鴻巣盛廣  萬葉集全釋 第一冊 東京廣文堂 1930.7.10 6圓30錢
 
(1)
緒言
 
 回顧すれば、予が處女著作「新古今和歌集遠鏡」を公にしてから、今年で方に二十三年目である。予は本居宣長の精緻な學風を敬仰すると共に、彼の「古今和歌集遠鏡」が、平易簡明、俚耳に入り易く、一般讀書子を裨益することの大なるを感じてゐたから、それに倣つて新古今集の口語譯を物したのである。それは急遽脱稿した爲に、杜撰なものではあつたが、予にとつては捨て難い記念物である。この公刊に興趣を覺え、引續いて書き始めたのは、「萬葉集遠鏡」であつた。當時予は東京帝國大學文科の卒業に際して、「萬葉集の研究」なる論文を書いてから、程經ぬことでもあり、萬葉集の口語譯はさしたる難事ではあるまいと思つてゐたのである。さうして愈々これが起稿に着手した頃、鹿兒島なる第七高等學校造士館へ赴任することとなつた。
 明るい南國の春秋は、快い長閑な生活を予に惠んだ。さうして滑川のせせらぎを遶らした寓居は、まことに住み心地よいものであつた。ここで職務の餘暇、豫ねての計畫を遂行することにした。底本としたものは活版本の略解で、早稲田大學出版の代匠記と、宮内省藏版の古義とが參考として座右に置かれた。その他、考や玉の小琴などが參照せられたことは言ふまでもな(2)いが、貧弱なる予の書架には、これ以上數へ擧ぐべき何物もなかつたと言つてよい。卷頭から順次解を進めて行く間に、いたく予を惱ましたものは、先哲の訓が多種多樣に分れてゐることであつた。當時の予は契沖・眞淵・宣長・雅澄らが、舊本の誤字を指摘し、これを改訂してゐる炯眼と創見とに畏服しつつ、しかもそのいづれに依るべきかに困惑した。多くはそれらの一を常識的に選擇して從ふことにしたのであるが、また或時はその總べてを排し、自ら別に誤字説を立てて、竊かに快としたこともあつた。けれどもやがて不安が胸裡に涌いて來た。それは現在流布してゐる萬葉集は、眞淵・宣長らが唱へたやうに、果してそれほど多くの誤字を含んだものであらうか。かうして猥りに誤字と推定し改訂して行くことが、當を得た研究態度であらうかといふことであつた。
 かう思ひ當つた時、今まで猪突的に執られてゐた筆は、漸く澁り勝ちになつて行くのを覺えた。その弛緩した氣分を打開する爲に、ふと胸中に浮んだのは、萬葉集口譯のかたはら、他書の註解をも試みて行かうといふ考であつた。當時の予には、吾が古典の一般化が緊要事と考へられてゐたので、分量も手頃で、興味も多い落窪物語を口語に譯することに定めた。怠惰性に富んでゐる自分を鞭撻するには、何ごとも規則的に拘束して行く必要があつたので、毎日原稿(3)紙三枚づつを必ず記すことに定めた。かうして缺かさず筆を執つたので、半歳足らずで脱稿し、それが「口譯落窪物語」と題して版になつたのは、丁度明治から大正に入つた秋のことであつた。その頃の學界には未だ我が古典の口語譯も尠く、口譯といふ名稱もなかつたのであるから、予の拙い小著は、ともかくもその方面の嚆矢であつたのである。その間にも「萬葉集遠鏡」は廢せられたのではなく、依然として物足りなさを感じつつ、自信のない態度で斷續的にその功を進めてゐた。
 然るに大正五年七月、樟の薫なつかしい薩南の地を去つて、しなさかる越路の大都金澤へ居を移すことになつた。花ぐはし櫻の島を朝夕に眺めた、錦江灣頭六年の生活は、愉快な思ひ出の多いものであつたが、雪深い靜寂な落付に富んだ百萬石の城下も、攷學には不適當ではなかつた。予の事業は此處でも相かはらず緩徐な歩みを續けてゐた。然るにその少し以前から、國文口譯叢書と稱するものが某書肆によつて發行せられつつあつたが、その一部として、折口信夫氏の「口譯萬葉集」三冊が公にせられたのは、予が此處に居を卜してから間も無いことであつた。この書を繙いた予の胸中には、當然世に魁くべき自己の事業が、他に先んぜられたことを遺憾とする念が起るべき筈でありながら、實はそれによつてさしたる感動も與へられなかつたの(4)である。その故は、その頃予の胸中には、萬葉集の訓解は、徒らに創見新説を立てようとするのは誤謬に陷る所以で、もつと根本的の方針を樹立してかからねば駄目であるから、寧ろ刊行を問題とせず、ただ自己の研鑽の爲として從來の態度を繼續し、一通り完了した上で更に何らかの方法でこれを改訂し、もし意に滿つるものとなつたならば、その時始めて上梓することにしようとの決意が出來てゐたからである。そのまま執筆は徐ろに續行せられた。遲々たる牛の歩みも、流石に目的地に到達する時はあつた。大正七年の春、萬葉集二十卷の全部が口譯を了したのである。筆を擱いて顧みた既往の十年は、永いやうで短かつた。出來上つた二十冊の原稿を、積み重ね積み直して見ても、予の心には功を終へたといふ歡喜は少しも湧き起らない。これからこれを如何にするかといふ焦燥と不安とが、胸を滿たすのみであつたのである。
 その頃金澤市神職會主催で、萬葉集研究會が組織せられ、予にその講師を嘱せられることになつた。そこで予はこれを機として、舊稿を補訂しようと思ひ立ち、その爲に古人の諸説を出來るだけ集録し、これを比較批判して行くことにした。そこで從來尠かつた語釋を補ひ、それに先哲の諸説を書き込んで、その原稿を携へて會場なる尾山神社の社務所で、月二回づつの講義を試みた。かうした講義法はかなりに時間を要するので、これを適當に取捨してなるべく捗(5)取るやうにしたけれども、やはり進度は遲々たるものであつた。その數年前から、萬葉集の古寫本を蒐集して校本を作る事業が、佐佐木信綱・橋本進吉ら諸氏の手によつて進行してゐるとの風聞は、いたく予を喜ばしたのであつたが、この講義の進行と共に、古人の異説の採録と、その常識的批判とに多くの意義を見出し得ないやうになつてゐた予は、古寫本の比較研究以外には、新しい境地を開く方法がないやうに思つたので、「校本萬葉集」の誕生を心から鶴首して待つたのである。然るに何事ぞ、九月一日の大震火災は、已に印刷を了した同書を悉く燒き盡して了つた。その直後、帝都を訪問し、焦土と化した巷を辿り、本郷なる帝國大學の廢墟を弔つて、西片町に佐佐木信綱氏を尋ね、永年の苦心が灰燼に歸した痛恨を、涙ながらに語られる氏の言葉を聞いて、ただ暗涙に咽んだことであつた。
 その頃になつて、また予の萬葉集訓讀の方針は一つの著しい轉機を見せてゐた。それは眞淵以來の國學者が試みた文字の獨斷的改竄に反對し、韻鏡の智識を以て先人未登の訓法を立てた木村正辭の研究法が、極めて合理的な正しいものと考へられて來たことである。彼の「萬葉集美夫君志」及び字音・文字・訓義の三辨證は、予に多大なる刺激を與へた。今は徒らに校本の成るのを俟つべきではない。萬葉集に用ゐられた有らゆる文字についてその用例を仔細に調査し、こ(6)れを規矩準繩として疑問の個所を解決しよう。なほ字音の智識は研究の基礎として必須のものであるから、韻鏡の討究に入らう。これが正しき訓法に到達する最善の方法であらねばならぬと氣が付いたのである。そこで先づ卷一から逐次、總べての用字を拔書して、その文字について用例の異なる毎に一々列記することにした。やり始めた最初は、果して幾年の後にこれが成就を見るべきか、眞に望洋の歎がないではなかつたが、徒らに暗中に物を索るやうな從來のやり方は無意味であり、また根據のない思ひつきや、自信のない獨斷をもつて、祖先の勞作を讀み破らうとするのは、僭越至極であると考へたから、これから毎日この拔書に没頭することにした。拔書したものには、何時でも索出參照し得るやうに、歌の番號を附して置いた。
 この拔書と併せて、一方では韻鏡の研究も始められてゐた。有體に告白すると、予は漢文が不得手であり、また嫌ひであつた。從つて音韻のことについては全くその智識を缺いてゐたのであるが、今は韻鏡學の大躰を究めずしては、予が希望の達成せれざることを痛感し、これに力を注ぐことにしたのである。師と仰ぐべきものが全くなかつたから、太田全齋・僧文雄・大矢透・大嶋正健・滿田新藏らの著書によつ、獨り覺束ない歩みをつづける外はなかつた。併し韻鏡の根本原理を討覈することは困難であり、また時間に餘裕を持たなかつたので、ただ文字(7)を索出して、正しい音を知り得る程度に止めたのであるが、不充分ながらどうやら役に立つやうになつて來た。さうしてゐるうちに四年ばかりの年月が經過して、漸く拔書も全部出來上つた。その頃には、待ちに待つてゐた「校本萬葉集」も既に公にせられて、予の書架に藏せられてゐた。時々これを繙いて著作の苦心を偲び、この書が與ふる惠澤の大なるを私かに感謝した。
 予が二十年前に筆を起した舊稿は、既に紙色を黄に變じながらも、無事に書齋の一隅に保存せられてあつた。今やこの出來上つた用字の拔書を照合し、また韻鏡なる淨玻璃の鏡に照らして、舊來の諸訓を判斷すべき機會が到來したのである。然るに時なるかな。昭和三年秋九月、ゆくりなく書肆廣文堂の來訪に接し、この舊稿を示したるに、忽ち刊行の契約が成立して、萬葉集全釋の名をもつてこれを公にすることになつた。今まで殆どあてもなく筆をとつてゐたものが、突如として出版の實現を見ることとなつたのであるから、その時の喜ばしさは譬ふるにものがなかつた。それから書肆と熟議の上、從來遠鏡式に口譯を主としたものに、更に語釋を補ひ評語を加へることに定めた。語釋の方針は成るべく簡明を主とし、評語も亦簡潔を旨とした。これはあまり大部となるのを恐れたからで、まづ卷七までを第一冊とし、全部を三冊に作成する方針であつたのである。初は豫定の如く進んだのであるが、卷二の中頃あたりから、語(8)釋の補訂が漸次委しいものとなり、卷一との均衡がとれないやうになつたのを見出した。そのうちに卷四までを終つて見ると、その頁數が既に豫期を越えてゐるのを發見したので、それまでをもつて第一冊を作ることとし、組版にとりかかつたのは昭和四年五月であつた。しかし組み了へたものを見ると、卷一の語釋があまりに簡疎に過ぎるやうに思はれたので、それをできるだけ補ひ、爾來一箇年を閲して漸く植字を終つたのである。卷一の部が他に此して、語釋に疎なるやの感があるならば、その理由はここにあるのである。
 右のやうな次第であるから、この書は起稿以來實に二十年の長年月を經て今日に至つたので、その出發點から考へれば、まことに遠く長く、しかも縷々として絶えざる糸のやうなか細さをもつて續いて來たのである。その糸は始よりも太さを増し、且色彩を異にしたものとなつたのであるが、予にとつてはその點が特に喜ばしく思はれる。今にして考ふれば、初に績み出した糸は、あまりにもみすぼらしいものであつたのである。予は本書の成立についてあまりにくだくだしく説いたことを恥かしく思ふ。しかしこれは徒らなる懷舊の繰言ではなく、萬葉集研究に對する予の心境の變化と、最後に選んだ方針とを明らかにして、この書の特質を知つて貰ひたいからである。
(9) 近時萬葉學の研究は長足の進歩をなした。眞面目な各種の研究物が、陸續として世に出でつつあるのは、斯學のため慶賀に堪へないことである。しかし何といっても、「校本萬葉集」の出現以上に光輝を放つてゐるものはないと言つてよい。この「校本萬葉集」を座右に置いて考ふる時、從來のやうに獨斷創見を誇つて、恣に誤字説を唱道すべき時代は既に過ぎ去つたのを感ぜずにはゐられない。今はできるだけ古寫本を尊重し信頼して、忠實にその訓法を考ふべき時である。もとより古きもの必ずしも正しいのではなく、現存の寫本の最古のものと雖も、萬葉集が構成せられた時を去る數百歳後のものであるから、これに絶對の信頼を置くことは不可能であるが、ともかくも新説を立てる前に、是非とも有らゆる諸本を比較研究し、能ふかぎり原形を比定せずに、訓を附することが緊要である。その爲に役立つものは校本萬葉集を措いては他に無いので、この書はこの意味において、大正時代の文化史を飾る最高の産物と稱し得るのである。
 かくの如く原形の尊重と、音訓の歸納的實証的祈究とは、予がこの書を編むに當り、不動の方針として樹立したものである。併しながら論據を音韻學に置いた木村正辭の説が、動もすればそれに囚はれ、却つて誤謬に陷つてゐると思はれる點があるのに鑑み、予は常に虚心坦懷、束縛と拘泥とを恐れて、できるだけ中正の道を歩んだつもりである。思へば十年以前まで容易に(10)手にし得なかつた、古人の著述も、近時斯學の勃興に伴つて續々として刊行せられ、また現代學者の諸研究は、踵を接して學壇を賑はしてゐる。これらによつて、予の蒙を啓き誤を正し得たものが幾何なるかを知らぬのである。これに對して予は、天地の榮ゆる時に御民の一人として生れ遇つた身の、生ける驗をつくづくと感ずると共に、今やこの一書が歌の大野の一隅に、新しい小草の一もととして生ひ初めたことを祝福し、しかもこれが先覺の眞摯な研究と、現代同學の士の深邃な考覈の餘瀝によつて養はれたものなるを思ひ、あやに畏い御代の御惠の露が、この小草の上にも慈雨のやうに注がれてゐることに想到しては、唯々感激と感謝の念に胸を躍らすのみである。予の歩むべき道程は未だ遥かである。茲に大方の愛育と同情とが、この小草の生先に與へらむことを切に※[立心偏+困]願するものである。
 昭和五年五月
                                  著者誌す
 
