林宗甫、和州舊跡幽考(国書データベース)、引用和歌の部分は間違いと思われるものが時々ある、〔〕に正しいものをいれたのもあるが、煩雑な場合はそのままにした。〕

 

(262コマ)和州舊跡幽考目録
   第十一卷芳野郡
吉野《よしの》山

金御嶽《かねのみだけ》

青垣《あをかき》山

耳我嶺《みゝかのみね》

芳野《よしの》川

大臺原《おほだいがはら》

宮《みや》川

投地蔵堂《なげじざうだう》

南帝王《なんていわうの》社

蜻蛉小野《かげろふのをの》

蜻小野《かたちのをの》

秋津野《あきつの》

吉野皇居《よしのくはうきよ》

瀧御門《たきのみかど》

玉水瀧宮古《たまみづたきのみやこ》

瀧浦《たきのうら》

(263コマ)多藝津河内《たきつかうち》

遊副《ゆふ》川

三舩《みふね》山

西川瀧《にじかうのたき》

夏箕《なつみ》川

吉魚張《ふなはり》

浪柴野《なみしばの》

司馬野《しばの》

宮瀧《みやだき》 付 岩飛《いはとびの》事

清川原《きよかはら》

日晩野《ひぐらしの》

妹背《いもさえ》山

象小川《きさのをがは》

桜木宮《さくらぎのみや》

象《きさ》山

猪養《ゐがひ》山

本善寺《ほんせんじ》

六田淀《むつだのよど》

雙墓《ふたつつか》
今|來《き》寺 付 一|木桜《きのさくら》

四手掛《しでかけの》社

水|分《わけ》山

比蘓《ひそ》寺 付 再興《さいこうの》事

松山御|茶屋《ちやや》

千本桜 付 桜|苗賣《なへうりの》事○山(の)花|園《その》谷《たにの》桜田隱松《かくれまつ》○山(の)(の)

藤尾坂《ふぢおざか》

金(の)鳥居《とりゐ》

藏王堂《ざうわうだう》

四本《よもとの》桜

威徳天神《いとくてんじんの》社 付 狛犬《こまいぬ》啖合《かみあふ》事塔成就《たうじやうじゆの》事

金御嶽《かねのみだけ》

實城寺《じつじやうじ》 付 茶入《ちやいれの》事

朝原《あさはら》

吉水《よしみづ》院

左抛《さなぎ》明神(の)社

勝手《かつて》明神(の)社

(264コマ)袖振《そでふり》山

如意輪寺《によいりんじ》

後醍醐《ごたいごの》天皇(の)陵《みさゞき》

椿山寺《ちんせんじ》

布引桜《ぬのびきざくら》

夢違《ゆめちがひの》觀音

瀧桜《たきざくら》

雲井桜《くもゐざくら》

中院谷

世尊寺《せそんじ》 付 樟木像《くすのきのざう》○鐘銘《かねのめい》○霊鷲山《れうじゆせん》人丸(の)墳《つかの》事
子守《こもり》明神(の)社

御子守《みこもりの》神

高筭《かうざん》上人|遺像堂《ゆいざうだう》 付 花供懺法《はなくせんぼうの》事

高|城《き》山

躑躅岡《つつじのをか》

遙《はるかの》谷

岩倉《いはくらの》谷

金情《きんしやう》大明神

安禅寺《あんぜんじ》

青根我峯《あをねがみね》

苔清水《こけしみづ》 付 西行桜(の)事

薊嶽《あざみのだけ》 付 良筭《れうざん》上人(の)事

海峯寺《かいほうじ》 付 廣恩法師《くはうをんほうしの》事

堂源寺《だうげんじ》

蟻門渡《ありのとわたり》

天《あまの》川

率都婆《そとは》

山上《さんじやう》 付 鐘銘《かねのめいの》事

小篠《をさゝ》

篠宿《さゝのしゆく》

小池(の)宿《しゆく》

へいぢの宿《しゆく》

古屋宿《ふるやのしゆく》

姨捨峯《おばすてのみね》

(265コマ)千種嶽《ちくさのだけ》

東屋峯《あづまやのみね》

屏風立《びやうぶたて》

行者歸《ぎやうじやかへり》

児留《ちうごどまり》

三|重瀧《じうのたき》

轉法輪嵩《てんぼうりんのだけ》

釈迦嶽《しやかのだけ》

神仙《じんせん》

笙窟《しやうのいはや》 付 日藏《にちざう》上人

大峯《おほみね》

天野《てんの》川|白飯寺《はくはんじ》 付 業平朝臣入定《なりひらのあそんにうでうの》事

丹生《にう》山

丹生《にふの》社

天野丹生《あまのにうの》神

國樔《くず》 付 國樔翁《くずのおきなの》事

賀名生《かなふ》

銀嵩《かねがだけ》

十津《とつ》川 付 温泉《いでゆの》事

湯原《ゆはら》

泉杣《いつみのそま》

龍門寺《りうもんじ》

弓弦葉三井《ゆづるはのみゐ》

安騎野《あきのの》

東野《あづまの》

御垣原《みかきのはら》

大峯開基《おほみねかいき》 付 役小角《えんのせうかくの》事

延喜式神名帳《えんぎしきじんみやうちやう》

 

(265コマ)和州舊跡幽考第十一卷
    吉野《よしの》郡

西南は紀伊《きいの》國をさかひとし東《ひかし》は伊勢《いせの》國につゝく凡大和一ケ國は三つが二つ此郡なり
    吉野《よしの》山
芳野《よしの》山は七|高《かう》山の其一つなり【拾芥抄】あるひは金御嶽《かねがみだけ》又は金峯山《きんぶせん》又は国軸《こくぢく》山ともいへり抑《そも/\》吉野《よしの》山は日藏《にちざう》上人の傳《でん》には天竺《てんぢく》佛生國《ぶつしやうこく》のたつみ闕《かけ》ながら飛《とび》來りて此山となる《袖中抄》又もろこしの五|臺《だい》山の岸《きし》の端《はし》かけて雲にのりて飛《とび》來るともいへり江《えの》中|納言《なごん》のみだけの御塔《みだう》の御|願文《ぐはんもん》にもかくとこそ記《しる》され(267コマ)たれ又|貞崇禅師《ていしゆぜんし》はもろこしに金峯山《きんぶせん》とて金剛藏王菩薩《こんがうざうわうぼさつ》の住《すみ》おはせし山あり其山|日本國《につほんごく》に飛《とび》來りて金峯山《きんぶせん》となるといへり【袖中抄】

貞觀《ぢやうぐはん》元年の秋|螟螣《おほゐむし》といふ虫《むし》五穀《ごこく》をくひやぶる事たとへていふにもたらずしかあれば藤原朝臣山蔭《ふぢはらのあそんやまがけ》滋岳朝臣川人《しげをかのあそんかはうど》等《とう》宣旨《せんじ》をうけ給りてかの虫《むし》をはらひやるまつりをなすかの祭礼《さいれい》は清浄《しやうじやう》の地《ち》をえらぶの旧例《きうれい》なれば芳野郡《よしのこほり》の高山《かうざん》にして是ををこなへり同五年二月にも芳野郡《よしののこほり》高山《かうざん》にして祭《まつる》よし三代|実録《じつろく》に見えたり
万葉 三芳野《みよしの》の山下風の|寒《さむ》けくに爲當《はた》や今宵《こよひ》も我|獨《ひとり》ねん

信明歌集 行年《ゆくとし》の越《こえ》ては過《すぎ》ぬ吉野山いく万代《よろづよ》のつもりなるらん

忠見歌集 霞たつ吉野の山を越くれば麓《ふもと》は春のとまり也けり

堀川二郎 花と見て尋きつれば吉野山人ばかりなる峯のしら雲 大進

同 みつきもの君が御代には吉野山よし心見よ絶やしけると 忠房

遠嶋御歌合 山城のみづ野のまこもかり初《そめ》に御吉野の山を戀わたる哉 基家

建仁元年八月十五夜哥合 芳野山すゝ〔篠《すず》か〕吹みだる秋風にたれしのべとて有明の月 宮内卿

新撰和歌集 冬の夜は消《きゆ》るにしるしみよしのゝ山の初《はつ》雪今ぞふるらし 御製

後京極百番歌合 春は皆同し桜に成|果《はて》て雲こそなけれみよしのゝ山

拾玉 いかにして二《ふた》つの山に家居《いゑゐ》せむ春は三吉野秋はをばすて 慈鎭

同 人のすむやまとは花の国なれや三吉野の山をはつせの山 

壬二 ふじのねも匂ひはあらし吉野山花の盛《さかり》につもるしら雪

山家 木の下のたびねをすれば吉野山はなのふすまをきする春風 西行

寂然集 吉野山花咲ぬれはあちきなく心にかゝる峯のしら雲

(268コマ)北院御室御集 吉野山うき世の外にのがれ來て中/\花に心とめつる

    金御嶽《かねのみたけ》

御《み》かねが嵩《だけ》又こかねの峯《みね》又|御《み》たけなどともよめり源氏《けんじ》物かたりにみだけさうしともかけり

金峯山《きんぶせん》は皆《みな》黄金《わうごん》なり慈尊出世《じそんしゆつせ》の時|閻浮提《えんぶだい》の地《ち》にのへ敷《しき》なんとて藏王權現《ざうわうごんげん》のまもらせ給ふと也【拾介抄】むかし宮古《みやこ》の七|条《でう》にはくうちありみたけにまうでゝかなくづれを行《ゆき》て見れは金《こかね》のやうにてありけりいとうれしくて袖《そで》につゝみて家《いゑ》にかへりはくにうちぬる程《ほど》に七八千まひにぞなりける其|比《ころ》検非違使《けびいし》なる人東大寺の佛つくらむとておほくのはくをもとめけるありそれがもとに行《ゆき》てかのはくを賣《うり》けりかぞへなんとてひろげぬれば細字《さいじ》にて金嶽《かねがだけ》/\とこと/”\くにかきつけたりいかなる事にかあなるとて帝《みかど》に奏《そう》しけれははくうちをめしてせめごうしてとはせ給へばしか/\とこたふわづかに十日ばかりありてぞ死《し》ける薄《はく》は金峯《きんぶ》山にぞ返《かへ》し給ひけりとなり【宇治拾遺】されば又|聖武《しやうむ》天皇の御宇に良弁僧正《らうべんそうじやう》此山の金《こがね》を得なんと金剛藏王《こんがうざわう》にいのられしかども神《かみ》是をゆるし給はずと釈書《しやくしよ》に見えたり

万葉 三吉野《みよしの》の御金嵩《みかねがだけ》にひまなくぞ雨はふるといふ時なくぞ雪はふるといふ 末畧

方与集 朝もよひ紀《き》の川上を見渡《みわた》せば金御嶽《かねがみだけ》に雪ふりにけり 顕昭

(269コマ)夫木 神のますこがねの峯はのりときし鷲《わし》のみやまの跡《あと》とこそきけ 信實

    青垣《あをかき》山

さして所をいふへきにあらず或《ある》人よし野山の異名《いみやう》ともいへりとなん
万葉 安見知之《やすみしし》我《わが》大君の神ながら神さびせすと芳野《よしの》川|瀧津河内《たきつかうち》に高殿《たかどの》をたがしりましてのぼりたち國見《くにみ》をすればたゝなはる青垣《あをかき》山の山神のまつる御調《みつき》と春べには花かざしもち秋たてば紅葉《もみぢ》かざせりゆふかわの神も大御食《おほみけ》につかへまつると上瀬《かみつせ》に鵜《う》川をたてゝ下瀬《しもつせ》に小網《さで》さしわたし山川もよりてつかふる神の御代《みよ》かも
  反歌
同 山川もよりてつかふる神ながら瀧津河内《たきつかうち》に舩出《ふなで》するかも
同 たゝ名つく青垣《あをかき》山のへだつればしば/\君をこととはぬかも
同 吉野の宮は立名《たゝな》つく青垣《あをかき》隱《こもり》河《かは》なみの清《きよ》き河内《かうち》ぞ
    耳我嶺《みゝかのみね》
  或《ある》人(の)曰(く)芳野《よしの》の山の異名《いみやう》也|八雲御抄《やくもみせう》に吉野《よしの》にちかきと云もしほ草に又中山ともいふとあり
同 三芳野《みよしの》の耳我嶺《みゝかのみね》に時なくぞ雪はふりけるひまなくぞ 清見原天皇
    吉野川
同 八雲刺《やくもたつ》出雲《いつも》の子|等《ら》が黒《くろ》かみは芳野《よしの》の川の沖《おき》になづそふ
同 我せこが犢鼻《たうさき》にするつぶれ石の吉野の川に氷魚《ひを》そかゝれるは
元真家集 吉野川おろす筏《いかだ》の折ごとに思ひもよらず波の心を
  芳野川の河上は大臺《おほだい》が原といふ所也(207コマ)北山に越行《こえゆく》道の姨《をば》が峯《みね》といふなる所のはるかの左の方にして見《み》わたしにもおよぶ所にあらずまして人の通《かよ》ふ所にもあらず只《たゞ》いとひろく葎《むぐら》荻《おぎ》などの高くしげり藤かづらはひおほひて浅沢《あささは》などやうの水ありその中にいとふかくて巴《ともゑ》か渕《ふち》などといふ所ありとかや風だにふけばそのしげりの露《つゆ》落つもりて川の水累《みかさ》をなし北よりふけば熊野《くまの》川の水をまし西よりふけば伊勢《いせ》の宮《みや》川のなかれをそへ東よりふけば芳野《よしの》川の水かさめりとなり
    大臺原《おほだいがはら》
未勘 吉野川その水上《みなかみ》を尋《たづ》ぬればむぐらの雫《しづく》荻《おぎ》の下露
    宮《みや》川
山家集 瀧《たき》おつる吉野の奥の宮《みや》川のむかしを見けん跡《あと》したはばや 西行
  吉野《よしの》川はみなもと大臺原《おほだいがはら》より出て|塩《しほ》の葉《は》村にきたりてはながれいとほそし此ゆへに俗《ぞく》かの兩村を芳野《よしの》川のみなもとゝいへりあやまりなるべし塩《しほ》の葉《は》村より西にながれ西川《にしかう》の瀧《たき》にて北にまがり宮瀧《みやたき》より猶西に落《おち》て末《すゑ》は紀伊《きい》の海《うみ》に入るなり
和田《わだ》村より東《ひがし》の川の北に川上の投地藏《なげぢざう》といふあり
  投地藏堂《なげぢざうだう》
(271コマ)抑《そも/\》投地藏尊《なげぢざうそん》は役優婆塞《えんのうばそく》濟度利生《さいどりしやう》のために金峯山《きんぶせん》に一千日|籠《こも》りて生身《しやうじん》の薩埵《さつた》をいのり給ひしにまづ地藏菩薩《じざうぼさつ》の形《かたち》にて地より湧出《ゆじゆつ》し給ひたりしを優婆塞《うばそく》の心に柔和《にうわ》忍辱《にんにく》の御かたちにてすゑの世の衆生《しゆじやう》いかでか利益《りやく》かなふべしやとて菩薩《じざう》を掌《たなごゝろ》にとりてなげられければ此所にとゞまらせ給ふと所につたへていへり又の説《せつ》あり此時|湧出《ゆじゆつ》の地藏尊《じざうそん》は優婆塞《うばそく》の心にかなはざれば伯耆《ほうきの》國大山へ飛《とび》さり給ふよし太平記に見えたり
  此南に菊《きく》の岩屋《いはや》あり古詠《こゑい》をもとめえず聖天《しやうでん》の岩屋《いはや》あり投地藏堂《なげぢざうだう》のほとりに南帝王《なんていわう》の社《やしろ》あり
    南帝王《なんていわう》の社
當社《たうしや》は後醍醐《ごだいこの》天皇第七(の)宮にぞおはします芳野《よしの》小瀬《こせ》村といふなる所にて崩御《ほうぎよ》なり給ふそこの龍川寺《りうせんじ》に御|位牌《ゐはい》あり白天王正聖佛《はくてんわうしやうじやうぶつ》とえりたり崩御《ほうぎよ》の時の御|製《せい》とて此寺にいひたつへたり
 のがれきて身《み》を奥《おく》山の柴《しば》の戸に月も心にあはせてぞすむ
    此ほとりに清明《せいめい》が瀧《たき》といふあり是は蜻蛉《せいれい》が瀧《たき》といふなるべきをあやまれるとおぼえ侍る猶おもふに蜻螟《せいめい》もおなじ虫《むし》なれば文字《もんじ》をたがへきたりて清明《せいめい》が瀧《たき》とかけるにや蜻蛉《かげろふ》の小野《をの》は大和国と類字名(272コマ)所集《るいじめいしよしう》にあり
新後撰 しられじを霞にこめてかげろふの小野《をの》の若草《わかくさ》下にもゆとも 爲家
草庵集 をとにたてゝはやふけにけりかげろふの小野の秋津の秋の初風 頓阿
  かけろふの小野《をの》又かたちの岡《をか》又かたちの小野又あきつの野辺《のべ》などゝもよめり
    蜻小野《かたちのをの》
万葉 三芳野《みよしの》の蜻《かたち》の小野にかるかやのおもひみたれてぬるよしもかな
堀川太郎 三芳野のかたちの岡《をか》の女郎花《をみなへし》たはれて露に心をかる哉 俊頼
  顕昭《けんせうの》曰(く)蜻《かげろふ》をばあきつと讀《よむ》なり然るにあきつの小野《をの》とよみぬべきをかたちの小野とはかた/\そのいはれなしあきつとは蜻《とんばう》なり
    秋津野《あきつの》
  芳野《よしの》の宮《みや》に行幸《みゆき》の時|柿本朝臣《かきのもとのあそん》人|麿《まろ》
万葉 吉野の国の花|散相《ちらふ》秋津《あきつ》の野邊《のべ》に宮《みや》ばしらふとしきませば百敷《もゝしき》の大宮《おほみや》人は舟なべて朝川わたり舩きほひ夕川わたり此川の絶《たゆ》る事なく此山の弥《いや》髙良之《たかからし》珠水《たまみづ》の激瀧《たき》の宮古《みやこ》は見れどあかぬかも
万葉 芳野の飽津《あきつ》の小野《をの》の野上には 畧

同 三芳野の秋津の《あきつ》川の万世《よろづよ》にたゆる事なく又かへり見ん
  詞林採葉《しりんさいえうに》曰(く)蜻《かけろふ》の小野《をの》かげろふの小野《をの》かたちの小野《をの》三|訓《くん》なり然而|秋津《あきつ》の小野《をの》といふべき歟其|拠《しやう》は日本紀にありと見えたり
抑《そも/\》秋津《あきつ》の小野《をの》は雄畧《ゆうりやく》天皇四年よし野の宮(273コマ)に行幸《みゆき》なり給ひて川上の小野にして狩人《かりうど》にからしめ給ひみづからも射《い》給ひなんと待給ふに虻《あぶ》飛《とび》來りて天皇の臂《たゞむき》をくらひしかばたち所に蜻蛉《あきつ》飛《とび》來りて虻《あぶ》をくらひて飛さりき天皇いとよろこばせおはしまして群臣《くんしん》に勅《ちよく》して蜻蛉《あきつ》をほめてうたよめとおほせ給ひしかどもよみて奉る人なし天皇御口すさびに

 さはまつと【狹猪待也】わがたゝせる【我立也】たくふらに【竹原也】あぶかきつく【虻來來也】そのあぶを【其虻也】あきつ羽《は》のくひ【蜻蛉囓也】はふむしも【昆虫也】おほきみに【大君也】まつらふ【謂v仕也】ながかたち【名形也】をかん【置也】あきつやまと【秋津嶋大和也】よみ給ひて蜻蛉《あきつ》をほめさせ給ひてより爰の地を蜻蛉《あきつ》とぞ名《な》づけける

此|歌《うた》おほく前畧《ぜんりやく》してあらはす日本紀にくはしくあり細字《さいじ》は釈《しやく》日本紀によれるものなり
    吉野皇居《よしのゝくはうきよ》
  此|跡《あと》秋津《あきつ》の小野のほとりなるべし秋津の宮とよめり

芳野《よしの》の宮《みや》いづれの御|代《よ》に立給ひしにやしらず神武《じんむ》天皇|芦原中津國《あしはらなかつくに》をたいらげ給ひ河内《かはちの》国より射駒《いこま》山を越《こえ》なんとせさせ給ふに長髓彦《ながすねひこ》といふありけり櫛玉速日命《くしたまはやひのみこと》を君とたとへて天皇をふせぎ奉りしかば葛城《かづらき》を越《こし》紀(274コマ)伊伊《きいの》國を經《へ》て吉野に出させ給ひて御軍《みいくさ》をととのへ給ひし程《ほど》に行宮《かりみや》の定《さため》てありけるにや其後|代々《よよ》の御門《みかど》の皇居《くはうきよ》の有無《うむ》あきらかならず然《しかる》に應神《おうじん》天皇|芳野《よしの》の宮《みや》に行幸《みゆき》なり給ふには國栖《くず》人|三才《みき》を奉るとあり應神《おうじん》天皇|已前《いぜん》に吉野《よしの》の宮《みや》とてありける事|勿論《もちろん》なり又|大泊瀬《おほはつせの》天皇吉野の宮に行幸《みゆき》あり又|皇極《くはうぎよく》天皇吉野の宮に行幸《みゆき》なりて肆宴《とよのあかり》きこしめす又|清見原《きよみばらの》天皇吉野の宮に行幸《みゆき》おはしまして
万葉 よき人の芳野《よしの》のよくみてよしといひし吉野よくみてよき人と君 御製
又|元正《げんじやう》
天皇|養老《やうらう》七年五月b吉野の離宮《りきう》に行幸《みゆき》の時|笠朝臣金村《かさのあそんかねむら》

