウタゲ》し玉ふ時をさせるにてこの宴《ウタゲ》おもふに六月の未か七月の始のころなるべし。見如《ミルゴト》は二人の皇子の睦まじくうち解て相對《アヒムカ》ひ見居玉ふ事なり。是を高野原《タカヌハラ》の風景のあかず※[立心偏+可]怜《オモシロ》くみゆるに附てかくのたまへるなりと諸註に思へるは非なり。鹿はカと訓べし。【シカナカムと訓ては調《シラベ》わろし】宣長云。鹿字みなカと訓べし。シカと訓てはもじあまりて調わろし。といへるが如し。但鹿字集中にてはいづくなるもみなカと訓べきにあらず。シカとよめる處もおほし。卷四に野立鹿毛《ヌニタツシカモ》。卷六に左男鹿者《サヲシカハ》【サヲシカとよめるはいとおほし】卷十に鳴鹿之《ナクシカノ》また伏鹿之《フスシカノ》。卷八に鳴奈流鹿之《ナクナルシカノ》また旦往鹿之《アサユクシカノ》また卷九に勝鹿《カツシカ》と地名に此字を用ゐ卷三に吾去鹿齒《ワガユキシカバ》。卷四に何時鹿《イツシカ》など辭にも用ゐたれば鹿字みなカと訓べきにはあらず。されどもこゝは必ずカと訓べきなり。高野原は佐紀のうちなるべし。續紀三十に葬2高野天皇於大和國添下郡佐貴郷高野山陵1とあり〇二句|見如《ミルゴト》の下に宴《ウタゲ》せんといふ言を加へて一首の意を味ふべし。そは今かく君を相見て宴《ウタゲ》するがいと樂しきを今日のみにてはあかじ、この高野原の上《アタリ》は鹿のなく山ぞ。鹿の啼く時節にならばまた訪ひ來玉へ。今かく相見て遊ぶが如く鹿の聲をきゝつゝ宴せん。と契約《チギリ》玉ふなり
 
萬葉集註疏 卷一  終
 
 明治四十三年七月七日印刷
 明治四十三年七月十日發行
編 者    中 川 恭 次 部
    東京市本郷區龍岡町三十四番地
發行者    田 中 増 藏
    東京市本郷區駒込千駄木林町百七十二番場地
印刷者    今 井 甚 大 郎
    東京市本郷句駒込千駄太木林町百七十二番地
印刷所    歌書刊行會印刷部
發 行 所 東京市本郷區龍岡町三十四番地
       歌 書 刊 行 會
發 兌 元 東京市本郷區龍岡町三十四番地
       聚  精  堂
 
             2008年1月2日(水)午前10時17分、入力終了
 
萬葉集註疏卷二
             近藤芳樹著
相聞《アヒギコエ》
相聞とは考に相思ふこゝろを互に告聞ゆればアヒギコエといふ。後の世の歌の集に戀といふにひとし。といへり。此説の如し。さて此相聞といふ言男と女との相思ひて聞えかはす事のみにはあらず。親子兄弟朋友の相思ひて聞えかはせる歌も此部におほし。後世の集に戀とあるもまたこれに同じくて男女の戀慕ふをのみ戀なりと思へるはコヒてふ言義を深くたどらざるなり。親の子をこひ、子の親をこひ、兄の弟をこひ、弟の兄をこひ、友達の互《カタ》みに戀《コフ》るもみな戀なり。相聞もまたこれなり。それが中にて夫の婦をこひ、婦の夫をこふるが殊にその情の切なるゆゑにおのづから歌もおほかれば相聞も戀も共に男女の際の事のみの如くなれるなり。卷三山邊赤人の「明日香河かはよどさらず立霧のおもひ過べき孤悲《コヒ》にあらなくに」とよめるコヒは明日香の舊都を慕ひてよめる歌なり。また後撰集雜に「友だちの久しくあはざりけるにまかりてあひて、よみ侍ける。よみ人しらず。あはぬまは戀しき道もしりにしをなどうれしきにまどふ心ぞ」このコヒシキは友を戀しく思ふよし也。また拾遺集戀に「善祐法師ながされて侍けるとき母のいひつかはしける。なくなみだ世はみな海となりななんおなじなぎさに流れよるべく」これは母の子をこふるなり。猶此外にもおほかるべし。されば古義には相聞の字をシタシミウタと訓みたれどかく字を離れて我をもて訓むとならばコヒといはんや然るべからん。さるは相聞と戀とおなじことなればなり【芳樹云。シタシムといふ詞はシタに慕ふ意、シムは染《シ》むにて慕ふ心の深く染《シ》み著けるよしとおもはるれば戀といはむもかはらざるが如し。さてはかくもいふまじきにはあらねどなほたゞちに相聞《コヒ》といふべくこそ。和訓栞に下染《シタソム》なりといへるはあらず】
 
難波高津宮御宇天皇代《ナニハタカツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノヨ》 大鷦鷯天皇〔頭注、校正者云ミコトノヨはミヨか〕
 
記傳に難波の地形《トコロカタ》今も北は大坂より南へ住吉のあたりまで長くつゞきたる岸ありて古は此岸まで潮《シホ》來《キ》船著て難波津は岸のうへなりけむ。故(レ)高津とは云なるべし。宮は或人今の大坂の内なり【上本町通安曇寺町筋の民家の後に小祠ありて今に古宮跡と云傳たり。これ高津宮の跡なり。天滿社司渡邊氏の家にもたる難波の古圖を以て考るに此處にあたるべし。といへり】今世にカウヅを高津《カウヅ》とかきで此大宮をそこなりといひ其神社を此天皇なりといへどもカウヅは孝徳紀に蝦蟇《カハツノ》行宮とある處にてうつほ物語の歌にも見えたりと谷川氏いへり。今の高津《カウヅ》神社は明宮段の末に見えたる難波之比賣碁曾社なりといへり。また攝津志に高津宮一名大郡宮といへるはみだり説《ゴト》なり
 
磐姫|皇后《オホキサキ》《シヌバシテ》2天皇《スメラミコトヲ》1御作歌《ヨミマセルウタ》四首
 
記に大雀命娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣命《カヅラキノソツビコノムスメイハノヒメノミコト》1【大后】生2御子云々1と見え仁徳紀に二年春三月辛未朔戊寅立2磐之媛命1爲2皇后1と見えて記傳に續紀十に立2正三位藤原(ノ)夫人《キサキヲ》1爲2皇后1。詔に云々。皇后《オホキサキノ》位乎授賜。然毛朕時乃未爾波不v有《シカレドモアガトキノミニハアラズ》。難波高宮御宇大鷦鷯天皇葛城曾豆比古女子伊波乃比賣命皇后止御相坐而食國天下政治賜家利《ナニハノタカツノミヤニアメノシタシロシメシヽオホサヽギノスメラミコトノカヅラギソツヒコノムスメイハノヒメノミコトノオホキサキトミアヒマシテヲスクニノアメノシタノマツリゴトヲサメタマヒオコナヒタマヒケリ》。
今米豆良可爾新伎政者不有《イマメヅラカニアタラシキマツリゴトニハアラズ》これ王《ミコ》にあらぬ臣《ヤツコ》たる人の女の皇后《オホキサキ》に立給へりし古の例を引給へるなり。【そも/\大后は神武の御代のは大美和神の御女にませば異《コト》ことなり。其後開化までの御代々々書紀には臣の女をも立て皇后と爲賜ふよし記されたれども此記には其間には大后と申せること見えず。崇神よりこなたの御代々々には記にも紀にも臣たる人の女の大后にたち給へること此石之比賣命をおきて外にはみえず。故(レ)其例に引給へる也。曾都比古は孝元の御曾孫なれども既にその父大臣よりして臣の列《ツラ》なり。神功皇后の御父などは開化の御玄孫に坐せどもなほ王《ミコ》なれば此例にあらず。凡《スベ》て古は王《ミコ》ならでは大后には居賜はざりし例なり。然るを書紀に開化天皇までの御代々々に臣の女を皇后とし給ふよし記されたるは實はみな妃夫人の列にこそありけめ。大后とは申さゞりけむを皇后としも記されたるは例の潤色《カザリ》と見えたり】此説の如く古へ臣の女を以て皇后《オホキサキ》とし給へる事はこの磐姫をおきてはあることなし。故藤夫人を皇后とし給はんとせし時の例に磐姫を引給へるものなり。されど芳樹思ふに仁徳紀に爲2皇后1とある文は潤色《カザリ》にかけるゆゑに證《アカシ》としがたし。そはいかにといふに後宮職員令に妃二員、右四品以上、夫人三員、右三位以上とあり。妃も夫人も共に後世の女御にて皇后にはあらねど妃に四品以上とあるは皇女なることしるく夫人に三位以上とあるは臣女なることしるし。記紀によりて上古のさまを勘ふるに令制の如く際やかに制度の建たりとも思はれねどかの令條の起れるころは既《ハヤ》く藤原氏の威權強くなれりしほどなりしかば後世の女御の王臣を混《ヒトツ》にせし如く妃と夫人との別《ワイタメ》をかくはわかつまじくおぼゆるを猶妃と夫人とはことなる物とせしをおもへば上古はことに然りしなるべし。仁徳の御代の妃にて八田皇女は天皇の庶妹《マヽイモ》にませば皇女なり。石之日女《イハノヒメ》は臣女なり。もし此時|皇后《オホキサキ》をことにさだめ給はむには必ずこの八田皇女なるべく殊に菟道稚郎子の御遺囑に乃進2同母妹八田皇女1曰。雖v不v足2納綵1僅充2掖庭之數1とのたまへるを以ておもへばこの皇女をおきて外に皇后を立給ふべきにあらず。されど八田皇女の入内は紀に見えたる三十年の九月のことなり。磐之姫命はいとはやくより天皇に從ひ給ひて皇子もおほくましませば解磐の嫉妬をはゞからせ給へるも理なきにはあらねど既に皇女を納《メシ》給ひたらむにはたとへ磐之姫のませりとてもその下にはつらねがたければ必ず八田皇女が皇后に立給ひけむこといはむも更なり。猶その證をいはゞ磐之媛の天皇を恨みて筒城宮より奏し給へる御詞に陛下納2八田皇女1爲v妃。其不v欲d副2皇女1而爲uv后とのたまへる副皇女の三字を翫ぶに皇女入内だにし給へば磐之媛の皇后《オホキサキ》たるを得給はざることしるし。然るに紀に三十五年夏六月皇后磐之媛命薨。三十八年春正月立2八田皇女1爲2皇后1とあるなどは紀の潤色《カザリ》の文にて信みがたし。されど上にいへる如く三帝の國母にませば皇后を贈らせ給へることはいはむも更なるを猶磐姫と御名を書《シル》せるは臣女にてはじめよりの皇后ならねばそを知らせんとてなるべし。かくてこゝの皇后のもじは大后といふに同じければオホキサキと訓むべし。凡て古は當代天皇の御母の后位にますを字には皇太后と書て大御祖《オホミオヤ》と申し當代の嫡后を字には皇后と書て大后《オホキサキ》と申せり。【後世皇太后をオホキサキと申し當代の嫡后をキサキといふに倣ひて古を誤ることなかれ】これを正しき制《オキテ》とすべし○四首は|よつ《ヨツ》と訓べし。神代紀に此|兩首歌辭《フタウタ》、また皇極紀に謠歌|三首《ミウタ》、記にはいづこも二歌《フタウタ》三歌《ミウタ》など記されたり。古今集に「此ふたうたは」云々されど土佐日記に「一うたに事のあかねば今ひとつ」公忠集に「貫之がもとよりおこせたりける歌ふたつ」枕草子に「歌ひとつかけと殿上人に仰られけるを」など其外にもあればヒトツフタツとやうによみてよし
 
君之行氣長成奴《キミガユキケナガクナリヌ》。山多都禰迎加行《ヤマタヅネムカヘカユカム》。待爾可將待《マチニカマタム》〔頭注、校正者云。迎加行は迎加將行にて將字脱か〕
 
君之行《キミガユキ》の君は天皇なり。行《ユキ》は御幸《ミユキ》のユキなり。【卷九には君之三行者《キミガミユキハ》とあり】卷五に「枳美可由伎氣那我久《キミガユキキナガク》なりぬなら路なるしまのこだちもかむさびにけり」○氣長《ケナガク》はケはキヘの約にて來經《キヘ》は年月の經行《ヘユク》ことなり○山|多都禰《タヅネ》は山尋にて行幸の山路をたづねてなり。【然れども山タヅネと云言穩ならず。さればこは山多豆乃《ヤマタヅノ》の誤なること次にいふべし】磐姫皇后の「けながくなりぬ」など詠《ヨ》み給へるばかりの行幸記紀に見えねばこは皇后の御歌ならぬこと明らかなり
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
如此許戀乍不有者《カクバカリコヒツヽアラズハ》。高山之磐根四卷手《タカヤマノイハネシマキテ》。死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》
 
初二句はかくばかり戀ひつゝあらむよりはといふ意の詞なり【詞の玉の緒に委し】○高山はたゞ高き山のことなり○磐根四卷手は磐を枕にしての意なり。根は大祓詞に岩根木根とある根にてそへいへるのみ、四は助辭なり○死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》の死はスギの約にてスギナマシモノヲなり。【死をシと訓むを音とおもへるはひがごとなり。こは華言《ミクニコト》と漢字《カラモジ》と聲のおのづからかよへるなり】○御歌意は。かくまでも君をこひつゝあらむよりは中々に山の磐を枕として死なましものをとなり。さるはこひつゝあらむとの給へるは宮のうちにましての御物思ひなり。宮のうちにて來もし給はぬ君をこひつゝあらむよりもかへりてあくがれ出て高山の磐根を枕となし死なんがまさるべしとのたまへるにて待給ふみこゝろのいみじく堪へうく苦しきほどをのたまへるなり【考、略解ともにあやまれり】
 
在管裳君乎者將待《アリツヽモキミヲバマタム》。打靡吾黒髪爾《ウチナビクワガクロカミニ》。霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》
 
初句の在《アリ》は在待《アリマツ》、在通《アリガヨフ》など云ふ在《アリ》にて在々ていつまでもの意なり。打靡は女の髪の長きをいへるなり。卷十二に「君まつと庭耳《ニハノミ》をれば打靡《ウチナビク》吾黒髪に霜ぞ置にける」とあるが如く庭に出て待給ふさまなり○御歌意は。上に君を待わびてかくばかり戀つつゐむよりはとよみたまひしかどまた思ひかへしてさる短慮の事をせずとも在ながらへて猶君をまたむ。庭に立出てまたは夜深てわか黒髪に霜のおくともそはいとはじとのたまへるなり
 
秋田之穗上爾霧相《アキノタノホノヘニキラフ》。朝霞何時邊乃方二《アサガスミイツヘノカタニ》。我戀將息《ワガコヒヤマム》
 
秋田之を板本秋之田とせり。集中の例卷四、卷八、卷十、卷十七に秋田之《アキノタノ》とあればこゝも田と之と下上に錯れるなり。霧相《キラフ》はキルを延たる言にて【落相、流相などもかけり、キリアフの約めなり】霞の穗の上を立斷《タチキリ》て隔てたるさまなり。さればキラフは用言なり【これを體言にはキリといふなり】○朝霞のカスミは近き物をもきり隔てゝ幽かにみするゆゑにいふ言にて體言なり。朝字をそへたるは朝は水氣多くて深くたつ物なればいへるなり。さて霞は春、霧は秋と定めたるは後世のことにて古はいつもいへり。【卷八、七夕歌に「霞立天河原に」とあるは秋なり。後のものながら讃岐内侍日記に「十二月朔日まだ夜をこめて大極殿にまゐりぬほの/”\と明はなるゝほどに瓦屋どもの棟霞みわたりて」とあるは冬なり】○伊時邊乃方二《イツヘノカタニ》は何方《イヅカタ》にと云むが如し。卷十九に「吾《アガ》こゝだしぬはくしらにほとゝぎす伊頭敝能山乎鳴可將超《イヅヘノヤマヲナキカコユラム》」とあり【イヅヘと云てカタと重ねたるはいかゞなるやうなれど集中に奥逸之方《オキヘノカタ》とあるもおなじ】○御歌の意は。秋田の穗のうへに朝霞の一面にきりあひて立隔てたれば吾戀のなげきをやり拂はむ隙なし。いづへのかたにやらばおもひのはるけむ。とよませたまへるなり
 
或本歌曰。居明而君乎者將待《ヲリアカシキミヲバマタム》。奴婆珠乃吾黒髪爾《ヌバタマノワガクロカミニ》。霜者零騰文《シモハフルトモ》
 
居明《ヲリアカシ》はヲリアカシなり。芳樹云。外に居《ヲリ》あかすをいふ。而は漢文の助辭の如きものにて例多し。卷十八に「乎里安加之こよひはのまむ」とあり【ヰアカシテとよめるはあらず】○奴婆珠《ヌバタマ》は記傳云。烏扇の葉は羽に似たる故に此草を野羽《ヌハ》と名《ナツ》け其實を野羽玉《ヌバタマ》とはいふなり
 
右一首古歌集中出
 
古事記(ニ)曰。輕太子奸2輕大郎女《カルノオホイラツメ》1。故其太子流2於伊豫(ノ)湯1也。此時衣通王不v堪2戀慕1而追往時(ノ)歌曰。君之行氣長久成奴《キミガユキケナガクナリヌ》。山多豆乃迎乎將往《ヤマタヅノムカヘヲユカム》。待爾者不待《マチニハマタジ》。此云2山多豆(ト)1者是今(ノ)造木《ミヤツコキ》者地。右一首歌古事記與2類聚歌林所1v説不v同。歌主亦異焉。因《カレ》※[手偏+僉]2日本紀1曰。難波高津宮御宇大鷦(ノ)天皇廿二年春正月天皇語2皇后1納《メシテ》2八田皇女(ヲ)1將v爲v妃《ミメト》。時皇后不v聽。爰天皇|歌以《ミウタモテ》《ハシメタマフ》2皇后(ニ)1之。三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后|遊2行《イデマシテ》紀伊國(ニ)1到(リ)2熊野|岬《ミサキニ》1取2真處之御綱葉(ヲ)1而還。於是天皇伺2皇后不1v在而娶(テ)2八田皇女(ヲ)1納2於宮中(ニ)1。時皇后到2難波濟(ニ)1聞3天皇|合《メシツト》2八田皇女(ヲ)1大恨之云々。亦曰。遠(ツ)飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿禰天皇廿三年春正月甲午朔庚子木梨輕皇子爲2太子1。容姿佳麗《カホキラ/\シ》。見者自感。同母妹輕(ノ)大娘《オホイラツノ》皇女(モ)亦艶妙也云々。遂(ニ)竊|通《タハケヌ》。乃悒懷少息。廿四年夏六月|御羮《オモノヽ》汁凝以作v氷。天皇異之卜2其(ノ)所由《ユヱヲ》1。卜者曰。有2内亂1。盖親々相姦乎云々。仍移2大娘皇女於伊與(ニ)1者。今案二代二時不v見2此歌1也
 
輕太子の伊豫に流され給へるは輕大郎女《カルノオホイラツメ》【一名衣通王】に奸《タハ》け給へるに起れるにはあれども百官及天下の人さるよからぬ御行ひを疎みたるによりて穴穗(ノ)御子とあらそはんとして大前小前宿禰の家に入り兵器を備作《ツクリソナヘ》玉へる罪によりてなり。さるをこゝに奸輕大郎女云々とのみありては事たらず○追往の追字板本遣と作《カケ》るは誤也○君之行《キミガユキ》の君は太子を指す○山多豆乃《ヤマタヅノ》は加納諸平云。枕詞に山多豆乃|迎《ムカヘ》とつゞけいへる山多豆《ヤマタヅ》は木名なり。記衣通王の御歌に夜麻多豆能牟加閇袁由加牟《ヤマタヅノムカヘヲユカム》云々【此云2山多豆《ヤマタヅト》1者是今(ノ)造木者《ミヤツコキナリ》也】また字鏡に女貞實を比女豆波木《ヒメツバキ》又|造木《ミヤツコギ》と註せり。また古歌に「春さればめぐむ垣根のみやつこ木我こそさきに思ひそめしか」とよめるを何やらむにて見たりき。山多豆《ヤマタヅ》はこの造木《ミヤツコギ》にて今も國によりニハトコともタヅともいへり。此木春の始諸木にさき立て芽の出る木なるが枝葉とも他木の如く片違には出ずして對ひ合て出るによりて山多豆《ヤマタヅ》の對《ムカフ》といふ意に云かけしならむ。といへり。この説穩かなり。從ふべし。芳樹勘ふるに字鏡にては女貞をヒメツバキともミヤツコ木とも云て同物なるを和名抄にては女貞拾遺本草云。女貞一名冬青【和名|太豆乃木《タヅノキ》楊氏漢語抄云|比女都波木《ヒメツバキ》】冬月青翠。故以名之また接骨木本草云。接骨木【和名|美夜都古木《ミヤツコキ》】と見えてタヅノキとミヤツコギとは別物のごとし。思ふに和名抄は字の異なるによりて女貞に太豆乃木《タヅノキ》、接骨木に美夜都古木《ミヤツコキ》とわかちなづけたるなるべけれど既《ハヤ》く記に山多豆者《ヤマタヅハ》是今(ノ)造木《ミヤツコギ》とあれば別物にはあらざるなり。また字類抄にも接骨木《ミヤツコキ》、女貞、冬生、山節、青員【已上出兼名苑】索廬【出太清經】獨骨【不v似2狗骨1故以名之】冬青【冬月青翠。已上出拾遺。已上七名同。亦名タヅノキ】とありてかくはじめに載せし接骨木をミヤツコギと訓みたれど終に擧たる冬青の注には已上七名同。亦名2タヅノキ1といへれば山タヅ、ミヤツコギ別物にあらざることいよ/\しるし。かくて記に今(ノ)造木《ミヤツコギ》とある今の字を翫ぶに山多豆《ヤマタヅ》といふがこの造木の古名なりと思はる。この木漢名は接骨木にてタヅノ木とも木タヅともニハトコともいふよし小野博いへり【ニハトコは倭訓栞に庭常《ニハトコ》の義なりといへるは庭にうして常磐《トキハ》なるよしなるべけれどさにはあらず、ミヤツコの訛れるなり】この同名、木のみならず草にもあり。木のかたをば接骨木【女貞ともいふ】草のかたをば接骨草【凵ヲ[草冠/瞿]《サクトク》といふものこれなり。但こは和名にあらず。和名抄に朔獨二音。此間音曾久止久。即陸英也とあり。名義抄にも凵ヲ[草冠/瞿]此間ソクトクとのみ見ゆ】といふ。即接骨木は木タヅ、接骨草は草タヅにて草木ともに花も葉も似たり。かゝれば木タヅを山多豆といふに對へて草多豆《クサタヅ》をば野多豆《ノタヅ》といふべきか。なほ本草啓豪を併せ見るべし○因檢日本紀より以下すべてあぢきなき贅言なり
 
近江大津宮御宇天皇代《アフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》 天命開別天皇
 
天皇《スメラミコトノ》《タマヘル》2鏡女王《カヾミノオホキミニ》1御歌一首《オホミウタヒトツ》
 
鏡女王を板本鏡王女と誤れり。芳樹云。此女王は額田王【鏡王ともいへり】の子にて額田姫王のはらからなり。額田も鏡も共に父王の名なるを二人の姫王にわかちてつけしめ玉へり。【この事加納諸平が説を擧て上にくはしくいへり】この女王は鎌足大臣の嫡妻なり。そは興福寺縁起に至2於天命開別天皇即位二年歳次己巳冬十月七1内大臣枕席不v安。嫡室鏡女王請曰。敬造2伽藍1云々ある證とすべし。【縁起に即位二年とあるは紀にては八年なり。そは紀に七年春正月丙戌朔戊子皇太子即2天皇位1と見えてこの次(ノ)年鎌足は薨玉へり。故(レ)即位二年といへるものなり】天智天皇いまだ若くおはしましゝほど此女王を婚《メシ》たまひしを後に鎌足大臣に給ひて嫡室となさしめ玉へり。【鎌足の薨《ミマカラ》れし後に娶《メ》しにはあらず。そは天智天皇は御寶算《ミヨハヒ》五十八にて崩《カムサリ》玉へれば即位二年は天皇の崩より三年まへなれば鎌足の薨年は天皇は五十六歳の御齡なり。五十六七の老玉へる御齡を以てさる婚《ミアヒ》などの事あるべきにあらねばこはいまだ鎌足の嫡妻となり玉はぬほどの事なり。天智天皇女御の娠みたるを鎌足玉へるが生れし子男にてこれ不比等なりといふ事大鏡にみゆ。その女御といへるは車持夫人にて此女王にはあらず。混ふべからず】さて繼嗣令に几王娶2親王1臣娶2五世王1者聽とあるこは大寶の令文なれどそれより以前の制法もとよりかゝるべきを此鏡女王は何世の王にか詳かならねど疎《トホ》しとても三世か四世かなるぺければ鎌足の顯露《アラハレ》ては婦として玉ふことはなるまじけれどこはさしも大功ありし人なるゆゑに特恩にて許し玉へるなるべし
 
妹之家毛繼而見麻思乎《イモガイヘモツギテミマシヲ》。山跡有大島嶺爾《ヤマトナルオホシマノネニ》。家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》
 一云。妹之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》。一云。家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》
 
初二の句一本|姓之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》として結句に家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》とあるかた正しかるべし。ツギテモミムニはつゞきても見む爲になり〇大島嶺《オホシマノネ》のことは卷一【額田王歌の注】に委くいへり。父の額田王大和半群郡の額田に住玉ひしかば女王もこゝに住玉へるなり。大島嶺も同郡にて額田に近き處なり○家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》は家作りて居住《ヲル》ことをかくいへるなり○御歌意は。妹が家のあたりを日毎につゞきて見つゝあるべき爲に大島嶺に家つくりてをらましものを離《サカ》りゐる事のうさとのたまへるなり。此は天皇のいまだ若くおはしましゝ時のなるを鎌足の薨《ミマガリ》て後に女王におくりたまへる御製なりといへる人のあるはいみじき誤なり
 
鏡女王《カヾミノオホキミノ》《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》 鏡王女又曰2額田姫王1也
 
板本本法に鏡王女又曰額由姫王とあるは後人の加筆にてあやまりなり。額田姫王と鏡女王とは姉妹《ハラカラ》にまして同人にはあらぬをや
 
秋山之樹下隱《アキヤマノコノシタカクリ》。逝水乃吾許曾益目《ユクミヅノアコソマサラメ》。御念從者《ヨリハ》
 
樹下隱《コノシタカクリ》の隱は卷十七に久母我久里《クモガクリ》とあればカクリと訓べし。【カクレにおなじ】記に美夜麻賀久理弖《ミヤマガクリテ》ともあり○逝水乃《ユクミヅノ》これより上三句は益目《マサラメ》をいはむ爲における序なり。秋は殊に水のまさればかくつゞけたるなり○御念《ミオモヒ》は天皇の女王を戀玉ふ御思ひよりはの意なり【古義に此歌を解て「大島嶺に家をらましを」と詔へるは身に取て忝くはあれど我が君を念奉る心こそそれよりはなほ増りたらめとなり。といへるたがへる事は无けれどたとへ天皇に慕はれ奉るとても男女の際に尊卑のけぢめをおくべきにあらねば身にとりて恭くはあれどなどいふ口氣は此歌に更に旡き事なり。歌の註釋をせむ人このこゝろしらひをわするべからず】
 
内大臣藤原卿《ウチノオホオミフヂハラノマヘツギミノ》《ツマドフ》2鏡女王《カミヾノオホキミ》1時《トキ》鏡女王《カミヾノオホキミ》《オクレル》2内大臣《ウチノオホオミニ》1歌一首
 
藤原卿は鎌足大臣なり○鏡女王は上にいへる如くつひに鎌足の嫡妻《ムカヒメ》となり玉へれどこの御贈答は天智天皇の中大兄と申しゝほど御心かよはし玉へる時のことなるべし、鎌足の薨《ミマガ》られし後に天皇の懸想し玉へるやうにいへる説は非なり。そのよし上につぎ/\ことわれるを見るべし
 
玉匣覆乎安見《タマクシゲカヘルヲヤスミ》。開而行者君名者雖有《アケテイナバキミガナハアレド》。吾名之惜毛《アガナシヲシモ》
 
玉匣《タマクシゲ》は句を隔て開《アケ》にかゝる枕詞なり。玉《タマ》は美稱。匣《クシケ》は櫛笥《クシゲ》なり。几て物入るゝ器をケといふたこと集中|笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》などある筍《ケ》なるを櫛《クシ》字をそへて櫛笥《クシゲ》といふは女の髪結ふ調度にて櫛をむねとするゆゑにそを納《イ》るゝ箱を櫛笥《クシゲ》といひこれに玉てふ言をそへて玉匣といへるものなり。【されば禁中にて皇后の御方たる眞觀殿を卸匣殿といふも皇后の御櫛を置くをむねとするゆゑに號《ツ》けたる名なり。なほ標註職原抄校本にいへり】覆乎安見《カヘルヲヤスミ》の覆をオホフと訓るはひが事なり。覆奏などの覆にてカヘルと訓べし。されば二三の句は歸ることはいとたやすしと云て夜の明てこゝを立出玉はゞと云意なり○君名者雖有《キミガナハアレド》云々は君は男にませば御名の立をも厭ひ玉はざらめど我は女にしあれば名を立らるゝがをしく羞《ヤサ》しとなり○歌意。次の和歌《コタヘウタ》によりて思ふに鎌足の女王の許に來玉へれど内に入らるゝ事をば許し玉はで明がたまでも戸外にたゞずみ玉ふを女王わびしくおもほして早く歸り玉へとのたまふによりかへることはいと安しと云て猶かへらんともし玉はぬゆゑ歸るをやすしとて明果《アケハテ》てこゞを出たまはば必ず人知りぬべし人知りて云さわがれむに君は男にてませばかゝる密通《ミソカゴト》も常なれば名のたつをも厭ひ玉ふまじけれど吾は女にしあれば實事も旡きに名のたつはいと/\惜しとのたまへるなり。さるは中大兄の通ひ玉へる王女なればみだりに他人にまみえむとはし玉はぬなるべし
 
内大臣藤原卿《ウチノオホオミフヂハラノマヘツギミノ》報2贈《コタヘタマヘル》鏡王女《カヾミノオホキミニ》1歌《ウタ》一首
 
玉匣將見圓山乃《タマクシゲミムロノヤマノ》。狹名葛佐不寐者遂爾《サナカヅラサネズハツヒニ》。有勝麻之目《アリカテマシモ》
或本歌云。玉匣|三室戸山乃《ミムロトヤマノ》
 
玉匣《タマクシゲ》はミにかゝる枕詞なり。蓋《フタ》かけご身《ミ》と常にもいへり。將見圓山乃《ミムロノヤマノ》と圓をロの假名に用ゐたるはムとマと通ふゆゑにおのづからムにつゝまれてマは省かりたるなり。こは大和の三室山なり。或本の三室戸《ミムロト》は大和の名所ならねば用ゐらるべきにあらず【卷七に見諸戸《ミモロト》山あり。こは備中なりとぞ。山城宇治の三室戸は後につけたる名なるべし】○狹名葛《サナカツラ》は集中|狹根葛《サネカツラ》ともあり。【ナとネと通音】名義は古義に狹は眞に通ふ辭、萎葛《ナエカヅラ》なり。あるが中に萎々《ナエ/\》としたる葛なればしか名におへるなり。卷十四に佐禰加夜《サネカヤ》とよめり。眞萎草《サナエガヤ》なり。同卷に根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》とあるも萎和子菅《ナエヤハラコスゲ》なり。また蓴《ヌナハ》も萎繩《ナエナハ》なるべし。また夏草之《ナツクサノ》とて野島《ヌシマ》また阿比泥能波麻《アヒネノハマ》とつゞけたるも夏草の萎《ナエ》とかゝれるにてネの言ひとし。また拾遺集なる猿澤の池に釆女の身投たるを「吾妹子がねぐたれ髪を猿澤の池の玉藻とみるぞ悲しき」を始としてネグタレ髪とよめるが多きも萎腐髪《ナエクタレガミ》なるべし。さてこれまでは佐寢《サネ》の序なり。佐不寐者遂爾は相寐せずしては遂にの意なり。佐寐とは記傳云。佐は例の眞《マ》の意にて凡て佐寢《サヌ》といふは男女|率《ヰ》て熟く寢ることなり。【たゝ寢るに佐を添たるにはあらず】といへるが如し○有勝麻之目《アリガテマシモ》は消難《キエガテ》、行難《ユキガテ》なとのガテに同じくこゝはさねずては有がたからむの意にて遂に佐寢《サネ》むといふ事なり○歌意は。かく曉近きまでも戸外にたゝずみ居るはいと苦しきを早くかへれとのたまふは世を憚り玉ふ身にはいとことわりなるやうなれどかくまで深く思ひそめたることなれば内に入りて相宿《アヒネ》もせで空しく歸らむは得堪ざらまし。となり。さてかく鎌足はこひしたはれしかども鏡女王は中大兄に憚りてうちとけたる状《サマ》にもみえ玉はざりしを聞しめしてこの女王を鎌足にたまひまことの夫婦となさしめ玉へるなるべし
 
内大臣藤原卿《ウチノオホオミフヂハラノマヘツギミ》《ミメトセル》2采女安見兒《ウネベヤスミコヲ》1、時《トキ》《ヨメル》歌二首、
 
釆女の釆字は釆擇の義をもてかけり。後宮職員令に凡諸司氏別貢v女。雖v非2氏名1欲2自進仕1者聽。其貢2釆女1者郡少領以上姉妹及女。形容端正者。皆2中務省1奏聞とありて諸國の郡領以上の女を釆擇して奉仕せしめらるゝなり。【京都の諸司〔頭注、校正者云。諸司は諸氏か〕より進仕する宮人には釆字を用ざるはこはもとより形容端正なることは定りていふ迄もなければなり】されば其氏の女の奉仕するもおほかれど釆女と字にかくはもはら諸國の少領以上の女にかぎるなり。さてウネベといふ言は釆字に係らず。こは記傳に字那宜辨《ウナゲベ》の切《ツヽマ》りたるなり宇那宜《ウナゲ》とは物を項《ウナジ》に掛るをいふ。※[女+采]《ウネベ》は主《ムネ》と御饌《ミケ》に仕奉るものにて項《ウナジ》に領巾《ヒレ》を掛る故に嬰部《ウナゲベ》とはいふなり。【比禮はもと振て蟲などを撥はむ爲に掛るものなりしが遂に禮服となりて御饌のをりならでもかくる事となれり】大祓詞に比禮掛伴男《ヒレカクルトモノヲ》とあるも【男は假字なり。男《ヲノコ》のことにはあらず】主《ムネ》と釆女などをいへり○安見兒《ヤスミコ》は釆女の字《ナ》なり
 
吾者毛也安見兒得有《アハモヤヤスミコエタリ》。皆人乃得難爾爲云《ミナヒトノエガテニストフ》。安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》
 
記に阿波母與《アハモヨ》とある語勢同じければアハモヤと訓べし。モヤは助辭なり○安見兒得有《ヤスミコエタリ》この得《エ》といふは女を娶《ウ》る古言なり。記に汝《イマシ》得《エテム》2此孃子《コノヲトメヲ》1乎《ヤトイヘハ》答2曰《イフ》易得《ヤスクエテムト》1也とあり。伊勢物語に「男は此女をこそ得めとおもひ」云々また「昔五條わたりなる女をえ得ずなりにけり」後撰集に、得がたかりける女を思ひかけて」大和物語に「そのたゞみねが女ありと聞てある人なむえむといひけるを」竹取物語に「このかくや姫をえてしかな」〔頭注、校正者云えてしかなの下になの字脱か〕と見えたりと古義にいへり○皆人乃《ミナヒトノ》は人皆の下上に誤れるなりとて古義に其證をあまた引たれど集中に皆人《ミナヒト》とある處もこゝのみならず卷四、卷七、卷八等にも見えたればもとのまゝに訓つ○歌意は明らかなり
 
久米禅師《クメノゼジ》《ツマトフ》2石川郎女《イシカハノイラツメヲ》1時《トキノ》歌五首
 
久米は氏、禅師は名なり、俗人のかゝる名つくる事そのかみかれこれみゆ【阿彌陀、釋迦などいふ名も見えしをそは禁められたり】○石川郎女の郎女はイラツメと訓むべし。記傳に男に郎子《イラツコ》、女に郎女《イラツメ》といふ。伊羅《イラ》は伊呂兄《イロセ》、伊呂弟《イロト》などの伊呂、また入彦《イリヒコ》、入姫《イリヒメ》なとの入《イリ》と同言にして親《シタ》しみ愛《ウツク》しみて云稱なり。とあり。この禅師、郎女共に傳詳かならず
 
水篶苅信濃乃眞弓《ミスヾカルシナヌノマユミ》。吾引者宇麻人佐備而《アガカバウマビトサビテ》。不言常將言可聞《イナトイハムカモ》 禅師〔頭注、校正者云。宇麻人の麻は眞の書誤か又アガカバはアガヒカバか〕
 
水篶苅《ミスヾカル》のミはマに通ひて眞篶《マスヾ》なり冠辭考に眞篶《マスヾ》を苅野《カルヌ》とつゞけたり。篶はしのめ竹の類にて色黒き竹なり。後世のうたに吉野の嶽によめるも此野篶なりとあり。板本に水薦《ミコモ》とあれど信濃は山國にて薦などの生る處は無くてひとつらの篶の野なれば篶を薦に誤れることしるし。古義に水薦苅《ミコモカル》につきていへる説は諾ひがたし○信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》の眞《マ》は稱辭《タヽヘコトバ》なり。續紀に大寶二年三月甲午信濃國獻2梓弓一千二十張1以充2大宰府1〔頭注、校正者云。大宰府の大は太か〕また景雲元年四月庚午以2信濃國獻弓一千四百張1充2大宰府1。臨時祭式に凡甲斐信濃兩國所v進祈年祭料|雜《クサ/”\ノ》弓百八十張などによりて信濃は弓に名あるを知べし。上二句は三句の吾引者《アガヒカバ》の序なり。宇麻人佐備而《ウマヒトサビテ》の宇麻人《ウマヒト》は貴人《ウマヒト》なり〔頭注、校正者云。こゝの宇麻人の麻も眞か〕。佐備《サビ》はスサビに同くて進《スヽ》む義ながらかく用ゐたる意は俗にメクといふに同じくてこゝは貴人《ウマヒト》めかしてといふことなり。芳樹云。此郎女禅師よりはいたく貴《タツト》き人といふにもあらざるべけれど次に見えたる如く大津皇子と贈答し日並知皇子より歌を玉へるなどの事どもゝ世に聞え高ければ吾輩《ワレラ》が思ひをかけたりとて貴人《ウマヒト》めかして云々と禅師がいへるなるべし。これを橘守部は遊行女婦なりといへり。さては賤婦にして貴人めかすなれは禅師の宇麻人佐備ともいひあざけるべきことなり。但古への遊女は後世とは異にて貴き種なるが落ぶれてなれるもありてそのよしおのれ別に委しく記《カケ》るものもあり。されども郎女《イラツメ》といふ稱の古書に見えたるを勘ふるに應神天皇の御子に宇遲能和紀郎子《ウヂノワキイラツコ》次妹|八田若郎女《ヤタノワキイラツメ》其外此天皇の御子には郎女といふがいとおほく見え舒明紀に夫人蘇我島大臣女法提|郎女《イラツメ》生2古人皇子1また續紀の詔に藤原仲麻呂の妻のことを藤原|伊良豆賣《イラツメ》【乎婆《ヲバ》】婆々《バヽ》【止奈母《トナモ》】念《オモフ》とありて遊女などの稱に用たるはさらに見えず。されば思ふにこの石川郎女はかの源氏物語なる源内侍の如きものにて淫《タハレ》たる女なりけむ。後に大津皇子の宮侍《オモトヒト》となりてすら外人と贈答などせしもて知べし○不言《イナ》と云々は其許《ソコ》の如き人は否《イヤ》なりといはむかもなり〔頭注、校正者云いはむかもの下との字脱か〕。不言の字元暦本に不欲に作れりと略解にいへり。さてはイナと訓んこと諭无きを不言にてはいかにぞやおぼゆ○歌意は。わが深く思ふ心のまゝに君を引き動かさば君は我をば數ならずおもひ貶しみづからを貴人《ウマヒト》めかして否《イヤ》なりといはむかも。とよめる也 
 
三篶苅信濃乃眞弓《ミスヾカルシナヌノマユミ》。不引爲而弦作留行事乎《ヒカズシテツラハクルワザヲ》。知跡言莫君二《シルトイハナクニ》 郎女
 
此上二句も不引の序なり。弦字板本強に作るは誤なることしるければ改めつ。弦は次に都良絃とある是にて弓弦の事しられたり【次に委くいふべし】○弦作留の三字考、略解等を始め諸注みなヲハクルと訓めれど芳樹按に弓弦を直にヲとのみいはむこといかゞあらん。次の歌に都良絃《ツラヲ》とあれどこは弓に掛る緒は弦《ツル》といふものなれば絃《ヲ》もじは添たるのみなり。また記に弓絃《ユツラ》といひ仁徳記に于磋由豆流《ウサユヅル》といへるもみな弦《ツル》なり、和名抄にも弦音與v絃同。由美都流《ユミツル》とあり。されば次にツラヲとつゞけたるはさもいふべけれどツラの言をおきてヲとばかりにては弓弦にはなり難からむ。さて考、略解などに作留をハクルと訓るは弦かくる事にてこは此詞の活用を古義に解たる理ありて聞ゆ。さて弦をツラと訓なむにはハクルとては字あまれどなほツラハクルワザヲと八言によむべし。後にうつりてはハルともいへり古今集に「梓弓おしてはるさめ」とよめるこれなり。作をハクルと訓たるは義訓にて神代紀の−書に作笠《カサヌヒ》者、作盾《タテヌヒ》者、作金《カナタクミ》者、作木綿《ユフツクリ》者、作玉者《タマスリ》などの類作字に種々の訓を付たるもてハクルとも訓むべきを知べし○知跡言莫二《シルトイハナクニ》は知《シル》と不言《イハヌ》にを伸べたる言なり○歌意は、考云。弓を引ぬ人の弦かくるわざをば知るといふ事なし。其如く我をいざなふわざもせでそらに吾が否《イナ》といはむをばはかり知玉ふべからず。といふなり
 
梓弓引者隨意《アヅサユミヒカバマニ/\》。依目友後心乎《ヨラメドモノチノコヽロヲ》。知勝奴鴨《シリガテヌカモ》 郎女
 
君のわれを引きいざなひ玉はゞ引玉ふまゝに身を任すべけれど後に見棄られたらむにはわれいかにせん、これより後の君が心の知りがたければ。といへるなり
 
梓弓都良絃取波氣《アヅサユミツラヲトリハケ》。引人者後心乎《ヒクヒトハノチノコヽロヲ》。知人曾引《シルヒトゾヒク》 禅師
 
都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》は弓弦を本筈《モトハヅ》末筈《スエハズ》にはるをいふなり。ツラは連《ツラ》にて連續《ツラナリツヾ》く意なり。【本筈と末筈とに掛たるが別《コト》なる絃《ヲ》にあらずつゞきたるゆゑツラといふ。ツルともいへり。草の蔓《ツル》また器物に鍋のつる、釣瓶のつるなどいふみなこれなり】絃《ヲ》も同じくつゞく意の詞なり○歌意。弓は常は弦をはづしておくものなれど引くときははづしたる弦を著《ハク》るなり。其如く此妹を得むと思ふ意あれば必ず行末までの事をよく思ひ定めて引くなり。「後の心を知りがてぬ」などおぼつかなみ玉ふな。となり
 
東人之荷向※[しんにょう+筴]乃《アヅマドノノサキノハコノ》。荷之緒爾毛妹情《ニノヲニモイモガコヽロニ》。乘爾家留香聞《ノリニケルカモ》
 
荷向《ノサキ》は江家次第に荷前者《ノサキトハ》四方(ノ)國(ヨリ)進|御調荷前《ミツギノノサキ》取(テ)奉故曰2荷前《ノサキ》1とあるが如く四方の國國より貢《タテマツ》る租調徭のうちの調の前《サキ》に都に來たるをいふ。そはみな諸國の産物にてその荷前《ノサキ》を初穗とし玉ふこと神祇式の祈年祭の祝詞に天照大御神【能】大前【爾】白【久】云々|荷前《ノサキ》者皇太御神【能】太前【爾】如《ナス》2横山1打積置【※[氏/一]】また太神宮式の九月神嘗祭に調(ノ)荷前(ノ)絹一百十三匹一丈二尺云々などあり。荷をノといふは火をホ、木をコなどいふ例にて神功紀に肥前國の荷持田を荷持此云2能《ノ》登利(ト)1とあり○荷之緒爾毛《ニノヲニモ》これまでは乘の序なり。さるは調物を陸路より運《ハコ》ぶにはその篋の緒もて馬につけ乘するが故なり。爾毛《ニモ》は考に荷の緒の如くにもなり。かく略きし例多し。といへり。卷一に栲《タヘ》乃|穗爾夜之霜落《ホニヨルノシモフリ》とあるも栲の穗の如くにの意にて【其歌の下に釋けり】こゝと專ら同じ○妹情爾《イモガコヽロニ》云々は我心に妹が乘てあるにて常に妹が事のわが心のうへにあるを乘といへるなり。卷十に「春さればしだる柳のとをゝにも妹心乘在鴨《イモガコヽロニノリニケルカモ》」卷十一に「是川《コノカハ》のせゞにしく浪しく/\に妹心乘在鴨《イモガコヽロニノリニケルカモ》」卷十二に「いざりするあまのかぢのとゆくから〔頭注、校正者云。ゆくからはゆくらかの〕に妹心乘來鴨《イモガコヽロニノリニケルカモ》」これら同じ用ゐざまなり○歌意は。女のすがたの常にわが心のうへにうかびてわするゝひまのなき事かなといへるなり。此一首は贈答の外のうたにて禅師が郎女を深く思ふよしをよみそへておくれるなり
 
大伴宿禰|娉《ツマトフ》2巨勢郡女《コセノイラツメヲ》1時《トキノ》歌一首
 
大伴宿禰は安麻呂卿なり。大伴氏はいはむも更なる譜代の名家にて此卿は家持卿の祖父、旅人卿の父なり、天武紀元年に遣2大伴連安麻呂云々等於不破宮1令v奏2事状1とありて壬申の亂の功臣なり。それより持統元明の朝を經て續紀に和銅七年五月丁亥大納言兼大將郡正三位大伴宿禰安麻呂薨とみえたり。此集大納言以上の人は名を諱て書《シルサ》ざる例なるゆゑに此贈答は安麻呂のいまだ微官の時の事ならめど後を前に及ぼしてたゞ大伴宿禰とのみしるせるものなり
 
玉葛實不成樹爾波《タマカヅラミナラヌキニハ》。千磐破神曾著常云《チハヤブルカミゾツクトフ》。不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》
 
玉葛云々とは考云。葛は子の成もの故に次の言をいはむ爲に冠らせしのみなり。且子の成てふまでに云て不成の不《ヌ》まではかけぬ類ひ集に多し。といへり○實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》は何の樹にまれ實のならぬ樹なり。されば玉葛は實云々にかゝる枕辭におけるのみなり○千磐破《チハヤブル》は神の枕辭なり。芳樹云。此チは風をチといふに同じく勢の猛きをいふ言なり。【即勢ひといふイキも息にて風のことなり。草木または家屋などをも吹動かし吹倒しなどすること風の勢ひにしくものなし。故に神風とも云てこれを恐こむなり】されば風《チ》のハヤブルよしにてハヤは疾く強き意。フルはその疾く強き形容をいへるなり。神名に甕速日《ミカハヤヒ》、勝速日《カチハヤヒ》など其|速日《ハヤヒ》といふが多き皆ハヤブリを約めてハヤヒといへるにてチハヤブルのハヤブルと同言なり。垂仁紀に勇悍士を蹶速《クエハヤ》といへるハヤもはやく強きよりつけたる名、また風に疾風《ハヤチ》といふがあるもチもじ下にあるゆゑに異言《コトコト》の如くなれど風疾《チハヤ》とかはることなし。さて神にチハヤブルといふ言の原は記に道速振荒振國神《チハヤブルアラブルクニツカミ》また神代紀に賤賊凶暴横惡《チハヤブルアラブルアシキ》之神とあるに起りて惡神《アラガミ》をいへる稱なれど枕詞に用ゐ來ては善惡の別《ワカチ》なく神といふにかけたるなり【イハヤブルのイを略けるなりといへるは非なり】○神曾著常云《カミゾツクトフ》と常云をトフと訓るは卷七に著常云物乎《キtルトフモノヲ》とあるこれその證なり。【常をトの假字に用ゐし例いとおほし】こはトイフを切《ツヾ》めたる言なればチフといふべきを【トイの切チ】チとトと通ふゆゑにトフともいへるなり。【そのチフの例は卷五卷八に智布《チフ》、卷七に智否《チフ》、卷十八に知布などあり】○不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》は實のならぬ樹ごとになり○歌意は。世の諺にいつまでも實のならぬ木は神の憑《ツ》きたるゆゑぞといふことあり。その如く女もさるべき時に男もたでさだ過るまで獨あらばいかなる神にか著《ツ》かれて遂に男を得ずてやあらむ。といへるなり
 
巨勢郎女報贈《コセノイラツメノコタフル》歌一首
 
元暦本に近江朝大納言巨勢人卿之女也とあり。こは巨勢は氏にて人は名なり。【次に巨勢臣比等とあり】天智紀に十年正月癸卯に御史大夫となられたり。【今の大納言なり】天武紀に元年七月辛卯巨勢臣比等率2數萬衆1將v襲2不破1而軍2于犬上川濱1。この人は近江方の將なり。故《カレ》同紀に同年八月甲申大納言巨勢臣比等云々悉配流とあり。されどこの贈答はいまだ壬申の亂おこらざりしほどの事なり
 
玉葛花耳開而《タマカヅラハナノミサキテ》。不成有者誰戀爾有目《ナラザルハタガコヒナラモ》。吾孤悲念乎《アハコヒモフヲ》
 
四句目は古義にモと訓るに從ふべし。モはムに同じければ誰が戀ならむなり○歌意は。樹の花のみさきて實ならぬは神の著けるぞとのたまへどしか花のみ咲て實ならぬなど薄情《ウス》き事は誰がうへの戀ぞ。吾は信實《マメヤカ》に君をのみ戀しく思ふものを。といへるなり
 
明日香淨御原宮御宇天皇代《アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》 天渟名原瀛眞人天皇
 
天皇《スメラミコト》《タマヘル》2藤原夫人《フヂハラノキサキニ》1御歌《オホミウタ》一首
 
藤原夫人は卷八に藤原夫人歌とある註に明日香淨御原御宇天皇之夫人也。字曰2大原大刀自1。即新田部皇子之母也とあり。藤原は大和國高市郡藤原にて一名を大原ともいひて鎌足の本居《ウブスナ》の地なり。天智の鏡女王に婚《ミアヒ》まして氷上娘、五百重娘といふ二人の皇女のおはしゝを其母女王を鎌足大臣に賜ひし時この二人の皇女も隨ひて大臣の家にうつりて座しけんが二人ながら天武天皇に娶されて夫人となり玉へり。天武紀二年の件に夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1。次夫人氷上娘(ノ)弟五百重娘生2新田部皇子1とあり。かく紀にては藤原大臣(ノ)女とあれど實は天智天皇の御子にてこゝなる藤原夫人は其五百重娘にて藤原にましゝゆゑに藤原夫人ともいひまた藤原の一名によりて大原大刀自ともいへるなるべし○夫人の字キサキと訓べし。上世は皇后をオホキサキといへり。【中古よりは皇后をキサキ、皇太后をオホキサキといへども上世は皇太后をばオホミオヤと稱へたり。キサキは君幸《キミサキ》にて天皇のさきはひ玉ふよしの名なれば御母儀たる皇太后にはかけ難き名なり。太古の稱呼の正しきこと此一つにても知べし】其次なる妃、夫人、嬪も字《モジ》にはかくさま/”\にかけども共にキサキなり。令集解の朱記に凡妃、夫人、嬪者並皆天子之|婦《キサキ》也。其高下者如v文列也といへるが如し
 
吾里爾大雪落有《ワガサトニオホユキフレリ》。大原乃古爾之郷爾《オホハラノフリニシサトニ》。落卷者後《フラマクハノチ》
 
吾里とは天武の都としておはします明日香淨御原宮のことなり。【此宮も高市郡、大原も高市郡にて程遠からず】大雪は此下に「大雪の亂而來禮」又卷十九にも布禮留大雪《フレルオホユキ》となり○大原は上にいへるごとく藤原のことにて續紀天平神護元年十月紀伊國行幸の件に是日到2大和國高市郡小治田宮1。壬申車駕巡2歴大原長岡1臨2明日香川1而還とありて今も飛鳥の西北の方に大原村といへるがありて鎌足公の生れ玉へる所とて森あり。大かた紀の文にかなへり。この歌は夫人の下《サガ》りて居玉ふ時の事なるべし。と考にいへり【皇居の藤原とは地異なり。上にいへり】古爾之郷《フリニシサト》とは此處後飛鳥岡本宮の舊跡の東三四丁の際にありて岡本の舊都《フルサト》の内なるゆゑに天智、天武の御代の頃もはら故郷と云ならはしたりしなるべし。卷十一に「大原古郷妹置《オホハラノフリニサトニイモヲオキテ》われいねかねつ夢にみえこそ」といふ歌もあり【記傳に天皇初此夫人の家に通ひすみ玉へりしゆゑに古《フリ》にし郷《サト》とはよみ玉へるなるべしといへれどさては卷十一なる歌をも天武の御製とせむか。かゝれば此説は從ひがたし○落卷者後《フラマクハノチ》のマクはムに約まれば降ムハ後となり○歌意は。朕《ア》がすむ里に甚《イミ》じき大雪ふりて眺望《ミワタス》けしきいとおもしろし。其方《ソナタ》の住るゝ大原は古にし里にて何事も世におくれたる所なれば都に見飽《ミアキ》たる後にこそふらめ。さる片鄙《カタホトリ》に居むよりは都《ミヤコ》に出てかゝるめづらしき雪をもみられよかし。とのたまへるなり
 
藤原夫人《フヂハラノキサキノ》《マツレル》v和《コタヘ》歌一首
 
吾崗之於可美爾言而《ワガヲカノオカミニイヒテ》。令落雪之摧之《フラシメシユキノクダケシ》。彼所爾塵家武《ソコニチリケム》
 
於可美爾言而《オカミニイヒテ》のオカミは紀に闇淤加美神《クラオカミノカミ》と見えて傳に久良《クラ》は谷のことなり。淤加《オカ》の意は思ひ得ず。美は龍蛇の類の稱。和名抄に水神又蛟を和名|美豆知《ミヅチ》とある美これなり。また蛇《ヘミ》蛟《ハミ》などの美《ミ》もこれなり。日讀《ヒヨミ》の巳を美《ミ》とよめるも此意なるべし。さて此神を書紀に※[雨/龍]と書て此云2於箇美《オカミ》1とあり。これらを思ふに此神は龍にて雨を物する神なり。といへるが如し。かゝれば雨を掌る神なるゆゑにわれ此神に言て雪を降らしめたるなりとのたまへるなり。古義に言は乞の誤なりとて改めたるはなか/\に非なり、コフとは願《ネガ》ふ意の詞なり。こゝはさる事にはあらず。俗に言ヒ付テまた申付テなどいふに同じく※[雨/龍]を自由にめしつかふよしにのたまへるなれは言而《イヒテ》となくては語勢を失ふべし○歌意は。君の御郷《ミサト》に大雪ふれりとて汝がすむ里には後にこそふらめ。今日はよもふりたらじ。とほこりかに詔《ノタマ》へどもその雪は妾《ワラハ》の里なる※[雨/龍]の神に申付てふらしめたる雪にて此里にふりたる雪の摧《クダ》けの端《ハシ》がすこしばかりその御あたりに散たるにこそあらめ。とのたまへるなり。すべて男女の際の贈答などはおほかた言《イ》ひ懸けたるを言《イ》ひもどくが古のならはしにて古今集に安倍清行の「つゝめども袖にたまらぬ白玉は人をみぬめのなみだなりけり」の答に小町が「おろかなる涙ぞ袖に玉はなすわれはせきあへず瀧つせなれば」また敏行の「つれ/\のながめにまさる涙川袖のみぬれてあふよしもなし」のこたへに業平の「あさみこそ袖はひつらめ涙川身さへながるときかばたのまむ」などの類なほいと多し。あはせ見て古への風情《ミヤビ》をわきまふべし
 
藤原宮御宇天皇代《フヂハラミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
大津皇子《オホツノミコノ》竊下《シヌビテクダリテ》2於伊勢神宮《イセノカミノミヤニ》1上來時《ノボリマストキ》大伯皇女御作歌《オホクノヒメミコノヨミマセルウタ》二首
 
大津皇子は天武紀に納2皇后(ノ)姉大田皇女1爲v妃生2大來皇女與2大津皇子1とありて大伯皇女と同母兄弟《ハラカラ》にませり。【大來と大伯とおなじ】同紀十二年二月に大津皇子始聽2朝政1。十四年正月授2淨大貳位1とみゆ。持統紀に朱鳥元年十月皇子大津謀反。賜2死於譯語田舍1。時年二十四。大津(ハ)天渟原瀛眞人天皇第三子也。容止墻岸音辭俊朗。爲2天命開別天皇1所v愛。及v長辨(ク)有2才學1。尤愛2文筆1。詩賦之興自2大津1始也。また懷風藻に幼年好v學博覧而能屬v文。及v壯愛v武多力而能撃v劍。性頗放蕩不v狗2法度1。降v節禮v士。由v是人多附託。時新羅僧行心解2天文卜筮1。語2皇子1曰。太子骨法不2是人臣之相1。以v此久在2下位1恐不v全v身。因進2逆謀1とあり〔頭注、校正者云。新羅僧の上有字脱か〕○竊下云々は天武は十五年九月九日に崩り玉へり。其十月二日に大津の謀反|發覺《アラハレ》て三日に賜死《ウシナハ》れ玉へり。此九月九日よりは殊に大御喪にこもりたまへれば十月二日までわづかに二十日ばかりのほどに大事をおぼし立ながら伊勢へ下り玉ふ暇はあらじ。さればこは天皇御病ひのほどより早くおぼしたつ事ありてその七八月の比に彼大事の御祈又は御はらからの齋王にもそのよしかたらひ玉はんとて下り玉ひつらむ。さらば淨御原宮の條に載すべきを其天皇崩ましてより後の事は本よりにて崩玉へる前のこともこの謀反崩後にあらはれしゆゑに持統の御代に入しならむ○大伯皇女は備前の邑久《オホク》にて生れませるゆゑに御名となれるよし紀【斉明七年】にみゆ。天武紀三年十月の件に大來皇女自2泊瀬齋宮1向2伊勢神宮1かくて持統紀朱鳥元年の件に皇女大來還2至京師1とみえたり
 
吾勢枯乎倭邊遣登《アガセコヲヤマトヘヤルト》。佐夜深而鷄鳴露爾《サヨフケテアカトキツユニ》。吾立所霑之《アガタチヌレシ》
 
セコは兄子《セコ》なり。仁貿紀に古昔不v言2兄弟長幼1女(ハ)以v男稱v兄《セ》男(ハ)以v女稱v妹《イモ》とあるが如し。こゝも大津皇子は御弟なれども女よりは兄《セ》といふ例なればなり。倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》は都へかへしやるとての意なり。鷄鳴露爾《アカトキツユニ》の鷄鳴はアカトキと訓むべし。卷十五に安香等吉能《アカトキノ》、また安可等吉能《アカトキノ》、また卷十七に「阿加登吉《アカトキ》さむし」卷十八、卷二十に阿加等伎《アカトキ》など其外にもみゆれどアカツキと假名にかけるはひとつもなし。卷十一には旭時等鷄鳴成《アカトキトトリハナクナリ》とまさしく時字を用たれば夜の明る時といふ意にてアカツキならぬことしるし。字鏡に※[日+出]、旭、※[日/咎]〔頭注、校正者云。※[日/咎]は※[日/各]か〕などをみな阿加止支《アカトキ》と訓み※[日+斤]を於保安加止支《オホアカトキ》と訓るにても知べし,然るに名義抄、字類抄などに至ては曉アカツ△〔頭注、校正者云缺字はキか〕と訓り。こはやゝ後の事なり○御歌意。わか兄子《セコ》を倭へかへしやるとて夜深くおくりまゐらせたるゆゑに曉《アカトキ》の露にわが立ぬれしとなり
 
二人行杼去過難寸《フタリユケドユキスギガタキ》。秋山乎如何君之《アキヤマヲイカデカキミガ》。獨越武《ヒトリコユラム》
 
御歌意は二人うちかたらひつゝゆけども秋山はいと物淋しくて行過がたきをいかにしてか只獨君が越たまひなむとなり。めづらしき御對面《オホムタイメ》のほどもなく歸らせ玉ふ御別れにはかくもよませ玉ふべき事ながら殊更に身にしむやうに聞ゆるは謀反の事を聞しめしてそのなりならずもおぼつかなければまたの御對面もいかならむとおぼしける御心より出たる言の葉なればなるべしと代匠記にいへるまた此二首の調べのかなしきは大事をおぼすをりの御別れなればなるべしと考にいへるげにしかるべし
 
大津皇子|贈《オクリタマフ》2石川郎女(ニ)1御歌一首
 
足日木乃山之四付二《アシヒキノヤマノシヅクニ》。妹待跡吾立所沾《イモマツトアガタチヌレヌ》。山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 
足日木乃は枕詞なり。古義云。足はイカシにて【イカの切ア】茂檜《イカシヒキ》〔頭注、校正者云。茂檜の下木の字あるべきか]なるべし。茂《イカシ》は茂穗《イカシホ》、茂彌木生《イカシヤクハエ》などの茂《イカシ》にて檜の茂《シ》み榮えたるを稱《タヽヘ》し言ならむ。檜、今はヒノキといへど古へはヒキと云けむ。そは集中に此枕詞を多く足檜木とも書るをまた十一に三處、十二に二處まで足《アシ》檜とも書たるを合せ思ふべし。【ヒキといはずは檜の一字をヒキに用ふべき謂《ヨシ》なし】かくて山とつづくるは白浪之濱《シラナミノハマ》、白菅之眞野《シラスゲノマヌ》、炎之春《カゲロヒノハル》などと同例なり〔頭注、校正者云。カゲロヒはカギロヒか〕。山にはくさ/”\の木あれど檜を以て茂檜《アシヒキ》の山とつゞけたるは檜は諸木の長上《カミ》にして此《コ》を眞木《マキ》ともいへばあまたの中に殊にとり出ていへるなり。此説從ふべし。四付《シヅク》は草木よりしたゞる滴《シヅク》なり○妹待跡《イモマツト》のトはとてなり○御歌意あきらかなり
 
石川郎女(ガ)奉《マツレル》v和《コタヘ》歌一首
 
吾乎待跡君之沾計武《アヲマツトキミガヌレケム》。足日木能山之四附二《アシヒキノヤマノシヅクニ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》
 
歌意「吾《アカ》立ぬれぬ」とのたまへるはいとも恐《カシ》こくかたじけなければその君がぬれましけむ山の滴にわれならましものを。山のしづくこそうらやましけれ。となり
 
大津皇子|竊2婚《シヌヒアヒタマヘル》石川(ノ)女郎《イラツメニ》1時|津守連通《ツモリノムラジトホル》占2露《ウラヒアラハセレバ》其事《ソノコトヲ》1皇子御作歌《ミコノヨミマセルミウタ》一首
 
女郎拾穗本には郎女と作り○津守連通は續紀に宜【人】擢d於百僚之内優2遊學業1堪v爲2師範1者u特(ニ)加2賞賜1勸【地】勵後生【天】。因賜2云々從五位下津守連通云々絶〔頭注、校正者云絶は※[糸+施の旁]か〕十匹絲十※[糸+句]布二十端鍬二十口1。これ易術に委しきを以てなり
 
大船之津守之占爾《オホフネノツモリノウラニ》。將告登波益爲爾知而《ノラムトハマサデニシリテ》。我二人宿之《ワガフタリネシ》
 
大船之は枕詞なり。大船の泊る津のよしなり○將告登波《ノラムトハ》は占にあらはれむとはの意。卷十一に「事靈八十衢夕占問占正謂《コトタマヲヤソノチマタニユフケトフウラマサニノレ》妹にあはむよし」また「夕卜爾毛占爾毛告有今夜谷《ユフケニモウラニモノレルコヨヒタニ》」また十三に「夕卜之吾爾告良久《ユフウラノアレニノラク》」などみゆ。卜《ウラ》に顯るゝを告《ノル》といへり。益爲爾を考に正しになり。正しは專らに占にいふ言。といへり。されどいかゞあらむ。略解に宣長の説を引て卷十四「むさし野のうらへかたやき麻左※[氏/一]《マサテ》にも」とあればこゝの爲は※[氏/一]の誤ならむといへり。芳樹おもふに此説の如くマサデなるべく其マサデはマサ出にて正しく占に出たるよしなるべし。【さればこは占筮にのみ用ゐる詞なり】上に引ける十四の歌も四五の句|乃良奴伎美我名宇良爾低爾家里《ノラヌキミガナウラニデニケリ》とある低がマサデのデなり。さてこゝはマサデニシリテとつゞけたれどこは句調のしからざるを得ぬゆゑにかくよめれど「まさでにのらむとはかねて知て」とノラムをマサデの下に置てこゝろうべし○御歌意は。津守連は優れたる易術家なれば此者の卜筮にまさしく露顯《アラハ》れ出《デ》むとはかねて心に知りたれども戀しきに得たへずして吾|二人相宿《フタリアヒネ》しとなり
 
日並皇子尊《ヒナメシノミコノミコトノ》贈2賜《タマフ》石川女郎《イシカハノイラツメニ》1御歌《ミウタ》一首   女郎字曰2大名兒1
 
日並はヒナメシとシもじをつけて訓べし。草壁皇子尊の御事なり。續紀其外に日並知《ヒナメシ》とみえ卷一の歌に日雙斯《ヒナメシ》とも書たればヒナメシと訓べきこと論《アゲツラヒ》なし。シはシリの約にて天皇に相ならびて大政《ミマツリゴト》知《シ》り玉ふ意にて後に稱《タヽ》へられたる御謚なること卷一に委しくいへり。古義に日並知はヒナミシラスと訓べし。そは日並所知とも書たるにて知べし。といへるは甚《イミ》じき誤なり。さるは本朝月令に右官史記云太上天皇【日並所知《ヒナミシノ》皇子命之后也】また栗原寺塔〔頭注、校正者云古義には栗原寺のとあり〕の露盤の銘に淨美原宮治2天下1天皇時|日並御宇東宮《ヒナミシノヒヅギノミコ》などある所知御宇などのもじによりてしかいへるなれどもこれらみな義をもてかけるものにて御名にして訓むには所知も御宇もシと訓むべきこと「日雙斯のみこのみこと」とあるを以て知べし○石川女郎の下板本分注に女郎字曰とあるは大名兒の三字を脱せるにてこの女郎の字を大名兒といひしとおもはる。さて字とは名の外の稱號なることいはむも更にて名義抄、字類抄等に字アザナとあり。そはいかなるゆゑにてアザナといふにか詳ならず。芳樹按にもしくは田地の字《アザナ》より起りて畝名《アゼナ》の義にはあらざるか。猶考べし。もろこしに字《アザナ》をつくるは名を呼ぶを不敬とするゆゑにて禮記の曲禮に男子二十冠而字(ス)また儀禮の士冠禮に冠而字(スルハ)v之(ニ)敬(スル)2其名(ヲ)1也。君父之前稱v名。他人(ニハ)則稱v字也と見え女子の事は同書に女子許嫁笄而字とありて註に亦成人之道也といへり。かゝれば支那《カラクニ》にての字は男は冠し女は笄して世の交りをなすにあたりてまことの名を稱《イ》ふは不敬なりとて殊に別號をつくるを字といふなり。此間《ミクニ》のアザナはさるよしあるにはあらず。男も女も氏《ウヂ》と姓《カバネ》と名《ナ》とのみつの中にその氏姓の二つは家に傳はれるもの名は身につきたるものにて天子より庶人に至るまで名を稱ふを不敬とするなどの制《オキテ》はさらにあることなし。宇治拾遺に「今は昔播磨守爲家といふ人あり【中略】させる事もなき侍なり〔頭注、校正者云侍なりはありか〕。あざなサダとなんいひけるを例の名をよばずして主も傍輩もたゞサダとなんよびける」とあるをおもへばたとへ字ありてもまことの名をいふがならはしとおもはる。かゝれば別に字《アザナ》といふものありなんはあぢきなき贅物《アマリモノ》なり。されどもその始め天皇、皇后、御子達の御名代より起りて後世の田地に某名といふものゝあるがみなそを持たる人の別名なれば名義は畝名《アザナ》なるを後々は支那ぶりにならひまことの名をいふをば不敬のやうに思ひなし此間《コヽ》にてももはら字を稱することゝはなりしなり。されども此間の字《アザナ》は名の外の號といふのみにて名に關係《カヽヅラフ》ことは更になし。集中にていはゞ此卷なる大伴田主は田主が名なるを別に仲郎といふ字あり。卷十六なる土師水通は水通が名なるを別に志婢麻呂といふ字あり。こは紀のうちにも孝徳紀に大伴長徳字馬飼、蘇我日向字身※[夾+立刀]などもみなおなじ。また靈異記にも云々其名未詳、字曰瞻保また牟婁沙彌者榎本氏也。自度旡v名。紀伊國牟婁郡人。故字号2牟婁沙彌1などゝもあれば法師にもいへり。女にも同書に有2一女人1忌部首、字曰2多夜須子1又此集卷六に遊行女婦字曰2兒島1、豐前國娘子字曰2大宅1、卷十六に有2娘子1字曰2櫻兒1また娘子字鬘兒、此外にもみゆ。後のものにては東鑑に豫州妾女字靜。故將軍字三幡〔頭注、校正者云故將軍の下姫君の二字脱せるなるべし〕などと字あれば名をいはず。そは卷一にいへる如く夫たる人ならでは名をいはざるがならはしなるゆゑなり。さればこの石川女郎も別に名はありつらめど名をばあらはさぬゆゑに大名兒といふ字のみの傳はれるなり。さてやゝ後になりて名の字の外に氏の字出來たり。玉葉に田使俊行【字難波五郎】藤原成直【字早尾十郎】の如き田使は氏にてその氏の字を難波といひ藤原は氏にてその氏の字を早尾といふ。俊行は名にてその名の字を五郎、成直は名にてその成直の字を十郎といふなり。此外源高綱は氏と名となるをその氏の字を佐々木、名の字を四郎といふ平重忠は氏と名となるをその氏の字を畠山、名の字を次郎といふ類ひ後世までかはることなし。さるは此端書なるは女の事ゆゑ女の名は世に顯はれずてたゞ字のみなればかくくだ/\しくいはでもありぬべけれど事のついでにおどろかしおくなり。なほ氏と名との外に儒者の字つくる例などくさ/”\論ふべき事もあれど古義にかつ/\いへるがみな理ある説なればここには省きつ。彼書を需めて看るべし
 
大名兒彼方野邊爾《オホナコヲヲチカタヌヘニ》。苅草乃束間毛《カルカヤノツカノアヒダモ》。吾忘目八《アレワスレメヤ》
 
大名兒は女郎の字なること上にいへり。此句束間のうへにうつしてみるべし。大名兒をつかのまもわれ忘れめやのよしにて二三の句は束をいはん序なり○彼方の地名にて大祓詞に彼方之繁木本《ヲチカタノシゲキガモトヲ》とあるこれなり。【大祓詞は天智の御代に大津宮にて出來たる文なるゆゑに近江の湖より落たぎち流るゝさまを近江山城の地名につきていへり。委く大祓執中抄にいへり】神名式山城國宇治郡宇治|彼方《ヲチカタ》神社また神功紀に烏智簡多能《ヲチカタノ》云々とあるも此地名にて五社百首に「をちかたや都のたつみ誰すみてまきのすみ竈烟たつらむ」拾遺愚草に「をちかたやはるけき道に雪つもり待夜かさなるうぢの橋姫」などよめるみな同所なり○苅草《カルカヤ》の草《カヤ》は屋を葺《フ》く料に苅《か》る草なり【卷一にいへり。後世カルカヤといふ一種の草あれどそれにはあらざるなり】○束間《ツカノアヒタ》は草《カヤ》は握《ツカ》みて苅る物なるゆゑにかくいへるにて束《ツカ》の間とは暫しの間といふことなり○御歌意は明らかなり
 
《イデマセル》2于|吉野宮《ヨシヌノミヤニ》1時|弓削皇子《ユゲノミコノ》贈2與《オクリタマヘル》額田王《ヌカタノオホキミニ》1御歌一首
 
この事いつの事なりけん。持統紀に四年五月丙子朔戊寅幸2吉野宮1。五年四月丙辰幸2吉野宮1とみゆ。夏の御歌なればこの四月五月の度ならむか○弓削皇子は天武紀に大江皇女生2長皇子與2弓削皇子1。持統紀に七年正月授2淨廣貳1。續紀に文武天皇三年七月薨。天武帝第六皇子也
 
古爾戀流鳥鴨《イニシヘニコフルトリカモ》。弓絃葉乃三井能上從《ユヅルハノミヰノウヘヨリ》。鳴渡遊久《ナキワタリユク》
 
古爾は略解に古を戀るなり。妹ニ戀ヒといふも妹を戀る例也。といへり。イニシヘとムカシと用る所は同くて言義は少し異なり。そは芳樹思ふにイニシヘは往《イニ》し方《ヘ》にて過去《スギイニ》し方といふ詞。ムカシは向《ムカ》シにて心のむかはるゝよりいふ詞なり。【古今集に「むかしへや今もこひしき」とあるへはイニシヘのヘと同じ。さればムカシとのみにあらでムカシヘともいへり】和訓栞に小町歌に「いにしへのむかしの事をいとゞしくかたれば袖に露けかりけり」といふを引《ヒ》けり。かく重ねたるは過去《スギイニ》しかたの種々思ひ出らるゝが中にいとゞしく心のむかしき事もあるよしにて徒らに重ねたるにはあらず。さればおのづから古《イニシ》へと昔とはけぢめある詞にてこゝにはムカシとはいひてはなけれど鳥の過去《スギイニ》し方に戀るとあるにて戀るにムカシの意を含めり〇弓絃葉乃三井《ユヅルハノミヰ》は弓絃葉と名に負へる御井のあるなるべし。榎(ノ)葉井などの類なり。和訓栞に池田莊六田村と川上莊大瀧村と二所にありていづれなる事をしらずといへり。考にこは秋津の離宮のほとりにあるならむとみえたるは大瀧村のかたなるをそれとおもへるか。上從のウヘはアタリの意。ヨリはヲの意にて御井のあたりを鳴渡るよしなり○御歌意は。霍公鳥の此處を鳴渡るは御父天皇の御在世の古へ幸《イデマ》しゝ其時をわが戀しく思奉る如く霍公鳥も戀しく思へばにや所しもあらんに天皇の二おはしましゝ此御井のあたりを心ありげに鳴わたりゆくよと宣ひて額田王は齡高くおはして天皇の昔をもよく知《シロ》しめせるゆゑに殊更におどろかし玉へるなるべし。さるは諸註額田王を女王の如く思ひて解《トキ》たれどもこは女王の父王にて持統天皇の御代のころは齡八十にもあまり玉へるなるべければ從駕の列にはまさゞりしこと和歌《コタヘウタ》にても知らるればことさらにその住玉へる所へ便につけておくり玉へるなるべし
 
朝田王(ノ)奉《マセル》v和《コタヘ》〔頭注、校正者云。奉和歌の下一首の二字脱か〕
 
古爾戀良武鳥者《イニシヘニコフラムトリハ》。霍公鳥蓋哉鳴之《ホトヽギスケダシヤナキシ》。吾戀流其騰《ワガコフルゴト》
 
蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》のケダシヤはモシヤの意なり。字鏡に儻(ハ)設也、若也、※[人偏+周]也、太止比又介大志とありて名義抄には儻をモシと訓めり。ケダシとモシとの同じきを知べし。字類抄には蓋ケダシとあり。集中に用ゐしケダシといふ詞みな此意なり。鳴之は鳴渡遊久《ナキワタリユク》をうけてなきわたりゆきしならむといへるなり○吾戀流其騰《ワガコフルゴト》はわが天皇を戀しく思ひ奉る如くなり○歌意。此時額田王はいたく年老て從駕《ミトモ》し玉はねば家より答へ玉へること端書の下の註に異本どもに從2倭京《ミヤコ》1進入とあるにて知られたり。されば弓削皇子はまさしくその鳥の音をきゝ玉ひつらめど額田王は倭京にましてきゝ玉はぬゆゑに古へに戀らむといふ鳥は霍公鳥なるべし。さるは霍公鳥は古へを戀る鳥といふなればもしくは吾か天武天皇をこひ奉るごとく彼鳥も天皇の幸のをりの事をこひしく思ひて啼しならむ。とよみ玉へるなり
 
《ヨリ》2吉野《ヨシヌ》1折2取《ヲリテ》蘿生松柯《コケムセルマツカエヲ》1遺時《オクリタマヘルトキ》額田王奉入《ヌカダノオホキミノタテマツレル》歌一首
 
蘿は和名抄に松蘿、辨要決云、松蘿一名女蘿、和名萬豆乃古介、一云佐流乎加世とあり。紀に蘿を此云2比河|礙《ケ》1とありて纂疏に蘿謂2垂苔《サガリコケ》1也。俗謂2日蔭葛《ヒカゲノカツラト》1とあり。古今集物名にサガリゴケとあるこれなり。女蘿は松枝に生て甚《イト》長く色青く帶の如くなる物と漢籍にも見えたればさがり苔てふ名も松のうへより懸《サガ》るよしなり。此物奥山ならでは生ず。又乾ても色青くて枯ずとぞ【堀川百頸に「露かゝらねどかるゝ世もなし」とよめるも此よしにこそ】○遺時《オクリタマヘルトキ》とは弓削皇子の遺り玉へるなるを上の端書にあるゆゑに略きたるなり○奉入はタテマツルと訓むべし。記に還入とあるを傳にカヘリマシキと訓べし。入字は添てかけるのみ。この外に賜入ともあり。止由氣宮儀式帳に自2朝庭1進入《タテマツル》ともあり
 
三吉野乃玉松之枝者《ミヨシヌノタママツガエハ》。波思吉香聞君之御言乎《ハシキカモキミガミコトヲ》。持而加欲波久《モチテカヨハク》
 
玉松とは略解にしげくまろらかなる篠を玉笹といふ如く老松の葉は圓らかに繁れゝば玉松といふ歟といへり。宣長は玉は山を誤れるなり。十五に夜麻未都可氣爾《ヤママツカゲニ》ともあり。然るを後のうたに玉松とよめるはみなひがごとなり。といへるさもありぬべく思はるれど玉は山の誤なりと證も旡きに定《サダメ》むもいかゞなればもとのまゝにて説つ。且語勢を玩ぶに「三吉野の玉松がえ」といひたらむが松を愛《ハシ》く思ふ情にもかなへるやうなり【後の集どもに玉松ガエとよめるがおほきはみな此歌によれるなれば證とするにたらず】○波思吉香聞《ハシキカモ》は愛《ハシ》き哉《カモ》なり。芳樹おもふにこは君にかゝる詞にて愛き君といふ意にて松がえを愛《ハシ》きかもといへるにはあらざるなり。若これを松がえを愛《ハシ》くおもふよしにするときは三句にて斷《キ》るゝなり。此頃はいまだ三句にて斷るゝ歌はなき事なり。さればこゝは卷三に波之吉可聞皇子之命乃《ハシキカモミコノミコトノ》とおなじつゞけざまにて愛《ハシ》き君と續《ツヾ》くなり○持而加欲波久《モチテカヨハク》は持て通ふといふを伸たる詞なり○歌意は。この日蔭のかつらの生ひさがれる玉松がえは愛くおもひまつる君が御言を持て此方《コナタ》に通ふよといへるなり。かくいへるうちにおのづから松を変する意もこもれり。さるはいたづらに松をのみおくり玉ふべきにあらず。必ずその枝に御歌にても御消息にても添たるなるべし。故に持てかよふといへるなり。すべて古へは木の枝或は花紅葉などに物つけておくれるそのためしいとおほし
 
但馬皇女《タヂマノヒメミコノ》《イマセル》2高市皇子宮《タケチノミコノミヤニ》1時《トキ》《シヌビテ》2穗積皇子《ホツミノミコヲ》1御歌一首《ヨミマセルミウタヒトツ》
 
但馬皇女は天武紀に夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1。續紀に和銅元年六月三品但馬内親王薨。天武帝之皇女也○高市皇子の子字の下尊字を脱せり。天武紀に納2※[匈/月]形君徳善女尼子娘1生2高市皇子命1また持統紀に四年七月以2皇子高市1爲2太政大臣1。六年正月増2封二千戸1。通v前五千戸。七年正月以2淨廣壹1授2皇子高市1。十年七月後皇子尊薨【後皇子尊とあるはこれよりさき三年四月に草壁皇子尊の薨じ玉へることみゆ。この草壁に對へて後といへるものなり】とあり。壬申の亂に功ありし事紀に見え太子にたち玉へるよしは紀に洩れたれど立玉へるならむとおぼしき事此集後々にいちじるし。懷風藻に高市皇子薨後引2王公卿士於禁中1謀v立2日嗣1といへるもこの皇子の皇太子にてましゝが薨じ玉へるゆゑにそのあとに居玉はむ日嗣の儲君を立むことを謀り玉ふよしにてこれはた此皇子の太子なりし證なり○穗積皇子は天武紀に次夫人蘇我赤兄大臣女|大〓《オホヌ》娘生2一男二女1。其一曰2穗積皇子1。續紀大寶二年九月穗積親王爲2知太政官事1。靈龜元年七月知太政官事一品穗積親王薨【知太政官事のことは標註職原抄校本にいへり】と見ゆ
 
秋田之穗向乃所縁《アキノタノホムキノヨレル》。異所縁君爾因奈名《カタヨリニキミニヨリナヽ》。事痛有登母《コチタカリトモ》
 
穗向はホムキと訓べし。卷十七に秋田乃穗牟伎《アキノタノホムキ》とあり。稻の穗向《ホムキ》は一方へよりなびく物なるゆゑに初二句はカタヨリの序とせり○異所縁はカタヨリと舊く訓るによるべし。卷十に秋田之穗向之所依片縁《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニ》に云々とあり。【かたよりといふ詞後の集どもにいとおほし】君爾因奈名《キミニヨリナヽ》は君によりなむといふに同じ。卷一に許藝※[氏/一]菜《コギテナ》とあるナに同じ【此句をヨラナヽと訓べしといへる人あれどそは伊勢物語に「鹽竈にいつか來にけむ朝なぎに釣する舟はこゝによらなむ」とあるは沖にある船の彼方よりよらむ事を願ふ意なればヨラナムと云べし。この御歌は此方より彼方へよらむとのたまふなればヨリナムと无くては叶はぬなり。これ自他のけぢめにて彼方よりよれかしと思ふかたは五十音の第一位よりナムにつらね此方よりよらばやと願ふかたは五十音の第二位よりナムに連なる語格なり】○事痛有登母《コチタカリトモ》はコチタカリトモと訓て事は言の借字。人に言ひさわがるゝことにて浮名を立らるゝをいふ○端書に在2高市皇子宮1時とある古へのならはし御同腹の兄妹の間ならば御同居もし玉ふべけれど但馬皇女と高市皇子とは御同腹ならねば御同居し玉ふべきよしなし。おもふに穗積皇子と密婚のことほのかに聞えて御夫婦となし難きゆゑあるにより高市皇子の宮に皇女をあづかり玉へるなるべし。さるは穗積皇子とも異腹《コトハラ》なれば夫婦とならせ玉へりとて道ならぬ事にはあらねどさるすぢならで外に御夫婦となし難きゆえありしなるべし。されば御歌意はかくまで深く思ひつきたるからはひたすらに君に依りなむ。よしや人に言痛《こちた》く言ひさわがれて憂名の世にたつともいとはじとなり
 
《ノリゴチテ》2穗積皇子《ホツミノミコニ》1遣《ツカハサルヽ》2近江志賀山寺《アフミノシガノヤマデラニ》1時《トキ》但馬皇女御作《タヂマノヒメミコノヨミマセル》歌一首
 
志賀山寺は崇福寺にて天智天皇の御願にて建立《タテ》られたる寺なり。文武紀に大寶元年八月太政官處分近江國志我山寺封起2庚子年1計滿2三十歳1云々。並停2止之1准v封施v物〔頭注、校正者云庚午は庚子か又准封の上に皆の字あるべきか〕と見え治部式に國忌天智天皇十二月三日崇福寺とあり。穗積皇子を此寺に遣はされしは但馬皇女との中を遠避《トホザケ》むとての事にはあらぬにや
 
遺居而戀管不有者《オクレヰテコヒツヽアラズハ》。追及武道之阿曲爾《オヒシカムミチノクマミニ》。標結吾勢《シメユヘワガセ》〔頭注、校正者云。阿曲は阿囘か〕
 
遺居而《オクレヰテ》は遺《ノコ》され居ての意なり。【俗に人と道を共に行くとき故ありてあとに引さがれるをオクルヽといふとは少し異なり】人の他所に行たるあとにのこるをオクルといふこと卷八卷九などに後居《オクレヰ》てとある皆おなじ意なり。戀管不v有者《コヒツヽアラズハ》は戀つゝありむよりはの意なり○追及武《オヒシカム》は追およばむなり。【俗におひつかむといへり】記に伊斯祁斯祁《イシケシケ》とあるイは發語にてシケはこゝのシカムに同じ。【シカム、シキ、シク、シケとはたらく也】阿曲はクマミと訓べし〔頭注、校正者云。こゝの阿曲も囘か〕。卷五に道乃久麻美《ミチノクマミ》とあり【クマワと訓むはわろし】○標結《シメユヘ》は標《シメ》を結《ユヒ》玉へとのたまふにてシメとはシルシの物なり。さるは今も山中などにて別れ道のある處さては道ともわきがたきやうの處にいさゝか紙などを結びつけおくがあり。かゝる類ひを標結《シメユフ》といふなり【こゝよりこゝまでと我が領《シメ》たる所のしるしにするシメとは言おなじくて義ことなり。字類抄に立標シリキシメ立v木爲v記也とあり。シリキの義は詳ならねど立v木爲v記也とあるはこゝよりこゝまでといふしるしなるべし。さればこは此御歌とは少しかはれり】○御歌意は。遺され居て戀つゝあらんよりは君の御あとを追ひ及き行むほどにわが追及《オヒシ》く道の隈々の迷ひぬべき所々に標を結ひつけおき玉へとなり【古義に君のあとを慕ひて追つかむぞ。其とほりませる道のぐまくまの云々と解たるは解たるは追及武にて句を斷たるたり。されど古への歌に五言の句にて斷《キ》れたるはあることなければ「慕ひて追つかむぞ」といへるは誤なり。こゝは追及ム道とつゞけてみるべし。こはいさゝかなることにて古義の説を引いていはむばかりの説にはあらねど三句にて句を斷《キ》るがあしきよしを諭さむとて引出たるのみなり。ともすれば後言《シリウゴト》いふ翁となおもひそ】
 
但馬皇女《タヂマノヒメミコノ》《イマセル》2高市皇子宮《タケチノミコノミヤニ》1時《トキ》竊2接《シヌビアヒタマヒシ》穗積皇子《ホツミノミコニ》1事《コト》既形而後御作歌一首《アラハレテノチニヨミマセルミウタヒトツ》
 
人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》。巳母世|爾未渡《ニイマダワタラヌ》。朝川渡《アサカハワタル》
 
人事乎《ヒトゴトヲ》は他言《ヒトゴト》がの意にて繁美許知痛美《シゲミコチタミ》は繁サニ言痛《コチタ》サニなり。かにかくに人に言ひさわがるゝ故にの意也○巳母世爾はいづれの説も諾《ウベナ》ひがたし。たゞ古義に母字類聚抄古寫本、幽齋本、拾穗本等に无きによればオノガヨニなるべきか。略解にも母は我の誤ならむといへり。又飛鳥井本、六條本等には母の下に登字ありてイモトセニと訓り云々。今按に巳母は生有と書るを草書より誤寫せるにや。さらば生有世爾《イケルヨニ》と訓べし。卷四に「生有代爾《イケルヨニ》あはいまだ見ず事絶てかくおもしろく縫へる嚢は」また卷十二に「生代爾《イケルヨニ》こひちふものをあひみねばこふるうちにも吾ぞくるしき」などあるに同じかるべし○御歌意は密事を竊《シノ》びあへずつひに露《アラハ》されて世の人に名を立られかにかく言ひさわがれなどして己が生《イキ》たるこの現世《ウツシヨ》にいまだあはざりしうきめにあひて苦しむ事よとのたまへるにやといへり。こはいはれたる説の如くなるを己母を誤字とせる説例のあかぬ事ながら必ず誤字なるには疑ひなければ是に從ふべき歟。さてこは遺居而《オクレヰテ》の御歌のまへに入るべきついでなるべくおもはる
 
舍人皇子御歌一首《トネノミコノミウタヒトツ》
 
舍人はトネと訓べし。【古義には六帖にトネリノワウジとあるを例としてトネリと訓たり】記傳云。書紀に欽明天皇の御子に舍人皇女と申すあるを此記には泥杼王とあるは杼泥を下上に誤れるか。杼字は濁音なれば疑はしけれどなほ舍人を刀禰とも云しとは聞ゆるなり。さて當時御子たちの御名は多くその御乳母の姓をとられたれば此も然るべし。姓氏録に等禰直又舍人と云姓あり云々。天武紀に次妃新田部皇女生2舍人皇子1。續紀養老二年正月詔授2二品舍人親王一品1。三年十月辛丑詔曰云々。賜2一品舍人親王内舍人二人大舍人四人衛士三十人1益v封八百戸。通v前二千戸。四年五月癸酉一品舍人親王奉v勅修2日本紀1。至v是功成奏上。八月甲巾詔以2舍人親王1爲2知太政官事1【芳樹云。職原抄准大臣の件に載せたるを以て知太政官事をもおしなべて大臣の下とおもへる人あり。こは抄の旨を得ざるなり。さるは知太政官事の准大臣とおなじさまの職なることいはむも更なれどこは人品による事にて此親王などの此職に居玉へるは左右大臣よりも上なり。その委しきよしは標注職原抄にいへり】神龜元年二月甲午一品舍人親王益v封五百戸。天平七年十一月乙丑知太政官事一品舍人親王薨云々。宣詔贈2太政大臣1。親王天渟中原瀛眞人天皇之第三皇子也。天平寶字三年六月庚戊詔曰。自今以後追2皇舍人親王1宜v稱2崇道盡敬皇帝1。當麻夫人稱2大夫人1。兄弟姉妹悉稱2親王1〇皇子の下に贈|舍人《トネ》娘子の五字あるべし。こは舍人親王を養育《ヒタシ》まつれる御乳母の女《ムスメ》にて舍人《トネ》氏なるべし
 
丈夫哉片戀將爲跡《マスラヲヤカタコヒセムト》。嘆友鬼乃益卜雄《ナゲヽドモシコノマスラヲ》。尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
丈夫哉《マスラヲヤ》のヤは反語にてヤハなり。ますらをやは片戀せん。かたこひはすべからぬ事ぞ。と思ひ嘆友《ナケヽドモ》の意なり。片戀とは彼方《カナタ》には此方《コナタ》を戀もせぬに此方《コナタ》よりのみ彼方《カナタ》をこふるをいふ○鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》の鬼《シコ》は醜《シコ》に同じ。記に伊那志許米《イナシコメ》とある志許《シコ》にて紀に醜女とかける醜字を志許《シコ》とよみたるも同じ。傳に皆其物を惡みて志許《シコ》とはいふなりといへり○尚《ナホ》は俗にヤハリといふにおなじ○御歌意は。われは丈夫《マスラヲ》にてありながら彼方《カナタ》にはわれを戀ひ思ひもせぬを此方よりのみやはりこふるはさても惡き丈夫かなと自らの心を罵《ノ》り玉へるよしなり
 
舍人娘子《トネリノイラツメガ》《マツレル》v和《コタヘ》歌一首《ウタヒトツ》
 
この娘子《イラツメ》は舍人《トネ》氏にて親王《ミコ》を養育《ヒタ》しまつれる御乳母の子にて卷一に持統天皇の參河の幸に從駕《ミトモ》せし女と同人なるべし
 
歎管丈夫之《ナゲキツヽマスラヲノコノ》。戀禮許曾吾髪結乃《コフレコソアガモトユヒノ》。漬而奴禮家禮《ヒヂテヌレケレ》
 
丈夫之はマスラヲノコノと訓べし。此詞こゝはよみかけ玉へる御歌をうけたるのみにて意なし○戀禮許曾《コフレコソ》はコフレバコソなり【コフレコソもコフレバコソもおなじ言ながら調べをいたはりて省きもそへもせり】○吾髪結乃《アガモトユヒノ》契冲云。髪結はモトユヒと訓べし。モトユヒとはいへども唯髪なりといへり。芳樹思ふに此説は古への女の髪を亂して結《ユ》ひも揚ずゐるさまの畫などにあるによりてもとゆひは唯髪なりといへりとおもはるれど上古は髪の本を結ひて末をたらしたるが常のさまなり。故に事とある時はこれをあげて釵子《サイシ》などもてとむるなり。【この事委くは別にいへり】さればこゝの髪結《モトユヒ》即ち本を結《ユ》ひて末をたらしたるなり。いかゞは結びもせぬ髪をモトユヒとはいふべき○漬而奴禮家禮《ヒヂテヌレケレ》は當世《ソノカミ》の諺にて人に戀らるれは髪の漬《ヒヂ》てぬるといふ事のありしなるべし。さればヒヂに漬字をかけるも古今集に「袖ひぢて結びし水」とあるヒヂに同じく俗にビツシヨリといふ意なり。さてヌレは水に濡《ヌ》るゝの意にはあらず濕々《ヌラ/\》と解《トク》るさまなり。さるは絲もて結びても油づきたる髪のぬら/\として解《トク》るをいへるにて若き女の髪は今もしかなり○歌意は。君のわれをしか戀しく思ひたまへばこそ其しるしならめ。わが本結《モトユヒ》のびつしよりとぬら/\して解け侍るは。となり
 
弓削皇子《ユゲノミコ》《シヌビタマフ》2妃皇女《キノヒメミコヲ》1御歌四首《ミウタヨツ》
 
弓削皇子は上にみゆ。紀皇女は天武紀に次夫人蘇我赤兄大臣女大〓娘生2一男二女1。其一曰2穗積皇子1。其二曰2紀皇女1とありて弓削皇子とは異母御妹なり
 
芳野河逝瀬之早見《ヨシヌガハユクセノハヤミ》。須臾毛不通事無《シマシクモヨドムコトナク》。有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》
 
逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》はおほかたはユクセヲハヤミといふが例なるをこれはヲをノといへるはめづらし○須臾毛《シマシクモ》は卷十五に「思末思久毛《シマシクモ》みねばこひしき」また「之末思久毛《シマシクモ》いもがめかれて」などその證なり○不通事無《ヨトムコトナク》は滯《トヾコホ》る事なくの意を水の淀むによせていへるなり○有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》のコセは希《ネガ》ふ辭にてコソの活らけるなり。さるはヌとネとの言へつゞけいふときはソをセに轉《ウツ》してコセといふなり。またヌも希《ネガ》ふ意の辭にてネの活らけるなり。此辭も常はネとのみ云るをカモといふへ連くときはネをヌといふなり。卷四に「もし夜の長(ク)有與宿鴨《アリコセヌカモ》」卷五に「わがへのそのに阿利己世奴加毛《アリコセヌカモ》卷十に「いまし七夕《ナヽヨ》を續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》」卷十四に「つま余之許世禰《ヨシコセネ》」記に「宇知夜米許世禰《ウチヤメコセネ》」などあり○御歌意は。芳野川の流れゆく瀬のはやさに水少しも滯《ヨド》むことなし。その如く暫しの摩も障りなく常に相見むよしもがなとなり
 
吾妹兒爾戀乍不有者《ワギモコニコヒツヽアラズハ》。秋芽之咲而散去流《アキハギノサキテチリヌル》。花爾有猿尾《ハナナラマシヲ》
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》は戀つゝあらむよりはなり○秋芽《アキハギ》とは秋花の咲くゆゑにいへるなり。板本芽を茅と作《カケ》るは誤なり○咲而散去流《サキテチリヌル》の咲をば輕くみるべしと古義にいへるはわろし○猿字をマシと訓るは猿を古へマシと云しゆゑに借てかけるなり。古今集に「ましらな鳴そ」とよめるラは等《ラ》にて猿等《マシラ》なり。猿どもといはむが如し。さればマシが猿のことにてラはそへたる言なり○御歌意は。吾妹子をかく執念ふかくいつまでもくよくよと戀つゝあらむよりは秋萩の咲てほどなくちる花のごとく思ひをのこさであらましものをとなり。考、略解等に戀つゝあらむよりは死なむものをといへるはあらず
 
暮去者塩滿來奈武《ユフサラバシホミチキナム》。住吉乃淺香乃浦爾《スミノエノアサカノウラニ》。玉藻苅手名《タマモカリテナ》
 
塩滿來奈武の塩字干禄字書に塩とあれば塩は省字なるべけれど古書おほかた塩とかけり。字彙に鹽俗作塩と見えたり。延喜式に塩字を多く用たり。字類抄には塩シホと見ゆ。さてこゝの塩は潮汐の字にかよはしてかけるなり○淺香乃浦《アサカノウラ》は攝津志に淺香丘在2住吉郡船堂村1。林木緑茂迎v春霞香。西臨2滄溟1遊賞之地とあり。卷十一に「ゆきて見て來てぞこひしき朝香方《アサカガタ》やまごしにおきていねがてぬかも」【この歌寄物陳思の中にあり。】奈良人のうたにて一首の意は朝香方に妹をおきて歸り來てこひしきよしにてそは朝香方は津國の海邊ゆゑ奈良よりは山越えでは行れぬ處なればかくよめるなるべし。よく地理にかなへる】とあるも此地なるべし○御歌意は。夕になりなば汐滿來て刈難くなりなむ。今塩の干たるほどに玉藻を苅てむ。とのたまへるにて月日のへむほどにはいかなる障の出來て娶《アヒ》がたき事のあらむもはかりがたければ事なきほどに皇女をえばやとおもほせるよしを玉藻によせてよみ玉へるなり
 
大船之泊流登麻里能《オホブネノハツルトマリノ》。絶多日二物念痩奴《タユタヒニモノモヒヤセヌ》。人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》
 
泊流登麻里《ハツルトマリ》とは船の行到《ユキハテ》て泊《トマ》る處をいふ【陸路に日くれてやどる處をトマリといふは俗なり】○絶多日《タユタヒ》は泊に船のたゆたふよしにて上二句はこのタユタヒをいはむ序なり。そのタはそへたる辭にて集中「ゆたのたゆたに物思ふ」などもよめるに同じ。さるは船の泊とする處はみな湊のうちにて穩かなるゆゑにうかべる大船の浪のうへにゆたり/\とするを吾心のいつともなき物思ひに何わざも身にしまず朝夕ゆたり/\として身のやせたるよしにてそは何ゆゑぞといへば人の兒ゆゑにかくの如くなりとなり。人ノ兒は人の思ひかけたる兒ゆゑにの意なり。さるは紀皇女を外に思ひかけたる人のありあらずはしられねどわれにかくつれなきは必ずしかならむとおもほしての推量《オシハカリ》にうちつけに人ノ兒とのたまへるなり【紀皇女に懸想《オモヒカケ》たりとおぼしきは石田王にてそは卷三に紀皇女薨後山前王代2石田王1作之といふ歌二首あり。他人すら紀皇女と石田王との中を知てしか歌によめるばかりなればこの皇女はやく石田王に密婚《シヌビアヒ》玉へりしにやあらん。もしかゝらむにはこの人ノ兒ユヱニの句人のつまなるゆゑにの義なること明らかなり
 
