日本文法 口語篇・文語篇(略)、時枝誠記、講談社学術文庫、765頁、2290円、2020.3.10
 
    口語篇
 
はしがき……………………………………………………………………………21
 
第一章 総論
 一 日本文法学の由来とその目的……………………………………………27
 二 文法学の対象………………………………………………………………36
 三 言語の本質と言語に於ける単位的なもの (一)……………………39
 四 言語の本質と言語に於ける単位的なもの (二)……………………44
 五 文法用語・…………………………………………………………………50
 六 用言の活用と五十音図及び現代かなづかい……………………………56
 
第二章 語論
 一 総説…………………………………………………………………………65
  イ 言語に於ける単位としての語 65
  ロ 語の構造 70
  ハ 語の認定 74
 二 語の分類−詞と辞……………………………………………………………76
 三 詞………………………………………………………………………………84
  イ 総説 84
  ロ 体言と名詞 84
  ハ 代名詞(一) 89
  ニ 代名詞(二) 98
  ホ 形式名詞と形式動詞 104
  ヘ 動詞 113
  ト 動詞の派生語 127
  チ 形容詞 139
  リ いはゆる形容動詞の取扱ひ方 142
  ヌ 連体詞と副詞 148
  ル 接頭語と接尾語 161
  ヲ 結 171
 四 辞………………………………………………………………………………172
  イ 総説 172
  ロ 接続詞 172
  ハ 感動詞 188
  ニ 助動詞 190
   (一)指定の助動詞 だ 192
   (二)指定の助動詞 ある 196
   (三)打消の助動詞 ない 200
   (四)打消の助動詞 ぬ 203
   (五)打消の助動詞 まい 206
   (六)過去及び完了の助動詞 た 207
   (七)意志及び推量の助動詞 う よう 210
   (八)推量の助動詞 だらう 213
   (九)推量の助動詞 らしい 214
   (一〇)推量の助動詞 べし 217
   (一一) 敬譲の助動詞 ます です ございます でございます 218
  ホ 助詞 223
   (一)総説 223
   (二)格を表はす助詞 227
   (三)限定を表はす助詞 228
   (四)接続を表はす助詞 231
   (五)感動を表はす助詞 234
 
第三章 文論
 一 総説……………………………………………………………………………236
 二 詞と辞との意味的関係………………………………………………………246
 三 句と入子型構造(一)………………………………………………………251
 四 句と入子型構造(二)………………………………………………………258
 五 用言に於ける陳述の表現……………………………………………………262
 六 文の成分と格…………………………………………………………………267
  イ 総説 267
  ロ 述語格と主語格 269
  ハ 述語格と客語、補語、賓語格 272
  ニ 修飾語格 277
  ホ 対象語格 282
  ヘ 独立語格 285
 
第四章 文章論
 一 総説……………………………………………………………………………289
 二 文の集合と文章………………………………………………………………289
 三 文章の構造……………………………………………………………………290
 四 文章の成分……………………………………………………………………293
 五 文章論と語論との関係………………………………………………………294
 六 その他の諸問題………………………………………………………………295
 
(21)   はしがき
 
 日本語は非常にむづかしい言語のやうに思はれ、また云はれてゐる。特に外国語を学習した人たちには、外国語との比較の上から、さう思はれることが多い。これには色々な理由が考へられるが、第一に、日本語では、漢字と仮名といふ、全く異質な文字が併用され、かつ一語一語の表記法が浮動して固定してゐないといふこと、次に、同類の思想を表現したり、それの派生的観念を表現するのに、固有日本語と漢語とが複雑に交錯してゐて、簡明な一の体系によつて貫かれてゐないこと、敬語の使用が複雑であること等々が挙げられるであらうが、日本語には、文法的法則が確立ざれてゐないのではないかといふ感じも、国語に対して不安の念を抱かせる一の重要な理由になるのではないかと思はれる。日本語に、はたして文法があるのだらうかといふ疑問は、明治初年にヨーロッパの諸国語を学んだ人たちのひとしく抱いた不安であつた。その後多くの文法学者が出て、日本文法に関する研究が盛んになつては来たが、今日まだ標準的日本文法が確立されてゐないことは、右のやうな不安を裏書きすることにもならないとは限らない。しかしながら、今日、日本文法に関して、決定的な結論が出てゐないといふことは、日本文法学がまだ建設の途上にあるためであつて、日本語に(22)文法が存在しないためでないことは明かである。
 日本語について、結論的な文法書が出てゐないといふことは、一面、国語学の未熟なことを思はせるのであるが、ヨーロッパの文法学が、ギリシア以来の伝統の重圧のために、革新的な科学的文法学説の出て来る道が妨げられてゐるのに較べて、日本文法学の前途には、これを阻むやうな固定した伝統も標準もないといふことは、この道に携る学者に明るい気持ちをさへ与へてゐるのではないかと思はれる。ただ私たちは、日本文法に関心を持たれる人たちに、次のやうなことを期待したいのである。
 今日、文法学の基礎知識は、日本語についてよりも、むしろ英、仏、独等のヨーロッパの諸国語について与へられる方が多い。そこで、日本語の文法についても、ヨーロッパの諸言語の文法を基準にして考へたがる。その結果、割切れない多くの現象に行き当るのであるが、言語は伝統的なものであり、歴史的なものであつて、思考の法則が普遍的であるやうには、言語の法則は一般的な原理で律することが出来ないものを持つてゐる。日本語の文法は、日本語そのものに即して観察されないかぎり、正しい結論を得ることは困難なのである。ヨーロッパの言語の法則が、一般文法の原理であるかのやうな錯覚を打破することが何よりも大切である。
 右のやうな考へは、また次に述べる日本語は変則的、例外的な言語であるといふ偏見につらなつてゐる。変則的、例外的であるから、ヨーロッパの言語の原理的法則に照らして割切(23)れないところがあるのも当然であるといふやうな考へに安住してしまふのである。確かに、今日文化的言語として世界を支配するものは、英、仏、独等の印欧語系の言語である。日本語と同系統、同語族の言語で、これに拮抗し得るのは、ただ日本語だけである。群がる獣類の中の一羽の鳥のやうなもので、数の上から云へば、たしかに例外的、変則的存在に違ひない。日本語の文法現象の一々が破格であり、奇異であると感ぜられるのも当然である。しかし、そこに真理を見出し得ないかぎり、日本語の文法は完全に記述することは困難であらうし、更に世界諸言語の文法現象の奥にひそむ、より高次な言語的真理を把握することは不可能となるであらう。世界諸言語の文法的真理の探求といふことは、日本文法学のヨーロッパ文法学への近寄せといふやうな安易なことで達成出来るとは思へないのである。明治以後の文法研究者の悩みはそこにあつた。最初は、ヨーロッパ文法の理論に忠実に従ふことによつて、日本文法を完全に記述することが出来ると予想したのであるが、やがてそれが不可能であることが分つて見ると、原理は結局日本語そのものの中に求めなければならないこととなつたのである。これは誰にも頼ることの出来ない、また既成の学説や理論にすがることの出来ない、日本の学徒が、日本語と真正面から取組んで始めて出来ることなのである。しかし、ここで日本文法学が始めて正しい意味の科学として出発することになつたと云ふことが出来るのである。ただここで考へ得られる一の足場は、古い日本語研究に現れた学説と理論とである。鎌倉時代(西紀第十二世紀)或はそれ以前から、日本学者が日本語について考察(24)し、思索して来た理論や学説は、まさに日本語そのものの一の投影として、私たちの行手を照らす灯であるに違ひない。本書は、右のやうな研究方法に立脚して、日本語の理論を遠い過去の先学の研究に求め、それを理論的に展開して日本文法学を組織しようとしたものである。その意味で、本書は、拙著『国語学史』(昭和十五年岩波書店刊)の研究を前提とするものであることを附加へて置きたい。
 私の見るところでは、その基礎的構造の理論をつかみ得るならば、日本語は、印欧語に比して、比較的簡明な文法を持つた言語であると云ふことが出来るのではないかと考へてゐる。ただし、ここに云ふ日本語の基礎的構造を、理論的に把握するためには、問題を言語そのものの本質的究明にまで掘下げて考へる必要があるのである。本書は、それらの点について詳論する暇が無かつたので、大体の記述に止めて、詳しくは拙著『国語学原論』(昭和十六年岩波書店刊)に譲ることとした。
 今日の日本文法学は、その組織の末節にある異同を改めたり、言語学の最高水準に照して理論をより確実にしたりすることによつては、もはやどうにもならない、もつと基本的な問題にぶつかつてゐるのである。それは、言語そのものをどのやうに考へるかの問題である。本書は、そのやうな根本問題を出発点としてゐるので、日本文法の大体の輪廓を知らうとする人たちにとつては、煩はしいまでに、理論のために頁を割いてゐるが、日本文法を日本語の性格に即して観察されようとする人たちにとつて、或は言語と人間精神、言語と人間文化(25)の交渉の秘奥を探らうとする人たちにとつては、何ほどかの手がかりを示すことが出来ると信ずるのである。
 ちなみに、本書に用ゐた学術用語は、殆ど古来の使用と現在の慣用のものを用ゐ、その概念内容を改めて行くことに力を注いで、努めて新造語を避ける方針をとつた。しかし、現在の用語がすべて適切であると考へてゐる訳ではなく、それに対する試案は、本論、文法用語の項目の中にも述べて置いた。
 以上のやうな理由に基づいて、本書では、日本文法の組織の骨組を作ることに迫はれて、充分な記述にまで手がのびなかつたことを、諒承されたい。
 また、本書に用ゐた「かなづかひ」については、私は「現代かなづかい」 の根本方針に疑ひを持つてゐるので(1)新かなづかひ法が、確実な理論の上に制定されるまでは、暫く旧来の方式に従ふこととした。私一己の試案(2)もあるけれども、かりそめに、そのやうなものを実行することは、徒に混乱の種を増すことであると考へて見合はせることにした。
 
 (1) 国語審議会答申の「現代かなづかい」について(国語と国文学 第二十四巻第二号、『国語問題と国語教育』に収む)
 (2) 国語仮名づかひ改訂私案(国語と国文学 第二十五巻第三号、『国語問題と国語教育』に収む)
 
(27)   第一章 総論
 
     一 日本文法学の由来とその目的
 
 日本文法がどのやうなものであり、また日本文法研究がどのやうな目的と任務を持つものであるかを明かにするには、まづ、日本文法を研究する学問である日本文法論或は日本文法学の成立の由来を明かにすることが便宜であり、また必要なことである。
 今日見るやうな日本文法の研究は、江戸時代末期に、オランダ語の文法書が舶載され、それに倣つて国語の文法を組織しようとしたことに端を発し、明治時代になつては、主として英文法書の影響を受けて、多くの日本文法書が作られ、また日本文法の研究が促されるやうになつた。
 当時輸入された外国の文法書は、学問的な文法研究書といふよりは、外国語の学習の手引きとしての教課文法書であつたため、国語の文法書も専らそのやうな見地で編まれたものであつた。即ち、文法書は、国語の、特に文語の読解と表現とに役立つものといふことが、主(28)要な任務とされた。また日本文法の組織の立て方、説明の方法も、専ら外国の文法書のそれに倣つたことも止むを得ないことであつた。
 日本文法の全面的な組織と体系化は、右に述べたやうに、外国の文法書の影響によるものではあつたが、それに類した研究や、その部分的研究に属するものは、従来の国語研究に全然無かつた訳ではなかつたので、江戸時代の国語学者の研究にも捨てがたいものがあり、見るべきものがあることが顧みられるやうになつて、ここに日本、西洋の研究を取入れた折衷文法書も現れるやうになつて来た。更に進んで、ヨーロッパの言語学の理論に立脚し、日本語の文法を根本的に研究しようといふことになり、従来の実用主義を離れて、全く純科学的精神に立脚し、日本文法を言語学或は国語学の一環として研究するやうになつたのが、近代の日本文法学の大体の状況であるといふことが出来るのである。しかしながら、日本でも西洋でも同じことであるが、文法研究の淵源に溯つて見ると、文法研究は、古典の読解、表現の技法のために存在したものであつて、単に学問のための学問として存在したものではなかつた。云はば、人間の言語的実践に対応するものとして存在したのであつた。何となれば、古典の言語は、現代に於いては意味不通のものとなつて、先づ言語的に解明して行くことが必要とされたからである。文法学が必要とされるのは、理解の場合だけではない。古典言語によつて表現することが、唯一の表現方法であつた時代に於いては、文法学はまた表現の重要な武器でもあつたのである。このことは、今日外国語学習に於ける外国語文法学の関係と(29)全く同じであると云ふことが出来る。
 近代になつ、言語研究の課題が、古典言語から、現代語へと移つて来た。現代口語の文法が研究されるやうになつたのは、我が国では明治三十年代のことである。ところで、外国人は別として、我々は、現代語については、その文法的知識なくしても、一往の理解と表現に事欠くことはないと考へてゐる。確かにそれは事実である。もし口語文法の研究と教授が、文語文法のそれの意味なき伝承に過ぎないものではないと考へるならば、そしてまた、それが単なる学問のための学問以上の意義があると考へるならば、それにどのやうな意義が附与されるであらうか。今、これを教育の立場に於いて考へて見よう。昭和六年中学校令施行規則及び教授要目が改正され、中学校の低学年に口語文法が課せられるやうになつた時、橋本進吉博士は次のやうに述べて居られる。
 
  現代に於ては、口語文が一般に行はれて文語文は甚だ稀にしか用ひられません。まして中学校に入つて始めて文法を学ぶものは、口語文にかなり親んで居りますが、文語文には甚だ疎いのであります。既知から未知に入り、易から難に及ぶのが、教育の根本原理であるとすれば、かやうな実情の下にあつて、文語の文法から始めるのは順序を顛倒したものであつて、既に習熟してゐる口語について文法を説き、然る後、文語の文法に及ぶのが最も自然な道筋であると考へます(1)。
 
(30) 博士は、口語文法の教授を以て、文語文法に入る階梯準備として考へられた。博士はまた同時に、口語法の教授に、ただ文語法への階梯としての意義だけでなく、更に別個の、独立した意義のあることを述べて居られる。
 
  広く国語教育の立場から見れば、文法の知識は、我が国語の構造を明かにし、国語の特 色を知らしめ、又、文法の上にあらはれた国民の思考法を自覚せしめるに必要である事は既に述べも通りである(2)。
 
 口語法の教授は、言語の表現、理解のためといふ実用的見地を離れて、国語の構造、更に国民の思考法に対する自覚を喚起させるところにあることを主張されたもので、これは昭和六年の教授要目にある「文法ノ教授ニ於テハ国語ノ特色ヲ理解セシムルト共ニ国語愛護ノ精神ヲ養ハンコトニ留意スベシ」といふことと揆を一にするものである。橋本博士は、更にその考を進めて、
 
  国語教育といふ立場だけからでなく、一般に教育といふ立場からして、国文法の学修といふ事を考へて見る時、ここにまた別種の意義が見出されるのではなからうかと思ふ。(31)組織的の教育に於て課せられる種々の学科は、それぞれの領域に於ける特殊の知識を与へる外に、種々のものの見方考方取扱方を教へるものである。(中略)精神や文化を研究する専門の学としては文科的の諸学があるが、これ等は普通教育に於ては十分に学的体系をなした知識としては授けられないやうであり、(中略)唯国文法のみは、かやうな所まで行きうるのでなからうかとおもはれる(3)。
 
 文法科の任務を、ただ国語についての認識を高めるばかりでなく、文化現象を観察する唯一の学科として考へるやうになり、その後の国定文法教科書は、右の線に沿つて、生徒自ら国語の法則を発見し、これを組織する研究的、開発的な方法によつて行はれるやうな組織に改められた。
 普通教育に於ける文法科は、以上述べたやうに、文化現象としての国語の法則を観察する認識学科となつたのであるが、その理由は、口語文が国語教育の主要な内容となつて来たためである。口語文が重要視された結果、口語法が文語法教授にとつて代はることになつたが、同時に、従来、文語法教授の主要な任務であつた古典講読のための文法教授といふ実用的意味も当然改められ、以上のやうな新しい意味を口語法教授に附与することとなつたのである。それも文法科の一の行き方ではあらうが、中等学校の諸科目が、大学、専門学校に於ける学科別の縮図である必要はなく、またあつてはならないことを思へば、文法科を認識学(32)科として見る現今の取扱ひ方には大きな問題があると見なければならない。
 文法学は、確かに人間の精神や文化を研究する学問の一つではあるが、中等学校に於ける文法科の目的は、必しも小国語学者、小文法学者を養成することではない筈である。中等学校に於ける文法科の任務を正当に理解するには、もう一度これを国語科の中に引戻して、国語教育全体の立場から、文法科を考へて来る必要があるのである。普通教育としての国語科の任務は、何と云つても、国民の国語生活である、読むこと、書くこと、聞くこと、話すことの訓練、学習にあることはまちがひないところであらう。この四の国語生活の形態は、人間一生の生活を通じて、片時も離れることの出来ないもので、これを円滑に実践することが出来るやうにすることは、国語教育に課せられた根本的使命である。これらの実践を有効にし、適切にするためには、国語に対する或る程度の自覚と認識が必要であつて、国語要説とか文法学は、その意味に於いて中等学校の教科目として意味があるのであつて、それ自身独立した学問としてあることが必要なのではない。
 口語法の教授に、実用的見地が否定されるやうになつたのは、文語法の組織がそのまま口語法に踏襲されたことが重要な原因をなしてゐると見ることが出来る。動詞・形容詞の活用形と、その接続する語との関係のやうな事実は、古語の場合には非常に重要な事柄であらうが、現代語の場合には、殆ど問題にならない自明の事柄である。従つてそこから、口語法を実用的意味に於いて課することが否定されるやうになつたのも、当然であると云へるのであ(33)るが、そのことから、直に口語法を精神観察のための認識学科として位置付けることには大きな飛躍がある。本来から云へば、口語文教授に即応して口語法が学科目として取上げられた時、先づ考へられなければならなかつたことは、現代語生活に文法教授のやうなものが必要であるかどうか、もし必要であるとしても、そこに取上げられる問題、または文法書の組織といふものは如何にあらねばならないかといふことが仔細に考究されねばならなかつた筈なのである。ところが、そのやうなことは殆ど問題にされることなく、文語文法の方法と組織とがそのまま口語法に踏襲されたが為に、口語法教授が文語法教授の持つてゐる実用的意味を持ち続けることが出来なくなり、文法教授の任務に大転換を行ふことを余儀なくされたのである。その根底には、文語文法教授の内容と組織とは、凡そ文法学の絶対的な規範であるといふ考へが存してゐたと見ることが出来るのではなからうか。文語文法の組織は、文語文のために必要な組織であり、口語のためには、またそれとは別個の文法組織と問題とが当然考へられなくてはならない筈なのである。文語文の理解と表現には文語法の知識が必要であるが、現代語生活に於いては、もはや文語法の組織をそのまま教授するやうなことは必要ないのであつて、現代語生活をよりよくするためには、それを助ける何等か別の形に於ける文法学の教授といふことが必要とされるのである。これは今後の口語法研究の重要な課題である。
 学校教育に於いて、文法学科を研究的に、開発的に行ひ、生徒自ら言語の法則を発見する(34)やうに導く教授法が不適当であると考へられることには、以上のはかに猶次のやうな理由が考へられる。その一は、言語現象は自然現象と異なり、極めて複雑な人間の精神現象であるから、中学校の低学年に於いてこれを課することは、生徒の智能の発達段階から見て不適当であるばかりでなく、これを無造作に行ふことは、言語に対する誤つた観念を植ゑつけてしまふといふ危険が生ずることである。その二は、言語に対する認識は、言語の自覚的な実践の上にはじめて築きあげられるものであることは、文学の学問的認識が、文学的体験をまつてはじめて可能であるのとひとしい。文学的体験なくして文学論を云々することが危険であるやうに、言語的経験を自覚的にすることなくして、言語の法則を問題にすることは本末を顛倒したことになる。
 以上のやうな理由によつて、学校教育に於ける文法科は、生徒の言語的経験を自覚的にし、確実にするといふ実用的見地に於いて課せられるといふことが望ましいので、このやうな実践的経験をまつて、はじめて国語に対する認識も、自覚も高められることとなるのである。このことは、一見、文法科の教育的意義を無視して、旧来の暗記的学科に逆転させるやうに受取られるかも知れないのであるが、学校教育に於ける文法科は、それ自身独立した一学科としての意義があるのでなく、国語科の一翼を荷ふものとしてのみ存在価値があることを理解するならば、当然のことであると云はなければならないのである。
 私は余り文法学の教育的な面ばかりを述べ過ぎたやうであるが、純粋の学術的な文法学の(35)任務についても同じやうなことが云へるのである。一個の科学としての文法学についても、究極に於いてそれは実用的意義を失ふものではないのである。実用的意義を考へることによつて、学問自体が歪められることは、厳に戒めなければならないことであるが、一方文法学の実用的意義を考へることによつて、文法学の正しい発達を促す面のあることも忘れてならないことである。
 文法学とその実用的意義との交渉は、単に文法学の理論が、言語的実践に効果があるといふ、学理とその応用との関係に於いて交渉があるばかりでなく、夷はもつと深いところで交渉してゐると見なければならない。それは、言語は本来人間生活の手段として成立するものであり、常にある目的意識を持ち、それを達成するに必要な技術によつて表現されるものである。従つて、このやうな言語の投影である文法学は、当然実践的体系として組織されなければならない筈である。また実践的体系を持つた文法学にしてはじめて真の科学的文法学と云ひ得るのである。
 私は本書に於いて、以上述べたやうな文法学の体系を組織することを企図したのであるが、現実はその半にも到達することが出来ない結果に終つたやうである。それらの点については、今後の研究にまつこととした。
 
 (1) 『新文典別記』(初年級用)の新文典編纂の趣意及び方針の項
(36) (2) 『国語学と国語教育』(岩波講座 国語教育、橋本進吉博士著作集 第一冊)
 (3) 同上書
 
     二 文法学の対象
 
 文法学は、言語の事実全般を研究対象とする言語学の一分科として成立するものであることは明かであるが、それならば、言語の如何なる事実を研究するものであるか。言語の学問としては、文字を研究する文字学、音声を研究する音声学、意味を研究する意味学、或は言語の方言的分裂の事実を研究する方言学、歴史的変遷の事実を研究する言語史学等々を数へることが出来るが、それらの種々な分科に対して、文法学は如何なる言語の事実を研究するものであるのか。文法学の対象が、文法であるとするならば、文法とは、言語に放ける如何なる事実であるのか。先づこの点を明かにしなければならない。
 文法を以て、言語構成に関するすべての法式、または通則と解する考方がある。橋本進吉博士は、次のやうに述べて居られる。
 
  すべて言語構成の法式又は通則を論ずるのが文法又は語法であるとすれば(筆者註、ここでは文法、語法といふことを、文法学、語法学の意味に用ゐてゐる)、右に挙げた音(37)声上の種々の構成法や、単語の構成法や、文の構成法は、すべて文法(語法)に属する事項といふ事が出来る(1)。
 
 事実、文法研究の中に、音声組織の研究や語源研究をも含めてゐる多くの文法書もあるが、それは、言語についての一切の法則的なものを文法とする考方に基づくものであらうが、さうすれば、結局、文法学は言語についての一切の法則的なものを研究対象とする言語学と同意語となつてしまつて、文法学の真の対象を決定することが困難になるおそれがある。
 右のやうな説に対して、山田孝雄博士は、文法学の概念を限定して次のやうに述べて居られる。
 
  これ(筆者註、文法学を指す)は語の性質、運用等を研究する部門なり。
 即ち文法学は、語の研究に限定されることになるのである。博士に従へば、語は言語に於ける材料であるから、当然その静止態の研究と同時に、その活動態の研究も含まれるが故に、いはゆる文の研究もこれに含まれると見るのである。安藤正次氏が語法を定義して、
 
(38)  語の相互間の関係を規定する法則をさして語法といふ(3)。
 
といはれたのは、山田博士の意味するところと大体同じであると考へて差支へないのであつて、かくして文法学に於いて、一般に語を研究する語論或は品詞論、及び語の運用或は語の相互的関係を論ずる文論、文章論或は措辞論に大別されることになるのである。
 このやうな語及び語の相互関係の研究に対して、文字或は音声の研究の如きは、語の分析された個々の要素についての研究を意味するのであつて、文法研究が、常に言語を一体と見て、それら一体である語の相互関係を研究対象とする点に於いて著しく相違するのである。
 以上述べたところによつて、文法研究の対象が、言語の要素に関する研究である文字論、音声論、意味論などと異なり、言語自身を一体として、それの体系を問題とし、研究する学問であることが、明かにされたと思ふのであるが、一体としての言語とは如何なるものであるかについて、それが語であるか、文であるかといふことになれば、今日までのところ、まだ明確な理論の基礎が築かれてはゐないやうである。一体としての言語が如何なるものであり、その体系が如何なるものであるかを明かにしようとするならば、先づ何よりも言語とは如何なるものであるかといふこと、即ち言語の本質が何であるかといふことが問はれなければならないのである。次に私はこの点を明かにしようと思ふ。
 
(39) (1) 『国語学概論』(橋本進吉博士著作集 第一冊 二九頁)
 (2) 『日本文法学概論』 一五頁
 (3) 『国語学通考』 二九五頁
 
     三 言語の本質と言語に於ける単位的なもの (一)
 
 言語の本質が何であるかといふ言語本質観には、今日、全く異なつた二の考方が対立してゐる。その一は、言語は思想と音声或は文字が結合して出来上つた一の構成体であると見る考方である。これを構成的言語観、或は言語構成観と名づけることが出来る。言語の研究にあたつて、対象の観察、分析に先立つて、このやうな本質観が問題にされるのは、何故であるかといふならば、言語は我々にとつて極めて親近なものであるにも拘はらず、それは、我々の周囲にある動物や植物などのやうに直接に手に触れ、目に訴へて観察することの出来るものと異なり、その正体を捉へることが困難なものであるからである。そこで言語の現象的な事実から、言語はこれこれのものであらうといふ臆測のもとに、一の仮説を立てて理論を構成して行かなければならないのである。この仮説が、言語のあらゆる現象を残すところなく説明しおほせるならば、その時、この仮説は一の言語理論として定立され、更に種々な言語現象を説明する根本理論となることが出来るのである。右に述べた言語構成観は、言語(40)は種々な要素の結合体と見るのであるから、言語研究はこれらの要素を抽出して、それが如何に結合されてゐるかを研究することになるのである。言語に対するこのやうな見方及び研究方法は、物質を原子に分析し、その結合の状態を研究する自然科学の物質観とその方法とに類似してゐると見ることが出来るのである。このやうにして言語から、音声と思想との二要素が抽出される。音声を更に分解すれば、音節が抽出され、音節は更に単音に分解されることになる。しかしながら、このやうに分解を推し進めて行けば、それは結局言語の一面しか明かにすることが出来ないと考へられるところから、思想と音声との結合したものを単位として分解を施して行く時、句、或は橋本進吉博士のいふところの文節なる単位が得られ、更に之れを思想と音声との相関関係を破壊することなく分解して行く時、単語に到達する。単語の性質と、単語相互の関係の法則を文法といふならば、文法は、単語を究極の単位として、それが結合される場合の法則をいふものであると見ることが出来るのである。文法の概念は、一般に右のやうに考へられてゐるのであるが、右のやうな考方の特質は、言語の音声に於いて、究極の単位として単音を分析し、単音の結合に於いて音声を説明し、理解して行かうとする考方と全く同様で、言語に於いて、究極の単位として単語を抽出し、単語の結合に於いて言語を説明し、その結合法に於いて文法なる言語事実を認めようとするのである。従来の文法学が、単語論、品詞論を基礎とし、或は中心として、その上に、文章論、或は措辞論が組織されたのは、右のやうな理由に基づくのであつて、根本は、言語を要素或は単位(41)の結合から構成されてゐると見る言語構成観の当然の結論であると見ることが出来るのである。
 言語構成観は、既に述べたやうに、自然科学的物質構成観から類推された言語観であつて、それがはたして、人間的事実に属する言語のあらゆる現象を説明し尽すことが出来るかどうかといふ疑問から次の別個の言語観が成立するのである。
 次に挙げるところの言語観は、言語を人間が自己の思想を外部に表現する精神・生理的活動そのものと見る考方である。これは、言語を要素の結合としてでなく、表現過程そのものに於いて言語を見ようとするのであるから、これを過程的言語観、或は言語過程観と名付けることが出来るであらう。
 言語過程観は、日本の古い国語研究の中に培はれた言語本質観であつて、それはヨーロッパに発達した言語構成観に対立する全く異なつた言語に対する思想である。この言語観の由来とその理論体系、また言語構成観との相違については、私の『国語学史』(岩波書店、昭和十五年十二月刊)及び『国語学原論』(同、昭和十六年十二月刊)に詳説したので、委細はそれに譲つて、ここでは極めて簡単にその概要を述べることとする。
 一 言語は思想の表現であり、また理解である。思想の表現過程及び理解過程そのものが言語であると考へるのである。
 二 思想の表現がすべて言語であるとはいふことが出来ない。思想の表現は、絵画、音(42)楽、舞踊等によつても行はれるが、言語は、音声(発音行為)或は文字(記載行為)によつて行はれる表現行為である。同時に、音声(聴取行為)或は文字(読書行為)によつて行はれる理解行為である。
 三 言語は、従つて人間行為の一に属する。言語を行為する主体を言語主体と名付けるならば、言語は、言語主体の行為、実践としてのみ成立する。そして、それは常に時間の上に展開する。時間的事実であるといふことは、言語の根本的性格である。絵画や彫刻も行為としてまた実践として成立するが、それは平面或は空間の上に展開する事実である。
 四 言語が人間的行為であり、思想伝達の形式であるといふことは、表現の主体(話手)、理解の主体(聞手)を予想することであり、話手、聞手は、言語成立の不可欠の条件である。
 五 構成的言語観で、言語の構成要素の一と考へられてゐる思想は、言語過程観に於いては、表現される内容として、言語の成立にはこれもまた不可欠の条件ではあるが、言語そのものに属するものではない。
 六 構成的言語観で、言語の構成要素と考へられてゐる音声及び文字は、言語過程観に於いては、表現の一の段階と考へられる。
 七 言語は、常に言語主体の目的意識に基づく実践的行為であり、従つて、表現を調整する技術を伴ふものである。
(43) 八 言語を実践する言語主体の立場を主体的立場といひ、言語を観察し研究する立場を観察的立場といひ、この両者の立場を混同することが許されないと同時に、この両者の立場の関係を明かにして置くことは重要である。
 九 言語の観察者が、他の言語主体によつて生産された言語を観察する場合でも、これを観察者自身の主体的活動に移行して、内省観察する以外に、言語研究の方法は考へられない。他人の言語をそのままに観察するといふことは出来ないことである。奈良時代の言語を観察するといふことは、奈良時代の言語主体の言語的行為を、観察者の主体的活動として再現することによつて観察が可能とされるのである。これを別の言葉でいふならば、「観察的立場は、常に主体的立場を前提とすることによつてのみ可能とされる(1)。」といふことになる。
 一〇 言語研究者の観察の対象となるのは、常に特定個人の個々の言語である。その中から特殊的現象と普遍的現象とをよりわけ、原理的なもの、法則的なものを帰納するのは、言語研究者の任務である。このやうな普遍化的認識と同時に、特定個人の言語の特殊相を明かにする個別化的認識も言語研究者の重要な任務である。この二つの方向は、相寄り相助けて完全な言語研究の体系を構成する。
 
 以上は、言語過程観の最も根本的な言語に対する考方であつて、本書の論述の基調をなすものである。
 
(44) (1) 『国語学原論』 二九頁
 
     四 言語の本質と言語に於ける単位的なもの(二)
 
 言語構成観に対立する言語過程観の概略は、以上述べたやうなものであるが、本書に於いては、日本文法を専ら右に述べた言語過程観の立場に於いて概説しようと思ふ。従つて、言語の究極的単位として単語を考へ、単語を基本とし、出発点として、その結合に於いて言語を考へて行かうとする構成的な考方をとらないで、分析以前の統一体としての言語的事実を捉へ、それを記述することから出発しようとするのである。このやうな研究対象としての統一体としての言語的事実を、言語に於ける単位と名付けるならば、言語に於いて単位と認められるものはどのやうなものであらうか。言語に於ける単位的なものとして、私は次の三つのものを挙げようと思ふ。
 
 一 語
 二 文
 三 文章
(45)
 ここにいふ語及び文は、従来の文法研究に於いて取扱はれたものであるが、文章は、従来、語及び文の集積或は運用として扱はれたもので、例へば、芭蕉の『奥の細道』や漱石の『行人』のやうな一篇の言語的作品をいふのである。これらの文章が、それ自身一の統一体であることに於いて語や文と異なるものでないことは明かである。
 今、この三つのものを文法研究の単位と称する時、ここに用ゐられた単位の概念を明かにして置くことは、右の対象設定の推論を明かにする上に有効であらうと思ふので、以下そのことについて述べようと思ふ。
 一般に、語が言語に於ける単位であると云はれる場合と、私が右に語を単位とするといふ場合の単位の概念には、相当の距離があるのである。一般の用法では、言語の分析の究極に於いて見出せる分析不可能なものとして、これを言語の単位といふのであつて、それは原子論的単位としての単位の意味である。そこには全体に対する部分の意味が存在するのであつて、それは構成的言語観の当然の帰結である。私がここに云ふ単位といふのは質的統一体としての全体概念である。人を数へる場合に単位として用ゐられる三人〔右○〕、五人〔右○〕の「人」は、長さや重さを計量する場合に用ゐられる尺〔右○〕や瓦〔右○〕が、量を分割するための基本量を意味するのと異なり、また全体を分析して得られる究極体を意味するのとも異なり、全く質的統一体を意味するところの単位である。言語の単位として挙げた右の三者は、音声または文字による思(46)想の表現としての言語であることに於いて、根本的性質を同じくし、かつそれぞれに完全な統一体であることによつてこれを言語研究の単位といふことが出来るのである。このやうな単位の概念は、例へば、書籍に於いて、単行本、全集、叢書を、それぞれに書籍の単位として取扱ふのと同様に考へることが出来るのである。
 語と文とを言語研究の対象とすることは、従来の文法学に於いて行はれたことで、既に相当の業績を収めたことであるが、ここに云ふ文章については、従来、専ら修辞論に於いて取扱はれて来たことであつて、それが果して、文法学上の対象となり得るかどうかについて疑ふものが多いのではないかと思ふ。文章が国語学の対象となり得るかどうかについて疑はれるといふことは、それが専ら個別的な技術に属することで、そこから一般的な法則を抽象することが不可能ではないかといふ考へに基づくのである。もちろん文章成立の条件は、個々の場合によつて異なり、そこには一般的法則が定立しないやうに考へられるが、文章が文章として成立するには、それが絵画とも異なり、音楽とも異なる言語の一般的原則の上に立つて成立するものであることは明かであるから、そこから一般的法則を抽象し得ないとは云ふことが出来ない訳である。文章の構造或は文章の法則は、語や文の研究から帰納し得るものでなく、文章を一の言語的単位として、これを正面の対象に据ゑることから始めなければならないのである。
 文章が、今日専ら修辞法の問題として取上げられてゐることは、語や文が嘗ては修辞法の(47)立場から論ぜられたのと同じである。規範を論ずるには、その根底に、事実の科学的な研究や分析が必要であるところから、語や文の修辞論の前提として、科学的な語研究や文研究が成立するやうになつた事情を思へば、規範的文章論が成立するためには、当然科学的な文章研究が起こらなければならないことが分かるのである。文章のことは、修辞論に属することで、科学的な言語研究の対象とするに値しないもののやうに考へることは正しいことではない。
 文章を対象として研究することは、一個の教材をそれ自身一の統一体として取扱はねばならない国語教育の方面から、現実の問題として強く要請されてゐることである。それは、国語教育の当面の問題は、語でもなく、また文でもなく、実に統一体としての文章(音声言語の場合も含めて)であるからである。国語教育に於いては、問題は文章の理解と表現との実践、訓練にあることは勿論であるが、そのやうな教育活動の根底に、文章学の確固たる裏付なくしては、その教育的指導を完全に果すことが出来ない訳である。
 ここで再び最初の文法学の対象は何であるかの問題に立返つて見るならば、文法学は、言語に於ける単位である語、文、文章を対象として、その性質、構造、体系を研究し、その間に存する法則を明かにする学問であつて、同じく言語研究ではあるが、言語の構成要素である音声、文字、意味等を研究する学問とは異なるのである。文法学は以上のやうなものであるから、古来、それが言語研究の中枢的な位置を占め、時には言語学と同意語のやうに考へ(48)られたのも当然である。音声、文字、意味の研究も、このやうな文法研究から派生し、その発展として分化して来たものであると見ることが出来る。これは国語学の歴史に於いても認め得ることであり、語法或は文法といふやうな名称も、その間の事情を物語るものである。近代言語学は、言語の歴史的変遷や方言的分裂を主要な言語研究の課題にして来たために、文法研究は圏外に置かれたかのやうな観があつたけれども、文法研究が、常に言語を言語としての統一体の姿に於いてこれを把握し研究する部門であることに於いて、言語学の基礎的で、かつ中枢的な領域であることは動かせないであらう。
 以上のやうな単位設定の方法に対して、著しい対照をなすものは、従来の文法研究に於ける単位の概念である。そこでは、単位は言語の分析に於いて到達する分析不可能な究極的なものとして考へられた。そこには、自然科学に於ける物質構造の考方が反映して居ることを見出すのである。文法は、これら単位である語の運用上の法則として考へられて来たのである。しかしながら、自然科学的な単位の概念を、言語の研究に適用することは、そもそも無理なことであつて、次第に、統一体としての単位概念に移行するのは自然であつた。そのことは、文法研究の歴史を見れば、明かであつて、語を文法研究の単位として設定することに既にそれが現れて居る。山田孝雄博士が、語を言語に於ける単位と考へ、その単位の意味を述べて、
 
(49)  単位とは分解を施すことを前提としたる観念にしてその分解の極限の地位をさすものな
り(1)。
 
といはれる時、その単位の意味は、正に原子論的単位の意味であるが、
 
  単語とは語として〔四字傍点〕分解の極に達したる単位にして(2)
 
といはれる時は、既に「語として」といふ質的統一体としての単位の概念が混入してゐるのである。語を質的統一体として見るならば、ここに当然起こらなければならない疑問は、文もまた語と同様に言語に於ける単位ではないかといふことである。この疑問に対して山田博士は、
 
  語といふは思想の発表の材料として見ての名目にして、文といふは思想その事としての名目なり(3)
 
といふやうに説明して居られるのであるが、文の中の語が、思想発表の材料として考へられるべきものであるかといふことには、疑問が残るのである。文法研究に、質的統一体として(50)の単位概念を導入するならば、文及び文章も、語に劣らず、言語に於ける厳然たる単位として認められなければならないのである。
 