同 美吉野《みよしの》の秋津《あきつ》の宮《みや》は神からや貴《たうと》からん国からか見まほしからん山川をさやけくすめりうへし神世《かみよ》ゆさだめけらしも
  反歌
同 山高み白木綿《しらゆふ》花におち瀧津《たきつ》瀧《たき》の川内《かうち》は見れどあかぬかも
万葉 神代より吉野の宮のありかよひたかくしれるは山川を
此両|首《しゆ》神世よりとよめり爰《こゝに》知《しり》ぬ神武《じんむ》天皇|畝火《うねひ》の柏原《かしはばらの》宮におはしゝ時かの吉野に離宮《りきう》をかまへて臨幸《りんかう》ありけるにより御代よりとは神武《じんむ》の御宇をさすなるべし葺不合尊《ふきあはせずのみこと》の第四の御子なれば神代とよめるもことはり(275コマ)にや【詞林採葉】
    瀧御門《たきのみかど》
  もし秋津《あきつ》の宮《みや》をよめるにやおもふに宮瀧《みやたき》は西にあり蜻螟《せいめい》が瀧《たき》は東にありかさねてあきらかにせらるへし
万葉 東《ひんかし》の瀧の御門《みかと》にさもらへど昨日《きのふ》もけふも召《めす》事もなし 舍人哥
同 一日には千度《ちたび》まいりし東《ひんかし》の瀧のみかどを入かてぬと
〔か〕も 同
    玉水(の)瀧宮古《たきのみやこ》
  名寄歌《なよせうた》枕に大和是も秋津《あきつ》の宮にや
万葉 秋|津《つ》の野邊《のべの》宮ばしらふとしくませば 中畧 此山のいやたかからし玉水の瀧の宮古《みやこ》は見れどあかぬかも 人丸
夫木 今ははや冰も解《とけ》ぬ玉《たま》水の瀧《たき》の宮古は春めきぬらん 光朝
    瀧浦《たきのうら》
万葉 吉野川|河波《かはなみ》高《たか》し多寸能浦乎不視歟成嘗戀布真國《たきのうらをみずかなりなめこひしきまくに》
  もしほ草曰瀧の浦と宗祇《そうぎ》法師|注《ちう》たるものにあり名《めい》人のしたる事なれば不《ず》v及2是非《ぜひに》1從又無2不審《ふしん》1にもあらずもしは瀧の裏《うら》と云心歟と云々
    多藝津河内《たきつかうち》
  歌枕《うたまくら》に大和國と云々
万葉 吉野川|瀧津河内《たきつかうち》に高殿《たかどの》を高知《たかしり》ましてのぼりたち 人丸
夫木 三芳野の瀧津河内の春風に神代も聞《きか》ぬ色《いろ》ぞみなぎる 前中納言宰相
    遊副《ゆふ》河
  仙覺《せんがく》抄にいはくゆふ川吉野にある川の名《な》なりかし古には遊《ゆ》川といふ是同事か

(276コマ)万葉 山神のたつる御調《みつき》と春べには花かざしもち秋たてば紅葉《もみぢ》かざせり遊《ゆふ》川の神も大みけに仕《つか》へまつると上津瀬《かみつせ》に鵜《う》川をたてゝ下津瀬《しもつせ》には小網《さで》さしわたし山河もよりてつかふる神の御代かも
    三舩《みふね》山
  藏王堂《ざうわうだう》の鳥居《とりゐ》の東《ひかし》にみえたり
  芳野の離宮《りきう》に行幸《みゆき》ありし時
万葉 瀧のうへの三舩《みふね》山より秋津邊《あきつへ》にきなくわたるは誰喚児鳥《たれよぶこどり》
同 瀧のうへの三舩の山に居《ゐる》雲のつねにあらんとわがおもはなくに
    西川瀧《にじかうのたき》 付大川
  大瀧《おほたき》ともいふ万葉集におほく瀧の歌《うた》あり又大川などゝよめるも此ほとりにや顕注密勘《けんちうみつかん》にいはく大川のべとは芳野《よしの》川はおほきなればおほ川のべとよめるなり
万葉 大|瀧《たき》を過てなつみにそひてゐて清《きよき》河瀬《かはせ》を見るかさやけき
同 今敷はみめやとおもひし三芳野《みよしの》の大川|余杼《よど》をけふ見つるかも

千五百番歌合 三芳野の大川|野邊《のべ》の藤波《ふぢなみ》春もふかしと色に見すらん 家隆
  西川《にしかう》の瀧より佛《ほとけ》が峯《みね》といふ坂を過ぬればふもとに蝉《せみ》が瀧《たき》ながれ猶|行《ゆき》て樫尾《かしお》の茶屋《ちやや》それより三町ばかり過ぬれば夏箕《なつみ》川なり
    夏箕《なつみ》川
万葉 吉野なる夏實《なつみ》の川の河淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴《なく》なる山|陰《かけ》にして 湯原王
    吉魚張《ふなはり》
同 我宿《わがやど》の淺茅《あさぢ》色付《いろづく》吉魚張《ふなはり》の夏箕《なつみ》の上に時雨《しくれ》ふるらし
(277コマ)万葉 吉魚張《ふなばり》の夏身《なつみ》のうへの山を出て西《にし》をさしける月の影見ゆ 家持
    浪柴野《なみしばの》
万葉 我門《わがかど》の淺茅《あさぢ》色づく吉魚張《ふなはり》の波柴《なみしは》の野《の》の紅葉《もみぢ》ちるらし
夫木 ふなはりの浪柴野《なみしばのの》の秋風にはやくよ渡《わた》る月のさやけさ 定嗣
    司馬野《しばの》
  八雲《やくも》の御抄《みせう》藻塩《もしほ》草大和國と云々波柴野《なみしはの》同所なるべきか
万葉 國栖等《くにすら》が若菜《わかな》つむらん司馬《しば》の野《の》のしば/\君を思ふ比かな
    宮瀧《みやたき》
  りうもんにまいるとて
後撰集 宮の瀧むべも名《な》におひて聞《きこ》えけりおつる白淡《しらあは》の玉とひゞけば 法王御製
山家集 瀧をはやみ宮瀧《みやたき》川を渡《わた》り行《ゆけ》ば心の底《そこ》のすむ心地《こゝち》する 西行
新六帖 なにかその波はかくれど宮瀧や鵜《う》のゐる石のうへぞかくれぬ 行家
  爰に屏風|岩《いは》とていと高くそばだてるいはほあり銅錢《とうせん》百文をあたへぬればこの巖《いはほ》の頂上《ちやうじやう》よりそこしらぬ芳野《よしの》川に飛《とび》入なり吉野の岩飛《いはとび》といふは是にぞ侍る清河原《きよきかはら》此ほとりにや
    清川原《きよきかはら》
  澄月歌枕《てうげつうたまくらに》曰(く)清川原《きよきかはら》古詠《こゑい》不《す》v限《かきら》2芳野《よしのに》1不定《ふでう》一所の名《な》歟|先達歌枕《せんだつうたまくら》に以久木生《いくきおふ》清河原《きよきかはら》の歌(を)立(て)名所(と)いひ未勘國《みかんこく》と云々|今按《こんあん》是|就《つきて》2万葉集第九(の)歌(に)1吉野(ノ)篇《へん》に入v之とあり
万葉集第九 くるしくも暮行《くれゆく》日かも吉野川|清河原《きよきかはら》を見れとあかなくに
同 毎年《としのはに》かくもみてしが三吉野の清河内の瀧つしら波
(278コマ)    日晩野《ひぐらしの》
  亭子院《ていじゐん》宮瀧《みやだき》を御|覽《らん》じにおはしませる御ともにつかうまつりて日ぐらし野といふ所をよめる
新勅撰 ひぐらし野|行《ゆき》過ぬともかひもあらじひもとく妹《いも》も待《まち(たか)》しと思へば 大納言昇
    妹背《いもせ》山
  宮瀧《みやだき》の西《にし》上市《かみいち》村の東にあり吉野郡に詠《ゑい》し合する古歌《こか》をもとめえず河海《かかい》抄にいはくいもせ山は紀伊《きいの》國に妹《いも》山|背《せ》の山とて吉野川をへだてゝさしむかへる二の山あり又|顕注密勘《けんちうみつかん》八雲御抄《やくもみせう》其外の文どもにも紀伊《きいの》國とあり
  萬治二年の春|飛鳥井雅章卿《あすかゐたゞあきらきやう》吉野まうてにいもせ山をながめやりて
うき中のたが泪《なみだ》より芳野川いもせの山をながれ出らん
    象小《きさのを》川

宮瀧《みやだき》よりさくら木の宮にまうづれば外象《とぎさ》の橋をうちわたり象《きさ》の小《を》川は桜木の宮の前になかれ象《きさ》山は髙瀧《たかだき》の上にそばたてり
万葉 むかし見し象《きさ》の小《を》河を今見ればいよ/\きよくなりにけるかも
夫木 芳野山|青根《あをね》が嶺《みね》に月すめば象《きさ》の小川に玉ぞしづめる 知海
    桜木《さくらぎの》宮
  花のにしきも瀧《たき》のいともて織出《をりいだ》したりやと艶《えん》におほえ侍りて

瀧《たき》の糸《いと》を花にうちはへて芳野山|錦《にしき》織《をり》なす桜木の宮 雅章
(279コマ)    象《きさ》山
八雲御抄《やくもみせう》にいはく象《きさ》山|象《きさの》中山きさはちかき山ともいふみよし野に近《ちか》きといふ心なりきさは名所《めいしよ》にあらずと云々|勅撰名所《ちよくせんめいしよ》芳野《よしの》郡と云々|仙覺抄《せんかくせう》吉野の山中に象《きさ》山ありと云々
万葉 倭には鳴《なき》てか來《こ》らん呼児鳥《よぶことり》象《きさ》の中山よびぞこゆなる 高市黒人

夫木 大和路《やまとぢ》に越ゆべき道《みち》は絶《たえ》にけり象《きさ》の中山雪ふかくして 行家
    猪養《ゐがひ》山

飯貝《いひがひ》ともいふにや上市《かみいち》村の川むかひにありふなはり山は本善寺《ほんぜんじ》の近《ちか》き所にあり

万葉 ふなはりのゐがひの山にふす鹿の妻《つま》よぶこゑを聞《きく》かともしき 良女
同 ふるい雪はあはになふりそ吉隱《よごもり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の寒《さむく》なるまゝに 穗皇子
    本善寺《ほんぜんじ》

本善寺《ほんぜんじ》は親鸞《しんらん》上人八世|蓮如《れんによ》上人の建立《こんりう》なり

芳野《よしの》山心とまれる川づらにすみてもみばや爰に飯貝《いひがひ》 蓮如上人
    六田淀《むつだのよど》
万葉 音に聞《きゝ》目にはまだ見ぬ吉野川|六田《むつだ》の淀《よど》をけふ見つるかも

續後拾遺集 桜咲水分山に風吹ば六田の淀《よど》に雪つもりけり 大宰大貳重家

六田《むつだ》のわたしの事にやありけんむかし吉野郡に藤太主《とうだぬし》源太主《げんだぬし》とて二仙あり一とせ吉野川|洪水《こうずい》にして舩だにうかべえざりければ淨藏貴所《じやうざうきしよ》いかでかわたりえなんと杖《つえ》をひき河のほとりにさまよひ給ひしが二仙|來《きた》りてたやすくわたしまいらせんとしばらく咒《しゆ》をとなふれば神人《じんじん》大木をきりうかべたり仙《せん》と共に棹《さほ》さして貴(280コマ)所《きしよ》を渡しける【釈書】淨藏貴所《じやうざうきしよ》は三善清行《みよしきよゆき》か第八の子|母《はゝ》は嵯峨《さが》天皇の孫女《そんによ》なり【三國傳記】又吉野川の渡し舩は聖寶《しやうぼう》僧正のはじめてをき給ひしよりなかくつたはりて絶《たえ》ず【釈書】
    雙墓《ふたつづか》
  仲範《なかのり》のいはく今木野《いまきの》滑谷岡《なめはざまのをか》吉野川の北|古勢《こせ》の里の南にあり【玉林抄】
雙墓《ふたつつか》は入鹿《いるかの》大臣|今來《いまき》に雙墓《ふたつづか》をつくりて一は父大臣の墓《つか》として大陵《おほみさゞき》とあがめ一は我|墓《はか》として小陵《こみさゝき》といふ我なくなれる後人を労《らう》させる事をいとふおもひありぬるよりかくするにぞあるといひながらその墓《はか》をきづく歩役《ぶやく》に上宮《かみのみや》の民《たみ》をつかひぬれば上宮大娘姫王《かみのみやのおほいらつめのひめみこ》いとなげきおはしまして蘓我臣《そがのしん》國の政《まつりごと》をほしゐまゝにしいかで心のまゝに封民《ほうみん》の労《らう》をいとはずつかひけるぞや是よりうらみをむすび終《つゐ》にかれをほろぼし給ひなんの御心あり【日本紀】
    今來《いまき》寺
  つたへ聞《きく》今來寺《いまきてら》又は石光寺《せきくはうじ》といふなり此寺かすかに殘《のこ》りけるとなん
今來《いまき》寺は蓮入《れんにう》法師|伯耆《ほうきの》國|大山寺《たいさんし》につとめ居《ゐ》られしが寛弘《くはんこう》年中|長谷寺《はせてらに》まうでて誓願《せいぐはん》を立て我《わが》來世《らいせ》の生所《しやうしよ》をしめし給へとこもりゐたり七夜の曉《あかつき》ひとりの比丘《ひく》ま見えさせ給ひて是より西南九里さりて勝地《しやうち》ありそこにしてをこなひたらんにはかならず兜率内(281コマ)宮《とそつないくう》に生をうけん夢さめていとうれしくて則かしこに行《ゆき》けり山高く地形《ぢぎやう》ふかく人|蹤《せき》絶《たえて》寺もなし只夢の事をたのみて樹《き》の下《もと》にゐたりけるが其夜西方より光《ひかり》來りたりあやしやと翌《あくる》日行て見るに大巖《たいかん》の上に石板《せきばん》ありて落葉《らくえう》埋《うつみ》苔蘚《たいせん》猶上《いやかうへ》に生《おひ》たりかの石面《せきめん》の散葉《さんえう》を拂《はら》ひ苔《こけ》をのごひぬれば弥勒《みろく》三尊(の)像《ざう》をえりつけたり人工《じんこう》のわざにあらず則|精舎《しやうじや》を建《たて》て年《とし》久しくをこなひて終《つゐ》に祥瑞《じやうずい》ありてをはりをとりけり【釈書】

  一坂《いちのさか》といふ所の桜一木道の行手《ゆくて》にさかりなれば

三芳野や桜一木に先見せて山口しるく匂ふ春風 雅章
    四手掛《しでかけの》社
  四手《しで》かけの明神をおがみて
芳野《よしの》山花のゆふしでかけまくもかしこき神の心をぞしる 雅章
  四手《しで》かけより左《ひだり》四五町を經《へ》て水分山の跡あり
    水分《みつわけ》山
  いつの代にやありけむ洪水《こうずい》にながれて當世は砂原《すなはら》なり
万葉 神さぶる岩ね巳疑敷《ここしき》三芳野の水分山を見ればかなし
新後撰 三芳野の水分山の瀧津瀬も末はひとつの流也けり 寿證法師
    比蘓《ひそ》寺
  毗蘓《ひそ》寺【釈日本紀】比蘓《ひそ》寺【釈書】とかけり
比蘓《ひそ》寺又|現光寺《げんくはうじ》といへり額《がく》は栗天八一《りつてんはちいち》(282コマ)【玉林抄】當代たづねしに此|額《がく》なくなりし時代《じだい》をしらずとなり推古《すいこ》天皇三年四月|沈水香《ちんずいかう》淡路嶋《あはぢしま》にうかみよれりその大さ一|圍《いだき》あり浦人|沈水香《ぢんずいかう》をしらず只|薪《たきゞ》にまじへてくゆらかすそのけふりいと遠くかほりける程にいとあやしみて御みかどに奉りけり【日本紀】聖徳太子是は沈水香木《ぢんずいかうぼく》にてその實《み》は
※〔鷄の鳥が隹〕舌《けいぜつのごとくその花は丁子そのあぶらは薫陸《くんろく》なり水に沈《しづ》みて久しきを沈水《ぢんずい》といひ水に入て久しからぬを淺香《せんかう》と申と奏《そう》し給ひしかば御門《みかど》よろこびおぼしめして觀音の像《ざう》をつくらせ吉野の比蘓《ひそ》寺にすへ給ふに時々|光明《くはうみやう》をはなち給ふとなり【釈書】それより現光寺《げんくはうじ》の名《な》あり【玉林抄】
▲再興《さいこうは弘安《こうあん》二年金峯山より聖人來りて再興あり西大寺の興正《こうしやう》菩薩戒法をすゝめて律《りつ》院となりたり【太子傳抄】やう/\繁昌《はんしやう》せしが又破|壊《ゑ》して當代かすかにのこれり

四手掛《しでかけ》より並木《なみき》桜つゞきて長|岑《みね》を經て丈六山一《じやうろくさんいちの》藏王堂又長岑の藥師堂あり
    松山御茶屋
文禄《ぶんろく》三年二月廿五日豊臣幕下《とよどみばつか》花の御ながめにたて給ひし御茶屋の跡《あと》なり此時の御詠歌世にのこりて一卷あり
  是より多武《たふの》峯に行|通路《つうろ》あり
(283コマ)
    千本桜
  千本のさくらとてあまたあり
吹まぜてふかきやいづれ吉野山千本に匂ふ花の春風 雅章
  日本が花|七曲《まゝまがり》の坂などを過行にもろ人桜|苗《なへ》をもとめ爰にうへて權現《ごんげん》に奉る桜三十本をうへさせて
いつか又十といひつゝ三芳野の我《わが》植置《うへをき》し花を來て見ん 大納言雅章
  山の花|薗《ぞの》谷の桜田ひたりにかくれ松右に山(の)井などといふあり
新勅撰 三芳野の山井のつらゝ結《むす》べばや花の下ひもをそくとくらん 藤原基俊
玉葉集 三芳野の峯の花|薗《ぞの》風吹は麓《ふもと》につもる春の夜の月 入道大政大臣
 吉野山|誰《たれ》か植《うへ》けん桜田のところ/\の花のはしり穗 道助法親王
 さかりなる花にかくれて名もしるくたてるやいづこ三吉野の松 雅章
    藤尾坂《ふぢおさか》
  俗《ぞく》に藤井坂《ふぢゐざか》といふ
文治《ぶんぢ》元年十一月十七日|源義經《みなもとのよしつね》の妻しづかか藤尾坂をくだり藏王堂《ざうわうだう》に來りしを衆徒等《しゆとら》見とがめてとらへけるよし東鑑《あづまかゝみ》に見えたり
  関屋《せきや》の花|桜嶽《さくらがだけ》などといふ所あり
    金鳥居《かねのとりゐ》
金鳥居《かねのとりゐ》【高二丈五尺一圍】    二王門
  かねの鳥居に書《かき》付ける
千載集 夢さめむ其|曉《あかつき》を待《まつ》程《ほど》の闇《やみ》をも照《てら》す法《のり》の灯《ともしび》 敦光(家か)
    藏王堂《さうわうだう》
藏王堂南向なり本尊藏王【貳丈六尺】挾侍《わきだち》の千手《せんじゆ》觀音【貳丈四尺】弥勒【貳丈貳尺】なるをすへ(284コマ)たり役行者《えんのきやずじや》の遺像《ゆいざう》あり
    四本桜
  四本《よもと》も桜に蹴鞠《しゆうきく》の興《けう》をおもひいでゝ
 まりの場《には》にうつしうへなん三吉野の四本《よもと》の桜おもかげにして 飛鳥井雅章
    威徳《いとく》天神(の)社《やしろ》
威徳《いとく》天神は菅丞相《かんしようじやう》の霊《れい》なり日藏上人社をたてゝうつし奉られき抑《そも/\》當社の濫觴《らんしやう》は日藏上人天|慶《げい》四年八月一日金峯山の岩屋にして頓死《とんし》せられしが威徳太政天《いとくたいしやうてん》の臨幸《りんかう》にあひ奉り神勅《しんちよく》にしたがひてかの御|住《すみ》所にそいたられける種《くさ》/\の神語《じんご》ありての後《のち》汝本国にかへりてあまねく流布《るふ》せよもし人|我像《わかざう》をつくり我名を唱《とな》へて慇懃《いんぎん》に尊重《そんじう》せは我かならず擁護《おうご》せずはあらじ上人金峯山にかへりて藏王權現《ざうわうこんげん》にありし事ともかたり奉らる爰に滿徳《まんとく》天いまして上人につけらるゝかの太政《だいじやう》天八十六萬八千の眷屬《けんそく》ありかれらが毒害《どくがい》はなはだしきは天下の善神もそれをとゞめえすと神語《しんご》まし/\きくはしくは釈書《しやくしよ》に見えたり是よりして此社を建立せられけるとなり天慶四年より延寶七年まて凡七百卅九年か
▲貞和《ちやうわ五年正月十四日|越後《ゑちごの》守|師泰《もろやす》武藏《むさしの》守|師直《もろなふ》寄來《よせき》たる所に帝《みかど》は天(の)川の奥《おく》賀名生《かなふ》の邊《へん》に落させ給ひしかばさらば燒拂《やきはら》へとて皇后《くはうこう》卿相雲客《げいしやううんかく》の宿所に火をかけし(285コマ)程に貮五尺の金(の)鳥居金剛力士の二|階《かい》の門北野大神(の)社七十二間の廻廊《くはいろう》三十八所ならびに藏王堂一時のけふりとなる【太平記】
▲堀《ほり》(の)|寛治《くはんち》七年九月廿日金峯山の寶殿《ほうでん》炎上《えんしやう》【帝王編年】再興《さいこう》あり
藏王|權現《ごんげん》に定朝《てうちよう》が造進《ざうしん》せし狛犬《こまいぬ》社殿《しやてん》の上に啖合《かみあひ》て大|床《ゆか》より落たりと盛衰記《せいすいき》に見えたり
金峯山《きんぶせん》の塔《たう》成就《じやうじゆ》の供養《くやう》承暦《しやうりやく》三年十一月と釈書にあり
    金御嶽《かねがみたけ》
  金の御嶽《みだけ》は芳野《よしの》山の異名《いみやう》にしてわかちては爰をこそいふならめ飛鳥井雅章卿《あすかゐたゝあきらきやう》爰にして
 しばしなを夕べをのこせ入相のかねの御嶽《みたけ》の花のひかりに