三方沙彌《ミカタノサミ》《アヒテ》2園臣生羽之女《ソノヽオミイクハノメニ》1未v經《ヘヌニ》2幾時《イクタモ》1臥病作歌《ヤミフセルトキノウタ》三首
 
持統紀六年十月授2山田史御形(ニ)務廣肆(ヲ)1。前《サキニ》爲2沙門1、學2問新羅1とあれば若年のほど法師になりたりしが持統天皇の六年の頃ははやく還俗して務廣肆の位を玉へり。その後續紀慶雲四年四月賜2正六位下山田史御方(ニ)布※[秋/金]鹽穀1。優2學士1也。和銅三年正月從五位下。同四月周防守。養老四年正月從五位上。同五年正月山田史三方等退廳之後令侍2東宮1また詔曰。文人武士國家所v重云々。文章後五位上山田史御方絶〔頭注、校正者云。こゝの絶も※[糸+施の旁]か〕十五匹絲十五※[糸+句]布三十端鍬二十口と見えてことなる文人なりしゆゑに東宮學士といふにはあらねど東宮にも侍せしめ文章のかたにつきてかゝる恩賜もありしなり。然るに養老六年四月詔曰。周防国前守山田史御方暫臨犯v盗。理令2除免1。先經2恩降1赦罪巳乾〔頭注、校正者云。乾は訖か〕。然依v法備v賊。家旡2尺布1。朕念御方負2笈遠方1遊2學蕃國1。歸朝之後傳2授生徒1。而文館學士頗解2屬文1。誠以不v矜2若人1墮2斯道1歟。宜特加2恩寵1勿v使v徴v贓焉とあるによるに學者とおもはれたり。この生羽之女《イクハノメ》に娶しは還俗してほどもなき事なりけむ〇園臣生羽之女は園は氏。臣は姓なり。生羽之女は女の名なり。卷六に或本云三方沙彌戀2妻苑臣1作歌也とある苑臣はこの生羽《イクハ》の女の事なり
 
多氣婆奴禮多香根者長寸《タケバヌレタカネハナガキ》。妹之髪比來不見爾《イモガカミコノゴロミヌニ》。掻入津良武香《カキレツラムカ》 三方沙彌
 
多氣婆奴禮《タケバヌレ》のケは芳樹云。クレの約にてタクレバなり。タクルとは今の俗言にも長き物を一所に束ね集むるをタクリヨスルといふそのタクルにて長き髪を頭にたくりあげ束ぬるをいふなり。【詞のやちまた下二段の活語の中にタクルあり。かゝれば此詞タケ、タク、タクル、タクレとはたらくなり。こゝの初句この格なり】卷九に小放爾髪多久麻庭爾《ヲハナリニカミタグマテニ》【この放爾の爾は誤ならんか乃となくては合はず】また十一に青草髪爾多久濫《ワカクサヲカミニタクラム》などいへり。故《カレ》その髪を揚て束ねおく處をタキフサといふ。景行紀に箭(ヲ)藏2頭髻《タキフサニ》1また崇峻紀に作2四天王像1置2於|頂髪《タキフサニ》1また紀に自2頂髪中《タキフサノナカ》1採2出《トリイデ》設弦《ウサユツル》1とあるを神功紀には|儲弦《ウサユツル》藏2于|髪中《タキフサニ》1とあるタキもクケタクなどゝ同言ながらこのキはクリの約にてタケといへるとは語脈ことなり。されどもとは同言の別れたるなるべし。ふさは總《フサ》にて髪をたくりあげふさぬる頂をタキフサといふ名にしたるものなり。倭訓栞に結攝《タキフサ》の義也。略してタブサといふ。といへり。【されど頭に髪中《タキフサ》といふ名のあるは男子《ヲノコ》のみにて女子《ヲトメ》には无し。そは男子は常に髪を揚て頂におきたるゆゑおのづから名にもなれゝど女は常にたしゐて事とある時ならでは揚ぬゆゑに頂にタキフサの名は无しと知るべし】ヌレは卷十四に「いはゐづら比可婆奴流々々」とよめるに同じ。【此詞外にもあり】油づきたる髪のなめらかなるをいふ。俗にぬら/\といへり。卷十一に夜干玉之吾黒髪乎引奴良思《ヌハタマノアガクロカミヲヒキヌラシ》とあるヌラシもこのヌレに同じ○多香根者長寸《タカネハナガキ》は總《タガ》ねは長きなり。此詞にて初句のヌレの髪長きゆゑにたぐりあげてもぬら/\とするさまよく知らる○掻入津良武香《カキレツラムカ》この入は宣長の上の誤にてカヽゲツラムカと訓るに從ふべし。卷十六に童女波奈理波髪上都良武可《ウナヰハナリハカミアゲツラムカ》とあるを見るべし○歌意は。生羽之女をまだ童女《ウナヰハナリ》にてありしほどにみそめて婦《ツマ》にもしつぺくかたらひおきしが今は婚《アヒ》ぬべく生長《ヒトヽナレ》るを沙彌久しく病に犯されて通ひもえゆかぬゆゑにおぼつかなく思ひてはやくわがみし放《ハナリ》の髪も長くなりてたくりあぐればぬら/\とすべりおちたくりあげねば長きに過ぐばかりなりたらむを此ごろ病ひにより行てもえみぬまにもしくは外の男にあひて髪上《カミアゲ》せしにはあらぬにやと疑はしく思ふ戀情のやるかたなさをいひおくれるなり【外の男にあひて云々は古義の説なるをこはまことに然るべくおぼゆ。考、略解などにいへるはあさはかにて取がたし】然るに古義に中山嚴水とかいふ者の説をあげて古へ夫と定めし男の女の髪を上る風俗《ナラハシ》のありしなるべしといへるを諾《ウベナ》ひて源氏物語葵の卷に光君の紫の上の髪をそぎ玉ふことみえたり。また伊勢物語に「くらべこし振分髪もかた過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき」とあり。なほその頃までも夫と定まれる男の女の髪をあぐる風俗のありていへるにや。といへるはかへりて古へのさまをよく辨へぬ説なり。芳樹按に女の放《ハナリ》のわらはすがた漸《ヤウ/\》長くなりて男に婚《ア》ふに至れゝば父母その女に仰せて髪を上げしむ。髪をあぐるは櫛もてするゆゑに櫛は女の一生を任する男にはじめてあふとき用ゐる具《モノ》なるゆゑにいみじく秘め重みする物なり。されば朝廷にて禁中の皇后のおはします正寢の貞觀殿の一名を御匣殿《ミクシゲドノ》といふも入内の時髪上げし玉ひし櫛の匣《ハコ》を藏めおかるゝをむねとして名づけ玉へるなり。また齋宮の伊勢におもむかせ玉ふ時御別れの櫛とて天皇の御みづから内親王の額《ヒタヒ》にさし玉ふも長《ヒト》となり髪上し玉ひて齋宮となり玉へるゆゑなり。【委しき事はこゝに言ひ盡しがたし。別に婚禮考に書せり】これらを以てかむがふるに女の男に婚《ア》ふときは髪上せし櫛を親《オヤ》てづから女の頭にさすなるべくこは二人の夫を持べからぬ徴なり。齋宮は夫を持玉ふにはあらねど伊勢にまゐり玉ひては再び京《ミヤコ》に歸り玉ふまじき徴《シルシ》にさゝせ玉へる櫛なるゆゑにはじめて夫を持たるときの櫛とその理おなじ。されば櫛を抛ては親子の縁も斷《キ》るゝよし後のものながら東鑑にも見えたり。これらによりておもふに髪上《カミアゲ》は必ず始めて男に婚ふ時するわざなることしるし
 
人皆者今波長跡《ヒトミナハイマハナガシト》。多計登雖言《タケトイヘド》。君之見師髪《キミガミシカミ》。亂有等母《ミダリタリトモ》
 
今波長跡《イマハナガシト》はいまは長しとての意なり。されど古義にナガミと訓てトを助辭とし今はながさにたけといへどゝつゞくよしにいへり。さるトの例も无きにあらねば此説おもしろけれど自らの心に長く思ひて上げむとするには今は長さにたけむともいふべけれど人皆よりは長しとてたけ玉へといへどゝいふかた語のつゞきよきやうにおばゆるまゝにもとの訓に從へり○君之見師髪《キミガミシカミ》は童放《ウナヰハナリ》の時君がみし髪のよしにて亂有等母《ミダレタリトモ》は長くなりて亂《ミタ》りたりともの意なり○歌意。今は髪のあまりに長きに過たる故にはやく髪上せよと人皆はいひすゝむれども君がみし放《ハナ》りの髪をたとひ長きに過て亂れてありとも一度契りし事をたがへて他夫にはあげしめじ。なほ君の病ひのさはやきて通ひ來玉はむほどをいつまでも待居るべし。と答へて心がはりせぬよしをしめしたるなり。凡古の婚儀はみな婦は親《オヤ》のもとにゐて夫をして通はしむるがその禮の正しきにて天皇の外は皇族《ウマヒト》といへどもおほかたしかりしなり。そは天皇は天下にたゞ一人の至尊にてましますゆゑに御みづから通ひ幸《イデマス》などいふことはあらでみな御在所《ミヤノウチ》に召入らるゝが例にて禮文の備はらざりし太古には密《シノ》びてかよはせ玉ひし事なども无きにあらねどそは證としがたし。その餘はみな男の女のもとにかよふが定まれる儀《コト》なり。さるは陽動陰靜の理にかなひていとめでたき禮なるをかへりて男の家に居ながら女を呼び迎ふるを正しき道と心得たるはいみじきひがごとなり
 
橘之蔭履路乃《タチバナノカゲフムミチノ》。八衢爾物乎曾念《ヤチマタニモノヲゾオモフ》。妹爾不相而《イモニアハズテ》 三方沙彌
 
橘之蔭履路乃《タチバナノカゲフムミチノ》は八衢《ヤチマタ》をいはん序なり。雄略紀に餌香市邊橘本といひ卷三に「東市之殖木乃《ヒムカシノイチノウヱキノ》こたるまで」などあるは市に菓樹を殖しめて往來の人に夏は凉を納《イ》れ冬は木實を喰しめ玉へるなり。類聚三代格に載せたる天平寶字三年の官符に應2畿内七道諸國(ノ)驛路兩邊〔頭注、校正者云。兩邊の下遍の字脱か〕種2菓樹1事云々。夏則就v蔭避v熟飢則摘v子※[口+敢]v之。伏願城外道路兩邊栽2種菓子(ノ)樹木1者《テヘリ》。奉v勅依v奏とありて是東大寺僧普照の状に見ゆ。此事行はれて延喜の雑式にも凡諸國驛路邊植2菓樹1令3往還人得2休息1とあり。さてたゞ菓樹とあれば橘のみには限らざるが如くなれども橘はことに木の實の長にしあれば【花多かれど木花といへば櫻なり。實《ミ》おほかれど木實といへば橘なり。故に香具の木の實と稱せり】橘ぞむねと多かりしなるべき。故に橘之蔭履ともよめるならんか〇八衢《ヤチマタ》のヤは彌《イヤ》にてチマタは字鏡に阡【知万太】とあり。阡は阡陌の阡にて路のことなり。路はかなたこなたへ股のありて分れゆく筋多ければ彌道股《ヤチマタ》の義なり。道饗祭祝詞に大八衢《オホヤチマタ》とみえて神名にもあり○歌意。こはかねて契約《チギリ》おける女にはあれどいまだ相宿《アヒネ》もせぬほどに病にかゝりて其後久しく通ひも得まからねばもしくは外の男に婚《ア》ひはせぬかと疑はしげなる言の葉をおくれるゆゑに女より「君がみし髪みだれたりとも」と答へて君ならずして吾髪あぐべき人は无きやうにいさぎよくよめるにより沙彌その清き志操《ミサヲ》に恥てさきに疑はしげなる事いひおくれるは病ひに沈み得かよひもせずて妹にえあはぬ心いられにやちまたの如くあなたこなたと思ひまよひていひたる言なり。かならずあしくな引うけ玉ひそ。とことわれるなり
 
石川女郎《イシカハノイラツメガ》《オクレル》2大伴宿禰田主《オホトモノスクネタヌシニ》1歌一首
 
元暦本に佐保大納言大伴卿之第二子。母曰2巨勢朝臣1也とあり。かゝれは田主は安麻呂卿の子にてこの上に大伴宿禰の巨勢郎女を娶られし事みえたり
 
遊士跡吾者聞流乎《ミヤビヲトアレハキケルヲ》。屋戸不借吾乎還利《ヤドカサズアレヲカヘセリ》。於曾能風流士《オソノミヤビヲ》
 
遊士《ミヤヒヲ》は略解にミヤビヲと訓べきよし荷田御風いへり。宣長云。師のミヤビトと訓れたれどさては宮人《ミヤヒト》ときこえて紛らはし。然ればミヤビヲと訓べし。ミヤビはミヤブリの約りたる言なり○於曾《オソ》は賢《サカ》しく優《スグ》れたる人をはやき人といひ愚《オロカ》に劣れる人をおそき人といへばこゝは愚鈍《オロカ》の風流士《ミヤビヲ》ぞといへるなり。卷九に「とこよべに住べき物を釼刀己之心柄於曾也是君《ツルギタチシガコヽロカラオソヤコノキミ》」また十二に「山代のいはたの杜に心鈍《コヽロオソク》たむけしれば妹にあひ難き」と活かしてもいへり【十四に「からすとふ於保乎曾杼里《オホヲソトリ》」とある乎曾《ヲソ》は假字たがへればこゝとおなじ意の詞にはあらずと知べし】○歌意。かねて君は遊士《ミヤビヲ》なりと聞たるゆゑによべ火を乞ふにかこつけて吾がひそかに行しにもしみやびをならば心はやく行たりし意趣をはかり曉りてとどめ玉ふべきをさもなく空しく歸しゝはおろかなる風流士《ミヤビヲ》ぞと戯れてよめるなり
 
大伴田主字(ヲ)曰2仲郎《ナカチコト》1。容姿佳艶風流秀絶。見人聞者靡v不(ハ)2歎息1也。時(ニ)有2石川女郎1。自成2雙栖之感1恒悲(ム)2獨守之難(ヲ)1。意《コヽロ》欲v寄(セント)v書(ヲ)未v逢2良信《ヨキタツキニ》1。爰作(テ)2方便(ヲ)1而|似《ニセ》2賤嫗(ニ)1已提(テ)2鍋子《ナヘヲ》1而到(リ)2寢《ネヤノ》側(ニ)1哽音跼足(シテ)叩(テ)v戸諮曰。東隣貧女將2取v火(ヲ)來(ムト)1矣。於v是仲郎暗裏(ニ)非v識2冒隱之形(ヲ)1慮外(ニ)不堪2拘接之計(ニ)1任v念取v火就v跡歸去也。明《アケテ》後女郎既恥2自媒之可1v愧復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈(テ)諺戯焉
 
こは後人の歌によりて書《シル》せる詞なり。「やどかさずあれなかへせり」といへるは女郎の田主がかたによばひ行たるが如くなれども鍋子《ナヘ》をさげて火を取に來たるなどの事は拙なきつくりごとにて笑ふに堪へず
 
大伴宿禰田主報贈歌《オホトモノスクネタヌシノコタフルウタ》一首
 
遊士爾吾者有家里《ミヤビヲニアレハアリケリ》。屋戸不借令還吾曾《ヤドカサズカヘシヽアレゾ》。風流土者有《ミヤビヲニハアル》
 
吾をたばかり笑はむとて賤しき女のさまして來られたるにうちつけに宿かさむはいとあさはかなるあだものゝするわざにて空しく還すが風流士《ミヤビヲ》なればわれぞまことのみやびをにはあると戯ていへるなり
 
石川女郎《イシカハノイラツメガ》《マタ》《オクレル》2大伴田主中郎《オホトモノタヌシノナカチコニ》1歌一首
 
吾聞之耳爾好似《アガキヽシミヽニヨクニバ》。葦若末乃足痛吾勢《アシノウレノアナヤムアガセ》。勤多扶倍思《ツトメタブベシ》
 
吾聞之云々は「アガキヽシミヽニヨクニバ」と訓べし。兼て耳に聞居るに好く似たればといへるなり卷十一に言云者三々二田八酢四《コトニイヘハミヽニタヤスシ》ともあり○葦若末は足痛《アナヤム》の枕詞にてアシノウレと訓べし。卷十に小松之若末《コマツガウレ》また芽之若末長《ハギノウレナガシ》などあり。若末を橘守部ウレと訓めり【古義の訓も然り。若末とは若木《ワカキ》若草《ワカクサ》の末《ウラ》のことにていと弱きゆゑになえなえとするを疾ありて足のなえ/\としたるにたとへたるなり】されどこははやく水戸家の釋にウレとよみたり。足痛はアナヤムと訓べし。卷十四に安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》とあり。古義に軟弱《ナヨヤカ》なるよしの言【ナヨヤカ、ナヨ/\、ナユル、ナヤスなどみな同じ】なりといへる如し。ナヤムは病字に當る言にて今俗にも然いへり。この外に蹇をアシナヘといへり。和名抄に蹇(ハ)不正也|阿之奈閇《アシナヘ》また靈異記に※[辟/足]|阿志那倍《アシナヘ》また字鏡に癖腹内癖病也〔頭注、校正者云。病也の也の字今傳はれる版本の字鏡にはなし〕|足奈戸《アシナヘ》などあるナヘは足の歩みがたき形よりいへるにて記に成《ナレリ》2當藝斯形《タキシノカタチニ》1とあるやこれならむ。さればいひもてゆけば同じことながら病《ナヤム》と蹇《ナヘク》とは假名も異なるべし【もし同言ならむには蹇をナエクといふべし】○勤多扶倍思《ツトメタフベシ》のツトメは舒明紀に自愛《ツトメ》とかけるよし契冲いへり。この意にて保愛を加へてはやく本復し玉へといへるなり。タブは卷四に幣者將賜《ヌサハタバラム》。卷十八に己禮波多婆利奴《コレハタバリヌ》などみえ後のものにては土佐日記にも「うれしと思ひたぶべきものたいまつりたべ」などあり。雄略紀に香賜といふ人名の註に香賜此云2※[舟+可]※[手偏+邑]夫《カタブ》1〔頭注、校正者云。※[舟+可]※[手偏+邑]の※[手偏+邑]は※[手偏+施の旁]か〕とあるタブもこれなり○歌意。田主が火を乞ひに來たるは石川女郎なりし事を知らずて火をとらせて歸しゝかば女郎空しくかへれるをあやなく思ひて後にさいつ夜東隣の賤女といつはりて火をこひにまかりたりし時の君のたちふるまひ足を痛み玉ふやうに見受まゐらせたり。このほど足疾ましますよし他《ヒト》よりも聞たり。まことに聞たるが如くならば足なやみ玉ふわが兄よ自愛《ツトメ》て治療を加へ玉へ。といへるなり
 
右依2中郎|足疾《アシノケ》1贈2此歌1問訊也
 
和名抄に脚氣一云脚病。俗云|阿之乃介《アシノケ》。源順集に「なにはの沖のあしのけにのみわづらひてこもり侍れば」云々
 
大津皇子宮侍石川女郎《オホツノミコノミヤノマカタチ》《オクレル》2大伴宿禰宿奈麻呂《オホトモノスクネスクナマロニ》1歌一首
 
大津皇子云々契註云、今按に藤原宮御宇となりては大津皇子わづかに十月の初まで世におはしましかつ天武天皇諒闇のうちなれば疑ふらくは此歌も清御原御宇のほどの事なるべし○侍はマカタチと訓べし。記に從婢の字をかくよみて傳に前子等等《マエコラタチ》の意なるべしといへれど非なり。芳樹おもふに記に令占合麻迦那波《シメウラヘマカナハ》而と見えたる麻迦《マカ》に同じくて此マカは字鏡に擬(ハ)設也、當也、度也、比也、万加奈不《マカナフ》とあるマカなり。【ナフは辭《テニヲハ》にてマカナハム、マカナヒ、マカナフと活用《ハタラ》く言なれば意なし】されば侍婢のその主のために衣食その外を豫め度《ハカ》り設けおくよしを以て名とせるなり。今も厨事とり行ふ女を浪華にてマカナヒといへり。タチは等なり。石川女郎は元暦本の注に女郎字曰山田女郎也。宿奈麻呂宿禰者大納言兼大將軍〔頭注、校正者云。大將軍の下卿の一字脱か〕之第三子也とあり。上に皇子と女郎との贈答のうた見えたり。その後|侍女《マカタチ》となれるなるべし○宿奈麻呂は續紀和銅元年に正六位下にて從五位下にすすみ五年正月に從五位上【板本たゞ麻呂とあり。宿奈の二字脱たり】靈龜元年に左衛士督と見えたり。その後安藝周防の按察使となり從四位下にも至れり。此女郎の大津皇子の侍女たりしは天武の御代の末より持統の初めまでの事なるべし。されば此歌を宿奈麻呂に贈りしは皇子の薨後二十年餘も過ての事とおもはる。歌詞によるに女郎もいたく年老たるほどなりけむ
 
古之嫗爾爲而也《フリニシオミナニシテヤ》。如此計戀爾將沈《カクバカリコヒニシヅマム》、如手童兒《タワラハノゴト》
 
古之はフリニシと訓べし。フルビニシといふに同じ。【フルヒの約フリなり】ニシは辭《テニヲハ》にてフリヌルといふも同じ。嫗は記に老女とありて其傳に意美那《オミナ》と訓べし。字鏡に※[女+長]|於彌奈《オミナ》とあり。【こは老女の意の和字なるべし】抑老女を意美那《オミナ》と云に對ひて大《オ》と小《ヲ》とをもて老たると少とを別てり【又伊邪那岐伊邪那美などの例を思ふにオキナ、オミナは伎と美とをもて男女を別てるるべし】和名抄に於无奈《オムナ》と見え靈異記に嫗|於于那《オウナ》などみえたるは中古より美を音便に牟《ム》とも宇《ウ》とも云なせるなり。とあるが如し○手童兒は一云|多和良波《タワラハ》とあり。卷四にも手小童《タワラハ》とみゆ。タはタワヤメのタにて添たる言なり○歌意は。上にいへる如く女郎の齡やゝさだ過たるゆゑにみづから古びたる嫗《オミナ》といへるにてわが身かくふるびて人に厭はるゝをも弁へず童などの物の聞《キヽ》いれもなくなきいさつると同じやうに戀に得たへずして泣しづみ居《ヲ》るべき事かはと自らを誡むるが如くよみて宿奈麻呂におくれるなり。卷十一に「あぢきなく何のたはこと今更に小童《ワラハ》ごとする老人にして」ともあり
 
一云。戀乎太爾忍金手武《コヒヲダニシヌビカネテム》。多和良波乃如《タワラハノゴト》
 
長皇子《ナガノミコ》《オクリタマヘル》2皇弟《イロトノミコニ》1御歌一首《ミウタヒトツ》
 
皇弟は弓削皇子にて長皇子の御同腹の御弟なり。故にイロトと訓べし。すべて同腹を伊呂兄《イロセ》、伊呂姉《イロネ》、伊呂弟《イロト》、伊呂妹《イロモ》といふなり。弓削皇子は上に出たり
 
丹生乃河瀬者不渡而《ニフノカハセハワタラズテ》。由久遊久登戀痛吾弟《ユクユクトコヒタキアオト》。乞通來禰《イデカヨヒコネ》
 
丹生の河は大和志に宇智郡丹生河源出v自2吉野郡加名生谷1。經2丹原生子等1至2靈安寺村1入2吉野川1とあり。この河を隔て彼方に皇弟は住玉ひしなるべし。瀬者不渡而《セハワタラズテ》はするどき山川の瀬は危ければ渡らずての意なり○由久遊久登《ユクユクト》は卷十二に「いさりするあまのかぢおと湯鞍干《ユクラカニ》いもが心にのりにける哉」といへるは卷十三【長歌の末】に「大船之行良々々に思乍あがぬるよらはよみもあへぬかも」とあるユクラ/\に同じ。さては大船の波にゆられて搖くを物思ふ心にたとへたりと冠辭考に解るが當れる説なり。ここなるユクユクも又これに同じ。芳樹おもふに上二句はユクユクの序にて瀬をわたれば早川の事ゆゑゆくら/\としては居られぬといふをもてつくりたるものなり。故上二句には意なし。【古義に此言はなづみ滯ることなくする/\と物する意をいふことと聞えたリ。されば此一句は下にうつして早速《スル/\》とかよひこね。とやうにとけれどこはいみじき僻説なり。その證にひける拾遺集菅原大臣の「君がすむやどの梢をゆく/\とかくるゝまでにかへりみしはや」の歌は別れこしなごり惜さに道のほどをゆくら/\として顧みがちにかくるゝまで見しはやの意にてこそあれ。さるをこれをも少しもなづみとゞこほらでする/\と行しといふやうにおもへり。さるは今の人情をもても思へ。妻子に離れて千里の遠に流さるゝ人の吾家を顧みんに滯ることなくする/\と見棄てゆくといふことのあるべきかは。また源氏物語賢木に「おとゞは思ひのまゝにこめたる所おはせぬ本性にいとゞおいの御ひがみさへそひたれば何事にかけとゞこほり玉はむゆく/\と宮にもうれへきこえ玉ふ」とあるは源氏の事を右大臣の弘徽殿の皇后にうれへ玉ふことなればする/\の意の如くも聞ゆれどこれはた心のうちに朧月夜ゆゑ物思ひたゆたひゐ玉ふことをとゞこほりなく宮にうれへきこえ玉ふの意をもてかけるなるべし。とにもかくにも古義の説はいかにぞやおぼゆ】戀痛吾弟《コヒタキアオト》のタキを考にはタムとよめり。古義もこれに從へり。されど略解にコヒタキと訓るや然らむ。【タキは愛痛《メデタキ》をメデタキ、メデタシ、メデタクなどゝ活用かすが如くコヒタキ、コヒタシ、コヒタクともいふべくおぼゆ】吾弟《アオト》は吾兄を阿勢《アセ》。吾君を阿岐美《アキミ》などの例にてアオトと訓べし。この弟は記に淤登多那婆多《オトタナバタ》とあるオトにてもとは人を親しむ稱なりしを季(ノ)子は殊に父母に愛《シタ》しまるゝよりオト兒といふ。兄弟の弟をオトといふもこれに同じ。さればここも吾弟《アオト》とあるが弓削皇子は長皇子の弟《オト》なれば吾弟《アオト》とのたまへるなることは勿論《サルモノ》にてまことは親しくおもほしてオトとのたまへるなるべし○乞通來禰《イデカヨヒコネ》の乞《イデ》は希望《ネガ》ふ詞なり。イカデに似て俗にドウゾといふに同じ。卷四に「乞吾君《イデアギミ》人の中言きゝこすなゆめ」など其外多し。ここもドウゾ通ヒ來ネとなり。コネはコヨに同じ○御歌意。上二句はユク/\の序にてこのほど何くれの物思ひにゆくら/\としてくらすまゝに吾弟《アオト》の命《ミコト》のことに戀しく思はるゝをいかで通ひ來玉へ。積る物がたりをもして心をなぐさめ侍らむ。とのたまへるなり
 
柿本朝臣人麻呂《カキノモトノアソミヒトマロ》《ヨリ》2石見國《イハミノクニ》1別《ワカレテ》v妻《メニ》上來時歌二首并短歌《マヰノボルトキノウタフタツマタマタミジカウタ》
 
人麻呂の出身は日並知皇子命の舍人にて【大舍人なり】其後高市皇子命の皇太子の御時も同じ舍人なるべし。かくて日並知は持統の三年四月に。高市は同帝の十年七月に薨玉へればそれより後文武のはじめの比などに石見に赴任《マカラ》れけん。妻は石見の任中にかの國にて通《カヨ》ひ住《スマ》れし女なり。【人麻呂の嫡妻のことは下にいへり。かゝればこの妻とあるは妾なるを妻妾の別《ケヂメ》を立ず共に妻といへるは古樣なり】石見へは掾か目かにて下られしなるべくもし五位にもあらばおのづから紀に載すべくまた守なればかならず任の時を紀にしるさるゝをすべて見えず。上來は朝集使などにて上られしなるべし。使は國の司一人づゝ九、十月に上りて十一月一日の官會にあふなり。此うたにもみぢをよめるを以て知べし。なほ考の別記にくはし
 
石見乃海角乃浦囘乎《イハミノミツヌノウラミヲ》。浦無等人社見良目《ウラナシトヒトコソミラメ》。滷無等人社見良目《カタナシトヒトコソミラメ》。能咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモ》。縱畫屋師滷者無鞆《ヨシヱヤシカタハナクトモ》。鯨魚取海邊乎指而《イサナトリウミベヲサシテ》。和多豆乃荒磯乃上爾《ワタヅノアリソノウヘニ》。香青生玉藻息津藻《カアヲナルタマモオキツモ》。朝羽振風社依米《アサハフルカゼコソヨセメ》。夕羽振浪社來縁《ユフハフルナミコソキヨセ》。浪之共彼縁此依《ナミノムタカヨリカクヨリ》。玉藻成依宿之妹乎《タマモナスヨリネシイモヲ》。露霜乃置而之來者《ツユシモノオキテシクレバ》。此道乃八十隈毎《コノミチノヤソクマゴトニ》。萬段顧爲騰《ヨロヅタビカヘリミスレド》。彌遠爾里者放奴《イヤトホニサトハサカリヌ》。益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》。夏草之念之奈要而《ナツクサノオモヒシナエテ》。志怒布良武妹之門將見。《シヌブラムイモガカドミム》。靡此山《ナビケコノヤマ》
 
石見は小篠御野といふ人この國の海邊おしなべて岩なれば石海《イハミ》ならむと云るよし齋藤彦麻呂が諸國名義考にみゆ。角乃浦囘乎はツヌノウラミヲと訓べし。囘をミと訓むこと卷一にいへり○浦無等の浦は和名抄に四聲字苑云。浦(ハ)大川(ノ)旁(ノ)曲渚。船隱風所也。和名宇良とあり和訓菜に海面に對せし辭なるべしといへれば海裏《ウラ》の義にて入江の如く入まはりたる所の名にて石見の海には【地名には某浦と云所も無きにはあらねど】曲渚ともいふやうなる※[さんずい+彎]《イリエ》になれる所少なければ浦无シといへるなり〇滷無等《カタナシト》はすべて北海は潮の干滿少くてふとみては更にみちひの无が如し。故に滷无シといへるなり○能咲八師《ヨシヱヤシ》は假に縱す辭にてよしやさはあれ浦は无くともの意なり。此|咲八《ヱヤ》は四惠夜《シヱヤ》のヱヤにて師は助辭なり【卷十三の長谷河の長歌にもかゝるさまによめるがあり】○鯨魚取《イサナトリ》は海の枕詞なり。イサナは鯨の事にて紀に異舍儺等利《イサナトリ》とあり。壹岐風土記に鯨伏郷のことを鯨走來隱伏。故云2鯨伏《イサフシ》1【俗云v鯨爲2伊佐1】とみゆ。等留《トル》といはずして等利《トリ》といへるは枕詞の格なり。海邊乎指而《ウミベヲサシテ》はウミベヲサシテと訓べし。古義云、卷十八に宇美邊《ウミベ》、日本紀竟宴歌に宇美倍《ウミベ》、古今集に「めいじうといふうみべ」」、土佐日記に「もしうみべにてよまゝしかば」などあり【こを舊訓にウナビと訓るは非なり。卷十四に宇奈比《ウナビ》とあるは津國にも兎原《ウナヒ》といふ地名あるが如く地名なるべければこゝの證にはなりがたし】とへり。指而《サシテ》は玉藻奥津藻を風浪の海邊《ウミベ》をさして來よする意なり○和多豆《ワタツ》は石見の那賀郡の海邊に渡津村とてあり。こゝなるべし。と宣長いへり。荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》は藻を風浪の荒磯のうへによせ來るをいふ○香青生《カアヲナル》の香《カ》は發言にてカクロキ、カヤスキ、カクハシキなどのカなり。生《ナル》は假字にて爾有《ナル》なり。玉藻息津藻《タマモオキツモ》の息《オキ》は假字にて澳《オキ》なり。さてこは澳津玉藻といふべきを分ていへるなり○朝羽振夕羽振《アサハフルユフハフル》は浪の立さわぐを云言にで卷六に「朝羽振浪之聲《アサハフルナミノト》さわぎ」卷十九に「さよふけて羽振鳴志藝《ハフリナクシギ》」また「打羽振繼鷄者鳴等母《ウチハフリカケハナクトモ》」また記に爲釣乍羽擧來人《ツリシツヽハフリクルヒト》などある如く風の波を搖《フル》ひ動かすをいふ。このハフリを約むれはフリなり、卷十一に「風をいたみ甚振浪《イタフルナミ》」また土佐日記に「磯振のよする磯」相模風土紀に速浪|崩《スハ》v石國人名號2伊曾布利《イソフリト》1などは浪をそのままイソフリともいへり。さればこゝも朝フル浪、夕フル浪とい事なり。風社依米《カセコソヨセメ》は藻を風こそ浪を吹てよせめといへるなり。浪社來縁《ナミコソキヨセ》は藻を浪こそ風に吹れて來よすれといへるなり【ヨスレを約ればセなり】○浪之共《ナミノムタ》の共はトモニといふことときこゆ。卷十五に「可是能牟多《カゼノムタ》よせくる波」また「君我牟多《キミガムタ》ゆかましものを」などの如し。彼縁此縁《カヨリカクヨリ》は舊訓のまゝにカヨリカクヨリと訓べし。【古義にカクヨルと訓るはわろし】玉藻のかよりかくより浪と共になびくことにて彼方《カナタ》に依り此《コナタ》によりといはむが如し。此詞此下に彼往此去《カユキカクユキ》また卷三に左右將爲《カモカクモセム》また鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》、卷十六に左毛右毛《カニモカクニモ》また卷五に「可由既婆《カユケバ》人にいとはえ可久由既婆《カクケバ》人ににくまえ」また記に迦母賀登和賀美斯古良《カモガトワガミシコラ》。迦久母賀登阿賀美斯古邇《カクモガトアガミシコニ》などにてその用ゐざまを知べし○玉藻成依宿之妹乎《タマモナスヨリネシイモヲ》とは玉藻の風浪にかよりかくよる如く一向《ヒタスラ》われに依り從ひたりし妹をのよしなり。さて初より玉藻なすに至て〔頭注、校正者云。至ては至るか〕十三句はただ石見の海の實景を以て依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》の句の序としたるものなり。されば歌の意はこれより以下にあり。人麻呂の作歌にはかゝる類ひ多し○露霜乃は宣長云。たた露のことなり。卷七、卷十などに詠露といふ歌に露霜とよめり。思ふにシモとはもと露をもかねたる總名にて其中に氷らであるをツユシモといひ省きてツユとのみもいへるなり。そはツユは粒忌《ツフユ》にて清潔《キヨラ》なるを云。雪のユも同じ。されば露霜とは粒立《ツフタチ》て清らなるシモと云事なり。といへり。置而之來者《オキテシクレバ》はとどめおきて來ればなり○此道乃《コノミチノ》云々は卷一に同じ詞にてあり○彌遠爾は卷廿に伊夜等保爾《イヤトホニ》とあり。里者放奴《サトハサカリヌ》は里を遠く放《サカ》り來ぬとなり〇益高爾《イヤタカニ》をマシタカと訓るはわろし。此下に「あひみし妹は益《イヤ》年さかる」卷七に「益河《イヤカハ》のぼる」卷十二に「こよひゆ鯉の益《イヤ》まさりなむ」などみなイヤと訓り。と宣長いへり。高とは山を越え來るよりいへる詞なれどその實は遠きよしなり。山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》の毛は上のハに對へていへり○夏草之《ナツクサノ》はシナエの枕詞なり。念之奈要而《オモヒシナエテ》のシナエは萎にて物思にうなたれなやめるをいふ。卷十にも於君戀之奈要裏觸《キミニコヒシナエウラフレ》とあり【かかれば此詞はヤイユエと活用《ハタラ》けるなり。此外に卷三に「眞木葉乃|志奈布《シナフ》せの山」また卷十に「秋芳之四※[手偏+差]二《アキハギノシナヒニ》あらむ」また卷廿に「多知之奈布《タチシナフ》君がすがたを」などはハヒフヘとはたらけれり〔頭注、校正者云。けれりのれの字衍か〕。されど言義にはかはることなく思はる】○志怒布良武《シヌブラム》は慕ふらむなり。妹之門將見《イモガカドミム》は妹がおもひしなえながら立出てみおくるかどを見むといへるなり○靡此山《ナビケコノヤマ》は山のさはりて門のみえねば外方になびきよりて妹が門のみゆるやうにせよと山に令せたるなり。契冲云。山は動かぬものなるを家のみえぬにわびてせめての事にいふは歌のならひおもしろき事なり。卷十二に「あしき山木末こぞりてあすよりはなびきたれこそ妹があたりみむ」第十三長歌に「わがかよひぢのおきそ山みぬの山なびけと人はふめどもかくよれと人はつけども」などもよめり。また眞淵云。家を出てかへりみるほどの旅情誰もかくこそあれ。物のせつなる時はをさなき願ごとするをそれがまゝによめろは誠のまことなり。といへり○歌意は。かにかくにわれを信みてよりねし妹を家にとどめおきて京に上ればこよなく別れがたく餘波《ナゴリ》をしくて道のあひだこゝかしこの隈々よりかへりみはすれどもいつのほどにかそのすむ里も遠ざかり山をもあまたこえ來ぬれば今はせんかたなし。さこそ妹もわがわかれを戀しく思ふごとくうなだれしなえながら家の門に立いでわれを慕ふらむ。その妹が家の門をみむとおもふを山を隔てみえぬはいとくちをし。いかで此山の外のかたになびきよりて家の門を明らかに見せてよ。といへるなり。
 
反歌《ミジカウタ》
 
石見乃也高角山之《イハミノヤタカツヌヤマノ》。木際從我振袖乎《コノマヨリアガフルソデヲ》。妹見都良武香《イモミツラムカ》
 
石見乃也《イハミノヤ》のヤは助辭なり。卷七に「淡海之哉八橋《アフミノヤヤバセ》の小竹《シヌ》を」などの如し。高角山《タカツヌヤマ》は石見の山名なり【今美濃郡高津といふ所に柿本社あれどもこことも定めて云ひがたし。猶次に論ふべし】○木際從《コノマヨリ》を考には一本に從文とあるに從てユモと訓めり○我振袖乎《アガフルソデヲ》云々卷十一に袖振可見限吾雖有其松枝隱在《ソデフルガミユベキカギリアレハアレドソノマツカエニカクリタリケリ》【こは家にのこれる人の旅行く人を見おくれるうたこゝとはことなれど袖振の例には引つべし】○歌意は。妹が見むために吾が袖をふる/\來しをそのふる袖を高角山の木間よりして妹はそれと見つらむかとなり
 
小竹之葉者三山毛清爾《サヽガハハミヤマモサヤニ》。亂友吾者妹思《ミタレドモアレハイモオモフ》。別來禮婆《ワカレキヌレバ》
 
三山《ミヤマ》の三《ミ》は假字にて三吉野のミに同じ。俗に深山《ミヤマ》といへり。深山《ミヤマ》には小竹《サヽ》の多かるものなり○清《サヤ》も借字にてさや/\と喧《サワガシ》く鳴《ナリ》さわぐことなり【サヤをソヨともいへり。此歌をも新古今にはソヨと載たり。また同集に「君こずばひとりやねなんささの葉のみやまもそよにさやく霜夜を」ともあり】○亂友《ミダレドモ》は卷十二に松浦舟亂穿江《マツラフネミダルホリエ》とあればミダラム、ミダリ、ミダル、ミダレと活用《ハタラ》く格《サダメ》なり○歌意は。愛《ハ》しく思ふ妹をとどめ置て物思ひしつゝ來る道の深山わくるほど小竹がそよ/\と風に吹亂れたれはその音のさわぎに大方の物思ひはまぎれぬべき事なるを更にそのひゞきにもまぎれず別れし妹をのみ戀しくおもふとなり
 
或本(ノ)反歌《ミジカウタ》。石見爾有高角山乃《イハミナルタカツヌヤマノ》。木間從文吾袂振乎《コノマユモアガソデフルヲ》。妹見藍鴨《イモミケムカモ》
 
木間從文《コノマユモ》は記|多々那米弖伊那佐能夜麻能許能麻用母《タヽナメテイナサノヤマノコノマヨモ》とあるに從てよむべし○歌意上に同じ
 
角※[章+おおざと]經石見之海乃《ツヌサハフイハミノウミノ》。言佐敝久辛乃埼有《コトサヘクカラノサキナル》。伊久里爾曾深海松生《イクリニゾフカミルオフル》。荒磯爾曾玉藻者生流《アリソニゾタマモハオフル》。玉藻成靡寐之兒乎《タマモナスナビキネシコヲ》。深海松乃深目手思騰《フカミルノフカメテモヘド》。左宿夜者幾毛不有《サネシヨハイクダモアラズ》。延都多乃別之來者《ハフツタノワカレシクレバ》。肝向心乎痛《キモムカフコヽロヲイタミ》。念乍顧爲騰《オモヒツヽカヘリミスレド》。大舟之渡乃山之《オホフネノワタリノヤマノ》。黄葉乃散之亂爾《モミチバノチリノミダレニ》。妹袖清爾毛不見《イモガソデサヤニモミエズ》。嬬隱有屋上乃《ツマゴモリヤカミノ》【一云室上山】山乃《ヤマノ》。自雲間渡相月乃《クモマヨリワタラフツキノ》。雖惜隱比來者《ヲシケドモカクロヒクレバ》。天傳入日刺奴禮《アマヅタフイリヒサシヌレ》。大夫跡念有吾毛《マスラヲトオモヘルワレモ》。敷妙乃衣袖者《シキタヘノコロモノソデハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》
 
角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》は石の枕詞なり。久老云、絡石多蔓《ツヌサハフ》なるべしと云るぞよろしき。古へ絡石《ツタ》をツナともツヌともいへり。卷六に石綱《イハツナ》とあるも石絡石《イハツタ》なり。多波布《サハハフ》はサハフと約まれり○言佐敝久《コトサヘグ》はカラの枕詞なり。此下に「言左敝久百濟《コトサヘグクダラ》の原」ともありて異國人の言語《コトトヒ》は此方の人の耳には聞分《キヽワケ》がたく鳥の囀づるが如くなればコトサヘグといへるなり。サヘグのサヘは囀《サヘヅ》るのサヘに同じ。故《カレ》卷十六に佐比豆留夜辛碓爾舂《サヒヅルヤカラウスニツキ》ともあり。【ヘヒ同音】冠辭考に紀に韓婦《カラメノ》用《モチ》2韓語言《カラサヘヅリ》1といひ源氏物語|海人《アマ》のさへづりといひ鳥のさへづりも同じといへり○辛乃埼《カラノサキ》は石見の邇摩郡|託農《タクノ》浦にあり〇伊久里《イクリ》は海中の石なり。卷六に海底奥津伊久利二《ワタノソコオキツイクリニ》。記に由良能斗能斗那加能伊久理爾《ユラノトノトナカノイクリニ》などあり。應神紀の釋に句離《クリ》(ハ)謂v石也。異助語也とあり。今クリ石といふがこれならむとおもへどそは小石なり。此集また記などの歌もておもふに小石にはあらず。そのよしは記傳にもいへり○深海松《フカミル》云々宮内式の諸國の貢に深海松長海松の二つあり。深みるは海底に生るをいふ○玉藻成《タマモナス》云々|深海松《フカミル》乃云々までは靡寐之兒乎と深目手思騰とをいはむ爲につくりておける序なり○左宿夜者はサネシヨハと過去の詞によむべし。幾毛不有《イクダモアラズ》はイクダモアラズなり。卷五に佐禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》。又卷十に左尼始而何太毛不在《サネソメテイクダモアラズ》とあり【卷十七に伊久良《イクラ》ともあれどこはココダヲコヽラと云如く奈良朝の末つかたよりの詞なるべしと古義にいへり】○延都多乃《ハフツタノ》は絡石《ツタ》のかたかたへ蔓ひ別るゝを人のわかれに云つゞけたり○肝向《キモムカフ》は心の枕詞なり。紀に岐毛牟加布計々呂《キモムカフコヽロ》とありて傳に腹中にある五臓六腑の類を古へはすべてキモといへり。さて腹中に多くのキモの相|對《ムカ》ひて集り在て凝々しといふ意にコヽロとは連《ツヾ》くなり。凝《コリ》を。コロといふ。【オノゴロ島も自凝《オノゴリ》の義なり】コヽロはコロ/\にて凝凝なり。海菜の心太《ココロフト》も凝る意の名。集中に岩根コヾシキといへるも凝凝《コリコリ》しきなり。さればムラ肝ノ心は群りたる肝の凝々の意なり○大船之は渡の枕詞なり。渡乃山は邑知郡にて考云。府より東北今道八里の所にあり【即ち渡村といふ。甘南寺の山これなりと國人いへり】○散之亂爾はチリノミダレと訓べし【古義にミダリと訓れど記の歌に加理計母能美陀禮婆美陀禮《カリコモノミダレハミダレ》とあるがミダレの證なり】○妹袖《イモガソデ》は門に立出て見送りて妹が振る袖なり。清爾母不見《サヤニモミエズ》は明らかにもみえずなり○嬬隱有《ツマゴモリ》は屋の枕詞なり。卷十に妻隱矢野神《ツマゴモリヤヌノカミ》山とあり。こは妻とともに隱《コモ》る屋のよしにて都麻碁微爾夜敝賀妓都久流《ツマゴミニヤヘガキツクル》と記にある御歌のコミも妻と共に隱《コモル》の義なり。【コモリの約めコミなり】さて妻と共に隱る處をば古へ新に造りしならはしの後世に云傳へて今も新婦《ヨメ》を新造といへり。【これらのこと委しく芳樹が著はせる婚禮考にいへり】さて隱に有字をそへてかけるは例もていへばコモレルと訓べし。されば有は留の誤にやと宜長いへれど芳樹おもふにこは屋上のヤにつゞくる枕詞なれば誤字にはあらでツマゴモリと訓べき也【かくざまにルといふべきを枕詞にはリといへる例ヒナクモリウスヒ、イサナドリ海などの類猶いとおほし】誤字の説は諾ひがたし○屋上乃山を一云室上山とあれど室上もヤガミと訓ぺければ字のかはれるのみにて異所にはあらず。かくてこの渡と矢上とはおほかた同じほどの所にて屋上もまた邑知郡なり【芳樹この矢上には三四日ばかりもとどまりて委しく聞たりしに矢上村に原山といふがありてそのうちにもとも高き嶺を布干山といふこれ古の屋上山なりといへり】○自《ヨリ》2雲間《クモマ》1のヨリはヲといはんが如し。矢上山いと高き山なるゆゑ常に雲のかゝりたるその雲間を渡相月乃《ワタラフツキノ》は渡る月なり。雲間の月はみるほどもなく隱るゝゆゑ惜《ヲ》シといふ序にしたるなり○雖惜《ヲシケドモ》はヲシケドモなり。ヲシケレドモといふに同じ。隱比來者《カクロヒクレバ》は妹が家のあたりの遠ざかり隱れてみえずなれるが惜くはあれどもの意なり。【カクロヒはカクリの伸びたるなり。ロヒの釣リなり】さて下に入日云々とあればいまだ雲間の月のみゆべきにはあらねど上に渡の山の紅葉をいへるこは實景なるをその對に屋上山の月を取出たるにてこは虚景なり。卷十一に「二上爾隱經月之雖惜《フタカミニカクロフツキノヲシケドモ》妹がたもとをかるゝこの比」とあるやがてここに同じく虚景をもて惜の序にしたるをあはせ思ふべし。芳樹これによりて思ふにこの所大舟以下六句と嬬隱《ヅマゴモリ》以下六句と相むかへて句調をなしたるにてその間を紅葉と月とを以てあやなしてまことは顧爲騰入日刺奴禮《カヘリミスレドイリヒサシヌレ》とつづけたるこれ他人《アダシビト》の及ばぬ所なるを古義に來者の者もじ乍の誤ならむといへるはこの巧なる句調をえ辨へざりしなりけり○天傳《アマヅタフ》は日の枕詞なり。入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》は入日さしぬればの意にて長歌の一格なり。入日さして暮ゆれば顧みすれど見えもせずいとど別のかなしさのそふよしなり○丈夫登念有吾毛《マスラヲトオモヘルアレモ》〔頭注、校正者云。丈夫本文には大とあり〕はつねに丈夫なりと心にほこりゐたるわれもの意也○敷妙乃《シキタヘノ》は枕詞。通而沾奴《トホリテヌレヌ》とは衣の袖に涙のとほりてぬれたるよしなり○歌意。角※[章+おおざと]經より以下八句は玉藻《タマモ》、深海松《フカミル》をいはむ爲の序にてわれになびき隨ひて寐し妹を心に深めてめで思へど倶に來し夜は數もかさならぬに京に上るべき公事ありてせむかたなく別れ來れば道の間少しも慰むことなく心を痛み思ひつゝせめて妻か立出でみおくる家の門をだに見んと顧みすれど過來しかたの山のもみぢのちりのみだれにめまどひしで惜しくおもふ家のかたも隱れいつしか入日さして暮ぬればいとと物かなしく常はますらをなりとほこりてめゝしきさまをばみせぬわれも旅衣の袖の表より裏まで通りてぬれぬるよ。といへるなり
 
反歌《ミジカウタ》二首
 
青駒之足掻乎速《アヲコマノアガキヲハヤミ》。雲居曾妹之當乎《クモヰニゾイモガタリヲ》。過而來計類《スギテキニケル》
 
青駒は和名抄に漢語抄云※[馬+怱]青馬也とあり。卷廿に「水鳥のかもの羽のいろの青馬乎《アヲウマヲ》」ともみゆ。足掻は字鏡に※[足+宛](ハ)踝也、踊也、馬走※[白/ハ]、阿加久《アカク》【古義に足掻《アガキ》は足に限りていひ手してするをば手掻といひしを後には手足にかぎらず動《ウゴ》かしはたらかすをばすべてアガクといへり。塵添埃嚢抄に「アガクといふ字にほ踝とも※[足+宛]とも書き文選に馬|※[足+宛]《アガク》2餘足1とよめり。聖武天皇東大寺を建立して鎭守のため八幡を勸請し玉へるに宇佐宮より※[王+搖の旁]《タマ》の御輿にめして儀衝を調へて御幸なりけるが已に法會始まる時|御前《ミサキ》見えければ行基菩薩御幸おそしとて門に立て手を踝《アガキ》て招かせ玉ふゆゑに彼門を手踝門《テカイモン》と云。前なる路を手踝《テカイ》大路といふなり」とみえたり。またうつほ物語に「おぼす事たひらかに手をあがき祈り願たてさせ玉ふ」ともあり】○過而來計類《スギテキニケル》を板本に一云當者隱來計留と注せり○歌意。乘たる馬は人ならぬゆゑわがかへりみる情をしらずひたすらに足掻《アガキ》はやくゆくゆゑにそを駐め得ずして妹があたりを雲井はるかになるまで過て來にけるが餘波をしき事よとなり
 
秋山爾落黄葉《アキヤマニチラフモミヂバ》。須臾者勿散亂曾《シマシクハナチリミダレソ》。妹之當將見《イモガアタリミム》【一云|知里勿亂曾《チリナミダレソ》
 
秋山は渡の山のあたりをなべていへるなり○落黄葉はチラフモミヂバと訓べし。卷十五に毛美知婆能知良布山邊《モミヂバノチラフヤマベ》とあり。チヤフはチルを伸たるなり【この落をオツルとよみたるはわろし。花紅葉などの散をオツルといふは古言にあらず】○須臾者はシマシクハと訓べし。卷十五に之麻思久《シマシク》また思麻志久《シマシク》などあり【卷十四に思麻良久ともあり】○歌意は。妹が家の門のあたりをだに見つゝ來むと思ふに黄葉のちりみだれ目をさへぎりてあきらかにみえねばしばしがほどその黄葉ちりみだるることなかれとなり
 
或本歌一首并短歌
 
石見之海津乃浦乎《イハミノミツヌノウラミヲ》。無美※[二字□で囲む]浦無跡人社見良目《ウラナシトヒトコソミラメ》。滷無跡人社見良目。吉咲八師浦者雖無《ヨシヱヤシウラハナクトモ》。縱惠夜思滷者雖無《ヨシヱヤシカタラハナクトモ》。勇魚取海邊乎指而《イサナトリウミベヲサシテ》。柔田津乃荒磯之上爾《ニキタツノアリソノウヘニ》。蚊青生玉藻息津藻〔頭注、校正者云。息津藻の津字諸本都とあり〕《カアヲナルタマモオキツモ》。明來者浪己曾來依《アケクレバナミコソキヨレ》。夕去者風己曾來依《ユウサレバカゼコソキヨレ》。浪之共彼依此依《ナミノムタカヨリカクヨリ》。玉藻成靡吾宿之《タマモナスナビキアガネシ》。敷妙之妹之手本乎《シキタヘノイモガタモトヲ》。露霜乃置而之來者《ツユシモノオキテシクレバ》。此道之八十隈毎《コノミチノヤソクマコトニ》。萬段顧雖爲《ヨロツタビカヘリミスレド》。彌遠爾里放來奴《イヤトホニサトサカリキヌ》。益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》。早敷屋師吾嬬乃兒我《ハシキヤシアガツマノコガ》。夏草乃思志萎而《ナツクサノオモヒシナエテ》。將嘆角里將見《ナゲクラムツヌノサトミム》。靡此山《ナビケコノヤマ》
 
津乃浦は津の下|努《ヌ》か野《ヌ》かを脱し浦の下囘を脱したるべし。無美の二字は衍なり
 
反歌《ミジカウタ》
 
石見之海打歌山乃《イハミノミタカツヌヤマノ》。木際從吾振袖乎《コノマヨリアガフルソデヲ》、妹將見香《イモミツラムカ》
 
打歌はタカと訓て此下に角《ツヌ》字を脱したる歟と考にいへり
 
右歌體雖v同句々相替。因v此重載
 
柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子《カキノモトノアソミヒトマロガメヨサミノイラツメ》《ト》2人麻呂《ヒトマロ》1相別歌《ワカルヽウタ》一首
 
依羅氏は傳詳ならず。【この氏姓氏録にみゆ】娘子は後妻にて人麻呂におくれてみまがれり。前妻は人麻呂に先だちてみまがれることこの卷の末にみゆ。此歌は人麻呂の石見へ出たつ時よめるなるべし
 
勿念跡君者雖言《ナオモヒトキミハイヘドモ》。相時何時跡知而加《アハムトキイツトシリテカ》。吾不戀有牟《アガコヒザラム》
 
勿念跡はナオモヒトと訓べし【これをナモヒソとオもじを略てよむはわろし。そを略くは古言の例なるを後世ナオモヒソと云べきをナを略てナモヒソといへるなどは論《トル》にたらぬひがごとなり】○歌意。早く歸り來てあひみむ。さのみ吾を慕ひて物思ひをすることなかれ。と君はのたまへどそは妾《ワラハ》が心を慰め玉ふのみ。上り來まさむ月日をいつの事としりて戀しく思はずにあるべき物かは。と歎きたるなり【拾遺集にこれを人麻呂のとて載たるはいみじき誤なり】
 
挽歌《カナシミウタ》
 
古今集より以來は哀傷歌といへり。こを挽歌と書るは捜神記に挽歌(ハ)者喪家之樂。執v※[糸+弗]者相和之聲也。挽歌(ノ)詞有2薤露蒿里二章1云々。李延年乃分(テ)爲2二曲1。薤露送2王公貴人1。蒿里送2士大夫庶人1。使d2挽v柩者1歌uv之といへり。曲禮の※[糸+弗]字注に引(ク)v棺(ヲ)索《ツナ》也とあり。かゝれば※[車+(而/大)]車《キグルマ》の索《ツナ》を執て引く者のうたふ歌を挽歌といへるなり。されどここはその字を借たるのみにて※[車+(而/大)]車の事にはあづからず。但皇國の古へも葬儀に歌うたふ式ありて日本武尊の薨《カムサリ》玉ひし時その后御子等のよみ玉へる御歌を記に載せて是四歌者皆|歌《ウタヒキ》2其|御葬《ミハフリニ》1也。故|至今《イマニ》其歌者《ソノウタハ》歌《ウタフ》2天皇之大御葬《スメラミコトノオホミハフリニ》1也とあり。臣民《タヽヒト》のみまがれるにもうたふ歌ありしにや。とまれかくまれこの類を古今集よりこなたには哀傷といへるに隨ひて今もカナシミウタと訓べし。考別記結松の歌に追和たる憶良の歌の左注に右件歌等雖v不2挽v柩之時|所作《ヨメルニ》1唯擬2歌意1。故以載2于挽歌類1焉といへり。此集の挽歌のうちには右の有馬皇子の御歌の如くいにしへの事を聞傳へしをも載せつればたゞ悲しみの歌てふことのみにて挽歌の字は借たるなり。今更に柩をひきひかぬなどいふはあまりに拙なき注なり。といへり
 
後崗本宮御宇天皇代《ノチノヲカモトノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノミヨ》 天豐財重日足姫天皇
 
此標ははやく卷一にみゆ。齋明天皇の宮號にて本注にその御諱を書《シル》せり。されどこは後人の加筆なるべし
 
有馬皇子自傷《アリマノミコミヅカラカナシミマシテ》《ムスビタマヘル》2松枝《マツカエヲ》1御歌《ミウタ》二首
 
有馬皇子は孝徳紀に立2二妃1。元妃阿倍倉梯麿大臣女曰2小足媛1。生2有馬皇子1とあり。さて齊明天皇の四年十月に紀伊に幸《ミユキ》ありしほど此皇子謀反の事|露顯《アラハ》れ捕へられて紀伊國に送られ十一月十一日藤白にて絞《クビラ》れ玉へり。この御歌はその前日岩代濱をへてよみ玉へるなり。齊明紀に三年九月有馬皇子性|黠陽狂《サトクイツハリタハフル》云々。往2牟婁温湯1僞v療v病|來《カヘリテ》讃2國體勢《クニサマヲ》1曰。纔觀(テ)2彼地1病自※[益+蜀]除云々〔頭注、校正者云。※[益+蜀]除の除の字諸本消とあり〕。天皇聞悦|思2欲《オモホス》往觀1。四年十月庚戌朔甲子幸2紀|温湯《ユ》1。十一月庚辰朔壬午留守官蘇我赤兄臣語2有馬皇子1曰。天皇所治政事有2三失1云云。有馬皇子乃知2赤兄之善1v己而欣然報答之曰。吾年始可v用v兵時(ナリ)矣。甲申有間皇子向2赤兄家1登v樓而謀。夾膝《オシマツキ》自斷。於v是知2相《コト》之不祥1倶盟而止。皇子歸而宿之。是夜半赤兄遣2物部朴井連鮪1率2造v宮丁1圍2有馬皇子於市經家1。便遣2驛使1奏2天皇所1。戊子捉3有馬皇子與2守君大石。坂合部連藥。鹽屋連※[魚+制]魚1送2紀温湯1云々。庚寅遣2丹比小澤連國襲1絞2有馬皇子於藤白阪1
 
磐白乃濱松之枝乎《イハシロノハママツガエヲ》。引結眞幸有者《ヒキムスビマサキクアラバ》。亦還見武《マタカヘリミム》
 
引結《ヒキムスビ》は松かえを引よせて結ぶことなり。松枝などは結ばるべき物とは思はねども若松《ワカマツ》はおのづから幹《ミキ》も枝もやはらかなれば結ばるべし。この濱松下に「後みむと君か結べる磐代の子松之《コマツガ》うれをまた見けむかも」とあるによれば若木の小松なることしるし。卷廿の宴歌《ウタゲノウタ》に「やちくさの花はうつろふときはなる麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《マツノサエダヲワレハムスバナ》」また卷六の宴歌に「玉きはる壽《イノチ》はしらず松之枝結情者長《マツガエヲムスブコヽロハナガク》是とぞ念ふ」とあるなど此木は千年を經るものといふを以て壽《イノチ》の長からんことを祝《ホキ》て結ぶならはしの古へありしなるべし○御歌意。わが命旦夕に逼れり。さるを松は壽《イノチ》長きためしに引くものなれば今この小松を引結びてわが命を松にあやからんとす。これより行宮にまゐりて事のよし申開くを聞しめしわけ玉ひて罪ゆるされ命まさきくかへることのあらんにはその時またこの結びおける松をみむ。とのたまへるなり
 
家有者笥爾盛飯乎《イヘニアレバケニモルイヒヲ》。草枕旅爾之有者《クサマクラタビニシアレバ》。椎之葉爾盛《ナラノハニモル》
 
笥《ケ》は飯笥《イヒケ》にて俗にいふ飯椀なり。和名抄に禮記云。笥【和名|計《ケ》】盛v食器也と見え武烈紀に多麻該※[人偏+爾]播伊比左倍母理《タマケニハイヒサヘモリ》ともあり。こは多麻《タマ》はその器の美しきを稱《タヽヘ》たるにて玉笥《タマケ》なるを飯サヘモリといへるこれ飯椀なり。また伊勢物語に「手ヅカラ飯匕《イヒカヒ》をとりてけこのうつはものにもりけるをみて」とあるケコは笥子《ケコ》にてこれも匕《カヒ》をとりて盛るとあるに依るに椀なることいはむも更なり。【たゞケコとかまたはウツハモノとかいひて事たれるをこと更にケコノウツハモノといへるはウツハモノは空器《ウツハモノ》にていま盛らである椀に盛るよしをたしかに知らせたるなり。されど此笥字書經に衣裳在v笥といへるは大きなる箱なれば飯椀の類のみにはあらず。こなたにても櫛笥といへるはもとより椀の類ひならぬ箱なり】○椎之葉はナラノハと訓べき歟。芳樹おもふに此椎字和名抄には椎子和名|之比《シヒ》と見えたれど字鏡に椎、奈良乃木また柞(ハ)子落反、櫟也、奈良乃木、又志比とあり字典に唐韻を引て楢音酉。柞楢也とあれば楢のうちに柞楢といへる一種もありとおもはる。かゝれば楢字柞字を共にナラノキと訓せたるさることなり。椎の葉のこまかなるものなれば飯盛むにはひま/\よりこぼれ漏て便よからず。楢は葉の廣きものなればこの椎字はナラノキといふ稱《ナ》のかたに隨ひてナラと訓べし。但柞のかたにシヒといふ訓もあれば【大和本草にシヒとはスイの音の轉語なりといへれどこはもとシヒと云がもとにてスイといふが末なれば和名抄に香椎を加須比と訓たるはかへりてシヒの轉語なり。紀に橿日浦《カシヒノウラ》また橿日宮などかけり。これによりて卷六なる香椎滷とあるもカスヒ渇にはあらぬを知べし。さてかく集中に椎をシヒと訓たればここも椎と舊くよりよめるに從ふべく思はるれど上にいへるが如くシヒの葉は飯を盛るには便あしければこゝにはナラの葉ならんかと思なり】なほシヒと訓べきか。後人さだむべし○御歌意。われ家にをる時は膳具をとゝのへて椀《ケ》にもりたる飯ならでは食《クラヒ》しことなきを旅にしあれば物ごとにたらはぬがちにてかく椎《ナラ》の葉を椀《ケ》にして盛《モリ》て食ふことよ。とのたまへるなり。さてかく見る時はたゞ旅のうたにて更に因《トラ》へられて行宮へまゐりたまふさまの言外の餘意にも見えたらぬはこはこの時の御歌にはあらぬが同じ皇子のなるゆゑにここについでしものならむ歟
 
長忌寸意吉麻呂《ナガノイミキオキマロ》《ミテ》2結松《ムスビマツヲ》1哀咽歌《カナシメルウタ》二首
 
卷一に奥麻呂とあると同人なるべし。こは文武の御時の人にて後の歌なれど次もて載しなり
 
磐代乃岸之松枝《イハシロノキシノマツガエ》。將結人者反而《ムスビケムヒトハカヘリテ》。復將見鴨《マタミケムカモ》
 
歌意。皇子の松枝を結びて「まさきくあらばまたかへりみむ」と契りてこゝを立ち玉ひしをその御言のはの如くかへりてまた見玉ひけむかと云てつひに失れ玉へればかへりみ玉へる事はならざりけむといふを餘意におもはせたるなり。魂のかへり來てみたまひけむよしにいへるはあらず
 
磐代乃野中爾立有《イハシロノヌカニタテル》。結松情毛不解《ムスビマツコヽロモトケズ》。古所念《イニシヘオモホユ》
 
結松といふより心モ解ケズといへるなり。この松結ばれながら生ひたちて後までもありしゆゑにおのづから結松と當時《ソノヨ》の人なづけいひたりけむ。さて皇子謀反の事實は紀に見えて上に載せたるが如くなるを芳樹按ふに蘇我臣赤兄が皇子の總明にますをいとひそゝのかして謀反をすゝめかへりて自首して皇子を罪に陷しいれたることはじめ赤兄が天皇の三失を擧て皇子の心を動したるもて知るべし。さるは赤兄がかく有馬皇子を失はむと心にはかれるはいかなるよしぞといふに赤兄が女の大※[草冠/(豕+生)]娘天武天皇の夫人となりて穗積皇子をうめり。此皇子後に知太政官事にもなり玉へり。有馬皇子は孝徳天皇の一の御子にて穗積皇子よりは人望もましゝかば穗積皇子の御爲にあしからん事などのあるまじきにもあらねば讒《シコチ》てうしなへるにもやあらむ、後世より推量りがたき事なれども上に引たる紀の文にて赤兄がしわざ兎に角に曖昧《アヤ》しき事多かるをおもふべし。さればこゝに心モトケズとよめろは皇子の冤《ムジツ》をおもふよりかくあへなく殺され玉へるいにしへの御ありさまを心にとけずおもふよしなるべし○板本此處に未詳の二字あり。紛れ入たるなり
 
山上臣憶良追和歌《ヤマノヘノオミオクラオヒテコタフルウタ》一首
 
意寸麻呂よりも後の人ながら類《タグヒ》もてこゝに載せたるなり○追和はオヒテコタフルと訓べし。和は略解云。こたへの意にあらず。擬《ナゾラ》フルといふが如し。といへれど和《コタフ》る意無きにあらず
 
鳥翔成有我欲比管《ツバサナスアリガヨヒツヽ》。見良目杼目人社不知《ミラメドモヒトコソシラネ》。松者知良牟《マツハシルラム》〔頭注、校正者云。諸本杼目の目は母、良牟の牟は武とあり〕
 
鳥翔の翔は名義抄、字類抄等に翔カケルとあり。故《カレ》鳥字をそへて鳥の翔るは翼もてするわざなるゆゑにツバサと訓る即義訓なり○有我浴比筒《アリガヨヒツヽ》は一度のみならず有々て絶ず通ひつゝなり○見良目杼母は皇子の魂《ミタマ》の天翔りて見玉ふならめどもなり。そも/\人の魂は記に伊弉冊尊の黄泉にいでませるよし見えたる如く人もみな死ぬれば魂の黄泉にゆくものゝ如く傳にいへれど紀記の文をよくみるに伊弉冊尊は生ながら往玉へるにてこは傳の説誤りなり。されどもその委しき事はこゝにいひ盡しがたし。集中を檢《ケミ》するに下に高市皇子の殯宮の時に朝毛吉木上宮乎常宮等定奉而《アサモヨシキノヘノミヤヲトコミヤトサダメマツリテ》云々とありてその反歌には久堅之天所知流君故爾《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニ》云々とあり。また卷三に安積(ノ)皇子(ノ)薨玉へる時|和豆香山御輿立而久堅乃天所知奴禮《ワツカヤマミコシタヽシテヒサカタノアメシラシヌレ》とありて反歌に吾王天知所牟登《アガオホキミアメシラサムト》、不思者於保爾曾見谿流《オモハネバオホニゾミケル》。和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》これらに依ておもふにまさしく高市皇子をば木上に、安積皇子をは和豆香山《ワヅカヤマ》に葬りてその所々に御墓を建たるなるをふたかたともに天シラシヌルとよめるはいはゆる魂は天に上り魄は地に藏まれる漢籍の説ともはら同じきが如くなれど然らず。陵墓はもとその神魂を長く其所に留めむとて搆へたる所にて故墓をハカといふは芳樹おもふに卷四に秋田之穗田乃刈婆加《アキノタノホタノカリバカ》とあるハカならんか。此詞略解には刈計《カリハカリ》の略にて稻の刈程になれるをいふといへれど非なり。此ハカは今も田舍にて廣き田を刈るにこゝよりこゝまでは某、かしこより彼處《カシコ》までは某とやうに限りをたて境をなして刈るこれを一《ヒト》ハカ二《フタ》ハカといふ。【略解の説は卷十に秋田乃吾|刈婆可能過去者《カリハカノスギヌレバ》とあるを苅る頃の過ぬればと云意と見ていへるなれども卷十六に草苅婆可爾鶉乎立毛《カヤカリハカニウヅラヲタツモ》とあるも草《カヤ》を刈所《カルトコロ》より鶉のたつよしなれば「吾かりばかの過ぬれば」も刈る處と定まれるハカを苅過ぬればと云事としてさらに強ごとにはあらざるべし】されば人の死體《ナキカラ》を葬る墓《ハカ》もその言義この刈婆加《カリハカ》のハカに同じかるべし。凡て放《ハブ》れうせむとするものを取とゞむるをいふ言とおぼし。【其所《ソコ》ハカ跡《アト》ハカなどのハカもこれなり】かゝればその死體《ナキカラ》を埋《カク》し葬《ハフ》れる所に靈魂も倚てあれども顯身《ウツシミ》ならぬ幽身《カミ》ゆゑにつねに天にも地にも翔り上り翔りゆくなるべく故《カレ》高市皇子は木上《キノヘ》の御墓所【この木上《キノヘ》とあるが治部式に三立岡墓高市皇子とあるも同處なり】安積皇子は和豆香山の御墓所を常宮としてその神靈は天シラスといへるなるべし。【天シラスは即天に行かひし玉ふよしなり】そはその神靈の墓所に留り居るたしかなる證は紀に日本武尊の神靈の伊勢に能褒野《ノボヌ》の陵《ミハカ》より白鳥に化《ナリ》て出まし倭《ヤマト》の琴彈原《コトヒキノハラ》に停り玉ひしかば再びそこに陵《ミハカ》造れりしにまた更に飛て河内に至り舊市邑に留まりましき。故《カレ》また其處《ソコ》に陵作りき。この三陵がいはゆる白鳥陵なり。紀の文に然遂|高翔上天《アマガケリイマシヌ》。徒《タヽニ》葬2衣冠《ミソツモノヲ》1とあるは能褒野の陵には御亡體《オンナキカラ》埋まりたれども舊市《フルチノ》陵には御身《ミマ》のしるしの物無きゆゑに御亡體《オンナキカラ》の代に衣冠を藏められたればこゝが即ち尊の鎭り坐す所なり。これ神靈《タマ》の墓所に鎭坐《シヅマ》り居《ヲリ》てその墓所より天にも地にもかよふ證にあらずや。但日本武尊は飛かけり玉ふさまを白鳥となりてみせ玉へれどもおほかたは幽冥の事ゆゑに人の目にはみゆべきにあらず。故|人社不知《ヒトコソシラネ》とよめるなり○歌意は。皇子の御存生の時この松に契り玉へることもありつればうしなはれ玉ひし後も鳥の翼《ツバサ》ありて飛びかけるが如く御魂の御墓より出てこの松のうへにありかよひ來ますらめど幽顯のわかちありて人の目にはみえねばそをしる者はなけれど松はおのづから知《シル》らむとなり。「人は反《カヘリ》てまた見けむかも」とよめる意吉麻呂がうたに和《コタヘ》たるなり
 
右件歌等雖v不2挽v柩之時所1v作唯擬2歌意1。故以載2于挽歌類1焉
 
挽歌の字に泥みて哀傷とはことなるやうにおもへる後人の加筆なり
 
大寶元年辛丑|幸《イデマシテ》2于紀伊國1時|見《ミテ》2結松《ムスビマツヲ》1歌《ヨメルウタ》一首
 
後將見跡君之結有《ノチミムトキミガムスベル》。磐代乃子松之宇禮乎《イハシロノコマツガウレヲ》。又將見香聞《マタミケムカモ》
 
宇禮《ウレ》はウヘに同じ。歌意あきらかなり。こは意吉麻呂の歌を唱へあやまれるを後人こゝに書加へしにや
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇
 
天皇聖躬不豫之時太后奉御歌《スメラミコトノオホミヤマヒノトキオホキサキノタテマツレルミウタ》一首
 
天智紀十年十二月癸亥朔乙丑天皇崩2于近江宮1とあり。これよりさき聖躬不豫のころよみ玉へる御歌なれどほどなく崩ましゝかば挽歌のうちに收入《イレ》たるなるべし○大后は即皇后なり。同紀七年二月立2古人大兄皇子女倭姫王1爲2皇后1とあり。記傳云。古に大后〔頭注、校正者云。大后本文の太后と一致せずいかが〕と申《マウ》しゝは當御代《ソノミヨ》の第一《カミ》なる御妻《ミメ》なり。然るを萬の御制《ミサダメ》漢國のにならひ玉ふ御代となりては正しき文書などには當代《ソノミヨ》のをば皇后、先代のをば皇太后と書るゝ事となれり.されど口に言(フ)語又うちとけたる文などには奈良のころまでもなほ古のまゝに當代のを大后、先代のをば大御祖《オホミオヤ》と申せるを其後つひに常の語にも當代の嫡后《オホキサキ》をばたゝ后と申し大御母を大后《オホキサキ》と申すことにはなれるぞかし。といへるが如し
 
天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》。大王乃御壽者長久天足有《オホキミノミイノチオハナガクアマタラシタリ》
 
考云。推古紀に「吾大きみの隱《カクリ》ます天の八十蔭いでたゝすみ空を見れば万代にかくしもがも」云々てふ歌をむかへおもふに天を御室《ミヤ》とします天つ御孫命におはせば御命も長《トコシナ》へに天足しなん。今御病ありとも事あらじ。と天を仰て賀《コトホキ》玉ふなり
 
一書曰。近江(ノ)天皇(ノ)聖體不豫御病急時大后奉獻御歌一首〔頭注、校正者云。こゝの大后も諸本太后とあり〕
 
この注を板本に下の青旗のうたの端書の如くかけるは錯亂《ミダレタル》なり
 
天皇崩御之時《スメラミコトノカムアカリマセルトキ》※[倭を□で囲む]太后御作歌《オホキサキノヨミマセルミウタ》
 
この大后のこと上にみえたり。倭といふ御名をしるせるは例にそむけり。また此端書次の御歌の所に入れるも錯亂たるなり。崩御の年月日は次に書せり
 
青旗乃木旗能上乎《アヲハタノコハタノウヘヲ》。賀欲布跡羽目爾者雖視《カヨフトハメニハミレドモ》。直爾不相香裳《タヾニアハヌカモ》
 
青旗は考に白旗といへり。其説にこの青旗を殯宮の白旗ぞと云よしは孝徳紀の葬制に王以下小智以上の帷帳等に白布を用ゐよとあり。卷三〔頭注、校正者云。卷三は卷十三なり〕挽歌に「大殿をふりさけみれば白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》うちひさす宮舍人者雪穗麻衣服者《ミヤノトネリハタヘノホノアサキヌキレバ》」云々かくて喪葬令の錫紵は細布なれば大殯のよそひも皆白布なるを知る。【芳樹云。かくいひては錫紵も白色の如くきこゆ。錫紵は義解に即用淺墨染地とみえていはゆる鈍色なり。白にまがへみるべからず】さて旗は右の書等に見えねど喪葬令の太政大臣旗二百竿とあるにこの青旗云々を對へて御葬また大殯宮に白旗多きを知るべし云々。或抄に常陸風土記に葬に五色の旗を立し事あるを引たれど皇朝の上代にあるまじき事まして孝徳の制より奈良朝まで帷衣ともに白布を用ゐたれば白旗なる事明らかなるをいかで五色を用ゐんや,令の葬旗に集解等にも色をいはぬは必ず白き故なり。猥にせば違令の罪ぞ。風土記の浮説に迷ふことなかれ。と考にいへり。この説さもやと思はるゝは青と白とかよはしいへる例白馬節會を青馬節會といひ【國史にはもはら青馬とかけり】また記に青雲之白肩津など其外にもなほあるべし。かゝれば青旗の字をアヲハタと訓てもまた義をもてシラハタと訓ても可《ヨロシ》からん歟。但芳樹思ふにまさしく青旗とかければもとより白旗にては旡くて青き色の旗なるべくそは青も凶服の色にて記の八千矛神の御歌に《》奴婆多麻能久路岐美祁斯遠《ヌバタマノクロキミケシヲ》云々|計醴婆布佐波受幣都那美曾邇奴岐宇弖《コレハフサハズヘツナミソニヌキウテ》。蘇邇抒理能阿遠岐美祁斯遠《ソニトリノアヲキミケシヲ》云々。許母布佐波受《コモフサハズ》。幣都那美曾邇奴棄宇弖《ヘツナミソニヌキウテ》とあるクロキミケシは黒衣なり。この黒は鈍色の深くそみたるにていはゆる黒染の色なり。【正色の黒にはあらず】故に穢《イト》はしき色なりとて磯《ソ》に脱《ヌ》ぎ棄、また次にアヲキミケシもこれも青鈍色にて【正色の青にあらず】穢《イト》はしければ磯《ソ》に脱《ヌ》ぎ棄《ウテ》とよみ玉へるもても青の凶事の色なるを知べし。さればおほかたの葬儀に用玉へるはみな白色なれど【素服の素も白なるを知べし】其中に御棺の近き傍などには殊更に青色の小旗を【白色の大旗に別ちて】建させ玉へるにや。そは推量のかうがへなれど普通の假字などゝは違ひこれらは儀式にかゝる事ゆゑ白き旗なりけんには白旗とかくべくや。木旗は小旗《コハタ》なり。木《コ》を小《コ》に借てかけるなり。小をコとも訓むは卷三に小松《コマツ》、卷十一に小菅《コスゲ》、卷十二に小雨《コサメ》などなほ小をコといふことはいと多し○御歌意は。大殯宮の御棺《オホムヒツキ》の傍に建たる青旗の上を天皇の大御魂の天翔りてかよひますとは御面影にみゆれども直《タヾ》しく相見奉ることのならぬ哉と歎き玉へるなり
 
人者縱念息登母《ヒトハヨシオモヒヤムトモ》。玉※[草冠/縵]影爾所見乍不所忘鴨《タマカヅラカゲニミエツヽワスラエヌカモ》
 
人者縱《ヒトハヨシ》は外の人はよしやたとひといふ意にて縱《ヨシ》はゆるす詞なり。太政官式に凡諸司諸國申v政之時史讀申(コト)已(ニ)訖(ル)。辨判曰云々畢(ル)。即史仰云【讀曰與志】とあるヨシなり。【こは諸司諸國の奏文を史が辨の前にて讀申せるを辨事につきて判斷せる事畢りて史また諸司諸國の者に向ひヨシといへるにて事濟みたりといはむがことし】○玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》は頭の飾なり。記に押木之玉※[草冠/縵]《オシキノタマカヅラ》とみえ江家次第齋王群行の條にも玉鬘を著《ツケ》玉ふことみえたり。玉をあまた貫きて著《ツケ》しと思はる。【卷十八に「白玉をつゝみてやらはあやめ草花たちばなに安倍母奴久我禰《アヘモヌクガネ》」あやめたちばなにそへて白玉をも鬘にせよとておくるよしなり】かくて影《カゲ》とつゞくよしは古義云。玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》は玉の光明《ヒカリ》のきら/\と照映《テリカヽヨ》ふものなるゆゑに玉カヅラ映《カケ》とはいへるなり。すべてカギ、カグ、カゲはみな同言にて※[火+玄]映《カヾヨ》ふ意の言なればなり。影爾所見乍《カゲニミエツヽ》はおもかげにみえつゝなり【伊勢物語に「人はいざおもひやすらん玉かづらおもかげにのみいとゞ見えつゝ」またたゞカゲとのみよめるは後撰集に「日をへてもかげにみゆるは玉かづらつらきながらもたえぬなりけり」】○御歌意は。縦《ヨシ》やたとひ他人《ホカノヒト》はもはや御一周忌《オホムハテ》も過たればおのづから念ひ息《や》みもせめどそはとまれわれは猶いつまでもおもかげに見えつゝわすられぬよとなり
 
天皇崩時婦人作歌《スメラミコトノカムアガリマセルトキヲミナノヨメルウタ》 姓氏未詳〔頭注、校正者云。作歌の下一首の二字脱か〕
 
空蝉師神爾不勝者《ウツセミシカミニタヘネバ》。離居而朝嘆君《サカリヰテアサナゲクキミ》。放居而吾戀君《ハナレヰテアガコフルキミ》。玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》。衣有者脱時毛無《キヌナラバヌグトキモナク》。吾戀君曾伎賊乃夜《アガコヒムキミゾキソノヨ》。夢所見鶴《イメニミエツル》
 
空蝉《ウツセミ》は現身《ウツセミ》なること上にいへり。師《シ》は助辭なり○神爾不勝者《カミニタヘネバ》は神となりて幽冥にましませばわが現身《ウツセミ》にしては從ひ奉るに堪ざるのよしなり○朝嘆君《アサナゲク》の朝はかろく添へたる詞なり。嘆君とは嘆く其君といへるなり。下に「昨夜夢《キソノヨイメニ》にみえつる」とあるによりて殊に朝といへるなりといふは強説《シヒゴト》なり○玉有者《タマナラバ》、衣有者《キヌナラバ》は君を玉と衣とにたとへていへるなり。催馬樂に「大宮のちひさ小舍人玉ならばひるは手にとりよるはさねてん」とある同じ意なり○脱時毛無吾戀《ヌグトキモナクアガコヒム》この吾戀は宣長のアガコヒムと訓べし。一處にゐて思ふを戀ルといふ例多ければ衣ならは脱時もなく身をはなたずて思ひ奉らむ君ぞ云々といふ意なり。といへり。此説を古義に諾ひてこの戀は卷三に「石竹之《ナデシコノ》其花にもが朝な/\手にとり持て不戀日將無《コヒヌヒナケム》」とある戀と同意にて賞愛《メデウツクシ》む方にいへり。玉ならば手に卷持、衣ならば脱時もなく吾|賞愛《メデウツクシ》まむの謂なり○伎賊乃夜《キソノヨ》は昨夜なり。卷十四に伎曾毛己余必母《キソモコヨヒモ》また紀に昨日昨夜をキスと訓るも同言なり○夢は集中假字には伊米《イメ》とあり。【由米《ユメ》は後なり】イメは寢所見《イミエ》の約りたるなり○歌意は。吾大君かく神あがり神靈となりまして幽宮《カムミヤ》におはしませば現在《ウツヽ》の身にしては從ひ奉るに堪ねば遠ざかり居て歎き悲しみ奉る。その君の世におはしましける時もし君の御身の玉にてあるならば手に卷持て放さず衣にてあるならば脱ときもなく賞愛《メデウツクシ》まむと思ひしものを今はかく遠ざかりゐて歎きてもかひなきに其君の昨夜《キソ》夢にさへ見え玉ひつればいとど悲みに堪がたきよ。となり
 
天皇大殯之時歌《スメラミコトノオホアラキノトキノウタ》四首
 
大殯はオホアラキと訓べし。アラキとは記傳云。荒《アラ》は※[金+樸の旁]《アラカネ》璞《アラタマ》などのアラなり。そは新《アラタ》に死たるまゝにいまだ何とも爲《シ》あへぬほどの意にて今世にもそれをアラ某《ナニ》と云こと多し。【アラ佛、アラ齋《トキ》、アラ火などのごとし】キは墓《オクツキ》のキに同じ。されば新《アラタ》に死たるまゝに〔頭注、校正者云。死たるまゝにの下兩所をもての字脱か〕未《イマダ》葬《ハフ》りあへざるほど且《マヅ》姑《シバラ》く收置處をアラキと云て天皇などのはその宮をアラキノミヤと申せるなり。といへり.さて此|大殯《オホアラキ》は即天智紀十年十二月癸亥朔乙丑天皇崩2于近江宮1。癸酉|殯《オホアラキス》2于新宮1と見えたるをいふ【敏達紀には起2殯宮於廣瀬1。推古紀には殯2於南庭1。舒明紀には殯2於宮北1などありて宮中にもまた他所にも造られしとみゆ。この殯を建らるゝは天皇のみならず皇子皇女にもありて集中に見えたり】
 
如是有刀豫知勢婆《カヽラムトカネテシリセバ》。大御船泊之登萬里人《オホミフネハテシトマリニ》。標結麻思乎《シメユハマシヲ》 額田王
 
歌意。神靈《ミタマ》となりまして幽宮《カムミヤ》に入まさむとかねて知りたりせは常に御船|泛《ウカベ》て遊び玉ひし辛崎の泊《トマリ》に標繩引まはして留め拳らましものをとなり。神代の尻久米繩の故事さへ思ひ出られていみじくよみ玉へる歌なるをや【これより以下三首みな湖上のこともて作《ヨ》みたるは大和より近江にうつらせ玉ひてめづらしくおもほしめせるまゝに水波のゆほひかなる景にことに御心とゞめ玉へりしによりてなるへし
 
八隅知之吾期大王乃《ヤスミシヽアゴオホキミノ》。大御船待可將戀《オホミフネマチカコフラム》。四賀乃辛崎《シガノカラサキ》 吉年
 
卷一の人麻呂歌に「さゝなみの思賀乃辛崎雖幸有《シガノカラサキサキクアレド》おほみや人の船まちかねつ」とあるに同じく辛崎を有情のものにしてよめるなり。作者の吉年傳詳ならず。なほ卷四にいふべし
 
大后御歌一首
 
鯨魚取淡海乃海乎《イサナトリアフミノウミヲ》。奥放而傍來船《オキサケテコギクルフネ》。邊附而傍來船《ヘツキテコギクルフネ》。奥津加伊痛勿波禰曾《オキツカイイタナヽハネソ》〔頭注、校正者云イタナヽはイタクナか〕。邊津加伊痛莫波禰曾《ヘツカイイタクナハネソ》。若草乃嬬之《ワカクサノツマノ》。念鳥立《オモフトリタツ》
 
鯨魚取《イサナトリ》は海の枕詞なり○奥放而《オキサケテ》は沖のかたへ遠放《トホサカリ》てなり。傍來《コギクル》はこぎ行くに同じ。さて奥津加伊《オキツカイ》は舟の左に著たる櫂《カイ》、邊淨加伊《ヘツカイ》は舟の右に著たる櫂《カイ》なるべし。さるは芳樹おもふに卷九に左手乃吾奥手爾《ヒダリテノアガオクノテニ》とありて左を奥といへるにて右の邊なることは椎て知らるゝなり。さてこの櫂《カイ》は和名抄に棹釋名云。在v旁撥v瑞曰v櫂。漢語抄云。加伊とありて今も水を撥《ハネ》て舟をやれり。またこれに似て※[舟+虜]《ロ》といふものあり。こをば古へカヂといへり。されど和名抄に※[舟+虜]《ロ》所2以進1v船也とはあれど訓みえず。そは字頻抄に※[舟+虜]口舟−也とありて訓无し和名抄に无きゆゑに此抄にもあらざるなるべければはやく加遲《カヂ》といふ訓をば脱《オト》せるものなり。※[舟+虜]のカヂなる證は集中に眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》とある大船に※[舟+虜]を多く懸るをいへるなり。また卷三に「竿梶《サヲカヂ》母无てさぶしも榜《コガム》とおもへど」卷十に「※[楫+戈]棹无而《カヂサヲナクテ》」また敏達紀に※[楫+戈]櫂《サヲカヂ》などゝあり。いはゆる水竿《ミサヲ》を棹とも書けどこは和名抄に※[木+(竹冠/高)]棹竿也。刺v船竹也とあるものにてこの※[木+(竹冠/高)]は川船のものなり。海上の大船に用たるをばをさ/\見ず。さらば何ゆゑに大船にカヂサヲといへるぞといふに歌は調を主《ムネ》とするゆゑに棹櫂《カイカチ》とはいひがたくかつこの加伊《カイ》を名義抄に棹【通サヲカイ】とありてかくサヲともカイともふたかたに訓たればカイをサヲとも云しなるべく故《カレ》サヲカヂとつゞけたるも後世の歌の如く調のために實を失へるにはあらざるなり。されば卷三にサヲカヂといへるも櫂《カイ》と※[舟+虜]《カヂ》との事なるを知べし。【此外に艫《トモ》に著る梶《カヂ》といふものあり。こは和名抄には艫正v船木也。多伊之《タイシ》とあれどこのタイシをば歌によめるを見ず。今世も※[舟+施の旁]をばカヂといへば※[舟+虜]をも※[舟+施の旁]をも古へ共にカヂと云しなるべし】痛勿波禰曾は甚《イタ》く撥《ハネ》てこぐ事勿れとなり○若草乃《ワカクサノ》は嬬の枕詞なり。嬬之《ツマノ》は三言の句也。集中に五三五七又は五三七と結《トヂ》めたる長歌外にもあり。古風の一體なり。三體考にいへり】嬬《ツマ》は天皇をさし奉れり。【さては夫《ツマ》とかくべき事なれどかゝる例は外にもありて字には泥まず言《コト》を主《ムネ》としたるものなり】夫婦互にツマと云ふことは古のみならず後世までしかり○念鳥立《オモフトリタツ》は天皇の常に愛《メテ》てみそなはしゝ鳥の立さるぞとなり○御歌意は明らかなり
 
石川夫人歌《イシカハノキサキノウタ》一首
 
天智紀七年二月【中略】納2四殯1。有2蘇我山田石川麻呂大臣(ノ)女曰2遠智娘《ヲチノイラツメ》1。生2一男一女1。其一曰2大田皇女1。其二曰2※[盧+鳥]野《ウヌ》皇女1。【この※[盧+鳥]野皇女は持統天皇なり】とあり。石川は父大臣の名なるをそを夫人《キサキ》の字《ナ》に用られたるは額田王の女を額田女王といふに同じ
 
神樂浪乃大山守者《サヽナミノオホヤマモリハ》。爲誰可山爾標結《タガタメカヤマニシメユフ》。君毛不有國《キミモマサナクニ》
 
神樂浪《サヽナミ》は地名にて近江|狹々浪《サヽナミノ》合坂山と孝徳紀にみゆ。これに山守を置せ玉へるは都の傍《ホトリ》なれば雜人の採薪のため伐り荒さむことをおぼしめしての故なり。應神紀に山守部のみえたるは都の傍《ホトリ》のみにもあらざめれど〔頭注、校正者云。あらざめれどはめればか〕所によりて置れもするなるべし。大山は考に御山の意也といへり。大御山《オホミヤマ》をはぶきたるなり○歌意。御存生のほどをり/\叡覧《ミソナハ》す山なれば雜人のあらすを禁《トヽ》め玉はむとて山守をおかせ玉へれど崩御あそばして後は山守は无益《アヂキ》なし。さるをなほ標結《シメユヒ》て守るは誰がためぞ。愛《メテ》見玉はむ君もまさぬにとなり
 
《ヨリ》2山科御陵《ヤマシナノミハカ》1退散之時《アガルヽトキ》額田王作歌《ヌカダノオホキミノヨミマセルウタ》一首
 
諸陵式に近江大津宮御宇天智天皇在2山城國宇治郡1とありて和名抄に宇治郡山料とみえたれば山科の御陵が即天智天皇なり。天智紀に十年十二月癸亥朔乙丑天皇崩2于近江宮1。癸酉殯2于新宮1とありてそれよりその山科御陵御造營なりて各|御陵《ミハカ》仕へし玉ひし中に額田王のよみ玉へる也。芳樹按ふに御陵の造營はおほかたならぬ御事なるべけれど殯宮より移し奉り御埋葬事畢りては外面の御構の成否《ナリナラヌ》には拘はらで御陵《ミハカ》仕へする人々はみな假屋《カリホ》つくりて其所に起伏《オキフシ》するなるべし。然るを考に亂ありて天武天皇の三年に至り此陵はつくらせ玉へり。御葬且此御陵つかへも此時ありしなるべしといへり。おのれこれによりて天武紀の三年の條を勘ふるに御陵造營の事みえず。續紀の文武天皇の三年冬十月辛丑の件に淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿禰馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人主典二人。大工二人於2山科山陵1並分功修造焉とある考には此文武の三年を天武の三年と誤りたるにはあらじ歟。さるは考に亂ありて云々といへれど造築のかたと軍役のかたとはおのづから異なれば亂によりて功程を遏むべむきにあらず。まして御陵つかふる人々はさらに爭闘の場に臨むべきにあらねば例《アト》のまゝに御陵に直宿せし事いはむも更なり。また考に御陵づかへも此時ありしなるべしといへるはことに抱腹《ワらフ》にたへざる説なり。崩御の時より天武の三年まで等閑《ナホザリ》に打過してさて俄かに宿直《トノヰ》をはじむべきかは。【略解、古義ともに考の文をそのまゝ引て一言の論《アゲツラヒ》もせぬはいかにぞや】また考に額田王を額田姫王と姫字を加へたるもいみじきひがことなり。そのよしは上につぎ/\いへり
 
八隅知之和期大王之《ヤスミシヽワガオホキミノ》。恐也御陵奉仕流《カシコキヤミハカツカフル》。山科乃鏡山爾《ヤマシナノカヽミノヤマニ》。夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコト/”\》。晝者母日之盡《ヒルハモヒノコト/”\》。哭耳呼波乍在而哉《ネノミヲナキツヽアリテヤ》。百磯城乃大宮人者《モヽシキノオホミヤビトハ》。去別南《ユキワカレナム》
 
恐也《カシコキヤ》のヤは助辭にて恐き御陵《ミハカ》とつゞく意なり。御陵奉仕流《ミハカツカフル》とは御陵ニツカフルのよしなり。陵をハカと訓むは仁徳紀推古紀などに難波(ノ)荒陵《アラハカ》とあり。【但おなじ物も指ざまによりて名のかはれば小丘を見てはあれは御陵にやといふときはミサヽキといふべく某天皇の御陵にやとさすときは御ハカと云べし】ハカは古義に葬處《ハフリカ》なり【ハフの切フなり。リは活用《ハタラク》言ゆゑおのづから省かるなり。新撰萬葉に葬處《ハカ》無またいづこを葬處《ハカ》などあるもみな義を得てかけるものなり】○夜之盡日之盡《ヨノコト/”\ヒノコト/”\》は終夜終日のよしなり○去別南《ユキワカレナム》は散《アガ》れゆかむの意にて一周の間は近習の臣たちみな御陵《ミハカ》に侍宿《トノヰ》する事日並知皇子尊の御墓づかへせし舍人の歌にても知らる○歌意明らかなり
 
明日香淨御原御宇天皇代〔頭注、校正者云。淨は清か〕 天渟中原瀛眞人天皇
 
十市皇女薨時高市皇子尊御作歌《トホチノヒメミコノスギマセルトキタケチノミコノミコトノヨミマセルウタ》三首
 
此皇女のこと上に出づ。天武紀に七年是春將v祠2天神地祇1而天下悉祓禊之。竪2齋宮於倉梯河上1。夏四月丁亥朔欲v幸2齋宮1卜之。癸巳|食《アヘリ》v卜(ニ)。仍取2平旦時1警蹕既動百寮成v列乘輿|命v蓋《オホミカササセリ》以未v及2出行1。十市皇女|卒然《ニハカニ》病發薨2於宮中1。庚子葬2十市皇女於赤穗1。天皇臨v之降v恩以發哀とみゆ。赤穗は神名式に添上郡赤穗とあり。これを橘守部は御自害なりといへり。芳樹いまだ其證を見ずといへどもこの皇女は大友皇子の妃にてましゝかば皇子の薨後憂悶に堪へ玉はで自害し玉へりけむもはかり難し。そは紀の文を見よ。皇女のあつしくおはしまさむに齋宮を建て神祇を祭り玉ふべきにもあらねばそのほどなやましくおはしゝにあらざる事はしるし。然れば卒然病發とある文疑ひなきにあらず。但守部が卷一なる皇女の伊勢神宮に詣で玉へる道にて波多横山巖をみて吹黄刀自がよめる歌の註にこは密かに祷玉ふことのありて詣で玉へるなりといひ常ニモカモナとよめるも此時皇女の御命に拘はる事のあればなりなどいへるは何事をさせるにか。みな附會の説にてとりがたし○高市皇子此時いまだ太子にはあらねど後を始にめぐらして尊とかけり
 
三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカミスギ》巳具耳矣自得見監乍共不寐夜叙多
 
三諸は三輪山なり。古義云。神須疑《カミスキ》は神木の杉にてそのスギてふ言に皇女の薨《スギ》たまふをよそへ玉へり。次歌に短木綿《ミジカユフ》とあるも皇女の御壽《ミイノチ》の短き意をよそへ玉ひ卷四に「まぬの浦のよどの繼橋情由毛《ツギハシコロヽユモ》おもへや妹がいめにしみゆる」とあるも繼橋に繼て思ふ意をよそへ十一に「ちはや人うちの度速瀬不相《ワタリノハヤキセニアハズ》ありとも後も吾つま」とあるも速き瀬に速クノ時といふ意をよそへたるなど古歌の一格なり〇三四の句。考には己免乃美耳將見管本無《イメノミニミエツヽモトナ》の誤として神杉《カミスギ》は齋《イメ》るといふを夢《イメ》にいひかけ玉へるのみといひ古義には加是耳荷有得之監作《カクノミニアリトシミツヽ》の誤とせり。かゝれば考は上二句をイメの序として毎夜夢のみに見えつゝもとな云々といへるなり。古義は皇女の薨玉ひしは目前に顯《アラハ》に見えたる事ながら猶戀しく思ひて慕ひつゝ云々と解けり。守部は三句已具耳之自にてスギシヨリと訓べし。こは神須疑の字を已具耳《スデニグスルノミ》とうけてスギとよませたるなり。卷十に芽子之花開乃乎再入緒《ハギガハナサキノヲヲリヲ》とある乎再も乎字を再び重ぬる意を以て書るにて同例なりといへり。【この説はいはれたり】四句は影見盈乍《カケニミエツヽ》の誤なりといへり。かゝれば此説も上二句を序として「神すぎすぎしより」と云かけ皇女の貌の面かげに見えつゝの意なり。かく字を改めて解けば事もなく聞ゆれど誤脱の説は快よからず。猶考べし
 
神山之山邊眞蘇木綿《カミヤマノヤマベマソユフ》。短木綿如此耳故爾《ミジカユフカクノミユヱニ》。長等思伎《ナガクトオモヒキ》
 
考云。三諸も神山も神岳と三輪とにわたりて聞ゆるが中に集中をすべ考るに三諸といふに三輪なるぞ多き。神なびの三室また神奈備山といへるは飛鳥の神岳なり。然ればこゝは二つともに三輪か。眞蘇木綿《マソユフ》は眞佐苧木綿なり。【サヲの約ソなり】苧はもと麻にも木綿にもわたりていふ名なり。さてその木綿は穀木皮もて織れる布なり。寶基本紀に以2穀木1作2白和幣1名2號《ナヅク》木綿《ユフト》1といへり。此御歌も上二句は序なり○短木綿《ミジカユフ》。凡|木綿《ユフ》には長きも短きもあるをこは短きをとり出て皇女の御壽の短きよしをよそへ玉へり。如此耳故爾《カクノミユヱニ》の故は考にユヱと訓めり。人妻故爾《ヒトツマユヱニ》などの故《ユヱ》と同じ。かくばかり短かゝりし物をの意なり
 
山振之立儀足《ヤマブキノタチヨソヒタル》。山清水酌爾雖行《ヤマシミヅクミニユカメド》。道之白鳴《ミチノシラナク》
 
こはいかにも解がたし。強ていはば上三句は黄泉といふもじをかくよみなし玉へるにはあらじ歟と既《ハヤ》くおもへりしに守部もしかいへり。故に今守部が説をあぐ。そは山振は黄なる花にてその花のたちよそひ影をうつせる水は即黄なる泉なり。その水を酌に行むとおもへど道のしらなくとよみ玉ひて皇女の薨《カクレ》まして埋葬したるを黄泉《ヨミ》にいでませりとして黄泉《ヨミ》に尋ねゆくをその泉を汲みに行くにたとへて尋ねゆかむとはおもへど幽顯の隔てあれば道のしられぬよしにのたまへるなり。白鳴《シラナク》のナクはヌの伸びたるなり
 
天皇崩之時大后御作歌《スメラミコトノカミアガリマセルトキオホキサキノヨミマセルミウタ》一首〔頭注、校正者云。大后の大は諸本太なり〕
 
天武紀に朱鳥元年九月丙午天皇病不v差。崩2于正宮1とあり○太后は持統天皇なり
 
八隅知之我大王之《ヤスミシヽアガオホキミノ》。暮去者召賜良之《ユフサレバメシタマフラシ》。明來者問賜良之《アケクレバトヒタマフラシ》〔頭注、校正者云。問賜良之の之は志か〕。神岳乃山之黄葉乎《カミヲカノヤマノモミヂヲ》。今日毛鴨問給麻思《ケフモカモトヒタマハマシ》。明日毛鴨召賜萬旨《アスモカモメシタマハマシ》。其山乎振放見乍《ソノヤマヲフリサケミツヽ》。暮去者綾哀《ユフサレバヤニカナシミ》。明來者裏佐備晩《アケクレバウラサビクラシ》。荒妙乃衣乃袖者《アラタヘノコロモノソデハ》。乾時文無《ヒルトキモナシ》
 