 (1) 『日本文法学概論』 二九頁
 (2) 『改訂版日本文法講義』 九頁
 (3) 『日本文法学概論』 二〇頁
 
     五 文法用語
 
 今日文法学上用ゐられてゐる用語には、体言、用言、係《かかり》、結《むすび》、その他、用言の活用形に関する未然形、連用形等、或は、活用の種類に関する四段活用、下一段活用、上一段活用等の名称のやうに、古い国語学上の用語を継承したものもあるが、品詞名の大部分は、ヨーロッパ諸国語特にオランダ、イギリス文法の用語の翻訳に基づくものが多い。それら、外国文法の用語の翻訳については、大槻文彦博士に、『和蘭字典文典の訳述起原(1)』の論文があつて、詳細に述べられてゐる。文法上の用語のやうなものは、その実用的見地から云つても、世界共通であることは、望ましいことであるが、言語は本来歴史的伝統的のもので、言語によつて、その性格を著しく異にし、その体系も従つて相違するので、これを一律に統一してしま(51)ふことは、理論的に殆ど 不可能のことである。同じく印欧語族に属する言語の中でも、英語とオランダ語とはその性格を異にしてゐるので、例へば、英語の adjective に相当するものは、オランダ語では、By Voeglyke Naam Woorden として、名詞に近いものとして取扱はれてゐるのは、それが名詞と同じやうな格変化をするためである。して見れば、印欧語とは著しく性格を異にする国語の文法用語にそれ独持のものがあるのは、当然のことと云ふべきで、一端の類似から同一名称を借用する時は、却つて誤解と混乱をひき起こす原因とならないとも限らない。ただし国語内部で、同一文法的事実に種々な用語が用ゐられることは、決して望ましいことではないから、適当にこれを整理統一することは必要であるばかりでなく、徒に奇を好んで新用語を創作することは、厳に戒める必要があると思ふのである。ただここで注意したいことは、用語は便宜的なものに過ぎないとは云つても、名称が事実を反映してゐることは、実用上極めて便宜であるから、用語の制定に当つては、文法理論、学説の厳密な検討の上に立つてなされなければならないことは云ふまでもない。
 今日の文法用語の大部分が、外国文典の翻訳に起原するものであることは既に述べたことであり、そしてその中のあるものは、習慣が固定して、確固として抜くことの出来ないものになつてゐるものがあるが、もともと、性格を異にしたヨーロッパ文法の用語をそのまま翻訳借用したために、今日、国語の正しい認識に妨げになつて居るもの、或は不便を感ずるやうなものが少くない。これらについては、再検討をする必要を感ずるのであるが、習慣が久(52)しいために、これを変改することは容易でないのであるから、国語の文法について考へようとするものは、さしあたり、用語にひきずられることなく、事実そのものについて深い洞察を怠らないやうにする必要がある。
 次に、現在の私の見解に基づいて、問題とすべき文法上の用語を列挙して見ようと思ふ。
 
 一 形容詞
 本来、adjective 或は attributive の訳語として出来たもので、それはこれらの語の持つ機能の上から、実質概念を表はす名詞に対して、属性概念を表はす語として、名詞に附属する語であると考へるところに成立した名称である。従つて、この品詞名には、多分に文論に於ける文構成要素の考へを交へて居ることは明かである。これに反して、国語に於いて形容詞と呼ばれる語は、元来、用言中の一部として認められたもので、それは、語形の変らぬ体言に対して、語形の変る語として認められたものである。勿論、古く国語学上に於いても、これを形状の語といふやうに命名したものもあるが(2)、それが動詞と一類をなして、用言であると認められたことは同じである。国語に於いては、以上のやうに、語の機能的関係からではなく、全く語そのものの持つ性質上から分類されたものである。このやうに、adjective と形容詞とは全く異なつた性質を持つた語として理解されたものであるにも拘はらず、これに形容詞といふ属性概念の表現を意味するやうな名称が与へられた結果、国語の文法操作の上(53)に、少からぬ混乱を招いたことは事実である。その一は、
 
  イ 美しい〔三字傍線〕鳥
  ロ 飛ぶ〔二字傍線〕鳥
 
 イの美しい〔三字傍線〕が形容詞と呼ばれるならば、ロの飛ぶ〔二字傍線〕も当然形容詞と呼ばれなければならないのではないかと云ふ疑問である。事実英語に於いて、a flyingb〔六字傍線〕 bid の傍線の語は、participial adjective と呼ばれて、形容詞として取扱はれてゐるのである。国語に於いては、更に進んで以上のやうな形容詞、動詞の連体形を、形容詞的修飾語などと呼ばれることがあるが、かうなると、もはや用言の一類としての形容詞の名義を逸脱して、英語に於ける attributive の概念そのままで用ゐたことになる。これは甚しい概念の混乱であつて、国語の形容詞の本質的性格を確認するためには、むしろ、形容詞の名称を避けて、用言の名称に立帰る必要があるのである。そして、この形容詞の名称は、近時学者によつて指摘されるやうになつた特別の語、即ち連体修飾語にのみ用ゐられる「或る」「あらゆる」「件の」等の語のために保留して置くことが望ましいのではないかと思ふ。形容詞の原義は、文の成分としての意味を含めてゐるのであるから、このやうにして保留された形容詞の名義の中には、時に一切の達体修飾語として用ゐられた語を含めて云ふことが出来るのである。本書では、暫く従来の慣用(54)に従ふこととしたので、英語等に於ける adjective の概念は、形容詞よりも、近頃使はれるやうになつた連体詞に相当するものと考へてほしいのである。
 
 二 助動詞
 この品詞名も今日広く行はれてゐるものであるが、その起源はやはり英文法などの auxiliary verb に発してゐるものである。大槻文彦博士の『広日本文典』には次のやうに説明してある。
 
  助動詞ハ、動詞ノ活用ノ、其意ヲ尽サヾルヲ助ケムガ為ニ、其下ニ付キテ、更ニ種々ノ意義ヲ添フル語ナリ。
 
 これは全く、英文法などの概念に従つて、動詞の意義を補助するものと考へたのであるが、今日、助動詞として取扱はれてゐる大部分の語は、古く、「てにをは」「てには」「辞」などの名称によつて取扱はれて来たもので、それは、決して、動詞に種々の意義を添へるものとして、考へられたものではなかつた。むしろ今日の助詞と一括して、助詞が活用のないてには〔三字傍点〕であるのに対して、これらの語は、活用のあるてには〔三字傍点〕と考へられたので、近世の国語学者は助詞に対して語辞体言(東條義門『活語指南』)、静辞(富樫廣蔭『詞の玉橋』)の名(55)称を用ゐ、いはゆる助動詞に対しては、語辞用言或は動辞の名称を用ゐた。ところが明治以後になつて、辞の中の活用あるものを、助動詞と概念して、助詞とは全く別のカテゴリーに所属させたために、これらの語の真義が全く忘れ去られてしまつた。てには〔三字傍点〕或は辞に属する語は、国語に於ける重要な語として、国語研究の中枢をなして来たのであるが、これらの語の真義が忘れ去られたといふことは、同時に、国語の真の性格が理解出来なくなつたことを意味するのである。『広日本文典』は既に述べたやうな見解であるから、助動詞を、動詞、形容詞の次に論じ、山田博士の『日本文法論』『日本文法学概論』は、助動詞といふ名称は用ゐられなかつたが、むしろ積極的に動詞の語尾として、動詞内部の構成部分のやうに取扱はれて、これを複語尾と名付けられた。助動詞が助詞と全く異質なものとして考へられたことは同じである。橋本進吉博士は、その文節論の立場から、文節構成に於ける助詞と助動詞との機能が同一であることを認められて、これを古来の名称である辞の名義に一括されたのであるが、それは専ら単独で文節を構成し得るもの、常に他の語に伴はれるものといふ語の分類原理に従つて、辞を附属する語として考へられ、助動詞をその中に所属させたので、古来の辞としての助動詞の真義を復活されたのではなかつた。
 本書では、助動詞の真義を古来のてには〔三字傍点〕研究の中に求めて、これを辞の一類としたのであるから、助動詞の名称そのものが、既に内容の実際を示さないことになる。そこで、もし適切な名称を求めるとするならば、動辞、活用あるてには〔三字傍点〕、動くてには〔三字傍点〕等の名称を選ぶのであ(56)るが、習慣を尊重して暫く助動詞の名称を存置することとした。
 代名詞の名称とその内容についても問題とすべきことが多いが、それについては、その項目の中で論ずる予定である。
 文節の名称も、橋本進吉博士の提唱以来、国定教科書などにも採用されるやうになつたが、このことについても問題があるので、文論中、「句と入子型構造」の中に附説することとした。
 
 (1) 明治三十一年三月、『復軒雑纂』に収む。
 (2) 富士谷成章の『装《よそひ》図』に於いては状《さま》といひ、鈴木※[月+良]の『』言語四種論』に於いては形状の詞といふ。
 
     六 用言の活用と五十音図及び現代かなづかい
 
 五十音図はもと梵語学の影響の下に作られた国語の音韻表であるが、その組織がよく国語の音韻、語法の性質を反映してゐたがために、近世になつてから、国語の現象、特に用言の活用研究に利用されるやうになつた。動詞、形容詞の分類も、全くその活用と五十音図との関係から出て居り、特に動詞の活用の種類は、全く五十音図の行と段とに配当されて、何行何段と呼ばれるやうになつて居る。そこで五十音図の性質を明かにして置くことは、活用研(57)究の真意を理解する上からも大切なことであらうと思ふのである。
 近世以来、五十音図が国語の活用現象をよく説明するところから、五十音図は国語学上、動かすことの出来ない鉄則のやうに考へられ、近世末期に至つては、五十音図を神秘化する思想まで生まれるに至つたが、元来、五十音図は国語の音韻、語法現象の観察から帰納されたもので、これを絶対視すべきものではないのである。かつ、五十音図は、国語の音韻が或る程度崩壊した時代に成立したもので、その成立の年代は、凡そ平安時代前期と推定されてゐるのである。しかし、この音図が仮名で書かれるやうになつてから、既に消滅したア行ヤ行のエの区別は、この五十音の中に現はれて来なくなつた。そのやうな次第であるから、もしこのやうな音韻表が、奈良時代或はそれ以前に作られたとしたならば、その組織はよほど変つたものであつたらうと想像されるのである。更に中世、近世に至つては、国語の音韻は五十音図成立時代よりも更に減少したのであるから、今日このやうな音韻表を作るとするならば、それはまた五十音図とは相違したものが出来るであらうと云ふことは想像に難くない。このやうに、五十音図は、相対的価値において見られねばならないのである。ただ近世国語学の扱つた国語資料と五十音図成立の年代とが、それほど隔つてゐなかつたことが、五十音図の利用を有利に、また効果的にしたのである。もし上代国語を、その厳密な音韻体系において整理しようとするならば、時代を異にして成立した五十音図の利用は恐らく困難であつたらうと想像されるのである。同様の理由を以て、後代の国語を、その音韻に即して整(58)理する場合には、当然後代国語の音韻体系に基づいた音韻表によつて整理し、組織しなければならないのであるが、近世国語学者の活用研究は、活用をその音韻によらず、専ら文字によつて組織したために、五十音図の利用は効果的であつたのである。活用について、ハ行四段活用などと云はれてゐるのは、その音韻に即して云はれてゐるのではなく、ハ行音の文字に即して云はれることで、音韻に即して云ふならば、当然ワ行何段と云はれなければならないのである。
 国語を純然たる表音主義によつて記載しようとする場合には、まづ現代国語の音韻体系に基づく音韻表が作られることが何よりも大切なことである。国語の活用現象もそれによつて組織されることになるのである。
 「現代かなづかい」は、その根本方針として、国語の表音主義を採用してゐるのであるが、同時に、音韻とは関係のない文字の使用を規定してゐるので、「現代かなづかい」による国語表記の基礎となる音韻表は、音韻体系と文字体系との両者をにらみ合はせてこれを制定しなければならない。旧来の五十音図を保存し、その上に立つて「現代かなづかい」による国語の文法体系を説明しようとするのは甚しい矛盾であり、また国語を混乱させる原因となるものである。
 今試みに現代語の音韻文字表を作製して見ると別表のやうになる(次頁参照)。
(59) 五十音図による音韻と文字との対照表〔省略〕
(60) 表の解説
 一 表に於いて、片仮名は音韻を表はし、平仮名は、その音韻に相当する文字を示したものである。従つて、右の表は、根本に於いて国語の音韻表であるといふことが出来る。従来の五十音図は、音韻表でもあり、また仮名表でもあつて、その区別が明かでなかつた。
 二 〔ア〕〔ワ〕〔ヤ〕三行の音は、これを母韻と認めて、表の先頭に掲げることとした。この三行は、〔イ〕段に於いては、すべて〔イ〕音に統合され、〔ウ〕段に於いては、〔ア〕〔ワ〕行は〔ウ〕音に統合され、〔エ〕段に於いては、すべて〔エ〕音に統合され、〔オ〕段に於いては、〔ア〕〔ワ〕行は〔オ〕音に統合されてゐる。
 三 右のやうに整理することによつて、〔ア〕行と〔ワ〕行との相違は、単に〔ア〕段に於いて、相違があるのみとなつた。
 四 〔ア〕〔ワ〕〔ヤ〕三行の音は母韻であるから、〔カ〕行以下の音は、すべて拗音であることも許されるのである。例へば、〔カ〕は、〔キヤ〕或は〔クヮ〕として認められるのである。
 五 音韻に相当する仮名は、歴史的仮名づかひの場合を上段に、現代かなづかいの場合を下段に置いて示した。
 表について見れば明かなやうに、歴史的かなづかひに於いては、ワ音に対して「わ」(61)「は」二文字が当てられ、イ音に対して「い」「ひ」「ゐ」三文字が当てられてゐる。この複雑性を除く「現代かな名づかい」の方針に従へば、ワ音に対しては専ら「わ」字を用ゐ、助詞のワ音に対してのみ「は」を用ゐることとし、イ音に対しては、「い」を用ゐて「ゐ」「ひ」を用ゐない。ウ音に対しては「う」、エ音に対しては、「え」を用ゐ、助詞のエ音に対してだけ「へ」を用ゐることとし、オ音に対しては「お」を用ゐ、助詞のオ音に対してだけ「を」を用ゐることとしてゐる。音韻と文字との関係をどのやうにするかといふことは、仮名づかひ問題の論の分かれるところであるが、表音主義を徹底させる立場をとるかぎり、助詞の〔ワ〕〔オ〕〔エ〕の音に対して、「は」「を」「へ」を用ゐるといふ規定は矛盾である。もし、歴史的仮名づかひの訂正によつて新仮名づかひを制定する方針をとるならば、この表に於ける音韻と文字との関係を訂正して行けばよろしい。例へば、イ音はすべて「い」と書き、動詞の語尾の「ひ」だけを保存するといふことになれば、イ音に対しては、「い」「ひ」の文字が残ることとなる。現代かなづかいに即して云ふならば、ハ行四段活用はワ行四段活用となり、次のやうに活用する。
 
 思う  −わ −い −う −え
 
 問題は意志の表現「思はう」(現代かなづかいは、「思おう」と書く)の処理である。この(62)処理には二の方法が考へられる(動詞活用形の項参照)。一は、表記そのものに即して「思お」を活用形とすることである。さうすれば、この動詞の語尾は、オ段にも活用するので、ワ行五段活用の動詞であるといふことになる。この方法は、「書いて」といふ助詞接続から、「書い」を一の活用形と認める方法と一致するのである。ところが、このやうな処理方法には、一の難点がある。「おもおう」といふ記載は、「おもお」と「う」の結合ではなく、「う」は長音の記号であるから、或は「おもお−」と記載してもよい訳である。さうなると、「お−」を「お」と「−」とに分析して、「おもお」を一の活用形とすることが困難になるのである。表音的記載法は、どこまでも音声現象の記載であるから、その記載が常に必しも文法的事実をそこに反映してゐるとは限らない。あたかも、美的鑑賞の立場から、或ひは生活に便利であるといふ立場から仕立てられた衣服が、人間の五体の生理的状況を反映してゐないのと同じである。かくて、動詞と意志表現との結合した「おもおう」といふ語句から、記載のままに活用形を抽出することは困難なのである。
 次に第二の方法は、「書いて」の「書い」を一個の別の活用形と立てずに、連用形の音便とする方法である。この場合には、記載法は問題にならない。文法的事実を、言語の音声現象の奥にひそむ法則の体系と考へて、助詞「て」の一般的接続関係を求めるならば、それは連用形に接続するものであることが分かる。して見れば、「書いて」の「書い」も連用形でなければならない。「書く」の連用形「書き」が「書い」となるのは音便現象としてさうな(63)るに過ぎないのである。このことは、単に観念的にさう云はれるばかりでなく、歴史的事実からもそのやうに云はれるのである。動詞につく意志の表現は、「見よう」「承けよう」のやうに動詞の未然形に附くものであることは、他の動詞の場合からも、また歴史的にも、証明することが出来るといふことになれば、「おもおう」といふ表現は、動詞「思う」の未然形「思わ」に「よう」に相当する意志の助動詞「x」が附いたものと見ることが出来るのである。この「x」は、歴史的に潮れば、「う」或は「む」であるから、このやうな助動詞と「思う」との結合が、音便的になり、それを「おもおう」と記載するのであると説明しなければならない。ただこの場合注意しなければならないことは、「おもおう」の「う」は長音記号であつて助動詞ではないが、歴史的仮名づかひにおける助動詞「う」の類推から、これをも助動詞と誤認する錯覚に陥ることである。厳密に云ふならば、口語四段活用に接続する意志を表はす助動詞は、それがどのやうな語であるかは抽出することが出来ないのであつて、ただ歴史的に従来これを「う」として取扱つて来たに過ぎない。この「う」と現代かなづかいの長音符号「う」を混同してはならないのである。そこで現代かなづかいに基づく動詞の接続には次の注意書を加へる必要がある。
 
 四段活用の未然形に意志を表わす助動詞が附いた場合はこれを次のように記す。
 書か−意志の助動詞…………書こう
(64) 買わ−意志の助動詞…………買おう
           (この三行は「現代かなづかい」による)
 
(65)   第二章 語論
 
     一 総説
 
 イ 言語に於ける単位としての語
 総論に於いて述べたやうに、本書に於いては、語を文及び文章とともに、言語に於ける単位的なものと考へ、文法学の第一部門と立てたのであるが、語を単位として認定することの根拠は、語は、言語の観察、帰納によつて求められるものでなく、言語主体の意識に於いて、既に単位的なものとして存在してゐるといふ考へに導かれたものである。
 語を単位として認定することに関しては、右に述べたこととは、全く異なつた考方が存在してゐる。その一は、語と文とはいづれが具体的な言語単位であるかといふ問題に対して、語を以て思想表現の材料、資材であると見る考方である。これについて、山田孝雄博士は次のやうに述べて居られる。
 
(66)  文法研究の直接の対象は言語にありといふ、その研究の基礎とすべきは言語の如何なる部分なるかといふことなり。これにつきては普通には単語を以て研究の基礎とすといはるるが、しかも近時は往々文法研究の唯一の具体的単位は文なりと主張せるものありて、これらの論者は世に語といふものは後に文より抽出したるものなりと説くなり。この説は頗る勢力あるやうになれりと見ゆ。この二様の見解はいづれを正しとすべきか。先づこれを決せざるべからざるなり(1)。
 
とし、この疑問を次のやうに解決しようとされた。
 
  語といふは思想の発表の材料として見ての名目にして、文といふは思想その事としての名目なり(2)。
 
 この考方は、材料とその運用の関係に於いて、語と文との相違を見ようとしたもので、ソシュールが「ラング」と「パロル」の二を対立させたのと極めて近いといふことが出来るであらう(3)。
 本書の基調とする言語過程観に従ふならば、語は思想表現の材料ではなく、語それ自身、思想の表現と見なければならない。問題は、同じく思想の表現である文と、統一体としての(67)単位の性質にどのやうな相違があるかといふことでなければならない。
 語に対する考方の第二は、語は文の分析によつて得られる究極的な単位であるとする考方で、そこには、学問的な分析作業が前提とされてゐることは明かである。
 
  単語とは語として分解の極に達したる単位にして、ある観念を表明して談話文章の構造の直接の材料たるものなり(4)。
 
とあるのはその一例である。
 その第三は、単語を以て、文節から帰納、抽出されたものであるとする考方で、この場合でも、語は学問的操作の結論として見出せるものと考へられてゐるのである。
 
  実際に物を言う場合には、文節以上に短く句切って発音することはない。ところで、このような文節を数多く並べてみると、共通した部分を持っているもののあることがわかる。
   桜が 咲く。
   桜を 植える。
   見渡す 限り 桜です。
(68)この三つの文における「桜が」「桜を」「桜です」という文節を比べてみると、「桜」という部分が共通している。この共通している部分が、単語といわれるものである(5)。
 
 以上いづれの考方に従つても、単語は、言語の主体的意識に於いて存在してゐるものではなく、言語に対して、何等かの学問的操作を施した結果、得られた結論であるとするのである。これは、先に述べた単語を以て言語主体の意識に於いて、既に単位として存在するものとする考方と甚しく相違するものであるが、単語が分解或は帰納的操作の結論でないことは、主体的立場に於いて単語を指示することが、極めて自然に出来ることによつても明かである。例へば、
 
 私の好きな学科は、国語と数学です。
 
といふやうな思想表現に於いて、これを句切つて発音すれば、
 
 私の 好きな 学科は、国語と 数学です。
 
のやうになり、「これ以上句切って発音すると、実際の言葉としては、聞いておかしく感じ(69)られたり、わからなくなったりする(6)。」といふところから、このやうな句切れを文節と称し、文の単位と考へる考方もあるが、右の表現に於いても、「私」「好き」「学科」「国語」「数学」といふやうな語が、それ自身統一体としての単位として意識されないとは云ふことは出来ない。英語の my 或はラテン語の属格の mensae から、無格の「私」「テーブル」に相当する語を考へるといふことは、主体的意識に於いては、恐らく困難なことであらうが、国語に於いては、むしろ、「私」「テーブル」といふ語を独立した単位と考へるのは容易である。
 語が、言語の分析或は帰納的操作の結論でないことは、従来の文法書が、極めて無造作に語論から出発してゐることからも云はれることであり、また辞書に於ける語の排列から見ても、語が主体的立場に於いて、極めて自然に認定されるものであることは明かである。
 
 (1) 『日本文法学概論』 一九頁
 (2) 同上書 二〇頁
 (3) 小林英夫訳、ソシュール著『言語学原論』序説第四章「言語の言語学と言の言語学」
 (4) 山田孝雄『改訂版日本文法講義』 九頁
 (5) 文部省『中等文法』(口語) 四頁
 (6) 文部省『中等文法』(口語) 三頁
 
(70) ロ 語の構造
 語は、文及び文章とともに、言語に於ける単位として、既に主体的立場に於いて認定されて居るものであることは、前に述べて来た。語、文及び文章は、その関係を外形的に見れば、文は語の結合されたものであり、文章は文の集積したものであると考へられ、従来も多くそのやうに説明されて来た。この考方は、一切のものを、その究極的単位から説明しようとする自然科学的原子論的考方の類推に基づくものであることは既に述べた。本書に於いて単位としてとられた語、文及び文章は、そのやうな原子論的単位ではなく、それ自身一の統一体としての性質を備へたところの単位であることを注意しなければならない。従つて問題は、語、文及び文章が、統一体としての性質上、どのやうな点に相違があるかといふことが追求されなければならないのである。語、文及び文章は、それが言語であるからには、言語主体がその思想内容を音声或は文字によつて外部に表出する精神、生理的過程であることに於いて共通してゐることは明かである。もしそこに何等かの質的相違があるとするならば、これらの単位の表現としての構造の上に相違があると考へなければならない。以下、語がその構造上、文及び文章とどのやうな点に相違があるかを考へることにする。 語の構造がどのやうなものであるかを、結論的に云ふならば、語は思想内容の一回過程によつて成立する言語表現であるといふことが出来る。例へば、一輪の椿の花をとつて、これを〔ハナ〕といふ音声を以て表現するならば、これは、〔ハ〕といふ音声で花の或る部分を(71)表はし、〔ナ〕といふ音声で花の他の部分を表はしたのではなく、〔ハナ〕といふ音声の結合を以て花を表はしたのであるから、これを一回過程の表現といふのである。即ちこのやうな表現過程を一語といふのである。もしこの場合、同じ花を指して〔ツバキノハナ〕といふならば、それは、〔ツバキ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三回過程をとつた表現であるから、これを一語であるとすることは出来ないのである。この場合、表現される事物は前の場合と全く同じであるから、一語か否かの決定には、表現される事物の単複は、全く関係しないといふことがわかるのである。またこの場合、表現の媒材となる音声の単複といふことも、この語の単複とは関係がない。〔ツバキ〕は三音節から成つてゐるが、語としては一語である。
 以上述べるところによつて、一語と云はれるものの構造上の性質が明かにされたと思ふのであるが、なほ次のやうな場合をどのやうに説明すべきかといふ問題が起こると思ふのである。十字科〔十字花科。アブラナ科の旧称〕に属して「あぶらな」と云はれてゐる植物をとつて、これを〔ナノハナ〕と云つた場合、この構造は、前の「つばきのはな」と同一でないことが分る。「つばきのはな」は、一個の花が何に属するものであるかの説明であるのに対して、「なのはな」は、花そのものを云ひ表はすところの一回過程の表現であることが分る。ところが、この「なのはな」は、「花」を〔ハナ〕と云ふ場合の一回過程とは幾分の相違が認められる。それは、「なのはな」が一回過程の表現でありながら、その中になほ観念の分析と、それに対応する〔ナ〕〔ノ〕〔ハナ〕といふ三回の過程を包含してゐることであ(72)る。即ちそれは三語を含むところの一語であつて、これを図解すれば次のやうになる。
 
 イ A……>a       「はな」の場合
 
      B……c
 ロ A        bc 「なのはな」の場合
      C……c
 
 ABCはそれぞれ語によつて表現される事物或は思想を意味し、abcがそれに対応する音声を意味するならば、イの場合は、Aといふ思想が音声aによつて表現される一回過程の語の場合を示し、ロの場合は、同じAが、表現の過程に於いて、B及びCといふ思想に分裂し、その分裂した思想に対応する音声bcによつて最初のAを表現しようとするのである。
 
 一般にこのやうな構造を持つた語を複合語或は合成語と呼んでゐる。複合語或は合成語は、その表現過程に於いて複雑な経過をとつたものであるにしても、その結果に於いては一回過程の一語と全く同じである。その点、説明的意図を含むところの「つばきのはな」はこれを複合語或は合成語とは云ふことが出来ないのである。一の図形を「三角形」と云つた場(73)合、これを複合語であると云ふことが出来るが、同じ図形を「三辺によつて囲まれた図形」と云つた場合は、これを複合語とは云ふことは出来ない。
 以上述べて来た語の定義に於いて、二の重要な点が観取されるであらう。その一は、一語の決定は、その語によつて表現される事物或は思想そのものの単複によらないといふことである。「はな」といふ語によつて表現される事物は、これを客観的に見れば、かべん、ずい、がく等の構成体であつても、「はな」といふ語は一語である。何となれば、その表現過程が一回に過ぎないからである。「社会」「デパート」「さとり(悟)」等によつて表現される事物、事柄の内容が如何に複雑であつてもこれらは皆一語である。
 その二は、語の単複の決定は、その語の表現主体の意識によつて決定されるといふことである。「さかな」といふ語は、「酒」「菜」の複合であると云つても、現代人の意識に於いては、もはやこのやうな思想の分裂は意識されてゐない。従つて、現代語としてはこれを複合語とは云ふことが出来ないのである。
 以上述べたことは、言語過程観に立つた語に対する考方であつて、従来行はれて来た言語構成観による語の説明とは根本的に異なるものである。構成観に従ふならば、言語は思想と音声との結合体であると考へるところから、語の単複を、言語の思想の単複によつて決定しようとするのであるが、それが困難であることは既に述べた通りである。また構成観によれば、語は、言語主体と何のかかはりもないのであるから、これについて単語、複合語の別を(74)決定することも出来ないのである。語源学者から云へば複合語であると云はれるものが、一般には単語と考へられて居つて、その類別についての明確な基準を求めることが出来ないこととなる。
 言語過程説は、以上のやうな困難な点を克服して、語の単複の決定を、その過程の上に求め、かつ表現者の主体的意識に基づくこととしたのである。
 単位としての語と、単位としての文の構造上の相違は、文論に於いてこれを明かにするであらう。
 
 ハ 語の認定
 ある語が一語であつて二語でないと云はれる根拠は、その過程的構造にあることは前項に於いてこれを明かにした。単位としての語は、本来主体的意識として成立するので、学問的な帰納、分析の操作によつてはじめて求められるものでないこともこれを明かにしたのであるが、このやうな語の認定に関しては、なほ多くの困難な問題が潜んでゐる。「山」「川」「犬」「猫」等が一語として認定され、かつそれが主体的意識に於いて存在するものであることについては、恐らく問題が無いであらう。ところが、今日一般に行はれてゐる文法書に於いては、「静かだ」「ほがらかだ」「綺麗だ」を一語と認めてこれを形容動詞と称してゐる。その根拠は、「静か」「ほがらか」「綺麗」等は、それだけで独立して用ゐられることなく、(75)常に「だ」と結合して用ゐられるからであるとするのである。しかしながら、最も素朴な主体的意識に於いても、「静か」「ほがらか」「綺麗」を一の統一体として意識することは決して困難ではない.現に、辞書は、「静か」を以て一語として掲げて居つて、「静かだ」を掲げてゐないのは、それが自然な一語としての認定に基づくがためである。かつ、「静かだ」といふ時は、概念の表現と同時に、それとは全く性質の異なる陳述の表現がこれに加はり、それが「だ」によつて表現されてゐるといふ自然意識が存在してゐることは事実であらう。このやうな見地から、「静か」を一語と認め、同時に「だ」もまた一語と認めることの出来る根拠があるのである。同様にして、「行けば」「咲かない」等に於ける「行け」「咲か」はそれだけで独立して用ゐられることなく、常に「ば」「ない」等と結合して用ゐられるにもかかはらず、「行け」「咲か」を一語と認めることが出来るのである。このやうに、語の認定が主体的意識にあるといふことは、言語主体が、「これは一語である」といふ自覚に於いて用ゐられてゐるが故に一語と認定するのでなく、語の運用に於いて認められる無自覚的な意識に於いて云ふのである。文法学は言語に於ける右のやうな潜在意識的なものを追求し、これを法則化するのである。ここに文法学がややもすれば観念的に、思弁的になる危険があるのであるが、ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれて来ない。
 
(76)     二 語の分類――詞と辞
 
 語はすべて同様な性質を持つものではなく、種々の点から同類を集め異類を分つことが出来る。このやうにして分類されたものを今日「品詞」と呼んでゐる。品詞の名称は外国文法学の翻訳から出たものであらうが、このやうな学問的作業は、外国語学をまつて始めて行はれたことではなく、古くは鎌倉時代に成立したと認められる『手爾葉《てには》大概抄』などで試みられてゐる「詞」と「てには」の分類の如きは、やはり語の品詞分類の一種である。品詞の名称は、語の種類別の意味であるから、オランダ文典輸入当時には、詞品、蘭語九品のやうに用ゐられて居つたものが、現在のやうに品詞となつたのは、恐らく、「九品の詞」「八品の詞」の省略形であつて、詞品の語の顛倒したものではないのであらう。従つて意味は、語の品定めであり、語の種類別であるから、語種、語類と云つても差支へない訳である。
 語の種類別であるから、その分類の根本的基準は語といふものの性質がどのやうなものであるかといふことに対する考方に基づくと同時に、また語の現象のしかたが諸言語によつて区々であるから、分類の方法も、実際に即して、それぞれの言語の性格から割出されて来なければならないのである。ここに外国語に於ける語の分類方法が、国語にそのまま適用することが出来ない理由があり、国語の分類には、国語に対する深い沈潜と洞察とが要求される(77)所以である。
 語の分類をするからには、何よりも先づ語そのものの性質がどのやうなものであるかの検討から入るのが正しい順序であらう。
 一の語を規定するものは、言語構成観に従へば、思想内容と音声形式との結合にあつた。この考へに従ふならば、一切の語は、思想内容と音声形式との結合であるから、その点に於いては語はすべて同一であると云はなければならないのである。そこで、従来、語を分類する基準をどのやうな点に求めたかと云ふならば、例へば、山田孝雄博士は、第一にその語が独立観念を持つか持たないかといふ点に分類の基準を求めようとされた。
 
  一切の単語は之を同の方面より見ればそが単語たるに於いて一致す。然れども吾人は其の中に異を求めてこれを分類せざるべからず。かくて、これを独立の観念の有無によりて区別すれば、一定の明かなる具象的観念を有し、その語一個にて場合によりて一の思想をあらはし得るものと然らざるものとあり。一は所謂観念語にして他は独立の具象的観念を有せざるものなり。この一語にて一の思想をあらはすことの絶対的に不可能なるものはかの弖尓乎波の類にして専ら観念語を助けてそれらにつきての関係を示すものなり。(中略)この故に、先づ単語を大別して観念語と関係語との二とす(1)。
 
(78) 即ち、山田博士は、これを具象的な独立観念の有無といふことで説明されようとするのであるが、てにをは〔四字傍点〕或は助詞といはれるものが、他の語に比較して具象的な独立観念を持たないかといふのに、必しもさうとは云へないのである。博士が、観念語と云はれるものの中にも、極めて抽象的な概念しかあらはさない「こと」「もの」のやうな語もあり、関係語の中にも、「か」「も」の如く疑問、強意の如き具象的な思想をあらはすものもあつて、独立観念といふ点で、この両者を截然と分つことは困難である。山田博士は、更に独立的に思想をあらはし得るものと、さうでないものとの別を以て説明されようとする。この分類基準は、橋本進吉博士もとられたところのものであつて、博士は語が文節を構成する手続きの上から、一はそれ自らで独立して文節を構成し得るもの、二は常に第一の語に伴つて文節を構成し得るものに二大別され、前者を詞、後者を辞と命名された(2)。しかしながら、語が独立して用ゐられるか否かといふことは、必しも絶対的なものでなく、語を分類する絶対的な条件とはすることが出来ないものである。例へば、用言の活用形、「行けば」の「行け」は、「ば」と結合してのみ用ゐられるものであつて、「行け」はそれだけで文節を構成するものとは考へられない。また「八百屋」「肉屋」の「屋」も、決してそれ自身独立して文節を構成するものとは考へられないにも拘はらず、「屋」を助詞の中に入れることはない。独立する語、附属する語の二大別は、国定の文法教科書に採用されて、広く普及するやうになつた分類基準であるが、それは語そのものの相違に基づいたものでなく、単に用法上の相違に基づいたもの(79)であるといふ点から見ても、語の分類基準とするには、既に理論的に薄弱であると云はなければならない。語の分類基準を、語そのものの性質の上に相違を見出すことが出来なかつたのは、語を構成的に見る言語構成観の当然の結論であつたのである。
 語の根本的性格を、表現過程に求めた言語過程観は、語の類別の根拠をも、当然その過程的構造形式に求めるのである。一切の語について、その思想の表現過程を検するのに、次のやうな二の重要な相違を見出すことが出来る。
 
 一 概念過程を含む形式
 二 概念過程を含まぬ形式
 
 一は、思想内容或は表現される事柄を、一旦客体化し、概念化した上でこれを音声、文字によつて表現するところのものである。人間を取りまく森羅万象は、これを表現する時、既にそれが客体化されて居るものであるから、これを表現するには、そこに客体化、概念化の作用を経過するのは当然である。「花が咲いた。」といつた場合の「花」といふ語は、目前の具体的な「花」をあらはすことに於いて、その花を客体化してゐると同時に、具体的な花そのものをあらはしてゐるのでなく、これを概念化して、花一般として表現してゐるのである。鈴木※[月+良]は、このやうな表現に於ける働きを、「さし顕はす」と呼んでゐるのである(3)。こ(80)の働きは Vorstellen(表象する)の作用に似てゐる。語の中のあるものは、このやうな作用を経て表現するところのものである。このやうな表現は、自然物の表現に於いては勿論であるが、主観的な情意に関することをも同様な手続きで表現することが出来る。「よろこび」「悲しみ」「要求」「懇願」等の語はこのやうにして出来るのである。
 語のあるものは、このやうにして、表現される事物を客体化するといふ作用を経て表現されるものであると同時に、それらが表現される事物の個々のものを個物として表現してゐるのでなく、これを概念化して、一般的なものとして表現するものであることも注意すべきことである。「花が咲いた。」と云つても、それは、我が家の具体的な桜或は椿をそのままに表現してゐるのではなく、これを「花」として一般化して表現してゐるのである。これを「桜が咲いた。」と表現した場合でも、具体的な桜を、桜一般として表現してゐるのである。語が常に概念しか表はすことが出来ないといふことは、言語の持つ宿命的な性質であつて、従つて個物をいくらかでも具体的に表現するために、「庭の桜」とか、「綺麗な桜」とか、種々な修飾語がこれに冠せられるのであるが、それらの修飾語といへども、それが概念的なものであることには変りはないのである。
 以上のやうな経過をとる表現に対して、よろこび、かなしみ等の主観的情意を、客体化せず、また概念化せず、そのまま直接に表現する語がある。その著しいものは、いはゆる感動詞であつて、「ああ」「おや」「まあ」「はい」「ねえ」等がこれに属する。鈴木※[月+良]脹は、「さし顕(81)はす」ところの語に対して、このやうな語を「心の声」と呼んでゐる(4)。心の直接的な表現で、客体化、概念化の作用を含まぬ意味であらうと思ふのである。現今文法書で説かれてゐる助詞、助動詞、接続詞、感動詞を大体これに入れることが出来るのである。この両者の区別は、例へば、「ああ」に対して「驚き」、「行かない」の「ない」に対して「否定」、「雨が降るだらう」の「だらう」に対して「推量」等の語を対比して内省して見るならば、自ら理解し得るであらうと思ふのであるが、「驚き」といふ語は、「ああ」によつて表現される感情内容を客体化し、概念化して表現したところのものである。
 このやうな語の類別は、国語に於いては、既に古く鎌倉時代から行はれた方法で、第一の形式をとつた語を詞〔右○〕(シ或はコトバ)といひ、第二の形式をとつた語を辞〔右○〕(ジ、或はテニハ、テニヲハ)といつて居つた。この両者の表現の相違を、古来種々な比喩を用ゐて説明してゐるのであるが、宣長は、表現全体を人間の衣服に譬へ、詞に属するものを布であるとし、辞に属するものを、布を縫ふ手或は技術に譬へてゐる。或は、詞を玉にたとへ、辞を、玉を貫く緒にたとへたりしてゐる。玉とこれを貫く緒によつて、装飾品が出来るのである。
 これらの比喩を通して我々が観取出来ることは、詞と辞とは、その表現であることに於いて共通してゐるのであるが、この両者の表現の間には次元の相違が存在してゐることが認められてゐることと、辞は常に言語主体の立場に属するものしか表現出来ないといふことである。次元の相違といふことは、詞が常に客体界を表現するのに対して、辞は、客体界に志向(82)する言語主体の感情、情緒、意志、欲求等を表はすことをいふのである。その関係は次のやうに図示することが出来る。
 左の図が示すやうに、C−Dの表現と、A−Bの表現とは、それぞれに独立したものでなく、相互に緊密な関係があるものである。このことは、文論に於いて詳細に論ずる予定であるが、既に宣長が云つたやうに、詞は布であり、辞はそれを縫ふ技術として相互に結付く関係にあり(6)、鈴木※[月+良]もまた「詞はてにをは〔四字傍点〕ならでは働かず、てにをはは詞ならではつく所なし(7)」と云つて、その関係について述べてゐるのである。
 語を構成的に見るかぎり、一切の語は、音声と思想との結合体に過ぎず、そこに語を分類する何等の差別をも見出し得ないのであるが、言語を表現過程と見ることによつて、ここに右に述べたやうな極めて著しい表現性の相違の存在することが認められるのである。この事実は、文法に於ける品詞分類の第一基準として、文法学に重大な変革をもたらすものでなければならないのである。 語に次元を異にした詞と辞の区別の存在することは、日本語特有の現象ではなく、凡そ言語といはれるものには、通有の事実と考へられるのであるが、日本語に於いて、この区別が、既に古く西紀第十三世紀頃に学者の注目するところとなつてゐたといふことは、日本語が、このやうな理
     B
  C      D
 
