鴻巣盛廣  萬葉集全釋 第一冊 東京廣文堂 1930.7.10 6圓30錢
 
(1)
緒言
 
 回顧すれば、予が處女著作「新古今和歌集遠鏡」を公にしてから、今年で方に二十三年目である。予は本居宣長の精緻な學風を敬仰すると共に、彼の「古今和歌集遠鏡」が、平易簡明、俚耳に入り易く、一般讀書子を裨益することの大なるを感じてゐたから、それに倣つて新古今集の口語譯を物したのである。それは急遽脱稿した爲に、杜撰なものではあつたが、予にとつては捨て難い記念物である。この公刊に興趣を覺え、引續いて書き始めたのは、「萬葉集遠鏡」であつた。當時予は東京帝國大學文科の卒業に際して、「萬葉集の研究」なる論文を書いてから、程經ぬことでもあり、萬葉集の口語譯はさしたる難事ではあるまいと思つてゐたのである。さうして愈々これが起稿に着手した頃、鹿兒島なる第七高等學校造士館へ赴任することとなつた。
 明るい南國の春秋は、快い長閑な生活を予に惠んだ。さうして滑川のせせらぎを遶らした寓居は、まことに住み心地よいものであつた。ここで職務の餘暇、豫ねての計畫を遂行することにした。底本としたものは活版本の略解で、早稲田大學出版の代匠記と、宮内省藏版の古義とが參考として座右に置かれた。その他、考や玉の小琴などが參照せられたことは言ふまでもな(2)いが、貧弱なる予の書架には、これ以上數へ擧ぐべき何物もなかつたと言つてよい。卷頭から順次解を進めて行く間に、いたく予を惱ましたものは、先哲の訓が多種多樣に分れてゐることであつた。當時の予は契沖・眞淵・宣長・雅澄らが、舊本の誤字を指摘し、これを改訂してゐる炯眼と創見とに畏服しつつ、しかもそのいづれに依るべきかに困惑した。多くはそれらの一を常識的に選擇して從ふことにしたのであるが、また或時はその總べてを排し、自ら別に誤字説を立てて、竊かに快としたこともあつた。けれどもやがて不安が胸裡に涌いて來た。それは現在流布してゐる萬葉集は、眞淵・宣長らが唱へたやうに、果してそれほど多くの誤字を含んだものであらうか。かうして猥りに誤字と推定し改訂して行くことが、當を得た研究態度であらうかといふことであつた。
 かう思ひ當つた時、今まで猪突的に執られてゐた筆は、漸く澁り勝ちになつて行くのを覺えた。その弛緩した氣分を打開する爲に、ふと胸中に浮んだのは、萬葉集口譯のかたはら、他書の註解をも試みて行かうといふ考であつた。當時の予には、吾が古典の一般化が緊要事と考へられてゐたので、分量も手頃で、興味も多い落窪物語を口語に譯することに定めた。怠惰性に富んでゐる自分を鞭撻するには、何ごとも規則的に拘束して行く必要があつたので、毎日原稿(3)紙三枚づつを必ず記すことに定めた。かうして缺かさず筆を執つたので、半歳足らずで脱稿し、それが「口譯落窪物語」と題して版になつたのは、丁度明治から大正に入つた秋のことであつた。その頃の學界には未だ我が古典の口語譯も尠く、口譯といふ名稱もなかつたのであるから、予の拙い小著は、ともかくもその方面の嚆矢であつたのである。その間にも「萬葉集遠鏡」は廢せられたのではなく、依然として物足りなさを感じつつ、自信のない態度で斷續的にその功を進めてゐた。
 然るに大正五年七月、樟の薫なつかしい薩南の地を去つて、しなさかる越路の大都金澤へ居を移すことになつた。花ぐはし櫻の島を朝夕に眺めた、錦江灣頭六年の生活は、愉快な思ひ出の多いものであつたが、雪深い靜寂な落付に富んだ百萬石の城下も、攷學には不適當ではなかつた。予の事業は此處でも相かはらず緩徐な歩みを續けてゐた。然るにその少し以前から、國文口譯叢書と稱するものが某書肆によつて發行せられつつあつたが、その一部として、折口信夫氏の「口譯萬葉集」三冊が公にせられたのは、予が此處に居を卜してから間も無いことであつた。この書を繙いた予の胸中には、當然世に魁くべき自己の事業が、他に先んぜられたことを遺憾とする念が起るべき筈でありながら、實はそれによつてさしたる感動も與へられなかつたの(4)である。その故は、その頃予の胸中には、萬葉集の訓解は、徒らに創見新説を立てようとするのは誤謬に陷る所以で、もつと根本的の方針を樹立してかからねば駄目であるから、寧ろ刊行を問題とせず、ただ自己の研鑽の爲として從來の態度を繼續し、一通り完了した上で更に何らかの方法でこれを改訂し、もし意に滿つるものとなつたならば、その時始めて上梓することにしようとの決意が出來てゐたからである。そのまま執筆は徐ろに續行せられた。遲々たる牛の歩みも、流石に目的地に到達する時はあつた。大正七年の春、萬葉集二十卷の全部が口譯を了したのである。筆を擱いて顧みた既往の十年は、永いやうで短かつた。出來上つた二十冊の原稿を、積み重ね積み直して見ても、予の心には功を終へたといふ歡喜は少しも湧き起らない。これからこれを如何にするかといふ焦燥と不安とが、胸を滿たすのみであつたのである。
 その頃金澤市神職會主催で、萬葉集研究會が組織せられ、予にその講師を嘱せられることになつた。そこで予はこれを機として、舊稿を補訂しようと思ひ立ち、その爲に古人の諸説を出來るだけ集録し、これを比較批判して行くことにした。そこで從來尠かつた語釋を補ひ、それに先哲の諸説を書き込んで、その原稿を携へて會場なる尾山神社の社務所で、月二回づつの講義を試みた。かうした講義法はかなりに時間を要するので、これを適當に取捨してなるべく捗(5)取るやうにしたけれども、やはり進度は遲々たるものであつた。その數年前から、萬葉集の古寫本を蒐集して校本を作る事業が、佐佐木信綱・橋本進吉ら諸氏の手によつて進行してゐるとの風聞は、いたく予を喜ばしたのであつたが、この講義の進行と共に、古人の異説の採録と、その常識的批判とに多くの意義を見出し得ないやうになつてゐた予は、古寫本の比較研究以外には、新しい境地を開く方法がないやうに思つたので、「校本萬葉集」の誕生を心から鶴首して待つたのである。然るに何事ぞ、九月一日の大震火災は、已に印刷を了した同書を悉く燒き盡して了つた。その直後、帝都を訪問し、焦土と化した巷を辿り、本郷なる帝國大學の廢墟を弔つて、西片町に佐佐木信綱氏を尋ね、永年の苦心が灰燼に歸した痛恨を、涙ながらに語られる氏の言葉を聞いて、ただ暗涙に咽んだことであつた。
 その頃になつて、また予の萬葉集訓讀の方針は一つの著しい轉機を見せてゐた。それは眞淵以來の國學者が試みた文字の獨斷的改竄に反對し、韻鏡の智識を以て先人未登の訓法を立てた木村正辭の研究法が、極めて合理的な正しいものと考へられて來たことである。彼の「萬葉集美夫君志」及び字音・文字・訓義の三辨證は、予に多大なる刺激を與へた。今は徒らに校本の成るのを俟つべきではない。萬葉集に用ゐられた有らゆる文字についてその用例を仔細に調査し、こ(6)れを規矩準繩として疑問の個所を解決しよう。なほ字音の智識は研究の基礎として必須のものであるから、韻鏡の討究に入らう。これが正しき訓法に到達する最善の方法であらねばならぬと氣が付いたのである。そこで先づ卷一から逐次、總べての用字を拔書して、その文字について用例の異なる毎に一々列記することにした。やり始めた最初は、果して幾年の後にこれが成就を見るべきか、眞に望洋の歎がないではなかつたが、徒らに暗中に物を索るやうな從來のやり方は無意味であり、また根據のない思ひつきや、自信のない獨斷をもつて、祖先の勞作を讀み破らうとするのは、僭越至極であると考へたから、これから毎日この拔書に没頭することにした。拔書したものには、何時でも索出參照し得るやうに、歌の番號を附して置いた。
 この拔書と併せて、一方では韻鏡の研究も始められてゐた。有體に告白すると、予は漢文が不得手であり、また嫌ひであつた。從つて音韻のことについては全くその智識を缺いてゐたのであるが、今は韻鏡學の大躰を究めずしては、予が希望の達成せれざることを痛感し、これに力を注ぐことにしたのである。師と仰ぐべきものが全くなかつたから、太田全齋・僧文雄・大矢透・大嶋正健・滿田新藏らの著書によつ、獨り覺束ない歩みをつづける外はなかつた。併し韻鏡の根本原理を討覈することは困難であり、また時間に餘裕を持たなかつたので、ただ文字(7)を索出して、正しい音を知り得る程度に止めたのであるが、不充分ながらどうやら役に立つやうになつて來た。さうしてゐるうちに四年ばかりの年月が經過して、漸く拔書も全部出來上つた。その頃には、待ちに待つてゐた「校本萬葉集」も既に公にせられて、予の書架に藏せられてゐた。時々これを繙いて著作の苦心を偲び、この書が與ふる惠澤の大なるを私かに感謝した。
 予が二十年前に筆を起した舊稿は、既に紙色を黄に變じながらも、無事に書齋の一隅に保存せられてあつた。今やこの出來上つた用字の拔書を照合し、また韻鏡なる淨玻璃の鏡に照らして、舊來の諸訓を判斷すべき機會が到來したのである。然るに時なるかな。昭和三年秋九月、ゆくりなく書肆廣文堂の來訪に接し、この舊稿を示したるに、忽ち刊行の契約が成立して、萬葉集全釋の名をもつてこれを公にすることになつた。今まで殆どあてもなく筆をとつてゐたものが、突如として出版の實現を見ることとなつたのであるから、その時の喜ばしさは譬ふるにものがなかつた。それから書肆と熟議の上、從來遠鏡式に口譯を主としたものに、更に語釋を補ひ評語を加へることに定めた。語釋の方針は成るべく簡明を主とし、評語も亦簡潔を旨とした。これはあまり大部となるのを恐れたからで、まづ卷七までを第一冊とし、全部を三冊に作成する方針であつたのである。初は豫定の如く進んだのであるが、卷二の中頃あたりから、語(8)釋の補訂が漸次委しいものとなり、卷一との均衡がとれないやうになつたのを見出した。そのうちに卷四までを終つて見ると、その頁數が既に豫期を越えてゐるのを發見したので、それまでをもつて第一冊を作ることとし、組版にとりかかつたのは昭和四年五月であつた。しかし組み了へたものを見ると、卷一の語釋があまりに簡疎に過ぎるやうに思はれたので、それをできるだけ補ひ、爾來一箇年を閲して漸く植字を終つたのである。卷一の部が他に此して、語釋に疎なるやの感があるならば、その理由はここにあるのである。
 右のやうな次第であるから、この書は起稿以來實に二十年の長年月を經て今日に至つたので、その出發點から考へれば、まことに遠く長く、しかも縷々として絶えざる糸のやうなか細さをもつて續いて來たのである。その糸は始よりも太さを増し、且色彩を異にしたものとなつたのであるが、予にとつてはその點が特に喜ばしく思はれる。今にして考ふれば、初に績み出した糸は、あまりにもみすぼらしいものであつたのである。予は本書の成立についてあまりにくだくだしく説いたことを恥かしく思ふ。しかしこれは徒らなる懷舊の繰言ではなく、萬葉集研究に對する予の心境の變化と、最後に選んだ方針とを明らかにして、この書の特質を知つて貰ひたいからである。
(9) 近時萬葉學の研究は長足の進歩をなした。眞面目な各種の研究物が、陸續として世に出でつつあるのは、斯學のため慶賀に堪へないことである。しかし何といっても、「校本萬葉集」の出現以上に光輝を放つてゐるものはないと言つてよい。この「校本萬葉集」を座右に置いて考ふる時、從來のやうに獨斷創見を誇つて、恣に誤字説を唱道すべき時代は既に過ぎ去つたのを感ぜずにはゐられない。今はできるだけ古寫本を尊重し信頼して、忠實にその訓法を考ふべき時である。もとより古きもの必ずしも正しいのではなく、現存の寫本の最古のものと雖も、萬葉集が構成せられた時を去る數百歳後のものであるから、これに絶對の信頼を置くことは不可能であるが、ともかくも新説を立てる前に、是非とも有らゆる諸本を比較研究し、能ふかぎり原形を比定せずに、訓を附することが緊要である。その爲に役立つものは校本萬葉集を措いては他に無いので、この書はこの意味において、大正時代の文化史を飾る最高の産物と稱し得るのである。
 かくの如く原形の尊重と、音訓の歸納的實証的祈究とは、予がこの書を編むに當り、不動の方針として樹立したものである。併しながら論據を音韻學に置いた木村正辭の説が、動もすればそれに囚はれ、却つて誤謬に陷つてゐると思はれる點があるのに鑑み、予は常に虚心坦懷、束縛と拘泥とを恐れて、できるだけ中正の道を歩んだつもりである。思へば十年以前まで容易に(10)手にし得なかつた、古人の著述も、近時斯學の勃興に伴つて續々として刊行せられ、また現代學者の諸研究は、踵を接して學壇を賑はしてゐる。これらによつて、予の蒙を啓き誤を正し得たものが幾何なるかを知らぬのである。これに對して予は、天地の榮ゆる時に御民の一人として生れ遇つた身の、生ける驗をつくづくと感ずると共に、今やこの一書が歌の大野の一隅に、新しい小草の一もととして生ひ初めたことを祝福し、しかもこれが先覺の眞摯な研究と、現代同學の士の深邃な考覈の餘瀝によつて養はれたものなるを思ひ、あやに畏い御代の御惠の露が、この小草の上にも慈雨のやうに注がれてゐることに想到しては、唯々感激と感謝の念に胸を躍らすのみである。予の歩むべき道程は未だ遥かである。茲に大方の愛育と同情とが、この小草の生先に與へらむことを切に※[立心偏+困]願するものである。
 昭和五年五月
                                  著者誌す
 
(1)凡例
ー、本書は萬葉集の全體について、通俗的に、學術的に、文藝的に解説し考察したもので、すべての歌に口語解を施し、語釋と評語とを加へてゐる。
一、本書の底本としたものは、校本萬葉集に採られた寛永版萬葉集である。また中途から萬葉集總索引本文篇をも參照した。
一、本書の口語解は、本居宣長の古今和歌集遠鏡、及び拙著新古今和歌集遠鏡に傚つたもので、片假名をもつて記し、全體を通釋してある。傍線の個所は原歌の語句には現はれてゐないのを、意をもつて補つたものである。
一、語釋は遠鏡には尠いのであるが、本集の解釋は各語の綿密な研究の上に立たなければならぬから、なるべく根本的に學術的に討覈することにした。語釋は句を基本として説明してあるが、中には數句を一括したところもある。これは説明の便宜に從つたのである。一、口語解中の枕詞及び序詞は、遠鏡に從へば、その句位を示す數字、例へば第一句にある時は一、上句の場合は上と記すのを常としてゐるが、この方法は長歌の多い本集には極めて不便であるから、すべて原歌の文字のままに記し、それに括弧を附することにして置いた。故にその部分は、枕詞または序詞をあらは(2)すもので、歌の意味には直接の關係を持たないのである。
一、上欄に記した數字は、國歌大觀によつて附した歌の番號である。校本萬葉集その他、これに從ふものが多いから、本書もそれに依つたのである。
一、上欄に假名交りに記したものは、原歌を讀み易く書き改めたのである。從つて番號は原歌と上欄と兩方に通ずるわけである。
一、上欄に記した歌は、その短歌たると長歌たるとを問はず、すべて各句毎に切つて、横に列記してある。
一、柱の數字は上方のゴヂック活字を用ゐたものは、歌の番號で上欄と一致し、下方の普通活字を用ゐたものは、頁數を示したのである。
一、本書の語釋・評語の中に掲げた數字は、時に注意したものの外は、すべて歌の番號を示したものである。
一、底本とした寛永本の用字は、殆ど絶對に尊重することにした。明らかに誤謬と認められるものも、そのまま掲げて置いたのがある。故に原歌と訓と一致しないやうに見えるところは、底本が誤つてゐるのである。但しその場合は、語釋の部にその旨を記してある。なほ、本書中、舊本と記したものは寛永本のことである。
一、語釋・評語中に他の歌を引用した場合も、盡く原形のままとしてゐる。これはかなり植字に煩を來したのであるが、本集の研究は原字を離れてはなし難いものと信ずるから、すべてかうしたのである。
(3)一、萬葉集の用字の研究は、特に予が意を注いだ点で、全卷を通じてその用例を精査し、これを規矩とし、また韻鏡によつて古音を考へ、これをもつて訓法を決定したのである。語釋中に文字の訓法の類例を煩はしきまでに掲げたのはこれが爲である。
一、本集は卷によつて、文字の用法に特異點があるのは否むべからざる事實である。各卷の文字を別々に比較研究することによつて、その卷の成立や特質を知ることもできる筈である。文字の用法について力説してゐるのは、一はその爲である。
一、本集には多くの類歌があり、重出の作もある。これを比較することは、作者相互間、または作者と古謡との關係を知るに便があり、更に各卷の成立時期を考へる資料ともなるべきものであるから、洩れなく論ずることにした。
一、作者の履歴はなるぺく委しく説くことにした。同時にその作の年代をも出來るだけ正確に突きとめることに努力した。これは從來の諸註に缺けてゐることである。
一、地名に関しては、現今の地理書を考へ地圖を照合し、或は實地を踏査してその舊地と思はれるところを推定した。すべてその正確を期する爲に、卷頭に掲げた大和地圖、攝津・河内・和泉地圖を始とし、多くの地圖を作成して隨所に挿入した。
一、古蹟の寫眞はできるだけ廣く集めて掲げたつもりである。自から旅行して得たものもあるが、友人の多(4)くが予の擧を助けて、貴重な撮影を寄贈せられたことを感謝する。殊に辰巳利文氏が、その苦心の結晶たる大和萬葉古蹟寫眞の轉載を快諾せられた好意は、謝するに辭を知らぬほどである。
一、動植物の圖も、できるかぎり實物を髣髴せしめるやうなものを選んで掲げた。その中には植物圖鑑や動物圖鑑を模寫したものも多い。その他、器具・服装の類も、なるべく正確な信憑すべきものから模寫または撮影した。それらはいづれも出所を明らかにして置いた。
一、本集の題号・組織その他、内容形式の諸問題に亘つて、卷頭に精説すべきであるが、それらに關しては、別に萬葉集總説なる一卷を公にせむと欲してゐるから、それに讓ることにする。
一、装幀は特に畫伯田村彩天氏を煩はしたのである。萬葉人によつて好んで歌はれた馬醉木の花が、そのかみを偲ばしめるやうに、天平式に美しく書かれてゐることは予の大なる喜びとするところである。ここにその好意を感謝する。
一、口繪の標野行は、畫伯柳生鹽億氏が第八回帝展に出品せられた傑作である。原歌の氣分を味はふと共に、上代の服装をも知ることができるので、氏の快諾を得て卷頭を飾ることにした。元暦校本萬葉集の一葉は、古河虎之助氏所藏で、校本萬葉集に原色のまま著色版として掲げてあるものを、更に複製したのである。三山の寫眞は、大和國高市郡の、俗稱ふぐり山から撮影したもので、萬葉古蹟寫眞中の一葉であるが、香具・耳成・畝傍の三山が平野の間に鼎立してゐる夢のやうな情景がよくあらはれてゐるから、辰巳利文氏の快諾を得て複製したのである。
一、見返は萬葉集諸本輯影の中の一部を複製したもので、表見返の一は谷森建男氏所藏の谷森萬葉集、二は神田金樹氏所藏の神田本萬葉集、三は竹柏園佐佐木信綱氏所藏の傳壬生隆祐筆本萬葉集であり、裏見返の一は古河虎之助氏所藏の元暦校本萬葉集、二は寛永版本萬葉集、三は竹柏園佐佐木信綱所藏の藍紙本萬葉集である。
一、本書の公刊は、書肆廣文堂主人の營利を離れた義侠と、これを輔ける酒井不二雄氏の熱誠とによるものなることを附記して謝意を表したい。
 
〔目次略〕
 
(1)萬葉集卷第一解説
 
卷一は卷二と共に、其の結構・體裁が他の卷と著しく異なつてゐる。眞淵が「其の一二は古き大宮風にして、時代も歌主もしるきをあげ」と言つてゐるやうに、年代・作者の明かな古歌を集録したものである。即ち、この卷は全部雜歌で、これを泊瀬朝倉宮御宇天皇代・高市崗本官御宇天皇代・明日香川原宮御宇天皇代後崗本宮御宇天皇代・近江大津宮御宇天皇代・明日香清御原宮御宇天皇代・藤原宮御宇天皇代・寧樂宮として、皇都の所在地を以て時代を分つてゐる。但し最後の寧樂宮は書式も異樣であり、今本の記載の個所も當を得てゐない。また持統天皇の御代までの歌は、製作の年月が明記せられてゐないが、文武天皇の大寶元年からのものは、題詞のうちに年月が記入せられてゐるのは、注意すべき點である。歌數は總べて八十四首で、内、長歌十六首、短歌六十八首である。歌の内容に就いて見ると、天皇の行幸に從つた作や、遷都に關したものが多く、換言すれば、多くは皇室の史實を背景としたもので、もしこれらの歌を繋ぐに委しい記事文を以てせば、則ち古事記の如きものが成立するかの感がある。作家としては、雄略天皇・舒明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天草・元明天皇等の歴代の元首を始として、志貴皇子・長皇子・御名部皇女・額田王・柿本人麿・高市黒人・山上憶良・春日老らが重立つたものだが、この他作者未詳の歌も多少ある。作者の中では人麿が作の量に於ても質に於ても勝れて居る。一體にこの卷には拙劣な歌が見えない。古いだけに巧緻といふやうな點はないが、よく讀み味はへば、いづれも佳(2)い作である。蓋し此の卷と卷二とは編者が餘程の苦心を拂つて、古歌を精選したものである。この點を考へると、彼の榮華物語月宴の卷に、「昔高野の女帝(孝謙)の御代、天平勝寶五年には、左大臣橘卿諸卿大夫等あつまりて、萬葉集をえらばせ給ふ」とあるによつて、萬葉集勅撰説が唱へられてゐるのも、強ち根據のない古傳説として、退けることは出來ないと思はれる。
 
(3)雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市崗本宮御宇天皇代
 天皇登2香具山1望v國之時御製歌
 天皇遊2獵内野1之時中皇命使2間人連老1獻歌并短歌
 幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作歌并短歌
明日香川原宮御宇天皇代
  額田王歌 未詳
後崗本宮御宇天皇代
〔中略〕
(8)三年庚戊春二月從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時御輿停2長屋原1※[しんにょう+向]望2古郷1御作歌
 一書歌
 五年壬子夏四月遣2長田王伊勢齋宮1時山邊御井作歌三首
寧  樂  宮
 長皇子與2志貴皇子1宴2於佐紀宮1歌
 長皇子御歌
 
(9)雜歌
 
ザフカ又はクサグサノウタとよむ。この卷はすべて此の分類の中に收めてあるが、此は卷二の相聞・挽歌に對したもので、その類に入らぬ總べてを雜歌と稱したのである。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇《オホハツセワカタケノスメラミコト》
 
ハツセアサクラノミヤニアメガシタシロシメシシスメラミコトと訓むのが普通である。併し靈異記に御【乎左女多比止】宇【阿米乃之多】とあるから、アメノシタヲサメタマヒシとよむのもよからう。泊瀬朝倉宮は初瀬峽谷の入口で、今の朝倉村黒崎の地である。大泊瀬稚武天皇は雄略天皇。此の時まだ謚號がないので、諱を記し奉つたのである。古事記に大長谷若健命《オホハツセワカタケノミコト》、書紀に大泊瀬幼武天皇《オホハツセワカタケスメラミコト》と記してある。此の七字は註であるから小字を用ゐる方がよい。
 
1 籠もよ み籠持ち ふぐしもよ みぶぐし持ち 此の岳に 菜採ます兒 家聞かな 名告らさね 虚見つ 山跡の國は 押並べて 吾こそ居れ しき並べて 吾こそ座せ 我こそは 背とは告らめ 家をも名をも
 
天皇御製歌
 
籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》 布久思毛與《フグシモヨ》 美夫君志持《ミブグシモチ》 此岳爾《コノヲカニ》 菜採須兒《ナツマスコ》 家吉閑《イヘキカナ》 名告沙根《ナノラサネ》 虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》 押奈戸手《オシナベテ》 吾許曾居《ワレコソヲレ》 師告名倍手《シキナベテ》 吾己曾座《ワレコソマセ》 我許者《ワレコソハ》 背齒告目《セトハノラメ》 家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》
 
籠ヨ、ソノ〔二字傍線〕籠ヲ手ニ〔二字傍線〕持ツテ、掘串ヨ、ソノ〔二字傍線〕掘串ヲ手ニ〔二字傍線〕持ツテ、此ノ岡デ菜ヲ摘ンデヰル女ヨ。オマヘノ〔四字傍線〕家ヲ聞キタイモノダ。オマヘノ〔四字傍線〕名ヲ言ヒナサイ。此ノ(虚見津)大知ノ國ハ總轄シテ私ガ居ル所ダ。統ベ從ヘテ私ガ座ラレル所ダ。私コソオマヘノ〔四字傍線〕夫ト言ハウ。サウシテ私ノ〔六字傍線〕家ヲモ名ヲモ告ゲルゾ。
 
○籠毛與《コモヨ》――籠をカタマとよむ説もあるが、籠の字は本集では射等籠荷四間乃《イラコガシマノ》(二三)・鳥籠之山有《トコノヤマナル》(四八七)のやう(10)に、常にコと用ゐられ、カタマの訓は一つもない。モとヨとは詠嘆の助詞である。○布久思《フグシ》――掘る串の意で、木又は竹の箆《ヘラ》の如き類である。金属製のものをカナフグシといふ。和名抄に「〓、土具也、加奈布久之と見えてゐる。次の美夫君志も同じことを繰返したもので、美《ミ》は接頭語。○菜採須兒《ナツマスコ》――採ますは摘むの敬語であるが、ここは唯親しんで言つただけ。兒は女をさす。〇家吉閑《イヘキカナ》――これは、古來種々の訓があつたが、木村正辭が萬葉集美夫君志に、閑は韻鏡第二十一轉山攝の字だから、カナとよむべきであるといふ説を述べてから、殆ど定説のやうになつてゐる。ここにもそれに從ふことにする。併し予は閑の文字は、本集の何處にも用ゐられた例のないこと、及び家を聞くとは、何となく落ちつかぬ言ひ方である點から考へて、これに疑を挿むものである。或は、聞くは尋ねるの意かとも思はれるが、それは第二義的のもので、さういふ場合には問ふ〔二字傍点〕が用られて、常に告《ノ》ると對してゐる。即ち、邦問跡國矣毛不告《クニトヘドクニヲモノラズ》、家問跡家矣毛不云《イヘトヘドイヘヲモイハズ》(一八〇〇)・責而雖問汝名者附告《セメテトフトモナガナハノラジ》(ニ六九六)の類がこれを証據立ててゐる。ここに於て予は吉は告の誤、閑は閇の誤としてノラヘとよむ考・略解の説も強ちに排し難きを思ふものである。此の下にも師告名倍手とあつて、吉を告と誤つてゐるのだから、告を吉と誤つたと考へるのは、毫もさしつかへがないのみならず、略解には吉閑一本告閑と有るとあるから、さういふ本もあるのであらう。閇はこの卷に澤山使はれてゐるから、本集の何處にもない閑の字は、閇の誤とするは至當な考ではないか。又ノラへは變な言ひ方だといふ考もあるかも知れないが、父母爾事毛告良比《チチハハニコトモノラヒ》(一七四〇)とあるから、これでよいのである。○名告沙根《ナノラサネ》――名告らすにね〔傍点〕を添へたもので、告れよと丁寧に宣ふ語である。○虚見津《ソラミツ》――大和の枕詞。これは天爾滿《ソラニミツ》(二九)とも用ゐてあつて、空から見たの意と解釋せられてゐる。書紀神武天皇の卷に「及v至d饒速日命乘2天磐船1而翔2行太虚1也睨2是郷1而降u之、故因目之曰2虚空見日本國1矣」とある故事によつたものである。○山跡乃國者《ヤマトノクニハ》――畿内の大和である。日本の總稱ではない。○押奈戸手《オシナベテ》――押し靡かせて、即ち總轄する意となる。○師吉名倍手《シキナベテ》――シキは敷・布・及などの文字が當てられる通り、物の一面に行き渡ること、即ち高しく、太しくなどの如く、知ると通じて支配する意ともなる。押並べてと同じく一體に統べ支配する意。この句、師を前の句に連ねてノリナベテとよむのはよくない。告は吉の誤。○吾己曾座《ワレコソマセ》――座《マ》せはいますと同じで、居るの敬語であるが、天皇であるから、かく仰せられるのである。ヲレとよむのは惡い。○我許者《ワレコソハ》――許の下、金澤文庫本に曾の字あるをよしとす。ワレコソハである。○背齒告目《セトハノラメ》――我は自ら汝の(11)夫と言はむといふ意味である。我を汝の夫と言へと解する説は當らない。背の下、登・跡、又は止の字脱したものといふ説があるが、この儘でトを補つてよむべきであらう。齒はシとよんでセトシノラメとする説もあるが、齒はシの假名に用ゐられた例はなく、ハの假名には卷・二・三・四・七・九・十・十一・十二等に用ゐられてゐる。隱去之鹿齒《カクリニシカバ》(二一〇)・時齒成《トキハナス》(一一三四)・師齒迫山《シハセヤマ》の類だ。だからこれもハとよむべきである。なほこの句、類聚古集に、我許背齒告自とあるによつて、ワレコソハノラジとする説があるが、これでは意味が不可解であり、又背の字は、背《ソムキ》・背友《ソトモ》・背向《ソガヒ》・背匕《ソガヒ》の如き用例はあるけれども、ソの假名に用ゐられた例は一つも無いから、ここも假名としてよむべきでなく、多くの用例に從つて背《セ》とすべきである。自は目の誤字に違ない。
 
〔評〕 雄略天皇が、春の野に若菜を摘んでゐる少女を御覽になつて、戯に歌ひかけ給うたものである。素朴な長閑な、さうして古雅な格調、眞に和楽の聲である。紀記によると、この天皇の御製には、野遊・狩獵などに際して作り給うたものが多いが、その中に童女をみそなはして、言ひかけ給うたものが少くない。よほど快活な、隔ての無い御性質であつたと見える。この御歌にもその趣がよくあらはれてゐる。なほこの歌の冒頭は、演技者が籠や布久思を捧げて、舞ひ出づるやうな趣である。或は舞踊に伴つて傳はつた歌かも知れない。
 
高市崗本宮《タケチヲカモトノミヤ》御宇天皇代 息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカ》天皇
 
高市崗本宮は其の舊址明瞭でない。岡本は飛鳥岡の麓の意であるが、舊説は今の高市村岡の地とし、喜田博士は、雷岡の附近としてゐる。息長足日廣額天皇は謚して舒明天皇と申し奉る。この宮は天皇の二年十月に御造營になつたが、八年に燒失して田中宮に移られ、更に百濟宮を營まれた。
 
天皇登(リテ)2香具山(ニ)1望v國《クニミ》之時御製(ノ)歌
 
香具山は磯城郡香久山村の西南にある。望v國は即ち國見で、國の景色を見給うた時の御製。
 
2 大和には 群山あれど 取よろふ 天の香具山 登立ち 國見をすれば 國原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし國ぞ 秋津島 倭の國は
 
山常庭《ヤマトニハ》 村山有等《ムラヤマアレド》 取與呂布《トリヨロフ》 天乃香具山《アメノカグヤマ》 騰立《ノボリタチ》 國見乎爲者《クニミヲスレバ》 國原波《クニバラハ》 煙立龍《ケブリタチタツ》 海原波《ウナバラハ》 加萬目立多都《カマメタチタツ》 ※[立心偏+可]怜國曽《ウマシクニゾ》 蜻島《アキツシマ》 八間跡能國者《ヤマトノクニハ》
 
(12)大和ニハ多クノ〔三字傍線〕群ツタ山ガアルガ、ソノ中デ〔四字傍線〕姿ガ良ク具備シテヰル天ノ香具山ニ登リ立ツテ、下ノ〔二字傍線〕平野ヲ眺メルト、國ノ平原ハ民家ノ竈の烟〔六字傍線〕ガ盛ニ立チ、埴安ノ〔三字傍線〕池ノ上カラハ鴎ガ頻ニ飛ビ〔二字傍線〕立ツテヰル。立派ナ國デアルゾ、(蜻島)大和ノ國ハ。
 
○山常庭《ヤマトニハ》――庭は借字で、助詞には〔二字傍点〕である。福路庭《フクロニハ》(一六〇)・明日香庭《アスカニハ》(二六八)など用例が多い。山常《ヤマト》は畿内の大和國を指す。前の歌に山跡と記したのと同じだ。○村山有等《ムラヤマアレド》――村山は群山。群つた多くの山。○取與呂布《トリヨロフ》――トリは接頭語で意を強めただけ。與呂布《ヨロフ》は完全に具足すること。甲冑をヨロヒと言ひ、近世の鐙を具足といふのでも、ヨロフが具足する意たるは明らかであル。○天之香具山《アメノカグヤマ》――古事記倭建命の歌に「阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》」とあるから、アメノとよむがよい。高天原に天之香具山があるに傚つて、大和の香具山をもかう呼ぶのである。伊豫風土記に「伊豫郡自2郡家1以東北在2天山1。所v名2天山1由者倭在2天加具山1。自v天天降時二分而以2片端1者天2降於倭國1。以2片端1者天2降於此土1」とあるのは、これから出來た傳説であらう。○騰立《ノボリタチ》――山上に登り立つこと。(13)○國原波《クニハラハ》――國原はここでは平原をさしてゐる。○煙立龍《タケブリチタツ》――煙は炊煙であらう。古義に霞としたのは從ひ難い。煙は和名抄に介布利、字鏡に介夫利とあるから、ケムリよりもケブリがよい。龍の字、舊本籠とあり、タツと訓してある。代匠記にタチコメかと疑つた説に、考・略解は從つてゐるが、元暦校本其の他の古本多くは龍としてゐるので見ると、籠は誤字に違ひない。立龍は頻りに立ち上ること。○海原波《ウナバラハ》――海とは水の廣きところを云ふので、ここは埴安の池を指したものだ。此の池は今は全くあせてしまつて跡も無いが、昔は香具山の西麓から南麓を繞つて廣く湛へてゐたらしい。○加萬目立多都《カマメタチタツ》――加萬目は、中世からカモメと云つたもので、即ち鴎である。遊禽類鴎科に属する中形の鳥で、陸地に近い海や、湖沼河川に群棲する。全身の主色は白であるが、翼などに灰色黒色を交へてゐる。嘴と脚とは黄緑色である。○※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》――※[立心偏+可]怜は舊本怜※[立心偏+可]とあり、オモシロキとよんだのを、考に※[立心偏+可]怜として、ウマシとよんだのがよい。神代紀に可怜小汀とあり、「可怜《ウマシ》此云2于麻師」と注してゐる。※[立心偏+可]は字書に見えないが、可と同音相通はして用ゐたのであらう。仁賢紀に、弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサアガツマハヤ》矣、字鏡に※[言+慈]、市貴反、※[立心偏+可]怜也とあるから、古い熟字である。集中の用例を見ると、此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》(四一五)・※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》(一四一七)・※[立心偏+可]怜吾妹子《アハレワギモコ》(二五九四)の如く、アハレとよんだものと、如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》(七四六)・夜渡月乎※[立心偏+可]怜《ヨワタルツキヲオモシロミ》(一〇八一)の如く、オモシロクとよんだものとがあるが、ここは可怜小汀《ウマシオバマ》の例に從ふべきであらう。ウマシは美しく好ましい意である。○蜻島《アキツシマ》――枕詞。大和に冠するのは孝安天皇の皇居、大和の葛城の室の地を秋津島宮と呼んだのから起つたもので、欽明天皇の皇居、大和磯城金刺宮によつて、敷島の大和と連ねるやうになつたのと同じだと説かれてゐる。神武天皇が、腋上※[口+兼]間丘に登り給ひ、國見をなさつて、「猶如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメ》1焉」と仰せになつたので、秋津洲の名が起つたと書紀に記してあるのは、地名傳説に過ぎない。なほ古事記國生の段に、「生2大倭豊秋津島《オホヤマトトヨアキツシマ》1亦名謂2天御虚空豊秋津根別《アマツミソラトヨアキツネワケ》1」とあるによれば、秋津洲は本洲の古名で、秋津は秋の穣を讃へたものか、又は飽滿《アキミツ》などの意かも知れない。又古事記に水戸《ミナト》の神、速秋津日子神・速秋津比賣神の名が出てゐるが、これは河口の神で、河口は舟の碇泊の箇所であるから、秋津島は港の多い島の意かも知れない。この國號の解説はなほ研究を要す(14)ると思はれる。
 
〔評〕 これは國見歌である。古代人は時々高きに登つて、下の平原を見下して、その國土の美を讃嘆したものと見える。應神天皇が宇治の野の上にお立ちになって、「知婆能《チバノ》、加豆怒袁美禮婆《カヅヌヲミレバ》、毛毛知陀流《モモチタル》、夜邇波母美由《ヤニハモミユ》、久邇能富母美由《クニノホモミユ》」と歌ひ給うたのも國見歌であり、日本武尊の國思歌《クニシヌビ》としてある、「夜麻登波《ヤマトハ》、久彌能麻本呂婆《クニノマホロバ》、多多那豆久《タタナヅク》、阿袁加岐夜麻《アヲガキヤマ》、碁母禮流夜麻登志宇流波斯《ゴモレルヤマトシウルハシ》」とあるのも、同じくこの種の歌らしく考へられる。
 この御製は、國土の美に併せて人民の殷富を喜ばれた趣も見えて、仁慈の大御心も察せられて嬉しい。國原海原の對句によつて格調が整へられ、倒置法で結び、少しも冗句のない引緊つた感じのする佳作である。
 
天皇遊2獵内野(二)1之時、中皇命《ナカチヒメノミコト》使(メシ)2間人連老《ハシヒトノムラジオユ》獻(ラ)1歌
 
内野は大和字智郡の野、今の五條町南方の平地で、坂合部村に大字大野の名が殘つてゐる。中皇命は明らかでない。ナカノウシノミコト・ナカノスベラギミコト・ナカノミコノミコト・ナカチヒメノミコト・ナカチスメラミコトなどの訓があつて一定しない。ここでは額田女王を額田王と記したのと同じく、皇の下、女の字を略して書いたものとして、(脱漏とも誤字とも見たくない。)ナカチヒメノミコトと訓んで置く。中皇命は第二皇女の意であるから、舒明天皇の皇女、間人皇女で、孝徳天皇の皇后とならせられたお方であらう。間人連老は、孝徳天皇紀五年二月遣唐使の判官に、「小乙下中臣(ノ)間人(ノ)連老老此云於喩」とある人で、中皇命の傅であつたのであらう。此の歌は、中皇命の御歌を間人連老が献つたものか、又は中皇命の旨を承けて老が詠んで献じたものか、両説に別れてゐる。下に中皇命、往2于紀伊温泉1之時御歌とあるのには、御の字が冠してあるに、これにはそれが無いから、中皇命の御作ではないと見るのも一理あるが、立派な御歌を遺して居られるお方であるから、これも御作の一と見るが至當ではあるまいか。恐らく御歌を間人連老をして、天皇に献らしめ給うたものであらう。
 
3 やすみしし 我が大君の 朝《あした》には 取り撫で給ひ 夕べには い縁せ立ててし 御執らしの 梓弓の 長弭の 音すなり 朝獵に 今立たすらし 夕獵に 今立たすらし 御執らしの 梓弓の 長弭の 音すなり
 
(15)八隅知之《ヤスミシシ》 我大王乃《ワガオホキミノ》 朝庭《アシタニハ》 取撫賜《トリナデタマヒ》 夕庭《ユフベニハ》 伊縁立之《イヨセタテテシ》 御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナガハズノ》 音爲奈利《ヲトスナリ》 朝獵爾《アサカリニ》 今立須良思《イマタタスラシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 今他田渚良之《イマタタスラシ》 御執《ミトラシノ》 梓能弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈里《オトスナリ》
 
我ガ仕ヘ奉ル〔四字傍線〕(八隅知之)天子樣ガ、朝ハ手ニ取ツテ撫デサスリ遊バシ、夕方ハ御側ニ〔三字傍線〕寄セ立テカケサセナサレテ大切ニ遊バス〔六字傍線〕梓ノ木デ作ツタ弓ノ、長弭ノ音ガ聞エルワイ。宇智野デ〔四字傍線〕朝獵ヲナサラウト今御出デナサルラシイ。夕獵ヲナサラウト今御出遊バスラシイ。アレアノヤウニ〔七字傍線〕御常用ノ梓弓ノ、長弭ノ音ガスルワイ。
 
〇八隅知之《ヤスミシシ》――これは集中に極めて多い枕詞で、安見知之と書いてあることもある。八方を支配し給ふ意で、八隅と書くとも解かれてゐるが、安らかにしてこの國を支配し給ふ意であらう。續日本紀宣命に「其人等乃和美安美應爲久相言部《カノヒトラノニギミヤスミスベクアヒイヘ》」とあるのは其の例で、安みするは安穏にしてゐること。八隅《ヤスミ》といふ語は中古以後のものには見えてゐるが、恐らくこの枕詞を解き誤つたもので、純國語風の言ひ方でない。知之《シシ》はシラス・シロスと同じであらう。○我大王乃《ワガオホキミノ》――和期《ワゴ》大王(五二)・吾期《アゴ》大王(一五二)などと記してあるのによつて、すべてワゴオホキミとよむべしといふ説があるが、和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》(四○五九・四五〇八)と記してあるから、ワガオホキミとよむべきである。○伊縁立之《イヨセタテテシ》――弓を御側の壁などに寄せ掛け給ふこと、伊《イ》は接頭語で意味はなく、用例極めて多い。此の句古義に從つてイヨリタタシシとよむ説が多いが、それでは弓の傍へ天皇が寄り行き給ふこととなつて、意味が穩かでない。弓は手に執るものであるから、側に寄り立つでは、愛翫の意とならない。又縁の字はヨリとよむべきで、ヨスとはよめないといふ説もあるが、志賀乃大津爾縁流白浪《シガノオホツニヨスルシラナミ》(二八八)・打縁流駿河能國與《ウチヨスルスルガノクニト》(三一九)・白波之來縁島乃《シラナミノキヨスルシマノ》(二七三三)などとあるから、イヨセで差支はない。立之《タテテシ》は立てたの意で、敬語を用ゐるべきところだが、上の賜に讓つて略したのであらう。但し立之《タテシ》とよむ方がよいやうにも思はれるが、暫く舊訓に從つて置か(16)う。○御執乃《ミトラシノ》――執り持ち給ふところのの意で、トラシは執らすの連用形で名詞。すは敬語である。御弓を後に、御タラシといふのはこの轉である。御佩刀《ミハカシ》・御着衣《ミケシ》も同じやうな言ひ方だ。○梓弓之《アヅサユミノ》――梓の木で作つた弓、梓は枝の曲りが少く、弾力に富んでゐるので古來多く弓に用ゐられた。後世弓を梓弓といふのは其の爲である。この木の外に昔は檀《マユミ》・桑・槻《ツキ》・櫨《ハジ》なども弓を製するに使はれたのである。梓については諸説がある。今俗に梓と稱するものは一名「きささげ」といふ木であるが、これは極めて弾力に乏しくて、到底弓の材料になるべくもない。白井光太郎氏は古の梓は俗に「みずめ」又は「おほばみねばり」と呼ぶもので、今なほ、武藏秩父三峰山及び上州の山中では「あづさ」と稱し、信濃の北安曇郡、陸前及び上野吾妻郡でもさう呼んでゐる。なほ加賀白山では「はんさ」、大和吉野では「はづさ」、紀州では「はんしや」とよんでゐるが、これは「あづさ」の訛音と思はれる。この樹は頗る靱強で弓材とするに適してゐるといふ(摘要)研究を植物研究雜誌第三卷第四號に出して居られるのは傾聽すべき説であらう。「おほばみねばり」は榛の種類である。○奈加弭之《ナガハスノ》――長弭で、弭の長い弓であらう。弭は弓の上下の弦のかかるところ。昔は特に弭を長くした弓があつたらしい。高橋氏文に、「磐鹿六獵命、以角弭之弓當游魚之中、即著弭而出忽獲數隻」とあるのは長弭の弓の一種に違ない。なほ正倉院御物の梓弓三張の内、一は長さ六尺六寸、金銅弭黄黒斑漆とあるのも、謂はゆる長弭の一種であらう。加を留の誤としてナルハズ、利の誤としてナリハズとする説もあるが、さういふ弓のあることを聞かない。鳴るのは弦である。弭は鳴るものでない。加は普通清音に用ゐられてゐるが、須加能夜麻須可奈久能未也《スガノヤマスガナクノミヤ》(四〇一五)とある加は濁音らしく、その他佛足跡歌碑に、「任伎波比乃阿都伎止毛加羅《サキハヒノアツキトモガラ》」、「乃利乃多能與須加止奈禮利《ノリノタノヨスガトナレリ》」などあるのを見ると、加は濁音にも用ゐる字である。○音爲奈利《オトスナリ》――音がするわいといふ意で、奈利《ナリ》は詠嘆の助詞。○御執梓能弓之《ミトラシノアヅサユミノ》――前の御執乃梓弓之と對比すると、恐らく梓と能とが顛倒したのであらう。元暦校本に能梓となつてゐる。
(17)〔評〕全體が對句と繰返とで組み立てられた歌で、整然として、しかもわざとらしい所がない。末尾も普通の長歌の型に拘はらずに、奈加弭之音爲奈利《ナカハスノヲトスナリ》と五五の調で歌ひ捨てたところが面白い。今から宇智野へ出發し給はむとして、弦打ちなどして用意し給ふ音を聞き給うて、天皇の御滿足を推量せられた心持がよく出てゐる。これを後宮から御獵所に奉られたものとする説も、行宮へ御供しての作とするのも、共に誤つてゐる。朝獵に今立たすらし、暮獵に今立たすらしと歌はれたところ、及び反歌の意を玩味すべきである。
 
反歌
 
ハンカ又はカヘシウタとよむ。木村正辭が荀子卷十八の「願(クハ)聞(ン)2反辭(ヲ)1」の楊※[人偏+京]の注に、「反辭反覆叙説之辭、猶2楚詞(ノ)亂曰1」といひ、又同書に其小歌曰とある注に、「此下(ノ)一章即其反辭(ナリ)、故(ニ)謂(フ)2之(ヲ)小歌(ト)1※[手偏+總の旁]論(スル)前意(ヲ)1也」とあるのを引いて、反歌の稱呼としてゐる説が認められてゐる。さうして此の反辭は賦の亂と同じもので、楚辭離騷の亂(ニ)曰の王逸の注に「亂(ハ)理也所d以發2理(シ)詞指(ヲ)1總c撮(スル)其要(ヲ)u也」とある。又この亂は經の偈から出た形かと思はれる。即ち反歌は漢文學の影響によつて附せらるることになつたので、紀記の歌には無いのである。長歌に添へた小歌で、歌ひ終つて更に繰返す意であらう。又正辭はハンカとよみ、カヘシタと訓讀すべきでないやうに言つてゐるけれども、彼は古事記に「所歌之六歌者志都歌之|返歌《カヘシ》也」と見えたもの、及び神樂催馬樂の返歌と混同しない爲に立てた説で、反歌の訓讀がなかつたとは思はれない。反の字は反見爲者《カヘリミスレバ》(四八)・出反等六《イデカヘルラム》(一〇八〇)・死反《シニカヘラマシ》(二三六○)の如く用ゐられてゐるから、カヘシウタとよむべきである。
 
4 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ 其の草深野
 
玉刻春《タマキハル》 内乃大野爾《ウチノオホヌニ》 馬數而《ウマナメテ》 朝布麻須等六《アサフマスラム》 其草深野《ソノクサフカヌ》
 
天子樣ハ宇智野ヘ御狩ニ御出カケ遊バスガ〔天子〜傍線〕、(玉刻春)字智ノ大野デ澤山ノ馬ヲ並ベ、大勢馬ニ乘ツテ其ノ野ノ草〔大勢〜傍線〕ヲ朝馬ニ〔二字傍線〕踏マセナサルダラウ。アノ草ノ深ク繁ツテヰル宇智野ノ〔四字傍線〕野ヲ、馬ニ踏マセナサルコトデアラウ〔馬ニ〜傍線〕。
 
(18)○玉刻春――タマキハルとよむ。靈刻《タマキハル》(一七六九)の例もあるから、春は添へただけで、無くともよい字である。かうした字を添へた書き方は他にも數多ある。刻をキとよむのではない。山田孝雄氏が、卷十三に眞刻持《マキモテル》(三二二三)とあるといはれてゐるが、それは眞割持で、刻ではなく、割はサキのサを省いて、キとよんだのだから、同一には取扱はれない。さてこの句は命・世などの枕詞で魂極《タマキハマル》、即ち命に限あるをいつたものらしい。ウチと續くのは息《イキ》と通はしたものかと思はれる。命・世・息など相似た言葉である。○内乃大野《ウチノオホヌ》――今、吉野川の南、坂含部村大字大野といふところが、そのあたりらしいと言はれてゐるから、或は當時から大野といつたものかも知れない。○其草深野《ソノクサフカヌ》――フカヌを、フケヌとよむべきだと考に見えてゐるが、深川・深澤・深草など皆フカが普通であるから、フカヌがよいであらう。
〔評〕 調べの高い歌だ。その草深野と繰返したところは、前の長歌中に用ゐた手法と同じで、巧に出來てゐる。
 
幸《イデマセル》2讃岐國|安益《アヤ》郡(ニ)1之時|軍王《イクサノオホキミ》見(テ)v山(ヲ)作(レル)歌
 
安益郡は和名抄に讃岐國阿野【綾】とある地、今は鵜足郡と併せて、綾歌郡となつてゐる。舒明天皇この地に行幸のことは史に見えないが、十一年冬十二月伊豫温泉に幸し、翌年四月還幸と書紀にあるから、伊豫からの歸路ここを過ぎさせ給うたのであらう。軍王は如何なる御方とも分らない。
 
5 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝の 心を痛み ぬえ子鳥 うら歎《ナゲ》居れば 玉襷 懸けの宜しく 遠つ神 吾が大王の 行幸の 山越す風の 獨居る 吾が衣手に 朝夕に 還らひぬれば ますらをと 思へる吾も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海處女らが 燒く鹽の 念ひぞ燒くる 吾が下心
 
霞立《カスミタツ》 長春日乃《ナガキハルビノ》 晩家流《クレニケル》 和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》 村肝乃《ムラキモノ》 心乎痛見《ココロヲイタミ》 奴要子鳥《ヌエコドリ》 卜敷居者《ウラナゲヲレバ》 珠手次《タマタスキ》 懸乃宜久《カケノヨロシク》 遠神《トホツカミ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 行幸乃《イデマシノ》 山越風乃《ヤマコスカゼノ》 獨座《ヒトリヲル》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》 朝夕爾《アサヨヒニ》 還此奴禮婆《カヘラヒヌレバ》 大夫登《マスラヲト》 念有我母《オモヘルワレモ》 草枕《クサマクラ》 客爾之有者《タビニシアレバ》 思遣《オモヒヤル》 鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》 網能浦之《アミノウラノ》 海處女等之《アマヲトメラガ》 燒(19)鹽乃《シホノ》 念曾所燒《オモヒゾヤクル》 吾下情《ワガシタゴコロ》
 
ワタシハ旅ニ出テ、家ヲ思ツテ悲シンデヰルノデ〔ワタ〜傍線〕、霞ノ立ツ長イ春ノ日ガ、暮レタノニ、暮レタカ暮レナイカノ〔ノニ〜傍線〕區別モ知ラズニ、(村肝乃)心苦シイノデ、(奴要子鳥)心ノ中デ泣イテ居ルト、(珠手次)口ニ出シテ言フダケデモ畏ク、遠クニ居給フ神ノヤウナ神聖ナ〔三字傍線〕、我ガ御仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣ガ、行幸遊バシテヰル山ヲ吹キ越シテ來ル風ガ、唯獨リデ淋シク旅寢シテ〔七字傍線〕居ル私ノ着物ノ袖ニ、朝ニ晩ニ絶エズ吹イテ來ルノデ、心ノ勇マシイ〔六字傍線〕大丈夫ト思ツテ自慢シテ〔四字傍線〕ヰル私モ、(草枕)旅ニ出テヰルノデ、心ノ〔二字傍線〕思ヲ霽ラス方法ヲ知ラナイカラ、コノ讃岐ノ國ノ〔七字傍線〕網ノ浦ノ海人ノ女ドモガ燒ク鹽ノヤウニ、私ノ心ノ中ハ思ヒ焦レテ居ルヨ。
 
○和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》――ワヅキは區別の意。分《ワカ》ち着《ツ》きの約か。○村肝乃《ムラギモノ》――心の枕詞。群物幾多《ムラガリモノココラ》とつづくのが、心に轉じたのだといふ。或は群|臓腑《キモ》の凝《ココ》りから心にかかるともいふ。○奴要子鳥《ヌエコトリ》――※[空+鳥]子鳥、ぬえ〔二字傍線〕に同じ。虎鶫《トラツグミ》といふ鳥の異名だといふ。紀記の歌や本集に、時々見える鳥で、鳴聲が哀調を帶びてゐるやうに詠まれてゐる。○卜歎居者《ウラナゲヲレバ》――心歎《ウラナゲ》き居ればで、ウラはうら悲し・うら戀す・うら思ふの例の如く、心の意である。歎《ナゲ》とのみ言つてキを省いたのは珍らしい形だ。ウラナキヲレバといふ訓もあるが、奴延鳥之裏歎座津《ヌエトリノウラナゲマシツ》(一九九七)・宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》(三九七八)の例に從ふべきである。歎の字、ナキとよんだ例は他にない。○珠手次《タマダスキ》――玉襷で、襷は肩に懸けるから、かけの枕詞とする。○懸乃宜久《カケノヨロシク》――言葉にかけ、又は心に思ふも宜しく有り難い意で、大王につづく。これを還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》へかけて解するのは當つてゐない。宜久《ヨロシク》と副詞の形になってゐるが、意味は大王《オホキミ》に冠《カブ》せてある。○遠神《トホツカミ》――人間より離れて、遠くにいます神の意で、神聖視した言(20)ひ方である。○行幸能《イデマシノ》――イデマシとよむべし。ミユキとよむのはわるい。幸之《イデマシシ》(一九一)・幸行處《イデマシドコロ》(二九五)の例を見よ。君之御幸乎《キミガミユキヲ》(五三一)もあるが、これは幸は事の誤らしいから例にならぬ。○山越風乃《ヤマコスカゼノ》――反歌に山越乃風《ヤマゴシノカゼ》とあるので、これをもさうよむ説があるけれども、ヤマコスカゼがよからう。○還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》――還らふは還るの延言、ここでは風が袖を翻して吹く意であらう。○草枕《クサマクラ》――旅の枕詞。旅に出ては草を結んで枕として、野宿をしたものだ。○思遣《オモヒヤル》――思ひを晴す意。遠方を思ひやる意ではない。○鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》――鶴寸《タヅキ》は方法、白土《シラニ》は不知、ニは打消の助動詞ずの一體。○網能浦之《アミノウラノ》――この附近の海岸であらう。網を綱の誤とする説は根據がない。留鳥浦之海部乍有益男《アミノウラノアマナラマシヲ》(二七四三)とあるのも此處であらう。
〔評〕 強烈な旅愁、故郷の愛妻に對する抑へ難い思慕の情が、冒頭から結尾まで直線的に、一本調子に、力強く歌はれてゐる。婉曲さも繊麗さも無いが、そこがこの歌の價値である。
 
反歌
 
6 山越の 風を時じみ 寢る夜落ちず 家なる妹を かけて偲びつ
 
山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》 寐夜不落《ヌルヨオチズ》 家在妹乎《イヘナルイモヲ》 懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》
 
山ヲ越シテ來ル風ガ、時ヲ定メズニ吹クノデ、寐ル夜一晩モカカサズニ、家ニ留守居シテヰル妻ヲ、心ニカケテ思ヒ出シタ。アア戀シイ妻ヨ〔七字傍線〕。
 
○風乎時自見《カゼヲトキジミ》――時自《トキジ》は非時又は不時などと書いて、その時節ならずして物の存在する意に用ゐてあるが、又轉じて斷えず、何時にてもある物にもいふ。ここは後者である。乎《ヲ》は詠歎の助詞。見《ミ》は故にの意。○寐夜不落《ヌルヨオチズ》――寢る夜一夜も洩るることなくの意。
〔評〕 長款の章を纏めて強く述べたものだ。古樸の歌風である。
 
(21)右※[てへん+僉](スルニ)2日本書紀(ヲ)1無v幸(シ)2於讃岐國(ニ)1亦軍王未v詳也但山上憶良大夫類聚歌林(ニ)曰(ク)記曰(ク)天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸(ス)2于伊豫温湯宮(ニ)1【云々】一書云是時宮前在2二樹1、此之二樹(ニ)班鳩《イカルカ》此米《シメ》二鳥大集(ル)、時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛(ケ)2稻穗(ヲ)1而養(フ)v之(ヲ)乃作歌【云々】若(クハ)疑(フ)從(ツテ)2此便(ニ)1幸(セル)v之歟。
 
班鳩は斑鳩と書くのが正しい。今、イカル又はマメマハシとよぶ鳥で長さ七寸位、嘴は黄、翼は黒く青色を帶びてゐる。背と腹とは灰色に茶色を帶びてゐる。聲がよいので飼鳥とすることもある。此米は今もシメといふ。燕雀類の一種で雀よりも少しく大きい。嘴は淡黄、背は灰色腹は黄色である。蝋嘴又は※[旨+鳥]とも書く。風土記に比米とあるが、ここは此米がよいであらう。この文は撰者の註か。山上憶良類聚歌林といふ書は、今傳はらぬが、平安朝まで行はれたものと見えて、袋草子や八雲御抄にその名が見えてゐる。一書云とあるは、伊豫風土記をさしたものか。仙覺抄に引いた伊豫風土記に、これと同じ意味のことが記されてゐる。但し文は同じでないから、或は他書かも知れない。この一書云は類聚歌林中の引用文であらう。若疑云々は注者の考を述べたもの。なほ此の文については卷三(三二二)山部赤人の歌參照。
 
明日香川原(ノ)宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト》
 
(22)この都の舊趾は今高市村大字川原にあり、川原寺が建つてゐる。飛鳥川の西岸にあるので、かく呼んだのである。天豐財重日足姫天皇は、皇極天皇。後重祚ありて齊明天皇と申上げる。皇極天皇は飛鳥板蓋宮におはしまし、齊明天皇は、板蓋宮から、川原宮に遷り、更に岡本宮に移らせられた。それで史實に從へば、これは齊明天皇で、考・略解・燈・攷證・檜嬬手などは皆齊明説を採つてゐる。然るに古義は、皇極紀に川原宮のことが無いのは、脱ちたのであるとして、皇極説を唱へ、新考、講義も同説である。次に後崗本宮として齊明天皇の御宇の作を掲げてゐるので見ると、これは皇極の御代のことであるらしく見えるが、暫く書紀の記載を尊重し、史實に據つて、齊明天皇の御宇として置く。この卷は皇都の所在地を以て、時代を區劃する方針であるから、さう考へても、差支ないのである。代匠記にある孝徳天皇説は從はれない。
 
額田王《ヌカタノオホキミ》歌 未詳
 
額田王は鏡王の女で、鏡女王の妹であられたやうだ。他の例に從へば、女王と書くべきだが、萬葉以前の書き方に從つて、女の字を加へなかつたのだらうと宣長は言つてゐる。天武紀に「天皇初娶2鏡王額田姫王1生2十市皇女1」とあるのは、鏡王の下、女の字脱ちたのである。未詳とあるのは後人の註だ。
 
7 秋の野の 美車苅り葺き 宿れりし 宇治の都の 借廬し思ほゆ
 
金野乃《アキノヌノ》 美草苅葺《ミクサカリフキ》 屋杼禮里之《ヤドレリシ》 兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》 借五百磯所念《カリイホシオモホユ》
 
嘗テ天子樣ガ大和カラ近江へ御出マシノ時、御伴ヲシテ〔嘗テ〜傍線〕秋ノ野ノ尾花ヲ刈ツテ作ツテ宿ツタ、宇治ノ行宮ノ假小屋ノ面白カツタコト〔七字傍線〕ガ、今モ尚〔三字傍線〕思ヒ出サレルヨ。
 
○金野乃《アキノヌノ》――四季を木火土金水の五行に配すれば、金は秋であるから、金を秋に宛て用ゐる。金待吾者《アキマツワレハ》(二〇〇五)・金待難《アキマチガタシ》(二〇九五)・金山《アキヤマノ》(二二三九)・金風《アキカゼ》(一七〇〇・二〇一三・二三〇一)の如くである。○美草苅茸《ミクサカリフキ》――美草は元暦校本に、ヲバナとよんであるが、ミクサでよからう。やはり尾花即ち花薄のことだ。○兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》――宇治の行宮をいふ。宮子《ミヤコ》(23)は宮處《ミヤトコロ》で、一日又は數日の行在所も亦ミヤコである。○借五百磯所念《カリイホシオモホユ》――借五百はカリイホとよむがよからう。磯《シ》は強める助詞。
〔評〕 天皇の駕に從つて、秋の宇治の野に宿つた時、野もせに波打つて咲いてゐた尾花は刈り取られて、そのまま小屋の屋根に葺かれた。その風流なキヤンピングは、後々までの永い追憶の種であつた。この思出は平明な調子を以てここに歌はれたのである。
 
右※[手偏+嶮の旁]2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書曰戊申年幸(ス)2比良宮(ニ)1大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳天皇至(リテ)v自2紀(ノ)温湯1三月、戊寅朔天皇幸(シ)2吉野宮(ニ)1而肆宴焉、庚辰日天皇幸(ス)2近江之平浦(ニ)1
 
戊辰は孝徳天皇の大化四年で、この年、比良宮行幸のこと書紀に見えない。但紀曰云々は齊明天皇の五年で明日香川原宮の御宇に違ないが、三月の行幸では秋の野のとあるに合はない。此の註は古書に載つてゐるものを、參考に記したに過ぎない。
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇、位後即位後崗本宮
 
同じく齊明天皇である。天皇川原宮におはしますこと一年で、後岡本宮に遷り給うた。舒明天皇の宮所の舊地である。註に位後即位とあるのは、讓位後再び即位の意であらう。
 
額田王歌
 
8 熟田津に 船乘りせむと 月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな
 
熟田津爾《ニギタヅニ》 舶乘世武登《フナノリセムト》 月待者《ツキマテバ》 潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》 今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》
 
熱田津デ船ニ乘ラウト思ツテ、月ノ上ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰルト、月ガ上ツテ〔五字傍線〕潮モ程ヨク滿チテ來タ。サア〔二字傍線〕今、漕ギ(24)出サウヨ。
 
○熟田津《ニギタヅ》――左註に熟田津石湯行宮とあるによれば、伊豫道後温泉附近に昔あつた要津である。今は地形が變つたので分らない。○潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》――潮も出帆に適當したの意。○許藝乞菜《ゴギイデナ》――乞は異説が多いが、燈にイデとよむべしと言つたのがよい。乞通來禰《イデカヨヒコネ》(一三〇)・乞吾君《イデワガキミ》(六六○)・乞如何《イデイカニ》(二八八九)・乞吾駒《イデワガコマ》(三一五四)など、多くの例がある。菜《ナ》は希望の助詞。
〔評〕 穩かな夜の港に、ひたひたと寄せ來る潮の上、團々たる玉兎が放射する金箭の輝きが、眼前に見えるやうだ。悠揚たる歌調、時待ち得たる出舟の歡喜の情もあらはれてゐる。
 
右※[手偏+嶮の旁]2山上憶良大夫類聚歌林(ヲ)1曰、飛島岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇、大后、幸(ス)2于伊豫湯宮1、後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(キ)、始(テ)就(ク)于海路1、庚戌御船泊(ツ)2于伊豫熟田津|石湯《イハユ》行宮1、天皇御2覽《シテ》昔日(ヨリ)猶存之物(ヲ)1、當時忽(チ)起(ス)2感愛之情(ヲ)1、所d以因製(シテ)歌詠(ヲ)1爲(ス)c之哀傷(ヲ)u。也、即(チ)此歌者、天皇(ノ)御製焉、但額田(ノ)王歌(ハ)者別有2四首1。
 
これは齊明天皇が、曾て舒明天皇の皇后として天皇と共に伊豫に行啓あり、後、天皇として行幸あつた時の御感慨を述べられた御製だといふ異傳を記したものだが、この歌は此の文の趣に合つてゐない。九年は書紀によれば十二年の誤だ。舊本西征を而征に誤つてゐる。今元暦校本による。石湯は道後温泉の古名である。
 
幸2于紀温泉1之時額田王作歌
 
(25)9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子が い立たしけむ 嚴橿が本
 
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之《ワガセコガ》 射立爲兼《イタタシケム》 五可新何本《イツカシガモト》
 
これは萬葉集中の最も訓み難い歌である。三句以下は大體右の訓でよいやうに思はれるが、上の二句は全くよみ難い。試みに古來の訓のうち、比較的よいと思はれるものを列擧すると、
 ユフツキノアフギテトヒシワガセコガイタタセルカネイツカハアハナム(仙覺抄)
 ユフツキシオホヒナセソクモワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(代匠記)
 キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(考)
 カマヤマノシモキエテユケワガセコガイタタスガネイツカシガモト(玉かつま)
 カクヤマノクニミサヤケミワガセコガイタタスカネイツカアハナモ(信濃漫録)
 マツチヤマミツツアカニトワガセコガイタタシマサバワハココニナモ(檜嬬手)
 ミモロノヤマミツツユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト(古義)
 カグヤマノクニミサヤケミワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(國歌大觀)
 マツチヤマミツツコソユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト(新考)
これらはいづれも誤字を認め、又戯書として工夫した訓法が多い。その訓の理由を記すべきであるが、あまりに煩雜であるからここには省く。原書を參照せられたい。このうちに誤字は或はあるであらうが、この卷の用字法から考へると、戯書とするはどうかと思はれる。この訓法に就いては、なほ大いに研究を要する。かかる次第であるから、譯はこれを省くことにする。
 
中皇女命、往(ク)2于紀伊温泉(ニ)1之時御歌
 
中皇女は前に中皇命とあつた御方と同じである。
 
10 君が代も 吾が代も知らむ 磐代の 岡のかや根を いざ結びてな
 
君之齒母《キミガヨモ》 吾代毛所知哉《ワガヨモシラム》 磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノカヤネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》
 
(26)アナタノ御壽命モ私ノ壽命モ、イツマデカ〔五字傍線〕知リタイモノデス。コノ磐代トイフ所ハ磐トイフ何時マデモ變ラヌ長生ノ出來サウナ名ヲ持ツタ所デスカラ、縁起ヲ祝ツテ〔コノ〜傍線〕此ノ磐代ノ岡ノ草ノ根モトヲ、サア結ビマセウ。サウシテ二人トモ長生キスルヤウニ約束致シマセウ〔サウ〜傍線〕。
 
○吾代毛所知哉《ワガヨモシラム》――ワガヨモシレヤと舊訓にあるが、シラムとよむ方がよい。哉は疑ひ推量する字であるから、ムとよんでよい。これを武の誤とするはわるい。○磐代乃岡之草根乎《イハシロノヲカノカヤネヲ》――磐代は紀伊日高郡で今、南部《ミナベ》町に屬し、大字東岩代・西岩代に分る。草根はクサネとよむ説もあるが、ここはカヤネがよからう。草の字、カヤとよむ例が多い。この頃草木の枝などを結んで縁起を祝ふ風俗があつたのだ。
〔評〕 これは誰人にか詠みかけられた作である。次の歌に吾勢子波《ワガセコハ》とあるので見ると、恐らくその夫君などであらう。磐代といふ常磐らしい地名に縁起を祝つたもので、女らしい氣分が出てゐる。新古今集羈旅・式子内親王の「行末は今いくよとか岩代の岡のかやねに枕むすばむ」はこれを本歌としたものである。
 
11 吾が背子は 借廬作らす かや無くば 小松が下の かやを苅らさね
 
吾勢子波《ワガセコハ》 借廬作良須《カリホツクラス》 草無者《カヤナクバ》 小松下乃《コマツガシタノ》 草乎苅核《カヤヲカラサネ》
 
私ノ夫ノ君ハ旅ノ宿ノ爲ニ〔六字傍線〕假ノ小屋ヲ御作リナサル。若シ屋根ニ葺ク〔五字傍線〕萱ガ足リナイナラバ、アノ小松ノ下ニ良イ萱ガアリマスカラ〔アノ〜傍線〕小松ノ下ニ生エテヰル萱ヲ御苅リナサイ。
 
(27)○吾勢子波《ワガセコハ》――勢子《セコ》は男を親しんでいふ語で、普通夫のことに用ゐる。ここもさうであらう。○借廬作良須《カリホツクラス》――作良須は作るの敬語。○草無者《カヤナクバ》――草はカヤとよむ。草乎苅核の草もカヤである。これをクサとよむ説もあるが、一首のうちで、紛れ易い同字を違つたよみ方をさせるのは無理であらう。○小松下乃《コマツガシタノ》――小松の小は美稱で、ただの松のことだとする説もあるが、小松は大木ならぬ松を指したのである。○草乎苅核《カヤヲカラサネ》――苅核はカラサネで、カラスの希望の形、カラスは苅の敬語。
〔評〕 偶然かも知らぬが加行音が多く、恰も頭韻を踏んだやうになつてゐる。それだけ調子に堅い所がある。
 
12 吾が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠ぞ給はぬ
 
吾欲之《ワガホリシ》 野島波見世追《ヌジマハミセツ》 底深伎《ソコフカキ》 阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》 珠曾不拾《タマゾヒロハヌ》
 
私ガ見タイト思ツテ居タ野島ハ思ヒ通リニ一行ノ人ニモ〔十一字傍線〕見セタ。併シ〔二字傍線〕底ノ深イ阿胡根ノ浦ノ珠ハ拾ハナイ。近所マデ行ツテ阿胡根ノ浦ノ珠ヲ拾ハナカツタノハ殘念ダ〔近所〜傍線〕。
 
○野島波見世追《ヌジマハミセツ》――日高川の下流、鹽屋浦の南に野島といふ村があつて、阿胡根の浦は其の海岸である。見世追《ミセツ》は一行の人に見せたといふのであらう。吾欲之にかけ合はぬから、誤字だといふ説もある。○珠曾不拾《タマゾヒロハヌ》――普通海岸で、珠を拾ふといふのは小石のことだ。阿胡根の浦は底が深いから、珠が拾はれぬといふのではない。底深く水清き阿胡根の浦の海邊は、珠が多いので有名なのである。拾の字、舊本に捨とあるは誤、元暦校本による。
〔評〕 初句と第二句とが照應しないやうに見えるのは、多少言葉に無理があるからである。海に遠い都人の海邊の景に飽かない氣分が出てゐる。
 
或頭云、我欲子島羽見遠《ワガホリシコジマハミシヲ》
 
一本の一二句に斯くあるといふのだ。かうすれば言葉の續きは穩かである。子島の所在不明。
 
右※[てへん+僉]《スルニ》2山上憶良大夫類聚歌林(ヲ)1曰、天皇御製云々。
 
(28)この傳は參考ともしがたい。
 
中大兄 近江宮御字天皇 三山歌一首
 
中大兄は天智天皇の御名、これは齊明天皇の御代の作であるからかう記したのだ。三山は香具・畝傍・耳成の三山である。香具山は既に述べた。畝傍は高市郡白檮村、耳成は磯城郡耳成村にある。卷頭の口繪三山の寫眞參照。
 
13 香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相爭ひき 神代より 斯くなるらし 古も 然なれこそ 現身も 妻を 爭ふらしき
 
高山波《カグヤマハ》 雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》 耳梨與《ミミナシト》 相諍競伎《アヒアラソヒキ》 神代從《カミヨヨリ》 如此爾有良之《カクナルラシ》 古昔母《イニシヘモ》 然爾有古曾《シカニアレコソ》 虚蝉毛《ウツセミモ》 嬬乎《ツマヲ》 相格良思吉《アラソフラシキ》
 
男ノ山ノ〔四字傍線〕香具山ハ、女ノ山ノ〔四字傍線〕畝傍山ヲバ愛ラシイ山ダト、ソレヲ妻ニシヨウトテ〔十字傍線〕耳梨山ト喧嘩ヲシタ。神代カラシテコノ樣ニ、男ガ女ヲ奪ヒ合フコトガ〔十一字傍線〕アツタノダラウ。昔モヤハリ此ノ通リニ有ツタカラコソ、今ノ世ノ人モ妻ヲ爭フト見エル。致シ方ノナイコトダ〔九字傍線〕。
 
○高山《カグヤマ》――香具山に同じ。高は韻鏡外轉第二十五開、豪韻の牙音で、ngとなる音でないから、カグとはよめないわけである。此の集で高を音假名としては高湍爾有《コセナル》(三〇一八)のやうにコに用ゐたのがあるのみ。古事記などには、高志《コシ》と使つてある。これは呉音コウであるからよいとして、カグは特例だ。正辭は天武紀に、高見をカガミとよんでゐるのをあげて、古來の慣用を認めてゐるが、なほ研究すべきである。○雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》――雲根火雄は畝傍を、男志等は愛《ヲ》しとである。畝傍男々しとする説はいけない。畝傍は女で、香具・耳成は男の山である。○虚輝毛――虚蝉は現身。此の世の人の身をいふ。○嬬乎相格良思吉《ツマヲアラソフラシキ》――嬬は妻に同じ。格は爭ふこと、挌と通じて用ゐる。良思吉はらしいの意、許曾《コソ》の係に對し、かく結ぶのは古格である。
〔評〕 先づ古傳説を述べ、次で現世に想到して虚蝉毛嬬乎相格良思吉《ウツセミモツマヲアラソフラシキ》と、如何にも感慨深げに仰せになつてゐるので、この天皇が、皇弟大海人皇子と額田女王を爭ひ給うたことが連想せられ、その御心を寄せられたものと解くものがあるが、果してどうであらう。三山の説話は所謂妻爭傳説の一つで、この集ではこの種のものに、葛(29)飾眞間手古奈・葦屋處女・櫻兒・鬘兒などの話が出てゐる。大和の平原に鼎立してゐるこの三山について、古代の民衆の間に、何時となく、かうした話が語られたのである。歌は古雅に簡素に出來てゐる。眞淵の「見渡せば天の香具山畝傍山あらそひ立てる春霞かな」はこの歌をもとにしたものである。
 
(29)反歌
 
14 香具山と 耳成山と 闘《ア》ひし時 立ちて見に來し 印南國原
 
高山與《カグヤマト》 耳梨山與《ミミナシヤマト》 相之時《アヒシトキ》 立見爾來之《タチテミニコシ》 伊奈美國波良《イナミクニハラ》
 
畝傍山ヲ妻ニシヨウトテ〔十一字傍線〕香具山ト耳梨山トガ戰ツタ時ニ、コノ三山ガ互ニ妻爭ヒヲシテヰルトイフコトヲ聞イテ、出雲ノ國カラ阿菩大神ガ〔コノ〜傍線〕御出掛ニナツテ、其ノ樣子ヲ〔五字傍線〕御覽ナサレル御積リデ御出デニナツタガ、戰止ンダト聞イテオ留リナサレタ〔戰止〜傍線〕、印南野原ハ此處ダナア〔六字傍線〕。
 
○相之時《アヒシトキ》――戰ひし時の意だ。神功紀に、伊弉阿波那和例波《イザアハナワレハ》。雄略紀に瀰致※[人偏+爾]阿賦耶《ミチニアフヤ》とよんだのは皆闘ふことである。○立見爾來之《タチテミニコシ》――阿菩大神が、出雲國を立ちて見に來給ひしの意で、立は出立の立ちである。仙覺抄に、「播磨(ノ)風土記(ニ)云、出雲(ノ)國阿菩大神聞2大和國畝火、香山、耳梨三山相闘1此欲2諫止1、上來之時、到2於此處1、乃聞(テ)2闘止1、覆2其所(ノ)v乘之船1而坐V之。故號2神阜1阜形似v覆とある。○伊奈美國波良――印南國原で、播磨の印南郡の野である。
〔評〕 これはこの三山妻爭傳説の終局を歌つたもので、播磨の印南野で古傳説を思ひ出して、詠ませ給うたものであらう。風土記にある神阜は、揖保郡林田の南方なる神岡に當るといふことで、印南野とは距つてゐるが、それは古傳説であるから、深く論ずるに及ばない。全くの叙事歌でありながら、上古には珍らしい名詞止にして、餘韻を籠めたのが面白い。
 
15 渡つ海の 豐旗雲に 入日さし 今宵の月夜 明らけくこそ
 
渡津海乃《ワタツミノ》 豐旗雲爾《トヨハタクモニ》 伊理比沙之《イリヒサシ》 今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》 清明己曾《アキラケクコソ》
 
海ノ上ニ棚引イ夕立派ナ布ノヤウナ雲ニ、入日ノ光ガ映ツテ、實ニ美シイ景色ダ。コノ樣子デハ〔十四字傍線〕、今夜ノ月ハ(30)キツト澄ミ渡ツテ佳イニ違ナイヨ。
 
○渡津海乃《ワタヅミノ》――元來、海《ワタ》つ神《カミ》の義であるが、海のことにも用ゐる。○豐旗雲爾《トヨハタグモニ》――豐は盛な意、ハタは凡べて織布をいふ。旗の字にとらはれてはいけない。○清明己曾――文字に着いて訓めばスミアカリコソ、キヨクアカリコソなどが穩かであるが、詞として面白くない。考の説に從つてアキラケクコソと訓んで置く。己曾《コソ》は係辭。希望とするはわるい。
〔評〕 恐らく印南野の海岸に立ち給うて、夕映の華やかさを御覽になつて、詠まれたものであらう。すつきりとした明澄な歌だ。佳作。これは、三山歌の反歌ではない。
 
右一首歌(ハ)今案不v似2反歌(ニ)1也。但舊本以(テ)此歌(ヲ)1載(ス)2於反歌1、故(ニ)今猶載(ス)2此次1、亦紀曰、天豐財重日足姫天皇《アメノトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコトノ》先(ノ)四年乙己(ニ)立2天皇1爲(ス)2皇太子(ト)1
 
次の字、流布本歟に作るは誤。元暦校本による。流布本立爲天皇とあるが、爲は衍文、元暦校本にはない。
 
近江大津宮御宇天皇代  天命開別天皇《アメミコトヒラカスワケノスメラミコト》
 
近江大津宮は今の大津市の北方、辛崎に近い滋賀村滋賀里にあつた。天智天皇の皇居。天命開別天皇は後に天智天皇と謚し奉る。
 
天皇詔2内大臣藤原朝臣1競2憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩1時額田王以(テ)v歌(ヲ)判(ゼル)v(ヲ)歌
 
藤原朝臣は鎌足である。朝臣の姓は天武天皇十三年に賜ふところ、鎌足存命中は中臣連である。鎌足薨ずる日、内大臣に叙し藤原氏を賜はる。ここは後の稱呼に從つたものだ。競憐は面白さを競ふといふやうな意。
 
16 冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 執りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 紅葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ歎く そこし恨めし 秋山我は
 
(31)冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 不喧有之《ナカザリシ》 鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》 不開有之《サカザリシ》 花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》 山乎茂《ヤマヲシミ》 入而毛不取《イリテモトラズ》 草深《クサフカミ》 執手母不見《トリテモミズ》 秋山乃《アキヤマノ》 木葉乎見而者《コノハヲミテハ》 黄葉乎婆《モミヂヲバ》 取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》 青乎者《アヲキヲバ》 置而曾歎久《オキテゾナゲク》 曾許之恨之《ソコシウラメシ》 秋山吾者《アキヤマワレハ》
 
(冬木成)春ニナツテ來ルト、今マデ冬ノ間〔六字傍線〕嶋カナカツタ鳥モ來テ鳴イタ。今マデ冬ノ間〔六字傍線〕咲カナカツタ花モ咲イタガ、併シ春ハ〔二字傍線〕山ノ木ガ茂ツテヰルノデ、女ノ身ノ私ハソノ中ニ〔十字傍線〕入ツテ花ヲ〔二字傍線〕取リモセズ、草ガ深ク生エテヰルノデ、花ヲ〔二字傍線〕手折ツテ見ルコトモセヌ、綺麗デ面白クハアルガ、春ハ樂シミガ薄イ。コレニ反シテ〔綺麗〜傍線〕、秋ノ山ノ木ノ葉ヲ見ルト、紅葉シタノヲ取ツテ賞翫シ、マダ黄葉シナイ〔七字傍線〕青イノハソノ儘ニ枝ニ殘シテ〔九字傍線〕置イテ、紅葉ノ遲イノ〔六字傍線〕ヲ歎息スル。秋ノ山ハヨイガ、タダ〔九字傍線〕コノ點ガ秋ノ山ハ、私ハ恨メシイト思フヨ。
 
○冬木成《フユゴモリ》――春の枕詞である。冬隱と書かれてゐることもあるから、フユゴモリに違ない。成をモリとよむのは盛の省文である。語義について諸説あれど、冬の間、萬物閉ぢこもり、春となつて張り出づる意とするが穩であらう。○春去來者《ハルサリクレバ》――春が來ればの意。去るは春されば、夕さればなどの如く、來る意である。夜さり、夕さりの如く名詞になることもある。春之在者と書いてあるので見ると、春しあればの約であらうか。○山乎茂――ヤマヲシゲミとよむ。シミとする考の説はよくない。○黄葉乎婆《モミヂヲバ》――モミヅヲバとよむのはわるい。わざわざ動詞の形にする必要はない。黄葉は皆モミヂとよんである。○曾許之恨之《ソコシウラメシ》――恨は怜の誤で、ソコシオモシロシとよむべしと宣長はいつた。古義はタヌシとよんだが、字を改めないでも、其の點が恨めしとして、青きをば置きてぞ歎くのみにかかるとすれば、よく聞える。
〔評〕 春秋の爭は、古事記明宮の段に出た、秋山之|下氷壯夫《シタヒヲトコ》・春山之霞壯夫から見え、中世では源氏物語・更級日(32)記・拾遺集・新古今集等にも見えるが、この額田王の作が最名高いものである。大抵は秋に團扇をあげてゐるが、この歌も秋を讃美してゐる。かういふ議論めいたことを短く歌に纏めたところが、作者の手腕であらう。
 
17 味酒 三輪の山 青丹よし 奈良の山の 山のまに い隱るまで 道の隈 い積るまでに 委《ツバ》らにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隱さふべしや
 
額田王下(リシ)2近江國(ニ)1時作歌、井戸《ヰイヘ》王即(チ)和(フル)歌
 
井戸王は物に見えない。和歌とあるは和ふる歌で、次の綜麻形乃の歌をさしたものだらう。
 
味酒《ウマサケ》 三輪乃山《ミワノヤマ》 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良能山乃《ナラノヤマノ》 山際《ヤマノマニ》 伊隱萬代《イカクルマデ》 道隈《ミチクマ》 伊積流萬代爾《イツモルマデニ》 委曲毛《ツバラニモ》 見管行武雄《ミツツユカムヲ》 數數毛《シバシバモ》 見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》 情無《ココロナク》 雲乃《クモノ》 隱障倍之也《カクサフベシヤ》
 
(味酒)三輪ノ山ヲ私ハ〔二字傍線〕、(青丹吉)奈良ノ山ノ山ノ間ニ隱レテシマフマデ、路ノ曲リ角ガイクツモ隔テテ見エナ〔三字傍線〕クナルマデハ、三輪山〔三字傍線〕ヲ能ク能ク見ナガラ行カウト思ツテヰルノニ、幾度モ幾度モ振返ツテ〔四字傍線〕遠ク眺メヨウト思ツテヰルノニ、情ナク雲ガ隱シテシマフトイフコトガアルモノカ。私ハ今カラ近江ノ國ヘ下ツテ行クガ、朝夕見馴レタ三輪山ニ別レルノガ辛イ。能ク見テ置カウト思フノニ、雲ガ立チ隱ストハ情ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○味酒《ウマサケ》――枕詞。味酒の神酒《ミワ》の義で三輪につづく枕詞。三輪の神は酒の神で、崇神天皇の御代に三輪に掌酒《サカツカサ》を置かれた。○三輪乃山《ミワノヤマ》――大和磯城郡にある山で、この山を神體として祀つたのが三輪神社だ。○青丹吉《アヲニヨシ》――枕詞。奈良とつづく。語義は彌百土《イヤホニ》よし、青土※[黍+占]《アヲネヤニシ》などの説あれど、いづれも無理である。この語、久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎亦與斯久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヤシカモカクシラマセバアヲニヨシクヌチコトゴトミセマシモノヲ》(七九七)とあつて、奈良に續かないこともあるから、元來奈良山の風景を賞めたもので、紀記の阿那迩夜志《アナニヤシ》などと同義であらう。アナニは、あな美しいの意で、アヲニと轉じ、ヤシは感動をあらはす助詞で、ヨシとなつたのではあるまいか。○山際《ヤマノマニ》――際はマとよむ。ヤマノハ又はヤマノキハ又はヤマノカヒとする説はわるい。木際縱《コノマヨリ》(一三一)・木際多知久吉《コノマタチクキ》(三九一一)などを證とすべし。(33)山際の下、從の脱ちたのだとする説は從はない。○伊隱萬代《イカクルマデ》――伊は接頭語、意味はない。○伊積萬代爾《イツモルマデニ》――イサカルマデニともよまれてゐる。安積《アサカ》といふ地名や、百積《モモサカノ》(二四〇七)どの例で見ると、サカとも訓み得るのであるが、ここはイツモルの方がよからう。道の曲り角をいくつも重ねる意だ。○委曲毛《ツバラニモ》――ツバラはツマビラカに同じ。委しく。○見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》――見放けむ山を。見放くは遠く見やるをいふ。○隱障倍之也《カクサフベシヤ》――隱さふは隱すに同じ。
〔評〕 住み馴れた大和國原の、名殘として眺められるものは、今はただ神々しい姿の三輪山のみである。その山も無情な雲が蔽うてしまふ。ああ無情なる雲よと、涙に曇る目を上げて叫び悲しんだ嗟嘆の聲。何らの哀調。
 
反歌
 
18 三輪山を しかも隱すか 雲だにも 心あらなも 隱さふべしや
 
三輪山乎《ミワヤマヲ》 然毛隱賀《シカモカクスカ》 雲谷裳《クモダニモ》 情有南畝《ココロアラナモ》 可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
(34)雲ガ三輪山ヲ隱シテシマツタガ〔雲ガ〜傍線〕三輪山ヲソンナニモマア隱スノカ。タトヒ雲デモ情ガ有ツテ呉レ。私ガコレホド見タク思ツテ居ルノニ〔私ガ傍線〕隱ストイフコトガアルモノカ。ホントニ情ナイ雲ダ〔九字傍線〕。
 
○情有南畝《ココロアラナモ》――畝は呉音モであるから、ココロアラナモとよむがよい。但し類聚古集に畝は武となつてゐるから、それに從へばアラナムである。
〔評〕 長歌の意を繰返しただけだが、三輪山乎然毛隱賀《ミワヤマヲシカモカクスカ》といふので、身悶えして泣き濡れてゐる樣も見えて、哀な歌だ。傑作のうちに數ふべきものであらう。古今集に貫之「三輪山をしかもかくすか春霞人に知られぬ花や咲くらむ」とあるは、この歌の詞を取つたのである。
 
右二首(ノ)歌(ハ)山上憶良大夫類聚歌林(ニ)曰、遷(ス)2都(ヲ)近江國(ニ)1時、御2覽(セル)三輪山(ヲ)1御歌焉。日本書紀(ニ)曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷(ス)2都(ヲ)于近江1。
 
この註は、類聚歌林には天智天皇の御製とあるといふのだ。大海人皇子の御歌とする考の説は從ふべきでない。日本書紀曰六年丙寅とあるが、今本の書紀の六年は丁卯である。
 
19 綜麻形の 林のさきの さ野ばりの 衣に著くなす 目に着く我が背
 
綜麻形乃《ヘソカタノ》 林始乃《ハヤシノサキノ》 狹野榛能《サヌバリノ》 衣爾著成《キヌニツクナス》 目爾都久和我勢《メニツクワガセ》
 
綜麻形ノ林ノ端ノ方ニ生エテヰル野ノ萩ガ、押シ分ケテ行ク人ノ〔九字傍線〕着物ニ自然ニ〔三字傍線〕著クヤウニ、見ヨウトモセヌノニ〔九字傍線〕私ノ目ニ付ク愛ラシイ〔四字傍線〕私ノ夫君ヨ。
 
○綜麻形乃《ヘソカタノ》――舊訓はソマカタノ。契沖はヘソカタノ、僻案抄はミワヤマノとよんだ。三輪山は三輪傳説に、麻が三輪殘つたとあるのによつたので、前の歌につづいてゐるところから考へれば、三輪山説は面白いが、訓み方は無理である。綜の字、本集に他の用例がない。崇神紀に大綜麻杵《オホヘソキ》といふ人があるによれば、ヘソカタが一番よい。恐らく地名で、綜麻形の林といふのであらう。○林始乃《ハヤシノサキノ》――ハヤシハジメノとする舊訓はよくない。始(35)の字、本集にサキとよんだ例は他に無いが、ハヤシノサキノとよむより他はあるまい。○狹野榛能《サヌバリノ》――狹は接頭語、野榛は野の萩の花である。榛は本集の難問題の一であるが、山吹を山振と書くやうに、ハリとハギと音通じ、二樣に發音せられたもので、ハンの木ではない。榛の木の皮の煎汁は之を染料とするが、多く下染めにするものだ。所謂タンニン染料である。葉又は實を以て摺るといふ説も、事實に疎い。去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸《イザコドモヤマトヘハヤクシラスゲノマヌノハリハラタヲリテユカム》(二八〇)・白菅乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原《シラスゲノマヌノハリハユクサクサキミコソミラメマヌノハリハラ》(二八一)の如き、花の咲く景色であるる。又、不時斑衣服欲香島針原時二不有鞆《トキナラヌマダラノコロモキホシキカシマノハリハラトキニアラネドモ》(一二六〇)も花咲く時季があるやうである。天武紀の蓁摺御衣とあるも萩の花摺衣に違ない。
〔評〕 女性の歌である。井戸王を女としても、額田王に和ふる歌としては變だ。格別取り立てていふほどの作でもない。
 
右一首歌今案不v似2和歌1但舊本載(ス)2于此(ノ)次1故(ニ)以猶載焉。
 
これはかなり新しい時代の註らしい。
 
天皇遊2獵|蒲生《カマフ》野(ニ)1時額田王作(レル)歌
 
遊獵は左註に五月五日とあれば藥獵である。卷十六に四月與五月間爾藥獵仕流時爾《ウツキトサツキノホトニクスリカリツカフルトキニ》(三八八五)とある。藥獵とは鹿の茸《ワカツノ》又は百草を採るので、支那の行事の模倣である。蒲生野は近江蒲生郡の野、今の八幡・安土・八日市附近の平原である。四四頁地圖參照。額田王は、天武紀に「天皇初娶2鏡王額田姫王1、生2十市皇女1」とあつて、始め大海人皇子に召され、後、天智天皇に寵せられたのである。この歌は天皇に侍つてゐる頃の作である。七參照。
 
20 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
 
茜草指《アカネサス》 武良前野逝《ムラサキノユキ》 標野行《シメヌユキ》 野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》 君之袖布流《キミガソデフル》
 
(36)(茜草指)紫草《ムラサキ》ガ生エテヰル野ニ行ツタリ、御獵ヲナサル爲ニ〔八字傍線〕領シテ置カレル野ニ行ツタリシテ、私ニ合圖シテ〔六字傍線〕貴方樣《アナタサマ》ガ袖ヲ御振リ遊バスノヲ、野ノ番人ハ見ナイデセウカ。野ノ番人ニ見ラレマスカラ、御止メ遊バセ〔野ノ〜傍線〕。
 
○茜草指《アカネサス》――日・晝・紫などの枕詞。赤味を帶ぶる意であらう。稀に君の上に冠してあるのも、顔色の美しきを賞めたのであらう。茜草は茜草科茜草屬の多年生草本で、莖は方形中空で逆刺あり葉は輪生、長卵形又は長心臓形、草葉共に逆刺を生ずる。花は總状花序で白色である。この太い髯状の根の汁を搾つて染料としたのが所謂茜色だ。○武良前野逝《ムラサキノユキ》――紫野行きの意で、紫野は地名ではなく、紫草の生えてゐる野。紫草は紫草科紫草屬の多年生草本、高さ二尺に達する。葉は互生、披針形或は長卵形、花は莖の上部に生じ、小形で白色。花が群つて咲くからムラサキといふといはれてゐるが、さほど密集してはゐない。この根から採る染料が即ち紫色である。紫根《シコン》色ともいふ。○標野行《シメヌユキ》――標野は占有した野の意で、個人でも若菜摘む爲などに、場所を占めて置いたらしいが、ここのは御料の蒲生野の一部をいつたのだ。もとより武艮前野と同一場所を、語を變へて言つたものである。○野守者不見哉《ノモリハミズヤ》――野守は野の番人である。この頃は所々の山野に番人を置いたと見える。
〔評〕 紫野へ行き標野へ走つて、自分に戀しさを示さうとして袖を振つてゐられる皇太子の大膽な態度を、危ぶみながら詠まれた、その氣分がよく出てゐる。四の句と五の句とを顛倒してあるので、調子が緊張してゐる點を注意すべきである。此の歌の標野や野守に、偶意があるやうに解く説が多い。美夫君志に、「野守者不見哉は額田王自らを、そへたるなり、……多くの官女たちに戯れ給へるをねたましく思して、とがめ奉りしなり。然るに代匠記に野守は皇太子を比して云也といひ、燈には皇太子の御思ひ(37)人に比したる也といひ、考には、つかさ人たちの見奉り思はん事をそへし也といへり。信友のながらの山風も此の説によれり。皆非也。……守部の檜嬬手には、野守は本主の天智天皇を申せる也とあれど、天皇を野守に比し奉るとは、いとなめげなるわざにて、いかでさる事のあるべき。」と論じてゐるのを見れば、古説の大體を知ることが出來よう。古義は野守を、女王附隨の警衛者としてゐる。併しこれ等はいづれも考へ過ぎた説で、表面的に見る方がよいと思ふ。但し野守は野守のみを恐れたのでなく、その周圍の人たちを含んでゐることは勿論である。
 
皇太子答御歌  明日香宮御宇天皇
 
皇太子は即ち大海人皇子。明日香宮御宇天皇とあるは、後人の註で、天武天皇を指し奉る。
 
21 紫の 匂へる妹を 惡《にく》くあらば 人妻故に 吾戀ひめやも
 
紫草能《ムラサキノ》 爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》 爾苦久有者《ニククアラバ》 人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》
 
紫(ノ)色ノ〔二字傍線〕ヤウニ美シイ貴女《アナタ》ガ惡《ニク》イナラバ、人ノ妻ト定マツテヰルノニ、私ガ〔二字傍線〕ドウシテ貴女ヲ戀ヒ慕ハウゾ。貴女ガ可愛イカラ、人ノ妻ト定ツテヰテモ、カウシテ戀ヒ慕ツテ居ルノダ〔貴女〜傍線〕。
 
○紫草能《ムラサキノ》――紫色の如くの意。前に武良前野逝《ムラサキヌユキ》とあるのを受けたもの。○爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》――ニホヘルは色の美しいこと。○人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》――人の妻であるのに。故爾《ユヱニ》にこの用法が少くない。
【評】 人妻故吾可戀奴《ヒトツマユヱニワレコヒヌベシ》(一九九九)といふやうな歌もないではないが、かうした教養ある高貴なお方の口から、この言葉を聞かうとは、ただその大膽さと、強烈な思慕の情とに、をののかざるを得ない。驚天動地の壬申の大亂は、その由る所が深いのである。
 
紀曰天皇七年丁卯夏五月五日、縱2獵(シタマフ)於蒲生野(ニ)1、于v時大皇弟・諸王・内臣及群臣皆悉從焉。
 
今本の日本書紀には、七年は戊辰になつてゐる。大皇弟は大海人皇子。大の字天に作る本は誤であらう。
 
(38)明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛眞人天皇《アメヌナハラオキノマヒトノスメラミコト》
 
明日香清御原宮は、今の高市郡高市村大字|上居《ジヤウコ》の地で、上居は淨御の音讀かといふ説が行はれてわたが、岡本の南、飛鳥村大字雷と飛鳥との中間であらうとする、喜田博士の説がよいやうである。上居は山腹狹隘の地で、都とすべきところでなく、その名も多武峯村の下居に對したもので、淨御には關係ない。卷三に妹毛吾毛清之河乃岸之妹我可悔心者不持《イモモワレモキヨミノカハノカハギシノイモガクユベキココロハモタジ》(四三七)とある清之河《キヨミノカハ》も、この清御原の川で、清御原は清み川近い原の意で、清み川は飛鳥川の一部を言つたらしいから、上居では地形が全く合致せず、喜田博士の推定された地點ならば、これによく合ふのである。宮の下、御宇の二字脱か。目録にはある。天渟中原瀛眞人天皇は、謚して天武天皇と申し奉る。
 
十市《トヲチ》皇女參2赴(シ)於伊勢神宮(ニ)1時、見(テ)2波多《ハダノ》横山(ノ)巖(ヲ)1吹黄《フキノ》刀自作(レル)歌
 
十市皇女は天武天皇の皇女、母は額田女王、大友皇子の妃。波多の横山は伊勢。松坂から初瀬越する途中にある八太里かと考に記してゐる。四○頁の地圖參照。但し大和山邊郡波多村の仲峯山とする説もある。吹黄刀自はどういふ人か分らぬ。黄の宇、元暦校本に※[草冠/欠]に作つてある。刀自は主婦のこと。戸主《トヌシ》の略かといふ。
 
22 河の上の ゆつ岩村に 草むさず 常にもがもな 常處女にて
 
河上乃《カハノヘノ》 湯都盤村二《ユツイハムラニ》 草武左受《クサムサズ》 常丹毛冀名《ツネニモガモナ》 常處女煮手《トコヲトメニテ》
 
河ノ中ノ澤山ノ石ガ集マツタ所ニ草ガ生エヌヤウニ、皇女樣モ〔四字傍線〕、今ノ少女ノ御姿デ、何時マデモ御若ク美シク〔六字傍線〕御出デ遊バスヤウニ願ヒマス。
 
○河上乃《カハノヘノ》――カハカミノと舊訓にあるが、河中のことだから、カハノヘと訓む略解説がよからう。○湯都盤村《ユツイハムラニ》――五百箇磐村の意といふ、多くの磐の集まつたところ。○草武左受《クサムサズ》――草産さずで、ムスは生ずること。産靈《ムスビ》神の産も同じである。○常丹毛冀名《ツネニモガモナ》――冀《ガモ》は希望の助詞。この句、實朝の「世の中は常にもがもな渚こぐ海人(39)の小舟のつなでかなしも」の歌にとられてゐる。○常處女煮手《トコヲトメニテ》――永久に變らぬ處女での意で、永遠の若さを希つたのである。但しこれを不老説話と結び付けようとするのはよくない。
〔評〕 苔の生えた岩は古々しい。草に蔽はれた巖の群も同じ感がある。河の中の岩は、時々水に洗はれて草が生える遑がなく、常磐ながらに新しい感じがする。自分がかしづいてゐる皇女は、花のやうな若さを持つて居られる。これは皇女の榮光であり、奉仕するものの誇りである。天つ少女のそれの如き皇女よ、永遠に若さを失ひ給はざれと望んだもので、上の句の譬喩も面白く、全體に整つた歌である。
 
吹黄刀自未v詳也。但紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女阿閉皇女、參2赴(キタマフ)於伊勢神宮(ニ)1。
 
阿閉皇女は天智天皇の皇女、後御即位なり、元明天皇と謚し奉る。
 
麻續《ヲミ》王流(サレシ)2於伊勢國|伊良虞《イラゴノ》島(ニ)1之時、人哀傷(シテ)作(レル)歌
 
麻續王は左註に引いた書紀の文の外に知る所がない。伊良虞島は三河の伊良胡崎で、半島であるが、伊勢の海中に島のやうに見えるから、島といつたのであらう。伊勢のうちではないが、直ぐ對岸なので、かう言ひならはしたものと見える。四二參照。時の下に更に時の字があるべきである。
 
23 うちそを 麻續の王 海人なれや 伊良虞が島の 玉藻刈り食す
 
打麻乎《ウチソヲ》 麻續王《ヲミノオホキミ》 白水郎有哉《アマナレヤ》 射等籠荷四間乃《イラゴカシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリヲス》
 
(打麻乎)麻續王ハ、身分ノ尊イ御方デ〔八字傍線〕海人デハナイノニ、伊良虞島ノ珠藻ヲ苅ツテ召シ上リナサル。ホントニ御氣ノ毒ナ〔九字傍線〕。
 
○打麻乎《ウチソヲ》――麻續の枕詞、打ちたる麻を績むとつづく。○白水郎有哉《アマナレヤ》――白水郎はアマとよむ。和名抄に「辨色立成云、白水郎、和名阿萬」とある。泉部とも書いてある。白水は支那の地名で、この地の人よく水に潜る(40)といふ説もあるが、明らかでない。有哉のヤは疑問の助詞で、反語的に用ゐてある。○珠藻苅麻須《タマモカリマス》――珠藻は藻を賞めていふ語。苅麻須は舊訓カリマスだが、麻はヲの假名にも用ゐる字であり、次の歌もこの句を繰返したらしいから、カリヲスがよからう。
【評】 三の句|白水郎有哉《アマナレヤ》に強い同情感が籠つて見える。高貴な皇族の配流は、既に同情に堪へぬところであるのに、玉藻を苅つて口に糊せられるとは、聞く耳をも疑ひたい程の哀な話である。時人の哀傷もさこそと思ひやられる。
 
麻績王聞(キ)v之(ヲ)感傷(シテ)和(フル)歌
 
24 うつせみの 命を惜しみ 浪に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す
 
空蝉之《ウツセミノ》 命平惜美《イノチヲヲシミ》 浪爾所濕《ナミニヌレ》 伊良虞能島之《イラゴノシマノ》 玉藻苅食《タマモカリヲス》
 
私ハ(空蝉之)命ガ惜シイノデ、此ノ樣ナヒドイ所ニ來テモ死ニモセズニ、浪ニ濕レテ伊良虞ノ島ノ玉藻ヲ苅ツテ食べテ命ヲ繋イデヰル。
 
○空蝉之《ウツセミノ》――現身のの意で、命・世・人・身などの枕詞となる。この世に生存してゐる身のといふ意。○命乎惜美《イノチヲヲシミ》――惜の字舊本情とあるは誤。元暦校本によつて改む。○玉藻苅食《タマモカリヲス》――カリハムといふ説もある。食はヲス・メス・ハムなどによまれる字だ。この場合、前の歌に揃へてヲスとよむのがよい。
【評】 命平惜美浪爾所濕《イノチヲヲシミナミニヌレ》は哀ないたいたしい言葉である。高貴な御方だけに特に悲しく感ぜられる。
 
(41)右案(ズルニ)2日本紀(ヲ)1曰(ク)天皇四年乙亥夏四月戊戌乙卯、三品麻績王有(リテ)v罪流(サレ)2于因幡1、一子流(サレ)2伊豆島(ニ)1、一子流(サレキ)2血鹿島(ニ)1也、是(ニ)云(ヘルハ)v配(サルト)2于伊勢國伊良虞島(ニ)1者、若(クハ)疑(フ)後人縁(リ)2歌辭(ニ)1而誤(リ)記(セル)乎。
 
今本の日本書紀には四年「四月甲戊朔辛卯三位。麻績王云々」とある。三品は、元暦校本に三位とある。
 
25 み芳野の 耳我の嶺に 時無くぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける 其の雪の 時無きが如 其の雨の 問無きが如 隈も落ちず 思ひつつぞ來る 其の山道を
 
天皇御製歌
 
三吉野之《ミヨシヌノ》 耳我嶺爾《ミミガノミネニ》 時無曽《トキナクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》 間無曽《マナクゾ》 雨者零計類《アメハフリケル》 其雪乃《ソノユキノ》 時無如《トキナキガゴト》 其雨乃《ソノアメノ》 間無如《マナキガゴト》 隈毛不落《クマモオチズ》 思乍叙來《オモヒツツゾクル》 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
芳野ノ耳我ノ嶺ニハ、何時デモ時ヲ定メズニ、雪ガ降ツテヰルヨ。止ム間モナク、始終雨ガ降ツテヰルヨ。ソノ雪ガ時ヲ定メズニ降ルヤウニ、又ソノ雨ガ止ム間モナク降ルヤウニ、長イ山道ノ曲リ角ゴトニ、一ツモ洩ラサズ、ソノ山道ヲ、行ク行ク思ヒ續ケテ來ルヨ。
 
○三吉野之《ミヨシヌノ》――三は美稱。○耳我嶺爾《ミミガノミネニ》――舊訓はミカノミネニであるが、今は僻案抄に從つてミミガノミネニが行はれてゐる。守部は耳我嶺嶽《ミカネノタケ》の誤だといつてゐる。三吉野之|御金高爾《ミカネノタケニ》(三二九三)とあるから、面白い説であるが、耳をミの假名に用ゐた例がない。併し地形から考へると、金峯山をさすものに違ない。○隈毛不落《クマモオチズ》――隈は道の曲つた所、一隈も洩らさす、隈毎にの意。
【評】 對句を巧に用ゐてゐる。卷十三(三二九二)にこれと殆ど同じ歌がある。卷十三は古民謡集であつて、この天皇と時代の前後は明らかでない。天皇の御製が民謡となつたと考へるよりも、民謡が御製として此處に入れられたとする方が穏當であらう。從つて、額田王を戀うて歌ひ給うたとする説には從ひたくない。
 
26 み芳野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間無くぞ 雨は降るといふ 其の雪の 時じきが如 其の雨の 間無きが如 隈も落ちず 思ひつつぞ來る 其の山道を
 
(42)或本(ノ)歌
 
三芳野之《ミヨシヌノ》 耳我山爾《ミミガノヤマニ》 時自久曽《トキジクゾ》 雪者落等言《ユキハフルトイフ》 無間曽《マナクゾ》 雨者落等言《アメハフルトイフ》 其雪《ソノユキノ》 不時如《トキジキガゴト》 其雨無間如《ソノアメノマナキガゴト》 隈毛不墮《クマモオチズ》 思乍叙來《オモヒツツゾクル》 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
これは全く同歌の異傳である。口から口に傳へられる時、これ位の相異が出來て行くのは當然である。
 
右句々相換、因(テ)v此(ニ)重(テ)載(ス)焉。
 
天皇幸(セル)于吉野宮1時(ニ)、御製(ノ)歌
 
吉野宮は今の中莊村大字宮瀧の地にあつた。この地は吉野鐵道の上市驛から、吉野川に沿うて上ること約一里のところにあつて、山形、水勢實に無比の勝景である。この宮址の所在について、特に異を立てて、なほ數里上流の大瀧の地に求めようとする説もあるが、夏身の川緩く流れ、夢のわだ藍を湛へ、象の中山・三舟の山、昔ながらに聳え、古の岩走る瀧のあとどころも、其の儘に殘つてゐるこの宮瀧の地を措いて、他に求めむとするは徒勞である。加ふるに昭和三年、同字内、今桑畑となつてゐる地點から、飛鳥朝時代のもの、と覺しき古瓦及び齋※[公/瓦]の破片を得、更にその下を發掘せるに、石茸及び礎石を發見したので、もはやこの地が古代の離宮址たるは、疑ふ餘地が無くなつた。今後更に發掘が進捗したならば、離宮の規模・構造が明らかにせられるであらう。この離宮に行幸の史に見(43)えてゐるのは、應神・雄略・齊明・天武・持統・文武・元正・聖武等の諸帝である。天武天皇は一度この地に隱遁せられたが、潜龍雲を得て天位に即かれてからも、この景勝に遊び給うたのである。この歌は左註にある如く、天皇の八年五月の行幸に際して詠ませ給うたものであらう。
 
27 よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見つ
 
淑人乃《ヨキヒトノ》 良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》 好常言師《ヨシトイヒシ》 芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》 良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》
 
古ノ君子ガ良イ所ダトテ、良ク見テ、實ニ良イ所ダト言ツタ此ノ芳野ヲ、今ノ人々モ良ク見ナサイ。昔ノ君子ハ良ク見タノダカラ。
 
○淑人乃《ヨキヒトノ》――淑人は君子、紳士などといふに似てゐる。古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《イニシヘノサカシキヒトノアソビケムヨシヌノカハラミレドアカヌカモ》(一七二五)とある賢人も同じだ。○良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》――舊訓ヨキヒトヨキミで、その他ヨシトヨクミツ・ヨキヒトヨクミヨ・ヨキヒトヨクミなどがあるが、僻案抄にヨキヒトヨクミツとしたのが調子も佳く、意味も穏やかである。
【評】 ヨキ・ヨシの音を繰返し、各句に頭韻を踏んでゐる。卷四に將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムトイフモコヌトキアルヲコジトイフヲコムトハマタジコジトイフモノヲ》(五二七)といふ歌もあるけれども、本集でも珍らしい調子である。もとより特更に巧んだ、いはゆる弄語の歌であるが、浮薄に陷らず、嫌味のない輕妙な作である。
 
紀(ニ)曰八年己卯五月庚辰朔甲申、幸(ス)2于吉野宮(ニ)1、
 
書紀を引いて此の歌の作られた行幸の時日を推定した註である。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
藤原は大和國高市郡香具山の西、耳梨山の南で、鴨公村大字高殿の地域内である。持統・文武二代の都。持統天皇の四年十月新都造營の地を見そなはし、翌年十月から着手、八年十二月庚戌朔乙卯淨御原から、ここに遷り給うた。
 
(44)天皇御製(ノ)歌
 
天皇は持統天皇
 
28 春過ぎて 夏來るらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山
 
春過而《ハルスギテ》 夏來良之《ナツキタルラシ》 白妙能《シロタヘノ》 衣乾有《コロモホシタリ》 天之香來山《アメノカグヤマ》
 
春ガ過ギテ夏ガ來タラシイ。白布ノ夏ノ〔二字傍線〕着物ヲ、天ノ香具山ニ乾シテアル。モハヤ夏ガ來タト見エル。サテサテ月日ノ經ツノハ早イモノダ〔モハ〜傍線〕。
 
○夏來良之《ナツキタルラシ》――舊訓ナツキニケラシとある。ナツキタルラシとよむべきだ。○白妙能《シロタヘノ》――衣の枕詞とするは誤つてゐる。妙は栲の借字で、白妙は白布である。
〔評〕 夏來良之《ナツキタルラシ》で切つて、衣乾有《コロモホシタリ》で切り、天之香來山と名詞止にした爲に、莊重な調子になつてゐる。名詞止は新古今時代に隆盛を極めたもので、萬葉には至つて少い。しかもこれが新古今調と違つてゐるところが面白い。これを新古今式に改めたのが新古今集や百人一首に出てゐる「春過ぎで夏來にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」である。
 
(45)過(グル)2近江(ノ)荒都(ヲ)1時、柿本朝臣人麿作(レル)歌
 
天智天皇六年飛鳥後岡本宮から大津の宮へ遷都、十年十二月崩。翌年七月弘文天皇崩御までの帝都。柿本朝臣人麻呂は孝昭天皇の皇子天押帶日子命の裔。傳の委しいことは知りがたい。本集に記せる以外のことは皆傳説である。
 
29 玉襷 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 或云、宮ゆ あれましし 神のことごと 樛の木の 彌つぎつぎに 天の下 知ろしめししを 或云、めしくる 空に見つ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え 或云、そらみつ 大和を置き 青丹よし なら山 越えて いか樣に おもほしめせか 或云、おもほしけめか 天放る 夷にはあれど 岩走る 近江の國の さざ波の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ 天皇の 神のみことの 大宮は 此處と聞けども 大殿は 此處といへども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる 或云、霞立つ 春日かきれる 夏草か 繁くなりぬる 百敷の 大宮處 見れば悲しも 或云、見ればさぶしも
 
玉手次《タマダスキ》 畝火之山乃《ウネビノヤマノ》 橿原乃《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》 【或云、自宮《ミヤユ》】 阿禮座師《アレマシシ》 神之盡《カミノコトゴト》 樛木乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》 天下《アメノシタ》 所知食之乎《シロシメシシヲ》 【或云、食來《メシクル》】 天爾滿《ソラニミツ》 倭乎置而《ヤマトヲオキテ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平山乎越《ナラヤマヲコエ》 【或云、虚見《ソラミツ》 倭乎置《ヤマトヲオキ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平山越而《ナラヤマコエテ》】 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 【或云、所念計米可《オモホシケメカ》】 天離《アマザカル》 夷者雖有《ヒナニハアレド》 石走《イハハシル》 淡海國乃《アフミノクニノ》 樂浪乃《ササナミノ》 大津宮爾《オホツノミヤニ》 天下《アメノシタ》 所知食兼《シロシメシケム》 天皇之《スメロギノ》 神之御言能《カミノミコトノ》 大宮者《オホミヤハ》 此間等雖聞《ココトキケドモ》 大殿者《オホトノハ》 此間等雖云《ココトイヘドモ》 春草之《ハルクサノ》 茂生有《シゲクオヒタル》 霞立《カスミタツ》 春日之霧流《ハルビノキレル》 【或云|霞立《カスミタツ》 春日香霧流《ハルヒカキレル》 夏草香《ナツクサカ》 繁成奴留《シゲクナリヌル》】 百磯城之《モモシキノ》 大宮處《オホミヤドコロ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》 【或云、見者左夫思母《ミレバサブシモ》】
 
(玉手次)畝傍ノ山ノ橿原ニ都ヲ定メナサレタ、神武天皇ト申ス〔ニ都〜傍線〕天子樣ノ御代カラシテ、御生レ遊バシタ代々ノ〔三字傍線〕神樣ガ悉ク、大和ノ國デ〔五字傍線〕(樛木乃)次ギ次ギニ、コノ天下ヲ御支配ナサレタノニ、(天爾滿)大和ノ國ヲ御ヤメナサレテ、(青丹吉)奈良山ヲ御越エニナリ、何ト思召シタカ、アンナ〔三字傍線〕(天離)田舍ダノニ、(石走)近江ノ國ノ樂浪ノ大津ノ宮ニ、天下ヲ御治メナサレタ天智〔二字傍線〕天皇樣ト申シ上ゲル神樣ノ尊《ミコト》ガ、御住ヒナサレタ〔七字傍線〕御宮ハ、此處ダト聞(46)イテ居ルケレドモ、御殿ハ此處ニアツタノ〔五字傍線〕ダト、人ガ〔二字傍線〕言フケレドモ、春ノ草ガ生ヒ茂ツテヰル、サウシテ又〔五字傍線〕、春ノ日ガ霞ニ遮ラレテ、ドンヨリト〔霞ニ〜傍線〕曇ツテヰル、昔ノ〔二字傍線〕(百磯城之)御所ノ跡ヲ見ルト悲シイワイ。
 
○玉手次《タマダスギ》――枕詞、(五)參照。ここは纏《ウナ》げの意で、畝傍につづく。うなげは頸懸《ウナカ》けであらう。○日知之御世從《ヒジリノミヨユ》――日知は天つ日嗣知ろしめす意で、天皇の御事をさし奉る。ここもその意である。後、聖人・僧侶のことにもなつた。○阿禮座師《アレマシシ》――阿禮《アレ》は生れ。○樛木乃《ツガノキノ》――枕詞、ツガ、ツギと同音を繰返して、繼嗣《ツギツキ》に連つてゐる。樛は栂《トガ》ともいふ木で松杉科栂屬の常緑喬木、樅に似た木である。○天爾滿《ソラニミツ》――枕詞。(一)參照。○天離《アマザカル》――枕詞。天のあなたに遠ざかりたる地の夷《ヒナ》の意。夷《ヒナ》は田舍。○石走《イハハシル》――近江の枕詞。イハハシルと、イハハシノとの訓がある。石走無《イハハシモナシ》(一一二六)・石走者裳《イハノハシハモ》(一二八三)などに從へば、イハハシノでよいやうだが、イハハシルとよむのが穩やかのやうである。石の上を水が走り溢《アフ》れの意で、近江につづくのだ。○樂浪乃《ササナミノ》――サザナミは近江の琵琶湖の西南岸一帶の地をいふ。樂浪は神樂聲浪の略で、神樂の囃にササと懸聲をしたのから出た戯書らしい。○大津宮爾《オホツノミヤニ》――大津の都即ち滋賀の都の舊跡は、今の大津よりも北によつて、唐崎に近い滋賀の里であつたらしい。○霞立《カスミタツ》――カスミタチとよむ説もあるが、カスミタツでよからう。枕詞ではない。○春日之霧流《ハルヒノキレル》――春の太陽が霞んでゐる意で、霧流《キレル》は遮れる。霧《キリ》は動詞キルの名詞形で、霞と同じものである。或云、春日香霧流《ハルヒカキレル》とある。香《カ》は、疑問の助詞。カキレルとつづくのではない。○百磯城之《モモシキノ》――大宮につづく枕詞。百の石城《イシキ》で、石を築き廻した、廣大な地域を意味するらしい。
〔評〕前半には天智天皇の遷都が、民意に添はなかつたことを述べてあるが、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》は婉曲な巧な言ひ方だ。大宮者此間等雖聞《オホミヤハココトキケドモ》以下の叙述は、離々たる春草のうちに、大きな礎石のみが點在してゐる間に立ち盡して、轉變の世を嘆いてゐる、若い詩人の姿が見えるやうである。僻案抄には、「此の長歌句々相ととのひ、首尾かけ(47)あひて、一首の中に盛衰荒廢まのあたりにあらはれて、感慨の情きはまりなし」と評してゐる。
 
反歌
 
30 さざ浪の 滋賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 船待ち兼ねつ
 
樂浪之《サザナミノ》 思賀乃辛崎《シガノカラサキ》 雖幸有《サキクアレド》 大宮人之《オホミヤビトノ》 船麻知兼津《フネマチカネツ》
 
樂浪ノ志賀ノ辛崎ハ 昔ノ通リニ變ラズニ居ルガ、オマヘハ、昔ノ〔六字傍線〕御所ニ仕ヘタ人タチノ船ノ着クノヲ待ツテ居テモ、待ツ甲斐ガナイゾ。サゾ淋シイデアラウ〔九字傍線〕。
 
○思賀乃辛崎《シガノカラサキ》――滋賀の唐崎。一つ松で今も名高い地。○雖幸有《サキクアレド》――さきくあるとは、變りなく恙なきをいふ。○船麻知兼津《フネマチカネツ》――待ち兼ぬるとは待つてゐても其の甲斐のないこと。待遠い意ではない。
〔評〕 心なき唐崎を、心があつて昔の大宮人が再び舟を寄せるのを、待つて居る如くよんだところに、人麿の詩人的な考が見える。カラサキ、サキクと同音を繰返して、調を整へてゐる。
 
31 さざなみの 滋賀の 一云、比良の 大わだ 淀むとも 昔の人に 復も逢はめやも 一云、逢はむと念へや
 
左散難彌乃《サザナミノ》 志我能《シガノ》【一云|比良乃《ヒラノ》】 大和太《オホワダ》 與杼六友《ヨドムトモ》 昔人二《ムカシノヒトニ》 亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》 (48)一云|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》
 
樂浪ノ志賀ノ湖〔傍線〕ノ入江ハ、昔ノ通リニ〔五字傍線〕淀ンデヰテモ、昔ハ大宮人ガ淀ミヘ舟ヲ着ケタガ、今ハ大宮人ガ居ナイカラ、オマヘ〔昔ハ〜傍線〕ハ昔ノ大宮〔二字傍線〕人ニ復、逢フコトガ出來ヨウカ、トテモ出來ナイ。待ツ甲斐ガナクテ悲シカラウ〔トテ〜傍線〕。
 
○志賀能大和太《シガノオホワダ》――和太は曲《ワダ》の意で、灣のこととする説と、ワタで、海の意とする説とある。廣い湖面を言つたものとしては、與杼六友《ヨドムトモ》がふさはしくないから、灣の義とするがよい一云比良乃とあるが、比良は都から距り過ぎてゐて、ふさはしくない。○一云、將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》――逢はむと念はむや、逢はれないの意。母戸八《モヘヤ》の念ふは輕く用ゐてある。
〔評〕 靜かに淀んだ入江の水は、昔の儘の姿を思はしめる。多感の詩人にはその入江の水も、心ありて靜かに湛へてゐるやうに思はれるのである。
 
高市古人《タケチノフルヒト》感傷(シテ)2近江舊堵(ヲ)1作(レル)歌 或書云、高市連黒人
 
古人は審かでない。舊堵の堵は都に通じて用ゐる。或書の註は必ずしも從ふべきでない。
 
32 古の 人に我あれや さざ浪の 古き都を 見れば悲しき
 
古《イニシヘノ》、人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》、樂浪乃《サザナミノ》、故京乎《フルキミヤコヲ》、見者悲寸《ミレバカナシキ》
 
私ハ、コノ大津ノ宮ノ榮エテヰタ時ノ〔コノ〜傍線〕昔ノ人デモアルカラカ、コノ〔二字傍線〕樂浪ノ大津ノ〔三字傍線〕舊都ヲ見ルト悲シイヨ。併シ、ヤハリ私ハ今ノ世ノ者デアルノニ、コンナニ悲シイノハ不思議ダ〔併シ〜傍線〕。
 
○古人爾和禮有哉《イニシヘノヒトニワレアレヤ》――フルヒトニワレアルラメヤと舊訓にあるが、イニシヘノヒトニワレアレヤとよむべきだ。イニシヘノヒトは、古の大津宮時代の人。有哉《アレヤ》は、あればやの意。哉《ヤ》は悲寸《カナシキ》の係である。
〔評〕 舊都を見て、あまりに感傷的に陷つたのは、我ながら不思議だ。或は自分は現代人ではないのかと、ふと驚き怪しんだところ、熱情の歌といふべきである。
 
33 さざ浪の 國つみ神の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも
 
(49)樂浪乃《サザナミノ》 國都美神乃《クニツミカミノ》 浦佐備而《ウラサビテ》 荒有京《アレタルミヤコ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
天智天皇ガ此ノ大津ニ都ヲナサレタガ〔天智〜傍線〕、樂浪ノ地ヲ支配遊バス〔七字傍線〕國ノ神樣ノ〔九字傍線〕御心ニカナハズ、神ノ御心ガ荒レ怒リナサレテ、此ノ樣ニヒドク〔七字傍線〕荒レタ大津ノ〔三字傍線〕都ヲ見ルト悲シイワイ。
 
○浦佐備而《ウラサビテ》――心すさびての意。國つ神の御心荒れたるをいふ。國つ神の社の廣前の淋しくなつたことに見る、新考の説はとらない。天智の御代に、日吉神社が産土神として祀られてゐた確證はない。
〔評〕 滿目荒涼たる廢墟を見れば、とても人間の業とのみ思はれない。これは國つ神の御心が荒んで、守護を垂れ給はなかつたのであらうと、悲しんだもので、悲調人を動かさねばやまない。傑出した作である。
 
幸(セル)2于紀伊國(ニ)1時、川島皇子御作歌 或云、山上臣憶良作
 
川島皇子は天智天皇の第二皇子。或云山上臣憶良作とあるのは、かかる傳のあることを記したものだ。卷九の一七一六に山上歌として、これと殆ど同じ歌を載せてある。
 
34 白浪の 濱松が枝の 手向草 幾代までにか 年の經ぬらむ 一云、年は經にけむ
 
白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》 手向草《タムケクサ》 幾代左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》 【一云、年者經爾計武《トシハヘニケム》、】
 
白浪ガ打チ寄セルコ〔七字傍線〕ノ濱ノ松ノ枝ニカカツテヰル昔ノ人ガ〔四字傍線〕手向トシタモノハ、今マデニ〔四字傍線〕幾年ノ年ガ經《タ》ツタデアラウカ。サゾ古イモノダラウ〔九字傍線〕。
 
○白浪乃《シラナミノ》――下に濱とつづき方がおかしいといふので、誤字説もあるが、この儘でよい。白那彌之濱松之木乃《シラナミノハママツノキノ》(一七一六)とある。○手向草《タムケクサ》――神に手向けたもの、草ではない。○幾代左右二賀《イクヨマデニカ》――左右はマデとよむ。左右の兩手をマデといふからである。源順はこの句がよめないで石山に參籠して漸くよんだと仙覺抄に書いてある。
〔評〕 この歌は卷九に、山上歌一首、白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫《シラナミノハママツノキノタムケクサイクヨマデニカトシハヘヌラム》(一七一六)とあるものと同歌(50)で、彼と此と作者を異にして傳へられたのだ。調が穩やかで、柔かい感じの作である。新古今の式子内親王、「逢ふ事を今日松が枝の手向草いく夜しをるる袖とかは知る」は、これを本歌としたものだ。ともかく平安朝人の好きさうな歌である。なほこの歌が新勅撰に初句「風吹けば」と改め、寂蓮の歌になつて出てゐるのは不思議である。
 
日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸(シタマフ)2紀伊國(ニ)1也
 
紀の今本に、持統天皇四年の幸がある。則ち朱鳥五年に當る。さうして此の年の干支が庚寅である。
 
越(ユル)2勢能山(ヲ)1時、阿閉皇女御作歌
 
勢能山は兄山、紀伊國伊都郡背山村にある。阿閉皇女は天智天皇の皇女、日並知皇子の妃、文武天皇の御母、後に元明天皇と申す。
 
35 これやこの 大和にしては 我が戀ふる 紀路に有りとふ 名に負ふ勢の山
 
此也是能《コレヤコノ》 倭爾四手者《ヤマトニシテハ》 我戀流《ワガコフル》 木路爾有云《キヂニアリトフ》 名爾負勢能山《ナニオフセノヤマ》
 
コレガアノ、大和ニ居テハ、私ガ戀ヒ慕ツテヰマス夫《セ》ノ君ノ、其ノセトイフ名ヲ持ツタ〔ノ君〜傍線〕、紀伊ノ國ニアリト豫ネテ聞イテ居タ勢能山デスヨ。アアナツカシイ〔七字傍線〕。
 
○此也是能《コレヤコノ》――コレガアノといふやうな意で、豫ねて聞いてゐたことを述べる時に使ふ言ひ方だ。○倭爾四手者《ヤマトニシテハ》――大和に於いてはの意。
〔評〕 これは旅に出て兄の山を越え給ひ、夫君日並皇子を思つて詠まれたものであらう。前の歌と同時の作とし、夫君薨去の後とするのは賛成出來ない。此也是能《コレヤコノ》と歌ひ出して、名詞で止める歌は時々あるが、かなり感嘆の意が籠るものである。
 
幸《セル》2于吉野宮(ニ)1之時、柿本朝臣人麿作(レル)歌
 
目録には作歌二首並短歌二首とある。
 
36 やすみしし 吾が大王の きこしをす 天の下に 國はしも さはに有れども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の國の 花散らふ 秋津の野邊に 宮柱 太しきませば 百敷の 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の 彌高からし 岩走る 瀧の都は 見れど飽かぬかも
 
(51)八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 所聞食《キコシヲス》 天下爾《アメノシタニ》 國者思毛《クニハシモ》 澤二雖有《サハニアレドモ》 山川之《ヤマカハノ》 清河内跡《キヨキカフチト》 御心乎《ミココロヲ》 吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》 花散相《ハナチラフ》 秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太敷座波《フトシキマセバ》 百磯城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 船並?《フネナメテ》 旦川渡《アサカハワタリ》 舟競《フナギホヒ》 夕河渡《ユフカハワタル》 此川乃《コノカハノ》 絶事奈久《タユルコトナク》 此山乃《コノヤマノ》 彌高良之《イヤタカカラシ》 珠水激《イハバシル》 瀧之宮子波《タギノミヤコハ》 見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》
 
(八隅知之)吾ガ天子樣ガ、御支配ナサル天下ノ中ニ、國ハ澤山アルケレドモ、山ト川トガ清ク回テツヰル所ダカラ、良イ所ダ〔四字傍線〕ト、(御心乎)吉野ノ國ノ、花ガ咲イテハ〔四字傍線〕散ル秋津野ノアタリニ、御所ノ柱ヲ太ク御立テニナツテ、離宮ヲ造營〔九字傍線〕遊バスト、(百磯城乃)大宮人タチハ、船ヲ並ベテ朝ニ川ヲ渡リ、舟ヲ競ウテ、我先ニト夕方川ヲ渡ツテ奉仕ス〔五字傍線〕ル。コノ川ノ水ノヤウニ絶エルコトガ無ク、此處ヘ行幸遊バシ〔八字傍線〕、コノ山ノ高イヤウニ、彌《イヤ》ガ上ニモ御所ハ〔三字傍線〕榮エ遊バセ。(珠水激)瀧ノ御所ハ、イクラ見テモ飽カナイワイ。
 
○八隅知之《ヤスミシシ》――枕詞。(三)參照。○山川之――山と川との。○清河内跡《キヨキカフチト》――河内は川の行き回れる所、宮瀧の邊は川の彎曲したところである。○御心乎《ミココロヲ》――吉野の枕詞。天皇の御心の吉いことをいふのであらう。書紀にある御心廣田國《ミココロヲヒロタノクニ》、御心長田國《ミココロヲナガタノクニ》などから考へると、吉・廣・長などの形容詞につづく枕詞である。○花散相《ハナチラフ》――花の咲きては散るの意。チラフはチルの延音。この語は枕詞ではない。○秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》――離宮附近の原野の名稱。今宮瀧の一部、離宮址の西方に開けた平坦地に秋戸、秋津野の名が殘つてゐる。○太敷座波《フトシキマセバ》――太敷は太く構へること。底津岩根に宮柱太敷くは古くからの慣用語である。太知《フトシリ》ともいふ。○且川渡《アサカハワタリ》――朝に川を渡るを朝川渡るといふ。朝川・夕川といふ熟字だ。○珠水激《イハバシル》――種々よみ方があつたが、今では考のイハバシルが一番行はれてゐる。但し元暦校本に、高思良珠とあるによつて、タカシラスとよみ、水激をミヅハシルとする(52)説もある。これに從ふべきか。珠は珠洲《スズ》など地名に用ゐられた外に、波太須珠寸《ハタススキ》(一六三九)の如くスの假名になる字である。○瀧之宮子波《タギノミヤコハ》――瀧はタギとよむ。動詞タギル・タギツは、これを語根として活用せしめたもの。宮子は都。
〔評〕 吉野の勝景、離宮の繁榮、それに奉仕する自分の心持などが順序よく歌はれてゐる。かういふ歌題は萬葉以前に無かつたので、支那文學の刺戟によつて人麿等が試み始めたものだ。當時の漢詩を集めた懷風藻に、大伴王の從駕吉野宮應詔二首や、高向朝臣諸足の從駕吉野宮一首などあるのを見ると、その關係は否むわけに行かない。
 
反歌
 
37 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく 復かへり見む
 
雖見飽奴《ミレドアカヌ》 吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》 常滑乃《トコナメノ》 絶事無久《タユルコトナク》 復還見牟《マタカヘリミム》
 
イクラ〔三字傍線〕見テモ飽キナイ景色ノ良イ〔五字傍線〕吉野川ガ、常ニ滑ラカデ變ルコトノナイヤウニ、私ドモハコノ瀧ノ都ヲ〔十字傍線〕絶エルコトナク幾度モ〔三字傍線〕來テ見マセウ。
 
○常滑乃《トコナメノ》――川邊の巖石の常に滑らかなることを指すか。隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《コモロリクノトヨツセヂハトコトメノカシコキミチゾ》(二五一一)とあるも、河の石の常に滑り易いのを言つたらしい。
〔評〕 眼前の風物を譬喩にとつて、絶事無久《タユルコトナク》と祝福してゐるところが巧である。
 
38 やすみしし 吾が大君 神ながら 神さびせすと 芳野川 瀧つ河内に 高殿を 高知りまして 上り立ち 國見をすれば たたなはる 青垣山 山つ神《み》の 奉《まつ》る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 紅葉かざせり 一云、紅葉かざし ゆふ川の 神も 大御食に 仕へまつると 上つ瀬に 鵜川を立て 下つ瀬に 小網さし渡し 山川も 依りてまつれる 神の御代かも
 
安見知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 芳野川《ヨシヌガハ》 多藝津河内爾《タギツカフチニ》 高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 上立《ノボリタチ》 國見乎爲波《クニミヲスレバ》 疊有《タタナハル》 青垣山《アヲガキヤマ》 山神乃《ヤマツミノ》 奉御調等《マツルミツキト》 春部者《ハルベハ》 花挿頭持《ハナカザシモチ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》 一云|黄葉加射之《モミチカザシ》 遊副川之《ユフカハノ》 神(53)母《カミモ》 大御食爾《オホミケニ》 仕奉等《ツカヘマツルト》 上瀬爾《カミツセニ》 鵜川乎立《ウカハヲタテ》 下瀬爾《シモツセニ》 小網刺渡《サデサシワタシ》 山川母《ヤマカハモ》 依?奉流《ヨリテマツレル》 神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
(安見知之)我ガ天子樣ガ神樣デ御イデナサルカラ、神樣ラシクナサルトテ、吉野川ノ泡立ツテ流レル、河ノ曲ツテ圍ンダヤウニナツテヰル所ニ、高イ御殿ヲ高ク御作リナサレテ、御住ヒナサレ〔六字傍線〕、ソレニ上ツテ、下ノ〔二字傍線〕國ヲ御覽ナサルト、(疊有)垣ノヤウニ聳エテヰル青山ノ山ノ神樣ガ、天子樣ニ〔四字傍線〕差シ上ゲル貢物トシテ、春ニハ花ヲ頭ニ挿シテ持チ、秋ガ來ルト〔五字傍線〕、紅葉ヲ頭ニ挿シテイラツシヤル。又〔傍線〕遊副川ノ川ノ神樣モ、天子樣ノ召シ上リ物ニ差シ上ゲルトテ、上ノ方ノ瀬デハ鵜ヲ仕ツテ魚ヲ取ラセ、下ノ方ノ瀬デハ※[糸+麗]《サデ》トイフ網ヲ川ニ入レテ魚ヲ取ラセル。カヤウニ人バカリデナク〔テ魚〜傍線〕、山ノ神〔二字傍線〕モ、川ノ神〔二字傍線〕モ靡キ寄ツテ來テ、御仕ヘ申ス畏イ〔二字傍線〕神樣デイラツシヤル天子樣〔十字傍線〕ノ御代デスワイ。誠ニ畏レ多イ御代ダ〔九字傍線〕。
 
○神長柄《カムナガラ》――隨神又は惟神と記す。神でいらせられるまま、神代のままなどの意であるが、時には神のままの御方、即ち天皇のことに用ゐてある。次の歌は即ちそれだ。○神佐備世須等《カムサビセスト》――神らしくなさるとての意、セスはスの敬語。○高知座而《タカシリマシテ》――高知は高く構へること。○疊有《タタナハル》――有を著の誤としてタタナツクの訓もあるが、文字のままによめばタタナハルであらう。タタナハルはたたまり重なる意。但し古く青垣山につづいたのは皆タタナツクである。書紀の日本武尊の御歌に、多多儺豆久阿鴉伽枳夜摩許莽例屡夜摩苫之于漏波試《タタナツクアヲカキヤマコモレルヤマトシウルハシ》、本集に立名附青墻隱《タタナツクアヲガキコモリ》(九二三)・田立名付青垣山之《タタナツクアヲカキヤマノ》(三一八七)とある。○春部者《ハルベハ》――部《ベ》は添へていふ言葉。多く方の字を當てる。ここは春の頃といふほどの意。○花挿頭持《ハナカザシモチ》――花が山に咲くのを、山神が天皇への貢物として、頭に挿し持つやうにいつたもの。次の黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》も同じ。○遊副川之《ユフカハノ》――宮瀧の末にユカハといふ川があるとか、卷八に結八川内《ユフヤカフチ》と詠んだ川だとか、或は吉野川の別名だとか、諸説別れて決し難い。しばらく吉野川の別名として置く。元暦校本に遊を逝に作つてゐるに從つて、ユキソフ川とよむ説もあるが、意味が分らない。もしそれを採るな(54)らば、寧ろ逝を迩の誤として、ニフ川としたい。即ち丹生川である。始水逝(四二一七)の逝を迩として、ミヅハナニとよむことは多くの學者が認める所であるから、此の場合もさうして差支あるまい。予は一説として此の私見を公にするものである。丹生川は吉野川の上流。○鵜川乎立《ウカハヲタテ》――鵜川は鵜飼を川に入れて魚をとること。立はその者を川に立たしめる意。○小網刺渡《サデサシワタシ》――小網はサデとよむ。和名抄に「文選注云※[糸+麗]【所買反師説佐天】網如2箕形1狹v後廣v前者也」とある通りだ。此の網をかけることをさすといふ。渡すは所々に小網をかけるのを言つたのだらう。○山川母《ヤマカハモ》――山の神も川の神もの意。○依?奉流《ヨリテマツレル》――心を寄せて從ひ奉仕する意。奉の字舊訓はツカフルであるが、集中にツカフルとよんだ例はない。攷證に從つてマツレルとよむべきである。
〔評〕 前の長歌と大體同じやうであるが、前者は主として離宮その物を讃へたので、これは山神河伯も寄り來つて奉仕する天皇の大御稜威を述べたものである。兩方とも佳作であるが、奇拔なだけに此の方が少し面白いやうに思はれる。
 
反歌
 
39 山川も 依りてまつれる 神ながら 瀧つ河内に 船出せすかも
 
山川毛《ヤマカハモ》 因而奉流《ヨリテマツレル》 神長柄《カムナガラ》 多藝津河内爾《タギツカフチニ》 船出爲加母《フナデセスカモ》
 
臣民ノミナラズ〔七字傍線〕、山モ川モ寄リ集マツテ御仕ヘ申ス、神ソノ儘ノ天子樣ガ、今〔傍線〕、水ガ泡立ツテ流レテヰル、川ノ曲ツテヰル所ニ船出ヲナサルワイ。
 
○神長柄《カムナガラ》――神隨の御方、即ち天皇をさし奉る。
〔評〕 長歌の終の詞を繰り返し、天皇の舟遊し給ふ樣を讃へ奉つたもので、格調雄偉、崇嚴な場面を現はし得てゐる。
 
右日本紀曰、三年己丑正月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、八月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、四年庚寅二月(55)幸(ス)2吉野宮(ニ)1、五月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、五年辛卯正月幸2吉野宮(ニ)1、四月幸(スト)2吉野宮(ニ)1者《イヘル》未v詳2知何月從駕(ノ)作歌(ナルヲ)1
 
持統天皇の吉野行幸の回數の多かつたことを、書紀によつて調べたものであるが、持統天皇の吉野行幸はこの外にまだ幾回もある。檜嬬手にこの歌に鵜川とあれば四年秋八月乙巳朔戊申とある度なるべしといひ、考に花散相とあるを以て春としてゐるが、いづれとも決定し難い。
 
幸(セル)2于伊勢國1時留(レル)v京(ニ)柿本朝臣人麿作(レル)歌
 
左註にある通り、朱鳥六年三月の行幸であらう。
 
40 英虞の浦に 船乘すらむ 少女らが 玉裳の裾に 潮滿つらむか
 
嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》 舶乘爲良武《フナノリスラム》 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠裳乃須十二《タマモノスソニ》 四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
志摩ノ國ノ〔五字傍線〕英虞ノ浦デ、都カラ行ツタ宮女ラガ〔都カ〜傍線〕、船ニ乘ルダラウガ、ソノ〔三字傍線〕女ラノ、立派ナ裳ノ裾ニ、潮ガ滿チテ來ルデアラウカ。潮ニ濡レハスマイカ〔九字傍線〕。
 
○嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》――舊本、兒を見に誤つて、アミノウラとよんでゐるが、その地名伊勢附近になく、アゴノウラたることは論がない。英虞《アゴ》浦は志摩にある。左註に引いた、書紀の文に「御2阿胡行宮1時云々」とあるのはここである。大日本地名辭書に、これを鳥羽浦としたのは誤であらう。三國地誌に「阿胡山は甲賀村に在り」とあり、甲賀は國府近い所であるから、國府附近の海であらう。二四の地圖參照。○※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》――※[女+感]嬬はヲトメとよむ。集中所々に見える熟字で、いづれもヲトメとよむが、※[女+感]の字、物に見えない。誤字説もあるが從ひがたい。ヲトメは宮女をさす。
(56)〔評〕 この歌卷十五に、誦詠古歌として、安胡乃宇良爾府奈能里須浪牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武賀《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ》(三六一〇)とあると同歌であるが、その左注に、柿本朝臣人麿歌曰、安美能宇良《アミノウラ》、又曰|多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》とあるによつて、嗚呼見乃浦《アミノウラ》を肯定し、又その本歌によつて珠を赤に改めようとする説もある、けれども恐らくこの左注は後のもので、憑るべきではあるまい。
 
41 釧著く 答志の崎に 今もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
 
釼著《クシロツク》 手節乃崎二《タフシノサキニ》 今毛可母《イマモカモ》 大宮人之《オホミヤヒトノ》 (57)玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
(※[金+刃]著)答志ノ崎デ丁度〔二字傍線〕今頃、コチラカラ行ツタ〔十字傍線〕大宮人ガ、藻ヲ苅ツテ居ルデアラウカ。今頃ハ大宮人ハ面白ク遊ンデヰルダラ〔今頃〜傍線〕ウ。
 
○釼著《クシロツク》――手節の枕詞。釼は釧に同じ。釧は手に纏ふ環であるから、手節につゞくのであル。ここに歴世服飾圖説によつて、釧の數種を示して置いた。○手節乃崎二《タフシノサキニ》――志摩の鳥羽港の海上に答志島がある。その岬をいふ。○今毛可母《イマモカモ》――類聚古集に今日毛可母《ケフモカモ》とある。○玉藻苅良武《タマモカルラム》――面白く遊んでゐることを想像したもの、玉藻を苅る苅らぬは問題でない。
〔評〕 釼著くは巧みな枕詞だ。枕詞には古くから出來てゐて、慣用せられ使ひ古したものと、作者がその時に臨ん、特に作り出したものとの二種がある。これなどは後者に屬するもので、謂はゆる當意即妙、誠によく出來てゐる。恐らく當時の人の喝釆を博したところだらうと思はれる。
 
42 潮さゐに 伊良胡の島べ 漕ぐ船に 妹乘るらむか 荒き島みを
 
潮左爲二《シホサヰニ》 五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》 ※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》 妹乘良六鹿《イモノルラムカ》 荒島回乎《アラキシマミヲ》
 
潮ガザワ/\ト騷ギ流レル、伊良虞ノ島ノアタリヲ漕グ船ニ、女タチガ乘ルダラウカ。アノ荒イ島ノマワリダノニ。サゾ大騷ギデアラウ〔九字傍線〕。
 
○潮左爲二《シホサヰニ》――潮の騷ぎ鳴るをシホサヰといふ。○妹乘良六鹿《イモノルラムカ》――妹は從駕の宮女をさしたもので、人麿の愛人を言つたのではあるまい。○※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》――※[手偏+旁]の字、榜となつてゐる本もあり、相通じて用ゐたものである。舟を進める具。○荒島回乎《アラキシマミヲ》――島回はシマミとよむ。從來多くシマワ、シママとよんだが、之麻未《シマミ》・浦箕《ウラミ》。道乃久麻尾《ミチノクマミ》などの例から推して、ウラミとよむべきは否定出來ないやうである。乎《ヲ》は、なるものをの意であらう。
〔評〕 以上の三首は、遠い旅に出た供奉の人々を想像して、始に宮女、次に大宮人、その次に又宮女をよんでゐ(58)る。いづれも同じ氣分の歌で、留守居の人が一行を思ひやる情が、悠揚たる調子でよくよまれてゐる。
 
當麻眞人麿《タギマノマヒトマロ》妻作歌
 
當麻眞人麿はどういふ人か分らない。當麻氏は用明天皇の皇子麿子王の後。天武十三年眞人の姓を賜はる。
 
43 吾が背子は いづく行くらむ おきつもの 名張の山を 今日か越ゆらむ
 
吾勢枯波《ワガセコハ》 何所行良武《イヅクユクラム》 巳津物《オキツモノ》 隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》 今日香越等六《ケフカコユラム》
 
私ノ夫ハ旅ヘ御出ニナツタガ〔九字傍線〕、ドンナ所ヲ行カレルデアラウカ、伊賀ノ國ノ〔五字傍線〕(巳津物)名張ノ山ヲ今日アタリ御越エナサルノデアラウカ。
 
○巳津物《オキツモノ》――奧津藻の、即ち海底の藻で、隱れてゐるものだから隱《ナバリ》の枕詞に用ゐる。巳は超と同じ字で、オキとよむ。○隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》――舊訓カクレノヤマとあるはよくない。隱れることを、古くナバルと言つたのである。ナバリは今の伊賀の名張町で、大和から伊勢への通路にあたる。
〔評〕 まづ吾が背子はいづく行くらむと、何氣なく歌ひ出し、今日は名張の山あたりかと推量した言ひ方が、何となく、しつとりと、哀な感情が出てゐる。この歌卷四(五一一)に重出。
 
石上《イソノカミノ》大臣從駕作歌
 
石上大臣は麿。慶雲元年右大臣となつたので、この時未だ大臣でない。後からかう書いたのだ。和銅元年三月左大臣となり、養老元年三月薨じた。續紀に「大連物部目之後、難波朝、衛部大華上(59)宇麻呂之子也」とある。
 
44 吾妹子を 去來見《いざみ》の山を 高みかも 大和の見えぬ 國遠みかも
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》 去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》 高三香裳《タカミカモ》 日本能不所見《ヤマトノミエヌ》 國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
(吾妹子乎)去來見ノ山ガ高イカラカ、ソレトモ〔四字傍線〕國ガ遠イカラカシテ、大和ノ國ハ見エナイヨ。アア戀シイ故郷ヨ〔八字傍線〕。
 
〇吾妹子乎《ワキモコヲ》――去來見とつゞく枕詞。我が妻をいざ見むといふのである。○去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》――去來見の山は、イは發語で、伊勢の二見に近い佐見山だらうといふ説があるが、大日本地名辭書、伊勢飯南郡の部に「波瀬村の西嶺高見の別名なりといふ。この山は古來和州勢州の交通路にあたれば、萬葉集に詠ぜらるるも其以あり」と記せるに從ふべきである。前頁地圖參照。○高三香裳《タカミカモ》――高いからかといふので、香裳は不所見《ミエヌ》にかゝる疑の係辭。○日本能不所見《ヤマトノミエヌ》――日本は畿内の大和。この字を時々用ゐてある。○國遠見可聞《クニトホミカモ》――この可聞《カモ》も前の香裳《カモ》と同じであるが、結びがないだけに、モの詠嘆がよく響くやうに思はれる。
〔評〕 去來見山といふ地名に絡んで、故郷の戀しさを歌つたもの。吾妹子乎《ワキモコヲ》の枕詞も歌の内容に關係があり、カモの繰返しもあはれ深い。
 
右日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王等(ヲ)1爲《ス》2留守官(ト)1、於v是中納言三輪朝臣高市麿脱(シ)2其冠位(ヲ)1※[敬/手]《サヽゲ》2上於朝(ニ)1重諫(シテ)曰、農作之前、車駕未(ズ)v可(ラ)2以(テ)動(カス)、辛未、天皇不v從(ハ)v諫(ニ)、遂(ニ)幸(シタマフ)2伊勢(ニ)1五月乙丑朔庚午、御《オハス》2阿胡行宮(ニ)1
 
舊本に淨廣津とあるは誤、元暦校本によつて改む。淨廣肆は冠位の階級で、當時の制十四階中の第八階に當つてゐる。農作之前は紀に農作之節とある。五月乙丑以下の文は誤で、紀には三月乙酉、京に還り給ひ、五月に至りて阿胡行宮におはした時、贄を進れる者に賞を給へる由記せるを、讀み誤つたのだ。
 
(60)輕皇子《カルノミコ》宿(ル)2于安騎野(ニ)1時、柿本朝臣人麿作歌
 
輕皇子は天武天皇の皇太子草壁皇子の御子、文武天皇の御幼名である。御母は阿閇皇女、後に元明と申す。安騎野は宇陀郡に阿紀神社あり、書紀に吾城《アキ》と記してある。今の松山町附近の平地である。
 
45 八隅しし 吾が大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太しかす 都を置きて こもりくの 初瀬の山は 眞木立つ 荒山道を 岩が根の しもと押し並べ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕さり來れば み雪降る 阿騎の大野に 旗薄 篠を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古へ思ひて
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山者《ハツセノヤマハ》 眞木立《マキタツ》 荒山道乎《アラヤマミチヲ》 石根《イハガネノ》 禁樹押靡《シモトオシナベ》 坂鳥乃《サカトリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》 玉限《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》 三雪落《ミユキフル》 阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》 旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》 草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤトリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》
 
(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス皇子ノ輕皇子〔三字傍線〕、(高照)天津日嗣ノ御子樣ハ、神樣デイラセラレルカラ、神々シクナサルトテ、廣ク御構ヘナサレタ飛鳥ノ淨御原ノ〔七字傍線〕都ヲ御出遊バシテ、(隱口乃)泊瀬ノ山ハ、檜ノ生エテヰル人モアマリ通ハナイ〔九字傍線〕奧山道ヲ、岩根ニ生エタ若イ木ノ茂ツタノヲ押シ靡カセテ、(坂鳥乃)朝、山ヲ御越エナサレテ(玉限)夕方ニナルト、雪ガ降ル寒イ〔二字傍線〕安騎野トイフ廣イ野ニ、以前此ノ野ヘ獵ニ御出カケナサレタ故父上草壁皇子樣〔此ノ〜傍線〕ヲ思ヒナサレテ、旗薄ヤ篠ヲ押シ靡カセ(草枕)旅寢ヲナサル。
 
○高照《タカテラス》――タカヒカルとよむのが普通であるが、照の字は天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》(一六七)・照左豆我《テルサヅガ》(一三二六)・忍照《オシテル》(三三〇)などの如く、テルとよむべきで、これをヒカルとよまねばならぬ理由はない。タカテラスは日の枕詞。○隱口乃《コモリクノ》――泊瀬の枕詞。泊瀬の地形、大和平野から峽谷をなして隱《コモ》れる國《クニ》であるから、コモリクニを省いて、コモリクといふのだと言はれてゐる。ハツセは略してハセともいふ。長谷と書くのは地形から出たのだ。又、木盛處《コモリク》として樹木の繁つた處、隱り口の齒《ハ》の意で泊瀬に續くとするもの、隱城《コモリキ》(墓)の終《ハツ》とする説などがある。元來泊瀬は(61)葬所の義だらうとも言はれてゐるから、それによると隱城《コモリキ》説は面白い。○眞木立《マキタツ》――眞木は木を褒めていふので建築材料としてすぐれた檜を指すのである。立つは生えてゐること。○荒山道乎《アラヤマミチヲ》――荒は人里離れた荒凉たる所をいふので、荒野・荒山・荒磯皆同じ。○禁樹《シモト》――禁は楚の誤と言つた考に從つてシモトと訓む。シモトは木の細い枝をいふ。○坂鳥乃《サカトリノ》――朝越の枕詞、山から出た鳥が、朝、坂を飛び越えるよりいふ。○玉限《タマカギル》――枕詞。夕べとつゞく。舊訓タマキハルであつたが、管見にカケロフノとし、考は玉蜻の誤としてカギロヒノと訓み、それが廣く行はれて來た。併し卷十一に朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》(二三九四)とあるを、卷十二に朝影爾吾身者成奴玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》(三〇八五)と重出してゐるのを見ると、玉垣入と玉蜻とは同訓であるべきで、從來玉蜻をカギロヒノとよんだのが、誤つてゐたことが分る。なほ又靈異記上に「多摩可妓留波呂可邇美縁而《タマカギルハロカニミエテ》」とあるので、タマカギルといふ詞があつたことも知られる。であるから玉蜻蜒髣髴所見而《タマカギルホノカニミエテ》(一五二六)玉蜻直一目耳視之人故爾《タマカギルタダヒトメノミミシヒトユヱニ》(二三一一)・珠蜻髣髴谷裳《タマカギルホノカニダニモ》(二一〇)の類、すべてタマカギルと訓むべきである。カギロヒノとよむべき場合は、蜻火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラヌニ》(二一〇)・蜻火之燎留春部常《カギロヒノモユルハルベト》(一八三五)蜻蜒火之心所燎管《カギロヒノココロモエツツ》(一八〇四)の如く、火の字が添へてあることを注意すべきである。蜻はカゲロフであるから、これをカギルに通用したのである。玉蜻とある玉を措いてカグロフノ・カギロヒノと訓むべき理由がない。扨タマカギルは玉耀るの意で、玉の美しく輝く意を以て、夕べの枕詞となつたのであらう。カギロヒは陽炎、春の野に燃えるもので、全く別である。なほこの詞については、伴信友の玉蜻考(比古婆衣卷四)・鹿持雅澄の玉蜻考(枕詞解附録)・木村正辭の玉蜻考及び補正(美夫君志別記附録)などに委しく論じてゐる。○三雪落《ミユキフル》――三は美稱。雪の降る頃であつたらしい。○旗須爲寸《ハタススキ》――穗に出た薄をいふ。○四能乎押靡《シノヲオシナベ》――四能は篠小竹。多くシヌといつてゐるが、これは四能とあるからシノだ。なほ、この四能を旗薄のしなひとする考の説、旗薄の幹とする古事記傳の説、旗須爲寸を四能の枕詞とする註疏の説がある。○古昔念而《イニシヘオモヒテ》――古昔とは昔の草壁皇子の、この野に御狩したまへるを指したもの。
〔評〕 この長歌は、輕皇子を主人公として、その行動を歌つたものだ。如何にも淋しく寒さうである。
 
短歌
 
(62)反歌とあるのが常の書き方である。守部はこの長歌は、謠はなかつたのだから反歌でない。反歌と短歌とは別であるといってゐるが、從ふべきでない。
 
46 阿騎の野に 宿る旅人 打ち靡き いも寢らめやも 古へ思ふに
 
阿騎乃野爾《アキノヌニ》 宿旅人《ヤドルタビビト》 打靡《ウチナビキ》 寢毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》 古部念爾《イニシヘオモフニ》
 
コノ荒凉タル〔五字傍線〕阿騎ノ野ニ宿ツタ皇子以下〔四字傍線〕ノ人々ハ、以前コノ野ニ遊獵ナサレタ草壁皇子ノコト〔コノ〜傍線〕ヲ思へバ、手足ヲ伸シテ〔四字傍線〕寝ルコトガ出來ヨウカ、トテモ寢ラレハスマイ〔十字傍線〕。
 
○阿騎乃野爾《アキノヌニ》――舊本に、乃の下、野が無いのは脱ちたのである。神田本によって補ふ。○宿旅人《ヤドルタビビト》――皇子以下供奉の人をさす。○打靡《ウチナビキ》――手足を延ばし安々と横たはること。美夫君志に輾轉反側の意とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 この短歌は、一行の人たちの、すべての心情を忖度して歌つてゐる。四の句が力強く斷定的で面白い。
 
47 眞草刈る 荒野にはあれど もみぢ葉の 過ぎにし君が 形見とぞ來し
 
眞草苅《マクサカル》 荒野者雖有《アラヌニハアレド》 葉《モミヂバノ》 過去君之《スギニシキミガ》 形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
コノ阿騎ノ野ハ〔七字傍線〕薄茅ナドヲ苅ル所デ〔二字傍線〕、荒凉タル野デハアルガ、ソレヲモ厭ハナイデ〔九字傍線〕(黄葉)ハカナク〔四字傍線〕亡クナラレタ、草壁ノ皇子ノ形見トシテ尋ネテ來タ。此處ヘ草壁皇子ガヨク獵ニ御出デナサレタカラ〔此處〜傍線〕。
 
○眞草苅《マクサガル》――古くはミクサカルとよんだが、マクサの方がよい。ただ草をいふ。何の草とさしたのでない。○荒野者雖有《アラヌニハアレド》――略解に野の下、二の字を補つてゐるが、さういふ本が見當らない。○葉《モミヂバノ》――上に黄の字が脱ちたのだ。過去《スギニシ》の枕詞。黄葉は直ちに散るものだからである。
 
〔評〕 この歌、卷九に塩氣立荒磯丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレドユクミヅノスギニシイモガカタミトゾコシ》(一七九七)とあるに似てゐる。さうして人麿歌集に出づとあるから同人作であらう。これも一行の人の心地を述べたので、長歌に言ひ足りなかつたことが、述べられてゐる。
 
48 東の 野にかぎろひの 立つ見えて 顧みすれば 月傾きぬ
 
(63)東《ヒムガシノ》 野炎《ヌニカギロヒノ》 立所見而《タツミエテ》 反見爲者《カヘリミスレバ》 月西渡《ツキカタブキヌ》
 
阿騎ノ野ニ宿ツテ目覺メテ見ルト、マダ夜明ケデハアルマイト思ツテヰタノニ〔阿騎〜傍線〕、東ノ方ニハシラジラト〔五字傍線〕曙ノ光ガ見エテ、振返ツテ見ルト、月ハ西ノ方ニ傾イテ山ニ入ラウトシテ〔八字傍線〕ヰル。
 
○野炎《ヌニカギロヒノ》――炎はカギロヒとよむ。炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレバ》(一〇四七)とあるも同じである。總べて光のチラチラするものをカギロヒ・カゲロフといふので、ここは曉天の曙光をいつてゐる。野にもえる陽炎も同語である。○月西渡《ツキカタブキヌ》――西渡をカタブキヌとよませたのは義訓である。
〔評〕 懷舊の情と寒冷の夜氣とに、殆ど夢をも結ばなかつたやうに思つたが、それでも曉方にまどろんだものと見える。ふと氣付けば、茫々たる曠野の果てに、東に當つて曙光の天に沖するのを認めた。ああ早くも夜は明けむとするかと首を廻らせば、月は西天に傾いて、薄れ始めた淡い光を投げてゐるといふ場面で、主觀の強く出てゐる叙景詩として、實に巧みなものだ。日と月とを並び歌つたのは、阿騎の野の大を思はしめるもので、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句は、季節と朝夕との相異はあるが、この歌とまづ同じ樣な場面である。而もその持つ感じは著しく異なつて、これは雄大な嚴肅な氣が漲つてゐ、彼は濃艶な長閑な作である。この歌は人麿の傑作であり、同時に萬葉短歌の代表作である。
 
49 日並知の 皇子の命の 馬並めて 御獵立たしし 時は來向ふ
 
日雙斯《ヒナメシノ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》 馬副而《ウマナメテ》 御獵立師斯《ミカリタタシシ》 時者來向《トキハキムカフ》
 
日並皇太子、即チ草壁皇子〔六字傍線〕ガ、コノ阿騎ノ野ヘ〔七字傍線〕馬ヲ並ベテ、御獵ニ御出カケナサレタ冬ノ〔二字傍線〕時節ニナツテ來タ。然ルニ日並皇太子ハ既ニ薨去ナサレテ、又御獵ニ御出ニナルコトモナイ。誠ニ悲シイコトダ〔然ル〜傍線〕。
 
○日雙斯《ヒナメシ》――日即ち天皇と並び給ひて、世を知ろしめす意で、日雙斯皇子は草壁皇子の謚號である。續日本紀に日並知皇子と記してある。
〔評〕 前の歌では古思ふにとか、過ぎにし君とか言つてゐたが、ここでは日並知皇子と明らかに申して、懷舊の情が痛烈に述べられてゐる。以上の長歌と短歌四首とが、纏つた連作になつてゐるのに、注意すべきである。
 
(64)藤原宮之役民作(レル)歌
 
持統天皇四年から藤原宮造營のことあり、八年十二月清御原宮より遷都。この宮は今の高市郡鴨公村大字高殿あたりを中心として、支那の長安京に傚つた廣大な規模であつたらしい。役民はエニタテルタミとよみ、宮殿の造營に人夫として徴せられた民をいふ。
 
50 やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤原が上に 食す國を めし給はむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに 天地も 依りてあれこそ 磐走る 淡海の國の 衣手の 田上山の 眞木さく 檜の嬬手を もののふの 八十氏川に 玉藻なす 浮べ流せれ そを取ると さわぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて 吾が作る 日の御門に 知らぬ國 依り巨勢路より 我が國は 常世にならむ 圖《ふみ》負へる 神龜も 新代と いづみの河に 持ち越せる 眞木の嬬手を 百足らず 筏に作り のぼすらむ いそはく見れば 神ながらならし
 
八隅知之《ヤシミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 荒妙乃《アラタヘノ》 藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》 食國乎《ヲスクニヲ》 賣之賜牟登《メシタマハムト》 都宮者《ミアラカハ》 高所知武等《タカシラサムト》 神長柄《カムナガラ》 所念奈戸二《オモホスナベニ》 天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》 磐走《イハハシル》 淡海乃國之《アフミノクニノ》 衣手能《コロモデノ》 田上山之《タナガミヤマノ》 眞木佐苦《マキサク》 檜乃爾手乎《ヒノツマデヲ》 物乃布能《モノノフノ》 八十氏河爾《ヤソウヂカハニ》 玉藻成《タマモナス》 浮倍流禮《ウカベナガセレ》 其乎取登《ソヲトルト》 散和久御民毛《サワグミタミモ》 家忘《イヘワスレ》 身毛多奈不知《ミモタナシラズ》 鴨自物《カモジモノ》 水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》 吾作《ワガツクル》 日之御門爾《ヒノミカドニ》 不知國《シラヌクニ》 依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》 我國者《ワガクニハ》 常世爾成牟《トコヨニナラム》 圖負留《フミオヘル》 神龜毛《アヤシキカメモ》 新代登《アラタヨト》 泉乃河爾《イヅミノカハニ》 持越流《モチコセル》 眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》 百不足《モモタラズ》 五十日太爾作《イカダニツクリ》 泝須良牟《ノボスラム》 伊蘇波久見者《イソハクミレバ》 神隨爾有之《カムナガラナラシ》
 
(八隅知之)私ノオ仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣、(高照)天子樣ガ、(荒妙乃)藤原ノ邊ニ、御治メナサレテヰル國ヲ御支配ナサラウトテ、御住ヒノ場所ヲ立派ニ御作リナサラウトテ、神樣ノママノ御方ノ天皇〔二字傍線〕ガ、カウシタガヨイト〔八字傍線〕思シ召ス通リニ、天ツ神モ國ツ神モ、御心ヲヨセテ御仕ヘナサルノデ、(磐走)近江ノ國ノ、(衣手能)田上山ノ、(眞木佐苦)檜ノ材木ヲ、(物乃布能八十)宇治川ニハ、(玉藻成)浮ベテ流スト、ソノ材木〔二字傍線〕ヲ取ラウトテ、騷イデ働(65)ク臣民モ、自分ノ家ヲ忘レ、自分ノ〔三字傍線〕身ナドハ、丸デ考ヘズニ、(鴨自物)水ノ中ニ入ツテ働イテ〔三字傍線〕、(吾作、日之御御門爾、不知國依巨勢道從、我國者常世爾成牟、圖負留神龜毛、新代登)泉川マデ、宇治川ヲ〔四字傍線〕持チ搬ンデ來タ檜ノ材木ヲ、(百不足)筏ニ作ツテ、上《ノボ》スデアラウ。カヤウニ臣民ドモガ此ノ宮造リニ〔カヤ〜傍線〕勤メルノヲ見ルト、コレハ天子樣ガ〔七字傍線〕神樣ノママノ御方デアルカラデアラウ。
 