(1)凡例
ー、本書は萬葉集の全體について、通俗的に、學術的に、文藝的に解説し考察したもので、すべての歌に口語解を施し、語釋と評語とを加へてゐる。
一、本書の底本としたものは、校本萬葉集に採られた寛永版萬葉集である。また中途から萬葉集總索引本文篇をも參照した。
一、本書の口語解は、本居宣長の古今和歌集遠鏡、及び拙著新古今和歌集遠鏡に傚つたもので、片假名をもつて記し、全體を通釋してある。傍線の個所は原歌の語句には現はれてゐないのを、意をもつて補つたものである。
一、語釋は遠鏡には尠いのであるが、本集の解釋は各語の綿密な研究の上に立たなければならぬから、なるべく根本的に學術的に討覈することにした。語釋は句を基本として説明してあるが、中には數句を一括したところもある。これは説明の便宜に從つたのである。一、口語解中の枕詞及び序詞は、遠鏡に從へば、その句位を示す數字、例へば第一句にある時は一、上句の場合は上と記すのを常としてゐるが、この方法は長歌の多い本集には極めて不便であるから、すべて原歌の文字のままに記し、それに括弧を附することにして置いた。故にその部分は、枕詞または序詞をあらは(2)すもので、歌の意味には直接の關係を持たないのである。
一、上欄に記した數字は、國歌大觀によつて附した歌の番號である。校本萬葉集その他、これに從ふものが多いから、本書もそれに依つたのである。
一、上欄に假名交りに記したものは、原歌を讀み易く書き改めたのである。從つて番號は原歌と上欄と兩方に通ずるわけである。
一、上欄に記した歌は、その短歌たると長歌たるとを問はず、すべて各句毎に切つて、横に列記してある。
一、柱の數字は上方のゴヂック活字を用ゐたものは、歌の番號で上欄と一致し、下方の普通活字を用ゐたものは、頁數を示したのである。
一、本書の語釋・評語の中に掲げた數字は、時に注意したものの外は、すべて歌の番號を示したものである。
一、底本とした寛永本の用字は、殆ど絶對に尊重することにした。明らかに誤謬と認められるものも、そのまま掲げて置いたのがある。故に原歌と訓と一致しないやうに見えるところは、底本が誤つてゐるのである。但しその場合は、語釋の部にその旨を記してある。なほ、本書中、舊本と記したものは寛永本のことである。
一、語釋・評語中に他の歌を引用した場合も、盡く原形のままとしてゐる。これはかなり植字に煩を來したのであるが、本集の研究は原字を離れてはなし難いものと信ずるから、すべてかうしたのである。
(3)一、萬葉集の用字の研究は、特に予が意を注いだ点で、全卷を通じてその用例を精査し、これを規矩とし、また韻鏡によつて古音を考へ、これをもつて訓法を決定したのである。語釋中に文字の訓法の類例を煩はしきまでに掲げたのはこれが爲である。
一、本集は卷によつて、文字の用法に特異點があるのは否むべからざる事實である。各卷の文字を別々に比較研究することによつて、その卷の成立や特質を知ることもできる筈である。文字の用法について力説してゐるのは、一はその爲である。
一、本集には多くの類歌があり、重出の作もある。これを比較することは、作者相互間、または作者と古謡との關係を知るに便があり、更に各卷の成立時期を考へる資料ともなるべきものであるから、洩れなく論ずることにした。
一、作者の履歴はなるぺく委しく説くことにした。同時にその作の年代をも出來るだけ正確に突きとめることに努力した。これは從來の諸註に缺けてゐることである。
一、地名に関しては、現今の地理書を考へ地圖を照合し、或は實地を踏査してその舊地と思はれるところを推定した。すべてその正確を期する爲に、卷頭に掲げた大和地圖、攝津・河内・和泉地圖を始とし、多くの地圖を作成して隨所に挿入した。
一、古蹟の寫眞はできるだけ廣く集めて掲げたつもりである。自から旅行して得たものもあるが、友人の多(4)くが予の擧を助けて、貴重な撮影を寄贈せられたことを感謝する。殊に辰巳利文氏が、その苦心の結晶たる大和萬葉古蹟寫眞の轉載を快諾せられた好意は、謝するに辭を知らぬほどである。
一、動植物の圖も、できるかぎり實物を髣髴せしめるやうなものを選んで掲げた。その中には植物圖鑑や動物圖鑑を模寫したものも多い。その他、器具・服装の類も、なるべく正確な信憑すべきものから模寫または撮影した。それらはいづれも出所を明らかにして置いた。
一、本集の題号・組織その他、内容形式の諸問題に亘つて、卷頭に精説すべきであるが、それらに關しては、別に萬葉集總説なる一卷を公にせむと欲してゐるから、それに讓ることにする。
一、装幀は特に畫伯田村彩天氏を煩はしたのである。萬葉人によつて好んで歌はれた馬醉木の花が、そのかみを偲ばしめるやうに、天平式に美しく書かれてゐることは予の大なる喜びとするところである。ここにその好意を感謝する。
一、口繪の標野行は、畫伯柳生鹽億氏が第八回帝展に出品せられた傑作である。原歌の氣分を味はふと共に、上代の服装をも知ることができるので、氏の快諾を得て卷頭を飾ることにした。元暦校本萬葉集の一葉は、古河虎之助氏所藏で、校本萬葉集に原色のまま著色版として掲げてあるものを、更に複製したのである。三山の寫眞は、大和國高市郡の、俗稱ふぐり山から撮影したもので、萬葉古蹟寫眞中の一葉であるが、香具・耳成・畝傍の三山が平野の間に鼎立してゐる夢のやうな情景がよくあらはれてゐるから、辰巳利文氏の快諾を得て複製したのである。
一、見返は萬葉集諸本輯影の中の一部を複製したもので、表見返の一は谷森建男氏所藏の谷森萬葉集、二は神田金樹氏所藏の神田本萬葉集、三は竹柏園佐佐木信綱氏所藏の傳壬生隆祐筆本萬葉集であり、裏見返の一は古河虎之助氏所藏の元暦校本萬葉集、二は寛永版本萬葉集、三は竹柏園佐佐木信綱所藏の藍紙本萬葉集である。
一、本書の公刊は、書肆廣文堂主人の營利を離れた義侠と、これを輔ける酒井不二雄氏の熱誠とによるものなることを附記して謝意を表したい。
 
〔目次略〕
 
(1)萬葉集卷第一解説
 
卷一は卷二と共に、其の結構・體裁が他の卷と著しく異なつてゐる。眞淵が「其の一二は古き大宮風にして、時代も歌主もしるきをあげ」と言つてゐるやうに、年代・作者の明かな古歌を集録したものである。即ち、この卷は全部雜歌で、これを泊瀬朝倉宮御宇天皇代・高市崗本官御宇天皇代・明日香川原宮御宇天皇代後崗本宮御宇天皇代・近江大津宮御宇天皇代・明日香清御原宮御宇天皇代・藤原宮御宇天皇代・寧樂宮として、皇都の所在地を以て時代を分つてゐる。但し最後の寧樂宮は書式も異樣であり、今本の記載の個所も當を得てゐない。また持統天皇の御代までの歌は、製作の年月が明記せられてゐないが、文武天皇の大寶元年からのものは、題詞のうちに年月が記入せられてゐるのは、注意すべき點である。歌數は總べて八十四首で、内、長歌十六首、短歌六十八首である。歌の内容に就いて見ると、天皇の行幸に從つた作や、遷都に關したものが多く、換言すれば、多くは皇室の史實を背景としたもので、もしこれらの歌を繋ぐに委しい記事文を以てせば、則ち古事記の如きものが成立するかの感がある。作家としては、雄略天皇・舒明天皇・天智天皇・天武天皇・持統天草・元明天皇等の歴代の元首を始として、志貴皇子・長皇子・御名部皇女・額田王・柿本人麿・高市黒人・山上憶良・春日老らが重立つたものだが、この他作者未詳の歌も多少ある。作者の中では人麿が作の量に於ても質に於ても勝れて居る。一體にこの卷には拙劣な歌が見えない。古いだけに巧緻といふやうな點はないが、よく讀み味はへば、いづれも佳(2)い作である。蓋し此の卷と卷二とは編者が餘程の苦心を拂つて、古歌を精選したものである。この點を考へると、彼の榮華物語月宴の卷に、「昔高野の女帝(孝謙)の御代、天平勝寶五年には、左大臣橘卿諸卿大夫等あつまりて、萬葉集をえらばせ給ふ」とあるによつて、萬葉集勅撰説が唱へられてゐるのも、強ち根據のない古傳説として、退けることは出來ないと思はれる。
 