     A○  〔半円の上下にCDがあり半円中央の内側にBがる。そのBへ半円の中心部にあるA○から破線の矢印が伸びている。入力者注〕
 C−Dは客体界であり
 A−Bは言語主体の情意である
 
(83)論を導き出すに都合のよい構造をなしてゐたといふことが主要な原因であつたといへるのである。即ち、ヨーロッパの言語に於いては、詞的表現と辞的表現とが、屡々合体して一語として表現されるのに対して、日本語に於いては、この両者が多くの場合に別々の語として表現されてゐるために他ならないのである。例へば、ラテン語に於いては、国語に於ける格を表はす辞が、詞の中に融合して、語の変化といふ形式によつて表はされてゐる如きがそれである。ラテン語に於ける一語は、云はば国語に於ける詞と辞の合体したものに相当するものであると云へるのである。ヨーロッパ語に於いても、前置詞、接続詞の如きは、それ自身辞と考へることが出来る品詞である。
 
 (1) 『日本文法学概論』 八四頁
 (2) 『国語法要説』(橋本進吉樽士著作集 第二冊 五三頁)
 (3) 『言語四種論』
 (4) 同上書
 (5) 『詞の玉緒』総論
 (6) 同上書
 (7) 『言語四種論』
 
(84)     三 詞
 
 イ 総説
 詞は、「シ」「ことば」と呼ばれ、語の分類に於いて辞に対立するものであり、その一般的性質は、大体次のやうに要約することが出来る。
 一 表現される事物、事柄の客体的概念的表現である。
 二 主体に対立する客体化の表現である。
 三 主観的な感情、情緒でも、これを客体的に、概念的に表現することによつて詞になる。
 四 常に辞と結合して具体的な思想表現となる。
 五 辞によつて統一される客体界の表現であるから、文に於ける詞は、常に客体界の秩序である「格」を持つ。
 
 以下、詞の下位分類について述べることとする。
 
 ロ 体言と名詞
(85) 事物、事柄の客体的、概念的表現である詞を分つて、体言、用言とする。
 体言、用言の別は、詞が、他の語との接続関係に於いて、その語形式を変へないものを体言といひ、その語裔形式を変へるものを用言といふ。この分類法とその概念規定は、古来の方法とその命名法に従つたもので、国語の性質をよく反映してゐるものとして合理性が認められる。体言をはたらかぬ語、用言をはたらく語といふのも、語形変化の有無の点から云つたものである。
 体と用との意義については、今日学者の間に説が分れて居つて、語についてその思想の面を特に重視する山田孝雄博士は、体言といふ名称は、概念を表はす語の意義であつて、活用せぬ語を体言といふのは誤つてゐると詳細に述べて居られる(1)。博士の云はれるやうに、体用の名称は、その起源的意味に於いては、確かに、実体と作用の意味に用ゐられたものであらうが、それだからとて、国語学上に於ける体用の名称を、その起源的意味に解するのが正しいとは云へないのである。用言に語形変化があるといふことは、本来、体用の観念とは別に学者によつて注目されて居つたことで、それを音相通の現象として説明し、またそのやうな現象を、ひらく〔三字傍点〕とかはたらく〔四字傍点〕とか称し、それに対して語形変化のない語を、「ひらきなき語」とか、「はたらかぬ語」といふ風に呼んでゐた。たまたま体用といふ名称が連歌等に用ゐられて一般に普及して居つたので、この名称を国語上の現象に借用したので、ここで体用といふ名称は、国語学上では、語形変化をしない語、語形変化をする語の意味に用ゐられる(86)やうになつたのである。事実が先で、名称は後である。東條義門の如きは、語を先づ二大別し、体言の中に、活用のない辞、即ち今日云ふ助詞をも所属させ、用言の中に、活用のある辞、即ち助動詞をも所属させてゐるが、この分類法は、それまでの詞と辞の二大別に対して、活用するかしないかといふことを第一分類基準として特に強調したものと見ることが出来るのである。山田博士の文法体系は、語について、それが表はす概念内容の性質を特に重視された為に、体用の名称についても、これを言語的立場に於いて見ることを避けられたものと想像されるのであるが、既に述べたやうに、名称の起源的意味は、これらの名称が現実に使用されて来た実際とは距離のあるものであることを知る必要がある。
 さて、以上のやうに、語形変化をしない語を体言とする時、第一に問題になることは、「あめ」(雨)といふ語が「くも」(雲)といふ語と結合する時、「あま〔右○〕ぐも」となり、「ふね」が「ふな〔右○〕うた」となるやうな場合、「あめ」「ふね」は語形変化をする故、体言でなく用言とすべきであるかといふ疑問が提出されるのであるが、これらは、複合語を構成する場合に起こる一時的な音声現象に過ぎないのであるから、これを文法的な語形変化といふことは出来ない。従つて、「あめ」「ふね」のやうな語は用言でなく体言と見なければならないのである。これに反して、用言と云はれる語は、他の語に接続する場合、一様に、また規則的に語形を変化するところの語である。
 以上のやうに、体言の名称は、語の形式に基づくものであつて、その意義に間係しない。
(87) これをヨーロッパ諸国語に於ける nown 或は substantive の名称と比較するならば、後者が実在に対する名称の意義に用ゐられて居つて、むしろ表現される事柄に即した名称であることに於いて、山田博士のいはゆる起源的意味に於ける体の名義に近いといふことが出来るであらう。国語に於ける体言の中に、比較的自由に主語、述語、修飾語になることの出来るものを名詞と称するならば、それは noun 或は substantive の訳語としての名詞に近づくであらう。自由に主語、述語、修飾語になることが出来る体言とは、ほぼ明瞭にその実在を指摘し、また考へることが出来るやうな語である。本書に於いては、体言の中、このやうな語を便宜、名詞と呼ぶことにする。名詞といふ品詞名は本来国語学に於いて発生したものでなく、外国語学の名称を借用したまでのものであるから、どこまでも便宜的のものであつて、体言の中、どこまでを名詞とするかの明瞭な一線を劃することは勿論困難である。
 体言の中、「山」「川」「犬」「猫」「正直」「親切」「ゆとり」「あはれ」等は名詞と名づけるに相応しいものであるが、体言の中には、次のやうな、いはゆる名詞の中に入れるには相応しくないものがあることを注意しなければならない。
 
 一 いはゆる形容動詞の語幹と云はれてゐるもの
  暖か のどか はで 綺麗 丁寧 厳重 急 批判的
 二 形容詞の語幹
(88) あま(甘) から(辛) ひろ(広) ちか(近)
 三 いはゆる形式名詞
  知らない筈〔傍線〕がない。
  大きいの〔傍線〕がいい。
  おいで下さる由〔傍線〕。
  出かけるつもり〔三字傍線〕です。
 四 接尾語の中、活用のないもの
  赤さ〔傍線〕 つよみ〔傍線〕 私たち〔二字傍線〕 帰りしな〔二字傍線〕
 五 漢語の中、語の構成に用ゐられるもの
  旅館〔傍線〕 図書館〔傍線〕 映画館〔傍線〕
  商人〔傍線〕 役人〔傍線〕 小作人〔傍線〕
  平和的〔傍線〕 国際的〔傍線〕 立体的〔傍線〕
  駅長〔傍線〕 事務長〔傍線〕(長は独立しても用ゐられる)
 六 接頭語
  お〔傍線〕写真 御〔傍線〕夫婦 玉〔傍線〕音
 
 本書に於いては、右のやうに、名詞とするにはふさはしくないが、或る観念を表現し、か(89)つ語形変化をしないものを体言とした。
 
 (1)『国語学史要』第九項、『日本文法学概論』第六章
 
 ハ 代名詞(一)
 代名詞の名称は、オランダ文法などからの直訳によつて出来た品詞名であることは云ふまでもないのであるが、今日、英文法などでも、この名称が、その内容を適切に云ひ表はしてゐるかどうかといふことについては、学者の間に問題があるのであつて、我々が国語について考へるに当つても、この名称を一往離れて、事実そのものに即して考へて行くことが必要であらうと思ふ。
 一般に代名詞の代表的なものとして挙げられてゐるものに、人称代名詞がある。即ち、第一人称に属するものに、私(わたくし、わたし)、僕、俺等があり、第二人称に属するものに、あなた、君、おまへ等があり、第三人称に属するものに、あのかた、彼、あいつ等がある。これらの語は、語形が変化しない点から云つて、体言に属することは明かであると同時に、明瞭な個体的事物を表現することに於いて、名詞と同様に見ることも出来るのである。ところで、これらの語が、何故に、文法上一般の名詞とは別に、代名詞として取扱はれて来たのであらうか。これが先づ考へるべき重要な点である。一般に名詞は、具象的と抽象的と(90)の別にかかはりなく、事物の概念を表現するものである。「商人」といふ語も、「人」といふ語も、ともに名詞であることは明かである。既に挙げたところの人称代名詞は、それが何等かの人を表現するものであることに於いて名詞「商人」或は「人」と共通して居るのであるが、これらの名詞と異なるところは、人称代名詞は、常に言語主体即ち話手と事物との関係を表現する場合にのみ用ゐられる語であるといふことである。対人関係を表現する語には、「親」とか「兄」とか「先生」等の語があるが、これらの語は、必しも話手との関係の表現にだけ用ゐられるといふものではない。聞手との関係に於いても、第三者との関係に於いても、「親を大切になさい。」といふ風に用ゐられる。ところが、「君は行きますか。」といふ場合の「君」は、必ず話手に対して聞手の関係に立つものに対してのみ用ゐられるのである。第一人称の代名詞は、話手が自分自身を話手といふ関係に於いて表現する時にのみ用ゐられ、第二人称の代名詞は、話手が他者を聞手としての関係に於いて表現する時にのみ用ゐられ、第三人称の代名詞は、話手が他者を話題の事物としての関係に於いて表現する時にのみ用ゐられるのである。従つてどのやうな職業、階級に属する人でも、人そのものの概念内容に関せず、話手との関係によつて、「私」となり、「あなた」となり、「彼」となるのである。このやうに見て来るならば、人称代名詞の特質は、話手との関係概念を表現するところにあると云ふことが出来る。ここに繰返して注意すべきことは、話手との関係といふことであつて、話手との関係といふことは、その人が聞手であるか、話題の人物であるか、或は話(91)手自身であるかといふこと以外には無いのである。代名詞の特質を、以上のやうに、話手との関係概念の表現といふことに求めるならば、そのやうな関係に置かれるものが人であるか物であるかといふことは、代名詞の本質を左右するものではない。そこで、そのやうな閑係にあるものが、事物、場所、方角である場合には、これを指示代名詞といふ。事物、場所、方角等は、話手との関係に於いて、話手となつたり、聞手となつたりすることは、擬人的用法以外には考へられないから、それは常に第三人称の立場に立つのである。人称代名詞が、話手との関係概念を表現すると同時に、そのやうな関係に立つ「人」そのものをも含めて表現するやうに、指示代名詞もまたそのやうな関係に立つ「物」を同時に含めて表現する。「これ」「そこ」「あちら」等がそれである。
 代名詞と云はれる語が、事物の概念を表現するのでなく、常に話手と聞手、話手と表現内容との関係を表現するものであるために、進んで、話手と表現内容との関係の表現にも次のやうな差別の表現が考へられてゐる。即ち、表現内容が、話手に近い関係にあるか、聞手に近い関係にあるか、或は両者に対して第三者的関係にあるか、或は不定であるか、の識別の表現である。例へば、表現内容になつてゐる人物や事物について、「こいつ」「そいつ」「あいつ」「どいつ」といふ語が対立するのはそれである。場所や方角についても同様に、「ここ」「そこ」「あそこ」「どこ」、或は 「こちら」「そちら」「あちら」「どちら」などと区別するのである。一般に代名詞に於ける近称、中称、遠称、不定称などと云はれる事実で、この(92)関係の識別の表現は、国語に於いては、諸外国語に比して著しい持色をなしてゐる事実である(1)。これらの代名詞に於いて、関係概念を表現する中心的部分が、「こ」「そ」「あ」「ど」であるところから、佐久間博士は、代名詞の体系をコソアドの体系として把握して居られることは注意すべきことである。このやうに、代名詞と云はれてゐる語は、すべて話手との関係を規定し表現するところに特色があるので、その点に於いて一般の体言或は名詞と明かに区別せられなければならないものなのである。これらの語の特色は、話手の属性的概念の表現にあるのでなく、全く話手との関係概念の表現にあるので、文法研究に於いて、話手が考慮されねばならない一つの事例といふことが出来るのである。
 以上述べて来た代名詞は、話手との関係概念を表現すると同時に、その関係に置かれた事物の概念をも含めた表現であるが故に、これらを体言或は名詞に対応させて体言的或は名詞的代名詞と云つてもよい訳である(noun pronoun)。
 次に、左の文について見るに、
 
 この絵は立派な絵ですね。この作者は誰ですか。
 
 ここに用ゐられてゐる「この」といふ語は、「庭の桜」「川の水」等に於ける「庭の」「川の」等が、或る事物的概念を表現して、「桜」或は「水」の修飾語になつてゐるのと相違し(93)て、話手と事物との関係概念を表現して、「絵」或は「作者」の修飾語になつてゐる点で、既に述べて来た代名詞の性質に共通してゐるものである。従つてこれらの語は、本質的には右の代名詞の範疇に所属せしむべきものなのである。ただ既に述べて来た体言的或は名詞的代名詞と異なるところは、「この」の「こ」が、話手と事物との閑係概念だけを表現して、そのやうな関係にある物〔傍点〕を含めてゐないといふことである。代名詞の基本的形式は、このやうな関係概念だけを表現すべきものであるかも分らないのである。事物をも含めるといふことは、代名詞と名詞との複合語と認むべきものなのである。事実、「このかた」は、「話手とこ〔傍点〕のやうな関係にある方」の意味で、「こ」だけが純粋の代名詞と認めることも出来るのである。「ここ」は「こ〔傍点〕処」の意味であることも一般に知られてゐることである。前の例文に於いて、「この絵」の「こ」が、純粋の関係概念の表現であることは以上の如くであるが、同じ例文中の「この作者」の場合の「こ」は少しく異なり、話手と作者との関係を云つたものではなく、この話手とこの絵との関係概念と同時に、その関係に置かれた事物即ちここでは、「絵」をも含めて表現してゐるものであることは明かである。して見れば、この第二の場合は、既に述べて来た名詞的代名詞の例に入れるべきものである。
 
 御意見は結構ですが、そ〔傍線〕の具体案を示して下さい。
 いつか承つた事件、あ〔傍線〕の結末はどうなりましたか。
 
(94) 右の「そ」「あ」は共に「その御意見」「あの事件」の意味に用ゐられたものである。
 右のやうな「この」「その」「あの」「どの」等については、「こ」「そ」「あ」「ど」が分離して他の助詞に結合して用ゐられることなく、常に「の」とのみ結合して連体修飾語に用ゐられることから、これを一語と見るべきであるといふ説があり、これを連体詞に所属させる考方があるが、既に述べたやうに、これらの語は、話手との関係概念を表現する点から、代名詞以外の品詞に所属させることは、理論上からも実際上からも当を得たことではない。ただし、人称代名詞、指示代名詞が名詞に対応するところから、これを名詞的代名詞と名づけたと同様に、「この」「その」等を連体詞的代名詞と名づけることは許されるであらう。
 以上のやうな理由で、次のやうな語もこれに所属させることが出来る。
 
 こんな そんな あんな どんな
 
 形容詞といふ名称を、もし連体修飾語として用ゐられる語の名称に保留することが出来るならば、これらの語に形容詞的代名詞の名称を用ゐることが最も適当してゐる。
 連体修飾語的代名詞に対して、次のやうな例が見られる。
(95) かう、こんなに
かう〔二字傍線〕忙しくてはやり切れない。  こんなに〔四字傍線〕も考へられます
 あう、そんなに
  さう〔二字傍線〕忙しくては本も読めないでせう。 そんなに〔四字傍線〕考へて下されば助かります。
 ああ、あんなに
  ああ〔二字傍線〕忙しくては体に悪いのではないのですか。 あんなに〔四字傍線〕云つてゐるのですから、何 とかするつもりでせう。
 どう、どんなに
  どう〔二字傍線〕するつもりなのですか。 どんなに〔四字傍線〕考へて見ても駄目です。
 
 右のやうな語は、連用修飾語としてのみ用ゐられるので、これを副詞的代名詞と称することが許されるであらう。
 
(96) 代名詞分類表〔省略〕
(97
 右の表についての説明
 一 右の表を理解するについては、第一に、言語の成立条件である話手、聞手及び表現される事柄の関係とそれらの性質をよく理解しなければならない(2)。
 二 話手及び聞手は一般に人であり、表現される事柄は、人、物、所、方角、関係、惰態等の種々のものが含まれる。
 三 代名詞の最も基本的なものは、右の表の中の「関係」を表はす代名詞であるが、それは常に「の」と結合して連体修飾語としてしか用ゐられない。
 四 その他の代名詞は、この関係概念を表はす代名詞に、その関係に置かれた人や物を含めて云つたものである。「このかた」は「こ」の関係にある人を意味する。
 五 以上のやうであるから、代名詞は、体言や名詞の中の一類でもなく、また体言や連体詞や副詞と並ぶ一類の品詞でもなく、それらに対応して別個の系列を作るところの品詞であることが分る。代名詞が、常に話手を軸として、それとの関係を表現するところに、他の品詞との根本的な表現上の相違を見出すことが出来る。
 
 (1) 佐久間鼎『現代日本語の表現と語法』前篇 第五
 (2) 『国語学原論』総論 第五項
 
(98) ニ 代名詞(二)
 以上、私は、一般に代名詞と呼ばれて来た品詞の性質を吟味して、その持質を、話手と事柄との関係概念を、話手の立場に於いて表現するものと解して来た。従つて、一切の事柄は、その事物的概念の相違にかかはらず、話手との関係をひとしくすることによつて、例へば、商人であれ、官吏であれ、使用人であれ、その人が話手に対して聞手の関係にある時、これを、「あなた」「君」「おまへ」と呼ぶことが出来る訳である。そしてこれを文法上第二人称の代名詞と呼ぶのである。この代名詞中の小変異、「あなた」と「君」との区別ですらも、聞手そのものの事物的概念によるのではなく、話手との身分関係の相違によるのであるが、これらの代名詞が、代名詞と云はれる根本の理由は、何よりも、話手に対立する聞手であるといふ関係の表現にかかつてゐる訳である。ともかく、以上のやうな特質を持つた語を従来代名詞と称して来たのであるが、ここに問題になることは、このやうな語を代名詞と呼ぶことの可否である。代名詞といふ名称が、言語的事実そのものを云ひ表はしてゐると見るべきか、或は名称と事実とは全く別のものであると見るべきか、その辺の事情を明かにして置かないと、思はぬ混乱が生じないとも限らないのである。
 最初に、これは極めて通俗的、常識的な用語法に属することであるが、例へば、「知識人とは、理窟ばかり達者で、実行力を伴はない人間を云ふ代名詞である。」といふやうな場合の代名詞の名義である。これは云はば名詞に代用される別の名詞、即ち代用名詞の意味に用(99)ゐられた場合で、厳密な文法上の用語法とは云ふことが出来ないものであるが、代名詞の皮相な観察から、右のやうな代名詞観が生まれて来ないとは限らない。「鈴木さん」と呼ぶ代りに「あなた」と呼び、同じ人を「先生」と呼んだとすれば、「あなた」も「先生」も、「鈴木さん」といふ名称の代用であるから代名詞であるといふ考へは屡々云はれることである。このやうな見解からは、代名詞の真義が理解出来ないことは既に述べた通りである。
 次に、従来屡々用ゐられて来た代名詞の定義は、代名詞はものを指す語であるといふ考方に基づくものである。
 
  代名詞とは名目をいふ代りに用ゐる詞の義にして、体言の一種なるが、概念そのものを直接にあらはさずして、ただ其を間接にさす〔二字右○〕に用ゐらるるものなり(1)。
 
  代名詞は事物を指していふ語です(2)。
 
  なほ、佐久間鼎博士は、代名詞を「指す語」の体系として述べて居られる(3)。
 
 代名詞を指す語として規定することは、これも外国文法の翻訳に基づくものであらうが、代名詞を指す語として理解することにはなほ多くの問題があると思ふのである。語はその根(100)本に於いて表現であるとする時、代名詞の特質としての「指す」といふことは、表現の如何なることを云ふのであるかを明かにしなければならない。もし語が表現そのものであると見る考方に従ふならば、表現される事柄と表現との関係に於いて、一切の語は、表現によつて、表現される事柄をさすものであるといふことが出来る。鈴木※[月+良]が詞について、「物事をさし顕して詞となる(4)」と云つてゐるのは、正にそのことであると考へてよいのである。語が常にそのやうな性質のものであるならば、代名詞を特に「指す語」として規定することは不充分である。代名詞を「指す語」と規定した一の大きな理由と考へられることは、既に述べたやうに、代名詞は表現される事物そのものについては甚だ漠然とした概念しか表現しない。例へば、一個の机を「これ」と云つたとしても、それが必ず「机」を意味するとは受取られない場合が多い。何となれば、「これ」は机でも椅子でも、或は机の上の紙でも鉛筆でも意味することが出来るからである。そこで、この欠陥を補ふために、指なり、眼なりによつて、事物それ自体を指示することが行はれる。これが代名詞を「指す語」と規定するやうになつた一の理由ではないかと考へられるのであるが、もしさうだとすれば、それは代名詞の表現の特質を云つたものであるよりも、その持質から来る結果について云つたものであるから、そこに我々は代名詞の特質を見出す手がかりを見出さなければならないのである。
 既に述べて来たところで明かにされたやうに、代名詞が、何等かの概念的表現であることに於いて、他の詞と共通するのであるが、その概念が、話手を基準にした関係概念であるこ(101)とに於いて、他の詞と根本的に相違するものである。このことは、表現性の特質から代名詞を規定したことになるのである。
 
 本項を終はるに当つて、代名詞研究の重要性について一言して置かうと思ふ。代名詞研究の重要性は、要するに、言語の表現上から云つて、代名詞が主要な機能を持つことを意味するのである。
 第一に、代名詞は、話手と事柄との関係の概念的表現であるから、話手と同一関係にある一切の事柄を、すべて同一の代名詞を以て表現することが出来る。これは表現上のすばらしい経済である。会話の場合などは、環境の補助によつて、代名詞が最大の効果を発揮することは、あまねく知られてゐることである。しかしながら、代名詞は、話題の事柄に関して、ただその関係概念か、事柄の極めて抽象的な概念しか表現しないのであるから、聞手は、屡々同一関係にある数種の事柄の中、いづれを採るべきかに迷ふことが起こるのは当然である。そこに誤解の原因が生ずるのであるから、代名詞の使用については、それが表はす事柄が、明瞭に理解出来るやうに用ゐられなければならない。このことは、音声言語の場合でも、また文字言語の場合でも同じであるが、現場の補助もなく、その都度、確実性を追求する機会もなく、かつ比較的複雑な内容を表現する必要のある文章表現の場合には、特に細心の注意が払はれなければならない。例へば、
 
(102) 一般の歴史の上に於いて、民衆に関する研究は、あまり多く開けてゐない。これ〔二字傍線〕は研究さるべきものであつて、しかも歴史研究から逸し、かつ忘れられてゐたものである。
 
といふやうな文章に於いて、傍線のある「これ」といふ代名詞は、筆者が直前に云つた或る事柄を承けてゐることは事実である。そこで、それが何であるかを検して見ると、それは、直前の「民衆に関する研究」を承けて居るのではないかといふことが想像される。そこで、この語をもう一度再現して来れば、次のやうになる。
 
 ……あまり多く開けてゐない。民衆に関する研究は研究さるべきものであつて、しかも……
 
これで意味が通じないといふ訳ではないが、「研究は研究さるべきものであつて」といふ表現は上乗のものとは云ひ得ない。そこで、「これは」によつて承けられる前文を次のやうに改めることによつて、その承接を一層論理的にすることが出来る。
 
 民衆に関することの〔三字傍線〕研究は、あまり多く開けてゐない。これ〔二字傍線〕は研究さるべきものであつ(103)て、
 
即ち、後文は前文を承けて、「民衆に関することは研究さるべきであつて」となるのである。しかしながら、また、前文を虚心に読み下して行くならば、「これ」といふ代名詞は、次のやうな文の展開を導く方がより自然のやうにも考へられるのである。
 
 民衆に関する研究は、あまり多く開けてゐない。これ(「前文を全部承けてゐると見ることが出来る。」)は研究の困難に原因するのである。
 
とでも展開すべき勢を持つてゐる。何となれば、「これ」といふ代名詞は、話手と事柄との最も近い関係を表はし、かつそのやうな関係にある事柄を表現する語だからである。もし以上のやうな展開が最も自然であると仮定するならば、それに反した代名詞の用法は、文章の理解を難渋にし、時にはその論理的把握を誤らせる結果に導くのである。代名詞が単に一語によつて表はされる事柄を承けるばかりでなく、右に述べたやうに、一の文によつて表はされるやうな複雑な事柄をも表はすものであることも注意しなければならない。
 代名詞は、文章の理解を正しくするためにも、また表現を確実にする上からも、充分注意されなければならないことである。このことは、本書の文章論に於いて重要な問題となるこ(104)とである。
 
 (1) 『日本文法学概論』 一一九頁
 (2) 『新文典別記』(初年級用) 五二頁
 (3) 『現代日本語の表現と語法』前篇 第四
 (4) 『言語四種論』
 
 ホ 形式名詞と形式動詞
 形式名詞といふ用語は、従来文法学上用ゐられたものであり、またそのやうな事実についても学者の間で問題にされたことである(1)。木枝増一氏はこれを次のやうに説明して居られる(2)。
 
  実質名詞といふのは名称に対してそれに相当する一定の実質概念(具体的にせよ抽象的にせよ)のあるものを言ひ、形式名詞といふのはその名称に対して一定の実質的意義をもつてゐないもので、単に名詞としての一般的形式しかもつてゐないものを言ふのである。従つてこの形式名詞を用ひる時は、その上に必ず之を制限(限定)する語を加へなければならないのである。
 
(105)それはどのやうな語を指すかといふのに、例へば、
 
 そはわが欲するところ〔三字傍線〕にあらず。
 すつぽんのこと〔二字傍線〕を上方にてはまるといふ。
 前後の事情から考へてそんな筈〔傍線〕がない。
 
に於ける「ところ」「こと」「筈」のやうな語を指すのであるが、これらの語が、単に名詞としての一般的形式しかもつてゐないと見ることは疑問であつて、やはり語として或る概念を表現するものであることは間違ひないであらうが、ただその概念が極めて抽象的形式的であるために、常にこれを補足し限定する修飾語を必要とするやうな名詞であるといふ方が適切である。従つて、これらの語が表現する概念内容が漠然としてゐるといふ点で、接尾語と極めて近いのであるが、異なるところは、接尾語は、他の語と結合して一の複合語を構成することが出来るのに対して、形式名詞は、他の語に対する接続の関係は、独立した名詞と同じやうに用ゐられるが、それだけで独立して用ゐられることがないといふことである。例へば、接尾語「さ」は、「暑さ」「淋しさ」などといふやうに、一語を構成するが、形式名詞「こと」は、「あついこと」「さびしいこと」といふ風には用ゐられるが、「あつこと」「さび(106)しこと」などとは云はれない。形式名詞が文法上注意されるのは、その概念内容の問題ではなく、それが常に何等かの修飾語を伴ひ、それを含めて始めて主語なり、述語なりに立ち得る非独立性の名詞であるといふ点にあるのである。山田博士は、形式体言として、数詞と代名詞とを挙げて居られるが(3)、この中、数詞は確かに形式概念を表現するものではあるが、ここにいふ形式の意味とは異なるものである。代名詞は、その項に述べるやうに、話手と或る事柄との関係概念を表現する語ではあるが、これもここに云ふ形式名詞の中に入れるべきものではない。形式名詞といふ名称そのものが甚だ不適当ではあるが、ここでは既に述べたやうに、概念内容の極めて抽象的なそれだけでは独立出来ない名詞について云ふことにする。もし形式名詞、形式動詞の名称が不適当であるとするならば、不完全名詞(4)、不完全動詞の名称を用ゐる方がよいであらうが、不完全動詞の名称は、一般には、活用形の整はない、例へば、「敢へ」「能ふ」といふやうな動詞をいふ場合に用ゐるので、ここではこれを避けることとした。
 
  形式名詞の例
 たび(度)  このたび〔二字傍線〕 私が会ふたび〔二字傍線〕に
 筈      そんな筈〔傍線〕はない。 行く筈〔傍線〕です。
 ため     子供のため〔二字傍線〕を考へる。  雨が降つたため〔二字傍線〕に止めた。
(107) まま   思つたまま〔二字傍線〕を書く。
 わけ     さういふ訳〔傍線〕です
 の      私が話したの〔傍線〕は誤です。(端本博士はこれを準体助詞として助詞の中に入れられたが、形式名詞と考へるのが適当であらう。佐久間博士は代名助詞とされる)
 折      参上の折〔傍線〕
 やう     人のやう〔二字傍線〕でもない。
 こと     嬉しいこと〔二字傍線〕だ。
 うへ     お目にかかつた上〔傍線〕で
 ゆゑ     病気のゆゑ〔二字傍線〕を以て
 間《かん》  その間〔傍線〕
 件      お話しの件〔傍線〕 使用の件〔傍線〕 購入の件〔傍線〕 雑件〔傍線〕 用件〔傍線〕
 点      指摘して下さつた点〔傍線〕は
 あげく    散々使つたあげく〔三字傍線〕に
 もの     馬鹿にしたもの〔二字傍線〕でもない。
 ところ    あなたの云ふところ〔三字傍線〕は正しい。
 よし     病気のよし〔二字傍線〕
 
(108) 形式名詞(体言)に対して、当然、形式動詞或は形式用言が考へられる。形式動詞に関連して、形式用言の名称が、山田博士の文法学によつて一般に知られてゐるので、まづ、博士の形式用言の説について見ることにする。
 山田博士は、従来動詞に所属させられて居つた「あり」を動詞の範疇から引離し、これを形式用言と命名された。これと他の実質用言としての動詞との相違点はどこにあるかと云へば、
 
  実質用言とは陳述の力と共に何らかの具体的の属性観念の同時にあらはされたる用言にして、形式用言とは陳述の力を有することは勿論なるが、実質の甚しく欠乏してその示す属性の意味甚だ稀薄にして、ただその形式をいふに止まり、その最も抽象的なるものはただ存在をいふに止まり、進んでは単に陳述の力のみをあらはすに止まるものなり(5)。
 
と述べて居られるやうに、ここで形式的といふのは、概念内容の稀薄なものを指して云はれてゐるのであるから、博士のいふところの形式用言は正に上に述べて来た形式体言とその性質を同じくするものであると考へて差支へないのである。山田博士の文法体系は、語の表現する概念内容の異同といふことを、根本的な基準としてゐるやうに考へられるのであるが、(109)本書のやうに、表現性の相違といふことを語の類別の基礎とする考方に従ふならば、形式用言を特に実質用言と区別する必要を認めないことは、形式名詞の場合と同じである。そこで、本書では、形式用言といふものを特立せず、動詞の中で、概念内用の極めて稀薄にして、従つてそれには常に何等かの補足する語を必要とするやうな動詞を形式動詞として述べようと思ふ。この場合でも、形式名詞の場合と同様に、接尾語との関連に絶えず注意する必 要がある。
 形式動詞としてまづ注目されるのは「ある」であるが、今日では、「ある」は陳述だけを表現する助動詞として広く用ゐられてはゐるが(助動詞の項参照)、形式動詞としては、あまり用ゐられず、むしろ「ゐる」を多く用ゐてゐる。
 「ゐる」は極めて抽象的な存在、状態の概念を表現するために、多くの場合、これを限定する修飾語を必要とする。例へば、
 
  花が咲いてゐる〔二字傍線〕(文語の「花咲きてあり」「花咲きたり」に相当する)。
  川が流れてゐる〔二字傍線〕。
 
 右は、「花」「川」の存在、状態を表現してゐるのであるが、「花がゐる」「川がゐる」だけでは全く意味をなさず、連用修飾語「咲いて」「流れて」を伴つて始めて意味が完全になる。
 
(110)これは形式名詞が連体修飾語を伴つて始めて意味が完全になるのと全く同じである。
 「する」も同様で、
 
 暖かくし〔傍線〕てお出かけなさい、寒いから。
 見もし〔傍線〕ないで、あんなことをいふ。
 びくびくする〔二字傍線〕。ぬらぬらする〔二字傍線〕。
 それが駄目だとすれ〔二字傍線〕ば、かうやつて見よう。
 何とし〔傍線〕てもそれはまづい。
 
右は「す」(為)の一般的な意味である身体的な動作の意味から転じたもので、概念内容の極めて漠然とした形式動詞になつたために、多くの場合、これを補足する連用修飾語を必要とする。このやうに「する」の表現する内容が稀薄であるために、「あり」が陳述を表はす辞に転換して行つたと同様な径路をとつて、殆ど陳述を表はすに近くなつてゐる場合もある。
 
 君にし〔傍線〕ては、上出来だつた。
 月清くし〔傍線〕て、風涼し(文語)。
 
(111)「なる」もまた形式動詞に数へることが出来る。
 
 水がぬるくなる〔二字傍線〕。
 あの方もおいでになる〔二字傍線〕。
 私は実業家になる〔二字傍線〕。
 気が楽になる〔二字傍線〕。
 
右は「水がなる」「私はなる」では意味の表現が全く不完全であつて、これを補ふものとして、「ぬるく」「実業家に」といふ連用修飾語を必要とする。右のやうに、それ自身では全く完全な意味を表はすことの出来ない動詞の意味を補ふための連用修飾語を、特に補語といふことがある。形式動詞について、もし補語を認めるならば、形式名詞の連体修飾語もこれを補語とすべきであるといふ湯澤幸吉郎氏の説は傾聴に値するものであり、それはまた文法操作の上に、便宜なものであると考へられる(6)。
 「なす」は「す」と殆ど同義語で、一般に敬譲の接尾語を添へて「なさる」の形を以て、用ゐられる。
 
(112) お読みなさる〔三字傍線〕。
 はらはらなさる〔三字傍線〕。
 御出席なさる〔三字傍線〕。
 
 「いたす」も前項と同様、「す」と同義語である。
 
 おねがひいたす〔三字傍線〕。 承知いたす〔三字傍線〕。
 
 「やる」「もらふ」「あげる」「くださる」等の語も、それが物の授受、或は上下の意味でなく、次のやうに用ゐられた時、やはりこれを形式動詞といふことが出来るであらう。
 
 甲が乙に読んでやる〔二字傍線〕。
 甲が乙に読んであげる〔三字傍線〕。
 甲が乙に読んでもらふ〔三字傍線〕。
 甲が乙に読んでくださる〔四字傍線〕。
 
「給ふ」「申す」「あそばす」についても同じである。
(113)
 (1) 『日本文法学概論』 一〇三頁
 (2) 『高等国文法新講』品詞篇 七五頁
 (3) 『日本文法学概論』 一〇四頁
 (4) 吉澤義則『高等国文法』
 (5) 『日本文法学概論』 一八九頁
 (6) 『修飾語に関する考察』(国語と国文学 昭和六年五月)
 
 ヘ 動詞
 動詞は用言の一種である。用言は体言に対立する品詞の総括的な名称で、一語が、種々の用法に従つて語形の変化するものをいふ。語形が変化する語には動詞と形容詞とがあるが、動詞は形容詞と異なつて、語尾が五十音図の行に従つて変化するものを総称したものである。
 動詞の定義には、しばしば、その表現する概念内容から、「動詞は事物の動作、作用、存在をいふ語である」といふことが云はれて居り、動詞といふ名称そのものが、そのやうな意味を示してゐるやうに考へられるが、概念内容の上から動詞を規定することは用言の場合と同様、国語の性質から見て適切でない。本書では、動詞を専ら用言の根本的な性質である語形変化といふ点から規定することとした。
(114) 動詞を観察するには、次の諸点に注意しなければならない。
 一 活用と接続  二 語尾と語幹  三 活用形  四 動詞の活用の種類
 
 一 活用と接続
 動詞の品詞的性質が、語形の変化する語であることは既に述べた。この変化するといふことを別の語で云へば、活用或は活用するといふことである。しかしながら、ここで大切なことは、動詞における活用の意味である。語が変化するといふ点だけを問題にするならば、英語、ドイツ語、フランス語等の verb の conjugation も活用であるといふことが出来るのであるが、conjugation と国語の活用とは、同じ語形変化でも、その性質が根本的に異なつてゐる。conjugation は、一語が、人称、単複数、時、法に従つて形を変化することを意味するのであるが、国語の場合は、これと異なり、動詞が他の語に接続したり、或はそれ自身で終止したりする場合に起こる語形変化である。国語の動詞の変化とは、動詞の断続による語形変化であつて、これを動詞の活用といふのである。国語の活用の意味が以上のやうなものであることは、活用研究の歴史が明かにこれを示してゐるので、例へば、本居宣長の門下である鈴木※[月+良]に、『活語断続譜』といふ著書があるが、ここに云ふ断続とは、終止及び接続の意味で、断続譜とは今日で云ふ活用表のことである。断続表であるから、それは当然活用する動詞と、それに接続する種々な語の両者を含めて成立するのであるが、活用研究が進み、(115)活用が整理されるに従つて、変化する動詞の語形だけを、
 
 咲か −き −く −け
 
のやうに、排列するやうになつた結果、活用とは、語形の変化を意味するものと一般に考へられるやうになつたが、それはどこまでもその語の終止或は他の語との接続による語形変化であることを忘れてはならない。
 動詞の活用と、conjugation の相違は以上述べた通りであるが、もし活用を接続に基づく語形変化であると規定すると、ここに更に一の疑問が生じて来る。それは、例へば、「さけ」(酒)といふ語と、「たる」(樽)といふ語が結合する時、「さけ」の最後の音節が〔ア〕韻に転じて、「さかだる」といふやうな現象が起こることである。これも語の接続から起こる変化の現象であるとするならば、これと活用の相違はどのやうな点にあるかといふことでぁる。右のやうな変化は、全く音声上の変化で、そこには意味といふものが関連することがない。これに反して、動詞の活用の場合は、常に特定の陳述、例へば、推量とか打消、或は連用修飾的陳述、連体修飾的陳述等に応ずるところの語形変化で、しかもそれがすべての動詞を通じて法則的に行はれるところに特色がある。「流れる水」と云へば、外見だけを見れば、動詞と名詞との結合であるが、実はこの二の語の間には、連体修飾的陳述を表はす辞が(116)零記号の形で存在してゐると見なければならない。これは次の二の表現を比較して見れば明かである。
 
 イ きれいな〔二重傍線〕水
 ロ 流れる■〔二重傍線〕水
 
イの連体修飾的陳述を表はす指定の助動詞「な」に相当するものは、ロにおいては別の語によつて表現されずに零記号になつて居るが、その語に相当するものが、語形の変化即ち活用として現れてゐるのである。このやうに活用現象は、云はば、語特に辞の機能に相当すると云ふことが出来る。活用が単なる音声的事実でなく、文法的事実と考へられる所以である。活用現象はたしかに陳述の機能を含むものではあるが、しかしそれは、活用する語形、例へば、「咲き」といふ語形に特殊の陳述の意味が固定して寓せられてゐることを意味するのではない。
 