○八隅知之吾大王高照日之皇子《ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ》――既出。三・四五等參照。ここはすべて持統天皇を指し奉つてゐる。○荒妙乃《アラタヘノ》――藤の枕詞。昔は藤蔓を裂いて荒布《アラタヘ》を織つた。○藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》――宇倍は邊といふやうな意。考に高い所と見たのは惡い。○食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》――ヲスもメスも支配する意。きこしを〔二字傍点〕す、きこしめす〔二字傍点〕のヲス・メスも同じ。○都宮者《ミアラカハ》――都宮はミアラカとよむ。ミは敬語アラカは在處《アリカ》の意であらう。者《ハ》はヲバの意。○所念奈戸二《オモホスナベニ》――思召すままにの意。奈戸《ナヘ》はト共ニといふやうな意。○天地毛《アメツチモ》――天地の神もの意。○縁而有許曾《ヨリテアレコソ》――前に山川母依?奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》とあつたのと同じく、天地の神が寄り來て、奉仕すること。有許曾《アレコソ》はアレバコソに同じ。○衣手能《コロモデノ》――枕詞。衣手乎《コロモデヲ》、又は單に衣手《コロモヂ》とある場合もあり、種々議論のある枕詞だが、田上山とつづいたのは、衣手の手《タ》といふのであらう。手長《タナガ》だと古義には解いてゐる。○眞木佐苦《マキサク》――檜の枕詞。眞木は檜杉などを賞めていふ語。佐苦は拆くで、割る意である。眞木幸で、古義には眞木の功用をなし、さきはふ檜といふのだと言つてゐる。○檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》――嬬手は稜角ある材木。○物乃布能《モノノフノ》――次の八十《ヤソ》まで續いて、宇治川の序詞となる。物部に多くの氏があるからである。物部は朝廷奉仕の官人で、主として武事を司るものをいふ。○玉藻成《タマモナス》――玉藻の如くの意。浮ぶの枕詞。○浮倍流禮《ウカベナガセレ》――上の縁而有許曾《ヨリテアレコソ》を受けた結にはなつてゐるが、語氣は下に續いてゐる。○散和久御民毛《サワグミタミモ》――臣民は天皇のものであるから、自ら敬語を添へて御民といふ。○身毛多奈不知《ミモタナシラズ》――多奈は直《タダ》の意であらう。我が身を顧みざるをいふ。○鴨自物《カモジモノ》――鴨の如き物の意。鴨の如くと解してもよい。これは譬喩的用語であるが、枕詞と見てよい。前の玉藻成も同じ。○吾作《ワガツクル》――此の句以下、新代戸登《アラタヨト》までは、泉乃河の序詞。○不知國《シラヌクニ》――下の依《ヨリ》と續いて、巨勢の序詞となる。知らぬ國、即ち外國も從ひ寄り來るの意であ(66)る。○巨勢道從《コセヂヨリ》――巨勢は今の南葛城郡葛村古瀬で、此處は紀州へ出る通路に當つてゐた。○常世爾成牟《トコヨニナラム》――常世は外國・黄泉・仙境の三義あるが、ここは不老不死の國の意で、仙境をさす。○圖負留神龜毛《フミオヘルアヤシキカメモ》――背に模樣ある不思議な龜もの意。これは尚書の孔安國の註に「洛書者禹治v水時神龜負v文而出列2於背1有v數至v九云々」とあるのから出たので、圖は吉祥の模樣である。書紀には天智天皇の九年六月に、背に文字ある龜を獲たことがあり、又靈龜・神龜の年號を見ても、又天平改元の時の宣命に、「負圖龜一頭献【止】奏賜【不爾】」とあるのによつても、この頃かういふ支那風の勝瑞騷ぎが多かつたことが明らかである。○新代登《アラタヨト》――新しき御代だとての意。新代は新帝の代の義であらう。上の吾作《ワガツクル》より此の句までは、泉乃河爾の序詞である。「新代なりとて出づ」とかけたのだ。○泉乃河爾《イツミノカハニ》――泉河は今の木津川で、後の久邇の都の出來た山城相樂郡の瓶原《ミカノハラ》を流れる川である。○持越流《モチコセル》――宇治川を運搬したこと。宇治川から水路を今の木津あたりまで運び、更に、木津から陸上げして藤原へ運ぶ。○百不足《モモタラズ》――五十《イ》の枕詞。五十は百に足らぬからである。○泝須良牟《ノボスラム》――泉川を溯ることで、宇治川を流し下せる材木を、役夫どもが鴨じもの水に浮きゐて、筏に作つて泉川を泝すのであらう。○伊蘇波久見者《イソハクミレバ》――イソハクは爭ひ勤むること。○神隨爾有之《カムナガラナラシ》――神ながらの天皇でいらせられるからであらうの意。
〔評〕 實に堂々たる歌である。皇居造營に際して役に徴せられた民が、家を忘れ身を捨てて、働いてゐる有樣、そして新代を謳歌し、新都を祝する意がよく出てゐる。役民作歌とあるけれども、とても役民の作り得る歌ではない。圖魚へる神龜などは、當時の智識階級の人にして始めて、解し得る文句である。恐らく當時の歌人、たとへば人麿の如きものが、嘱によつて作つて、役民をして歌はしめたものであらう。この歌に見えた材木運搬の經路を、宇治川より陸上げして、泉川に持越して流し、淀川より難波に至り、海路紀の川に入れて、紀の川を泝し、巨勢路から藤原へ運ぶ、といふやうな奇説が宣長によつて説かれ、古義も亦これを肯定してゐるのは滑稽である。
 
右日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月幸(ス)2藤原宮地(ニ)1、八年甲午春正月幸(ス)2藤原(67)宮1、冬十二月庚戌朔乙卯遷(ス)2居藤原宮(ニ)1。
 
これは藤原宮造營に關する記事を、日本書紀から抽出して、註したものである。
 
從2明日香宮1遷2居藤原宮(ニ)1之後、志貴皇子御作歌
 
志貴皇子は天智天皇の第七皇子、持統天皇の皇弟。靈龜二年薨。光仁天皇の御父、後に春日宮御宇天皇と追尊あり、世に田原天皇と申す御方である。
 
51 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
 
※[女+采]女乃《ウネメノ》 袖吹反《ソデフキカヘス》 明日香風《アスカカゼ》 京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》 無用爾布久《イタヅラニフク》
 
此ノ飛鳥ニ都ガアルナラバ優シイ〔此ノ〜傍線〕釆女ノ袖ヲ吹キ飜スベキ飛鳥ノ里ノ風モ、今ハ都ガ藤原ニ遷ツテシマツテ宮女モ居ラズ〔今ハ〜傍線〕、都ガ遠クナツタノデ、空シク吹イテヰル。アア淋シイコトヨ〔八字傍線〕。
 
○※[女+采]女乃《ウネメノ》――タワヤメノ、或はヲトメノなどの訓が普通に行はれてゐるが、ウネメノとよむのがよい。※[女+采]女は宮女を意味する文字で、釆女にあたる。卷四に駿河※[女+采]女(五〇七)と出てゐる。采女は宮中にあつて御膳の事にあづかるもの、郡の少領以上の姉妹、子女の形容端正な者からとることになつてゐた。○袖吹反《ソデフキカヘス》――考にソデフキカヘセとよんだのはわるい。カヘスは袖を吹き反すべきの意。○明日香風《アスカカゼ》――明日香の地を吹く風。佐保風(九七九)泊瀬風(二二六一)・伊香保可是《イカホカゼ》(三四二二)の類である。○無用爾布久《イタヅラニフク》――甲斐なく、空しく吹く。
〔評〕 昨日今日、この飛鳥の里は目立つてさびれてしまつた。美しい花の少女、それは諸國から選り出された采女だ。それがその容姿をほこりかに、薄絹の領布を靡かし、長い袖を飜しながら、都大路をねり歩いたものだ。今はその宮女は、都と共に藤原へ去つた。淋しい飛鳥の里は人一人通らない。ただ空しく風の吹くにまかせて。嗚呼傷心の景、斷腸の調。
 
藤原宮(ノ)御井(ノ)歌
 
清い水の湧き出る所、そこを中心として新しい都は建設せられた。その井は藤井であり、この原(68)は藤井が原である。やがてその都は藤原宮と名づけられたのだ。
 
52 やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒拷の 藤井が原に 大御門 始め給ひて 埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日のたての 大御門に 春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山は 日のよこの 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨の 青すが山は そともの 大御門に 宜しなべ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御影の 水こそは 常にあらめ 御井の清水
 
八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王《ワゴオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 麁妙乃《アラタヘノ》 藤井我原爾《フヂヰガハラニ》 大御門《オホミカド》 始賜而《ハジメタマヒテ》 埴安乃《ハニヤスノ》 堤上爾《ツツミノウヘニ》 在立之《アリタタシ》 見之賜者《ミシタマヘバ》 日本乃《ヤマトノ》 青香具山者《アヲカグヤマハ》 日經乃《ヒノタテノ》 大御門爾《オホミカドニ》 春山跡《ハルヤマト》 之美佐備立有《シミサビタテリ》 畝火乃《ウネビノ》 此美豆山者《コノミヅヤマハ》 日緯能《ヒノヨコノ》 大御門爾《オホミカドニ》 彌豆山跡《ミヅヤマト》 山佐備伊座《ヤマサビイマス》 耳高之《ミミナシノ》 青菅山者《アヲスガヤマハ》 背友乃《ソトモノ》 大御門爾《オホミカドニ》 宜名倍《ヨロシナベ》 神佐備立有《カムサビタテリ》 名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》 影友乃《カゲトモノ》 大御門從《オホミカドユ》 雲居爾曾《クモヰニゾ》 遠久有家留《トホクアリケル》 高知也《タカシルヤ》 天之御蔭《アメノミカゲ》 天知也《アメシルヤ》 日御影乃《ヒノミカゲノ》 水許曾波《ミヅコソハ》 常爾有米《ツネニアラメ》 御井之清水《ミヰノシミヅ》
 
(八隅知之)私ノ天子樣、(高照)天子樣ガ、(麁妙乃)藤井ガ原即チ藤原〔四字傍線〕ニ御所ヲ御始メナサレテ、埴安ノ池ノ〔二字傍線〕堤ノ上ニ、御立チニナツテ御覽ナサルト、大和ノ都近クノ木ノヨク繁ツテ〔十一字傍線〕青々トシテヰル香具山ハ、東ノ方ノ御門ニ、青々トシタ春ノ山トシテ木ガ〔二字傍線〕繁リ榮エテ立ツテヰル。畝傍ノ此ノ瑞々シイ美シイ〔三字傍線〕山ハ、西ノ御門ニ、瑞々シイ山デ、山ラシク立ツテ〔三字傍線〕御出デナサル。又〔傍線〕耳梨ノ青イ菅草ノ生エタ山ハ、背面ノ北ノ〔二字傍線〕御門ニ、姿宜シク神々シク立ツテ居ル。(名細)吉野山ハ、南ノ御門カラ空ノアチラニ遠ク見エル。コノヨイ土地ニアル〔九字傍線〕(高知也)天ヲ蔽フ所ノ蔭、(天知也)日ノ光ヲ蔽フ蔭トシテ御住ヒ遊バス御所ノコ〔十三字傍線〕ノ水ハ、何時マデモ變ラズニ湧キ出ルデアラウ。コノ水ノヤウニ、コノ御所モ永久ニ續クデアラウ〔二十四字傍線〕。
 
○和期大王《ワゴオホキミ》――我が大王に同じ。ワガのガがオを發音する準備として、ゴに變じたのであらう。○麁妙乃《アラタヘノ》――(69)藤の枕詞、五〇參照。○藤井我原爾《フヂヰガハラニ》――題詞の説明參照。○埴安乃池《ハニヤスノイケ》――(ニ)參照。○在立之《アリタタシ》――アリはその事の繼續して行はれるをいふ。タタシは立ち給ふ意。即ち毎に行幸ありて、其處に立ち給ふこと。○見之賜者《ミシタマヘバ》――見之はミシともメシともよめる字である。見の字をメに用ゐて所聞見爲背友乃國之《キコシメスソトモノクニノ》(一九九)とある。併しこの場合、特にさうよまねばならぬ理由もないからミシタマヘバとよむことにする。意は御覽遊ばせばである。○日本之《ヤマトノ》――畿内の大和に當てて書いたもの。○青香具山者《アヲカグヤマハ》――青々とした香具山は。青は木の繁つてゐるのを賞めた詞。○日經乃《ヒノタテノ》――これは高橋氏文に「日竪日横陰面背面乃諸國人乎割移天《ヒノタテヒノヨコカゲトモソトモノモロクニビトヲサキウツシテ》」とあつて、東を日竪、西を日横、南を陰面、北を背面と言つてゐる如くである。成務紀にも「因以2東西1爲2日縱1、南北爲2日横1、山陽曰2影面1、山陰曰2背面1」とあるも同じであるが、少しく言ひ方が異なつてゐる。○春山跡《ハルヤマト》−春山としての意。春山は青山の誤と、玉の小琴には言つてゐる。跡は古本皆路に誤つてゐる。古葉略類聚鈔に跡とあるによるべきだ。○之美佐備立有《シミサビタテリ》――之美《シミ》は繁《シミ》、佐備《サビ》は、らしい樣子をすること。○此美豆山者《コノミヅヤマハ》――美豆山はみづみづしき山。ミヅは草木の榮え繁れるをいふ。○山佐備伊座《ヤマサビイマス》――佐備《サビ》は之美佐備《シミサビ》の佐備《サビ》に同じ。伊座《イマス》はイラッシャル意。山佐備《ヤマサビ》は山の神々しき意にいふ。○耳高之《ミミナシノ》――高は成の誤。○青菅山《アヲスガヤマ》――青々と草の茂つた山。○背友《ソトモ》――背《ソ》ツ面《オモ》の義、北の方。○宜名倍《ヨロシナヘ》――宜しき樣にの意。○名細《ナクハシ》――枕詞。名の佳きの意で、名高きこと。細は精し・委し・麗しなどの意がある。○影友《カゲトモ》――影《カゲ》ツ面《オモ》の義、日の影の當る方、即ち南。○雲居爾曾《クモヰニゾ》――雲居は空、但し雲をさすこともある。○高知也《タカシルヤ》 ――天の枕詞、高く領するの意でつづく。也《ヤ》は歎辭。○天之御蔭《アメノミカゲ》――天を蔽ひて蔭をなす意で、皇宮をいふ。日御影《ヒノミカゲ)と對句として用ゐる。祈年祭祝詞にもある。○天知也《アメシルヤ》――日の枕詞。天を領する日とつづく。○日御影乃《ヒノミカゲノ》――日を蔽うて蔭をなす意で、皇宮のこと。○常爾有米《ツネニアラメ》――トコシヘナラメとも、ツネニアラメともよめる。常はトコ・ト・ツネなどとよむ字であるが、トコシへとよんだ例が一寸見當らぬから、ツネにして置かう。○御井之清水《ミヰノシミヅ》――ミヰノマシミヅの訓が、最も行はれてゐるが、眞の字を入れて調を整へる必要はない。シミヅでよい。シミヅはスミミヅの略なることは、清江乃《スミノエノ》(二九五)を見れば明らかである。だからここも調を塾へるならば、ミヰノスミミヅでよいやうに思はれるが、スミミヅと言つたらしい證(70)がなく、却つて山振之立儀足山清水《ヤマブキノタチヨソヒタルヤマシミヅ》(一五八)のやうに、シミヅとよんだらしい例があるから、ここもミヰノシミヅがよからうと思ふ。
〔評〕 香具・畝傍・耳成の三山は、東西北の三方に爭ひ立ち、南は遙かに、時じくにみ雪降るといふ吉野の嶺を望んでゐる藤原の皇居の景勝を歌ひ、その都の中心ともなり、上は九重の貴きより、下々の市人まで、悉く汲んで飲まぬものなき、清列の藤井の眞清水を賞め稱へて、この水の盡きぬ如く、皇城も永遠なれと壽いた作である。冒頭から結末まで、天皇を中心として、皇室尊崇の念が濃くよみ込まれてゐる。理路整然、格調雄偉、實に立派な傑作である。
 
短歌
 
反歌とあるべきを短歌と記したのだ。端詞のありしが落ちたるならむといふ考の説は從ひがたい。
 
53 藤原の 大宮づかへ あれつがむ 處女がともは ともしきろかも
 
藤原之《フヂハラノ》 大宮都加倍《オホミヤツカヘ》 安禮衝哉《アレツガム》 處女之友者《ヲトメガトモハ》 之吉召賀聞《トモシキロカモ》
 
今ノ天子樣ハサゾ御長命ノコトデアラウガ、コノ〔今ノ〜傍線〕藤原ノ大宮ニ御仕ヘスル宮女トシテ私ドモノ後ニ〔スル〜傍線〕生レテ、後ヲ繼グデアラウトコロノ處女タチハ羨マシイコトヨ。
 
○安禮衝哉《アレツガム》――生れ繼がむの意であらう。安禮衝は八千年爾安禮衝之乍《ヤチトセニアレツガシツツ》(一〇五〇)とあるから、アレツゲに違ない。哉を武の誤とするはわるい。この儘でムとよむのである。○處女之友者《ヲトメガトモハ》――處女の輩はの意。○之吉召賀聞《トモシキロカモ》――シキメサルカモといふ、僻案抄のよみ方が廣く行はれてゐて、頻りに召されるよの意として解かれてゐるが、無理である。田中道麿の、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》を誤つたのだといふ説に從ふことにする。トモシキは羨しき、ロはヨと同じ。
〔評〕 短歌とはあるが、前の長歌の反歌である。長歌で皇城の景勝と、御井の清澄とを讃へ、反歌で奉仕する宮女を羨むに託して、皇城の悠久をことほいだのである。
 
(71)右歌作者未詳
 
大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸(セル)2于紀伊國(ニ)1時(ノ)歌
 
文武天皇の五年に大寶と改元せられた。ここまで持統天皇の御代の歌であつたが、ここからは同じ藤原宮ながら文武天皇であるから、年號を記すことにしたのである。太上天皇は持統天皇。
 
54 巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思ふな 巨勢の春野を
 
巨勢山乃《コセヤマノ》 列列椿《ツラツラツバキ》 都良都良爾《ツラツラニ》 見乍思奈《ミツツオモフナ》 許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》
 
巨勢山ノ、數多列ツテ茂ツテヰル椿ヲツクヅクト見テ、椿ノ花ノ盛ニ咲ク、コノ〔十字傍線〕巨勢ノ野ノ春ノ景ノオモシロサ〔八字傍線〕ヲ、想ヒヤルナア。今ハ九月デ花モナイガ、春ハサゾ綺麗デアラウ〔今ハ〜傍線〕。
 
○巨勢山《コセヤマ》――五〇參照。寫眞中のステーシヨンは吉野口驛。○列列椿《ツラツラツバキ》――葉の列なり茂れる(72)椿。○都良都良爾《ツラツラニ》――倩。つくづくの意。この句、上の句を受けて同音を繰返し、調子をとつてゐる。○見乍思奈《ミツツオモフナ》――ミツツオモハナ、又はシヌバナとする説はわるい。オモフナは次の句から反る言ひ方である。思ふよの意。
〔許〕 椿の廣葉が繁りに繁つて、秋の日をうけて輝いてゐるのを見て、これが花の時期であつたら、どんなに美しいだらうと、想像したのである。山とあり、野とあるのに拘泥してはいけない。巨勢野から巨勢山につづいて、椿が路傍に繁つてゐたのだ。此の歌も亦椿の葉のやうな滑かな、さうして光澤のある、明い感じの作である。
 
右一首|坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
從駕の人の一人である。傳未詳、身分のない人らしい。
 
55 麻裳よし 紀人ともしも 亦打山 行き來と見らむ 紀人ともしも
 
朝毛吉《アサモヨシ》 木人乏母《キビトトモシモ》 亦打山《マツチヤマ》 行來跡見良武《ユキクトミラム》 樹人友師母《キビトトモシモ》
 
私ハ今始メテ此處ヘ來テ亦打山ノ好景ニ飽クコトヲ知ラナイガ〔私ハ〜傍線〕、(朝毛吉)紀伊ノ國ノ人ハ羨シ(73)イワイ。コノ景色ノヨイ〔七字傍線〕亦打山ヲ行キニモ歸リニモ、往來ノ度毎ニ〔六字傍線〕見ルデアラウ、紀伊ノ國ノ人ハ羨シイナア。
 
○朝毛吉《アサモヨシ》――麻裳よしで、着と續く枕詞。ヨは呼びかけ、シは強める助詞と見た久老の説がよい。○木人乏母《キビトトモシモ》――木は紀の國の人、乏母《トモシモ》は羨しいよの意。○亦打山《マツチヤマ》――眞土山・信土山・待乳山とも書く。大和から紀州へ越える山で、山を越えた所が、紀伊國伊都郡隅田村待乳である。舊本亦を赤に誤る。延暦校本によつて改む。
〔評〕 始に木人乏母《キヒトトモシモ》と詠歎して置いて、次に理由をも言ひ添へて、再び樹人友師母《キヒトトモシモ》と繰返して、歎聲を放つてゐるのが、本當に羨しさうである。
 
右一首|調首淡海《ツキノオヒトアフミ》
 
天武紀にこの人の名見え、續紀に、「和銅二年正月丙寅、正六位上調連淡海授2從五位下1、同六年四月乙卯、授2從五位上1養老七年正月丙子、授2正五位上1」とある。
 
或本歌
 
56 河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は
 
河上乃《カハノヘノ》 列列椿《ツラツラツバキ》 都良都良爾《ツラツラニ》 雖見安可受《ミレドモアカズ》 巨勢能春野者《コセノハルヌハ》
 
巨勢野ヲ流レル能登瀬川〔巨勢〜傍線〕ノ邊ノ茂ツタ椿ノ花〔傍線〕ヲツクヅク見テモ、巨勢野ノ春景色ハ見飽ガシナイ。佳イ景色ダ〔五字傍線〕。
 
○河上乃《カハノヘノ》――カハノヘノとカハカミノと兩訓あるが、河の岸のことであるから、カハノヘノがよい。○雖見安可受《ミレドモアカズ》――見れども飽かすといふのだから、今見る景色をよんだので、春の歌である。從つて行幸の時の作でない。右の歌に似てゐるところから、こゝに書き入れたのだらう。
〔評〕 巨勢野を流れてゐる能登瀬川のほとりに立つ旅人が、春の野を埋めて咲いてゐる椿の花に見とれて詠んだものであらう。日光に輝く廣葉のきらめきと、其の緑を蔽ふやうに咲き滿ちた紅の色とが目に見えるやうで、前の巨勢山乃《コセヤマノ》の歌よりも、寫實的なだけに面白い。
 
右一首|春日藏首老《カスカノクラヒトオユ》
 
(74)大寶元年三月、僧辨基還俗して春日藏首老といつた。勅によつて姓を賜つたのである。續紀和銅七年正月の條に、正六位上春日椋首老に從五位下を授ける由見える。懷風藻には、「從五位下常陸介春日藏老年五十二」とある。藏首はクラビトといふ尸《カバネ》で、クラノオヒトではないと、古事記傳四十四に論じてゐる。
 
二年壬寅太上天皇幸(セル)2于參河國》1時(ノ)歌
 
續紀に此の幸のことをのせて冬十月とある。
 
57 引馬野に にほふ榛原 入り亂り 衣にほはせ 旅のしるしに
 
引馬野爾《ヒクマヌニ》 仁保布榛原《ニホフハリハラ》 入亂《イリミダリ》 衣爾保波勢《コロモニホハセ》 多鼻能知師爾《タビノシルシニ》
 
御供ノ人々ヨ。コノ〔八字傍線〕引馬野デ綺麗ニ咲イテヰル萩原ノ中ニ、アチコチト〔五字傍線〕入リ交ツテ、此度ノ〔三字傍線〕旅ノ記念トシテ、衣ヲ染メナサイヨ。
 
○引馬野《ヒクマヌ》――遠江國今の濱松附近の原野。今、濱松の北方に曳馬村がある。蓋し三方が原の一部分であらう。三方が原の全部ではあるまい。この歌、參河國に幸とあるのに、遠江の引馬野では、いはれがないといふので、引馬野を三河に求める説があるが、直ぐ隣國だから、ついでに行つて見たのであらう。○仁保布榛原《ニホフハリハラ》――仁保布《ニホフ》は咲き匂ふこと、榛原は萩原。○人亂《イリミダリ》――萩原に入り亂れての意。○衣爾保波勢《コロモニホハセ》――衣を染めよといふのである。
〔評〕 素直なよい歌である。榛原をハンの木に見る説もあるが、當らないことは前に一九で述べた。併しこの御幸を續紀によつて十月とすれば、萩にしては花期を過ぎてゐるやうだが、十月の記載に誤がないとも言へないし、又十月に咲き殘つた花があつたかも知れない。ともかく萩の歌に相違ない。
 
右一首|長忌寸奧麿《ナガノイミキオキマロ》
 
長忌寸奧麿の傳は詳でない。意寸麿又は意吉麿とあるも同人である。
 
58 何所にか 船はてすらむ 安禮の埼 こぎ回み行きし 棚無し小舟
 
(75)何所爾可《イヅクニカ》 船泊爲良武《フナハテスラム》 安禮乃崎《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
今彼處ニ小舟ガ見エタガ、アノ〔今彼〜傍線〕安禮崎ヲ漕ギ廻ツテ行ツタ、舟棚モナイ小舟ハ、何處ニ泊ルノデアラウカ。
 
○船泊爲良武《フナハテスラム》――フナハテは船の碇泊するをいふ。○安禮乃崎《アレノサキ》――所在不明。和名抄に美濃國不破郡荒崎とある所だらうといふ説は、もとより從ひがたい。檜嬬手には遠江數智部、今の荒井だらうといつてゐる。○榜多味行之《コギタミユキシ》―多味《タミ》は曲り廻ること。○棚無小舟《タナナシヲブネ》――棚は和名抄に「※[木+世]、大船旁板也、不奈太那」とあるもので、大船の左右の舷に、水夫の歩く爲に渡した板をいふ。棚無小舟はその舟棚の無い小さい舟。
〔評〕 浦傳ひに漕いでゐた小舟が、波の花散る安禮の崎を廻つて、何處へか姿を没した。それを見送る吾さへに、心も消えるやうだ。ああ彼らは今宵いづくに舟を着けるであらうと、舟中の人の心細さを思ひやつた歌。哀な感情が流れてゐる。
 
右一首高市連黒人
 
高市連黒人は傑れた作を遺してゐる人であるが、傳が詳かでないのは遺憾である。
 
譽謝《ヨザノ》女王作歌
 
續紀に文武天皇「慶雲三年六月丙申、從四位下與射女王卒」と見える。
 
59 ながらふる つま吹く風の 寒き夜に 吾が背の君は ひとりか寢らむ
 
流經《ナガラフル》 妻吹風之《ツマフクカゼノ》 寒夜爾《サムキヨニ》 吾勢能君者《ワガセノキミハ》 獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
長ク引イタ着物ノ〔三字傍線〕褄ヲ吹ク風ガ寒イ今夜ノヤウナ〔六字傍線〕晩ニ、私ガオ側ニ居ナイノデ〔十字傍線〕、私ノ夫ノ君ハ獨デ御寢ナサルデアラウカ。都ニ殘ツテイラツシヤル夫ノ君ハサゾオ淋シイデアラウ〔都ニ〜傍線〕。
 
○流經《ナガラフル》――動詞長ラフの連體形。長ラフは物の長くつづく形をいふので、妻に連つてゐる。〇妻吹風之《ツマフクカゼノ》――妻は衣服の褄で、我が着物の裾の長いのを、長ラフル褄といつたのであらう。その吾が着物の長き裾を吹く風の(76)寒き夜とつづくのである。妻を雪と改めて、長く雪の降りつづく意に見た説、又は雪の斜に降ることに見た説、共にわるい。
〔評〕 この歌は題詞の書き方から見ると、太上天皇の御幸には關係ないもののやうにも思はれるが、恐らくこの五首は同時の作であらう。譽謝女王は留守居せられたとも、一行に加つて供奉せられたとも、兩方に考へられるのである。この女王の配偶者について全く不明であるが、予をして想像を逞しうせしむれば、次の長皇子が妹と宣ひしは即ちこの女王であつたのではあるまいか。一對の作であるから此虚に並べのせたものか。然らばこれは旅中の作である。この歌初の一二句に、はつきりしない點がないでもないが、流麗なやさしい感じの作品である。
 
長《ナガノ》皇子御歌
 
天武天皇の第四皇子、御母は大江皇女、靈龜元年六月薨去。
 
60 よひに逢ひて あした面無み 名張にか けながき妹が 廬せりけむ
 
暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面無美《アシタオモナミ》 隱爾加《ナバリニカ》 氣長妹之《ケナガキイモガ》 廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
別レテカラ〔五字傍線〕久シクナル私ノ妻ハ、伊賀ノ國ノ〔五字傍線〕(暮相而朝面無美)名張ノ里ニデモ、廬ヲ造ツテ旅寢シテ〔四字傍線〕ヰルデアラウ。サゾ都ガ戀シイダラウ〔十字傍線〕。
 
○暮相而朝面無美《ヨヒニアヒテアシタオモナミ》――隱とつづく序詞。少女が男に逢つた翌朝、男に對して恥かしく思つて、顔を隱す意でつづく。面無美は、恥かしき故にの意。○隱爾加《ナバリニカ》――ナバリは伊賀の地名。ナバルは隱れること。(四三)の地圖參照。○氣長妹之《ケナガキイモガ》――氣は日のこと。日をカといふに同じ語である。氣長きは旅に日數の長くかかつた意。
〔評〕 序詞の使ひ方が面白い。殊に久しく離れてゐる妻を思つて、よんだものとすると、最もふさはしい。但しこの歌は、卷八に縁達師の歌として、暮相而朝面羞隱野乃芽子者散去寸黄葉早續也《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリヌノハギハチリニキモミヂハヤツゲ》(一五三六)とあるに似てゐる。縁達師の傳が分らないから、どれが元であるかを知らない。
 
(77)舎人娘子《トネリノヲトメ》從駕作歌
 
舎人氏は新撰姓氏録のに「百濟國人利加志貴王之後也」とある。娘子は女子を親しみ呼ぶ語。
 
61 ますらをが さつ矢手挿み 立ち向ひ 射る的形は 見るにさやけし
 
大夫之《マスラヲガ》 得物矢手挿《サツヤタバサミ》 立向《タチムカヒ》 射流圓方波《イルマトカタハ》 見爾清潔之《ミルニサヤケシ》
 
(大夫之得物矢手挿立向射流)的形浦ノ景色〔三字傍線〕ハ眺望ガ良イヨ。
 
○大夫之《マスラヲガ》――大を丈の誤とするのはよくない。マスラヲは荒益男で、男をほめて云ふ語、女を手弱女《タワヤメ》といふに對する。○得物矢手挿《サツヤタバサミ》――得物矢は幸夫、即ち獵に用ゐる矢。幸は山幸《ヤマサチ》・海幸《ウミサチ》などの幸である。手挿は二の矢を右手の小指に挿むをいふ。○射流圓方波《イルマトカタハ》――圓方は的形で、弓を射る時の標的。大夫之《マスラヲガ》から射流《イル》までは、的と言はむが爲の序である。圓方は伊勢の地名。多氣郡流田郷東黒部の海岸だといふ。(二四)の伊勢地圖參照。○見爾清潔之《ミルニサヤケシ》――サヤケシは景色の佳いのを褒めたのである。
〔評〕 此の歌、仙覺抄に伊勢風土記を引いて、「的形浦者此浦地形似v的故以爲v名也、今已跡絶成2江湖1也。天皇行2幸浦邊1歌云、麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤタバサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》」とある。右の歌とこれとは全く同じものと思はれる。この風土記に天皇とあるは、いづれの御代か知るよしはないが、古風土記逸文考證によれば、古寫本傍註に景行天皇也と載せてあるといふ。この傍註の記載は固より信憑すべき限でないが、風土記の中に傳説として掲げられたのを見ると、この歌よりも古いものたるは疑ない。して見ると、舍人娘子は駕に從つて古歌を誦したものであらう。序の作り方が強く勇ましく、調子が緊張して、すが/\しい歌だ。この點からいふと、女性の作らしくないとも言ひ得る。
 
三野《ミヌノ》連名闕入唐時|春日藏首老《カスガノクラビトオユ》作歌
 
三野(ノ)連は美努連である。古本の傍註に、「國史云、大寶元年正月遣唐使民部卿粟田朝臣眞人以下百六十人乘船五隻、小南監從七位下中宮少進美奴連岡麿云々」と見える。國史とは何を指すか明ら(78)かでない。續紀にこの遣唐使のことが記してあるが、岡麿の名は見えない。併し明治五年大和國平群郡萩原村から發掘せる岡麿の墓誌に「我祖美努岡萬連(中略)大寶元年歳次辛丑五月使2乎唐國1(中略)靈龜二年歳次丙辰正月五日授2從五位下1任2主殿寮頭1。神龜五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七」とあるから、唐に使せること明らかで、これは岡麿なることは疑ひない。名闕とあるは後人の註であらう。春日藏首老は五六の左註に出づ。
 
62 ありねよし 對馬の渡 わた中に 幣取り向けて 早還り來ね
 
在根良《アリネヨシ》 對馬乃渡《ツシマノワタリ》 渡中爾《ワタナカニ》 幣取向而《ヌサトリムケテ》 早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
(在根艮)對馬ノ渡ヲ渡ル時ニ〔五字傍線〕、海ノ中ニ幣ヲ手ニ取ツテ手向ケテ、海神ニ無事ヲ祈ツテ、無事ニ唐土ニ到達シテ任ヲ果シテ〔海神〜傍線〕、早ク還ツテ御出デナサイ。今カラオ歸リガ待タレマス〔今カ〜傍線〕。
 
○在根良《アリネヨシ》――布根盡《フネハツル》、百船乃《モモフネノ》、百都舟《モモツフネ》の誤かと考に見え、玉の小琴に布根竟《フネハツル》の誤かと見え、古義に大夫根之《オホフネノ》の誤とあれど首肯しがたい。又、在明山といふ山名とする説もあるが、冠辭考續貂一説に、字を改めず、荒嶺の意としたのに從つて、荒々しく聳えた山の對馬とつゞく枕詞とするがよい。ヨシは青丹吉・朝毛吉のヨシで、感歎して添へたもの。○對馬乃渡《ツシマノワタリ》――對馬海峽。○渡中爾《ワタナカニ》――海中にの意。○幣取向而《ヌサトリムケテ》――幣は神を祀る爲に供へるもので、古くは木綿・麻などを用ゐた。ムケは手向けること。
〔評〕 航路の安全は、ただ神に祈るによつてのみ得られる。人力では如何ともし難い。ゆめゆめ、道すがら神を祀ることを怠るな。殊に波荒き對馬海峽を渡る時は心せよと、友の旅路安かれと希つた作。眞情が見えて嬉しい。
 
山上(ノ)臣憶良在(リシ)2大唐(ニ)1時、憶(ヘル)2本郷(ヲ)1歌
 
山上憶良は人麿・赤人に比肩すべき歌人で、作も多い。續紀に「大寶元年正月乙亥朔丁酉以2守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人1爲2遣唐執節使1云々、無位|山於《ヤマノウヘ》憶良爲2少録1」とあり。前の三野連と同時である。此の時まだ微官であつたが、少録は即ち書記であるから、學問は認められてゐたのだら(79)う。續紀によれば、この一行は慶雲元年秋七月歸朝してゐる。尚、この人については、「和銅七年正月甲子、授2正六位下山上憶良等1、退朝之後、令v侍2東宮1焉」と續紀に見える。卷五に筑前守となつてゐることが分るが天平五年の沈痾自哀文に「是時七十有四」とあり、その年歿したらしい。憶本郷は故郷を思ふこと。歌の上に作の字ある本がよい。
 
63 いざ子ども はやく日本へ 大伴の 御津の濱松 待ち戀ひぬらむ
 
去來子等《イザコドモ》 早日本邊《ハヤクヤマトヘ》 大伴乃《オホトモノ》 御津乃濱松《ミツノハママツ》 待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
サア人々ヨ、早ク日本ノ國ヘ歸ラウ〔三字傍線〕。大伴ノ御津ノ濱ノ松ハ、私ドモノ歸リヲ待チ焦レテヰルデアラウ。故郷ノ者ハ皆待ツテヰルダラウ。早ク歸ラウ〔故郷〜傍線〕。
 
○去來子等《イザコドモ》――去來《イザ》はサアと誘ふ辭。子等《コドモ》は友人同輩をさす。○早日本邊《ハヤクヤマトヘ》――この句の訓は、なか/\むつかしい。舊訓はハヤヒノモトヘであるが、ハヤクヤマトヘ、又はハヤモヤマトへが廣く行はれてゐる。これに就いて先づ決すべきは、日本の二字を如何によむべきかといふことだ。日本能不所見《ヤマトノミエヌ》(四四)・日本乃青香具山《ヤマトノアヲカグヤマ》(五二)・磯城島能日本國乃石上振里爾《シキシマノヤマトノクニノイソノカミフルノサトニ》(一七八七)・日本之室原乃毛桃《ヤマトノムロフノケモモ》(二八三四)などの例を見ると、畿内の大和をさしてゐるから、これもヤマトとよんで畿内の大和と見る説が多い。併し卷三に大日本久邇乃京者《オホヤマトクニノミヤコハ》(四七五)とあつて、日本を吾が國の總稱をあらはす文字に用ゐてゐるから、ここも同じく見るべきであらう。殊にこれは外國にあつてよんだのであるから、自分の郷里の小範圍を指さずして、國家全體を指す語を用ゐる方が、當然の心理状態ではあるまいかと思はれる。更に別の方面から見ると、この歌は懷風藻の、釋辨正の五言、在v唐憶2本郷1一絶と題した「日邊瞻2日本1。雲裡望2雲端1。遠遊勞2遠國1。長恨苦2長安1。」といふ詩と比較するに、先づその題詞の書き方が殆ど同樣であり、詩中に日本の文字が我が國の總稱として出てゐる。しかのみならず、懷風藻によれば、辨正は大寶年中唐に學んだ人で、彼の土に歿した者である。恐らく憶良と同船して入唐し、彼の地に於ても行動を共にしたもので、この歌と詩とは、或は時を同じうして作られたものではないかとも想像せられる。この(80)詩が懷風藻に記されるに至つたのも、憶良などが携へ歸つたものかとも思はれる。かう考へると、この日本はどうしても畿内の大和をさすのではないのである。然らばこれをヒノモトとよんではどうかといふに、一體この日本といふ熟語は、孝徳紀大化元年の條に、「以2巨勢徳大臣1詔2於高麗使1曰、明神御宇日本天皇詔旨云々」とあるのが物に見えた始で、音読したものと思はれる。(これより以前の記事に日本の字を用ゐたのは、恐らく、後世の書き方によつたものに過ぎない)即ち對外的の稱呼であつたのである。卷三の不盡山の長歌に、日本之山跡國乃鎭十方座神可聞《ヒノモトノヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモ》(三一九)とあるやうに、已に我が國の總稱としてのヤマトの上に冠らせてあるが、未だヒノモトといふ國號が用ゐられてゐた確證がないから、ここもヤマトとよむことにする。さうすれば早の字は當然ハヤクとよむことになる。モを添へてハヤモとする理由はない。○大伴乃《オホトモノ》――地名、攝津難波あたりを中心とした、かなり廣い區域だ。これを枕詞として、大伴氏のみつみつしき、武勇に言ひかけたものとする説も廣く行はれてゐる。併しさうすると、下に大伴乃高師能濱《オホトモノタカシノハマ》(六六)とあるのが分らなくなる。○御津乃濱松《ミツノハママツ》――御津乃濱は今の大阪、古の難波津。この句、下に同音を繰返して待戀と續ける爲であるが、單なる序詞とも見難い。松が待つやうに言つて、故郷人をも含めたのである。濱松を遊女のこととする説は、奇に過ぎて恐らく當を得て居らぬ。
〔評〕 去來子等《イザコドモ》と呼びかけて早日本邊《ハヤクヤマトヘ》と切つて。三句目以下に理由を説明してゐる。前の、木人乏母《キビトトモシモ》(五五)の歌に似たやり方である。難波津を舟出する時に、なつかしいものとして眼底に燒付けられた濱松、故郷に近づいて第一に眼に入るであらう所の濱松を點出して、故郷戀しき情を述べたのである。三四句を序詞とのみ見ては如何にも物足りない。
 
慶雲三年丙午幸2于難波宮1時、志貴皇子御作歌
 
續紀慶雲二年の條に「九月丙寅行2幸難波1冬十月壬午還宮」とある。目録に時の下、歌二首とあるのがよいやうである。志貴皇子、五一參照。
 
64 蘆邊ゆく 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ
 
葦邊行《アシベユク》 鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》 霜零而《シモフリテ》 寒暮夕《サムキユフベハ》 和之所念《ヤマトシオモホユ》
 
(81)葦ノ生エテヰルアタリヲ、飛ンデヰル鴨ノ翼ニモ霜ガ降ツテ、寒サ烈シイ夕方ニハ、旅宿ノツラサニ、自分ノ郷里ノ〔旅宿〜傍線〕大和ノ國ガ戀シク思ハレル。
 
○葦邊行《アシベユク》――葦の生えてゐるあたりを飛んでゐること。泳ぎ行くことに見た説はわるい。葦邊往鴨之羽音之《アシベユクカモノハオトノ》(三〇九〇)など,正しく飛んでゐる趣である。○鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》――羽我比《ハガヒ》は翼。○和之所念《ヤマトシオモホユ》――和は大和國即ち故郷、之《シ》は強辭。
 
〔評〕 冬の夕暮、霜の降つてゐる海邊の荒凉たる景と、其處に旅泊してゐる旅人のやるせない思郷の情と、共にあはれに身に沁みる歌である。
 
長皇子御歌
 
この皇子のこと既出六〇。
 
65 霰うつ 安良禮松原 住のえの 弟日娘と 見れど飽かぬかも
 
霰打《アラレウツ》 安良禮松原《アラレマツバラ》 住吉之《スミノエノ》 弟日娘與《オトヒヲトメト》 見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
(霞打)安良禮松原ヲ住吉ノ弟日少女トイフ美人ト一緒ニ〔八字傍線〕見テモ飽キナイワイ。誠ニコノ住吉ノ松原ハ世に稀ナ良イ景色ダ〔誠ニ〜傍線〕。
 
○霰打《アラレウツ》――安良禮と言はむため、同音を繰返して作つた枕詞。これを目前の實景と見るのはわるい。○安良禮松原《アラレマツバラ》――神功紀に鴉智箇多能阿邏邏摩菟麼邏《ヲチカタノアララマツバラ》とあるによつて、考は禮《レ》を羅《ラ》の誤としてゐる。疎に立つた松原と見たのである。併し新撰姓氏録、攝津國諸蕃に荒荒公があり、日本記略には「延喜三年癸丑五月十九日授2攝津國荒荒神從五位下1」とあるから、攝津のうちにアララといふ地名があつたのである。その場所は今知り難いが、暫くこの安良禮の地としで置かう。攝津志に「霰松原在2住吉安立町1」とある。○住吉之《スミノエノ》――スミヨシと訓むはわるい。吉はエとよむのである。スミヨシと唱へるのは後世のことだ。○弟日娘與《オトヒヲトメト》――弟日娘は遊女の名であらう。オトヒを姉妹とする説は當らない。トはと共にの意。松原と、弟日娘との二つはと解する説はとらな(82)い。
〔評〕 古くから都人遊覽の地であつた住吉は、村立つ青松の景で有名であつたが、旅人の集りを見込んで、多くの遊女も集ひ來つた。中でも弟日娘は名高い美人であつた。一日この娘子を聘し、この好景に對した皇子は、愉悦の頂點に達したのである。見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》は、その歡喜の情を述べたので、なほ不滿だといふのではない。この歌の解、種々に分れてゐるが、少しく表現に無理があるやうである。
 
太上天皇幸(セル)2于難波宮1時(ノ)歌
 
太上天皇は持統天皇。但し太上天皇として難波御幸のこと、物に見えない。これより以下四首、年次不明。
 
66 大伴の 高師の濱の 松が根を まきてし寢れど 家し偲ばゆ
 
大伴乃《オホトモノ》 高師能濱乃《タカシノハマノ》 松之根乎《マツガネヲ》 枕宿杼《マキテシヌレド》 家之所偲《イヘシシヌバユ》
 
私ハ旅ニ出テコノ景色ノヨイ〔私ハ〜傍線〕、大伴ノ高師ノ濱ノ松ノ根ヲ枕トシテ寢ルケレドモ、私ノ〔二字傍線〕家ガ思ハレテナラヌ〔四字傍線〕。
 
○大伴乃――地名。○高師能濱乃《タカシノハマノ》――和泉。今の濱寺町地方の海岸。○枕宿杼《マキテシヌレド》――種々の訓があるが、マキテシヌレドが一番穩かである。杼《ド》の意を解しかねて、宣長は夜《ヤ》の誤としてゐるが、音に名高き大伴の高師の濱に旅寢して、佳景の中の人として、松の根を枕してゐるが、猶家が思はれるといふのである。
〔評〕 佳景は佳景であるが、旅情はこれによつて、全く慰められるものではない。松籟濤聲、夢を妨ぐる旅愁があはれによまれてゐる。。
 
右一首|置始東人《オキソメノアヅマト》
 
この人の傳は明らかでない。
 
67 旅にして 物戀ほしぎの 鳴くことも 聞えざりせば 戀ひて死なまし
 
旅爾之而《タビニシテ》 物戀之伎乃《モノコホシギノ》 鳴事毛《ナクコトモ》 不所聞有世者《キコヘザリセバ》 孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》
 
(83)私ハ〔二字傍線〕旅ニ出テ、戀シサガ堪ヘラレナイ程ダガ、ソレデモ鴫ノ鳴ク聲ヲ聞イテ、イクラカ心ヲ慰メテヰル。モシモ、アノ〔戀シ〜傍線〕物戀シサウニ鳴ク鴫ノ聲ガ聞エナカツタナラバ、私ハ〔二字傍線〕戀ヒ死スルカモ知レナイ。
 
○物戀之伎乃《モノコホシギノ》――舊訓モノコヒシキノとあるを、略解にコノコフシギノとし、燈にコノコホシギノ、古義は乃を爾の誤とし、モノコホシキニとしてゐる。コヒシの古形にコホシがあつて、古事記顯宗天皇の御歌に「宇良胡本斯祁牟志毘都久志毘《ウラコホシケムシビツクシビ》、」齊明紀に「枳彌我梅能姑※[哀ノ口が臼]之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《キミガメノコホシキカラニ》」とあり、木集にも、伊加婆加利故保斯苦阿利家武《イカバカリコホシクアリケム》(八七五)とある。伊麻能其等古非之久伎美我於毛保要婆《イマノゴトコヒシクキミガオモホエバ》(三九二八)・故非之伎和我勢《コヒシキワガセ》(四四四三)など、コヒシの形も極めて多いが、この卷は古形に從つてよんだがよからう。卷三|客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保船奧榜所見《タビニシテモノコホシキニヤマシタノアケノソホブネオキニコグミユ》(二七〇)とあるによると、戀ホシキのシキに、鴫をかけた言ひ方である。○鳴事毛《ナクコトモ》――鳴を家の誤とする古義や、美夫君志の説はとらない。燈に事を聲としたのも、よくない。
〔評〕 鴫の聲は淋しい。シギといふ名は物戀ホシキといふ語を連想せしめる。あの鳥も自分のやうに戀をしてゐるのだなと思へば、せめて心が慰められるといふのである。感情を強く言ひあらはしてある。
 
右一首高安大島
 
目録に作主未詳歌とあつて、その下に高安大島と小書してゐる。どちらが正しいか、今からは分らぬ。高安大島は傳未詳。
 
68 大伴の 美津の濱なる 忘貝 家なる妹を 忘れて念へや
 
大伴乃《オホトモノ》 美津能濱爾有《ミツノハマナル》 忘貝《ワスレガヒ》 家爾有妹乎《イヘナルイモヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
私ハ〔二字傍線〕家ニ殘シテ來タ妻ヲ(大伴乃美津能濱爾有忘貝)忘レヨウカ、決シテ忘レハシナイ〔九字傍線〕。
 
○大伴乃美津能濱爾有忘貝《オホトモノミツノハマナルワスレガヒ》――忘るといふ音を繰返して、忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》につづく序詞である。大伴乃御津の濱は六三に出てゐる。○忘貝――「何にても濱邊に打ち上げたる貝をいふ」と檜嬬手・美夫君志に見えてゐるが、海處女潜取云忘貝《アマヲトメカヅキトルトフワスレガヒ》(三〇八四)といふ歌から考へると、ともかくも貝の一種である。古義には蛤に似て小なりと(84)ある。今忘貝と稱するは、瀬戸内海に多い、淡紫色で裏の白い扁平な貝である。○忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》――忘れて思はむや、思はじといふので、忘れて思ふは古い言ひ方で、思ひ忘れむやといふに同じ。
〔評〕 所の物を材として旅情を述べただけである。忘貝、忘草などを忘れにつづける一種の型が出來てゐる。
 
右一首|身人部《ムトベ》王
 
續紀に「和銅三年正月甲子、無位六人部王授2從四位下1」「天平元年正月壬寅正四位上六人部王卒」と見えてゐる。
 
69 草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生に にほはさましを
 
草枕《クサマクラ》 客去君跡《タビユクキミト》 知麻世婆《シラマセバ》 岸之埴布爾《キシノハニフニ》 仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
 
貴方ガ此處ヲ〔三字傍線〕、(草枕)旅立チシテ都ヘ御歸リ〔七字傍線〕ナサルト、私ガ〔二字傍線〕知ツテ居リマシタナラバ、貴方ノ御召シ物ヲ記念ノ爲ニコノ住吉ノ〔貴方〜傍線〕、岸ノ黄色ノ土デ染メマセウノニ、殘念ナコトヲ致シマシタ〔殘念〜傍線〕。
 
○客去君跡《タビユクキミト》――京へ歸られたのであるが、この地を出立するを旅と言つたのである。○知麻世婆《シラマセバ》――麻世《マセ》はマシの未然形。○岸之埴布爾《キシノハニフニ》――埴布の布は借字で、淺茅生・園生・埴生などの如く生と書くべき所である。岸之黄土粉《キシノハニフ》(九三二)とも記してあるから、黄土である。
〔評〕 長皇子に進めた歌である。貴人は都へ歸らうとしてゐられる。あまりの親しさに、今までは旅人たるを忘れたやうになつてゐたので、今は都へ行かれるのが却つて旅のやうに思はれる。その名殘惜しい情は、上の句だけにもよくあらはれてゐる。
 
右一首|清江娘子《スミノエノヲトメ》進(レリ)2長皇子(ニ)1   姓氏未詳
 
姓氏未詳は、清江娘子の姓氏の明かならぬをいつたのである。(六五)の歌の弟日娘だらうと、美夫君志に(85)は言つてゐる。或はさうかも知れない。
 
太上天皇幸(セル)2于吉野宮1時、高市連黒人作(レル)歌
 
太上天皇は持統天皇。古義に、太上天皇の上に、大寶元年辛丑の六字を補つてあるのは、妄である。
 
70 大和には 鳴きてか來らむ 呼子鳥 象の中山 呼びぞ越ゆなる
 
倭爾者《ヤマトニハ》 鳴而歟來良武《ナキテカクラム》 呼兒鳥《ヨブコドリ》 象乃中山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
ヤガテ〔三字傍線〕都ノアタリニ、アノ呼兒鳥〔五字傍線〕ガ嶋イテ行クノデアラウ。今コノ吉野ノ〔六字傍線〕象ノ中山ヲ、呼兒鳥ガ人ヲ〔二字傍線〕呼ブヤウナ聲ヲシテ飛ビ越エテ行クヨ。
 
○倭爾者《ヤマトニハ》――倭は當時の都なる藤原あたりをさしたのである。これはヤマトの狹義的用法で、吉野は別に、吉野の國といつたのである。○鳴而歟來良武《ナキテカクラム》――來良武は行くらむの意、自分は都の者であるから、都の方を内にして言つたのである。○呼兒鳥《ヨブコドリ》――呼兒鳥はカンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥などとも稱し、深山に棲み、(86)大さ鳩の如く、全身黒文、灰黒相雜り、腹は淡黄で白黒文あり、尾は灰赤色で白點あり、目の邊薄赤く、嘴は尖つてゐる。指は前後各二、尖つて黒い。鳴く聲物を喚ぶやうに聞える。○象乃中山《キサノナカヤマ》――吉野の宮瀧の上、喜佐谷村にある。離宮址の前方に聳え、象の小川がその左の谷を流れて、吉野川に注いでゐる。寫眞は釣橋の上から下流に向つた景で、左方の山が象の中山で、その手前の小流が象の小川である。象は和名抄に象、和名岐佐とあつて、元來梵語だといふ。
〔評〕 呼子鳥が面白い聲で、象の中山を鳴き越えるのを聞いて、あの鳥はわが故郷へ行くのだらう。誰があの聲を聞くかと、急に故郷が慕はしくなつた歌。言ひ知れぬうるほひのある歌である。
 
大行天皇《サキノスメラミコトセル》幸(セル)2于難波宮1時(ノ)歌
 
天子の崩御ありて、謚號の定まらぬ間を大行天皇と申す。これは文武天皇である。
 
71 大和戀ひ いの寢らえぬに 心なく この渚の埼に 鶴鳴くべしや
 
倭戀《ヤマトコヒ》 寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》 情無《ココロナク》 此渚崎爾《コノスノサキニ》 多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
只サヘ私ハ〔五字傍線〕、都ノ方ガ戀シクテ眠ラレナイノニ、何ノ斟酌モナク、コノ私ガ旅宿シテヰル難波ノ宮ノ近所ノ海邊ノ〔私ガ〜傍線〕洲ノ崎デ、鶴ガ嶋クト云フコトガアルモノカ。考ノナイ鶴ダ。私ハ家ガ思ヒ出サレテ堪ヘラレヌ。鳴クナラバモツト沖ノ方デ鳴ケバヨイニ〔考ノ〜傍線〕。
 
○寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》――不所宿爾《ネラエヌニ》はねられぬにの意。寐《イ》は眠ること。○此渚崎爾《コノスノサキニ》――渚は、普通ナギサとよむ字のやうに、美夫君志や講義に書いてあるが、集中どこでもスとのみ用ゐてある。波麻渚杼里《ハマスドリ》(三五三三)・河渚爾母《カハスニモ》(四二八八)・渚爾居舟之《スニヰルフネノ》(三二〇三)の如し。この句元暦校本に此渚埼未爾《コノスサキミニ》とある。
〔評〕 情無《ココロナク》といつて、多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》と詰責するやうに言ひ放つたところ、如何にも物あはれである。哀調人を動かすものがある。
 
右一首|忍坂部乙麿《オサカベノオトマロ》
 
(87)この人の傳は明かでない。
 
72 玉藻苅る 沖へは榜がじ 敷妙の 枕のあたり 忘れかねつも
 
玉藻苅《タマモカル》 奧敝波不榜《オキヘハコガジ》 敷妙之《シキタヘノ》 枕之邊《マクラノアタリ》 忘可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
玉藻ヲ刈リ取ル、沖ノ方ヘハ私ハ〔二字傍線〕船ヲ漕イデ出マイ。何故ナレバ玉藻ヲ見レバ、玉藻ニ似タ女ト〔何故〜傍線〕(敷妙之)枕ヲシテ寐タ岸ノ〔二字傍線〕方ガナツカシクテ忘レラレナイヨ。
 
○玉藻苅《タマモカル》――奧《オキ》の枕詞とも考へられるが、恐らくさうであるまい。○敷妙之《シキタヘノ》――枕・床・宅などの枕詞となる。○枕之邊《マクラノアタリ》――僻案抄や古義に、マクラノホトリとあるが、アタリが古いやうである。枕のあたりは女の寢たところをいふ。
〔評〕 この歌は異説が極めて多い。今一々擧げないが、ここでは燈の説に從ふことにした。玉藻は集中、女の靡き寢る樣に譬へてはあるが、どうもかうした言ひ方では、少し謎めいた獨合點になりはしないか。ともかく表現に無理がある歌だ。
 
右一首式部卿藤原|宇合《ウマカヒ》
 
目録に作主未詳とある。式部卿藤原宇合とあるは別の傳か。宇合は不比等の三男で、式家の祖。馬養とも記してあるから、ウマカヒとよむのである。續紀によると、天平九年八月薨とある。公卿補任ではその年齡四十四となつてゐる。假に行幸を、文武天皇崩去の慶雲四年としても、僅かに十五歳の少年で、この歌の内容にふさはしくない。況んや懷風藻には、年三十四とあるから、それによれば、まだほんの嬰兒である。この左註は誤とせねばならぬ。
 
長皇子御歌
 
73 吾妹子を はやみ濱風 大和なる 吾を松椿 吹かざるなゆめ
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》 早見濱風《ハヤミハマカゼ》 倭有《ヤマトナル》 吾松椿《ワヲマツツバキ》 不吹有勿勤《フカザルナユメ》
 
(88)私ハ今旅ニ出テ家ニ殘シテ來タ〔私ハ〜傍線〕吾ガ妻ヲ、早ク見タク思フガ、コノ疾イ濱風ヨ、大和ニ私ヲ待ツテヰル妻ノ所〔ニ私〜傍線〕ノ松ヤ椿ヲ、決シテ決シテ吹カズニ居テクレルナ。是非トモ此方カラ吹イテ行ツテ、私ガ濱風ニ吹カレナガラ、都ヲ思ヒ出シテヰルコトヲ知ラセテクレヨ〔是非〜傍線〕。
 
○吾妹乎《ワギモコヲ》――早見濱風とつづいて序詞的であるが、この語、歌の全體に重要な意義があるから、序詞とは言へない。吾が妹を早く見たいといふ意で下へつづいてゐる。○早見濱風《ハヤミハマカゼ》――早見濱といふ地名と解する説もあるが、難波邊にその地名がない。泊湍川速見早湍乎《ハツセガハハヤミハヤセヲ》(二七〇六)とあるハヤミと同じく、早い濱風の意らしい。○吾松椿《ワヲマツツバキ》――松を待つにかけてゐる。吾を待てる妻の家の松椿の木をの意である。○不吹有勿勤《フカザルナユメ》――吹カズアルナ、ユメで、必ず吹けよの意。
〔評〕 早見濱風だの、吾松椿だのと、掛詞が巧に用ゐられてゐるが、少し煩はしくもあり、難解の傾もある。
 
大行天皇幸(セル)2于吉野宮1時(ノ)歌
 
大行天皇は文武天皇。
 
74 み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜も 我がひとり寢む
 
見吉野乃《ミヨシヌノ》 山下風之《ヤマノアラシノ》 寒久爾《サムケクニ》 爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獨宿牟《ワガヒトリネム》
 
私ハコノ吉野ニ淋シイ旅寢ヲ永ラクシタガ〔私ハ〜傍線〕、コノ吉野ノ山ノ嵐ノ寒イノニ、又シテモ今夜モ、私ガ獨デ寢ルコトカ。嗚呼辛イ〔四字傍線〕。
 
○山下風之《ヤマノアラシノ》――下風はアラシとよむ。山下風波《ヤマノアラシハ》(二三五〇)・下風之吹禮波《アラシノフケレバ》(二六七七)・下風吹夜者《アラシフクヨハ》(二六七九)の類皆さうである。○寒久爾《サムケクニ》――寒けくあるにの意。○爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》――爲當《ハタ》は將《ハタ》、又してもの意。爲當の二字は漢文の熟字を用ゐたのである。○我獨宿牟《ワガヒトリネム》――ワガヒトリネムと、ワレヒトリネムと、兩訓あつて、いづれとも決し難い。語調によつてワガとよむことにしよう。
(89)〔評〕 たるみの無い調子で、旅の淋しさが歌はれてゐる。山の嵐の寒けさが身に迫るやうだ。佳作。
 
右一首或(ハ)云(フ)天皇御製歌
 
端詞に御製とないのは、皆從駕の人の歌である。歌のさまも天皇の御詠とは思はれない。但し新勅撰にこの歌を、持統天皇御製として出したのは、この註によつたのである。拾遺集戀三に、題不知讀人不知、「あしびきの山下風も寒けきに今夜もまたやわが獨りねむ」とある。
 
75 宇治間山 朝風さむし 旅にして 衣借すべき 妹もあらなくに
 
宇治間山《ウヂマヤマ》 朝風寒之《アサカゼサムシ》 旅爾師手《タビニシテ》 衣應借《コロモカスベキ》 妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》
 
私ハ今〔三字傍線〕旅ニ出テ居テ、都トハ違ヒ〔五字傍線〕、着物ヲ貸シテクレル女モナイノニ、宇治間山ノ朝風ガ寒イ。サテサテ思ヒ遣リノナイ朝風ダ〔サテ〜傍線〕。
 
○宇治間山《ウヂマヤマ》――吉野郡池田莊千俣村にありと、大和志に見える。上市町の北にある山で、今千股山と曰ふと。
〔評〕 これもあはれな歌である。この頃下着には、男女の別がなかつたから、女の衣をも男が着用し得たのである。吾妹兒爾衣借香之宜寸河《ワギモコニコロモカスガノヨシキガハ》(三〇一一)・秋風乃寒朝開乎佐農能崗將超公爾衣借益矣《アキカゼノサムキアサケヲサヌノヲカコユラムキミニキヌカサマシヲ》(三六一)など。その例である。
 
右一首長屋王
 
長屋王は天武天皇の御孫、高市皇子の御子、正二位左大臣に至る。天平元年二月讒によつて自盡せられた。懷風藻には「左大臣正二位長屋王三首、年五十四」とある。
 
和銅元年戊申、天皇御製歌
 
元明天皇の御製で、即位の翌年正月和銅と改元せられた。代匠記に和銅元年十一月大嘗會を行はせ給ふ時の御製と見えてゐる。考には和銅元年の前に、寧樂宮の三字を補ひ、戊申の下に冬十一月を脱すとしてゐるが、この時は奈良へ遷都以前で、藤原におはしたのである。十一月とする理(90)由はない。
 
76 ますら男の 鞆の音すなり もののふの おほまへつ公 楯立つらしも
 
大夫之《マスラヲノ》 鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》 物部乃《モノノフノ》 大臣《オホマヘツギミ》 楯立良思母《タテタツラシモ》
 
今〔傍線〕兵士ドモノ鞆ノ音ガスルワイ。軍ノ大將ガ、楯ヲ立テ列ベテ、軍ノ稽古ヲサセテ〔八字傍線〕ヰルラシイワイ。朕ガ即位ノ初ニ蝦夷ガ亂レテヰルノハ嘆カハシイ〔朕ガ〜傍線〕。
 
○大夫之《マスラヲノ》――兵士どもをいふ。○鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》――トモノトスナリとよむ説もあるが、音は場合により、オトともトとも訓む字である。ここは語調から考へて、オトの方がよい。鞆は音物《トモノ》の義と言はれてゐる。革で作つて左手の臂に着ける圓形の物だ。實物は正倉院に存してゐる。延喜式に鞆一枚の料として、熊革一條鞆料長九寸廣五寸、牛革一條鞆手料長五寸廣二寸とあるので、大體その制を知ることが出來る。この具の用法效用に就いて兩説ある。一は左臂の内側に圓形部を出し、弦を防ぐもので、音は即ちその場合に發するのだといふ説、眞淵はこの方である。二は左臂の外側に圓形部を置くといふ説で、弓反りの際弦が當つて音を立て、その音によつて敵を威嚇するのだといふのだ。伊勢貞丈はさういつてゐる。著者も少年時代から弓を學んでゐるものであるが、弦を防ぐ爲に、内側に隆起物があつては、弓勢を殺ぐこと夥しく、又、弓反りの爲には、さしたる音を發するとも思はれないので、二説のいづれをよしとも決し兼ねてゐたが、伴信友の鞆考補證にある、年中行事古畫射遺の圖を見ると、外側に凸起物がない、又武器を帶した埴輪の寫眞を見ると、悉く内側に凸起部があるので、疑問は全く氷解した。挿入の圖は伴信友の鞆考補證に出てゐるもので、二人の射手の圖は、土佐光長の筆になつた建久頃のものといふ。後世のものではあるが、參考のため此處に掲(91)げることにした。なほ、鞆は和字である。その製に從つて革扁とし、その形炎の状をなすによつて、丙を旁としたものか。○物部乃《モノノフノ》――物部は、武事に奉仕する者をいふ。○大臣《オホマヘツキミ》――大前公《オホマヘツキミ》の意で、天子の御前に侍る大官である。ここは將軍をいふ。續紀によれば、和銅二年三月、巨勢麿、佐伯石湯を大將軍として、蝦夷を討たしめられたとあるから、この將軍は即ちこの二人であらう。○楯立良思母《タテタツラシモ》――楯を立てならべて軍の調練をするらしいよの意。
〔評〕 頻りに響いて來る、鞆の音に耳を傾け給うて、今、楯を並べて軍の調練をしてゐるのか「即位の當初から兵を用ゐねばならぬとは、心憂いことよと宣うたので、國を思ふ大御心の内に、女帝らしい柔和さが認められる。
 
御名部《ミナベノ》皇女奉(レル)v和(ヘ)御歌
 
御名部皇女は天智天皇の皇女で、元明天皇の御姉に渡らせられる。
 
77 吾が大王 ものな思ほし 皇神の 嗣ぎて賜へる 吾無けなくに
 
吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》 須賣神乃《スメカミノ》 嗣而賜流《ツギテタマヘル》 吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》
 
アア恐レ多イコトデゴザイマス〔アア〜傍線〕。陛下ヨ、決シテ〔三字傍線〕御心配遊バシマスナ。神樣ガ、陛下ニ〔三字傍線〕次グ者トシテ、地位〔五字傍線〕ヲ賜ハツタ私ガ御座イマス。事件ガアラバ御名代トシテ私ガ何デモ致シテ御力ニナリマセウ〔事件〜傍線〕。
 
○須賣神乃《スメカミノ》――皇神で、天皇の御系統の神をいふのが本義であるが、一般の神をいふこともある。ここはその後者である。○嗣而賜流《ツギテタマヘル》――從來、天つ日嗣の位を繼ぎ賜へると説いたので、次の句吾を君の誤とする説も出たが、新考及び講義の説を參酌して、予は嗣而は次手で、次ぐ者の意としようと思ふ。後繼者の意ではなく、副者の意である。ツギテ、ツイデに、その意があるとするのは無理ではあるまい。賜流《タマヘル》は次手たる地位を賜へる意。○吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》――吾なきにあらざるにの意。即ち吾あるからは心配あらせらるるなと二句へかへるのである。
(92)〔評〕 つはものの鞆の音を聞し召して、物思はしげに宣うた天皇の御言葉を承つて、姉君が、私がついて居りますから大丈夫ですと、御力を添へられた御歌である。調の雄々しさは、やがてこの皇女の御氣質を語るものであらう。
 
和銅三年庚戌春二月、從2藤原宮1遷(ル)2于寧樂宮1時、御與(ヲ)停(メテ)2長屋(ノ)原(ニ)1※[シンニョウ+向](ニ)望(ミテ)2古郷(ヲ)1御作歌
 
ここには二月とあるが、續日本紀に「和銅三年三月辛酉始遷2都于平城1」とある。新古今卷十四※[覊の馬が奇]旅には三月として出てゐる。長屋原は和名抄に山邊郡長屋とあり。今の朝和村大字長原の邊かといふ。
 
一書云太上天皇御製
 
太上天皇は誰を指し奉るか不明。新古今集には元明天皇御歌とある。時代を以て推すに恐らくさうであらう。
 
78 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ 一云、君があたりを見ずてかもあらむ
 
飛鳥《トブトリノ》 明日香能里乎《アスカノサトヲ》 置而伊奈婆《オキテイナバ》 君之當者《キミガアタリハ》 不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》 【一云|君之當乎不見而香毛安良牟《キミガアタリヲミズテカモアラム》
 
(飛鳥)明日香ノ里ヲ立ツテ奈良ヘ〔三字傍線〕行ツタナラバ、アナタガ住ンデヰル明日香ノ里〔ガ住〜傍線〕ノ方ハ見エナイカモ知レナイ。ナツカシイ明日香ノ里ヨ〔ナツ〜傍線〕。
 
○飛鳥《トブトリノ》――明日香の枕詞。飛ぶ島の足輕《アシカル》の、シがスに轉じたとする説、飛ぶ鳥の幽《カスカ》の轉とする説、その他尚多いが、よいと思はれるものがない。飛鳥と書いて直ぐにアスカとよむのは、春日をカスガとよむと同じく、下に來るべき詞を取つたのである。飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》(一六七)とあるから、この用法も古いのである。○明日香能里(93)乎《アスカノサトヲ》――明日香の里は今の飛鳥村の邊である。この御歌は藤原を去り給ふ時の作であるのに、明日香能里乎置而伊奈婆《アスカノサトヲオキテイナバ》と仰せられたので見ると、藤原の宮も、廣義の飛鳥京の一部と、考へられてゐたのであらう。これを宣長が、持統天皇が飛鳥から藤原へ遷都の時の御製として、和銅三年を否定したのは妄である。○君之當者《キミガアタリハ》――君が住む明日香の里の邊はの意。
〔評〕 飛鳥の里は欽明天皇の御代の、佛教草創の地であり、推古天皇以來の皇居であつた。孝徳・天智の二帝は都を他に遷されたけれども、此處に根を張つた舊勢力は、再び都を復さしめた。この頃の人の飛鳥京に對する執着は、蓋し想像の外であつたらう。さう思つて見ると、政策上止むを得ず寧樂に移られるのであるが、至尊の御心中にも、堪へ難いものがあらせられたであらう。偶舊都に殘る人を偲ぶに托して、君があたりは見えずかもあらむと、胸中の思慕の情を洩し給うたのであらう。あはれな感情が溢れた御作である。
 
或本、從2藤原宮1遷(ル)2于寧樂宮1時(ノ)歌
 
普通の萬葉集の本に無かつたものを加へたことを、明らかにしたもので、美夫君志には梨壺で點をつけた時に、或本を校合して書き加へたものかと言つてゐる。
 
79 大きみの 御命かしこみ 柔《にき》びにし 家を置き 隱國の 泊瀬の川に 舶浮けて 吾が行く河の 川隈の 八十隈おちず 萬づ度 かへりみしつつ 玉ぼこの 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやに見ゆれば 栲《たへ》の穗に 夜の霜降り 磐床と 川の氷凝り 寒き夜を 息ふことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 來まさむ君と 吾も通はむ
 
天皇之《オホキミノ》 御命畏美《ミコトカシコミ》 柔偏爾之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲオキ》 隱國乃《コモリクノ》 泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》 ※[舟+共]浮而《フネウケテ》 吾行河乃《ワガユクカハノ》 川隈之《カハクマノ》 八十阿不落《ヤソクマオチズ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲乍《カヘリミシツツ》 玉桙乃《タマボコノ》 道行晩《ミチユキクラシ》 青丹吉《アヲニヨシ》 楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》 佐保川爾《サホカハニ》 伊去至而《イユキイタリテ》 我宿有《ワガネタル》 衣乃上從《コロモノウヘユ》 朝月夜《アサヅクヨ》 清爾見者《サヤニミユレバ》 栲乃穗爾《タヘノホニ》 夜之霜落《ヨルノシモフリ》 磐床等《イハドコト》 川之水凝《カハノミヅコリ》 冷夜乎《サムキヨヲ》 息言無久《イコフコトナク》 通乍《カヨヒツツ》 作家爾《ツクレルイヘニ》 千代二手《チヨマデニ》 來座多公與《キマサムキミト》 吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
都ヲ遷スゾトノ〔七字傍線〕天子樣ノ御命令ヲ畏マリ、御承ケヲシテ、久シク住ミナレテ居心地ノヨイ家ヲ放レテ、(隱國乃)(94)泊瀬川ニ船ヲ浮ベテ、私ガ通ル河ノ曲リ角ノ、澤山ノ曲リ角毎ニ、一ツモ洩レナク、萬遍モ振リ返ツテ見テ、川ノ〔二字傍線〕(玉桙乃)途中デノ日ヲ暮シ、(青丹吉)奈良ノ都ノ佐保川ニ行ツテ、其處ニ宿ルト〔六字傍線〕、私ガ被ツテ〔三字傍線〕寢テヰル着物ノ上カラ、明ケ方ノ月ガ清ク照ルノガ見エルノデ見ルト〔三字傍線〕、白イ布ノヤウニ眞白〔二字傍線〕ニ夜ノ霜ガ降ツテ居〔三字傍線〕リ、又磐ノ床ノヤウニ平ニ堅ク〔四字傍線〕川ノ水ガ氷ツテ、寒イ晩ニ少シモ私ハ〔五字傍線〕休マズニ、藤原カラ船デコノ奈良ヘ〔十一字傍線〕通ツテ作ツタコノ家ニ、來テ〔二字傍線〕千年モ御住ヒナサル貴方デスカラ、私モ亦度々〔二字傍線〕彼處カラ通ツテ參リマセウ。
 
○柔備爾之《ニキビニシ》――丹杵火爾之家從裳出而《ニキビニシイヘユモイデテ》(四八一)とあるから、これもニキビニシとよむべきである。柔備爾之家《ニキビニシイヘ》は住み馴れた親しい家。○家乎擇《イヘヲオキ》――舊訓はイヘヲエラビテであるが、面白くない。但し擇の字は擇月日《ツキヒエリ》(二〇六六)擇爲我《エラエシワレゾ》(二四七六)・擇擢之業曾《エラエシワザゾ》(二九九九)のやうに、すべてエルとよんである。これを放の誤として、イヘヲサカリテとよむ略解説は、廣く行はれてゐるが、冷泉本に釋とあるによつて、イヘヲオキとよまう。オキは倭乎置而《ヤマトヲオキテ》(二九)京乎置而《ミヤコヲオキテ》(四五)・明日香能里乎置而伊奈婆《アスカノサトヲオキテイナバ》(七八)のオキである。但し釋の字、集中に一度も見えない。恐らく擇は釋に通じて用ゐられるのであらう。○隱國乃《コモリクノ》――枕詞。四五參照。○泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》――泊瀬川は今の大和川の上流で、初瀬から佐保川との合流地點までをいふらしい。○※[舟+共]浮而《フネウケテ》――※[舟+共]は繹名に「艇小而深者曰v※[舟+共]」とあるやうに、小舟である。〇八十阿不落《ヤソクマオチズ》――阿は岸・岡・曲・隅などと同義の文字。八十阿は多くの隈、不落《オチズ》は洩らさず。○玉桙乃《タマボコノ》――道の枕詞。玉桙の刃《ミ》とつづくと言はれてゐるが、古の桙は比比羅木之八尋矛《ヒヒラギノヤヒロボコ》とあるやうに、全部木製で、刃《ミ》といふ部分が無かつたのではないかと思はれる。鉾の字を用ゐず、特に和字桙を以て記すのも、その爲ではあるまいか。桙には幡《ハタ》を附ける爲に、乳と稱するものがあるからだといふ説に從つて置かう。○道行晩《ミチユキクラシ》――道を歩いてゐるうちに日が晩れること。道は川の道で、初瀬川から佐保川へかけての舟行をいふ。陸路と見る説は誤つてゐる。○青丹吉《アヲニヨシ》――奈良の枕詞。一七參照。〇佐保川爾《サホカハニ》――佐保川は春日に源を發し、今の奈良市の北部佐保地方を流れ、古の寧樂の都を貫流し、北吐田村のあたりで初瀬川に合する。○伊去至而《イユキイタリテ》――伊は發語。○衣乃上從《コロモノウヘユ》――被つて寢てゐる衣の上からの意。考に衣を床としたのは誤解である。○清爾見者《サヤニミユレバ》(95)――考の説に從つてサヤニミユレバとよむ。清《サヤ》は月のさやかなるを言ふので、明瞭に見るといふのではない。○栲乃穗爾――※[栲の異体字]と書くを正しとす。栲は別字なるを混同したのだ。※[栲の異体字]は※[木+紵の旁]楮に同じく、カウゾの類。栲は爾雅に山樗也とある。※[栲の異体字]はタヘ又はタクと言つて、この木の皮を以て、布を織つたのである。白いものであるから、白又は雪の字をタヘとよんだ例もある。即ちタヘノホは白いことで、穗《ホ》は賞めていふ言葉。國の秀《ホ》などと同じであらう。○磐床等《イハトコト》――磐の平らなるをいふ。等《ト》は、の如くにの意。○川之水凝《カハノミヅコリ》――水は氷に作つてゐる本が多いが、水になつてゐる古本に從はう。凝は磐根己凝敷《イハネコゴシキ》(一一三〇)・興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》(三二七四)・根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロゴロニ》(三二八四)・凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》(三〇一)・味凝《ウマゴリ》(一六二)・潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》(九七六)などの如く、ゴ、コゴ、ゴリとよんである字である。元來この字を斯くよむのは字音らしい。この字は蒸韻魚陵切、呉音ゴウで、韻を省いてゴ、省かなければコゴ、ゴリとなるのである。音訓の一致は偶然か否か分らないが、この字をゴリとのみよんで、他の活用形に用ゐてないところを見ると字音らしい。元來蒸韻はngの音であるから、語尾が、リに轉ずるのである。それは敦賀《ツルガ》・播磨《ハリマ》などの例に明らかなる如くである。これを字音とすれば、コゴリとも、コホリとも、よめないことになつて、コリのみが許されるわけになる。但し凝は濁音だから、コリと清音には、よめまいといふ人もあるかも知れないが、萬葉假名は殆ど清濁の別が無いから、拘泥してはならぬ。○冷夜乎《サムキヨヲ》――サユルヨヲ、サムキヨヲの兩訓のうち、いづれとも決し難い。冷の字は冷成奴《スズシクナリヌ》(二一〇三)・冷芽子丹《アキハギニ》(二一六八)などがあるばかりで、サユルとは訓んだ例が無いが、世間之遊道爾冷者《ヨノナカノアソビノミチニサブシクハ》(三四七)とある冷《サブシク》は、多少の近似點があるから、サムキヨと訓むことにした。○千代二手《チヨマデニ》――二手をマデとよむのは、左右をマデとよむと同じく、用例が澤山ある。○來座多公與《キマサムキミト》――多は牟の誤とする燈の説に從ふべきだ、キマサムキミトは來給はむ君と共にの意。來の字、爾の誤として上の句につけ、座牟公與をイマサムキミとよむ説もある。多公はオホキミの意かと講義にあるが、集中には多の字オホとよんだ例を見ない。
〔評〕 寧樂に新都造營の勅が出た。藤原あたりに住んでゐた工匠らは、佐保川の兩岸に展開してゐる奈良平野を、都にすべく急いで行つた。この歌は或る貴人の命によつて、邸宅建築に從つた工人が、その落成に際して、今までの苦心を述べ、新室の悠久をことほいだものである。藤原から三輪あたりへ、そこから初瀬川を下つて北(96)上し、更に佐保川を遡つて奈良に至り、川原に舟を泊めて工作に從事した間の、景と情とが、目に見るやうにあらはされて、身もそぞろ寒きを覺えるばかりである。
 
反歌
 
80 あをによし 寧樂の家には 萬代に 吾も通はむ 忘ると思ふな
 
青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 吾母將通《ワレモカヨハム》 忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
 
アナタ樣ノ〔五字傍線〕(青丹吉)奈良ノ御宅ヘハ、萬年マデモ變ラズニ、私モ彼處カラ〔四字傍線〕通ツテ參リマセウ。古京ト新京ト離レテヰテモ私ガ〔古京〜傍線〕、忘レルコトガアルトハ思召シナサルナ。
 
○忘跡念勿《ワスルトオモフナ》――跡を而の誤かとして、ワスレテオモフナとする新考の説は賛成出來ぬ。これは自分のことだけを言つてゐるのである。高山岑行宍友衆袖不振來忘念勿《タカヤマノミネユクシシノトモヲオホミソデフラズキヌワスルトオモフナ》(二四九三)・人事茂君玉梓之使不遣忘跡思名《ヒトゴトヲシゲミトキミニタマヅサノツカヒモヤラズワスルトオモフナ》(二五八六)の類皆同じである。
〔評〕長歌の終の部を、更に言ひ反しただけである。
 
右歌作主未v詳
 
作の字の無い古本も數種ある。
 
和銅五年壬子夏四月、遣(ス)2長田王(ヲ)于伊勢|齊宮《イツキノミヤ》1時、山邊御井(ニテ)作歌
 
長田王は續紀に「天平九年六月甲辰朔辛酉、散位正四位下長田王卒」とある。天武天皇の皇子長親王の御子だともいふが確かでない。伊勢齋宮は伊勢神宮に奉仕し給ふ内親王、又はそのおはします宮、ここは後者である。伊勢多氣郡に齋宮村がある。御所の址は字御館といつて今に殘つてゐる。齊は齋に通用せしめたか。山邊御井は伊勢鈴鹿郡山邊村にある由、玉勝間に委しく論じてあるが、山田孝雄氏はこれを退けて、壹志郡新家村なることを考證してゐる。二四の地圖參照。
 
81 山の邊の 御井を見がてり 神風の 伊勢處女ども 相見つるかも
 
(97)山邊乃《ヤマノベノ》 御井乎見我?利《ミヰヲミガテリ》 神風乃《カムカゼノ》 伊勢處女等《イセヲトメドモ》 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕山邊ノ御井ヲ見ニ來タツイデニ、思ハズモ御井ノアタリデ美シイ〔思ハ〜傍線〕、(神風乃)伊勢ノ少女等ヲ見タワイ。思ヒ掛ケナク面白カツタ〔思ヒ〜傍線〕。
 
○御井乎見我見利《ミヰヲミガテリ》――見がてりは見がてらに同じ。見る序にの意。○神風乃《カムカゼノ》――伊勢の枕詞。よく分らないが、神風の息《イ》とする説に從つて置かう。風は科戸《シナト》の神の息である。○伊勢處女等《イセヲトメドモ》――御井のほとりに行宮があり、その宮女かといふ説があるが、果してどうであらう。里の少女ではあるまいか。古義には伊勢處女は一人の美人の名とし、等《ドモ》は複數でないと言つてゐる。
〔評〕名高い御井を見に立ち寄つたところ、美しい伊勢の少女にも出逢つたと、二つながら見得て、旅情を慰め得たことを喜んだ歌である。長閑な氣分だ。
 
82 うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天の時雨の 流らふ見れば
 
浦佐末流《ウラサブル》 情佐麻禰之《ココロサマネシ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天之四具禮能《アメノシグレノ》 流相見者《ナガラフミレバ》
 
(久堅乃)天カラ降ル時雨ガ、斜ニ降リ注グノヲ見ルト、私ハタダサヘ旅中ノ〔九字傍線〕心淋シサガ、甚ダシクナルバカリダヨ。何故コンナニヒドク時雨ガ降ルノダラウ〔バカ〜傍線〕。
 
○浦佐夫流《ウラサブル》――心の淋しいこと。樂浪乃國都美神乃浦佐備而《ササナミノクニツミカミノウラサビテ》(三三)とは少し違ふ。○情佐麻彌之《ココロサマネシ》――彌は禰の誤と言つた契沖説に從つて、ココロサマネシとよむ。佐は發語、麻彌之《マネシ》は、多し、甚だし、頻なりといふやうな意。○久堅乃《ヒサカタノ》――天・空・日・月・などの枕詞。瓠形《ヒサカタ》の意で、天が圓く空虚であるのを、瓠に譬へたのだといふ説が廣く行はれてゐる。この他、日刺す方、日離《ヒサガ》る方など種々ある。○天之四具禮能《アメノシグレノ》――天より降る時雨の意。時雨は後世は、初冬の雨としてゐるが、この集では秋に詠じたもの多く、長月乃鐘禮乃雨丹《ナガツキノシグレノアメニ》(二一八〇)もあれば又、十月鐘禮乃雨丹《カミナヅキシグレノアメニ》(三二一三)も無いではない。ともかく秋から冬へかけて降る、村雨を言つたのだ。○流相見者《ナガラフミレバ》(98)――ナガラフは流るの延言。流るは斜に降ること。永く續くといふ解は當らない。
〔評〕一二の句の言ひ方に古風なところがある。斜に降り注ぐ雨の脚を見つめて、淋しがつてゐるところである。御井には關係ない歌で、時季も違つてゐる。
 
83 わたの底 沖つ白浪 立田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
 
海底《ワタノソコ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》 何時鹿越奈武《イツカコエナム》 妹之當見武《イモガアタリミム》
 
(海底奧津白浪〕立田山ヲ何時私ハ〔二字傍線〕越スダラウ。アノ山ヲ越シテ終へバ戀シイ女ノ家ガ見ラレルガ〔アノ〜傍線〕、女ノ家ガ見タイモノダ。アア待チ遠イ〔六字傍線〕。
 
○海底奧津白浪《ワタノソコオキツシラナミ》――立つと言はん爲の序詞。奧《オキ》はすべて物の奧深いことをいふから、海の底の奧とつづけて、序詞とし、下へは沖の意で、沖つ白浪と言つて立の序としたのだ。〇立田山《タツタヤマ》――生駒郡三郷村の西方信貴山の南方に連つた山で河内に跨つてゐる。大和から西方諸國に通ずる要路で、天武天皇八年十一月、此所に關を設置せられた。
〔評〕序の用ゐ方が、伊勢物語と古今集とにある「風吹けば沖つ白浪立田山夜半にや君がひとり越ゆらむ」に似てゐる。この歌は西の國から大和へ歸る旅人が、遙かに故郷を思つて詠んだものであるから、御井とは何等關係はない。
 
右二首今案(ズルニ)不v似2御井(ニテ)所(ニ)1v作、若疑(ラクハ)當時誦(セル)之古歌歟
 
右の二首は、この注の通り御井での作ではあるまい。けれども目録に山邊御井作歌三首とあるから、古くからさう傳へられてゐたのであらう。これが長田王の作か、或はこの注の如く古歌を誦したものか、今から知る由はないが、ついでに此處に長田王の作を掲げるといふのも少し變であるから、或は古歌を誦したものかも知れない。
 
寧樂宮
 
(99)長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1惧(ニ)宴(セル)歌
 
舊本に寧樂宮の三字が、この長皇子の上に冠して記されてゐる。目録も同樣に記されてゐるが、誤なることは論がない。寧樂宮の三字は此處に入るべきではなく、上の和銅五年壬子夏四月遣長田王云々、の前に置くべきものを、誤つて此處に入れたのである。長皇子は天武天皇の皇子で、志貴皇子は天智天皇の皇子。佐紀宮は寧樂の都の西北、今の平城村、都跡《ミアト》村(大字、佐紀)伏見村の邊にあつた宮で、長皇子の御殿であつたらしい。志貴皇子の宮は高圓にあつたことは卷二の卷末の歌に明らかである。
 
84 秋さらば 今も見るごと 妻ごひに 鹿鳴かむ山ぞ 高野原の上
 
秋去者《アキサラバ》 今毛見如《イマモミルゴト》 妻戀爾《ツマコヒニ》 鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》 高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》
 
今私ドモハ此處デ秋ノ景色ヲ賞シテヰルガ〔今私〜傍線〕、コノ高野原ノ山ノ手ハ、秋ニナツタナラバ何時デモ毎年〔六字傍線〕、丁度今我ラガ〔三字傍線〕見ルヤウニ、妻ヲ戀ヒ慕ツテ鹿ガ鳴ク山デアリマスヨ。又來年モ此處デ樂シク遊ビマセウカラ必ズ御出デ下サイ〔又來〜傍線〕。
 
○秋去者《アキサラバ》――秋來らばの意。今毛見如《イマモミルゴト》とあるから、この宴の時、秋であつたのである。即ち秋去者《アキサラバ》の秋は、明年以後毎年の秋をいふ。○今毛見如《イマモミルゴト》――今も見るとは、眼前に鹿が山に鳴きながら遊んでゐる景で、昔は鹿が多かつたから、人家近くに來て鳴いてゐた。○鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》――鹿はカとよむがよい。シカとよむ時は勝牡鹿乃《カツシカノ》(四三一)・小牡鹿之角乃《ヲシカノツヌノ》(五〇二)・棹牡鹿鳴母《サヲシカナクモ》(二一五〇)・妻呼雄鹿之《ツマヨブシカノ》(二一四一)・住云男鹿之《スムチフシカノ》(二〇九八)などの如く、牡鹿・雄鹿・男鹿などと記すのが常である。極めて稀に鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》(五六六)の如きが無いではないが、それは特例である。○高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》――高野原は佐紀の宮のあるところで、この邊一體を高野と言つたのである。續紀に「葬2高野天皇於大倭國添下郡佐貴郷高野山陵1」とあつて、他に成務・神功皇后などの御陵もある。此處の高地は即ち高野山で、低地は高野原である。宮は山麓にあつたらしい。高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》は即ちこの高地の高野山を指したもので、佐紀(100)山といふも同じであらう。卷十に佐紀山爾開有櫻之花乃可見《サキヤマニサケルサクラノハナノミユベク》(一八八七)とあるから、櫻の名所でもあつたのだ。宇倍《ウヘ》を藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》(五〇)と同じく、あたりと解く説もあるが、ここは山曾《ヤマゾ》あるのを受けてあるから、この字倍《ウヘ》は山を云ふのであらう。
〔評〕 從來この歌は解き難いもののやうに考へられてゐたが、別段むづかしいこともなく、却つて安らかな作である。今頻りに鳴く鹿の淋しい聲、それは妻を戀して鳴くらしい、悲しい聲である。その聲する方を見れば、落葉するあたりに、嚴めしい角も見えてゐる。この我が佐紀の宮は、高野原に面し、佐紀山を負ひ、景色は捨て難いところである。今日の宴何の好下物もないが、この好景に對し、かの鹿の音に聞き入りつつ、盃を擧げ給へ。かくて今年のみならず、秋ともならば、何時にても今日と同じく好景あり、鹿の音も聞える。必ず忘れず訪れ給へと宣うたので、親密な友情がよくあらはれてゐる。
 
右一首長皇子
 
これによると、志貴皇子の御歌もあつたのではないかと思はれる。
 
萬葉集卷第一終
 
卷第二
 
萬葉集卷第二解説
 
(101)卷二は卷一と姉妹篇で、時代の古い作者の明らかな歌を集めてゐる。卷一に雜歌のみを收めたのに對して、これは相聞と挽歌とを集めてゐる。相聞の部は、難波高津宮御宇天皇代・近江大津宮御宇天皇代・明日香清御原宮御宇天皇代・藤原宮御宇天皇代で、挽歌は後岡本宮御宇天皇代・近江大津宮御宇天皇代・明日香清御原宮御宇天皇代・藤原宮御宇天皇代・寧樂宮とし、卷一と同じやうに、皇都の所在地を以て時代を分けてゐる。卷一は、雄略天皇の朝からの歌であるが、これは更に遠く仁徳天皇の御代のものが掲げられてゐる。併しその歌數も數首に過ぎず、その時代も亦信じ難いものである。相聞の部には年月の明記せられたものはなく、挽歌の部には天武天皇崩後八年九月九日の御齋會の夜の夢中の歌と、大寶元年紀伊行幸の時の歌と、寧樂宮の部にあるものとだけが年月が記されてゐる。併し年月の記してないものも、天皇や皇族の崩御薨去に關したものは、年代はおのづから明らかで、それを辿つて調べて見ると、大體年代順に正しく駢べられてゐることがわかる。ただ、明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮の時の歌が、高市皇子城上殯宮時の歌よりも前に置かれ、但馬皇女薨後の穗積皇子の歌が、弓削皇子薨時置始東人の歌よりも前にあるのは、順序が転倒してゐる。歌數は百四十九首あり、他に古事記の歌が一首引かれてゐる。その内・長歌が十九首で、殘が短歌である。この内には、或本の異傳も含まれてゐるかち、實數はまう少し少いわけである。相聞・挽歌の(102)二部共に、皇室に關係したものが大部分を占め、眞率な戀歌や、悲痛な哀傷の歌の間に、この時代の皇族間の軋轢と、それに關聯した悲劇とが、痛々しく展開せられてゐる。作者としては、天智天皇・天武天皇・持統天皇を始め、磐姫皇后・鏡王女・藤原夫人・大伯皇女・但馬皇女・大津皇子・有間皇子など、皇室關係の方方が多く、いづれもあはれな作を遺して居られるが、併し何と言つても、この卷での大立者は柿本人麿で、他を壓し群を拔いて、燦然たる光輝を放つてゐる。人麿の雄篇は、この卷に集め盡されてゐると稱してもよいほどで、萬葉集中の最大篇であり、和歌史上長歌の第一傑作と謂はれてゐる高市皇子尊城上殯宮時の作もこの卷にあるのである。その他、藤原鎌足・三方沙彌・山上憶良・長忌寸意吉麿・石川郎女・巨勢郎女らの名も見えてゐる。
又、この卷一卷二の兩卷は、寧樂宮に入つてから間もなく編纂せられたもので、元明天皇から元正天皇の御代にかけて、古事記や日本書紀・風土記などの出來たあの氣運が生み出したものかも知れない。兩卷とも卷末に寧樂官の歌はほんの申譯に僅かばかり載せてあるのも、それを思はしめる。又、寧樂宮とのみあつて、御宇天皇代が添へて無いのは、未だ天皇御一代も經過してゐなかつた爲かも知れない。ともかくこの卷二は、卷一と共に、奈良朝の冒頭に於て編輯し、精撰せられたものであらう。
 
(103)萬葉集卷第二
 
相聞
難波高津宮御宇天皇代
 磐姫皇后思2天皇1御作歌四首
 或本歌一首
 古事記歌一首
近江大津宮御宇天皇代
 天皇賜2鏡王女1御歌一首
 鏡王女奉知歌一首
 内大臣藤原卿娉2鏡王女1時鏡王女贈2内大臣1歌一首
 内大臣報2贈鏡王女1歌一首
 内大臣娶2采女安見兒1時作歌一首
(104〜109、目次省略)
 
(111)相聞
 
相聞はサウモンとよむ。これは文選の曹子建與2呉季重1書に、「口授不v悉往來數相聞」とあるなどから出た熟字で、呂向の注に「聞問也」とあるので分るやうに、互に問ひかはす意である。これを訓讀して、眞淵はアヒギコエとし、古義にはシタシミウタとあるが、もし訓を附したものとするならば、アヒギコエがよいであらう。主として男女の間に交換せられた戀歌が集められてゐるが、中には親子兄弟の間に取りかはされた往來の歌も稀には載せられてゐる。
 
難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯《オホササギノ》天皇
 
この皇居の所在は明確でないが、古の難波の崎の北端、今の大阪城の邊らしい。
 
磐姫皇后思2天皇1御作歌四首
 
磐姫皇后は葛城襲津彦の女、履仲・反正・允恭の三天皇を生み給うた。天皇の三十五年筒城宮に薨じ給ひ、三十七年那羅山に葬り奉つた。皇后には御名を記さぬ例であるが、天皇が皇子にましました時よりのならはしに從つて、かくよび奉つたのであらう。磐姫の二字を後人のさかしらとして、取り去らむとする考、古義などの説は從ひがたい。
 
85 君が行 け長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか持たむ
 
君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》 山多都禰《ヤマタヅネ》 迎加將行《ムカヘカユカム》 待爾可將待《マチニカマタム》 
 
陛下ノ御旅行ハ、日數ガ多ク經《タ》チマシタ。私ハ淋シク戀シクテ堪ヘラレマセヌ〔私ハ〜傍線〕。アノ山路ヲ尋ネテ御迎ニ參リマセウカ。ソレトモ御歸ニナルノヲ宅ニ居テ〔ソレ〜傍線〕、タダ待チニ待ツテ居リマセウカ。ドウシタモノデセウ〔九字傍線〕。
 
(112)○君之行《キミガユキ》――御幸といふに同じで、行は名詞である。吾行者久者不有《ワガユキハヒサニハアラジ》(三三五)・吾去者七日不過《ワガユキハナヌカハスキジ》(一七四八)・枳美可由伎氣那我久奈理努《キミガユキケナガクナリヌ》(八六七)・君之往若久爾有婆《キミガユキモシヒサナラバ》(四三三八)など皆さうである。○氣長成奴《ケナガクナリヌ》――氣は日に同じ。この語が轉じて日《カ》となつたのである。○山多都禰《ヤマタヅネ》――山尋ねである。禰を美夫君志にノの假字に用ゐたものだと論じてゐるが、韻鏡を振廻し過ぎた失敗である。禰をノの假名に用ゐた例は全く無い。
〔評〕 これは左註にある古事記の衣通王の歌と同歌の異傳である。歌調から見ても、却つて衣通王のものよりも新しい感がある。但しこの歌を古事記の歌の謬傳とした考・略解の説は從ふべきでない。下句に待つ人の煩悶の情がよくあらはれてゐる。
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
類聚歌林に就いては卷一の六の左註參照。
 
86 かくばかり 戀ひつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
 
此如許《カクバカリ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》 死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕コレ程マデモ貴方ヲ〔三字傍線〕戀ヒ慕ツテヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕高イ山ノ岩ヲ枕トシテ、巖ノ中ニ葬ラレテ〔八字傍線〕、死ナウモノヲ。カウシテ生キテヰテ徒ラニ煩悶シテ苦シンデヰル〔カウ〜傍線〕。
 
○戀乍不有者《コヒツツアラズハ》――戀ひつつあらむよりはの意と、宣長の玉の緒に説明せられてゐるのが、一般に行はれてゐる。語意は大體それでよいが、山田孝雄氏の奈良朝文法史に、この「ずは」を説明して、「云々の事を今現に云爲す。若出來うべくば、之と正反對に即、之を否定して、次にいふ云々の事を云爲すべきを」といふ意としてゐる。「戀してゐないで寧ろ」と譯したら、大體當つてゐるだらう。○磐根四卷手《イハネシマキテ》――岩根を枕としての意。磐根の根は接尾語で、四《シ》は強める助詞。この語の解は山の中で、岩を枕して倒れ死ぬこととする説と、山中に葬られることとする説と、二つに分れてゐる。古代の墓地の構造から考へて、後説がよいやうである。人麿が死に臨んで作つた。鴨山之磐根之卷有吾乎鴨《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモ》(二二三)も同樣の言ひかたである。
(113)〔評〕略解にこれより以下三首は、皇后の御歌とあるが、これも皇后の御歌がそのままに傳つたものではない。寧ろ切なる戀を歌つた民謠が、歴史に結び付いて、皇后の御歌として傳へられるやうになつたものである。歌調もこの時代のものとしては新しい。
 
87 在りつつも 君をば待たむ うち靡く 吾が黒髪に 霜の置くまでに
 
在管裳《アリツツモ》 君乎者將待《キミヲバマタム》 打靡《ウチナビク》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》
 
カウシテ居テコノ長ク垂レテヰル私ノ黒髪ニ、霜ガ降ルマデモ、外ニ出テ居テ〔六字傍線〕、貴方ノ御|來《イデ》ヲ待チマセウ。
 
○在管裳《アリツツモ》――屋外に立つてゐるところであるから、この句は、かうして立ちてありつつもの意である。これを考に生き存へてありつつもの意とし、これに從ふ説が多いが、それは誤つてゐる。前の歌と連絡せしめようとするからの誤である。○打靡《ウチナビク》――黒髪に續く枕詞とする説が多いが、ここはさう見ない方がよからう。○霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》――これを白髪になるまでと見た説は惡い。日の字をニの假名に用ゐた例は他に無い。唯一の例である。先人の疑はなかつた所であるが、予は或は耳《ニ》又は目《モ》の誤ではなからうかと思つてゐる。
〔評〕 これは次の或本歌と同じ意味で、やはり民謠風の作だ。女の歌としてやさしい感情が出てゐる。
 
88 秋の田の 穗の上に霧らふ 朝霞 いづへの方に 我が戀ひやまむ
 
秋之田《アキノタノ》 穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》 朝霞《アサガスミ》 何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》 我戀將息《ワガコヒヤマム》
 
秋ノ田ノ稻ノ〔二字傍線〕穗ノ上ニ朝ノ霞ガカカツテヰル。コノ朝霞ハドチラノ方カヘ自然ニ消エテ終フモノダガ〔コノ〜傍線〕、私ノコノ戀シイ心ハ何方《ドチラ》ノ方ニ消エテ行クダラウ。ドウモ辛クテタマラヌ、何トカシテコノ思ヲ無クシタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○秋之田《アキノタノ》――この句を秋田之の誤とした拾穗本・古義は、不要の修正をしたものである。○穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》――霧相は遮《キ》るの延言。キリアフの約とするのは惡い。檜嬬手に、きらきら渡るとあるのは論外。○朝霞――秋の歌に霞とあるのはをかしいやうであるが、この頃は霧霞を區別しなかつたもので、波流能能爾紀利多知和多利《ハルノノニキリタチワタリ》(八三九)霞立天河原爾《カスミタツアマノカハラニ》(一五二八)・春山霧惑在《ハルヤマノキリニマドヘル》(一八九二)などが、その例である。○何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》――邊の字は清んで讀むがよ(114)い。いづれの方の方向にの意。○我戀將息《ワガコヒヤマム》――息の字、遣の誤とある新考の説は賛成出來ない。
〔評〕 上句の譬喩が面白い。晴れない胸の思ひを秋の田に棚曳く朝霞と比較し右の霞は何處へか消失するが、さてこの惱みは如何にせば消えるかと悶えたもの。さすがに古調ではあるが、皇后の作でないことは確である。
 
或本(ノ)歌(ニ)曰(ク)
 
89 居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 吾が黒髪に 霜は降るとも
 
居明而《ヰアカシテ》 君乎者將待《キミヲバマタム》 奴婆珠乃《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 霜者零騰文《シモハフルトモ》
 
私ノ(奴婆珠乃)黒髪ニ、霜ガ降ツテモカマハズニ家ノ外ニ〔九字傍線〕居テ、寢ナイデ夜ヲ〔六字傍線〕明カシテ、貴方ノ御イデ〔四字傍線〕ヲ待チマセウ。
 
○居明而《ヰアカシテ》――代匠記初稿本にヲリアカシテとあり、それに從ふ説も多いが、ヰアカシテでも同じである。居の字ヰともヲリとも兩樣によまれてゐる。寢ないでゐて夜を明かす意。○奴婆珠乃《ヌバタマノ》――黒の枕詞。諸説あるが、烏扇又は檜扇と稱する草で、黒い實がなるから、かく用ゐられるのだ。鳶尾《イチハツ》科、射干屬の多年生草本、葉の排列状態が檜扇を廣げたのに似てゐる。花は帶黄色又は帶赤色で、濃紫色の點がある。
〔評〕 この歌は前の在管裳《アリツツモ》の歌の異傳で、意味は殆ど違はない。秋之田《アキノタノ》の歌の前に置くべきであるが、右の四首を磐姫皇后の御歌としたから、中に挾まないで終に記したのであらう。歌の氣分も在管裳《アリツツモ》の歌によく似てゐる。
 
右一首古歌集中出
 
古歌集の名は、卷二・卷七・卷九・卷十・卷十一などに見える。何人かが古い歌を集めたもので、萬葉以前の歌集である。
 
(115)古事記(ニ)曰(ク)輕太子、奸《タハク》2輕(ノ)太郎女(ニ)1、故其(ノ)太子(ハ)流(サル)2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也、此(ノ)時衣通王、不v堪2戀慕(ニ)1而追(ヒ)往(ク)時(ノ)歌(ニ)曰(ク)
 
90 君が行 け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
 
君之行《キミガユキ》 氣長久成奴《ケナガクナリヌ》 山多豆乃《ヤマタヅノ》 迎乎將往《ムカヘヲユカム》 待爾者不待《マツニハマタジ》
 
此(ニ)云(ヘル)2山多豆(ト)1者、是今|造木《ミヤツコギ》者也
 
これは卷首の歌に就いて、考證したのである。但し古事記の文をそのまま取つたものでなく、摘要して繋ぎ合はせたものである。この衣通王は輕太郎女の別名で、日本書紀にある、「和餓勢故餓勾倍枳豫臂奈利佐瑳餓泥能區茂能於虚奈比虚豫比辭流辭毛《ワガセコガクベキヨヒナリササガニノクモノオコナヒコヨヒシルシモ》」と詠まれた允恭天皇の妃、衣通姫とは別人である。此の君之行《キミガユキ》の歌は三の句以下に於て、少しく異なつてゐるが、同歌たることは爭はれない。山多豆乃《ヤマタヅノ》は、今造木者也と註があるが、これを宣長は造木は建木の誤で、タツゲ、即ち立削《タツケ》で手斧のこと。山多豆は山釿(山手斧)で、手斧の刃はこちらに向いてゐるから、迎の冠詞となる、といふやうな説明をしてゐるが、造木はミヤツコギで、即ち今轉訛してニハトコ(接骨木)といふ。その葉が對生してゐるから、むかへの上に冠するのである。まう一つ注意すべきは、この註の歌の書き方は古事記の用字を勝手に書き直したことで、古事記には「岐美加由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都爾波麻多士」とあるのである。この註は餘程後代のものかと思はれるが、美夫君志には、原著者の記したものと言つてゐる。
 
右(ノ)一首(ノ)歌(ハ)古事記|與《ト》2類聚歌林1所v説(ク)不v同、歌(ノ)主亦異(ナリ)焉、因(リテ)※[手偏+僉](スルニ)2日本紀(ヲ)1、曰(ク)、難波(ノ)高津宮(ノ)御宇大鷦鷯天皇(ノ)廿二年春正月天皇語(リテ)2皇后(ニ)1、納(レテ)2八田皇女(ヲ)1將《トス》v爲(サム)v妃(ト)、(116)時(ニ)皇后不v聽(サ)爰(ニ)天皇歌(ヲ)以(テ)乞(フ)2於皇后(ニ)1云々、三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行(シ)紀伊國(ニ)1到(リ)熊野岬(ニ)1取(リ)2其處之|御綱葉《ミツナカシハヲ》1而還(ル)、於v是天皇、伺(ヒ)2皇后(ノ)不1v在(ヲ)而娶(テ)2八田皇女(ヲ)1納(ル)2於宮中(ニ)1、時(ニ)皇后到(テ)2難波(ノ)濟《ワタリニ》1、聞(キテ)3天皇合(フト)2八田皇女(ニ)1大(ニ)恨(ム)v之(ヲ)云々、亦曰(ク)、遠(ツ)飛鳥宮御宇|雄朝嬬稚子宿禰《ヲアサヅマワクコノスクネ》天皇廿三年春正月甲午(ノ)朔庚子、木梨輕《キナシカル》皇子、爲(ル)2太子(ト)1、容姿佳麗、見者自(ラ)感(ズ)、同母妹輕(ノ)太娘《オホイラツメ》皇女亦艶妙也云々、遂(ニ)竊(ニ)通(ズ)乃(チ)悒懷少(ク)息(ム)、廿四年夏六月、御羮(ノ)汁凝(テ)以作(ル)v氷(ト)、天皇異(ミ)v之(ヲ)卜(ス)2其|所由《ユエヲ》1、卜者曰(ク)有(リ)2内亂1、盖(シ)親親相姦(スル)乎(ト)云々、仍(テ)移(ス)2太娘皇女(ヲ)於伊與(ニ)1者、今案(ズルニ)二代二時不(ル)v見2此歌(ヲ)1也、
 
御綱葉は延喜酒造司式に三津野柏とあり、大神宮儀式帳九月祭の條に御角柏とある。ミツノカシハといふも同じで、古、神酒を入れる爲に用ゐた木の葉である。この柏の葉が三岐になつて角のやうであるから、三角柏といふのだといふ。今カクレミノといふものに同じ。二代二時不見此歌也とは、仁徳天皇・允恭天皇の二代にも、磐姫皇后・輕太娘皇女の二方の御事蹟にも、日本紀にこの歌が見えないといふのである。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇《アメミコトヒラカスワケノスメラミコト》
 
天智天皇をさし奉る。この下に謚曰2天智天皇1と小字で記した本があるのは、後世の註である。
 
天皇賜(ヘル)2鏡王女(ニ)1御歌一首
 
(117)鏡王女は鏡女王の誤である。鏡王の御娘で、額田女王の姉でいらせられた。天武天皇紀に、「十二年秋七月己丑、天皇幸2鏡姫王之家1訊v病、庚寅鏡姫王薨」とあり、諸陵式に「押坂墓、鏡女王、在2大和國城上郡押坂陵域内東南1」とある。興福寺縁起によれば、「至2於天命開別天皇即位二年歳次己巳冬十月1内大臣枕席不v安、嫡室鏡女王請曰云々」とあるから、鎌足の正妻である。鎌足は天智天皇即位の二年十月に薨じてゐるが、都は即位の前年の三月に大津に遷つてゐた。次の歌は女王が大和に止つてゐるのに、贈られたものと見える。天智天皇の崩御は、鎌足の薨後、二年目の十二月であるから、この歌の詠まれた時期は、かなり狹い範圍に推定出來よう。題詞の御の字の下、製の字が脱したのだらうといふ説はよくない。かうした例は他にもあるから、この儘でよい。
 
91 妹が家も 繼ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家も在らましを
 一云、妹があたりつぎても見むに
 一云、家居らましを
 
妹之家毛《イモガイヘモ》 繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》 山跡有《ヤマトナル》 大島嶺爾《オホシマノネニ》 家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》
 一云|妹之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》
 一云|家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》
 
戀シイ〔三字傍線〕オマヘノ住ンデヰル家ノ方ヲ絶エズ〔三字傍線〕續イテ見テヰタイノニ。アノ〔二字傍線〕大和ニアル大島ノ嶺ニ私ノ住〔四字傍線〕家ガアレバヨイガ。コノ大津ニ來テヰテハダメダ〔コノ〜傍線〕。
 
○繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》――次相見六事計爲與《ツキテアヒミムコトハカリセヨ》(七五六)・用流能伊時仁越都伎提美延許曾《ヨルノイメニヲツギテミエコソ》(八〇七)その他用例があるが、繼而《ツキテ》は續いて斷えずの意、ここは斷えず見むものをの意。○大島嶺爾《オホシマノネニ》――この女王は額田王の姉で、平群郡額田郷に住まれたのであらう。額田郷は丘陵をなしてゐるから、大島嶺と呼ばれたのであらうと言はれてゐる。但しその舊地らしい今の額田部は平地でそれらしい丘も見えない。檜嬬手には山跡有大島嶺は、大倭島根の山の義で、山の名ではないといつてゐる。○家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》――猿をマシに用ゐるのは、マシラから出たのである。マシラは翻譯名義集に、摩斯※[口+託ノ旁]とあつて、梵語である。その頃梵語が民間にも行はれるやうになつてゐた一證である。(118)○一云|妹之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》――一二句の異傳である。古義はこれに從つてゐる。○一云|家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》――これは五の句のの異傳である。古義はこれを採つてゐる。
〔評〕 二の句と末句とにマシヲを並べて、韻を押んだやうになつてゐるのは、特更の技巧か、或は偶然か。二の句が、一云ツギテモミムニとなつてゐるのを見ると、この反覆法は、あまりよい手法とは見られない場合もあつたのだらう。併し予はその効果はともかくとして、これを原作の一技巧と認めたいと思ふ。
 
鏡王女奉(ル)v和(ヘ)御歌一首 鏡王女又曰2額田姫王也
 
御歌とある御は天皇・皇后・皇子・皇女の外には例なく、目録にも歌とのみあれば、御は衍であらう。端詞の下に鏡王女又曰額田姫王也とあるは後人の註である。金澤本にはない。
 
92 秋山の 樹の下がくり 逝く水の 吾こそ益さめ 御思よりは
 
秋山之《アキヤマノ》 樹下隱《コノシタガクリ》 逝水乃《ユクミヅノ》 吾許曾益目《ワレコソマサメ》 御念從者《ミオモヒヨリハ》
 
秋ノ山ノ木ノ落葉ノ〔三字傍線〕下ヲ隱レテ流レ行ク水ガ、外ニハアラハレテ見エナイガ、實際ハドンドン流レテヰル〔水ガ〜傍線〕ヤウニ、外ニハアラハナイデモ、實際ハ〔外ニ〜傍線〕私ガ貴方樣ヲ御慕ヒ申ス方ガ、貴方樣ノ御心ヨリモ勝ツテ居リマセウ。
 
○樹下隱《コノシタガクリ》――上に秋山之とあるから、この句は木の下の落葉に隱れるのをいつたものである。○逝水乃《ユクミヅノ》――逝く水の如くの意。舊本逝を遊に誤つてゐる。今、元暦校本・金澤本などに從つて改めた。
〔評〕 落葉の下を潜つて、外にあらはれずに流れて行く水に、我が忍戀の心を譬へたのは面白い。これを略解に、「秋は水の下れば、山下水の増るに譬へて、吾戀奉ることこそ君よりも増りたれと云也」と言つたのにも、古義に上句を序として、「秋はことさらに水の増れば、山下水の増るとつづきたり」といつたのにも從ひ難い。
 
内大臣藤原卿娉(スル)2鏡王女(ヲ)1時、鏡王女贈(レル)2内大臣(ニ)1歌一首
 
内大臣藤原卿は鎌足である。娉は娶りて妻とすること。
 
93 玉匣 覆ふを安み 明けて行かば 君が名はあれど 吾が名し惜しも
 
(119)玉匣《タマクシゲ》 覆乎安美《オホフヲヤスミ》 開而行者《アケテユカバ》 君名者雖有《キミガナハアレド》 吾名之惜毛《ワガナシヲシモ》
 
(玉匣覆乎安美)夜ガ明ケテカラ貴方ガ〔三字傍線〕御歸リナサルナラバ、キツト人ニ見付ケラレテ二人ノ浮名ガ立チマセウ〔キツ〜傍線〕。貴方ハ浮名ガ立ツテモ、男ノコトデ〔五字傍線〕平氣デセウガ、私ハ女デスカラ、サウハ參リマセヌ〔私ハ〜傍線〕。私ノ名ノ立ツノハ厭デゴザイマス。何卒早ク御歸リ下サイマセ〔何卒〜傍線〕。
 
○玉匣覆乎安美《タマクシゲオホフヲヤスミ》――開而《アケテ》と言ふ爲の序詞。玉匣の玉は美稱で、匣は櫛笥。櫛などを入れる箱。覆乎安美は、その蓋を覆ひかぶせることが容易であるから、從つて開けるのも亦易いといふ意で、開而に續いて序となるのである。匣の蓋は蝶つがひだから、覆ふのが易くて開くとかかるのだと檜嬬手には言つてゐる。○開而行者《アケテユカバ》――開而を玉匣にかかつてゐるといつた宣長説はどうであらう。なるほど玉匣は、あくの枕詞となるのを常とするが、この場合恐らくさうではあるまい。行者をイナバとよむのは賛し難い。
〔評〕 一二の句から開而《アケテ》と續いた序詞は、輕妙な巧みな感がする。又下の句は世に立つ名を恐れる女らしい心持がよくあらはれてゐる。これを略解に「君吾二字互に誤りつらむ。ワガナハアレドキミガナシヲシモとあるべし」と言つたのは、六帖に出た歌を參考とはしてゐるが、從ひ難い説である。
 
内大臣藤原卿報(ヘ)2贈(レル)鏡王女(ニ)1歌一首
 
94 玉くしげ みむろの山の さなかづら さ寢ずは遂に 有りがつましじ
 或本歌云、玉くしげみむろと山の
 
玉匣《タマクシゲ》 將見圓山乃《ミムロノヤマノ》 狹名葛《サナカヅラ》 佐不寢者遂爾《サネズハツヒニ》 有勝麻之自《アリガツマシジ》【或本歌云、玉匣三室戸山乃《タマクシゲミムロトヤマノ》】
 
貴女ハ早ク歸レト私ニ言ハレルガ、私ハ貴女ト一緒ニ〔貴女〜傍線〕(玉匣將見圓山乃狹名葛)寢ナイデハ、トテモアルコトガ出來ナイデセウヨ。共寢シナイデハ歸ルワケニイキマセヌ〔共寢〜傍線〕。
 
○玉匣將見圓山乃狹名葛《タマクシゲミムロノヤマノサナカヅラ》――サナカヅラから、同音を繰返してサネと續いた序詞。玉匣は身とかかる枕詞。將見圓山《ミムロノヤマ》は三室山で卷七に味酒三室山黄葉爲在《ウマサケミムロノヤマハモミヂセリケリ》(一〇九四)とあつて、次に三諸就三輪山見者《ミモロツクミワヤマミレバ》(一〇九五)とあるので見れば、三室山は即ち三輪山である。ミモロはミムロに同じ。御室即ち神の座す山の意であるから、神を齋く山(120)をかく呼ぶので、本來の固有名詞ではない。將見はミムとよんだもの。これで古代の助詞のムが撥音でなかつたことが分る。圓をロによむのは、マロのマが上のムと合して消えたものであらう。この字は他にロとよんだ例が無い。狹名葛《サナカヅラ》はさねかづらに同じ。美男かづらともいふ。木蘭科、南五味子屬の常緑木本で、蔓になつてゐる。莖は多量の粘液を含み、葉は長卵形で光澤がある。夏季帶白色の花を葉腋に開き、果實は赤色の小球の集合である。○佐不寢者遂爾《サネズハツヒニ》――佐《サ》は發語で、意味はない。○有勝麻之自《アリガツマシジ》――有るに堪へじの意である。從來アリガテマシモとよんでゐたが、モ(目)は元暦校本に自とあり、有不勝自《アリカツマシジ》(六一〇)・由吉可都麻思自《ユキガツマシジ》(三三五三)・有勝益士《アリガツマシジ》(七二三)・依勝益士《ヨリガツマシジ》(一三五二)の例によつて、アリガツマシジとよむべしといふ橋本進吉氏の説は、極めて條理あるものであるから、これに從ふべきである。勝《カツ》は堪ふる意。マシジは續紀の宣命にもアフマシジトシテ(二十六詔)、忘|得《ウ》マシジミナモ(五十八詔)と見える語で、マジといふ推量して打消す助動詞の原形であらう。その用例から推せば、すべて動詞の終止形に連るので、ガツは下二段の動詞であるから、ガツマシジと訓まねばならぬのである。○三室戸山乃《ミムロトヤマノ》――これは第二句の異傳である。三室戸山は、卷七に珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念《タマクシゲミモロトヤマヲユキシカバオモシロクシテイニシヘオモホユ》(一二四〇)とあつて、考には備中にある山としてゐるが、その次に玄髪《クロカミ》山の歌が出てゐるので見ると、やはり大和であらう。かつ歌意から考へて、どうも三輪山らしく思はれる。恐らくミムロトは御室處《ミムロト》の意で、三室山と同じである。美夫君志に、室戸の二字でムロとよむのだといつてゐるのは誤であらう。又、三室戸山は山城の宇治にもあるが、それは古からの名なるや否や明らかでない。
〔評〕 贈られた歌の初句玉匣を、こちらでも初句に使つて序詞を作り、狹名葛から、さ寢ずばと續けたところが、作者の技巧である。併し上古人の卒直な僞はらぬ表現とは言ふものの、下の句はあまり露骨で、貴紳らしい品位がないやうである。
 
(121)内(ノ)大臣藤原(ノ)卿娶(レル)2采女安見兒(ヲ)1時作(レル)歌一首
 
采女は孝徳紀に「凡采女者、貢(レ)2郡(ノ)少領以上、姉妹及子女、形容端正者1。從丁一人、從女一人、以2一百戸1宛(ツ)2采女一人(ノ)粮1、庸米、皆准(ヘ)2次丁(ニ)」とあり、内膳司式下に采女六十人と見え、天皇の御饌に奉仕するものである。采は采擇の義で、多くの内から擇び出した女の意であらう。語意はウナゲベの約で、ウナゲは物を頂《ウナジ》に掛けることであるから、采女は、領巾を首に掛けて奉仕する者の義であらう。大祓詞に比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》とあるも同じである。安見兒は采女の名。
 
95 吾はもや 安見兒得たり 皆人の 得がてにすとふ 安見兒得たり
 
吾者毛也《ワレハモヤ》 安見兒得有《ヤスミコエタリ》 皆人乃《ミナヒトノ》 得難爾爲云《エガテニストフ》 安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》
 
私ハヨ、安見兒ヲ娶ツタ。世間ノ〔三字傍線〕多クノ人々ガ、得ヨウトシテナカナカ得ラレナイトイフ、アノ美シイ〔五字傍線〕安見兒ヲ得タ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○吾者毛也《ワレハモヤ》――毛也《モヤ》は詠嘆の助詞。この句を古義にアハモヤとよんでゐるのは面白くない。
〔評〕 采女の安見兒といふ美人、それは、多くの大宮人が手に入れようとして、目的を達し得なかつた女である。それを得た鎌足の喜悦と滿足と、得意らしさとが、極めて輕快な調子で詠まれてゐる。第二句と第五句との繰返が、如何にも愉快らしい感じを出してゐる。
 
久米禅師娉(スル)石川|郎女《イラツメヲ》1時(ノ)歌五首
 
禅師は俗人か。續紀に阿彌陀、釋迦などの名を禁ずることが見えてゐる。これもその類であらう。美夫君志には僧侶として説いてゐる。久米氏は姓氏録に「武内宿禰五世孫稻目宿禰(ノ)後」と見えてゐる。石川郎女はもと筑前の遊行女婦であつたが、後、京に上つて多くの人にあつた女であると、檜嬬手の別記に委しく論じてある。併し石川郎女は一人ではないらしく思はれる。
 
96 みすず苅る 信濃の眞弓 吾が引かば うま人さびて 否と言はむかも
 
(122)水薦苅《ミスズカル》 信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》 吾引者《ワガヒカバ》 宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》 不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》  禅師
 
(水薦苅、信濃乃眞弓)私ガ貴女ヲ〔三字傍線〕引キ誘フ〔三字傍線〕ナラバ、貴女ハ〔三字傍線〕貴人ブツテ、コノ賤シイ私ノ言フコトヲ〔コノ〜傍線〕否ト言ウテ撥ネツケル〔六字傍線〕カモ知レナイヨ。
 
○水薦苅信濃乃眞弓《ミスズカルシナヌノマユミ》――引者《ヒカバ》につづく序詞。水薦苅は信濃の枕詞。水薦《ミスズ》は小竹のことで、信濃の山に多く生えてゐる。冠辭考には薦を篶の誤として改めてゐるが、美夫君志に篶は古くは用ゐなかつた文字だと考證してゐる。神代紀にも、五百箇野薦《イホツヌズズ》とあるから、この説に從ふべきだ。薦は茂草の義であるが、これを小竹の意に用ひたもの。篶は黒竹。水《ミ》は借字で、眞と同じ。次の歌には三を用ゐてゐる。舊訓にミクサとあるのも、古義にミコモとあるのもよくない。信濃・甲斐から弓を貢つたことが、續紀や延喜式に見えてゐる。○宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》――宇眞人《ウマヒト》は貴人、佐備而《サビテ》は、ぶりての意。
〔評〕 一寸女の心を引いて見たまでの歌。新後拾遺集に寄弓戀、前大納言爲定、「強ひてよも言ふにもあらじみこもかる信濃の眞弓ひかぬ心は」とあるのはこれを本歌としたもの。
 
97 み薦苅る 信濃の眞弓 引かずして 弦はくるわざを 知ると言はなくに
 
三薦苅《ミスズカル》 信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》 不引爲而《ヒカズシテ》 弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》 知跡言莫君二《シルトイハナクニ》    郎女
 
(三薦苅信濃乃)弓ヲ引カナイデハ、弦ヲ張ルコトヲ知ルモノハナイト、世間デ〔三字傍線〕言フデハアリマセンカ。貴方モ私ヲ引イテ御覽ナサラナケレバ私ガ否ト云フカ、ドウカ分カラナイデハアリマセンカ〔貴方〜傍線〕。
 
○絃作留行事乎《ヲハクルワザヲ》――作は矢作部《ヤハギベ》と書紀に見えるによつて、ハグとよむべきだが、下の歌に都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》(九九)とあるによつても、亦卷十六に牛爾己曾鼻繩波久禮《ウシニコソハナナハハクレ》(三八八六)とあるので見ても、ここはハクルとよむのがよい。ハクルは佩かしむること。即ち弓に弦を著けることである。弦の字、舊本に強とあるは誤。○知跡言莫君二《シルトイハナクニ》――知と言はざるにの意。檜嬬手に「唯、知らなくといふ言なり」とあるが、語勢から考へて、さうは思はれない。
(123)〔評〕 贈られた歌の序詞を巧みに生かして、弓をもつて暗喩法を用ゐて答へたのは、あなどり難い巧手である。男を呑んでかかつた蓮葉な態度である。
 
98 梓弓 引かばまにまに よらめども 後の心を 知りがてぬかも
 
梓弓《アヅサユミ》 引者隨意《ヒカバマニマニ》 依目友《ヨラメドモ》 後心乎《ノチノココロヲ》 知勝奴鴨《シリガテヌカモ》
 
(梓弓)引クナラバ私ハ貴君ノ心ノママニ、引クニ〔私ハ〜傍線〕從ツテ依リモシマセウガ、シカシアナタガ、行末永ク愛シテ下サルカドウカ〔シカ〜傍線〕、後々マデノ心ガ分リマセンヨ。
 
○梓弓《アヅサユミ》――引者《ヒカバ》の枕詞に用ゐてある。梓弓は、梓の木で作つた弓。○依目友《ヨラメドモ》――依るは心の靡き依るをいふ。引き寄せる意から出たもの。弓の縁語として用例が多い。梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アズサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》(二九八五)の類である。○知勝奴鴨《シリガテヌカモ》――知り得ざるかもといふに同じ。奴は否定の助詞。このガテヌについては古來諸説があつて、ヌを完了とするものと、否定とするものとに見解が分れてゐる。併し九四の歌に述べたやうに、勝《ガテ》は堪ふ、能ふの意であるから、ヌを完了とするわけには行かぬ。從來ガテを難の意としたのは間違つてゐる。
〔評〕 前の歌があまり能動的に聞えるので、ともかくも後の心を知りたいと、女らしく言ひ出たのである。この二首は一緒に贈つたのである。
 
99 梓弓 つらをとりはけ 引く人は 後の心を 知る人ぞ引く
 
梓弓《アヅサユミ》 都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》 引人者《ヒクヒトハ》 後心乎《ノチノココロヲ》 知人曾引《シルヒトゾヒク》        禅師
 
(梓弓都良絃取波氣)人ヲ引キ誘フ人ハ、後々マデノ心ヲ定メテカラ引クモノデス。決シテ私ハ貴方ヲ後ニナツテ捨テルコトハアリマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》――蔓弦取佩けで、ツラはツルと同語。元來藤づるなどを弦としたのである。ツラヲは同意の語を重ねたもの。絃の字は弦に通はして用ゐてゐる。取波氣《トリハケ》は前の弦作皆《ヲハクル》で説明した通り、弓に弦をかけるこ(124)と。この一二の兩句は引くの序である。○引人者《ヒクヒトハ》――自分を指してゐる。
〔評〕 前の梓弓の歌に對する返事で、後の心變りなどは絶對にないから、安心して我により給へといふのである。濱臣がこの二歌の作者を下に記したのは、後人の業で、ここは郎女と禅師とが反對になつてゐるやうに言つたのは賛同出來ない。
 
100 東人の 荷前の箱の 荷の緒にも 妹が心に 乘りにけるかも
 
東人之《アヅマビトノ》 荷向※[しんにょう+筴]乃《ノザキノハコノ》 荷之緒爾毛《ニノヲニモ》 妹情爾《イモガココロニ》 乘爾家留家聞《ノリニケルカモ》 禅師
 
坂東ノ人ガ貢物ノ御初穗ヲ入レル箱ヲ、馬ニ乘セテ〔五字傍線〕縛ル緒ノヤウニ、愛スル女ハ始終〔二字傍線〕私ノ心ニ乘ツテヰテ目ニ見エルヤウデ忘レル間モナカツ〔テ目〜傍線〕タワイ。
 
○東人之《アヅマヒトノ》――舊訓アヅマヅとあり。アヅマドと訓むを可とする説もあるが、アツマビトでよからう。坂東諸國の人をいふ。狩谷望之は、萬葉集の東人は廣く邊鄙の人をいふと和名抄箋注にいつてゐるが、さうではあるまい。○荷向※[しんにょう+筴]乃《ノザキノハコノ》――荷向《ノザキ》は貢物として朝廷に奉る物の初物をいふ。※[しんにょう+筴]は諸本に篋に作るは俗字である。篋は笥に同じく、箱である。○荷之緒爾毛《ニノヲニモ》――荷の緒の如くにもの意で、荷の緒は、祈年祭祝詞に「荷前者《ノザキハ》云々、自陸往道者荷緒縛堅弖《クガヨリユクミチハニノヲユヒカタメテ》」とある如く、荷物の緒を結んで、馬の背に乘せるから、乘ると五の句へ續くのである。○妹情爾《イモガココロニ》――妹のことが我が心にの意。○乘爾家留家聞《ノリニケルカモ》――心に乘るとは、妹のことが我が心の上に常に忘れる間もなく、思はれる意。聞を舊本問に作るは誤。元暦校本によつて改めた。
〔評〕 この譬喩は奇拔である。荷前といへばこの上もない神聖なものだ。祝詞にもあるやうに、荷の緒結ひ堅めて運ぶ間の心づかひは一通りではあるまい。この荷前を馬に乘せたやうに、女のことが我が心に乘つてゐるといふので、寸時も忘れ得ぬ重苦しさがよく現はれてゐる。
 
大伴宿禰娉(セシ)2巨勢郎女(ヲ)1時(ノ)歌一首
 
(125)大伴宿禰は家持の祖父安麻呂であらう。考には大伴御行として。その若き時近江宮でよんだものだらうといってゐるが、元暦校本などの古註に「大伴宿禰諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子、平城朝任2大納言兼大將軍(ニ)1薨」とあるのに從つてもよからう。
 
101 玉葛 實ならぬ樹には ちはやぶる 神ぞ着くとふ 成らぬ樹ごとに
 
玉葛《タマカヅラ》 實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》 千磐破《チハヤブル》 神曾著常云《カミゾツクトフ》 不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》
 
(玉葛)實ノ成ラナイ木ニハドノ木ニモ必ズ(千磐破)神樣ガオ着《ツ》キナサルトイフ諺ガアリマス。ソレト同ジヤウニ貴方ガイツマデモ男ヲ持タズニ一人デヰルナラバ、神樣ガ御著キナサルダラウカラ用心ナサイ。私ト結婚シテハドウデス〔ソレ〜二字傍線〕。
 
○玉葛《タマガヅラ》――蔓になりたる草木の總稱。玉は美稱である。多く實あるものであるから、實の枕詞に用ゐた。○實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》――玉葛は實にのみかかつてゐる。不成までにはかからない。實不成樹とは、女が男を持たぬに譬へたのである。女が眞實なく口先ばかりなるに譬へたといふ説はよくない。○千磐破《チハヤブル》――最速振《イチハヤブル》を約めた語で、強い、勇猛なといふ意から起つて、神の枕詞となつた。○神曾著常云《カミゾツクトフ》――神がその木に憑きて、それを領するといふ諺があるといふ意で、常云《トフ》は、と云ふの約。神が領ずればいよいよ男を得難くなるのである。
〔評〕 實ならぬ樹には神が著くものだといつて、男せぬ女にも神が著いて、ますます、男を得難くなるものであると、ほのめかしたのは、面白い。もとより戯言であるが、聞く方には、薄氣昧惡い脅し文句にも聞える。神威を恐れることの甚だしかつたこの時代には、一寸聞き捨てならぬ言葉であつたに違ひない。
 
巨勢郎女報(ヘ)贈(レル)歌一首
 
元暦校本に、ここに小文字で、「即近江朝大納言巨勢人卿之女也、」と注してある。
 
102 玉かづら 花のみ咲きて 成らざるは 誰が戀ならめ 吾は戀ひ念ふを
 
(126)玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不成有者《ナラザルハ》 誰戀爾有目《タガコヒナラメ》 吾孤悲念乎《ワハコヒモフヲ》
 
(玉葛)花バカリ咲イテ實ガナラナイ、口先バカリデ眞實ガナイトアナタガ仰ル〔口先〜傍線〕ノハ誰ノ戀デアリマセウ。私ハ眞實ニ貴方ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマスノニ。大方貴方御自身ノコトデモアリマセウ〔大方〜傍線〕。
 
○花耳開而不成者《ハナノミサキテナラザルハ》――前の實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》とあつたのを受けて、口先ばかりで眞實のない戀に言ひ變へたのである。○誰戀有目《タガコヒナラメ》――後世の語法ならばナラムと言ふべきであるが、ナラメと言ふのは古法である。略解一説にナラモとあり、古義もこれに從つてゐる。目をモの假名に用ゐた例は他もあるが、恐らくこれはナラメであらう。不所見十方孰不戀有米《ミエズトモタレコヒザラメ》(三九三)の如きはこれと同じ例である。
〔評〕 贈つた歌は單に實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》といつたのを、花耳開而不成者《ハナノミサキテナラザルハ》はとして、花ばかりで實がないと言つたので、前の歌の意を、そしらぬふりして言ひ替へた趣が見えて面白い。又、誰戀有目《タガコヒナラメ》も空とぼけた風で、それとなく男に當てつけ、吾孤戀念乎《ワハコヒモフヲ》と駄目を押したところは巧なものである。
 
明日香清御原宮御宇天皇代  天渟名原瀛眞人天皇《アメノヌハラオキノマヒトノスメラミコト》
 
天渟名原瀛眞人天皇とあるは、後人の注であるが、天皇の下、諸本、謚曰天武天皇の六字あるのは、更に後人の注である。
 
天皇賜(ヘル)2藤原夫人(ニ)1御歌一首
 
書紀天武天皇二年の條に「夫人(ハ)藤原大臣女(ノ)氷上娘、生2但馬皇女1、次(ニ)夫人氷上(ノ)娘|弟《イモ》五百重娘、生2新田部皇子1」とあり、卷八夏雜歌の初に藤原夫人として、細字をもつて「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也」とあれば、妹の方であらう。大原大刀自とは大原に住んでゐたから呼んだものであらう。御の下、製の字を脱したかとも思はれるが、このままでよいであらう。
 
103 吾が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後
 
(127)吾里爾《ワガサトニ》 大雪落有《オホユキフレリ》 大原乃《オホハラノ》 古爾之郷爾《フリニシサトニ》 落卷者後《フラマクハノチ》
 
私ノ住ムコノ〔二字傍線〕里ニ大雪ガ降ツタ。ヨイ景色ダ。オマヘノ居ル大原ノ淋シイ〔三字傍線〕古郷ニ降ルノハ、マダマダ後ダ。羨シイダラウ〔六字傍線〕。
 
○大原乃古爾之郷爾《オホハラノフリニシサトニ》――大原は續紀に「天平神護元年十月己未朔辛未、行2幸紀伊國(ニ)1云々、是日到2大和(ノ)國高市(ノ)小治田(ノ)宮1、壬申、車駕巡2歴大原長谷(ヲ)1臨2明日香川(ニ)1而還」とあるによつて、考には、「今にも飛鳥の西北の方に大原てふ所ありて、鎌足公の生れ給へる所とて社あり。是大方右の紀にかなへり」と言つてゐる。大日本地名辭書には、この地を藤原の別稱として、今の鴨公村高殿の地だらうと推定してゐる。然るに古義の一説に「大原は後飛鳥岡本宮の舊跡の、東北三四丁ばかりあり。かかれば舊にし里とはよませ給へるなるべしといへり。いかがあらむ」といつてゐるが、近時、辰巳利文氏は、その著、大和萬葉地理研究に「私は大原の里は、今の高市郡飛島村|小原《をはら》の地であること(128)のみを明記して置けばいいのであります。小原村の西端に神社があつて、そこを藤原鎌足の誕生地と稱してをるのでありますが、鎌足の誕生地がはたして今申す神社の位置にあたるか、あたらないかは別問題として、私は藤原鎌足の居住地はたしかに今の小原でなくではならないと考へるのであります。ここを別に藤原の里とも申してをりますが、これは藤原氏の居住地であつたことから出てきた名稱であると考へられるのであります。ただし藤原宮は別のものであります」と記してゐる。次の歌に吾崗之於可美爾言而《ワガヲカノオカミニイヒテ》とあるのを見ても、これを飛鳥の西北の平坦地に求めるよりも、山近い東北方に求めるのが穩やかで、辰己利文氏の研究は蓋し當を得てゐるであらう。古爾之郷《フリニシサト》は、古々しく淋れた郷といふのであらう。舊都と關係はあるまい。挿入の寫眞は即ち古の大原の里で、前方の神社の境内が藤原鎌足の誕生地と稱せられてゐるところ、村落は飛鳥村大字小原である。左方の山が八釣山。○落卷者後《フラマクハノチ》――降らむは後なりの意。マクは未來の助動詞ムの延言と説明せられてゐる。
〔評〕 この御歌は頗る輕い氣分で、藤原夫人を揶揄せられたもので、さ程にもない雪を大雪と宣ひ、夫人の住む里を古りにし里と貶しめ、落らまくは後と羨しがらせるやうに詠まれたものである。その諧謔的氣味は輕い調子の上にもよくあらはれてゐる。
 
藤原夫人奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
104 わが岡の ※[雨/龍]神に言ひて 降らしめし 雪の摧けし 其處に散りけむ
 
吾崗之《ワガヲカノ》 於可美爾言而《オカミニイヒテ》 令落《フラシメシ》 雪之摧之《ユキノクダケシ》 彼所爾塵家武《ソコニチリケム》
 
陛下ハソチラバカリ雪ガ降ルヤウニ仰リマスガ、コチラハ、モツトエライ大雪デゴザイマス。ソチラニ降ル雪ハ〔陛下〜傍線〕私ノ住ンデヰマス里ノ〔八字傍線〕岡ノ、※[雨/龍]《オカミ》ト云イフ神樣〔六字傍線〕ニ御祈シテ、私ガ私ノ里ニ〔六字傍線〕降ラセマシタ雪ノ碎ケタ片ガ、少シバカリ〔五字傍線〕ソチラニ降ツタノデゴザイマセウ。
 
○於可美爾言而《オカミニイヒテ》――於可美は※[雨/龍]である。神代紀に高※[雨/龍]《タカオカミ》・闇※[雨/龍]《クラオカミ》の名が見える。古事記にも闇於可美神《クラオカミノカミ》とある。蓋し(129)高※[雨/龍]は空にゐる龍神で、闇※[雨/龍]は谷の龍神である。水を掌るから、この神に申して雪を降らしめ給ふやうに言はれたのである。言の字を古義に乞に改めたのは、例のさかしらである。○令落《フラシメシ》――フラセタルの訓も行はれてゐるが、やはりフラシメシがよからう。○雪之摧之《ユキノクダケシ》――摧《クダケ》は動詞の連用形から來た名詞で、之《シ》は強める助詞である。これを略解に「くだけしのしは過去の言なり」とあるは誤つてゐる。
〔評〕 これは又ひどい竹箆返である。※[雨/龍]神に言つて降らせた雪の碎けが、そちらに降つたのでせうとは、隨分思ひ切つた串戯であるが、誠に機智に富んだ巧な作である。これをお受取りになつた天皇が、これはうまくしてやられたと、笑ひくづれ給うたであらうことが想像されて面白い。この種の歌としては傑作であらう。
 
藤原宮御宇天皇代  高天原廣野姫天皇《タカマノハラヒロヌヒメノスメラミコト》
 
元暦校本に藤原宮御宇高天原廣野姫天皇の代とあるのは、他の例に異なつてゐるから誤であらう。舊本、天皇代の下に天皇謚曰2持統天皇1の八字があるのも、後人の注で用ゐるべきない。ここは卷一の例に傚つた。
 
大津皇子竊(ニ)下(リテ)2於伊勢神宮(ニ)1上(リ)來(ル)時、大伯《オホク》皇女御作歌
 
大津皇子は書紀、天武天皇二年の條に「先納(レテ)2皇后(ノ)姉大田(ノ)皇女(ヲ)1爲v妃(ト)生(ム)2大來皇女(ト)與2大津皇子1、」とあり、持統紀には、「朱鳥元年十月己巳、皇子大津、謀反發覺、逮2捕(ス)皇子大津(ヲ)1、庚午賜2死(ヲ)皇子大津(ニ)於|譯語田舍《ヲサダノイヘニ》1時年二十四、妃皇女山(ノ)邊、被髪徒跣、奔赴(シテ)殉(ス)焉、見者皆歔欷(ス)、皇子大津(ハ)、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)第三子也、容止墻岸、音辭俊明爲(ニ)2天命開別天皇1所v愛、及v長辨有2才學1、尤愛2文筆(ヲ)1詩賦之興、自2大津1始也」とある。窺下2於伊勢神宮(ニ)1とあるは、大津皇子が姉君大伯皇女に遭ひ給はむ爲に、伊勢に下り給ひしをいふのである。皇子は兼ねての御企圖が露見し、身邊の危急を感ぜられて、竊かに伊勢の齋宮にまします姉宮と、訣別に赴かれたものと見える。天武天皇は朱鳥元年九月九日崩御、皇子の謀反露見は十月二日で、三日に死を賜はつたのであるから、伊勢へ下られたのは、(130)或は天武天皇崩御の以前かも知れない。併し次の歌に、二人行杼去去難寸秋山乎《フタリユケドユキスギガタキアキヤマヲ》とあつて、秋の頃であつたから、崩御の前後であつたに相違ない。大伯皇女は、大來皇女とも記してある。齊明天皇紀に「七年正月甲辰、御船到2于大伯海1時大田姫皇女産v女焉、仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。又天武天皇紀に「二年夏四月己巳、欲v遣v侍2大來皇女(ヲ)于天照大神宮(ニ)1而令v居2泊瀬齋宮1云々、三年冬十月乙酉、大來皇女、自2泊瀬齋宮1向2伊勢神宮1」とある。
 
105 わが背子を 大和へ遣ると さ夜更けて あかとき露に 吾が立ち霑れし
 
吾勢枯乎《ワガセコヲ》 倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》 佐夜深而《サヨフケテ》 ※[奚+隹]鳴露爾《アカトキツユニ》 吾立所霑之《ワガタチヌレシ》
 
吾ガ弟ガ大和ヘノ歸リヲ送ルトテ、夜更ケテ外ニ出テ〔四字傍線〕、夜明ノ露ニ、私ハ立ツテ居テ霑レマシタヨ。名殘惜シイコトデシタ〔十字傍線〕。
 
○吾勢枯乎《ワガセコヲ》――勢枯は背子で、普通は夫をいふのであるが、元來、男を親しみ呼ぶ名で、ここは弟君をさしたのである。○※[奚+隹]鳴露爾《アカトキツユニ》――アカトキは明時で、即ち後世のアカツキである。※[奚+隹]鳴をアカトキと訓むのは、仁徳紀にも見える。○吾立所霑之《ワガタチヌレシ》――之《シ》を以て留めたのは詠歎の意が籠つて、ヌレシヨの意になる。吾はワレとよんでもあるが、ワガとよむ方がよからう。この下にも吾二人宿之《ワガフタリネシ》(一〇九)とある。
〔評〕 佐夜深而《サヨフケテ》と言つて、更に鷄鳴露爾《アカトキツユニ》とあるのは、夜と曉とを混同してゐるやうに見えるかも知れないが、さうではない。夜深けに大和へ旅立ち給ふ君を送つて、そのまま立ち盡して、曉の露に濡れ給うたのである。下の句はあはれな感情が籠つてゐる。
 
106 二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越えなむ
 
二人行杼《フタリユケド》 去過難寸《ユキスギガタキ》 秋山乎《アキヤマヲ》 如何君之《イカニカキミガ》 獨越武《ヒトリコエナム》
 
我ラ姉弟一緒ニ〔七字傍線〕、二人デ行ツテモ淋シクテ〔四字傍線〕通リ過ギ難イ秋ノ山ヲ、ドンナ御樣子デ我ガ弟ノ君ハ、タダ一人デ越エナサルダラウ。サゾ淋シデアラウ〔八字傍線〕。
 
(131)○二人行杼《フタリユケド》――二人行クトモといふに同じ。去過難寸《ユキスギガタキ》と下に斷定的の語があるので、上にかうしたのである。○如何君之《イカニカキミガ》――舊訓はイカデカであるが、イカニカとすべきである。伊可爾可和可武《イカニカワカム》(八二六)・伊可爾可由迦牟《イカニカユカム》(八八八)とあり、又|燎火乎何如問者《モユルヒヲイカニトトヘバ》(二三〇)・思情乎何如裳勢武《オモフココロヲイカニカモセム》(一三三四)など、いづれもイカデカとは訓み得ざるところである。○獨越武《ヒトリコエナム》――ヒトリコユラムが舊訓であるのを、考にコエナムと改めた。これはどちらが良いとも分らないが、ラムといふ時には、多く良の字を用ゐるか、又は覽か濫の一字で記すやうであるから、ナムとよむことにして置かう。
〔評〕 前の歌と共に、言ひ知れぬ悲調が溢れてゐて、皇子の御身の異變を、豫め感知してゐられたやうに思はれる。肉身の愛情がかうした悲歌を生んだのである。この二歌は訣別後、詠吟せられたものである。
 
大津皇子贈(レル)2石川郎女(ニ)1御歌一首
 
石川郎女又は女郎といふ人が所々に出てゐるが、同一人と思はれないのもある。これは前の久米禅師が娉した女とは、別人で、下に大津宮(ノ)侍とあつて、古注に女郎字曰2山田郎女1也とある女らしく思はれる。
 
107 あしびきの 山の雫に 妹待つと われ立ち霑れぬ 山の雫に
 
足日木乃《アシビキノ》 山之四付二《ヤマノシヅクニ》 妹待跡《イモマツト》 吾立所沾《ワレタチヌレヌ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 
私ハアナタノ來ルノヲ待ツトテ、立ツテヰテ、(足日木乃)山ノ木カラ落チル〔六字傍線〕雫ニ濡レマシタ。山ノ木カラ落チル〔六字傍線〕雫ニ濡レマシタ。誠ニツライコトデシタヨ〔誠ニ〜傍線〕。
 
○足日木乃《アシビキノ》――山の枕詞で、最も多く用ゐられる枕詞であるが、その意味は明らかでない。山はあへぎあへぎ足を曳いて登るものだから、足曳の意とする契沖説は、あまりに俗らしく、青茂木《アヲシミキ》の略とした冠辭考や、茂檜木《イカシヒキ》の略とした古義の説は、あまり學者めいてゐる。寧ろ、脚を長く引いた一構の地の義で、足引城《アシヒキ》だとした古(132)事記傳の説が穩やかさうである。
〔評〕 やさしい、優麗ななつかしい感じの歌である。山之四付二《ヤマノシヅクニ》を繰返したところ、快い調子が相手の哀情をそそるやうである。
 
石川郎女奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
108 吾を待つと 君が霑れけむ あしびきの 山の雫に ならましものを
 
吾乎待跡《アヲマツト》 君之沾計武《キミガヌレケム》 足日木能《アシビキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》 成益物乎《ナラマシモノヲ》
 
私ガ行クノ〔四字傍線〕ヲ待ツトテ、アナタガ御濡レナサツタ(足日木能)山ノ木カラ落チル〔六字傍線〕雫ニ私ハ〔二字傍線〕成リタイモノデス。サウシタラ、貴方ニツイテヰテ、逢ハレナイ心配モナク、ドンナニヨイカ知レマセヌ〔サウ〜傍線〕。
 
〔評〕吾立所沾山之四附二《ワレタチヌレヌヤマノシヅクニ》と同情を求めて來たのに對して、山之四附二成益物乎《ヤマノシヅクニナラマシモノヲ》と輕く受け流したのは、實に巧妙な、否寧ろ老獪な手法である。妖艶な蠱惑的なところがあつて、守部が石川郎女を遊行女婦と見たのも、一理あることのやうに思はれる。
 
大津皇子竊(ニ)2婚(スル)石川女郎(ニ)1時、津守(ノ)連通占(ヒ)2露《アラハス》其事(ヲ)1皇子御作歌一首
 
續日本紀に「養老五年正月甲戌詔曰、宜【丙】擢d於百僚之内、優2遊(シ)學業(ニ)1堪v爲2師範(ト)1者(ヲ)u特(ニ)加(テ)2賞賜(ヲ)1勸(メ)【乙】勵(ス)後生(ヲ)【甲】、因賜2陰陽從五位下津守(ノ)連通(ニ)※[糸+施の旁]十疋絲十絢、布二十端、鍬二十口(ヲ)1。」「同七年正月丙子、津守連通從五位上」とある。
 
109 大船の 津守の占に 告らむとは 正しに知りて 我が二人宿し
 
大船之《オホフネノ》 津守之占爾《ツモリノウラニ》 將告登波《ノラムトハ》 益爲爾知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》
 
(大船之)津守(ノ)連ノ占卜《ウラナヒ》ニウラナハレテ、アラハサレヨウトハ、前カラ〔三字傍線〕慥カニ知ツテ居テ、私ラ二人ハ寢タノダ(133)ヨ。今更顯ハレタトテ騷グニモ及ブマイ〔今更〜傍線〕。
 
○大船之《オホフネノ》――大船の泊る津の意で、枕詞としたもの。○津守之占爾《ツモリノウラニ》――津守連通の占にの意で、この人卜占に秀でたことは、右に掲げた續紀の文に明らかである。○益爲爾知而《マサシニシリテ》――誤字ありとして宣長は益?爾《マサデニ》とし、古義は兼而乎《カネテヲ》としてゐるが、益爲爾は正しに〔三字傍点〕で、正しといふ形容詞の終止形に、にを添へたものか。書紀の厩戸皇子の御詠に、於夜那斯爾那禮奈理※[奚+隹]迷夜《オヤナシニナレナリケメヤ》とある、無しに〔三字傍点〕と同じ形であらう。○我二人宿之《ワガフタリネシ》――我が二人寢しよの意で、前の吾立所霑之《ワガタチヌレシ》と同じ形。
〔評〕 この御歌は事の露見した後に、度胸を据ゑて、覺悟の前だと、平然として居られるやうな態度の作である。下の句の語氣の捨鉢的なところに、この皇子の豪邁な御氣性も見えてゐる。
 
日並皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》贈2賜(ヘル)石川女郎(ニ)1御歌一首 女郎字曰2大名兒1也
 
考には日並の下、知の字を補ってゐる。これは續紀に日並知皇子尊とあるによつたのであらうが、本集では總べてかう記してあるから、知を省いたものである。元暦校本目録や、本朝月令には、日並所知皇子と記してあるから、日並知もその省略なのである。訓は卷一に日雙斯皇子命とあるに同じ。草壁の皇太子を指し奉つたのである。女郎字曰2大名兒1也とあるのは舊本にはないが、金澤本にはある。古注である。
 
110 大名兒を をち方野邊に 苅るかやの 束の間も 吾忘れめや
 
大名兒《オホナゴヲ》 彼方野邊爾《ヲチカタヌベニ》 苅草乃《カルカヤノ》 束間毛《ツカノアヒダモ》 吾忘目八《ワレワスレメヤ》
 
大名兒ヲ(彼方野邊爾、苅草乃)少シノ間デモ私ハ忘レヨウカ、決シテ忘レハシナイ。オマヘノ事ヲ始終思ツテヰルヨ〔オマ〜傍線〕。
 
○大名兒《オホナゴヲ》――大名兒は題詞の下の注にある如く、石川女郎の字《アザナ》である。オホナゴヤ、又はオホナゴとよむ説も(134)あるが、下へ續くにはオホナゴヲとある方がよい。この句から五の句に連なるのである。○彼方野邊爾苅草乃《ヲチカヌベニカルカヤノ》――これは束《ツカ》とつづく序詞で、束は握むこと、即ち一握の長さをいふので、短いことを示す。それを時間の短いのにも用ゐるのである。苅草は、美夫君志にカルクサとよんでゐるが、カルカヤでよからう。卷十一の紅之淺葉乃野良爾《クレナヰノアサバノヌラニ》苅草乃(二七六三)とあるのも、卷十二に三吉野之蜻乃小野爾《ミヨシヌノアキツノヲヌニ》苅草之(三〇六五)とあるのも、前後の歌を見ると、皆草の名をあげてゐるから、カルカヤノとよむべきやうに思はれる。彼方野邊爾苅草乃《ヲチカタヌベニカルカヤノ》といふ言ひ方は、祝詞大祓詞に、彼方之繁木本乎燒鎌乃敏鎌以?打掃之如久《ヲチカタノシゲキガモトヲヤギガマノトガマモチテウチハラフコトノゴトク》とあるのを思はしめるものがある。
〔評〕 彼方野邊爾苅草乃《ヲチカヌベニカルカヤノ》といふ序詞から、束間毛《ツカノアヒダモ》とつづいたところが、この歌の技巧の中心點である。かうした言ひ方は後世の歌の規準になつてゐるのであるが、卷十一に、紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサバノヌラニカルカヤノツカノアヒダモワヲワスラスナ》(二七六三)といふ古い民謠らしいものが載せてあるのを見ると、これは果して皇子の創意であるや否や疑はしい。大名兒《オホナゴヲ》の句の坐りの惡さを考へると、これは從來あつた歌の型に嵌めたものではあるまいか。
 
幸(セル)2于吉野宮1時、弓削皇子贈2與(フル)額田王(ニ)1歌一首
 
弓削皇子は天武天皇の第六子である。天武天皇紀に「次(ノ)妃大江皇女、生2長皇子|與《ト》弓削皇子1」とある。續紀に文武天皇の三年七月薨と見える。
 
111 いにしへに 戀ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より 鳴きわたり行く
 
古爾《イニシヘニ》 戀流鳥鴨《コフルトリカモ》 弓絃葉乃《ユヅルハノ》 三井能上從《ミヰノウヘヨリ》 鳴渡遊久《ナキワタリユク》
 
今鳥ガ鳴イテ通ルガ、アノ鳥ハ、父ノ天皇ガ此處ヘ御出デナサレタ〔今鳥〜傍線〕昔ヲ戀ヒ慕ツテ、嶋ク〔四字傍線〕鳥カヨ。チヤウド〔四字傍線〕、コノ弓弦葉ノ三井ノアタリヲ、心有リサウニ〔六字傍線〕嶋イテ飛ンデ行クヨ。
 
○古爾戀流鳥鴨《イニシヘニコフルトリカモ》――古を戀ふる鳥なるかもと推測したのである。古とはこの皇子の父君天武天皇の行幸をさしたので、今、持統天皇の吉野宮へ行幸に際して、天武天皇の行幸あらせられたことを思ひ出され、鳥もそのか(135)みを思つて鳴くかと宣うたのである。○弓絃葉乃三井能上從《ユヅルハノミヰノウヘヨリ》――弓絃葉の三井は泉の名である。その邊に弓弦葉の大木があつたのであらう。弓絃葉は交讓《ユヅリハ》木のことで、この木の葉を、年賀の飾に用ゐるので、人によく知られてゐる。絃の字、弦の誤とした説もあるが、前に弦と絃と通じて、都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》とあり、齋宮寮式にも、弓絃葉一荷とあるから、これでよいのである。三井は御井で、藤原御井・山邊御井とある御井と同じである。この井は大和志に「弓絃葉(ノ)井在v二、一在2池田莊六田村1、一在2川上莊大瀧村1」とある。上從は上をの意。
〔評〕 持統天皇の駕に從つて、吉野に來給うた弓削皇子は、父君天武天皇の皇子時代の隱處でもあり、即位後の遊覽の地でもあつたこの勝景に對して、父君を偲ばずには居られなかつた。今、山にさわぐ群鳥の聲も、昔を思つて鳴くのではないかと疑はれるのである。かうした心を語り、共に昔を懷ふ人は、天武天皇の寵妃であつた額田王である。ここに忽ち一首の歌は使によつて、都なる額田王の許に贈られたのである。柔い感情のあらはれた歌。
 
額田王奉(レル)v和(ヘ)歌一首 從2倭京1進入
 
從2倭京1進入は舊本にないが、元暦校本その他にある。古い注であらう。
 
112 いにしへに 戀ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 吾が戀ふるごと
 
古爾《イニシヘニ》 戀良武鳥者《コフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》 盖哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾戀流其騰《ワガコフルゴト》
 
アナタハ、鳥ガ昔ヲ戀ウテ鳴イタト仰リマシタガ、ソノ〔アナ〜傍線〕古ヲ慕ツテ鳴イタ鳥ハ、郭公デ御座イマセウ。サウシテソノ郭公ハ〔九字傍線〕、私ガ、先帝ヲ〔三字傍線〕御慕ヒ申スヤウニ、多分昔ヲ思ツテ〔五字傍線〕鳴イタノデセウ。
 
○古爾戀良武鳥者霍公鳥《イニシヘニコフラムトリハホトトギス》――郭公は昔を懷ふ鳥、故人を慕ふ鳥だといふ傳説によつたのであらう。卷八の大伴旅人の妻が死んだ時に、石上朝臣堅魚がよんだ霍公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物乎《ホトトギスキナキトヨモスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》(一四七二)、卷十の山跡庭啼而香將來霍公鳥汝鳴毎無人所念《ヤマトニハナキテカクラムホトトキスナガナクゴトニナキヒトオモホユ》(一九五六)はそれを證するやうに思はれる。○盖哉鳴之《ケダシヤナキシ》――盖し鳴い(136)たのであらうかの意。考に盖し郭公ならむとしたのは當らない。盖しは若しに同じ。この集にはこの他|盖《ケダシ》・盖毛《ケダシクモ》といふやうな形で用ゐられてゐる。○吾戀流其騰《ワガコフルゴト》――この句から五の句へ續くのである。戀の字、元暦本・金澤本・神田本・類聚古集などに念の字に作るによれば、ワガモヘルゴトであるが、これでは何となく意が弱いやうであるから、舊本のままにして置かう。
〔評〕 弓削皇子の御歌の、古爾戀流鳥《イニシヘニコフルトリ》とあつたのを踏襲し、それを郭公ならむと推定し、都にありながら常に先帝を思ふ心を、吾戀流其騰《ワガコフルゴト》として巧に歌ひ出してゐる。盖といふ語は萬葉以外の歌集には見えないもので、何となく硬い感じがする。
 
從2吉野1折(リ)2取(リテ)蘿生《コケムセル》松(ガ)柯《エヲ》1遺(シシ)時、額田王|奉入《タテマツレル》歌一首
 
蘿は即ち松蘿《サルヲガセ》で、又さがりごけともいふ。地衣類松蘿屬で、深山の樹枝に自生し、糸状をなして懸垂してゐる。松柯は松の枝。この歌は、弓削皇子が蘿の生えてゐる松の枝を、額田王に遣はし給うた時、額田王からそれに答へられた御歌である。遺の字、舊本遣とあるが、古寫本も、目録も遺に作つてゐる。
 
113 み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも 君が御言を 持ちて通はく
 
三芳野乃《ミヨシヌノ》 玉松之枝者《タママツガエハ》 波思吉香聞《ハシキカモ》 君之御言乎《キミガミコトヲ》 持而加欲波久《モチテカヨハク》
 
吉野ノ松ノ枝ハ可愛ラシイモノデスヨ。貴方ノ御言葉ヲ持ツテ來マシタ。
 
○玉松之枝者《タママヅガエハ》――玉は美稱に過ぎない。この松の枝に添へた弓削皇子の御文があつたものか。或は前の古爾戀流鳥鴨《イニシヘニコフルトリカモ》の歌を、この松の枝に結んで贈られたのかも知れない。中古時代、人に物を贈るに、木の枝に結んだ習慣は、既にこの時から見えてゐるのだ。玉松は山松の誤と玉勝間に委しく述べてゐる。○波思吉香聞《ハシキカモ》――愛《は》し(137)きことよの意。○持而加欲波久《モチテカヨハク》――加欲波久《カヨハク》は通ふの延言で、輕く言ひをさめたのである。
〔評〕 波思吉香聞《ハシキカモ》と三句切にして、持而加欲波久《モチテカヨハク》と上の句の意を説明したところに、何となく柔い感が漂つてゐる。この歌の内容と調子とが持つ、典雅と優麗さとを讃歎せずには居られない。
 
但馬皇女在(ル)2高市皇子宮(ニ)1時思(フ)2穗積皇子(ヲ)1御歌一首
 
天武天皇紀に「夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1。蘇我赤兄大臣女|大※[草冠/(豕+生)]《オホヌ》娘生2一男二女1其一曰2穗積皇子1云々、納2※[匈/月]形君|徳善《トコセ》女尼子娘1生2高市皇子命1」とある。いづれも異腹の御兄弟にまします。
 
114 秋の田の 穗向のよれる 片縁に 君によりなな こちたかりとも
 
秋田之《アキノタノ》 穗向之所縁《ホムキノヨレル》 異所縁《カタヨリニ》 君爾因奈名《キミニヨリナナ》 車痛有登母《コチタカリトモ》
 
(秋田之穗向之所縁)タダ一向ニバカリタ依ツテ、アナタバカリ〔三字傍線〕ニ御タヨリ致シマセウ。タトヒ〔三字傍線〕人ニハヒドク言ヒ騷ガレテモ、カマヒマセヌ〔六字傍線〕。
 
○秋田之穗向之所縁《アキノタノホムキノヨレル》――異所縁《カタヨリニ》の序詞。秋の田の稻穗は一方にばかリ向いて、片寄り靡くからである。○穗向《ホムキ》は稻穗の實り靡いた樣をいふ。秋田之穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》(三九四三)ともある。○異所縁《カタヨリニ》――異の字をカタと訓んだ例は他に無い。この字はイ・ケ・ケシキなどが普通で、又|異手枕《コトタマクラ》(二四五一)の如くコトとよんだ例もある。これをアダシタマクラとよむのは惡い。カタとよむのはコトと通はしたものであらう。○君爾因奈名《キミニヨリナナ》――奈名《ナナ》は未來完了の「なむ」と同じである。○事痛有登母萱《コチタカリトモ》――事痛《コチタ》は言痛とも記してある、事の甚だしきこと、又は、人の口喧しきこと。ここは後者。
〔評〕 この歌の序詞は面白い。秋の田が稔つて一方に靡いた樣は、目に心地よいものである。併しかうした景は寧ろ耕人の捉へさうな詩材である。卷十に秋田之穗向之所依片縁吾者物念都禮無物乎《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニワレハモノオモフツレナキモノヲ》(二二四七)とあるのは、正(138)に耕人の社會に行はれた民謠である。これを基として下句を變へたものに過ぎないと思はれる。
 
勅(シテ)2穗積皇子(ニ)1遣(シシ)2近江志賀山寺(ニ)1時、但馬皇女御作歌一首
 
志賀山寺は崇福寺のことで、扶桑略記に「天智天皇七年正月十一日、於2近江國(ノ)志賀郡1建2崇福寺1」とあり、續日本紀に「天平十二年十二月乙丑、幸2志賀山寺1禮v佛」と見える。考にこの皇子を志賀山寺に遣はされたのは、但馬皇女との事が露はれ、法師にし給ふ爲であらうと言つてゐるが、或はさうかも知れない。遣の字、舊本遺とあるは誤。元暦校本による。
 
115 後れてゐて 戀ひつつあらずは 追ひしかむ 道のくまみに 標結へ吾が背
 
遺居而《オクレヰテ》 戀管不有者《コヒツツアラズハ》 追及武《オヒシカム》 道之阿回爾《ミチノクマミニ》 標結吾勢《シメユヘワガセ》
 
アナタニ別レテ私一人〔十字傍線〕遺ツテ居テ、アナタヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居ナイデ、寧ロアナタノ跡ニツイテ行ツテ〔寧ロ〜傍線〕追ヒ付キマセウ。私ガ道ニ迷ハナイヤウニ〔私ガ〜傍線〕、我ガ背ノ君ヨ。御通リナサレタ〔七字傍線〕道ノ曲角毎ニ、道栞ヲシテ下サイ。
 
○戀管不有者《コヒツツアラズハ》――戀ひつつあらむよりはの意。戀ひつつあらむをズで否定し、寧ろそれよりもと、下へ續くのである。○追及武《オヒシカム》――及は、しきおよぶと今も用ゐる如く、追ひ付く意である。○道之阿回爾《ミチノクマミニ》――阿回の阿はクマとよんで、隅・曲・隈の意に用ゐてある。○標結吾勢《シメユヘワガセ》――此の標《シメ》は目標即ち道しるべである。
〔評〕 戀しさに落ち付いてあり得ない、焦燥の情がよくあらはれてゐる。あはれな歌。
 
但馬(ノ)皇女|在《イマセル》2高市皇子(ノ)宮(ニ)1時、竊(ニ)接(シ)2穗積皇子(ニ)1事既(ニ)形《アラハレテ》而後、御作歌一首
 
116 人言を 繁みこちたみ おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
 
人事乎《ヒトゴトヲ》 繁美許知痛美《シゲミコチタミ》 巳母世爾《オノガヨニ》 未渡《イマダワタラヌ》 朝川渡《アサカハワタル》
 
人ノ噂ガ盛デヒドイノデ、居ニククナツテ〔七字傍線〕、私ハカウシテ朝早クニ〔八字傍線〕、未ダ曾テ渡ツタコトノナイ朝川ヲ渡ツテ(139)他所ヘ出カケタ〔八字傍線〕。
 
○巳母世爾《オノガヨニ》――この句の訓は種々ある。代匠記はイモセニ、考はオノモヨニ、略解は母を我としてオノガヨニ、宣長は爾は、川・河又は水の誤としてイモセガハ、古義は生有世爾としてイケルヨニなどである。併し母の字が無い古本に從つてオノガヨニとよむのが、最も穩かのやうである。○朝川渡《アサカハワタル》――朝に川を渡るを朝川といふ。
〔評〕 己が世に未だ渡らぬ朝川を渡ると仰つたのは、如何にも高貴な御身分らしく、それだけまた痛々しさも深く感ぜられる。朝の流の冷い水は、徒渉せられるる皇女の御身に、どんなにわびしく辛く感ぜられたことであらう。哀調人を動かすものがある。守部が、朝川渡を禊し給ふことに見て、卷四の君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去《キミニヨリコトノシゲキヲフルサトノアスカノカハニミゾギシニユク》(六二六)とあるのを證としてゐるのは、飛んでもない見當違である。これでは歌のあはれは半減して終ふ。
 
舍人親王御歌一首
 
舍人親王は、天武天皇紀に「次妃新田部皇女、生2舍人皇子1」とあり、天武天皇の皇子で、元正天皇の勅を奉じて日本紀を編纂せられた御方である。天平七年十一月薨。この御歌は次の歌によれば、舍人娘子に贈られたものである。
 
117 ますらをや 片戀せむと 嘆けども 醜のますらを なほ戀ひにけり
 
大夫哉《マスラヲヤ》 片戀將爲跡《カタコヒセムト》 嘆友《ナゲケドモ》 鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
大丈夫トイフモノハ片戀ナドヲスルモノカ、片戀ナドハスマイ〔八字傍線〕ト思ツテ嘆クケレドモ、コノ馬鹿ナ大丈夫ハ、ヤハリ戀ヲスルワイ。エエ我ナガラ腑甲斐ナイ〔エエ〜傍線〕。
 
○鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》――鬼は醜の省畫。鬼乃志許草《シコノシコクサ》(七二七)・鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》(三二七〇)とあるも同じ。醜の益卜雄は自から罵つたのである。
〔評〕 三の句、思へどもとも言ふべきであるが、さう言はずに嘆友《ナゲケドモ》といつたところに、幾度か戀せじと努力し、嘆息してゐる樣が見えるやうである。鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》と自から責めて、尚戀二家里《ナホコヒニケリ》と言ひ捨てたところに、塞き止(140)め難い感情が現はれてあはれである。
 
舍人娘子奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
舍人娘子は卷一(六一)に出てゐる。舍人皇子の乳母の女などであらうか。
 
118 歎きつつ ますらをのこの 戀ふれこそ 吾が元結の 漬ぢて濕れけれ
 
歎管《ナゲキツツ》 大夫之《マスラヲノコノ》 戀禮許曾《コフレコソ》 吾髪結乃《ワガモトユヒノ》 漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》
 
思ヒ歎イテ、大丈夫ノ貴方〔三字傍線〕ガ私ヲ〔二字傍線〕御慕ヒナサレバコソ、私ノ髪ヲ結ブ元結ノ紐ガカヤウニ〔四字傍点〕霑ヒ濡レマシタヨ。
 
○戀禮許曾《コフレコソ》――戀ふればこその意。舊本禮を亂に誤つてゐる。金澤本に禮とあるに從ふべきである。略解に、マスラヲノコヒ、ミダレコソとよんだのは拙い。○吾髪結乃《ワガモトユヒノ》――髪結は髪を結ぶ紐、即ち元結である。○漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》――漬は霑ふこと、奴禮は濕れること。これを下の多氣婆奴禮《タケバヌレ》(一二三)の歌によつて、解け垂れることに見る説はどうであらう。人に戀ひせられる時は、おのづから髪の元結が濡れるといふ言ひならはしがあつたのであらう。
〔評〕 片戀とは宣ふけれども、こちらには御志が通じて、髪の元結が濡れて居りますと申し上げたので、親王の眞心を汲んではゐるが、贈られた歌に比すれば情熱が缺けてゐるやうである。
 
弓削皇子思2紀皇女1御歌四首
 
弓削皇子は一一一に出づ。紀皇女は天武天皇紀に「次(ノ)夫人、蘇我赤兄(ノ)大臣(ノ)女、大※[草冠/(豕+生)]《オホヌノ》娘生2一男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰2穗積皇子1、其二曰2紀(ノ)皇女1云々」と見え、弓削皇子の異母の御妹である。
 