召賜良之《メシタマフラシ》の召《メシ》は假字にてミなり。ミを延ればメシにておのづから尊むかたの詞となれり。良之は常いふラシとは異にて卷廿に「おほきみのつぎて賣須良之《メスラシ》たかまどの野《ヌ》べみるごとにねのみしなかゆ」とあるラシに同じく集中の一格なり。さればここは夕されば見玉ひし明くれば問たまひしといふことなりと思ふべし○問賜良志とは太后に黄葉はいかならむととはせ玉ひしよしなり。卷三に「かくのみにありけるものを芽子花咲而有跡問之君波母《ハキガハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》」とある問に同じ。召賜萬旨《メシタマハマシ》の下に多くの言《コトバ》を省きたり。そは御歌意を解けばおのづから知らるゝゆゑにこゝにはいはず○裏佐備晩《ウラサビクラシ》は心不樂《コヽロサビ》しく日を暮す意なり○荒妙は考にもいへる如く喪服なり。そは令集解に天皇の崩《カムサ》り玉へる時は皇后に細布を奉るよしいへり。細布は荒妙にはあらねど皇后の御衣とし玉ひてはなほアラタヘとのたふべきなり。かゝれば此荒妙は枕詞としては看るべからず○御歌意は。かく麁妙の喪服を著たるは天皇の崩り玉へるによりてなり。されど愁にしづめる心まどひに今もなほ存命《ナガラヘ》へておはしますやうに思はるゝまゝに夕されば立出て紅葉を見玉ひ夜あくれば立出てもみぢはいかにと問玉ひし如く今日もその紅葉をいかにととひ玉はまし、あすもその紅葉を出で見玉はましとおもへどまことは崩り玉ひてさることもなければ空しく其山をふりあふぎみつゝ夕さればいとどかなしく明くれば心くるしくてうれへなげく涙に衣の乾くまもなしとなり
 
一書曰。天皇崩之時《スメラミコトノカムアガリマセルトキ》太上天皇|御製歌《ヨミマセルオホミウタ》二首
 
此太上は持統天皇に當れり。天武天皇崩ましゝ後四年に即位。十一年八月御位を文武天皇に讓玉ひて後太上と申奉れり。されば淨御原の朝の標内に持統の御事を太上天皇として入るべきにはあらねども文武天皇の朝《ミカド》の人の記しとゞめ置る歌どもの中よりとり出たるにて持統を太上天皇と云ならはしたるまゝに改めずて書入しなるべし。さらでは天武崩ませる時持統のよませ玉へる御歌の端書に太上とかけるはひがごとなり。と略解に考を引ていへり
 
燃火物取而※[裹の鍋ぶたなし]而《モユルヒモトリテツヽミテ》。福路庭入澄不言八《フクロニハイルトイハズヤ》。面智男雲
 
この結句訓み難く解《トケ》難し。考には入澄の澄は騰《ト》か。智は知日の二字なるべし。男雲は借字にて無毛《ナクモ》の意なり。後世も火をくひ火を蹈むわざをすといへば其時ありし役(ノ)小角が輩の【文武紀に三年五月丁丑 役君小角流2于伊豆島1】火を袋に包みなどする恠しきわざする事ありけむ。さるあやしきわざをだにすめるに崩ましゝ君に逢奉らむわざを知るといはぬがかひなし。と御歎きのあまりにのたまへるなり。と考にいへり。おほかたはこれにて聞えたり。されば入ルトイハズヤは俗に入るといふではないかといふ義なり。面智男雲の智を知日の二字として面知日《アハムヒ》なくもと義を借りてよむべし。卷十二の「水茎の崗の葛葉を吹かへし面知兒等之不見比鴨《アヒミシコラガミエヌコロカモ》」とよめる面知と合せ見るべし。と守部がいへるは契沖の字のまゝに而知《オモシル》とよみて常に相見る顔をいへるなりといへるよりは宜しきやうなり。猶考ふべし
 
向南山陣雲之《キタヤマニタナビククモノ》。青雲之星離去《アヲクモノホシサカリユキ》。月牟離而《ツキモサカリテ》
 
向南をキタと訓せたるは卷一に月|西渡《カタブキヌ》卷十二に。戀渡青頭鴨《コヒワタルカモ》などの如く意を得てかけるなり。陣雲之《タナビククモノ》は青雲をいはむためなり。青雲はたゞ空にて蒼天《アヲゾラ》の事なり。さてはタナビク雲のとはいふべからぬ如くなれども雲といふちなみにかくいひつらね玉へるなり。宣長云。青雲之星《アヲクモノホシ》は青天にある星なり。二の離はサカリとよみて月も星もうつりゆくをいふ。月日のほどふれば月も星も次第にうつりゆくを見玉ひて崩玉へる月日の隔りゆくを悲み玉ふなり。といへり。この説のごとし。近ごろの文章《アヤコトハ》に「星うつり事去り」といへるがこゝとおなじ意也○月牟離而《ツキモサカリテ》この牟もじモとも訓むべきにや。新撰萬葉に郁子牟鳴濫《ウヘモナクラム》とあり【一本に毛ともあれば毛に改めても宜しけれど牟をムともよめばそのまゝにおきつ】〔頭注、校正者云。牟をムのムはモか〕○御歌意。崩御ましゝは昨日《キノフ》今日《ケフ》の如くおもふにいつのほどにか星移り月日も遠ざかりて世中はかはりゆけどもなほわが哀しみ慕ふ心うすらぐよしもなくて堪がたく思はるゝよとのたまへるなり【此二首口つきこち/”\しく聞えて持統天皇のふりならぬよし眞淵いへり】
 
天皇(ノ)崩之後《カムアカリマシヽノチ》八年九月九日|奉2爲《ツカヘマツリシ》御齊會《オホミヲガミ》1之夜夢裏習賜御歌《ノヨイメノウチニヨミタマヘルミウタ》一首
 
この條も後に書くはへしものなり〇八年は朱鳥八年なるべし。此次に藤原宮御宇天皇代と標して朱鳥元年十一月の歌を載せ其次に同三年の歌あればこゝに同八年の歌を載すべきにあらざれども此は既にいへる如く後人の書入たるなり○御齊會はオホミヲガミと訓べし。持統紀に齋《ヲガミス》とよめり。その行事はやゝ後のさまもていへば大極殿にて金光明經を讀誦《ヨマ》せらるゝ事なり。【金光明經は最勝王經也】天武紀九年五月乙亥始説2金光明經于宮中1とあるこれ此會の起《ハジメ》なり。【式は江家次第に委し】習とは夢のうちに詠《ヨミ》たるうたを夢覺て後誦習し思ひ出て書しるすをいふ。卷十六に「荒城田の子師田の」云々右歌一首黒麻呂夢裡作2此戀歌1贈v友。覺而令2誦習1如v前とあるこれなり○御歌とあるは持統天皇のとせる一書の説なり。されど然らば御製歌とあるべし。いぶかし
 
明曰香能淨御原乃宮爾《アスカノキヨミハラノミヤニ》〔頭注、校正者云。淨は清なるべし〕。天下所知食之《アメノシタシロシメシヽ》。八隅知之吾大王《ヤスミシヽアガオホキミ》。高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》。何方爾所念可《イカサマニオモホシメセカ》。神風乃伊勢能國者《カムカゼノイセノクニハ》。奥津藻毛靡足波爾《オキツモモナビキシナミニ》。塩氣能味香乎禮流國爾《シホケノミカヲレルクニヽ》。味凝文爾乏寸《ウマコリアヤニトモシキ》。高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》
 
此歌疑はしき事おほけれど夢中の御製なればもとより聞えぬ事がちならむこと理なり。されども思ふことを夢みる物にしあれば天武紀を勘ふるに天皇伊勢に幸《イデ》まして桑名郡家にに皇后をとどめ御自らは不破に入ませり。當時《ソノトキ》の形勢《アリサマ》をおもふに皇后ひとり郡家にとどまらせ玉ひてつく/\と御物思し玉ひつらんにはまづ神宮を遙拜して祈らせ玉へる事必らずありしなるべく此度の御勝利またく大神宮の冥助《ミタスケ》ありし事と後々までも叡慮《ミコヽロ》に深くおもひしみておはしましゝゆゑに【柿本人麻呂の長歌にも此事見えたり】神風乃《カムカゼノ》以下の句を夢中によませ玉ひしならん○塩氣《シホケ》は潮曇《シホクモ》りにて神代紀に唯有朝霧而薫滿之哉《アサキリノミカヲリミテルカモ》と伊弉諾尊ののたまへるがおなじきを香乎禮留國爾《カヲレルクニニ》よりやがて味凝《ウマコリ》につゞきたるは意|通《キコ》えず。されど上にいへる如く神宮の冥助《ミタスケ》の事よりおのづから出來たる言なることはしるし○味凝《ウマコリ》の味《ウマ》は美《ウマ》なり。凝《コリ》は織《コリ》なり。【ウマクオリのクオを約むればコとなれり】美《ウマ》く織《オ》れる綾《アヤ》とつゞける言なり。委しくは冠辭考にみゆ
 
藤原宮御宇天皇代《フヂハラノミヤニアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》
 
天皇の下板本に高天原廣野姫天皇とあるはあやまりなり。こは持統文武の兩朝にわたれる標なればかく一御代の御名のみを擧べきにあらず
 
大津皇子薨之後大來皇女《オホツノミコノスギマシヽノチオホクノヒメミコノ》《ヨリ》2伊勢齊宮《イセノイツキノミヤ》1上京之時御作歌《ノボリタマヘルトキヨミマセルミウタ》二首
 
大津皇子は朱鳥元年十月|己巳《フツカ》に謀反のこと發覺《アラハレ》て庚午《ミカ》に賜死《ウシナハレ》たまひしこと持統紀に見えて上にひけり○大來皇女は大伯皇女とあり。【兩樣にかきたり】同紀に元年十一月丁酉朔壬子|奉《ツカヘマツレル》2伊勢神(ノ)祠《ミヤニ》1皇女大來還至2京師1とあり○齊宮は齋内親王のおはします宮なり。和名抄に職員令云齋宮寮|以豆岐乃美夜乃豆加佐《イツキノミヤノツカサ》
 
神風之伊勢能國爾母《カミカゼノイセノクニニモ》。有益乎奈何可來計武《アラマシヲナニシカキケム》。君毛不在爾《キミモマサナクニ》
 
在字拾穗本による君は大津皇子をさし玉へるなり
 
欲見吾爲君毛《ミマクホリワガスルキミモ》。不有爾奈何可來計武《マサナクニナニシカキケム》。馬疲爾《ウマツカラシニ》
 
相見まく欲する皇子もはや薨《ウセ》ておはしまさぬに何しか馬の疲るゝをいとはで上り來つらむとなり。皇女は御輿《ミクルマ》にて歸京し玉へれど侍女はみな乘馬なるが古への例なれば馬疲《ウマツカラ》シニとよみ玉へるなるべし
 
移2葬《ウツシハフレル》大津皇子屍於葛城二上山《オホツノミコノミカバネヲカツラギノフタカミヤマニ》1之時《トキ》大來皇女哀傷御作歌《オホクノヒメミコノカナシミテヨミマセルミウタ》二首
 
これ迄は賜死の處にかりに埋め置れたりけむを二上山に移し葬れるなるべし。二上は大和志に在葛下郡當麻村西北。半跨河州。兩峯對。一曰男嶽。一曰女嶽云々又輿地通志に山上墓大津皇子在2二上山上神社東1とみゆ【この男嶽女嶽の稱舊くよりありしとおもはる。卷七に「木道爾社妹山在《キヂニコソイモヤマアリ》といへみくしげの二上山も妹詐曾有來《イモコソアリケレ》」とよめるに女嶽を妹山といへるなり。神名帳にも大和國葛下郡葛木二上神社あり
 
宇都曾見乃人爾有吾哉《ウツソミノヒトナルアレヤ》。從明日者二上山乎《アスヨリオハフタカミヤマヲ》。弟世登吾將見《ナセトアガミム》
 
弟世はナセと訓べし。記に汝兄《ナセ》。卷十四に奈勢乃古《ナセノコ》。卷十六に名兄乃君《ナセノキミ》などあり。仁賢紀に古者不v言2兄弟長幼1女以v男稱v兄《セト》男以v女稱v妹と見えたり。大津大來御はらからの事なれば皇女より皇子を弟世《ナセ》とのたまへるなりけり○御歌意は。かく現身《ウツシミ》にていきながらへゐる吾にして明日よりは言も通はぬ二上山を汝兄《ナセ》とみつゝやあらむと歎玉へるなり。卷三に高橋朝臣の死妻を悲傷《カナシ》める歌に「うつせみの世の事なればよそに見し山をや今は因香《ヨスガ》と思はむともみえたり
 
磯之於爾生流馬醉木乎《イソノウヘニオフルアシビヲ》。手折目杼令視倍吉君之《タヲラメドミスベキキミガ》。在常不言爾《マストイハナクニ》
 
磯は池の汀を磯といへるにて即ち皇女のすみ玉へる宮の庭なり。於《ウヘ》とは磯のほとりをいふ。於をウヘとよめるは集中に木末之於《コヌレガウヘ》また續紀に山於《ヤマノウヘ》といふ氏も見えたり。さて卷二十に「をしのすむ君が此島けふみれば安之婢乃波奈毛《アシビノハナモ》さきにけるかも」「伊氣美豆《イケミヅ》にかげさへみえて咲にほふ安之婢乃波奈《アシビノハナ》を袖にこきれな」「伊蘇かげのみゆる伊氣美豆《イケミヅ》てるまでにさける安之婢乃《アシビノ》ちらまくをしも」などみな池のほとりの磯に馬醉木の咲けるをよめるなり。かくて此三首の歌の前後に二月とあれば仲春にさく花なることしるし。また卷七に安之比成榮之君之《アシビナスサカエシキミガ》などあるをおもへば花の照榮ゆるさまもうるはしきものとおもはる。これによりて冠辭考に花のてり匂ふ色も春深く野山に咲くなども茵《ツヽジ》に似たるさまによめろをおもへば木瓜《モケ》にぞありける。いかにぞなれば其もけは字音にてこゝの語ならず。東人のシドミといひて且馬の毒なりとするものぞ是なる。散木集に「取つなげ玉田横野のはなれ駒つゝじまじりにあしび花さく」とあるも馬に毒なればこそかくはよみけめ。また新六帖に「みまくさは心してかれ夏野なるしけみのあさみ枝まじるらし」ともあり。これを今アセボといふものなりとおもへるはあらず。アセボはその花白くてこまかなればみるめもなし。集中なるアシビはあかく照る色なり○在常不言爾《マストイハナクニ》はおはしましもせぬにといふ意なり。言《イフ》をば輕くみるべし○この御歌一首は宮よりはるかに二上山を見放けてよみ玉ひ一首は宮の庭なる池のほとりの馬醉木をみてよみ玉へるなり
右一首今案不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時路上見2花盛1傷哀咽作2此歌1乎といふ左註あり。後世のをこ人の書入れしものなれば削り去るべし。皇女の歸京は十一月なりし事持統紀に見えて上にひけり。馬醉木《アシビ》の花のある比にはあらざるをや
 
日並皇子尊殯宮之時《ヒナメシノミコノミコトノアラキノミヤノトキ》柿本朝臣人麻呂(ノ)作歌《ヨメルウタ》一首|並《マタ》短歌《ミジカウタ》
 
持統紀に三年夏四月癸未朔乙未皇太子草壁皇子尊薨とあるこれなり。此皇子天智天皇の元年に生れ玉へれば薨賜へる御歳は二十八なり。日並《ヒナメシ》は日並知《ヒナメシリ》の義なるよし上にいへり○殯宮はアラキノミヤと訓べし。記傳云。アラは※[金+僕の旁]《アラカネ》璞《アラタマ》などのアラなり。新に死たるを未葬りあへさるほど姑く收置處をアラキといふ。師の考には天皇の外に別に殯宮は建られず。これらは一周まで御墓つかへするほどを凡て殯といひしなり。とあり今按に天皇の外は殯宮无き證も見えず又正しくありし證も見えねども既に殯宮之時とあるからはたとひ其宮は建られずとも殯宮と云し事はしるし。孝徳紀の制に凡王以下及至2庶人1不v得v營v殯とあるによらば皇子は殯せしなり。【この制よりさきには王以下を殯せしなるべし】さて右の如く殯宮之時と云るは御喪之時と云意にて必しも殯宮に坐ほどのみと云にあらず。故端に右の如く標《アゲ》たる歌いづれも既に葬奉れる後の事までをよめり。されば師の一周までの間を云と云れたるは當れりといへり。皇子の殯宮この下にもあり
 
天地之初時之《アメツチノハジメノトキシ》。久堅之天河原爾《ヒサカタノアマノガハラニ》。八百萬千萬神之《ヤホヨロヅチヨロヅガミノ》。神集集座而《カムツドヒツドヒイマシテ》。神分分之時爾《カムハカリオハカリシトキニ》。天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》。天乎波所知食登《アメヲバシロシメスト》。葦原乃水穗之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》。天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》。所知行神之命等《シロシメスカミノミコトト》。天雲之八重掻別而《アマクモノヤヘカキワケテ》。神下座奉之《カウムクダリイマセマツリシ》。高照日皇子波《タカヒカルヒノミコハ》。飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》。神隨太布座而《カムナガラフトシキマシテ》。天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》。天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》。神上上座奴《カムノボリノボリイマシヌ》。吾王皇子之命乃《ワガオホギミミコノミコトノ》。天下所知食世者《アメノシタシロシメシセバ》。春花之貴在等《ハルバナノタフトカラムト》。望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタヽハシケムト》。天下四方之人乃《アメノシタヨモノヒトノ》。大船之思憑而《オホブネノオモヒタノミテ》。天水仰而待爾《アマツミヅアフギテマツニ》。何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》。由縁母無眞弓乃崗爾《ツレモナキマユミノヲカニ》。宮柱大布座《ミヤバシラフトシキイマシ》。御在香乎高知座而《ミアラカヲタカシリマシテ》。明言爾御言不御問《アサゴトニミコトトハサズ》。日月之數多成塗《ツキヒノマネクナリヌル》。其故皇子之宮人《ソコユヱニミコノミヤビト》。行方不知毛《ユクヘシラズモ》
 
天地之初時之《アメツチノハジメノトキシ》は紀に天地初發《アメツチノハジメ》とあるとは異にてこはいたく後の事なれども神代の上世をば大かたに天地《アメツチ》の初《ハジメ》と云るなり。之《シ》は助辭なり○天河原《アマノガハラ》は記に於2天安河之河原1神2集《カムツドヘ》八百萬神(ヲ)1とある河原なり。記にては神集をカムツドヘと訓るは神勅もて令v集《ツドハセ》のよしなり。【ハセの約ヘ】こゝは神々の自ら集《ツド》ひ玉ふなれはツドヒなり〇神分は大祓詞に神議《カムハカリ》とあるによりてカムハカリと訓べし。【但分字の議にかよふことおぼつかなければ古義にはカムアガチと訓《ヨメ》れどいかゞあらむ。なほ考ふべし】サテ分之《ハカリシ》時爾は次の四句を隔て葦原乃云々にかゝれるなり○天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》は天照大御神の御事なり。日女《ヒルメ》の女もじは假字なれば女神なるよしもて書るにはあらず。こは美《ミ》に通ひて持《モチ》の約れるなり。と眞淵のいへ右が如し【芳樹云。此神の女神にておはします事は記紀の説疑を容るべき所なきを物部茂卿といふ者日神は陽神にてましませば男神なるを聖徳太子蘇我馬子等女帝を立て權柄を恣にせんとて神祖の陽神を陰神と言ひ※[手偏+王]げこれを例として推古天皇を位に即け奉れるものなるよしにいへる此説茂卿のみならず舊く外にもいへる人无きにあらねどいみじき非なるは推古よりもはやく飯豐天皇とて女帝おはしませり。されど此帝は即位まし/\ていくばくも經ぬほどに崩り玉へりしかば即位の式にてむねとあるべき大嘗も行はれざりしゆゑ御歴代のうちにかぞへられず。もし今少しながらへさせ玉ひて年をこえ大嘗のとゝのへる後崩玉へらんにはこれぞ女帝のはじめたるべき。かゝれば太子馬子などの神祖を女神と※[手偏+王]げ僞りて女帝の例をはじめたりといへるは茂卿が日本紀を委しく讀まざるのあやまりなり。かつ日は陽なれど天照大御神は日にはましまさず。日の國に座して日を知し食《メ》す神なり。からぶりの理をもていはんにも陽を陽もては鎭めがたし。故に日の陽を鎭め掌るは陰なるべし。漢籍にて天地の理を窮めたる舊き書は易に及《シ》くものなし。その易に離を日とせり。離は中爻が陰にて女の象なり。故に離を中女の卦といふ。此中女といふが即ち日神なり。然るを日をたゞ陽とのみおもへるは茂卿が漢籍を委しく讀まざるの誤なり。抑神祖の女神にてます事は神代以來の古説なり。易經の皇國にわたれるはいたく後の事なれば易によりて陰神といひそめたるにはあらでこれ彼此暗合なり。西洋の説を予しらねどこを以て天照大御神の女神なることを辯へ明らむべし】○天乎波所知食登《アメヲバシロシメスト》のトはトテの意なり。天をば日女《ヒルメノ》命の知しめすとて皇孫尊《ミマノミコト》は葦原の水穗國を治めに下り玉ふなり。葦原とは大八洲は國の四方皆海にて葦の生ひ廻れる所なればいへるなり。水穂は稻の事なり。水におひたつ草にで萬國に優れたるものなれば皇國の稱とせるなり○天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》は天地の初《ハジメ》て判《ワカレ》しといふに對《ムカ》へて判《ワカ》れし天地のまた寄合む限までといへるなり。この天地のよりあひの極といふことこゝのみならず卷六卷十一などにも見えて古人の天地の久しきためしにいひしことなり○神之命等《カミノミコトト》は即邇々藝命をさす、トはトシテの意なり○天雲之八重掻別而《アマクモノヤヘカキワケテ》とは皇孫《スメミマ》【邇々藝命】の高天原より天雲の八重に立籠たる中をかきわけて日向の高千穗の峯《タケ》に下り玉ふ道のほどの状をいへるにて委しくは記紀に見えたり○神下《カムクダリ》は天降《アマクダ》り玉ふことなり。座奉之《イマセマツリシ》は皇孫《スメミマ》の天降り玉ひて此國に座玉へるよしにてこの奉之《マツリシ》のシは過去のシにて皇孫の御事はこれまでにてこれよりは天武天皇の御うへをいふなれば辭《テニヲハ》の格もていはむにはイマセマツリキといふべし。【こゝにて一段なり】然るを上にこれに結ぶ【そのや何】の言もなくてシとせるは實はこゝにて斷《キル》るにはあらずこは座奉之御子孫《イマセマツリシミスヱ》なる日皇子《ヒノミコ》とつゞくゆゑにキの斷《キル》る言をシの續く言としたるものなり○高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》は天武天皇を指奉れるなり。考にこれよりは今の天皇【天武】を申せり。さてその天皇崩まして天に歸り上りますよしをいはむとてまづ天孫天降ましゝ事をいへり。かゝる言の勢ひ此人のわざなり。といへり【略解はいたく誤れり】○淨之宮《キヨミノミヤ》は淨御原宮なり。考云。原を略けるは妹毛吾毛|清之河《キヨミノカハ》のてふ類也○神隨《カムナガラ》神とまします隨《マヽ》にの意なり。【既にいづ】太布座而《フトシキマシテ》これまで四句は天武の御代しろしめしヽ間を申せり。太布《フトシク》はふとく尊く政令を布き施し玉ふをいふ.座而《マシテ》の下にオハシマシヽニといふ詞をそへて見るべし○天皇之《スメロギノ》はこれも天武天皇なり。考云。崩ましてはまた天を敷ます國として上りますといへり。【現世を過去り玉ふをば皆天宮に上り入せ玉ふといふこと上にいへり】○天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》の開字略解に宣長の説を引て閉の誤ならんといへれどこゝは天に上《ノホ》り玉ふとて石門《イハト》を開き玉へるよしなり○神上《カムノボリ》は一云|神登《カムノホリ》とあるによるにノボリと訓べし。カムアガリとては崩のことゝなれり。こゝは然《サ》にあらず、神となりて天《アメ》に上《ノボ》りますよしなり。さで上の高照よりこゝまでは天皇は淨御原にて天下を知し食《メ》しおはしましゝを遂にわれは天國を知し食すべしと御みづからおもほし立て天の石門を聞き神のぼりいましぬとなり【こゝにて二段なり】○吾王皇子之命乃《ワガオホキミミコノミコトノ》これより初て日並皇子《ヒナメシノミコ》尊の御事をいへり〔頭注、校正者云。日並皇子紀には日並知皇子命とあり〕○天下知食世者《アメノシタシロシメセバ》は御位に即玉ひて天下しろしめす御代になりせばとなり〇春花之《ハルバナノ》は貴《タフトキ》の枕詞にて貴《タフトシ》とは愛《メデタシ》といふに同じ。記に益《マサリテ》2我王(ニモ)1而|甚貴《イトタフトシ》とある傳に「シラタマノキミガヨソヒシ多布斗久阿理祁理《タフトクアリケリ》」また催馬樂に安名多不止介不乃太不止左也《アナタフトケフノタフトサヤ》などみな美《メデタ》く好《ヨ》き意なり。是貴きの本義《モトノコヽロ》なり。【太占《フトマニ》、太祝詞《フトノリト》、太幣《フトミテクラ》などの太と同言にてタフトキは太《フト》きにタの添りたるなり】とみゆ。卷三に極貴物酒西有良之《キハマリテタフトキモノハサケニシアルラシ》とある貴物ハもめでたき物はの意。また倭姫命世紀に飯高(ノ)國止白而進于2神田並神戸1倭姫命|飯高志《イヒタカシ》止白事|貴止《タフトシト》悦賜支とある貴《タフトキ》もめでたき意なるを以てこゝなるも然みるべし○望月乃《モチヅキノ》枕詞なり。滿波之針武跡《タヽハシケムト》はタヽハシケムと訓べし。卷十三に十五月之多田波思家武登《モチヅキノタヽハシケムト》とあり。天下に大御惠の普く滿たらはんの意也。トは二句ながらトテのトなり○大船之《オホフネノ》枕詞なり。大船は乘てたのもしげなる物故に思ヒタノミテといへり○天水《アマツミヅ》は雨なり。旱天に雨を仰き待つ意にいへり。卷十八に安麻都美豆安布藝弖曾麻都《アマツミヅアフギテゾマツ》○何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》のカは下十句隔てゝ數多成塗《マネクナリヌル》のヌルに結べるなり○由縁母無《ツレモナキ》は卷三に都禮毛奈吉左保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマベニ》。卷十三に津禮毛無城上宮爾《ツレモナキキノヘノミヤニ》などによりて訓べしと宜長いへり。【古義にツレモナキハ連字の意にて伴ひよる人もなきの意なりといへり】眞弓乃崗《マユミノヲカ》は諸陵式に眞弓丘陵【岡宮御宇天皇。在大和國高市郡。兆域東西二町南北二町。陵戸六烟】廢帝紀天平寶字二年八月戊申勅日並皇子天下未v稱2天皇1。追2崇尊號1古今恒典。自v今以後宜v奉v稱2岡宮御宇天皇1○御在香乎《ミアラカヲ》。記に御舍《ミアラカ》。神代紀に殿《ミアラカ》。崇神紀に大殿《ミアラカ》。古語拾遺に瑞殿。古誤|美豆能美阿良加《ミヅノミアラカ》。
大殿祭祝詞に瑞之御殿《ミヅノミアラカ》【古語云2阿良加1】などあり、【言義は芳樹按にアラは清にてカは處ならん歟。猶考ふべし】高知座而《タカシリマシテ》は御在香《ミアラカ》の内に高くまし/\ての意にて高知の言義は上にいへり。さて陵《ミハカ》には宮柱《ミヤバシラ》御在香《ミアラカ》などの殿作はあるべきならねどこゝは薨じ玉ひしさまにいはで現世《ウツシヨ》に坐すが如くいへるなり○明言《アサコト》の言は借字にて毎朝《アサゴト》なり。こは貴人の許には朝まゐるものなり。朝廷の朝字も朝|集《ツド》ふ所なるゆゑに書《カケ》り。されば朝ごとに伺ひ奉れど御言不御問《ミコトトハサズ》となり。トハサズは御答の无きなり【御字を添たる知《シラ》すを御知《ミシラス》、見《め》すを御見《メス》とかける類にて敬ひ詞なるゆゑなり。物いふことを問といふは古語のつねにて言不問木尚《コトトハヌキスラ》とよめるも物いはぬ木すらといふことなり】○日月之はツキヒノと訓べし。【こは所に隨ひて字のまゝにヒツキと訓む所もあり】數多成塗《マネクナリヌル》は薨玉ひてより日數の數多《アマタ》過ぬるよしにてこのヌルは上に何方爾《イカサマニ》おもほしめせかとある可《カ》を結べるなり【古義に成塗をナリヌレト訓てヌレはヌレバの意なりといへるは非なり】○其故《ソコユヱニ》はそれゆゑになり。皇子之宮人《ミコノミヤビト》は大舍人等のことなり○行方不知毛《ユクエシラズモ》は行方もしらず退《アガ》れ散ぬるよしなり○歌意。天地のはじめの時高天原なる天の安河原に八百萬の神々集ひいまして神分《カムハカ》りし玉ひし時|天上《アメ》をば天照大御神のしろしめす國としてこの天(ノ)下葦原の水穗國は皇孫邇々藝《スメミマニニギノ》尊の天地と長く久しくしろしめすべき國ぞと定め給ひて天の八重雲を掻別て天くだし座《イマ》せ奉りしその大御裔《オホミスヱ》高照《タカヒカル》日《ヒ》の皇子にまします天武天皇は飛鳥《アスカ》の淨御原にして天の下知しめしゝをつひに高天原を御自らの敷座す國となして歸り上《ノボ》りましぬ。かゝればその御位をば吾王|日並《ヒナメシ》皇子の繼玉ふべく其御代になりせば天下|美《メデ》たく榮え大御惠み諸國に滿足はんと四方の人の思ひたのみて仰ぎ待しかひもなくいかさまにおぼしめしたるにか寄《ヨ》り憑み玉ふ人さへもなき檀岡に御舍《ミアラカ》つくりて安定《シヅマリ》ませば朝ごとに參りさぶらへど物仰せらるゝ事もなくて月日のあまた過ぬる。さるにより日々さぶらひし人どもゝ別々《ワカレ/\》にゆくへしらず退《アガ》れちりたるがかなしくあさまし。となり
 
反歌《ミジカウタ》二首
 
久竪乃天見如久《ヒサカタノアメミルゴトク》。仰見之皇子乃御門之《アフギミシミコノミカドノ》。荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
皇子乃御門《ミコノミカド》は眞淵云。高市郡橘島宮の御門なり。飛鳥の岡の里の東北五六丁ばかりに今も橘寺とてあり。そこなり。といへり。さて此|御門《ミカド》とあるを考、略解、古義等みな出入《イデイリ》する御門の事として解たれども芳樹按にこは皇子のすみ玉ふ大殿《オホトノ》を御門といへるなり。そは朝廷の字をミカドと訓るにて其義を知べし。次の舍人等の歌に「高ひかるわが日のみこのいましせば島御門《シマノミカド》はあれざらましを」「よそにみし檀の岡を君ませば常都御門《トコツミカド》ととのゐするかも」「吾御門《ワガミカド》ちよとことはに榮えむと思ひてありしわれしかなしも」などの御門はみな御殿のことなり。【但それが中に「ひむがしの多藝能御門《タギノミカド》にさもらへどきのふもけふもめすこともなし」「一日には千たびまゐりし東《ヒムシ》の大寸御門《オホキミカド》を入かてぬかも」などは出入する御門の事なり】
 
茜刺日者雖照有者《アカネサスヒハテラセレド》。烏玉之夜渡月之《ヌバタマノヨワタルツキノ》。隱良久惜毛《カクラクヲシモ》
 
茜刺《アカネサス》は日。烏玉《ヌバタマ》は夜の枕詞なり○隱良久《カクラク》は隱流《カクル》の伸びたる言にて毛は歎息辭なり○歌意。二句の日は持統天皇をさせるなり。日並皇子尊の薨は持統紀三年夏四月乙未にてこの時持統はいまだ即位はし玉はざりしかど【持統の即位は四年正月戊寅朔なり】日並皇子皇太子にておはしゝがうせ玉へるゆゑに持統の即位し玉はん事疑ひ無ければ推して日者雖照有《ヒハテラセレド》と云て持統の御うへを日にたとへ奉り日並の薨を月の隱るゝにたとへ奉れるなりけり。左注は皇子の薨の時持統のいまだ即位し玉はざりしゆゑ高市皇子の薨玉へる時のうたのこゝに混ひ入たるものなりと思ひて書《シル》せるなるべけれど中々にひがごとなり
 
或本云。以2件歌1爲2後皇子尊殯宮之時反歌(ト)1也
 
後皇子とは高市皇子なり。この注のあやまりならむ事上にいへり
 
或本歌一首
 
島宮勾乃池之《シマノミヤマガリノイケノ》。放鳥人目爾戀而《ハナチドリヒトメニコヒテ》。池爾不潜《イケニカヅカズ》
 
この歌板本こゝにあるは混《マギ》れ入たるなり。下に移すべし。勾《マガリ》は島宮の池の名なり。繼體紀に勾《マガリノ》大兄(ノ)皇子。安閑紀に勾《マガリノ》金橋宮などあるとひとつ處なり○結句は放たれたる鳥すらも皇子尊の薨後物淋しくなれるから人目をこひしたひて水底に潜かずとなり
 
皇子尊宮舍人等慟傷作歌《ミコノミコトノミヤトネリラガカナシミヨメルウタ》二十三首
 
舍人は記傳に此者記紀に見えたるを考へわたすに天皇及|王《ミコ》たちの使ひ賜ふ物にて名義は殿侍《トノハベリ》か。【ノハヘを約むればネとなるなり】といへり。令制さだまりてより中務省に内舍人九十人、左右大舍人寮に大舍人八百人、春宮に舍人監ありて舍人六百人置れたり。この歌どもはその六百人のうちの舍人等のよめるなり【但持統の御代の春宮の舍人大寶以後の如く六百人なりしにや。そはたしかなること知られず】
 
高光我日皇子乃《タカヒカルワガヒノミコノ》。萬代爾國所知麻之《ヨロヅヨニクニシラサマシ》。島宮波毛《シマノミヤハモ》〔頭注、校正者云。波毛の毛は母か〕
 
日皇子は皇子尊をさす。皇太子なるゆゑに日皇子《ヒノミコ》といへるなり。波字板本婆と作れるはわろし。島宮は下に橘の島の宮とよめれは橘寺のあたりなるべし。また此集に「橘の島をしみれば川遠みさらさでぬひしわが下衣」などもあり。天武紀十年云々周芳國貢2赤龜1。〔頭注、校正者云。赤龜の下乃の字脱なり〕放2島宮池1これ即勾池なり。帝王編年記に飛鳥岡本宮島(ノ)東岡(ノ)地也また或書に岡本宮橘寺東。逝廻《ユキヽノ》岡即今(ノ)岡寺地也とあり。母は歎きの辭にて母字の下にかくも荒たるかといふ意を含みたるなり
 
島宮池上有《シマノミヤイケノウヘナル》。放鳥荒備勿行《ハナチドリアラビナユキソ》。君不座十方《キミマサズトモ》
 
池上は板本上池に作れり。一本によりて改む○放鳥《ハナチドリ》はかねて放ち飼にしてありし鳥なり。下に鳥塒立飼之雁乃兒《トグラタテカヒシカリノコ》とあるとは異なり。六帖に「はなち鳥つばさのなきをとぶからに雲路をいかでおもひかくらむ」とあるは翅を切て遠くたち去るまじくしたるなり。この島宮なるはしかせしにはあらで常に餌かひなづけさせ玉へる鳥なるべし。下に「御立《ミタヽ》しゝ島をも家と住鳥もあらびなゆきそ年かはるまで」とあるも島を家の如く思ひて住みなれし鳥もとよめるなり【古義に籠より出して放ちたる鳥のよしにいへるはあやまりなり】○荒備勿行《アラビナユキソ》は他所《ヨソ》に遠ざかりゆくことなかれの意なり○歌意は皇子の御存生のほどこの池に放ち飼てなつけ玉ひし鳥よ。よしや皇子はおはしまさずなりぬとももとのまゝにこゝにすみてよそに遠ざかりゆくことなかれ。汝をだに御形見に見奉らむをといへるなり
 
高光吾日皇子乃《タカヒカルアガヒノミコノ》。伊座世者島御門者《イマシセバシマノミカドハ》。不荒有益乎《アレザラマシヲ》
 
島御門《シマノミカド》は島御殿といはむが如し○不荒有益乎《アレザラマシヲ》の荒は上の荒備とはいさゝか異にてこゝは御住所《オホムスミカ》の損《ソコナ》はれ荒たるよしなり。古今集長歌に「おきつなみあれのみ増る宮の内は」とある荒におなじ
 
外爾見之檀乃岡毛《ヨソニミシマユミノヲカモ》。君座者常津御門跡《キミマセバトコツミカドト》。侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》
 
外爾見之《ヨソニミシ》は皇子尊を葬ざりしさきをいへるにて今まで外《ヨソ》に見しの意なり○檀の岡は高市郡檜隈郷の内にあり。皇子を葬まつりし地なり○常都御門《トコツミカド》とは葬奉りてより常《トコ》しなへにこゝにおはしませばかくいへり。跡《ト》はトシテの意なり。御門は御殿なり。常しなへにおはします御殿として侍居《トノヰ》するよしなり。侍居《トノヰ》を考にはトノイと假名つけたり。されど宣長のトノヰとせしに從ふべし【其説に殿居《トノヰ》の意にてヰの假宇なり。もし宿の字によりてイの假字なりとせばトノネとこそいふべけれ。ネとイとはいさゝか意異なり。ネは形につきていひイは眠るかたにていふなり。侍宿は形につきて殿にてぬるとはいふべけれど殿にて眠るとはいふべからず。集中にも宿字はヌとかけれどもイには宿字はかゝず。トノヰのヰは居にて夜殿に居るといふことなり。晝をトノヰといはざるは晝は務むることありてたゞには居ぬものなればなり。といへり】○歌意。今までは他《ヨソ》にのみ見過してありし檀岡なれども皇子をこゝに收葬《ヲサメ》奉りつればこゝを常《トコ》つ御殿として一周の間|侍宿《トノヰ》をする事かなとなり
 
夢爾谷不見在之物乎《イメニダニミザリシモノヲ》。欝悒宮出毛爲鹿《オホヽシクミヤデモスルカ》。作日之隈囘乎《サヒノクマミヲ》
 
夢爾谷《イメニダニ》は夢にさへといはむが如し。舊くはイメとのみ云り。蜻蛉日記に「五日の夜のいめに」とあり○欝悒《オホヽシク》は卷五に「國遠きみちの長手を意保々斯久《オホヽシク》こふやすぎなむことどひもなく」此外多し。字には卷六に不清《オホヽシク》、卷十に不明《オホヽシク》とあるが如く明《サヤカ》ならぬをいふ言にて何にてもまさしく決《サダ》めがたくおぼつかなきよしの詞なり○宮出《ミヤデ》は宮門を出入する事なり。卷十八に美夜泥之理夫利《ミヤデシリフリ》とあり○作日之隈かい囘乎《サヒノクマミヲ》【クマワとよむはわろし。上にいへり】の佐は御吉野、眞熊野などのミマに同じき發語にて檜隈《ヒノクマ》なり。卷七に佐檜乃熊檜隈川《サヒノクマヒノクマカハ》、卷十三に左檜隈檜隈河《サヒノクマヒノクマカハ》とよめり。和名抄に檜前|比乃久末《ヒノクマ》とある地にて眞弓岡やがてその郷にあり【古義に本居氏云。佐日《サヒ》は一本に佐田とあるを取べしといへり。略解も此説に從へり。今按に次に佐田とよめれば一本の勝れるに似たれど佐田にはいづれも岡邊といひたればこゝのみ隈囘といはむもいかゞとぞおぼゆる。されば一本は中々のさかしらにて猶舊本のまゝなるべし。佐田岡、眞弓岡は檜隈の郷の中なれば檜隈をよむべきことなりといへり】○歌意は。眞弓岡の御陵《ミハカ》に侍宿《トノヰ》して檜隈を宮出せんとは夢にだにみざりし事なればおほゝしく不審《イブカ》しき事かなとおもふよしなり
 
天地與共將終登《アメツチトトモニヲヘント》。念乍奉仕之《オモヒツゝツカヘマツリシ》。情違奴《コヽロタガヒヌ》
 
將終はヲヘムと訓べし。この言ヲヘ、ヲフ、ヲフルと活用なり。皇子の天地と共に久しくながらへさせ玉へるに從ておのれらも天地と共に御奉公を終《ヲヘ》んと思ひて仕へ奉りし心のたがへるよしなり
 
朝日※[氏/一]流佐太乃岡邊爾《アサヒテルサダノヲカベニ》〔頭注、校正者云。※[氏/一]は弖か〕。羣居乍吾等哭涙《ムレヰツヽアガナクナミダ》。息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
考云。朝日夕日とて山岡宮殿の景をいふは集中また祝詞なども多し。今よくみるに檜隈の郷のうちに佐太眞弓はつゞきたる岡なり。さて此御陵の侍宿所は右の二岡にわたりてあるゆゑにいづれもいふなりけり○群居乍《ムレヰツヽ》は春宮舍人六百人と令に兒えたればかくもいふべし
 
御立爲之島乎見時《ミタヽシヽマヲミルトキ》。庭多泉流涙《ニハタヅミナガルヽナミダ》。止曾金鶴《トメゾカネツル》
 
御立爲之《ミタヽシヽ》は皇子の御立賜ひしなり。島は宮内にはあらず。勾池の中島なり○庭多泉《ニハタヅミ》和名抄に潦雨水也。和名|爾八太豆美《ニハタヅミ》とあり。ニハは庭なり。たづみは漾水《タヾヨフミヅ》なり。タヾヨフのダヨはドと切りドフはヅと切ればタヅミとなれり。【但タヾヨヒミといふが常格なれどタヾヨフといふも又一格なり。そはタリミといふべきを垂水《タルミ》ともいへり】庭に漾ふ水はしほしほと流れ洽《ヒタ》るものなれば涙の流るゝに比《タト》へたり。【大原惠敏が邊鄙の言に夕立などして庭に水の流るゝをタヅミガハシルといへり。タヅミといふ古言山里には今ものこれりといへり】と古義にみゆ
 
橘之島宮爾者不飽鴨《タチバナノシマノミヤニハアカネカモ》。佐田乃岡邊爾《サダノヲカベニ》。侍宿爲爾往《トノヰシニユク》
 
橘は地名なり。卷七に橘(ノ)島とあり。橘寺といふも同處にあり。地名を寺名に負せたるなり。○不飽鴨《アカネカモ》は島宮のみにてはあかねばにやの意なり○歌意は。島宮のみにて侍宿《トノヰ》するはなほ飽足《アキタラ》ず思へばにや佐田の岡までも侍宿《トノヰ》しにゆくよとなり
 
御立爲之島乎母家跡《ミタヽシヽシマヲモイヘト》。住鳥毛荒備勿行《スムトリモアラビナユキソ》。年替左右《トシカハルマデ》
 
島乎母家跡《シマヲモイヘト》は島をもおのが家としての意なり○荒備《アラビ》の言義は上にいへり。こは※[足+束]《ウト》ふることにて皇子のまさぬとて※[足+束]くよそに遠放りゆくことなかれといふなり○歌意。かねて放ち飼にして島をおのが家として住める鳥も皇子のおはしまさねばとてよそに飛去ることなかれ。來年四月の御|一周《ハテ》忌までかくてあれ。汝をだに見つゝ御形見と思ひ奉らむ。となり
 
御立爲之島之荒磯乎《ミタヽシヽシマノアリソヲ》。今見者不生有之草《イマミレバオヒザリシクサ》。生爾來鴨《オヒニケルカモ》
 
島之荒磯《シマノアリソ》は御庭の池の畔のさま荒磯めきて造らせ玉へるをいふなるべし。かくれさせ玉へるより御庭のあれたるをよめるなり
 
鳥塒立飼之鴈之兒《トグラタテカヒシカリノコ》。栖立去者檀崗爾《スタチナバマユミノヲカニ》。飛反來年《トビカヘリコネ》
 
板本には塒を※[土+(而/一)]に作《カケ》り。官本に塒とあるが正し。卷十九に「枕附つまやの内に鳥座由比《トクラユヒ》すゑてぞ我飼《アガカフ》眞《マ》白部乃多可」和名抄に穿v垣栖v鷄曰v塒。和名|止久良《トクラ》○雁乃兒は古義云。契冲二説あり。其一説にかもの子なり。カルノコともいふと源氏物語の抄に見えたり。されどもいかにしてかりの子といふよしはみえず。細流は逍遥院殿の作なれど只かもの子とのみのたまへり。源氏眞木柱に「かりの子のいとおほかるを御覧じてかむじたち花などやうにまざらはしてわざとならず奉れ玉ふ」橋姫に「うちすててつがひさりにし水鳥のかりのこのよにたちおくれけん」空穂物語に「めづらしくいできたるかりのこにかきつく。かひのうちに命こめたるかりのこは君がやどにてかへさゞらなむ」枕草子に「うつくしき物かりのこ」云々これらみなカモノ子をいへり。此かもは鶩にて俗にアヒルといふものなるべし。其一説に鷹の子を雁の兒とかきあやまれるにや云々とあり。鶩《アヒル》の子をかりのこといへるはみなその卵を云りときこゆ。かげろふ日記に「六月つごもりがたにかりのこのみゆるをこれを十づゝ重ぬるわざをいかにせむ」とあるをも考へ合すべし。もし鶩の雛をいへるならば唯島の宮の池を去らずてすめとこそいふべきに眞弓の岡に來よといへること似つかはしからず。されば猶タカノコとさだむべし。水戸の釋にも鷹を※[雁の異体字]に誤れるならむとあり【按に鴈※[鷹の異体字]は共に五諫切にて同字なるを思ふにもとは※[鷹の異体字]なりしか※[鷹の異体字]は玉篇に於陵切今作鷹とみえ續字彙補に漢霍去病傳封※[鷹の異体字]庇史記作鷹庇とあるを見れば※[鷹の異体字]乃兒は鷹《タカ》の子なり。卷一に日雙斯《ヒナメシ》皇子の安騎野の御狩また此下にも「けごろもを春冬かたまけていでましゝうだの大野は」云々とよめるも鷹狩のこと卷十九に鳥座由比《トクラユヒ》また此歌に鳥塒立《トクラタテ》とあるも御狩の料に鷹子をかひおかせ玉ふほどに薨玉ひたればその鷹子の長《ナリ》いでて羽つよくなりなば他所へ飛行ずして此眞弓岡に來よといへるなるべし。と古義にいへり
 
吾御門千代常登婆爾《アガミカドチヨトコトハニ》。將榮等念而有之《サカエムトオモヒテアリシ》。吾志悲毛《アレシカナシモ》
 
吾御門《アガミカド》とは吾が仕へまつりし宮の御門といへるなり。常登婆は常磐に同じ【コトの切コなるをキに轉じてトキハといへるなり】○吾志悲毛のシは助辭なり
 
東乃多藝能御門爾《ヒムガシノタギノミカドニ》。雖伺侍昨日毛今日毛《サモラヘドキノフモケフモ》。召言毛無《メスコトモナシ》
 
東の方なる池に瀧あるかたの御門《ミカド》なり。多藝は今の瀑布《タキ》のたぐひにはあらず。たゞ勾の池の水の瀬をなして流るゝを瀧といへるなり。禁中に瀧口とて清凉殿の御溝水《ミカハミヅ》に流れいづる處のあるが如きたぐひなり。そこにある御門ゆゑに此名あるなり○召言毛無《メスコトモナシ》の言は借字にて召て使はす事もなしとなり。メスはミソナハス事なるを轉りて呼寄《メシヨス》るといふにもなれるなり
 
水傳磯乃浦回乃《ミヅツタフイソノウラミノ》。石乍自木丘開道乎《イハツヽジモクサクミチヲ》。又將見鴨《マタミナムカモ》
 
水傳《ミヅツタフ》は御庭の池の島のめぐりにながせる水の磯をつたひて流るゝをいふ。故に磯乃浦回《イソノウラミ》といへり○石乍自《イハツヽジ》は和名抄に羊躑躅和名|以波豆々之《イハツヽジ》とありて此花おほく巖の間《アハヒ》などに咲ものなるゆゑ此名あるなるべし。【古義に伊波豆々志《イハツヽジ》は毛知都々自《モチツヽジ》と同種なればめづる色もなき物にて此歌の意にかなはずといへれどこはつゝじをめづる意のうたにはあらずたゞつゝじの茂くさく道をまた見なむかもと道をむねとしてよめるなり】木丘開《モクサク》は茂《シケ》く開《サ》くなり。續紀の詔に牟倶佐加爾《ムクサカニ》とあるは茂榮《ムクサカ》になり。ムクとモクと同じと宣長いへり。應神紀に芳草|薈蔚《モクシゲク》、顯宗紀に厥切|茂焉《モシ》などあり【毛の深き犬をモク犬といふもこれに同じ】○歌意。水の御池の磯をつたひて清くながるゝ所につゝじの花のしげく咲てあり。そこの道を今よりは又もかよひて見まじき歟。となげゝるなり
 
一日者千遍参入之《ヒトヒニハチタビマヰリシ》。東乃大寸御門乎《ヒムガシノオホキミカドヲ》。入不勝鴨《イリガテヌカモ》
 
大寸御門はオホキミカドと訓べし。上なる多藝能御門《タキノミカド》と同じ御門なるへけれど彼は瀧のある所につきていひこれは其御門の大きなるによりていへるなり○歌意は一日の中にも數遍かよひし島の宮の御門なれど皇子の薨させ玉ひてよりは御墓所のみの直宿をつとめて宮の御門には入りがてにするよしなり。御門をとぢたれば云々と考にはいへれど御門をとぢとぢぬに關係《カヽハル》べきにあらぬなり
 
所由無佐大乃岡邊爾《ツレモナキサダノヲカベニ》。反居者島御橋爾《カヘリヰバシマノミハシニ》。誰加住舞無《タレカスマハム》
 
所由無《ツレモナキ》と訓むよしは上にいへり○反居者《カヘリヰバ》は今の御墓所なる佐太の岡邊を皇子尊のおはします所としてそこに反り居るよしなり。考の説よし。この上に「よそにみし檀《マユミ》の岡も君ませば常《トコ》つ御門と侍居《トノヰ》するかも」とよめるが如くこれまでは島宮の御階にさぶらひしがこのほどは御墓所を常《トコ》つ御門《ミカド》としてそこにかへりすめば島宮の御階《ミハシ》には誰かはすまはむ。住人も无くて荒たるらむ。とよめるなり
 
旦覆日之入去者《アサクモリヒノイリユケバ》。御立之島爾下居而《ミタヽシヽシマニオリヰテ》〔頭注、校正者云。下居而の居は座か〕。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
旦覆《アサクモリ》は朝くもりたるまゝに日の入たるよしにて日の入たるを皇子の薨玉へるに比《ヨソ》へたるなるべし。三句〔頭注、校正者云。三句の上下の字脱か〕は常に御立しまして遊び玉ひし島に各おりゐておはしゝ世を慕ひ嘆きつゝもとよめるなるべし〔頭注、校正者云。嘆きつゝもはつるかもか〕
 
旦日照島乃御門爾欝悒人音毛爲不者《アサヒテルシマノミカドニオホヽシクヒトオトモセネバ》。眞浦悲毛《マウラカナシモ》
 
欝悒《オホヽシク》は上に出づ。いぶかしくおぼつかなきよしなり○眞浦悲毛は眞《マコト》に心悲《ウラガナシ》きよしなり。毛は歎息の辭なり○歌意。旦日《アサヒ》てるほどは人々の出仕する時にて御門賑ひたりしに此比は人おともせぬがいぶかしくおぼつかなくこは皇子|薨《カク》れさせ玉へるゆゑにかゝるなりけりとおもへばまことに悲しきかもとなり
 
眞木柱太心者《マキバシラフトキコヽロハ》。有之香杼此吾心《アリシカドコノアガコヽロ》。鎭目金津毛《シヅメカネツモ》
 
眞木柱《マキバシラ》は太の枕辭なり。眞木柱太高敷而《マキバシラフトタカシキテ》と集中によめるこれなり。神代紀に柱者高太《ハシラハタカクフトク》また神武紀に太2立宮柱《ミヤバシラフトシキタテ》於底磐之根《ソコツイハネニ》1などあり。結句のモは歎息辭なり○歌意は。太くたくましき大丈夫の心なればいかなる事にも動くべからずとかねておもひしにたがひ哀しく痛ましきに堪かねさわぐ心をしづめむとおもへども鎭むる事をえせずてあるかもとなり
 
毛許呂裳遠春冬片設而《ケゴロモヲハルフユカタマケテ》。幸之宇陀乃大野者《イデマシヽウダノオホヌハ》。所念武鴨《オモホエムカモ》
 
初句は片設而《カタマケテ》といはむ料にいへるなり。狩には古へ專ら皮衣を著しゆゑかくいへり。【今むかばきてふ物も其遺なりと考にいへり】片設《カタマケ》の片《カタ》は夕片設而《ユフカタマケテ》。山片設而《ヤマカタマケテ》などの片設と同じく春は春につきで毛衣の設けし冬は冬につきて毛衣の設するをいふ。されば衣を張にかけたる枕詞にはあらず〇幸之《イデマシヽ》は日並《ヒナメシノ》皇子の御獵たゝしゝ事をいへるなり。卷一に日雙斯皇子命馬副御獵立師斯時者來向《ヒナメシノミコノミコトノウマナメテミカリタヽシヽトキハキムカフ》とあるもこれに同じ○宇陀乃大野《ウダノオホヌ》は即かの安騎(ノ)野なり。者《ハ》はヲバの義なり○歌意は。春冬の時節を待て毛衣を設け遊獵し玉ひしその宇陀の大野をば今よりゆくさきいつまでもおもほえむかもとなり
 
朝日照佐太刀岡邊爾《アサヒテルサダノヲカベニ》。鳴鳥之夜鳴變布《ナクトリノヨナキカハラフ》。此年巳呂乎《コノトシゴロヲ》
 
三句までは夜鳴の序なれば之《ノ》に如クといふをそへてみるべし。さて初句の朝日照《アサヒテル》は佐太《サタ》の枕詞に置たるなれば歌意には拘はらず。たゞ舍人の御墓にさもらふが夜半に交代するを夜ナキカハラフといへるなり。此年ゴロとは去年の四月より今年の四月まで一周の間御陵づかへすればいへるなり
 
八多籠良我夜晝登不云《ヤタコラガヨルヒルトイハズ》。行路乎吾者皆悉《ユクミチヲアレハコトゴト》。宮道欽爲《ミヤヂニゾスル》
 
八多籠良我の我字板本家に誤れり。こは奴等我《ヤツコラガ》なるべし。【奴のコに籠字を用たるはすこし疑はし】水戸の稱に八多籠良はハタコラと訓べき歟。和名抄云※[竹冠/樂の木が兄の下半]【漢語抄云。波太古。俗用2旅籠二字1】飼v馬籠也かゝれば馬を追ふ男を彼が持ところの具によりてハタゴラといふか。旅人に宿かす處を俗にハタゴヤといふを思ふべ。八多籠とかける籠の字も此意にや。馬追ふ男は賤しき者なればそれらのみ行く道といへる歟。とあり。棚機女をやがて柵機とのみもいへれば※[竹冠/樂の木が兄の下半]《ハタコ》を持男をやがて波多籠《ハタコ》ともいふべきなり。宜長は良は馬の誤にてハタゴウマなるべし。旅籠馬といふ事蜻蛉日紀にもみゆ。宇治拾遺にもはたご馬皮子馬などあり。といへり○歌意。これまで御陵の无かりし間は里の奴《ヤツコ》らが晝夜といはず行道なりしをこの奥のかたに御墓の出來しよりその奴等がかよひし道をかくわれらがこと/”\くかよひまゐづる宮道とする事よ。となげゝるなり。【眞淵云。右は六百の舍人なれば歌いとおほかりけむを撰てのせられしなるべし。みないとすぐれて嘆きを盡し事をつくせり】
 
右日本紀曰。三年己丑夏四月癸未朔乙末薨
 
柿本朝臣人麻呂|獻《タテマツレル》2泊瀬部皇女《ハツセベノヒメミコニ》忍坂部皇子〔五字□で囲む〕歌一首并短歌
 
こは河島皇子の薨し玉へる時人麻呂の泊瀬部皇女に獻れるうたなり。そのよし左注にみえたり。泊瀬部皇女は天武紀に宍人臣大麻呂女※[木偏+穀]媛(ノ)娘生二男二女云々。其三曰泊瀬部皇女。續紀天平十三年三月壬午朔己酉三品長谷部内親王薨。天武天皇之皇女也とあり。この端書は板本亂れたり。左注に河島皇子を葬る時皇女に獻れるよしみえたるが正しきなり。忍坂郎皇子の五字はいかなるゆゑにてこゝに入たるにか。こは除くべし
 
飛鳥明日香乃河之《トブトリノアスカノカハノ》。上瀬爾生玉藻者《カミツセニオフルタマモハ》。下瀬爾流觸經《シモツセニナガレフラバヘ》。玉藻成彼依此依《タマモナスカヨリカクヨリ》。靡相之嬬乃命乃《ナビカヒシツマノミコトノ》。多田名附柔膚尚乎《タタナヅクヤハハダスラヲ》〔頭注、校正者云。柔膚の訓註にはニギハダとあり〕。劔刀於身副不寐者《ツルギタチミニソヘネネバ》。烏玉之夜床母荒良無《ヌバタマノヨドコモアルラム》。所虚故名具鮫魚天《ソコユヱニナグサメカネテ》。氣留敷藻相屋常念而《ケダシクモアフヤトオモヒテ》。玉垂乃越乃大野之《タマタレノヲチノオホヌノ》。旦露爾玉藻者※[泥/土]打《アサツユニタマモハヒツチ》。夕霧爾衣者沾而《ユフギリニコロモハヌレテ》。草枕旅宿鴨爲留《クサマクラタビネカモスル》。不相君故《アハヌキミユヱ》
 
明日香乃河《アスカノカハ》は大和の高市郡なり。神名式に飛鳥川上坐神社みえたり○上瀬下瀬はカミツセ、シモツセと訓べし。記に許母理久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》。賀美都勢爾伊久比袁宇知《カミツセニイクヒヲウチ》。斯毛都勢爾麻久比袁宇知《シモツセニマクヒヲウチ》とあり。流觸經《ナガレフラバヘ》は記に淤知布良婆閇《オチフラバヘ》とあるを傳に落觸《オチフラバヘ》なり。フレをフラバヘと云は延《ノベ》て活かしたる言なり。【ラハヘを約ればレとなるなり】といへり。さて經をハヘとよむは卷六に打經而《ウチハヘテ》とあり。さればこゝは觸經《フラバヘ》なること明らかなり。【源氏物語常夏に「この春のころほひ夢がたりし玉ひけるをほのきゝつたへける女の我なむかこつべきことあると名のり出侍りけるを中將の朝臣なんきゝつけてまことにさやうにもふればひぬべきしるしやあるとたづねとぶらひ侍ける」野分に「吹くるおひ風はしをにこと/”\に匂ふらんかうのかをりもふればひ玉へる御けはひにや」行幸に「ことさらにもかの御あたりにふればはせんに」若菜に「女子もたらばおなじくはかの人のあたりにこそはふればはせまほしけれ」などあるフレバフもフラバフと同言ときこゆ】橘守部云、この流觸經《ナガレフラハヘ》の下に下瀬爾生玉藻者上瀬爾靡觸經《シモツセニオフルタマモハカミツセニナビキフラハヘ》の十三字何れの本にもあらねど上の四句と合せて八句二聯の對なれば必ずなくてはあるべからず。无克くては「彼依此依《カヨリカクヨリ》なびかひし」にも叶ひがたし。といへるさもあるべくもおもはるれど下瀬の玉藻の水の流に逆《サカ》ひて上つ瀬のかたに靡けむ〔頭注、校正者云。靡けむは靡かむか〕こと二聯の對にはよけれど實景いかゞあらむ。故に諸本に无ければもとのまゝにて解きぬ。されば上つ瀬におふる玉藻は下つ瀬のかたにながれふるゝその玉藻の如く夫君のおぼしめすまゝになびきあひ玉ひしとのたまへるなり。靡相之《ナビカヒシ》はカヒの切キなればナビキシといふに同じ。此下に「おきつ藻の名延之妹《ナビキシイモ》」ともありてナビクは馴れ親む意の詞なり。嬬乃命《ツマノミコト》は嬬《ツマ》は借字にて夫《ツマ》なり。河島皇子をさす○多田名附は疊《タヽ》なはり著《ツ》くといふことにて柔《ヤハ》らかなる膚《ハダ》のなびきつくよしなり。柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》のニギは和布《ニギタヘ》のニギにてにごやかなるよしの稱《ナ》なり。尚乎《スラヲ》は俗にサヘヲといふに同じ。御夫婦とましますゆゑに柔《ニコ》やかなる御膚《オンハダヘ》をさへ身に副《ソヘ》てもろともに寐たまひしに今はさることなければ夜牀母荒良無《ヨトコモアルラム》とつゞけて身の枕詞に劍刀《ツルギタチ》とおき夜の枕詞に烏玉乃《ヌバタマノ》とおきて綾にせり。さて荒良無《アルラム》は疎《ウト》く放《ハナ》るゝをいふ。上に荒備勿行曾《アラビナユキソ》とある荒備に同じ○所虚故《ソコユヱニ》はそれゆゑにといふが如し。名具鮫魚天気留敷藻は久老云。魚は兼の誤。留は田の誤にてナクサメカネテケダシクモならむといへる實《マコト》にしかり。慰不得而蓋毛《ナグサメカネテケダシクモ》なり。御心を慰むとおぼしめせど得なぐさめ玉はずして若もあひ見ることのあらむかとおぼしめしてとつゞくなり・蓋毛《ケダシクモ》はモシモに同じ。上にいへり。相屋常念而《アフヤトオモヒテ》は皇女の御上なれば念而はオモホシテと云べけれど歌は句に字《モジ》の定りあるものゆゑ強《アナガ》ちに尊む辭にも云がたければ猶オモヒテと訓べし○玉垂乃は越《ヲチ》のヲにかゝる枕詞なり。玉は緒に貫きて物に懸垂て飾とするゆゑに玉を垂る緒《ヲ》といひかけたるなり。越乃大野《ヲチノオホヌ》は高市都|小市《ヲチ》野なり。こゝに皇子の御墓ありしなるべし。城上郡に大市《オホチ》あり。小市《ヲチ》はそれに對へたる名なり。と水戸の釋にみゆ○旦露爾玉藻者※[泥/土]打《アサツユニタマモハヒヅチ》は玉藻は玉裳にて女の下に着る服なり。「あさつゆに毛能須蘇比都知《モノスソヒヅチ》」と卷十五にあり○夕霧爾衣者沾而《ユフギリニコロモハヌレテ》は上に少し詞をかへて綾なせり○旅宿鴨爲留《タビネカモスル》は旅宿《タヒネ》するかもといふことなり。古義には此|爲留《スル》も爲須《セス》の誤ならんといへれど上にいへる如く歌は貴人のうへとても強ちに尊び辭のみもて綴るものならねば猶もとのまゝにてありぬべし。卷三に「皇《オホキミ》は神にし座《マセ》ば天雲の雷《イカヅチ》のうへにいほり爲流鴨《セルカモ》」ともあり○不相君故《アハヌキミユヱ》はあふこともならぬ君なる物をの意なり○歌意は。年ころ馴|睦《シタシ》み玉》ひし皇子と夜夜|相宿《アヒネ》して柔《ニコ》やかなる御膚をさへ御身にそへて伏玉ひけむその皇子の薨ましてより夜床もやうやうに荒まさるらん。そを見るにえ堪かねて御心を慰め玉はむよしもなければもしも皇子を相見玉ふこともあらむかとおぼしめして越《ヲチ》の大野《オホヌ》の露霧《ツユキリ》に御衣御裾をぬらして旦夕におはしましつゝやがてその野に旅寐し玉ふらむかも。今はとてもかくても相見玉ふべくもあらぬ皇子なるものを。と云るなるべし。新喪には墓地の傍に廬を作て一周の間人して守らせもしまた自らそこに行ても宿りしなるべし。舒明紀に蘇我氏|諸族等《ヤカララ》の嶋大臣の爲に墓を作りて墓所に次《ヤド》れり。摩理勢(ノ)臣壞2墓所之廬1退2蘇我|田家《ナリドコロ》1而不仕とあるを考へ合すべし
 
反歌《ミジカウタ》一首
 
敷妙乃袖易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》。玉垂之越野過去《タマダレノヲチヌニスギヌ》。亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》
 
袖易之《ソデカヘシ》は手枕をかはし袖をもさしかはして相宿《アヒネ》し君といふことなり○過奴《スギヌ》は薨玉ひて越野に葬終りぬるをいふ○亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》の八方《ヤモ》はヤハに同じくまたふたゞぴあはめや逢事はならぬの意にてモは歎息辭なり○歌意明らかなり。長歌にはけだしくもあふやとおもほして尋ね來たまへるよしをつらねこゝに於てまたあひ玉ふまじきよしをいへるいとあはれ深し
 
右或本曰。葬2河島皇子越智野1之時獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰。朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑淨大參皇子川島薨
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時《アスカノヒメミコノキノベノアラキノミヤノトキ》柿本朝臣人麻呂(ガ)作歌《ヨメルウタ》一首|并《マタ》短歌
 
明日香皇女は天智紀に次有2阿部倉梯麻呂大臣(ノ)女1曰2橘娘1。生3飛鳥皇女與2事新田部皇女1。文武紀に四年夏四月癸未淨廣肆明日香皇女薨。遣v使吊賻之。天智天皇女也とみゆ。歌によるに明日香のほとりにましゝなるべし○水※[瓦+缶]は和名抄に廣瀬郡|城戸《キノヘ》。卷十三に城於《キノヘノ》道とも城上《キノヘノ》宮とあり〔頭注、校正者云。宮との下もの字脱か〕。武烈紀に三年十一月詔2大伴室屋大連1發2信濃國男丁1作2於城像(ヲ)水派邑1仍曰2城上《キノヘ》1と見えたり
 
飛鳥明日香乃河之《トブトリノアスカノカハノ》。上瀬石橋渡《カミツセニイハヾシワタシ》【一云石浪】 下瀬打橋渡《シモツセニウチハシワタス》。石橋《イハヾシニ》【一云石浪】 生靡留《オヒナビケル》。玉藻毛叙絶者生流《タマモモゾタユレバオフル》。打橋生乎爲禮流《ウチハシニオヒヲヽレル》。川藻毛叙千者波由流《カハモヽゾカルレバハユル》。何然毛吾王乃《ナニシカモワガオホギミノ》。立者玉藻之如《タヽセバタマモノゴトカウ》。許呂臥者川藻之如久《コロフセバカハモノゴトク》。靡相之宜君之《ナビカヒシヨロシキキミガ》。朝宮乎忘腸哉《アサミヤヲワスレタマフヤ》。夕宮乎背賜哉《ユフミヤヲソムキタマフヤ》。宇都曾臣跡《ウルソミト》。念之時《オモヒシトキニ》。春部者花折挿頭《ハルベハハナヲリカザシ》。秋立者黄葉挿頭《アキタテバモミヂバカザシ》。敷妙之袖携《シキタヘノソデタヅサハリ》。鏡成雖見不厭《カヾミナスミレドモアカズ》〔頭注、校正者云。不厭註にはあかにとあり〕。三五月之益目頼染《モチヅキノイヤメヅラシミ》。所念之君與時時《オモホシシキミトトキドキ》。幸而遊賜之《イデマシテアソビタマヒシ》。御食向木※[瓦+缶]之宮乎《ミケムカフキノヘノミヤヲ》。常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》。味澤相目辭毛絶奴《アヂサハフメゴトモタエヌ》。然有《ソコヲシモ》〔頭注、校正者云。然有の下鴨字脱か〕【一云所己乎之毛】綾爾憐《アヤニカナシミ》。宿兄鳥之片戀嬬《ヌエドリノカタコヒシツヽ》〔頭注、校正者云。片戀嬬註にはかたこひつまとよめり〕【一云爲乍】朝鳥《アサドリノ》【一云朝露】往來爲君之《カヨハスキミガ》。夏草乃念之萎而《ナツクサノオモヒシナエテ》。夕星之彼往此去《ユフヅヽノカユキカクユキ》。大船猶預不定見者《オホフネノタユタフミレバ》。遣悶流情毛不在《ナグサムルコヽロモアラズ》。其故爲便知之也《ソコユヱニセムスベシラニ》〔爲便知之也は註によればたま/\かなを誤りつけたるなるべし註にはすべしらましやとあり〕。音耳母名耳毛不絶《オトノミモナノミモタエズ》。天地之彌遠長久《アメツチノイヤトホナガク》。思將往御名爾懸世流《シヌビユカムミナニカヽセル》。明日香河及萬代《アスカガハヨロヅヨマデニ》。早布屋師吾王乃《ハシキヤシワゴオホキミノ》。形見何此焉《カタミニコヽヲ》
 
明日香河のこと上にいへり○石橋《イハヾシ》は冠辭考に石を並置て渡るをいへりとみゆ。【俗に飛石《トビイシ》といへり】卷七に「明日香河せゞゆ渡《ワタリ》し石走《イハヾシ》もなし」とあるを以て此川淺き流にて石を并べ敷て渡りしを知べし。一云石浪とあるをはイシナミと訓べし。浪は並の假字にて石を並べわたしと云ことなり。行嚢抄に飛鳥川は云々石を六つ七つ並べてそれをわたる。河原村などその處にあり○打橋《ウチハシ》の打《ウチ》は神代紀に於《ニモ》2天安河原1亦|造《ツクラム》2打橋1。源氏物語桐壺に「うちはしわた殿こゝかしこの道に」とあり。こは江家次第相撲召合葬束〔頭注、校正者云。召合葬束は装束ならん〕また内侍所御神樂などの條に打橋とあると同じ物にて宣長のいへる如くウチはウツシの約りたるにてこゝへもかしこへも遷しもてゆきてかりそめにわたす橋なるべし【古義に江家次第七日節曾装束に日華門内橋北頭とある内橋も打橋なりといへるは誤なり。こは日華門の内の砌の小溝にかけたる橋のことなり。打の假字に内を用ひたるにはあらず。こゝにはいはでもありぬべき贅言なれど次第をよむ人のためにおどろかしおくなり】打橋渡の渡字はワタスとよみ絶《キ》るべし。此までは玉藻川藻を云む料なり。さて必しも上瀬には石橋、下瀬にはうち橋と定まれるにはあらざらめど詞のあやにかくいへるなるべし○玉藻は海なると川なるとに限らずた「藻を稱《タヽヘ》ていふことにて川藻は水中に生れる藻をいへるなり。されば玉藻川藻共に同物なり。毛叙のモは二つ物を并ぶる時に用《ツカ》ふ詞にて玉藻と川藻とにかゝるなり。そは生流と波由流とに結ぶてにをはなり【古義にモゾの辭にカヘリテの意を含めりとて其説を委しく解き此下なる吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》のモゾもしかりといへれどヨケクモゾのモゾもかへりての意をふくめりとはきこえぬなり】生乎爲禮流《オヒヲヲレル》の爲は考に烏の誤にて卷六に「はるべは花咲乎遠里《ハナサキヲヽリ》」また「春去者乎呼理爾乎呼里《ハルサレバヲヽリニヲヲリ》」卷十七に久邇能美夜古波春佐禮播花咲乎々理《クニノミヤコハハルサレバハナサキヲヽリ》などいへるに同じ。集中にこの乎《ヲ》烏の烏を爲に作れるいとおほし。ヲヽはみなたわみ靡く意の詞なりといへり。また宣長はヲヽは卷五に「みるのごと和々氣《ワヽケ》さがれる」卷八に「秋はぎのうれ和々良葉《ワヽラハ》」などよめるワヽと同じくワヽワヽとしげくおひたるをいふなりといへり○絶者生流《タユレバオフル》も干者波由流《カルレバハユル》も同じことをかへていへるにてハユもオフに同じ。卷六に家之小篠生《イヘシシヌバユ》と生をハユにかりてかけるをもて知るべし。さてこゝは藻のたえてなくなればまた下よりおひ、かれてなくなればまた下よりはゆることを以て一首の序となせり。即この波由流まで十四句にて一段なり○何然毛《ナニシカモ》こは下の二の賜哉にかゝれり。吾王乃《ワガオホキミノ》は皇女を指せり【これを夫君の忍壁皇子とするはあらず】〇立者タヽセバと訓べし。タテバの伸たるにて立玉へばといふ意なり○許呂臥者《コロフセバ》はころび伏せばなり。下にも自伏君之《コロフスキミガ》とあり。されば上に玉藻と川藻とを以て序としたるはこゝに玉藻の如く川藻の如く靡相之宜君之《ナビカヒシヨロシキキミガ》といひ下さん爲にてナビカヒは御夫婦ともに靡きあひて陸まじきなり。宜キとは何事も取よろひてあかぬことなきを云ふ詞にて靡き合玉ひて睦じくせさせ玉ひし皇女がといへるなり。【宜《ヨロシ》といふ詞源語などに用ゐたるはこれを一轉したるなり】上に吾王《ワガオホキミ》といへるは皇女なること辨をまたず。こゝの宜君《ヨロシキキミ》は皇子にやといふ説もあれど芳樹思ふに猶皇女なり。もし之を皇子とする時は下の朝宮夕宮は皇子の忘れ玉ひ背き玉ふことゝなるをや。忘れ玉ひ背き玉ふ〔頭注、校正者云。背き玉ふの下は字脱か〕皇女の現身《ウツシミ》にて坐すべき宮をすてゝ幽宮《ヨミ》にいでませるゆゑにいへるにあらずや。よく/\思ひ辨ふべし○朝宮乎夕宮乎と朝夕にむけてはいへれどこは文《アヤ》なせるのみにてたゞ宮ヲといふ事なり。上の何然毛《ナニシカモ》の詞をこゝにかけて何ゆゑにかも朝夕相並びてむつまじくおはしますべき宮をわすれ玉ふや背き玉ふやと問ふが如くいへり【何云々の疑辭の下にまた賜哉の疑辭を置べきにあらねば二の哉は疑辭にはあらざるなり。またこの朝宮乎夕宮乎を朝宮仕へ夕仕へといへる説もわろし。こゝまで十二句にて二段なり】○宇都曾臣跡念之時《ウツソミトオモヒシトキニ》は皇女の現在の人にておはしゝ時にといふ意にて念は輕く添たる言なり○春部者《ハルベハ》は春方《ハルヘ》ハなり○秋立者《アキタテバ》の立を去の誤にもあらん歟と考にいへれど既《ハヤ》く卷一にも秋立者とあり。春部者《ハルヘハ》より黄葉插頭《モミヂバカザシ》までは現身《ウツソミ》にておはしゝほどの御遊びのさまなり○敷妙之袖携《シキタヘノソデタヅサハリ》は下の君與時々幸而《キミトトキ/\イデマシテ》にかけでみるべし。君は忍坂部皇子なり。皇女の現身《ウツソミ》にておはしゝほど春秋の花紅葉のをりも皇子と共にいでまして袖携り遊び玉ひしよしのつゞきなり・。くて袖携《ソデタヅサハ》りより幸而《イデマシテ》の間に鏡成雖見不厭《カヾミナスミレドモアカニ》とある成《ナス》は如《ゴトク》の意にて鏡の如く見と云かけたるなり.不厭はアカニと訓べし〇三五月之益目頬染《モチヅキノイヤメヅラシミ》のモチはミチにて十五夜の滿月をいふ。いつみても滿《モチ》月は愛《メヅ》らしきゆゑイヤメヅラシミの枕詞とせり。此ミは所謂サニの意とは異にて下に「若草(ノ)其つまの子は不怜彌可《サフシミカ》おもひてぬらむ」卷四に「わぎもこをあひしらしめし人をこそ戀のまされば恨三念《ウラメシミモヘ》」などの類にてサブシミはサブシウ、恨メシミはウラメシウといふに同じくこゝは直にめづらしうおもほしゝとつゞくなり。と古義にいへるが如し。さて上に忘玉フヤ、背玉フヤとあるに應てさばかりみてもいよよ厭ずめづらしき御夫婦の中を何ゆゑに忘れ玉ふや背き玉ふやとなり。されば立者《タヽセバ》より宜君之《ヨロシキキミガ》までの六句は經にて宇都曾臣跡《ウツソミト》より遊賜之《アソビタマヒシ》までの十六句は緯なり。故に上の六句におほかたの御睦びをいひ下の十六句にその御睦びを委しく述べさて時々《トキ/\》遊び玉ひし木※[瓦+缶]《キノヘ》の宮といひつゞけたり○所念之《オモホシシ》は皇女のおもほしゝにて君與《キミト》の君は忍坂部皇子をさせり。時々はトキドキと訓べし。卷廿に等伎騰吉乃波奈波佐家登母《トキドキノハナハサケドモ》また允恭紀に宇彌能淡摩毛能余留等枳等枳弘《ウミノハマモノヨルトキドキヲ》などあり【考、略解等にヲリヽヽとよめれどヲリヲリてふ詞古言にみえずと古義にいへり】○幸而《イデマシテ》は花紅葉の時々御夫婦出まして遊び玉ひしよしなり○御食向木※[瓦+缶]之宮乎は枕詞なり。冠辭考に木※[瓦+缶]は酒《キ》の※[瓦+缶]《ヘ》なりといへり。古義には木《キ》の一言にかゝれるにて御食《ミケ》に供る葱《キ》と云かけたるかといへり。木※[瓦+缶]之宮乎云々は出坐て遊び賜ひし所やがて御墓となれるをいへるなり○常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》は萬代に御魂の鎭り坐す常宮と定賜てのよしなり○味澤相《アヂサハフ》は目の枕詞なり。冠辭考に味鳧《アヂカモ》の多《サハ》に群わたる意とてアヂ多經《サハフ》メとつゞけたるなり【味澤相の三字はみな假字とみゆ。古義にこれをもどきて味澤經《アヂサハフ》といふ説を載せたれどとりがたし】目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》は卷四に「海山もへだゝらなくに奈何鴨目言乎《イカデカモメコトヲ》だにもこゝだともしき」の目言《メコト》に同じく辭も言も共に借字にて逢みる事の絶たるをかくいへるなり【こゝまで廿二句これを三段とす】○然有鴨|綾爾燐《アヤニカナシミ》の然有鴨は板本に一云|所己乎之毛《ソコヲシモ》とあるに從ふべし。薨ましてめごとの絶たるそれをあやにかなしみのよしにてシモは助辭なり○宿兄鳥之《ヌエトリノ》は片戀の枕詞なり。【卷三容鳥にも片戀とありぬえ鳥のことは上にいへり】片戀嬬《カタコヒツマ》は皇子をさせり。皇女の薨玉へるを忘賜哉背賜哉といひて皇女は皇子を忘れ背き玉へるに皇子はなほ御墓にも慕ひかよひ玉ふはいはゆる片戀なり。されば一本に片戀爲乍《カタコヒシツヽ》とあるがよく聞えはすれど片戀嬬ともいふまじきにもあらざるなり○朝鳥《アサドリ》は往來爲《カヨハス》の枕詞なり。こゝに君とあるは皇子なり○夏草乃《ナツグサノ》は萎《シナエ》の枕詞なり。此上にも夏草之|念之奈要而《オモヒシナエテ》とあり。※[車+(而/大)]《シナヤカ》に靡くをいふ○夕星之《ユフヅヽノ》は和名抄に兼名苑云。太白星一名長庚中略云2由不豆々《ユフヅヽ》とあり。此星或は東にみえ或は西にみゆる故に彼往此往《カユキカクユキ》とつゞけたり。カユキカクユキは御墓の所をえはなれず彼方にゆき此方にゆきといふなり○大船猶豫不定《オホフネノタユトフ》とは上に「大船のはつるとまりの絶多日二《タユタヒニ》物もひやせぬ人の兒ゆゑに」古今集に「いで吾を人なとがめそ大船のゆたのたゆたに物思ふころぞ」など見えたり。大船の波のうへにゆらり/\と動くが如く心のゆらり/\と動きて物おもひするありさまをいふ言なり【されば言義はユタなるをタをそへてタユメといふ。そを活用《ハタラカ》すときはタユタフともタユタヒともいはるゝなり。たとへば信《タノ》むといふ詞も言義はノムなるをタヲそへてタノムといふがごとし。これらの事芳樹別に考あり】○遣悶流はナグサムルと訓べし。卷五、卷十七に奈具佐牟流《ナグサムル》。卷十三に名草武類《ナグサムル》。卷十八に奈具佐牟流《ナグサムル》また那具佐牟流《ナグサムル》また那具佐牟流《ナグサムル》〔頭注、校正者云。また那具佐牟流《ナグサムル》の七字衍か〕などの假字あり。【これを宣長のナクサモルと訓べきよしいへるは誤なりと古義にみゆ】情毛不在《コヽロモアラズ》はたゞひたすらに物思ひをのみしてその思ひをはるけやりなぐさめむとおもふ心もなくたゞゆらり/\としてあるよしなり【こゝまで十四句が四段なり】○其故はソコユヱニとよみてかくの如くなる故に思ひをはるくるすべもしらずといふよしにて爲便知之也《スベシラマシヤ》といへるなり○音耳母名耳毛不絶《オトノミモナノミモタエズ》は憂思《ウレヘノオモヒ》を慰むるすべもしらねばせめて皇女の御名なりともたえずとなり【音ノミモ、名ノミモとあるは音も名も同じ事なるを詞の文《アヤ》に重ねていへるなり】○天地之彌遠長久《アメツチノイヤトホナガク》は天地の盡る事なく絶ること无きが如くにいつまでもなり○思將往《シヌビユカム》の思はシヌビと訓べし。シヌブには偲を用たるが多かれど思をかけるもまた少なからず。その例は卷三に日本思櫃《ヤマトシヌビツ》。卷八に益而所思《マシテシヌバユ》。卷九に君乎將思《キミヲシヌバム》。十一に思而宿者《シヌビテヌレバ》この外いと多し。御名爾懸世流《ミナニカヽセル》は明日香皇女と御名に懸玉へると云ことなり。卷十六に「妹が名に繋有櫻花《カヽセルサクラハナ》さかば」とあり。名に負ふことを名に懸るといへるなり○早布屋師《ハシキヤシ》は愛《ハシ》キにて屋師《ヤシ》は助字なり。愛《ハシ》キワガ王《オホキミ》とかゝるなり○形見何此焉の何は荷の省字にてカタミニコヽヲと訓む。こゝをかたみにしのびゆかむと上にかへる意なり【何は荷の省字とみて事もなけれど集中に何をニと訓る例なければなほ荷の誤とすべしと古義にいへり。これにて五段なり。この五段に作者《ヨミヌシ》の意を述てとぢめたり】○此歌皇女の御名明日香といへるをもて明日香川に寄せその薨り玉へるをよめるにて發端に石橋打橋に生《お》ひはえたる藻の絶え枯るればまた生ひはゆるを云て人は死すれば再び世に生きかへらぬ序としてそれより以下は吾王明日香皇女の常に起キ立玉ふ時は玉藻のなびくが如く常に臥玉ふときは川藻のなびくが如く夫君忍坂部皇子に柔らかに隨ひ玉ひて誠にみすがた女しくよろしくみえし君なりしが何ゆゑにかもそのあさゆふむつましくし玉ひし御中をわすれそむきて薨《カムサ》り玉ひけんといぶかしむさまにいひさて皇女の現身《ウツソミ》にてましゝ時に皇子とひとつ所にまして見ても見ても厭かずいよ/\めづらしくおもほすまゝに折々出まして春は花をりかざし秋はもみぢばかざしつゝ袖をひきあひて木※[瓦+缶]の岡に遊玉ひしにはかなく隱れ玉ひしかばその所に御墓たてこゝを常宮としてしづまりませればこの世にてあひ玉ふことも絶はてぬ。そを夫君のなほこひ慕ひてひとり御墓所にかよひ玉ひつゝおもひしなえてあなたにゆき此方《コナタ》にゆきつゝ御心をいためてたゆたひ玉ふをみれば吾も心をはるけなぐさむるすべもあらじ。よしや今はせんかたなし。御名につけ玉ひし明日香川のその川の名をなりとも行さきとほく萬代までに御かたみにせん。となり。すべて五段にして夫君の婦君を戀慕ひ玉ふさまを委曲に云盡したり
 
短歌二首 短字拾穗本には反に作れり
 
明日香川四我良美渡之《アスカガハシガラミワタシ》。塞益者進留水母《セカマセバナガルヽミヅモ》。能杼爾賀有萬之《ノドニカアラマシ》〔頭注、校正者云。萬之の之諸本思とあり〕
 
四我良美《シガラミ》のシはセキの切にて塞搦《セキカラミ》なり。ワタシは岸より岸にかけわたすをいふ○進溜水は義を以てナガルヽミヅと訓めり。○能杼《ノド》は靜《ノド》なり。のどかに淀みなましの意なり【拾遺集「なみだ川のどかにだにもながれなむこひしき人のかげやみゆると」○歌意。流るゝ水もしがらみをかけわたしてせかばのどかに淀みてあらましといふを表にて裏《シタ》には皇女の御命もとゞめ奉る術を盡さばかくはやくは薨《カクレ》玉はざらましといふことを含めたり
 
明日香川明日谷將見等《アスカカハアスダニミムト》。念八毛吾王《オモヘヤモワガオホキミノ》。御名忘世奴《ミナワスレセヌ》
 
念八毛《オモヘヤモ》の念《オモヘ》は略解に附ていふ言にて明日だに見むやはの意なりといへり。此説の如し。明日といふは今日の次《ツギ》にてたゞ一日の隔《ヘダテ》なれどその明日だに明日香川をばみむやは。みはせじ。そはいかにといへばこの憂《ウキコト》をいかで忘れんとおもへど明日香川をみれば皇女の明日香といふ御名が思ひ出られてこひしさのいとゞ堪へられぬゆゑに。となり
 
高市皇子尊城上殯宮之時《タケチノミコノミコトノキノヘノアラキミヤノトキ》柿本朝臣人麻呂|作歌《ヨメルウタ》一首|并《マタ》短歌
 
天武紀云。元年六月辛酉朔甲申先遣2高市皇子於不破1令v監2軍事1云々。丁亥高市皇子遣2使於桑名郡家1以奏言。遠2居御所1行v政不v便。〔頭注、校正者云。行政不便の下宜v御2近處1の四字脱か〕即日天皇留2皇后1而入2不破1云々。到2于野上1。高市皇子自2和※[斬/足]1參迎云々。天皇謂2高市皇子1曰。近江朝左右大臣及智謀群臣共定v議。今朕无2與計v事者1。唯有2幼少孺子1耳。奈之何。皇子攘v臂按v劍奏言。近江群臣雖v多何敢逆2天皇之靈1哉。天皇雖v獨則臣高市頼2神祇之靈1請2天皇之命1引2卒諸將1而往討豈有v距乎。爰天皇譽v之携v手撫v背曰。慎不v可v怠。因賜2鞍馬1。悉援2軍事1。皇子則還2和※[斬/足]1。於v茲行宮興2野上1而居焉。此夜雷電云々。〔頭注、校正者云。往討は征討、援は授、又還和※[斬/足]の下天皇の二字脱か〕かゝれば壬申の亂を鎭め玉へるはみなこの高市皇子にて皇太子の草壁皇子も壬申の年はいまだ十一歳にてまし/\しばかりなれば唯有2幼少孺子1耳と帝の宣へるもことわりにてこの皇子はその時やゝ長《オトナ》にておはしましゝなり。さらば此皇子こそ皇太子にもなり玉ふべくおもはるれど草壁は皇后の御腹にて高市は天皇のいまだ皇子にてましゝほど※[匈/月]形君徳善女尼子娘に産せ玉へるおとり腹なれば儲君にはたて玉はざりしなるべし。されどもこの後太政太臣の官淨廣壹の位になり玉へるはみな壬申の亂の御功によれるなり。さて草壁皇子の薨後に至ても皇太子にならせ玉へるさまは更に見えず。たゞ持統紀十年の七月庚戌薨玉ひし所に後(ノ)皇子(ノ)尊《ミコト》と後字尊字をそへてかけるが草壁の後にこの皇子の儲君になり玉ひししるしなるべくそは懷風藻にもその證みえて既に上にいへるが如くなり。かゝれば上に但馬皇女在高市皇子宮時とあるはいまだ皇太子になり玉はざりし以前なるゆゑに尊字を加へずこゝは皇太子になりて薨じ玉へるゆゑに尊字を加へたるにてこれ即ち日並知の後の皇太子なることと炳焉し
 
挂文忌之伎鴨。【一云由遊志計禮杼母】言久母綾爾畏伎。明日香乃眞神之原爾。久堅能天津御門乎。懼母定腸而。神佐扶跡磐隱座。八隅知之吾王乃《ヤスミシシワガオホキミノ》。所聞見爲背友乃國之《キコシメスソトモノクニノ》。眞木立不破山越而《マキタツフハヤマコエテ》。狛劔和射見我原乃《コマツルギワザミガハラノ》。行宮爾安母理座而《カリミヤニアモリイマシテ》。天下治賜《アメノシタヲサメタマヒ》。食國乎定賜等《ヲスクニヲサダメタマフト》。鳥之鳴吾妻乃國乃《トリガナクアヅマノクニノ》〔頭注、校正者云。諸本吾妻乃國之とあり〕。御軍士乎喚賜而《ミイクサヲメシタマヒテ》。千磐破人乎和爲跡《チハヤブルヒトヲヤハセト》。不奉仕國乎治跡《マツロハヌクニヲヲサメト》。皇子隨任賜者《ミコナガラマケタマヘバ》。大御身爾太刀取帶之《オホミミニタチトリオバシ》。大御手爾弓取持之《オホミテニユミトリモタシ》。御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアドモヒタマヒ》。齊流鼓之音者《トヽノフルツヾミノオトハ》。雷之聲登聞麻低《イカヅチノコヱトキクマデ》。吹響流小角乃音母《フキナセルクダノオトモ》。敵見有虎可叫吼登《アダミタルトラカホユルト》。諸人之協流麻泥爾《モロビトノオビユルマデニ》〔頭注、校正者云。麻泥爾の泥諸本低とあり〕。指擧有幡之靡者《サヽゲタルハタノナビキハ》。冬木成春去來者《フユゴモリハルサリクレバ》。野毎著而有火之《ヌゴトノツキテアルヒノ》。風之共靡如久《カセノムタナビクガゴトク》。取持流弓波受乃驟《トリモタルユハヅノサワギ》。三雪落冬乃林爾《ミユキフルフユノハヤシニ》。瓢可毛伊卷渡等《ツムジカモイマキワタルト》。念麻低聞之恐久《オモフマデキヽノカシコク》。引放箭繁計久《ヒキハナツヤノシゲケク》。大雪乃亂而來禮《オホユキノミダレテキタレ》。不奉仕立向之毛《マツロハズタチムカヒシモ》。露霜之消者消倍久《ツユシモノケナバケヌベク》。去鳥乃相競端爾《ユクトリノアラソフハシニ》。渡會乃齊宮從《ワタラヒノイハヒノミヤユ》。神風爾伊吹惑之《カムカセニイブキマドハシ》。天雲乎日之目毛不令見《アマクモヲヒノメモミセズ》。常闇爾覆賜而《トコヤミニオホヒタマヒテ》。定之水穗之國乎《サダメテシミヅホノクニヲ》。神隨太敷座《カムナガラフトシキイマス》※[而を□で囲む]〔頭注、校正者云。註によれば而を衍字とせずしてフトシキマシテとよむべきに似たり〕八隅知之吾大王之《ヤスミシヽワガオホキミノ》。天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》。萬代然之毛將有登《ヨロズヨニシカシモアラムト》。木綿花乃榮時爾《ユフハナノサカユルトキニ》。吾大王皇子之御門乎《ワガオホキミミコノミカドヲ》。神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》。遣使御門之人毛《ツカハシシミカドノヒトモ》。白妙乃麻衣著《シロタヘノアサゴロモキテ》。埴安乃御門之原爾《ハニヤスノミカドノハラニ》。赤根刺日之盡鹿自物伊波比廻《アカネサスヒノコトゴトシヽジモノイハヒモトホリ》。雖侍侯佐母良比不得者《サモラヘドサモラヒカネテ》。春鳥之佐麻欲比奴禮者《ハルトリノサマヨヒヌレバ》。嘆毛未過爾《ナゲキモイマダスギヌニ》。憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネバ》。言左敞久百濟之原從《コトサヘククダラノハラユ》。神葬葬伊座而《カムハフリハフリイマシテ》。朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノヘノミヤヲ》。常宮等高之奉而《トコミヤトサダメマツリテ》。神隨安座奴《カムナガラシヅマリマシヌ》。雖然吾大王之《シカレドモアガオホキミノ》。萬代跡念食而《ヨロヅヨトオモホシメシテ》。作良志之《ツクラシシ》、香來山之宮《カグヤマノミヤ》。萬代爾過牟登念哉《ヨロヅヨニスギムトモヘヤ》。天之如振放見乍《アメノゴトフリサケミツヽ》。玉手次懸而將偲《タマダスキカケテシヌバム》。恐有騰文《カシコカレドモ》〔頭注、校正者云。鹿自物伊波比《シシジモノイハヒ》の下|伏管烏玉能暮爾至者《フシツヽヌバタマノユフベニナレバ》。大殿乎振放見乍《オホトノヲフリサケミツヽ》。鶉成伊波比《ウヅラナスイハヒ》の貳拾壹字、又神隨安の下定の一字万代跡の下所の一字脱か。〕
 