 花は咲か〔二字傍線〕ない。
 花が咲き〔二字傍線〕、鳥が歌ふ。
 花が咲く〔二字傍線〕。
(117)
 右の三の例の「咲く」は皆述語として、そこには陳述が想定されるのであるが、語形はそれぞれに異なつてゐる。「咲か」は打消の陳述に応ずる語形であり、「咲き」は、陳述の中止に、「咲く」は陳述の終止に応ずる語形であつて、根本は動詞の接続終止に関係するのである。
 
 二 語尾と語幹
 語尾とは、動詞がそれだけで終止したり、他の語に接続したりする場合の終止面及び接続面をいふ。連続した語句、例へば、「花が咲けば」のやうなものを基にして考へるならば、そこから語を分析した場合の動詞の切断面であるといふことが出来る。右の例で云へば、「咲け〔右○〕――ば」の「け」が語尾であるといふことになる。今、動詞を主にして、「咲く」といふ語に例をとるならば、それが「ない」「ます」「時」「ば」及びそれが終止する場合を考へて見るのに、
 
 咲か〔傍線〕ない。
 咲き〔傍線〕ます。
 咲く〔傍線〕時、
(118) 咲け〔傍線〕ば、
 咲く〔傍線〕。
 
右の傍線の部分が、接続面或は終止面であつて、この接続面或は終止面を動詞の語尾といひ、語尾を除いた直接接続に関係のない部分即ち「さ」が語幹である。次に、「越える」といふ動詞の接続面と終止面とを取り出して見ると、
 
 越え〔傍線〕ない。
 越え〔傍線〕ます。
 越える〔二字傍線〕時、
 越えれ〔二字傍線〕ば、
 越える〔二字傍線〕。
 
右のやうに、「ない」「ます」に接続する語尾は、「え」であるが、「時」「ば」及び終止の場合は、「る」「れ」が接続面であり、また終止面であるが、このやうな語については、「える」「えれ」をこの動詞の語尾といふのである。「える」「えれ」をまとめて語尾といふのは不合理のやうに考へられるが、富士谷成章は『脚結《あゆひ》抄』の中の装《よそひ》図(1)の中で、右のやうな(119)「る」「れ」を靡《なびき》と称してゐる。恐らく語尾がなびいたものといふふうに比喩的に考へたものであらうが、動詞の接続関係から考へるならば、語尾を以上のやうに考へることは適切であらうと思ふ。
 ある動詞については、語幹と語尾が同じになつてゐて、語幹がそのまま接続終止の面を兼ねることがある。「見《み》る」「為《す》る」「寝《ね》る」等の動詞は、語幹の「み」「す」「ね」がそのまま、「みよう」「します」「ねない」のやうに接続する。
 
 三 活用形
 動詞について活用形といふことを云ふ場合、一往それは動詞が他の語に接続する場合の語形であるといふことが出来る。例へば、「咲けば」といふ句において、動詞「咲く」が「ば」に続く場合の「咲け」が活用形である。また、「咲きました」から分析される「咲き」、「咲いた」から分析される「咲い」もそれぞれに活用形である。しかしながら、活用形といふのは、動詞が他の語に接続する個々の語形について云はれるのでなく、そのやうな語形の整理統合されたものについて云はれるのである。それならば、そのやうな整理統合は、どのやうな見地において行はれるかと云ふならば、それは接続する語を基準にしたものである。例へば、一切の体言は、一の動詞については必ず同じ語形から接続して、「咲く時〔傍線〕」「咲く花〔傍線〕」「咲くやう〔二字傍線〕だ」のやうに云ふ。そこでこのやうな体言に接続する語形を一の活用形と(120)立てて連体形といふ名称が成立することになる。次に、助詞、助動詞について、これを見ると、すべての助詞、助動詞が、みな一様にある語形から接続するのではなく、例へば、「ない」といふ助動詞は、「行か」といふ語形に接続するのに対して、「ます」といふ敬譲の助動詞は、「行き」といふ語形に接続するといふやうに、接続する語形を異にするのであるが、「ない」と同様な接続関係を持つ語は、他に、「う」「よう」等の語があり、「ます」と同様なものに、一切の動詞等がある。そこで「ない」の語群、「ます」の語群に応ずる活用形として、未然形、連用形といふ名称が成立する。このやうな研究の手順によつて、近世の国語学者によつて整理された活用形の名称は、次のやうなものである。即ち、
 
 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形(文語では已然形或は既然形といふ) 命令形
 
の六であり、それぞれの動詞について、活用形の簡単な判別法として次のやうな方法がとられてゐる。
 
 未然形 助動詞「ない」が附く語形。
  読ま〔二字傍線〕ない  起き〔二字傍線〕ない  来〔傍線〕ない
 連用形 敬譲の助動詞「ます」が附く語形。
(121)  受け〔二字傍線〕ます  し〔傍線〕ます
 終止形 切れる語形。
  書く〔二字傍線〕。  考へる〔三字傍線〕。
 連体形 体言例へば、「時」が附く語形。
  見る〔二字傍線〕時 する〔二字傍線〕時
 仮定形 助詞「ば」が附く語形。
  起きれ〔三字傍線〕ば  考へれ〔三字傍線〕ば
 命令形 命令を表はし、或は命令の意味の助詞「よ」が附く語形。
  押せ〔二字傍線〕。 投げ〔二字傍線〕よ。
 
このやうな活用形の研究は、近世においては、全く文語を基礎にして整理されたものであり、明治以後になつて、やうやく口語の活用形が整へられるやうになつた。今日においては、一般の動詞については、終止形に接続する語群と、連体形に接続する語群との間に接続関係の相違を認めることが出来ないので、むしろこれを統合して、終止連体形といふ活用形を立てることも一の方法であるが、文語法との関連上から、及び指定の助動詞「だ」については、今日なほ連体形「な」「の」の形が行はれてゐるのであるから、従来の終止形、連体形の名称を保存する理由もあるのである(指定の助動詞の項参照)。
(122) 活用形についてその接続関係を考へる時、助動詞「た」は、次のやうな語形から接続する。即ち、
 
 咲い〔二字傍線〕た
 立つ〔二字傍線〕た
 読ん〔二字傍線〕だ
 
これらを「た」の接続する特殊の活用形と見て、学者によつてはこれを音便形の名称を以て呼ぶことがある(2)。現代口語の事実に即するならば、確かに「た」の接続は、右に述べたやうな特殊な語形から接続するのであるが、このやうな接続関係は、四段活用では、サ行動詞を除いたものについて存在し、サ行四段及びその他の活用の動詞については、「ます」の一群に属する語と同様に、一律に連用形に接続する。即ち、
 
 貸し〔二字傍線〕た
 起き〔二字傍線〕た
 受け〔二字傍線〕た
 
(123)してみれば、「た」は原則的には連用形接続の語と認め、「咲い」「立つ」「読ん」の語尾「い」「つ」「ん」は、連用形の語尾の変形したものと認めることは必しも不当ではない。かつこれを歴史的に見れば、或る時代には、「咲い」「立つ」「読ん」は、「咲き」「立ち」「読み」の音便現象として並行して行はれたのであるから、これら音便形を連用形と全く別の活用形として立てる理由はないのである。以上述べた音便形の処理は、実は文法学上の根本に触れる問題を含んでゐるのであつて、文法的処理は、言語の現象的事実にのみ執することは許されないのであつて、現象の奥にひそむ法則を探求することが重要な任務とされるのである。さればと云つて、現象を無視して法則を立てるならば、それはまた言語の事実に沿はないこととなる。現象の奥にひそむ法則の探求と云つても、そこには必ず言語学的証明に堪へるものがなければならないのは当然である。
 次に、活用形の名称について屡々起こる誤解について説明をして置かうと思ふ。例へば、未然形といふ名称から、「行か」「受け」といふ語形そのものに、右の名称のやうな意味があると考へるのは大きな誤解である。この名称は、この語形に接続する一群の語の一端をとつて仮りに命名したのであるから、誤解を避ける意味からするならば、むしろ第一活用形と名づけ、順次、第二、第三と命名するのも一方法と思ふのであるが、誤解のおそれを除くならば、従来の名称も便宜であるのでこれに従ふこととした。
 
(124) 四 動詞の活用の種類
 動詞において活用形が明かにされるといふことは、その動詞の接続関係が明かにされることを意味する。活用形の研究によつて、動詞の接続関係は簡明にすることが出来た。更に進んで、それぞれの動詞の活用形の語尾を整理分類することによつて、すべての動詞は、それぞれに一定数の基本形式に分属させることが可能である。このやうにして明かにされたものが動詞の活用の種類である。動詞の種類の分類は、いろいろの見地からこれを分類することが出来るであらう。例へば、自動詞、他動詞による分類、概念内容による動作性動詞と状態性動詞等の別が考へられるであらうが、動詞の品詞としての根本的性質は活用する語即ち用言にあり、そのことは換言すれば、活用形の変化にあるのであるから、その点に着目して分類することは、国語の動詞の性質の上から見て、また実用的見地から見て当然のことである。活用形の変化は、これを動詞の語尾の変化に置換へることが可能である。そして語尾の変化は、これを五十音図の仮名の上に配当することによつて一層明際にすることが出来る。例へば、語尾が、五十音図の何行のあいうえの四段に配当されるものが何行四段活用であり、同様にして、い及びい段に「る」、「れ」の添つたものに配当されるものが上一段活用である。ここに「上《カミ》」といふのは、やはり五十音図に即して、う字を界にして、あいうが上であり、うえおが下であると考へたところから来るのである。かくして今日、口語において認められてゐる活用の種類は次の通りである。
(125)
 四段活用
 下一段活用
 
外に「来る」「する」の二語だけが、例外的な活用をするので、次の二の変格活用を設ける。
 
 か行変格活用
 さ行変格活用
 
以上正格三種、変格二種あはせて五種の活用が認められてゐる。これを図に示せば次の通りである(次頁参照)。
 動詞について何行といふのは、語尾の音韻に即していふのではなく、五十音図に配当された仮名に即していはれてゐることである。故に、「笑ふ」が「は」行四段であるといふのは、この動詞の語尾が、五十音図の「は」行文字に活用することである。この動詞の語尾を表音的に訂正した場合のことについては、総論第六項を参照されたい。
 
(126) 活用の種類を示す表〔省略〕
 
(127) (1)『国語学史』 一五七頁。今日の活用表に当る。
 (2) 橋本進吉『新文典別記』(初年級用)
 
 ト 動詞の派生語
 接尾語が、体言的なもの、用言的なものを通じて、語の構成要素となつて、新しい語を作ることは後に述べる予定である。接辞が附いて出来た語を派生語 derivative といふのであるが、ここでは、これら派生語の中で、極めて普遍的に行はれる動詞の派生語について述べることにする。
 
 一 自動詞と他動詞との対立
 日本語では、客語(或は目的語)object を表示する記号が無いために、客語の必要の有無といふことで、本来的に動詞について、自動、他動を決定することは出来ない。ただ意味の上から、或は接尾語によつて、動詞の対立が考へられる場合、相互に一方を自動詞といひ、他を他動詞といふことがある。
 
(128)(一)自・他ともに同じ活用形のもの
 増す(自、サ行四段)    水が増す。
 増す(他、サ行四段)    水を増す。
 吹く(自、カ行四段)    風が吹く。
 吹く(他、カ行四段)    火を吹く。
(ニ)自・他が活用の種類は同じで、行の相違によつて分れるもの
 あまる(自、ラ行四段)   費用があまる。
 あます(他、サ行四段)   費用をあます。
 おこる(自、ラ行四段)   事件がおこる。
 おこす(他、サ行四段)   事件をおこす。
(三)自・他が活用の行は同じで、種類の相違によつて分れるもの
 あく(自、カ行四段)    門があく。
 あける(他、カ行下一段)  門をあける。
 くだける(自、カ行下一段) 氷がくだける。
.くだく (他、カ行四段)  氷をくだく。
(四)自・他が活用の行と種類の相違によつて分れるもの
(129) 埋まる(自、ラ行四段)  堀が埋まる
 埋める(他)、マ行下一段   堀を埋める
 揚がる(自、ラ行四段)   旗が揚がる
 揚げる(他、カ行下一段)  旗を揚げる
(五)自動詞の語尾(未然形)に、他動の意味を表はす接尾語「す」「せる」「させる」が附いて自・他に分れるもの
 驚く (自、カ行四段)   子供が驚く。
 驚かす(他、サ行四段)   子供を驚かす。
 思ふ (自、ハ行四段)   昔を思ふ。
 思はせる(他、サ行下一段) 昔を思はせる。
 寝る(自、ナ行下一段)   子供が寝る。
 寝させる(他、サ行下一段) 子供を寝させる。
 
 二 受身
 動詞の語尾に、受身を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。「れる」は四段活用の未然形に、「られる」はその他の活用の未然形につく。
 
(130) 笑ふ (自、他 ハ行四段)  子供が (を)笑ふ。
 笑はれる (受、ラ行下一段)   弟に笑はれる。
 蹴る   (他、ラ行四段)    石を蹴る。
 蹴られる (受、ラ行下一段)   馬に蹴られる。
 
また、サ変の動詞が受身になる場合は、「しられる」とは云はずに、「される」と云ふ。
 
.議論する
 議論される
 不問にする
.不問にされる
 
右のやうに、受身の動詞を作る接尾語「れる」「られる」は、従来、助動詞として取扱はれて来たのであるが、その項にも述べるやうに、これらの接尾語は、辞としての助動詞に属するものではなく、詞の中の用言に属する接尾語として考へなければならないものである。一般に助動詞の附いたものは、例へば、「授けない」は「授け・ない」のやうに、一の句であつて、どこまでも二語として取扱はなければならないものであるが、接尾語の附いたもの(131)は、「授けられる」のやうに、これを複合動詞或は全く一語として取扱ふことが出来るのである。従つて、主語との照応も受身の場合は、接尾語の附いたものが一語としてその述語となることが出来る。
 
 彼〔傍線〕は賞を与へ〔二字傍線〕ない (主語「彼」に対する述語は「与へ」である)。
 彼〔傍線〕は賞を与へられる〔五字傍線〕(主語「彼」に対する述語は「与へられる」である)。
 
 以下、可能、自発、敬譲、使役についても同じことが云へる。
 
 三 可能
 動詞の語尾に、可能を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。「れる」「られる」の接続のしかたは、前項の受身の場合と同じである。
 読む  (マ行四段)     私は本を読む。
.読まれる(可能 ラ行下一段) 私は本が読まれる。
 寝る  (ナ行下一段)    早く寝る。
 寝られる(可能 ラ行下一段) 私はよく寝られる。
 
(132)可能を表はすには、自他の対立の場合の(三)のやうに、四段活用を下一段に活用させても表はすことが出来る。
 
 水を飲む〔二字傍線〕。     マ行四段
 この水は飲める〔三字傍線〕。  マ行下一段
 
四段以外の動詞についても、「起きられる」を「起きれる」、「食べられる」を「食べれる」、「受けられる」を「受けれる」などといふこともある。可能の表現には、意味上、命令形を用ゐることはない。
 
 四 自発或は自然可能
 動詞の語尾に、自発或は自然可能を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。「れる」「られる」の接続のしかたは、前項の受身、可能の場合と同じである。命令形を用ゐないことは可能の場合と同じである。
 
(133) 昔のことを思ひ出す〔四字傍線〕(サ行四段)
 昔のことが思ひ出される(ラ行下一段)
 あなたの来るのを待つ〔二字傍線〕(タ行四段)
 あなたの来るのが待たれる〔四字傍線〕(ラ行下一段)
 
 自発と可能との間には意味の本質的な区別があるわけではない。
 
 五 敬譲
 動詞の語尾に、敬譲を表はす接尾語「れる」「られる」をつけて表はす。「れる」「られる」の接続のしかたは前項と同じで、この場合には時に命令形を用ゐることが出来る。
 私は今日出かける(カ行下一段)。
 先生は昨日出かけられ〔五字傍線〕た(ラ行下一段)。
 人の厚意を受ける〔三字傍線〕(カ行下一段)。
 人の厚意は素直に受けられ〔四字傍線〕よ(ラ行下一段)。
 
敬譲の接尾語による敬譲の表現は、話手の敬意の表現と考へるならば、事柄の表現に関す(134)ることではなくて、話手の立場の表現として、これらの接尾語は、むしろ助動詞として辞に属するのではないかと云ふ疑問が起こるであらうが、右のやうな敬譲の表現は、話手の敬譲の意の直接的表現ではなくして、事柄について、それを特殊なありかたのものとして表現するところに右のやうな敬譲の表現が成立つのである。従つて右のやうな表現は、敬譲の意に基づく事柄の表現といふことが出来るのである。これを次のやうな敬譲の表現と比較すると一層明かにすることが出来る。
 
 先生は昨日出かけられ〔四字傍線〕た。
 先生は昨日お出かけなされ〔七字傍線〕た。
 先生は昨日お出かけになつ〔七字傍線〕た。
 
 即ち、或る動作を、事実そのままのものとして表現せず、「なさる」「になる」といふ語を用ゐて、そのやうな事実が、「出来する」「成就する」といふ表現をすることによつて、それが敬譲の表現となるのと同じである。
 以上述べた受身、可能、自発、敬譲の表現に用ゐられる接尾語「れる」「られる」は、その起源に於いては、恐らく、存在を意味する動詞「あり」の用法の種々に分化発達したものではあるまいかと考へられる。
(135) また、これらの接尾語がついたものは、一語として考へられると同時に、複合語としても考へられるのであつて、次のやうな用例についてこれを見ることが出来る。
 
 如何に困難であるかを知られる〔四字傍線〕のである(『夜明け前』、原本は「知らるる」とある)。
 
 右の「知られる」は「知る」と「れる」との結合した複合動詞であつて、もしこれを一語と見れば、当然右の文は、「困難であるかが知られる」とならなければならないのであるが、例文のやうに、「……を知られる」となつてゐるのは、「知る」が分離して、その客語として、「……を」といふ助詞が用ゐられたものと解されるのである。同様に、
 
 島と島との間を見通せ〔三字傍線〕ないので(『志賀直哉全集』巻七)
 
 右の「……の間を」は、「見通す」(他動、サ行四段)の客語であり、「見通せ」は、サ行下一段の可能の動詞として次へ続いて行くのであるから、この「見通す」といふ動詞は、一語でありながら、意味的には二語の複合語と同じやうに用ゐられてゐるのである。
 
 妻を殺され、子を殺され〔三字傍線〕て、われ亦死しては竟に益なし(『八犬伝』巻二)。
 
(136) 「殺す」の客語は、「妻」及び「子」で、その主語はその殺害者であるが、「殺され」の主語は、この文の話手「われ」であつて、「殺され」といふ動詞は、ここでは前々例文と同様に、二語に分離して用ゐられてゐる。
 
 私は電話をかけられ〔四字傍線〕て困つた。
 事の顛末を報告され〔四字傍線〕て、私も安心した。
 
 右の文は、次の文とは当然意味が異なつて来る。
 
 事の顛末が報告され〔四字傍線〕、一切が明かになつた。
 
 前の文では、「事の顛末」は、「報告す」の客語であるが、後の文では、「報告され」の主語となつて居つて、受身の意味を持つ一語として用ゐられてゐるのである。
 
 六 使役
 他動詞の語尾に、更に他動を表はす接尾鼓帖「す」「せる」「させる」をつけて表はす。(137)「す」「せる」は四段の未然形に、「させる」はその他の動詞の未然形につく。
 
 読ます(使、サ行四段)   本を読ませ〔三字傍線〕ば、読める。
 読ませる(使、サ行下一段)   本を読ませれ〔四字傍線〕ば、読める。 受けさせる(使、サ行下一段)  試験を受けきせ〔四字傍線〕た。
 
 「す」「せる」は必しも相通じて用ゐられるとは限らないやうであるが、次のやうに用ゐられる。
 
 やらした やらせ〔三字傍線〕ば、やります(「す」を附けた場合、サ行四段)。
 やらせた やらせれ〔四字傍線〕ば、やります(「せる」を附けた場合、サ行下一段)。
 筆を持たせ〔三字傍線〕ば、立派に書く。
 筆を持たせれ〔四字傍線〕ば、立派に書く。
 
サ変の他動詞を使役にする場合には、「発見しさせる」とは云はずに、「発見させる」といふ。
 使役とは、他動詞に更に他動の接尾語が付いたものであるから、いはば、二重の他動とい(138)ふことが出来る。それが複合語的性格を持つて分離されることがあることは前項同様である。
 
 私は彼に劇をやらせた。
 
右に於いて、「私」は「やらせ」の主語であるが、「劇」は「やる」の客語である。
 使役の構成は、二重他動にあるのであるから、自動詞に「す」「せる」「させる」をつけても使役にはならない。
 
 沈む(自)
 沈める(他)  沈ます (他)
 沈めさせる(使役)
 浮く(自)
 浮かす(他)  浮かせる(他)
 浮かさせる(使)
 喜ぶ(自)
 喜ばす(他) 喜ばせる(他)
(139) 寝る(自)
 寝す(他) 寝かす(他) 寝かせる(他)
 寝させる(使) 寝かさせる(使)
 
ただ、「せる」「させる」のついた他動詞は、そのまま使役に用ゐられることが多いやうである。
 
 チ 形容詞
 形容詞は用言の一種であつて、動詞と異なるところは、活用の語尾が五十音図の排列とは無関係に、一律に「く」「い」「けれ」と活用することである。形容詞もその接続終止の関係から活用形を持つが、それぞれの活用形に接続する語は、動詞と必しも一致しない。また、動詞の場合には、語尾変化だけで命令を表はすことが出来るが、形容詞の場合には、指定の助動詞「ある」を附け、その命令形によつて表はすから、形容詞そのものの語形変化としては命令形を欠いてゐる。また、動詞の場合では、活用形に直に接続して表はすことの出来る推量、並に過去及び完了は、形容詞の場合には、指定の助動詞「ある」を介して附く。
 
(140)命令の表現
 正しくあれ〔二字二重傍線〕(「あれ」は形容詞の連用形に附く)。
推量の表現
 寒からう(寒く−あら〔二字二重傍線〕−う〔二重傍線〕)。
過去及び完了の表現
 美しかつた(美しく−あつ〔二字二重傍線〕−た〔二重傍線〕)。
 
形容詞の活用形は次の通りである。
未然形 助動詞「ない」が附く語形(1)。
 正しく〔三字傍線〕ない。  高く〔二字傍線〕ない。
連用形 助詞の「て」或は用言が附く語形。
 丸く〔二字傍線〕て大きい。  美しく〔三字傍線〕見える。
終止形 切れる語形。
 流れが早い〔二字傍線〕。  損害が大きい〔三字傍線〕。
連体形 体言、例へば「こと」が附く語形。
 勇ましい〔四字傍線〕こと  高い〔二字傍線〕山
(141)仮定形 助詞「ば」が附く語形。
 早けれ〔三字傍線〕ば待ちませう 恥かしけれ〔五字傍線〕ば止めよ。
 
 語尾及び語幹については既に動詞の項で触れたが、動詞の語幹は一般に全く独立性を失つてゐるのに反して、形容詞では、語幹が一の体言として意味的に独立性を持つことが屡々ある。形容詞の語幹は、体言に転成する可能性を持つ動詞の連用形に匹敵するものである。従つて、形容詞の語幹は、他の体言、用言と結合して複合語を構成することがある。
 
 (一)手なが〔二字傍線〕 足ばや〔二字傍線〕 待ちどほ〔二字傍線〕
 (二)高〔傍線〕値 遠〔傍線〕ざかる 細〔傍線〕長い
 (三)深〔傍線〕さ  寒〔傍線〕さ
 
また、「ほそぼそ」「近々」のやうに語幹を重ねて一語を構成したり、「なが〔二字傍線〕のいとま」「はや〔二字傍線〕到着した」のやうに一語としての機能を持つことが多い。
 以上のやうな形容詞の語幹の性質から判断して、形容詞の語尾「い」は、語尾と考へるよりも、むしろ活用を持つた接尾語と見る方が適切であると云へるのである。類似の接尾語として、「しい」「ない」「らしい」「がましい」等がこれに属する。動詞の語尾は、起源的には(142)接尾語或は独立の一語と見るべきものもあるであらうが、今日においては、動詞の語尾と語幹は全く一語に結合して殆ど遊離性を持たない点で形容詞と異なつてゐる。
 
 (1) 助動詞「ない」の代りに、打消助動詞「ぬ」を用ゐる場合は、助動詞「ある」を介して、次のやうにいふ。この場合「ある」は形容詞の連用形につく。
   面白からぬ傾向(面白く−あら−ぬ)
 
 リ いはゆる形容動詞の取扱ひ方
 本書では、形容動詞の品詞目を立てなかつた。そこで、従来、形容動詞として取扱はれて来た語をどのやうに説明するかを明かにする必要がある。
 まづ、形容動詞と考へられて来た語を挙げて見るのに、
 一 「白からう。」「白かつた。」といふ云ひ方に於いて、「白から」「白かつ」を形容動詞の活用形と認めるのである(文語に於いて第一種形容動詞といはれて来たもの)。
 二 「静かだ。」「丈夫だ。」の如き類である(文語に於いて第二種形容動詞といはれて来たもの)。
 三 「堂々たる風采」「確乎たる意志」に於ける「堂々たる」「確乎たる」を形容動詞の活用形と認めるのである(文語に於いて第三種形容動詞といはれて来たもの)。
(143) 橋本進吉博士に従へば、右の中、第一の場合は、活用形も、未然形、連用形以外には用ゐられず、かつ助動詞「う」と「た」とに接続する場合だけであるから、これを形容詞の活用系列の中に収めて、特に第一種形容動詞といふものを立てない。次に第三種形容動詞については、体言に連る場合にかぎられるから、これを連体詞に入れて、特に形容動詞として取扱ふ必要はないとされた(1)。かくして、口語で形容動詞と認むべきものは、文語の第二種形容動詞に当るものだけに限られ、その活用形は次のやうになるとされてゐる。
 
語幹/語尾 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形命令形
 静か  だら だつ だ な なら
        で
        に
 以上は橋本博士の見解であつて、これは国定教科書に採用されて広く行はれてゐる考方である。なほ、他の学説も紹介すべきであるが、それらについては、随時、必要に応じて附説することにして、ここでは直に本書の見解を述べることとする。
 第一に、「静かだ」「丈夫だ」を一語と考へ、そこからこれを形容動詞といふ一品詞を立てるべきであるといふ考へが出て来るのであるが、これらの語を一語として取扱ふことが、一の問題として取上げられなければならない。一般に我々の常識的な言語意識として、「静(144)か」「丈夫」といふやうな語は、「親切」「綺麗」「勇敢」「大胆」「おだやか」「すなほ」などの語と共に、一語として考へられ、辞書に於いても一般にそのやうに採録されてゐる。これは、文法を取扱ふ上の一の重要な根拠である。橋本博士は、これらの語が、単独で用ゐられないことを理由として、一語と認めることを不穏当であるとされるのであるが、「たちまち」「すぐ」といふやうな語も、連用修飾語以外に主語として単独に用ゐられることのない、用法の限られた語であるが、これを一語でないとは云ふことは出来ない。かつ、「静かだら」「静かなら」といふやうな語もそれだけ単独に用ゐられることがないから、これを一語とすることは不穏当であると云はなければならないのである。
 今、「静か」「丈夫」を一語とするならば、「静かな」「静かだ」或は「丈夫に」「丈夫で」「丈夫なら」に於ける「なら」「で」「に」「だ」を何と見るべきかといふに、本書では、これを指定の助動詞「だ」の活用系列と考へたのである。即ち、「静かな」「丈夫に」は、「静か」「丈夫」といふ語形の変化しない語、即ち体言に、指定の助動詞の附いたものと考へたのである。このことについては、後章指定の助動詞の項を参照せられたいが、右のやうにして、いはゆる形容動詞は、一般に体言(名詞)に指定の助動詞の附いたものと全く同等に取扱はれることとなるのである。
 
      体言 指定助動詞
 彼は私の親友〔二字傍線〕だ〔二字左傍線〕。
      体言 指定助動詞
(145) 彼は親切〔二字傍線〕だ〔二字左傍線〕。
 
ただ右の二例について区別されることは、意味の上から云つて、前者の「親友」が名詞的であるのに対して、後者の「親切」が形容詞的であり、従つて、後者には、「大変」「非常に」といふやうな連用修飾語を加へることが出来る。しかし、それは意味の上から来ることで、「親友」「親切」の二語が語性を異にしてゐるためであるからではないのである。例へば、「健康」「単純」「単調」といふやうな語をとつて見ても、
 
 彼は健康を誇にしてゐる。
 彼は非常に健康だ。
 単純を選ぶ。
 極めて単純な事柄。
 単調に飽いた。
 すこぶる単調だ。
 
これらがいづれを名詞とし、いづれを形容動詞とするかは容易に判断を下し得ないことであ(146)つて、教育上からも極めて困難な問題である。これらの相違は、品詞の別として教授せらるべき事柄ではなくして、名詞の意味論に所属する問題である。全く名詞と考へられてゐる語の中にも次のやうな用法がある。
 
 明日から学校〔二字傍線〕だ。
 水に入つたら、てんで金槌〔二字傍線〕だ。
 
名詞や体言が、連用修飾語をとることについては、文論の述語格の項を参照されたい。
 形容動詞を立てることの不合理は、その敬語的表現の説明に困難を感ずることである。「静かだ」に対応する敬語的表現は「静かです」となるのであるから、「静かだ」を形容動詞と立てるならば、「静かです」も当然形容動詞としてその活用系列が説明されなければならない筈であるが、国定教科書に於いては、「です」を断定を表はす助動詞としたため、「静かです」は形容動詞の語幹に「です」が附いたものといふやうに説明せざるを得なくなつたのであるが、もし「静か」を一語と見ることが出来ないといふ立場を固執するならば、「静かです」も当然それだけで一語と見なければならないし、「です」を分離させて、断定を表はす語であると見ることも出来ない訳である。本書に於いては、「静かです」或は「静かでございます」の場合も、「静かだ」の場合と同様に、体言に敬譲助動詞「です」「でございま(147)す」が附いたものとして説明した。
 橋本博士は、「確かである」「立派でございます」のやうなものは、形容動詞の「確かだ」「立派です」などとは別で、副詞「確かで」と、補助用言「ある」「ございます」との連語であると説明された(2)。しかし博士は、また別のところで、「確かで」「立派で」を形容動詞の連用形として扱つて居られる(3)と同時に、形容詞の連用形を副詞とすることには賛成して居られないのであるから(4)、右の取扱ひには多分に矛盾が存すると云はなければならない。これは、「確かだ」を一語の形容動詞と考へるところに無理があるのであつて、本書では、「確か」といふ体言に、指定の助動詞「だ」「で」「に」「である」「です」「でございます」等が附いたものとしたのである。「確かに」を副詞とするのは、広義の副詞の場合に許されることで、本書では、体言「確か」が連用修飾語に立つたものとした(連体詞と副詞の項参照)。
 
 (1) 『国語の形容動詞について』橋本進吉博士著作集 第二冊
 (2) 『新文典別記』(上級用)(昭和十年二月版) 二九八頁
 (3) 『国語の形容動詞について』橋本進吉博士著作集 第二冊 一二二頁
 (4) 『改制新文典別記』(口語篇) 三七頁
 
(148) ヌ 連体詞と副詞
 日本語に於いて認定される単語は、一般に格の記号を持たないのが普通である。語は無格性であるといふことが出来る。従つて、そこから導き出される品詞の概念にも、格の概念を伴はない。これに反して、ヨーロッパの言語のあるもの、例へば、ラテン語、ドイツ語の如きに於いては、名詞は必ず何等かの格記号を伴ふのが常で、無格の名詞、例へば、「机」といふ語に相当するラテン語、ドイツ語を考へることは出来ない。そのやうな場合には、主格を以て代用するのである。印欧語は元来このやうに有格性の言語であるために、そこから導き出された品詞の概念の中には、他の語との関係の概念が含まれることが多い。adjective, adverb のやうな品詞は、これらの語が、常に他の語に附加されるといふ機能的関係から命名されたものである。動詞 verb に対する見方にも、それが、主語である名詞の陳述をすることに、その本質的性格を認めようとするのである。ここにも陳述と動詞の概念的表現とが不可分離のものとして融合してゐる。
 以上のやうな印欧語の性格に対して、国語に於いては、格は必ず別の語、即ち助詞によつて表現される。従つて、名詞と格表現との結合である句が、ラテン語やドイツ語に於ける一語に相当する訳である。同様にして、国語の動詞は、用言即ち語形変化をする語として理解される以外に、それが陳述の機能を持つと考へることは誤りである(文論、用言に於ける陳述の表現参照)。
(149) ところが国語に於いても、或る種類の語は、連体修飾語か、連用修飾語以外には用ゐられないといふやうなものがある。即ちこれらの語は、格表現がその語の中に本来的に備つてゐると見るべきものなのである。そこで、これらの中、連体修飾語としてのみ用ゐられるものを連体詞といひ、連用修飾語としてのみ用ゐられるものを副詞といふことにする。これらの名称は、体言、用言、動詞、形容詞等の品詞の概念が、全く語それ自体の持つ性質に基づいてゐるのに対して、文構成上の役目をも含めて呼ぶところに、大きな相違点を見出すのである。これらの品詞と他の品詞との関係を明かにするために、先づ連体詞について説明を試みてみる。
 
 イ 昔〔傍線〕のことです。(体言)
 ロ ある〔二字傍線〕日のことです。(連体詞)
 
イの「昔」といふ語は、助詞「の」を伴つて、下の体言「こと」に対して連体修飾格に立つてゐるが、修飾的陳述の表現である「の」を除いた「昔」といふ語は、体言であつて、それは他の別の格にも立つことが出来る語である。換言すれば、体言がこの場合連体修飾語に用ゐられてゐるので、ここでは、体言としての品詞の性質と、その文構成上の職能は別のものと考へられる。これに反して、ロの「ある」は、語形の変らないといふ点では、一往体言と(150)することが出来るが、この語は、英語の this,that 等が連体修飾語として用ゐられたものを、demonstrative adjective と呼ぶやうに、その用法が限定された特殊の語であるから、その文構成上の職能をも含めて連体詞と呼ぶことにするのである。連体詞といふ名称は、近頃の学者の考案したものであるが、既に総論文法用語の項に於いて述べて置いたやうに、いはゆる形容詞といふ名称は、このやうな形容を意味する特殊な語のために保留して、連体詞と呼ぶ代りに、これらをこそ形容詞と呼ぶのが適切ではないかと思ふ。従つて、これらの語は、形容詞的職能を持つ品詞の意味になるのである。連体詞の名称は、このやうに職能を含めた名称であるから、これを拡張して、前例のイの場合の「昔の」を、その修飾的陳述を表はす「の」を含めて、連体詞と云つても差支へないことになる訳である。厳密な意味に於ける連体詞に於いて、右のやうな修飾的陳述を表はす語は、語そのものの中に、融合してしまつてゐると見るべきである。元来国語の諸語は、無格性を常とするのであるから、厳密な意味に於ける連体詞は極めて少数である。例を挙げるならば、
 
 一 本〔傍線〕問題 該〔傍線〕事件等の漢語に属するもの。
 二 とんだ〔三字傍線〕災難  いはゆる〔四字傍線〕秀才型  大きな〔三字傍線〕(1)家  去る〔二字傍線〕十日 曲つた〔三字傍線〕(2)道
 三 イ こんな〔三字傍線〕話  あんな〔三字傍線〕出来事
   ロ この〔二字傍線〕本  その〔二字傍線〕時
(151)三は、これらの語の性質上、むしろ代名詞の系列に所属させるべきものであることは、代名詞の項に述べたところであるが、その職能をも含めていふならば、連体詞的代名詞とでも呼ぶべきものである。
 次に、副詞について述べる。
 
 イ 昔〔傍線〕おぢいさんとおばあさんがありました。
 ロ 会議はすでに〔三字傍線〕終つてゐた。
 
イの「昔」は、連体詞の場合と同様に、品詞としては体言であつて、この場合、連用修飾語として用ゐられたものである。ところが、ロの「すでに」は、「静かに」「ほがらかに」等のいはゆる形容動詞と云はれてゐる語が、「静か」と「に」、「ほがらか」と「に」に分解して二語の結合と考へられるのに対して、これだけで一語と考へざるを得ない語である。そしてイの場合と異なるところは、この語が体言として種々の格に立つことが出来る無格性のものではなく、連用修飾語として以外には用ゐられない語である。即ちこの語は、連用修飾語としての性質をその中に持つてゐると見ることが出来る。このやうにして、一語にして概念と同時に修飾的陳述を含む語を特に副詞と名づけるのである。一般に次のやうな例に於いて、
 
(152) 花が美しく〔三字傍線〕咲いてゐる。
 
「美しく」を形容詞と見るべきか、副詞と見るべきかについて疑問が起こる。これを形容詞と見る立場は、この語を用言の一活用形と見るのであつて、その場合、この語の、この文に於ける職能といふものは考慮の外に置かれてゐる。それは、「美しい」といふ語は、用言として、本来、無格性のものであるから、この語の品詞が何であるかと間はれるならば、右のやうに答へるのは当然である。今、この語を副詞と見る立場は、この語の持つ連用修飾的陳述をも含めて云ふのであつて、実は、そのやうな連用修飾的陳述は、零記号の形式を以てこの語に別に加へられたものと解することは、無格性を本体とする国語の単語に於いて当然認められなければならないことである。これを図示すれば、次のやうになる。
 
 美しく■
 
即ち、「美しく」と、零記号の陳述とを含めて始めて副詞といふことが出来るのである。もし副詞の名称も広義に解するならば、この語の、この場合の用法に即して副詞といふことが許されるのは、連体詞の場合と同様である。しかし、「美しく」だけに即して云ふならば、
(153)
 
 美しく〔三字傍線〕、赤い花
 
とも云はれるやうに、連体修飾語にも立ち得る語であり、更に他の活用形を考へに入れるならば、一義的に副詞とは云へないことは明かである。ヨーロッパの言語が、接尾語 -ly を添加して連用修飾語的職能を一語の中に表示するのと異なり、国語の用言の活用形は、決して格を表示するものではないのであるから、一語に即して云ふならば、右のやうな形容詞の連用形を副詞といふことは出来ないのである。ところが、若干の語は、「すでに」のやうに、一語の中に連用修飾的陳述を含めてゐるのがあるので、特にこれを副詞として取扱ふのである。
 ここで連体修飾語及び連用修飾語の名称について一言するならば、連体、連用といふことは、活用形の名称の適用であると思ふのであるが、この名称は、専ら用言と体言との接続関係を形式的に云つたもので、そこには、文の職能に関する概念は含まれてゐない筈である。文の構成要素の間の職能関係は、体言、用言等の品詞別を超越して、語の意味的関係に於いて成立するのであるから、文構成の職能に関する用語としては、先きに保留した形容詞的修飾語及び副詞的修飾語の名称を使用するのが合理的である。何となれば、形容詞、副詞の名称は、語の意味的な機能関係について云はれることだからである。例へば、
 