(3)雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市崗本宮御宇天皇代
 天皇登2香具山1望v國之時御製歌
 天皇遊2獵内野1之時中皇命使2間人連老1獻歌并短歌
 幸2讃岐國安益郡1之時軍王見v山作歌并短歌
明日香川原宮御宇天皇代
  額田王歌 未詳
後崗本宮御宇天皇代
〔中略〕
(8)三年庚戊春二月從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時御輿停2長屋原1※[しんにょう+向]望2古郷1御作歌
 一書歌
 五年壬子夏四月遣2長田王伊勢齋宮1時山邊御井作歌三首
寧  樂  宮
 長皇子與2志貴皇子1宴2於佐紀宮1歌
 長皇子御歌
 
(9)雜歌
 
ザフカ又はクサグサノウタとよむ。この卷はすべて此の分類の中に收めてあるが、此は卷二の相聞・挽歌に對したもので、その類に入らぬ總べてを雜歌と稱したのである。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇《オホハツセワカタケノスメラミコト》
 
ハツセアサクラノミヤニアメガシタシロシメシシスメラミコトと訓むのが普通である。併し靈異記に御【乎左女多比止】宇【阿米乃之多】とあるから、アメノシタヲサメタマヒシとよむのもよからう。泊瀬朝倉宮は初瀬峽谷の入口で、今の朝倉村黒崎の地である。大泊瀬稚武天皇は雄略天皇。此の時まだ謚號がないので、諱を記し奉つたのである。古事記に大長谷若健命《オホハツセワカタケノミコト》、書紀に大泊瀬幼武天皇《オホハツセワカタケスメラミコト》と記してある。此の七字は註であるから小字を用ゐる方がよい。
 
1 籠もよ み籠持ち ふぐしもよ みぶぐし持ち 此の岳に 菜採ます兒 家聞かな 名告らさね 虚見つ 山跡の國は 押並べて 吾こそ居れ しき並べて 吾こそ座せ 我こそは 背とは告らめ 家をも名をも
 
天皇御製歌
 
籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》 布久思毛與《フグシモヨ》 美夫君志持《ミブグシモチ》 此岳爾《コノヲカニ》 菜採須兒《ナツマスコ》 家吉閑《イヘキカナ》 名告沙根《ナノラサネ》 虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》 押奈戸手《オシナベテ》 吾許曾居《ワレコソヲレ》 師告名倍手《シキナベテ》 吾己曾座《ワレコソマセ》 我許者《ワレコソハ》 背齒告目《セトハノラメ》 家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》
 
籠ヨ、ソノ〔二字傍線〕籠ヲ手ニ〔二字傍線〕持ツテ、掘串ヨ、ソノ〔二字傍線〕掘串ヲ手ニ〔二字傍線〕持ツテ、此ノ岡デ菜ヲ摘ンデヰル女ヨ。オマヘノ〔四字傍線〕家ヲ聞キタイモノダ。オマヘノ〔四字傍線〕名ヲ言ヒナサイ。此ノ(虚見津)大知ノ國ハ總轄シテ私ガ居ル所ダ。統ベ從ヘテ私ガ座ラレル所ダ。私コソオマヘノ〔四字傍線〕夫ト言ハウ。サウシテ私ノ〔六字傍線〕家ヲモ名ヲモ告ゲルゾ。
 
○籠毛與《コモヨ》――籠をカタマとよむ説もあるが、籠の字は本集では射等籠荷四間乃《イラコガシマノ》(二三)・鳥籠之山有《トコノヤマナル》(四八七)のやう(10)に、常にコと用ゐられ、カタマの訓は一つもない。モとヨとは詠嘆の助詞である。○布久思《フグシ》――掘る串の意で、木又は竹の箆《ヘラ》の如き類である。金属製のものをカナフグシといふ。和名抄に「〓、土具也、加奈布久之と見えてゐる。次の美夫君志も同じことを繰返したもので、美《ミ》は接頭語。○菜採須兒《ナツマスコ》――採ますは摘むの敬語であるが、ここは唯親しんで言つただけ。兒は女をさす。〇家吉閑《イヘキカナ》――これは、古來種々の訓があつたが、木村正辭が萬葉集美夫君志に、閑は韻鏡第二十一轉山攝の字だから、カナとよむべきであるといふ説を述べてから、殆ど定説のやうになつてゐる。ここにもそれに從ふことにする。併し予は閑の文字は、本集の何處にも用ゐられた例のないこと、及び家を聞くとは、何となく落ちつかぬ言ひ方である點から考へて、これに疑を挿むものである。或は、聞くは尋ねるの意かとも思はれるが、それは第二義的のもので、さういふ場合には問ふ〔二字傍点〕が用られて、常に告《ノ》ると對してゐる。即ち、邦問跡國矣毛不告《クニトヘドクニヲモノラズ》、家問跡家矣毛不云《イヘトヘドイヘヲモイハズ》(一八〇〇)・責而雖問汝名者附告《セメテトフトモナガナハノラジ》(ニ六九六)の類がこれを証據立ててゐる。ここに於て予は吉は告の誤、閑は閇の誤としてノラヘとよむ考・略解の説も強ちに排し難きを思ふものである。此の下にも師告名倍手とあつて、吉を告と誤つてゐるのだから、告を吉と誤つたと考へるのは、毫もさしつかへがないのみならず、略解には吉閑一本告閑と有るとあるから、さういふ本もあるのであらう。閇はこの卷に澤山使はれてゐるから、本集の何處にもない閑の字は、閇の誤とするは至當な考ではないか。又ノラへは變な言ひ方だといふ考もあるかも知れないが、父母爾事毛告良比《チチハハニコトモノラヒ》(一七四〇)とあるから、これでよいのである。○名告沙根《ナノラサネ》――名告らすにね〔傍点〕を添へたもので、告れよと丁寧に宣ふ語である。○虚見津《ソラミツ》――大和の枕詞。これは天爾滿《ソラニミツ》(二九)とも用ゐてあつて、空から見たの意と解釋せられてゐる。書紀神武天皇の卷に「及v至d饒速日命乘2天磐船1而翔2行太虚1也睨2是郷1而降u之、故因目之曰2虚空見日本國1矣」とある故事によつたものである。○山跡乃國者《ヤマトノクニハ》――畿内の大和である。日本の總稱ではない。○押奈戸手《オシナベテ》――押し靡かせて、即ち總轄する意となる。○師吉名倍手《シキナベテ》――シキは敷・布・及などの文字が當てられる通り、物の一面に行き渡ること、即ち高しく、太しくなどの如く、知ると通じて支配する意ともなる。押並べてと同じく一體に統べ支配する意。この句、師を前の句に連ねてノリナベテとよむのはよくない。告は吉の誤。○吾己曾座《ワレコソマセ》――座《マ》せはいますと同じで、居るの敬語であるが、天皇であるから、かく仰せられるのである。ヲレとよむのは惡い。○我許者《ワレコソハ》――許の下、金澤文庫本に曾の字あるをよしとす。ワレコソハである。○背齒告目《セトハノラメ》――我は自ら汝の(11)夫と言はむといふ意味である。我を汝の夫と言へと解する説は當らない。背の下、登・跡、又は止の字脱したものといふ説があるが、この儘でトを補つてよむべきであらう。齒はシとよんでセトシノラメとする説もあるが、齒はシの假名に用ゐられた例はなく、ハの假名には卷・二・三・四・七・九・十・十一・十二等に用ゐられてゐる。隱去之鹿齒《カクリニシカバ》(二一〇)・時齒成《トキハナス》(一一三四)・師齒迫山《シハセヤマ》の類だ。だからこれもハとよむべきである。なほこの句、類聚古集に、我許背齒告自とあるによつて、ワレコソハノラジとする説があるが、これでは意味が不可解であり、又背の字は、背《ソムキ》・背友《ソトモ》・背向《ソガヒ》・背匕《ソガヒ》の如き用例はあるけれども、ソの假名に用ゐられた例は一つも無いから、ここも假名としてよむべきでなく、多くの用例に從つて背《セ》とすべきである。自は目の誤字に違ない。
 
〔評〕 雄略天皇が、春の野に若菜を摘んでゐる少女を御覽になつて、戯に歌ひかけ給うたものである。素朴な長閑な、さうして古雅な格調、眞に和楽の聲である。紀記によると、この天皇の御製には、野遊・狩獵などに際して作り給うたものが多いが、その中に童女をみそなはして、言ひかけ給うたものが少くない。よほど快活な、隔ての無い御性質であつたと見える。この御歌にもその趣がよくあらはれてゐる。なほこの歌の冒頭は、演技者が籠や布久思を捧げて、舞ひ出づるやうな趣である。或は舞踊に伴つて傳はつた歌かも知れない。
 
高市崗本宮《タケチヲカモトノミヤ》御宇天皇代 息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカ》天皇
 
高市崗本宮は其の舊址明瞭でない。岡本は飛鳥岡の麓の意であるが、舊説は今の高市村岡の地とし、喜田博士は、雷岡の附近としてゐる。息長足日廣額天皇は謚して舒明天皇と申し奉る。この宮は天皇の二年十月に御造營になつたが、八年に燒失して田中宮に移られ、更に百濟宮を營まれた。
 
天皇登(リテ)2香具山(ニ)1望v國《クニミ》之時御製(ノ)歌
 
香具山は磯城郡香久山村の西南にある。望v國は即ち國見で、國の景色を見給うた時の御製。
 
2 大和には 群山あれど 取よろふ 天の香具山 登立ち 國見をすれば 國原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし國ぞ 秋津島 倭の國は
 
山常庭《ヤマトニハ》 村山有等《ムラヤマアレド》 取與呂布《トリヨロフ》 天乃香具山《アメノカグヤマ》 騰立《ノボリタチ》 國見乎爲者《クニミヲスレバ》 國原波《クニバラハ》 煙立龍《ケブリタチタツ》 海原波《ウナバラハ》 加萬目立多都《カマメタチタツ》 ※[立心偏+可]怜國曽《ウマシクニゾ》 蜻島《アキツシマ》 八間跡能國者《ヤマトノクニハ》
 
(12)大和ニハ多クノ〔三字傍線〕群ツタ山ガアルガ、ソノ中デ〔四字傍線〕姿ガ良ク具備シテヰル天ノ香具山ニ登リ立ツテ、下ノ〔二字傍線〕平野ヲ眺メルト、國ノ平原ハ民家ノ竈の烟〔六字傍線〕ガ盛ニ立チ、埴安ノ〔三字傍線〕池ノ上カラハ鴎ガ頻ニ飛ビ〔二字傍線〕立ツテヰル。立派ナ國デアルゾ、(蜻島)大和ノ國ハ。
 
