林宗甫、和州舊跡幽考(国書データベース)、引用和歌の部分は間違いと思われるものが時々ある、〈~か〉としたのもあるが、煩雑な場合はそのままにした。〕
(262コマ)和州舊跡幽考目録
第十一卷芳野郡
吉野《よしの》山
金御嶽《かねのみだけ》
青垣《あをかき》山
耳我嶺《みゝかのみね》
芳野《よしの》川
大臺原《おほだいがはら》
宮《みや》川
投地蔵堂《なげじざうだう》
南帝王《なんていわうの》社
蜻蛉小野《かげろふのをの》
蜻小野《かたちのをの》
秋津野《あきつの》
吉野皇居《よしのくはうきよ》
瀧御門《たきのみかど》
玉水瀧宮古《たまみづたきのみやこ》
瀧浦《たきのうら》
(263コマ)多藝津河内《たきつかうち》
遊副《ゆふ》川
三舩《みふね》山
西川瀧《にじかうのたき》
夏箕《なつみ》川
吉魚張《ふなはり》
浪柴野《なみしばの》
司馬野《しばの》
宮瀧《みやだき》 付 岩飛《いはとびの》事
清川原《きよかはら》
日晩野《ひぐらしの》
妹背《いもさえ》山
象小川《きさのをがは》
桜木宮《さくらぎのみや》
象《きさ》山
猪養《ゐがひ》山
本善寺《ほんせんじ》
六田淀《むつだのよど》
雙墓《ふたつつか》
今|來《き》寺 付 一|木桜《きのさくら》
四手掛《しでかけの》社
水|分《わけ》山
比蘓《ひそ》寺 付 再興《さいこうの》事
松山御|茶屋《ちやや》
千本桜 付 桜|苗賣《なへうりの》事○山(の)花|園《その》○谷《たにの》桜田○隱松《かくれまつ》○山(の)井(の)事
藤尾坂《ふぢおざか》
金(の)鳥居《とりゐ》
藏王堂《ざうわうだう》
四本《よもとの》桜
威徳天神《いとくてんじんの》社 付 狛犬《こまいぬ》啖合《かみあふ》事○塔成就《たうじやうじゆの》事
金御嶽《かねのみだけ》
實城寺《じつじやうじ》 付 茶入《ちやいれの》事
朝原《あさはら》
吉水《よしみづ》院
左抛《さなぎ》明神(の)社
勝手《かつて》明神(の)社
(264コマ)袖振《そでふり》山
如意輪寺《によいりんじ》
後醍醐《ごたいごの》天皇(の)陵《みさゞき》
椿山寺《ちんせんじ》
布引桜《ぬのびきざくら》
夢違《ゆめちがひの》觀音
瀧桜《たきざくら》
雲井桜《くもゐざくら》
中院谷
世尊寺《せそんじ》 付 樟木像《くすのきのざう》○鐘銘《かねのめい》○霊鷲山《れうじゆせん》○人丸(の)墳《つかの》事
子守《こもり》明神(の)社
御子守《みこもりの》神
高筭《かうざん》上人|遺像堂《ゆいざうだう》 付 花供懺法《はなくせんぼうの》事
高|城《き》山
躑躅岡《つつじのをか》
遙《はるかの》谷
岩倉《いはくらの》谷
金情《きんしやう》大明神
安禅寺《あんぜんじ》
青根我峯《あをねがみね》
苔清水《こけしみづ》 付 西行桜(の)事
薊嶽《あざみのだけ》 付 良筭《れうざん》上人(の)事
海峯寺《かいほうじ》 付 廣恩法師《くはうをんほうしの》事
堂源寺《だうげんじ》
蟻門渡《ありのとわたり》
天《あまの》川
率都婆《そとは》
山上《さんじやう》 付 鐘銘《かねのめいの》事
小篠《をさゝ》
篠宿《さゝのしゆく》
小池(の)宿《しゆく》
へいぢの宿《しゆく》
古屋宿《ふるやのしゆく》
姨捨峯《おばすてのみね》
(265コマ)千種嶽《ちくさのだけ》
東屋峯《あづまやのみね》
屏風立《びやうぶたて》
行者歸《ぎやうじやかへり》
児留《ちうごどまり》
三|重瀧《じうのたき》
轉法輪嵩《てんぼうりんのだけ》
釈迦嶽《しやかのだけ》
神仙《じんせん》
笙窟《しやうのいはや》 付 日藏《にちざう》上人
大峯《おほみね》
天野《てんの》川|白飯寺《はくはんじ》 付 業平朝臣入定《なりひらのあそんにうでうの》事
丹生《にう》山
丹生《にふの》社
天野丹生《あまのにうの》神
國樔《くず》 付 國樔翁《くずのおきなの》事
賀名生《かなふ》
銀嵩《かねがだけ》
十津《とつ》川 付 温泉《いでゆの》事
湯原《ゆはら》
泉杣《いつみのそま》
龍門寺《りうもんじ》
弓弦葉三井《ゆづるはのみゐ》
安騎野《あきのの》
東野《あづまの》
御垣原《みかきのはら》
大峯開基《おほみねかいき》 付 役小角《えんのせうかくの》事
延喜式神名帳《えんぎしきじんみやうちやう》
(265コマ)和州舊跡幽考第十一卷
吉野《よしの》郡
西南は紀伊《きいの》國をさかひとし東《ひかし》は伊勢《いせの》國につゝく凡大和一ケ國は三つが二つ此郡なり
吉野《よしの》山
芳野《よしの》山は七|高《かう》山の其一つなり【拾芥抄】あるひは金御嶽《かねがみだけ》又は金峯山《きんぶせん》又は国軸《こくぢく》山ともいへり抑《そも/\》吉野《よしの》山は日藏《にちざう》上人の傳《でん》には天竺《てんぢく》佛生國《ぶつしやうこく》のたつみ闕《かけ》ながら飛《とび》來りて此山となる《袖中抄》又もろこしの五|臺《だい》山の岸《きし》の端《はし》かけて雲にのりて飛《とび》來るともいへり江《えの》中|納言《なごん》のみだけの御塔《みだう》の御|願文《ぐはんもん》にもかくとこそ記《しる》され(267コマ)たれ又|貞崇禅師《ていしゆぜんし》はもろこしに金峯山《きんぶせん》とて金剛藏王菩薩《こんがうざうわうぼさつ》の住《すみ》おはせし山あり其山|日本國《につほんごく》に飛《とび》來りて金峯山《きんぶせん》となるといへり【袖中抄】
▲貞觀《ぢやうぐはん》元年の秋|螟螣《おほゐむし》といふ虫《むし》五穀《ごこく》をくひやぶる事たとへていふにもたらずしかあれば藤原朝臣山蔭《ふぢはらのあそんやまがけ》滋岳朝臣川人《しげをかのあそんかはうど》等《とう》宣旨《せんじ》をうけ給りてかの虫《むし》をはらひやるまつりをなすかの祭礼《さいれい》は清浄《しやうじやう》の地《ち》をえらぶの旧例《きうれい》なれば芳野郡《よしのこほり》の高山《かうざん》にして是ををこなへり同五年二月にも芳野郡《よしののこほり》高山《かうざん》にして祭《まつる》よし三代|実録《じつろく》に見えたり
万葉 三芳野《みよしの》の山下風の|寒《さむ》けくに爲當《はた》や今宵《こよひ》も我|獨《ひとり》ねん
信明歌集 行年《ゆくとし》の越《こえ》ては過《すぎ》ぬ吉野山いく万代《よろづよ》のつもりなるらん
忠見歌集 霞たつ吉野の山を越くれば麓《ふもと》は春のとまり也けり
堀川二郎 花と見て尋きつれば吉野山人ばかりなる峯のしら雲 大進
同 みつきもの君が御代には吉野山よし心見よ絶やしけると 忠房
遠嶋御歌合 山城のみづ野のまこもかり初《そめ》に御吉野の山を戀わたる哉 基家
建仁元年八月十五夜哥合 芳野山すゝ〔篠《すず》か〕吹みだる秋風にたれしのべとて有明の月 宮内卿
新撰和歌集 冬の夜は消《きゆ》るにしるしみよしのゝ山の初《はつ》雪今ぞふるらし 御製
後京極百番歌合 春は皆同し桜に成|果《はて》て雲こそなけれみよしのゝ山
拾玉 いかにして二《ふた》つの山に家居《いゑゐ》せむ春は三吉野秋はをばすて 慈鎭
同 人のすむやまとは花の国なれや三吉野の山をはつせの山
壬二 ふじのねも匂ひはあらし吉野山花の盛《さかり》につもるしら雪
山家 木の下のたびねをすれば吉野山はなのふすまをきする春風 西行
寂然集 吉野山花咲ぬれはあちきなく心にかゝる峯のしら雲
(268コマ)北院御室御集 吉野山うき世の外にのがれ來て中/\花に心とめつる
金御嶽《かねのみたけ》
御《み》かねが嵩《だけ》又こかねの峯《みね》又|御《み》たけなどともよめり源氏《けんじ》物かたりにみだけさうしともかけり
金峯山《きんぶせん》は皆《みな》黄金《わうごん》なり慈尊出世《じそんしゆつせ》の時|閻浮提《えんぶだい》の地《ち》にのへ敷《しき》なんとて藏王權現《ざうわうごんげん》のまもらせ給ふと也【拾介抄】むかし宮古《みやこ》の七|条《でう》にはくうちありみたけにまうでゝかなくづれを行《ゆき》て見れは金《こかね》のやうにてありけりいとうれしくて袖《そで》につゝみて家《いゑ》にかへりはくにうちぬる程《ほど》に七八千まひにぞなりける其|比《ころ》検非違使《けびいし》なる人東大寺の佛つくらむとておほくのはくをもとめけるありそれがもとに行《ゆき》てかのはくを賣《うり》けりかぞへなんとてひろげぬれば細字《さいじ》にて金嶽《かねがだけ》/\とこと/”\くにかきつけたりいかなる事にかあなるとて帝《みかど》に奏《そう》しけれははくうちをめしてせめごうしてとはせ給へばしか/\とこたふわづかに十日ばかりありてぞ死《し》ける薄《はく》は金峯《きんぶ》山にぞ返《かへ》し給ひけりとなり【宇治拾遺】されば又|聖武《しやうむ》天皇の御宇に良弁僧正《らうべんそうじやう》此山の金《こがね》を得なんと金剛藏王《こんがうざわう》にいのられしかども神《かみ》是をゆるし給はずと釈書《しやくしよ》に見えたり
万葉 三吉野《みよしの》の御金嵩《みかねがだけ》にひまなくぞ雨はふるといふ時なくぞ雪はふるといふ 末畧
方与集 朝もよひ紀《き》の川上を見渡《みわた》せば金御嶽《かねがみだけ》に雪ふりにけり 顕昭
(269コマ)夫木 神のますこがねの峯はのりときし鷲《わし》のみやまの跡《あと》とこそきけ 信實
青垣《あをかき》山
さして所をいふへきにあらず或《ある》人よし野山の異名《いみやう》ともいへりとなん
万葉 安見知之《やすみしし》我《わが》大君の神ながら神さびせすと芳野《よしの》川|瀧津河内《たきつかうち》に高殿《たかどの》をたがしりましてのぼりたち國見《くにみ》をすればたゝなはる青垣《あをかき》山の山神のまつる御調《みつき》と春べには花かざしもち秋たてば紅葉《もみぢ》かざせりゆふかわの神も大御食《おほみけ》につかへまつると上瀬《かみつせ》に鵜《う》川をたてゝ下瀬《しもつせ》に小網《さで》さしわたし山川もよりてつかふる神の御代《みよ》かも