(154) きつぱりお言ひ〔七字傍線〕でしたか。
 明日から学校〔六字傍線〕だ。
 
に於いて、「きつぱり」は常に副詞的修飾語に用ゐられる語であるから、これを副詞と名づけることは既に述べた。そしてこの語は、下の「お言ひ」といふ用言から転成した体言を修飾する関係に立つてゐる。しかし、「きつぱり」といふ副詞は、体言といふ品詞に関係してゐるのでなく、この語の持つ動作的意味に関係してゐるのである。また、次の「明日」は、助詞「から」によつて格が表示され、連用修飾語に立つてゐる体言であるから、一般には、用言との関係が予想されるのであるが、ここでは、体言「学校」が関係してゐる。これも、実は体言そのものが関係してゐるのでなく、「学校」といふ語の持つ意味に関係するのである。「学校」は、ここでは建築物の意味でなく、学習、勉学と同義語に用ゐられ、動作、状態を意味するのである。従つて、「明日」といふ語も、連用修飾語といふよりは、副詞的修飾語と呼ぶのが適切である。橋本博士は、形容詞的修飾語、副詞的修飾語、特に形容詞的修飾語の名称は、適当でないとして、連用、連体の名称を用ゐると云つて居られるが(3)、それは、形容詞の名義が国語に於いては特殊の用言の名義に用ゐられて居ることが理由とされるからである。右に述べた私の提案は、形容詞の名称を今日いはゆる連体詞の名称に保留した(155)場合にのみ成立するものであることを附加へて置きたい。
 副詞の修飾関係を右のやうであるとして見れば、
 
 一 大層〔二字傍線〕静かな家  もつと〔三字傍線〕穏かな日
 
に於いて、副詞「大層」「もつと」は、従来、形容動詞「静かな」「穏かな」を修飾してゐると考へたので、連用修飾語として差支へなかつたのであるが、本書では、形容動詞を否定して、これを、体言「静か」「穏か」と「な」の結合としたので、これらの副詞は、当然体言を修飾するものと考へなければならない。これらの副詞は、これらの体言の持つ、状態的意味の修飾語と考へられるのである。
 
 二 もつと〔三字傍線〕ゆつくり歩け。
   だいぶん〔四字傍線〕はつきり見える。
 
右の傍線の副詞は、「ゆつくり」「はつきり」といふ体言に関係するといふよりも、前例と同様に、これらの語の状態的意味に関係することによつて副詞と云はれる。
 
(156) 三 わづか〔三字傍線〕三人で仕上げた。
   すこし〔三字傍線〕右へよれ。
   ずつと〔三字傍線〕昔の話
 
右の例は、甚だ難問であつて、確実な説明は下しにくいが、「わづか三人」 の場合は、「三人」が量的な状態を表はしたものと考へられる。「すこし右」の場合の「右」は、単なる方向でなくして、そこには、動作の概念が含まれて居るものと見られる。「ずつと昔」の場合の「昔」も同様に、時間を遡つて行くといふ思考上の動作があるやうに見られる。従つて、過去の年代が決定されて居る場合、例へば、「ずつと寛永時代に」などとは云はれない。「はるか頂上には雲がただよつてゐる。」といふやうな場合にも、「頂上」といふ語に視覚的な動作が伴ふが故に云はれることであらうと思ふ。右の原理は、推して、「ひとり歩き」「いちや漬け」のやうな複合語の要素間の関係についても、云はれるのではないかと思ふ。これらに於いては、「ひとり」「いちや」はそれぞれ下の転成の体言の動作的意味に対して副詞的修飾語に立つてゐるのではないかと思ふ。
 最後に、従来副詞の用法として挙げられて来たものの中で、今日なほ問題とされてゐるものは、いはゆる陳述の副詞と云はれてゐるものである。例へば、(157)
 
 明日は恐らく〔三字傍線〕晴天だらう。
 彼はあのことを決して〔三字傍線〕忘れない。
 もし君が行けば、僕も行く。
 
右の傍線のある「恐らく」「決して」「もし」は、それぞれ「だらう」「ない」そして「行け」の零記号の陳述に「ば」を伴つた仮定的陳述を修飾してゐるところから、陳述副詞と一般に云はれてゐる。今まで述べて来た副詞の諸例は、そのすべてが、詞に関係するのであるが、ここに挙げた陳述副詞は、辞を修飾するのであるから、副詞の用法としては、極めて異例に属するものと云はなければならない。そこで、これらの副詞は、はたして詞に所属して副詞と云ふことが出来るものであるかどうかといふ疑が起こつて来る訳である。思ふに、これらは、副詞として詞に所属するものでなく、辞に所属するものではないかと考へるのである。その理由は、詞はその根本的性格として、事柄の概念的表現であるから、話手に対立する一切の事柄を表現するのである。「おほかた〔四字傍線〕仕事もすんだ。」「多分に〔三字傍線〕いただいた。」等の傍線の語は、事柄のありかたを表現して詞であり、これらの語は、各人称に関係する事柄に通じて用ゐることが出来る。ところが、これらの詞が話手に関することに、更に話手の心持ちに関する表現に限定されるやうになると、辞と共通した性質を持つやうになる。
 
(158) おほかた〔四字傍線〕 仕事もすむ頃だらう。
 多分〔二字傍線〕 うまく行くだらう。
 
右の「おほかた」「多分」は、十中八九は断定し得るが、一分の疑ひを残してゐるやうな気持を表現してゐるのである。これらが、辞とみなされる理由は、これらの語が第二者、第三者の心持ちの表現には用ゐることが出来ないからである。「勿論」「無論」といふやうな語も、本来は「誰が見ても異議がなく」の意味で、
 
 勿論〔二字傍線〕、次のやうな場合は例外である。
 
のやうに用ゐられるのであるが、これが次第に話手のことに限定されて来ると、強い判断の表現として陳述の辞と呼応して来る。「断じて」といふ語も同じで、第二、第三人称に通じて、「断じて行へば、鬼神も避く」といふやうに用ゐられ、それが詞に属することは明かであるが、この語が、話手の心持ちの表現に限定されて来ると、強く主張する話手の気持の表現として、特に否定辞と呼応して、「断じて不正は行はない」といふ風に用ゐられる。この場合、「行ふ」の主語が、どのやうな人称に属してゐても、「断じて」は必ず話手の否定に関して云はれることである。かうなると、もはや詞ではなく辞であhるといはなければならな(159)い。
 佐久間鼎博士は、
 
 この料理は だんじて〔四字傍線〕うまい。
 あの映画は だんじて〔四字傍線〕おもしろかつた。
 
といふやうな方言的用例を挙げて居られるが、これは述語の状態について云つたもので、詞としての副詞の転義であるから陳述に関係がない(4)。
 以上のやうに、陳述副詞と云はれてゐるものは、云はば、陳述が上下に分裂して表現されたもので、「無論……だ」「決して……ない」「恐らく……だらう」を一の辞と考へるべきであらう。古く話手の禁止表現として行はれた
 
 吹く風をな〔傍線〕来そ〔傍線〕の関と思へども
 
の「な……そ」と同類と見ることが許されはしないか。暫く疑ひを残して試案を提出することにした。次に、いはゆる陳述副詞の例を挙げるならば、
 
(160) 無論
 勿論……「だ」「です」或は用言の零記号の陳述に呼応する。
 きつと
 決して
 とても…………強い否定の「ない」に呼応する。
 断じて
 おほかた…………想像、推量の辞「だらう」「でせう」に呼応する。
 恐らく
 どうか………懇願を表はす辞即ち命令形に呼応する。
 どうぞ
 もし………仮定的陳述に対応する。
 
 (1) 「大きな」は、「静かな」「ほがらかな」等のいはゆる形容動詞と同様には考へられない。形容動詞の場合には、「静か」「ほがらか」を一語として、「な」を指定の助動詞とすることが出来ることについては前項に述べたが、「大きな」については、「大き」「な」と分解することが出来ない。「大き」といふ語には一語としての意識がないからである。「大きな」は連体修飾語以外には用ゐられない語である。
 (2)お 「曲つた」の「た」は、起源的には「たり」から出たもので、「たり」の用法は、「……してゐる」といふ状態を表はす詞としての用法と、過去及び完了を表はす助動詞の用法が並立し、次第に助動詞的用法(161)に移つて行つたのであるが、「たり」から出た「た」にも、右のやうな二の用法が並立してゐる。詞としては、「尖つた帽子」「腐つた根性」「死んだ顔」などと用ゐられるが、これはすべての動詞について規則的に云はれる訳ではない。「走つた犬」「泳いだ魚「倒れた人」等は、「走つてゐる」「泳いでゐる」「倒れてゐる」の意味には用ゐられない。また、右の状態を表はす詞としての「た」は、ただ連体形としての用法に於いてそのやうな意味に用ゐられるので、「帽子が尖つた」は「帽子が尖つてゐる」の意味には用ゐられない。して見れば、右の状態を表はす「た」は、連体修飾語としてしか用ゐられないものとして連体詞とするのが適切である。右のやうな「た」は、状態を表はす一種の接尾語と認められるのである(接頭語と接尾語の項及び過去及び完了の助動詞の項参照)。
 (3) 『改制新文典別記』(口語篇) 二三〇頁
 (4) 佐久間鼎『現代日本語法の研究』 九〇頁
 
 ル 接頭語と接尾語
 接頭語、接尾語は、接頭辞、接尾辞ともいひ、これを総括して接辞とも云はれてゐるものである。他の品詞がすべて語としての性質上から一類を立てたものであるのに対して、ここに述べるところの接頭語、接尾語といはれるものは、他の語と統合して、一語を構成することの出来るやうな語をいふのである。従つて、それは、一語の内部的な構成要素と考へられ、これを研究するのは、文法学以前の語の語源学に属するやうにも考へられるが、接頭語、接尾語の多くは、古くは一語としての独立の機能と意味を持つて居つたと考へられるも(162)のが多く、また現在でも、語とこれら接辞との劃然とした境をつけることが困難な場合が多い。このことは、語の品詞的性質を決定する接尾語に於いて特に重要な意味を持つて来るのであつて、これを全く語の内部的な構成要素と見るか、或は一語としての機能を認めるかといふことは、国語の構造の問題にも関連し、ひいては、文の意味的理解にも重要な関連を持つ問題となつて来るのである。
 
 一 接頭語
 接頭語は、prefix の訳語で、明治以後新しく加へられた文法学上の名目であつて、独立した一語としての機能を持たない造語成分を云ふのであるが、本来、独立した一語と認められるものもあり、かつそれだけで一定の意味を有するものであるから、これがついて出来た語は、複合語と認むべきものである。現代語として比較的造語力のあるものの例を挙げるならば、
 
 す
  す〔傍線〕足 すつ〔二字傍線〕ぱだか す〔傍線〕がほ
 お
  お〔傍線〕米 お〔傍線〕いそがしい お〔傍線〕つかれ
(163) ま(まつ)
  ま〔傍線〕夜中 ま〔傍線〕新しい まつ〔二字傍線〕か(真赤) まつ〔二字傍線〕くら
 
 こ
  こ〔傍線〕うるさい こ〔傍線〕ぎれい こ〔傍線〕やかましい
 ひく
  ひつ〔二字傍線〕たくる ひつ〔二字傍線〕かく ひき〔二字傍線〕はがす
 ぶつ
  ぶつ〔二字傍線〕たたく ぶつ〔二字傍線〕かける ぶち〔二字傍線〕のめす ぶん〔二字傍線〕なぐる
 
なほこの外に漢語起源のものを挙げれば、
 ふ(不)
  不〔傍線〕案内 ふ〔傍線〕たしか 不〔傍線〕都合
 ぶ(無)
  無〔傍線〕器量 ぶ〔傍線〕しつけ 無〔傍線〕風流
 ご(御)
  御〔傍線〕馳走 御〔傍線〕苦労 ご〔傍線〕たいそう
(164) ぜん(全)
  全〔傍線〕日本体育連盟
 
 二 接尾語
 接尾語は、suffix の訳語で、独立した一語としての機能を持たない造語成分を云ふのであるが、英語などと比較して、国語の接尾語は、機能上、単語内部の要素と考へるよりも、一語として取扱ふ方が適切である。英語などの接尾語も、起源的には一語としての機能を持つたものが、相当多かつたのであらうか、今日接尾語と云はれるものは、皆、一語の内部的構成要素となつてしまつてゐるものについて云はれる。そして、それらは、語に特定の品詞性を与へるものと考へられてゐる。例へば、ly を附ければ nobly のやうに副詞としての資格が与へられる。このやうな接尾語の概念を、そのまま国語に適用して説明することが出来るかは甚だ疑問である。例へば、山田孝雄博士は、接尾語を分けて、意義を添ふるものと、一定の資格を与ふるものとし、後者に於いて、更にこれを四に分け、名詞の資格を与ふるもの、形容詞の資格を与ふるもの、動詞の資格を与ふるもの、副詞の資格を与ふるものといふ風に分類して居られる(1)。しかしながら、この外国語文法の適用が、国語の性格を如実に説明出来るかどうかは甚だ疑はしい。第一に、国語に於いて、一般に接尾語と云はれてゐるものは、単純に或る品詞性を附与するものではなく、接尾語それ自身が、皆それぞれに或る概念(165)内容を持つものであることに於いて、英・仏・独語の接尾語と甚しく相違する。例へば、動詞の資格を与ふる接尾語として山田博士の挙げられたものを見ると(山田博士は接尾辞と云はれてゐる)、
 めく――春めく 時めく
 がる――おもしろがる 見たがる
 
が挙げられてゐるが、これらの接尾語は、もとの語にある別の品詞的性格を与へるものであるといふよりは、更に別の意味を加へてゐるものであることが分る。即ち、接尾語それ自身が或る概念内容を表現してゐるのである。英語で noble から nobly が出来、フランス語で heureux から heureusement が出来る場合には、ly, ment はただ副詞としての品詞を決定するもので、語の意味に新しいものを附加へてゐるとは考へられない。第二に、国語に於いては、接尾語は他の語との関係に於いて、一語としての機能を持つてゐると考へられることである。例へば、次の例、
 
 私に何か云ひたげ〔傍線〕にしてゐた。
 地に届きさう〔二字傍線〕な様子です。
(166) あなたにほめられたさ〔傍線〕にそんな事をするのです。
 
に於いて、接尾語と云はれてゐる「げ」「さう」「さ」は、それぞれに、「云ひたげ」「届きさう」「ほめられたさ」で一語を構成してゐるのではなく、「私に何か云ひた」「地に届き」「あなたにほめられた」に附いたものと考へなくてはならない。即ち「げ」は様子の意味を以て、「私に何か云ひたい」といふ句全体によつて修飾されてゐると考へるべきである。それは一語の構成要素といふよりも、それ自身一語として、他の語と同等の資格を以て結合してゐるものである。異なるところは、一般の語であるならば、「私に何か云ひたい様子」といふ風に、これも形容詞を構成する接尾語と云はれてゐる「たい」の連体形から接続するのに対して、この場合は、語幹から直に接続してゐる。これは「さ」の場合も同じである。そしてまた、「げ」「さ」「さう」は、それだけで独立して用ゐられず、常に何等かの修飾語を伴ふといふ相違がある。国語の接尾語は以上のやうな性質を持つてゐるので、これらと、他の語、特に独立しない語との間に明確な一線を劃すことは困難である。例へば、助数詞と云はれる「二羽」「三羽」の「羽」、「四本」「五本」の「本」も接尾語と云はれてゐるが、これらと独立した用法を持つ「二箱」の「箱」、「六円」の「円」の如きもの、或は動詞的接尾語の中、「ばむ」「めく」の如きものと、独立しても用ゐられる「才子ぶる」「時めかす」の「ぶる」「めかす」と本質的に異なつたものとは云ふことが出来ないのである。そこで、国語の(167)接尾語をもし定義するするならば、比較的独立性が少く他の語と合して一語を合成することの出来る語とでも云はなければならない。一語を構成することが出来るといふ点で、いはゆる形式名詞のやうなものと区別することが出来る。形式名詞についてはその項に既に述べた。
 右のやうな接尾語の概念は、これを漢語の場合にも適用出来る。
 
 館(写真館、本館) 店(商店、薬店)
 手(歌手、運転手) 人(病人、役人、軍人、法人)
 
以上のやうなものと、独立した用法もある長(駅長)、感(読後感、責任感)などと根本的な相違は認め難い。
 
 体言的接尾語の例
  げ  ――文語的な云ひ方に残る。
  がた ――殿がた〔二字傍線〕 あなたがた〔二字傍線〕
  かた ――読みかた〔二字傍線〕 泳ぎかた〔二字傍線〕
  がてら ――人を訪ねがてら〔三字傍線〕、京都へ行きました。
  さ  ――寒さ〔傍線〕
(168) さま  ――山下さま〔二字傍線〕 (敬称)
 さう ――悲しさう〔二字傍線〕な顔 あの人は、うれしいさう〔二字傍線〕です。
 しな  ――東京を立ちしな〔二字傍線〕に
 たち  ――君たち〔二字傍線〕
 だらけ ――泥だらけ〔三字傍線〕
 ども  ――私ども〔二字傍線〕
 て   ――売手〔傍線〕 読みて〔傍線〕(「て〔傍線〕がない」といふ時は独立する。)
 なみ  ――軒なみ〔二字傍線〕 足なみ〔二字傍線〕 人なみ〔二字傍線〕(人と同等の意)
 ながら ――本を読みながら〔三字傍線〕歩く 皮ながら〔三字傍線〕食べる 「こはいながら〔三字傍線〕も通りやんせ」「若いながら〔三字傍線〕しつかりしてゐる」の場合は助詞。
 み  ――赤み〔傍線〕 すごみ〔傍線〕
 め  ――こはいめ〔傍線〕 三番め〔傍線〕 つぎめ〔傍線〕
 もと ――枕もと〔二字傍線〕 手もと〔二字傍線〕
 やう ――書きやう〔二字傍線〕 今やう〔二字傍線〕 返事のしやう〔二字傍線〕
 や  ――餅や〔傍線〕 わからずや〔傍線〕
 た  ――尖つた〔傍線〕 曲つた〔傍線〕(これが附いた一語は、連体詞と認むべきことは、「連体詞と(169)副詞」の項で述べた。
 域  ――職域〔傍線〕 地域〔傍線〕
 間  ――東京大阪間 一年間(「その間」などと用ゐられる時は形式体言)
 化  ――能率化〔傍線〕 具体化〔傍線〕
 観  ――世界観〔傍線〕 側面観〔傍線〕
 線  ――東海道線〔傍線〕 本線〔傍線〕
 然  ――政治家然〔傍線〕 殿様然〔傍線〕
 
用言的接尾語の例
 がる ――寒がる〔二字傍線〕 悲しがる〔二字傍線〕 いやがる〔二字傍線〕
 がましい ――おしつけがましい〔四字傍線〕 催促がましい〔四字傍線〕 がたい ――読みがたい〔三字傍線〕 済度しがたい〔三字傍線〕
 きる  ――やりきる〔二字傍線〕 食べきる〔二字傍線〕
 しい(い) ――赤い〔傍線〕 目星い〔傍線〕 大人しい〔二字傍線〕. 腹立たしい〔二字傍線〕 たのもしい〔二字傍線〕
 させる(使役) ――起きさせる〔三字傍線〕 受けさせる〔三字傍線〕
 じみる ――世帯じみる〔三字傍線〕 老人じみる〔三字傍線〕
 す(他動) ――おこす〔傍線〕 あるかす〔傍線〕
(170) だつ  ――殺気だつ〔二字傍線〕 目だつ〔二字傍線〕 きはだつ〔二字傍線〕
 だす  ――動きだす〔二字傍線〕(始める意) さぐりだす(出す意)
 たがる ――行きたがる〔三字傍線〕 見たがる〔三字傍線〕
 たい  ――行きたい〔二字傍線〕 見たい〔二字傍線〕
 づく ――産気づく〔二字傍線〕 怖気づく〔二字傍線〕 物心づく〔二字傍線〕
 つける ――行きつける〔三字傍線〕 見つける〔三字傍線〕 叱りつける〔三字傍線〕 呼びつける〔三字傍線〕
 なす  ――山なす〔二字傍線〕大波 滝なす〔二字傍線〕汗
 ばむ  ――汗ばむ〔二字傍線〕 黄ばむ〔二字傍線〕
 ぶる ――大人ぶる〔二字傍線〕 学者ぶる〔二字傍線〕
 めく ――春めく〔二字傍線〕 田舎めく〔二字傍線〕
 らしい ――男らしい〔三字傍線〕 馬鹿らしい〔三字傍線〕 いやらしい〔三字傍線〕
 れる、られる ――叱られる〔二字傍線〕 受けられる〔三字傍線〕
 
用言的接尾語の中、動詞に規則的に附く受身、可能、使役、敬譲の接尾語については、動詞の派生語の項で詳細に述べた。これらの接尾語が、従来、助動詞の中で説かれてゐたものであること、そしてそれが助動詞に所属するものでなく、詞として接尾語に所属させなければならないといふ根拠については、特に注意する必要がある。
 
(171) (1) 『日本文法学概論』 五八二−五八六頁
 (2) 木枝氏は、『高等国文法新講』品詞編 八二二頁に、接続助詞として説いてゐられる。
 
 ヲ 結
 
 以上述べた詞の下位分類の中には、形式名詞、形式動詞のやうに、名詞、動詞の特殊例と認められるもの、或は接尾語のやうに、各品詞に分属させられるものを、併せて述べたので、それ等を除いて、純粋に品詞と認むべきものは、左の通りである。
 
 一 体言(名詞を含む)
 二 用言
  イ 動詞
  ロ 形容詞
 三 代名詞
  イ 名詞的代名詞
  ロ 連体詞的代名詞
  ハ 副詞的代名詞
 
(172) 四 連体詞
 五 副詞
 
     四 辞
 
 イ 総説
 辞は、「ジ」「てには」「てにをは」と呼ばれ、語の二大別の一として、詞に対立するものである。語の構造上から云へば、概念過程を経ないところの表現で、その一般的性質は、大体次のやうに要約することが出来る。
 
 (一)表現される事柄に対する話手の立場の表現である。
 (二)話手の立場の直接的表現であるから、つねに話手に関することしか表現出来ない。
 (三)辞の表現には、必ず詞の表現が予想され、詞と辞の結合によつて、始めて具体的な思想の表現となる。
 (四)辞は格を示すことはあつても、それ自身格を構成し、文の成分となることはない。
 
 ロ 接続詞
 
(173) 接続詞は、一般に、語、句、文を続ける語であると定義されてゐるが、この定義から、接続詞があたかも物と物とを連結する連機のやうな役目をするものと考へられ易い。言語をこのやうに物化して、物質相互の機能として考へて行くことは、理解を助ける一徃の方法ではあらうが、言語の本質に即して考へて行く方法としては正当ではない。それはどこまでも比喩にしか過ぎない。言語が表現であるとするならば、何よりも先づ接続詞と云はれてゐる語が、如何なる表現の語であるかを明かにしなければならない。
 
 イ 山また〔二字二重傍線〕山を越えてゆく。
 ロ 彼は英語も話せ、かつ〔二字二重傍線〕ドイツ語も読める。
 ハ それは私も読んだ。しかし〔三字二重傍線〕面白い本ではない。
 
右の例の傍線の語は、それぞれに、語、句、文を接続する接続詞であるといはれてゐるが、それがどのやうな理由で接続詞であるといはれるかを検討して見ようと思ふ。これらの接続詞が、何等かの客体的な事柄を表現してゐるかを考へて見るのに、「また」「かつ」「しかし」といふやうな語が、何等かの事実の概念を表現してゐるとは考へられない。イの場合について見るのに、「山」といふ客体的な事柄の外に、何か別の事柄があることが表現されてゐるのではなく、あるものは「山」「山」である。ただこの場合、話手の立場に於いては、(174)「山」が連続してゐるだけではなく、一の山に更に別の山が加つて来るものとして考へられる。山の連続が特殊の意味を以て迎へられるといふ話手の立場の表現として「また」が用ゐられてゐるのである。ロの場合も同様で、事実として表現されてゐるものは、「彼が英語が話せる」といふことと、「彼がドイツ語が読める」といふことであつて、前者に後者が加つてゐると見るか、前者と後者とがただ並列してゐると見るかは、話手の立場の相違で、「かつ」はそのやうな立場の表現を明かにしたものである。もし別の話手であるならば、同じ事実を次のやうに表現するかも知れないのである。
 
 彼は英語が話せ、ドイツ語が読める。
 
ハの場合も同様で、ただ事実をそのまま記述するならば、
 
 私も読んだ。面白い本ではない。
 
となるのであるが、この二の事実に因果関係を見出すのは、話手の立場の相違による。話手が、面白いであらうと期待して読む場合とさうでない場合とでは、当然二の事実の関係が異なるべきで、そのやうな立場の表現が、この「しかし」といふ語によつて表現されるのであ(175)る。以上のやうな理由から、接続詞とよばれてゐる右のやうな語は、第一に話手の立場の表現として辞に所属させるべきものであることが分ると同時に、そのやうな立場が、二の事柄に関係して生じたものであるところから、結果として、語、句、文を接続するといふことになり、これらの語が接続詞と云はれることになるのである。あたかも両性間の愛情は、本質的には常に相手に対する感情の表現としてのみ存在するのであるが、結果から見れば、愛情が両性間を結合してゐるやうに見えるのと似てゐる。
 接続詞の性質を理解するためには、これを詞との関係に於いて見ることと、同じく接続の用をなすと考へられてゐる接続助詞との関係に於いて見ることが大切である。
 
 イ いづれまた〔二字傍線〕おうかがひいたします。
 ロ 昨日はお邪魔しました。また〔二字二重傍線〕その節は御馳走様になりました。
 
イの場合の「また」は、「おうかがひいたします」といふ動作が再び繰返されることを云つたので、体言が副詞的修飾語として用ゐられたものである。この語は、また、同様な意味で、「またの機会」「またぎき」などとも用ゐられる。いづれも体言で詞に属する。ロの場合は、イのやうに属性概念の表現ではなく、話手が或る事柄を、前の事柄に附加へて述べる意図を表現したもので、この場合「また」は「御馳走になる」といふ事実が再び繰返されたこ(176)とを意味してゐるのでは決してない。
 「なほ」といふ語についても、
 
 イ そんなことをされては、なほ〔二字傍線〕困る。
 ロ 明日御注文の品をお届けします。なほ〔二字二重傍線〕その時くはしく御説明します。
 
イは前項の「また」と同様、困りかたの度が一層はげしくなることを云つたので、体言が副詞的修飾語として用ゐられたので、詞に属する。ロは、説明を更にくはしくする意味ではなく、注文を届ける旨を述べ、それに附加へて、説明することをも申し述べる旨を云つたので、前項のロの場合と全く同様である。手紙などに、「なほ」として、別の事項を書き加へるのを「なほなほ書き」などと云ふのは右のやうな意味に於いてである。語形式が同じで、一方が詞に属し、一方が接続詞として辞に属する理由は、以上の具体例によつてほぼ明かになつたことと思ふ。
 次に、接続詞は、意義上、接続助詞といはれる一群の助詞と極めて近似してゐるので、その相違を明かにして置く必要がある。接続詞を辞に所属させるならば、それは接続助詞と根本的に所属をひとしくしてゐるので、更にそれぞれの特質を明かにして置かなければならない。助詞は、常に詞と結合して句を構成し、詞によつて表現される事柄に対する話手の立場(177)の表現であるが、接続詞は、それに先行する表現に対する話手の立場の表現であることに於いて助詞と共通するが、常に詞と結合して句を構成せず、形式上、それだけで独立してゐる。
 
 山と〔二重傍線〕、山を超えて行く(助詞)。 山また〔二字傍線〕山を越えて行く(接続詞)。
 それは私も読んだが〔二重傍線〕、面白い本ではなかつた(助詞)。 それは私も読んだ。しかし〔三字二重傍線〕面白い本ではなかつた(接続詞)。
 彼は英語も話せるし〔二重傍線〕、ドイツ語も読める(助詞)。  彼は英語も話せ、かつ〔二字二重傍線〕ドイツ語も読める(接続詞)。
 
上段の助詞の場合は、形式上、上の語或は句に密接し、それで一の句を構成してゐることは他の助詞の場合と全く同じであるが、これらの助詞が、その意味上、他の思想を並列、展開させるところから、接続助詞と云はれるのである。これに反して、下段の接続詞と云はれるものは、形式上、それだけで独立して詞を伴はない。これは一見、辞としての原則に反してゐるやうに見えるのであるが、それは形式的にさうなのであつて、意味的に見るならば、接続詞も、必ずそれに先行する思想の表現を予想しなければ成立しないことは明かである。
 
(178) けれども〔四字傍線〕、私は行かなければなりません。
 しかし〔三字二重傍線〕、もう駄目です。
 
のやうな文は、それに先行するものとして、「今日はひどい雨です。」とか、「私は全力を尽しました。」といふやうな思想を受けて、はじめて「けれども」「しかし」といふことが出来るのである。従つて、辞としての接続詞も、広い意味に於いて詞を予想すると云ひ得るし、またそのやうに理解することが、接続詞の正しい処理であると云ひ得るのである。ここに接続詞と接続助詞との密接な関係が考へられるのである。
 
 雨がひどく降つた。だが〔二字二重傍線〕道はさほど悪くない。
 
「だが」は、先行文の陳述を「だ」で受け、それに助詞「が」の加つたもので、助動詞と助詞との複合であるが、一般の助詞助動詞の通則である詞との結合を持たず、それだけで独立してゐるので、これを接続詞といふことが出来るのである。「だが」の代りにただ「が」といふことがあるが、この場合は起源的には接続助詞で、なほかつこれを接続詞といふことが出来るのは、助詞としての結合機能を持たないからである。このやうに、接続助詞と接続詞との間には、密接な関連があるのである。
(179) また次のやうな例に於いて、
 
 雨が止んだ。すると〔三字二重傍線〕急に鳥が鳴き出した。
 雨が止んだ。それで〔三字二重傍線〕鳥が鳴き出した。
 
「すると」の「する」は、「雨が止む」といふ動詞を受けたものであるから、詞に属すべきもので、それに接続助詞「と(1)」が附いたものであるから、全体で詞と辞の結合した句であり、かつ、「と」は接続助詞としての結合機能を持つてゐる。このやうな「すると」を接続詞と見るべきか、或は句として、「と」を助詞と見るべきかの問題が起こる。これに対する解答は、「すると」を詞と辞との結合と見るのは、この語の語原的分解であつて、今日の主体的意識に於いては、もはや「する−と」の意識は無くなつて、むしろ次の表現と同価値になつてゐる。
 
 雨が止んだ。と〔二重傍線〕急に鳥が鳴き出した。
 
そこで、前項の「だが」「が」を接続詞と認めたと同様な意味で、「すると」を接続詞と認めることが出来るのである。次の「それで」についても同様なことが云へるのである。以上の(180)「すると」「それで」の「する」「それ」が、明かに先行文の内容を表現してゐるとは意識されなくなつても、これらの接続詞が、常に先行文の意味を承けてゐるといふ意識のあることは認められると思ふ。これらの語が接続詞と云はれる理由である。
 以上の説明の中、「それで」といふ接続詞については、なほ附加へるべき重要なことがある。「それで」は、その成立について云へば、「それ」と助動詞「だ」の連用形「で」の結合であり、かつ、「それ」は先行文に示されてゐる「雨が止んだ」といふ事実であるといふことは既に述べたことであるが、この場合の「それ」は代名詞であることは明かである。そして、それは、特定の事柄と、話手との間の関係概念を表現し、かつそのやうな関係にある事柄を表現する機能を持つものであるから、「それで」は、先行文に述べられた事実を、次の文に関係させる機能を持つ訳である。これが、接続詞の持つ重要な機能であつて、「それで」がその起源的意味を失つた後でも、独立した接続詞として右のやうな機能を持ち続けるのである。接続詞は、従来、極めて軽く扱はれて来たが、それは従来の文法研究の対象が、語もしくは文の範囲に限られて居つたがためである。従つて、主語、述語、修飾語といふやうなものは、文の構成要素として重要視され、これに反して、接続詞のやうなものは、文の構成要素以外のものとして、これに注意を払はれることが少かつた。しかし、もし文章を思想の展開と見る時、文章を構成する個々の文の間係といふことが重要な問題になつて来る。その場合、注意の焦点は当然この関係に重要な役割を持つ代名詞、接続詞に注がれなければ(181)ならないのである。そして、接続詞成立に代名詞が重要な関係を持つことは以上の説明によつて明かにされたと思ふ。
 それならば、接続詞はどのやうにして、二の思想を結ぶのであらうか。
 
 雨が止んだ。それで鳥が鳴き出した。
 
右の接続詞を伴ふ表現は、その意味に於いて、
 
 雨が止んで、鳥が鳴き出した。
 
と同じである。そして、「雨が止んで」を一般に、副詞的(或は連用)修飾節と呼んでゐる。何となれば、「雨が止む」といふ事実は、「鳥が鳴き出す」といふ事実の条件になつてゐると考へられるからである。今もしこの二の思想を、接続詞を以て結び、かつ「それで」といふ語に、先行文の思想が含まれてゐるものと解することが出来るとするならば、「それで」は副詞、或は副詞的修飾語と認めて差支へないことになる。山田博士の主張される接続副詞の考方はこのやうにして生まれて来たものと考へられるのである(2)。これに対する解答は次の通りである。既に述べたやうに、明かに接続詞と認められるものは、辞に属し、詞と区(182)別される。従つて、辞は格を表現するけれども、それ自身格に立つことはない(このことは後の文論の格の項で述べる)。今もし、「それで」が辞であるとするならば、それはただ思想の転換することを直接的に表現したので、「それで」自身が何等かの格に立つといふやうに考へることは出来ないのである。もし山田博士の説が認められるとするならば、それは、「それで」の中の「それ」といふ語だけが、下の述語に対して、副詞的修飾語に立つといふことが云へるのである。ところが、ここでは、「それで」はも早一語として、これ以上分析することが出来ないものとするならば、副詞的修飾語の格に立つのは、先行の「雨が止んだ」といふ文、或は「雨が止んで」といふ節でなければならない。換言すれば、「それで」は、先行文に副詞的修飾格を附与する辞と考へるべきであるといふことになるのである。この事実は、次の二の用例について見れば一層明かにされるであらう。
 
 イ 彼は私に水を飲ませて呉れました。それから〔四字傍線〕路銀のために若干の金まで恵んで呉れました。
 ロ 私は〇月東京に着いた。それ〔二字傍線〕から〔二字二重傍線〕急いで彼の家にかけつけた。
 
右の中、イの場合は、辞としての「また」「なほ」と同様に、或る事柄を云ひ添へることを云つたもので、明かに接続詞であるが、ロの場合は、「それから」の「それ」が先行文を明(183)あに承けてゐるので、「それ」を下の述語の副詞的修飾語であると云ふことが出来る。今もしこの両者を共に接続詞と云つた場合でも、イはただ表現を附加へるための表現であり、ロは、前後の文の論理的関係を表現するのであるから、これを副詞的接続詞と呼ぶことが出来るであらう。即ち、前後の文を副詞的修飾語の意味で関係づける接続詞の意味である。
 
 接続詞の概念を明かにするために、凡そ語・句・文の接続の表現は、どのやうにしてなされるかを考へて見ることも必要である。
 
 一 語に関して
  1 接続詞による
   犬或は〔二字二重傍線〕猫  老人及び〔二字二重傍線〕病人
  2 単に語を並べる(この場合符号の助を借りることがある)
   山川草木  金・銀・鋼・鉄
 
 二 句或は節に関して
  1 接続詞による
   鳥が鳴き、そして〔三字二重傍線〕花が咲く。
(184)   風が吹き、かつ〔二字傍線〕雨がはげしい。
  2 接続助詞による
   鳥が鳴いて〔二重傍線〕、花が咲く。
   春が来たけれども〔四字二重傍線〕、花が咲かない。
  3 用言、助動詞の連用中止法による
   鳥が鳴き〔二字傍線〕、花が咲く。
   風が寒く〔二字傍線〕、温度が降る。
   彼は健康で〔二重傍線〕、気分も朗かだ。
 
 二 文に関して
  1 接続詞による
   鳥が鳴く。そして〔三字二重傍線〕花が咲く。
   風が吹く。けれど〔三字二重傍線〕寒くない。
  2 文をただ連ねる
   鳥が鳴く。花が咲く。
   風がはげしく吹きつける。船は木の葉の様に奔弄される。
 
(185) 思想の展開、接続は大体以上のやうな方法で表現されるのであるが、接続詞及び接続助詞がその一半の任務を負ふことは、既に述べたところで明かにされた。接続詞或は接続助詞の助を借りずに、ただ用言の連用中止法を以てするのは、現代語法では、大体、順態接続の場合に限られるやうである。これを以て見ても、接続詞の機能は、接続の関係を特に明かにするところにあり、またそのために発達して来たものと考へられるのである。接続形式の最も単純なものは、用言及び助動詞の連用中止法にあると云ふことが出来る。そこで、この連用中止法といふものが如何なるものであるかを見るに、用言に於いては、詞の活用形に属することであるが、それは用言の概念内容に関することでなく、用言に加へられた零記号の陳述に関することで、陳述の未完結形式が用言の活用形式を借りて具現したものと見ることが出来るのである。陳述は辞と同価値と認めることが出来るから、接続の表現は、本来的に辞の受持つ任務であるといふことが出来る訳である。これを図に示すならば、
 
 零記号の辞の未完結形式(用言の連用中止法)=接続助詞=接続詞
 
 以上述べたところによつて明かなやうに、接続詞の持つ機能は、極めて重要なものであり、それを反映してか、接続詞を語原的に分析すれば、その中には、辞の持つ陳述機能、代名詞、助詞等の機能が織込まれてゐる。それにも拘はらず、接続詞の品詞目を認めることは(186)充分に認められてよいのではないかと思ふ。
 接続詞として認められてゐるものを左に掲げて置く(中に問題になるものも含める)。
 
 が かつ けれど(も)
 さて さらに されば
 しかし しかしながら したがつて しかるに
 すると すなはち
 そうすると そうして そこで そして そもそも そのうへ
 それで(も) それとも それに それどころか それ故
 それから それなら それだから そのくせ
 ただ ただし だが だから だつて だけど だのに だつたら
 ついては つぎに
 で では でも ですが でしたら
 と ところが ところで とはいふものの
 なほ ならびに
 はた はなしかはつて
 また または もつとも
(187) ゆゑに よつて
 
 (1) この場合の「と」を助詞と考へることについては、次のやうな異説を提出することが出来る。本書に於いては、右のやうな「と」を不完全形式を持つ指定の助動詞の連用形とみなして、陳述性を持つものと解した(指定の助動詞「と」の項参照)。従つて、「すると」は、零記号の陳述を伴ふサ変動詞の連用形と同じ資格を持つたものと解することが出来る。更に進んで、この場合のサ変動詞は、先行文の動詞「止む」を受けてこれを繰返すところの代用動詞と考へるならば、この例文は次の表現と同じ意味となるのである。即ち、
 
 雨が止んだ。雨が止み〔四字傍線〕急に鳥が鳴き出した。
 
右の傍線の概念内容を省略し、ただその陳述性のみを残して表現すれば、次に掲げる
 
 雨が止んだ。と〔二重傍線〕急に鳥が鳴き出した。
 
になると見ることが出来る。従つて、この「と」は、接続詞と見るよりも、指定助動詞の連用形と見て、詞を伴はない辞の用法と見ることも出来る。これを図解すれば次のやうになる。
 