119 芳野河 行く瀬の早み しましくも よどむことなく 在りこせぬかも
 
芳野河《ヨシヌガハ》 逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》 須臾毛《シマシクモ》 不通事無《ヨドムコトナク》 有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》
 
芳野川ノ流レル瀬ガ早イノデ、少シノ間モ淀ムコトノナイヤウニ、私モアナタヲ〔少シ〜傍線〕暫時モ絶エズニ、、通ツテ〔三字傍線〕逢ヒ(141)タイモノデスヨ。
 
○逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》――ユクセヲハヤミといふのが常の例である。檜嬬手には之を乎の誤としてゐる。○須臾毛《シマシクモ》――シバラクモ・シマラクモの訓もあるが、シマシクモがよからう。之麻思久母比等利安里宇流《シマシクモヒトリアリウル》(三六〇一)・思末志久母見禰婆古非思吉《シマシクモミネバコヒシキ》(三六三四)などの例がある。○有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》――巨勢《コセ》はコソに同じで、希望の辭、この句は有つてくれぬかよといふ意。即ち有つてくれよに同じ。
〔評〕 當時大和人の間に、好景として語られてゐた吉野の急流を取つて、暫時も絶えないことの譬喩としてゐる。格別新味があるわけではないが、素直な無難な作である。
 
120 吾妹子に 戀ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花ならましを
 
吉妹兒爾《ワギモコニ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 秋芽之《アキハギノ》 咲而散去流《サキテチリヌル》 花爾有猿尾《ハナナラマシヲ》
 
私ノ思フ女ヲ戀ヒ慕ツ〔二字傍線〕テヰルヨリモ、寧ロ〔二字傍線〕咲イテ綺麗ニ散ツテ終フ秋萩ノ花デ、私ガ〔二字傍線〕アレバヨイニ。サウスレバ何ノ思ヒモナクテ、サゾヨイデアラウ〔サウ〜傍線〕。
 
○秋芽之《アキハギノ》――芽は萩のこと。この集の頃は萩の文字が無くて、芽、又は芽子と記してゐる。この文字の萩に當ることは、美夫君志の別記に委しく説いてゐる。○咲而散去流《サキテチリヌル》――咲くはただ添へたもので、散るを主とし、萩の花の散るが如く、早く死にたいといふ意に見た注釋が多いが、予は、咲き散る萩の無心さを羨んだものと思ふ。この四首の歌にはいづれも、緩やかな感情が流れてゐて、死を思ふやうな突き詰めたものでないと思はれる。
〔評〕 獨り物思ひに沈んで居ると、秋萩の花が咲きては散る無心な風姿が美しく思はれる。人身は受け難しといふが、寧ろあの花である方が、幸福ではあるまいかと思はれるのである。感じのよい作ではあるが、磐姫皇后の、如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈麻死物乎《カクバカリコヒツツアラズハタカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》(八六)などの歌型に嵌つてゐるのが、少しく興味を殺ぐやうである。
 
121 夕さらば 潮滿ちきなむ 住の吉の 淺香の浦に 玉藻苅りてな
 
(142)暮去者《ユフサラバ》 鹽滿來奈武《シホミチキナム》 住吉乃《スミノエノ》 淺香乃浦爾《アサカノウラニ》 玉藻苅手名《タマモカリテナ》
 
夕方ニナルト潮ガ浦チテ來ルダラウ。ダカラ潮ノ滿チナイウチニ〔ダカ〜二字傍線〕、コノ住吉ノ淺香ノ浦デ玉藻ヲ苅リマセウ。躊躇シテヰルト邪魔ガ這入ルカラ、邪魔ノナイウチニアノ皇女ヲ得タイモノダ〔躊躇〜傍線〕。
 
○淺香乃浦爾《アサカノウラニ》――攝津志に「淺香丘、在2住吉郡船堂村(ニ)1、林木緑茂迎v春霞香、臨2滄溟1遊賞之地」とあるところであらう。船堂村は即ち今の五箇莊村で、堺市の東方に當つてゐるが、淺香の浦はその西方で、今の大和川の南岸、堺市の北方であらねばならぬ。大日本地名辭書には「淺香。今五箇莊村と稱す。……淺香浦は後世地形變じ、今此の名なし。盖堺北莊の西なる三寶村の地、古は海灣に屬す。淺香浦此に外ならず。」とある。卷十一に往而見而來戀敷朝香方《ユキテミテクレバコヒシキアサカガタ》(二六九八)とあるのも此處か。謡曲高砂に「殘んの雪の淺香潟、玉藻苅るなる岸かげの」とあるのも、この歌によつたのであらう。
〔評〕 皇女を玉藻に譬へた、暗喩の歌である。もし作られた場合が不明であつたならば、これは全く海邊遊覽の歌となつてしまふ。それほどに穩やかな迫らぬ氣分で詠まれたものと言つてよい。
 
122 大船の はつる泊の たゆたひに 物念ひ痩せぬ 人の兒ゆゑに
 
大船之《オフブネノ》 泊流登麻里能《ハツルトマリノ》 絶多日二《タユタヒニ》 物念痩奴《モノモヒヤセヌ》 人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》
 
アノ女ハ〔四字傍線〕人ノ妻ダノニ、私ハ〔二字傍線〕(大船之泊流登麻里能)心ガ落チツカズニ、物ヲ思ツテ痩セタ。何故コンナ甲斐ナイ戀ヲスルノダラウ〔何故〜傍線〕。
 
○大船之泊流登麻里能《オホフネノハツルトマリノ》――絶多日二《タユタヒニ》にかかる序詞で、タユタフは船の動搖することである。それを心の動搖し落ち付かぬことに用ゐてゐる。○人能兒政爾《ヒトノコユヱニ》――人の妻であるのにの意。
〔評〕 大船が港にかかつてゐて、ゆらゆらと波に搖れる樣を取つて序とし、心の動搖を歌ひ出したのは面白い。大船之行良行良爾思乍《オホブネノユクラユクラニオモヒツツ》(三三二九)といふやうな歌は外にもあるが、海國民らしい譬喩である。これも絶えざる煩惱に苦しむ樣は見えるが、さして烈しい焦立たしさではない。
 
三方(ノ)沙彌娶(リ)2園臣生羽之女《ソノノオミイクハノメヲ》1未v經2幾時(ヲ)1臥(シテ)v病(ニ)作(レル)歌三首
 
三方沙彌は、持統天皇紀に「六年十月壬戌朔壬申授2山田史御形務廣肆1前爲2沙門1學2問新羅1」とあり。續紀に「周防前守山田史御方云々」とある人か。或は前に見えた久米禅師の如く、三方は氏で、沙彌は名であるかも知れない。美夫君志には三方氏の沙彌として僧侶と見てゐるやうだが、僧侶としてはあまりに不似合である。卷六にも、三方沙彌戀2妻苑臣1作歌云々と見えてゐる。園臣生羽はどういふ人か、その父祖も明らかでない。作の字は時の誤かと略解に言つてゐる。
 
123 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに 掻入れつらむか
 
多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》 比來不見爾《コノコロミヌニ》 掻入津良武香《カキレツラムカ》    三方沙彌
 
束ネレバ短クテ〔三字傍線〕、ヌルヌル垂レテ結ビ難ク、束ネナケレ長過ギル我ガ妻ノ髪ハ、モウ掻キ上ゲテ結フ頃ニナツタガ、私ガ病氣ヲシテ〔モウ〜傍線〕近頃見ナイウチニ、モウ掻キ上ゲテ結《ユ》ツタダラウカ。ドウデス。見タイモノダナ〔ドウ〜傍線〕。
 
○多氣婆奴禮《タケバヌレ》――多氣《タケ》は四段活用の動詞、タクの已然形で、タクは髪を掻き上げること。小放爾髪多久麻庭爾《ヲバナリニカミタクマデニ》(一八〇九)・青草髪爾多久濫妹乎師曾於母布《ワカクサヲカミニタクラムイモヲシゾオモフ》(二五四〇)の如き例がある。○掻入津良武香《カキレツラムカ》――掻入《カキレ》は掻き上げ束ねること。入は上の誤でカカゲだらうと宣長は言つてゐる。この句は自から掻き上げたのをいふのである。古義に「此の頃病臥して、行きて見ぬ間に、誰ぞの男が、かかげ結ひつらむかと、おぼめきて、とひやれるなり」とあるのは誤である。そんな嫉妬の氣分のある歌ではない。
〔評〕 多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》は、大人にならうとしてゐる女の髪を形容すべく、實に巧妙な詞である。その年輩では暫く見ない間に、著しく樣子がかはるもので、自分が病床にある内に、若い妻の髪は、どんなになつたであらう。今までの子供の姿か、それとも大人らしく掻き上げたかと、なつかしく思つたのである。
 
124 人みなは 今は長しと たけと言へど 君が見し髪 亂れたりとも
 
(144)人皆者《ヒトミナハ》 今波長跡《イマハナガシト》 多計登雖言《タケトイヘド》 君之見師髪《キミガミシカミ》 亂有等母《ミダレタリトモ》 娘子《イラツメ》
 
私ノ髪ハコノ頃大層伸ビマシタノデ〔私ノ〜傍線〕、皆ノ人ガ、今ハモウ長過ギルカラ束ネナサイト言ヒマスケレドモ、アナタガ御覽ニナツタ髪デスカラ、タトヒ〔三字傍線〕亂レテヰマセウトモ、貴方ニ御相談セズニ自分デ猥リニ束ネルヤウナコトハ致シマセヌ〔貴方〜傍線〕。
 
○人皆者《ヒトミナハ》――人者皆と元暦校本にあるが、人皆者芽子乎秋云《ヒトミナハハギヲアキトイフ》(二一一〇)ともあつて、人皆といふ熟字のやうな使方と思はれるから、流布本のままでよからう。○多計登雖言《タケトイヘド》――たけよと言へど、即ち束ねよといへどの意。この頃の女は、十四五歳までは髪を垂れてゐた。即ちうなゐ〔三字傍点〕又は童放《ウナヰバナリ》である。十四五歳に至るころ、髪揚げといつて髪を束ねるのである。
〔評〕 何といふやさしい少女心であらう。純眞な心の底から、おのづからに湧き出た詞が、そのまま歌になつてゐる。技巧もない、修飾もない。亂有等母《ミダレタリトモ》と言ひ盡さぬやうであるが、妾は何とも思はず、ただ君が御手によつて掻き上げられむ、といふ意は充分にあらはれてゐる。傑作。伊勢物語の「比べこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき」といふも、これに似た心である。
 
125 橘の 蔭ふむ路の 八ちまたに 物をぞ思ふ 妹に逢はずて
 
《タチバナノ》 蔭履路乃《カゲフムミチノ》 八衢爾《ヤチマタニ》 物乎曾念《モノヲゾオモフ》 妹爾不相而《イモニアハズテ》    三方沙彌
 
私ハ病氣デ寢テ居テ〔九字傍線〕女ニ逢フコトガ出來ナイノデ、(橘之蔭履路乃)イロイロサマザマニ物思ヒヲスルヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○橘之蔭履路乃《タチバナノカゲフムミチノ》――八衢の序詞。橘の木蔭を履み行く路が、幾條にも別れてゐるので、八衢とつづけたのである。古昔橘はその實と花とを愛して、街路樹として植ゑられた。○八衢爾《ヤチマタニ》――八は數の多きをあらはす。衢は道股《チマタ》で、道の岐路をいふ。八衢に物を思ふとは、あれを思ひ、これを思つて、物思に惱むを言ふ。
〔評〕 病の床に横たはつてゐる人の思ひは、次から次へと走馬燈のやうに變つて行くが、要するに戀人の慕はしさが、種々の場面となつてあらはれて來る。忽ち目に浮ぶのは橘の街路樹が並び植ゑられた市の景色である。強い光線は橘の木蔭を地上に濃く投げてゐる。其處は幾條もの道に分れて、多くの男女が群りざわめいてゐる。ああこの市の八衢よと思へば、我が物思ひも八衢に、戀人の上に注がれてゐるに心付いて、物をぞ思ふ妹に逢はずてと嘆息したもので、序詞の作り方が實に巧妙である。卷六に橘本爾道履八衢爾物乎曾念人爾不所知《タチバナノモトニミチフミヤチマタニモノヲゾオモフヒトニシラエズ》(一〇二七)とあるのは、これを歌ひ更へたものらしいが、甚く拙い。
 
石川女郎贈(ル)2大伴宿禰田主(ニ)1歌一首
 
石川女郎は既出(九六・一〇七・一一〇)。大伴田主は大伴安麻呂の第二子、母は巨勢郎女である。元暦校本には題詞の下に註して、「即佐保大納言大伴卿之第二子母曰2巨勢朝臣1也」とある。
 
126 みやびをと 吾は聞けるを 宿かさず 吾を還せり おその風流士
 
遊士跡《ミヤビヲト》 吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》 屋戸不借《ヤドカサズ》 吾乎還利《ワレヲカヘセリ》 於曾能風流士《オソノミヤビヲ》
 
アナタハ〔四字傍線〕風流ナ御方ダト私ハ聞イテヰマシタノニ、私ガ折角參リマシタノニ〔私ガ〜傍線〕、宿モ貸サズニ私ヲ御還シニナリマシタ。シテミルト、貴方ハ〔八字傍線〕愚《オロカ》ナ風流人デスナ〔三字傍線〕。
 
○遊士跡《ミヤビヲト》――遊士はタハレヲ、ミヤビトなどの訓もあるが、宣長がミヤビヲとよんだのがよい。宮びやかなる男の意。下の風流士も同樣である。○於曾能風流士《オソノミヤビヲ》――於曾は遲鈍の意で、敏速の反對。卷十二に山代石田杜心鈍《ヤマシロノイハタノモリニココロオソク》(二八五六)、又は卷九の浦島をよんだ歌に、己之心柄於曾也是君《シガココロカラオソヤコノキミ》(一七四一)とある通りである。
〔評〕 左注にある通りで、石川女郎といふ女は、途方もないあばずれである。貴方は風流人だとの世評だが、馬鹿な風流人だのと罵つたのである。於曾能風流士《オソノミヤビヲ》は、かなりひどい言葉である。
 
大伴田主(ハ)字(ヲ)曰(フ)2仲郎(ト)1、容姿佳艶、風流秀絶(ナリ)、見(ル)人聞(ク)者靡(キ)v不《ザル》2歎息(セ)1也、時(ニ)有(リ)2石川(146)女郎1、自(ラ)成(シ)2雙栖之感(ヲ)1恒(ニ)悲(シム)2獨守之難(キヲ)1、意《ココロニ》欲(シ)v寄(セント)v書(ヲ)、未v逢(ハ)2良信(ニ)1、爰(ニ)作《ナシ》2方便(ヲ)1、而似(セ)2賤嫗(ニ)1、己(レ)提(ゲ)2堝子《クワシ》1而到(リ)寢側(ニ)1、哽音|跼足《キヨクソクシテ》、叩(キ)v戸(ヲ)諮《トウテ》曰(ク)、東隣(ノ)貧女、將(トシテ)v取(ラ)v火(ヲ)來(レリ)矣、於v是、仲郎、暗裏(ニ)非(ス)v識(ルニ)2冐隱之形(ヲ)1、慮外《オモヒノホカニ》不v堪2拘接之計《カヽヘトリノハカリゴト》1、任(セテ)v念(ニ)取(リ)v火(ヲ)、就(テ)v跡(ニ)歸(リ)去(リヌ)也、明(テ)後《ノチ》、女郎、既(ニ)恥(ヂ)2自(ラ)媒(スル)之可(ヲ)1v愧(ヅ)、復(タ)恨(ム)2心契之弗(ルヲ)1v果(サ)、因(リテ)作(リ)2斯(ノ)歌(ヲ)1、以(テ)贈(リ)諺戯(ス)焉
 
○仲郎――大伴家の第二子であるから、かう言つたのである。○成2雙栖之感1――同棲しようと欲する意。○堝子――流布本、鍋子とある。堝は土燒の鍋。○哽音――咽ぶ聲で、老婆らしい聲を出したこと。○跼足――足をかがめて歩くこと。○暗裏非v識2冐隱之形1――暗くて變装したのが分らぬといふのである。○慮外不v堪2拘接之計1――案外にも女郎が男を引つかけやうとした計劃に相手にならなかつたといふのだ。○就v跡歸去也――女郎は來た道を踏んで歸つて行つたといふ意。○諺戯――諧戯となつてゐる本がよからう。この歌を贈つて戯れたといふ意。
 
大伴宿禰田主報(イ)贈(レル)歌一首
 
127 みやびをに 吾はありけり 宿かさず 還しし吾ぞ 風流士にはある
 
遊士爾《ミヤビヲニ》 吾者有家里《ワレハアリケリ》 屋戸不借《ヤドカサズ》 令還吾曾《カヘシシワレゾ》 風流士者有《ミヤビヲニハアル》
 
アナタハ私ヲ、愚ナ風流人ダト言フガ、ドウシテドウシテ〔アナ〜傍線〕、私ハ風流人デアツタワイ。宿ヲ貸サズニアナタヲ〔四字傍線〕還シタコノ私ガ、眞ノ〔二字傍線〕風流人デアル。眞ノ風流人トイフモノハ老婆ノ姿ナドヲシテ來タモノニ、無暗ニ宿ヲ借スヤウナアサハカナコトハ、シナイモノダ〔眞ノ〜傍線〕。
 
○令還吾曾《カヘシシワレゾ》――カヘセルの訓が最も行はれてゐるが、カヘシシがよいやうに思はれる。
(147)〔評〕 贈られた歌に對して、吾こそ眞の風流男だと辨じたまでであるが、調がしつかりしてゐて、力がある。
 
同石川女郎更(ニ)贈(レル)2大伴田主中郎(ニ)1歌一首
 
128 吾が聞きし 耳によく似る 葦のうれの 足痛む吾が背 つとめたぶべし
 
吾聞之《ワガキキシ》 耳爾好似《ミミニヨクニル》 葦若末乃《アシノウレノ》 足痛吾勢《アシイタムワガセ》 勤多扶倍思《ツトメタブベシ》
 
私ガ聞イタ通リニ違ヒアリマセヌ。アナタハ足ノ御病氣デスガ〔アナ〜傍線〕、(葦若末乃)脚ノ惡イ貴方ヨ、ドウゾ御自愛ナサイマシ。
 
○吾聞之耳爾好似《ワガキキシミミニヨクニル》――私が兼ねて聞いた通りだの意。ミミニヨクニバと舊訓にあるが、これは聞くが如くばといふやうな解き方が、先入主となつたものであらう。既に田主の中郎に逢つた後で、その足の病を認めていふ趣であるから、ミミニヨクニバでは適當しない。それのみらず、この歌の書き方は皆助詞を記してあるから、もしヨクニバとよむなら、バに相當する文字がありさうに思はれる。○葦若末乃《アシノウレノ》――舊訓アシカビノであるが、若の字にカとよんだ例がない。恐らく未は末の誤で、アシノウレノであらう。卷十に小松之若末爾《コマツガウレニ》(一九三七)・芽子之若末長《ハギノウレナガシ》(二一〇九)の例がこれを證明する。葦若末乃《アシノウレノ》は足といふ爲の枕詞で、同音を繰返すので意味に關係はない。ウレは尖端をいふ。○足痛吾勢《アシイタムワガセ》――足痛は舊訓アシナヘで、他にアナヘグ・アナエテ・アナヤムなどの訓があるが、痛の字はイタとよむのが普通で(稀に痛背乃河乎《アナセノカハヲ》(六四三)の如きアナの訓もあるが)、ナヘともナヤムともよんだ例は無いやうであるから、アシイタムとよむがよい。○勤多扶倍思《ツトメタブベシ》――自愛し給ふべしの意。
〔評〕 誘惑に失敗して、於曾能風流士《オソノミヤビヲ》と罵つて置いたが、それでも殘念に堪へられなかつた女郎は、今度は田主中郎の足疾をよいことにして、冷やかしたものである。前の夜に彼の足疾を認めたやうに言つて、御用心なさいと、からかつてゐる。どこまでも蓮葉な女らしく現はされてゐる。
 
右依(リ)2中郎(ノ)足疾(ニ)1贈(リ)2此歌(ヲ)1問(ヒ)訊(フ)也
 
(148)大津皇子|宮侍《ミヤノマカタチ》石川女郎贈(レル)2大伴宿禰宿奈麿(ニ)1歌一首
 
大津皇子宮侍とあるについて、契沖は、大津皇子は藤原宮御宇となつて、僅かに十月の初まで世に在しましたのであるから、又天武天皇諒闇中のことでもあるから、淨御原御宇のことであらう、と言つてゐるが、これは、皇子薨去の後まで、舊のならはしをもつて呼んだもので、やはり持統天皇の御代の歌と見るべきであらう。此の題詞の下に、元暦校本は、「女郎字曰2山田郎女1也、宿奈麿宿禰者、大納言兼大將軍卿之第三子也」の二十九字がある。大納言兼大將軍卿は大伴安麻呂のこと。
 
129 古りにし 嫗にしてや かくばかり 戀に沈まむ た童の如
 
古之《フリニシ》 嫗爾爲而也《オムナニシテヤ》 如此許《カクバカリ》 戀爾將沈《コヒニシヅマム》 如手童兒《タワラハノゴト》
 
私ハモハヤ何デモ分別ノ出來ル〔私ハ〜傍線〕年ヲトツタ老婆デアリナガラ、コノ樣ニ、母ヤ乳母ノ手ヲ放セナイ〔母ヤ〜傍線〕小兒ノヤウニ少シモ分別ナク〔七字傍線〕戀ニ沈ンデ泣イテバカリヰルトイフコトガアリ〔デ泣〜傍線〕マセウカ。ホントニ我ナガラ愛相ガ盡キマス〔ホン〜傍線〕。
 
○古之嫗爾爲而也《フリニシオムナニシテヤ》――嫗は和名抄に嫗、於無奈、老女稱也とあり、字鏡に※[女+長]、於彌奈とある。オムナともオミナともよめる字であるが、暫くオムナとして置かう。古之嫗《フリニシオムナ》は、年を取つて經驗ある老女の意。○如手童兒《タワラハノゴト》――手童兒《タワラハ》は母や乳母の手を離れぬ小兒。この句は小兒の如く泣く意であらう。
〔評〕 自ら古之嫗《フリニシオムナ》と言つたり、如手童兒《タワラハノゴト》と言つたりして、極端に誇張し、對稱せしめてあるのが面白い。これもしんみりとした戀の歌ではなくて、少し戯れ氣味の歌である。
 
一云、戀乎太爾忍金手武多和良波乃如《コヒヲダニシヌビカネテムタワラハノゴト》、
 
これは三句以下の異傳である。戀乎太爾《コヒヲダニ》よりも如此許《カクバカリ》の方が、この場合の歌として適切のやうに思はれる。
 
(149)長皇子與(フル)2皇弟(ニ)1御歌一首
 
皇弟は弓削皇子であらう。天武紀に「妃大江(ノ)皇女生3長皇子|與《ト》2弓削皇子1」とある。
 
130 丹生の川 瀬は渡らずて ゆくゆくと 戀ひたき吾がせ こち通ひ來ね
 
丹生乃河《ニフノカハ》 瀬者不渡而《セハワタラズテ》 由久遊久登《ユクユクト》 戀痛吾弟《コヒタキワガセ》 乞通來禰《コチカヨヒコネ》
 
私ハアナタニ逢フ爲ニ〔私ハ〜傍線〕、丹生川ノ瀬ヲ渡ツテ、ソチラヘ行ケバヨイノダガ、都合アツテ〔瀬ヲ〜傍線〕、瀬ヲ渡ラズニヰテ、戀ヒ惱ンデヰル吾ガ弟ヨ、コチラヘ通ツテ來ナサイヨ。
 
○丹生乃河《ニフノカハ》――吉野川の支流で、賀名生の谷を流れて南宇智村で、吉野川に注いでゐるのを丹生川といふと大日本地名辭書に記してゐるが、上古は吉野川の上流をかう呼んだのであらうと思はれる。大瀧の上流、川上村邊に丹生川上上社があるのもその證ではあるまいか。又、宇智郡高野山の下、九度山町で吉野川に入る流をも、丹生川と呼んでゐるので見ても、今の丹生川(一名黒瀧川)を丹生川と呼んだのでないことがわかる。○由久遊久登《ユクユクト》――この語の解種々あるが、源氏物語賢木の卷に、「何ごとにかはとどこほり給はむ。ゆくゆくと宮にもうれへ聞え給ふ」とあるによれば、滞なくすらすらとの意である。さうすればこの句は、乞通來禰《コチカヨヒコネ》に續くものと見ねばならぬ。これを湯鞍干《ユクラカニ》(三一七四)・大舟乃往良行羅二《オホフネノユクラユクラニ》(三二七四)などと同じく見て、心の動搖する樣に解する説は採らない。○戀痛吾弟《コヒタキワガセ》――コヒタシワガセとよむ説もある。これは由久遊久登戀痛《ユクユクトコヒタシ》と續くものと見るのだが、由久遊久は通ふにかゝつてゐるものと見て、それには從はない。○乞通來禰《コチカヨヒコネ》――イデカヨヒコネとコチカヨヒコネの兩訓がある。乞は乞吾君《イデワキミ》(六六○)・乞如何《イデイカニ》(二八八九)・乞吾駒《イデワガコマ》(三一五四)に從へばイデであり、越乞爾《ヲチコチニ》(九二〇)・乞許世山登《コチコセヤマト》(一〇九七)・乞痛鴨《コチタカルカモ》(二七六八)に從へばコチである。此處の意から推してコチとよむことにした。
〔評〕 この兩皇子は丹生川を隔てて住み給うたものか、歌の趣はさう見えるが、川の所在地が吉野では少し變に(150)思はれる。と言うて、一二の句は譬喩的の用法とも思はれない。親しみの情は見えるが、さう佳作とも言はれまい。
 
柿本朝臣人麿、從2石見國1別(レテ)v妻(ニ)上(リ)來(ル)時(ノ)歌二首並短歌
 
人麿の妻としてこの集に出てゐるのは、三人あるやうに見える。その内の一人はこの卷の挽歌に出てゐる早く死んだ女である。(但しその二首を二人に見る説もある。さうすれば合せて四人である。)一人はこの歌の妻で、石見國にゐる間に馴れそめた女。まう一人は依羅娘子で、人麿の死んだ時大和に居つた女である。ここに上來とあるのは、石見の任の中途で、都に歸ることがあつたので、恐らく朝集使などで上京したのであらう。
 
131 石見の海 角の浦回を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 【一云磯なしと】 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は【一云、磯は】なくとも 鯨魚取り 海邊をさして 和多豆の 荒磯の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 浪こそ來寄せ 浪のむた 彼よりかくより 玉藻なす 寄り寢し妹を 【一云、はしきよし妹がたもとを】 露霜の おきてし來れば この道の 八十隈毎に 萬づたび かへりみすれど いや遠に 里は 放りぬ いや高に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山
 
石見乃海《イハミノミ》 角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》【一云|礒無登《イソナシト》】 人社見良目《ヒトコソミラメ》 能咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者無友《ウラハナクトモ》 縱畫屋師《ヨシヱヤシ》 滷者《カタハ》【一云|礒者《イソハ》】無鞆《ナクトモ》 鯨魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》 和多豆乃《ワタヅノ》 荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》 香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》 朝羽振《アサハフル》 風社依米《カゼコソヨセメ》 夕羽振流《ユフハフル》 浪社來縁《ナミコソキヨセ》 浪之共《ナミノムタ》 彼縁此依《カヨリカクヨリ》 玉藻成《タマモナス》 依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》【一云|波之伎余思妹之手本乎《ハシキヨシイモガタモトヲ》】 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》 此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》 彌遠爾《イヤトホニ》 里者放奴《サトハサカリヌ》 益高爾《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》 夏草之《ナツクサノ》 念之奈要而《オモヒシナエテ》 志怒布良武《シヌブラム》 妹之門將見《イモガカドミム》 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
石見ノ海ノ角ノ浦ノメグリニハ良イ〔二字傍線〕浦ガ無イト人ガ見テ思フ〔三字傍線〕ダラウ。又良イ〔二字傍線〕潟ガ無イト人ガ見テ思フ〔三字傍線〕ダラウ。(151)ヨシヤ良イ〔二字傍線〕浦ハ無クトモ、ヨシヤ良イ〔二字傍線〕潟ハ無クトモ、私ハ妻ト二人デ住ンデイタノデ樂シカツタノニ〔私ハ〜傍線〕、(鯨魚取海邊乎指而 和多豆乃荒磯乃上爾 香青生玉藻息津藻 朝羽振風社依米 夕羽振流浪社來縁 浪之共彼縁此依 玉藻成)側ヘ寄ツテ並ンデ〔三字傍線〕寢タ可愛イ〔三字傍線〕妻ヲ(露霜乃)後ヘ置イテ別レテ出テ京都ノ方ヘ上ツテ〔別レ〜傍線〕來ルト、名殘惜シサニ〔六字傍線〕コノ街道ノ澤山ノ曲リ角毎ニ、幾度モ幾度モ振リ返ツテ見ルケレドモ、何時ノ間ニカ〔六字傍線〕、ダンダン遠ク里ハ離レタ。イヨイヨ高ク山ヲモ幾重カ越エテ來タ。アアイクラ悲シンデモ何トモ仕樣ガナイ。私ガ妻ヲ慕ツテヰルヤウニ妻モ〔アア〜傍線〕(夏草之)ガツカリ弱リ果テテ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ慕ツテヰルダラウガ、セメテアノ妻ノ〔七字傍線〕家ノ門デモ見ヨウ。エエ邪魔シテヰルコノ山ヨ、横ニ靡イテ低クナツテ妻ノ家ノ門ヲ見セテ〔七低ク〜傍線〕クレヨ。
 
○角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》――角乃浦は和名抄に、石見國那賀郡都農とあるところで、今の都野津である。國府の東北、二里の地である。地圖參照。浦回はウラミとよむのがよい。○浦無等《ウラナシト》――佳い浦が無いとの意。○人社見良目《ヒトコソミラメ》――人こそ見るらめに同じで、見らめは古い格である。社をコソと訓むのは神社は人の祈願する所であるからで、乞の字をコソと訓むに同じである。○滷無等《カタナシト》――これも良き潟なしとの意。滷は干潟となる遠淺の海岸をいふ。北海は干滿の差が無いから、潟もないわけである。滷の字は潟に同じ。○能咲八師《ヨシエヤシ》――よしやといふに同じで、ヱとシとは詠嘆の助詞である。よしやは、たとひの意。○浦者無友《ウラハナクトモ》――無友は舊訓ナクトモであるのを、宣長はナケドモに改めた。併しここは已然形でなくともよい所であり、又卷十五に與之惠也之比等里奴流欲波安氣婆安氣奴等母《ヨシエヤシヒトリヌルヨハアケバアケヌトモ》(三六六二)とあつて、ヨシヱヤシを、トモで受けてゐるから、これもナクトモがよからう。○鯨魚取《イサナトリ》――鯨を古名イサナと呼んだ。勇魚《イサナ》の義であらう。鯨を捕へる海の意で枕詞として用ゐられる。この句から玉藻成《タマモナス》までは、依宿之《ヨリネシ》と言はむ爲の序詞。○和多豆乃《ワタヅノ》――舊訓ニギタヅだが、玉の小琴に、石見國那賀郡の海邊に渡津村といふのが今もあると言つてから、ワタヅ説が有力になつた。次の或本の歌には柔田津とあるから、ニギタヅとよむのも捨つべきでないが、今、石見にその地名が無いから、暫くワタヅとよむことにする。(152)渡津は江川の河口、都濃村の東北にある。○荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》――荒磯は人げ疎き荒凉たる磯。波の荒きをいふのではない。○香青生《カアヲナル》――香は接頭語。さ青などいふも同じ。○朝羽振《アサハフル》――羽振は風の起るをいふ。鳥の羽たたきによつて、風が起るから出た語だと言はれてゐる。朝羽振《アサハフル》は朝吹く意で、下に風とつづいてゐる。次の夕羽振流《ユフハフル》は浪に續いてゐるが、これは夕風につれて立つ浪の意である。○彼縁此依《カヨリカクヨリ》――彼方に依り此方に依る意であるが、鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》(六二八)などの如く、カとカクとが連ねて用ゐられる習慣がある。○玉藻成《タマモナス》――玉藻の如くの意。依宿之妹《ヨリネシイモ》の枕詞であるが、上に海に關して述べて來たのは、玉藻を言はむ爲であり、又玉藻は女のは女の柔い形容であるから、普通の枕詞とは違ふところがある。○露霜乃《ツユジモノ》――置くの枕詞。露じ物で、露のやうな物の意である。秋の末に置く水霜を露霜といふのは、古意ではあるまい。○八十隈毎《ヤソクマゴトニ》――多くの曲り角毎にの意。○益高爾《イヤタカニ》――マスタカニ・マシタカニの訓もあるが、益目頼染《イヤメヅラシミ》(一九六)・益益南《イヤマサリナム》(三一三五)などによれば、イヤタカニがよい。○夏草之《ナツグサノ》――夏の草は日に照らされて、萎えるものであるから、之奈要《シナエ》の枕詞とする。○念之奈要而《オモヒシナエテ》――之奈要は萎えること。シは接頭語であらう。助詞のシではない。於君戀之奈要浦觸《キミニコヒシナエウラブレ》(二二九八)とある。○志怒布良武《シヌブラム》――志怒布は思ひ出しなつかしがること。
〔評〕 冐頭は住み馴れた石見の國の海邊に托して、吾にはよき妻ありといふ意をほのめかしてゐたが、やがて玉藻なす依り寢し妹をと、歌ひつづけてゐる内に、今までの悠揚たる迫らざる態度が漸く一變して、感情が高調し、戀しさなつかしさが込み上げて來て、我もかくばかり戀しければ、妻も亦思ひしなえて我を慕つてゐるであらう。ああその妻住む門なりとも見よう。靡けよこの山よと、身もだえして叫んだのである。感情がだんだんと高まつて行く樣も巧にあらはれ、調子の上にも氣分の上にも、謂はゆる序破急があつて實に感じの深い作だ。山に靡けと願つた歌は、卷十(153)二|惡木山木末悉明日從者靡有社妹之當將見《アシキヤマコヌレコトゴトアスヨリハナビキタリコソイモガアタリミム》(三一五五)、卷十三に奧十山三野之山靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奧礒山三野之山《オキソヤマミヌノヤマナビケトヒトハフメドモカクヨレトヒトハツケドモココロナキヤマノオキソヤマミヌノヤマ》(三二四二)などがあつて、いづれも古代の民謠と見えるが、人麿はこれらによつて作つたのでもあるまい。
 
反歌
 
132 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
 
石見乃也《イハミノヤ》 高角山之《タカツヌヤマノ》 木際從《コノマヨリ》 我振袖乎《ワガフルソデヲ》 味見都良武香《イモミツラムカ》
 
私ガ妻ト別レテ旅ニ出テ名殘惜シサニ〔妻ト〜傍線〕、石見ノ國ノ高角山ノ木ノ間カラ振ル袖ヲ妻ハ見タダラウカ。ドウデアラウ〔六字傍線〕。
 
○石見乃也《イハミノヤ》――也《ヤ》は輕く添へていふ歎辭である。近江のや鏡の山・ささなみや志賀の都などの、やに同じ。○高角山之《タカツヌヤマノ》――高角山は石見國美濃郡に、今、高津といふ所があつて、人麿を祀る社もあり、其處の山だらうと言はれてゐたが、その村は國府より遙か西方に當つて、都への歸路ではない。恐らく高角山は都農の附近の高い山の意で、都農の里は、人麿の妻の住んでゐた地であるから、その後方の山に違ない。今、島星山と稱するものが、それだと言はれてゐる。地圖參照。○木際從《コノマヨリ》――この句は、第五句の妹見都良武香《イモミツラムカ》につづくものと見る説が多かつたが、それでは句の續が穩やかでないから、我振袖乎《ワガフルソテヲ》につづくものと見るがよい。
〔評〕 妻に別れて都農の里を離れ、山にさしかかつた時のことを述べたもので、もう逢はれぬと思ふにつけても、別を惜しんで高角山の木の間より我が袖を振つたのは、果して妻の目にとまつたであらうかと、今はそれが心にかかり出したのである。せめてあれでも妹の目に止まつて、彼の女の胸にやきつけられたならば、私は切めてそれで心を慰めよう。さてどうであつたらうと思ふのである。あはれな歌だ。
 
133 小竹の葉は み山もさやに さやげども 吾は妹おもふ 別れ來ぬれば
 
小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤゲドモ》 吾者妹思《ワレハイモオモフ》 別來禮婆《ワカレキヌレバ》
 
私ハ親シイ〔三字傍線〕妻ト別レテ來タノデ、コノ道スガラ〔六字傍線〕、山ノ中ガザワザワト音ヲ立テテ、篠ノ葉ガ騷イデ居ルケレド、(154)別段淋シイトモ恐ロシイトモ思ハズ、タダ〔別段〜傍線〕妻ノコトバカリヲ思ツテヰル。
 
○三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》――三山《ミヤマ》の三《ミ》は接頭語で意味はない。清爾《サヤニ》はさやさやとの意で、清の字は借字である。○亂友《サヤゲドモ》――亂の字、種々の訓があるが、上からの續き方では、サヤゲドモとよむのが一番よい。舊訓ミダレドモで、古義がこれに從つてゐるのは、諒解に苦しむ。
〔評〕 笹の葉のさやさやと、山風に打ちそよぐ、淋しい路を辿りつつ、妻を思ふ若い旅人の情緒がか細く、か弱く、物哀げにあらはされてゐる。歌の調子も、笹の葉の戰ぎ鳴る旋律と一致してゐるやうな感がある。新古今に「ささの葉はみ山もそよに亂るなり我は妹思ふ別れ來ぬれば」として出てゐるのは、この歌が、かの繊細な新古今風に通ずるところがあつて、當時にも喜ばれたものであらう。
 
或本反歌
 
134 石見なる 高角山の 木の間ゆも 吾が袖振るを 妹見けむかも
 
石見爾有《イハミナル》 高角山乃《タカツヌヤマノ》 木間從文《コノマユモ》 吾袂振乎《ワガソデフルヲ》 妹見監鴨《イモミケムカモ》
 
これは本文の歌と、殆ど意味にかはりはない。美夫君志に、「見監鴨の見監は過去なれば、此には叶はず」とあるが、これで少しも差支ない。
 
135 つぬさはふ 石見の海の ことさへぐ 韓の埼なる いくりにぞ 深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寢し兒を 深海松の 深めて思へど さ寢し夜は 幾だもあらず 延ふつたの 別れし來れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへりみすれど 大舟の 渡りの山の もみぢ葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 嬬ごもる 屋上の【一云、室上山】山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隱ろひ來れば 天づたふ 入日さしぬれ ますらをと 思へる吾も 敷妙の 衣の袖は 通りて沾れぬ
 
角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》 石見之海乃《イハミノウミノ》 言佐敝久《コトサヘク》 辛乃埼有《カラノサキナル》 伊久里爾曾《イクリニゾ》 深海松生流《フカミオルオフル》 荒礒爾曾《アリソニゾ》 玉藻者生流《タマモハオフル》 玉藻成《タマモナス》 靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》 深海松乃《フカミルノ》 深目手思騰《フカメテモヘド》 左宿夜者《サネシヨハ》 幾毛不有《イクダモアラズ》 延都多乃《ハフツタノ》 別之來者《ワカレシクレバ》 肝向《キモムカフ》 心乎痛《ココロヲイタミ》 念乍《オモヒツツ》 顧爲騰《カヘリミスレド》 大舟之《オホフネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》 黄葉乃《モミヂバノ》 散之亂爾《チリノマガヒニ》 妹袖《イモガソデ》 清爾毛不見《サヤニモミエズ》 嬬隱有《ツマゴモル》 屋上乃《ヤガミノ》【一云室上山】山乃《ヤマノ》 自雲間《クモマヨリ》 渡相月乃《ワタラフツキノ》 雖惜《ヲシケドモ》 隱比(154)來者《カクロヒクレバ》 天傳《アマヅタフ》 入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》 大夫跡《マスラヲト》 念有吾毛《オモヘルワレモ》 敷妙乃《シキタヘノ》 衣袖者《コロモノソデハ》 通而沾奴《トホリテヌレヌ》
 
コノ石見ノ國ニ居ル間ニ親シクシテ〔コノ〜傍線〕、(角※[章+おおざと]經石見之海乃 言佐敝久辛乃埼有 伊久里爾曾深海松生流 荒礒爾曾玉藻者生流 玉藻成)靡イテ寄リ臥シテ寢タ妻ヲ、(深海松乃)深ク心ノ中デハ可愛イト思フケレドモ、人目ヲ憚ツテ〔六字傍線〕共寢スル晩ハ幾程モナイ、サウシテ〔四字傍線〕(延都多乃)別レテ私ハ旅ニ出テ來ルト、(肝向)心ガ痛ミ悲シイノデ、妻ノコトヲ〔五字傍線〕思ツテハ振リ返ツテ見ルケレレドモ(大舟之)渡ノ山トイフ山ノ、紅葉ノ葉ガ散リ亂レルノニ紛レテ、妻ガ立ツテ私ヲ見送ツテ振ツテヰル着物〔ガ立〜傍線〕ノ袖ハ瞭然《ハツキリ》トハ見エナイデ、(嬬隱有屋上乃山乃 自雲間渡相月乃)見エナクナルノガ名殘〔見エ〜傍線〕惜シクハアルケレドモ、ダンダン妻ノ方ガ〔八字傍線〕隱レテ見エナイヤウニナツテ〔見エ〜傍線〕行クト、夕方ニナツテ〔六字傍線〕(天傳)夕日ガサシテ來ルト、イヨイヨ心細ク悲シクナツテ〔イヨ〜傍線〕、吾コソハ男ダト思ツテヰル私モ、涙ガ自然ト流レ出シテ〔涙ガ〜傍線〕(敷妙乃)衣ノ抽ガ裏マデ通ツテ霑レタ。
 
○角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》――蔦多蔓《ツヌサハフ》の意で、蔦かづらの類の、多く這ひまつはる石とづづく枕詞である。この他にこの語の解は多いが、採るべきものがない。この句から玉藻成までは靡くと言はむ爲の序詞。○言佐敝久《コトサヘグ》――韓の枕詞。言葉のさやぎ、喧しき韓人といふのである。○辛乃埼有《カラノサキナル》――辛乃埼は「石見(ノ)國邇摩郡託農浦にありと國人云へり」と、古義に記してあるが、石見風土記に、「可良島秀2海中1、因v之可良埼云。度半里」とあつて、その島の對岸に當るのであらう。託農は即ち今の宅野村である。卷三の三五五の地圖參照。○伊久里爾曾《イクリニゾ》――伊久里は海の石をいふ。釋日本紀に「句離《クリ》謂v石也、伊(ハ)助語也」とあるに(156)よれば、伊は接頭語で、石をクリといふのである。今も日本海沿岸地方では海礁をグリといつてゐる。○深海松生流《フカミルオフル》――深海松は、深きところに生ずる海松《ミル》をいふ。海松は水松とも書く。水松科水松屬の海藻で、體の長さ四五寸、徑一二分の紐状をなし、枝をさして分れてゐて、食用になるものである。○靡寢之兒乎《ナビキネシコヲ》――添ひ臥した女をの意。○深海松乃《フカミルノ》――深目手《フカメテ》の枕詞。○幾毛不有《イクダモアラズ》――イクダとよむがよい。卷五に左禰斯欲能伊久陀母阿蘇禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》(八〇四)とある。○延都多乃《ハフツタノ》――這ふ蔦の別るとつづく枕詞。蔦蔓のたぐひは、枝を分ちて延び行くものだからである。○肝向《キモムカフ》――「五臓六臓相向かひ集まりて、凝々《コリコリ》すといふ意より、こりこりの約轉なる心につづく」と、宣長は言つてゐるが、肝心《キモココロ》も失すなどと言つて、古昔は心も肝も同じ意に用ゐられてゐるので、要するに肝の向ひ合ふ間に、心があると考へたものとすべきであらう。村肝の心と同じやうな語法である。○大舟之《オホフネノ》――渡りとつづく枕詞。○渡乃山之《ワタリノヤマノ》――渡津附近の山であらう。○散之亂爾《チリノマガヒニ》――チリノミダリニとよむ説もある。亂の字は、ミダリとよむのが普通であるが、中にはミダリでは意をなさぬ處もある。例へば、吾岳爾盛開有梅花遺有雪乎亂鶴鴨《ワガヲカニサカリニサケルウメノハナノコレルユキニマガヘツルカモ》(一六四〇)の如きがそれである。して見れば無理にミダリに統一しようとするのはよくない。ここなどはマガヒとよむ方がよい。○嬬隱有《ツマゴモル》――屋の枕詞である。妻を迎ふる爲に屋を作り、その内に妻と籠るのである。この句から渡相月乃《ワタラフツキノ》までは雖惜《ヲシケドモ》といはむ爲の序詞。今、雲間を月が渡るのではない。○屋上乃山乃《ヤガミノヤマノ》―一云室上山とある室上山も同じで、今、下松山村大字八神といふ地の山である。地圖參照。○自雲間《クモマヨリ》――雲間をといふに同じ。○天傳《アマヅタフ》――天を傳ふ日とつづく枕詞。○入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》――入日さしぬればに同じ。○敷妙乃《シキタヘノ》――衣の枕詞。敷妙は床に敷く布で、夜の衣にかけていふ。轉じて枕・袖・床の枕詞となる。
〔評〕 前の長歌と、大體の手法を等しくしてゐるが、前者は末句に近づいて感情が激したやうに作られてゐるに反し、これは總體にしんみりとした哀感が流れてゐる。さうして終末に近づいては、傾く入日を點出して淋しい景を述べ、益荒雄と思へる我も、女々しくも涙に袖をぬらしたと言つてゐる。殊に衣の袖は通りてぬれぬと言つたのは、如何にもさめざめと泣き霑れたやうで、悲しい言葉である。前の歌に劣らぬ佳作である。
 
反歌二首                                                          
136 青駒の 足掻きを速み 雲居にぞ 妹があたりを 過ぎて來にける 一云、あたりは隱り來にける
 
青駒之《アヲゴマノ》 足掻乎速《アガキヲハヤミ》 雲居曾《クモヰニゾ》 妹之當乎《イモガアタリヲ》 過而來計類《スギテキニケル》 【一云、當者隱來計留《アタリハカクリキニケル》
 
私ガ乘ツテヰル〔七字傍線〕、青イ毛色ノ馬ノ歩キ方ガアマリ早イノデ、何時ノ間ニカ〔六字傍線〕、妻ノ家ト、空ノ彼方ニカケ離レテ過ギテ來タヨ。隨分遠ク離レタモノダ。アア妻ガナツカシイ〔隨分〜傍線〕。
 
○青駒之《アヲゴマノ》――和名抄に説文云、※[馬+總の旁]音聰、漢語抄云、※[馬+總の旁]青馬也、とあり、新撰字鏡にも※[馬+總の旁]阿乎支馬とある。卷二十に水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハイロノアヲウマヲ》(四四九四)とあるから、青毛の馬である。白馬ではない。安田躬弦が赤駒の誤かと言つた説は從ふべきでない。○足掻乎速《アガキヲハヤミ》――足掻は足を動かすこと。○雲居曾《クモヰニゾ》――雲居は空、ここは空の如くに遠くの意。
〔評〕 後髪引かれる心地で、妻と別れて來た彼は、その乘る駒のいつもの歩みも、今日は取り分け速いやうに思ふのである。顧みれば妻の家は、既に空のあなたに遠ざかつたと悲しんでゐるのだ。雲居曾《クモヰニゾ》といふ誇張した言ひ方も、わざとらしくなく、哀れに響いてゐる。
 
137 秋山に 落つるもみぢ葉 しましくは な散り亂れそ 妹があたり見む 一云、散りな亂れそ
 
秋山爾《アキヤマニ》 落黄葉《オツルモミヂバ》 須臾者《シマシクハ》 勿散亂曾《ナチリミダレソ》 妹之當將見《イモガアタリミム》 【一云|知里勿亂曾《チリナミダレソ》】
 
名殘惜シイ妻ノ家ハタダサヘ見エナクナルノニ、ソノ上紅葉ノ葉ガ散リ亂レテ先ガ見エナイ。アア〔名殘〜傍線〕、秋ノ山ニ散ル紅葉ヨ、暫時ノ間散リ亂レルナヨ。私ガ〔二字傍線〕妻ノ家ノ邊ヲ見ヨウカラ。
 
○勿散亂曾《ナチリミダレソ》――この句をナチリミダリソとよんだ、古義や美夫君志説は惡い。ミダリとなるのは四段活用で、他動詞である。○須臾者《シマシクハ》――須臾は之麻思久母《シマシクモ》(三六〇一)とも思麻良久波《シマラクハ》(三四七一)ともあるから、どちらでもよい。
〔評〕 落葉雨と降る中を、顧み勝ちに山路を分け行く、旅人の姿が思はれて悲しい。須臾者《シマシクハ》といふ句がやさしみを添へてゐる。素純な作である。
 
或本歌一首并短歌
 
138 石見の海 つの浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は無くとも いさなとり 海べをさして 柔田津の 荒磯の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け來れば 浪こそ來よせ 夕されば 風こそ來よせ 浪のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き吾が寢し 敷妙の 妹が袂を 露霜の おきてし來れば この道の 八十隈毎に 萬づ度 かへりみすれど いや遠に 里放り來ぬ いや高に 山も越え來ぬ はしきやし 吾が妻の子が 夏草の 思ひしなえて 嘆くらむ 角の里見む 靡け此の山
 
(158)石見之海《イハミノミ》 津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》 浦無跡《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無跡《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者雖無《ウラハナクトモ》 縱惠夜思《ヨシヱヤシ》 滷者雖無《カタハナクトモ》 勇魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》 柔田津乃《ニギタヅノ》 荒礒之上爾《アリソノウヘニ》 蚊青生《カアヲナル》 玉藻息都藻《タマモオキツモ》 明來者《アケクレバ》 浪巳曾來依《ナミコソキヨセ》 夕去者《ユフサレバ》 風已曾來依《カゼコソキヨセ》 浪之共《ナミノムタ》 彼依此依《カヨリカクヨリ》 玉藻成《タマモナス》 靡吾宿之《ナビキワガネシ》 敷妙之《シキタヘノ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》 此道之《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧雖爲《カヘリミスレド》 彌遠爾《イヤトホニ》 里放來奴《サトサカリキヌ》 益高爾《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》 早敷屋師《ハシキヤシ》 吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》 夏草乃《ナツクサノ》 思志萎而《オモヒシナエテ》 將嘆《ナゲクラム》 角里將見《ツヌノサトミム》 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
○津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》――この句は津能乃浦回乎《ツノノウラミヲ》の誤で、能の字脱ち、無美は衍であらうと考に見えるが、ツヌと言ふべき處であるから、能ではあるまい。○柔田津乃《ニギタヅノ》――本文に和多豆乃とあるので、これをワタヅとすれば、柔田津の傳はどうして出來たものか、頗る迷はざるを得ない。○蚊青生《カアヲナル》――蚊《カ》は接頭語、さ青といふに同じ。○早敷屋師《ハシキヤシ》――美《ハ》しきやしで、ヤとシとは詠嘆の辭、ヨシヱヤシのヤシに同じ。ハシキは美しき、又は愛すべきの意。
 
反歌
 
139 石見の海 打歌の山の 木のまより 吾が振る袖を 妹見つらむか
 
石見之海《イハミノミ》 打歌山乃《タカツヌヤマノ》 木際從《コノマヨリ》 吾振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹將見香《イモミツラムカ》
 
○石見之海《イハミノミ》――海とは言ふべからざるところのやうに思はれる。それとも石見の海に近い意か。○打歌山乃――この句は舊訓ウツタノヤマノであるが、頗る穩やかでない。考には打歌《タカ》は假名で、次に角か津乃などが落ち(159)たのであらうと言つてゐる。角の字を補ふのはよいやうだが、打の字はタとよんだ例がなく、歌もカとよんだものはない。哥を何哥毛《ナニシカモ》(一四七五)とよんだのがあるのみである。恐らくは誤字であらう。古義の竹綱《タカツヌ》説はあまり物遠い。
 
右(ノ)歌(ノ)體雖v同(ト)句句相替因(リテ)v此(ニ)重(テ)載(ス)
 
柿本朝臣人麿(ノ)妻|依羅娘子《ヨサミノイラツメ》與2人麿1相別(ルル)歌一首
 
依羅娘子は依羅氏の人であらう。人麿の二度目の妻で大和に住んでゐた。この歌は人麿が再び石見へ赴かうとした時、別を惜しんでよんだものである。これを石見にゐる女とする説もあるが、それは誤である。二二四の題詞參照。
 
140 な念ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 吾が戀ひざらむ
 
勿念跡《ナオモヒト》 君者雖言《キミハイヘドモ》 相時《アハムトキ》 何時跡知而加《イツトシリテカ》 吾不戀有牟《ワガコヒザラム》
 
貴方ハ、今別レテモ直ニ歸ツテ來ルカラ、戀ヒ慕ツテ物ヲ〔今別〜傍線〕思フナト仰ルケレドモ、貴方ガ御歸リニナツテ、又〔貴方〜傍線〕御目ニカカル時ハ何時ト思ツテ、私ハ貴方ヲ慕ハズニ居リマセウゾ。何時トモ分ラナイノデスカラ、慕ハズニハ居ラレマセヌ〔何時〜傍線〕。
 
○勿念跡《ナオモヒト》――この句は舊訓オモフナト、考はナモヒソトであるが、代匠紀にナオモヒトとよんだのが良いやうである。勿の字は、不吹有勿勤《フカザルナユメ》(七三)・妹森毛有勿久爾《イモモアラナクニ》(七五)。置勿爾到《オキナニイタリ》(三八八六)などの如く、ナとよむのが常である。ソを附する必要はない。
〔評〕 相時何時跡知而加《アハムトキイツトシリテカ》は、哀な悲しい言葉である。女らしい切な情が見えてゐる。この句によつて守部が、人麿は石見の國司の屬官ではなく、高角山に住んでゐた石見の人であるとしたのは當らない。この句は、必ずし(160)も後會の期が絶對に無いといふのではない。柿本氏は大和國北葛城郡新庄村大字柿本を本郷とした氏で、人麿の生誕地は大和である。
 
挽歌
 
挽歌はバンカとよむ。葬送の際に歌ふ歌。挽の字を用ゐるのは、柩を載せた車を挽く意である。晋書に「挽歌出2于漢武帝、役人之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送v終之禮1」崔豹古今注「薤露蒿里、竝出2田横門人1、至2李延年1、乃分爲2兩曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽v柩者歌1v之、世亦呼爲2挽歌1」とあるから、彼土の熟語で、音讀したに相違ない。考はカナシミノウタとよみ、古義はカナシミウタとしたのは從はれぬ。ヒキウタの訓はありさうであるが、その確證を認め得ない。古今集以後の哀傷に相當するものである。
 
後崗本宮御宇天皇代   天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》天皇
 
齊明天皇の御代である。卷一の八參照。
 
有間皇子自(ラ)傷(ミテ)結(ベル)2松枝(ヲ)1歌二首
 
有間皇子は孝徳天皇の御子である。孝徳紀に、「妃阿部(ノ)倉梯麻呂(ノ)大臣(ノ)女曰2小足媛1、生2有間皇子1」とある。又齊明紀の四年十一月の條に、この皇子の謀反があらはれたことを記し、「於v是皇太子、親問2有間皇子1曰、何故謀反、答曰、天與2赤兄1知(ル)、吾全不v解、庚寅遣2丹比小澤連國襲1、絞2有間皇子於藤白坂1」とある。皇子の謀反あらはれ、折から天皇紀(ノ)温湯に行幸中であつたから、其處へお連れ申す道すがら、磐代で自ら傷んで、松の枝を結ばれたのである。
 
141 磐代の 濱松が枝を 引き結び 眞さきくあらば またかへり見む
 
(161)磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママツガエヲ》 引結《ヒキムスビ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦還見武《マタカヘリミム》
 
私ハ今罪ヲ得テ連レラレテ行ク道スガラコノヤウニ〔私ハ〜傍線〕磐白ノ濱ニ生エテヰル松ノ枝ヲ結ンデ置クガ、自分ノ身ノ申シ開キガ出來テ〔自分ノ〜傍線〕、無事デアルナラバ、再ビコノ結ンダ松ノ枝ヲ見ルコトガ出來ヨウ。アアサウデアレバヨイガ〔アア〜傍線〕。
 
○磐白乃《イハシロノ》――磐白は紀伊日高郡、卷一の一〇に出た。○濱松之枝乎引結《ハママツガエヲヒキムスビ》――濱の松の枝をわがねること。草木の枝を結ぶことは、記念として、又は、後會を期するやうな意味でやつた風俗らしい。既に卷一に磐代乃岡之草根乎去來結手名《イハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》(一〇)とあつたが、その他卷六、靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念《タマキハルイノチハシラズマツガエヲムスブココロハナガクトゾオモフ》(一〇四三)、卷二十に夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマヅノサエダヲワレハムスバナ》(四五〇一)などがそれである。皇子は温湯にましました天皇にま見え給うて、謀反の辯解が出來て、再びこの地を過ぎむと思し召して、松の枝を結ばれたものである。
〔評〕 あはれな事件に伴なつた歌の故か、何となく悲しい感じを與へる作である。皇子への同情は、後の人をして多くの結松の歌をよましめた。それは次の數首のみではなく、萬葉以後にも澤山あるのである。
 
142 家にあれば けに盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
 
家有者《イヘニアレバ》 笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》 草枕《クサマクラ》 旅爾之有者《タビニシアレバ》 椎之葉爾盛《シヒノハニモル》
 
家ニ居レバ器ニ盛ツテ食ベ〔四字傍線〕ル飯ヲ(草枕)旅ニ出テヰルト、カヤウニ〔四字傍線〕椎ノ葉ニ盛ツテ食ベル。アア辛イ旅ダ〔六字傍線〕。
 
○家有者《イヘニアレバ》――イヘニアラバとよむ説はよくない。旅爾之有者《タビニシアレバ》に對して、これは、アレバといふべきである。○笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》――笥は器であるが、狹義では食器をいふ。和名抄に「禮記注云笥、【思吏反和名介】盛v食器也」とある。○椎之葉爾盛《シヒノハニモル》――椎の小枝を折つて飯を盛るのである。新考に椎の葉は細かにてふさはしからずと云つて、椎は楢とよむのだらうとあるが、一枚の葉に盛るのではなく、枝の上に載せるのだから、椎の葉でよいのである。
〔評〕 旅寢となれば物憂きにとは、近代までの言葉であつた。文字通りに草枕旅であつたのだから、飯を椎の葉(162)に盛つて食べたのに僞はない。ましてこれは、囚はれの御身としての旅であるから、いろいろ悲しい考がお湧きになつたであらう。物あはれな調子が、人を動かさずには置かない作である。
 
長忌寸意吉麿《ナガノイミキノオキマロ》見(テ)2結松(ヲ)1哀咽(セル)歌二首
 
意吉麻呂は卷一の五七に奧麻呂とある人で、文武天皇の時の人であるが、結松に關した歌であるから、ここに載せたのである。
 
143 磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人はかへりて また見けむかも
 
磐代乃《イハシロノ》 岸之松枝《キシノマツガエ》 將結《ムスビケム》 人者反而《ヒトハカヘリテ》 復將見鴨《マタミケムカモ》
 
コノ磐代ノ濱ノ松ノ木ノ枝ヲ、結ンダトカイフアノ有間ノ皇子ハ、再還ツテ來テコノ結松ヲ〔五字傍線〕見タデアラウカナア。アノ皇子ハ藤代デ殺サレナサツタカラ、アレ限デ御覽ナサラナカツタラウノニ、今來テ見レバ依然トシテ松ノ枝ハ結バレタ儘ニナツテ居ル。アア御氣ノ毒ナコトダ〔アノ〜傍線〕。
 
○岸之松枝《キシノマヅガエ》――岸の字、元暦校本その他に崖に作つてゐる。いづれでもよからう。
〔評〕 有間皇子が再び歸つて、結松を見られなかつたことは、承知してゐるのだが、復將見鴨《マタミケムカモ》と疑ふやうに言つたのである。其處に餘情が籠つてゐる。略解に「皇子の御魂の、結枝を又見給ひけむかといふ也」とあるは、下の鳥翔成の歌から思ひ付いたのであらうが、非常な誤解である。
 
144 磐代の 野中に立てる 結び松 情も解けず いにしへ思ほゆ
 
磐代乃《イハシロノ》 野中爾立有《ノナカニタテル》 結松《ムスビマツ》 情毛不解《ココロモトケズ》 古所念《イニシヘオモホユ》 未詳
 
有間ノ皇子ガ結ンデ置カレタ〔有間〜傍線〕、磐代ノ野中ニ立タツテヰル結松ヲ見ルニツケテモ、皇子ノコトガ御氣ノ毒デ〔ヲ見〜傍線〕、胸ノウチガ結バツタヤウニナツテ、昔ノコトガ思ハレル。
 
(163)○情毛不解《ココロモトケズ》――不解《トケズ》は結ぶの縁語として用ゐられたもの。この句を美夫君志に「その結びし人の心の解けずぞありけむとなり」とあるのは誤である。下の古所念《イニシヘオモホユ》にかかつてゐるのだから、この結松を見た作者自身の心が、解けないのである。
〔評〕 有間皇子の結ばれた松が、その時までその儘に成長してゐたのを見て、よんだのである。結びと解けずとの縁語の用法は、萬葉集には極めて珍らしい技巧である。その小細工がどうも面白くない。この歌の下に未詳の二字があるのは不要である。
 
山上臣憶良追和(セル)歌一首
 
憶良は意吉麻呂よりも更に後の人である。追和歌とは、意吉麻呂の歌に追和した意である。
 
145 つばさなす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
 
鳥翔成《ツバサナス》 有我欲比管《アリガヨヒツツ》 見良目杼母《ミラメドモ》 人社不知《ヒトコソシラネ》 松者知良武《マツハシルラム》
 
有間ノ皇子ノ御魂ハ〔九字傍線〕、飛ブ鳥ノヤウニ、天ヲ飛ンデ〔五字傍線〕絶エズ此處ニ〔三字傍線〕通ツテ來テ、御形見ノコノ結ビ松ヲ〔御形〜傍線〕御覽ナサルデセウケレドモ、世ノ人ハソレヲ知ラナイガ、松ハ多分知ツテヰルダラウ。
 
○鳥翔成《ツバサナス》――舊訓トリハナスとあるのはよくない。ツバサナスでよい。ツバサは翼であるが、これは鳥を言つたのである。新考にトトビナスとよんだのは語をなさぬやうだ。翔の字は新考に言ふ如く、トブとよむ字であるが、また鶴翔所見《タヅカケルミユ》(一一九九)・天雲翔《アマクモカケル》(一七〇〇)・飛翔《トビカケル》(三七九一)の如くカケルにも用ゐられてゐる。この場合は鳥翔《ツバサ》と熟して用ゐたのである。成《ナス》は如くの意。似すの轉であらう。○有我欲比管《アリガヨヒツツ》――皇子の魂のありありて通ひつつの意。有通ふは集中に多い言葉である。
〔評〕 意吉麻呂の歌の、人者反而復將見鴨《ヒトハカヘリテマタミケムカモ》といふに對して、追和したものである。皇子の御身は再び還られなかつたけれども、御魂は絶えず通つて、結松を見られるのを、松は知つてゐるだらうといふので、天翔る皇子の(164)魂と、松の靈とを認めたもので、神秘的なところに特色がある。
 
右件(ノ)歌等(ハ)雖v不(ト)2挽(ク)v柩(ヲ)之時(ニ)所(ニ)1v作(ル)唯擬(ス)2歌意(ニ)1故(ニ)以(テ)載(ス)2于挽歌(ノ)類(ニ)1焉
 
これは挽歌の意をよく辨へないものが、柩を挽くこととのみ思つて加へた註である。固より必要がない。
 
大寶元年辛丑、幸2于紀伊國1時、見(ル)2結松(ヲ)1歌一首
 
續日本紀に「大寶元年九月丁亥、天皇幸2于紀伊國1、十月丁未、車駕至2武漏温泉1」とある時のことであらう。元暦校本及び諸古本に小字で「柿本朝臣人麿歌集中出也」の十一宇がある。
 
146 後見むと 君が結べる 磐代の 子松がうれを 又見けむかも
 
後將見跡《ノチミムト》 君之結有《キミガムスベル》 磐代乃《イハシロノ》 子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》 又將見香聞《マタミケムカモ》
 
後デ又見ヨウト思召シテ〔四字傍線〕、有間皇子ガ結ンデ置カレタ、コノ〔二字傍線〕磐代ノ子松ノ梢ヲ、有間皇子ハ〔五字傍線〕又御覽ナサレタデアラウカ。殺サレテオシマヒニナツテ御覽ナサラナカツタサウダ。御氣ノ毒ナ〔殺サ〜傍線〕。
 
○子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》――小松の末《ウレ》をの意。宇禮はウラに同じで梢をいふ。
〔評〕 この歌は長忌寸意吉麻呂の磐代乃岸之松枝《イハシロノキシノマツガエ》(一四三)の歌と、酷似してゐる。大寶元年といへば時代も意吉麻呂の頃である。この點から考へれば、これは前の歌の異傳とも言ひ得る。考にはこれを、後人の猥りに書加へたものとして除いてあり、古義は磐代乃岸之松枝《イハシロノキシノマヅガエ》の歌の一本として、その次に小字で記してゐる。併し後人の業とも思はれないから、やはり別の歌として見るべきである。君といふ語を用ゐただけ、この歌の方が鄭重な感じがする。
 
近江大津宮御宇天皇代  天命開別天皇《アメミコトヒラカスワケノスメラミコト》
 
(165)天智天皇の御代
 
天皇聖躬不豫之時、大后《オホキサキ》奉(レル)御歌一首
 
天智天皇不豫のことは、書紀に「十年九月天皇寢疾不豫、(或本八月天皇疾病)冬十月甲子朔庚辰天皇疾病彌|留《オモシ》」とあり、その年「十二月癸亥朔乙丑天皇崩于近江宮」とある。大后は太后に作る本が多いが、誤であらう。大后は皇后で、他の妃と區別してオホキサキと申上げるのである。書紀に、「七年二月丙辰朔戊寅立(テ)2古人大兄皇子女倭姫王(ヲ)1爲2皇后1」と見える御方である。
 
147 天の原 ふりさけ見れば 大きみの 御いのちは長く 天足らしたり
 
天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》 大王乃《オホキミノ》 御壽者長久《ミイノチハナガク》 天足有《アマタラシタリ》
 
大空ヲ遠ク離レテ仰イデ見ルト、天ハ悠々トシテ永ヘニ廣ク蒼々トシテヰマス。天ハ天子樣ノ御姿トモ見ラレルモノデスカラ、アノ樣ニ天ガ廣ク極リ無イノヲ見ルト、今ノ〔天ハ〜傍線〕陛下ノ御壽命ガ長ク天ノヤウニ滿チ足リテ居ルト思ハレマス。御病ノ御平癒遊バスノハ勿論ノコトデス〔ト思〜傍線〕。
 
○天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》――天を遙かに離れて見ればの意。即ち天を仰ぎ見れば。これは恐らく天皇の御病氣を占はむ爲に天を仰ぎ見られたのであらう。檜嬬手や美夫君志に、天皇の寢殿を仰ぎ見ることとして、下の天足有《アマタラシタリ》を、屋上の葛根《ツナネ》の長く垂れたるによりて、御壽も長くつづき給ふことを宣うたのだと言つてゐるのは、穿鑿に過ぎた説だ。○御壽者長久天足有《ミイノチハナガクアマタラシタリ》――御壽命は長く天のやうに滿ち足りてゐるといふのである。
〔評〕 天つ神の御末の天皇に、萬一の事があらせられるとすれば、天に何かの兆がある筈だ。今、大空を振り仰いで見ると、空は心地よく晴れて、いづこにも愁の影は見えない。天皇の御壽命は、この天の如く際涯なくあらせられるよと、喜び給うた御歌である。日本國民の純粹思想を基とした、實に雄大な心地よい作品である。
 
(166)一書曰近江天皇聖體不豫、御病急時大后奉献御歌一首
 
これは、右の御歌の註なりと古義にあるが、註とは思はれない。恐らく此の次に一書の歌があつたのが、脱ちたのであらう。次の歌はこの題詞に關係がない。
 
148 青旗の 木旗の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも
 
青旗乃《アヲバタノ》 木旗能上乎《コバタノウヘヲ》 賀欲布跡羽《カヨフトハ》 目爾者雖視《メニハミレドモ》 直爾不相香裳《タダニアハヌカモ》
 
青イ旗ノ小サイ旗ガ立チ列ンデヰル御陵〔ガ立〜傍線〕ノ上ヲ、亡キ天子樣ハ御魂ガ天ヲ飛ンデ〔亡キ〜傍線〕通ツテ御出デナサルト、私ノ〔二字傍線〕目ニ幻ノヤウニ〔五字傍線〕見エルケレドモ、直接ニ天子樣ニ〔四字傍線〕御逢ヒ申スコトハ出來マセヌワイ。アア悲シイコトデス〔九字傍線〕。
 
○青旗乃《アヲバタノ》――青い色の旗であらう。大葬に立てたものか。これを枕詞とする説もある。卷四に青旗乃葛木山《アヲハタノカツラキヤマ》(五〇九)・卷十三に青旗之忍坂山《アヲハタノオサカノヤマ》(三三三一)の如きはさうらしいが、これはどうであらう。○木旗能上乎《コハタノウヘヲ》――小旗の上をの意であらう。代匠記に木幡といふ地名に見てゐる。木幡は天智天皇の御陵山科に近いところであるから、縁ある地名ではあるが、特にこの地を詠まれたのは、どういふ理由か。これは寧ろ地名と見ない方が穩ではあるまいか。○目爾者雖視《メニハミレドモ》――雖視をミユレドとよむ説が多い。併し舊訓はミレドモで、この字は雖見安可受《ミレドモアカズ》(五六)などとあるから、ミユレドと改める必要はない。
〔評〕 御葬儀に用ゐた旗は、その儘御陵の上に立てられてゐる。その上に天皇の御魂が通ひ給ふを、まざまざと拜するけれども、それは幻で、現し世の御姿には、もはやお目にかゝることが出來ない。さても悲しやと嘆かせられたもので、戀しき天皇の御姿が面影に添うて離れ給はぬ思慕の情が、よくあらはれて悲しい作である。
 
天皇崩御之時倭大后御作歌一首
 
倭大后は前に大后とあつた御方と同じである。この題詞は一首を二首と改めて前の歌の前に置くべきものかとも思はれるが、なほ初からかうあつたのであらう。
 
149 人はよし 思ひ止むとも 玉かづら 影に見えつつ 忘らえぬかも
 
(167)人者縱《ヒトハヨシ》 念息登母《オモヒヤムトモ》 玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》 影爾所見乍《カゲニミエツツ》 不所忘鴨《ワスラエヌカモ》
 
他人ハタトヒ、御崩御遊バシタ天子樣ヲ〔御崩〜傍線〕思ヒ止ツテ歎カヌヤウナコトガアルトモ〔歎カ〜傍線〕、私ハ御姿ガ〔五字傍線〕(玉※[草冠/縵])面影トナツテ目ノ前ニチラツイテ見エテ忘レラレナイワイ。
 
○玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》――懸けとつづく枕詞。それを影《カゲ》に續けたのである。宜長が山※[草冠/縵]の誤としたのは當らない。他にも諸説あるが從ひ難い。○影爾所見乍《カゲニミエツツ》――影に見えて、亡き御姿の眼前にちらつくこと。飲酒坏爾陰爾所見管《ノムサカヅキニカゲニミエツツ》(一二九五)・安加良多知婆奈可氣爾見要都追《アカラタチバナカゲニミエツツ》(四〇六〇)の類とは、詞は同じくて、意は異なつてゐる。
〔評〕 人は月日を經るにつけて、今の悲しみを忘れるかも知れぬが、我のみは戀しいお姿が、目の前に絶えず髣髴とあらはれ給ふ故、永久に忘れることは出來ないといふので、人者縱念息登母《ヒトハヨシオモヒヤムトモ》といつて、自分の思の格別なことを強調せられたところに、哀が籠つてゐる。源氏物語桐壺の卷に「はかなく聞え出づる言の葉も、人よりは異なりしけはひかたちの、面影につと添ひて思さるるも、闇のうつつには猶劣りけり」と更衣を失つた帝の悲愁を述べた筆は、ここに移して大后のお心地をあらはすことも出來るのである。
 
天皇崩時|婦人《ヲムナメ》作歌一首 姓氏未詳
 
婦人は宮嬪の稱呼であらう。和名抄に「妾和名乎無奈女、」安康天皇紀に※[草冠/行]菜《ヲムナメ》、孝徳天皇紀に嬬妾《ヲムナメ》とあるによつて、ヲムナメとよむべきか。守部が夫人の誤としたのは妄斷である。姓氏未詳とあるは婦人の姓氏の未詳をいつたのである。
 
150 うつせ身し 神に堪へねば さかり居て 朝嘆く君 放れ居て 吾が戀ふる君 玉ならば 手に卷き持ちて 衣ならば 脱ぐ時もなく 吾が戀ひむ 君ぞ咋の夜 夢に見えつる
 
空蝉師《ウツセミシ》 神爾不勝者《カミニタヘネバ》 離居而《サカリヰテ》 朝嘆君《アサナゲクキミ》 放居而《ハナレヰテ》 吾戀君《ワガコフルキミ》 玉有者《タマナラバ》 手爾卷持而《テニマキモチテ》 衣有者《キヌナラバ》 脱時毛無《ヌグトキモナク》 吾戀《ワガコヒム》 君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》 夢所見鶴《イメニミエツル》
 
(168)現在ノ生キテヰルコノ私ノ〔九字傍線〕身ハ、神樣ト御成リナサレタ天子樣ノ御供ヲ致スコトモ〔御成〜傍線〕出來マセンカラ、彼ノ世ト此ノ世トニ離レテ居テ、毎朝毎朝私ガ御慕ヒ申シテ嘆ク天子樣、放レテヰテ、私ガ御慕ヒ申ス天子樣、實ニ戀シクナツカシクテ仕方ガアリマセヌ。モシ天子樣〔實ニ〜傍線〕ガ玉デアルナラバ、釧トシテ〔四字傍線〕手ニ卷キ付ケテ持ツテ居ツテ、體カラ放サナイヤウニシ〔居ツ〜傍線〕、着物ナラバ脱グ時モ無ク、始終膚身ニ付ケテ置イテ〔始終〜傍線〕私ガ御慕ヒ申サウト思ヒマス天子樣ガ、昨夜ハ私ノ夢ニ顯ハレナサイマシタ。カヤウニ戀シイ御方モ、今ハ夢デナクテハ逢ハレヌヤウニナツタノハ實ニ悲シウ存ジマス〔カヤ〜傍線〕。
 
○空蝉師《ウツセミシ》――空蝉《ウツセミ》は現し身。現在この世に生きてゐる身。即ち人間。師《シ》は強める助詞。○神爾不勝者《カミニタヘネバ》――神には勝たねばの意で、神となり給へる天皇に、隨ひ天上することの出來ぬをいふ。○離居而《サカリヰテ》――下の放居而と同意の文字で、共にサカリヰテとも、ハナレヰテともよめるのであるが、他の例から推せば、離の字は、天離《アマサカル》(二二七)朝不離《アササラズ》(三七二)・己妻離而《オノツマカレテ》(一七三八)の如くサカル、サル、カルとよまれるのが常である。放は振放見都追《フリサケミツツ》(四一七七)の如く、サクが多いが、放鳥《ハナチトリ》(一七〇)・雖放《ハナツトモ》(三二七)の如く、これをハナツとよんだのもある。そこで離をサカリ、放をハナレとよむことにした。○君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》――伎賊《キゾ》は昨の意。去年をコゾといふと同一語である。
〔評〕 短い長歌ながラ、對句を巧みに用ゐて、悲しさと、慕はしさとをあらはしてゐる。君といふ語が三箇所に繰返されてゐるのも、如何にも慕はしさに堪へぬやうに聞える。但し朝嘆君《アサナゲクキミ》と吾戀君《ワガコフルキミ》との對句は少しくどうかと思はれる。朝の字、マヰとよむべきだといふやうな説も、この對句がうまく行つてゐないところから、出たのである。ともかくも佳作を以て許すべき歌である。
 
天皇|大殯《オホアラキ》之時歌二首
 
大殯はオホアラキとよむ。殯は天皇崩じて未だ葬り奉らず、別殿に奉安せる間をいふ。大は敬稱(169)である。
 
151 かからむと 豫ねて知りせば 大御船 はてし泊に しめ結はましを
 
如是有刀《カカラムト》 豫知勢婆《カナテシリセバ》 大御船《オホミフネ》 泊之登萬里人《ハテシトマリニ》 標結麻思乎《シメユハマシヲ》  額田王
 
カヤウニ天子樣ガ御崩御遊バスト〔天子〜傍線〕前カラ知ツタナラバ、天子樣ガ琵琶湖デ舟遊ビヲナサツタ時〔天子〜傍線〕、御船ノ着イタ場所ニ標繩ヲ張ツテ、永ク御留メ申ス〔九字傍線〕ノデアツタノニ。殘念ナコトヲシマシタヨ〔殘念〜傍線〕。
 
○如是有刀《カカラムト》――刀の字舊本乃に作るは誤である。美夫君志に乃にトの音ありと論じ、誤字にあらずと言つてゐるのは、字音學者の弊に落ちたものである。○標結麻思乎《シメユハマシヲ》――標を結ぶべき筈であつたのにの意。これは古事記天の岩屋戸の條に、大神を岩戸より引き出しまつりて、布刀玉命が、尻久米繩を御後へに引き渡して、ここより内になかへり入りましそ、と申した故事を思つて、よまれたものであらう。
〔評〕 この汀に御舟が着いた時に、標繩を張り渡してお止め申したならば、かやうに神去り給ふこともなかつたらうにと、常識的でない想像が、悲痛の情をあらはして、人をして哀感を催さしめる。
 
152 やすみしし わご大王の 大御船 持ちか戀ふらむ 志賀の辛崎
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾期大王乃《ワゴオホキミノ》 大御船《オホミフネ》 待可將戀《マチカコフラム》 四賀乃辛崎《シガノカラサキ》  舍人吉年
 
コノ志賀ノ辛崎ハ、御崩レ遊バシタ〔七字傍線〕(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス天子樣ノ御船ガ、着クダラウカト思ツテ、ソレ〔ガ着〜傍線〕ヲ戀ヒ慕ツテ御待チ申シテ居ルデセウ。天子樣ノ御崩レ遊バシタコトモ知ラナイデ御船ヲ待ツテヰルノデセウ〔天子〜傍線〕。
○八隅知之吾期大王乃《ヤスミシシワゴオホキミノ》――卷一の五二に出づ。○待可將戀《マチカコフラム》――コヒナムと美夫君志にあるのはその意を得ない。コヒナムと未來に言ふべきところでない。
〔評〕 心なき志賀の唐崎を、心あるものの如くによまれたのである。卷一の人麿の、樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大(170)宮人之船麻知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤヒトノフネマチカネツ》(三〇)の前驅をなした作である。人麿はこれを紛本としたと言つても差支あるまい。純眞な上古人らしい想像が、何となくなつかしい。舍人吉年は宮女らしい名である。
 
大后御歌一首
 
153 いさなとり 近江の海を 沖さけて 漕ぎ來る船 邊附きて 漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ
 
鯨魚取《イサナトリ》 淡海乃海乎《アフミノウミヲ》 奧放而《オキサケテ》 榜來船《コギクルフネ》 邊附而《ヘツキテ》 榜來船《コギクルフネ》 奧津加伊《オキツカイ》 痛勿波禰曾《イタクナハネソ》 邊津加伊《ヘツカイ》 痛莫波禰曾《イタクナハネソ》 若草乃《ワカクサノ》 嬬之《ツマノ》 念鳥立《オモフトリタツ》
 
(鯨魚取)近江ノ海即チ琵琶湖〔五字傍線〕ヲ、沖遠ク離レテ漕イデ來ル船ヨ、岸ノ方ニ付イテ漕イデ來ル船ヨ、沖ヲ漕グ時ニ〔五字傍線〕櫂ヲヒドク撥ネテ漕グ〔三字傍線〕ナヨ、岸ノ方ヲ漕グ時ニ〔六字傍線〕櫂ヲヒドク撥ネテ漕グ〔三字傍線〕ナヨ、甚ク漕グト〔五字傍線〕(若草乃)夫ノ君ガ御好キデアツタ鳥ガ飛ビ立ツカラ。セメテアノ鳥デモ夫ノ君ノ形見ト見タイカラ、遁ゲナイヤウニ音ヲ立テナイデクレ〔セメ〜傍線〕。
 
○鯨魚取《イナサトリ》――海の枕詞。一三一參照。○奧津加伊《オキツカイ》――沖を漕ぐ舟の櫂。加伊は水を掻く具。動詞掻き〔二字傍点〕から出た名詞。○若草乃《ワカクサノ》――嬬《ツマ》の枕詞。若草は愛らしく美しきものであるから、嬬又は夫にかける。又、時に若《ワカ》又は新《ニヒ》の枕詞にも用ゐられる。この點から考へれば、二葉相對してゐるから夫婦によそへて、つづけるものと、守部が説いたのは面白くない。○念鳥立《オモフトリタツ》――恐らく生前飼養してゐられた、鴨のやうな鳥を、崩御の後放鳥としたのが、湖上に浮んでゐるのであらう。
〔評〕 全體の組織が奧《オキ》と邊《ヘ》との對立で出來てゐると言つてもよい。簡潔に、整齊に、且つ力強くよまれてゐる。末尾の若草乃嬬之《ワカクサノツマノ》の破調も、却つて悲しげな感を増すものがある。
 
(171)石川夫人歌
 
天智天皇、蘇我山田石川麻呂大臣の女を納れて、嬪とし給ふ由紀に見えてゐる。石川夫人はその御方かとも思はれるが、詳かでない。
 
154 さざなみの 大山守は 誰が爲か 山にしめ結ふ 君もあらなくに
 
神樂浪乃《サザナミノ》 大山守者《オホヤマモリハ》 爲誰可《タガタメカ》 山爾標結《ヤマニシメユフ》 君毛不有國《キミモアラナクニ》
 
天子樣ハ既ニ御崩レ遊バシタノニ、コノ神樂浪ノ御山ノ番人ハ、誰ノ爲ニ山ニ標繩張ツテ番ヲスルノカヨ。天子樣御存命中ハ、御山ニ人ヲ猥リニ入レナイヤウニ番ヲスル必要モアルガ、今ニナツテハソノヤウナ必要モナイモノヲ。アア悲シイ〔天子〜傍線〕。
 
○神樂浪乃《サザナミノ》――志賀附近の總名。既出(三〇)。○大山守者《オホヤマモリハ》――猥りに山に入つて、伐木などをせぬやうに、山守を置いてあつた。山守部といふものが應神天皇の御代に定められたことも書紀に見える。大は都のほとりの山を守る者であるから、特に敬つて附したものである。○君毛不有國《キミモアラナクニ》――天皇もおはしまさぬにの意。略解に有は在の誤かとあるが、この二字は常に相通じて用ゐられてゐるから、誤ではない。又マサナクニとよんだのも、泥み過ぎた。
〔評〕 大津の宮のやうに、天智天皇の御計畫で出來た新都は、天皇の崩御と共に、どうなるのかといふ心配が誰の胸にも湧き起る。山守の職務は、天皇の崩御によつて、別に影響はない筈であるが、何事も天皇の爲に盡すものといふ考へ方からすれば、都近い山の山守が、今まで通りに番をしてゐるのを見ると、何の爲にさうしたことをするのかと、疑念がふと湧いて來るのである。いたましい歌。
 
從2山科御陵1退散之時、額田王作(レル)歌一首
 
山科御陵は天智天皇の御陵。文武天皇三年十月にこの陵を營まれたことが續紀に見えてゐる。こ(172)の歌は葬送の後一年で退散した時の作である。
 
155 やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 晝はも 日のことごと 音のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は 行き別れなむ
 
八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》 恐也《カシコキヤ》 御陵奉仕流《ミハカツカフル》 山科乃《ヤマシナノ》 鏡山爾《カガミノヤマニ》 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 晝者母《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 哭耳呼《ネノミヲ》 泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 去別南《ユキワカレナム》
 
(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス天子樣ノ、畏レ多イ御陵ヲ御造リ申ス山科ノ鏡山ニ夜ハ終夜、晝ハ終日、聲ヲ出シテ泣イテバカリ居タウチニ、既ニ一周年トモナツタノデ〔既ニ〜傍線〕(百磯城乃)大宮ニ奉仕スル人タチハ、今ハ各自散リ散リニ〔八字傍線〕別レテ、歸ツテシマフダラウカ。アア名殘惜シイコトヨ〔アア〜傍線〕。
 
○御陵奉仕流《ミハカツカフル》――御陵を造ることを、鄭重にかく言つたのである。天皇の御爲にするのであるから、奉仕流《ツカフル》と言つたのだ。○山科乃鏡山爾《ヤマシナノカガミノヤマニ》――天智天皇の御陵を、山科鏡山陵と今も申す。「日岡の東、大字御陵の北に在り。後山を鏡山と云ひ、傍に鏡池あり。今琵琶湖疏水陵畔を繞る」と大日本地名辭書に記してある。○夜之盡《ヨノコトゴト》――ヨノアクルキハミといふ訓はよくない。盡の字は、神之盡《カミノコトゴト》(二九九)・國之盡《クニノコトゴト》(三二二)・人之盡《ヒトノコトゴト》(四六〇)などの例によると、ここもヨノコトゴトとよむより外はない。
〔評〕 御陵に奉仕して、終日終夜泣き暮してゐるうちに、早くも月日は經つて行つた。その涙に霑れた間のことが強調されて、退散のことは最後の一句にのみ述べられてゐる。泣乍在而哉《ナキヅツアリテヤ》の哉《ヤ》が、下の去別南《ユキワカレナム》に響いてゐるのが、深い悲痛と名殘惜しさとを語るやうに思はれて、哀慟の聲も耳に聞えるばかりである。
 
明日香清御原御宇天皇代  天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
天武天皇の御代
 
十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首
 
十市皇女は天武天皇の皇女、御母は額田女王。既出(二二)。天武天皇紀「七年夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨2宮中(ニ)1庚子、葬2十市皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1天皇臨之、降v恩以發哀」とある。高市皇子尊は天武天皇の皇子、既出、(一一四)。ここに尊の字を添へたのは、後に皇太子とならせ給うたからである。
 
156 三諸の 神の神杉 夢にをし 見むとすれども いねぬ夜ぞ多き
 
三諸之《ミモロノ》 神之神須疑《カミノカミスギ》 巳具耳矣自《イメニヲシ》 得見監乍共《ミムトスレドモ》 不寐夜叙多《イネヌヨゾオホキ》
 
亡クナラレタ十市皇女ヲ〔亡ク〜傍線〕、(三諸之神之神須疑)夢ニデモ見ヨウト思フケレドモ、寢ラレナイ夜ガ多イノデ夢ニモ見ラレナイ〔ノデ〜傍線〕。
 
〇三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカミスギ》――三諸の神の神杉で、下に齋《イ》とつづいて、夢の序詞としたものであらう。三諸は三輪山か。○巳具耳矣自得見監乍共――この二句古來訓法が種々あるが、當れりと思はれるものがない。恐らく誤字があるのであらう。今は、具を目とし、得を將とし、乍を爲の誤として、イメニヲシミムトスレドモと訓む美夫君志説に從ふことにする。
〔評〕 亡き人を慕うて、せめてその姿を夢にでも見ようと思へど、それもかなはずと歎いた歌はかなり多く見えるが、蓋しこれ人情の常である。
 
157 神山の 山邊眞蘇木綿 短木綿 かくのみからに 長くと思ひき
 
神山之《カミヤマノ》 山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》 短木綿《ミジカユフ》 如此耳故爾《カクノミカラニ》 長等思伎《ナガクトオモヒキ》
 
(神山之山邊眞蘇木綿短木綿)カヤウニ皇女ノ御壽命ハ、短イ御壽命〔皇女〜傍線〕ダツタノニ、長クトバカリ思ツテ居リマシタ。誠ニ悲シイハカナイコトデス〔誠ニ〜傍線〕。
 
(174)○神山之《カミヤマノ》――ミワヤマノと訓む説もある。大神をオホミワとよむ例もあるが、尚カミヤマでよからう。○山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》――山邊にかけた木綿をいふ。眞蘇は眞麻で眞は發語である。木綿は栲の皮で織つた布であるが、眞蘇木綿は麻を垂れて、木綿の如く神に捧げるのをいふのであらう。○短木綿《ミジカユフ》――眞蘇木綿のうちに短い木綿もあるから、短木綿といつて、皇女の短命を思はしめたので、この句までは如此耳故爾《カクノミカラニ》の序であるが、普通ならば短きものをとでも受ける所を、特に趣を變へたものである。○如此耳故爾《カクノミカラニ》――故爾をユヱニともよみ得るが、加久乃未加良爾《カクノミカラニ》(七九六)とあるから、それに傚ふことにする。故爾《カラニ》はモノヲの意である。
〔評〕 上の句の序が、神々しく、且調子よく出來てゐる。山邊眞蘇木綿短木綿《ヤマベマソユフミジカユフ》の繰返が滑らかである。短木綿で皇女の短き御命を思はしめて、如此耳故爾《カクノミカラニ》とつづけたのは工夫のあるところで、全體に優麗な調をなしてゐる。
 
158 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
 
山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》 酌爾雖行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》
 
皇女ハ今ハ黄泉ニ行カレタガ、私ハ皇女ニ逢フ爲ニ〔皇女〜傍線〕、黄泉ヘ行キタイノデアルガ遺憾ナガラ〔五字傍線〕道ガワカラナイ。
 
○山振之《ヤマブキノ》――振をフキといふのは、古事記に「みはかせる十拳の劔を拔きて於後手布伎都都《シリヘデニフキツツ》逃來ませるを」とある如く、古言である。この集では多くは山振と記してあるが、山吹とした所もある。卷十九|山吹乃《ヤマブキノ》(四一八四)とあり、又卷九に山吹瀬乃《ヤマブキノセノ》(一七〇)とある。○立儀足山清水《タチヨソヒタルヤマシミヅ》――儀の字はスガタとのみよんであつて、他の訓はないが、ここではヨソヒより外によみ方がないやうだ。山振の立ちよそひたる山清水とは、山吹の花の咲いてゐる山の清水で、即ち黄色の泉即ち黄泉で、幽冥の界をいふのであらう。少し物遠い謎のやうであるけれども、戯書の書き方などから見ると、かういふ言ひ方も認めてよささうである。代匠記には「皇女四月七日に薨じ給ふを十四日に赤穗に納む。赤穗は添上郡にあり。この歌によれば赤穗は山なるべければ、その比猶山吹有りぬべし。山吹の匂へる妹などもよそへよめる花なれば、立ちよそひたるといふべし。さらぬだにある山の井に、山吹の影うつせらむは、殊に清かりぬべし。云々」とあるのは、一説として參考すべきである。○酌爾雖行道之白鳴《クミニユカメドミチノシラナク》――黄泉へ行くことを、酌みに行かうが、と言つたものと、見るがよい。契沖は「その山の井を酌みて(175)だになきひとの手向にすべきを、歎きにくづほれて、うつつ心もなければ、道をもしらせ給はずとなり」と言つてゐる。
〔評〕 山吹の咲いてゐる山清水といふことがどういふ意味であるとしても、この表現法は、かなり落ち付いた、餘裕のある歌ひぶりである。下の句には、かなりいたましい感情が見えるけれども、全體としては、悲痛に身悶えするやうな作でない。歌を綺麗に作り上げようとする態度が見える。前の歌にもさういふ傾向がある。
 
天皇崩之時大后御作歌一首
 
日本書紀に、「朱鳥元年九月丙午、天皇病遂不v差、崩2于正宮1、戊申始發v哭、則起2殯宮於南庭1」とあ、り。大后は古本多く太后に作る。大后後に即位ありて持統天皇と申上げる。
 
159 やすみしし 我が大王の 夕されば めし賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし 神岳の 山の紅葉を 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも めし賜はまし その山を 振放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明けくれば うらさび暮し 荒妙の 衣の袖は 乾る時もなし
 
八隅知之《ヤスミシシ》 我大王之《ワガオホキミノ》 暮去者《ユフサレバ》 召賜良之《メシタマフラシ》 明來者《アケクレバ》 問賜良之《トヒタマフラシ》 神岳乃《カミヲカノ》 山之黄葉乎《ヤマノモミヂヲ》 今日毛鴨《ケフモカモ》 問給麻思《トヒタマハマシ》 明日毛鴨《アスモカモ》 召賜萬旨《メシタマハマシ》 其山乎《ソノヤマヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》 暮去者《ユフサレバ》 綾哀《アヤニカナシミ》 明來者《アケクレバ》 裏佐備晩《ウラサビクラシ》 荒妙乃《アラタヘノ》 衣之袖者《コロモノソデハ》 乾時文無《ヒルトキモナシ》
 
(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣ガ、夕方ニナルト山ノ紅葉ヲ〔五字傍線〕御覽ナサレテ御心ヲ慰メナサレ〔九字傍線〕、夜ガ明ケレバ、近臣ラニ山ノ紅葉ハドウダト〔近臣〜傍線〕御尋ネナサレテ、常ニ御心ニカケ御樂シミトナサツ〔テ常〜傍線〕タ神岳山ノ紅葉ヲ、今日モ御尋ネナサラウカ、明日モ御覽遊バサウカ、イヤイヤ、天子樣ハ既ニ御崩レニナツタカラ、今日モ明日モ御尋モナク御覽モ無イ。デ、私ハ悲シサニ〔イヤ〜傍線〕、ソノ神岳山ヲ遠クカラ離レテ仰イデ見テ、夕方ニナルト不思議ナ程モ悲シ(176)イノデ、又〔傍線〕、明ケ方ガ來ルト終日〔二字傍線〕心淋シク日ヲ暮シテ、私ノ着テヰル〔六字傍線〕荒々シイ太イ栲デ織ツタ喪〔傍線〕服ノ袖ハ、涙ノ爲ニ〔四字傍線〕乾ク時ハアリマセヌ。
 
○召賜良之《メシタマフラシ》――召は見の借字である。ミシともメシとも言つたのである。良之《ラシ》は推量の助動詞であるが、ここの用法は、普通の場合と異なつて、確定的事實を述べてゐる。卷十八に美與之努能許乃於保美夜爾安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃散能夜蘇等母能乎毛《ミヨシヌノコノオホミヤニアリガヨヒメシタマフラシモノノフノヤソトモノヲモ》(四〇九八)とあるのも、卷二十の於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能努敝美流其等爾禰能未之奈加由《オホキミノツギテメスラシタカマトノヌベミルゴトニネノミシンナカユ》(四五一〇)とある良之《ラシ》も、同樣の用法である。中古時代に、推量の助動詞めり〔二字傍点〕を、確定的の場合に用ゐる慣習があつたのと同じものか。○神岳乃《カミヲカノ》――飛鳥の神岳、即ち雷岳《イカヅチノヲカ》のことである。卷三の二三五の寫眞參照。○綾哀《アヤニカナシミ》――綾は借字で、あやしく不思議の意。○裏佐備晩《ウラサビクラシ》――心淋しく暮す意。○荒妙乃《アラタヘノ》――枕詞として用ゐられるが、これはさうではない。藤などで織つたあらあらしい布をいふ。荒妙乃衣は即ち喪服である。○乾時文無《ヒルトキモナシ》――景行紀の市乾鹿文《イチフカヤ》の訓註に「乾此云v賦」とあるによると、乾は古くはフルであつたやうであるが、伊摩陀飛那久爾《イマダヒナクニ》(七九八)とあるによれば、ヒルもあつたのであるから、ここはヒルとして置く。
〔評〕 天皇の賞翫せられた神岳の紅葉を中心として、悲哀の感情が歌はれてゐる。朝・夕、今日・明日などの對句が整然として、全體がよく齊つてゐる。
 
一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首
 
天武天皇崩御の時、大后即ち持統天皇の御製である。太上天皇と記し奉つたのは、文武天皇の御代に誰かが記したものを、その儘ここに書き込んだのである。
 
160 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずやも 知ると言はなくも
 
燃火物《モユルヒモ》 取而※[果/衣の鍋ぶたなし]而《トリテツツミテ》 福路庭《フクロニハ》 入澄不言八面《イルトイハズヤモ》 智男雲《シルトイハナクモ》
 
役ノ行者ノ術デハ〔八字傍線〕、燃エテヰル火ヲ手ニ取ツテ、包ンデソレヲ袋ニ入レルト云フデハナイカ、ソノヤウナ不思(177)議ナコトモ、出來ルモノヲ、御崩レ遊バシタ天子樣ニ御遭ヒ申ス術ヲ〔ソノ〜傍線〕知ツテヰルト言ハナイヨ。知ツテヰサウナモノダニ。アアドウゾシテ御逢ヒ申シタイモノダ〔知ツ〜傍線〕。
 
○燃火物取而※[果/衣の鍋ぶたなし]而《モユルヒモトリテツツミテ》――燃える火を、手に執り、紙などに包んで、袋に入れるといふ不思議な術が、役行者などによつて行はれてゐた話をお聞きになつて、お詠みになつたのであらう。○凋智男雲《シルトイハナクモ》――考に、智を知曰の二字にして、シルトイハナクモとよんだのに從ふ。面を五の句に入れて、オモシルナクモとよむのも、又、面知日としてアハムヒナクモとよむのも、面知因としてアフヨシナクモとよむ説も、賛成出來ない。面知をアフとよんだ例は一つもない。
〔評〕 珍らしい材料を取入れた歌である。かかる妖術さへ行はれる世に、神去り給うた御魂を、呼び返し得ぬとは悲しいことよと宣うたので、親しい者を亡つた人が、現代の醫學に呪の聲を發するのに、いくらか似通つた考へ方である。
 
161 北山に たなびく雲の 青雲の 星さかりゆき 月もさかりて
 
向南山《キタヤマニ》 陣雲之《タナビククモノ》 青雲之《アヲクモノ》 星離去《ホシサカリユキ》 月牟離而《ツキモサカリテ》
 
天子樣ガ崩御ノ後、何時ノ間ニカ〔天子〜傍線〕、(向南山陣雲之)大空ノ星モ移リ行キ、月モ移ツテ行ツテ月日ガ大分經ツタ。シカシ私ノ胸ノ中ノ悲シサハ少シモ滅ジナイ〔月日〜傍線〕。
 
○向南山《キタヤマニ》――向南をキタとよむのは義訓である。北山は山の名ではない。○陣雲之《タナビククモノ》――陣は陳に作る本もある。この二字は常に相通じて用ゐられてゐるから、どちらでもよい。布列の意である。この句をツラナルクモノとよむ説があるが、雲に列なるといふのは、普通でないから、タナビクの方がよい。卷十六に青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲクモノタナビクヒスラコサメソボフル》(三八八三)とあるから、猶更である。陣の字は本集中他に見えぬ字である。陳はチの假名に用ゐられてゐる。上の二句は青雲之《アヲグモノ》の序詞。○青雲之《アヲグモノ》――青空説と白雲説と二つあつて、いづれとも決し難い。古事(178)記に「青雲之白肩津《アヲクモノシラカタノツ》」として、白の枕詞に用ゐてあるのは、白は著《シル》しの意で青空の鮮かなことに言ひかけたのだと宣長は言つてゐる。祈年祭祝詞に「青雲能靄極白雲能墜坐向伏限《シラクモノタナビクキハミシラクモノオリヰムカブスカギリ》」とあり、卷十三には白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃《シラクモノタナビククニノアヲクモノムカブスクニノ》(三三二九)とある。卷十四には安乎久毛能伊?來和伎母兒安必見而由可武《アヲクモノイデコワギモコアヒミテユカム》(三五一九)といふやうな用例もある。これらから論ずれば、どちらにもなるので、新考の青雲はブリユーでなくペールであると言ふ説は、最も新説であらうが、卷十六の青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲグモノタナビクヒスラコサメソボフル》(三八八三)などは、どうしても、晴天でも小雨が降るといふ意でなければならぬと思ふ。もし、この青雲を、白雲の薄いペールの雲とするならば、さういふ雲を後世でも何とか呼んだであらうが、その所見が更に無い。又青雲を白い薄雲とするならば、快晴の場合は、古代人は何といつて、それを讃へたらう。これも一寸見當らぬやうである。天原雲無夕爾《アマノハラクモナキヨヒニ》(一七一二)といふやうな言ひ方もあるが、青雲のたなびく空といふ語が用ゐられるのが常であつたのではあるまいかと思はれる。扨この歌では青空にある星と下につづくのである。○星離去月牟離而《ホシサカリユキツキモサカリテ》――離をサカリとよむのは、一五〇に述べた通りだ。牟は毛の誤。正辭が牟をモとよむのだと言つたのは僻論であらう。本集には牟をモとよんだ例は他にない。星を新考に日毛の誤としたのはよくない。
〔評〕 月日の經つのを月星の移るを以てあらはしたのは、純日本思想ではないやうだ。支那の陰陽説などの影響があるやうに思はれる。考にはこの二首は持統天皇の御製の風でなく、こちごちしい歌だといつてゐるのは、予も同感である。
 
天皇崩之後、八年九月九日奉(ル)v爲(シ)2御齊會1之夜、夢裏(ニ)習(ヒ)賜(ヘル)御歌一首
 
天武天皇崩御は、朱鳥元年であるから、後八年は持統天皇七年である。持統天皇紀に「七年九月丙申、爲2清御原天皇1設2無遮(ノ)大會於内裏1」とあるのが、即ちこの齊會であらう。齊は齋に通じて用ゐたもの。夢裏習賜は、夢の内に幾度か口吟み給うた歌の意である。習は繰返すこと。この題詞の下に「古歌集中出」の五字が古本にある。
 
162 明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし やすみしし 吾大王 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の國は 沖つ藻も なみたる波に 鹽氣のみ 香れる國に 味凝《うまごり》 あやにともしき 高照らす 日の皇子
 
(179)明日香能《アスカノ》 清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》 天下《アメノシタ》 所知食之《シロシメシシ》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 何方爾《イカサマニ》 所念食可《オモホシメセカ》 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國者《イセノクニハ》 奧津藻毛《オキツモモ》 靡足波爾《ナミタルナミニ》 鹽氣能味《シホゲノミ》 香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》 味凝《ウマゴリ》 文爾乏寸《アヤニトモシキ》 高照《タカテラス》 日之御《ヒノミコ》
 
飛鳥ノ淨見原ノ宮デ、天下ヲ御支配ナサツタ(八隅知之)私ノ天子樣(高照)天子樣ガ何ト思召シタカ(神風乃)伊勢國ハ、アノ沖ノ藻ガ靡イタ波ニ、潮ノ重吹《シブキ》バカリガ薫ツテヰル伊勢ノ〔三字傍線〕國ニ、遙々御出デ下サツテ誠ニ〔遙々〜傍線〕(味凝)不思議ナ程珍ラシイ(高照)天子樣デヰラツシヤルヨ〔八字傍線〕。
 
○神風乃《カムカゼノ》――伊勢の枕詞。既出(八一)。○奧津藻毛《オキツモモ》――毛は乃の誤と古義にあるが、改める必要はあるまい。○靡足波爾《ナミタルナミニ》――足を留としてナビケル、合としてナビカフの訓もあるが、代匠記にナミタルとよんだのに從ふことにする。ナミタルは靡きたるの意。○鹽氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》――鹽氣は海上にかかつた潮の氣でもや〔二字傍点〕の如きをいふ。香乎禮流《カヲレル》は潮の香のするをいふ。○昧凝《ウマゴリ》――アヤの枕詞。味織《ウマオリ》の綾とつづくのだらうといふ。○文爾乏寸《アヤニトモシキ》――不思議に珍らしき意。この乏寸《トモシキ》は羨しい意ではない。
〔評〕 天武天皇が、伊勢の國におはしました御有樣を、ほめたたへたのである。この天武天皇の御英姿は、吉野から伊勢へ幸して、桑名にあらせられた時の事とする説もあるが、要するに、夢中伊勢の海岸に立たせられた御姿である。何處とか何時とか、定める必要はない。夢の中の御歌だから、通ぜぬも道理だと宣長は言つてゐるが、別に意味の不明なところも無く、普通の御歌である。但し挽歌といふ感じはしない。
 
(180)藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇《タカマノハラヒロヌヒメノスメラミコト》
 
持統天皇の御代
 
大津皇子薨之後、大來《オホク》皇女、從2伊勢|齊宮《イツキノミヤ》1上京之時、御作歌二首
 
大津皇子は朱鳥元年十月二日謀叛のことあらはれ、三日、譯語田舍《ヲサダノイヘ》で殺され給うた。御年二十四。同元年十一月丁酉朔壬子伊勢より大來皇女都に還り拾ふ。大來は前に(一〇五)大伯と記してあつた。齊は齋に通用せしめたもの。
 
163 神風の 伊勢の國にも あらましを なにしか來けむ 君も在らなくに
 
神風之《カムカゼノ》 伊勢能國爾母《イセノクニニモ》 有益乎《アラマシヲ》 奈何可來計武《ナニシカキケム》 君毛不有爾《キミモアラナクニ》
 
私ハ〔二字傍線〕、(神風之)伊勢ノ國ニ居ルベキデアツタノニ、弟ノ君ガ御薨レナツタノニ、何シニ都ヘ上ツテ〔五字傍線〕來タノデアラウ。薨クナラレタコトヲ知ラズニ來テ、悲シイコトデス〔薨ク〜傍線〕。
 
○君毛不有爾《キミモアラナクニ》――君は御弟大津皇子を指して言はれた。アラナクニを古義にマサナクニとよんでゐる。
〔評〕 皇子の薨去を全く御存じなく、御着京になつて始めて變事を聞かれ、驚愕と落膽とに洩らされた、嗟嘆の聲が、如何にも痛々しい。
 
164 見まくほり 吾がする君も あらなくに 何しか來けむ 馬疲るるに
 
欲見《ミマクホリ》 吾爲君毛《ワガスルキミモ》 不有爾《アラナクニ》 奈何可來計武《ナニシカキケム》 馬疲爾《ウマツカルルニ》
 
逢ヒタイト私ガ思ツテヰル御方ハ、御薨去ナサレテ、コノ世ニハ〔御薨〜傍線〕御イデナサラナイノニ、何シニ私ハ、伊勢カラ遙々急イデ〔私ハ〜傍線〕、馬ガ疲レルノモカマハズニ、都ニ上ツテ〔五字傍線〕來タノデアラウ。
 
(181)○馬疲爾《ウマツカルルニ》――舊訓ウマツカラシニとあるが、疲らすと他動詞に見ては、歌品が下るやうに思はれる。ツカルルと言ふべきところである。
〔評〕 遙々の上京も、得たところは何もない。ただ徒に馬を疲勞せしめたのみであると嘆ぜられたので、哀調人を動かすものがある。
 
移2葬大津皇子屍(ヲ)於葛城(ノ)二上山1之時、大來皇女哀傷御作歌二首
 
移葬とは一度葬りて、更に移した意か。或は殯宮から移して葬つた意か。恐らく後者であらう。葛城二上山は、北葛城郡で河内の國境にあり。頂が二つに分れて雄嶽女嶽といふ。ここに挿入の寫眞は天香具山から西方を望んだもので、辰巳利文氏の撮影にかかる。同氏の大和萬葉古蹟寫眞解説によれば「左端前方の人家は磯城郡香久山村大字木之本で啼澤森はこの村落にある。そのすぐ後方に見えるのは高市郡鴨公村大(182)字別所である。右端の人家は同じく鴨公村大字高殿である。このあたりが藤原宮址とされてゐる。今前方にひらけて見えるたんぼ〔三字傍点〕の大部分は宮地と見てさしつかへがなからうと思ふ。黒く小高い山が畝傍山で、山の右麓(北)に見える茂みが神武帝陵である。遠景の山脈は葛城山で、その右端が二上山である。云々」とある。
165 うつそ身の 人なる吾や 明日よりは 二上山を いもせと吾が見む
宇都曾見乃《ウツソミノ》 人爾有吾哉《ヒトナルワレヤ》 從明日者《アスヨリハ》 二上山乎《フタカミヤマヲ》 弟世登吾將見《イモセトワガミム》
 
カウシテ〔四字傍線〕現ノ身ヲ持ツテヰル人間デアリナガラ私ハ明日カラハ、私ノ弟ノ大津皇子ヲ葬ツタ〔十二字傍線〕アノ二上山ヲ、兄弟ダト思ツテ私ハ見ヨウカ。悲シイコトニナリマシタ〔十一字傍線〕。
○字都曾見乃《ウツソミノ》――現身《ウツシミ》のに同じ。この世に肉體を持つてゐるの意。○弟世登吾將見――弟世は種々の訓があるが、イモセが無難であらう。弟をイモとよんだ例は他に見えないが、さうよんで差支ない文字であらう。イモセは兄弟の意。但しこれをイロセとよんで、同母弟の意に見られないこともない。
〔評〕 明日からは謠かに二上山を仰いで、亡き弟を思はうと言ふ御心が痛ましい。併し二上山の雙峰相並んでゐるのを、我ら姉弟の姿と思はうと宣つたのか、或は單に二上山を弟として眺めようと、仰せになつたのかといふ疑問が生ずる。イモセとよめば、前者の解が至當であらうし、又その方が哀情が深いやうに思はれる。
166 磯の上に 生ふる馬醉木を 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに
礒之於爾《イソノウヘニ》 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》 手折目杼《タヲラメド》 令視倍吉君之《ミスベキキミガ》 在常不言爾《アリトイハナクニ》
川ノ邊ノ〔四字傍線〕、岩ノ上ニ生エテヰル馬醉木ノ花ヲ、手折ラウト思フガ、コレヲ折ツテ歸ツテモ〔十字傍線〕、見セルベキ貴方ガ、コノ世ニ生キテ居ラレナイカラ悲シイ〔五字傍線〕。
○礒之於爾《イソノウヘニ》――礒はイシと通ずる語で、凡て石の多い所、主に水邊の石崖などをいふ。ここは川の岸であらう。於は山於憶良《ヤマノウヘノオクラ》とある如く、ウヘとよむ字である。○生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》――馬醉木は※[木+浸の旁]とも記す。石南科※[木+浸の旁]木屬の(183)常緑灌木で、樒・榊に類した葉である。花は白色又は僅かに淡紅色を帶びてゐるものもあり、壺状をなして、總状花序に排列し、早春より開く。花房は長くはないが、葉の上に蔽ふやうに澤山咲くので、誠に美觀である。萬葉人の愛した花だ。○在常不言爾《アリトイハナクニ》――不言《イハナク》は極めて輕く添へたもので、アラナクニとしても同じやうな意味である。
〔評〕 弟君への家苞に、この馬醉木を手折らうと思はれたので、御兄弟の親密さがよくあらはれてゐる。しかも見すべき弟君は既に亡しと、嘆かれた御心の悲しさが、思ひやられて哀切な歌である。
右一首、今案(ズルニ)不v似2移葬之歌(ニ)1盖(シ)疑(フラクハ)從2伊勢神宮1還(ル)v京之時、路上(ニ)見(テ)v花(ヲ)感傷(ミ)哀咽(シテ)作(ル)2此歌(ヲ)1乎
この註は後人のさかしらである。不似移葬之歌とあるのは、礒之於爾とあるのを御墓への道すがらとしては似合はぬと考へたものであらう。皇女の上京は十一月であるから馬醉木は未だ咲かぬ筈である。見花感傷の感は流布本は盛であるが、古本多く感であるから、それに從ふことにした。
日並皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》殯宮《アラキノミヤ》之時、柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
日並皇子尊は草壁皇太子。文武天皇の御父。朱鳥三年四月薨。御年二十八。殯宮之時は御喪の時といふ意である。元來殯は死して未だ葬らず、假に棺に斂めて賓客として待遇する意であるが、漢字本來の用法とは異つて本集では、葬り奉つた後、御墓所に奉仕する間を殯宮之時といふのである。
 
167 天地の 初の時し ひさかたの 天の河原に 八百萬 千萬神の 神集ひ 集ひいまして 神はかり はかりし時に 天照らす ひるめの尊 一云、さしのぼる 日女の命 天をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穗の國を 天地の 依り合ひの極み 知ろしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 一云、天雲の八重雲別きて 神下し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 淨みの宮に 神ながら 太敷きまして すめろぎの 敷きます國と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ 一云、神登りいましにしかば わが大王 皇子の命の 天の下 知ろしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 滿《たた》はしけむと 天の下 一云、食す國 四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 眞弓の岡に 宮柱 太敷きまし みあらかを 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず 日月の まねくなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも 一云、刺竹の 皇子の宮人 行方知らにす
 
(184)天地之《アメツチノ》 初時之《ハジメノトキシ》 久堅之《ヒサカタノ》 天河原爾《アマノカハラニ》 八百萬《ヤホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅカミノ》 神集《カムツドヒ》 集座而《ツドヒイマシテ》 神分《カムハカリ》 分之時爾《ハカリシトキニ》 天照《アマテラス》 日女之命《ヒルメノミコト》【一云|指上《サシノボル》 日女之命《ヒルメノミコト》】 天乎波《アメヲバ》 所知食登《シロシメスト》 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》 天地之《アメツチノ》 依相之極《ヨリアヒノキハミ》 所知行《シロシメス》 神之命等《カミノミコトト》 天雲之《アマグモノ》 八重掻別而《ヤヘカキワケテ》 【一云|天雲之《アマグモノ》 八重雲別而《ヤヘクモワキテ》】 神下《カムクダシ》 座奉之《イマセマツリシ》 高照《タカテラス》 日之皇子波《ヒノミコハ》 飛鳥之《アスカノ》 淨之宮爾《キヨミノミヤニ》 神髄《カムナガラ》 太布座而《フトシキマシテ》 天皇之《スメロギノ》 敷座國等《シキマスクニト》 天原《アマノハラ》 石門乎開《イハトヲヒラキ》 神上《カムアガリ》 上座奴《アガリイマシヌ》【一云|神登《カムノボリ》 座爾之可婆《イマシニシカバ》】 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 天下《アメノシタ》 所知食世者《シロシメシセバ》 春花之《ハルハナノ》 貴在等《タフトカラムト》 望月乃《モチヅキノ》 滿波之計武跡《タタハシケムト》 天下《アメノシタ》【一云|食國《ヲスクニ》】 四方之人乃《ヨモノヒトノ》 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 天水《アマツミヅ》 仰而待爾《アフギテマツニ》 何方爾《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 由縁母無《ツレモナキ》 眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》 御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 明言爾《アサゴトニ》 御言不御問《ミコトトハサズ》 日月之《ヒツキノ》 數多成塗《マネクナリヌレ》 其故《ソコユヱニ》 皇子之宮人《ミコノミヤビト》 行方不知毛《ユクヘシラズモ》【一云|刺竹之《サスタケノ》 皇子宮人《ミコノミヤヒト》 歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》】
 
天地開闢ノ始ニ、(久堅之)天ノ安河原ニ數多ノ神樣達ガ御集リナサレテ、御相談遊バシタ時ニ、天照大御神、即チ〔二字傍線〕大日〓命ガ、天ヲ御支配ナサルノデ、葦原ノ水穗ノ國ヲ、天ト地トガ相合シテ一トナルヤウナ、極リノ無イ後ノ世マデモ、天地ノアラン限リ〔八字傍線〕、御支配ナサル神樣トシテ、皇孫瓊瓊杵命ヲ〔七字傍線〕、天ノ雲ノ、幾重ニモ重ツタ中ヲ押シ分ケテ、天降ラセ申シナサレタ。昔ハ斯樣ニシテ皇孫ガ天降リ遊バシタガ、天武天皇ト申ス〔昔ハ〜傍線〕(高照)天子樣ガ飛鳥ノ淨御原ノ宮ニ、昔ノ神樣ノママニ、大キク御構ヘナサレテ、天下ヲ御治メナサレタガ、天ハ〔テ天〜傍線〕天(185)子樣ガ、御支配ナサル國ダトシテ、天ノ岩戸ヲ開イテ神樣トナツテ、天ヘ御上リナサレテ、天ヲ御支配〔九字傍線〕ナサレタ。天武天皇樣ハ御崩レ遊バシタ。斯クテ〔天武〜傍線〕、私ガ御仕ヘシテヰル皇子ノ日並皇子ガ將來ハ天子トナツテ、コノ〔將來〜傍線〕天下ヲ御支配遊バシタナラバ、サゾカシ、(春花之)結構ナコトデアラウ、又、(望月乃)、何モ缺ケルコトナク滿足デアラウトテ、天下ノ四方ノ人等ガ、擧ツテ〔三字傍線〕(大船之)當ニシテ思ツテ居テ、(天水)仰イデ、サウナルコトヲ〔七字傍線〕待ツテ居タノニ、日並皇子ハ〔五字傍線〕何ト思召シテカ、カヤウナ縁故ノナイ眞弓ノ岡ニ、宮ノ柱ヲ太ク御構ヘナサレテ、御殿ヲ高ク御作リナサレテ、御薨去遊バシテ眞弓ノ岡ヲ御墓トナサツタノデ〔御薨〜傍線〕、毎朝毎朝何トモ〔三字傍線〕物モ仰セラレズ、月日バカリガ數多過ギマシタ。斯樣ニ御薨去ノ後、月日ガ多ク過ギタノデ、御墓ノ邊ニ仕ヘテヰタ〔十字傍線〕コノ皇子ノ御側付ノ人〔五字傍線〕タチモ、ドウシテヨイカ、途方ニクレテヰルヨ。
 
○初時之《ハジメノトキシ》――之《シ》の宇無い本もある。○神分分之時爾《カムハカリハカリシトキニ》――分をハカルとよむのを疑つて、カムアガチ又はカムクバリなどの訓があるが、分の字美夫君志によれば、字鏡集にハカルとよんでゐるとあり、神集集賜比神議議賜?《カムツドヒニツドヒタマヒカムハカリニハカリタマヒテ》、は古事記や祝詞の成語であるから、他によみ方はない。又、八百萬の神の集會で、神の知り給ふ所の、分配を議したことは無い。○天照日女之命《ァマテラスヒルメノミコト》――天照大御神を書紀に「生2日神1、號2大日〓貴《オホヒルメノムチ》1」とある。○葦原乃水穗之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》――古事記に、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國《トヨアシハラノチアキノナガイホアキノミヅホノクニ》とあり。葦原に包まれた國で、みづみづしく稻穗の榮える國といふ意である。但し水穗を水田の穗と見る説もある。我が國の地味肥沃を賞めた稱呼である。○天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》――天地は元來一體であつたのが、分離したのであるから、又何時か相合して一體となるものとして、その極限の際までの意。○神下座奉之《カムクダリイマセマツリシ》――神が下り給ふのであるから、神下りである。座奉之《イマセマツリシ》は、神下りをおさせ申したといふやうな意。これは皇孫瓊々杵尊を申し奉るのであるが、次への續きは、その御系統の天皇を申すのが常である。ここは次に高照日之皇子波《タカテヲスヒノミコハ》として、天武天皇を申してゐる。○天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》――天皇の支配し給ふ國なりとての意で、天皇の崩御を天を支配し給ふことと古代人は考へたのである。○石門(186)乎開神上上座奴《イハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌ》――天の石門を開けて、天上せられたといふので、これは天皇の崩御などについて、言ふ言葉である。○吾王皇子之命乃《ワガオホキミミコノミコトノ》――日並皇子を申し奉る。○春花之《ハルハナノ》――枕詞。春の花の榮えて美はしいのを貴しとつづけたのであらう。○望月乃《モチヅキノ》――滿月の如くの意。枕詞。○滿波之計武跡《タタハシケムト》――卷十三に十五月之多田波思家武登《モチヅキノタタハシケムト》(三三二四)とあるに同じく、たたはしくあらむとの意。たたはしは滿ちて缺けざること。○大船之《オホブネノ》――思憑而《オモヒタノミテ》の枕詞。大きい船に乘れば、心が安じて憑みとするからである。○天水《アマツミヅ》――雨のこと、仰而待爾《アフギテマツニ》の枕詞。空を仰ぎて雨を待つからである。○何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》――何と思召せばかの意。○由縁母無《ツレモナキ》――由縁は舊訓ユヱであるが、卷三に何方爾念鷄目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《イカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマベニ》(四六○)・卷十三に何方御念食可津禮毛無城上宮爾《イカサマニオモホシメセカツレモナキキノヘノミヤニ》(三三二六)とあるからツレモナキがよい。縁故の無い意である。○眞弓乃岡爾《マユミノヲカニ》――高市郡坂合村大字眞弓にある岡。挿入した寫眞は、橘寺から西方を望んだ景で、遠景左方は金剛山、右方は葛城山。金剛山の前に見える丘陵の右が眞弓の丘で、左が佐田の丘である葛城山の前面に見える丘陵が、天武・持統兩帝の檜(187)隈大内陵である。○御在香乎《ミアラカヲ》――御在處《ミアリカ》の意。宮殿。○高知座而《タカシリマシテ》――高く構へ給ひての意。○明言爾《アサゴトニ》――朝毎に。○御言不御問《ミコトトハサズ》――御言葉を宣はずの意。コトトフは物を言ふことである。○日月之《ヒツキノ》――考にツキヒノとよんであるが、文字通りがよからう。○數多成塗《マネクナリヌレ》――物の頻りなることをマネクといふ。ヌレはヌレバに同じ。○皇子之宮人行方不知毛《ミコノミヤビトユクヘシラズモ》――日並皇子の宮に奉仕した舍人どもは、途方にくれてゐるといふのである。
〔評〕 天地開闢から、天孫降臨へと説き起すのが、人麿の好んで用ゐた手法だ。さうして皇室の尊嚴を、口を極めてたたへてゐる。天皇の崩御を天原石門乎開神上上座奴《アマノハライハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌ》などと言つてゐるのは、實に神々しい表現法である。皇子の薨去を何方爾御念食可由縁無眞弓乃崗爾《イカサマニオモホシメセカツレモナキマユミノヲカニ》云々といぶかしげに言つて、露骨な述法を避けたのも巧みである。後の高市皇子尊城上殯宮之時の歌には及ばないが、典重の調に悲凉の氣を盛つた佳作である。
 
反歌二首
 
168 ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも
 
久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》 仰見之《アフギミシ》 皇子乃御門之《ミコノミカドノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
(久堅乃)空ヲ見ルヤウニ、私ドモガ〔四字傍線〕仰イデ見タ日並皇子ノ御所ガ、皇子ガ御薨去遊バシタノデ〔皇子〜傍線〕、荒レルデアラウガ惜シイコトデアルヨ。
 
○天見如久仰見之《アメミルゴトクアフギミシ》――皇子へかかるのである。日並皇子を尊んでかく申したのだ。○皇子乃御門《ミコノミカド》――日並皇子の御殿。今、高市郡高市村に大字島の庄があつて、そこがこの皇子の宮址だといはれてゐる。
〔評〕 皇子に對する敬意と思慕の情がよくあらはれてゐる。天見る如く仰ぐは、ふさはしい譬喩である。
 
169 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隱らく惜しも
 
茜刺《アカネサス》 日者雖照有《ヒハテラセレド》 烏玉之《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》 隱良久惜毛《カクラクヲシモ》
 
(茜刺)太陽ハ空ニ〔二字傍線〕照ツテヰルケレドモ、(烏玉乃)夜空ヲ〔二字傍線〕渡ル月ガ隱レルノハ惜シイヨ。日並皇子ガ御薨去遊(188)バシタノハ惜シイコトダ〔バシ〜傍線〕。
 
○茜刺――日の枕詞。既出(二〇)○烏玉之《ヌバタマノ》――夜の枕詞。既出(八九)○夜渡月之《ヨワタルツキノ》――夜空を行く月がの意。皇子を月に譬へたのである。○隱良久惜毛《カクラクヲシモ》――隱良久《カクラク》は隱るの延言。
〔評〕 皇子を月に譬へて、如何にも嚴かな堂々たる舒法である。日並皇子の貴さと、その薨去を傷む念とが、よくあらはされてゐる。日はただ、月の對照として出したもので、天皇を指し奉つたのではあるまい。天武天皇の崩後三年、天皇空位であつた間のことである。
 
或本云、以(テ)2件歌(ヲ)1爲(ス)2後皇子尊殯宮之時歌反(ト)1也
 
後皇子は高市皇子を指したのである。古義はこの註によつて、前の歌を天皇(持統)は御在しませど皇子の薨れ給うたのは惜しいと解いてゐる。尊を舊本貴に作る。金澤本による。歌反也は歌の反歌也の意。
 
或本歌一首
 
170 島の宮 勾の池の 放ち鳥 人目に戀ひて 池に潜かず
 
島宮《シマノミヤ》 勾之池之《マガリノイケノ》 放鳥《ハナチドリ》 人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》 池爾不潜《イケニカヅカズ》
 
日並皇子ノ〔五字傍線〕島ノ宮トイフ御所〔五字傍線〕ノ、勾ノ池ノ放シ飼ヒニシテアル鳥ハ、人ヲ戀シガツテ、池ノ底〔二字傍線〕ニ潜ラナイデ、水ノ上ニ浮イテ淋シサウニシテヰル、鳥モ皇子ガ薨去ナサツタノデ、淋シイト見エル〔デ、水〜傍線〕。
 
○島宮《シマノミヤ》――日並皇子の宮の名である。島は庭の池の島をいふので、庭に池を掘つて島を作られたから、かくよんだのである。後世では庭を島とよんでゐる。島宮については、大和志に、「島宮、嶋莊村、一名橘島又名御島宮。天武天皇元年、便2居於此1先此蘇我馬子、家2於飛鳥河傍1乃庭中開2小池1築2小島於池中1時人曰2島大臣1」と見えてゐる。○勾之池之《マガリノイケノ》――池の名である。曲つた形をしてゐるのでかく名づけたのであらう。美夫君志(189)や古義に、安閑天皇の宮を勾金箸《マガリノカナハシ》宮と申すのも同所のやうに言つてゐるが、全く別の所で、金箸宮の舊地は高市郡の西北隅で、島の宮の地は、同郡の東南隅にある。挿入した寫眞は、島の宮の舊地で、大和萬葉古蹟寫眞から轉載したもの。辰巳利文氏は「高市郡高市村で、左端小學校のあたりが池址ではないかと思ふ。小學校のすぐ右方(北方)のたんぼを、今もイケダといふところから、さう考へられないこともない。近景村落は、大字島之庄と岡で、ここから右方(北方)に向つてひらける山峽が、すなはち飛鳥京である。……遠景高く見えるのが二上山で、中間の黒い高い山が畝傍山である。前方の古墳(石をつみかさねたもの)は、謂はゆる「島の石舞臺」と稱するもので、或は蘇我馬子の墓ではないかとも言はれてゐる。馬子はこのほとりに住んでゐたのである。」と解説してゐる。○放鳥《ハナチドリ》――放飼ひにしてある鳥。薨去の後に放した鳥だといつた古義説は從はれない。○池爾不潜《イケニカヅカズ》――カヅクは水を潜ること。
〔評〕 これは長歌の反歌とは見えない。恐らく次の島宮上池有《シマノミヤウヘノイケナル》(一七二)の歌の或本であらう。我が心の淋しさから、池の鳥も人目を戀ひて池にかづか(190)ずと斷定的に言つたところに、悵然たる作者の姿が見えるやうである。
 
皇子尊宮舍人等慟傷(ミテ)作(レル)歌二十三首
 
職員令によれば春宮の大舍人六百人とあるから、大さうな人數である。それらの人等が各所に宿直してゐた有樣が想像せられる。
 
171 高光る 我が日の皇子の 萬代に 國知らさまし 島の宮はも
 
高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所知麻之《クニシラサマシ》 島宮婆毛《シマノミヤハモ》
 
(高光)私ノ御仕ヘ申ス日並〔私ノ〜傍点〕皇子ガ、萬代ノ後マデモ永イ間、コノ日本〔七字傍線〕國ヲ御治メ遊バス筈ノ島ノ宮ヨナア。噫。今ハ皇子ハ御薨レ遊バシタカラ、コノ御宮モ駄目デアル〔噫今〜傍線〕。
 
○高光《タカヒカル》――日の枕詞。○國所知麻之《クニシラサマシ》――天皇として此處にましまして、國を知ろしめし給ふらむ島の宮よの意で、麻之《マシ》はマシ、マシ、マシカと活用する未來の助動詞の連體形である。
〔評〕 奉仕する皇子にかけてゐた期待が、薨去と共に消滅した悲哀と痛惜の情とを歌つたものである。島宮婆毛《シマノミヤハモ》の婆毛《ハモ》が如何にも悲しげに胸にこたへる。
 
172 島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君坐さずとも
 
島宮《シマノミヤ》 上池有《ウヘノイケナル》 放鳥《ハナチドリ》 荒備勿行《アラビナユキソ》 君不座十方《キミマサズトモ》
 
日並皇子ノ〔五字傍線〕島ノ宮ノ御所ニアル、上ノ池ニ浮イテヰル放シ飼ヒノ鳥ヨ、皇子ハ既ニコノ世ニハ〔七字傍線〕御イデナサラズトモ、決シテ他ヘ散リ散リニ飛ンデ行クナヨ。切メテオマヘデモ皇子ノ御形見ト見ヨウカラ〔切メ〜傍線〕。
 
○上池有《ウヘノイケナル》――略解は一本に從つて池上有《イケノウヘナル》と改めてゐる。古義は上を勾の誤としてゐるが、いづれにも從はぬことにする。これは矢張池の名で、勾の池とは別であらう。○荒備勿行《アラビナユキソ》――荒ぶはここでは、疎くなること。即ち(191)飛び去ること。
〔評〕 皇子の愛し給うた鳥を、その形見として眺めようといふ心がいたいたしい。一五三の歌に似た點がある。
 
173 高光る わが日の皇子の いましせば 島の御門は 荒れざらましを
 
高光《タカヒカル》 吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》 伊座世者《イマシセバ》 島御門者《シマノミカドハ》 不荒有益乎《アレザラマシヲ》
 
(高光)私ノ御仕ヘシテヰタ日並〔二字傍線〕皇子ガ御イデ遊バシタナラバ、コノ〔二字傍線〕島ノ御殿ハ斯樣ニ〔三字傍線〕荒レナイデセウノニ、御薨レナサツタモノダカラ、モハヤカヤウニ荒レテ了ツタ〔御薨〜傍線〕。
 
○伊座世者《イマシセバ》――セは過去の助動詞キの未然形である。居られたならばの意。○島御門者《シマノミカドハ》――島の御殿はの意。
〔評〕 御殿の荒れ行くのを見て、皇子の薨去が今更に悲しまれる心をよんだのである。斷腸の聲。
 
174 よそに見し 眞弓の岡も 君坐せば 常つ御門と とのゐするかも
 
外爾見之《ヨソニミシ》 檀乃岡毛《マユミノヲカモ》 君座者《キミマセバ》 常都御門跡《トコツミカドト》 侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》
 
今マデハ、何ノ關係モナイ所ト思ツテ居ツタ檀ノ岡モ、今ハ日並皇子ヲ御葬リ申シテ〔今ハ〜傍線〕、皇子ハ此所ニ永久ニ御鎭マリナサツテ〔此所〜傍線〕イラツシヤルノデ、コノ岡ヲ〔四字傍線〕何時マデモ變ラナイ御殿トシテ、宿直ヲシテ居リマスヨ。
 
○外爾見之《ヨソニミシ》――今まで自分には關係ないものとして、眺めて居たの意。○常都御門跡《トコツミカドト》――永久の御殿との意で、即ち御墓をいふのである。
〔評〕 外爾見之檀乃岡毛《ヨソニミシマユミノヲカモ》といふ言葉に、皇子の思ひかけない薨去によつて、かかる眞弓の岡に御墓の出來た意外さを嘆いてゐる。
 
175 夢にだに 見ざりしものを おほほしく 宮出もするか さ日の隈みを
 
夢爾谷《イメニダニ》 不見在之物乎《ミザリシモノヲ》 欝悒《オホホシク》 宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》 作日之隈回乎《サヒノクマミヲ》
 
夢ニデモ、見ナイコトデアツタノニ、コンナニ悲シイ思ヲシナガラ、檀ノ岡ノ御墓ニ宿直シテ居テ〔檀ノ〜傍線〕、コノ檜隈(192)ノアタリノ御墓ノ御所〔六字傍線〕ヲ出入スルコトヨ。アア、意外ダ〔五字傍線〕。
 
○欝悒《オホホシク》――この集に多く用ゐられた熟字である。心の晴れぬをいふ。ここは悲しみつつの意。○宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》――宮出《ミヤデ》は宮に出仕すること。宮は眞弓の岡に建つた御墓附近の御殿である。爲鹿《スルカ》はするかなの意。○作日之隈回乎《サヒノクマミヲ》――作《サ》は發語、檜隈の邊をの意。檜隈は和名抄に「高市郡檜前郷、訓比乃久末」とあるところで、今は坂合村と改めたが、なほ、大字檜前が存してゐる。丁度島の庄の西南で、眞弓の岡の東に當つてゐる。宣長が、作日を佐田と改めたのは從ふべきでない。隈は舊本隅に作つてゐるが、金澤本に隈とあるのがよいであらう。
〔評〕 眞弓の御墓に奉仕する爲に、島の宮から通つて行く舍人の道すがらの詠であらう。檜隈の道を辿りながら、かかる所を通うて、悲しみに閉された胸を抱きつつ宮仕をするとは、と事の意外に驚いた聲が、あはれに響いてゐる。
 
176 天地と 共に終へむと 念ひつつ 仕へまつりし 心違ひぬ
 
天地與《アメツチト》 共將終登《トモニオヘムト》 念乍《オモヒツツ》 奉仕之《ツカヘマツリシ》 惰違奴《ココロタガヒヌ》
 
天地ト共ニ、ソノ盡キル時マデト思ツテ、皇子ニ御仕ヘシタ私ノ豫〔三字傍線〕想ハ、スツカリ違ツテ終ツタ。實ニ殘念ナコトヲシタ〔十三字傍線〕。
[評] 天地與共將終登念乍《アメツチトトモニオヘムトオモヒツツ》は、實に力の強い句法である。卷四に天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》(五七八)に似てゐるが、それよりも、なほあはれが深い。
 
177 朝日照る 佐太の岡邊に 群れゐつつ 吾が哭く涙 やむ時もなし
 
朝日弖流《アサヒテル》 佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》 群居乍《ムレヰツツ》 吾等哭涙《ワガナクナミダ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
日並ノ皇子ノ御墓ガアル〔十字傍線〕、朝日ノ美シク照ル、佐多ノ岡ノアタリニ群ツテ居テ、皇子ノコトヲ御慕ヒ申シテ〔皇子〜傍線〕、私ドモガ泣ク涙ハ、何時マデ立ツテモ止ム時ハナイヨ。
 
○佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》――佐太乃岡は、大日本地名辭書に、「眞弓岡に接し、今、越智岡村に屬す、大字佐田是なり」と(193)ある通りである。辰巳利文氏の大和萬葉地理研究には「眞弓の丘は、只今は一面に小松が生茂つてゐて、佐田の丘と相對峙してをるのであります。ところで佐田の丘と眞弓の丘とは、さほど明瞭にわけることが出來にくいのであつて、一見一つの丘陵の樣にながめられるのであります。佐田の丘の麓には、今、佐田といふ村落があり、眞弓の丘の麓には矢張同じく眞弓といふ村落があるのであります」とある。この佐田の丘に日並皇子即ち岡宮天皇の御陵があるのである。
[評]夜の間は、おのがじし悲しい思を抱きつつも、黙々として明したが、朝日が斜に岡の上に鮮かな光を投げると、其處に展開せられる御墓の周圍の情景は、何一つとして舍人らの心を掻き亂さぬものはない。彼らの集團は、ただ相擁して號泣するの外はないのだ。何らの悲痛なる場面ぞ。蓋しこの二十三首中の傑出した作。
 
178 み立たしし 島を見る時 庭たづみ 流るる涙 止めぞ兼ねつる
 
御立爲之《ミタタシシ》 島乎見時《シマヲミルトキ》 庭多泉《ニハタヅミ》 流涙《ナガルルナミダ》 止曾金鶴《トメゾカネツル》
 
日並皇子ガ、オ池ノ景色ヲ御覽ナサルトテ〔日並〜傍線〕、御立チナサレタ池ノ中ノ〔四字傍線〕島ヲ見ルト、庭ノ雨水ノ溜リノヤウニ、漾《タヾヨ》ヒ流レル私ノ〔二字傍線〕涙ハ止メカネルヨ。
 
○御立爲之《ミタタシシ》――舊訓ミタチセシであるが、ミタチと名詞によむよりも、動詞として、ミタタシシとよむ方がよからう。爲は爲垂柳《シダリヤナギ》(一八九六)の如くシともよむ字である。タタシシはタタスに、過去のシを附けた形。○庭多泉《ニハタヅミ》――雨が降つて庭に漾ひ流れる水をいふ。冠辭考には俄泉《ニハカイヅミ》・俄立水《ニハカタチミヅ》の二説をあげ、檜嬬手に庭立水《ニハタチミヅ》、古義に庭漾水《ニハタタヨフミヅ》と言つてゐる。
〔許〕 島の宮にゐる舍人の作である。皇子が時々お立ちになつた池中の島、御在世當時の儘に、水に影を映してゐるのを見て、遽に哀感が胸を打つて堪へ兼ぬる心情を述べたのである。涙を庭潦に譬へたのは、適切な秀でた譬喩である、卷十九に爾波多豆美流H等騰米可禰都母《ニハタヅミナガルルナミダトドメカネツモ》(四一六〇)・(四二一四)とあるのは全くこの歌の模傚である。
 
179 橘の 島の宮には 飽かねかも 佐田の岡邊に 侍宿しに行く
 
(194)橘之《タチバナノ》 島宮爾者《シマノミヤニハ》 不飽鴨《アカネカモ》 佐田乃岡邊爾《サダノヲカベニ》 侍宿爲爾往《トノヰシニユク》
 
橘ニアル、日並皇子ノ〔五字傍線〕島ノ宮ノ御所デハ、マダ飽キ足ラナイカラカ、私ハ〔二字傍線〕佐田ノ岡アタリノ、オ墓〔三字傍線〕ニマデモ宿直ヲシニ行キマス。
 
○橘之《タチバナノ》――今、高市村大字橘の地がある。古はあの附近一帶を橘といつたのである。
〔評〕 舍人らは島の宮と御墓とに交代で宿直してゐる。今、島宮から佐田の丘へ行かうとしてゐる舍人が、よんだのである。不飽鴨《アカネカモ》は幼げな言ひ方であるが、御墓にも奉仕したい眞情があらはされてゐるのである。
 
180 御立たしし 島をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年かはるまで
 
御立爲之《ミタタシノ》 島乎母家跡《シマヲモイヘト》 住鳥毛《スムトリモ》 荒備勿行《アラビナユキソ》 年替左右《トシカハルマデ》
 
皇子ガ景色ヲ御覽ナサル爲ニ、常ニ〔皇子〜傍線〕オ立チナサレタ島ヲ、家トシテ住ンヂ居ル鳥モ、來年マデハ、他ヘ飛ンデ行ツテ終フナヨ。一年間ハ亡クナツタ主人ノオ側ニヰル筈ノモノダカラ〔一年〜傍線〕。
〔評〕 自分らは、一年間この淋しい舊殿に、皇子を偲んで住むのである。この庭の島を家として住む鳥よ、汝は我らの好伴侶であるから、汝らも亦それまで立ち去ること勿れと、無心の鳥に言ひかけたところに、淋しさと悲しさとがよくあらはれてゐる。純情の歌。
 
181 御立たしし 島の荒磯を 今見れば 生ひざりし草 生ひにけるかも
 
御立爲之《ミタタシシ》 島之荒礒乎《シマノアリソヲ》 今見者《イマミレバ》 不生有之草《オヒザリシクサ》 生爾來鴨《オヒニケルカモ》
 
皇子ガ常ニ〔五字傍線〕オ立チナサレタ、島ノ荒磯ノヤウニ岩ナド峙ツテヰル所〔ノヤ〜傍線〕ヲ今見ルト、皇子御存命中ニ草ナドハ生エナカツタノニソノ〔皇子〜傍線〕生エタコトガ無イ草ガ、生エタワイ。ヒドク荒レタモノダ〔九字傍線〕。
〔評〕 實にあはれ深い歌である。島の宮の荒れ行く樣が目に見える。不生有之草生爾來鴨《オヒザリシクサオヒニケルカモ》は悲しい調子が、切々と(195)して胸に迫るのを覺える。この中の勝れた作である。
 
182 鳥ぐら立て 飼ひし鴈の兒 巣立ちなば 眞弓の岡に 飛び歸り來ね
 
鳥※[土+(一/皿)]立《トグラタテ》 飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》 栖立去者《スダチナバ》 檀崗爾《マユミノヲカニ》 飛反來年《トビガヘリコネ》
 
皇子ガ〔三字傍線〕鳥屋ヲ作ツテ、オ飼ヒナサレタ鴨ノ兒ガ、成長シテ〔四字傍線〕巣立ツテ飛ビ出シ〔五字傍線〕タナラバ、皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕檀ノ岡ニ幾度モ幾度モ飛ンデ來ヨ。
 
○鳥※[土+(一/皿)]立《トグラタテ》――※[土+(一/皿)]は栖の俗字。鳥※[土+(一/皿)]は塒で、和名抄に、塒【音時訓止久良】とある。卷十九に鳥座由比須惠?曾我飼眞白部乃多可《トクラユヒスヱテゾワガカフマシラフノタカ》(四一五四)とある鳥座も同じ。○飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》――鴈は鳧のことで、この頃、鴨の類を飼養したのである。鴈を※[鷹の鳥なし]の誤として、鷹とする代匠記の説は從はれない。巣立するまで鳥屋の中で飼養するので、巣立ち後は放飼にしてある歌の趣であるから、鷹ではふさはしくない。○飛反來年《トビガヘリコネ》――飛反は幾度も飛び返り、往還するをいふ。來年《コネ》は來よに同じ。
〔評〕 鳥屋を作つて飼つてゐる鴨の雛は、未だ巣立たぬ内に皇子は他界遊ばして、もはやこの鳥も皇子の御覽に供することは出來ない。やがて巣立つて自由に飛ぶやうになつたら、せめて皇子の御墓のあたりへ飛び通ひ來よと嘆いたので、恐らく鳥の飼養にたづさはつてゐた舍人がよんだ作であらう。悲しい歌である。
 
183 吾が御門 千代常とはに 榮えむと 念ひてありし 吾し悲しも
 
吾御門《ワガミカド》 千代常登婆爾《チヨトコトハニ》 將榮等《サカエムト》 念而有之《オモヒテアリシ》 吾志悲毛《ワレシカナシモ》
 
私ガオ仕ヘシテヰル皇子ノ〔十字傍線〕御殿ハ、千年モ萬年モ〔三字傍線〕、何時マデモ變ルコトナクテ、御繁昌ナサルコトト思ツテ居リマシタ私ハ、豫想ガ外レテ、皇子ガオ薨レ遊バシタカラ〔豫想〜傍線〕、悲シイヨ。
〔評〕 平凡な言ひ方である。併しこれは僞らぬ飾らぬ有りままの表現である。そこにこの作の價値があるのである。
 
184 東の 瀧の御門に 侍へど 昨日も今日も 召すこともなし
 
(196)東乃《ヒムガシノ》 多藝能御門爾《タギノミカドニ》 雖伺侍《サモラヘド》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 召言毛無《メスコトモナシ》
 
御邸内ノ〔四字傍線〕、東ノ方ノ、瀧ノ近所ノ御門ニ居リマスケレドモ、常ト違ツテ〔五字傍線〕、昨日モ今日モ少シモ私ヲオ召シニナルコトモ無イ。ソレモソノ筈ダ、皇子ハオ薨レ遊バシタノダモノ。アア悲シイ〔ソレ〜傍線〕。
 
○多藝能御門爾《タギノミカドニ》――瀧を落してある附近の御門である。下の東乃大寸御門《ヒムガシノタギノミカト》とあるのも同じであらう。
〔評〕 島の宮の御殿は元のままで、御庭の池へ水を落す瀧も皇子御在世の時と何の變りもない。その殿中に今まで通り伺候してゐれば、皇子の御召が今にもありさうな心地がする。が、併し召される筈はない。ただ淋しく悲しく奉仕してゐるばかりだといふので、昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》が斷腸の響である。住い作だ。
 
185 水傳ふ 磯の浦みの 岩躑躅 もく咲く道を また見なむかも
 
水傳《ミヅツタフ》 礒乃浦回乃《イソノウラミノ》 石乍自《イハツツジ》 木丘開道乎《モクサクミチヲ》 又將見鴨《マタミナムカモ》
 
コノ島ノ宮ノ、瀧ガカカツテ〔コノ〜傍線〕水ガ落チル、岩ガ疊ンデアル池ノ岸ノ岩ニ生エテヰル躑躅ガ、繁ク澤山ニ咲イテ居ル道ヲ、今此所ヲ別レテハ〔八字傍線〕、又ト再ビ見ル時ガアルデセウカ。ドウデアラウ。名殘惜シイコトダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○水傳《ミヅツタフ》――磯の枕詞と見る説が多いが、これは、瀧などのかかつてゐる實況をいつたものとする方が、當つてゐるであらう。美夫君志に「池の磯邊を行くには、その磯邊の水につきてつたひゆくをいふ」とあるのも恐らく誤であらう。○木丘開道乎《モクサクミチヲ》――木丘《モク》は繁くに同じ。應神紀に芳草|薈蔚《モクシゲシ》とある通りである。
〔評〕 島の宮の磯の景は實に美しい。折から岩躑躅が奇麗に水に影を映しつつ咲いてゐる。もうこの舊殿に奉仕することも僅かになつた。一度ここを去つたならば、この御殿の景に再び接することが出來ようかと、嘆く心が又將見鴨《マタミナムカモ》の一句に籠つてゐる。
 
186 一日には 千度參りし ひむがしの たぎの御門を 入がてぬかも
 
一日者《ヒトヒニハ》 千遍參入之《チタビマヰリシ》 東乃《ヒムガシノ》 太寸御門乎《タギノミカドヲ》 入不勝鴨《イリガテヌカモ》
 
(197)皇子御在世ノ時ハ〔八字傍線〕、一日ノ中ニ千度モ參ツタコノ東ノ方ニアル瀧ノ御門ヲ、今ハ皇子ガオ亡クナリナサレタノデ、何トナク足ガ進マズ〔今ハ〜傍線〕入リカネルワイ。
 
○太寸御門乎《タギノミカドヲ》――考にオホキミカドヲと訓んでゐるが、前の歌によると必ずタギノミカドヲであらう。○入不勝鴨《イリガテヌカモ》――不勝《ガテヌ》は堪へずと同意で、ここは入るに堪へぬよの意である。門が閉ぢてあつて入り得ないやうに見る説は惡い。足が進まぬのである。
〔評〕 一日に幾度となく、今まで出入した御門ながら、皇子が薨去になつたので、その馴れた親しい御門も、今は入るに躊躇せられるといふのである。上の句で御門に對する親愛の情をあらはし、さて入不勝鴨《イリガテヌカモ》と言つたところに悲愁の情が溢れてゐる。
 
187 つれもなき 佐太の岡邊に 反りゐば 島の御階に 誰か住まはむ
 
所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》 反居者《カヘリヰバ》 島御橋爾《シマノミハシニ》 誰加住舞無《タレカスマハム》
 
皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕淋シイ縁故ノナイ佐太ノ岡ヘ、私ガ〔二字傍線〕歸ツテ行ツタナラバ、コノ島ノ宮ノ御階ノ下〔二字傍線〕ニハ、誰ガ住ツテコノ御殿ヲ番スル〔八字傍線〕ダラウ。此處ヲ放レルノハ氣ガカリダ〔此處〜傍線〕。
 
○反居者《カヘリヰバ》――舍人は、島の宮と御墓とを、交代に宿直したので、今まで島の宮にゐたものが、御墓へ赴いて宿直するのを、かく言つたのである。古義に反を君と改め、キミマセバとよんでゐるのに從ふ説もあるが、この儘でわかるから、改める必要はない。○嶋御橋爾《シマノミハシニ》――島の宮の御階で、御殿に登る階段を御橋といつたのである。池に架した橋と新考にあるが、橋に住まはむではをかしい。止まらむの意と言つてゐるが、やはりわからない。
〔評〕 荒れ行く島の宮を、立去らむとして、名殘を惜しんだのである。代りの番人がないのではないが、御殿に對する愛着は、おのづからかうした語をなさしめたのである。
 
188 旦覆《あさくもり》 日の入りぬれば 御立たしし 島に下りゐて 嘆きつるかも
 
且覆《アサグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》 御立之《ミタタシシ》 島爾下座而《シマニオリヰテ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
(198)朝ノウチニ空ガ曇ツテ、太陽ガ入ツテシマフト、悲シクナツテ、皇子ガ〔三字傍線〕オ立チナサレタ島ニ下リテ居テ、皇子ノコトヲ思ツテ〔九字傍線〕嘆イタヨ。
 
○且覆《アサグモリ》――舊訓はアサクモリであるが、考は天覆としてアマグモリ、檜嬬手はアサカヘリ、古義は茜刺としてアカネサス、美夫君志は且をタナとよんで、タナグモリとしてゐる。美夫君志の説は、最も合理的ではあるが、他に例がないから遽に從ひ難い。且の字はこの集に尠い字で、且比等波安良自等《マタヒトハアラジト》(四〇九四)とある位のものである。但し入而《イリテ》且|將眠《ネム》(三三一〇)といふ、アサともカツともマタともよめる例もある。旦の字は用例多く皆アサとよんである。(これにも旦今日且今日《ケフケフト》(二二四)の如き特例もあるが)覆は覆來禮婆《オホヒキヌレバ》(九〇四)・覆羽之《オホヒバノ》(二二三八)の如くオホフとよむのが常であるが、又稀には覆者覆《カヘラバカヘレ》(五五七)の如くカヘルとよんだものもある。クモルとよんだ例は一つもない。それで、且覆の二字は恐らく誤かと思はれる。この儘ならば且と旦と混用したものとして、やはりアサグモリとする外はないであらう。朝の内に雲が出て空を蔽ふことをいふのであらう。○日之入去者《ヒノイリヌレバ》――イリユケバとよんであるが、去は客去君跡《タビユクキミト》(六九)・吾去鹿齒《ワガユキシガバ》(二八四)の如くユクとよむこともあるが、此日暮去者《コノヒクレナバ》(二七五)・散去奚留鴨《チリニケルカモ》(二七七)・年乃經去良武《トシノヘヌラム》(三四)・消去之如久《ケヌルカゴトク》(四六六)・移伊去者《ウツリイヌレバ》(四五九)の如く、ナ・ニ・ヌ・ヌル・ヌレの總べてに用ゐられる文字であるから、ここはイリヌレバがよい。○御立之《ミタタシシ》――前にミタチセシとよんだ説によると、爲の字が脱ちたとせねばならない。ミタタシシならば爲の有無に關係なくよめる。
〔評〕 朝日が雲に隱れた景は、若くて失せ給うた皇子を思はしめる。舍人らは皇子の下り立ちて遊び給うた島に行つて、皇子を偲んで歎くのである。少し曖昧な叙法であるが、情と景とあはれに描し出されてゐる。
 
189 あさ日照る 島の御門に おほほしく 人音もせねば まうらがなしも
 
且日照《アサヒテル》 島乃御門爾《シマノミカドニ》 欝悒《オホホシク》 人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》 眞浦悲毛《マウラガナシモ》
 
朝日ガ照ツテヰル島ノ御所ニハ、氣ガカリニモ、人ノヰル音モシナイカラ、實ニ心悲シイワイ。イツデモ朝ハ殊更賑ヤカナ御殿ダカラ、カヤウニ闃トシテヰルト、何ダカ不安ナ淋シイ感ジガスル〔イツ〜傍線〕。
 
(199)○眞浦悲毛《マウラガナシモ》――眞は接頭語。浦悲は心悲し。
〔評〕 夜の幕は切り落されて、明るい朝が來た。宏大な島の宮は、何の變事も無ささうに朝日に照らされてゐる。併し殿中は闃として更に人音もしない。賑やかなるべき朝の大氣は、靜かに、淋しく黙々としてゐる。何といふ陰慘な情景よ。寫し得て眞に迫る。佳作。
 
190 眞木柱 太き心は 有りしかど この吾が心 しづめかねつも
 
眞木柱《マキバシラ》 太心者《フトキココロハ》 有之香杼《アリシカド》 此吾心《コノワガココロ》 鎭目金津毛《シヅメカネツモ》
 
私ハ〔二字傍線〕(眞木柱)太イ確カリシタ男〔六字傍線〕心ヲ持ツテ居マシタガ、ドウシタモノカ、皇子ノ御薨去ヲ悲シム〔ドウ〜傍線〕コノ今ノ〔二字傍線〕私ノ心ハ、鎭メヨウト思ツテモ〔九字傍線〕鎭メルコトガ出來カネルヨ。ドウシテモ悲シイ〔八字傍線〕。
 
○眞木柱――卷六に眞木柱太高敷而《マキバシラフトタカシキテ》(九二八)とある如く、眞木の柱は太いものであるから太《フトキ》の枕詞として用ゐてある。眞木は檜。
〔評〕 女々しく悲しまぬことを自負してゐた身が、この悲しさには打ち勝ち得ないのを嘆いたのである。卷六の大夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルワレヤミヅクキノミヅキノウヘニナミダノゴハム》(九六八)のやうに、かういふ意味を歌つたものは澤山あるが、この歌は用語が類型的でなく、素直によく出來てゐる。
 
191 毛衣を 春冬片設けて いでましし 宇陀の大野は 思ほえむかも
 
毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》 春冬片設而《ハルフユカタマケテ》 幸之《イデマシシ》 宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》 所念武鴨《オモホエムカモ》
 
皇子ガ〔三字傍線〕毛衣ヲ御召シナサツテ、春冬ノ時節ヲ待チ設ケテ、獵ニ〔二字傍線〕オ出カケナサツタ、アノ宇陀ノ廣イ野ハ、今後ハナツカシク〔八字傍線〕、思ヒ出サレルデアラウカナア。
 
○毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》――毛衣は毛皮の衣服である。皮衣といふも同じで、即ち裘である。※[敞/毛]もケゴロモといつてゐるが、これは鳥の羽毛を織り込んだもので、普通人の着るものでない。この句を春の枕詞とする説は誤つてゐる。裳は糊を着けて張るものではないから、春にかくべくもない。○春冬片設而《ハルフユカタマケテ》――片設《カタマケ》はその方に片寄り向ふこ(200)ととして近づきての意とする説と、片より待つ意とする説とあるが、設《マ》くは他動詞であるから、これも他動詞として後説に從ふ。○宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》――書紀に菟田野とある地で、今の宇陀郡榛原町附近である。
〔評〕 宇陀の野の御獵に、供奉したことのある舍人の作。貴人の象徴ともいふべき、毛衣をお召しになつた、皇子の高雅な凛凛しいお姿の思ひ出がよまれてゐる。毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》を受ける動詞が、略されてゐるのが、少し意味を曖昧ならしめる難はあるが、取材に珍らしい點のあるのを認めてやらぬばならぬ。
 
192 朝日照る 佐太の岡邊に 鳴く鳥の 夜鳴かへらふ この年ごろを
 
朝日照《アサヒテル》 佐太力岡邊爾《サダノヲカベニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 夜鳴變布《ヨナキカヘラフ》 此年巳呂乎《コノトシゴロヲ》
 
皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕、朝日ガ照ツテヰル佐太ノ岡ノアタリデ、鳴ク鳥ノヤウニコノ一年間、舍人ドモハ、オ墓ニ交ル交ル夜宿直ヲスルカラ〔舍人〜傍線〕、夜毎ニ頻リニ聲ヲアゲテ泣キマス。
 
○朝日照佐太力岡邊爾鳴鳥之《アサヒテルサダノヲカベニナクトリノ》――夜が明けて、佐太の丘に鳴く朝鳥の聲の、喧しき如くの意である。これを序と見る説は惡い。○夜鳴變布《ヨナキカヘラフ》――變布は舊訓のやうにカヘラフとよむべし。伊往變良比《イユキカヘラヒ》(一一七七)・見變來六《ミテカヘリコム》(一六六九)袂變所見《ソデカヘルミユ》(一七一五)の例によるべきである。カヘルは繰返す意であるから、この句は舍人らが、夜に入りて頻りに泣きに泣くを言つたのである。代匠記に、「歌の心は此の年比、佐太の岡邊に凶鳥の夜鳴に、惡き聲鳴きつるはかゝらむとてのさとしなりけるよと、思ひ合せてなげく意なり」とあるのを、美夫君志にも採つてゐるが、途方もない見當違である。さうすれば朝日照《アサヒテル》は夜鳴に對して全く矛盾することとなり、又|由縁《ツレ》も無き佐太の岡とあつたのに對して、一年以前から、その丘の鳥の夜鳴を聞き知つてゐたといふのも、無理な點がある。○此年巳呂乎《コノトシコロヲ》――この年頃を、夜鳴きかへらふとつづくのである。この年頃は御墓に奉仕する、一年間を言つたのである。乎はヨの意ではあるまい。巳は諸本皆かうなつてゐるが、己と通用せしめた例が多い。
〔評〕 夜の間舍人らが悲しみに泣き叫ぶ聲を、朝鳥の喧しさに比した譬喩は面白いが、難解の謗は免れまい。
 
193 旅籠らが 夜晝といはず 行く路を 吾はことごと 宮路にぞする
 
八多籠良家《ハタコラガ》 夜晝登不云《ヨルヒルトイハズ》 行路乎《ユクミチヲ》 吾者皆悉《ワレハコトゴト》 宮路除爲《ミヤヂニゾスル》
 
(201)賤シイ〔三字傍線〕旅籠ナドヲ運ブモノドモガ、夜晝トイフ區別ヲセズニ、夜モ晝モ〔四字傍線〕通ツテヰル道ヲ、私ラ舍人ドモ〔四字傍線〕ハ、誰モ誰モ皇子ノ佐太ノ岡ノオ墓ヘ〔皇子〜傍線〕宮仕ヘノ道トシテ通ツテ行クヨ。アア思ヒガケモナイコトダ〔アア〜傍線〕。
 
○八多籠良家《ハタゴラガ》――旅籠等《ハタゴラ》がであらう。ハタゴは、馬の飼料を入れる旅行用の籠である。和名抄に「〓漢語抄云、波太古。俗用2旅籠二字1。飼v馬籠也」とある。轉じて旅行用の荷物をもいふ。ここは旅籠を運ぶものをいふ。宣長は良は馬の誤かといつてゐるが、或はさうかも知れない。旅籠馬の名は、宇津保物語や、今昔物語に出てゐる。家の字我の誤といふ説もあるが、これをカの假名に用ゐたのは、麻萬能手兒奈家安里之可婆《ママノテゴナガアリシカバ》(三三八五)の如き例もあるから、この儘でよい。○吾者皆悉《ワレハコトゴト》――皆悉を、舊訓サナガラとあるのに從ふ説もあるが、コトゴトがよい。皆にも悉にもサナガラの訓はない。木末悉《コヌレコトコト》(三一五五)とあるに倣ふべきである。
〔評〕 人馬の往來烈しい街道を、御墓への宮仕の道として通ふことの、意外さを歎いたものである。格別秀でた歌ではない。
 
右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
 
日並皇子の薨去を日本書紀に就いて調べたもの。三年は持統天皇の三年である。
 
柿本朝臣人麿獻(レル)2泊瀬部皇女忍坂部皇子(ニ)1歌一首並短歌
 
泊瀬部皇女は、天武天皇紀に、「宍人(ノ)臣大麻呂女|※[木+穀]《カヂ》媛娘生2二男二女1云々、其(ノ)三(ヲ)曰2泊瀬部皇女1、」とあり。續紀に、「天平十三年三月壬午朔己酉、三品長谷部内親王薨天武天皇之皇女也」とある。忍坂部皇子は泊瀬部皇女の同母兄でいらせられる。續紀に「慶雲二年五月丙戌、三品忍壁親王薨天武天皇第九皇子也」とある。この題詞の忍坂部皇子の五宇は衍で、葬2河島皇子於越智野1之時、柿本朝臣人麿獻2泊瀬部皇女1歌とすべきであると考に述べてから、それに從ふ説が多い。左註の或本によれば、河鳥皇子の薨去に際して、泊瀬部皇女に献じたのであるから忍坂部皇子に献ずる(202)筈はないといふので、それも一應尤ながら、この皇子は泊瀕部皇女の同母兄に渡らせられるから、人麿は特に弔意を表して、皇子に献じたものかも知れない。これを削除する説は、遽かに從ふべきでない。
 
194 飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ觸らばへ 玉藻なす か依りかく依り 靡かひし 妻の命の たたなづく 柔膚すらを 劔たち 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ 一云、あれなむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 一云、君もあへやと 玉垂れの 越智の大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣は霑れて 草枕 旅寢かもする 逢はぬ君ゆゑ
 
飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 生玉藻者《オフルタマモハ》 下瀬爾《シモツセニ》 流觸經《ナガレフラバヘ》 玉藻成《タマモナス》 彼依此依《カヨリカクヨリ》 靡相之《ナビカヒシ》 嬬乃命乃《ツマノミコトノ》 多田名附《タタナツク》 柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》 劔刀《ツルギタチ》 於身副不寐者《ミニソヘネネバ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》【一云|阿禮奈牟《アレナム》】 所虚故《ソコユヱニ》 名具鮫魚天《ナグサメカネテ》 氣留敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトオモヒテ》【一云|公毛相哉登《キミモアヘヤト》】 玉垂乃《タマダレノ》 越乃大野之《ヲチノオホヌノ》 旦露爾《アサツユニ》 玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》 夕霧爾《ユフギリニ》 衣者沾而《コロモハヌレテ》 草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》 不相君故《アハヌキミユヱ》
 
(飛鳥明日香乃河之 上瀬爾生玉藻者 下瀬爾流觸經 玉藻成)アア寄ツタリ、カウ寄ツタリシテ、貴女樣ガ〔四字傍線〕相並ンデ、御寢ナサツタ御夫君河島皇子〔四字傍線〕ノ、(多田名附)柔イ膚サヘモ、今ハ(劔太刀)御身ニ副ヘテ御寢ナサルコトガナイカラ、カヤウニ獨寢ヲナサルウチニハ〔カヤ〜傍線〕、(烏玉乃)夜ノオ寢床モソノ儘トナツテヰテ〔九字傍線〕、嘸ヒドクナツタラウ。ソレ故ニ心ガ欝々トシテ慰〔七字傍線〕メルコトガ出來ナイデ、萬一亡クナツタ夫ノ君ニ〔九字傍線〕、逢フコトガ出來ルカモ知レナイト思召シテ皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕(玉垂乃)越智ノ大野ノ朝露ニ、立派ナ裳ヲオ霑シナサレ、夕方立ツ霧ノ爲ニ着物ガ霑レテ、イクラ戀ヒ慕ツテモ〔九字傍線〕、逢フコトガ出來ナイ夫君ダノニ、(草枕)旅寢ヲナサルカマア。サテサテオ氣ノ毒ナコトデス〔サテ〜傍線〕。
 
○流觸經《ナガレフラバヘ》――舊訓ナガレフレフルで、ナガレフラヘリ、ナガレフラヘ、ナガレフラフ、ナガレフラハフなどの訓(203)があるが、古事記雄略天皇の時の歌に、本都延能延能宇良婆波《ホツエノエノウラバハ》、那加都延爾淤知布良婆閇《ナカツエニオチフラバヘ》とあるによつてフラバヘとよむがよい。經の字は打經而《ウチハヘテ》(一〇四七)とよんだ例があるからハヘでよいのである。フラバフと終止形にするのは、この種の長歌の語勢でない。飛鳥《トブトリノ》から玉藻成《タマモナス》までの七句は彼依此依《カヨリカクヨリ》の序である。○嬬乃命乃《ツマノミコトノ》――夫の君のといふ意。○多田名附《タタナツク》――疊《タタナ》はり付く意。柔膚の枕詞。○柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》――柔膚はヤハハダと訓まれてゐるが、柔の字、本集ではニギ又はニとよまれて、ヤハの例は他にないから、これもニギハダとよむことにする。尚《スラ》は一をあげて他を類推せしめる助詞であるが、ここでは、極めて輕く用ゐられてゐる。○劔刀《ツルギダチ》――於身副《ミニソヘ》の枕詞。劍の太刀で劍と太刀とではない。○名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而《ナグサメカネテケダシクモアフヤトオモヒテ》――この三の句は舊の儘では訓み得ない。魚は兼の誤とし、留は類聚古集に田とあるによれば、明瞭となる。「慰め兼ねて蓋しくも逢ふやと思ひて、」である。○玉垂乃《タマダレノ》――玉垂の緒の意で越《ヲチ》につづく枕詞。○越乃大野之《ヲチノオホヌノ》――越智野は高市郡の西部の平地で、今の越智岡、新澤の二村に亘つてゐる。○玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》――玉藻は王裳の借字。※[泥/土]打《ヒヅチ》はヒヂウチの約訓で、こんな字を用ゐたのである。卷十五に安佐都由爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒヅチ》(三六九一)とあるに同じく、水に濡れること。○旅宿鴨爲留《タビネカモスル》――旅宿は御墓のほとりに、奉仕して宿り給ふをいふ。○不相君故《アハヌキミユヱ》――逢はぬ君なるものをの意。
〔評〕 上つ瀬と下つ瀬の對句は、古事記に木梨之輕太子の歌として出てゐる、許母埋久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》云々の長歌に見え、玉藻成彼依此依《タマモナスカヨリカクヨリ》も、既に卷一に見えた彼の作に用ゐられた語で、人麿の常用語であり、又當時の他の作にも、類似したものがあるのである。併し後半部は、夫を失はれた皇女に對する同情があらはれて、實に悲痛な歌である。
 
反歌一首
 
195 敷妙の 袖交へし君 玉垂の をち野過ぎゆく 亦も逢はめやも 一云、をち野に過ぎぬ
 
敷妙乃《シキタヘノ》 袖易之君《ソデカヘシキミ》 玉垂之《タマダレノ》 越野過去《ヲチヌスギユク》 亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》【一云|乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》
 