藏王堂より西に實城寺《じつじやうじ》あり
    實城寺《じつじやうじ》
實城寺又は金輪寺《きんりんじ》ともいふ後醍醐《ごだいごの》天皇の皇居《くはうきよ》にさだめられ此|御代《みよ》にこそ北京と南朝とわかたれて年号なども別にぞ侍る爰にして新葉和歌集《しんえうわかしう》なとをえらび給ひ又天皇御手すから茶入十二をきざませ給ふ或《あるひ》は廿一ともいふそのかたち薬器《やくき》にひとし世に金輪寺といふこれなり漆器《しつき》といひなから勅作にて侍れは臺にのせ金輪寺《きんりんじ》あひしらひとて茶湯前もありとかや
  藏王堂より一町ばかりを過て駄天《だてん》山其(286コマ)東のかたに朝原あり
    朝原《あしたのはら》
續後拾遺集 芳野山霞立ぬるけふよりや朝の原はわかなつむらん 
    吉水《よしみづ》院
吉水院は源義經《みなみとのよしつね》落人《おちうと》とならせ此院に入給ひしが衆徒《しゆと》心がはりせし程《ほど》にしのひ出て中院谷に御身をかくし給ふそれもかなひがたうして佐藤忠信《さとうたゞのぶ》をのこしをかれ静《しづか》も捨をき多武峯《たふのみね》藤室十字坊《ふぢむろじうじぼう》にそ入給ひける此院は豊臣幕下《とよとみばつか》の花の御ながめにも旅館《りよくはん》とさだめ給ひてけしきことなる寺のかまへにて侍るむかし後醍醐《ごだいご》天皇
に行幸《みゆき》なりて御|枕《まくら》ながら
 花にねてよしや吉野のよし水の枕の下《もと》に石はしる音《をと》
  吉水院《よしみづゐん》の西《にし》に行て右の方に五臺寺《ごだいじ》又|桜本《さくらもと》とて當山の先達《せんだち》大|峯修行《みねしゆぎやう》の宿坊《しゆくばう》あり
  佐抛《さなぎの》明神社
さなき明神の山を|御影《みかげ》山といふは天人の影《かげ》うつりしよりいふとかたり侍りしかば
 さなきだにさなぎの神の御影《みかげ》山うつろふ花に風もこそふけ 飛鳥井雅章
    勝手社《かつてのやしろ》
勝手明神《かつてみやうじん》は愛蘰命《うけのりかみのみこと》也|天孫臨降《あめみまりんかう》の時卅二神相そひてあまくだります次に護國《ごこく》後見《こうけん》にくださるゝ卅二神と云云|愛蘰命《うけのりかみのみこと》は勝手《かつて》大明神也【六十四神式】又|
文治《ぶんぢ》元年|静《しづか》法楽《ほうらく》の舞《まひ》をまひし装束《しやうぞく》ならびに源義經《みなみとのよしつね》の鎧《よろひ》など寶藏《ほうざう》に(287コマ)おさまれり又|後醍醐《ごだいごの》天皇賀名生《かなふ》の辺《へん》へ落《おち》させ給ふに勝手《かつて》の宮《みや》の前《まへ》を過《すぎ》おはしまさせけるが御馬よりおりさせ給ひて
太平記 憑《たのむ》かひなきにつけてもちかひてし勝手《かつて》の神の名こそおしけれ
師兼千首 三芳野やかつての宮の山|烏《がらす》神につかふる身もふりぬめり
    袖振《そでふる》山
右に御影《みかげ》山左に袖振《そでふる》山此山の頂上《ちやうじやう》を那良志《なたし》山となんいふ天女《てんによ》舞《まひ》しより袖振山の名《な》あり然《しかれ》ども袖振《そでふる》山に付てはふるき文どもに説々ぞ侍る
先《まづ》範兼卿類聚《のりかねきやうるいじゆ》にいはく未勘國《みかんこく》或《あるひ》は對馬《つしま》の国にあり或《あるひ》は大和国|布留《ふる》山なりと云々|詞林採葉《しりんさいえう》抄にいはくをとめらが袖ふる山とよめり此山のあり所分明ならず先達《せんだつ》石上|布留《ふる》山を申なり万葉集第十二卷に石上《いそのかみ》ふる川のとよめり尤より所あるものなり然共八雲(の)御抄にいはく吉野にありと云々|神女降臨《しんじよがうりん》の所を誠に由來《ゆらい》あるものなりといへり今猶芳野の袖振山とつゞける古詠をもとめえず只爰に|神女降臨《しんしよがうりん》の事のみをあらはす本朝月令《ほんちようぐはちれう》にいはく清御原《きよみばらの》天皇芳野の宮にまし/\て日暮|琴《こと》を引給ひしにいと興《けう》ありけり俄《にはか》に前《まへ》の峯《みね》の下《もと》より雲氣《うんき》たちまちに起《おこ》り神女《しんじよ》のかたちなる人|髣髴《ほうほつ》として曲《きよく》に應《おう》じてまひけり他人見る事をえず天《あま》の羽衣《はころも》の袖を五|度《たび》飜《ひるかへ》して【河海抄】
(288コマ)乙女子《をとめこ》がをとめさびすもから玉を袂《たもと》にまきてをとめさびすもとうたひける五節《ごせつ》の舞《まひ》の根源《こんげん》なり又|袖振《そてふる》山といふも此時よりとぞ

  勝手《かつて》の宮より坤《ひつじさる》の谷に如意輪寺《によいりんじ》あり

如意輪寺《によいりんじ》

塔尾《たうび》山|如意輪寺《によいりんじ》は本尊|如意輪觀音菩薩《によいりんくはんおんほさつ》也藏王|權現《ごんけん》あり御厨子《みづし》の扉《とびら》に吉野より熊野《くまの》迄の畫圖《ゑづ》あり後醍醐《ごだいごの》天皇の宸筆《しんひつ》の讃《さんに》曰(く)

 ※〔山+青崛月前《さうくつげつぜん》爲《す》2教主《けうしゆと》1
 金峯嵐底《きんぶらんてい》現《けんじ》2藏王《ざうわうと》1
 斑荊禅客《はんけいぜんかく》安居砌《あんこのみきり》
 緇素群焉《しそぐんえんとして》滿《みつ》2願望《ぐはんまうを》1。
 慈風《しふう》扇《ふき》v境《さかいに》四流渇《しりうかつす》
 惑霧《わくむ》晴《はれて》v心(ニ)六度差《ろくどたがふ》
 碧樹《へきじゆ》集《あつめ》v雲(を)飛《とふ》2鷲嶺《じゆれいに》1
 黄金《わうごん》敷《しき》v地《ちに》契《ちぎる》2龍華《りうくはに》1
 風月《ふうげつ》澄《すます》v心(を)文道祖《ぶんたうのそ》

 火雷《くはらい》宥《なだむ》v忿《いかりを》法陀尊《ほうだのそん》
 日藏聖感《にちざうせいかん》瑞夢處《ずいむのところ》
 大政天《だいじやうてん》爲《なりて》2教海《けうかいと》1繁《しげし》

 兩山梯峻《りやうざんかけはしけはし》古仙跡《こせんのあと》
 四海舩浮《しかいふねうかぶ》權化神《ごんけのかみ》
 行《ぎやう》積《つみ》2僧祇《そうぎを》1鑒《かんかみる》2末世《まつせを》1
 威政鬼類《いせいきるい》縛《ばくす》2其身《そのみを》1
    後醍醐《こだいごの》天皇(の)陵
  如意輪寺のうしろのかたにあり
後醍醐《ごだいごの》天皇|南朝《なんちよう》延元《えんげん》三年八月九日より御|不豫《ふよ》の御事ありけるが次第におもくならせ給ひて終《つゐ》に同十八日|丑尅《うしのこく》に崩御《ほうきよ》なり給ひき藏王堂の艮《うしとら》なる林の奥《おく》に圓丘《えんきう》たかくつきて北|向《むき》に葬《かくし》奉り同十一月五日|後醍醐《ごだいごの》天皇と後《のちの》御名を奉りき【太平記】楠正行《くすのきまさつら》廟にまうでて討死《うちしに》の御|暇乞《いとまごひ》などゝなけき申て如意輪寺《によいりんじ》の過去幉《くはこちやう》に楠正行《くすのきまさつら》同|正時《まさとき》同|將監《しやうげん》和田(289コマ)新發意《わだしんほち》同|舍弟《しやてい》新《しん》兵衛同|紀《き》六左衛門|子息《しそく》二人|野田《のだの》四郎子息《しそく》二人西川|子息《しそく》関地良圓《せきちれうえん》

  各留半座乘花臺《かくるはんさせうけだい》 待我閻浮《たいかえんふ》同行人

 さきだゝはをくるゝ人を待やせんひとつ蓮《はちす》のうちを殘して
  願以此切徳平等施一切同發菩提心徃生安樂国《ぐはんいしくどくびやうどうせいつさいどうほつぼだいしんわうじやうあんらくこく》と正行《まさつら》筆をとりてかきたりけりとぞ又
 歸らしと兼《かね》て思へは梓弓《あづさゆみ》なき數《かず》にいる名をぞとゞむる
となんかきつけけるは戸びらにのこりて今にあり
    椿谷《つばきたにちんせんじ》
椿山寺は日|藏《ざう》上人の修行《しゆぎやう》の地《ち》なり上人は宮|古《こ》の人年十二にしてかざりをおろし名つけて道賢《だうけん》法師といふ其時|延㐂《えんき》十六年二月也それよりして塩穀《えんこく》を絶《ぜつ》して六年の精修《しやうじゆ》を經《へ》られたり其時|母君《はゝぎみ》のやまひのおもきをほのきゝてとはずはえあるまじとて古郷《ふるさと》にのぼり東寺にして密教《みつけう》をならひ【釈書】其後|芳野《よしの》山に更《さら》に入て笙窟《しやうのいはや》に住み給ひしと也【釈書】
    布引《ぬのひきの》桜
  布引の桜は高根《たかね》より谷《たに》の底《そこ》までさきつゞきて見え侍りぬ
布引もにしきと見えて芳野《よしの》山|名《な》にこえにけり花の一しほ 飛鳥井雅章
    雨師夢違《あめしゆめちかへの》觀音堂
  行幸《みゆき》をさせ給ひしに雨やまざりければ
 此里は丹生《にふ》の川上|程《ほど》ちかしいのらば晴《はれ》よ五月雨《さみだれ》の空 後醍醐天皇
  此所より一里ばかり川下に丹生《にふ》大明神(290コマ)の社あり觀音堂を行て西の谷に瀧桜雲井桜といふあり
    瀧桜《たきざくら》
 いかなれば水なき空の瀧《たき》桜花の波|立《たつ》三吉野の山 大納言雅章
    雲井《くもゐ》桜
  雲井桜は名におひて髙ねに見え侍りぬ
 御階《みはし》さへおもひやられておなじ名の雲井に花もみよしのゝ春 大納言雅章
    中院谷
源義經《みなもとのよしつね》身《み》をかくされし谷なりうへに山ぶしがくれ龍《りう》がへしなどゝいふ岩《いは》あり爰は佐藤忠信《さとうただのぶ》か手にかゝりて横《よ》川の覚範《かくばん》の討《うた》れける所也又|忠信《ただのぶ》ふせぎ矢《や》射《い》ける所は花|矢倉《やぐら》といふ也
    世尊寺《せそんじ》
世尊寺《せそんじ》は炎上《えんしやう》の後《のち》形《かた》ばかりなる堂《だう》あり本尊《ほんそん》は釈迦如來《しやかによらい》狹侍《わきだち》は阿難《あなん》迦葉《かせう》なり抑《そも/\》釈迦如來《しやかによらい》は欽明《きんめい》天皇十四年五月|戊辰《つちのえたつ》朔《さく》河内《かはちの》國|泉郡《いつみのこほり》茅渟海《ちぬのうみ》中に梵音《のりのこゑ》いとひゞきて雷《らい》の声《こゑ》にやたぐへなんうるはしく照《てり》かゝやく事日の色《いろ》をあざむき侍るよし奏《そう》し奉る天皇あやしみおぼしめして溝邊直《すのべのあたひ》に勅《ちよく》して見せしめらるゝに直《あたひ》海《うみ》に入て見ぬれば樟《くすの》木のうかひて照《てり》かゝやくにぞありける則《すなはち》是をとりて奉りしかば佛つくりにおほせて佛像《ぶつざう》二はしらをぞつくらしめ給ふ今吉野寺に光をはなち給ふ樟《くすの》木の像《ざう》是なり【日本紀】欽明《きんめい》天皇十四年より延寶七年迄千百二十六年か

▲鐘《かねあり銘《めいに》曰(く)保延《ほえん》五年|庚申《かのえさる》十二月三日|平朝臣忠盛《たいらのあそんたゞもり》と云々|保延《ほえん》五年より延寶七年迄凡五百四十一年か此所は天竺《てんぢく》霊鷲山《れいじゆせん》にひとしき靈地《れいち》にて侍るとかや

月清 鷲《わし》の山|御法《みのり》の庭《には》にちる花をよしのゝ嶺《みね》の嵐にぞ見る 後京極良經
  鷲《わし》の尾《お》のかたはらに人丸の墳《つか》あり
    子守社《こもりのやしろ》
籠守《こもりの》神は大宮三|座《ざ》住吉《すみよし》同躰《どうたい》なり【一宮記】炎上《えんしやう》の後|再興《さいこう》八十年以前也
草根 吹はらへ山は芳野《よしの》の秋|霧《きり》に子守《こもり》かつても見えぬ神風
三芳野《みよしの》の山ふところにおひたちて子守《こもり》の宮の花ぞことなる 大納言雅章
    御子守《みこもりの》神
  澄月歌枕《てうげつうたまくら》に御子守《みこもりの》神とかけりしからば子守《こもり》同社《どうしや》と見えたり然ども神名帳《じんみやうちやう》に吉野|水分神社《みこもりのじんじや》とあり文字《もんじ》によらば別宮か一|徃《わう》爰《こゝ》にあらはすかさねてあきらかにせらるべし

清少納言 もろこひに今はなるらん御子守《みこもりの》神のしるしはありとこそきけ 經家
新六帖 いかにして心の末《すゑ》をあらはさむかけてちかひし御子守の神 衣笠内大臣
  子守の社を過て
    高筭《かうざん》上人(の)遺像堂《ゆいざうだう》
高筭《かうざん》上人は後白《ごしら》川(の)院の御惱《ごなふ》を加持《かぢ》したち所に妙をあらはす又二月一日の花|供《く》懺法《せんぼう》は此上人のはじめられて今年に絶《たえ》ず
    高城《たかき》山
  俗に城《しろ》山といふ大塔《おほたうの》宮のこもらせ給ふ(292コマ)所とかや又つゝじが岡《をか》遙谷《はるかのたに》も此所也|忠信《たゞのぶ》虚腹《そらはら》を爰にしてきりけるとなん
万葉 三芳野の高城《たかき》の山に白雲はゆきはゞかりて棚《たな》引て所見《みゆ》 釈道観
拾玉 高き山ふかき谷にてあはれなれさならぬ人は音信もせず 慈鎮
    躑躅岡《つゝじがをか》
  躑躅岡《つゝじがをか》は名もしるく見え侍れば
 折にあへば吉野の花もくれなヰのつゝしが岡の色にとられて 大納言雅章
    遙谷《はるかのたに》
  はるかの谷はふかき谷にて侍しも花にむもれぬるやうに見えぬれば
 高ねより見ればはるかに谷の戸《と》も花にとぢたる三吉野の山 大納言雅章
    岩倉《いはくら》谷
岩倉《いはくら》は宮古《みやこ》の東西南北《とうざいなんぼく》にはかならずあり【拾芥抄】しかあれども大和國は年久しく經《へ》ぬればにや其名によぶ山もしらず今|芳野《よしの》の皇居《くはうきよ》とて爰にのみのこれり古詠をもとめえず
    金精《きんしやう》大明神
金精《きんしやう》大明神の垂跡《すいしやく》をしらず俗《ぞく》此山の金をまもらせ給ふ神なりといへり
  是より一町ばかり過て蹴拔《けぬけ》の塔《たう》あり
    安禅寺《あんぜんじ》
飯高《はんかう》山|安禅寺《あんぜんじ》寶塔《ほうたう》院|本尊《ほんぞん》は一丈の藏王|權現《ごんげん》又|役行者《えんのぎやうじや》の遺像《ゆいざう》を安置《あんち》せり
    青根《あをねが》我|峯《みね》
  安禅寺《あんぜんじ》のうへなる山は青根我峯《あをねがみね》なり
万葉 三芳野《みよしの》の青根我峯《あをねがみね》の苔《こけ》むしろ誰將織《たれかをりけん》たてぬきなしに
(293コマ)堀川太郎 さほ姫の遊《あそ》ぶ所は奥《おく》山の青根《あをね》が峯の苔のむしろは 公実
新撰和歌集 芳野川いはせの波による花や青根《あをね》が峯に消《きゆ》る白雲 頼政
  安禅《あんぜん》院より三町ばかり右に行て奥院
奥院《おくのいん》四方|正面堂《しやうめんだう》は聖《しやう》観音菩薩|不動《ふどう》明王|愛染《あひぜん》明王|地藏菩薩《じさうほさつ》其|
《わき》に蔵王堂《さうわうだう》
    苔清水《こけしみづ》
  西行上人の庵室《あんじつ》の跡とて草室《くさのしつ》にその遺像《ゆいざう》をすへたり
  芳野《よしの》の苔清水《こけしみづ》にて
山家集 淺くともよしや又|汲《くむ》人もあらじ我事|足《たる》山の井の水 西行
未勘 とく/\と落る岩間《いはま》の苔清《こけし》水|汲《くみ》ほす程もなき住《すま》ゐかな 同
  文治《ぶんち》の年《とし》西行法師河内のひろかはといふ山寺にてわつらふ事ありときゝていそぎつかはしたりしかばかぎりなくよろこびつかはして後《のち》すこしよろしとてとしのはての比京にのぼりてと申せし程に二月十六日になんかくれ侍りける彼《かの》上人|先年《せんねん》にさくらの哥《うた》おほくよみける中に【長秋詠藻】
おなじくは花の下《もと》にて春|死《し》なんそのきさらぎの望《もち》つきの比 西行
  かくよみたりしをおかしく見給ひしことにつゐに二月十六日|望《もち》のひをはりとげけること哀《あはれ》にありがたくおぼしてかきつけける
ねがひおきし花の下《もと》にてをはりけり蓮《はちす》のうへもたがはざらなん 俊成
  西行桜は此法師此山に三とせの間住ゐ(294コマ)せし所なりとかたりしかば花ちりなはとよみしことのはも此所ならんかし
花にいりておもひしられぬ吉野山やかていでしといひしことのは 飛鳥井雅章
  青折嵩《あををりがたけ》といふなる所より道二つにわかれて左は西川《にじかう》の瀧への通路《つうろ》右は山上にのぼる道なり是より山上まては五|里余《りよ》の道にて侍るとかや
    薢嶽《あさみがだけ》
薢嶽《あさみがだけ》に住《すみ》おはせし良
※〔竹/弄《れうさん》上人は関東《くはんと》の人なり法花|讀誦《どくじゆ》して身は水の淡《あは》よりもやすく命《いのち》は朝露よりもかろくこそおもはれけれ鬼神《きじん》來りて果蓏《くはら》を供《くう》じ天女ま見えて礼拜をなして飛《とび》かへる臨終《りんじう》の時いとよろこふけしき※〔貌の旁にあらはるゝ或《ある》人あやしやともひぬるはいかなればかくは笑《ゑみ》給けるぞや上人|垢穢《くゑ》の躰《たい》を捨《すて》て妙淨《みやうじやう》の階《かい》にのぼるよろこびずやはあらじといひはてゝぞをはりをとりける【釈書】
万葉 和射美能嶺《あざみのみね》行過て降《ふる》雪のうとみもなしとまうせその児《こ》に
    海峯寺《かいほうじ》
海峯寺《かいほうじ》此所をしらず廣恩《くはうをん》法師の住居《すみおは》せしよしくはしく釈書《しやくしよ》に見えたり

    堂原寺《だうけんじ》

堂原寺《だうけんじ》此所をしらず昌泰《しやうたい》四年八月天|台《だい》の沙門《しやもん》吉野|堂原寺《だうけんじ》のほとりにして仙術《せんじゆつ》をえて天に飛行《ひぎやう》せしよし帝王編年記《ていわうへんねんき》に身(295コマ)えたり