 雨が止んだ。□〔こういう場合の□は長方形だが、便宜□にした、以下同じ、入力者〕と※[□で囲む]急に鳥が鳴き出した。
 
(188) 同じやうなことは、助動詞「だ」の連用形「で」についても云はれる。
 
 雨が止んだ。で〔二重傍線〕急に鳥が鳴き出した。
 
右のやうな助動詞の連用形が、用言の連用形と共に、接続を表現することは、後に説くところである。
 
 (2) 『日本文法学概論』 三九二頁以下
 
 ハ 感動詞
 感動詞は、感歎詞、間投詞とも云はれ、話手の感情や呼びかけ応答を表現する語である。感情、呼びかけ、応答の表現ではあるが、これら話手の思想内容を客体化したり、概念化することなく、直接的に表現するものであることに於いて、これを辞の一種と見ることが出来る。感動詞が常に話手の感情、応答の表現であつて、第二人称者や第三人称者の感情や、応答を、「おや」とか「まあ」といふ風に表現出来ないことは極めて自明のことである。感動詞は辞に属する語ではあるが、他の辞と異なることは、そのやうな感情、応答の志向対象となる事柄の表現を伴はずに、それだけで独立して表現されることである。しかし、感動詞によつて表現される感情や応答に対応する客体的な事柄の存在することは明かであつて、喜びの感情の表現には、そのやうな主体的感情の志向する客体的な事柄があり、「いいえ」といふ拒否の応答には、相手の何等かの勧誘なり、要求がある訳である。ところが、感動詞に於(189)いては、そのやうな感情の志向対象である事柄の表現を伴はずに、ただ主体的な感情だけが表現されるのであるから、辞としては、云はば例外的であると云ふべきである。しかし、これは、客体的なものが省略されたと見るべきでなく、むしろ主客合一、主客未剖の表現であると見るべきである.従つで、感動詞は、それだけで、具体的な完結した表現と認めることが出来るから、一の文と見なすことが出来るのである。感動詞が、「文相当のもの」(sentence equivalent)と云はれる理由はそこにある。
 感動詞は右に述べたやうに、主客未分の表現であるから、感動詞に続いて現れる表現は、多くの場合、その未分のものの分析であることが多い。
 
 ああ〔二字傍線〕、面白い本だ。
 
に於いて、「面白い本だ。」といふ表現は、「ああ」といふ感動の言語的分析になつてゐるのである。「いいえ、私は行きません。」「やれ、これで安心だ。」等に於いてこれを理解することが出来る。感動詞とそれに続く文との間には、以上のやうな密接な連関があるので、感動詞は、文法上では一文をなすが、句読法の上では、点を以て続けることが多い。
 山田孝雄博士は、感動詞とその後続文との間に右のやうな関係があるところから、感動詞を感動の副詞として副詞の中に所属させて居られるが(1)、副詞と感動詞の、語の性質上の相違(190)が以上の如くであり、かつ、感動詞を後続文の修飾語と見ることに甚しく無理があると考へられるのである。
 感動詞は、感動と応答の音声的表現であるが、それならば、一切の感動、応答の表現、例へば、溜息のやうなものも感動詞であるかと云ふに、感動詞が言語であると云はれるには、やはりそこに社会慣習的な形式を持つ必要がある。或る個人が驚いた時に、「ケー」と叫んだとしても、それは単なる叫声であつて感動詞と云はれないことは、個人が勝手に線を組合せて備忘の用にしたとしても文字と云ふことの出来ないのと同じである。
 
 (1) 『日本文法学概論』 三六九頁
 
 二 助動詞
 助動詞の名称が不適当なものであり、従つて今日一般に文法書で説かれてゐる内容についても、検討を要するものであることは、総論の文法用語の項で述べたことであり、また助動詞中の受身、可能、使役、敬譲の意を表はす「れる」「られる」「せる」「させる」は、助動詞としてよりも、接尾語として取扱ふべきものであることも、動詞の派生語の項で述べたことである。本書では、国語研究の古い伝統にむしろ合理性を認め、古い用語法に従つて、これを動詞と共に辞(或は、てには、てにをは〔七字傍点〕)に属するものとして取扱ふこととした。従つ(191)て、助動詞の名称も、近世の国語研究に於いて用ゐられた動くてには〔五字傍点〕、或は動助詞の名称を適当と考へるのであるが、暫く慣用に従ふこととし、ただ概念規定に於いて改訂を試みることとした。
 以上述べたやうに、助動詞は辞に属するものとして、辞の一般性に於いて、他の感動詞、接続詞、助詞と同様に、話手の立場の直接表現であり、従つて、話手以外の思想を表現することの出来ないものであり、常に詞と結合して始めて具体的な思想の表現となることに於いて共通するのであるが、最もその性質が近い助詞と比較して、次の点に於いて重要な相違が認められる。
 助動詞は、話手の立場の中、何等かの陳述を表現するものであり、そのことのために、助動詞は、多くの場合に活用を持つことになるのである。用言は、単純な肯定判断の陳述の場合は、一般には零記号の形に於いて陳述が表現される。換言すれば、陳述の辞を用ゐず、その代りに、用言それ自身の活用によつて下の語に接続するのである。
 
 体言                体言
 暖か〔二字傍線〕な〔二重傍線〕日  暖か〔二字傍線〕だ〔二重傍線〕。(「な」「だ」 は指定の助動詞の活用形)
 用言          用言
 暖かい〔三字傍線〕日  暖かい。(「な」「だ」に相当する辞が省略され、用言の活用形がその代用となる)
 
(192)助動詞によつて表現される陳述と、それに属する語は次のやうに分けられる。
 
 一  指定     だ ある
 二  打消     ない ぬ まい
 三 過去及び完了  た
 四 意志及び推量  う よう だらう らしい べし
      −指定  ます です でございます ございます
 五 敬譲 −打消  ません でありません ありません
      −推量  でせう
 
(一) 指定の助動詞 だ
語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
           で      な
 だ    で    に   だ  の   なら  ○
           と
(193) 指定の助動詞は、話手の単純な肯定判断を表はす語である。この中、「に」「と」「の」は、従来助詞として取扱はれてゐたものであるが、下に挙げる例によつて知られるやうに、そこには明かに陳述性が認められるので、これを助動詞と認めるのが正しいであらう。また、右の表に掲げた各活用形は、その起源に於いては、それぞれ異なつた体系に属する語であつたであらうが、今日に於いては、一の体系として用ゐられるやうになつたものである。
 本書に於いては、形容動詞を立てないから、従来形容動詞の語尾と考へられてゐた「だら」「だつ」「で」「に」「だ」「な」「なら」は、そのまま、或は分析されて、すべて右の活用形に所属させることが出来る。次に用例を活用形に従つて掲げることとする。
 
  未然形(1)
   体が健康で〔二重傍線〕ない。
  連用形
   体が健康で〔二重傍線〕ある。(「ある」は指定の助動詞であるから、この場合は二重指定の表現といふことが出来る)
   体が健康で〔二重傍線〕あらう。(健康だらう(2))
   体が健康で〔二重傍線〕、性質が愉快だ。(中止の場合)
   私は健康で〔二重傍線〕働いてゐます。(連用修飾的陳述を表はす場合)
(194)   月明かに〔傍線〕、風涼し。(中止の場合、文語だけに用ゐられる)
   元気に〔二重傍線〕、愉快に〔二重傍線〕働いてゐる。(連用修飾的陳述を表はす)
   隊伍整然と〔二重傍線〕行進する。(連用修飾的陳述を表はす)
   花が雪と〔二重傍線〕散つてゐる。(右に同じ)
   「今日は行かない」と〔二重傍線〕云(3)つてゐた。(右に同じ)
   野と〔二重傍線〕なく、山と〔二重傍線〕(4)なくかけまはる。
  終止形
   今日は日曜だ(5)〔二重傍線〕。
  連体形(6)
   それが駄目な〔二重傍線〕時
   僅かの〔二重傍線〕御礼しか出来ない。
  仮定形(7)
   明日おひまなら〔二字二重傍線〕、お出かけ下さい。
   気分が悪いなら〔二字二重傍線〕、お止めなさい。
   あなたが行く〔二字二重傍線〕、一緒に行きませう。
 
「なか」の接続する活用形を未然形の「で」としたのは、「ない」が動詞に於いて、一般に未(195)然形に付くのを原則とするところから、考へたことである。動詞では、未然形に付く助動詞として「ない」の外に「う」があるが、「で」の場合には「う」はそのまま付かず、中間に「ある」といふ助動詞を介して付くことになる。「ある」は動詞の場合と同様、連用形の「で」に付くから、「で」の未然形の用法は「ない」に付く時だけといふことになる.そのやうな点からも、「ない」は連用形の「で」に付くと考へた方が簡明であるとも云へる。
(2) 「であらう」の結合した「だらう」を本書では、別に推量の助動詞としても取扱つてゐる。分析的に考へれば、「で」は指定、「あら」も指定、「う」は推量であるから、これを総括して推量といふことが出来るわけである。推量の助動詞は、これを厳密に云へば、推量的陳述或は推量的指定の助動詞といふことが出来るからである。
(3) 引用文を受ける「と」も全く同じで、引用文全体に、連用修飾格の資格を与へるもので、前の二の例と文法的関係に於いて差異はない。
(4) この場合も前例と同様であるが、打消の助動詞「ない」を伴つてゐる。「となく」は、「でなく」と同じ意味であるが、幾分古い形であると云つてよい。「でなく」に対して「である」があるやうに、「となく」に対して「とある」或は「とする」がある。「とある」が「たる」となることは一般に知られてゐる。「とする」の「する」は形式動詞として殆ど陳述のみの表現に転成することがある。
 
 とある〔三字二重傍線〕家の側に(「と」の上にあるべき連体修飾語が省略されたものと見ることが出来る)
 一つと〔二重傍線〕して上手に出来たものがない。
 
 また次のやうな例も同様に考へることが出来る。
 
(196) 雪子は昔を恋ふるあまり、さういふ義兄の行動を心の中で物足りなく思ひ、亡なつた父もきつと自分と同様に感じて、草葉の蔭から義兄を批難してゐるであらうと思つてゐた。と〔二重傍線〕、ちやうどその時分、父が死んで間もない頃(『細雪』上)
(5) 「だ」はどのやうな品詞に接続するかと云へば、
 
 (一)名詞及び体言 山〔傍線〕だ〔二重傍線〕。 それは僕の生命〔二字傍線〕だ〔二重傍線〕。 行くの〔傍線〕だ〔二重傍線〕。 花のやう〔二字傍線〕だ〔二重傍線〕。 ほがらか〔四字傍線〕だ〔二重傍線〕。  元気〔二字傍線〕だ〔二重傍線〕。  駄目〔二字傍線〕だ〔二重傍線〕。
 (二) その他、方言では用言の零記号の陳述の代用に用ゐられることがある。
    それはいけない〔四字傍線〕だ〔二重傍線〕。  もつとやらす〔三字傍線〕だ〔二重傍線〕。
 
 従来、形容動詞の終止形の語尾と考へられたものは全部これに入ることになる。
(6) 「な」「の」は、屡々共通して用ゐられるが、語によつて、「な」の附く場合と「の」の附く場合とがある。「駄目の」「僅かな」とも云ふことが出来るが、「突然」「焦眉」「混濁」等には「の」がつき、「親切」「孤独」「あやふや」等には、大体に「な」がつくやうである。
(7) 「なら」は「ならば」とも用ゐられる。体言について仮定的陳述を表はし、また用言にもつく。この場合は、用言の仮定形に「ば」のついたものと同じになる。用言の零記号の陳述とこの指定の助動詞とが同じ価値になるわけである。
 
 (二)指定の助動詞 ある
 
(197)語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
 ある      あら  あり  ある  ある  あれ  あれ
 
 指定の助動詞「ある」は、元来、詞としての動詞「あり」が陳述を表はす辞に転成したもので、指定の意味から云へば、前項の「だ」と同じであるが、文語では、接続機能の少い「に」「と」と結合して、「なり」「たり」といふ助動詞を構成する。このやうに、「あり」は、他の用言或は助動詞の接続機能を助ける役目を持つ。「あり」は、単純な肯定判断を表はす助動詞であるから、これが附いても、陳述の内容に変化は無く、時に肯定判断を強めるやうな場合もある。前項の「だ」に於いて、推量の陳述を表はす場合、一般に動詞ならば、未然形に「う」を附ければよいのであるが、「だ」の場合には、未然形「で」に「う」を附けることが出来ない。そこで、「で」と「う」の中間に「ある」を加へて次のやうにいふ。
 
 彼は正直で−あら−う(正直だらう)。
 
従つて、意味は、単に陳述に推量の加つたものに過ぎない。これと同じことが形容詞の場合にも適用される。
 
(198) 風が寒く−あら−う(寒からう)。
 
形容詞の零記号の陳述が、「ある」といふ助動詞に置換へられて、その接続を助けるのである。同様のことが、過去及び完了を表はす場合にも起こる。
 
 彼は正直で−あつ−た(正直だつた)。
 風が寒く−あつ−た(寒かつた)。
 
「あり」が附いても、陳述の内容に変化が無いから、前項の「だ」の活用形に、更に「ある」を加へても、同じ意味を表はすことが出来る。肯定判断が二重になつたのであるから、陳述が一層念入りになつたとも見ることが出来る。
 
 彼は政治家で−あり、また音楽家で−ある(政治家で、音楽家だ)。
 波がおだやかで−あれば、愉快で−ある(おだやかなら愉快だ)。
 
「ある」が否定を表はす打消助動詞に加つた時も、従つて、打消の意味に増減はない。
 
(199) 我が生活楽にならず−あり(ならざり、ならず。文語)。
 
未然形(1)
 君はいやであら〔二字二重傍線〕う。
 花もぢき咲くであら〔二字二重傍線〕う。
連用形
 今日は休日であり〔二字二重傍線〕、大変な人出です。
 昨日は寒くあつ〔二字二重傍線〕た(寒かつた)。
終止形
 成績は良好である〔二字二重傍線〕(「良好だ」と同じ)。
 色は紅に−あり(紅なり。文語)。
 前途洋々と−あり(洋々たり。文語)。
連体形
 彼が健在である〔二字二重傍線〕ことは頼もしい(「健在なこと」と同じ)。
仮定形
 正直であれ〔二字二重傍線〕ば、きつと成功する(「正直なら〔二字二重傍線〕」と同じ)。
(200)命令形
 勤勉であれ〔二字二重傍線〕。
 
 (1) 「であらう」は「だらう」ともいひ、それ全体で推量の助動詞として用ゐられる(推量の助動詞の項参照)。
 
(三) 打消の助動詞 ない
語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
 ない    〇   なく  ない  ない  なけれ ○
未然形(1) 口語では用ゐられない。
連用形(2)
 風も吹かなく〔二字二重傍線〕て、愉快な遠足でした。
 体も丈夫でなく〔二字二重傍線〕、余り無理は出来ない。
 気温も寒くなく〔二字二重傍線〕、快適だ。
終止形
(201) 一向本も読まない〔二字二重傍線〕。
 今日は暑くはない〔二字二重傍線〕。
 体は丈夫でない〔二字二重傍線〕。
 本も読まない〔二字二重傍線〕で、遊んでゐる。
 病気はたいして悪くない〔二字二重傍線〕らしい。
連体形
 あの人が来ない〔二字二重傍線〕のは珍らしい。
 このことを知らない〔二字二重傍線〕人はありません。
仮定形
 勉強しなけれ〔三字二重傍線〕ば、駄目だ。
 寒くなけれ〔三字二重傍線〕ば、出かけよう。
 
接続のしかたは、動詞形容詞においてはその未然形に附く。ただし、四段活用の「ある」には附かない。必要のある時は、形容詞の「ない」を用ゐる。
 
 机の上には本がない〔二字傍線〕(「本があらない」とは云はない)。
 
(202)また、助動詞「だ」の未然形「で」にも附く。
 
(1) 一般に未然形に附く推量の「う」は、連用形から「ある」を介して次のやうにいふ。
 
 病気ではなく〔二字二重傍線〕−あら−う(なからう)と思ふ。
 
また、「食べなくない」「なくない」といふ二重の打消も考へられなくはないのであるが、比較的少いので、未然形を欠くこととした。
(2) 動詞の未然形に附く「ない」は、一般に助動詞と認められてゐるが、形容詞の未然形に附く「ない」は、助動詞でなく、形容詞であるとされてゐる。その理由は、形容詞の場合は、
 
 寒くはない。  寒くもない。
 
といふやうに、形容詞と「ない」との間に、助詞「は」「も」等を介入させることが出来るからといふのであるが、それは、この「ない」を形容詞であるとする理由にはならない。意味は動詞に附く時と同様に、打消であることに変りはない。動詞に附く場合には、「は」「も」等の助詞を次のやうにして用ゐる。
 
 流れはしない。  流れもしない。
 
即ち、動詞の場合には、「しない」が打消助動詞と同じ資格になるのである。この場合のサ変の「し」(203)は形式動詞の項に述べたやうに、殆ど陳述性のみの表現に転成してゐると見ることが出来る、このやうな表現法は、文語の形容詞の否定表現にも現れるのであつて、例へば、
 
 寒くはあらず。  寒くもあらず。
 
に於いて、「あら」は、詞としての動詞から陳述の表現である辞に転成したもので、「あらず」が全体で否定の辞としての役目をしてゐる。口語形容詞につく「ない」は、この「あらず」の置換へられたものであるから、当然助動詞と考へられなければならない。
 
(四) 打消の助動詞 ぬ
 
語/活用形 未然形 連用形 終止形  連体形    仮定形 命令形
 ぬ     ○   ず  ぬ (ん) ぬ (ん)  ね   ○
 
打消助動詞「ぬ」は、文語の残存形として、或は方言として用ゐられる。
 
 未然形 口語では用ゐられない。
 連用形
(204)  飲まず〔傍線〕、食はず〔傍線〕、歩く。
  そんなことにとんちやくせず〔二重傍線〕、仕事を続ける。
 終止形
  そんなことは引受けられん〔二重傍線〕。
  誰も来ん〔二重傍線〕ね。
 連体形
  早くやらん〔二重傍線〕ことには、間に合はん。
 仮定形
  切符を買はね〔二重傍線〕ば乗れません。
 
 接続のしかたは、動詞においては未然形に附く。ただし四段活用の「ある」には附かない。必要のある時は、形容詞の「ない」を用ゐることは、打消助動詞の「ない」の場合と同じである。
 サ変の動詞に附く時は、「しぬ」と云はずに、「せぬ」と云ふ。これは、「ぬ」が文語的であるために、文語サ変動詞の未然形に接続する形が残されてゐるのである。
 形容詞においては、そのまま附かずに、助動詞「ある」を介する。
 
(205) 暑からず〔二重傍線〕、寒からず〔二重傍線〕、まことに愉快だ(暑く−あら−ず、寒く−あら−ず)。
 好ましからぬ〔二重傍線〕評判を聞く。
 
 「ぬ」は右に述べた活用系列の外に、連用形の「ず」に「ある」を介する用法が並び行はれるが、文語的用法である。
 
 いらざる〔二字二重傍線〕ことを云ふものだ(「いらず−ある−こと」の意、「いらぬ」と同じ)。
 思はざる〔二字二重傍線〕も甚しい。
 
 橋本進吉樽士は、右のやうに、「ず」と「ある」とが結合した「ざり」を、「ず」とは別の一助動詞として居られる。さうすれば、同様に、「ない」「べし」に対して、「なく−ある」「べく−ある」の結合した「なかる」「べかる」も一助動詞としなければならないことになる。
 
(206)(五)打消の助動詞 まい
 
語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
 まい    〇   〇  まい  (まい)  〇   〇
 
 終止形
  その話は知るまい〔二字二重傍線〕。
  つまらぬことは考へまい〔二字二重傍線〕。
 連体形
  あるまい〔二字二重傍線〕ことでもない。
 
 接続のしかたは、四段活用の動詞においてはその終止形に、その他の動詞においてはその未然形に附く。
 「まい」は、第一人称に関する動詞に附く時は、打消に意志が伴ひ、他の人称に関する動詞に附く時は打消に推量の意が伴ふ(「多分、私は行かれますまい〔二字二重傍線〕」の時は推量。
 
 私は行くまい〔二字二重傍線〕(意志)。
(207) あの人は行くまい〔二字二重傍線〕(推量)。
 
 (六)過去及び完了の助動詞 た
 
語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
 た    たら   ○   た   た   たら  ○
 
 「た」は、起源的には接続助詞「て」に、動詞「あり」の結合した「たり」であるから、意味の上から云つても、助動詞ではなく、存在或は状態を表はす詞である。
 
 をみなへしうしろめたくも見ゆるかなあれたる〔二字傍線〕宿にひとり立てれば(『古今集』秋上)
 老いたる〔二字傍線〕人
 
右のやうな例は、「荒れてゐる」「老いてゐる」の意味であるから、詞と見るべきものである。このやうな「てあり」の「あり」が、次第に辞に転成して用ゐられるやうになると、存在、状態の表現から、事柄に対する話手の確認判断を表はすやうになる。過去及び完了の助動詞と云はれるものはそれである。過去及び完了と云へば、客観的な事柄の状態の表現のや(208)うに受取られるが、この助動詞の本質は右のやうな話手の立場の表現であるが、従来の習慣に従つて過去及び完了の語を用ゐることとした。山田孝雄博士が、回想及び確認といふ語を用ゐて居られるのは以上のやうな理由に基づくのであらう。
 「た」の起源が以上のやうな有様であるために、現在でも、存在、状態を表はす用法がある。
 
 尖つた〔傍線〕帽子 曲つた〔傍線〕道 さびた〔傍線〕刀
 
 しかしこのやうな用法はすべての動詞にあるわけではなく、「走つた犬」「泳いだ魚」「読んだ人」は、「走つてゐる」「泳いでゐる」「読んでゐる」の意味ではないから、前者のやうな存在、状態を表はす「た」は接尾語と見て「尖つた」「曲つた」は、複合的な詞として連体詞に所属させるのが適当である。そして、単語としての「た」はすべて助動詞と認めるべきである。
 
 未然形
  汽車が着いたら〔二字二重傍線〕う。
 終止形(2)
(209)  昨日は風が吹いた〔二重傍線〕。
勝負は決まつた〔二重傍線〕。
風が寒かつた〔二重傍線〕(寒く−あつ−た)。
 連体形
  君に送つた〔二重傍線〕手紙
  私が読んだ〔二重傍線〕本
 仮定形
  着いたら〔二字二重傍線〕、電報を下さい。
  話したら〔二字二重傍線〕ば、驚くでせう。
 
 接続のしかたは、動詞にはその連用形に附き、形容詞には、助動詞「ある」を介してその連用形に附く。
 サ行以外の四段活用の動詞に附く時は、その連用形は音便になり、ナ行マ行バ行の場合は、「た」が連濁になつて、「だ」となる。
 書い〔右○〕た(イ音便)
 勝つ〔右○〕た(促音便)
(210) 呼んだ〔二字右○〕(撥音便、連濁)
 
 (1) 『日本文法学概論』第十五章 復語尾各説
 (2) 「た」が事柄の客観的な状態の表現でなく、話手の立場の表現として、回想或は確認を表はすものであることは、例へば、「勝負はきまつた」といふ表現は、必しも客観的な事柄として勝負が既に完了した時ばかりでなく、話手が、勝負の数を見通して、その決定を確認したやうな場合でも云ふことが出来るのである。甲は「勝負はきまつた」と表現しても、乙は必しもそのやうに表現しない場合がある。話手の立場によつて定まるので、事柄によつて定まるのではない。しかしながら、そのやうな話手の立場は、事柄の客観的な事情に基づくことが多いので、この両者には相互に密接な関連がある。「手紙が来ない」「風は寒くない」といふやうな否定判断は同時に、「手紙」「風」についての状態を表現してゐるわけであるから、「来ない」「寒くない」をそれぞれ形容詞と見ることも出来る。(『国語学原論』二八八頁の註を参照)。
 
(七)意志及び推量の助動詞 う よう
語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
 う     ○   ○   う  (う)  ○   ○
よう     ○   ○   よう (よう) ○   ○
(211) 「う」「よう」は、起源的には話手の推量の意を含めた陳述を表はす助動詞であるが、今日ではむしろ意志を表はす助動詞と云つた方が適切である。従つて、それらの陳述の内容をなす述語は、第一人称に限られてゐる。例へば、
 
 明日は出かけよう〔二字二重傍線〕。
 
と云へば、述語「出かける」の主語は、第一人称の「私」であつて、「あなた」或は「彼」ではない。従つて、第二人称或は第三人称の動作に関しては用ゐることが出来ない。
 
 父は明日出かけよう〔二字二重傍線〕。
 あなたは明日出かけよう〔二字二重傍線〕。
 
などとは云ふことが出来ない。
 しかしながら、「う」「よう」は、本来、推量を表はす助動詞であつて、次のやうな場合には今日でも例外的に推量を表はすものとして用ゐられてゐる。
 月が登らう〔二重傍線〕としてゐる。
(212) そんなこともあらう〔傍線〕。
 それもよからう〔二重傍線〕(よく−あら−う〔二重傍線〕)。
 
 「う」「よう」が話手の意志の表現に転用されるやうになつた結果、推量を表はす語が別に用意されるやうになつた。それが次項に述べる「だらう」である。「だらう」はすべての人称を通じて推量を表はす語として用ゐられてゐる。
 
 終止形
  今日は大にがんばらう〔二重傍線〕。
  もう起きよう〔二字二重傍線〕。
  さぞうれしからう〔二重傍線〕(推量)。
  それを云はう〔二重傍線〕としてゐた(推量)。
 連体形
  そんなことを信じよう〔〔二字二重傍線〕筈がない(推量)。
 
 接続のしかたは、「う」は四段活用動詞の未然形に附き、「よう」はその他の動詞の未然形に附く。形容詞には、助動詞「ある」を介して附く
 
(213) (八)推量の助動詞 だらう
 
語/活用形 未然形 連用形 終止形  連体形   仮定形 命令形
 だらう   〇   〇   だらう (だらう)  ○   ○
 
 前項に触れて置いたやうに、話手の推量的陳述を表はす。
 
 終止形
  彼も多分来るだらう〔三字二重傍線〕。
  さぞかし淋しいだらう〔三字二重傍線〕。
  あれは山だらう〔三字二重傍線〕。
  今夜は風もおだやかだらう〔三字二重傍線〕。
 連体形
  彼が承諾するだらう〔三字二重傍線〕ことは望めない。
 
 接続のしかたは、「う」「よう」が専ら動詞に附くのに対して、「だらう」は、体言、動(214)詞、形容詞に自由に接続する。これは、「だらう」は元来、指定の助動詞連用形の「で」と、同じく指定の助動詞「ある」の結合したものに、更に推量の助動詞「う」が附いたものであるためで、体言に接続するのが元来の接続法であつたものと考へられる。後に「であらう」が一語としての機能を持つやうになつた結果、「う」「よう」の代りに推量の助動詞として、広く用言に接続するやうになつたと考へられる。以上のやうな理由で、本書では、「であらう」「だらう」を一語の推量の助動詞として取扱ふこととした。「だらう」を一語と認めるならば、「だつた」も過去及び完了の助動詞と認めてよかりさうであるが、「だらう」が一語として機能するのに対して、「だつた」は、「雨が降るだつた」「今日は寒いだつた」とは云はれないから、「だつた」はやはり「で」「あつた」 の複合と見るのが適切である。
 
 (九)推量の助動詞 らしい
 
語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
 らしい   ○  らしく らしい らしい  ○   ○
 
 「う」「よう」は、時間的に見て、将来起こり得る事実に対する推量及び意志の表現であるに対して、「らしい」は現在起こつてゐる事実に対する推量を表現するものである。
 
(215) 父は出かけるらしい〔三字二重傍線〕。
 
 「出かける」といふ動作は、現在の事実であるが、それが確実なこととしてではなく、そのやうに推測されるといふことを表はす。
 
 頭が痛いらしい〔三字二重傍線〕。
 
 「頭が痛む」といふ事実は、現に起こつてゐる事実であらうが、その判断が、その状況から推量される場合である。「らしい」といふ判断には、常に或る客観的な状況が、その判断の根拠になつてゐる点で「だらう」と異なる。
 「頭が痛いだらう」といふ推量判断には、必しもそのやうな判断を成立させる客観的な状況を必要としないが、「らしい」といふ推量判断が、右のやうに客観的状況を条件とするところから、接尾語の「らしい」と密接な関連を持つことが理解されるのである。
 
 玄関に来たのはお客さんらしい〔三字二重傍線〕(推量の助動詞)。
 すつかり商人らしく〔三字二重傍線〕なつた(接尾語)。
 
(216) 前者は、「お客さん」であると推定される客観的条件を多分に備へてゐる場合であるが、後者は、客観的状況の商人的であることを云つてゐるので、そこには判断が表現されてゐるのではなくして、事柄の属性概念が表現されてゐる。後者の「らしく」は、「商人」と結合して一個の複合形容詞を構成してゐるのである。
 
 連用形
  彼は気分が悪いらしく〔三字二重傍線〕、ふさいでゐた。
  あまり気乗りしないらしう〔三字二重傍線〕ございます。
  大変心配らしか〔三字二重傍線〕つた(らしく−あつた)。
  どこかへ出かけるらしく〔三字二重傍線〕て、いそいでゐた。
 終止形
  父は喜んでゐるらしい〔三字二重傍線〕。
  母は淋しいらしい〔三字二重傍線〕。
  海はおだやからしい〔三字二重傍線〕。
  雨が大分降つたらしい〔三字二重傍線〕。
 連体形
(217)  そのことには不服らしい〔三字二重傍線〕様子です。
  何か起こつたらしい〔三字二重傍線〕けはひだ。
 
 接続のしかたは、「らしい」は動詞、形容詞の終止形及び体言に附く。また、助動詞の「ない」「た」の終止形にも附く。
 「らしい」は元来推量的陳述を表はす語であるから、当然その中に判断の表現が含まれてゐる筈であるが、時に次のやうに、指定の助動詞「である」を重ねる用法もある。
 
 計画の実行は困難であるらしい〔三字二重傍線〕(「困難らしい」と同じ)。
 
 (一〇)推量の助動詞 べし
語/活用形 未然形 連用形 終止形 連体形 仮定形 命令形
  べし   ○   べく  ○   べき  ○   ○
 
 「べし」は本来、文語の助動詞であるが、口語の中にも屡々これを混ずることがある。ただし、その用法は次のやうに極めて限定され、終止形が全然用ゐられないことは、この助動(218)詞が口語特有のものでないことを示してゐる。
 方言では、「べし」の転訛した「べい」が終止形として用ゐられることがある。
 
 連用形
  御期待に添ふべく〔二字二重傍線〕、努力しよう。
  それは云ふべく〔二字二重傍線〕して、行はれない。
 連体形
  そんなことはなすべき〔二字二重傍線〕ことではない。
  恐るべき〔二字二重傍線〕病魔のとりことなつた。
  多かるべき〔二字二重傍線〕筈がない。
 
 接続のしかたは、動詞にはその終止形に附き、形容詞には、指定の助動詞「ある」(終止形)を介して附く。
 
 多かるべき〔二字二重傍線〕筈がない (多く−ある〔二字二重傍線〕−べき〔二字二重傍線〕)。
 
 (一一) 敬譲の助動詞 ます です.ございます でございます
 話手が聞手に対する敬譲の心持を表現する語の中で、特に陳述に現れるものを敬譲の助動(219)詞といふ。「あの方は私の先生です。」といふ表現で、「あの方」「先生」は、第三者に関する語であるが、「です」は、この表現の相手である聞手に対する話手の敬譲の心持を表現する語であつて、敬譲の意を含めない、通常の指定の助動詞「だ」に対応するものである。
 既に述べて来たやうに、陳述を表はす助動詞は、(一)指定(ニ)打消(三)過去及び完了(四)意志及び推量に分類されるが、聞手に対する敬譲は、以上四のそれぞれにあるわけであるから敬譲の助動詞は、次のやうに分類することが出来る。
 
 (一)指定の敬譲助動詞
 (二)打消の敬譲助動詞
 (三)過去及び完了の敬譲助動詞
 (四)推量の敬譲助動詞(意志を表はす敬譲の助動詞は含まない)
 
 これらの敬譲助動詞は、それぞれに、通常の指定、打消、過去及び完了及び推量の表現に対応するので、これを表に示せば次のやうになる。
 
(220) 語/待遇   敬譲の表現             通常の表現
 指定
ます  雨が降ります〔二字二重傍線〕(述語が動詞の場合) 雨が降る■〔二重傍線〕
ございます  〔以下すべての用例と説明を省略〕
です
でございます
 打消
ません
ありません
でありません
ございません
でございません
過去及び完了
ました
でした
ございました
(221)
 推量
ございませう
でございませう
らしいです
らしうございます
 
(222) 右の表についての総括的補足的説明
 一 右の表は、話手の聞手に対する敬譲の表現が、通常の表現に対してどのやうに対応するかを示したものである。敬譲と通常の表現を含めて待遇と呼ぶことにした。
 二 「ます」に対応する通常表現の説明に用ゐた■の記号は、用言の陳述が、言語の形に表現されてゐないことを示す。「ます」といふ敬譲の助動詞は、この表現されてゐない零記号の陳述に対応するものである。
 三 指定の敬譲助動詞に、「あります」「であります」を加へてもよろしい。形容詞の連用形について「寒くあります」、体言について「天気であります」が稀に用ゐられる。この用法は打消の場合には、「寒くありません」「天気でありません」となつて一般的に用ゐられる。
 四 「です」が動詞の終止形について「降るです」と用ゐられることがあるが、一般的ではない。形容詞の終止形について「寒いです」といふ云ひ方は、かなり広く行はれるやうになつた。それは、「寒い」と「寒うございます」 の中間に位する適当な敬譲の表現であると考へられるためであらう。
 五 「ます」の命令形「ませ」「まし」は、「くださる」「なさる」「あそばす」などにだけ附く。
 六 「降らない」「寒くない」「天気でない」の打消敬譲の云ひ方には「降らないです」「寒(223)くないです」「天気でないです」などといふ云ひ方もある。打消と敬譲との云ひ方が逆になつたものである。
 七 過去及び完了の敬譲表現には、「降つたです」「寒かつたです」といふ云ひ方もある。
 八 「ませう」は、意志ばかりでなく「降りませう」といふやうに、推量にも用ゐられる。また、「降りませう」「寒うございませう」などを、「でせう」を用ゐて、「降りますでせう」「寒うございますでせう」などともいふ。陳述の累加した表現で、敬譲の意が強くなる。
 九 種類の異なつた陳述を重ねた場合には、敬譲の表現は、一般に最後に来る。
 
 雨が降つた〔二重傍線〕らしう〔三字二重傍線〕ございます〔五字二重傍線〕。(過去及び完了と推量)
 雨が降らなかつた〔四字二重傍線〕でせう〔三字二重傍線〕。(打消、過去及び完了と推量)
 
 ホ 助詞
 (一)総説
 助詞が辞として持つ一般的性質については、辞の総説の項に述べて置いた。次に、助動詞と助詞との相違点についても、助動詞の項に概略を附説した。その要点は、助動詞は常に陳述即ち判断を表はすものであり、従つて、その点、文の中に用ゐられてゐる用言と同様に、その運用上、多く活用を具備するのであるが、助詞は、陳述の表現ではないから、活用を持(224)たない。近世の国語学者がこれを静辞と云つたのは、活用を持たない辞の意味である。
 文法上、助詞をどのやうに分類、整理するかについては種々の観点があり得るであらう。その一は、他語との接続関係から分類することである。助詞は助動詞と同様に、常に他の詞と結合して句を構成するものであるところから、最近は、専ら附属語或は従属語としての見地からこれを整理することが行はれて来た(1)。
 橋本博士の助詞の分類法は、博士の文法体系が、詞と辞の結合である句、博士のいはゆる文節を出発点とするところから、詞との接続関係に重点が注がれるやうになつたことは当然の帰結であるが、辞を常に詞との接続関係に於いて見ることは、はたして当を得たことであらうか。辞の根本的意義は、客体的な事柄に対する話手の立場の表現にあるのであつて、如何なる詞と結合するかといふことは、辞の根本的性質を規定するものではない。文論の総説に於いて述べるやうに、辞は常に客体的な事柄を総括する機能を持つてゐることを考へるならば、それらが、話手のどのやうな立場の表現であるかといふことが、表現を有機的に理解し、文の構造を明かにする上に大切なことである。例へば、
 
 朝起きてから、夜寝るまで勉強した。
 
  助詞「から」「まで」、助動詞「た」が、それぞれ、「て」「寝る」「勉強し」に接続(225)するといふことは、助詞、助動詞の機能や性質を理解する上に、さまで重要なこととは考へられない。そこで本書に於いては、話手の立場を理解する上から、助詞、助動詞の意味を重要なものとして、分類の基準を立てた。この方法は、助動詞については一般にとられてゐる方法であるが、助詞の場合にも当然適用されなければならないのである。
 そこで、本書では、助詞を次の四種に分つこととした。
 
 格を表はす助詞
 限定を表はす助詞
 接続を表はす助詞
 感動を表はす助詞
 
 右に述べた助詞によつて表現される格以下の思想内容は、云ふまでもなく概念的表現ではなく、話手の種々な立場の直接的な表現である。右の四種の助詞の中、感動の助詞について見れば、その性質を幾分明かにすることが出来るであらうと思ふ。例へば、「雨か!」といふ表現は、これを図解すれば、
 
 雨〔傍線〕か〔二重傍線〕。
 
(226)となり、「か」は感動を表はす助詞として詞と結合してゐる。この「か」は、感動の概念的表現である「うれしい」「悲しみ」或は「情緒」などといふ語と全く相違して、感動そのものの音声的表現である。従つて、この表現を受取るものは、この「か」によつて、話手の感情情緒をそのままに読取ることが出来るのである。雨に対する話手の立場がそのまま表現されてゐるからである。助詞の表現の特質はほぼ以上のやうに云へるのであるが、このことは、格を表はす助詞についても云へることである。上の図において、甲と乙と二の棒が、右のやうな関係に置かれた場合、この関係を、「甲が乙によりかかつてゐる」と云ふ認定と、「乙が甲を支へてゐる」と云ふ認定は、全く話手の立場にまかされてゐる。その認定の相違によつて、「甲が乙によりかかる」といふ表現も、「乙が甲を支へる」と
 
                乙
〔人を引き延ばしたような斜線〕
                甲
 
いふ表現も出て来るのであるが、その際の「が」「に」「を」といふ助詞は、全く前例の場合と同様に、関係の概念的表現ではなく、事柄そのものに対する認定の直接的表現であると云へるのである。
 
 (1)) 橋本進吉博士の『新文典』には、語を独立する詞と附属する辞とに分けて、助詞を附属する辞に所属させて、専ら接続のしかたによつて助詞を分類されてゐる。
 
(227) (二)格を表はす助詞
 事柄に対する話手の認定の中、事柄と事柄との関係の認定を表現するものであるから、感情的なものは無く、殆どすべてが、論理的思考の表現であると云つてよい。
 
 が  風が〔二重傍線〕吹いてゐる。 病気が〔二重傍線〕恐ろしい(1)。
 は  万葉集は〔二重傍線〕歌集である(2)。
 の  池の(2)水  海の(2)見える丘(三)。
 に  庭に〔二重傍線〕木を植ゑる。 甲に〔二重傍線〕ひとしい(4)。
 へ  町へ〔二重傍線〕行く。 紙へ〔二重傍線〕書いて置いた(5)。
 を  木を〔二重傍線〕切る。 梯子を〔二重傍線〕のぼる。
 と  茶碗と〔二重傍線〕箸 友だちと〔二重傍線〕出かける。
 から はじめから〔二字二重傍線〕終りまで そんなことから〔二字二重傍線〕失敗するのだ。
 より そんなことより〔二字二重傍線〕これをおやりなさい。 夏より〔二字二重傍線〕暑い。
 で  庭で〔二重傍線〕遊んでゐる。 耳で〔二重傍線〕聞く(6)。
 まで どこまで〔二字二重傍線〕行くのですか。 夏まで〔二字二重傍線〕続ける(7)。
 