アナタガ〔四字傍線〕(敷妙乃)袖ヲサシカハシテ共寢シ〔四字傍線〕タ夫ノ君ハ、オ薨レ遊バシテ〔七字傍線〕、(玉垂之)越智野ヲ通ツテ葬ラレナ(204)サツタ。カウナツタ以上ハ〔八字傍線〕又ト再ビオ逢ヒニナルコトガ出來ヨウカ、到底出來マセヌ。オ氣ノ毒ナコトデス〔到底〜傍線〕。
 
○敷妙乃《シキタヘノ》――袖の枕詞。既出(七二)。○越野過去《ヲチヌスギユク》――越野に葬られたことをいつたのである。ヲチヌニスギヌとよむ説もあるが、それでは一云と同じになるからいけない。去鳥乃《ユクトリノ》(一九九)・吾去鹿齒《ワガユキシカバ》(二八四)の例によつて、去の字をユクとよむがよい。越野を過ぎて山の手に御墓が出來たのであらう。
〔評〕 長歌の全體の意を纏めて歌つたまでである。
 
右或本曰葬(ル)2河島皇子越智野(ニ)1之時、獻(レル)2泊瀬部皇女(ニ)1歌也、日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨、
 
舊本、泊瀬の下、部の字がないのは脱ちたのである。古葉略類聚鈔によつて補つた。舊本淨太參とあるは誤。金澤本に淨大參とあるに從ふ。川島皇子は卷一の三四にも見えてゐるが、天智天皇紀に「七年云々、又有2宮女1生2男女者四人1、有2忍海造小龍女1、曰2色夫古《シコブコ》娘1、生2一男二女1、其一曰2大江皇女1、其二曰2川島皇子1、其三曰2泉皇女1」とある。天武天皇紀に「十四年春正月丁未朔丁卯、是日川島皇子、忍壁皇子、授2淨大參位1」とあり、持統天皇紀に右の薨去の文が見える。尚、懷風藻には「川島皇子一首、皇子者淡海帝之第二子也、云々、位終2于淨大參1時年三十五」と記してある。泊瀬部皇女の夫君であらせられた。
 
明日香皇女|木※[瓦+缶]《キノヘ》殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
 
明日香皇女は、天智天皇紀に「次(ニ)有2阿倍倉梯腑呂大臣(ノ)女1曰2橘娘(ト)1生3飛鳥皇女(ト)與2新田部皇女1」とある。續紀に「文武天皇四年夏四月癸未淨廣肆明日香皇女薨、遣v使弔2賻之1、天智天皇女也」とある。木※[瓦+缶]は城上で、和名抄廣瀬郡城戸郷とあるが、今の北葛城都馬見村が其處である。城上の岡は馬見村大塚といふことになつてゐるが、北葛城郡史には、「城上岡、六道山の畑地をいふ」とあつて、辰巳利文氏もこれに賛して、今俗にシンヤマと稱する丘陵であらうと推定してゐる。考に(205)は、この題詞は、人麿の下に獻2忍坂部皇子1の六字があつたのが、落ちたのだと言つてゐる。
 
196 飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 一云、岩浪 下つ瀬に 打橋渡す 岩橋に 一云、岩浪 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる 何しかも わが大王の 立たせば 玉藻のもころ こやせば 川藻の如く 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背き給ふや 現身と 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば もみぢ葉かざし 敷妙の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時時 いでまして 遊び給ひし みけ向ふ 城上の宮を 常宮と 定め給ひて あぢさはふ 目言も絶えぬ 然れかも 一云 そこをしも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片戀づま 一云、しつつ 朝鳥の 一云、朝露の 通はす君が 夏草の 思ひしなて 夕づつの か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰むる 心もあらず そこ故に 術知らましや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲び行かむ み名に懸かせる 明日香河 萬代までに 愛しきやし わが大王の 形見かここを
 
飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》 上瀬《カミツセニ》 石橋渡《イハハシワタシ》【一云、石浪《イハナミ》】 下瀬《シモツセニ》 打橋渡《ウチハシワタス》 石橋《イハハシニ》【一云、石浪《イハナミ》】 生靡留《オヒナビケル》 玉藻毛叙《タマモモゾ》 絶者生流《タユレバオフル》 打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オホヲヲレル》 川藻毛叙《カハモモゾ》 干者波由流《カルレバハユル》 何然毛《ナニシカモ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 立者《タタセバ》 玉藻之如許呂《タマモノモコロ》 臥者《コヤセバ》 川藻之如久《カハモノゴトク》 靡相之《ナビカヒシ》 宜君之《ヨロシキキミガ》 朝宮乎《アサミヤヲ》 忘賜哉《ワスレタマフヤ》 夕宮乎《ユフミヤヲ》 背賜哉《ソムキタマフヤ》 宇都曾臣跡《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキ》 春部者《ハルベハ》 花折挿頭《ハナヲリカザシ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉挿頭《モミヂバカザシ》 敷妙之《シキタヘノ》 袖携《ソデタヅサハリ》 鏡成《カガミナス》 雖見不厭《ミレドモアカズ》 三五月之《モチヅキノ》 益目頬染《イヤメヅラシミ》 所念之《オモホシシ》 君與時時《キミトトキドキ》 幸而《イデマシテ》 遊賜之《アソビタマヒシ》 御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》 常宮跡《トコミヤト》 定賜《サダメタマヒテ》 味澤相《アヂサハフ》 目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》 然有鴨《シカレカモ》【一云|所已乎之毛《ソコヲシモ》】 綾爾憐《アヤニカナシミ》 宿兄鳥之《ヌエトリノ》 片戀嬬《カタコヒヅマ》【一云|爲乍《シツツ》】 朝鳥《アサトリノ》【一云|朝露《アサツユノ》】 往來爲君之《カヨハスキミガ》 夏草乃《ナツグサノ》 念之萎而《オモヒシナエテ》 夕星之《ユフヅツノ》 彼往此去《カユキカクユキ》 大船《オホブネノ》 猶預不定見者《タユタフミレバ》 遣悶流《ナグサムル》 情毛不在《ココロモアラズ》 其故《ソコユヱニ》 爲便知之也《スベシラマシヤ》 音耳母《オトノミモ》 名耳毛不絶《ナノミモタエズ》 天地之《アメツチノ》 彌遠長久《イヤトホナガク》 思將往《シヌビユカム》 御名爾懸世流《ミナニカカセル》 明日香河《アスカガハ》 及萬代《ヨロヅヨマデニ》 早布屋師《ハシキヤシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 形見何此焉《カタミカココヲ》
 
(飛鳥明日香乃河之、上瀬石橋渡、下瀬打橋渡)石ヲ並ベテ傳ツテ渡ル〔石ヲ〜傍線〕石橋ニ、生エテ靡イテ居ル美シイ藻ハ、(206)切レテモ亦生エルモノダ。又取リハヅシガ出來ルヤウニナツテヰル〔亦取〜傍線〕、板ノ打橋ニ二生エカカツテ亂レカランデヰル川ノ藻ハ、枯レレバ復後カラ生エルモノダ。斯樣ニ玉藻ヤ川藻ハ、一旦亡クナツテモ、亦モトノ通リニナルモノダガ〔斯樣〜傍線〕、ドウシテ私ノ仰キ奉ツテヰル明日香〔仰キ〜傍線〕皇女ハ、立チ給ヘバ玉藻ノヤウニ優シイオ姿ヲナサリ〔九字傍線〕、臥シ給ヘバ川ノ藻ノヤウニ靡イテ、横ニナツテ寄リ添ヒナサツタ、アノ立派ナ忍壁皇子ノ、オ住ヒナサル〔六字傍線〕朝ノ御殿ヲオ忘レナサツタノダラウ。晩ノ御殿ヲ別レテコノ世ヲ〔四字傍線〕背イテ、冥途ヘ〔三字傍線〕オ立ナサツタノダラウ。サウシテ玉藻川藻トハ違ツテ、ドウシテ皇女ハ復コノ世ニ歸リ給ハヌノデアラウ〔サウ〜傍線〕。皇女ガ御在世中ニ、春頃ニハ花ヲ折ツテ頭ノ飾トシ、秋ガ來ルト、黄葉ヲ頭ニ挿シテ飾トシテ、二人互ニ〔四字傍線〕(敷妙之)袖ヲ連ネ顔ヲ〔二字傍線〕(鏡成)見テモ見テモ倦ク事モナク、(三五月之)彌愛ラシクバカリ思ツテ、戀ヒ慕ツテ居タ皇子ト、時々オ出掛ケナサツテオ遊ビナサツタ(御食向)城上ノ宮ヲ、皇女ガ〔三字傍線〕永久ニ鎭リマシマス宮トオ定メナサツテ、オ薨レナサツテ、其處ニオ墓ガ出來テ〔オ薨〜傍線〕、(味澤相)目ニ見給フコトモ、話ヲナサルコトモ、二ツトモ駄目トナツタ。カヤウニ皇女ガ御薨去遊バシ〔ニ皇〜傍線〕タカラ、皇子ハ〔三字傍線〕非常ニ悲シク思シ召シテ、(宿兄鳥之)片戀ヲシテ、獨リデ皇女ヲ慕ツテオイデナサリ、オ墓ヘ〔三字傍線〕(朝鳥)通ツテ行ツタリ來タリシテヰラレル皇子ハ、皇女ノコトヲ〔六字傍線〕思ヒ焦レテ、(夏草乃)弱リ果テテ、(夕星之)彼方ヘ行ツタリ、此方ヘ行ツタリシテ、(大船)フラフラトシテ居ラレル樣子ヲ見ルト、ドウシテモ私ハ〔六字傍線〕心ノ悲シサヲ晴ラスコトガ出來ズ、夫故何トモ仕方ガ無イヨ。切メテコノ皇女ノ〔八字傍線〕、御評判デモ御名聲デモ、絶エルコトナク、天地ト共ニ彌々長ク、遙ニ皇女ヲ思ヒ出シテ忘レナイデ〔五字傍線〕居ラウ。明日香皇女ノオ名前ニツイテヰルコノ明日香川ヲ、萬代ノ後々マデモ、愛ラシイ私ノ仰ギ奉ル明日香皇女ノオ形見トシテ、此所ヲ思ヒ出シテ行カウ。
 
(207)○石橋渡《イハハシワタシ》――石を川の中などに並べて、渡るやうにしたものを石橋といふ。一云石浪とあるも、石並で、石を並べたもの。○打橋渡《ウチハシワタス》――打橋は、板を掛けはづしの出來るやうにした橋。打ちかけた橋の意か。玉の小琴にうつしの約つたもので、遷しもて行きて、時に臨みてかりそめに渡す橋だと、いつてゐるのは果してどうであらう。飛鳥から打橋渡までの六句は、下に、石橋・打橋を言ひ出す爲の序である。○生乎爲禮流《オホヲヲレル》――乎爲《ヲヲ》はトヲヲ又はタワワなどのヲヲ、ワワと同じもので、生ひ繁つて撓む樣を言つたのである。爲の字を烏の誤とする説もあるが、花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》(四七五)・開乎爲流(サキヲヲル)(一七五二)などの例もあるから、爲はヲとよむ字である。ヰの音であるから、和行の中に轉じて、ヲともなるので、恐らく古音であらう。○吾王乃《ワガオホキミノ》――明日香皇女をさす。檜嬬手に忍坂部皇子をさすとあるは誤。○玉藻之如許呂臥者《タマモノモコロコヤセバ》――從來この二句を、タマモノゴトクコロブセバとよんだのであるが、如はゴトクとよむ時は次の句にあるやうに、久の假名を送るのが例であり、許呂臥者《コロブセバ》といふ語も、他に例がない。この卷に荒床自伏君之《アラドコニヨリブスキミガ》(二二〇)とあるのを、從來コロブスキミガとよんでゐるが、この歌に許呂臥とあるのを、ココブスと訓んだのにならつたもので、例證にはならない。如許呂としてモコロとよむのは、山田孝雄氏の説で、よい説と思はれる。モコロは如くと同意で、於吉爾須毛乎加母乃母己呂《オキニスモヲカモノモコロ》(三五二七)・和例乎美於久流等多々理之母己呂《ワレヲミオクルトタタリシモコロ》(四三七五)の母己呂もこれに同じである。如己男爾(一八〇九)をモコロヲニとよんであるのも、母許呂乎乃《モコロヲノ》(三四八六)によつたのであらう。この句は金澤本に母許呂《モコロ》とあるから、いよ/\如許呂《モコロ》に違ひない。○臥者《コヤセバ》――許呂を上に附けると、臥はコヤスとよむより外はない。客爾臥有《タビニコヤセル》(四一五)君之臥有《キミガコヤセル》(四二一)妹之臥勢流《イモガコヤセル》(一八〇七)の例の通りである。○宜君之《ヨロシキキミガ》――忍坂部皇子をさす。○朝宮乎《アサミヤヲ》――下の夕宮に對したもので、朝おはします宮の意。○宇都曾臣跡念之時《ウツソミトオモヒシトキ》――字都曾臣《ウツソミ》は現身《ウツシミ》に同じ。念之時《オモヒシトキ》は現身であつた時の意であるのに、念といふ語を用ゐたのは一寸用法が珍らしいが、この下にも打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》(二一〇)とあつて、特種の言ひ方である。○鏡成《カガミナス》――見の枕詞。○三五月之《モチヅキノ》――益自頬染《イヤメヅラシミ》の枕詞。望月は愛らしいものだからである。三五月をモチヅキとよむのは、一種の戯書である。○益目頬染《イヤメヅラシミ》――彌愛らしくの意。メヅラシは珍しと愛しとの二義があるが、ここは後者である。○御食向《ミケムカフ》――御食に供へる酒《キ》とつづいて、キの枕詞とするのである。○常(208)宮跡《トコミヤト》――永久の宮殿即ち御墓としての意。○味澤相《アヂサハフ》――昧鴨といふ鳥は、多く群れて飛び行くものであるから、ムレを約めてメとして、メの枕詞になると言はれてゐるが、難解の枕詞の一である。○目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》――目に見ることも、口に言ふ言葉も、絶えたといふので、皇女の薨去をいふ。○宿兄鳥之《ヌエトリノ》――※[空+鳥]島は、前に奴要子鳥卜歎居者《ヌエコトリウラナケヲレバ》(五)とあつたやうに、悲しげに鳴く島であるから、片戀の枕詞にしたのである。○朝鳥《アサトリノ》――往以爲《カヨハス》の枕詞である。鳥は朝塒を出でて、里に通ふからである。○夏草乃――枕詞、既出(一三一)。○夕星之《ユフヅツノ》――太白星のこと。又長庚とも云ふ。即ち金星である。この星、宵に西にあらはれ、曉には東にありて明星《アカホシ》といふ。かく所在を異にするところから、彼往此去《カユキカクユキ》の枕詞となる。○大船《オホブネノ》――海上に漂ふから、猶預不定《タユタフ》の枕詞とした。○遣悶流《ナグサムル》――オモヒヤルの訓もあるが、下に遣悶流情毛有八等《ナグサムルココロモアリヤト》(二〇七)とあるのは、オモヒヤルでは當らぬやうであるから、これもナゲサムルと訓むことにする。○其故爲便知之也《ソコユヱニスベシラマシヤ》――それだから術を知らむや。全く途方にくれるといふ意。○音耳母名耳毛不絶《オトノミモナノミモタエズ》――せめて音にのみなりとも、名にのみなりとも絶えずの意。○御名爾懸世流《ミナニカカセル》――御名にかけ給へるの意で、皇女の御名と、川の名と共に明日香であるから、かく言つたのである。○明日香川――高市村大字畑の山中から出た稻淵川と、多武峯から出た細川川とが合して飛鳥川となる。その流路約八里。○早布屋師《ハシキヤシ》――愛《ハ》しきに、ヤとシとが附いたもの。○形見何此焉《カタミカココヲ》――何は荷の誤でカタミニココヲであらうと宣長はいつてゐる。美夫君志は、この儘でニとよむべきものだといつてゐる。併しもとのままで、カタミカココヲでも分らぬことはない。此處を形見としてか偲び行かむといふのである。
〔評〕 この歌は前の泊瀬部皇女に献じた長歌と、全くその手法を等しくしてゐる。上つ瀬・下つ瀬、玉藻・川藻の對句も殆ど同じであるが、この方が長いだけに、如何にも立派に出來てゐる。全體の氣分は流麗な、滑らかな、深い哀愁の漂つたものである。朝宮・夕宮は前に出てゐた芳野離宮の歌の、朝川・夕川を思はしめ、夏草乃念之萎而《ナツクサノオモヒシナエテ》は、石見の國から妻に別れて上京の時の歌中に見えた句である。この歌が、文武天皇四年の作で、年代の明らかな彼の作の最後のものである點から考へて、從來の彼の傾向を綜合大成した作品と言つてもよい。確かに傑出した歌である。
 
(209)短歌二首
 
197 明日香川 しがらみ渡し 塞かませば 流るる水も のどにかあらまし 一云、水のよどにかあらまし
 
明日香川《アスカガハ》 四我良美渡之《シガラミワタシ》 塞益者《セカマセバ》 進留水母《ナガルルミヅモ》 能杼爾賀有萬志《ノドニカアラマシ》【一云、水乃與杼爾加有益《ミヅノヨドニカアラマシ》】
 
明日香川ノヤウナ流レノ早イ川デモ〔ノヤ〜傍線〕、※[竹/冊]ヲ渡シカケテ、流ヲ〔二字傍線〕塞イダナラバ、流レル水モ淀ンデ〔三字傍線〕、長閑ニ湛ヘルデアラウ。シカシ明日香皇女ノ御壽命ヲ塞キトメテ、尚御在命ナサルヤウニスルコトガ出來ナイノハ、殘念ダ〔シカ〜傍線〕。
 
○四我良美渡之《シガラミワタシ》――四我良美《シガラミ》は川中に杙を打ちて、横に竹木などをからみつけ、水を塞き止めるもの。※[竹/冊]。柵。○塞益者《セカマセバ》――塞かましかばに同じ。塞いだならばの意。○能杼爾賀有萬志《ノドニカアラマシ》――長閑にかあらむの意。
〔評〕 直接に皇女の薨去を言はないで、他所事のやうに明日香川について言つたところに、却つて悲しさが籠つてゐる。調子が實に滑かに出來てゐる。古今集の壬生忠岑が姉の身まかつた時に、「瀬をせけば淵となりてもよどみけり別をとむるしがらみぞなき」とよんだのは、これとその意味は全く同じであるが、二者の間に、格調の上に、技巧の上に大差があつて、歌風の變遷の跡が明らかに見えて面白い。
 
198 明日香川 明日だに 一云、さへ 見むと 思へやも 一云、思ヘかも わが王の み名忘れせぬ 一云、御名忘らえぬ
 
明日香川《アスカガハ》 明日谷《アスダニ》【一云|左倍《サヘ》】將見等《ミムト》 念八方《オモヘヤモ》【一云|念香毛《オモヘカモ》】 吾王《ワガオホキミノ》 御名忘世奴《ミナワスレセヌ》【一云|御名不所忘《ミナワスラエヌ》】
 
(明日香川)明日デモ亦、明日香皇女ヲ〔六字傍線〕見奉ラウト思フカラカ、私ハ明日香〔五字傍線〕皇女ノオ名ヲ忘レルコトガ出來ナイ。モハヤ悲シンデモ甲斐ナイ皇女ノオ名ハ、忘レル方ガヨイノニ〔モハ〜傍線〕。
 
○明日香川――同音を繰り返して下につづく枕詞として用ゐてゐる。○念八方《オモヘヤモ》――この句で切つて見る説はよくない。ヤは疑の助辭で、モは添へていふ感動の助詞である。この句は下の句|御名忘世奴《ミナワスレセヌ》に係つてゐる。一云の如くヤをカとしても、全く同じである。
(210)〔評〕 念八方《オモヘヤモ》で、切るか切らないかによって、意味が著しく違つて來る。代匠記・略解・古義、皆説を異にしてゐる。それだけ叙述に曖昧なところがあるといつてよからう。
 
高市皇子尊|城上殯宮《キノヘノアラキノミヤ》之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
高市皇子尊は天武天皇の皇子で、御母は※[匈/月]形君徳善(ノ)女尼子娘である。草壁親王の薨去後、皇太子に立たせられたが、持統天皇の十年七月薨去あらせられた。御墓は諸陵式に「三立(ノ)岡墓。高市皇子、在2大和國廣瀬郡1兆域東西六町、南北四町無2守戸1」とある。城上は前の歌に、明日香皇女の本※[瓦+缶]殯宮とあるのと同じである。
 
199 かけまくも ゆゆしきかも 一云、ゆゆしけれども 言はまくも あやに畏き 明日香の 眞神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて 神さぶと 磐隱ります やすみしし 吾が大王の きこしめす 背面《そとも》の國の 眞木立つ 不破山越えて 高麗劔 わざみが原の かり宮に 天降りいまして 天の下 治め給ひ 一云、拂ひ給ひて をす國を 定めたまふと 鳥が鳴く 吾妻の國の 御軍を 召し給ひて ちはやぶる 人をやはせと まつろはぬ 國を治めと 一云、拂へと 皇子ながら 任け給へば 大御身に 太刀取りはかし 大御手に 弓取り持たし 御いくさを あともひたまひ 齊ふる 鼓の音は 雷の 聲と聞くまで 吹きなせる 小角《くた》の音も 一云、笛のおとは あた見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 一云、聞き惑ふまで 捧げたる 幡の靡きは 冬ごもり 春さり來れば 野ごとに 著きてある火の 一云、冬ごもり春野燒く火の 風のむた 靡くが如く 取りもたる 弓弭の騷 み雪降る 冬の林に 一云、ゆふの林 飄《つむじ》かも い卷渡ると 思ふまで 聞の恐く 一云。諸人の見惑ふまでに 引き放つ 箭の繁けく 大雪の 亂れて來たれ 一云、霰なすそちより來れば まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 去く鳥の 爭ふはしに 一云、朝霜の消なば消ぬとふに現身と爭ふはしに 渡會の 齋の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穗の國を 神ながら 太敷き坐して やすみしし 吾大王の 天の下 申し給へば 萬代に 然しもあらむと 一云、かくもあらむと 木綿花の 榮ゆる時に わが大王 皇子の御門を 一云、さす竹の皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて つかはしし 御門の人も 白妙の 麻衣著 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕べになれば 大殿を ふり放け見つつ 鶉なす い匍ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ盡きねば 言さへぐ 百濟の原ゆ 神葬り 葬りいまして 麻裳よし 城上の宮を 常宮と 定めまつりて 神ながら 鎭りましぬ 然れども わが大王の 萬代と 思ほし召して 作らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放け見つつ 玉襷 かけて偲ばむ 恐かれども
 
挂文《カケマクモ》 忌之伎鴨《ユユシキカモ》【一云|由遊志計禮杼母《ユユシケレドモ》】 言久母《イハマクモ》 綾爾畏伎《アヤニカシコキ》 明日香乃《アスカノ》 眞神之原爾《マガミノハラニ》 久堅能《ヒサカタノ》 天津御門乎《アマツミカドヲ》 懼母《カシコクモ》 定賜而《サダメタマヒテ》 神佐扶跡《カムサブト》 磐隱座《イハガクリマス》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 所聞見爲《キコシメス》 背友乃國之《ソトモノクニノ》 眞木立《マキタツ》 不破山越而《フハヤマコエテ》 狛劍《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》 行宮爾《カリミヤニ》 安母理座而《アモリイマシテ》 天下《アメノシタ》 治賜《ヲサメタマヒ》【一云|拂賜而《ハラヒタマヒテ》】 食國乎《ヲスクニヲ》 定賜等《サダメタマフト》 鳥之鳴《トリガナク》 吾妻乃國之《アヅマノクニノ》 御軍士乎《ミイクサヲ》 喚賜而《メシタマヒテ》 千磐破《チハヤブル》 人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》 不奉仕《マツロハヌ》 國乎治跡《クニヲオサメト》【一云|掃部等《ハラヘト》】 皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》 大御身爾《オホミミニ》 大刀取帶之《タチトリハカシ》 大御手爾《オホミテニ》 弓取持之《ユミトリモタシ》 御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》 齊流《トトノフル》 皷之音者《ツヅミノオトハ》 雷之《イカヅチノ》 聲登聞麻低《コヱトキクマデ》 吹響流《フキナセル》 小角乃音母《クダノオトモ》【一云|笛之音波《フエノオトハ》】 敵見有《テキミタル》 虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》 諸人之《モロビトノ》 (211)恊流麻低爾《オビユルマデニ》【一云|聞惑麻低《キキマドフマデ》】 指擧有《ササゲタル》 幡之靡者《ハタノナビキハ》 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 野毎《ヌゴトニ》 著而有火之《ツキテアルヒノ》【一云|冬木成春野燒火乃《フユゴモリハルヌヤクヒノ》】 風之共《カゼノムタ》 靡如久《ナビクガゴトク》 取持流《トリモタル》 弓波受乃驟《ユハズノサワギ》 三雪落《ミユキフル》 冬乃林爾《フユノハヤシニ》【一云|由布之林《ユフノハヤシ》】 飄可母《ツムジカモ》 伊卷渡等《イマキワタルト》 念麻低《オモフマデ》 聞之恐久《キキノカシコク》【一云|諸人見惑麻低爾《モロビトノミマドフマデニ》】 引放《ヒキハナツ》 箭繁計久《ヤノシゲケク》 大雪乃《オホユキノ》 亂而來禮《ミダレテキタレ》【一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》】 不奉仕《マツロハズ》 立向之毛《タチムカヒシモ》 露霜之《ツユジモノ》 消者消倍久《ケナバケヌベク》 去鳥乃《ユクトリノ》 相競端爾《アラソフハシニ》【一云|朝霜之《アサシモノ》 消者消言爾《ケナバケヌトフニ》 打蝉等《ウツセミト》 安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》】 渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤユ》 神風爾《カムカゼニ》 伊吹惑之《イブキマドハシ》 天雲乎《アマグモヲ》 日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》 常闇爾《トコヤミニ》 覆賜而《オホヒタマヒテ》 定之《サダメテシ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》 神隨《カムナガラ》 太敷座而《フトシキマシテ》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 天下《アメノシタ》 申賜者《マヲシタマヘバ》 萬代《ヨロヅヨニ》 然之毛將有登《シカシモアラムト》【一云|如是毛安良無等《カクモアラムト》】 木綿花乃《ユフバナノ》 榮時爾《サカユルトキニ》 吾大王《ワガオホキミ》 皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》【一云|刺竹《サスタケノ》 皇子御門乎《ミコノミカドヲ》】 神宮爾《カムミヤニ》 装束奉而《ヨソヒマツリテ》 遣使《ツカハシシ》 御門之人毛《ミカドノヒトモ》 白妙乃《シロタヘノ》 麻衣著《アサゴロモキ》 埴安乃《ハニヤスノ》 御門之原爾《ミカドノハラニ》 赤根刺《アカネサス》 日之盡《ヒノコトゴト》 鹿自物《シシジモノ》 伊波比伏管《イハヒフシツツ》 烏玉能《ヌバタマノ》 暮爾至者《ユフベニナレバ》 大殿乎《オホトノヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》 鶉成《ウヅラナス》 伊波比廻《イハヒモトホリ》 雖侍候《サモラヘド》 佐母良比不得者《サモラヒエネバ》 春鳥之《ハルトリノ》 佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》 嘆毛《ナゲキモ》 未過爾《イマダスギヌニ》 憶毛《オモヒモ》 未盡者《イマダツキネバ》 言左敝久《コトサヘグ》 百濟之原從《クダラノハラユ》 神葬《カムハフリ》 葬伊座而《ハフリイマシテ》 朝毛吉《アサモヨシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》 (212)常宮等《トコミヤト》 高之奉而《サダメマツリテ》 神隨《カムナガラ》 安定座奴《シヅマリマシヌ》 雖然《シカレドモ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 萬代跡《ヨロヅヨト》 所念食而《オモホシメシテ》 作良志之《ツクラシシ》 香來山之宮《カグヤマノミヤ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》 天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》 玉手次《タマダスキ》 懸而將偲《カケテシヌバム》 恐有騰文《カシコカレドモ》
 
心ニ〔二字傍線〕カケテ思フダケデモ、憚リ多イコトデアルヨ。口ニ〔二字傍線〕言フノモ、怪シク畏イ、明日香ノ眞神ノ原ニ、(久堅能)天ノ御殿ヲ畏クモオ定メ遊バシテ、即チ御陵ヲオ構ヘナサツテ〔即チ〜傍線〕、神樣ラシクナサルトテ、磐ニ隱レテ葬ラレテ〔四字傍線〕オイデ遊バス、(八隅知之)吾ガ仰ギ奉ル天武〔二字傍線〕天皇樣ガ、御支配遊バス、大和カラハ〔五字傍線〕後ロノ方ニ當ル美濃ノ〔七字傍線〕國ノ、(眞木立)不破山ヲ越シテ、(狛劔)和※[斬/足]原ノ行宮ニオ出デ遊バシテ、コノ天下ヲ鎭メ給ヒ、又〔傍線〕御支配ナサル國ヲ、御平定遊バサンガ爲ニ、(鳥之鳴)關東ノ國ノ、兵士ラヲオ呼ビ寄セナサツテ、勇猛ナ人ヲ和ゲヨ、又〔傍線〕從ハナイ國ヲ鎭定セヨト、高市皇子ガ〔五字傍線〕皇子ノ御身分ソノママデ、天子樣ガ〔四字傍線〕御委任遊バスト、皇子ガ〔三字傍線〕御身ニハ大刀ヲ佩キ給ヒ、御手ニ弓ヲ持チ給ウテ、官軍ヲオ引連レナサリ、味方ノ〔三字傍線〕軍勢ヲ呼ビ〔二字傍線〕齊ヘル太鼓ノ音ハ、恰モ〔二字傍線〕雷ノ轟クガ如ク聞エ、又〔三字傍線〕吹キ鳴ラセル角笛ノ音ハ、敵ヲ見ツケタ虎ガ吼エルノデハナイカト思ツテ〔三字傍線〕、人々ガ戰キ恐レル程モ、鳴リ轟キ〔四字傍線〕、高ク差シ上ゲテ持ツテ居ル軍旗ガ、風ニ〔二字傍線〕靡ク有樣〔二字傍線〕ハ、(冬木成)春ガ來ルト、彼方此方ノ〔五字傍線〕野毎ニ著イテ居ル野火ガ、風ノマニマニ靡イテヰルヤウニ、赤クヒラメイテヰル〔九字傍線〕。又手ニ取リ持ツテ居ル弓ノ弭《ハズ》ガ、矢ヲ放ス度ニビシビシト響ク〔矢ヲ〜傍線〕騷ギハ、雪ノ降リシキツテヰル冬ノ林ニ、ツムジノ風ガ吹キ卷イテ通ルノデハナカラウカト思ハレル程モ、恐ロシク聞エ、又〔傍線〕引イテ放ス矢ガ澤山ニ飛ビ交フ〔五字傍線〕樣ハ、大雪ガ降ル〔三字傍線〕ヤウニ亂レ合ツテ來ルカラ、天子樣ニ對シテ〔七字傍線〕從ハズニ敵對シタ敵ドモ〔二字傍線〕モ、命ガ(露霜之)消エルナラバ消エヨト(213)命ヲ惜シマズニ、(去鳥乃)先ヲ爭ツテ攻メ寄セテ〔五字傍線〕來ル時ニ、丁度、伊勢ノ國ノ〔七字傍線〕渡會ニアル大廟カラシテ、神風ヲ吹カセナサツテ、ソ〔神風〜傍線〕ノ神風デ敵ヲ吹キ惑ハシ、天ノ雲ヲ起シテ〔三字傍線〕、太陽ノ姿モ見セヌヤウニ眞暗ニ蔽ヒカブセテ、敵ノ軍ヲ打チ破リ討チ平ゲテ、御平定遊バシタ、コノ日本ノ〔三字傍線〕水穗國ヲ、神ソノ物デイラセラレル天子樣ガ、大キク御構ヘナサツテ、御支配遊バスト、(八隅知之)吾ガ仰ギ奉ル高市皇子ガ、天下ノ政ヲ天皇ニ〔三字傍線〕申シアゲル役、即チ太政大臣トナリ〔ル役〜傍線〕給ウタ故、斯樣ニシテ皇子ハ〔八字傍線〕、萬代ノ後マデモオイデナサルコトト思ハレテ、(木綿花乃)繁昌シテイラセラレル時ニ、私ガ仰ギ奉ル高市〔二字傍線〕皇子ハ御薨去遊バシテ〔八字傍線〕、皇子ノ御所ハ神ノ宮殿トシテノ飾リ付ケヲシテ、今マデオ使ヒナサツタ御所ノ番人即チ舍人ラモ〔六字傍線〕、白イ麻ノ喪服ヲ着テ、埴安ノ御所ノ附近ノ〔三字傍線〕原ニ、(赤根刺)日ガ暮レルマデモ、終日〔二字傍線〕(鹿自物)這ヒ伏シテ居リ、(烏玉能)夕方ニナルト、皇子ノ〔三字傍線〕御殿ヲ遙ニ眺メテ、(鶉成)這ヒ廻ツテ悲シミナガラ、遙カニソノ宮ニ〔悲シ〜傍線〕奉仕スルケレドモ、悲シサニ堪ヘカネテ〔九字傍線〕、奉仕スルニモ堪ヘズ、(春鳥之)泣キ叫ンデ居ルト、コノ嘆キモ未ダ過ギ去ラナイウチニ、コノ悲シイ〔三字傍線〕心モ未ダ盡キナイウチニ、御葬式トナツテ、コノ宮ヲ出テ〔御葬〜傍線〕、(言佐敝久)百濟ノ原カラシテ、御遺骸ヲ城上ニ〔七字傍線〕神樣トシテ御葬送申シ上ゲテ、(朝毛吉)城ノ上ノオ墓ヲ、永久ニ更ラナイオ宮トシテ、オ定メニナツテ、神樣ノママニ此處ニ〔三字傍線〕オ鎭マリナサツタ。斯樣ニ高市皇子ハオ薨レニナリ城上ニ葬ラレナサツタガ〔斯樣〜傍線〕、私ガオ仕ヘシテヰル高市〔二字傍線〕皇子ガ、萬代マデモ住マウト思召シテ、作リ給ウタ彼ノ埴安ニアル〔五字傍線〕香具山ノオ宮ハ、萬代ノ後マデモ無クナラウト私ハ〔二字傍線〕思ハウカ、否々決シテ無クナルコトハナイト思フ。アア私ハコノ御所ヲ皇子ノオ形見ト思ツテ〔アア〜傍線〕、誠ニ畏イコトダガ、天ノ如ク遙カニ仰イデ見テ、皇子ヲ心ニ〔五字傍線〕カケテ思ヒ出シマセウ。アア、悲シイコトダ〔八字傍線〕。
 
○挂文《カケマクモ》――言久毛《イハマクモ》に對して用ゐられてゐる。心に掛けむもの意。○忌之伎鴨《ユユシキカモ》――憚多いことよの意。○明日香乃眞神之原爾《アスカノマガミノハラニ》――飛鳥の眞神の原は、飛鳥法興寺の地で鳥形《トリカタ》山の下である。崇唆紀に、「元年始作2法興寺1此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1」とある。天武天皇の御陵は式に檜隈大内陵とある。檜隈は飛鳥と接したところで、大内は眞神の一部なのであらう。○天津御門乎《アマツミカドヲ》――天皇皇子などの神去り給ふことを、天知らすなどと申すところから、陵を天津御門と言つたのである。○磐隱座《イハガクリマス》――岩戸の内に隱れ給ふこと、即ち葬られ給うたことを言つたもの。○背友乃國之《ソトモノクニノ》――背友は背面で、北をいふ。五二參照。大和から後の方にあるから、美濃國をかういつたのである。○眞木立《マキタツ》――不破山の枕詞。檜の生ひたるの意。○不破山越而《フハヤマコエテ》――不破山は美濃國不破郡、今の伊増峠のことで、伊勢から入つて、これを越えると、關ケ原に出られる。書紀によると、天武天皇は桑名に御滯在の後、高市皇子の御勸告によつて、美濃の野上の行宮に入り給ひ、其處から屡、和※[斬/足]へ行幸あつて、軍を見給うたのである。○狛劔――高麗の劔は頭に環があるから、高麗劔|環《ワ》とつづけて、和射見《ワザミ》の枕詞とした。ここに掲げたのは高麗劍の環頭式柄頭の一例で、上野國群馬郡倉賀野發掘のものである。狛の字を高麗に用ゐるに就いて、同文通考に、「狛與2高麗1訓同、狛音泊、獣名、按狛蓋貊之訛、貊國名三韓之屬」と見えてゐる。○和射見我原乃《ワザミガハラノ》――書紀に和※[斬/足]の字が用ゐてある。今の關ケ原の舊名。前述の如く行宮は野上にあつて、時々和※[斬/足]へ行幸せられたのであるが、簡單にかう詠んである。○安母理座而《アモリイマシテ》――アモリは天降の約。天皇の行幸を斯く申したのである。○鳥之鳴《トリガナク》――吾妻の枕詞。「鷄之鳴明《トリガナクアカ》とつづけたるにて、あづまといふも、本は吾妻《アガツマ》のがを略けるなれば、アカの意こもれるによつて、しかつづけしなり」とは、冠辭考の説であるが、鷄が鳴くよ吾が夫と、夫を起す妻の呼聲によつたのだといふ説が、專ら行はれてゐる。○御軍士乎《ミイクサヲ》――イクサは軍隊・兵卒の意。古事記の黄泉軍《ヨモツイクサ》や、卷六の千萬乃軍奈利友《チヨロヅノイクサナリトモ》(九七二)によると、これが本義らしい。〇千磐破《チハヤブル》――イチハヤブルの略。いち早き樣をなしてゐる意、惡く猛きといふ。○不奉仕《マツロハズ》――服從せざる意。○皇子隨《ミコナガラ》――皇子の御身分その儘での意。○大刀取帶之《タチトリハカシ》――刀を高市皇子が御身に着け給ふをいふ。ハカシをオバシとよむ説もあるが、大刀はハクといふのが常であるから、ハカシとよまう。○安騰毛(215)比賜《アトモヒタマヒ》――後《アト》に伴《トモナ》ふ意か。率ゐること。誘ふ意になることもある。○齊流《トトノフル》――呼び集める。○皷之音者《ツヅミノオトハ》――皷は軍皷で、大きなものであらう。ツヅミは古事記の建内宿禰の歌にもあるが、梵語|都曇《トドム》で、外來の樂器である。正倉院に陶製の皷胴を藏してゐる。○吹響流《フキナセル》――鳴らすを鳴《ナ》すといふ例が古言に多い。ここをフキトヨムルと新訓によんでゐるが、響の字は響苗爾《ナルナヘニ》(一〇八八)響神之《ナルカミノ》(一三六九)の如くナルとよんだ例もあるから、ここはフキナセルがよい。○小角乃音母《クダノオトモ》――天武紀に「十四年十一月癸卯朔丙午詔2四方(ノ)國1曰、大角《ハラ》、小角《クダ》、皷吹、幡旗及弩抛之類、不v應v存2私家1、」とある。その他軍防令・和名抄征戰具などにこの名が見えてゐるから、軍器として用ゐられたものと見える。和名抄には「小角、久太乃布江」とあつて角笛の小なるものである。○虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》――※[口+立刀]は叫に同じきか、古本皆この字を記してゐる。○恊流麻低爾《オビユルマデニ》――恊は脅に同じ。幡之靡者《ハタノナビキハ》――幡は軍旗である。野火に譬へてゐるので見ると、赤旗に違ひない。○三雪落《ミユキフル》――三は添へただけ。この句、冬の枕詞とも見得るが、實景の形容とした方が面白い。○一云|由布之林《ユフノハヤシニ》――布由の誤である。○飄可母《ツムジカモ》――飄は舊訓アラシであるが、神功皇后紀に、飄風をツムジカゼとよんでゐるし、神名帳、出雲國意宇郡|破夜都武自和氣《ハヤツムジワケ》神社を文徳實録に速飄別命《ハヤヅムジワケノミコト》としてゐるから、ツムジとよむべきである。○伊卷渡等《イマキワタルト》――伊は発語。○聞之恐久《キキノカシコク》――聞いて恐ろしくの意。聞は名詞である。○一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》――大雪乃亂而來禮《オホユキノミダレテキタレ》の異傳で、曾知余里久禮婆《ソチヨリクレバ》は其方より來ればであらうが、變な言ひ方である。○立向之毛《タチムカヒシモ》――立ち向ひし者もの意。○露霜之《ツユシモノ》――枕詞。露の如き物。既出(一三一)。○消者消倍久《ケナバケヌベク》――消えなば消えぬべくで、卷十一に朝霜消消念乍《アサシモノケナバケヌベクオモヒツツ》(二四五八)とあるも同じく、死ぬなら死ねよと、命を捨ててかかること。○去鳥乃《ユクトリノ》――枕詞。飛び行く鳥は先を爭ふものであるから、相競端爾《アラソフハシニ》とつづけたのである。○相競端爾《アラソフハシニ》――競ひ進む間にの意。端は間。間人をハシウドと卷一(三)に見えてゐた。端の字は初の意であるから、借字である。○渡會乃齋宮從《ワタラヒノイツキノミヤユ》――渡會は伊勢の郡名、齋宮は垂仁紀に、「隨2大神教1其祠立2於伊勢國1、因興2齋宮于五十鈴川上1」とある通りで、即ち大神宮のことである。齋王の宮ではない。○神風爾伊吹惑之《カムカゼニイブキマドハシ》――伊吹は息吹きで、風は科戸神の息を吹き給ふによつて起るといふ、古傳説から出た語である。天武天皇が伊勢大神宮に祈り給うて、神風を吹かせ給うたことは、書紀には見えない(216)が人麿が若い頃から聞いてゐたことであらう。○水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》――水穗は瑞々しき稻の穗で、吾が國に稻のよく稔り、地味肥沃なることを賞めた國名である。水田の穗と見るのは當らない。○神隨太敷座而《カムナガラフトシキマシテ》――神その儘の御方にておはします天皇が、大きくお構へ遊ばして御支配なさる意。神隨は上からの續きは天武天皇を申上げてゐるが、持統天皇を含めてある。太敷座而《フトシキマシテ》は、而の字は衍で、フトシキイマスであると古義には言つてゐるが、ここは分り切つたことは省略する態度で、簡單に續けて言つてゐるのだから、而の字は省くべきでない。○吾大王之《ワガオホキミノ》――高市皇子がの意。大王を天皇と見る説は惡い。○天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》――天下の政を執奏し給へばの意。この皇子は、持統天皇の四年七月から、草壁皇太子の薨後を受けて、太政大臣となられたのである。○木綿花能《ユフバナノ》――枕詞。木綿を以て造つた花は、散る時なく榮ゆるものだから、榮時爾《サカユルトキニ》に冠らせたのである。○吾大王皇子之御門乎《ワガオホキミミコノミカドヲ》――吾が大王なる高市皇子の御殿をの意。○神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》――神の宮として装ひ申しての意で、皇子の薨去によつて、今までの御殿を、神の在ます宮として、装を改めたことをいふ。卷十三の挽歌に、大殿矣振放見者白細布飾奉而《オホトノヲフリサケミレバシロタヘニカザリマツリテ》(三三二四)とあるので、その趣が想像される。○御門之人毛《ミカドノヒトモ》――主として舍人をさす。○埴安能御門之原爾《ハニヤスノミカドノハラニ》――皇子の御殿の前の野原で、埴安池に續いた所であらう。○赤根刺《アカネサス》――枕詞。二〇參照。○日之盡《ヒノコトゴト》――ヒノクルルマデといふ訓は惡い。○鹿自物《シシジモノ》――枕詞。自物《ジモノ》は、の如き物の意で。譬喩のやうであるが、眞の譬ではない。シシは肉。肉の美味なる鹿猪の類をもシシといふ。○伊波比伏管《イハヒフシツツ》――伊は發語。這ひ伏しつつ。○烏玉能《ヌバタマノ》――枕詞。既出。(八九)○鶉成《ウヅラナス》――枕詞。鶉の如くの意で、伊波比廻《イハヒモトホリ》につづく。○伊波比廻《イハヒモトホリ》――伊は發語、モトホルは字の如く、廻ること。○佐母良比不得者《サモラヒエネバ》――奉仕するに堪へざればの意。宣長は不得者を不得天の誤として、カネテとよんでゐるが、猥に文字を改むべきでない。○春鳥之《ハルトリノ》――枕詞。佐麻欲比《サマヨヒ》につづく。○佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》――サマヨフは呻吟。聲をあげて嘆くこと。○憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネバ》――悲しむ心も未だ盡きざるにの意。○言左敝久《コトサヘグ》――枕詞。百濟につづく、既出(一三五)。○百濟之原從《クダラノハラユ》――今の北葛城郡百濟村附近の野。東に曾我川(百濟川)、西に葛城川が流れ、二川合して廣瀬川となる。この二川に挾まれた細長い原野。○神葬《カムハフリ》――天皇皇子などの如く神となられた御方を葬るのであるから、神葬《カムハフリ》といふ。○朝毛吉《アサモヨシ》――枕詞。(217)既出(五五)○常宮等《トコミヤト》――永久の御宮、即ち御墓。○高之奉而《サダメマツリテ》――高之の二字は定の誤であらうといつた玉の小琴の説による。もとの儘では訓みやうがない。○吾大王之《ワガオホキミノ》――高市皇子。○香來山之宮《カグヤマノミヤ》――香具山の麓にあつた高市皇子の御殿を、斯く呼んだのである。○玉手次《タマダスキ》――枕詞。襷はかけるものであるから、懸而《カケテ》につづく。○懸而將偲《カケテシヌバム》――心に掛けて、なつかしく思ひ起さうといふ意である。
〔評〕 萬葉集中の第一の長篇で、また最も雄大崇嚴を極めた傑作である。獨り萬葉集のみならず、實に我が國文學史中の最大雄篇である。長さに於てはこれを凌ぐものに、續日本後紀に見えてゐる、興福寺大法師らが仁明天皇の四十の寶算を賀し奉つたものがあるけれども、徒らに冗長で、これとは到底比較にならぬものである。この篇は全體の結構が、如何にも堂々としてゐる。和射見が原に於ける戰闘を叙するあたりの、勇ましい活々とした譬喩と、語句の中に溢れてゐる雄壯な氣魄とは、目も眩むばかりである。一轉して高市皇子の薨去から、斂葬を述べる段になると、落膽と悲痛とに、身悶えしてゐる舍人の情態が、目に見えるやうにあはれに詠まれてゐる。最後に、切めて皇子の舊殿、香來山の宮を、記念として遙拜して、ありし日を偲び奉らむと結んで、敬慕の情を述べてゐるところ、實に整然たる組織である。冒頭から嚴かに説き起して、戰闘の有樣を叙べるあたりは、滔々たる大河が、岩に激し谿を搖がして、瀧つ瀬となつて落下する樣にも比すべく、薨去の悲哀を歌つてゐるところは、奔流忽ち藍を湛へて、緩かに囁き流れる淋しさにも比することが出來る。實に讀んでゐて、胸の廣くなるやうな、さうして感激に涙を催すやうな作品である。全篇中、殆ど語法の終止したところがなく唯一箇所、神隨安定座奴《カムナガラシヅマリマシヌ》に文法上の切目を作つてあるのも、この人獨特の面白い手法である。
 
短歌二首
 
200 ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らに 戀ひわたるかも
 
久堅之《ヒサカタノ》 天所知流《アメシラシヌル》 君故爾《キミユヱニ》 日月毛不知《ヒツキモシラニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
已ニコノ世ヲ去リ給ウテ〔已ニ〜傍線〕、(久堅之)天ヲ支配シテイラセラレル高市皇子ダノニ、私ハ〔二字傍線〕月日ノ經《タ》ツノモ知ラズニ、(218)歸ラヌ〔三字傍線〕君ヲ戀ヒ慕ツテ居リマスワイ。イクラ戀ヒテモ慕ツテモ、何ノ甲斐モナイモノヲ〔イク〜傍線〕。
 
○天所知流《アメシラシヌル》――皇子の神去り給ひしを言つたのである。○君政爾《キミユヱニ》――君だのにの意。○日月毛不知《ヒツキモシラニ》――月日の立つのも知らずにの意。日月を考にはツキヒと逆によんである。國語の熟語としては大體さうなつてゐるが、ここは文字通りに訓む方が寧ろ古意であらう。日月を、太陽と月のこととするのは惡い。
〔評〕 日月毛不知《ヒツキモシラニ》といふ誇張が面白い。天と日月との間に、縁語的技巧があるやうにも考へられないこともないが、恐らくそんなことはあるまい。
 
201 はにやすの 池の堤の 隱沼の 行方を知らに 舍人は惑ふ
 
埴安乃《ハニヤスノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》 去方乎不知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》
 
何方ヘ行ツテ身ヲ寄セタラヨイモノカ〔何方〜傍線〕、(埴安池之堤之隱沼之)行ク方ガ分ラナイノデ、舍人ドモハ惑ツテ居ル。
 
○埴安乃池之堤之隱沼之《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノ》――埴安の池の堤に接した隱沼の意で、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》の序詞。隱沼は水の流れない沼とする説もあるが、隈沼從裏戀者《コモリヌノシタユコフレバ》(二四四一)絶沼之下從者將戀《コモリヌノシタユハコヒム》(三〇二一)等、その他|下《シタ》とつづいた例が多いので見ると、草に蔽はれて、水の見えない沼とする説がよいやうである。埴安の池は水淺く、水草が生ひ茂り、堤近きところは特に隱沼になつてゐたのである。隱沼の水は何方へ流れ行くとも知られないので、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》とつづけてある。埴安の池は香具山の麓にあつた池で、今、山の南方に香久山村大字南浦があつて、昔の名殘らしい地名をとどめてゐる。そこから山の西麓を廻つて隨分大きな池であつたのである。卷一の二の寫眞參照。○去方乎不知《ユクヘヲシラニ》――行くべき方向を知らずの意。つまり今後の身の振り方がわからず、途方にくれること。
〔評〕 埴安の御門の原に接した、埴安の池の實景を捉へて、途方に暮れた舍人の心境をよんだのが、この場合適切で、成程とうなづかしめる。
 
或書反歌一首
 
202 哭澤の もりにみわすゑ 祷れども わが大君は 高日知らしぬ
 
哭澤之《ナキサハノ》 神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》 雖祷祈《イノレドモ》 我王者《ワガオホキミハ》 高日所知奴《タカヒシラシヌ》
 
香具山ニアル〔六字傍線〕、哭澤女ヲ祭ツタ神社ニ、酒甕ヲ供ヘテオ祈リヲスルケレドモ、私ノ仰ギ奉ル高市皇子ハ、已ニオ薨レニナツテ天ヘ昇リ〔已ニ〜傍線〕、天ヲ御支配ナサツテ居ラレルカラ、何ノ甲斐モナイ。アア〔カラ〜傍線〕。
 
○哭澤之神社爾三輪須惠意《ナキサハノモリニミワスヱ》――哭澤之神社は古事記に、坐香山之畝尾木本名泣澤女神《カクヤマノウネヲノコノモトニマスナハナキサハメノカミ》とある神社で、伊邪那岐命の御涙から出來た神である。神社をモリといふのは、森には神が祭られてゐるからである。一六五の題詞の寫眞解説參照。三輪は、和名抄祭祀具に「日本紀私記云、神酒、和語云2美和1」とあつて、神酒をいふのである。神酒を甕に釀し神に供へるのを三輪須惠《ミワスヱ》といつたのだ。○雖祷祈《イノレドモ》――玉の小琴にコヒノメドとあるに從ふ説もある。祈の字|不祈日者無《ノマヌヒハナシ》(二六六〇)の如くノムとよんだ例もあるが、祈奈牟《コヒナム》(三七九)ともある。祷の字は神祇乞祷《カミニコヒノミ》(四四三)祷豐御酒爾《ホグトヨミキニ》(九八九)の例もあるが、和禮波雖祷《ワレハイノレド》(四二三六)神乎祷迹《カミヲイノレド》(三三〇六)に、イノルと訓んでゐる。この歌で祷祈の二字を重ねて記したのは、齋祈者歟《イハハバカ》(一七八四)と同じく、上の文字を主としてよむべきもので、イノレドモが最もよいやうに思はれる。○高日所知奴《タカヒシラシヌ》――前に天所知流《アメシラシヌル》とあつたのと同樣で、薨去遊ばしたことを言つたもの。檜嬬手に日の下に不の字を補つて、タカヒシラサヌとしたのは亂暴である。
〔評〕 皇子の御病中、香具山の宮に近い哭澤の杜に御全癒を祈つたのが、空しかつた悲しみを歌つたもので、神酒の甕をすゑて祈るのは、かなり鄭重な奉賽の形式であつたらうに、それが報いられなかつたのは、眞にあはれに思はれる。
 
右一首類聚歌林曰、檜隈女王、怨(ム)2泣澤神社(ヲ)1之歌也、案(スルニ)2日本紀(ヲ)1曰、持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨、
 
檜隈女王は續日本紀に「天平九年二月、授2從四位下檜前王從四位上1」とある御方か。美夫君志に高市皇(220)子の御妃なるべしとある。持統天皇の四字は、後に書き添へたものであらう。後皇子尊は草壁皇子尊に對して、高市皇子をかく申したのである。
 
但馬皇女薨後、穗積皇子冬日雪落(リ)遙(ニ)望(ミ)2御墓(ヲ)1、悲傷流(シテ)v涕(ヲ)御作歌一首
 
元明紀「和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也」とあり。穗積皇子は天武天皇の第五皇子。この皇女と皇子と密かに通ぜられたことは、一一四以下三首に見えてゐる。この歌は、年代順に從ふならば、次の弓削皇子薨時云々の歌の次に入るべきである。
 
203 零る雪は あはにな降りそ 吉隱の 猪養の岡の 塞なさまくに
 
零雪者《フルユキハ》 安幡爾勿落《アハニナフリソ》 吉隱之《ヨナバリノ》 猪養乃岡之《ヰガヒノヲカノ》 塞爲卷爾《セキナサマクニ》
 
降ル雪ハ澤山ニ降ルナヨ、但馬皇女ノオ墓ガアル〔但馬〜傍線〕吉隱ノ里ノ猪養ノ岡ヘ行ク道〔四字傍線〕ガ塞キ止マツテ了フダラウカラ。オ墓ヘ通フ道モナクナルカラ雪ヨ、ヒドク降ルナ〔雪ヨ〜傍線〕。
 
○安幡爾勿落《アハニナフリソ》――安幡《アハ》について種々の説がある。地名とするもの。深雪を近江淺井郡あたりで、アハといふから、深い雪であるとする説。同じく近江彦根で、なだれをアハといふから、それだらうといふ説。アハはサハと同じで、多くの意であらうとする説等に分れてゐるが、最後に擧げた、サハに同じとする説がよいやうに思ふ。○吉隱之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》――吉隱は大和磯城郡で、今の初瀬町の東一里にある。大和志城上部に「猪飼山在2吉隱村上方1。持統紀曰、九年十月、幸2菟田吉隱1、即此今隷2本郡1、其野曰2浪芝野1」とあつて、春日宮天皇妃陵も此處にあるから、但馬皇女の御墓もこの邊にあるのであらう。○塞爲卷爾《セキナサマクニ》――猪養の岡が雪に埋れて、關となつて通へないであらうから、といふ意である。考のやうにセキナラマクニと訓んでは、意がよく通じない。金澤本だけは、塞が寒になつてゐる。これによつて爲を有と改めて、サムカラマクニと新訓にあるが、文字を改め過ぎるから從はない。
〔評〕 題詞に遙望御墓とあるので見ると、雪の盛に降つてゐる日に、皇女の御墓のあたりを、御在所からお眺め(221)になつて、お詠みになつたのである。雪によつて御墓への通路が塞がれるのを恐れられたお心は、實にあはれである。
 
弓削《ユゲ》皇子薨時、置始《オキソメ》東人歌一首并短歌
 
續紀に「文武天皇三年秋七月癸酉淨廣貳弓削皇子薨云々、皇子天武天皇之第六皇子也」とある。置始東人は傳未詳。
 
204 やすみしし わが王 高光る 日の皇子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神といませば そこをしも あやにかしこみ 晝はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも
 
安見知之《ヤスミシシ》 吾王《ワガオホキミ》 高光《タカヒカル》 日之皇子《ヒノミコ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天宮爾《アマツミヤニ》 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》 其乎霜《ソコヲシモ》 文爾恐美《アヤニカシコミ》 晝波毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 夜羽毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 臥居雖嘆《フシヰナゲケド》 飽不足香裳《アキタラヌカモ》
 
(安見知之)私ノ仰キ奉ル王(高光)日ノ皇子タル弓削皇子樣ハオ薨レ遊バシテ〔弓削〜傍線〕、(久堅乃)天ノ御宮ニ、神樣ノママニ、神樣トシテイラセラレルト、カヤウニ皇子ガコノ世ヲ去リ給ウタコト〔皇子〜傍線〕ガ、怪シキマデニ私ハ〔二字傍線〕悲シイノデ、晝ハ終日、夜ハ終夜、臥シタリ座ツタリ、始終〔二字傍線〕嘆イテヰルケレドモ、悲シクテコノ悲シミノ〔悲シ〜傍線〕心ヲ晴ラスコトガ出來ナイワイ。噫〔傍線〕。
 
○安見知之吾王高光日之皇子《ヤスミシシワガオホキミタカヒカルヒノミコ》――これは天皇を申し奉るのを常としてゐるが、皇子を申した例もある。ここは弓削皇子を申し奉つたのである。○天宮爾神隨神等座者《アマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》――これは皇子の薨去を言つたのである。○其乎霜《ソコヲシモ》――ソコは普通場所を指す代名詞であるが、これはソレといふのと同じデ、前に所己乎之毛綾爾憐《ソコヲシモアヤニカナシビ》(一九六)其故《ソコユヱ》(一九六)とあつたのと同樣である。
〔評〕 人麿の作中の句を少しづつ頂戴して、小さい長歌を作つたまでで、作者の特色は少しも見えてゐない。
 
(222)反歌一首
 
205 王は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隱りたまひぬ
 
王者《オホキミハ》 神西座者《カミニシマセバ》 天雲之《アマグモノ》 五百重之下爾《イホヘガシタニ》 隱賜奴《カクリタマヒヌ》
 
弓削ノ〔三字傍線〕皇子ハ神樣デイラツシヤルカラ、天ヘ御上リナサレテ〔九字傍線〕、天ノ雲ノ澤山ニ重ツタ内ニ、オ隱レ遊バシタ。普通ノ人間トハ違ツタモノダ〔普通〜傍線〕。
 
○天雲之五百重之下爾《アマクモノイホヘガシタニ》――考に五百重之上爾の誤としたのは惡い。下は裏《ウチ》と同じで、天の雲の幾重にも重なつた中にの意である。
〔評〕 これは誠に堂々たる佳作である。けれどもこれも卷三の冐頭に出てゐる人麿の、皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカヅチノウヘニイホリセルカモ》(二三五)と同じく、或本の王神座者雲隱伊加土山爾宮敷座《オホキミハカミニシマセバクモカクルイカヅチヤマニミヤシキイマス》。或は皇者神爾之生者眞木之立荒山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセバマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》(二四一)の類と照合すると、これも亦人麿の模傚と言はねばならぬ。
 
又短歌一首
 
206 さざなみの 志賀さざれ波 しくしくに 常にと君が 念ほせりける
 
神樂波之《サザナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》 敷布爾《シクシクニ》 常丹跡君之《ツネニトキミガ》 所念有計類《オモホセリケル》
 
(神樂波之志賀左射禮浪)何時モ何時モ、常ニ變ルコトナク、コノ世ニ榮エテ坐スモノト〔コノ〜傍線〕、貴方ハ何時モ思ツテ居ラレマシタ。ソレダノニ早クオ亡クナリニナツテシマヒマシタ〔ソレ〜傍線〕。
 
○神樂波之志賀左射禮浪《サザナミノシガサザレナミ》――敷布爾《シクシクニ》とつづく序詞。近江のさざ浪の志賀の浦わに打寄せる漣は、絶え間も無いものであるから、敷布《シクシク》とつづけた。敷布《シクシク》は頻りに、繁《シゲ》くなどと同語である。敷布爾《シクシクニ》から所念有計類《オモホセリケル》につづいてゐる。○常丹跡《ツネニト》――常に變ることなく、永久に生きておはすものとの意。
(223)〔評〕 敷布爾《シクシクニ》の序詞に、近江の景物を持つて來たのは、何か理由のあつたことであらう。ササナミノ……サザレナミといふ同音語の繰返も、偶然ではあるまい。もしさうとすると、かなり工夫ある歌であるが、その割合に感情が籠つてゐない。
 
柿本朝臣人麿妻死之後、泣血哀慟(シテ)作(レル)歌二首并短歌
 
この人麿の妻は輕に住んでゐた女である。考には柿本人麿竊所通娘子死之時悲傷作歌としてゐるが、つまらぬさかしらである。人目を忍んで通ふやうなものも、矢張妻である。若い間は大體かうした状態で、夫婦の間は經過して行くのが常である。泣血は血の涙を流して泣くこと。支那風の熟語であるが、中古からは、歌の中にもこの趣が多くよまれてゐる。この二首の長歌によまれた人麿の妻は、題詞の書き方から見ると同一人のやうであるが、内容から見ると、どうもさうは思はれない。前のは忍んで通つてゐたので、後のは同棲して子までなした中である。
 
207 天飛ぶや 輕の路は 吾妹子が 里にしあれば ねもごろに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さねかづら 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵の こもりのみ 戀ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるが如 照る月の 雲隱る如 奧つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 おとに聞きて 一云、おとのみ聞きて 言はむ術 爲むすべ知らに おとのみを 聞きてあり得ねば 吾が戀ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば 玉襷 畝火の山に 喧く鳥の 聲も聞えず 玉桙の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚びて 袖ぞ振りつる 或本、名のみ聞きてあり得ねばといへる句あり
 
天飛也《アマトブヤ》 輕路者《カルノミチハ》 吾妹兒之《ワキモコガ》 里爾思有者《サトニシアレバ》 懃《ネモゴロニ》 欲見騰《ミマクホシケド》 不止行者《ヤマズユカバ》 人目乎多見《ヒトメヲオホミ》 眞根久往者《マネクユカバ》 人應知見《ヒトシリヌベミ》 狹根葛《サネカヅラ》 後毛將相等《ノチモアハムト》 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 玉蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキフチノ》 隱耳《コモリノミ》 戀管在爾《コヒツツアルニ》 度日之《ワタルヒノ》 晩去之如《クレヌルガゴト》 照月乃《テルツキノ》 雲隱如《クモガクルゴト》 奧津藻之《オキツモノ》 名延之妹者《ナビキシイモハ》 黄葉乃《モミヂバノ》 過伊去等《スギテイニキト》 玉梓之《タマヅサノ》 使乃言者《ツカヒノイヘバ》 梓弓《アヅサユミ》 聲爾聞而《オトニキキテ》【一云|聲耳聞而《オトノミキキテ》】 將言爲便《イハムスベ》 世武爲便不知爾《セムスベシラニ》 聲耳乎《オトノミヲ》 聞而有不得者《キキテアリエネバ》 吾戀《ワガコフル》 千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》 遣悶流《ナグサムル》 情毛有八等《ココロモアリヤト》 吾妹子之《ワギモコガ》 不止出見之《ヤマズイデミシ》 輕市爾《カルノイチニ》 吾立聞者《ワガタチキケバ》 玉手次《タマダスキ》 畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》 喧鳥之《ナクトリノ》 (224)音母不所聞《コヱモキコエズ》 玉桙《タマボコノ》 道行人毛《ミチユクヒトモ》 獨谷《ヒトリダニ》 似之不去者《ニテシユカネバ》 爲便乎無見《スベヲナミ》 妹之名喚而《イモガナヨビテ》 袖曾振鶴《ソデゾフリツル》
 
(天飛也)輕ノ街道ハ、私ノ妻ノ家ノアル里デアルカラシテ、私ハ輕ヘ行ツテ〔七字傍線〕、能ク能ク見タイノダケレドモ、始終行ツタナラバ、人ニ見ラレルコトガ多イカラ、又頻リニ往ツテハ、人ガ知ルダラウカラ、ソノ爲評判サレルノガ辛ラサニ〔ソノ〜傍線〕、(狹根葛)後ニモ亦逢ハウト、(大船之)思ツテ當テニシテ、(玉蜻)磐ニ四方ヲ圍マレタ淵ノヤウニ、人ニハ分ラズ〔六字傍線〕、心ノ中デバカリ戀ヒ慕ツテ居ツタノニ、丁度空ヲ〔四字傍線〕通ル太陽ガ、夕方ニナツテ西ノ山ニ〔四字傍線〕隱レタヤウニ、或ハ又空ニ照〔五字傍線〕ツテヰル月ガ、雲ニ隱レタヤウニ、(奧津藻之)横ニナツテ一緒ニ寢タ妻ハ、(黄葉乃)死ンデコノ世ヲ〔四字傍線〕去ツテシマツタト、(玉梓之)使ノ人ガ知ラセニ來テ〔六字傍線〕言ツタカラ、(梓弓)音信ヲ聞イテ悲シサニ〔四字傍線〕、何ト言ツタモノヤラ、ドウシタモノヤラ仕樣ガナク、コノ音信バカリヲ聞イテ、落付イテヰルコトガ出來ナイカラ、私ガ戀ヒ慕フ千分ノ一デモ、心ガ慰ムカト思ツテ、切メテ〔三字傍線〕吾ガ妻ガ常ニ出テ、私ノ來ルノヲ〔六字傍線〕見タ輕ノ市ニ、私ガ立ツテ聞イテヰルト、亡キ妻ノ〔四字傍線〕(玉手次畝火乃山爾喧鳥之)聲モ聞エナイシ、(玉桙)道ヲ歩イテヰル人モ、唯ノ一人モ妻ニ〔二字傍線〕似テ居ルモノガ通ラナイカラ、悲シサ戀シサニ〔七字傍線〕、爲方ガナクテ、妻ノ名前ヲ呼ンデ、私ノ着物ノ〔五字傍線〕袖ヲ振ツタヨ。
 
○天飛也《アマトブヤ》――枕詞、天を飛ぶ雁の意で、輕の地名に言ひかけたのである。○輕路者《カルノミチハ》――輕の街道。輕は高市白橿村の東部で、大字、大輕・和田・石川・五條野あたりを總稱したものらしい。輕の市といふ市場もあつたのである。○懃《ネモゴロニ》――今の懇にと同じで、丁寧・親切などの意である。○眞根久往者《マネクユカバ》――頻りに往かばの意。但し間無くの意ではない。○人應知見《ヒトシリヌベミ》――人が知るであらうから。ベミは、べき故にの意。○狹根葛《サネカヅラ》――枕詞。葛は(225)長く別れて延び這ふけれども、後にまた逢ふものであるからである。狹根葛《サネカヅラ》とあるも同じ。九四參照。○大船之《オホブネノ》――枕詞。一六七參照。○玉蜻《タマカギル》――枕詞。舊訓はカゲロフであつたが、考以來カギロヒとすることになつた。併しこれは鹿持雅澄の玉蜻考に委く論じたやうに、タマカギルとよむべきである。蜻はカギロフであるから、フを省き、ロをルに轉じて、カギルとよんだのであらう。この枕詞の用例は、この歌に磐垣淵につづいた外、珠蜻|髣髴谷裳《ホノカニダニモ》(二一〇)・玉蜻|夕去來者《ユフサリクレバ》(一八一六)・玉蜻|直人目耳《タダヒトメノミ》(二三二)といふやうなもので、その意は明瞭でないが、恐らく玉カギルは玉の輝くことで、玉の光の如く輝く意にて、夕の枕詞とし、玉の光の柔かなる意で髣髴《ホノカ》とつづけ、轉じて直一目のみ見るにも用ゐたのであらう。磐垣淵につづくのは、玉は淵にあるから、玉の輝く淵とつづけたといふ正辭の説に從つて置かう。四五の玉限の解參照。○磐垣淵之《イハガキフチノ》――谷川などの、磐で圍れた淵をいふ。この句は次の隱《コモリ》の譬喩である。○黄葉乃《モミヂバノ》――枕詞。黄葉は落ち散るのが早いから、過《スギ》ての上に冠らせたのである。○過伊去等《スギテイニキト》――考にイニシとよんだのはよくない。イユキと文法通りで差支ないところだ。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。宣長は、上代には梓の木に玉を著けたのを、使のしるしに持つてあるいたから、玉梓の使とつづくことになつたのだらうと言つてゐる。何となく受取難い説であるが、他に良説と思はれるものもないから、まづそれに從ふことにする。○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。弓の聲《オト》とつづく。○遣悶流情毛有八等《ナグサムルココロモアリヤト》――遣悶は吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡《ワガコフリチヘノヒトヘモナグサムルココロモアリヤト》(五〇九)とある通り、ナグサムルとよむべきである。ナグサモルの訓もあるがよくない。情毛有八等《ココロモアリヤト》を、アレヤと宣長はよんだが、アリヤがよいやうに思はれる。アレヨの意ではなく、アルカの意である。○玉手次《タマダスキ》――畝火乃山の枕詞。二九參照。玉手次畝火乃山爾喧鳥之《タマダスキウネビノヤマニナクトリノ》は、音母不所聞《コヱモキコエズ》の序である。輕の市は畝傍山の東南近くにあるが、鳥の聲が聞える所ではあるまい。これは眼前に見える畝傍山をとつて、聲といはむが爲に、喧鳥之を置いたまでである。○音母不所聞《コヱモキコエズ》――上に梓弓聲爾聞而《アヅサユミオトニキキテ》とあるやうに、聲と音とは通じて用ゐる字である。これをオトモキコヱズとよむのは惡い。○玉桙《タマボコノ》――枕詞。既出(七九)。
〔評〕 相語らつて久しからず、人目を忍んで稀の遭ふ瀬を樂んでゐた女が、突如として死んで了つたその驚愕、その報知に接して矢も楯もたまらず、妻の里なる輕の市の、雜閙の中に混つて、妻を偲ぶよすがもがなと思つ(226)たが、妻らしい聲も聞えず、似た女も通らない。仕方がなくて妻の名をよんで袖を振つた、その思慕の情と、涙にぬれて走り廻つた樣が目に見えるやうである。純情の人でなくては、かうした作は出來難い。妹之名喚而袖曾振鶴《イモガナヨビテソデゾフリツル》は感情の高潮がよくあらはれた句で、前の一三一の靡此山《ナビケコノヤマ》に似た手法である。
 
或本、有(リ)2謂(ル)之|名耳聞而有不得者《ナノミキキテアリエネバノ》句1
 
これは或本に聲耳乎聞而有不得者《オトノミヲキキテアリエネバ》の下に、名耳聞而有不得者《ナノミキキテアリエネバ》の句があるといふのである。略解に謂之の二宇は衍かといつてゐる。
 
短歌二首
 
208 秋山の 紅葉を茂み 迷ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも 一云、路知らずして
 
秋山之《アキヤマノ》 黄葉乎茂《モミヂヲシケミ》 迷流《マドヒヌル》 妹乎將求《イモヲモトメム》 山道不知母《ヤマヂシラズモ》【一云|路不知而《ミチシラズシテ》】
 
秋ノ山ノ、紅葉ガ澤山ニ茂ツテヰルノデ、紅葉見ニ行ツテ〔七字傍線〕、迷ヒ込ンヂ了ツテ、歸ツテ來ナイ私ノ〔九字傍線〕妻ヲ捜サウト思フケレドモ、山ノ道ガ不案内デ、行クコトガ出來ナイヨ〔デ行〜傍線〕。
 
○迷流《マドヒヌル》――舊訓マドヒヌルであるのを、考にマドハセル、※[手偏+君]解にマヨヒヌル、檜嬬手にサドハセルとしたのは、皆惡い。迷は如是迷有者《カクマドヘレバ》(一七三八)・思迷匍匐《オモヒマドハヒ》(一八〇四)など、皆マドフとよむ字であるから、舊訓のままがよい。山に葬られたのを、山路に迷つて歸らぬやうに言つたのである。卷七に秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而入西妹者待不來《アキヤマノモミヂアハレミウラブレテイリニシイモハマテドキマサズ》(一四〇九)とあるのは、同じやうな考である。
〔評〕 妻の死んだのを、秋山の黄葉を見に行つたまま歸らぬやうに言つたのは、死といふ語を嫌つて、過ぎるといつたり、隱れるといつたりした古代人としては、尤な言ひ方で、これによつて言葉が美的になり、しかも山道不知母《ヤマヂシラズモ》に悲しいこころは充分あらはされてゐる。
 
209 もみぢ葉の 落りぬるなべに 玉梓の 使を見れば 逢ひし日念ほゆ
 
(227)黄葉之《モミヂバノ》 落去奈倍爾《チリヌルナベニ》 玉梓之《タマヅサノ》 使乎見者《ツカヒヲミレバ》 相日所念《アヒシヒオモホユ》
 
紅葉ガ散ルノニツレテ、妻ノ家カラ妻ガ死ンダト云フ報知ノ〔妻ノ〜傍線〕、(玉梓之)使ガ來タノヲ見ルト、妻ト曾ツテ〔五字傍線〕逢ツタ日モ、斯樣ニ紅葉ガ散ツテヰタモノヲト過ギ去ツタソノ日〔モ斯〜傍線〕ノコトガ思ヒ出サレテ悲シイ〔三字傍線〕。
 
○相日所念《アヒシヒオモホユ》――考にアヘルヒオモホユとあるが、舊訓の如くアヒシヒとよむべきである。
〔評〕 長歌の中の句を再び用ゐたやうに見えるが、長歌では黄葉乃は唯枕詞であつたのに、これは晩秋の景を叙べて、過去を追憶し、故人を悲しむ情があらはされてゐる。情と景と融合し、いたましい律動をなしてゐる。
 
210 現身と 念ひし時に 一云、うつそみと思ひし たづさへて 吾が二人見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 念へりし 妹にはあれど 憑めりし 兒らにはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 然ゆる荒野に 白妙の 天領巾隱り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隱りにしかば 吾妹子が 形見に置ける みどり兒の 乞ひ泣く毎に 取り與ふ 物し無ければ 男じもの 腋ばさみ持ち 吾妹子と 二人吾が寢し 枕づく 嬬屋の内に 晝はも うらさび暮し 夜はも 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 戀ふれども 逢ふよしを無み 大鳥の 羽易の山に 吾が戀ふる 妹は坐すと 人の言へば 石根さくみて なづみ來し よけくもぞなき うつせみと 念ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば
 
打蝉等《ウツセミト》 念之時爾《オモヒシトキニ》【一云|宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》 取持而《タヅサヘテ》 吾二人見之《ワガフタリミシ》 ※[走+多]出之《ハシリデノ》 堤爾立有《ツツミニタテル》 槻木之《ツキノキノ》 己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》 春葉之《ハルノハノ》 茂之知久《シゲキガゴトク》 念有之《オモヘリシ》 妹者雖有《イモニハアレド》 憑有之《タノメリシ》 兒等爾者雖有《コラニハアレド》 世間乎《ヨノナカヲ》 背之不得者《ソムキシエネバ》 蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラノニ》 白妙之《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》 入日成《イリヒナス》 隱去之鹿齒《カクリニシカバ》 吾妹子之《ワギモコガ》 形見爾置《カタミニオケル》 若兒乃《ミドリコノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》 取與《トリアタフ》 物之無者《モノシナケレバ》 鳥穗自物《ヲトコジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》 吾妹子與《ワキモコト》 二人吾宿之《フタリワガネシ》 枕付《マクラツク》 嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》 晝羽裳《ヒルハモ》 浦不樂晩之《ウラサビクラシ》 夜者裳《ヨルハモ》 氣衝明之《イキヅキアカシ》 嘆友《ナゲケドモ》 世武爲便不知爾《セムスベシラニ》 戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》 大鳥《オホトリノ》 羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》 吾戀流《ワガコフル》 妹者伊座等《イモハイマスト》 人之云者《ヒトノイヘバ》 石根左(228)久見手《イハネサクミテ》 名積來之《ナヅミコシ》 吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》 打蝉跡《ウツセミト》 念之妹之《オモヒシイモガ》 珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》 不見思者《ミエヌオモヘバ》
 
私ノ妻ガ〔四字傍線〕生キテ居タ時ニ、手ヲ取リ合ツテ、私ガ妻ト〔三字傍点〕二人デ見タ、門ノ近所ノ堤ニ立ツテヰル槻ノ木ノ、アチラノ枝コチラノ枝ノ、春ノ葉ガ澤山ニ繁ツテヰルヤウニ、非常ニ可愛ト思ツテヰタ妻デハアルガ、憑ミニ思ツテ居ツタ女デハアルケレドモ、生者必滅ノ〔五字傍線〕世ノ中ノ道理カラ外レラレナイカラ、ハカナクモ死ンデ了ツテ〔ハカ〜傍線〕、陽炎ガ立ツ廣イ荒レハテタ野原ニ、葬列ノ〔三字傍線〕白イ旗ノ蔭ニカクレテ、(鳥自物)朝立ツテ出掛ケテ、(入日成)隱レテ了ツテ野邊ニ葬ラレ〔テ野〜傍線〕タカラ、吾ノ亡キ〔二字傍線〕妻ガ、形見トシテ殘シテ置イタ赤兒ガ、物ヲ欲シガツテ泣ク度ニ、何モ〔二字傍線〕取ツテ與ヘルモノガナイノデ、私ハ〔二字傍線〕男ダノニ女ノヤウニ〔五字傍線〕、子供ヲ腋ニ挾ンデ抱ヘテ、私ノ妻ト二人デ私ガ寢タ(枕付)閨ノ内ニ、晝ハサア終日〔二字傍線〕心淋シイ日ヲ暮シ、夜ハサア終夜〔二字傍線〕呻キ嘆イテ夜ヲ明シテ、嘆キ悲シムケレドモ、別ニ〔二字傍線〕何トモ仕樣ガナク、イクラ妻ヲ〔五字傍線〕戀ヒ慕ツテモ妻ト〔二字傍線〕逢フ方法ガナイノデ、(大鳥)羽易ノ山ニ、私ガ戀ヒ慕ツテヰル妻ハ居ルト、或ル人ガ言フノデ、ソノ羽易ノ山ニ〔七字傍線〕岩根ヲ蹈ミ裂イテ、ドシドシト石ヲ蹈ミツケテ〔ドシ〜傍線〕、難儀ヲシテ尋ネテ〔三字傍線〕來タケレドモ、生キテ居タアノ私ノ妻ガ(珠蜻)ボンヤリトデモ見エナイカラ、何ノヨイコトモナイヨ。
 
○打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》――打蝉は現し身、即ち生きてゐる身をいふ。念之時爾《オモヒシトキニ》の念之は輕く用ゐたので、現身なりし時の意である。○一云|宇都曾臣等《ウツソミト》――これもウツセミに同じ。○取持而《タヅサヘテ》――舊訓トリモチテとあるに從ふ説もあるが、さうよむならば、乎とおふ語がなくては、落つきが惡い。義を以て記したもので、タヅサヘテとよむべきであらう。○※[走+多]出之《ハシリデノ》――家から走り出た近い所にある意。雄略記に和斯里底能與盧斯企野磨能《ワシリデノヨロシキヤマノ》とあるによ(229)つて、これをワシリデとよまうとする説もある。○槻木之《ツキノキノ》――欅の一種で、葉の鋸齒深く、葉裏と葉柄とに毛がある。つきげやきともいふ。字鏡に※[木+觀]の木を用ゐてゐる。○己知碁智之枝之《コチゴチノエノ》――彼方此方《アチコチ》の枝のの意。卷三に奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己知其智乃國之三中從《ナマヨミノカヒノクニウチヨスルスルガノクニトコチゴチノクニノミナカユ》(三一九)とあるも同じだ。○兒等爾者雖有《コラニハアレド》――兒等は妻をさす。等は添へていつたもの。○世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》――世間の無常から免れられないからの意。○蜻火之《カギロヒノ》――このカギロヒは陽炎である。日光に照らされて、野原などに水蒸氣のちらつき見えるもの。蜻をカギロとよむのは蜻蛉をカゲロフといふを借りたのである。○白妙之《シロタヘノ》――白栲に同じ。白い布をいふ。これを領巾《ヒレ》の枕詞と見る説は當らない。○天領巾隱《アマヒレガクリ》――領巾は女の肩にかける細布であるが、天領巾といつて葬送の旗をさしたのである。葬送は天に隱れるものとして天領巾隱といつたのである。卷十に秋風吹漂蕩白雲者織女之天津領巾毳《アキカゼノフキタダヨハスシラクモハタナバタツメノアマツヒレカモ》(二〇四一)とあるによつて、白雲とする契沖・眞淵の説は、想像と實際の物との間に區別を立てないもので、甚しい誤解であり、古義に柩の周圍に立てる歩障だとあるが、これも隱りといふ語に囚はれてゐるやうである。守部が天蓋だといつたのも天領巾の天《アマ》に囚はれたもので、領巾といふ語からして、どうしても旗でなくてはならぬと思はれる。○鳥自物《トリジモノ》――鳥のごときもの、即ち鳥の如くの意であるが、これは朝立の枕詞とするがよい。○入日成《イリヒナス》――入日の如くの意。これも隱と言はむ爲の枕詞とするがよい。○若兒乃《ミドリコノ》――次の或本歌に、緑兒之とあるのと同じに見て、ミドリコノとよむべきであらう。緑兒之《ミドリコノ》(二九二五)・彌騰里兒能《ミドリコノ》(四一二二)などの例がある。但し齊明紀に于都倶之枳柯餓倭柯枳古弘《ウツクシキワガワカキコヲ》とあり、卷十七にも伊母毛勢母和可伎兒等毛波《イモモセモワカキコドモハ》(三九六二)とあるによれば、ワカキコノとよむもよいやうであるが、此處は、尚、ミドリコノとよみたいやうに思ふ。みどり兒は、みづみづしく、若々しい兒の意で、後世の赤兒といふに同じである。○乞泣毎《コヒナクゴトニ》――物を乞ひて泣く毎にの意。○取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》――取與ふ物とは食物をいふやうである。但し或本|取委《トリマカス》とあるによれば、玩弄物である。○鳥穗自物《ヲトコジモノ》――鳥穗を考に鳥徳の誤としたのはよい。次の或本に、男自物《ヲトコジモノ》とある。男なるにの意。○枕付《マクラツク》――枕詞。嬬屋につづくのは、夫婦枕を並べ付けて、寢るからである。○嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》――嬬屋は夫婦の閨である。端《ツマ》にあるから名づけたといふ説はとるに足らぬ。○浦不樂晩之《ウラサビクラシ》――ウラは心である。心淋しく暮しの意。(230)○大鳥《オホトリノ》――枕詞。羽易の山につづけたのは、翼《ハガヒ》にかけたのである。大鳥は大きな鳥の意で、鳥の名ではあるまい。○羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》――卷十に春日有羽易之山從《カスガナルハガヒノヤマユ》(一八二七)とあるから、春日山つづきの、どの山かに違ひない。これを今の若草山にあてる説が多いやうだ。但し春日では、次の短歌に衾路乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》とあると一致しない。猶研究を要する。○石根左久見手《イハネサクミテ》――石を踏み分けての意。サクムといふ動詞は、裂くにムを附して活かしめたものであらう。この語について種々の説があるが、多くは牽強である。○名積來之《ナヅミコシ》――なづむは惱むこと、苦しむこと。○吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》――良いこともない、即ち來た甲斐もないといふのである。この句をヨクモゾナキとも訓めぬこともないが、安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》(九〇四)の如き例もあるから、やはりヨケクモゾナキと七音によむべきであらう。寶永版一本、寸を有に作るは誤。○珠蜻《タマカギル》――枕詞。二〇七參照。○髣髴谷裳《ホノカニダニモ》――ホノカは、ほんのりと、幽かにの意。幽かにすらも少しも見えないのを嘆いたのである。
〔評〕 人麿の長歌の常用手段である、遠き開闢の昔から説き起したり、長々しい序を置いたりするものと違つて、これは短刀直入的に、妻に對する愛を歌つて、直ちにその死を述べ、形見の子を持ち惱むを悲しみ、切めて墓參に心を慰めむとしたが、その甲斐も無い憂苦煩悶の情が、強くあはれに詠ぜられて、同情の涙禁ずる能はざるものがある。二人の交情の濃かなるを、走出の堤の槻の枝の春の葉の茂きに譬へたのは、實に柔かい感じの佳い句であり、赤兒に泣かれてその子を脇に挾んで、閨の内をうろつく姿は、實に目に見えるやうである。結末の數句も誠に物哀れである。よく引緊つてたるみのない作で、全篇これ涙の聲と言つてもよい歌である。
 
短歌二首
 
211 去年見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる
 
去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》 雖照《テラセレド》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 彌年放《イヤトシサカル》
 
去年見タ、秋ノ月ハ今年モ同ジヤウニ〔八字傍線〕照ラシテヰルガ、私ガ親シクシテヰタ亡キ〔二字傍線〕妻ハ、イヨイヨ年ガ距ツテ別レテカラモウ一年ニナツ〔テ別〜傍線〕タヨ。嗚呼アノ月ノヤウニ又見ラレルモノダトヨイニ〔嗚呼〜傍線〕。
(231)〔評〕 亡妻の死後翌年の秋によんだ歌である。去年のままの秋の月を眺めて、愁傷更に新なるものがあり、滂沱たる悲涙に咽んでよんだこの歌が、悲しい調べをなしてゐるのは當然であらう。人の涙をさそふ哀調。
 
212 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし
 
衾道乎《フスマヂヲ》 引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》 妹乎置而《イモヲオキテ》 山徑往者《ヤマヂヲユケバ》 生跡毛無《イケリトモナシ》
 
衾路ニアル、引手ノ山ト云フ山〔四字傍線〕ニ、私ノ妻ヲ葬ツテ〔三字傍線〕置イテ、ソノ山路ヲ辿ツテ行クト、私モ悲シサニ〔六字傍線〕生キテヰルヤウデモナイ。丸デ心ガ死ンダヤウダ〔丸デ〜傍線〕。
 
○衾道乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》――衾路にある引手の山にの意。衾道乎を枕詞とする説は從ひ難い。大和山邊郡に衾田といふ地があつて、延喜式にも衾田墓が見えてゐるから、そのあたりに違ひない。引手の山も名所圖繪に「中山の東に龍王山高く聳ゆ。即ち引手山なり。衾道は此の邊に在り。」と見え、地名辭書に、「按ずるに引手山即ち釜口山の一峯ならん、南は纏向弓月岳に連る」と云つてゐる。春日の羽易山とは遠く距つてゐるが、或はこの山をも羽易山といつたのであらう。尚考ふべきである。○山徑往者《ヤマヂヲユケバ》――引手の山の山路を辿つて行けばの意であるが、これを葬送の歸路として、歸り行けばの意とし、從來の諸説が一致してゐる。併しこの長歌も葬送の際のではなく、去年見而之《コゾミテシ》の短歌も同樣であるから、これも墓參の際の作と見ねばならぬ。○生跡毛無《イケリトモナシ》――イケルトモナシとよむ説もあるが、イケリトモナシがよい。生きてゐるとも無いの意。生ける利心《トゴコロ》もなしとする宣長の説は、飛んでもない間違である。但しイケルトモナシといふ例は夷爾之乎禮婆伊家流等毛奈之《ヒナニシヲレバイケルトモナシ》(四一七〇)に唯一つあるが、これは特例で、その意はイケリトモナシに同じである。
〔評〕 長歌の結尾の句と同意で、墓所を尋ねた時の作である。結句は痛恨の響である。
 
或本歌曰
 
213 うつそ身と 念ひし時 手携へ 吾が二人見し 出で立ちの 百枝槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂きがごと 念へりし 妹にはあれど 恃めりし 妹にはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隱り 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隱りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 緑子の 乞ひ哭く毎に 取り委す 物しなければ 男じもの 腋挿み持ち 吾妹子と 二人吾が宿し 枕つく 嬬屋の内に 晝は うらさび暮し 夜は 息衝き明し 嘆けども せむ術しらに 戀ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易の山に 汝が戀ふる 妹はいますと 人の言へば 石根さくみて なづみ來し 好けくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば
 
宇都曾臣等《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキ》 携手《テタヅサヘ》 吾二見之《ワガフタリミシ》 出立《イデタチノ》 百兄槻木《モモエツキノキ》 虚知期知(232)爾《コチゴチニ》 枝刺有如《エダセルゴト》 春葉《ハルノハノ》 茂如《シゲキガゴト》 念有之《オモヘリシ》 妹庭雖在《イモニハアレド》 恃有之《タノメリシ》 妹庭雖有《イモニハアレド》 世中《ヨノナカヲ》 背不得者《ソムキシエネバ》 香切火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラノニ》 白栲《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊行而《アサタチイユキテ》 入日成《イリヒナス》 隱西加婆《カクリニシカバ》 吾妹子之《ワキモコガ》 形見爾置有《カタミニオケル》 緑兒之《ミドリコノ》 乞哭別《コヒナクゴトニ》 取委《トリマカス》 物之無者《モノシナケレバ》 男自物《ヲトコジモノ》 脇挿持《ワキバサミモチ》 吾妹子與《ワキモコト》 二吾宿之《フタリワガネシ》 枕附《マクラヅク》 嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》 且者《ヒルハ》 浦不怜晩之《ウラサビクラシ》 夜者《ヨルハ》 息衝明之《イキヅキアカシ》 雖嘆《ナゲケドモ》 爲便不知《セムスベシラニ》 雖戀《コフレドモ》 相緑無《アフヨシヲナミ》 大鳥《オホトリノ》 羽易山爾《ハガヒノヤマニ》 汝戀《ナガコフル》 妹座等《イモハイマスト》 人云者《ヒトノイヘバ》 石根割見而《イハネサクミテ》 奈積來之《ナヅミコシ》 好雲叙無《ヨケクモゾナキ》 宇都曾臣《ウツソミト》 念之妹我《オモヒシイモガ》 灰而座者《ハヒニテマセバ》
 
この或本は原歌とあまり違ってゐない。今異つた所だけを少し説明すると、○取委物之無者《トリマカスモノシナケレバ》――兒の手に持たしめ、玩ばしめるものがないといふのである。○灰而座者《ハヒニテマセバ》――火葬せられて、灰になつたことをいつたもの。
 
火葬して灰を蒔き散したことは、卷七に蜻野※[口+刀]人之懸者朝蒔君之所思而嗟齒不病《アキツヌヲヒトノカクレバアサマキシキミガオモホエテナゲキハヤマズ》(一四〇五)・玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染《タマヅサノイモハタマカモアシビキノキヨキヤマベニマケバチリヌル》(一四一五)の類、皆それで、火葬は文武天皇四年三月に、道昭を火葬したのが始めと續紀に見えてゐるが、それ以前にあつたらしい形跡も見える。考にこの句の灰は仄の誤で、珠蜻仄谷毛見所不座者《カギロヒノホノカニダニモミエテマサネバ》とあつたらうと言つてゐるのは、臆斷に過ぎる。
 
短歌三首
 
214 去年見てし 秋の月夜は 渡れども 相見し妹は いや年さかる
 
去年見而之《コゾミテシ》 秋月夜《アキノツクヨハ》 雖度《ワタレドモ》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 益年離《イヤトシサカル》
 
○雖度《ワタレドモ》――空を通るけれどの意。
 
215 衾路を 引出の山に 妹を置きて 山路念ふに 生けりともなし
 
(233)衾路《フスマヂヲ》 引出山《ヒキデノヤマニ》 妹置《イモヲオキテ》 山路念邇《ヤマヂオモフニ》 生刀毛無《イケリトモナシ》
 
○山路念邇《ヤマヂオモフニ》――山道を物思ひつつ行くにの意であらう、少しく曖昧な句である。
 
216 家に來て 吾が屋を見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕
 
家來而《イヘニキテ》 吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》 玉床之《タマドコノ》 外向來《ホカニムキケリ》 妹木枕《イモガコマクラ》
 
羽易ノ山カラ〔六字傍線〕家ニ歸ツテ來テ閨ノ内ヲ見ルト、妻ガシテ寢タ木枕ハ、床カラ横ノ方ニヤラレテアルワイ。アアコノ荒レタ閨、サテ、マア、何トシタモノダラウ〔アア〜傍線〕。
 
○吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》――吾を妻の誤かと考には疑つてゐて、古義・新考にこれを採つてゐる。成るほど少しく穩かでないが、元の儘でわからぬことはない。○玉床之《タマトコノ》――玉は美稱で、閨中の床といふ。靈床と見た考の説は當らない。枕を大切にして死後も床の上に並べ置くのである。卷十に明日從者吾玉床乎打拂《アスヨリハワガタマドコヲウチハラヒ》(二〇五〇)とあるも同じ。○妹木枕《イモガコマクラ》――木枕は木を以て造つた枕である。
〔評〕 墓所から歸つて、閨中を見て、妻の大切な形見の枕が、取り亂されてゐるを見て嘆いたもので、悲痛な佳作である。この歌が原本にないのは脱ちたのであらう。
 
吉備津采女死(セル)時、柿本朝臣人麿作(レル)歌一首並短歌
 
反歌によれば吉備津采女は志賀津采女の誤なること明かである。時の字目録に後とある。
 
217 秋山の したぶる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 念ひ居れか 栲繩の 長き命を 露こそは 朝に置きて 夕べは 消ゆと言へ 霧こそは 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓 音聞く吾も ほの見し 事悔しきを 敷妙の 手枕纏きて 劔太刀 身に副へ寢けむ 若草の そのつまの子は さぶしみか 念ひて寢らむ 悔しみか 念ひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露の如 夕霧の如
 
秋山《アキヤマノ》 下部留妹《シタブルイモ》 奈用竹乃《ナヨタケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》 何方爾《イカサマニ》 念居可《オモヒヲレカ》 栲紲之《タクナハノ》 長命乎《ナガキイノチヲ》 露己曾婆《ツユコソハ》 朝爾置而《アシタニオキテ》 夕者《ユフベハ》 消等言《キユトイヘ》 霧已曾婆《キリコソハ》 夕立(234)而《ユフベニタチテ》 明者《アシタハ》 失等言《ウストイヘ》 梓弓《アヅサユミ》 音聞吾母《オトキクワレモ》 髣髴見之《ホノミシ》 事悔敷乎《コトクヤシキヲ》 布栲乃《シキタヘノ》 手枕纏而《タマクラマキテ》 劔刀《ツルギタチ》 身二副寢價牟《ミニソヘネケム》 若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》 不怜彌可《サブシミカ》 念而寢良武《オモヒテヌラム》 悔彌可《クヤシミカ》 念戀良武《オモヒコフラム》 時不在《トキナラズ》 過去子等我《スギニシコラガ》 朝露乃如也《アサツユノゴト》 夕霧乃如也《ユフギリノゴト》
 
(秋山)美シイ紅イ顔ヲシテヰル女、(奈用竹乃)シナヤカナ女アノ志賀津采女〔七字傍線〕ハ何ト思ツテ居ルカラカ、(栲紲之)長イ人間ノ壽命ダノニ、早クモ死ンデ終ツタ〔九字傍線〕。一體〔早ク〜傍線〕露コソ朝降リテモ、夕方ニハ消エテ終フト言ハレテヰル。又〔傍線〕霧コソハ夕方立ツテモ、夜明ケニハ消エテ無クナルモノダト言ハレテ居ルガ、露デモ霧デモナク、壽命ノ長イ人間ダノニ、早死スルトハ何ト云フコトダラウ。コノ事ヲ今〔露デ〜傍線〕、(梓弓)話ニ聞ク私モ、曾テ〔二字傍線〕一寸アノ女ヲ瞥見シタコトガアツタノデ、ソノ面影ガ思ヒ出サレテ、コノ女ノ死ンダノガ〔アツ〜傍線〕殘念デアルノニ、コノ女ノ〔四字傍線〕(布栲乃)手枕ヲシテ、(劔刀)體ニ添ヘテ女ト一緒ニ寢タ(若草)ソノ夫ハ、淋シク女ノコトヲ〔五字傍線〕思ツテ寢ルデアラウ。悔シク思ツテ戀シガツテヰルデアラウ。死ヌべキ時デモナク、若クテ〔三字傍線〕死ンダコノ女ノ壽命〔三字傍線〕ハ、朝露ノヤウニ又ハ〔二字傍線〕夕霧ノヤウニ、儚イ脆イモノデアツタ〔儚イ〜傍線〕。
 
○秋山下部留妹《アキヤマノシダブルイモ》――秋山《アキヤマノ》は下部留《シタブル》の枕詞。下部留《シタブル》は木の葉の紅葉すること。古事記に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》とあるシタヒも同意で、上二段に活く動詞である。舊訓にシタベルとよんだのは誤ってゐる。○奈用竹乃《ナヨケケノ》――枕詞。なよなよとした竹で、騰遠依《トヲヨル》につづく。○騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》――騰遠《トヲ》は卷八に秋芽子乃枝毛十尾二《アキハギノエダモトヲヲニ》(一九九五)、卷十|白杜材枝母等乎乎爾《シラカシノエダモトヲヲニ》(二三一五)の如く、撓むをいふ。依《ヨル》は寄り添ふ意。女のやさしい姿を言つたのである。○念居(235)可《オモヒヲレカ》――思ひ居ればかの意。○栲紲之《タクナハノ》――枕詞。長きとつづく。考に、タクヅヌノとよんだのは惡い。紲は玉篇に凡繋2縲牛馬1皆曰v紲とあつて繩のことである。タクヅヌノは白の枕詞で、タクナハノは長の枕詞である。ここは栲繩之永命乎《タクナハノナガキイノチヲ》(七〇四)とあると同じ。栲繩は栲の木の皮でよつた繩。○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。音とつづく。○音聞吾母《オトキクワレモ》――采女の死を話に聞いた我もの意。○髣髴見之《ホノミシ》――反歌に於保爾見敷者《オホニミシカバ》とあるによつて、オホニミシとよむ説もあるが、集中の髣髴はすべてホノ、ホノカで訓めるやうであるから、此處もホノとよむことにする。○布栲乃《シキタヘノ》――枕詞。枕とつづく。七二參照。○劔刀《ツルグダチ》――枕詞。身二副《ミニソヘ》につづく。○若草《ワカクサ》――枕詞。嬬《ツマ》とつづく。一五三參照。○其嬬子者《ソノツマノコハ》――嬬は借字で采女の夫をさしたのである。子は親しんて添へたもの。○不怜彌可《サブシミカ》――サブシミのミは、故にの意とは違つて、唯、サブシクと同じやうである。○悔彌可念戀良武《クヤシミカオモヒコフラム》――この二句は舊本にはないけれども、類聚古集・神田本、その他數種の古本に見えてゐるから、後に脱ちたのであらう。○時不在過去子等我《トキナラズスギニシコラガ》――死ぬべき年齡でなくて早く死んだ女がの意。古義に我を香の誤かといつて、カナの意としてゐるのは獨斷に過ぎる。○朝露乃如也夕霧乃如也《アサツユノゴトユフツユノゴト》――也の字は添へただけで、よむのではない。也の字は戀許増益也《コヒコソマサレ》(二二六九)・黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》(一五三六)・君乎社待也《キミヲコソマテ》(二三四九)の如く、漢文流に、終に添へてある場合が澤山ある。
〔評〕 當時美人の聞え高かつた、志賀津采女の死を惜しんだ歌である。美人の形容と、その死を惜しむ情がよく出てゐる。露と霧とを用ゐて、無常をあらはしてゐるのも、何でもないことだが巧みに取扱はれてゐる。
 
短歌二首
 
218 樂浪の 志賀津の子らが 一云、志我津の子が まかりぢの 川瀬の道を 見ればさぶしも
 
樂浪之《サザナミノ》 志我津子等何《シガツノコラガ》【一云|志我津之子我《シガツノコガ》 罷道之《マカリヂノ》 川瀬道《カハセノミチヲ》 見者不怜毛《ミレバサブシモ》
 
樂浪ノ志賀津ノ女ガ死ンデ、葬ラレテ〔七字傍線〕行ツタ時通ツタ、川ノ淺瀬ノ道ヲ見テモ、女ノコトガ思ヒ出サレテ〔女ノ〜傍線〕悲シイヨ。
 
(236)○樂浪之志我津子等何《ササナミノシガツノコラガ》――ささ浪の志賀津の采女がの意。近江のささ浪の滋賀の大津から出てゐた采女である。○罷道之《マカリヂノ》――死んで葬られた時通つた道をいふ。宣長が道を邇の誤として、マカリニシとしたのは、從ふべきでない。拾遺集に、「さざ波やしがのてこらがまかりにし川せの道を見れば悲しも」として出てゐるが、拾遺集の訓は全く參考にはならない。○川瀬道《カハセノミチヲ》――川瀬を横ぎり行く道で、葬送の通路をいつたもの。新訓にカハセノミチハとよんであるのもよいやうであるが、久漏牛方乎見佐府下《クロウシガタタミレバサブシモ》(一七九八)・水分山乎見者悲毛《ミクマリヤマヲミレバカナシモ》(一一三〇)とあるから、カハセノミチヲがよい。
〔評〕 罷道之川瀬道《マカリヂノカハセノミチヲ》の道の重複が、後の人には目障りであつたかも知れないが、そこが古風なところである。
 
219 天數ふ 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき
 
天數《ソラカゾフ》 凡津子之《オホツノコガ》 相日《アヒシヒニ》 於保爾見敷者《オホニミシカバ》 今叙悔《イマゾクヤシキ》
 
私ハ〔二字傍線〕(天數)大津ノ女ト逢ツタ時ニ、オロソカニ見テ、良ク見ナカツ〔七字傍線〕タカラ今ニナツテ悔シイヨ。アンナニ若死スルナラバ、アノ美人ヲヨク見テ置ク所ダツタノニ〔アン〜傍線〕。
 
○天數《ソラカゾフ》――枕詞。そらはそら覺え、そら讀みなどのそらで、そら數ふは、空におほよそに數へる義で、おほにかかるのだといふが、まだ明瞭でない。或は天の星の數を數へて、多い意かも知れない。それならば舊訓のアマカゾフでもよいわけである。檜嬬手に「按ずるに佛説の天數にて、兜率の三十三を思へるなるべし。さらば三三並ぶ意にて三三並《ササナミ》とよまする義訓とすべし」とあるは面白い考であるが、この戯書はあまり物遠く佛臭く、どうもさうとは思はれない。又この卷には、かうした戯書的のものは見えないことも考へなくてはならぬ。古義に左右數か樂數の誤でサザナミであらうとあるのも、從ひ難い。○凡津子之《オホツノコガ》――志我津子等我《シガツノコラガ》とあるも同樣で、凡津は即ち大津である。この句或は子の下に、等《ラ》の字が脱ちたのかも知れない。○於保爾見敷者《オホニミシカバ》――於保《オホ》はオホヨソのオホで、一通りに、おろそかに見たからの意。
〔評〕 前の歌に志我津子等我《シガツノコラガ》とあるのを、これには凡津子之《オホツノコガ》としたのは、於保爾見敷者《オホニミシカバ》と言はんが爲で、オホの音を繰返して訓を整へたものである。
 
(237)讃岐|狹岑《サミネノ》島(ニ)視(テ)2石中(ノ)死人(ヲ)1柿本朝臣人麿作(レル)歌一首並短歌
 
狹岑《サミネ》島は今、沙彌《サミ》島といふ。讃岐仲多度郡、宇多津の海岸から二海里にあり、長十町横三町ばかりの孤島であるが、人家が多い。狹岑をサミとよむ説もある。反歌には佐美乃山とあるが、岑の字は岑朝霧《ミネノアサギリ》(二四五五)・岑行宍《ミネユクシシ》(二四九三)などの如くミネとのみよんであり、又ミネといふべきに、ミを省くのは常であるが、ネを省くことはありさうに思はれない。サミといふ島名にネを添へて言つたもので、ネは山の意で、サミネはサミ山の意かも知れない。さう見れば、反歌に佐美乃山とあるのと一致する。石中死人は磯の岩の間に死して横はつてゐた屍をいつたのである。
 
220 玉藻よし 讃岐の國は 國からか 見れども飽かぬ 神からか ここだたふとき あめつち 日月とともに 足りゆかむ 神の御面と 繼ぎ來る 中の水門ゆ 船浮けて 吾が榜ぎ來れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち 邊見れば 白浪とよむ 鯨魚取り 海をかしこみ 行く船の かぢ引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯もに 庵りて見れば 浪の音の 繁き濱邊を 敷妙の 枕になして 荒床に より臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 來も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか戀ふらむ はしき妻らは
 
玉藻吉《タマモヨシ》 讃岐國者《サヌキノクニハ》 國柄加《クニカラカ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》 天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》 滿將行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》 次來《ツギキタル》 中乃水門從《ナカノミナトユ》 船浮而《フネウケテ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》 時風《トキツカゼ》 雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》 奧見者《オキミレバ》 跡位浪立《シキナミタチ》 邊見者《ヘミレバ》 白浪散動《シラナミトヨム》 鯨魚取《イサナトリ》 海乎恐《ウミヲカシコミ》 行船乃《ユクフネノ》 梶引折而《カヂヒキオリテ》 彼此之《ヲチコチノ》 島者雖多《シマハオホケド》 名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》 荒礒面爾《アリソモニ》 廬作而見者《イホリテミレバ》 浪音乃《ナミノトノ》 茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》 敷妙乃《シキタヘノ》 枕爾爲而《マクラニナシテ》 荒床《アラドコニ》 自伏君之《ヨリフスキミガ》 家知者《イヘシラバ》 往而毛將告《ユキテモツゲム》 妻知者《ツマシラバ》 來毛問益乎《キモトハマシヲ》 玉桙之《タマボコノ》 道太爾不知《ミチダニシラズ》 欝悒久《オホホシク》 待加戀良武《マチカコフラム》 愛伎妻等者《ハシキツマラハ》
 
(玉藻吉)讃岐ノ國ハ、國ガ良イ〔三字傍線〕故カ、イクラ見テモ飽クコトハナイ。又〔傍線〕神樣ノ故カ、大層貴イ國デアル。天地日月ト共ニ、滿チ榮エテ行ク神樣ノ御顔ト思ツテヰルガ〔六字傍線〕、私ハコノ國ノ〔四字傍線〕(次來)那珂ノ湊カラ、船ヲ浮ベテ私(238)ガ漕ギ出シテ來ルト、潮ノ滿チルニツレテ、吹イテ來ル風ガ空ニ吹クノデ、沖ヲ見ルト、繁ク浪ガ立チ、岸ヲ見ルト白浪ガ騒イデヰル。コンナ荒レ模樣ナノデ〔コン〜傍線〕(鯨魚取)海ノ荒レルノガ〔五字傍線〕恐ロシサニ、乘ツテヰル船ノ櫓モ折レル程ニ、力一杯〔三字傍線〕漕イデ、彼方此方ニ島ハ澤山アルケレドモ、ソノ中ノ有名ナ狹岑ノ島ノ荒磯岸ニ、船ヲ着ケテ上リ〔七字傍線〕、庵ヲ作ツテ宿ツテ、其邊ヲ〔三字傍線〕見ルト、打チ寄セテ來ル〔七字傍線〕浪ノ音ガ間斷ナクシテヰル濱邊ヲ、(敷妙乃)枕ニシテ、コンナ石ノ上ノ〔七字傍線〕ヒドイ寝床ニ横ハツテ、死ンデ〔三字傍線〕ヰル人ガアルガ、コノ人〔七字傍線〕ノ家ヲ私ガ〔二字傍線〕知ツテヰルナラバ、往ツテ斯樣々々ト〔五字傍線〕告ゲテヤラウノニ、又コノ人ノ〔五字傍線〕妻ガコレヲ知ルナラバ、訪ネテ來サウナモノダノニ、可愛イ妻等ハ尋ネテ行ク(玉桙之)道サヘモ知ラナイデ、氣ニカカリナガラコノ人〔三字傍線〕ヲ戀ヒ慕ツテ待ツテヰルダラウヨ。
 
○玉藻吉《タマモヨシ》――枕詞。玉藻の多く生えてゐる、讃岐の國といふ意で、ヨシは、蒼丹よし、眞菅よし、朝毛よしの類で、添へて言ふ感嘆の助詞である。○國柄加《クニカラカ》――柄は清音か濁音かの論が分れてゐる。濁音説は眞淵のやうに、隨《ナガラ》の略と見るものか、又は人がら、身がら、日がら、事がらなどの、ガラと同じと見たものである。柄の字の用法を檢すると、咲之柄爾《ヱマシシカラニ》(六二四)・宇能花邊柄《ウノヘナベカラ》(一九四五)・自身之柄《オノガミノカラ》(二七九九)の如くカラが多いが、稀に夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》(三二七〇)の如く、濁音に用ゐられてゐるのもある。して見ると、この文字を以てしては、クニカラとも、クニガラとも決し難い。併し卷三に、芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師《ヨシヌノミヤハヤマカラシタフトカラシミヅカラシサヤケクアラシ》(三一五)とあるのは、清音と見るべきであらうから、先づクニカ(239)ラと清音によむべきである。扨カラは故の義で、本來は名詞なので、國柄・神柄は、國故・神故といふ名詞である。カラニとなれば、副詞として、用ゐられたものである。神隨《カムナガラ》のナガラも、自身之柄《オノガミノカラ》(三七九九)・比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》(四〇六九)などの例から見ると、ノカラと同じものである。後世の、人がら・身がら・日がら・事がらの如きも、本來これと同じもので、濁音となるのは慣用に過ぎないのであらう。折からなどは濁音ではないが、全く同じものである。要するに國柄加《クニカラカ》は國故かの意である。○神柄加《カムカラカ》――神故かの意。前の國柄加《クニカラカ》と同樣で、古代人は國土は即ち神なりとの考を持つてゐた。古事記に「次に伊豫の二名の島を生む。この島は身一つして面四つあり。面毎に名あり。かれ伊豫の國を愛比賣《エヒメ》といひ、讃岐の國を飯依比古《イヒヨリヒコ》といふ」とある通りである。○幾許貴寸《ココダタフトキ》――ココダはココラと同じく澤山の意。〇滿將行神乃御面跡《タリユカムカミノミオモト》――滿の字は望月乃滿波之計武跡《モチツキノタタハシケムト》(一六七)・望月之滿有面輪二《モチツキノタレルオモワニ》(一八〇七)に從つて、タリとよむべきで、神乃御面は、右に引いた古事記の文に「面四つあり」とある面である。古事記に淤母陀琉神《オモダルノカミ》、書紀に面足尊《オモタルノミコト》とあるも、この意を以て名づけた神名である。この句の次に、「と思ひて」といふやうな意が含まれてゐる。此處を誤解した説が多い。○次來《ツギキタル》――枕詞。中は始の次に來るからである。舊訓ツギテクルとあるが、テに當る文字がないから、生來《アレキタル》(三七九)の例に傚つて、ツギキタルとよむことにする。云の字を補つて、イヒツゲルとよんだ古義、仰來の誤としてアフギクルとした新考の説は論外である。○中乃水門從《ナカノミナトユ》――中乃水門は、今の仲多度都下金倉で、中津とよんでゐる。古は那珂郡に屬してゐた。この地は丸龜の西にあるから、沙彌島の西南で、即ちこれは、瀬戸内海を西から東へ航行の際の作である。○時風《トキツカゼ》――潮の滿ち來ると共に吹く風。○跡位浪立《シキナミタチ》――考に「跡位は敷生《シキヰル》てふ意の字なるを借りて書けり云々」とあるが、どうも解し兼ぬる用字である。保孝の書入には「跡(スル)v位(ニ)といふ意なり。位は人の立つ處にて、そこに跡を付くるといふ、これしきます意なり」とあるがこれも同じやうな説である。卷十三に跡座浪之立塞道麻《シキナミノタチサフミチヲ》(三三三五)とあるも同樣の用字法で、同じ訓を附すべき字である。新訓にこの二つを共に、トヰナミとよんだのは、最も合理的の訓法で、跡はトとよんだ例多く、位も座もヰとよんである。併しトヰナミといふ語は全く所見がない。用法から見れば、烈しき浪、高い浪などの意らしく、或はトヨム浪とか、サヰ浪とかいふやうな語の轉かとも想像せられるが、さういふ語があつたらしい證がないから、致し方がない。假に眞淵に從つてシキナミとよん(240)で、頻りに立つ浪と解して置く。○邊見者《ヘミレバ》――ヘタミレバとよむのは良くない。奧に對しては、へといふが常である。○白浪散勤《シラナミトヨム》――散動は、サワグとも訓みたいやうにも思はれるけれども、動の字は、宮動々爾《ミヤモトドロニ》(九四九)・山裳動響爾《ヤマモトドロニ》(一〇五〇)・動神之《ナルカミノ》(一〇九二)・雷神小動《ナルカミノスコシトヨミテ》(二三一三)など用ゐてある例から推すと、散動もトヨムであるらしい。舊訓トヨミと中止形になつてゐるのも良くない。トヨムは鳴り響くこと。ドヨムと濁つては惡い。○鯨魚取《イサナトリ》――枕詞。海につづく。一三一參照。○梶引折而《カヂヒキヲリテ》――梶は楫の借字。舟を漕ぐ艪櫂の類をいふ。引折而《ヒキヲリテ》は引き曲げての意で、漕ぐ力で艪がしわり曲るをいふ。○名細之《ナグハシ》――名の良い意で、有名なること。これを枕詞とするは當らない。○荒磯面爾《アリソモニ》――荒磯の岸に、面を回の誤とする代匠記説も尤であるが、尚、この儘として置きたい。○廬作而見者《イホリテミレバ》――イホリといふ名詞を動詞として、イホリテとしてあるやうだ。イホリシテミレバ、イホリツクリテミレバの訓もあるが、恐らくさうではあるまい。○荒床《アラドコニ》――あらあらしき寢床の意。海岸を指したのである。○自伏君之《ヨリフスキミガ》――舊訓コロブスで、ころび臥す意としてゐるが、自の字コロとよんだ例は他に無く、又さう訓むべき理由もない。この字は自明門《アカシノトヨリ》(二五五)・神世自《カミヨヨリ》(一〇六九)などの如く、ヨリとよんであるから、これを借字としてヨリフスと、よましめたのであらう。寄り臥す意である。○玉桙之《タマボコノ》――枕詞。道と續く。七九參照。○愛伎妻等者《ハシキツマラハ》――愛伎《ハシキ》は文字の如く愛する意。
〔評〕 先づ讃岐の國を讃めて、例によつて、古傳説により、神の御面といふやうな言葉を連ねて、神々しい太古を偲ばしめ、さて、その國の那珂の湊を舟出して、海上に浮んだ時、意外の難航に沙彌島に上陸して庵を結んで宿らんとして、磯邊に漂着してゐる死屍を見た有樣が、突如として歌ひ出され、讀者も亦大きな衝動を受ける。ここで作者は、この家も妻も分らない死骸に、滿腔の同情を注ぎ、併せて家なる妻に、告ぐる方法のないことを悲しんでゐる。荒床自伏君之《アラドコニヨリフスキミガ》の句は、死樣のいたいたしさと、死人に對する敬意とがあらはれ、家知者《イヘシラバ》以下の數句は、眞に同情の歌聲である。人麿は實に愛の詩人であり、純情の人である。
 
反歌
 
221 妻もあらば 採みてたげまし 佐美の山 野の上の宇波疑 過ぎにけらずや
 
(241)妻毛有者《ツマモアラバ》 採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》 佐美乃山《サミノヤマ》 野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》 過去計良受也《スギニケラズヤ》
 
コノ近所ニ〔五字傍線〕妻ガ居ルナラバ、コノ沙彌山ノ嫁菜ヲ〔九字傍線〕採ツテ食ベルデアラウニ、コンナニ〔四字傍線〕沙彌ノ山ノ野ノアタリノ嫁菜ハ、既ニ摘ミトルベキ時期ガ〔既ニ〜傍線〕過ギテ終ツタデハナイカ。斯樣ニ嫁菜ガ延ビ過ギル迄、摘ミニ來ナイノデ見ルト、コノ邊ニ妻ハ居ナイモノト見エル〔斯樣〜傍線〕。
 
○採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》――採の字、舊訓トリテとあるが、集中ツミとよんだ場合が多く、又卷十の春日野爾煙律所見※[女+感]嬬等四春野菟芽子採而※[者/火]良思文《カスガヌニケブリタツミユヲトメラシハルヌノウハギツミテニラシモ》(一八七九)も、ツミテとよんであるから、これもツミテがよい。多宜麻之《タゲマシ》は食はむの意。多宜《タゲ》は食ふといふ意の古語、タグの將然形。タグは雄略紀に共食者《アヒタゲヒト》とあり、皇極紀に渠梅多※[人偏+爾]母多礙底騰〓羅栖歌麻之々能烏膩《コメダニモタゲテトホラセカマシシノヲヂ》とある。この語を髪を上げる意として、死屍を取り揚げることにしたのは、無理な説である。それでは宇波疑が不要になつてしまふ。又髪上げする意のタクは清音で、これは濁音である。○野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》――野上《ヌノヘ》は野邊といふと同じである。宇波疑は今の嫁菜で、古名オハギとも言つた。○過去計良受也《スギニケラズヤ》――採みて食ふべき時を過ぎたるにあらずやの意。
〔評〕 歌意が少し不明瞭である。右のやうに解いても、又死骸を宇波疑に譬へた説によつても、いづれにしても落ち着かない感がある。佳作とはいはれまい。
 
222 奧つ浪 來よる荒磯を 敷妙の 枕と纏きて なせる君かも
 
奧波《オキツナミ》 來依荒礒乎《キヨルアリソヲ》 色妙乃《シキタヘノ》 枕等卷而《マクラトマキテ》 奈世流君香聞《ナセルキミカモ》
 
沖ノ波ガ打チ寄セテ來ル荒磯ヲ、(色妙乃)枕トシテ寢テヰル貴方ヨ。コンナ所ニ人ニ知ラレナイデ、死ンデ横ハルトハ氣ノ毒ナコトダ〔コン〜三字傍線〕。
 
○奈世流君香聞《ナセルキミカモ》――奈世流《ナセル》は寢たるの意。古事記に伊波那佐牟遠《イハナサムヲ》とあるナサムも、夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》(八〇二)のナサヌも、皆|寢《ネ》ずの轉じたもので、この語はナ、ヌ、ネと活くのである。
(242)〔評〕 前の歌は妻を主としてよんだもので、これは死人を主としてゐる。同情の籠つた醇厚な歌である。君といふ語が鄭重に響いてゐる。
 
柿本朝臣人麿在(リテ)2石見國(ニ)1臨(ミシ)v死(ニ)時自(ラ)傷(ミテ)作(レル)歌一首
 
223 鴨山の 磐根し纏ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
 
鴨山之《カモヤマノ》 磐根之卷有《イハネシマケル》 吾乎鴨《ワレヲカモ》 不知等妹之《シラニトイモガ》 待乍將有《マチツツアラム》
 
コノ石見ノ國デ死ンデ葬ラレテ〔コノ〜三字傍線〕、鴨山ノ岩ヲ枕トシテ横タハツテヰル私ヲ、コンナコトトモ知ラナイデ〔コン〜傍線〕、妻ハ待ツテ居ルヂアラウカヨ。可愛サウニ〔五字傍線〕。
 
○鴨山之《カモヤマノ》――歌の趣から推せば、鴨山は墓所と思はれる。死に臨んでその山に葬られることを豫想したのである。鴨山の所在不明、地名辭書には、神村《カムラ》の山を指したのだらうといつてゐる。神村《カムラ》は今の二宮村のうちで、都野津の東南にある。その他諸説あれど、假にこれに從ふことにする。一三一の地圖參照。○磐根之卷有《イハネシマケル》――岩根を枕とした意で、死して葬られたことを言つたのである。○不知等妹之《シラニトイモガ》――舊訓シラズトであつたが、宣長がシラニトとよんで以來、これによるものが多い。曾許母安加爾等《ソコモアカニト》(三九九一)とあり、又古事記にも、宇迦迦波久斯良爾登美麻紀伊埋毘古波夜《ウカガハクシラニトミマキイリヒコハヤ》とあるから、ここでもこれに從ふことにしよう。但し舊訓の通りでも誤ではない。シラニトは知らないでの意。
〔評〕 死に臨んで故郷の妻を思うて、不知等妹之待乍將有《シラニトイモガマチツツアラム》といつたのは、如何にも自然人らしい、純情的な飾らない、人麿の姿が見えて嬉しい。宗教にも道徳にも、彼は拘束せられてゐなかつた。唯愛の人、誠の人であつたのである。
 
柿本朝臣人麿死(セシ)時、妻|依羅《ヨサミ》娘子作(レル)歌二首
 
依羅娘子は、大和にゐた人麿の三度目の妻である。石見にゐてこの歌をよんだとする説は當らな(243)い。
 
224 今日今日と 吾が待つ君は 石川の 貝に 一云、谷に 交りて 在りといはずやも
 
且今日且今日《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》 石水《イシカハノ》 貝爾《カヒニ》【一云|谷爾《タニニ》】交而《マジリテ》 有登不言八方《アリトイハズヤモ》
 
今日歸ル〔二字傍線〕カ今日歸ル〔二字傍線〕カト思ツテ、私ガ待ツテヰタ夫ハ、アチラデ死ンデ、今ハ石見ノ國ノ〔アチ〜傍線〕石川トイフ川ノ、貝ト一緒ニナツテ、葬ラレテヰルト人ガ話シテ呉レタデハナイカ。アア、思ヒガケナイ〔八字傍線〕。
 
○旦今日且今日《ケフケフト》――旦(又は且)の字は不要のやうであるが、卷九にも旦今日旦今日吾待君之《ケフケフトワガマツキミガ》(一七六五)とあり、かういふ書き方は他にもある。契沖は且の字として、「且は苟且の義にてかりそめなればたしかならぬ心なり」と言つてゐる。何時曾旦今登《イツゾイマカト》(一五三五)などの用例を見ると、且の字で、不確實な意を含めたものらしく思はれる。○石水《イシカハノ》――石川は次の歌によれば、固有名詞らしい。水の字は川に用ゐた例が多いから、イシカハに違ひない。檜嬬手に、山の字が脱ちたものとしてイハミ山とよんで、下の貝を峽のことにしてゐるのも面白い。又、川の字が脱ちたものとしてイハミカハと訓めないこともないが、先づ舊の儘にして置かう。○貝爾交而《カヒニマジリテ》――石川の貝の中に混じての意。これは夫の死を、特にわびしげに歌つたものである。一云谷爾とあるに從つても、分らぬこともないが、交而《マジリテ》が少しく變である。守部が峽《カヒ》ニコヤシテとよんだのは面白いが、獨斷たるを免かれない。
〔評〕 夫の死を聞いて、悲痛のあまり、その死をいたいたしげに、荒凉たる樣に詠んだものである。悲愴な歌。
 
225 直のあひは あひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ
 
直相者《タダノアヒハ》 相不勝《アヒカツマシジ》 石川爾《イシカハニ》 雲立渡禮《クモタチワタレ》 見乍將偲《ミツツシヌバム》
 
私ノ夫ハ死ンデシマツタカ〔私ノ〜傍線〕ラ、ホントニ逢フトイフコトハ出來ナイダラウ。ダカラ〔三字傍線〕石川ニ雲ガ立チ靡ケヨ。ソレヲ夫ノ形見トシテ〔ソレ〜傍線〕見テ夫ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シマセウ。
 
○直相者《タダノアヒハ》――舊訓タダニアハバとあるが、宣長がタダノアヒハとよんだのがよい。直接に逢ふことはの意。○(244)相不勝《アヒカツマシジ》――舊訓アヒモカネテムであるが、九四で解いたやうにアヒカツマシジとよむべきで、逢ふことは出來まいの意。○石川爾《イシカハニ》――前の歌の石水と同じであらう。石の下に水の字が脱ちたものとして、イハミカハニとしても見られるが、やはり元の儘にして置くべきであらう。
〔評〕 感情のこもつた歌であるが、石川を前の歌と同所とすると、下の句のよみぶりは、大和に居て作つたものらしくない。と言つて娘子は石見にゐたものとすると、前の歌がふさはしくなくなる。そこで、夫の死を聞いて石見に下つて、この歌をよんだといふやうな説も出て來るのである。どうも娘子の居所が確かでないのと、石川の所在が不明なので、解釋に不徹底な點があるのは遺憾である。
 
丹比眞人 名闕 擬2柿本朝臣人麿之意(ニ)1報(フル)歌一首
 
丹比眞人で名の明らかなのは、數人見えてゐるが、名の闕けてゐるのも、この外に卷八・卷九に出て居る。古義には「丹比眞人縣守のことにや」といつてゐるが、分らぬとして置くがよい。報の字は考に「後人のさかしらに加へし言と見ゆ」と言つてゐる。予はこの儘にして置かうと思ふ。
 
226 荒浪に 寄り來る玉を 枕に置き 吾ここなりと 誰か告げけむ
 
荒海爾《アラナミニ》 緑來玉乎《ヨリクツタマヲ》 枕爾置《マクラニオキ》 吾此間有跡《ワレココナリト》 誰將告《タレカツゲケム》
 
荒浪デ打チ寄セテ來ル玉ヲ枕邊ニ置イテ、私ガ此所ニ死ンデ〔三字傍線〕居ルトイフコトヲ、誰ガ故郷ノ妻ニ〔五字傍線〕告ゲタデアラウカ。
 
○荒波爾《アラナミニ》――依羅娘子の歌に、石水貝爾交而《イシカハノカヒニマジリテ》とあつたに對したので、石川の荒浪をいふのである。○枕爾置《マクラニオキ》――枕の方に置くこと。置は卷の誤で、マクラニマキだらうと考には言つてゐる。○誰將告《タレカツゲケム》――舊訓タレカツゲナムで、今もそれが廣く行はれてゐるが、題詞にある報の字を衍としない以上は、タレカツゲケムと言はねばならぬところである。石川の荒浪に寄せ來る玉を枕として、死して横はつてゐることを、誰が娘子に告げたのであらうの意。
(245)〔評〕 人麿の心になつてよんだもので、多少歌を弄ぶ氣分があるわけである。前の山上憶良らが、結松の歌に追加したものとは、少しく趣を異にしてゐる。守部はこの歌を、丹比眞人が石中死人に擬して、人麿に報いて作つた歌だとしてゐるのは、例の妄斷である。
 
或本歌曰
 
227 天離る 夷の荒野に 君を置きて 念ひつつあれば 生けりともなし
 
天離《アマサカル》 夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》 君乎置而《キミヲオキテ》 念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケリトモナシ》
 
(天離)田舍ノ人里遠イ野ニ私ノ〔二字傍線〕夫ヲ葬ツテ〔三字傍線〕置イテ、夫ノコト〔四字傍線〕ヲ思ツテ居ルト、悲シクテ悲シクテ〔八字傍線〕、生キテヰル心地ハシナイ。
 
○天離《アマサカル》――枕詞。二九參照。○生刀毛無《イケリトモナシ》――二一二參照。イケルトモナシと訓むのは惡い。
〔評〕 これは依羅娘子の意に擬して、丹比眞人が作つたものであらう。前に出てゐた人麿の、衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマヂヲユケバイケリトモナシ》(二一二)の歌に傚つて作つたものである。
 
右一首(ノ)歌(ハ)作者未v詳但古本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於此次1也
 
後人の註の中でも、比較的新らしいものであらう。
 
寧樂宮
 
寧樂宮とのみ記して、御宇天皇代とないのは卷一も同じである。元明天皇和銅三年三月藤原から奈良へ遷御あらせられた以後の歌を、ここに入れてある。
 
和銅四年歳次辛亥、河邊宮人《カハベノミヤビト》、姫島松原(ニ)見(テ)2孃子《ヲトメノ》屍(ヲ)1悲(シミ)歎(キテ)作(レル)歌二首
 
(246)河邊宮人はどういふ人か全く分らない。姫島松原は安閑紀に「別勅2大連1云、宜v放2牛(ヲ)於難波(ノ)大隅島與2媛島松原1冀垂2名於後1」とあるところで、攝津風土記に、比賣島松原としてその名の由縁が書いてある。今、稗島と稱す。中津神崎の二川に挾まれた地である。但し喜田貞吉氏はこれを拒けて今の西成區小松地方だと言つてゐる。
 
228 妹が名は 千代に流れむ 姫島の 子松がうれに こけむすまでに
 
妹之名者《イモガナハ》 千代爾將流《チヨニナガレム》 姫島之《ヒメシマノ》 子松之末爾《コマツガウレニ》 蘿生萬代爾《コケムスマデニ》
 
今此處ニ屍トナツテ、横タハツテヰル〔今此〜傍線〕孃子ノ名ハ、千年ノ後マデモ傳ハルダラウ。コノ〔二字傍線〕姫島ノ小松ガ、大キクナツテ、ソノ〔八字傍線〕梢ニ蘿ガ生エルヤウナ後〔四字傍線〕マデモ傳ハルデアラウ〔七字傍線〕。
 
○妹之名者《イモガナハ》――妹は孃子を指したもの。孃子の名は明らかにされてゐないが、作者はその名を知つてゐたのであらう。○千代爾將流《チヨニナガレム》――永久に傳はらむの意で、名の傳播するを、流るといふ。卷十八に、大夫乃伎欲吉彼名乎伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾奈我佐敝流於夜能子等毛曾《マスラヲノキヨキソノナヲイニシヘヨイマノヲツツニナガサヘルオヤノコドモゾ》(四〇九四)とある。
〔評〕 美人の死屍に對して、これを慰めたものである。名を世に遺すことを希望した時代思潮が、かうした歌にもあらはれてゐる。
 
229 難波潟 潮干なありそね 沈みにし 妹がすがたを 見まく苦しも
 
難波方《ナニハガタ》 鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》 沈之《シヅミニシ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》 見卷苦流思母《ミマククルシモ》
 
難波潟ニハ潮干ハアルナヨ。潮ガ干ルト、底ニ〔七字傍線〕沈ンダ女ノ姿ガ見エルガ、ソレ〔七字傍線〕ヲ見ルノハイヤナモノダヨ。
〔評〕 死屍を見て、その痛ましさに堪へかねた感情が、鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》と、無理な注文を發するに至らしめた。無垢な純情の歌である。
 
靈龜元年歳次乙卯秋九月、志貴親王(ノ)薨時、作(レル)歌一首 並 短歌
 
(247)志貴親王は、天智天皇の第三皇子施基皇子である。御子白壁王(光仁)即位せられたによつて、追尊して、そのご住所によつて春日宮天皇と申し、又御陵の所在地の名によつて、田原天皇と申し上げる。續紀によればこの親王の薨去は靈龜二年八月甲寅で、この集の記載と一年の差があるが、これは何か理由のあつたことであらう。この頃、別に天武天皇の皇子に磯城皇子があつて、その御方の薨去が續紀に記されてゐないので、この志貴親王を磯城皇子とした契沖や雅澄の説もあるが、歌の内容から考へると、どうしても施基皇子でなくてはならない。
 
230 梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挿み 立ち向ふ 高圓山に 春野燒く 野火と見るまで 燎ゆる火を いかにと問へば 玉桙の 道來る人の 泣く涙 ひさめに降れば 白妙の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな言へる 聞けば 音のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き すめろぎの 神の御子の いでましの 手火の光ぞ ここだ照りたる
 
梓弓《アヅサユミ》 手取持而《テニトリモチテ》 丈夫之《マスラヲノ》 得物矢手挿《サツヤタバサミ》 立向《タチムカフ》 高圓山爾《タカマドヤマニ》 春野燒《ハルヌヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》 燎火乎《モユルヒヲ》 何如問者《イカニトトヘバ》 玉桙之《タマボコノ》 道來人乃《ミチクルヒトノ》 泣涙《ナクナミダ》 霈霖爾落者《ヒサメニフレバ》 白妙之《シロタヘノ》 衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》 立留《タチトマリ》 吾爾語久《ワレニカタラク》 何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイヘル》 聞者泣耳師所哭《キケバネノミシナカユ》 語者《カタレバ》 心曾痛《ココロゾイタキ》 天皇之《スメロギノ》 神之御子之《カミノミコノ》 御駕之《イデマシノ》 手火之光曾《タビノヒカリゾ》 幾許照而有《ココダテリタル》
 
(梓弓手取持而 大夫之得物矢手挿 立向)高圓山ニ、春ノ野ヲ燒ク野火カト思ハレル程、燃エテヰル火ヲ、アレハ〔三字傍線〕何カト聞イテ見ルト、(玉桙之)道ヲ歩イテ來ル人ガ、泣ク涙ハ丁度大雨ノヤウニ甚《ヒド》ク流レルノデ、(白妙之)着物ハ、ビシヨ霑レニナツテ立チ留ツテ、ソノ人ガ〔四字傍線〕私ニ話シテ言フニハ、何故汝ハミダリニソンナコトヲ言フノカ、サウイフコトヲ聞クト、唯〔傍線〕聲ヲ出シテ泣クバカリダ。ソンナコトヲ話スルト、心ガ苦シイ。アレハ〔三字傍線〕天子樣ト云フ生キ神樣ノ御子樣ノ、御葬式ノ御供ノ火ガ、澤山ニ輝イテヰルノダ。
 
○梓弓手取持而大夫之得物矢手挿立向《アヅサユミテニトリモチテマスラヲノサツヤタバサミタチムカフ》――この五句は、高圓《タカマト》山の圓《マト》を、的《マト》の意としてつづけた序詞で、卷一(248)の大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見爾清潔之《マスラヲガサツヤタバサミタチムカヒイルマトカタハミルニサヤケシ》(六一)の詞を採つたものである。得物矢《サツヤ》は獵に用ゐる矢。○高圓山爾《タカマトヤマニ》――高圓山は春日山の南方に連つてゐるなだらかな感じの山で、この集に澤山よまれてゐる。○霈霖爾落者《ヒサメニフレバ》――霈霖《ヒサメ》となつて降るの意。ヒサメは直雨《ヒタアメ》の約で、書紀に、大雨・甚雨をヒサメとよんでゐる。舊訓コサメとあるは惡い。○白妙之《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。○衣泥漬而《コロモヒヅチテ》――泥漬《ヒヅチ》は漬《ヒ》づに更に語尾を添へて、四段活にした動詞らしい。意は霑れること。○本名言《モトナイヘル》――本名《モトナ》は集中に多く用ゐられる語で、その解説も種々ある。山田孝雄氏が奈良文化第十二號に、もとなはもと〔二字傍点〕といふ名詞と、形容詞なし〔二字傍点〕の語幹な〔傍点〕との合成語で、もとは根元又は根據の義にあたり、もとなは理由もなく、根據なく、わけもなく、よしなく、みだりに、といふやうな意で解すべし(摘要)と述べて居るのは面白い説である。ここはみだりにといふやうな意であらう。○天皇之神之御子之《スメロギノカミノミコノ》――天皇と申す神の御子の意で、施基皇子をさす。○御駕之《イデマシノ》――舊訓オホムタノとあるのは解しがたい。考にイデマシとよんだのに從ふことにする。文字(249)から考へると、他にまだよい訓があるかも知れないが、この文字は集中他に用例がないのは、遺憾である。○手火之光曾《タビノヒカリゾ》――手火は手に持つ火、書紀に「秉炬此云2多妣1」と註してある。ここでは御葬儀に點ずるタイマツを言つたもの。
〔評〕 この歌は全體の組織が巧妙に出來て、特異なところがある。高圓山を燒くかとばかり燃ゆる火に驚いて、道行く人に何事ぞと尋ねると、その人が涙にぬれながら、志貴親王の御葬儀の松明の火なることを語つたといふので、自己の主觀を述べないで、道行く人に語らしめた結構は、この種の歌としては珍らしいものである。しかも親王の御住居になつてゐた春日の宮から出た葬列が、高圓山の裾をめぐつて、田原の西陵(大和地圖參照)へ續く情景と、それを眺めて泣き悲しんでゐる人々の有樣が、ありありと目に浮ぶやうに詠まれてゐる。人麿の長歌とは型を異にしてゐて、それに劣らない立派な技倆である。左註によると、笠金村歌集に出てゐるとあるから、恐らくこの人の作であらう。
 
短歌二首
 
231 高圓の 野邊の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに
 
高圓之《タカマトノ》 野邊秋芽子《ヌベノアキハギ》 徒《イタヅラニ》 開香將散《サキカチルラム》 見人無爾《ミルヒトナシニ》
 
高圓ノ野ノ秋萩ノ花ハ、志貴皇子ガオナクナリナサツタカラ〔志貴〜傍線〕、空シク誰モ見ル人無クテ、咲イテ散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○高圓之野邊秋芽子《タカマトノヌベノアキハギ》――高圓の野は高圓山の麓の野で、能登川が流れてゐるあたりをいふ。此處は萩・女郎花・撫子などの秋草の花が、よく詠まれる所である。○徒《イタヅラニ》――舊本、從に誤つてゐる。金澤本による。
〔評〕 續日本紀に春日離宮とあり、後世の歌に高圓の尾の上の宮と詠まれてゐるのは、この親王のおはしました春日の宮と、同所であるか否かは不明であるが、ともかくも高圓の野の一部に、親王の宮殿があつたのである。今、親王は既におはしまさぬ。この秋萩の花も見る人もなくて、徒らに咲き散ることかよと嘆いた聲は、實に(250)無限の悲しさが籠つてゐる。
 
232 三笠山 野邊行く道は こきだくも 繁り荒れたるか 久にあらなくに
 
御笠山《ミカサヤマ》 野邊往道者《ヌベユクミチハ》 巳伎太雲《コキダクモ》 繁荒有可《シゲリアレタルカ》 久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》
 
春日ノ宮ヘ通フ〔七字傍線〕御笠山ノ下ノ〔二字傍線〕野道ハ、大層草ガ繋ツテマア甚《ヒド》ク荒レタワイ。マダ皇子薨去ノ後〔八字傍線〕、久シクモナラナイノニ。
 
○御笠山《ミカサヤマ》――春日山の一部で、前方に蓋《キヌガサ》のやうな形をなしてゐるのを、特に三笠山いふ。○巳伎太雲《コキダクモ》――コキダクは數多く、甚だしくなどの意。モは添へた詠嘆の助詞。○繁荒有可《シゲリアレタルカ》――舊訓シゲリとあるのを、略解にシジニと改めてあるが、ここは副詞でなく、動詞として、シゲリとよむ方がよいやうである。可《カ》はカナの意。
〔評〕 皇子の薨去の後、幾何ならずして、春日の宮に通ふ道の、甚だしく荒れたのを歎いたので、平明な調のうちに、哀切の情が盛られてゐる。
 
右歌笠朝臣金村歌集出
 
笠金村歌集は自分の作を主として集め、又他人のものも入れてある。署名のないのは金村の作と見てよい。多く作の年月が明記してあるのは、他の集と異なつてゐる。
 
或本歌曰
 
233 高圓の 野邊の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲ばむ
 
高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》 勿散禰《ナチリソネ》 君之形見爾《キミガカタミニ》 見管思奴幡武《ミツツシヌバム》
 
高圓ノ野ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ散ラナイデヰテクレヨ。セメテコノ花デモ、オ亡クナリニナツタ〔セメ〜傍線〕皇子ノ形見トシテ眺メテ、皇子ヲ〔三字傍線〕思ヒ出シオ慕ヒ申シ〔五字傍線〕マセウ。
〔評〕 この歌は三句以下全く異つて、意味も別であるから、前の歌の異傳といふわけではなく、別の歌である。
 
234 三笠山 野邊ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに
 
(251)三笠山《ミカサヤマ》 野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》 巳伎太久母《コキダクモ》 荒爾計類鴨《アレニケルカモ》 久爾有名國《ヒサニアラナクニ》
 
〔評〕 これは第二句と第四句とが少し異つてゐるだけであるから、二三二の歌の異傳である。
 
萬葉集卷第二
 
(253)萬葉集卷第三解説
 
この卷は雜歌・譬喩歌・挽歌の三部に分れてゐる。雜歌と譬喩歌とには題詞に年次を記したものは見えないが、挽歌にはそれを明記したものが多い。雜歌で年代の明かなものの最古なるは、大寶二年持統天皇志賀行幸の時の石上卿の作で、最も新しいのは、天平五年の大伴坂上郎女の祭神の歌である。歌數は長歌十三首、短歌百四十首で、大體、※[覊の馬が奇]旅の歌が多い。譬喩歌は二十七首の短歌を含んでゐるだけで、多くは戀愛の歌である。年次はいづれも明らかでなく、大伴家持が坂上大孃に贈つたものが、おほよそ天平十年前後かと推定せられる位のものである。挽歌は上宮聖徳皇子竹原井に出遊の時の御作歌から、高橋朝臣が死妻を悲傷した歌まで、長歌九首、短歌五十八首を收めてゐる。年代から言へば、推古天皇の朝から天平十六年までであるが、聖徳太子の御歌は推古紀に見えた長歌の改作されたもので、年代は信を措き難い。先づ古いものとしては、朱鳥元年十月の大津皇子が磐余池の堤で殺され給うた時の作であらう。この卷を全體として見渡すと、歌數は長歌二十二首、短歌二百二十五首、總計二百四十七首で、年代はおよそ天武・持統の朝から聖武天皇の天平十六年七月までと考へてよいのである。即ちこの卷は集中で比較的新しいもので、眞淵はこれを第十四に置いてゐる。作者は、皇族では聖徳太子・大津皇子・弓削皇子・志貴皇子・春日王・長田王・長屋王らの御名が見える。臣下では人麿・赤人・黒人らが傑作を遺してゐるが、卷一・卷二などと異なつて目に立つのは旅人・坂上郎女・家持、その他大伴氏關係者の作が多く載せてあることである。殊に譬(254)喩歌は初の數首を除いては、悉く家持及びその周圍の人らの作である。これらからして、この卷は卷一・卷二に傚つて、大伴家持が編纂したものではないか、といふ推定もなし得るやうに思はれる。又この卷の分類法が、卷七と全く同樣な點も注意すべきである。奈良初期の民謠を集めたらしい卷七は、この卷の編輯に際して、參考とせられたのではあるまいか。文字使用法は十六《シシ》・義之《テシ》のやうな戯書もあらはれてゐるが、大體卷一・卷二と同一傾向である。但し、思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》・將爲須便毛奈志《セムスベモナシ》・於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》といふやうな假名書も、家持の歌には時々見えてゐるのは、彼の後年の書き方が、既にその傾向を現はしてゐるものと言つてよからう。
 
(255)萬葉集卷第三
 
天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌一首
天皇賜2志斐嫗1御歌一首
志斐嫗奉v和歌一首
長忌寸意吉麿應v詔歌一首
長皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
或本反歌一首
弓削皇子遊2吉野1之時御歌一首
春日王奉v和歌一首
或本歌一首
長田王被v遣2筑紫1渡2水島1之時歌二首
石川大夫和歌一首 名闕
又長田王作歌一首
〔256〜264、目次省略〕
 
(265)雜歌
 
天皇御2遊雷岳《イカヅチノヲカニ》1之時柿本朝臣人麿作(レル)歌一首
 
天皇は持統天皇であらう。雷岳は大和國高市郡飛鳥村大字雷村にあり、飛鳥の神奈備、三諸山のことで、雄略記に少子部連|※[虫+果]羸《スガル》がこの山で雷を捕へたことが見えてゐる。神山とも神岳山とも記されてゐる。挿入の寫眞は豐浦寺の前なる飛鳥河畔から、著者が撮影したものである。
 
235 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬せるかも
 
皇者《オホキミハ》 神二四座者《カミニシマセバ》 天雲之《アマグモノ》 雷之上爾《イカヅチノウヘニ》 廬爲流鴨《イホリセルカモ》
 
天子樣ハ、現世ノ生キテオイデナサル〔現世〜傍線〕神樣デイラツシヤルカラ、天ノ雲ノ中ノ雷トイフ名ヲ持ツタ〔九字傍線〕、雷岳〔傍線〕ノ上ニ、庵ヲ拵ヘテ宿ツテイラツシヤルワイ。誠ニイカメシイコトダ〔誠ニ〜傍線〕。
 
○皇者《オホキミハ》――舊訓スメロギハであるが、考にオホキミハと訓めるに從ふ。○神二四座者《カミニシマセバ》――神は現《アキ》つ御神《ミカミ》・現人神《アラヒトガミ》といふやうな意に用ゐてゐる。一體神は上《カミ》で、我が國では總べて優れ秀でたものに言ふのであるから、現世のオ方にも用ゐるのである。○雷之上爾《イカヅチノウヘニ》――雷岳といふ名を、眞の雷のやうに言ひナして、その雷の上に庵してゐられると驚嘆した言ひ方である。上の字を山と改める説もあるが、山といつては更に面白味がなく、又|王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセバアマグモノイホヘガシタニカクリタマヒヌ》(二〇五)といふ歌は、この歌を模倣したもので、雷之上爾《イカヅチノウヘニ》に對して五百重之下爾《イホヘガシタニ》としたのであるから、これを山とする説は當らない。○廬爲流鴨《イホリセルカモ》――舊訓イホリスルカモであつたのを、槻落葉にセルカモとし、略解もこれに從つてゐるが、舊訓の儘に從ふ説も多い。併しこの歌の趣を見ると、今天皇の庵し給へると仰ぎ見て詠んだのであるから、スルカモよりも、セルカモと言ふ方が妥當である。スルカモは庵ナサルヨといふ意で、セルカモは庵シテイラセラレルヨの意である。又、流を須に改めてセスカモと(266)訓まうとする説は妄斷である。尚、この度は普通の場合の如く、臨時に建てた小舍をいふものと考へないでもよい。卷十三に三諸之山之礪津宮地《ミムロノヤマノトツミヤトコロ》(三二三一)とあるから、ここに離宮があつたのである。
〔評〕 數多い人麿の短歌中でも、格別出色の作である。雄大な格調と、奇拔な着想とは、實に人を驚嘆せしめるもので、而も我ら日本人の、天皇を現つ御神として崇めてゐる傳統的の感情を、有りのままに詠出し、我が國民が歌はうとして歌ひ得なかつたところを、國民を代表して表現してゐるやうな感があり、誠に胸のすくやうな作である。オホキミハカミニシマセバといふ句は、卷二の置始東人の作の外に、人麿に尚一首(二四一)あり、卷十九に贈右大臣大伴卿と作者未詳の作各一首ある。卷十九のは壬申の年之亂平定後歌とあつて人麿以前の作のやうであるが、その左註に天平勝寶四年二月二日聞v之即載2於茲1也とあつて、作の年代は不明と言つてよい。兎も角もそのいづれも、人麿のこの作には及ばないのである。
 
大君は 神にしませば 雲隱る 雷山に 宮しきいます
 
右、或本(ニ)云(フ)、獻(ズル)1忍壁《オサカベ》皇子(ニ)1也、 其(ノ)歌曰 王《オホキミハ》 神座者《カミニシマセバ》 雲隱《クモガクル》 伊加土山爾《イカヅチヤマニ》 (267)宮敷座《ミヤシキイマス》
 
忍壁皇子は、天武紀に、「次宍人(ノ)臣大麻呂(ガ)女※[木+穀]媛娘、生2二男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰2忍壁皇子1」とあり、續紀に「慶雲二年五月丙戌、三品忍壁親王薨、天武天皇第九皇子也」とある。この歌に伊加土山爾宮敷座《イカヅイチヤマニミヤシキイマス》とあるのは、この皇子の宮が雷山にあつたものであらうか。
 
天皇賜2志斐嫗《シヒノオミナニ》1御歌一首
 
天皇は持統天皇。志斐嫗は志斐氏の老女。姓氏録左京神別に、中臣志斐連とある。續紀和銅二年六月志斐連の姓を賜ふと見えてゐる。尚、次の評の部參照。
 
236 否といへど 強ふる志斐のが 強ひがたり この頃聞かずて われ戀ひにけり
 
不聽跡雖云《イナトイヘド》 強流志斐能我《シフルシヒノガ》 強語《シヒガタリ》 此者不聞而《コノゴロキカズテ》 朕戀爾家里《ワレコヒニケリ》
 
イヤモウ澤山ダ〔七字傍線〕、聞カナイト言ツテモ、無理ニ話シテ聞カセル志斐嫗ノ無理強ヒ話ヲ、コノ頃聞カナイノデ朕ハ戀ヒシク思フヨ。時々ハ、ヤツテ來テ例ノ話ヲシテクレ〔時々〜傍線〕。
 
○不聽跡雖云《イナトイヘド》――不聽をイナと訓むのは義訓で、不言常將言可聞《イナトイハムカモ》(九六)。不欲常云者《イナトイヘバ》(六七九)・不許者不有《イナニハアラズ》(一六一二)の類と同じである。○強流志斐能我《シフルシヒノガ》――志斐能《シヒノ》の能《ノ》は助詞。勢奈能我素低母《セナノガソデモ》(三四〇二)・故之能吉美能等《コシノキミノト》(四〇七一)の如き能《ノ》と同じやうで、間に挾んだだけのものである。○此者不聞而《コノコロキカズテ》――比者となつてゐる古本に從ふべし。
〔評〕 諧謔に富んだ御串戯である。君臣の間の親密さが、いかにもなつかしい。この頃、尚、古代の語部の系統を引いた語連のあつたことが、天武紀や元正紀に見えるから、この老女も朝廷に奉仕して、物語ることを職としてゐたのではあるまいかとも想像せられる。尚、姓氏録には前記の中臣志斐連の外に、阿倍志斐連が見えてゐて、それには「大彦命八世孫稚子臣之後也。自2孫臣久世孫名代、謚天武御世献2之楊花1勅曰何花哉、名代奏(268)曰、辛夷《コブシ》花也、群臣奏曰、是楊花也、名代猶強奏2辛夷花1、因賜2阿倍志斐連姓1也」とある。これによると、志斐連に、強ひ言は附き物である。この名代の事件は天武の御代とすれば、この天皇もよく御存じのことであるから、この御歌も一層面白く感ぜられる。
 
志斐嫗奉(レル)v和(ヘ)歌一首 嫗名未詳
 
237 否といへど 語れ語れと のらせこそ 志斐いは奏せ 強語りとのる
 
不聽雖謂《イナトイヘド》 話禮話禮常《カタレカタレト》 詔許曾《ノラセコソ》 志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》 強話登言《シヒカタリトノル》
 
イヤモウ申シ上ゲマスマイト申シマスケレドモ、陛下ガ〔三字傍線〕話セ話セトオツシヤイマスノデ、コノ〔二字傍線〕志斐ノ婆ハオ話シ申シ上ゲタノデゴザイマス。ソレダノニ〔五字傍線〕強ヒ語リナドトオツシヤイマス。隨分非道イ仰デゴザイマス〔隨分〜傍線〕。
 
○詔許曾《ノラセコソ》――詔り給へばこその意。○志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》――自分の名の志斐に伊《イ》といふ助詞を添へたのである。伊《イ》は主格をあらはすもので、下にシ又はハの助詞を件ふことが多い。○強話登言《シヒカタリトノル》――舊訓シヒゴトトノルとあるのはわるい。前の歌をうけてシヒガタリとよむべきである。話を語の誤とするのもよくない。
〔評〕 打ち解けた奉答が畏いほどに感ぜられるが、お咎めのないのも歌の徳であらう。
 
長忌寸|意吉《オキ》麻呂應(フル)v詔(ニ)歌一首
 
意吉麻呂の傳は明らかでない。應詔の作は懷風藻に多く見えてゐる。卷一には太上天皇(持統)・大行天皇(文武)が難波宮に行幸のことが見える。そのいづれかの時の作であらう。
 
238 大宮の 内まで聞ゆ 網引すと 網子ととのふる あまの呼び聲
 
大宮之《オホミヤノ》 内二手所聞《ウチマデキコユ》 網引爲跡《アビキスト》 網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビコヱ》
 
アレアノヤウニ〔七字傍線〕、網ヲ引カウトテ 網引ク者ドモヲ呼ビ集メル漁師ノ聲ガ、御所ノ中マデ聞エマス。ホントニ(269)ノ御所ハ結構ナ御所デゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○大宮之《オホミヤノ》――大宮は難波の長柄豐埼宮である。孝徳天皇の皇居であつたが、その後、歴代の離宮となつてゐた。今の大阪市の北端豐崎町南北長柄の地にあつたのである。○網引爲跡《アビキスト》――アミヒキを約めて、アビキと訓ませた例は他にもある。爲跡《スト》はするとての意。○網子調流《アゴトトノフル》――網を曳く者をアゴといふ。調流《トトノフル》は呼び集める。卷二に齊流鼓之音者《トトノフルツヅミノオトハ》(一九九)とあるに同じ。
〔評〕 難波の離宮に行幸があつた際に、詔に應へた作であらう。實にすがすがしい明るい感じのする佳作である。海に遠い大和の都から來た人たちには、宮の内を轟かす海人の呼聲は、珍らしく面白く感じたのである。
 
長《ナガノ》皇子遊2獵路《カリヂノ》池1之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
長皇子は天武天皇第四皇子。六九參照。獵路池は古義に池を野に改め、十市郡鹿路村なるべしと言つてゐる。鹿路は今、磯城郡に屬し、多武峯東南の山地である。卷十二|遠津人獵道之池爾《トホツヒトカリヂノイケニ》(三〇八九)とあるから、池は誤ではあるまい。殊に或本反歌は池のある趣である。舊本獵の字が一宇になつてゐるのは、脱ちたのであらう。遊獵獵路池とあるべきである。
 
239 やすみしし 吾が大王 高光る わが日の皇子の 馬竝めて み獵立たせる わかごもを 獵路の小野に 鹿猪《しし》こそは い匍ひをろがめ 鶉こそ い匍ひもとほれ 猪鹿《しゝ》じもの い匍ひをろがみ 鶉なす い匍ひもとほり かしこみと 仕へ奉りて ひさかたの 天見るごとく 眞十鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わが大王かも
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高光《タカヒカル》 吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》 馬並而《ウマナメテ》 三獵立流《ミカリタタセル》 弱薦乎《ワカゴモヲ》 獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》 十六社者《シシコソハ》 伊波比拜目《イハヒヲロガメ》 鶉已曾《ウヅラコソ》 伊波比回禮《イハヒモトホレ》 四時自物《シシジモノ》 伊波比拜《イハヒヲロガミ》 鶉成《ウヅラナス》 伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》 恐等《カシコミト》 仕奉而《ツカヘマツリテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》 眞十鏡《マソカガミ》 仰而雖見《アフギテミレド》 春草之《ハルクサノ》 益目頬四寸《イヤメヅラシキ》 吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》
 
(270)(八隅知之)私ガオ仕ヘ申ス長〔傍線〕皇子樣、私ノ(高光)日ノ御子樣ガ、馬ヲ並ベテ、御獵ヲ遊バシタク(弱薦乎)獵路ノ野ニハ、猪鹿ノ類コソハ膝ヲ折ツテ〔五字傍線〕這ヒ拜ムモノデアル。又〔傍線〕鶉トイフ烏コソハ這ヒ廻ルモノデアルガ、我々ハ恰モ〔五字傍線〕猪・鹿ノヤウニ、皇子ノ前ニ這ヒ伏シテ拜シ奉リ、又鶉ノ如クニ這ヒ廻ツテ、カシコク思ツテ、オ仕ヘ申シテ(久竪乃)天ヲ仰グガ如クニ、仰イデ(眞十鏡)見ルガ、見ル度ニ彌々(春草之)立派ニオ見エ遊バス、私ノ仕ヘ申ス長皇子樣ヨ。ホントニエライ御方デス〔ホン〜傍線〕。
 
〇八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃《ヤスミシシワガオホキミタカヒカルワガヒノミコノ》――前に屡々出た句。五〇参照。ここは長皇子を指す。○三獵立流《ミカリタタセル》――三は御《ミ》に借りて用ゐたもの。立流《タタセル》は立ち給へる。○弱薦乎《ワカゴモヲ》――枕詞。若き薦を刈ると言ひかけ、獵路に冠せしめてある。薦は沼澤に自生する禾本科の植物で、葉を刈り取つて蓆に織る。○獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》――獵路は今の磯城郡|鹿路《ロクロ》村であらうと言はれてゐる。多武峯の東南方の山村である。○十六社者《シシコソハ》――十六は戯書で猪鹿をさしたのである。社の字は神社は乞ひ祈るところであるから、希ふ意のコソに通じて訓んだので、此處は係詞のコソである。○伊波比拜目《イハヒヲロガメ》――伊《イ》は添へて言ふのみ。這ひ拜むこと。○伊波比回禮《イハヒモトホレ》――伊《イ》は發語。廻るをモトホルといふ。○四時自物《シシジモノ》――猪鹿じ物で、じ物は、の如きもの。○鶉成《ウヅラナス》――鶉の如く。○恐等《カシコミト》――恐しとての意。○久竪乃《ヒサカタノ》――天の枕詞。八二參照。○眞十鏡《マソカガミ》――見の枕詞。○春草之《ハルクサノ》――目頬四寸《メヅラシキ》の枕詞。春の草は愛《メヅ》らしいものだからである。○吾於富吉美可聞《ワガオホキミカモ》――吾が大君は長皇子を指す。
〔評〕 長皇子に對する敬意が充分に表現せられてゐる。鹿猪や鶉に譬へて自己の額づく樣を述べたのも面白い。併しすべてが常用の修辭で、特異の點がない。
 
反歌
 
240 ひさかたの 天行く月を 綱に刺し 我が大王は 蓋にせり
 
(271)久堅乃《ヒサカタノ》 天歸月乎《アメユクツキヲ》 綱爾刺《ツナニサシ》 我大王者《ワガオホキミハ》 盖爾爲有《キヌガサニセリ》
 
天ノヤウニ私ドモガ仰ギ奉ル〔天ノ〜五字傍線〕長皇子樣ハ(久堅乃)天ヲ通ル月ヲ綱デ刺シ通シテ、御頭上ニサシカケル〔九字傍線〕蓋ニシテイラツシヤル。誠ニエライコトデス〔誠ニ〜傍線〕。
 
○綱爾刺《ヅナニサシ》――舊本網とあり、アミニサシとよんでゐる。考に從つてツナに改める。綱爾《ツナニ》は綱での意。盖に綱は附屬したもので、踐祚大甞祭式に、「車持朝臣一人執2菅蓋1子部(ノ)宿禰一人笠取(ノ)直一人、並執2盖綱1膝行、各供2其職1」とある通である。○盖爾爲有《キヌガサニセリ》――盖は和名抄に岐奴加散と訓じてある。絹を張つた天蓋樣のもので、貴人にさし懸けたもの。大神宮奉遷御料の御蓋は方五尺五寸、柄の長一丈三尺五寸とある。
〔評〕 夕暮まで獵してゐられる皇子の頭上に、いつしか月の輝いてゐるのを見て、月を蓋と見立てて、皇子の尊容と威光とヲ讃へたので、前の天雲之雷之上爾廬爲流鴨《アマグモノイカヅチノウヘニイホリセルカモ》(二三五)と同じやうな趣を歌ひ、實に壯大な感がある。古義に「圓蓋を月に見なしたるなり」とあるは誤つてゐる。
 
或本反歌一首
 
241 大君は 神にしませば 眞木の立つ 荒山中に 海をなすかも
 
皇者《オホキミハ》 神爾之坐者《カミニシマセバ》 眞木之立《マキノタツ》 荒山中爾《アラヤマナカニ》 海成可聞《ウミヲナスカモ》
 
長皇子樣ハ人間以上ノ〔五字傍線〕神樣デイラツシヤルカラ、カヤウニ〔四字傍線〕檜ノ生エテヰル人跡ノ稀ナ山中ニ、海ヲオ作リニナツタナア。不思議ナ力ヲ持ツテオイデナサル〔不思〜傍線〕。
 
○眞木之立《マキノタツ》――檜(ノ)木の立つてゐる意。次の句への續き方は、卷一眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》(四五)とあるに似てゐる。○海成可聞《ウミヲナスカモ》――海は獵路の池をさしたもの。すべて水の廣きを海といふ。
〔評〕 遊獵の途、山中の獵路の池を見て、皇子の威光によつて山中に海が出來てゐると誇張したので、例の大き(272)な感じを與へる作品ではあるが、かなりわざとらしさがある。この皇者《オホキミハ》を天皇とし、この御代に池を掘らせられたのを見て、皇徳をたたへたもののやうに、略解や古義にあるのは誤である。又これを右の反歌でないといふ説も當を得ない。
 
  弓削皇子遊(ビタマヘル)2吉野(ニ)1時、御歌一首
 
弓削皇子は天武天皇第六皇子。卷二の一一一參照。
 
242 瀧の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと わが思はなくに
 
瀧上之《タギノヘノ》 三船乃山爾《ミフネノヤマニ》 居雲乃《ヰルクモノ》 常將有等《ツネニアラムト》 和我不念久爾《ワガモハナクニ》
 
コノ吉野ノ〔四字傍線〕瀧ノ上ニアル、三船山ニハ、アノヤウニ毎時デモ雲ガカカツテヰて、誠ニ面白イ景色ダガ、アノ〔アノヤ〜傍線〕雲ガ常ニ掛ツテヰルヤウニ、私ハ何時マデモ變ルコトナク〔何時〜傍線〕永久コノ世ニ生キテ居ラレル身ノ上ダトハ思ハレナイ。アノ絶エズ棚曳(273)イテヰル雲ヲ見レバ無常ナ人間ノ命ガ恨メシクナル〔アノ〜傍線〕。
 
○瀧上之三船乃山爾《タギノウヘノミフネノヤマニ》――瀧は今の宮瀧の急流で、その上にある三船の山の意である。船を伏せた形をしてゐるので、斯く名づけたのだらう。一名舟岡山ともいふ。○居雲乃《ヰルクモノ》――居る雲の如くの意で、三船の山の雲が、常に懸つてゐるのに譬へたのである。契沖が「雲の起滅定めなきが如くなる世なれば」と言つたのは誤。○和我不念久爾《ワガモハナクニ》――我は思はぬよと、餘情を籠めて言ひをさめたのである。
〔評〕 吉野川沿岸の勝景に對し、人命の短いのを嘆ぜられたのである。源實朝の「世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手悲しも」も同じやうである。卷六に人皆乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨《ヒトミナノイノチモワレモミヨシヌノタギノトコハノツネナラヌカモ》(九二二)とあるのも似てゐる。
 
春日王奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
春日王は續紀に、文武天皇の三年六月庚戌淨大肆春日王卒と見えてゐる御方で、弓削皇子は同年の七月に薨じて居られ、御年齡もあまり違はないお親しい間柄であつたと見える。諸註に志貴親王の御子とあるけれども、それは別人の春日王で、卷四(六六五)に湯原王の歌に和へられたお方である。その春日王と湯原王とは春日宮天皇と追尊せられた志貴親王の御子で、年代が新しいやうである。志貴親王は天智天皇の七年の御誕生で、文武天皇の三年は三十三歳であらせられたから、この歌を詠み給ふやうな、王子がましましたとは考へられない。尚、この親王の第六王子であらせられた光仁天皇は、和銅二年の御降誕で、文武天皇三年から、十年の後であることも考ふべきである。
 
243 大君は 千歳にまさむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや
 
王者《オホキミハ》 千歳爾麻佐武《チトセニマサム》 白雲毛《シラクモモ》 三船乃山爾《ミフネノヤマニ》 絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》
 
貴方樣ハ大層オ嘆キナサイマスガ〔貴方〜傍線〕、貴方樣ハ千年ノ御壽命ヲオ保チナサイマスデセウ。白雲モ三船ノ山ノ上ニ(274)棚曳イテヰナイ日ハ御座イマスマイ。アノ白雲ノ通リニ永久ニコノ世ニオイデ遊バシマス。オ嘆キ遊バシマスナ〔アノ〜傍線〕。
〔評〕 三船山の雲に我が身を比べて、無常を感ぜられたのに對し、その雲の如く御壽命が絶えないと慰められたのは、時に取つて巧妙に出來た平明な作である。敬意と温情とがあらはれてゐる。
 
或本歌一首
 
244 み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに
 
三吉野之《ミヨシヌノ》 御船乃山爾《ミフネノヤマニ》 立雲之《タツクモノ》 常將在跡《ツネニアラムト》 我思莫苦二《ワガモハナクニ》
 
コノ〔二字傍線〕吉野ノ御船ノ山ノ上ニハ絶エズ雲ガ立ツテヰルガ、アノ〔上ニ〜傍線〕雲ノヤウニ、永久ニコノ世ニ〔四字傍線〕生存シヨウトハ、私ハ思ハナイヨ。ヤガテハ死ンデシマフ壽命ダ〔ヤガ〜傍線〕。
〔評〕 前の瀧上之《タギノウヘノ》の歌の第一句と第三句との異傳である。大した相異でもない。
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集(ニ)出(ヅ)
 
長田《ナガタ》王、被(レ)v遣(ハ)2筑紫(ニ)1渡(レル)2水島(ニ)1之時(ノ)歌二首
 
長田王は卷一(八一)に出てゐる。續紀によれば、和銅四年「四月壬午、從五位上長田王授2正五位下1」とあり、さうしてこの作は前後の歌から考へれば慶雲頃らしいから、長田王はまだ若年であつたらしい。水島は景行紀に「十八年夏四月壬戌朔壬申、自2海路1泊《テ》2於葦北小島(ニ)1而進食(ス)、時召2山部|阿弭古《アビコ》之祖|小左《ヲヒダリ》1、令v進2冷水1、適2此時1島中無v水、不知2所爲1則仰之、祈2于天神地祇1、忽寒泉從2崖傍1湧出、乃酌以獻焉、故(ニ)號2其島1、曰2水島1也、其泉猶今在2水島崖1也」とある。枕草子に(275)も、「島は……水島」とある。今は八代郡の内に入り、球磨川の流砂によつて陸地に續いてゐる。植柳西南の地らしい。
 
245 聞きしごと まこと貴く くすしくも 神さび居るか これの水島
 
如聞《キキシゴト》 眞貴久《マコトタフトク》 奇母《クスシクモ》 神左備居賀《カムサビヲルカ》 許禮能水島《コレノミヅシマ》
 
豫テ聞イテヰタ通リニ、來テ見ルト〔五字傍線〕、コノ水島トイフ島ハ、ホントニ貴ク珍シク神々シイ姿ヲシテヰルヨ。
 
○神左備居賀《カムサビヲルカ》――神々しくあることよの意で、居賀《ヲルカ》は居ルカナに同じ。
〔評〕 水島は上に記したやうに、古い傳説を持つてゐる島であるから、その名は都人も聞き傳へてゐたのである。王は今眼前に傳説の島を御覽になつて、名にし負ふ小島の、神々しい姿を喜ばれたのである。その感じが充分に現はされてゐる。
 