挂文《カケマク》のマクはムと約ればカケムモの伸たるにて忌之伎鴨《ユヽシキカモ》にゞけり。卷六に言卷毛湯々敷有跡《イハマクモユヽシクアリト》また繋卷裳湯々石恐《カケマクモユヽシカシコシ》。十七に「ことに出て伊波婆由遊思美《イハヾユヽシミ》」などのユヽシみな同じ言なればこゝの忌字ユヽシキと訓べくこの言は恐《カシコ》みて憚《ハヾカ》らるゝと嫌《キラ》はしくて憚《ハヾカ》らるゝとの二種《フタクサ》あるよし記傳に解《トケ》るが中にこゝは恐《カシコ》みて憚らるゝかたなり○言久毛《イハマクモ》のマクも上に同じくイハムモの伸たるにて綾爾畏伎《アヤニカシコキ》につゞけり。アヤはアナに通ふ歎息《ナゲ》く詞にて應神紀に穴織《アナハトリ》とあるを雄略紀に漢織《アヤハトリ》とかけるをもてもアヤ、アナの同じきを知べくこれをアヽとも云り。こゝは俗にアヽ恐れ多きといはんが如し。此四句はすべて天皇の御うへを申さむとしては必ず首《カシラ》に置く語にて古人の天皇を深く敬ひ奉りし事を思ふべし○眞神之原爾《マカミノハラニ》云々は天武天皇の御陵の事をまづいへるなり。眞神は崇峻紀に始作2法興寺此地1名2飛鳥眞神原1とあり。此眞神の原に御陵の築れたるを諸陵式に檜隈大内陵とあり。考にもと明日香檜隈はつゞきてあり。大内はその眞神原の小名ときこゆ。しかればともに同じ邊にてたがふにはあらず。陵は飛鳥の岡(ノ)里の西北二十町ばかりに五條野といふ所あり。そこにあり。是天武、持統二天皇を合せ葬まつれり。といへり○天津御門は御陵をさせり。御門《ミカド》は朝廷をミカドといふに同じくて朝廷は顯御身《ウツシミマ》にましますほどの御所なるをそをも卷十三に久堅之王都《ヒサカタノミヤコ》といへるはひさかたの天つみやこといふ事なり。さてこゝに天津御門とあるはそれとは異にて崩《カムサ》りまして鎭りませる處ながら常に天に往來《カヨヒ》玉ふ御靈の止まりすみ玉ふ御陵なればかくいふべきことぞかし〇懼母《カシコクモ》は恐多くもなり。定賜而《サダメタマヒテ》は常《トコ》つ御門と定玉へるなり。上に木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜《キノヘノミヤヲトコミヤトサダメタマヒテ》とあり○神佐扶《カムサブ》の言は上にいへり。こゝは幽宮《カムミヤ》におはしまして神進《カムサ》びせんとおぼしめすによりていはかくりませるよしなり。故に磐隱座《イハカクリマス》は御陵に長く鎭り座をいふ。卷三【河内王を鏡山に葬れる歌に】に「豐國乃鏡の山の石戸立隱《イハトタチカクリ》にけらしまてど來まさず」とよめるが如し。鎭火祭祝詞にも美保止被燒※[氏/一]石隱坐《ミホトヤカエテイハカクリマス》とあり。かくてその御陵の事は持統紀に冬十月辛卯朔壬子【中略】築2大内陵1。諸陵式に檜隈大内陵【飛鳥淨御原御宇天武天皇在大和國高市郡。兆域東西五町。南北四町。陵戸五烟】とみゆ。八隅知之吾王乃《ヤスミシヽワガオホキミノ》この王は天武天皇をさす○所聞見爲《キコシメス》は卷廿に伎己之米須《キコシメス》とあり。【またキコシヲスともシロシメスともいへる皆同じ】天下を治め玉ふをいふ。故に是よりたちかへり天皇の御在世のほどの事をいへるなり。背友乃國之《ソトモノクニノ》の背友《ソトモ》は.山陰《ヤマノキタ》のことにて東山道の美濃をさせるなり【山陰道をソトモノミチといへるも同義】大和よりは艮《ウシトラ》にて凡の方角《カタ》北といふべければなり【背友《ソトモ》のこと卷一にいへり】○眞木立《マキタツ》は卷一にみゆ。不破山越而《フハヤマコエテ》は美濃の不破郡の山なり。こは天皇初吉野を出まして伊勢の桑名におはしましゝを高市皇子の奏によりて桑名より不破郡の野上行宮に幸《イデマ》しゝ時此山を越賜ひしなるべし○狛劔《コマツルギ》は枕詞なり。和射見《ワサミ》につゞけるは考に刀の手がみの環《ワ》なり。※[手偏+總の旁]て他國のには環《ワ》のありてふを是は高麗人のによりてつゞけしのみ。【大神宮式に玉纏横刀一柄。頭頂著2仆鐶一勾1云々こは古へ他國より獻りしを神宮に納められしなり】倭訓栞に藻鹽草にも狛劔は柄長くて輪のあるなりとみゆ。和射見我原《ワサミガハラ》は各務《カヾミ》郡なるべし。神名式に美濃國各務郡に和佐美神社あり○行宮爾《カリミヤニ》は上に引る紀の文のつゞきに行宮興2野上1とあるをこゝには和佐美我原乃行宮爾《ワサミガハラノカリミヤニ》と云ては所違へるが如くおもはるれどそは紀に元年六月戊子天皇往2於|和※[斬/足]《ワサミ》1※[手偏+僉]2※[手偏+交]軍事1而還〔頭注、校正者云。號令軍衆の下天皇二乃字脱か〕。己丑天皇往2和※[斬/足]1命2高市皇子1號2令軍衆1亦還2于野上1而居之とありて野上より高市皇子の御陣營に度々おはしましゝゆゑに和※[斬/足]をも行宮《カリミヤ》とよめるなるべし。安母理《アモリ》とはアマオリの約にて【マオの切モ】卷三に天降付天之芳山《アモリツクアメノカグヤマ》とある天降《アモリ》に同く天より降《オリ》來るをいふ言なるをこゝは天皇の至りおはしませる事に用ゐたるなり。さるはこの時皇子のおはします和※[斬/足]に天皇野上より度々幸して軍事を議り玉ひしこと上の紀の文にみえたる如し。これを安母理《アモリ》と云へるは天孫|降臨《ミアモリ》の詞を用ゐて讃美《ホメタヾヘ》たるものなり○天下云々の四句は皇化に歸服《マツロハヌ》ものを平げ玉ふことなり。定賜等《サダメタマフト》のトはトテの意なり○鳥之鳴《トリガナク》は東の枕詞なり。いかなる義とも未思ひ得ず。【冠辭考の説もよしともいはれず。古義に「さは鳥か啼ぞやよ起よ吾夫《アツマ》」と云かけたるなりといへり。守部が説も之に同じけれど猶いかゞあらむ】吾妻とはなべて東國をさす辭なり【記にては倭建命足柄の坂にて阿豆麻波夜とのたまひしより號2其國1謂2阿豆麻1とあり。こは相模一國をアヅマといへるが如し。紀には號2山東(ノ)諸國1曰2吾嬬國1とみえて東國をなべてしかいへりとおもはる。こは東國をこと/\なり】○御軍士乎《ミイクサヲ》は記に黄泉軍《ヨモツイクサ》、神武紀に女軍《メイクサ》男軍《ヲイクサ》、卷廿に多家吉軍卒《タケキイクサ》また須米良美久佐《スメラミクサ》などあり。【ミクサはミイクサのイを省けるなり。イクサは軍士の稱なるを眞淵の射合箭《イクサ》の義なりといへるはいかゞ。戰字をイクサと訓むは例もなきことをや。と宜長いへり】喚賜而《メシタマヒテ》はめしあつめ玉ひてなり〇千磐破《チハヤフル》は上に千磐破神《チハヤフルカミ》とつゞけたり。冠辭考にこはイチハヤフル神てふ語なるを略きていへりといへり。記に道速振荒振國神《チハヤフルアラフルクニツカミ》、紀に殘賊強暴横惡之神《チハヤフルアラブルカミ》とみえたる、もと性《サカ》の荒く烈しきをいふ稱にて神のみならず人をもいへり。さればこゝなるは枕辭にはあらで天皇に叛きいちはやひ荒振人を和《ヤハ》せとのり玉へるなり○不奉仕《マツロハヌ》は不從服《マツロハヌ》なり。マツロフは奉《マツ》るの伸たるにておほやけに從ふは其身を上へ委《マカ》せ奉るゆゑにいふなり。【卷一に見えたり】國乎治跡《クニヲヲサメト》とは國を治よと命せ玉へるなり○皇子隨《ミコナガラ》はかゝる將帥にはむねと臣下のなるべきわざなれば皇子にはふさはしからねど其任に堪玉ふべき器量おはせば此度《コタビ》の大將に任《マケ》玉ふなり。マケはマカセの約なれば軍事をこと/\く委任《マカセ》玉へるなり。これを古義に任賜者《マケタマヘバ》と訓て罷《マカリ》の義に解たるは記傳によりて建たる説なれどいみじき誤なり。【此詞もとマケ、マク、マクル、マクレ、と下二段に活用《ハタラ》く。罷《マカリ》はマカラム、マカリ、マカル、マカレと四段に活用《ハタラキ》て語脈もとより別なり】さてかく此度の大事を此皇子に任《マカセ》玉へるは草壁皇子は十一歳、大津皇子は九歳にてこの時二十ばかりにもおはしますは此皇子ならでは外に无ければなり【上に引る如く紀に臣高市頼2神祇之靈1請2天皇之命1引2卒諸將1而往討〔頭注、校正者云。往討は征討か〕と獨うけばりてのたまへるもげにしかりしなるべし】○大御身爾《オホミミニ》は皇子の大御身《オホムミ》なり。以下六句將帥の任をうけて軍装《ミヨソヒ》をし軍士《ミイクサ》を率《ヒキ》ゐ戰場に臨み玉ふをいふ。太刀取帶之《タチトリオバシ》は太刀を腰に取帶《トリオビ》玉ふなり。【オバシの切オビ】○弓取持之《ユミトリモタシ》も弓を手に取持玉ふなり【タシの切チ】○安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》は卒ゐ玉ひなり。アトモヒの義委しく知られねど紀に誘をアトフと訓たるこれトモを約めていへるなれば誘ひたつる事をアトモヒといふとおもはる。卷三に召集聚率比賜比《メシツドヘアトモヒタマヒ》と聚の字を當たるも聚まれる者を誘ひたてゝ獵に出玉ふことにて軍の出るに同じ事なり。守部は後伴《アトトモナヒ》の義とせり。大將さきにたちて士卒を率ひともなふよしなればこれもすてがたし〇齊流《トヽノフル》は軍士を聚めて隊伍を齊整《トヽノフ》るなり。字鏡に※[口+律](ハ)調v人率2下人1也|止々乃布《トヽノフ》とあり。仲哀紀に整《トヽノヘ》v軍、舒明紀に振旅《イクサトヽノフ》續紀に六千乃兵乎發之等々乃比《ムチノイクサヲオコシトヽノヒ》などみなこれなり。鼓之音者《ツヾミノオトハ》は紀の通證に鼓(ハ)都嚢《ツヽミ》也云々。古より鼓を撃て軍卒を節《トヽノヘ》し事諸書にみえたり○雷之《イカツチノ》云々は音の高く繁きをいふ。名義はイカは嚴なり、ツは助辭、チは美稱なりといへり。佛足石歌に「伊加豆知乃ひかりの如き」とあり○吹響流《フキナセル》は吹ならせるなり。【ナラスをナスと云こといとおほし】芳樹云。小角《クダ》は和名秒に大角【波良乃布江《ハラノフエ》】小角【久太布江《クタフエ》】と大小につきて名を異にしたり。こははやく軍防令に大角二口、小角四口とあるによれるなり。されど潜確類書、山堂肆考等の史那籍《カラフミ》をみれば大小を以て名を別《コト》にしたらず。但虎鈴經に先吹2小角2次大角とあれば大と小との別《ケヂメ》はもとよりありつらめど形にかはれる事はなくて同じ製《スガタ》の物なりけむ歟。故《カレ》此間《コナタ》の書にても字鏡に※[竹冠/秋]、子有反、去v節吹、波良不《ハラフ》又|九太《クダ》と見え【波良不の下江の字を脱せるなるべし。波良笛といふことならん】また名義抄にも※[竹冠/秋]ハラクダと見えて和名抄の如く大小を分ち名を異にせず。かゝればハラと訓てもクダと訓てもたがひはあらじと思はるれどここには小角と小字を加へたればまづは和名抄によりてクダと訓べし。【但この事には論あり。次にいへり】さて大角をハラといふは後世いはゆるホラなり。ホとハと音通へり。ハラは皇國の言かと思ひしに黄帝内傳に角肇2於黄帝1爲2軍中之樂1。俗名2拔羅《ハラト》1。廻《メグラス》2號令之限度1也この拔羅《ハラ》といふ名を傳へて皇國にもハラといへりけむを通音もてホラともいへるなるべし。ホラといふもやゝ舊き事とおもはれて伊勢大輔集に「かすかなる谷のほらをぞ思ひやる秋風のみや吹てとふらん」とある谷ノホラは洞《ホラ》に大角《ホラ》をかよはせてよめるなり。もとこの角は支那にては多く銅もてつくれり。潜確類書、山堂肆考等に或以2竹木1或以v皮とあるはいと太古の事にて類書に今以v銅とあるが後世の制とおもはる。南留別志に角は銅角とて銅にてもつくりまたほら貝をも用るなりといへるは委しからず。皇國には銅角を用ゐし事所見なければ始めは竹もてつくりてこれをクダといへりしなるべし。これ皇國の舊き名なるを漢樣《カラザマ》によりて軍防令などに大角と小角との名を別つに及て大角のかたを上に引る黄帝内傳の拔羅《ハラ》もて訓み小角のかたを古よりの名の九太《タダ》もて訓るならめど世俗《ヨ》にはなほ大なるをも小なるをも共にクダといひけん。これわがいにしへよりの古言なればなり。人麻呂は歌詞に漢語のハラを用らるべきにあらねばかならず世俗《ヨ》に從ひてクダとよまれたることいはんも更なり。さるをこゝに小角とかけるはいかに。さては大聲の笛にはあらざるが如し。下に虎のほゆるにさへ譬へたれば小字は添ふべきにあらず。按ふにこは原本にはたゞ角之音《クダノオト》とありて其角の字にクダと假字のつけてありしをクダは和名秒に小角とあるをもて小字を脱《オト》せりと看做して後人の補ひたるものなり。【ハラは漢名クダは皇國の名たるよしを辨へざる人の和名抄によりてせしさかしらなり。一本には笛之音波《クタノオトハ》とあり。こは笛をそのまゝフエとも訓べけれど意を得てクダと訓むかたしかるべし】かくて軍防令に大角小角と二種みえたれば當時《ソノコロ》より大と小とおのづから別れてありつらめどなほ大をハラ、小をクダなどきはやかに別ちて唱へはせざりけん。その證は上にひける字鏡、名義抄などにハラ、クダを共に※[竹冠/秋]の訓とせるもて知るべし。委しくは上にいへる如くクダはわが古名、ハラは漢名なれば歌にはこゝの如くクダとよむべき事なり。然るに世の中からざまにうつりもてゆくに隨ひてつひにクダの古名はしる人もなくなりハラをホラと唱ふる所の漢名のみ傳はりて今も軍陣にホラと呼て螺貝を用ることゝなれり。そのクダを螺貝になせるはいつの頃よりの事ならん歟。經國集の滋野善永が詩に吹v螺山寺曉といへるを始め古歌に午ノ貝、トラノ貝などよめるみな螺角にてかく佛家にのみ用るものとなれるより音の近きまゝに法螺《ホラ》とも書て法貝にしたるがその聲の大角に同じきを以て、軍陣に借用ゐしなるべし。されど奈良の御代以前はこの螺を吹く事は无かりしゆゑにみな竹の貝なりしなるべくさるゆゑにクダといふ名は管《クダ》のこゝろなるべくや。管《クダ》といへばいと小さきものを云が如くなれど大なるをも然いへりけむ。さるをこゝに小角とかけるは上にいへる如く後に小字を補へるにてハラとクダとは同物異名なるを知べし○敵見有《アダミタル》は虎のおのれに仇するものを見て烈しくなくをいふ。虎可叫吼登《トラカホユルト》は軍士の吹ならす小角の音をいふなり【考に古へ三韓をば中國《ミクニ》の内もひとしく行かよひつれば虎の事もよそならずよめりけむ】○協流麻低《オビユルマデ》にの協流《オビユル》は字鏡に※[立心偏+脅]|於比也須《オビヤス》とあり。俗にオビヤカスといふに同じ。また愕然を於比由《オビユ》と訓り。かゝればオビヤスは此方より驚かしオビユは彼方に驚く意にて自他の別あり。されど協とかけるも愕とかけるも聞おどろきて恐るゝ意にはかはりなし【名義抄にも協にオビヤス愕にオビユと訓ぜり】○冬木成《フユコモリ》は枕詞にて既に出たり○野毎著而有火之《ヌゴトニツキテアルヒノ》は今も春になれば野を燒くなり○風之共《カセノムタ》は風と共にの意なり。靡如久《ナビクガゴトク》は諸注赤旗のなびくを野火に似たるよしにいへれどさまでもあらじ、たゞ旗なり。旗の靡くが火の風に靡くが如くなるをいふ○取持流《トリモタル》【こをモテルと訓るはわろし】弓波受乃驟《ユハズノサワギ》は數千の射手の放つ矢の波受に觸て響く音の騷しきをかくいへるなり。此|弓波受《ユハズ》はいはゆる中筈《ナカハヅ》にて弦に欠番ふ所をハズといへるなり。和名妙に弓(ノ)末曰v※[弓+肅]、和名|由美波數《ユミハズ》とあるとは異なり【卷一にいへり】○三雪落《ミユキフル》の三は借字にて眞雪《マユキ》なり○飄可母《ツムシカモ》は和名抄には※[風+炎三つ]を豆無之加世《ツムシカゼ》、字鏡には※[風+炎三つ]、※[炎三つ+風]、※[風+云]、〓などをみな暴風、豆无志加世といへり。共におなじ風なり。また名義抄に飄ツムジカゼとあり、これを後にはツジ風といへり。字類抄に飄ツジカゼとみゆ。ツジはツムジを略けるなり。東のヒムガシをヒガシといふに同じ。源平盛衰記其外|當時《ソノカミ》の書ツジ風といふ暴風ありしよしをいへり。また神名式、出雲の意宇郡の波夜都武自和氣《ハヤツムジワケ》神社を文徳實録には速飄別《ハヤツムジワケ》とあり○伊卷渡《イマキワタル》のイは發語、マキは吹|卷《マ》くなどいふマキなり○聞之恐久《キヽノカシコク》は弓弦《ユハズ》のおとのさわがしきを聞が恐《オソロシ》きよしなり【考に聞を見に改めたるは非なり】○大雪乃亂而來禮のノは如クの意にて大雪のふる如く矢がみだれ散るさまなり。來禮《キタレ》は敵方の矢が此方に來る事にはあらず、此方の矢が敵方にとびゆくをいふ。ユケレといふべきを來タレと云へるは卷一に「やまとには鳴而歟來良武《ナキテカクラム》」のクと同格なり。さて禮の下バとあるべきを省きたるは長歌の一格にて上と下と事の轉ずる所の境にかくいふなり。と宣長いへり○不奉仕《マツロハズ》より以下六句は敵方をいへり○露霜之《ツユシモノ》は消《ケ》の枕詞なり。消者消倍久《ケナバケヌベク》は身命を捨て向へるなり○去鳥乃《ユクトリノ》は群《ムラガ》り行く鳥のおのれさきだゝむと進み競《キソ》ふを以て相競《アラソフ》の枕詞とせり。端《ハシ》は間《アヒダ》といふことなり。用明紀に穴太部|間人《ハシヒトノ》皇女また卷一に間人連、卷三に間人宿禰などあるみな間をハシとよめり。古今集に「木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしにわがみはなりぬべらなり」などあり。こゝは先鋒を相爭ふあひだになり○渡會乃《ワタラヒノ》より以下八句は御軍に神助ありし事をいへるなり。渡會は和名抄度會郡【和多良比《ワタラヒ》】とあり。齋宮從は考にイハヒノミヤユと訓るに從ふ。【略解にトツキノ宮ユと訓るはわろし】天照大神を齋《イハ》ひ祀《マツ》れる宮なる故に齋宮《イハヒノミヤ》といふ。垂仁紀に故|隨《マニマニ》2大神教(ヘノ)1其|祠《ミヤヲ》立(タマフ)2於伊勢國(ニ)1因《カレ》興2齋宮《イハヒノミヤヲ》于五十鈴川上(ニ)1と見えて此|齋宮《イハヒノミヤ》が大神宮なり。即古語拾遺にも隨2神教1立2其|祠《イハヒドコロヲ》於伊勢國五十鈴川上1とみえたるこれなり。【但し拾遺には川上の字の下に因興2齋《イツキノ》宮1令2倭姫命居1焉とあり。その文垂仁紀と相似たれども妃には因興2齋宮《イハヒノミヤ》于五十鈴川上1とみえ拾遺には立2其|祠《イハヒノミヤ》於伊勢國五十鈴川上1と見えて齋宮と祠と字こそかはれおなじ神宮のことなればイハヒノミヤと訓べく拾遺に倭姫命をして居らしむるとあるかたの齋宮ははイツキノミヤと訓べし。そはこのイツキノミヤは延喜式に凡天皇即v位者定伊勢大神宮齋王仍簡2内親王未v嫁者1卜v之とある即倭姫命より以來の例として齋王《イツキノミコ》を伊勢に遣して神宮に仕へしめ玉ふ。この住玉ふ所を齋宮《イツキノミヤ》といふ。神宮にいつきつかふるよしを以て號としたればイハヒノミヤとは別なり】從はユリのリを省けるにてヨリに同じ○神風爾《カミカゼニ》は神の吹しめ玉ふ風にの意にて神風ノイセとかゝる枕詞とは別《コト》なり。伊吹惑之《イフキマドハシ》は息吹令惑《イフキマドハシ》なり。大神が風神に仰せて風を息吹《イフカ》しめ敵軍を日の光も見えぬやうにして惑はしめ玉へるをいふ○天雲乎《アマグモヲ》は下の覆賜而《オホヒタマヒテ》につゞくなり。日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》の目《メ》は所見《ミユ》の約なれば目の所見《ミユ》る晝《ヒル》を常闇《トコヤミ》に夜の如くくもらしてといふ意なり○定之《サダメテシ》は亂國を鎭定《サダメ》てしとなり。之《シ》は過去のシなり。これ七月辛亥壬子の合戰の事なり。紀曰。元年秋七月庚申〔頭注、校正者云。庚申は庚寅ならん〕朔辛亥男依等到2瀬田1時大友皇子及群臣等共營(リテ)2於橋西1而|大《イタク》成《ナセル》v陣《ツラヲ》不《ズ》v見《ミエ》2其後(ヘ)1、旗幟《ハタ》蔽《カクシ》v野(ヲ)埃塵《チリ連《ツラナリ》v天(ニ)鉦皷之聲《カネツヽミノコヱ》聞(ユ)2數十里《アマタサトニ》1。列亂發矢下《ツラナレルユミハナチテヤノフル》如(シ)v雨(ノ)。其將《ソノイクサキミ》智尊率(テ)2精兵1以|先鋒《サキカケヲ》距《フセキ》之。仍《カレ》切2斷《キリタツコト》橋中(ヲ)1須2容《バカリ》三丈《ミツエ》1。置(キテ)2一(ノ)長坂(ヲ)1設《モシ》有(ラバ)2※[足+榻の旁](テ)v板(ヲ)度|者《ヒト》1乃引(テ)v板(ヲ)將v墮(ムト)是以|不v得2進襲《エスヽミオソハズ》1於v是有2勇敢士《タケキヒト》1。曰《イフ》2大分《オホキタノ》君稚臣(ト)1則棄2長矛(ヲ)1以|重2※[手偏+鐶の旁]《カサネキテ》甲《ヨロヒヲ》1拔(キ)v刀|急(キスミヤケク)蹈(テ)v板(ヲ)度(リ)v之便(チ)斷(テ)著《ツケル》v板(ニ)綱1以|被v矢《イラエナカラ》入(キ)v陣(ニ)。衆悉(ニ)亂而(テ)散走之《ニゲハシレルガ》不v可v禁《トヽム》。將軍智尊拔(キ)v刀斬(レトモ)1退者(ヲ)1而|不能止《ヤマズ》。因《カレ》以斬2智尊(ヲ)橋邊1。則大友皇子左右大臣等|僅身免以逃之《カラクシテノガレタリキ》。男依等即|軍《イクサダチス》2于粟津(ノ)岡下(ニ)1云々。壬子男依等斬(ツ)2近江將犬養連五十君及谷直鹽手於粟津市(ニ)1。於v是大友皇子|走无所入《ニグルトコロナク》乃(チ)還(リ)2隱(リテ)山前(ニ)1以自縊焉《ワナギヌ》。時左右(ノ)大臣及群臣皆|散亡《ニゲキ》。唯物部連麻呂且|一二《ヒトフタリノ》舍人|從之《シタガフ》かゝれど神風のことは紀に見えず。こは當時《ソノヨ》に云傳へたりし事によりてよまれたるなるべし。さるは神武天皇より以來かゝる甚《イミ》じき戰はいまだかつてなかりしにたゞ二日の間に平定《シヅマリ》しかば當時《ソノヨ》の人みな伊勢の神助なりと思ひいひしと理なりけり○神隨大敷《カムナガラフトシキ》座而の二句はまた天武の御事をいへるなり。古義に此而字を衍としてフトシキイマスと訓み吾大王之《ワガオホキミノ》につゞけて天武の御事とせるは考、略解などの而字に心をつけずて神隨《カムナガラ》より下五句をすべて天武の御事なりといへるなほざりなる説よりは細かなるが如くなれどなほ非なり。天武の御事をいへるはたゞこの二句のみなり〇八隅知之吾大王之《ヤスミシシワガオホキミノ》は高市皇子をさす。さるは定まりし天下を天武天皇の神隨《カムナガラ》ふとしりましてその後|吾大王《ワガオホキミ》高市皇子の天下の政をたすけ申し玉へばといふことなり。この吾大王を諸注天武の御事として次なる申賜者よりを高市の御事とおもへるゆゑに古義の衍字の説もおこれるなり【皇子をも八隅知之吾大王といふ例卷一輕皇子をよめる長歌にいへり併せみるべし】○天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》は天下の政を皇子の執行ひ奏《マヲ》し玉へばなり。實《マコト》は天武の御世に高市の政申し玉ひし事はみえず。持統紀四年七月庚辰に以2此皇子高市(ヲ)1爲2太政大臣1とあるよりこそ天下申賜《アメノシタマヲシタマフ》ともいふべければ太敷座而《フトシキマシテ》を天武の御事としては齟齬《タガフ》やうなりといへる人もあれどこは歌をしらぬ人の説なり。太敷座而の詞の下に天位《アマツヒツギ》を持統に傳へ玉ひつひに此皇子の政とり玉ふ如くなれるまでの事をおほく含めたるにて歌の文章とことなる處はこゝにあるなり○萬代然之宅將有登《ヨロヅヨニシカシモアラムト》は萬代までも相變らずしかあらむとおもひ居るにの意なり。【シカはサを約ればさもあらむといふに同じ。サモアラムは俗にさあらんといふことなり】○木綿花《ユフハナ》乃は枕詞なり。冠辭考に集中に「春花の榮ゆる持」とよめる如く實の花をもいへれどその比木綿もて作れる花をめづる事ありしなるべし。泊瀬女(ノ)造木綿花などよめり。とみゆ。榮時爾《サカユルトキニ》は木綿花のうるはしく榮《ハ》えあるを皇子の御齡の盛なるにたとへいへり。爾字御齡の盛の時におもひもかけず薨り玉へるを驚ける意を含みたり。卷三に山部赤人「田子の浦ゆ打出でみればましろにぞふじの高嶺爾雪はふりける」の爾もじもふじの高ねに思ひもかけず雪はふりけるよしなり。これによりて伊勢物語に「ふじの山をみればさつきのつごもりに雪いと白うふれり」とあるツゴモリニのニもじも思ひもかけずの意にて用ゐさまおなじ○吾大王皇子之御門乎《ワガオホキミミコノミカドヲ》の御門は殯宮なり。【此長歌に吾王とあるが一所、吾大王とあるが二所なるを吾王は天武の御うへを申し吾大王には二所ながら高市皇子をさせり。おもひ混ふべからず】板本に一云|刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカドヲ》とあり。刺竹は枕詞なり○神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》とは薨賜ひては神とませるゆゑに殯宮を神宮といふ。ニは神のます宮の装束のさまになしての意なり○遣使《ツカハシシ》はこれまで使ひ玉ひしのよしにてツカヒシの伸たるなり。【ハシの切ヒ】卷十三に朝者召而使夕者召而使遣之舎人之子等者《アシタニハメシテツカハシユウベニハメシテツカハシツカハシシトネリノコラハ》とある使《ツカhシ》に同じ。御門之人毛《ミカドノヒトモ》はその召《メ》し使《ツカハ》はるゝ者ども皆|宮門《ミカド》を出入するより御門《ミカド》の人といへれどたゞ皇子《ミコ》に仕ふる人の事なり○白妙乃麻衣著《シロタヘノアサゴロモキテ》は素服を著てといふに同じ。故に此白妙乃は枕詞にはあらで麻衣のまことの色を顯はせるなり。芳樹云。和名抄に※[糸+哀]衣、唐朝云※[糸+哀]【音崔、與催同、和名不知古路毛《フヂコロモ》】喪服也とあり。このふぢ衣はもと藤皮にて織れる布にて古今集顯注に「藤の皮を剥てあらあらしく織れる衣なりしといへり。されどそはあまりに麁《アラ》きに過て身に著るに堪《タヘ》がたきまゝにたゞ名のみにて實は麻もて織れる布を用ゐたりけむ。故にかく麻衣とかきたるは實によれるものなり。但後世に至るまで歌にはふぢごろもともよめればこゝも意を得てフヂゴロモとも訓べけれどなほ字のまゝにアサゴロモと訓やしかるべき。さて皇子に仕奉る人どもの染めざる白き麻衣を著しは御送葬につきての事ながら喪服といふよしにはあらず。上に神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》とありて皇子の神となり玉へるを送り奉るゆゑに神事の服にて白色を用ゐたるなり。そは衣服令に白を貴とき色とするも神事に用るゆゑなるを以てもしるべし。喪服は白色にはあらず。みないはゆる墨染、鼠色、鈍色の衣にて論語の朱注に喪主v素、吉主v玄といへる漢國の制とはうらうへのたがひなり。【この墨染もとより黒色なれども青黄赤白黒の正色の黒にはあらず。少し鈍《ド》みたる色なり。故に墨染の薄きが鼠色鈍色なり。記に八千矛神の黒き御衣《ミケシ》を不宜《フサハズ》とて棄玉へるまた古今集に仁明天皇の崩後遍昭の「深草の野べのさくらし心あらばことしばかりは墨染にさけ」とよめるが如きみな黒の鈍《ドミ》たるを凶色とせるものなり。また榮花物語冷泉院崩御のくだりに「宮々御方の墨染どもあはれにかなし云々たゞ一天下の人からすのやうなり」其外もかゝこといと多し。これにて黒を凶色とするを知るべく皇國の喪服は白にはあらざるを知べし】然るを皇國には亡者《ミマガレルヒト》を神としで麻衣著て送葬《ハブリ》のわざなどするが故實なりといふ事をばいつしか忘れ玉ひてその麻衣の白きを着る禮のおのづからから國の制の白を凶色として素服を喪服となせると同じさまなるを以て漢|樣《フリ》の素服の制をまね上古よりの制に混《マジ》へられたるそはいつの比よりの事歟とおもふに天智紀に齊明天皇の崩じ玉へることを記して皇太子素服稱v制とあり。これや始めなるべき。【これよりさき仁徳紀に大鷦鷯尊素服爲之發哀とあれどこの時はまことの白き布の服にはあらずて字を漢樣にかけるのみなりけむ。天智天皇に至ては實に白き麻の素服を用られし成べし】されども皇國に素服を用るは漢國の如く喪中の常服とするにはあらずたゞ御送葬の時か或は過七などの時に用るのみ。續紀に天平二十年四月庚申太上天皇崩2於寢殿1。丁卯勅2天下1悉素服。是日火2葬太上天皇於佐保山陵1【庚申より丁卯まで七日ばかりを經たるにこゝに至て始て素服したるは崩じ玉へる庚申の日よりは喪服なりしが御葬送あるによりて素服にかへたるなり】また三代實録に貞觀十三年九月廿八日大皇太后崩。冬十月五日云々近臣皆素服。葬2於大皇太后於山城國宇治郡後(ノ)山階山陵1【長暦によるに當年の九月は小なるゆゑに廿八日より十月五日までにて七日なり。この七日にあたりて御送葬の日に素服を著せしめ玉ふこと續紀におなじ】などみえたるもて索服は喪中の禮服、喪服は喪中の常服なるを知るべし。抑白をばうへも无き貴色として天皇の吉服に用ゐ玉ふものなること令條其外の書に見えたれどその白は白絹にて素服の藤にまれ荒々しき布のいろとはいたく異なるゆゑに舊き装束抄どもにもその白の御衣をば帛とかきて御禮服さては御袍などゝ一列《ヒトツラ》に標《シル》せれば吉服の白と凶服の白と混《マガ》ふべきにはあらねどその凶服のかたももとは神となり玉へるに仕奉る服なるゆゑに吉服に同じきいろなりといふよしをよく心得ずばまどひぬべし。さればこゝの白妙乃麻衣《シロタヘノアサゴロモ》もたゞ御送葬の供奉のときの衣のみとおもふべし【家にかへれば墨染か鈍色か に改むるなり。なほ委くは標注令義解校本の別記にいへり】○埴安乃御門《ハニヤスノミカド》は下に香來山之宮とあるその宮のことにて原は宮(ノ)前の原なり○赤根刺《アカネサス》は枕詞。日之盡《ヒノコト/”\》は終日なり○鹿自物《シヽジモノ》は枕詞。伊波比伏管《イハヒフシツヽ》のイは發語にて匍匐伏乍《ハヒフシツヽ》なり。卷三に四時自物伊波此拜《シヽジモノイハヒヲロカミ》などあ○鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》は鶉は草の中をはひめぐるものゆゑかくいへり。イは發語モトホリは廻ることなり。卷三に伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》とあり○佐母良比不得者《サモラヒカネテ》の者は決なく弖の誤字なるべし。侍《サモラ》ふに得堪ずてなり○春鳥之佐麻欲此奴禮者《ハルトリノサマヨヒヌレバ》は春の鳥のさへづるを皇子を慕ひ奉てなげくにたとへたり。古より吟字をサヤヨフとよめりと冠辭考にいへり。字鏡に呻歎也、左萬與不《サマヨフ》又|奈介久《ナゲク》とみゆ。呻も呻吟とつゞきで同意の意なり。春鳥乃巳惠乃佐麻欲比之路多倍乃《ハルトリノコヱノサマヨヒシロタヘノ》そでなきぬらし」といへる【こは春鳥の音になく如く我も泣て袖をぬらせるなり】など泣くことをサマヨフといへり○未盡者《イマダツキネバ》は盡ヌニの意なり。ヌニをネバといふこと古歌古文に多し【やゝ後のものなれど古今集などにもあり】○言左散久《コトサヘク》は百濟之原從《クダラノハラユ》につゞく枕詞なり。大和志に廣瀬郡百濟村あり。十市郡香山の宮にやゝ近し○神葬《カムハフリ》の神は神宮爾《カムミヤニ》の神と同じく薨玉ひてより神と申せるなり。葬《ハフリ》は【葬送をばハフリといひ葬埋をばはカクスあるはヲサムといひてわかてるが如くなれど】古義にこの上にもいへる如く新撰萬葉にハカの假字に葬處《ハカ》とかゝれたるは墓を葬處と書ることのありしを借て用ゐ賜へるものなり。これによるに墳墓をハカといふも葬處《ハフリカ》の義なることしるし。かゝればなほ柩を送りやるより土中に埋み藏すまでを古よりハフルといへりしによりて收埋《ヲサメウツ》める地をハカとはいへるなるべし。【今俗にも屍を埋るをハウムルといへり】葬伊座而《ハフリイマシテ》のイは發語にてマシは行にも來ルにも居ルにもいへり【さればイはあるもなきもおなじ】○朝毛吉《アサモヨシ》は枕詞なり。木上宮は題詞なる城上殯宮これなり○常宮のこと上にいへり。高之奉而は宜長高之は定の誤にてサダメマツリテならむといへり○安定座奴《シヅマリマシヌ》は他所に遷りまさず長くこゝを常宮《トコミヤ》として安定《シヅマリ》玉へるよしなり。記に宇那賀氣理※[氏/一]至v今鎭坐(シキ)也また於《ニ》2其地《ソコ》1作(テ)2御陵1鎭坐也などの如し【シヅマルはトヾマルに同じそのよし記傳にみゆ】○萬代跡《ヨロヅヨト》云々は皇子の萬代も安坐《ヤスミ》し玉はむと思し召て作らしゝ香來山之宮《カグヤマノミヤ》といへるにてはやくの時に此宮殿を造らせ玉へる事をいへるなり○萬代爾過牟登念哉《ヨロヅヨニスギムトモヘヤ》は萬代までも過失むやはの意にて【スギの切シにて死を過《スギ》と云も人の失るをいへればこの過《スギ》も宮殿が萬代へても失はせぬよしによめるなり】念《モヘ》は輕くそへたる詞にて上にもあり。過去《ウセ》むやはうせはせぬよしなり○天之如振放見乍《アメノゴトフリサケミツヽ》はその皇子と共にうせずて遺れる宮殿を天を仰き見る如くふりさけみつゝの意なり○玉手次《タマダスキ》は懸《カケ》の枕詞にて心に懸て皇子を偲び慕むとなり。さて恐《カシコ》かれども懸てしぬばむといふべきを下上にかへ置て調をなせるなり○歌意。言の端《ハ》にかけて輕々しく申すも憚多く恐多けれど飛鳥の眞神原の御陵に鎭坐《シヅマリマス》天武天皇その昔壬申の亂の時美濃國不破山をこえて和※[斬/足]《ワサミ》行宮に臨幸《オハシ》まして皇威《ミイヅ》に不歸ぬ國々人々を治め和《ヤハ》せよと高市(ノ)皇子《ミコノ》尊に勅《オホ》せ玉へば尊|勅《オホセ》のまゝに軍事を掌り玉ひて御みづから劍とり佩《ハ》き弓矢|取持《トリモタ》し給ひて東國の諸軍勢を卒ゐ玉ふにその節《トヽノ》ふる鼓の音は雷《イカヅチ》のおちかゝるかと驚き角《クダ》の音も仇みてたける虎のほゆるかとおびえられ旗手《ハタテ》のしげく靡くさまは風になびける野火の炎《ホノホ》かとみえ弓餌《ユハズ》のおとの高きひゞきは飄風《ツジカゼ》の林に卷渡るかと聞えて諸人のをぢおののぐばかり聞ゆるおとの恐ろしく引放つ矢の繋きことは大雪の亂れちるが如く來たれば不歸《マツロハザリ》し敵も今をかぎりに身命を捨て入亂れ戰ひしに怪しやその時伊勢の神宮のかたより神風を興し數萬の敵をたゞ時の間に拂ひ平らげて鎭め定めさせ玉へりしこの天下の大政を皇子尊の執奏《トリマヲ》したまへば萬代までにかくてあらむとたのもしく思ひしに事たがひてその召使はれ仕へまつりし舍人等も素服著て終日終夜殯宮に候へどさふらふに得堪へずて哭吟《ナキサマヨ》ひつゝ悲歎《カナシミ》の情《コヽロ》も盡ざるに神葬《カムハフリ》つかへまつりて城上の幽宮《カムミヤ》に永く鎭りませれば今はいかになげきてもせむすべなし。されども皇子尊の世にましゝほど萬代に榮えゆかむ宮地《ミヤドコロ》とおぼしめして造らせ玉へりしその香久山(ノ)宮は萬代經とも過失る代はあるまじければ此(レ)をだに御形見とふり仰ぎ見つゝ恐多くはあれども皇子尊の御事を心にかけて慕ひ奉らむとなり
此歌百四十九句集中第一の長篇なり。人麻呂獨歩の英才を以て皇子の大功を述べ薨去を慟まれしは誠に不朽を日月に懸たるうたなり。と源光國の釋にあり
 
短歌
 
久竪之天所知流《ヒサカタノアメシラシヌル》。君故爾日月毛不知《キミユヱニツキヒモシラニ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
天所知流《アメシラシヌル》は上「天原いは戸を開き神|上《ノボリ》々座奴《ノボリイマシヌ》」とあるに同じく靈魂《ミタマ》の天にのぼりますよしなり〇日月毛不知《ツキヒモシラニ》云々は月日の經る分《ワキ》も知ずこひしく恍惚《ホレ/\》としておもひわたるよしなり
 
埴安乃池之堤之《ハニヤスノイケノツヽミノ》。隱沼之去方乎不知《コモリヌノユクヘヲシラニ》。舍人者迷惑《トネリハマドフ》〔頭注、校正者云。隱沼之の之の字諸本乃とあり〕
 
隱沼《コモリヌ》は草などの多く生ひ茂て流るゝ水の行方の知られぬをいふ。堤之《ツヽミノ》とあるをおもふに堤の下より洩らし出す水の外にて沼になりたる處をさすなり○歌意。朝夕親しく仕へまつりし舍人等もおのがさま/”\あがれさりて行方もしらずなれるを隱沼の水にたとへたるなり
 
或書反歌一首。
 
哭澤之神社爾三輪須惠《ナキサハノモリニミワスヱ》。雖祈我王者《イノレドモワガオホキミハ》。高日所知奴《タカヒシラシヌ》〔頭注、校正者云。祈の上祷の字脱か〕
 
哭澤之神社爾《ナキサハノモリニ》は記に伊邪那岐命云々哭時|於《ニ》2御涙1所v成神《ナリマセルカミ》坐《マス》2香山之畝尾木本《カグヤマノウネヲノコノモトニ》1、名(ハ)泣澤女《ナキサハメノ》神とあり。此社香山にありて香山宮に近ければ皇子の御病のいまはの時にまづ此《コノ》社《モリ》に祈れども驗なくて高日知《タカヒシ》らしぬとなり。芳樹云.高日《タカヒ》は高天《タカマ》と同じ。天《アメ》を知しぬるよしなり。【神酒のことは卷一にいへり】古義に雖祷祈をノマメドモと訓たるは中々に非なり
 
右一首類聚歌林曰。檜隈女王怨2泣澤神社1之歌也。案日本紀曰。持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨
 
但馬皇女薨後穂積皇子冬日雪落《タヂマノヒメミコノスギタマヘルノチホツミノミコノユキノフルヒ》遙2望《ミサケテ》御墓《ミハカヲ》1悲傷流涕御作歌《カナシミヨミマセルウタ》一首
 
續紀和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也とみゆ。されば穂積皇子《ホツミノミコ》のこの歌よみ給へるは即ち今年の冬のことなるべし。【この皇子も皇女も共に既に出】此御歌|序次《ツイデ》をたゞせば下に標したる四年歳次辛亥の上寧樂宮の下に置べし【但馬内親王の薨は和鋼元年なればしか所をかへざればついで正しからざる也】
 
零雪者安幡爾勿落《フルユキハアハニナフリソ》。吉隱之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》。塞爲卷爾《セキナラマクニ》
 
安幡爾勿落《アハニナフリソ》は深くふること勿れとなり。宣長云。近江淺井郡の人のいへるは其あたりにては淺き雪をばユキといひ深く一丈も積る雪をばアハといふとなり。こゝによくかなへり。古今集の雲ノアハタツも雲の深くたつ意なるべし。といへり。伴蒿蹊の閑田次筆に家の後に林をたてゝアハを防ぐといへるをアハとは何事ぞと問けるにアハとは雪のつもりて崩るゝをいふ。されば林をもてそを防がざれば家をうちたふすなり。と答へしよしみゆ○吉隱《ヨナバリ》は卷十に吉魚張《ヨナバリ》とあり。こを持統紀には兎田吉隱《ウタノヨナバリ》とあるを諸陵式には吉隱陵【皇太后紀氏在2大和國城上郡1】と見えて紀と式と郡の違へるやうなれど宇陀と城上とは境を接へたれば吉隱は兩郡に渉れる地なるべし【今も泊瀬山こえて宇陀のかたによなばり村とてありとぞ。泊瀬は城上郡なり】○猪養乃岡《ヰカヒノヲカ》は大和志に在2吉隱村(ノ)上(ノ)方(ニ)1山多2楓樹1とあり。皇女の墓はこの岡にあり○塞爲卷爾《セキナラマクニ》のマクはムと切《ツヾマ》れば塞ナラムニの意なり【この塞を守部は寒の誤として寒カラムニの意なりといひ古義には塞爲卷爾をセキナサマクニと訓べしといへれどもとのまゝにてよく聞ゆ】○御歌意。雪のさのみあはにふり積らば猪養岡の御墓地にかよふ道の塞となりなむに雲も心して深くふることなかれ。とよみ給へるなり。一周の間は御墓所にやどり給ふことなどもあれば雪にせかれてえまうで給はでは實に不便なるまゝにかくよみ給へるなるべし
 
弓削皇子薨時置始東人《ユゲノミコスギマセルトキオキゾメノアヅマビトガ》歌一首并短歌
 
此皇子の事上にみゆ。續紀文武天皇三年秋七月癸酉淨廣貳弓削皇子薨〇置始東人も上にみゆ
 
安見知之吾王《ヤスミシシワガオホキミ》。高光日之皇子《タカヒカルヒノミコ》。久堅乃天宮爾《ヒサカタノアマツミヤニ》。神隨神等座者《カムナガラカミトイマセバ》。其乎霜文爾恐美《ソコヲシモアヤニカシコミ》。晝液宅日之盡《ヒルハモヒノコト/”\》。夜羽毛夜之盡《ヨルハモヨノ/”\》。臥居雖嘆飽不足香裳《フシヰナゲヽドアキタラヌカモ》
 
安見知之《ヤスミシシ》以下四句はもはら天皇を申す言なれど轉りては皇子にもいへり。こゝは皇子をさせるなり○天宮《アマツミヤ》は靈魂《ミタマ》高天原に上《ノボリ》まして天宮に座す由なり。上に天原石門乎開神上上座奴《アマノハライハトヲヒラキカムノボリノボリイマシヌ》とあるも意同じ。神等《カミト》は神となりてなり【此トもじ例多し】○文爾恐美《アヤニカシコミ》はいかなることにて此國を棄、天原に上り座るにかと不審《アヤ》しく恐多く思ひ奉ての意にて「かけまくもあやに恐《カシ》こく」といへる敬詞とは用ゐざまいさゝか異なり。そは其之霜《ソコヲシモ》と云たるにて心得べし○飽不足香裳《アキタラヌカモ》は臥ても歎き居ても歎き朝夕少しの暇もなくなげゝどなほ歎きたらで悲歎の情のつきざるよしなり○歌意明らかなり
 
反歌一首《ミジカウタヒトツ》
 
王者神西座者《オホキミハカミニシマセバ》。天雲之五百重之下爾《アマグモノイホヘガシタニ》。隱賜奴《カクリタマヒヌ》
 
神西座者《カミニシマセバ》とは皇子《オホギミ》は此世に生てましますほども現人神《アラヒトガミ》にてましませば神力を以て天にのぼり天雲のうちにかくれすみ給ふよしによみて薨り給へりとはあらはにいはざるなり。卷三に「皇者神二四座者《オホギミハカミニシマセバ》あま雲の雷上《イカヅチノヘ》にいほりせすかも」などみゆ〇五百重《イホヘ》は多くかさなれる意。下《シタ》は宣長云。裏《シタ》にてうちに同じ○歌意かくれたる所なし。初句の者《ハ》もじ結句までかゝりて王《オホギミ》は下ざまのわれ/\とは異にてかくの如く御身をかくし給へれば慕ひ上らむとしてもかなはぬよしを嘆けるなり
 
又短歌一首※[五字□で囲む]
 
又云々五字疑はし。右の長歌にそふ短歌ならば上なるに引つゞけて二首相並ぶべし。また然らずば或本歌などゝ書く例なり
 
神樂波之志賀左射禮波《サヾナミノシガサヾレナミ》。敷布爾常丹跡君之《シクシクニツネニトキミガ》。所念有計類《オモホセリケル》
 
志賀左射禮波《シガサヾレナミ》は志賀の浦の小波《サヾレナミ》を直にかくいへるめづらし。和名抄に泊※[さんずい+狛]唐韻云。淺水貌也。左々良奈三《サヾラナミ》とみゆ。古今集にサヾレ石ともありてもとサヾレなり。字鏡ササラとあるはレをラに通はしたるなり。義は汀の淺き處にては浪のさら/\寄《ヨス》るものなるゆゑサヾレナミといへるなるべし。【更科日記に「こゝちよげにさゞらき流れし水」とあるがさらさらとすれ流るゝ水をいへるなるべしと古義にいへり〔頭注、校正者云。あるがはあるもか。古義はしかあり尚水の下にもと云ふ字あり〕】卷三に小浪《サヾレナミ》とあり。【サゞレは小字の意にはあらず。さら/\とする浪をいふなり。されどさら/\するは小《チヒ》さき浪なるゆゑに義をもて小浪をよませたるなり】字鏡に泊※[さんずい+百]【大曰2波濤1小曰2泊※[さんずい+百]1佐々奈美《サヾナミ》】といへればレを省きてサヾナミともいへるなり【地名の樂浪《サヾナミ》とはことなり】○敷々爾《シクシクニ》は浪の重々《シキリ》にうつを云へるにて上二句はこの敷々の序なり○哥意はかく御よはひの長からて薨《ウセ》給へるものをかはることなくていつも/\常にもがなと君がおほせるかなとよめるなり。殊更に志賀を取出たるはこの皇子志賀にすみましゝにか。その義いまだ考ず
 
柿本朝臣人麻呂(ガ)妻《メ》死之後《ミマガリシノチ》泣血哀働作歌二首并短歌《カナシミヨメルウタフタツマタミジカウタ》〔頭注、校正者云。哀働の働は慟ならん〕
 
此二歌二首ともに妻の死をかなしめる歌なるを前なるは妾【をりをり通ひ昏《スミ》し女】後なるが妻【子もたりし嫡妻】の爲によめるなり。されど妻妾とわかつは字のうへのさたにて和名抄に妻【和名|米《メ》】妾【和名|乎無奈女《ヲムナメ》】とあれど言《コトバ》にはいづれもツマと云べければ歌の端書などにはしかわかちてかゝでも妻妾をこめて妻とかきて難なかるべし。男は妻一人と定まれるものならねば石見にも妾ありてその女に別るゝ長歌既に上にみえたり。こゝにまた妻妾二人を悼める長歌あり。須勢理毘賣命の夫君にまゐらせられし歌に「吾《アガ》大國主こそは夫《ヲ》にいませば。うちみる島のさきざき。かきみる磯のさきおちず。若草の都麻《ツマ》もたらせめ。吾《ア》はもよ婦《メ》にしあれば。汝《ナ》を置《キ》て夫《ヲ》は无し。汝《ナ》を置《キ》て都麻《ツマ》は无し」とあるをみても男はあまたの妻をもち女は夫の一人なるがならはしを知るべし〔頭注、校正者云。ならはしの下なるの二字脱か〕
 
天飛也輕路者《アマトブヤカルノミチハ》。吾妹兒之里爾思有者《ワギモコガサトニシアレバ》。懃欲見騰《ネモゴロニミマクホシケド》。不止行者人目乎多見《ツネニユカバヒトメヲオホミ》。眞根久往者人應知見《マネクユカバヒトシリヌベミ》。狹根葛後毛將相等《サナカヅラノチモアハムト》。大船之思憑而《オホブネノオモヒタノミテ》。玉蜻磐垣淵之《カギロヒノイハガキフチノ》。隱耳戀管在爾《コモリノミコヒツヽアルニ》。度日乃晩去之如《ワタルヒノクレユクガゴト》。照月乃雲隱如《テルツキノクモガクルゴト》。奥津藻之名延之妹者《オキツモノナビキシイモハ》。黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》。玉梓之使乃言者《タマヅサノツカヒノイヘバ》。梓弓聲爾聞而《アヅサユミオトニキヽテ》。將言爲便世武爲便不知《イハムスベセムスベシラニ》。聲耳乎聞而有不得者《オトノミヲキヽテアリエネバ》。吾戀流千重之一隔毛《ワガコフルチヘノヒトヘモ》〔頭注、校正者云。爲便不知の下爾の字脱又吾戀流の流字は衍か〕。遣悶流情毛有八等《ナグサモルコヽロモアリヤト》。吾妹子之不止出見之《ワギモコガツネニイデミシ》。輕市爾吾立聞者《カルノイチニワガタチキケバ》。玉手次畝火乃山爾《タマダスキウネビノヤマニ》。喧鳥之音母不所聞《ナクトリノコヱモキコエズ》。玉桙道行人毛《タマホコノミチユクヒトモ》。獨谷似之不去者《ヒトリダニニテシユカネバ》。爲便乎無見妹之名喚而《スベヲナミイモガナヨビテ》。袖曾振鶴《ソデゾフリツル》
 
天飛也《アマトブヤ》は輕《カル》の枕詞なり。こは天|飛《ト》ぶ雁とつゞけたるなり。記に阿麻陀牟加流袁登賣《アマダムカルヲトメ》とよみ給へり。冠辭考に姓氏録に雄略天皇御世獻2加里乃郡1仍賜2姓輕部君1とあるを引けり。これカリとカルとの親しく通へる證なり。輕路《カルノミチ》は大和國高市郡輕といふ地の道路なり。【輕は久米村の東北にて村の東に大路今にありとぞ】○懃《ネモコロ》は古義云。如《モコロ》v根《ネ》なり。根とは物の底の極をいふ。草木の根なども土底の極延入よしなり。如をモコロといふは例多し。かゝれば行至らぬ極なく慇《コマカ》に懃《クハシ》く爲し思ふことなどをネモゴロと云なり。と云るが如し〇不止行者《ツネニユカバ》は考にツネニユカバと訓るに從ふ。【下なる不止出見之《ツネニイデミシ》の處にいふべし】卷四に常不止通之君我《ツネヤマズカヨヒシキミガ》とあり。人目乎多見《ヒトメヲオホミ》の下|顯《アラハ》レモヤセムといふ言をそへて見るべし○眞根久往者《マネクユカバ》のマネクは數多をいへば度々《タビ/\》ゆかばの意なり〇狹根葛《サネカヅラ》は枕詞なり。既に出つ。後毛將相《ノチモアハム》はさねかづらのはひ別ては末のまたはひあへるをもて後にあふにたとへたり○大船《オホブネ》、玉蜻《カギロヒ》みな枕辭なり。そのうちかぎろひは※[火+玄]《カヾヤ》く火といふことにて其火を磐に含みもたるゆゑに磐の枕詞とせり。磐垣淵《イハガキフチ》は隱《コモリ》をいはむ料なり.磐石の立圍みたる山川の淵の隱《コモ》りかなるよしにて垣《カキ》は圍《カクミ》なり。【クミの切キ】青垣山の垣もこれに同じ。と古義にいへり〇隱耳《コモリノミ》は隱てのみあひみるよしにて密かに通ふ女のことなり○度日乃《ワタルヒノ》より以下四句は名延之《ナビキシ》妹の死せるさまをたとへたり。晩去之如《クレユクガコトクレユクガゴトと訓べし。日の西にくれゆくが如くといふなり【クレヌルとよむはわるし】○照月乃雲隱如《テルツキノクモガクルゴト》は大空に照る月の俄かに雲に隱るゝが如くといふなり【源氏物語に雲隱といふ卷名あるなどもみなこれより出たり】○奥津藻之《オキツモノ》は靡の枕詞なり○黄葉乃《モミヂハノ》は過《スグ》の枕詞なり。過伊去之《スギテイニシ》は死《シニ》て往《イキ》しなり【死をシと訓むは字音にはあらずスキの切にて詞なり】○玉梓之《タマヅサノ》は宜長云。上代には梓の木に玉を著たるを使のしるしに持てあるきしなるべし。そは思ひかけたる人のかどに錦木をたてしと心ばえの似たることにてすべで使を遣る音信の志をあらはすしるしに玉つける梓を持て行しなるべし。〔頭注、校正者云。心ばえはばへか〕さて後に文字わたり來て書《フミ》をかはす世になりて消息文は使のもてくる物なるゆゑにこの玉梓に准へてそれをも同じく玉梓といへるなるべし【この説さもやと思はるれど木も多かるをことに梓と定めたるはいかなるよしならん。なほよく考べし】○梓弓《アツサユミ》は聲《オト》の枕詞なり。【卷一にいへり】聲爾聞而《オトニキヽテ》は使の歸り來ていふ音信《オトツレ》を聞てなり【聲《オト》は使のいふ言《コト》をさす。古義に一云聲耳聞而とあるをとりてオトノミキヽテとよめるは非じ】○聲耳乎《オトノミヲ》こはオトノミヲとあるべき所なり。使の音信《オトヅレ》に死せるよしを聞たれどその聲耳《オトヅレノミ》をきゝてはあり得られねばのよしなり〇千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》は千が一つだにもの意なり○遣悶流情毛有八跡《ナグサモルコヽロモアリヤト》はなくさもる心もありなむ歟とての意なり○不止出見之《ツネニイデミシ》の不止の字芳樹按に上の不止行者《ツネニユカバ》は共にツネニと訓べし。略解にヤマズと訓り。古義もこれに從ひ考の説をもどきたれどかへりて非なり。【ヤマズとは朝夕間斷なき意の詞なり。妻のもとに通ふことを間斷ナク通フ夫の來るを待つを間斷ナク出テミルなどいふべきにあらずツネニは今俗言にも常々相變らずなど云が如し。故に不止の字をツネとよませたるものなり。但卷四に常不止通之君我《ツネヤマズカヨヒシキミガ》とあれば不止の字をツネとのみは訓せがたくおもはるれどこの卷四なるはツネとのみにては語を成さゞるゆゑ不止の字をそへてヤマズと訓せたるなり。なべての集中の例は不止をツネとよめるがおほかるをや】卷三に玉葛絶事無在管裳不止將通《タマカヅラタユルコトナクアリツヽモツネニカヨハム》また卷十二「人のみてことゝがめせぬ夢谷不止見乞《イメニダニツネニミエコソ》」などみなツネニと訓まざれば聞えざるなり。さて下に輕市《カルノイチ》といへるこは輕の里の廛《タナ》ある所にて賣買の事につきて人あまた立《タ》ち集《ツド》へば妹が存生の時こゝに來て夫のもし市に立ては居給はぬにやと常にみし處なる故に心をなぐさもる事もやと今われその市に立てきけばの意なり〇畝火乃山《ウネビノヤマ》は輕の近き處なり。卷四に「天翔哉輕路《アマトブヤカルノミチ》より玉田次畝火《タマダスキウネビ》をみつゝ」とあり○喧鳥之《ナクトリノ》は音の枕詞にて妹が音信《オトヅレ》も聞えずとなり○玉桙《タマホコ》は道の枕詞にて道ゆく人のうちにも獨だに妹に似たるもなきよし也○妹之名喚而袖曾振鶴《イモガナヨビテソデゾフリツル》はせんかたなさに妹が名をよびて袖を振たるなり。袖をふるは身をもだえ悲しむさまなり○歌意。輕路《カルノミチ》は妹が里なれば常に行て相見まほしく思へどももし深く思ふまゝに度々ゆかば人目が多き故に見あらはされん。今こそかゝれども後にはまたたやすく逢るゝ時もあらむとそれをたのみにして心の裏《ウチ》にのみ戀しくおもひつゝ繁くは通ひもせずにあるにまことや妹がみまがりぬと使の來ていへばその音信を聞て音信のみにては得こたへられねば常に妹が出てわがかよふを待し輕市に少しは情《コヽロ》をなぐさむるよしもありやと出ゆきて聞ても更に妹かおとづれもきこえずあまたゆきかふ市人のうちにも一人だに妹に似たるもなければせんかたなさの心まどひにさけび袖ふりして妹が名を高くよばひつるよとなり。全篇事をありのまゝにつらねて悲歎の情を盡されたる朝臣ならで誰かはいふべき
 
短歌《ミジカウタ》二首
 
秋山之黄葉乎茂《アキヤマノモミヂヲシゲミ》。迷流妹乎將求《マドハセルイモヲモトメム》。山道不知母《ヤマヂシラズモ》
 
迷流はマドヘルに同じ【ハセの切ヘ】○歌意。秋山に黄葉見に行てその黄葉の茂みに道を蹈迷ひ家に得かへらぬ妹を求めに行む道をしらぬよとなり。死せるを猶世にある如くいひなせり
 
黄葉之落去奈倍爾《モミヂバノチリヌルナベニ》。玉梓之使乎見者《タマヅサノツカヒヲミレバ》。相日所念《アヒシヒオモホユ》
 
落去奈倍爾《チリヌルナベニ》の奈倍《ナベ》は並《ナベ》なり。妹が世に在し時使を待得て行て逢し日に紅葉のちりたりしにけふもまたその日のやうにもみぢのちるに使の來たるをみれば逢し時のこゝちするよとなり
 
打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》。取持而吾二人見之《タヅサヘテワガフタリミシ》。※[走+多]出之堤爾立有《ワシリデノツヽミニタテル》。槻木之己知碁智乃枝之《ツキノキノコチゴチノエノ》。春葉之茂之知久《ハルノハノシゲキカゴトク》。念有之妹者雖有《オモヘリシイモニハアレド》。馮憑有之兒等爾者雖有《タノメリシコラニハアレド》。世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》。蜻火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラノニ》。白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレガクリ》。鳥自物朝立伊麻之弖《トリジモノアサタチイマシテ》。入日成隱去之鹿齒《イリヒナスカクリニシカバ》。吾妹子之形見爾置《ワギモコガカタミニオケル》。若兒乃乞泣毎《ミドリコノコヒナクゴトニ》。取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》。鳥穂自物腋狹持《ヲトコジモノワキバサミモチ》。吾妹子與二人吾宿之《ワギモコトフタリワガネシ》。枕付嬬屋之内爾《マクラツクツマヤノウチニ》。晝羽裳浦不樂晩之《ヒルハモウラサビクラシ》。夜者裳氣衝明之《ヨルハモイキヅキアカシ》。嘆友世武爲便不知爾《ナゲヽドモセムスベシラニ》。戀友相因乎無見《コフレドモアフヨシヲナミ》。大鳥羽易乃山爾《オホトリノハガヒノヤマニ》。吾戀流妹者伊座等《ワガコフルイモハイマスト》。人之云者石根左久見手《ヒトノイヘバイハネサクミテ》。名積來之吉雲曾無寸《ナヅミコシヨケクモゾナキ》。打蝉跡念之妹之《ウツセミトオモヒシイモガ》。珠蜻髣髴谷裳《カギロヒノホノカニダニモ》。不見思者《ミエヌオモヘバ》
 
打蝉《ウツセミ》は現身《ウツヽノミ》のよしなり。【板本に一云|宇都曾臣等とあり】ウツセミなりし時の意にて念は輕く添たるのみ○取持は次の或本に携手《タヅサヘテ》とあるによりてタヅサヘテと訓べし。二人《フタリ》は妻とふたりなり○※[走+多]出はワシリデなり。雄略紀に和斯里底能與廬斯企野麻能《ワシリデノヨロシキヤマノ》とあり○己知碁智之枝〔頭注、校正者云。碁智之の之は乃か〕《コチゴチシエ》は此方々々《コチゴチ》之|枝《エ》なり。こは彼方此方《ヲチコチ》なるを此方《コナタ》より彼方《ヲチ》と云處は彼方《ソナタ》にては又|此方《コチ》なれば此方《コナタ》の此方《コチ》彼方《アナタ》の此方《コチ》なり。【集中に此詞多し。卷三に「なまよみの甲斐の國打よする駿河の國と已知碁智乃國之三中從《コトゴチノクニノミナカユ》」は甲斐國の此方《コチ》と駿河國の此方《コチ》と各|此方《コチ》なり。また卷九|許智期智乃花之盛《コチゴチノハナノサカリ》などある皆然り。こは此《コチ》の日下部山と彼方の平群山と各|此方《コチ》なり】と記傳に荒木田久老の説を引ていへり○春葉之云々は思ひ憑みし事茂きよしなり○世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》は常ならぬが世間の理にてそを背き得ず死せるをいふ○蜻火之《カギロヒノ》は荒野の枕詞にて廣野には陽炎《カギロヒ》のもゆるが如くみゆるものなり○白妙之天領巾隱《シロタヘノアマヒレガクリ》は白き幡を柩の四方に建て持行くをいふ。喪葬令に親王大臣以下數百竿の幡を用る制《サダメ》あり。卑官の人の妻などはさばかり多くは用べきにあらぬど程々につけて建たるが靡くを天領巾《アマヒレ》といへるなるべし【古義に歩障の事として解けるはうけがたし】○鳥自物《トリジモノ》は枕詞なり。鳥のねぐらを朝たち出て行を以てつゞけたり。伊麻之弖《イマシテ》のイはそへたる言なり。朝立ましてなり〇入日成《イリヒナス》は枕詞なり。成《ナス》は如《ゴトク》にて入日の山端に隱るゝ如く隱れにしかばとなり。隱去之鹿齒《カクリニシカバ》これまで葬送の事をいへるなり【去之《ニシ》は過去の辭】○形見爾置有《カタミニオケル》は記念《カタミ》に遺しおけるなり○若兒はミドリゴと訓べし。芳樹思ふに古義には卷十七に「和可伎兒等毛波《ワカキコトモハ》をちこちにさわぎなくらむ」又齊明紀に于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》などあるを例としてワカキコと訓れどいかゞなり。【さるは卷十七なるは旅中にて病に臥し死なんとする時家なる兒どもの死をきかば歎かむと思ひやりてよめるなれば小兒といへども二三歳の子にはあらず。また齊明紀なるは健王の八歳にて薨し給へるをよませ給へる歌なればワカキコといひつべきほどの御よはひなり】こゝは生れて纔かに二三歳なること腋挾持《ワキバサミモチ》の句にてしるし。かゝればワカキコと訓むよりはミドリゴのかた然るべし。和名抄に嬰兒蒼篇云。女曰v嬰男曰v兒。一云嬰孩兒【美止利古《ミドリコ》】と見えて次の或本歌に緑兒之乞哭別《ミドリゴノコヒナクゴトニ》とある即こゝの若兒の事なり。また卷三に緑兒之哭乎毛置而《ミドリゴノナクヲモオキテ》とあるもいと幼きほどの兒とおもはる。また「若兒《ミドリゴ》のはひたもとはり」とある若子も二句によりておもふに猶こゝの若兒と同じくミドリゴなるべし。【古義には強て考、略解をもどかむとする故にかゝる説どもおほかり】○取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》の與《アタフ》は記に美刀阿多波志都《ミトアタハシツ》とある傳に阿多波志は阿多比を延たるにてアタヒ、アタフなどゝ活用《ハタラク》言なり。さればミトアタハスは一つに寄會《ヨリアヒ》て御寢處《ミネド》を與にし給ふ意ならむ歟。さて人に物を與《アタフ》と云は令《ス》2阿多波《アタハ》1のハスを約たる言にて是も其物を其人に寄せ着る意より出たり、と云へるが如し。かくてこゝは緑兒に取あたふるものもなければの意なり○鳥穗自物は考に鳥は烏《ヲ》。穗は徳《トコ》を誤りしなり。次の或本に男自物《ヲトコジモノ》とかきまた卷三に腋挾兒之泣毎雄自毛能負見抱見《ワキバサムコノナクゴトニヲトコジモノオヒミイダキミ》などみゆといへり。さればこゝは子を抱くなどは女のわざなるを男にてするよしなり〇枕付《マクラヅク》は枕詞なり。冠辭考に婦夫《メヲ》は房《ネヤ》に枕を並《ナラベ》付てぬるがゆゑにいへりとみゆ。嬬屋《ツマヤ》は即|房《ネヤ》なり○浦不樂晩之《ウラサビクラシ》は次の或本に浦不怜《ウラサビ》とあればウラサビクラシと訓べし【宜長は浦《ウラ》〔頭注、校正者云。宣長は浦の下觸字脱か〕、裏觸《ウラブレ》などかけるも多く卷五卷十七には宇良夫禮《ウラブレ》と假字にも書ればウラブレクラシもわろからずといへれど考に從ふべし】○大鳥は羽にかゝる枕詞なり。和名抄に鸛を於保止利とよみたれど鸛にかぎれるにはあらず。たゞ大なる鳥なり。【動植物考にオホトリはまたの名をコヒともコフとも云ものにて今もコフツルといへりといひて和名抄鸛音館、和名於保止利また鵠、漢語抄云、古布、日本紀私紀云、久々比とあるを引き大和本草の非を辨へさて大鳥の又の名は古布、今はコフツル漢名は鸛、久々比の今の名は白鳥、漢名は鵠とこゝろえよといへり】羽易乃山《ハガヒノヤマ》は卷十に春日有羽買之山《カスガナルハガヒノヤマ》とあり。後世買はカヒ易はカヘとよむことゝ思ふは誤にてもと一言なり。古義に卷十二に浣衣取替河《アラヒギヌトリカヒガハ》とよめるは和名抄に大和國添下郡鳥貝【止利加比《トリガヒ》】とある處の川なれば替字カヘとはよむべからず。此一にてもカヘを古カヒと云しをしるべし【卷十四に「か‥らころもすその宇知可倍《ウチカヘ》」を其左に載せたる一本にはスソノ宇知加比《ウチカヒ》とあるにてもカヒと同じきを知るべし】○吾戀流《ワガコフル》の吾はあふよしもなくて吾かく戀ふる妹は羽買の山に座《マス》と人のいへばとつゞくなり。【吾戀流は作者《ヨミヌシ》の吾といへるなり。次の或本には汝戀《ナガコフル》とあり。こは人よりいふことゝせるなり。いづれにてもきこゆるものからよく言を味ひ試みるに猶吾とあるかたに從ふべくおぼゆ】○石根左久見手《イハネサクミテ》は祝詞式に磐根木根履佐久彌《イハネコノネフミサクミ》また卷六に五百重山伊去割見《イホヘヤマイユキサクミ》などあり。こは人面のたくぼくのあるをしやくみづらと云に同じく岩の凸凹ある上を行をいふなり。源氏物語にこざかしきをサクジリと云も平穩《ナダラカ》ならぬ意なりと宜長いへり○名積來之《ナヅミコシ》のナヅミは紀に許斯那豆牟《コシナヅム》。傳云、契冲|腰煩《コシナヅム》なり。腰に至るまで水に没《イ》るをいふといへり。卷十三に夏草乎腰爾魚積《ナツグサヲコシニナヅミ》。十九に落雪乎腰爾奈都美弖《フルユキヲヲコシニナヅミテ》といへるこれなり。そが中に意を轉て難澁《ナヤミシブル》かたにいへるもあり。といへり。こゝはその行なやみ澁《シブ》るかたなり○吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》は吉《ヨキ》ことも无きにてモゾにカヘリテといふ意を含むが此|辭《テニヲハ》の例なれば石根さくみてなづみ來しかどかへりてその甲斐もなきよしなり○珠蜻《カギロヒ》は髣髴《ホノカ》の枕詞なり○不見思者《ミエヌオモヘバ》を上の吉雲《ヨケクモ》へかへして見るべし。幽《ホノカ》にだにも妹が見えぬをおもへば苦勞《ナヅミ》て來しかひもあらで吉《ヨキ》ことも无しとなり○歌意は年久しく相馴し妹にはあれど生死の理はえ遁れぬものにて小兒をかたみにのこしおき死《ミマガリ》しかばその小兒の泣ごとに取あたへてすかしなぐさめむ物もなければ男には不似合のわざなれど外にせんかたなくて妻の常に抱きしが如くわきばさみもち妻屋のうちに晝夜なげき悲しみてをるにわが戀るその妹は羽易の山に座《マス》ぞと人のいひつるにさらばよそながらもあひみる事のあらむかとて山道の岩がねふみさくみ苦勞《ナヅミ》來てみれどそのしるしもなくほのかにだにもみえぬ事よとなり。上の妾を悼《イタメ》る長歌にくらぶるに小兒ののこれるにつきていとゞ歎きの深さもそへるさま殊にあはれふかし
 
短歌《ミジカウタ》二首
 
去年見而之秋乃月夜者《コゾミテシアキノツキヨハ》。雖照相見之妹者《テラセレドアヒミシイモハ》。彌年放《イヤトシサカル》
 
歌意。去年の秋に月はかはらず照らせども別し妻はいよ/\年の遠ざかりぬるよしなり【古義云。此うたにてみれば此長短二首は妻の一週忌によまれしなり。拾遺集此歌の詞書に「妻にまかりおくれて又のとしの秋月をみ侍て」とあるはさることなりといへり。芳樹按ふに長歌のかたは世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》云々の十句の如き葬式の事をいへるにて隱去之鹿齒《カクレニシカバ》のニシ過去の辭なるゆゑに年月の過去し事にもいはれぬにはあらねどよみさま一周もへて後のうたの如くはきこえず。されば長歌は妻の无くなりてとほからぬほどによみたるに一周忌によみし短歌をそへたる物なるべし】
 
衾道乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》。妹乎置而山徑往者《イモヲオキテヤマヂヲユケバ》。生跡毛無《イケルトモナシ》
 
衾道乎《フスマヂヲ》は諸陵式云。衾田墓【手白香《タシラカノ》皇女女。在2大和國山邊郡1云々】かく衾田とありて注に山邊郡といへれば疑ふらくは衾道といふはこゝなるべし。かくておもへば衾田をフスマとのみも云て其地に通ふ道をフスマヂといへるなるべし。【さるは某路《ナニヂ》といふはたとへば大和に通ふをば大和路、紀伊にかよふをば紀路といへる類古へおほし】引手山は春日にありてその春日は添上郡なれど添上と山邊とは降りて近ければ山邊郡の衾といふ地にかよふ添上(ノ)郡の衾道《フスマヂ》の引手の山といへるなるべし。然らば衾道乃《フスマヂノ》といふべきを乎《ヲ》といへるは此集のならひにて「みはかしをつるぎの池」とつゞけたるも「みはかしの劔の池」といふこゝろなれば今もフスマヂヲと云るなり。と契冲いへり。【衾道《フスマヂ》乎を枕詞としたる説はいかにぞやおぼゆ】引手乃山《ヒキテノヤマ》は羽買山の中にあるなるべし【大和の名所を記せるものに山邊郡中村の東なる龍王といふ山が引手山なりといへれど長歌によるに添上郡春日の羽買山の中にありとせずしては叶ひがたし】○此徑往者《ヤマヂヲユケバ》は山路ヲ來レバにおなじ。來レバと云べきをかくいへるは久しく妻の墓所に通ひてそこを妻の住處としてよめるゆゑにおのが家に歸るをも往《ユク》と思ひなせるなり。これ墓のある山を内にしたる言なり。此歌は長歌と同じ時によめるなり○生跡毛無《イケルトモナシ》は卷十九に伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》とあるに從ひてイケルトモナシと訓べし。次の或本に生刀毛無《イケルトモナシ》とあるを始め卷十一卷十二などにあるみなイケルトと訓てトは利心《トゴヽロ》、心利《コヽロド》などのトにて生《イケ》る利心《トゴヽロ》もなく心の空《ウツ》けたるよしなり。と宣長いへり【イケリトモナシトを辭《テニヲハ》とするは非なり。辭ならむにはイケルトモナシとルよりトにはうけうけられぬ格なり】○歌意引手山に妹を留めおきて山路をかへりくれば悲みにたへず利心《トゴヽロ》も无しとなり
 
或本歌曰
 
宇都曾臣等《ウツソミト》念之時(ニ)。携手《テタヅサヒ》吾|二《フタリ》見之。出立百兄《イデタチノモヽエ》槻(ノ)木。虚知期知爾枝|刺有如《サセルゴト》。春(ノ)葉(ノ)茂(カ)如。念有妹庭雖有。〔頭注、校正者云。念有の下之の字脱か又雖有の有は在か。〕。恃有之妹庭雖有。世中背不得者。香切火之燎流荒野爾。白栲天領巾隱。鳥自物朝立|伊行而《イユキテ》。入日成隱西加婆。吾妹子之形見爾置有。緑兒之乞哭別。取委《トリマカス》物之無者。男自物《ヲトコジモノ》腰挿持。吾妹子與|二《フタリ》吾宿之。枕附嬬屋(ノ)内爾。旦者浦不怜晩之《ヒルハウラサビクラシ》。夜者《ヨルハ》息衝明之。雖嘆|爲便不知《セムスベシラニ》。雖戀相縁無。大鳥羽買山爾。汝戀《ナガコフル》妹座等。人云者石根割見而。奈積來之好雲叙無。宇都曾臣念之妹我。灰而座者《ハヒニテマセバ》〔頭注、校正者云。男自物腰の腰は脇、大鳥羽買の買は易か〕
 
携手はテタヅヒ〔頭注、校正者云。テタヅの下サの字脱か〕と訓べし。卷五|手多豆佐波提《テタヅサハリテ》とあり【ハリの切ヒ】〇百兄槻木《モヽエツキノキ》は記に長谷之百枝槻《ハツセノモヽエツキノ》下とあり○取委《トリマカス》は小兒に玩物を與へ持せてそれに委《マカ》するよしなり○爲便不知《セムスベシラニ》卷十二に爲便母奈之《セムスベモナシ》とあり○灰而座者《ハヒニテマセバ》は火葬にせしをいへるなりとぞ皆人おもふめる。されど火葬は文武天皇の四年三月に道昭を火葬せしを始とす。人麻呂の妻の死はいまだ朝臣の若きほどの事歟とおもはるれば道昭の火葬より前なるべくかゝれば灰而座者の四字誤あるへし。と考にいへり
 
短歌
 
去年見而之秋月夜。雖度相見之妹者。益年離《イヤトシサカル》
 
衾路引出山。妹置山路念邇。生刀《イケルト》毛無
 
家(ニ)來而|吾屋《ツマヤ》乎見者。玉床之|外向來《トニムカヒケリ》。妹木枕
 
吾屋は妻屋の誤かと考にいへり○この玉床は卷十の七夕歌に「あすよりは吾玉床乎打拂《ワカタマドコヲウチハラヒ》」とあれどそは人麻呂の妻屋にはつきなければこゝは靈床《タマドコ》なるべし。とまた考にいへり。これによりて略解に續後紀の伴直富成女が夫の靈床の事を引たり。かゝれば墓所のみならずその妻屋をも靈ののこりとゞまりて在る所として死せる日より塵なども拂はず妻のありし時のさまをかへずおきたるゆゑ病にふしゐたりし枕のそのまゝあるをみてよめるなるべし
 
吉備津(ノ)采女死時《ウネベガミマガレルトキ》柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
吉備津は宣長云。師の考に此釆女の姓なるよしあれど釆女は出たる地もて呼ぶ例にて姓氏をいふ例なし反歌に志我津子《シガツノコ》とも凡津子《オホツノコ》ともよめれば近江の志賀より出たる采女にて吉備は誤字なるべし
 
秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》。奈用竹乃騰遠依子等者《ナヨタケノトヲヨルコラハ》。何方爾念居可《イカサマニオモヒヲレカ》。栲紲之長命乎《タクナハノナガキイノチヲ》。露巳曾者朝爾置而《ツユコソハアシタニオキテ》。夕者消等言《ユフイベハキユトイヘ》。霧巳曾婆夕立而《キリコソハユフベニタチテ》。明者失等言《アシタハウストイヘ》。梓号音聞吾母《アヅサユミオトキクワレモ》。髴髣見之事悔敷乎《ホノミシコトクヤシキヲ》〔頭注、校正者云。髴髣は髣髴か〕。布栲乃手枕纏而《シキタヘノタマクラマキテ》。劔刀身二割寐價牟《ツルギタチミニソヘネケム》。若草其嬬子者《ワカクサノソノツマノコハ》。不怜彌可念而寐良武《サブシミカオモヒテヌラム》。時不在過去子等我《トキナラズスギニシコラガ》。朝露乃如也《アサツユノゴト》。夕霧乃如也《ユフギリノゴト》
 
秋山下部留妹《アキヤマノシタフルイモ》とは記に秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》とありてその傳に下氷《シタビ》は朝備《アシタビ》と云ことにて【ビはブルと活く言なり。故シタブルといへり】秋山の色の赤葉《モミヂ》に丹穗《ニホ》へるが赤根さす朝の空の如くなるよしなりといへれどアを省けるはいかゞなれば猶下部留は萎《シナヒ》なりと考にいへるや然るべからむ。そは夏木の緑に盛えたるが秋に至てやゝ萎《シナヒ》もてゆき紅《モミヂ》に染むものなれば下部留《シタブル》と云てやがて黄葉する事ともなるべし。さで卷下に金山舌日下《アキヤマノシタビガシタ》とあればビ、ブルと活用《ハタラ》く辭の格ゆゑこゝもシタブルと訓べし【シタベルとは訓べからず】と古義にいへり〔頭注、校正者云。シタブルと訓べし云々と古義にいへりと云へど古義はシタベルと訓みシタブルとよめとの説はなし〕。しか紅葉《モミヂ》したるを紅顔にたとへてシタブル妹といへるものなり○奈用竹《ナヨタケ》の皮竹のことにて俗に女竹といふ。殊になよやかに撓《タワ》みなびくものゆゑ騰遠依《トヲヨル》の枕詞とせり。トヲヨルは即たわみ靡く姿をいふなり。記に拆竹之登遠々《サキタケノトヲヽ》また卷八に「秋萩の枝も十尾二《トヲヽニ》」卷廿に「しだり柳の十緒《トヲヲ》にも」なども皆おなじ。故にこゝもたわみより靡く子等とつゞけたるなり○念居可はオモヒヲレカと訓べし。念ひ居ればかの意なり○栲繩之《タクナハノ》は枕詞なり。【考、略解等みなタクヅヌと訓たれどタクヅヌは白き臂《タヽムキ》、白髭、新羅などつ ゞけり。こゝは長きの枕詞なれば栲繩の千尋と記紀萬葉にいへるによりてタクナハと訓べし】長命乎《ナガキイノチヲ》は若くして末長き命なるものをの意なり○露巳曾婆霧已曾婆《ツユコソハキリコソハ》は露と桐との消やすくはかなき物をとり出て此二つはゆふべき消えあしたは失するを人はそれと同じからめやといへるなり〇梓弓《アヅサユミ》は音の枕詞なり○髣髴見之《ホノミシ》はもとより知らぬ人なれど姿をほのかにみし事のありしかば死たりといふ音《オトヅレ》を聞ても悔しく思ふよしなり○劔刀《ツルギタチ》は身に副《ソフ》の枕詞、若草は嬬《ツマ》の枕詞なり。嬬《ツマ》は借字にて夫《ツマ》なり。子は親《シタシ》みてそへたる詞なり○不怜彌可念而寐良武《サブシミカオモヒテヌラム》の下|悔彌可念戀良武《クヤシミカオモヒコフラム》の二句を考に古本もて加へたれどこは略解云。无きをよしとす〔頭注、校正者云。略解云。无きをよしとす云々とあれど今略解を檢するに古本悔彌可、念戀良武の二句有、今本脱たる也」とありて此處に云へるとたがへり〕。そは此長歌あまり對句に過てあきたきこゝちすれば大人のよまれし時いかでか其心つかざらむ。无きに從ふべし。といへり〇時不在《トキナラヌ》は若き盛にて命死ぬべき時ならずとなり。過去子等我《スキニシコラガ》の過は死なり【スギの切シ。この我字は誤字なるべし清《スミ》て可《カ》と訓てカモの意なりといふ説もあり。誤字の説は快からねどもし然らば上に「栲紲《タクナハ》の長き命乎《イノチヲ》」とある乎《ヲ》もじこゝに結びて長き命なるものをはかもなく過にし子等哉《コラカモ》といへるなるべし】○朝露乃如也夕霧乃如也《アサヅユノゴトユフギリノゴト》の下の也字はたゞ添て書るのみなり。さればこの終《トヂメ》の四句は子等《コラ》が朝露の如く夕霧の如く時ならず過ぬると次第《ツイデ》て見るべし。と宜長いへり○歌意は。下部《シタブ》る妹とをよる子等《コラ》と見えし少女《ヲトメ》はいかさまに思ひ居《ヲリ》てか露霧こそはかなき者の限にて夕におけば朝《アシタ》はきえ朝《アシタ》にたてば夕に失《ウス》るものなれ。人の命はその露霜にはあらぬを何故にたもたずしてはかなく消うせけん。われはその少女をしれるにはあらで髴髣《ホノカ》にみしのみなるをさてだに死せりと聞ては侮しきをまして身に副てねたりけん其夫はいかばかりか不怜《サブシビ》おもふらん。さるうつくしく若き子等が朝露の如く夕霧の如くも過ぬる事かな。となり。はかなき事のたとへには昔も今も取出てめづらしからぬ露と霧とをもてかくも綴りなされたるかな。考に「言の綾こそ妙にもたへなれ」といへる誠にしかり
 
反歌《ミジカウタ》〔頭注、校正者云。反歌諸本短歌とあり〕
 
樂浪之志我津子等何《サヾナミノシガツノコラガ》。罷道之川瀬道《マカリヂノカハセノミチヲ》。見者不怜毛《ミレバサブシモ》
 
樂浪《サヾナミ》は地名なり○罷道《マカリヂ》は此釆女|産土《ウブスナ》は近江なれど大和にてみまがれり。されどその葬《ハフ》り行し道はいつことも知れず。罷道《マカリヂ》は送葬の道なり。考に引る光仁紀に永手大臣の薨時の詔なる罷道《マカリヂ》とかはる事なし。然るを宣長の道は邇の誤にてマカリニシならんといへるを善しとして古義に拾遺集に此歌を載せて「さゞなみやしがのてこらがまかりにし」とあるをニシの證に引れど罷道《マカリヂ》などいふ詞は當時《ソノコロ》耳なれぬゆゑに改めたるなるべければさらに證にしがたし。マカリニシとてはたゞ通ひし事にもなれば罷道《マカリヂ》とあるに從ふべし○歌意明らかなり
 
天數凡津子之《ソラカゾフオホツノコガ》。相日於保爾見敷者《アヒシヒニオホニミシカバ》。今叙悔《イマゾクヤシキ》
 
古義に天字を左々か樂かの誤字とし數をナミと訓て馬數《ウマナメテ》とかけるを例とせり。されど強説の如し。冠辭考のソラカゾヘの説はもとよりわろければ取がたし。守部はこは佛説の天數の字をかりて兜率の三十三天を思へるなるべし。さらば三々並ぶ意にて三々並《サヽナミ》とよまする義訓とすべしといへり。さては三をサとは假字には用ゐもすべけれど詞にはいかゞなるがうへにサヽは音ナミは詞なるをひとつに并《アハ》せて枕詞とすべきにもあらねば此説も非なり。いかなる義ならんとも思ひえぬ故に略解のまゝにソラカゾフとよみをつけおきたれど必らずしもこれによりがたければ猶よく考べし。凡津子《オホツノコ》は志我《シガ》津子等といふに同じ。凡津子爾《オホツノコニ》といふべきを之《ガ》とあるは古語のつかひざまなり。卷四に「黄葉《モミヂバ》の過ぬや君我不和夜多焉《キミガアハヌヨオホミ》」これも今ならば「君爾《キミニ》あはぬ夜おほみ」といふべし。古今集端詞に「志賀の山越にて女の多くあへりけるに」とある女ノのノもじガの意なるを今ならば必ず女ニといふべし。後の物ながらつれ/\草に「證空上人京へのぼりけるにほそ道にて馬にのりたる女の行あひたりける」これも女ニといふべきを格をうしなはざりけり○歌意。幽かにだにも其容をみざらましかば今かくみまがれるを聞て其おもかげの思ひ出られ悲しくはあらじをそのかみ道にて行あひにほのかにみてありしかばおもひ出られて惜しき事をせしかなと悔しくおもはるゝ。となり
 
讃岐狹岑島《サヌキノサミネノシマニテ》《ミテ》2石中死人《イソベノシニビトヲ》1柿本朝臣人麻呂作歌一首|并《マタ》短歌
 
狹岑島は那珂郡にあり。サミネと訓べし。拾遺集に「讃岐のさみねの島にして石屋《イハヤ》の中にてなくなりたる人をみて」【反歌に佐美乃山とあれど岑《ミネ》は御岑《ミネ》の義なればミを略きてネとはいふべし。ネを略きてミとはいふべからず。されば反歌の乃字誤あるべし】〔頭注、校正者云。誤あるべしはなるべしか〕
 
玉藻吉讃岐國者《タマモヨシサヌキノクニハ》。國柄加雖見不飽《クニカラカミレドモアカズ》。神柄加幾許貴寸《カムカラカコヽダタフトキ》。天地日月與共《アメツチヒツキトトモニ》。滿將行神乃御面跡《タリユカムカミノミオモト》。次來中乃水門從《ツギテクルナカノミナトユ》。船浮而吾※[手偏+旁]來者《フネウケテワガコギクレバ》。時風雲居爾吹爾《トキツカゼクモヰニフクニ》。奥見者跡位波立《オキミレバシキナミタチ》。邊見者白浪散動《ヘミレバシラナミサワグ》。鯨魚取海乎恐《イサナトリウミヲカシコミ》。行船乃梶引折而《ユクフネノカヂヒキヲリテ》。彼此之島者雖多《ヲチコチノシマハオホケド》。名細之狹岑之島乃《ナグハシサミネノシマノ》。荒磯回爾廬作而見者《アリソミニイホリテミレバ》。浪音乃茂浜邊乎《ナミノトノシゲキハマベヲ》。敷妙乃枕爾爲而《シキタヘノマクラニナシ》。荒床自伏君之《アラドコニコロフスキミガ》。家知者往而毛將告《イヘシラバユキテモツゲム》。妻知者來毛問益乎《ツマシラバキモトハマシヲ》。玉桙之道太爾不知《タマホコノミチダニシラズ》。欝悒久待加戀良武《オホヽシクマチカコフラム》。愛伎妻等者《ハシキツマラハ》
 
玉藻吉《タマモヨシ》は讃岐の枕詞なり。吉は麻裳余志《アサモヨシ》、眞菅余之《マスケヨシ》などのヨシにて助辭なるべし。讃岐とつゞく意は種々説あれどもたしかならず。○國柄加。神柄加のカラは清て唱ふべし。カラは故《ユヱ》といふに同じ。卷七に「手取之柄《テニトリシカラ》にわすると人のいひし〔頭注、校正者云。人のいひしは磯人之曰師《アマガイヒシ》ならじか〕恋忘れ貝言にしありけり」の故《カラ》これなり。されば國柄加《クニカラカ》は勝れたる國ゆゑにかの意。神柄加は勝れたる神故にかの意にて神といへれどこれもまた國のことなり。この國土《クニツチ》もと神の生まるゆゑに山川國土をやがて神ともいへること古のつねなり。【人麻呂の神代の故實に委しかりしことこれにても知るべし】幾許《コヽダ》はコヽバクにて俗に甚といふに同じ。はなはだ貴きといへるなり〇滿將行《タリユカム》は國を現身《ウツシミ》の如くみなして人の幼より壯に至り齢の重なるに隨ひて足り調ふが如く漸々に滿足ひゆかむ神の御面ぞと未來をかけていへるなり。神乃御面《カミノミオモ》は記に生2伊豫之二名島1此島者身一而有2面四1毎v面悒v名とありてその名どもを載せたる中に讃岐をば飯依比古《イヒヨリヒコ》といへり。こゝはその故事をいへるなり。まことに國土は神代より世を經年をへて田の无き所王は田を墾り里の无き所には里を建て滿《タ》りゆくを人麻呂ならでかくたやすくいひつゞくべからむやは○次來《ツギテクル》はしか次々に滿《タ》らひ來たるその中に中乃水門《ナカノミナト》と云ひつゞけたるなり。此|水門《ミナト》那珂郡の湊なり。從《ユ》はユリのリを略けるにてヨリに同じ○時風《トキツカセ》は潮の滿來る時におこる風なり。卷六に、時風《トキツカゼ》ふくべくなりぬ香椎潟」云々又卷七に「時風《トキツカゼ》ふかまくしらに阿胡の海の」云々などあり○跡位浪立《シキナミタチ》は跡位《シキ》は借字にて重波發《シキナミタチ》なり。字鏡に※[さんずい+色]※[さんずい+沓]【波 浪相重之※[白/ハ]。志支奈美】とあり○邊見者はヘミレバと訓べし【考、略解共にヘタミレバとよめり。これもあしかず。卷十二に淡海之海邊多波人知《アフミノミヘタハヒトシル》。古今に世ヲウミベタ。後撰にヘタノミルメともよめり。皆海邊のことなり】○海乎恐《ウミヲカシコミ》は波のあらきが恐ろしさにの意なり○梶引折而《カヂヒキヲリテ》の梶は今の櫓なり。引折とは横に引たわむるをいふ。波のあらきゆゑ船を引まはして狹岑のしま蔭に泊るなり○名細之《ナグハシ》は卷一に解り。狹岑は此あたりにて名高き所ゆゑ名細之《ナクハシ》といへるなり○荒磯回爾はアリソミニなり。回をミと訓こと卷一にいへり○廬作而見者《イホリテミレバ》は波あらきゆゑ船より下りて廬作りてそれに宿りてみればの意なり。つくれる廬《イホ》にそのまゝやどるをイホルといへる例卷十に秋田刈借廬作五百入爲而《アキタカリカリホヲツクリイホリシテ》とあるやがてヤドリシテなり○荒床《アラトコ》は荒き海邊を床として臥たるなり。自伏君之《コロフスキミガ》は轉び伏て居る君といへるなり○道太爾不知《ミチダニシラズ》は尋ねゆかむと思へどもいづくに居るか居るかたの道だにしらずとなり○欝悒久《オホヽシク》は尋ねんかたも知らずておぼつかなくいぶかしき意なり○愛伎妻等者《ハシキツマラハ》は愛《ウルハ》しき妻らはといふなり。卷二十に家持の麻知可毛戀牟波之伎都麻良波《マチカモコヒムハシキツマラハ》とあり○歌意は。中の湊より船を出して榜來れば折しも潮時の風が強く吹て沖にも波たち邊にも波さわざ海上のあまり恐ろしさに櫓を引たわめてそのあたりに島も多かれど狹岑といふが名に聞えたる島ゆゑこれに榜《コ》ぎ着け荒磯におりて廬《イホ》をつくりやどりてみればその濱邊に打臥せる死骸あり。あはれいかなる人ぞ。家を知りたらば行て家人に告もしらせむ。かゝるありさまを妻が知らばとぶらひ來てともかくもすべきを尋ぬべき道だにしらねばたゞいかなればわか夫はかく歸りの遲きぞとおぼつかなくいぶかしく思ひて待こひてやあらん。となり
 
反歌《ミジカウタ》〔頭注、校正者云。反歌の下二首の二字脱か〕
 
妻毛有者採而多宜麻之《ツマモアラバツミテタゲマシ》。佐美乃山野上乃宇波疑《サミネヤマヌノヘノウハギ》。過去計良受也《スギニケラズヤ》
 
採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》のタゲは人に物を食はすることなり。雄略紀十四年四月甲午朔欲v設2呉人1歴2問群臣1曰。其|共食者《アヒタゲヒト》雄好乎又皇極紀二年の童謡に渠梅多※[人偏+爾]母多礙底騰〓※[口+羅]栖《コメダニモタゲテトホラセ》のタゲみなこれと同じ〇佐美乃山《サミネヤマ》の乃字は端書の件にいへる如く誤字なるべし○野上《ヌノヘ》は野のあたりをいふ。高野原之上《タカヌハラノウヘ》、藤原我上《フヂハラガウヘ》などの上に同じ。宇波疑《ウハギ》は卷十に「春日野に煙たつみゆをとめらし春野之|菟芽子採而煮良思文《ウハギツミテニラシモ》」とあり。内膳式に蒿また和名抄薺蒿一名莪蒿【和名|於八木《オハギ》】崔禹錫食經云。状似2艾草1而香。作v羮食v之とあり。俗にヨメガハギといふものなるよしなり○過去計良受也《スギニケラズヤ》は時過たるにあらずやといへるなり○歌意。この人の近きあたりに妻もあらば野上のうはぎをだに採《ツミ》て食《クハセ》ましものを。今このうはぎをみればはやく採べき時節の過たるにあらずや。かゝれば家遠くして妻をこゝに夫の臥《コヤ》せりといふ事を知らでとひ來ぬなるべし。となり
 
奥波來依荒磯乎《オキツナミキヨルアリソヲ》。色妙乃枕等卷而《シキタヘノマクラトマキテ》。奈世流君香聞《ナセルキミカモ》
 
枕等卷而《マクラトマキテ》のトはトシテの意にて枕にはなしがたき荒磯を枕と纏ての意なり○奈世流は寢タルといふに同じ。この詞用ゐざまによりては敬ひたる言となる事もあれどもとナサム、ナシ、ナス、ナセと活く詞なればうち任せて敬ひ詞とは云難し。記傳に萬葉五に夜周伊斯奈佐奴《ヤスイシナサヌ》【安寐不令宿《ヤスイナサヌ》なり】十四に伊利伎弖奈佐禰《イリキテナサネ》【イリ來テ寐《ネ》ヨとなり】十七に吾乎麻都等奈須良牟妹乎《アヲマツトナスラムイモヲ》【奈須良牟は將寐《ヌラム》なり】十九に安寢不令宿《ヤスイシナサズ》などかく寐《ネ》てふ言は那、奴、泥と活くなり【然るをその奴、泥は常に云ゆゑによく通《キコ》ゆれど那は後世には耳遠きから那須《ナス》、那佐牟《ナサム》などいへばこゝろえにくきが如くなり】といへり○歌意かくれたる所なし
 
柿本朝臣人麻呂在(テ)2石見國1臨《スル》v死《ミマカラント》時|自傷作《カナシミヨメル》歌一首
 
鴨山之盤根之卷有《カモヤマノイハネシマケル》。吾乎鴫不知等妹之《アレヲカモシラニトイモガ》。待乍將有《マチツヽアラム》
 
鴨山は國人の説に美濃郡高津浦の沖にありて今は鴨島といへり。そこに柿本社ありて神體《ミソキ》の木像古代のものなりといへり。【されども人麻呂の石見に下れるははやくいへる如く國司のうちなるべければ必ず國府にすむべし。國府は和名抄に在2那賀郡1と見えて今いふ高津とははるかに隔たれる東の方なり。されば此鴨島を鴨山なりといふは疑はし】○吾乎鴨《アレヲカモ》のカモは將有《アラム》の下にうつして意得べし○不知等妹之《シラニトイモガ》は古義云。不知《シラズ》ニ妹ガといふ意なり凡そ不知といふ言の下なるトはみな助辭にて語勢をたすけたるのみなり。卷四に「爲便乎不知跡《スベヲシラニト》立てつまづく」記に伊由岐多賀比宇迦々波久斯良爾等美麻紀伊理毘古波夜《イユキタガヒウカヽハクシラニトミマキイリビコハヤ》【此うたを紀に載せたるには等《ト》字なし。これあるも无きと同じければなり】といへり○歌意は聞えたり
 
柿本朝臣人麻呂|死時妻依羅娘子《ミマガレルトキメヨサミノイラツメガ》作歌二首
 
且今日且今日吾待君者《ケフケフトワガマツキミハ》。石水貝爾交而《イシカハノカヒニマジリテ》。有登不言八方《アリトイハズヤモ》
 
且今日且今日《ケフケフト》は今日《ケフ》や今日《ケフ》やと日ごとに待つ意なり【契冲云。且今日とかける且は苟且の義にてかりそめなればたしかならぬこゝろありといへり。按に且は不定辭也と注せり。たしかにその日と定めず今日か今日かと思ふよしにてかける字なるべし】○石水は鴨山の梺の川なるべし。水字カハと訓むは卷三に水可良思清有師《カハカラシサヤケクアラシ》また卷七に此水之湍爾《コノカハノセニ》また神武紀に縁《ソヒテ》v水《カハニ》西行。雄略紀に來目水《クメガハ》。三代實録に鴨水《カモガハ》などみゆ○貝爾交而《カヒニマジリテ》は芳樹按に貝《カヒ》は借字にて峽《カヒ》なり。和名抄に考聲切韻云。峽山問(ノ)陵《セバキ》處也。俗云【山乃加比《ヤマノカヒ》】とあるカヒにて石水《イシカハ》は國府近邊の山間《ヤマノカヒ》の谷川なるゆゑにその谷川のある山と山との峽にまじりての意なり。交而《マジリテ》とは野山に入て遊ふことを古今集などにマジリテといへり。こゝに交と書るは借字にてこをマジリと訓るは祝詞式の御門祭に惡事爾相麻自許利相口會賜事無久《マガゴトニアヒマジコリアヒクチカヒタマフコトナク》とある麻自許利に同じ。禍事《マガゴト》に相まじるよしにてあらはに死せりとはいはねど石川の峽《カヒ》に葬れるを石川の峽にまじこりてといへり。そのマジコリのコを省きてマジリといへるなり。マジリが禍事《マガコト》なる證はこの祝詞にて知られたり。さればマシとはふるくよりいへる蟲物《マジモノ》のマジなり【人の交際をマジハルといふは言葉の轉じたるにて惡しき詞を善きかたに取用ゐし也】○有登不言八方《アリトイハズヤモ》のヤモは後世ヤハといふに同じ。有と人のいはずやといふ意にて人は使をさす。使のいへるよしなり○歌意。今日や歸り來給はむ今日や歸り來給はむとわがまつ夫君は石川といふ谷川の際《カヒ》に禍《マジリ》て死てありと人のいひたるとなり
 
直相者相不勝《タヽニアハバアヒモカネテム》。石川爾雲立渡禮《イシカハニクモタチワタレ》。見乍將偲《ミツヽシヌバム》
 
直相者《タヽニアハバ》は現《タヽ》にあひ見む事はみまがれる人なればなり難からむ。せめて石川の葬《ヲサ》めし處に雲だに立わたれl、さらば煙の餘波とだにみつゝしぬばむ。とよめるなり。當時《ソノコロ》既に都鄙ともに火葬の行はれし事知るべし。さて此歌は人麻呂|死《ミマガ》れりときゝて依羅娘子《ヨサノイラツメ》の石見に下り來てよめるなり
 
丹比眞人《タチヒノマヒト》名闕擬2柿本朝臣人麻呂之|意《コヽロニ》1報歌《コタフルウタ》
 
この眞人は名无ければ誰とも知れ難し。もしくは丹比(ノ)縣守ならむ。續紀に天平九年六月丙寅中納言正三位多治比眞人縣守薨。左大臣正二位島之子也とあり。【丹比は多治比といふが正しきなり。姓氏録しかり。故に丹比、丹治、丹遲などかけるをもみなタヂヒと訓べし】または卷三卷四などに丹比眞人笠麻呂あり。これにはあらじか。詳かならず。此外續紀に多治比とも丹比ともかきてあまた出たれどみな少し時代おくれたり
 
荒浪爾縁來玉乎《アラナミニヨセクルタマヲ》。枕爾置吾此間有跡《マクラニオキワレコヽニアリト》。誰將告《タレカツゲナム》
 
考には將告をツゲマシと訓れど今は略解によりてツゲナムと訓つ。古義には板本にツゲヽムとあるに從て誰有てか吾此處にて死《ミマガ》りたる事を告行て妻を歎き下らしめけむと云よしに解けり。されど思ふに上句も人麻呂の國衙にてみまがれるを作《ヨメ》るさまならず。さるは「石川の峽にまじりて」などはいひもすべけれど「荒波によせ來る玉を枕に置」といひては海邊にて溺死などしたらん人の如し。いかにもかくはよむまじくおぼゆ。守部がいへるは此歌は上なる人麻呂の石中死人をよめる歌の意に擬てそれに報《コタ》へし歌なりといへり。もし然れば〔頭注、校正者云。然ればは然らばか〕荒浪の玉をよせ來るはげしき海邊を枕としてこゝにありといふことを誰か家の人にも告なむ告る人も无しといふ意にて人麻呂のよみたる厚意に謝《コタヘ》たるなるべし。これ一説に備ふべし
 
或本歌曰
 
天離夷之荒野爾《アマサカルヒナノアラヌニ》。君乎置而念乍有者《キミヲオキテオモヒツヽアレバ》。生刀毛無《イケルトモナシ》
 
守部は此歌をも石中死人の妻に擬て人麻呂に報《コタフ》る意の歌なりといへれどいかゞあらむ。もし依羅娘子の意に擬へたる歌とする時は君は人麻呂をさすなり。君を鄙の荒野に葬りおきてといふことなり
 
右一首歌作者未v詳。但古本以2此歌1載2於此次1也
 
かくあれば人麻呂の死にも石中死人の事にもあづからぬ異歌なるをこゝに載せたるならむ歟
 
寧樂宮
 
例によれば宮字の下御宇天皇代の五字あるべし。寧樂は元明より光仁まで凡七御代ましませり。さてこの標中には元明の和銅元年より靈龜元年に御位を元正に禅らせ給へるまでの歌を載せたり
 
和銅(ノ)四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原《ヨトセトイフトシカノトヰカハベノミヤビトヒメシマノマツバラニテ》見(テ)2孃子屍《ヲトメノシニカバネヲ》1悲歎作歌《カナシミヨメルウタ》二首〔頭注、校正者云。マツバラニテの下ミテの字脱か〕
 
河邊宮人は傳祥ならず○姫島は津國なり。仁徳紀に日女島。安閑紀に難波大隅島與2媛島松原1。續紀にも大隅媛島二牧とあり【こは神崎川の渡場の東岸の中島に御幣《ミテグラ》島あり。其南の川尻に田蓑島あり。今は佃島といふ。其島の奥なる小島これなりとぞ】○孃子屍は淀川に流れ死せるをひきあげたるなるべし。伊勢集、空物語などにカラモリとてあなるはかゝる誰ともしられぬ亡骸《ナキカラ》をまもる者にて骸《カラ》守なるべし。上なる石中死人も此類なり。今もをり/\无き事にはあらねど古の如くは多からず。國史の詔詞に掩骼埋觜とのたまへるが即これらの屍を收葬《エオサメ》させ給ふ御事なり
 
妹之名者千代爾將流《イモガナハチヨニナガレム》。姫島之子松之末爾《ヒメシマノコマツガウレニ》。蘿生萬代爾《コケムスマデニ》
 
千代爾將流《チヨニナガレム》は千代に傳はらしむなり○蘿字を書たればこは和名抄に松蘿一名女蘿【萬豆乃古介、一云佐流乎加世】とあるものゝ事なり。古義に蘿字は書たれどもたゝよのつねの苔なりといへれどこは蘿ともよのつねの苔とも定むべきほどならぬ小松の事ながら松にはかならず蘿のおひかゝるものなれば千とせへて小松のすゑに蘿《サルヲカセ》のおふるまでもといへるなり。卷三にも鉾椙之本爾蘿生左右二《ホコスギノモトニコケムスマデニ》とあり
 
難波方塩干勿有曾禰《ナニハガタシホヒナアリソネ》。沈之妹之光儀乎《シヅミシイモガスガタヲ》〔頭注、校正者云。シヅミシはシヅミニシ〕。見卷苦流思母《ミマククルシモ》
 
曾禰《ソネ》はソといふに同じ○見卷《ミマク》はミムの延たるなり【マクの切ム】○歌意。潮干れば底に沈める女の屍のあらはれ出て其すがたを見るがかなしければ潮のひること勿れといふなり
 
靈龜元年歳次乙卯秋月〔頭注、校正者云。乙卯秋の下九の字脱せるか〕|志貴親王薨時《シキノミコノスギマシヽトキ》作歌一首并短歌
 
志貴親王は天武の御子磯城皇子なるべし。天武紀に朱鳥元年八月癸未芝基皇子。磯城皇子各封加二百戸とあり。此磯城皇子薨給へる年月知られず。【卷一に志貴皇子とあるはこゝに見えたる芝基皇子にて施基、志紀、志貴なども書たり。そは天智の御子にて光仁天皇の大御父にましませり。さて集中に其皇子を志貴と書き續紀にも志貴とも志紀ともかければこゝなるも同じ皇子ならむと思はるれど彼皇子は靈龜二年八月甲寅に薨給へるよし續紀にみえて今とは歳も月もたがへるをさばかりやごとなき皇子の薨をおぼえたがへて書べきにもあらねばこゝなるは磯城皇子なるべし】卷十三に磯城島を志貴島ともかきたれば磯城を志貴と通はし書たるにこそ
 