○山常庭《ヤマトニハ》――庭は借字で、助詞には〔二字傍点〕である。福路庭《フクロニハ》(一六〇)・明日香庭《アスカニハ》(二六八)など用例が多い。山常《ヤマト》は畿内の大和國を指す。前の歌に山跡と記したのと同じだ。○村山有等《ムラヤマアレド》――村山は群山。群つた多くの山。○取與呂布《トリヨロフ》――トリは接頭語で意を強めただけ。與呂布《ヨロフ》は完全に具足すること。甲冑をヨロヒと言ひ、近世の鐙を具足といふのでも、ヨロフが具足する意たるは明らかであル。○天之香具山《アメノカグヤマ》――古事記倭建命の歌に「阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》」とあるから、アメノとよむがよい。高天原に天之香具山があるに傚つて、大和の香具山をもかう呼ぶのである。伊豫風土記に「伊豫郡自2郡家1以東北在2天山1。所v名2天山1由者倭在2天加具山1。自v天天降時二分而以2片端1者天2降於倭國1。以2片端1者天2降於此土1」とあるのは、これから出來た傳説であらう。○騰立《ノボリタチ》――山上に登り立つこと。(13)○國原波《クニハラハ》――國原はここでは平原をさしてゐる。○煙立龍《タケブリチタツ》――煙は炊煙であらう。古義に霞としたのは從ひ難い。煙は和名抄に介布利、字鏡に介夫利とあるから、ケムリよりもケブリがよい。龍の字、舊本籠とあり、タツと訓してある。代匠記にタチコメかと疑つた説に、考・略解は從つてゐるが、元暦校本其の他の古本多くは龍としてゐるので見ると、籠は誤字に違ひない。立龍は頻りに立ち上ること。○海原波《ウナバラハ》――海とは水の廣きところを云ふので、ここは埴安の池を指したものだ。此の池は今は全くあせてしまつて跡も無いが、昔は香具山の西麓から南麓を繞つて廣く湛へてゐたらしい。○加萬目立多都《カマメタチタツ》――加萬目は、中世からカモメと云つたもので、即ち鴎である。遊禽類鴎科に属する中形の鳥で、陸地に近い海や、湖沼河川に群棲する。全身の主色は白であるが、翼などに灰色黒色を交へてゐる。嘴と脚とは黄緑色である。○※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニゾ》――※[立心偏+可]怜は舊本怜※[立心偏+可]とあり、オモシロキとよんだのを、考に※[立心偏+可]怜として、ウマシとよんだのがよい。神代紀に可怜小汀とあり、「可怜《ウマシ》此云2于麻師」と注してゐる。※[立心偏+可]は字書に見えないが、可と同音相通はして用ゐたのであらう。仁賢紀に、弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサアガツマハヤ》矣、字鏡に※[言+慈]、市貴反、※[立心偏+可]怜也とあるから、古い熟字である。集中の用例を見ると、此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》(四一五)・※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》(一四一七)・※[立心偏+可]怜吾妹子《アハレワギモコ》(二五九四)の如く、アハレとよんだものと、如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》(七四六)・夜渡月乎※[立心偏+可]怜《ヨワタルツキヲオモシロミ》(一〇八一)の如く、オモシロクとよんだものとがあるが、ここは可怜小汀《ウマシオバマ》の例に從ふべきであらう。ウマシは美しく好ましい意である。○蜻島《アキツシマ》――枕詞。大和に冠するのは孝安天皇の皇居、大和の葛城の室の地を秋津島宮と呼んだのから起つたもので、欽明天皇の皇居、大和磯城金刺宮によつて、敷島の大和と連ねるやうになつたのと同じだと説かれてゐる。神武天皇が、腋上※[口+兼]間丘に登り給ひ、國見をなさつて、「猶如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメ》1焉」と仰せになつたので、秋津洲の名が起つたと書紀に記してあるのは、地名傳説に過ぎない。なほ古事記國生の段に、「生2大倭豊秋津島《オホヤマトトヨアキツシマ》1亦名謂2天御虚空豊秋津根別《アマツミソラトヨアキツネワケ》1」とあるによれば、秋津洲は本洲の古名で、秋津は秋の穣を讃へたものか、又は飽滿《アキミツ》などの意かも知れない。又古事記に水戸《ミナト》の神、速秋津日子神・速秋津比賣神の名が出てゐるが、これは河口の神で、河口は舟の碇泊の箇所であるから、秋津島は港の多い島の意かも知れない。この國號の解説はなほ研究を要す(14)ると思はれる。
 
〔評〕 これは國見歌である。古代人は時々高きに登つて、下の平原を見下して、その國土の美を讃嘆したものと見える。應神天皇が宇治の野の上にお立ちになって、「知婆能《チバノ》、加豆怒袁美禮婆《カヅヌヲミレバ》、毛毛知陀流《モモチタル》、夜邇波母美由《ヤニハモミユ》、久邇能富母美由《クニノホモミユ》」と歌ひ給うたのも國見歌であり、日本武尊の國思歌《クニシヌビ》としてある、「夜麻登波《ヤマトハ》、久彌能麻本呂婆《クニノマホロバ》、多多那豆久《タタナヅク》、阿袁加岐夜麻《アヲガキヤマ》、碁母禮流夜麻登志宇流波斯《ゴモレルヤマトシウルハシ》」とあるのも、同じくこの種の歌らしく考へられる。
 この御製は、國土の美に併せて人民の殷富を喜ばれた趣も見えて、仁慈の大御心も察せられて嬉しい。國原海原の對句によつて格調が整へられ、倒置法で結び、少しも冗句のない引緊つた感じのする佳作である。
 
天皇遊2獵内野(二)1之時、中皇命《ナカチヒメノミコト》使(メシ)2間人連老《ハシヒトノムラジオユ》獻(ラ)1歌
 
内野は大和字智郡の野、今の五條町南方の平地で、坂合部村に大字大野の名が殘つてゐる。中皇命は明らかでない。ナカノウシノミコト・ナカノスベラギミコト・ナカノミコノミコト・ナカチヒメノミコト・ナカチスメラミコトなどの訓があつて一定しない。ここでは額田女王を額田王と記したのと同じく、皇の下、女の字を略して書いたものとして、(脱漏とも誤字とも見たくない。)ナカチヒメノミコトと訓んで置く。中皇命は第二皇女の意であるから、舒明天皇の皇女、間人皇女で、孝徳天皇の皇后とならせられたお方であらう。間人連老は、孝徳天皇紀五年二月遣唐使の判官に、「小乙下中臣(ノ)間人(ノ)連老老此云於喩」とある人で、中皇命の傅であつたのであらう。此の歌は、中皇命の御歌を間人連老が献つたものか、又は中皇命の旨を承けて老が詠んで献じたものか、両説に別れてゐる。下に中皇命、往2于紀伊温泉1之時御歌とあるのには、御の字が冠してあるに、これにはそれが無いから、中皇命の御作ではないと見るのも一理あるが、立派な御歌を遺して居られるお方であるから、これも御作の一と見るが至當ではあるまいか。恐らく御歌を間人連老をして、天皇に献らしめ給うたものであらう。
 
3 やすみしし 我が大君の 朝《あした》には 取り撫で給ひ 夕べには い縁せ立ててし 御執らしの 梓弓の 長弭の 音すなり 朝獵に 今立たすらし 夕獵に 今立たすらし 御執らしの 梓弓の 長弭の 音すなり
 
(15)八隅知之《ヤスミシシ》 我大王乃《ワガオホキミノ》 朝庭《アシタニハ》 取撫賜《トリナデタマヒ》 夕庭《ユフベニハ》 伊縁立之《イヨセタテテシ》 御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナガハズノ》 音爲奈利《ヲトスナリ》 朝獵爾《アサカリニ》 今立須良思《イマタタスラシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 今他田渚良之《イマタタスラシ》 御執《ミトラシノ》 梓能弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈里《オトスナリ》
 
我ガ仕ヘ奉ル〔四字傍線〕(八隅知之)天子樣ガ、朝ハ手ニ取ツテ撫デサスリ遊バシ、夕方ハ御側ニ〔三字傍線〕寄セ立テカケサセナサレテ大切ニ遊バス〔六字傍線〕梓ノ木デ作ツタ弓ノ、長弭ノ音ガ聞エルワイ。宇智野デ〔四字傍線〕朝獵ヲナサラウト今御出デナサルラシイ。夕獵ヲナサラウト今御出遊バスラシイ。アレアノヤウニ〔七字傍線〕御常用ノ梓弓ノ、長弭ノ音ガスルワイ。
 