▲吉野山の麓に都藍尼《とらんに》といふ女仙《によせん》あり金峯山《きんぶせん》は黄金《わうごん》の地《ち》にして藏王|權現《ごんげん》是をまもり給ひて女人をのぼらしめ給はず我女人ながら仙術《せんじゆつ》をえたりいかでかのぼらずはあらんやとて大峯|苦行《くぎやう》の道にかゝる俄に神なり雨ふり風しきりにして通路《つうろ》をうしなへりそこにして杖《つえ》をぞすてたりけるその杖《つえ》枝葉《しえう》をなし大木となる又|咒《しゆ》をとなへて龍《りう》をよぶ龍《りう》來りぬればそれにうち乘《のり》て行しが爰にいたりて龍《りう》もすゝみえざれば都藍尼《とらんに》つぶやきながらいかりて巖《いはほ》をふみぬればくぼみ蹴《け》ぬればやぶれてみぢんになる龍《りう》は終《つゐ》に池《いけ》にぞ入にき【釈書】もし爰のほとりににや侍りなむしらず

  是より山上大峯の秘所《ひしよ》あまた所ありとかや人さらにかたりつたへざればましてしらず

    蟻門渡《ありのとわたり》

山家集 笹《さゝ》ふかみきりこすくきを朝《あさ》立てなびき煩ふ蟻《あり》の門《と》わたり 西行

    天《あまの》川

長秋詠藻 吉野山花やちるらんあまの川雲のつゝみをくずす白波 俊成
    卒都婆《そとは》
  平等院《びやうどうゐん》の【行尊】名かゝれたる卒都婆《そとは》に紅葉のちりかゝりけるを見て花より外のとありけむ人ぞかしとあはれにおぼえてよみける
山家集 哀《あはれ》とも花見し嶺《みね》に名をとめて
※〔木+色《もみぢ》ぞけふは共にちりける 西行
    山上 寺領千拾三石
(296コマ)山上|藏王堂《ざうわうだう》夫《それ》藏王|權現《こんげん》は役優婆塞《えんのうばそく》金峯《きんぶ》山に一千日こもりて生身《しやうじん》の薩
※〔土+垂《さつた》をいのり給ひしに地藏尊の形《かたちち》まづ地《ち》より湧出《ゆじゆつ》し給ふ是|優婆塞《うばそく》の心にかなはぬよしあれば地藏は伯耆《ほうき》の大山に飛《とび》さり給ひき其後|大勢《だいせい》忿怒《ふんぬ》の形《かたち》をあらはし右の御|手《て》には三|鈷《こ》をにぎり臂《ひぢ》をいらゝげ左の御手には五|指《し》をもつて御|腰《こし》をおさへ給ふ一|睨《にらみ》大にいかりて魔障降伏《ましやうかうぶく》の相《さう》をしめし兩|脚《きやく》高くたれて天|地《ち》の經緯《けいい》をあらはし給へり示現《じげん》の貌《かたち》よのつねの神にかはり給へり【太平記】此時人王二十九代|宣化《せんくは》天皇三年にあたり優婆塞《うばそく》とし六十五なりならびに十五|童子《とうし》湧出《ゆじゆつ》あり其八大童子を大峯にをくる其所は【禅師宿 多輪宿 笙岩屋 篠宿 玉來宿 深山 水飲 吹越】七大童子をかづらきの峯にをくらるゝ是より湧出《ゆしゆつ》の嶽《だけ》とはいふ也【酉(譽脱か)曼陀羅抄】それより尊像《そんざう》を錦帳《きんちやう》の中に鎖《とざ》され其|湧出《ゆじゆつ》の躰《てい》を秘《ひ》せんがために優婆塞《うばそく》と天|暦《りやく》の帝《みかど》【村上】とをの/\手づから二|尊《そん》を作りそへられ三尊を安置《あんち》し奉給ふ惡愛《をあひ》を六十余洲にしめして彼《かれ》を是《ぜ》し此《これ》を非《ひ》し賞罸《しやうばつ》を三千|世界《せかい》にあらはして人を悩《なやま》し物を利《り》しすべて神明權迹《しんめいごんせき》をたれて七千|余座《よざ》の利生のあらたなるを論《ろん》ずれば無二亦無《むにやくむ》三の霊験《れいけん》なり【太平記】
鐘《かね》あり鐘樓《しゆろう》もなく堂《だう》の縁《えん》にすへ置たり(297コマ)其|鐘《かね》の銘《めいに》曰(く)遠江《とをとふみの》國|佐野郡《さのゝこほり》原田庄《はらだのしやう》長福寺《ちやうふくじ》天慶《てんけい》六年七月二日と云々延寶七年迄凡七百三十七年か
  此所に二つの道あり南に向《むか》ふは大峯の通路《つうろ》西に行は天川《てんのかは》の通路|小篠《をざゝ》へ一里ばかり

    小篠《をざゝ》
  小篠《をざゝ》のとまりと申所にて露しげかりければ
山家集 分きつる小篠《をざゝ》の露にそほりつゝほしぞわづらふ墨染の袖 西行
    篠宿《さゝのしゆく》
  さゝのすくにて
山家集 庵《いほり》さす草《くさ》の枕《まくら》に友《とも》なひて篠《さゝ》の露にも宿《やど》る月哉 西行
    小池宿《こいけのしゆく》
  小池と申すくにて
同 いかにして梢《こすゑ》の隙《ひま》をもとめえて小池に今宵《こよひ》月のすむらん 西行
    へいぢの宿
  へいちと申すくにて月を見けるに梢《こすゑ》の露のたもとにかゝりければ
同 梢《こずゑ》なる月も哀《あはれ》をおもふべし光《ひかり》にぐして露のこほるゝ 西行
    古屋宿《ふるやのしゆく》
  ふるやと申すくにて
山家集 神無月|時雨ふる屋にすむ月はくもらぬ影《かげ》もこのまれぬ哉 西行
    姨捨峯《をばすてのみね》
  をばすての嶺《みね》と申所の見わたされておもひなしにや月ことに見えければ
(298コマ)山家集 姨捨《をばすて》はしなのならねどいづくにも月すむ峯の名にこそ有けれ 西行
拾遺愚草 三芳野や姨捨《をばすて》の山の春秋もひとつにかすむ雪の明ほの 定家
    千種嶽《ちくさのだけ》
  ちくさのだけにて
山家集 分て行《ゆく》色のみならず梢《こずゑ》さへちくさのだけは心そみけり 西行
    東屋《あづまやの》峯
  あづま屋と申所にて時雨《しくれ》の後月を見て
山家集 神無月時雨はるれば東屋《あつまや》の峯にぞ月はむねとすみける 西行
    屏風立《ひやうぶたて》
    行者歸《ぎやうじやかへり》
    児留《ちごとまり》
  行者《ぎやうじや》がへり児《ちご》どまりにつゞきたるすくなり春の山伏は屏風《ひやうぶ》だてと申所をたいらかにすぎん事をかたくおもひて行者《ぎやうじや》ちごのとまりにてもおもひわづらふなるべし
山家集 屏風にや心を立ておもひけん行者《ぎやうじや》はかへり児《ちご》はとまりぬ 西行
    三重瀧《さんじうのたき》

三重の瀧おがみけるにたうとく覚て三|業《ごう》のつみもすゝがるゝ心地しければ
同 身《み》につもることばの罪《つみ》もあらはれて心すみぬる三かさねの瀧 西行
    轉法輪嶽《てんぼうりんのだけ》
  轉法輪《てんぼうりん》のだけと申所にて釈《しや》迦の説法《せつほう》の座《さ》のいしと申所をおかみて
同 爰こそは法《のり》とかれたる所よと聞《きゝ》さとりをもえつるけふかな 西行
    釈迦嶽《しやかがだけ》
釈迦嶽《しやかがだけ》又|轉法輪嶽《てんぼうりんのだけ》とは同山|異名《いみやう》にはあらずや(299コマ)釈迦《しやか》の嶽《だけ》の濫觴《らんしやう》をしらず
    神仙《じんぜん》
  大峯の神仙と申所にて月を見てよめける
山家集 ふかき山に住《すみ》ける月を見ざりせばおもひでもなき我身ならまし 西行
    笙窟《しやうのいはや》
  大峯の笙《しやう》の岩屋《いはや》にてよめり
金葉集 草の庵《いほり》何《なに》露せしとおもひけむもらぬ岩屋も袖はぬれけり 僧正行尊
  みだけの笙《しやう》の岩屋《いはや》にこもりてよめり
新古今 寂寞《さゝまく》の
※〔草がんむり/毎《こけ》の岩屋《いはや》のしづけきに涙《なみだ》の雨のふらぬ日ぞなき 日藏上人
  みだけよりさうの岩屋へまいりたりけるにもらぬ岩屋もとありけむおりおもひ出られて
山家集 今宵《こよひ》こそ哀《あはれ》もあつき心地《こゝち》して嵐《あらし》の音をよそに聞《きく》かな 西行
笙窟《しやうのいはや》は日藏《にちざう》上人こもり給ひし所也はじめは芳野《よしの》山|椿山寺《ちんせんじ》にをこなひゐ給けるが後《のち》は笙窟《しやうのいはや》に入無言断食《むごんだんしき》にして三七日をかぎり密供《みつくう》をぞ修《しゆ》せられけるが天慶《てんけい》四年八月一日|舌《した》燥《かはき》氣《き》塞《ふたかり》終《つゐ》に息《いき》絶《たえ》たりしかありしに一人の和尚來り日藏をいざなひまづ藏王菩薩の金峯《きんぶ》山の淨土《じやうど》を見せしめしかのみならず日藏|九九年月王護《くくねんげつわうご》の短札《たんさつ》を給ふ又|菅丞相《かんしようしやう》にま見え奉りてかの短札《たんさつ》八|字《じ》の註釈《ちうしやく》をうけ給りしより道賢《だうけん》の旧名《きうみやう》をあらため日藏とぞ名《な》をつかれける又|地獄《ぢごく》のやうなどを見せらるるに鐵窟《てつくつ》に人ありていはく我は是大日本國|主《しゆ》金剛覺大王《ごんがうかくだいわう》の子なり菅丞相《かんしようじやう》配流《はいりう》の(300コマ)うらみふかく佛寺《ふつじ》を燒《やき》有情《うじやう》を害《かい》せり其|重罪《じうざい》我《わが》身《み》にうけてやるかたなし汝《なんじ》本國《ほんごく》にかへりて一万の卒都婆《そとは》をつくり供養《くやう》して我《わが》苦患《くげん》をたすけよとの宣下《せんげ》をうけ給はる【釈書】又|都卒内院《とそつのないゐん》を見めぐり聖衆《しやうじゆ》の妓樂《ぎがく》をきく【盛衰記】終《つゐ》に十三日を經《へ》て蘇生《そせい》したり其後かの都卒内院《とそつのないゐん》の樂《がく》を和朝《わちよう》につたへて見佛聞法樂《けんぶつもんほうがく》と号《かう》す又の説《せつ》にかの樂《がく》はもろこしよりつたへぬる曲《きよく》なりともいへり日藏上人は朱雀院《しゆしやくゐん》の御子なり【盛衰記】かの上人爰の岩屋《いはや》にをこなひ給ひける比《ころ》にやありけむ鬼神《きじん》來りて手をつかねて申やう我《われ》人界《にんかい》にありし時遺恨《いこん》によりて鬼《おに》の身《み》と成て四五百|歳《さい》を經《へ》たり其かたきの末/\まで今|根《ね》を斷《たち》たりかゝる心のつかずは極樂《ごくらく》又は天上にも生《うま》れなんものを無量億功《むりやうおくこう》の苦《く》をうくるかなしやといひもはてぬにほのほもえ出て山の奥《おく》にぞ入けり其|後《のち》上人はかのつみほろぶべき事どもさま/\にこそとふらひ給ひけれ【宇治拾遺】
    大峯《おほみね》
  大峯にて
金葉 もろ共に哀《あはれ》とおもへ山桜花より外にしる人もなし 僧正行尊
  修行《しゆぎやう》し侍りけるに大峯にて
玉葉 時雨ふる外《と》山のすゑは晴《はれ》やらで雲のうへ行《ゆく》峯の月影 僧正教範
  山上より原《はら》八十町をくだりぬれば蟷螂《とうろふ》か岩屋を見て泥《どろ》川にいたる大峯|修行《しゆぎやう》の人の(301コマ)旅館《りよくはん》なり
    天川白飯寺《てんのかははくはんじ》
琵琶《びは》山|白飯寺《はくはんじ》は役行者《えんのぎやうじや》大峯の道をひらきなんとて先此山にして霊験《れいけん》をいのり給ひしに山に冷水《れいすい》湧《わき》ながれ神霊《しんれい》圓光《えんくはう》をかゝやかす廟《びよう》には琵琶《びは》の響《ひゞき》ありて人心の迷雲《めいうん》を拂《はら》ひしより琵琶《びは》山と号《かう》せり其後|弘法《こうぼう》大師の千日のをこなひには弁才天女《べんざいてんによ》現《げん》じ給ひしかばその尊像《そんざう》をきざみ神霊《しんれい》をおさめられき今の本尊是なり弘法大師|伽藍造営《がらんざうゑい》より凡八百歳|霊験《れいけん》日々に威《い》をまし利益《りやく》夜々《やや》に徳《とく》をぞあらはしける【勸進帳】

好色《こうしよく》の先達《せんだち》業平朝臣《なりひらあそん》芳野《よしの》の川上の石窟《いはや》天《てんの》川といふなる所にて入定《にうでう》ありと縁起《えんぎ》に見え侍るよし河海《かがい》抄にあり廟《びよう》といふは入定《にうでう》の地にや
    丹生《にふ》山
  此山は下市《しもいち》村の西にあり丹生《にふ》川はそれよりながれ出て芳野川に落ゆく
万葉 斧《をの》とりて丹生《にふ》の檜《ひ》山の木こりきて機尓作二梶貫礒榜回乍嶋《ふねにつくりてまかぢぬきいそこぎたみつゝしま》づたひ見れ共あかず三吉野の瀧とゞろきおつるしら波
草根 丹生の山氷をたゝく川波も月のかつらをきるかとぞきく
同 ねをさしてきらぬたつ木もあれぬべし水の金ほる丹生の杣山
名寄 五月雨に丹生《にふ》の川|瀬《せ》の杣《そま》くだしひかぬによするきさの山ぎは 
    丹生《にふの》社
(302コマ)丹生《にふの》明神一|座《ざ》あり延喜式神名帳《えんぎしきじんみやうちやう》に芳野《よしのゝ》郡丹生《にふ》の川上(の)神社《じんじや》とあれば尤一|座《ざ》と見えたり然とも三|代實録《だいじつろく》にお大和國|丹生《にふの》川上七|社《しや》に奉幣《ほうへい》のよし見え侍るかさねてあきらかにせらるへし

丹生社《にふのやしろ》は罔象女《みつはめの》神也|伊弉並尊《いざなみのみこと》軻遇鎚《かぐつち》のためにやかれて終《さり》給ひぬ其さりなんとし給ふの間に土《はにの》神|埴《はに》山|姫《ひめ》およひ水神|罔象女《みつはめ》をうみ給ふ【日本紀】
▲此|社《やしろに雨を乞《こひ》霖雨《りんう》をやめさせ給へとの勅使《ちよくし》をたてられし事|古《ふる》き文どもにあまた度《たび》見えたり
人王四十代|天武《てんむ》天皇|白鳳《はくほう》四年に垂跡《すいしやく》それより延寶七年迄凡九百七十四年か
▲神武《じんむ》天皇の御|宇《う》に兄磯城《えしき》といふ賊《あた》ありけるが軍を磐余《いはれ》のむらにそなへて道をふせぎし程《ほど》にみかどの軍《いくさ》とをりぬべき道なし神武《じんむ》天皇こよひみづから天《あま》の神にいのりまし/\ぬれば瑞夢《ずいむ》あり弟猾《おとうげし》奏《そう》し奉るやまとの國|磯城《しき》のむら又|髙尾張《たかおはり》のむらに八十梟師《やそたける》【兼方曰凶黨八十人】ありみかどとふせぎたゝかひなんとおもふわれ天香《あまのかぐ》山の土をとりて天平瓫《あまのひらか》【兼方曰平賀者盛2供神物1之土器也】として天津《あまつ》やしろ國津《くにつ》やしろをまつらんしかあらば賊《あた》をやすくしたがへむ天皇御|夢《ゆめ》のをしへにたかはざりし程《ほど》に御心によろこび給ひて推根津彦《しゐねつひこ》をおきなのかた(303コマ)ちにつくり弟猾《おとうけし》を女おきなのすがたになして天香《あまのかく》山の土をとり來れすなはちふたりまかりしに賊軍《あたいくさ》どもかのすがたを見て大《おほきに》わらひあれ見にくやといひて道をさりて通らせけり山にいたりて土をとりかへりぬその土にして八十平瓫《やそひらか》天《あま》の手杖《たくしり》八十枚嚴瓫《やそていそへ》を【兼方曰天者例文手者以v手作2土器1之義扶者玉篇排戰也云々可2戰勝1之象造2于土器1祭2諸神1之義也兼方曰嚴(ハ)重之義瓫者土瓶也今世神今食新甞祭等供2神物(を)1陶器《すゑつきの》土器此同縁也凡嚴瓫者祭v神之土器之惣名也】つくりて丹生《にふ》の川上にのぼりまして天神地神《あまつかみくにつかみ》をいはひまつり給ふ莵田《うだ》川の朝原《あさはら》にしてちかひ給ふ我今|八十瓫《やそひらか》をもつて水もなしに飴《たかね》【和名抄曰阿女】をつくらん飴《たかね》ことなりなば吾《われ》かならず天下《あめがした》をしたがへなんすなはちつくり給ふにことなりぬ又|嚴瓫《いつへ》を丹生《にふ》の川にしづめんにもし魚《うを》の大小となく醉《えひ》てながれん事たとへば柀《まき》の葉《は》のうかひながれんごとくあらば吾かならず此國をさだめんとちかひ給ひて瓫《いつへ》を川にしづめさせ給ふに其川|下《しも》にむかひしばらくありて魚《うを》みなうかひ出《いで》にき推根津彦《しゐねつひこ》うかべる魚《うを》を見てかくと奏《そう》し奉るに天皇|大《おほき》によろこび給ひて丹生《にふ》の川上の五百箇真坂木《いをかまさかき》をねこしにしてもろ/\の神をいはひ給ひしよりはじめて嚴瓫《いつへ》の置《おきもの》あり【日本紀】
    天野丹生《あまのにふの》神
天野丹生都姫《あまのにふのつひめ》は天照太神也やまとの國(304コマ)丹生《にふ》川の末にいます故《ゆへ》に丹生都姫《にふつひめ》と号《かう》せり
    国樔《くず》

今一|郷《がう》の名によぶなり
国樔《くず》の翁《おきな》は心いとすなほにしおて山の菓《このみ》をとりくひ蝦蟆《かへる》を煮《に》てよきあぢはひとおもひ名づけて毛瀰《もみ》とぞいひける国樔《くず》がすめる所はみやこの巽《たつみ》山おほくへだてゝ吉野の川上の峯さかしく谷ふかうして道いとせばくさがしかりければみやこにまうでくる事もまれにぞ侍る應神《おうじん》天皇十九年十月一日吉野の宮に行幸なり給ふには国樔《くず》人|三寸《みき》を奉りて歌うたふ
かしのふに【所名也】よこすを【横臼也畧v宇】つくり【造也】よこすに【横臼也】かめる【醸也】おほきみ【御酒也】うまらに【甘也】きこしもちて【聞持也謂聞食也】をせ【飲也】うまがち【丸父也】となんうたひをはりて口うちてあふのきわらへり又|土毛《くにもの》を奉る日に歌うたひをはりて口うちてあふのきわらふ是は国樔《くず》がいにしの遺則《のり》なり是より參赴《まうきて》土毛《くにもの》奉りき其くにのものは粟《あは》菌《くさびら》ならびに年魚《あゆ》のたぐひなり【日本紀】代々を經《へ》て浄見原《きよみはらの》天皇大|伴《どもの》皇子に襲《おそは》れて芳野《よしの》の奥《おく》の岩屋《いはや》の中に御|身《み》をかくさせ給ひしには国樔《くず》の翁《おきな》粟《あは》の御料《ごれう》にうぐひといふめる魚をそへて供御《くご》に奉りしかば朕《ちん》帝位《ていゐ》にのぼらは翁《おきな》と供御《ぐご》とをめされなんとおぼしめされけるより此かた元(305コマ)日の御|祝《いはひ》には国樔翁《くずのおきな》まいれり桐竹《きりたけ》に鳳凰《ほうわう》の装束《しやうそく》を給はりて舞けるとかや豊明《とよのあかり》五節《ごせつ》にも此翁まいりて粟《あは》の御料《ごれう》にうぐひの魚《うを》を御|祝《いはひ》に奉る殿上《てんじやう》より国栖《くず》とめされぬれば声《こゑ》にて御こたへも申さず笛《ふえ》を吹てまいるなり此翁まいらぬには五節《ごせち》も始《はしま》る事なしとなり【盛衰記】
現存六帖 遠津川《とほつかは》芳野《よしの》の国栖《くず》のいつしかとつかへぞまつる君の始《はじめ》に
    賀名生《かなふ》
賀名生《かなふ》は天《てんの》川の奥なり後醍醐《ごだいご》天皇|宮古《みやこ》を落させ給ひて御|身《み》をかくさせ給ふ所のよし太平記にくはし
    銀嵩《かねがだけ》
  銀《かね》がだけは南にして金か嶽《だけ》は北にあり
賀名生《かなふ》の奥《おく》銀《かね》が嶽《だけ》といふ山にして吉野の将軍《しやうぐん》の宮《みや》合戦《かせん》のよし太平記に見えたり
    十津《とつ》川
十津《とつ》川の温泉《いでゆ》は縁起《えんぎ》二通あり是をもとめえざれば濫觴《らんしやう》をあらはさずむかし大塔二品親王《おほたうにほんしんわう》山|臥《ぶし》のかたちにておちさせ給ひて十津川に御|着《つき》おはしまして竹原《たかはら》八郎入道の甥《をひ》に戸野《とのゝ》兵衛といひし人の家にしばらく入せ給ふよし太平記にくはしその末葉《ばつえう》今の世にもあり
現存六帖 遠津川芳野の国栖《くず》のいつしかとつかへぞまつる君の始《はじめ》に
夫木 三芳野の山のあなたの十津川のいづみの原も哀《あはれ》浮世を 公頼
(306コマ)    湯原《ゆはら》
  湯原《ゆはら》類字《るいじ》名所に大和國にあり十津川の温泉《いでゆ》にこそ侍らめ爰を吹田《すいた》といふにやしらず