 (1) 上の「が」が主格を表はすのに対して、下の「が」は対象格を表はす(文論対象語格の項参照)。
(228) (2) (三)の「限定を表はす助詞」の「は」と相違して、他と区別する意味はない。
 (3) 上の「の」は、所属格を表はし、下の「の」は、従属句の主格を表はす時に用ゐられる。これらの「の」は、指定の助動詞「だ」の連体形の「の」とは異なる。
 (4) 「政治家に〔二重傍線〕なる」といふ場合の「に」は、指定の助動詞「だ」の連用形である。
 (5) 「に」は場所、「へ」は方向を表はすのであらうが、現代口語ではこの区別は必しも厳重に守られてゐない。ただし、その区別が極めて明かな場合には、「うちに〔二重傍線〕居る。」「外へ〔二重傍線〕ばらまく。」のやうに、「に」「へ」の区別を有効に使ひわけるやうである。
 (6) 「耳で〔二重傍線〕聞く。」「健康で〔二重傍線〕暮す。」「節約で〔二重傍線〕切抜ける。」等の例を見て来ると、このやうな「で」は或は指定の助動詞「だ」の連用形とも考へられる。
 (7) 限定を表はす「まで」と比較すれば、格を表はす助詞の真意がよく理解されるであらう。
 
 (三) 限定を表はす助詞
 「限定を表はす」といふ説明が当つてゐるかどうかは疑問であるが、暫く右のやうに概括することとした。実例を以て云ふならば、例へば、甲が勉強してゐるとする。この事実の表現は、ただこの事実そのものが表現を成立させるばかりでなく、周囲の事情によつて話手の事実に対する認定に相違があり、従つて表現も異なる。その事情といふのは、甲の外に、乙も丙も勉強してゐる場合、甲以外は乙も丙も勉強してゐない場合、怠者である甲が勉強してゐる場合、優等生である甲が勉強してゐる場合等によつて、この事実そのものの認定のしか(229)たを異にする。従つて次のやうな表現が成立する。
 
 甲が〔二重傍線〕勉強してゐる。
 甲も〔二重傍線〕勉強してゐる。
 甲でも〔二字二重傍線〕勉強してゐる。
 甲は〔二重傍線〕勉強してゐる。
 甲だけ〔二字二重傍線〕勉強してゐる。
 甲ばかり〔三字二重傍線〕勉強してゐる。
 甲まで〔二字二重傍線〕勉強してゐる。
 
 右の表現における助詞には、話手の甲に対する期待、評価、満足等が表現されてゐることが分る。
 
 か ペンか〔二重傍線〕鉛筆か〔二重傍線〕を貸して下さい。  行くか〔二重傍線〕止めるか〔二重傍線〕を決めよう。
 は ぼくは〔二重傍線〕駄目です。 日曜は〔二重傍線〕家です。
 も 私も〔二重傍線〕お伴します。 笑ひも〔二重傍線〕しません。
 や みかんや〔二重傍線〕林檎がある。 あれや〔二重傍線〕これや〔二重傍線〕と忙しい。
(230) さへ  これさへ〔二字二重傍線〕出来れば、あとは簡単だ。 一寸顔を出しさへ〔二字二重傍線〕すればよい。
 ばかり(1) 水ばかり〔三字二重傍線〕飲む。 百円ばかり〔三字二重傍線〕貸して下さい。
 ぐらゐ(2) 二里ぐらゐ〔三字二重傍線〕ある。  これぐらい〔三字二重傍線〕はかまはない。
 でも  お茶でも〔二字二重傍線〕飲みませう。  明日でも〔二字二重傍線〕お届けします。
 だけ  百円だけ〔二字二重傍線〕貸して下さい。  見るだけ〔二字二重傍線〕でよろしい。
 しか  君しか〔二字二重傍線〕持つて来ない。  そんなことしか〔二字二重傍線〕出来ない。
 なり  目なり〔二字二重傍線〕耳なり〔二字二重傍線〕働かせなさい。    行くなり〔二字二重傍線〕止まるなり〔二字二重傍線〕、君の御随意です。
 たり  寝たり〔二字二重傍線〕起きたり〔二字二重傍線〕の生活です。    読んだり〔二字二重傍線〕書いたり〔二字二重傍線〕出来ますか。
 こそ  それこそ〔二字二重傍線〕私の得意のところ。  ようこそ〔二字二重傍線〕お出で下さいました。
 きり  それきり〔二字二重傍線〕何とも云つて来ない。  二日きり〔二字二重傍線〕しかもたない。
 づつ  三つづつ〔二字二重傍線〕配る   五人づつ〔二字二重傍線〕に組を分ける。
 ほど  一時間ほど〔二字二重傍線〕経つた時   私ほど〔二字二重傍線〕愚かなものはない。
 だの  ああだの〔二字二重傍線〕かうだの〔二字二重傍線〕云つてゐる。   本だの〔二字二重傍線〕ペンだの〔二字二重傍線〕が散らばる。
 やら  靴やら〔二字二重傍線〕下駄やら〔二字二重傍線〕がいつぱいです。  医者を呼ぶやら〔二字二重傍線〕薬を買ひに行くやら〔二字二重傍線〕、大変です。
 など  これなど〔二字二重傍線〕はよい方です。  「大丈夫だ」など〔二字二重傍線〕と云ふものですから
 まで(3)  衣類は勿論、旅費まで〔二字二重傍線〕恵んで呉れた。  そんなにまで〔二字二重傍線〕云はなくてもよい。
(231)
 (1) 「ばかり」には二の意味がある。上はその事柄に集注されてゐるといふ認定の表現であり、下は、漠然たる限定を表はす。
 (2) 「くらゐ」は元来、程度を意味する体言であつたものが、辞として用ゐられるやうになつて、漠然たる限定を表はす。
 
  このくらゐ〔三字傍線〕飲んでも差支ない(飲んで差支ない分量を云ふ。体言)。
  これぐらゐ〔三字二重傍線〕飲んでも差支ない(飲んで差支ない物の範囲を云ふ。助詞)。
 
 ただし、第二の「これ」が分量を云ふ時は、第一と同じ意味になる。
 
 (3) 格助詞の「まで」と比較する必要がある。
 
 (四) 接続を表はす助詞
 同時的に存在する物と物との関係は、格助詞によつて表現されることは既に述べた。同時的に存在する動作及び行為、或は時間的に継起する事柄と事柄との関係の認定も助詞によつて表現される。この一群に属する助詞は、陳述に伴ふ点で格助詞と著しく相違するものである。元来、陳述と陳述との関係は、用言の活用形の中、連用形中止法を以て示されるのであるが、特殊な関係は、更にそれに助詞を加へることによつて一層明際にされる。用言の活用(232)形が、辞と同じ機能を持つものであることは既に述べたところであるが、本項に所属する助詞を考へるに当つては、まづそのことを念頭に置く必要がある。
 
 雨が降り、地が固まる(零記号の陳述に相当する用言の連用形が因果関係を示す)。
 雨が降ると〔二重傍線〕、地が固まる(「と」は指定の助動詞「だ」の連用中止法で、前例の零記号に相当する)。
 雨が降るなら〔二字二重傍線〕、地が固まる(「なら」は指定の助動詞「だ」の仮定形で、前例の零記号及び「と」に相当する)。
 雨が降つて〔二重傍線〕、地が固まる(因果関係を明かにするために、陳述に助詞「て」が添はつた場合)。
 
 右の「て」は、「雨が降る」といふ事実が原因であることの表示であるが、表現された文に即して云へば、前句を後句に結合する役目をしてゐるやうに見えるので、これを接続を表はす助詞と一般に呼んでゐるのであるが、語そのものが接続機能を持つやうに考へるのは、単に比喩的にのみ云ふことが許されるものであることを、ここでも改めて確認する必要があるのである。
 
(233) が  老人だが〔二重傍線〕、元気だ。  私も知つてゐるが〔二重傍線〕、彼は親切だ。
 ば  雨が降れば〔二重傍線〕、中止する。  風がつめたければ〔二重傍線〕、のどを悪くするかも知れない。
 と(1)  腰をかけると〔二重傍線〕、窓を閉めた。   谷へ下りると〔二重傍線〕、水がある。
 て(2)  図書館に行つて〔二重傍線〕、しらべて見る。  外をのぞいいぇ〔二重傍線〕見る。
 ても  話しても〔二字二重傍線〕、だめでせう。   体が小さくても〔二字二重傍線〕、元気です。  本を読んでも〔二字二重傍線〕、頭に入らない。
 から  水が出るから〔二字二重傍線〕、お洗ひなさい。   気候がはげしいから〔二字二重傍線〕、風を引きます。
 けれど(けれども) 叱るけれど〔三字二重傍線〕、ききめがない。暖いけれど〔三字二重傍線〕、風がつめたい。
 し   雪も降るし〔二重傍線〕、風も吹いて来た。  山は高いし〔二重傍線〕、谷も深い。
 ながら(3) 話を聞きながら〔三字二重傍線〕、記録する。   貧しいながら〔三字二重傍線〕、よく勉強する。
 のに  雨が降るのに〔二字二重傍線〕、出かけた。  学生なのに〔二字二重傍線〕、一向勉強しない。
 ので  雨が降るので〔二字二重傍線〕、止めた。   学生なので〔二字二重傍線〕、遠慮した。
 つつ  悪いと知りつつ〔二字二重傍線〕、やつてしまつた。  水は次第に減少しつつ〔二字二重傍線〕ある。
 
 (1) このやうな「と」を一般に接続の助詞として取扱つてゐるが、これは指定の助動詞「だ」の連用形の中止法と認むべきではないかと思ふ。古くは、このやうな場合、同じく指定の助動詞「に」が通用して用(234)ゐられたやうである。
 
 いそぎ参らせて御覧ずるに〔二重傍線〕、めづらかなる児の御かたちなり(『源氏物語』桐壺巻)。
 外目しつればふと忘るるに〔二重傍線〕、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ(『枕草子』)。
 
 (2) 「て」は同時的な事柄、継起的な事柄のいづれの接続にも用ゐられる。
 (3) 「ながら」は状態の持続をいふ体言であつたものが、接続の助詞に転成したものである。上と下との「ながら」に意味の相違が認められるが、それは第三者の解釈であつて、話手の気持ちとしては、両者とも、「その状態に於いて」の意味に過ぎないのであらう。
 
 (五)感動を表はす助詞
 
 か(1) これはあなたの帽子ですか〔二重傍線〕。そんなことが分らないのか〔二重傍線〕。  おや、雪か〔二重傍線〕。
 かしら 今日は雨かしら〔三字二重傍線〕。   今日はやつて来るかしら〔三字二重傍線〕。
 よ   鳥が飛んでゐるよ〔二重傍線〕。  これを御覧よ〔二重傍線〕。 蝶よ〔二重傍線〕。舞へ/”\。
 な(なあ) よく廻るな〔二重傍線〕(なあ)。  名人だな〔二重傍線〕(なあ)。
 ね(ねえ) 可愛いね〔二重傍線〕。  よく出来たねえ〔二字二重傍線〕。
 さ  早く起きるさ〔二重傍線〕。   その道の達人さ〔二重傍線〕。
(235) な  枝を折るな〔二重傍線〕。  ぐづ/\するな〔二重傍線〕。
 ろ(よ) みんな起きろ〔二重傍線〕。  じつくり考へて見よ〔二重傍線〕。
 ぞ  そら押すぞ〔二重傍線〕。  これは大金だぞ〔二重傍線〕。
 わ  私も行きますわ〔二重傍線〕。   綺魔ですわ〔二重傍線〕。
 ものか(もんか) 行つてやるものか〔三字二重傍線〕。悲しいもんか〔三字二重傍線〕。
 とも  勉強するとも〔二字二重傍線〕。   それでいいとも〔二字二重傍線〕。
 の   いらつしやいますの〔二重傍線〕?    いいえ、いただきませんの〔二重傍線〕。
 や  花や〔二重傍線〕、一寸おいで。    そんなことよせや〔二重傍線〕。
 こと  まあ、すばらしいこと〔二字二重傍線〕。   お利口だこと〔二字二重傍線〕。
 
 (1) 第三の限定を表はす「か」と根本的に区別があるわけではない。ある事柄に対する不定の気持ちを表現する場合は、これを限定の助詞と見て置く。ここに挙げた例は、陳述に伴ふ場合で、これを感動の助詞としたのであるが、感動と疑問と反語の間に劃然とした線を引くことは出来ない。「そんなことが分らないのか」といふ表現は、疑問でもあるし、感動でもあるし、また「分る筈だ」といふ反語にもなり得るものである。
 
(236)   第三章 文論
 
     一 総説
 
 文が、語或は文章とともに、文法学の対象として、言語における一つの単位であることは既に述べた。文法学における文研究のなすべき最初のことは、言語における単位的なもの、一の統一体としての文の性質を明かにすることであり、第二に、文を、それを構成する要素に分析して、その構成において文を考察することであり、第三に、文と語との交渉を明かにすることである。
 文の性質を説明する方法として、従来一般にとられた方法は、文を構成する要素の結合として説明する方法であつて、例へば、主語と述語の結合されたものが文であるとするのはそれである。しかしながら、文が一の統一体であるとするならば、そこには必ず、語が一の統一体であるといふこととは異なる、全く別の統一原理が存在しなければならない。この銃一原理を明かにすることが、文の性質を明かにする第一の仕事である。
(237) 文の性質を規定するものとして、大体、次の三つの条件が考へられる。
 
 (一)具体的な思想の表現であること
 (二)統一性があること.
 (三)完結性があること。
 
 以下、右の三点について説明を加へようと思ふ。
 
 (一)具体的な思想の表現であること
 語も、又と同じく思想の表現であるが、語は、話手の客体的な面か、主体的な面かのいづれかの表現である。体言「山」「机」、動詞「動く」「打つ」、形容詞「涼しい」「高い」等は話手の表象、概念の表現であるのに対し、「ない」「だ」等は話手の判断の表現に属するものである。語は右のやうに、客体的な面か、主体的な面かのいづれかに属して、そこから文法学上の詞と辞の分類が成立するのであるから、語は人間の思想のある面を表現するものではあるが、決して具体的な思想を表現するものではない。人間の具体的な思想とはどのやうなものであるかと云へば、人間は絶えず外界の刺戟を受け、或は主観的な感情情緒を対象化することによつて、主体に対立するところの客体界を構成すると同時に、一方、そのやうな客(238)体界に対して、常に判断、感情、情緒を以て反応するものである。換言すれば、具体的な思想とは、客体界と主体界との結合において成立するものである。従つて、具体的な思想の表現とは、客体的なものと主体的なものとの結合した表現において云ふことが出来るのである。文とは、このやうな具体的な思想を表現するものである。従つて、「犬、猫、山、川」といふやうな語を連呼しても、それは結局、客体界の表現に終始してゐるのであるから、語の連続ではあるが、文といふことは出来ない。ところが、
 
 犬だ。
 
といふ表現になると、客体界の表現「犬」と同時に、それに対する判断が、「だ」といふ語によつて表現されて、ここに主体、客体の合一した具体的な表現が成立する。これが即ち文と云はれるものである。以上のやうに、文は主体客体の合一した表現であるが故に、その最も簡単な形は、前例の「犬だ」の表現に見ることが出来るのであるが、これを次のやうに図示することが出来る。
 
 犬〔傍線〕だ〔二重傍線〕。
 
(239) 具体的な思想の表現と云つても、それは常に主体的表現と客体的表現とを具備するとは限らない。次の例、
 
 まあ! 驚いた。
 
 「まあ」は主体的な感情の表現であるが、この表現には、この感情の志向的対象である事件とか、人とかが表現されてゐない。しかしそれは当然何ものかについての驚きの表現として「まあ」と云はれたのであるから、この「まあ」も具体的な思想の表現として文と云つて差支へない。また次の例、
 
 犬!
 
においては、一単語の表現のやうに見えるが、ここには語として表現されない話手の感情が、抑揚、強調の形式を以て表現されて居り、文字言語として!の記号を以て表現されて居るのである。して見れば、この表現も、主客の合一した具体的な思想を表現したものとして、文といふことが出来るのである。一語文 sentence equivalent と云はれるものがそれである。
(240) 国語においては、用言は一般にはそれだけで概念と同時に陳述を表現する。坂道を登らうとする時、次のやうに叫んだとする。
 
 あぶない。
 
 右の表現は、表面上は一語でありながら、零記号の陳述が伴つてゐるものと見て、これを文と認めることが出来るのである。
 以上述べるところは、説明が演繹的になつてゐるが、実は素朴な文の意識を考察することによつて、そのやうな意識の成立条件として帰納せられたものに他ならないのである。
 
 (二)統一性があること
 文に統一性があるといふことは、それが纏まつた思想の表現であることを意味する。如何に語が連続してゐても、纏まりのないものは文とは云ふことが出来ない。例へば、商店の看板にある営業種目の羅列のやうなものである。文の纏まりは何によつて成立するかといふならば、それは話手の判断、願望、欲求、命令、禁止等の主体的なものの表現によるのである。前に述べた具体的思想の中、主体的立場の表現がそれに当るので、それによつて、客体的な表現が纏まりを持ち、統一性を獲得するのである。従来、文は多くの場合、纏まりを受(241)ける要素を数へあげて、例へば、主語と述語がなければ、文が成立しないといふやうに考へて来たが、更に重要なものは、むしろ各要素を纏めこれを統一する主体的な機能であると考へなくてはならない。一の統一した都市を成立させるものは、その交通、経済、衛生等の諸設備よりも、それを統一、運営する行政的機能にあると考へなければならないと同じである。このやうに考へて来た場合、国語における文の統一性が、如何なる語により、如何なる形式において表現されて居るかといふことは、具体的な問題として重要になつて来る。
 国語において、主体的なものの表現として辞があり、その中で、感動詞は主客未分化の表現としてそれ自身文であることは既に述べた。次に接続詞は、前の文を統一して後の文をおこすために用ゐられるものであるから、文の展開に役立つものとしてこれを除外すれば、文の統一に関与するものとしては、助詞及び助動詞が考へられるのである。
 更に、用言に伴ふ零記号の陳述を、陳述を表はす指定の助動詞と同価値のものと認めるならば、文に統一を与へるものは、次の三に概括することが出来る。
 
 一 用言に伴ふ陳述  二 助動詞  三 助詞
 
 次に、これらの語が、どのやうな形式において文に統一性を与へてゐるかを観察して見る。
 
(242) 一 用言に伴ふ陳述
 
 裏の小川がさらさら流れる。
 
 右の表現において、これを統一する陳述は、特別な語によつて表現されてゐるのではなく、一般には「流れる」といふ用言に具有されてゐると考へられてゐる。しかしながら、この表現されない、零記号の陳述は、「裏の小川がさらさら流れる」といふ事実全体に関係するものとして、次の図形に示すやうな関係でこの表現を統一し、その故にこれが文であると云はれるのである。
 
 裏の小川がさらさら流れる〔□で囲む〕 ■
 
 即ち、■記号で示される話手の陳述が、「裏の小川云々」全体を包むやうな形式において統一してゐるのである。あたかも、風呂敷が種々な品物を包んで統一を形づくつてゐるのと似てゐる。この統一形式は、国語の構造の特異な点であつて、英・独語における
 
(243) S−P
 
の図形の示すやうな統一形式と著しい対照をしてゐる。英・仏・独語においては、統一の表現は語の中間に存在して天秤型をなしてゐる。以上の点から考へて、国語において、陳述が用言に具有されてゐると考へることは、その統一形式を理解する上に大きな妨げとなると考へられるので、本書においては、陳述を用言の外に置いて考へるといふ説明法をとつたのである。この云はば仮説的理論は、次の統一形式を考察することによつて一層明かにされるであらうと思ふ。
 
 二 助動詞
 
 今日は波の音も静かだ。
 
 右の表現における陳述は、明かに語の形式をとつて、「だ」と表現されてゐる。この陳述「だ」は、単に「静か」といふ語に結合して、具体的な思想の表現となつてゐるのではなく、「今日は……静か」全体と結合し、そのやうな事実に統一を与へるものとして表現されてゐることは見易いことであると思ふのである。「だ」の代りに「でない」「だつた」「らし(244)い」を置換へても、その統一形式に変りはない。
 
 三 助詞
 
 今日もまた雨か。
 
 右の表現においては、陳述「である」が省略されて、助詞「か」が全体を統一し、話手の詠歎的な気持ちが表現されてゐる。それは、「今日もまた雨である」ことに対する詠歎の表現である。詠歎と詠歎の対象及びその統一形式は、前二項の陳述の場合と全く同じである。
 
 (三)完結性があること
 文の成立条件として、統一性があるといふことは、同時に具体的思想の表現であることを意味するのであるが、それらの統一性を与へる陳述、及び助詞、助動詞の存在は、必しも文を成立させたことを意識させない。
 
 裏の小川はさらさらと流れ
 
(245)といふ表現において、陳述は零記号の形式で存在はしてゐるのであるが、それが「流れ」いふ動詞の連用形が示すやうに、完結しないものとなり、この表現全体が或る統を得ながら、更に展開する姿勢を取つてゐる。換言すれば、この表現には完結性が無いことになつて文といふことは出来ないのである。この表現が文であると云はれるためには、表現の最後が、終止形によつて切れる形をとることが必要な条件となる。国語においては、倒置法の場合を除いて、文の終りが完結形式でなければならないといふことは、一の持質とも云ふことが出来るであらう。このことは、活用における断続の現象とも相呼応するものである。
 助動詞によつて統一された場合も同様で、それが終止形によつて完結されて居るといふことは必要な条件となる。
 助詞の場合も同じで、すべての助詞は、それの附く語に或る種の統一性を与へるものであらうが、常に必しも完結性を与へるとは限らない。「寒いか」「起きろ」「えらいぞ」等の「か」「ろ」「ぞ」は、完結して文を成立せしめるが、「行くが」「美しいけれど」「よければ」等の「が」「けれど」「ば」は完結を与へない助詞である。古く連歌等で、切字と呼ばれてゐるものは、完結性を与へる助詞、助動詞を意味したので、切字があるか無いかといふことは、それによつて文が成立するか否かを意味することになるのである。
 以上は、文をその構成要素によつて説明せず、文成立の基本的条件を吟味することによつて、言語研究の一の対象である統一体としての文の性質を明かにしたのである。
 
(246)     二 詞と辞との意味的関係
 
 詞と辞によつて表現される思想内容を、思想内容そのものとして見れば、客観的な自然、人事であり、また主観的な感情、意志等であつて、そこに何等の差異を見出すことが出来ないのであるが、これを表現に即して考へるならば、そこに根本的な相違があることは既に述べたところである。即ち、詞は、思想内容を概念的、客体的に表現したものであることによつて、それは、言語主体即ち話手に対立する客体界を表現し、辞は、専ら話手それ自体即ち言語主体の種々な立場を表現するのである。そして、この両者の表現の間には密接な関係が存在する。即ち話手の立場の表現と云つても、それは必ず或る客体的なものに対する話手の立場の表現であり、客体界の表現には、必ず何等かの話手の立場の表現を伴つてはじめて具体的な思想の表現となるのである。例へば、「故郷の山よ。」といふ表現に於いて、話手の感動を表はす「よ」といふ語は、この場合、話手に対立する客体界である「故郷の山」に対する感動の表現であつて、この主体、客体の表現が合体して始めて具体的な思想の表現となることが出来るのである。この関係は上のやうに図示することが出来る。
     B
  C      D
 
     ○の中にA  〔半円の上下にCDがあり半円中央の内側にBがる。そのBへ半円の中心部にある○の中にAのある○から破線の矢印が伸びている。入力者注〕
 
 Aを言語主体(話手)とする時、弧CDは、Aに村立する客体(247)界の表現、点線ABは、客体界CDに対する話手の立場の表現であつて、ABと、CDとの間には、志向作用と志向対象との関係が存在し、ABCDが即ち具体的な思想の表現であると云ふことが出来るのである。国語に於いては、この主体的なもの辞と、客体的なもの詞とは、常に次のやうな関係に結合されるのである。
 
   詞       辞
 故郷の山〔四字傍線〕よ〔二重傍線〕
 
 この関係は、また別の言葉で云へば、客体的なものを、主体的なもので包む、或は統一してゐるとも云ふことが出来るのである。包むものと包まれるもの、統一するものと統一されるものとの間には、次元の相違が存在するので、このやうな詞と辞との関係を、本書に於いては次のやうに図解することにする。
 故郷の山〔□で囲む〕よ〔半四角で囲む〕 或は  故郷の山〔四字傍線〕よ〔二重傍線〕
 
 客体的表現、詞が、主体的表現、辞によつて包まれ、また統一されるといふ関係は、種々なものに譬へてこれを説明することが出来る。菓子を箱に入れた場合、菓子は食べるものとして云はば客体的存在であるが、箱は、これを包むものであり、またこれを統一するもので(248)あり、かつ、この菓子を人に贈らうとする贈主の心づかひの表現として、主体的表現であると云へる。一方は食べるものであるのに対して、他方はこれを保護する容器として、そこに次元の相違が存在する。また、汽関車と客車の関係について見れば、客車は運搬されるものであるのに対して、汽関車はこれを運搬するものであるから、これにも客体的なものと、主体的なものとの相違が認められる。汽関車は客車を包むものであり、また、統一するものである。客観的に見れば、ともに車輌であるこの両者に、機能的に見れば以上のやうな相違が認められるのである。絵と額縁との間の関係も同じである。絵は画家にとつて客体的なものの表現であるが、額縁は、絵そのものを収めるに相応しいものとして画家によつて選ばれる。客体的なものに対する画家の志向の表現である。しかも額縁はそれによつて絵を包み、かつ統一し、この両者によつて絵がはじめて完成されるのである。本書に於いて、図解に用ゐた※[長四角]※[半四角]は机の抽斗《ひきだし》と引手との関係を象徴化したもので、引手は箱の表に取付けられてはゐるが、抽斗を引出すものとして、これを包み統一する関係になつてゐる。かつ引手は、この抽斗を用ゐる主体の使用を助けるものとして、手の延長と考へることが出来るのである。
 このやうな詞と辞との関係は、鈴木※[月+良]も既に次のやうな譬喩を以て説明してゐる(1)。
 
   詞                 辞(てにをは)
(249) 物事をさし顕はして詞となり、    其の詞につける心の声なり
 詞は器物の如く              それを使ひ動かす手の如し
 詞はてにをは〔四字傍点〕ならでは働かず  詞ならではつく所なし
 
 かくして、
 
 字〔傍線〕を〔二重傍線〕書く
 字〔傍線〕も〔二重傍線〕書く。
 字〔傍線〕だけ〔二字二重傍線〕書く
 字〔傍線〕ばかり〔三字二重傍線〕書く。
 
に於いて、複線を以て示した語は、すべて辞であり、単線を以て示した詞に対する話手の何等かの認定を表現するものである。これらの辞は、「書く」といふ動作の主格には何の関係もない。「甲は字ばかり書く」と云つても、それは、甲が絵をかくことを拒否して、専ら字を書くことだけを欲してゐるといふ、甲の意識を表現してゐるのではない。「ばかり」はそのやうな客体界の事実を表現することは出来ないのである。また例へば、停車場に汽車を待ってゐる人が、遥か彼方に汽車の姿を認めて、次のやうに云つたとする。
 
(250) 汽車が来ます〔二字二重傍線〕。
 汽車が来ました〔三字二重傍線〕。
 汽車が来るらしい〔三字二重傍線〕。
 
 複線の語は辞であつて、この場合も前例同様に、ただ「汽車が来る」といふ事実に対する話手の認定の表現であつて、これらの語によつて、「汽車が来る」といふ事実そのものが確実であるか、不確実であるかといふ客観的な情勢を表現することは出来ないのである。
 凡そ辞と云はれるものは、すべて右のやうな性質を持つてゐるのであつて、従つてそれは常に話手の認定の対象になる客体的なものと密接に結びつき、或る場合には、客体的なものの表現である詞に融合して一語のやうになつてしまふ場合もあり得るのである。印欧語に於ける格変化を含んだ名詞の如きはそれである。国語に於いては、辞は多くの場合詞と遊離して一の語と考へられてゐるが、音声的には、詞と辞は結合して一のまとまりをなしてゐる。これを句或は文節(橋本進吉博士)と云ふ。
 辞のうちで、感動詞はいささか特例と考へられるのであつて、「ああ」「おや」の如きは感動の主体的表現として、当然、辞と考へられるのであるが、これらの感動の表現にも、必ず感動の対象となるべき客体的事物、事柄が存在しなければならない。即ち或る事柄に対する(251)驚き、詠歎の表現である筈である。しかし感動詞の場合には、そのやうな客体的なものが、言語の形に表現されず、主客未剖の形で表現されてゐると解することが出来るのである。
 詞と辞の関係が、以上のやうに、客体的なものと主体的なもの、統一されるものと統一するものとの関係にあり、その間に次元の相違が認められるのに対して、詞と詞との間にはそのやうな関係が成立しない。例へば、接尾語の結合した
 
 さむ〔二字傍線〕さ〔傍線〕  うれし〔三字傍線〕がる〔二字傍線〕  笑は〔二字傍線〕れる〔二字傍線〕
 
に於いては、結合した全体が一語として取扱はれ、概念相互の間に部分と全体との関係が存在するだけである。
 
 (1) 『言語四種論』
 
     三 句と入子型構造(一)
 
 詞と辞とは、その表現性の相違から、常に結合して、具体的な思想表現上の一単位をなす。この詞辞の結合を句といふ。従つて、句は語と文、或は節との中間的存在であるといふ(252)ことが出来る。右に、具体的な思想表現と云つたのは、文としての思想表現を云つたので、ただ単に「梅、桃、桜」といふ風に語を連ねたものは、或る事物、或る観念の表現ではあつても、具体的な思想表現とは云へない訳である。句といふのは、例へば、次のやうなものである。
 
 山の  川に  静かで  きれいに  私が  本を
 
 詞辞の結合が完結形式をとつて、「春だ。」と云はれる時は、通常これを文と呼ぶのであるが、このやうな詞辞が結合して完結したものが、一の文の一部分をなす時は、これをも句といふことが出来る。例へば、「山も春だ。」に於いては、「山も」も「春だ」もともに句と云ふことが出来る。以上のやうに、句の概念の中には、詞と辞の結合といふことと、文の断片であるといふ二の概念が含まれてゐると見るべきである。
 句が、詞と辞の結合で音声的に一のまとまりをなして居るといふことは、音声連鎖の上に、中間休止が存在することを意味するのであつて、句を形成するといふことは、句切れが出来ることである。
 ここに句切れが出来ると云つても、それは単なる生理的条件によつて出来る休止ではない。例へば、ある音節以上は、息を続けることが出来なくて休止が出来るといふやうなもの(253)ではない。たとひ、二音節でも「メガ」(芽が)で休止が出来る。これは句を構成する一語一語の意味によつて支へられるからである。厳密に云へば、詞と辞との主体的意識に於ける弁別によつて、語と語の間に離合の現象が生ずるのである。
 
 サクラガ サイタ(桜が咲いた)。
 
は、決して
 
 サクラ ガサ イタ
 
と云はれないのは、辞は常に上の詞と結合して一まとまり(句)にならうとするからである。
 国語に於いては、用言には特に陳述を表はす辞を用ゐることなく、用言だけで陳述を表はすのが普通である。このやうな場合には、表現されない零記号の辞を含めてこれを句といふことが出来る。
 
 日程を変へ〔二字傍線〕■〔二重傍線〕、明日出発する〔四字傍線〕■〔二重傍線〕
 
(254) 辞を伴はないのは、用言の場合ばかりでなく、前例の「明日」の如きは、名詞であつて、格を表はす辞「に」を伴はずに連用修飾語として用ゐられてゐる。従つて、この「明日」の下にも零記号の辞を想定することができる。つまり(文字表現としては)、「明日」だけで句をなしてゐる訳である。
 次に、句と句との間には、意味上或は構造上、どういふ関係があるかを考へて見るのに、次のやうな注意すべきことがある。例へば、
 
 梅の花が咲いた。
 
といふ文は、これを句に分つて見れば、これを次のやうに図解することが出来る。
 
 梅〔傍線〕の〔二重傍線〕|花〔傍線〕が〔二重傍線〕|咲い〔二字傍線〕た〔二重傍線〕|
 
 即ち三の句に分つことが出来る。それならば、文は句がこのやうに層々相重つて出来たものであるかと云ふのに、「花が」は、「梅の」に対して、一の句をなすと同時に、また一方、「梅の花」を一の詞とし、それに「が」といふ辞が附いて、「梅の花〔三字傍線〕が〔二重傍線〕」を一の句と見ること(255)が出来る。この二の句切り方は、一見矛盾してゐるやうに見えるが、互に矛盾し相排斥するところの事実ではなく、実は「梅の花が」といふ句の中に、「梅の」といふ句を含んでゐると見ることが出来るのである。これを図解すれば次のやうになるのである。
 
 梅〔二字傍線〕の〔二重傍線〕花〔三字傍線〕が〔二重傍線〕
 
 右の図解によつても明かなやうに、「が」といふ辞は、詞「花」に附いて句をなすのであるが、それは、ただ「花」といふ語に単純に附いてゐるのではなく、「梅の」といふ修飾語を伴つたところの「花」に附くと考へられるのは当然である。句を含む句を考へることは、思想の統一された表現の構造を考へる上に、極めて大切なこととなるのである。次に、右の例文中の「咲いた」は、詞と辞の結合として同様に句と考へられるのであるが、右の辞「た」は、ただ単に「咲く」といふ語だけに附いたものでなく、特定の主語(ここでは「梅の花」)を持つた述語に附いて句をなすと考へなくてはならない。従つて右の文は次のやうに図解されることとなる。
 
 梅の花〔三字傍線〕が〔二重傍線〕咲い〔六字傍線〕た〔二重傍線〕
 
(256)即ち、右の文は、全体として、詞と辞の結合した句と見なすべきものとなるのである。ただし、右の句は、辞「た」によつて完結してゐるので、これを文と云はなければならないのであるが、「咲いた」といふ語結合だけについて見れば、文の部分としてこれを句といふことが出来る訳である。右の例文を、もう一度全体的に図解すれば次のやうになる。
 
 梅〔傍線〕の〔二重傍線〕花〔三字傍線〕が〔二重傍線〕咲い〔六字傍線〕た〔二重傍線〕
 
 この図形を、既に用ゐた枡型式に改めるならば、
 
  〔省略〕
 
のやうになる。右の図形によつて、語の連結がどのやうにして句をなし、句が重つてどのやうにして統一した思想の表現に到達するかを理解すべきである。 このやうな単位の排列と統一の形式を入子型構造と呼ぶのである。入子型構造は、原子的排列構造とは異なつた構造形式を持つものであつて、その適例は、入子盃といはれる三重の(257)盃に見ることが出来る。その構造は図のやうに、大盃cは、中盃bをその上に載せ、中盃bは、更に小盃aをその上に載せて、そして全体として統一した三段組の盃をこうせいしてゐる。abcはぞれぞれに全体に対しては部分の関係に立つと同時に、bがcに対する関係は、単独にbがcに対するのではなく、aを含んだbとして、cに対するのである。cは盃自体として見れば一の統一体ではあるが、aを含んだbを、更に含むことにより三重の盃としての統一を完成するのである。入子型構造とは、右のやうな興味ある構造形式を持つものであつて、数珠の排列と統一に於ける形式と比較するならば、その特質を理解することが出来るであらう。
〔図有り、三重の○があり、中からa、b、cとある〕
 以上述べた入子型構造は、物質に関することであり、かつ空間的構造に属するものであつて、これを時間的に展開する表現であるところの言語に類推することは極めて困難なことであるが、国語に於ける語の連結とその統一構造とは、もしこれを直観的に把握しようとするならば、以上のやうな入子型構造に於いて理解するのが最も適切ではないかと思ふのである。
 
(258)     四 句と入子型構造(二)
 
 前項に於いて、私は、主体的意識に於ける詞と辞との表現性の弁別に基づく、語の結合を句と命名することとした。従つて、句はその構成内容から云へば、文と同じものであるが、それが完結形式をとらず、或は完結形式をとつた場合でも、文の一部分をなすことによつて句と云はれるのである。
 私がここに句と呼ぶところのものは、実は橋本進吉博士が文節(1)と名づけられたものに対する批判の上に成立つてゐるので、まづそのことを明かにしなければならない。
 橋本博士は、文に於ける切目を文節と命名されたが、それは音声論に於ける音節の概念の類推に基づくものである。しかしながら、音節が単なる調音の曲折によつて生ずるものであり、波の起伏に類するもので、そこには全体の統一といふものを考へる必要が無いのに対して、博士の文節は、必しも文に於ける単なる思想表現の曲折ではなく、それは意味に支へられて、全体として一の統一を形成すべきものである。
 従つて文節の分析は、思想表現の意味的曲折及びその統一形式と関連して来なければならない筈であるが、博士の文節に対する考察はそこまで到達することが出来なかつた。その根本は、博士が文節を文の節〔三字傍点〕として把握したところに原因してゐると思ふのである。文節の名(259)称は、博士の指摘せられた文節の事実そのものの正しい理解を進展させるには不適当であつた。寧ろ、文節の名称は、文章の一節或は一段である paragraph を呼ぶに適切な名称として保留したいと思ふのである。次に、それならば、橋本博士によつて指摘せられた事実としての文節を呼ぶ名称が従来無かつたかと云ふに、それに最も近く、或は更に適切な用語と考へられるのは、和歌、連俳等に用ゐられた「句」の名称である。上句、下句、初句、二句、発句、平句、或は句切れ等の句の語義を見ると、文節の名称よりも、句の名称を用ゐることが慣用の上からも適切である。ただ一般に句と云はれてゐるものは、博士が文節と云はれたもの以上の句切れを意味するところから、句の名称を斥けて文節の名称が採用されるやうになつたものと思はれるのである。例へば、
 
 久方の|光のどけき|春の日に|静心なく|花の散るらむ|
 
に於いて、初句は一文節から成り、二句は「光」「のどけき」の二文節から成り、三句は「春の」「日に」の二文節から成り、四句は「静心」「なく」の二文節から成り、五句は「花の」「散るらむ」の二文節から成つてゐる。以上のやうに見て来れば、一見句と文節とは一致しないやうではあるが、二の句「光のどけき」はこれを次のやうに図解することが出来る。
 
(260) 光〔傍線〕■〔二重傍線〕のどけき〔六字傍線〕■〔二重傍線〕
 
 右は句を含む句と考へられるから、文節としても当然二句全体を一文節とも考へることが出来るのである。三句は、二文節であると同時に、「春の日〔三字傍線〕に〔二重傍線〕」を一文節と考へることは極めて容易である。四句は二句と同様、一文節と認めて差支へなく、五句も左のやうに文節を含む文節として一文節と認めることは困難ではない。
 
 花〔傍線〕の〔二重傍線〕散る〔四字傍線〕らむ〔二字二重傍線〕
 
 以上のやうにして、句は句を含んで思想の統一が完成して行くことを考へるならば、従来の句に分つ立場と、文節的分析は決して矛盾するものではなく、全く一致するものであることを知るのである。更に一二三句を合して上句といひ、四五句を合して下句といふ場合でも、句としての根本概念には、いささかの変化も無いのである。して見れば、従来慣用された句の名称以外に文節の名称を用ゐる特別の根拠はなく、句の名称の方にむしろ融通性があり、入子型構造を自然に暗示するものがあるといふことが出来る。句のまとまりによつて出来る語の連鎖の中の休止は、従つて句切れと呼び、またこのやうに適当に語のまとまりをつ(261)けることを句切るといふ訳である。連歌、俳諧の初句である発句《ほつく》は、本来、その表現技術の掟に従ふならば、独立の思想と形式を持たなければならないものであるから、当然文法上の文に属して、これを句と称することが出来ない筈のものではあるが、発句の具体的なありかたは、歌仙或は百韻の一部分であるといふ見地から句と呼ばれることが出来るのである。このことは和歌に於いても同様であつて、
 
 天つ風雲のかよひ路ふきとぢよ
     少女の姿しばしとどめむ
 
に於いて、上句は、そこで思想が完結するにもかかはらず、なほ句と呼ばれるのと同じである。発句が全く独立して、なほ句或は俳句と呼ばれるのは、歴史的な理由以外に何もないのであつて、文法上から云へば句と呼ぶことが出来ないことは勿論である。そこでは、一の詩形の名称として用ゐられるに過ぎないのである。
 句の名称は、また phrase の訳語として一般に通用してゐる。それは、phrase が上に述べて来た詞と辞の結合である句に近似してゐるところから対訳に用ゐられたのであるから、句の名称を保存することは、彼我の言語の性質を比較対照する上にも便宜である。
 
(262) (1) 『国語学概論』橋本進吉博士著作集第一冊 二三頁、『国語法要説』同著作集第二冊 五頁
 
     五 用言に於ける陳述の表現
 
 詞は、それが概念作用による事柄の客体化の表現として、辞に対立するものであるが、それならば、詞は皆すべて一様であるかといふのに、そこにはなは常に語形を変へないものと、語形を変へるものとが区別される。
 山、川、犬、猫等は前者でこれを体言といひ、走る、受ける、暖い、楽しい等は後者でこれを用言といひ、その中に動詞と形容詞とが区別されることも既に述べたところである。動詞、形容詞は、共に詞として概念を表現するのであるが、これらの語が一般に使用されてゐる状態を見ると、例へば、
 
 犬が走る〔二字傍線〕。
 気候が暖い〔二字傍線〕。
 
のやうに、それは概念ばかりでなく、判断即ち文法上にいはゆる陳述をも表現してゐることは事実である。そこで、用言は陳述をも表現するものであつて、その点が体言と異なるとこ(263)ろであるといふ説が出て来るのである。山田孝雄博士は、
 
 抑も用言の用言たる所以はこの陳述の能力あることによることは既に繰返し説きたる所なるが(1)
 
と述べて、用言に於ける陳述性を強調して居られる。ところが既に述べて来たやうに、陳述といふことは、話手の主体的表現に属することであり、国語に於いては、客体的表現と、主体的表現とは一般に分離して別の語を以て表現され、この両者の表現上の相違を以て、語分類上の根本基準とする立場に立つ時、用言に於ける右のやうな事実をどのやうに取扱ふかは重要な問題である。外形だけから考へるならば、陳述は確かに前例の「走る」「暖い」といふ用言に累加され、含まれて居るやうに見える。しかしながら、主体的表現である辞は、常に客体的表現である詞とは別の語によつて表現され、かつそれは客体的なものを包み、統一する関係にあるといふ国語の一般原則に立つならば、陳述は次のやうな零記号に於いて表現されてゐると見ることが出来るのである。
 
 犬が走る〔□で囲む〕■
 気候が暖い〔□で囲む〕■
 
(264) 右のやうな説明法は、「故郷の山よ」といふ表現に於いて、感動を表はす「よ」が表現されず、「故郷の山!」と表現された場合、これを
 
 故郷の山※[四字□で囲む]■
 
として図解説明するのと同じである。
 以上のやうに、国語に於いては、用言は常にそれだけで別に陳述を表はす語を伴はずに陳述的表現とすることが出来るのであるが、方言の中には、「犬が走るだ」といふやうに、「だ」を以て陳述を表はしたり、「犬が走るです」「気候が暖いです」といふ風に、「です」を以て陳述を表現することがある。また、「日中は暖い。だ〔二重傍線〕が朝晩は冷える。」といふやうに、前文を受けて、これを繰返す場合に、ただ陳述だけを繰返して、「だ〔二重傍線〕が」といふことがある。この場合「だ」は前文の零記号の顕現したものと見ることが出来るのである。また、「朝晩は冷える。」といふ表現は、聞手に対する敬意を含める時、「朝晩は冷えます〔二字二重傍線〕。」といふ表現をとる。「ます」は、「だ」「です」と同様に、零記号の陳述が、語の形式をとつて現れたものと脇肝することが出来るのである。用言に於いて、零記号の陳述を想定するといふことは、一見極めて観念的な説明法のやうではあるが、国語の陳述表現の一般より類推する時、(265)以上のやうに解することがむしろ妥当であることが了解されたと思ふのである。
 用言に零記号の陳述を想定することは、以上のやうな述語的陳述に於いてばかりでなく、修飾的陳述に於いても同様である。
 
 流れる〔三字傍線〕小川
 寒い〔二字傍線〕夜
 
 右の用言「流れる」「寒い」は、それぞれ「小川」「夜」の間に零記号の修飾的陳述が介在してゐると見なければならない。更に次のやうな例に於いては、
 
 さらさら流れる小川
 ひどく寒い夜
 
 修飾的陳述は、「さらさら流れる」「ひどく寒い」を統一して、下の体言を修飾するものであることは、「梅の花が」に於いて、助詞「が」が、ただ「花」が主語に立つことを表はすばかりでなく、「梅の花」を統一しつつ、これ全体が主語に立つことを表はすのと同じである。
(266) 国語に於ける用言と陳述との関係を右の如く解する時、ヨーロッパの言語と国語との構造上の相違を次のやうに説明することが出来る。
 
 A dog runs.
 