反歌
同 山川もよりてつかふる神ながら瀧津河内《たきつかうち》に舩出《ふなで》するかも
同 たゝ名つく青垣《あをかき》山のへだつればしば/\君をこととはぬかも
同 吉野の宮は立名《たゝな》つく青垣《あをかき》隱《こもり》河《かは》なみの清《きよ》き河内《かうち》ぞ
耳我嶺《みゝかのみね》
或《ある》人(の)曰(く)芳野《よしの》の山の異名《いみやう》也|八雲御抄《やくもみせう》に吉野《よしの》にちかきと云もしほ草に又中山ともいふとあり
同 三芳野《みよしの》の耳我嶺《みゝかのみね》に時なくぞ雪はふりけるひまなくぞ 清見原天皇
吉野川
同 八雲刺《やくもたつ》出雲《いつも》の子|等《ら》が黒《くろ》かみは芳野《よしの》の川の沖《おき》になづそふ
同 我せこが犢鼻《たうさき》にするつぶれ石の吉野の川に氷魚《ひを》そかゝれるは
元真家集 吉野川おろす筏《いかだ》の折ごとに思ひもよらず波の心を
芳野川の河上は大臺《おほだい》が原といふ所也(207コマ)北山に越行《こえゆく》道の姨《をば》が峯《みね》といふなる所のはるかの左の方にして見《み》わたしにもおよぶ所にあらずまして人の通《かよ》ふ所にもあらず只《たゞ》いとひろく葎《むぐら》荻《おぎ》などの高くしげり藤かづらはひおほひて浅沢《あささは》などやうの水ありその中にいとふかくて巴《ともゑ》か渕《ふち》などといふ所ありとかや風だにふけばそのしげりの露《つゆ》落つもりて川の水累《みかさ》をなし北よりふけば熊野《くまの》川の水をまし西よりふけば伊勢《いせ》の宮《みや》川のなかれをそへ東よりふけば芳野《よしの》川の水かさめりとなり
大臺原《おほだいがはら》
未勘 吉野川その水上《みなかみ》を尋《たづ》ぬればむぐらの雫《しづく》荻《おぎ》の下露
宮《みや》川
山家集 瀧《たき》おつる吉野の奥の宮《みや》川のむかしを見けん跡《あと》したはばや 西行
吉野《よしの》川はみなもと大臺原《おほだいがはら》より出て|塩《しほ》の葉《は》村にきたりてはながれいとほそし此ゆへに俗《ぞく》かの兩村を芳野《よしの》川のみなもとゝいへりあやまりなるべし塩《しほ》の葉《は》村より西にながれ西川《にしかう》の瀧《たき》にて北にまがり宮瀧《みやたき》より猶西に落《おち》て末《すゑ》は紀伊《きい》の海《うみ》に入るなり
和田《わだ》村より東《ひがし》の川の北に川上の投地藏《なげぢざう》といふあり
投地藏堂《なげぢざうだう》
(271コマ)抑《そも/\》投地藏尊《なげぢざうそん》は役優婆塞《えんのうばそく》濟度利生《さいどりしやう》のために金峯山《きんぶせん》に一千日|籠《こも》りて生身《しやうじん》の薩埵《さつた》をいのり給ひしにまづ地藏菩薩《じざうぼさつ》の形《かたち》にて地より涌出《ゆじゆつ》し給ひたりしを優婆塞《うばそく》の心に柔和《にうわ》忍辱《にんにく》の御かたちにてすゑの世の衆生《しゆじやう》いかでか利益《りやく》かなふべしやとて菩薩《じざう》を掌《たなごゝろ》にとりてなげられければ此所にとゞまらせ給ふと所につたへていへり又の説《せつ》あり此時|涌出《ゆじゆつ》の地藏尊《じざうそん》は優婆塞《うばそく》の心にかなはざれば伯耆《ほうきの》國大山へ飛《とび》さり給ふよし太平記に見えたり
此南に菊《きく》の岩屋《いはや》あり古詠《こゑい》をもとめえず聖天《しやうでん》の岩屋《いはや》あり投地藏堂《なげぢざうだう》のほとりに南帝王《なんていわう》の社《やしろ》あり
南帝王《なんていわう》の社
當社《たうしや》は後醍醐《ごだいこの》天皇第七(の)宮にぞおはします芳野《よしの》小瀬《こせ》村といふなる所にて崩御《ほうぎよ》なり給ふそこの龍川寺《りうせんじ》に御|位牌《ゐはい》あり白天王正聖佛《はくてんわうしやうじやうぶつ》とえりたり崩御《ほうぎよ》の時の御|製《せい》とて此寺にいひたつへたり
のがれきて身《み》を奥《おく》山の柴《しば》の戸に月も心にあはせてぞすむ
此ほとりに清明《せいめい》が瀧《たき》といふあり是は蜻蛉《せいれい》が瀧《たき》といふなるべきをあやまれるとおぼえ侍る猶おもふに蜻螟《せいめい》もおなじ虫《むし》なれば文字《もんじ》をたがへきたりて清明《せいめい》が瀧《たき》とかけるにや蜻蛉《かげろふ》の小野《をの》は大和国と類字名(272コマ)所集《るいじめいしよしう》にあり
新後撰 しられじを霞にこめてかげろふの小野《をの》の若草《わかくさ》下にもゆとも 爲家
草庵集 をとにたてゝはやふけにけりかげろふの小野の秋津の秋の初風 頓阿
かけろふの小野《をの》又かたちの岡《をか》又かたちの小野又あきつの野辺《のべ》などゝもよめり
蜻小野《かたちのをの》
万葉 三芳野《みよしの》の蜻《かたち》の小野にかるかやのおもひみたれてぬるよしもかな
堀川太郎 三芳野のかたちの岡《をか》の女郎花《をみなへし》たはれて露に心をかる哉 俊頼
顕昭《けんせうの》曰(く)蜻《かげろふ》をばあきつと讀《よむ》なり然るにあきつの小野《をの》とよみぬべきをかたちの小野とはかた/\そのいはれなしあきつとは蜻《とんばう》なり
秋津野《あきつの》
芳野《よしの》の宮《みや》に行幸《みゆき》の時|柿本朝臣《かきのもとのあそん》人|麿《まろ》
万葉 吉野の国の花|散相《ちらふ》秋津《あきつ》の野邊《のべ》に宮《みや》ばしらふとしきませば百敷《もゝしき》の大宮《おほみや》人は舟なべて朝川わたり舩きほひ夕川わたり此川の絶《たゆ》る事なく此山の弥《いや》髙良之《たかからし》珠水《たまみづ》の激瀧《たき》の宮古《みやこ》は見れどあかぬかも
万葉 芳野の飽津《あきつ》の小野《をの》の野上には 畧
同 三芳野の秋津の《あきつ》川の万世《よろづよ》にたゆる事なく又かへり見ん
詞林採葉《しりんさいえうに》曰(く)蜻《かけろふ》の小野《をの》かげろふの小野《をの》かたちの小野《をの》三|訓《くん》なり然而|秋津《あきつ》の小野《をの》といふべき歟其|拠《しやう》は日本紀にありと見えたり
抑《そも/\》秋津《あきつ》の小野《をの》は雄畧《ゆうりやく》天皇四年よし野の宮(273コマ)に行幸《みゆき》なり給ひて川上の小野にして狩人《かりうど》にからしめ給ひみづからも射《い》給ひなんと待給ふに虻《あぶ》飛《とび》來りて天皇の臂《たゞむき》をくらひしかばたち所に蜻蛉《あきつ》飛《とび》來りて虻《あぶ》をくらひて飛さりき天皇いとよろこばせおはしまして群臣《くんしん》に勅《ちよく》して蜻蛉《あきつ》をほめてうたよめとおほせ給ひしかどもよみて奉る人なし天皇御口すさびに
さはまつと【狹猪待也】わがたゝせる【我立也】たくふらに【竹原也】あぶかきつく【虻來來也】そのあぶを【其虻也】あきつ羽《は》のくひ【蜻蛉囓也】はふむしも【昆虫也】おほきみに【大君也】まつらふ【謂v仕也】ながかたち【名形也】をかん【置也】あきつやまと【秋津嶋大和也】よみ給ひて蜻蛉《あきつ》をほめさせ給ひてより爰の地を蜻蛉《あきつ》とぞ名《な》づけける
此|歌《うた》おほく前畧《ぜんりやく》してあらはす日本紀にくはしくあり細字《さいじ》は釈《しやく》日本紀によれるものなり
吉野皇居《よしのゝくはうきよ》
此|跡《あと》秋津《あきつ》の小野のほとりなるべし秋津の宮とよめり
芳野《よしの》の宮《みや》いづれの御|代《よ》に立給ひしにやしらず神武《じんむ》天皇|芦原中津國《あしはらなかつくに》をたいらげ給ひ河内《かはちの》国より射駒《いこま》山を越《こえ》なんとせさせ給ふに長髓彦《ながすねひこ》といふありけり櫛玉速日命《くしたまはやひのみこと》を君とたとへて天皇をふせぎ奉りしかば葛城《かづらき》を越《こし》紀(274コマ)伊伊《きいの》國を經《へ》て吉野に出させ給ひて御軍《みいくさ》をととのへ給ひし程《ほど》に行宮《かりみや》の定《さため》てありけるにや其後|代々《よよ》の御門《みかど》の皇居《くはうきよ》の有無《うむ》あきらかならず然《しかる》に應神《おうじん》天皇|芳野《よしの》の宮《みや》に行幸《みゆき》なり給ふには國栖《くず》人|三才《みき》を奉るとあり應神《おうじん》天皇|已前《いぜん》に吉野《よしの》の宮《みや》とてありける事|勿論《もちろん》なり又|大泊瀬《おほはつせの》天皇吉野の宮に行幸《みゆき》あり又|皇極《くはうぎよく》天皇吉野の宮に行幸《みゆき》なりて肆宴《とよのあかり》きこしめす又|清見原《きよみばらの》天皇吉野の宮に行幸《みゆき》おはしまして
万葉 よき人の芳野《よしの》のよくみてよしといひし吉野よくみてよき人と君 御製
又|元正《げんじやう》天皇|養老《やうらう》七年五月b吉野の離宮《りきう》に行幸《みゆき》の時|笠朝臣金村《かさのあそんかねむら》
同 美吉野《みよしの》の秋津《あきつ》の宮《みや》は神からや貴《たうと》からん国からか見まほしからん山川をさやけくすめりうへし神世《かみよ》ゆさだめけらしも
反歌
同 山高み白木綿《しらゆふ》花におち瀧津《たきつ》瀧《たき》の川内《かうち》は見れどあかぬかも
万葉 神代より吉野の宮のありかよひたかくしれるは山川を
此両|首《しゆ》神世よりとよめり爰《こゝに》知《しり》ぬ神武《じんむ》天皇|畝火《うねひ》の柏原《かしはばらの》宮におはしゝ時かの吉野に離宮《りきう》をかまへて臨幸《りんかう》ありけるにより御代よりとは神武《じんむ》の御宇をさすなるべし葺不合尊《ふきあはせずのみこと》の第四の御子なれば神代とよめるもことはり(275コマ)にや【詞林採葉】