246 葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ
 
葦北乃《アシキタノ》 野坂乃浦從《ヌザカノウラユ》 船出爲而《フナデシテ》 水島爾將去《ミヅシマニユカム》 波立莫動《ナミタツナユメ》
 
葦北郡ノ野坂ノ浦カラ船出ヲシテ、今カラ私ガ〔五字傍線〕水島ヘ行カウトシテヰル所ダ。決シテ浪ガ立ツテハナラヌゾヨ。
 
○葦北乃《アシキタノ》――肥後の最南部にあり、薩摩に隣れる郡名。○野坂乃浦從《ヌザカノウラユ》――野坂の浦の所在が、今判明しない。(276)増補國志に「野坂は佐敷太郎坂の舊名にして、田浦村は野坂里なるべし」とあり、肥後地志略には、「野坂浦は今の湯地坂を云ふ。佐敷と湯浦との間にあり。又歌坂とも稱す」とある。著者も青年時代、彼の邊を船で往還したものであるが、海岸には謂はゆる三太郎越あり、陸路は交通困難である。王が舟行せられたのもその爲で、これらの點から考へても、又舟泊の適地としても、今の佐敷附近が野坂の浦らしく想像せられる」
〔評〕 海路平安の希望が素直にありのままに歌ひ出されてゐる。明澄な作である。
 
  石川大夫和(フル)歌一首  名闕
 
247 沖つ浪 邊浪立つとも わがせこが 御船の泊り 波立ためやも
 
奧浪《オキツナミ》 邊波雖立《ヘナミタツトモ》 和我世故我《ワガセコガ》 三船乃登麻里《ミフネノトマリ》 瀾立目八方《ナミタタメヤモ》
 
沖ノ浪ヤ岸ノ浪ガ、タトヒ立タウトモ、貴方樣ガ乘ツテイラツシヤル御船ノ泊ル所ニ、波ガ立チマセウカ、何處ニ波ガ立タウトモ、御船ノ碇泊スル所ニハ決シテ波ハ立チマセヌ。御心配ナサイマスナ〔何處〜傍線〕。
 
○和我世故我《ワガセコガ》――セコは男を親しんでいふ語であるから、男子間相互に用ゐる場合もある。ここは王を指してゐる。○三船乃登麻里《ミフネノトマリ》――御船の泊。王の船の碇泊所をいふ。
〔評〕 王の御船の安穩をことほいだもの。ほぎ言には幸福が伴なふといふ信念を、古代人は持つてゐた。それが謂はゆる言靈の幸ふ國人の思想であつたのである。下句の道理を超越した言ひ方が面白い。
 
右今案、從四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲年中任(ス)2大貳(ニ)1、又正五位下石川朝臣吉美侯、神龜年中任2少貳1、不v知3兩人誰作(レルカ)2此歌(ヲ)1焉
 
この註は後人の仕業である。略解に「この集、大夫とあるは五位の人を言へり。續紀を考ふるに、宮麻呂はこの註に言へる如く、四位なれば大夫と書くべからず。吉美侯は、養老五年侍從と見えて、少貳に任じた(277)る事見えず。さればこの石川大夫は、宮麻呂にも吉美侯にもあらず。卷四に、神龜五年戊辰、太宰少貳石川足人朝臣遷任餞2于筑前國蘆城驛家1歌三首と有、此の足人也。左註は誤れり」といつてゐる。古義はこれに反對して宮麻呂だらうと言つてゐるが、誰とも分らない。この作を慶雲以前とし、宮麻呂がその時少貳であつた考へられないこともない。但しさうすると、長田王があまり若冠のやうである。
 
又、長田王作歌一首
 
248 隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも吾は 今日見つるかも
 
隼人乃《ハヤヒトノ》 薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》 雲居奈須《クモヰナス》 遠毛吾者《トホクモワレハ》 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
隼人ノ國ノ薩摩ノ瀬戸ノ佳イ景色〔五字傍線〕ヲ、私ハ空ノヤウニ遙カ遠クニ、今日ハ眺メタヨ。
 
○隼人乃《ハヤヒトノ》――枕詞と冠詞考にあるのは誤つてゐる。續紀に隼人國とあるから、國名である。○薩摩乃追門乎《サツマノセトヲ》――薩摩は未だ國名でなく、この地方の名であつた。薩摩の迫門は長島との間の海峽で、今は黒瀬戸といつてゐる。卷六に隼人乃湍門乃磐母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里《ハヤヒトノセトノイハホモアユハシルヨシヌノタキニナホシカズケリ》(九六〇)とあるから景色のよい所である。和名抄に薩摩國出水郡に勢度郷あり、これはこの迫門に面した里である。
〔評〕 海上に浮んで、隼人の薩摩の迫戸は彼方だとお聞きになつて、お詠みになつた御歌である。水天髣髴の間に望んだ陸影によつて、音に聞いた迫戸の好景を偲んで、淡い滿足の感と、親しく實境に接し得ざる物足りなさとが、こんがらかつたやうな情が歌はれてゐる。
 
柿本朝臣人麿※[覊の馬が奇]旅歌八首
 
249 三津の埼 浪をかしこみ こもり江の 舟こぐきみが 乘るか野島に
 
三津埼《ミツノサキ》 波矣恐《ナミヲカシコミ》 隱江乃《コモリエノ》 舟公《フネコグキミガ》 宣奴島爾《ノルカヌジマニ》
 
三津ノ埼ニ立ツ波ガ荒クテ〔三字傍線〕恐ロシサニ、靜カナ入江ノ奧ニ隱レテヰタガ、船人ハ風ガ凪イダノデ〔七字傍線〕野島ノ埼ヘ(278)アノヤウニ〔五字傍線〕乘リ出シテ行クカヨ。
 
○三津埼《ミツノサキ》――卷八に難波方三津埼從《ナニハガタミツノサキヨリ》(一四五三)とあるから、難波の三津に違ない。○隱江乃《コモリエノ》――水の淀んで流れない入江を隱江《コモリエ》と言ひ、籠るにかけてある。隱江の舟は三津埼の波のしづまるのを待つて、難波江の奧にかくれてゐた舟である。○舟公《フネコグキミガ》――船人。この句或は誤字か。○宣奴島爾《ノルカヌジマニ》――野島をさして舟を乘り出したよといふのであらう。この歌の下句は古來誤字として、これを改める説が多い。考は舟令寄敏馬崎爾《フネハヨセナムミヌメノサキニ》、玉の小琴は、舟八毛何時寄奴島爾《フネハモイツカヨセムヌジマニ》、槻の落葉は、舟八毛不通奴島埼爾《フネハモユカズヌジマガサキニ》、古義は、舟寄金津奴島埼爾《フネヨセカネツヌジマガサキニ》 など樣々であるが、文字を改めないで、宣をノルとよみ、フネコグキミガノルカヌジマニとよんで、右の通りに解した。宣の字は他に用例はないが、乘るに借り用ゐられない字ではあるまい。野島は地圖に示す如く、淡路の北部の西岸にある。古義に淡路の南方の海上にある、沼島としたのは大なる誤である。これは瀬戸内海航行の際の作であるから、紀淡海峽を出て南行する筈はない。
〔許〕 誤字があるらしいから、評はやめて置かう。ともかく難波津から西行する時の作らしい。下に、柿本朝臣人麿下2筑紫國1海路作歌二首があるから、或はその往路の作かも知れない。
 
250 玉藻苅る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が埼に 船近づきぬ 一本云、處女を過ぎて夏草の野島が埼にいほりす吾は
 
玉藻苅《タマモカル》 敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》 夏草之《ナツクサノ》 野島之埼爾《ヌジマガサキニ》 船近著奴《フネチカヅキヌ》
 
美シイ藻ヲ苅ル敏馬ノ浦ヲ過ギテ(夏草之)野島ノ埼ニ舟ガ近ヅイテ來タ。今夜ノ泊ル所モ近ヅイタ。嬉シイ〔今夜〜傍線〕。
 
(279)○珠藻苅敏馬乎過《タマモカルミヌメヲスギテ》――珠藻苅ハ敏馬の上に冠したのであるが、純粹の枕詞ではない。敏馬は神戸の東に接した今の西灘村。○夏草之《ナツクサノ》――枕詞。夏草の萎《ナ》ゆを約めて、ヌとして野島に續けたもの。
〔評〕 難波の三津の崎を出た舟が、敏馬の浦も過ぎて、明石海峽に入り、野島が埼に近づいたのである。宿泊地の近づいた嬉しさが、歌調にもあらはれてゐる。珠藻苅と夏草之とを對比して調を整へてゐるやうだ。
 
一本云、處女乎過而《ヲトメヲスギテ》 夏草乃《ナツクサノ》 野島我埼爾《ヌジマガサキニ》 伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》
 
○處女乎過而《ヲトメヲスギテ》――處女は敏馬の誤とする説もあるが、處女塚のある地で、即ち蘆屋である。○伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》――我らは庵すの意。庵すは小屋を作つて宿ること。この歌卷十五の三六〇六に當v所誦詠古歌として遣新羅使一行に歌はれたことが出てゐる。
 
251 淡路の 野島が埼の 濱風に 妹が結びし 紐吹きかへす
 
粟路之《アハヂノ》 野島之前乃《ヌジマガサキノ》 濱風爾《ハマカゼニ》 妹之結《イモガムスビシ》 紐吹返《ヒモフキカヘス》
 
今〔傍線〕淡路ノ野島埼ニ碇泊シテヰルト、其處〔ニ碇〜傍線〕ノ濱風デ、旅ニ出ル時ニ〔六字傍線〕、妻ガ結ンデクレタ私ノ衣服ノ〔五字傍線〕紐ヲ、吹キ翻ヘスヨ。家ニ遺シテ來タ妻ガ思ヒ出サレテ恋戀シイ〔家ニ〜傍線〕。
 
○粟路之《アハヂノ》――淡路の國の。この國名は、阿波への通路にあるから、起つたものと言はれてゐる。○妹之結《イモガムスビシ》――ムスベルとよむべしと槻の落葉や、古義にいつてゐるが、舊訓のままでよからう。○紐吹返《ヒモフキカヘス》――紐は上衣(280)の紐である。挿入圖は日本風俗沿革圖から摸寫縮圖したもので、人麿時代官吏の平常服である。領の紐を示す爲に掲げたのである。
〔評〕 實に哀情の籠つた歌である。眞心こめて旅の安全を祈つて、妻が結んでくれた紐のはためきが、さながら其處に妻の心の躍動を見るやうに思はれるのである。
 
252 あらたへの 藤江の浦に 鱸釣る 海人とか見らむ 旅行く吾を 一本云、白栲の藤江の浦にいざりする
 
荒栲《アラタヘノ》 藤江之浦爾《フヂエノウラニ》 鈴寸釣《スズキツル》 白水郎跡香將見《アマトカミラム》 旅去吾乎《タビユクワレヲ》
 
旅ヲシテヰル私ダノニ、世間ノ人ハ〔五字傍線〕(荒栲)藤江ノ浦デ鱸ヲ釣ル漁師ト思フデアラウカ。私ハ今コノ浦ノ景色ヲ見テヰルノニ、海人ト思フカモシレナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○荒栲《アラタヘノ》――枕詞。藤麓で織つた衣を荒栲といふからである。○藤江之浦爾《フヂエノウラニ》――和名抄に播磨國明石郡葛江、布知衣とある處で、明石の西に接した地。二四九の地圖參照。○旅去吾乎《タビユクワレヲ》――旅行く我なるものをの意。
〔評〕 旅人のみすぼらしい姿が、漁夫に見違へられさうなのである。旅のあはれと共に、輕い氣分も出てゐるやうだ。この歌は次の卷十五の三六〇七の外に、卷七の一一八七・一二〇四・一二三四など似通つた歌がある。
 
一本云、白栲乃《シロタヘノ》 藤江能浦爾《フヂエノウラニ》 伊射利爲流《イザリスル》
 
上の句の異傳である。前の玉藻苅の歌と共に、卷十五の三六〇七にこの通りに出てゐる。白栲乃では藤につづく枕詞として、穩やかでないやうに思はれる。
 
253 稻日野も 行き過ぎがてに 思へれば 心戀しき 可古の島見ゆ 一云、みなと見ゆ
 
稻日野毛《イナビヌモ》 去過勝爾《ユキスギガテニ》 思有者《オモヘレバ》 心戀敷《ココロコホシキ》 可古能島所見《カコノシマミユ》
 
印南野ノ景色〔三字傍線〕モ面白クテ、行キ過ギ難ク思ツテヰルノニ、カネガネ聞キ及ンデ見タイモノト〔カネ〜傍線〕戀シク思ツテヰタ、可古ノ島ガ彼方ニ〔三字傍線〕見エル。彼方ヘモ早ク行キタイシ此處モ見捨テ難イ〔彼方〜傍線〕。
 
(281)○稻日野毛《イナビヌモ》――稻日は卷一に伊奈美國波良《イナミクニハラ》(一四)とあると同じく、即ち播磨の印南野である。明石と可古川との中間の平野。○去過難爾《ユキスギガテニ》――去き過ぎ兼ねての意であるが、勝《ガテ》は堪《タヘ》と同じく、爾《ニ》は打消である。即ち行き過ぐるに堪へずの意。○心戀敷《ココロコホシキ》――卷五に毛毛等利能己惠能古保志枳《モモトリノコヱノコホシキ》(八三四)とあるから、コホシキがよからう。卷十七には鳴鳥能許惠乃孤悲思吉登岐波伎爾家里《ナクトリノコヱノコヒシキトキハキニケリ》(三九八七)とあるから、コヒシキでもよいのである。が、ここは古い形によらう。六七參照。○可古能島所見《カコノシマミユ》――可古能島は加古川の河口の渚《ス》だらうといふ。この邊には島といふべきものは他にない。この渚が即ち高砂である。久老が阿古の誤として攝津の地名とし、吾兒にかけて見たのはわるい。
〔評〕 印南野の好景にも未だ飽かぬに、可古の島の佳景も前に迫つたといふので、舟中の眺望が次から次へと轉轉して、旅情を慰める心持がよく出てゐる。ふつくりした柔味のある歌である。
 
一云|潮見《ミナトミユ》
 
潮の字は湖の誤と槻落葉にあるのは誤。潮葦《ミナトアシニ》(二四六八)・潮核延子菅《ミナトニサネハフコスゲ》(二四七〇)の如き、皆ミナトとよんでゐる。蓋し湖と通じて用ゐるので、湖の字はミナトとよんだ例が多い。島よりも湊の方がよいやうだ。
 
254 ともしびの 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
 
留火之《トモシビノ》 明大門爾《アカシオホトニ》 入日哉《イラムヒヤ》 榜將別《コギワカレナム》 家當不見《イヘノアタリミズ》
 
私ノ乘ツテヰル船ガ〔九字傍線〕(留火之)明石ノ大瀬戸ニ入ラウトスル日ニハ、今マデ見エテヰタ〔八字傍線〕家ノ方ガ見エナクナルヤウニ、漕ギ離レテシマフデアラウ。名殘惜シイ〔五字傍線〕。
 
○留火之《トモシビノ》――留の字は燭又はその省畫の蜀の誤だらうといふ説がある。さうかも知れない。併し留は、留不得《トドメエヌ》(四六一)留有《トドマレル》(一四五三)留不知毛《トマリシラズモ》(一七一九)誰留流《タレカトドムル》(二六一七)などの例によれば、トムとトモと音が近いから、トモシと用ゐられぬ文字でも無ささうである。槻の落葉にトマリ火の轉として、トモリ火とよんだのも參考すべき説で(282)あらう。明石の枕詞。○明大門爾《アカシオホトニ》――大門はオト又はオドともよんであるが、オホトがよからう。大瀬戸の意。○家當不見《イヘノアタリミズ》――家の邊も見えずの意で、四の句の上に轉じて解すべきであらう。哉《ヤ》を不見《ミズ》で結んだのではない。
〔評〕 大和を出て西航する時の歌である。これをイヘノアタリミユとする説があるのは、西から都へ歸る時と見たものであるが、よくない。下の句の措辭に落付かぬところがある。
 
255 天さかる 夷の長道ゆ 戀ひ來れば 明石の門より 大和島見ゆ 一本云、やどのあたり見ゆ
 
天離《アマサカル》 夷之長道從《ヒナノナガヂユ》 戀來者《コヒクレバ》 自明門《アカシノトヨリ》 倭島所見《ヤマトシマミユ》
 
私ガ〔二字傍線〕(天離)田舍ノ長イ道中ヲ、家ノ方ガ〔四字傍線〕戀シクナツカシク思ヒツツ漕イデ〔三字傍線〕來ルト、明石ノ瀬戸カラ大和ノ國ガ見エルヨ。イヨイヨ家モ近ヅイタ。嬉シイ、嬉シイ〔イヨ〜傍線〕。
 
○天離夷之長道從《アマサカルヒナノナガヂユ》――從《ユ》はヨリ、カラの意に用ゐられるのが常であるが、ヲの意の場合もある。これはそれである。○倭島所見《ヤマトシマミユ》――倭嶋は大和の國をいつたのである。島でなくてもシマといつた例は、ないことはないが、これは海上に見えるから、シマといつたのであらう。この倭島を淡路に求めて、繪島の南、石屋神社の祠前にあるとした大日本地名辭書は、大なる誤である。
〔評〕 これは西より大和へ歸らうとして、明石海峽に至り、始めて遠く葛城・生駒の諸山を望んで、狂喜した歌である。雀躍抃舞の樣も思ひやられて、あはれである。これを西航の時の作とするのは、この歡喜に溢れてゐる歌詞を味はひ得ざるものである。
 
一本云|家門當所見《ヤドノアタリミユ》
 
五の句の異傳である。本歌よりも劣つてゐる。門は乃の誤だらうといふ説もある。これも卷十五に安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久禮婆安可思能門欲里伊敝乃安多里見由《アマザカルヒナノナガヂヲコヒクレバアカシノトヨリイヘノアタリミユ》(三六〇八)とある歌である。
 
256 飼飯の海の には好くあらし 苅薦の 亂れ出づ見ゆ 海人の釣船
 
飼飯海乃《ケヒノウミノ》 庭好有之《ニハヨクアラシ》 苅薦乃《カリコモノ》 亂出所見《ミダレイヅミユ》 海人釣船《アマノツリブネ》
 
(283)飼飯ノ海ハ海上穩ヤカト見エル。遙カニ見渡スト澤山ニ〔遙カ〜傍線〕(苅薦乃)バラバラニナツテ、漁師ノ釣舟ドモガ出テヰルノガ見エル。
 
○飼飯海乃《ケヒノウミノ》――淡路國三原郡の西海岸に笥飯野といふ所がある。そこの海であらう。越前の敦賀の海も笥飯といふが、それではない。○庭好有之《ニハヨクアラシ》――庭《ニハ》は海面を言つたのである。好有之《ヨクアラシ》は好くあるらしで、穩やかであらうの意。○苅薦乃《カリコモノ》――亂れとつづく枕詞。○亂出所見《ミダレイヅミユ》――亂れ出づるが見ゆの意ではあるが、略解のやうにイヅルミユとせず、イヅミユと訓むのが古格である。
〔評〕 海上に、多くの漁船が算を亂して出た有樣を歌つたのである。すがすがしい氣分の叙景詩である。玲瓏として玉を延べたやうな光輝と、氣韻とを備へてゐる。
 
一本云、武庫の海 にはよくあらし 漁する 海人の釣船 浪の上ゆ見ゆ
 
一本云、武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見《ムコノウミニハヨクアラシイザリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》
 
これも卷十五、武庫能宇美能爾波余久安良之伊射里須流安麻能都里船奈美能宇倍由見由《ムコノウミノニハヨクアラシイザリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》(三六〇九)とある歌である。この武庫乃海舶爾波有之を、ムコノウミフナニハナラシとよんだり、ムコノウミノフネニハアラシとよんだりしてゐるが、いづれも無理である。ここの一本とあるは、すべて卷十五の歌に一致してゐるから、これも卷十五の通りによむべきで、舶は衍、波の下に好の字を脱したのであらう。神田本にはさうなつてゐる。
 
鴨君足人《カモノキミタリヒト》香具山(ノ)歌一首并短歌
 
鴨君足人は傳未詳。君の字、續紀「天平寶宇三年冬十月辛丑天下諸姓著2君字1者、換以2公字1、」とある。これはそれ以前に書いたものであらう。香具山は二及び二八參照。
 
257 天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池浪立ちて 櫻花 木のくれ茂に 沖邊には 鴨め喚ばひ 邊つべに あぢむらさわぎ 百磯城の 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には かぢ棹も 無くてさぶしも 漕ぐ人なしに
 
(284)天降付《アモリツク》 天之芳來山《アメノカグヤマ》 霞立《カスミタツ》 春爾至婆《ハルニイタレバ》 松風爾《マツカゼニ》 池浪立而《イケナミタチテ》 櫻花《サクラバナ》 木晩茂爾《コノクレシゲニ》 奧邊波《オキベニハ》 鴨妻喚《カモメヨバヒ》 邊津方爾《ヘツベニ》 味村左和伎《アヂムラサワギ》 百磯城之《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》 退出而《マカリデテ》 遊船爾波《アソブフネニハ》 梶棹尾《カヂサヲモ》 無而不樂毛《ナクテサブシモ》 已具人奈四二《コグヒトナシニ》
 
(天降付)天ノ香具山は、霞ノ立ツ春ニナルト、松風デ埴安ノ〔三字傍線〕池ノ浪ガ立チ騒ギ、櫻ノ花ハ木ガ暗イヤウニ茂ツテヰル奧ニ咲イテヰル。池ノ〔六字傍線〕沖ノ方ニハ鴎ガ嶋イテ居、岸ノ方ニハ味鴨ガ群ヲナシテ騒イデヰル。(百磯城之)御所ニ奉仕スル人ガ、退出シテ乘ツテ遊ブ船ニハ、櫂モ棹モ無クテ淋シイ景色ダナア。漕グ人ガ無イカラ。高市皇子ガ薨去遊バシテカラハ、皇子ノ香具山ノ御所ヒドク荒レ果テタモノダ。アア悲シイ〔高市〜傍線〕。
 
○天降付《アモリツク》――アマオリツクの約で、天から天降つて地上に附いた意。伊豫風土記に「伊豫郡、自2郡家1以東北、在2天山1、所v名2天山1由者、倭在天加具山自v天降時、二分而以2片端1者天2降於倭國1、以2片端1者天2降於此土1、因謂2天山1本也」と見える古傳説から出來た枕詞らしい。○木晩茂爾《コノクレシゲニ》――木晩《コノクレ》は木の茂つた陰の暗いこと。爾《ニ》を古義に彌《ミ》の誤としてゐる。もとの儘で、咲きといふ詞を添へて見るがよい。○鴨妻喚《カモメヨバヒ》――カモツマヨバヒと契沖はよんでゐるが、卷一の天皇登2香具山1望v國之時御製歌に加萬目立多都《カマメクチタツ》(二)とあるから、これも鴨妻《カモメ》に相違ない。又次の味村左和伎《アヂムラサワギ》の句の對としても、カモメヨバヒと言ふべきところである。○味村左和伎《アヂムラサワギ》――味村《アヂムラ》は味といふ鳥の群、味は味鳧《アヂカモ》といふ游禽類の一で、鴨に似て小さく、頭は黒褐色、翼は灰色、背は藍灰色に暗赤色の羽根を混じ、胸部は黄赤色に小さい黒點があり、群棲を好む性質がある。○遊船爾波《アソブフネニハ》――遊ぶべき船にはの意。ここでは遊んだ舟といつても同じである。
(285)〔評〕 高市皇子の薨去後、その香具山の宮には奉仕する人も無く、日々に荒れ増つて行つた四邊の荒凉・寂寥の景を、巧みに詠出してゐる。松風に池の浪が立ち、櫻花が木陰に咲き、埴安の池には、鴎や味鳧の群が騷いでゐる景色は、一幅の好畫圖である。この景中に、汀に乘り捨てられた小舟を點出して、往時を偲ばしめ、漕ぐ人なしにと結んだところは、言ふべからざる淋しさが漲つてゐる。
 
反歌二首
 
258 人榜がず 在らくも著《しる》し かづきする 鴛鴦とたかべと 船の上に住む
 
人不榜《ヒトコガズ》 有雲知之《アラクモシルシ》 潜爲《カヅキスル》 鴦與高部共《ヲシトタカベト》 船上住《フネノヘニスム》
 
人ガコノ頃乘ツテ〔六字傍線〕漕ガナイコトハ、著シクヨクワカル。見レバ〔三字傍線〕水ノ中ヘモグリ込ム鳥ノ鴛鴦ト※[爾+鳥]《タカベ》トガ、共ニ舟ノ上ニ棲ンデヰルヨ。
 
○有雲知之《アラクモシルシ》――有ルラクモ著シで、有ることが著しくよく分るといふのだ。○潜爲《カヅキスル》――鴦と高部とにかかつてゐて、その性質を述べたのである。固より今水中に潜つてゐるのではないが、枕詞でもない。○鴦與高部共《ヲシトタカベト》――鴦《ヲシ》は人のよく知る水鳥である。高部《タカベ》は和名抄に「※[爾+鳥]多加閉。一名沈鳧、貌似v鴨而小、背上有v文」とある。俗に小鴨と稱する鳥である。
〔許〕 乘る人もない捨小舟の上に、鴦と高部とが靜かに眠つてゐる樣を述べて、閑寂蕭條の趣をあらはしてゐる。老巧な手腕である。
 
259 何時の間も 神さびけるか 香具山の 鉾杉が本に こけ生すまでに
 
何時問毛《イツノマモ》 神左備祁留鹿《カムサビケルカ》 香山之《カグヤマノ》 鉾椙之本爾《ホコスギガモトニ》 薛生左右二《コケムスマデニ》
 
コノ〔二字傍線〕香具山ノ、鉾ノヤウナ形ヲシテヰル杉ノ幹ニ、蘿《コケ》ガ生エル程モ、何時ノ間ニマア、カヤウニ古ビテ神々シク(286)ナツタノデアラウゾ。高市皇子ノ薨去遊バシタノハ、昨日ノヤウニ思ハレルノニ、御所ノアタリノ樹木ハ、コンナニ古々シクナツタ。年月ノ經ツノハ早イモノダ〔高市〜傍線〕。
 
○何時間毛《イツノマモ》――毛《モ》はマアといふ意で、詠歎の助詞である。○香山之《カグヤマノ》――香具山之とあるべき具の字を省いてあるやうに見えるが、さうではない。香は韻鏡内轉第三十一開、陽韻喉音曉母の音で呉音Kangであるから、おのづからカグの音があるのである。卷十一にも香山爾《カグヤマニ》(二四四九)とあり、又卷八の伊香山《イカゴヤマ》(一五三三)とあるも同理である。○鉾椙之本爾《ホコスギガモトニ》――鉾椙は鉾のやうな形をした杉で、杉は眞直に伸びてゐるから、鉾の形をしてゐるものが多い。鉾ほどの長さの若杉だといふ説も、亦、鉾の形をした若杉と見る説も、どうかと思はれる。もし若杉に限つて鉾椙といふとすれば、神さびて蘿むせるものは、もはや鉾椙とは言はれないのではあるまいか。本《モト》は、幹である。根元ではない。これを末《ウレ》と改めた考の説はいけない。卷二に子松之末爾蘿生萬代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》(二二八)とあつても、それに傚ふ必要はない。椙は※[木+温の旁]と同じく、杉に用ゐてある。これを※[木+温の旁]の誤字とした説はわるい。○薛生左右二《コケムスマデニ》――薛はマサキノカヅラのことであるが、ここは蘿と同じく、サガリゴケのことに用ゐたのである。一一三參照。
〔評〕 前の歌どもと着眼點を異にし、月日は知らぬ間に經過して、皇子の御在世中、若木であつた杉の、何時しか古々しくなつたことを詠嘆して、あはれ深い。敬慎な懷舊、沈重な語氣。
 
或本歌云
 
260 天降りつく 神の香具山 うち靡く 春さりくれば 櫻花 木のくれ茂み 松風に 池浪さわぎ 邊つべには あぢむらとよみ 沖邊には 鴎喚ばふ 百磯城の 大宮人の 退り出でて 榜ぎける船は 棹かぢも 無くてさぶしも 榜がむと思へど
 
天降就《アモリツク》 神乃香山《カミノカグヤマ》 打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》 櫻花《サクラバナ》 木晩茂《コノクレシゲミ》 松風丹《マツカゼニ》 池浪※[風+火三つ]《イケナミサワギ》 邊津返者《ヘツベニハ》 阿遲村動《アヂムラトヨミ》 奧邊者《オキベニハ》 鴨妻喚《カモメヨバフ》 百式乃《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》 去出《マカリイデテ》 ※[手偏+旁]來舟者《コギケルフネハ》 竿梶母《サヲカヂモ》 無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》 ※[手偏+旁]與雖思《コガムトモヘド》
 
(287)○神乃香山《カミノカグヤマ》――神乃《カミノ》は神聖なる意。○打靡《ウチナビク》――枕詞。春は草木の若くて、しなひ靡く故に春とつづけるのである。○池浪※[風邪+炎三つ]《イケナミサワギ》――※[風邪+炎三つ]はツムジカゼ、オホカゼといふ字であるが、ここは動詞として、風に波の立ち騷ぐことに用ゐたのである。舊訓はタチテ、古義はタチとある。
 
右今案(ズルニ)遷(シシ)2都(ヲ)寧樂1之後、怜(シミテ)v舊(ヲ)作(ル)v此歌(ヲ)1歟
 
これは後人の註で、飛んでもない見當違ひである。
 
柿本朝臣人麿献(ズル)2新田部皇子(ニ)1歌一首、并短歌
 
新田部皇子は天武天皇紀に「藤原大臣(ノ)女、五百重娘、生2新田部皇子1」とあり、續紀に、「七年九月壬午、一品新田部親王薨云々、親王、天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也」とある。
 
261 やすみしし 吾大王 高光る 日の皇子 敷きいます 大殿の上に ひさかたの 天傳ひ來る 雪じもの 往きかよひつつ いや常世まで
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高輝《タカヒカル》 日之皇子《ヒノミコ》 茂座《シキイマス》 大殿於《オホトノノウヘニ》 久方《ヒサタラノ》 天傳來《アマヅタヒクル》 白雪仕物《ユキジモノ》 往來乍《ユキカヨヒツツ》 益及常世《イヤトコトマデ》
 
(八隅知之)私ノオ仕ヘ申ス新田部皇子樣(高輝)天子樣ノ皇子ガ、オ構ヘ遊バシテ御住ヒナ〔六字傍線〕サル御殿ヘ(久方天傳來白雪仕物)往キ通ツテ、永久ニ奉仕致シマセウ〔七字傍線〕。
 
○高輝《タカヒカル》――輝の字、神田本に耀とある。いづれでもヒカルとよんでよい。○茂座《シキイマス》――茂《シキ》は借字で、占め構ふること。座の字はマスともイマスともよむ。ここはイマスがよい。○大殿於《オホトノノウヘニ》――大殿は八釣山なる皇子の宮を言つたのである。於は上と同じ字である。ここは荒妙之藤原我宇倍爾《アラタヘノフヂハラガウヘニ》(五〇)と同じく、邊にの意であらう。○久方天傳來白雪仕物《ヒサカタノアマヅタヒクルユキジモノ》――往きと績ける爲の序詞。舊本白を自に誤る。○往來乍益及常世《ユキカヨヒツツイヤトコヨマデ》――往來乍は上の續き(288)からユキとよみ起すべきは當然であるが、往來の二字は蟻往來《アリガヨヒ》(九三八)・言母不往來《コトモカヨハヌ》(一七八二)の如く、カヨフとよむ慣習があるから、ここはユキカヨヒツツと、よむがよいやうに思はれる。ユキキタリツツともよめるが、語をなさない。及常世は及萬代《ヨロヅヨマデニ》(一九六)・及家左右《イヘニイタルマデ》(九七九)などに從へば、トコヨマデであるから、益をイヤとよんでイヤトコヨマデが最も合理的訓法である。この句は文字を補つたり改めたりして、種々のよみ方があるけれども、いづれも採るに足らぬ。
〔評〕 卷一にあつた吉野宮に行幸の時に、この人が作つた歌を、更に切りつめて短くしたやうな歌だ。この人の作としては珍らしい短い長歌である。
 
反歌一首
 
262 矢釣山 木立も見えず 落り亂る 雪にさわげる 朝樂しも
 
矢釣山《ヤツリヤマ》 木立不見《コダチモミエズ》 落亂《フリミダル》 雲驪《ユキニサワゲル》 朝樂毛《アシタタヌシモ》
 
矢釣山ノ木立モ見エナイ程モ盛ニ〔二字傍線〕降リ亂レテヰル雪ノ中デ、騷ギ遊ン〔二字傍線〕デヰル今朝ハ樂シイヨ。
 
○矢釣山《ヤツリヤマ》――高市郡飛鳥村大字八釣の山で、卷二(一〇三)の大原の里の寫眞の左方の山が即ちそれである。この麓に新田部皇子の宮殿があつたのであらう。顯宗天皇の近飛鳥八釣宮も此處にあつたのである。○雪驪《ユキニサワゲル》――驪の字の訓、古來樣々である。これをハダラとよむ説が仙覺以來多く行はれてゐる。考には※[足+麗]の誤としてユキニキホヒテ、古義には驟の誤としてユキニサワギテとよんでゐる。文字を改めるのは賛成しかねるが、類聚古集は驟となつてゐるのであるから、或は本來驟であつたかも知れない。又この驪の字は、本集中全く他に用例がないから、誤字説も有力である。予は類聚古集に從ひ、サワゲルと訓まうと思ふ。もし文字を流布本通りにして置くならば、代匠記精撰本にユキニクロコマとよんであるのに從ひたい。新訓にユキニコマウツとあるのも面白いが、ウツがどうも賛同しかねる。ユキニサワゲルは雪の中で戯れ騷いでゐる意。○朝樂毛《アシタタヌシモ》――朝は樂しいよの意。朝をマヰリとよんで、マヰテクラクモ、マヰデタノシモ、マヰリクラクモ、マヰラクヨシモなどの訓(289)があるが、從ふべきでない。朝はマヰリとよんだ例は他にない。卷十八に朝參乃《マヰリノ》(四一二一)とあるが、これは朝の字をマヰリとよんだのではない。
〔評〕 矢釣山の冬の朝の好景に雀躍してゐる樣が、見えるやうである。長歌よりもこの反歌の方がすぐれてゐる。
 
從2近江(ノ)國1上(リ)來(ル)時、刑部垂麿《オサカベタリマロ》作(レル)歌一首
 
刑部は忍坂部で、和名抄に「大和國城上郡忍坂、於佐加」とあるから、此處から出た氏であらう。この氏人が刑部《ウタヘ》の職にあつたから、刑部をオサカベといふのだらうと宣長は言つてゐる。垂麿の傳は明らかでない。
 
263 馬ないたく 打ちてな行きそ け竝べて 見ても我が行く 志賀にあらなくに
 
馬莫疾《ウマナイタク》 打莫行《ウチテナユキソ》 氣並而《ケナラベテ》 見?毛和我歸《ミテモワガユク》 志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》
 
私ハコノ景色ノヨイ志賀ヲ〔コノ〜傍線〕、日ヲ重ネテ幾日モ幾日モカカツテ〔幾日〜傍線〕見テ行クトイフ譯ニハ行カヌ旅ダカラ、馬ヲヒドク打ツテ速ク〔二字傍線〕歩カセルナ。セメテ馬上ナガラユルユル見テ行カウ〔セメ〜傍線〕。
 
○馬莫疾《ウマナイタク》――この句の莫《ナ》の字を衍とする説が多い。第二句に莫《ナ》があつて重複するからである。併し恐らくこの儘でよいのであらう。古義に吾馬疾《アガマイタク》と改めたのは妄で、かつ拙い。○氣並而《ケナラベテ》――氣《ケ》は日。日を並べ重ねて、數日かかつて。○見?毛和我歸《ミテモワガユク》――歸の字はユクとよむ。天歸月乎《アメユクツキヲ》(二四〇)・手折而將歸《タヲリテユカム》(二八〇)の類、用例が多い。○志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》――志賀ではないのにの意。七の字は亡の誤と槻の落葉・略解・古義にあるのは、了解に苦しむ。奈具佐末七國《ナグサマナクニ》(九六三)・濱有七國《ハマナラナクニ》(一〇六六)などいくらも例がある。
〔評〕 この歌は馬方に向つて言ふものとも、又僚友に言ふものとも解せられるが、數人の同行があるとも思はれないから、馬方に言ふのであらう。題詞では近江から始めて都に上る時のやうに思はれるが、歌の趣では、琵琶湖畔の好景を見馴れてゐる人らしくない。やはり大和の人で、志賀に赴いて、歸らうとする時に詠んだので(290)あらう。次の人麿の作の題詞にも、從2近江國1上來時とある。
 
柿本朝臣人麿、從2近江國1上來《ル》時、至(リ)2宇治河邊(ニ)1作(レル)歌一首
 
この題詞の書き方によつて、人麿は近江の人であらうといふ考の別記にあるやうな説も出てゐる。固より遽かに從ひ難い。
 
264 もののふの 八十氏河の 網代木に いさよふ浪の 行方知らずも
 
物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》 不知代經浪乃《イサヨフナミノ》 去邊白不母《ユクヘシラズモ》
 
(物乃部能八十)宇治川ノ網代木ニ漂ツテヰル波ガ、見テヰル内ニ見エナクナツテ〔見テ〜傍線〕、何處ヘ行ツタトモワカラナイナア。人モソノ通リデ、一寸コノ世ニ生レテモ、スグニ何處ヘカ去ツテシマフモノダ〔人モ〜傍線〕。
 
○物乃部能八十氏河乃《モノノフノヤソウヂガハノ》――物乃部能八十《モノノフノヤソ》は宇治河の序詞である。物の部、即ち朝廷に奉仕する武人の、氏の數が多いので、八十氏といつて、宇治川につづける。○阿白木爾《アジロギニ》――竹木を編んで列ね、これを川の瀬に網として、魚を捕へるものを網代といふ。網代の代は、苗代の代と同じで、網を架ける場所をいふのであらう。網の代《カハリ》と解する舊説は、蓋し當つてゐない。竹の簀でも、魚を捕る爲に編んで作つたのは網である。その網代の料に立てた棒杭が網代木である。宇治の網代は冬季流れ下る氷魚《ヒヲ》を捕へるもの。○不知代經浪乃《イサヨフナミノ》――イサヨフは、すべて進まむとして進み得ないことをいふ。浪が流れようとして流れないで、たゆたふのをいふのである。○去邊白不母《ユクヘシラズモ》――波が流れ去つて、その行方が分らぬといふのである。母《モ》は詠嘆の助詞。
〔評〕 單なる叙景と見る説と、無常觀を歌つたのだとする説とある。去邊白不母《ユクヘシラズモ》といふ句には、叙景以外に感傷的な氣分があり、又近江國から上つて來た時とすると、近江の舊都が荒廢した状況を目のあたりに見て、世の變轉の激しいのに驚いた彼は、ここにいさよふ浪に感慨を托して、詠出したとも考へられるのである。予は後説を採らうと思ふ。網代木にいさよふ浪を見て感慨に沈んだのは、いかにも多感の詩人らしい。卷七の大伴之(291)三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマベヲウチサラシヨリクルナミノユクヘシラズモ》(一一五一)と似た作である。
 
長忌寸奧麻呂《ナガノイミキオキマロ》歌一首
 
265 苦しくも 零り來る雨か みわが埼 佐野のわたりに 家もあらなくに
 
苦毛《クルシクモ》 零來雨可《フリクルアメカ》 神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡爾《サヌノワタリニ》 家裳不有國《イヘモアラナクニ》
 
苦シクモマア、降ツテ來ルヒドイ〔三字傍線〕雨ダヨ。コノ三輪ガ崎ノ佐野ノ渡場ニハ家モナイノニ。アア辛イコトダ〔七字傍線〕。
 
○零來雨可《フリクルアメカ》――降り來る雨かなの意。○神之埼狹野乃渡爾《ミワガサキサヌノワタリニ》――神之埼は舊訓ミワノサキであるが、ミワガサキがよいやうに思ふ。即ち紀伊國東牟婁郡の海岸で、那智と新宮との間にあり、狹野も其處にあつて、川が流れてゐる。渡は即ちその川の渡船場である。
〔評〕 雨に惱んだ困惑の情をありのままに飾らず表現して、あはれが深い作である。これを本歌として藤原定家は「駒とめて袖うち拂ふかげもなし佐野の渡の雪の夕ぐれ」(新古今集)とし、またその歌よりして、謠曲鉢の木の雄篇が生れたことを考へると、この歌は、我が文學史上に大きな影響を及ぼした作と言はねばならぬ。
 
柿本朝臣人麿歌一首
 
266 淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ
 
淡海乃海《アフミノミ》 夕浪千鳥《ユフナミチドリ》 汝鳴者《ナガナケバ》 情毛思努爾《ココロモシヌニ》 古所念《イニシヘオモホユ》
 
(292)近江ノ琵琶湖デ、夕方立ツ浪ニツレテ鳴ク千鳥ヨ。汝ガ鳴クト、私ハ〔二字傍線〕心モシヲシヲト萎レテ、昔此所ニアツタ志賀ノ都〔十字傍線〕ガ思ハレル。
 
○夕浪千鳥《ユフナミチドリ》――夕方立つ浪につれて鳴く千鳥。人麿の巧な新造語である。千鳥は水邊にゐる小さい鳥で、嘴は蒼黒く背は青黒、腹は白く、尾は短く脚は細くて後趾が無い。○情毛思努爾《ココロモシヌニ》――心もしをれてといふ意。卷八に暮月夜心毛思努爾《ユフツクヨココロモシヌニ》(一五五二)、卷十三|借薦之心文小竹荷《カリコモノココロモシヌニ》(三二五五)などその他用例が多い。
〔評〕 感傷的な、物哀な歌としては、人麿作中屈指の佳什である。心無き千鳥の聲に耳を傾けて、往時を思ふ情が、流麗な温雅な、滑らかな調子に盛られて、汲めども盡きないあはれさが泉の如く湛へられてゐる。
 
志貴《シキノ》皇子御歌一首
 
志費皇子は天智天皇の皇子、靈龜二年八月五日薨、春日宮天皇と謚す。五一・二三〇參照。
 
267 ※[鼠+吾]鼠は 木ぬれ求むと あしびきの 山の獵夫《さつを》に あひにけるかも
 
卑佐佐婢波《ムササビハ》 木末求跡《コヌレモトムト》 足日木乃《アシヒキノ》 山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》 相爾來鴨《アヒニケルカモ》
 
※[鼠+吾]鼠ハ梢ニ行カウト思ツテ、却ツテ〔三字傍線〕(足日木乃)山ノ獵師ニ見ツカツテ、獲ラレテシマツ〔七字傍線〕タワイ。オトナシクシテヰレバヨイニ、馬鹿ナ奴ダ〔オト〜傍線〕。
 
(293)○牟佐佐婢波《ムササビハ》――※[鼠+吾]鼠は囓齒類の一種で兎に似て、前後の肢間に膜があつて、樹上を飛行する小獣である。深山の林中に棲んでゐる。○山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》――山能佐都雄の佐都《サツ》は得物矢《サツヤ》のサツで、山の幸《サチ》のサチと同じである。山で獵をする男をいふ。
〔評〕 面白い作である。徒らに高きを望んで、身をあやまつた者を嘲はれたのである。この頃皇族の間に、謀叛の罪に問はれた方々があつたのを詠まれたものか。
 
長屋《ナガヤノ》王故郷歌一首
 
長屋王は天武天皇の御孫。高市親王の御子。佐保大臣と號した。天平元年謀叛の疑を受けて、自盡せしめられたお方である。七五參照。故郷は舊都、即ち飛鳥都をさしてゐる。
 
268 吾背子が 古家の里の 明日香には 千鳥なくなり 君待ちかねて
 
吾吉子我《ワガセコガ》 古家乃里之《フルヘノサトノ》 明日香庭《アスカニハ》 乳鳥鳴成《チドリナクナリ》 島待不得而《キミマチカネテ》
 
貴方ガモト住ンデイラシヤツタ、家ノアル飛鳥ノ里デハ、貴方ノオ歸リヲ待チカネテ、千島ガ頻リニ嶋イテ居リマス。
 
○吾背子我《ワガセコガ》――背子《セコ》は男を親しんでいふ語で、ここは友人を指されたのである。○島待不得而《キミマチカネテ》――島の字は誤謬であらう。君の誤とする考の説に從ふ。
〔評〕 舊都の飛鳥を訪問せられ、他の皇子たちの舊宅を御覽になつて、この歌を詠み贈られたものであらう。何となく人なつこい感じの作である。
 
右今案從2明日香1遷(レル)2藤原宮1之後、作(レル)2此歌(ヲ)1歟
 
この註の通りである。然るに喜田貞吉氏の「帝都」の飛島京の條に、藤原を飛鳥といつた證として、この(294)歌を擧げてゐる。併しこの歌は前後を見ても藤原京時代の作と思はれ、又長屋王は、平城遷都の前年、即ち和銅二年十一月には、從三位で宮内卿になられ、年齡も三十四歳になつて居られるから、右の歌を藤原に於て作られたと見て、少しも差支ないのである。予はこの註に從はうと思ふ。但し藤原も、廣義の飛鳥の一部と見られたことは、既に七八に説いて置いた。
 
阿倍女郎|屋部坂《ヤベサカ》歌一首
 
阿倍女郎は傳未詳。阿倍氏の女であらう。屋部坂は三代實録三十八に、高市郡夜部村とある地の坂であらうと宣長は言つてゐる。大日本地名辭書には、今、磯城郡多村大字矢部をこれに擬してゐるが、ここは平坦地で、こんな坂がありさうでない。又、歌の内容から忖度して、屋祁《ヤケ》坂だらうといふ説をなすものもあるが、臆説に過ぎない。
 
269 人見ずば 我が袖もちて 隱さむを 燒けつつかあらむ 著ずて來にけり
 
人不見者《ヒトミズバ》 我袖用手《ワガソデモチテ》 將隱乎《カクサムヲ》 所燒乍可將有《ヤケツツカアラム》 不服而來來《キズテキニケリ》
 
コノ山ハ燒山デ赤裸デ、見苦シイカラ〔コノ〜傍線〕人ガ見テヰナイナラバ、私ノ袖ヲ以テ隱シテヤラウヨ。イツモコノ山ハ〔七字傍線〕燒ケテヰルノデセウ。着物ナシデ以前カラ〔四字傍線〕丸裸デ居マスワイ。
 
○人不見者《ヒトミズバ》――この句はこの儘では分らないといふので、種々なよみ方をしてゐる。古點はヒトメニハ、仙覺はシノヒニハ、考はシヌビナバである。併し文字の上からヒトミズバとよむ外はない。○不服而來來《キズテキニケリ》――この句も亦誤字説があつて、考は上の來を坐としてキズテヲリケリ、槻の落葉はキズテマシケリ、檜嬬手は上の來を有としてキズテアリケリとしてゐるが、これも本の儘にして置きたい。キズテキニケリは着物を着ないで、即ち禿山で以前からあつたよといふのである。
〔評〕 萬葉集中の難解歌の一である。が、右のやうに解けば、分らぬこともないと思ふ。諧謔的な子供らしい作(295)である。
 
高市連黒人※[覊の馬が奇]旅(ノ)歌八首
 
270 旅にして 惣戀しきに 山下の 赤のそほ船 沖に榜ぐ見ゆ
 
客爲而《タビニシテ》 物戀敷爾《モノコホシキニ》 山下《ヤマシタノ》 赤乃曾保船《アケノソホブネ》 奧※[手偏+旁]所見《オキニコグミユ》
 
旅二出テ居テ何ニ付ケテモ都ガ戀シイノニ、(山下)赤イ塗料ヲ塗ツタ官〔傍線〕船ガ、沖ヲ漕イデ行クノガ見エル。アレハ都へ歸ルノデモアラウカ。羨シイナア〔アレ〜傍線〕。
 
○物戀敷爾《モノコホシキニ》――モノコホシキニと古風によむことにする。六七・二五三參照。○山下《ヤマシタノ》――枕詞。赤とつづく。古事記の秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》や、卷二の秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》(二一七)なども同義で、秋の山が紅葉するのを、秋山の下ひといふところから、山下《ヤマシタ》を赤の枕詞としたものらしい。仙覺は地名とし、契沖は山の下を漕ぐ意に解してゐるが、當らぬやうである。○赤乃曾保船《アケノソホブネ》――曾保は赤い土で、塗料に用ゐたもの。麻可禰布久爾布能麻曾保乃《マカネフクニフノマソホノ》(三五六〇)佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)も同じで、この塗料を施した舟を赤の曾保船といふのだ。卷十三に忍照難波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾綱取繋《オシテルナニハノサキニヒキノボルアケノソホブネソホブネニツナトリカケ》(三三〇〇)とある。槻落葉別記に赤く塗つた船は官船だといつてゐる。
〔評〕 蒼々とした海上に、朱塗の舟が浮んでゐる繪のやうな景色は、その美を讃へしめる前に、先づ人の旅愁をそそつたのである。餘情のある作だ。
 
271 櫻田へ 鶴なきわたる 年魚市潟 潮干にけらし 鶴なきわたる
 
櫻田部《サクラダヘ》 鶴鳴渡《タヅナキワタル》 年魚市方《アユチガタ》 鹽干二家良進《シホヒニケラシ》 鶴鳴渡《タヅナキワタル》
 
作良ノ里ノ田ノ方ヘ、鶴ガ鳴イテ通ルヨ。愛知渇ハ汐ガ干タモノト見エル。アレアンナニ〔六字傍線〕鶴ガ嶋イテ通ル。
 
○櫻田部《サクラダヘ》――作良の里の田への義。和名抄に「尾張國愛智郡作良郷」とある。今、熱田の東南方に櫻といふ地(296)があるのは、即ち此處である。○年魚市方《アユチガタ》――年魚市は和名抄に「尾張國愛智郡、阿伊智」とある所で、中世訛つてアイチとなつたのである。年魚市方は、即ち愛知潟で、今の熱田の南方の陸地は昔の愛知潟であり、作良は愛知潟沿岸であつたのである。今、鶴が作良の田の方向に鳴いて行くのを見て、汐千の潟に餌をあさる鶴の習性を知つてゐる作者は、愛知潟の汐千を想像したのである。愛知潟から作良田へ鶴が鳴いて行くやうに見た古義・檜嬬手の説は誤つてゐる。
〔評〕 實にさわやかな歌だ。格調高邁、品位の勝れた作である。鶴鳴渡《タヅナキワタル》の繰返が好景を鮮明に表出してゐる。賀茂眞淵の「見渡せばほのへきりあふ櫻田へ雁鳴きわたる秋の夕ぐれ」は、この歌と卷二の秋之田穗上爾霧相朝霞《アキノタノホノヘニキラフアサガスミ》(八八)とを一緒にしたやうな作である。
 
272 四極山 うち越え見れば 笠縫の 島榜ぎかくる 棚無し小舟
 
四極山《シハツヤマ》 打越見者《ウチコエミレバ》 笠縫之《カサヌヒノ》 島※[手偏+旁]隱《シマコギカクル》 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
四極山ヲ打チ越シテ見渡スト、笠縫ノ島蔭ニ船棚ノナイ小サイ舟ガ、漕ギ隱レテ行くノガ見エ〔七字傍線〕ル。
 
○四極山《シハツヤマ》――豐後・三河・攝津にある。豐後のは別府の東南海岸に聳える山で、これはこの歌の趣にあはないから問題にならないが、三河と攝津とはいづれとも決しかねる。三河説は契沖が勝地吐懷篇に述べたもので、大日本地名辭書もこれに從つてゐる。それは和名抄に「幡豆郡磯伯郷、訓|之破止《シハト》」とある所の山だらうといふのである。この郷の地位、今明らかでないが、「今の吉田村、宮崎村、保定村並に幡豆村などにあらずや」と地名辭書は述べてゐる。さうして「笠縫島とはこの沖の島嶼をさせることも疑ひなし」といつてゐるが、それは臆測に過ぎない。攝津説は宣長が古事記傳に述べたもので、四極山は住吉から喜連《キレ》村に行く間の小丘で、雄略天皇紀に泊2於住吉津1是月爲2呉客道1通2磯齒津《シハツ》路1名2呉坂1とあり、今の喜連《キレ》は呉を誤つたのだといふのであル。卷六に從千沼廻雨曾零來四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞《チヌミヨリアメゾフリクルシハツノアマアミタヅナホセリヌレアヘムカモ》(九九九)、右一首遊2覽住吉濱1還v宮之時、道上(ニテ)守部王應v詔作歌とあるのも同じであつて、三説中でこれが一番信ずべきに近い。三河説は他に例がないのと、シハトで、シハツではないことと、笠縫島の名が無いのが缺點である。攝津地圖參照。○笠縫之島《カサヌヒノシマ》――攝津説(297)に從へば、今の東成郡深江の地だといふ。ここは大阪の東にあつて、河内に接したところで、古昔はこの附近は島をなして、大和川・百濟川その他の川に挾まれた沼澤地であつたので、菅を産し、里人は笠を縫ふことを業としてゐたのである。笠縫といふ地名は所々にあるが、いづれも笠縫を業とする者の居たところである。そこは必ず菅の産地であらねばならぬ。三河の海中の小島は菅を産するに適するや否や。そこに笠縫島ありとも思はれない。○棚無小舟《タナナシヲブネ》――舟棚のない小舟。舟棚は舟の左右の側板をいふ。
〔評〕 四曲山を越えてから、遽かに景色が展開して、遙かに笠縫島かげに漕ぎ隱れる小舟を望見し、矚目するところを客觀的に述べただけであるが、靜かな廣豁な景色が目に浮ぶやうに詠まれてゐる。古今集大歌所の歌に、「しはつ山ぶり」として、「しはつ山うち出でて見れば笠ゆひの島こぎかくる棚なし小舟」とあるのは、これを謠ひ違へたのである。
 
273 磯の埼 榜ぎたみ行けば 近江の海 八十の湊に たづさはに鳴く
 
礒前《イソノサキ》 榜手回行者《コギタミユケバ》 近江海《アフミノミ》 八十之湊爾《ヤソノミナトニ》 鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》 未詳
 
磯ノ岬ヲ、舟ニ乘ツテ〔五字傍線〕漕ギ廻ツテ行クト、近江ノ琵琶湖ノ多クノ湊ゴトニ、鶴ガ澤山鳴イテヰル。
 
○磯前《イソノサキ》――湖中に出た岬。地名と見るは取るに足らぬ。○※[手偏+旁]手回行者《コギタミユケバ》――漕ぎ廻り行けばの意。○八十之湊爾《ヤソノミナトニ》――湊は水門即ち河口で、そこに舟を泊するのである。八十は數多きをいふ。一説に磯崎は坂田郡の磯崎村、八十之湊は犬上郡八坂村であらうと言ふが、信ずべくもない。卷七に近江海湖者八十《アフミノミミナトハヤソヂ》(一一六九)とあるのも同じ。○鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》――鵠の字、和名抄に久々比とあれど、ここは鶴に通じて用ゐたのである。五雜爼にも鵠即是鶴とある。尚歌の下に未詳の二字があるのは後人の註である。磯前八十之湊を地名と考へたものかも知れない。
〔評〕 湖中に突出してゐる岬端を漕ぎ廻ると、蘆葦の生ひ茂つた河口に、鶴が頻りに鳴いてゐる景である。岬端は湖中に幾條となく突き出してゐる。それを廻るごとに賑やかな鶴の聲を開くのであらう。※[手偏+旁]手回行者《コギタミユケバ》の行けばは、多くの磯埼を廻りつつ行く意と思はれる。爽快な叙景である。
 
274 吾が船は 比良の湊に 榜ぎ泊てむ 沖へなさかり さ夜ふけにけり
 
(298)吾船者《ワガフネハ》 枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》 ※[手偏+旁]將泊《コギハテム》 奧部莫避《オキヘナサカリ》 左夜深去來《サヨフケニケリ》
 
私ノ乘ツテヰル舟ハ、今夜ハ〔三字傍線〕比良ノ湊マデ漕イデ行ツテ泊ラウ。ダカラ〔三字傍線〕、沖ノ方ヘ遠ク放レテ漕グ〔三字傍線〕ナ。大分〔二字傍線〕夜モ更ケタワイ。
 
○枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》――比良の湊に。比良は近江滋賀郡比良で、書紀に齊明天皇五年、幸2近江之|平浦《ヒラウラ》1とあるところである。今の木戸・小松の二村に亘つた地。北比良・南比良に分れてゐる。二九の近江地圖參照。○奧部莫避《オキヘナサカリ》――沖の方へ離れるなの意。この句に泊を急ぐ心が見えてゐる。
〔評〕 琵琶の湖上を、夜舟の旅路は心細い。急ぐ道ではあるが、今夜は夜も更けた。もう比良の湊に舟を止めようと、舟人に命ずるのである。さう沖へ出るな、早く泊へと急ぐ心の不安と淋しさとがあらはれてゐる。卷七に吾舟者明石之湖爾※[手偏+旁]泊牟奧方莫放狹夜深去來《ワガフネハアカシノウラニコギハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》(一二二九)とあるは、これを歌ひかへたのであらう。
 
275 何處にか 吾は宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば
 
何處《イヅクニカ》 吾將宿《ワレハヤドラム》 高島乃《タカシマノ》 勝野原爾《カチヌノハラニ》 此日暮去者《コノヒクレナバ》
 
モシ〔二字傍線〕高島ノ勝野原デコノ日ガ暮レテシマツタラ、私ハ今夜ハ〔三字傍線〕何處ヘ宿ツタモノデアラウ。廣イ原デハ宿ルベキ家モナイカラ困ツタモノダ〔廣イ〜傍線〕。
 
○高島乃勝野原爾《タカシマノカチヌノハラニ》――近江高島郡、今の大溝村を昔は勝野といつた。そこの湊が勝野津である。卷七に大御舟竟而作守布高島之三尾勝野之奈伎左思所思《オホミフネハテテサモラフタカシマノミヲノカチヌノナギサシオモホユ》(一一七一)とあるは即ちその湊である。勝野原とよんだのは大溝から北方、水尾・安曇地方の平野であらう。二九の地圖參照。
〔評〕 廣い勝野原を辿りつつ、傾く日影を眺めて、行手を急ぐ心である。平淡な作。
 
276 妹も吾も 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる
 
妹母吾母《イモモワレモ》 一有加母《ヒトツナレカモ》 三河有《ミカハナル》 二見自道《フタミノミチユ》 別不勝鶴《ワカレカネツル》
 
(299)妻ト私トハ、一ツノ體デアルカラカ、カウシテ二見マデ一緒ニ來テ、サテココカラ別レヨウトスルト、コノ〔カウ〜傍線〕三河ノ二見ノ道カラハ、兩方ヘ〔三字傍線〕ナカナカ別レ難クテ悲シンダ〔六字傍線〕ヨ。
 
○一有加母《ヒトツナレカモ》――一體なればかもの意。○三河有二見自道《ミカハナルフタミノミチユ》――二見の道の所在が明らかでないが、大日本地名辭書には、本野原から本坂越をするのを二見路といつて、後世の姫街道がそれだと述べてゐるが、それは國府から東行する道であるから、この人の歌にふさはしくない。恐らくこの二見路の稱呼は後世になつて言ひ出したものであらう。新考がこの説によつて、夫婦、道を別にして行く場合の作としたのは從はれない。姫街道でも男子禁制ではあるまい。要するに二見の道は三河の内ではあるが、所在は分らぬとする方がよい。
〔評〕 黒人が三河の任を終へて、都に歸らうとする時の作である。妹は其處で親しんだ女で、その女に對して別れ難い情を述べたのである。一・二・三の數字を巧みによみ込んだのは、語を弄んだものではあるが、それが無理なく巧に出來てゐる。
 
一本云
 
三河の 二見の道ゆ 分れなば 吾がせも我も 獨かも行かむ
 
水河乃《ミカハノ》 二見之自道《フタミノミチユ》 別者《ワカレナバ》 吾勢毛吾毛《ワガセモワレモ》 獨可毛將去《ヒトリカモユカム》
 
三河ノ國ノ、二見ノ路カラ別レタナラバ、私ノ夫モ私モ、二人トモ互ニコレカラハ〔二人〜傍線〕一人デ行クコトデアラウカ。
 
〔評〕 前の歌に對して黒人の愛人が答へたのである。高市黒人妻和歌と題詞があつたのだと考に言つてゐる。二見の道で袂を別つて、女はもと來た道を戻るのである。取り立てていふ程の作でない。
 
277 疾く來ても 見てましものを 山背の 高槻の村 散にけるかも
 
速來而母《トクキテモ》 見手益物乎《ミテマシモノヲ》 山背《ヤマシロノ》 高槻村《タカツキノムラ》 散去奚留鴨《チリニケルカモ》
 
早ク此所ヘ歸ツテ來テ見タカツタノニ、コノ山背ノ高イ槻ノ木ノ群ノ紅葉〔三字傍線〕ハ、散ツテシマツタナア。惜シイコト(300)ヲシタ。
 
○山背高槻村《ヤマシロノタカツキノムラ》――山城國の高槻村と見、これを今の攝津の高槻とする説もあるが、不當である。高槻が山城に屬してゐたといふ證據もなく、却つて東大寺奴婢籍帳に「攝津國島上郡野身里戸主輕部造弓張戸口」とあり、又「攝津國島上郡濃味里戸主辛矢田部君水内戸口」ともあつて、この野身里・濃味里は即ち和名抄に「島上郡濃見郷」とあるところで、今の高槻に野見天神があり、明らかにその地たることを示してゐる。して見ると、奈良朝に於ては高槻は攝津であつて、山背ではなかつたのである。尚、文政三年三月に攝津島上郡眞上郷光徳寺村から掘り出した石川年足朝臣(天平寶字六年薨)の墓誌にも「葬于攝津國島上郡白髪郷酒垂山墓」とあつて、島上郡(今三島郡に編入)は攝津國であつたのである。正倉院文書の天平勝寶八歳攝津國嶋上郡水無瀬繪圖を見ると、水無瀬が當時攝津であつたのであるから、高槻は無論攝津の内であつたのである。だから今の攝津の高槻とする説は全く成り立たない。然らば山背の高槻村は何處かといふに、高槻村は地名ではなく、高槻の群で、大きな槻の木の群が山背の地にあつたのである。槻の黄葉もかなり美しいもので、高い槻の木の森があつて有名であつたのであらう。その黄葉の既に散り過ぎたのを惜しんだのである。かう見ると、山背を國名としてはあまりに範圍が廣きに過ぎて、ふさはしくない。だからこの山背は國ではなく、奈良山の北方、山背川(泉川)の沿岸、相樂郡の地をさしたのだらうと思はれる。元來山背の國は、國郡制置の時に、葛野《カツヌ》・宇治《ウヂ》などの地をこの山背に併せて作られたので、國名の起源はこの地にあるのである。都近い奈良山の背《ウシロ》の地であるから、都人の間にもその高槻の群の立派さがよく知られてゐたのであらうと思ふ。(奈良文化十六號拙稿參照)
〔評〕 疾く來なかつたことを悲しむ情が、あはれである。二の句|見手益物手《ミテマシモノヲ》と、五の句|散去奚留鴨《チリニケルカモ》とが殘念さうに響いてゐる。
 
石川少郎歌一首
 
石川少郎は左註によれば、石川朝臣君子といふ人である。少郎は大郎・仲郎に對するもので、末男(301)の意である。少の字を女の誤として、これを石川女郎とする説が多いけれども、どうであらう。予は左註を信用するものである。
 
278 しかの海人は め苅り鹽やき 暇なみ くしげの小櫛 取りも見なくに
 
然之海人者《シカノアマハ》 軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》 無暇《イトマナミ》 髪梳乃少櫛《クシゲノヲグシ》 取毛不見久爾《トリモミナクニ》
 
志賀ノ海女ドモハ、海草ヲ苅ツタリ、鹽ヲ燒イタリスルノデ、忙ハシクテ〔五字傍線〕暇ガナイカラ、櫛箱ノ小櫛ハ、少シモ手ニトツテ見タコトモナイヨ。
 
○然之海人者《シカノアマハ》――然《シカ》は和名抄に「筑前國糟屋郡志珂」とあるところで、本集中屡々見える地名。博多灣の北部に志賀島がある。○軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》――軍布は葷布の誤だらうといふ説もあるが、※[草冠/昆]布に通じて用ゐたものか。海草たるを示す爲に、布の上に軍の字を添へてメと訓ましめたのであらう。○髪梳乃少櫛《クシゲノヲグシ》――髪梳は文字から見れば、くしけづるといふ動詞から來たやうにも思はれるが、それでは詞として穩やかでないから、櫛匣の借字に違ない。○取毛不見久爾《トリモミナクニ》――手に取りても見ぬよの意。かうしたナクニがいくらもある。
〔評〕 石川少郎が筑前に赴いて、女の身たしなみをする暇もない、志珂の海女を見てよんだのである。これを女の歌として石川女郎と改め、筑前の人とする説は甚だしい誤である。
 
右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也
 
これは後人の註であるが、これによれば少郎とあるのもかなり古いわけである。女郎の誤とはし難い。又この君子を檜嬬手に江口の君・神崎の君などと同じく、遊女であるといつてゐるが、それは妄説である。
 
高市連黒人歌二首
 
279 吾妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ
 
(302)吾妹兒二《ワギモコニ》 猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》 名次山《ナスギヤマ》 角松原《ツヌノマツバラ》 何時可將示《イツカシメサム》
 
私ノ妻ニ私ハ〔二字傍線〕猪名野ハ既ニ〔二字傍線〕見セタ。名次山ヤ角ノ松原ハ何時ニナツタラ見セテヤレルダラウ。早ク見セテヤリタイモノダ〔早ク〜傍線〕。
 
○猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》――猪名野は和名抄に「攝津河邊郡|爲奈《ヰナ》」とある所の野である。この野は猪名川の兩岸の平地であるから、川邊・豐能の二郡に亘つた廣野である。猪名川は丹後・攝津の國境から發して、池田・伊丹の側を流れ、神崎に至り、三國川と合して海に入る。○名次山《ナスギヤマ》――廣田大社の西の岡で、名次神の鎭座するところである。神名帳に「攝津國武庫郡名次神社」とある。今の西ノ宮町の北方である。次の字は玉手次《タマタスキ》(二〇七)などの如く、スキに用ゐられた例が多い。○角松原《ツヌノマツバラ》――卷十七に都努乃松原於母保由流可聞《ツヌノマツバラオモホユルカモ》(三八九九)とあるも同所で、和名抄に「武庫郡津門郷訓都止」とある所の松原であらう。津門は今、今津村の中に大字となつて名が殘つてゐる。松原山昌林寺といふ寺があるのは、角の松原の名殘であらうと言はれてゐる。
〔評〕 これは黒人が、妻を伴なつて西に旅する時の作と見える。猪名野は見せたが、名次山や角の松原の好景は未だ見せない。早く其處へ到着したいと思ふが、廣々とした猪名野が、果しもなくつづいて、倦きはてた氣分をよんだのであらう。
 
280 いざ兒ども 大和へ早く 白菅の 眞野の榛原 手折りて行かむ
 
去來兒等《イザコドモ》 倭部早《ヤマトヘハヤク》 白菅乃《シラスゲノ》 眞野乃榛原《マヌノハリハラ》 手折而將歸《タヲリテユカム》
 
サアオマヘタチヨ、大和國ヘ早ク歸ラウ〔三字傍線〕。白菅ノ生エテヰル、コノ眞野ノ萩原ヲ手折ツテ、土産ニ持ツテ〔六字傍線〕行カウヨ。
 
○去來兒等《イザコドモ》――兒等《コドモ》は同行の部下をさす。○白菅乃《シラスゲノ》――白菅の生ふる眞野とつづいて、枕詞の如く用ゐられてゐるが、眞の枕詞ではない。白菅は菅の一種で、莖の高さ一尺餘、かやつり草に似てゐる。○眞野乃榛原《マヌノハリハラ》――(303)眞野は攝津武庫郡にあり、今は神戸市に編入せられ、眞野町といふ町名に名殘を止めてゐる。卷十一の眞野池之小菅乎笠爾不縫爲而人之遠名乎可立物可《マヌノイケノコスゲヲカサニヌハズシテヒトノトホナヲタツベキモノカ》(二七七二)とある眞野の池も、今、形だけは殘つてゐる。榛原は萩原。榛の木ではない。卷七に古爾有監人之※[不/見]乍衣丹摺牟眞野之榛原《イニシヘニアリケムヒトノモトメツツキヌニスリケムアヌノハリハラ》(一一六六)とあるところで、萩の名所である。
〔評〕 西から大和へ歸る時の作である。卷一の、山上憶良の、去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イザコドモハヤヒノモトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》(六三)と著しく似た歌である。咲き亂れた眞野の萩原の美景に、心も勇んで、同行の部下に呼びかけた、晴々しい氣分が見える。
 
黒人妻答歌一首
 
281 白菅の 眞野の榛原 往くさ來さ 君こそ見らめ 眞野の榛原
 
白管乃《シラスゲノ》 眞野之榛原《マヌノハリハラ》 往左來左《ユクサクサ》 君社見良目《キミコソミラメ》 眞野之榛原《マヌノハリハラ》
 
白菅ノ生エテヰルコノ〔二字傍線〕眞野ノ萩原ノ面白イ景色ヲ〔七字傍線〕、貴方ハ旅ノ往キ還リニ御覽ニナルデアリマセウ。私ハ女ノコトデゴザイマシテ、又參ルワケニハユキマセヌカラ、ヨク見テマヰリマセウ〔私ハ〜傍線〕。
 
○往左來左《ユクサクサ》――往く時還る時の意。サは樣《サマ》の略か。卷十八|多多佐爾毛可爾母與己佐母《タタサニモカニモヨコサモ》(四一三二)とある竪《タタ》さ、横《ヨコ》さも同じであらう。
〔評〕 佳景に對して、男の自由な身を羨んだ、女らしいつつましさがあらはれてゐる。
 
春日藏首老《カスガクラヒトオユ》歌一首
 
この人の傳は六二に出てゐる。
 
282 つぬさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜は更けにつつ
 
(304)角障經《ツヌサハフ》 石村毛不過《イハレモスギズ》 泊瀬山《ハツセヤマ》 何時毛將超《イツカモコエム》 夜者深去通都《ヨハフケニツツ》
 
モハヤコンナニ〔七字傍線〕夜モ更ケタノニ、マダ〔二字傍線〕(角障經)磐余《イハレ》モ通リ過ギナイガ、初瀬山ハ一體〔二字傍線〕イツニナツタラ越エルコトガ出來ルノダラウ。
 
○角障經《ツヌサハフ》――枕詞。岩とつづく。一三五參照。○石村毛不過《イハレモスギズ》――石村《イハレ》は大和國磯城郡。もとの十市郡を中心とした地方で、今、安倍村に磐余《イハレ》川がある。阿倍村は香具山の東方、櫻井町の南方にある。石村をイハレと訓むのはイハフレの略で、村の古訓にフレがある。これは朝鮮語|夫里《フリ》から出たものだといふ説がある。○泊瀬山《ハツセヤマ》――初瀬町大字初瀬にある山。○夜者深去通都《ヨハフケニツツ》――夜ハ更ケヌに、助詞ツツを添へた形である。ツツは完了の助動詞ツの重つたもの。
〔評〕 藤原の都を出立して、磐余から初瀬山越えに、遠く旅する時の歌であらう。藤原から磐余までは、いくらの道程でもないから、何か理由があつて遲くなつたものか。次に東國での作があるから、或はその旅に出る時の作か。夜の旅の不安と焦燥とが、痛ましげに響いてゐる。
 
高市連黒人(ノ)歌一首
 
283 住のえの 得名津に立ちて 見渡せば 武庫の泊ゆ 出づる船人
 
墨吉乃《スミノエノ》 得名津爾立而《エナツニタチテ》 見渡者《ミワタセバ》 六兒乃泊從《ムコノトマリユ》 出流船人《イヅルフナビト》
 
攝津國〔三字傍線〕住吉ノ、榎津《エナツ》トイフトコロニ立ツテ見渡スト、遙カ向フノ〔五字傍線〕武庫ノ港カラ、舟人ガ舟ヲ出スノガ見エル。ヨイ景色ダ〔五字傍線〕。
 
○墨吉乃得名津爾立而《スミノエノエナツニタチテ》――墨吉乃得名津は和名抄に「攝津國住吉郡榎津郷以奈豆」とあるところ。今の墨江村安立町のあたりであらう。○六兒乃泊從《ムコノトマリユ》――武庫の港からの意。武庫の泊は今の兵庫であらう。古來の要津で(305)あつた。別に武庫郷の名が和名抄に見えて、今も武庫村の名を存してゐるが、それは西宮の東北里餘の地で、武庫川に沿うてゐる。六兒の泊は、この武庫川の河口かとも想像せられるが、恐らくさうではあるまい。
〔評〕 住吉の濱から見渡すと、海人の小舟が遠く海上から、一つ一つ現はれて來るのを、武庫の泊を船出したものと見て詠んだのである。武庫は冠辭考の一説に、「向《ムカ》つ峰・向《ムカ》つ國など古へ多く云へり。この地海頭へさし出たる地にて、難波より向はるる故に向《ムコ》といふか」とある如く、遙かに對岸をなしてゐる。好景が目に見えるやうで面白い。
 
春日|藏首老《クラビトオユノ》歌一首
 
284 燒津べに 吾が行きしかば 駿河なる 阿倍の市ぢに 逢ひし兒らはも
 
燒津邊《ヤキツベニ》 吾去鹿齒《ワガユキシカバ》 駿河奈流《スルガナル》 阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》 相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》
 
燒津ノ方ヘ私ガ行ツタ所ガ、駿河ノ國ノ阿部ノ市ノ道デ、美シイ女ニ〔五字傍線〕出會ツタ。アノ美シイ〔五字傍線〕女ヨナア。私ハドウシテモ忘レルコトガ出來ナイ〔私ハ〜傍線〕
 
○燒津邊《ヤキツベニ》――燒津は、日本武尊が草を燒いて、賊を亡ぼし給うた所として、古事記や書紀にその名が見えてゐる。靜岡市の西南方の海岸で、今、東海道線にヤイヅといふ驛がある。邊は清音だと古義には言つてゐるが、濁音であらう。○阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》――阿倍は「駿河國國府在2安倍郡1」と和名抄にあり、即ち今の靜岡市である。市道は阿倍の市の道。(306)○相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》――逢つた女よの意で、その下に、さても美しやといふやうな意が含まれてゐる。
〔評〕 この歌は春日藏首老が、駿河の國府に居つて、偶々所用あつて燒津の方へ赴いた際、阿倍の市の雜閙の巷を通つて、美人に逢つてよんだものらしい。この作者の傳(五六參照)には見えないが、恐らく駿河の任にあつたのであらう。美人は遊女か。
 
丹比眞人笠麻呂、往(キ)2紀伊國(ニ)1超(ユル)2勢能山(ヲ)1時作(レル)歌一首
 
丹比眞人笠麻呂の傳は明らかでない。卷四にも筑紫國へ下つた時の歌がある。勢能山は紀伊國伊都郡笠田村にある。孝徳紀に「南自紀伊兄山以來爲畿内」とあるところである。三五參照。
 
285 栲領巾の 懸けまく欲しき 妹が名を この勢の山に 懸けばいかにあらむ 一云、代へばいかにあらむ
 
栲領巾乃《タクヒレノ》 懸卷欲寸《カケマクホシキ》 妹名乎《イモガナヲ》 此勢能山爾《コノセノヤマニ》 懸者奈何將有《カケバイカニアラム》
一云|可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》
 
口ニ出シテ、言葉ニ〔八字傍線〕(栲領巾乃)カケテ言ヒタイ妹トイフ名ヲ、コノ勢能山ニカケテ、勢能山ハ夫ノ山トイフ名ダカラ〔勢能〜傍線〕、ソレト反對ニ試ミニ妹山ト名付ケテ見タナラバ、ドンナモノデアラウ。少シハ戀シイ嬬ヲ思フ旅情ガ慰ムデアラウカ〔少シ〜傍線〕。
 
○栲領巾乃《タクヒレノ》――枕詞。栲布で作つた領巾。頸にかけるものだから懸《カケ》につづく。○懸卷欲寸《カケマクホシキ》――口に懸けて言ひたき意で、懸卷《カケマク》は、かけまくも畏きなどと用ゐるものと同じ。○此勢能山爾《コノセノヤマニ》――勢能山は夫の山の意であるから、この山名に對して妹山を思ひ出し、勢能山を妹山と呼ばば心が慰むであらうかと言つたのである。○一云|可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》――この句について略解に「一本にはあらで、佛足石の御歌の如く一句餘れるなるべし」といつてゐる。佛足石の歌は、美阿止都久留伊志乃比鼻伎波阿米爾伊多利都知佐閇由須禮智々波々賀多米爾毛(307)呂比止乃多米爾《ミアトツクルイシノヒビキハアメニイタリツチサヘユスレチチハハガタメニモロロヒトノタメニ》の如く、五七五七七七の體をなすもので、本集にもかうした形の歌と思はれるものが他にもあつて、それが一云として第六句が誤り記されてゐるから、これも同じであらう。
〔評〕 旅に出て妻を戀しく思つて、どうかして妹と呼んで見たい心地がしてゐる時、背の山があつたので、これを試みに妹山といつたらば、どうだらう、と言つたので、多少遊戯的氣分もあるが、戀する人の可憐な心からと見てよいだらう。
 
春日藏頸老即(チ)和(フル)歌一首
 
春日藏首老は笠麻呂の友人として同行したものと見える。
 
286 宜しなべ 吾背の君が 負ひ來にし 此の勢の山を 妹とは喚ばじ
 
宜奈倍《ヨロシナベ》 吾背乃君之《ワガセノキミガ》 負來爾之《オヒキニシ》 此勢能山乎《コノセノヤマヲ》 妹者不喚《イモトハヨバジ》
 
私ノ兄《セ》ノ君ノ兄トイフ名〔六字傍線〕ニ、ウマク適合シテヰルコノ勢能山ヲ、私ハ今更〔二字傍線〕妹ナドト換ヘテ呼ブコトハ致シマスマイ。
 
○宜奈倍《ヨロシナベ》――ナベは共に、ままになどの意で、この句は宜しき樣にの意であらう。負來爾之《オヒキニシ》にかかつてゐる。卷一の五二にもあつた。○吾背乃君之《ワガセノキミガ》――私の親愛なる貴君がの意で、笠麻呂を背《セ》と言つたもの。
〔評〕 春日老は笠麻呂と共に紀伊に旅行したのである。友人の笠麻呂を親しむ心をあらはしてゐるが、即興的の機智が見える。
 
幸(ノ)2志賀(ニ)1時、石上《イソノカミ》卿作(レル)歌一首 名闕
 
續紀に、元正天皇養老元年九月美濃に幸し、近江に到つて淡海を見給ふことが見えてゐる。その時のことか。左大臣石上麻呂は、その年の三月に薨じてゐるから、この人ではないらしいが、石(308)上氏に卿といふべき人は他にないやうである。或は久老が言つてゐるやうに、大寶二年に太上天皇(持統)が三河・美濃に幸せられたことが見えるから、その時志賀に赴かれたかも知れない。
 それならば麻呂でさしつかへない。古義には麻呂の子の乙麻呂だらうといつてゐる。乙麻呂も中納言從三位兼中務卿に至つた人であるから、後から書くならば卿としてもよいのである。
 
287 此處にして 家やもいづく 白雲の たなびく山を 越えて來にけり
 
此間爲而《ココニシテ》 家八方何處《イヘヤモイヅク》 白雲乃《シラクモノ》 棚引山乎《タナビクヤマヲ》 超而來二家里《コエテキニケリ》
 
此處ヘ來テ見ルト、大分家ト難レタヤウダガ、一體私ノ〔見ル〜傍線〕家ハ何處ダラウ。フリカヘツテ見ルト〔九字傍線〕、白雲ノ靡イテヰル山ヲ越エテ來タワイ。
〔評〕 卷四の大伴旅人の作|此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思《ココニアリテツクシヤイヅクシラクモノタナビクヤマノカタニシアルラシ》(五七四)はこの歌に著しく似てゐる。併し自ら問ひ自ら答へたやうな旅人の歌と、棚引山乎超而來二家里《タナビクヤマヲコエテキニケリ》と詠嘆したこの歌とは、感じの上にかなりの距りがある。かれには筑紫をなつかしむ感が見え、これは家を遠く離れた淋しさがあらはれてゐる。
 
穗積朝臣老(ノ)歌一首
 
穗積朝臣老の名は、大寶三年正月から天平十六年二月までの間、續紀に散見してゐるが、養老六年正月、罪有つて佐渡島へ配流せられたことが記されてゐるから、次の歌はその時のものらしい。南京遺芳所載、維摩經奧書によつて、この人が天平勝寶元年八月廿六日逝去のことが明らかである。
 
288 吾が命し 眞幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白浪
 
吾命之《ワガイノチシ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦毛將見《マタモミム》 志賀乃大津爾《シガノオホツニ》 縁流白浪《ヨスルシラナミ》
 
私ノ命ガサ無事ナラバ、コノ志賀ノ大津ニ打チ寄セテ來ル白浪ノ面白イ景色〔六字傍線〕ヲ復モウ一度見タイモノダ。(309)果シテ無事デ歸ラレルデアラウカ〔果シ〜傍線〕。
〔評〕 この歌詞の物あはれなことは、到底遊覽の時の作とは思はれない。佐渡島への道すがら、この大津を舟出し、湖水を縱斷して、海津方面へ向はうとしてよんだものに違ない。卷十三に長歌一首と反歌、天地乎歎乞祷幸有者又反見思我能韓埼《アメツチヲナゲキコヒノミサキクアラバマタカヘリミムシガノカラサキ》(三二四一)を載せて、左註に但此短歌者或書云、穗積朝臣老配2於佐渡1之時作歌者也とあるが、この反歌は、此處の歌と著しく似たものである。
 
右今案不v審2幸行年月1
 
穗積朝臣老の作も、近江行幸の時のものと思つて、此處にこんな註を入れたのである。後人の註の内でも、最も拙いものである。
 
間人《ハシヒトノ》宿禰大浦(ノ)初月歌二首
 
舊本ここに大浦紀氏見六帖とある。見紀氏六帖の誤である。後人の註なることいふまでもない。初月は三日月をいふ。
 
289 天の原 ふりさけ見れば 白眞弓 張りて懸けたり 夜路は吉けむ
 
天原《アマノハラ》 振離見者《フリサケミレバ》 白眞弓《シラマユミ》 張而懸有《ハリテカケタリ》 夜路者將吉《ヨミチハヨケム》
 
天ヲ遙カニ見渡スト、三日月ガ〔四字傍線〕白イ弓ヲ張ツタヤウニ〔三字傍線〕懸ツテヰル。誠ニ良イ晩ダ〔六字傍線〕。今夜ノ夜道ハヨイ心地ダラウ。サア行カウ、サア行カウ〔十字傍線〕。
 
○白眞弓《シヲマユミ》――三日月をその形を以て白眞弓とし、直ちに次の句|張而《ハリテ》へ續けたのである。○張而懸有《ハリテカケタリ》――カケタルとよむ説が多いが、カケタリと終止形にした方がよいやうだ。○夜路者將吉《ヨミチハヨケム》――吉の字一本に去とあるによ(310)つて、ヨミチハユカム又はユカナとする説もあるが、吉の方が面白いやうであるから、流布の儘にして置かう。
〔評〕 弓張月と言はずに、白眞弓とのみ言つて、張而懸有《ハリテカケタリ》とつづけたのは思ひ切つた修辭法である。月夜の澄み切つた愉快な感が滿ちた作で、足の歩みも輕げに思はれる。古義に「天の原に白眞弓を張りて懸けたれば、いかなる夜路を行くとも、賊徒妖物などの恐れはあらじ。いざ夜路は行かむといへるなり」とあるは、途方もない考へ方である。
 
290 倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出で來る月の 光ともしき
 
椋橋乃《クラハシノ》 山乎高可《ヤマヲタカミカ》 夜隱爾《ヨゴモリニ》 出來月乃《イデクルツキノ》 光乏寸《ヒカリトモシキ》
 
椋橋山ガ高イ爲カ、山ニ邪魔サレテ〔七字傍線〕、夜更ケテカラ出テ來ル月ノ光ガ、物足リナイヨ。
 
○椋橋乃山乎高可《クラハシノヤマヲタカミカ》――椋橋山は大和磯城郡の南部で、多武峯の東に連り、直ぐ宇陀郡に界してゐる。俗に音羽山といつて海拔八五一・七米で、この邊では高い山である。飛鳥地方に住む人はこの山から出る月を仰ぐのである。椋の字は小椋山爾《ヲクラノヤマニ》(一六六四)・巨椋乃入江《オホクラノイリエ》(一六九九)などの如く、クラと訓んでゐる。その理由は判然しないが、狩谷望之の靈異記攷證に「谷川氏曰、椋與v倉同訓、字書未v得2其義1、説文廩之圓(311)謂2之※[因の大が禾]1、方謂2之京1、盖據v之也。按以v京爲v倉、與2京都字1混、故加2木旁1分v之也」とあると、訓義辨證に言つてゐる。寫眞は著者撮影。○夜隱爾《ヨゴモリニ》――夜深くの意。○光乏寸《ヒカリトモシキ》――トモシは羨し、美しなどの意ともなるが、ここのは少くて物足らぬ義である。
〔評〕 卷九に沙彌女王の作として、倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來槻之片待難《クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイデクルツキノカタマチガタキ》(一七六三)といふ歌が出てゐるが、結句を異にするのみで、同一と見なければならない。光乏寸《ヒカリトモシキ》よりも片待難《カタマチガタキ》の方が理に合ふやうに思はれる。又これは初月の歌とあるが、夜半になつて出る片破月で、三日月ではない。題詞に二首とあるは誤つてゐる。
 
小田(ノ)事《ツカフ》勢能山(ノ)歌一首
 
小田事は傳未詳。古今六帖にこの歌を載せて小田事主とある。勢能山は三五・二八五參照。
 
291 眞木の葉の 撓ふ勢の山 忍ばずて 吾が越え行けば 木の葉知りけむ
 
眞木葉乃《マキノハノ》 之奈布勢能山《シナフセノヤマ》 之奴波受而《シヌバズテ》 吾超去者《ワガコエユケバ》 木葉知家武《コノハシリケム》
 
檜ノ木ノ葉ガウナダレテヰルコノ〔二字傍線〕勢ノ山ヨ。私ガ家ヲ慕ツ〔六字傍線〕テ堪ヘカネナガラ、コノ山ヲ〔四字傍線〕越エテ行クト、木ノ葉モ私ノ心ヲ〔四字傍線〕知ツタノダラウ。アンナニ木ノ葉ガウナダレテヰル〔アン〜傍線〕。
 
○之奈布勢能山《シナフセノヤマ》――撓ふ勢の山の意で、檜の葉の枝重げに垂れてゐるをいふ。眞木は檜。この句で切れてゐる。○之奴波受而《シヌバズテ》――家を戀しく思ふ心に堪へかねての意。○木葉知家武《コノハシリケム》――木の葉も吾が心のうちを知つたのであらうの意。
〔評〕 卷七に天雲棚引山隱在吾忘木葉知《アマクモノタナビクヤマノコモリタルワガシタゴコロコノハシルラム》(一三〇四)とあるに似た作で、自分の悲しい心から、山の木の葉もうなだれてゐるやうに見えるのである。シ〔傍点〕ナフセ〔傍点〕ノヤマ、シ〔傍点〕ヌバズ〔傍点〕テ、コノハシ〔傍点〕リケムとサ行の音を繰返して調子を取つてゐる。
 
(312)角《ロクノ》麻呂歌四首
 
角はロクで、録と通じて用ゐたものらしい。續紀大寶元年八月の條に「惠耀姓(ハ)録、名兄麻呂」とあつて、僧の惠耀が勅によつて還俗して本姓に復したことが見え、又、養老三年正月の條に、「授2正六位上角兄麻呂從五位下1」とあるのは同一人である。この角を※[角の一画目と二画眼の半分なし]に作る本もあるが、これは同字である。續紀の文によつて代匠記に角の下、兄の字脱ちたものとしてゐるが、この儘にして置かう。角をツヌと訓む説もあるが、その氏を見ないから、ロクがよいのであらう。
 
292 ひさかたの 天の探女が 石船の 泊てし高津は 淺せにけるかも
 
久方乃《ヒサカタノ》 天之探女之《アマノサグメガ》 石船乃《イハフネノ》 泊師高津者《ハテシタカツハ》 淺爾家留香裳《アセニケルカモ》
 
昔〔傍線〕、(久方乃)天ノ探女ガ、乘ツテ天カラ降リテ來タ〔乘ツ〜傍線〕、岩船ノ泊ツタトイフコノ高津ハ、變リ果テテ〔五字傍線〕淺クナツタモノダナア。
 
○天之探女之《アマノサグメガ》――古事記に「天(ノ)佐具賣《サグメ》」、書紀に「天探女、此云2阿麻能佐愚謎《アマノサグメ》1」とある女で、天稚彦に仕へて雉名鳴女を射しめた人である。探は他の心を探つて邪思が多い義だとせられ、書紀口訣に「天探女者從神讒女也」とある。後に天之邪鬼《アマノジヤク》といひ、轉じて兩金剛のふまへた小惡鬼を呼んでゐるが、とかく評判の惡い女である。○石船乃《イハフネノ》――堅固な船の義。神武紀にも「亦有d乘2天磐船1飛降者u」トあり、卷十九に天雲爾磐船浮《アマグモニイハフネウカベ(四二五四)とある。○泊師高津者《ハテシタカツハ》――泊師《ハテシ》は舟の着いたこと。高津は高津宮の條に記した如く、大阪城の邊らしく思はれる。卷二の冒頭參照。○淺爾家留香裳《アセニケルカモ》――淺くなつたよといふので、昔の泊は名のみで、今は舟を泊すべくもないやうになつたのを詠嘆したのである。
〔評〕 攝津風土記に、「難波高津者天稚彦天降時、屬之神天(ノ)探女、乘2磐舟1而至2于此(ニ)1其磐舟所泊故(ニ)號2高津(ト)1」とある傳説をよんだもので、萬葉集には古傳説を取扱つたものはかなりあるが、神代説話をよんだものとして、この歌は最も注意すべきものである。謠曲岩船はこの歌を基として構成せられたもので、その中に「久方の天(313)の探女が岩船をとめし神代の幾久し」などの句がある。ともかく文學史的に價値ある作である。
 
293 鹽干の 三津の海女の くぐつ持ち 玉藻苅るらむ いざ行きて見む
 
鹽干乃《シホヒノ》 三津之海女乃《ミツノアマノ》 久具都持《クグツモチ》 玉藻將苅《タマモカルラム》 率行見《イザユキテミム》
 
汐ノ干テヰル三津ノ海女ドモガ、藁デ編ンダ袋ヲ持ツテ、美シイ藻ヲ苅ツテヰルダラウ。サアソノ樣子ヲ〔五字傍線〕見ニ行カウ。
 
○三津之海女乃《ミツノアマノ》――三津は難波の三津である。海女は舊訓アマメとあるが、海人・海夫・海子などと共にアマとよむべきである。アマメといふ語は他にないやうだ。○久具都持《クグツモチ》――久具都《クグツ》は藁で編んだ袋で、藻貝などを入れるもの。袖中抄に「顯昭云、くぐつとは藁にて袋のやうに編みたる物なり。夫れに藻などをいるるなり」とある。莎草《クグ》の繩をクグナハといふやうに、莎草《クグ》で作つた袋をクグツといふものと考へられてゐる。現に若越地方では、叺《カマス》をククツといふさうだ。和名抄に、傀儡をクグツとよませてあつて、中世、人形・人形遣ひ・遊女をもクグツといつた。これに就いて安藤正次氏は、傀儡子をクグツといふのは、朝鮮語の Koangtai から出たもので、歌舞伎藝をなすものを、廣大、又は才人と稱し、謂はゆる我が國の人形遣ひである。これが我に渡來し、柳器を編んでゐたので、袋をクグツといふやうになつたと言つてゐる。考ふべき説である。
〔評〕 都人の間には、海女の持つクグツが、珍らしく語られてゐたのではあるまいか。この歌では、久具都持《クゲツモチ》が特更らしく聞えて、率行見《イザユキテミム》に對してゐる。初の二句が四音と六音とで、破調になつてゐるのも風變りである。
 
294 風を疾み 奧つ白浪 高からし 海人の釣船 濱に歸りぬ
 
風乎疾《カゼヲイタミ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 高有之《タカカラシ》 海人釣船《アマノツリブネ》 濱眷奴《ハマニカヘリヌ》
 
風ガヒドイノデ、沖デハ白浪ガ高ク立ツテヰルラシイ。海人ノ釣船ガ濱ヘ歸ツテ來タ。
 
○濱眷奴《ハマニカヘリヌ》――眷はかへり見る意の文字であるのを、歸る意に借り用ゐたのであらう。
 
(314)〔評〕 海人の釣船が、三三伍伍、濱に歸つて來たのを見て、沖の高い白浪を想像したもので、實に鮮明な、さわやかな歌で、一種縹渺たる風韻が漂つてゐる。
 
295 住吉の 岸の松原 遠つ神 わが大王の いでまし處
 
清江乃《スミノエノ》 木※[竹冠/矢]松原《キシノマツバラ》 遠神《トホツカミ》 我王之《ワガオホキミノ》 幸行處《イデマシドコロ》
 
コノ住吉ノ岸ノ松原ハ(遠神)私ノ仕ヘ奉ル天皇陛下ノ行幸遊バシタ所ダ。
 
○清江乃木笶松原《スミノエノキシノマツバラ》――清江は住吉。木笶松原は岸の松原。岸は住吉の地名である。單に海岸の意ではない。姓氏録にある攝津國皇別吉志はこの地を本據とした氏である。笶は竹矢の義で、集中多くノの假名に用ゐてゐるが、ここはシノに用ゐたのであらう。木の下に志を補ふ古義の説はどうであらう。○遠神《トホツカミ》――枕詞。王《オホキミ》につづく。五を見よ。
〔評〕 住吉の佳景に對して、此處が曾て天皇行幸の地であつたのは、誠に當然であると、感じた儘をよんだものである。平語ではあるが敬慎の語氣である。
 
田口|益人《マスヒトノ》大夫、任(ゼラレシ)2上野(ノ)國司(ニ)1時、至(リテ)2駿河淨見埼(ニ)1作(レル)歌二首
 
續紀に「和銅元年三月丙午從五位上田口朝臣益人爲2上野守1」とあるから、その時の作である。
 
296 廬原の 清見が埼の 三保の浦の 寛けき見つつ もの思ひもなし
 
廬原乃《イホハラノ》 清見之埼乃《キヨミガサキノ》 見穗乃浦乃《ミホノウラノ》 寛見乍《ユタケキミツツ》 物念毛奈信《モノモヒモナシ》
 
廬原ノ清見ガ埼ノ三保ノ浦ノ、ユツタリトシタ長閑ナ景色〔五字傍線〕ヲ見ナガラ通ツ〔五字傍線〕テ、私ハ、旅ノ憂モナク〔八字傍線〕、何ノ心配モナイ。實ニ佳イ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○廬原乃《イホハラノ》――和名抄、駿河國廬原郡廬原 伊保波良とある。今、この郡は富士川以西江尻までの地であるが、(315)上古は庵原の國の名が見え、富士川以西の全部、安倍、志太二郡をも含んでゐたらしい。○清見之埼乃《キヨミガサキノ》――今の興津町の西、大字|清見寺《セイケンジ》の磯埼であらう。三保松原の眞埼と相對してゐる。○見穗乃浦乃《ミホノウラノ》――清水港の海上で、清水・江尻・三保埼の間の灣である。○寛見乍《ユタケキミツツ》――ゆたけきは廣く靜かな景色である。
[評] 上の三句が盡く乃《ノ》で終つてゐるのが、一寸耳ざはりのやうでもある。清見之埼從《キヨミガサキユ》の誤かと新考に疑つたのも、さることだが、從《ユ》では清見が埼と三穗の浦とが離れてしまつて面白くない。矢張|乃《ノ》で續くべき所だ。あの景色を知るものは、作者が旅中の苦を忘れたのも、さもこそとうなづくであらう。
 
297 晝見れど 飽かぬ田兒の浦 大王の 命かしこみ 夜見つるかも
 
晝見騰《ヒルミレド》 不飽田兒浦《アカヌタゴノウラ》 大王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》
 
晝見テモ飽カナイ、面白イ田兒ノ浦ヲ、天子樣ノ仰ガ恐レ多クテ、急イデ任國ヘ下ラウト思ツテ、夜通シシテ〔急イ〜傍線〕夜見テ行キマシタワイ。
 
○田兒浦《タゴノウラ》――今、田子の浦と稱するは、富士川の東であるが、續紀「天平勝寶二年駿河國盧原郡、多胡浦濱獲2黄金1献v之」とあるのは、今の蒲原町大字小金のことであるから、古の田兒の浦は蒲原町の海岸だらうといふ。但し十六夜日記にも「二十七日、明けはなれて後富士川わたる。云々、今日は日いとうららかにて田子の浦に打ち出づ」とあるから、富士川の東方としたのも古いことである。
〔評〕 君命を重じ、晝夜兼行で急いで任に赴く氣分が、よくあらはれてゐる。大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》といふ慣用語が、少し事々しい位に用ゐられてゐるが、そこにこの時代の人の、皇室尊崇の誠意が見えてゐるのである。
 
辨基歌一首
 
左註の通り、春日藏首老が還俗しない頃の法師名である。この人は續紀によれば、大寶元年三月に還俗してゐるから、この歌はその以前の作である。
 
298 眞土山 夕越え行きて いほさきの 角太河原に ひとりかも宿む
 
(316)亦打山《マツチヤマ》 暮越行而《ユフコエユキテ》 廬前乃《イホサキノ》 角太河原爾《スミダカハラニ》 獨可毛將宿《ヒトリカモネム》
 
眞土山ヲ夕方越シテ行ツテ、私ハ今夜〔四字傍線〕盧前ノ角太河ノ河原デ、一人デ寢ルコトカナア。アア淋シイ辛イコトダ〔十字傍線〕。
 
○亦打山《マツチヤマ》――大和紀伊の國境にある山。山を越すと紀伊國伊都郡隅田村眞土である。五五寫眞參照。○盧前乃角太河原爾《イホサキノスミダガハラニ》――伊都郡志に、「イホサキは本村(隅田村)大字|芋生《イモフ》なる出崎をいひしものならんと、紀伊續風土記に記せり」とあり、角田川は「落合川と紀之川との合流點より下、橋本町大字妻に至る紀之川をいふ」とある。落合川は古く眞土川といつた、紀の川へ注ぐ小川である。今はその芋生に隅田驛が出來てゐる。角太河原は即ち其處の紀の川の河原である。
〔評〕 藤原の都を出かけて、紀伊へ赴かうとした作者は、眞土山を越えてゐる内に、早くも日が暮れかかつた。山のあなたは宿るべき家もない角田河原である。其處に野宿をすることかと、淋しがつた趣で、法師の作ではあるが、西行などの旅の歌とは著しく異なつた氣分である。
 
右或云、辨基者春日藏首老之法師名也
 
これは續紀によつて、後人が記したものか。舊本に小字を用ゐてある。
 
大納言大伴卿歌一首 未詳
 
諸註にこれを旅人の作としてあるが、旅人が大納言になつたのは、この卷の奧書に天平二年十月一日とあるのに、このあたりの作者は皆、和銅前後の人たちであるから、これは安麻呂卿のことであらう。安麻呂の傳は一〇一參照。題詞の下の未詳の二字は後人の加へたもので不要である。大伴卿が誰であるか不明だといふのである、
 
299 奧山の 菅の葉凌ぎ 零る雪の 消なば惜しけむ 雨なふりそね
 
(317)奧山之《オクヤマノ》 菅葉凌《スガノハシヌギ》 零雪乃《フルユキノ》 消者將惜《ケナバヲシケム》 雨莫零行年《アメナフリソネ》
 
奧山ノ菅ノ葉ヲ靡カセテ降ツタ雪ガ、消エタナラバ惜シイデアラウ。雨ヨ、降ツテクレルナ。雨ガ降ルト雪ガ消エテシマフカラ〔雨ガ〜傍線〕。
 
○菅葉凌《スガノハシヌギ》――菅の葉を靡かしての意。凌ぐは、たわます、靡かすの意。菅は即ち山菅で麥門冬のことであらう。一にやぶらんと稱する。山蘭に似た百合科の草である。和名抄にも、「麥門冬、和名夜末須介」トある。但し、これは山に生ずる菅で、普通の菅の山に生じたのを云つたのかも知れない。山菅笠・山菅蓑などの名もあつて山菅を以て笠蓑などを編んだのである。ここではしばらく麥門冬として置かう。山菅の圖は五六四參照。○雨莫零行年《アメナフリソネ》――雨な降りそ、にね〔傍点〕を添へた形である。行年の二字は舊訓コソであつたが、宣長が行を所の誤としてソネとよんでから、それに從ふ説が多い。併し風莫吹行年《カゼナフキソネ》(一三一九)・言勿絶行年《コトナタエソネ》(一三六三)・雨莫零行年《アメナフリソネ》(一九七〇)・犬莫吠行年《イヌナホエソネ》(三二七八)の類を盡く誤とは言はれない。恐らく行にソの音があるのであらう。
〔評〕 雪を賞でた歌である。如何なる場合の作か明らかでないが、奧山の山菅の葉を靡かして、降つた雪を見てよんだのであらう。卷六に奧山之眞木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノフりハマストモツチニオチメヤモ》(一〇一〇)と上句は似てゐるが、眞木の葉の雪の方が深さうである。これは山菅の葉の上の薄い雪で、降る雨には一溜りもなく消えさうに思はれる。やさしい、細い感じがする歌。
 
長屋王駐(メテ)2馬(ヲ)寧樂山(ニ)1作(レル)歌二首
 
長屋王は七五參照。寧樂山は奈良市北方の山で、今の奈良坂以西をいふ。この山を越えれば即ち山背であるが、その主なる道路は今の奈良坂ではなく、郡山街道の歌姫越であらうと思はれる。
 
300 佐保過ぎて 寧樂のたむけに 置くぬさは 妹を目離れず 相見しめとぞ
 
佐保過而《サホスギテ》 寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》 置幣者《オクヌサハ》 妹乎目不離《イモヲメカレズ》 相見染跡衣《アヒミシメトゾ》
 
(318)旅ニ出カケテ〔六字傍線〕佐保ヲ通ツテ、奈良山ノ峠デ幣ヲ供ヘテ、神樣ヲオ祭リス〔八字傍線〕ルノハ、私ノ戀シイ妻〔五字傍線〕ヲ、絶エズ逢ハセテ下サイトイフツモリデスヨ。
 
○佐保過而《サホスギテ》――佐保は今の奈良市の北方から以西の地で、今は法蓮・法華寺の二大字に分れてゐる。此處を通過して奈良山へかかられたのである。契沖は「佐保は長屋王の宅ある所なり」といつてゐるが、果して然らば過而《スギテ》は出立したこととなる。○寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》――寧樂山の峠にの意で、タウゲは手向《タムケ》の轉である。山の頂を通る時、山神に幣を手向けるから、手向がタウゲとなつたのである。手向ける山を手向山といふのである。○置幣者《オクヌサハ》――幣は神を祭るに供へるもので、多く布帛の類を細かに切つたものを用ゐた。それを袋に入れ携へて行つて、道すがら神を祭つたのである。○妹乎目不雖《イモヲメカレズ》――雖は離の誤に相違ない。類聚古集に離とある。目不離は目離れずの意で、目離さず、常にといふに同じ。○相見染跡衣《アヒミシメトゾ》――相見しめよと思つて置く幣ぞの意。
〔評〕 旅に出でようとして、先づ無事を祈つて神を祭るのは、他の理由ではない。唯妻に幾久しく逢はむが爲だといふので、妻戀ふる心を強く言ひあらはしたものである。卷二十、知波夜布留賀実乃美佐貿爾怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知知我多米《チハヤフルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチチガタメ》(四四〇二)とあるに似てゐる。
 
301 岩が根の こごしき山を 越えかねて 音には泣くとも 色に出でめやも
 
磐金之《イハガネノ》 凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》 超不勝而《コエカネテ》 哭者泣友《ネニハナクトモ》 色爾將出八方《イロニイデメヤモ》
 
岩ノ重ナリ合ツテ嶮シイ山ヲ越エカネテ、家ニ遺シテ置イタ妻ガ戀シクテ〔家ニ〜傍線〕、聲ヲ出シテ泣クトモ、顔色ニ出シテ、人ニ覺ラレルヤウナコトヲシヨ〔シテ〜傍線〕ウカ、決シテソンナコトハシナイ〔決シ〜傍線〕。
 
○磐金之《イハガネノ》――磐金は岩が根の借字。○凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》――凝敷《コゴシキ》は嶮しき意。凝の字は磐根已凝敷《イハネコゴシキ》(二三〇)興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》(三二七四)の如くゴに用ゐられ、又は夕凝《ユフゴリノ》(二六九二)・潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》(九七六)の如く、ゴリとよまれてゐるが、ここはコゴとよんでゐる。この字は蒸韻魚陵切、呉音ゴウで、ng の音尾であるからコゴとなるのである。
(319)〔評〕 聲を出して泣いても、顔色には出さないといふのは、少し矛盾したやうにも聞える。そこで第四句をナキハナクトモとよまうといふ説もあるが、やはり同じことである。聲を出しては泣くとも、妹思うて泣くものと人に覺られまいと言ふのであらうから、もとの儘でよい。寧樂山を超える歌としては、一二の句はかなり大袈裟過ぎる。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
續紀に「神龜四年十月甲戌以2從三位阿倍朝臣廣庭1爲2中納言1天平四年二月甲戌朔乙未中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨、右大臣從二位御主人之子也」とある。懷風藻に「從三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣廣庭二首、年七十四」とある。
 
302 兒らが家道 やや間遠きを ぬばたまの 夜渡る月に 競ひあへむかも
 
兒等之家道《コラガイヘヂ》 差間遠烏《ヤヤマドホキヲ》 野干玉乃《ヌバタマノ》 夜渡月爾《ヨワタルツキニ》 競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》
 
妻ノ家ヘハ、マダ〔二字傍線〕カナリ間ガアルガ(野干玉乃)今夜空行ク月ノ速サニハ、競爭ガ出來ヨウカ、トテモ出來マイナア。月ガ西山ニ没セヌウチニ、家ヘ着カウト思フケレドモ、トテモ出來サウニモナイ〔月ガ〜傍線〕。
 
○差間遠烏《ヤヤマドホキヲ》――差《ヤヤ》は程度をいふ語で、ここは、かなり、よほどなどの意。良久《ヤヤヒサシ》などのヤヤと同じであらう。間遠烏《マドホキヲ》は距離があるがの意。新訓にヤヤアヒダトホシとあるのは、烏の字一本に焉とあるに從つたものか。併し間遠之有者《マトホクシアレバ》(四一三)ともあるから、マドホキヲとして置きたい。烏の字は焉を誤つた場合も多いけれども、ヲの假名に用ゐたものに、將吹烏《フキナムヲ》(四六二)の如き例もあるのである。○野干玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》――略解にキソヒとよんだのはどうであらう。安治牟良能佐和伎伎保比弖《アヂムラノサワギキホヒテ》(四三六〇)とある。
〔評〕 家路をさして、夜道を急いでゐる人の心持が、よく歌はれてゐる。月光を浴びながら、急ぎ足に歩いてゐる人の姿も、目に見えるやうだ。佳作。
 
(320)柿本朝臣人麿下(レル)2筑紫國(ニ)1時、海路作(レル)歌二首
 
筑紫國は、次の歌によると太宰府をさしたものである。人麿が太宰府に赴いたのは、いづれ役人としての公用であらうが、その時期は分らない。
 
303 名ぐはしき 稻見の海の 沖つ浪 千重に隱りぬ 大和島根は
 
名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》 奧津浪《オキツナミ》 千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》 山跡島根者《ヤマトシマネハ》
 
有名ナ景色ノヨイ〔五字傍線〕、印南ノ海ノ沖ノ浪ガ幾重ニモ立ツテヰル。私ノ故郷ノ大和ノ〔ガ幾〜傍線〕國ハ、ソノ浪ノ〔四字傍線〕幾重ニモ立ツテヰル彼方ニ〔三字傍線〕隱レテシマツタ。アア心細イ〔五字傍線〕。
 
○名細寸《ナグハシキ》――名の精美《クハシ》き意で、稻見の海の名高きを賞めたのである。○稻見乃海之《イナミノウミノ》――印南の海即ち播磨の明石海峽以西の海。〇千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》――沖つ浪の千重の彼方に隱れたといふので、沖に立つ浪が幾重とも知らず立つてゐる彼方に、見えなくなつたこと。カクリヌをカクシヌとよむ説は甚だしい惡訓である。○山跡島根者《ヤマトシマネハ》――大和の國をいふ。海の彼方にあるから、かく言つたのである。
〔評〕 明石海峽を過ぎると、もはや畿内の山々も見えなくなつて、顧みれば唯渺茫たる海波のみが幾重とも無く立つてゐる。淋しい心細い感じが詠まれてゐて、前にあつたこの人の、天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマサカルヒナノナガヂユコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》(二五五)を逆に行つただけで、故郷なつかしい心は同じである。
 
304 大王の 遠の朝庭と 在り通ふ 島門を見れば 神代し念ほゆ
 
大王之《オホキミノ》 遠乃朝庭跡《トホノミカドト》 蟻通《アリガヨフ》 島門乎見者《シマトヲミレバ》 神代之所念《カミヨシオモホユ》
 
太宰府トイフ所ハ〔八字傍線〕、天皇ノ御支配遊バス遠クニアル役所デアルトテ、昔カラ人々ガ行キ通ツテ來タ、澤山ノ〔三字傍線〕島ノ間ノ海路ヲ見ルト、コレラノ島ヲ作ツタ神樣ノ力ハエライモノダト〔コレ〜傍線〕、神代ノコトガ思ヒ出サレル。
 
○大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》――天皇の遠くの役所といふ意で、太宰府をさした例が多い。七九四・九七三・三六六八・四(321)三三一などがさうである。○蟻通《アリガヨフ》――ありありて來通ふの意で、昔から通つて來たこと。○島門乎見者《シマトヲミレバ》――島門は島と島との間の舟の通路。○神代之所念《カミヨシオモホユ》――島々を生み給へる、神代のことが思はれる。
〔評〕 瀬戸内海の島々は、記紀によれば、いづれも諾冊二神の生み給へるか、又は潮泡の凝りて成つたものである。太宰府を大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》といひ、其處へ通ふ道すがら、神代を懷ひ起したのは、彼の尊皇敬神の念の篤いことを示すもので、如何にも人麿らしい歌である。
 
高市連黒人(ノ)近江舊都(ノ)歌一首
 
305 斯く故に 見じと云ふものを さざ浪の 舊き都を 見せつつもとな
 
如是故爾《カクユヱニ》 不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》 樂浪乃《サザナミノ》 舊都乎《フルキミヤコヲ》 令見乍本名《ミセツツモトナ》
 
私ハ大津ノ舊都ヲ見タラ、キツト懷舊ノ情ニ堪ヘラレナイデ悲シクテ仕樣ガアルマイト思ツテヰタ〔私ハ〜傍線〕。必ズコンナダラウト思ツタノデ見マイト言ツテ斷《コトハ》ツタノニ、コノサザ浪ノ大津ノ〔三字傍線〕舊都ノ荒廢シタ樣子〔七字傍線〕ヲ徒ラニ見セテ案ノ通リコンナ悲シイ思ヲサセタ〔案ノ〜傍線〕。
 
○樂浪乃舊都乎《サザナミノフルキミヤコヲ》――近江の樂浪にある舊都。即ち天智天皇の大津の宮をいふ。○令見乍本名《ミセツツモトナ》――見せたのはもとなしといふので、もとな〔三字傍点〕は考なし、徒らなりといふやうな意。委しくは二三〇を見よ。
 
〔評〕 如是故爾不見跡云物乎《カクユヱニミジトイフモノヲ》が、如何にも悲痛に堪へないで、身悶えでもしてゐるやうに強く響いてゐる。令見乍本名《ミセツツモトナ》も、亦恨めし氣に聞えて、感慨切實である。惨澹たる現實に目を蔽うてゐる、黒人の姿が見えるやうである。
 
右謌或本曰(フ)2小辨作(ト)1也、未《セズ》v審(ニ)2此(ノ)小辨者(ヲ)1也
 
この註はかなり古いものであらう。併し右の歌はどうも黒人らしい。
 
(322)幸(セル)2伊勢國(ニ)1之時、安貴王作歌一首
 
幸2伊勢國1之時とあるは、續紀に「天平十二年冬十月壬午、行2幸伊勢國1」とある時らしく思はれるが、このあたりの他の作に比して、年次が新し過ぎるから、或は養老二年二月美濃行幸の時かも知れない。併し王は天平元年に始めて從五位下になつてゐられるから、養老の頃はまだ小兒であらう。この行事は恐らく天平の初年頃のもので紀に洩れたのであらう。安貴王は續紀に「天平元年三月無位阿紀王(ニ)授2從五位下(ヲ)1。十七年正月乙丑從五位上」とあり、志貴皇子の御子なる春日王の御子で、市原王の父である。卷六に、市原王宴(ニ)祷2父安貴王1歌とある。
 
306 伊勢の海の 沖つ白浪 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ
 
伊勢海之《イセノウミノ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 花爾欲得《ハナニモガ》 ※[果/衣の鍋ぶたなし]而妹之《ツツミテイモガ》 家※[果/衣の鍋ぶたなし]爲《イヘヅトニセム》
 
伊勢ノ海ノ沖ニ立ツテヰル白浪ガ花ノヤウダガ、ホントノ〔花ノ〜傍線〕花デアレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕包ンデイツテ、家ノ妻ヘノ土産ニシヨウ。
 
○家※[果/衣の鍋ぶたなし]爲《イヘツトニセム》――家※[果/衣の鍋ぶたなし]は家へ携へ歸る苞の義で、即ち土産物である。ツトは藁などに包んだもので、本來包ミの意であらう。
〔評〕 白浪を花に譬へて、花ならば携へて家に歸らうものをと、幼げな考へ方が上代人らしく、無邪氣で面白い。
 
博通法師、往(キ)2紀伊國(ニ)1見(テ)2三穗石室(ヲ)1作(レル)歌三首
 
博通の傳はわからぬ。三穗石室は紀伊日高郡で日御崎の東方にある。この邊が謂はゆる風早の濱である。卷一の一〇の紀伊西南海岸地圖參照。
 
307 はた薄 久米の若子が いましける 一云、けむ 三穗の岩屋は 見れど飽かぬかも 一云、あれにけるかも
 
(323)皮爲酢寸《ハタススキ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊座家留《イマシケル》【一云|家牟《ケム》】 三穗乃岩室者《ミホノイハヤハ》 雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》【一云|安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》】
 
昔〔傍線〕(皮爲酢寸)久米ノ稚子ガ住ンデヰラレタ、コノ三穗ノ石室ハ、イクラ見テモ飽カナイナア。コレヲ見ルト昔ノコトガ思ヒ出サレテ立チ去リ難イ〔コレ〜傍線〕。
 
○皮爲酢寸《ハタススキ》――旗薄で、久米とつづく枕詞。穗が籠《コモ》つてゐる意で、コメが轉じて久米とかかるのであらう。宣長が句を距てて、三穗へかかると言つたのは從ひがたい。○久米能若子《クメノワクゴ》――顯宗紀に「弘計王、更名、來目稚子」とあるによつて、弘計王のこととする説もあるが、この王が紀伊におはしたことは物に見えない。又次の歌から考へても、帝位に即かれた御方を申し奉つたものとは思はれない。これは誰か別人である。○雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》――この句は景色のよい場合の褒詞によく使つてあるが、一云、安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》とあるによると、ここは恐らく懷舊の情に堪へず、立ち去りかねる意であらう。
〔評〕 古傳説を詠じただけで、さして面白い作でもない。久米の若子を久米の仙人とする説もあるが、さうとも思はれない。ともかく傳説がはつきりしてゐないのは遺憾である。
 
308 常磐なす 岩屋は今も 有りけれど 住みける人ぞ 常なかりける
 
常磐成《トキハナス》 石室者今毛《イハヤハイマモ》 安里家禮騰《アリケレド》 住家類人曾《スミケルヒトゾ》 常無里家留《ツネナカリケル》
 
永久ニ變ラナイコノ三穗ノ〔五字傍線〕石室ハ、昔ノママデ〔五字傍線〕今モ殘ツテヰルガ、コノ中ニ〔四字傍線〕住ンヂヰタ久米ノ稚子ハ常ナキ人ノナラハシトシテ、モウ〔常ナ〜傍線〕疾ニ死ンデシマツタヨ。
 
○常磐成《トキハナス》――トキハナルともよんであるが、卷五に等伎波奈周《トキハナス》(八〇五)・常磐奈須《トキハナス》(四一一一)・時齒成吾者通《トキハナスワレハカヨハム》(一一三四)とあり、又|玉藻成《タマモナス》(二四八三)・闇夜成《ヤミヨナス》(一八〇四)・百重成《モモヘナス》(二九〇三)・續麻成《ウミヲナス》(三二四三)等などの例によるも、トキハナスがよい。
(324)〔評〕 昔の儘に變らない岩窟に對し、人間の無常を痛感したところが僧侶の歌らしい。
 
309 岩屋戸に 立てる松の樹 汝を見れば 昔の人を 相見るごとし
 
石室戸爾《イハヤドニ》 立材松樹《タテルマツノキ》 汝乎見者《ナヲミレバ》 昔人乎《ムカシノヒトヲ》 相見如之《アヒミルゴトシ》
 
石窟ノ所ニ立ツテヰル松ノ樹ヨ。私ハ〔二字傍線〕汝ヲ見ルト、汝ハ昔ノコトヲ知ツテヰルモノト思フカラ〔汝ハ〜傍線〕、昔此所ニ住ンデヰタ久米ノ稚子トイフ〔此所〜傍線〕人ト逢フヤウナ心地ガスル。
 
○石室戸爾《イハヤドニ》――石屋處であらう。戸は借字である。槻の落葉や、古義に石室外としたのも、略解に石室の門とあるのも從ひがたい。○昔人乎《ムカシノヒトヲ》――久米の稚子を指す。
〔評〕 老松に對して故人を偲んだのである。紀州名勝記に「三穗村の南(ノ)岡(ノ)上に久米(ノ)墓と云ふあり。昔は古木(ノ)松二三株ありきといへど、今はただ家のみなり」とあるのを引いて、檜嬬手に「その墓をよみたるにあらざるか」と述べてゐるが、この歌の趣は決してさうではない。岩窟の前に老松が聳えてゐたのである。
 
門部王詠(ミテ)2東市之樹(ヲ)1作(レル)歌一首
 
門部王は古葉略類聚抄に「後賜姓大原眞人氏也」と小字で註を加へてゐる。この王は續紀によれば、和銅三年正月に無位から從五位下に叙せられ、累進して天平九年十二月には、從四位下で右京大夫となつてゐるが、後臣下に列して、「同十四年四月戊戌、授2從四位下大原眞人門部(ニ)從四位上(ヲ)1十七年四月戊子朔庚戌大藏卿從四位上大原眞人門部卒」とある。なほ和銅六年正月の條に「丁亥授2無位門部王從四位下〔授無〜傍点〕1」とある。古義に「此十字誤あるべし、他處の文の混入たるか」と言つてゐるが、この條は一本に内部王とあるに從ふべきものか、又は全く同名異人とすべきものである。ともかくも本集の門部王は古注を尊重して、後に大原眞人の姓を賜はつた人としてよいやうである。東市は、都を東の京と西の京とに分ち、東の京に東の市があり、西の京には西の市があつた。(325)關野貞氏の説によれば、東市は辰市村大字杏に小字辰市があるから、その附近であらうし、西市は郡山町大字九條に田市と稱する地があるから、その附近らしく、要するに東西兩市は八條の内にあつたものであらうといふことである。さうして、その各市には樹木を多く植ゑた。雄略紀に※[食+甘]香市《ヱカノイチノ》橘(ノ)本とあり、卷二にも橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》(一二五)とある。さて、ここに詠とありて作歌とあるは、恐らく作の字は衍であらう。類聚古集には作の字がない。卷六の一〇三一の左註に詠2思泥埼1作歌とあるが、後人の註だから例にはならない。
 
310 ひむがしの 市の植木の 木垂るまで 逢はず久しみ うべ戀ひにけり
 
東《ヒムガシノ》 市之殖木乃《イチノウヱキノ》 木足左右《コダルマデ》 不相久美《アハズヒサシミ》 宇倍《ウベ》吾|戀爾家利《コヒニケリ》
 
東ノ市ニ植ヱタ若イ〔二字傍線〕木ガ、老木トナツテ〔六字傍線〕枝ガ垂レルマデ、隨分永ク思フ人ト逢ハナイノデ〔隨分〜傍線〕、私ガ戀シク思ツテヰルノハ尤ナコトダワイ。
 
○東市之殖木乃《ヒムガシノイチノウヱキノ》――右に述べたやうに、東の市に植ゑてある木であるが、何の木であるかは分らない。橘を植ゑたのは※[食+甘]香市の例があるが、他に海柘榴市《ツバイチ》・桑市などもあるから、種々の木が植ゑられたものである。併しこの東市の舊地を大字|杏《カラモモ》とよんでゐることから想像して、予は多分この市の木は杏であつたのであらうと推定したいのである。杏の字は卷九(一六八九)に杏人とあり、カラヒトノとよんでゐるが、これには異説があつて、谷川士清は、下の濱の字につづけて、カラモモノハマとよまうと言つてゐるが、和名抄にも「杏子、加良毛毛」とあり、宇津保物語にこの名が見えてゐるから、奈良朝にもあつたものと思ふ。この推定はあまり牽強の言でもあるまい。○木足左右《コダルマデ》――木足《コダル》は木垂で、老木となつて枝が垂れるをいふ。卷十四に、可麻久良夜麻能許太流木乎《カマクラヤマノコダルキヲ》(三四三三)とある。○宇倍《ウベ》吾|戀爾家利《コヒニケリ》――類聚古集に吾の字が無いのに從ふべきである。吾が戀ふるはうべなりけりといふのである。
〔評〕 東の市の植木と、戀人との間に、何か關係があるのであらう。或は東の市で戀人を見そめたものか。前にも春日藏首老の駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《スルガナルアベノイチヂニアヒシコラハモ》(二八四)とあるから、門部王も市で女に逢はれたものかも知(326)れない。市の植木をよんだのは取材が珍らしい。
 
※[木+安]作村主益人《クラツクリノスグリマスヒト》從2豐前國1上(レル)v京(ニ)時、作(レル)歌一首
 
※[木+安]作村主益人の傳は詳でない。卷六に内匠寮大屬※[木+安]作益人云々と見える。※[木+安]は鞍に同じ。字鏡に、「※[木+安]、乘久艮」とある。※[木+安]作は氏、村主は尸である。
 
311 梓弓 引き豐國の 鏡山 見ず久ならば 戀しけむかも
 
梓弓《アヅサユミ》 引豐國之《ヒキトヨクニノ》 鏡山《カガミヤマ》 不見久有者《ミズヒサナラバ》 戀敷牟鴨《コヒシケムカモ》
 
私ハ今、コノ豐前國ヲ去ラウトシテヰルガ〔私ハ〜傍線〕、(梓弓引)豐前ノ國ノ鏡山ヲ、久シク見ナイナラバ戀シク思ハレルデアラウカナア。名殘惜シイコトダ〔八字傍線〕。
 
○梓弓引豐國之《アヅサユミヒキトヨクニノ》――梓弓を引き響《トヨモ》す意で、豐國につづけたものであるから、梓弓引は豐の序詞である。豐國は今の豐前・豐後。○鏡山《カガミヤマ》――今、豐前國田川郡の東部に勾金村があり、その大字に鏡山といふがある。此處に神功皇后を祀つた鏡神社があり、枕草子に見えた鏡の池もある。この邊に御陵と覺しきものがあるから、昔は墳墓の地であつたのである。この下に、河内王、葬2豐前國鏡山1之時作歌二首とある。
〔評〕 古義に、「この鏡山の佳景を見ずして久しくなりなば云々」とあるのは違つてゐる。景色を戀しく思ふのではない。この國にゐた間に仕へた御方(或は河内王か)の墓所に別れるのを悲しんだのである。不見久有者《ミズヒサナラバ》の見《ミ》を、鏡の縁語とするのは考へ過ぎであらう。この集には殆んど縁語は用ゐて居ない。
 
式部卿藤原|宇合《ウマカヒノ》卿、被(ル)v使v改(メ)2造(ラ)難波|堵《ミヤコヲ》1之時、作(レル)歌一首
 
藤原宇合は不比等の第三子。馬養とあるも同一人である。式部卿になつたのは、續紀によれば神龜元年である。神龜三年十月に、知造難波宮事となり、難波宮造營の事に從つたが、天平四年(327)三月にはその功によつて、物を賜はつてゐる。
 
312 昔こそ 難波田舍と 言はれけめ 今は京引き 都びにけり
 
昔者社《ムカシコソ》 難波居中跡《ナニハヰナカト》 所言奚米《イハレケメ》 今者京引《イマハミヤコビキ》 都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》
 
昔コソハ難波ハ、田舍ト言ハレタデアラウガ、今ハ都ガ遷ツテ、スツカリ〔四字傍線〕都ラシクナツタワイ。
 
○難波居中跡《ナニハヰナカト》――聖武天皇が御造営になつた難波の京は、孝徳天皇の長柄の宮を修復せられたもので、神龜二年十月に行幸あらせられて、造営のことを始められたのであるが、眞に都を遷されたのは天平十六年である。居中《ヰナカ》は田舍。○今者京引都備仁鷄里《イマハミヤコビキミヤコビニケリ》――この二句には例の誤字説が跋扈して、種々臆測を逞うし、樣々な訓があるが、元のままで、契沖がよんだのに從はうと思ふ。京引《ミヤコビキ》は少し熟しない語のやうにも思はれるが、これでよからう。まだ眞の遷都はないにしても、兎も角、都としての形を備へたから、ミヤコビキと言つたのであらう。都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》は都らしくなつたの意。
〔評〕 難波は孝徳天皇以來の舊郡で、更に遡れば仁徳天皇からの都である。歴代の天皇のうちには、行幸あらせられた方もあるから、田舍といふのは少々ひどすぎるが、新宮の造営を喜んで、かう言つたのであらう。自分の主管した事業の成功を喜んでゐる心持が見えてゐる。
 
土理宣令《トリノセムリヤウ》歌一首
 
土理は氏、宣令は名である。續紀に「元正天皇養老五年正月戊申朔庚午詔云々、從七位下刀利宣令等退朝之後令v侍2東宮1焉」とある。懷風藻に正六位上刀利宣令二首(年五十九)と見える。刀利氏は鳥佛師の家で歸化人の系統であらう。
 
313 み吉野の 瀧の白浪 知らねども 語りしつげば いにしへ念ほゆ
 
見吉野之《モヨシヌノ》 瀧乃白浪《タギノシラナミ》 雖不知《シラネドモ》 語之告者《カタリシツゲバ》 古所念《イニシヘオモホユ》
 
(328)私ハ〔二字傍線〕吉野ノ昔ノ樣ハ〔四字傍線〕(瀧乃白浪)知ラナイケレドモ、語リ傳ヘテ昔カラ離宮ガアツテ、行幸遊バシタコトナドヲ聞〔昔カ〜傍線〕クト、昔ノ盛ナ有樣〔五字傍線〕ガ、思ヒヤラレテナツカシイ。
 
○瀧乃白浪《タキノシラナミ》――瀧は今の宮瀧のあたりの瀧つ瀬を言つたもの。この句は雖不知《シラネドモ》に冠せた序詞。○雖不知《シラネドモ》――古昔のことは知らねどもといふので、瀧の白浪を知らねどもといふのではない。○古所念《イニシヘオモホユ》――舊訓はムカシであるが、一寸例が見當らない。古部念爾《イニシヘオモフニ》(四六)などによつてイニシヘと訓むべきである。この古へといふのは古來天皇の吉野に行幸あらせられたことをいふのである。
〔評〕 吉野懷古の作であるが、吉野の好景の代表ともいふべき、瀧の白浪を點出して、それを序に用ゐ、シラナミ、シラネドモと頭韻を押したところは、一寸器用な作である。
 
波多朝臣|少足《ヲタリ》歌一首
 
續紀に波多朝臣廣足・足人・百足等の名が見えるが少足はない。少足もこれらと同族であらう。
 
314 さざれ波 磯巨勢道なる 能登湍河 音のさやけさ たぎつ瀬ごとに
 
小浪《サザレナミ》 礒越道有《イソコセヂナル》 能登湍河《ノトセガハ》 音之清左《オトノサヤケサ》 多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》
 
(小浪礒)巨勢路ニアル能登湍河ハ、水ガ泡立ツテ、流レル瀬毎ニ水ノ落ツル〔五字傍線〕音ガサヤカニ清ク聞エルコトヨ。
 
○小浪礒越道有《サザレナミイソコセヂナル》――小浪が礒を越すといふ意で、巨勢につづいたのであるから、小浪礒は越道《コセヂ》の序である。越道《コセヂ》は巨勢街道で、巨勢は今の南葛城郡葛村古瀬附近の地。大和から紀州の眞土方面へ出る通路である。○能登湍河《ノトセガハ》――曾我川の上流で、今、吉野口驛附近を流れてゐる川。重坂川といふ。
〔評〕 始に置かれた序詞は、ただ越《コセ》といふ爲であるが、併し下の川瀬の音にふさはしい感じがあつて面白い。全體が清い快い格調を湛へた歌だ。卷十二に高湍爾有能登瀬乃河之後將合妹者吾者今爾不有十方《コセナルノトセノカハノノチモアハムイモニハアレハイマナラズトモ》(三〇一八)とある。(329)金槐集に「白浪の磯巨勢ぢなる能登湍河後も相見む水をしたえずは」とあるのは、この二歌を合したやうな作である。
 
暮春之月、幸(セル)2芳野離宮(ニ)1時、中納言大伴脚、奉(シテ)v勅(ヲ)作(レル)歌一首、并短歌 未2v逕奏上1歌
 
續紀に聖武天皇「神龜元年三月庚申朔、天皇幸2吉野宮1、甲子車駕還宮」とあるからこの時であらう。中納言大伴卿は旅人。元正天皇の養老二年三月に中納言となる。註の未逕奏上歌は家持の註か。逕は經に通じて用ゐる。
 
315 み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 萬代に 變らずあらむ いでましの宮
 
見吉野之《ミヨシヌノ》 芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》 山可良志《ヤマカラシ》 貴有師《タフトクアラシ》 永可良思《カハカラシ》 清有師《サヤケクアタシ》 天地與《アメツチト》 長久《ナガクヒサシク》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 不改將有《カハラズアラム》 行幸之宮《イデマシノミヤ》
 
吉野ノ吉野宮ハ山ガヨイ〔二字傍線〕爲ニ貴イ景色〔二字傍線〕デアラウ(330)カ。河ガヨイ〔二字傍線〕爲ニ清イ景色〔二字傍線〕デアラウカ。此處ニアル〔五字傍線〕離宮ハ、天地ト共ニ長ク久シク、萬代ノ後マデモ變ラナイデアルデアラウ。
 
○山可良志《ヤマカラシ》――山故にの意。志《シ》は強めて言ふ助詞。○永可良思《カハカラシ》――永は水の誤で、カハとよむ説がよい。類聚古集には水に作つてゐる。訓義辨證に永は説文に水長也とあつて、水の流るる貌の文字であるから、この儘でカハとよむべき由を説いてゐるが、果してどうであらう。予は水の誤とするものである。○天地與長久《アメツチトナガクヒサシク》――神代紀に「寶祚之隆當與2天壤1無v窮者矣」とあるに同じで、與《ト》は共にの意。○行幸之宮《イデマシノミヤ》――離宮をいふ。
〔評〕 卷一に出てゐた人麿の歌などと同じ精神で、吉野の山川を賞めたたへ、離宮の長久を祝福してゐる。短くて纏つた歌。
 
反歌
 
316 昔見し 象の小河を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも
 
昔見之《ムカシミシ》 象乃小河乎《キサノヲガハヲ》 今見者《イマミレバ》 彌清《イヨヨサヤケク》 成爾來鴨《ナリニケルカモ》
 
以前來テ見タコトノアル象ノ小河ヲ、今マタ來テ見ルト、以前ヨリモ一層清イ、ヨイ景色ニナツタワイ。
 
○象乃小河乎《キサノヲガハヲ》――卷一に象乃中山《キサノナカヤマ》(七〇)とあり、卷六に象山際乃《キサヤマノマノ》(九二四)とあるところの川で、宮瀧の對岸に今、喜佐谷と稱するところがあり、そこを流れる小川である。七〇の寫眞參照。
〔評〕 以前見た時よりも、更に美を加へた象の小川を賞めたもので、淡白な叙述ではあるが、この下に帥大伴卿歌五首の内に、吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲《ワガイノチモツネニアラヌカムカシミシキサノヲガハヲユキテミムタメ》(三三二)とあるので見ると、この時の清遊が、いつまでも忘れられなかつたものと見える。田安宗武の歌に「いよよ清くなりにしといひし象川は今はいかならむ見まほしきかも」とあるのは、この歌によつたのである。
 
山部宿禰赤人望(メル)2不盡山(ヲ)1歌、一首并短歌
 
(331)山部宿禰赤人の傳は明らかでない。山部氏は顯宗紀に伊與の來目部小楯に、初めて山部連の姓を賜はつたと見えてゐる。天武天皇の十三年十二月に、山部連に宿禰の姓を賜はつたのである。この人は身分低く、舍人などであつたらしい。從駕の歌が見えてゐる。併し歌人としての名聲は高かつたのであらう。卷十七に幼年未逕山柿之門とあつて、當時既に人麿と並び稱せられたものである。その足跡は吉野・近江・伊豫温泉及び下總に及んでゐる。東國行について略解は、「東に下りしは國官にてはあらじ、班田使などの時なるべし」といつてゐる。不盡山は不盡の他にこの集では布士・布仕・不自・布時・布自などとも書いてある。この山名について種々の説があるが、アイノ語、フンチ(火の義)とするのが最も信すべきである。歌の上、作の字が脱ちたのだらうとする説が多い。
 
317 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふり放け見れば 渡る日の 影も隱ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行き憚り 時じくぞ 雪は降りける 語り繼ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡の高嶺は
 
天地之《アメツチノ》 分時從《ワカレシトキユ》 神左備手《カムサビテ》 高貴寸《タカクタフトキ》 駿河有《スルガナル》 布士能高嶺乎《フジノタカネヲ》 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》 度日之《ワタルヒノ》 陰毛隱比《カゲモカクロヒ》 照月乃《テルツキノ》 光毛不見《ヒカリモミエズ》 白雲母《シラクモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》 時自久層《トキジクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》 語告《カタリツギ》 言繼將往《イヒツギユカム》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》
 
天地ノ分レタ開闢ノ〔三字傍線〕時カラ、神々シク高クテ貴イ、駿河ノ國ニアル富士ノ高イ山ヲ、空高ク仰イデ見ルト、空ヲ通ル太陽ノ姿モ、山ガ高イ爲ニ〔六字傍線〕隱レテ見エズ、照リ渡ル月ノ光モ、山ノ爲ニ障ヘラレテ〔九字傍線〕見エナイ。白雲モ通ルコトヲ憚ツテ、山ニツカヘテヰテ、春夏秋冬〔山ニ〜傍線〕時ヲ分タズニ、雪ハ降ツテヰルヨ。實ニ立派ナ名山ダカラ、コノ〔實ニ〜傍線〕富士トイフ高山ノコトハ、語リ傳ヘ言ヒ傳ヘテ行カウ。
 
○天地之分時從《アメツチノワカレシトキユ》――富士山が天地開闢の時からあるといふのである。孝靈五年に一夜のうちに近江の湖水が出來、富士山が噴出したといふ傳説が、年代記に記されてゐるが、赤人の頃にはさうした傳は信じられてゐなかつたものと見える。○度日之陰毛隱比《ワタルヒノカゲモカクロヒ》――空を渡る太陽の光も隱れるの意で、陰は光である。○伊去波伐加利《イユキハバカリ》(332)――行くことを憚る意。伊は發語。伐の字を舊本代に作るは誤、古葉略類聚抄等に伐とある。○時自久曾《トキジクゾ》――時自久《トキジク》は非時とも書く。時ならぬ折に常にあるをいふ。○語告《カタリツギ》――語繼の借字に相違ないが、告をツギと用ゐるのは隨分亂暴のやうでもある。併し卷十にも告思者《ツギテシオモヘバ》(二〇〇二)とあつて、告を繼の代りに用ゐてゐるから、通じて使はれたのである。
〔評〕 富士といふ名は、吾々國民の耳には、一種崇高な神秘的な、感を覺えしめる。我らは無條件で富士を讃美する。その思想は蓋し餘程古い時代からのものであらう。この歌は、かうした思想のあらはれの最古のもので、又後世に富士禮讃の觀念を増大せしめた作品でもある。天地開闢から説き起し、日・月・白雲非時雪といふやうなものを用ゐて、この山の雄大さ崇嚴さを、簡潔に述べ盡してゐる。味はへば味はふほど整つた、力の籠つた作品である。彼が語りつぎ言ひつぎ行かむと言つた通りに、この山が萬世に、全世界に遠永く語られてゐるのも嬉しいことである。
 
反歌
 
318 田兒の浦ゆ うち出でて見れぱ 眞白にぞ 不盡の高嶺に 雪は零りける
 
田兒之浦從《タゴノウラユ》 打出而見者《ウチイデテミレバ》 眞白衣《マシロニゾ》 不盡能高嶺爾《フジノタカネニ》 雪波零家留《ユキハフリケル》
 
田兒ノ浦ニ出テ見ルト、眞白ニ不盡ノ高嶺ニ雪ガ降ツテヰルヨ。アア實ニ壯大ナ景ダ〔九字傍線〕。
 
○田兒之浦從《タゴノウラユ》――從《ユ》は普通カラと譯される語であるが、ここは輕くニの意に見る方がよい。ユは往々ニの意に用ゐられる助詞である。これをカラとすると、考にあるやうに、「打出でて田兒の浦より見れば」とするか、又は略解の如く、「田兒の浦より東へうち出で見ればといふ意」とするか、或は古義のやうに「田兒の浦より沖の方へといふ意なり」と、船に乘つて出かけるやうな奇説までも生ずることになる。いづれも無理である。槻落葉や檜嬬手の説がよい。新古今に「田子の浦に打出でて見れば」として出してあるのは、他の點は兎も角、改作としては至當である。○雪波零家留《ユキハフリケル》――雪が降つてゐるよといふので、雪の眞白に降つてゐる状態を嘆美したのである。この三句以下を「白妙の富士の高根に雪は降りつつ」と新古今に改めて載せたのは改惡である。こ(333)れでは詠嘆の氣分が希薄で歌の力がなくなつて終つた。
〔評〕 すつきりとした、氣品の高い雄大な作である。叙景の絶唱として、古來尊崇せられてゐる。右に説いた新古今や百人一首に出てゐる改竄歌と、この原歌とを對比して、よく翫味して見ると面白い。この歌の傑作たることがわかるやうになれば、歌を鑑賞する力が出來たのだと言つてよい。
 
詠(メル)2不盡山(ヲ)1歌一首并短歌
 
319 なまよみの 甲斐の國 打ち寄する 駿河の國と こちごちの 國のみなかゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行き憚り 飛ぶ鳥も 翔びも上らず 燎ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひもかね 名づけも知らに 靈《くす》しくも 坐す神かも 石花《セ》の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの國の 鎭めとも 坐す神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高峯は 見れど飽かぬかも
 
奈麻余美乃《ナマヨミノ》 甲斐乃國《カヒノクニ》 打縁流《ウチヨスル》 駿河能國與《スルガノクニト》 己知其智乃《コチゴチノ》 國之三中從《クニノミナカユ》 出立有《イデタテル》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》 天雲毛《アマグモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》 飛鳥毛《トブトリモ》 翔毛不上《トビモノボラズ》 燎火乎《モユルヒヲ》 雪以滅《ユキモテケチ》 落雪乎《フルユキヲ》 火用消通都《ヒモテケチツツ》 言不得《イヒモカネ》 名不知《ナヅケモシラニ》 靈母《クスシクモ》 座神香聞《イマスカミカモ》 石花海跡《セノウミト》 名付而有毛《ナヅケテアルモ》 彼山之《ソノヤマノ》 堤有海曾《ツツメルウミゾ》 不盡河跡《フジカハト》 人乃渡毛《ヒトノワタルモ》 其山之《ソノヤマノ》 水之當烏《ミヅノタギチゾ》 日本乃《ヒノモトノ》 山跡國乃《ヤマトノクニノ》 鎭十方《シヅメトモ》 座神可聞《イマスカミカモ》 寶十方《タカラトモ》 成有山可聞《ナレルヤマカモ》 駿河有《スルガナル》 不盡能高峯者《フジノタカネハ》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
(奈麻余美乃)甲斐ノ國ト、(打縁流)駿河ノ國ト、彼方此方ノ兩國ノ眞中ニ、聳エ立ツテヰル富士トイフ高山ハ、天ノ雲モ行キ憚ツテ山ノ腹ニ棚引キ、空ヲ飛ブ鳥モ、コノ山ホド高クハ〔八字傍線〕、飛ビ上ルコトガ出來ナイ。山ノ上ニ〔四字傍線〕燃エテヰル火ヲバ、空カラ降ル〔五字傍線〕雪ヲ以テ消シ、空カラ〔三字傍線〕降ル雪ヲ、山ノ上ニ燃エテヰル〔九字傍線〕火デ消シテ、何ト形容ノ(334)仕様モナク、何ト名ノ付ケヤウモナク、不思議ニモイラツシヤル、神様デアルヨ。石花海《セノウミ》ト名ヅケテアル湖モ、ソノ山ニ包マレテヰル湖デアルゾヨ。富士河トイツテ人ノ渡ル河モ、ソノ富士山ノ水ガ泡立ツテ落チルノデアルゾヨ。一體コノ山ハ〔七字傍線〕(日本之)日本ノ國ノ、鎭護トシテオイデナサル神樣デアラウカ。又ハ〔二字傍線〕寶トシテ出來上ツタ山デアラウカ。實ニコノ〔四字傍線〕駿河ノ國ニアル富士ノ高嶺ハ、イクラ見テモ見飽クコトハナイワイ。
 
○奈麻余美乃《ナマヨミノ》――枕詞。甲斐につづくについて、冠辭考に、生弓《ナマユミ》の反《カヘ》る意だといひ、契沖は生吉貝《ナマヨミノカヒ》、古義は生善肉《ナマヨミ》の貝と言つてゐるが、生木の弓を生弓《ナマユミ》といふことも變であり、新弓が反り易いといふのも恐らく後世の弓のことで、上代の弓に就いて云ふべきではあるまいと思ふから、この説は退けたい。生吉《ナマヨミノ》も生善肉《ナマヨミノ》も詞として少し整はないが、生善肉《ナマヨミノ》の方が多少よいやうであるし、又生の貝を好んで食べた太古の遺風もあつたであらうから、假に生善肉《ナマヨミノ》の貝説を採ることにしよう。○打縁流 《ウチヨスル》――枕詞。駿河に冠するのは、冠辭考に打※[さんずい+甘]《ウチユス》る※[さんずい+甘]《ス》る髪《ガ》とあるが、あまり物遠い。仙覺は、浪のよする洲と云ひかけたものとし、檜嬬手に、「浪の打ちよするするどき川とつづくなり」とあり。古義は駿河國號の起原は動河《ユスリカハ》であつたらうから、打動動河《ウチユスルスルカハ》とつづけたのだらうといつてゐる。どうも分りかねる枕詞であるが、駿河國名の起原は、ともかくとして、富士川などの急流があるから、名を負うたものとする俗解が、必ずあつたであらうから、川(335)波の激しく寄せる駿河とつづけたものとするのが、穩やかであらうと思はれる。○己知其智乃《コチゴチノ》――彼方此方《アチコチ》といふに同じ。○國之三中從《クニノミナカユ》――三中《ミナカ》は眞中《マナカ》と同じ。從《ユ》は前の田兒之浦從《タゴノウラユ》の如く、これもニと同じと思はれる。○雪以滅《ユキモテケチ》――噴火を雪を以て消すこと、モチと古義にあるのはよくない。ケチはケスの古言。○言不得《イヒモカネ》――イヒモエズともよんであるが、カネがよからう。この卷の言毛不得名付毛不知《イヒモカネナヅケモシラニ》(四六六)を見ても、その他、島待付得而《キミマチカネテ》(二六八)・隱不得而《カクロヒカネテ》(二二六七)などいづれもカネである。○靈母《クスシクモ》――靈妙にもの意。アヤシクモともよんであるが、用例から推斷すると、單に不思議といぶかる意の時は、恠の字を用ゐてアヤシクとよみ、神秘的な意には靈の字を用ゐて、クスシクとよませたやうに見える。○座神香聞《イマスカミカモ》――山を直ちに神と貴ぶのである。太古、天然崇拜の名殘である。○石花海跡《セノウミト》――石花海は三代實録に、※[戔+立刀]水海《セノミヅウミ》と記して、富士北方の湖水で、本栖・※[戔+立刀]と並んでゐたが、就中、※[戔+立刀]の水海が大きかつたやうである。然るに貞觀六七年に噴火があつて、溶岩が※[戔+立刀]海を中斷し、今の四湖と精進湖とが出來た。三代實録に「七年十二月甲斐國言、云々、異火之變于今未止、や使者檢察、埋※[戔+立刀]海千許町」とある。今、精進湖と西湖との間、二里を距つるを思へば、この湖の大さと噴火の惨状とを想像することが出來る。今、西湖《セイコ》と呼ぶのは※[戔+立刀]の海の名殘であらう。駿河灣に瀬の海の名があるのは、後人がこの歌によつて名づけたのである。二八四の地圖參照。これを鳴澤とする説も取るに足らぬ。鳴澤については三三五八を見よ。石花をセと訓むのは、卷十二にも、馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イブセクモアルカ》(二九九一)とあつて、貝の名のセを借り用ゐたのである。セと稱する貝は俗に龜の手と稱するもので、體は數多の鱗になつてゐる石灰片に被はれ、海岸の岩石に固着してゐる。その状が、石に白い花が咲いたやうに見えるからであらう。和名抄に、「石花、二三月皆紫舒v花、附v石而生、故以名v之、」とあるものではない。○不盡河跡《フジガハト》――富士川といひての意。○水乃當烏《ミヅノタギチゾ》――當の下、知が脱ちたのだといふ説もある。卷十に落當知足《オチタギチタル》(二一六四)とあるによればさうも思はれるが、恐らく知は略して書いたのであらう。當は韻鏡内轉第三十一開、宕攝の音で、唐韻 toang であ(336)るからタギとなるので、布當乃宮者(一〇五〇)などもその例である。烏はゾとよむ例が多い。焉又は曾の誤とする説もあるが、訓義辨證に、烏は焉の俗體といつてゐるのに從ふべきであらう。○日本之《ヒノモトノ》――枕詞。日の出づる本の意。○山跡國乃《ヤマトノクニノ》――この山跡は我が國の總號、即ち日本である。日本の稱呼は、推古天皇の朝に小野妹子を隋に使した時の國書に、日出處天子と書かれた御精神で、やがて孝徳天皇の御代に日本の號を用ゐられたのであるから、この日本之山跡國乃《ヒノモトノヤマトノクニノ》といふ使ひ方も、日本の國號から思ひついて用ゐ始めたのであらう。○鎭十方《シヅメトモ》――鎭護としての意。
〔評〕 前の赤人の長歌に比して、叙述が精細である。場所を甲斐と駿河の中間とし、天雲もい行き憚り、飛ぶ鳥も飛びものぼらずの句は、前の歌に略々同じであるが、噴火と降雪の絶え間ないことを述べ、※[戔+立刀]の海・富士川など、附近の湖川をも點出して富士山の高大な姿を形容してゐるのは、實に巧みである。靈しくもいます神といひ、日の本の國の鎭護であり、同時に寶であると賞め稱へ、殆どあらむ限の讃辭を盡してゐる。蓋し日本人のこの靈山に對して抱いてゐる觀念を、全國民に代つて述べてゐるかの觀がある。赤人の歌に比して、更に一歩優れてゐるやうに思はれる。作者は誰とも分らない。左註によつて高橋蟲麻呂説をなす人もあるが、左註は布士能嶺乎《フジノネヲ》の一首にのみかかつてゐるらしい。拾穗抄に笠金村の作とあるが、歌風が全く異なつてゐる。藤井高尚は赤人作とし、守部は人麿の作であらうと推測してゐる。ともかく格調崇嚴、思想雄大な傑作である。
 
反歌
 
320 不盡の嶺に 零り置ける雪は 六月の 十五日に消ぬれば 
 
不盡嶺爾《フジノネニ》 零置雪者《フリオケルユキハ》 六月《ミナヅキノ》 十五日消者《モチニケヌレバ》 其夜布里家利《ソノヨフリケリ》
 
富士山ニ降リ積ツタ雪ハ、暑中ノ〔三字傍線〕六月ノ十五日ニ消エルト、直グソノ夜ノ中ニ、又降ルワイ。ホントニ一年中無クナル間ハナイモノダ〔ホン〜傍線〕。
 
○六月《ミナヅキノ》――六月をミナヅキといふ。水無月《ミナヅキ》として、田に水の無くなる炎熱の月とし、水之月《ミナツキ》として、田に水を(337)張る月とし、雷《カミナリ》月として雷鳴多き月とするなど諸説がある。○十五日消者《モチニケヌレバ》――十五日をモチといふのは、滿月の意で、ミチの轉である。
〔評〕 富士の雪の消える間のない意味を、誇張して言つたもののやうである。但し仙覺抄には、「富士の山には雪のふりつもりてあるが、六月十五日にその雪のきえて、子の時よりしもには、又ふりかはると駿河風土記に見えたり」と言つてゐるから、和銅の風土記にかうあつたのであらう。然らば古傳説の儘によんだものである。
 
321 不盡の嶺を 高みかしこみ 天雲も い行きはばかり 棚引くものを
 
布士能嶺乎《フジノネヲ》 高見恐見《タカミカシコミ》 天雲毛《アマグモモ》 伊去羽計《イユキハバカリ》 田菜引物緒《タナビクモノヲ》
 
富士山ガ高イカラ、恐ロシイカラ、空ノ雲モ通ルコトヲ憚ツテ、山ノ中腹デ〔五字傍線〕棚曳イテヰルヨ。
 
○田菜引物緒《タナビクモノヲ》――棚曳いてゐるよの意。田菜引は、た靡く。たは發語。物緒《モノヲ》は添へていふ感嘆の詞。ヲはヨの意であらう。
〔評〕 赤人の長歌には、白雲母伊去波伐加利《シラクモモイユキハバカリ》とあり、又この長歌には天雲毛伊去波伐加利《アマグモモイユギハバカリ》とあり、さうしてこの短歌にも天雲毛伊去羽計《アマグモモイユキハバカリ》とある。要するに前の二首の長歌と同じやうなことを歌つたものである。併しそれだからといつて、この短歌を、長歌と同一作者とは認め難い。左註の通りこの一首は高橋蟲麻呂の作であらう。
 
右一首(ハ)、高橋連蟲麻呂之歌中(ニ)出(ヅ)焉。以(テ)v類(ヲ)載(ス)v此(ニ)
 
他の例によれば歌の下に、集の字があるべきである。
 
山部宿禰赤人、至《リテ》2伊豫温泉(ニ)1作(レル)歌一首并短歌
 
伊豫温泉は道後温泉である。この湯は古事記允恭卷に伊余湯とし、舒明紀に伊豫温泉と記し、齊明紀には石湯《イハユ》とある。今、道後と稱するのは、古く東伊豫を道前とし、西伊豫を道後と言つたの(338)が、温泉の名として殘つてゐるのである。
 
322 すめろぎの 神の命の 敷きます 國のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宜しき國と こごしかも 伊豫の高嶺の 伊佐庭の 岡に立たして 歌思ひ 辭思はしし み湯の上の 樹むらを見れば 臣の木も 生ひ繼ぎにけり 鳴く鳥の 聲も變らず 遠き代に 神さびゆかむ いでまし所
 
皇神祖之《スメロギノ》 神乃御言乃《カミノミコトノ》 敷座《シキマス》 國之盡《クニノコトゴト》 湯者霜《ユハシモ》 左波爾雖在《サハニアレドモ》 島山之《シマヤマノ》 宜國跡《ヨロシキクニト》 極此疑《コゴシカモ》 伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》 射狹庭乃《イサニハノ》 崗爾立之而《ヲカニタタシテ》 歌思《ウタオモヒ》 辭思爲師《コトオモハシシ》 三湯之上乃《ミユノウヘノ》 樹村乎見者《コムラヲミレバ》 臣木毛《オミノキモ》 生繼爾家里《オヒツギニケリ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 音毛不更《コヱモカハラズ》 遐代爾《トホキヨニ》 神左備將在《カムサビユカム》 行幸處《イデマシドコロ》
 
代々ノ〔三字傍線〕皇統ノ神樣ガタガ、御支配遊バス國ノ何處ニモ、温泉ハ澤山アルガ、コノ伊豫ノ國ハ〔七字傍線〕、島山ノ姿ノ面白イ國デアルトテ、昔聖徳太子ガ〔六字傍線〕、嶮岨ナ伊豫ノ高嶺ノ麓ニアル〔四字傍線〕伊佐庭ノ岡ニオ立チ遊バシテ、歌ヲ思ヒ廻ラシ、辭ヲ思ヒ廻ラシナサツタトイフ、湯ノ上ノ方ノ、木ノ茂リ生エテヰル所ヲ今、私ガ來テ〔五字傍線〕見ルト、昔齊明天皇樣ノ御代カラ名高イ〔齊明〜傍線〕臣《オミ》ノ木トイフ木〔四字傍線〕モ、根絶エセズニ今マデ生ヒ〔根絶〜傍線〕續イテヰルワイ。又、ソノ時臣ノ木ニトマツテ〔ソノ〜傍線〕鳴イタ斑鳩ダノ此米ダノトイフ〔タ斑〜傍線〕鳥ノ鳴ク聲モ昔ト變ルコトナク、遠イ後々ノ代マデモ、コノ昔ノ天子樣ノ〔八字傍線〕行幸遊バシタ所ハ、神々シイ姿デ續クデアラウ。
 
○皇神祖之神乃御言乃《スメロギノカミノミコトノ》――皇神祖を考にカミロギとよんだのは惡い。皇祖神之《スメロギノ》(一一三三)。皇祖乃《スメロギノ》(二五〇八)・皇御祖乃《スメロギノ》(四〇九四)・皇神祖能《スメロギノ》(四一一一・四二〇五)の類皆同じである。但しスメロギは今上天皇を申し奉る時と、歴代の天皇を指し奉る時とあるが、祖の字を用ゐたのは多く後者である。神乃御言《カミノミコト》は神樣の意で、御言は御事。敬語。○國之盡《クニノコトゴト》――國の盡く。その國にも。○湯者霜《ユハシモ》――湯はサアといふやうな意、湯は温泉。○島山之宜國跡《シマヤマノヨロシキクニト》――島山の姿の佳い國なりとての意。○極此疑《コゴシカモ》――コゴシキカモの意で、下の伊豫能高嶺につづく。極は渠力の反、呉音ゴキ、慣用音ゴクから轉じて、コゴと用ゐたのであらう。用字格に極此《コゴシ》を借訓の部に入れ「凝なり」とあるは(339)蓋し誤である。○伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》――石槌山のことであらう。射狹庭の崗とは大ぶん距離があるが、他に高嶺と稱すべき山はないから、ここは伊豫の高嶺の麓なる射狹庭の崗といふ意であらう。高濱の沖の興居《コゴ》島をこれに當てる説もあるが、この極此疑《コゴシカモ》に附會したものだ。○射狹庭乃崗爾立之而《イサニハノヲカニタタシテ》――射狹庭乃崗は仙覺が引いた伊豫風土記に「立2湯岡側(ニ)碑文1、其立2碑文1處、曰2伊社邇波《イサニハ》之岡1也、所3以名2伊社邇波1者、當土諸人等其碑文欲v見、而|伊社那比《イサナヒ》來、因謂2伊社爾波《イサニハ》1本也」とあるところで、今、道後公園となつてゐる湯月城址と、湯月八幡のある丘とが、往古は連續してゐて、伊佐爾波の岡と稱せられてゐたらしい。聖徳太子の碑は今の公園の南側にあつたらしいが、河野氏がこの城を築いた時、或はそれ以前に湮滅したものらしいと言はれてゐる。又温泉の側に湯神社が祀られてゐて、もと其處に石清水八幡を勸請し合祀してあつたのを、松平定長公が湯月八幡として、東の岡の上に祀殿を建てられたといふことである。現在湯月八幡の樓門に伊佐爾波神社と額が懸けてあるが、延喜式に温泉郡伊佐爾波神社とある社が、昔の位置に存してゐるのではない。(以上松山高等學校教授井手淳二郎氏の所報による)崗爾立之而《ヲカニタタシテ》は、聖徳太子がこの岡に立たせ給うたことを言つたもので、神田本に之《シ》が無いけれども、ある方がよいやうに思はれる。○歌思辭思爲師《ウタオモヒコトオモハシシ》――聖徳太子が此處に碑を立て給はむとして、文(340)を草せられたことを言つたのである。歌に關しては物に見えないが、必ず歌をも作られたものと想像して、辭《コト》と並べたのである。或は赤人の當時には、太子の御歌が傳つてゐたかも知れない。釋日本紀に引用した伊豫國風土記には、この湯の由來に就いて述べ、かつ碑文をも載せてゐる。次に掲げたものは、即ちそれである。「伊豫國風土記曰、湯郡、大穴持命見2悔恥1而宿奈※[田+比]古那命欲v活、而大分速見湯自2下樋1持度(リ)來、以2宿奈※[田+比]古奈命1而漬浴者、暫間《シマシ》有活起居、然詠2日眞|※[斬/足]《シマシ》寢哉1、踐健跡處、今在2湯中石上1也、凡湯之貴奇不2神世時|耳《ノミ》1、於2今世1染2》疹痾1萬生爲除病存身要藥也、天皇等於v湯幸行降坐五度也、以d大帶日子天皇與大后八坂入姫命、二躯u爲2一度1也、以d帶中日子天皇與2大后息長帶姫命1二躯u爲2一度1也、以2上宮聖徳皇子1爲2一度1、及侍高麗惠總僧葛城臣等也、于v時立2湯岡側1碑文記云、法興六年十月歳在2丙辰1、我法王大王與2惠總法師及葛城臣1、逍2遥|夷與《イヨ》村1、正觀2神井1、歎2世妙驗1、欲v叙v意聊作2碑文一首1、惟夫日月照2於上而不v私神井出2於下1無v不v給、萬機所以妙應、百姓所以潜扇、若乃照給無2偏私1、何異2于壽國1、隨2華臺1而開合、沐2神井1而※[病垂+樛の旁]v疹、※[言+巨]升于落花池而化溺、窺2望山岳之※[山+嚴]※[山+愕の旁]1反冀2子平之能往1、椿樹相※[麻垂/陰]而穹窿、實相2五百之張蓋1、臨朝啼鳥而戯吐下、何暁2亂音之※[耳+舌]1v耳、丹花卷葉而映照、玉菓彌葩以垂v井、經2過其下1可2優遊1豈悟洪灌霄庭意與v才拙、實漸2七歩1、後定君子、幸無2蚩咲1也、以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1、以2後岡本天皇、近江大津宮御宇天皇、淨御原宮御宇天皇三躯1爲2一度1、此謂2幸行五度1也、」この碑の所在に關して種々の傳があるが、今、消滅して知る術がない。思の字を考にシヌビとよんでゐる。シヌビは、なつかしく思ひ出す義であるから、此處はさうは讀まれない。○三湯之上乃《ミユノウヘノ》――三《ミ》は美稱に過ぎない。上は湯の湧く所の上の方で小高い所であらう。ヘと訓んで邊と解するのは賛成し難い。○樹村乎見者《コムラヲミレバ》――木の群り茂つてゐるところを見れば。○臣木毛《オミノキモ》――臣木は今のモミの木である。和名抄に「爾雅云樅松葉柏身、和名|毛美《モミ》」、宇鏡に樅毛牟乃木とある。この木に關して神武紀に「初孔舍衛之戰、有v人隱2於大樹1而得v免v難、仍(テ)指2其樹1曰、恩如v母、時人因號2其地1曰2母木邑《オモノキムラ》1今云2飫悶廼奇《オモノキ》1訛也」とあるは面白い傳説である。この歌に臣木を詠んだ理由は、この地に古來有名な臣の木があつたからで、仙覺抄に引いた伊豫風土記には、「以2岡本天皇并皇后二躯(ヲ)1爲2一度1、于時於2大殿戸1有2椹《ムク》與|臣木《オミノキ》1於其上集2鵤與此米鳥1天皇爲2此鳥1繋v穗養賜也」とある。即ち伊豫の臣の木は、舒明天皇行幸以來、都人の間に知れ渡(341)つてゐたのである。○生繼爾家里《オヒツギニケリ》――舒明天皇當時のではないが、後繼のものが生えて、立派に榮えてゐるのを言つたのである。○鳴鳥之音毛不更《ナクトリノコヱモカハラズ》――右の文に引いた、鵤《イカルガ》と此米とが、今も鳴いてゐるといふのである。尚この件については、卷一の六の左註を參照せられたい。○遐代爾神左備將在《トホキヨニカムサビユカム》――遠き後世までも神々しく續くであらうの意。○行幸處《イデマシドコロ》――風土記に五度の行幸とある意を以ていつたのである。
〔評〕 伊豫温泉の懷古の歌である。古典を貴び、古傳説をなつかしんで、臣の木の梢を仰ぎ、斑鳩《イカルガ》や此米《シメ》の聲に聞き入つて、この由緒ある地の將來を祝福してゐる詩人の純情が、うるはしく詞句の上に流れてゐる。結句も、語り繼ぎ言ひつぎ行かむなどと、お定りの文句にならなかつたのが嬉しい。
 
反歌
 
323 百敷の 大宮人の 飽田津に 船乘りしけむ 年の知らなく
 
百式紀乃《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 飽田津爾《ニギタヅニ》 船乘將爲《フナノリシケム》 年之不知久《トシノシラナク》
 
昔〔傍線〕(百式紀乃)大宮人タチガ、行幸ノオ伴ヲシテ〔八字傍線〕、飽田津デ舟ニ乘ツテ出タ時カラハ、モウ幾年ニナルカ、隨分古イコトデ〔七字傍線〕、分ラナイ。
 
○百式紀乃《モモシキノ》――枕詞。百石城《モモイシキ》の意で大宮につづく。○飽田津爾《ニギタヅニ》――飽は饒の誤とする説が多いが、ニギは賑ふ意で、書紀に饒富、字鏡に稼、名義抄に贍、運歩色葉集に※[貝+周]、※[禾+農]の字が用ゐてある。これらによれば飽滿の意で、飽をニギと訓ましめるのは、理由あることと思はれる。槻の落葉にアキタヅとし、古義にもその地名ありといつてゐるのは疑はしい。「愛媛の面影」にはそれを否定してゐる。飽田津《ニギタヅ》は、卷一の額田王の歌(八)に見えた地で、今の三津が濱であらうといふ。
〔評〕 長歌の方では、主として温泉そのものに就いて、懷古の情を歌つたが、反歌では、行幸などに際して、御船の發着場たる飽田津について古を偲んだのである。卷一額田王の歌に熟田津爾船乘世武登《ニギタヅニフナノリセムト》とあるから、その歌を思つてよんだやうに見る説もあるが、さう狹く限定するのはどうであらう。謂はゆる五度の行幸の總べて(342)の場合を言つたのであらう。
 
登(リテ)2神岳(ニ)1山部宿禰赤人作(レル)歌一首并短歌
 
神岳は即ち雷山のこと。二三五參照。この歌では三諸の神名備山といつてゐる。
 
324 三諸の 神名備山に 五百枝さし しじに生ひたる 樛の木の いやつぎつぎに 玉葛 絶ゆることなく 在りつつも 止まず通はむ 明日香の 舊き都は 山高み 河とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 河し清し 朝雲に 鶴は亂れ 夕霧に かはづはさわぐ 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば
 
三諸乃《ミモロノ》 神名備山爾《カミナビヤマニ》 五百枝刺《イホエサシ》 繁生有《シジニオヒタル》 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》 玉葛《タマカヅラ》 絶事無《タユルコトナク》 在管裳《アリツツモ》 不止將通《ヤマズカヨハム》 明日香能《アスカノ》 舊京師者《フルキミヤコハ》 山高三《ヤマタカミ》 河登保志呂之《カハトホシロシ》 春日者《ハルノヒハ》 山四見容之《ヤマシミガホシ》 秋夜者《アキノヨハ》 河四清之《カハシサヤケシ》 旦雲二《アサグモニ》 多頭羽亂《タヅハミダレ》 夕霧丹《ユフギリニ》 河津者驟《カハヅハサワグ》 毎見《ミルゴトニ》 哭耳所泣《ネノミシナカユ》 古思者《イニシヘオモヘバ》
 
(三諸乃神名備山爾、五百枝刺繁生有、都賀乃樹乃)イツデモ續ギ續ギニ(玉葛)絶エルコトガナク、斯樣ニシテ常ニ、通ツテ見タク思ハレルコノ〔二字傍線〕飛鳥ノ舊都ハ、山ガ高クテ、河ハ遠ク遙カニハツキリト流レテヰル。春ノ日ニハ山ノ景色ガ面白イノデ〔十字傍線〕、山ガ見タク思ハレル。秋ノ夜ニハ河ノ音ガ清ク聞エル。朝ノ雲ニ鶴ハ亂レテ飛ビ、夕方立ツ霧ノ中ニ河鹿ハ嶋キ騷イデヰル。コノ三諸ノ神名備山ニ登ツテ飛鳥ノ舊都ヲ見テ〔コノ〜傍線〕、昔盛デアツタコト〔七字傍線〕ヲ思フト、何デモ見ルモノゴトニ、悲シイ情ヲ起サセテ、自然〔悲シ〜傍線〕ニ、聲ヲアゲテ泣クヨ。
 