〇八隅知之《ヤスミシシ》――これは集中に極めて多い枕詞で、安見知之と書いてあることもある。八方を支配し給ふ意で、八隅と書くとも解かれてゐるが、安らかにしてこの國を支配し給ふ意であらう。續日本紀宣命に「其人等乃和美安美應爲久相言部《カノヒトラノニギミヤスミスベクアヒイヘ》」とあるのは其の例で、安みするは安穏にしてゐること。八隅《ヤスミ》といふ語は中古以後のものには見えてゐるが、恐らくこの枕詞を解き誤つたもので、純國語風の言ひ方でない。知之《シシ》はシラス・シロスと同じであらう。○我大王乃《ワガオホキミノ》――和期《ワゴ》大王(五二)・吾期《アゴ》大王(一五二)などと記してあるのによつて、すべてワゴオホキミとよむべしといふ説があるが、和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》(四○五九・四五〇八)と記してあるから、ワガオホキミとよむべきである。○伊縁立之《イヨセタテテシ》――弓を御側の壁などに寄せ掛け給ふこと、伊《イ》は接頭語で意味はなく、用例極めて多い。此の句古義に從つてイヨリタタシシとよむ説が多いが、それでは弓の傍へ天皇が寄り行き給ふこととなつて、意味が穩かでない。弓は手に執るものであるから、側に寄り立つでは、愛翫の意とならない。又縁の字はヨリとよむべきで、ヨスとはよめないといふ説もあるが、志賀乃大津爾縁流白浪《シガノオホツニヨスルシラナミ》(二八八)・打縁流駿河能國與《ウチヨスルスルガノクニト》(三一九)・白波之來縁島乃《シラナミノキヨスルシマノ》(二七三三)などとあるから、イヨセで差支はない。立之《タテテシ》は立てたの意で、敬語を用ゐるべきところだが、上の賜に讓つて略したのであらう。但し立之《タテシ》とよむ方がよいやうにも思はれるが、暫く舊訓に從つて置か(16)う。○御執乃《ミトラシノ》――執り持ち給ふところのの意で、トラシは執らすの連用形で名詞。すは敬語である。御弓を後に、御タラシといふのはこの轉である。御佩刀《ミハカシ》・御着衣《ミケシ》も同じやうな言ひ方だ。○梓弓之《アヅサユミノ》――梓の木で作つた弓、梓は枝の曲りが少く、弾力に富んでゐるので古來多く弓に用ゐられた。後世弓を梓弓といふのは其の爲である。この木の外に昔は檀《マユミ》・桑・槻《ツキ》・櫨《ハジ》なども弓を製するに使はれたのである。梓については諸説がある。今俗に梓と稱するものは一名「きささげ」といふ木であるが、これは極めて弾力に乏しくて、到底弓の材料になるべくもない。白井光太郎氏は古の梓は俗に「みずめ」又は「おほばみねばり」と呼ぶもので、今なほ、武藏秩父三峰山及び上州の山中では「あづさ」と稱し、信濃の北安曇郡、陸前及び上野吾妻郡でもさう呼んでゐる。なほ加賀白山では「はんさ」、大和吉野では「はづさ」、紀州では「はんしや」とよんでゐるが、これは「あづさ」の訛音と思はれる。この樹は頗る靱強で弓材とするに適してゐるといふ(摘要)研究を植物研究雜誌第三卷第四號に出して居られるのは傾聽すべき説であらう。「おほばみねばり」は榛の種類である。○奈加弭之《ナガハスノ》――長弭で、弭の長い弓であらう。弭は弓の上下の弦のかかるところ。昔は特に弭を長くした弓があつたらしい。高橋氏文に、「磐鹿六獵命、以角弭之弓當游魚之中、即著弭而出忽獲數隻」とあるのは長弭の弓の一種に違ない。なほ正倉院御物の梓弓三張の内、一は長さ六尺六寸、金銅弭黄黒斑漆とあるのも、謂はゆる長弭の一種であらう。加を留の誤としてナルハズ、利の誤としてナリハズとする説もあるが、さういふ弓のあることを聞かない。鳴るのは弦である。弭は鳴るものでない。加は普通清音に用ゐられてゐるが、須加能夜麻須可奈久能未也《スガノヤマスガナクノミヤ》(四〇一五)とある加は濁音らしく、その他佛足跡歌碑に、「任伎波比乃阿都伎止毛加羅《サキハヒノアツキトモガラ》」、「乃利乃多能與須加止奈禮利《ノリノタノヨスガトナレリ》」などあるのを見ると、加は濁音にも用ゐる字である。○音爲奈利《オトスナリ》――音がするわいといふ意で、奈利《ナリ》は詠嘆の助詞。○御執梓能弓之《ミトラシノアヅサユミノ》――前の御執乃梓弓之と對比すると、恐らく梓と能とが顛倒したのであらう。元暦校本に能梓となつてゐる。
(17)〔評〕全體が對句と繰返とで組み立てられた歌で、整然として、しかもわざとらしい所がない。末尾も普通の長歌の型に拘はらずに、奈加弭之音爲奈利《ナカハスノヲトスナリ》と五五の調で歌ひ捨てたところが面白い。今から宇智野へ出發し給はむとして、弦打ちなどして用意し給ふ音を聞き給うて、天皇の御滿足を推量せられた心持がよく出てゐる。これを後宮から御獵所に奉られたものとする説も、行宮へ御供しての作とするのも、共に誤つてゐる。朝獵に今立たすらし、暮獵に今立たすらしと歌はれたところ、及び反歌の意を玩味すべきである。
 
反歌
 
ハンカ又はカヘシウタとよむ。木村正辭が荀子卷十八の「願(クハ)聞(ン)2反辭(ヲ)1」の楊※[人偏+京]の注に、「反辭反覆叙説之辭、猶2楚詞(ノ)亂曰1」といひ、又同書に其小歌曰とある注に、「此下(ノ)一章即其反辭(ナリ)、故(ニ)謂(フ)2之(ヲ)小歌(ト)1※[手偏+總の旁]論(スル)前意(ヲ)1也」とあるのを引いて、反歌の稱呼としてゐる説が認められてゐる。さうして此の反辭は賦の亂と同じもので、楚辭離騷の亂(ニ)曰の王逸の注に「亂(ハ)理也所d以發2理(シ)詞指(ヲ)1總c撮(スル)其要(ヲ)u也」とある。又この亂は經の偈から出た形かと思はれる。即ち反歌は漢文學の影響によつて附せらるることになつたので、紀記の歌には無いのである。長歌に添へた小歌で、歌ひ終つて更に繰返す意であらう。又正辭はハンカとよみ、カヘシタと訓讀すべきでないやうに言つてゐるけれども、彼は古事記に「所歌之六歌者志都歌之|返歌《カヘシ》也」と見えたもの、及び神樂催馬樂の返歌と混同しない爲に立てた説で、反歌の訓讀がなかつたとは思はれない。反の字は反見爲者《カヘリミスレバ》(四八)・出反等六《イデカヘルラム》(一〇八〇)・死反《シニカヘラマシ》(二三六○)の如く用ゐられてゐるから、カヘシウタとよむべきである。
 
4 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ 其の草深野
 
玉刻春《タマキハル》 内乃大野爾《ウチノオホヌニ》 馬數而《ウマナメテ》 朝布麻須等六《アサフマスラム》 其草深野《ソノクサフカヌ》
 
天子樣ハ宇智野ヘ御狩ニ御出カケ遊バスガ〔天子〜傍線〕、(玉刻春)字智ノ大野デ澤山ノ馬ヲ並ベ、大勢馬ニ乘ツテ其ノ野ノ草〔大勢〜傍線〕ヲ朝馬ニ〔二字傍線〕踏マセナサルダラウ。アノ草ノ深ク繁ツテヰル宇智野ノ〔四字傍線〕野ヲ、馬ニ踏マセナサルコトデアラウ〔馬ニ〜傍線〕。
 
(18)○玉刻春――タマキハルとよむ。靈刻《タマキハル》(一七六九)の例もあるから、春は添へただけで、無くともよい字である。かうした字を添へた書き方は他にも數多ある。刻をキとよむのではない。山田孝雄氏が、卷十三に眞刻持《マキモテル》(三二二三)とあるといはれてゐるが、それは眞割持で、刻ではなく、割はサキのサを省いて、キとよんだのだから、同一には取扱はれない。さてこの句は命・世などの枕詞で魂極《タマキハマル》、即ち命に限あるをいつたものらしい。ウチと續くのは息《イキ》と通はしたものかと思はれる。命・世・息など相似た言葉である。○内乃大野《ウチノオホヌ》――今、吉野川の南、坂含部村大字大野といふところが、そのあたりらしいと言はれてゐるから、或は當時から大野といつたものかも知れない。○其草深野《ソノクサフカヌ》――フカヌを、フケヌとよむべきだと考に見えてゐるが、深川・深澤・深草など皆フカが普通であるから、フカヌがよいであらう。
〔評〕 調べの高い歌だ。その草深野と繰返したところは、前の長歌中に用ゐた手法と同じで、巧に出來てゐる。
 
幸《イデマセル》2讃岐國|安益《アヤ》郡(ニ)1之時|軍王《イクサノオホキミ》見(テ)v山(ヲ)作(レル)歌
 
安益郡は和名抄に讃岐國阿野【綾】とある地、今は鵜足郡と併せて、綾歌郡となつてゐる。舒明天皇この地に行幸のことは史に見えないが、十一年冬十二月伊豫温泉に幸し、翌年四月還幸と書紀にあるから、伊豫からの歸路ここを過ぎさせ給うたのであらう。軍王は如何なる御方とも分らない。
 
5 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝の 心を痛み ぬえ子鳥 うら歎《ナゲ》居れば 玉襷 懸けの宜しく 遠つ神 吾が大王の 行幸の 山越す風の 獨居る 吾が衣手に 朝夕に 還らひぬれば ますらをと 思へる吾も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海處女らが 燒く鹽の 念ひぞ燒くる 吾が下心
 
霞立《カスミタツ》 長春日乃《ナガキハルビノ》 晩家流《クレニケル》 和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》 村肝乃《ムラキモノ》 心乎痛見《ココロヲイタミ》 奴要子鳥《ヌエコドリ》 卜敷居者《ウラナゲヲレバ》 珠手次《タマタスキ》 懸乃宜久《カケノヨロシク》 遠神《トホツカミ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 行幸乃《イデマシノ》 山越風乃《ヤマコスカゼノ》 獨座《ヒトリヲル》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》 朝夕爾《アサヨヒニ》 還此奴禮婆《カヘラヒヌレバ》 大夫登《マスラヲト》 念有我母《オモヘルワレモ》 草枕《クサマクラ》 客爾之有者《タビニシアレバ》 思遣《オモヒヤル》 鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》 網能浦之《アミノウラノ》 海處女等之《アマヲトメラガ》 燒(19)鹽乃《シホノ》 念曾所燒《オモヒゾヤクル》 吾下情《ワガシタゴコロ》
 
ワタシハ旅ニ出テ、家ヲ思ツテ悲シンデヰルノデ〔ワタ〜傍線〕、霞ノ立ツ長イ春ノ日ガ、暮レタノニ、暮レタカ暮レナイカノ〔ノニ〜傍線〕區別モ知ラズニ、(村肝乃)心苦シイノデ、(奴要子鳥)心ノ中デ泣イテ居ルト、(珠手次)口ニ出シテ言フダケデモ畏ク、遠クニ居給フ神ノヤウナ神聖ナ〔三字傍線〕、我ガ御仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣ガ、行幸遊バシテヰル山ヲ吹キ越シテ來ル風ガ、唯獨リデ淋シク旅寢シテ〔七字傍線〕居ル私ノ着物ノ袖ニ、朝ニ晩ニ絶エズ吹イテ來ルノデ、心ノ勇マシイ〔六字傍線〕大丈夫ト思ツテ自慢シテ〔四字傍線〕ヰル私モ、(草枕)旅ニ出テヰルノデ、心ノ〔二字傍線〕思ヲ霽ラス方法ヲ知ラナイカラ、コノ讃岐ノ國ノ〔七字傍線〕網ノ浦ノ海人ノ女ドモガ燒ク鹽ノヤウニ、私ノ心ノ中ハ思ヒ焦レテ居ルヨ。
 