瀧御門《たきのみかど》
もし秋津《あきつ》の宮《みや》をよめるにやおもふに宮瀧《みやたき》は西にあり蜻螟《せいめい》が瀧《たき》は東にありかさねてあきらかにせらるへし
万葉 東《ひんかし》の瀧の御門《みかと》にさもらへど昨日《きのふ》もけふも召《めす》事もなし 舍人哥
同 一日には千度《ちたび》まいりし東《ひんかし》の瀧のみかどを入かてぬと(かか)も 同
玉水(の)瀧宮古《たきのみやこ》
名寄歌《なよせうた》枕に大和是も秋津《あきつ》の宮にや
万葉 秋|津《つ》の野邊《のべの》宮ばしらふとしくませば 中畧 此山のいやたかからし玉水の瀧の宮古《みやこ》は見れどあかぬかも 人丸
夫木 今ははや冰も解《とけ》ぬ玉《たま》水の瀧《たき》の宮古は春めきぬらん 光朝
瀧浦《たきのうら》
万葉 吉野川|河波《かはなみ》高《たか》し多寸能浦乎不視歟成嘗戀布真國《たきのうらをみずかなりなめこひしきまくに》
もしほ草曰瀧の浦と宗祇《そうぎ》法師|注《ちう》たるものにあり名《めい》人のしたる事なれば不《ず》v及2是非《ぜひに》1從又無2不審《ふしん》1にもあらずもしは瀧の裏《うら》と云心歟と云々
多藝津河内《たきつかうち》
歌枕《うたまくら》に大和國と云々
万葉 吉野川|瀧津河内《たきつかうち》に高殿《たかどの》を高知《たかしり》ましてのぼりたち 人丸
夫木 三芳野の瀧津河内の春風に神代も聞《きか》ぬ色《いろ》ぞみなぎる 前中納言宰相
遊副《ゆふ》河
仙覺《せんがく》抄にいはくゆふ川吉野にある川の名《な》なりかし古には遊《ゆ》川といふ是同事か
(276コマ)万葉 山神のたつる御調《みつき》と春べには花かざしもち秋たてば紅葉《もみぢ》かざせり遊《ゆふ》川の神も大みけに仕《つか》へまつると上津瀬《かみつせ》に鵜《う》川をたてゝ下津瀬《しもつせ》には小網《さで》さしわたし山河もよりてつかふる神の御代かも
三舩《みふね》山
藏王堂《ざうわうだう》の鳥居《とりゐ》の東《ひかし》にみえたり
芳野の離宮《りきう》に行幸《みゆき》ありし時
万葉 瀧のうへの三舩《みふね》山より秋津邊《あきつへ》にきなくわたるは誰喚児鳥《たれよぶこどり》
同 瀧のうへの三舩の山に居《ゐる》雲のつねにあらんとわがおもはなくに
西川瀧《にじかうのたき》 付大川
大瀧《おほたき》ともいふ万葉集におほく瀧の歌《うた》あり又大川などゝよめるも此ほとりにや顕注密勘《けんちうみつかん》にいはく大川のべとは芳野《よしの》川はおほきなればおほ川のべとよめるなり
万葉 大|瀧《たき》を過てなつみにそひてゐて清《きよき》河瀬《かはせ》を見るかさやけき
同 今敷はみめやとおもひし三芳野《みよしの》の大川|余杼《よど》をけふ見つるかも
千五百番歌合 三芳野の大川|野邊《のべ》の藤波《ふぢなみ》春もふかしと色に見すらん 家隆
西川《にしかう》の瀧より佛《ほとけ》が峯《みね》といふ坂を過ぬればふもとに蝉《せみ》が瀧《たき》ながれ猶|行《ゆき》て樫尾《かしお》の茶屋《ちやや》それより三町ばかり過ぬれば夏箕《なつみ》川なり
夏箕《なつみ》川
万葉 吉野なる夏實《なつみ》の川の河淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴《なく》なる山|陰《かけ》にして 湯原王
吉魚張《ふなはり》
同 我宿《わがやど》の淺茅《あさぢ》色付《いろづく》吉魚張《ふなはり》の夏箕《なつみ》の上に時雨《しくれ》ふるらし
(277コマ)万葉 吉魚張《ふなばり》の夏身《なつみ》のうへの山を出て西《にし》をさしける月の影見ゆ 家持
浪柴野《なみしばの》
万葉 我門《わがかど》の淺茅《あさぢ》色づく吉魚張《ふなはり》の波柴《なみしは》の野《の》の紅葉《もみぢ》ちるらし
夫木 ふなはりの浪柴野《なみしばのの》の秋風にはやくよ渡《わた》る月のさやけさ 定嗣
司馬野《しばの》
八雲《やくも》の御抄《みせう》藻塩《もしほ》草大和國と云々波柴野《なみしはの》同所なるべきか
万葉 國栖等《くにすら》が若菜《わかな》つむらん司馬《しば》の野《の》のしば/\君を思ふ比かな
宮瀧《みやたき》
りうもんにまいるとて
後撰集 宮の瀧むべも名《な》におひて聞《きこ》えけりおつる白淡《しらあは》の玉とひゞけば 法王御製
山家集 瀧をはやみ宮瀧《みやたき》川を渡《わた》り行《ゆけ》ば心の底《そこ》のすむ心地《こゝち》する 西行
新六帖 なにかその波はかくれど宮瀧や鵜《う》のゐる石のうへぞかくれぬ 行家
爰に屏風|岩《いは》とていと高くそばだてるいはほあり銅錢《とうせん》百文をあたへぬればこの巖《いはほ》の頂上《ちやうじやう》よりそこしらぬ芳野《よしの》川に飛《とび》入なり吉野の岩飛《いはとび》といふは是にぞ侍る清河原《きよきかはら》此ほとりにや
清川原《きよきかはら》
澄月歌枕《てうげつうたまくらに》曰(く)清川原《きよきかはら》古詠《こゑい》不《す》v限《かきら》2芳野《よしのに》1不定《ふでう》一所の名《な》歟|先達歌枕《せんだつうたまくら》に以久木生《いくきおふ》清河原《きよきかはら》の歌(を)立(て)名所(と)いひ未勘國《みかんこく》と云々|今按《こんあん》是|就《つきて》2万葉集第九(の)歌(に)1吉野(ノ)篇《へん》に入v之とあり
万葉集第九 くるしくも暮行《くれゆく》日かも吉野川|清河原《きよきかはら》を見れとあかなくに
同 毎年《としのはに》かくもみてしが三吉野の清河内の瀧つしら波
(278コマ) 日晩野《ひぐらしの》
亭子院《ていじゐん》宮瀧《みやだき》を御|覽《らん》じにおはしませる御ともにつかうまつりて日ぐらし野といふ所をよめる
新勅撰 ひぐらし野|行《ゆき》過ぬともかひもあらじひもとく妹《いも》も待《まち(たか)》しと思へば 大納言昇
妹背《いもせ》山
宮瀧《みやだき》の西《にし》上市《かみいち》村の東にあり吉野郡に詠《ゑい》し合する古歌《こか》をもとめえず河海《かかい》抄にいはくいもせ山は紀伊《きいの》國に妹《いも》山|背《せ》の山とて吉野川をへだてゝさしむかへる二の山あり又|顕注密勘《けんちうみつかん》八雲御抄《やくもみせう》其外の文どもにも紀伊《きいの》國とあり
萬治二年の春|飛鳥井雅章卿《あすかゐたゞあきらきやう》吉野まうてにいもせ山をながめやりて
うき中のたが泪《なみだ》より芳野川いもせの山をながれ出らん
象小《きさのを》川
宮瀧《みやだき》よりさくら木の宮にまうづれば外象《とぎさ》の橋をうちわたり象《きさ》の小《を》川は桜木の宮の前になかれ象《きさ》山は髙瀧《たかだき》の上にそばたてり
万葉 むかし見し象《きさ》の小《を》河を今見ればいよ/\きよくなりにけるかも
夫木 芳野山|青根《あをね》が嶺《みね》に月すめば象《きさ》の小川に玉ぞしづめる 知海
桜木《さくらぎの》宮
花のにしきも瀧《たき》のいともて織出《をりいだ》したりやと艶《えん》におほえ侍りて
瀧《たき》の糸《いと》を花にうちはへて芳野山|錦《にしき》織《をり》なす桜木の宮 雅章
(279コマ) 象《きさ》山
八雲御抄《やくもみせう》にいはく象《きさ》山|象《きさの》中山きさはちかき山ともいふみよし野に近《ちか》きといふ心なりきさは名所《めいしよ》にあらずと云々|勅撰名所《ちよくせんめいしよ》芳野《よしの》郡と云々|仙覺抄《せんかくせう》吉野の山中に象《きさ》山ありと云々
万葉 倭には鳴《なき》てか來《こ》らん呼児鳥《よぶことり》象《きさ》の中山よびぞこゆなる 高市黒人
夫木 大和路《やまとぢ》に越ゆべき道《みち》は絶《たえ》にけり象《きさ》の中山雪ふかくして 行家
猪養《ゐがひ》山
飯貝《いひがひ》ともいふにや上市《かみいち》村の川むかひにありふなはり山は本善寺《ほんぜんじ》の近《ちか》き所にあり
万葉 ふなはりのゐがひの山にふす鹿の妻《つま》よぶこゑを聞《きく》かともしき 良女
同 ふるい雪はあはになふりそ吉隱《よごもり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の寒《さむく》なるまゝに 穗皇子
本善寺《ほんぜんじ》
本善寺《ほんぜんじ》は親鸞《しんらん》上人八世|蓮如《れんによ》上人の建立《こんりう》なり
芳野《よしの》山心とまれる川づらにすみてもみばや爰に飯貝《いひがひ》 蓮如上人
六田淀《むつだのよど》
万葉 音に聞《きゝ》目にはまだ見ぬ吉野川|六田《むつだ》の淀《よど》をけふ見つるかも
續後拾遺集 桜咲水分山に風吹ば六田の淀《よど》に雪つもりけり 大宰大貳重家
六田《むつだ》のわたしの事にやありけんむかし吉野郡に藤太主《とうだぬし》源太主《げんだぬし》とて二仙あり一とせ吉野川|洪水《こうずい》にして舩だにうかべえざりければ淨藏貴所《じやうざうきしよ》いかでかわたりえなんと杖《つえ》をひき河のほとりにさまよひ給ひしが二仙|來《きた》りてたやすくわたしまいらせんとしばらく咒《しゆ》をとなふれば神人《じんじん》大木をきりうかべたり仙《せん》と共に棹《さほ》さして貴(280コマ)所《きしよ》を渡しける【釈書】淨藏貴所《じやうざうきしよ》は三善清行《みよしきよゆき》か第八の子|母《はゝ》は嵯峨《さが》天皇の孫女《そんによ》なり【三國傳記】又吉野川の渡し舩は聖寶《しやうぼう》僧正のはじめてをき給ひしよりなかくつたはりて絶《たえ》ず【釈書】
雙墓《ふたつづか》
仲範《なかのり》のいはく今木野《いまきの》滑谷岡《なめはざまのをか》吉野川の北|古勢《こせ》の里の南にあり【玉林抄】