梓弓年取持而《アツサユミテニトリモチテ》。大夫之得物矢手挿《マスラヲガサツヤタバサミ》。立向高圓山爾《タチムカフタカマドヤマニ》。春野燒野火登見左右《ハルヌヤヌビトミルマデク》。燎火乎何如問者玉桙之道來人乃《モユルヒヲイカニトトヘバタマボコノミチクルヒトノ》。泣涙※[雨/沛]霖爾落者《ナクナミダヒサメニフレバ》。白妙之衣※[泥/土]漬而《シロタヘノコロモヒヅチテ》。立留吾爾語久《タチトマリアレニカタラク》。何鴨本名言《ナニシカモモトナイヘル》。聞者泣耳師所哭《キケバネノミシナカユ》。語者心曾痛《カタレバコヽロゾイタキ》。天皇之神之御子之《スメロギノカミノミコノ》。御駕之手火之光曾《イデマシノタビノヒカリゾ》。幾許照而有《コヽダテリタル》
 
得物矢手挿《サツヤタバサミ》は既にいへり〇立向までは的の序なり○高圓山《タカマドヤマ》は春日のうちにあり○野火《ヌビ》は野間の畑に物の種を播《マキ》つけむ料に枯草を燒拂ふをいふなり〇燎火《モユルヒ》は葬送の手火なり○※[雨/沛]霖爾落者《ヒサメニフレバ》は涙のいたく落るさまなり。古義云。ヒサメに二義あり。一つにはヒサはヒタに通ひてヒタ雨なり。垂仁紀に大雨をヒサメともヒタメともよめり。さてヒタは漬《ヒタ》す意にてをやみなくひたすらにふる雨にてこゝの※[雨/沛]霖これなり。また一ツには氷雨《ヒサメ》なり。記に大|氷雨《ヒサメ》。神武紀に雨氷《ヒサメ》などこれなり。天武紀に氷零《ヒフル》、大如2桃李1とあるものにて今俗にヘウといふこれなり【
源氏物語の赤石にも「氷ふりいかづちのしづまらぬ」とみえたり】和名抄にもヒサメを載たれど大雨《ヒサメ》と氷雨《ヒサメ》とを混《ヒトツ》におもひまがへたり。といへり○白妙之衣《シロタヘノコロモ》は素服を給はりて著たるなり【素服の事上にいへり】即ち道來る人の涙が大雨《ヒサメ》の如くにて素服の袖もひづちて立とまり語るよしなり。按に此道來る人は御葬場に行人にはあれど御供の人にてはあるべからず。御供の人は獨離れて立留るべきにあらねばなり○何鴨《ナニシカモ》云々は何故にの意なり。モトナは物のわかちも无きさまの詞なり。こゝはかく人のみな悲しむ皇子の御葬送を何ともしらずにもとないへるぞ。聞《キケ》ばきくにつけて泣《ネ》になかれかたれば語るにつけて心が痛きものをといふなり○天皇之神《スメロギノカミ》までは天武天皇の御事にて御子といへるは磯城皇子をさせるなり○手火之光《タビノヒカリ》は御葬送にともしつれたる手火なり。すべて古の例葬送には火をあまたともすとみゆ。仲哀紀に無火殯斂《ホナシアガリ》とあるは天皇の崩を隱して葬れるによりてなり○幾許照而有《コヽタテリタル》は數多く照たるよしなり○歌意は。時秋にして野をやく比にもあらぬを野火とも見ゆるまでにそこばくの火のもゆるはいかなるゆゑぞと問へば素服《シロタヘ》を著て道來る人の立留りつゝいたく落る涙をおさへてわれに語るやうは何ゆゑにか其許はかく人のみななげき奉る御葬送を何ともしらずにかやうにいかになどおぼろかにとひいへるぞ。聞けばきく人がねになき語ればかたる人の心が痛くて聞れもせず語られもせぬ誠にかなしきに堪へざるものを。これはこれ先帝天武天皇の皇子志貴親王の御葬送の手火のひかりの野火の如くみゆるのなり。となり。古義の説はいさゝかたがへり
 
短歌《ミジカウタ》二首
 
高圓之野邊乃秋茅子〔頭注、校正者云。野邊の乃の字衍か〕《タカマドノヌベノアキハギ》。徒開香將散《イタヅラニサキカチルラム》。見人無爾《ミルヒトナシニ》
 
高圓野の萩も薨《カムサ》りましてよりは見る人もなければ空しく徒らに開きちるらんとなり。春日のあたりに住給ひしなるべし
 
御笠山野邊從道者《ミカサヤマヌベユクミチハ》。巳伎太雲繋荒有可〔頭注、校正者云。巳伎太雲の太通行本は大なり〕《コキタクモシゲクアレタルカ》。久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》
 
御笠山も春日にあり〇荒有可《アレタルカ》のカはカナの意なり。道に草繁く生て荒たるなり。この二首長歌と同じ時によめるにはあらでやゝ後の歌なるべけれど事みな志貴親王の御うへに預かれるゆゑに序《ツイデ》て反歌としたるものなり
 
右歌笠朝臣金村歌集出
 
この長歌短歌ともに金村の自作にや。句法あやしくすぐれて上手のしわざとみゆ
 
或本歌曰。高圓之野邊乃秋茅子。勿散禰《ナチリソネ》君之形見爾。見管思奴幡武《ミツヽシヌバム》
 
三笠山|野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》。巳伎太久毛《コキタクモ》荒爾計類鴨。久爾|有名國《アラナクニ》
 
萬葉集註疏 卷一   終
 
明治四十三年九月十一日印刷
明治四十三年九月十五日發行
      編者   中川恭次郎
    東京市本郷區龍岡町三十四番地
      發行者  田中増藏
    東京市本郷區駒込千駄木林町百七十二番地
      印刷者  今井甚大郎
    東京市本郷區駒込千駄木林町百七十二番地
      印刷所  聚精堂印刷所
      發行所【東京本郷區龍岡町三十四番地振替貯金口座東京一八九〇五番
           歌書刊行會
      發兌元【東京本郷區龍岡町三十四番地振替貯金口座東京三〇五八番
           聚精堂
   
          2008年4月26日(日)午後8時30分、入力終了
 
萬葉集註疏卷三
        近藤芳樹 著
 
雜歌《クサ/”\ノウタ》
 
天皇《スメラミコト》御2遊《イデマセル》雷岳《イカヅチノヲカニ》1之|時《トキ》柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
天皇は持統天皇なり○雷岳は雄略紀云。七年天皇詔2少子部連|※[虫+果]羸《スカル》1曰。朕欲v見2三諸岳(ノ)神形1。汝|膂力《チカラ過v人。自行(テ)捉來《トラヘコヨ》。※[虫+果]羸答曰。試往捉v之。乃登2三諸岳1捉2取大蛇1奉v示2天皇1。天皇不2齋戒1。其雷|※[兀+虫]々目精赫々《ヒカリテマナコカヽヤキキ》。天皇畏蔽(ヒ)v目(ヲ)不v見(タマハ)却2入(マシ)殿中1使v放2於岳(ニ)1。仍《カレ》賜v名爲v雷《イカヅチ》〔頭注、校正者云。仍下改の一字脱か〕とあり。則ち大和國高市郡雷村にあり。これ飛鳥の神奈備の三諸山のことなり
 
皇者神二四座者《オホギミハカミニシマセバ》。天雲之雷之上爾《アマクモノイカヅチノヘニ》。廬爲流鴨《イホリセルカモ》
 
皇者オホギミハと訓べし。神二四座者《カミニシマセバ》は天皇はやがて現人神《アラヒトカミ》にておはしませばの意にてシは助辭なり○雷之上爾は岳名の雷を實の雷の如く云なしたるなり。イカヅチの名義は芳樹おもふにイカは記傳の説の如く嚴《イカ》なり。ツチは水神又蛟を和名抄に美豆知《ミヅチ》とあるは水津知《ミヅツチ》の津《ツ》を省きたるなり。【故に豆は水のツなるゆゑに濁音の字を用ゐ下のツは上のツに約まりて略かりたるゆゑにミヅチといふ也】こゝはイカヅチのツを略かざればツチを清音に唱ふべし。但佛足石碑には伊加豆知とみえて濁音とせり〇廬をイホリと訓むはイホを用言にしたるにて實は廬入《イホリ》の義なり。【ヤドをヤドリといふもこれに同じ】爲流《セル》の流《ル》は須《ス》の誤にてセスなりと略解にいへり○歌意。おほきみは人とは申せども現人神《アラヒトカミ》とて人の中の神にてましませば天雲のかゝれる中にすむ雷の上にいほりし玉へる事かなとよめるなり。卷十三に「月も日もあらたまれども久《ヒサ》にふる三諸の山のとつ宮地《ミヤドコロ》」といふ歌もありて三諸に別宮ありつれば或本に宮敷座とあるに從ふべし。離宮《トツミヤ》を廬と云ること甚不敬なりと古義にいへるさることなれども歌はたとへ天皇の御うへなりとても然《シカ》敬辭のみに綴るべきにあらず。さればこゝは宮敷座なといはんよりもあの雷《イカヅチ》のすむ天雲の中にいさゝかなる廬かまへていりませるよとはかなげによめるがをかしきなり
 
右或本云獻2忍壁皇子1也。其歌曰。王神座者。雲隱伊加土山爾《クモカクルイカツチヤマニ》。宮敷座《ミヤシキイマス》
 
忍壁は天武天皇の皇子なり。【卷九にくはしくいふべし】此皇子の宮此山に在しか○王《オホキミ》は天皇より皇子諸王をかけて皇族の稱なること上にいへり○宮敷座《ミヤシキイマス》は宮造りて其地を知りいますよしなれどかくよみてはおなじことながら氣韵うすくて神ニシマセバといひたるに符はぬこゝちす
 
天皇|賜《タマヘル》2志斐嫗《シヒノオミナニ》1御歌一首
 
これも持統天皇なり○志斐嫗は姓氏録左京神別に中臣志斐連また續紀卷八に算術正八位悉悲連三田次とみゆ。嫗和名抄に嫗【和名於無奈】老女之稱也とあり。オムナと訓むはわろし。オミナなり
 
不聽跡雖云強流志斐能我《イナトイヘドシフルシヒノガ》。強語比者不聞而《コノゴロキカズテ》。朕戀爾家里《アレコヒニケリ》
 
不聽《イナ》は俗にイヤと云に同じくて莫《ナ》語《カタ》りそきくはいやなりといへどの意なり○強流《シフル》は今もいふ詞にて【酒をしふるなどいふもこれなり】強て語り聞え奉るをいふ。志斐能のノはさす人のあるを省ける辭なり。卷十四に勢奈能我素低毛《セナノガソテモ》〔頭注、校正者云。素低毛《ソテモ》の毛は母とあるべきか〕。卷十八に故之能吉美能等《コシノキミノト》などのノみなこれなり。好忠集に「人妻とわがのとふたつ思ふにはなれこし袖はあはれまされり」とあるワガノはわが妻といふべきをワガノとノもじもて聞せたるなり。此類なほおほし。【たとへば隣の亭主が云といふべきを隣のがといふたぐひ今もいづくにてもいふ言葉なり】されば志斐ノガは志斐のおうながといふことなり○強語《シヒガタリ》は人の否《イヤ》におもふことをしひて語るゆゑにシヒガタリといふ。古のみならず今も老女などによくある事なり此者不聞而《コノゴロキカズテ》〔頭注、校正者云。此〔右○〕者とある本文と合はず寛永版は此〔右○〕にて拾穗本は比〔右○〕なり。代匠記此は比に作るべし集中例皆然りと云へり〕は嫗が久しく御前に出ぬゆゑに聞しめさぬよしなり。○御歌の意は。嫗がしひて語るゆゑに聞あきて否きかじ語るなといへどもなほ強語《シヒガタリ》をせしが此ほどはいかなればにか家にのみゐて内にもまゐらぬゆゑ久しくきかずて戀しくなりたりとのたまへるなり。
 
志斐嫗《シヒノオミナノ》《マツレル》v和《コタヘ》歌一首〔頭注、校正者云。奉v和歌一首の下「嫗名未詳」の四字有るべきか〕
 
不聽雖謂話禮話禮常《イナトイヘドカタレカタレト》。詔許曾志斐伊波奏《ノラセコソシヒイハマウェオセ》。強話登言《シヒガタリトノル》
 
不聽雖謂《イナトイヘド》は御製の初句をうけて妾《ワラハ》はかたることをいやとこそ申せといへるなり○詔許曾《ノラセコソ》はノタマヘバコソと云むが如し。コソの上にバを加へてみる例なり、志斐伊波《シヒイハ》のイは助辭にて【此イもじイユキ、イカヘリなど語の頭にもおきまた用言の下にもそへ或は體言の下にもそへて助辭としたるなどさま/”\なり】こゝなるは卷四に木乃關守伊《キノセキモリイ》、卷九に菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》などの類の體言にそへたる言なり○強話登言《シヒガタリトノル》の話〔傍点〕字古本に語〔傍点〕と書るもあるよしなれど本のまゝにてよし。上にも話禮《カタレ》といふに話字をかければ誤字にはあらじ。言〔傍点〕字は誤字にてもあらむか。されどこれも意をもてノルと訓みてもあしともいふべからぬをや○歌意は。上《キミ》の妾《ワ》が語るを否《イヤ》なりしよしに仰せらるゝはいたくことたがへるかな。妾はかたらまほしきことはさらになし。ただしひて語れ/\とのたまへばこそ勞きをもいとはで嫗はかたり侍れ。そをさかさまにしひがたりとのるよ。といへるなり
 
長忌寸意吉麻呂《ナガノイミキオキマロガ》《ウマエタマハリテヨメル》《ミコトノリヲ》歌一首〔頭注、校正者云。應v詔。と有るべき例なり〕
 
意吉麻呂は卷一に出づ
 
大宮之内二手所聞《オホミヤノウチマテキコユ》。網引爲跡網子調流《アビキストアゴトヽノフル》。海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》
 
大宮は契冲のいへる如く難波宮なり。津國に行幸の時の歌なるべし。二手を二マデとよめるは集中に左右。左右手。諸手。兩手などの字をみなしかよめり。按ふに手の左右に揃へるをほめて眞《マ》の稱辭《タヽヘコトバ》を加へいふなるべし。集中に二梶《マカヂ》とあるも船の左右に櫓をかけ備へたるをいへるにておなじ○網引爲跡《アビキスト》のトはトテなり。【これを御饌供に奉る魚をとるとてなどいへるは穿てる説なり。用べからず】網子調流《アゴトヽノフル》は網子《アミコ》を呼集め整《ソロフ》るをいふ【網子は田を作る者を田子《タゴ》。馬を追ふ者を馬子《マゴ》などいふ類なり】卷二に齊流皷之音《トヽノフルツヾミノオト》○歌意よく聞えたり
 
長皇子《ナガノミコノ》遊2《ミカリシタマヘル》獵路池《カリヂノイケニ》1之時柿本朝臣人麻呂作歌并短歌〔頭注、校正者云。作歌の下一首の二字脱か〕
 
長皇子は天武天皇の皇子なり。【卷一にみゆ】獵路は略解に「大和國十市郡鹿路村ならん歟。卷十二に遠津人獵路池《トホツヒトカリヂノイケ》とあれどこの池〔傍点〕字は野〔傍点〕の誤なるべし」といへり
 
八隅知之吾大王《ヤスミシシワガオホキミ》。高光吾日乃皇子乃《タカヒカルワガヒノミコノ》。馬並而三獵立流《ウマナメテミカリタタセル》。弱薦乎獵路乃小野爾《ワカコモヲカリヂノヲヌニ》。十六社者伊波比拜目《シシコソハイハヒヲロガメ》。鶉己曾伊波比回禮《ウヅラコソイハヒモトホレ》。四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒヲロガミ》。鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒイハヒモトホリ》。恐等仕奉而《カシコミトツカヘマツリテ》。久堅乃天見如久《ヒサカタノアメミルゴトク》。眞十鏡仰而雖見《マソカヾミアフギテミレド》。春草之益目頬四寸《ハルクサノイヤメツラシキ》。吾於富吉美可聞《ワガオホキミカモ》
 
八隅知之より以下四句は卷一にみゆ〇三獵《ミカリ》の三は御《ミ》なり。立流《タヽセル》はタテルの伸たるにて立タマフといはんが如し。卷六に御獵曾立爲《ミカリゾタタス》また十九に朝獵爾君者立之奴《アサカリニキミハタタシヌ》などゝ同じく獵場に出立玉ふをいふ○弱薦乎《ワカコモヲ》は刈にかゝる枕詞なり〇十六《シシ》は猪鹿の類をすべいふ稱なり。社をコソと訓むは倭訓栞に「神社は祈請の所なれば乞字義通へり。姓の古曾部も日本紀に社戸と書り。比賣古曾も和名抄に姫社と書り」とあり。【比説いかがあらん定めがたけれど外におもひよれる考もなければひきたり】伊波比拜目《イハヒヲロガメ》はイはそへ言にて匍匐拜《ハヒヲロガ》めなり。推古紀に烏呂餓瀰《ヲロガミ》とみえて私記に謂v拜爲2乎加無《ヲガムト》1言|乎禮加々無《ヲレカヽム》也といへるが如し○伊波比回禮《イハヒモトホレ》のイは上に同じ。囘禮《モトホレ》はハヒメグレルなり〇四時自物《シシジモノ》。鶉成《ウヅラナス》は共に枕詞なり○恐等《カシコミト》のトは助辭にて恐《カシコ》さにの意なり。卷十一に皇祖乃神御門乎懼美等侍從時爾《スメロギノカミノミカドヲカシコミトサモロフトキニ》〔頭注、校正者云。懼美の美は見とあるべし〕のトも同し。此類外にもあまたあり○眞十鏡《マソカヾミ》も春草之《ハルクサノ》も枕辭なり○益目頬四寸《イヤメツラシキ》はみる度に彌《イヨ/\》愛《メヅ》らしきなり。卷五に「伊夜米豆良之岐《イヤメツラシキ》うめの花かも」とあり○歌意。わが長皇子の從者と共にあまたの馬を乘ならべて十市郡の獵路の小野に御獵に出立せ玉へるにその野に鳥獣の多く集りゐるが中にも猪鹿《シシ》こそはひをがめ鶉《ウヅラ》こそはひめぐれ。その猪鹿にも鶉にもあらぬ吾々まで皇子の恐こく尊とさに猪鹿の如く鶉の如くはひ拜みめぐりて仕へ奉りつゝ天を仰き見る如くに見奉れど見《ミル》毎《ゴト》にいよ/\愛《メヅ》らしく貴き皇子にもおはしますかな。となり。さてこの四時自物以下はその獵路野の御獵につきて常に皇子に心よせたる意をよめるなり
 
反歌《ミジカウタ》〔頭注、校正者云。反歌の下「一首」の二字脱か〕
 
久堅乃天歸月乎《ヒサカタノアメユクツキヲ》。綱爾刺我王者《ツナニサシワガオホギミハ》。蓋爾爲有《キヌガサニセリ》
 
天歸月《アメユクツキ》は即《ヤガテ》月を蓋にしたるなり。故にヲもじは結句につゞけてみるべし○綱爾刺《ツナニサシ》のニはヲに同じ。蓋に綱をさす事なり。蓋に綱をさすを綱爾刺《ツナニサシ》といへるはキミヲコフルことを君に戀ひといへるにおなじ。【この爾を疑ひて版本の網の字をよしといへる人もあれどそはいみじきひがごとなり】さてその蓋は和名抄に華蓋和名、岐奴加散《キヌガサ》また字鏡に傘繖などの字を支奴加佐《キヌガサ》とありて儀制令に凡蓋、皇太子紫(ノ)表蘇芳(ノ)裏、頂及四角覆v錦垂v總。親王紫|大纈《オホユハタ》【中略】四品以上頂角覆v錦垂v總云々【此文に垂v總とあるはその綱の末の總にはあらで綱は別に付るなり】とみえたり。さるは親王の參朝などの時は必ずかゝる儀設のある事なれどもこの歌よめるは御獵場にての事なれば蓋のありしにはあるべからず、こはたゞ月を蓋としたまへるよしにいひなしたるが人麻呂の獨得たる妙處にて他人の及ばざる所なり。更に蓋を月にたとへたるにはあらず。月を蓋になしてよめるなり。こは守部が説もかくの如し【さてその蓋をさしかくるさまは江家次第の御齋會竟日の件に有2執蓋引綱等1また藥師堂供養丈六觀音次第條に大阿闍梨云々執蓋一人鋼取二人とみえたり。されば蓋の裏に綱をつけてこ人左右に別れさきに立て引きゆくこれを執綱といふ。江家次第にいへる綱取なり。後より柄をとりてさしかけゆくこれを執蓋といふ】○歌意。皇子をわが天の如く仰き見奉るもことわりならずや。誠に皇子の尊とくおはします事はかく御獵場よりの御歸るさ日くれてあれ見玉へ天ゆく月にさへ綱をさし御輿のうへにさしかくる蓋になし玉へるは。といへるなり
 
或本|反歌《ミシカウタ》一首|皇者神爾之座者《オホキミハカミニシマセバ》。眞木之立荒山中爾《マキノタツアラヤマナカニ》。海成可聞《ウミヲナスカモ》
 
芳樹按に海成はウミナサスと訓べし。ウミナサスは海成すを伸たる言にてその池を造らしゝをいふ。【ナスをナサスといふはキクをキカス。マツをマタスなどと同例なり】池を海といへること卷一にいへり。さては獵路池はこの持統の御代にやほらせたまひけん。【こを此長歌の反歌には似ざるやうおもへるは反をカヘシとよめる誤よりおこれるなり】また按に海成はアマナサスと訓べきか。神にしませばこそかゝる荒山中にて海人《アマ》の業をなさしめ玉ふよといへるなり。海字をアマとよませたる例卷十に海小船《アマヲフネ》。卷十一に海舟《アマフネ》などあり
 
弓削皇子《ユゲノミコノ》《イデマセル》2吉野《ヨシヌニ》1時《トキノ》御歌一首
 
弓削は天武の皇子にて既《ハヤ》く出つ
 
瀧上之三船乃山爾《タキノヘノミフネノヤマニ》。居雲乃常將有等《ヰルクモノツネニアラムト》。和我不念久爾《ワガモハナクニ》
 
瀧上《タキノヘ》は吉野川の瀧の上方をいふなり。その瀧は今宮瀧といへり。古への離宮の跡なりといへり〇三船乃山爾《ミフネノヤマ》は輿地通志に在2菜摘村東南1望v之如v船坂路甚險とあり○常將有等《ツネニアラムト》はいつも常にかくあらんとゝいふなり○和我不念久爾《ワガモハナクニ》は吾が思はぬになり○御歌意は吉野の勝地なるに御心とまり常にかよひ來《コ》まほしくおもほすにつきて三船の山の嶺の雲のかくかゝりて去ることなきに感情を催し玉ひ其雲の去ることなきが如くわれもこの山に常にあそぴてをらまほしけれど現身《ウツセミ》ははかなきものなれば居る雲の如くいつまでも世にあらんものとはおもはぬを。とのたまへるなり。おもふにかくはかなきさまの御歌よませ給へるは此皇子此ほどいたはり玉ふことなどありて歟
 
春日王《カスガノオホキミノ》《マツル》《コタヘ》歌一首
 
春日王は志貴親王の子なり。續紀大寶三年六月庚戌淨大肆春日王卒。遣v使弔賻
 
王者千歳爾麻佐武白雲毛三船乃山爾《オホギミハチトセニマサムシラクモヽミフネノヤマニ》。絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》
 
千歳《チトセ》のトセ常はトシといふを其數をいふにはトセといふ。記傳に「萬葉五に伊都等世とあり。登世《トセ》は年經《トシヘ》なり。」【シヘはセと切れり】といへりこゝのちとせもちとしといはざるはこれによりてなり○絶日安艮米也《タユルヒアラメヤ》のヤはヤハの意のヤなり○歌意は皇子の御心とまれるこの三船の山の白雲の常にかゝりて絶ずあるが如く皇子も御齡千歳に至りましますまで此山にかよひて遊びまさん。と皇子の常ならぬ世を歎きたまふを言ほきなほしたるなり
 
或本歌一首 三吉野乃御船乃山爾《ミヨシヌノミフネノヤマニ》。立雲之常將在跡《タツクモノツネニアラント》。我思莫苦二《ワガモハナクニ》
 
右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
長田王《ナガタノオホキミノ》《サレテ》v遣《ツカハ》2筑紫《ツクシニ》1渡《ワタル》2水島《ミヅシマヲ》1之|時《トキノ》歌二首
 
長田王は栗田王の子。長皇子の孫なり。既に出たり。筑紫に遣はされし事は所見旡し○水島は和名抄に肥後國菊池郡水島とあり。景行紀に十八年夏四月云々自2海路1泊2於葦北(ノ)小島1。而進v食時召2山部阿弭古之祖小左1令v進2冷水《ミモヒヲ》1。適2此時1島中無v水。不v知2所爲1。則仰之|祈《コヒノム》于天神地祇1。忽寒泉從2崖傍1涌出。乃酌以獻〔頭注、校正者云。乃酌以獻の下焉の一字脱か〕。故號2其島1曰2水島1也とみゆ。仙覺抄に風土記を引て、球磨乾七里。海中有v島。稍可2七十里1。名曰2水島1。出2寒水1。逐v潮高下云々
 
如聞眞貴久《キヽシゴトマコトタフトク》。奇母神左備居賀《クスシクモカムサビマスカ》。許禮能水島《コレノミヅシマ》
 
眞貴久《マコトタフトク》はかねて聞しにたがはず眞《マコト》に貴くといへるなり。眞《マコト》ニといふべきをニを省くは卷七に「淡海のややはせの小竹《シヌ》を矢はがすて信有得哉《マコトアリエムヤ》こひしきものを」の四句も信《マコト》ニアリエムヤの意なることこゝにおなじ。卷十五にも麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》とあり○奇母《クスシクモ》は卷十八に安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》とあり。靈妙の義なり【奇魂《クシミタマ》。靈異之兒《クシビナルミコ》などの奇《クシ》。靈異《クシビ》皆同し。中古になりて物語などにクスシキと云るは一轉して用法《モチヰサマ》やゝことなり】○神左備居賀《カムサビマスカ》は略解には神サビヲルカと訓れどこの居字はマスと訓べし。神代紀に二神於v是|降2居《クダリマシテ》彼島(ニ)1とあり○許禮能水島《コレノミヅシマ》のコレノはコノといふにおなじ。【レはありても旡くても同じ。たとへば誰をタともタレともいひ彼をカともカレともいひ吾をワともワレともいひ汝をナともナレともいふみなおなじ】佛足石碑に此世《コノヨ》といふことを己禮乃與波《コレノヨハ》とかけり○歌意。景行天皇の此島に行幸《イデマ》して水を飲まほしくおもほしゝかど島内に水なかりしかば山部小左といふ者神祇に祈《コヒノミ》けるに崖傍《キシノホトリ》より水涌出せりときけり。聞が如きは誠に靈島なるを今こゝに來てみるに島のさま神さびて貴くも奇しくもある哉。とよみたまへるなり
 
葦北乃野坂乃浦從《アシキタノノサカノウラユ》。船出爲而水島爾將去《フナデシテミヅシマニユカム》。浪立莫勤《ナミタツナユメ》
 
葦北は和名砂に肥後國葦北都葦北とあり○野坂の浦は葦北の内にある浦の字《ナ》なり○勤《ユメ》といふ詞は卷一に出たり○歌意よく聞えたり。
 
石川大夫《イシカハノマヘツキミノ》《コタフル》歌一首〔頭注、校正者云。一種の下諸本名闕の二字あり〕
 
石川大夫名闕たれば誰とも知れ難し。されど長田王の歌に和へたる其王は和銅四年三月壬午に正五位下を授《タマハ》れる事續紀に見えたればこれより以前はいまだ少《ワカ》くて旡位なりしこといはんも更なり。筑紫に下り給へるは公事にてなるべければ旡位の時にてはあるべからず。これより推せば石川大夫は和銅四年の以後に肥後守か太宰府の官員かに任せられたる人なるべし。左註に引たる宮麻呂は慶雲二年に大貳となりしこと續紀にあれどはやく轉任して和銅元年三月に右大辨にすゝみたれば宮麿にはあらじ。また左註に石川吉美候の神龜年中に少貳に任ぜしよしにいへれどこは續紀に所見《ミエ》ざればおぼつかなし。是によりで略解には「卷四に神龜五年戊辰太宰少貳石川足人朝臣遷任餞2于筑前國蘆城驛家1と端書ありて三首の歌を載せたり。此足人なり。左註は誤れり」といへり。五年に上京するをもて思へば養老の末か神龜のはしめに太宰府に下れるなるべし。長田王の正四位下になり玉へる和銅四年よりは十年餘も後のことなれどその比王の公事にて筑紫に下り玉ひけんこと旡しともいふべからねば此説しかるべからんか。但略解に「宮麻呂は左註にいへるごとく四位なれば大夫と書べからず」といへるは五位ならでは大夫にはあらじとおもへるに。こはいみじき誤にて公事根源に「小節にはまちきんたちめせと仰す。大節には刀禰めせと仰するかはりめあり。まちきんだちとは大夫達とかけり。五位以上の者をめせとおほする心なり。大節に刀禰とは六位をいふ。六位のともがらまでをめせといふ心なり」と見えて三位以上を卿といひ四位五位を大夫といふその卿大夫をおしこめてマチキンダチと稱す。さるを大夫を五位のみとおもへるはあまりにをさなし
 
奥浪邊波雖立《オキツナミヘツナミタツトモ》。和我世故我三船乃登麻里《ワガセコガミフネノトマリ》。瀾立目八方《ナミタヽメヤモ》
 
奥波《オキツナミ》は沖のかたの波なり。邊波《ヘツナミ》は海邊《ウミベ》の方の波なり。【略解にヘナミと訓れどツもじをそへてヘツナミと訓べし】卷六にも奥浪邊波《オキツナミヘツナミ》やすみ云々とあり○和我世故《ワガセコ》は長田王をさす○瀾立目八方《ナミタヽメヤモ》は王の歌に浪タツナユメとよみ玉へるは海を恐みたまふによりてなり。そを慰めてさのみ恐み玉ふな。たとへ沖にも邊にも波たつとも君のとまりたまふ浦には波たゝめや。たちはせじ。と言ほきいへるなり
 
右今案後四位下石川宮麻呂慶雲年中任2大貳1。又正五位下石川朝臣吉美侯神龜年中任2少貳1。不v知兩人誰作2此歌1〔頭注、校正者云。宮麻呂の下朝臣の二字。並に作2此歌1の下焉の一字脱か〕
 
此註のこと端書の下にいへり
 
又長田王作歌一首
 
隼人乃薩摩乃迫門乎《ハヤヒトノサツマノセトヲ》。雲居奈須遠毛吾者《クモヰナストホクモワレハ》。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
隼人《ハヤヒト》は國名なり。ハヤヒトと訓べし。この國人|絶《スグ》れて敏捷《ハヤ》く猛《タケ》きがゆゑに此名あるなり。續紀大寶二年に唱更《ハヤヒト》國司等【今薩摩國也】言とある唱更これ隼人なり。【拾芥抄改名所々の部に薩摩國元唱更とあり。唱更とは職員令義解に隼人者分番上下一年爲v限とある意を以てその頃唱更とは書しなり。今薩摩國也とは續紀撰はれし時の註なり】そを薩摩國といふは後に改められたるなり。【そは大寶より靈龜までの間に改られたるなるべし。其故は大寶二年の紀には唱更國とありて養老元年の紀に始めて大隅薩摩二國隼人とある此薩摩は國名なればなり】なほ記傳に委しくみえたり。薩摩乃迫門《サツマノセト》とは隼人國の内の薩摩といふ地名なり。【後までも薩摩郡あればそのあたりの名なるべし】この國の出水《イヅミ》郡に勢度《セト》といふ郷あれど出水郡は肥後のかたによれる所なればそこにはあるべからず。このうたは水島よりはるかにみてよめるなれば薩摩の西南のかたに迫門《セト》のあるなるべし。卷六に「隼人乃湍門乃磐も」とよめるもこれならんか○歌意。かねて隼人の薩摩の迫門とて大御國の西南のはてにありとはきゝをりしかどもとてもみる事はあるまじとおもひつるをかく下り來てその迫門《セト》はかしこぞと雲井の如くよそながらにはあれども今日みつるかなとよめるなり。古義に「その境に至てまのあたり見ばいかばかりか面白からんとおもふを公《オホヤケ》の任《ヨサシ》のかしこさにえたちよらぬといふ意なり」といへるはいたくたがへり
 
柿本朝臣人麻呂|※[羈の馬が奇]旅歌《タビノウタ》八首
 
三津埼浪矣恐《ミツノサキナミヲカシコミ》。隱江乃《コモリエノ》舟公宣奴島爾
 
隱江《コモリエ》は地名か。然らざれば浪を恐《カシ》こみ隱《コモ》るといふべきを隱江《コモリエ》とは云かけがたからん。その下舟公宣奴島爾は更に訓むべきよしなし【古義には「荒木田氏古本には島の下に一字の闕ありといへり。そはに島の下に埼字脱たるなるべければフネヨセカネツヌジマノサキニと訓べし。また本居氏は舟八毛何時寄奴島爾とありしを八毛を公に誤。何時二字を脱し寄を宣に誤れるにてフネハモイツカハヨセムヌシマニと訓べしといへるも心ゆかぬ説なり。さるてづゝなる詞此朝臣の作にあるべくもなし。畧解はいよ/\拙な」といへれど古義の舟寄金津奴島埼爾とおのが思ふまゝに字も換てよめるもうべ/\しくも聞えねば後考を竢つのみ
 
珠藻苅敏馬乎過《タマモカルミヌメヲスギテ》。夏草之野島之埼爾《ナツクサノヌシマノサキニ》。舟近著奴《フネチカヅキヌ》
 
珠藻苅《タマモカル》とは敏馬裏にもはら喪を苅るゆゑにいへるなり。敏馬乎過《ミヌメヲスギ》の過《スギ》はスギテと訓べし。一本に處女乎椙過而《ヲトメヲスギテ》の而《テ》とある而《テ》にてこゝもテもじ无くてもテをそへてよむ例なるを知べし【卷三に常宮跡定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》とある賜の下※[氏/一]を省けり。また白妙乃麻衣着《シロタヘノアサコロモキテ》とあるも着の下※[氏/一]を省けれど共にテをそへて訓まざれば聞えず。かゝる類ひあぐるにたへず。古義にテを付てよまざるはかへりて非なり】○夏草之《ナツクサノ》は枕詞にて夏草の思萎《オモヒシナエ》といへる如く夏の草はしなえ靡くものなればヌに云かけたるなり【ナエの切ヌ】さて敏馬は攝津にて野島は淡路なれば船路の順次《ツイデ》よくかなへり
 
一本云|處女乎過而《ヲトメヲスキテ》夏草乃野島我埼爾|伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》
 
この處女《をとめ》は芳樹おもふに誤字にはあらで卷九に葦屋處女墓とあるその墓のある所舊くよりおのづから處女《ヲトメ》といふ地名になりたりしなるべし。卷十五に誦泳古歌とて「多麻藻可流乎等女乎須疑※[氏/一]《タマモカルヲトメヲスギテ》なつくさの野島がさきにいほりすわれは」と乎等女《ヲトメ》とよめればこゝなるも誤字ならぬ事明らけし【今も求女塚と訛りて地名にあり。行嚢抄に處女は住吉の南といへるは菟原住吉の南といふことなり】
 
粟路之野島之前乃《アハヂノヌシマガサキノ》。濱風爾妹之結《ハマカゼニイモガムスベル》。紐吹返《ヒモフキカヘス》
 
粟路は淡路の國なり○濱風爾《ハマkゼニ》のニもじは濱風のふくまゝにいとものさびしといふ意を含めり。かゝる例はなほあり。詞の玉緒に新古今集の歌を引て「春過はいたくなふりそさくらはなまた見ぬ人にちらまくもをし」のニもじを「これは萬葉より出たり」といへり。そは卷十五に「あをによしならのみやこにゆく人もかも草枕たひゆく舟のとまりつけむ|に〔傍点〕」また「かへるさに妹にみせん爾わたつみのおきつ白玉ひりひてゆかな」これらの歌のことなるべし。此ニを義門法師はノタメと譯すべきよしにいへり。「黒髪のいろもかはらぬこひすとてまたみぬ人|に〔傍点〕われそおいぬる」といふは後世の歌なれど玉緒に引る新古今のとおなじさまによみてこれはたマダミヌ人ノ爲ニとしてよくきこゆ。こはニもじの下に見セマホシといふ意を含めればこの濱風爾のニに同じ〇妹之結《イモガムスベル》は卷二十に「海原をとほくわたりて年ふとも兒らが牟須敝流比毛《ムスベルヒモ》とくなゆめ」とあるによりてムスベルと訓べし。妹が結べる紐とは記に垂仁天皇の其后にとひ玉ふ御言に汝所堅之美豆能小佩者誰解《ミマシノカタメシミヅノヲヒモハタレカモトカム》とありて其傳に古は凡て夫婦互に下紐を結ひ交《カハ》して又逢ふまては他人《アダシヒト》には解せじと契りかためて此を慎み重《オモ》みせし事なり。をの證は萬葉九に「吾妹子が結《ユヒ》てし紐を解めやも絶はたゆともたゞに逢までに」此外いとおほし○歌意は。烈しき野島の濱風邪の吹ていと物心さびしきにその濱風が逢まではとくなと妹が結びかためたる紐をさへに心なく吹かへすとよめるなり
 
荒栲藤江之浦爾鈴寸釣白水郎跡香將見《アラタヘノフヂエノウラニスズキツルアマトカミラム》。旅去吾乎《タビユクアレヲ》
 
荒栲は藤の枕詞なり。既にいへり。藤江は和名抄に播磨國明石郡葛江【布知江】とあり。卷六に稻見野能大海乃原笑荒妙藤井乃浦爾《イナミヌノオホウミノハラノアラタヘノフヂヰノウラニ》とあれば稻見野に近き處なるべし○鈴寸《スズキ》は鱸なり○旅去吾乎より四句にかへして心得べし。旅ゆく吾なるものを泉郎《アマ》とや人のみるらむの意なり。卷七に「網引するあまとや見らん飽浦《アクラ》の清きありそを見に來し吾《アレ》を」また「濱清み磯にあがをれば見者《ミルヒトハ》あまとかみらん釣もせなくに」また「鹽早み磯囘《イソミ》にをればあさりする海人《アマ》とやみらんたびゆくわれを」などあるみなあひ似たり
 
稻日野毛去過勝爾《イナビヌモユキスギガテニ》。思有者心戀敷《オモヘレバコヽロコホシキ》。可古能島所見《カコノシマミユ》〔頭注、校正者云。稻日野の前一本云白栲乃藤江能浦爾伊射利爲流の十六字脱か〕
 
稻日野《イナヒヌ》は播磨の印南郡の野なり。卷一に伊奈美國波良《イナミクニハラ》とあると同所なり。和名抄に印南【伊奈美《イナミ》】續紀に賀古郡印南野【印南郡より賀古郡にも渉れる地なるべし】卷六に稻見野などあるをこゝにかく稻日野とあれば日は見の誤にやとおもひしかど然らず。記に伊那毘能大郎女《イナビノオホイラツメ》。卷四に稻日都麻などとといへるも例あれば記傳にいへる如く古へよりイナミともイナビともいへりしなるべし。〇心戀敷はコヽロコホシキと訓べし。戀をコホといふは卷五に毛々等利能己惠能古保志枳《モモトリノコヱノコホシキ》。また故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》。齊明紀に枳瀰我梅能姑褒之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《キミガメノコホシキカラニ》などその例なり。可古能島《カコノシマ》の島は倭國を倭島といへる類ひにて陸つづきの所なれど島といへるなり。また下に一云潮見とある潮は誤にて湖と一本にあるに隨ふべし。略解にも潮は誤なりといへり。潮ならば下に枚乃湖《ヒラノミナト》また湖風《ミナトカセ》この外にもあればカコノミナトミユと訓べきなり。こは應神紀に播磨國|鹿子水門《カコノミナト》とある處なり。島にても水門にても妨なし。印南につゞきて賀古あり○歌意は。稻日野もおもしろき所にで過うくおもへればかねて聞およびて心にこふるかこの島もま近くみゆ。とどまりて稻日野をよくみんとすればさきに心がいそがれいそぎゆきてかこのしまをはやくみんとおもへばあとに心ひかるゝ事かな。とよめるなり
 
一云|潮見《ミナトミユ》 潮字のこと上に註せり
 
留火之明大門爾《トモシヒノアカシオホドニ》。入日哉榜將別《イラムヒヤコギワカレナム》。家當不見《イヘノアタリミエズ》
 
留火をトモシビと訓むこといかがなるを古義に島崎正好が説によりて「留は卷十一に鈴寸釣海部之燭火《スズキツルアマノトモシヒ》とあればもと燭字なりしを偏を脱して蜀を留に誤れるにや。※[蜀の草書]※[留の草書]草書似たり。《但燭の偏を脱せるにはあらで倭文《シツ》を委文|村《スク》主を寸主などかく例にてはじめより燭火を蜀火とかけるなるべし】卷十五に安麻能等毛之備《アマノトモシビ》。十八に登毛之備《トモシビ》。字鏡に炬苣(ハ)同。止毛志火《トモシビ》などあり」といへり。燭火《トモシビ》の明しと係れるなり〇明大門《アカシオホド》は久老がアカシオホドと訓るによるべし。和名抄に明石郡明石【安加志】とあり。アカシノとノをいはで直に大門《オホト》に續けたるは卷十四に伊奈佐保曾江《イナサホソエ》。卷二十に伊古麻多可禰《イコマタカネ》などの類なり○榜將別《コキワカレナム》は大和の方に榜別れて西の方に離れゆくよしなり○家當不見《イヘノアタリミエズ》の句は四句の上にうつして意得べしと宣長いへり。さて不見を略解。古義共に字のまゝにミズと訓たれど芳樹考るに卷二に「もみちばのちりのまがひに妹袖清爾毛不見《イモガソデサヤニモミエズ》」また卷七に「霜くもりすとにかあらん久堅のよわたる月の不見念者《ミエヌオモヘバ》」とあるによりてミエズと訓べし。今日までは見えし倭の家のけふよりはみえずやなりなんとなり○歌意は。今まで大和の家のあたりをかへりみしつゝ來りしが明石大門に入りなばこれよりは國のかたははるかに隔りてつひに家のあたりもみえずいよ/\遠くこぎやわかれむといへるなり
 
天離夷之長道從《アマサカルヒナノナガチユ》。戀來者自明石門《コヒクレバアカシノトヨリ》。倭島所見《ヤマトシマミユ》〔頭注、校正者云。諸本明石門の石の字なし〕
 
天離《アマサカル》は枕詞なり。夷之長道《ヒナノナガチ》は鄙《ヰナカ》の長みちといふことなり。集中|道乃長手《ミチノナガテ》とよめるいと多し。長手も長道もおなじことなり。從《ユ》はここなるはヲに通ひて聞ゆ。卷一にもあり○倭島は大和國をいふ○歌意。これより上五首は京より下る時の作《ウタ》にて此一首は京に上る時の作《ウタ》なり。夷《ヰナカ》の長道をはるばると家をこひしたひつつ上りくれば明石の門より倭國がはるかにみゆ。とよみてやうやう家のあたりの目にかゝりたるをよろこべるなり【この歌を古義には西國に下るときのにて上なると同じ意なりといへれどあらず】
 
一本云。家門當見由《ヤドノアタリミユ》
 
門は乃の誤にてイヘノアタリミユならんと略解にいへり。されど明石門より見放《ミサケ》むに家のあたりとはいふべくもあらねば一本はわろし
 
飼飯海乃庭好有之《ケヒノウミノニハヨクアラシ》。苅薦乃亂出所見《カリコモノミダレイヅミユ》。海人釣船《アマノツリフネ》
 
飼飯《ケヒ》の飼《ケ》は笥《ケ》の誤なるべしと契冲はいへれど卷十二に飼飯乃浦。卷四に得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》など見えたれば誤字としたるはいかゞあらん。但記傳には飼字心得ずといへり。古義に飼字のことを委しく辨へたれどさもやとも諾ひがたければ載せず。さてこの飼飯は越前に笥飯とて名所あればかしこのうたの混入したる歟とも思はるれど久老は淡路に飼飯野《ケヒノ》といふ地あればそこをよめるならむといへり。猶國人に尋ぬべし。庭好有之《ニハヨクアラシ》の庭は海上の和《ナギ》て穩かなるを庭《ニハ》とも庭好《ニハヨシ》ともいへり。有之《アラシ》はアルラシと推はかりいふなり○苅薦乃《カリコモノ》は亂《ミダレ》の枕詞なり【刈れる蒋《コモ》は亂れがちの物なるゆゑに云】〇歌意。明石のかたより遙かに見やるにあまたの釣舟どものちり亂れて榜出るがみゆるは飼飯《ケヒ》の海の波《ナミ》和《ナギ》て海上の平らかなるらしとよめるなり
 
一本云|武庫乃海舶爾波有之《ムコノウミフナニハアラシ》。伊射里爲流海部乃釣船《イサリスルアマノツリフネ》。浪上從所見《ナミノヘユミユ》
 
古義には「むこのうみのふねにはあらし」とよむべし。宣長の「むこの海ふなにはならし」と訓てフナニハは舟庭にて舟を出すによきのどかなる時なりといへるは例もなきひがことなり。はた有之《アラシ》もこゝはナラシとは訓がたきをや。といへれど或人の説に有之一本に吉之《ヨラシ》とあり。こは記に伊麻宇多婆余良斯《イマウタバヨラシ》とあるを傳に今《イマ》撃《ウタ》バ善《ヨ》ラシなりといへる善ラシにて武庫の海の船庭《フナニハ》が善きなるらし。波のうへに釣船がみゆるとよめるなりといへるに從ふべし【船庭《フナニハ》といふ言例は无しとてもいふまじき詞にあらず】
 
鴨(ノ)君|足人《タリヒトガ》香具山(ノ)歌并短歌〔頭注、校正者云。短歌の下諸本一首の二字あり〕
 
鴨君の君は姓《カバネ》なり。續紀天平寶字三年十月辛丑天下諸姓著2君字1者換以2公字1とありかゝればこの歌はこれよりさきに書留めおきたるをそのまゝ載せたるなるべし。足人詳ならず
 
天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》。霞立春爾至婆《カスミタツハルニイタレバ》。松風爾池浪立而《マツカゼニイケナミタチテ》。櫻花木晩茂爾《サクラバナコノクレシゲニ》。奥邊浪鴨妻喚《オキベニハカモメヨバヒ》。邊津方爾味村左和伎《ヘツベニアチムラサワギ》。百磯城之大宮人乃《モモシキノオホミヤヒトノ》。退出而遊船爾波《マカリデテアソブフネニハ》。梶棹毛無而不樂毛《カチサヲモナクテサブシモ》。己具人奈四二《コグヒトナシニ》
 
天降付は冠辭考にアマクダリツクのマクを切《ツヽム》ればムとなるをモに通はしタを略けるにてアマクダリツクと云ことなり伊豫風土紀に天上有v山。分而墜v地〔頭注、校正者云。冠辭考に引けるによれば墜は堕と有るべきににたり〕。一片爲2伊豫國之天山1。一片爲2大和國之香山1と云る故事《フルコト》よりアモリツクと云そめたるよしにいへるが如し。天降のアモリとよむべき證は卷二十に多可知保乃多氣爾阿毛理之《タカチホノタケニアモリシ》と假字にかけり○春爾至婆《ハルニイタラバ》は卷十七に露霜乃安伎爾伊多禮波《ツユシモノアキニイタレハ》と見えたり○池浪とある池は埴安の池なり○櫻花木晩茂爾《サクラバナコノクレシゲニ》は彌《ミ》を爾《ニ》に誤たるなりと古義にいへれど非なり。芳樹おもふにこは櫻花も咲きて木の葉も茂りこくらくさびしきさまをいへるにて卷十八に「多胡《タコ》のさき許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》ほとゝきす來なきとよめばはたこひめやも」ともよめるに同じ。然ればこゝは木のはの繁くこくらく淋しきに鴨味村のなきていよいよ物淋しさのまされるよしにて爾《ニ》もじこの下の四句にかかれるなり。卷二十に「許乃久禮能之氣伎尾上《コノクレノシゲキヲノヘ》をほとゝぎすなきてこゆなりいまし來らしも」とあるも木立しげくて物淋しき尾上をの意とおもはる○鴨妻喚《カモメヨバヒ》は略解にカモメヨバヒと訓るに從ふ。【類聚抄にもかくよめり】卷一に加萬目《カマメ》といへるに同じくてメは群《ムレ》の切なれば次の味村《アチムラ》のムラに對へてよくかなへり。これも古義にカモツマヨバヒといへれど非なり○奥邊波《オキヘニハ》のオキは池の奥《オキ》のかたなり。古は海のみに限らず河池などにも水際より隔たりたるかたをオキといへるなり○味村左和伎《アヂムラサワギ》はあぢ鴨といふ鳥のむれさわぎ鳴をいふ○退出而《マカリデテ》は朝廷より罷り出てのよしにて即ち退朝のことなり○遊船《アソブフネ》は過にし時の事をいふなれば遊ビシ船ニハとあるべきをこは卷一に「たをやめの袖吹反《ソデフキカヘス》あすか風」とよめるも袖吹カヘシシといふべきをかくいへると同例なり【俗にいへば遊ふべき筈の船とはんがごとし】○梶棹は梶と棹となり。【卷二にくはしくいへり】不樂毛《サブシモ》は即ち字の如く遊ぶべき船にも梶棹だになくておもしろからぬよしなり○歌意は明らかなり。略解に近江荒都を過る時の人麿の歌に同じ意なりといへるはたがへり。かれは天智の御しわざを陰《ヒソカ》に譏《ソシ》りこれは香具山の宮の住人もなくて物淋しきさまをかなしめるのみなり
 
反歌《ミジカウタ》〔頭注、校正者云。反歌の下の二字二首有るべし〕
 
人不榜有雲知之《ヒトコガズアラクモシルシ》。潜爲鴦與高部共《カヅキスルヲシトタカベト》。船上住《フネノヘニスム》
 
有雲《アラクモ》は有《アル》モを伸いへるなり。【たとへば此船は人|榜《コガ》であるも著しといへるなり】潜《カヅキ》は水に入ることにて頭漬《カブツカリ》なり。【カブのブを略きカリを約めてキとせるなり】鴦《ヲシ》も高部《タカベ》も共に水鳥なり。和名抄に鴛鴦【乎之】雌雄未2嘗相離2。人得2其一1則其一思而死。故名2匹鳥1也また同抄に※[爾+鳥]【漢語抄云|多加閉《タカベ》】一名沈鳧。貌似v鴨而背上有v文とみゆ。群《ムレ》て高く飛ぶ鳥なるゆゑにタカベといふ歟○歌意は。此舟は香具山(ノ)宮の荒しより人こがて久しくあることしるし。いかにとなれば人の時々こぐ船には鴦《ヲシ》も高部《タカベ》も恐れて寄りこぬを榜く人の絶て旡きゆゑに鴦と高部とが住處としてゐるよ。とよめるなり
 
何時間毛神左備祁留鹿《イツノマモカミサビケルカ》。香山乃鉾椙之本爾薛生左右二《カグヤマノホコスギノモトニコケムスマデニ》
 
伺時間毛《イツノマモ》はイツノ間ニモといへるにてモは歎息の辭なり。神左備祁留鹿《カミサビケルカ》〔頭注、校正者云。神左備本文は「カミサビ」訓は「カムサビ」の訓を付しあり。兩者の中何れか書き誤か〕はかく神さびけるにかと疑ひいへるにて年經てそのあたりの物さびたるをおもはせたり○鉾椙は鉾杉にて杉は鉾の如く曲らでおひたつゆゑにいふ。芳樹云。和名抄に杉【須木《スキ》見2日本紀私記1。今案俗用2椙字1非也】とみえ名義砂に杉すぎ。※[木+温の旁](ハ)非また※[木+温の旁]柱すぎ。また字類抄に杉【スギ俗用2椙字1非也】とあれど支那の字書には椙※[木+温の旁]等の字をばをさをさみあたらず。かかれば椙字※[木+温の旁]字などは皇國にて造れる字なるべし。卷十九にも「椙野《スギノヌ》にさをどる※[矢+鳥]《キギス》」とあり。本爾は杉木《スギ》の根本《ネモト》といはむが如し。【卷二に「子松之末《コマツガウレ》に蘿《コケ》むすまでに」とある末《ウレ》は木末《コスエ》の事にて木末《コスエ》にはかならず蘿のかかるものなればこことに異なり】さればここは鉾杉之本爾とありてこの本は蔭といはんに同じく杉の根本なり。その葉の覆《オホ》へる蔭までこけの生たるをいへるなり。略解に「木のもとに苔の生るは常なり。おもふにすべて木といふべきをモトといへること集中に多し。然れば若き杉の木に苔生るまでにといふ意なるべし」といへるも聞えたる説なれど本とよめるは猶木のもとのよしなり。さらでは二句の神さびに應ぜず○説生左右二《コケムスマデニ》の説は名義抄、字類抄にも見えてコケとあり。これよのつねの苔なり【説は字書には鳥※[韮の草冠なし]と見えて岩苔の類なり】○歌意は。天武天皇の十年に高市皇子の世におはししほどは掃除などを清らにせられしに薨《カムサ》りましてより年へてこの杉蔭をも往來する人なければかくの如く木のもとに苔むすまでに荒はてゝ神さびけるかなと歎けるなり
 
或本歌云
 
天降就|神《カミ》乃香山。打靡春去來者《ウチナビクハルサリクレバ》。櫻花木晩茂。松風丹池浪|※[風+火三つ]《タチ》。邊津返者《ヘツヘハ》阿遲村|動《サワギ》。奥邊者鴨妻喚《オキベハカモメヨバヒ》。百式乃大宮人乃。去出榜來舟者《マカリデテコギクルフネハ》。竿梶《サヲカチ》母無而佐夫之毛。榜與雖思《コカムトモヘド》
 
神乃香山《カミノカグヤマ》は神にてます香山といふ意なり。山を神といへること集中に多し○打靡《ウチナビク》は卷二十に「宇知奈婢久波流《ウチナビクハル》を近みか」とあり○動はサワギと訓べし【略解にトヨミと訓れど鳥にトヨムといふはいかゞなり】〇榜來舟者《コギクルフネハ》の來字略解にかくよめるいかにぞや聞ゆれど外にせむかた无し。古義には來はま去の誤にてコギニシフネハなるべしといへり
 
右今案遷2都寧樂1之後怜v舊作2此歌1歟
 
この註は後人のしわざなれば削るべし。上にいへる如く高市皇子の薨後香具山宮の荒たるさまをいへるなれば遷都には預るべからず
 
柿本朝臣人麻呂|獻《タテマツル》2新田部皇子《ニヒタベノミコニ》1歌一首并短歌
 
新田部皇子は天武紀に藤原大臣女五百重娘生2新田親王1。續紀に文武天皇四年正月授2新田部淨廣貳1〔頭注、校正者云。新田部の下皇子の二字脱か〕。慶雲元年正月三品新田部親王益2封百戸1その後四年十月の件に二品とみえ和銅七年正月に益2封二百戸1。養老三年十月に賜2内舍人二人衛士二十人1益2封五百戸1〔頭注、校正者云。内舍人二人の下大舍人四人の五字有るべし〕。通v前一千五百戸。四年八月に爲2知五衛及授刀舍人事1。神龜元年二月授2一品1。天平三年十一月始置2畿内惣管諸道鎭撫使1。以2一品新田部親王1爲2大惣管1。七年九月壬午一品新田部親王薨とあり
 
八隅知之吾大王《ヤスミシシアガオホキミ》。高輝日之皇子《タカヒカルヒノミコ》。茂座大殿於《シキマスオホトノノヘニ》。久方天傳來《ヒサカタノアマツタヒクル》。白雪仕物往來乍《ユキジモノユキカヨヒツツ》。益及常世《イヤトコヨマデ》
 
日之皇子《ヒノミコ》は新田部親王をさす○茂座《シキマス》の茂《シキ》は假字にて敷座《シキマス》なり○白雪仕物《ユキジモノ》は猪《シヽ》を十六自物《シシジモノ》といふに同じくただ雪のことにて往來《ユキカヨヒ》のユキにかさねて文《アヤ》なせるのみ○往來乍は久老がユキカヨヒツツと訓るに從ふべし○益及常世には或は常〔傍点〕は萬〔傍点〕の誤にてヨロヅヨマテニと訓べしといひ久老は常〔傍点〕は座〔傍点〕の誤にてイヤシキイマセと訓べしといへれどしか字を換てよまんは快からず。故に芳樹はユキカヨヒツツイヤトコヨマデと訓て常世は萬代といはむもおなじければ久しくいつまでもましませと云意なるべくおぼゆ。記に「舞するをみな登許余爾母加母《トコヨニモカモ》」とあるも萬世まで若くてあれかしとよみたまへるなればここと同じ○歌意は明らかなり。此皇子飛鳥の八釣山に別莊ありて藤原都より常にかよひ玉ひしを人磨御供にさふらひてよめるなるべし
 
反歌《ミジカウタ》
 
矢釣山木立不見《ヤツリヤマコタチモミエズ》。落亂雪※[馬+麗]《フリミダルユキニアユメル》。朝樂毛《アシタタヌシモ》
 
失釣山は大和の高市郡に矢釣村あればそこなるべし。顯宗紀に召2公卿百寮於近飛鳥八釣宮1とみゆ○※[馬+麗]は芳樹云。眞淵の※[足+麗]の誤ならむといへるに從ふべし。【馬と足との偏の誤などはまゝあることなり】こは名義抄に※[足+麗]【あゆむ、はけるくつ】とみえ字類抄にも歩につつけて此字を載せたればアユムとよむこと論なし。かかればユキニアユメルとよむべし。【眞淵のユキニキホヘルと訓めるもさることなれど】あしたの雪の跡なきうへにあとつけてあゆめるをいへるなればアユメルと訓べし【古義に「眞淵の※[馬+麗]を※[足+麗]の誤としてキホヒテと訓べしといへれどキホヒといふ詞は物に對《ムカ》ひて爭ふ意の詞にてたゞ行ことの遽《トキ》をいふ事ならねば題字も迂《トホク》やあらむ。おもふにこは驟の誤にて集中に驟字サワゲと訓たればユキニサワギテなるべし。上にいへる如く養老三年に此皇子に内舍人二人大舍人四人衛士二十人をたまへれば數多《アマタ》の舍人の類ひが驟きて朝參《マヰリ》侍ふさま思ひやるべし。此下に皇子乃御門乃五月蠅成驟騷舍人《ミコノミカドノサバヘナスサワグトネリ》とあるをも合せみるべし」。といへるは甚だしきひがことなり。そは此驟騷舍人《サワグトネリ》てふ長歌は安積皇子の薨したまへるを悼《カナシ》める歌なるをこはこの皇子は續紀によるに御年十七の時櫻井の頓宮にて脚病おこり還らせたまひやがて薨し玉へり。故に仕へ奉る舍人等も周章驟騷《アハテサワギ》けむもさもありけむ。然るにその詞を證として雪のあした舍人等が驟《サワ》ぎて宮にまゐるといふことあるべきかは。しかサワギテといふべくは眞淵のキホヒテといへるも舍人等の互に競《キホ》ひてまゐることともいひつべし。さるをその眞淵の説をば非としておのが思ふまゝに字を改めてサワグと訓《ヨメ》るも雪の朝のさまにはつきつきしくもあらず。かかれば※[足+麗]字アユメルと訓て雪中をかなたこなたとあゆみあそべることゝなせるがまさりなんか】○朝樂毛《アシタタヌシモ》は雪にあゆめるあしたの樂しきよしなり【古義に樂の下に吉字などの脱《オチ》たるにて朝は卷十八に朝參とあるによりてマヰラクヨシモと訓べしといへれどかの十八に朝參とよめるは越中にありて京都を思ひやりたる歌にて朝參は朝廷に參入ることなり。たとへば皇子の宮なりとてその宮に參入《マヰル》に朝字をば用べきにあらず。然ればここは雪のあしたの面白き事とすべきなり】○歌意。長歌に白雪仕物《ユキジモノ》とあるは往《ユキ》にかさねで文《アヤ》なせる枕詞ながら反歌《ミジカウタ》によりておもふに白雪《ユキ》ジモノの詞もまのあたりみし雪をもてつかひたるなり。されば宮に近き矢釣山の木立も見えぬほどに雪のふり亂るるあしたその雪のうへをあゆみつつまゐればいつよりも樂しくおもしろしとなり
 
從2近江國1上來《マヰノボル》時|刑部垂麿《オサカベノタリマロ》作歌一首
 
目録に刑部垂磨從2近江國1上來時とあるをよしとす。例みなしかり。刑部は氏にて忍坂部《オサカベ》なり。和名抄に大和國城上郡忍坂【於佐加《オサカ》】より出たる氏なるべし。刑部とかくは同抄所々に刑部と書る郷名ありてみなオサカベとよめり。こは紀に刑部《オサカベ》ありて傳に忍坂郷の人等の刑部《ウタヘ》の職に仕へし事のありしよりやがてその職名の字を書ならへるなり。【さればオサカベといふ名は忍坂部にて刑部《ウタヘノ》職に由あるにはあらず。然るをナサカベをもとよりの刑部の職名とこゝろうるは非なり】垂麻呂傳詳ならず
 
馬莫疾打莫行《ウマイタクウチテナユキソ》。氣並而見※[氏/一]毛和我歸《ケナラベテミテモワガユク》。志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》
 
上句莫字二つあるはいぶかし。こは必ず一字は衍にて「うまいたくうちてなゆきそ」なるべし○氣並而《ケナラベテ》のケは【來經《キヘ》の切ケなり】日數を並べ重ねてといふことなり○志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》の七《ナ》を略解、古義等亡〔傍点〕の誤とせるは非なり。卷四にも吾莫七國《ワレナケナクニ》とあり○歌意は。志賀の浦の眺望のいとおもしろくていつまで見ても飽たらねども日數をかさねて行べき所にもあらねばせめてゆるやかにだに行まほしきをさのみいたく馬をうつことなかれと口とれる僕に仰するよしなり
 
柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來《マヰノボル》時至(テ)2宇治河(ノ)邊《ホトリニ》1作歌一首
 
物乃部能八十氏河乃《モノノフノヤソウヂカハノ》。阿白木蘭不知代經浪乃《アジロキニイサヨフナミノ》。去邊白不母《ユクヘシラズモ》
 
物乃部能《モノヽフノ》は枕詞なり。八十氏河につづくよしは既にいへり○阿白《アジロ》は借字にて氷魚《ヒヲ》を取る料の網代なり。網を張りわたす代りに岸より岸へ杭を透間なく打ち中ほどを一間あけて其下に簀《ス》をしき落來る水に隨ひて簀に流れ入る氷魚を取るなり。故に網の代《カハ》りとなるをもて網代《アシロ》といひ岸より岸にうつ杭はみな木なるゆゑに網代木ともいふなり。内膳式に山城近江國氷魚(ノ)網代各一所。其氷魚始2九月1迄2十二月三十日1貢v之とあり。【山城は宇治川。近江は田上川なり】卷七に「氏河はよどせなからし阿白呂人《アジロヒト》舟よばふ聲をちこち聞ゆ」などともありて網代に名高き所なり【源氏物語にもこのあじろの事委し。後世のうたはあぐるにたへず】○不知代經浪《イザヨフナミ》は流れゆかんとする波の網代にせかれてしばし猶豫《イサヨ》ふをいふ【イサヨフはヤスラフと同じ】○歌意は。宇治川は急流にて流れくる波のいとはやきが網代木に塞《セ》きとめられて暫しやすらふとみえたれどいつの間にか杭の間より流れいでゝ行へもしらずなれるかなとよめるなり。これを契冲は世中の旡常をたとへたりといへれど人麿の當時《ソノトキ》旡常をたとへてよまれたるにはあらでただ實景の歌なることは論なけれどいざよふとみえし波の行へしらずなれるかなとおもはれたる意中にはおのづから常旡き世のありさまもこもれるよしに解けりとて強説にはあらじ。古義に卷七に「大伴のみつの濱へをうちさらしよせくる波の逝方不知毛《ユクヘシラズモ》を引てこれに同じといへれどユクヘシラズモの詞はおなじからめど「あじろ木にいざよふ波の」といひて暫しただよひしさまを上にいひさてユクヘシラズモとよめる感情かぎりなきものにてかれと同じといふべきにはあらぬものなるをや
 
長忌寸奥麻呂《ナガノイミキオキマロ》歌一首
 
苦毛零來雨可《クルシクモフリクルアメカ》。神之埼狹野乃渡爾《カミノサキサヌノワタリニ》。家裳不有國《イヘモアラナクニ》
 
零來雨可《フリクルアメカ》のカはカナの意なり○神之崎《カミノサキ》は板本にミワノサキと訓み略解などもこれに從ひ南紀名勝志、行嚢抄などもミワガサキといひ宣長も「ミワガサキは紀伊の牟婁郡にて新宮より那智へゆく道の海邊なり。新宮より今の道一里半ばかりありてそのつづきに佐野村もあり」といへれば動くまじき説の如くなれど神字をミワと訓は大和の大神《オホミワ》にかぎれるなるべければ古義にいへるごとくこはカミノサキと訓べし。其説に神武紀に越2狹野1到2熊野神邑1とみえたるそこの埼をいふなるべし。【元亨釋書云。釋明算姓佐藤氏。紀州神崎人】通證に熊野神(ノ)邑俗名2神藏1處疑是也。距2狹野1二里許。在2新宮地方1【續古今集に「三熊野の神藏山の石疊のぼりはてても猶いのるかな」平家物語熊野参詣の件に「本宮より舟にのり新宮へぞまゐられける神の藏を拜み云々。狹野の松原さし過てなちの御山にまゐりたまふ」】この神藏といふ所いにしへの神邑にて即ち神崎なるべくや。といへり○狹野乃渡《サヌノワタリ》は下に佐野能崗《サヌノヲカ》ともあり。渡は海川の渡津をいふ【邊をワタリといふ事は萬葉の頃はいまだ无かりしと古義にいへり】○歌意あきらかなり【定家の「駒とめて袖うう拂ふ蔭もなし狹野のわたりの雪のゆふぐれ」とよまれしは雨を雪にかへて家モアラナクニを蔭モナシに換へられたる上手のしわざにていとおもしろきを萬葉をとれる僞言ぞなどいへるは歌をしらぬ愚人の説にて取にたらず】
 
柿本朝臣人麻呂歌一首
 
淡海乃海夕浪千鳥《アフミノミユフナミチドリ》。汝鳴者情毛思努爾《ナガナケバココロモシヌニ》。古所念《イニシヘオモホユ》
 
淡海乃海《アフミノミ》は神功紀に阿布瀰能瀰《アフミノミ》とあるによりて訓つ。夕浪千鳥《ユフナミチドリ》は夕浪のうへを啼わたる千鳥なり○情毛思努爾《ココロモシヌニ》のシヌは靡《シナ》フなり。【ナブの切ヌ】さるは心といふものみな氣の持やうによりて快《ココロヨ》くおぼゆるときは表《ウヘ》に浮《ウ》き起《タ》ち不快《ココロヨカラズ》おもふ時は裏《シタ》に沈みこむものにて俗にウキウキトセヌなどいふが此シヌに同じきなり。集中にいとおほき詞なり○古所念《イニシヘオモホユ》は天智天皇の郡の荒たるにつきてその盛《サカ》えしいにしへをおもほゆとなり
 
志貴皇子《シキノミコノ》御歌一首
 
牟佐佐婢波木末求跡《ムササビハコヌレモトムト》。足日木乃山能佐郡雄爾《アシヒキノヤマノサツヲニ》。相爾來鴨《アヒニケルカモ》
 
牟佐佐婢《ムササビ》は和名抄に本草云、※[鼠+田三つ]鼠一云※[鼠+吾]鼠〔頭注、校正者云。一云は一名か〕。和名|毛美《モミ》。俗云|無佐々比《ムササビ》。無名苑註云。状如v※[獣偏+爰]而肉翼。似2蝙蝠1能從v高而下。不v能2從v下而上1。常食2火姻1。聲如2小兒1者也とあり。木末求跡《コヌレモトムト》のコヌレはコノウレの約まれるなり。【コヌレを後世はもはら木《コ》スヱといへり】此獣略解には「今下野二荒山の邊にて樹上を多くかけるとぞ。俗にノブスマと云ものなり」といへりノブスマは下野あたりにていふことならんか。大和本草にムササビ、バンドリ、ソバオシキ、モモグハ、モモガ皆一物也。本草云。肉翅。四足連v尾。飛不v能v上。異名※[鼠+吾]鼠。状如2蝙蝠1如2小狐1、山中有v之とみえたり。おもふに高きよりは下れど低きよりは上ること能はずといへるによれば木の本のかたより未に飛て上ることはならでここの木末求《コヌレモトム》山上などより麓の木末に飛下るをいへるならん。さてその求は住處《スミカ》を求めて木末にむれ來る鳥をまちとらんためなり。卷七に「三國山|木末爾住歴武佐々妣乃《コヌレニスマフムササビノ》鳥まつ如く吾を待やせん」とあるをおもふべし○山能佐郡雄《マノサツヲ》は山にて獣をとる獵師なり。紀に海幸山幸《ウミサチヤマサチ》と書て幸此云2左知1とみゆ。そのサチは幸取《サチトリ》なり。【キを省きトリを約めてチといふ】さて幸とは身の爲に吉き事をいふ。【福字をもかけり。これをサイハヒといふもサキハヒを音便にいへるなり】されば海にて魚を捕るを海幸《ウミサチ》。山にて獣を得るを山幸《ヤマサチ》といふ。通音なるゆゑにサキをサチといへるをまたチの通音なるゆゑにサツといひてヲにつづけたり。この事幸の事は卷一にもいへり【得物矢《サツヤ》。佐都由美《サツユミ》。佐豆人《サツヒト》などいへるサツみなおなじ】○歌意。※[鼠+田三つ]《ムササビ》は鳥を得むが爲に住べき木末を求むとて獵師に見あらはされてかへりておのが身を亡ぼしける哉とよめるなり。略解にいへるごとく物|欲《ホ》しみして身を亡すを譬へたまへるにて大友大津の皇子たちの御事などをまのあたり見たまひてしかおぼせるなるべし
 
長屋(ノ)王《オホキミノ》故郷《フルサトノ》歌一首 王の傳は既にいへり
 
吾背子我古家乃里之《ワガセコガフルヘノサトノ》。明日香庭乳鳥鳴成《アスカニハチドリナクナリ》。島待不得而《キミマチカネテ》
 
吾背子《ワガセコ》は長屋王の親しくし玉ふ人なるべし。その住すて玉へる家の明日香にあるゆゑに古家乃里之《フルヘノサトノ》とよまれしなり○明日香庭《アスカニハ》のハもじは外の處は知らねど君の古家《フルヘ》のある明日香にはといふ意のハなり〇島待不得而の島字は君の誤なり○歌意。遷都の後|吾背《ワガセ》の住すて玉ひし飛鳥の里の古家のほとりには君がかへり來ますやとまてども歸り來まさぬゆゑに待かねて千鳥が啼となり。さで裏《シタ》には長屋王は明日香にすみたまひしゆゑにふる郷の淋しきまゝに新都にます親しきかたかたの古家もなほあるゆゑにその方々にも來ませかしとおもほすまゝによみておくりたまへるなるべし
 
右今案從2明日香1遷2藤原宮1之後作2此歌1歟
 
端詞に故郷とあれば此注は无くてよし
 
阿部女郎屋部坂《アベノイラツメノヤベサカノ》歌一首
 
阿部氏は姓氏録に大彦命之後とあり。此女郎をも守部は遊女なりといへり三代實録に高市郡夜部村とある所の坂なるべし
 
人不見者我袖用手《ヒトミズバワガソデモチテ》。將隱乎所燒乍可將有《カクサムヲヤケツツカアラム》。不服而來來《キズテキニケリ》
 
人不見者《ヒトミズバ》を古義には眞淵のシヌビナバといふをとれり。されど赤裸を恥て忍び隱さむとおもふをただちにシヌビナバといはむもいかがあらん。故《カレ》略解によりてヒトミズバと訓り○來來は坐來の誤にてヲリケリなるべし○歌意。試にいはゞ此坂は赤はだ山なるがそは燒れてかくあかはだになれるなるべし。その赤裸を恥て隱さんとおもはゞ人だにみずは吾袖もても隱さんものを恥ともおもはぬにや赤裸のまゝにてをりけり。とよめるにや
 
高市連黒人羈旅《タケチノムラジクロヒトノタビノ》歌八首
 
客爲而物戀敷爾《タビニシテモノコホシキニ》。山下赤乃曾保船《ヤマシタノアケノソホフネ》。奥榜所見《オキニコグミユ》
 
物戀敷《モノコフシキ》は卷一にも物戀之伎《モノコフシキ》とあり〔頭注、校正者云。物戀敷本文の傍訓はモノコホシキ註の訓はコフシキとありて打合はず〕。物とは何くれと數多きをおほかたにさせるなり○山下は略解にはヤマモトと訓たれど宣長はヤマシタと訓り。其説は卷二|秋山下部留妹《アキヤマノシタフルイモ》の件にいへり。即卷十五に「あしひきの山下比可流毛美知葉能《ヤマシタヒカルモミチハノ》」などの山下《ヤマシタ》みな記に秋山之下冰《アキヤマノシタヒ》とあるに何言にて山朝備《ヤマアシタビ》のビを省けるなり。かかればここも山下は赤《アケ》の枕詞に置たるのみなり○赤乃曾保船は卷十三に赤曾朋舟《アケノソホフネ》とあり。その赤は古義にアカハエのアカを切めてアとなりハエを切めてケとなれれば朱映《アケ》の義なりといへり。曾保《ソホ》は卷十四に「まかねふく爾布能麻曾保乃《ニフノマソホノ》」とあるが丹生《ニフ》の眞赤土《マソホ》にて赤土の事なり。卷八に佐丹塗之小船《サニヌリノヲフネ》、卷十三に左丹漆之小舟《サニヌリノヲフネ》などいへる丹塗《ニヌリ》に歌同し。令集解の古記に公船者以v朱漆v之とみえたれば朱漆なりしとおもはる○歌意。旅なれば何事につけても物こひしくおもはるゝをりしも朱塗《アケヌリ》の官船の沖に榜出て都のかたへ歸りゆくがみゆ。いともいとも羨しきことよ。といへるなり
 
櫻田部鶴鳴渡《サクラダヘタヅナキワタル》。年魚市方鹽干二家良進《アユチガタシホヒニケラシ》。鶴鳴渡《タヅナキワタル》
 
櫻田《サクラダ》は和名抄尾張國愛智都|作良《サクラ》とある郷の田なり。催馬樂に「さくら人その船ちぢめ」のサクラもここなり〇年魚市方《アユチガタ》は神代紀に吾湯市《アユチ》。景行紀に年魚市《アユチ》郡とみゆ。そこの海潟《カタ》なり。然るを和名抄に愛智郡|阿伊智《アイチ》といへるは既《ハヤ》く訛れるなり。鹽干二家良進《シホヒニケラシ》は推度りていへるなり○歌意よく聞えたり。
 
四極山打越見者《シハツヤマウチコエミレバ》。笠縫之島榜隱《カサヌヒノシマコギカクル》。棚無小船《タナナシヲブネ》
 
四極山《シハツヤマ》は宣長云。或人云攝津國なり。今世住吉より東の方|喜連《キレ》と云所へゆく道の間に岡山のひきき阪あり。是四極山なり。雄略紀に十四年正月呉人のまゐれる件に泊2東住吉津1。是月爲2呉客道1通2磯齒津路1。名2呉阪1とあり。今いふ喜連《キレ》は久禮《クレ》を訛れるなり。此所住吉郡の東のはて河内の境にて古は河内の澁河郡につきて伎人《クレヒトノ》郷といひし所なり。今も此道、西は住吉の東の門より東は河内の柏原までとほりて古に呉人かよひし道なりと語り傳へたり。難波の古圖をみるに住吉社の南の方に細江とて沼あり。そこにしはつと記したり。卷六に「從千沼廻《チヌワヨリ》あめぞふりくる四八津之泉郎綱手乾有《シハツノアマツナテホシタリ》ぬれたへむかも」右一首遊2覧住吉濱1還v宮之時道上(ニテ)守部王應v詔作歌とあるにかなへり○笠縫之《カサヌヒノ》は宣長云。今東生郡の深江といふ所菅田多くて其管他所より勝れたり。里人菅より笠縫ふを業として名高く童謠にもうたへり。今も里長幸田善右衛門といふ者より御即位のをりは内裏へ管を献る。延喜内匠寮式に伊勢齋王野宮装束の中に御輿中菅蓋一具〔頭注、校正者云。御輿の下子の字脱か〕【菅并骨料材從攝津國1笠縫氏參來作】とあり。笠縫氏は此處の人にて有けむ。さて此深江は大阪より東にあたりて河内の境に近し。此地古へは島なりしよし里人いひ傳へたり。まことに此あたり北は難波堀江につづき東は大和川。南西は百濟川その外も小川ども多く流れあひて廣き沼江にてありしとおぼしくて難波の古圖のさまも然みえたり。又今此里人の語るをきくに此村のみ地高くてほとりはいづかたも地ひくし。井などほれば葦の根貝のからなど出づといへり。かくて此處かのしはつの山の坂路より北にあたりてよきほどの見わたしなれば「島こぎかくる棚無し小舟」とはよめるなりけり○棚無小舟《タナナシヲフネ》は船棚の无き小舟にて卷一に出たり○歌意かくれたる所なし
 
礒前榜手囘行者《イソノサキコギタミユケバ》。近江海八十之湊爾《アフミノミヤソノミナトニ》。鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》
 
記に加岐微流伊蘇能佐岐淤知受《カキミルイソノサキオチズ》とあり。【神名式に因幡國八上郡|伊蘇乃佐只《イソノサキノ》神社といふもあり】今近江坂田郡に磯崎村といふがあるよし略解にいへれど此磯前は地名にはあらざるべし○榜手囘行者《コギタミユケバ》は漕廻《コギメグ》りゆけばなり。タはそへたる言ミはモトホリの切《ツヅメ》にてコギモトホリユケバの意なり〇八十之湊《ヤソノミナト》も數々の湊の事なるべし○鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》の鵠は和名抄には鵠【久々比】大鳥也とあり。契沖云。五雜俎云。鵠即是鶴。漢書黄鵠下建v章而歌。則曰2黄鶴1是也。遊仙窟註引2琴操1曰云々援v琴而歌。爲2別鶴操2鶴或作v鵠かく鶴と通はし用たればタヅと訓むべし。古は鶴《ツル》をも鵠《ククヒ》をも鸛《オホトリ》をも共にすべてタヅといへりと宣長いへり
 
未詳 板本此二字あり。誤て入たり。除すべし
 
吾船者枚乃湖爾《ワガフネハヒラノミナトニ》。榜將泊奥部莫避《コギハテムオキヘナサカリ》。左夜深去來《サヨフケニケリ》
 
枚乃湖は近江國滋賀郡なり【和名抄にはみえず】○奥部莫避《オキヘナサカリ》の奥へ〔二字傍点〕の部〔傍点〕は沖の方へといへるなり。莫避《ナサカリ》は遠さかることなかれといへるなり。【莫避曾《ナサカリソ》といふべきを曾を省く例古歌におほし】卷七に「わがふねは明石の浦にこぎはてん沖へなさかりさよふけにけり」とあり【こはおなじ歌を少しうたひかへたるなり】○歌意。榜《コギ》つれて行船どもの奥のかたへ出るさまなるをみて他船はとまれ、わが船は枚《ヒラ》の湖に榜ぎいれて泊るべし。夜も深たれば奥へとはさかり出ることなかれと船人に仰するなり
 
何處吾將宿《イヅクニカアレハヤドラン》。高島乃勝野原爾《タカシマノカチヌノハラニ》。此日暮去者《コノヒクレナバ》
 
何處《イヅクニ》は略解イヅクニカとあれど古義にカに當るもじ无ければイヅクニと四言に訓べしといへるに從ふ○勝野は和名抄近江に高島郡三尾【美乎《ミヲ》】とあり。そこの野なり。卷七に「大御舟はてゝさもらふ高島之三尾勝野之奈伎左思所思《タカシマノミヲノカチヌノナキサシオモホユ》」とあり○歌意は。もし勝野の原にて行暮なばこの曠き野にやどるべき家も无ければ何處に行て今夜はあかさむとなり
 
妹母我母一有加毛〔頭注、校正者云。一有加毛の毛は母とあるべし〕《イモモアレモヒトツナレカモ》。三河有二見自道《ミカハナルフタミノミチユ》。別不勝鶴《ワカレカネツル》
 
一有加母《ヒトツナレカモ》は身のふたつならば別るゝに難かるまじきをかく別れ難きは身のひとつにてあればにやの意なり。三河二見といへる因に一(ツ)といへるなり。二見は參河の地名なり。されど物にみえず【守部に和名抄に參河國に呰見《アタミ》といふあり呰は雙の誤にてフタミにはあらぬにやといへれどおぼつかなし】○歌意。黒人三河の國司などにて任はてゝ上る時よしありて近江山城攝津などを廻りて大和へ歸るに妻はたゞちに大和へ歸れば別るゝ時よめるなるべし【さては猶もろともに上りて美濃近江などにて別れてもしかるべきを三河にて別れたるは攝津までも廻るゆゑに黒人は三河よりさきへ行き越さんとて別れしなるべし】
 
一本云。水河乃二見之自道《ミカハノフタミノミチユ》。別者吾勢毛吾毛《ワカレナバアガセモアレモ》。獨可毛將去《ヒトリカモユカム》
 
一本とのみにては黒人歌と聞えていかゞなり。こは黒人妻答歌の五字脱たるなるべし○水河乃《ミカハノ》の乃は有の誤なることしるし【黒人の軟に三河有《ミカハナル》とあればその答歌に水河乃《ミカハノ》と四言にいふべきにあらず】
 
速來而母見手益物乎《トクキテモミテマシモノヲ》。山背高槻村《ヤマシロノタカツキノムラ》。散去奚留鴨《チリニケルカモ》
 
速來而毛《トクキテモ》を古義にハヤキテモと訓れどいかゞなり。記に悔哉不速來《クヤシキカモトクキマサズシテ》こは必らずトクと訓べければこゝもこの例もてトクキクモと訓べきなり。新拾遺集に此歌を引たるにもトクキテモとあり。トクとハヤとは少しけちめあれど用ゐざま大かた同じ○高槻村は山城名勝志云「在2山崎(ノ)南二里許1。水无瀬以下高槻村以上攝津國島上郡也然るを萬葉集、夫木集、三十八帖歌枕等に山城國に入れるあり。上古は山城國のうちにてもありけるか。其實をしらず。仍附録に載之」とあり。されど今は攝津なり
 
石川(ノ)女郎《イラツメガ》歌一首
 
板本に少郎とある少字は決《ウツ》なく誤なれば改めつ
 
然之海人者軍布苅鹽燒《シカノアマハメカリシホヤキ》。無暇髪梳乃小櫛《イトマナミクシゲノヲクシ》。取毛不見久爾《トリモミナクニ》
 
然《シカ》は和名抄筑前國糟屋郡志珂これなり。神功紀に磯賀海人《シカノアマ》名草とみえたり。筑前風土紀にこの資※[言+可]《シカノ》島の事を記していはく此島與2打昇濱1近|相連接《アヒツヅキテ》殆可v謂2同地1。因《カレ》曰2近《チカノ》島1。今訛(テ)謂2之資※[言+可]島1とあり。海人《アマ》はこれは女にて下に「鹽干の三津之|海女《アマメ》」とあるにおなじ。【アマヲトメとよめるはいとおほし】和名抄には白水郎【和名阿萬】潜女【和名加豆岐米】と別に載せて女のかたをば潜女《カツキメ》といへり。こは波に潜きて蚫など捕るはもはら女の業なればカヅキメともいへるなれどアマといふ言は男女にわたれる稱なれば四句によるにこの海人《アマ》は女なり○軍布は昆布に通はしかけるなり。メと訓べし○無暇はイトマナミなり。卷廿に欲流乃伊刀未《ヨルノイトマ》とみゆ。字鏡に※[人偏+総の旁]※[人偏+怱]。伊止奈思とあるによればイトマナシのマはイトに間《マ》をそへたるなり。營《イトナ》むといふ事も无暇《イトナム》の意と聞えたりと古義にいへり。髪梳《クシケ》は櫛笥《クシケ》の借字なり【梳は説文に理髪也とあればケヅルのツルを省きて笥《ケ》の假字に用たるなり。弓削《ユケ》のケのケツルのツルを省けるに同じ】○歌意。昆布《メ》を刈、鹽を燒きなどするに暇无くて女の身ながら櫛笥の小櫛とり出て髪《クシ》けづることもえせぬよしなり。芳樹おもふにこは女郎が故ありて筑紫に下りゐたりしほど海女《アマ》のわざをみてよめるにて然之海人者《シカノアマハ》の者《ハ》もじに海人はかくの如く暇もなくて櫛笥《クシケ》の小櫛だに取もみもせぬのに【ナクニをかく譯ししはあゆひ抄によれり】妾《ワレ》らは徒らにかくてくらすがあぢきなき事哉といふ意をおもはせたるなるべし
 
右今案。石川朝臣君子號曰2少郎子1也
 
こは女郎を少郎と誤れる後に書加へしものなり
 
高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》歌二首
 
吾妹兒二猪名野者令見都《ワギモコニヰナヌハミセツ》。名次山角松原《ナスキヤマツヌノマツバラ》。何時可將示《イツカシメサム》
 
猪名野は和名抄に攝津國河邊郡爲奈これなり【今も伊丹の西北に猪名川といふあり。そのあたりすべて猪名野なり】○名次山《ナスキヤマ》は神名式に攝津國武庫郡名次神社とあり。こゝの山なるべし。角松原は和名抄に武庫郡津門【都止《ツト》】とある處か。西宮の東につと川といふ流あり。このあたりに眺望《ナガメ》よき松原今もあり○何時可將示《イツカシメサム》の示《シメス》は委しく其所をいひ聞せて見する事なり。下に「家妹《イヘノイモ》が濱づとこはば何矣示《ナニヲシメサム》」また卷九に「國《クニ》の眞保良《マホラ》を委曲《ツバラカ》に示賜《シメシタマヘバ》」などあり○歌意。兼て妹にみせまほしく思ひし猪名野の勝地をば見せたれどまだこのゆくさきの名次山角の松原のおもしろきをえみせねばはやく其處に至らばやとおもふを女を伴へる旅ゆゑいとおそくて思ふやうならぬかな。いつかはゆき至りてここぞと示すべきとなり。こは地理をもて考るに下る時の歌なり
 
去來兒等倭部早《イザコドモヤマトヘハヤク》。白菅乃眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》。手折而將歸《タヲリテユカム》
 
去來《イザ》はいざなふ言。兒等《コドモ》は妻女などをいへるなり。卷一にもみえたる詞なり○白菅乃眞野《シラスゲノマヌ》は攝津八田部郡なり。白菅の生る眞野とつゞけたるなり。かかる例のこと卷一にいへり。略解に白菅を地名といへるはわろし。契冲曰、此集に「わぎもこが袖をたのみて眞野の浦の小菅の笠を着ずて來にけり」「眞野の池の小菅を笠にぬはずして人のとほ名を立べきものか」此所に菅のあるゆゑにシラ菅ノ萬野とつゞくるにや。といへり○榛原といふ名におひて榛のおほかるを手をりて家つとに持かへらむといへるなり。上なる「吾妹兒に」のうたは下る時にてこの去來兒等のうたは上る時の歌なり
 
黒人妻答歌一首
 
白菅乃眞野之榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》。往左來左君社見良米〔頭注、校正者云。見良米の米は目か〕《ユクサクサキミコソミラメ》。眞野之榛原《マヌノハリハラ》
 
往左來左《ユクサクサ》は往時來時《ユクサクサ》なり。古義云。肥前國風土記に爲禰弖《ヰネテ》牟志太夜。【率宿《ヰネ》てむ時《シタ》やなり】卷十一|此左太過而《コノサダスギテ》。十四に阿抱思太毛安波乃敞思太毛《アホシダモアハノヘシタモ》。卷廿に和須例母之太波《ワスレモシダハ》など猶多し。シダもサダも時字の義なるを約ればシダもサダも共にサとなる故に往時來時をユクサクサといふなり○歌意。この榛原のおもしろきけしきを君こそ度々往來に見愛《ミメ》で給ふらめど妾《ワレ》は女なればまた見る事もあるまじければよくみてゆかむといへるなり。黒人西國の受領などにて任國に妻をゐて下りたるが、また朝集使などにて上る時妻を引率《ヒキヰ》たりしゆゑその妻かくよめるなるべし
 
春日藏首老《カスガノクラビトオユ》歌一首
 
角障經石村毛不過《ツヌサハフイハレモスギズ》。泊瀬山何時毛將超《ハツセヤマイツカモコエム》。夜者深去通都《ヨハフケニツツ》
 
角障經《ツヌサハフ》は石の枕詞なり。【既く出なり】石村《イハレ》をさへにまだ過ずといへり。石村《イハレ》は十市郡にありて神武紀に舊名片居《モトノナハカタヰ》。亦曰2片立《カタチ》1。【中略】大軍集而滿《イクサビトツドヒテイハメリ》2於|其地《ソコニ》1。因《カレ》改(テ)v號(ヲ)爲2磐余《イハレ》1とみゆ○泊瀬山《ハツセヤマ》は城上郡なり○夜者深去通都《ヨハフケニツツ》のニはイニのイを省けるなり○歌意。石村をもまだ過ぬほどに夜は深にたり。かくては泊瀬山はまだ遠きをいつかこゆべき。とても夜のうちにはえこえざらん。とよめるなり。飛鳥藤原あたりより石村泊瀬と經ゆくみちにてよめるなるべし
 
高市蓮黒人《タケチノムラジクロヒト》歌一首
 
墨吉乃得名津爾立而《スミノエノエナツニタチテ》。見渡者六兒乃泊從《ミワタセバムコノトマリユ》。出流船人《イヅルフナビト》
 
得名津《エナツ》は和名抄に攝津國住吉郡榎津【以奈津《イナツ》】とあり。エナヅをイナヅといへるは訛れるなり六兒《ムコ》は同抄に武庫郡【無古】とあり。今の兵庫なり【元亨釋書に武庫のもじによりて附會の説を載せたり。取用ゐるべからす】
 
春日藏首老歌《カスガノクラビトオユガウタ》一首
 
燒津邊吾去鹿齒《ヤキツヘアガユキシカバ》。駿河奈流阿陪乃市道爾《スルガナルアベノイチヂニ》。相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》
 
燒津邊《ヤキツヘ》と四言に訓べし。へは今も云詞にて何處へユクなどいふへなり。燒津へわかゆきしかばの意なり。燒津は景行紀に日本武尊初至2駿河(ニ)1云々。悉|焚《ヤキ》2其|賊衆《アタドモ》1而|滅v之《ホロボシタマヒキ》。故號2其處1曰2燒津《ヤキツ》1とあり。神名式駿河國益頭郡燒津神社。和名秒に駿河國益頭【末志豆《マシヅ》】郡益頭【万之都《マシツ》】とみゆ。益はヤクの音なるをヤキに轉して益頭《ヤキヅ》とかけるを後に燒《ヤキ》といふを忌て益《マス》の訓に唱へかへたり【此例多し。備後の安那は穴なるをヤスナと唱へ大和は飫富《オフ》は飯富《オブ》なるをイヒトミと唱ふなどこれなりと宣長いへり】○阿倍乃市道《アベノイチヂ》は安倍の市の道にての意にて安倍の市にてといはんも同じ【東京にてたとへば本所ニテといふべきを本所ノ道ニテといはんが如し】安部の市にゆく道にての意にはあらず。和名抄に駿河國々府在2安部郡1とみえて即今の府中なり。國府は國人の集ふ處なればここに市立あるなり。〇相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》の兒等は女をいへり。ハモは歎息の辭なり。例いと多し○歌意。燒津へ行しかば阿倍の市の人あまた往來ふ道中にてあひし女はも姿容のうるはしくて忘られぬをいづこへ行しならんと慕へるよしなり。古義に老は常陸介なりしよし懷風藻にみえたれば任に下れる時の歌なるべしといへれどさては燒津へと云ふべからず。おもふにこは此人駿河の守介の間にてこの國に下りゐたりしほどなるべし。さらでは解がたし
 
丹比眞人笠麻呂《タヂヒノマヒトカサマロ》《ユキ》2紀伊國《キノクニニ》1超《コユル》2勢能山《セノヤマヲ》1時《トキ》作歌一首
 
笠麻呂傳詳ならず卷四に歌出たり
 
栲領巾乃懸卷欲寸《タクヒレノカケマクホシキ》。妹名乎此勢能山爾《イモノナヲコノセノヤマニ》。懸者奈何將有《カケバイカニアラム》〔頭注、校正者云。奈何將有の下一云可倍波伊香企安良牟とあり。〕
 
栲領巾乃《タクヒレノ》は枕詞なり。領巾《ヒレ》は頸《ウナジ》にかくるものなれば懸《カケ》とつづけたり。懸卷欲寸《カケマクホシキ》は詞にかけていはまはしきとなり○妹名乎《イモノナヲ》は妹《イモ》ガとは訓《ヨム》べからず。妹ガといへばさす女ありで其女のことゝなるなり。イモノといへば妹トイフ名ノ〔頭注、校正者云。妹トイフ名ノは名ヲか〕といふことになりて意いささかたがへり、この背山《セノヤマ》の美《ウルハ》しきに妹といふ名をかけたらばといふなり〇懸者奈何將有《カケバイカニアラム》のカケは負持せなばいかにあらんと云むがごとし。【古義に二句の懸とはいさゝかの異なり。名に負持つことを懸といへるは御名爾懸世流明日香河《ミナニカカセルアスカガハ》などの塁なほあり】○歌意。かりにも言端《コトハ》にかけていはまほしき妹といふ名をこの兄山《セノヤマ》に負持《オヒモタ》せて背《セ》といふ名を改め妹山《イモヤマ》と呼なしたらばその名をいひてだに戀しくおもふ家の妹とおもひて旅のなぐさめにせんといへるなりといへる諸註みなかくのごとし。芳樹集中につきて勘るに背の山を妹と呼なさでも妹山といふも此所にありてその二山をひとつに妹背山といへり。これもいとふるきよりの事にて卷七に「勢の山にただに向へる妹山《イモノヤマ》事ゆるせやも打椅渡《ウチハシワタス》」また「人ならば母がまなこぞあさもよし木の川のへの妹とせのやま」「わぎも子にわがこひゆけば乏しくもならひをるかも妹と背のやま」とみえたる妹山背山と并ひたてる證なり。【此外に妹脊山とつゞけてよめるは「大穴むちすくなみかみのつくらしゝ妹背の山うぃ見らくしよしも」「おくれゐて戀つゝあらずば木國の妹背の山にあらましものを」など其外古今集より以下にいとおほし】されどおもふに孝徳紀にはじめて兄《セノ》山とみえたる當時《そのとき》はいまだ妹山といふは无かりしを後に風流《ミヤビ》このむ人の背《セ》といふ名によりて川のあなたに相對《アヒムカ》ひたる山あるを妹山とよびなしたるなるべし。さて大和より紀に下るには川の北なる背山をこゆれば妹山は川のむかひにへだたり往《ユキ》來ふ路のほとりにはなし。故に「乏しくも并びをるかもなどと夫婦の相並べるを羨やめるさまによめるもあれど作者の意さまざまなれば家の妹をおもふまゝに妹山は川向ひにへだゝりたるゆゑそれには目もかけずてたゞちに足にふむ處の背山《セノヤマ》の姿なごやかにて木々のみどりのうるはしきが男山といはんよりは。女郎《ヲミナヤマ》とせんかたのつきづきしとおもひてかくよめるなるべし。【源氏物語に男のうるはしきを女ニテミマホシといへるも女にしてみまほしの意にてこの歌源氏のこゝろばへにかよへり】諸註歌の意をつくさず
 
春日藏首老即和歌《カスガノクラビトオユガスナハチコタフルウタ》一首
 
宜奈倍吾背乃君之《ヨロシナベワガセノキミガ》。負來爾之此勢能山乎《オヒキニシコノセノヤマヲ》。妹者不喚《イモトハヨバジ》
 
宜奈倍《ヨロシナベ》は宜並《ヨロシナベ》にて宜しきことのいくつもならぴて滿たゝへるをいふ詞なり【卷一にみゆ】○歌意。妹をこひしくおもひ給ふはさることながら背《セ》といふ名はうるはしきわが兄《セ》の負ひ來給へる名なればこの名をかへていかで妹山《イモヤマ》とは呼なすべきぞといへるなり
 
《イデマセル》2志賀《シガニ》1時《トキ》石上卿作歌《イソノカミノマヘツギミノヨメルウタ》一首 名闕[二字□で囲む]
 
名闕の二字後人の加筆なり○志賀の幸は古義云。續紀に元正天皇の養老元年九月に觀2望淡海1とある度の事にて石上卿は乙麻呂卿なるべし。【乙麻呂の父左大臣麻呂は養老元年三月に薨したれば九月の行幸に從駕すべき謂旡し】同紀に神龜元年二月壬子授2正六位下石上朝臣乙麻呂從五位下1これ國史にみえたる始にて天平勝寶二年九月の件に中納言從三位兼中務卿石上朝田乙麻呂薨とあり。この行幸には未若かりければ六位の官人にて從駕《ミトモツカヘ》しなるべし。卿とあるは後の官位を前にめぐらしてかけるなり。卷六に石上乙麻呂卿配2土佐國1とあるもその時は四位なれば卿とは云まじき事なれども前にめぐらしかける事今と同じ。といへるふとみてはさもやとおもはるゝ説なれども芳樹おもふにこれいみじき非《ヒガゴト》なり。そは父の左大臣麿養老元年三月に薨ぜられたれば一年の喪を行はるゝ身を以ていかでかその九月に行幸の供奉せらるべき。【三月より九月まで二百日になれるかならぬかほどなり】今も要官に居る人にて暫しも御側を放たれがたくば奪情從職にて從駕もすまじきにあらねど乙麿はその時いまだ六位の官人などにてありしなるべければ要職なるべきにあらず。決《カナ》らす喪にゐて家にありしこと疑なし。されば略解にいへるごとくこの卿は父の麿の身にてこの幸は大寶二年に持統天皇三河美濃にいでましの時の事なりといへるに從ふべし
 
此間爲而家八方何處《コヽニシテイヘヤモイヅク》。白雲乃棚引山乎《シラクモノタナビクヤマヲ》。超而來二家里《コエテキニケリ》
 
家は奈良の都の家なり○歌意よくきこえたり。卷四に「此間在而《コヽニアリテ》つくしやいづく白雲の棚びく山のかたにしあるらし」とあるに似たり
 
穗積朝臣老歌《ホヅミノアソミオユガウタ》〔頭注、校正者云。歌の下一首の二字脱か〕
 
續紀の大寶三年正月遣3正八位穗積朝臣老于2山陽道1とみえ和銅三年正月受朝に左副將軍從五位下にて皇城門外に陳列し養老元年三月左大臣石上朝臣麻呂の薨る時正五位下にて五位以上の誄をなし養老六年正月に正五位上穗積朝臣老坐指2斥乘輿1。處2斬刑1。而依2皇太子奏1降2死一等1流2於佐渡島1。天平十二年六月流人穗積朝臣等五人召令v入v京やがでもとの如く正五位上に復れるなるべく同十六年二月丙申【帝は難波宮にませり】正五位上穗積朝巨老五人爲2恭仁宮留守1とみえたり。さて老の此歌よめるは上の石上卿のよめりし時とおなじをりなるべし
 
吾命之眞幸有者《ワガイノチノマサキクアタバ》。亦毛將見志賀乃大津爾《マタモミムシガノオホツニ》。縁流白波《ヨスルシラナミ》
 
吾命《ワガイノチ》之を略解にワガイノチシと訓るはわろし。凡て吾命と云ときは必ずノ、ヲ、モ、バなどの辭をそへて六言にいふが古歌の例なり【句中にア、イ、ウ、オの言あれば六言にても耳だゝずと宜長云り】
 