○和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》――ワヅキは區別の意。分《ワカ》ち着《ツ》きの約か。○村肝乃《ムラギモノ》――心の枕詞。群物幾多《ムラガリモノココラ》とつづくのが、心に轉じたのだといふ。或は群|臓腑《キモ》の凝《ココ》りから心にかかるともいふ。○奴要子鳥《ヌエコトリ》――※[空+鳥]子鳥、ぬえ〔二字傍線〕に同じ。虎鶫《トラツグミ》といふ鳥の異名だといふ。紀記の歌や本集に、時々見える鳥で、鳴聲が哀調を帶びてゐるやうに詠まれてゐる。○卜歎居者《ウラナゲヲレバ》――心歎《ウラナゲ》き居ればで、ウラはうら悲し・うら戀す・うら思ふの例の如く、心の意である。歎《ナゲ》とのみ言つてキを省いたのは珍らしい形だ。ウラナキヲレバといふ訓もあるが、奴延鳥之裏歎座津《ヌエトリノウラナゲマシツ》(一九九七)・宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》(三九七八)の例に從ふべきである。歎の字、ナキとよんだ例は他にない。○珠手次《タマダスキ》――玉襷で、襷は肩に懸けるから、かけの枕詞とする。○懸乃宜久《カケノヨロシク》――言葉にかけ、又は心に思ふも宜しく有り難い意で、大王につづく。これを還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》へかけて解するのは當つてゐない。宜久《ヨロシク》と副詞の形になってゐるが、意味は大王《オホキミ》に冠《カブ》せてある。○遠神《トホツカミ》――人間より離れて、遠くにいます神の意で、神聖視した言(20)ひ方である。○行幸能《イデマシノ》――イデマシとよむべし。ミユキとよむのはわるい。幸之《イデマシシ》(一九一)・幸行處《イデマシドコロ》(二九五)の例を見よ。君之御幸乎《キミガミユキヲ》(五三一)もあるが、これは幸は事の誤らしいから例にならぬ。○山越風乃《ヤマコスカゼノ》――反歌に山越乃風《ヤマゴシノカゼ》とあるので、これをもさうよむ説があるけれども、ヤマコスカゼがよからう。○還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》――還らふは還るの延言、ここでは風が袖を翻して吹く意であらう。○草枕《クサマクラ》――旅の枕詞。旅に出ては草を結んで枕として、野宿をしたものだ。○思遣《オモヒヤル》――思ひを晴す意。遠方を思ひやる意ではない。○鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》――鶴寸《タヅキ》は方法、白土《シラニ》は不知、ニは打消の助動詞ずの一體。○網能浦之《アミノウラノ》――この附近の海岸であらう。網を綱の誤とする説は根據がない。留鳥浦之海部乍有益男《アミノウラノアマナラマシヲ》(二七四三)とあるのも此處であらう。
〔評〕 強烈な旅愁、故郷の愛妻に對する抑へ難い思慕の情が、冒頭から結尾まで直線的に、一本調子に、力強く歌はれてゐる。婉曲さも繊麗さも無いが、そこがこの歌の價値である。
 
反歌
 
6 山越の 風を時じみ 寢る夜落ちず 家なる妹を かけて偲びつ
 
山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》 寐夜不落《ヌルヨオチズ》 家在妹乎《イヘナルイモヲ》 懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》
 
山ヲ越シテ來ル風ガ、時ヲ定メズニ吹クノデ、寐ル夜一晩モカカサズニ、家ニ留守居シテヰル妻ヲ、心ニカケテ思ヒ出シタ。アア戀シイ妻ヨ〔七字傍線〕。
 
○風乎時自見《カゼヲトキジミ》――時自《トキジ》は非時又は不時などと書いて、その時節ならずして物の存在する意に用ゐてあるが、又轉じて斷えず、何時にてもある物にもいふ。ここは後者である。乎《ヲ》は詠歎の助詞。見《ミ》は故にの意。○寐夜不落《ヌルヨオチズ》――寢る夜一夜も洩るることなくの意。
〔評〕 長款の章を纏めて強く述べたものだ。古樸の歌風である。
 
(21)右※[てへん+僉](スルニ)2日本書紀(ヲ)1無v幸(シ)2於讃岐國(ニ)1亦軍王未v詳也但山上憶良大夫類聚歌林(ニ)曰(ク)記曰(ク)天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸(ス)2于伊豫温湯宮(ニ)1【云々】一書云是時宮前在2二樹1、此之二樹(ニ)班鳩《イカルカ》此米《シメ》二鳥大集(ル)、時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛(ケ)2稻穗(ヲ)1而養(フ)v之(ヲ)乃作歌【云々】若(クハ)疑(フ)從(ツテ)2此便(ニ)1幸(セル)v之歟。
 
班鳩は斑鳩と書くのが正しい。今、イカル又はマメマハシとよぶ鳥で長さ七寸位、嘴は黄、翼は黒く青色を帶びてゐる。背と腹とは灰色に茶色を帶びてゐる。聲がよいので飼鳥とすることもある。此米は今もシメといふ。燕雀類の一種で雀よりも少しく大きい。嘴は淡黄、背は灰色腹は黄色である。蝋嘴又は※[旨+鳥]とも書く。風土記に比米とあるが、ここは此米がよいであらう。この文は撰者の註か。山上憶良類聚歌林といふ書は、今傳はらぬが、平安朝まで行はれたものと見えて、袋草子や八雲御抄にその名が見えてゐる。一書云とあるは、伊豫風土記をさしたものか。仙覺抄に引いた伊豫風土記に、これと同じ意味のことが記されてゐる。但し文は同じでないから、或は他書かも知れない。この一書云は類聚歌林中の引用文であらう。若疑云々は注者の考を述べたもの。なほ此の文については卷三(三二二)山部赤人の歌參照。
 
明日香川原(ノ)宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト》
 
(22)この都の舊趾は今高市村大字川原にあり、川原寺が建つてゐる。飛鳥川の西岸にあるので、かく呼んだのである。天豐財重日足姫天皇は、皇極天皇。後重祚ありて齊明天皇と申上げる。皇極天皇は飛鳥板蓋宮におはしまし、齊明天皇は、板蓋宮から、川原宮に遷り、更に岡本宮に移らせられた。それで史實に從へば、これは齊明天皇で、考・略解・燈・攷證・檜嬬手などは皆齊明説を採つてゐる。然るに古義は、皇極紀に川原宮のことが無いのは、脱ちたのであるとして、皇極説を唱へ、新考、講義も同説である。次に後崗本宮として齊明天皇の御宇の作を掲げてゐるので見ると、これは皇極の御代のことであるらしく見えるが、暫く書紀の記載を尊重し、史實に據つて、齊明天皇の御宇として置く。この卷は皇都の所在地を以て、時代を區劃する方針であるから、さう考へても、差支ないのである。代匠記にある孝徳天皇説は從はれない。
 
額田王《ヌカタノオホキミ》歌 未詳
 
額田王は鏡王の女で、鏡女王の妹であられたやうだ。他の例に從へば、女王と書くべきだが、萬葉以前の書き方に從つて、女の字を加へなかつたのだらうと宣長は言つてゐる。天武紀に「天皇初娶2鏡王額田姫王1生2十市皇女1」とあるのは、鏡王の下、女の字脱ちたのである。未詳とあるのは後人の註だ。
 
7 秋の野の 美車苅り葺き 宿れりし 宇治の都の 借廬し思ほゆ
 
金野乃《アキノヌノ》 美草苅葺《ミクサカリフキ》 屋杼禮里之《ヤドレリシ》 兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》 借五百磯所念《カリイホシオモホユ》
 
嘗テ天子樣ガ大和カラ近江へ御出マシノ時、御伴ヲシテ〔嘗テ〜傍線〕秋ノ野ノ尾花ヲ刈ツテ作ツテ宿ツタ、宇治ノ行宮ノ假小屋ノ面白カツタコト〔七字傍線〕ガ、今モ尚〔三字傍線〕思ヒ出サレルヨ。
 
○金野乃《アキノヌノ》――四季を木火土金水の五行に配すれば、金は秋であるから、金を秋に宛て用ゐる。金待吾者《アキマツワレハ》(二〇〇五)・金待難《アキマチガタシ》(二〇九五)・金山《アキヤマノ》(二二三九)・金風《アキカゼ》(一七〇〇・二〇一三・二三〇一)の如くである。○美草苅茸《ミクサカリフキ》――美草は元暦校本に、ヲバナとよんであるが、ミクサでよからう。やはり尾花即ち花薄のことだ。○兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》――宇治の行宮をいふ。宮子《ミヤコ》(23)は宮處《ミヤトコロ》で、一日又は數日の行在所も亦ミヤコである。○借五百磯所念《カリイホシオモホユ》――借五百はカリイホとよむがよからう。磯《シ》は強める助詞。
〔評〕 天皇の駕に從つて、秋の宇治の野に宿つた時、野もせに波打つて咲いてゐた尾花は刈り取られて、そのまま小屋の屋根に葺かれた。その風流なキヤンピングは、後々までの永い追憶の種であつた。この思出は平明な調子を以てここに歌はれたのである。
 
右※[手偏+嶮の旁]2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書曰戊申年幸(ス)2比良宮(ニ)1大御歌、但紀曰、五年春正月己卯朔辛巳天皇至(リテ)v自2紀(ノ)温湯1三月、戊寅朔天皇幸(シ)2吉野宮(ニ)1而肆宴焉、庚辰日天皇幸(ス)2近江之平浦(ニ)1
 
戊辰は孝徳天皇の大化四年で、この年、比良宮行幸のこと書紀に見えない。但紀曰云々は齊明天皇の五年で明日香川原宮の御宇に違ないが、三月の行幸では秋の野のとあるに合はない。此の註は古書に載つてゐるものを、參考に記したに過ぎない。
 
後崗本宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇、位後即位後崗本宮
 
同じく齊明天皇である。天皇川原宮におはしますこと一年で、後岡本宮に遷り給うた。舒明天皇の宮所の舊地である。註に位後即位とあるのは、讓位後再び即位の意であらう。
 
額田王歌
 
8 熟田津に 船乘りせむと 月待てば 潮も適ひぬ 今は漕ぎ出でな
 
熟田津爾《ニギタヅニ》 舶乘世武登《フナノリセムト》 月待者《ツキマテバ》 潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》 今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》
 
熱田津デ船ニ乘ラウト思ツテ、月ノ上ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰルト、月ガ上ツテ〔五字傍線〕潮モ程ヨク滿チテ來タ。サア〔二字傍線〕今、漕ギ(24)出サウヨ。
 
○熟田津《ニギタヅ》――左註に熟田津石湯行宮とあるによれば、伊豫道後温泉附近に昔あつた要津である。今は地形が變つたので分らない。○潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》――潮も出帆に適當したの意。○許藝乞菜《ゴギイデナ》――乞は異説が多いが、燈にイデとよむべしと言つたのがよい。乞通來禰《イデカヨヒコネ》(一三〇)・乞吾君《イデワガキミ》(六六○)・乞如何《イデイカニ》(二八八九)・乞吾駒《イデワガコマ》(三一五四)など、多くの例がある。菜《ナ》は希望の助詞。
〔評〕 穩かな夜の港に、ひたひたと寄せ來る潮の上、團々たる玉兎が放射する金箭の輝きが、眼前に見えるやうだ。悠揚たる歌調、時待ち得たる出舟の歡喜の情もあらはれてゐる。
 
右※[手偏+嶮の旁]2山上憶良大夫類聚歌林(ヲ)1曰、飛島岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇、大后、幸(ス)2于伊豫湯宮1、後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(キ)、始(テ)就(ク)于海路1、庚戌御船泊(ツ)2于伊豫熟田津|石湯《イハユ》行宮1、天皇御2覽《シテ》昔日(ヨリ)猶存之物(ヲ)1、當時忽(チ)起(ス)2感愛之情(ヲ)1、所d以因製(シテ)歌詠(ヲ)1爲(ス)c之哀傷(ヲ)u。也、即(チ)此歌者、天皇(ノ)御製焉、但額田(ノ)王歌(ハ)者別有2四首1。
 
これは齊明天皇が、曾て舒明天皇の皇后として天皇と共に伊豫に行啓あり、後、天皇として行幸あつた時の御感慨を述べられた御製だといふ異傳を記したものだが、この歌は此の文の趣に合つてゐない。九年は書紀によれば十二年の誤だ。舊本西征を而征に誤つてゐる。今元暦校本による。石湯は道後温泉の古名である。
 