吹田《すいた》の温泉《いでゆ》にて靏の鳴を聞て
類字名所玉葉集 湯の原に鳴《なく》芦《あし》たつはわがごとく妹《いも》にこふれや時わかず鳴 大納言旅人
    泉杣《いつみのそま》
  八雲《やくも》御抄に大和國とあり古詠に十津川の泉《いつみ》の原《はら》とあり是によりて一|徃《わう》しるすかさねてあきらかにせらるへし
壬二 杣《そま》人のくだす宮木《みやぎ》も泉《いつみ》川霞ながらも春はながるゝ 家隆
白川殿七百首 日にそへて水も泉《いつみ》の杣《そま》川に宮木《みやぎ》を流《なが》す五月雨の比 師繼卿
    龍門寺《りうもんじ》
  芳野《よしの》郡|宇陀《うだの》郡の境《さかひ》にあり礎《いしずへ》のみ
龍門寺《りうもんじ》は義渕《ぎいん》僧正の構造《かうざう》なり【釈書】
  龍門《りうもん》の瀧《たき》を見てよめる
古今 たちぬはぬ衣《きぬ》きし人もなき物を何《なに》山|姫《ひめ》の布《ぬの》さらすらん 伊勢
  ふぢ井のともなが龍門《りうもん》より給はりける歌《うた》の返事によめるかの家の集にあり
名寄 雲と見え人まどはすは流出し龍《たつ》の門《かど》より來《きた》る水かも 素性法師
  是は大和|龍門寺《りうもんじ》の瀧にてよめるなり彼《かの》寺には仙窟《せんくつ》の洞《ほら》ありむかし仙人|住《すみ》しより龍門《りうもん》の仙《せん》といひつたへたり【顕注密勘】
    弓絃葉三井《ゆづるはのみゐ》
  八雲《やくも》御抄に大和國にあり
(307コマ)  吉野の宮に行幸《みゆき》し給ふ時
万葉 いにしへにこふる鳥かも弓絃葉《ゆづるは》の三井の上より鳴わたりゆく 弓削皇子
    安騎野《あきの》
  仙覺《せんがく》抄大和國芳野山のかたにありと云々
万葉 あきの野《の》に宿《やど》る旅《たひ》人うちなひきいもねこしやもいにしへおもふに
    東野《あつまの》
  言塵集《げんぢんしう》にいはく此|東野《あづまの》は芳野《よしの》の安騎《あき》の内と云々|藻塩《もしほ》草に吾妻野《あづまの》安騎野《あきの》同名あきのをのともよめり
万葉 東《あつま》野の煙《けふり》のたちし所にてかへり見すれば月かたふきぬ
寶治百首 東野の露わけ衣はる/\ときつゝ都《みやこ》を戀《こひ》ぬ日はなし 教定
爲尹千首 吾妻野《あづまの》の空《そら》には雲の晴ぬれと袖にしらるゝ萱《かや》か下露
    御垣原《みかきがはら》
  河海《かかい》抄にいはく御垣《みかきの原は名所ならね共|御垣《みかき》によせていふなり御かきの松ともよめり同事なり八雲《やくも》御抄|勅撰《ちよくせん》名所|藻塩《もしほ》草大和國なり三芳野《みよしの》のみかきが原とつゞけたりと云々
久安百首 霞たり雪も消《きえ》ぬや御芳野《みよしの》の御垣《みかき》が原に若なつみてん 顯廣
千五百番 春きぬと三垣《みかき》が原は霞とも猶《なを》雪さゆる御芳野《みよしの》の山 釈阿
師兼千首 三芳野の山には雪も消《きえ》/\に
御垣が原ぞはや霞なり
    大峯|開基《かいき》
夫《それ》大峯は役優婆塞《えんのうばそく》はじめてひらき給ひしより年《とし》を經《へ》て中絶《なかたえ》にたれば通路《つうろ》は只《たゝ》荊棘《けいきよく》のとぢぬる程《ほど》に聖寶《しやうぼう》僧正いかでかゝる霊山を空《むな》しくせんやはとて更《さら》に開《ひら》き給ひし(308コマ)なり【釈書】
▲役《えんの小|角《かく》又は役行者《えんのぎやうじや》又は役優婆塞《えんのうばそく》ともいふ大和國|葛城《かつらきの》上(の)郡|茆原《ちはら》村の人にして髙賀茂《たかかも》氏なり舒明《ちよめい》天皇六年にうまれいまだ年《とし》わかくしてひろく学《まな》び佛法《ぶつほう》をたうとみ年卅二といひしにはかづらきの岩屋にとぢこもり藤《ふぢ》をきものとし松の葉《は》をくひものとして孔雀《くじやく》明王の咒《しゆ》をとなへて五|色《しき》の雲《くも》にのり仙宮《せんきう》にあそぶ二の鬼をさふらはせて水木をになはせなどしてつかふにしたがはせずといふ事なし一とせかづらきの岩橋《いははし》をかけなんとしては一言主神《ひとことぬしのかみ》をからめ箕面《みのお》の瀧口《たきくち》に入ては龍樹大士《りうじゆだいし》と物かたらひなどせしたぐひ書《かき》なば紙《かみ》もかさなりけんかし終《つゐ》に文武《もんむ》天皇大|寶《ほう》元年六月七日年六十八にして母《はゝ》君を鉢《はち》に入竹の葉《は》を波にうかべ諸《もろ》共に海に入て後《のち》見え給はず爰に道昭《たうせう》法師もろこしにありし時|新羅《しんら》の山中にしてむらがれる虎《とら》にあひしがその中に役行者《えんのぎやうじや》の後身《こうしん》の虎《とら》ありて詞《ことば》を通《つう》ぜしとかや師鍊《しれん》和尚は是をけづりて年代のたがひをそへられたり【釈書・酉誉抄】されば三年に一度かづらき山とふじの峯へとは來り給ふており/\は人のあひ侍るとかやもろこしにては第三の仙人にておはするとなり【水鏡】大寶元年より延寶七年迄凡九百七十九年か
    吉野郡|神名帳《しんみやうちやう》十|座《ざ》【延喜式】
(309コマ)吉野水分神社《よしのみこもりのじんじや》 吉野山口《よしのやまくちの》神社
大名持《おほなもちの》神社 丹生《にふの》川上(の)神社
金(の)峯《みだけの》神社 髙桙《たかほこの》神社
波寶《はほの》神社 波比賣《はひめの》神社
川上|鹿鹽《かしほの》神社 伊波多神社《いはたのじんじや》

和州舊蹟幽考第十一卷終

(311コマ)和州舊蹟幽考
   第十二卷葛上郡
葛城《かづらき》
葛城山 付 飛龍《ひれう》
麟角《りんかく》四足鷄《しそくのにはとりの》事
金剛《こんかう》山 付 法起菩薩《ほうきぼさつ》
七大|童子《とうじ》○開山《かいさん》堂(の)事
一言主《ひとことぬしの》神社 付 神階《じんかいの》事
高天《たかま》山 付 高天《たかま》寺事
高天彦《たかまひこの》神
白鳥陵《しらとりのみさゝき》 付 白鳥|飼《かふ》事
化鹿出《けろくいつる》事
琴弾《ことひき》山  高岡《たかをかの》宮
高宮廟《たかみやのびよう》  葛城寺 付 弥勒《みろくの》事
(312コマ)室秋津嶋《むろのあきつしまの》宮  掖上《わきかみの》池
玉手丘上陵《たまてのをかのかみのみさゝき》  茅原《ちはら》村
掖上池心《わきかみいけこころの》宮  孝昭《こうしやう》天皇(の)陵
掖上
※〔口+兼間岳《わきかみほゝまのをか》  雲櫛《くもくしの》社
捨篠《すてしのゝ》社  御年《みとしの》神(の)社 付 神階《じんかいの》事
巨勢《こせ》山  巨勢《こせ》川
をあきが原  菅原伏見《すがはらのふしみ》
千葉屋《ちはやの》城  延喜式神名帳
   第十三卷城上郡
穴師《あなしの》社  
崇神《すうじん》天皇(の)陵
景行《けいかう》天皇(の)陵  舒明《ちよめい》天皇(の)陵
田村皇女《たむらのくはうによの》墓  大伴《おほどもの》皇女(の)墓
忍坂《をしさか》山  鏡女王《かゝみのによわうの》墓
釜《かまの》口寺  痛背《あなし》川
痛足《あなし》山  箸墓《はしつか》
緒環《おたまき》墓  纒向珠城《まきもくたまきの》宮
珠城《たまき》山  纒向《まきもく》山
卷向《まきもく》川  檜原《ひはら》
纒向日代《まきもくひのしろの》宮
豊《とよ》受|氣《け》大明神(の)御鎮座《ごちんざの》地
(313コマ)三輪山  神|岳《をか》山
神山  三垣《みかき》山
神辺《かみべ》山  三輪川
しるしの杦  三輪神社
杦社  三輪若宮
大御輪寺《たいごりんし》 付 神足跡《じんそくせきの》事  天|照《しやう》太神(の)御鎮座地事
玄敏《げんひん》谷  海柘榴市《つはいち》
三輪崎  佐野《さのゝ》渡
磯城嶋金刺《しきしまかなざしの》宮  磯城瑞垣《しきのみづかきの》宮
磯城《しき》嶋  磯城嶋高圓《しきしまのたかまど》
泊瀬《はつせ》山  泊瀬《とませ》
木葉《このはの》宮  紅葉《もみちの》里
泊瀬《はつせ》川  古川《ふるかは》野辺 付 二本杦事
鴬山 弓月嵩《ゆづきがだけ》
石村《いはむら》山
長谷寺 付 觀音
石座(の)事登廊《のほりらう》炎上(の)事
護法善《ごほふぜん》神  白山(の)權現《ごんげん》
山口(の)神社  与喜《よき》山天神(の)社 付 祭(の)事
別院《へつゐん》長|勝《しやう》寺  蓮花《れんげ》院
安養《あんやう》院  藤井《ふじゐ》坊
(314コマ)道明《だうめう》上人(の)廟《びやう》  泊瀬朝倉《はせあさくらの》宮
泊瀬|列樹《つらきの》宮  泊瀬|齋《いつきの》宮
迹驚《とゝろきの》淵  泊瀬小野《はつせのをの》
伊豆加志本《いづかしもと》 付 天照太神宮(の)御鎮座(の)事
狹井《さゐの》神社  笠《かさ》山
竹林寺 付 荒神《くはうじんの》事  
延喜式神名帳

和州舊蹟幽考第十二卷葛上郡
    葛城《かづらき》
葛城は神武《じんむ》天皇二年|髙尾張邑《たかおはりのむら》【旧事記に高城邑】
に土蜘《つちくも》あり身は短《みしか》く手足はなかくして只|勇《たけく》いさめり官軍《みやいくさ》かつらの網《あみ》をもて終《つゐ》に殺《ころ》しけり是より葛城の名あり【日本紀】
    葛城山
  金剛《こんがう》山同山異名
万葉 青柳のかづらき山にたつ雲の立てもゐても妹《いも》をしぞ思ふ 人丸
菅家百首 咲かけてそれとも見えず葛城の花のよそなる峯のしら雲
堀川二郎百首 かつらきや木陰《こかけ》に光る稻妻《いなつま》を山伏のうつ火かとこそ見れ 兼昌
廣田哥合 葛城や菅《すか》の葉しのき入ぬともうき名は猶や世にとまりなん 僧淨縁
御集 さゆりはの葛城山の峯の月曉かけて影ぞすゞしき 後鳥羽院
(315コマ)
▲斉明《さいめい》天皇元年五月|龍《りう》にのりて虚空《こくう》をかけるものあり貌《かたち》唐《もろこし》人に似て青きあぶらきぬの笠をきけりかづらきの嶽《だけ》より出て生駒《いこま》山に馳《はせ》行|午《むま》の時には住吉の松(の)嶺《みね》の上より西に向ひて馳《はせ》さりたり【日本紀】
▲天武《てんむ》天皇九年二月葛城山に麟角《りんかく》あり角《つの》のもとは二|枝《また》にして末《すゑ》合て宍《しゝ》あり宍《しゝ》の上に毛《け》生《おひ》たり毛《け》の長《なが》さ一寸則是を奉りけるとぞ【日本紀】同御宇|白鳳《はくほう》十三年葛城に四足の鷄《にはとり》あり【日本紀】
    金剛《こんがう》山 やまと河内の境なり
金剛山は天瓊矛《あまのとほこ》のさきより滴《したゝる》潮《しほ》こりて
※〔石+殷馭盧嶋《ゑのころしま》となる此ゑのころしまは則金剛山なり【纂疏】又の名は金剛峯又は縛曰羅獨矛《ばさらとむ》又は一|乗《せう》峯【酉誉記】又は神祇宝《しんぎほう》山又は大日本日高見《おほやまとひたかみの》國といふ是は日神《ひのかみ》所化《なりまして》より此名あり【葛城宝山記】
花嚴《けごん》經(に)曰(く)東北海中《とうほくのかいちうに》有《あり》v處《ところ》名《なつく》2金剛山《こんがうせんと》1從《より》v昔《むかし》巳來《このかた》諸菩薩衆《もろ/\のぼさつしゆ》於(て)v中(に)止住《じぢふし給ふ》現《げんに》有《あり》2菩薩《ぼさつ》1名《なつけて》曰《いふ》2法起《ほうきと》1与|其眷属《そのけんぞく》諸菩薩衆千二百人|倶《ともなり》常《つねに》其《その》中(に)而|演《のへ給ふ》1説法《せつほうを》1云々是大和國の金剛《こんがう》山なり【正統記】
本堂は法起《ほうき》菩薩|不動《ふどう》明王|藏王権現《ざわうこんけん》の三尊役小角の刻《きさ》み給ひしとなり正月三ケ日大峯八大|金剛童子《こんがうどうじ》に供物《くもつ》をそなへ葛城心經といふをこなひあり役行者《ゑんのぎやうじや》自然涌現《じねんゆげん》の十五童をわけて八大金剛童子は大峯に祠《しゆく》し七大童子はかづらきにをくられし也先第一|經護《きやうご》童子は一乗(の)嶽《だけ》又第二|福集《ふくじゆ》童子は大福山又第三|常行《じやうぎやう》童子は金剛《こんがう》山又第四|集飯《しゆほん》童子は二上の岩《いは》屋又第五|宿着《しゆくちやく》童子は紅宿《こうしゆく》又第六|禅前《ぜんせん》(316コマ)童子は般若嶽《はんにやのだけ》又第七|羅網《らまう》童子は釈迦留岳《しやかるのをか》にしつまり給ふとなり【酉誉抄】