雙墓《ふたつつか》は入鹿《いるかの》大臣|今來《いまき》に雙墓《ふたつづか》をつくりて一は父大臣の墓《つか》として大陵《おほみさゞき》とあがめ一は我|墓《はか》として小陵《こみさゝき》といふ我なくなれる後人を労《らう》させる事をいとふおもひありぬるよりかくするにぞあるといひながらその墓《はか》をきづく歩役《ぶやく》に上宮《かみのみや》の民《たみ》をつかひぬれば上宮大娘姫王《かみのみやのおほいらつめのひめみこ》いとなげきおはしまして蘓我臣《そがのしん》國の政《まつりごと》をほしゐまゝにしいかで心のまゝに封民《ほうみん》の労《らう》をいとはずつかひけるぞや是よりうらみをむすび終《つゐ》にかれをほろぼし給ひなんの御心あり【日本紀】
今來《いまき》寺
つたへ聞《きく》今來寺《いまきてら》又は石光寺《せきくはうじ》といふなり此寺かすかに殘《のこ》りけるとなん
今來《いまき》寺は蓮入《れんにう》法師|伯耆《ほうきの》國|大山寺《たいさんし》につとめ居《ゐ》られしが寛弘《くはんこう》年中|長谷寺《はせてらに》まうでて誓願《せいぐはん》を立て我《わが》來世《らいせ》の生所《しやうしよ》をしめし給へとこもりゐたり七夜の曉《あかつき》ひとりの比丘《ひく》ま見えさせ給ひて是より西南九里さりて勝地《しやうち》ありそこにしてをこなひたらんにはかならず兜率内(281コマ)宮《とそつないくう》に生をうけん夢さめていとうれしくて則かしこに行《ゆき》けり山高く地形《ぢぎやう》ふかく人|蹤《せき》絶《たえて》寺もなし只夢の事をたのみて樹《き》の下《もと》にゐたりけるが其夜西方より光《ひかり》來りたりあやしやと翌《あくる》日行て見るに大巖《たいかん》の上に石板《せきばん》ありて落葉《らくえう》埋《うつみ》苔蘚《たいせん》猶上《いやかうへ》に生《おひ》たりかの石面《せきめん》の散葉《さんえう》を拂《はら》ひ苔《こけ》をのごひぬれば弥勒《みろく》三尊(の)像《ざう》をえりつけたり人工《じんこう》のわざにあらず則|精舎《しやうじや》を建《たて》て年《とし》久しくをこなひて終《つゐ》に祥瑞《じやうずい》ありてをはりをとりけり【釈書】
一坂《いちのさか》といふ所の桜一木道の行手《ゆくて》にさかりなれば
三芳野や桜一木に先見せて山口しるく匂ふ春風 雅章
四手掛《しでかけの》社
四手《しで》かけの明神をおがみて
芳野《よしの》山花のゆふしでかけまくもかしこき神の心をぞしる 雅章
四手《しで》かけより左《ひだり》四五町を經《へ》て水分山の跡あり
水分《みつわけ》山
いつの代にやありけむ洪水《こうずい》にながれて當世は砂原《すなはら》なり
万葉 神さぶる岩ね巳疑敷《ここしき》三芳野の水分山を見ればかなし
新後撰 三芳野の水分山の瀧津瀬も末はひとつの流也けり 寿證法師
比蘓《ひそ》寺
毗蘓《ひそ》寺【釈日本紀】比蘓《ひそ》寺【釈書】とかけり
比蘓《ひそ》寺又|現光寺《げんくはうじ》といへり額《がく》は栗天八一《りつてんはちいち》(282コマ)【玉林抄】當代たづねしに此|額《がく》なくなりし時代《じだい》をしらずとなり推古《すいこ》天皇三年四月|沈水香《ちんずいかう》淡路嶋《あはぢしま》にうかみよれりその大さ一|圍《いだき》あり浦人|沈水香《ぢんずいかう》をしらず只|薪《たきゞ》にまじへてくゆらかすそのけふりいと遠くかほりける程にいとあやしみて御みかどに奉りけり【日本紀】聖徳太子是は沈水香木《ぢんずいかうぼく》にてその實《み》は※〔鷄の鳥が隹〕舌《けいぜつ》のごとくその花は丁子そのあぶらは薫陸《くんろく》なり水に沈《しづ》みて久しきを沈水《ぢんずい》といひ水に入て久しからぬを淺香《せんかう》と申と奏《そう》し給ひしかば御門《みかど》よろこびおぼしめして觀音の像《ざう》をつくらせ吉野の比蘓《ひそ》寺にすへ給ふに時々|光明《くはうみやう》をはなち給ふとなり【釈書】それより現光寺《げんくはうじ》の名《な》あり【玉林抄】
▲再興《さいこう》は弘安《こうあん》二年金峯山より聖人來りて再興あり西大寺の興正《こうしやう》菩薩戒法をすゝめて律《りつ》院となりたり【太子傳抄】やう/\繁昌《はんしやう》せしが又破|壊《ゑ》して當代かすかにのこれり
四手掛《しでかけ》より並木《なみき》桜つゞきて長|岑《みね》を經て丈六山一《じやうろくさんいちの》藏王堂又長岑の藥師堂あり
松山御茶屋
文禄《ぶんろく》三年二月廿五日豊臣幕下《とよどみばつか》花の御ながめにたて給ひし御茶屋の跡《あと》なり此時の御詠歌世にのこりて一卷あり
是より多武《たふの》峯に行|通路《つうろ》あり
(283コマ)
千本桜
千本のさくらとてあまたあり
吹まぜてふかきやいづれ吉野山千本に匂ふ花の春風 雅章
日本が花|七曲《まゝまがり》の坂などを過行にもろ人桜|苗《なへ》をもとめ爰にうへて權現《ごんげん》に奉る桜三十本をうへさせて
いつか又十といひつゝ三芳野の我《わが》植置《うへをき》し花を來て見ん 大納言雅章
山の花|薗《ぞの》谷の桜田ひたりにかくれ松右に山(の)井などといふあり
新勅撰 三芳野の山井のつらゝ結《むす》べばや花の下ひもをそくとくらん 藤原基俊
玉葉集 三芳野の峯の花|薗《ぞの》風吹は麓《ふもと》につもる春の夜の月 入道大政大臣
吉野山|誰《たれ》か植《うへ》けん桜田のところ/\の花のはしり穗 道助法親王
さかりなる花にかくれて名もしるくたてるやいづこ三吉野の松 雅章
藤尾坂《ふぢおさか》
俗《ぞく》に藤井坂《ふぢゐざか》といふ
文治《ぶんぢ》元年十一月十七日|源義經《みなもとのよしつね》の妻しづかか藤尾坂をくだり藏王堂《ざうわうだう》に來りしを衆徒等《しゆとら》見とがめてとらへけるよし東鑑《あづまかゝみ》に見えたり
関屋《せきや》の花|桜嶽《さくらがだけ》などといふ所あり
金鳥居《かねのとりゐ》
金鳥居《かねのとりゐ》【高二丈五尺一圍】 二王門
かねの鳥居に書《かき》付ける
千載集 夢さめむ其|曉《あかつき》を待《まつ》程《ほど》の闇《やみ》をも照《てら》す法《のり》の灯《ともしび》 敦光(家か)
藏王堂《さうわうだう》
藏王堂南向なり本尊藏王【貳丈六尺】挾侍《わきだち》の千手《せんじゆ》觀音【貳丈四尺】弥勒【貳丈貳尺】なるをすへ(284コマ)たり役行者《えんのきやずじや》の遺像《ゆいざう》あり
四本桜
四本《よもと》も桜に蹴鞠《しゆうきく》の興《けう》をおもひいでゝ
まりの場《には》にうつしうへなん三吉野の四本《よもと》の桜おもかげにして 飛鳥井雅章
威徳《いとく》天神(の)社《やしろ》
威徳《いとく》天神は菅丞相《かんしようじやう》の霊《れい》なり日藏上人社をたてゝうつし奉られき抑《そも/\》當社の濫觴《らんしやう》は日藏上人天|慶《げい》四年八月一日金峯山の岩屋にして頓死《とんし》せられしが威徳太政天《いとくたいしやうてん》の臨幸《りんかう》にあひ奉り神勅《しんちよく》にしたがひてかの御|住《すみ》所にそいたられける種《くさ》/\の神語《じんご》ありての後《のち》汝本国にかへりてあまねく流布《るふ》せよもし人|我像《わかざう》をつくり我名を唱《とな》へて慇懃《いんぎん》に尊重《そんじう》せは我かならず擁護《おうご》せずはあらじ上人金峯山にかへりて藏王權現《ざうわうこんげん》にありし事ともかたり奉らる爰に滿徳《まんとく》天いまして上人につけらるゝかの太政《だいじやう》天八十六萬八千の眷屬《けんそく》ありかれらが毒害《どくがい》はなはだしきは天下の善神もそれをとゞめえすと神語《しんご》まし/\きくはしくは釈書《しやくしよ》に見えたり是よりして此社を建立せられけるとなり天慶四年より延寶七年まて凡七百卅九年か
▲貞和《ちやうわ》五年正月十四日|越後《ゑちごの》守|師泰《もろやす》武藏《むさしの》守|師直《もろなふ》寄來《よせき》たる所に帝《みかど》は天(の)川の奥《おく》賀名生《かなふ》の邊《へん》に落させ給ひしかばさらば燒拂《やきはら》へとて皇后《くはうこう》卿相雲客《げいしやううんかく》の宿所に火をかけし(285コマ)程に貮五尺の金(の)鳥居金剛力士の二|階《かい》の門北野大神(の)社七十二間の廻廊《くはいろう》三十八所ならびに藏王堂一時のけふりとなる【太平記】
▲堀《ほり》川(の)院|寛治《くはんち》七年九月廿日金峯山の寶殿《ほうでん》炎上《えんしやう》【帝王編年】再興《さいこう》あり
▲藏王|權現《ごんげん》に定朝《てうちよう》が造進《ざうしん》せし狛犬《こまいぬ》社殿《しやてん》の上に啖合《かみあひ》て大|床《ゆか》より落たりと盛衰記《せいすいき》に見えたり
▲金峯山《きんぶせん》の塔《たう》成就《じやうじゆ》の供養《くやう》承暦《しやうりやく》三年十一月と釈書にあり
金御嶽《かねがみたけ》
金の御嶽《みだけ》は芳野《よしの》山の異名《いみやう》にしてわかちては爰をこそいふならめ飛鳥井雅章卿《あすかゐたゝあきらきやう》爰にして
しばしなを夕べをのこせ入相のかねの御嶽《みたけ》の花のひかりに
藏王堂より西に實城寺《じつじやうじ》あり
實城寺《じつじやうじ》
實城寺又は金輪寺《きんりんじ》ともいふ後醍醐《ごだいごの》天皇の皇居《くはうきよ》にさだめられ此|御代《みよ》にこそ北京と南朝とわかたれて年号なども別にぞ侍る爰にして新葉和歌集《しんえうわかしう》なとをえらび給ひ又天皇御手すから茶入十二をきざませ給ふ或《あるひ》は廿一ともいふそのかたち薬器《やくき》にひとし世に金輪寺といふこれなり漆器《しつき》といひなから勅作にて侍れは臺にのせ金輪寺《きんりんじ》あひしらひとて茶湯前もありとかや