幸2于紀温泉1之時額田王作歌
 
(25)9 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾が背子が い立たしけむ 嚴橿が本
 
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之《ワガセコガ》 射立爲兼《イタタシケム》 五可新何本《イツカシガモト》
 
これは萬葉集中の最も訓み難い歌である。三句以下は大體右の訓でよいやうに思はれるが、上の二句は全くよみ難い。試みに古來の訓のうち、比較的よいと思はれるものを列擧すると、
 ユフツキノアフギテトヒシワガセコガイタタセルカネイツカハアハナム(仙覺抄)
 ユフツキシオホヒナセソクモワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(代匠記)
 キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(考)
 カマヤマノシモキエテユケワガセコガイタタスガネイツカシガモト(玉かつま)
 カクヤマノクニミサヤケミワガセコガイタタスカネイツカアハナモ(信濃漫録)
 マツチヤマミツツアカニトワガセコガイタタシマサバワハココニナモ(檜嬬手)
 ミモロノヤマミツツユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト(古義)
 カグヤマノクニミサヤケミワガセコガイタタセリケムイツカシガモト(國歌大觀)
 マツチヤマミツツコソユケワガセコガイタタシケムイツカシガモト(新考)
これらはいづれも誤字を認め、又戯書として工夫した訓法が多い。その訓の理由を記すべきであるが、あまりに煩雜であるからここには省く。原書を參照せられたい。このうちに誤字は或はあるであらうが、この卷の用字法から考へると、戯書とするはどうかと思はれる。この訓法に就いては、なほ大いに研究を要する。かかる次第であるから、譯はこれを省くことにする。
 
中皇女命、往(ク)2于紀伊温泉(ニ)1之時御歌
 
中皇女は前に中皇命とあつた御方と同じである。
 
10 君が代も 吾が代も知らむ 磐代の 岡のかや根を いざ結びてな
 
君之齒母《キミガヨモ》 吾代毛所知哉《ワガヨモシラム》 磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノカヤネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》
 
(26)アナタノ御壽命モ私ノ壽命モ、イツマデカ〔五字傍線〕知リタイモノデス。コノ磐代トイフ所ハ磐トイフ何時マデモ變ラヌ長生ノ出來サウナ名ヲ持ツタ所デスカラ、縁起ヲ祝ツテ〔コノ〜傍線〕此ノ磐代ノ岡ノ草ノ根モトヲ、サア結ビマセウ。サウシテ二人トモ長生キスルヤウニ約束致シマセウ〔サウ〜傍線〕。
 
○吾代毛所知哉《ワガヨモシラム》――ワガヨモシレヤと舊訓にあるが、シラムとよむ方がよい。哉は疑ひ推量する字であるから、ムとよんでよい。これを武の誤とするはわるい。○磐代乃岡之草根乎《イハシロノヲカノカヤネヲ》――磐代は紀伊日高郡で今、南部《ミナベ》町に屬し、大字東岩代・西岩代に分る。草根はクサネとよむ説もあるが、ここはカヤネがよからう。草の字、カヤとよむ例が多い。この頃草木の枝などを結んで縁起を祝ふ風俗があつたのだ。
〔評〕 これは誰人にか詠みかけられた作である。次の歌に吾勢子波《ワガセコハ》とあるので見ると、恐らくその夫君などであらう。磐代といふ常磐らしい地名に縁起を祝つたもので、女らしい氣分が出てゐる。新古今集羈旅・式子内親王の「行末は今いくよとか岩代の岡のかやねに枕むすばむ」はこれを本歌としたものである。
 
11 吾が背子は 借廬作らす かや無くば 小松が下の かやを苅らさね
 
吾勢子波《ワガセコハ》 借廬作良須《カリホツクラス》 草無者《カヤナクバ》 小松下乃《コマツガシタノ》 草乎苅核《カヤヲカラサネ》
 
私ノ夫ノ君ハ旅ノ宿ノ爲ニ〔六字傍線〕假ノ小屋ヲ御作リナサル。若シ屋根ニ葺ク〔五字傍線〕萱ガ足リナイナラバ、アノ小松ノ下ニ良イ萱ガアリマスカラ〔アノ〜傍線〕小松ノ下ニ生エテヰル萱ヲ御苅リナサイ。
 
(27)○吾勢子波《ワガセコハ》――勢子《セコ》は男を親しんでいふ語で、普通夫のことに用ゐる。ここもさうであらう。○借廬作良須《カリホツクラス》――作良須は作るの敬語。○草無者《カヤナクバ》――草はカヤとよむ。草乎苅核の草もカヤである。これをクサとよむ説もあるが、一首のうちで、紛れ易い同字を違つたよみ方をさせるのは無理であらう。○小松下乃《コマツガシタノ》――小松の小は美稱で、ただの松のことだとする説もあるが、小松は大木ならぬ松を指したのである。○草乎苅核《カヤヲカラサネ》――苅核はカラサネで、カラスの希望の形、カラスは苅の敬語。
〔評〕 偶然かも知らぬが加行音が多く、恰も頭韻を踏んだやうになつてゐる。それだけ調子に堅い所がある。
 
12 吾が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠ぞ給はぬ
 
吾欲之《ワガホリシ》 野島波見世追《ヌジマハミセツ》 底深伎《ソコフカキ》 阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》 珠曾不拾《タマゾヒロハヌ》
 
私ガ見タイト思ツテ居タ野島ハ思ヒ通リニ一行ノ人ニモ〔十一字傍線〕見セタ。併シ〔二字傍線〕底ノ深イ阿胡根ノ浦ノ珠ハ拾ハナイ。近所マデ行ツテ阿胡根ノ浦ノ珠ヲ拾ハナカツタノハ殘念ダ〔近所〜傍線〕。
 
○野島波見世追《ヌジマハミセツ》――日高川の下流、鹽屋浦の南に野島といふ村があつて、阿胡根の浦は其の海岸である。見世追《ミセツ》は一行の人に見せたといふのであらう。吾欲之にかけ合はぬから、誤字だといふ説もある。○珠曾不拾《タマゾヒロハヌ》――普通海岸で、珠を拾ふといふのは小石のことだ。阿胡根の浦は底が深いから、珠が拾はれぬといふのではない。底深く水清き阿胡根の浦の海邊は、珠が多いので有名なのである。拾の字、舊本に捨とあるは誤、元暦校本による。
〔評〕 初句と第二句とが照應しないやうに見えるのは、多少言葉に無理があるからである。海に遠い都人の海邊の景に飽かない氣分が出てゐる。
 
或頭云、我欲子島羽見遠《ワガホリシコジマハミシヲ》
 
一本の一二句に斯くあるといふのだ。かうすれば言葉の續きは穩かである。子島の所在不明。
 
右※[てへん+僉]《スルニ》2山上憶良大夫類聚歌林(ヲ)1曰、天皇御製云々。
 
(28)この傳は參考ともしがたい。
 
中大兄 近江宮御字天皇 三山歌一首
 
中大兄は天智天皇の御名、これは齊明天皇の御代の作であるからかう記したのだ。三山は香具・畝傍・耳成の三山である。香具山は既に述べた。畝傍は高市郡白檮村、耳成は磯城郡耳成村にある。卷頭の口繪三山の寫眞參照。
 
13 香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相爭ひき 神代より 斯くなるらし 古も 然なれこそ 現身も 妻を 爭ふらしき
 
高山波《カグヤマハ》 雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》 耳梨與《ミミナシト》 相諍競伎《アヒアラソヒキ》 神代從《カミヨヨリ》 如此爾有良之《カクナルラシ》 古昔母《イニシヘモ》 然爾有古曾《シカニアレコソ》 虚蝉毛《ウツセミモ》 嬬乎《ツマヲ》 相格良思吉《アラソフラシキ》
 
男ノ山ノ〔四字傍線〕香具山ハ、女ノ山ノ〔四字傍線〕畝傍山ヲバ愛ラシイ山ダト、ソレヲ妻ニシヨウトテ〔十字傍線〕耳梨山ト喧嘩ヲシタ。神代カラシテコノ樣ニ、男ガ女ヲ奪ヒ合フコトガ〔十一字傍線〕アツタノダラウ。昔モヤハリ此ノ通リニ有ツタカラコソ、今ノ世ノ人モ妻ヲ爭フト見エル。致シ方ノナイコトダ〔九字傍線〕。
 
○高山《カグヤマ》――香具山に同じ。高は韻鏡外轉第二十五開、豪韻の牙音で、ngとなる音でないから、カグとはよめないわけである。此の集で高を音假名としては高湍爾有《コセナル》(三〇一八)のやうにコに用ゐたのがあるのみ。古事記などには、高志《コシ》と使つてある。これは呉音コウであるからよいとして、カグは特例だ。正辭は天武紀に、高見をカガミとよんでゐるのをあげて、古來の慣用を認めてゐるが、なほ研究すべきである。○雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》――雲根火雄は畝傍を、男志等は愛《ヲ》しとである。畝傍男々しとする説はいけない。畝傍は女で、香具・耳成は男の山である。○虚輝毛――虚蝉は現身。此の世の人の身をいふ。○嬬乎相格良思吉《ツマヲアラソフラシキ》――嬬は妻に同じ。格は爭ふこと、挌と通じて用ゐる。良思吉はらしいの意、許曾《コソ》の係に對し、かく結ぶのは古格である。
〔評〕 先づ古傳説を述べ、次で現世に想到して虚蝉毛嬬乎相格良思吉《ウツセミモツマヲアラソフラシキ》と、如何にも感慨深げに仰せになつてゐるので、この天皇が、皇弟大海人皇子と額田女王を爭ひ給うたことが連想せられ、その御心を寄せられたものと解くものがあるが、果してどうであらう。三山の説話は所謂妻爭傳説の一つで、この集ではこの種のものに、葛(29)飾眞間手古奈・葦屋處女・櫻兒・鬘兒などの話が出てゐる。大和の平原に鼎立してゐるこの三山について、古代の民衆の間に、何時となく、かうした話が語られたのである。歌は古雅に簡素に出來てゐる。眞淵の「見渡せば天の香具山畝傍山あらそひ立てる春霞かな」はこの歌をもとにしたものである。
 
(29)反歌
 
14 香具山と 耳成山と 闘《ア》ひし時 立ちて見に來し 印南國原
 
高山與《カグヤマト》 耳梨山與《ミミナシヤマト》 相之時《アヒシトキ》 立見爾來之《タチテミニコシ》 伊奈美國波良《イナミクニハラ》
 
畝傍山ヲ妻ニシヨウトテ〔十一字傍線〕香具山ト耳梨山トガ戰ツタ時ニ、コノ三山ガ互ニ妻爭ヒヲシテヰルトイフコトヲ聞イテ、出雲ノ國カラ阿菩大神ガ〔コノ〜傍線〕御出掛ニナツテ、其ノ樣子ヲ〔五字傍線〕御覽ナサレル御積リデ御出デニナツタガ、戰止ンダト聞イテオ留リナサレタ〔戰止〜傍線〕、印南野原ハ此處ダナア〔六字傍線〕。
 