右今某不v審2幸行年月1
 
この行幸のことをば端詞の下に委しくいへり
 
間人宿禰大浦初月《ハシヒトノスクネオホウラガミカヅキノ》歌二首 大浦紀氏見六帖〔七字□で囲む〕
 
大浦傳詳かならず。卷九に問人宿禰あり。同人歟。天武紀十三年十二月巳卯間人連賜姓宿禰1とあり。大浦紀氏云々の七字は後人の加筆なり。削るべし
 
天原振離見者《アマノハラフリサケミレバ》。白眞弓張而懸有《シラマユミハリテカケタリ》。夜路者將去《ヨミチハユカム》
 
白眞弓《シラマユミ》は白木の檀の木もて削りてその白木のまゝにて用る弓なり。檀は木質|黏《ネバリ》つよくてしなやかなるゆゑ上世もはら弓材とせり。是によりて木名をもマユミと負せたり。和名抄云。弦月(ハ)月之半名也。其形一旁(ハ)曲。一旁(ハ)直。若v張2弓弦1【由美八利】とあり〔頭注、校正者云。和名抄には弓弦の下也の字あり〕。張而懸有はハリテカケタリと訓てここにて絶《キ》るべL○夜路者將去《ヨミチハユカム》の去版本に吉につくれり故にヨミチハ吉ケムと訓れど一本去に作て略解にも去のかたまされりといへり○歌意。我も弓箭を携へたれどそはたのみになり難し。かく天原に白眞弓を張て懸て送れば夜行とも恐れはあらじ。いかなる賊徒《ヌスビト》もわれにより付むやは。いざ夜を〔頭注、校正者云。いざ夜の下路の字落ちたるか〕ゆかむといへるなり。芳樹この歌によりてたもふに夜ならでも常に刀劍は更にもいはず弓箭などをも道ゆくには携へしなるべくそは軍防令云。凡國司毎年孟冬簡2閲戎具1その義解に戎具者國内百姓隨身弓箭刀劍等之類也とありて刀劍を帶び弓箭をもつの禁《イマシメ》なし。故に卷五に「ますらをの男ざびすと劍太刀腰にとりはきさつ弓をたにぎりもちて赤駒にしつくらうちおきはひのりて遊びあるきし世の中の常にありける」と見えたるまた伊勢物語に「あばらなる倉のありけるに女をばおくにおしいれて男は弓やなぐひを持て戸口に」云々といへるなどの【こは夜行なるゆゑ殊にしかりしなり。これより後の書にても今昔物語其外に弓矢を持て旅行する事おほくみえたり】いにしへのさまをおもふべし
 
掠橋乃山乎高可《クラハシノヤマヲタカミカ》。夜隱爾出來月乃《ヨコモリニイデクルツキノ》。光乏寸《ヒカリトモシキ》
 
椋橋は大和の十市郡なり。諸陵式に倉梯岡陵在2大和國十市郡1とみえ續紀をみるに倉橋の離宮とてあれば天皇もをりをり行幸ましゝ所なり○夜隱爾《ヨコモリニ》は宣長云。夜ゴモリとは宵の方よりもいひ曉のかたよりも云ふ詞なり。いづかたよりも深きかたをコモルとはいふなりといへり。されば卷四に「月しあれば夜波隱良武《ヨハコモルラム》しましはありまて」とあるは曉のかたを主にしてまだ空に月のあれば夜はこもるらむしましはありまてといへる意にてこの歌の夜隱とはたがへり。これは歌意宵のかたを主として椋橋山の高きに障《サヘ》らるゝにやあらむ。いたく遲くふけて夜ごもりに月の出來るゆゑ見るまの短かくて光りの乏しきといへるなり。卷九にこのうたと同じくて尾句のみ「片待難《カタマチガタ》き」とかはれるを載たれどそはいまだ月のいでざるほどの歌なれば今とはことなり。かゝればこの歌には初月の意はなし。別に端詞のありて脱たりしより意得ぬものゝ天原云々の歌の端詞に二首の二字を加へたるものなるべし
 
小田事勢能山歌《ヲダノコトガセノヤマノウタ》一首
 
古今六帖に此歌の作者をヲタノコトヌシとあり。事の下主字を脱せるか
 
眞木葉乃之奈布勢能山《マキノハノシナフセノヤマ》。之奴波受而吾超去者《シヌバズテワガコエユケバ》。木葉知家武《コノハシリケム》
 
之祭武《シナフ》は神代紀に其秋|垂穎八握莫々然甚快《タリホヤツカニシナヒテイトヨシ》とある穗のよく實のりてなびき垂たるさまなり。卷十に「秋芽子之四搓二《アキハギノシナヒニ》あらん妹がすがたを」卷二十に「多知之奈布伎美《タチシナフキミ》がすがたをなどあるをみればしなやかに靡くをいふ詞にてその物により快よくも憂へあるさまにもみゆめり。されば此眞木の葉のしなふが如き憂へてしなぶなり○之奴波受而《シヌバズテ》は家をこひしく思ふ心にえたへしのばずしての意なり○歌意。家をこひしく思ふ心に得堪忍ばずして愁へしなへてこえくれば心なき木の葉さへわが頭をうなだれさも憂へありがほにしなへくる心のうちを知れるにや共にうなだれしなへてみゆるはとなり。卷七に「吾《ワガ》した心木葉知《コノハシリケム》」ともあり
 
角麻呂《ロクノエマロ》歌四首
 
角古寫本に※[角の2画目なし]とあり。字書に※[角の2画目なし]音録とあり。故に※[角の2画目なし]を録に通はしてもかけり.麿の上兄字を脱せり。續紀云。大寶元年八月勅2僧惠耀1還v俗。惠耀姓録。名兄麿。養老五年正月詔曰。文人武士國家所v重。醫卜方術古今斯崇。宜d擢(乙)於百僚之内優2遊學業1堪v爲2師範1者(甲)特加2賞賜1勸c勵後生u。因賜2云々陰陽從五位下角兄麿等各※[糸+施の旁]十匹、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口1とみゆ。かくて神龜元年に姓を羽林連と玉へり。こゝはいまだ羽林にならぬほどに書とめおけるをそのまゝ出せるなるべし
 
久方乃天之探女之《ヒサカタノアマノサグメガ》。石船乃泊師高津者《イハフネノハテシタカツハ》。淺爾家留香裳《アセニケルカモ》
 
天之探女之《アマノサグメ》。紀に天探女。此云2阿麻能左愚謎《アマノサグメト》1これなり○石船《イハフネ》は神武紀に有d乘2天磐船1飛降者u云々とある磐船も同じ。卷廿に「あきつしま山跡の國を天雲に磐船浮べ云々|安母里麻之《アモリマシ》」とあるは皇孫の天降《アマクダリ》ませるをいへるなり。天より降るにはみな石船《イハフネ》に乘れるさまに傳へたり。泊師高津《ハテシタカツ》は船の着しをいふ。さて高津は攝津風土記に難波高津者天稚彦天降時|屬之《ツキソヘル》神天探女乘2磐船1而至2于此1。其磐船所v泊。故號2高津1とあり。その高津は宣長云.難波の地形今の大阪より南へ住吉まで長くつゞける岸ありて潮來りし〔頭注、校正者云。潮來りしの下をの字脱か〕此歌よめる頃は既く此岸までは潮來らざりけん。故にかくいへるなるべし。といへり。かゝれば岸のうへにて高き地なるによりて高津といへるにて風土記の意とは少し異なり〇淺爾家留香裳《アセニケルカモ》は潮退て淺くなりにけるかもといへるなり
 
塩干乃三津之海女乃《シホヒノミツノアマメノ》。久具都持玉藻將苅《クグツモチタマモカルラム》。率行見《イザユキテミム》
 
塩干乃《シホヒノ》と四言に訓べし。三津之海女《ミツノアマメ》は【古義にはアマと訓てアマメと云る例旡しといへれど】アマヲトメともいへればアマメともなどかいはざらん。故に舊訓に隨へり○久具都《クグツ》は袖中抄に「くぐつは藁もて袋のやうにあみたるものなり。それに藻などをも入るなり」和訓栞に袖中抄に裹字をよめり。莎草《クグ》を編て袋にしたるをいふなり、仙覺抄に細き繩にて物いるゝものにして田舍の者の用るなりといへり。【くぐつの説かくさま/”\なり。袖中抄、仙覺抄等は藁繩等にて作れる物とし和訓栞には莎草をあみてつくれるよしにいへり。いづれとも定めがたけれど莎草をクグといへれば和訓栞にまづ從ふべし】かくて和訓栞にいはゆる莎草は和名抄に莎草【楊氏漢語抄云具具《クグ》】草名也とみゆ。本草綱目莎草香附子の下に時珍云、別録|止《タダ》云2莎草1不v言2用v苗用1v根。後世皆用2其根1。名2香附子1。而不v知2莎草之名1也。其草可v爲2笠及雨衣1といへり。かゝれば香附子が即莎草なり。然るを大和本草クグの下に「海濱斥地に生ず。水陸共に宜し。葉は香附子の葉に似て背《ウラ》にかど一條あり。織て短席とす。農人これを以て馬具とし又繩とす。武人これを用て陣中に飯を包む苞《ツト》とす。順和名抄に莎草の和名をくぐと訓ず。莎草は香附子なり。是と一類別物なり。又菅も一類なり」といへり。これらの説によれば莎草と香附子とは同物なれどと莎草とクグとは同物ならざるが如し。されどもクグに正しくあつべき字の旡きまゝに莎草が似たるゆゑに此字を用たるなるべし。されば芳樹おもふにクグツはクグもて造れる籠の如きものにてクグツトの義【ツトの切ツなり】なればツトは裹《ツト》なり。【卷三に家裹《イヘツト》。此外にもあり】クグをもてつくれる裹《ツト》なるゆゑにクグツといふなり【陸地の遊女をいふはクグもてつくれる袋をもたるゆゑの名なるべし。今も女などちひさき袋を提けて歩行するがごとし】○歌意明らかなり
 
風乎疾奥津白浪《カゼヲイタミオキツシラナミ》。高有之海人釣船《タカカラシアマノツリフネ》。濱眷奴《ハマニカヘリヌ》
 
こは上の歌をよめる時とは日異なりしなるべし
 
清江乃木□※[竹冠/矢]松原《スミノエノキシノマツハラ》。遠神我王之《トホツカミワガオホキミノ》。幸行處《イデマシドコロ》
 
木の下志字を脱せり。卷十に卷向之木志乃子松とあるを證とすべし。※[竹冠/矢]は字書に※[竹冠/矢]俗矢字といへり。和名抄に釋名云。※[竹冠/矢]和名|夜《ヤ》とみゆ。集中にては卷六に弓※[竹冠/矢]圍而とあるをかく※[竹冠/矢]字をノともよませたるは矢の幹を※[竹冠/矢]《ノ》といふによりてなり○遠神は大王の枕詞にて既く卷一にいづ○幸行處はイデマシドコロと訓む。難波の行幸のとき住吉にもいでましけんこといはむも更なり
 
田口|益人大夫《マスヒトノマヘツギミ》《マカレル》2上野(ノ)國司《クニノツカサニ》1時至2駿河國淨見|埼《サキニ》1作歌二首
 
田口益人大夫は續紀に慶雲元年春正月丁亥朔癸巳從六位下田口朝巨益人授2從五位下1とみえてその後和銅元年三月丙午從五位上田口朝臣益人爲2上野守1とみゆ○此歌は上野守たりし時駿河國をすぎてよめるなるべし【上野上總常陸の三國は後に親王の任國となりたれども當時はいまだその制なかりしほどなり】
 
廬原乃清見之埼乃《イホハラノキヨミガサキノ》。見穗乃浦乃寛見乍《ミホノウラノユタケキミツヽ》。物念毛奈信《モノモヒモナシ》
 
廬原は和名抄に駿河國廬原郡廬原。伊保波良とあり。清見之埼は同所にて清見寺の邊なるべし。そのところより入海ごしに三穗乃松原向ひにみゆ〇三保は有度郡なるよしいへる人もあれど神名式に廬原郡御穗神社とみえたれば今はとまれ古はなほ廬原郡の内なりしなるべし。さて清見と三保との間をなべて三保乃浦といへり。此歌何のふかき意もなけれどその海上の發寛に和《ナギ》わたりたるをながめつゝよめるにて大國の受領になれるうれしさにものおもひもなかりしさま誠にかくありなむ
 
晝見騰不飽田兒浦《ヒルミレドアカヌタゴノウラ》。大王之命恐夜見鶴鴨《オホキミノミコトカシコミヨルミツルカモ》
 
田兒は清見崎より浦傳ひに薩※[土+垂]山の麓のなぎさを東にゆくが古道にて其所の海邊の名なり。按に兵部式の驛馬の件に息津とみえたれば息津は古も驛なりとおもはる。益人興津を夜のうちにたちて薩※[土+垂]の麓を過しゆゑにかくよめるものなり。私の旅ならば夜明て宿りを立て田兒の浦をも熟《ヨ》くみるべけれど天皇の詔もちて下る旅なればその御言をかしこみて晝みてだにもあかぬ田兒の浦を夜見つるかもとよめる也。詩經に王事|靡《ナシ》v監《モロキコト》といへるはかゝる事なるべし
 
弁基歌《ベムキガウタ》一首
 
左註に或云。弁基者春日藏首老之法師名也とみゆ。委しくは卷一にいへり
 
亦打山暮越行而《マツチヤマユフコエユキテ》。廬前乃角大河原爾《イホザキノスミダガハラニ》。獨可毛將宿《ヒトリカモネム》
 
亦打山は紀伊大和の境にて東を大和とし西を紀伊とす。卷四に「紀路にいりたつ信土山」とみゆ。さればその山の西の麓に木原畠田等の村ありて今大和に屬けれども天正以前の文書にこの二村を紀伊の隅田の莊とせりと紀伊國名所圖會に見ゆ。【此圖會はなべてのとは異にて考證なども慥かなれば引用ひたり】又同所に堺川とてあるが紀伊の分堺の所の川なるゆゑに名づくるよしにて卷七に「しろたへに匂ふ信土の山川にわが馬なつむ家戀らしも」とよめるを待乳川といへり。これを隅田川の事なりとおもへる人もあれどそはしからず。暮越行而は夕方に大和の方よりこえゆくことなり○廬前乃角太河原は亦打山の邊に廬前といふところあり。そこにとなりたるかたに上にひける隅田の莊と云あり。かゝれば隅田が原は亦打山の南の麓廬前の地のうちとおもはる。この隅田が原をかく角太河原とあるによりて諸説みな角太河といふ川ありと定めたれど古義に角太河原の河字類聚抄に旡きをもてみればこは辭にて角田之原《スミダガハラ》なるべしといへる實にさることなり。【河を之《カ》の假字に用ゐたるは卷五に多多勢流|伊毛河《イモガ》となり。此外にも見ゆ】草枕を結ばんに河原《カハラ》はいかにもつきなければワザミガハラ、安達ガハラの類にて角田之原《スミダガハラ》なること疑ひなし【角太の角字宜長の説に隅はスミ、角はツヌにてことたがへりといへり。されど續紀廿八の詔に東南之角《タツミノスミ》西北角《イヌヰノスミ》などあればなほ角太はスミダなるべき證とすべし】
 
大納言|大伴卿歌《オホトモノマヘツギミノウタ》一首 未詳
 
大伴卿は旅人卿なり、此卿は續紀和銅三年正月朔左將軍正五位上大伴宿禰旅人。また四年四月壬午從四位下。七年十一月甲戌〔頭注、校正者云。甲戌は庚戌なるべし〕左將軍。靈龜元年正月癸巳從四位上。五月壬寅中務卿。養老二年三月乙巳中納言。三年正月壬寅正四位下。九月癸亥爲2山背國攝官1とみえて四年三月丙辰に征隼人持節大將軍に任じ給へり。かくてその六月戊戌の詔に今西隅等賊怡v亂〔頭注、校正者云。怡v亂の下逆v化の二字脱か〕屡害2良民1。因遣2持節將軍大伴宿禰旅人1誅2罸其罪1云々。五年正月壬子從三位。三月辛未給2資人四人1。神龜元年二月甲午正三位。かくて天平二年十月一日に大納言に任ぜられたること此卷の奥書にみゆ。【正史には脱せり】同三年正月丙子從二位。七月辛未大納言從二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫。大納言贈從二位安麻呂之第一子也とあり。實に文武をかねたる人なり○未詳の二字を釋に「作者か歌か」とありてその次に「按に此下に至て此卿いまだ中納言なりしときの歌あれは此に大納言にてよまれたる歌あらんこと誠に不審なり。又歌も第八の冬に載すべく此あたりにあるべき歌ならねば後人そこをおもひて此注を加へたるか」とみえたりすべて大納言以上には名を記さざる事此集の例なるがうへにこは家持の父なればはばかりて記さざるなるべし。
 
奥山之菅葉凌《オクヤマノスガノハシヌギ》。零雪乃消者將惜《フルユキノケナバヲシケム》。雨莫零行年《アメナフリソネ》
 
菅葉は山菅の葉にて麥門冬の事なり。此卷及十一に奥山之|石本管乃根深毛《イハモトスカノネフカクモ》云々。卷十二に「あしひきの山菅根乃《ヤマスガノネノ》」云々などその外にもいと多きみなこれなり。和名抄に麥門冬和名【夜末須介】凌は繁き葉のあはひまでふりいりたるをいふ。この詞の例みづから堪忍《タヘシノブ》をばシヌビ、シヌブといひ他のたへがたきをこれより推でするをシヌギ、シヌグといふ。神代紀に凌(ヌギ)2奪《ウバフ》吾(ガ)高天(ノ)原(ヲ)1とあるシヌギ即ちこれにて卷六に奥山之|眞木葉凌零雪乃《マキノハシヌギフルユキノ》云々ともよめり○消者將惜《ケナバヲシケム》はきえなばをしからんなり〇雨莫零行年《アメナフリソネ》の行は所の誤にてソネなり。これによるにアメナフリ行年《ソネ》、カゼナフキ行年《ソネ》、イヌナホエ行年《ソネ》など集中におほかるみな所年の寫誤なり
 
長屋王《ナガヤノオホキミ》《トヾメテ》2馬《ウマヲ》寧樂山《ナラヤマニ》1作歌二首
 
長屋王のことは卷一にみえたり
 
佐保過而寧樂乃手祭爾《サホスギテナラノタムケニ》。置幣者妹乎目不雖《オクヌサハイモヲメカレズ》。相見染跡衣《アヒミシメトゾ》
 
佐保は長屋王の宅あるところなり。そこより奈良に來りて坂の手向に幣を置といへるにて置はすなはち手向ることなり。幣は記傳に祷布佐《ネギフサ》なり。【ネギフはヌと約まれり】集中に幣帛とも帛ともかきて白和幣《シラニギテ》、青和幣《アヲニギテ》、木綿《ユフ》の類を神にたてまつるをヌサといへり。ニギテは和布《ニギタヘ》にて絹布の稱なるが神に奉る時はヌサと云なり。このヌサその絹布のみならで麻の皮、穀の皮などの織たるをも又いまだ織らずて緒のまゝなるをもユフといひて榊の枝にとりかけたるをユフトリツケなどいへり。ユフとはもはら穀にてつくれるを云ことなれど又麻と穀と二種なるをすべてもユフとはいへり。後世に紙を用ゐるは木綿のかはりなり。さてヌサをふるく麻とかきたれども必ずしも麻にかぎるにはあらず。上にいへる如く神に奉る絹布をばみなしかいへるなり。又このヌサをフサともいへりとおもはるれどそはここに用なければ記さず。ヌサに幣字をかくは支那にて絹布金玉の類すべて幣といへるゆゑによりてかくなりけり○妹乎目不雖の雖字は離の誤にてメカレズなり.メカレズとは妹をみることのたえずといふことなり○相見染《アヒミシメ》は令相見なり○歌意。佐保の家よりいでゝ奈良の手向山に來り幣帛奉るは他の故にあらず。我戀しくおもふ妹をあひみることのたえずあらしめたまへよとてそ。となり
 
磐金之凝敷山乎《イハカネノコゴシキヤマヲ》。超不勝而哭者泣友《コエカネテネニハナクトモ》。色爾將出八方《イロニイデメヤモ》
 
磐金之は磐元根之《イハガネノ》なり。凝敷は地に磐の凝《コリ》しきて嶮《サカ》しきをいふ○超不勝而《コエカネテ》は四、五の句によるに坂路の凝しきゆゑにこえかぬるにはあらず。家の妹に心ひかれてこえかぬるなり。哭者泣友《ネニハナクトモ》は妹ゆゑにしのびにねにはなくとも色にいでめやもの意なり○この二首長屋王の他國に下る時の歌なるを新千載集に上の歌を「さほすぎてならのたむけにおく幣はいもにあひみむしるしなりけり。聖武天皇御製」「岩がねのこりしく山を分かねでねにはなくとも色に出めや。よみ人しらず」とて出せるはいかなることにか
 
中納言|安倍廣庭卿歌《アベノヒロニハノマヘツギミノウタ》一首 未詳
 
續紀和銅二年十一月甲寅正五位下阿陪朝臣廣庭爲2伊豫守1。四年四月壬午正五位上。六年正月丁亥從四位下。靈龜元年五月壬寅宮内卿。養老二年正月庚子從四位上とみえその後正四位下にて左大弁となり六年二月壬申參議朝政。同三月戊申知河内和泉事。七年正月丙子正四位上それより從三位にすゝみて神龜四年十月甲戌中納言。天平四年二月乙未中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事安倍朝臣廣庭薨。右大臣從二位御主人之子也とあり。懷風藻年七十四
 
兒等之家道差間遠烏《コラガイヘヂヤヽマトホキヲ》。野干玉乃夜渡月爾《ヌバタマノヨワタルツキニ》。競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》
 
兒等之家道《コラガイヘヂ》は兒等は妹がことなり。家道はその妹が家にゆく道なり。間遠は妹か家と我家との間のとほきをいふ○夜渡月の渡は中天をゆくことにて卷十二に「ぬは玉の夜渡月之」とあるにおなじ○競敢六鴨《キソヒアヘムカモ》は卷廿に「わたる日の加氣爾伎保比弖」とあり。名義抄に競【きほふ、くらふ、いどむ、あらそふ、いそぐ】字類抄に競【きほふ】などゝみえ新古今集の詞に月ニキホヒテともあればキホヒとよむべきなり〔頭注、校正者云。競本文の傍訓はキホヒこゝはキソヒとありて一致せず〕。此競は字書に爭なりとあるごとくまけじとする事なり。敢は爲《シ》難き事を強《シヒ》てするを云詞なり。字書に忍爲也とあり○歌意は。そらをゆく月の山の端にいらぬさきに妹が家に至らんといそげども道やゝ間遠ければ月のはやきにはあへてあらそひえざらむかといへるなり
 
柿本朝臣人麻呂|下《クダレル》2筑紫國《ツクシノクニニ》1時《トキ》海路《ウミツヂニテ》作歌二首
 
名細寸稻見乃海之《ナクハシキイナミノウミノ》。奥津浪千重爾隱奴《オキツナミチヘニカクリヌ》。山跡島根者《ヤマトシマネハ》
 
名細寸は上にいづ。稻見乃海は播磨の印南郡の海なり〇千重爾隱奴は海上遠くなりたるを波の千隔《チヘ》にたちかくしたるよしにいへるなり○山跡島根者はヤマトノクニハといふにおなじ○歌意。稻見乃海は明石などよりもやゝしものかたにて畿内《ウチツクニ》のかた最《イト》とほければ千里《チサト》の浪に立へだてられ戀しくおもふ山跡島根の隱れたるよしなり
 
大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》。蟻通島門乎見者《アリカヨフシマドヲミレバ》。神代之所念《カミヨシモホユ》
 
遠乃朝廷《トホノミカド》のミカドはもと御門《ミカド》を云詞なり。朝廷にはこの御門より入りてまゐるゆゑに百官百司の參朝しで政事おこなふ所をすべていふ稱となれり。遠乃朝廷とは太宰府をいふ。筑紫は京《ミヤコ》に遠きがゆゑに別に筑前の國に府を建て帥大小貳以下數多の官員を置て九國の政事を行はしめ給ふ。故に遠の朝庭といへり○蟻通はありつつ通ふと云事なり。島門は播磨より西の海上島々おほくて船の行かふ迫門《セト》あまたあればかくいへるなり○神代之所念《カミヨシオモホユ》とは此所《ココ》の島|彼所《カシコ》の島つらなりあひてあるは入りあるはいで船路のおもしろきにいかにしてかくはつくりいで給ひけんと國造らしゝ神世のことのおもはるゝよしなり
 
高市連黒人近江舊都歌《タケチノムラジクロヒトガアフミノフルキミヤコノウタ》一首
 
如是政爾不見跡云物乎《カクユヱニミジトイフモノヲ》。樂浪乃曹都乎《サヾナミノフルキミヤコヲ》。令見乍本名《ミセツツモトナ》
 
如是故爾《カクユヱニ》はかくかなしきにたへがたき故にの意なり○本名は俗にヨシナシといふ意なり。ここはよしなきことに我にみせつるといふなり○歌意。伴なへる人ありて近江の舊都をすぐる時黒人は立寄るまじくいへるをしひていざなひてみせたる故にかくよめりしなるべし。そは舊都をみれば古へをしのぶにたへずかなしからんと思へるゆゑにいなわれはみじといひしものをよしもなく我をすゝめてみせたる故におもひし如くかなしみにたへられぬ事よといへるなり
 
右謌或本曰。小辨作也。未v審2此小辨(トイフ)者(ヲ)1也
 
《イデマシ》2伊勢國1之時|安貴王作歌《アキノオホキミノヨミタマヘルウタ》一首
 
幸伊勢國は續紀天平十二年壬午以2知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王。兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豐成1爲2留守1とみえたる此時の事なり。卷六に天平十二年冬十月依2太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發1v軍幸2于伊勢國1とあり。此事|甚《イト》いぶかし。伊勢の行幸は正史にもみえたれば疑ふべきにあらねどかく廣嗣が謀反によりてと記せるはいかなるよしならん。若くは當時《ソノヨ》のならはしにていさゝかなる事にも神佛にいのらせ給ふ位なれば太神宮に西國靜謐の御祈りの爲にもやありけむ。然れとも續紀をみれば神宮へは勅使をまゐらせられて御みつからは關の宮にとゞまらせたまひ供奉の人々もこゝかしこの名所にて歌よみあそびつゝ筑紫の亂を歎きおもへるさまにてもなければ卷六の詞書更にさもやともおもはれぬ書さまなり。猶かしこにいふべし○安貴王は續紀天平元年三月甲午無位阿紀王從五位下。十七年正月乙丑從五位止。紹運録に施基皇子の子春日王。春日王の子安貴王とみゆ【卷六に市原王宴壽2父安貴王1歌と云があり。紹運録に安貴王の子に市原王みゆ】
 
伊勢海之奥津白浪《イセノウミノオキツシラナミ》。花爾欲得裹而妹之《ハナニモガツツミテイモガ》。家裹爲《イヘヅトニセム》
 
花爾欲得《ハナニモガ》は花にもがなと云意なり○家裹の裹は字鏡に※[貝+求](ハ)※[貝+深の旁]也。貸也。爾戸《ニヘ》又|豆止《ツト》とあり。【ツミの切チ。モノの切モ。そのチモを又切めてトとなれり。ゆゑにツトと云】ツトは裹物《ツヽミモノ》なり。卷四に裹v物贈v友。卷十六の左注に徒贈2裹物1とみえたり○歌意。奥津浪の白く花の如くみえていとおもしろきを家なる妹にみせまほしくおもへどせん方なし。いかでこの浪が花にもがな。さらば裹みもて歸りてみやげにせん。といへるなり
 
博通法師(ガ)往《ユキ》2紀伊國《キノクニニ》1見《ミテ》2三穗石室《ミホノイハヤヲ》1作歌《ヨメルウタ》三首
 
博通法師は傳知られず〇三穗石室は紀伊國日高郡にあり。その國の名所圖會に曰く。三尾浦の後磯といふ所に大巖窟あり。履中深さ十六間幅五六間高さ七八間より十二三間もあるべし。海上に南面して磯邊に大小の巖むら重なれり。此窟海面に臨み迫るといへども絶て風濤衝突の患なし。上古はいかゞありけむ今考がたけれども現に三尾の名を存しかゝる巖穴あれば萬葉集にみえたるは此地なるべし。かの歌どもは船中より見てよめりとおぼし。上にいへる「風早の濱の白浪」なども合考すべし近來乞食のすみかとせしより土人等清めて窟の口に志米繩をかけたり
 
皮爲酢寸久米能若子我《ハタススキクメノワクゴガ》。伊座家牟三穗乃石室者《イマシケムミホノイハヤハ》。雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》
 
皮爲酢寸《ハタススキ》は四の句の三穗へかゝる枕詞なり。久米能若子は神武天皇の率ひましゝ久米部の若子《ワクゴ》なるべし天皇紀伊國をへて内津國にいりませれば紀伊國に久米部の殘り居りし事|疑《ウツ》なしと荒木田久老がいへるを古義にもとりたれど次の二首の歌によりておもふに歌意おのづから追傷の意を含みたれば久米部の事にはあらじ。弘計天皇の幼《ヲサナ》くおはしゝ時來目稚子といひて播磨にさすらひ給ひし事あり。これを傳へ誤りてこの三穗の石窟に謫居《サスラヘ》玉へるにしたるにはあらじか。又は別に久米の若子と云人のありてこの石窟に住たりしか。今詳に知難し○伊座家牟《イマシケム》版本伊座家留とあれと伊座家牟とあるに從ふべし○雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》は一云。安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》。とあるも聞えたれど久米の若子の古へを思ひて追傷の情に〔頭注、校正者云。情にのにはをか。〕とゞめ難くいつまでみれどあかぬかもと云意なれば本のまゝにて然るべし○歌意あきらかなり
 
常磐成石室者今毛安里家禮騰住家類人曾《トキハナスイハヤハイマモアリケレドスミケルヒトゾ》。常無里家留《ツネナカリケル》
 
常磐成《トキハナス》は卷五に「等伎波奈周《トキハナス》かくもがも」とあり。如《ナス》2常磐《トキハ》1なり。トキハは常磐の字の如くかはらぬものをいふ。そのかはらぬ石窟は今もあれどの意なり。住家類人曾は久米の若子の事にてそは今は名のみのこりて影も容もなし。常なき世の理《コトワリ》は爲ん方なし。と深く慕ひ惜めるなり
 
石室戸爾立在松樹《イハヤドニタテルマツノキ》。汝乎見者昔人乎《ナヲミレバムカシノヒトヲ》。相見如之《アヒミルゴトシ》
 
石室戸《イハヤド》の戸は假字にて石室外《イアハヤト》なり○汝乎見者《ナヲミレバ》の汝《ナ》は松をさしていへるなり○相見如之《アヒミルゴトシ》は卷五に年月波奈何流々其等斯《トシツキハナガルヽゴトシ》とあり。さて上なる住家類人曾《スミケルヒトゾ》またこの相見如之《アヒミルゴトシ》などを無禮《ナメゲ》なる詞なれば日嗣しらしゝ來目王をかくはいふべからずと守部がいへるこはさもやと思はるゝ説ながら久米若子を弘計天皇なりと定めてよめるにはあるべからず。たゞその地の傳に久米若子と云昔の人のこもり給へる所なりといふをきゝてよめるなるべし○歌意。窟外《イハヤド》にたてる松の樹よ。汝をみれば昔の久米の若子を直にあひみるこゝちしていとゞそのかみの慕はるゝかなとなり
 
門部王|詠《ヨミ》2東市之樹《ヒムガシノイチノキヲ》1作歌《タマヘルウタ》
 
此王は續紀和銅三年正月戊午授2旡位門部王從五位下1とみえて六年正月丁亥授2從四位下1とあれどこは誤なるべし。そは養老元年正月乙巳從五位上にて三年七月按察使を置れたるに管2伊賀志摩二國1とみゆ。かくて五年正月壬午〔頭注、校正者云。壬|午〔右○〕は壬|子〔右○〕の誤か〕正五位下。神龜元年二月壬子正五位上。五年五月丙辰從四位下。【上の從四位下の誤なることこれを以て知べし】天平三年正月丙子從四位上。十二月乙未治部卿從四位上門部王云々。六年二月朔從四位下門部王等【歌垣】爲v頭。九年十二月壬戌從四位下門部王爲2右京大夫1【上に引る如く天平三年正月丙子從四位上云々なるを六年二月朔。九年十二月壬戌兩度共に從四位下とみえたるは天平四五年より後に故ありて一階削られたるなるべし】かくて十四年四月戊戌授2從四位下大原眞人門部從四位上1とみえたるは卷六に門部王後賜2姓大原眞人氏1也とあり。さて十七年四月庚戌大藏卿從四位上大原眞人門部卒とあり○東市とは京都を左京右京とわかちて其左京の方に東市あり右京の方に西市あり。延喜式に凡毎月十五日以前集2東市1十六日以後集2西市1とあるこれなり
 
東市之殖木乃《ヒムガシノイチノウヱキノ》。木足左右不相久美《コタルマデアハズヒサシミ》。宇倍《ウベ》吾|戀爾家利《コヒニケリ》
 
市之殖木乃は途《ミチ》の衢《チマタ》に菓樹を殖ゑられたる事どもありて已に卷二にいへり。市は左京にある市なり。拾芥抄に東(ノ)市屋者七條坊門(ノ)南。猪熊東とみえたり。寂蓮集に「隆房卿別當(ノ)時都のまつりごとみな昔にあらためられけるに云々いにしへのあとをぞたのむかつまたの池にも鳥のかへりすむ世に」など其外諸書に七條の市街の事みえたり。されどこれらはみな今の京の市街なり。此歌なるは奈良の京の市なれば其所なほ七條なりしにや。そはしられねど大概は今の京の例をもて推知べし○木足左右《コタルマテ》の木足《コタル》は木垂《コタル》にて木のおひのびて枝の垂るまでといふ意也。卷十四に「かまくら山の許太流木乎《コタルキヲ》」とあり○宇部戀爾家利《ウベコヒニケリ》の宇部は諾《ウベ》なふ意なり○歌意。ひむかしの市に若木をうゑたりしとき妹にあひたりしがその後その木のおひのぴて枝葉の垂れ下るまで年月久しき間あはざるゆゑ戀しくおもひけるはげに理《コトワリ》なることぞとなり
 
按作村主益人《クラツクリノスクリマスヒト》從2豐前國1上《ノボル》v京《ミヤコニ》時作歌一首
 
※[木+安]字は字鏡に※[木+(安/几)]【乘久良】とあり。こゝは几を省きてかけるにで續紀などにも此字をクラとよめり。益人。傳詳ならず。※[木+安]作は氏、村主は姓なり。卷六に内匠大屬とあり
 
梓弓引豐國之《アヅサユミヒキトヨクニノ》。鏡山不見久有者《カヾミヤマミズヒサナラバ》。戀敷牟鴨《コヒシケムカモ》
 
梓弓は引トヨモスにかゝる枕詞なり。弓ひけば鞆にあたりて音するゆゑにかくつづくるなり○鏡山は豐前國小倉に近き所にありと渡邊重名いへり。この下にも豐前國鏡山とみえたり。不見久有者《ミズヒサナラバ》は鏡山を見ずて久しくあらばといへるにて裏《シタ》の心は國府にてむつまじくせし人々を見ず久ならばといへる事をおもはせたるなり
 
式部卿《ノリノツカサノカミ》藤腹(ノ)宇合卿《ウマカヒノマヘツギミ》被v使《シメラル》v改2造《アラタメツクラ》難波堵《ナニハノミヤコヲ》1之時作《ノトキヨメルウタ》歌一首
 
續紀靈龜二年八月癸亥正六位下藤原朝臣馬養遣唐副使、同己巳從五位下、養老三年正月壬寅正五位上、七月庚子置2按察使1。令3常陸國守宇合(ニ)管2安房上總下總三國1。五年正月壬子正四位上。神龜元年四月丙申以2式部卿宇合1爲2持節大將軍1。十一月乙酉征夷持節大使宇合等來歸。二年閏正月丁末從三位勲二等、三年十月庚午知造難波宮事。天平三年八月丁亥參議。十一月丁卯置2畿内惣管1。宇合爲2副惣管1。四年八月丁亥西海道節度使。六年正月己卯正三位。九年八月丙午參議式部卿兼太宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等第三子也とみえたり。續紀に此人の名を馬養とも宇合ともかきたり。【字摩とかくべきをマを省き合はカフの音なるをフをヒに轉じてカヒとよませたるなり。不比等の後四家に別れて北家、南家、式家、京家といへるうちにてこの宇合の流を式家といへり】難波の郡を改めつくられしははじめ孝徳天皇の御世に難波長柄豐崎に都したまへり。其後久しく經て聖武天皇の御世に藤原宇合をもつて知造難波宮事となして修造せしめたまへり。天平四年三月己巳知造難波宮事藤原朝臣宇合等已下仕丁已上賜物各有v差とみえたるは其事に勤《イソシ》めるによりてなるべし。さて十六年正月庚戌任2装束次第司1。爲v幸2難波宮1也。閏正月乙丑朔詔喚2會百官於朝堂1問曰。恭仁難波二京何定爲(ン)v都(ト)。各言(ヘ)2其志1。於v是陳2恭仁京(ノ)便宜1者五位已上二十四人六位已下百五十七人。陳2難波京(ノ)便宜1者五位已上二十三人六位已下一百三十人。戊辰遣2從三位巨勢朝臣奈良麻呂。從四位上藤原朝臣仲麻呂1就v市(ニ)問2定v京之事1。市人皆願d以2恭仁京1爲uv都。但有d願2難波1者一人願2平城1者一人u。乙亥天皇行2幸難波宮1。二月乙未遣2少納言從五位上茨田王子恭仁宮1取2驛鈴内外印1。又遣2諸司及朝集使等於難波宮1。甲寅運2恭仁宮高御座並大楯於難波宮1。又遣v使取2水路1運2漕兵庫器仗1。乙卯恭仁京百姓情願v遷2難波宮1者恣聽v之。庚申左大臣宣勅云。今以2難波宮1定爲2皇都1云々。三月甲戌石上榎井二氏樹2大楯鎗於難波宮中外門1。戊寅難波宮東西樓殿請2僧三百人1令v讀2大般若經1〔頭注、校正者云。遣は追とある本の方よろしきか又鎗は槍とあるべくや〕などみえて天平十六年より十七年まで難波を都と定めたまへること續紀の文かくの如し。この歌は其程によまれたるなるべし○堵は拾穗本に都と改めたれど堵《ト》都《ト》音通ふゆゑにかくかけるものなり。名義抄に堵音都とあり
 
昔者社難波居中跡《ムカシコソナニハヰナカト》。所言奚米今者京引《イハレケメイマハミヤコヒキ》。都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》
 
昔者社《ムカシコソ》は今者《イマ》にむかへていへり。難波居中とは孝徳天皇の難波豐崎宮の廢れしより久しく故郷となれりしかば田舍といへるなり○今者京引は略解古義等イマハミヤコトと訓みたれど契冲のイマミヤコヒキと訓めるに從ふべし。そは者字は集中助字に用ゐて訓まざる例多し。此初句の昔者社《ムカシコソ》の者字もおなじことなり。引とは郡を引遷されたることにて卷六に郡を寧樂より恭仁に遷されしときの長歌に「皇之引乃眞爾眞荷《オホキミノヒキノマニマニ》春花のうつろひかはり」とある引におなじ○都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》のビはメクと云意にて常にミヤビ、サトビなど云ビもみなおなじければミヤコメキタリといふことなり○歌意。むかしこそ難波をゐなかと人も云つれど今年都を引遷されたればいまだよろづの事とゝのひはせねどやう/\都めきたりといへるなり
 
土理《トリノ》宣令歌一首
 
土理は氏なり。卷八に刀理とかけり。續紀養老五年正月庚午詔2從七位下刀理宣令等1退朝之後令v侍2東宮1焉とあり。懷風藻に詩みえたり
 
見吉野之瀧乃白浪《ミヨシヌノタキノシラナミ》。雖不知語之告者《シラネドモカタリシツゲバ》。古所念《イニシヘオモホユ》
 
上二句は實景を以てシラネドモにいひつゞけたり。語之告者《カタリシツゲハ》の告は繼の假字なり。吉野は古の御世々々行幸どもありて故事の多かるが中にも殊に天武天皇の御事など語りつぎ來れゝばその古をおもほゆといへるなるべし。此古字只御世々々の古の事にはあらでさす所あるがごとし
 
波多朝臣少足歌《ハタノアソミヲタリガウタ》一首
 
少足の少字類聚抄には小とかけり
 
小浪磯越道有〔頭注、校正者云。磯は礒とありたし〕《サヾレナミイソコセヂナル》。能登湍河音之清左《ノトセガハオトノサヤケサ》。多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》
 
小浪の事卷二にいへり。磯越道有《イソコセヂナル》はさゝれ波の磯をこすといふことを大和の巨勢にいひかけたるなり○能登湍河は卷十二に高湍爾有能登瀬乃河之《コセナルノトセノカハノ》とあり○歌意は巨勢路にある能登湍の河のたぎりてながるゝその瀬毎に水音のいさぎよきとよめるなり
 
暮春之月《ヤヨヒバカリ》《イデマセル》2芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1時《トキ》中約言大伴卿《ナカノモノマヲスツカサオホトモノマヘツギミノ》《ウカタマハリテ》v勅《ミコトノリヲ》作歌《ヨメルウタ》一首 并短歌 未v※[しんにょう+至]奏上1歌
 
續紀神龜元年三月庚申朔天皇幸2芳野宮1。甲子車駕還v宮とみえて五日ばかりとどまらせ給へり○大伴卿は旅人卿なり。此卿養老二年三月に中納言となりたまへり○註の未※[しんにょう+至]云々の五字は古義に家持卿の註なりといへり。さもあるべし。※[しんにょう+至]を類聚には至につくれり。※[しんにょう+至]字名義抄にはヘテと訓めり。奏上を經ざる歌のよしなり。【奏上に至らずといへるもおなし】
 
見吉野之芳野乃宮者《ミヨシヌノヨシヌノミヤハ》。山可良志貴有師《ヤマカラシタフトカルラシ》。永可良思清有師《カハカラシサヤケカルラシ》。天地與長久《アメツチトナガクヒサシク》。萬代爾不政將有《ヨロヅヨニカハラズアラム》。行幸之宮《イデマシノミヤ》
 
山可良志《ヤマカラシ》。永可良思《カハカラシ》の可良《カラ》はユヱと云におなじ。シは助辭なり。貴有師《タフトカルラシ》の貴は次の富士の歌に神左備手高貴等《カミサビテタカクタフトキ》とある意におなじ。有師《カルラシ》はアルラシなり○永可良思の永は水の誤にてカハカラシと訓むべきなり。清有師のサヤケクは字の如く清き意なり○天地與より以下五句は離宮のよろづ世にかはらぬを稱讃《ホメタヽヘ》たるなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
昔見之象乃小河乎《ムカシミシキサノヲガハヲ》。今見者彌清《イマミレナイヨヨサヤケク》。成爾來鴨《ナリニケルカモ》
 
象乃小河は蜻蛉《アキツ》川のすぢにて今喜佐谷村と云を流るゝ川なりとぞ。卷一に象乃中山《キサノナカヤマ》。卷六に三吉野乃象山際乃などあるみなおなじあたりなり○今見者彌清《イマミレバイヨヨサヤケク》云々は「いにしへのならのみやこの八重ざくらげふ九重に匂ひぬるかな」とよめる歌の如く昔の河水よりも今の河水がさやけきよしにいひて其御世をことふけるなり
 
山部宿禰赤人《ヤマベノスクネアカヒト》《ミテヨメル》2不盡山《フジノヤマヲ》1歌并短歌
 
天武紀十三年十二月己卯山部連賜2姓宿禰1と有り。然るに桓武天皇を山部王とまをしゝゆゑに氏の山部を山に改めよと延暦四年の詔にみえたれば當時は山宿禰といひしなるべし。されど赤人は桓武天皇よりはふるき人ゆゑ此胥に山部とあるをもその主まゝにおきしなるべし。【古今集序に山之邊赤人とかけるは後人のしわざなり。貫之はよもかくはかゝじ】かくて卷十七なる家持卿の書牘に幼年未v※[しんにょう+至]2山柿之門1。栽歌之趣詞失2乎叢林1〔頭注、校正者云。栽は裁。叢は※[草冠/聚]とあるべきか〕また古今集序に「人麻呂は赤人が上にたゝむことかたく赤人は人麻呂が下にたゝんことかたくなむありけるなどみえて古へより人麻呂に亞《ツ》ぎたる上手の稱ある人なり○不盡山は都良香が記に富士山者在2駿河國1云々とみゆ【字に冨士とかけるは集中其外古書にはみあたらず。不盡の名義詳ならず。竹取物語に不死の義といへるは滑稽《タハフレ》にいへるにて本義にはあらず】
 
天地之分時從《アメツチノワカレシトキユ》。神左備而高貴寸《カムサビテタカクタフトキ》〔頭注、校正者云。而は手とあるべし〕。駿河有布士能高嶺乎《スルガナルフジノタカネヲ》。天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》。度日之陰毛隱比《ワタルヒノカゲモカクロヒ》。照月乃光毛不見《テルツキノヒカリモミエズ》。白雲母伊去波伐加利《シラクモモイユキハバカリ》。時自久曾雪者落家留《トキジクゾユキハフリケル》。語告言繼將往《カタリツギイヒツギユカム》。不盡能高嶺者《フジノタカネハ》
 
天地之云々は此山天地|開闢《ヒラケ》し時よりある山なるよしなり。されば孝靈天皇の時湧出たりといへるは採るにたらず○天原振放見者とは高く聳えて天に屬《ツ》けるが如き故に遙にふりあふきみるよしにてかくいへるなり。卷十四に安麻乃波良不自能之婆夜麻《アマノハラフジノシバヤマ》とよめるやがて天原の物とみなしたるが如し〇度日之陰毛隱比《ワタルヒノカゲモカクロヒ》は山いと高くて日光さへも山にさへられかくるゝよしなり○光毛不見は月の光りさへもかくれてみえずとなり○白雲母伊去波伐加利《シラクモモイユキハバカリ》の伊《イ》はそへたることにて嶺の高きにはゞかりおそれ雲も此山をえゆきすぎず中空にたゆたひあるをいふ〇時自久曾《トキジクゾ》は何時といふ定まりもなくの意にてゾはフリケルに結ぶ辭《テニヲハ》なり○語告言繼將往《カタリツギイヒツギユカム》はこの不盡の山をば後の世の人にかたりつぎ言ひつぎゆかむといへるなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
田兒之浦從打出而見者《タゴノウラユウチデテミレバ》。眞白衣不盡能高嶺爾《マシロニゾフジノタカネニ》。雪者零家留《ユキハフリケル》
 
田兒之浦從《タゴノウラユ》の從《ユ》はユリのリを省けるにてユリはヲリにおなじ。【故にヨリをヨとのみもいへり】打出而見者《ウチデテミレバ》は田兒の浦より不盡のみゆる所までうもいでゝみるよしなり。そは薩※[土+垂]山の麓の渚に古道ありて其道を東の方へゆけば倉澤と云所なり。こゝにうち出れば不盡いとよくみゆ。【近江の打出の濱と云も山城の方の山路を經て廣き湖水のほとりにうちいでたる意なり。これにおなじくて薩※[土+垂]の西の麓より倉澤のゆびほかなる所にうちでたるなればサウチデの詞いとよくかなへり】見者の者《バ》字に驚く意を含みたり。伊勢物語に「ふじの山をみればさつきのつごもりに雪いとしろうふれり」とあるミレバとこゝのミレバとおなじつかひざまなり○眞白衣《マシロニゾ》のゾは結句のケルに結ぶ辭なり。不盡能高嶺爾《フジノタカネニ》のニはその時節にもあらぬにといふ意のニにて即ち伊勢物語にサツキノツゴモリニといへるが時節にもあらぬにといへるなり。心を着てみるべし○歌意は田兒の浦より薩※[土+垂]坂の麓の路を不盡のよくみゆる倉澤といふ處へうちいでゝみればましろに雪ふりつみて山の貌《カタチ》いときよらなり。この頃は雪のふる時節にもあらぬに、とよめるなり。古義にこれを沖の方へ舶漕いでゝ不盡の山をみればといふ意なりといへるは甚《イミ》じき誤りなり。船よりみたらんにはコギデテミレバとこそいふべけれ。船ヲウチイデヽといふ詞あるべくもおぼえず【「田兒の浦に打出てみれば白妙のふしのたかねにゆきはふりつゝ」といへるはこの集をよみ誤れるものなり】
 
詠不盡山歌一首并短歌
 
拾穂本に笠朝臣金村とあり。又左狂に高橋連蟲麻呂之歌中出焉。以v類載v此とあり。然れども按ふに一首の風調金村蟲麻呂等の企及ぶべき歌にあらず。猶よく考ふべし
 
奈麻余美乃甲斐乃國《ナマヨミノカヒノクニ》。打縁流駿河能國與《ウチヨスルスルガノクニト》。己知其智乃國之三中從《コチゴチノクニノミナカユ》。出立有不盡能高嶺者《イデタテルフジノタカネハ》。天雲毛伊去波伐加利《アマクモモイユキハバカリ》。飛鳥母翔毛不上《トブトリモトビモノボラズ》。燎火乎雪以滅《モユルヒヲユキモテケチ》。落雪乎火用消通都《フルユキヲヒモテケチツツ》。言不得名不知《イヒモカネナヅケモシラニ》。靈母座神香聞《クスシクモイマスカキカモ》。石花海跡名付而有毛《セノウミトナヅケテアルモ》。彼山之堤有海曾《ソノヤマノツヽメルウミゾ》。不盡河跡人乃渡毛其山之水乃當烏《フジカハトヒトノワタルモソノヤマノミヅノタギチゾ》。日本之山跡國乃《ヒノモトノヤマトノクニノ》。鎭十方座神可聞《シツメトモイマスカミカモ》。寶十方成有山可聞《タカラトモナレルヤマカモ》。駿河有不盡刀高峯者《スルガナルフジノタカネハ》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
奈麻余美乃は枕詞なり冠辭考の説採りがたし。古義には生善肉《ナマヨミ》のよしにてカヒとかゝるは白蛤《ウムキ》鰒《アハビ》などの貝《カヒ》にかけたるなりといへれど此説もよしともきこえず。力石重遠云く。黒川春村云く。ナマヨミとナミヤマと音通へは並山《ナミヤマ》の義にてその山々の峽《カヒ》とつゝけるなりといへり○打縁流も枕詞なり。ヨスルはユスルにてユスルとは水の音激しく動《ユス》り轟くゆゑにいへるなり。駿河とはこの國の河みな急流なるゆゑにスルド河の意なるべし。惣國風土紀に薦河者依d其河流薦々而不uv知2淀溜1也とあり。字書に薦を進也といへるは薦食の事なれば水の尖どきとは異なれど水のすゝみゆく事に薦字を假りて薦河《スルガ》といへるなり○己知其智乃《コチゴチノ》は此方此方《コチゴチ》ノなり。荒木田久老云く。甲斐國の此方《コチ》、駿河國の此方《コチ》と二つにわかる詞なりといへり。國之三中從《クニノミナカユ》は國の眞中《マナカ》になり【此|從《ユ》はニといはむが如し】○燎火乎は富士山記に其在(テ)v遠望者常見2烟火1とみえたるこは常の事にて其熾なる時に至りては後紀に延暦十九年六月癸酉駿河國言。自2去三月十四日1迄2四月十八日1富士山嶺自燒。晝則燒氣暗瞑。夜則火光照v天また日本紀略に延暦二十一年廢2相摸國足柄路1開2筥荷途1。以2富士燒碎石塞1v道也。三代實録に貞觀六年駿河國富士郡大山忽有2暴火1燒2碎崗巒1などあるはをりにふれて太だしかりしをあげたるものなり。かの富土山記は都良香の作なるを此人は延暦貞觀などよりはやゝ後なれど常見2煙火1といへれは燒けたることしるし。然るに古今集の序に至りて「ふじの山もけふりたゝずなり」といへるを按ふに延喜の頃よりやうやう烟もみえずなれりけん。されど其後も承平七年十一月富士山神火埋2水海1と日本紀略にみえ長保元年の駿河國の解文に不字《フジノ》御山燒と本朝世記に載せ長元六年十二月富士山火起自v嶺至2山脚1と紀略にいへり。また天喜の頃の更科の記。永仁のいざよひの記等にも燃し事みえたりと古義にいへり。雪以滅はユキモテケチと訓むべし。ケチはケシと云に同じ【チとシと通へり】○落雪乎火用消通都は上の二句を返しいひてあやなせるなり○言不得名不知のイヒモカネは略解にイヒモエズと訓めるはわろし。名〔傍点〕の下付〔傍点〕字|脱《オチ》たるか。次に名付而有毛《ナヅケテアルモ》ともあり。さて此五七二句は契冲のかゝるあやしき事は其|理《コトワリ》をいふこともあたはず何と名付べき名をもしらずと稱美したるなりといへるがごとし○靈母座神香聞《クスシクモイマスカミカモ》の靈を略解にアヤシクモと訓めるはわろし。座神香聞とは宮士山記に山有v神名2淺間大神1とあれどこゝは其神をさすにはあらで即ち此山をさして神といへるなり。香聞は後世のカナに同じく歎息の詞なり○石花海は契冲云く。仙覺抄に「富士の山の乾の角に侍る水海なり。凡て富士の山の麓には山をめぐりて八つの海ありとなん。石花海と申すはかの八つの海のその一(ツ)なり」といへり。これによれば鳴澤の事にはあらずして鳴澤は富士山記に神池とみえ卷十四に「ふじのたかねのなるさは」とよみたれば石花《セノ》海とは別なるなり。さて石花をセと訓むは和名抄に兼名苑注云。石花【和名勢】二三月皆紫舒v花。附v石而生。故以名之とあり。その海は三代寶録に貞觀六年六月十七日富士大山忽有2暴火1。本栖並|※[箋+立刀]《セ》兩水海水熟如v湯。魚鼈皆死。百姓居宅與v海共埋。同七年十二月異火之變于v今未v止。遣2使者1檢察。埋2※[箋+立刀]海千許町1また日本紀略に承平七年十一月富士山神火埋2水海1などみえたり。この承平の火に水海は絶えしなるべし○堤有海曾は富士の麓に堤《ツヽ》まれてある水海ぞとなり。字鏡に坡陂【以v土〓v水也|豆々牟《ツヽム》】とあり○不盡河は皇極紀東國富士河とありて後世の歌にも數多よめり○水乃當烏の當〔傍点〕下略解に知〔傍点〕字脱たるかといへれど當は水の巖などに當りて激る意を以て訓せたるなれば知〔傍点〕字旡くてもタギチゾと訓むべし○日本これは山跡の枕詞におけるなり。日本とは日神の生れましゝ本つ國といふ事なれどもこは芳樹按ふに異國に對して稱ふ詞なり。そは公式令に明神御宇日本天皇詔旨《アキツカミトアメノシタシロシメスヒノモトノスメラミコトミコトノリ》とありて義解に以2大事1宣2於蕃國使1之辭也とみえたれば、我邦を日の本つ國とし蕃國を日の末つ國として付けられたる國名なり。【そのよし委しく公式令標注にいへり】こを山跡の國に冠ふらせたり。山跡はもと和處《ヤマト》の義にて帝都のある國の名なるをかく皇國の惣號ともしたり○鎭十方は皇國の鎭山と云意にて寶十方は皇國の寶山と云意なり○歌意は。甲斐國の此方《コチ》。駿河國の此方にありて眞中より生えいでたるごとき富士の嶺の高きことはも天雲もこえかね飛鳥もえのぼらず四時よるもひるも降積る雪の中より火燃えけふりたてどその燃る火を雪もてけしそのふる雪を火もてけしつゝ奇妙不思議いはんにもいはれず名付んにも名付られずくすしくもまします神山なるかな。さればせの海と名付てある湖水もその山のつゝみもたる海ぞ。富士河といひて人のわたる川もその山よりたぎりおつる水の流ぞ。まことに日の本のやまとの國の鎭山とも寶山ともまをすべき山かな。さるによりこの駿河なる富士の高嶺はみれどもみれどもあかぬやまなり。といへるなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
不盡嶺爾零置雪者《フジノネニフリオケルユキハ》。六月十五日消者《ミナヅキノモチニケヌレバ》。其夜布里家利《ソノヨフリケリ》
 
零置雪者はフリオケルユキハと訓むべし。霜には置ケルといふ事多けれど雪にはあまたもみえず。卷十七に「たちやまに布里於家流由伎能」とあり。こは雪の年中積りてきえざるをかくいへるなり○六月十五日消者とは十五日《モチ》はもと十五日の夜の滿たる月をモチヅキといふ。それより轉りて十五日をモチノヒともいへり。さてその六月の十五日《モチ》の頃は暑の酷《ハナハダ》しき時なれば年中ふりおける雪もあつさにたへずしてしばしはきゆめれどもやがてその夜にふりつぎてまことはきゆるまもなしとよめるなり
 
布士能嶺乎高見恐見《フジノネヲタカミカシコミ》。天雲毛伊去羽計《アマクモモモイユキハバカリ》。田菜引物緒《タナビクモノヲ》
 
高見恐見は高《タカ》サニ恐《カシコ》サニといふ意なり。山の秀でゝ高さに雲えとゞかず尊く恐さに雲もおそれはゞかるよしなり○田菜引物緒のモノヲは言をふくめのこしたる辭なり○歌意。古義云く。富士の嶺が秀でゝ高さにえとどかず尊く恐さにえたなぴかず天雲さへもかほどまでおそれはゞかる山なるものを誰かは此山の高く尊く奇靈《クシビ》なるをかしこまざらんとのよしなり
 
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉。以v類載v此
 
此反歌二首共に長歌と同作なるべし。左註に蟲麻呂とあるは上件にいへる如く疑はし
 
山部宿禰赤人|至《ユキテ》2伊豫温泉《イヨノユニ》1作歌《ヨメルウタ》一首并短歌
 
伊豫温泉は記の允恭天皇の條に其輕太子者流於伊豫湯也。舒明紀十一年十二月幸2于伊豫温湯宮1。天武紀十三年冬十月大地震、伊豫温泉没而不v出などみえ中古以來の書どもにもあまた載せて名高き温泉なり。今道後温泉といへり
 
皇祖神之神乃御言乃《スメロギノカミノミコトノ》。敷座國之盡《シキマスクニノコトゴト》。湯者霜左波爾雖在《ユハシモサハニアレドモ》。島山之宜國跡《シマヤマノヨロシキクニト》。極此疑伊豫能高嶺乃《コゴシカモイヨノタカネノ》。射狹庭乃崗爾立之而《イサニハノヲカニタヽシテ》。歌思辭思爲師《ウタオモヒコトオモハシシ》。三湯之上乃樹村乎見者《ミユノウヘノコムラヲミレバ》。臣木毛生繼爾家里《オミノキモオヒツギニケリ》。鳴鳥之音毛不更《ナクトリノコヱモカハラズ》。遐代爾神左備將往《トホキヨニカムサビユカム》。行幸處《イデマシドコロ》
 
皇祖神之はスメロギノと訓むべし。【カミロギと訓めるはわろし】神乃御言乃はカミノミコトノにて御世々々の天皇をさし奉るなり○湯者霜左波爾雖在の湯者霜のシモは助辞にて左波爾雖在は湯は國々に多くあれどもの意なり。俗言に澤山《サハヤマ》と云ふこれなり。記の歌に比登佐波爾伊理袁理登母《ヒトサハニイリヲリトモ》また景行紀に都豆良佐波麻岐《ツヾラサハマキゞ》。卷六に鰒珠左盤爾潜出《アハビタマサハニカヅキデ》などみえたるかく多きを澤と云は澤は物の多く生ずる所なる故におのづから澤と多とかよはせるなるべし。風俗通に水草交※[がんだれ/昔]。名v之爲v澤、澤者言d其潤2澤萬吻1以阜c民用u也とある澤字物の多きことの稱なり○島山之は四國をすべていへるなり。宜國跡のヨロはトリヨロフのヨロにて物の足りとゝのひたる國と云事なり○極此疑のコゞシは凝々《コヾシ》なり。疑《カモ》は假字にて歎息の詞なればこゝはコヾシキ伊豫ノ高嶺といふことなり。卷十七立山の歌に許其志可毛とあるにおなじ。久老云。此高嶺は今石鐵山といへり○射狹庭は神名式伊豫國温泉郡伊佐爾波神社湯神社とあるがその所なり。今も射狹庭の岡に社あり。崗爾立之而は聖徳太子の崗にたちたまひてといふなり。そは釋日本紀に引ける風土記に云く。以2上宮聖徳皇1爲2一度1。及侍高麗惠茲僧葛城臣等也。于v時立2湯岡側1碑文記云。法興六年十月歳在2丙辰1。我法王大王與2惠慈法師及葛城臣1逍2遥夷與村1、正觀2神井1。歎2世妙驗1欲v敍v意聊作2碑文一首1。惟夫日月照2於上1而不v私。神井出2於下1無v不v給。萬所以v機妙應。百姓所2以潜扇1。若乃照給無2偏私1。何異2于壽國1。隨2革臺1而開合。沐2神井1而※[病垂/樛の旁]v※[病垂/尓]。※[言+巨]升2于落花池1而化溺。窺2望山岳之※[山+巖]※[山+号]1。反冀2子平之能1。往椿樹相※[まだれ/陰]而穹窿、實想五百之※[方+長]蓋。臨朝啼鳥而戯吐下何曉亂音之※[耳+舌]耳丹花卷葉映照玉菓彌葩以垂v井經過其下可優遊豈悟洪灌霄庭意與才拙實慚七歩後定君子幸無蚩咲也【この文誤脱おほきにやよみがたし】とみえたる中にて惟春月より以下百四十九字其碑文也。碑は今傳はらず。若くは天武紀十三年十月已卯朔壬辰大地震伊豫湯泉没不v出とみえたる此時などや地中に埋れつらむ。眞に憎むべきものなり。然れども釋紀にかく其文を載せたるは古をみるにたれり。されば「歌思ひ辭思はしゝ」といへるは聖徳太子の等時《ソノトキ》温泉の事を歌によみ辭に作りたまへるをさしていへるにて初句よりこゝまではみな聖徳太子の等昔《ソノカミ》を思ひていへるなり〇三湯之上乃《ミユノヘノ》の三は美称。眞《マ》湯といはむが如し。上は邊なり。樹村乎見者《コムラヲミレバ》樹村を今みればと云意なり。コムラは木群なり。【森と云もコムラを切めたる詞なり】和名抄に※[木+越]。纂要云。木枝相交。下陰曰v※[木+越]【和名古無良】○臣木《オミノキ》は字鏡に樅【毛牟乃木】和名抄に樅【爾雅云。樅。松葉柏身和名毛美】名義抄に樅【モミ】字類抄も同じ。かゝればモムともモミともオミともいへるみな同木なり。卷一の郡王の長歌の左註に宮前在二樹木。此之二樹班鳩此米二鳥大集。時勅多掛2稻穗1而養之とみえてそは風土紀に于時大殿戸有2椹與2臣木1とあるその二樹なるがともに行宮の前に立るゆゑによく人の目につく木なり。その中にてこゝは臣木のみをいへるなり。さるは岡本天皇の御世より遺《ノコ》り樹る古木なるゆゑに殊更にとりいでたれども椹のかたは枯ておみの木のみおひつぎにけりといへるなり。生繼《オヒツゲ》とはそのもとの木は枯れて孫生《ヒコバエ》の更におひつぎたるをいへるなり○鳴鳥之音毛不変《ナクトリノコヱモカハラズ》は往昔の斑鳩と此米とを想ひていへるにてその鳥の聲もむかしにかはらずなくよしなり○神左備將往《カミサビユカム》は今よりさき遠き末の世までも神々しく神さびゆかんといふなり○行幸處《イデマシドコロ》とは大帶日子天皇より後五度行幸ありし處なり○歌意。天下《アメノシタ》大八洲の内に國と云國(ノ)盡《コトゴト》温泉《ユ》は多くあれど伊豫の温泉は島山も勝れて宜しき國なるゆゑに聖徳太子のおはしまして其温泉の邊の伊射庭の岡にたちたまひて歌をおもひめぐらし文をおもひめぐらし玉ひしと云そのかみを慕ひて其處《ソコ》の行宮の前に茂りたる木群《コムラ》の中に往昔《イニシヘ》岡本天皇の行幸《イデマ》してみそなはしゝときに斑鳩と此米と來集りしと云臣木も孫生《ヒコバエ》ながら生繼《オヒツギ》てかの二鳥の聲もかはらず來なきつゝいとどむかしのしぬばるゝ處なり。今よりゆくさきも彌|神々《カウガウ》しく神さびゆくべき行幸處の蹟《アト》ぞ。となり
 
反歌
 
百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲《モモシキノオホミヤビトノアキタヅニフナノリシケム》。年之不知久《トシノシラナク》
 
飽田津は古義云く。大久保秀浪さきに彼地に至りて土人に尋ねしに温泉群一萬村の西に杉繩手とてあり。その廿町ばかり西に距て南方に武田津、中間に秋田津、北方に成田津とて古の三の津の蹟ありて今は潮退きて田地となれるを古三津《フルミツ》と呼なせり。其十四五丁西に距て新三津とよぶあり。これ今の舟津なり【三津が濱といふ是なり】船乘將爲《フナノリセム》の船乘は發船《フナダチ》のことなり○歌意。往昔天皇等の行幸の時從駕の大宮人の飽田津より發船しけむ其年暦の數へしられずいとふるく經ぬる事よとなり
【この飽田津のことは久老も已にいへれど程遠からぬ所に饒田津と飽田津と似たる名あるもいかにぞやおもはるれば略解に飽は饒の誤にやといへるも棄られぬ説なり】
 
《ノボリテ》2神岳《カミヲカニ》1山部宿禰赤人(ノ)作歌《ヨメルウタ》一首并短歌
 
この卷の前後の例によるに山部云々の六字登〔傍点〕の上にあるべし。神岳は已に出づ
 
三諸乃神名備山爾《ミモロノカミナビヤマニ》。五百枝刺繋生有《イホエサシシジニオヒタル》。都賀乃樹乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》。玉葛絶事無《タマカヅラタユルコトナク》。在管裳不止將通《アリツツモヤマズカヨハム》。明日香能舊京師者《アスカノフルキミヤコハ》。山高三河登保志呂之《ヤマタカミカハトホシロシ》。春日者山四見容之《ハルノヒハヤマシミガホシ》。秋夜者河四清之《アキノヨハカハシサヤケシ》。旦雲二多頭羽亂《アサクモニタヅハミダレ》。夕霧丹河津者驟《ユフギリニカハヅハサワグ》。毎見哭耳所泣《ミルゴトニネノミシナカユ》。古思者《イニシヘオモヘバ》
 
神名備山即神岳なり○繋生有は卷四、卷六などに四時二生有とありて繁く生たるよしなり。初句より此處までは目にふるゝものをもて都賀《ツガ》の序とせり○都賀乃樹乃《ツガノキノ》は枕詞なり○玉葛も枕詞なり。葛は蔓《ツル》の長くひろごりてたえぬものなればかくつづけたるなり○在管裳《アリツツモ》はアリアリツヽモの意にて俗にイツマデモと云がごとし。不止將通《ヤマズカヨハム》はヤマズカヨハムと訓むべし○明日香《アスカノ》云々は明日香淨御原宮をいへるなり。赤人のころは奈良の都なるゆゑに淨御原を舊京都《フルキミヤコ》といへり○河登保志呂之《カハトホシロシ》は河のきよきをいふ。宣長云く。トホシロとはさやかなるなり。古歌に「御|火《ヒ》しろくたけ」續世繼に「其大納言の御車のもむこそきらゝかにとほしろく侍りけむ」。又久老曰く。トホは達《トホル》の意シロキは鮮《アザヤ》かなるをいふといへり。かゝれば底まで澄みてきよきをいふ詞なり。山四見容之《ヤマシミガホシ》は四は助辭にて見容之は見之欲《ミガホシ》なり。後にミマホシといふにおなじ○河四清之《カハシサヤケシ》は月のうつれるけしきのさやかなるをいへるにて春より以下四句は春秋のおもしろきをほめたるなり○多頭羽亂《タヅハミダレ》は鶴《タヅ》の空に亂れあそぶをいふ○河津者驟《カハヅハサワグ》は驟は字鏡に※[敖/口]は衆口也【佐和口】とみゆ。河津は俗に云カジカにて秋をさかりに啼ものなり。【中古より田間になくカヘルをカハヅと訓めるは誤なり】孝徳紀二年の條に蝦蟇行宮《カハヅノカリミヤ》とありて通證に空物語に「なにはの祓に冠柳に到りたまひて大宮。河津なる柳が枝にゐる鷺をしろくさくともまつみつるかな」この珂津疑ふらくは今所謂高津なりといへれば蝦蟇《カハヅ》をカハヅと訓むべきこと疑ひなし。然るに和名抄に蝦蟇唐韻云蛙【和名賀閉流】蝦蟇也とありてカハヅの訓なし。芳樹按ふに集中にはカハヅを詠めるはみな聲のうるはしきをもてあそべるにて今の田間のかへるのかしましきさまなるは一首もなし。卷六に※[木+安]作村主益人歌に「おもほえずきませる君をさほ河の河蝦《カハヅ》きかせずかへしつるかも」其左註に右内匠寮大屬※[木+安]作村主益人聊設2飲饌1以饗2長官佐爲王1未v及2日斜1王既還歸於v時益人怜2惜不v厭之歸1仍作2此歌1とありてカハヅはゆふべを待てなくものゆゑに佐爲王のカハヅをきかでかへりたるをいたくをしめるよしをよめるなり。かくカハヅはこゑをめづるものなれば後世いはゆるカハヅとはことなる事いはむも更なり。さるは集中のみならず古今集の序に「花に啼鶯水にすむかはづ」と鶯にならべいへるにてもその清きこゑなることおしはかりしるべし。されば此驟もさわがしきをいとふ意にはあらず○哭耳而泣《ネノミシナカユ》は音にのみなかるるといふ意なり。シは助辭なり○古思者《イニシヘオモヘバ》は淨御原の宮の盛《サカリ》なりし昔をおもふゆゑにの意なり○歌意は。淨御原の宮の舊都は神岳山高く聳え明日香の河の瀬さやかにして春の日は其山の花みがほしく秋の夜は其河の月さやけくておもしろくしかのみならず春の朝は雲井に鶴飛みだれ秋の夕は川瀬に蝦津《カハヅ》集《スダ》き啼きて春秋朝暮の風景すぐれたる所なれば其地の衰へて物あはれなるにつけて中々にみきくもの毎になぐさむ心はあらで舊都のむかしの事の偏にしたはれて音にのみ泣るるとなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
明日香河川余藤不去《アスカガハカハヨドサラズ》。立霧乃念應過《タツキリノオモヒスグベキ》。孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》
 
三の句までは過《スギ》をいはん料の序なり。念應過《オモヒスグベキ》は念をすぐし遣り失ふべきとなり○孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》はこひにてはあらぬものをとなり。孤悲とは今世にては男女の相想ふ情をのみいへど父子兄弟などの相おもふをもみなコヒといふ。そのよしは既にいへり○歌意は。おほかたに古を慕ふならばみる物きくものにつけて物おもひをもやりうしなひなぐさむべきをしかものおもひをやりうしなふべきひとわたりの戀にてはあらぬよとなり
 
門部王《カドベノオホキミ》《ニテ》2難波《ナニハ》《ミテ》2漁火燭光《アマノイサリビ》1作歌《ヨメルウタ》一首
 
類聚抄に後賜2姓大原眞人氏1とあり
 
見渡者明石之浦爾《ミワタセバアカシノウラニ》。燒火乃保爾曾出流《トモスヒノホニゾイデヌル》。妹爾戀久《イモニコフラク》
 
燒火乃はトモスヒノと訓むべし。卷十五、卷十八に等毛之備《トモシビ》。字鏡に炬苣【止毛志火】とあり。さて此句までは保《ホ》をいはんとて目に觸る所のものをもて序にしたり。保爾會出流《ホニゾイデヌル》は忍ぶ思ひの堪へかねてそれとあらはれいでぬると云意なり。保《ホ》は秀《ホ》なり○妹爾戀久《イモニコフラク》は四の句にかへりて妹にこふる心の穗《ホ》にいでぬるとなり
 
或|娘子等《ヲトメラ》《オクリテ》2裹乾鰒《ツヽメルホシアワビヲ》2戯《タハムレニ》《フ》2通觀|僧之咒願《ハフシガカジリヲ》1時《トキ》通觀(カ)作歌《ヨメルウタ》一首〔頭注、校正者云。鰒《アワビ》の訓はアハビならん〕
 
こは若き女ども乾鰒を裹みて通觀に贈り兇咒願の力にてこれをいのり生したまへといひてたはむれたるなり
 
海若之奥爾持行而《ワダツミノオキニモチユキテ》。雖放宇禮牟曾此之《ハナツトモウレムゾコレガ》。將死還生《ヨミガヘリナム》
 
海若《ワタヅミ》はもと海神をまをす稱也。楚辭の註に海若海神名也とみえたり。されどこのワタツミはたゞ海といはむが如し○宇禮牟曾《ウレムゾ》は卷十一に「なら山の小松が末《ウレ》の有廉叙波《ウレムゾハ》わがおもふ妹にあはずやみなむ」とあるウレムゾにおなじくイカムゾの意なり○將死還生はヨミカヘリナムと訓むべし。ヨミカヘルは黄泉還《ヨミカヘル》にて死者の生きかへるをいふ訓なり〔頭注、校正者云。訓は詞〔右○〕などの誤か〕。字鏡に※[禾+魚](ハ)甦字(ニ)同、更生也【與彌還】とあり○歌意。たとへ沖にもちゆきてはなつともいかでかこれが生かへるべき。我咒願の及ぶべきにあらず。と女のたはふれにむかひあらそはずいへるにていろ/\すかしのたまふとも我出離の心をばふたゝびおもひかへさじといふ意をふくめたり
 
大宰少貳小野老朝臣歌《オホミコトモチノスナイノスケヲヌノオユノアソミノウタ》一首
 
太宰は大宰府なり。和名抄に於保美古止毛知乃司《オホミコトモチノツカサ》とみゆ。職員令に太宰府帶2筑前國とありて主神帥大貳少貳其外あまたの官員あり。陸奥の鎭守府に相並び彼は武を以て蝦夷を鎭め此は文を以て支那三韓に接せむ爲に置れたるなり。職原抄に聖武天皇天平十五年始置2筑紫鎭西府1。先v是有2太宰府號1云々。其天平十五年に鎭西府を置れたることは續紀に委し。これよりさき太宰府の號あるよしいへるは推古紀十七年四月丁酉朔庚子筑紫(ノ)太宰奏上とあるが物にみえたる始なればこれをさせるなり。文徳實録仁壽二年二月の條に夫太宰府者西極之大壤中國之領袖也。東以2長門1爲v關西以2新羅1爲v拒。加以2九國二島郡縣※[門/活]遠1。自古于今以爲2重鎭1云々○小野老は續紀養老三年正月壬寅正六位下より從五位下に進み四年十月戊子右少辨。天平元年三月甲午從五位上。三年正月丙子正五位下、五年三月辛亥正五位上、六年正月己卯從四位下、九年六月甲寅太宰大貳從四位下小野朝臣老卒とあり
 
青丹吉寧樂乃京師者《アヲニヨシナラノミヤコハ》。咲花乃薫如《サクハナノニホフガゴトク》。今盛有《イマサカリナリ》
 
元明天皇寧樂に都をうつしたまひしより聖武天皇の御代に至て益盛(ン)なりしを讃賞《ホメ》たる歌なり
 
防人司佑大伴四繩歌《サキモリツカサノマツリゴトヒトオホトモノヨツナガウタ》二首
 
防人司佑はサキモリツカサノマツリゴトヒトと訓むべし。太宰府の被管なり。四繩傳詳ならず。古今六帖に大伴のよつなとあればヨツナと訓べきこと疑ひなし。契冲云く。大伴の下宿禰の字脱たり。家持の歌などつゞきておほきところには大伴家持とのみもあれどさらではみな姓《カバネ》をそへてかけり
 
安見知之吾王乃《ヤスミシシワガオホキミノ》。敷座在國中者《シキマセルクニノウチニハ》。京師所念《ミヤコシオモホユ》
 
國中者クニノウチニハと訓むべし。古義に中字ウチニハとはよみがたきよしいへれど卷六に八島之中爾國者霜多雖有《ヤシマノウチニクニハシモサハニアレドモ》とある中字必ウチと訓むべく紀に後見2國中1の國中を傳に久奴知と訓むべしといひ大祓の辭にも所知食武國中爾《シロシメサムクヌチニ》とみえたれば此國中をもクニノウチと訓むべきこと决《ウツ》なし○京師所思の師《シ》は助辭なり。京の字をミヤコと訓めるは卷一に荒有京《アレタルミヤコ》また此次の歌に平城京《ナラノミヤコ》などあり○歌意あきらかなり
 
藤浪之花者盛爾《フヂナミノハナハサカリニ》。成來平城京乎《ナリニケリナラノミヤコヲ》。御念八君《オモホスヤキミ》
 
結句の君は旅人卿をさせり。歌意かくれたるところなし。芳樹云く。成來《ナリニケリ》と五字の句にて斷れたる歌上古にはをさ/\なし。さるはこの八雲の御歌をはじめ五七とつゞき五七とつゞきて結句をもて一首の體をなすが格なり。或は又五七とつゞけて斷り又五七七とつゞけて上にいへる如くよむも格にて正しきを失《ウシナ》はず。されば五字の句にて切るといふことは上古には更になかりしなり。【長歌もかくの如し】然るを奈良の御世の頃より五字の句にてきりたる歌をり/\みゆめるは中々に此道のさかむになれるにてかく格の變《カハ》れるも出來たるこれおのづからの勢なればあしきことにもあらぬを後世この變格を定格の如くおもひなして宣長すら五七五の三句を上の句。七々の二句を下の句といへればましてその外のかいなでの學者をや。上の句とは上の五七二句なり。下の句とは下の五七七三句なり。この歌の如きはその格を差へてよめり。とおもふべし【委しくは芳樹が古風三體考にいへり】
 
帥大伴卿歌《カミオホトモノマヘツギミノウタ》五首
 
帥大伴卿は旅人卿なり。和名抄に太宰府曰v帥【加美】とみえたり。帥は字彙に毛氏曰凡稱(テ)2主v兵者1爲2將帥(ト)1。則去聲。言2領v兵帥1v師則入聲。故經典釋文將帥字皆去聲。帥師字皆不v音と見えで將帥のときは去聲山類切音スイ。帥師のときは入聲山律切音ソツなり。將帥はもとよりカミと稱ふべき理なれども中古よりみなソツといひならはしたり。されは太宰帥はスイの音のかたなるべくおもはる。先達の説もみなしかり。然るをソツといふは芳樹按ふに太宰府は文官なればカミといふときは事もなけれど帥字をもていはんには將帥のスイの音にもしがたからんか。されどもし邊警のあらん時は九國の兵を帥ゐて防禦をもするが其任なるゆゑ音をもて稱する時は帥師の方の音を用ゐてソツと呼なるべし。此卿の帥に任せられし事續紀にみえず。卷十七に天平二年庚午冬十一月太宰帥大伴卿被v任2大納言1【兼v帥如v故】上京之時云々とみえたれば神龜天平の始に帥に任ぜられしなるべし
 
吾盛復將變八方《ワガサカリマタヲチメヤモ》。殆寧樂京師乎《ホト/\ニナラノミヤコヲ》。不見歟將成《ミズカナリナム》
 
復將變八方の將變はヲチと訓むべしと宣長いへり。ヲチは集中所々にみえて變若《ヲチ》とも遠知《ヲチ》とも越知《ヲチ》ともさま/”\にかけり。卷十三には「月讀のもたる越水《ヲチミヅ》」ともよみて若がへることをヲチと云なり。【委しくは玉勝間卷八に見ゆ】さればこゝの復將變八方もまたふたゝび若く盛んなる時に變らめやはと云意なり○殆はホトヽヽニと訓むべし。記傳云.ホト/\と云意は邊々《ホトリ/\》にてその近き邊《ホトリ》まで至る意なりといへり。此詞は集中こゝかしこにみえ後撰集に「人の許より久しうこゝちわづらひてほと/\死ぬべくなむありつるといひて侍りけれは」拾遺集に「なげきこる人いる山の斧の柄のほと/\しくも成にけるかな」蜻蛉日記に「我ならぬ人はほと/\なきぬへく」源氏物語に「翁もほと/\まひいでぬべき」などあり○歌意。吾齡の若くさかむなる時にまたふたゝびかへるべしやは。またもわかきにかへるまじければ太宰府においはてて平城京をみずなりなんに近からんかとおもふがくちをしとなり
 
吾命毛常有奴可《ワカイノチモツネニアラヌカ》。昔見之象小河乎《ムカシミシキサノヲガハヲ》。行見爲《ユキテミムタメ》
 
常有奴可《ツネニアラヌカ》はつねにかはらであれかしと願ふ意なり。古義云。此アラヌカの奴は禰のことの轉しいへるにて希望の詞なり。かゝれは奴といふも禰といふも意はまたく同じ。されはアラヌカはアラネと願ふことなるを下のカへ連くゆゑに第四の言を第三の言に轉じいへるものぞ。【カは哉にて歎詞なり】猶その例をいはゞ有許勢奴可毛《アリコセヌカモ》、繼許勢奴可聞《ツギコセヌカモ》などあるも有コセネ、繼コセネと願ふ意なるを可毛《カモ》へつゞくゆゑ禰を奴に轉じいへるものなりといへるがごとし。猶詞の玉緒を併見るべし○歌意はかくつくしにありて壽の長からんことねがふは他の望あるにあらず。昔みしよしのゝ象の小河の景を行て見むか爲に吾命の常にかはらずもあれかしと思ふとなり
 
淺茅原曲曲二《アサチハラツバラ/\ニ》。物念者故郷之《モノモヘバフリニシサトシ》。所念可聞《オモホユルカモ》
 
淺茅原は曲《ツバラ》の枕詞なり。遲波良《チバラ》と都波良《ツバラ》と音の通ひたれば重ねいひたるなり○曲曲二《ツバラ/\ニ》は卷十八に「風の音の都婆良都婆良爾」とみゆ。曲はツマビラカと同音なり。舒明紀に曲2擧《ツマビラケクス》山背大兄之語1とみえたり○故郷之はフリニシサトシと訓べし。之は助辭なり。さて此ふりにしさとは舊都をいへるなり。久老云。高市郡のつぎ坂はもと大伴氏の家地にで藤原明日香に近ければ殊更舊都をしのびてよめるにや。卷六此卿の歌に「しまらくもゆきてみましか神南備の淵は淺而瀬にか成らむ」ともみえたりといへり○歌意は。旅にありて物思ひの多く落ることなく委曲にしげき中にも故郷のひとへに戀しく思はるゝかなとなり
 
萱草吾紐二付《ワスレグサワガヒモニツク》。香具山之故去之里乎《カグヤマノフリニシサトヲ》。不忘之爲《ワスレヌガタメ》〔頭注、校正者云。香具山之の之の字は乃とあるべくや諸本凡て然り
 
萱草は和名抄に兼名苑云。一名萱草。一名忘憂【漢語抄云和須禮久佐。俗云如環藻二音】とみえたり。本草綱目に時珍曰。萱本作※[言+爰]。々忘也。詩云。焉得2※[言+爰]草1。言樹2之背1。謂憂思不v能2自遣1。故欲d樹2此草1玩味以忘uv憂也。呉人謂2之療愁1。又陸士衡か詩に焉御2忘歸草1。言樹2背與1v襟といへるは毛詩によりて作れり。されは萱草を忘歸草といふともおもはる。さて背を北堂、襟を南庭、或は背を背上、襟を胸前ともいふよし琅邪代粹にみえたり。此歌にかく紐につくとよめるは襟を胸前とするの説はやく奈良の頃よりありてそをおもひてよめるにやあらん○不忘之爲《ワスレヌガタメ》はわすれんとすれどもわすられぬが爲にの意なり○歌意は。ふるさとを戀しくおもふ心をいかで忘れむとおもへどもわすれぬが故にもしや萱草を帶たらばわするゝ事もあらんかとて衣の紐にむすびつくとなり
 
吾行者久者不有《ワガユキハヒサニハアラジ》。夢乃和太湍者不成而《イメノワダセトハナラズテ》。淵有毛《フチニアレヤモ》
 
吾行者は吾旅行はと云なり○夢乃和太湍者は卷七に「夢乃和太ことにしありけりうつゝにもみてこしものを思ひしもへば」とある處にて懷風藻の從駕吉野宮(ノ)詩に夢淵の字もよくかなへり。大和志に夢囘《ユメノワタ》在2吉野郡御科莊新住村1俗呼2梅囘《ウメノワタ》1淵中奇石多とあり【夢の浮橋といふも此夢の和太にわたせる浮橋なりと玉玉勝間にいへり】○淵有毛は宣長云。有の下也の字を脱せるか。フチニアレヤモにて淵にてあれといふ意なりといへり○歌の意は。われ旅にゆきて太宰府にあらむほどは久しき間にはあらじ。ほどなくかへりて見にゆくべければ夢の和太の淵も瀬にならで昔みしまゝにてあれよとなり。かくよめるは淵は瀬となるといふ諺ふるくよりありしによられたるなるべし
 
沙彌滿誓詠v緜歌一首
 
滿誓は笠朝臣麻呂といふ人にて從四位上右大辨なりしが靈龜五年に太上天皇の奉爲に出家入道せり。いまだ俗なりし時慶雲元年正月癸巳に從五位下。三年七月辛酉美濃守。和銅元年三月丙午從五位上。【續紀此下に爲2美濃守1とあるは不審】二年九月已卯賜2當國田一十町穀二百斛衣一襲1。美2其政蹟1也。四年四月壬午正五位上。七年閏二月朔賜2封七十戸田六町1。以v通2吉蘇路1也。靈龜元年六月甲子兼2尾張守1。養老元年十一月癸丑從四位上。三年七月庚子始置1按察使1。令3美濃守麻呂管2尾張三河信濃1。四年十月戊子右大辨とみゆ。この歌は養老七年二月丁酉勅2僧滿誓1於2筑紫1令v造2觀世音寺1とある時のなるべし
 
白縫筑紫乃綿者《シラヌヒツクシノワタハ》。身著而未者伎禰杼《ミニツケテイマダハキネド》。暖所見《アタヽケクミユ》
 
白縫は枕詞なり。古義云。卷五に斯良農比《シラヌヒ》筑紫國。卷二十に之良奴日筑紫國とあればシラヌヒノとノもじをそへてよむが誤なりといへり〔頭注、校正者云。よむ|が〔右○〕は古義にはよむ|ば〔右○〕とあり〕。白縫とは景行紀に遙視2火光1。天皇詔2挾抄者1曰。直指2火處1。因指v火往之。即得v著v岸。天皇問2其火光處1曰何謂邑也。國人對曰。是八代縣豐村。亦尋2其火1是誰人之火也。然不v得v主。茲知v非2人火1。故名2其國1曰2火國1とみえて人火にあらざる奇き火のみえたる故に火國と名づくるよしにて不知火とのたまへる事はみえず。公望私記に肥後風土記を引るにもたゝ恠火(ノ)下之國也。又燎(ル)之火非2俗火1などとありて不知火の義をばいはず。かゝればシラヌヒは火のことにはあらで別に義あるべし。今考得ず。筑紫乃綿とはわたはつくしの名物なり。續紀曰。神護景雲三年三月乙未始毎v年運2太宰府綿二十萬屯1輸2京庫1。延喜雜式云。凡太宰貢2綿穀1船者云々。江次第十二月補次侍從次第云。上古以v預2節會1爲2大望1。多依v給2禄綿1也。件綿本太宰府所v進也○未者伎禰杼の者もじはいまだきはせねどもといふ意なり○暖所見は宣長云.アタヽケクミユとよむべし。アキラカ、ノドカ、ユタカなどのたぐひ古言にはアキラケシ、ノドケシ、ユタケシといひてアキラカ、ノドカ、ユタカなどいはぬ格なる故にアタヽカニとはよむまじきなり。字鏡に※[火+需]【※[火+褞の旁]也阿太太介志】とみえたり○歌意は。筑紫の綿をしたしく身につけていまだきはせねどもそのつみおきたるをみてさへあたゝかげにみゆるをもし衣になして身に着たらばいかばかり暖ならんとなり
 
山上臣憶良|罷《マカルトキノ》v宴《ウタゲヨリ》歌一首
 
憶良等者今者將罷《オクララハイマハマカラム》。子將哭其彼母毛《コナクラムソノカノハヽモ》。吾將待曾《アヲマツラムゾ》
 
憶良等者の者の字味ひあり。他人はとまれわれらはといふ意なり。今者將罷《イマハマカラム》は酒もさかなも飽までたうべたれば今はまかりかへらんといふ意なり〇其彼母毛《ソノカノハヽモ》の其は三の句の子もじをうけて其子もといふ意。彼は今も俗にカノガ或はカノ人ガなどいふカノにて其子を産るかの母もといふ意なり【ソノコノハヽモとよめるは無下に味ひなし】〇酒宴の席に久しく居たれば家には子もわれをまちてなくらん。その子をうめるかの母もわれを待こふらん。他の人々はともあれわれは今はまかりかへらんぞとなり
 
太宰帥大伴卿《オホミコトモチノカミオホトモノマヘツギミノ》《ホムル》v酒《サケヲ》歌十三首
 
釋云。晉の劉伶が酒徳頌唐の李白が獨酌の詩のみならず豪邁不羈の輩此趣を得る者多し。此歌並に懷風藻に載せたる藤原麻呂の詩序をみるに彼輩なるべし
 
驗無物乎不念者《シルシナキモノヲオモハズハ》。一坏乃濁酒乎《ヒトツキノニゴレルサケヲ》。可飲有良師《ノムベクアラシ》
 
驗無は釋に無益《シルシナキ》也【紀に益(ノ)字シルシとよめり】物乎不念者はものをおもはむよりはの意なり○一坏乃は【坏字酒器の義は字書にみえず。杯の木偏を土にへたるなり】ヒトツキノとよむべし。ツキは漢語抄に佐加豆伎とあるツキなり。濁酒乎、四時祭式に清酒濁酒みゆ○可飲有良師はノムベクアラシとよむべし○歌意は。纔の酒にてさへ愁をわするれば益なきもの思ひをせむよりは一杯の濁酒をのみて憂ひを忘るべきことにあるらしとなり。數杯清酒をのまば其醉ていよ/\たのしかるべきなれどたヾ一杯の濁酒にても物思ひははるけうしなはるゝものぞとなり
 
酒名乎聖跡負師《サケノナヲヒシリトオホセシ》。古昔大聖《イニシヘノオホキヒジリノ》。言乃宜左《コトノヨロシサ》
 
聖跡負師は魏略云。太祖禁v酒。而人竊飲。故難v言v酒。以2白酒1爲2賢者1。清酒爲2聖人1とあるによれり。又魏志に徐※[しんにょう+貌]が酒に醉て中2聖人1〔頭注、校正者云。清酒の上に以の字有るべきか〕といへるも是なり。負《オホセ》は卷二十に由伎登利於保世《ユキトリオホセ》と假名にかけるがごとし○大聖之は酒を聖と名づけし人を稱ていへる詞なり。酒は聖といふべきものなるをこを聖と名づけたる人は誠に大聖なりと稱たるなり○言乃宜左は言の相應《アヒカナ》ひて宜しさといへるなり○歌意は。酒をいたくめで貴みて清酒に聖人といふ名を負せたるはこれ常人にあらず大聖なり。されば酒に聖といふ名負せしいにしへの大聖の言の相應てよろしさいはんかたなしとなり
 
古之七聖《イニシヘノナヽノサカシキ》。人等毛欲爲物者《ヒトタチモホリセシモノハ》。酒西有良師《サケニシアルラシ》
 
七資のナヽノは卷十六に九兒等哉《コヽノコラヤ》とみえたるに同例なり。其外|百官《モヽノツカサ》又|八十之健男《ヤソノタケヲ》などの例に同じ。賢をサカシキとよむは仁徳紀に賢此云2左柯之《サカシ》1とありてこは智深く賢をいふ言なり。此下に腎良乎爲跡《サカシラヲスト》とある賢は必ずサカシラとよむべきこと良字をそへたるにて知べし。又土佐日紀に「こと人のもありけれとさかしきもなかるべし」【これは歌のよきを賢しきといへるにて賢の字より一轉したる也】○欲爲物者はホリセシモノハとよむべし
 
賢跡物言從者《サカシミトモノイハンヨハ》。酒飲而醉哭爲師《サケノミテヱヒナキスルシ》。益有良之《マサリタルラシ》
 
賢跡はサカシミトとむべし。俗にサカシウといはむが如し。跡は助字にて歌の意にかゝはらず。物言從者はモノイハムヨハとよむべし。ヨはヨリといふに同じ。賢人ぶりて物しりがほに言誇らんよりはの意なり○醉哭は續後紀に文室秋津【中略】毎v至2酒三四杯1必有2酵泣之病1〔頭注、校正者云。〕病の字古義に引けるは癖とあり〕。又榮花物語に「大臣醉泣し給ふ」大和物語に「醉なきいとになくす」源氏物語繪合に「醉なきにや院の御事聞え出て」などその外にもおほかり。師は助辭なり○歌意明かなり
 
將言爲便將爲便不知《イハムスベセンスベシラニ》。極貴物者《キハマリタテュトキモノハ》。酒西有良之《サケニシアルラシ》
 
將爲便不知は將爲はセムといふにあたれば便の年スベといふにあたるなり。不知はシラニとよむべし。卷二に世武爲便不知爾《セムスベシラニ》とみえたり○極はキハマリテとよむべし○歌意はいはむにもいふべきよしなくせむにもすべきかたしらず至り極まりて最《イト》も貴きものは酒にしあるらしとなり
 
中中二人跡不有者《ナカナカニヒトトアラズハ》。酒壺二成而師鴨《サカツボニナリテシカモ》。酒二染嘗《サケニシミナム》
 
中々二は俗にカヘリテといふ意なり○人跡不有者は人にてあらむよりはの意なり○酒壺二の壺は和名砂に壺【音胡和名都保】所2以盛1v飲也とあれば酒器の名とおもはる。又同抄に坩をも都保とよめり【敏達紀に壺といふ人名をツフと訓るは壺をツフともいへりとおもはる】○成而師鴨はナリテシカモと六言によむべし。カは希望辭モは歎息辭なり。酒壺にならまほしとねがふ意なり○歌意明らかなり
 
痛醜賢良乎爲跡《アナミニクサカシラヲスト》。酒不飲人乎熟見者《サケノマヌヒトヲヨクミバ》。猿二鴨似《サルニカモニル》
 
痛醜は神武紀に大醜此云2鞅奈瀰※[人偏+爾]句《アナミニク》1とあり。此アナをアヤといふ詞と同じ言とおもへる人あれどアヤとは聊かはれり。アナは卷四に痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》。卷六に痛※[立心偏+可]怜《アナアハレ》。卷十四に安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》また古今集にアナコヒシ、アナイヒシラズ、六帖にアナオボツカナ、伊勢物語に「鬼はや一口にくひてけりあなやといひけれど」後撰集にアナサムノ風ヤなどみゆ【アヤと同じからざる證はアヤにニもじをそへていへるがおほし。たとへばアヤニカシコキはあやしきまでにかしこきの意、アヤニコヒシキはあやしきまでにこひしきの意にてアヤカシコキ、アヤコヒシキなどいへるたぐひ一つもなくみなアヤニ云々と爾のことをそへていへり。たゞ卷八に「さくらの花のにほひはも安奈爾」とあるはアナにニのそひたるにて紀に阿邇夜志とあるアナに同じくてアヤニカシコキ、アヤニコヒシキなどのニにはあらざるをしるべし。委くは古義に證ども引ていへり】○賢良乎爲跡《サカシラヲスト》のサカシラは俗にコサカシ、サカシダテなどいふほどの事なり。卷十六に情出《サカシラ》。情進《サカシラ》ともかきたればスヽトキモノ、サシ出タルモノなどいふたぐひなりと契冲いへり。古今集に「さかしらに夏は人まねさゝのはのさやく霜夜をわがひとりぬる」伊勢物語に「むかしわかきをのこけしうはあらぬ女をおもひけりさかしらする親ありておもひもぞつくとて此女を外へおひやらんとす」。爲跡はスルトテの意なり○人乎熟見者《ヒトヲヨクミバ》はヒトヲヨクミバとよむべし○猿二鴨似《サルニカモニム》はサルニカモニムと訓むべし○歌意。かしこき顔して飲まはしき酒をものまず常にかしこだてをする人をよくみたらばそのこさかしきさまは猿にか似てあらん。あゝみにくきかなといへるなり
 
價無寶跡言十方《アタヒナキタカラトイフトモ》。一杯乃濁酒爾《ヒトツキノニゴレルサケニ》。豈益目八《アニマサラメヤ》
 
償無寶は佛經に無價寶珠とあるによれりと契冲いへり。アタヒは當易《アテカヒ》の義テカの反タ也と和訓栞にみゆ○豈益目八《アニマサラメヤ》はアニは何《イカデ》といふことにていかでまさらんやはまさりはせじといふ意なり○歌意は。たとひ無價寶珠とても一杯の濁酒におとれり。まして清酒を飽までのみたらんには比ぶべき物もなからんとのよしなり。
 
夜光玉跡言十方《ヨルヒカルタマトイフトモ》。酒飲而情乎遣爾《サケノミテコヽロヲヤルニ》。豈若目八目《アニシカメヤモ》
 
夜光玉は史記に隋公祝元暢因之v齊。道上見2一蛇將1v死。遂以v水洒摩。傳2之神藥1而去。忽一夜中庭皎然有v光。謂有v賊〔頭注、校正者云。謂の上意の字あるべきか〕。遂案v劔視v之。廼見2一蛇※[口+銜]v珠在v地而往1。故知2前蛇之感報1也以2珠光能照1v夜故曰2夜光1とあるによれり
 
世間之遊道爾冷者醉哭爲爾《ヨノナカノアソビノミチニタヌシキハヱヒナキスルニ》。可有良師《アリヌベカラシ》
 
遊道爾とは月花のあそび管絃のあそびなど種々ありてその遊興の條《スヂ》をいふ。ミチはもと御血《ミチ》の義にて天皇の御血統をいへる言なれど奈良の比よりはかくくさくさの事にも道と名づけいへることゝなれり○冷は釋云、阿野本洽に作れり。されどこゝは二句の道爾の爾字不の誤にて遊道不冷者《アソビノミチニタヌシキハ》なるべし。アソビノミチニのニは二句の道字につけてよみて不冷は集中に不樂をサビシと義訓したるに表裏して不冷なればタヌシキとよまるべしと釋にみゆ。宣長は怜の誤にてタヌシキハと訓めり。この兩説いづれも聞えたり【古義には洽の誤としてアマネキハと訓めり。こゝは種々遊びの條は多かる中にもあまねく心たらひなるはなりといへり】○歌意。世間に種々遊ひの條《スヂ》は多くありていづれもおもしろけれどその樂しきが中にまた不足《アカヌ》こともありて十分ならざるものなるに酒にゑひたるのみは心足らひに樂しければ唯酒をのみて醉哭するにあるらしとなり
 
今代爾之樂有者《コノヨニシタヌシクアラバ》。來生者蟲爾鳥爾毛《コンヨニハムシニトリニモ》。吾羽成奈武《アレハナリナム》
 
今代爾之はコノヨニといふことにてシは助辭なり○來世者は未來世《ノチノヨ》にはといふなり。蟲爾鳥爾毛はむしにも鳥にもといふべきをひとつのモを省けるなり。卷六に門爾屋戸爾毛珠敷麻思乎《カドニヤドニモタマシカマシヲ》とあるもおなじ○歌意。此世にあるほど思ふまゝに酒のみて樂しくあらば未來の世にはたとひ蟲に生れかはるとも鳥に生れかはるとも我はいとはじとなり
 
生者遂毛死《イケルヒトツヒニモシヌル》。物爾有者今生在間者《モノナレバコノヨナルマハ》。樂乎有名《タヌシクヲアラナ》
 
生者はイケルヒトと訓むべし。釋にもイケルヒトとよめり。史記に憑驩曰生者必有v死。物之必至也。二の句の遂毛の語意を味ふにウマルレバとよみてはかなひがたき心ちす。毛の字は輕く添へたる言なり○樂乎有名の乎は助辭なり○歌意あきらかなり
 
黙然居而賢良爲者《モダヲリテサカシラスルハ》。飲酒而醉泣爲爾《サケノミテヱヒナキスルニ》。尚不如來《ナホシカズケリ》
 
黙然居は宣長云。卷十七に毛太毛安良牟《モダモアラム》とあればモダヲリテとよむべし。モダはムダと通ひて徒然《イタヅラ》なる意なり○尚不如來《ナホシカズケリ》はなほ不及《シカ》ざりけりといふ意なり。【此詞古今集よりこなたにはなし】卷六に尚不及家利《ナホシカズケリ》。卷十三に都不止來《カツテヤマズケリ》。又十七に孤悲夜麻受家利《コヒヤマズケリ》。卷十七に母等米安波受家牟《モトメアハズケム》などその外にもありて古くはズケリ、ズケンなどゝいへり○歌意。物をもいはずかしこがほして終日|黙《ムダ》に暮す人は酒このむものを思ひおとしてあるらめどそは中々酒のみて醉泣する人に尚|不及《シカズ》おとりてみゆとなり
 