○三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃《ミモロノカミナビヤマニイホエサシシジニオヒタルツガノキノ》――彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》の序詞。三諸の神名備山に、多くの枝をさして、繁く生ひ茂つてゐる樛の木の意で、ツガの音を繰返し彌《イヤ》ツギツギとつづけたのである。二九參照。これは神岳に登り、目に觸れたものを採つて序としたのである。○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。絶事無《タユルコトナク》につづく。玉は美稱で、蔓草の類をカヅラといふ。蔓草が這ひつづいて絶えない意を以てつづけたもの。○在管裳《アリツツモ》――ありありつつもに同じ。ありありては物の繼續するのをいふので、かうしてゐての意。○不止將通《ヤマズカヨハム》――不止をツネニと略解によんである(343)のは惡い。不止をヤマズとよんだのは集中に例多く、夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》(四〇〇五)・也麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》(四三〇三)など假名書の例も少くない。○明日香能舊京師者《アスカノフルキミヤコハ》――飛鳥の舊都は即ち天武天皇の明日香淨御原宮をいふ。○山高三《ヤマタカミ》――山が高くての意。このミは故にの意とは違つてゐる。山は飛鳥附近の連山を指したのである。東から南にかけて、倉橋・多武・細川・南淵・高取などの諸山が連なつてゐる。○河登保志呂之《カハトホシロシ》――河遠白しで、河が遠く鮮かに流れてゐること。これを雄大の意とする説もあるが、恐らくさうではあるまい。卷十七にも山高美河登保之呂思《ヤマタカミカハトホシロシ》(四〇一一)とあつて、此處と全く同樣である。長明無名抄に、「すがたうるはしく、清げにいひ下して、たけ高くとほしろきなり云々。これははじめの歌のやうにかぎりなく、とほしろくなどはあらねど云々。はじめの歌はすがたきよげにとほしろければ云々」とあるは氣高く明澄なる意と思はれるから、結局同じである。○山四見容之《ヤマシミガホシ》――山が見たいの意で、春は山に花が咲いて景色が面白く、望を恣にしたい意である。容は借字で見が欲しである。○河四清之《カハシサヤケシ》――秋の夜は月の光に照らされて、河の景色もことに美しきを賞めたのである。○河津者驟《カハヅハサワグ》――河鹿の鳴くをいふ。河津は後世河鹿と稱して、山間の清流に住む蛙に似て黒く、指に吸盤を持つてゐるもので、澄んだ美しい聲で鳴く。
〔評〕 冒頭の序詞も氣がきいてゐるし、河登保志呂之《カハトホシロシ》の句も、感じのよい清新な氣分がする。春秋朝夕の對句もよく整つて、舊都の佳景を叙べて餘蘊なく、最後に毎見哭耳所泣古思者《ミルゴトニネノミシナカユイニシヘオモヘバ》と懷古の涙に咽び、景と情と併せ歌ひ盡した佳作である。登保志呂之《トホシロシ》、見容之《ミガホシ》、清之《サヤケシ》など終止形の句切に、シの韻を押んでゐるのも力強く、瓊の響の※[王+倉]々たるが如き、さわやかな調をなしてゐる。
 
反歌
 
325 明日香河 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 戀にあらなくに
 
明日香河《アスカガハ》 川余藤不去《カハヨドサラズ》 立霧乃《タツキリノ》 念應過《オモヒスグベキ》 孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》
 
私ガコノ飛鳥ノ舊都ヲ慕フ心ハ〔私ガ〜傍線〕、(明日香河川余藤不去立霧乃)ヨイ加減デ〔五字傍線〕晴ラスコトガ出來ルヤウナ、ソンナ(344)一寸シタ〔七字傍線〕思慕ノ情デハアリマセンヨ。
 
○明日香河川余藤不去立霧乃《アスカガハカハヨドサラズタツキリノ》――明日香川の川の淀みの上に、常に立ち去らずに立つてゐる霧の意で、念應過《オモヒスグベキ》の過ぐにかかる序詞である。藤は他に用例がないから誤だらうと、濱臣は言つて居るが、卷五にも胡藤母意母保由《コドモオモホユ》(八〇二)とあるから誤ではない。○念應過《オモヒスグベキ》――思ひ忘れるやうなの意。過は晴れること。○孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》――戀ではないよの意。
〔評〕 神岳から見下し、飛鳥川の上に棚曳いてゐる霧を以て序詞とし、去り難い舊都の愛慕を述べてゐる。結句の孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》が、哀に響いて餘情がある。
 
門部《カドベノ》王、在(リテ)2難波(ニ)1見(テ)2漁父(ノ)燭光(ヲ)1作(レル)歌一首
 
門部王は三一〇參照。古寫本多くはここに「後賜姓大原眞人氏也」とある。
 
326 見渡せば 明石の浦に ともす火の ほにぞ出でぬる 妹に戀ふらく
 
見渡者《ミワタセバ》 明石之浦爾《アカシノウラニ》 燒火乃《トモスヒノ》 保爾曾出流《ホニゾイデヌル》 妹爾戀久《イモニコフラク》
 
(見渡者明石之浦爾燒火乃)私ハ妻ヲ戀フルコトガ、外ニアラハレテ、人ノ目ニ立ツヤウニナツタヨ。
 
○見渡者明石之浦爾燒火乃《ミワタセバアカシノウラニトモスヒノ》――これはホと言はむ爲の序詞である。火は又ホともいふからである。○保爾曾出流《ホニゾイデヌル》――ホは即ち秀、穗で、ホニイヅルとは、目に立つやうに著しく顯はれるをいふ。
〔評〕 これも前の歌と同じく、眼前の景色を以て序を作つたのである。難波から見渡しても、明石の浦は見えないけれども、その方向に當つて輝いてゐる漁火を以て、明石の浦と斷じたもので、燭火に明石といふ地名は應はしいやうに思はれる。前にも留火之明大門爾入日哉《トモシビノアカシノオドニイラムヒヤ》(二五四)とあつた。この頃の歌には、かやうに矚目するところを採つて、手輕に戀の心を述べたものが隨分ある。この歌も如何なる事實に關連してゐるものか明らかでないが、輕い氣分のやうに思はれる。
 
(345)或娘子等、賜(リ)2※[果/衣のなべぶたなし]乾鰒《ツツメルホシアハビヲ》1戯(ニ)請(ヒシ)2通觀僧之|咒願《カジリヲ》1時、通觀作歌一首
 
目録に「或娘子等以2※[果/衣のなべぶたなし]乾鰒1贈2通觀僧1戯請2呪願1時云々」とあるによれば、賜の字は神田本の如く贈とあるべきであらう。通觀の傳は明らかでない。呪願は書紀にカジリとよんである。
 
327 わたつみの 沖に持ち行きて 放つとも うれむぞこれが よみがへりなむ
 
海若之《ワタツミノ》 奧爾持行而《オキニモチユキテ》 雖放《ハナツトモ》 宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》 將死還生《ヨミガヘリナム》
 
タトヒ〔三字傍線〕海ノ沖ヘ持ツテ行ツテ放シタ所デ、ドウシテコノ乾鮑ガ生キカヘリマセウカ。イクラ私ノ呪ガ上手デモ駄目デス〔イク〜傍線〕。
 
○海若之《ワタツミノ》――海若《ワタツミ》は山祇《ヤマツミ》に對した語で、海神をいふのであるが、後世では單に海を指す場合が多い。これは後世式の用法である。○宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》――宇禮牟曾《ウレムゾ》は如何ぞに同じ。卷十一に平山子松末有廉奴波《ナラヤマノコマツガウレノウレムゾハ》(二四八七)とあるのと共に、ただ二例のみである。○將死還生《ヨミガヘリナム》――ヨミガヘラマシと略解によんであるが、將の字はム・ラム・ナム・ケムなどと訓むのが常で、マシの訓は他に一寸見當らぬから、これもヨミガヘリナムとすべきである。ヨミガヘルは黄泉《ヨミ》より還る意、即ち蘇生すること。
〔評〕 物もあらうに、乾鮑を僧に贈るとは、隨分ひどいいたづらである。呪願を請ふとは、どんな願か分らないが、娘子が僧を誘惑しようとしたものと思はれる。通觀はそれと知つて、相手にならず、あつさりと串戯にしてしまつたのは、中々偉い坊さんだ。この歌は内容の洒落な點が愉快であるが、宇麗牟曾《ウレムゾ》などといふ珍らしい語を用ゐて、歌詞を力強くしてゐる。この語は焉ぞなどと同語で、漢文直譯式の堅い感じのする語である。その點がまた坊さんらしくて面白い。
 
太宰少式小野|老《オユ》朝臣歌一首
 
太宰府は帥を長官とし、その下に大貳一人、少貳二人あつた。小野老朝臣は續紀によれば、「天平(346)九年六月甲寅太宰大貳從四位下小野朝臣卒」と見えてゐるが、南京遺芳所載、天平十年周防國正税帳斷簡に、この人が病を養はむ爲に、下野那須温泉に赴いたこと、及び彼の地に歿して、骨送使が周防國を通過したことが見えてゐるから、續紀に九年とあるのは十年の誤であらう。次の歌どもから考へると、大伴旅人が帥であつた頃、少貳としてその部下にゐたのである。
 
328 あをによし 寧樂の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今さかりなり
 
青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》 咲花乃《サクハナノ》 薫如《ニホフガゴトク》 今盛有《イマサカリナリ》
 
(青丹吉)奈良ノ都ハ咲ク花ガ美シク〔三字傍線〕咲キ匂ウテヰルヤウニ、今ハ繁盛ナ有樣デアル。
 
○青丹吉《アヲニヨシ》――寧樂の枕詞。一七參照。○咲花乃薫如《サクハナノニホフガゴトク》――薫の字は香ることであるが、ニホフは色で見る美しさをいふのである。して見ると、この字は當つてゐないやうにも思はれるが、卷六にも丹管士乃將薫時能《ニツツジノニホハムトキノ》(九七一)とあつて、香る意味でなく用ゐてある。蓋しこの時代に於て、既にニホフといふ語が、香る意にも用ゐられてゐたので、薫の字をニホフと讀ませたものである。卷十七に橘乃爾保弊流香可聞《タチバナノニホヘルカカモ》(三九一六)とあるのは、ニホフを香に用ゐた例であらう。
〔評〕 天平時代の奈良の都を謳歌したものとして、人のよく知る歌である。何らの工夫もなく修飾もなく、思ふ儘を舒べた作で、咲花乃薫如《サクハナノニホフガゴトク》の譬喩が全體の中心をなしてゐる。力のある、はつきりとした作だ。但し作者は太宰府にゐて詠んだのである。
 
防人司佑《サキモリツカサノスケ》大伴|四繩《ヨツナ》歌二首
 
防人司は太宰府下の役所で、防人に關する事務を掌る。佑はその次官で、五八位上の卑官である。舊本祐に作るは誤。四繩は目録・類聚古集などに四綱とあるからヨツナであらう。古今六帖にも大伴よつなとある。この人の傳は明らかでない。
 
329 やすみしし 吾が大君の 敷きませる 國の中には 都念ほゆ
 
(347)安見知之《ヤスミシシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 敷座在《シキマセル》 國中者《クニノナカニハ》 京師所念《ミヤコオモホユ》
 
(安見知之)私ノ天子樣ガ御支配遊バス國ノ中デハ、都ガ一番ナツカシク思ハレル。カウシテ田舍ニヰテハ、何處ヨリモ都ガナツカシイ〔カウ〜傍線〕。
 
○安見知之《ヤスミシシ》――王《オホキミ》の枕詞。三參照。○國中者《クニノナカニハ》――國内ではの意。者を在に改めて、クニノナカナルとよまうとする説は妄である。○京師所念《ミヤコオモホユ》――京は一字でミヤコとよんだ例が多いが、前の歌の書き方から見ても、亦卷五に伊都斯可母京師乎美武登《イツシカモミヤコヲミムト》(八八六)とあるを見ても、此處は京師の二字でミヤコとよむのである。さうするとミヤコオモホユと訓むより外はない。ミヤコシオモホユとシを補ひたいが、文字が無いから入れない方がよい。
〔評〕 普天の下、率土の濱、何處か王土ならざる、とは思へども、やはりなつかしいのは都である、咲く花の薫ふが如くといつた同僚の言葉によつて、都慕はしい心が刺戟せられて、以下の數首も出來たのであらう。
 
330 藤浪の 花は盛りに なりにけり 平城の京を 思ほすや君
 
藤浪之《フヂナミノ》 花者盛爾《ハナハサカリニ》 成來《ナリニケリ》 平城京乎《ナラノミヤコヲ》 御念八君《オモホスヤキミ》
 
藤ノ花ハ今ハ盛トナリマシタ。貴方ハコノ花ヲ見ルニツケテモ〔コノ〜傍線〕、奈良ノ都ヲ思ヒ出シナサイマスカ。如何デス〔四字傍線〕。
 
○藤波之《フヂナミノ》――藤は花房長く垂れて、靡き動く樣が波のやうであるから、藤波といふのであらう。
〔評〕 師の大伴旅人に奉つたのであらう。何につけても都は戀しいが、取り分け、紫の花色なつかしい藤の盛に會つては、その花の多い奈良の都が思ひ出されるのである。自分の心から忖度して、人に問ひかけたものであらう。三句目をケリで言ひ切つたのは、この集では珍らしい型である。卷六に太宰少貳石川朝臣足人の刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君《サスタケノオホミヤビトノイヘトスムサホノヤマヲバオモフヤモキミ》(九五五)とあるのも、師の旅人に捧げたもので、似た歌である。
 
帥《ソチ》大伴(ノ)卿歌五首
 
旅人の歌である。この人が帥になつた記事は續紀にないが、卷十七に「天平二年庚午冬十一月太(348)宰帥大伴卿被2v任大納言1【兼v帥如v故】上v京之時云々」とあるから、それまで數年間太宰帥であつたのである。帥は太宰府の長官で、令には從三位とあるが、旅人は既に神龜元年に正三位になつてゐる。
 
331 吾が盛 またをちめやも ほとほとに 寧樂の京を 見ずかなりなむ
 
吾盛《ワガサカリ》 復將變八方《マタヲチメヤモ》 殆《ホトホトニ》 寧樂京師乎《ナラノミヤコヲ》 不見歟將成《ミズカナリナム》
 
私ノ若イ〔二字傍線〕盛リガ復ト再ビ返ツテ來ヨウカ、決シテ再ビ若返ルコトハナイ。カウシテ年老ツテシマツテ〔決シ〜傍線〕、大抵ハ奈良ノ都ヲ見ナイデシマフコトニナルデアラウカ。殘念ナコトダ〔六字傍線〕。
 
○復將變八方《マタヲチメヤモ》――舊訓はマタカヘレハモであるが、宣長がマタヲチメヤモとよんだのがよい。變若益爾家利《ヲチマシニケリ》(六五〇)・又變若反《マタヲチカヘリ》(一〇四六)などによつて、若の字を補ふ説もあるが、この儘でよいであらう。ヲツは初めにかへる、もとへもどる意の動詞である。○殆《ホトホトニ》――殆ど、大抵、……するに近くなどの意。
〔評〕 齡の傾いた誰もが感ずることは、寄る年波の立ちかへらぬ悲しみである。それと同時に、避けがたい死が近づきつつあることを自覺する。邊土にあつて淋しい生活をしてゐるものは、住み馴れた都に再び歸り得るか否かを危むのである。この歌にはその感じが、殆ど絶望的な口調を以てあはれに述べられてゐる。
 
332 わが命も 常にあらぬか 昔見し 象の小河を 行きて見むため
 
吾命毛《ワガイノチモ》 常有奴可《ツネニアラヌカ》 昔見之《ムカシミシ》 象小河乎《キサノヲガハヲ》 行見爲《ユキテミムタメ》
 
昔、大和ノ國ニヰタ時ニ〔九字傍線〕見タ、アノ吉野ノ〔三字傍線〕象ノ小河ヲ、モウ一度行ツテ見タイカラ、私ノ命ガイツマデモ無クナラヌモノデアツテクレヌカヨ。
 
○常有奴可《ツネニアラヌカ》――常ニアレカシの意と解かれてゐるが、常デアツテクレヌカヨの意であらう。古義にこのヌを名告佐禰《ナノラサネ》のネと同じく、希望辭なり。可はかな〔二字傍点〕にて歎辭なりといつてゐるのは從ひがたい。○象小河乎《キサノヲガハヲ》――前にこの人の作に昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨《ムカシミシキサノヲガハヲイマミレバイヨヨサヤケクナリニケルカモ》(三一六)といふのがあつた。吉野なるこの小川が餘程氣に入つたものと見える。
(349)〔評〕 前の吾盛《ワガサカリ》の歌と、殆ど同樣の氣分であるが、曾遊の地吉野の象の小川を憶ひ起して、その佳景に接せん爲に、命長かれと祈つたもので、旅人はかなり煙霞の癖があつた人と見える。
 
333 淺茅原 つばらつばらに もの思へば ふりにし郷の 思ほゆるかも
 
淺茅原《アサヂハラ》 曲曲二《ツバラツバラニ》 物念者《モノモヘバ》 故郷之《フリニシサトノ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
(淺茅原)細々ト物ヲ思ツテヰルト。取リ分ケ自分ノ故都ガ戀シク思ハレルワイ。
 
○淺茅原《アサヂハラ》――枕詞。チハラ、ツバラと音を繰返してつづく。淺茅原は即ちまばらに生えた茅原である。○曲曲二《ツバラツバラニ》――ツバラは、ツマビラカ、委しく、細かに、などの意。○故郷之《フリニシサトノ》――大伴氏の舊地であらう。次に香具山乃故去之里乎《カグヤマノフリニシサトヲ》とあるから、香具山の麓である。之の字、古義にシとよんでゐるが、この歌ではシは強過ぎると思ふ。舊訓の通りノとよみたい。
〔評〕 なつかしいやさしい感情が流れてゐる。調子が穩やかで、しんみりとした追憶の感があらはれてゐる。
 
334 忘草 わが紐につく 香具山の ふりにし里を 忘れぬがため
 
萱草《ワスレグサ》 吾紐二付《ワガヒモニツク》 香具山乃《カグヤマノ》 故去之里乎《フリニシサトヲ》 不忘之爲《ワスレヌガタメ》
 
私ハ旅ニ出テヰテ〔八字傍線〕香具山ノ麓ニアル〔四字傍線〕故郷ガ忘レラレナイデ仕樣ガナイ〔六字傍線〕カラ、ドウカシテ故郷ヲ忘レテコノ苦シミカラ遁レヨウト思ツテ〔ドウ〜傍線〕、萱草ヲ私ノ着物ノ紐ニ結ヒ付ケテミタ。萱草ヲ付ケルト物忘ヲスルトイフガ、ドウカキキ目ガアレバヨイガ〔萱草〜傍線〕。
 
○萱草《ワスレグサ》――和名抄に「兼名苑云、萱草一名忘憂、漢語抄云、和須禮久佐、俗云如2環藻(ノ)二音1」とあつて、今もクワンゾウと稱する草である。萱の呉音クワンであり、又一に※[草冠/(言+爰)]に作るも同字である。この草は百合科の植物で、黄赤色の百合のやうな花を開く。山間に自生し、又庭園にも植ゑる。この草を身に附ければ、物思ひを忘れるといふのだが、稽康、養生(350)論「合歡※[益+蜀]v念、萱草忘v憂、愚智所2共知1也」とあるから、支那の俚諺から出たものである。○不忘之爲《ワスレヌガタメ》――忘れようとしても、忘れ得ないからの意。新訓にワスレジガタメとあるは、古點によつたものか。さう訓む時は忘れまい爲にとなつて、意味が分らなくなりはせぬか。
〔評〕 この頃から忘草や忘貝を、思ひを忘れる爲に弄ぶことがよく歌によまれてゐる。まさか言葉だけではなく、實際に用ゐたのであらう。上代人の幼兒のやうな純情と、長閑な生治とを思はしめるものがある。
 
335 吾が行は 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にてあれも
 
吾行者《ワガユキハ》 久者不有《ヒサニハアラジ》 夢乃和太《イメノワダ》 湍者不成而《セニハナラズテ》 淵有毛《フチニテアレモ》
 
私ノ旅行ハ永イ間トイフ程デハナイ。ダカラアノ吉野川ノ〔九字傍線〕夢ノ和太トイフ淵〔四字傍線〕モ私ノ歸ルマデ〔六字傍線〕瀬トハナラナイデ淵ノママデヰテクレヨ。
 
○吾行者《ワガユキハ》――吾が旅行はの意。ユキは名詞である。○夢乃和太《イメノワダ》――吉野川の曲つて淵をなしてゐるところの名である。懷風藻に吉田連宜の從駕吉野宮の詩に、「今日夢淵上、遺響千年流」とあり、大和志に「夢(ノ)回淵、在2吉野郡御料莊新住村1俗呼2梅(ノ)回1淵中奇石多」と出てゐる。新住《アタラスミ》は下市の下流で、離宮址からあまりに距つてゐる。今も宮瀧の下流象の小川の注ぐあたりを、所(351)の人が夢淵《ユメブチ》といつてゐるから、恐らくそこであらう。和太は曲《ワタ》の意で淵をいふ。寫眞は著者の撮影にかかる。○湍者不成而《セニハナラズテ》――セトハナラズテと舊訓にあつて、いづれとも定め難いが、卷六にある旅人の歌に、瀬二香成良武《セニカナルラム》(九六九)とあり、その他、古歌に「今日は瀬になる」、「瀬にかはりゆく」、などの例が多いから、それに從ふことにしよう。○淵有毛《フチニテアレモ》――淵にてあれよといふのである。この句の訓、諸説がある。例の改字説には從はぬとして新訓にフチニシアラモとある。シは或は可であらうが、アラモはどうであらう。未然形に續くモはムの變形で、東歌に多く出てゐて、東國の方言らしい。ここはアレモとよみたい。アレは命令、モは詠嘆の助詞。
〔評〕 夢の回淵の佳景よ、我がこの旅を終つて、再び訪ふまで、瀬にはならずに居てくれよといふので、この人の純な自然愛がここにもあらはれてゐる。著者も昭和四年八月其處に舟を浮べて「夢のわだ瀬にはならずて遠遠し千年の今日を淀みてあるかも」と口吟んだことであつた。
 
沙彌滿誓詠v緜歌一首
 
續紀に「養老七年二月丁酉勅2僧滿誓1 俗名從四位上笠朝臣麻呂 於2筑紫1令v造2觀世音寺1」とあるが、笠朝臣麻呂は永く美濃守の任にあり、右大辨從四位上になつて出家した人である。沙彌は梵語 Sramanera の訛で、息慈と譯す。佛門に入りて剃髪し受戒したばかりの男子をいふ。
 
336 しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖けく見ゆ
 
白縫《シラヌヒ》 筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》 身著而《ミニツケテ》 未者伎禰杼《イマダハキネド》 暖所見《アタタケクミユ》
 
(白縫)筑紫ノ綿ハ身ニツケテ、マダ着テハ見ナイケレドモ、カウシテ積ンデアルノヲ見タダケデモ〔カウ−傍線〕暖サウニ見エル。着タラドンナニ暖イダラウ〔着タ〜傍線〕。
 
○白縫《シラヌヒ》――舊訓シラヌヒノとあるが、卷五に斯良農比筑紫國《シラヌヒツクシノクニ》(七九四)、卷二十に之良奴日筑紫國《シラヌヒツクシノクニ》(四三三一)とあるから、シラヌヒとよむべきである。筑紫の枕詞とするのは、古事記に筑紫國を白日別《シラヒワケ》といふとあるシラヒから出たもので、かの肥後の國の海上にあらはれるといふ不知火ではあるまい。景行天皇紀十八年の條に「五月壬辰朔(ニ)從2(352)葦北1發v船到2火(ノ)國1。於v是日没也。夜冥不v知2著岸1、遙視2火光1、天皇詔2挾抄者《カヂトリ》1曰、直指2火處1、因指v火往v之、即得v著v岸、天皇問2其火光處1曰、何謂邑也、國人對曰、是八代縣豐村、亦尋2其火1、是誰人之火也、然不v得v主、茲知v非2人火1故名2其國1曰2火國1」とあるのが不知火の起源のやうに論ぜられるが、後世の不知火は、天草方面の海中にあらはれるのに、これは海中から東方の陸地の火を御覽になつたので、全く別物である。又謂はゆる不知火は出現の時期も七月晦と十二月晦とが最も著しいといはれてゐるが、紀の文は五月になつてゐる。萬葉には不知火の文字を用ゐないのも考ふべき點で、今の不知火の話は、後になつて言ひ出したものであらう。○筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》――筑紫は筑前筑後で、ここは太宰府を指す。太宰府の綿は續紀に「神護景雲三年三月乙未、始毎年、運2太宰府綿二十萬屯(ヲ)1輪2京庫1」とある。この綿は眞綿説と木綿《キワタ》説と二つに分れてゐる。ワタは海《ワタ》、渡《ワタ》と同語で、海を渡つて來たものと思はれ、又右の續紀の文のやうに、太宰府から都に送つた點を見ても、舶來品たるは爭はれない。木綿《キワタ》は印度原産で、支那を經て輸入せられたものである。尚、右の續妃の文に二十萬屯とあるが、和名抄に「綿六兩爲v屯、一屯讀2飛止毛遲1」とあつて、六兩は二斤に相當するから、二十萬屯はかなり夥しい數量である。當時これだけものを輸入したかと思へば、貿易の盛大に驚かされる。卷十四に伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太伊利奈麻之母乃伊毛我乎抒許爾《キヘビトノマダラフスマニワタサハダイリナマシモノイモガヲドコニ》(三三五四)とあつて、田舍人の衾にも入れられたもので、この點から考へても、眞綿説には從ひ難い。○未者伎禰抒《イマタハキネド》――者の字は添へて言へるのみ。○暖所見《アタタケクミユ》――舊訓アタタカニミユであるが、宣長説に從つてアクタケクミユと訓むことにする。
〔評〕 實に平明な歌だ。詩趣が乏しいとも言へぬこともないが、綿のふかふかとしたのを眺めた時の、實感その儘をよんだもので、面白いところがある。
 
山上臣憶良罷(ル)v宴(ヲ)歌一首
 
臣の字、憶良の下にある本もある。この歌は太宰府での作で、憶良が筑前守時代のものである。憶良の履歴は六二に記して置いた。
 
337 憶良らは 今は罷らん 子哭くらむ 其の彼の母も 吾を待つらむぞ
 
(353)憶良等者《オクララハ》 今者將罷《イマハマカラム》 子將哭《コナクラム》 其彼母毛《ソノカノハハモ》 吾乎將待曾《ワヲマツラムゾ》
 
私ドモハモウ歸リマセウ。宅デハ〔三字傍線〕子供ガ泣イテ居リマセウ。サウシテ又〔五字傍線〕アレノ母モ、私ヲ待ツテ居リマセウヨ。ドリヤ失禮致シテ歸リマセウ〔ドリ〜傍線〕。
 
○憶良等者《オクララハ》――等《ラ》は添へただけ。○其彼母毛《ソノカノハハモ》――ソモソノハハモとよむ説が槻落葉や古義にあるが、よくない。ソモはソレモの意とし、子を指したものと見たのであるが、この句は妻だけのことにして考へる方がよい。ソノカノハハモは其の彼奴《アイツ》の母といふやうな意で、言葉が荒々しく、親しみがあつて面白い。
〔評〕 自分のことを、代名詞を用ゐないで、實名を以て歌ひ出したのが、既に異なつてゐて面白い。今者將罷《イマハマカラム》と言ひ切つて、後で述べてゐる理由が頗る振つてゐる。粗野といへば粗野に違ないが、天眞爛漫、實に愉快な作品である。調子も内容にふさはしく、ざつくばらんなところがよい。
 
太宰帥大伴卿讃(ムル)v酒(ヲ)歌十三首
 
338 しるしなき 物を思はずは 一杯の 濁れる酒を 飲むべく有るらし
 
驗無《シルシナキ》 物乎不念者《モノヲオモハズハ》 一坏乃《ヒトツキノ》 濁酒乎《ニゴレルサケヲ》 可飲有良師《ノムベクアルラシ》
 
イクラ考ヘテモ、何ノ〔九字傍線〕甲斐モナイ事ヲ、クヨクヨ思ハナイデ、寧ロ一杯ノ濁リ酒ヲ飲ンデ憂ヲ忘レタ方〔六字傍線〕ガマシデアラウ。
 
○驗無《シルシナキ》――甲斐なき・益なき。○物乎不念者《モノヲオモハズハ》――物を思はないでの意。○一坏乃《ヒトツキノ》――坏《ツキ》は飲食物を盛る器。土扁になつてゐるのは土燒だからである。久老は四時祭式に等呂須伎《トロスキ》とあるによつてスキとよまうと言つてゐるが、ツキも亦古言で、卷五に佐加豆岐能倍爾《サカヅキノヘニ》(八四〇)とあるから、ここもヒトツキノでよい。○濁酒乎《ニゴレルサケヲ》――濁酒は精製しない酒。清酒に對す。謂はゆるドブロク。○可飲有良師《ノムベクアルラシ》――ノムベカルラシの訓が童蒙抄・略解にあるが、ノムベクアルラシがよい。アラシでもよいが、下にも有良師《アルラシ》とある。飲むべきであるらしいの意。
(354)〔評〕 一杯の濁れる酒といふ句に、酒を貴む情が盛られてゐる。同時に俗事に没頭し、焦慮するものの愚を笑ふ意も含まれてゐる。
 
339 酒の名を 聖と負せし 古の 大き聖の 言のよろしさ
 
酒名乎《サケノナヲ》 聖跡負師《ヒジリトオホセシ》 古昔《イニシヘノ》 大聖之《オホキヒジリノ》 言乃宜左《コトノヨロシサ》
 
昔、魏ノ人ハ酒ヲ聖人ト言ツタサウダガ〔昔魏〜傍線〕、酒ニ聖人ト名ヲ付ケタ、昔ノ大聖ノ言葉ノ面白サヨ。ホントニ酒ハ貴イモノダ〔ホン〜傍線〕。
 
○酒名乎聖跡負師《サケノナヲヒジリトオホセシ》――魏書に、「太祖禁v酒而人竊飲、故難v言v酒、以2白酒1爲2賢者1以2清酒1爲2聖人1」とあるによつたもの。槻の落葉や檜の嬬手に、オホシシとよんでゐるが、卷十八に可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於促世母天《カタオモヒヲウマニフツマニオホセモテ》(四〇八一)とあるから、下二段動詞である。○大聖之《オホキヒジリノ》――禁を破つて、酒を聖人と呼んで飲んだ魏人を賞めて、大聖人といつたもの。
〔評〕 支那の故事をよみ込んだのは、文人氣取である。大聖人と魏人を賞めたの如何にも酒飲みらしい。禁酒の制を破つた者を大聖人とよんだのは、ひどい皮肉である。この讃酒歌は古來有名で、これを學んだ作品も尠くない。八田知紀のしのぶ草に「酒といふひじりになれて願はくは竹の林に世をばつくさむ」とあるのは、その一例である。
 
340 いにしへの 七のさかしき 人どもも 欲りせしものは 酒にしあるらし
 
古之《イニシヘノ》 七賢《ナナノサカシキ》 人等毛《ヒトドモモ》 欲爲物者《ホリセシモノハ》 酒西有良師《サケニシアルラシ》
 
昔ノ竹林ノ七賢人デモ、欲シガツタモノハ酒デアルラシイ。マシテ我々ガ酒ヲ欲シガルノハ當然ダ〔マシ〜傍線〕。
 
○七賢人等毛《ナナノサカシキヒトドモモ》――賢はサカシキとよむがよい。古義に「カシコキてふ言は恐懼の字の意にてかしこき人などいふは、至尊くして、恐懼き人をのみ云ふ言なりしを云々」と言つてゐるのに從ふべきである。七賢は、※[稽の旨が山]康・阮籍・山濤・劉伶・阮咸・向秀・王戎の七人であつて、「爲2竹林之游1世所謂竹林七賢也」と晋書列傳に見える。○(355)欲爲物者《ホリセシモノハ》――舊訓ホリスルモノハとあるが、ホリセシモノハがよいであらう。
〔評〕 聖人といひ賢人といへば、儒者らは大に尊崇する。その七賢人といへども酒は大の好物でしたぞと、鹿爪らしい儒者連に一矢を酬いたものである。前に聖人のことを述べたので、これは賢人を材としてよんだのである。七賢人の竹林之游を慕つた享楽的氣分が見えてゐる。
 
341 さかしみと 物いふよりは 酒のみて 醉哭するし まさりたるらし
 
賢跡《サカシミト》 物言從者《モノイフヨリハ》 酒飲而《サケノミテ》 醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》 益有良之《マサリタルラシ》
 
賢人ブツテ得意氣ニ〔四字傍線〕口ヲキクヨリハ、酒ヲ飲ンデ醉ツテ哭クノガ、勝《マサ》ツテヰルヤウダ。
 
○賢跡《サカシミト》――舊訓はカシコシトであるが、サカシとよまねばならぬことは、前の歌に述べた通りであるから、ここではミを添へてよむ古義の説に從はう。このミは山高三河登保志呂之《ヤマタカミカハトホシロシ》(三二四)のミと同じく、添へて言ふだけである。○醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》――醉哭は醉つて泣くこと。
〔評〕 悧巧振つてゐる奴を罵り、それよりも不體裁の極のやうに言はれる醉泣の方が、却つてまさつてゐるといふので、醉拂ひと悧巧ぶりとを比較して、醉拂に團扇を上げたものである。甚だしい享樂本位である。
 
342 言はむすべ 爲むすべ知らに 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし
 
將言爲便《イハムスベ》 將爲便不知《セムスベシラニ》 極《キハマリテ》 貴物者《タフトキモノハ》 酒西有良之《サケニシアルラシ》
 
何トモ言ヒヤウモナク、何ト爲ヤウモナイ程、コノ上ナク貴イモノハ、酒デアルラシイ。
〔評〕 酒の貴さを極言したもの。無上の至寶のやうに言つたところが面白い。
 
343 なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりてしがも 酒にしみなむ
 
中中二《ナカナカニ》 人跡不有者《ヒトトアラズハ》 酒壺二《サカツボニ》 成而師鴨《ナリテシガモ》 酒二染甞《サケニシミナム》
 
却ツテ人間デヰナイデ、寧ロ酒壺ニナリタイモノダ。サウシテ始終〔二字傍線〕酒ニ浸ツテヰヨウ。
 
○中中二《ナカナカニ》――却て。○人跡不有者《ヒトトアラズハ》――人とあらずに、それよりもの意。○成而師鴨《ナリテシガモ》――舊訓はナリニテシガモ(356)であるが、ニの字を入れず六言によむべきであらう。テシは助動詞ツとキとを重ねたもの。ガモは希望の助詞。酒壺になるとは、略解に「呉誌に、鄭泉臨v卒時語2同輩1曰、必葬2我陶家之後1化而爲v土、幸見v取爲2酒壺1、實獲2我心1矣」とあるが、山田孝雄氏は呉志は神護景雲三年に太宰府の學府に賜つた本で、旅人は恐らくこれを讀んでゐなかつたであらう。さうして當時、※[王+周]玉集が傳つてゐて、鄭泉の故事はその嗜酒篇に、「鄭泉字文淵陳郡人也、孫權時爲2太中大夫1、爲v性好v酒、乃嘆曰願得2三百※[百+升]船1酒滿2其中1、以2四時甘※[食+肴]1置2於兩頭1安2升升1在傍、隨減隨益、方可v足2一生1耳、臨死之日勅2其子1曰、我死可v埋2於窯之側1、數百年之後化而成v土、覬取爲2酒瓶1獲2心願1矣、出2呉書1、」と見えてゐるから、これによつて詠んだのであらうと言つて居られる。(藝文第十五年十一號)傾聽すべき説である。
〔評〕 呉國の鄭泉の説話を基としたもので、自分の創意ではないやうであるが、隨分極端な希望である。佛者の謂はゆる「人身受け難し」も、これでは全く滅茶苦茶である。
 
344 あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る
 
痛醜《アナミニク》 賢良乎爲跡《サカシラヲスト》 酒不飲《サケノマヌ》 人乎熟見者《ヒトヲヨクミレバ》 猿二鴨似《サルニカモニル》
 
アア見ニクイヨ。賢人ブラウト思ツテ、酒ヲ飲マナイ人ヲツクヅク見ルト、生意氣ナ樣子ガ〔七字傍線〕猿ニ似テヰルヤウダ。
 
○賢良乎爲跡《サカシラヲスト》――賢しにラを添へて名詞にしたのがサカシラである。このラは物悲良爾《モノカナシラニ》(七二三)安加良多知婆奈《アカラタチバナ》(四〇六〇)宇須良婢乃《ウスラヒノ》(四四七八)のラと同じく、形容詞の語幹に附いてゐる。この句は悧巧ぶるとての意。○人乎熟見者猿二鴨似《ヒトヲヨクミレバサルニカモニル》――ヒトヲヨクミバサルニカモニムとよむ説も有力だが、ミレバと言はなくては言葉が弱くて駄目だ。必ずミレバといふべき所と思ふ。ミレバとよんだら、カモとあつても、ニルとよむ外はない。
〔評〕 この集では珍らしい初句切法を用ゐて、痛醜《アナミニク》と劈頭第一に喝破したところが、強い調子になつてゐる。酒を飲まないで、悧巧振つて、眞面目腐つてゐる生意氣先生を罵つたのである。道學先生も猿に譬へられてはたまらない。西山物語に、「あなみにく、酒うち飲みてまあかなる人の顔こそ猿とかもみめ」とあるのは、この歌を(357)本にして、反對に、酒を飲んだ者の顔の赤さを、猿に似てゐると言つたものである。
 
345 價無き 寶といふとも 一坏の 濁れる酒に 豈まさめやも
 
價無《アタヒナキ》 寶跡言十方《タカラトイフトモ》 一坏乃《ヒトツキノ》 濁酒爾《ニゴレルサケニ》 豈益目八《アニマサメヤモ》
 
價ノ知レナイ程貴イ〔九字傍線〕無價ノ寶珠デモ、一坏ノ 濁酒ニドウシテ勝《マサ》ラウカ。トテモ勝リハシナイ。
 
○價無寶跡言十方《アタヒナキタカラトイフトモ》――價無き寶は、法華經五百弟子受記品に謂はゆる無價の寶珠である。何物を以ても易へ難い、評價し難い寶珠。○豈益目八《アニマサメヤモ》――豈は何《ナニ》に同じ。何ぞ勝らむやといふのである。類聚古集等古寫本に八の下、方の字があるによつて、斯くよむがよい。
〔評〕 前の將言爲便將爲便不知《イハムスベセムスベシラニ》の歌に似てゐるが、無價の寶珠に比したところに、佛教に反抗した態度が見えてゐる。豈といふ語を和歌に用ゐるのは、萬葉に限られたもので、漢文直譯式の力強い硬い感じがする。
 
346 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あに若かめやも
 
夜光《ヨルヒカル》 玉跡言十方《タマトイフトモ》 酒飲而《サケノミテ》 情乎遣爾《ココロヲヤルニ》 豈若目八目《アニシカメヤモ》【一云|八方《ヤモ》】
 
タトヒ有名ナ〔六字傍線〕夜光ノ玉ノ貴サ〔三字傍線〕デモ、酒ヲ飲ンデ心ヲ晴ラス樂〔傍線〕ニ比ベタラ〔四字傍線〕、ドウシテ及バウカ、トテモ及ブコトデハナイ〔トテ〜傍線〕。
 
○夜光玉《ヨルヒカルタマ》――述異記に「南海有v珠即鯨目、夜可2以鑒1謂2之(ヲ)夜光1」とある。その他戰國策・史記などにも見え、夜、明光を放つ寶珠で、無上の貴寶である。
〔評〕 前の歌に無價の寶珠に比したから、今度は夜光の珠と較べて酒を讃めたので、夜光の寶玉も酒の前には光を失つて終つた。
 
347 世の中の 遊びの道に さぶしくは 醉哭するに 有りぬべからし
 
世間之《ヨノナカノ》 遊道爾《アソビノミチニ》 冷者《サブシクハ》 醉哭爲爾《ヱヒナキスルニ》 可有良師《アリヌベカラシ》
 
世間ノ遊ノ道ガ面白クナイナラバ、醉拂ツテ哭ク方ガマシダラウ。
 
(358)○世間之遊道爾《ヨノナカノアソビノミチニ》――世の中の遊びの道がの意。○冷者《サブシクハ》――淋しく、面白くないならばの意。この句は誤字説が勢力があつて、宣長は怜として、タヌシキハとよみ、古義は洽として、アマネキハとよんでゐるが、共によくない。舊訓のマシラハハは不可解な訓法である。冷の字は卷一に冷夜乎《サブキヨヲ》(七九)とあり、サブシクとよんでもよい字であらう。
〔評〕 遊の道は多いが、いづれもつまらないなら、酒だ、酒だ、酒を飲んで醉哭する位面白い道はないといふので、勤勞努力を否定して、遊戯三昧に世を送らうとする、儒教反抗の態度が見える。
 
348 この代にし 樂しくあらば 來む世には 蟲に鳥にも 吾はなりなむ
 
今代爾之《コノヨニシ》 樂有者《タヌシクアラバ》 來生者《コムヨニハ》 蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》 吾羽成奈武《ワレハナリナム》
 
コノ今ノ世デサヘ面白イナラバ、來世デハ虫ニデモ鳥ニデモ私ハナリマセウ。コノ世サヘ樂シイナラ後ハドウデモカマワヌ。酒ヲ飲ンデ樂シク暮サウ〔コノ〜傍線〕。
 
○今代爾之《コノヨニシ》――今代《コノヨ》は現世をいふ。拾穗抄や槻の落葉に、イマノヨとあり、新訓にもさうよんであるが、舊訓のやうにコノヨとよみたい。今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》(一五)などによれば、コノヨでよからうと思ふ。○來生者《コムヨニハ》――來世にはの意。
〔評〕 甚だしい佛教否定の言だ。天皇自ら三寶の奴と稱せられた天平時代に、思ひ切つた現世享樂を歌つたものである。輪廻も、三惡・四趣も馬耳東風と聞き流して、酒に親しまうといふのである。酒といふ語はないが、それは題詞や他の歌に讓つてある。濟度し難い外道だが、痛快味が溢れてゐる。
 
349 生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 樂しくをあらな
 
生者《イケルモノ》 逐毛死《ツヒニモシヌル》 物爾有者《モノニアレバ》 今生在間者《コノヨナルマハ》 樂乎有名《タヌシクヲアラナ》
 
生者必滅ダカラ、コノ世ニ生キテヰル間ハ、面白クアリタイモノダ。酒ヲ飲ンデ面白ククラサウ〔酒ヲ〜傍線〕。
 
○生者《イケルモノ》――上の句は生者必滅の意を述べたのであるから、ウマルレバの訓はよくない。イケルヒトと舊訓にあ(359)るが、人には限らないから、イケルモノとしよう。○物爾有者《モノニアレバ》――モノナレバも惡くはないが、爾有とあるから、約めないでよまう。○今生在間者《コノヨナルマハ》――前に來世をコムヨとよんだから、今世はコノヨと訓むべきである。類古集に生の字がないのは、脱ちたのであらう。新訓のイマアルホドハは、賛成し難い。○樂乎有名《タヌシクヲアラナ》――乎《ヲ》は強めて言ふのみ。樂しくありたいの意。
〔評〕 生者必滅、會者常離だ。無常の世だから來世を願へと佛者は説く。それを逆に取つて、生者必滅だからこの世の間は人生を享樂しなければならぬと、佛説に逆ねぢを喰はした痛快な作だ。酒の字はないが、酒を飲んで樂しく現世を送らうといふ意は、前の作と同じである。
 
350 もだ居りて 賢しらするは 酒飲みて 醉哭するに なほ若かずけり
 
黙然居而《モダヲリテ》 賢良爲者《サカシラスルハ》 飲酒而《サケノミテ》 醉泣爲爾《ヱヒナキスルニ》 尚不如來《ナホシカズケリ》
 
黙ツテヰテ賢ブルノハ、酒ヲ飲ンデ醉拂ツテ泣クノニヤハリ及バナイヨ。黙ツテヰテ悧巧ブル奴ハ、酒飲ムモノヲ見下ゲルカモ知レナイガ、ナカナカソンナモノジヤナイ〔黙ツ〜傍線〕。
 
○黙然居而《モダヲリテ》――童蒙抄にモダシヰテとよんだのに從ふ説も多いが、黙然不有跡《モダアラジト》(一五二八)・黙然毛將有《モダモアラム》(一九六四)などの例によつて、黙然はモダとよむべきである。
〔評〕 賢しらを拒け、醉哭を賞めてゐるのは、前の三四一の歌と同じであるが、この作では尚不如來《ナホシカズケリ》が異調に力強く響いてゐる。このシカズケリは、萬葉以後には全く見えない。以上十三首は酒を讃むるに托して、儒佛の教への窮屈さを罵つたものである。一つの思想を數首の短歌に纏めて述べてゐるのは、謂はゆる連作の歌である。だから酒といふ文字が無くても、やはり酒を讃めたものとしなければならない。
 
沙彌滿誓歌一首
 
351 世の中を 何に譬へむ 朝びらき 榜ぎ去にし船の 跡なきがごと
 
世間乎《ヨノナカヲ》 何物爾將譬《ナニニタトヘム》 旦開《アサビラキ》 ※[手偏+旁]去師船之《コギイニシフネノ》 跡無如《アトナキガゴト》
 
(360)コノ世ノ中ノ無常ナコト〔六字傍線〕ヲ、何ニ譬ヘタモノデアラウ。サウダ、先ヅ譬ヘテ見レバ〔サウ〜傍線〕、朝港ヲ出テ漕イデ去ツタ船ノ跡ガ殘ラナイノト同ジコトダ。
 
○旦開《アサビラキ》――舟が朝港を出ること。開きは發船すること。○跡無如《アトナキガゴト》――槻落葉にアトナキゴトシとよんだのが、專ら行はれてゐるが、予は舊訓にアトナキガゴトとあるに從はうと思ふ。如の字は相見如之《アヒミルゴトシ》(三〇九)・鬚無如之《ヒゲナキゴトシ》(三八三五)・客宿之如久《タビネノゴトク》(三三七二)・川藻之如久《カハモノゴトク》(一九六)・船己具如久《フネコグゴトク》(一八〇七)・散去如岐《チリニシゴトキ》(四七七)・爲輕如來《スガルノゴトキ》(三七九一)のやうに送假名を附するのが常となつてゐる。但し三名沫如世人吾等者《ミナハノゴトシヨノヒトワレハ》(一二六九)は送假名がないがゴトシとよむべき語法であるから、これは當然である。また新考に「雅澄の云へる如く、ゴトはゴトクの略にて、ゴトシを略してゴトといふことなければなり」とあるのは一應尤もであるが、卷十四に佐奴良久波多麻乃緒婆可里古布良久波布自能多可禰乃奈流佐波能其登《サヌラクハタマノヲバカリコフラクハフジノタカネノナルサハノゴト》(三三五八)とあるのは立派な終止形であるから、時無知《トキナキガゴト》(二五)などと同じく、アトナキガゴトとよみたい。
〔評〕 前の讃酒歌を讀んで、この歌に來ると、明るい世界から急に暗い世界に突き落されたやうな感がする。酒に醉つてよい機嫌になつてゐる處へ、冷水を頭からかけられたやうなものだ。人生のはかなさを、漕ぎ去つた船の跡無きに比したのは、譬喩が實に巧妙である。拾遺集にこれを改めて、「世の中を何に譬へむあさぼらけ漕ぎ行く舟のあとの白波」としたのは拙い。朝開きして漕ぎ去つた船が海上に跡を止めないのに譬へたもので、朝ぼらけとしては不要の句となり、漕ぎ行くでは現在になつて面白くない。
 
若湯座《ワカユヱ》王歌一首
 
この王の傳は明かでない。古事記に大湯坐《オホユヱ》・若湯坐《ワカユヱ》、續紀に若湯坐連・若湯坐宿禰が見えてゐる。湯坐をユヱとよむのは、ユスヱの略であらう。雄略紀には湯人此云2臾衛1とある。
 
352 葦邊には 鶴が音鳴きて みなと風 寒く吹くらむ 津乎の埼はも
 
葦邊波《アシベニハ》 鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》 湖風《ミナトカゼ》 寒吹良武《サムクフクラム》 津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》
 
(361)津乎ノ埼デハ葦ノ生エテヰルアタリデ、鶴ノ哭ク聲ガシテ、河口ノ風ガ寒ク吹イテヰルデアラウヨ。アアアノ津乎ノ埼アタリニヰル旅人ハサゾ辛イコトデアラウ〔アア〜傍線〕。
 
○湖風《ミナトカゼ》――湖をミナトとよむのは、この集に多い。潮となつてゐる本もあるが湖の方がよい。ミナトは河口である。○津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》――津乎能埼《ツヲノサキ》の所在不明。契沖は「和名抄に近江國淺井郡に都宇郷ありこの處にや」と言つてゐる。大日本地名辭書はこの郷を今の朝日村としてゐる。この地は余吾川の河口で、洵にミナトといふべき處である。羽毛《ハモ》は詠歎助詞。
〔評〕 これは旅人を思つて詠んだものか。前の近江海八十之湊爾鶴佐波二鳴《アフミノミヤソノミナトニタヅサハニナク》(二七三)の歌も思ひ出されてあはれである。琅※[王+干]のやうな光澤と響とを持つてゐる。
 
釋通觀歌一首
 
前に乾鰒の歌を詠んだ坊さんである。三二七參照。
 
353 み吉野の 高城の山に 白雲は 行きはばかりて たなびけり見ゆ
 
見吉野之《ミヨシヌノ》 高城乃山爾《タカキノヤマニ》 白雲者《シラクモハ》 行憚而《ユキハバカリテ》 棚引所見《タナビケリミユ》
 
吉野ノ高城山ニハ、白雲ガ通ルノヲ憚ツテ、棚引イテヰルノガ見エル。ナカナカ高イ山ダ〔八字傍線〕。
 
○高城乃山爾《タカキノヤマニ》――この山の所在は古書に明瞭でないが、吉野研究家、中岡清一氏の吉野名所誌に「城山又は鉢伏山ともいふ。頂上は展望大に開けて、高取山を掠めて國中平坦地方を望むべく、又遠く高野諸山と對し、理源大師の大蛇を退治せしといふ、百螺岳は近く指呼の間にあり。海拔七〇二米」とあるに從はう。水分山と青根が峯との中間にある。○棚引所見《タナビケリミユ》――舊訓タナビキテミユ、老にタナビケルミユとあるを、古義にタナビケリミユと改めたのはよい。恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》(一〇〇三)・安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《アマノイザリハトモシアヘリミユ》(三六七二)とある。
〔評〕 前の不盡山の長歌の反歌、天雲毛伊去羽計田菜引物緒《アマグモモイユキハバカリタナビクモノヲ》(三二一)と似たところがある。見た通りを有りのまま(362)に詠んだだけだが、高城山が如何にも高さうに聞える。
 
日置少老《ヘキノヲオユ》歌一首
 
古事記應神天皇の條に「大山守(ノ)命者云々|弊伎《ヘキ》君等之祖」とあり、姓氏録に「日置朝臣應神天皇皇子大山守王之後世」とあるから、日置はヘキである。この人の傳未詳。
 
354 繩の浦に 潮燒くけぶり 夕されば 行過ぎかねて 山に棚引く
 
繩乃浦爾《ナハノウラニ》 潮燒火氣《シホヤクケブリ》 夕去者《ユフサレバ》 行過不得而《ユキスギカネテ》 山爾棚引《ヤマニタナヒク》
 
繩ノ浦デ潮ヲ燒ク烟ガ、夕方ニナルト、後ロノ山ヲ〔五字傍線〕通リ過ギカネテ、山ニ棚曳イテヰル。
 
○繩乃浦爾《ナハノウラニ》――繩乃浦は所在不明。下の赤人の歌(三七五)にあるのと、同所であらうから、近畿の沿岸に違ない。催馬樂になはのつぶら江とあるも同所かと思はれる。然らばなはのつぶら江は難波の津村であるから、繩の浦は即ち難波の浦である。○行過不得而《ユキスギカネテ》――前に伊去波伐加利《イユキハバカリ》と同じ意で、少しく穩やかな言ひ方である。古義に得消失ずしてとあるは誤であらう。綱の浦とする説は從はない。
〔評〕 穩やかな夕方には氣壓の關係で、烟が一直線に地面と平行に棚曳くものである。その景色を捉へた鮮明な叙景歌である、卷七に之加乃白水郎乃燒鹽煙風乎疾立者不止山禰輕引《シカノアマノシホヤクケブリカゼヲイタミタチハノボラズヤマニタナビク》(一二四六)と少しく似た所がある。併し眞淵がこの繩の浦の歌を卷七の歌の唱へ誤としたのは妄斷である。前の歌と類似點があるので、ここに並記したか。
 
生石村主眞人《オフシノスグリマヒト》歌一首
 
生石は氏、村主はかばね、眞人は名である。續紀に「天平勝寶二年正月乙巳正六位上大石村主眞人授2外從五位下1」とある。
 
355 大汝 少彦名の いましけむ しづの石室は いく代へぬらむ
 
大汝《オホナムヂ》 少彦名乃《スクナヒコナノ》 將座《イマシケム》 志都乃石室者《シヅノイハヤハ》 幾代將經《イクヨヘヌラム》
 
(363)神代ノ大昔ニ〔六字傍線〕、大己貴命・少彦名命ノ二神〔二字傍線〕ガオイデ遊バシタコノ志津ノ石室ハ幾年ノ永イ間〔四字傍線〕經ツタコトデアラウ。
 
○大汝――大穴牟遲即ち大國主神である。○少彦名乃《スクナヒコナノ》――少彦名神で古事記に、神産巣日神の御子で、その指の股から漏れて行かれたといふ小さい神である。この二神が協力して經營し給うたことが紀に見えてゐる。○志都乃石室者《シヅノイハヤハ》――志都の石室は、石見國邇摩郡靜間村の海岸にある岩窟で、横八間許、奧行十五間許、内の高さ十三間餘あるといふ。
〔評〕 前にあつた博通法師の、三穗の石室の歌(三〇七)に似たところがある。檜嬬手に、生石村主は播磨國赤石の生石子《オフシコ》村の村主で、一二の句は億計・弘計に比へて云つたのだらうと述べてあるのは、例の臆斷である。
 
上古麻呂《カミノフルマロ》歌一首
 
上古麻呂は傳未詳。姓氏録に「上村主廣階連同祖陳思王植之後也」とある。
 
356 今日もかも 明日香の河の 夕さらず 川津なく瀬の さやけかるらむ 或本歌發句云、明日香川今もかもとな
 
今日可聞《ケフモカモ》 明日香河乃《アスカノカハノ》 夕不離《ユフサラズ》 川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》 清有良武《サヤケカルラム》【或本歌發句云、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》】
 
飛鳥川ノ、毎夕蛙ノ鳴ク淺瀬ガ、今日モヤハリ景色ガ佳イデアラウカ。アノ飛鳥川ガナツカシク思ハレル〔アノ〜傍線〕。
 
○今日可聞《ケフモカモ》――今日モに疑問の助詞カを添へ、更に、感歎の助詞モを添へたもの。今日の下モの假名が無いのは省いたのであらう。日の字は目の誤かと略解にあるが、さうではあるまい。但し、新考に目をモの假名に用ゐた例がないとあるのも、どうでからう。○夕不離《ユフサラズ》――夕毎にの意。この下に朝不離雲居多奈引《アササラズクモヰタナビク》(三七二)ともあ(364)る。〇清有良武《サヤケカルラム》――キヨクアルラムと舊訓にあるのはよくない。尚、或本歌發句云として、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》とあるのは一二句の異傳である。毛等奈《モトナ》は川津鳴《カハヅナク》へかかつてゐる言葉で、みだりになどの意。發句は初の句といふやうな意である。この異本の書き方、他の例と異なつて舊本に別行にしてないのは注意すべきである。
〔評〕 他郷にあつて故郷の明日香川の清き瀬を思ひやり、なつかしがつて詠んだものである。さびしい懷郷の情がよくあらはれてゐる。
 
山部宿禰赤人(ノ)歌六首
 
357 繩の浦ゆ 背向に見ゆる 奧つ島 榜ぎ囘む舟は 釣せすらしも
 
繩浦從《ナハノウラユ》 背向爾所見《ソガヒニミユル》 奧島《オキツシマ》 ※[手偏+旁]囘舟者《コギタムフネハ》 釣爲良下《ツリセスラシモ》
 
繩ノ浦カラ、横ノ方ニ見エル沖ノ島ヲ、漕ギ廻ツテヰル舟ハ、釣ヲシテヰルラシイワイ。
 
○繩浦從《ナハノウラユ》――難波《ナハ》の浦からの意。○背向爾所見《ソガヒニミユル》――背向はソムカヒの略で、背面即ち後方の意と解かれてゐるが、この集には、三五八・四六〇・五〇九・四〇二・四四七二のソガヒニミツツとしたもの、九一七・三三九一・四〇〇三・四二〇七のソガヒニミユルとしたものなどの諸例を見るに、いづれも背面又は後方としては解し難いものである。ただ一四一二・三五七七にソガヒニネシクとある二例は相背いて寢ることであるから、後向で差支ない。これから推して考へると、ソガヒは斜又は横向といふやうな意で、正面でないことをいふらしい。予が曾てこの疑問を心の花誌上に提出した時に、スヂカヒの意であらうといふ説を寄せられた人があつたのは、傾聽に値するものと思つた。ともかく後方とか、背面とかいふ意では解き難い。
〔評〕 海上の景色をその儘に述べてゐるが、釣爲良下《ツリセスラシモ》とあるので、純客觀詩になつてゐない。この集の叙景にはかういふのが多いやうである。赤人らしい一種の氣韻が漂つてゐる。
 
358 武庫の浦を 榜ぎたむ小舟 粟島を 背向に見つつ ともしきこぶね
 
武庫浦乎《ムコノウラヲ》 ※[手偏+旁]轉小舟《コギタムヲブネ》 粟島矣《アハシマヲ》 背爾見乍《ソガヒニミツツ》 乏小舟《トモシキヲブネ》
 
(365)武庫ノ浦ヲ漕ギ廻ツテヰル舟ヨ、サウシテ〔四字傍線〕粟島ヲ横ノ方ニ見ナガラ漕イデヰル〔五字傍線〕羨シイ小舟ヨ。面白サウデ羨シイ舟ダナア〔面白〜傍線〕。
 
○粟島矣《アハシマヲ》――粟島は所在不明。古事記に「次生2淡島1是亦不v入2子之例1」とある島で淡路の屬島らしく思はれる。卷九に粟小島者雖見不足可聞《アハノコジマハミレドアカヌカモ》(一一七二)とあるのも同じであらう。大日本地名辭書には、淡路の北端岩屋岬の一部かと推定してゐる。○乏小舟《トモシキヲブネ》――羨しき小舟よの意。略解に「ともしきは賞る詞にて、ここのともしきは粟島を舟より見る人の心なり。舟を言ふにはあらず、粟島をともしく思ふ也。漕ぎたむ小舟は、此の作者の乘れる船にて、結句の小舟も同じ。粟島をともしく見る小舟と言ふ意也と宜長いへり」とあるのは、無理な説である。古義に「歌の意は讃岐のかたへ下るほど、過來し方の舟を、粟島の邊より見やりて詠めるにて、この粟島をよそに見棄て、武庫の浦を榜めぐりつつ倭の方へのぼり行くは、うらやましき小舟ぞと云るなり」とあるは、ソガヒを後方とした爲に誤つたもので、これは海上の漁舟を羨んだものである。
〔評〕 小舟を二の句と結句とに繰り返して調子を整へてゐる。この反覆が有效にはたらいて、輕快な格調をなしてゐる。
 
359 阿倍の島 鵜の住む磯に 寄する波 間なくこのごろ 大和し念ほゆ
 
阿倍乃島《アベノシマ》 宇乃住石爾《ウノスムイソニ》 依浪《ヨスルナミ》 間爲比來《マナクコノゴロ》 日本師所念《ヤマトシオモホユ》
 
(阿倍乃島宇乃住石爾依浪)少シノ間斷モナク、コノ頃ハ大和ノ國ガ戀シク〔三字傍線〕思ハレル。
 
○阿倍乃島《アベノシマ》――所在不明。前の歌から推すと、攝津にある島と思はれる。大日本地名辭書に阿倍野の海岸としてゐる。○宇乃住右爾《ウノスムイソニ》――鵜の棲む磯にの意。○依浪《ヨスルナミ》――舊訓ヨルナミノであるが、伊勢海之磯毛動爾因流浪恐人爾戀度鴨《イセノウミノイソモトドロニヨスルナミカシコキヒトニコヒワタルカモ》(六〇〇)などによれば、ヨスルナミとよむやうに思はれる。斯くの如く上の句を序として、ヨスルナミを第三句に置いた例は他にも尚多い。○日本師所念《ヤマトシオモホユ》――日本は畿内の大和、即ち赤人の故郷である。
〔評〕 實景を捉へて序を作つてゐる。斯く浪に寄せた歌は澤山あるが、これは途上の實景だけに哀が深い。
 
360 潮干なば 玉藻苅りをさめ 家の妹が 濱づと乞はば 何を示さむ
 
(366)鹽干去者《シホヒナバ》 玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》 家妹之《イヘノイモガ》 濱※[果/衣ノ鍋ぶた無し]乞者《ハマヅトコハバ》 何矣示《ナニヲシメサム》
 
汐ガ干タナラバ、玉藻ヲ苅ツテ藏ツテ置キナサイ。歸宅シテカラ〔六字傍線〕、家ニ留守シテヰル妻ガ、濱ノ土産ヲ下サイ〔三字傍線〕ト言ツタナラバ、何ヲヤラウニ。何モ別ニヤルモノガナイカラコノ玉藻ヲ苅ツテ置ケ〔何モ〜傍線〕。
 
○玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》――藏の字舊訓ツメとあるが、苅將藏《カリテヲサメム》(一七一〇)・藏而師《ヲサメテシ》(三八一六)の例によつてヲサメと訓まう。古義のコメは從ひがたい。槻の落葉のカラサムは論外である。
〔評〕 旅中の興を詠んだもの。長閑な旅と、上代人らしい感情があらはれてゐる。
 
361 秋風の 寒き朝けを 佐農の岡 越ゆらむ君に 衣借さましを
 
秋風乃《アキカゼノ》 寒朝開乎《サムキアサケヲ》 佐農能崗《サヌノヲカ》 將超公爾《コユラムキミニ》 衣借益矣《キヌカサマシヲ》
 
タダサヘ旅ハ辛イノニ〔タダ〜傍線〕、秋風ガ寒ク吹ク朝ニ、着物モ薄クテ、貴方ハ〔九字傍線〕、佐野(ノ)岡ヲ越エルダラウガ、サゾ寒カラウカラ〔九字傍線〕、貴方ニ私ノ〔二字傍線〕着物ヲ借シテアゲタイ。ガ、遠ク離レテヰルカラ心バカリデ何トモシヤウガナイ〔ガ遠〜傍線〕。
 
○寒朝開乎《サムキアサケヲ》――寒い夜明にの意。アサケはアサアケの略。ヲはニに同じ。○佐農能崗《サヌノヲカ》――紀伊の三輪が崎の佐野であらう。二六五の地圖參照。○將越公爾《コユラムキミニ》――略解にコエナムとあるが、舊訓の儘がよからう。
〔評〕 赤人の歌とあるが、女性らしい感情が流れてゐる。考には赤人の妻の作とし、宣長は旅宿の遊女の詠としてゐる。併しこの卷はいづれも作者の明らかなものを集めてゐるから、これだけを赤人の六首中から除き去るわけには行かない。予は原形を尊重して、やはり赤人の作としたい。この人にはかうした柔い優しいものが他にもあるやうである。卷八の吾勢子爾令見常念之梅花《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナ》(一四二六)の如きも女らしい叙述である。
 
362 みさごゐる 磯みに生ふる 名乘藻の 名は告らしてよ 親は知るとも
 
美沙居《ミサゴヰル》 石轉爾生《イソミニオフル》 名乘藻乃《ナノリソノ》 名者告志五余《ナハノラシテヨ》 親者知友《オヤハシルトモ》
 
タトヒ親ハ知ツテ咎メテ〔三字傍線〕モ、私ハ惡クハ取計ラハナイカラ、アナタノ〔私ハ〜傍線〕(美沙居石轉爾生名乘藻乃)名ヲ名乘ツテ(367)下サイ。モウ私ニ心ヲ許シナサイヨ〔モウ〜傍線〕。
 
○美沙居《ミサゴヰル》――美沙《ミサゴ》は雎鳩、荒磯に棲む猛禽類で、體の長さ一尺六寸許、背は褐色原は白い。○石轉爾生《イソミニオフル》――石轉は磯廻に同じ。轉と廻とは同意の文字であるから、通じて用ゐるのである。湖轉爾《ミナトミニ》(三一五九)ともある。○名乘藻乃《ナノリソノ》――名乘藻《ナノリソ》は、ほんだはらの古名。ほんだはらは馬尾藻と書く、文字のやうに馬尾に似た褐色の海藻で、新年の飾に用ゐらる。この句までは序で、同音を繰返して第四句を言ひ起すに用ゐたもの。○名者告志五余《ナハノラシテヨ》――五の字は代匠記に弖の誤とあるに從ふ。舊訓ナハツゲシコヨとあるのでは分らない。
〔評〕 旅中に女に歌ひかけたものか。併し旅の歌としては、ふさはしくないやうに思はれる。或は荒磯の上の雎鳩を見て戯に作つたものかも知れない。眞淵が女の歌としたのは從はれない。
 
或本歌曰
 
363 みさごゐる 荒磯に生ふる 名乘藻の 名のりは告らせ 親は知るとも
 
美沙居《ミサゴヰル》 荒礒爾生《アリソニオフル》 名乘藻乃《ナノリソノ》 告名者告世《ナノリハノラセ》 父母者知友《オヤハシルトモ》
 
告名者はノリナハと訓みたいが、語をなさないやうだから、舊訓に從つてナノリハとして置かう。但しこの歌卷十二に「三佐呉集荒磯爾生流勿謂藻乃吉名者不告父母者知鞆《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラジオヤハシルトモ》(三〇七七)とある歌の異傳と考へられるから、告を吉の誤としてヨシとよまうとする、略解説も捨て難いやうに思はれる。
 
笠朝臣金村、鹽津山(ニテ)作(レル)歌二首
 
(368)笠朝臣金村は傳が明らかでない。作歌のかなりに多い點から言つても、笠金村歌集を殘してぬることから言つても、この集中の注意すべき歌人である。鹽津は和名抄に「淺井郡鹽津、之保津」とあり、今は伊香郡に屬す。鹽津村の北方二里に鹽津越と稱して、越前へ越える道がある。それが即ち鹽津山であらう。三〇の近江地圖參照。
 
364 益荒雄の 弓末振り起し 射つる矢を 後見む人は 語り繼ぐがね
 
大夫之《マスラヲノ》 弓上振起《ユズヱフリオコシ》 射都流矢乎《イツルヤヲ》 後將見人者《ノチミムヒトハ》 語繼金《カタリツグガネ》
 
大丈夫タル私〔三字傍線〕ガ、弓ノ先端ヲ振リ起テテ、私ノ弓勢ノ強サヲ示ス爲ニ、此處ニ〔私ノ〜傍線〕射立テテ置イタコノ〔二字傍線〕矢ヲ、後デ見ル人ハ、私ノ弓勢ヲ〔五字傍線〕語リ繼イデ貰ヒタイモノダ。
 
○弓上振起《ユズヱフリオコシ》――弓上は弓末。弓の上端をいふ。振起はフリタテと訓むのはよくない。卷十九に梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》(四一六四)とあるに傚つて、フリオコシとよむべきであらう。○射都流矢乎《イツルヤヲ》――古義に「射つる矢なる物をの意なり、この詞の下に意を含め餘したるなり」「四五一二三と句を次第して聞べし」と言つて、この句で切るものと見てゐる。新考にも「射ツル失ゾといふことなり。射ツル矢ヲ後見ムとつづけるにはあらず」とあるが、この句で切るべき語勢になつてゐない。射つる矢を見む人と受けてゐるやうに思はれる。○語繼金《カタリツグカネ》――古い助詞にガネとガニとがあつて、その用法が略似てゐる。この二つは共に「やうに」「爲に」「料に」といふやうな意と考へられてゐたが、古義にはこれを否定して、ガネは之根《ガネ》の意で、その根本と謂ふより起つた言、ガニは之似《ガニ》であるとして宣長がガネは豫《カネ》の意、ガニは豫《カネ》にの意としたのを駁してゐる。然るに、山田孝雄氏は奈良朝文法史に新説を立てて、『又「がに」「がね」といへるあり。こは格助詞の「が」に「に」及終助詞の「ね」の添はりてなれるものなり。「がに」は、「が」にて結體せしめ、これを「に」にて目的とせるものなり。即「が爲に」といふ意に適當せる語法なり。「がね」は然らず。「が」にて之を指定し、「ね」にて冀望をあらはすなり。「がに」と意頗異なり。古來之を混同せるものあるは如何なることぞ』と述べて居られる。なほ多少研究の餘地があるやうに思れるが、古來の諸説のいづれよりも勝つてゐることは確かであるから、今はこれに從つて説くことに(369)する。
〔評〕 金村が、その弓勢を誇つて、路傍に矢を射立てたものであらう。雄々しい動作に適應した語調以て歌はれてゐる。益荒雄ぶりの作の多いこの集中でも、目立つてゐる。路傍の木などに矢を射立ることは、當時かなり行はれたらしく、益荒雄の旅のなぐさであつたのであらう。金村もそれに傚つたのではあるまいか。
 
365 鹽津山 うち越え行けば 我が乘れる 馬ぞつまづく 家戀ふらしも
 
鹽津山《シホツヤマ》 打越去者《ウチコエユケバ》 我乘有《ワガノレル》 馬曾爪突《ウマゾツマヅク》 家戀良霜《イヘコフラシモ》
 
鹽津山ヲ越エテ行クト、私ガ乘ツテヰル馬ガ蹴ツマヅイタ。家デ私ノコトヲ今頃〔七字傍線〕思ヒ出シテヰルト見エル。
 
○家戀良霜《イヘコフラシモ》――家が戀ふるらしいよの意。家は家人をいふ。馬が家を戀ふらしもと見る説もあるが採らぬ。
〔評〕 古代には人の精神は相感應し、通じ合ふものだといふ觀念が強かつた。そこで卜占のやうなものや、一寸したことを前兆視して判斷するやうな習慣が出來て來た。馬が躓くのは、家人の戀ふる兆だとした歌は、卷七に妹門出入乃河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモガカドイデイリノカハノセヲハヤミワガウマツマヅクイヘモフラシモ》(一一九一)白栲爾丹保布信士之山川爾吾馬難家戀良下《シロタヘニニホフマツチノヤマカハニワガウマナヅムイヘコフラシモ》(一一九二)の二首がある。
 
角鹿《ツヌガノ》津(ニテ)乘(ル)v船(ニ)時、笠朝臣金村(ノ)作(レル)謌、一首并短歌
 
角鹿は越前の敦賀。和名抄に越前國敦賀郡、都留我とある。古くはツヌガといつた。垂仁紀に「一云御間城天皇世、額有v角人、乘(テ)2一船(ニ)1、泊2于越前笥飯浦1。故號2其處1曰2角鹿1」とある。古事記に鼻の破れた入鹿がこの浦に寄り集り、その血が臭かつたので、血浦といつたのを訛りてツヌガと言つたと見えてゐる。
 
366 越の海の 角鹿の濱ゆ 大船に 眞楫貫きおろし いさなとり 海路に出でて 喘ぎつつ 我が榜ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海未通女 鹽燒くけぶり 草枕 旅にしあれば 獨して 見る驗無み わたつみの 手に卷かしたる 玉襷 懸けて偲びつ 大和島根を
 
越海之《コシノウミノ》 角鹿之濱從《ツヌガノハマユ》 大舟爾《オホブネニ》 眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》 勇魚取《イサナトリ》 海路爾出而《ウミヂニイデテ》 阿倍寸管《アヘギツツ》 我※[手偏+旁]行者《ワガコギユケバ》 大夫之《マスラヲノ》 手結我浦爾《タユヒガウラニ》 海未通女《アマヲトメ》 鹽燒炎《シホヤクケブリ》 草枕《クサマクラ》(370) 客之有者《タビシニシアレバ》 獨爲而《ヒトリシテ》 見知師無美《ミルシルシナミ》 綿津海乃《ワタツミノ》 手二卷四而有《テニマカシタル》 珠手次《タマダスキ》 懸而之努櫃《カケテシヌビツ》 日本島根乎《ヤマトシマネヲ》
 
越ノ海ノ敦賀ノ濱カラ、大キナ舟ニ、櫂ヲ取リ付ケ下シテ、(勇魚取)海ニ乘リ出シテ、喘ギ喘ギ私ガ漕イデ行クト(丈夫之)手結ノ浦デ海女ドモガ鹽ヲ燒ク烟ガ立ツテヰルガ、ソレ〔ガ立〜傍線〕ヲ私ハ〔二字傍線〕(草枕)旅ニ出テヰテタダ獨デ見テモ、何ノ面白味モナク〔八字傍線〕、ツマラナイカラ大和ノ國ノコトヲ心ニ〔二字傍線〕(綿津見乃手二卷四而有珠手次)カケテ思ヒ出シタ。
 
○眞梶貰下《マカヂヌキオロシ》――眞梶は左右の舷にかけた櫂をいふ。○勇魚取《イサナトリ》――海の枕詞。○阿倍寸管《アヘギツツ》――喘ぎつつ。○大夫之《マスラヲノ》――枕詞。益荒男の手に著ける手結とつづく。手結は籠手《コテ》のやうなもので、弓を射る時に用ゐるもの。○手結我浦爾《タユヒガウラニ》――神名帳に敦賀郡由結神社とある。田結は今東浦村といふ。金崎の北十餘町、敦賀灣の東岸。北陸線杉津の海岸である。寫眞は著者撮影。○綿津海手二卷四而有珠手次《ワタツミテニマカシタルタマダスキ》――とつづく序詞。海神の手に卷き給ひたる珠とつづく。珠襷を手に卷くのではない。○日本島根乎《ヤマトシマネヲ》――日本《ヤマト》は畿内の大和である。島根(371)とあるのは、千重爾隱奴山跡島根者《チヘニカクリヌヤマトシマネハ》(三〇三)に似てゐるが、ここは單に大和國をさしたのである。
〔評〕 敦賀から船出して、何處へ行くのか不明であるが、海上に浮び出づる心細さが現はれてゐる。併し卷一の軍王の歌(五)に似た句がかなり多く、その影響を受けてゐることは爭はれない。
 
反歌
 
367 越の海の 手結の浦を 旅にして 見ればともしみ 大和偲びつ
 
越海乃《コシノウミノ》 手結之浦矣《タユヒノウラヲ》 客爲而《タビニシテ》 見者乏見《ミレバトモシミ》 日本思櫃《ヤマトシヌビツ》
 
越ノ海ノ手結ノ浦ヲ、旅ニ出テヰテ、眺ルト、アマリ珍ラシイ佳イ景色ナノデ、一人デ見ルノハ惜シクテ故郷ノ〔一人〜傍線〕大和ヲ思ヒ出シタ。
 
○見者乏見《ミレバトモシミ》――乏見《トモシミ》は乏しき故にの意。この乏しは珍らしくて賞づる意である。
〔評〕 これも結句は、軍王の長歌の反歌に似てゐる。さうして歌品は彼よりも劣つてゐる。
 
石上《イソノカミノ》大夫歌一首
 
石上大夫は乙麻呂であらう。左註によれば、越前國守に任命せられてよんだやうであるが、この人が越前國守となつたことは續紀に見えない。略解には「續紀に天平十一年三月、石上朝臣乙麻呂罪ありて土佐國へ配流と見ゆ。此の時の歌なるべし」とある。久老は「續紀に天平十六年九月石上朝臣乙麻呂、爲2西海道使1と見えたる、此時の歌なるべし」と云つてゐる。
 
368 大船に 眞かぢしじ貫き 大王の みことかしこみ 磯みするかも
 
大船二《オホブネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 大王之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》 礒廻爲鴨《イソミスルカモ》
 
大キイ船ニ櫂ヲ澤山ニ貫イテ取リツケテ〔五字傍線〕、天子樣ノ勅ガ畏サニ、海岸ヲ漕イデ行クワイ。
 
(372)○眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》――左右の兩舷に櫂を多くかけること。集中に數多の例があつて、慣用句のやうになつてゐる。○礒廻爲鴨《イソミスルカモ》――磯廻《イソミ》は磯の廻りの意で、これをすぐ動詞にして磯|廻《ミ》するといふのは、をかしいやうであるが、卷六に嶋回爲流《シマミスル》(九四三)、卷十九に灣回爲流《ウラミスル》(四二〇二)などあるから、イソミスルも當然用ゐらるべき語である。舊訓アサリとあるのは、いけない。アサリは餌を求めること、又は漁ることで、此處に用ゐるべくもない。
〔評〕 歌の氣分から言つても、亦次の和歌から考へても、配流の時の作とは思はれない。乙麻呂が越前守になつたことが、續紀にないにしても、左註を尊重すべきであらうと思ふ。前の田口益人大夫の田兒の浦の歌(二九七)と同じ精神が歌はれてゐる。
 
右今案(ズルニ)石上朝臣乙麻呂、任(ゼラル)2越前國守(ニ)1蓋(シ)此(ノ)大夫歟
 
右に述べたやうに、續紀にないからといつて、この註を猥りに疑ふのはよくない。
 
和(フル)歌一首
 
369 もののふの 臣のをとこは 大王の まけのまにまに 聞くといふものぞ
 
物部乃《モノノフノ》 臣之壯士者《オミノオトコハ》 大王《オホキミノ》 任乃隨意《マケノマニマニ》 聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》
 
武人トシテ朝廷ニ奉仕スル〔十字傍線〕臣タル男ハ、天子樣ノ御委任通リニ、何モ不平ヲ言ハズニ〔九字傍線〕、從フベキモノトシテアルゾヨ。苦シクトモ忍耐シタマヘ〔苦シ〜傍線〕。
 
○物部乃臣之壯士者《モノノフノオミノヲトコハ》――物部氏が滅びてから、石上氏が專ら武事を掌つたのである。石上氏はもと物部氏から出てゐる。元來モノノフはモノノベから轉じた語で、武事を以て朝廷に仕へるものをすべてかう呼んだのである。臣《オミ》は元來かばねであるが、臣下の意にも古くから用ゐてゐる。古事記に美那曾曾久淤美能袁登賣本陀哩登良須母《ミナソソグオミノヲトメホダリトラスモ》とある。○任乃隨意《マケノマニマニ》――任《マケ》はマカセの約であらう。天皇の任命といふ。
〔評〕 天皇の命には絶對に服從すべきことを、謹嚴な口調を以て説いてゐる。前の歌と共に皇室尊崇の念が、濃厚に力強く發表せられてゐるのは愉快である。
 
(373)右(ノ)作者未v審、但(シ)笠朝臣金村之歌中出也
 
この註によると、恐らく作者は笠朝臣金村であらう。前の金村の歌から考へると、この時金村は石上大夫の一行中の一人であつたのである。
 
安倍廣庭《アベノヒロニハノ》卿歌一首
 
この人の傳は三〇二に述べてある。
 
370 雨零らず との曇る夜の ぬれひでど 戀ひつつ居りき 君待ちがてり
 
雨不零《アメフラズ》 殿雲流夜之《トノグモルヨノ》 潤濕跡《ヌレヒデド》 戀乍居寸《コヒツツヲリキ》 君待香光《キミマチガテリ》
 
雨ガ降ラナイデ、ドンヨリト曇ツテヰル夜ニ、露〔傍線〕ニ濡レルノモカマハズニ、貴方ノオイデヲ待ツテ、外ニ立ツテ貴方ヲ〔八字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマシタ。
 
○雨不零《アメフラズ》――アメフラデと舊訓にある。玉の小琴に零を霽としてアメハレズ、槻の落葉に雨不を※[雨/沐]としてコサメフリとよんでゐる。○殿雲流夜之《トノグモルヨノ》――トノグモルはタナグモルと同じで、雲の棚曳き曇る意。○潤濕跡《ヌレヒデド》――他ニヌレヒツト、シメジメト、ウルホヘド、などの訓があり、考には蟾竢跡としてツキマツトとしてゐる。併し裳襴潤《モスソヌラシツ》(二四二九)とあるから、潤はヌレでよい。濕はヒヅとよんでよい字である。この動詞は四段に活用するからヒデドと用ゐられる。これは露に霑れるの意であらう。○君待香光《キミマチガテリ》――香光は舊訓はガテラであるが、ガテリの方が古く、卷一にも山邊乃御井乎見我?利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》(八一)とあつた。これもガテリであらう。但しガテラも卷十八に、伎美我都可比乎可多麻知我底良《キミガツカヒヲカタマチガテラ》(四〇四一)とあるから、兩語共に行はれたのである。この語は一事をなしながら、他事を兼ぬる意をあらはす。
〔評〕 これは難解歌の一であらう。誤字説に從へば容易に形つくのであるが、それは亂暴であるからさし扣へることにして、先づ右のやうに解いて置いた。全體に女らしい感じのする歌であるが、立派な有髯男子の作であ(374)るのも面白い。猶よく考ふべきであらう。
 
出雲守門部王思(フ)v京(ヲ)歌一首
 
門部王の傳は三一〇參照。出雲守になつたことは續紀に見えないが、養老三年に伊勢守であつたから、その頃から天平三年に治部卿になるまでの間のことであらう。
 
371 ※[飫の異体字]宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 吾が佐保河の 念ほゆらくに
 
※[飫の異体字]海乃《オウノウミノ》 河原之乳鳥《カハラノチドリ》 汝鳴者《ナガナケバ》 吾佐保河乃《ワガサホガハノ》 所念國《オモホユラクニ》
 
飫宇ノ海ニ注グ河〔四字傍線〕ノ河原ニヰル千鳥ヨ、汝ガ嶋クト、私ノ故郷ノ千鳥ノ澤山ヰル〔故郷〜傍線〕佐保川ガ思ヒ出サレルヨ。
 
○飫海乃《オウノウミノ》――出雲國意宇部の海、即ち今の中の海の南岸である。卷四にこの王の歌に、飫宇《オウ》能|海之鹽干乃滷之《ウミノシホヒノカタノ》(五三六)とあるも同じ。これによつて※[飫の異体字]の下に宇の字が脱ちたのだとする説が多い。海を河の誤とし、飫宇河とする説は從はない。※[飫の異体字]は飫と同字である。○河原之乳鳥《カハラノチドリ》――※[飫の異体字]宇の海に注ぐ熊野川(古名意字川)の河口の河原であらう。風土記意宇部の條に、不v在2神祇官1の十九社の内に、河原社があるのは、恐らく其處にあつた社であらう。乳鳥は言ふまでもなく千鳥である。○所念國《オモホユラクニ》――思はれるよといふに同じ。
〔評〕 都の佐保川も千鳥の名所である。今、出雲にゐて千鳥の聲を聞いて、都を思ひ出したあはれな作である。但し人麿の淡海乃海夕浪千鳥汝嶋者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバココロモシヌニイニシヘオモホユ》(二六六)によく似てゐる。
 
山部宿禰赤人登(リテ)2春日野(ニ)1作(レル)歌一首并短歌
 
春日野は小高い所であるから登るといつたのであらう。槻の落葉に春日山と改めたのは亂暴である。
 
372 春日を 春日の山の 高座の 三笠の山に 朝さらず 雲居たな引き 容鳥の 間なくしば鳴く 雲居なす 心いさよひ 其の鳥の 片戀のみに 晝はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ吾がする 逢はぬ兒ゆゑに
 
春日乎《ハルビヲ》 春日山乃《カスガノヤマノ》 高座之《タカクラノ》 御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》 朝不離《アササラズ》 雲居多奈引《クモヰタナビキ》 容(375)鳥能《カホトリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》 雲居奈須《クモヰナス》 心射左欲比《ココロイサヨヒ》 其鳥乃《ソノトリノ》 片戀耳爾《カタコヒノミニ》 晝者毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 立而居而《タチテヰテ》 念曾吾爲流《オモヒゾワガスル》 不相兒故荷《アハヌコユヱニ》
 
(春日乎春日山乃 高座之御笠乃山爾 朝不離雲居多奈引 容鳥能間無數鳴)雲ノヤウニ心ガブラブラト動イテ靜マラズ、ソノ容鳥ノヤウニ、片戀バカリヲシテ、晝ハ終日、夜ハ終夜、私ハ私ノ意ニ靡イテ〔七字傍線〕逢ツテクレナイ女ダノニ、立ツタリ座ツタリシテ戀ヒ焦レテヰルヨ。
 
○春日乎《ハルビヲ》――枕詞。春の日の霞む意で、春日山につづくと言はれてゐる。乎《ヲ》はヨの意。○春日山乃《カスガノヤマノ》――奈良の東に峙つてゐる山で、上古その山麓を春日郷と稱したからの名である。○高座之《タカクラノ》――枕詞。意は高御座と同じで、高御座の上に蓋《ミカサ》をかけるから、御笠とつづけるのである。○御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》――御笠山は春日山の一部の西峯で、春日神社の背後である。蓋のやうな形をしてゐるから附いた名である。嫩草山ではない。○朝不離《アササラズ》――毎朝、○雲居多奈引《クモヰタナビキ》――雲居は雲のこと。古事記日本武尊の波斯祁夜斯和岐幣能迦多用久毛韋多知久母《ハシケヤシワギヘノカタヨクモヰタチクモ》とある久毛韋《クモヰ》に同じ。○容鳥能《カホトリノ》――容鳥はどんな鳥かわからない。後世にはかほよ鳥の名もあり、又雉の雄鳥とする説もあるが信じ難い。眞淵は呼子鳥と同じで、今のカツポ鳥だと言つてゐるのは、信ずべきに近い。カホは鳴聲によつて附けた名らしく思はれる。○間無數鳴《マナクシバナク》――冒頭からこの句までの八句は序詞。○雲居奈須《クモヰナス》――雲の如くの意で、序詞の中から抽き出して、譬喩に用ゐたもの。○心射左欲比《ココロイサヨヒ》――イサヨヒは心の動いて靜まらぬこと。○其鳥乃《ソノトリノ》――序詞中に述べた容鳥を指して、容鳥のしば鳴くに譬へて、片戀とつづけたもの。片戀は片思ひに同じ。○不相兒故荷《アハヌコユヱニ》――我が心に從つて逢はない女だのにの意。
〔評〕 冒頭に春日山の景を述べ、棚曳く雲と絶え間なく鳴く容鳥とを點出し、その雲と容鳥とに托して、自己の戀慕の情を歌つてゐる。人麿の從石見國別妻上來時の歌(一三一・一三五)などに似てゐるところもあるが、赤人の方が叙景詩人だけに、場面が鮮明に寫し出されてゐる。
 
(376)反歌
 
373 高くらの 三笠の山に 鳴く鳥の 止めばつがるる 戀もするかも
 
高※[木+安]之《タカクラノ》 三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 止者繼流《ヤメバツガルル》 戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》
 
(高※[木+安]之三笠乃山爾鳴鳥之)泣キ止ンデモ、直グ後カラ又次イデ、泣カズニハ居ラレナイ烈シイ〔三字傍線〕戀ヲ私ハスルコトヨ。
 
○高※[木+安]之三笠乃山爾嶋鳥之《タカクラノミカサノヤマニナクトリノ》――止者繼流《ヤメバツガルル》につづく序詞。三笠山に鳴く容鳥の絶えず鳴くに寄せたのである。※[木+安]の字は鞍の扁を更へたものであらう。鉾を桙。杯を坏とするのと同じである。○止者繼流《ヤメバツガルル》――止んだかと思ふと、直に後からまた繼續するの意で、鳥の鳴聲に寄せて、自分の戀の切なさを述べたもの。○戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》――哭の字を、略解に喪に改めたのは惡い。哭は狹尾牡鹿鳴哭《サヲシカナクモ》(一六〇三)・解者悲哭《トカバカナシモ》(一六一二)・數悲哭《アマタカナシモ》(一一八四)・荒樂苦惜哭《アルラクヲシモ》(一〇五九)の如く、モとよむ例が多い。喪《モ》には哭くからである。新訓のコヒナキスルカモは賛成し難い。
〔評〕 止者繼流《ヤメバヅガルル》は面白い珍しい語句である。この歌の内容は相聞であるが、春日野に登つて詠んだと題詞にあるから、雜歌として此處に入れたのであらう。
 
石上乙麻呂朝臣歌一首
 
乙麻呂の傳は二八七參照。
 
374 雨零らば きむと念へる 笠の山 人になきしめ 霑れはひづとも
 
雨零者《アメフラバ》 將盖跡念有《キムトオモヘル》 笠乃山《カサノヤマ》 人爾莫令蓋《ヒトニナキシメ》 霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》
 
雨ガ降ツタラ、私ガ〔二字傍線〕被《カブ》ラウト思ツテヰル笠ノ、ソノ笠トイフ名ノ〔八字傍線〕山ダ。タトヒ雨ニ〔五字傍線〕、ヅブ霑レニナツテモ、人ニ被ラセテハナラヌゾ。私ノ妻ト思ツテヰル女ダ。ドンナ事ガアツテモ他人ノモノニシテハナラナイ〔私ノ〜傍線〕。
 
(377)○笠乃山《カサノヤマ》――三笠山であらう。○人爾莫令蓋《ヒトニナキシメ》――舊訓ヒトニキサスナであつたが、代匠記のヒトニナキセソが廣く行はれてゐる。今は古義に從つてキシメとする。
〔評〕 三笠山を女に譬へて、吾が領じた女に人に逢ふことなかれと言つたものであらう。さうすれば相聞歌でここにはふさはしくないが、前に三笠山の歌があつたので、それに引かれて入れたものか。下に赤人の、韓藍に女を譬へた歌(三八四)もある。但し古義には宮地春樹の説をあげ、偶意を認めてゐない。
 
湯原《ユハラ》王、芳野(ニテ)作(レル)歌一首
 
この王のことは續紀に見えない。古義に「志貴親王の御子にて春日王の弟などにや。後妃に延暦廿四年十一月丁丑、壹志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子と見ゆ」とある。
 
375 吉野なる 夏實の河の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山かげにして
 
吉野爾有《ヨシヌナル》 夏實之河乃《ナツミノカハノ》 川余杼爾《カハヨドニ》 鴨曾鳴成《カモゾナクナル》 山影爾之?《ヤマカゲニシテ》
 
(378)吉野ニアル夏實川ノ山蔭ノ川ノヨドミデ、鴨ガ嶋イテヰルヨ。アアヨイ聲ダ。ヨイ景色ダ〔嗟〜三字傍線〕。
 
○夏實之河乃《ナツミノカハノ》――國※[木+巣]村大字菜摘は宮瀧の上流數町にある。この邊の吉野川を菜摘川といふ。此處は川幅が廣くかつ灣曲し、青々とした淵をなしてゐる。寫眞は萬葉古蹟寫眞による。
〔評〕 吉野の清流の碧潭、山蔭の物靜かな處で、鴨が頻りに鳴いてゐる。丸で畫のやうな景だ。否、有聲の畫だ。柔みのある、麗はしい、滑らかな感觸を持つた歌である。叙景詩の上乘。
 
湯原王宴席歌二首
 
376 蜻蛉羽の 袖振る妹を 玉くしげ 奧におもふを 見給へ吾君
 
秋津羽之《アキツハノ》 袖振妹乎《ソデフルイモヲ》 珠※[シンニョウ+更]《タマクシゲ》 奧爾念乎《オクニオモフヲ》 見賜吾君《ミタマヘワギミ》
 
蜻蛉ノ羽ノヤウナ薄イ〔二字傍線〕袖ヲ振ツテ、今踊ツテ〔四字傍線〕居ル女ヲ私ハ大切ニシテ〔七字傍線〕(珠※[シンニョウ+更])深ク思ツテ居リマスガ、ドウデス佳イ女デゴザイマセウ〔ドウ〜傍線〕、御覽下サイ、貴君。
 
○秋津羽之《アキツハノ》――蜻蛉の羽の如き意で、羅《ウスモノ》の衣をいふ。○珠※[シンニョウ+更]――枕詞。珠は美稱。※[シンニョウ+更]は櫛笥。匣に同じ。底を奧といふので、奧とつづけるのである。○奧爾念乎《オクニオモフヲ》――奧は底の意で上につづき、本意は、心から深くである。
〔評〕 客人を歡待しようとして、郎女に舞を舞はしめたものらしい。その女は自分の妻妾か。それとも遊行女婦か。自分の妻妾としてはあまりのろけがひど過ぎる。恐らく後者であらう。
 
377 青山の 嶺の白雲 朝にけに 常に見れども めづらし吾君
 
青山之《アヲヤマノ》 嶺乃白雲《ミネノシラクモ》 朝爾食爾《アサニケニ》 恒見杼毛《ツネニミレドモ》 目頬四吾君《メヅラシワギミ》
 
青々トシタ山ニ懸ツテヰル白雲ノ姿ハ、面白クテ見飽カナイガ、丁度ソノ通リニ〔ノ姿〜傍線〕、毎朝毎日始終見テヰテモ、貴君ハ立派ナオ方デス。
 
○青山之《アヲヤマノ》――青葉の茂つた山。○朝爾食爾《アサニケニ》――朝に日にと同じで、毎日の意。ケはカの轉言で、日のこと。(379)○目頬四吾君《メヅラシワギミ》――メヅラシは愛らしの意で、客人を愛でたのである。形は終止であるが意は連體である。
〔評〕 青山の嶺にかかつた白雲の、愛らしいのを客人に譬へたものである。青々とした山にかかつた白雲、思ふだにすがすがしい景色が目に浮ぶ。譬喩が清新で心地がよい。上二句を序と見る説もあるが、序としては無理なところがある。
 
山部宿禰赤人詠(メル)2故太政大臣藤原(ノ)家之山池(ヲ)1歌一首
 
太政大臣は淡海公不比等である。不比等は養老四年八月薨じ、十月太政大臣を贈られた。藤原家は藤原氏の家である。高市都の藤原とするは當らない。
 
378 いにしへの 舊き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひにけり
 
昔者之《イニシヘノ》 舊堤者《フルキツツミハ》 年深《トシフカミ》 池之瀲爾《イケノナギサニ》 水草生家里《ミクサオヒニケリ》
 
昔ノ古イ堤ハ年ガ久シクナツタノデ、池ノ渚ニ水草ガ生エタワイ。昔ノ立派ナ家モ隨分荒レ果テタモノダ〔昔ノ〜傍線〕。
 
○昔者之《イニシヘノ》――者は看の誤だらうといふ田中道麻呂の説に從ふ人が多いが、なほ者としてイニシヘノと訓むべきであらう。○舊堤者《フルキツツミハ》――堤は池の堤である。○池之瀲爾《イケノナギサニ》――瀲は水際、古來ナギサと訓んでゐるのに從ふべきである。○水草生家里《ミクサオヒニケリ》――水草は水に生える草、槻の落葉に眞草ならむといつたのは從ひ難い。
〔評〕 淋しい懷舊の情が溢れてゐる。作者の情感がその儘にあらはれてゐるのであらう。卷二の御立爲之島之荒磯乎今見者不生有之草生爾來鴨《ミタタシシシマノアリソヲイマミレバオヒザリシクサオヒニケルカモ》(一八一)とあるに似てゐる。
 
大伴坂上郎女《オホトモサカノヘノイラツメ》祭v神歌一首并短歌
 
大伴坂上郎女は佐保大納言安麻呂の女で、旅人の妹、家持の叔母で姑である。始、天武天皇の皇子、穗積皇子に愛せられたが、靈龜元年七月皇子が薨去の後、藤原不比等の第四子麻呂に嫁した。併しその關係は長くつづかなかつたものか、彼女は養老・神龜の間に於て、大伴宿奈麻呂との(380)中に、坂上大孃同二孃を産んでゐる。古義には麻呂の歿後、宿奈麻呂に嫁したやうに書いてあるが、麻呂は天平九年七月に薨じてゐるから、その後、宿奈麻呂との間に出來た娘が、天平十一年の頃、大伴家持と親しむ筈はない。(卷八に坂上大娘秋稻縵贈2大伴宿禰家持1歌(一六二四)があつて、その左註に天平十一年己卯秋九月としてある。)坂上の里に居つたので坂上郎女と呼ぶのである、)
 
379 ひさかたの 天の原より あれきたる 神の命 奧山の 榊の枝に しらがつく 木綿とりつけて 齋瓮を 忌ひ穿り居ゑ 竹玉を 繁に貫き垂り 鹿猪じもの 膝折り伏せ 手弱女の おすひ取り懸け かくだにも 吾はこひなむ 君に逢はじかも
 
久堅之《ヒサカタノ》 天原從《アマノハラヨリ》 生來《アレキタル》 神之命《カミノミコト》 奧山乃《オクヤマノ》 賢木之枝爾《サカキノエダニ》 白香付《シラガツク》 木緜取付而《ユフトリツケテ》 齋戸乎《イハヒベヲ》 忌穿居《イハヒホリスヱ》 竹玉乎《タカダマヲ》 繁爾貫垂《シジニヌキタリ》 十六自物《シシジモノ》 膝折伏《ヒザヲリフセ》 手弱女之《タワヤメノ》 押日取懸《オスヒトリカケ》 如此谷裳《カクダニモ》 吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》 君爾不相可聞《キミニアハジカモ》
 
(久堅之)天デ生レテ天降ツテオイデナサレタ大伴氏ノ氏神樣ヨ。奧山カラ採ツテ來タ神聖ナ〔十字傍線〕榊ノ枝ニ、白麻ヲ漆ヘタ木綿ヲトリツケテ、清淨ナ酒瓶ヲ忌ミ清メテ、地ヲ掘ツテ据ヱ付ケ、管玉ヲ澤山ニ貫イテソノ瓮ニ〔四字傍線〕垂レカケ、(十六自物)膝ヲ折リ伏セテ平伏シテ拜ミ〔六字傍線〕、女ノ着ル襲《オスヒ》トイフ被衣〔五字傍線〕ヲ頭カラ〔三字傍線〕引キカケテ、カヤウニシテマデ私ハオ願ヒ致シマス。コレデモ〔四字傍線〕思フ人ニ逢フコトハ出來マスマイカナア。逢ヘサウナモノデス。ドウゾ逢ハシテ下サイマシ〔逢ヘ〜傍線〕。
 
○久堅之天原從生來神之命《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタルカミノミコト》――高天原から、生れ出でて天降り給ひし神で、天孫降臨の際御伴仕つた大伴氏の遠祖天(ノ)忍日(ノ)命を指す。○賢木之枝爾《サカキノエダニ》――賢木は榮木の意で、上古は常磐木の總稱であつたと眞淵が言つてゐる通りで、榊の外、種々の濶葉常緑木をさしたらしい。新撰字鏡には、榊佐加木とあり、龍眼佐加木ともある。和名抄にも、龍眼木佐賀岐とある。斯く異なつた木をサカキと稱するのは、上古の名殘であらう。○白香付《シラガツク》――冠辭考に枕詞とし、木綿は白髪に似てゐるからだと言つてゐるが、考には後※[糸+舌]著《ウシロカツク》の略として、冠辭考説を打ち消して(381)ゐる。本居太平はシラカ白紙《シラカミ》の略とし、「奈良の比より木々に取そへて白紙をも切かけて著けたりけむ、されば白紙を添付くる木綿といふ意にて、白香付木綿とは云へるなるべし」と言つてゐる。又守部は檜嬬手に、「枕詞にあらず、白き苧のことなり。木綿は必ず此の苧以て取りつくるものなればいふ也、云々。また此の白苧ばかりも祝ふことには用ゐけむ云々」と言つてゐる。これらの諸説を比較して見ると、白紙《シラカミ》をシラガといふのは、白髪《シラガミ》をシラガといふのと同樣で、尤らしい説だが、元來白紙を榊に取り付けるのは、上古の木綿を簡略にしたもので、木綿と白紙とを併せ用ゐたとは思はれない。今日榊に麻と白紙とを取り付けるのが、即ち白香付木緜取付而の遺風であらうと思はれる。だから予は白香を白苧する説に賛成する。然らばシラガとユフとは別々のものとして、シラガツケユフトリツケテとよむべきかといふに、卷十九に白香著朕裳鋸爾鎭而將待《シラガツケワガモノスソニイハヒテマタム》(四二六五)とあり、單獨にシラカだけを付けることもあつたのだが、卷十二の白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛常不所念《シラカツクユフハハナモノコトコソハイツノサエダモツネワスラエネ》(二九九六)とあるのを見ると、白香付は木綿を修飾した語となつてゐて、枕詞として見ても差支ない位である。併し枕詞説には賛成出來ないが、木綿に白香を付けたことは確かである。即ちシラガツクと訓むべきで、この歌に於ても同樣にシラガツクとよんで、白苧を付けた木綿を、榊の枝に取付けるものと解釋したいと思ふ。○木緜取付而《ユフトリツケテ》――木緜は古語拾遺に「令d長白羽神、種v麻、以爲c青和幣u、令d天(ノ)日鷲神、以2津咋見神1穀《カヂ》木種殖之、以作c白和幣u、是木綿也」とあつて、穀《カヂ》即ち栲の木の皮を以て織つた白布である。○齋戸乎《イハヒベヲ》――齋戸は齋瓮で、神を祀るに用ゐる酒瓶などをいふ。○忌穿居《イハヒホリスヱ》――地を清めて掘つて据ゑ付け。○竹玉乎《タカダマヲ》――竹玉は竹をぶつぶつと切つて、糸に貫いたものともいひ、又宣長は神代紀の五百箇野篶乃八十玉籤《イホツヌスズノヤソタマクシ》で、玉を緒に貫いて小竹に著けたのを、後に玉の代に竹を管の如くに切つて、緒を貫いたのであらうといつてゐる。然るに高橋健自氏は管玉のこととしてゐる。管玉は竹を切つて緒に通して、装身具としたのが發達して、碧玉などを用ゐるやうになつたものらしく、この頃管玉を尚タカダマと稱してゐたものであらう。○繁爾貫垂《シジニヌキタリ》――竹玉を澤山緒に通して、齋瓮の周圍に垂れ懸けるのである。垂りは垂らしに同じ。○十六自物《シシジモノ》――鹿猪《シシ》の如きもの。枕詞とするがよい。○押日取懸《オスヒトリカケ》――押日《オスヒ》は装束の上を被ふ服で、頭から裾まで垂れ、顔を隱すもの。カヅキに同じ。○如此谷裳《カクダニモ》――かくまでにもの意。○吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》――吾は祈《コ》ひ祷《ノ》むに同じ。奈牟《ナム》は祷《ノ》むの轉音である。○君爾不相可聞《キミニアハジカモ》―(382)−貴方に逢はれまいかよ。逢へさうなものだの意。
〔評〕 萬葉集の女流歌人として、一頭地を抽いた作者だけに、他の女性に見られない特色がある。多くの女性作家が短歌にのみ親しんでゐたのに、この人はこんな長歌を試みた。さうして珍らしい材料を取り扱つて、祭神歌と題されてゐる。併しその内容は他の巾※[巾+國]者流の如く、やはり戀慕の情を述べるに過ぎないのは、當代女性の一般傾向と同樣である。祭神の形式がよく分るやうに詠まれてゐるのも面白い。
 
反歌
 
380 木綿疊 手に取り持ちて 斯くだにも 吾はこひなむ 君に逢はじかも
 
木綿疊《ユフダタミ》 手取持而《テニトリモチテ》 如此谷母《カクダニモ》 吾波乞甞《ワレハコヒナム》 君爾不相鴨《キミニアハジカモ》
 
木綿ヲ疊ミ重ネタモノヲ手ニ取リ持ツテ、コレ程モ私ハ神樣ニ〔三字傍線〕乞ヒ祷リマス。ソレデモマダ〔六字傍線〕、アノオ方ニ逢ハレナイノデスカナア。
 
○木綿疊《ユフタタミ》――神に捧げる爲に木綿を疊み重ねたもの。
〔評〕 長歌に述べたことを繰返したに過ぎない。詞も全く同じである爲に申譯に添へたやうな感がある。
 
右歌者、以(テ)2天平五年冬十一月(ヲ)1供2祭(スル)大伴氏神(ヲ)1之時、聊作(ル)2此歌(ヲ)1故曰(フ)2祭神歌(ト)1
 
氏族の繁榮でも祷るべき氏神祭に際して、戀人との逢瀬を祈願してゐるのは、愛情に生きる女性として、當然でもあらうが、聊か不思議の感がないでもない。
 
筑紫娘子贈(レル)2行旅《タビビトニ》1歌一首【娘子字曰2兒島1】
 
筑紫娘子は筑紫にゐた遊女である。「娘子字曰兒島」の六字は神田本その他の古本にあるのによつて補つた。兒島は卷六の太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌二首の左註に、「于時送v卿府吏之中、有2遊行女婦1其字曰兒島也云々、自吟2袖振之歌1」とある女である。この歌、何時誰に贈つたものとも(383)分らないが、旅人は天平二年に大納言になつて京に歸つてゐるから、この行旅とあるは或はその時の一行中の一人かも知れない。さうすれば天平二年の作である。
 
381 家思ふと こころ進むな 風守り 好くしていませ 荒きその路
 
家思登《イヘオモフト》 情進莫《ココロススムナ》 風候《カゼマモリ》 好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》 荒其路《アラキソノミチ》
 
家ヲ思ツテ早ク歸ルノニ氣ガ取ラレテ〔早ク〜傍線〕、心ガハヤツテハイケマセンヨ。風ノ見定メヲヨクシテ浪風ノ〔三字傍線〕荒イソノ舟〔傍線〕路ヲ用心シテ〔四字傍線〕イラツシヤイ。
 
○情進莫《ココロススムナ》――舊訓にココロススムナとあるのを、代匠記にサカシラスルナ、考にサカシラナセソと改めたのは卷十六に情進爾《サカシラニ》(三八六〇)情出爾《サカシラニ》(三八六四)とあるのに傚つたのであらうが、ここには當らぬやうである。心はやる勿れの意。輕はずみを戒めたのである。○風候《カゼマモリ》――候の字、舊本俟とあるは誤。神田本その他の古本に候とある。候は候水門《マモルミナトニ》(一三〇八)とあるによつてマモルと訓むべし。風を見定めること。○好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》――風まもりを好くしていらつしやいの意。
〔評〕 歸心矢の如き旅人に對して、歸りを急いで輕はずみをなさるなと、親切らしく言つてゐるのが、又輕い揶揄のやうにも聞えて面白い。遊女らしい氣分の歌である。
 
登(リテ)2筑波岳(ニ)1丹比眞人國人作(レル)歌一首并短歌、
 
丹比眞人國人は續紀に「天平八年正月辛丑正六位上多治比眞人國人授2從五位下1十年閏七月癸卯爲2民部少輔1」とある。この歌は天平の初の頃東國の任にあつて作つたものか。
 
382 鵜が鳴く 東の國に 高山は さはにあれども 二神の 貴き山の 竝み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひつぎ 國見する 筑波の山を 冬ごもり 時じき時と 見ずて行かば まして戀しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ吾が來し
 
鷄之鳴《トリガナク》 東國爾《アヅマノクニニ》 高山者《タカヤマハ》 左波爾雖有《サハニアレドモ》 明神之《フタガミノ》 貴山乃《タフトキヤマノ》 儕立乃《ナミタチノ》 見杲石山跡《ミガホシヤマト》 神代從《カミヨヨリ》 人之言嗣《ヒトノイヒツギ》 國見爲《クニミスル》 筑羽乃山矣《ツクバノヤマヲ》 冬木成《フユゴモリ》 時(384)敷時跡《トキジキトキト》 不見而往者《ミズテユカバ》 益而戀石見《マシテコヒシミ》 雪消爲《ユキゲスル》 山道尚矣《ヤマミチスラヲ》 名積叙吾來並二《ナヅミゾワガコシ》
 
(鶏之鳴)東ノ國ニ、高イ山ハ澤山アルケレドモ、男女〔二字傍線〕二神ノ鎭座マシマス〔六字傍線〕貴イ山デ、二ツノ峯ノ〔五字傍線〕並ビ立ツテヰル樣子ガヨクテ、イツデモ〔七字傍線〕見タイ山デアルト、神代カラシテ人ノ言ヒ繼イデ來テ、コノ山ニ登ツテ人々ガ〔十字傍線〕國ノ平野ヲ見渡ス有名ナ〔三字傍線〕筑波山ヲ(冬木成)春ガ來タケレド降ル雪ガ〔春ガ〜傍線〕時ヲカマハズ降ツテヰル時ナノデ、ソレニ恐ヂテ〔六字傍線〕山ヲ登ツテ〔三字傍線〕見ナイデ行ツタナラバ、後ニナツテ〔五字傍線〕非常ニ戀シク思フダラウカラ、雪|消《ドケ》ノ歩キニクイ〔五字傍線〕山道ヲモ、無理ニ〔三字傍線〕難儀ヲシナガラ私ハヤツテ來タヨ。
 
○鶏之鳴《トリガナク》――枕詞、一九九參照。○左波爾雖有《サハニアレドモ》――多《サハ》にあれども。○明神之《フタガミノ》――二神の並び給ふ意で、筑波山は頂上が、謂はゆる男體女體の二峯に分れて、相對立してゐる。風土記に「夫筑波岳、(385)高秀2于雲1、最頂西峰※[山+爭]※[山+榮]、謂2之雄神1、不v令2登臨1、但東峰四方盤石、昇降決屹」とある。舊本明神とあるは誤。童蒙抄によつて朋神とし、訓は考に從ふ。○儕立乃《ナミタチノ》――並び立てる姿の意。○見杲石山跡《ミガホシヤマト》――見が欲しき山なりとての意。杲は皓韻古老切で、漢音カウ(kao)、呉音コウ(koo)なるを借りて、カホに用ゐたのである。さすれば漢音を用ゐいたものか。これと同じ用例は在杲石住吉里乃《アリガホシスミヨキサトノ》(一〇五九)、顔に用ゐたものは來鳴杲鳥《キナクカホトリ》(一八二三)・朝杲《アサガホ》(二一〇四)・己蚊杲《オノガカホ》(三七九一)などである。○冬木成《フユコモリ》――いつも春の枕詞であるのに、ここは時敷《トキジキ》と續いてゐるのは不思議である。代匠記初稿本は冬木成の下、ハルハクレドモシラユキノを補ひ、同精撰本は春去來跡白雪乃《ハルサリクレドシラユキノ》を補つてゐる。槻落葉は春爾波雖有零雪能《ハルニハアレドフルユキノ》を脱としてゐるが、かうした脱落と見る説が有力である。予はこの場合、冬木成を春の枕詞とせず、原形の儘で解き得るやうに思ふのであるが、さうすれば、下の時敷時跡《トキジキトキト》・雪消爲《ユキゲスル》などの句に影響を及ぼし、幾多考慮すべき點を生じ、解決に苦しむので、暫く假りに脱落説に從つて置かうと思ふ。○時敷時跡《トキジキトキト》――脱落説に從へば雪の非時に、絶えず降る時なりとての意となる。舊訓トコシクトキは固より當つてゐない。代匠記にトキジクトキトと訓んで、非時と解したのが廣く用ゐられてゐる。意はそれに違ないが、訓がトキジクか、トキジキかに説が分れてゐる。この語の品詞・活用形などに就いては、研究すべき點が殘つてゐるであらうが、予は形容詞として、トキジキトキトと訓みたいと思つてゐる。○益而戀石見《マシテコヒシミ》――彌益りて戀しき故にの意。○雪消爲《ユキゲスル》――略解にユキゲセルと改めたのは惡い。舊訓の通りユキゲスルがよい。○山道尚矣《ヤマミチスラヲ》――山道さへをの意。○名積叙吾來並二《ナヅミゾワガコシ――難儀しながら私は來たの意。並二、舊本に前二とあるは誤。神田本によつて改めた。並二は二二で四である。
〔評〕 筑波の靈峰を空しく過ぎることの惜しさに、春淺き雪消の道を分け登つたといふので、この山に對する尊崇の念がよくあらはれてゐる。富士筑波と神話にも並び語られてゐる山だけあつて、古代人の敬尚も一通りでなかつたと見える。
 
反歌
 
383 筑波ねを よそのみ見つつ 有りかねて 雪消の道を なづみけるかも
 
(386)筑波根矣《ツクバネヲ》 四十耳見乍《ヨソノミミツツ》 有金手《アリカネテ》 雪消乃道矣《ユキゲノミチヲ》 名積來有鴨《ナヅミケルカモ》
 
筑波ノ山ヲ他所カラバカリ見テヰルコトガ出來ナイデ、登ツテ見タクテ〔七字傍線〕、雪解ケノ惡イ〔二字傍線〕道ヲ難儀シテヤツテ來タワイ。
 
〔評〕 長歌の文句をそのまま繰返したまでで、別段面白いこともない。
 
山部宿禰赤人歌一首
 
384 吾がやどに 韓藍蒔き生し 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとぞ思ふ
 
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》 雖干《カレヌレド》 不懲而亦毛《コリステマタモ》 將蒔登曾念《マカムトゾオモフ》
 
私ハ〔二字傍線〕私ノ家ニ、鶏頭花ヲ蒔イテ育テタトコロガ枯レテシマツタケレドモ、懲リナイデ又モウ一度蒔カウト思フヨ。私ハ早クカラ或女ヲ戀シテ駄目ダツタガ、懲リナイデ又モ思ヒヲ懸ケヨウト思〔ハ早〜傍線〕フ。
 
○幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》――幹の字は韓とある古本も多い。幹もカラと訓める字であるから、必ずしも誤とは言はれない。卷十一に穗蓼古幹《ホタデフルカラ》(二七五九)とある。但し卷七には韓藍之花乎《カラアヰノハナヲ》(一三六二)とある。韓藍は卷十一に三苑原之鷄冠草花乃《ミソノフノカラアヰノハナノ》(二七八四)とあつて、今の鷄頭花に相違ない。和名本草にも鷄冠草、和名加良阿爲とある。或はこれを鴨頭草《ツキクサ》とし、或は紅花《ベニハナ》とする説もあるが、それらは共に夏の花であるのに、カラアヰは卷七に秋去者影毛將爲跡吾蒔之韓藍之花乎誰採家牟《アキサラバウツシモセムトワガマキシカラアヰノハナヲタレカツミケム》(一三六二)とあつて、秋の花であるから、鷄頭花に違ない。
〔評〕 雜歌ではあるが、韓藍に女を譬へた相聞としか思はれない。暗喩が上品に淡泊に出來てゐるのは、この人の性格のあらはれであらう。
 
仙|柘枝《ツミノエ》歌三首
 
仙柘枝は左註に柘枝仙媛とあるやうに、柘枝といふ仙女である。委しくは左註の解説參照。
 
385 霰ふり きしみが嶽を さがしみと 草取りかなわ 妹が手を取る
 
(387)霰零《アラレフリ》 吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》 險跡《サガシミト》 草取可奈和《クサトリカナワ》 妹手乎取《イモガテヲトル》
 
(霰零)杵島ノ嶽ガ險阻ナノデ、登ルノニ草ニツカマラウト思ツテモ〔登ル〜傍線〕、草ニモ取リツカレナイデ、妻ノ手ヲ捕ヘテ相輔ケテヤツト登ツ〔十字傍線〕タ。
 
○霰零《アラレフリ》――枕詞。霞の降る音は、かしましいから、かしまとつづくのを、轉じて吉志美《キシミ》に連ねたのである。卷七に霞零鹿島之崎乎《アラレフリカシマノサキヲ》(一一七四)、卷二十に阿良例布理可志麻能可美乎《アラレフリカシマノカミヲ》(四三七〇)とある。○吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》――吉志美は和名抄に肥前國杵島郡杵島、木之萬とある杵島の轉訛である。杵島は景行紀にも見えて、古來名高い山である。○險跡《サガシミト》――さがしさにの意。○草取可奈和《クサトリカナワ》――草取りかねての意であらう。可奈和は可禰手《カネテ》の誤だらうと、久老は言つてゐる。肥前風土記の歌には區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》とある。
〔評〕 この歌は肥前風土記に「杵島郡、縣南二里有2一孤山1從v坤指v艮三峯相連、是名曰2杵島1坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神(一名軍神、動則兵興矣)郷閭(ノ)士女提v酒抱v琴、毎v歳春秋携v手登望、樂飲歌舞、曲盡而歸、歌詞曰、阿羅禮布縷《アラレフル》、耆資麼加多※[土+豈]塢嵯峨紫彌苫《キシマガタケヲサガシミト》、區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》、伊母我堤塢刀縷《イモガテヲトル》、是杵島曲也」とあるものと全く同歌で、異なつてゐる部分は、ただ發音の訛つたに過ぎない。常陸風土記によると、崇神の朝に建借間命《タケカシマノミコト》が、この杵島曲《キシマブリ》を七日七夜遊樂歌※[人偏+舞]したと見えてゐて、太古から廣く知られてゐた歌舞の曲である。古事記に速總別王が女鳥王と倉椅山を越え給ふ時の歌に、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀斯美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母《ハシタデノクラハシヤマヲサガシミトイハカキカネテワガテトラスモ》とあるのも、この杵島曲を歌ひ更へたものである。宣長はこの萬葉の歌を、古事記の歌の轉じたものと言つてゐるが、さうではなくて、古事記の歌もこの歌も、共に杵島曲から出たもので、却つてこの方が原形その儘といつてもよい程に酷似してゐる。否、寧ろ風土記の歌よりも古い感じもするのである。
 兎も角この歌は、吉野にゐた仙女柘枝には關係はなく、民間に歌はれてゐた民謠であるが、左註のやうな傳説が行はれてゐたので、ここに記載したのであらう。
 
右一首或云、吉野人|味稻《ウマシイネ》與(ヘシ)2柘枝仙媛(ニ)1歌也、但見(ルニ)2拓枝傳(ヲ)1無(シ)v有(ルコト)2此(ノ)歌1
 
(388)右の歌を、吉野の人味稻が、仙女の柘枝《ツミノエ》に與へたものとする傳説があつたことを記したものである。さうして柘枝傳といふ書が、當時行はれてゐたことも、この註によつて明らかであるが、その書が早く亡びたのは遺憾である。この傳説は餘程、上代人の興味を引いたものと見え、懷風藻にもこれに關して歌つた詩が十首ばかりあり、續日本後紀に見えてゐる、仁明天皇四十賀に興福寺の僧が奉つた長歌にも詠まれてゐる。(それには味稻を熊志禰《クマシネ》としてゐる)。この話の大體は、昔味稻といふ男が吉野にゐた。吉野川に簗を架けて漁るのを仕事としてゐた。或日、その簗に柘の枝が流れかかつたので、それを家に持つて歸ると、それが美女と變じた。これは仙女が味稻に戀して、柘の枝に化して、男の手に取られたのである。二人は夫婦になつて長生したが、後、常世の國に飛び去つたといふのである。この話は奈良朝に流行した神仙譚の一で、又神婚説話でもある。白氏文集に、柘枝妓・柘枝詞があり、説郛百に柘枝譜といふものを收めてゐるさうだから、或は支那種の説話かも知れない。
 
386 此の夕べ 柘のさ枝の 流れこば 梁は打たずて 取らずかもあらむ
 
此暮《コノユフベ》 柘之左枝乃《ツミノサエダノ》 流來者《ナガレコバ》 梁者不打而《ヤナハウタズテ》 不取香聞將有《トラズカモアラム》
 
昔ノ人ハ簗ヲカケタカラコソ、柘枝ガカカツタノダ〔昔ノ〜傍線〕。今晩柘ノ枝ガ流レテ來タナラバ、簗ガカケテナイカラ、柘ノ枝ハ〔四字傍線〕取ラズニシマフデモアラウ。
 
○柘之左枝乃《ツミノサエダノ》――柘は山桑のこと。和名抄に桑柘、久波、一名都美とある。左枝のサは發語。○梁者不打而《ヤナハウタズテ》――梁は和名抄に「毛詩注云、梁(ハ)魚梁也和名夜奈」とあつて、川の瀬に杭を打ち並べて、水を堰きとめ、一部分をあけて置いて、そこに梁簀と稱する竹の簀をかけて、上流から流れ下る魚をそれに受けて捕へるもの。杭を打ち並べるから、梁を打つといふのである。
〔評〕 自分は梁をかけてゐないから、柘枝が流れて來ても取らずにゐるだらうと言つたので、今でも仙女が柘枝に化して流れて來るやうに想像したのは、神仙思想の行はれてゐた奈良朝人らしい歌である。歌は別によい作でもない。
 
(389)右一首 此下(ニ)無v詞諸本同(シ)
 
右一首の下に作者の名がありさうでないのは、落ちたのか。この下云々の註は、後の人がこれを怪しんで附けたものである。神田本にはない。
 
387 古へに 梁打つ人の 無かりせば ここもあらまし 柘の枝はも
 
古爾《イニシヘニ》 梁打人乃《ヤナウツヒトノ》 無有世伐《ナカリセバ》 此間毛有益《ココモアラマシ》 柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》
 
昔簗ヲカケタ味稻トイフ〔五字傍線〕人ガナカツタナラバ、アノ柘ノ枝ハ今デモ此處ニ流レテ來テヰルダラウニ。昔ノ人ガ簗ヲカケテ取ツテシマツタカラ、今ハ無クナツタ。惜シイコトヲシタ〔昔ノ〜傍線〕。
 
○古爾簗打人乃《イニシヘニヤナウツヒトノ》――味稻をさしたもの。○此間毛有益《ココモアラマシ》――此處にもあるだらうの意。ココニモとよむ説もあるが、ニは不要だ。イマモとよむ景樹説も、コノトモとよむ久老説もいけない。此間等雖聞《ココトキケドモ》(二九)・彼所此間毛《ソコココモ》(四一八九)・此間將會十羽《ココニアハムトハ》(二六〇一)の類に從ふべきである。○柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》――柘の枝よの意。羽裳《ハモ》は詠歎の辭。
〔評〕 自分が仙女を手に入れなかつたことを殘念がつた歌で、前の歌と似た思想である。
 
右一首若宮|年魚《アユ》麻呂作
 
若宮年魚麻呂は傳が明らかでない。
 
※[覊の馬が奇]旅歌一首并短歌
 
388 わたつみは 靈しきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊豫に回らし 座待月 明石の門ゆは 夕されば 汐を滿たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮さゐの 浪をかしこみ 淡路島 磯隱りゐて 何時しかも この夜の明けむと さもらふに いのねがてねば 瀧の上の 淺野のきぎし 明けぬとし 立ち響むらし いざ兒ども 敢へて榜ぎいででむ にはも靜けし
 
海若者《ワタツミハ》 靈寸物香《クスシキモノカ》 淡路島《アハヂシマ》 中爾立置而《ナカニタテオキテ》 白浪乎《シラナミヲ》 伊與爾囘之《イヨニメグラシ》 座待月《ヰマチヅキ》 開乃門從者《アカシノトユハ》 暮去者《ユフサレバ》 鹽乎令滿《シホヲミタシメ》 明去者《アケサレバ》 鹽乎令干《シホヲヒシム》 鹽左爲能《シホサヰノ》 浪乎恐美《ナミヲカシコミ》 淡路島《アハヂシマ》 礒隱居而《イソガクリヰテ》 何時鴨《イツシカモ》 此夜乃將明跡《コノヨノアケムト》 待從爾《サモラフニ》 (390)寢乃不勝宿者《イノネガテネバ》 瀧上乃《タギノウヘノ》 淺野之雉《アサヌノキギシ》 開去歳《アケヌトシ》 立動良之《タチトヨムラシ》 率兒等《イザコドモ》 安倍而※[手偏+旁]出牟《アヘテコギイデム》 爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》
 
海ノ神樣トイフモノハ不思議ナモノダワイ。淡路島ヲ中ニ立テテ置イテ、白浪ヲ四國ノ國マデモ廻ラシテ、(座待月)明石ノ瀬戸カラハ、夕方ニナルト汐ヲ滿タセ、夜明ケニナルト汐ヲ干サセル。私ハ〔二字傍線〕汐ノ流ガ荒レテ浪ガ恐ロシイノデ、淡路島ノ磯ニ舟ヲ寄セテ〔五字傍線〕隱レテ居テ、何時ニナツタラ夜ガ明ケルデアラウト思ツテ待ツテヰルノデ、眠ルコトガ出來ナイノニ、瀧ノ上ノ淺野トイフ所ノ雉ガ、夜ガ明ケタトイツテ飛ビ立チ騷グラシイ。サア船頭ラヨ、思ヒ切ツテ漕イデ出ヨウ。海上モ平穩ダカラ。
 
○海若者《ワタツミハ》――海の神である。海をいふ場合もあるが、ここはさうではない。○靈寸物香《クスシキモノカ》――靈妙な者よの意。アヤシクとよむのはよくない。三一九參照。カはカナの意。〇伊與爾回之《イヨニメグラシ》――伊與は四國を指す。古事記に伊豫之二名島とある。○座待月《ヰマチツキ》――枕詞。十八日の月をいふ。明《アカ》しの意で明石にかける。○開乃門從者《アカシノトユハ》――明石の海峽からは、明石海峽は狹くて、汐の滿干が著しく目立つから、下のやうにつづけたのであらう。○鹽左爲能《シホサヰノ》――鹽左爲は潮水の騷ぐをいふ。語意はシホサワギであらう。この句以下、作者自身の海路の樣を述べてゐる。○磯隱居而《イソカクリヰテ》――舟をとどめて磯かげに波風を避けてゐること。○侍從爾《サモラフニ》――種々の訓があるが、サモラフニがよい。マツカラニの訓もよささうであるが、從の字、故の意に借りたのは一寸見當らぬ。待は侍の誤として、侍從時爾《サモラフトキニ》(二五〇八)の例によるべきであらう。○寢乃不勝宿者《イノネカテネバ》――玉の小琴のイノネカテネバとあるのが廣く行はれてゐる。イノネラエネバの訓もよいやうだが、勝の字はカテとよむ例が多いから、寐不勝鴨《イネガテヌカモ》(六〇七)の例によるべきだ。寢られないからの意。○瀧上乃淺野之雉《タギノウヘノアサヌノキギシ》――瀧の落ちてゐる上方の淺野といふところに鳴く雉の意。淺野は淡路の西海岸で北端から二里許の地にあり、今淺野村といふ。二四九の地圖參照。この村の上方十町許のところに淺野の瀧一に紅葉瀧といふ飛泉がある。高さ五丈。この瀧上乃《タキノウヘノ》とあるは、即ちこれをいふのであらう。(391)小高い丘をなしてゐるから上《ウヘ》といつたのである。圖は淡路名所圖會によつた。○開去歳《アケヌトシ》――明ケヌトにシを添へたのである。歳は借字。○立動良之《タチトヨムラシ》――飛び立つて聲を響かせて鳴くらしいの意。○率兒等《イザコドモ》――イザは誘ふ語。兒等は船頭らを指す。○安倍而※[手偏+旁]出牟《アヘテコギデム》――敢へて漕ぎ出でむの意。喘ぎてではない。○爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》――海上も平穩だの意。爾波《ニハ》は海面をいふ。前に飼飯海乃庭好有之《ケヒノウミノニハヨクアラシ》(二五六)とあつたのと同じである。
〔評〕 左註にある通り、この歌の作者は不明であるが、恐らく名ある人であらう。先づ冒頭に海の靈威と雄大さとを歌ひ、一轉して自己の海路の有樣を述べて、いざ漕ぎ出さうと勇み立つた趣、誠に快活な氣分の溢れた作である。海に對して驚異の目をみはりつつも、それに親しんでゐた古代人の感情が、よくあらはれてゐる。結末の爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》の一句は點睛の妙がある。
 
反歌
 
389 島つたひ 敏馬の埼を 榜ぎためば 大和戀しく 鶴さはに鳴く
 
島傳《シマヅタヒ》 敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》 許藝廻者《コギタメバ》 日本戀久《ヤマトコヒシク》 鶴左波爾鳴《タヅサハニナク》
 
島々ヲ傳ヒツツ、敏馬ノ埼ヲ漕ギ廻ルト、鶴ガ澤山ニ嶋イテヰル。アア、アノ聲ヲ聞クト〔九字傍線〕、大和ガ戀シイヨ。
 
○敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》――敏馬浦の中央、岩屋に※[さんずい+文]賣《ミヌメ》神社が祀つてある。ここが敏馬埼であらう。今、攝津武庫郡都賀野村大字岩屋といふ。神戸市の東方にある。○日本戀久《ヤマトコヒシク》――日本《ヤマト》は畿内の大和、即ち自分の故郷である。戀久はコホシクとよむ人もある。コホシクはコヒシクの古語ではあるが、コヒシクも多く行はれてゐたのだから、コホシクに統一しなければならぬことはない。大和を戀しく思はしめて、鶴が頻りに鳴く意。即ち、鶴の鳴く聲を聞いて故郷が戀しくなるのである。
(392)〔評〕 長歌は、四國を出て東上する道すがらを述べたもので、淡路の西岸に假泊して歸路を急ぐ心持を述べてゐるが、これはそのつづきで、明石海峽を過ぎて敏馬埼に到り、鶴の聲を聞いて愈々故郷の戀しさがそそられる心境を歌つたので、途中の景物に觸れて、旅愁が彌増す趣がよくあらはれてゐる。申譯に添へた反歌とは異なつて、長歌の意を補ひ、兩々相俟つて立派な作品をなしてゐる。
 
右歌若宮年魚麿誦v之、但未v審2作者1
 
作者の分らないのは遺憾であるが、この佳作を諳誦して後世に傳へてくれた、年魚麻呂に感謝しなければならない。
 
譬喩謌
 
タトヘウタとよむ。他の部の例によれば、音讀もしたかと思はれる。戀の心を物に譬へ、物に托して述べた歌である。
 
紀(ノ)皇女御歌一首
 
天武天皇の皇女で、穗積皇子の御妹である。一一九參照。
 
390 輕の池の 浦み行きめぐる 鴨すらに 玉藻のうへに 獨寢なくに
 
輕池之《カルノイケノ》 納囘往轉留《ウラミユキメグル》 鴨尚爾《カモスラニ》 玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》 獨宿名久二《ヒトリネナクニ》
 
輕ノ池ノ岸ノ周圍ヲグルグルト泳ギ廻ツテヰル鴨デサヘモ、玉藻ノ上ニ獨デハ寢ナイノニ、私ガタダ獨デ寢ル〔私ガ〜傍線〕トハ辛イコトヨ〔私ガ〜傍線〕。
 
○輕池之《カルノイケノ》――輕池は書紀に「應神天皇十一年冬十月作2輕池1」とある池で、大和高市郡白橿村の東部に、大字大(393)輕の名が今も殘つてゐる。その附近にあつた池である。○納囘往轉留《ウラミユキメグル》――納は西本願寺本に?とあるに從ふべきである。○鴨尚爾《カモスラニ》――爾は毛の誤かと古義にあるのは從ひ難い。鴨でさへにの意。
〔評〕 鴨に寄せて獨寢の淋しさを詠んだもの。上品に出來てはゐるが、露骨でもある。この歌古今六帖に「かるの池の入江めぐれる鴨だにも玉藻の上に獨寢なくに」として出てゐる。
 
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
 
續紀によれば、養老七年二月に滿誓に勅して、筑紫に觀世音寺を造らしめられたとある。滿誓の傳は三三六參照。
 
391 鳥總立て 足柄山に 船木伐り 樹に伐り行きつ あたら船木を
 
鳥總立《トブサタテ》 足柄山爾《アシカラヤマニ》 船木伐《フナギキリ》 樹爾伐歸都《キニキリユキツ》 安多良船材乎《アタラフナギヲ》
 
私ガ船ヲ造ル材ニシヨウト思ツテヰタノニ〔私ガ〜傍線〕、足柄山ヘ(鳥總立)船材ヲ伐リニ、木ヲ伐リニ人ガ〔二字傍線〕行ツタ。アツタラ惜シイ船材ダノニ。私ガ物ニシヨウト思ツテヰタ女ヲ、人ガ横取リシテシマツタ。惜シイ女ダツタノニ〔私ガ〜傍線〕。
 
○鳥總立《トブサタテ》――枕詞。樵夫が山で木を伐る時、鳥總を立てて置くから、船木伐りとつづく。鳥總に就いて諸説があるが、昔、樵夫が山で木を伐つた時、山神を祭る爲に、梢の方だけを殘して立て置く習慣があつたらしい。宇鏡集に朶の字をトブサ、エダなどと訓んであり、堀河百首や、謠曲「右近」にも、梢の義に用ゐた例があるから、梢のことと見るべきであらう。○足柄山爾《アシガラヤマニ》――相模國の足柄山は、船材を伐り出す古來の名所で、相模風土記にはこの山の杉を以て舟を造つたところが、その船足が輕かつたので、足柄の名が起つたとある。○樹爾伐歸都《キニキリユキツ》――舟木として伐りに行つた。○安多良船材乎《アタラフナギヲ》――あつたら惜しい舟木だのにの意。安多良《アタラ》は可惜の意。
〔評〕 三句目以下に頻りにキの音を繰返してゐる。第四句目が少しく無理に聞えるのも、その爲であらう。僧侶の歌らしくないから、滿誓が俗人の時の作でらうとする説もある。けれども滿誓は筑紫にあつて、女と通じて子(394)を生ませたとも言はれてゐるから、僧になつてからの歌であらう。次の百代の歌と並んでゐるのでも、太宰府での作たることは疑もない。
 
太宰大監大伴宿禰|百代《モモヨ》梅(ノ)歌一首
 
太宰大藍は太宰府の判官で定員二人あつた。大伴百代は續紀に天平十年閏七月以後の履歴が見えてゐる。それによると、兵部少輔・美作守・筑紫鎭西府副將軍・豐前守などになつた人である。併しこの歌は旅人の帥時代のもので、天平二年以前であらう。
 
392 烏玉の 其の夜の梅を た忘れて 折らず來にけり 思ひしものを
 
烏珠之《ヌバタマノ》 其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》 手忘而《タワスレテ》 不所來家里《ヲラズキニケリ》 思之物乎《オモヒシモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕アノ(烏珠之)夜見タ梅ヲ、ツヒ忘レテ折ラナイデ來テシマツタ。心ニハ思ツテ居タノニ。アノ晩アノ女ニ逢ハナカツタノハ殘念ナコトヲシタ〔アノ晩〜傍線〕。
 
○手忘而《タワスレテ》――手《タ》は發語に過ぎない。
〔評〕 これは女を梅に譬へた暗喩の歌である。梅花の宴を開いて、文士氣取をしてゐた太宰府の役人としては、梅花に女をなぞらへたのはふさはしい。
 
滿誓沙彌月歌一首
 
393 見えずとも 誰戀ざらめ 山のはに いさよふ月を よそに見てしが
 
不所見十方《ミエズトモ》 孰不戀有米《タレコヒザラメ》 山之末爾《ヤマノハニ》 射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》 外爾見而思香《ヨソニミテシガ》
 
山ノ端ニ出ヨウトシテ躊躇シテヰル月ヲ、誰ガ慕ハナイモノガアラウ、誰デモ慕フモノデアル。私モ〔誰デ〜傍線〕見ルコトガ出來ナイデモ、セメテ他所ナガラデモ見タイト思フ。私ハ女ニ他所ナガラデモ逢ヒタイト思フ〔私ハ〜傍線〕。
 
(395)○孰不戀有米《タレコヒザラメ》――米《メ》は牟《ム》の誤であらうといふ説もあるが、後世の文法では確かにさうだけれども、恐らくこれはメであらう。○山之末爾《ヤマノハニ》――末はマとよむのだらうと槻の落葉にあるが、末は音を用ゐたものではあるまい。○射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》――射狹夜歴《イサヨフ》は進まんとして進まぬこと。○外爾見而思香《ヨソニミテシガ》――外ながらも見たいの意。ガは冀望の助詞。
〔評〕 女を月に譬へたもの。句の順序が、三四二一五と置き替へて見なければ、分らぬやうになつてゐる爲に、少しく難解の傾がある。
 
金明軍《コムノメウグム》歌一首
 
この人が旅人の資人たることは四五八の左註に明らかである。金といふ姓で見ると、三韓からの歸化人であらうか。持統天皇紀には百濟王余禅廣の名が見えるが、一本に金に作つてゐる。ここも神田本などに余となつてゐるのによれば、余氏の人である。續紀養老七年正月の條に余仁軍の名が出てゐるが、これも一本に金に作つてゐる。ともかくも、この仁軍と明軍とは名が似てゐて。同系の近い肉親の間柄らしく想像される。略解には「聖武紀に金氏を賜ひしことあり、その子孫ならむ」とある。
 
394 標結ひて 我が定めてし 住のえの 濱の小松は 後も吾が松
 
印結而《シメユヒテ》 我定義之《ワガサダメテシ》 住吉乃《スミノエノ》 濱乃小松者《ハマノコマツハ》 後毛吾松《ノチモワガマツ》
 
標ヲ結ンデ、私ガ自分ノモノト〔六字傍線〕定メタ、住吉ノ濱ノ小松ハ、何時マデモ私ノモノダ。アノ少女ハ私ノモノトシタ以上ハ、後々マデモ私ノ女ダ〔アノ〜傍線〕。
 
○印結而《シメユヒテ》――印はシルシと訓ましめたところと、シメとよませたところとある。ここはシメで、標の義である。○我定義之《ワガサダメテシ》――義之はテシの戯書。義は羲の誤で、王羲之は書家で、即ち手の師であるから、羲之をテシの假名に用ゐたのである。他に言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》(六六四)・結義之《ムスビテシ》(一三二四・三〇二八)・觸義之鬼男《フリテシモノヲ》(二五七八)などの用例がある。
(396)〔評〕 女を濱の小松に譬へたもの。前の歌などとは違つて鮮明に詠まれてゐる。
 
笠女郎贈2大伴宿禰家持1歌三首
 
笠女郎の傳は明らかでない。笠金村の一族か。大伴家持は旅人の子、卷十七の三九一三によれば天平十三年四月には内舍人になつてゐる。卷八の一五六六には大伴家持とのみあつて、天平八年九月のことになつてゐる。その例に從へばこれも無官時代のことであらう。
 
395 託馬野に 生ふる紫草 衣にしめ 未だ着ずして 色に出でにけり
 
託馬野爾《ツクマヌニ》 生流紫《オフルムラサキ》 衣染《キヌニシメ》 未服而《イマダキズシテ》 色爾出來《イロニイデニケリ》
 
託馬野ニ生エテヰル紫草ヲ取ツテ、着物ヲ染メテ、未ダ着ナイウチニ人ニ見付ケラレマシタヨ。私ハ貴方ト約束ダケシテ未ダ親シク逢ハナイノニ、人ニサトラレテシマヒマシタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○託馬野爾《ツクマヌニ》――託馬野は近江坂田郡、今の彦根米原附近の平野。三〇の近江地圖參照。○生流紫《オフルムラサキ》――紫は紫草といふ草の名。その根の汁を搾つて紫色を作る。二一參照。○衣染《キヌニシメ》――染の字は益目頬染《イヤメヅラシミ》(一九六)・和備染責《ワビシミセム》(六四一)のやうに、シミの假名に用ゐたところが多いから、ここもシメとよむべきだ。ソメと訓むのは惡い。
〔評〕 紫の衣に譬へた歌である。五句の色爾出來《イロニイデニケリ》は、多く用ゐられた句であるが、この慣用句の爲に全體が暗喩にならなかつたのは惜しいやうに思はれる。
 
396 陸奧の 眞野のかや原 遠けども 面影にして 見ゆとふものを
 
陸奧之《ミチノクノ》 眞野乃草原《マヌノカヤハラ》 雖遠《トホケドモ》 面影爾爲而《オモカゲニシテ》 所見云物乎《ミユトフモノヲ》
 
(陸奧之眞野乃草原)遠イケレド、目ノ前ニ貴方ノ御樣子ガ見エマスヨ。貴方ハ遠ク離レテオイデナサイマスガ、私ノ目ニハオ姿ガ絶エズチラツイテ見エマスヨ〔貴方〜傍線〕
 
○陸奧之眞野乃草原《ミチノクノマヌノカヤハラ》――和名抄に陸奧國行方郡眞野とある地。今、行方郡は相馬郡に合はせられてゐる。磐城(397)北部の眞野川の流域の平野で、今、原町の北方にあたる。この句は雖遠《トホケドモ》と言はむ爲の序。新考に本歌のあつたのを取つたのだらうと言つてゐるのは從はれない。○雖遠《トホケドモ》――卷四に遠鷄跡裳《トホケドモ》(五五三)とあるによつてトホケドモと訓むべし。トホケレドモに同じ。○面影爾爲而《オモカゲニシテ》――面影となりての意。面影に見ゆるとは、髣髴として目の前にちらつくをいふ。○所見云物乎《ミユトフモノヲ》――見えるといふよの意。
〔評〕 初の二句が序とも譬喩とも見られるが、序とする方がよからう。前の託馬野の歌も、この歌も、遠隔の地を材料にしたもので、作者未踏の地であらう。歌人は居ながらにして名所を知るのは、必ずしも平安朝以後のことではない。
 
397 奧山の 磐もと管を 根深めて 結びし心 忘れかねつも
 
奧山之《オクヤマノ》 磐本菅乎《イハモトスゲヲ》 根深目手《ネフカメテ》 結之情《ムスビシココロ》 忘不得裳《ワスレカネツモ》
 
(奧山之磐本管乎)根深ク、眞底カラ貴方ト〔七字傍線〕約束ヲシタアノ時ノ〔四字傍線〕心ハ、ドウシテモ忘レルコトハ出來マセンヨ。
 
○奧山之磐本管乎《オクヤマノイハモトスゲヲ》――下の根につづく序詞。奧山にある磐根のもとに生えてゐる菅の意。乎《ヲ》は之《ノ》の誤かと古義にある。これはヲとすれば結之情《ムスビシココロ》にかかるやうになるからである。
〔評〕 菅に寄せた歌である。この三首はいづれも寄草戀の歌である。家持が青年時代から、かうした熱烈な戀歌を贈られてゐるのは、彼のみやび男であつたことを證明するものである。
 
藤原朝臣|八束《ヤツカ》梅歌二首
 
八束は房前の第三子で、天平十二年正月に正六位上から從五位下になり、累進して天平寶字四年に從三位となり、更に眞楯と名を賜はつた。天平神護二年大納言兼式部卿で五十二歳を以て薨じてゐる。この歌は天平の初年、その青年時代の作か。
 
398 妹が家に 咲きたる梅の いつもいつも なりなむ時に 事は定めむ
 
妹家爾《イモガイヘニ》 開有梅之《サキタルウメノ》 何時毛何時毛《イツモイツモ》 將成時爾《ナリナムトキニ》 事者將定《コトハサダメム》
 
(398)女ノ家ニ咲イタ梅ガ、何時ナリトモ實ノ成ツタ時ニ、アノコトハ定メヨウ。女ガ承知シタ時ニ何時デモヨイカラ夫婦トナラウ〔女ガ〜傍線〕。
 
○何時毛何時毛《イツモイヅモ》――いつでもいつでもの意。槻の落葉に梅は五瓣のものであるから、何時毛《イツモ》とつづくとあるのは考へ過ぎであらう。○將成時爾《ナリナムトキニ》――梅が實となつた時といつて、女の眞實に承諾した時にの意にしてゐる。○事者將定《コトハサダメム》――夫婦の契を定めようの意。
〔評〕 梅に寄せて女を戀ふる心を述べたもので、眞の譬喩にはなつてゐない。ナルといふ語が、かけ詞になつて歌の中心をなしてゐる。氣長な、あせらない戀である。
 
399 妹が家に 咲きたる花の 梅の花 實にしなりなば かもかくもせむ
 
妹家爾《イモガイヘニ》 開有花之《サキタルハナノ》 梅花《ウメノハナ》 實之成名者《ミニシナリナバ》 左右將爲《カモカクモセム》
 
女ノ家ニ咲イタ梅ノ花ガ、實ニナツタナラバ何トカシヨウ。本當ニ承知スル時ヲ待ツテ、夫婦ノ約束ヲシヨウ〔女ガ〜傍線〕。
 
○左右將爲《カモカクモセム》――とにもかくにもしようの意で、前の歌の事者將定《コトハサダメム》に同じ。
〔評〕 前の歌と全く同意で、實之成名者《ミニシナリナバ》が主點である。二首ともに、心に悶えつつも、時期の到來を待つ慎重な態度の戀である。
 
大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
 
大伴駿河麻呂は誰の子か分らないが、卷四の六四九の左註に、「右坂上郎女者佐保大納言卿女也、駿河麻呂此高市大卿之孫也、兩卿兄弟之家女孫、始姪之族云々」とあつて、高市大卿は大納言大件御行のことらしいから、大體その系統は明らかである。大日本史に「系圖一本曰、參議道足之子續日本紀補任不v載今無v所v考」としるしてゐる。略解にも道足の子とある。これによれば馬來田の孫で、御行の孫ではない。御行と安麻呂と道足とは從兄弟の間柄であるから、駿河麻呂を道(399)足の子とすれば、安麻呂の子たる坂上郎女とは、叔母・姪の關係にならない。これは卷四の左註によるべきであらう。駿河麻呂は天平十五年五月、正六位上から從五位下に叙せられ、それから越前守になつてゐたが、天平寶字元年八月橘奈良麻呂の反に坐して罪せられた。寶龜元年五月出雲守となり、その後、肥後守・陸奧按察使・同鎭守府將軍を經て參議になつて、正四位上勲三等で卒したが、從三位を追贈せられた。時に寶龜七年七月であつた。この歌も彼の青年時代の作で、天平の初頃のものであらう。
 
400 梅の花 咲きて散りぬと 人は云へど 吾が標ゆひし 枝ならめやも
 
梅花《ウメノハナ》 開而落去登《サキテチリヌト》 人者雖云《ヒトハイヘド》 吾標結之《ワガシメユヒシ》 枝將有八方《エダナラメヤモ》
 
梅ノ花ハ咲イテ散ツテシマツタト人ハイフガ、私ガ自分ノモノトシテ〔八字傍線〕標ヲシテ置イタ、枝ノコトデハアルマイ。女ガ心變リシタトイフ噂ダガ、ソレハ私ガ約束シテ置イタ女ノコトデハアルマイ。人違ダラウ〔女ガ〜傍線〕。
 
○枝將有八方《エダナラメヤモ》――枝ならんや、枝ではあるまいの意。
〔評〕 女を梅に譬へてゐる。まさか他の人のことだらうと、特更に心にかけないやうに言つて、實は問ひ質してゐるのである。女に贈つた歌らしい。卷八に大伴家持が紀郎女に贈る歌として、瞿麥者咲而落去常人者雖言吾標之野乃花爾有目八方《ナデシコハサキテチリヌトヒトハイヘドワガシメシヌノハナニアラメヤモ》(一五一〇)とあるのは、梅を瞿麥にかへたのみで、よく似た歌である。駿河麻呂は家持よりも、官位は少しく先んじてゐるが、家持の妻坂上大孃の妹坂上二孃を妻としてゐる。從つてこの兩歌はいづれが先であるかを明らかにし難い。
 
大伴坂上郎女、宴(スル)2親族(ト)1之日|吟《ウタヘル》歌一首
 
401 山守の ありける知らに その山に 標ゆひ立てて 結ひの辱しつ
 
山守之《ヤマモリノ》 有家留不知爾《アリケルシラニ》 其山爾《ソノヤマニ》 標結立而《シメユヒタテテ》 結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》
 
山ノ番人ガ居ルノモ知ラナイデ、ソノ山ヲ自分ノ山ダト〔七字傍線〕、標ヲ立テテ置イテ、標ヲ立テタ恥ヲカイタ。私ハ貴方(400)ガ他ニ約束シタ女ガアルノモ知ラナイデ、貴君ヲ私ノ娘ノ聟トシテ置イテ恥ヲカキマシタ〔私ハ〜傍点〕。
 
○山守之《ヤマモリノ》――山の番人がの意で、駿河麻呂が他に通じてゐる女をさす。○其山爾《ソノヤマニ》――駿河麻呂を指す。○標結立而《シメユヒタテテ》――駿河麻呂を娘の聟と定めたことをいふ。
〔評〕 坂上郎女には二人の娘があつた。長女の坂上大孃は家持の妻で、次女の坂上二孃は駿河麻呂に配した。これは駿河麻呂の變心を恨んであてつけた歌である。親類が多く集まつた中で、ひどい皮肉をやつたものである。歌はうまく出來てゐる。
 
大伴宿禰駿河麻呂即(チ)和(フル)歌一首
 
402 山もりは けだしありとも 吾妹子が ゆひけむ標を 人解かめやも
 
山主者《ヤマモリハ》 葢雖有《ケダシアリトモ》 吾妹子之《ワギモコガ》 將結標乎《ユヒケムシメヲ》 人將解八方《ヒトトカメヤモ》
 
タトヒ、山ノ番人ガアルトシテモ、貴女ガ結ンデ置イタ標ヲ、誰ガ無暗ニ解キマセウニ。別ニ約束シタ女ガアルトシテモ、貴方ガ私ヲ聟ト定メナサツタ心ヲ、誰ガ邪魔ヲシマセウゾ。マシテ別ニ女ハナイノデスカラ御安心下サイ〔別ニ約〜傍線〕。
 
○山主者《ヤマモリハ》――文字に從へばヤマヌシハとよむ方がよいやうでもあるが、前の歌をそのまま受けて言つたものとすべきであらうから、ヤマモリハとよむ。○蓋雖有《ケダシアリトモ》――萬一あつてもの意。○吾妹子之《ワギモコガ》――坂上郎女を親しんで言つたのである。
〔評〕 坂上郎女に衆人の前できめつけれて、冑を脱いた姿である。前の歌の言葉をそのまま採つて使つてゐるだけで、これといふ程のこともない。
 
大伴宿禰家持贈(レル)2同坂上家之|大孃《オホイラツメニ》1歌一首
 
(401)坂上大孃は坂上郎女の女で、父は大伴宿奈麻呂である。母と共に坂上の家にゐたからかう呼んだ。田村大孃の妹である。
 
403 朝にけに 見まくほりする その玉を 如何にしてかも 手ゆかれざらむ
 
朝爾食爾《アサニケニ》 欲見《ミマクホリスル》 其玉乎《ソノタマヲ》 如何爲鴨《イカニシテカモ》 從手不離有牟《テユカレザラム》
 
毎朝毎日私ガ見タイト思ツテヰルソノ玉ヲ、ドウシタラ手カラ放サナイデヰラレルダラウ。私ハ始終逢ヒタイト思ツテヰル貴方ト、ドウカシテ何時マデモ放レナイデヰタイト思ヒマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○朝爾食爾《アサニケニ》――朝に日に、毎朝毎日の意。食《ケ》は借字。
〔評〕 坂上大孃を玉に譬へた歌で、はつきりとした素直な作である。
 
娘子、報(ユル)2佐伯宿禰赤麿贈(レル)歌(ニ)1一首
 
娘子は誰とも分らない、遊行女婦であらう。赤麻呂は未詳。續紀に佐伯宿禰淨麻呂といふ人があるが、或は赤はキヨとよむのかといふ説もある。又この歌の前に赤麻呂が娘子に贈つた歌があつたのだらうと、槻の落葉に言つてゐる。
 
404 千早振る 神の社し 無かりせば 春日の野べに 粟蒔かましを
 
千磐破《チハヤフル》 神之社四《カミノヤシロシ》 無有世伐《ナカリセバ》 春日之野邊《カスガノヌベニ》 粟種益乎《アハマカマシヲ》
 
(千磐破)神ノ社ガ無力ツタナラバ、私ハ〔二字傍線〕春日野ニ粟ヲ蒔カウト思ヒマスノニ。神樣ガ鎭座シテオイデニナルノデ、サウモ出來マセヌ。貴方ガ別ニ約束シタ女ガ無イナラ、私ハ貴方ト會ハウト思ヒマスガ、他ニ女ガアルカラ駄目デゴザイマス〔神樣〜傍線〕。
○粟種益乎《アハマカマシヲ》――粟と逢ふとをかけたもの。卷十四の安思我良能波姑禰乃夜麻爾安波麻吉?實登波奈禮留乎阿波奈久毛安夜思《アシガラノハコネノヤマニアハマキテミトハナレルヲアハナクモアヤシ》(三三六四)も同である。
(402)〔評〕 都近い春日野を材として、他の女を社に譬へて、神聖らしく近づくべからざるやうに言つてゐるのは面白い。粟と逢とをかけたのも一寸思ひつきだ。
 
佐伯宿禰赤麿、更(ニ)贈(レル)歌一首
 
405 春日野に 粟蒔けりせば しし持ちに 繼ぎて行かましを 社しとどむる
 
春日野爾《カスガヌニ》 粟種有世伐《アハマケリセバ》 待鹿爾《シシマチニ》 繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》 社師留烏《ヤシロシトドムル》
 
春日野ニ粟ヲ蒔イタナラバ、粟ヲ食ベヨウトシテ出テ來ル〔粟ヲ〜傍線〕鹿ヲ、待チウケテ、後ヲツケテ行クヤウニ〔後ヲ〜傍線〕、絶エズ行カウト思フガ、社ガアツテ通サナイノデ困ル。別ニ約束シタ人ガアルトイフノハ貴女ノコトデス。私ハ行カウト思ツテモ行カレマセヌ〔別ニ〜傍線〕。
 
○待鹿爾《シシマチニ》――マツシカニ、マタムカニ、マタスカニ、マチヌカニなどの訓があるが、鹿は鹿自物《シシジモノ》(一九九)の例によつてシシとよむべきである。シカとよむのは通例、牡鹿とある場合である。又、鹿待君之《シシマツキミガ》(一二六二)・十六待如《シシマツガコト》(三二七八)の例によつてもシシマチにとよむ外はない。この句の意は、粟を食べに出て來る鹿を待つての意。○繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》――引きつづき絶えず行かうものをの意。○社師留烏《ヤシロシトドムル》――烏は焉の略體から誤つたもので、古本に焉と思はれる字を書いたものがある。焉は句の終に添へて記しただけ。この句は他に多くの訓があるが皆いけない。
〔評〕 この歌は少しく難解である。粟・鹿といふやうなものが、當時の生活に深い關係があつたことや、神社を畏敬してゐたことも知れて面白い。
 
娘子、復報(フル)歌一首
 
406 吾が祭る 神にはあらず ますらをに とめたる神ぞ よくまつるべき
 
吾祭《ワガマツル》 神者不有《カミニハアラズ》 大夫爾《マスラヲニ》 認有神曾《トメタルカミゾ》 好應祀《ヨクマツルベキ》
 
(403)ソノ社ハ私ガ祭ツテヰル神樣デハアリマセヌ。貴方ニツイタ神社ヲヨクオ祭リナサイマシヨ。貴方ハ私ニ約束シタ男ガアルヤウナコトヲ仰リマスガ、ソレハ兎モ角トシテ、貴方ハ貴方ガ約束ヲナサツタ女ヲ大切ニ遊バシマセ〔貴方ハ私〜傍線〕。
 
○吾祭神者不有《ワガマツルカミニハアラズ》――宣長はワハマツル、古義はアハマツルとよんでゐるが、舊訓の儘がよい。神は社の誤だと略解にある。ここは、前の歌の社をうけたのであるが、神で少しも差支ない。○大夫爾《マスラヲニ》――大夫は赤麻呂をさす。○認有神曾《トメタルカミゾ》――考はツナゲルカミゾ、槻の落葉にシメタルカミゾ、古義にツキタルカミゾとある。認の字は此處と、卷十六に所※[身+矢]鹿乎認河邊之《イユシシヲツナグカハベノ》(三八七四)とあるのみであるが、卷十六の歌は齊明紀の歌と同じで、ツナグとよむべきは疑を入れない。此處もそれによるとすれば考に從ふべきであるが、神にツナグでは語をなさない。予は舊訓にトメタルカミヅとあるに從はうと思ふ。トメは求《モト》メと同じで、尋ねてそれと知る意である。即ちミトメといふも同じで、認はミトメとよむを常とする。そのミを省いたものと思へばよい。ここは男を尋ねて男に著いてゐる神、即ち他の女に譬へたものである。
〔評〕 どこまでも揶揄する熊度である。男を男と思はない蓮葉らしい樣子があらはれてゐる。
 
大伴宿禰駿河麻呂|娉《ツマドフ》2同坂上家之|二孃《オトイラツメ》1歌一首
 
坂上家之二孃は坂上郎女の生んだ次女で、母と共に坂上の家にゐた。駿河麻呂の妻になつた人である。略解に坂上大孃のことにしてゐるのはどうであらう。
 
407 春霞 春日の里の うゑこなぎ 苗なりといひし えはさしにけむ
 
春霞《ハルカスミ》 春日里爾《カスガノサトノ》 殖子水葱《ウヱコナギ》 苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》 柄者指爾家牟《エハサシニケム》
 
(春霞)春日ノ里ノ植ヱテアル小水葱ハ、未ダ苗ダトイフコトダツタガ、今ハ〔二字傍線〕枝サシノビ大キクナツテ食ベラレルヤウニナツ〔大キ〜傍線〕タラウ、貴女ハコノ頃ハ成人ナサツタデセウ。夫婦ニナツテハ如何デス〔貴女〜傍線〕。
 
(404)○春霞《ハルカスミ》――枕詞。霞む意で春日とつづく。○春日里爾《カスガノサトノ》――春日の里は寧樂の都の東、即ち今の奈良市の一部にあつた里。爾の字、類聚古集その他の古本に、これに作つてゐるのがよい。爾をノとよむとする木村氏の説には從はれない。○殖子水葱《ウヱコナギ》――卷十四に伊可保乃奴麻爾宇惠古奈宜《イカホノヌマニウヱコナギ》」(三四一五)ともあつて、殖は宇惠多氣能《ウヱタケノ》(三四七四)とある殖竹も、殖槻於之《ウヱツキガウヘノ》(三三二四)も、皆自から生じてゐる意で、特更に植ゑたのではない。子水葱《コナギ》はナギにコを添へたもので、コは全く意味はない。水葱《ナギ》は卷十六に水葱乃煮物《ナギノアツモノ》(三八二九)とあつて、水田や小川などに自生する一年生の草本で、莖は短く、葉は叢生し、心臓形又は細い卵形の葉柄の長い葉を有つてゐる。これを煮て食べたものである。夏秋の交紫青色の小花が叢つて咲く。鴨舌草。○柄者指爾家牟《エハサシニケム》――柄は枝と同じ。葉柄の長く延びて、葉の大きくなつたのをいふ。指爾家牟《サシニケム》は延びたのであらうの意。
〔評〕 坂上二孃を子水葱に譬へ、その成長を待ちかねてゐた心を歌つてある。材料が珍らしくて、可憐な感がする。葉柄の長い水葱に譬へて柄者指爾家牟《エハサシニケム》と言つたのはふさはしい。
 
大伴宿禰家持、贈(レル)2同坂上家之大孃(ニ)1歌一首
 
408 石竹の その花にもが あさなさな 手に取り持ちて 戀ひぬ日無けむ
 
石竹之《ナデシコノ》 其花爾毛我《ソノハナニモガ》 朝旦《アサナサナ》 手取持而《テニトリモチテ》 不戀日將無《コヒヌヒナケム》
 
貴女は石竹ノ花デアレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕毎朝毎朝手ニ取リ持ツテ、戀ヒナイ日ハナイダラウニ。花デナイカラ始終手ニ取ルトイフワケニ行カナイノハ殘念ダ〔花デ〜傍線〕。
 
○石竹之《ナデシコノ》――ナデシコは、この集では石竹・瞿麥・牛麥などと記してある。後世では庭に植ゑるものを石竹といふやうだが、この頃はそんな區別はない。すべて山野に自生したもので、それを庭にも植ゑたのである。(405)○其花爾毛我《ソノハナニモガ》――ガは冀望の助詞。○朝旦《アサナサナ》――阿佐奈佐奈《アサナサナ》(四四三三)の例に傚つて、アサナサナとよむがよい。
〔評〕 庭の石竹の花を折つて、添へて贈つた歌のやうに思はれる。缺點もないが、深味もない作だ。譬喩の意は極めて薄い。この人の作、宇良故非之和賀勢能伎美波奈泥之故我波奈爾毛我母奈安佐奈佐奈見牟《ウラゴヒシワガセノキミハナデシコガハナニモガモナアサナサナミム》(四〇一〇)に似てゐる。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
坂上二孃に贈つた歌であらう。古義に歌の字の上に、贈2同坂上家之大孃1の八字を入れてあるのは誤つてゐる。
 
409 一日には 千重浪しきに 思へども なぞその玉の 手にまきがたき
 
一日爾波《ヒトヒニハ》 千重波敷爾《チヘナミシキニ》 雖念《オモヘドモ》 奈何其玉之《ナゾソノタマノ》 手二卷難寸《テニマキガタキ》
 
一日ノ中ニハ、私ハ〔二字傍線〕干重ニ立ツ浪ノ繁キヤウニ頻リニ思ツテヰルガ、ドウシテアノ玉ガ手ニ纏フコトガ出來ナイノダラウ。貴女ヲ一日ノ中ニ千遍モ思フケレドモ、私ノモノニスルコトガ出來ナイノハ殘念ダ〔貴女〜傍線〕。
 
○千重波敷爾《チヘナミシキニ》――干重に立つ波の繁きやうにの意。
〔評〕一日と千重とを對照せしめ、女を玉(海中から得るものとしてあつた)に譬へて言はむ爲に、上に波を置いてあるなど、かなり工夫した作のやうである。
 
大伴坂上郎女橘歌一首
 
駿河麻呂に贈つたものか、家持に贈つたものか不明である。次の答歌に名を記さないので見ると、家持かも知れない。
 
410 橘を やどに植ゑ生し 立ちてゐて 後に悔ゆとも しるしあらめやも
 
橘乎《タチバナヲ》 屋前爾殖生《ヤドニウヱオホシ》 立而居而《タチテヰテ》 後雖悔《ノチニクユトモ》 驗將有八方《シルシアラメヤモ》
 
橘ヲ私ノ庭ニ植ヱテ、後ニナツテカラ、立ツタリ坐ツタリシテ悔ンダ所デ何ノ效能ガアリマセウニ。貴方ヲ娘(406)ノ聟ト定メテ、後デドンナニ悔ンデモ甲斐ガアリマセウヤ。貴方ノ心ヲ見定メテカラニシヨウト思ヒマス〔貴方ヲ〜傍線〕。
 
○屋前爾殖生《ヤドニウヱオホシ》――屋前は攷證にニハとよんでゐるのは、尤にも思はれるが、尚舊訓の儘にヤドとよんで置かう。生はオホシと舊訓にあるを、玉の小琴にオホセとして以來、それに從ふ説が多い。併しやはりオホシの方が無難で、それで意が聞える。橘を家持に譬へたのである。攷證に娘を橘に譬へた謙遜の辭と見たのはどうであらう。○立而居而《タチテヰテ》――立つたり坐つたりしての意。
〔評〕 家持を聟とすることを、橘を宿に植ゑるのになぞらへたもので、娘を婚せしめる時の不安から、聟の心を確めようとする母としての態度が、なる程とうなづかれる。
 
和《コタヘ》歌一首
 
この卷は家持の集めたものと思はれる節があるから、名の無いのは家持作の證ではあるまいか。
 
411 吾妹子が やどの橘 いと近く 植ゑてし故に 成らずは止まじ
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 屋前之橘《ヤドノタチバナ》 甚近《イトチカク》 殖而師故二《ウヱテシカラニ》 不成者不止《ナラズハヤマジ》
 
貴女ノ家ノ橘ヲ極ク近クニ植ヱテ置キマシタカラ、實ガナラヌウチハ承知デキマセヌ。私ハ貴女ノオ宅ノ御娘ト至ツテ親密ニシテ居マシタノデスカラ、夫婦ノ契ヲ結バナイデハ置キマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
○吾妹兒之《ワギモコガ》――坂上郎女をさしたもの。
〔評〕 相手が自分を橘に喩へたのを、その儘採つて答へ、橘の實の縁で成るをかけ詞に用ゐてゐる。
 
市原王歌一首
 
市原王は卷六(九八八)に市原王宴に祷2父安貴王1歌とあつて、安貴王の子である。天平十五年五月に從五位下になり、その後、攝津大夫・造東大寺長官に歴任したことが續紀に見える。
 
412 いなだきに きすめる玉は 二つ無し こなたかなたも 君がまにまに
 
伊奈太吉爾《イナダキニ》 伎須賣流玉者《キスメルタマハ》 無二《フタツナシ》 此方彼方毛《コナタカナタモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
頭ノ上ニ着ケテ居ル御統ノ玉ハ、類ノナイ貴イ〔二字傍線〕モノデス。ソノ玉ノヤウニ大切ナ貴女デスカラ〔ソノ〜傍線〕、ドウトモカウトモ貴女ノ御心次第ニマカセマセウ。ドンナ事デモアナタノ爲ナラ致シマセウ〔ドン〜傍線〕。
 
○伊奈太吉爾《イナダキニ》――伊奈太吉《イナダキ》は和名抄に、「陸詞曰、顛頂也、※[寧+頁](ハ)頭上也、訓伊奈太岐」とあり、イタダキと同じである。○伎須賣流玉者《キスメルタマハ》――伎須賣流《キスメル》は着|統《スメ》るで、玉の緒に貫き通したものを御統の玉といふことが、古事記に見える。キシムル(令著)とする契沖・久老の説も、令著《キス》めるとした攷證の説も、キスムは藏むる事なりと播磨風土記を引いて述べた新考の説も、諾ひ難い。○無二《フタツナシ》――無比の貴いものだの意。○此方彼方毛《コナタカナタモ》――カニモカクニモともよんであるが、文字に着いてよめば、コナタカナタであらう。どうにもかうにもの意。
〔評〕 御統の玉に女を譬へてゐる。頭上を飾る御統の玉は、珠のうちでも特に貴いものであらう。愛する女を物に譬へるとすれば、當時においてそれに勝るものは恐らくあるまい。かなり熱情があらはれてゐる。
 
大綱公人主《オホアミノキミヒトヌシ》、宴(ニ)吟(ヘル)歌一首
 
大綱公は大網公の誤。神田本に網とある。姓氏録にも左京皇別大網公云々と出てゐる。人主の傳は明らかでない。吟とあるのは宴會に吟じたもので、自作ではないかも知れない。
 
413 須磨のあまの 鹽燒衣の 藤ごろも ま遠にしあれば いまだ著なれず
 
須麻乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 藤服《フヂロロモ》 間遠之有者《マドホニシアレバ》 未著穢《イマダキナレズ》
 