藏王堂より一町ばかりを過て駄天《だてん》山其(286コマ)東のかたに朝原あり
朝原《あしたのはら》
續後拾遺集 芳野山霞立ぬるけふよりや朝の原はわかなつむらん
吉水《よしみづ》院
吉水院は源義經《みなみとのよしつね》落人《おちうと》とならせ此院に入給ひしが衆徒《しゆと》心がはりせし程《ほど》にしのひ出て中院谷に御身をかくし給ふそれもかなひがたうして佐藤忠信《さとうたゞのぶ》をのこしをかれ静《しづか》も捨をき多武峯《たふのみね》藤室十字坊《ふぢむろじうじぼう》にそ入給ひける此院は豊臣幕下《とよとみばつか》の花の御ながめにも旅館《りよくはん》とさだめ給ひてけしきことなる寺のかまへにて侍るむかし後醍醐《ごだいご》天皇爰に行幸《みゆき》なりて御|枕《まくら》ながら
花にねてよしや吉野のよし水の枕の下《もと》に石はしる音《をと》
吉水院《よしみづゐん》の西《にし》に行て右の方に五臺寺《ごだいじ》又|桜本《さくらもと》とて當山の先達《せんだち》大|峯修行《みねしゆぎやう》の宿坊《しゆくばう》あり
佐抛《さなぎの》明神社
さなき明神の山を|御影《みかげ》山といふは天人の影《かげ》うつりしよりいふとかたり侍りしかば
さなきだにさなぎの神の御影《みかげ》山うつろふ花に風もこそふけ 飛鳥井雅章
勝手社《かつてのやしろ》
勝手明神《かつてみやうじん》は愛蘰命《うけのりかみのみこと》也|天孫臨降《あめみまりんかう》の時卅二神相そひてあまくだります次に護國《ごこく》後見《こうけん》にくださるゝ卅二神と云云|愛蘰命《うけのりかみのみこと》は勝手《かつて》大明神也【六十四神式】又|文治《ぶんぢ》元年|静《しづか》法楽《ほうらく》の舞《まひ》をまひし装束《しやうぞく》ならびに源義經《みなみとのよしつね》の鎧《よろひ》など寶藏《ほうざう》に(287コマ)おさまれり又|後醍醐《ごだいごの》天皇賀名生《かなふ》の辺《へん》へ落《おち》させ給ふに勝手《かつて》の宮《みや》の前《まへ》を過《すぎ》おはしまさせけるが御馬よりおりさせ給ひて
太平記 憑《たのむ》かひなきにつけてもちかひてし勝手《かつて》の神の名こそおしけれ
師兼千首 三芳野やかつての宮の山|烏《がらす》神につかふる身もふりぬめり
袖振《そでふる》山
右に御影《みかげ》山左に袖振《そでふる》山此山の頂上《ちやうじやう》を那良志《なたし》山となんいふ天女《てんによ》舞《まひ》しより袖振山の名《な》あり然《しかれ》ども袖振《そでふる》山に付てはふるき文どもに説々ぞ侍る
先《まづ》範兼卿類聚《のりかねきやうるいじゆ》にいはく未勘國《みかんこく》或《あるひ》は對馬《つしま》の国にあり或《あるひ》は大和国|布留《ふる》山なりと云々|詞林採葉《しりんさいえう》抄にいはくをとめらが袖ふる山とよめり此山のあり所分明ならず先達《せんだつ》石上|布留《ふる》山を申なり万葉集第十二卷に石上《いそのかみ》ふる川のとよめり尤より所あるものなり然共八雲(の)御抄にいはく吉野にありと云々|神女降臨《しんじよがうりん》の所を誠に由來《ゆらい》あるものなりといへり今猶芳野の袖振山とつゞける古詠をもとめえず只爰に|神女降臨《しんしよがうりん》の事のみをあらはす本朝月令《ほんちようぐはちれう》にいはく清御原《きよみばらの》天皇芳野の宮にまし/\て日暮|琴《こと》を引給ひしにいと興《けう》ありけり俄《にはか》に前《まへ》の峯《みね》の下《もと》より雲氣《うんき》たちまちに起《おこ》り神女《しんじよ》のかたちなる人|髣髴《ほうほつ》として曲《きよく》に應《おう》じてまひけり他人見る事をえず天《あま》の羽衣《はころも》の袖を五|度《たび》飜《ひるかへ》して【河海抄】
(288コマ)乙女子《をとめこ》がをとめさびすもから玉を袂《たもと》にまきてをとめさびすもとうたひける五節《ごせつ》の舞《まひ》の根源《こんげん》なり又|袖振《そてふる》山といふも此時よりとぞ
勝手《かつて》の宮より坤《ひつじさる》の谷に如意輪寺《によいりんじ》あり
如意輪寺《によいりんじ》
塔尾《たうび》山|如意輪寺《によいりんじ》は本尊|如意輪觀音菩薩《によいりんくはんおんほさつ》也藏王|權現《ごんけん》あり御厨子《みづし》の扉《とびら》に吉野より熊野《くまの》迄の畫圖《ゑづ》あり後醍醐《ごだいごの》天皇の宸筆《しんひつ》の讃《さんに》曰(く)
※〔山+青〕崛月前《さうくつげつぜん》爲《す》2教主《けうしゆと》1
金峯嵐底《きんぶらんてい》現《けんじ》2藏王《ざうわうと》1
斑荊禅客《はんけいぜんかく》安居砌《あんこのみきり》
緇素群焉《しそぐんえんとして》滿《みつ》2願望《ぐはんまうを》1。
慈風《しふう》扇《ふき》v境《さかいに》四流渇《しりうかつす》
惑霧《わくむ》晴《はれて》v心(ニ)六度差《ろくどたがふ》
碧樹《へきじゆ》集《あつめ》v雲(を)飛《とふ》2鷲嶺《じゆれいに》1
黄金《わうごん》敷《しき》v地《ちに》契《ちぎる》2龍華《りうくはに》1
風月《ふうげつ》澄《すます》v心(を)文道祖《ぶんたうのそ》
火雷《くはらい》宥《なだむ》v忿《いかりを》法陀尊《ほうだのそん》
日藏聖感《にちざうせいかん》瑞夢處《ずいむのところ》
大政天《だいじやうてん》爲《なりて》2教海《けうかいと》1繁《しげし》
兩山梯峻《りやうざんかけはしけはし》古仙跡《こせんのあと》
四海舩浮《しかいふねうかぶ》權化神《ごんけのかみ》
行《ぎやう》積《つみ》2僧祇《そうぎを》1鑒《かんかみる》2末世《まつせを》1
威政鬼類《いせいきるい》縛《ばくす》2其身《そのみを》1
後醍醐《こだいごの》天皇(の)陵
如意輪寺のうしろのかたにあり
後醍醐《ごだいごの》天皇|南朝《なんちよう》延元《えんげん》三年八月九日より御|不豫《ふよ》の御事ありけるが次第におもくならせ給ひて終《つゐ》に同十八日|丑尅《うしのこく》に崩御《ほうきよ》なり給ひき藏王堂の艮《うしとら》なる林の奥《おく》に圓丘《えんきう》たかくつきて北|向《むき》に葬《かくし》奉り同十一月五日|後醍醐《ごだいごの》天皇と後《のちの》御名を奉りき【太平記】楠正行《くすのきまさつら》廟にまうでて討死《うちしに》の御|暇乞《いとまごひ》などゝなけき申て如意輪寺《によいりんじ》の過去幉《くはこちやう》に楠正行《くすのきまさつら》同|正時《まさとき》同|將監《しやうげん》和田(289コマ)新發意《わだしんほち》同|舍弟《しやてい》新《しん》兵衛同|紀《き》六左衛門|子息《しそく》二人|野田《のだの》四郎子息《しそく》二人西川|子息《しそく》関地良圓《せきちれうえん》
各留半座乘花臺《かくるはんさせうけだい》 待我閻浮《たいかえんふ》同行人
さきだゝはをくるゝ人を待やせんひとつ蓮《はちす》のうちを殘して
願以此切徳平等施一切同發菩提心徃生安樂国《ぐはんいしくどくびやうどうせいつさいどうほつぼだいしんわうじやうあんらくこく》と正行《まさつら》筆をとりてかきたりけりとぞ又
歸らしと兼《かね》て思へは梓弓《あづさゆみ》なき數《かず》にいる名をぞとゞむる
となんかきつけけるは戸びらにのこりて今にあり
椿谷《つばきたにちんせんじ》
椿山寺は日|藏《ざう》上人の修行《しゆぎやう》の地《ち》なり上人は宮|古《こ》の人年十二にしてかざりをおろし名つけて道賢《だうけん》法師といふ其時|延㐂《えんき》十六年二月也それよりして塩穀《えんこく》を絶《ぜつ》して六年の精修《しやうじゆ》を經《へ》られたり其時|母君《はゝぎみ》のやまひのおもきをほのきゝてとはずはえあるまじとて古郷《ふるさと》にのぼり東寺にして密教《みつけう》をならひ【釈書】其後|芳野《よしの》山に更《さら》に入て笙窟《しやうのいはや》に住み給ひしと也【釈書】
布引《ぬのひきの》桜
布引の桜は高根《たかね》より谷《たに》の底《そこ》までさきつゞきて見え侍りぬ
布引もにしきと見えて芳野《よしの》山|名《な》にこえにけり花の一しほ 飛鳥井雅章
雨師夢違《あめしゆめちかへの》觀音堂
行幸《みゆき》をさせ給ひしに雨やまざりければ
此里は丹生《にふ》の川上|程《ほど》ちかしいのらば晴《はれ》よ五月雨《さみだれ》の空 後醍醐天皇
此所より一里ばかり川下に丹生《にふ》大明神(290コマ)の社あり觀音堂を行て西の谷に瀧桜雲井桜といふあり
瀧桜《たきざくら》
いかなれば水なき空の瀧《たき》桜花の波|立《たつ》三吉野の山 大納言雅章
雲井《くもゐ》桜
雲井桜は名におひて髙ねに見え侍りぬ
御階《みはし》さへおもひやられておなじ名の雲井に花もみよしのゝ春 大納言雅章
中院谷
源義經《みなもとのよしつね》身《み》をかくされし谷なりうへに山ぶしがくれ龍《りう》がへしなどゝいふ岩《いは》あり爰は佐藤忠信《さとうただのぶ》か手にかゝりて横《よ》川の覚範《かくばん》の討《うた》れける所也又|忠信《ただのぶ》ふせぎ矢《や》射《い》ける所は花|矢倉《やぐら》といふ也
世尊寺《せそんじ》
世尊寺《せそんじ》は炎上《えんしやう》の後《のち》形《かた》ばかりなる堂《だう》あり本尊《ほんそん》は釈迦如來《しやかによらい》狹侍《わきだち》は阿難《あなん》迦葉《かせう》なり抑《そも/\》釈迦如來《しやかによらい》は欽明《きんめい》天皇十四年五月|戊辰《つちのえたつ》朔《さく》河内《かはちの》國|泉郡《いつみのこほり》茅渟海《ちぬのうみ》中に梵音《のりのこゑ》いとひゞきて雷《らい》の声《こゑ》にやたぐへなんうるはしく照《てり》かゝやく事日の色《いろ》をあざむき侍るよし奏《そう》し奉る天皇あやしみおぼしめして溝邊直《すのべのあたひ》に勅《ちよく》して見せしめらるゝに直《あたひ》海《うみ》に入て見ぬれば樟《くすの》木のうかひて照《てり》かゝやくにぞありける則《すなはち》是をとりて奉りしかば佛つくりにおほせて佛像《ぶつざう》二はしらをぞつくらしめ給ふ今吉野寺に光をはなち給ふ樟《くすの》木の像《ざう》是なり【日本紀】欽明《きんめい》天皇十四年より延寶七年迄千百二十六年か