▲開山堂《かいさんだう》役行者の遺像《ゆいざう》あり六月七日に法事を修《じゆ》しその日|護摩《ごま》堂に柴燈《さいたう》の護摩《ごま》あり役行者の傳《でん》は芳野《よしの》郡の大峯の所にあらはす又本堂より漸《やゝ》はるかの坂中に朝原寺《あさはらてら》石寺《いしてら》なとあり
    一言主神
葛木坐一言主《かづらきにいますひとこぬしの》神社【延喜式】一言主《ひとこぬしの》神は孔雀《くしやく》明王と号す【一言主社記】葛城(の)神ともいふ是なり抑一言主神は一説に大穴六道尊子味
※〔金+且高彦根尊《おほあなむちのみことのこあぢすきたかひこねのみこと》か【釈日本紀】雄略《ゆうりやく》天皇四年天皇かづらき山に狩《かり》し給ふ時一言主神出て天皇とともに箭《や》をはなち轡《くつは》をならへてかりし給ふ【日本紀・古事記】天皇|大瞋《おほいにいかり》給ふて神を土佐《とさの》國にうつし奉らるゝその後天|平寶字《ぴやうほうじ》八年|從《じゆ》五位上|髙賀茂《たかかもの》朝臣|等《たち》奏《そう》して葛城山の東下《ひかしのふもと》高宮岡上《たかみやのをかのうへ》にむかへて鎭《しつめ》奉る【釈日本紀】土佐《とさの》國にうつし給ふ義は信用《しんよう》せざるよし旧説《きうせつ》侍れども既《すでに》續日本紀《しよくにほんき》にその説《せつ》をあらはせり
▲神階《じんかいは貞觀《じやうぐはん》元年正月廿七日|葛城《かつらき》一言主神(の)神を從《じゆ》二位に叙《じよ》せらるゝ【三代實録】そのゝちをしらす
續古今集 君をいのる只一言の神の宮二心なきほどはしるらん 賀茂氏人
夫木集 逢事をよるとや人も契るとて一言ぬしにねぎぞかけつる 顕昭
    高天山 付 高天寺
  金剛山の半腹《はんふく》にあり又|石見《いはみの》國に同名あり
高天寺《たかまてら》はかの初陽毎朝《しよやうまいてう》と囀《さえづ》りて宿《しゆく》せし梅とて朽《くち》ながらたてり又|土蜘蛛《つちくも》と名にいはれしものゝ栖《すみか》とて岩穴《いはあな》苔生《こけむ》して殘れりされば此人はつねに穴《あな》の中(317コマ)を栖《すみか》とせり賤号《せんかう》を給はりて土蜘《つちく》とはいへり【釈日本紀】
万葉集 葛城の高間の草野|早《はや》しりてさめざらましをいまぞ 畧
    髙天彦神
仁明天皇|承和《しやうわ》六年大和國|葛《かつらの》上(の)郡從三位|髙天彦《たかまひこの》神を名神《めいしん》とし給ふ【續日本後紀】
    白鳥陵《しらとりのみさゝぎ》
  或人《あるひとの》曰(く)葛城の根《ね》に白鳥《しらとりの》明神ありながら村の際《きは》一言主《ひとことぬしの》神はその上にあり兵庫《ひやうご》村の西
日本武尊《やまとだけのみこと》東夷《とうい》をほろぼしてかへり給ひしか伊勢の能褒野《のほの》【延喜式曰鈴鹿郡】にして崩御《ほうきよ》なり給ふ御とし卅歳|能褒野《のほの》陵に葬《かくし》奉りし時白鳥と化《けし》大和國をさして飛《とび》給ひしかは群臣《ぐんしん》棺《くはん》をひらきて見奉りしに只|明衣《みぞ》のみあり又白鳥は大和國|琴弾《ことひきの》原にとゞまらせ給ひしかばそこに陵《みさゝぎ》をつくれり更《さら》に白鳥飛て河内(の)國|舊市邑《ふるいちのむら》にとゞまり給ひしより陵をつくりて白鳥の三陵といへり然とも終《つゐ》に天にかけり給ひしかば衣冠《みぞつもの》を葬《はうふり》奉りけり【日本紀】まち/\の説あり舊事記《くじき》には尾張《おはりの》國に薨《はうふると》云々太平記には尾張國に飛落《とびおち》給ひしより白鳥(の)塚《つか》の名ありといへり盛衰記《せいすいき》には讃岐《さぬきの》國に飛落《とびおち》白鳥(の)明神と顕《あらはれ》給ふとあり
▲仲哀《ちうあい》天皇は日本武尊《やまとだけのみこと》の第二の御子にておはしましき父王《かそのきみ》白鳥と化《け》しさり給ふ朕《ちん》しのび奉るにやむ時なし只白鳥を陵《みさゝぎ》のめぐりの池にかひなんそれを見つゝなぐさみなんとの勅言ありしかは國/\より白鳥をさゝげ奉りき【日本紀】
▲仁徳《にんとく》天皇六十年十月に白鳥(の)陵はもとより空《むな》し(318コマ)とて陵守《みさゝきもり》に役丁《よほろ》を宛《あて》給ひしかは陵のうちより白鹿《しろきしゝ》と化《け》してさり給ひしほどにいとあやしくいとをそれおはしまして又陵|守《もり》をそをかせ給ひしとなり【類聚國史】
    琴弾山《ことひきやま》
  澄月歌枕《てうげつうたまくらに》曰(く)丹後《たんごの》國に琴引(の)濱又琴引(の)松は別國《へつこく》琴引の山いつづれの國にやと云々日本紀に琴引の原大和國と見え侍れは一|往《わう》こゝにあらはす
六帖 いづくにかしらべの声の絶ぬらん琴引山の音のきこえぬ
    高丘《たかをかの》宮
  帝王編年《ていわうへんねんに》曰(く)葛上《かつらのかみの》郡|村老《そんらう》申|一言主《ひとことぬしの》社《やしろ》のほとり
人皇二代|綏靖《すいせい》天皇元年正月|都《みやこ》を葛城にうつされ高丘《たかをかの》宮と名づけ給ふ【日本紀】
    高宮廟《たかみやのびよう》
  續《しよく》日本紀(に)曰(く)かづらき山の東《ひかし》の下《ふもと》高宮岡《たかみやのをかの》上に一言主《ひとことぬしの》神をいはひ奉るよし見えたり
皇極《くわうぐよく》天皇元年|蘇我《そがの》大臣|蝦夷《ゑびし》祖廟《おやのつか》をかづらきの高宮《たかみや》に立けるとなり【日本紀】
    葛城寺
  村老《そんらう》申寺村その跡なり
葛城寺《かつらきてら》又は妙安寺《めうあんじ》ともいふ聖徳太子御|建立《こんりう》の後《のち》蘇我《そがの》葛木臣《かづらきのしん》に給はりけると平氏傳《へいしでん》に見えたり
▲葛城尼寺の弥勒銅像《みろくのとうざう》は天平年中寺の前《まへ》南(の)原に悲痛《ひつう》の聲《こゑ》聞《きこ》えしかばこゑにしたがひてたづねしに盗《ぬす》人かの弥勒の像をとりきたりてやぶる程に像《ざう》声《こゑ》をたて給ふにぞありける終《つゐ》に寺にかへし入奉りき【釈書】
(319コマ)    室秋津嶋宮《むろのあきつしまのみや》
  古事記《こじきに》曰(く)葛城室秋津《かつらきむろのあきつの》宮|帝王編年《ていわうへんねんに》曰(く)葛城(の)上(の)郡今(の)掖上池上《わきかみけかみの》池(の)南(の)田中《たのなか》なり今の室村その跡なり寺村より乾《いぬい》にして川の東《ひかし》
人皇六代|孝安《かうあん》天皇二年十月|都《みやこ》を室地《むろのち》にうつされて秋津嶋《あきつしま》の宮と名づけ給ひき【日本紀】又|葛城《かつらきの》宮ともいふ【古事記】
    掖上《わきかみの》池
推古《すいこ》天皇二十一年この池をほりしとなり【日本紀】
    玉手丘上陵《たまてのをかのうへのみさゝき》
  玉手
この所なり室村より乾《いぬい》にして川の東
孝安《かうあん》天皇の玉手(の)丘上《をかのうへの》陵は大和國葛上郡にあり【延喜式】御宇百二十年正月に崩御《ほうぎよ》なり給ひき【日本紀】
    茅原《ちはら》村
  玉手村の乾《いぬい》にして川の東
茅原村は役小角の誕生《たんじやう》の地《ち》なりくはしくは芳野《よしのゝ》郡にあらはす
    掖上池心《わきかみのいけこゝろの》宮
  村老申今の御所村なり茅原《ちはら》の南にして川の西《にし》帝王編年《ていわうへんねんに》曰葛上(の)郡|古事記《こじきに》曰(く)葛城《かづらきの》掖上《わきかみの》宮
人皇五代|孝昭《かうせう》天皇元年|都《みやこ》を掖上《わきかみ》にうつしまして池心宮《いけこゝろのみや》と名づけ給ひき【日本紀】
    孝昭《かうせう》天皇(の)陵《みさゝき》 所さだかならず
孝昭《かうせう》天皇の掖上博多《わきかみのはかたの》山(の)上《うへの》陵は大和國葛上郡にあり【延喜式】即位《そくゐ》八十三年八月に崩御《ほうきよ》なり給ひて(320コマ)孝安《かうあん》天皇卅八年八月にこの山稜にかくし奉る【日本紀】
    掖上
※〔口+兼間岳《わきかみほゝまのをか》
  所さだかならずかさねてあきらかにたつねらるへし
神武《じんむ》天皇卅一年四月天皇|掖上
※〔口+兼間岳《わきかみのほゝまのをか》にのぼり給ひて國の状《かたち》を見めぐらし内木綿《うつゆふ》の真迮國《まさかみやと》いへども蜻蛉《かげろふ》の臀呫《となめ》のごとしと宣《の給ひ》しより秋津《あきつ》國の名あり臀《と》は尻《しり》なり呫《なめ》は掌《たなこゝろ》なり西は額《ひたひ》の方|東《ひかし》は腹《はら》の方南北は兩|羽《は》なり【釈日本紀】
    雲櫛《くもくしの》社 所しらす
雲櫛《くもくしの》社は倭《やまとの》國葛上(の)郡にあり下照姫命《したてるひめのみこと》也|大巳貴《おほあなむちの》神(の)兒《みこ》味
※〔金+且高彦根《あちすきたかひこねの》神(の)妹《いもうと》也【舊事紀】
    捨篠《すてしのゝ》社 号髙鴨社所しらず
捨篠《すてしのゝ》社は味
※〔金+且高彦根《あぢすきたかひこねの》神|倭《やまとの》國葛上郡|髙鴨《たかかもの》神也【舊事紀】又|大葉刈釼《おほはかりのつるき》又は神戸釼《かんべのつるぎ》ともいふ此釼(は)味※〔金+且高彦根《あぢすきたかひこね》の神の帯《はかせ》給ふ釼なり此釼大和國|髙鴨《たかかもの》社に納《おさめ》ぬるか【釈日本紀】
    御歳《みとしの》神(の)社 所しらす
葛木御歳《かつらきのみとしの》神社【延喜式】大巳貴命児《おほあなむちのみことのみこ》御歳《みとしの》神なり【一宮記】
▲神階《じんかい貞觀《じやうぐはん》元年正月廿七日|從《じゆ》一位(に)奉られしなり【三代實録】
    巨勢《こせ》山
  倭名類聚《わみやうるいしゆに》曰《いはく》高市《たけちの》郡又|藻塩《もしほ》草に葛上(の)郡とあり巨勢《こせ》村|葛城上《かつらきかみの》郡の西にありて高市《たけちの》郡の境《さかひ》にちかし大寶元年|辛丑《かのとのうし》秋九月|太上《だじやう》天皇|幸《みゆきし給ふの》2于|紀伊《きいの》國(に)1時(の)歌《うた》
万葉集 巨勢山のつら/\椿つら/\に見つゝおもふな許湍《こせ》の春野を 坂門人足
新六帖 霞みたつこせの春野に鳴|雉子《きゞす》いつかありかを人にしらるゝ 光俊
(321コマ)    巨勢川
藻塩草 はねかづらいまするいもをうらわかみこちこせ川の音のさやけさ
    をあきか原
千五百番哥合 駒なめてこせの春野を朝ゆけはをあきか原にきゝす鳴也 季能
    菅原伏見《すかはらふしみ》 俗に伏見村といふ
月清集 春の色も遠ざかる也すか原や伏見にみゆる小初瀬の山 後京極良經
拾玉集 初瀬山かねの音さへすか原や伏見の夢はまたよふかきに 慈鎭
壬二 なかめつゝ夕こえくれは初瀬山ふしみの里も麓なりけり 家隆
師兼千首 小初瀬の山はそれとも見えぬまて伏見のくれに立霞哉
    千葉屋城《ちはやのじやう》
千葉屋《ちはやの》城|東條《とうでうの》谷なと金剛山にありて河内國のうちなれはしるさず太平記後太平記にくはしく見えたり
    葛上郡神名帳十七座【延喜式】
鴨都波八重事代主命《かもつゝのなみやえことしろぬしのみことの》神社二座
葛木御歳《かつらきみとしの》神社  葛木坐一言主《かつらきにいますひとことぬしの》神社
多太《たたの》神社  長柄《なからの》神社
巨勢《こせ》山口(の)神社  葛木水分《かつらきみこもりの》神社
鴨《かも》山口(の)神社  大穴持《おほあなむちの》神社
葛木大重《かつらきおほえの》神社  高天彦《たかまひこの》神社
大倉比賣《おほくらひめの》神社
髙鴨阿治須岐詫彦根命《あぢすきたひこねのみことの》神社四座
(322コマ)
和州舊蹟幽考第十二卷終

和州舊蹟幽考第十三卷
城上郡
 礒城《しきの》郡【日本紀】城《しきの》郡【續日本紀延喜式・倭名類聚】式《しきの》郡【大安寺資財帳】
    穴師社
  鳥井は大道にあり社頭ははるかの東に立給ふ
穴師《あなしの》社は天皇の始《はしめ》天くだり來《きた》り給ふの時|護《まもりの》斎鏡《いはひのかゞみ》は三面|子鈴《すゝ》一合を御身にそへさせ給ふその一つの鏡《かゝみ》は天照太神の御霊《みたま》として天懸《あまかけの》神も御名《みな》をあがめ一つの鏡《かゞみ》は天照太神の前御霊《さきみたま》として國懸《くにかゝりの》神と御名《みな》を申奉る今紀伊(ノ)國|名草《なぐさの》宮にあがめうやまひ申|大神《おほんかみ》也一つの鏡《かゞみ》ならびに子鈴《すゝ》は天皇|御食津《みけつの》神|朝夕《あしたゆふべ》の御食《みけ》夜護《よるのまもり》日護《ひるのまもりと》斎《いはひ》奉る今|卷(323コマ)向《まきもく》の穴師《あなしの》社にいます大神《おほんかみ》也【釋日本紀】
    山稜
此ほとり十町ばかりの内に陵六七基ありそれが中に俗《そく》に王の墓とよぶ所あり又くらかけ山などとかたりつたふるありいづれとわかちがたければ名のみ左にあらはす
    崇神天皇陵
人皇十代|崇神《すうしん》天皇は山邊道勾岡上陵《やまへみちのまがりをかのかんのみさゝき》【古事記】山邊道上《やまべみちのかんの》陵ともいふ大和(ノ)國|城《しきの》上(ノ)郡にあり【延喜式】御宇六十八年十二月|崩御《ほうぎよ》なり給ふ御年百廿歳【日本紀】又|古《こ》事記に御とし百六十八歳延寶七年迄凡一千七百九年か
    景行天皇陵
人皇十二代|景行《けいかう》天皇は山邊道上《やまへのみちのかんの》陵大和(ノ)國|城(ノ)上(ノ)郡にあり【延喜式】御宇六十年十一月に近江《あふみの》國|髙穴穗《たかあなほの》宮にて崩御《ほうぎよ》なり給ふ御年百六歳又古事記に百卅七歳又|正統録《しやうとうろく》に百四十一歳とあり成務《せいむ》天皇二年十一月にこの陵にかくし奉る【日本紀】延宝七年迄凡一千五百五十年か
    舒明天皇陵
舒明《じよめい》天皇は御宇十三年九月に崩御《ほうぎよ》なり給ひしを皇極《くはうぎよく》天皇元年十二月に高《たけ》市郡の滑谷岡《なめはざまのをか》にはうふり奉りて後同御宇二年九月に押|坂《さかの》陵にあらため葬《はうふ》りきに押《をし》坂|内《うちの》陵ともいふ【日本紀】大和(ノ)國|城《しきの》上(ノ)郡にあり【延喜式】(324コマ)撰集鈔通要に此陵は添《そふの》上(ノ)郡内山とありいかゞとぞおほえ侍る
    田村皇女墓
田村《たむらの》皇女は大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡|舒明《ぢよめい》天皇(ノ)陵の内に葬《はうふ》る【延喜式】敏達《びだつ》天皇の皇女|糠手姫《ぬかてのひめの》皇女とも申奉りき
    大伴皇女墓
大伴《おほどもの》皇女|押坂《をしさかの》陵大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡にあり【延喜式】
    忍坂山
万葉 隱來《かくれくの》長谷《はつせ》の山は青幡《あをはた》の忍坂山《をしさかやま》ははしり出《いで》のよろしき山の出立の妙山《くはしきやま》ぞあたらしきお山のあれまくをしも
  藻塩《もしほ》草倭(ノ)國也宗祇法師|忍坂山《しのふさかやま》と点《てん》したり
    鏡女王墓
鏡《かゝみの》女王は押坂《をしさかの》陵大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡にあり【延喜式】此ほとりに十市のなにかしの出城の跡といひつたふる所あり
    釜口寺 寺領百石
  穴師《あなし》の大道より十五六町ひかし沙石集に鎌《かまの》口山寺とかけり
釜口山《ふこうざん》長|岳《がく》寺|金剛身院《こんかうしんゐん》は弘法大師の開基《かいき》也出書をしらず
  此寺の紅葉を見てめしつれられし小法師あるしの馬の口にとりつきて
沙石 鎌口《かまのくち》こがれて見ゆる紅葉かなといひかけけれは
  阿闍梨《あじやり》
(325コマ) なへての世にはあらじとぞおもふ
    痛背川
  水上は三輪山|痛背《あなし》山のあいだより出て西にながれ末は北に行
万葉 世の中のをとめにしあらば我わたる痛背《あなし》の川を渡りかねめや

同 卷向《まきもく》の痛足《あなし》の川《かは》ゆ行《ゆく》水の絶ることなくまたかへり見ん 人丸
壬二 槙向のゆづきが嵩《だけ》は雲さえてあなし河波朝氷けり 家隆
    痛背山
  仙覚《せんがく》抄大和(ノ)國(ト)云々延喜式に穴師《あなし》ともかけり
万葉 纒向《まきもく》の痛足《あなし》の山に雲ゐつゝ雨はふれともぬれつゝぞ來る
遠島御歌合 風むかふ檜原《ひはら》の時雨かきくらしあなしの嵩にかゝる村雲 基俊
    顕注密勘《けんぢうみつかん》曰(ク)大和(ノ)國にある山也槙向の山ともいふあなしの山ともいふさてかく槙向《まきもく》のあなしとよみつゝくるなり又二の山をとりあはせていおふは常の事也かつらきやたかまの山さらしなや姨捨《をばすて》山かゝる事かすしらす神樂注秘《かくらちうひに》云(ク)まきもこは大和國の山の名也あなし山も其あたり也|穴師《あなし》山の頂《いたゝき》に十市のなにかしの城跡ありそのほとりに藤《ふぢ》といふ所は桃尾《もものお》の瀧の水上なり
    箸墓
  大道の西のほとり俗に箸中《はしなか》の墳《つか》といふ則箸中村にあり
箸墓《はしのつか》の濫觴《らんしやう》は崇神《すうしん》天皇十年天皇|姑《をは》倭迹々日百襲姫《やまととひもゝそひめの》命に大物主《おほものぬしの》神かよひ給(326コマ)ひしが晝《ひる》は見えす夜《よる》のみきたらせ給ひき姫《ひめ》かの夫《せな》にいふやう君《きみ》常《つね》にいかなれば晝《ひる》は見え給はすしはらくとゞまりまして美麗《うつくしき》威像《みすかた》を見ん事をおもふ大神《おほんがみ》我あした汝《いまし》の櫛笥《くしけ》にゐなん我かたちにおどろく事なかれ姫《ひめ》心のうちにあやしとおもひながら明《あく》るをまちて櫛笥《くしげ》を見ぬればうつくしき小蛇《こをろち》あり只|衣《きぬ》の紐《ひも》のごとし則おどろきさけぶの時|大神《おほんかみ》忽《たちまち》に人の形《かたち》となり汝《いまし》しのびずして我にはぢ見せつ我又汝にはぢ見せんとて大虚《おほぞら》をふみ三諸《みもろ》山にのほり給ひし也|姫《ひめ》いとくやしくおもひて箸《はし》もて陰《ほど》をつきて命なくなりにたれは則|大市《おほち》に葬《はうふ》りきこれより人|箸墓《はしのみはか》とはいふなりこの墓《つか》は晝《ひる》は人こぞりてきづき夜になりぬれば神のつくり給ふしかあれば大坂山の石をはこび山より墓《つか》迄《まで》人民《にんみん》相踵《あひつぎ》手《てに》逓《しま・たがひに》傳《し》て運《はこ》びき時の人哥うたふ《日本紀》
 おほさかに【大坂也】つき【築也】のぼれる【昇也】いしむらを【石村也】たこしに【毎手運石也】こさま【不越也】こしかてんかも【難越也】
    緒環墓
  大道の東のほとりわづかにかたばかり殘りて緒環墓《おだまきのつか》といふ箸墓《はしつか》の巽《たつみ》にさしむかふ
緒環墓《おたまきづか》の濫觴《らんしやう》は大巳貴《おほあなむちの》神|妻《つま》をもとめ給なんと天羽車《あまのはぐるま》にめして虚空《おほぞら》をかけり節渡縣《せとのさと》におりひそかに大胸祇《おほみやつかさ》のむすめ活玉依姫《いくたまよりひめ》に通《かよ》ひ給ひしがその通路《かよひぢ》を人のしる所にあらざりけり其女はじめて孕《はらみ》たり父母《ちゝはゝ》あやしみ誰《たれ》人の通ひ(327コマ)來《き》けるにや女《むずめ》神人ありて屋上《やのうへ》より通ひ給ふしかあれば苧玉卷《おたまき》に針《はり》をつけその裳《も》すそをさして跡をしたひ行に|鑰の穴《かぎのあな》より出て節渡《せと》山を經《へ》て吉野山に入|三諸《みもろ》山にとゞまりけりその糸の三丸《みわげ》殘しより三輪山と号せり【舊事記】
    纒向珠城宮
  帝王編年《ていわうへんねん》(ニ)曰(ク)此宮の跡は城上(ノ)郡今の纒向《まきもく》河の北の里の西の田中(ト)云々|俗《ぞく》この田の中を長者の屋敷といふ緒玉卷墓《おたまきづか》のほとりなり
纒向珠城《まきもくたまきの》宮は垂仁《すいにん》天皇二年十月更に纒向《まきもく》に都をつくり給ひて珠城《たまきの》宮といふ【日本紀】又|師木玉垣《しきのたまがきの》宮《古事記》
長秋詠藻 まきもくの玉きの宮に雪ふればさらにむかしの朝をぞしる
    珠城山
夫木 里人のつたふ岩ねの道たえてたまきの山は雪ふりにけり 實伊
    纒向山
  痛足《あなし》同山なり
万葉 卷向の山邊ひゞきて行水のみなはの如し世の人我は 人丸
久安百首 槙向のあなしの山の鴬は今いくかとぞ春を待らん 季通
    卷向川
  痛足川おなしながれ
万葉 痛足川河波たちぬ卷目《まきもく》の由槻我嵩《ゆづきかたけ》に雲もたてるらし 人丸
同 黒玉《うはたま》の夜《よる》ざりくれば卷向《まきもく》の川音高しもあらしかも
    檜原
  痛足山の南にして三輪山の西につゞけり
(328コマ)万葉 卷向の檜原《ひばら》にたてる春霞くれし思ひはなつみけめやも 人丸
雲葉 夜もすがら何を時雨のそめつらん檜原の山の峯の椎柴 覚性
同 行川の過行人の手折らねばうらふれたてり三輪の檜原は 人丸
    纒向日代宮
  帝王編年《ていわうへんねん》に城(ノ)上(ノ)郡今の卷向《まきもく》の桧《ひの》村これ也
纒向日代《まきもくのひのしろの》宮は景行《けいかう》天皇四年十一月|美濃《みのゝ》國より還幸《くはんかう》なりて更《さらに》纒向《まきもく》を都とし給ひて日代宮といへり【日本紀】同御宇五十八年二月近江(ノ)國|志賀《しが》に三とせおはしましきそれを髙穴穗《たかあなほの》宮と申【日本紀】
壬二 よそに見しふるき梢の跡もなし檜原《ひばら》の宮の秋の夕霧 家隆
    豊受氣大神御鎮座地
豊受氣大神《とよけおほんがみ》しばし檜原《ひばら》に御鎮座《ごちんざ》の跡といふ所侍れども出書をしらず
    三輪山
  痛足《あなし》山の南につゞけり
  三輪《みわ》 三室《みむろ》 神南火《かみなび》 同山也
  神岳《みわ》山とも点《てん》あり【詞林採葉抄】
  神樂注秘《かぐらちうひ》抄(ニ)曰(ク)三室とは神(ノ)社也
万葉 三輪山をしかもかくすか雲たにも心あらなんかくさふべしや
同 三諸《みもろ》つく三輪山見ればこもり江の初瀬の檜原おもほゆるかも
同 みてぐらを楢《なら》より出て水蓼《みつたで》の穗積《ほつみ》にいたり鳥網《とあみ》張《はる》坂手《さかて》を過て石はしる甘南備《かみなひ》山に朝宮《あさみや》につかへまつりてよしのへといりますみればむかしおもほゆ
    反歌
同 月も日もかはり行ども久にふる三諸《みもろ》の山のとつ宮地《みやどころ》
同 神山《みわやま》の山へに眞蘇木綿《まそゆふ》短木綿《みちかゆふ》かくのみゆへにながく思き
(329コマ)同 八隅|知《しし》我《わが》大君のゆふさればめし給へらしあけくれはとひ給へらし神岳《み やま》の山の紅葉をけふもかも 畧
元貞家集 けふよりは霞山邊に立のぼる三輪の古里ほのかにぞ見る
敦忠家集 三輪山のかひなかりけり我宿のいり江の松はきりやしてまし
内裏名所 花の色に猶折しらぬかさしかな三輪の檜原の春の夕くれ 定家
草根集 祈こし道にそかへれ初瀬河はやくしるしを三輪の杦村
同 三むろ山をろちにつけしをたまきの末の契そ絶てやみぬる
万葉 味酒の三輪の祝《はふり》の山てらす秋の紅葉のちらまくをしも 長屋王
  此五文字に三訓《さんくん》あり味酒《あちさけ》味酒《うまさか〔け〕》味酒《うまさか》也|崇神《すうじん》天皇の御製《ぎよせい》宇麻作階淤和能《うまさかみわの》とあそばされしを證《しやう》とするにうまさかといふべきものを字訓《じくん》にまかせてあちさけ混俗《こんぞく》か凡《およそ》酒をみわといふ事神のつくりはじめ給ひしゆへか右は詞林採葉になが/\としるされ侍る
    神岳山
  三輪山同山也|神岳《かみをか》山詞林採葉に点あり
 登神岳山部宿祢赤人作歌一首 并 短哥
万葉 三諸《みもろ》の神名備《かみなひ》山に五百枝刺《いほえさし》繁生者《しゝにおひたる》都賀《とか》の樹《き》の弥継嗣《いやつきつき》に玉かつら絶る事なくありつゝもやます通《かよ》はんあすかのふるき京師《みやこ》 畧
    反歌
同 明日香河川よとさらす立霧のおもひすくへき戀にあらなくに
同 神岡之《かみをかの》山の
※〔木+丹《もみち》をけふもかもとひ給はまし 畧
    神山
同 神山《かみやま》の山下|響《とよみ》行水の水尾《みをし》たえすは後《のち》も吾妻《わかつま》
(330コマ)  澄月今案云(ク)此歌|就《つき》2和訓《わくんに》1載《のすか》2于|三輪山(ニ)1雖(トモ)v然(ト)俊頼《としより》朝臣神山にまゆふのぬさをひきかけてさらすや花のさかりなるらんと取《らるゝ》v詠《えいじ》似《にたり》v取(ニ)2万葉集(ヲ)1然(ハ)別名有2神山《かみやま》之|和訓《わくん》1歟|可《へしと》2尋(て)決1云々俊頼朝臣の哥は文治三年|貴舩《きぶねの》社の歌合に見えたり
    三垣山 付神邊山
万葉 三諸之《みもろの》神邊《かみなひ》山|尓立向《にたちむかひ》三垣《みかき》の山に秋萩の妻を卷六跡《まかむと》朝月夜《あさつくよ》明卷鴦視《あけまくをしみ》足日木《あしひき》の山響令動《やまびことよみ》喚立鳴毛《よひたちなくも》 人丸