のやうな表現は、一般に次のやうに説明されてゐる。
 
A dog is rnning.即ち A※[□で囲む] is B※[□で囲む]
 
のやうに、陳述を表はす辞が、AとBとの中間にあつて、両者を結合するものと考へる。即ち零記号の辞を、AとBとの中間に想定するのである。然るに、国語に於いて、
 
 犬 走る。
 
といふ表現は、AB二の観念の配列に於いて英語の場合と全く同じであるにも拘はらず、これを次の如く解さなければならない。
 
(267) 犬 走る※[□で囲む]■
 
 即ち、AB二観念を統一する辞は、AB二観念の外から、これを包む形に於いて統一してゐるのである。前者を天秤型統一形式と呼ぶならば、後者のやうなのは、これを風呂敷型統一形式と呼ぶことが出来るであらう。このことは、文の統一を論ずる際に、再び触れることではあるが、明治以後、英文法の知識によつて、日本人は、統一といへば、天秤型以外にはあり得ないやうに教へ込まれて来たのであるが、右に述べるやうに、別個の統一形式の存在が可能であることを深く銘記しなければならないのである。それは、物を箱に入れたり、紐で括つたりするところの統一形式である。
 
 (1) 『日本文法学概論』 六八一頁
 
     六 文の成分と格
 
 
 イ 総説
 前数項に亙つて述べて来たことを、ここで一往概括して見るならば、第一に、言語に於ける単位としての文がどのやうな条件を持つものであるかを明かにし、次にそれを具体化し(268)て、客体的な詞と主体的な辞との結合を以て文を説明する原則とした。そしてそれを次のやうな図形に表はした。
 
 詞※[□で囲む]辞※[半四角で囲む]
 
 次に、右のやうな文の構造を構成するものの中、主体的な辞が、客体的な詞をどのやうにして統一するかの面を述べて、辞特に用言の陳述に説き及んだ。ここで、文を構成する他の要素である詞について述べるべき順序となつた。
 文に於いては、詞は常に辞と結合して句を構成してゐるのであるから、文に於ける詞を考察するといふことは、そのやうに辞によつて規定された詞について考察することを意味する。換言すれば、辞は常に詞を統一するものであるから、辞によつて規定された詞を考察するといふことは、統一されたもの相互の関係を考察することに他ならない。辞によつて統一された詞は即ち文の成分であり、文の成分を全体的統一との関係に於いて見た場合にこれを格といふことは、従来の文の成分論で既に説かれたことである。
 文の成分及び格の概念は以上の如くであるから、成分及び格は、句の中から、辞を除いたものについて云はれなければならないのは当然である。
 
(269) 花が咲いた。
 
 右の表現に於ける文の成分は、句「花が」「咲いた」から助詞「が」、助動詞「た」を除いた「花」「咲く」について云はれることで、その両者の関係に於いて格と云ふことが云はれるのである。
 
 ロ 述語格と主語格
 すべて陳述の助動詞或は零記号の陳述によつて統一されたものが述語格である。
 
 勉強家〔三字傍線〕です。
 静か〔二字傍線〕だ。
 暖い〔二字傍線〕■。
 飛んでゐる〔五字傍線〕■。
 
 右の例は、すべて辞と結合して句をなしてゐるが、それらの中から辞を除いた傍線の語が、述語格と云はれる。更に次のやうな例の傍線の部分も同じ原則によつて、述語格と云はれる。
 
(270) 彼は勉強家〔五字傍線〕です。
 波が静か〔四字傍線〕だ。
 風は暖かい〔四字傍線〕。
 鳥が飛んでゐる〔七字傍線〕。
 
 これら傍線の部分は、語の結合であるが、陳述によつて統一されたものとして、一の詞と 同様に見なすことが出来る。しかしながら、それぞれの述語格は、「彼は」「波が」といふやうな句を含んでゐる。そこで、これらの句の中から、助詞「は」「が」を除いた「彼」「波」と、「勉強家」「静か」との間に文の成分上の関係が問題になつて来る。一般にこのやうな場合、これを論理的な観点から、「彼」「波」を、「勉強家」「静か」の主語と称するのである。ここに恐らく次のやうな疑問が生ずるであらう。「彼は勉強家」を述語としながら、「彼」に対して「勉強家」を述語とするのは何故であるか。いづれを述語とするのが正解であるか。この疑問に対する答は、既に述べたところの入子型構造の原則によつて氷解するであらう。「彼は勉強家です」といふ表現は、既に述べたやうに、「彼は」「勉強家です」の二句から成立し、そしてこの二句の間には、次のやうな入子型構造が成立することも既に述べた。
 
(271) 彼は 勉強家です※[二重の括弧及び半括弧あり]
 
 右の図形は、「です」によつて統一されたものとして、「彼は勉強家」を述語と呼ぶことが出来ると同時に、その中から、「彼」を主語として取出した場合、その主語に対しては、「勉強家」を述語と呼ぶことが出来るといふ関係を示してゐるのである。この関係は、国語の文の構造として具体的に示すことが出来るのであつて、例へば、「芽生える」「歯がゆい」「腹が立つ」「気が長い」等の語が、それぞれに一の詞として述語に用ゐられると同時に、「芽」「歯」「腹」「気」を主語と見れば、それに対する「生える」「かゆい」「立つ」「長い」を同時に述語と見ることが出来るのであつて、国語の構造の一の根本的な性格と見ることが出来るのである。
 次に、右の図形から結論することが出来る重要な点は、国語に於いては、主語は述語に対立するものではなくて、述語の中から抽出されたものであるといふことである。国語の特性として、主語の省略といふことが云はれるが、右の構造から判断すれば、主語は述語の中に含まれたものとして表現されてゐると考へる方が適切である。必要に応じて、述語の中から主語を抽出して表現するのである。それは述語の表現を、更に詳細に、更に的確にする意図から生まれたものと見るべきである。主語を述語の中に含めるところにも、それなくしても(272)自明である場合、主語を取出すことが憚られる場合等があるためである。
 述語に対する主語の関係を以上のやうに見て来るならば、主語は、後に述べる述語の連用修飾語とは本質的に相違がないものであることが気付かれるであらう。事実、国語に於いては、主語は、述語に対する論理的関係から云はれるだけで、例へば、次の例に於いて、
 
 私〔傍線〕には出来ません。
 
 「私」は、述語に対して、事実としては「出来ません」といふ述語の主語たるべきものではあるが、この場合「には」といふ助詞に規定された「私」は、むしろ述語の修飾語と見るべきものである。従つて、それは、「私に於いては」といふ意味の表現と見なければならないのである。国語に於いては、主語は述語の修飾語と見ることが出来るのである。
 
 ハ 述語格と客語、補語、賓話格
 主語が、述語から抽出されたものであり、修飾語と異なるところは、論理的関係に於いて、主語が述語の主題であるやうな事柄であるのに対して、修飾語はむしろ述語の中の属性的事実の抽出であるところにある。客語、補語も述語から抽出された概念であることに於いて主語或は修飾語と同性質のものであり、ただそれが、述語の主題ではないところつら、今(273)日、普通の文法書では、客語、補語を修飾語として取扱つてゐる。本書でもこれを修飾語の一として取扱ふのであるが、述語に対する論理的関係から、修飾語のあるものを、主語といふことが出来るやうに、述語及び主語に対して、或る特殊の論理的関係のある修飾語を、客語、時には目的語、或は補語といふことが出来、また便宜上そのやうに取扱つてゐる。これはヨーロッパ諸言語の類推に基づく取扱ひであるが、国語には、述語と客語、補語との関係を規定するやうな明確な文法的記号を指摘することが困難で、ただ意味の上から、さう云はれるに過ぎない。助詞「を」に規定された詞が客語であるといふことも、決定的ではない。
 
 橋〔傍線〕を渡る。
 空〔傍線〕を飛ぶ。
 
 右の傍線の語のやうなものは、単に行為の行はれる場所を云つたもので、客語と云ひ切れないものである。このことが、ひいては、国語に於いて自動詞と他動詞との区別をつけることが出来ない原因となつてゐる。
 補語は、述語に対する論理的関係によつて規定された成分であるといふよりは、述語の意味の充足に関する成分である。ある種の述語は、それだけでは意味が分らないばかりか、文としての形式が整はない場合がある。これを補ふところの文の成分が補語である。このこと(274)は、既に述べた形式動詞に関係して来る。
 
 室を暖かく〔三字傍線〕する。  私はびくびく〔四字傍線〕する。
 気が樂〔傍線〕になる。  科学者〔三字傍線〕になる。
 
 右の傍線の語を除けば、この文は成立しないことになる。しかしながら、この場合でも、補語を規定するやうな特殊な助詞がある訳ではないから、その判定が決定的であるとは云へない。以上のやうな成分の識別は、結局、文を分析してその論理的関係を明かにする上の便法と見るべきであらうと思ふ。そのやうな事情から、今日では、多くの文法書が、主語を除いて、客語、補語をすべて修飾語として一括するやうになつたことにも理由があることである。この場合、主語を修飾語から除外することに、特別の理由がある訳ではないといふことは既に述べた通りである。
 国語に於いて、主語、客語、補語の間に、明確な区別を認めることが出来ないといふ事実は、それらが、すべて述語から抽出されたものであり、述語に含まれるといふ構造的関係に於いて全く同等の位置を占めてゐるといふことからも容易に判断することが出来る。
 
 私は六時に友人を駅に迎へた
 
(275)に於いて、「私」「六時」「友人」「駅」といふやうな成文が、すべて、「迎へる」といふ述語に対して、同じ関係に立つてゐるのである。その点ヨーロッパ諸言語が、主語と述語との間には、不可分の関係が結ばれて、他の文の成分とは全く異なつた関係にあるのとは異なる。
 ただし、国語に於いて、成分の間の関係を表はす格助詞の分類に対応させるならば、客語以外に更に多くの格を対立させることが当然考へられなければならないのであつて、ただ客語だけを特立させるといふことは片手落ちである。このやうな成分上の区別は、それと述語との関係に於いて必要なのではなく、むしろ、成分を規定する助詞の意味との関係に於いて重要となつて来るのである。
 次に、賓語について云ふならば、従来の文法書では、用言は概念と陳述との合体したものと考へ、これを述語としたために、概念と陳述との別れた表現、例へば、
 
 波が静かだ。
 
に於いて、「静かだ」を用言に匹敵するものと考へたので、更にこれを分析して、「だ」を述語とし、「静か」を賓語としたのである。一般には、陳述の表現を述語と考へるところから右のやうな結論が出て来るのであるが、本書に於いては、文の成分は、辞によつて規定され(276)た詞についてのみ云はれねばならないものとしたので、陳述そのものは述語となるべき資格はない。陳述された内容が述語であるから、右の例に於ける「静か」は述語であつて、特にこれを賓語といふ必要のないものである。賓語といふ名称は、complement の訳語であるが、complement と predicate との間の混乱から、ひいてはその訳語である賓語、補語、述語の間にも混乱があり、用法が区々である。今、山田孝雄博士の文法体系と本書とを対比して見るのに、博士に於いては、陳述の表現そのものに、格を認めて居られるのに対して、本書に於いては、陳述そのものに格を認めないので、次のやうなずれ〔二字傍点〕が生じてゐる。
 
 ○『日本文法学概論』 ○本書
 述格…………………陳述と述語格とに分れる
 賓格…………………述語格
 補格…………………客語、補語等の修飾語格
 
註 山田博士の述格は、実質概念と陳述との結合を意味する場合(用言が述格になる時)と、全く陳述のみを意味する場合(「花なり」の「なり」)とがあるのを、本書に於いては、概念と陳述とを峻別する立場をとつた。従つて、山田博士の賓格に相当するものが述語格となつた。
 
(277) ニ 修飾語格
 修飾語の問題としては、
 (一)前項に述べたやうに、国語の構造上、主語、客語、補語等を修飾語と区別することが、困難であるところから、これらをすべて修飾語とすることは最近の傾向である。しかしながらこれにもなほ疑問があつて、前項の補遺として、ここに一言加へたいと思ふ。次のやうな例文をとつて見るのに、
 
 学校に〔二重傍線〕行く。
 親切に〔二重傍線〕世話する。
 
 「学校に」「親切に」の「学校」「親切」はともに体言であり、文の成分としては、修飾語として取扱はれてゐる。これらの語は、同様に「に」といふ語が附いてゐるのであるが、「学校に」の「に」は助詞で、「親切に」の「に」は指定の助動詞「だ」の連用形であつて、その品詞の所属を異にし、従つて意味が相違すると見なければならない。ここに、同じく修飾語であると云つても両者に何等かの相違があるべき筈である。この相違は、次のやうにして説明することが出来るのではないかと考へられる。先づ、体言に指定の助動詞の附いたものは、零記号の附いた用言の連用形に相当する。
 
(278) 親切〔二字傍線〕に〔二重傍線〕世話する。……心よく〔三字傍線〕■〔二重傍線〕世話する。
 すみやか〔四字傍線〕に〔二重傍線〕流れる。……早く〔二字傍線〕■〔二重傍線〕流れる。
 
そして、これらの修飾語は、事柄の属性概念の表現であることが分る。これらの修飾語に対して、体言に助詞「に」の附いたものは、
 
 六時〔二字傍線〕に〔二重傍線〕出発した。
 東京〔二字傍線〕に〔二重傍線〕着く。
 電車〔二字傍線〕に〔二重傍線〕乗る。
 
のやうに、事柄それ自体の属性ではなく、事柄に関係する外的なものの表現である。
 このことは、助動詞「と」と、助詞「と」の間にも云はれる。
 
 雨霰〔二字傍線〕と〔二重傍線〕散る。……はげしく〔四字傍線〕■〔二重傍線〕散る。
 茫然〔二字傍線〕と〔二重傍線〕暮す。……淋しく〔三字傍線〕■〔二重傍線〕暮す。
 
(279) 右は助動詞の場合であるが、
 
 友〔傍線〕と〔二重傍線〕遊ぶ。
 甲は乙〔傍線〕と〔二重傍線〕同じ。
 
は助詞の場合であつて、両者の間には前の「に」と同様の差別が存することが分る。
 以上のやうにして、修飾語と云つても、格助詞の附いた場合と、助動詞の附いた場合とでは、事柄の外部に関するものと、内部に関するものとの相違があるので、この両者をどのやうに区別するかが問題にならなければならないのである。ただ「に」及び「と」について、格助詞と認むべき場合と、助動詞と認むべき場合と、判然と区別し難い場合があるので、この間題は必ずしも容易ではないのである。ともかくも、この差別は、次のやうな表現を識別するに役立つであらう。
 
 近く見える。
 近くに見える。
 
 前者は、「見え方」の如何を云つたものであり、後者は「近く」が一個の体言として、助(280)詞「に」が附いて、「見える」場所を指したものとなるのである。
 
 (二)修飾語と被修飾語との関係は、結局、語と語との関係になるので、被修飾語が、体言であるか、用言であるかに従つて、連体修飾語と連用修飾語とに分れる。
 
 星が美しく〔三字傍線〕輝いてゐる。(連用修飾語、形容詞連用形)
 星が沢山〔二字傍線〕に輝いてゐる。(連用修飾語、体言、助動詞「に」を伴ふ)
 美しい〔三字傍線〕星が輝いてゐる。(連体修飾語、形容詞連体形)
 沢山〔二字傍線〕な星が輝いてゐる。(連体修飾語、体言、助動詞「な」を伴ふ)
 
 連用修飾語は、用言へ接続するのであるから、一般に用言の連用形か(零記号の陳述を含める)、.体言に指定の助動詞の連用形「に」「と」及びその他の助動詞の連用形の附いたものであり、連体修飾語は、用言の連体形か、体言に指定の助動詞の連体形「な」「の」及びその他の助動詞の連体形のついたものである。しかしながら、この原則は決定的なものでなく、文の成分の関係は、品詞的関係であるよりも、意味的関係であるから、次のやうな現象が生ずる。
 
(281) 今日は、お早い〔四字傍線〕御出発ですね。(修飾語は連体形、被修飾語は体言)
 今日は、お早く〔四字傍線〕御出発ですね。(修飾語は連用形、被修飾語は体言)
 
 即ち、述語が体言であるにもかかはらず、連用形を以て修飾するのは、被修飾語が動作的な意味を持つためである。一般に個体的な意味に決定されてゐる体言に対しては、連体修飾語が用ゐられるが、状態性、動作性の意味を持つ体言に対しては、連用修飾語をとることが可能になつて来る。
 
 綺麗〔二字傍線〕な花です。(連体修飾語)
 勉強する〔四字傍線〕学生だ。(連体修飾語)
 明日〔二字傍線〕から学校です。(連用修飾語)
 一所懸命〔四字傍線〕に勉強です。(連用修飾語)
 
 以上のやうに見て来ると、連体とか連用とかの名称が、既に不適当に考へられて来るので、これに対して、形容詞的修飾語、副詞的修飾語の名称を用ゐるのが適切ではないかと考へられる。これに関しては、もちろん、品詞としての形容詞の名称を改めて、このために保留されることを前提とするのである(総論「文法用語」参照)。
 
(282) ホ 対象語格
 この一般には用ゐられてゐない術語を、ここに用ゐる理由は、国語に於ける次のやうな現象に基づくのである。まづ、
 
 山が高い。 川が流れてゐる。
 
の例に於いて、述語「高い」「流れてゐる」の主語が、それぞれ「山」「川」であることは、容易に理解されることである。ところが、
 
 仕事がつらい。 算術が出来る。
 
の例に於いて、「仕事」「算術」を、「つらい」「出来る」の主語とすることが出来るかといふと、ここに問題がある。主語は、それとは別に、
 
 私は仕事がつらい。  彼は算術が出来る。
 
(283)に於ける「私」「彼」を主語と考へるべきではないかといふ議論も出て来て、「仕事」「算術」をどのやうに取扱ふべきかが問題になる。ここで、「私」「彼」は当然主語と考へられるので、「仕事」「算術」は、述語の概念に対しては、その対象になる事柄の表現であるといふところから、これを対象語と名づけることとしたのである.
 
 山〔傍線〕が見える。
 汽笛〔二字傍線〕が聞える。
 犬〔傍線〕がこはい。
 話〔傍線〕が面白い。
 
等の傍線の語は、皆同じやうに、主語ではなく、対象語と認むべきものなのである。
 しかしながら、以上の諸例に於ける傍線の語を、主語として取扱ふことが、全然不合理と考へられないのは何故であらうか。素朴な態度を以て、以上の諸語を文法的に操作すれば、当然、主語として考へられるであらう。これは、次のやうな理由によるのである。右の諸例に於ける述語、例へば、「見える」「こはい」をとつて考へて見るのに、これらの語は、一方では、主観的な知覚、感情の表現であると同時に、他方では、そのやうな知覚や感情の機縁、条件となる客観的な事柄の属性を表現してゐる。云はば、これらの語は、主観、客観の(284)総合的な表現で、我々がこれらの語を用ゐる時、必しも一方的に主観的なものだけを表現してゐるのでもなく、また、客観的なものだけを表現してゐるのでもない。その場合に従つて、「山が見える」と云へば、客観的なものの表現を意図し、「私は見える」と云へば、主観的なものを意図してゐるのである。この点、「山が高い」「川が流れてゐる」に於いては、述語「高い」「流れてゐる」は、全く客観的なものの表現であるために、主語が一義的に決定される。また一方、「足が痛い」「水がほしい」に於いては、述語「痛い」「ほしい」は、全く主観的な感覚感情の表現であるから、「足」や「水」を主語とすることは全然許されない。ここに対象語の概念が必要になつて来るのである。右の左右両極の中間に位する語については、主語と認めるか、対象語と認めるかは、その場合場合で異なつてゐると見なければならないのである。対象語の概念は以上のやうなものであるから、主語と対象語とは、全く相排斥する矛盾概念ではないのである。対象語の問題は、述語に用ゐられる用言の意味に関係することで、それは同一時代、同一社会内でも、時と場合で異なつて、
 
 町が淋しい。(「淋しい」は、客観的な状態、「町」は主語)
 独りでゐるから、琳しい。(「淋しい」は主観的な状態、主語は省略)
 
のやうに用ゐられると同時に、時代によつても異なる。
 
(285) 琴の音ゆかし。(「ゆかし」は琴の音が聞きたいといふ希望の感情を表はし、「琴の音」は対象語、主語は省略)
 人柄がゆかしい。(「ゆかしい」は、人柄の状態を意味し、「人柄」が主語)
 
 ヘ 独立語格
 以上述べた諸格は、すべて述語を基本にして、そこから抽出され、またそれに対立する概念の表現として、それら相互には、相対的な関係があつた。主語は、述語に対する主語であり、対象語は、主語及び述語に対する関係から規定されたものである。以上述べた諸格は、すべて陳述によつて統一されるので概括していふならば、これを述語格といふことが出来る。ここに独立語格といふのは、右のやうな相対的な関係を持たない、それ自身単独の格を云ふのである。例へば、驚きの感情を以て「火事!」と叫んだ場合、文論の総説に於いて既に述べたやうに、この表現は、感情(この場合に零記号)と、その感情の志向対象である一の事柄の詞的表現である「火事」との結合であるから、当然「文」と云はなければならない。この文の格は、この表現の詞について云はなければならないのであるが、この詞は、「火事だ」といふ表現のやうに、指定の助動詞「だ」によつて統一されたものではないから、述語格とはいふことが出来ない。このやうな格を独立格と云ふのである。この場合、(286)「火事」といふ語は、驚きの感情の対象であるから、対象語ではないかといふ疑問が起こるであらうが、格は常に客体界の秩序で、詞相互の間で云はれることで、この場合の感情は、詞として表現されてゐないのであるから、「火事」を対象語といふことは出来ないのである。
 
 火事がこはい。
 
といふやうな場合は、全く別で、この時は、感情が「こはい」といふ詞によつて表現されてゐるのであるから、この「こはい」といふ詞(この場合は述語として用ゐられてゐる)に対して、「火事」を対象語といふことが出来るのである。独立語には、多くの修飾語が伴ふことがあるが、それが独立語に統合されて、結局、一語として見ることが出来るから、独立語は一語文と認むべきものである。
 
 荒海や佐渡に横たふ天の川
 
 右の文は、「荒海や」「佐渡に横たふ天の川」の二の独立語格を持つた文から組立てられてゐる。そして、それは次のやうに図解される。
 
(287) 荒海※[四角で囲む]や※[半四角で囲む] 佐渡に横たふ天の川※[四角で囲む]■
 
 上の文は、詞である「荒海」が、感動を表はす助詞「や」によつて統一されてゐる。ここには陳述による統一がなく、感動による統一があるだけであるから、「荒海」は相対格を持たず、それだけで独立格をなす。下の文は、「佐渡に横たふ」は「天の川」の修飾語で全体を一語として取扱ふことが出来、かつこれを統一するものは、陳述ではなくして、零記号の感動であるから、形式としては、上の文と全く同じ独立格である。このやうにして、この上下二の文は、感動に包まれた、自然の二の情景を投出して、読者をして全体の景観を想像させたものであると云ふことが出来る。
 このやうな独立語による表現は、外形上の形式は同じでも次のやうな表現とは全く異なるものである。
 
 昨日は何処へ行つたの? 箱根〔二字傍線〕。
 
 右の問に対する「箱根」といふ答は、「箱根です。」或は「箱根へ行つた。」といふ表現の省略形で、そこには、陳述が省略されてゐると認められるので、述語格か、或は述語格に含まれる修飾語格と見なければならないのである。
 
(288) また、次のやうなものも独立語とは認められない。
 
 しかしその電灯の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく、世間はあまりに平凡な出来事ばかりでもちきつてゐた。講和問題〔四字傍線〕、新婦〔二字傍線〕、新郎〔二字傍線〕、涜職事件〔四字傍線〕、死亡広告〔四字傍線〕。――私はトンネルへはひつた。(芥川寵之介)
 
右の傍線の語は、それぞれ独立語を構成してゐるのではない。さりとて、それぞれが陳述の省略された述語或は主語とは認められない。換言すれば、これらの語は、如何なる意味に於いても、文或は文の一部とは云へないのである。それならば、「講和問題……死亡広告。」までは、何と解すべきであらうか。それは、この作者の意識に浮んで釆た想念を、次々に語として表現したのであるから、それは、語の羅列に過ぎないのである。本書の語論の総説にも述べたやうに、語は、文より帰納されたものとして存在するのではなく、文が一の単位として扱はれると同様に、語もまた言語の一単位として、それとは別個に成立するものであることを示すのである。
 
(289)   第四章 文章論
 
     一 総説
 
 文章研究が、文法学上の一単位として、その一領域を占めるものであること、またその必要な所以は、既に総論の中で述べた。文章研究を文法学の正面の問題に据ゑることは、従来、殆ど試みられなかつたことで、これを文法学の重要な対象として考察するには、今日はまだ充分な準備が整へられてゐる訳ではないのであるから、本書においてこれを取扱ふのは、将来この方面の研究を促す機縁になることを願ふ以上のものではないのである。以下、文章研究上問題になり得る二三の点を列挙したいと思ふ。
 
     二 文の集合と文章
 
 文の集合が決して文章にならないことは明かである。一日の断片的な事件を羅列した覚書(290)或は日記の記事のやうなものと、漱石の草枕や平家物語のやうなものとが、同じものであるとは考へられない。前者は単なる文の集合であるのに対して、後者はそれ自身一の統一された全体である。文の性質が、語の集合として理解することが不可能のやうに、文章の性質が文の集合として、或は語の堆積として説明することは不可能である。換言すれば、文章は文の説明原理とは別の原理を以て説明されなければならないことを意味する。このことは、常識的にも大体想像されることであつて、我々が文章に接した場合、屡々その主題を問題にし、結論を尋ね、或はその結構、布置の如何を問題にするのは、既に文章が、文以上のものであることを常識的に認定してゐるためである。ところが、学問的には、文章の性質を文によつて説明しようとし、或は語によつて規定しょうとするのは、文章研究が、文法学において正当な位置を要求されてゐないことにもよるのであるが、一方、すべて物を、その究極の構成要素によつて説明し、説明することが出来ると考へる原子論的考方によることが多いのではないかと思ふ。
 
     三 文章の構造
 
 文章はその根本において言語的表現であるから、文章の性質の理解は、何よりもそれが言語としての性質を持つものであることが確認されなければならない。言語的表現の特質は、(291)これを音楽的表現、絵画的表現、彫刻的表現などと対比することによつて、よくその特質を把握することが出来る。云ふまでもなく、言語は、それが時間的に流動展開することにおいて、著しく音楽的表現に類似し、絵画、彫刻などと相違する。このことは、文の表現においても同様であるが、特に文章表現において著しく目につくことである。この時間的な流動展開といふことが、文章の性質を規定する重要な点であるにも拘はらず、従来の文章研究において、ややもすれば看過されて居たことである。文章は屡々絵画、彫刻に比較され、平面的構造、或は空間的構造のものとして理解され、またそのやうなものとして分析されることが多かつた。作文を意味する composition といふ語にも、以上のやうな文章観が反映してゐるのではないかと思ふ。
 このことは、芸術的な文章の観察において著しく現れて来るやうである。文章の芸術的鑑賞が、読まれた文章を対象化し、その絵画的、建築的構図の尺度を以て律するのでなく、文章展開の必然性の追求において、鑑賞されなければならないといふことが、ここから結論されて来るのである。文章の根本的性質が以上のやうなものであるから、文章は何よりも表現の展開といふことが、その構造的特質でなければならない。従つて、その展開の核心となるものは、文章の冒頭であつて、冒頭が如何に分裂し、如何に拡大し、如何に屈折して行くかといふところに文章の展開がある。文研究の主題が、文の論理的構造にあるとするならば、文章研究の主題は、もつと流動的な思考の展開といふやうなところに置かれなければならな(292)いのである。
 具体的な例を以て説明するならば、ある一の文章が芸術的であり、それが芸術作品であると云はれる根本の理由は、表現そのものに、美が存在するためである。言語的表現は、上に述べたやうに、思想内容或は表現題材が時間的に音声、文字を媒介として表現が展開するのであるから、文章に美があるといふことは、そのやうな流動展開に美があることに他ならない。これは、建築や彫刻に於いて、部分と全体との布置、結構に美があると云はれることと、対照をなすものである。文章に於ける右のやうな流動展開の美は、文章を読むことによつて始めて体験され、具体化されるのであるから、文章の構造が明かにされることなくしては、正しく文章の美を把握することは不可能である。このやうに、文章の美は、文章を対象化し、これを平面的或は空間的構造に改めることによつて捉へられるものではなく、一義的に、読む経験に即して捉へられなければならないのである。最も簡単に体験出来る文章の美は、文章の筋の展開に於いて捉へられるところのものであつて、平家物語の美はまさにそのやうな序破急の中にあると見てよいであらう。文章の芸術性といふことが、作者の経験的題材になくして、むしろ、題材を表現にまで定着させる表現体験にあること、また読者の側から云ふならば、作品を読む読書体験の中にあるといふ考方に対しては、多くの異論があり得ると思ふのであるが、もし以上述べたやうに、文章の芸術性といふことが、文章を読むことに於ける美的体験であるといふことが許されるとするならば、文芸の正しい鑑賞のために(293)も、文章の構造とその展開についての研究が必要とされて来るであらう。
 
四 文章の成文
 
 文の成分が、個々の単語でなくして、格と云はれるものであり、格の論理的構成において文が成立するやうに、文章の成分も、また、個々の文に帰せらるべきものではない。文章の成分は一般に文節、文段、段落と呼ばれ、或は全体との相互連関の上から、章とか篇とか呼ばれることがある。言語表現は、常に必しも論理的にばかり展開するものでなく、例へば連歌、俳諧のやうな特殊な展開法をとるものもあるが、言語表現の一般的性質として、思考の展開を特色とするものであるから、文章の成分は、多少なりともこれを論理の概念を以て規定することが出来るのは当然である。漢詩において、起句、承句、転句、結句と云ふことが云はれ、論文形式において、序論、総論、各論、結論などといふことが云はれるのはそれである。文論において、種々の格についての説明があるやうに、文章論においても当然その成分論が必要とされるのである。
 
(294)     五 文章諭と語論との関係
 
 文章の直接の成分的要素は、文でもなく、語でもないが、文章の表現的特質から、語が重要な関係を持つ場合がある。文章の構造的特質は、絵画的建築的構図にあるのでなく、思考展開の表現にあることは既に述べたことであるが、このやうな展開を表現するものとして、最も重要な役割を果すのは、接続詞及び代名詞である。文論においては、接続詞は主語、述語、修飾語に比較して、文の構成に直接関係のないものとして、殆どこれに触れる必要を認めないのであるが、文章論の主題を以上述べたやうに思考表現の法則に求める時は、接続詞の研究は非常に重要なものとなつて来る。語論における接続詞研究は、全く文章研究のためにあると云つても過言ではないのである。接続詞が、文章展開の重要な標識であるといふことは、接続詞が辞に属し、話手の思考の展開の直接的表現であるからであつて、他の詞に属する語が、文章と関連するのとは、比較にならない重要な意義を持つのである。
 代名詞についても同様なことが云へる。文論の範囲では、代名詞は他の体言と同様に、文の成分となり得るといふこと以外には、代名詞本来の機能は、全く無視されても差支へなかつた。ところが文章論においては、それが文の成分としての意義以上に、代名詞特有の意義においてはじめて問題にされて来るのである。何となれば、既に語論において述べたやう(295)に、代名詞は他の体言と異なり、事物の概念を表現するといふよりも、話手と事物との関係概念を表現することを任務とするものであるから、一切の事物は、代名詞によつて総括されることとなる。「これは」と云つた場合の「これ」は、それに先行する一切の思想を受けて、次の表現の主題とすることが出来るのである。接続詞が、文章の展開に重要な役割を持つものとするならば、代名詞は、分裂展開する思想を集約して、これを統合する任務を持つものであると云へるのである。接続詞の多くが、「それから」「そして」「かくて」「されば」のやうに、起源的には代名詞との複合であることを見ても、この二の品詞が、あひまつて、文章展開に重要な役割を持つことが知られるのである。代名詞や接続詞は、建築物に於ける廊下や階段にもひとしい任務を持つてゐる。
 
     六 その他の諸問題
 
 (一)文を如何なる基準によつて分類するかの問題と同様に、文章についてもこれを分類することが問題にされなくてはならない。
 (二)語論においても、文論においても、これを歴史的に考察することが、体系的研究にとつて必要なやうに、文章論においても、歴史的研究が必要とされるであらう。
 (三)文章論は、文章の類型を求め、一般法則を抽象することを任務とするものである(296)が、これに対して、従来の個別的観察、文章の芸術的価値の問題も、あはせて考慮する必要がある。類型的観察と個性的観察とは、全く別物でなく、類型的観察は、個性的観察を出発点としなければ不可能なことであり、個性的価値の認識はまた類型的認識に基づかなければ不可能であつて、この両者の相互関係が常に問題とされることが必要である。
 (四)音楽に於いて、テンポが表現効果に重要な関係があるやうに、文章に於いても同様なことが云へるであらう。文章に於けるテンポは、主として、文の長短によつて規定される。短い文の連続は、思想の急速度の転換を意味し、そこに文章の速度感を意識させる。
 (五)文体の問題も、文章研究に於いてはじめて取上げることが出来ることである。
 (六)絵画が、歴史的物語をそのままに描出すことが出来ないのが宿命であるやうに、文章はまた瞬間的な印象をそのままに描写することが出来ないのが宿命である。それはそれぞれに表現としての性格を異にするところから来ることであり、そこに題材と表現の性格との関連の問題が生じて来る。
 (七)文論に於いて、主体的表現と客体的表現とを論じたやうに、文章論に於いても、主体的なもの即ち作者がどのやうに表現面に自己を表はしてゐるかが分析追求されることが必要であらう。
 
 文章論については、なほ多くの課題が考へられるであらうが、文章が、語よりも、更に文(297)よりも一層具体的な言語単位であるために、これを分析して、挙げ尽すことは容易でない。これらの研究に、従来の修辞論が重要な基礎となり、また参考となるべきものであることは云ふまでもない。
         〔2020年8月11日(火)午後4時50分、入力終了。〕