▲鐘《かね》あり銘《めいに》曰(く)保延《ほえん》五年|庚申《かのえさる》十二月三日|平朝臣忠盛《たいらのあそんたゞもり》と云々|保延《ほえん》五年より延寶七年迄凡五百四十一年か此所は天竺《てんぢく》霊鷲山《れいじゆせん》にひとしき靈地《れいち》にて侍るとかや
月清 鷲《わし》の山|御法《みのり》の庭《には》にちる花をよしのゝ嶺《みね》の嵐にぞ見る 後京極良經
鷲《わし》の尾《お》のかたはらに人丸の墳《つか》あり
子守社《こもりのやしろ》
籠守《こもりの》神は大宮三|座《ざ》住吉《すみよし》同躰《どうたい》なり【一宮記】炎上《えんしやう》の後|再興《さいこう》八十年以前也
草根 吹はらへ山は芳野《よしの》の秋|霧《きり》に子守《こもり》かつても見えぬ神風
三芳野《みよしの》の山ふところにおひたちて子守《こもり》の宮の花ぞことなる 大納言雅章
御子守《みこもりの》神
澄月歌枕《てうげつうたまくら》に御子守《みこもりの》神とかけりしからば子守《こもり》同社《どうしや》と見えたり然ども神名帳《じんみやうちやう》に吉野|水分神社《みこもりのじんじや》とあり文字《もんじ》によらば別宮か一|徃《わう》爰《こゝ》にあらはすかさねてあきらかにせらるべし
清少納言 もろこひに今はなるらん御子守《みこもりの》神のしるしはありとこそきけ 經家
新六帖 いかにして心の末《すゑ》をあらはさむかけてちかひし御子守の神 衣笠内大臣
子守の社を過て
高筭《かうざん》上人(の)遺像堂《ゆいざうだう》
高筭《かうざん》上人は後白《ごしら》川(の)院の御惱《ごなふ》を加持《かぢ》したち所に妙をあらはす又二月一日の花|供《く》懺法《せんぼう》は此上人のはじめられて今年に絶《たえ》ず
高城《たかき》山
俗に城《しろ》山といふ大塔《おほたうの》宮のこもらせ給ふ(292コマ)所とかや又つゝじが岡《をか》遙谷《はるかのたに》も此所也|忠信《たゞのぶ》虚腹《そらはら》を爰にしてきりけるとなん
万葉 三芳野の高城《たかき》の山に白雲はゆきはゞかりて棚《たな》引て所見《みゆ》 釈道観
拾玉 高き山ふかき谷にてあはれなれさならぬ人は音信もせず 慈鎮
躑躅岡《つゝじがをか》
躑躅岡《つゝじがをか》は名もしるく見え侍れば
折にあへば吉野の花もくれなヰのつゝしが岡の色にとられて 大納言雅章
遙谷《はるかのたに》
はるかの谷はふかき谷にて侍しも花にむもれぬるやうに見えぬれば
高ねより見ればはるかに谷の戸《と》も花にとぢたる三吉野の山 大納言雅章
岩倉《いはくら》谷
岩倉《いはくら》は宮古《みやこ》の東西南北《とうざいなんぼく》にはかならずあり【拾芥抄】しかあれども大和國は年久しく經《へ》ぬればにや其名によぶ山もしらず今|芳野《よしの》の皇居《くはうきよ》とて爰にのみのこれり古詠をもとめえず
金精《きんしやう》大明神
金精《きんしやう》大明神の垂跡《すいしやく》をしらず俗《ぞく》此山の金をまもらせ給ふ神なりといへり
是より一町ばかり過て蹴拔《けぬけ》の塔《たう》あり
安禅寺《あんぜんじ》
飯高《はんかう》山|安禅寺《あんぜんじ》寶塔《ほうたう》院|本尊《ほんぞん》は一丈の藏王|權現《ごんげん》又|役行者《えんのぎやうじや》の遺像《ゆいざう》を安置《あんち》せり
青根《あをねが》我|峯《みね》
安禅寺《あんぜんじ》のうへなる山は青根我峯《あをねがみね》なり
万葉 三芳野《みよしの》の青根我峯《あをねがみね》の苔《こけ》むしろ誰將織《たれかをりけん》たてぬきなしに
(293コマ)堀川太郎 さほ姫の遊《あそ》ぶ所は奥《おく》山の青根《あをね》が峯の苔のむしろは 公実
新撰和歌集 芳野川いはせの波による花や青根《あをね》が峯に消《きゆ》る白雲 頼政
安禅《あんぜん》院より三町ばかり右に行て奥院
奥院《おくのいん》四方|正面堂《しやうめんだう》は聖《しやう》観音菩薩|不動《ふどう》明王|愛染《あひぜん》明王|地藏菩薩《じさうほさつ》其|脇《わき》に蔵王堂《さうわうだう》
苔清水《こけしみづ》
西行上人の庵室《あんじつ》の跡とて草室《くさのしつ》にその遺像《ゆいざう》をすへたり
芳野《よしの》の苔清水《こけしみづ》にて
山家集 淺くともよしや又|汲《くむ》人もあらじ我事|足《たる》山の井の水 西行
未勘 とく/\と落る岩間《いはま》の苔清《こけし》水|汲《くみ》ほす程もなき住《すま》ゐかな 同
文治《ぶんち》の年《とし》西行法師河内のひろかはといふ山寺にてわつらふ事ありときゝていそぎつかはしたりしかばかぎりなくよろこびつかはして後《のち》すこしよろしとてとしのはての比京にのぼりてと申せし程に二月十六日になんかくれ侍りける彼《かの》上人|先年《せんねん》にさくらの哥《うた》おほくよみける中に【長秋詠藻】
おなじくは花の下《もと》にて春|死《し》なんそのきさらぎの望《もち》つきの比 西行
かくよみたりしをおかしく見給ひしことにつゐに二月十六日|望《もち》のひをはりとげけること哀《あはれ》にありがたくおぼしてかきつけける
ねがひおきし花の下《もと》にてをはりけり蓮《はちす》のうへもたがはざらなん 俊成
西行桜は此法師此山に三とせの間住ゐ(294コマ)せし所なりとかたりしかば花ちりなはとよみしことのはも此所ならんかし
花にいりておもひしられぬ吉野山やかていでしといひしことのは 飛鳥井雅章
青折嵩《あををりがたけ》といふなる所より道二つにわかれて左は西川《にじかう》の瀧への通路《つうろ》右は山上にのぼる道なり是より山上まては五|里余《りよ》の道にて侍るとかや
薢嶽《あさみがだけ》
薢嶽《あさみがだけ》に住《すみ》おはせし良※〔竹/弄〕《れうさん》上人は関東《くはんと》の人なり法花|讀誦《どくじゆ》して身は水の淡《あは》よりもやすく命《いのち》は朝露よりもかろくこそおもはれけれ鬼神《きじん》來りて果蓏《くはら》を供《くう》じ天女ま見えて礼拜をなして飛《とび》かへる臨終《りんじう》の時いとよろこふけしき※〔貌の旁〕にあらはるゝ或《ある》人あやしやともひぬるはいかなればかくは笑《ゑみ》給けるぞや上人|垢穢《くゑ》の躰《たい》を捨《すて》て妙淨《みやうじやう》の階《かい》にのぼるよろこびずやはあらじといひはてゝぞをはりをとりける【釈書】
万葉 和射美能嶺《あざみのみね》行過て降《ふる》雪のうとみもなしとまうせその児《こ》に
海峯寺《かいほうじ》
海峯寺《かいほうじ》此所をしらず廣恩《くはうをん》法師の住居《すみおは》せしよしくはしく釈書《しやくしよ》に見えたり
堂原寺《だうけんじ》
堂原寺《だうけんじ》此所をしらず昌泰《しやうたい》四年八月天|台《だい》の沙門《しやもん》吉野|堂原寺《だうけんじ》のほとりにして仙術《せんじゆつ》をえて天に飛行《ひぎやう》せしよし帝王編年記《ていわうへんねんき》に身(295コマ)えたり
▲吉野山の麓に都藍尼《とらんに》といふ女仙《によせん》あり金峯山《きんぶせん》は黄金《わうごん》の地《ち》にして藏王|權現《ごんげん》是をまもり給ひて女人をのぼらしめ給はず我女人ながら仙術《せんじゆつ》をえたりいかでかのぼらずはあらんやとて大峯|苦行《くぎやう》の道にかゝる俄に神なり雨ふり風しきりにして通路《つうろ》をうしなへりそこにして杖《つえ》をぞすてたりけるその杖《つえ》枝葉《しえう》をなし大木となる又|咒《しゆ》をとなへて龍《りう》をよぶ龍《りう》來りぬればそれにうち乘《のり》て行しが爰にいたりて龍《りう》もすゝみえざれば都藍尼《とらんに》つぶやきながらいかりて巖《いはほ》をふみぬればくぼみ蹴《け》ぬればやぶれてみぢんになる龍《りう》は終《つゐ》に池《いけ》にぞ入にき【釈書】もし爰のほとりににや侍りなむしらず
是より山上大峯の秘所《ひしよ》あまた所ありとかや人さらにかたりつたへざればましてしらず
蟻門渡《ありのとわたり》
山家集 笹《さゝ》ふかみきりこすくきを朝《あさ》立てなびき煩ふ蟻《あり》の門《と》わたり 西行
天《あまの》川
長秋詠藻 吉野山花やちるらんあまの川雲のつゝみをくずす白波 俊成
卒都婆《そとは》
平等院《びやうどうゐん》の【行尊】名かゝれたる卒都婆《そとは》に紅葉のちりかゝりけるを見て花より外のとありけむ人ぞかしとあはれにおぼえてよみける
山家集 哀《あはれ》とも花見し嶺《みね》に名をとめて※〔木+色〕《もみぢ》ぞけふは共にちりける 西行
山上 寺領千拾三石