須磨ノ海人ノ鹽ヲ燒ク時ニ着ル藤ノ皮デ繊ツタ着物ハ、目ガアライノデ、マダ着馴レマセヌ。私ハアノ女トハ疎遠ニシテ居ルカラ、未ダ親シク逢フコトヲシマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
○須麻乃海人之鹽燒衣乃《スマノアマノシホヤキキヌノ》――須麻は攝津の須磨、今の神戸市の西部。○藤服《フヂゴロモ》――藤の皮を以て織つた衣、賤者の服。○間遠之有者《マドホニシアレバ》――藤衣の糸が太く、目の荒きを、戀人に逢ふことの間遠きにかけて言つたのである。こ(408)の句は、古今集戀四に、「須磨の海人の鹽燒衣をさを荒み間遠にあれや君がきまさぬ」とあるによれば、箴が粗いので間遠なのである。槻の落葉は、之を久に改めて、マトホクシアレバとし、古義はこの儘で同樣によんでゐるが、クとしなければならぬ理由なく、却つて古今集のやうに、ニとするのが古訓であらうと思はれる。○未著穢《イマダキナレズ》――未だ戀人と親しまぬを、衣の縁で著馴れずといつたのだ。衣を着古すを着馴るといふ。
〔評〕 戀人との關係の親しみ難いのを、藤衣に寄せたので、縁語が巧に用ゐられてゐる。よく整つた歌である。右に引いた古今集の歌はこれを歌ひ變へたものであらう。
 
大伴宿禰家持歌一首
 
414 あしびきの 岩根こごしみ 菅の根を 引かば難みと 標のみぞ結ふ
 
足日木能《アシヒキノ》 石根許其思美《イハネコゴシミ》 菅根乎《スガノネヲ》 引者難三等《ヒカバカタミト》 標耳曾結烏《シメノミゾユフ》
 
山ノ岩ガ嶮岨ナノデ、菅ノ根ヲ引イテモ、取リ難イカラ、標バカリヲ結ツテ自分ノモノトシテ〔八字傍線〕置クヨ。色々ト故障ガアツテ、女ガ私ノ心ノ儘ニナリサウニモナイカラ、タダ私ノ心ノ中ニ、アレハ私ノ女ダト思ツテ辛抱シテヰルノダ〔色々〜傍線〕。
 
○足日木能《アシビキノ》――山の枕詞であるのを、山の意に用ゐてゐる。○石根許其思美《イハネコゴシミ》――許其思美は凝々しき故にの意。コゴシは嶮岨なる意。○引者難三等《ヒカバカタミト》――引かば難いからとて、即ち引いても取り難い故にの意。○標耳曾結烏《シメノミゾユフ》――烏は焉の略字から誤つたのである。
〔評〕 思ふ女の得難きを、岩根こごしき山の、菅の根の引き難きに譬へてゐる。譬喩の材料は上代人らしい趣である。
 
(409)挽歌
 
上宮聖徳皇子、出2遊|竹原《タケハラ》井1時、見(テ)2龍田山(ノ)死人(ヲ)1悲傷(テ)御作歌一首
 
上宮聖徳皇子は用明天皇の第二皇子、厩戸豐聰耳皇子と申す。推古天皇の元年四月に皇太子とならせらる。上宮と申すのは、父の天皇がこの皇子を御寵愛になつて、宮(ノ)南(ノ)上殿に居らしめられたからである。推古天皇の二十九年二月斑鳩宮に薨じ給うた。竹原井は今の河内國中河内郡堅下村高井田であるといふ。此處は奈良朝の頃、離宮のあつた所で、奈良から難波への往復に、龍駕を駐め給うたことが續紀に屡々見えてゐる。
 
415 家にあらば 妹が手纏かむ 草枕 旅にこやせる この旅人あはれ
 
家有者《イヘニアラバ》 妹之手將纏《イモガテマカム》 草枕《クサマクラ》 客爾臥有《タビニコヤセル》 此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》
 
今コノ龍田山デ死ンデヰル人ハ〔今コ〜傍線〕、家ニヰルナラバ妻ノ手ヲ枕ニシテ死ヌデアラウ。カウシテ〔四字傍線〕(草枕)旅デ死ンデ〔三字傍線〕臥テヰナサルコノ旅人ハアア可哀サウナモノダ。
 
○家有者《イヘニアラバ》――卷五に國爾阿良波《クニニアラバ》(八八六)とあるによつて、イヘニアラバとよむがよい。○客爾臥有《タビニコヤセル》――コヤスはコユの敬語らしい。コユはコヤル、コイの用例があり、古語で、臥すの意。コヤセルは臥して居られると敬つて宣うたのである。○此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》――※[立心偏+可]怜は嗟乎《アア》と歎息した辭で、この旅人よ、あはれ、悲しきかなといふ意である。
〔評〕 この歌は書紀に見えてゐる聖徳太子の、斯那提流箇多烏箇夜摩爾伊比爾慧弖許夜勢屡諸能多比等阿波禮《シナテチルカタヲカヤマニイヒニヱテコヤセルソノタビトアハレ》、於夜那斯爾那禮奈理※[奚+隹]迷夜佐須陀氣能枳彌波夜那祇伊比爾惠弖許夜勢留諸能多比等阿波禮《オヤナシニナレナリケメヤサスダケノキミハヤナキイヒニヱテコヤセルソノタビトアハレ》の御歌から出たもので、詞が著しく似てゐる。片岡山と龍田山と所も異なり、歌形も三十一文字に短縮せられてゐるのは、後にかうした傳が出來たものである。此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》は古い格調である。
 
(410)大津皇子被(ル)v死之時、磐余《イハレノ》池(ノ)般《ツツミニテ》流(シ)v涕(ヲ)御作歌一首
 
大津皇子謀叛の事あらはれ、持統天皇元年十月三日|驛語田《ヲサダノ》舍で死を賜はつた。一〇五參照。磐余池は今は無くなつゐるが、磯城郡安倍村大字池内、香久山村大字池尻の名が遺つてゐるのは、その名殘であらうといふ。履仲天皇紀に「作磐余池」とある。般の字は珍らしいが、史記孝武紀の「鴻漸2于般1」とある注に、漢書音義を引いて、「般(ハ)水涯堆也」とあるから、ツツミと訓むべきである。古本陂に作るものあり、目録にもさうあるが、般の儘でよい。
 
416 百傳ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隱りなむ
 
百傳《モモツタフ》 磐余池爾《イハレノイケニ》 鳴鴨乎《ナクカモヲ》 今日耳見哉《ケフノミミテヤ》 雲隱去牟《クモガクリナム》
 
(百傳)磐余ノ池ニ鳴ク鴨ヲ今日ガ見納メデ私ハ今殺サレテ〔七字傍線〕死ンデ行クコトカナア。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○百傳《モモツタフ》――枕詞。百に數へ傳ふる意で五十《イ》にかけ磐余《イハレ》とつづくのであらう。但し宣長は角障經《ツヌサハフ》の誤だと言つてゐる。○雪隱去牟《クモガクリナム》――雪隱《クモカクル》は死ぬこと。死者が天上するといふ考から起つたのである。
〔評〕 誠にあはれな御歌である。蓋し衷心の歎聲であるからであらう。懷風藻にはこの皇子の辭世として、「金烏臨2西舍1、鼓聲催2短命1、泉路無2賓主1此夕離v家向」といふ詩が掲げてある。
 
右藤原宮朱鳥元年冬十月
 
朱鳥はアカミトリと訓む。天武天皇十五年七月二十日改元して朱鳥となつたが、天皇は九月六日崩御あらせられ、持統天皇の御代となつた。未だ遷都以前であるが、後の稱呼のままに藤原宮と記したのである。
 
河内《カフチノ》王葬(ル)2豐前國鏡山(ニ)1之時|手持《タモチノ》女王作歌三首
 
河内王は天武紀朱鳥元年正月の條に「爲v饗2新羅金智淨1遣2淨廣肆川内王等于筑紫1」とあり、持統紀三年閏八月の條に「以2淨廣肆河内王1爲2筑紫太宰帥1」とあり、筑紫で歿せられたらしい。(411)鏡山は三一一にも出てゐたが、三松莊一氏の好意によつてその寫眞を得たから、ここは掲げないほ同氏著の九州萬葉手記によつて委しい説明を加へよう。鏡山は豐前國風土記に、田河郡鏡山、在郡東、昔者息長足姫尊、在2此山1遙覽2國形1勅祈曰、天神地祇爲v我助v福、便用2御鏡1安2置此處1、其鏡化爲v石、在2此山中1焉と見えて、今はこの息長足姫尊即ち神功皇后と、御鏡とを崇め奉つた鏡山神社がある。福岡縣郷土史誌には「高丘凡そ百二十尺周廻凡そ二百十間、樹木欝蒼として平地の間に屹立せり、古來より其の南に大道を通ぜり。之を官道とす。是れ往昔京都より太宰府に通ずる驛路なり。而して官道より之を望めば、東北に障子嶽四方寺山の諸山連り、西に香春嶽の三峰屏列し南に小富士山ありて鏡山その中央に立てり、之を眺望するに恰も明鏡を靈臺に装置せるが如し。往古神功皇后此の山に於て神祇を祭祀し、河内王太宰府に御赴任の際この佳境を經過あらせらるるや矚目後事を遺命せられたる誠に故ある哉」とある。挿入寫眞中の樹木の欝蒼たる小山が即ち鏡山で、その左方に少しく距つて小さい森のやうに見えるのが河内王の墓と傳へらるゝもので、福岡縣郷土史誌に、「其の構造巨大にして乃ち前方後圓の古墳なり。地盤周廻凡そ百十七間五歩、高さ凡そ二十四尺、塚上に一大石槨あり、一千二百年の久しき陵土は雨水の爲に流下し、今や石棺は露出して南端の崖に接したり。石材總て寒水石を用ゆ。其の構造は即ち(412)穴居式にして北端に柩を治むる所ありて南方に二三の室あり。葢石四個を聯置せり。南北長二十五尺東西廣十二尺、南に長形の大石を立てて岩戸と爲せり」記してある。今は清楚に整理されて杉垣で圍まれ、中央に櫨の大木が一木茂つてゐる。上の寫眞はその正面から撮影したもので、これも三松氏の惠贈によつたのである。河内王は長皇子の御子であるが、手持女王は王の妃か。女王の墓と傳へられるものが、鏡山の西方にあると豐前今昔説に見えてゐる。同書によれば、「手持女王の墓、鏡山の西ハハキ原と云ふ小松原にあり、古塚方二間高二尺餘、二つの墓の間十間ばかりあり、何れなる事を知らず。民家近し」とあつて手持女王の御墓も河内王の御墓の附近にあると言つてゐる。若し手持女王もこの地に葬られ給うたとすれば、鏡山の裏手の大君原にある欝林がその御墓ではないかと考へられるが、俄かに定めることは出來ないと三松氏は言つてゐられる。
 
417 おほきみの むつたま合へや 豐國の 鏡の山を 宮と定むる
 
王之《オホキミノ》 親魄相哉《ムツタマアヘヤ》 豐國乃《トヨクニノ》 鏡山乎《カガミノヤマヲ》 宮登定流《ミヤトサダムル》
 
コノ鏡山ハ河内〔七字傍線〕王樣ノ御心ニ叶ツタカラ、コノ〔二字傍線〕豐前ノ國ノ鏡山ヲオ〔傍線〕墓トオ定メナサツタ。此所ヘ葬ラレナサツタノハ、コノ鏡山ガオ氣ニ召シタモノト見エル〔此所〜傍線〕。
 
○親魄相哉《ムツタマアヘヤ》――親魄あへばにやの意。ムツタマは睦じき魂で(413)あるが、ムツタマアフといふ熟語として、氣に入る意に用ゐられたのである。
〔評〕 鏡山に葬られ給うたのを、自ら其處を宮と定めたやうに言つたもので、人麿の高市皇子尊城上殯宮の時の歌に明日香乃眞神之原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶跡磐隱座《アスカノマガミノハラニヒサカタノアマツミカドヲカシコクモサダメタマヒテカムサブトイハガクリマス》(一九九)とあるのと同一思想である。
 
418 豐國の 鏡の山の 岩戸立て 隱りにけらし 待てど來まさぬ
 
豐國乃《トヨクニノ》 鏡山之《カガミノヤマノ》 石戸立《イハトタテ》 隱爾計良思《カクリニケラシ》 雖待不來座《マテドキマサヌ》
 
河内王樣ハ〔五字傍線〕豐前ノ國ノ、鏡山ノ岩戸ヲ立テテ、アノ山ヘオ隱レ遊バシタモノト見エル。イクラ〔三字傍線〕オ待チ申シテモオイデニナラヌヨ。
 
○石戸立《イハトタテ》――岩戸を閉ぢての意。古墳の横穴式石槨は、奧に石棺を安置する玄室があり、その室から外部への通路が羨道で、すべて石で疊んである。羨道の入口は羨門と稱し、必ず石を以て塞いである。
〔評〕 これも右に引いた人麿の歌に磐隱座《イハガクリマス》とある通り、墓に葬られることを岩戸を閉ぢて隱れるものと、古代の人が言ひならはしたので、古事記にある、天照大神の天岩戸隱れも、主權者の死を語つた傳説だとする説もあるほどである。雖待不來座《マテドキマサヌ》と稚げに言つたのが、古代人らしく純朴に聞える。
 
419 岩戸わる 手力もがも 乎弱き 女にしあれば 術の知らなく
 
石戸破《イハトワル》 手力毛欲得《タヂカラモガモ》 手弱寸《タヨワキ》 女有者《ヲミナニシアレバ》 爲便乃不知苦《スベノシラナク》
 
河内王樣ガオ隱レ遊バシタ鏡山ノ〔河内〜傍線〕石戸ヲ、破ルダケノ手力ガ欲シイモノデス。力ノ弱イ女デスカラ何トモ仕樣ガアリマセヌ。
 
(414)○女有者《ヲミナニシアレバ》――舊訓ヲトメニシアレバ、宣長・久老・雅澄らはメニシアレバとよんだが、略解にヲミナニシアレバとあるに從ふべきである。
〔評〕 石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》は天の岩戸の條の、手力男神の説話を思ひ出させる。顯界と幽界との境とも考へられる墳墓の冷い岩戸に對し、女の身の力なさを歎じたのが、あはれに痛ましい。
 
石田《イハタノ》王卒(セシ)之時、丹生王作(レル)歌一首并短歌
 
石田王の傳はわからない。歌の趣では女王らしくも見えるが、さうではあるまい。丹生王も傳が詳でない。卷四(五五三)・卷八(一六一〇)に丹生女王とあるによれば、女王であらう。
 
420 なゆ竹の とをよる皇子 さ丹づらふ 吾が大王は こもりくの 泊瀬の山に 神さびに 齋きいますと 玉梓の 人ぞ言ひつる およづれか 吾が聞きつる まが言か 我が聞きつる 天地に 悔しき事の 世の中の 悔しき事は 天雲の そくへの極み 天地の 至れるまでに 杖つきも 衝かずも行きて 夕占問ひ 石占以ちて 吾が屋戸に 御室を立てて 枕邊に 齋瓮をすゑ 竹玉を 間なく貫き垂り 木綿襷 かひなに懸けて 天なる 左佐羅の小野の 七ふ菅 手に取り持ちて ひさかたの 天の川原に 出で立ちて みそぎてましを 高山の 巖の上に いませつるかも
 
名湯竹乃《ナユタケノ》 十縁皇子《トヲヨルミコ》 狹丹頬相《サニヅラフ》 吾大王者《ワガオホキミハ》 隱久乃《コモリクノ》 始瀬乃山爾《ハツセノヤマニ》 神左備爾《カムサビニ》 伊都伎座等《イツキイマスト》 玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》 於余頭禮可《オヨヅレカ》 吾聞都流《ワガキキツル》 枉言加《マガゴトカ》 我聞都流母《ワガキキツルモ》 天地爾《アメツチニ》 悔事乃《クヤシキコトノ》 世間乃《ヨノナカノ》 悔言者《クヤシキコトハ》 天雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》 天地乃《アメツチノ》 至流左右二《イタレルマデニ》 枚策毛《ツヱツキモ》 不衝毛去而《ツカズモユキテ》 夕衢占問《ユフケトヒ》 石卜以而《イシウラモチテ》 吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》 竹玉乎《タカダマヲ》 無間貫垂《マナクヌキタリ》 木綿手次《ユフダスキ》 可此奈爾懸而《カヒナニカケテ》 天有《アメナル》 左佐羅能小野之《ササラノヲヌノ》 七相菅《ナナフスゲ》 手取持而《テニトリモチテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天川原爾《アマノカハラニ》 出立而《イデタチテ》 潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》 高山乃《タカヤマノ》 石穗乃上爾《イハホノウヘニ》 伊座都流香物《イマセツルカモ》
 
(415)(名湯竹乃)優シイ石田王樣、顔ノ色ノ赤ク美シイ石田王樣ハ、(隱久乃)初瀬ノ山ニ、神樣トシテ祭ラレテオイデニナルト、使ノ人ガ來テ言ツタ。根無シ言ヲ私ガ聞イタノデアラウカ。間違ツタ言葉ヲ私ガ聞イタノデアラウカヨ。ドウモ本當トハ思ハレナイ〔ドウ〜傍線〕。天地間ノ第一〔二字傍線〕残念ナコトデ、世ノ中デ第一残念ナコトハ、カウト知ツタナラバ〔九字傍線〕天ノ雲ノ遠ク離レテヰル極限マデ、天地ノ果マデモ、杖ヲツイテデモ、ツカナイデモ歩イテ〔三字傍線〕行ツテ、夕方町ニ出テ、道行ク人ノ言葉デ〔町ニ〜傍線〕占ヲシテ見、又、石ノ占ヲシテ、私ノ家ニ神ノ御堂ヲ立テ、枕ノ方ニハ齋瓮ヲ据ヱ、竹玉ヲ澤山ニ貫キ垂レ、木綿デ作ツタ襷ヲ腕ニカケテ、天ニアル佐佐良ノ小野ニ生エテヰル長イ菅ヲ手ニ持ツテ、(久堅乃)天ノ川原ニ出テ行ツテ、祓ヲシテ石田王ノ御身ノ幸ヲ祈ラ〔石田〜傍線〕ウノニ、石田王ハ既ニ〔六字傍線〕高イ初瀬山トイフ〔六字傍線〕山ノ巖ノ上ニオ葬リ申シテシマツタヨ。アア残念ナコトダ〔八字傍線〕。
 
○名湯竹乃《ナユタケノ》――枕詞。ナヨ竹と同じで、なよなよと靡く竹に譬へて十縁皇子《トヲヨルミコ》に續けたのである。○十縁皇子《トヲヨルミコ》――たわたわとたわみ寄る皇子の意、皇子の若さを述べたのである。卷二にも、奈用竹乃騰遠依子等《ナヨタケノトヲヨルコラ》(二一七)とある。○狹丹頬相《サニヅラフ》――狹《サ》は發語。ニヅラフは紅い顔をしてゐること。この語の用例は澤山ある。○隱久乃始瀬乃山爾《コモリクノハツセノヤマニ》――七九參照。○神佐備爾《カムサビニ》――爾を而・?・手などの誤とする説もあるが、もとの儘でよい。○伊都伎座等《イツギイマスト》――齋き祀られています意。即ち葬られ給ふこと。○玉梓乃《タマヅサノ》――使の枕詞を、使の義に用ゐたもの。○於余頭禮可《オヨヅレカ》――妖言《オヨヅレゴト》かの略。怪しき言葉・僞り言をオヨヅレゴトといふ。○枉言加《マガゴトカ》――マガゴトは曲つた言・正しからぬ言葉。枉の字を狂の誤としてタハゴトと宣長はよんでゐる。なるほど卷十七に於餘豆禮能多婆許登等可毛《オヨヅレノタハコトトカモ》(三九五七)とあつて、それも尤らしいが、枉は邪曲の意で、この儘でよみ得るから、改むべきでない。○天地爾悔事乃《アメツチニクヤシキコトノ》――天地間の最大恨事での意。○天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》――天の雲の距つてゐる方の果で、曾久敝《ソクヘ》は退く方。遠方をいふ。ソキヘとも言つてある。この句の前に、かうと知つたならばの意を補つて見ねばならぬ。○天地乃至流左右二《アメツチノイタレルマデニ》――天地の果までもの意。○杖策毛不衝毛去而《ツヱツキモツカズモユキテ》――杖をついてでも、つかないで(416)も、道を歩いて行きての意で、卷十三に杖衝毛不衝毛吾者行目友《ツヱツキモツカズモワレハユカメドモ》(三三一九)とあるも同じである。策はツヱの字であるのを動詞として、杖つくことに用ゐたのである。○夕衢占問《ユフケトヒ》――ユフケは夕方の辻占で、夕方街の辻に立つて、道行く人の言葉を聞いて、吉凶を判斷するをいふ。衢の字は衢で行ふものであるから、添へて書いたので、無くてもよい。卷十六に夕占爾毛卜爾毛曾問《ユフケニモウラニモゾトフ》(三八一一)とある。問《トヒ》は尋ね判斷すること。○石卜以而《イシウラモチテ》――石卜は石を以てする占であるが、その方法は明らかでない。伴信友の正卜考には、道祖神の社内の石の輕重を試みて占ふことと述べてあるが、石を蹴上げて見たり、又は石の數を數へたり、石を持ち上げて見てその輕重によつたりして占つたものらしい。朝鮮では、大きい石の上に小石を立てて、その倒れた方向によつて吉凶を判することが、今も行はれてゐるさうだから、我が上古にもさうした石占があつたかと思はれる。○御諸乎立而《ミモロヲタテテ》――ミモロは御室で、神を祭り祈るところ。○枕邊爾《マクラベニ》――枕は牀《トコ》の誤かと考にある。○齋戸乎居《イハヒベヲスエ》――イハヒベは齋瓮、三七九參照。○竹玉乎《タカタマヲ》――三七九參照。○木綿手次《ユフダスキ》――木綿で作つた襷。○天有左佐羅能小野之《アメナルササラノヲヌノ》――天にあるささら野といふ野の。左佐羅能小野《ササラノヲヌ》は卷十六に天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤササラノヲヌニチガヤカリ》(三八八七)とあつて、天上にあるとせられた野の名である。これは月を左左良榎壯士《ササラエヲトコ》といふのと、關係がありさうに思はれる。○七相菅《ナナフスケ》――どんなものか明かでない。ナナフは袖中抄に「みちのくのとふのすがこも七ふには」とある歌によつて、宣長が七節の義としたが、この節《フ》は莚にして編んだ節の數であるから、自から生えてゐるものをいふ筈はないと反對する人も多い。フの語義はともかくとして、ナナフスゲは恐らく長い菅の義であらう。例の誤字説は從ふべきでない。菅を以て祓ひ清めることは、大祓詞にも天津菅麻《アマツスガソ》を用ゐることが見えてゐる。○潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》――ミソギは水邊に至つて身の不淨を祓ひ、身を清めること。かくして石田王の無事を祈らむものをの意である。○高山乃石穗乃上爾《タカヤマノイハホノウヘニ》――高山は初瀬山を指す。石穗は石秀《イハホ》、石の大なるもの。○伊座都流香物《イマセツルカモ》――イマサセツルカモの意で、ここはお墓に葬り申したことを言つたのである。
〔評〕 石田王の死を傷んで、自分の耳を疑ひ、もしかくと豫め知つたならば、卜占もし、神にも祷つて、如何なる方法を以てしても快癒を祈るべきであつたのに、遺憾なことをしたと。痛恨してゐる有樣がよく歌ひ出され(417)てゐる。但し詞のつづき方に多少尋常でないところがあり、そこに無理がないとは言はれないが、普通の哀傷歌と異つた内容を有し、殊に卜占や祈祷の樣式がこれによつて知られるのは、古代文化史の資料として誠に貴いものと言はねばならない。
 
反歌
 
421 およづれの まが言とかも 高山の 巖の上に 君が臥せる
 
逆言之《オヨヅレノ》 枉言等可聞《マガゴトトカモ》 高山之《タカヤマノ》 石穗乃上爾《イハホノウヘニ》 君之臥有《キミガコヤセル》
 
根無シ言ノ虚ノ言葉デアラウカヨ。高イ山ノ巖ノ上ニ貴君ガ葬ラレテ〔四字傍線〕、臥テヰラレルト使ノ者ガイフコトハ〔ト使〜傍線〕。
〔評〕 長歌の始の方の二句と、終の三句とを繋ぎ合はせたやうな歌で、取り立てて言ふべき程のことはない。
 
422 石上 布留の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに
 
石上《イソノカミ》 振乃山有《フルノヤマナル》 杉村乃《スギムラノ》 思遇倍吉《オモヒスグベキ》 君爾有名國《キミニアラナクニ》
 
(石上振乃山有杉村乃)思ヒ忘レテシマフコトノ出來ル貴君デハナイヨ。私ハ死ンダ貴君ヲ到底忘レルコトハ出來ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○石上振乃山有杉村乃《イソノカミフルノヤマナルスギムラノ》――スグと連なる序詞。石上の布留の山に生えてゐる杉の群。石上の布留は、大和山邊郡。○思過倍吉《オモヒスグベキ》――悲しき思を忘れ遣るべきの意。
〔評〕 同音を繰返したこの序詞は、卷十三にも神名備能三諸之山丹隱藏杉思將過哉蘿生左右《カムナビノミモロノヤマニイハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》(三二二八)とあつて、詞は慣用的のものであるが、初瀬の山つづきであり、又、布留の杉は有名な神木でもあるから、これを用ゐたのであらう。
 
同(ジキ)石田王卒之時、山|前《クマ》王哀傷(シテ)作(レル)歌一首
 
(418)山前王は忍壁皇子の御子で、茅原王の父。即ち天武天皇の御孫、養老七年十二月辛亥散位從四位下山前王卒と續紀に見える。又懷風藻に、從四位下刑部卿山前王一首として宴に侍して作つた詩が出てゐる。同の字を略解に後人の書入と疑ひ、古義に石田王卒之の五字を削つてゐるが、もとの儘でよい。
 
423 つぬさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 念ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥 鳴く五月は 菖蒲草 花橘を 玉に貫き 一云、貫き交へ かづらにせむと 九月の 時雨の時は 黄葉ばを 折り挿頭さむと 延ふ葛の いや遠永く 一云、葛の根のいや遠長に 萬世に 絶えじと念ひて 一云、大船の思ひたのみて 通ひけむ 君をば明日ゆ 一云、君を明日ゆか よそにかも見む
 
角障經《ツヌサハフ》 石村之道乎《イハレノミチヲ》 朝不離《アササラズ》 將歸人乃《ユキケムヒトノ》 念乍《オモヒツツ》 通計萬四波《カヨヒケマクハ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴五月者《ナクサツキハ》 菖蒲《アヤメグサ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 玉爾貫《タマニヌキ》【一云|貫交《ヌキマジヘ》】 ※[草冠/縵]爾將爲登《カヅラニセムト》 九月能《ナガツキノ》 四具禮能時者《シグレノトキハ》 黄葉乎《モミヂバヲ》 折挿頭跡《ヲリカザサムト》 延葛乃《ハフクズノ》 彌遠永《イヤトホナガク》【一云|田葛根乃彌遠長爾《クズノネノイヤトホナガニ》】 萬世爾《ヨロヅヨニ》 不絶等念而《タエジトオモヒテ》【一云|大船之念憑而《オホフネノオモヒタノミテ》】 將通《カヨヒケム》 君乎婆明日從《キミヲバアスユ》【一云|君乎從明日香《キミヲアスユカ》】 外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》
 
(角障經)磐余ノ道ヲ毎朝毎朝、通ツテ初瀬ノ女ノ所ヘ〔七字傍線〕行ツタ石田王ガ、心ニ〔二字傍線〕思ヒツツ通ツタデアラウコトハ、カウイフコトデアル〔九字傍線〕。郭公ノ鳴ク五月ニハ、菖蒲ヤ橘ノ花ヲ、玉ノヤウニ糸ニ通シテ、頭ヲ飾ル鬘二シヨウ、九月ノ時雨ノ降ル時ハ、紅葉ヲ折ツテ髪ニ挿サウ、サウシチ(延葛乃)彌々遠ク永ク、萬年ノ後マデモ絶エズニ、初瀬ノ女ノ所ヘ通ハウ〔ニ初〜傍線〕ト思ツテ通ツテ居タ貴方ヲ、明日カラハ、外ノモノトシテ見ルコトカナア。石田王ノ卒去ハ實ニ思ヒモ寄ラヌコトダ〔石田〜傍線〕。
 
○角障經《ツヌサハフ》――防詞。一三五參觀。○石村之道乎《イハレノミチヲ》――二八二參照。○通計萬四波《カヨヒケマクハ》――四は類聚古集に口になつてゐるのがよい。マクは未來助動詞ムの延言。この通ふは、次の或本反歌から考へても、亦二八二の歌で見ても、初瀬へ通ふことに違ない。○菖蒲花橘乎玉爾貫《アヤメグサハナタチバナヲタマニヌキ》――集中、菖蒲を玉に貫くとも、花橘を玉に貫くとも詠んだ歌が多いが、卷十八に保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐波奈多知波奈尓奴吉麻自倍可頭良爾世餘等《ホトトギスキナクサツキノアヤメグサハナタチバナニヌキマジヘカヅラニセヨト》(四一〇一)・(419)卷十九に昌蒲花橘乎貫交可頭良久麻而爾《アヤメグサハナタチバナヲヌキマジヘカヅラクマデニ》(四一八〇)とあるから、菖蒲と花橘とを一緒にして、玉の如く糸に貫いたのである。玉爾《タマニ》は玉のやうに、又は玉としての意。○※[草冠/縵]爾將爲登《カヅラニセムト》――※[草冠/縵]は上代の男女が頭の飾として纏うたもので、多くは蔓草を用ゐたが、かうした菖蒲の類も鬘としたのである。續紀に「天平十九年五月庚辰、太上天皇詔曰、昔者五日之節、常用2菖蒲1爲v縵、比來已停2此事1、從v今而後、非2菖蒲1者勿v入2宮中1云々」と見えてゐるので、當時の状態がよくわかる。○九月能四具禮能時者《ナガツキノシグレノトキハ》――時雨は後世では冬十月の雨としてあるが、この集ではかく九月にもいひ、又、十月鐘禮爾相有黄葉乃《カミナツキシグレニアヘルモミヂバノ》(一五九〇)ともあつて、晩秋から初冬へかけて降る驟雨性の雨を言つたのである。○延葛乃《ハフクズノ》――枕詞。葛の蔓が長いので、遠永《トホナガク》を言ひ起すのに用ゐたのだ。一云|田葛根乃《クズノネノ》とあるのは面白くない。根は不要である。クズを田葛と記す理由は明らかでないが、眞田葛原《マクズハラ》(一三四六)・眞田葛延《マクズハフ》(一九八五)・田葛葉日殊《クズハヒニケニ》(二二九五)・崗乃田葛葉緒《ヲカノクズハヲ》(三〇六八)・延田葛乃《ハフクズノ》(三八三四)などの類極めて多い。○外爾可聞見牟《ヨソニカモミム――外に見るとは、石田王が亡くなられて、通ひ給はぬやうになつたことをいふ。
〔評〕 石田王が初瀬の女に通つた心中を忖度して詠んだもので、死者を悼む歌としては、悲歎の情が稀薄である。左註に或云として人麿の作とあるが、人麿らしい熱情が見えて居らぬ。尚この歌は石田王を女王とする説によれば解が著しく異なつて來るが、ここには述べないことにする。
 
右一首(ハ)或(ハ)云(フ)柿本朝臣人麿(ノ)作
 
この註は後人のもので、信ずべからずと古説が一致してゐる。
 
或本反歌二首
 
略解には反歌でないとして左註を採用してゐる。槻の落葉は初の一首だけを反歌とし、後のものを左註に從つてゐる。これは反歌二首とある記述を尊重して解釋すべきである。
 
424 こもりくの 泊瀬をとめが 手にまける 玉は亂れて ありといはずやも
 
隱口乃《コモリクノ》 泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》 手二纏在《テニマケル》 玉者亂而《タマハミダレテ》 有不言八方《アリトイハズヤモ》
 
(420)(隱口乃)初瀬ノ女ガ大事ニシテ〔五字傍線〕手ニ卷イテヰタ玉ハ、亂レテヰルトイフデハナイカ。初瀬少女ト親シカツタ石田王ハ御薨去遊バシタトイフデハナイカ〔初瀬〜傍線〕。
 
○玉者亂而《タマハミダレテ》――手に纏ける玉が亂れたとは、王の薨去を言つたもので、まことに美しい譬である。○有不言八方《アリトイハズヤモ》――有りと言ふではないかの意。
〔評〕 女王の薨去を露骨な詞で言ひあらはさずに、手にまいた玉の亂れを以てその意を示してゐるのは面白い。
 
425 河風の 寒き長谷を 歎きつつ 君が歩くに 似る人も逢へや
 
河風《カハカゼノ》 寒長谷乎《サムキハツセヲ》 歎乍《ナゲキツツ》 公之阿流久爾《キミガアルクニ》 似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》
 
河風ノ寒ク吹ク長谷ヲ石田王ヲ思ツテ〔七字傍線〕歎キナガラ、初潮ノ少女ガ歩イテ居ルガ、セメテ王ニ似タ人デモ逢へバヨイガ。
 
○公之阿流久爾《キミガアルクニ》――キミは初瀬の少女をさしたものである。○似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》――王に似る人にも逢へよの意。卷二の人麿が妻の死後作つた長歌に、玉桙道行人毛獨谷似之不去者《タマボコノミチユクヒトモヒトリダニテシユカネバ》(二〇七)とあるに似てゐる。
〔評〕 河風寒長谷乎《カハカゼノサムキハツセヲ》は、所がら如何にもさうありさうに見える叙述で、寒い河風に吹かれる初潮少女のいたいたしい姿と、それに對する同情が似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》であはれに歌はれてある。
 
右二首者、或(ハ)云(フ)紀皇女(ノ)薨後、山前王代(リテ)2石田王(ニ)1作(レル)v之(ヲ)也
 
この註は、前の或云と異なつた傳を記したもので、そのいづれが眞なるか、今から判斷のしやうがない。紀皇女は卷二の一一九參照。
 
柿本朝臣人麻呂、見(テ)2香具山(ノ)屍(ヲ)1悲慟(シテ)作(レル)歌一首
 
426 草枕 旅のやどりに 誰がつまか 國忘れたる 家待たまくに
 
草枕《クサマクラ》 ※[覊の馬が奇]宿爾《タビノヤドリニ》 誰嬬可《タガツマカ》 國忘有《クニワスレタル》 家待莫國《イヘマタマクニ》
 
(421)(草枕)旅ノ宿リニ何處〔二字傍線〕ノ誰ノ夫デアラウ。カウシテ自分ノ國ヲ忘レテシマツテコンナ所ニ死ンデヰルノハ〔コン〜傍線〕。家デモ歸リヲ〔三字傍線〕待ツテヰテルデアラウニ。
 
○家待莫國《イヘマタマクニ》――イヘマタナクニと舊訓にあるが、莫は類聚古集に眞とあるに從つて、イヘマタマクニとよむがよい。宣長が舊訓のままとして、このナクは、はしたなくなどのなくと同じと言つたのは、從ひ難い説だ。
〔評〕 嬬とあるが女の死屍ではあるまい。香具山あたりの都近いところにも、往々死人が横たはつてゐたものと見える。題に悲慟とあるが、それほどでないとしても、同情心の深い人麿は、かうした何處の人ともわからぬ屍に、涙を濺いだのである。
 
田口廣麿死之時、刑部垂麻呂《オサカベノタリマロ》作(レル)歌一首
 
田口廣麻呂の傳はわからない。刑部垂麻呂も分らない。二六三參照。
 
427 百足らず 八十隈坂に 手何せば 過ぎにし人に 蓋し逢はむかも
 
百不足《モモタラズ》 八十隅坂爾《ヤソクマサカニ》 手向爲者《タムケセバ》 過去人爾《スギニシヒトニ》 盖相牟鴨《ケダシアハムカモ》
 
(百不足)澤山ノ道ノ曲角ノ坂ニ手向ヲシテ、道ノ神樣ヲ祭ツ〔八字傍線〕タナラバ、死ンダ人ニ、或ハ逢フコトガ出來ルカモ知レナイナア。ドウモソノ外ニハアノ人ニ逢ヘサウニモナイ。アア悲シイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○百不足《モモタラズ》――枕詞。百に足らぬ八十とつづく。○八十隅坂爾《ヤソクマサカニ》――隅の字はこの儘でクマとよんでよい。隈の誤とするには及ばない。坂は路のあやまりとしてクマヂ又はクマデとよむ説もあるが、坂でも分るから改めない方がよい。ヤソクマサカは道の八十隈の坂で、多くの曲り角の坂、即ち坂の多くの曲り角である。坂とあるは山で手向するからであらう。古事記の大國主神の言に、僕《ア》は百不足八十の※[土+向]手《クマデ》に隱りて侍ひなむとあるから、クマデとよむ説も一顧の價値がないではない。スミサカとすれば大和宇陀郡萩原の附近に墨坂があつて、書紀にも見える地であり、又卷四にも君家爾吾住坂乃家道乎毛《キミガイヘニワガスミサカノイヘヂヲモ》(五〇四)とあるが、どうも八十とのつづきが分らないか(422)ら、それは採らぬことにしようと思ふ。
〔評〕 神に手向けるのは、多く自己又は他人の幸福を祈るものであるが、又希望所願をかなへる爲にすることもある。山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニココロオゾクタムケシタレヤイモニアヒガタキ》(二八五六)とあるのは、女に逢はむ爲の手向で、死者に逢はむ爲の手向が、即ちこの歌である。古代人の信仰を知ることが出來るといふだけの歌であらう。
 
土形娘子《ヒヂカタノヲトメノ》火2葬(セシ)泊瀬山(ニ)1時、柿本朝臣人麿作歌一首
 
土形娘子は傳が明らかでない。土形は氏であらうが、これは遊女らしく思はれる。
 
428 こもりくの 泊瀬の山の 山のまに いさよふ雲は 妹にかもあらむ
 
隱口能《コモリクノ》 泊瀬山之《ハツセノヤマノ》 山際爾《ヤマノマニ》 伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》 妹鴨有牟《イモニカモアラム》
 
(隱口能)初瀬ノ山ノ山ノ間ニ、漂ウテヰル雲ハ、アレハ眞ノ雲デハアルマイ。多分〔アレ〜傍線〕土形娘子ヲ火葬シ夕煙〔六字傍線〕デアラウ。
 
○伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》――イサヨフは一所に漂ひて去らぬをいふ。
〔評〕 火葬は文武天皇の四年に僧道昭を火葬したのが最初だといふが、果して然らばこの歌は火葬が始まつてから、あまり程經ない時であらう。何となく物珍らしげな感じが出てゐるやうだ。卷七に隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在武《コモリクノハツセノヤマニカスミタチタナビククモハイモニカモアラム》(一四〇七)とあるのは酷似した歌である。
 
溺(レ)死(ニシ)出雲娘子(ヲ)火2葬(セシ)吉野(ニ)1時、柿本朝臣人麿作歌二首
 
出雲娘子も亦遊女であらう。傳はわからない。
 
429 山のまゆ 出雲の兒らは 霧なれや 吉野の山の 嶺に棚引く
 
山際從《ヤマノマユ》 出雲兒等者《イヅモノコラハ》 霧有哉《キリナレヤ》 吉野山《ヨシヌノヤマノ》 嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》
 
(423)(山際從)出雲ノ娘子ハ火葬セラレテ今ハ〔九字傍線〕霧デアルカラカ、吉野山ノ嶺ニ棚曳イテヰル。
 
○山際從《ヤマノマユ》――枕詞。出づをかけ詞として出雲につづけたのである。○出雲兒等者《イヅモノコラハ》――等はこの場合複數ではない。○霧有哉《キリナレヤ》――霧なればやの意。○嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》――霏の字は雨の細く降るをいふので、※[雨/微]は一寸見當らぬ字である。霏微といふ熟字はある。この集では霏※[雨/微]の二字をタナビクとよんだ例が七回ばかり見える。
〔評〕 見たままをよんだのであるが、霧有哉《キリナレヤ》が何となくあはれに聞える。枕詞の山際從《ヤマノマユ》も歌全體の氣分に合致してゐて面白い。
 
430 八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の おきになづさふ
 
八雲刺《ヤクモサス》 出雲子等《イヅモノコラガ》 黒髪者《クロカミハ》 吉野川《ヨシヌノカハノ》 奧名豆颯《オキニナヅサフ》
 
(八雲刺)出雲娘子ハ、吉野川ニ溺死シテ、ソ〔ハ吉〜傍線〕ノ黒髪ガ吉野川ノ眞中ニ漬ツテヰル。
 
○八雲刺《ヤクモサス》――枕詞。八雲立つとも、やつめさすともいふので、類音を繰返して作られた枕詞である。サスとタツは相轉する音である。素盞嗚尊の神詠に起るとする説はいけない。あの神詠にも、やはり普通の枕詞として用ゐてあるのだ。古事記に、雲が立ちのぼつたから、八雲立つの歌を詠まれとあるのは、あの歌からして出來た傳説に過ぎない。○奧名豆颯《オキニナヅサフ》――奧は沖。名豆颯《ナヅサフ》は水に漬つてゐること。颯をサフに用ゐたのは、言ふまでもなく字音であるが、面白い使ひ方である。
〔評〕 これは溺死した状態を歌つたのであるが、吉野の山に棚引く霞よりも、吉野川の深みに浸つて、漂うてゐる黒髪の方が、より以上、あはれにいたいたしく感ぜられる。死人を見て詠んだ歌は他にもあるが、人麿にはかの狹岑島の石中死人を詠じたものや、香具山の屍を見てよんだ歌などもあり、それらに同情の涙を濺いでゐるのは、彼が愛の詩人であるからである。
 
過(レル)2勝鹿眞間《カツシカノママ》娘子(ノ)墓(ヲ)1時、山部宿禰赤人作(レル)歌一首并短歌
 
勝鹿の眞間は、下總東葛飾郡の市川町大字眞間の地である。國府臺の下に當つて、古昔は謂はゆる(424)眞間の入江が灣入し、海岸へも近く交通至便な國府の近郊であつた。娘子は即ち眞間手兒名で、その地方の有名な美人であつたが、多くの男に戀せられて、せん方なく自から命を絶つたといふのである。これは三山の歌や、處女塚の話、卷十六のかつら兒、櫻兒の話と共に、謂はゆる妻爭傳説に屬するものである。娘子の墓と稱するものが、この頃あつたものと見える。赤人は官命によつて東國に旅して富士山麓を過ぎて、下總に入り眞間を通つたのであらう。赤人の遺跡が、上總國山邊郡大和村大字田中にあるといふのは、この歌から推測した捏造説に過ぎない。
 
431 古に 在りけむ人の 倭文幡の 帶解きかへて ふせ屋立て 妻問しけむ 葛飾の 眞間の手兒名が 奧津城を 此處とは聞けど 眞木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らえなくに
 
古昔《イニシヘニ》 有家武人之《アリケムヒトノ》 倭文幡乃《シヅハタノ》 帶解替而《オビトキカヘテ》 廬屋立《フセヤタテ》 妻問爲家武《ツマドヒシケム》 勝牡鹿乃《カツシカノ》 眞間之手兒名之《ママノテコナガ》 奧槨乎《オクツキヲ》 此間登波聞杼《ココトハキケド》 眞木葉哉《マキノハヤ》 茂有良武《シゲリタルラム》 松之根也《マツガネヤ》 遠久寸《トホクヒサシキ》 言耳毛《コトノミモ》 名耳母吾者《ナノミモワレハ》 不所忘《ワスラエナクニ》
 
昔コノ葛飾ニ〔五字傍線〕居タ男ガ、娘子ヲ妻トシテ迎ヘル爲ニ〔娘子〜傍線〕、小サイ低イ家ヲ建テテ、倭文布デ作ツタ帶ヲ解キ変ハシテ、娘子ト婚シタトイフソノ〔二字傍線〕葛飾ノ眞間ノ手兒名ノ墓所ハ、此處ダト聞キテヰルガ、檜ノ葉ガ茂ツテヰテ見エナイ〔四字傍線〕ノダラウカ。或ハ松ノ根ガ張ツテ、ソレカラ〔七字傍線〕遠ク久シク時代ガ經ツタカラデアラウカ。ワザワザ尋ネテ來テモ墓所モ明瞭デナイ。コノ手兒名ノコトヲ〔ワザ〜傍線〕話ニバカリ聞キ、評判ニバカリ聞イテ、私ハ忘レルコトガ出來ナイヨ。
 
○古昔有家武人之《イニシヘニアリケムヒトノ》――古昔あつたであらう人がの意。即ち手兒名當時の男をいふ。○倭文幡乃《シヅハタノ》――倭文《シヅ》はスヂと同語で穀《カヂ》又は麻を用ゐて織つた布で、縞になつてゐもものらしい。これは當時に於ても古風な布であつたのであらう。卷十一に古家之倭文旗帶結垂《イニシヘノシヅハタオビヲムスビタレ》(二六二八)ともある。神代紀に倭文《シドリ》神此云2斯圖梨能俄未1とあるはシヅオリの略である。これで見ても我が固有の文布《アヤヌノ》たることがわかる。○帶解替而《オビトキカヘテ》――帶を解き交はしての意。(425)併しそれでは手兒名が男に逢つたことになつて、一般に傳へられてゐる説話と異なり、卷九に出てゐるものとも違ふことになるといふので、古い帶を解き、新しい倭文の帶に替へての意、即ち帶しめ替へての意とすべしとする説もあるが、この句の替而《カヘテ》は、敷妙乃袖替易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》(一五五)、敷細乃衣手易而《シキタヘノコロモデカヘテ》(五四六)摩多麻提乃多麻提佐斯迦閉《マタマデノタマデサシカヘ》(八〇四)手枕易寢夜《タマクラカヘテネタルヨハ》(二〇三一)の類と同じく、交はしての意である。解替而《トキカヘテ》を古きを解き、新しきに替へるとは、あまり勝手な説明であらう。又妻を迎へむ爲ならば、帶を解き改めるといふのもどうであらう。寧ろ衣を改めるとか、或は新装してとかいふやうな意を歌ふべきではないか。この句は下に續き方が少し穩やかでない爲、かやうな説も出たのであるが、ここは盧屋立て、倭文幡の帶解きかへて妻問ひしけむといふ意になつてゐるのである。○盧屋立《フセヤタテ》――伏屋建ての意で、結婚の爲に謂はゆる嬬屋を新築するのである。盧の字は、田盧爾居者《タブセニヲレバ》(一五九二)・盧八燎《フセヤタキ》(一八〇九)などと同じくフセとよむべきである。○妻問爲家武《ツマトヒシケム》――ツマドヒは求婚の意と、婚することの兩義がある。ここは男女相逢うて婚することである。但しさう見る時は、前に述べたやうに、この女が、既に或男を夫としたことになり、多くの男に言ひ寄られて、いづれにも身を任せかねて死んだとする傳と異なつて來るが、それは妻爭傳説の一形式として少しも差支ないので、この赤人の詠んだのは、卷九のとは異なつて手兒名に夫があつたといふ話によつたのであらう。葦屋處女の傳説でも、卷九の反歌には墓上之木枝靡有如聞陳努壯士爾之依家良信母《ハカノウヘノコノエナビケリキキシゴトチヌヲトコニシヨリニケラシモ》(一八一一)とあつて、陳努壯士を夫と定めてゐたらしい傳もあつたのである。さうすれば、手兒名が身を捨てたのは、袈裟御前の心事と同じことになるのであるが、さう見て少しも差支はない。○勝牡鹿乃眞間之手兒名之《カツシカノママノテゴナガ》――右の題詞に説明した通りであるが、手兒名の語義について考へると、波爾思奈能伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰《ハニシナノイシヰノテコガコトナタエソネ》(三三九八)の歌に手兒とあるから、ナは親しみ添へたものと思はれる。さうして手兒は父母の手に養はれる愛子といふやうな意で、哭乎曾奈伎都流手兒爾安良奈久爾《ネヲゾナキツルテコニアラナクニ》(三四八五)は赤兒のことに用ゐられてゐる。だから手兒名は固有名詞ではなく、處女《ヲトメ》といふのと殆ど同じ意義と考へてよい。今、眞間山弘法寺内に手古奈明神として祭られてゐる。尚、和訓栞には「奧州津輕の邊にて蝶をテコナといふ」と記してあるが、それとこれとは關係があるまい。○奧槨乎《オクツキヲ》――オクツキは奧つ城。墓のこと。槨は棺の外郭を意味する文字。○眞木葉哉茂有良武《マキノハヤシゲリタルラム》――眞木は檜などの類。眞木が生ひ茂つて墓が確かには見えないといふのである。(426)○松之根也遠久寸《マツガネヤトホクヒサシキ》――松の根が張つて老松となり、時代が遠く久しく距つてゐる爲かの意。○言耳毛名耳母吾者不所忘《コトノミモナノミモワレハワスラエナクニ》――言にのみ聞き、名にのみ聞きて、吾は忘られぬよの意。言は言葉で、世の人の話をいふ。名は世の評判をいふ。ワスラエナクニは忘れられないよの意。
〔評〕 娘子に關する説話と、墓所の叙景と、自己の感情とが短い章句の中に、ぎつしりと詰め込まれてゐる。それだけ全體が緊張してゐる。奧槨乎此間登波聞杼《オクツキヲココトハキケド》、眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸《マキノハヤシゲリタルラムマツガネヤトホクヒサシキ》の數句は人麿の大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流《オホミヤハココトキケドモオホトノハココトイヘドモハルクサノシゲクオヒタルカスミタツハルヒノキレル》(二九)とあるのに、よく似た句法である。
 
反歌
 
432 われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 眞間の手兒名が 奧津城處
 
吾毛見都《ワレモミツ》 人爾毛將告《ヒトニモツゲム》 勝牡鹿之《カツシカノ》 間間能手兒名之《ママノテゴナガ》 奧津城處《オクツキドコロ》
 
昔カラ有名ナ〔六字傍線〕葛飾ノ眞間ノ手兒名ノコノ墓所ヲ、私モ見タ。人ニモ話シテ聞カセテヤラウ。
〔評〕 珍らしいものを見て、言ひ繼がむとか、語り繼がむといふのが、古代の人の常である。文筆に記し止めるよりも、口から口に語り傳へるを常とした、上代のならはしが、かうした表現をおのづからなさしめてゐるのである。
 
433 葛飾の 眞間の入江に うち靡く 玉藻苅りけむ 手兒名し思ほゆ
 
勝牡鹿乃《カツシカノ》 眞眞乃入江爾《ママノイリエニ》 打靡《ウチナビク》 玉藻苅兼《タマモカリケム》 手兒名志所念《テゴナシオモホユ》
 
來テ見レバ眞間ノ入江ニ玉藻ガ靡イテヰルガ〔來テ〜傍線〕、葛飾ノ眞間ノ入江デ水ノマニマニ〔六字傍線〕靡イテヰル玉藻ヲ苅ツタダラウト思ハレル、アノ手兒名ガ思ヒ出サレルヨ。サゾ美人デアツタラウ〔十字傍線〕。
〔評〕 滿々と水を湛へた眞間の入江に、美しい藻が流に漂うてゐるのを見て、この玉藻を苅る鄙の手業にいそしんでゐたらしい手兒名を偲んだのである。玉藻を美人に譬へた例は澤山あるが、これは玉藻を見て美人を懷ひ(427)起したのである。やさしい懷古の情が、柔らかいしんみりとした調子で述べられてゐる。
 
和銅四年辛亥、河邊宮人、見(テ)2姫島(ノ)松原(ニ)美人(ノ)屍(ヲ)1哀慟(シテ)作(レル)歌四首
 
この題詞は既に卷二の二二八の題詞に、和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見2孃子屍1悲嘆作歌二首として出てゐるものを、誤つて再び掲げたものか。以下の四首には全くその趣が見えない。
 
434 風速の 美保の浦みの 白躑躅 見れどもさぶし 亡き人思へば 或云、見れば悲しも無き人思ふに
 
加麻※[白+番]夜能《カザハヤノ》 美保乃浦廻之《ミホノウラミノ》 白管仕《シラツツジ》 見十方不怜《ミレドモサブシ》 無人念者《ナキヒトオモヘバ》【或云|見者悲霜無人思丹《ミレバカナシモナキヒトオモフニ》
 
風早ノ美保ノ浦ノアタリニ咲イテヰル白イ躑躅ノ花ヲ見テモ、私ハ昔此處ニヰタ〔八字傍線〕久米稚子ヲ追憶スルト、心ガ淋シク悲シイ。
 
○加麻※[白+番]夜能《カザハヤノ》――風早の三穗の浦は紀伊國日高郡で、前にあつた博通法師の三穗石室の歌(三〇七)と同じところである。名所圖會に「三穗は今三尾と書く。この浦の浪打こゆる岩群ある所をあさはいと字す、即ち風早の名の遺れるなり」と見えてゐる。卷七に風早之三穗乃浦廻乎榜舟之《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノ》(三二八)とあるのも同所らしい。卷十五に風速浦舶泊之夜作歌二首とあるのは、安藝である。麻の字はアサの略サとも思はれぬことはないが、麻をサの假名に用ゐた例は全く無いから、座の誤であらう。※[白+番]の字も他に用例はないが、これは呉音バ、漢音ハであるから、これでよからう。○白管仕《シラツツジ》――白躑躅。○見十方不怜《ミレドモサブシ》――不怜は不樂と同じ意。○無人念者《ナキヒトオモヘバ》――無人《ナキヒト》は次の歌によれば、久米若子である。
〔評〕 これは前にあつた博通法師の、三穗石室の歌と同じ趣で、恐らく同一人の作であらう。美しい白躑躅を見ても感興を催さず、故人を偲ぶ樣があはれである。或云の方も大同小異であるが、見者《ミレバ》よりも見十方《ミレドモ》の方がよいやうである。
 
435 みつみつし 久米の若子が い觸りけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも
 
見津見津四《ミツミツシ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊觸家武《イフリケム》 礒之草根乃《イソノクサネノ》 干卷惜裳《カレマクヲシモ》
 
(428)(見津見津四)久米ノ稚子ガ觸レタラウト思ハレル、磯ノ草ノ根ガ枯レテシマフノハ惜シイモノダ。コノ草ハ稚子ノ形見ダノニ〔コノ〜傍線〕。
 
○見津見津四《ミツミツシ》――枕詞。勢威あるの義で、久米は神代の天津久米命、神武天皇の御代の大久米命などが、勇武の譽があつたから、ミツミツシ久米とつづくことになつたと言はれてゐる。○久米能若子《クメノワクゴ》――三〇七參照。○伊觸家武《イフリケム》――伊《イ》は發語。觸はフレとよむよりもフリの方がよい。○礒之草根乃《イソノクサネノ》――草は略解にカヤとよんでゐるが、屋根に葺くのではないから、ここはカヤとよむべくもない。
〔評〕 これも言ふまでもなく前の歌と同じく、三穗の石室に關する作である。前の白躑躅の歌と同じやうな感じが出て見る。
 
436 人言の 繁きこの頃 玉ならば 手に卷き持ちて 戀ひずあらましを
 
人言之《ヒトゴトノ》 繁比日《シゲキコノゴロ》 玉有者《タマナラバ》 手爾卷以而《テニマキモチテ》 不戀有益雄《コヒズアラマシヲ》
 
人ノ口ガヤカマシイコノ頃、モシアノ女ガ〔六字傍線〕玉ナラバ、手ニ卷キ付ケテ持ツテヰテ、戀ヒシガラズニヰヨウノニ。玉デナイカラサウモナラヌ、サテモサテモ戀シイ〔玉デ〜傍線〕。
〔評〕 これは相聞の歌で、此處に入るべきではない。卷二に玉有者手爾卷持而《タマナラハテニマキモチテ》(一五〇)とあり、卷四に玉有者手二母將卷乎《タマナラバテニモマカムヲ》(七二九)とあつて、愛人を玉ならば手に卷かむといふのは、類型的思想で、あまり面白いことはない。
 
437 妹も吾も きよみの河の 川岸の 妹が悔ゆべき 心は持たじ
 
妹毛吾毛《イモモワレモ》 清之河乃《キヨミノカハノ》 河岸之《カハギシノ》 妹我可悔《イモガクユベキ》 心者不持《ココロハモタジ》
 
妻モ私モ、心ガ清クテ〔九字傍線〕(妹毛吾毛清之河乃河岸之)妻ガ後デ悔ムヤウナ、ソンナ薄情ナ〔六字傍線〕心ハ私ハ〔二字傍線〕持チマセヌ。安心シナサイ〔六字傍線〕。
 
○妹毛吾毛清之河乃河岸之《イモモワレモキヨミノカハノカハギシノ》――可悔《クユベキ》と言はむ爲の序詞。崩ゆべきの意にかけてある。妹毛吾毛《イモモワレモ》とは清と言はむ爲(429)に置いたので、二人の心の清きをいふのである。枕詞のやうな役目をしてゐるが、眞の枕詞ではない。清之河《キヨミノカハ》は卷二に飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》(一六七)とあつて、淨御原の宮をさしてゐるから、淨御原附近で飛鳥川をかく呼んだものであらう。
〔評〕 これも相聞の歌である。序の作り方が面白いが、併し東歌に可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《カマクラノミコシノサキノイハクエノキミガクユベキココロハモタジ》(三三五六)とあるのと、下句は殆ど同じで、これを本として、歌ひ變へたものと思はれる。又卷十に雨零者瀧都山川於石觸君之摧情者不持《アメフレバタギツヤマカハイハニフリキミガクダカムココロハモタジ》(二三〇八)とあるのも似た歌である。
 
右案(ズルニ)年紀并所處及(ビ)娘子(ノ)屍(ノ)作歌人名、已(ニ)見(ユル)v上(ニ)也。但歌辭相違(シ)是非難(シ)v別(チ)、因(テ)以(テ)累(ネテ)載(ス)2於茲(ノ)次(ニ)1焉。
 
所處の下、及の字、舊本乃になつてゐるのは誤である。この註を古義に、仙覺などが註せるにやと言つてゐるが、さう新しいものとも思はれない。
 
神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿、思(ヒ)2戀(フル)故人(ヲ)1歌三首
 
大伴卿は旅人。故人はその妻大伴郎女をいふ。卷八に、神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇v病長逝焉云々とある。舊本故人の下に歌の字がない。類聚古集によつて補ふ。
 
438 うつくしき 人の纏きてし 敷妙の 吾が手枕を 纏く人あらめや
 
愛《ウツクシキ》 人纏而師《ヒトノマキテシ》 敷細之《シキタヘノ》 吾手枕乎《ワガタマクラヲ》 纏人將有哉《マクヒトアラメヤ》
 
私ノ〔二字傍線〕愛スル人ガ、枕トシテ寢タ(敷細之)私ノ手枕ヲ、アノ人ヨリ外ニ〔七字傍線〕枕トシテ寢ル人ガアラウカ。ソンナ人ハアリマセヌ〔ソン〜傍線〕。
 
○愛《ウツクシキ》――童蒙抄にウルハシキとよんだ説に略解は從つてゐるが、舊訓にウツクシキとあるのがよい。
〔評〕 愛する妻はこの世の人でなくなつた。この我が腕は、もはや枕する者もなくなつたと悲傷したので、孤獨(430)になつた淋しさを嘆いたのである。略解に「心は他人に又あはじといふなり」とあるのは少し言ひ過ぎであらう。
 
右一首(ハ)別(レ)去(リテ)而經(テ)2數句(ヲ)1作(レル)歌
 
別去は死去と同義である。
 
439 還るべく 時は成りけり 都にて 誰が袂をか 吾が枕かむ
 
應還《カヘルベク》 時者成來《トキハナリケリ》 京師爾而《ミヤコニテ》 誰手本乎可《タガタモトヲカ》 吾將枕《ワガマクラカム》
 
イヨイヨ都ヘ〔六字傍線〕歸ルベキ時トナツタワイ。都ヘ歸ツテ私ハ、誰ノ袂ヲ枕ニシテ寢ヨウゾ。妻ハスデニ死ンデシマツタカラ誰モ袂ヲ枕サセルモノモナイ。アア〔妻ハ〜傍線〕。
 
○應還時者成來《カヘルベクトキハナリケリ》――舊訓カヘルベキトキニハナリヌとあるのを、代匠記精撰本にカヘルベクトキハナリケリとしたのがよい。宣長が來を去として、カヘルベキトキニハナリヌとしたのも、古義に成を來として、カヘルベキトキハキニケリとしたのも皆惡い。
〔評〕 京に歸るべき時が近づくに從つて、亡妻を思ふ情はいよいよ募つて來る。京に歸つても誰の手枕をしようぞ、ただ妻の手枕が戀しく思はれる。前の歌は我が手を妻にまかしめた思ひ出で、これは妻の手を枕とした追憶である。
 
440 みやこなる 荒れたる家に ひとり宿ば 旅に増りて 苦しかるべし
 
在京師《ミヤコナル》 荒有家爾《アレタルイヘニ》 一宿者《ヒトリネバ》 益旅而《タビニマサリテ》 可辛苦《クルシカルベシ》
 
久シ振デ都ニ歸ツテ〔九字傍線〕、都ニアル荒レ果テタ家ニ一人デ寢タナラバ、旅ニアル時以上ニ苦シカラウト思ハレル。ソレニツケテモ亡キ妻ガ戀シイヨ〔ト思〜傍線〕。
〔評〕 歸京せんとする喜びも、亡妻を思へば全く幻のやうに消え去つてしまふ。荒有家爾一宿者《アレタルイヘニヒトリネバ》は、實に悲しい淋しいいたましい詞である。右三首はいづれも平明な作であるが、最後のこの一首が最もあはれに出來てゐる。(431)下にある歸京途上の作や、京に入つてからの作を見ても、旅人の衷情を思へば、眞に涙を催さずには居られない。
 
右二首(ハ)臨(ミ)2近(ヅキ)向(フ)v京(ニ)之時(ニ)1作(レル)歌
 
題詞に神龜五年戊辰云々として歌三首とある。併し後の二首は歸京の期が近づいてからの作で、即ち天平二年の冬になつてからのことである。
 
神龜六年己巳、左大臣長屋王(ニ)賜(ヒシ)v死(ヲ)之後、倉橋部女王(ノ)作(レル)歌一首
 
長屋王は天武天皇之御孫、高市親王の御子。私に左道を學んで國家を傾けむとしたといふので、自盡せしめられたことが續紀に見えてゐる。七五參照。倉橋部女王は傳が明らかでない。
 
441 大きみの 命恐み 大あらきの 時にはあらぬど 雲隱ります
 
大皇之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 大荒城乃《オホアラキノ》 時爾波不有跡《トキニハアラネド》 雲隱座《クモガクリマス》
 
天子樣ノ勅ノ畏サニ、長屋王樣ハ〔五字傍線〕、今薨去ナサルベキ時デハナイガ、自殺セヨトノ勅ニ從ツテ〔自殺〜傍線〕、御自害遊バシタ。オ氣ノ毒ナコトデス〔九字傍線〕。
 
○大皇之《オホキミノ》――大の字、太とある古本も多い。いづれでもよいであらう。この句舊訓はスベロギノであるが、類聚古集にオホキミとあるのに從つて置かう。天皇を指し奉る。○大荒城乃《オホアラキノ》――大は美稱、アラキは新城で、殯殿をいふ。殯殿は本葬までの假宮であるが、孝徳天皇の大化二年に「凡王以下乃至2庶民1不v得v營v殯」といふ制が出てから、殯殿は作らなくなつたが、やはり葬送の時を大アラキと言つたものである。
〔評〕 長屋王に對する同情をあらはしつつ、しかも天皇に對する敬意を失はぬやうに、巧みに詠んである。
 
悲2傷(メル)膳部《カシハデベノ》王(ヲ)1歌一首
 
續妃に「令2長屋王(ヲ)自盡1其室二品吉備(ノ)内親王、男從四位下膳夫王、无位桑田王、葛木王、釣取王(432)等、同亦自縊」とある。
 
442 世の中は 空しきものと あらむとぞ この照る月は 滿闕しける
 
世間者《ヨノナカハ》 空物跡《ムナシキモノト》 將有登曾《アラムトゾ》 此照月者《コノテルツキハ》 滿闕爲家流《ミチカケシケル》
 
世間ハ無常ナモノデアラウトイフノデ、ソノ道理ヲ示シテ〔八字傍線〕、アノ空ニ〔二字傍線〕照ツテヰル月ハ、滿チタリ缺ケタリスルワイ。膳部王ノ突然ノ薨去ハ實ニ悲シクイタマシイ。アア無常ノ世ノ中ダ〔膳部〜傍線〕。
 
○空物跡《ムナシキモノト》――空物《ムナシキモノ》は無常な物といふに同じ。跡《ト》はデの意。
〔評〕 卷七に隱口乃泊瀬之山丹照月者盈※[日/仄]爲烏人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケシケリヒトノツネナキ》(一二七〇)、卷十九に天原振左氣見婆照月毛盈※[日/仄]之家里《アマノハラフリサケミレバテルツキモミチカケシケリ》(四一六〇)とあつて、月の滿ち闕けに世の無常を感ずるのは佛教思想で、この歌は上の句に殊に無常觀が強く言ひあらはされてゐる。左註にある如く作者不明であるが、當時に於て既にかうした佛教的無常觀が、かなり深く一般の人心に食ひ込んだ跡が見える。
 
右一首、作者未v詳
 
天平元年己已、攝津國班田(ノ)史生|丈部龍麿《ハセツカベノタツマロ》自(ラ)經(レ)死(セ)之時、判官大伴宿禰|三中《ミナカ》作(レル)歌一首短歌
 
班田(ノ)史生は班田のことを掌る史生で、班田は公民に口分田及びその他の賜田を班ち授けることで、この事務を掌るのは諸國の國司であつたが、五畿内だけは特に班田使を任命して、これに當らしめた。これに長官・次官・判官・主典・史生などがあつた。史生は書紀で卑官である。丈部龍麻呂は傳が明らかでない。この氏は卷二十の防人に多く見え、元來安房國長狹郡の地名であるから、この人も恐らく東國人であらう。經死は縊死に同じ。判官は班田使の判官即ち龍麻呂の上官である。三中はこの後、遣新羅使副使・兵部少輔・山陽道巡察使・少貳・長門守・刑部大判事などになつたこと(433)が續紀に見えてゐる。
 
443 天雲の 向伏す國の 武士と 云はれし人は すめろぎの 神の御門に 外のへに 立ちさもらひ 内のへに 仕へ奉り 玉かづら いや遠長く 祖の名も 繼ぎゆくものと おも父に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より 垂乳根の 母の命は いはひべを 前にすゑ置きて 一手には 木綿取り持ち 一手には にぎたへ奉り 平らけく ま幸く坐せと 天地の 神に乞ひのみ 如何ならむ 歳月日にか つつじ花 匂へる君が 牛留鳥の なづさひ來むと 立ちてゐて 待ちけむ人は 大きみの 命恐み 押てる 難波の國に あらたまの 年經るまでに 白妙の 衣手干さず 朝よひに 在りつる君は いかさまに 念ませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて往にけむ 時ならずして
 
天雲之《アマグモノ》 向伏國《ムカフスクニノ》 武士登《モノノフト》 所云人者《イハレシヒトハ》 皇祖《スメロギノ》 神之御門爾《カミノミカドニ》 外重爾《トノヘニ》 立候《タチサモラヒ》 内重爾《ウチノヘニ》 仕奉《ツカヘマツリ》 玉葛《タマカヅラ》 彌遠長《イヤトホナガク》 祖名文《オヤノナモ》 繼往物與《ツギユクモノト》 母父爾《オモチチニ》 妻爾子等爾《ツマニコドモニ》 語而《カタラヒテ》 立西日從《タチニシヒヨリ》 帶乳根乃《タラチネノ》 母命者《ハハノミコトハ》 齋忌戸乎《イハヒベヲ》 前座置而《マヘニスヱオキテ》 一手者《ヒトテニハ》 木綿取持《ユフトリモチ》 一手者《ヒトテニハ》 和細布奉《ニギタヘマツリ》 平《タヒラケク》 間幸座與《マサキクマセト》 天地乃《アメツチノ》 神祇乞祷《カミニコヒノミ》 何在《イカナラム》 歳月日香《トシツキヒニカ》 茵花《ツツジバナ》 香君之《ニホヘルキミガ》 牛留鳥《クロトリノ》 名津匝來與《ナヅサヒコムト》 立居而《タチテヰテ》 待監人者《マチケムヒトハ》 王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 押光《オシテル》 難波國爾《ナニハノクニニ》 荒玉之《アラタマノ》 年經左右二《トシフルマデニ》 白栲《シロタヘノ》 衣不干《コロモデホサズ》 朝夕《アサヨヒニ》 在鶴公者《アリツルキミハ》 何方爾《イカサマニ》 念座可《オモヒマセカ》 鬱蝉乃《ウツセミノ》 惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》 露霜《ツユジモノ》 置而往監《オキテイニケム》 時爾不在之天《トキナラズシテ》
 
天ノ雲ガ低ク地ニ向ツテ垂レ伏シテヰル遠イ〔二字傍線〕國ノ、東國人ノ中デモ〔七字傍線〕強イ武士ト言ハレタ龍麻呂トイフ〔六字傍線〕人ハ、コノ世ノ神樣デアル〔九字傍線〕天子樣ノ朝廷ニ、外廓ヲ守ル爲ニ立チテ仕ヘ、内ノ御門ノ役ヲ勤メ、オ仕ヘ申シテ(玉葛)彌々遠ク永ク、先祖カラノ勇名ヲ受ケ繼イデ行クベキモノト、父母ニモ妻子ニモ話ヲシテ、故郷ヲ〔三字傍線〕出立シタ日カラ、(帶乳根乃)母上ハ神樣ヲ祭ル〔五字傍線〕酒甕ヲ前ニ据ヱテ置イテ、片手ニハ木綿ヲ取ツテ、オ持チナサレ、他ノ片手ニハ柔カイ布ヲ持ツテ神ニ〔二字傍線〕奉ツテ、平穩無事デオイデナサイト、天神地祇ニ祈ツテ、何年、何月、何日ニナツタラ、(茵花)美シイ貴方ガ(牛留鳥)難儀ヲシナガラ歸ツテ來ルダラウト、立ツタリ居タリシテ貴方ヲ〔三字傍線〕(434)待ツテヰタラウノニ、天子樣ノ勅ヲ畏多ク謹ンデ、(押光)難波ノ國ニ(荒玉之)年ガ立ツマデモ田ノ見廻リヲシテ〔八字傍線〕(白栲)衣ノ袖ヲ干ス暇モナク、朝ニ晩ニ暮シテヰタ貴方ハ、何ト思召シテカ、アタラ惜シイコノ(欝蝉乃)世ノ中ヲ、死スベキ時デモナイノニ、(露霜)棄テテ置イテ去ツテシマツタノデアラウ。悲シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○天雲之向伏國《アマグモノムカブスクニノ》――空の雲が地に向つて伏してゐるやうに見える國の果、即ち遠國の意で、これは龍麻呂が東國の人であつたから、かう言つたのである。○武士登《モノノフト》――武士は舊訓モノノフであるのを、古義にマスラヲと改めてあるが、集中の用例少く、訓はいづれとも定め難い。暫く舊訓に從ふことにする。○皇祖神之御門爾《スメロギノカミノミカドニ》――天皇の朝廷にの意。これを「前つ御代々々をかねてかく言へるなり」と略解にあるのはどうであらう。龍麻呂だけのことを言つたものである。○外重爾《トノヘニ》――宮城の外郭に、即ち外側の門にの意。○内重爾《ウチノヘニ》――内郭に即ち閣門。○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。遠長とつづく。○祖名文繼往物與《オヤノナモヅギユクモノト》――先祖の佳き名を繼いで行くべきものとての意。○母父爾《オモチチニ》――母をオモといふのは古語である。卷二十に意毛知知我多米《オモチチガタメ》(四四〇二)とある。その他例が多い。○帶乳根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。タラチはタラシと同じく滿ち足りてゐること、讃める意で、、ネは親しみ添へたもの。○和細布奉《ニギタヘマツリ》――和栲を神に供へること。○乎《タヒラケク》――神田本に平とあるに從ふべきである。○茵花《ツツジバナ》――枕詞。躑躅花匂ふとつづく。紅きをほめたのである。○香君之《ニホヘルキミガ》――香の字はカ、カグ、カグハシなどよむ例であるが、ここはニホヘルとよむべきである。卷十三に都追慈花爾太遙越賣《ツツジバナニホエヲトメ》(三三〇九)とある。蓋し薫の字を薫如《ニホフガゴトク》(三二八)とよむのと同樣である。○牛留鳥《クロトリノ》――牛をヒクとよみ、留鳥をアミとよんでヒクアミノとする説、又は牛の字を上の之と合して、牽としてヒクとよむ説が行はれ、又牛留を爾富の誤として、ニホ鳥とする槻の落葉説など勢力があるが、誤字とするはなるべく排すべきである。字音辨證に、牛はク留はロとよむべきを、字音の方面から評論してゐるのは傾聽すべきで、今暫くこれに從ふこことする。黒鳥は黒鴨のことである。この句名津匝《ナヅサヒ》とつづく枕詞。○名津匝來與《ナヅサヒコムト》――水に漬るをナヅサフといふ。ここは難澁する意に用ゐたものか。匝の字はサフの音なるを、サヒと用ゐたのである。前に奧名豆颯《オキニナヅサフ》(四三〇)とある颯と同じく、入聲の音を用ゐたのは(435)珍しい例だ。○押光《オシテル》――枕詞。難波とつづく。その連續の意味については、よく分らない。卷二十に難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《ナニハノウミオシテルミヤニキコシメスナベ》(四三六一)とあつて、オシテルは難波の一名のやうになつてゐる。卷六に超2草香山1時、神社忌寸老麻呂の作歌に、直超乃此徑爾師弖押照哉難波乃海跡名附家良思裳《タダコエノコノミチニテオシテルヤナニハノウミトナヅケケラシモ》(九七七)とあるのは、これを説明した歌であるが、作者の私言で、これを以てこの枕詞の起源を説くわけには行かぬ。冠辭考には襲立浪急之崎《オソヒタテルナミハヤノサキ》として、波の並び重れる意としてゐる。○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。年とつづくのは、荒玉は砥にかけて磨ぐからだとする説がよいやうに思ふ。宣長は新新間《アタラアタラマ》の移り行く年の義としてゐる。冠辭考|明宝《アラタマ》の貴《タカ》しの意で、タカシの約が年になるのだと言つてゐるのは無理な説であらう。○衣不干《コロモテホサズ》――コロモモホサズと槻の落葉によんだのもよいが、下に白細之衣袖不干《シロタヘノコロモテホサズ》(四六〇)とあるに傚つてよむべきであらう。旅にあつて雨露に袖を霑すをいふので、班田使の卑官として田圃の間にいそしんだ意である。○鬱蝉乃《ウツセミノ》――枕詞。現身《ウツシミ》のの意。○露霜《ツユジモノ》――枕詞。置くとつづく。○時不在之天《トキナラズシテ》――死すべき時にはあらずしての意。自殺したことをいふ。
〔評〕 自分の部下の死を悲しむ衷情がよく出てゐる。部下ながらも用語も丁寧で、龍麻呂の東國から出でて宮仕した抱負と、故郷の母がその歸りを待つてゐる親心とを思ひやり、それが突如として裏切られた不慮の死を、驚き傷んでゐるのは、親切な眞心の作といふべきである。
 
反歌
 
444 昨日こそ 君は在りしか 思はぬに 濱松の上に 雲と棚引く
 
昨日社《キノフコソ》 公者在然《キミハアリシカ》 不思爾《オモハヌニ》 濱松之上於《ハママツノウヘニ》 雲棚引《クモトタナビク》
 
昨日ハ貴方ハ生キテヰタ。然ルニ今日ハ〔六字傍線〕思ヒモヨラズ濱ノ松ノ上ニ、火葬ノ煙トナツテ〔八字傍線〕雲ノヤウニ棚曳イテヰル。實ニ人ノ命ハタノミ難イモノダ〔實ニ〜傍線〕。
 
○昨日社公者在然《キノフコソキミハアリシカ》――昨日こそ君は生きてゐた。然るにの意。卷九の昨日己曾吾越來牡鹿《キノフコソワガコエコシカ》(一七五一)、卷十の昨日社年者極之賀《キノフコソトシハハテシカ》(一八四三)、卷十七の昨日許曾敷奈底姿勢之可《キノフコソフナデハセシカ》(三八九三)などと同じ型である。○濱松之上於雲棚引《ハママツノウヘニクモトタナビク》―(436)―火葬した烟が濱松の上に棚引くといふのである。舊訓を改めて、ハママツノヘノクモニタナビクとよむ説が多いが、上の字は類聚古集その他の古本にないから、於をウヘとよむべきである。舊訓のままにして置かう。
〔評〕 前に掲げられてゐる出雲娘子を火葬した時、人麿がよんだ歌(四二九)などから暗示を得たものか。事の意外に驚いた感情はよくあらはれてゐる。「昨日こそ……しか」は右に掲げた諸例によつて、既に型となつてゐたことがわかる。古今集の「昨日こそ早苗とりしか」はこれを踏襲したものである。
 
445 いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 言だに告げず 往にし君かも
 
何時然跡《イツシカト》 待牟妹爾《マツラムイモニ》 玉梓乃《タマヅサノ》 事太爾不告《コトダニツゲズ》 往公鴨《イニシキミカモ》
 
何時カ何時カト貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテヰル妻ニ、使ヲヤル言傳モシナイデ、貴方ハ死ンデシマツタヨ。ドンナニカ待ツテヰルダラウニ〔ドン〜傍線〕。
 
○玉梓乃《タマヅサノ》――使の枕詞を使の意に用ゐてある。玉梓乃人曾言鶴《タマヅサノヒトゾイヒツル》(四二〇)とあるに同じ。○事太爾不告《コトダニツゲズ》――事は言の借字。
〔評〕 故郷の妻に書置状もなく、死んだ人の心中を測りかね、その妻をあはれんでゐる。往公鴨《イニシキミカモ》と歌ひ捨てたところに死者に對する同情感が籠つてゐる。
 
天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿、向(ヒテ)v京(ニ)上(リシ)v道(ニ)之時、作(レル)歌五首
 
大伴旅人が、大納言となつて歸京途上の作である。
 
446 吾妹子が 見し鞆の浦の 室の木は 常世にあれど 見し人ぞ亡き
 
吾妹子之《ワギモコガ》 見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》 天木香樹者《ムロノキハ》 常世有跡《トコヨニアレド》 見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》
 
私ノ妻ガ都カラ太宰府ヘ下ル時ニ〔都カ〜三字傍線〕見タ、鞆ノ浦ノ室ノ木ハ、ソノ時ノ儘デ少シモカハラナイガ、ソレヲ見タ妻ハ死ンデシマツタ。アア悲シイ〔五字傍線〕
 
(437)○見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》――鞆浦は備後國沼隈郡にある。古代外賓接待の海驛として榮えてゐた。挿入寫眞は高石眞五郎氏の好意による。○天木香樹者《ムロノキハ》――新撰字鏡に※[木+泉]をムロノ木とよんでゐるから、天木香樹はムロノキとよんでよいのであらう。この木を和名抄に※[木+聖]一名河柳、牟呂乃岐とあるによつて、御柳《ギヨリウ》とする説もあるが、御柳は支那原産の觀賞植物で、山野に自生するを見ない。しかも小野蘭山の天明二年に出した本草講義には「五十年前來る」とあるので、白井光太郎氏は享保十八年に渡來したと推定して居られる。その上、御柳は落葉樹で、極めて枝のか細いものであるから、十二月の頃はあまり目立たない筈である。玉勝間に田中道麿説として出てゐる杜松《ネズ》とするのが當つてゐるやうである。この木は關西・中國地方に多く、今もムロ・ネズムロなどと呼ばれてゐる。山地に自生する松科の常緑樹で、葉は針形に輪生し、硬くて手に觸れると痛いので、ネズミサシといふのを略して、俗にネズと稱へるやうになつたのである。○常世有跡《トコヨニアレド》――永久に變らねどの意。この語もこの木の常磐樹たることを思はしめる。
〔評〕 卷十五にも鞆の浦の室の木を詠んだ歌が二首(三六〇〇・三六〇一)あるので見ると、瀬戸内海の航路ではかなり名高い木であつたと見える。その木が往路と同じ姿をしてゐるのに、歸路に妻が居ないのを悲しんだもので、見之《ミシ》といふ語の繰返しが拙いやうで、又あはれである。
 
447 鞆の浦の 磯の室の木 見む毎に 相見し妹は 忘らえめやも
 
鞆浦之《トモノウラノ》 礒之室木《イソノムロノキ》 將見毎《ミムゴトニ》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 將所忘八方《ワスラエメヤモ》
 
(438)鞆ノ浦ノ磯ニアル有名ナ〔三字傍線〕室ノ木ヲコレカラ〔四字傍線〕見ル度ニ、相共ニコレヲ眺メタ妻ノコトガ忘レラレヨウカ。何時デモコノ木サヘ見レバ、妻モコレヲ見タノダナト思ツテ妻ガ思ヒ出サレテ悲シイデアララウ〔何時〜傍線〕。
 
○將見毎《ミムゴトニ》――將來見るであらう度毎にの意。○相見之妹者《アヒミシイモハ》――相共に見し妻はの意。
〔評〕 將所忘八方《ワスラエメヤモ》に悲痛の情が強くあらはされてゐる。
 
448 磯の上に 根蔓ふ室の木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか
 
礒上丹《イソノウヘニ》 根蔓室木《ネハフムロノキ》 見之人乎《ミシヒトヲ》 何在登問者《イヅラトトハバ》 語將告可《カタリツゲムカ》
 
磯ノ上ニ根ヲ延バシテヰル室ノ木ハ、曾テコノ室ノ木ヲ〔八字傍線〕見タ妻ヲ今ハ死ンデ何處ニ〔八字傍線〕ドウシチテヰルカト問ウテ見タナラバ、語ツテ聞カシテクレルカモ知レナィ。
 
○見之人乎《ミシヒトヲ》――妻を指していふ。○何在登問者《イヅラトトハバ》――舊訓イカナリトトハバとあるが、考にイヅラトトハバとあるに從ふことにする。何處にあるかと室の木に問ふのである。室の木が問はばの意に解する説もある。
〔評〕 共に見し室の木をなつかしむの餘り、室の木に妻の所在を尋ねんとする心根は、實にいたましくもあはれである。
 
右三首過(グル)2鞆浦(ヲ)1日作(レル)歌
 
449 妹と來し 敏馬の埼を 還るさに 獨して見れば 涕ぐましも
 
與妹來之《イモトコシ》 敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》 還在爾《カヘルサニ》 獨而見者《ヒトリシテミレバ》 涕具末之毛《ナミダグマシモ》
 
妻ト一緒ニ太宰府ヘ下ル時ニ〔八字傍線〕來タ、敏馬ノ埼ヲ、太宰府カラノ〔六字傍線〕
 
歸途ニ、妻ヲ彼地デ亡クシテ〔九字傍線〕私一人デ見テ行クト、妻ノコトガ思ヒ出サレテ〔妻ノ〜傍線〕涙グマレルワイ
 
(439)○敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》――敏馬は攝津武庫郡。二五〇參照。
〔評〕 思つたままを何の技巧もなしに述べてゐる。涙を湛へつつ、陸地を眺め入る舟中の貴人の樣が、思ひやられる。
 
450 往くさには 二人吾が見し この埼を ひとり過くれば こころ悲しも 一云、見もさかず來ぬ
 
去左爾波《ユクサニハ》 二吾見之《フタリワガミシ》 此埼乎《コノサキヲ》 獨過者《ヒトリスグレバ》 惰悲喪《ココロカナシモ》【一云|見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》】
 
太宰府ヘ〔四字傍線〕行ク時ニハ。妻ト〔二字傍線〕二人デ私ガ見タコノ敏馬ノ〔三字傍線〕埼ヲ、歸リ途ニ〔四字傍線〕、私一人デ通ルト心悲シイワイ。死ンダ妻ノコトガ何ニツケテモ思ヒ出サレル〔死ン〜傍線〕。
○見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》――見も放かず來ぬで、眺めずに來たの意。この一云の句は第五句の異傳として掲げてあるが、或はこれは第六句で、即ち佛足跡歌體としても見られないことはない。
〔評〕 普通の短歌とすれば情悲喪《コココカナシモ》では感情の發表が稀薄過ぎるから、見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》の方が遙かによい。目を擧げて見るに堪へない、悲しむ人の心が同情禁じ難い。
 
右二首過(グル)2敏馬埼(ヲ)1日、作(レル)歌
 
還(リ)2入(リテ)故卿(ノ)家(ニ)1即(チ)作(レル)歌三首
 
451 人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり
 
人毛奈吉《ヒトモナキ》 空家者《ムナシキイヘハ》 草枕《クサマクラ》 旅爾益而《タビニマサリテ》 辛苦有家里《クルシカリケリ》
 
妻モヰナイコノ空《カラ》ノ家ハ(草枕)旅行中以上ニ苦シイワイ。折角歸宅シテモ、妻ガ死ンデシマツタノデ、淋シクテ堪ヘラレナイ〔折角〜傍線〕。
〔評〕 何の修飾を用ゐずして哀調惻々人を動かすものがある。眞心の歌だからであらう。前にあつた臨2近向v京之時1作歌の在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネバタビニマサリテクルシカルベシ》(四四〇)とあるに呼應したもので、兩者相俟つていよいよ悲愁(440)の深きを覺える。
 
452 妹として 二人作りし 吾がしまは 木高く茂く なりにけるかも
 
與妹爲而《イモトシテ》 二作之《フタリツクリシ》 吾山齋者《ワガシマハ》 木高繁《コダカクシゲク》 成家留鴨《ナリニケルカモ》
 
妻ト共ニ二人デ作ツタコノ私ノ家ノ庭ハ、太宰府ノ在任中留守ニシテヰタ間ニ〔太宰〜傍線〕、丈高ク枝葉モ〔三字傍線〕繁クナツタワイ。折角木モ大キクナツタノニ、妻ハ死ンデシマツタ。アア〔折角〜傍線〕。
 
○吾山齋者《ワガシマハ》――山齋は舊訓ヤマであるが、シマとよむがよい。卷二十に屬2目山齋1作歌三首とあつて、乎之能須牟伎美我許乃之麻《ヲシノスムキミガコノシマ》(四五一一)の歌をのせてゐる。庭をシマといつたのは、蘇我馬子を島の大臣と呼んだことや、日並皇子の宮を、島の宮といつたなどで明らかである。
〔評〕 これも哀な歌だ。次と同じ趣である。
 
453 吾妹子が うゑし梅の木 見る毎に 心むせつつ 涕し流る
 
吾妹子之《ワギモコガ》 殖之梅樹《ウヱシウメノキ》 毎見《ミルゴトニ》 情咽都追《ココロムセツツ》 涕之流《ナミダシナガル》
 
私ノ妻ガ植ヱタ梅ノ木ヲ見ル度ニ、コレヲ植ヱタ妻ハ死ンダノダナアト思フト〔コレ〜傍線〕、心ガ悲シク〔三字傍線〕咽ビ返ツテ、涙ガ流レルヨ。
 
○情咽都追《ココロムセツツ》――心に悲しんで、涙に咽びつつの意。情耳咽乍有爾《ココロノミムセツツアルニ》(五四六)ともある。
〔評〕 前の歌と共に、土佐日記の終の部分が思ひ出される。貫之が「見し人を松の千歳に見ましかば遠く悲しき別せましや」とよんだのは、全く同巧異曲と言つてよい。十二月に太宰府を出立した旅人が、京に入つた時は丁度庭の梅が、主人の歸りを待ち顔に、馥郁たる香を放つてゐたであらう。亡妻が植ゑたその木の梢を眺め、香をかいで、涕に泣き沾れたのはさもこそと同情に堪へない。
 
天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿(ノ)薨之時(ノ)謌六首
 
(441)歸京後半歳にして、旅人は遂に妻の後を追うて逝つた。孤獨の淋しさが六十七歳(懷風藻による)の老躯に堪へられなかつたかと思へば氣の毒である。
 
454 はしきやし 榮えし君の いましせば 昨日も今日も 吾を召さましを
 
愛八師《ハシキヤシ》 榮之君乃《サカエシキミノ》 伊座勢波《イマシセバ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 吾乎召麻之乎《ワヲメサマシヲ》
 
慕ハシイト私ガ思フ〔五字傍線〕權勢ノ盛デアツタ貴方樣ガ、生キ〔二字傍線〕テイラシツタナラバ、昨日モ今日モ私ヲオ呼ビナサルダラウニ。オ亡クナリニナツタノデ、オ呼ビニナルコトモナイ。アア悲シイ〔オ亡〜傍線〕。
 
○愛八師《ハシキヤシ》――愛シキは慕はしいこと。君にかかつてゐる。ヤシは共に歎辭。ハシキヨシ・ハシケヤシなども同じ。
〔評〕 卷二日並皇子尊薨去に際し、舍人がよんだ歌の中に、昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》(一八四)とあるによく似てゐる。
 
455 かくのみに ありけるものを 萩が花 咲きてありやと 問ひし君はも
 
如是耳《カクノミニ》 有家類物乎《アリケルモノヲ》 芽子花《ハギガハナ》 咲而有哉跡《サキテアリヤト》 問之君波母《トヒシキミハモ》
 
コノ樣ニハカナクナツテオシマヒナサルオ命デ〔ハカ〜傍線〕アツタノニ、今ハオ慕ヒ申シテモ何ニモナラヌ〔今ハ〜傍線〕。アノ萩ノ花ハ咲イタカトオ尋ネナサッタ貴方樣ヨ。オ慕ハシウ存ジマス〔九字傍線〕。
 
○如是耳《カクノミニ》――ニに當る文字は用ゐてないが、卷十六|如是耳爾有家流物乎《カクノミニアリケルモノヲ》(三八〇四)に從ふべきであらう。
〔評〕 病床にあつて萩の花は咲いたかと尋ねられた主人が、その花を見ずして死んだのを悲しんだので、庭の萩に對して涙を濺いでゐる樣も見えるやうである。
 
456 君に戀ひ いたもすべ無み あしたづの 音のみし泣かゆ 朝よひにして
 
君爾戀《キミニコヒ》 痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》 蘆鶴之《アシタヅノ》 哭耳所泣《ネノミシナカユ》 朝夕四天《アサヨヒニシテ》
 
オ亡クナリナサツタ〔九字傍線〕貴方樣ノコトガ戀シクテ、ヒドクテ何トモ仕樣ガナイノデ、朝ニ晩ニ(蘆鶴之)聲ヲ出シテ嶋イテバカリ居リマス。
 
(442)○痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》――イタモは甚《イタ》くもで、イタはイトと同じである。○蘆鶴之《アシタヅノ》――ネと言はむ爲にのみ役立つてゐるから、枕詞である。略解に譬喩に見てゐるのはどうであらう。蘆鶴は葦の中にゐる鶴、葦鴨・葦蟹の類皆同じやうな言ひ方である。○朝夕四天《アサヨヒニシテ》――このシテは輕く添へただけ。
〔評〕 卷二十にある藤原夫人の可之故伎也安米乃美加度乎可氣都禮婆禰能未之奈加由安左欲比爾之弖《カシコキヤアメノミカドヲカケツレバネノミシナカユアサヨヒニシテ》(四四八〇)とある歌と下句全く同じである。
 
457 遠長く 仕へむものと 念へりし 君しまさねば 心どもなし
 
遠長《トホナガク》 將仕物常《ツカヘムモノト》 念有之《オモヘリシ》 君師不座者《キミシマサネバ》 心神毛奈思《ココロドモナシ》
 
永久ニオ仕ヘ申サウト思ツテヰマシタ貴方樣ガ、オ亡クナリナサイマシタカラ、私ハ〔二字傍線〕魂モナクナリマシタ。
 
○心神毛奈思《ココロドモナシ》――ココロドはトゴコロと同じものと解釋せられてゐる。成程集中の用字法を見ると、鋒心無《トゴコロモナシ》(二八九四)・利心《トゴコロノ》(二四〇〇)と同樣に、吾情利乃《ワガココロドノ》(二五二五)・情利文梨《ココロドモナシ》(三二七五)などとなつてゐる。併しココロドは多くは心神(三〇五五)・情神(四七一)・情度(四一七三)の如き文字が用ゐられてゐるので見ると、上に擧げた情利の利は假名であつて、意字ではなからうと思はれる。利の宇は當念弊利《ツネニオモヘド》(六一三)・仕目利《ツカヘメド》(七八〇)などの如く、ドの假名になることが多いのである。又、意味の方から考へて見ると、吾情利乃生戸裳名寸《ワガココロドノイケリトモナキ》(二五二五)や、吾情度乃奈具流日毛無《ワガココロドノナグルヒモナシ》(四一七三)の如きは單に心又は魂といふまでの意で、利心としては解しかねる歌である。さう思つて見ると、心神・情神などの文字が使はれてゐるのも、なるほどとうなづかれる。ココロドの意を槻の落葉に心所としたのが當つてゐるやうに思はれる。
〔評〕 悲しみの情はあらはれてゐるが、多少型に嵌つてゐるやうでもある。
 
458 みどり子の 這ひたもとほり 朝よひに 音のみぞ吾が泣く 君無しにして
 
若子乃《ミドリコノ》 匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》 朝夕《アサヨヒニ》 哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》 君無二四天《キミナシニシテ》
 
貴方樣ガオ亡クナリニナツタノデ、私ハ赤兒ノヤウニ這ヒ廻ツテ朝ニ晩ニ聲ヲ出シテ泣イテバカリヰマス。
 
○若子乃《ミドリコノ》――ワカキコノとよむ説もあるが、匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》とつづく上からは、ミドリコノがよいと思ふ。二(443)一〇參照。この句は次の句の枕詞のやうに見る説もあるが、さうではあるまい。これは哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》へもかかつた譬喩であらう。
〔評〕 前の君爾戀《キミニコヒ》の歌に調子が似てゐる。内容も略同じで、まづ同等の謌品である。
 
右五首|資人金明軍《ツカヒビトコムノミヤウグム》不v勝2犬馬之慕心(ニ)1。中(ベテ)2感緒(ヲ)1作(レル)歌
 
資人は舊本には仕人とあるが、今は神田本によつて改めた。資人は朝廷からつけられた仕人で、續紀に「養老五年三月勅給2右大臣從二位長屋王、帶刀資人十人、中納言從三位巨勢朝臣邑治、大伴宿禰旅人、藤原朝臣武智麻呂各四人1云々とあるから、金明軍もその四人中の一人と見える。金澤本に金を余に作つてゐる。三九四參照。中の字申の誤と槻の落葉にあるによるべきであらう。
 
459 見れど飽かず いましし君が 黄葉の 移りいぬれば 悲しくもあるか
 
見禮杼不飽《ミレドアカズ》 伊座之君我《イマシシキミガ》 黄葉乃《モミヂバノ》 移伊去者《ウツリイヌレバ》 悲喪有香《カナシクモアルカ》
 
常ニ見テモ飽カナイ立派ナ御樣子〔六字傍線〕デイラシツタ貴方樣ガ、(黄葉乃)オ亡クナリニナリマシタカラ、悲シイコトデゴサイマスヨ。
 
○黄葉乃《モミヂハノ》――枕詞。散り易いのに譬へていふ。○移伊去者《ウツリイヌレバ》――イユケバとよむ説もあるが、日之入去者《ヒノリイヌレバ》(一八八)の例に傚ふべきである。一八八參照。○悲喪有香《カナシクモアルカ》――カナシクモアルカナの意。
 
右一首勅(シテ)2内禮正、縣犬養宿禰人上《アガタイヌカヒノスクネヒトカミニ》1、使(シム)v檢2護(セ)卿(ノ)病(ヲ)1、而醫藥無(ク)v驗、逝(ク)水不v留(マラ)、因(リテ)v斯(ニ)悲慟(シテ)、即作(ル)v此(ノ)歌(ヲ)1
 
内禮正は内禮司の長官。職員令に「内禮司、正一人、掌2宮内禮儀1、禁2察非違1」とある。縣犬養宿禰人上は傳未詳。縣犬養氏は、天武紀に「十三年十二月己卯、縣犬養連賜v姓曰2宿禰1」とある。姓氏録に「縣犬養宿禰、神魂命八世孫、阿居太都命之後也」とある。
〔評〕 哀愁の情はあらはれてゐるが、先づ普通の作と言つてよからう。
 
(444)  七年乙亥大伴坂上郎女、悲2嘆(シテ)尼理願(ノ)死去(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
 
坂上郎女は旅人の妹。二五七参照。理願は左註にある如く新羅から來てゐた尼である。
 
460 たくづぬの 新羅の國ゆ 人言を よしと聞かして 問ひさくる うからはらから 無き國に 渡り來まして 大きみの 敷きます國に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山べに 泣く兒なす 慕ひ來まして しき妙の 家をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬとふことに まぬかれぬ ものにしあれば 憑めりし 人のことこと 草枕 旅なるほどに 佐保河を 朝川わたり 春日野を 背がひに見つつ 足曳の 山べをさして くらやみと 隱りましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに たもとほり ただ獨して 白妙の 衣手干さず 嘆きつつ 吾が泣く涙 有間山 雲ゐ棚引き 雨にふりきや
 
栲角乃《タクヅヌノ》 新羅國從《シラギノクニユ》 人事乎《ヒトゴトヲ》 吉跡所聞而《ヨシトキカシテ》 問放流《トヒサクル》 親族兄弟《ウカラハラカラ》 無國爾《ナキクニニ》 渡來座而《ワタリキマシテ》 天皇之《オホキミノ》 敷座國爾《シキマスクニニ》 内日指《ウチヒサス》 京思美禰爾《ミヤコシミミニ》 里家者《サトイヘハ》 左波爾雖在《サハニアレドモ》 何方爾《イカサマニ》 念鷄目鴨《オモヒケメカモ》 都禮毛奈吉《ツレモナキ》 佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》 哭兒成《ナクコナス》 慕來座而《シタヒキマシテ》 布細乃《シキタヘノ》 宅乎宅造《イヘヲモツクリ》 荒玉乃《アラタマノ》 年緒長久《トシノヲナガク》 往乍《スマヒツツ》 座之物乎《イマシシモノヲ》 生者《イケルモノ》 死云事爾《シヌトフコトニ》 不免《マヌカレヌ》 物爾之有者《モノニシアレバ》 憑有之《タノメリシ》 人乃盡《ヒトノコトゴト》 草枕《クサマクラ》 客有間爾《タビナルホドニ》 佐保河乎《サホガハヲ》 朝川渡《アサカハワタリ》 春日野乎《カスガノヲ》 背向爾見乍《ソガヒニミツツ》 足氷木乃《アシビキノ》 山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》 晩闇跡《クラヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》 將言爲便《イハムスベ》 將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》 徘徊《タモトホリ》 直獨而《タダヒトリシテ》 白細之《シロタヘノ》 衣袖不干《コロモデホサズ》 嘆乍《ナゲキツツ》 吾泣涙《ワガナクナミダ》 有間山《アリマヤマ》 雲居輕引《クモヰタナビキ》 雨爾零寸八《アメニフリキヤ》
 
理願尼ハ〔四字傍線〕(栲角乃)新羅ノ國カラ、人ノ話デヨイ所ダトオ聞キナサツテ、物ヲ問ウテ心ヲハラスヤウナ親族モ兄弟モナイコノ日本〔四字傍線〕國ニ渡ツテオイデナサツテ、天皇陛下ノ御支配遊バス國ニ、(内日指)都ガ繁昌シテヰテ、里ヤ家ハ澤山アルノニ、何ト思召シテカ、何ノ縁故モナイ佐保ノ山ノアタリニ(哭兒成)慕ツテ來ラレテ(布細乃)家ヲモ作ツテ、(荒玉乃)年永ク住ンデイラシツタノニ、生者ハ必滅トイフ世ノ定則ニ免レナイモノダカ(445)ラ、理願尼ガ〔四字傍線〕憑ミニ思ツテヰタ人タチガ、皆(草枕)旅ニ出テヰル間ニ、死ンデシマツテ〔七字傍線〕佐保川ヲ朝ノウチニ渡リ、春日野ヲ横ノ方ニ見ナガラ(足氷木乃)山ノ方ヲ指シテ、暗ニ隱レルヤウニ隱レテ葬ラレテ〔四字傍線〕シマハレタ。私ハ〔二字傍線〕何トモ言ヒヤウモナク、何ト爲ヤウモナク、彼方此方ト〔五字傍線〕徘徊シテタダ一人デ、(白細之)衣ノ袖ヲ干ス間モナク、泣キ悲シンデ私ガコボス涙ガ、貴女ガオ在デナサル〔九字傍線〕有馬ノ山ニ雲ガ棚曳イテ、雨トナツテ降リマシタカ。ドウデスカ〔五字傍線〕。
 
○栲角乃《タクツヌノ》――枕詞。栲で綯つた綱の白い意で新羅にかけてある。○人事乎吉跡所聞所《ヒトゴトヲヨシトキカシテ》――人事は人言の借字である。この二句、よしと人言を聞かしての意に解すべきで、良しと賞めた人の言葉を聞き給うての意。左註に遠感2王徳1歸2化聖朝1とあると同意である。○問放流《トヒサクル》――問うて心を晴らすの意。古義に言問ひすることとあるは當らない。卷五に石木乎母刀比佐氣斯艮受《イハキヲモトヒサケシラズ》(七九四)、續紀の宣命に朕大臣誰爾加母我語比佐氣牟《アガオホオミタレニカモアガカタラヒサケム》、誰爾加母我問比佐氣牟止《タレニカモアガトヒサケムト》とある。○親族兄弟《ウカラハラカラ》――親族は神代紀に不v負2於族1此云2宇我邏磨概茸《ウカラマケジ》1とあるによつてウカラとよむべきである。兄弟は續紀の宣命に父母|波良何良爾至麻弖爾《ハラカラニイタルマデニ》とあるから、ハラカラである。○大皇之《オホキミノ》――大を太に作る本もあるが、古本多くは大である。略解に天に改めたのは惡い。四四一參照。○内日指《ウチヒサス》――枕詞。美日差《ウツクシキヒサス》の意で、宮殿は高大であるから、さす日影も美しきをいふとも、又は現日差《ウツヒサス》で、ありありと日のさす意ともいふが、よくわからない。○京思美彌爾《ミヤコシミミニ》――思美彌《シミミ》は、繁く・しみら、などと同じく、繁く盛なること。○都禮毛奈吉《ツレモナキ》――由縁《ユカリ》の無きこと。卷二に由縁母旡眞弓乃岡爾《ツレモナキマユミノヲカニ》(一六七)とある。○佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》――左註に於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1とあるを言つたので、安麻呂の家は佐保山のほとりにあつたから、世人彼を佐保大納言とよんだ。○布細乃《シキタヘノ》――枕詞。床とつづくのが本義であるが、家は寢るところであるから、それにも轉用されるのである。○荒玉乃《アラタマノ》――枕詞。四四二參照。○年緒長久《トシノヲナガク》――年は長くつづくから、年の緒と言つたのだ。○生者《イケルモノ》――ウマルレバ、イケルヒトなどの訓もあるが惡い。三四九參照。○不免《マヌカレヌ》――ノガロエヌと訓む説もある。その例とすべきものは、卷五令反惑情歌の一本に遁路得奴《ノガロエヌ》云々とあるものだけで、この一本は誤と推定すべきで(446)あるから、證とは出來ない。舊訓に從つて置く方が穩であらう。八〇〇參照。○朝川渡《アサカハワタリ》――三六參照。○背向爾見乍《ソガヒニミツツ》――三五八參照。○晩闇跡隱益去禮《クラヤミトカクレマシヌレ》――暗闇の如く隱れ給へればの意で、佐保河乎からここまで八句は、葬送の樣を述べたもの。晩闇は舊訓ユフヤミであるが、晩の字は暮晩爾《ユフクレニ》(一四二八)・來鳴日晩《キナクヒグラシ》(一四七九)・戀其晩師之《コヒゾクラシシ》(二六八二)などの如くクレ、クラとよんである。ユフの例は一寸見當らない。ここは宣長説に從つてクラとよむことにする。○徘徊《タモトホリ》――匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》(四五八)とあると同じく、タモトホリとよむ。○白細之《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。○有問山《アリマヤマ》――攝津國有馬郡の山で、六甲山の北に連り、有馬温泉の南に當る、諸山の總稱であらう。○雲居輕引《クモヰタナビキ》――雲居はここでは雲のことで、空ではない。
〔評〕 女性の長歌はその數が少く、又形式が短いのに、これはかなり堂々たる作で、叙述も整然としてゐる。結尾の數句は少しく工夫に過ぎたやうであるが、自己の悲痛の情を巧にあらはしてゐる。異國人に對する懇情が見えてゐるのも嬉しい。家族の一人のやうに對遇されてゐたらしい理願は、よろこんで最後の息を引取つたであらう。
 
反歌
 
461 とどめ得ぬ 命にしあれば 敷妙の 家ゆは出でて 雲がくりにき
 
留不得《トドメエヌ》 壽爾之在者《イノチニシアレバ》 敷細乃《シキタヘノ》 家從者出而《イヘユハイデテ》 雲隱去寸《クモガクリニキ》
 
留メルコトノ出來ナイ人間ノ〔三字傍点〕壽命デスカラ、理願尼ハ〔四字傍線〕(敷細乃)家カラ出テ行ツテ雲隱レナサツタ。死ンデ葬ラレテシマハレタ。何トモ仕方ガアリマセン。〔死ン〜傍線〕。
 
○雲隱去寸《クモガクリニキ》――雲隱るとは死ぬこと。四一六・四四一など參照。
[評] 佛者の死を弔ふ歌として、佛教的の語を用ゐて留不得壽《トドメエヌイノチ》といつたのはふさはしい。
 
右新羅(ノ)國(ノ)尼、名(ヲ)曰(ヘル)2理願(ト)1也、遠(ク)感(シ)2王徳(ニ)1、歸2化(セリ)聖朝(ニ)1、於v時寄2住(シ)大納言大將軍大(447)伴卿家(ニ)1、既(ニ)※[しんにょう+至](タリ)2數紀(ヲ)1焉。惟(ニ)以(テ)2天平七年乙亥1、忽(チ)沈(ミ)2運病(ニ)1、既(ニ)趣(ク)2泉界(ニ)1、於v是大家石川命婦、依(リテ)2餌藥(ノ)事(ニ)1往(キテ)2有間温泉(ニ)1、而不v會(ハ)2此(ノ)喪(ニ)1、但郎女獨留(リテ)葬(リ)2送(ルコト)屍柩(ヲ)1、既(ニ)訖(リヌ)仍(テ)作(リテ)2此(ノ)歌(ヲ)1贈2入(ル)温泉(ニ)1
 
※[しんにょう+至]ハ逕と通じ、經の意に用ゐられてゐる。數紀は數年に同じ。運病は天運免れ難き病の意か。或は時の運氣にあたつた病の意か。大家は大姑と通じ、女子の尊稱である。類書纂要に「婦稱v姑爲2大家1」とある。石川命婦は卷四に大伴坂上郎女之母石川内命婦とあり、安麻呂の妻で坂上郎女の母である。
 
十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持、悲2傷(ミテ)亡妾(ヲ)1作(レル)歌一首
 
462 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか獨 長き夜を宿む
 
從今者《イマヨリハ》 秋風寒《アキカゼサムク》 將吹烏《フキナムヲ》 如何獨《イカニカヒトリ》 長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》
 
今カラハ秋風ガ寒ク吹クデアラウノニ私ハ愛スル女ヲナクシテ〔私ハ〜傍線〕、ドウシテ獨デ秋ノ〔二字傍線〕長夜ヲ寢ヨウカ。トテモ寢ラレハシナイ〔十字傍線〕。
 
○將吹鳥《フキナムヲ》――烏の字は焉に作る古本が多い。焉の草體を烏に誤つたのも多いが、ここは始めから烏であつたかも知れない。○如何獨《イカニカヒトリ》――如何はイカニカとよむべし。一〇六參照。
〔評〕 大伴系圖の六十八歳説に從へば、天平十一年は、家持未だ二十二歳の青年である。愛人を失つた青春の悲痛が、全體に渡つて哀調をなしてゐる。
 
弟大伴宿禰書持即(チ)和(フル)歌一首
卷十七にこの人の死を悲しんだ家持の歌がある。この歌で見ると、あまり年の違はない弟らしい。
 
463 長き夜を 獨や宿むと 君がいへば 過ぎにし人の おもほゆらくに
 
長夜乎《ナガキヨヲ》 獨哉將宿跡《ヒトリヤネムト》 君之云者《キミガイヘバ》 過去人之《スギニシヒトノ》 所念久爾《オモホユラクニ》
 
(448)兄上ガ秋ノ〔二字傍線〕長夜ヲ一人デ寢ルコトカトオ嘆キナサレルト、私モ兄上ノ〔五字傍線〕亡クナツタ愛〔傍線〕人ガ思ヒ出サレテ悲シウゴザイ〔七字傍線〕マスヨ。オン嘆キハモ御尤デス〔九字傍線〕。
 
○過去人之所念久爾《スギニシヒトノオモホユラクニ》――故人となつた家持の妾のことが、思ひ出されるよの意。略解に「黄泉の人も獨いねがてにすらむといふ也」とあるのは誤である。
〔評〕 兄の悲しみに同情してゐるが、下句の言ひ方が少しく微温的の感がある。
 
又家持見(テ)2砌《ミギリノ》上(ノ)瞿麥花(ヲ)1作歌一首
 
砌は軒下の石疊のこと。ここは前庭をいつたもの。
 
464 秋さらば 見つつしぬべと 妹がうゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも
 
秋去者《アキサラバ》 見乍思跡《ミツツシヌベト》 妹之殖之《イモガウヱシ》 屋前之石竹《ヤドノナデシコ》 開家流香聞《サキニケルカモ》
 
秋ニナツタナラバ、見テ賞美ナサイト女ガ植ヱタ、庭ノ撫子ノ花ハ咲イタナア。女ハ死ンデシマツテモ植ヱタ花ハ咲イタ。セメテアレガ形見ダナア〔女ハ〜傍線〕。
 
○見乍思跡《ミツツシヌベト》――このシヌブは愛翫する意である。普通の、なつかしく思ひ出す意とは異つてゐる。○屋前之石竹《ヤドノナデシコ》――セキチクは支那から渡來したもので、花期は夏である。ここは瞿麥と同じく、野生のナデシコに用ゐてある。屋前を攷證にはニハとよんである。
〔評〕 平明な調で、悲哀の情を歌つてゐる。これが家持の初期の作の特色で、父の旅人の作に近いものがあると言へよう。
 
移(シテ)v朔(ヲ)而後、悲2嘆(シテ)秋風(ヲ)1家持作(レル)歌一首
 
移朔は朔日が來て、即ち月が改つての意。
 
465 うつせみの 代は常なしと 知るものを 秋風寒み しぬびつるかも
 
(449)虚蝉之《ウツセミノ》 代者無常跡《ヨハツネナシト》 知物乎《シルモノヲ》 秋風寒《アキカゼサムミ》 思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》
 
(虚蝉之)世ノ中ハ無常ナモノダト知ツテヰルガ、秋風ガ寒イノデ、死ンダ人ノコトガ〔八字傍線〕思ヒ出サレタワイ。アア〔二字傍線〕。
 
○思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》――このシヌブはなつかしく思ひ出す意で、前の見乍思跡とは異なつてゐる。
〔評〕前の秋風寒將吹烏《アキカゼサムクフキナムヲ》に呼應して、悲しくいたましい作だ。人生の無常を知りつつ、あきらめ得ぬ悲しさがあはれである。佛教的無常觀が、日常語のやうに用ゐられてゐるのは注意すべきである。
 
又家持作歌一首并短歌
 
466 吾がやどに 花ぞ咲きたる そを見れど 心も行かず 愛しきやし 妹が在りせば み鴨なす 二人雙び居 手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば 露霜の けぬるが如く あしびきの 山路を指して 入日なす 隱りにしかば そこ思ふに 胸こそ痛め 言ひもかね 名づけも知らに 跡なき 世の中にあれば 爲むすべも無し
吾屋前爾《ワガヤドニ》 花曾咲有《ハナゾサキタル》 其乎見杼《ソヲミレド》 情毛不行《ココロモユカズ》 愛八師《ハシキヤシ》 妹之有世婆《イモガアリセバ》 水鴨成《ミカモナス》 二人雙居《フタリナラビヰ》 手折而毛《タヲリテモ》 令見麻思物乎《ミセマシモノヲ》 打蝉乃《ウツセミノ》 借有身在者《カレルミナレバ》 露霜乃《ツユシモノ》 消去之如久《ケヌルガゴトク》 足日木乃《アシヒキノ》 山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》 入日成《イリヒナス》 隱去可婆《カクリニシカバ》 曾許念爾《ソコモフニ》 胸己所痛《ムネコソイタメ》 言毛不得《イヒモカネ》 名付毛不知《ナヅケモシラニ》 跡無《アトナキ》 世間爾有者《ヨノナカニアレバ》 將爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》
 
私ノ家ニ女ガ植ヱタ石竹ノ〔八字傍線〕花ガ咲イタ。ソノ花ヲ見テモ、心ガ慰マナイ。愛ラシイアノ〔二字傍線〕女ガヰタナラバ、(水鴨成)二人デ並ンデヰテ、アノ花ヲ手折ツテ見セヨウノニ、人ノ肉體ハ假ノ身デアルカラ、アノ女ハ〔四字傍線〕露ガ消エルヤウニ死ンデ葬ラレテ〔七字傍線〕(足日木乃)山道ヲ指シテ、(入日成)隱レテシマツタカラ、ソレヲ考ヘルト胸ガ痛イ。言ヒヤウモナク名ノ付ケヤウモナク、跡モナク死ンデ行ク人ハカナ〔九字傍線〕イ世ノ中ダカラ、何トモ仕樣ガナイ。
 
○水鴨成《ミカモナス》――枕詞。水に住む鴨の如く二人並ぶと續く。古義には水は御《ミ》の假字だと言つてゐる。○打蝉之《ウツセミノ》――(450)現身のの意。枕詞ではない。○借有身在者《カレルミナレバ》――借の字、舊本惜とあるのは惡い。類聚古集等の古本に、借とあるによるべきだ。○露霜乃《ツユシモノ》――舊本、霜霑乃とあるが、古寫本に多く露霜とあるから、それに違ない。露霜乃は常に枕詞として用ゐられるが、ここは露の如くの意で、下につづいてゐるから枕詞ではない。一三一參照。○曾許念爾《ソコモフニ》――それを念ふにの意。○跡無《アトナキ》――沙彌滿誓が榜去師船之跡無如《コギイニシフネノアトナキガゴト》(三五一)とよんだのと同樣な思想であらう。死して行方の不明なるをいふ。
〔評〕 足日木乃山道乎指而《アシビキノヤマヂヲサシテ》云々は、尼理願の死を報じた大伴坂上郎女の長歌の句に酷似し、曾許念爾胸己所痛《ソコモフニムネコソイタメ》は卷十三の次嶺經《ツギネフ》(三三一四)の歌の曾許思爾心之痛之《ソコモフニココロシイタシ》に似て居り、言毛不得名付毛不知《イヒモカネナヅケモシラニ》は詠不盡山歌(三一九)中の句と全く同じく、跡無世間爾有者《アトモナキヨノナカニアレバ》は沙滿滿誓の歌(三五一)に似た所がある。どうもこの人の初期の作には、かういふ模傚が、かなり多いやうに思はれる。
 
反歌
 
467 時はしも いつもあらむを こころいたく いにし吾妹か みどり子を置きて
 
時者霜《トキハシモ》 何時毛將有乎《イツモアラムヲ》 情哀《ココロイタク》 伊去吾味可《イニシワギモカ》 若子乎置而《ミドリコヲオキテ》
 
時ハ何時デモアルノニ、今頃〔二字傍線〕赤兒ヲ後ニ殘シテ置イテ、悲シクモ死ンダ私ノ女ヨ。ホントニ今死ナナイデモヨカラウニ。コノ兒ヲ何トシタモノヤラ〔ホン〜傍線〕。
 
○情哀《ココロイタク》――心悲しくもの意。○伊去吾妹可《イニシワギモカ》――死したる我殊かなの意。○若子乎置而《ミドリコヲオキテ》――若子はワカキコともよむべきだが、前例によつてミドリコとよんで置かう。玉の小琴はワクゴとよんでゐる。
〔評〕 嬰兒のあることは、長歌には更に述べてゐないのを、ここで補つたのである。嬰兒を殘して死なれては、夫にはこの上ない迷惑である。その困惑の情がよくあらはれてゐる。
 
468 出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 關も置かましを
 
出行《イデテユク》 道知末世波《ミチシラマセバ》 豫《アラカジメ》 妹乎將留《イモヲトドメム》 塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》
 
(451)女ガ死ンデ、冥途ヘ〔八字傍線〕出テ行ク道ヲ知ツテヰタナラバ、前以テ女ヲ留メル關ヲ置カウノニ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○豫《アラカジメ》――舊訓カネテヨリであるが、五五六・六五九・九四八などの例によるに、アラカジメとよむべきである。
〔評〕 かへらぬ愚痴があはれである。
 
469 妹が見し やどに花咲く 時は經ぬ 吾が泣く涙 いまだ干なくに
 
妹之見師《イモガミシ》 屋前爾花咲《ヤドニハナサク》 時者經去《トキハヘヌ》 吾泣涙《ワガナクナミダ》 未干爾《イマダヒナクニ》
 
女ガ見タ庭ノ花ガ咲ク時ガ過ギテ花モ無クナツ〔七字傍線〕タ。私ガ女ヲ亡ツテ〔五字傍線〕泣ク涙ハ、未ダ乾キモシナイノニ。
 
○屋前爾花咲《ヤドニハナサク》――長歌の冒頭に吾屋前爾花曾咲有《ワガヤドニハナゾサキタル》とあると同じで、この花は前の歌によるに、瞿麥らしい。ハナサキと中止法に訓む説が宣長によつて稱へられ、それに從ふ人が多いが、ハナサクとよまなくては調も惡く、意味もどうかと思はれる。○時者經去《トキハヘヌ》――この句も上の花咲の訓によつて意が變るが、これは花咲く時が過ぎたといふのである。諸註皆誤つてゐる。元來この歌は卷五の山上憶良の作、伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯和何那久那美多伊摩陀飛那久爾《イモガミシアフチノハナバチリヌベシワガナクナミダイマダヒナクニ》(七九八)を模傚したもので、一の句と四五の句は全く同じであるから二三句も亦同じ趣に見るべきで、二句を中止法に見るべきではない。
〔評〕 これにも家持の模傚性があらはれてゐる。さうして宿に花咲く時の過ぎたのよりも、棟の花の散るのを惜しんだ憶良の歌の方が、悲しみが深くあはれである。
 
悲緒未v息(マ)更(ニ)作(レル)歌五首
 
470 斯くのみに ありけるものを 妹も吾も 千歳の如も 憑みたりける
 
如是耳《カクノミニ》 有家留物乎《アリケルモノヲ》 妹毛吾毛《イモモワレモ》 如千歳《チトセノゴトモ》 憑有來《タノミタリケル》
 
カヤウニ短イ契〔四字傍線〕デアツタノニ、女モ私モ、夫婦トシテ〔五字傍線〕千年モ居ルヤウニアテニシテヰタワイ。アアタノミ難イ世ノ中ダ〔アア〜傍線〕。
 
(452)○如千歳《チトセノゴトモ》――チトセノゴトクともよめるが、なほゴトモがよからう。二三八一・二三八七も共に同じである。○憑有來《タノミタリケル》――ケリとよむのは惡い。詠歎の意を強く込めてケルといふべき所である。
〔評〕 如是耳有家留物乎《カクノミニアケルモノヲ》は前の芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハギガハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》(四五五)の一二句と同じなのが目につく。
 
471 家離り 坐す吾妹を 停めかね 山隱りつれ 心どもなし
 
離家《イヘサカリ》 伊麻須吾妹乎《イマスワギモヲ》 停不得《トドメカネ》 山隱都禮《ヤマガクリツレ》 情神毛奈思《ココロドモナシ》
 
死ンデ〔三字傍線〕家ヲ放レテ行ツテシマフ私ノ女ヲ停メルコトガ出來ナイノデ、女ハ〔二字傍線〕山ニ隱レテ葬ラレテ〔四字傍線〕シマツタノデ私ハ心ガ挫ケテ〔七字傍線〕魂モナイ。
 
○山隱都禮《ヤマガクリツレ》――山隱りつればの意。隱りは隱れと同意の古語で、四段活用の動詞である。山隱るとは葬られたこと。○情神毛奈思《ココロドモナシ》――四五七參照。
〔評〕 四六六の長歌の後半を短歌に纏めたやうな作である。
 
472 世の中し 常斯くのみと かつ知れど 痛き心は 忍びかねつも
 
世間之《ヨノナカノ》 常如此耳跡《ツネカクノミト》 可都知跡《カツシレド》 痛情者《イタキココロハ》 不忍都毛《シヌビカネツモ》
 
世ノ中トイフモノハ、何時デモカウダト一方デハ知ツテヰルガ、女ヲ亡クシタ〔六字傍線〕悲シイ心ハ、忍耐ガ出來ナイワイ。
〔評〕 四六五の歌と内容を同じくしてゐる。これも哀調人を動かすものがある。
 
473 佐保山に 棚引く霞 見るごとに 妹を思ひ出 泣かぬ日は無し
 
佐保山爾《サホヤマニ》 多奈引霞《タナビクカスミ》 毎見《ミルゴトニ》 妹乎思出《イモヲオモヒイデ》 不泣日者無《ナカヌヒハナシ》
 
佐保山ニ棚曳イテヰル霞ヲ見ル毎ニ、アノ霞ノヤウニアノ女モ火葬サレテ、烟トナツタノダナト、アノ〔アノ霞〜傍線〕女ノコトヲ思ヒ出シテ、泣カナイ日ハ一日モ〔三字傍線〕無イ。
 
(453)○多奈引霞《タナビクカスミ》――此處ノ數首は皆秋の歌であるから、霞とあるは霧のことである。霧を霞といふこと、八八參照。
〔評〕 霧や雲を見て火葬せられた人を思ふ歌は、いくらもある。これは四二八・四二九の人麿の作などから思ひついたものか。
 
474 昔こそ よそにも見しか 吾妹子が 奧津城ともへば はしき佐保山
 
昔許曾《ムカシコソ》 外爾毛見之加《ヨソニモミシカ》 吾妹子之《ワギモコガ》 奧槨當念者《オクツキトモヘバ》 波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》
 
佐保山トイフ山ハ〔八字傍線〕昔コソハ自分ニ關係ノナイ山トシテ見テ居ツタ。然ルニ今ハ〔五字傍線〕、私ノ女ノ墓所ダト思フト、可愛イ佐保山ダヨ。
 
○波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》――波之吉《ハシキ》は愛らしき意。
〔評〕 二句で切つて名詞止にしたのが、切なる感情が籠つて聞える。素直な作である。
 
十六年甲申春二月、安積《アサカ》皇子薨之時、内舍人大伴宿禰家持作(レル)歌六首
 
安積皇子は聖武天皇の皇子、續紀に「天平十六年閏正月乙亥、安積親王縁2脚病1、從2櫻井頓宮1還、丁丑薨、年十七、云々」とある。ここに二月とあるは續紀の文に合はぬやうであるが、左註に右三首二月三曰作歌とあるから、初の作歌の時を以て、かく記したのであらう。内舍人は職員令に「中務省、内舍人九十人、掌d帶v刀宿衛、供2奉雜使1、若駕行、分c衛前後u云々」とあり、軍防令には「※[手偏+僉]2簡性識聰敏儀容可1v取、宛2内舍人1云々」とある。大伴家持が内舍人になつたのは、天平十二年らしい。前の十一年六月の歌には官名を記してゐないが、卷六の十二年庚辰冬十月の歌には、内舍人大伴宿禰家持とある。
 
475 かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 吾が大王 皇子の命 萬代に めしたまはまし 大やまと 久邇の京は うち靡く 春さりぬれば 山邊には 花吹きををり 河瀬には 年魚子さ走り いや日けに 榮ゆる時に およづれの まが言とかも 白妙に 舎人装ひて 和豆香山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ こい轉び ひづち泣けども せむすべも無し
 
掛卷母《カケマクモ》 綾爾恐之《アヤニカシコシ》 言卷毛《イハマクモ》 齋忌志伎可物《ユユシキカモ》 吾王《ワガオホギミ》 御子乃命《ミコノミコト》 萬代(454)爾《ヨロヅヨニ》 食賜麻思《メシタマハマシ》 大日本《オホヤマト》 久邇乃京者《クニノミヤコハ》 打靡《ウチナビク》 春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》 山邊爾波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》 河湍爾波《カハセニハ》 年魚小狹走《アユコサバシリ》 彌日異《イヤヒケニ》 榮時爾《サカユルトキニ》 逆言之《オヨヅレノ》 枉言登加聞《マガゴトトカモ》 白細爾《シロタヘニ》 舍人装束而《トネリヨソヒテ》 和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天所知奴禮《アメシラシヌレ》 展轉《コイマロビ》 泥土打雖泣《ヒヅチナケドモ》 將爲須便毛奈思《セムスベモナシ》
 
心ニカケテ思フダケデモ怪シク畏イコトダ。ロニ出シテ言フモ由々シイ事デアルワイ。私ノオ仕ヘ申ス皇子ノ、安積〔二字傍線〕皇子樣ガ、萬年モ永ク御支配ナサルダラウ所ノ、大日本國ノ久邇ノ都ハ(打靡)春ガ來ルト、山ノアタリニハ花ガ枝モ曲ル程一パイニ咲キ、河ノ瀬ニハ鮎ノ子ガ走ツテ、山河ノ景色ガヨク〔八字傍線〕、日毎日毎ニ、彌々榮エ榮エテ行ク時ニ、根無シ言ノ戯言デアラウカ、皇子ガ薨去ナサツテ〔九字傍線〕白イ着物ヲ舎人ドモガ着装ツテ、和豆香山ニ御葬送ノ〔四字傍線〕御輿ガオ出ニナツテ、(久堅乃)天ヘ登ツテオシマヒナサツタカラ、臥シ轉ガリ涙ニ濡レテ泣イテモ、何トモ仕様ガナイ。
 
○食賜麻思――食をヲシとよむ説もよいが、舊訓のままにメシとして置かう。所知食之《シロシメシシ》(一六二)などの例による。○大日本《オホヤマト》――日本の總稱である。畿内の大和ではない。○久邇乃京者《クニノミヤコハ》――山城國相楽郡瓶原村に出來た都。天平十二年十二月から造營に着手せられ、天平十六年正月まで聖武天皇の郡であったが、その月の十一日、天皇難波に行幸せられ、二月二十日に久邇京の高御座竝びに大楯を難波京に搬び、郡が難波に遷つたのであるから、丁度この皇子の薨去は、そのどさくさの最中であったのである。○打靡《ウチナビク》――枕詞。二六〇参照。○花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》――枝もたわわに花咲くこと。爲は烏の誤とする説もあるがよくない。これをヲの仮名に用ゐたことについては字音辨證に論じてある。一九六參照。○彌日異《イヤヒケニ》――彌日に異《ケ》に。異《ケ》は日《カ》に同じ。○逆言之枉言登加聞《オヨヅレノマガゴトトカモ》――逆言と枉言については種々の説があるが、オヨヅレ、マガゴトとよむことにする。四二〇、四二一參照。○和(455)豆香山《ワヅカヤマ》――和豆香は瓶原の東、布當川の沿岸で、今、東和束、西和束、中和束の三村に分れてゐる。和豆香山は即ちその地方の山である。七六五の地圖參照。○御輿立之而《ミコシタタシテ》――御輿は靈柩を乘せた御葬送の輿である。○天所知奴禮《アメシラシヌレ》――薨去せられたことをいふ。奴禮はヌレバの意である。○展轉《コイマロビ》――コイマロビは反側と記したところ(一七四〇)もある。語意はその文字の通り。○泥土打雖泣《ヒヅチナケドモ》――ヒヅチはヒヅツといふ動詞で、濡れ漬ること。泥土打と書くのはヒヂウチの略言としたのである。
〔評〕 悲愁の情はあらはれてゐるが、例の模傚の跡を指摘し得るのは遺憾である。冒頭の句は人麿の高市皇子尊城上殯宮の時の長歌(一一九)に、逆言之枉言登加聞《オヨヅレノマガゴトトカモ》は石田王の卒した時、丹生王の作つた歌(四二〇)に、泥土打雖泣將爲須便毛奈之《ヒヅチナケドモセムスベモナシ》は巻十三の長歌(三三二六)の結句に、いづれも大同小異である。
 
反歌
 
476 吾が大君 天知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和豆香杣山
 
吾王《ワガオホギミ》 天所知牟登《アメシラサムト》 不思者《オモハネバ》 於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》 和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》
 
私ノ仕ヘ申ス安積皇子ガ御薨去ナサツテ、和豆香山ニ葬ラレナサ〔ツテ〜傍線〕ラウナドトハ思ハナカツタノデ、アノ和豆山トイフ材木ノ出ル山ヲ、疎カニ見過ゴシテヰタコ。コレカラハサゾナツカシク眺メルデアラウ〔コレ〜傍線〕。
 
○於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》――オホはオホヨソの意で、疎かにに同じ。○和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》――和豆香山といふ杣山の意。袖山は木材を伐り出す山。
〔評〕 あはれに悲しく詠まれてゐる。調にたるみがない。卷七の佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫勤《サホヤマヲオホニミシカドイマミレバヤマナツカシモカゼフクナユメ》(一三三三)は、この歌より早い作ではあるが、粉本と見るのは、少しく氣の毒であらう。
 
477 あしびきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬる如き 吾が大きみかも
 
足檜木乃《アシビキノ》 山佐倍光《ヤマサヘヒカリ》 咲花乃《サクハナノ》 散去如寸《チリヌルゴトキ》 吾王香聞《ワガオホキミカモ》
 
(足檜木乃)山マデモ光リ渡ツテ、美シク咲イテヰル花ガ、散ツタヤウニ私ノオ仕ヘ申ス〔五字傍線〕皇子ノ御薨去ハハカナ(456)ク思ハレマス〔ノ御〜傍線〕ヨ。
〔評〕 希望に輝いた青春の皇子の薨去を弔ふ歌としては、實にふさはしい優麗なものである。時しも春二月、正に櫻花の時節である。季節のものを直ちに採つた譬喩が、實に適切なるを覺える。家持の初期の作中の逸品であらう。
 
右三首二月三日作歌
 
478 かけまくも あやにかしこし わが大君 皇子の命 武士の 八十件の男を 召し集へ あともひ賜ひ 朝獵に しし踐み起し 暮獵に とり履み立て 大御馬の 口抑へ駐め 御心を 見し明らめし 活道山 木立の繁に 咲く花も 移ひにけり 世の中は 斯くのみならし ますらをの 心振り起し 劔だち 腰に取り佩き 梓弓 靱取り負ひて 天地と いや遠長に 萬代に 斯くしもがもと 憑めりし 皇子の御門の 五月蠅なす 騷く舍人は 白栲に ころも取り着て 常なりし ゑまひ振舞ひ いや日けに 變らふ見れば 悲しきろかも
 
掛卷毛《カケマクモ》 文爾恐之《アヤニカシコシ》 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命《ミコノミコト》 物乃負能《モノノフノ》 八十伴男乎《ヤソトモノヲヲ》 召集《メシツトヘ》 聚率比賜比《アトモヒタマヒ》 朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフガリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》 大御馬之《オホミマノ》 口押駐《クチオサヘトドメ》 御心乎《ミココロヲ》 見爲明米之《ミシアキラメシ》 活道山《イクヂヤマ》 木立之繁爾《コダチノシゲニ》 咲花毛《サクハナモ》 移爾家里《ウツロヒニケリ》 世間者《ヨノナカハ》 如此耳奈良之《カクノミナラシ》 大夫之《マスラヲノ》 心振起《ココロフリオコシ》 劔刀《ツルギダチ》 腰爾取佩《コシニトリハキ》 梓弓《アヅサユミ》 靱取負而《ユギトリオヒテ》 天地與《アメツチト》 彌遠長爾《イヤトホナガニ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 如此毛欲得跡《カクシモガモト》 憑有之《タノメリシ》 皇子之御門乃《ミコノミカドノ》 五月蠅成《サバヘナス》 驟騷舍人者《サワグトネリハ》 白栲爾《シロタヘニ》 服取着而《コロモトリキテ》 常有之《ツネナリシ》 咲比振麻比《ヱマヒフルマヒ》 彌日異《イヤヒケニ》 更經見者《カハラフミレバ》 悲呂可毛《カナシキロカモ》
 
心ニカケテ思フダケデモ、怪シク畏イコトダ。私ノオ仕ヘ申ス皇子ノ安積〔二字傍線〕皇子樣ガ、朝廷ニ仕ヘル武人ノ、澤山ノ部屬ノ長ヲ召シ集メ、オ率ヰナサツテ、朝ノ獵ニハ鹿猪ノ類ヲ追ヒ出シ、夕方ノ獵ニハ鳥ヲ追ヒ立テテ獵ヲナサリ〔五字傍線〕、御乘馬ノ口ヲ抑ヘ止メテ、四方ノ形勢ヲ〔六字傍線〕見給ヒオ心ヲ晴シニナツタ、活道山ノ木ノ繁ツタ所ニ咲イテヰル花モ、モハヤ〔三字傍線〕盛ガ過ギテシマツタワイ。其處ニ皇子ノ御墓ガ出來タ〔其處〜傍線〕。世ノ中トイフモノハ何デモカウデ(457)バカリアルラシイ。私ガ〔二字傍線〕大丈夫ノ心ヲ振ヒ起シテ、劔ヤ太刀ヲ腰ニ取リ帶ビテ、弓ヲ持チ〔三字傍線〕、矢入ヲ背ニ負ウテ、天地ト共ニマスマス遠ク永ク、萬年ノ後マデモカヤウニシテ御仕ヘシ〔五字傍線〕タイモノダト、憑ミニ思ツテヰタ安積〔二字傍線〕皇子ノ御所ニヰル舍人ドモハ皇子ガ薨去ナサツタカラ(五月蠅成)ワイワイト騷イデ、白イ布ノ着物ヲ着テ、悲シサニ、今マデ〔七字傍線〕、絶エナカツタ笑顔ヤ嬉シサウナ〔五字傍線〕動作ガ、日毎日毎ニ段々ト變ツテ、悲シサウニナツテ〔八字傍線〕行クノヲ見ルト、私ハ〔二字傍線〕悲シイヨ。
 
○物乃負能八十件男乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》――モノノフは朝廷奉仕の武人で、その氏族が多かつたのである。三六九參照。八十伴男《ヤソトモノヲ》は多くの部屬《トモガラ》の長《ヲサ》の義。○聚率比賜比《アトモヒタマヒ》――アトモフは後伴《アトトモ》なふ意。一九九參照。聚の字を、上の召集に附けて見る説もある。○鹿猪踐起《シシフミオコシ》――鹿猪をシシと書いたので、下にトリを鶉雉と書いてある。○口抑駐《クチオサヘトドメ》――童蒙抄にクチオシトドメとある説も廣く行はれてゐる。抑は抑刺《オサヘサス》(三二九五)の如く、オサヘとよんであり、駐は押止駐余《オシテトドメヨ》(一〇〇ニ)・駐馬《ウマトドメ》(三〇九七)・馬駐《ウマトドメ》(三九五七)の如くトドメとよむのが常である。オシといふ時はいつも押の字を用ゐてあるから、ここではオサヘトドメとよむことにする。○見爲明米之《ミシアキラメシ》――見爲《ミシ》のシは敬語。明らむは明らかにすること、即ち心を晴らし給ふこと。上の、御心乎《ミココロヲ》を見爲《ミシ》の下に置いて見るがよい。○活道山《イクヂヤマ》――西和束村大字白柄の東大勘定にある岡で、ここに安積皇子の御墓がある。○木立之繁爾《コダチノシゲニ》――シジニと舊訓にあるが、副詞の場合はシジニがよいが、名詞の時はシゲニとよむがよからう。○咲花毛移爾家里《サクハナモウツロヒニケリ》――皇子が薨じて、其處に葬られ給うたこと。三月二十四日の作であるから花も散つてしまつてゐた。○靱取負而《ユギトリオヒテ》――靱は矢笥《ヤゲ》の轉か。矢を入れて背に負ふもの。ウツボに同じ。○皇子乃御門乃《ミコノミカドノ》――御門《ミカド》は御殿をいふ。○五月蠅成《サバヘナス》――枕詞。五月の蠅は多くてうるさいから、騷ぐに冠する。○常有之咲比振麻比《ツネナリシヱマヒフルマヒ》――平素の笑顔や快活な動作の意。○悲呂可毛《カナシキロカモ》――呂の字舊本召とあるは誤。類聚古集に呂とあるに從ふべきである。
〔評〕 聖武天皇の皇子として、將來は天位に即かれるものと期待せられ、家持ら一族はこの御方によつて、自家の勢力の振張を圖らうと思つてゐたらしい。その仰ぎ奉つた安積皇子の薨去によつて、前途の光明を失つた家(458)持の心情が、實によく言ひあらはしてある。大夫之心振起《マスラヲノココロフリオコシ》以下の數句は、武人らしい彼の面目を躍如たらしめてゐる。この句は彼の得意と見えて、卷十七(三九六二)にも、卷二十(四三九八)にも使つてゐる。
 
反歌
 
479 愛しきかも 皇子の命の 在り通ひ 見しし活道の 路は荒れにけり
 
波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 見之活道乃《ミシシイクヂノ》 路波荒爾※[奚+隹]里《ミチハアレニケリ》
 
ナツカシイ安積皇子樣ガ、イツモオ通ヒ遊バシテ、御覽ニナツタ活道山ノ道ハ皇子ガ御薨去遊バシテ今ハ誰モ行クモノモナイノデ〔皇子〜傍線〕荒レテシマツタワイ。
 
○波之吉可聞《ハシキカモ》――愛《ハ》しきかもで、皇子之命につづいてゐる。カモは形式的に切れてゐるが、意は續いてゐる。○安里我欲比《アリガヨヒ》――在り在りて通ふ。常に通ふこと、通ひ馴れたこと。
〔評〕 波之吉可聞《ハシキカモ》と詠嘆的に歌ひかけて、路波荒爾鶏里《ミチハアレニケリ》と同じく詠嘆的に歌ひ納めてあるのが、感情が籠つてあはれである。
 
480 大伴の 名に負ふ靱帶びて 萬代に 憑みし心 何處か寄せむ
 
大伴之《オホトモノ》 名負靱帶而《ナニオフユギオビテ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 憑之心《タノミシココロ》 何所可將寄《イヅクカヨセム》
 
靭ヲ帶ビル〔五字傍線〕大伴氏ダト昔カラ定ツテヰルソノ靭ヲ帶ビテ、大伴氏ノ一人タル私ハ〔十五字傍線〕萬年ノ後マデモ、安積皇子ニオ仕ヘシヨウ〔安積〜傍線〕ト思ツテヰタコノ〔二字傍線〕心ヲ、今ハ〔二字傍線〕何處ニヨセテ、オ憑リ申シタモノデアラ〔テオ〜傍線〕ウ。
 
○大伴之名負靱帶而《オホトモノナニオフユギオビテ》――大伴氏が武族として、昔から靱を負うて奉仕したことをいつたもの。神代紀に「大伴連遠祖天忍日命、帥2來目部遠祖天(ノ)穗津大來目1背負2天(ノ)磐靱1云々」とあり、景行紀に、「日本武尊居2甲斐國酒折宮1以2靱負1賜2大伴連遠祖武日1云々」とある、比較的近代になつても、孝徳紀に「大伴長徳連帶2金靱1立2於壇右1云々」とある。
(459)〔評〕かうした氏でありながら、藤原氏に壓へられて振はなくなつてゐるのを慨嘆した家持が、皇儲たるべく擬せられてゐた安積皇子に、期待してゐたことは大きかつた。それが裏切られた悲痛の情は、眞に憑之心何所可得寄《タノミシココロイヅクカヨセム》であつたらう。途方に暮れた彼の心境がいたましく詠まれてゐる。
 
右三首三月廿四日作歌
 
悲(ミ)2傷(ミテ)死妻(ヲ)1高橋朝臣(ノ)作(レル)歌一首并短歌
 
高橋朝臣は誰とも分らない。卷六、天平十年の條に右大辨高橋安麻呂(一〇二七)とあり、卷十七、天平十八年の條に高橋朝臣國足(三九二六)とある。ここは天平十六年でほぼ年時を同じうしてゐるが、そのいづれとも判じ難い。或は高橋蟲麿か。
 
481 白妙の 袖さし交へて 靡き寢し わが黒髪の ま白髪に 成らむ極 新世に 共に在らむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言は果さず 思へりし 心は遂げず 白妙の 袂を別れ にきびにし 家ゆも出でて 緑兒の 泣くをも置きて 朝霧の ほのになりつつ 山背の 相樂山の 山のまに 往き過ぎぬれば 言はむすべ 爲むすべ知らに 吾妹子と さ宿し妻屋に 朝には 出で立ち偲び 夕には 入り居嘆かひ 腋挾む 兒の泣く毎に 男じもの 負ひみ抱きみ 朝鳥の 音のみ哭きつつ 戀ふれども しるしを無みと 言問はぬ ものにはあれど 吾妹子が 入りにし山を よすがとぞ念ふ
 
白細之《シロタヘノ》 袖指可倍?《ソデサシカヘテ》 靡寢《ナビキネシ》 吾黒髪乃《ワガクロカミノ》 眞白髪爾《マシラガニ》 成極《ナラムキハミ》 新世爾《アラタヨニ》 共將有跡《トモニアラムト》 玉緒乃《タマノヲノ》 不絶射妹跡《タエジイイモト》 結而石《ムスビテシ》 事者不果《コトハハタサズ》 思有之《オモヘリシ》 心者不遂《ココロハトゲズ》 白妙之《シロタヘノ》 手本矣別《タモトヲワカレ》 丹杵火爾之《ニキビニシ》 家從裳出而《イヘユモイデテ》 緑兒乃《ミドリコノ》 哭乎毛置而《ナクヲモオキテ》 朝霧《アサギリノ》 髣髴爲乍《ホノニナリツツ》 山代乃《ヤマシロノ》 相樂山乃《サガラカヤマノ》 山際《ヤマノマニ》 往過奴禮婆《ユキスギヌレバ》 將云爲便《イハムスベ》 將爲便不知《セムスベシラニ》 吾妹子跡《ワギモコト》 左宿之妻屋爾《サネシツマヤニ》 朝庭《アシタニハ》 出立偲《イデタチシヌビ》 夕爾波《ユフベニハ》 入居嘆舍《イリヰナゲカヒ》 腋挾《ワキバサム》 兒乃泣母《コノナクゴトニ》 雄自毛能《ヲトコジモノ》 負見抱見《オヒミイダキミ》 朝鳥之《アサトリノ》 啼耳哭管《ネノミナキツツ》 雖戀《コフレドモ》 効矣無跡《シルシヲナミト》 辭不問《コトトハヌ》 物爾波在跡《モノニハアレド》 吾妹子之《ワギモコガ》 入爾之山乎《イリニシヤマヲ》 因鹿跡叙念《ヨスガトゾオモフ》
 
(460)(白細之)袖ヲサシ交シテ、妻ト〔二字傍線〕寄リ添ウテ寢タ私ノ黒髪ガ、眞白髪ニナルマデモコノ今ノ大御代ニ共ニ居ヨウ、(玉緒乃)切レマイヨ妻ヨト約束シタ言葉ハ果サズ、思ツテヰタ心ハ爲遂ゲルコトガ出來ズ、(白妙之)袂ヲ分ツテ、住ミ馴レタ家カラ出テ、赤兒ノ泣クノモ後ニ殘シテ、(朝霧)ボンヤリト遙カニ遠ザカツテ、山背ノ相樂ノ山ノ山ノ間ニ葬ラレテ〔四字傍線〕往クト、何トモ言ヒヤウガナク、何ト爲樣モナクテ、私ガ〔二字傍線〕妻ト寢タ閨ノ内ニヰテ、朝ニハ外ニ出テ立ツテ妻ヲ思ヒ出シ、夕方ニハ堂内ニ入ツテ嘆キ、腋ノ間ニ挾ンデ抱イテヰル赤兒ガ泣ク度ニ、私ハ男ダノニ背負ツタリ抱イタリシテ見テ、(朝鳥之)聲ヲ出シテ泣イデバカリ居テ、亡キ妻ヲ戀ヒ慕ツテモ、何ノ效モナイカラ、山トイフモノハ〔七字傍線〕物ヲ言ハヌモノデハアルガ、私ノ妻ガ葬ラレテ入ツタ山ヲ妻ノ〔二字傍線〕由縁ノ所ト思ツテヰル。
 
○成極《ナラムキハミ》――成る極まり、即ち成るまでの意。○新世爾《アラタヨニ》――アタラヨとよむのは惡い。新しき御代の意で、今上陛下の御代を申す語である。○玉緒乃《タマノヲノ》――枕詞。玉を緒に通したもの。絶ゆる意で下につづく。○不絶射妹跡《タエジイイモト》――イは語勢を強めを爲の助詞。○事者不果《コトハハタサズ》――事は言の借字で、言葉の意。○白妙之《シロタヘノ》――枕詞。袂とつづく。白栲の布の意である。○丹杵火爾之《ニキビニシ》――卷一に柔備爾之家乎擇《ニキビニシイヘヲオキ》(七九)とあつて、住み馴れた意である。○朝霧《アサギリノ》――枕詞。アサギリニとよんで、枕詞と見ない説もある。この長歌には、ノで終つた枕詞が多く、それは皆、乃又は之の如き文字が用ゐてあるのに、この語だけにそれが無いのは、或はアサギリニと訓ませるのかも知れない。○髣髴爲乍《ホノニナリツツ》――オホニナリツツとよむ説が多いが、卷二にも髣髴見之事悔敷乎《ホノミシコトクヤシキヲ》(二一七)とあるからホノがよい。尚、二一七を參照。○山代乃相樂山乃《ヤマシロノサガラカヤマノ》――山城國相樂郡相樂の地で、今の奈良の北、大和山城國境歌姫越附近をいふのであらう。和名抄に佐加良加《サガラカ》とある。○山際往過奴禮婆《ヤマノマニユキスギヌレバ》――舊訓ヤマノマヲとあるが、ユキスギヌレバは葬られたことと思はれるから、ヤマノマニと訓む考の説に從ふことにする。○入居嘆舍《イリヰナゲカヒ》――舍は神田本に會に作るに從ふべきだ。○兒乃泣母《コノナクゴトニ》――母は毎の誤と考にあるに從ふべきである。○負見抱見《オヒミイダキミ》――負つた(461)り抱いたりの意。今も負つてみたり抱いてみたりなどいふに同じである。○朝鳥之《アサトリノ》――枕詞。啼哭《ネナク》とつづく。○辭不問《コトトハヌ》――物を言はぬこと。○入爾之山乎《イリニシヤマヲ》――葬つた山即ち相樂山をの意。○因鹿跡叙念《ヨスカトゾオモフ》――ヨスガは由縁《ユカリ》で、妻の由縁と思つてなつかしがる意である。
〔評〕 吾妹子跡左宿之妻屋爾《ワギモコトサネシツマヤニ》から、腋挾兒乃泣母《ワキバサムコノナクゴトニ》のあたりは、卷二の人麿の作(二一〇)に似たところもあるが、妻との漆膠の約が、忽ち空しくなつた悲しみ、嬰兒を遺して逝かれた困惑、遙かに墓所の山を望んで切めての心遣りとする哀愁を、順序よく述べてあつて、かなりな作と言はなければならない。
 
反歌
 
482 うつせみの 世の事なれば よそに見し 山をや今は よすがと思はむ
 
打背見乃《ウツセミノ》 世之事爾在者《ヨノコトナレバ》 外爾見之《ヨソニミシ》 山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》 因香跡思波牟《ヨスガトオモハム》
 
人ガ死ヌトイフコトハ〔十字傍線〕、コノ現世ノナラハシデアルカラ、今マデハ自分ニ〔七字傍線〕關係ガナイモノノヤウニ思ツテヰタ山ヲ、妻ヲ葬ツタ所ダカラ〔九字傍線〕今ハ妻ノ〔二字傍線〕ユカリノ所ト思ツテ、自ラ慰メヨ〔七字傍線〕ウ。
 
〔評〕 佛教の無常觀によつて、強ひて諦めようとするのが痛々しい。
 
483 朝鳥の 音のみし泣かむ 吾妹子に 今また更に 逢ふよしをなみ
朝鳥之《アサトリノ》 啼耳鳴六《ネノミシナカム》 吾妹子爾《ワギモコニ》 今亦更《イママタサラニ》 逢因矣無《アフヨシヲナミ》
 
死ンア〔三字傍線〕私ノ妻ニ今更復ト逢フ方法ガナイカラ、(朝鳥之)聲ヲ出シテ泣イテバカリヰヨウ。
 
〔評〕 この二つの反歌は長歌の終の方を更に繰り返したもので、取り立てていふことも無い。
 
右三首、七月廿日高橋朝臣(ノ)作(レル)歌也。名字未v審、但云(ヘリ)2奉膳之男子(ト)1焉
 
名字から下は後人の書き加へたものであらう。奉膳は内膳司の長官である。續紀に 寶宇三年十一月丁卯從五位下高橋朝臣子老爲2内膳奉膳1。六年四月庚戌朔從五位下高橋朝臣老麻呂爲2内膳奉膳1」と見えてゐる(462)が、これらの奉膳では少し時代が後れるやうである。
 
卷第四
 
(463)萬葉集卷第四解説
 
この巻は總べて相聞のみで、歌数は長歌七首、旋頭歌一首、短歌三百一首合計三百九首である。時代は難波天皇妹奉上在山跡皇兄御歌を最古としてゐる。難波天皇は學著によつて見解を異にしてゐるが、仁徳天皇とした從來の説に從ふべきであらう。この天皇は、卷二の冒頭にも磐姫皇后の御作が出てゐるやうに、又古事記にも、多くの和歌を伴なつた戀愛譚が記されてゐるやうに、古い歌謠・説話中の、主要なる地位を占めて居られるのであるから、この御歌もこの天皇に奉つたものと推定すべきであらう。次いで舒明天皇の御製もあるが、天智天皇以前のものはただこれだけで、人麿時代のものも比較的尠く、多くは奈良遷都以後の作である。年代を明記したのは神龜時代のものに數首と、大伴旅人関係のものに二首あるが、他は悉く年次を明らかにしてゐない。併し卷の後半に多く見える大伴氏一族の作、殊に家持が坂上大孃や他の娘子と贈答した歌によつて、彼が未だ青年であつた天平十二三年頃までのものが收めてあることがわかる。大體において卷三及び卷八とほぼ時代を同じうしたものである。眞淵はこの卷を卷八の次、卷三の前に置いて第十三としてゐる。作者は聖武天皇を始め、志貴皇子・春日王・額田王・鏡女王・安貴王・市原王・湯原王・厚見王・高安王・海上女王ら皇族の名が見え、その中では湯原王が一番光つてゐるやうである。臣下では人麿の作が七首ばかり掲げられてゐるが、いづれも短歌のみで卷一・卷二にあるやうな力の籠つたものではない。言はば卷一・卷二の拾遺といふやうな感がある。この卷の作家の中(464)心になつてゐるものは、やはり大伴旅人及びその子家持らである。旅人の妹坂上郎女も亦重要な作家の一人である。家持を※[しんにょう+堯]る多くの女性、即ち坂上大孃・笠女郎・紀女郎・山口女王・中臣女郎・巫部麻蘇娘子・大神女郎・河内百枝娘子・粟田娘子といふやうな人たちの消息が赤裸々に掲げられてゐるのは、家持の編纂したものたることを語るものであり、同時に萬葉人の拘束されない戀愛觀を示してゐるやうに見える。またこの卷の歌に卷十一・卷十二等の古歌に類似したものの多いのが著しく目に立つ。さうしてその模倣の最も甚だしいのは家持の作で、彼の歌の目ぼしいものの多くは、古歌を學んでゐることを指摘し得るほどである。彼らが作歌の學習にいそしんでゐたことが、これによって證據立てられるやうに思はれる。文字の使用法は、卷三と殆ど變りはないが、義訓が少し多いやうである。義之《テシ》・八十一《グク》の如き戯書も見えてゐる。
 
(465)相聞
 
難波天皇妹奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首
崗本天皇御製一首并短歌
額田王思2近江天皇1作歌一首
鏡王女作歌一首
吹黄刀自歌二首
田部忌寸櫟子任2太宰1時歌四首
柿本朝臣人麿歌四首
碁檀越往2伊勢國1時留妻作歌一首
柿本朝臣人麿歌三首
柿本朝臣人麿妻歌一首
阿倍女郎歌二首
〔466〜475の目次省略〕
 
(477)相聞
 
難波天皇|妹《イモウトノミコ》奉d上(ル)在《イマス》2山跡(ニ)1皇兄《イロセノミコニ》u御歌一首
 
難波天皇は仁徳天皇を申し奉つたものと考へられる。應神天皇の九皇女ましました中で、仁徳天皇の皇妹は八人おはしましたが、そのうちのいづれでましますか不明。皇兄は仁徳天皇の兄君のやうに思はれないこともないけれども、天皇には庶兄は額田(ノ)大中彦皇子・大山守皇子・去来眞稚皇子などおはしましたが、同母兄はあらせられぬ筈である。この題詞の書きぶりから推測すると、皇兄は即ち難波天皇をさし奉つたやうに見られる。巻二の一三〇の題詞に、長皇子與2皇弟1御歌一首とあるのも、長皇子の御弟を皇弟と申してゐる。ともかく古い時代のもので、傳説的になってゐるから、この題詞をその儘に信ずるわけには行かない。但しこの難波天皇を、難波長柄豐島宮にましました孝徳天皇としても考へられないことはない。然る時は次の歌も、齊明天皇のこととなつて、時代が著しく新しくなるが、普通の説に從つて仁徳天皇とする方が穩やかであらう。
 
484 一日こそ 人も待ち吉き 長き日を 斯くのみ待たば 在りかつましじ
 
一日社《ヒトヒコソ》 人母待告《ヒトモマチヨキ》 長氣乎《ナガキケヲ》 如此所待者《カクノミマタバ》 有不得勝《アリカツマシジ》
 
一日位ハ誰デモ待チヨイ。長イ日數ヲコンナニ待ツテバカリヰルナラバ、堪ヘラレナイデアラウ。
 
○人母待告《ヒトモマチヨキ》――告は元暦校本・神田本などに吉とあるのがよい。舊訓ヒトモマチツゲとあるは穩やかでない。その他の誤字説は採るに足らぬ。○長氣乎《ナガキケヲ》――氣《ケ》は日《カ》に同じ。長き日數をの意。○如此所待者《カクノミマタバ》――舊訓カクマタルレバとあるは面白くない。所は耳の誤として、玉の小琴にカクノミマテバとよんだのに從ふべきか。但し第五句に呼應する爲に、マタバとよみたい。○有不得勝《アリカツマシジ》――舊訓はアリエタヘズモであつたのを、考にアリガテナクモとし、玉の小琴の道麻呂説では、勝を鴨の誤としてアリカテヌカモとしてゐるが、いづれもよくない。(478)新訓にアリカツマシジとよんでゐるのがよからう。委しくは九四參照。
〔評〕 この訓のやうにすると、誠に平明な歌で、かなり古調を帶びてゐる。卷二の卷頭の磐姫皇后の御歌を思ひ出させるものがある。
 
岳本天皇御製一首并短歌
 
岳本天皇は舒明天皇で、後岡本天皇は齊明天皇である。そのいづれとも分らないと左註にも記してある。併し岳本とあるからは舒明天皇とするより外はない。ただ疑はしいのは、この歌が女性の作らしいことである。思ふにこれも前の歌と同じく、作者には信を措き難いもので、歌風から考へても、もう少し新しいやうである。
 
485 神代より 生れ繼ぎ來れば 人さはに 國には滿ちて 味むらの ゆき來は行けど 吾が戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み おもひつつ いもねがてにと 明しつらくも 長き此の夜を
 
神代從《カミヨヨリ》 生繼來者《アレツギクレバ》 人多《ヒトサハニ》 國爾波滿而《クニニハミチテ》 味村乃《アヂムラノ》 去來者行跡《ユキキハユケド》 吾戀流《アガコフル》 君爾之不有者《キミニシアラネバ》 晝波《ヒルハ》 日乃久流麻弖《ヒノクルルマデ》 夜者《ヨルハ》 夜之明流寸食《ヨノアクルキハミ》 念乍《オモヒツツ》 寢宿難爾登《イモネガテニト》 阿可思通良久茂《アカシツラクモ》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》
 
神代カラシテ段々ト〔三字傍線〕生レ續イテ來タノデ、人ガ澤山コノ國ニ滿チテ(味村乃)往ツタリ來タリシテ居ルガ、ソレラノ人達ハ〔七字傍線〕、私ガ戀シク思フ貴方デハナイカラ、晝ハ日ガ暮レルマデ、夜ハ夜ノ明ケルマデ、戀シイ人ヲ〔五字傍線〕思ヒ焦レテ寢ラレナイデ、長イ夜ヲ明シタワイ。
 
○味村乃《アヂムラノ》――枕詞。騷ぐとつづく例であるが、ここは去來《ユキキ》とつづいてゐる。○去來者行跡《ユキキハユケド》――去來はイザとよむを常とするので、ここもイザトハユケドと舊訓にはよんでゐる。味鳧の群が友を誘つて行く意に解いてあるけれども穩やかでない。今はユキキとよんで道行く人の往還することと見よう。○寢宿難爾登《イモネガテニト》――登の字を誤(479)字としたり、脱字があるやうに見たりする説が多いが、舊訓にイモネガテニトとあるので毫も差支はない。
〔評〕 吾戀流君爾之不有者《アガコフルキミニシアラネバ》の句は、確かに女性の詞である。又全體の趣が卷十三、式島之山跡之土丹人多爾滿而雖有藤浪乃思纏若草乃思就西君目二戀八將明長此夜乎《シキシマノヤマトノクニニヒトサハニミチテアレドモフヂナミノオモヒマツハリワカクサノオモヒツキニシキミガメニコヒヤアカサムナガキコノヨヲ》(三二四八)に著しく似てゐる點などを考へると、これを舒明天皇御製とはしがたい。民謠が傳説的になつたものであらう。人戀ふる遣瀬なさが、よくあらはれてゐる歌である。
 
反歌
 
486 山の端に 味群騷ぎ 行くなれど 吾はさぶしゑ 君にしあらねば
 
山羽爾《ヤマノハニ》 味村騷《アヂムラサワギ》 去奈禮騰《ユクナレド》 吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》 君二四不在者《キミニシアラネバ》
 
山ノ端ニ味鴨ノ群ガ騷イデ飛ンデ行クヤウニ、人ガ大勢通〔九字傍線〕ツテ賑カデアルガ、アレハ貴方デナイカラ私ハヤハリ〔三字傍線〕淋シイデスヨ。貴方ニ逢ヒタク思ヒマス〔貴方〜傍線〕。
 
○山羽爾味村騷去奈禮騰《ヤマノハニアヂムラサワギユクナレド》――山の端に味鳧の群が騷いで行く如く、人も行くなれどの意。騷の字、古寫本に鰺とあるは誤。○吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》――我は淋しいよの意。ヱは感歎の助詞。心者吉惠君之隨意《ココロハヨシヱキミガマニマニ》(一五三七)安禮波麻多牟惠許登之許受登母《アレハマタムヱコトシコズトモ》(三四〇六)などの惠《ヱ》に同じ。
〔評〕 上句に味村を持つて來たのが、譬喩のやうでなくて、實は譬喩になつてゐるのが、一寸奇異な感を起さしめる。この味村は、長歌中の句を取り出して用ゐたのであらう、
 
487 淡海路の 鳥籠の山なる 不知哉川 けのころごろは 戀ひつつもあらむ
 
淡海路乃《アフミヂノ》 鳥籠之山有《トコノヤマナル》 不知哉川《イサヤガハ》 氣乃己呂其侶波《ケノコロゴロハ》 戀乍裳將有《コヒツツモアラム》
 
貴方ノオ心ハ〔六字傍線〕(淡海路乃鳥籠之山有不知哉川)イヤ分リマセヌ〔七字傍線〕。コノ日頃ハ貴方ガ私ヲ戀ヒ慕ツテ居ラレルカ。イヤ分リマセヌ〔七字傍線〕。
 
(480)○淡海路乃烏籠之山有不知哉川《アフミヂ(ノ)トコ(ノ)ヤマナリイサヤガハ》――これだけで序となつてゐるが、下にはいさ知らずの意として續かしめてある。卷十一に狗上之鳥籠山爾有不知也河《イヌカミノトコノヤマナルイサヤガハ》(二七一〇)とあつて、近江國犬上郡なる鳥籠の山の附近を流れるいさや川である。犬上郡は今の彦根の附近、鳥籠山は今の坂田郡鳥居本村の南、大字原の上方なる正法寺山をいふ。不知哉川は大堀川で、靈仙の芹谷から發し、彦根町に至つて湖水に注いでゐる。二九近江地圖參照。○氣乃己呂其侶波《ケノコノゴロハ》――日《ケ》のこの頃はの意。呂は乃の誤と宣長は言つてゐるが、この儘でよいであらう。
〔評〕 上の句の序のつづきが、少しく變つてゐることは、前の歌と同樣である。前の長歌の反歌としては、更に關係がなく、歌意も相應しない。民間の歌が誤つて反歌に採り入れられたものであらう。
 
右、今案(ズルニ)高市岳本宮、後岡本宮二代二帝、各有v異焉、但稱(スル)2岡本天皇(ト)1未v審2其指(ストコロヲ)1
 
これは後人の註であらう。題詞の岳本天皇が舒明天皇か齊明天皇か分らぬといふのである。
 
額田王思(ヒテ)2近江天皇(ヲ)1作(レル)歌一首
 
額田王は鏡王の女、二〇參照。近江天皇は天智天皇。
 
488 君待つと 吾が戀ひ居れば わが屋戸の 簾うごかし 秋の風吹く
君待登《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 我屋戸之《ワガヤドノ》 簾動之《スダレウゴカシ》 秋風吹《アキノカゼフク》
 
貴方樣ノオイデニナルノ〔八字傍線〕ヲ待ツテ、私ガ貴方樣ヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマスト、我ガ家ノ簾ヲ動カシテ秋ノ風ガソヨソヨト〔五字傍線〕吹キマス。只々貴方樣ガオナツカシウゴザイマス〔只々〜傍線〕。
〔評〕 萬葉初期の歌とは思はれない程、柔味のある優麗な姿である。さうしてあえかな宮びやかな歌詞は、當に高貴な寶珠に比すべき光を放つてゐる。止み難い思慕の情が、綿々嫋々としていつまでも流れ漂うてゐるやうな感がある。古義に、「風の吹來るは、其の人の來らむとする前兆ぞといふ諺のありしをふみて、よみ給へるなるべし」と言つてゐるのは、穿ち過ぎて詩趣を損ふもので、略解・新考に、簾の動くのを君の來ませるかと思つた(481)やうに見たのも、なほ過ぎてゐる。簾動之秋風吹《スダレウゴカシアキノカゼフク》は、ただその場合の景趣を述べただけである。この歌卷八に重ねて出てゐる。又、古今六帖に「君まつと戀ひつつふれば吾が宿のすすきうごきて秋風ぞ吹く」とある。
 
鏡王女作歌一首
 
額田王の姉君である。九一參照。
 
489 風をだに 戀ふるはともし 風をだに 來むとし待たば 何か嘆かむ
 
風乎太爾《カゼヲダニ》 戀流波乏之《コフルハトモシ》 風小谷《カゼヲダニ》 將來登時待者《コムトシマタバ》 何香將嘆《ナニカナゲカム》
 
風ノ吹クノヲナツカシガル貴方ハ〔三字傍線〕ウラヤマシイ。貴方ノヤウニ〔六字傍線〕人ガ來ルノヲアテニシテ待ツノデアルナラバ何シニ私ハ嘆キマセウ。來ルアテガ無クテ待ツノダカラ悲シウゴザイマス〔來ル〜傍線〕。
 
○戀流波乏之《コフルハトモシ》――トモシは羨しの意。○風小谷《カゼヲダニ》――この三の句は下へつづくものとしては、意をなさないやうであるから、宣長が言つたやうに、第一句を繰返しただけと見て置かう。○將來登時待者《コムトシマタバ》――待人が來むとて、その人を待つならばの意。
〔評〕 鏡王女も額田王と共に天智天皇に愛せられたお方である。額田王が天皇を待つ歌を詠まれたのを見て、我は今は寵衰へて、天皇のみゆきを期待すべきやうなしと、羨み且つ嘆かれたものである。張りつめた調子に心の悶えはあらはれてゐるが、意味の明瞭を缺くのは缺點であらう。この歌も卷八に出てゐる。
 
吹黄《フキノ》刀自歌二首
 
吹黄刀自は卷一に見える。天武天皇の頃の人で、安貴王に侍してゐた。二二參照
 
490 眞野の浦の 淀の繼橋 心ゆも 思へや妹が 夢にし見ゆる
 
眞野之浦乃《マヌノウラノ》 與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》 情由毛《ココロユモ》 思哉妹之《オモヘヤイモガ》 伊目爾之所見《イメニシミユル》
 
私ハ(眞野之浦乃與騰乃繼橋)絶エズ續ケテ〔六字傍線〕心力ラ物ヲ思フカラカ、妻ガ夢ニ見エルヨ。
 
(482)○眞野之浦乃《マヌノウラノ》――卷三に白管乃眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》(二八〇)とあつた所で、今の神戸市の西部、眞野町の海岸。○與騰乃繼橋《ヨドノツキハシ》――攝津志に「苅藻橋在2矢田部郡(ノ)東尻池村1或曰、眞野繼橋即此」とあつて、所在は明らかでないが、往昔苅藻川の川淀に架けてあつた橋であらう。繼橋は柱を河中に打ち立てて、板を懸け渡したものらしい。ここまでの二句は序詞的用法であるが、繼橋に、續いての意を持たせてある。○情由毛《ココロユモ》――心からもの意、モは詠歎の助詞である。○思哉妹之《オモヘヤイモガ》――オモヘヤは思へばにやの意。
〔評〕 上の二句の用法が特異であるが、前の山羽爾《ヤマノハニ》、淡路路乃《アフミヂノ》の歌と似た點がある。女性たるべき吹黄刀自が思哉妹之《オモヘヤイモガ》といふのはをかしいわけだが、女同志で妹と言つた例もあるから、このままでよいとせねばなるまい。但しこれを男から贈られた歌として、次のを刀自の返歌とする説もある。
 
491 河の上の いつ藻の花の 何時も何時も 來ませ我が背子 時じけめやも
 
河上乃《カハノヘノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時何時《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》
 