    神邊山
神邊山右の哥にかみなひ山と点あり澄月《てうげつ》哥枕(ニ)曰(ク)神南備《かみなひ》山也今|按《あんずるに》神之邊山可v和《やはらぐ》歟是|但《たゝ》神南備山之依(ル)2反本(ニ)1也但先達哥枕に神南備山の外に無(シト)2神辺山1云々神邊山|就《つきて》2文字(ニ)1異《い》(ノ)一徃《いちわう》分《わけて》云歟云々
    三和川
  長谷川おなしなかれなり三輪崎佐野(ノ)渡もこの河なり
万葉 暮木〔不〕去《ゆふさらす》蛙なくなり三和川の清瀬音をきくはしよしも
壬二 三輪の山川辺もいまや夏のよのみしかゆふかけ御祓凉しも 家隆
    しるしの杦
万葉 三輪の山麓めくりの横霞しるしの杦のこ〔う〕れなかくしそ 仲正
古今 我庵は三輪の山本戀しくはとふらひきませ杦立る門 讀人不知
永縁家集 三輪の山尋て行かん春霞しるしの杦は立なかくしそ
三輪の山をたつね又しるしの杦をよめる根源《こんげん》は(331コマ)むかし伊勢(ノ)國|奄藝《あふぎ》の郡に侍りけるひと深山に入て鹿《しか》を狩ける程に風吹雨ふりけしきたゞならずして來《くる》ものあり形《かたち》くろくして長《たけ》高《たか》し目はてれるほしのごとくし獵師《れうし》これを射《い》あてつ血のあとにつきてたづねいたるに遙《はるか》なる山中にすこしはなれて野中に塚《つか》あり其中にいれりその塚《つか》のまへに神女《しんじよ》ありて此|獵師《れうし》をまねくすなはち弓に箭《や》をはげてすゝみよる神女《しんちよ》おそるゝけしきなくていはく汝《なんぢ》が射《い》たりける物は此|塚《つか》にすむ鬼也我この鬼にとられて年來《としころ》此|塚《つか》にすめり汝此鬼を射《い》ころすべしといへりしかば柴《しは》をかりその塚の口に入て火を付て燒《やき》ころしつそののち此神女を具《ぐ》して家にかへり又|相住《あひすむ》事三年になるに獵《れう》師|冨《とみ》さかへぬ児《こ》一人をうましめたり其時此男|白地《あからさま》にあるきけりそのまに女うせぬ泣《なき》かなしみてたづね行《ゆけ》ど行方をしらず又児もうせぬいよ/\かなしむに此女常にゐたりける所を見るに三輪の山もと杦たてる門とかき付たり是によりて大和(ノ)國にたづね入て三輪の明神の社《やしろ》に參《まいり》て此女にあふべきよしを祈《いのり》申程に其社の御戸ををし開《ひらき》て見え給ふ児《こ》も見えたり此男の心ざしの切《せつ》なる事をみてともにちかひて神になれりと見えたりこれによりてその神の祭《まつり》をは伊勢(ノ)國あふぎの郡の人のをこなふ也それよりしるしの杦とはいふなる諺《ことわさ》に云(ク)鬼に神とらるゝとはこれなり【顕註密勘】
(332コマ)    三輪神社 社領百七十四石九斗八升
  一(の)鳥居。二(の)鳥ゐ。楼《ろう》門。寶倉《ほうざう》。拜殿《はいでん》などはあれども社頭《しやとう》は侍らず
當社は大神《おほか》大物主《おほものぬしの》神社神名帳舊事紀(ニ)曰(ク)大巳貴《おほあなむちの》神社はやまとの國城(ノ)上(ノ)郡大三輪(ノ)神なり嫡后《てきこう》は須勢理姫《すせりひめの》神と云々|神光《あやしきひかり》海をてらしうかひ來《く》るものありおほあなむちの神とひたまはく汝《いまし》は誰《たれ》ぞやこたげて申|吾《あれ》は是|汝《いまし》の幸魂《さきみたま》奇魂《くしみたま》なり大巳貴(ノ)神の給はく吾《あが》幸魂《さきみたま》奇魂《くしみたま》今はいづくにかすみなんやこたへて申|吾《あれ》日本《やまとの》國の三諸《みもろ》山にすみなんとおもふ故《かるかゆへ》に則《すなはち》宮《みや》をかしこにいとなみ住しめ給ひき【日本紀】又|崇神《すうじん》天皇七年|倭迹々日百襲姫《やまととひもゝゑそひめの》命に大物主《おほものぬしの》神|著《かゝり》給ひて告《つけ》あり更に御夢に我は是大物主(ノ)神なり我|児《こ》太田々根子《おほたゝねこ》をして我をまつらしめよかくありしより太田々根子《おほたゝねこの》命を神主《かんづかさ》としまつらしめ給ひつ太田々根子《おほたゝねこの》命は大三輪君《おほみわきみ》等《ら》が遠祖《とをつおや》なりくはしくは日本紀にあり扨|祭《まつり》の日は茅《ち》の葉《は》を三つくりて岩ほのうへに置てそれをまつるなり社のおはせぬあやしとて里人どもあつまりて作りたりければ烏《からす》百千|來《きた》りてつゞきやふりふみこぼちてその木どもをはをの/\くはへて行さりにけりその後神のちかひとしりてつくらざりしとなり【奥義抄】抑|大巳貴《おほあなむちの》神は日本紀(ニ)曰(ク)素戔嗚尊《すさのをのみこと》奇稲田《くしいなた》姫とあひ共に遘合《みとのまくばひ》ありて生《あれ》ます児《みこ》なり(333コマ)しかれども次の一書《あるふみ》に素戔嗚《すさのをの》尊の五世《いつよ》の孫《みまこ》大巳貴(ノ)尊といへり六世《むつよ》の孫《みまご》ともあり
古事記(ヲ)撿《かんかふれは》
須佐之男命《すさのおのみこと》
――八嶋士奴美《やしましぬみの》神 母櫛稲田比賣――布波能母遲久奴須奴《ふはのもちくぬすぬの》神 母木花知流比賣――深渕之水夜礼花《ふかふちのみなやれはなの》神 母阿比賣――游美豆奴《ゆみつぬの》神 母天之都度閇知泥 上 神――天之冬衣《あまのふゆきの》神 母布帝耳 上 神――大國主《おほくにぬしの》神 母判國若比賣
亦(ノ)名|大穴牟遲《おほあなむちの》神 亦(ノ)名|葦原色許男《あしはらしこおの》神 亦(ノ)名|八千矛《やちほこの》神 亦(ノ)名|宇都志國玉《うつしくにたまの》神 并有五名【以上】又|大物主《おほものぬしの》神又|國造大穴牟遲命《くにつくるおほあなむちのみこと》大國玉《おほくにたまの》神【並八名旧事記】
一神階は貞觀元年二月正一位をさづけ奉りき【三代實録】
    杦社
  もしほ草に大和(ノ)國云々
夫木 今つくる三輪のはふりか杦社過にしことはとはすともよし 鎌倉右大臣
    三輪若宮
若宮(ノ)社は大田々根子《おほたゝねこの》命とも又|少彦名《すくなひこなの》命とも後の人|添削《てんさく》あるべし
    大御輪寺
  三輪(の)神の近き所にあり
大御輪寺《だいごりんじ》は慶圓《けいえん》法師の開基といへり傳《てん》は釈書十二卷に見え侍れども開基のよし見えす又|垂仁《すいにん》天皇の御宇かとよ三輪(ノ)明神の通《かよ》はせ給ひし女《め》いくほとなくして子をうめりその子(334コマ)十歳ばかりまで常の人のごとくにて何《なに》の奇特《きどく》み見えざりしがる時|博覧《はくらん》の人ありてかけまくもかたしけなき明神の御子《みこ》にておはしますよしいひふるゝによりて大御輪寺《だいごりんじ》の丑とらのすみに入定《にうでう》し給ふ末代に奇特《きどく》を見せんとて敷板《しきいた》に御足《みあし》の跡をのこし給ふ其跡今にあたゝかなり【太子傳之撰集抄】 所にもかくぞいひつたへける
    天照太神御鎭座所
  此所は三輪明神の奥にあり
人皇十代|崇神《すうじん》天皇の御宇五十四年大和(ノ)三輪山|三室嶺《みむろのみねの》上に宮つくりて二年まつり奉りきこの時|豊鋤入姫《とよすきいりひめの》命わが日《ひ》足《たり》ぬと申きしかあれば姪《めいの》倭比賣《やまとひめの》命を御杖代《みつえしろ》と定て天照太神を戴《いたゞき》奉り所々に行幸《みゆき》なし給へり【倭姫世記】
    玄敏谷
  當世其跡とてあり
玄賓僧都《げんひんそうづ》は【發心集玄敏】姓《しやう》は弓削氏《ゆげうじ》河内(ノ)國の人なり【釈書】山|階《しな》寺の止事《やんごと》なき智者《ちしや》也けれど世を
※〔厭の雁垂なし〕《いとふ》心ふかくして更《さら》に寺のまじはりをこのまず三輪川のぽとりに僅《わづか》なるいほりをむすびてなんおもひつゝ住けり桓武帝《くはんむてい》の御時此事きこしめして強《あなかちに》めし出ければ遁《のがる》べきかたなくてなましゐにまいりにけりされども猶|本意《ほんい》ならずおもひけるにや奈良《なら》のみかどの御世に大僧都に成《なし》給けるを辞《じ》し申とてよめる
發心集 三輪川の清き流にすゝぎてし衣の袖を又もけがさじ
その後或所《あるところ》に大なる河あり渡守《わたしもり》していませしを(335コマ)弟子ほのみてかへりのぼるおりにこそよくみとゞめて對面《たいめん》せんとおもひてかへりけるおりたづねければかの月日にいづちともなく身をかくされしとそかたりし【發心集】
    海柘榴市
  初瀬より五十町北【林逸抄】かなや村より四町ばかり東近年觀音堂をたてたり
海柘榴市《つばいち》つばきの市ともいふ【能因哥枕】又つば木市といふは土蛛《つちぐも》をころしたる所なり海柘榴市《つばいち》と別所《べつしよ》也【河海抄】又つばいち大和にあまたある中に初瀬《はつせ》にまいる人かならずそこにとまりけるは觀音のつげあるにやあらん心ことなり【枕草子】誠かくありければこそ玉かつらの君をはつせへとなんいだし奉るにつばいちといふ所に四日《よか》といふみの時ばかりにいける心ちもせでいきつき給へり 畧 日くれぬといそきたちて見あかしのことゞもしたゝめいでゝいそがせは中/\いと心あはたゝしくて 畧 玉葛卷《たまかづらのまき》につまひらかに見えたり又|初瀬《はつせ》へ參る人はつばいちにいたりて御明《みあかし》の事などを用意《ようい》する事にこそあらめ小右記《せうゆうき》(に)曰(ク)正暦《しやうりやく》元年九月八日|長谷寺にまうでの時|椿市《つばいち》にいたりて御明《みあかし》灯心《とうしん》土器などとゝのへ御堂《みだう》にまうでゝ諷誦《ふじゆ》を修《しゆ》し布《ぬの》廿|端《たん》御明万灯《みあかしまんとう》かゝげさせ給ひしとなり【林逸抄】

万葉 紫ははいさすものを椿市《つはいち》のやそのちまたにあひしこやたれ
同 海柘榴市《つばいち》の八十衢《やそのちまた》にたちならしむすひし紐をとかなくおしも
    三輪崎

(336コマ)  三輪山の南の尾《お》さきにして長谷川ながれたり佐野《さの》のわたりもこゝに侍るとかや

万葉 くるしくも降來《ふりく》る雨か神之崎《みわがさき》狹野《さの》のわたりに家もあらなくに
夫木 三輪か崎夕塩させば村千鳥佐野の渡りに声うつるかな 定家
    佐野渡
  佐野の舟橋又は佐野の中川瀬絶してなどとよめるも上野(ノ)國なり又佐野の岡とよめるは紀伊(ノ)國佐野の渡は大和(ノ)國なり【井蛙抄】
拾遺愚草 時鳥佐野の渡りにさのみなど聞人もなき音をは鳴らん
草根 駒とめて舩をやいそく末《すゑ》遠《とを》きさのゝ佐野の渡りにかゝる旅人 正徹
源氏物語に薫大將《かほるだいしやう》うき舟にたづねそめたる所に三条のたびのやどりに大將いとしのびておはしたりとて案内《あない》いはせ給ほどやゝ久しくさのゝわたりに家もあらなくになど口ずさひてさとびたるすのこのはしつかたにゐ給へり
    磯城嶋金刺宮
  釈書《しやくしよ》曰(ク)山邊《やまべ》磯城嶌《しきしま》(と)云々|扶桑紀《ふさうき》帝王編年《ていわうへんねん》善光寺(ノ)縁起等に山邊(ノ)郡云々|玉林《きよくりん》抄(ニ)云(ク)山邊(ノ)郡は大《おほいに》誤《あやまり》也思ふに日本紀《につほんき》(ニ)曰(ク)遷《うつして》2都(ヲ)倭(ノ)國磯城《しきの》郡|磯城嶋《しきしま》1仍《よつて》号(す)磯城嶌金刺宮《しきしまかなざしのみやと》1云々然は磯城《しきの》郡|明《あきらか》也玉林抄(ニ)曰(ク)今|敷嶌《しきしま》とて一郷《いちがう》の所あり金刺《かなざしの》宮は河向に竹原あり其内に小社あり是|欽明《きんめい》天皇(ノ)内裏《だいり》の跡《あと》也云々當世|田畠《でんはく》にしてしきしまの名あり

(337コマ)人皇卅代|欽明《きんめい》天皇元年七月に都を倭《やまとの》國|磯城《しきの》郡|磯城嶋《しきしま》に都をうつし磯城嶋金刺《しきしまのかなざしの》宮》と名づけ給ひき御宇十三年|始《はしめ》て仏法《ふつほう》日本國《につほんごく》にわたり世尊《せそん》滅後《めつご》凡一千五百一年か欽明《きんめい》天皇元年より延寶七年迄凡一千百四十年か
    磯城瑞籬宮
  帝王編年《ていわうへんねん》に山邊(ノ)郡|此義《このぎ》磯城嶌金刺宮《しきしまかなざしのみや》にあらはせり詞林採葉《しりんさいえうに》曰(ク)磯城瑞籬宮《しきのみつがきのみや》又磯城嶌金刺宮ともに磯城嶌《しきしま》と見え侍れば磯城郡なるへし
人皇十代|崇神《すうじん》天皇三年九月都を磯城《しき》にうつし瑞籬《みづかきの》宮となづけ給ける【日本紀】延寶七年迄凡一千百七百七十四年歟
    磯城嶌
  詞林採葉《しりんさいえうに》曰(ク)磯城《しき》とは大和(ノ)國の内の名所《めいしよ》皇居《くわうきよ》也|崇神《すうじん》天皇|磯城嶌瑞籬《しきしまみつかきの》宮|欽明《きんめい》天皇|磯城嶌金刺《しきしまかなざしの》宮也八雲御抄(ニ)大和(ノ)國(ト)云々
万葉 志貴《しき》嶋の倭《やまとの》國はことだまのたすくる國ぞまさくあれよく
月清 大和かもしきしまの宮しきしのぶ昔をいとゝ霧やへだてん 良經
壬二 しきしまや三輪の檜原《ひはら》も万代《よろつよ》の君がかざしと折やそめけん 家隆
    礒城嶋髙圓
  高圓《たかまど》は三輪崎《みわがさき》のたつみ赤尾《あかお》山の東に龍谷《りうかたに》村に高圓山あり
新古 敷嶋や高圓山の雲間より光さしそふ弓はりの月 堀川院
續後撰 しきし嶋や高圓山の秋風にくもりなき峯をいつる月かけ
(338コマ)    泊瀬山
  八雲(ノ)御抄《みせうに》曰(ク)海士小舟《あまをぶね》泊瀬《はつせ》山といへりとませ山ともいへり泊瀬《はつせ》又|長谷《はせ》【万葉】
万葉 隱口の泊瀬《はつせ》をとめが手にまける玉はみだれてありといはしやも 山前王
同 隱口の泊瀬の山の山ぎはにいざよふ雲は妹《いも》にかもあらん 人丸
同 隱口の豊泊瀬道《とよはつせぢ》はとこなめのかしこき道はこふらくはゆめ
同 隱來の泊瀬のを國につまあれど石はふめどもなをぞきにける
同 隱口の長谷|小國《をぐに》に夜延爲《よばひして》我天皇寸與《わかすめらきよ》奥床《をくとこ》に
  隱口《かくらく》 隱口《かくれく》 隱口《こもりく》 隱口《こもりえ》 先達《せんだち》古訓《こくん》かくのことく區《まち/\》なり其中にかくらくは字《じ》の訓《くん》なるゆへに尤そのいはれありこもり江更《さら》に相《あひ》かなはず若うたがふらくは口の字を草《さう》にして大きなるが江に混《こん》ずるか所詮《しよせん》此所は山の口より入て奥ふかき故に篭口《こもりく》の初瀬《はつせ》といふなるものを【詞林採葉】大初瀬《おほはつせ》小初瀬《をはつせ》ともあり【上同】
万葉 君か代は大はつせ路の百枝槻《もゝえつき》百枝ながらもさかへます哉
同 事之有者《ことしあれは》小初瀬山の岩木にもこもらは共に思ふな我せな
同 海小舩《あまをふね》泊瀬の山にふる雪の消《け》がたくこひし君がをとぞする
  海士小舩泊瀬は舟とむるといふ詞《こと》は近來《このころ》の哥なりおほくは舟はつるといふ心に詠ぜり【詞林採葉】
清輔集 かくらくの豊《とよ》泊瀬路を分入て尾上の寺に雲ぞかゝれる 真觀
壬二 紅のうす花桜ほの/\と朝日いさよふを初瀬の山 家隆
同 ふる雪にまだこもり江の初瀬山檜原も見えず花や敷らん 同
亀山殿七百首 鐘の音やしるべなるらん初瀬山檜原も見えずつもる白雪 經秀
草根 我かたに心ひけとていのりをく弓槻《ゆづき》あまたの小初瀬の山
    泊瀬
(339コマ)  八雲御抄 泊瀬《とませ》 初瀬《はつせ》同所
六帖 海士小舟とませの野邊に降雪のけながく思ひし君か音する 赤人
同 かくらくの泊瀬のやまの山きはにいざよふ雲は妹にもあらん 黒人

御集 打出る春やとませの波間より白ゆふ花の色ぞくたつる 後鳥羽院

    木葉宮

是は初瀬にありむかし初瀬は海にうかぶなりあま人のさる瑞相《ずいさう》ありて木のはのみやに祠《いはひ》申て今に侍る觀音是なりこれは二十卷の神社《じんじや》のみやのうちへ入られしと也 藻塩草