(296コマ)山上|藏王堂《ざうわうだう》夫《それ》藏王|權現《こんげん》は役優婆塞《えんのうばそく》金峯《きんぶ》山に一千日こもりて生身《しやうじん》の薩※〔土+垂〕《さつた》をいのり給ひしに地藏尊の形《かたちち》まづ地《ち》より涌出《ゆじゆつ》し給ふ是|優婆塞《うばそく》の心にかなはぬよしあれば地藏は伯耆《ほうき》の大山に飛《とび》さり給ひき其後|大勢《だいせい》忿怒《ふんぬ》の形《かたち》をあらはし右の御|手《て》には三|鈷《こ》をにぎり臂《ひぢ》をいらゝげ左の御手には五|指《し》をもつて御|腰《こし》をおさへ給ふ一|睨《にらみ》大にいかりて魔障降伏《ましやうかうぶく》の相《さう》をしめし兩|脚《きやく》高くたれて天|地《ち》の經緯《けいい》をあらはし給へり示現《じげん》の貌《かたち》よのつねの神にかはり給へり【太平記】此時人王二十九代|宣化《せんくは》天皇三年にあたり優婆塞《うばそく》とし六十五なりならびに十五|童子《とうし》涌出《ゆじゆつ》あり其八大童子を大峯にをくる其所は【禅師宿 多輪宿 笙岩屋 篠宿 玉來宿 深山 水飲 吹越】七大童子をかづらきの峯にをくらるゝ是より涌出《ゆしゆつ》の嶽《だけ》とはいふ也【酉(譽脱か)曼陀羅抄】それより尊像《そんざう》を錦帳《きんちやう》の中に鎖《とざ》され其|涌出《ゆじゆつ》の躰《てい》を秘《ひ》せんがために優婆塞《うばそく》と天|暦《りやく》の帝《みかど》【村上】とをの/\手づから二|尊《そん》を作りそへられ三尊を安置《あんち》し奉給ふ惡愛《をあひ》を六十余洲にしめして彼《かれ》を是《ぜ》し此《これ》を非《ひ》し賞罸《しやうばつ》を三千|世界《せかい》にあらはして人を悩《なやま》し物を利《り》しすべて神明權迹《しんめいごんせき》をたれて七千|余座《よざ》の利生のあらたなるを論《ろん》ずれば無二亦無《むにやくむ》三の霊験《れいけん》なり【太平記】
▲鐘《かね》あり鐘樓《しゆろう》もなく堂《だう》の縁《えん》にすへ置たり(297コマ)其|鐘《かね》の銘《めいに》曰(く)遠江《とをとふみの》國|佐野郡《さのゝこほり》原田庄《はらだのしやう》長福寺《ちやうふくじ》天慶《てんけい》六年七月二日と云々延寶七年迄凡七百三十七年か
此所に二つの道あり南に向《むか》ふは大峯の通路《つうろ》西に行は天川《てんのかは》の通路|小篠《をざゝ》へ一里ばかり
小篠《をざゝ》
小篠《をざゝ》のとまりと申所にて露しげかりければ
山家集 分きつる小篠《をざゝ》の露にそほりつゝほしぞわづらふ墨染の袖 西行
篠宿《さゝのしゆく》
さゝのすくにて
山家集 庵《いほり》さす草《くさ》の枕《まくら》に友《とも》なひて篠《さゝ》の露にも宿《やど》る月哉 西行
小池宿《こいけのしゆく》
小池と申すくにて
同 いかにして梢《こすゑ》の隙《ひま》をもとめえて小池に今宵《こよひ》月のすむらん 西行
へいぢの宿
へいちと申すくにて月を見けるに梢《こすゑ》の露のたもとにかゝりければ
同 梢《こずゑ》なる月も哀《あはれ》をおもふべし光《ひかり》にぐして露のこほるゝ 西行
古屋宿《ふるやのしゆく》
ふるやと申すくにて
山家集 神無月|時雨ふる屋にすむ月はくもらぬ影《かげ》もこのまれぬ哉 西行
姨捨峯《をばすてのみね》
をばすての嶺《みね》と申所の見わたされておもひなしにや月ことに見えければ
(298コマ)山家集 姨捨《をばすて》はしなのならねどいづくにも月すむ峯の名にこそ有けれ 西行
拾遺愚草 三芳野や姨捨《をばすて》の山の春秋もひとつにかすむ雪の明ほの 定家
千種嶽《ちくさのだけ》
ちくさのだけにて
山家集 分て行《ゆく》色のみならず梢《こずゑ》さへちくさのだけは心そみけり 西行
東屋《あづまやの》峯
あづま屋と申所にて時雨《しくれ》の後月を見て
山家集 神無月時雨はるれば東屋《あつまや》の峯にぞ月はむねとすみける 西行
屏風立《ひやうぶたて》
行者歸《ぎやうじやかへり》
児留《ちごとまり》
行者《ぎやうじや》がへり児《ちご》どまりにつゞきたるすくなり春の山伏は屏風《ひやうぶ》だてと申所をたいらかにすぎん事をかたくおもひて行者《ぎやうじや》ちごのとまりにてもおもひわづらふなるべし
山家集 屏風にや心を立ておもひけん行者《ぎやうじや》はかへり児《ちご》はとまりぬ 西行
三重瀧《さんじうのたき》
三重の瀧おがみけるにたうとく覚て三|業《ごう》のつみもすゝがるゝ心地しければ
同 身《み》につもることばの罪《つみ》もあらはれて心すみぬる三かさねの瀧 西行
轉法輪嶽《てんぼうりんのだけ》
轉法輪《てんぼうりん》のだけと申所にて釈《しや》迦の説法《せつほう》の座《さ》のいしと申所をおかみて
同 爰こそは法《のり》とかれたる所よと聞《きゝ》さとりをもえつるけふかな 西行
釈迦嶽《しやかがだけ》
釈迦嶽《しやかがだけ》又|轉法輪嶽《てんぼうりんのだけ》とは同山|異名《いみやう》にはあらずや(299コマ)釈迦《しやか》の嶽《だけ》の濫觴《らんしやう》をしらず
神仙《じんぜん》
大峯の神仙と申所にて月を見てよめける
山家集 ふかき山に住《すみ》ける月を見ざりせばおもひでもなき我身ならまし 西行
笙窟《しやうのいはや》
大峯の笙《しやう》の岩屋《いはや》にてよめり
金葉集 草の庵《いほり》何《なに》露せしとおもひけむもらぬ岩屋も袖はぬれけり 僧正行尊
みだけの笙《しやう》の岩屋《いはや》にこもりてよめり
新古今 寂寞《さゝまく》の※〔草がんむり/毎〕《こけ》の岩屋《いはや》のしづけきに涙《なみだ》の雨のふらぬ日ぞなき 日藏上人
みだけよりさうの岩屋へまいりたりけるにもらぬ岩屋もとありけむおりおもひ出られて
山家集 今宵《こよひ》こそ哀《あはれ》もあつき心地《こゝち》して嵐《あらし》の音をよそに聞《きく》かな 西行
▲笙窟《しやうのいはや》は日藏《にちざう》上人こもり給ひし所也はじめは芳野《よしの》山|椿山寺《ちんせんじ》にをこなひゐ給けるが後《のち》は笙窟《しやうのいはや》に入無言断食《むごんだんしき》にして三七日をかぎり密供《みつくう》をぞ修《しゆ》せられけるが天慶《てんけい》四年八月一日|舌《した》燥《かはき》氣《き》塞《ふたかり》終《つゐ》に息《いき》絶《たえ》たりしかありしに一人の和尚來り日藏をいざなひまづ藏王菩薩の金峯《きんぶ》山の淨土《じやうど》を見せしめしかのみならず日藏|九九年月王護《くくねんげつわうご》の短札《たんさつ》を給ふ又|菅丞相《かんしようしやう》にま見え奉りてかの短札《たんさつ》八|字《じ》の註釈《ちうしやく》をうけ給りしより道賢《だうけん》の旧名《きうみやう》をあらため日藏とぞ名《な》をつかれける又|地獄《ぢごく》のやうなどを見せらるるに鐵窟《てつくつ》に人ありていはく我は是大日本國|主《しゆ》金剛覺大王《ごんがうかくだいわう》の子なり菅丞相《かんしようじやう》配流《はいりう》の(300コマ)うらみふかく佛寺《ふつじ》を燒《やき》有情《うじやう》を害《かい》せり其|重罪《じうざい》我《わが》身《み》にうけてやるかたなし汝《なんじ》本國《ほんごく》にかへりて一万の卒都婆《そとは》をつくり供養《くやう》して我《わが》苦患《くげん》をたすけよとの宣下《せんげ》をうけ給はる【釈書】又|都卒内院《とそつのないゐん》を見めぐり聖衆《しやうじゆ》の妓樂《ぎがく》をきく【盛衰記】終《つゐ》に十三日を經《へ》て蘇生《そせい》したり其後かの都卒内院《とそつのないゐん》の樂《がく》を和朝《わちよう》につたへて見佛聞法樂《けんぶつもんほうがく》と号《かう》す又の説《せつ》にかの樂《がく》はもろこしよりつたへぬる曲《きよく》なりともいへり日藏上人は朱雀院《しゆしやくゐん》の御子なり【盛衰記】かの上人爰の岩屋《いはや》にをこなひ給ひける比《ころ》にやありけむ鬼神《きじん》來りて手をつかねて申やう我《われ》人界《にんかい》にありし時遺恨《いこん》によりて鬼《おに》の身《み》と成て四五百|歳《さい》を經《へ》たり其かたきの末/\まで今|根《ね》を斷《たち》たりかゝる心のつかずは極樂《ごくらく》又は天上にも生《うま》れなんものを無量億功《むりやうおくこう》の苦《く》をうくるかなしやといひもはてぬにほのほもえ出て山の奥《おく》にぞ入けり其|後《のち》上人はかのつみほろぶべき事どもさま/\にこそとふらひ給ひけれ【宇治拾遺】
大峯《おほみね》
大峯にて
金葉 もろ共に哀《あはれ》とおもへ山桜花より外にしる人もなし 僧正行尊
修行《しゆぎやう》し侍りけるに大峯にて
玉葉 時雨ふる外《と》山のすゑは晴《はれ》やらで雲のうへ行《ゆく》峯の月影 僧正教範
山上より原《はら》八十町をくだりぬれば蟷螂《とうろふ》か岩屋を見て泥《どろ》川にいたる大峯|修行《しゆぎやう》の人の(301コマ)旅館《りよくはん》なり
天川白飯寺《てんのかははくはんじ》
琵琶《びは》山|白飯寺《はくはんじ》は役行者《えんのぎやうじや》大峯の道をひらきなんとて先此山にして霊験《れいけん》をいのり給ひしに山に冷水《れいすい》湧《わき》ながれ神霊《しんれい》圓光《えんくはう》をかゝやかす廟《びよう》には琵琶《びは》の響《ひゞき》ありて人心の迷雲《めいうん》を拂《はら》ひしより琵琶《びは》山と号《かう》せり其後|弘法《こうぼう》大師の千日のをこなひには弁才天女《べんざいてんによ》現《げん》じ給ひしかばその尊像《そんざう》をきざみ神霊《しんれい》をおさめられき今の本尊是なり弘法大師|伽藍造営《がらんざうゑい》より凡八百歳|霊験《れいけん》日々に威《い》をまし利益《りやく》夜々《やや》に徳《とく》をぞあらはしける【勸進帳】
▲好色《こうしよく》の先達《せんだち》業平朝臣《なりひらあそん》芳野《よしの》の川上の石窟《いはや》天《てんの》川といふなる所にて入定《にうでう》ありと縁起《えんぎ》に見え侍るよし河海《かがい》抄にあり廟《びよう》といふは入定《にうでう》の地にや
丹生《にふ》山
此山は下市《しもいち》村の西にあり丹生《にふ》川はそれよりながれ出て芳野川に落ゆく
万葉 斧《をの》とりて丹生《にふ》の檜《ひ》山の木こりきて機尓作二梶貫礒榜回乍嶋《ふねにつくりてまかぢぬきいそこぎたみつゝしま》づたひ見れ共あかず三吉野の瀧とゞろきおつるしら波
草根 丹生の山氷をたゝく川波も月のかつらをきるかとぞきく
同 ねをさしてきらぬたつ木もあれぬべし水の金ほる丹生の杣山
名寄 五月雨に丹生《にふ》の川|瀬《せ》の杣《そま》くだしひかぬによするきさの山ぎは