沙彌滿誓歌一首
 
世間乎何物爾將譬《ヨノナカヲナニニタトヘム》。旦開榜去師船之《アサビラキコギニシフネノ》。跡無如《アトナキゴトシ》
 
世開乎云々は世の中を何にたとへん譬ふべき物なしといふ意なり○旦開はあしたに船だちするをいふ。卷十五に安佐妣良伎許藝弖天久禮婆《アサビラキコギデテクレバ》その外おほし○跡無如はアトナキゴトシyと訓べし○歌意は。世間の無常はあまりにはかなきものにて譬へんかたなし。唯湊にとまりし舟のあしたに舟發して漕行しか其あと方もなきがごとしとなり
 
若湯座《ワカユヱノ》王歌一首
 
此王傳しれず。ワカユヱは記紀にみえて雄略紀に湯人廬城部連武人【湯人此云臾衛】とあり。湯人を臾衛とよむが即大湯坐、若湯坐の湯坐にて傳に兒に湯を浴する婦ときこえたりといへり。此湯坐を氏とせしは天武紀に三年十二月大湯人連、若湯人連賜v姓曰2宿禰1とあり。されども姓氏録には若湯坐宿禰のみみえたり。此王の若湯坐は氏にはあらで名なり。和名砂に上總國周准郡湯坐とあり。もしくは此地に縁《ユカリ》ありて名とせられたるか
 
葦邊波鶴之哭鳴而《アシベニハタヅガネナキテ》。湖風寒吹良武《ミナトカゼサムクフクラム》。津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》
 
葦邊波の波は他處にむかへていへるなり○湖風はミナトカゼと訓べし。湖の字潮に作れるは非なり。「美奈刀可世寒く吹らしなこの江につまよぴかはし鶴さはになく」と卷十七にみえたり○津乎能埼羽毛のツは和名抄に近江國淺井郡都宇郷あり。此處にや。と契冲いへり。【伊豫の野間郡にありといふ説もあり】ツヲノサキハモのハモは歎息きて尋ねしたふ意の辭にて集中並びに古今集にいと多し。こは親しき人などの此つをの崎にすめるをおもひやりてよめるなるべし
 
釋通觀歌一首
 
見吉野之高城乃山爾《ミヨシヌノタカキノヤマニ》。白雲者行憚而《シラクモハユキハバカリテ》。棚引所見《タナビケリミユ》
 
高城山はよしのゝうちにある高山なるべし。夫未抄に「夕づく日さすや高城の山ざくら花のひかりぞ空にうつらふ」「天の原みれば高城の山ざくらそらにたなびく雲はこれかも」○行憚而は不盡山歌に天雲毛伊去波伐加利とあるに同じ。山の高きにさへられて雲の行過ることならぬを行はゞかりてといへるなり○棚引《タナビケリ》は高城の山にかゝりてゐることなり。こをたなびけると訓るはわるし。タナビケリミユと訓べし。記に志毘賀波多傳爾都麻多弖理美由《シヒガハタテニツマタテリミユ》。卷六に「かしこき海に船出爲利所見《フナデセリミユ》」とあるなど此例なり○歌意。よしのゝ高城山のあまりに高さに雲も行過くることあたはずさへられて山のはにかゝり棚引たるがみゆとなり
 
日置少老《ヘキノヲオユ》歌一首
 
少老傳しれず。日置は氏なり。ヘキと訓べし。記に幣伎之君等之祖也とあり【和名抄に此地名多きを皆比於岐とよめるは後にとなへたがへたるものなり。長門國大津郡の日置も和名抄には比於岐とあれど今も土人はヘキといへり。この外なるもしかりとぞ】
 
繩乃浦爾塩燒火氣《ナハノウラニシホヤクケフリ》。夕去者行過不得而《ユフサレバユキスギカネテ》。山爾棚引《ヤマニタナビク》
 
繩乃浦爾は釋に下にある赤人が歌に繩浦。武庫浦。阿倍島かくの如くつゞけてあれば津國なるべしといへり。風俗歌に奈波乃川不良衣《ナハノツフラエ》とあるも同所ならんか【名寄に顯昭「雪ふればあしの末葉も波こえてなにはもわかぬ繩のつぶらえ江」○行過不得而《ユキスギカネテ》は上のうたに行はゞかりてとあるとはことにて沖の方へゆきすぐべき烟の夕されば風やみてそのあたりの磯山にたなびけるさまなり。卷七にこれに似たる歌あり
 
生石《オフシノ》村主眞人歌一首
 
生石は氏。村主は姓《カバネ》。眞人は名なり。續紀天平勝寶二年正月乙巳正六位上大石村主眞人授2從五位下1とみゆ
 
大汝少彦名乃《オホナムチスクナヒコナノ》。將座志都乃石室者《イマシケンシツノイハヤハ》。幾代將經《イクヨヘヌラム》
 
大汝《オホナムチ》は芳樹按に大名持の義にて土地を廣く領知《シメモチ》たるよしの名なり。鎌倉以來大名といふ稱のおこれるはこれによれるものなり。即文徳實録に大奈母智《オホナモチ》。三代實録延喜式等に大名持《オホナモチ》とある大名則これなり【委しくは大祓執中抄にいへり】○少彦名は記に神産巣日神御子とあり。名義は傳の一説に大名持の大名にむかへるか。もししからば須久那那といふべきを約めたるなり。【後世はスクナシとは多にむかへて物のかずのみにいへどもいにしへは大《オホ》にむかへて少き事にもいへり〔頭注、校正者云。大にむかへて少き事は小さき事か】。官職にも大少ありて大をオホイ少をスナイといへり】とみえたり。されは大名《オホナ》少名《スクナ》はむかへて稱《ツケ》たる名なり○志都乃石室は石見國邑知郡の山中に石室《イハヤ》村といふありてその山を志豆の石室といひていと大きなる穴居あり。高さ三十五六間ばかり。中|甚《イト》ひろし。里人のいひつたへに大汝少彦名神の隱れたまへる石屋なりといふ。祭神をしづ權現と申せるよしこはまさしくその里人の語るところなり。此歌を以て附會する如きの所にはあらず。いと深き山奥にてよその人のしらぬ所なればしつの石室はこれにてもしは生石村主。石見のつかさにて彼國にてよめるにやと宣長いへり
 
《カミノ》古麻呂歌一首
 
上古麻呂傳詳ならず。上の字の下。村主の二字をおとしゝか。姓氏録に上の村主あり。續紀景雲元年正月癸巳正六位上上村主大石授2從五位下1。靈龜元年四月癸酉上村主通政賜2阿刀連1とあり
 
今日可聞明日香河乃《ケフモカモアスカノカハノ》。夕不離川津鳴瀬之《ユフサラズカハヅナクセノ》。清有良武《キヨクアルラム》
 
今日可聞のカは疑の辭モは助辭たり。ケフモカといへるは昨日も又今日もといふ意なり○夕不離《ユフサラズ》はゆふべごとにといはむがごとし。卷十二|暮不離蝦鳴成《ユフサラズカハヅナクナリ》また此下に|朝不離雲居多奈引《アササラズクモヰタナビキ》卷十七に安佐左良受安比底許登騰比《アササラズアヒテコトトヒ》○川津は既にいへり【今の蛙にはあらず。聲のいとさやかなるものにて清き水ならではすまぬものなり。】○歌意あきらかなり
 
或本歌發句云。明日香川|今毛可毛等奈《イマモカモトナ》
 
發句とはこゝは初二の句をすべていへるなり。初句のみを發句といふことは既に上に載せたり
 
山部宿禰赤本歌六首
 
繩浦從背向爾所見《ナハノウラユソガヒニミユル》。奥島榜囘舟者釣爲良下《オキツシマコギタムフネハツリヲスラシモ》
 
繩浦は上なる繩浦と同處なるべし○背向は背交にてうしろむきにみゆるをいふ【向は身交《ムカヒ》にて背交に對せることばなり】○奥島いづれの島をさせりともしれず○榜囘舟者《コギタムフネハ》はその奥島をこきめぐる舟なり○釣爲良下《ツリヲスラシモ》はツリヲスラシモと訓むべし
 
武庫浦乎榜轉小舟粟島矣背爾見乍《ムコノウラヲコギタムヲブネアハシマヲソガヒニミツヽ》。乏小舟《トモシキヲブネ》
 
榜轉小舟《コギタムヲフネ》は漕まはる小舟なり○背爾見乍《ソガヒニミツヽ》はうしろ方にみる意にて難波にのぼる舟の淡島をかへりみたるなり○乏小舟《トモシキヲブネ》はトモシキはうらやむ意なり。こは淡島をみるをうらやむにはあらず。淡島をうしろになして難波にいる舟の都に近づくをうらやむなり。されは淡島は播磨の沖ならでは武庫の浦よりのぼる舟のそがひにみるよしなし。播磨のうちにて淡島といふがいまいづれともしられず。仙覺抄に讃岐國屋島北去百歩許有v島名曰2阿波島1とみえたれどいたく所たがへればこれにはあらじ【松田本生云。武庫は今の尼が崎の事にて數百年ふる間に粟島は新墾の田畠となれゝば今はなしと云り。此説もすてがたし】○歌意は。赤人の西國へ下る時船より武庫の浦を漕めぐりて難波にいらむとする舟のあるを見てあの小舟は粟島をうしろむきにみてやう/\に都のかたに近づくがうらやましといへるなり。みづからは下る舟にのりてみやこの方へかへりのぼる舟のうちの人をうらやみおもへるうたなり
 
阿倍乃島宇乃住石爾《アベノシマウノスムイソニ》。依浪間無比來《ヨスルナミマナクコノゴロ》。日本師所念《ヤマトシオモホユ》
 
阿倍乃島未詳卷十二に安倍島山とあるは伺處にや。八雲御抄に攝津の國と註し給へり【古義には倍は波の誤にてこれも粟島《アハシマ》なるべしといへりなほ考ふべし】○日本師所念《ヤマトシオモホユ》の日本は都のことなり。既にいへり
 
塩干者玉藻刈藏《シホヒナバタマモカリツメ》〔頭注、校正者云。塩干の下去の字脱か〕。家妹之濱裹乞者《イヘノイモガハマヅトコハバ》。何矣示《ナニヲシメサム》
 
玉藻刈藏は玉藻を籠に刈入よと令する事なり【藏をツメと訓るは今の俗に物をつめるなどいふツメにてツマン、ツミ、ツメとはたらく辭なり】○歌意あきらかなり
 
秋風乃寒朝開乎《アキカゼノサムキアサケヲ》。佐農能崗將超公爾《サヌノヲカコユランキミニ》。衣借益矣《キヌカサマシヲ》
 
寒朝開乎のアサケは朝明《アサアケ》をはぶきたるにて秋はさすがに冬の如く衣をも重ねきねど朝ぼらけのほどは寒ければなりさぬの岡は仙覺抄に紀の國といへり八雲御抄もおなじこは大和より紀の國に行たる人をおもひやりてよめるにてけふなどや佐農の崗を越給ふらんに朝けの風のふせぎに衣をだにやりてかさましものをとは思へど道の間遠くてせん方なしとおもふよしをよめるなり
 
美沙居石轉爾生《ミサゴヰルイソミニオフル》。名乘藻乃名者告志五余《ナノリソノナハノラシテヨ》。親者知友《オヤハシルトモ》
 
美沙は和名砂云雎鳩【和名美佐古。古語用2覺賀鳥三字1云2加久加乃土利1、見2日本紀1。私記公望案高槻氏文云水佐古〔頭注、校正者云。刊本の和名抄には雎鳩は雎鳩、見2日本紀1。私記は見2日本紀私記1。高槻氏文は高橋とあり〕】※[周+鳥]屬也。好在2江邊山中1。亦食v魚者也こは今の水※[庶+鳥]※[古+鳥]《ミシヤコ》にてたゞに※[庶+鳥]※[古+鳥]とのみもいへり。名義抄に雎鳩【みさご】又字類抄に雎鳩【みさご江邊食魚なり】覺賀鳥とあり○石轉爾生《イソミニオフル》の轉はミと訓べし。卷十二に湖轉《ミナトミ》とあり。轉は轉運などよつゞく字にて囘《ミ》におなじ○名乘藻は和名抄云。莫鳴菜《ナノリソ》。本朝式云。莫鳴菜【奈々里曾。漢語抄云。神馬藻三字云2奈乃里曾1。今案神馬莫v騎之義也】又字類秒に莫鳴菜【なのりそ】神馬藻【同】とあり。允恭紀に宇彌能波摩毛能《ウミノハマモノ》【中略】故《カレ》時人號2濱藻1謂2奈能利曾毛《ナノリソモ》1とみえたれは殊に一種のものにはあらでたゞ海におはかる藻をナノリソといへりとおもはる。然るを莫乘《ナノリソ》といふ義にして神馬藻とかけるは中古の好事の人のつくりてかける字なれは本義にあらず○名者告志弖餘《ナハノラシテヨ》の弖板本|五〔傍点〕に作れるは誤なり。名をは告《ノリ》給ひてよといふ意なり。古へは人の妻になるをゆるす時は必その名をつげしらするがならひなる事既にいへり○歌意。かくまでねもごろに戀るわれなれば今は心をゆるして名を告給ひでよ。たとひ親はしるともといへるなり。
 
或本歌曰
 
美沙居荒磯爾|生《オフル》名乘藻乃|吉名者告世《ヨシナハノラセ》。父母《オヤ》者知友
 
吉は父の字の上につけてよし。父母はしるとも名は告せといふことなり
 
笠朝臣金村鹽津山(ニテ)作《ヨメル》歌二首
 
金村傳未詳○塩津山は和名抄に近江國淺井羣鹽津【之保津】神名式同郡塩津神社とあり
 
大夫之弓上振起《マスラヲノユスヱフリオコシ》。射流矢乎後將見人者《イツルヤヲノチミムヒトハ》。語繼金《カタリツグカネ》
 
大夫の大の字は字類抄に丈とかけるに從ふべし。弓上振起は卷十九に梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》とあるにおなじくて末※[弓+肅]《スヱハズ》をふりたて射ることなり○射都流矢乎《イツルヤヲ》のヲの字に道行人これをみてぬき捨《ステ》などすることなかれといふ意を含みたり○語繼金《カタリツグカネ》のカノは中昔の言にキサキカネ、坊カネ、ムコカネ、博士カネなどいへるカネと同じくてかねてその料にまうけてまつ意なり○歌意は。塩津山をこゆる時、その山の木に矢を射たてゝおのが弓勢のほどを末世に示したるなるべし。いにしへ猛き武夫のかゝるわざせしことかれこれあり。源爲朝の上矢の鏑をとりて末代のものに弓勢のほどをしめさむとて寶莊嚴院の門柱に射留置したぐひこれなり
 
塩津山打越去者《シホツヤマウチコエユケバ》。我乘有馬曾爪突《ワガノレルウマゾツマヅク》。家戀良霜《イヘコフラシモ》
 
馬曾爪突《ウマゾツマヅク》は卷十三に馬自物立而爪衝《ウマジモノタチテツマヅク》。字鏡に※[走+堯]|豆万豆久《ツマヅク》とみえたり○家戀良霜《イヘコフラシモ》は家人のわれをこふらしといへるなり○歌意は家に殘れる妻の旅行先をこふれば途中にて夫の乘れる馬のつまづきなづむといふことあり。しかれば家人のわれをこふらしとよめるなりと契冲いへり。卷七に「妹門入出見河《イモガカドイリヅミガハ》の瀬を早み吾馬|爪衝家思良下《ツマヅクイヘモフラシモ》」「しろたへに匂ふまつちの山川に吾馬難家戀良下《アガウマナヅムイヘコフラシモ》」などの家もみな家に殘れる妻のことなり
 
角鹿津(ニテ)乘(レル)v船(ニ)時笠朝臣金村(ノ)作《ヨメル》謌一首并短歌
 
角鹿津は和名抄越前國敦賀郡【都留我】もとツヌガなるを後に訛れるなり。垂仁紀に曰。御間城天皇世額(ニ)有v角人乘2一船1泊2于越前笥飯浦1。故號2其處1曰2角鹿1也とみゆ【記にも角鹿の名のよしあれども紀のかた正しと傳にいへり】
 
越海之角鹿乃濱從《コシノウミノツヌカノハマユ》。大舟爾眞梶貫下《オホブネニマカヂヌキオロシ》。勇魚取海路爾出而《イサナトリウミヂニイデヽ》。阿倍寸管我榜行者《アヘギツヽワガコギユケバ》。丈夫乃手結我浦爾《マスラヲノタユヒガウラニ》。海未通女塩燒炎《アマヲトメシホヤクケフリ》。草枕客之有者《クサマクラタビニシアレバ》。獨爲而見知師無美《ヒトリシテミルシルシナミ》。綿津海乃手二卷四而有《ワタツミノテニマカシタル》。珠手次懸而之努櫃《タマダスキカケテシヌビツ》。日本島根乎《ヤマトシマネヲ》
 
眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》は梶は櫓のことなり。繩をかぢにかけ貫て海におろすをいふ○勇魚取《イサナドリ》は枕詞なり○阿倍寸管《アヘギツヽ》は喘乍な《アヘギツヽ》り。船子どもの息もつぎあへずあへぎてこぐを云へり。あへぐはヲメキ、ウメクなどいふに通ふことなるべしと古義にいへり○丈夫乃《マスラヲノ》は手ゆひにかゝる枕詞なり。手結《タユヒ》は仁徳紀に田道之|手纏《タマキ》とみえ三代實録貞觀十二年正月の件に冑並手纏各二百具。又和名抄射藝具に※[韋+肅]〔頭注、校正者云。※[韋+肅]は刊本には※[韋+構の旁]とあり〕(ハ)和名|多未岐《タマキ》一云小手也とあり。此手纏を手結ともいへる證は西宮記に諸家出2馬乘人1著2※[衣偏+兩]※[衣偏+當]錦袴冑手纏足纏1とみえたる足纏は必アユヒと訓べし。これに對へておもふに手纏もタユヒと訓べきことしるし。されは手結《タユヒ》手纏《タマキ》は同物に二の名ありしなりと記傳にいへるがごとし。手結我浦《タユヒガウラ》は神名式に越前國敦賀郡田結神社とある所の浦なり○塩燒炎は此上に塩燒火氣とかけり。説文に炎(ハ)火光上也とみゆ○獨爲而はヒトリシテと訓べし。卷十二に二爲而結之紐乎一爲而吾者《フタリシテムスビシヒモヲヒトリシテアレハ》解不見又卷廿に多太比等里之※[氏/一]とあり○見知師無美はともなふ人ありてもろともにみばおもしろからんをひとりしてみんはかひなしといはむが如し〇綿津海乃は海神之なり。此句より三句は懸といはむ料の序なり。さて懸而之努櫃は心にかけて慕ふ意にて懸は手次の縁語なるを上の手にまかしたるの二句は珠の字までにかゝりて手次の字にはかゝらず。手次は懸の字のみにかゝりて珠の字にはあづからずと知べし○之努櫃はやまとの家人などをしぬぶ意なり。そは所のおもしろきにつきて家人とゝもにみることもならぬより郷思の情のまさりぬるよしなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
越海乃手結之浦矣《コシノウミノタユヒノウラヲ》。客爲而見者乏見《タビニシテミレバトモシミ》。日本思櫃《ヤマトシヌビツ》
 
見者乏見はみれはめづらしくおもしろき意なり○日本思櫃《ヤマトシヌビツ》はヤマトヲシタヒツにてかくめづらしくおもしろき所をやまとの家人らにえみせぬよりやまとをしのぶ情のおこれるなり
 
石上大夫歌一首
 
石上大夫は乙麻呂なるへし。板本左註に右今案石上朝臣乙麻呂任2越前守1。蓋此大夫歟とあり。されど越前守に任られしこと續紀にみえず。久老は續紀に天平十六年九月石上朝臣乙麻呂爲西海道使とみえたる此時のうたなるべしといへり
 
大船二眞梶繋貫《オホフネニマカヂシヽヌキ》。大王之御命恐《オホキミノミコトカシコミ》。礒廻爲鴨《イソミスルカモ》
 
大船二云々は卷十五に於保夫禰爾麻可治之自奴伎《オホブネニマカヂシジヌキ》とあり。こは左右の數々の楫を繁く貫くことなり○磯廻爲鴨《イソミスルカモ》はいそをめぐりて漕行をいふ【此磯廻を略解アサリと訓たれどアサリは食を求ることにて卷七に「ゆふなぎに求食するたづ」又「求食すと磯にすむたづ」などゝありて字鏡に※[食+古]。阿佐利波牟とあるごとくみなとり食ふことにいへり。またその外にものを求むることにもいへること源氏物語夕霧に「御文は引かくし給ひつればせめてもあさりとうて」榮花物相浦々の卷に「都のうちをはなるべきにあらずよく/\あさり/\」などの類皆物を求る意なり。かく食を求ること物をもとむることにアサリといへばこゝの磯廻の字をアサリとよめるはわろし。こゝは磯傳ひに漕行ことなり】
 
《コタヘ》歌一首
 
物部乃臣之壯士者《モノヽフノオミノヲトコハ》。大王任乃隨意《オホキミノマケノマニ/\》。聞跡云物曾《キクトフモノゾ》
 
物部乃はモノヽフノなり。既にいへり○臣之壯土者《オミノヲトコハ》のオミは朝廷につかへ奉る人をいふ。壯士はヲトメと對ふ名にて記に訓2壯夫1云2袁登古1とみえ紀には少男此云2烏等孤1などあり。集中に壯士《ヲトコ》と書て若く壯なる男をいへり。老少を分たずすべてヲトコといふは後のことなりと宜長いへり○任乃隨意《マケノマニ/\》のマケは記傳に麻氣は京より他國の官に令v罷《マカラス》意にて即マカラセを約めてマケとはいふなりといへり。さては官ある人の他國に行をのみいふことの如くきこゆれど罪ありて他國に配流せらるるも天皇のまからしめ給ふことなれば猶マケといふべし。さればこゝは續紀天平十一年三月坐v※[(女/女)+干]2久米連若賣1、配2流土佐國1とあるを任乃隨意といへるなるべし○聞跡云物曾《キクトフモノゾ》とは芳樹云。此若賣を※[(女/女)+干]したりといふ事のたしかなる證あるにもあらで乙麻呂みづからは冤《ナキナ》の如くおもへりしを此和歌よみし人の人臣たる者はとにもかくにも天皇の勅命を聞て背き奉らぬものぞと喩せる意なるべし。しからざれば聞といふ言こゝにかなはず
 
右作者未v審。但笠朝臣金村之歌中出也
 
歌字の下集の字を脱せるか
 
安倍廣庭卿歌一首
 
雨不零殿雲流夜之《アメフラズトノグモルヨノ》。潤濕跡戀乍居寸《ヌレヒツトコヒツヽヲリキ》、君待香光《キミマチカテリ》
 
雨不零寿は字のまゝにてアメフラズと訓べし○殿雲流夜之の之は乎《ヲ》の誤ならんと古義にいへり。トノグモルはトノはタナにかよひて雨雲の棚引あひてくもる夜のよしなり。卷十三に登能陰雨者落來奴《トノグモリアメハフリキヌ》、十七に「等乃具母利《トノグモリ》あめのふる日を」。十八に等能具毛利安比弖安米母多麻波禰《トノクモリアヒテアメモタマハネ》潤濕跡《ヌレヒツト》のトはあゆひ抄にトオモフニヨツテトといふ俚言を載せたるトなるべし○戀乍居寸《コヒツヽヲリキ》はこひつゝ家にをりきの意なり○君待香光《キミマチカテリ》は卷一に山邊乃御井乎見我弖利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》とあるガテリに同じ。俗にガテラといふことなり○歌意は。三一二五四と句を序《ツイデ》てみるべし。雨のふるに行《ユ》かば衣のぬれひちもせんとおもひてふりもせぬにとのくもる夜をよすがら君待がてら戀つゝゐあかしたりといふ意なるべし。初句の雨不零を誤字としてコサメフリと訓る説あれどこはわろし。雨のふらば衣のぬれひぢんかとでとのくもる夜をむなしく出でもゆかざりし意なればもとのまゝにてありぬべし
 
出雲守|門部《カドベノ》王|思《シヌベル》v京《ミヤコヲ》歌一首
 
※[食+(ノ/友)]海乃河原之乳鳥《オウノウミノカハラノチドリ》。汝鳴者吾佐保河乃《ナガナケバアガサホガハノ》。所念國《オモホユラクニ》
 
※[食+(ノ/友)]海乃は和名抄出雲國意宇【於宇】郡とあり。しかれば※[食+(ノ/友)]の下字を脱せるなるべし。卷四【此の王の歌に】飫宇能海之塩干乃滷之《オウノウミノシホヒノカタノ》とあり。又卷廿出雲掾安宿奈杼麻呂之家宴歌「於保乃宇良乎《オホノウラヲ》そがひにみつゝ」とあり。※[食+(ノ/友)]與v飫同じと字書にみゆ。【意宇の名義は風土記にのせたり】河原之乳鳥のチドリは意宇海に流れいる河原のちどりをいふ○吾佐保河乃の吾はわが本郷の佐保河のといふことなり○所念國《オモホユラクニ》のラクはルをのべてラクといへるにニをそへて意を含みたるなり○歌意。意宇の河原にすむ千鳥よわが本郷の佐保河のいよ/\こひしく思はれて堪がたければ心してさのみなくことなかれとなり
 
山邊宿禰赤人登2春日野1作歌一首并短歌
 
登2春日野1は山上にある野なれば登るといへり。高圓の岑上《ヲノヘ》の宮。野上《ヌノヘ》の宮ともいへるごとく山の上にも野あることを知べし。卷廿の題詞に各提2壺酒1登2高圓野1聊述2所心1作歌とみえたるが如し【こは春日野に登りて戀情を催したるをやがてその野のさまもておもひひを述たるうたとおもはる】
 
春日乎春日山乃《ハルビヲカスガノヤマノ》。高座之御笠乃山爾《タカクラノミカサノヤマニ》。朝不離雲居多奈引《アササラズクモヰタナビキ》。容鳥能間無數鳴《カホドリノマナクシバナク》。雲居奈須心射左欲比《クモヰナスコヽロイサヨヒ》。其鳥乃片戀耳爾《ソノトリノカタコヒノミニ》。晝者毛日之盡《ヒルハモヒノコト/”\》。夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコト/”\》。立而居而念曾吾爲流《タチテヰテオモヒゾワガスル》。不相兒故荷《アハヌコユヱニ》
 
春日乎は枕詞なり。此乎は卷四に味酒乎三輪《ウマサケヲミワ》。十三に御佩乎劔《ミハカシヲツルギ》十八に夜岐多知乎刀奈美《ヤキタチヲトナミ》などあるに同じくノとヲと通はしていへるなり。春日山は和名抄に大和國添上郡春日【加須加】とあり。名義は姓氏録に糟垣臣の故事あり。これよりおこれり○高座之《タカクラノ》は枕詞なり。契冲云。天子の高御座の上に蓋《キヌガサ》をかけらるゝ故に御笠の山といはんとて高座ノとはいへるなりといへり。さて此|高座《タカクラ》は即|鷹御座《タカミクラ》にて内匠寮式に大極殿高御座【蓋作2八角1。角別上立2小鳳像1。下懸以2玉幡多1。毎v面。懸2鏡三面1。當v頂著2大鏡一面1。蓋上立2大鳳像1。惣鳳像九隻。鏡二十五面云々】御笠山は春日山の中にて社あるかたのすこしひくき山をいへり○朝不離《アササラズ》は朝ゴトニといはむが如し雲居多奈引《クモヰタナビキ》はたゞ雲のたな引ことなり。雲を雲ヰといへる例多し○容鳥は集中に容花また貌花などの文字をカホバナとよめるに同じくうつくしき鳥をいふと思はる。六帖に「かほどりのまなくしばなく春の野の草の根しげき戀もするかも」同「夕ざれば野べになくてふかほ鳥のかほにみえつゝ忘られなくに」などみえたるみなたしかにその鳥の名をさゝでカホ鳥といへるはカホ花といふに同じくうつくしき鳥なるよしなり。間無數鳴《マナクシバナク》はまなく屡《シバ/\》なくなり。【此シバてふことを重ねてシバ/\ともいへり】さて初句より是まではまのあたりみる處の雲と鳥とをもて序として雲の如く心のいざよふといひ鳥のごとくかたこひに鳴といひて戀の情をのべたるなり。イザヨフはタヾヨフといふに同じく心のおちつかずうか/\として物おもひをする意。片戀〔二字傍点〕は人はわれをこひもせねに我のみ人をこふることにて容鳥のひとりなくにたとへたるなり○孤晝者毛《ヒルハモ》云々の四句は既に二の卷にいだせり○立而居而《タチテヰテ》は立ても居てもの意なり。卷十一に立念居毛曾《タチテオモヒヰテモゾ》念また舒明紀。立(テ)思(ヒ)矣居(テ)思|矣《ドモ》未v得2其理1○歌意かくれたる所なし。契冲云。この歌はおもひかけたる人ありてよまれたりとみゆれば第四の相聞の部に入ぬべきを春日野にして野望のついで物に感じてよまれければここには載たるなるべし
 
反歌
 
高※[木+安]之三笠乃山爾《タカクラノミカサノヤマニ》。鳴鳥之止者繼流《ナクトリノヤメバツガルル》。戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》
 
高※[木+安]之《タカクラノ》は枕詞なり○止者繼流《ヤメバツガルル》は契冲云。鳴やむかときけばまた鳴つぐによせて戀する人も人のきくをはゞかりてしばし鳴やめども堪ずしてまたなかるゝをかの鳥にたとふるなり。卷十一に「君がきる三笠の山にゐる雲のたてばつがるゝ戀もするかも」同じやうの作なり○戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》の哭の字拾穗本には喪とあり。されど哭の字をモの假字に用しこと集中例多し。さるは喪は哭を以て旨とすればかくにやと契冲いへり
 
石上乙麻呂朝臣歌
 
雨零者將盖跡念有《アメフラバキナムトモヘル》。笠乃山人爾莫令蓋《カサノヤマヒトニナキセソ》。※[雨/沾]者漬跡裳《ヌレハヒツトモ》
 
笠乃山は三笠山なるべしと契冲いへり。雨零者《アメフラバ》きなんとおもへる笠といひかけたり。人ニナキセソの人は他人なり。【古義には人爾莫令蓋《ヒトニナキシメ》と訓たれど今は略解に從ひつ】卷二「島の宮池の上なる放ち鳥|荒備勿行《アラビナユキソ》」卷十四に「いかほろのそひの榛原ねもごろに於久乎奈加禰曾《オkヲナカネソ》まさかしよかは」など皆この例なり○歌意は。雨ふらばその時におのれがきなむとかねておもへる笠の山ぞ。たとへ他人はぬれひつともきせしむる事なかれといふ意なり
 
湯原王芳野作歌一首
 
こゝに湯原王と王號をかけるは此王は志貴皇子の御子なればなり。然るに志貴皇子の御子白壁王大統を繼せ給ひしゆゑ湯原王その御弟なるをもで親王にならせ給へり。こゝに王とかけるはいまだ親王にならせ給はぬほどの事なるべし。故に後紀廷暦廿四年二月丁丑壹志濃王薨〔頭注、校正者云。廿四年二月丁丑は十一月丁丑の誤か。又云親王の下之の字脱か〕。田原天皇之孫湯原親王第二子とみえたり
 
吉野爾有夏實之河乃《ヨシヌナルナツミノカハノ》。川余杼爾鴨曾鳴成《カハヨトニカモゾナクナル》。山影爾之※[氏/一]《ヤマカゲニシテ》
 
夏實之河は卷九に大瀧乎過而夏箕爾云々とあり。吉野にて名高き河なり○山影爾之※[氏/一]の影は陰なり。之※[氏/一]は輕く添たる詞なり
 
湯原王(ノ)宴《ウタゲ》席(ノ)歌二首
 
秋津羽之袖振妹乎《アキツハノソデフルイモヲ》。珠匣奥爾念乎《タマクシケオクニオモフヲ》〔頭注、校正者云。匣は〓とあるべきか。又云。念乎の下見の脱字たり〕。賜吾君《ミタマヘワキミ》
 
秋津羽は蜻蛉《アキツ》の羽なり。その羽のうつくしきに妹が袖をたとへていへるなり。仁徳紀に「夏蟲の火蟲の衣」とある類なりと契冲いへり。卷十三に蛾葉之衣とあるもこれなるべし○珠匣は奥といはむ料の枕辭なり。奥爾念の奥はフカクといふにおなじ○賜吾君《ミタマヘワキミ》〔頭注、校正者云。こゝも賜の上見の字あるべきか〕は客人をさせり○歌意は。宴席の歌なれば客をもてなさんが爲に妓女を出して舞はしめて何をがな御なぐさみにと思ひてわが深く愛する妓女に袖をふらしむるを吾君たちよく御覧ぜよといへるなり。はやく唐の世に貴人の舞妓などを抱へおけること漢籍にみゆれば皇國にもこれにならひてかく舞妓を家におかれたるなるべし。
 
青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛《アヲヤマノミネノシラクモアサニケニツネニミレドモ》。目頬四吾君《メヅラシアキミ》
 
青山は地名にはあらず。たゞ青くしげりたる山をいふ。卷七に青山(ノ)葉茂《ハシゲキ》山邊とあり○朝爾食爾《アサニケニ》のケはキヘのつゞまりたるにて毎日といふことなり○目頬四吾君《メヅラシアキミ》は愛《メヅラ》し吾君の意にて客人を愛ていふことなり。メヅラシとは神功紀に希見此云2梅豆邏志1。靈異記に奇メヅラシ字鏡に貨メヅラシなどみえたり。世に希なるものは殊に人に愛《メヅ》らしまるゝより多く希なるものをいふことになれり。こゝは客《マレ》人をさして愛《メヅ》らしといへるなり○歌意は。青山の嶺に白雲の棚引けるは風景面白くで常にみれどもみあかぬが如く毎日見まゐらすれどもあくことなく愛《メヅ》らしまるゝ吾君ぞといへるなり。前の歌には自らつかふ妓女をほめていひ此歌には席に臨める客人を愛《メヅ》らしみいへるなり
 
山部宿禰赤人詠2故太政大臣《モトノオホキマツリゴトノオホマヘツキミ》藤原(ノ)家之山池《イヘノイケヲ》1歌一首
 
故太政大臣は淡海公なり。持統紀三年二月甲申朔己酉直廣肆藤原朝臣史爲2判事1とみえてその後十年十月は直廣貳にて資人五十人を腸ひ續紀に文武天皇四年六月に勅2直廣壹藤原朝臣不比等1撰2定(セシメ)律令1たまひ大寶元年三月に授2正三位(ヲ)1爲《ナシ》2大納言1たまへり。かくて慶雲元年正月には從二位にて益2封八百戸1。和銅元年正月に正二位。三月に右大臣。養老四年三月特加2授刀資人三十人1とみえたるが八月辛巳朔病(シテ)賜2度三十人1癸未是日右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。大臣(ハ)近江朗(ノ)内大臣大織冠鎌足第二子也。十月就2右大臣邸1宣詔(シテ)贈(タマヘリ)2太政大臣正一位1〔頭注、校正者云。大織冠鎌足の下之の字脱か。又云右大臣邸の邸は第の誤か〕。寶字四年八月追以2近江國十二郡1封(シテ)爲2淡海公1。餘官如v故云々。又懷風藻に僧太政大臣藤原朗臣史年六十三。諸陵式に多武峰墓【贈太政大臣正一位淡海公藤原朗臣在2大和國十市郡1】これ藤原四家のうち北家の祖なり。端書の故〔傍点〕字古義に贈の字に改むべしといへるは誤なり。令義解に載たる官符に藤原朝廷御宇正一位藤原太政大臣とみえたればこゝもさる例にて贈の字をかゝぬなるべし○藤原家は高市郡藤原の別莊なり
 
昔者之舊堤者《ムカシミシフルキツヽミハ》。年深池之瀲爾《トシフカミイケノナギサニ》。水草生家里《ミヅクサオヒニケリ》
 
昔者之の者の字は看の誤にてムカシミシなるべしと由中道麻呂がいへるに從ふべし〇年深《トシフカミ》は公の薨られしより年をへたるをいふなり○水草生家里の水草は何にまれ、水に生る草をいふ。【新古今集「たえぬるか影だにみえばとふべきをかたみの水に水草ゐにけり」】○歌意。河原院にて貫之の「君まさで烟たえにし塩かまの浦さびしくもみえわたるかな」とよみし心におなじと契冲いへり
 
大伴坂上|郎女祭神《イラツメガカミマツリノ》歌一首并短歌
 
大伴坂上郎女は佐保大納言大伴安麻呂の女にて旅人の妹、稻公の姉、家持の叔母にて又姑也。はじめ一品穗積皇子に召れ皇子薨給へる後藤原麻呂の妻となりていく程なく麻呂薨られければ大伴宿奈麻呂に再《フタヽビ》嫁《トツギ》て田村大孃。坂上大孃など生たり。この即女坂上里に居たる故に坂上郎女といふなり
 
久堅之天原從《ヒサカタノアマノハラヨリ》。生來神之命《アレキタルカミノミコト》。奥山乃賢木之枝爾《オクヤマノサカキノエダニ》。白香付木線取付而《シラカツクユフトリツケテ》。齊戸乎忌穿居《イハヒベヲイハヒホリスヱ》。竹玉乎繁爾貫垂《タカタマヲシヽニヌキタリ》。十六自物膝折伏手弱女之押日取懸《シヽジモノヒザヲリフセタワヤメノオスヒトリカケ》。如此谷裳吾者祈奈牟君爾不相可聞《カクダニモアレハコヒナムキミニアハヌカモ》
 
生來はアレキタルと訓べし。生れ來てあるといふことなり。アレは新《アラ》、現《アラ》と通へり。生《アル》るは此身の新になるなり。【宇麻を切むればアなる故に阿禮は即宇麻禮なりと心うるは違へり。ウマレは所産《ウマレ》にて言もとより別なり】記に「其御子は阿禮坐《アレマシキ》」とあり。續紀に阿禮坐牟彌繼々爾《アレマサムイヤツギ/”\ニ》その外この辭はいと多く既に卷一にもいへり。こゝは大伴氏の祖神天忍日命の生まして此國に降り來給へることをいへるなり。神之命は即天忍日命のことなり。命字の下にヨといふ言をそへて心うべし。その神に向ひて命ヨといはむが如し○賢木は榮樹の假字なり。紀には坂樹とかけり。仙覺萬葉解にさかえたる木といふなりといへり。眞淵云。こはもとひとつの木の名にはあらで唯常葉なる木を神事公事に讃稱《ホメタヽヘ》て榮樹《サカキ》といひしなり。そが中に今世にいふ榊をもはら用ゐたりし故に此木にのみその名の存《ノコ》れるなるべし○白香付は本居大平云。集中三所にありて白香とのみかきたれば白紙のことなるべし。奈良の頃より木綿に取そへて白紙をも切かけて付たりけん。されは白紙を添つる木綿といふ意にて白香付木綿とはいふなるべし。卷十九に白香著朕裳裾爾鎭而將待《シラカツクアガモノスソニシヅメテマタム》とあるは木綿にはあらでたゞ白紙なるべし。白紙をシラカといふは白髪をシラガといふに同じといへり。芳樹案にシラカの説はかくの如くなるべし。されども木綿に取そへて白紙をも切かけて付たりけんといへるはいかゞあらむ。當時《ソノカミ》にては白紙をやがて木綿となして取付たるにて白紙と木綿と二種にはあらざりけらし。されは白紙か即木綿なり。故に白香付を木綿の枕詞としたるものなれば白紙と木綿と別物にはあらじとしるべし〔頭注、校正者云。あらじはあらずか〕。さて木綿は古語拾遺に令d天日鷲神《アメノヒワシノカミニ》以2津咋見神1穀《カチノ》木種殖《ウヱシメテ》之以作c白和幣《シラニギテヲ》u【是木綿也】また豐後風土記速水郡柚富郷。此郷之中栲樹多生。常取2栲皮(ヲ)1以造2木綿《ユフニ》1。因曰2柚富郷1とみえてこは穀木皮以て織る布にて古はあまねく用ゐたりしものなり。和名抄に穀は加知(ノ)木名なりといひ字鏡にも穀楮也。加知乃木《カチノキ》とあり。さて布にせしは最古のことにてやゝ降りては和名抄にも穀紙はみえて布のことはみえず。かゝれば奈良のころより以來はたゞ紙にしたりしのみなりけん○齊戸乎は齋《イハ》ひ瓮のよしなり。齊は齋と通じ用ゐたり。小補韻會に齊は莊皆切。同齋と見えたり。これ神に奉る酒をいるゝ器にて紀に忌瓮《イハヒヘ》といへるにおなじ。仁賢紀に瓮此云v倍《ヘ》とあり。忌穿居《イハヒホリスヱエ》とは地を穿《ホ》りて下方をやゝうづみておくをいふ【土中より上代の瓦器をほりいでたるをみるに底圓くて直に居うればかたふきまろべり。故にホリスヱと云るなり】○竹玉乎繁爾貫垂《タカタマヲシヾニヌキタリ》の竹玉は宣長云。玉の代りに竹を管の如く切りて緒を貫けるなるべし。そは神代記に五百箇野篶八十玉籤《イホツヌスヾノヤソタマグシ》といひて玉を緒にぬきて小竹につけて神を齋ふ事に用ゐたるよりうつれるなるべし。といへれど竹を管の如くきりて云々はいかゞあらん。此歌よめる頃も猶玉をあまた緒にぬきて竹に付たるを竹玉といへりしなるべし。釋に仙覺抄を引て我朝の祭の中に昔は竹を玉のやうにきざみて神供の中に懸て飾れる事ありとなんまうす。それをばタカタマといふとなむ。といへるは宣長の説に同じけれどいたく後のことにて今の都になりてのことなるべし。後世玉串といへるもの玉をつけてはあらねどこれより起れるなるべし。繋爾貫垂は此卷の下に竹玉乎無間貫垂《タカタママナクヌキタリ》。又十三に竹珠呼之自《タカタマヲシジニヌキタリ》とあるがごとし○十六自物は上にいでたり。膝折伏《ヒサヲリフセ》は猪鹿の類は膝を折りてふすものなればいへり○手弱女は卷十五に多和也女《タワヤメ》とあるに據るべし。記に多和夜賀比那《タワヤカヒナ》とあるも美夜受比倍の手弱肘をいへるなれば此詞の證とすべし。【和名抄に太乎夜米とあるは後に訛れるなり】押日取《オスヒトリ》懸の押日は意曾比《オソヒ》と通ひて襲覆《オソヒオホフ》を約めたるなりと記傳にいへり。外宮儀式帳に着2明衣1木綿手次前垂懸※[氏/一]天押日|蒙※[氏/一]《カヽフリテ》【中略】朝大御饌夕大御饌乎|齋敬仕《イハヒヰヤマヒツカヘ》奉(ル)とみえ大神宮式に帛(ノ)意須比《オスヒ》また帛絹(ノ)忍比《オスヒ》ともあり。これらをもて按ふに此名の意曾比と同じきを知べし。記に淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》とあるは八千矛神のオスヒなり。また和賀祁勢流意須比能須蘇爾また波夜夫佐和氣能美淤須比賀泥などゝもあるによるに男女ともに着たるものとおもはる。然れどもその着たる状《サマ》は今よりはしられがたし。【記傳に説あれども諾ひがたし】神祭などにもかく殊更にきるをおもへば後世いはゆる折掛の衣のごときものならむか○如此谷裳《カクダニモ》はかくのごとくの意にてこの谷《ダニ》は輕くそへたる詞なり。祈奈牟はコヒノムなり○君爾不相可聞《キミニアハヌカモ》は略解にキミニアハジカモと訓みてかくばかり事をつくしいのるからはつひにあはざらむやといへるなりといへり。今按に祈奈牟の下に然ルヲといふ意を含みて猶君にあはぬかもといへるにて略解もいまだ盡さゞるに似たり【古義にいかで君にあひねかしとねがふ意なりといひて卷十に「かすみたつ長き春日をこひくらし夜深去妹相鴨《ヨノフケユキテイモニアヘルカモ》」をイモニアハヌカモとよみて例に引たれどこの歌はさらぬだにみじかき春の夜をふけゆきて妹にあへればかたらふ間もなきを歎きたるにてこゝとはいたく異なり】
 
反謌
 
木綿疊手取薄而《ユフダヽミテニトリモチテ》。如此谷母吾波乞甞君爾不相鴨《カクダニモワレハコヒナムキミニアハヌカモ》
 
木綿疊は木綿をかさねたゝみて手にとりもち神に奉ることなり。卷六に木綿疊手向乃山とよめるも木綿たゝみて手向るとかゝりたるなり。君爾のうへに然ルヲといふ言をそへてみるべきこと長歌の如し○歌意明らかなり
 
右歌者以2天平五年冬十一月1供2祭大伴氏神1之時聊作2此謌1。故曰2祭神歌1
 
思ふ心ありて作《エタ》るなれども神を祭る時なりし故に祭神歌とはいへりとなり
 
筑紫娘子《ツクシノヲトメガ》《オクル》2行旅《タビヾトニ》1歌一首
 
一首の下に娘子字曰兒島の六字ありと古本にあり。此兒島は卷六の太宰帥大伴卿上京時娘子作歌とありてその左註に有2遊行女婦1其字曰2兒島1とみえたるものなり
 
思家登情進莫《イヘモフトコヽロスヽムナ》。風候好爲而伊麻世《カゼマモリヨクシテイマセ》。荒其路《アラキソノミチ》
 
思家登のトはトテの意なり。情進莫《コヽロスヽムナ》は本郷を思ふとてあらき浪風をしひてしのぎ給ふなといへるなり○風候《カゼマモリ》は順風をうかゞひてなり。好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》は難なからん事をよくはかりてといふことなり○荒其道《アラキソノミチ》は浪風の荒き其海路はとなり
 
《ノボリテ》2筑波岳《ツクバネニ》1丹比《タヂヒノ》眞人國人(ガ)作歌一首 并短歌
 
國人は續紀天平八年正月辛丑正六位上多治比眞人國人授2從五位下1。十年閏七月癸卯爲2民部少輔1とみゆ
 
鶏之鳴東國爾《トリガナクアヅマノクニニ》。高山者左波爾雖有《タカヤマハサハニアレドモ》。朋神之貴山乃《フタガミノタフトキヤマノ》。儕立乃見※[日/木]石山跡《ナミダチノミガホシヤマト》。神代從人之言嗣《カミヨヨリヒトノイヒツギ》。國見爲筑羽乃山矣《クニミスルツクバノヤマヲ》、冬木成時敷跡《フユキナストキジクトキト》。不見而往者益而戀石見《ミズテイナバマシテコヒシミ》。雪消爲山道尚矣《ユキゲセルヤマミチスラヲ》。名積叙吾來前二《ナヅミゾワガコシ》
 
朋神之《フタカミノ》は男女二柱の神のことにて男神女神と峯を分て並立ませるゆゑに「二神《フタカミ》のたふとき山」といへるなり。卷九に男神毛許賜女神毛千羽日給而《ヲガミモユルシタマヒメガミモチハヒタマヒテ》。又神名式に筑波山神社二座とみえ三代實録に貞觀十二年八月廿八日件に筑波男神筑波女神とあり○儕立《ナミタチ》は並立の義なり。卷九【長歌】に二並《フタナミノ》筑波乃山とあるこれなり○見※[日/木]石山跡《ミカホシヤマト》【※[日/木]はカウの音を轉して借る也】ミカホシは見之欲なり○冬木成はフユキナスと訓べし。記に布由紀能須《フユキノス》とあるを傳に冬木如《フユキナス》なりといへり〇時敷跡《トキジクトキト》は時ならぬ時といふことにて花もなく紅葉もなくて冬枯の頃なれば山にのぼるべき時ならぬよしなり。略解にこゝは枕詞にあらず。時シク時とは時ならずといふなり。といへるがごとし【契冲は冬木成の下に「春さりくれど白雪の」などゝいふ詞二句落たるなるべしといへり】○不見而往者《ミステイナバ》は冬にて見はえもなき時なりとて空しく過去かばの意なり○益而戀石見《マシテコヒシミ》はまして戀しからんといふことにて見の辭は集中の一格なり。此下に「足曳のいは根こゝしみ菅の根も引者難三等標耳曾結《ヒカバカタミトシメノミゾユフ》焉」といふカタミにおなじ【その外にも此例あり】〇雪消爲《ユキゲセル》は雪きえするにて略解に冬ながらかつ降かつ消る雪をいふといへるに從ふべし山道尚矣《ヤマミチスラヲ》のスラは俗にサヘといふにおなじ○名積叙吾來前二《ナヅミゾワガコシ》の前は並の誤なり。名積の言は上にいへり。登りがたき山道を難《ナヅミ》てわがこしといふなり
 
反歌《ミジカウタ》
 
筑波根矣四十耳見乍《ツクバネヲヨソノミミツヽ》。有金手雪消乃道矣《アリカネテユキゲノミチヲ》。名積來有鴨《ナヅミケルカモ》
 
四十耳見乍《ヨソノミミツヽ》はよそにのみ見つゝなり○有金手のカネはカテに通ふ辭なり【ネとテと通へり】過がたきを過ガテといひ歸りがたきをカヘリガテといふ類にてこゝはよそにのみ見つゝはありがたきをアリカネテといへるなり○名積來有鴨《ナヅミケルカモ》はナツミ來ケルカモを約めたるなり。【キケの反ケ】古義に云集中に辭のケリ、ケルに來字をかけるもこれをかりたるなり。紀に詣至、來歸などをマウケリと訓るも參來《マウケリ》にてマウキケリの意なり○歌意は。筑波山の勝景を外目にみてのみはありかねて雪消して通ひがたき道を難《ナヅミ》ながらのぼりきにけるかなとなり
 
山邊宿禰赤人歌一首
 
吾屋戸爾幹藍種生之《ワガヤドニカラヰマキオホシ》。雖干不懲而亦毛《カレヌレドコリズテマタモ》。將蒔登曾念《マカムトゾオモフ》
 
幹藍はカラヰと訓べし。幹は莖にて和名抄に幹和名|加良《カラ》とみえたり。紅花のことなり。芳樹按に拾遺集に「屏風に臨時祭かきたる所。足引の山ゐにすれる衣をば神につかふるしるしとぞみる」また貫之集に「ゆふだすきちとせをかけて足引の山ゐの色はかはらざりけり」の山ゐは山藍《ヤマアヰ》のアを省けるなればこゝも斡藍のアを省くべし○歌意は。からあゐを女にたとへて早くよりおもひをかけし女のことならざりしに懲ずしてまたも思ひをかくるよしなり。こは譬喩の歌なるを混《マギ》れてこゝに入しものか
 
仙柘枝《ツミノエノ》歌三首
 
仙柘枝は仙女のことなりたゝ柘の木の枝といふにはあらず
 
霰零吉志美我高嶺乎《アラレフリキシミガダケヲ》。險跡草取可奈和《サカシミトクサトリカネテ》。妹手乎取《イモガテヲトル》
 
霰零は枕詞なり。契冲云。吉志美《キシミ》と續けるはカシマシといふ心なり。【カとキと通ひたり。卷七、卷二十に霰零カシマとつゞけたるはやがてカシマシといふことなり】吉志美我高嶺《キシミガダケ》は和名抄に肥前國杵島郡杵島|木之萬《キシマ》とあり。景行紀に杵島《キシマ》山とあり○險跡は險サニの意にて。跡は助辭なり。草取可奈和は險しき所を行く時落まじき料に草を手にとる事なり。可奈和は久老云。可年手の誤かといへり○歌意は。肥前の杵島の嶺のいたく險きが故に草に手をかけて登らむとおもへどそれをもえせずして妹が手を取といへるなり。此歌はもと紀に波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀斯美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母《ハシダテノクラハシヤマヲサガシミトイハカキカネテワガテトラスモ》とあるをところどころ辭をかへ杵島|曲《ブリ》に用ゐたるなり。其杵島曲は肥前風土紀に杵島郡(ニ)有2一孤山1。名曰2杵島1。郷閭士女毎歳春秋登望樂飲歌舞。歌詞曰。阿良禮符縷耆資熊加多※[土+豈]塢《アラレフルキシマガタケヲ》。嵯峨紫彌苫區縒刀理我泥底《サカシミトクサトリカネテ》。伊母我提鴎刀縷《イモガテヲトル》。是杵島曲《コレキシマブリナリ》とみえて肥前の杵島山をよめるなれば吉野の柘枝の歌にはあらず。しかるを端書に仙柘枝歌三首と題《シル》せるは此歌の外より混入《マガヒイリ》たるをよくたゞさずて載たるなるべし
 
右一首或云。吉野人|味稻《ウマシネ》與2柘枝仙媛1歌也。但見2柘枝傳(ヲ)1無v有(コト)2此歌1
 
上にいへるごとくなれば此註後人の加筆なり。除きさるべし。たゞし吉野人味稻がことは懷風藻にみえて下にひけり
 
此暮柘之左枝乃《コノユフベツミノサエダノ》。流來者梁者不打而《ナガレコバヤナハウタズテ》。不取香聞將有《トラズカモアラム》
 
柘は和名抄云。毛詩註云。桑柘【豆美《ツミ》】蠶所v食也とみえて桑の類なり。梁は同抄に毛詩註云。梁魚梁也【夜奈《ヤナ》】唐韻云。籍取v魚箔也。漢語抄云。夜奈須《ヤス》とあり。されば梁を打て河水を塞ぎその水の集り落る處に竹簀をしきその床に止る魚を取ゆゑにヤナスともいへり卷十一に瀬速《セヲハヤミ》とありて梁は※[木+兀]を多く打て造るものなるゆゑにウツといふなり。神武紀に有2作《ウチテ》v梁取v魚者1【梁此云2椰奈1】○歌意。畧解云。昔人はかくこそ梁を打て柘枝を得たれ今の世には染は打ずてあればたとひ柘のながれ來るとも取得ざらんかとなり。といへり
 
右一首
 
一首とある下に此下無詞。諸本同の七字版本にあり
 
古爾梁打人乃《イニシヘニヤナウツヒトノ》。無有世伐此間毛有益《ナカリセバコヽニモアラマシ》。柘之枝羽裳《ツミニエダガモ》
 
此間毛有益はコヽニモアラマシと訓べし○柘之枝羽裳《ツミニエダガモ》はその柘の枝はも。と尋ね慕ふ意なり○歌意。いにしへに川上に染打てとゞめし人のなかりせば此あたりまでもその柘は流れきてあらましをといへるならん。と宣長いへり。そも/\此柘枝仙女の事傳なければそのよし詳かにはしるべからずといへどもおほかたの様をおしはかるに吉野に梁を打鮎を取るを業とせし人あり。名を美稻《ウマシネ》といへり。ある時此人梁を打てありしに柘の枝のながれきて其梁にかゝりしをとりかへり家におきたりしに美麗《ウルハ》しき女になりて終に夫妻のかたらひをなし老ず死なずて後にはともに常世《トコヨ》國に去《イニ》しといふことのありしなるべし。こは何によりてかゝる跡なしごとをいひ出たるぞとおもふに年中行事秘抄に本朝月命を引て淨御原天皇御2吉野宮1。日暮彈v琴有v興試楽之間前岫之下雲氣忽起。疑(クハ)如2高唐(ノ)神女1。髣髴(トシテ)應v曲而舞。獨入(テ)2天瞻1他人無v見。擧v袖五變。故謂2之五節1云々。また江談抄に天皇於2吉野川1鼓v琴。天女下2降於前庭1詠歌(ス)云々とみえたるこれらにもとづきて柘枝仙媛のふることを設け作れるなるべし。古く詩などにも彼是見えて懷風藻に紀男人の吉野川の詩に欲v訪2鐘池越潭跡1。留連美稻逢2槎洲1。また丹※[土+穉の旁]眞人廣成の栖心佳野域。尋問美稻津また鐘地超潭豈凡類。美稻逢仙同洛洲。また高向朝臣諸足の在昔釣魚士。方今留鳳公。彈琴與仙戯。投江將神通。柘歌泛寒渚。霞景飄秋風。誰謂姑射嶺。駐※[馬+畢]望仙宮〔頭注、校正者云。※[馬+畢]は蹕か又云。飛の下爾の字脱か〕。また藤原史の漆姫控鶴擧。柘媛接莫通などゝある皆是なり。【契冲云。諸足の詩に在昔釣魚士とあるにあはすれば美稻は梁など打てわたらひせしものとみえたり。淡海公の詩に漆姫とあるは七姫にや。もし七姫ならば竹取翁の九箇の仙女にあへる類ひなるべし】また續後紀十九なる興福寺の僧等の長歌に故事爾云語來留。三吉野爾有志熊志禰。天女來通弖。其後波蒙譴天。毘禮衣着弖飛支度云々とあるこの熊志禰も美稻なり。ウとクと通へり。かゝれは此故事ふるくいひ傳へしことゝおもはる
 
右一首若宮年魚麻呂作
 
年魚麻呂は傳不詳。卷八にもみえたり
 
※[羈の馬が奇]旅歌一首并短歌
 
海若者靈寸物香《ワタツミハアヤシキモノカ》。淡路島中爾立置而《アハヂシマナカニタテオキテ》。白並乎伊與爾囘之《シラナミヲイヨニメグラシ》。座待月開乃門從者《ヰマチヅキアカシノトユハ》。暮去者塩乎令滿《ユフサレバシホヲミタシメ》。明去者塩乎令干《アケサレバシホヲヒシム》。塩左爲能浪乎恐美《シホサヰノナミヲカシコミ》。淡路島磯隱居而《アハヂシマイソガクリヰテ》。何時鴨此夜乃將明跡《イツシカモコノヨノアケムト》。侍候爾寢乃不勝宿者《サモラフニイノネカテネバ》。瀧上乃淺野之雉《タキノヘノアサヌノキヾシ》。開去歳立動良之《アケヌトシタチトヨムラシ》。率兒等安倍而傍出牟《イサコドモアヘテコギデム》。爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》
 
海若は海神の名也。楚辭に海若舞2馮夷1。註に海若海神名也とみえ西京賦海若游2干玄渚1。李白詩に海若不v隱v珠。※[馬+麗]龍吐2明月1などゝみえたり。されは海若は渡津持《ワタツミ》の義にて【モチはミと約る】海《ワタ》を掌る神なり【又たゞ海をワタツミといふは轉りたる後の言なり】○靈寸物香《アヤシキモノカ》は海神はあやしき物かもと歎息したる辭にてカはカモの義なり○淡路島中爾立置而《アハヂシマナカニタテオキテ》は播磨と四國との間の海に淡路島のある故に中ニ立置テといへるなり○伊與爾囘之《イヨニメグラシ》は伊與は四國を總《スベ》稱ふ名なり。記に伊豫之二名島《イヨノフタナノシマ》とある言義は彌二並《イヨフタナラビ》にて阿波と土佐と並び伊與と讃岐と並びたるよしなり。そはもと伊與といふ一國の名なりしが四國に分れたるなり、故にこの伊與は【今の一國の伊與にはあらで】四國を總たる名なり。されば淡路の左より潮の四國へ囘り行を伊與ニ囘《メグラ》シといへるものなり○座待月《ヰマチヅキ》は枕詞なり。十八夜の月を座待月《ヰマチヅキ》といへれば契冲の説のごとく人麻呂此門にいたりて此歌よめるが十八日などにもやありつらん○塩乎令千はシホヲヒシムと宣長の訓るに從ふべし。上に靈寸物香とある詞を此|令干《ヒシム》にて結べり。さて此潮は伊與にめぐれる方とは異にてあかしの迫門より西の方へ夕にみち曉に干る潮をいふ。此ところ迫門なる故に滿干の潮のいたくさわげば塩左爲といふなり。【左爲はサワギの約なり】その塩左爲の波のかしこさに淡路島に磯がくり居なり。何時鴨《イツシカモ》は去來《ユクサキ》を待遠におもふ辭なり。卷五に伊都斯可母京師乎美武等《イツシカモミヤコヲミムト》とあり○待候《サモラフ》は板本に侍從とあれど誤なり。サモラフと訓べしと宜長いへり。卷二に雖侍候佐母良比不得者《サモラヘドサモラヒカネテ》とあり。寢乃不勝宿者《ノネガテネバ》は宿難《イネガテ》ネバの意なり○淺野之雉は淺野は地名なるべし。雉は和名抄に木々須《キヾス》。一云|木之《キジ》とあれどふるくはみな吉藝斯といへり。卷十四にも吉藝志とあり○開去歳のトはトテの意にてシは助辭なり。立動良之は飛立啼さわぐにて動は聲につきていへる辭なり。卷十三に野鳥雉動《ヌツドリキヾシハトヨム》。又記に佐努都登理岐藝斯波登與牟《サヌツドリキギシハトヨム》とあるもみな曉になくことなり○安倍而榜出牟《アヘテコギデム》は卷九に「ゆふの崎しほひにけらし白かみの磯浦箕乎敢而榜動《イソノウラミヲアヘテコギトヨム》」○爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》は海上《ニハ》も靜けしとなり○歌意かくれたる所なし
 
反歌《ミジカウタ》
 
島傳敏馬乃埼乎《シマヅタヒミヌメノサキヲ》。許藝廻者日本戀久《コキタメバヤマトコヒシク》。鶴左波爾鳴《タヂサハニナク》
 
許藝廻《コギタメ》は漕メクレバなり。日本は大和一國のことにて作者の本郷なるべし○鶴《タヅノ》左波になくをきゝて本郷をこほしく思ひ出たる意なり
 
〔頭注、校正者云。右の下歌の字脱か〕|若宮年魚《ワカミヤノアユ》麻呂誦v之。但未v審2作者1
 
譬喩歌
 
こは物に譬へて思を陳たるをいふなり。古今集序にタトヘウタとあり
 
紀皇女御歌一首
 
天武天皇の皇女にて御傳卷二にみゆ
 
輕地之※[さんずい+内]囘往轉留《カルノイケノウラミユキメグル》。鴨尚爾玉藻乃於丹《カモスラニタマモノウヘニ》。獨宿名久二《ヒトリネナクニ》
 
輕池は大和の高市郡にあり。應神紀十一年冬十月作2輕池1これなり。※[さんずい+内]囘往轉留《ウラミユキメグル》の※[さんずい+内]字板本納に作るは誤なり。ウラミユキメグルと訓べし。※[さんずい+内]囘は池裏のめぐりをいふ○鴨尚爾《カモスラニ》はカモサヘニといふにおなじ○獨宿名久二《ヒトリネナクニ》は雌雄|配《ナラ》び寢て獨宿《ヒトリネ》はせぬものをといひて自らの獨宿を歎き給へるなり○歌意明かなり。六帖に「輕の池の入江めぐれる鴨だにも玉藻の上に獨ねなくに」とみえたり
 
造筑紫觀世音寺(ノ)別當《カミ》沙彌滿誓歌一首
 
筑紫の觀世音寺を造れるは續紀に和銅二年二月戊子詔曰。筑紫(ノ)觀世音寺(ハ)淡海(ノ)大津宮御宇天皇奉2爲後(ノ)岡本宮御宇天皇(ノ)1誓願所v基也。雖v累2年代1迄v今未v了。宜d太宰商量專加2檢校(ヲ)1早令c營作uまた養老七年二月丁酉勅2僧滿誓(ニ)1【俗名從四位上笠(ノ)朝臣麻呂】於2筑紫(ニ)1令v造2觀世音寺(ヲ)1とみゆ。此時の事なり
 
鳥總立足柄山爾《トフサタテアシガラヤマニ》船木伐樹爾伐歸都《フナキキリキニキリユキツ》。安多良船材乎《アタラフナキヲ》
 
鳥總立《トフサタテ》は宮材船材などを山に人て採ときその切たる木の末を折て同じ株《クヒセ》のほとりに立て山神を祭るを鳥フサタツルといふなるべし。その故は延喜式に奥山乃大峽小峽【爾】立【留】木【乎】齊部【能】齊斧【乎】以伐採【※[氏/一]】本末【乎波】《オクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲインベノインヲノヲモチキリトリテモトスヱヲハ》山神【爾】|祭【※[氏/一]】中間【乎】持出來【※[氏/一]】《タムケテナカマヲモチイデキテ》云々【同式に造2遣唐使(ノ)船(ヲ)1木靈《コタマ》并山神祭この外に宮材はもとより舶材を採るにも祭りあり。推古紀等にもみゆ】今も遠江の土人の大木を伐てはその株に同じ木の抄《コズヱ》を折りて立ることあり。本末を山神に祭るといふ即ちこの如くして手向るならん。さて木抄をトフサといふらんことはまた遠江言に木の最末《ホスヱ》をトボサキといへり。しかれば遠先《トホサキ》の意なるをボとブの語を通はしかつサキのキを省きてトフサとはいふなり。【中略】後拾遺集に「源の遠古がむすめに物いひわたり侍りけるにかれがもとにありける女を資人《ヅカヘビト》あひすみ侍けりいせの國に下りて都戀しうおぼえけるにつかへ人もおなじ心にやおもふらむとおしはかりてよめる。祭主輔親。吾おもふみやこの花のとふさゆゑ君もしづえのしづ心あらじ」と詠るも下枝といふにむかへてみればトフサは遠先にて木末の意に侍ると冠僻考にみゆ。中昔よりの説皆これに同じ。歌林良材に「トフサは木の末なり」といひまた八雲御抄に「木の抄なり。杣に入て木を伐ては必木の末をきりてきりたる木のあとに立るなり。たとへばかはりなり」とみえ夫木集に「波まよりけさこそみつれとふさたつ船木きるてふ能登の島山」註に木の抄なりとあり。これらみな眞淵の説にかなへれば從ふべし。古義には鳥總と書るは借字にて材を割拆《ワリサク》料の器(ノ)名にはあらざるにや。袖中抄にもトブサタテとはタツキタテといへる詞なりといへり。登夫佐《トブサ》は敏物拆《トモサ》といふにて材を拆く器を古へしか稱《イヒ》し事のありしなどにもや。タテとは其器振立る謂なり。といへるは珍らしき説なれど鳥總の名義さりやとも諾ひがたければ猶考ふべし。足柄山は相模國足柄郡にあり○樹爾伐歸都《キニキリユキツ》は船木にきり行きつの意なるを上に船木とあるにゆづりて船のことを省けるなり○安多良船材乎のアタラは記に地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラシトコソ》とあるアタラに同じく惜む意の辭なり○歌意は。吾妻にせんとおもひて心をつくしゝ女を他人のものにしたるを惜めることを譬へたるにてわが船材にせんとおもへる材なるを他人の伐てさりつるがをしきことゝいへるなり。略解にこれは滿誓が俗にてありし時の歌を出家したる後にきゝて載せしならむといへり
 
太宰大監《オホミコトモチノオホキマツリゴトヒト》大伴宿禰百代梅歌一首
 
和名抄に判官【中略】太宰府(ニ)曰v監云々【万豆利古止比止《マツリゴトヒト》】とあり。職員命に大監二人少監二人とあり○百代は續紀天平十年閏七月癸卯外從五位下大伴宿禰百世爲2兵部少輔(ト)1。十三年八月丁亥爲2美作守1。十五年二月辛卯始(テ)置(ク)2筑紫鎭西府(ヲ)1云々。百世(ヲ)爲2副將軍(ト)1。十八年四月癸卯從五位下。九月己巳豐前守とみえたり
 
烏珠之其夜乃梅乎《ヌハダマノソノヨノウメヲ》。手忘而不折來家里《タワスレテオラズキニケリ》。思之物乎《オモヒシモノヲ》
 
手忘而のタはそへたる辭にてたゞワスレテといふなり○歌意は。女を梅にたとへたるにて相見まくおもひしかどもさはることありてえあはず空しく歸れるを梅の陰まで行ながら手をらずて空しくきにけりとたとへいへるなり
 
滿誓沙彌月歌一首
 
不所見十方孰不戀有米《ミエズトモタレコヒザラメ》。山之末爾射狹夜歴月乎《ヤマノハニイサヨフツキヲ》。外爾見而思香《ヨソニミテシカ》
 
不戀有米の米は牟の誤にてこひざらんなりと宜長いへり○山之未《ヤマノハ》は山の末端《ハシ》【山の際にはあらず】卷四に山羽《ヤマノハ》。卷六に山之葉《ヤマノハ》○外爾見而思香《ヨソニミテシカ》。希望《ネガヒ》の辭なり○歌意。女を月に譬へたるなり。宣長云。此歌三四二一五と句を次第《ツイデ》てみるべし。山のはにいざよふ月をたれこひざらん。みえずともよそながらもみてしがなといふなり。といへり
 
金明軍《コンノミヤウグムノ》歌一首
 
金明軍は旅人卿の資人なること下にみゆ。宣長云。新羅に金氏おほければ彼國人なるべし。奈良の頃までは西蕃歸化の人もおはくまたその子孫などもいまだ皇朝にて姓を賜はらぬかぎりは本國にての姓をもちゐ名も蕃様の字音がおほかりしなり
 
印結而我定義之《シメユヒテワカサタメテシ》。住吉乃濱乃小松者《スミノエノハマノコマツハ》。後毛吾松《ノチモワガマツ》
 
我定義之《ワガサタメテシ》はわか物と定めてしなり。義之は宣長云。羲之の誤なり。集中外にも例あり。また卷十に天驗常定大王《アマツシルシトサダメテシ》と書る大王の字をもテシと訓るに合せみるにから國の王羲之を大王といひ其子献之を小王といへることあれば羲之も大王もともに手師《テシ》といふことにてテシの辭《テニヲハ》に用ゐたるなり○歌意。女を小松にたとへて標結てわがものと定めてしからは行末いつまでもわがまつぞといへるなり
 
笠女郎《カサノイラツメ》贈2大件宿禰家持1歌三首
 
笠女郎は未詳。金村《カナムラ》の族か。家持の事は別記にいへり
 
託馬野爾生流紫《ツクマヌニオフルムラサキ》。衣染未服而《キヌニソメイマダキズシテ》。色爾出來《イロニイデニケリ》
 
託馬野近江坂田郡にあり○衣染《キヌニソメ》は古義にはコロモシメと訓て記に斯米許呂母《シメコロモ》。齋宮式忌辭に經染紙〔頭注、校正者云。染紙の上に稱の字脱か〕とあるを儀式帳に志目加彌《シメカミ》とあり。また古書の中に綵帛をシミノキヌと訓るもシミは染なり。また集中染を令《シメ》の借字にもおほく用ゐたり。といへる諾なふべき説なれども今案ふに記に曾米紀賀斯流邇斯米許呂母《ソメキガシルニシメゴロモ》の傳に斯米《シメ》と曾米《ソメ》とたゞ同言ぞといひ類衆名義抄に染【ソム】また以呂波字類抄に染【シム】とありてソムもシムもおなじことなれば耳慣たる方につきてキヌニソメと訓べし。未服而は契りおきたるのみにていまだ親しく婚《アハ》ざるをたとへたるなり○歌意は。紫汁をとりて未衣を染て着ざるうちにはや色に出にけりといへるにていまだ親しくあはざるにまだきに顯れたるをたとへたるなり
 
陸奥之眞野乃草原《ミチノクノマヌノカヤハラ》。雖遠面影爲而《トホケドモオモカゲニシテ》。所見云物乎《ミユトフモノヲ》
 
眞野は和名抄陸奥國行方郡眞野とあり。そこの草原なり。雖遠《トホケドモ》は卷四に遠鷄跡裳《トホケドモ》とあり。此外卷十七。卷二十にみなトホケドモとよみたればこゝの例然なるべしと釋にいへるが如し。面影爲而の爲而は輕く添たる言にして面影にみゆといふにおなじ。此下に「君にこひいたもすべなみあしたづの音のみしなかゆ朝夕四天《アサヨヒニシテ》」○歌意。釋云。眞野の草原のとほきも一たびみておも白しと思ひつれば面影となりてみゆるごとくあはぬ中のはるけさも一たび見しより忘られぬとなり
 
奥山之磐本菅乎《オクヤマノイハモトスゲヲ》。根深目手結之情《ネフカメテムスヒシコヽロ》。忘不得裳《ワスレカネツモ》
 
上二句は根深目手をいはん序なり。根深自手結之情とは深く契を結び固めしこゝろといふ意なり
 
藤原朝臣|八束《ヤツカ》梅歌二首
 
八束後に眞楯といへり。續紀云。天平神護二年三月丁卯大納言正三位眞楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。眞楯度量弘深有2公輔之才1。起v家春宮大進。稍遷至2正五位下式部大輔兼左衛士督1〔頭注、校正者云。左衛士督の士は門の誤か〕。在v官公廉。慮不v及v私。感神聖武皇帝寵遇特渥。詔特令v參2奏宣吐納1。明敏有v譽2於時1。從兄仲滿心害2其能1。眞楯知v之稱v病家居頗翫古書籍1。天平末出爲2大和守1。勝實初授2從四位下1拜2參議1。累遷2信部卿兼太宰帥1。于v時渤海使楊承慶朝禮云畢欲v歸2本蕃1。眞楯設2宴餞1焉。承慶甚稱2歎之1。寶字四年授2從三位1。更賜2名眞楯1。本名八束。八年至2正三位勲二等兼授刀大將1。神護二年拜2大納言兼式部卿1。薨時年五十二。賜以2大臣之葬1とあり。この傳によれば寶字四年に眞楯とあらためたれば八束はそれより以前の名なり。この人鎌足の曾孫。閑院左大臣の祖父にていはゆる北の藤波この人にかかれり
 
妹家爾開有梅之《イモガヘニサキタルウメノ》。何時毛何時毛將成時爾《イツモイツモナリナムトキニ》。事者將定《コトハサダメム》
 
妹家爾《イモガヘニ》は卷五に伊母我陛爾《イモガヘニ》とあるによりでよむべし。何時毛何時毛《イツモイツモ》は釋云。この詞に二つの意あり。六帖に「汐のみついつものうらの」とつゞけこの集卷四に「河上のいつもの花の」などつゞけたるは常の詞にてきこゆるまゝなり。いまの歌および巻十一に「道のべのいつしははらのいつもいつも」とよめるはイツニテモイツニテモといはむがごとしとみゆ。將成時爾とは實にならむ時なり。花はうるはしけれど實とならぬもあり。言はよけれど誠なきもあり。花をのみみて實を定めがたく言をのみきゝてまことをしりがたければ實になりかたまれる如くなるまことをみむ時こそあひ思ひけりとしりて夫婦の契をばさだめゝといふこゝろなり
 
妹家爾開有花之《イモガヘニサキタルハナノ》。梅花實之成名者《ウメノハナミニシナリナバ》。左右將爲《カモカクモセム》
 
實之成名者《ミニシナリナバ》は女の信實に諾なはん時を待てこその意なるを花の實になるによせていへり○左右《カモカクモセム》はトモカクモに同じ。上の歌に少しことばをかへたるのみなり。釋にかくのごときか慇懃をつくすなりといへり
 
大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
 
第四に駿河麻呂(ハ)此高市大卿之孫也とみゆ。【釋云。高市大卿とは右大臣|御行《ミユキ》の事か】駿河麻呂の事迹。續紀に天平十五年五月癸卯授2正六位上大伴(ノ)宿禰駿河麻呂(ニ)從五位下1云々よりみえ初て寶龜七年七月壬辰參議正四位上陸奥按察使兼鎭守將軍大伴駿河麻呂卒とみえたり。その間橘奈良麻呂の事にかゝりて久しく配流せられけるが光仁天皇召返させ給ひ三年に陸奥按察使に遣されけり。其時駿河麻呂宿禰唯稱(フ)2朕(カ)心1といふ詔を蒙り四年に朕守將軍となり五年に大功をたて卒後贈位にもあづかれるは文武を相兼たる人といふべし
 
梅花開所落去登《ウメノハナサキテチリヌト》。人者雖云吾標結之《ヒトハイヘドワガシメユヒシ》。枝將有八方《エダナラメヤモ》
 
開而落去とは心|變《ウツロヒ》ひぬといふ事をたとへたり○歌意は梅の花ちりぬと世の人はいへど吾標結おきしうめがえにてあらむやは。その梅にはあらじ。といへるにて裏の心は女の心變せしと人はいへどもわがかねて深く契りかはしゝ女の心のかはるべきよしなければそれは我契りし女にはあらじ。決て人たがへなるべし。といふなり。此駿河麻呂坂上家の二娘と婚娶の約をなせしに今はた他女にあひて兼ての契りにたがひて彼二娘をうとみさまになれるよなど人のいふを聞て二娘も思ひたゆみたるけしきをみてさることもあらんかと母の郎女などの宿禰に打かすめいへる時に我變すべからねは女の心もかはるべきよしなし。それは他人のことなるべし、とよみたるなるべし。と古義にいへるがごとし。卷八瞿麥の歌によく似たるがあり
 
大伴坂上郎女|宴《ウタゲスル》2親族《ウガラト》1之日吟歌一首
 
坂上郎女に二女あり。その弟娘を駿河麻呂の懸想せるによりて母もゆるさんとせしを男さらに他女にこゝろをよすときゝて宴席に駿河麻呂もありしかば此歌を作りて吟《ウタ》ひしなり。下に云大伴(ノ)宿禰駿河麻呂娉2同坂上家之二孃1歌とあり。家持は姉を得。駿河麻呂は妹を得て※[女+亞]《アヒムコ》なり
 
山守之有家留不知爾《ヤマモリノアリケルシラニ》。其山爾標結立而《ソノヤマニシメユヒタテテ》。結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》
 
山守は駿河麻呂の他所にて契れる女をさす○其山は駿河麻呂をさす。標結立而は駿河麻呂をわがむこぞと心に標結おきしよしなり○歌意。駿河麻呂の他所にて契れる女のありともしらで此方の聟ぞと標置しはつたなき事今更はぢをみつとなり
 
大伴宿禰駿河麻呂即和(ル)歌一首
 
山主者蓋雖有《ヤマモリハケダシアリトモ》。吾妹子之將結標乎《ワギモコガユヒケンシメヲ》。人將解八方《ヒトトカメヤモ》
 
山主は山の山守におなじ○吾妹子は母の郎女をいふ。歌意。縱ひ人はいかにいふとも母郎女がわれを聟ぞとおもほして結けむ標なれば他人のほどき歸《モトノマヽ》つる事はあらじといへるなり
 
大伴宿禰家持贈2同坂上家之大孃1歌一首
 
坂上家の大孃は大伴宿奈麿の女にて母は坂上郎女なり。卷四に坂上大孃是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1とあり。大孃は長女なり。こはもと田村大孃の妹なれば大孃といはむこといかゞなれど坂上家にゐし女子にて第一の女なりけるが故長女になずらへて大孃とよびその妹を第二女になずらへて坂上|二孃《ヲトイラツメ》とよびなせるなるべし
 
朝爾食爾欲見《アサニケニミマクノホシキ》。其玉乎如何爲鴨《ソノタマヲイカニシテカモ》。從手不離有牟《テユカレザラム》
 
其玉は大孃をたとふ。從手不離有牟はテユカレレザラムと訓むべし○歌意。常にみまほしくおもふその玉をいかにしてか手をはなさずにあらむ。いかで常に手に纏《マキ》てもてあそぴたきものなるを。といへるなり
 
娘子|報《コタヘテ》2佐伯宿禰赤麻呂1贈歌一首
 
略解云。此端詞の前に佐伯宿禰赤麻呂何氏の娘子に贈歌とて有べきを歌も端詞も落失しなるべし
 
千磐破神之社四《チハヤブルカミノヤシロシ》。無有世伐春日之野邊《ナカリセバカスガノヌベニ》。粟種益乎《アハマカマシヲ》
 
神之社は赤麻呂のこゝろかよはす女にたとふ○粟種益乎《アハマカマシヲ》は古義に粟といふに會《アフ》意をかねていひたるなりとて卷十六に成棗霹寸三二粟嗣《ナシナツメキミニアハツキ》とあるも粟に會をかねたることこゝにおなじといへれど十六なるはさもあるべし。こゝなるはたゞ粟をまくことのみなり○歌意。春日野に粟を蒔まほしくおもへどもそのところを領し給ふ神社のましませばおそれて粟をえ蒔ずといひて君をもわが夫とさだめほしけれど外に契り給へる人のあればそれをおそれてえひきうけ侍らずといふなり
 
佐伯宿禰赤麻呂更贈歌一首
 
春日野爾粟種有世伐《カスガヌニアハマケリセバ》。待鹿爾繼而行益乎《マタンカニツギテユカマシヲ》。社師留烏《ヤシロシレルヲ》
 
待鹿爾《マタンカニ》は古義には粟喫にくる猪鹿を待うかゞひにつぎてゆかむといふ意なりとして卷七に「あしひきの山椿さくやつをこえ鹿待君之《シヽマツキミガ》いはひつまかも」卷十三に「いめたてゝ十六|待如《マツゴトク》とこしくにわが待君をいぬなほえそね」とあるをひきたり。こは雄略紀に阿娯羅※[人偏+爾]陀々伺斯々魔都登《アグラニタヽシシヽマツト》ともあればうべなはるゝ説なれども一古寫本に待鹿爾をマタムカニとよみたるこゝによくかなへるが如し。かゝればこの鹿爾の二字は辭《テニヲハ》にて詞の玉の緒に萬葉にガネとガニと二様あるうちにガニはガネニといふことにてネニを約めてニといへるなり。ガネともはらおなじといへり。さればこゝはマタンカラニといふ意なり○社師留烏の師の下今一つ師字を脱したるものにてヤシロシヽルヲと訓むべきなり。烏は戸母二字の誤なるべしと宜長いへり○歌意。上の歌の意をうけてわれ粟をまければ必わがゆくをまちぬべし。またんとおもふからにつぎてゆかまほしけれどかねてむつまじくし給ふ女のしるがおそろしさになほはゞかりてえゆきやらぬよしなるべし。宣長の説に據る時は他の女のしるともそをばいとはぬよしになりていとよくきこゆ
 
吾祭神者不有《アハマツルカミニハアラズ》。丈夫爾認有神曾《マスラヲニツキタルカミゾ》。好應祀《ヨクマツルベキ》
 
吾祭の二字は宜長のアハマツルと訓めるに從ふべし。吾は君のまつる神にはあらずといふ意なり○丈夫は赤麻呂をさす。」認有神曾の認は名義抄にツナグとよめり。ツナグは繩を繋ぐなどのツナグなり。これに似て番《ツガフ》といふ詞あり。これもつなぎあはする事なり。そのツガヒの切ツキなればこゝにツキタルカミといへるは他につがひはなれずゐる女を譬へたる意なるべし。同抄に識認《シリトム》とあるも意おなじきか○歌意。吾は君のまつり給ふべき神にはあらず。君には他につきたる神のあればそをよく祭り給ふべきことぞ。といひて吾を君の妻とはいかでかなし給はむ。君には固より心かよはし給ふ女のあればそをよくかたらひ給へとなり
 
大伴宿禰駿河麻呂|娉《ツマトフ》2同坂上家之二孃《オナジサカノヘノイヘノオトイラツメヲ》1歌一首
 
二孃は大伴宿禰宿奈麿の女にて母は坂上郎女。上に出たる大孃の妹なり。二孃といへるは坂上郎女の第二女なるが故にいへるなるべし
 
春霞春日里爾《ハルガスミカスガノサトノ》。殖子水葱苗有跡云師《ウヱコナギナヘナリトイヒシ》。柄者指爾家牟《エハサシニケム》
 
春霞はカスムといふ意に春日にいひかけたる枕詞なり。爾字は古本に之とありと古義にいへり○殖子水葱は卷十四に宇惠古奈宜《ウヱコナギ》とあり。【現存六帖に「苗代の田づらのあぜの殖子水葱まくてふ種にとりやまぜけん」】殖は宣長云。集中宇惠竹。記に字惠具佐《ウヱグサ》などあるウヱとおなじく人のうゑたるよしにはあらで植りたる意なり。苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》の苗は草にても木にても小《チヒサ》きほどをいふ○柄者指爾家牟《エハサシニケム》は技さしのびたるならむといへるなり○歌意。二孃を子水葱にたとへてわがつまにせまほしと思ひしかどもまだ片生《カタナリ》なりとて辭《イナ》み給へれどこのほどはやゝ長《ヒト》となりつらんとおもへば今は相婚《アヒスマヽ》ほしといふ意を譬へてよみておくれるなり
 
大伴宿禰家持(ガ)贈《オクレル》2同坂上家之大孃《オナジサカノヘノイヘノオホイラツメニ》1歌一首
 
石竹之其花爾毛我《ナデシコノソノハナニモガ》。朝旦手取持而《アサナサナテニトリモチテ》。不戀日將無《コヒヌヒナケム》
 
毛我《モガ》はねがふこゝろのことばなり○不戀日將無《コヒヌヒナケム》は不愛日《ウツクシマヌヒ》なからんの意なり。こゝの戀は目前にみつゝ愛着する意なり○歌意。大孃を石竹花に譬へたるにてよくきこえたり
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
こは坂上家の二孃におくる歌なるを上にその事あるによりて省けるものなり
 
一日爾波千重浪敷爾《ヒトヒニハチヘナミシキニ》。雖念奈何其玉之《オモヘドモナゾソノタマノ》。手二卷難寸《テニマキガタキ》
 
千重浪敷爾《チヘナミシキニ》はシキニをいはむとて千里浪をまうけいへり。敷爾《シキニ》は頻《シキリ》になり○奈何其玉之《ナゾソノタマノ》は千重浪の縁より鰒玉をいへるなり○歌意。一日のうちにもいくたびか頻りにえまほしくおもへどなにのゆゑにかその玉の手にまきがたくなるらむといへるなり
 
大伴坂(ノ)上(ノ)郎女橘(ノ)歌一首
 
二孃を駿河麻呂のよばふにつけて母のよめるなり
 
橘乎屋前爾殖生《タチバナヲヤドニウヱオホシ》。立而居而後雖悔《タチテヰテノチニクユトモ》。驗將有八方《シルシアラメヤモ》
 
殖生はウヱオホシと訓むべし。卷十八に奈泥之故乎屋戸爾末枳於保之《ナデシコヲヤドニマキオホシ》また卷廿に夜麻夫伎波奈※[泥/土]都々於保佐牟《ヤマブキハナデツヽオホサム》などゝみえてこの辭サシスセと活けば略解、古義等にウヱオホセと訓めるは誤なり。【略解にウヱオホセとは早くそこの庭にうゑおほせよといへるなりと註せるは後世の婚儀のごとく婦を失の家に嫁せしむるよしににおもへるがごとし。古の婚儀は然らず。おほかた夫の婦家に通ひすむならはしなればこゝは郎女のわが女をその家にて長《ヒタ》したてたる事をウヱオホシといへるなり。古義も略解に從ひたるゆゑにわろし】〇立而居而《タチテヰ》は次の句につゞけてタチテクイヰテ悔ユトモの意なりと古義にいへれどもこは二の句の殖生をうけて二孃の生長を郎女のたちてゐてまちまつ意にて四の句の後ニクユトモはかく長《ヒト》となれる女なれば親のおもはぬかたに契をかはさむもはかりがたし其時は後悔すとも驗《シル》しあらじといひておのづから駿河麻呂より言を發すやうに橘によせていひかけたるなるべし【古義に他人の手折ゆきなば後にくい給ふとも益はあらじそとて駿河麻呂に二孃をあはせんとそゝのかしたてゝよめるなるべしといへる任いかゞあらん。今の人情をもておもふにもわが女をつまとしくれよと男をそゝのかすやうのことあるべくもあらじをや。また略解にこの男は家持卿にや駿河麻呂にや。次に和歌とのみあるは此卷家持卿の集とみゆれば名を省きしならむか。といへれど釋に上よりのつゞき歌の意尤も駿河麻呂の作なるべしとあるに從ふべし
 
和歌《コタフルウタ》一首
 
こゝは大伴宿禰駿河麻呂和歌とあるべきを脱したるなるべしと古義にいへり
 
吾妹兄之屋前之橘《ワギモコガヤドノタチバナ》。甚近殖而師故二《イトチカクウヱテシユヱニ》。不成者不止《ナラズハヤマジ》
 
吾妹兒は母郎女をさせり。屋前之橘は二孃をたとへたり○甚近殖而師故二《イトチカクウヱテシユヱニ》はかねてもかづきちぎりおきたるものをの意なり○不成者不止《ナラズハヤマジ》は事成就させずしてはやまじとなり。成とは上に將成時爾《ナリナムトキニ》また實之成名者《ミニシナリナバ》などの成におなじ○歌意。二孃をかねてわがとらむと契りおきたれば事成就させずしてはやまじといへるなり
 
市原王歌一首
 
市原王は卷六に安貴王の子なるよしみゆ。聖武紀天平十五年五月無位市原王授2從五位下1。孝謙紀天平勝寶二年十二月正五位下。廢帝紀寶字七年正月摂津大夫。同四月造東大寺長官
 
伊奈太吉爾伎須賣流玉者《イナダキニキスメルタマハ》。無二此方彼方毛《フタツナシカニモカクニモ》。君之隨意《キミガマニマニ》
 
伊奈太吉はイタヾキと云におなじ。【タとナと音通ず】和名抄に伊太太岐。字鏡に伊太太支とあれづふるくはイナダキといひしにや。神代紀に髻髷をミイナダキと訓めり。神名式に備後國安那郡多祁伊奈太伎佐耶布都神社あり。さて冠頂に玉をつくること儀式の禮服冠に其制みえたり。されどこゝはたゞ愛女を玉になずらへて頂にすゑたるが如く愛《イツク》しむをいふ。伎須賣流《キスメル》とは伎は着にて笠をきるなどいふキにおなじ。須賣流《スメル》は統有《スメル》なり○無二は宣長云|比《タグ》ひなしといはむがごとし。統たる玉のたぐひなきよしなり。玉の數をいふにはあらずといへり。【土佐日記に「みな人々女をさなきもの額に手をあてゝよろこぶ事ふたつなし」落窪物語に「ねたういみじき事ふたつなし」源氏物語薄雲にに「このおとゞのきみのよにふたつなきみありさまなから」などゝみえたり】此方彼方毛はカニモカクニモとよむべしと宣長いへり○歌意は。芳樹按ふにこの市原王に五百井女王。五百枝王とて男女の子あり。光仁紀天應元年二月丙午三品能登内親王薨。内親王天皇之女也。適2正五位下市原王1生2五百井女王五百枝〔頭注、校正者云。五百枝の下王の字脱か〕1また紹運録を考ふるに女王は尚侍從二位とみゆ。しかれば宮仕をもし給へれどいづれへか嫁《トツ》ぎ給へることは疑ひなし。其嫁ぎ給へる時に父王の吾頂にをさめもちていつくしむ玉なれども君にまゐらするからはかにもかくにも君がまにまにと夫君によみてつかはし給へるなるべし。【古も今も親の子をいつくしむに男女の別はあるまじきわざなれども男子よりは女子の方を愛するならはしなればこの王に男兒もありながら殊に女子の方をかくふたつなしなどゝはいひ給へるなるべし】略解。古義ともにあやまれり】
 
大網公人主宴吟歌《オホアミノキミヒトヌシガウタゲニウタヘル》一首
 
版本には網を綱とかけり。されど姓氏録左京皇別に大網公みえ續紀にも此氏みえたれば誤なることしるし。人主の傳は詳かならず
 
須麻乃海人之鹽燒衣乃《スマノアマノシホヤキキヌノ》。藤服間遠之有者《フヂゴロモマトホクシアレバ》。未著穢《イマダキナレズ》
 
藤衣は藤もておりたる賤者の服にて麁き布なり。故にもはら喪服に用ゐたり。間遠之有者はマトホクシアレバと訓むべし。間遠は古今集に「すまのあまのしほやき衣|筬《ヲサ》をあらみまとほにあれやきみがきまさぬ」のマトホにおなじく織目のあらくて升《ヨミ》のすくなきをいふ○未着穢はまとほくへだゝりゐていまだ狎親《ナレチカ》づかぬを譬へたり○歌意は。間遠く隔たりゐるゆゑにいまだ狎ちかつかずてあひがたきよしの相聞の歌なるを宴席にてうたへるものなり。そは古歌ながらまとほにたま/\來ませる公等と酒宴すれば者なれぬ衣《キヌ》のごとくあらたにしてめづらしくあかずといふ意を含めるならむか
 
大伴宿禰家持歌一首
 
足日木能石根許其思美《アシヒキノイハネコゴシミ》。菅根乎引者難三等《スガノネヲヒカバカタミト》。標耳曾結焉《シメノミゾユフ》
 
足日木能は枕詞にて山の石根といふべきを山をはぶきて石根コヾシミとつゞけたり○引者難三等《ヒカバカタミト》はひかばかたからんとての意なり○歌意は。石根の凝《コヾ》しさに。菅根をひきうるこそかたからめ。つひにはわがものに爲《セ》む。他人にはえさせじとかねて標結まはす。といひて吾ものにせむの下構する意を譬へたるなり
 
挽歌《カナシミウタ》
 
上宮聖徳皇子《ウエヘノミヤノシヤウトコノミコノ》出2遊《イデマセル》竹原井《タカハラノヰニ》1之時《トキ》《ミソナハシテ》2龍田山死人《タツタヤマニミマガレルヒトヲ》1悲傷御作歌一首《カナシミヨミマセルミウタヒトツ》
 
上宮はウヘノミヤと訓むべきよし記傳にいへり。推古紀元年夏四月庚午朔巳卯立2厩戸皇聰耳皇子1爲2皇太子1云々。橘豐日天皇第二子也。母皇后曰2穴穗部間人皇女1。皇后懷姙開胎之日巡2行禁中1當2厩戸1而不v勞忽産之云々。父天皇愛v之令v居2宮南上殿1。故稱2其名1謂2上宮厩戸豐聰耳太子1○竹原井は河内國大縣郡なり。續紀養老元年二月の條に竹原井頓宮。天平十六年九月の條に竹原井離宮。寶龜二年二月の條に竹原井行宮などみえたり
 
家有者妹之手將纏《イヘニアラバイモガテマカム》。草枕客爾臥有《クサマクラタビニコヤセル》。此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》
 
家有者《イヘニアラハ》は卷五に國爾阿良波父刀利美麻之《クニニアラバチヽトリミマシ》。家爾阿良婆母刀利美麻之《イヘニアラバハヽトリミマシ》とあるによりて訓むべし○客爾臥有《タビニコヤセル》のコヤスは臥すことの古言なり【そのよし下にいへり】○此旅人※[立心偏+可]伶《コノタビトアハレ》の※[立心偏+可]伶はアハレと訓むべし【アワレとやうには訓むべからず】○歌意は。みづからの家にあらば妻が手をとりて死《マカ》るべきに誰いとほしむ人もなき旅中にありて死《マカ》れるこの旅人あはれかなしやとなげき給へるなり。そも/\この歌は推古紀二十一半冬十二月庚午朔皇太子遊2行於片岡1時飢者臥2道(ノ)垂《ホトリニ》1。仍問2姓名1而不v言。皇太子視v之與2飲食1即脱2衣裳1覆2飢者1而言(ク)。安|臥《クニコヤセ》也。則歌之曰。斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナテルカタヲカヤマニ》。伊比爾慧弖許夜勢屡諸能《オヒニヱテコヤセルソノ》。多比等阿波禮《タヒトアハレ》云々。辛未皇太子遣v使令v視2飢者1。使者還來之曰。飢者既死。爰皇太子大(ク)悲之則因以葬2理於當處1。墓固封也。數日之後皇太子召2近習者1謂之曰。先日臥2于道1飢者其非2凡人《タヽヒトニ》1必眞人也。遣v使令v視。於是使者還來之日。到2於墓所1而視v之封埋勿v動。乃開以見2屍骨1既空唯衣服疊2置棺上1。於v是皇太子復返2使者1令v取2其衣1如v常且服矣。時人大異v之曰。聖之知v聖其實哉。逾惶とありて本文のごとく奇異《クシビ》の事どもをしるせるはみな聖徳太子の徳をあらはさんとて當時《ソノヨ》に附會していひふらしけん事をそのまゝに紀にのせたるにて更に正史などに記さるべき事にはあらざるをや。これをもとにて太子傳暦。太子傳補闕記。靈異記。上宮法王帝説。元亨釋書に種々《クサ/\》いへる皆とるにたらざる事なればかゝるおよづれごとはたとひ古書の中にありとても眼を閉ぢてみるべからず【古今集の眞字序に難波之什獻2天皇1富雄川之扁報2太子1また本朝文粹村上天皇四十御算歌之序達磨和尚至2富緒川1寄2於斑鳩太子1などつくれる文みなこの紀の故事をとりてかけるにて古人もはらこれを實事とおもへるなるべし】たゞ此集にのせられたるがごとくいへにあらば妹が手を纏くべきを旅にこやせるこの旅人あはれと竹原井に遊び給へるとき龍田山に死人の屍のありしをみてよみたまへるのみなりとおもふべし。いにしへしば/\掩骼埋屍の詔もありつれど死骸の所々に棄られゐしこと集中の歌にもみえたるが如くなれば太子の仁慈をむねとし給ふ御心にはあはれとおもほしてよみ給へるなるべし。それにつきて古義に此旅人は紀の文によるに其死後まで皇太子のねもごろにし給ふを思へばたゞの賤者にはあらざりしとみえたりといひて臥有《コヤセル》を敬語なりといへれど芳樹此詞の例を考ふるに紀に病|臥在《コヤセリ》とあるは伊邪那美神の御上をいへる故に敬語ともいふべし。卷十六「伊夜彦の神のふもとにけふらもか鹿乃伏良武皮服着而角附奈我良《カノコヤスラムカハコロモキテツヌツキナガラ》とみえたるこゝと同例なるを鹿《カ》に敬語を用うべきにもあらず〔頭注、校正者云。用うは用ふ又は用ゐるとあるべきか〕。また卷五に山上億良の妻の死を傷める歌に「こゝろゆもおもはぬあひたに宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》」とあるもまた妻に敬語を用うべきにもあらねば敬語なりといへるは甚《イミ》じきひがごとなり
 
大津皇子|被死之時磐余池陂流涕御作歌《ツミナハレタマヘルトキイハレノイケノツヽミニシテカナシミニヨミマセルミウタ》一首
 
皇子の謀反の事は持統紀に朱鳥元年九月戊戌朔丙午天渟中原瀛眞人天皇崩。皇后臨v朝稱v制。冬十月戊辰朔己巳皇子大津謀反發覺。庚午賜2死皇子大津於譯語田舍1とみえたり○磐余池は履中紀二年に作2磐余池1。同三年十一月に天皇泛2兩枝船于磐余市磯池1云々。かゝれは二年につくらせ給へる池を市磯池と名づけ給ふなるべし。帝王編年紀に云。磐余若櫻宮十市郡磐余池里云々。或者の云く今の池内村なりと。持統紀に賜死譯語田舍とあれば同所か。敏達天皇の、磐余幸玉宮を譯語田宮ともいへりと釋にみえたり○陂字版木般につくれり。前漢郊祀志に鴻漸于般とありて註に般水涯堆也とあれば般にてもきこえたれど譯義解等によりて陂に作れり
 
百傳磐余池爾《モヽツタフイハレノイケニ》。鳴鴨乎今日耳見哉《ナクカモヲケフノミミテヤ》。雲隱去牟《クモガクリナム》
 
百傳はイにかゝる枕詞なり。譯に云く。五十とかきてイと訓むゆえは五十《イ》よりかぞへて百《モヽ》にいたれば、百《モヽ》に傳ふ五十《イ》といふ意もて枕詞としたるものなり。また宣長は百傳は角障經の寫誤にて磐にかけたる枕詞なりといへり○歌意は。家ちかきこの池に水鳥のむれゐてあそぶをけふのみ見て命をはりなんかとよみ給へるなり。いまうち誦してもあはれにかなしくきこゆる歌なり。懷風藻に金烏臨2西舍1。鼓聲催2短命1。泉路無2賓主1。此夕離v家向とあれど歌にくらべては感情ふかよゝらず
 
右藤原宮朱鳥元年冬十月
 
河内王《カフチノオホキミヲ》葬2豐前國鏡山(ニ)1之時手持女王作歌〔頭注、校正者云。作歌の下三首の二字あるべくや〕
 
持統紀三年閏八月以2淨廣肆河内王1爲2筑紫(ノ)太宰帥1。八年夏四月甲寅朔戊午以2淨廣肆1贈2筑紫(ノ)太宰帥河内王1并賜2賻物1とみゆ、當年筑紫にて卒し給へるゆゑ鏡山に葬れるなるべし。鏡山は豐前なれば太宰府よりはやゝへだゝれるをいかなる故にてこゝに葬れるにか○手持女主傳鮮かならず。河内王の妻にて筑紫に率て下り給へるならむ
 