(河上乃伊都藻之花乃)何時デモ何時デモ、始終〔二字傍線〕オイデナサイ、私ノ夫ヨ。來テ惡イトイフ時ガアリマセウカ。ソンナコトハアリマセヌカラオイデナサイ〔ソン〜傍線〕。
 
○河上乃伊都藻之花乃《カハノヘノイツモノハナノ》――卷一にもこの人の歌に、河上乃湯都磐村二《カハノヘノユツイハムラニ》(二二)とあつた。舊訓カハカミとあるのはよくあるまい。伊都藻《イヅモ》は五百箇藻《ユツモ》の轉で、繁つた藻のことであらう。この二句は何時何時《イツモイツモ》と言はむ爲に、同音を繰返すやうにした序詞である。○時自異目八方《トキジケメヤモ》――時じからめやもで、時ならずといふことはない、即ち何時でもおいでなさいの意。
〔評〕 この人の卷一の二二の歌と言葉が似てゐる點がある。内容は、かれは十市皇女を敬讃したのに、これは相聞であるから、異なつてゐるが、やはり相通じたところがあるのはおもしろい。この歌、卷十(一九二一)に問答歌の答歌として出てゐる。卷十は總べて作者のない歌で、古い卷ではあるが、吹黄刀自との時代の前後は判斷しがたい。
 
(483)田部《タノベノ》忌寸|櫟子《イチヒコ》、任(ゼラルル)2太宰1時(ノ)歌四首
 
田部忌寸櫟子の傳は分らない。
 
492 衣手に 取りとどこほり 哭く兒にも まされる吾を 置きていかにせむ
 
衣手爾《コロモデニ》 取等騰己保里《トリトドコホリ》 哭兒爾毛《ナクコニモ》 益有吾乎《マサレルワレヲ》 置而如何將爲《オキテイカニセム》 舍人吉年
 
母ノ〔二字傍線〕着物ノ袖ニ取リツイテ哭ク子供ヨリモ以上ニ別レヲ悲シンデ泣ク〔九字傍線〕私ヲ遺シテ置イテ、一體〔二字傍線〕アナタハドウナサラウトイフノデスカ。アマリ無情デハアリマセンカ〔アマ〜傍線〕。
 
○取等勝己保里《トリトドコホリ》――取り滯り、取り付いて離れぬこと。○舍人吉年は、無い本もあり、また元暦校本には舍人千年とあるが、ここは類聚古集に吉年とあるのによつた。舍人吉年は卷二の一五二に見えてゐる。この歌で見ると、櫟子の妻のやうである。
〔評〕 舍人吉年は女性らしい。訣別の悲しさの表現が手弱女ぶりであはれである。吾を君の誤とした説は妄であらう。
 
493 置きて行かば 妹戀ひむかも 敷妙の 黒髪布きて 長をこの夜を
 
置而行者《オキテユカバ》 妹將戀可聞《イモコヒムカモ》 敷妙乃《シキタヘノ》 黒髪布而《クロカミシキテ》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》 田部忌寸櫟子
 
後ニ遺シテ置イタナラバ妻ハ、(敷細乃)黒髪ヲ靡カセテ、一人デ〔三字傍線〕長イコノ夜ヲ寢テ、私ヲ〔二字傍線〕戀シガルデアラウカナア。可愛サウニ〔五字傍線〕。
 
○敷細乃《シキタヘノ》――枕詞。袖・袂・衣手・枕・床・家などにつづくのであるが、ここは黒髪に冠してあるのは疑はしい。烏珠《ヌバタマ》の誤だらうとも言はれてゐるが、さうは思はれない。或は黒髪を隔てて布而《シキテ》につづけたものか。
〔評〕 別れた後の妻の胸中を察したのが、いたいたしい。黒髪布而《クロカミシキテ》が表現の重點をなして、官覺的の臭を添へてゐる。
 
494 吾妹子を 相知らしめし 人をこそ 戀のまされば 恨めしみ念へ
 
(484) 吾妹兒矣《ワギモコヲ》 相令知《アヒシラシメシ》 人乎許曾《ヒトヲコソ》 戀之益者《コヒノマサレバ》 恨三念《ウラメシミオモヘ》
 
今妻ト別レル時ニ當ツテ〔今妻〜傍線〕、戀シサニ堪ヘカネテ、私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ヲ私ニ仲立シテ逢ハセルヤウニシタ人ヲ、却ツテ〔三字傍線〕恨メシク思フヨ。
〔評〕 熱烈な愛情と止み難い離愁とが、理性を滅却してゐるのが、悲痛の感を惹さしめる。
 
495 朝日影 にほへる山に 照る月の 厭かざる君を 山越に記きて
 
朝日影《アサヒカゲ》 爾保敝流山爾《ニホヘルヤマニ》 照月乃《テルツキノ》 不厭君乎《アカザルキミヲ》 山越爾置手《ヤマゴシニオキテ》
 
(朝日影爾保敝流山爾照月乃)厭クコナナク可愛〔三字傍線〕イ妻ヲ、山ノアナタニ殘シテ置イテ遠クヘ行クカト思ヘバ悲シイ〔遠ク〜傍線〕。
 
○朝日影爾保敝流山爾照月乃《アサヒカゲニホヘルヤマニテルツキノ》――不厭君《アカザルキミ》と言はむ爲の序である。旭日の影がさし初めた、東の山の端に照つてゐる有明月の光の、隱れ行くを惜しむ意で續くのである。
〔評〕 序が優艶であり、結句は餘情を含めて輕く歌ひ納めてある。序詞は出立の際の實景を捕へたものかと思はれる。三首ともそれぞれ異なつた情味で離愁をあらはしてゐる。櫟子は決して凡手ではない。
 
柿本朝臣人麿歌四首
 
496 み熊野の 浦の濱木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも
 
三熊野之《ミクマヌノ》 浦乃濱木綿《ウラノハマユフ》 百重成《モモヘナス》 心者雖念《ココロハモヘド》 直不相鴨《タダニアハヌカモ》
 
私ハ女ノコトヲ〔七字傍線〕(三熊野之浦乃濱木綿)幾重ニモ、心ニハ思ツテヰルガ、直接ニ逢フコトガデキナイナア。アア逢ヒタイ〔六字傍線〕。
 
○三熊野之浦乃濱木綿《ミクマヌノウラノハマユフ》――紀伊の熊野の海岸に生ずる濱木綿といふ草は、その葉が幾重にも重なつてゐるので、(485)それを百重の序としたもの。濱木綿は濱おもとともいふ。我が國南國の海岸に生ずる石蒜科の常緑草本で、莖の高さ四尺に達するものがある。莖の上部に萬年青のやうな葉を出し、夏日、傘形をなして十餘の白花を着ける。花の色白く、木綿に似てゐるので、かく呼ぶのであらう。
〔評〕 序の材料が奇拔で面白い。熊野の濱木綿は珍らしい植物として、大和人の間に知られてゐたのであらう。全體に力の籠つた、重みのある、調の高い歌である。
 
497 いにしへに ありけむ人も 吾が如か 妹に戀ひつつ 宿ねがてずけむ
 
古爾《イニシヘニ》 有兼人毛《アリケムヒトモ》 如吾歟《ワガゴトカ》 妹爾戀乍《イモニコヒツヽ》 宿不勝家牟《イネガテズケム》
 
昔ノ人タチモ、私ノヤウニ妻ヲ戀ヒ慕ツテ、寢ラレナカツタダラウカ。ホントニ辛クテ仕樣ガナイ。ヨク昔ノ人ハコレヲ辛卯シタモノダ〔ホン〜傍線〕
 
○宿不勝家牟《イネガテズケム》――舊訓イネガテニケムであるが、代匠記の訓に從はう。母等米安波受家牟《モトメアハズケム》(四〇一四)・佐吉低己受祁牟《サキテコズケム》(四三二三)と同一語法である。
〔評〕 あまりの戀の苦しさに、古人もかかる經驗をしたかと疑つたのである。卷七の古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾挿頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトトカミワノヒバラニカザシヲリケム》(二一八)と上句全く同じで、それが柿本朝臣人麿之歌集出とあるのは注意すべきである。
 
498 今のみの わざにはあらず 古の 人ぞまさりて 哭にさへ泣きし
 
今耳之《イマノミノ》 行事庭不有《ワザニハアラズ》 古《イニシヘノ》 人曾益而《ヒトゾマサリテ》 哭左倍鳴四《ネニサヘナキシ》
 
妻ヲ戀ヒ慕フノハ〔八字傍線〕、今バカリノコトデハナイ。昔ノ人ハ却ツテ今ノ〔五字傍線〕人以上ニ悲シンデ〔五字傍線〕、聲ヲ出シテマデ泣イタモノダ。私バカリデモナイカラセメテ心ヲ慰メヨウ〔私バ〜傍線〕。
 
○哭左倍鳴四《ネニサヘナキシ》――ナキサヘナキシと略解にあるのは惡い。
(486)〔評〕 前の歌では、ふと思ひついたことを述べたが、古歌などを思ひ合はせると、音に泣くといふことをよんであるから、前の歌の意を自ら打ち消し、自ら慰めたものである。淋しい反省であり、悲しい靜觀である。
 
499 百重にも 來しけかもと 念へかも 君が使の 見れど飽かさらむ
 
百重二物《モモヘニモ》 來及毳常《キシケカモト》 念鴨《オモヘカモ》 公之使乃《キミガツカヒノ》 雖見不飽有哉《ミレドアカザラム》
 
百度デモ貴女ノ使ガ〔五字傍線〕重ネテ來ルヤウニト思フカラカ、貴女ノ使ヲ見テモ私ハ〔二字傍線〕滿足シナイノデアラウ。
 
○來及毳常《キシケカモト》――舊訓キオヨベカモトであるが、キオヨベでは意味が分らない。及の字は集中多くシクとよんであるから、キシケに違ない。古義にキシカヌとよんだのは、無理に字數を揃へたもので面白くない。毳は氈《カモ》と同じで、かもしか〔四字傍点〕などの毛で作つた敷物である。和名抄に「氈賀毛毛席、撚v毛爲v席也」とある。ここは冀望のカモに借り用ゐたのである。○雖見不飽有哉《ミレドアカザラム》――哉は元暦校本に武とあるがよい。
〔評〕 カモの重用も面白くないし、少しく理に落ちて、内容もさしてすぐれてはゐない。
 
碁檀越《ゴノダヌヲチ》往(ケル)2伊勢國(ニ)1時、留(レル)妻作(レル)歌一首
 
碁は姓、檀越は名であらう。傳は分らない。舊本の目録に碁を基に誤つてゐる。
 
500 神風の 伊勢の濱荻 折り伏せて 旅宿やすらむ 荒き濱邊に
 
神風之《カムカゼノ》 伊勢乃濱荻《イセノハマヲギ》 折伏《オリフセテ》 客宿也將爲《タビネヤスラム》 荒濱邊爾《アラキハマベニ》
 
(神風之)伊勢ノ濱ニ生エタ荻ヲ折リ伏セテ、淋シイ荒凉タル海岸デ、我ガ夫ハ〔四字傍線〕旅寢ヲナサルノデアラウ。サぞ辛イこと〔六字傍線〕デセウ。
 
○神風之《カムカゼノ》――枕詞。伊勢とつづく。八一參照。○伊勢乃濱荻――濱荻は濱に生えた荻。荻は薄によく似た禾本科の多年生草本で、水邊及び原野に自生する。薄と異なる點は葉に鋭齒がないことと、花穗が薄よりも大きくて、芒がないことである。
(487)〔評〕 女らしいやさしみの溢れた歌。演荻折伏《ハマヲギオリフセテ》に夫の辛苦を思ふ眞情があらはれてゐる。
 
柿本朝臣人麻呂歌三首
 
501 をとめらが 袖振る山の 瑞籬の 久しき時ゆ 思ひき吾は
 
未通女等之《ヲトメラガ》 袖振山乃《ソデフルヤマノ》 水垣之《ミヅガキノ》 久時從《ヒサシキトキユ》 憶寸吾者《オモヒキワレハ》
 
(未通女等之抽振山乃水垣之)久シイ以前カラ私ハ貴女ヲ〔三字傍線〕思ツテヰマシタ。
 
○未通女等之袖振山乃水垣之《ヲトメラガドデフルヤマノミヅガキノ》――久しきとつづく序詞。さうして未通女等之袖《ヲトメラガソデ》は、更に振山の序となつてゐる。振山は大和國山邊郡石上の布留で、即ち今の山邊村大字布留の高庭《タカバ》。紀に謂はゆる、石上神宮がここに祀られてゐる。水垣はその神宮の瑞籬で、すべて神社の周圍の垣をかく呼ぶのである。卷十三に?垣久時從《ミヅカキノヒサシキトキユ》(三二六二)とあり、?は若木の合字と思はれるから、ミヅはみづみづしく、若々しき意であらう。石上神宮奉祀の起源が、古い意を以て久しきとつづけたものらしい。但しこの神社が古く瑞籬宮、即ち崇神天皇の御世に建てられたから、瑞籬の久しとつづくのだとする説もあるが、從ひがたい。瑞籬宮は考慮に入れる要はあるまい。
〔評〕 未通女等之袖《ヲトメラガソデ》は、振山を言ひ出す爲に置いただけであるが、この詞がなつかしい美女への思慕の情を、ほのめかしてゐるやうに思はれる。さうして振山乃水垣之《フルヤマノミヅガキノ》は、その思慕の情の悠久さ、深切さ、眞面目さを示してゐるやうで、全體に輕浮な感じが少しも見えない。この歌は卷十一に處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者《ヲトメラヲソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒケリワレハ》(二四一五)とあつて、柿本朝臣人麿之歌集出としてある。
 
502 夏野行く 牡鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて念へや
 
夏野去《ナツヌユク》 小牡鹿之角乃《ヲシカノツヌノ》 束間毛《ツカノマモ》 妹之心乎《イモガココロヲ》 忘而念哉《ワスレテモヘヤ》
 
(夏野去小牡鹿之角乃)少時ノ間デモ、妻ノ親切ナ〔三字傍線〕心ヲ私ハ〔二字傍線〕忘レヨウカ。否々決シテ忘レハセヌ〔否々〜傍線〕。
 
○夏野去小牡鹿之角乃《ナツヌユクヲシカノツヌノ》――束間《ツカノマ》とつづく序詞。夏の野の雄鹿は、まだ角が伸びないで、短いからである。○束《》間毛《ツカノマモ》――束は一握だけの長さ。即ち元來空間的の稱呼であつたのを、時間的にも用ゐるやうになつたのである。
(488)○妹之心乎《イモガココロヲ》――妹が心のやさしさをの意。古義に「妹がことを心にといふ意なり」とあるのはどうであらう。○忘而念哉《ワスレテモヘヤ》――忘れて思はむや、忘れはせじといふので、念ふは極めて輕く用ゐてある。
〔評〕 序が實に巧である。短い若角を夏の野の草の上から覗かせて、のそりのそりと鹿が歩いてゐる姿は、當時の人の折々目睹するところであつたらう。全體に、悠揚たる、上品な、しかも切實な戀情があらはれてゐる。
 
503 珠衣の さゐさゐしづみ 家の妹に もの言はず來て 思ひかねつも
 
珠衣乃《タマギヌノ》 狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》 家妹爾《イヘノイモニ》 物不語來而《モノイハズキテ》 思金津裳《オモヒカネツモ》
 
別レヲ悲シンデ〔七字傍線〕(珠衣乃)ザワザワト騷イデヰル妻ヲ押シ〔四字傍線〕鎭メテ、強ヒテ平氣ヲ装ツテ〔九字傍線〕、家ノ妻ニ別レノ〔三字傍線〕辭モ言ハナイデ別レテ〔三字傍線〕來タノデ、悲シクテ思ヒニ堪ヘカネテヰルヨ。
 
○珠衣乃《タマギヌノ》――枕詞。蟻衣《アリギヌ》の誤とする説もあるが、この儘でよいであらう。珠は美稱で衣の音のさやさやと鳴るのを狹藍左謂《サヰサヰ》とつづけたもの。○狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》――サヰサヰは、さやさや、さわさわなどと同意で、騷ぐ音をいふ。シヅミは鎭めの意で、別れの悲しさに女の物騷がしく言ひ立てるのを、叱り鎭めての意であらう。○思金津裳《オモヒカネツモ》――思に堪へ兼ねるよの意。
〔評〕 悲しさを忍んで騷ぐ妻を叱りながら、しみじみと別れの辭も述べないで來た後の淋しさ、心苦しさを歌つたもので、男性らしい眞情があらはれてゐる。この歌、卷十四に
波受伎爾氏於毛比具流之母《アリキヌノサヱサヱシヅミイヘノイモニモノイハズキニテオモヒグルシモ》(三四八一)とある。その左註に、柿本朝臣人麿歌集中出見v上已記也とある。東歌中に人麿の歌と同歌があるのは研究を要する問題である。
 
柿本朝臣人麿妻歌一首
 
504 君が家に われ住坂の 家路をも 吾は忘れじ 命死なずは
 
君家爾《キミガイヘニ》 吾住坂乃《ワレスミサカノ》 家道乎毛《イヘヂヲモ》 吾者不忘《ワレハワスレジ》 命不死者《イノチシナズハ》
 
(君家爾吾)住坂ノ貴方ノ家〔三字傍線〕ヘ行ク道ヲ、私ハ私ノ命ノ〔四字傍線〕亡クナルマデハ忘レハシマスマイ。
 
(489)○君家爾吾住坂乃《キミガイヘニワレスミサカノ》――君家爾吾《キミガイヘニワレ》は住坂の序。住坂といふ地名に住みをかけたのである。住坂は大和國宇陀郡墨坂であらう。然らば萩原町の西にある。神武紀に「國見岳上有八十梟師、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置黒墨、其女坂男坂墨坂之號由以而起也」とあるところである。
〔評〕 住むとは男が女の許に通ふをいふのである。上は序ではあるが、女がかくの如き言をなす筈はない。三の句以下も女の歌らしくない。人麿妻歌とあるのを疑はぬわけには行かない。
 
安倍女郎歌二首
 
傳未詳。卷三の二六九に見えてゐる。
 
505 今更に 何をか念はむ うち靡き こころは君に 縁りにしものを
 
今更《イマサラニ》 何乎可將念《ナニヲカオモハム》 打靡《ウチナビキ》 情者君爾《ココロハキミニ》 縁爾之物乎《ヨリニシモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕心ハ打チ靡イテ、貴方ニオタヨリ申シタノデスカラ、今更何ヲ心配致シマセウニ。何ノ心配モアリマセヌ〔何ノ〜傍線〕。
 
○打靡《ウチナビキ》――句を隔てて縁爾之《ヨリニシ》につづいてゐる。
〔評〕 平明な、しかも力の籠つた眞情の歌。女性の貴い純一性が、直線的にあらはされてゐる。
 
506 吾が背子は 物な念ほし 事しあらば 火にも水にも 吾無けなくに
 
吾背子波《ワガセコハ》 物莫念《モノナオモホシ》 事之有者《コトシアラバ》 火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》 吾莫七國《ワレナケナクニ》
 
私ノ夫ハ、物ヲクヨクヨ〔四字傍線〕オ考ヘナサイマスナ。何カ事ノアル場合ニハ、火ノ中ニデモ水ノ中ニデモ、私ガ御一緒ニ〔四字傍線〕參ラナイコトハアリマセヌカラ。
 
○物莫念《モノナオモホシ》――舊訓モノナオモヒソであるが、必ずしもソで受けねばならなぬこともないから、故證の訓に從ふことにする。○吾莫七國《ワレナゲナクニ》――我が無いことはないよの意。七七參照。七を亡の誤とする説は從ふべきでない。
〔評〕 水火の中をも辭せない熱烈な戀情が、何の粉飾もなく、思つた儘に述べられてゐる。貴い純情の歌。卷一(490)の吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワガオホキミモノナオモホシセメガミノツギテタマヘルワレナケナクニ》(七七)と同型の歌である。
 
駿河|※[女+采]女《ウネメ》歌一首
 
駿河※[女+采]女の傳は明らかでない。卷八に駿河采女とあるも同人で、駿河國から召された采女であらう。
 
507 敷妙の 枕ゆくくる 涙にぞ 浮宿をしける 鯉の繁きに
 
敷細乃《シキタヘノ》 枕從久久流《マクラユククル》 涙二曾《ナミダニゾ》 浮宿乎思家類《ウキネヲシケル》 戀乃繁爾《コヒノシゲキニ》
 
私ノ〔二字傍線〕戀ノ心ガ深イノデ、(敷細乃)枕カラ漏レテ落チル涙デ、體ガ浮イテ〔五字傍線〕浮寢ヲシマシタヨ。
 
○敷細乃《シキタヘノ》――枕詞。枕とつづく、細をタヘとよむのは、和細布奉《ニギタヘマツリ》(四四三)とあると同意である。○枕從久久流《マクラユククル》――ククルは洩れ潜ること。伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》(一八九七)・保登等藝須木際多知久吉《ホトトギスコノマタチクキ》(三九一一)・波流乃野能之氣美登妣久久《ハルノヌノシゲミトビクク》(三九六九)のクキ、ククも同じである。
〔評〕 かなり誇張した言ひ方である。浮寢といふ言葉に弄語的氣分が見える。この傾向を進めて行くと、古今集の「涙川枕流るる浮寢には夢もさだかに見えずぞありける」になるのである。
 
三方沙彌歌一首
 
三方沙彌は卷二に出てゐる。一二三參照。
 
508 衣手の 別る今夜ゆ 妹も吾も いたく戀ひむな 逢ふよしをなみ
 
衣手乃《コロモデノ》 別今夜從《ワカルコヨヒユ》 妹毛吾母《イモモワレモ》 甚戀名《イタクコヒムナ》 相因乎奈美《アフヨシヲナミ》
 
二人デ〔三字傍線〕袂ヲ分ツ今夜カラハ、再ビ相逢フコトガ出來ナイノデ、妻モ私モ甚ク戀ヒ慕フデアラウナア。
 
○衣手乃《コロモデノ》――枕詞にも用ゐられるが、ここはさうではない。下につづいて、謂はゆる袂を別つことをいつたの(491)である。○別今夜從《ワカルコヨヒユ》――別るは下二段の動詞であるから、ワカルルといふべきであるが、代匠記にワカルとよんだのが一般に行はれてゐる。卷十八に流水沫能《ナガルミナワノ》(四一〇六)とあるナガルも同格である。或は古訓にワクコヨヒヨリとある方がよいかも知れない。○甚戀名《イタクコヒムナ》――ナはナアの意の歎辭である。
〔評〕 三方沙彌が、園臣生羽の女を娶つて幾時もなく病に臥した時の歌が、卷二の一二三以下に三首出てゐる。これも生羽の女との別れ難さの情を述べたものか。素直な言ひ方のうちに、相愛の夫婦の離別の哀感がよくあらはれてゐる。
 
丹比眞人笠麻呂《タヂヒノマヒトカサマロ》下(レル)2筑紫國(ニ)1時作(レル)歌一首并短歌
 
丹比眞人笠麻呂の名は卷三の二八五に見えてゐる。傳は明らかでない。
 
509 たわやめの 匣に乘れる 鏡なす 見津の濱邊に さ丹づらふ 紐解き離けず 吾妹子に 戀ひつつをれば 明ぐれの 朝霧隱り 鳴く鶴の 哭のみし哭かゆ 吾が戀ふる 千重の一重も 慰もる 心もあれやと 家のあたり 吾が立ち見れば 青旗の 葛城山に 棚引ける 白雲隱り 天さかる 夷の國邊に 直向ふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ 朝なぎに 水手の聲喚び 夕なぎに 楫の音しつつ 波の上を い行きさぐくみ 磐の間を い往きもとほり 稻日都麻 浦回を過ぎて 鳥じもの なづさひゆけば 家の島 荒磯の上に うち靡き しじに生ひたる 莫告藻が 何どかも妹に 告らず來にけむ
 
臣女乃《タワヤメノ》 匣爾乘有《クシゲニノレル》 鏡成《カガミナス》 見津乃濱邊爾《ミツノハマベニ》 狹丹頬相《サニヅラフ》 紐解不離《ヒモトキサケズ》 吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》 明晩乃《アケグレノ》 旦霧隱《アサギリガクリ》 鳴多頭乃《ナクタヅノ》 哭耳之所哭《ネノミシナカユ》 吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》 名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアレヤト》 家當《イヘノアタリ》 吾立見者《ワガタチミレバ》 青※[弓+其]乃《アヲハタノ》 葛木山爾《カヅラキヤマニ》 多奈引流《タナビケル》 白雲隱《シラクモガクリ》 天佐我留《アマサカル》 夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》 直向《タダムカフ》 淡路乎過《アハヂヲスギ》 粟島乎《アハシマヲ》 背爾見管《ソガヒニミツツ》 朝名寸二《アサナギニ》 水手之音喚《カコノコヱヨビ》 暮名寸二《ユフナギニ》 梶之聲爲乍《カヂノトシツツ》 浪上乎《ナミノヘヲ》 五十行左具久美《イユキサグクミ》 磐間乎《イハノマヲ》 射往廻《イユキモトホリ》 稻日都麻《イナビツマ》 浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》 鳥自物《トリジモノ》 魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》 家乃島《イヘノシマ》 荒礒之宇倍爾《アリソノウヘニ》 打靡《ウチナビキ》 四時二生有《シジニオヒタル》 莫告我《ナノリソガ》 奈騰可聞妹爾《ナドカモイモニ》 不告來二計謀《ノラズキニケム》
 
(492)(臣女乃匣爾乘有鏡成)三津ノ濱邊ニ、赤イ紐モ解キ放サズニ、丸寢ヲシテ〔五字傍線〕我ガ妻ヲ戀ヒ慕ヒツツ居ルト、私ハ〔二字傍線〕夜明ケ方ノ薄暗イ時ニ、立ツ朝霧ニ隱レテ鳴ク鶴ノヤウニ、聲ヲ出シテ哭クバカリデアル。私ガ戀ヒ慕フ心ノ千分ノ一ダケデモ、慰ムルコトガ出來ルカト思ツテ、家ノ邊ヲ私ガ立ツテ眺メルト、(青※[弓+其]乃)葛城山ニ棚曳イテヰル白雲ニ隱レテ見エナイ。(天佐我留)田舍ノ國ノ方ニココカラ直接ニ對シテヰル淡路ヲ過ギ、粟島ヲ斜ニ見ナガラ、朝風ノ凪イダ時ニ水夫ガ掛聲ヲ合ハセテ舟ヲ漕ギ〔四字傍線〕、夕方風ノ静マツタ時ニ櫂ノ音ヲサセナガラ、浪ノ上ヲ漕イデ〔三字傍線〕、押シ分ケテ行ツテ、岩ノ間ヲ行キ廻ツテ印南郡麻ノ浦ノメグリヲ過ギテ、(鳥自物)浪ニ漬ツテ難儀ヲシナガラ〔七字傍線〕、行クト、家ノ島ガ見エテ、家ガナツカシク思ハレルガ〔家ノ〜傍線〕、(家乃島荒磯之宇倍爾 打靡四時二生有 莫告我)ドウシテ妻トヨク〔二字傍線〕話モシナイデ來タデアラウ。コンナニ戀シイノニ〔九字傍線〕。
 
○臣女乃《タワヤメノ》――マウトメノ、オミノメノ、ミヤビメノなどの訓があるが、恐らく姫の字を別つて臣女の二字としたもので、タワヤメノとよむのであらう。木村正辭は官女の意でタヲヤメとよむべきだと言つてゐる。タヲヤメの訓もよいやうだが、卷十五に多和也女能《タワヤメノ》(三七五三)とあるに從ふべきであらう。○匣爾乘有鏡成《クシゲニノレルカガミナス》――櫛笥の上に乘せて見る鏡の如くの意で、この句までは見津乃濱邊爾《ミツノハマベニ》の序詞である。見津乃濱は難波。○狹丹頬相《サニヅラフ》――サは發語。ニヅラフは色の赤く匂ふこと。○紐解不離《ヒモトキサケズ》――衣の紐を解かず、丸寢する意。○明晩乃《アケグレノ》――夜明け方の暗き頃の。○名草漏《ナグサモル》――ナグサムルと訓めと古義には言つてゐるが、モルともムルとも通じて用ゐたので、漏の字は何處漏香《イヅクモリテカ》(二二三八)などの如くモルとよんであるから、これもナグサモルでよろしい。○青※[弓+其]乃《アヲハタノ》――枕詞。青い布《ハタ》を縵として頭に纏うたので、青幡の縵の意でつづいたものか。紫綵色之※[草冠/縵]《ムラサキノマダラノカヅラ》(二九九三)とある類であらう。但し卷十三に、青幡之忍坂山者《アヲハタノオサカノヤマハ》(三三三一)とあるので見ると、山の青々としてゐるのを譬へて、青布《アヲハタ》の如き葛城山とも、忍坂山とも言つたものかも知れない。冠辭考には※[弓+其]を楊の誤としてアヲヤギノと訓んでゐる。○葛木山爾《カヅラキヤマニ》――大和河内國境の峻嶺で、南葛城郡に屬してゐる。即ち金剛山である。○白雲隱《シラクモガクリ》――この句で切(493)れたものと見るべきである。○天佐我留《アマサカル》――枕詞。我は濁音の字であるが、ここは清音に用ゐたものであらう。○夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》――西國地方をさして夷といつたもの。○直向《タダムカフ》――宣長はタダムカヒとよんだが、この句は卷十五に、可良久爾爾和多理由加武等多太牟可布美奴面乎左指天《カラクニニワタリユカムトタダムカフミヌメヲサシテ》(三六二七)とあるやうに、下の、淡路に冠してあるので、三津の濱と相對してゐる淡路の意で、上の夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》は、句を隔てて魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》につづくのである。○粟島乎《アハシマヲ》――卷三の三五八參照。○五十行左具久美《イユキサグクミ》――イは發語。サグクムはサクムに同じ。蹈み分けること。○射往廻《イユキモトホリ》――イは發語。行きめぐること。○稻日都麻《イナビツマ》――加古川の河口にあつた小島らしい。後世陸に連つて、高砂と稱した。播磨風土記には、景行天皇がこの地に行幸あらせられた時に、印南別孃《イナミノワキイラツメ》がそれを聞いて驚き畏れて、南※[田+比]都麻島《ナビツマシマ》に遁れたので、天皇もそのあとを尋ねてこの島に渡つて別孃にお逢ひになつて、この島に隱愛妻と《イナミハシツマアリ》と仰せになつたので、それからそこを南※[田+比]都麻《ナビツマ》とよんだと記してある。これは例の地名傳説に過ぎない。ツマは恐らく端《ツマ》で、印南の突端などの意らしい。○家乃島《イヘノシマ》――播磨の海中にあり、古は揖保郡に屬してゐたが、今は飾磨郡になつてゐる。室津の南七海里で面積は三分の一方里ある。二四九の地圖參照。○莫告我《ナノリソガ》――莫告の二字をナノリソとよんだのだ。ナノリソはほんだはらのこと。三六二の圖參照。我《ガ》は毛《モ》又は能《ノ》の誤とする説もあるが、この儘でよい。家乃島からこれまでの五句は、家の島の荒磯の上に、打ち靡いて繁く生ひたる莫告藻の意で、不告來二計謀《ノラズキニケム》に冠した序詞。
〔評〕 吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡《ワガコフルチヘノヒトヘモナグサモルココロモアレヤト》の四句は卷二の二〇七の柿本人麿の歌と同じで、粟島乎背爾見管《アハシマヲソガヒニミツツ》も卷三の三五八の山部赤人の歌にある句で、多少先人のあとを踏んだ點はあるが、旅情のよくあらはれた、平明な佳作と言つてよいと思ふ。
 
反歌
 
510 白妙の 袖解き更へて 還り來む 月日をよみて 往きて來ましを
 
白妙乃《シロタヘノ》 袖解更而《ソデトキカヘテ》 還來武《カヘリコム》 月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》 往而來猿尾《ユキテコマシヲ》
 
(494)妻卜別レタ時ニ〔七字傍線〕(白妙乃)袖ヲ解キ交シテ、筑紫カラ〔四字傍線〕歸ツテ來ル月日ヲ數ヘテ、行ツテ來ル筈デアツタノニ。サウモセズニ別レテ來テ惜シイコトヲシタ〔サウ〜傍線〕。
 
○袖解更而《ソデトキカヘテ》――袖を解きかはしての意で、二人で共寢することらしい。宣長が、袖を解き離して形見として携へ行く意としたのは、どうであらう。袖は紐の誤といふ説も尤らしいが、白妙乃といふ枕詞につづくには、袖の方が穩やかである。
〔評〕 二句と四句とに而の字を置いたのも、煩はしい感があり、叙法も少しごてついた點がある。
 
幸(ノ)2伊勢國(ニ)1時、當麻《タギマ》麻呂大夫妻作歌一首
 
511 わが背子は いづく行くらむ 奧つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ
 
吾背子者《ワガセコハ》 何處將行《イヅクユクラム》 已津物《オキツモノ》 隱之山乎《ナバリノヤマヲ》 今日歟超良武《ケフカコユラム》
 
卷一の四三に當麻眞人麿妻作歌、吾勢枯波何所行良武已津物隱乃山乎今日香越等六《ワガセコハイヅクユクラムオキツモノナバリノヤマヲケフカコユラム》として出てゐるのと、全く同じであるから、解も評も省く。
 
草孃歌一首
 
草人は田舍者のことであるから、草孃は田舍娘の義であらう。略解には草香孃《クサカノイラツメ》の香が落ちたのかといつてゐる。古義には娼婦のこととしてゐる。
 
512 秋の田の 穗田の刈ばか かより合はば そこもか人の わを言なさむ
 
秋田之《アキノタノ》 穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》 香縁相者《カヨリアハバ》 彼所毛加人之《ソコモカヒトノ》 吾乎事將成《ワヲコトナサム》
 
貴方ト私トガ〔六字傍線〕(秋田之穗田乃刈婆加)寄リ合ツタナラバ、ソレヲモ、人ガ私ヲ兎ヤ角ト〔四字傍線〕惡評スルデアラウ。
 
○穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》――穗の出た田の刈り取る範圍での意、刈婆加《カリバカ》は刈分。ハカはワカツ、アガツなどと同語。稻(495)を刈り取るべき範圍を量つて、區分するのであらう。ハカルも同一系の語で、今、ハカが行くとか、ハカどるなどと用ゐるのもこれであらう。卷十に秋田吾苅婆可能過去者《アキノタノワカカリバカノスギヌレバ》(二一三三)、卷十六に草苅婆可爾鶉乎立毛《カヤカリバカニウヅラヲタツモ》(三八八七)とあるも同じである。初の二句は序詞。苅り取るべき同一區域内の稻は、寄り合ふから、香縁相者《カヨリアハバ》とつづけたのであらう。○香縁相者《カヨリアハバ》――カは發語。この句は男と寄り合はばの意。○彼所毛加人之《ソコモカヒトノ》――その點を人がの意。○吾乎事將成《ワヲコトナサム》――コトナサムは言葉に言ひ立てむの意。
〔評〕 田舍少女らしい歌だ。材料が野臭を帶びてゐて、耕人の作としてふさはしい。
 
志貴皇子(ノ)御歌一首
 
天智天皇の皇子であらせられた施基皇子か、天武天皇の皇子の磯城皇子か、確かなことは分らない。紀に施基を志貴と記したところもあるから、これは天智天皇の皇子と見てよいであらう。五一・二三〇參照。
 
513 大原の この市柴の いつしかと 吾がもふ妹に 今宵逢へるかも
 
大原之《オホハラノ》 此市柴乃《コノイチシバノ》 何時鹿跡《イツシカト》 吾念妹爾《オモヘルイモニ》 今夜相有香裳《コヨヒアヘルカモ》
 
(大原之此市柴乃)何時逢ヘル〔三字傍線〕カ何時逢ヘル〔三字傍線〕カト、私ガ戀シガツテヰル妻ニ、ヤツトノコトデ〔七字傍線〕今夜逢ツタワイ。嬉シイ、嬉シイ〔六字傍線〕。
 
○大原之《オホハラノ》――卷二の一〇三に大原乃古爾之郷爾《オホハラノフリニシサトニ》とあつた所。○此市柴乃《コノイチシバノ》――市柴は卷八に此五柴爾《コノイツシバニ》(一六四三)、卷十一に道邊乃五柴原能《ミチノベノイツシバハラノ》(二七七〇)とあるイツシバと同じで、茂つた柴である。芝草と見る説もあり、路邊乃など訓んである點を考へれば、それも尤もらしいが、大原は山間であるから、木の柴と見るがよいやうに思はれる。卷一の九の五可新《イツカシ》(嚴橿)も同じであらう、この二句は序詞で、イチとイツと類似音を繰返したもの。○何時鹿跡《イツシカト》――鹿をシカとよんだのではない。鹿はカとよむのが常である。卷八に秋風之吹爾之日從何時可登《アキカゼノフキニシヒヨリイツシカト》(一五二三)(496)とあるを見よ。
〔評〕 如何にも喜ばしさうで、愉快な歌である。志貴皇子が大原に住み給うた時の作であらう。
 
阿倍女郎歌一首
 
阿倍女郎は二六九參照。
 
514 吾が背子が けせる衣の 針目落ちず 入りにけらしも 我が心さへ
 
吾背子之《ワガセコガ》 盖世流衣之《ケセルコロモノ》 針目不落《ハリメオチズ》 入爾家良之《イリニケラシモ》 我情副《ワガココロサヘ》
 
私ノ夫ガ着テ居ラレル着物ノ針目ノ一ツ一ツニ、私ノ心マデモ入リ込ンダモノト見エマスヨ。私ノ心ハ貴方ニ附キキリニ附イテヰテ、離ルコトハアリマセヌ〔私ノ〜傍線〕。
 
○蓋世流衣之《ケセルコロモノ》――ケセルは着すに、完了の助動詞リが附いたもの。スは敬語。○針目不落《ハリメオチズ》――針目毎にといふに同じい。寢衣不落《ヌルヨオチズ》(六)とあつたのと同じである。○入爾家良之《イリニケラシモ》――この句の終に、毛《モ》又は奈《ナ》の脱字があるに違ない。しばらく類聚古集に從つて、イリニケラシモとよんで置く。
〔評〕 この女郎が、自ら仕立てた着物を着てゐる男に贈つた歌であらう、相手は多分、次の中臣朝臣東人ではあるまいか。針目不落《ハリメオチズ》は女でなくては詠めない詞である。一針毎に自分の魂を縫ひ込んだ熱烈な全身的な戀が、いたましくあはれである。
 
中臣朝臣東人贈(レル)2阿倍女郎(ニ)1歌一首
 
續紀、和銅四年四月の條に、「正七位上中臣朝臣東人授2從五位下1」とあり、それから式部少輔・右中辨・兵部大輔などを經て、天平五年三月從四位下に叙せられてゐる。三代實録に「故刑部卿從四位下中臣朝臣東人」とあるから刑部卿になつたらしい。
 
(497)515 獨寢て 絶えにし紐を ゆゆしみと 爲むすべ知らに ねのみしぞ泣く
 
獨宿而《ヒトリネテ》 絶西紐緒《タエニシヒモヲ》 忌見跡《ユユシミト》 世武爲便不知《セムスベシラニ》 哭耳之曾泣《ネノミシゾナク》
 
私ガ獨デ寢テヰテ着物ノ〔三字傍線〕紐ガ切レテシマツタノガイマイマシク、何トモ仕樣ガナクテ、聲ヲ出シテ泣イテバカリヰルヨ。アア困ツタ〔五字傍線〕。
 
○絶四紐緒《タエニシヒモヲ》――絶えた紐がの意。緒《ヲ》は助詞である。○忌見跡《ユユシミト》――ゆゆしさにとての意で、いまいましく腹立たしいこと。
〔評〕 獨寢の床に丸寢の衣の紐が絶えたのは、忌はしいことであつたらう。種々な不吉な聯想も湧いて來るわけである。男の歌としては、下の句が誇張に過ぎたやうでもあるが、それが萬葉人らしいところでもある。
 
阿倍女郎答(フル)歌一首
 
516 吾が持たる 三相に搓れる 絲もちて 附けてましもの 今ぞ悔しき
 
吾以在《ワガモタル》 三相二搓流《ミツアヒニヨレル》 絲用而《イトモチテ》 附手益物《ツケテマシモノ》 今曾悔寸《イマゾクヤシキ》
 
私ガ持ツテヰル文夫ナ〔三字傍線〕三ツ合ノ糸デモツテ、貴方ノ紐ヲシツカリト〔十字傍線〕附ケテ上ゲル筈デシタノニ、切レマシタサウデ〔八三字傍線〕今更殘念デスヨ。
 
○三相二搓流絲用而《ミツアヒニヨレルイトモチテ》――三相二搓流絲《ミツアヒニヨレルイト》は三本の糸をより合はせた謂はゆる三つ合《コ》の糸で、丈夫な強いものである。出雲風土記に三自之綱打掛而《ミツヨリノツナウチカケテ》とあるミツヨリノツナも三本搓の綱である。(但し三自之綱は三身之綱だといふ説もある。)孝徳紀に三絞之鋼ともある。
〔評〕 これも女らしい情緒を端的に表現した歌である。この人の作は尠いが、いづれも光つてゐる。
 
大納言兼大將軍大伴卿歌一首
 
この大伴卿は安麻呂であらう。續紀に、「和銅七年五月朔、大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麻呂(498)薨」とある。
 
517 神樹にも 手は觸るとふを うつたへに 人妻といへば 觸れぬものかも
 
神樹爾毛《カムキニモ》 手者觸云乎《テハフルトフヲ》 打細丹《ウツタヘニ》 人妻跡云者《ヒトヅマトイヘバ》 不觸物可聞《フレヌモノカモ》
 
神聖ナ〔三字傍線〕神ノ木デモ、手ヲ觸レルモノダトイフノニ、人ノ妻ダトイフト、全然手ヲ觸レテハナラナイモノカナア。戀シイケレドモ仕方ガナイ〔戀シ〜傍線〕。
 
○神樹爾毛《カムキニモ》――舊訓サカキニモとあるのはよくない。これは神木の意であるから、カムキがよい。カミキでもよいやうに思はれるが、神風《カムカゼ》・神柄《カムカラ》・神集《カムツドヒ》・神議《カムハカリ》・神上《カムアガリ》・神降《カムクダシ》の類、多くカムであるから、これもカムキとして置かう。○打細丹《ウツタヘニ》――ひとへに、うちつけに、全然などの意。
〔評〕 人妻を戀した苦惱がいたましい。義理と人情との葛藤も見え、漸くきびしくなりかけて來た道徳の桎梏に對する、上代人の呪の聲とも聞かれる。
 
石川郎女歌一首
 
元暦校本、その他の古寫本に、小字で、ここに「即佐保大伴大家也」と註してある。大家は姑のことであるが、ここでは安麻呂の未亡人を尊んでかう記したのであらう。内命婦で、名を邑婆《オホバ》と言つた人である。
 
518 春日野の 山邊の道を よそりなく 通ひし君が 見えぬ頃かも
 
春日野之《カスガヌノ》 山邊道乎《ヤマベノミチヲ》 與曾理無《ヨソリナク》 通之君我《カヨヒシキミガ》 不所見許呂香裳《ミエヌコロカモ》
 
春日野ノ山ノホトリノ道ヲ、何ノタヨリトスルモノモナクテ、タダ一人デ淋シク〔八字傍線〕通ツテオイデナサツタ貴方ガ、コノ頃ハオ見エニナリマセンネ。ドウナサツタノデセウ〔十字傍線〕。
 
○與曾理無《ヨソリナク》――ヨソリは寄り從ふこと。ここは心のたよるところの意であるから、ヨソリ無くは便なく、淋し(499)いこと。新訓には、元暦校本に與を於とあるによつて、恐《オソリ》なくとしてゐる。
〔評〕 春日野の山邊の道といへば、如何にも淋しさうだ。其處を夜毎に通うて來た愛人の途絶えに、不安な心持を歌つたもの。これも女らしい作である。
 
大伴女郎歌一首
 
元暦校本、その他の古寫本に小字で、ここに「今城王之母也、今城王後賜2大原眞人(ノ)氏1也」と註してある。大伴旅人の妻の大伴郎女と同人かどうかは分らない。
 
519 雨障り 常する君は ひさかたの きぞの夜の雨に 懲りにけむかも
 
雨障《アマサハリ》 常爲公者《ツネスルキミハ》 久堅乃《ヒサカタノ》 昨夜雨爾《キゾノヨノアメニ》 將懲鴨《コリニケムカモ》
 
雨嫌ヒデ外出ナサラナイ貴方ハ到頭オイデニナリマセンデシタネ〔到頭〜傍線〕。昨夜ノ(久竪乃)雨ニオ戀リナサツタノデセウヨ。
 
○雨障《アマザハリ》――雨に障へられて家に閉ぢ籠つてゐること。次の歌に雨乍見《アマヅツミ》とあるによつて、この句をもさう訓まうとする説は從はれない。○昨夜雨爾《キゾノヨノアメニ》――舊訓はヨフベノアメニであつたのを、略解にキノフノアメニ、古義にキゾノアメニとしたが、昨はキゾであるからキゾノヨとよむべきものと思はれる。キゾヨでもよいかと思はれるが、キノフがキゾノヒの略であるのに傚つて、ノを添へてよむことにしよう。卷二にも君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》(一五〇)とある。
〔評〕 愛人が訪ねて來なかつた翌朝、詠んで贈つた歌であらう。初の二句はかなり皮肉な言葉である。古義・新考に、今夜は來まさぬならむの意としてゐるのはどうであらう。
 
後人追(ヒテ)同(フル)歌一首
 
元暦校本には同の字がない。同は和の誤と童蒙抄にある。同も和も意は異ならない。なぞらふる(500)とよむがよからう。
 
520 ひさかたの 雨も降らぬか 雨づつみ 君にたぐひて この日暮さむ
 
久堅乃《ヒサカタノ》 雨毛落糠《アメモフラヌカ》 雨乍見《アマヅツミ》 於君副而《キミニタグヒテ》 此日令晩《コノヒクラサム》
 
(久堅乃)雨デモ降ラナイカナア。サウシタラ貴方ハ雨嫌ヒデ外出ナサラナイカラ、私ハ〔サウ〜傍線〕貴方ト一緒ニ並ンデヰテ、今日ノ日ヲ暮ラシマセウ。
 
○雨毛落糠《アメモフラヌカ》――雨も降らないかよ。降れよの意。糠を元暦校本に粳に作る。○雨乍見《アマヅツミ》――雨の爲に屋内に籠りゐること。○於君副而《キミニタグヒテ》――君と並んでの意。
〔評〕 後人が大伴女郎の意に和して詠んだので、女郎の言はむとするところを忖度して言つたわけである。雨障常爲公《アマザハリツネスルキミ》であるから、終日君と並び暮さむ爲に、雨も降れよと希つたところが面白い。
 
藤原|宇合《ウマカヒノ》大夫、遷(サレテ)v任(ヲ)上(ル)v京(ニ)時、常陸娘子贈(レル)歌一首
 
字合は馬養と同じで、マの字を省き合《カフ》をカヒに用ゐたものか。續紀に「養老三年七月、始置2按祭使1常陸國守正五位上藤原宇合管2安房上總下總三國1」とあるから、上京はこの任期の果てた時、即ち養老七年頃であつたらう。常陸娘子は常陸國にゐた遊女であらう。
 
521 庭に立つ 麻を刈り干し しきしぬぶ 東女を 忘れたまふな
 
庭立《ニハニタツ》 麻乎刈干《アサヲカリホシ》 布慕《シキシヌブ》 東女乎《アヅマヲミナヲ》 忘賜名《ワスレタマフナ》
 
庭ニ生エテヰル麻ヲ苅ツテ干シテ敷キ並ベテ、シキリニ貴方樣ノコトヲ〔七字傍線〕思ヒ出シマスコノ賤シイ〔四字傍線〕東ノ國ノ女ヲオ忘レナサイマスナ。
 
○麻乎刈干《アサヲカリホシ》――舊本|麻手《アサテ》とあるが、類聚古集によつて置かう。但し卷十四に爾波爾多都安佐提古夫須麻《ニハニタツアサデコブスマ》(三四五四)とあるによれば、麻手は麻布《アサタヘ》のことである。○布慕《シキシヌブ》――シキは敷き並べる意と、頻りにとをかけたもの。元暦(501)校本に布暴とあるので、新訓にヌノサラスとよんでゐる。尚考ふべきである。
〔評〕 常陸娘子は國守宇合の知遇を得た女であるから、麻を苅り干してゐた勞働女ではあるまい。恐らく宴席などに侍つた遊女であらうが、田舍女として、耕人の業をよみ込んであるのが面白い。千載集に「あさでほすあづまをとめのかやむしろしきしのびても過ごす頃かな」とあるのはこれによったものである。シキシヌブの訓が古いこともこれで分る。
 
京職大夫藤原大夫、賜(レル)2大伴郎女(ニ)1歌三首
 
京職大夫は左右京職の長官。藤原大夫は元暦校本などに下に小字で「卿諱曰麻呂也」とあるやうに藤原麻呂のことである。續紀養老五年六月の條に「從四位上藤原朝臣麻呂爲2左右京大夫1」とある。不比等の第四子で、その家を京家と稱するやうになつたのも、左右京大夫であつた爲である。元暦校本に京職の下、大夫を缺き賜を贈に作つてゐる。次の五二八の左註にあるやうに、麻呂は穗積親王の薨後坂上郎女を得たのであるが、その交情は長く續かなかつたらしい。麻呂は天平九年七月まで存命してゐたにもかかはらず、郎女は天平以前に於て大伴宿奈麻呂と婚し、その間に坂上大孃を産んだからである。三七九題詞の註參照。
 
522 をとめらが 珠匣なる 玉櫛の 神さびけむも 妹に逢はずあれば
 
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠篋有《タマクシゲナル》 玉櫛乃《タマクシノ》 神家武毛《カミサビケムモ》 妹爾阿波受有者《イモニアハズアレバ》
 
少女ドモガ持ツテヰル〔五字傍線〕立派ナ櫛笥ノ中ノ立派ナ櫛ノヤウニ、妻ニ逢ハナイウチニ妻ハ〔二字傍線〕古クナツテシマツタラウ。
 
○神家武毛《カミサビケムモ》――舊訓メヅラシケムモとあるのはわからない。古義にタマシヒケムモとあるのも、神をタマシヒとよんだ例は他に無いから、從ひがたい。暫く契沖説によつてカミサビケムモとよまう。モは歎辭。上は櫛笥の中なる櫛の、垢つきて古々しくなつたのに譬へたものであらう。
〔評〕 上句の譬喩が、五句の妹と關係があつて面白い。
 
523 よくわたる 人は年にも ありとふを 何時の間にぞも 吾が戀ひにける
 
(502)好渡《ヨクワタル》 人者年母《ヒトハトシニモ》 有云乎《アリトフヲ》 何時間曾毛《イツノマニゾモ》 吾戀爾來《ワガコヒニケル》
 
ヨク忍耐スル人ハ、妻ニ逢ハナイデ〔七字傍線〕一年間モ辛抱スルトイフコトダガ、私ハ妻ト別レタノハ〔九字傍線〕何時ノコトカ、ツヒコノ間ノコトダノニ〔十字傍線〕、私ハ妻ヲモウ〔四字傍線〕戀ヒシク思ツテヰルヨ。
 
○好渡《ヨクワタル》――好く年月を渡りて堪へ忍ぶ意。○何時間曾毛《イツノマニゾモ》――イツノホドゾモの訓もよいが、ここは拾穗抄・略解などによつて置かう。
〔評〕 この歌は、卷十三に年渡麻弖爾毛人者有云乎何時之間曾母吾戀爾來《トシワタルマデニモヒトハアリトイフヲイツノマニゾモワガコヒニケル》(三二六四)とあるのと殆ど同じで、麻呂が古歌を記憶してゐて用ゐたものらしい。
 
524 蒸ぶすま なごやが下に 臥せれども 妹とし宿ねば 肌し寒しも
 
蒸被《ムシブスマ》 奈胡也我下丹《ナゴヤガシタニ》 雖臥《フセレドモ》 與妹不宿者《イモトシネネバ》 肌之寒霜《ハダシサムシモ》
 
苧麻布ノ蒲團ノ柔ラカナ下ニ寢テヰルガ、妻ト一緒ニ寢ナイノデ、膚ガ寒イヨ。
 
○蒸被《ムシブスマ》――暖き衾の意とする説もあるが、苧麻《ムシ》の衾であらう。ムシはカラムシのムシである。古事記須勢理比賣の御歌に、牟斯夫須麻爾古夜賀斯多爾《ムシブスマニコヤガシタニ》とあるも同じ。舊訓アツフスマとあるのはよくない。蒸の字、※[蒸の草冠なし]とある本は惡い。元暦校本による。○奈胡也我下丹《ナゴヤガシタニ》――なごやかなるが下にの意。奈を爾の誤と久老が言つたのは從ひ難い。ナゴもニゴも相通じて同意である。○雖臥《フセレドモ》――フシタレド、コヤセレドの訓もあるが、舊訓のままでよい。
〔評〕 古事記の歌にただ一回用ゐられた、蒸被云々といふ古い句を生かして使つてゐるのが、作者の得意なところであらう。下句は上代人らしい、むき出しの叙法である。
 
大伴郎女和(フル)歌四首
 
大伴の下に坂上の二字が脱ちたものか。
 
525 佐保河の 小石踐み渡り ぬばたまの 黒馬の來る夜は 年にもあらぬか
 
(503)狹穗河乃《サホガハノ》 小石踐渡《コイシフミワタリ》 夜干玉之《ヌバタマノ》 黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》 年爾母有糠《トシニモアラヌカ》
 
佐保川ノ小石ヲ踐ミ渡ツテ、貴方樣ノ乘ツテイラツシヤル〔貴方〜傍線〕(夜干玉之)黒馬ガ私ノ所ヘ〔四字傍線〕通ツテ來ル夜ガ、一年ニ一度デモヨイカラ、アリタイモノデスヨ。
 
○小石踐渡《コイシフミワタリ》――舊訓サザレフミワタリとあるが、文字通りにコイシフミワタリと訓む方がよいやうである。サザレは小さいことで、小石は卷十四に佐射禮伊思爾《サザレイシニ》(三五四二)・左射禮之母《サザレシモ》(三四〇〇)とあるやうに、サザレイシ又はサザレシと言ふべきである。又この歌は次の評に掲げた卷十三の歌から出たもので、その歌によつてもコイシとよむ方がよいやうである。○黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》――黒馬は舊訓コマである。宣長は黒の音コクをコに用ゐたやうに言つてゐるが、この文字をコマと訓ましめるのは無理であり、且、他の用例を見ても、烏玉之黒馬爾乘而《ヌバタマノクロマニノリテ》(三三〇三)・野干玉之黒馬之來夜者《ヌバタマノクロマノクルヨハ》(三三一三)の如く、必ずヌバタマノの枕詞を冠してゐるから、クロと訓まなければならない。○年爾母有糠《トシニモアラヌカ》――せめて一年に一度あれかしの意。
〔評〕 卷十三に川瀬之石迹渡野干玉之黒馬之來夜者常二有沼鴨《カハノセノイシフミワタリヌバタマノクロマノクルヨハツネニアラヌカモ》(三三一三)とあるを本歌としたもの。佐保川といふ附近の地名を採り入れ、麻呂からして好渡人者年母有云乎《ヨクワタルヒトハトシニモアリトフヲ》と言つてよこしたので、七夕の年のわたりを思ひ浮べ、佐(504)保川を天の川に見立てて、原歌の常《ツネ》を年に改作したものであらう。平安中期から段々盛になつた。本歌取はこの集でも、かうした人たちの間に既に行はれてゐたのである。
 
526 千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ浪 止む時も無し 吾が戀ふらくは
 
千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河瀬之《サホノカハセノ》 小浪《サザレナミ》 止時毛無《ヤムトキモナシ》 吾戀爾《ワガコフラクハ》
 
私ガ貴方ヲ戀シク思フコトハ(千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪)止ム時ハアリマセヌ。
 
○千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪《チドリナクサホノカハセノサザレナミ》――序詞。小浪の止む時が無いのを、止時毛無《ヤムトキモナシ》の上に冠らせたもの。○吾戀爾《ワガコフラクハ》――爾は元暦校本に者とあるに從ふべきである。
〔評〕 所の風物を以て序詞を巧に作つてある。女らしいやさしい歌。併しこれも卷十三の阿胡乃海之荒礒之上之小浪吾戀者息時毛無《アゴノウミノアリソノウヘノサザレナミワガコフラクハヤムトキモナシ》(三二四四)に比較して見ると、甚だしい類似が目につく。
 
527 來むといふも 來ぬ時あるを 來じといふを 來むとは待たじ 來じといふものを
 
將來云毛《コムトイフモ》 不來時有乎《コヌトキアルヲ》 不來云乎《コジトイフヲ》 將來常者不待《コムトハマタジ》 不來云物乎《コジトイフモノヲ》
 
貴方ハ〔三字傍線〕來ヨウト仰ツテモ來ナイコトガアルノデスカラ、來ナイト仰ルノニ、來ルダラウト思ツテ待チハ致シマスマイ。來ナイト仰ルノデスカラネ。
 
〔評〕 頭韻法・反復法を應用したもので、卷一の二七、天武天皇の淑人乃《ヨキヒトノ》の御製や、卷二の一〇一の玉葛實不成樹爾波《タマカツラミナラヌキニハ》など、かうした手法を用ゐたものが尠くない。卷十一の梓弓引見弛見不來者不來來者其其乎素何不來者來者其乎《アヅサユミヒキミユルベミコズハコズコバソソヲナゾコズバコハソヲ》(二六四〇)はこの作者に多少の暗示を與へたものかも知れない。
 
528 千鳥鳴く 佐保の河との 瀬を廣み 打橋渡す 汝が來と思へば
 
千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門乃《サホノカハトノ》 瀬乎廣彌《セヲヒロミ》 打橋渡須《ウチハシワタス》 奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》
 
千鳥ガ鳴ク佐保川ノ渡リ場所ハ、瀬ガ廣クテ渡リニク〔六字傍線〕イカラ、貴方ガ今夜〔二字傍線〕オイデニナリサウナ氣ガスルノデ、オ渡リナサルノニ便利ナヤウニ〔オ渡〜傍線〕假ノ板ノ橋ヲカケマス。
 
(505)○佐保乃河門乃《サホノカハトノ》――佐保川の渡り場。○打橋渡須《ウチハシワタス》――打橋はかけ橋。取りはづしの出來る橋。
〔評〕 はつきりした安らかな叙法で、感じのよい作である。もしこの作の動機に、七夕の連想があるとするならば、卷十の機※[足+搨の旁]木持往而天河打橋度公之來爲《ハタモノノフミキモチユキテアマノカハウチハシワタスキミガコムタメ》(二〇六二)を擧げたいと思ふ。
 
右、郎女者、佐保大納言卿之女也。初(メ)嫁(シ)2一品穗積皇子(ニ)1、被《ラルル》v寵無(シ)v儔、而皇子薨之後、時藤原麻呂大夫、娉(ヘリ)2之(ノ)郎女(ヲ)1焉。郎女家(ス)2於坂上里(ニ)1、仍(リテ)族氏號(ケテ)曰(ヘリ)2坂上郎女(ト)1也
 
佐保大納言は大伴安麻呂。佐保の里に住んでゐたのである。穗積皇子は天武天皇の皇子、一一四參照。
 
又大伴坂上郎女歌一首
 
529 佐保河の 岸のつかさの 柴な刈りそね ありつつも 春し來らば 立ち隱るがね
 
佐保河乃《サホガハノ》 涯之官能《キシノツカサノ》 小歴木莫刈烏《シバナカリソネ》 在乍毛《アリツツモ》 張之來者《ハルシキタラバ》 立隱金《タチカクルガネ》
 
(506)佐保川ノ岸ノ高イ所ノ柴ヲ苅リナサルナ。カウシテ置イテ、春ニナツテ葉ガ茂ツ〔五字傍線〕タナラバ、貴方ト一緒ニ〔六字傍線〕隱レテ逢フ〔三字傍線〕爲ニナリマセウ。
 
○涯之官能《キシノツカサノ》――岸の高いところ。すべてツカサは高いものをさす。官司・頭梁などの意となるのもそれからである。ツカサドルといふ動詞もこれから出たもの。○小歴木莫刈烏《シバナカリソネ》――歴木はクヌギとよむ字であるが、小きは柴として薪などに用ゐるから、シバとよんだのである。烏は焉の草體から誤つたもの。舊本鳥となつてゐるのは固より誤である。○在乍毛《アリツツモ》――かうして置いての意。毛《モ》は歎辭。
〔評〕 珍らしい旋頭歌の形式を採つたのは、彼女の歌人としの多方面を語るものである。教養ある上流婦人の作としては、かなり大膽な内容であるが、殊更に田舍女らしく作つたものか。卷七の人麿歌集出の歌に、住吉出見濱柴莫苅曾尼《スミノエノイデミノハマノシバナカリソネ》(一二七四)といふのがあるが、粉本といふ程でもあるまい。
 
天皇賜(ヘル)2海上《ウナカミノ》女王(ニ)1御歌一首
 
天皇は聖武天皇。海上女王は元暦校本などの古本に、ここに小字で「志貴皇子之女也」と註してある、續紀に「養老七年正月丙子、授海上女王從四位下、神龜元年二月丙申海上女王授從三位」と見えてゐる。
 
530 赤駒の 越ゆる馬せの 標結ひし 妹が心は 疑ひもなし
 
赤駒之《アカゴマノ》 越馬柵乃《コユルウマセノ》 緘結師《シメユヒシ》 妹情者《イモガココロハ》 疑毛奈思《ウタガヒモナシ》
 
赤駒ガ越エテ逃ゲナイヤウニ〔八字傍線〕馬柵トイフモノヲ作ル〔八字傍線〕ガ、ソレト同ジク自分ノ女ダト〔ソレ〜傍線〕標ヲ立テテ約束ヲ堅クシタ〔七字傍線〕女ノ心ノカハラナイコト〔八字傍線〕ハ少シモ〔三字傍線〕疑ガナイ。
 
○赤駒之越馬柵乃《アカゴマノコユルウマセノ》――馬柵は舊訓ウマヲリとあるは惡い。宣長がウマセとよんだのに從ふ。馬塞《ウマセキ》の意である。駒が乘り越えようとするのを防ぐ爲に馬柵を作るが、そのやうに我がものとして標を立てた我が妻の意。これ(507)を序詞とする説は無理であらう。
〔評〕 天皇の御歌としては、初の二句がふさはしくない。古歌の流用か、又は古歌を模し給うたものであらう。
 
右今案、此(ノ)哥擬古之作也、但(シ)以(テ)2往《トキノ》當(レルヲ)1便(チ)賜(フ)2斯歌(ヲ)1歟
 
擬古之作といふのは古歌に摸したといふのか、往當便はよくわからない。源道別は擬は疑の誤、往は時の誤で、當時とあつたのが轉倒し、疑(ラクハ)古之作也、但以2當時便1云々あつたのだらつといつてゐる。ここでは新訓に桂本によつて往を時とし、「時の當れるを以て便ち」とよんでゐるのに從つて置かう。
 
海上女王奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
531 梓弓 爪引くよとの とほとにも 君が御言を 聞かくしよしも
 
梓弓《アヅサユミ》 爪引夜音之《ツマビクヨトノ》 遠音爾毛《トホトニモ》 君之御幸乎《キミガミコトヲ》 聞之好毛《キカクシヨシモ》
 
(梓弓爪引夜音之)遠方カラノ御音信ニデモ、天子樣ノ御仰ヲ承リマスノハ嬉シウゴザイマスヨ。
 
○梓弓爪引夜音之《アヅサユミツマヒクヨトノ》――遠音爾毛《トホトニモ》の序詞。禁裏守護の武夫の鳴弦の音の遠く聞える意にかけたのである。○君之御幸乎《キミガミコトヲ》――幸は事の誤だらうと眞淵が言つたのがよい。ミコトは御言である。○聞之好毛《キカクシヨシモ》――舊訓キクハシヨシモとあるが、卷十の清瀬音乎聞師吉毛《キヨキセノトヲキカクシヨシモ》(二二二二)と共に、キカクシヨシモと詠むべきである。開かくは聞くの延言。
〔評〕 序詞は巧に出來てゐる。妖魔を拂ふ鳴弦の響は、遠音に聞いても心地よいものである。常に遠音に聞くものであるから、遠音の上に冠してあるが、下の聞之好毛《キカクシヨシモ》までにかかつてゐるものとして見ると、更に面白味が加はつて來る。卷十九家持の歌に、梓弧爪夜音之遠音爾毛《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモ》(四二一四)とあるは、これを摸したものである。
 
大伴宿奈麻呂宿禰歌二首
 
宿奈麻呂は安麻呂の三子である。續妃に「養老三年七月庚子、始置2按察使1令3備後國守正五位下大伴宿禰宿奈麻呂管2安藝周防二國1」とあるから、その頃任國から女を宮仕に出した時の作であ(508)らう。元暦校本には、ここに小字で「佐保大納言第三之子也」とある。
 
532 うち日さす 宮に行く兒を まがなしみ 留むるは苦し 遣るはすべなし
 
打日指《ウチヒサス》 宮爾行兒乎《ミヤニユクコヲ》 眞悲見《マガナシミ》 留者苦《トムルハクルシ》 聽去者爲便無《ヤルハスベナシ》
 
(打日指)宮仕スルトテ出掛ケテ行ク女ガナツカシサニ、留メルノモ心苦シイシ、行ツテモヨイト〔七字傍線〕出シテ遣ルノハ悲シイ。サテ何トシタモノダラウ〔サテ〜傍線〕。
 
○打日指《ウチヒサス》――枕詞。既出、四六〇參照。○眞悲見《マカナシミ》――マは發語。カナシは愛する意。この句は可愛さにの意である。○聽去者爲便無《ヤルハスベナシ》――聽去は去るをゆるす意で、ヤルと訓ませたもの。舊訓トムレバクルシヤレバスベナシとあるが、ここは古義に從つて置く。
〔評〕 兎やせむ角やせむと、思ひ煩ふ心持が、下の二句によくあらはれてゐる。
 
533 難波渇 潮干のなごり 飽くまでに 人の見む子を 吾し乏しも
 
難波方《ナニハガタ》 鹽干之名凝《シホヒノナゴリ》 飽左右二《アクマデニ》 人之見兒乎《ヒトノミムコヲ》 吾四乏毛《ワレシトモシモ》
 
今宮仕ニ出ル女ヲ〔八字傍線〕(難波方鹽干之名凝)飽キル程モ、宮仕シテヰル人ハ見ルデアラウガ、アノ〔七字傍線〕女ヲ飽ク程モ見ル人ハ〔八字傍線〕羨シイナア。
 
○難波方鹽干之名凝《ナニハガタシホヒノナゴリ》――序詞。ナゴリは波殘で、潮の引いたあとに、なほ海水の所々に溜つてゐるのをいふ。飽左右二《アクマデニ》と續くのは、汐干の潟に飽くまで遊ばうとする意である。卷六に、難波方潮干乃奈凝委曲見在家妹之待將問多米《ナニハガタシホヒノナゴリツバラニミイヘナルイモガマチトハムタメ》(九七六)とあるのと同趣である。○人之見兒乎《ヒトノミムコヲ》――ミルコヲと舊訓にあるが、未來であるからミムコがよい。兒は女を指す。○吾四乏毛《ワレシトモシモ》――トモシは羨しの意。飽くまでに見む人を羨しく思ふのである。
〔評〕 戀しい女を、義理にからまれて手離す哀感がよく見えてゐる。
 
安貴王謌一首并短歌
 
(509)安貴王は春日王の御子、卷三の三〇六參照。
 
534 遠嬬の ここにあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けくなくに 嘆くそら 安からぬものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言とひ 吾がために 妹も事無く 妹がため 吾も事無く 今も見る如 たぐひてもがも
 
遠嬬《トホヅマノ》 此間不在者《ココニアラネバ》 玉桙之《タマボコノ》 道乎多遠見《ミチヲタトホミ》 思空《オモフソラ》 安莫國《ヤスケナクニ》 嘆虚《ナゲクソラ》 不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》 水空往《ミソラユク》 雲爾毛欲成《クモニモガモ》 高飛《タカトブ》 鳥爾毛欲成《トリニモガモ》 明日去而《アスユキテ》 於妹言問《イモニコトトヒ》 爲吾《ワガタメニ》 妹毛事無《イモモコトナク》 爲妹《イモガタメ》 吾毛事無久《ワレモコトナク》 今裳見如《イマモミルゴト》 副而毛欲得《タグヒテモガモ》
 
遠クノ方ニヰル妻ガ此處ニヰナイカラ(玉桙之)遺ガ遠イノデ妻ヲ私ガ〔四字傍線〕思フ心ハ安クモナク、嘆ク心モ安クモナイヨ、私ノ體ガ〔四字傍線〕空ヲ通ル雲デアレバヨイ、高ク飛ブ鳥デモアレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕明日ニモ行ツテ妻ト話ヲシテ、私ノ爲ニ嬬モ何ノ障リモナク、妻ノ爲ニ私モ無事デ、オ互ニ安穩ニ暮ラシテ、以前ノヤウニ變リナク〔オ互〜傍線〕今モ二人並ンデヰタイモノダ。
 
○遠嬬《トホツマノ》――遠く離れてゐる妻。○道乎多遠見《ミチヲタトホミ》――多《タ》は發語。道が遠さにの意。○思空《オモフソラ》――思ふ心の意。下の嘆虚《ナゲクソラ》も嘆く心。○安莫國《ヤスケクナクニ》――舊訓ヤスカラナクニであるが、意空不安久爾嘆空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニ》(一五二〇)の如く、不安久とある場合はそれでよいが、安莫國とあるは、嘆蘇良夜須家久奈久爾《ナゲクソラヤスケクナクニ》(四一六九)とあるによつて、ヤスケクナクニとよむがよい。但し奈氣久蘇良夜須家奈久爾《ナゲクソラヤスケナクニ》(三九六九)とあるによつて訓めないこともないが、これには從はぬことにしたい。○水空往《ミソラユク》――ミは發語で、水は借字。○今毛見如《イマモミルゴト》――ここは意味から考へると、見シゴト今モと言ふべきである。ここに七言の句が三句連續してゐるのも、少しどうかと思はれる。或は脱落があるのかも知れない。略解にはイマモミシゴトとよんでゐる。○副而毛欲得《タグヒテモガモ》――並び副ひてありたいといふ意。
〔評〕 安貴王は、天平元年三月に無位から始めて從五位下になつた人であるから、一寸考へると、この作は天平元年後のものと思はれるが、併しこの歌の前後を見れば、天平以前のことらしい。果して然らば、卷八にある天平元年七月七日夜の憶良の作(一五二〇)はこれに傚つたと言ふことが出來る。爲吾妹毛事無爲妹吾毛事無久《ワガタメニイモモコトナクイモガタメワレモコトナク》は殊(510)に哀な句で、全體に熱烈な戀情が人を動かすものがある。遠嬬《トホツマ》・雲爾毛欲成《クモニモガモ》・鳥爾毛欲成《チリニモガモ》などと歌はれた理由が、左註によつてなるほどとうなづかれる。
 
反歌
 
535 敷妙の 手枕纏かず 間置きて 年ぞ經にける 逢はぬ念へば
 
敷細乃《シキタヘノ》 手枕不纏《タマクラマカズ》 間置而《アヒダオキテ》 年曾經來《トシゾヘニケル》 不相念者《アハヌオモヘバ》
 
妻ト私トガ〔五字傍線〕逢ハナイコトヲ考ヘテ見ルト、私ハ〔二字傍線〕妻ノ(敷細乃)手枕ヲセズニ、間ヲ距テテスデニ一年經ツタヨ。
 
○間置而《アヒダオキテ》――舊訓ヘダテオキテであつたのを、宣長がアヒダオキテに改めた。間の字は、マ、ホド、アヒダ、ヘダテなどに訓まれてゐるから、ここもヘダテともよまれるのであるが、暫く宣長に從つて置かう。新考にヘダタリテとよんで、處の隔たりたることとしたのはどうであらう。間の字を空間に用ゐた例は極めて稀である。やはり時間の隔つたことにしたい。○不相念者《アハヌオモヘバ》――舊訓アハヌオモヒハであり、その他諸説があるが、宣長説に從はう。不相をアハナクとよむのもよいやうだが、妹爾不相而《イモニアハズテ》(一二五)・不相久美《アハズヒサシミ》(三一〇)などの例によつてズの連體形のヌによみたいと思ふ。
〔評〕 長歌の緊張したに似ず、これは少しく整はぬところがある。三句と五句とが何となく、しつくりと落ちつかない。
 
右、安貴王、娶(リテ)2因幡(ノ)八上釆女(ヲ)1、係念極(メテ)甚(シク)、愛情尤(モ)盛(ナリ)。於v時勅(シテ)斷(ジ)2不敬之罪(ニ)1、退2却(セシム)本郷(ニ)1焉。于v是王(ノ)意、悼※[立心偏+且](シテ)聊(カ)、作(レリ)2此(ノ)歌(ヲ)1也
 
八上采女は因幡國八上郡から出た采女である。古事記の稻羽之八上比賣が思ひ浮べられる。王は采女と婚したので不敬の罪に問はれ、采女は因幡へ歸されたのである。悼怛《タウダツ》はいたみ悲しむこと。※[立心偏+且]に作るは誤。
 
門部王戀歌一首
 
(511)門部王の傳は三一〇參照。
 
536 飫宇の海の 潮干の潟の 片念に 思ひや行かむ 道の長手を
 
飫宇能海之《オウノウミノ》 鹽干乃滷之《シホヒノカタノ》 片念爾《カタモヒニ》 思哉將去《オモヒヤユカム》 道之永手呼《ミチノナガテヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕(飫宇能海之鹽干乃滷之)片思ニオマヘヲ思ヒナガラ、永イ道ヲ辿ツテオマヘノ所ヘ〔六字傍線〕行カウヨ。オマヘハ俺ヲ忘レタカモ知レナイガ〔オマ〜傍線〕。
 
○飫宇能海之鹽干乃滷之《オウノウミノシホヒノカタノ》――同音を繰返して、片念爾《カタモヒニ》に冠した序詞。飫宇の海は出雲の意宇郡の海、即ち今の中の海。當時の國府に近い海岸である。三七一參照。○道之永手呼《ミチノナガテヲ》――永手は永道《ナガチ》に同じ。
〔評〕 略解や古義に歸京に際しての歌のやうにあるが、左註によるとさうではない。飫宇の海は王の居られた國府に近いから、それを序に用ゐられたのである。
 
右門部王、任(ゼラレシ)2出雲守(ニ)1時、娶(レリ)2部内(ノ)娘子(ヲ)1也。未v有(ラ)2幾時1既(ニ)絶(ツ)2往來(ヲ)1。累(ヌル)v月(ヲ)之後、更(ニ)起(ス)2愛心(ヲ)1、仍作(リテ)2此(ノ)歌(ヲ)1贈2致(ス)娘子(ニ)1
 
門部王が出雲守になつたことは續紀にないが、養老三年七月始めて按察使を置かれた時、それに任ぜられ、伊賀志摩の二國を管したとある。按察使は國守中の故參者がなつたのであるから、その時既に出雲守を經てゐたのではないかと思はれる。天平三年十二月には治部卿になつてゐる。
 
高田女王贈(レル)2今城王(ニ)1歌六首
 
高田女王は卷八の一四四四にも出で、其處には「高安之女也」と註してある。高安は初め高安王、後姓を賜はつて、大原眞人高安といつた人。今城王は傳未詳。卷八に大原眞人今城とあるのは時代が少しく後れるやうであるから、別人であらう。
 
537 言清く いともな言ひそ 一日だに 君いし無くば いたききずぞも
 
事清《コトキヨク》 甚毛莫言《イトモナイヒソ》 一日太爾《ヒトヒダニ》 君伊之哭者《キミイシナクバ》 痛寸取物《イタキキズゾモ》
 
(512)エラサウニコレ限リ逢ハナイナドト〔コレ〜傍線〕平氣ラシクオツシヤルナ。一日デモ貴方ガオイデナサラナクテハ、私ハ〔二字傍線〕苦シウゴザイマスヨ。
 
○事清《コトキヨク》――言清く、さつぱりと平氣らしく言ふこと。○君伊之哭者《キミイシナクバ》――伊《イ》は名詞の下に添へていふ語。哭は無の借字。○痛寸取物《イタキキズゾモ》――この句は舊訓イタキキズゾモとあるが、その意を得ない。古義に偲不敢物と改めてシヌビアヘヌモノとよんでゐるのは、意は聞えるが從ふわけに行かぬ。取の宇、最の誤字か省畫で、イタキイダモノなどではないかと、私かに考へてゐるが、暫らく舊訓の儘にして、私にとつては苦しい瘡ですよの意と解して置く。
〔評〕 女らしい、か弱い感情が現はれてゐる。
 
538 人言を 繁みこちたみ 逢はざりき 心ある如 な思ひ吾が背子
 
他辭乎《ヒトゴトヲ》 繁言痛《シゲミコチタミ》 不相有寸《アハザリキ》 心在如《ココロアルゴト》 莫思吾背子《ナオモヒワガセコ》
 
人ノ噂ガ頻繁ナノトヒドイノトデ、私ハ貴方ニ〔五字傍線〕オ目ニカカリマセンデシタ。何カアダシ〔五字傍線〕心デモ持ツテヰルヤウニ思シ召シナサイマスナ。私ノ夫ヨ。
 
○他辭乎繁言痛《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》――卷二の一一六、卷十二の二八九五・二九三八などに出てゐるので見ると、この頃の慣用句である。○莫思吾背子《ナオモヒワガセコ》――舊本背の下に子が無いが、次の歌は皆背子とあるから、これもさうであらう。子を添へた古寫本も多い。どちらでもよい。
〔評〕 はつきりと第三句で切つたのが、著しく目立つ調子になつてゐる。平語を用ゐた飾氣のない作だ。
 
539 吾が背子し 遂げむといはば 人言は 繁くありとも 出でて逢はましを
 
吾背子師《ワガセコシ》 遂當云者《トゲムトイハバ》 人事者《ヒトゴトハ》 繁有登毛《シゲクアリトモ》 出而相麻志呼《イデテアハマシヲ》
 
私ノ夫ガ是非逢ハウトサヘオツシヤルナラバ、私ハ人ノ口ハドンナニヤカマシクトモ、出テ行ツテ〔三字傍線〕逢フノデシタノニ。ハツキリシタコトヲオツシヤラナイモノデスカラ駄目デシタ〔ハツ〜傍線〕。
(513)〔評〕 前の歌に續いてゐる。初の二句に男の熱烈な抱擁を要求してゐるのが、あはれである。
 
540 吾が背子に 復は逢はじかと 思へばか 今朝の別の すべなかりつる
 
吾背子爾《ワガセコニ》 復者不相香常《マタハアハジカト》 思墓《オモヘバカ》 今朝別之《ケサノワカレノ》 爲便無有都流《スベナカリツル》
 
私ノ夫ニハ復オ目ニカカラナイノデハアルマイカト思ヒマシタカラカ、今朝オ別レヲ致シタトキハ何トモ仕樣ノナイ程悲シウゴザイマシタ。
 
○都復者不相香常《マタハアハジカト》――常の字を下に移して、三句を常思墓《トオモヘバカ》とよんでゐるのは從はれない。
〔評〕 後朝の戀の心を述べたもの。期し難い再會を悲しんで、泣き霑れた女の姿もしのばれる。
 
541 この世には 人言繋し 來むよにも 逢はむ吾が背子 今ならずとも
 
現世爾波《コノヨニハ》 人事繁《ヒトゴトシゲシ》 來生爾毛《コムヨニモ》 將相吾背子《アハムワガセコ》 今不有十方《イマナラズトモ》
 
私ハコノ世デオニ目カカリタウゴザイマスガ〔私ハ〜傍点〕、コノ世デハ人ノ口ガヤカマシウゴザイマス。デスカラ〔四字傍線〕今デナクテモ來世ニデモ又ユツクリ〔四字傍線〕オ目ニカカリマセウ。
 
○來生爾毛《コムヨニモ》――せめて來世にてもの意。
〔評〕 現世に對して來世に希望を繋ぐ思想が、かうした作にもあらはれてゐるのは、佛教の影響の深大さを思はしめる。
 
542 常止まず 通ひし君が 使來ず 今は逢はじと たゆたひぬらし
 
常不止《ツネヤマズ》 通之君我《カヨヒシキミガ》 使不來《ツカヒコズ》 今者不相跡《イマハアハジト》 絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》
 
常ニ止ム時モナク、通《カヨ》ツテ來タ貴方カラコノ頃ハ〔四字傍線〕使サヘモ參リマセヌ。人ノ口ガヤカマシイノデ〔人ノ〜傍線〕モウ逢フマイト思ツテ躊躇シテイラツシヤルノデセウ。
○常不止通之君我《ツネヤマズカヨヒシキミガ》――常止マズ通ヒシは君にかかるのか、又は使にかかつてゐるのか、兩方にとられる。ここ(514)は君にかかるものとして解いて置く。○絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》――タユタフは躊躇逡巡すること。
〔評〕 使の途絶えたのを嘆いてゐるが、男の變心を憤つたやうな強烈な點はない。この六首はすべて世間を憚り、人言を恐れた、か弱い作ばかりであるが、同時の作ではない。
 
神龜元年甲子冬十月、幸(セル)2紀伊國(ニ)1之時、爲(メ)v贈(ル)2從駕(ノ)人(ニ)1所《ラレテ》v誂(ヘ)2娘子(ニ)1笠朝臣金村作(レル)歌一首并短歌
 
桂本に笠朝臣金村の五字を別にして、下に記してゐる。次の歌によると、これもさうすべきであらう。
 
543 おほきみの いでましのまに もののふの 八十伴の雄と 出で行きし うつくし夫は 天翔ぶや 輕の路より 玉襷 畝火を見つつ 麻裳よし 紀路に入り立ち 眞土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ 親しくも 吾をば思はず 草枕 旅を宜しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙も得あらねば 吾が背子が 行のまにまに 追はむとは 千度おもへど 手弱女の 吾が身にしあれば 道守の 問はむ答を 言ひ遣らむ 術を知らにと 立ちて躓づく
 
天皇之《オホキミノ》 行幸乃隨意《イデマシノマニ》 物部乃《モノノフノ》 八十件雄與《ヤソトモノヲト》 出去之《イデユキシ》 愛夫者《ウツクシヅマハ》 天翔哉《アマトブヤ》 輕路從《カルノミチヨリ》 玉田次《タマダスキ》 畝火乎見管《ウネビヲミツツ》 麻裳吉《アサモヨシ》 木道爾入立《キヂニイリタチ》 眞土山《マツチヤマ》 越良武公者《コユラムキミハ》 黄葉乃《モミチバノ》 散飛見乍《チリトブミツツ》 親《シタシクモ》 吾者不念《ワヲバオモハズ》 草枕《クサマクラ》 客乎便宜常《タビヲヨロシト》 思乍《オモヒツツ》 公將有跡《キミハアラムト》 安蘇蘇二破《アソソニハ》 且者雖知《カツハシレドモ》 之加須我仁《シカスガニ》 黙然得不在者《モダモエアラネバ》 吾背子之《ワガセコガ》 往乃萬萬《ユキノマニマニ》 將追跡者《オハムトハ》 千遍雖念《チタビオモヘド》 手嫋女《タワヤメノ》 吾身之有者《ワガミニシアレバ》 道守之《ミチモリノ》 將問答乎《トハムコタヘヲ》 言將遣《イヒヤラム》 爲便乎不知跡《スベヲシラニト》 立而爪衝《タチテツマヅク》
 
天子樣ノ行幸ノ御供ヲシテ、武士ノ大勢ノ輩ノ長ト共ニ出テ行ツタ私ノ可愛イ夫ハ、(天翔哉)輕ノ路カラ、(玉田次)畝傍ヲ見ナガラ、(麻裳吉)紀伊ノ國ヘ入リ込ンデ、眞土山ヲ越エテ行カレル貴方ハ、途中デ〔三字傍線〕紅葉ノ散リ亂レル面白イ〔三字傍線〕景色ヲ見テ、私ノコトヲナツカシイトモ思ハズ、(草枕)旅ノ方ガ面白イト貴方ガ思ツテイラ(515)ツシヤルダラウト、一方デハウスウス知ツテヰルガ、流石ニ黙ツテヰルトイフ譯ニモ行カナイカラ、私ノ夫ガ行ツタ通リニ、後ヲ追ヒカケテ行カウトハ千度モ思ツタガ、カ弱イ女ノ身ダカラ、道ノ番人カラ問ハレタ時ニ、何ト答ヘタモノカ答ノ仕樣ガナイノデ、行キカネテ躊躇シテヰル。
 
○行幸乃隨意《イデマシノマニ》――隨意はマニとよむがよい。宣命に己可欲末仁行止念天《オノガホシキマニオコナハムトオモヒテ》とあり、宇鏡にも、態、保志萬爾《ホシキマニ》とある。○物部乃八十伴雄與《モモノフノヤソトモノヲト》――四七八參照。○天翔哉《アマトブヤ》――枕詞。輕とつづく。二〇七參照。○輕路從《カルノミチヨリ》――輕の街道を通つて。二〇七參照。○玉田次《タマダスキ》――枕詞。畝とつづく。二九參照。○麻裳吉《アサモヨシ》――枕詞。キとつづく。五五參照。○木道爾入立《キヂニイリタチ》――イリタツとよむのは惡い。眞土山は大和紀伊の境で、地籍は大和に屬してゐるが、卷一の朝毛吉木人乏母《アサモヨシキビトトモシモ》(五五)の歌でもわかるやうに、紀州の山のやうに考へられてゐたものである。○安蘇蘇二破《アソソニハ》――珍らしい語で、用例が見當らないが、淺々薄々《アサアサウスウス》などの意らしい。○之加須我仁《シカスガニ》――さすがに、それでもやはりなどの意。○往乃萬萬《ユキノマニマニ》――萬はn音尾であるから、母音を補つてマニとよましめるのである。○手嫋女《タワヤメノ》――嫋の字は弱女の二字を合はせたものであらう。○道守之《ミチモリノ》――通路の番人が、要所にゐたのを道守といつた。反歌の關守と同じであらう。○立而爪衝《タチテツマヅク》――立ちて逡巡し、行きかねる意であらう。考に「そば立ちて望むさまなり」とあるのを、新考に「我意を獲たり」と言つてゐるが、どうであらう。
〔評〕 手弱女ぶりにやさしく作つてある。殊に最後の立而爪衝《タチテツマヅク》が讀者の同情を引く言葉であらう。併し要するに代作である。この人は歌集の殘つてゐる點から見ても、當時に於ても歌人として認められてゐたのであらうが、人麿以來專門歌人が出現して、段々かういふ傾向を生じて來たのである。
 
反歌
 
544 後れ居て 戀ひつつあらずは 紀の國の 妹背の山に あらましものを
 
後居而《オクレヰテ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 木國乃《キノクニノ》 妹背乃山爾《イモセノヤマニ》 有益物乎《アラマシモノヲ》
 
後ニ殘ツテヰテ夫を〔二字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルヨリハ、寧ロ〔二字傍線〕紀伊ノ國ノ妹背山デアリタイノニ。サウシタラ妹ト背ト相並(516)ンデ離レルコトモナイカラ〔サウ〜傍線〕。
 
○戀乍不有著《コヒツヅアラズハ》――八六及び一一五參照。○妹背乃山爾《イモセノヤマニ》――妹背山は紀伊伊都郡。背山は紀の川の北岸にあり、笠田村に屬し、妹山は南岸にあり、澁田村に屬すといふ。
〔評〕 初二句は類例もあり、この頃の慣用であるが、妹背乃山爾有益物乎《イモセノヤマニアラマシモノヲ》は、かなり奇故な願である。
 
545 吾が背子が 跡ふみ求め 追ひ行かば 紀の關守い とどめなむかも
 
吾背子之《ワガセコガ》 跡履求《アトフミモトメ》 追去者《オヒユカバ》 木乃關守伊《キノセキモリイ》 將留鴨《トドメナムカモ》
 
紀伊ヘ行ツタ〔六字傍線〕私ノ夫ノ足跡ヲ捜シテ歩イテ、夫ノ後ヲ列〔四字傍線〕追ヒカケテ行ツタラバ、紀ノ關ノ番人ハ止メルデアラウナア。行クノハ止メテ置カウ〔十字傍線〕。
 
○木乃關守伊《キノセキモリイ》――木乃關は紀の關。海草郡中山の南大字湯屋谷で、和泉より紀伊に越える道にあたつてゐる。白鳥の關ともいつた。伊は名詞に添へる助詞で、意味は無い。○將留鴨《トドメナムカモ》――トドメナムカモも惡くはないが、將の字はナムとよんだ例が多いから、トドメナムカモとして置かう。留めるであらうかよの意。
〔評〕 長歌の終の意を繰返したものに過ぎないが、調子は美はしい。
 
二年乙丑春三月、幸(セル)2三香原離宮(ニ)1之時、得(テ)2娘子(ヲ)1作(レル)歌一首 并短歌  
                     笠朝臣金村
 
金村の歌に限つてその名を離して別に書いてあるのは、注意すべき點である。三香原離宮は、恭仁京の以前からあつた離宮。續紀に「和銅元年、天皇行幸山背國相樂都岡田離宮」とある所で、泉川の南岸、今の加茂村にあつたのである。七六五の地圖參照。娘子は歌によると遊女らしい。
 
546 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行合に 天雲の よそのみ見つつ 言問はむ よしの無ければ 心のみ 咽せつつあるに 天地の 神こと伏せて 敷妙の 衣手かへて おの妻と 憑める今よひ 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも
 
三香之原《ミカノハラ》 客之屋取爾《タビノヤドリニ》 珠桙乃《タマボコノ》 道能去相爾《ミチノユキアヒニ》 天雲之《アマグモノ》 外耳見管《ヨソノミミツツ》 (517)言將問《コトトハム》 縁乃無者《ヨシノナケレバ》 情耳《ココロノミ》 咽乍有爾《ムセツツアルニ》 天地《アメツチノ》 神祇辭因而《カミコトヨセテ》 敷細乃《シキタヘノ》 衣手易而《コロモデカヘテ》 自妻跡《オノヅマト》 憑有今夜《タノメルコヨヒ》 秋夜之《アキノヨノ》 百夜乃長《モモヨノナガサ》 有與宿鴨《アリコセヌカモ》
 
私ハ行幸ノオ伴ヲシテ〔ワタシは〜傍線〕、三香原ノ旅ノ宿ニヰテモ(珠桙乃)途中デ行キ合ツタ時モ、私ハオマヘヲ〔六字傍線〕(天雲之)他所ノ人トシテバカリ見テ、近シクナイノデ〔八字傍線〕、話ヲスルタヨリガナイカラ、心バカリ咽ンデ悲シンデヰルト、天地ノ神樣タチガ、私ニオマヘヲ〔六字傍線〕オ任セ下サツテ、(敷細乃)袖ヲ交ハシテ、私ノ妻トシテ親シクシテヰル今夜ハ、ドウカ〔三字傍線〕秋ノ長夜ノ百夜ノ長サホド永クアツテクレレバヨイガナア。
 
○客之屋取爾《タビノヤドリニ》――旅の宿に於ての意。○道能去相爾《ミチノユキアヒニ》――途中で行き合ひたる際にの意で、上の客之屋取爾《タビノヤドリニ》と並べた句。○天雲之《アマグモノ》――枕詞。ここは外《ヨソ》につづいてゐる。○神祇辭因而《カミミコトヨセテ》――辭因而《コトヨセテ》は言|依《ヨサ》してに同じく、神が任せ給うての意。○百夜乃長《モモヨノナガサ》――舊訓にナガサとあつたのを、考にナガクと改めた。舊訓の方がよくはないか。○有與宿鴨《アリコセヌカモ》――あつてくれぬかよの意。與《コセ》は希望をあらはす。
〔評〕漸く女を手に入れた喜びを歌つてゐるが、相手が遊女だけに、こちらも口先だけうまいことを言つてゐるやうな感がある。
 
反歌
 
547 天雲の よそに見しより 吾妹子に 心も身さへ よりにしものを
 
天雲之《アマグモノ》 外從見《ヨソニミシヨリ》 吾妹兒爾《ワキモコニ》 心毛身副《ココロモミサヘ》 縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》
 
(天雲之)他所ノ人トシテ〔四字傍線〕バカリ見テ居タ頃カラ、私ハ〔二字傍線〕オマヘニ心サヘモ身サヘモ、打チ込ンデ寄セテヰタヨ。今夜漸ク逢フコトガ出來テ、滿足シタ〔今夜〜傍線〕。
 
○縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》――寄つてゐたよの意。モノヲは詠嘆の辭。伊去羽計田菜引物緒《イユキハバカリタナビクモノヲ》(三二一)の物緒《モノヲ》に同じ。鬼《モノ》の字は物(518)の怪《ケ》のモノの意で用ゐてある。
〔評〕 交會の歡、言外に溢れてゐる。
 
548 今夜の 早く明けなば すべをなみ 秋の百夜を 願ひつるかも
 
今夜之《コヨヒノ》 早開者《ハヤクアケナバ》 爲使乎無三《スベヲナミ》 秋百夜乎《アキノモモヨヲ》 願鶴鴨《ネガヒツルカモ》
 
折角思ヒ焦レテ逢フコトガ出來タ〔折角〜傍点〕今夜ガ、早ク明ケテハ仕樣ガナイノデ、今夜ノ長サガ〔六字傍線〕秋ノ長夜ノ百夜ダケノ長サモアルヤウニト願ヒマシタワイ。
 
○今夜之《コヨヒノ》――舊訓コノヨラノとあつて、この三字を用ゐた一九五二・二二六九などすべてさう訓んであるが、此夜等者《コノヨラハ》(二二二四)によれば、今夜とあるのはコヨヒとよむがよいやうである。○早開者《ハヤクアケナバ》――舊訓ハヤクアクレバ、略解ハヤアケヌレバであるが、代匠記にハヤクアケナバとあるがよい。
〔評〕 女を得た喜びに飽くことを知らぬ一種の焦燥感が上句にあらはれてゐる。下句は長歌の末句と同意である。
 
五年戊辰、太宰少貳石川|足人《タリヒトノ》朝臣遷任(ノトキ)餞(スル)2于筑前國蘆城驛家(ニ)1歌三首
 
石川足人は續紀に和銅四年四月に正六位下から從五位下を、神龜元年二月從五位上を授かつたと見えてゐる。少貳になつたことが記されてゐないのは洩れたのである。蘆城驛は筑前國筑紫郡で今、御笠村大字阿志岐がある。太宰府の東南方に當る。五六八の地圖及び題詞解説參照。
 
549 天地の 神も助けよ 草枕 旅行く君が 家に至るまで
 
天地之《アメツチノ》 神毛助與《カミモタスケヨ》 草枕《クサマクラ》 ※[覊の馬が奇]行君之《タビユクキミガ》 至家左右《イヘニイタルマデ》
 
歸京ノ〔三字傍線〕(草枕)ニ出カケナサル貴方ガ、家ニ御到着ナサルマデハ天地ノ神樣達モドウゾ〔三字傍線〕オ守リ下サイヨ。
〔評〕 平板な、併し素純な作である。以下三首は一人の作ではあるまい。
 
550 大船の おもひ憑みし 君がいなば 吾は戀ひむな 直に逢ふまでに
 
(519)大船之《オホブネノ》 念憑師《オモヒタノミシ》 君之去者《キミガイナバ》 吾者將戀名《ワレハコヒムナ》 直相左右二《タダニアフマデニ》
 
(大船之)タヨリニ思ツテヰタ貴方ガ、去ツテオシマヒニナツタナラバ、私ハ復直接ニオ目ニカカルマデハ、貴方ヲ〔三字傍線〕戀ヒシク思フデゴザイマセウナア。
 
○大船之《オホブネノ》――枕詞。念憑《オモヒタノミ》につづく。○吾者將戀名《ワレハコヒムナ》――ナはナアと歎息する辭である。
〔評〕 格別とり立てて言ふ程の作ではない。悲しみの熱情が見えてゐない。
 
551 大和路の 島の浦廻ニ 寄する浪 間も無けむ 吾が戀ひまくは
 
山跡道之《ヤマトヂノ》 島乃涌廻爾《シマノウラミニ》 縁浪《ヨスルナミ》 間無牟《アヒダモナケム》 吾戀卷者《ワガコヒマクハ》
 
私ガ貴方ヲ〔五字傍線〕オ慕ヒ申スコトハ、貴方ガ今カラオイデナサル〔貴方〜傍線〕大和ヘ行ク道ニアル、島ノマワリニ打チ寄セル浪ノヤウニ、間斷ナイコトデアリマセウ。
 
○山跡道之《ヤマトヂノ》――大和へ行く道の意。○島乃浦廻爾《シマノウラミニ》――島は志摩郡志麻郷と和名抄にある地とする説もあるが、そこは福岡灣の西に半島をなしてゐる地で、海路によるとしても、都への通路には當らぬやうである。○縁浪《ヨスルナミ》――舊訓を改めてヨルナミノとしたのは惡い。縁浪をヨスルナミとよんだ例は一三八八などにもある。
〔評〕 上の句は途中の景物をとつて譬喩としたので、浪を見たならば、その浪の如く絶間なく、戀ふる我あるを思へと、ほのめかしたやうにも作られてゐる。この種の着想は類歌が多いから、褒める程のこともなからう。
 
右三首作者未v詳
 
大伴宿禰|三依《ミヨリ》歌一首
 
續紀によれば、天平二十年二月正六位上大伴宿禰御依に從五位下を授けられてゐる。この人は賓龜五年五月從四位下で死んでゐる。この歌は天平元年前後のことであるから、三依と御依とを同(520)人とすれば、まだ青年時代である。
 
552 吾が君は わけをば死ねと 念へかも 逢ふ夜逢はぬ夜 二はしるらむ
 
吾君者《ワガキミハ》 和氣乎波死常《ワケヲバシネト》 念可毛《オモヘカモ》 相夜不相夜《アフヨアハヌヨ》 二走良武《フタハシルラム》
 
貴女ハ私ヲ死ネト思ツテイラツシヤルカラカ、逢フ夜ト逢ハナイ夜トガ兩方アルノデセウ。逢フナラ逢フ、逢ハナイナラ逢ハナイト一方ニ定メテ下サレハヨイニ。私ハ焦レ死ニシサウデス〔逢フナ〜傍線〕。
 
○和氣乎波死常《ワケヲバシネト》――和氣は一人稱の代名稱と見る説と、二人稱と見る説とがある。用例から考へると、一人稱にも二人稱にも使つてある。一人稱の、おのれ・われが、相手を賤しめていふ時に二人稱として用ゐられてゐるので見ると、これもわれ〔二字傍点〕と同じかも知れない。新考には卷八の紀女郎贈2大件宿禰家持1歌(一四六〇)に戯奴と書いて反云2和氣1とあるによつて、ワケは奴の義であるといつてゐるのも面白いが、尚研究を要する。○二走良武《フタハシルラム》――走の字は集中、ハシルとかハシとか訓まれてゐる。だからこの儘ならば、フタハシルラムとよむより外はない。走を去の誤としてフタユキヌラムとよむ宣長説もよいやうだが、なほ原形を尊重して置かう。二走るは二者共に行はれる意か。
〔評〕 結句が少し變つた言ひ方で、他に訓法があるかも知れないが、全體として女が男に怨言をならべるやうな氣分の作である。卷八の大伴家持の歌(一四六二)も初の二句が、これに似てゐる。
 
丹生《ニフ》女王、贈(レル)2太宰帥大伴卿(ニ)1歌二首
 
續紀に天平十一年正月從四位下丹生女王に從四位上を授けるとあり、天平勝寶二年八月に正四位上を授かつてゐる。都から太宰帥大伴旅人へ贈られた歌である。卷八の一六一〇にもこの女王が太宰帥大伴卿に贈られた歌がある。
 
553 天雲の そきへのきはみ 遠けども 心し行けば 戀ふるものかも
 
天雲乃《アマグモノ》 遠隔乃極《ソキヘノキハミ》 遠鷄跡裳《トホケドモ》 情志行者《ココロシユケバ》 戀流物可聞《コフルモノカモ》
 
(521)貴方ノオイデニナル太宰府ト私ノヰル都トハ〔貴方〜傍線〕、天ノ雲ノ遠クハナレテヰル果テ程ノ遠サデスガ、ソレデモ此方デ思フ心ガ貴方ノ方ヘ屆クノデ、貴方ノ方デモ〔六字傍線〕私ヲ思ハレルモノト見エマスネ。種々品物を送ヲツテ下サツテ御親切有リガタウ〔種々〜傍線〕。
 
○遠隔乃極《ソキヘノキハミ》――卷十九に天雲能曾伎敝能伎波美《アマグモノソキヘノキハミ》(四二七二)とあり、卷三に天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》(四二〇)とあり、どちらによんでもよい。字音辨證に久をキとよむべしと言つたのは妄斷である。○戀流物可聞《コフルモノカモ》――この句の上に、其方からもの語を補つて見るがよい。
〔評〕 酒を旅人から獻じたのを喜び給うた歌である。卷八の一六一〇の歌によれば、旅人と親しかつた御方と見える。上の句は古來の慣用語である。
 
554 古りにし 人のをさせる 吉備の酒 病めばすべなし ぬきすたばらむ
 
古《フリニシ》 人乃令食有《ヒトノヲサセル》 吉備能酒《キビノサケ》 痛者爲便無《ヤメバスベナシ》 貫簀賜牟《ヌキスタバラム》
 
老人ノ貴方ガ私ニ送ツテ〔五字傍線〕飲マセナサツタ吉備ノ酒ハ結構デスガ、アレヲ飲ンデ〔は結〜傍線〕醉ツテハ仕樣ガアリマセン。醉ツテ嘔吐スル時ノ用意ニ〔醉ツ〜傍線〕貫簀モ一緒ニ〔三字傍線〕下サイマシ。
 
○古人乃令食有《フリニシヒトノヲサセル》――舊訓イニシヘノヒトノノマセルとあるが、古は古義にフリニシとあるがよい。古りにし人は旅人をさしたので、彼は既に六十四五歳に及んでゐたから、かう言はれたのであらう。古馴染の人とも解せられぬことはないが、老人の方がよささうである。令食有は宣長に從つてヲサセルとしよう。飲ましめた意である。○吉備能酒《キビノサケ》――吉備の國の酒とも、黍の酒とも考へられる。太宰府からの進物に、吉備の國の消はどうであらう。黍酒の方がよい。次の歌には爲君釀之待酒《キミガタメカミシマチサケ》とあり、自家製の自慢の酒を京に贈つたのであらう。○痛者爲便無《ヤメバスベナシ》――痛の字、元暦校本などに病に作つてあるのがよい。病むは酒に醉つて苦しむこと。○貫簀賜牟《ヌキスタバラム》――貫簀は丸く削つた竹で編んだ簾。手を洗ふ時盥の上にかけて、水の飛ばぬやうにするもの。江次第に「供2御手水1、中略、打敷、御手洗※[木+泉]、手拭臺、貫簀等如v恒」とある。ここは酒に醉つて嘔吐する時の用意に、貫(522)簀を賜へと言はれたのである。ヌキスを酢に言ひかけたものとする説は妄であらう。
〔評〕 串戯滑稽な作である。材料も表現法も、卷十六に入れれば立派な戯咲歌である。巧な思ひ切つた作と言つてよい。
 
太宰帥大伴卿、贈(レル)3大貳|丹比縣守《タヂヒノアガタモリ》卿(ノ)選2任(セル)民部卿(ニ)1歌一首
 
丹比縣守は左大臣正二位島の子で、靈龜二年八月遣唐押使となり、養老二年十月歸國した。太宰大貳から中央官に轉じたのは、天平元年二月のことである。績紀には權りに參議とし、後民部卿になつたやうに記してある。天平九年六月中納言正三位で薨じた。
 
555 君がため かみし待酒 やすの野に 獨や飲まむ 友無しにして
 
爲君《キミガタメ》 釀之待酒《カミシマチザケ》 安野爾《ヤスノヌニ》 獨哉將飲《ヒトリヤノマム》 友無二思手《トモナシニシテ》
 
貴方ヲ待チ受ケテ、差シ上ゲヨウト思ツテ私ガ〔差シ〜傍線〕釀シタ酒ヲ、貴方ガ都へ轉任ナサツテハ私ハ此處ノ〔貴方〜傍線〕安ノ野デ、友モナク唯一人デ飲ムコトデセウ。誠ニ悲シイコトデス〔九字傍線〕。
 
○釀之待酒《カミシマチザケ》――カムはカモスに同じ。元、原料を噛んで作つたから起つた語。待酒は人の來るのを待ち受け、飲ましめる爲の酒。○安野爾《ヤスノヌニ》――安野は夜須郡の野で、この郡は今、朝倉郡に編入せられてゐる。筑前名寄に「長者町と四三島の間を安野と曰ふ。方一里の平野なり」とある。太宰府の東南三里餘、太宰府の官人たちが遊獵の地であつたらう。五六八地圖參照。
〔評〕 遣唐使までもやつて來た丹比縣守は、當時のハイカラ長官の旅人には、最もよい話し相手であつたらう。この歌にも酒を愛した支那の文人らしい氣分が見えて、卷三の讃酒歌十三首を思はしめるものがある。
 
賀茂女王贈2大伴宿禰三依1詔一首
 
元暦校本その他古本に、下に小字で「故左大臣長屋王之女也」とある。卷八の一六一三の題詞の(523)下に、長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也とある。
 
556 筑紫船 いまだも來ねば あらかじめ 荒ぶる君を 見るが悲しさ
 
筑紫船《ツクシブネ》 未毛不來者《イマダモコネバ》 豫《アラカジメ》 荒振公乎《アラブルキミヲ》 見之悲左《ミルガカナシサ》
 
貴方ガ乘ツテ行カレル筈ノ〔アナタ〜傍線〕筑紫船ガ、未ダ此處ヘ〔三字傍線〕來ナイノニ、早クモ私ヲ疎ンジナサレテ〔九字傍線〕、薄情ラシイ風ヲナサル貴方ヲ見ルノガ悲シイデスヨ。筑紫ヘ下ラレタ後ノコトガ思ヒヤラレマス〔筑紫〜傍線〕。
 
○筑紫船《ツクシブネ》――筑紫で出來て、筑紫人が乘込んでゐる船で、筑紫へ行くに便乘するのだ。○未毛不來者《イマダモコネバ》――未だ來らざるにの意。O荒振公乎《アヲブルキミヲ》――心の荒びて、自分を疎んじょうとする君をの意。○見之悲左《ミルガカナシサ》――古義にミムガカナシサとよんで、三依が筑紫から歸來の時の歌としてゐる。下の五六五の歌によるに、決してさうではない。
〔評〕 難波あたりを舟出せむとするに先立ち、別を悲しんでよんだもので、女らしい取越苦勞が真に悲しい。
 
土師《ハニシ》宿禰|水通《ミヅヂ》、從《ヨリ》2筑紫1上(ル)v京(ニ)海路(ニテ)作(レル)歌二首
 
土師宿禰水通の傳は分らない。卷十六の三八四三の左註に「有2大舍人土師宿禰水通1字曰志婢麻呂也」と見えてゐる。
 
557 大船を 榜ぎの進みに 磐に觸り 覆らば覆れ 妹に依りてば
 
大船乎《オホブネヲ》 ※[手偏+旁]乃進爾《コギノススミニ》 磐爾觸《イハニフリ》 覆者覆《カヘラバカヘレ》 妹爾因而者《イモニヨリテバ》
 
私ガ都ニ歸ルノニ乘ツテ行ク〔私ガ〜傍線〕大船ヲ、漕イデ行ク張合デ、岩ニ打チツケテ覆ルナラ覆レ。妻ニ逢フ爲〔四字傍線〕ナラバ何トモ思ハナイ〔七字傍線〕。
 
○※[手偏+旁]乃進爾《コギノススミニ》――漕いで行く勢での意。○磐爾觸《イハニフリ》――海中の岩礁に觸れて。○妹爾因而者《イモニヨリテバ》――妹の爲ならばの意。古義に「吾が思ふ妹に一日も早く依らば、戀しく思ふ心の安からむぞとなり」とあるのは、誤つてゐる。
〔評〕 珍らしい強烈な豪快な作意である。集中海路に關する歌は多いが、こんな熾烈な戀情を托したものは尠(524)い。
 
558 ちはやぶる 神の社に 我が掛けし 幣はたばらむ 妹に逢はなくに
 
千磐破《チハヤブル》 神之社爾《カミノヤシロニ》 我掛師《ワガカケシ》 幣者將賜《ヌサハタバラム》 妹爾不相國《イモニアハナクニ》
 
(千磐破)神ノ社ニ私ガ上ゲマシタ幣は、御返シ下サイマシ。アレホド幣ヲ上ゲテオ祈リシマシタノニ効能モナクテ〔アレ〜傍線〕、海ガアレテ舟ガ進マズ、カウシテ妻ニ逢ヘナイカラ。早クオカヘシ下サイ〔早ク〜傍線〕。
〔評〕 海路の久しきに堪へかねて、神を呪つたのである。これにも男性らしい強さがあらはれてゐる。神への反逆は、當時としては、たとひ口だけにしても極めて重大なことであった。これはかなり思ひ切った歌と言はねばならぬ。
 
太宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
 
百代は巻三の三九二に見えてゐる。
 
559 事もなく 生き來しものを 老いなみに かかる戀にも 吾は遇へるかも
 
事毛無《コトモナク》 生來之物乎《イキコシモノヲ》 老奈美爾《オイナミニ》 如此戀于毛《カカルコヒニモ》 吾者遇流香聞《ワレハアヘルカモ》
 
今マデ何ノコトモ無ク暮ラシテ來タノニ、年老ツタコノ頃ニナツテ、コンナ苦シイ〔三字傍線〕戀ニ逢ツタワイ。
 
○生來之物乎《イキコシモノヲ》――生を在の誤かと童蒙抄に出てゐるのが、廣く行はれてゐる。又このままにしてアレコシと代匠記にあるが、これは面白くない。字を改めないとすればイキコシとよむ外はあるまい。新訓にはオヒコシとある。○老奈美爾《オイナミニ》――老の頃といふ意。年なみ、月なみなども同じでからう。老の波といふ語はこれから出たのであらう。
〔評〕 大さう老人めかして詠んでゐるが、續紀によると、この人は天平十九年正月に正五位下になってゐるから、この歌の作られた頃から、まだ少くとも二十年は生存して居たのでこの頃、四十歳位になってゐたものか。ともかくこの四首の歌は、古歌の改作が多くて眞實性が缺けてゐるやうに思ふ。
 
560 戀ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の 爲こそ妹を 見まく欲りすれ
 
(525)孤悲死牟《コヒシナム》 後者何爲牟《ノチハナニセム》 生日之《イケルヒノ》 爲社妹乎《タメコソイモヲ》 欲見爲禮《ミマクホリスレ》
 
來世ヲタノムナドト言フガ〔來世〜傍線〕焦レ死ニシタ後デハ何ニナラウカ、何ニモナラヌ〔六字傍線〕。私ハ生キテヰル現世ノ爲ニコソ女ト逢ヒタイト思フヨ。
〔評〕 卷十一に戀死後何爲吾命生日社見幕欲爲禮《コヒシナムノチハナニセムワガイノチノイケルヒニコソミマクホリスレ》(二五九二)とある古歌を、少し手を入れただけの作である。
 
561 念はぬを 思ふと言はば 大野なる 三笠のもりの 神し知らさむ
 
不念乎《オモハヌヲ》 思當云者《オモフトイハバ》 大野有《オホヌナル》 三笠杜之《ミカサノモリノ》 神思知三《カミシシラサム》
 
私ガ心カラ〔三字傍線〕戀シテヰナイノヲ僞ツテ〔三字傍線〕、戀シテヰルト人ニ言フナラバ、ソレハ大野ノ三笠ノ杜ノ神樣ガオ知リナサツテ罰ヲオ當テ〔九字傍線〕ナサルデセウ。
 
○大野有三笠杜之《オホヌナルミカサノモリノ》――和名抄に筑前國御笠郡大野とあり、今の筑紫郡大野村。三笠杜は神功皇后紀に「皇后欲v撃2熊襲1而自2橿日宮1遷2于松峽宮1時飄風忽起御笠墮v風、故時人號2其處1曰2御笠1也」とあつて、今、雜餉隈の東北にあたる。五六八の地圍參照。寫眞は太宰府大薮氏の撮影寄贈にかかる。
〔評〕 神に自ら誓言する歌。卷十二に不想乎想常云者眞島任卯名手乃杜之神思將御知《オモハヌヲオモフトイヘバマトリスムウナテノモリノカミシシラサム》(三一〇〇)とある古歌を神名だけを入れかへて借りたもの。六五五にも駿河麻呂の歌に似たのがある。
 
562 いとま無く 人の眉根を いたづらに 掻かしめつつも 逢はぬ妹かも
 
(526)無暇《イトマナク》 人之眉根乎《ヒトノマヨネヲ》 徒《イタヅラニ》 令掻乍《カカシメツツモ》 不相妹可聞《アハヌイモカモ》
 
人ニ戀ヒセラレルト眉ガ痒クナルトイフコトダガ、私モ眉ガ痒イカラ、アノ女ガ私ヲ戀シガツテヰルノダラウト思ツテヰルノニ〔人ニ〜傍線〕、アノ女ハ斷エズ私ノ眉ヲ空シク掻カセルバカリデ、少シモ逢ツテクレナイヨ。ドウシタノダラウ〔八字傍線〕。
 
○無暇《イトマナク》――この句は令掻乍《カカシメツツモ》にかかつてゐる。○人之眉根乎《ヒトノマヨネヲ》――眉は古事記に麻用賀岐《マヨガキ》とあるからマヨとよむ。
〔評〕 眉が痒いのは人に思はれてゐる兆とする俚言によつたものである。これも卷十二の五十殿寸天薄寸眉根乎徒令掻管不相人可母《イトノキテウスキマヨネヲヲイタヅラニカカシメツツモアハヌヒトカモ》(二九〇三)といふ古歌の燒直しである。
 
大伴坂上郎女歌二首
 
563 黒髪に しろ髪交り 老ゆるまで かかる戀には いまだ逢はなくに
 
黒髪二《クロカミニ》 白髪交《シロカミマジリ》 至耆《オユルマデ》 如是有戀庭《カカルコヒニハ》 未相爾《イマダアハナクニ》
 
コンナニ〔四字傍線〕黒髪ニ白髪ガ混ル程ニ年トルマデ、私ハ〔二字傍線〕コレホド烈シイ〔三字傍線〕戀ヲシタコトハナイ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
〔評〕 前の百代の歌に和へたものとする説が多い。この郎女は、兄の旅人と共に太宰府にゐて、天平二年十一月に歸京の途についたことは、卷六の九六三の歌で明らかであるから、太宰府滞在中、百代と親しくしてゐたと思はれる。新考に「この歌の戀は、おのが戀にあらで、人の戀なり」とあるは從ひ難い。略解に「郎女いまだ老いたる程にはあらじを、百代が歌にこたふる故に、かく白髪交などと詠めるなり」とある。郎女はまだ老境に入つたといふほどではあるまいが、初、穗積親王に愛せられ、靈龜元年七月皇子の薨去に遭つてから、藤原麻呂と婚し、吏に大伴宿奈麻呂の妻となつて、坂上大孃同二孃を産んだ。靈龜元年から天平元年まで十五年であるから、少くとも三十三四歳にはなつてゐたのである。
 
564 山菅の 實ならぬことを 吾に伏せ 言はれし君は 誰とかぬらむ
 
(527)山菅乃《ヤマスゲノ》 實不成事乎《ミナラヌコトヲ》 吾爾所依《ワレニヨセ》 言禮師君者《イハレシキミハ》 與孰可宿良牟《タレトカヌラム》
 
私ト關係ガアルヤウニ〔私ト〜傍線〕、(山菅乃)實ノナイコトヲ評判サレタ貴方ハ、今ハ〔二字傍線〕誰ト一緒ニ〔三字傍線〕寢テヰルデセウ。私ト貴方ト浮名ヲ立テラレテ、ソノ實、貴方ハ他ノ女ト親シクシテ私バカリ本當ニツマラナイ話デス〔私ト〜傍線〕。
 
○山管乃《ヤマスゲノ》――枕詞。實とつづく。ヤブラン(麥門冬)といふ蘭のやうな草で、黒い實が澤山生ずる。
〔評〕 しばらく逢はない男に贈つたのである。男との關係が淺いやうに見えるが、百代に和へたとすると、前の無暇《イトマナク》に和したものであらう。
 
賀茂女王歌一首
 
賀茂女王は五五六參照。
 
565 大伴の みつとは言はじ あかねさし 照れる月夜に ただにあへりとも
 
大伴乃《オホトモノ》 見津跡者不云《ミツトハイハジ》 赤根指《アカネサシ》 照有月夜爾《テレルツクヨニ》 直相在登聞《タダニアヘリトモ》
 
(赤根指)照リ渡ツテヰル明ラカナ月夜ニ、カウシテ〔四字傍線〕直接貴方ニ〔三字傍線〕逢ツタトモ、私ガ貴方ヲ〔五字傍線〕(大伴乃)見タトモ人ニ〔二字傍線〕言ヒマスマイ。隱シマスカラ心配ナサルナ〔隱シ〜傍線〕。
 
○大伴乃《オホトモノ》――枕詞。三津は難波で、大伴はあの地方の總稱であつたらしい。卷一には大伴乃高師能濱乃《オホトモノタカシノハマノ》(六六)とある。○見津跡者不云《ミツトハイハジ》――地名の三津に、見つをかけたもの。○赤根指《アカネサシ》――照るとつづいてゐるから、アカネサスをアカネサシとよんでゐる。照るを修飾してゐるが、やはり枕詞として置かう。○直相在登聞《タダニアヘリトモ》――直に逢へりといふこともの意。トモは雖もの意ではない。
(528)〔評〕 前の五五六の歌から推せば、これは難波で、大伴三依に贈られた歌らしい。さうすれば初の二句の意が、廣くなって來る。
 
太宰大監大伴宿禰百代等、贈2驛使《ハユマツカヒニ》1歌二首
 
驛使は驛馬に乘つて急行する使者。ここは稻公と胡麻呂とを指してゐる。
 
566 草枕 旅行く君を うつくしみ たぐひてぞ來し 志珂の濱邊を
 
草枕《クサマクラ》 羈行君乎《タビユクキミヲ》 愛見《ウツクシミ》 副而曾來四《タグヒテゾコシ》 鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕(草枕)旅ニオ出ナサル貴方ヲナツカシク思ヒマシテ、オ見送ノ爲ニ〔六字傍線〕志珂ノ濱邊ヲ貴方ト〔三字傍線〕一緒ニ並ンデ參リマシタ。
 
○愛見《ウツクシミ》――なつかしく思ふ故にの意。他の訓もあるがウツクシミがよい。○鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》――筑前粕屋郡、謂はゆる博多灣の沿岸である。これを海の中道の濱とする説もあるが、左註に夷守とあるによれば、決してさうではない。
〔評〕 別れ難さに白砂青松の汀を、肩を並べて送つて來た人たちの心持が、この歌で代表せられてゐる、温情の漂つた、なごやかな歌である。
 
右一首大監大伴宿禰百代
 
567 周防なる 磐國山を 越えむ日は 手向よくせよ 荒き其の道
 
周防在《スハフナル》 磐國山乎《イハクニヤマヲ》 將超日者《コエムヒハ》 手向好爲與《タムケヨクセヨ》 荒其道《アラキソノミチ》
 
周防ノ國ノ岩國ノ山ヲオ越エナサル日ニハ、山ノ神樣ニ幣ヲ〔七字傍線〕ヨク手向ケナサイマシ。アノ人里離レタヒドイソノ山道ヲ、オ越エナサル時ニハ手向ヲナサイマシ〔オ越〜傍線〕。
 
○周防在磐國山乎《スハフナルイハクニヤマヲ》――周防の岩國の山で、當時その邊は海に迫つた難路であつたのだらう。今は海岸から一里(529)ばかり遠く隔つてゐる。岩國川の土砂が堆積して、この陸地を作つたのである。山中には古昔の通路のあとも殘り、石壘などの尚存するものがあつて、人家のあつたことをしのばしめるものがある。寫眞は岩國中學校の上田純雄氏の寄贈に係る。○荒其道《アラキソノミチ》――アラシとよむ古訓に從ふ説もある。アラキと續く方がよくはないか。
〔評〕 ただ親切な餞の言葉といふだけである。行く行く神を祭つた上代の旅の風俗がしのばれる。
 
右一首少典山口忌寸若麻呂
 
以《サキニ》2※[止/舟]天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽生(ジ)2瘡(ヲ)脚(ニ)1疾2苦(ス)枕席(ニ)1、因(リテ)v此(ニ)馳(セテ)v驛(ヲ)上奏(シ)望(ミ)3請(ヘレ)庶弟|稻公《イナキミ》、姪|胡《コ》麻呂(ニ)欲(スト)v語(ラント)2遺言(ヲ)1者《バ》 勅(シテ)2右兵庫助大伴宿禰稻公、治部少亟大伴宿禰胡麻呂兩人(ニ)1、給(ヒテ)v驛(ヲ)發遣(シ)令(ム)v看2卿(ノ)病(ヲ)1、而(テ)※[しんにょう+至](テ)2數旬(ヲ)1幸(ニ)得(タリ)2平復(スルヲ)1。于v時稻公等以(テ)2病(ノ)既(ニ)療(エタル)1發(シテ)v府(ヲ)上(ル)v京(ニ)、於v是、大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂、及卿(ノ)男家持等、相2送(リテ)驛使(ヲ)1、共(ニ)到(リ)2夷守《ヒナモリノ》驛家(ニ)1聊(カ)飲(ミテ)悲(シミ)v別(ヲ)、乃(チ)作(ル)2此(ノ)歌(ヲ)1、
 
※[止/舟]は肯と同じで、前と通じて用ゐられる。稻公はここに庶弟とあるから旅人の腹違の弟である。續紀によれば、天平十三年十二月に從五位下で因幡守となり、その後兵部大輔・上總守などを歴て、天平寶字二年(530)二月に大和國守從四位下になつたことまで見えてゐる。この頃はまだ右兵庫助の卑官であつて、年齡も旅人よりはよほど若かつたらうと思はれる。なほこの人の歌が下の五八六に見えてゐる。胡麻呂は旅人の姪とのみあつて、父が明らかにしてない。旅人の弟は他に田主と宿奈麻呂とがあるが、この二人の子と思はれるふしがなく、ここの書き方で見ると稻公が父子で來らしく見えるから、恐らく稻公の子であらう。この人は續紀によれば、天平十七年正月に正六位上から從五位下を授かり、その後左少辨・遣唐副使・左大辨・陸奧鎭守府兼將軍・陸奧按察使などになつたが、天平寶宇元年七月、橘奈良麻呂の反に坐して、獄中に死んだ人である。なほ、この人の入唐を餞した歌が卷十九(四二六二)に見えてゐる。療は癒と同意に用ゐられたのであらう。夷守驛は所在が確かでない。延喜式に驛馬をあげて「席打、夷守、美野各十五疋」とある。席打は今の古賀附近で、三野は即ち博多であるから、その中間の多々羅あたりであらうと推定せられる。ここに家持の名が見えるのは注意すべきである。彼は父に伴なはれて、太宰府に來てゐたのであるが、歌を遺してゐないのでも、まだ少年であつたことがわかる。たの人の享年を六十八歳とする、大伴氏系圖の傳に從へば、この年は僅かに十三歳であつたのである。
 
太宰帥大伴卿、被《レ》v任(ゼ)2大納言(ニ)1臨(ミ)2入(ラントスルニ)v京(ニ)之時(ニ)1府官人等、餞(スル)2卿(ヲ)筑前(ノ)國|蘆城《アシキ》驛家(ニ)1歌四首
 
旅人が大納言に任せられたのは卷三の奧書によれば天平二年十月一日である。蘆城驛家は、既に前の五四九の題詞に説明した通りであるが、卷六の九六六の左註に、右太宰帥大伴卿兼2任大納言1向v京上道。此日馬駐2水城1顧望府家1云々とあつて、この蘆城驛家で府の官人らの餞を受けた後、彼は水城を經て歸京の旅に上つたのである。此處で地理を案じて見ると、府から水城の方へ向はむとする者が、何故に寧ろ反對の方角にある芦城驛へ行くかといふことである。この芦城驛は平安朝になつては、夙に廢止せられたものらしく延喜式にも見えてゐないのであるが、京都か(531)ら太宰府へ通ずる幹線道路、即ち大路を式によつて調べて見ると、九州の地に入つては、先づ豐前の社崎に始まり、到津を經て筑前に入り、獨見・夜久・島門・津日・席打・夷守・美野・久爾を過ぎて太宰府に到着するので、還路は固よりこれを逆に行くだけで、府の次は久爾驛、即ち今の席田村であるから芦城の方へ行くわけはないのである。この他、太宰府から南方筑後肥後に赴くには長丘驛があり、豐後方面へは、隈崎・廣瀬・把技等の諸驛があるが、芦城と思しき地はない。唯、注意すべきは豐前方面への捷路に田河道と稱するものがあつて、續紀天平十二年十月、廣嗣の亂を記した條に「降服隼人贈唹君多理志佐申(シテ)云(フ)、逆賊廣嗣謀(リテ)云(フ)、從(リ)2三道1往(カムト)、即廣嗣(ハ)自(ラ)率(テ)2大隅、薩摩、筑前、豐後等國軍合(テ)五千人許(ヲ)1從(リ)2鞍手道1往、綱手率(テ)2筑後、肥前等國軍合(セテ)五千人許(ヲ)1從2豐後國1往(キ)、多胡麻呂不v知2所(ノ)v率軍數(ヲ)1從(リ)2田河道〔三字右○〕1一往(ムト)」と見えてゐる。これは乃ち太宰府から東、米の山を越えて網分驛を經て田河・米多に通ずるもので、式にその名が見えてゐる。芦城は或はこの道の小驛であつたのであらうか。この地は芦城川・芦城山等の好景を控へてゐた爲、官人等遊宴の地として喜ばれ、都へ還らうとする者は此處で馬の餞を受けて旅立ち、更に大路に戻つて水城方面へ向つたものであらうか。さうでも考へるより他に判斷がつかないのである。なほ後の考究に俟ちたいと思ふ。
 
568 み埼みの 荒磯に寄する 五百重浪 立ちてもゐても 我が念へる
 
三埼廻之《ミサキミノ》 荒礒爾縁《アリソニヨスル》 五百重浪《イホヘナミ》 立毛居毛《タチテモヰテモ》 我念流吉美《ワガモヘルキミ》
 
(532)(三埼廻之荒磯爾縁五百重浪)立ツテモ座ツテモ始終私〔四字傍線〕ガ思ツテヰル貴方ヨ。オ別レ申スノハ、ツラウゴザイマス〔オ別〜傍線〕。
 
○三埼廻之《ミサキミノ》――三は美稱。この句は岬の回りのことで、地名ではない。○五百重浪《イホヘナミ》――幾重にも頻りに立つ浪で、この句までは、立つといふ爲の序詞である。
〔評〕 この下句に似た歌が卷十の二二九四、卷十一の二四五三などにもある。それに添へる序詞だけを、新しく工夫したといふに過ぎない。しかも海に遠い芦城驛では、あまり興味を惹かない序詞の用法である。
 
右一首筑前掾門部連|右足《イソタリ》
 
門部運石足の傳は明らかでない。
 
569 韓人の 衣染むといふ 紫の 心にしみて 念ほゆるかも
 
辛人之《カラヒトノ》 衣染云《コロモソムトイフ》 紫之《ムラサキノ》 惰爾染而《ココロニシミテ》 所念鴨《オモホユルカモ》
 
私ハ貴方トオ別レ申スコトハ〔私ハ〜傍線〕、(辛人之衣染云紫之)心ニ深ク染ミ込ンデ悲シク思ヒ〔八字傍線〕マスワイ。
 
○辛人之衣染云紫之《カヲヒトノコロモソムトイフムラサキノ》――韓人が衣を染めるといふ紫色の意で、下の染而《シミテ》に續く序詞である。辛人は、淑《ヨキ》人・宇萬《ウマ》人・宮《ミヤ》人などの誤とする説があるが、辛は辛埼、辛衣、辛藍などと多く用ゐられてゐる文字で、誤とは思はれない。衣染云《コロモソムトイフ》も遙かに傳へ聞く趣である。
〔評〕 序詞が新奇なさうして高雅な感を與へる歌である。懷風藻の作者だけに、異國情調があらはれてゐる。
 
570 大和へ 君が五つ日の 近づけば 野に立つ鹿も とよみてぞ鳴く
 
山跡邊《ヤマトヘ》 君之立日乃《キミガタツヒノ》 近付者《チカヅケバ》 野立鹿毛《ヌニタツシカモ》 動而曾鳴《トヨミテゾナク》
 
大和ノ方ヘ、貴方ガ御出立ナサル日ガ近ヅクト、人ハ勿論ノコト〔七字傍線〕野ニ立ツ鹿マデモ、貴方トノ別レヲ悲シンデ〔貴方〜傍線〕聲ヲ響カセテ鳴キマスヨ。
 
○山跡邊《ヤマトヘ》――ヤマトヘト又はヤマトヘニの訓もあるが、四音によむ方がよい。○野立鹿毛《ヌニタツシカモ》――鹿をシカとよま(533)せるのは、殆ど類例がない。萬葉問答や、※[手偏+君]解にヌニタテルカモとよんだのがよいかも知れない。
〔評〕 平明な、情愛の籠つた作。野の鹿の聲を點出したのが、哀深い。
 
右二首大典|麻田連陽春《アサダノムラジヤス》
 
典は太宰府の屬官で、監の下である。大典と少典とに別れてゐた。續紀に「神龜元年五月辛未正八位上答本陽春賜2姓(ヲ)麻田連1」、「天平十一年正月丙午、正六位上麻田連陽春授2外從五位下1」とある。懷風藻には「外從五位下石見守麻田連陽春一首、年五十六」と見えてゐる。
 
571 月夜よし 河音さやけし いざここに 行くも行かぬも 遊びてゆかむ
 
月夜吉《ツクヨヨシ》 河音清之《カハトサヤケシ》 ※[攣の手が十]此間《イザココニ》 行毛不去毛《ユクモユカヌモ》 遊而將歸《アソビテユカム》
 
今夜ハ〔三字傍線〕月ガ良ウゴザイマス、川ノ音モ澄ンダヨイ音ヲ立テテヰマス。サア此處デ、都ヘ〔二字傍線〕行ク人モ後ヘ殘ル人モ、共ニ遊ンデ行カウデハアリマセンカ。
 
○河音清之《カハトサヤケシ》――童蒙抄の訓がよい。清はサヤカとよんだ例が多い。卷八に珠匣葦木乃河乎《タマクシゲアシキノカハヲ》(一五二一)とあるからこの河音は芦城川の音である。
〔評〕 實に明澄な佳調である。一二の句で韻を押んだのも氣持が良い。すがすがしい月夜の感がよく現はれてゐる。
 
右一首防人佑大伴四綱
 
四綱は卷三の三二九に出てゐる。防人佑は防人司の判官。舊本佑を佐に作るは誤。元暦校本による。
 
太宰帥大伴卿、上(リシ)v京(ニ)之後、沙彌滿誓、賜(レル)v卿(ニ)歌二首
 
滿誓は造筑紫觀世音寺別當として、太宰府にゐた。卷三の三三六參照。賜は元暦校本などに贈とあるのがよい。
 
572 眞そ鏡 見飽かぬ君に 後れてや あした夕に さびつつ居らむ
 
(534)眞十鏡《マソカガミ》 見不飽君爾《ミアカヌキミニ》 所贈哉《オクレテヤ》 旦夕爾《アシタユフベニ》 左備乍將居《サビツツヲラム》
 
イクラ見テモ〔六字傍線〕(眞十鏡)見アキノシナイ貴方ニ別レテ、後ニ殘サレテ、私ハカウシテ〔後ニ〜傍線〕朝ニ晩ニ心淋シク暮ラスコトデゴザイマセウカ。ホントニ淋シウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。見とつづく。○所贈哉《オクレテヤ》――贈は遲の意に借り用ゐたのである。題詞にあつた字が紛れたのだといふ説もある。このヤは五句の下に着いてゐるので、かうした語法はいくらもある。○左備乍將居《サビツツヲラム》――淋びしく思ひつつ居らむやの意。
〔評〕 戀ひしき君とか、我が思ふ君とか言はないで、見不飽君爾《ミアカヌキミニ》としたのが、敬慕の情をあらはしてゐる。
 
573 ぬば玉の 黒髪變り しらけても 痛き戀には 遇ふ時ありけり
 
野干玉之《ヌバタマノ》 黒髪變《クロカミカハリ》 白髪手裳《シラケテモ》 痛戀庭《イタキコヒニハ》 相時有來《アフトキアリケリ》
 
戀ハ若イ中トバカり思ツテヰマシタノニ〔戀ハ〜傍線〕(野干玉之)黒髪ガ白髪ニナルヤウナ老年ニナリマシテモ、カヤウナ苦シイ戀ヲスル時ガアルモノデスナア。ホントニ私ハ貴方トオ別レシテ悲シウゴサイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○黒髪變白髪手裳《クロカミカハリシラケテモ》――舊訓の儘がよい。玉の小琴にクロカミシロクカハリテモとしたのは妄である。白髪手《シヲケテ》を動詞によんであるのは少し變であるが、髪は毛と同字に見て、かうよんだのであらう。
〔評〕 旅人との離別を、男女間の戀の悲しみのやうに詠みなしたのが面白い。また滿誓は、俗名は笠朝臣麻呂で、慶雲元年に、正六位下から從五位下を授つてゐる。それからこの天平二年までは二十七年目に當つて、彼もはや老境に入つた頃である。併し黒髪變白髪手裳《クロカミカハリシラケテモ》が、圓顱禿頭の人によつて歌はれたとすると、頗る滑稽を感ぜざるを得ない。この作はかうしたところに面白味を狙つてあるのであらう。この歌の題詞が脱ちたのだらうとするのは、深く考へない説である。但しこれは前の大伴坂上郎女の歌(五六三)と全く同歌であるから、老をあらはすかうした慣用法を踏襲したのに過ぎないかも知れない。
 
(535)大納言大伴卿和(フル)歌二首
 
574 此處に在りて 筑紫やいづく 白雲の 棚引く山の 方にしあるらし
 
此間在而《ココニアリテ》 筑紫也何處《ツクシヤイヅク》 白雲乃《シラクモノ》 棚引山之《タナビクヤマノ》 方西有良思《カタニシアルラシ》
 
コノ都ヘ歸ツテ來テ、筑紫ハドチラノ方デアラウ。彼方ニ白雲ガ棚曳イテヰルガ、アノ〔彼方〜傍線〕白雲ノ棚曳イテヰル山ノ方デモアラウカ。アナタノ居ラレル筑紫ノ方ガナツカシウゴザイマス〔アナ〜傍線〕。
 
〔評〕 なつかしい情緒を、やさしい調子で歌つてある。初の二句で切つて、自問自答の體にしてあるのも、變つた歌品をなしてゐる。但し卷三の石上卿の此間爲而家八方何處白雪乃棚引山乎超而來二家里《ココニシテイヘヤモイヅクシラクモノタナビクヤマヲコエテキニケリ》(二八七)に倣つたことは確かである。
 
575 草香江の 入江にあさる 蘆鶴の あなたづたづし 友なしにして
 
草香江之《クサカエノ》 入江二求食《イリエニアサル》 蘆鶴乃《アシタヅノ》 痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》 友無二指天《トモナシニシテ》
 
私ハ、コチラヘ參リマシテカラ〔私ハ〜傍線〕、友達トイフノガアリマセンカラ、(草香江之入江二求食蘆鶴乃)アア心ガ落チ付キマセン。貴方バカリガナツカシウゴザイマス〔貴方〜傍線〕。
 
○草香江之《クサカエノ》――草香江は河内國中河内郡、生駒山の西麓の日根市村附近、往古はこの邊は一體の沼澤地で、北河内郡の深野池、寢屋川と通じて一面の水であつた。神武天皇の東征の際も浪速から舟行して、草香の蓼津に到り給うたのである。後世地形の變化はあつたが、寶永の頃新大和川の開疏せられるに至つて、始めて今日の如き状態になつたのである。この草香江に鶴が多くゐたから、入江二求食蘆鶴乃《イりエニアサルアシタヅノ》として、序詞を作つたのである。同音を繰り返して下につづくのである。筑前名寄に草香江を福岡の西なる鳥飼村としてゐるのは、八雲御抄などの記述によつて、強ひて求めたもので、從ふべきでない。○痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》――アナは嗚呼と嘆ずる辭。タヅタヅシはタドタドシに同じ。心のおぼつかなく、晴れぬをいふのである。
〔評〕 これも平明な調に哀感を包んで歌はれてゐる。草香江の蘆鶴は、大和人の普く知るところであるから、こ(536)れを取り入れたのであらう。筑紫にゐる人には郷愁が、これによつて更に幾段の深さを増したらうと思はれる。巻十一の天雲爾翼打附而飛鶴乃多頭多頭思鴨君不座者《アマクモニハネウチツケテトブタヅノタヅタヅシカモキミイマサネバ》(二四九○)などに多少の類似は認められるにしても、それは咎めるに及ぶまい。
 
太宰帥大伴卿、上(レル)v京(ニ)之後、筑後守|葛井連大成《フヂヰノムラジオホナリガ》悲(ミ)歎(キテ)作(レル)歌一首
 
大成は續紀に「神龜五年五月丙辰、正六位葛井連大成(ニ)授2外從五位下1」とある。
 
576 今よりは 城の山道は さぶしけむ 吾が通はむと 思ひしものを
 
從今者《イマヨリハ》 城山道者《キノヤマミチハ》 不樂牟《サブシケム》 吾將通常《ワガカヨハムト》 念之物乎《オモヒシモノヲ》
 
私ハ帥殿ノ居ラレル太宰府ヘ城ノ山ヲ通ツテ〔帥殿〜傍線〕、通ハウト思ツテヰタノニ、今ハ帥殿モ御歸京ナサツタカラ〔今ハ〜傍線〕、今カラアノ城ノ山ノ道ヲ通ルノ〔四字傍線〕モツマラナイデアラウ。
 
○城山道者《キノヤマミチハ》――城山は筑前筑紫郡と肥前基肆郡との界の山で、天智天皇の四年に此處に城塞を築かしめられた。今の原田の西方の山で、肥前・筑後の国府から太宰府へ通ずる要路であつたのである。古義に大城山と混同してゐるのは非常な誤である。五六八の地圖参照。○不樂牟《サブシケム》――このサブシは寂寥といふ意ではなく、心面白からず、氣の引き立たぬことをいふ。
〔評〕 帥の歸京を見送つて、間もなくよんだものであらう。今まで筑後から通ふ時、城の山まで來て、遙かに都府樓を望み、帥との會見を心に勸んだこともわかるやうである。
 
大納言大伴卿、新袍(ヲ)贈(レル)2攝津大夫高安王(ニ)1歌一首
 
袍は束帶の表衣で、襴の附いた袷衣。攝津大夫は攝津職の長官。高安王は績紀によれば、和銅六年正月無位から從五位下を授かつた人で、伊豫守・按察使・衛門督などを經て、天平十一年大原眞人の姓を賜はり、同十四年十二月正四位下で卒してゐる。皇胤紹運録に川内王の子とある。
 
577 吾が衣 人にな着せそ 網引する 難波壯士の 手には觸るとも
 
(537)吾衣《ワガコロモ》 人莫著曾《ヒトニナキセソ》 網引爲《アビキスル》 難波壯士乃《ナニハヲトコノ》 手爾者雖觸《テニハフルトモ》
 
私ガ差シ上ゲマスコ〔八字傍線〕ノ着物ヲ他人ニハオ着セナサルナ。タトヘオ氣ニ召サナイデ〔タト〜傍線〕、コレヲ網ヲ引難波ノ男ノ手ニ觸レテ彼ラニ與ヘルニシテ〔彼ラ〜傍線〕モ他ノ人ニ着セナサルナ〔他ノ〜傍線〕。
 
○難波壯士乃《ナニハヲトコノ》――難波の浦に住む海士であらう。高安王のこととする古義説はとらぬ。○手爾者雖觸《テニハフルトモ》――宣長は雖の下に不の字あるものとして、フレズトモとよまうと言ひ、古義はフレレドとよんで、題詞の大納言大伴卿と攝津大夫高安王とが入れ替はつたものとしてゐる。併しこれは、この儘でよいので、この句は難波の海士たちに與へるとしてもの意であらう、袍はそのまま漁夫らの着料とはならないから、手爾者雖觸《テニハフルトモ》としたので、 かう見れば人莫着曾《ヒトニナキセソ》と矛盾することもない。
〔評〕 旅人が太宰府から歸京の途、難波に上陸して、其處の長官に手土産として、新しい袍を贈つた時の作で、謙遜の心を以てよんである。
 
大伴宿禰三依悲v別歌一首
 
三依の傳は五五二參照。
 
578 天地と 共に久しく 住まはむと 思ひてありし 家の庭はも
 
天地與《アメツチト》 共久《トモニヒサシク》 住波牟等《スマハムト》 念而有師《オモヒテアリシ》 家之庭羽裳《イヘノニハハモ》
 
天地ト共ニイツマデモ久シク住マハウト思ツテ居タコノ家ノ庭ヨナア。今コノ家ヲ去ルニ當ツテ私ハ實二別レガ悲シク思ハレル〔今コ〜傍線〕。
〔評〕 太宰府から歸る時の作であらう。假の住居ながら天地與共久《アメツチトトモニヒサシク》と言つた誇張が、その時の感じをあらはしてゐる。卷二に天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトヲヘムトオモヒツツツカヘマツリシココロタガヒヌ》(一七六)とあつたのと、似たところがある。
 
(538)金明軍與(フル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌二首
 
元暦校本などの古本に、小字で、「明軍者大納言卿之資人也」とある。この人のこと三九四參照。
 
579 見まつりて いまだ時だに 更らねば 年月の如 おもほゆる君
 
奉見而《ミマツリテ》 未時太爾《イマダトキダニ》 不更者《カハラネバ》 如年月《トシツキノゴト》 所念君《オモホユルキミ》
 
貴方ニオ〔四字傍線〕目ニカカツテオ別レ致シマシテ〔八字傍線〕カラ未ダ時モ經チマセンノニ、年月ガ經ツタヤウニ私ハ思ヒマス。
 
○末時太爾《イマダトキダニ》――時は年月に對したので、暫くの間をいつたのである。四季と見る説もあるが、それでは年月に對し難い。○不更者《カハラネバ》――更らざるにの意。
〔評〕 主人旅人の長男たる家持に敬意を表はしたものである。所念君《オモホユルキミ》と呼びかけた言葉に、篤實な忠僕のやうな心持があらはれてゐる。
 
580 足引の 山に生ひたる 菅の根の ねもごろ見まく ほしき君かも
 
足引乃《アシビキノ》 山爾生有《ヤマニオヒタル》 菅根乃《スガノネノ》 懃見卷《ネモゴロミマク》 欲君可聞《ホシキキミカモ》
 
(足引乃山爾生有菅根乃)懇ロニツクヅクト貴方ニオ目ニカカリタウ存ジマスヨ。
 
○足引乃山爾生有菅根乃《アシビキノヤマニオヒタルスガノネノ》――序詞。ネの音を繰り返して下につづくだけである。○懃見卷《ネモゴロミマク》――ネモゴロはネンゴロに同じく、心から深く切になどの意。
〔評〕 菅の根のねもごろといふやうな叙法は、この頃の慣用と見えて、類例は多いが、これはあつさりと素直に出來てゐる。これにも前の歌と同樣の氣分が見える。
 
大伴坂上家之大娘、報(ヘ)2贈(レル)大伴宿禰家持(ニ)1歌四首
 
坂上家之大娘、坂上の家にゐた第一の孃の意。田村大孃の妹で坂上二孃の姉である。母は坂上郎女、父は大伴宿奈麻呂。古義にはこの歌の前に家持から贈つた歌があつたのが、脱ちたのだら(539)うといつてゐる。
 
581 生きてあらば 見まくも知らに 何しかも 死なむよ妹と 夢に見えつる
 
生而有者《イキテアラバ》 見卷毛不知《ミマクモシラニ》 何如毛《ナニシカモ》 將死與妹常《シナムヨイモト》 夢所見鶴《イメニミエツル》
 
生キテ居サヘスレバ又逢フコトガアルカモ知レナイノニ、貴方ガコノ世デハ逢ヘナイカラ〔貴方〜傍線〕、死ンデシマハウヨ我ガ妻ト仰ルノヲ、ドウシテ我ハ夢ニ見タノデセウ。氣長ニ待ツテ居リマセウ〔氣長〜傍線〕。
〔評〕 語は平易であるが、續き方が少しく曖昧なので、解釋が種々に分れてゐるのは遺憾である。ここでは代匠記の説によつて置く。若い人の戀らしい詞だし。
 
582 ますらをも かく戀ひけるを 手弱女の 戀ふる心に たぐへらめやも
 
丈夫毛《マスラヲモ》 如此戀家流乎《カクコヒケルヲ》 幼婦之《タワヤメノ》 戀情爾《コフルココロニ》 比有目八方《タグヘラメヤモ》
 
貴方ハ大層戀ヲシテイラツシヤルサウデスガ〔貴方〜傍線〕、男デスラモソンナニ戀ヲナサルガ、併シ〔二字傍線〕女ガ戀ヲスル熱烈ナ〔三字傍線〕心ニハ比ベモノニハナリマセンヨ。
〔評〕 女の戀の眞劍さは、男の戀の及ぶところでない。をの誇を誇らしげに述べてゐる。蓋し多くの女性が男性に向つて言ひたいと思ふところであらう。
 
583 月草の うつろひやすく 思へかも 我が思ふ人の 事も告げ來ぬ
 
月草之《ツキクサノ》 徙安久《ウツロヒヤスク》 念可母《オモヘカモ》 我念人之《ワガモフヒトノ》 事毛告不來《コトモツゲコヌ》
 
月草ノ花染ノ色ノ〔六字傍線〕ヤウナ變リ易イ心デ私ヲ〔二字傍線〕思ツテイラツシヤルモノト見エテ、コノ頃ハ私ヲオ見捨テナサツタノカ〔コノ〜傍線〕、私ノ戀人ノ貴方〔三字傍線〕ハ何ノ御音信モナサリマセヌ。恨メシウ存ジマス〔八字傍線〕。
 
(540)○月草之《ツキクサノ》――月草は鴨頭草とも書いてある。つゆ草といふも同じで、路傍などに自生する二尺許の草で、夏日藍色の花を開く。古はこれを染料とした。謂はゆる縹色・花色である。變色し易きを以て從安久《ウツロヒヤスク》の譬にしたのである。○事毛告不來《コトモツゲコヌ》――事は言の借字。何の消息もない意。
〔評〕 月草を變り易い譬にするのは他にも例はある。男の薄情を憤つて語氣が荒々しい歌である。
 
584 春日山 朝立つ雲の ゐぬ日無く 見まくのほしき 君にもあるかも
 
春日山《カスガヤマ》 朝立雲之《アサタツクモノ》 不居日無《ヰヌヒナク》 見卷之欲寸《ミマクノホシキ》 君毛有鴨《キミニモアルカモ》
 
春日ノ山ニ毎朝立ツ雲ガカカツテ〔四字傍線〕居ナイ日ガ無イヤウニ、毎日、毎日、私ガ〔六字傍線〕オ目ニカカリタイト思フ貴方デゴザイマスナア。オナツカシウ存ジマス〔オナ〜傍線〕。
〔評〕毎朝目睹する景を捉へて譬喩として、男の慕はしさをあらはしてゐる。明るい、はつきりした作。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
585 出でていなむ 時しはあらむを ことさらに 妻戀しつつ 立ちて去ぬべしや
 
出而將去《イデテイナム》 時之波將有乎《トキシハアラムヲ》 故《コトサラニ》 妻戀爲乍《ツマゴヒシツツ》 立而可去哉《タチテイヌベシヤ》
 
貴方ハ私ノコトヲ戀シク思ツテ下サルトノコトデスガ〔貴方〜傍線〕、旅ヘオ出ナサルニモ時モアラウノニ、ワザワザ妻ヲ戀ヒシイト思シ召シナガラ、オ出掛ケナサラナイデモヨカラウト存ジマス。何モ御出立ハ今ニ限リマスマイ〔何モ〜傍線〕。
〔評〕 夫の旅に出ようとしてゐる時に、贈つた歌であらう。平明な作であるが、五の句が力強い、突込むやうな表現である。
 
大伴宿禰|稻公《イナギミ》贈2田村大孃1歌一首
 
稻公は前に旅人の處弟とある。續紀によると、天平十三年十二月に從五位下で因幡守、それから、(541)兵部大輔・上總守・大和國守などになつたことが見える。田村大孃は宿奈麻呂の子で、その家が田村の里にあつたので、かうよんでゐる。母の坂上郎女、及び二妹と別居してゐたので見ると、坂上郎女の實子ではないらしい。元暦校本などにこの下に小字で「大伴宿奈麻呂卿之女也」とある。
 
586 相見ずは 戀ひざらましを 妹を見て もとなかくのみ 戀ひば如何にせむ
 
不相見者《アヒミズハ》 不戀有益乎《コヒザラマシヲ》 妹乎見而《イモヲミテ》 本名如此耳《モトナカクノミ》 戀者奈何將爲《コヒバイカニセム》
 
逢ヒサヘシナケレバ戀シイコトモアルマイニ、貴女ニ逢ツテ、コンナニ無暗ニ戀シガツテ、末ハドサナルコトデセウ。
 
○本名如此耳《モトナカクノミ》――モトナは戀者《コヒバ》にかかつてゐる。猥りにと解してよからう。二三〇參照。
〔評〕 「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」( )に似て、更に強い困惑の情が下句にあらはれてゐる。
 
右一首姉坂上郎女作
 
首は云の誤であらう。
 
笠女郎贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌廿四首
 
587 吾が形見 見つつ偲ばせ あらたまの 年の緒長く 吾もしぬばむ
 
吾形見《ワガカタミ》 見管之努波世《ミツツシヌハセ》 荒珠《アラタマノ》 年之緒長《トシノヲナガク》 吾毛將思《ワレモオモハム》
 
私ガ差シ上ゲマスコノ形見ノ品ヲ御覽ニナツテ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シテ下サイマセ。私モ(荒珠)年ノ永イ間、貴方ヲ〔三字傍線〕オ慕ヒ申シマセウカラ〔二字傍線〕。
〔評〕 何か形見となる品を贈つたのに添へたのであらう。しんみりとした女性らしい戀情が見える。
 
588 白鳥の 飛羽山松の 待ちつつぞ 吾が戀ひわたる 此の月頃を
 
(542)白鳥能《シラトリノ》 飛羽山松之《トナヤママツノ》 待乍曾《マチツツゾ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 此月比乎《コノツキゴロヲ》
 
貴方ノオイデニナルノヲ〔八字傍線〕(白鳥能飛羽山松之)待チナガラ、私ハコノ數月ノ間貴方ヲ〔三字傍線〕オ慕ヒ申シテ居リマス。
 
○白鳥能飛羽山松之《シラトリノトバヤママツノ》――待《マチ》とつづく序詞。白鳥能《シラトリノ》は白鳥が飛ぶ意で、飛羽山につづけた枕詞。飛羽山は何處にあるか不明。この歌では郡近い大和のうちに求むべきであらう。契沖は勝地吐懷編に、龍田の神南備山だらうと言つてゐる。
〔評〕 やさしい感じの歌。微温的ではあるが、優雅な作である。
 
589 衣手を 打ち多武の里に ある吾を 知らずぞ人は 待てど來ずける 
 
衣手乎《コロモデヲ》 打廻乃里爾《ウチタムノサトニ》 有吾乎《アルワレヲ》 不知曾人者《シラズゾヒトハ》 跡待不來家留《マテドコズケル》
 
(衣手乎打)多武ノ里ニ居ル私ヲ、知ラナイデ、貴方ハ私ガ〔二字傍線〕オ待チ申シテヰテモ、オイデ下サイマセンデシタネ。
 
○衣手乎打廻乃里爾《コロモデヲウツタムノサトニ》――衣手乎《コロモデヲ》は枕詞と考へられてゐるが、續き方が明らかでない。ここでは衣手を打つと、つづけたものと見る外はない。打廻乃里《ウチタムノサト》は分らない。元來この句は舊訓ウチワノサトとあるが、意義が明らかでないので、玉の小琴に打を折の誤とし、乃を衍としてヲリタムサトと訓み、道を折れまはれば至る里で、極めて近い里としてゐる。併しそれは牽強の説としか思はれない。卷十一にも神名火打廻前乃《カムナビノウチタムサキノ》(二七一五)とあるから、打を誤字とするは早計である。略解には「飛鳥川の行めぐれる神南備山の麓に打廻といふ所有りしならむ。卷三に、神なびの淵とも詠めれば、石淵は即そこなるべし。されば其の邊を打廻の前と言ふかと翁は言はれき」とあるが、これは舊訓のウチワに從つたので、地名説も單なる想像に過ぎない。尚、卷八に明日香河逝回岳之秋芽子者《アスカガハユキタムヲカノアキハギハ》(一五五七)とある逝回岳に就いて諸説がある。宣長はこれをユキタムヲカとして地名ではないとしてゐるが、辰巳利文氏は、大和萬葉地理研究に「ゆきたむ岡は高市村岡から、飛鳥村飛鳥に出る縣道の東方の丘陵(543)であります。私はその地形から見て、飛鳥京當時の貴人たちの遊宴地となつた所ではないかと考へてをります」と書いて居られる。これは何か根據のあることであらうが、委しい説明が載せられてゐないから分らない。然るに、予が前掲の類例から歸納し、又實地を踏査したところによると、神名火打廻前《カムナビノウチタムサキ》も明日香河逝廻岳《アスカガハウチタムヲカ》も共に飛鳥川に沿うた岡(恐らく雷岳)を指してゐるらしく、ここの打廻乃里《ウチタムノサト》とは別である。この打はタムの上に冠したまでの語で、ウチタムといふ地名ではない。地名は多武《タム》即ち今の多武峯村附近らしく思はれる。さうすれば衣手乎打は、多武の里につづいた序に過ぎないことになり、意味は分明する。衣は打つものであるから、衣手乎打とつづけ、タムはやはり廻り撓む意で、上に強辭としての打を添へたのであらう。新訓に「衣手を打ち多武の里に」と記してあるのは、理由は知り難いが、予は上述の意を以て、これに賛成するものである。
○待跡不來家留《マテドコズケル》――待てど來ざりけるの意で、コズケルは萬葉式の古い語法である。
〔評〕第四句の人は家持を指してゐる。家持の來なかつたのを怨んだ歌と見えるが、別段優れたものとは思はれない。
 
590 あらたまの 年の經ぬれば 今しはと ゆめよ吾がせこ 吾が名のらすな
 
荒玉《アラタマノ》 年之經去者《トシノヘヌレバ》 今師波登《イマシハト》 勤與吾背子《ユメヨワガセコ》 吾名告爲莫《ワガナノラスナ》
 
(荒玉)年ガ久シク經ツト、今コソ大丈夫〔三字傍線〕ト思ツテ油斷シテ〔七字傍線〕、決シテ決シテ私ノ夫ヨ、私ノ名ヲ人ニ〔二字傍線〕洩ラシナサイマスナヨ。御用心、御用心〔六字傍線〕。
 
○年之經去者《トシノヘヌレバ》――舊訓ヘユケバとあるが、考にヘヌレバとあるのがよい。○今師波登《イマシハト》――シは強辭。
〔評〕世を憚る女の戀の不安が、いたいたしくよまれてゐる。
 
591 吾が思ひを 人に知らせや 玉匣 開き明けつと 夢にし見ゆる
 
吾念乎《ワガオモヒヲ》 人爾令知哉《ヒトニシラセヤ》 玉匣《タマクシゲ》 開阿氣津跡《ヒラキアケツト》 夢西所見《イメニシミユル》
 
私ガ貴方ヲ思ツテヰル〔八字傍線〕ヲ心ヲ、貴方ハ〔三字傍線〕人ニ知ラセナサツタカラカ、私ハ〔二字傍線〕櫛笥ヲ開ケト夢ニ見マシタ。決シテ人ニ洩ラシテハ下サイマスナ〔決シ〜傍線〕。
 
(544)○人爾令知哉《ヒトニシラセヤ》――シラセヤはシラセバニヤに同じで、知らしむればにやの意であらう。この句、新考にヒトニシラスレヤとよんだのはどうでからう。○夢四所見《イメニシミユル》――略解にミエツとよんだのは、上の開阿氣津《ヒラキアケツ》と文法上の時を揃へたのであらうが、所見の二字はミユルとよむのが妥當である。
〔評〕 契沖が「箱をあくると夢に見れば、思を人に知らするといひならはしける古語ありけるなるべし」と言つてから、大抵その説に從つてゐる。單なる作者獨自の夢占とも見られぬことはないが、かういふ言ひならはしがあつたといふことも、必ずしも否定出來ないから、先づこれに從つて置かう。ともかく、吾名告爲莫《ワガナノラスナ》と言つたものの、なほ堪へかねて、不安な心中を訴へたのである。
 
592 闇の夜の 鳴くなる鶴の よそのみに 聞きつつかあらむ 逢ふとはなしに
 
闇夜爾《ヤミノヨニ》 嶋奈流鶴之《ナクナルタヅノ》 外耳《ヨソノミニ》 聞乍可將有《キキツツカアラム》 相跡羽奈之爾《アフトハナシニ》
 
暗イ夜ニ嶋ク鶴ノ聲ガ、他所ニ聞エルバカリデ姿ガ目ニ見エナイ〔聲ガ〜傍線〕ヤウニ、私ハ貴方ニ〔五字傍線〕逢ヘナイデ、他所ニバカリ貴方ノコトヲ〔六字傍線〕聞イテ過ゴスノデハアリマスマイカ。氣ガカリデス〔六字傍線〕。
 
○闇夜爾《ヤミヨニ》――舊訓クラキヨニとあるが、常間爾《トコヤミニ》(一九九)・闇夜者《ヤミノヨハ》(一三七四)などヤミとよんだ例が多い。○嶋奈流鶴之《ナクナルタヅノ》――この句までは譬喩で、暗夜に鳴く鶴が、よそながら聲を聞くのみで、姿が見えぬに譬へたのである。序詞とする説は、蓋し當らない。
〔評〕 暗夜の鶴唳の譬喩が珍らしく、且しつくりと當て嵌つてゐる。
 
593 君に戀ひ いたも術なみ なら山の 小松が下に 立ち嘆くかも
 
君爾戀《キミニコヒ》 痛毛爲便無見《イタモスベナミ》 楢山之《ナラヤマノ》 小松下爾《コマツガモトニ》 立嘆鴨《タチナゲクカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕貴方ヲ戀シク思ヒマシテ、ホントニ何トモ仕樣ガナイノデ、奈良山ノ小松ノ下ニ立ツテ嘆息シマスヨ。
 
○痛毛爲便無見《イタモスベナミ》――イタモはイタクモで、甚だしくの意。○楢山之《ナラヤマノ》――奈良の都の北なる那羅山である。楢は蓋し借字であるが、ナラといふ地名は、楢の木が多かつたのに因つたものだらうと思はれる。私見は奈良文化第(545)四號「寧樂雜考」に載せて置いた。○立嘆鴨《タチナゲクカモ》――鴨の字、鶴となつてゐる本もある。考・略解・新考などこれによつてタチナゲキツルとよんでゐる。鶴でも聞えぬことはないが、鴨の本が多く、意も廣い。ツルでは過去の或時に狹く限られて、繼續的に聞えない。又係辭の無いのも物足りない。
〔評〕 卷十一に平山子松末有廉叙波《ナラヤマノコマツガウレノウレムゾハ》(二四八七)とあつて、奈良山には松が多かつたのであらう。老松でないものはすべて子松といつたらしいが、この山松の間に立つて、佐保の里あたりにゐた家持の家を見下ろして詠んだ趣である。胸奧から湧き出た哀怨の嘆聲が、人に迫るやうである。
 
594 吾がやどの 夕陰草の 白露の 消ぬがにもとな おもほゆるかも
 
吾屋戸之《ワガヤドノ》 暮陰草乃《ユフカゲグサノ》 白露之《シラツユノ》 消蟹本名《ケヌガニモトナ》 所念鴨《オモホユルカモ》
 
私ノ家ノ夕方ノ日陰ノ所ニ生エテヰル草ノ上ニ、宿ツタ白露ノ消エルヤウニ、私モ〔二字傍線〕消エ入リサウニ、無暗ニ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ヒマスヨ。
 
○暮陰草乃《ユフカゲグサノ》――暮陰草は暮陰の草とも、暮のかげ草とも考へられるが、恐らく前者であらう。暮陰は夕日が傾いて蔭をなしたところを云ふ場合と、夕日・夕照をさす場合とがある。ここは薄暗くなつた夕暗のうちにある草であらう。○消蟹本名《ケヌガニモトナ》――ガニは動詞・助動詞につづいて副詞化する助詞で、ガとニとの合成語である。その意は、程に、ばかりに、が爲にといふやうなものらしい。尚これに似たものにガネがあり、從來ガニと同語とせられてゐたが、古義にその別を論じ、ガニは、ばかりにの意、ガネは、が爲にの意としてゐる。山田孝雄氏は奈良朝文法史に、ガニはガにて結體せしめ、これをニにて目的とせるもので、即ちが爲にの意とし、ガネはガにてこれを指定し、ネにて冀望をあらはすとしてゐる。これは尚研究を要する問題である。本名《モトナ》は、わけもなく、みだりになどの意。二三〇參照。
〔評〕 上の句の譬喩が如何にも物哀れで、身も心も消え入りさうである。略解や新考に上句を序と見てゐるが、この女郎が家持を戀うて、庭前の夕暗の中に、草の葉末の白露を眺めてよんだもので、白露は消ゆと言はんが爲にのみ用ゐられてゐるものとは思はれないから、單なる序とは見られない。
 
595 わが命の 全けむかぎり 忘れめや いや日にけには おもひ益すとも
 
(546)吾命之《ワガイノチノ》 將全幸限《マタケムカギリ》 忘目八《ワスレメヤ》 彌日異者《イヤヒニケニハ》 念益十方《オモヒマストモ》
 
私ノ命ガ全イウチハ貴方ヲ〔三字傍線〕忘レマセウヤ決シテ忘レマセヌ。毎日毎日マスマス思ヒガ増スコトハアツテモ忘レルコトハアリマセヌ〔忘レ〜傍線〕。
 
○將全幸限《マタケムカギリ》――全幸といふ熟字はおかしいやうに思はれる。元暦校本に幸を牟に作つてゐるに從ふべきであらう。マタケムは全からむに同じ。
〔評〕 念益十方《オモヒマストモ》が上句にしつくり合はぬやうでもあるが、これは古い用法であらう。思ひが増せばとて忘れはせぬといふのである、卷十二に不相而戀度等母忘哉彌日異者思益等母《アハズシテコヒワタルトモワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》(二八八二)とある歌の上句を少し改めたものに過ぎない。
 
596 八百日行く 濱のまなごも 吾が戀に あに益らじか 奧つ島守
 
八百日往《ヤホカユク》 濱之沙毛《ハマノマナゴモ》 吾戀二《ワガコヒニ》 豈不益歟《アニマサラジカ》 奧島守《オキツシマモリ》
 
八百日モカカツテ通ルヤウナ廣イ〔二字傍線〕濱ノ砂ノ數デモ、私ノ戀シイ思ヒノ數〔六字傍線〕ニ比較シタナラバ〔七字傍線〕恐ラク勝リハスマイナア。沖ノ島ノ番人ヨ。ドウダ、汝ハ何ト思フカ〔十字傍線〕。
 
○八百日往濱之沙毛《ヤホカユクハマノマナゴモ》――八百日往濱は八百日を費して行く濱の意で、廣い濱を言つたのである。沙の字舊訓マサゴとあるが、卷七の紫之名高浦之愛子地《ムラサキノナタカノウラノマナゴヂ》(一三九二)・豐國之聞之濱邊之愛子地《トヨクニノキクノハマベノマナゴチ》(一三九三)、卷十四の相模治乃余呂伎能波麻乃麻奈胡奈須《サガミヂノヨロギノハマノマナゴナス》(三三七二)などによると、マナゴと訓むべきである。○豈不益歟《アニマサラジカ》――豈は普通は、何ぞといふうやな意に用ゐられるのだが、此處のはそれと少しく異なつてゐる。恐らく、多分などの意であらう。不益歟《マサラジカ》は増るまいかの意。
〔評〕 八百日往濱は珍らしい面白い熟語で、濱の眞砂を戀の繁きに譬へる後世の歌は、これに傚つたものらしい。豈不益歟《アニマサラジカ》の語法も、奧島守と呼びかけたのも、總べてが新味に滿ちてゐる。八百日往く廣漠たる濱邊に立つ(547)て、沖の島を眺めつつ、思ひ餘つて島守に問ひかけたやうに詠んであるのも巧である。さうした實境に臨んだ作でもあるまいし、もとより沖の島に島守が實際にゐたのでもない。要は八百行く濱の眞砂に戀を譬へたところに主眼があるのである。
 
597 うつせみの 人目をしげみ 石ばしの 間近き君に 戀ひわたるかも
 
宇都蝉之《ウツセミノ》 人目乎繁見《ヒトメヲシゲミ》 石走《イハバシノ》 間近君爾《マヂカキキミニ》 戀度可聞《コヒワタルカモ》
 
(宇都蝉之)人ノ目ニ觸レルコトガ多イノデ、(石走)スグ近所ニヰル貴方ニ逢ヘナイデ、私ハ〔七字傍線〕戀シクバカリ思ツテ居リマスワイ、
 
○宇都蝉之――枕詞。現身の意で、人とつづく。○石走《イハバシノ》――枕詞。イハバシは石を河中に並べて渡るやうにしたもの。間あるものなれば間とつづく。この句をイハハシルとよむ説は下のつづきが穩やかでない。
〔評〕 他の作に比して、これは微温的で、平板である。
 
598 戀にもぞ 人はしにする 水無瀬河 下ゆ吾痩す 月に日にけに
 
戀爾毛曾《コヒニモゾ》 人者死爲《ヒトハシニスル》 水瀬河《ミナセガハ》 下從吾痩《シタユワレヤス》 月日異《ツキニヒニケニ》
 
戀ノ爲ニハ人ハ死ヌモノデスヨ。(水瀬河)人ニ知ラレヌウチニ何時ノ間ニカ〔六字傍線〕、月毎ニ日毎ニ段々ト私ノ身