    紅葉里
  初瀬の名なりといへり 藻塩草 古詠《こえい》をもとめえず紅葉の山とよめるも爰の事にや一往あらはす
拾玉 紅のふりいでゝぞ鳴郭公紅葉の山にあらぬものゆへ 慈鎭
    泊瀬川
  泊瀬《はつせ》山は水上《みなかみ》にして三輪崎《みわがさき》佐野《さの》のわたりにながれ行なり詞林採葉《しりんさいえうに》曰(ク)この川に百瀬《もゝせ》川といふあり長谷寺にまうでぬるにわたる所は㝡初《さいしよ》の瀬《せ》なる故《ゆへ》に初瀬《はつせ》といふなるべし
万葉 泊瀬河|白木綿《しらゆふ》花におち瀧つ瀬をさやけくと見にこし我を
同 さゞれなみうきて流る長谷《はつせ》川よるべき磯《いそ》のなきかさひしき
    古河野邊
  二本《ふたもと》の杦は一むかしばかりにやなりけん絶果て古河野邊の名のみのこれり
万葉 いにしへもかく聞つゝや偲ひけんこの古河のきよきせの音を
古今 はつせ河ふる河野べに二本ある杦としをへて(340コマ)又もあひ見んふたもとある杦
玉葛卷 二本の杦のたちどをたづねすは古河野へに君をみましや
手習卷 はかなくて世にふる河のうき瀬には尋もゆかし二本の杦
同 ふる川の杦のもとだちしらねども過にし人によそへてぞみる
  初瀬川の古河野邊二本の杦たてりけるによせてよめりける哥歟近代の達者《たつしや》は初瀬山にふたもとの杦よまれて侍き古今によらばはつせ河とよむべきなり【顕註密勘】二本の杦は初瀬の川上にあり
    鴬山
  藻塩《もしほ》草大和(ノ)國(ト)云々|澄月《てうげつ》哥枕に初瀬云々
懐中抄 我宿の花そのにまた音せねは鴬の山を出ぬなりけり
夫木 くもの井は谷の心も夕とてかへるやよひの鴬の山 爲実
    弓月嵩
  八雲(ノ)御抄(ニ)曰(ク)槻《ゆづき》は初瀬也
万葉 足引の山河の瀬のなるなへに弓月嵩《ゆづきかたけ》に雲立わたる 人丸
拾遺愚草 初瀬のや弓月が下にかくろへて人にしられぬ秋風そ吹 定家
壬二 朝まだき霞たなびく槙向《まきもく》の弓月嵩に春立らしも 家隆
    石村山
  長谷より半道ばかり南に磐坂《いはさか》谷といふありこれらにや
万葉 角障經《つのさふる》石村《いはむら》もすぎず泊瀬山いつかも越ん夜はふけにつゝ
同 角障經石村山に白妙のかゝれる雲は大君にかも
    長谷寺 寺領三百石
豊山神楽院長谷寺《ぶさんかくらくゐんちやうこくじ》は縁起《えんぎ》にこの豊山《ぶさん》に二の名あり一は泊瀬寺《はつせでら》又|本長谷寺《ほんちやうこくじ》ともいふ(341コマ)十一面堂の西の谷その西の岡のウヘに諸堂あり是本長谷寺也泊瀨の川上の瀧藏権現《りやうさうごんけん》の社のほとりに天人つくりし毘沙門《びしやもん》天ありしを雷《らい》降《くだり》とり奉りて空にのぼりし時|御手《みて》の寶塔《ほうたう》落《おち》て此山のふもと三神《みかみ》の里袖川の瀬にとゞまりしを武内《たけうち》の宿祢《すぐね》といふありてみづからとりあげ奉りて西北のすみに納奉りしより舊名《きうめう》三神《みかみ》をあらためて泊瀬豊山《はつせとよやま》といへり三百余歳を經《へ》て弘福寺《こうふくじ》の僧|道明聖《たうみやうしやう》人これを石室《せきしつ》にうつし奉られしより里の名になそらへて泊瀬寺とせり天|武《む》天皇|勅《ちよ》をくだし給ひしかばかの聖人この所に精舎《しやうじや》を造営《ざうえい》せられしとなり二には長谷寺《ちやうこくじ》又|後《のち》長谷《はせ》寺とも【今の十一面堂これなり】聖武《しやうむ》天皇の勅ありて徳道《とくだう》上人【釈書曰法道仙人】諸人をすゝめて天平七|乙亥《きのとのいの》年五月十六日に棟《むね》上して同十九|丁亥《ひのとのい》のとし九月二十八日に供養《くやう》せらる勅使《ちよくし》は中納言|奈弖麻呂《なてまろ》道師は天竺の僧|菩提《ぼだい》咒願《じゆくはん》師は大僧正|行基《ぎやうき》僧百人【興福寺廿一人元興寺廿一人大安寺廿八人薬師寺法隆寺】この時の瑞應《すいおう》縁起《えんぎ》に見えたり徳道上人は播磨《はりま》の國|指宝《しほう》の郡の人|姓《しやう》は辛矢田部《からやたべ》名は米麻呂《よねまろ》【後名子君】天|武《む》天皇即位四年二月廿五日出家す年二十五|當寺《とうじ》験《げん》記(ニ)曰(ク)神亀《しんき》三年十二月晦日大僧都に任《にん》ず
一観世音菩薩は縁起《えんぎ》に徳道上人は大師通明大徳のをしへにしたがひて長谷《はせ》の里(342コマ)にきたるそこに霊木ありき人ありてかたれりしはつたへ聞|継躰《けいたい》天皇|即位《そくゐ》十一|丁酉《ひのととりの》年【釈書曰辛酉】洪《こう》水に近江(ノ)國|高嶋《たかしまの》郡|三尾前《みおさき》の山の谷よりながれ出る木なり【楠木長十余丈釈書曰橋木】志賀《しかの》郡大津(ノ)浦【盛衰記に難波浦】にとゞまりて七十年を經《へ》るころほひ大和(ノ)國|高市《たけちの》郡|八木《やき》の里に小井門子《をさのかどこ》といふ女ありおもふゆへありて佛像をつくりなむと八木のちまたに引よせしがことなさずして死せりこの里に卅余年を經る同國|葛下《かつらのしもの》郡に出雲臣大水阿弥法勢《いづものしんおほらしやみほうせい》【釈書に大滿】といふあり十一面の像をつくり奉らんと同郡|當麻《たえま》の里【釈書に城下郡當麻郷】に引よせたりしかども大水《おほら》も死せりこの所に五十余歳【釈書に八十年】を經る天智天皇即位七|戊辰《つちのえたつの》年|城《しきの》上(ノ)郡長谷の里袖河(ノ)浦【釈書曰葛下郡袖河浦】に引捨る又三十九年【釈書に卅二年】を經るかの木とゞまりありし所《ところ》毎《ごと》に火災《くはさい》疾疫《しつやく》あらずといふ事なしとなり徳道上人【釈書に阿弥徳蓮】老人の物かたりを傳聞《つたへきゝ》てかの霊木《れいぼく》を里人にこひうけたりしかども佛をつくりなん粮《かて》なくして十五年を經る或《ある》夜《よ》夢あり東の峯に三《みつ》の燈《ともしび》あり【今三燈の嶺といふ】三世利益《さんぜりやく》を表《ひよう》するなりかの峯にして造佛《さうぶつ》すべしさめて後をしへのごとく養老《やうらう》四|庚申《かのえさるの》年二月に霊木《れいぼく》を東の峯に引のぼせ庵《いほり》を結《むす》びて聖朝安穩藤氏繁昌乃至法界平等利益《せいてうあんをんふぢうじはんじやうないしほうかいひやうどうりやく》十一面の像をつくり奉らん大悲《たいひ》の弘誓《くぜい》我《わか》願《くはん》を感《かん》し給ひてこの木をのづから佛となし給へとい(343コマ)のりつゝありけり元正《げんしやう》天皇|即位《そくゐ》六年七月|房前臣《ふささきのしん》事のたよりありてこの峯にわけ入かの庵《いほり》に入きて汝|君臣《くんしん》をいのるになにのおもひありけるにや聖《しやう》人|佛法《ぶつほう》興廢《こうはい》只《たゝ》君臣《くんしん》にありといふ臣《しん》此事を元《げん》正天皇に奏《そう》しかさねて聖《しやう》武天皇に奏《そう》す神亀《しんき》元年三月二日|宣下《せんげ》ありて香稻《きやうとう》三千束を営作《ゑいさく》の料《れう》に給ひしかどもいまだなす事をえざりしかば同六年四月八日かさねて大和河内(ノ)兩國數ケ年の正税《せいぜい》を給ひしより御衣木《みそき》の加|持《じ》あり其|修行《しゆぎやう》は道慈《だうじ》律師なり三日のあいだに十一面|觀自在菩薩《くはんじざいぼさつ》の像なり給ふ長《たけ》二丈六尺|巧匠《こうしやう》は稽文会稽主勲《けもんゑけしゆくん》なり天平五|癸酉《みつのとのとりの》年五月十八日|開眼《かいげん》供養あり僧百口【興福寺元興寺大安寺西大寺法隆寺等ナリ】導師は行基菩薩|咒願《じゆぐはん》は義暹《ぎせん》大徳なり此供養の年に異説《いせつ》あり釈書《しやくしよ》廿二卷に神亀《しんき》三年三月|成就《じやうじゆ》云々釈書廿八卷に神亀四年成就云々|水鏡《みづかゝみに》曰(ク)神亀三年三月成就云々導師咒願師いづれもかはらす

一同|石坐《せきざ》縁起に天平元|巳已《みづのとのみの》年八月十五日の夜|瑞應《すいおう》ありをのづからとして金剛寶盤石土《こんかうほうばんじやくつち》うげて外にあらはるゝ方《はう》八尺にして足跡《あしあと》の穴《あな》あり佛の御足にえりあはせしがごとし扨こそ十一面の像をすへたて奉りしなりこの石に三枝《みつつのえだ》あり一枝はこれなり一枝は麻伽陀國佛正覚《まかだこくほとけしやうがく》の寶石《ほうせき》なり一枝は補陀落山大悲《ふだらくせんたいひ》の坐石《させき》也けるとぞ此寶石《ほうせき》の左脇《ひたりのわき》に龍穴《りうけつ》あり無熱地《むねつち》に(344コマ)通《つう》じぬるとかや

一|登廊《のぼりろう》當寺|験記《げんき》に一條院の御時奈良春日の社司《しやし》に信近《のぶちか》といふものあり【正預中臣信清男三國傳記同也】※〔虫+也眼疔《しやかんちやう》といへる瘡《かさ》をわづらひたりしが大悲《たいひ》にいのり申ければいくほどもなくして愈《いへ》たりこれによりて建立《こんりう》せしとなり
一再興は長谷寺|験記《げんき》に粗《ほゞ》見え侍る所に長谷寺炎上を録《ろく》せられし慈鎭《じちん》和尚の眞跡《しんせき》一卷をえたり互《たがひ》に見あはせ左《ひたり》にあらはす

一人皇六十一代|朱雀《しゆしやく》院天慶七年正月九日炎上|大悲《だいひ》の像はけふりとならせ給ひしかとも頂上佛《てうじやうぶつ》の御《み》くしは後《うしろ》の山の石上に舞《まひ》うつり給ひしとなり【験記】前夜|霊夢《れいむ》あり【慈鎭記録】

一人皇六十六代一條院正|暦《りやく》二年三月三日諸堂炎上觀音堂つゝがなし【験記】
一人皇六十八代|後《こ》一條院|万寿《まんじゆ》二年正月廿七日觀音堂の廂《ひさし》のみ火つけりをのづからに消《きえ》たり【験記】
一人皇七十八代|後冷泉《これいぜん》院永|承《せう》七年八月廿五日炎上|頂上佛《てうじやうふつ》の面《おもて》は梧桐《ことう》の枝葉《しえう》の中にゐさせ給ひし也【験記】同十月造仏の時かの佛面《ふつめん》を仏身《ふつしん》中に納たり塗料《ぬりれう》漆《うるし》など関白《くはんはく》左大臣巳下の御奉加|薄《はく》の料《れう》は皇后宮職《くはうごぐうしき》内親王家《ないしんわうけ》法務《ほうむ》大僧正など寄附《きふ》せられたり天|喜《き》二年八月十一日供養あり講師《かうし》法務《ほうむ》大僧正|明尊《みやうぞん》咒願《しゆくはん》は權《こん》少僧都|圓縁《えんえん》讀《どく》師は權少僧都|長守《ちやうじゆ》【慈鎭録】
(345コマ)一人皇七十三代|堀河《ほりかはの》院|嘉保《かほ》元年十一月十三日炎上|頂上佛《てうじやうぶつ》の御《み》くし灰炭《はいだん》の中よりとり出し奉る【験記】承徳《せうとく》年中に觀音堂|昇廊《のほりろう》中門再興ありしかども其外ことならずして卅余年を經て終に天承元年供養なり【慈鎭録】
一人皇八十四代|順徳《しゆんとく》院|建保《けんほ》七年二月十五日炎上同御宇|承久《せうきう》元年四月十七日より五月廿日迄に觀音(の)像ことなり給ふ佛師は法眼快慶《ほうけんくはいけい》【号安阿弥陀佛】はしめ灰炭《くはいだん》の中に殘り給ひし仏顔半面《ふつかんはんめん》左右掌《さうのたなこゝろ》など唐櫃《からひつ》に納奉りて寶坐《ほうざの》上に安置《あんち》せしが後《のち》は仏身中にこめ奉りたり眉間《みけん》の水精《すいしやう》の内に招提寺《せうだいじ》の舎利《したり》一粒をこめられたり法阿弥陀佛《ほうあみだふつ》所持《しよち》の舎利也【慈鎭録】
一仁明|順徳《にんみやう》天皇|承和《せうわ》十四年|長谷寺《はせてら》定額《てうかく》とさだめ給ふ【續日本後紀】又|貞觀《でうぐはん》十八年|長朗法橋《ちやうらうほつけう》上人の奏《そう》しけるによりて毎年|安居《あんご》に㝡勝仁王《さいしやうにんわう》經兩部を講演《こうゑん》して鎮護國家《ちんごこくか》をいのるべしとの宣旨《せんじ》あり【三代実録】
一長谷寺の觀音菩薩は住吉物がたりに戀路をいのりてあふ事をえられ又玉かつらに右近《うこん》がつは市にてめぐりあひ又|馬頭夫人《めづぶにん》の美女《びちよ》となり給ひけるなどかぞへなばかぎりなもあらじかし吉備《きび》大臣の野馬臺《やばだい》の文《ふみ》をよみけるも江讀《かうどく》といふ書にのせたりけるとかや或はたしかならすともいへり
    護法善神
験記《げんき》に元《げん》慶五年三月大和(ノ)國十市(ノ)郡|土師(346コマ)時躬《はじのときみ》といひけるものゝ子|二刻《ふたとき》ばかり息《いき》絶《たえ》て後《のち》いき出たりしが我はこれ馬頭夫人《めづぶにん》なりけふより後《のち》この山にすみて護法善神《ごほふぜんじん》とならんと也しかありしよりやしろをたてゝいはひけるとぞ鐘楼の東の脇の社これなり
    白山權現
験記《げんき》にこの寺の阿闍梨行圓《あしやりきやうえん》といふありけり加賀(ノ)國白山にまうでられしに甲斐《かいの》國|八代《やつしろの》郡よりまうできつる男に權現《ごんげん》乘《のり》うつらせ給ひて我|泊瀨山に鎮坐《ちんざ》せんと神詫《しんたく》あり又一鏡|飛《とび》きたりしを阿闍梨の衣《ころも》の袖につゝまれしなり天|禄《ろく》二年七月一日|午《むま》の尅《こく》なりそれより本山に歸り同八月三日に社たてゝうつし奉る【觀音堂ノ西北ノ隅】其夜長谷のさとは大雪ふりけると也【三國傳記】
    山口神
  長谷の町の内にあり
験記曰|手力雄《たちからおの》命也延喜式(ニ)曰(ク)長谷(ノ)山口|坐《います》神【三國傳記見詳】
    與喜山天神
  又三燈(の)嵩ともいふ
與喜山(の)天神の御鎮座《こちんざ》は朱雀《しゆしやく》院(ノ)御宇大和(ノ)國長谷寺に神殿大夫武麻呂《かうとののたゆふたけまろ》とて一|生《しやう》不犯《ふほん》酒肉五辛《しゆにくごしん》を断《だん》し當寺《とうし》に住《ちう》して難行《なんぎやう》を宗《むね》とせし俗《ぞく》ありけり天|慶《けい》九年九月十八日|武麻呂《たけまろ》觀音堂に夙夜《しゆくや》せしがまとろみけるに狩衣装束《かりきぬせうぞく》の老人|來《きた》りて我は是れ大|威験《いけん》の神なりこの山に住して大聖《だいしやう》に値遇《ちぐ》(347コマ)し奉りなんとおもふとおほせられしとおもひて夢はさめにけりその月の廿日|日《ひ》は西山にかたぶき人しづかに侍るに當山大川の下《しも》武麻呂《たけまろ》が家の前に六十計の客俗《きやくぞく》狩衣装束《かりきぬせうそく》にて石上に尻《しり》をかけつゝありけり夢《ゆめ》に見し人なりそれより一町はかりのほり四辻《よつつじ》なる所にて川におり垢離《こり》とりて休《やす》みゐられけり武麻呂《たけまろ》家《いゑ》より物などとり來《き》て奉りなんどしけるが大路椙坂《おほちのすきさか》をはのぼり給はず直《すぐ》に小路をぞのぼらせ給ふ武麻呂《たけまろ》道明《だうみやう》上人の廟《びよう》の前にして追付《をひつき》三寸《みき》をなん勸《すゝめ》けりそれより御堂《みたう》にまうで給ひしがやゝしはし念誦《ねんじゆ》ありけるに夜半に空より雲くだりて客俗《きやくぞく》におほへり終《つゐ》に雲《くも》晴《はれ》て後《のち》客俗《きやくぞく》我は是右大臣正二位天満天神|菅原《すがはら》の某《それかし》也この山に居《きよ》をしめて大聖《たいしやう》に値遇《ちぐ》し奉り苦《く》を遁《のがれ》なんと思ふ瀧藏權現《りうざうごんけん》いまして我むかしより此山の地主《ちしゆ》としてこの川上に居《きよ》せり君にゆつり奉る今より後《のち》ながくこの山の地主《ぢしゆ》となり給へかしこゝは因曼荼羅峯《いんまんだらほう》としてよき所に侍るなり神《かみ》則|飛《とひ》うつり給ふ此二神の御物かたりは武麻呂《たけまろ》しのびて聞侍るぞかしよき所の詞《ことは》よりはしまりて與喜《よき》山の天神とぞ申奉りける

天|暦《りやく》二年七月|武麻呂《たけまろ》宝|殿《でん》を建《たて》て祠《まつり》奉れり【三國傳通記】天暦二年より延宝七年まて凡七百卅二年か
一|祭礼《さいれい》の儀式《ぎしき》先《まづ》大河《おほかは》の前に出し奉る【今惣門前也】(348コマ)是武麻呂(の)家の前なり次に大路の四辻にして居《すへ》奉る【今橋爪与喜村】爰は垢離《こり》とり給ふ所なり道《とう》明上人の廟《びやう》の前にて御供《ごくう》を奉る【今二王門内】是|三寸《みき》をすゝめ奉りし所なればなりそれより假社《かりやしろ》に居《すへ》奉りしを一条院(ノ)御宇|勅願《ちよくぐはん》として藤原景斉《ふぢはらかけとき》に詔《みことのり》して仁王《にんわう》堂をうつし立て天神|影向《ようがう》の跡をおもひ椙《すぎ》坂の道をあらためて直道《すぐみち》を行今の登廊《のほりろう》是也【三國傳通記験記】
  天神御腰をかけさせ給ふ石は長谷の町の東|顔《かは》の北にあり武麻呂か家地は西顔の民屋になれり道明上人の墳又天神に三寸を奉りし石などは二王門の内に今に有
    別院長勝寺 當世この寺なし
験記《けんき》曰|宇多《うだの》天皇|勅願《ちよくぐはん》美福《びふく》門|院《ゐん》の修造《しゆざう》なり醍醐《たいごの》天皇いまだ春宮《とうぐう》にわたらせ給ひける時御|不豫《ふよ》の御|願《くはん》ありしにいくほどなくして安《あん》平ならせ給ひしかば八大觀音(ノ)像三十三身の像を営造《ゑいざう》ありこの山の二本の椙《すぎ》のほとりに臨幸《りんかう》ならせ地形《ちきやう》をえらはせ給ひて建立ありしと也【三國傳記】
    蓮華院
  當世本願坊の南に蓮華谷といふあり是也
験記曰|蓮華《れんげ》谷に池あり二丈一尺にして方《はう》なり役小角|勤行《こんきやう》の閼迦《あか》にむすばれしに十羅刹女《しうらせつじよ》水上《みなかみ》に出現《しゆつげん》し給ふそれのみならす霊瑞《れいずい》あまたあり行仁《ぎやうにん》上人の記《き》に見えたり又|密法相應《みつほうさうおう》にして皇胤鎮護《くはういんちんご》の本尊をすへなんとて二丈六尺の(349コマ)方形《はうぎやう》の圓堂《えんだう》を立て万|徳莊嚴《とくしやうごん》の秘像《ひざう》をすへ奉り天平十五年三月廿五日に供養す神護《じんご》二年四月六日|石《いし》川(の)朝臣豊成《あそんとよなり》に勅《ちよく》してかの圓堂の上に三間四面の堂をつくりおほはせ給ふ神護景雲《じんごけいうん》元年九月十日|宣《せん》下ありて蓮華院《れんけゐん》となづけらるゝむかし天人あまくだりて蓮華《れんけ》をすゝぎ大悲《たいひ》に供養せし瑞應《すいおう》あればなりそれよりして聖武《しやうむ》天皇の勅願《ちよくくはん》としてとしごとの六月十八日に蓮華《れんげ》供養はじめさせ給ひし也
    安養院 當世この院なし
験《けん》記(ニ)曰(ク)行仁《ぎやうにん》上人は兼隆《かねたか》中納言の息《そく》にして惠信《ゑしん》院の僧都の弟子《でし》也永|承《せう》七年の秋この寺にまうでゝ菩提《ぼだい》心をいのる安養世界決定徃生《あんやうせかういけつでうわうじやう》の瑞夢《すいむ》をえたり又觀音の告《つげ》によりて勸進聖《くはんしんひじり》となりて仙洞《せんとう》の御所《ごしよ》に奏《そう》し奉る白川(ノ)法皇勅して一間四面の堂又一院を造営まし/\てえさせ給ふ安養院と号し生涯《しやうがい》禁《きん》足して保安《ほあん》元年九月十五日|高声念佛《かうせうねんぶつ》して西にむかひて終《をはる》八十九
    藤井坊 この跡しれす
永享年中十一月中旬の比南都成就院法橋清賢ともなひて長谷寺に一七日參籠せしに藤井坊といふ坊にて法楽せし中に
長谷寺佛前五十首 夕時雨ふるやゆづきが下露も氷て落る冬の山風 正徹
    道明上人廟
験記曰今の二王堂の内なり

(350コマ)