王之親魄相哉《オホキミノムツタマアヘヤ》。豐國乃鏡山乎《トヨクニノカヾミノヤマヲ》。宮登定流《ミヤトサダムル》
 
親魄相哉はもとむつまじく親しくおもふ意の詞なるをこゝは此王の常に鏡山の風景を好み給ひしゆゑにかくいへるなるへし。【古義に靈合者《タマアヘバ》の詞を證に引たるさることなり。たゞし卷十四に波播巴毛禮杼母多麻曾阿比爾家留《ハハハモレドモタマゾアヒニケル》をも引たるは同じ言にはあれどこはたまの外に出てあれことなればいさゝかかはれり】○歌意は相《アフ》はその頃太宰の帥にて筑前にませば國を隔て鏡の山に葬らんこといふかしきをかねて王の鏡の山を好み給へるゆゑに墓所と定めたるよしなるへし〔頭注、校正者云。あれことはあること。相は王はか〕
 
豐國乃鏡山之《トヨクニノカミノヤマノ》。石戸立隱爾計良志《イハトタテカクリニケラシ》〔頭注、校正者云。隱の訓カクリはコモリか〕。雖待不來座《マテドキマサヌ》
 
石戸立は埋葬しつることを石屋戸にこもり給へるよしにいへるなり。卷二高市皇子殯宮の時の歌に神佐扶跡磐隱座《カンサフトイハカクリマス》。といふに同じ。宜長云。立は闔をいへり。今世にもいふことなり。闔を立といふ故は師説に上代には戸を常は傍に取退けおきて闔《タテ》んとてはそれを持來て立塞くゆゑなりといはれきといへり○隱爾の隱は記の假名によりてコモリとよみつ。歌の意明かなり
 
石戸破手力毛欲得《イハトワルタチカラモカモ》。手弱寸女有者《タヨワケキヲミニシアレバ》。爲便乃不知苦《スベノシラナク》
 
手力毛欲得は紀に以(テ)2御手(ヲ)1開(テ)2磐戸(ヲ)1窺之時手力雄神則承2天照太神之手1引而奉v出とある古事をもて詠れしなり○歌意。われも手力雄の神のごとき男ならば石戸打わりても夫君の手を取引出し奉るべきを手弱けき女にしあればせんかたなしとなり
 
石田《イハタノ》王|卒之《ミマガリタマヘル》時|丹生之《ニフノ》女王作歌一首并短歌
 
石田王、丹生之女王ともに傳たしかならず
 
名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》。狹丹頬相吾大王者《サニツラフワカオホキミハ》。隱久乃始瀬山爾《コモリクノハツセノヤマニ》。神左備爾伊都伎坐等《カムサビニイツキイマスト》。玉梓乃人曾言鶴《タマヅサノヒトゾイヒツル》。於余頭禮可吾聞都流《オヨヅレカワガキヽツル》。狂言加我聞都流母《タハコトカワカキヽツルモ》。天地爾悔事乃《アメツチニクヤシキコトノ》。世間乃悔言者《ヨノナカノクヤシキコトハ》。天雲乃曾久敝能極《アマクモノソクヘノキハミ》。天地乃至流左右二《アメツチノイタレルマデニ》。杖策毛不衝毛去而《ツエツキモツカズモユキテ》。夕衝占問石卜以而《ユウケトヒイシウラモチテ》。吾屋戸爾御諸乎立而《ワカヤドニミモロヲタテヽ》。枕邊爾齋戸乎居《マクラベニイハヒベヲスヱ》〔頭注、校正者云。齋は諸本齊とあり〕。竹玉乎無間貫垂《タカタマヲマナクヌキタリ》。木綿手次可比奈爾懸而《ユフダスキカヒナニカケテ》。天有左佐羅能小野之《アメナルササラノヲヌノ》。七相管手取持而《イハヒスゲテニトリモチテ》。久竪乃天川原爾《ヒサカタノアメノカハラニ》。出立而潔身而麻之乎《イデタチテミソギテマシヲ》。高山乃石穗乃上爾《タカヤマノイハホノウヘニ》。伊座都流香物《イマセツルカモ》
 
名湯竹乃十縁皇子は卷二にみえてそこにいへり○狹丹頬相《サニツラフ》はサは美稱ニは少年の紅顔をいふ。ツラフはツラを延たるにて引ツラフ擧ツラフなどのラフにおなじ○神去備《カミサビ》爾云々は身まかり給ひてわが身を神々しくいみしで現世《ウツシヨ》を離れおはしますを齋坐《イツキイマス》といふなるべし。卷七に木綿掛而祭三諸乃《ユフカケテマツルミモロノ》。神佐備而齋爾波不在《カムサビテイムニハアラズ》と詠る齋は人をいとふにはあらずといふことなり。こゝの伊都伎ももはら此|齋《イム》と同じくて身まかりて岩隱座《イハカクレマス》は現《ウツシ》世の人を忌さけ給ふよしなれば神さびにいつきますとはいへるなり。略解、古義等いつかれますよしにいへるは下の於餘頭禮《オヨヅレ》狂言《タハゴト》の二句によりておもふにも非なることしるければ從ひがたし○於餘頭禮《オヨヅレ》は天武紀に妖言而自刎死とみゆ○狂言加《タハコトカ》の狂は版本枉に作れども狂の誤なるべしと宜長いへり。卷十七|於餘豆禮納多婆許登可毛《オヨヅレノタハコトカモ》また天智紀に禁2斷|※[女+巫]忘《タハコト》妖僞《オヨヅレゴト》1また續紀に於與豆禮加母多波許止乎加母《オヨヅレカモタハコトヲカモ》などゝありて妖僞をオヨヅレといふ。言義詳ならず。狂言をタハコトといふは頑狂《クナタフレ》狂態《タハワザ》などのタフレ、タハの意にてこゝは王のみまかり給へりといふは妖僞か狂言かと疑ひおもふよしなり。我聞都流母《アガキヽツルモ》の母は歎息の辭にてそへたるのみなり○天地爾《アメツチニ》云々は天地の間にて上もなきくやみことの意なり○世間乃云々は世界のうちにて上もなきくやみごとのよしにて上の天地云々と同じことなるを辭をかへていへるのみなり○天雲乃曾久敝能極《アマクモノソクヘノキハミ》のソクヘはソキ、ソコなどに通ひへは方《ヘ》にて底方《ソクヘ》の極なり。宣長云。底とは上にまれ下にまれ横にまれ至極《イタリキハマ》る處を何方にでもいへり。十五に安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》とあるを以て天にもいふべきをしるべし。また卷六に山乃曾伎野之衣寸《ヤマノソキヌノソキ》とある曾伎も極をいひて同じことなり。塞《ソコ》をソコと訓も境域の極界の地なりといへり【委しくは記傳にみゆ】○天地乃|至流《イタレル》も天雲のそくへの極と同じことにてかゝる悔言は天地のそくへを極めても類ひあるまじきよしをいへるものなり○杖策毛《ツエツキモ》云々は其天地の極までも行よしにはあらず。唯近きところに出て夕衢《ユフケ》問《トヒ》石卜《イシウラ》問はむためなり。故に近き所なれば杖つきてもつかでも行るゝをもてかく云り○夕衢占問とは辻占をとふことなり。夕さりつかた衢に出て往來の人の言をきゝて占ふゆゑ道行占とも詠りと契沖いへり。【後拾遺集に「男のこむといひ侍りけるを待わづらひてゆふけをとはせけるによにこじと告ければ心細くおもひてよみはべりける。來ぬまてもまたまし物をなか/\にたのむかひなきこのゆふべかな」大鏡に「二條の大路に出て夕占《ユフケ》とひたまひければ白髪いみじき女の唯二人行が立留りて何業し給ふ人ぞもし夕占とひ給ふか何事なりともおぼさんことかなへて」〔頭注、校正者云。「このゆふべかな」の|べ〔右○〕はけ、白〔右○〕髪いみじき女のはいみじく白き〔三字右○〕女のかな|へ〔三字右○〕てはかなひての誤なるべし。〕云々】石卜以而《イシウラモチテ》は石卜を以て占ふことなり。契冲云。石卜は石を踏て占ふなり。景行紀に天皇賊を打んとして柏峽《カシハヲ》の大野に大石あるを祈v之曰。朕得v滅2土蜘蛛1者將d蹶2茲石1如2柏葉1而擧u焉。因蹶v之則如v柏上2於大虚1。故號2其石1曰2踏石1也。これや石占の初なるべき○御諸乎《ミモロヲ》立而の御諸は御室にて室とはたゞ屋などいふとは異にして家のうちにも奥(ノ)方にありて【室字をかくも此意なり○升v堂不v入v室などいへるにても知るべし】籠《コモ》りかなる屋《ヤ》にて云々と記傳にいへり。されば神を祭る室をば御《ミノ》字を添て御室《ミムロ》といへり。即三輪山を三室山といへるも山をやがて社となせるゆゑなり。さればこゝの御諸も吾屋戸爾と冠らせたるはその家の庭に小社を建たるなるべし○枕邊爾齋戸乎居竹玉乎無間貫垂《マクラベニイハヒベヲスヱタカタマヲマナクヌキタレ》の間無を上には繁爾《シヽニ》に作れり。齋戸《イハヒヘ》は神酒《ミキ》を盛る料なれば竹玉も神に奉るものなり。【竹玉の事上にいへり】枕邊とはその御諸の傍のことにて齋戸竹玉等を陳列するところなり○木綿手次《ユフダスキ》は木綿もて造れる手次なり。神代紀に弱肩《ヨワカタニ》被《トリカケ》2太手襁《フトダスキ》1とあり。可比奈爾懸而《カヒナニカケテ》のカヒナ即肩なり。字鏡に肱※[届+辛]也肩也加比那とあり○天有左佐羅能小野之《アメナルサヽラノヲヌノ》は卷十六に天爾有哉神樂良能小野爾茅草刈《アメナルヤサヽラノヲヌニチカヤカリ》ともありて天上にある野の名なり。然るを青木雅宜【難波人】云。此左佐羅能小野また天川原共に契冲の地名ならんといへるに從ふべし。さるは天上にさゝらの小野といふがあるゆゑに天有《アメナル》といふ詞を冠らせたれど實は河内國讃良郡【佐良】と和名抄にある地のことなるべし。また天川原も同國交野郡の天川のことにてこれはた天上にもあるゆゑに久堅乃といふ枕詞を冠らせてかくつゞけたるなり。丹生女王その傳しられねど故ありて河内に仕給ひて石田王卒の時そこの地名を以てかくよまれたるなるべしといへり。芳樹これに依ておもふに續紀延暦六年十−月甲寅祀2天神於交野1とありてこの天神はその祭文によるに天神地祇の天神にはあらで昊天上帝とあるはまたく漢様の天帝の如し。【この事平田篤胤が説あれどもこゝに引かず】たゞし實は彼方に昊天上帝といふも此方に天神といふもかはるべきよしなければ河内の地名かくの如く讃良の小野天の川などいふ所ありて高天原なる名所に同じきを以て萬葉の比よりこゝにて天神の祭をも行はれしゆゑに此女王このわたりに住給へるによりてかくよみ給へるなるべし。【されば延暦六年の祭文に昊天上帝とあるもその比やゝ漢風の行はれしゆゑにかくかけるにてわが天岬の事ならんも知るべからず。文徳實録の、齊衡三年十一月辛酉向後田原山陵告以2配天之事1。とある策文に今月廿五日河内國交野原爾昊天祭爲止云々とある文徳實録は殊に漢めかしく文を飾られたればかく昊天祭といひ壬戌云々河内國交野郡柏原野設※[草冠/絶]習禮祠官盡命甲子有殊圓丘獻※[月+乍]〔頭注、校正者云。交野原爾は交野|乃〔右○〕原爾と有べきか。又云。祠官盡命は祠官盡|會〔右○〕と有べし〕などかゝれたれどみな漢文の飾のみにて上にいへる如く天神は實はわがあまつ神なるべくこそおもはるれ。但そはさることにてこゝの解は古義によりて天上の名所とする意深し】○七相菅は釋云ナヽアヒを略してナヽヒスケと訓べし。菅はいくへもかさなれるものにて纏へる皮の左右の端のあいたればいふにやとあり。されどナヽヒスケといふこときゝもおよばぬ辭なり。卷十一に石穗菅といふこともあれどなほ古義に七は石の誤にてイハヒスゲなり。卷十三に齋戸乎石相穿居《イハヒヘヲイハヒホリスヱ》とあるをあはせ考ふべし。こは齋杉《イハヒスギ》齋槻《イハヒツキ》などいへる類にて齊清まはれる菅の義なりといへるや然るべからん○潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》のミソギは身滌《ミソギ》なり。水邊に出て身に水をそゝぎ淨むることなり○石穗乃上爾は卷二に磐根四卷手死奈麻死物乎《イハネシマキテシナマシモノヲ》とあるにこゝろばへ似たり。上《ウヘ》は邊《ホトリ》のよしにて山中に葬れるをいふ。伊座都流香物《イマセツルカモ》のカモは歎息の辭にて令v坐《イマサセ》つることの嗚呼悲乎《アヽカナシキカナ》となげゝるなり○歌意は。石田王|卒《ミマカ》り給ひて泊瀬の山に葬《カクレ》ませりと人のいへるは妖言《オヨツレ》か狂言《タハコト》かと思ひしに誠なりけり。地の間世界の中にかばかりの悔しきことあらめや。あはれ天雲の遠く隔たれる際み天地のいたれる未までも尋盡していかにもして再びもとの如く世にあらしめまゐらせんとおもふをそは神力ならではなりがたければ神室《ミモロ》を建、齋戸竹玉を備へ木綿手次をかけ神にこひ祭りてん。いざや此王の爲には人のゆかれぬ天上にも行て佐々羅能小野の菅を取、天の河原に出て罪を祓ひ潔身《ミソキ》をもし王の命を延んと思ひしものをもはや事おくれてさることもえせずかく御身を岩の上にいませつるかもとよめるなり。されば天有より潔身而麻之乎まで現身の人のなしがたきことをもして命延る祈りをせんといふ意なれば此佐々羅乃小野、天河を此地なる地名とおもへるは非なり
 
反歌
 
逆言之狂言等可聞《オヨヅレノマガゴトトカモ》。高山之石穗乃上爾《タカヤマノイハホノウヘニ》。君之臥有《キミガコヤセル》
 
狂言の狂は上にいへるごとく板本枉に作るはわろし。等可聞《トカモ》はトニヤアランと疑へるなり。石穗乃上爾君之臥有《イハホノウヘニキミガコヤセル》と使のいへるは逆言の狂言にあらんといへるなり
 
石上振乃山有《イソノカミフルノヤマナル》。杉村乃思過倍吉《スギムラノオモヒスグベキ》。君爾有名國《キミニアラナクニ》
 
振乃山は大和國山邊都にあり○杉村乃はスグといはむ料なり思過倍吉《オモヒスグベキ》はおもひを遣過し失ふべきの意なり○歌意は。おほかたの思ひならば遣る失ふべき方もあるべきなれど王の薨り給ひぬときゝては悲みに堪がたくて思ひを遣過し失ふべきにあらぬをといふ意なり
 
石田王(ノ)卒《ミマカレル》之時山前(ノ)王(ノ)哀傷作歌《カナシミヨメルウタ》一首
 
版本石の上に同字あり。略解に後人の加筆といへり。今これを除く。山前王は。忍壁親王の子にて茅原王の父なり。續紀に養老七年十二月辛亥散位縱四位下山前王卒とみえたり。懷風藻に縱四位下刑部卿山前王一首とあり。釋云。山前はヤマサキかヤマクマか後人考ふべし。クマと訓む例は卷十三に道前《ミチノクマ》。和名抄に大和國高市郡檜前|比乃久末《ヒノクマ》。但馬國氣多郡|樂前《サヽノクマ》
 
角障經石村之道乎《ツヌサハフイハレノミチヲ》。朝不離將歸人乃《アサヽラズユキケムヒトノ》。念乍通計萬四波《オモヒツヽカヨヒケマシハ》。霍公鳥鳴五月者《ホトヽギスナクサツキニハ》。菖蒲花橘乎《アヤメグサハナタチバナヲ》。玉爾貫※[草冠/縵]爾將爲登《タマニヌキカツラニセムト》。九月能四具禮能時者《ナガツキノシグレノトキハ》。黄葉乎折挿頭跡《モミヂバヲヲリカザヽムト》。延葛乃彌遠永《ハフクヅノイヤトホナガク》。萬世爾不絶等愈而《ヨロヅヨニタエジトオモヒテ》。將通君乎婆明日從《カヨヒケムキミヲバアスユ》。【一云君乎從明日香】外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》
 
石村之道乎《イハレノミチヲ》云々は古義云く。泊瀬に通ふとて石村《イハレ》をすぐるなり。上に「つぬさはふいはれもすぎずはつせ山いつかもこえむよはふけにつゝ」とあるにてその路次をしるべし。泊瀬へかよひたまへるはものいひ給ふ女のあるゆゑなりといへり。然るに釋には石田王は泊瀬の邊に宅ありて石村の道をへて藤原宮に通はれけるかとあり。兩説の是非は次にいふべし○朝不離《アサヽラズ》は上にみゆ。毎朝の意なり○通計萬四波《カヨヒケマシハ》は宣長云。通ヒケムといふ意なり。おもひつゝ通ひけむやうは云々とその思ひしことどもをいひつらねてかくの如くして萬代に絶じとおもひてと下にかけていへるなりといへり。【古義には四を口の誤として通ヒケマクハとよめり。これも宣長卷十八に「はしきよしそのつまのこと朝よひに笑みえまずも打なげき可多里家末久波《カタリケマクハ》」とありてケマシとおなじ心ばへなりといへり。たゞし久《ク》はもしくは之の誤にてこれもケ、マシにてもあらんか。されどムを延てマクといふもつねなればケマクにてもよろしきなりとといへればケマシを正しとおもへるが如し。義門法師が玉緒繰分にケマシ、ケマクのケはケキ、シ、シカと活き諸用言連體言をうけて過去を語る一の語格なり〔頭注、校正者云。諸用言の下|の〔右○〕の一字有るべし。又語格は語辭とあるべきか〕。されば此辭のマシ、マクは將字にあたれるにてシともシクとも活用する一の語辭なり。といへれば此法師も四を口の誤とはせざりしとおもはる。○菖蒲云々は卷十九に菖蒲花橘乎貫交可頭良久阿佐而爾《アヤメグサハナタチバナヲヌキマジヘカツラクマデニ》とありて菖蒲橘を※[草冠/縵]《カツラ》にすること此外にもあまた詠り。兵部省(ノ)式に凡五月五日節會文武群臣著(ク)2菖蒲※[草冠/縵](ヲ)1また左近衛府式に凡五月五日藥玉料菖蒲艾雜花十棒とみえて〔頭注、校正者云。文武群|臣〔右○〕は郡|官〔右○〕、藥玉|料〔右○〕は藥玉※[米+斤]、棒〔右○〕は|捧〔右○〕なるべし〕續紀天平十九年五月庚辰是日太上天皇詔曰。昔者五日之節常用2菖蒲1爲v※[草冠/縵](ト)。比來已停2此事(ヲ)1。從v今而後非2菖蒲※[草冠/縵](ニ)1者(ハ)勿(レ)v入2宮中(ニ)1また續後紀嘉祥二年五月戊午詔(ニ)五月五日爾藥玉乎佩天飲酒《サツキツカノヒニクスタマヲオビテサケノム》人波命長久|福《サチ》在などみえて藥玉といふが即菖蒲橘を玉の如くまろく飾りて糸を垂たるものなり○玉爾貫《タマニヌキ》は橘菖蒲など縷につけて玉のごとくにするを云。※[草冠/縵]爾將爲登《カツラニセムト》の※[草冠/縵]《カツラ》は一説に縵の誤なるべしといへり。學記に不v學v操v縵不v能v安弦。註に操(トハ)v縵(ヲ)雜2弄(スル)弦屬(ヲ)1とありて弦をツラと訓むよりうつりて縵をもツラと訓みさて其縵を草のカツラにかれるゆゑに草冠を加へてかける和字なるべし。【カヅラはツラと云がもとにて髪につらねかざるゆえカヅラといへり。即|髪※[草冠/縵]《カヅラ》なり。記傳にもとは草の葛よりいでたり。葛のもとの名はツラにて其蔓草をもて髪の餝にかくるをカツラと云。さてしか鬘に用るからたちかへりて草のツラをもカツラとはいふならんといへり】かくてしばらくこゝにて句を絶《キ》りてこゝろうべし○九月能《ナガツキノ》はツもじ清《スミ》て訓むべし○折挿頭跡《ヲリカザヽムト》はカツラニセントといふにむかへていへるなり。卷八に「をとめらが挿頭《カサシ》のために。みやびをの※[草冠/縵]《カツラ》のためと」云々といへるこれ挿頭と※[草冠/縵]と對へたる例なり○延葛乃《ハフクズノ》は枕詞なり。葛の蔓はながくのびわたるものなれば遠永といはん料なり○不絶等念而《タエジトオモヒテ》は上なる通計萬四波《カヨヒケマシハ》をうけて萬世にたえずかよはんとおもへるよしをのべたるなり。さればこの次なるカヨヒケムの五字の句はキミヲアスユハの七字の句につゞけてこゝろうべし。古義に上に通計万四波とある首尾をこの將通《カヨヒケム》にてあひとゝのへたりといへれど五字の句にて絶《キ》るは古今以下の長歌の體にて萬葉にはあることなし○將通《カヨヒケム》は次の句の君ヲアスユハにかけて見るべし。將通君とつゞく意なり○歌意。右村《イハレ》の道をへて朝ごとに藤原の宮にまゐるとてそのかよふ度におもへるやうはほとゝぎすなくさつきの節には菖蒲橘をかつらにせん。ながつきのしぐれのころはもみぢばををりかさしとほ長く萬代までもたえずつかへまつらむとおもひてかよひたりけむ君がそのこゝろざしの如くもあらではやく身まかりぬれば明日よりはおくつきのあるところをのみよそながらやみむといへるなるべし。古義に泊瀕におもふ女のありてかよはれし路次のことをよめる歌なりといへれど五月のあやめのかつらをいひ九月の紅葉のかざしをいへるは女のもとにかよふ時の事めきてもきこえず。また「いやとほながく萬世にたえじ」などいへるも女のもとにかよふあらましにてはあまりしたゝかなればしたがひがたし。右一首或云柿本朝臣人麻呂作と版本にあれど後人の加筆なるべし
 
或本反歌二首
 
隱口乃泊瀬越女我《コモリクノハツセヲトメガ》。手二纏在玉者亂而《テニマケルタマハミダレテ》。有不言八方《アリトイハズヤモ》
 
略解に右の反歌にあらず。左註に紀皇女をいためる歌とせり。されどもこの註も後人の加筆にてとりがたし。按ふに隱口云々の三句は玉にかゝる序にて玉者亂而とは玉の緒絶して亂れたるを命のたえたるにたとへていへる歌にてそは紀皇女の薨し給へるをよめる歌にや。また然にはあらぬにや。たしかにわきまへがたし
 
河風寒長谷乎《カハカゼノサムキハツセヲ》。歎乍公之阿流久爾《ナゲキツヽキミガアルクニ》。似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》
 
阿流久《アルク》は字鏡に蹊(ハ)徂行也往來也|阿留久《アルク》。また卷五に阿留伎斯《アルキシ》。十八に安流氣騰《アルケド》。靈異記に周(ハ)安留支《アルキ》とあり【宣長云。紀の歩行の訓また中古の物語文などにもアリクとのみ見えたればアリクぞ雅言の如くきこゆめれどそそはかへりて後なり】さればアルクといふが古言なり○歌意下にいふべし
 
右二首者或云。紀皇女薨後山前往代2石田王1作之也
 
紀皇女の薨は釋云。年月續紀にみえず。前後を※[手偏+僉]《ケミ》するに文武天皇の御宇なるべし。この皇女石田王に嫁《トツギ》給ひてはやく薨《ミマカ》り絵へるを山前王その夫の石田王にかはりてよまれしよしなり。上なる長歌は石田王の卒《ミマカ》り給ひし時山前王のよまれたるなればこの二首その反歌にはあらざること明らかなり。歌意釋云。君は石田王をさしていへり。君が泊瀬あたりを歎きつゝあるきて妻の皇女に似たる人もあふやと求め姶ふらんといふ意なるべし卷二人麻呂の妻のみまかれるを哀める長歌に玉梓乃道行人もひとりだに似てしゆかねばすべをなみ妹が名よぴて袖ぞ振つる」とあるにこゝろおなじ
 
柿本朝臣人麻呂見(テ)2香具山(ノ)屍《シニカバネヲ》1悲慟作歌《カナシミヨメルウタ》一首
 
屍をシニカバネと訓るは靈異記に屍骸【二合死二カかはね】とあるによれり
 
草枕※[羈の馬が奇]宿爾《クサマクラタビノヤドリニ》。誰嬬可國忘有《タガツマカクニワスレタル》。家待莫國《イヘマツナクニ》〔頭注、校正者云。家待莫國の訓、註によればイヘマタマクニと有るべきか〕
 
誰嬬可の嬬は假字にて夫《ツマ》なり。誰夫にかあらんの意なり。【古義云。可を忘有の下にめくらしてこゝろ得べし。誰夫の國忘たるにかとつゞく意なりといへり。されどたが夫にかあらん國忘れてこゝにとゞまれるはといふ意なれば忘有の下にめぐらすなどいたつかはしく句をおきかへずてもよくきこゆればこの説用うべからず。さるはいさゝかなることにていづれにてもきこえぬにはあらねど古義にかゝることゞものおほければおどろかしおくなり】卷二に爲誰可山爾標結《タガタメカヤマニシメユフ》とあるもこゝとおなじ意なり○國忘有は本國《フルサト》を忘れてあるといふ意なり○家待莫爾の莫は卷十一に「今たにもめなともしみそあひみずてこひむ年月久家莫國」とある莫の字一本に眞とあり。かゝればこの句ヒサシケマクと訓むべし。いまも同例なればこの莫も眞に改むべし。異本に眞につくれゝは莫ならぬことしるし。かゝればイヘマタマクニとよみて家人の待をるらんの意とすべし【宣長の説にもとのまゝのイヘマタナクニに從ふべしとて莫國を用ゐたれど卷十一に例もあればなほマタマクニと訓むべし】○歌意はいかなる人なればおのが本國を忘れて旅に死したるにかあらん。かくともしらで家人《ツマ》はけふかあすかと歸りこむ日を待つゝ居るらんとなり
 
田口廣麻呂《タグチノヒロマロ》死之時刑部垂麻呂作歌一首
 
廣麻呂は傳知られず。垂麻呂は前に出たり
 
百不足八十隅坂爾《モヽタラズヤソクマサカニ》。手向爲者過去人爾《タムケセバスギニシヒトニ》。蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》
 
百不足《モヽタラズ》は八十にかゝる枕詞なり。八十隅坂爾《ヤソクマサカ》は記に八十※[土+向]《ヤソクマ》また八十隈《ヤソクマ》などにおなじくて路の隈々《クマ/\》の多きをいふ。坂は堺《サカヒ》の義にてこなたより登る坂とかなたより登る坂のあふ處をいひて坂合の意なり。古人その坂を過る時は必手向をせり。されば芳樹おもふにこの歌手向セバとあるによれば隅坂の二字クマサカと訓むべきこと疑ひなし。隅をクマとよむ證《アカシ》は卷二に作日之隅囘乎《サヒノクマミヲ》。卷十六に川隅乃《カハクマノ》。また卷五に奈久夜※[さんずい+于]隅比須《ナクヤウグヒス》などゝありて隅囘《クマミ》。川隅などの隅は隈の誤ともすべけれど※[さんずい+于]隅比須《ウグヒス》の隅は隈ならざること明かなればこの字古はクマともよみしなるべし○歌意。廣麻呂がみまかりて往しそのみちの數おほき八十くまのさかひに手向して神に祷《コヒ》申さばもしくは立歸りきてまたあふこともあらんか。あゝ悲しきかな。といふ意なり
 
土形娘子(ヲ)大2葬《ヤキハフレル》泊瀬山1時柿本朝臣人麻呂作歌一首〔頭注、校正者云。大葬は火葬の誤か〕
 
應神紀に大山守皇子を土形君の祖とせり。この娘子その末なるべし。和名抄遠江國城飼郡土形【比知加多】とあり○火葬文武天皇の四年に僧道昭を火非葬せしよりはじまれり
 
隱口能泊瀬山之《コモリクノハツセノヤマノ》。山際爾伊佐夜歴雲者《ヤマノマニイサヨフクモハ》。妹鴨有牟《イモニカモアラム》
 
伊佐夜歴《イサヨフ》は立さらでたなびきゐる火葬の煙をいふなり
 
溺2死《オボレシヌルヲ》出雲娘子《イヅモノヲトメガ》1火2葬《ヤキハフレル》吉野《ヨシヌニ》1時柿本朝臣人麻呂作歌二首
 
出雲娘子は傳詳ならず
 
山際從出雲兒等者《ヤマノマユイヅモノコラハ》。霧有哉吉野山《キリナレヤヨシヌノヤマノ》。嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》〔頭注、校正者云。山際從の傍訓、註の訓とあはず】
 
山際從《ヤマノハユ》とおけるは出雲《イヅモ》にかけむとてなり。兒等者《コラハ》の等は一人《ヒトリ》にかぎらぬことなれどもまたこゝのごとく一人にもいへり
 
八雲剃出雲子等《ヤクモサスイヅモノコラガ》。黒髪者吉野川《クロカミハヨシヌノカハノ》。奥名豆颯《オキニナヅサフ》
 
八雲剃《ヤクモサス》は八雲|立《タツ》におなじ。八雲立は須佐之男命の出雲の國にて雲の立出るをうち見給へるまゝにのたまへるみことばなり。されば枕詞にはあらねども後に枕詞となれるなり。さてイヅモは出雲《イデクモ》にてデクの約めヅなり。しか出雲《イデクモ》につゞけむには八雲タチといふべきをタツといひきりたるはその時見給へるまゝに八雲ノクツヨとまづいひ出給へるなりと宣長いへり○奥名豆颯《オキニナヅサフ》は岸よりやゝはなれて遠き方をいふ。古は川にもオキといひしよし上にいへり。名豆颯《ナヅサフ》は記傳に浮ぶをも沈むをもともにいひ或はわたるをもいふとあり。卷四に魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》。十二に奈津柴比來乎《ナヅサヒコシヲ》とあり。古義に記の歌に那豆能紀《ナヅノキ》とあるは浪漬之《ナヅノ》木とみゆれば那豆佐布《ナヅサフ》は浪漬傍《ナヅサフ》なるべし。略解にこの二首首後せりといへり
 
《スグル》2勝鹿眞間娘子墓《カツシカノママノヲトメガハカヲ》1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
此娘子は葛飾郡眞間にありし女なり。その姿|美麗《ウルハ》しかりしかば見人聞者我劣らじとつまとひ爭ふをうき事に思ひ眞間の湊に身を投てはかなく成にければそこに墓造りしよし卷九にみえたり。然れどもこゝの帶解替而の句を翫ふに早く夫とせし男はありしが如し。さるを猶外よりも吾にしたがへとせまるものゝ多かりしゆゑにすべなくて身を投たるにやあらん。上古のこと詳には知がたし
 
古昔有家武人之《イニシヘニアリケムヒトノ》。倭文幡乃帶解替而《シヅハタノオビトキカヘテ》。廬屋立妻問爲家武《フセヤタテツマトヒシケム》。勝牡鹿乃眞間之手兒名之《カツシカノママノテコナガ》。奥槨乎此間登波聞杼《オクツキヲコヽトハキケド》。眞木葉哉茂有良武《マキノハヤシゲリタルラム》。松之根也遠久寸《マツガネヤトホクヒサシキ》。言耳毛名耳母吾者《コトノミモナノミモアレハ》。不所忘《ワスラエナクニ》
 
古昔有家武人之《イニシヘニアリケムヒトノ》とは誰ともなけれど妻問せし男をいふ○倭文幡《シツハタ》は紋《アヤ》ある布なり。武烈紀に瀰於寐能之都波※[木+施の旁]《ミオビノシヅハタ》。卷十一に去家之倭文旗帶乎《イニシヘノシヅハタオビヲ》。結垂孰云人毛《ムスビタレタレトフヒトモ》。君者不益《キミニハマサジ》ともみえて太古は天皇の御帶にもし給へり。されど帛ならぬ布なればまた常人の帶にもせしとおもはれてこゝの倭文幡《シヅハタ》などこれなり。その倭文《シヅ》は芳樹云。釋日本紀に先師申云。古語拾遺|文《アヤノ》布云々。建久諸祭興行之時大藏省(ノ)年預申状有2青筋文1之布云々これによるに今いふ縞布のごとく筋あるゆゑにシヅといふ。シヅとスヂと音通へり。さればこの倭文幡は縞布の帶なるべし。帶解替而《オビトキカヘテ》は夫と契りし男と帶ときかはしての意なり。かゝらば廬屋立云々の下にいふべきを上におけるは歌は文とは違ひてかく前にいふべきを後にいへるなどの類まゝあり。廬屋は伏イホなどの類にて棟高からずつくれる小屋なり。古は妻儲けしときは新《アラタ》に屋を造りてこれを夫婦の寢る所とするならはしなり。記に見立八尋殿とあるも二柱神の婚合《ミアヒ》まさむ料にてその後須佐之男命のつまごみに八重垣つくると。よみましゝもつまとともにこもりまさむとなり。さればその妻とともにこもる屋を妻屋といひて集中にもあり。【長流がいま在郷にてツノ屋といふは。その遺風かといへり。世俗に新婦を新造といふも古へ妻を迎ふるには必つまやを建たるゆゑにその名の殘れるなり。故に足利將軍家の記録に御薪造といふことみえたり】妻問は夫婦あひとふをいふ詞なり。集中におほし。記【雄略天皇傳】に故(レ)都摩杼比之吻云而賜入《ツマドヒノモノトイヒテタマヒキ》也【物は幣物なり】○手兒《テコ》は傳にいまだ母の手をはなれざるよしの名なりといへり。さもあるべし。【但落窪物語に治部卿なる人のてこ兵部少輔とあり。このテコは男兒のことなれば母の手をはなれはなれぬの沙汰にはおよぶまじく思はる。一説に愛兒《メヅコ》の義といへり。さては男女にわたるべし】名は美稱なりと宣長いへり。然れば末の珠名の名もこれにおなじかるべし【和訓栞に東國の俗女の美なるものを稱して手兒名といへり。津輕の邊にて蝶をてこなとよぶもその昔愛すべきをもて呼べるなるべし〔頭注、校正者云。その昔はその虫の誤なるべし〕】○奥槨《オクツキ》は卷九に處女等賀奥城所《ヲトメラガオクツキドコロ》。また十八に等保追可牟於夜能於久都奇波《トホツカムオヤノオクツキハ》。十九に奥墓乎此間定弖《オクツキヲコヽトサダメテ》などあり。また紀には墓をも丘墓をもみなオクツキと訓めり。このオクツは神代紀に奥津棄戸《オクツスタベ》とあるオクツにてツは助字なり。キは郭なり。いまいはゆる墓なり〇茂有良武はツゲリタルラムと訓むべし○遠久寸《トホクヒサシキ》は松か根の年久しくはひ伸たることなり。上に此間登波聞杼《コヽトハキケド》とありて手兒名か墓は此處にありとかねてきゝをれば眞木の葉茂りてみえぬにや松が根蔓りて遠く久しきことなればよくしられず。されども言にもいひつたへ名にもきゝつたへて吾は更にえわすれぬよしなり
 
反歌
 
吾毛見都人爾毛將告《ワレモミツヒトニモツゲム》。勝牡鹿之間間能手兒名之《カツシカノマヽノテコナガ》。奥津誠處《オクツキドコロ》
 
略解云。長歌に墓を尋ぬるさまをいひて反歌にて見しところをいへり
 
勝牡鹿之眞眞乃入江爾《カツシカノママノイリエニ》。打靡玉藻刈兼《ウチナビクタマモカリケム》。手兒名志所念《テコナシオモホユ》
 
打靡は玉藻の波にしたがへるをいへるなり。その打なびく玉藻を手兒名が刈けむ昔のさまのおもはるゝよしによめるなり
 
和銅四年辛亥河邊宮人見2姫島松原美人屍1哀慟作歌四首
 
此題詞には誤あるべし。既に卷二に和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見2孃子屍1悲歎作歌二首とありて即ち孃子の屍を悲しめる歌二首を載たり。この端詞と全くおなじくて孃子を美人に換たるのみ。されば按ふに和銅云々はこれより下年號を掲げたる所神龜天平につゞけたればこゝにももとより有しなるべし。故に古義には年號はそのまゝにおきて過2三保浦1時姓名作歌二首と改めて久米若子を哀慟《カナシメ》る歌とせり。さては新喪の歌ならねば挽歌の標中にはいるべからぬが如くなれども眞間の娘子をよめるも入たれば子義の説然るべし
 
加麻※[白+番]夜能美保乃浦廻之《カザハヤノミホノウラミノ》。白管仕見十方不怜《シラツヽジミレドモサブシ》。無人念者《ナキヒトオモヘバ》
 
加麻※[白+番]夜能の麻は座の誤なり。卷七に風早之三穗とありて紀の名所なり○無人とは久米若子のことなるべしと契沖いへり。この上に博通法師往2紀伊國1見2三穗石室1作歌三首とありて久米若子をよめるを證とすべし○歌意。浦廻にさける躑躅の盛をみれば面白くて世のうきことも忘らるれどもなき人を思ふことの切なる故こヽろなぐさまで悲しとなり
 
或云。見者悲霜無人思丹《ミレバカナシモナキヒトオモフニ》
 
見津見津四久米能若子我《ミツミツシクメノワクゴガ》。伊觸家武磯之草根乃《イフレケムイソノクサネノ》。干卷惜裳《カレマクヲシモ》
 
見津見津四の見津は古義云。紀に不才〔二字傍点〕また不佞〔二字傍点〕などをミツナシとよめるミツにて才徳《イキホヒ》勇威《カド》あるをいふ詞にて四〔傍点〕はスカ/\シ、タツヽヽシなどのシに同じ。さてそのミツミツシを久米に冠らせたるは記に土雲八十健を誅し給へるときの歌に美都美都斯久米能若子賀《ミツミツシクメノワクゴガ》。久夫都々伊々斯都々伊母知宇知弖斯夜麻牟《クフツヽイヽシツヽイモチウチテシヤマム》とみえたるをはじめにて久米命、武事もて仕へ奉りて勇威《カド》ありしからにその引率たる士卒もともに壯勇なりつれば勇威《ミツ》を久米の枕詞ともしてかく久米若子にも冠らせたりしなるべし云々。【此説冠辭考よりもいひ得てよし】久米若子は久老云。神武天皇の率ゐませし久米部の壯士なるべし。天皇紀伊を歴て内國に入ましゝかば紀の國に久米部の殘り居しなるべし○伊觸家武の伊は發語なり。觸は卷二十に伊蘇爾布理《イソニフリ》とみえたれどこは東語なればよりがたし。猶フレと訓べし。卷九に「玉津島磯之裏未之|眞名《マナコ》仁文匂ひてゆかな妹觸嶮《イモガフレケム》【身まかりし妹か觸けんまさごに衣匂はしてゆかんといへるなり】といへるにおなじ磯之草根は略解にカヤネとよめるはわろし○歌意武く勇健《ヲヽシ》かりし古への壯士等が手足にふれけむと思へば何となき磯の草根なれどかれんことのをしとなり【釋云。久米若子は昔のことにて草は年毎におひかはればいかがと思ふ人もあるべし。されど詩歌のならひはかゝるものなり
 
人言之繁比日《ヒトゴトノシゲキコノゴロ》。玉有者手爾卷以而《タマナラバテニマキモチテ》。不戀有益雄《コヒザラマシヲ》
 
歌意人に彼是いはれて妹が許へ通ふこともならぬを。もしその妹が玉ならば手にまきもちて常に見つゝあらん。さらば人目のしげしとて戀てかよふこともあらざらましとなり
 
妹毛吾毛清之河乃《イモモアレモキヨミノカハノ》。河岸之妹我可悔《カハギシノイモガクユベキ》。心者不持《コヽロハモタジ》
 
清之河《キヨミノカハ》は卷二に飛鳥之|淨《キヨミ》之宮とあり。そのあすか川を淨御原の邊にでは淨《キヨミ》の川ともいふは忠岑か「大井川しもは桂」とよめるごとく大井川も桂の邊にては桂川といへり。さればおなじ流なれど地に隨ひて名かはるなり。この淨の川もかくのごとし。さ「妹も吾も清《キヨミ》」といひかけたるは男女の中の互《カタミ》に二心なきを水の清きに譬へたるなり。六帖にも「利根川は上は濁りて底すみて」などよめり。されば二心なきを川の名によせたるなり。下の句は岸はよくくゆるものなるゆゑにその崩るを妹か悔ることにそへてよめり。卷十四に「岩くえの君がくゆべき心はもたじ」とつゞけたるにおなじ。悔とは眞實《マメ》ならぬ人としらでかたらひしをくゆる意なり
 
右案年紀并所處乃娘子屍作歌人名已見v上也。但歌辭相違。是非難v別。因以累2載於茲次1焉
 
乃は及の誤なるべし。さて上の歌の端詞は誤ありて前の二首は懷古の歌。後の二首は相聞の歌にていたく差へり。こゝに歌辭相違是非難v別とあるがごとし
 
神龜|五年戊辰太宰帥大伴卿《イツトセトイフトシツチノエタツオホミコトモチノカミオホトモノマヘツギミノ》思2戀《シヌベル》故人《スギニシヒトヲ》1歌三首《ウタミツ》
 
大伴卿は旅人卿なり○故人は大伴郎女なり。卷五にも太宰帥大伴卿報2凶問1歌とてあり。卷八式部大輔石上|堅魚《カツヲ》朝臣歌とありて霍公鳥鳴令響き《ホトヽギスナキトヨモス》云々の左註に右神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉とありてこの故人すなはちその大件郎女なり
 
愛人纏而師《ウツクシキヒトノマキテシ》。敷細之吾手枕乎《シキタヘノワガタマクラヲ》。纏人將有哉《マクヒトアラメヤ》
 
愛は齊明紀に于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》云々とみえ字鏡に娃美女貌|宇豆久之乎美奈《ウツクシヲミナ》とあり。かく美貌をウツクシといふは顔|美《ヨ》ければ人の愛《メヅ》るより情も深くなりて中も睦しきものなればそのむつましきをウツクシといふ。人纏而師は妻の枕にしたるをいふなり○歌意睦しくて中うつくしかりし妻の枕にせしわが手をそのつま身まかりたればまた外にまきてあひ寢る人あらめや。ありはせじ。とよめるなり
 
右一首別去而經2數旬1作歌
 
別去は死別《シニワカ》れなり
 
應還時者成來《カヘルベキトキニハナリク》。京師爾而誰手本乎可《ミヤコニテタガタモトヲカ》。吾將枕《ワガマクラカム》
 
時者成來はトキニハナリクと略解によめるに從ふべし○吾將枕は卷五に和我摩久良可武《ワガマクラカム》とあり。この可武はカ、キ、ク、ケの活轉にて動かぬことを活用《ハタラカ》す辭なり。カツラク、ツナクなどのクにおなじと古義にいへり○歌意は年月へて京に歸るべき時にはなれるを京にて誰が手もとを枕にして吾は寐まし。あゝ悲しきことかな。といへるなり
 
在京師荒有家爾一宿者益旅而《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネバタビニマサリテ》。可辛苦《クルシカルベシ》
 
荒有家とは太宰府に居られし間に京の家の荒たるよしなり○歌意かくれたるところなし。下に還2入故郷家1作歌「人もなき空家《ムナシキイヘ》は草枕たびにまさりて苦しかりけりとあるを併せ見るべし
 
右二首臨2近向v京之時1作歌
 
この向v京は下に天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿上道之時作歌〔頭注、校正者云。大伴卿の下向v京の二字脱か〕とみえたり。かくて天平二年十月一日任2大納言1と卷三の附録にみえたれば【續紀には洩れたり】早く十月の中頃より歸京のいそぎしてそのほどによまれし歌なるべし
 
神龜六年己巳左大臣長屋王腸死之後倉橋部女王作歌一首
 
長屋王は天武天皇の孫にて高市親王の子なり。神龜元年正二位左大臣となられたり。その室吉備内親王は日並知皇子尊の皇女なり。かくのごとく夫婦ともに王孫にて時の名望いみじかりしを嫉めるものやありけん不イをはかり給ふよしにて自盡を賜へり。その時室吉備内親王をはじめ膳部王。桑田王。葛木王。釣取王等みな自縊ありしよし委しく續紀天平元年二月の條にみえたり。按ふにこれ皆讒者のしわざにて王の政事に豫《アツカ》り給ふを惡めるよりおこれることなり。【西宮大臣。菅丞相のことなど併せおもふべし】此作者倉橋部女王は紹運録等にも名みえず。卷八に椋橋部女王とあるは同人ならむか。長屋王にゆかりある人なるべし
 
大皇之命恐《オホキミノミコトカシコミ》。大荒城乃時爾波不有跡《オホアラキノトキニハアラネド》。雲隱座《クモカクリマス》
 
大皇之は【大を版本太に誤れり。略解天に改めてスメロキとよめるもわろし】オホキミノと訓むべし○大荒城は大は美稱。荒城は記傳云。荒は※[金+撲の旁]《アラガネ》璞《アラタマ》などの阿羅なり。其《ソ》は新《アラタ》に死たるまゝにていまだ何とも爲《シ》あへぬほどの意にて今世にもそれを阿羅某《アラナニ》といふことおなじ。【阿羅亡者《アラボトケ》。阿羅齋《アラドキ》阿羅火《アラビ》などのごとし】城は墓《オクツキ》の紀《キ》に同じ。されば新《アラタ》に死たるまゝにていまだ葬《ハフ》りあへざるほど且《マヅ》姑く收置處《ヲサメオクトコロ》を阿羅紀《アラキ》と云て天皇などのは其宮を阿羅紀能宮《アラキノミヤ》と申せるなり。時爾波不有跡云々はおほあらき仕へ奉るべき時ならねどもの意にておのづから身まかる命の限の時にはあらで自盡して失られたるをいふ。此次に丈部龍麻呂が自經死《ワナギ》たるを「時尓不在して」とあるにおなじ○歌意明かなり
 
悲2傷《カナシメル》膳部王《カシハデベノオホキミヲ》1歌一首
 
膳部王は長屋王の長子にて父王とゝもに自縊して死《シナ》れたり。續紀神龜元年壬辰二月丙申授從四位下とみえたり
 
世間者空物跡《ヨノナカハムナシキモノト》。將有登曾此照月者《アラムトゾコノテルツキハ》。滿闕爲家流《ミチカケシケル》
 
將有登曾はあらん道理とてといふほどの意なり○歌意。長屋王の家のさばかり榮えたるもかくのごとく衰ふるもこれ月のみてればかくるの理《コトワリ》なりと自ら悲傷《カナシミ》のたへがたきを忍べるなり。卷七に「こもりくの泊瀬の山にてる月は盈昃しけり人のつねなき」また十九に「天の原ふりさけみれば照月の盈昃しけり」などあり。釋名云。月(ハ)缺也。滿《ミテレバ》則必|缺《カク》
 
右一首作者未v詳
 
天平元年己巳攝津國|班田《アカチダノ》史生|丈部龍《ハセツカベノタツ》麻呂(ガ)自經死之時《ワナギシトキ》判官大伴宿禰三中作歌《マツリゴトビトオホトモノスクネミナカガヨメルウタ》一首并短歌
 
班田とは田令に凡田六年一班とありて義解に此據(ル)d未v給2口分1人u也。其先已給訖者不v可2更收(リ)授(フ)1也。若田有2崩埋侵食1不v可2更復加授1也とあり〔頭注、校正者云。令義解を按するに侵食の下に亦依2改班例1也。とありて其下に神田寺田、不v在2此限1謂此即不税田也。縱2崩埋侵食1不v可2更復加授1也とあり。此中間の文字脱か〕。たとへば子の年に生れたる人辰の年までは田を賜はず。巳の年にいたりて班由の年にあたれば田を賜ふなり。即ち田令に凡給2口分田1者男二段。女減2三分之一1五年以下不v給2其地1〔頭注、校正者云。不v給2其地1とあれど其地の二字は下句に付く文字にて省くを可とすべきか〕といへるこれなり。もし丑寅などの年に生れて辰の年の班田の時いまだ六歳にみたざれば欠の酉のとしの班田にたまふことを得】かくのごとく六年になるごとに班他使國々を巡囘して口分田を班たるゝなり。この制は孝徳の御代より起りて代々に替ることなし。その班田の史生龍麻呂が自經死《ワナギシ》ときに大伴三中これを哀傷てよめるなり。類聚鈔に三中或作2御中1。攝津國班田判官云々。此人續紀にみえて天平九年正月に遣新羅使副使從六位下とあり。同十八年四月長円守從五位下。十九年三月刑部大判事たり
 
天雲之向伏國《アマグモノムカブスクニノ》。武士登所云人者《マスラヲトイハエシヒトハ》。皇祖神之御門爾《スメロギノカミノミカドニ》。外重爾立候《トノヘニタチサモラヒ》。内重爾仕奉《ウチノヘニツカヘマツリ》。玉葛彌遠長《タマカヅライヤトホナガク》。祖名文繼往物與《オヤノナモツキユクモノト》。母父爾妻爾子等爾《オモチヽニツマニコドモニ》。語而立西日從《カタラヒテタチニシヒヨリ》。帶乳根乃母命者《タラチネノハヽノミコトハ》。齋忌戸乎前坐置而《イハヒベヲマヘニスヱオキテ》。一手者木綿取持《ヒトテニハユフトリモチ》。一手者和細布奉《ヒトテニハニギタヘマツリ》。平間幸座與《タヒラケクマサキクマセト》。天地乃神祇乞祷《アメツチノカミニコヒノミ》。何在歳月日香《イカニアラントシツキヒニカ》。茵花香君之《ツヽジバナニホヘルキミガ》。牛留鳥名津匝來與《ヒクアミノナヅサヒコシト》。立居而待監人者《タチテヰテマチケムヒトハ》。王之令恐《オホキミノミコトカシコミ》。押光難波國爾《オシテルナニハノクニニ》。荒玉之年經左右二《アラタマノトシフルマデニ》。白栲衣不干《シロタヘノコロモデホサズ》。潮夕在鶴公者《アサヨヒニアリツルキミハ》。何方爾念座可《イカサマニオモヒマセカ》。鬱蝉乃惜此世乎《ウツセミノヲシキコノヨヲ》。露霜置而往監《ツユシモノオキテイニケム》。時爾不在之天《トキナラズシテ》
 
天雲之向伏國とは國土の境界遙に望めば雲の地に向ひ伏しでみゆるをいふ。祈年祭祀辭に白雲能堕坐向伏限《シラクモノオリヰムカブスカギリ》また卷五に阿摩久毛能牟迦夫周波美《アマクモノムカブスキハミ》。卷十三に青雲之向伏國乃なとみゆ○武士はマスラヲと訓べし。集中に健男ともある同義なり。古義に天地の限|双《ナラビ》なき武健き男といはれしよしにて俗に日本一の剛の者といはむがごとしといへり○皇祖はスメロギと訓むべし。皇組神之御門とは朝廷をいふ○外重爾はトノヘニと訓むべし。大内の外郭をいふ○内重は内郭なり【禁裏とは門戸に禁あるゆゑの名にてすなはちこの内重のことにて委しくいへは宮城問を外重《トノヘ》といひその内の郭を中重といふその内なるが内重にていはゆる禁裏なり。古書どもに閤門《ウチツミカド》ともあり○玉葛は遠長の枕詞なり○祖名の祖とは父母より遠祖までをかけていへり。繼往物與とは父母の家をつぎ身を立孝をなし先祖の家名をも末世まで言繼むとかたらひしよしなり○母乳爾は卷二十に意毛知々《オモチヽ》とあり○帶乳根は母の枕辭なり。タラチのチはシに通ひて足《タラシ》の意にて賛辭なり。足白子《タラシヒコ》。足日賣《タラシヒメ》などの足《タラシ》の如し。根も尊稱なり。母は親しく尊き物なるゆゑに足根《タラチネ》の母とはいふなり。母命は母を尊ていへるなり【斯る處に父をいはで母を云るは古人の實にてこの旅へ往たるあとなどにても父よりは母のかた子を慕ふ情深きものにて旅なる子よりも父よりは母を親しきものに思ひやるが實の心なればその心のまゝをよめるなり】○和細布は延喜式の祝詞に和多閇《ニギタヘ》とありて荒と和とむかへたり。その和はもじのごとし。多閇は絹布の類をすべいふ名なり。【和幣をニギテといふはニギタヘのつゞめなり】奉は神に奉るをいふ○平間幸座與の間幸は眞幸なり○神祇乞祷の祷《ノミ》は記傳に乞ひ祈るかたにいふといへり。そは記に稽首白の三字をノミマヲサクとよみてその傳にひたぶるに伏從《シタガヒ》て罪をゆるし給へと誓願《コヒネギ》まをすなりといへるにてしられたり○何在はイカニアラムと訓むべし。卷五に「伊可爾安良武日《イカニアラムヒ》の時にかも」とあり○茵花は香の枕辭にて字鏡に※[女+軍]媛、美麗(ノ)※[白/ハ]、爾保布とあれば顔よきをいへるなり。卷一に紫草能爾保敝流妹乎。卷十一に山振之爾保敝流妹之などもみゆ○之牛留鳥は之牛〔二字傍点〕二字或本|牽〔傍点〕の一字とせり。然らは牽留鳥にてヒクアミノと訓みて枕辭なり。留鳥をアミとよむは羅網は鳥を留めてとらむ料の物なればなりと略解にいへり。名津匝《ナヅサヒ》は上に出づ○待監人者は待けむその人はといふ意なり○押〔傍点〕光は枕辭なり。押は卷十に忍並《オシナヘ》て高き山へを白たへに匂はせたるはさくら花かも」とあるがごとくおし並ぶる意なり。光〔傍点〕は同卷に「のと川の水底さへに光《テル》までにみかさの山は咲にけるかも」の光におなじ。【その外にもこの例の光《テル》いとおほし】卷七に押而照在《オシテテラセル》。まさしく押光〔二字傍点〕とつゞけるは卷八に月押光在《ツキオシテレリ》などあり。此雄照〔二字傍点〕既《ハヤ》く地名のごとくなりて難波の宮を押照宮とも卷廿にみえたりと古義にいへり。難波國は泊瀬國。吉野國などの類なり○荒玉之は枕辭なり。この枕辭くさ/\説あれど當れりとおほゆるもなし。芳樹按ふにこはいとたやすきことにて改《アラタマリ》のリを省きてアラタマといへるなり。年にても月にても年々月々あらたまりゆけばかくいふなるべし○白栲は衣の枕辭なり。衣不千は衣袖《コロモデ》ホサズといふにおなじ。卷七に吾袖者干時無香《ワガコロモデハヒルトキナキカ》また卷九に袖可禮而一鴨將寐《コロモデカレテヒトリカモネム》などゝ袖〔傍点〕の一字をコロモデともよめれば衣の一字をもコロモデとよむまじきにあらず。脱字の説はとりがたし。さて衣手ホサズといへるはたゞ旅中にて家をおもふ泪に衣をぬらせりといへるにはあらで班田の史生なるゆゑに終日田畔にたちくらして衣を露にぬらしたるをかくいへるなるべし○朝夕在鶴公者とはこの歌よめる三中も同使の判官なれば日々に見なれしをいへるなり○何方爾念坐可は卷一に何方所念計米可《イカサマニオモホシケメカ》その外にもかくつかへる詞集中に多し○露霜は置而〔二字傍点〕の枕詞なり。置而往監はあたらこの世を捨おきて死去《スギニ》けむといふなり○時爾不在之天はいまだ若きものにて死すべき時ならぬにといふなり、上に大荒城乃|時爾波不有跡《トキニハアラネド》とあるに同じ
 
反歌《ミジカウタ》
 
昨日社公者在然《キノフコソキミハアリシカ》。不思爾濱松之上《オモハヌニハママツノヘノ》。於雲棚引《クモニタナビク》
 
不思爾は卷五に於毛波奴爾横風乃とあり。濱松之上とは津の國にて死せるゆゑに海濱の松が枝をいへるなり○於雲棚引は火葬の烟をいへるなり
 
何時然跡待牟妹爾《イツシカトマツラムイモニ》。玉梓乃事太爾不告《タマヅサノコトダニツゲズ》。往公鴫《イニシキミカモ》
 
事太爾の事〔傍点〕は言〔傍点〕なり。傳言《コトツテ》をさへせずしての意なり○往公鴨は身まかりにし君かもといふ意なり
 
天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿|向《ムカヒテ》v京《ミヤコニ》上道之時《ミチタチスルトキ》作歌五首
 
吾妹子之見師鞆浦之《ワキモコカミシトモノウラノ》。天木香樹者常世有跡《ムロノキハトコトニアレド》。見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》
 
鞆浦は卷七にもみえたり【今も名高き所なり】○天木香樹《ムロノキ》は芳樹按に和名抄に※[木+聖]。爾雅注云。※[木+聖]一名河柳【和名無呂】とみえたれば河柳の二字をもムロとよむべし。然るに字鏡に※[木+聖]※[木+呈]楊類。加波也奈支又牟呂乃木といへるによりでカハヤナギとムロとを同物とおもへれどこは字鏡の誤なり。和名抄の如く※[木+聖]も河柳も共にムロなり。さるは支那にて河柳《カリウ》といふは※[木+聖]の一名なれども此間にてカハヤナギとはいはれず。故に字類抄に※[木+聖]【ムロノキ名】河柳【同】赤※[木+聖]※[木+聖]乳【木中脂也已上同ムロノキ】などゝみえて字はいかやうにかきたるをもみなムロノキと訓り。さて和訓栞に「一説に※[木+聖]はニレモミまた日光モミまた虎ノ尾モミといふこれなり。ムロは杜松なりといへり。立ムロあり、這ムロあり、這ムロは山にありて諸木を生せぬものなりとぞ。これを三河にてベボといひ四國の邊にマロトといひまた山ヲコゼといふ。またヒメムロあり。刺柳なりといへり。またウラ白といふあり」、とみえて種類もおほく分ちがたきをこの※[木+聖]はいはゆる立ムロなるべし。和漢三才圖繪に載たる圖によるにその状柳の如し。本草綱目に時珍云。天之將v雨※[木+聖]先知v之。起v氣以應。又負2霜雪1不v凋。乃木之聖者也。故字從v聖また羣芳譜に幹小枝弱。皮赤葉細。如2絲縷1。婀娜可v愛。一年三次作v花。花穂長三四寸。色粉紅如2蓼花1などみえたる此間《コナタ》の※[木+聖]もこれにおなじきにやしからぬにや。和訓栞に委しくいへれどもこの集の※[木+聖]の木にあたれるにや知がたし。「吾妹子がみしともの浦の」とよみたるは下向の時に旅人の妻の見愛たるをよめるがごとくきこゆればその木|尋常《ツネ》ならぬ好《ヨキ》木《ヽ》ならむとおしはかられたり。さてその※[木+聖]に天木香樹とかけるは何によれるにか詳ならず。常世有跡は常にかはらずあれどの意なり○見之人曾奈吉の人は旅人卿の妻大伴の郎女をさす。※[木+聖]の木は筑紫に下りし時にかはらねどもその見し郎女は失せてなきが悲しきとなり
 
鞆浦之磯之室木《トモノウラノイソノムロノキ》。將見毎相見之妹者《ミムゴトニアヒミシイモハ》。將所忘八方《ワスラエメヤモ》
 
歌意。今より後もこゝを過《ス》ぎて室木をみることあらんたびごとに昔この木を賞《メデ》見し妹がことの思ひ出られて忘られむやは忘れざらむとなり
 
磯上丹根蔓室木《イソノヘニネハフムロノキ》。見之人乎何在登問者語將告可《ミシヒトヲイカナリトトハバカタリツゲムカ》
 
見之人乎とは室木のみし人をといふことにて即ち郎女をさす。その人は死したるを死していかになりしととはゞ木の吾に語り告むかの意なるべし
 
右三首過2鞆浦1日作歌
 
與妹來之敏馬能埼乎《イモトコシミヌメノサキヲ》。還左爾獨而見者《カヘルサニヒトリシミレバ》。涕具末之毛《ナミダグマシモ》
 
還左爾は歸る時になり。この左はシダの約めにてシダは時の古言なり。ゆゑに往サトいふもユクトキ。クサといふもクル時のことなり。そのよし上にいへり。獨而《ヒトリシ》見者の而は四の誤なるべしといふ説もあれどかゝる處に助辭のごとくおける例もあれば獨而をヒトリシと訓べし○涕具末之毛《ナミダグマシモ》はいまも泪ぐむといへり。泪の萠《キザ》すことにてメグム、ツノグムなど草木にいへるもおなじ。仁徳紀に那瀰多愚摩辭茂《ナミダグマシモ》
 
去左爾波二吾見之《ユクサニハフタリワガミシ》。此埼乎獨過者《コノサキヲヒトリスグレバ》。情悲哀《コヽロカナシモ》
 
惰悲哀を一本に見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》とある可の字いぶかし。計の誤にはあらぬにやと既に上にいへり。見放ることもせずにきぬといふなり。さるはこの埼をみれば下る時妹と二人見しことの思ひ出られていと悲しければ月遣もあへずふし沈みて過來ぬといふ意なり
 
右二首過2敏馬埼1日作歌
 
還2入|故郷家《ミヤコノイヘニ》1即作歌三首
 
人毛奈吉空家者《ヒトモナキムナシキイヘハ》。草枕旅爾益而《クサマクラタビニマサリテ》。辛苦有家里《クルシカリケリ》
 
上に「都なる荒たる家に獨ねば旅にまさりて苦しかるべし」とかねて思ひしごとく誠に苦しかりけりといはれたるなり
 
與妹爲而二作之《イモトシテフタリツクリシ》。吾山齋者木高繁《アガシマハコダカクシゲク》。成家留鴨《ナリニケルカモ》
 
山齋《シマ》は庭のことにて庭には池をたゝへ島をつくれるが古も今も大かたのならはしなればかく山齋とかきてシマとよめるなり。卷二十に屬2目|山齋《シマ》1作歌|乎之能須牟伎美我許乃之麻《ヲシノスムキミガコノシマ》云々とあり。俗に作庭築山の事を古は島といへり。卷二に御立爲之島乎見時《ミタヽシヽシマヲミルトキ》また御立爲之島之|荒磯乎《アリソヲ》また島(ノ)御橋爾また島(ノ)御門爾《ミカドニ》また卷六に鶯之鳴吾島曾云々また伊勢物語に「島このみ給ふ君なり」とあるも作り庭を好みめで給ふをいへりと宜長いへり【山齋と殊更に齋の字をかけるはその作り庭に四阿の亭などありしなるべし】○歌意。妹と二人して作りし庭の島は久しく見ぬあひだに木高く繁くなりて物さび見所おはく成にけり。夫婦ながら歸りて相ともに愛むと思ひしものをその意にたがひていとゞ悲しさの堪がたく思はるゝよ。となり【土佐日記に貫之の土佐より歸りし時その家にて生れし女兒の諸ともにかへらぬをなげきしもこれにおなじ。任國より家に歸れる情併せおもふべし】
 
吾妹子之殖之梅樹《ワギモコガウエシウメノキ》。毎見情咽都追《ミルゴトニコヽロムセツツ》。涕之流《ナミダシナガル》
 
情咽都追は卷四に情|耳咽乍《ムセツヽ》また心爾咽飲《コヽロムセビ》。卷廿に奈美太乎能其比牟世比都々《ナミダヲノゴヒムセビツヽ》などにおなじ。今も泪にむせぶなどいへり
 
天平三年辛未秋七月|大納言大伴卿薨之時歌《オホキモノマウスツカサオホトモノマヘツギミウセタマヘルトキノウタ》六首
 
大伴卿の薨は續紀天平三年秋七月辛未大納言從二位大伴宿禰旅人薨とありて上にいへり
 
愛八師榮之君乃《ハシキヤシサカエシキミノ》。伊座勢波昨日毛今日毛《イマシセバキノフモケフモ》。吾乎召麻之乎《アヲメサマシヲ》
 
如是耳有家類物乎《カクノミニアリケルモノヲ》。茅子花咲而有哉跡〔頭注、校正者云。茅は諸本芽とあり〕《ハギガハナサキテアリヤト》。問之君波母《トヒシキミハモ》
 
如是耳云々はかくのごとくはかなかりけるものをの意にて妻の身まかれるを歎く詞なり。卷十六に「如是耳爾有家流物乎猪名川《カクノミニアリケルモノヲヰナカハノ》のおきを深めて吾もへりける」とあり○歌意。芽子花さきたりやいかにと問給ひし君はその花の咲ちるをもまたでうせ給へり。世の中はかくのみはかなくありける物をさもしらでたのみけるよといへるなり
 
君爾戀痛毛爲便奈美《キミニコヒイタモスベナミ》。蘆鶴之哭耳所泣《アシタヅノネノミシナカユ》。朝夕四天《アサヨヒニシテ》
 
痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》は最爲便がなきゆゑにとなり。卷十三に「この長月の過まくを伊多母爲便奈美《イタモスベナミ》」また十五に「あがもふこゝろ伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》」などありて伊多は最甚しき意の言なり○蘆鶴之《アシタヅノ》は音鳴《ネナク》といはむための枕詞なり
 
遠長將仕物常《トホナガクツタヘムモノト》。念有之君師不座者《オモヘリシキミシマサネバ》。心神毛奈思《コヽロドモナシ》
 
心神毛奈思《コヽロドモナシ》は卷十七に「君にこふるに許已呂度母奈思」また十九に「吾|情度乃奈具流日毛無《《コヽロドノナグルヒモナシ》などありて心神は利心におなじ○歌意。卷二に舍人の歌に「天地とゝもにをへんと思ひつゝ仕へまつりし心たがひぬ」とあるに似たり
 
若子乃匍匐多毛登保里《ワカキコノハヒタモトホリ》。朝夕哭耳曾吾泣《アサヨヒニネノミゾアガナク》。君無二四天《キミナシニシテ》
 
若子乃の下に如クといふ字を添てこゝろ得べし。齊明紀に倭柯枳古《ワカキコ》とあり。匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》は續紀の詔詞に匍匐|廻保里《モトホリ》とありてタは發語なることモトホリは字鏡に※[しんにょう+壇の旁]また※[走にょう+壇の旁]を轉也信也移也|毛止保留《モトホル》とあるにてしるし。卷十七に之夫多爾能佐吉多母覩保里《シフタニノサキタモトホリ》また十八に乎敷之佐吉許藝多母等保里《ヲフノサキコギタモトホリ》などみえて廻ルといふに同じければこゝは稚兒《ワキコ》の如くはひ廻《マハ》りて泣くよしなり
 
右五首|資人金明軍《ツカヒビトコムノミヤウグム》不v勝《タヘズ》2犬馬之慕心1申《ノベテ》2感緒《カナシミヲ》1作歌《ヨメルウタ》
 
資人のこと軍防令にみえたり。親王に賜ふを帳内といひ大臣納言その外一位より從五位まで賜ふを資人といふ。この明軍はすなはち大伴卿の資人なり。申感緒の申〔傍点〕の字は版本中〔傍点〕に作れり。荒木田久老が申〔傍点〕の誤ならむといふに從ふ。卷五に遂申2懷抱1とあるをも併せ考ふべし
 
見禮杼不飽伊座之君我《ミレドアカズイマシヽキミガ》。黄葉乃移伊去者《モミヂバノウツリイヌレバ》。悲喪有香《カナシクモアルカ》
 
見禮杼不飽は卷四に照月乃不飽君乎《テルツキノアカザルキミヲ》ともある如くみれどもあきたらずめでたきよしなり○移伊去者は薨をいふ。古義には伊を移の下につけて不絶伊妹などのごとき助辭なりといへり。されど略解にウツリイヌレバとよめるが安らかなり
 
右一首勅2内禮正縣犬養宿禰人上《ウチノイヤノカミアガタノイヌカヒノスクネヒトカミニ》1使《シメタマヘリ》v檢橡2護|卿病《マヘツキミノヤマヒヲ》1。而|醫藥無v驗逝水不v留《クスリシルシナクミマカレリ》。因斯《カレ》悲慟《カナシミテ》即作2此歌1
 
縣犬養宿禰人上傳不詳
 
七年乙亥大伴坂上郎女悲2嘆尼理願|死去《ミマカレルヲ》1作歌一首并短歌
 
栲角乃新羅國從《タクツヌノシラキノクニユ》。人事乎吉跡所聞而《ヒトコトヲヨシトキカシテ》。問放流親族兄弟《トヒサクルウカラハラカラ》。無國爾渡來座而《ナキクニニワタリキマシテ》。天皇之敷座國爾《スメラギノシキマスクニニ》。内日指京思美彌爾《ウチヒサスミヤコシミミニ》。里家者左波爾雖在《サトイヘハサハニアレトモ》。何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》。都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマベニ》。哭兒成慕來座而《ナクコナスシタヒキマシテ》。布細乃宅乎毛造《シキタヘノイヘヲモツクリ》。荒玉乃年緒長久《アラタマノトシノヲナガク》。住乍座之物乎《スマヒツヽイマシヽモノヲ》。生者死云事爾《イケルヒトシヌチフコトニ》。不免物爾之有者《ノガロエヌモノニシアレバ》。憑有之人乃盡《タノメリシヒトノコト/”\》。草枕《クサマクラ》。客有間爾《タビナルホドニ》。佐保川乎朝川渡《サホカハヲアサカハワタリ》。春日野乎背向爾見乍《カスガヌヲソガヒニミツヽ》。足氷木乃山邊乎指而《アシヒキノヤマベヲサシテ》。暗闇跡隱益去禮《クラヤミトカクリマシヌレ》。將言爲便將爲須敞不知爾《イハンスベセンスベシラニ》。徘徊直獨而《タモトホリタヽヒトリシテ》。白細之衣袖不干《シロタヘノコロモデホサズ》。嘆乍吾泣涙《ナゲキツヽワガナクナミダ》。有間山雲居輕引《アリマヤマクモヰタナヒキ》。雨爾零寸八《アメニフリキヤ》
 
栲角乃は枕詞にて白きにいひかけたるなり。【角の字かけるは假字なり】記に多久豆怒能斯路岐多陀牟岐《タクツヌノシロキタヽムキ》。卷二十に多久頭恕能之良比氣乃宇倍由《タクツヌノシラヒケノウヘユ》とみゆ。冠辭考に栲は木綿《ユフ》なり。ツヌは網〔頭注、校正者云。網は綱か〕なるを白き者なればシラキともつゞけたり。新羅は記傳十にみゆ〇人事乎吉跡所聞而は人事は他言なり。よき國なりと人のいふをきゝての意なり。【こゝにヨキ國とあるは皇國神代より五種《イツヽ》のたなつものをはじめ萬のこと皆たらひて何ひとつあかぬことなき四海の宗國なるよしをきゝての意にあらず。尼なるゆゑに皇朝は三寶を崇信してよき風俗ぞと他人のかたるをきゝてまゐこし意なり】○問放流の問は言問のトヒなり、放流はミサクルとサクル〔頭注、校正者云。古義を按するにミサクルとサクルにてはミサクルの誤なり〕にて物言遣といふに同じと古義にいへり。卷五に。石木乎母刀比佐氣斯良受《イハキヲモトヒサケシラズ》。又十九に語左氣見左久流人眼《カタリサケミサクルヒトメ》。續紀左大臣藤原永手|薨《みまか》る時の詔に誰爾加母我語比左氣牟《タレニカモアガカタラヒサケム》。孰爾加母我問比佐氣牟止《タレニカモアガトヒサケムト》とあり。親族兄弟は親族は生族《ウカラ》。兄弟は同腹《ハラカラ》の義なり。此カラは輩《トモガラ》のカラにおなじ○天皇之敷座國爾は天皇知しめす國にといふ意にて尼が渡り來ることをいへるなり○内日指は宮の枕詞なり。和訓栞に宮とつゞくるは宮殿の構への峻きをいふなり。西都賦に上反v宇以蓋戴。徼2日景1以納v光とみえたり。顯見日《ウツシヒ》ノサスとつゞけるにやとあり。【冠辭考の説よりは安らかなり】京思美彌爾《ミヤコシミミニ》はみやこの内に繁くみちてあるよしなり。卷十に「あき萩は枝毛|思美三荷《シミミニ》」また十三に藤原都志彌美爾人下滿雖有《フヂハラノミヤコシミミニヒトハシモミチテアレドモ》などあり○里家者左波爾雖在《サトイヘハサハニアレドモ》の里家は里と家となり。左波爾雖在のサハは多き事なり○何方爾年鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》は京のうちによき里もよき家もおはかるを何方爾念ひてかの意にて大伴氏の佐保の家を便りにおもひきたるをいぶかしめるなり○都禮毛奈吉《ツレモナキ》の都禮《ツレ》は連《ツレ》にて相連伴なふ人もなきにといふなり。今の世ものへゆくに蓮ニスル、連立《ツレダツ》などいふ皆これなり。佐保乃山邊爾は佐保の山邊に大伴氏の家あり。安麻呂よりこゝにすめり。故《カレ》安麻呂を佐保大納言といへり○哭兒成《ナクコナス》は哭兒の母を慕ふが如くの枕詞なり○布細乃《シキタヘノ》は宅《イヘ》の枕詞なり〇年緒長久《トシノヲナガク》は緒は絡《ツヾ》くものなればこゝに久しくつゞきて住めるをいふ○生者はウマルレバと訓むべし○不免は久老が卷五の古本に遁路得奴《ノガロエヌ》とあるによりて訓めるにしたがふ○人乃盡は石川命婦をはじめ奴婢に至るまで尼がたのめりし人のこと/”\くといふなり○客有間爾《タビナルホドニ》は有馬温泉にゆきたりし間《ホド》にとなり○佐保河乎云々は尼がしせるを葬送《ハフリ》する道次なり○晩闇跡は宜長のクラヤミと訓るによるべし。拾遺集物の名にイサクラヤミとあり。隱益去禮はカクリマシヌレハとハをそへてみるべし○將爲須敝不知爾《セムスヘシラニ》のシラニはすべきやうもしらぬにといふ意なり○徘徊はタモトホリと訓べし。言義上にいへり。こゝは立つゝ居つゝして獨事執りおこなふよしなり【上なるか言の本義。こゝは一轉して用ゐたるなり】○白細之は衣袖の枕詞なり○有間山は攝津國有馬郡の山なり。袖ほしあへずわがなく涙のそなたの有馬山に雲とたなびきて雨にふり侍るにやとなり。涙を雨にいひなすは記に那賀那加佐麻久阿佐阿米能佐疑理邇多々牟叙《ナカナカサマクアサアメノサキリニタヽムソ》とありてふるくよりのならはしなり○歌意は。坂上郎女尼理願が死をなげきて有馬温泉にある石川命婦の許にいひおくれるなり
 
反歌
 
留不得壽爾之在者《トヾメエヌイノチニシアレバ》。敷細乃家從者出而《シキタヘノイヘユハイデテ》。雲隱去寸《クモカクリニキ》
 
留不得《トヾメエヌ》は卷十九に逝水之留不得常《ユクミヅノトヽメエヌト》とあるが如く死るいのちの留めんとしても留められぬことにいへるなり○雲隱去寸《クモカクリニキ》は死るをいふ。此こと既に上にいづ。去寸のニをイニの略とするはわろし。ニキは一種のてにをはの辭にて散ニキ、過ニキなど多し
 
右新羅國尼曰2理願1也。遠感2王徳1歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大將軍大件卿家1。既經2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1忽沈2運病1既趣2泉界1。於v是大家石川命婦依2餌藥事1往2有馬温泉1而不v會2此喪1。但女獨留葬2送屍柩1。既訖仍作2此歌1贈2入温泉1
 
大納言大將軍は旅人卿なり。養老四年三月に征隼人持節夫將軍となり天平二年十月に大納言に任ぜられたり。家とは佐保の家のことなり○數紀は數年といはむが如し○大家とは女の尊稱なり○石川命婦は内命婦石川邑婆にて安麻呂の妻。郎女の母なり。卷四に大伴坂上郎女母石川内命婦とあるこれなり
 
十一年己卯夏六月大伴宿禰家持|悲2傷《カナシミ》亡妾《ミマカレルメヲ》1作歌一首
 
亡妾未詳。家持の嫡妻坂上家の大孃にはあらず。按に卷六天平十二年の條に内舍人大伴宿禰家持とありて内舍人は廿一以上を補よし軍防令に見えたれば此時二十ばかりのよはひにて召つかへる妾の身まかれるなるべしと古義にいへり
 
從今者秋風寒《イマヨリハアキカゼサムク》。將吹烏如何獨《フキナムヲイカデカヒトリ》。長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》
 
弟大伴宿禰|書持《フミモチ》《スナハチ》和歌一首
 
卷十七に天平十三年四月二日大伴宿禰書持從2奈良宅1贈2家持1歌とみえて家持の弟たること明かなれど委しく傳しれず。同卷に天平十八年秋九月廿五日越中守大伴宿禰家持遙聞2弟喪1感傷作之とて歌あり。かゝれば十八年の秋身まかりし人なり
 
長夜乎獨哉將宿跡《ナガキヨヲヒトリヤネムト》。君之云者過去人之《キミガイヘバスギニシヒトノ》。所念久爾《オモホユラクニ》
 
過去人は家持の亡妾をいふ。過の字の上にワレモといふことを添て心うべし
 
又家持見2砌《ミギリノ》上瞿麥花1作歌一首
 
秋去者見乍思跡《アキサレバミツヽシヌベト》。妹之殖之屋前之石竹《イモガウヱシヤドノナデシコ》。開家流香聞《サキニケルカモ》
 
此|思《シヌヘ》はめでうつくしむ意なり。次の歌に「思努妣《シヌヒ》つるかも」とあるシヌヒは戀慕ふ意にて用ゐさまいさゝかかはれり○歌意。秋になりて花開たらば賞愛み給へとて妹が植おきし屋前の石竹は花さきたるを開しかひもなく植し人ははや過去にたればもろともに見むと思ひしこゝろもたがひてかなしきことかなとなり
 
移朔而後《ツキカハリテノチ》悲2嘆《カナシミテ》秋風《アキカゼヲ》1家持作歌一首
 
虚蝉之代者無常跡《ウツセミノヨハツネナシト》。知物乎秋風寒《シルモノヲアキカゼサムミ》。思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》
 
歌意。生るれば死ぬるは世の理にて亡人のこともあきらめをれど秋風の膚寒きに獨ぬればことわりはことわりにて時節に感じ亡人のこひしくなり思《シノ》ばるゝかなとなり
 
又家持作歌一首并短歌
 
吾屋前爾花曾咲有《ワガヤドニハナゾサキタル》。其乎見杼情毛不行《ソヲミレドコヽロモユカズ》。愛八師妹之有世婆《ハシキヤシイモガアリセバ》。水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》。手折而毛令見麻思物乎《タヲリテモミセマシモノヲ》。打蝉乃借有身在者《ウツセミノカレルミナレバ》。露霜乃消去之如久《ツユシモノケヌルガゴトク》。足日木乃山道乎指而《アシヒキノヤマヂヲサシテ》。入日成隱去可婆《イリヒナスカクリニシカバ》。曾許念爾※[匈/月]己所痛《ソコモフニムネコソイタメ》。言毛不得名付毛不知《イヒモカネナツケモシラニ》。跡無世間爾有者《アトモナキヨノナカナレバ》。將爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》
 
花曾咲有《ハナゾサキタル》は妹がうゑし石竹の花なり○情毛不行《コヽロモユカズ》は情念《モノオモフコヽロ》の過去て物思ひのなくなれるを心ノユクといふ。物思ひの猶胸間にあるを心モユカズといふ。こゝは花を見て情を遣れども行かざるなり○水鴨成《ミカモナス》は枕詞にて水は借字にて眞鴨《マカモ》なり。卷四に水空往《ミソラユク》とある水も御の借字なり○手折而毛《タヲリテモ》は並びゐる妹に手折てもみせましものをの意なり○借有身在者《カレルミナレバ》は釋にカレルミナレバと訓べし。卷二十に美都煩奈須可禮流身曾等波《ミツホナスカレルミソトハ》といへり○足日木乃以下四句妹の身まかりしことをいへるなり○曾許念爾はその身まかれる妹をおもふになり○言毛不得名付毛不知《イヒモカネナツケモシラニ》は妹をおもふことのいはんとすれどもいひがたくかたらむどすれどもかたりがたきよしをかくいへるなり○跡無《アトモナキ》は跡かたもなき意にて生るゝかとおもへば死て跡かたもなくなれるが世の中のさまなればせんすべもなしとなり
 
反歌
 
時者霜何時毛將有乎《トキハシモイツモアラムヲ》。情哀伊去吾妹可《コヽロナクイニシワキモカ》。若子乎置而《ワカキコヲオキテ》
 
時者霜云々といへるは此妾六月に身まかれゝと移朔《ツキカハリ》て秋になりて詠る歌なるゆゑに秋は物のかなしき時なればかゝる時ならでもいつもあらんを若き子をおきて過去吾妹かもとなり
 
出行道知末世波《イテユカスミチシラマセバ》。豫妹乎將留《アラカジメイモヲトヾメム》。塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》
 
出行はイテユカスと訓べし。下に離家伊麻須吾妹乎《サカリカイマスワギモコヲ》ともありてユカス、イマスなどは敬ふ辭のごとくなれば妾に用ゐむにはいかゞとおもふ人もあるべけれどふるくはかくさまにいへるがおほし。道知末世波《ミチシラマセバ》は黄泉《ヨミヂ》の道をしらませばの意なり○豫《アラカジメ》はアラカジメと訓べし○塞《セキ》は關におなじ【塞の字ソコとよめるもセとソとキとコと通音なればおなじことなり】
 
妹之見師屋前爾花咲《イモガミシヤドニハナサキ》。時者經去吾泣涙《トキハヘヌワガナクナミダ》。未干爾《イマダヒナクニ》
 
花咲はハナサキと訓べし。略解ハナサクと訓るはわろし【ハナサクと訓は三の句にて句斷るなり。三の句にて斷る歌萬葉にはをさ/\なしさればこゝも花咲て時はへぬといふ意にて三四とつゞけるなり】○歌意。わが悲歎の涙は猶新喪の時におなじくいまだひもせぬに石竹は早く花咲て時の移りたるよといへるなり
 
悲緒未v息更作歌五首
 
如是耳有家留物乎《カクノミニアリケルモノヲ》。妹毛吾毛如千歳《イモヽワレモチトセノゴトク》。憑有來《タノミタリケル》
 
如是耳《カクノミ》云々はかくばかりはかなき妹が命にてありけるものをの意なり
 
離家伊麻須吾妹乎《イヘサカリイマスワギモヲ》。停不得山隱都禮《トヽミカネヤマカクリツレ》。情神毛奈思《コヽロトモナシ》
 
離家《イヘサカリ》云々は家をはなれ出て黄泉に行くよしなり○山隱《ヤマカクリ》は佐保山に埋し葬れるをいふ
 
世間之常如此耳跡《ヨノナカシツネカクノミト》。可都知跡痛情者《カツシレドイタキコヽロハ》。不忍都毛《シヌビカネツモ》
 
世間之《ヨノナカシ》のシは助辭なり○可都知跡《カツシレド》はシレドモカツと心うべし。世の中の常なきことをば知て居れども甚しくかなしとおもふ心は猶堪かねたりとなり
 
佐保山爾多奈引霞《サホヤマニタナヒクカスミ》。毎見妹乎思出《ミルゴトニイモヲオモヒデヽ》。不泣日者無《ナカヌヒハナシ》
 
霞は秋にもよめること集中に多し。此霞は大葬の煙をいへるなり
 
昔許曾外爾毒見之加《ムカシコソヨソニモミシカ》。吾妹子之奥※[手偏+郭]常念者《ワキモコガオクツキトモヘバ》。波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》
 
奥槨云々はおくつきの在處とおもへばの意なり。ハシキは愛なり
 
十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首
 
安積皇子は續紀天平十六年閏正月乙丑朔乙亥天皇行2幸(ス)于難波宮(ニ)1。是日安積親王縁(テ)2脚病(ニ)1從2櫻井頓宮1還。丁丑薨。時年十七。親王天皇【聖武】之皇子也。母夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自。從五位下唐之女也
 
掛卷毛綾爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》。言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユヽシキカモ》。吾王御子乃命《ワガオホキミミコノミコト》。萬代爾食賜麻思《ヨロヅヨニヲシタマハマシ》。大日本久邇乃京者《オホヤマトクニノミヤコハ》。打靡春去奴禮婆《ウチナヒクハルサリヌレバ》。山邊爾波花咲乎爲里《ヤマベニハハナサキヲヽリ》。河湍爾波年魚小狹走《カハセニハアユコサバシリ》。彌日異榮時爾《イヤヒケニサカユルトキニ》。逆言之枉言登加聞《オヨツレノマカコトヽカモ》。白細爾舍人装束而《シロタヘニトネリヨソヒテ》。和豆香山御輿立之而《ワツカヤマミコシタヽシテ》。久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》。展轉泥土打雖泣《コヒマロビヒツチナケドモ》。將爲須便毛奈思《セムスベモナシ》
 
吾王御子乃命《ワガオホキミミコノミコト》は安積親王をいふ。續紀神龜四年閏九月丁卯皇子誕生。十一月己亥【中略】新誕皇子宜3立爲2太子1。五年九月丙午太子薨とみえて聖武天皇には此皇太子と安積親王の外男皇子ましまさず。【紹運録に安積親王の外に淺香皇子といふがあり。しかれども紹運録の標註に淺香、安積其訓同じ。爲2二人1者誤といへるが如くなるべし】かゝれば皇太子の薨後は男皇子は此安積親王のみなれば立太子のさたはなくても世人皆繼體の君の如くおもひたりし故に萬代爾食賜麻思《ヨロヅヨニヲシタマハマシ》云々とはいへるなるべし。芳樹おもふに大日本《オホヤマト》は久邇の都を稱へていへることばなり。【こゝの大日本を皇國の總名と思へるは非なり。さるは大和國を大日本といへるところもあれど久邇は山城の内なればしかにもあらず。されば都のある處を稱へて大日本《オホヤマト》といへるなり其よし上に委しくいへり】續紀天平十三年十一月右大臣橘宿禰諸兄奏。此間朝廷以2何名號1傳2於萬代1。天皇勅曰。号爲2大養徳恭仁《オホヤマトクニ》大宮1とある即大養徳は國名にはあらで都の美稱なる證なり○花咲乎爲里の爲〔傍点〕は鳥〔傍点〕の誤なり。ヲヽリは花のしげく咲たる容をいふ【卷二に委し】○年魚小狹走の小は子なり。サは添たる言にて眞〔傍点〕といはむが如し○彌日異《イヤヒケニ》のケは來經《キヘ》なり○逆言之枉言登加聞《オヨツレノマカコトヽカモ》この加聞の下に枉言とかもおもひしに舍人などの白細の衣きて葬送の供奉するをみれば枉言にはあらざりけりといふ意をそへてみるべし○白細《シロタヘ》は素服のことなり。古義などにこれを喪服といへれど喪服は鈍《ニビ》色なり。素服は白色なり。このけぢめのこと上に委しく辨ぜり。舍人装束而《トネリヨソヒテ》は親王につかへし舍人等の葬送の御供に素服きたるをいふ○和豆香山は相樂郡なるべし。御輿は轜車《キクルマ》のことなり。天所知奴禮《アメシラシヌレ》は薨しませるをいふ。奴禮はヌレバの意なり○展轉のコヒはコヤリの約なり。卷十九に反側をも訓り○泥土打雖泣《ヒツチナケドモ》は涙に濡沾《ヌレヒチ》て泣ともといふなり
 
反歌
 
吾王天所知牟登《ワガオホキミアメシラサムト》。不思者於保爾曾見谿流《オモハネバオホニソミケル》。和豆香蘇麻山《ワツカソマヤマ》
 
天所知《アメシラサム》は薨し給はんといふ意なり○不思者《オモハネバ》は兼て思ひもよらざればの意なり。於保爾曾見谿流《オホニソミケル》は薨給ひて此山に葬《ハフ》り奉らんとおもはねばこれまでおほよそに見て過たり。かく御墓所となるべくおもはゞかねてその山をも委しく見おかましをの意なり
 
足檜木乃山左倍光《アシヒキノヤマサヘヒカリ》。咲花乃散去如寸《サクハナノチリヌルゴトキ》。吾王香聞《ワガオホキミカモ》
 
光の下にヲの字をそへてみるべし○歌意。御齡もわかく御容もうるはしくおはしまして山さへ光るばかりにさく花のごとく榮えましを思ひもかけずその花のちるが如くはかなく薨ましゝわが大君にもあるかなとなり
 
右三首三月三日作歌
 
掛卷毛文爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》。吾王皇子之命《ワガオホキミミコノミコト》。物乃負能八十伴男乎《モノヽフノヤソトモノヲヽ》。召集聚率比賜比《メシツドヘアトモヒタマヒ》。朝獵爾鹿猪踐起《アサカリニシヽフミオコシ》。暮獵爾鶉雉履立《ユフカリニトリフミタテ》。大御馬之口抑駐《オホミマノクチオサヘトメ》。御心乎見爲明米之《ミコヽロヲメシアキラメシ》。活道山木立之繁爾《イクチヤマコタチノシヽニ》。咲花毛移爾家里《サクハナモウツロヒニケリ》。世間有如此耳奈良之《ヨノナカハカクノミナラシ》。丈夫之心振起《マスラヲノコヽロフリオコシ》。劔刀腰爾取佩《ツルギタチコシニトリハキ》。梓弓靱取負而《アヅサユミユキトリオヒテ》。天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナガニ》。萬代爾如此毛欲得跡《ヨロヅヨニカクシモガモト》。憑有之皇子乃御門乃《タノメリシミコノミカドノ》。五月蠅成驟騷舍人者《サバヘナスサワグトネリハ》。白栲爾服取着而《シロタヘニコロモトリキテ》。常有之咲比振麻比《ツネナリシヱマヒフルマヒ》。彌日異更經見者《イヤヒケニカハラフミレバ》。悲呂可毛《カナシキロカモ》
 
皇子命は安積皇子なり○召集聚《メシツドヘ》はメシツドハセの義にて皇子のみともに集《ツトハ》しめ給ふことなり【ハセの約ヘなり】○率比賜比《アトモヒタマヒ》は卷二に御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアトモヒタマヒ》とみえて人あまた引從へ給へることなり〇鹿猪踐起鶉雉履立とあるシヽを鹿猪トリを鶉雉とかけるは獵に旨とあるものをもていへるなり。又|起《オコシ》といひ立《タテ》といへるは伏たる鳥獣を驚かして起し立しむるよしなり○口抑駐はクチオサヘトメと訓べし。卷六に馬之歩押上駐余《ウマノアユミオサヘトヾメヨ》とあり○見爲明米之《メシアキラメシ》の見爲はメシと訓べし。卷二十に賣之賜麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》。又|賣之安伎良米晩《メシアキラメヽ》などその證なり。委しく卷一にいへり○活道山は相樂郡なり。卷六に登2活道岡1とあり。こゝなり。木立之繁爾《コダチノシヽニ》は木立しげくしてその木立に花のさくよしなり。されども「木立の繁に咲花も」と七五につゝけて看《ミル》べからず。活道山の木立のしげみに咲たる花もうつろひにけりといへるにて此四句もとより五七五七なり○世間者如此耳奈良之《ヨノナカハカクノミナラシ》とは上に咲花のうつろふをいひて世の中はかくのごとく盛ては衰へ生れては死ぬるならはしを親王の薨したることにたとへたるなり。さてこゝまでを一段として。これより親王に仕へし舍人等のことにいひおよぼせるなり○丈夫之心振起《マスラヲノコヽフリオコシ》は舍人等の自らの心を振起して劔刀取佩、弓矢取負て天地と共に長く萬代までも仕へ奉らんとたのみしことをいへるなり○皇子乃御門乃《ミコノミカトノ》云々はその舍人等みな皇子の御門《ミカド》を衛る者なるがかく薨し給へるを歎きさわぐことなり。さて白栲爾《シロタヘニ》服取着而と繼げる白栲《シロタヘ》は素服をいふ【上にもいへるごとく喪服とはことなり】○常有之咲比振麻比《ツネナリシヱマヒフルマヒ》は親王の御存生の間常に咲《ヱミ》榮えて振まひしが薨し給ひしより日を迫て悲哀の情深く舍人等の容貌もかはるをみれば悲しき事かもの意なり
 
反歌
 
波之吉可聞皇子之命乃《ハシキカモミコノミコトノ》。安里我欲比見之活道乃《アリカヨヒメシヽイクチノ》。路波荒爾鷄里《ミチハアレニケリ》
 
波之吉可聞《ハシキカモ》は愛哉《ハシキカナ》にて皇子に掛れることばなり。上の伊豫の温泉にて詠る歌に極此疑伊豫能高嶺《コヽシカモイヨノタカネ》とある疑《カモ》におなじ○見之活道乃《メシヽイクチノ》はメシヽイクチノと訓べし。卷二十に於保吉美能賣思之野邊爾波《オホキミノメシヽヌベニハ》とみえたり
 
大伴之名負靱帶而《オホトモナノニオフユキオヒテ》。萬代爾憑之心《ヨロヅヨニタノミシコヽロ》、何所可將寄《イヅクカヨセム》
 
大伴之名負靱帶而《オホトモナノニオフユキオヒテ》とは靱負《ユケヒ》と名に負るその靱を帶てといふなるべし。さるは卷七に靱懸流伴雄廣伎大伴爾《ユキカクルトモノヲヒロキオホトモニ》とありて靱負ことをもはら大伴氏にいへり。さればこゝも靭《ユキ》帶《オヒ》て親王に仕へ奉らんと今まで樂みし心たがひてかく薨し給ひたればこれよりは何處にかよせんとよめるなり【大伴の事委く記傳にみゆ】
 
右三首三月二十四日作歌
 
悲2傷《カナシミ》死妻《ウセルメヲ》1高橋朝臣作歌一首并短歌
 
白細之袖指可倍※[氏/一]《シロタヘノソテサシカヘテ》。靡寢吾黒髪乃《ナビキネシワガクロカミノ》。眞白髪爾成極《マシラカニナリヌルキハミ》。新世爾共將有跡《アラタヨニトモニアラムト》。玉緒乃不絶射妹跡《タマノヲノタエシイイモト》。結而石事者不果《ムスビテシコトハハタサズ》。思有之心者不遂《オモヘリシコヽロハトゲズ》。白妙之手本矣別《シロタヘノタモトヲワカレ》。丹杵火爾之家從裳出而《ニキヒニシイヘユモイデヽ》。緑兒乃哭乎毛置而《ミドリコノナクヲモオキテ》。朝霧髣髴爲乍《アサキリニオホニナリツヽ》。山代乃相樂山乃《ヤマシロノサカラガヤマノ》。山際往過奴禮婆《ヤマノマユユキスキヌレバ》。將云爲便將爲便不知《イハムスベセムスベシラニ》。吾妹子跡左宿之妻屋爾《ワキモコトサネシツマヤニ》。朝庭出立偲《アシタニハイデタチシヌビ》。夕爾波入居嘆合《ユフベニハイリヰナゲカヒ》。腋挾兒乃泣毎《ワキバサムコノナクゴトニ》。雄自毛能負見抱見《ヲノコシモノオヒミイタキミ》。朝鳥之啼耳哭管《アサトリノネノミナキツヽ》。雖戀効矣無跡《コフレドモシルシヲナミト》。辭不問物爾波在跡《コトトハヌモノニハアレド》。吾妹子之入爾之山乎《ワギモコガイリニシヤマヲ》。因鹿跡叙念《ヨスカトゾオモフ》
 
白細《シロタヘ》は枕詞。袖指可倍※[氏/一]《ソテサシカヘテ》は袖さし交《カハ》してなり○靡寢《ナヒキネシ》は袖サシカヘテのサシカヘと同しく男女の黒髪を諸ともになびかひねしことゝすべし。たゞ黒髪とのみしては靡の辭いかにぞやきこゆ○玉緒乃不絶射妹跡《タマノヲノタエシイイモト》の射〔傍点〕は助辭なり。上にみゆ。こゝの意は友白髪にて新世にあらん命のたゆることはあらじと契約《チギリ》を結びてしといふなり○事者不果《コトハハタサズ》はその結びしことは果さずの意なり。思有之心者不遂《オモヘリシコヽロハトゲズ》は眞白髪まで新《アラタ》世にあらんとおもへりし心は遂ずの意なり○丹杵火爾之《ニキヒニシ》は卷一にみえたり。彼所にいへり○朝露は髣髴《オホ》の枕詞なり。髣髴爲乍《オホニナリツヽ》はほのかになりつゝといふに同し。物の分明ならざる貌にて相樂《サカラガ》山にはふり行か漸く遠くほのかになり行さまなり○祖樂山《サカラガヤマ》は山城國相樂郡相樂○山際《ヤマノマユ》の下從の字を脱せるか○將爲便不知《セムスベシラニ》はセンスベシラニと訓て便の一字をスヘと訓る例上にみゆ。妻屋《ツマヤ》は妻とゝもに住屋なり○朝庭《アシタニハ》は古義にはアサニハニと訓たれど略解の訓に從ふ。さるは卷一に。朝庭取撫賜《アシタニハトリナデタマヒ》。夕庭伊縁立之《ユフベニハイヨセタテヽシ》とある麻庭夕庭のごとく訓べし。朝|庭《ニハ》妻屋より出てこゝかしこ立もとほりなぐさみ夕には妻屋に入居嘆かひの意にて嘆合《ナケカヒ》はナゲキを延たる辭なり○腋挾《ワキバサム》は兒を抱くことなり。兒を抱くは女の業なるゆゑ次の。雄自毛能負見抱見《ヲトコジモノオヒミイタキミ》といへるなり。雄自毛能《ヲトコシモノ》とは其首義|審《ツマビラ》かならねど男にてすまじきといふやうの意なり。負見抱見《オヒミイダキミ》は負もし抱きもしの意なり○朝鳥之《アサトリノ》は枕辭なり○効矣無跡《シルシヲナミト》の跡は助辭なり。シルシヲナナニの意なり○辭不問物爾波在跡《コトトハヌモノニハアレト》は山は非情のものにて辭問はせねども吾妹子が亡骸《ナキカラ》を收めし所なればこゝをよすがとおもふよしなり。因鹿《ヨスガ》は所縁《ヨリドコロ》と心を寄せ定る意なり○歌意あきらかなり
 
反歌
 
打背見乃世之車爾在者《ウツセミノヨノコトナレバ》。外爾見之山矣耶今者《ヨソニミシヤマヲヤイマハ》。因香跡思波牟《ヨスガトオモハム》
 
歌意。現《ウツヽ》に生て居る人も常なき世のことわりをまぬかれねば死して相樂山に葬れり。今はその山をなき人を思ふ心のよする處とさだめてあらんとなり
 
朝鳥之啼耳鳴六《アサトリノネノミシナカム》。吾妹子爾今亦更《ワキモコニイママタサラニ》。逢因矣無《アフヨシヲナミ》
 
啼耳鳴六《ネノミシナカム》を略解にナキノミナカムと訓しはわろし
 
右三首七月二十日高橋朝臣作歌也。名字未v審。但云。奉膳之男子焉
 
此奥書に奉膳とあるは内膳司の奉膳にて續紀神護景雲二年二月癸巳准v令以2高橋|安曇《アヅミ》二氏1任2内膳司1者爲2奉膳1とみえて高橋氏の奉膳に任ぜらるゝ事の定まれるは此歌よりはやゝ後なり。此歌は上に天平十六年としてこゝに七月二十日とあれば十六年の七月二十日なること疑ひなし。されば作者《ヨミヌシ》奉膳たりし人にや定かならず。かく奉膳之男子焉とあるも更にきこえぬ書さまなり。略解にいへるが如く名字より下は後人の加筆なるべければ今いたつかはしく之を論せず。
 
 
 
明治四十三年十二月二十八日印刷         〔1910年12月28日〕
明治四十三年十二月三十一日發行
         編者   中川 恭次郎
   東京市本郷區龍岡町三十四番地
         發行者  田中 増藏
   東京市本郷區駒込千駄木町百七十二番地
         印刷者  今井 甚太郎
   東京市本郷區駒込千駄木林町百七十二番地
         印刷所  聚精堂印刷所
發行所【東京本郷區龍岡町三十四番地振替貯金口座東京一八九〇五番】
          歌書刊行會
發兌元【東京本郷區龍岡町三十四番地振替貯金口座東京三〇五八番】
          聚精堂
 
           2008年8月18日(月)、午後五時、入力終了
〔繩乃浦の解説の「ば津國〜」、大汝…、今日…、繩浦…、武庫浦…、阿倍乃島…、塩干去者…の解説の「〜ツメ」までは、石井庄司旧蔵(桐陰文庫)本によって補いました。入力者記す。2008.6.26に飛ばしたあと、2008.8.31に補足した。]