丹生《にふの》社
(302コマ)丹生《にふの》明神一|座《ざ》あり延喜式神名帳《えんぎしきじんみやうちやう》に芳野《よしのゝ》郡丹生《にふ》の川上(の)神社《じんじや》とあれば尤一|座《ざ》と見えたり然とも三|代實録《だいじつろく》にお大和國|丹生《にふの》川上七|社《しや》に奉幣《ほうへい》のよし見え侍るかさねてあきらかにせらるへし
▲丹生社《にふのやしろ》は罔象女《みつはめの》神也|伊弉並尊《いざなみのみこと》軻遇鎚《かぐつち》のためにやかれて終《さり》給ひぬ其さりなんとし給ふの間に土《はにの》神|埴《はに》山|姫《ひめ》およひ水神|罔象女《みつはめ》をうみ給ふ【日本紀】
▲此|社《やしろ》に雨を乞《こひ》霖雨《りんう》をやめさせ給へとの勅使《ちよくし》をたてられし事|古《ふる》き文どもにあまた度《たび》見えたり
▲人王四十代|天武《てんむ》天皇|白鳳《はくほう》四年に垂跡《すいしやく》それより延寶七年迄凡九百七十四年か
▲神武《じんむ》天皇の御|宇《う》に兄磯城《えしき》といふ賊《あた》ありけるが軍を磐余《いはれ》のむらにそなへて道をふせぎし程《ほど》にみかどの軍《いくさ》とをりぬべき道なし神武《じんむ》天皇こよひみづから天《あま》の神にいのりまし/\ぬれば瑞夢《ずいむ》あり弟猾《おとうげし》奏《そう》し奉るやまとの國|磯城《しき》のむら又|髙尾張《たかおはり》のむらに八十梟師《やそたける》【兼方曰凶黨八十人】ありみかどとふせぎたゝかひなんとおもふわれ天香《あまのかぐ》山の土をとりて天平瓫《あまのひらか》【兼方曰平賀者盛2供神物1之土器也】として天津《あまつ》やしろ國津《くにつ》やしろをまつらんしかあらば賊《あた》をやすくしたがへむ天皇御|夢《ゆめ》のをしへにたかはざりし程《ほど》に御心によろこび給ひて推根津彦《しゐねつひこ》をおきなのかた(303コマ)ちにつくり弟猾《おとうけし》を女おきなのすがたになして天香《あまのかく》山の土をとり來れすなはちふたりまかりしに賊軍《あたいくさ》どもかのすがたを見て大《おほきに》わらひあれ見にくやといひて道をさりて通らせけり山にいたりて土をとりかへりぬその土にして八十平瓫《やそひらか》天《あま》の手杖《たくしり》八十枚嚴瓫《やそていそへ》を【兼方曰天者例文手者以v手作2土器1之義扶者玉篇排戰也云々可2戰勝1之象造2于土器1祭2諸神1之義也兼方曰嚴(ハ)重之義瓫者土瓶也今世神今食新甞祭等供2神物(を)1陶器《すゑつきの》土器此同縁也凡嚴瓫者祭v神之土器之惣名也】つくりて丹生《にふ》の川上にのぼりまして天神地神《あまつかみくにつかみ》をいはひまつり給ふ莵田《うだ》川の朝原《あさはら》にしてちかひ給ふ我今|八十瓫《やそひらか》をもつて水もなしに飴《たかね》【和名抄曰阿女】をつくらん飴《たかね》ことなりなば吾《われ》かならず天下《あめがした》をしたがへなんすなはちつくり給ふにことなりぬ又|嚴瓫《いつへ》を丹生《にふ》の川にしづめんにもし魚《うを》の大小となく醉《えひ》てながれん事たとへば柀《まき》の葉《は》のうかひながれんごとくあらば吾かならず此國をさだめんとちかひ給ひて瓫《いつへ》を川にしづめさせ給ふに其川|下《しも》にむかひしばらくありて魚《うを》みなうかひ出《いで》にき推根津彦《しゐねつひこ》うかべる魚《うを》を見てかくと奏《そう》し奉るに天皇|大《おほき》によろこび給ひて丹生《にふ》の川上の五百箇真坂木《いをかまさかき》をねこしにしてもろ/\の神をいはひ給ひしよりはじめて嚴瓫《いつへ》の置《おきもの》あり【日本紀】
天野丹生《あまのにふの》神
天野丹生都姫《あまのにふのつひめ》は天照太神也やまとの國(304コマ)丹生《にふ》川の末にいます故《ゆへ》に丹生都姫《にふつひめ》と号《かう》せり
国樔《くず》
今一|郷《がう》の名によぶなり
国樔《くず》の翁《おきな》は心いとすなほにしおて山の菓《このみ》をとりくひ蝦蟆《かへる》を煮《に》てよきあぢはひとおもひ名づけて毛瀰《もみ》とぞいひける国樔《くず》がすめる所はみやこの巽《たつみ》山おほくへだてゝ吉野の川上の峯さかしく谷ふかうして道いとせばくさがしかりければみやこにまうでくる事もまれにぞ侍る應神《おうじん》天皇十九年十月一日吉野の宮に行幸なり給ふには国樔《くず》人|三寸《みき》を奉りて歌うたふ
かしのふに【所名也】よこすを【横臼也畧v宇】つくり【造也】よこすに【横臼也】かめる【醸也】おほきみ【御酒也】うまらに【甘也】きこしもちて【聞持也謂聞食也】をせ【飲也】うまがち【丸父也】となんうたひをはりて口うちてあふのきわらへり又|土毛《くにもの》を奉る日に歌うたひをはりて口うちてあふのきわらふ是は国樔《くず》がいにしの遺則《のり》なり是より參赴《まうきて》土毛《くにもの》奉りき其くにのものは粟《あは》菌《くさびら》ならびに年魚《あゆ》のたぐひなり【日本紀】代々を經《へ》て浄見原《きよみはらの》天皇大|伴《どもの》皇子に襲《おそは》れて芳野《よしの》の奥《おく》の岩屋《いはや》の中に御|身《み》をかくさせ給ひしには国樔《くず》の翁《おきな》粟《あは》の御料《ごれう》にうぐひといふめる魚をそへて供御《くご》に奉りしかば朕《ちん》帝位《ていゐ》にのぼらは翁《おきな》と供御《ぐご》とをめされなんとおぼしめされけるより此かた元(305コマ)日の御|祝《いはひ》には国樔翁《くずのおきな》まいれり桐竹《きりたけ》に鳳凰《ほうわう》の装束《しやうそく》を給はりて舞けるとかや豊明《とよのあかり》五節《ごせつ》にも此翁まいりて粟《あは》の御料《ごれう》にうぐひの魚《うを》を御|祝《いはひ》に奉る殿上《てんじやう》より国栖《くず》とめされぬれば声《こゑ》にて御こたへも申さず笛《ふえ》を吹てまいるなり此翁まいらぬには五節《ごせち》も始《はしま》る事なしとなり【盛衰記】
現存六帖 遠津川《とほつかは》芳野《よしの》の国栖《くず》のいつしかとつかへぞまつる君の始《はじめ》に
賀名生《かなふ》
賀名生《かなふ》は天《てんの》川の奥なり後醍醐《ごだいご》天皇|宮古《みやこ》を落させ給ひて御|身《み》をかくさせ給ふ所のよし太平記にくはし
銀嵩《かねがだけ》
銀《かね》がだけは南にして金か嶽《だけ》は北にあり
賀名生《かなふ》の奥《おく》銀《かね》が嶽《だけ》といふ山にして吉野の将軍《しやうぐん》の宮《みや》合戦《かせん》のよし太平記に見えたり
十津《とつ》川
十津《とつ》川の温泉《いでゆ》は縁起《えんぎ》二通あり是をもとめえざれば濫觴《らんしやう》をあらはさずむかし大塔二品親王《おほたうにほんしんわう》山|臥《ぶし》のかたちにておちさせ給ひて十津川に御|着《つき》おはしまして竹原《たかはら》八郎入道の甥《をひ》に戸野《とのゝ》兵衛といひし人の家にしばらく入せ給ふよし太平記にくはしその末葉《ばつえう》今の世にもあり
現存六帖 遠津川芳野の国栖《くず》のいつしかとつかへぞまつる君の始《はじめ》に
夫木 三芳野の山のあなたの十津川のいづみの原も哀《あはれ》浮世を 公頼
(306コマ) 湯原《ゆはら》
湯原《ゆはら》類字《るいじ》名所に大和國にあり十津川の温泉《いでゆ》にこそ侍らめ爰を吹田《すいた》といふにやしらず
吹田《すいた》の温泉《いでゆ》にて靏の鳴を聞て
類字名所玉葉集 湯の原に鳴《なく》芦《あし》たつはわがごとく妹《いも》にこふれや時わかず鳴 大納言旅人
泉杣《いつみのそま》
八雲《やくも》御抄に大和國とあり古詠に十津川の泉《いつみ》の原《はら》とあり是によりて一|徃《わう》しるすかさねてあきらかにせらるへし
壬二 杣《そま》人のくだす宮木《みやぎ》も泉《いつみ》川霞ながらも春はながるゝ 家隆
白川殿七百首 日にそへて水も泉《いつみ》の杣《そま》川に宮木《みやぎ》を流《なが》す五月雨の比 師繼卿
龍門寺《りうもんじ》
芳野《よしの》郡|宇陀《うだの》郡の境《さかひ》にあり礎《いしずへ》のみ
龍門寺《りうもんじ》は義渕《ぎいん》僧正の構造《かうざう》なり【釈書】
龍門《りうもん》の瀧《たき》を見てよめる
古今 たちぬはぬ衣《きぬ》きし人もなき物を何《なに》山|姫《ひめ》の布《ぬの》さらすらん 伊勢
ふぢ井のともなが龍門《りうもん》より給はりける歌《うた》の返事によめるかの家の集にあり
名寄 雲と見え人まどはすは流出し龍《たつ》の門《かど》より來《きた》る水かも 素性法師
是は大和|龍門寺《りうもんじ》の瀧にてよめるなり彼《かの》寺には仙窟《せんくつ》の洞《ほら》ありむかし仙人|住《すみ》しより龍門《りうもん》の仙《せん》といひつたへたり【顕注密勘】
弓絃葉三井《ゆづるはのみゐ》
八雲《やくも》御抄に大和國にあり
(307コマ) 吉野の宮に行幸《みゆき》し給ふ時
万葉 いにしへにこふる鳥かも弓絃葉《ゆづるは》の三井の上より鳴わたりゆく 弓削皇子
安騎野《あきの》
仙覺《せんがく》抄大和國芳野山のかたにありと云々
万葉 あきの野《の》に宿《やど》る旅《たひ》人うちなひきいもねこしやもいにしへおもふに
東野《あつまの》
言塵集《げんぢんしう》にいはく此|東野《あづまの》は芳野《よしの》の安騎《あき》の内と云々|藻塩《もしほ》草に吾妻野《あづまの》安騎野《あきの》同名あきのをのともよめり
万葉 東《あつま》野の煙《けふり》のたちし所にてかへり見すれば月かたふきぬ
寶治百首 東野の露わけ衣はる/\ときつゝ都《みやこ》を戀《こひ》ぬ日はなし 教定
爲尹千首 吾妻野《あづまの》の空《そら》には雲の晴ぬれと袖にしらるゝ萱《かや》か下露
御垣原《みかきがはら》