○相之時《アヒシトキ》――戰ひし時の意だ。神功紀に、伊弉阿波那和例波《イザアハナワレハ》。雄略紀に瀰致※[人偏+爾]阿賦耶《ミチニアフヤ》とよんだのは皆闘ふことである。○立見爾來之《タチテミニコシ》――阿菩大神が、出雲國を立ちて見に來給ひしの意で、立は出立の立ちである。仙覺抄に、「播磨(ノ)風土記(ニ)云、出雲(ノ)國阿菩大神聞2大和國畝火、香山、耳梨三山相闘1此欲2諫止1、上來之時、到2於此處1、乃聞(テ)2闘止1、覆2其所(ノ)v乘之船1而坐V之。故號2神阜1阜形似v覆とある。○伊奈美國波良――印南國原で、播磨の印南郡の野である。
〔評〕 これはこの三山妻爭傳説の終局を歌つたもので、播磨の印南野で古傳説を思ひ出して、詠ませ給うたものであらう。風土記にある神阜は、揖保郡林田の南方なる神岡に當るといふことで、印南野とは距つてゐるが、それは古傳説であるから、深く論ずるに及ばない。全くの叙事歌でありながら、上古には珍らしい名詞止にして、餘韻を籠めたのが面白い。
 
15 渡つ海の 豐旗雲に 入日さし 今宵の月夜 明らけくこそ
 
渡津海乃《ワタツミノ》 豐旗雲爾《トヨハタクモニ》 伊理比沙之《イリヒサシ》 今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》 清明己曾《アキラケクコソ》
 
海ノ上ニ棚引イ夕立派ナ布ノヤウナ雲ニ、入日ノ光ガ映ツテ、實ニ美シイ景色ダ。コノ樣子デハ〔十四字傍線〕、今夜ノ月ハ(30)キツト澄ミ渡ツテ佳イニ違ナイヨ。
 
○渡津海乃《ワタヅミノ》――元來、海《ワタ》つ神《カミ》の義であるが、海のことにも用ゐる。○豐旗雲爾《トヨハタグモニ》――豐は盛な意、ハタは凡べて織布をいふ。旗の字にとらはれてはいけない。○清明己曾――文字に着いて訓めばスミアカリコソ、キヨクアカリコソなどが穩かであるが、詞として面白くない。考の説に從つてアキラケクコソと訓んで置く。己曾《コソ》は係辭。希望とするはわるい。
〔評〕 恐らく印南野の海岸に立ち給うて、夕映の華やかさを御覽になつて、詠まれたものであらう。すつきりとした明澄な歌だ。佳作。これは、三山歌の反歌ではない。
 
右一首歌(ハ)今案不v似2反歌(ニ)1也。但舊本以(テ)此歌(ヲ)1載(ス)2於反歌1、故(ニ)今猶載(ス)2此次1、亦紀曰、天豐財重日足姫天皇《アメノトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコトノ》先(ノ)四年乙己(ニ)立2天皇1爲(ス)2皇太子(ト)1
 
次の字、流布本歟に作るは誤。元暦校本による。流布本立爲天皇とあるが、爲は衍文、元暦校本にはない。
 
近江大津宮御宇天皇代  天命開別天皇《アメミコトヒラカスワケノスメラミコト》
 
近江大津宮は今の大津市の北方、辛崎に近い滋賀村滋賀里にあつた。天智天皇の皇居。天命開別天皇は後に天智天皇と謚し奉る。
 
天皇詔2内大臣藤原朝臣1競2憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩1時額田王以(テ)v歌(ヲ)判(ゼル)v(ヲ)歌
 
藤原朝臣は鎌足である。朝臣の姓は天武天皇十三年に賜ふところ、鎌足存命中は中臣連である。鎌足薨ずる日、内大臣に叙し藤原氏を賜はる。ここは後の稱呼に從つたものだ。競憐は面白さを競ふといふやうな意。
 
16 冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 執りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 紅葉をば 取りてぞ偲ぶ 青きをば 置きてぞ歎く そこし恨めし 秋山我は
 
(31)冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 不喧有之《ナカザリシ》 鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》 不開有之《サカザリシ》 花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》 山乎茂《ヤマヲシミ》 入而毛不取《イリテモトラズ》 草深《クサフカミ》 執手母不見《トリテモミズ》 秋山乃《アキヤマノ》 木葉乎見而者《コノハヲミテハ》 黄葉乎婆《モミヂヲバ》 取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》 青乎者《アヲキヲバ》 置而曾歎久《オキテゾナゲク》 曾許之恨之《ソコシウラメシ》 秋山吾者《アキヤマワレハ》
 
(冬木成)春ニナツテ來ルト、今マデ冬ノ間〔六字傍線〕嶋カナカツタ鳥モ來テ鳴イタ。今マデ冬ノ間〔六字傍線〕咲カナカツタ花モ咲イタガ、併シ春ハ〔二字傍線〕山ノ木ガ茂ツテヰルノデ、女ノ身ノ私ハソノ中ニ〔十字傍線〕入ツテ花ヲ〔二字傍線〕取リモセズ、草ガ深ク生エテヰルノデ、花ヲ〔二字傍線〕手折ツテ見ルコトモセヌ、綺麗デ面白クハアルガ、春ハ樂シミガ薄イ。コレニ反シテ〔綺麗〜傍線〕、秋ノ山ノ木ノ葉ヲ見ルト、紅葉シタノヲ取ツテ賞翫シ、マダ黄葉シナイ〔七字傍線〕青イノハソノ儘ニ枝ニ殘シテ〔九字傍線〕置イテ、紅葉ノ遲イノ〔六字傍線〕ヲ歎息スル。秋ノ山ハヨイガ、タダ〔九字傍線〕コノ點ガ秋ノ山ハ、私ハ恨メシイト思フヨ。
 
○冬木成《フユゴモリ》――春の枕詞である。冬隱と書かれてゐることもあるから、フユゴモリに違ない。成をモリとよむのは盛の省文である。語義について諸説あれど、冬の間、萬物閉ぢこもり、春となつて張り出づる意とするが穩であらう。○春去來者《ハルサリクレバ》――春が來ればの意。去るは春されば、夕さればなどの如く、來る意である。夜さり、夕さりの如く名詞になることもある。春之在者と書いてあるので見ると、春しあればの約であらうか。○山乎茂――ヤマヲシゲミとよむ。シミとする考の説はよくない。○黄葉乎婆《モミヂヲバ》――モミヅヲバとよむのはわるい。わざわざ動詞の形にする必要はない。黄葉は皆モミヂとよんである。○曾許之恨之《ソコシウラメシ》――恨は怜の誤で、ソコシオモシロシとよむべしと宣長はいつた。古義はタヌシとよんだが、字を改めないでも、其の點が恨めしとして、青きをば置きてぞ歎くのみにかかるとすれば、よく聞える。
〔評〕 春秋の爭は、古事記明宮の段に出た、秋山之|下氷壯夫《シタヒヲトコ》・春山之霞壯夫から見え、中世では源氏物語・更級日(32)記・拾遺集・新古今集等にも見えるが、この額田王の作が最名高いものである。大抵は秋に團扇をあげてゐるが、この歌も秋を讃美してゐる。かういふ議論めいたことを短く歌に纏めたところが、作者の手腕であらう。
 
17 味酒 三輪の山 青丹よし 奈良の山の 山のまに い隱るまで 道の隈 い積るまでに 委《ツバ》らにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隱さふべしや
 
額田王下(リシ)2近江國(ニ)1時作歌、井戸《ヰイヘ》王即(チ)和(フル)歌
 
井戸王は物に見えない。和歌とあるは和ふる歌で、次の綜麻形乃の歌をさしたものだらう。
 
味酒《ウマサケ》 三輪乃山《ミワノヤマ》 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良能山乃《ナラノヤマノ》 山際《ヤマノマニ》 伊隱萬代《イカクルマデ》 道隈《ミチクマ》 伊積流萬代爾《イツモルマデニ》 委曲毛《ツバラニモ》 見管行武雄《ミツツユカムヲ》 數數毛《シバシバモ》 見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》 情無《ココロナク》 雲乃《クモノ》 隱障倍之也《カクサフベシヤ》
 
(味酒)三輪ノ山ヲ私ハ〔二字傍線〕、(青丹吉)奈良ノ山ノ山ノ間ニ隱レテシマフマデ、路ノ曲リ角ガイクツモ隔テテ見エナ〔三字傍線〕クナルマデハ、三輪山〔三字傍線〕ヲ能ク能ク見ナガラ行カウト思ツテヰルノニ、幾度モ幾度モ振返ツテ〔四字傍線〕遠ク眺メヨウト思ツテヰルノニ、情ナク雲ガ隱シテシマフトイフコトガアルモノカ。私ハ今カラ近江ノ國ヘ下ツテ行クガ、朝夕見馴レタ三輪山ニ別レルノガ辛イ。能ク見テ置カウト思フノニ、雲ガ立チ隱ストハ情ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○味酒《ウマサケ》――枕詞。味酒の神酒《ミワ》の義で三輪につづく枕詞。三輪の神は酒の神で、崇神天皇の御代に三輪に掌酒《サカツカサ》を置かれた。○三輪乃山《ミワノヤマ》――大和磯城郡にある山で、この山を神體として祀つたのが三輪神社だ。○青丹吉《アヲニヨシ》――枕詞。奈良とつづく。語義は彌百土《イヤホニ》よし、青土※[黍+占]《アヲネヤニシ》などの説あれど、いづれも無理である。この語、久夜斯可母可久斯良摩世婆阿乎亦與斯久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヤシカモカクシラマセバアヲニヨシクヌチコトゴトミセマシモノヲ》(七九七)とあつて、奈良に續かないこともあるから、元來奈良山の風景を賞めたもので、紀記の阿那迩夜志《アナニヤシ》などと同義であらう。アナニは、あな美しいの意で、アヲニと轉じ、ヤシは感動をあらはす助詞で、ヨシとなつたのではあるまいか。○山際《ヤマノマニ》――際はマとよむ。ヤマノハ又はヤマノキハ又はヤマノカヒとする説はわるい。木際縱《コノマヨリ》(一三一)・木際多知久吉《コノマタチクキ》(三九一一)などを證とすべし。(33)山際の下、從の脱ちたのだとする説は從はない。○伊隱萬代《イカクルマデ》――伊は接頭語、意味はない。○伊積萬代爾《イツモルマデニ》――イサカルマデニともよまれてゐる。安積《アサカ》といふ地名や、百積《モモサカノ》(二四〇七)どの例で見ると、サカとも訓み得るのであるが、ここはイツモルの方がよからう。道の曲り角をいくつも重ねる意だ。○委曲毛《ツバラニモ》――ツバラはツマビラカに同じ。委しく。○見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》――見放けむ山を。見放くは遠く見やるをいふ。○隱障倍之也《カクサフベシヤ》――隱さふは隱すに同じ。
〔評〕 住み馴れた大和國原の、名殘として眺められるものは、今はただ神々しい姿の三輪山のみである。その山も無情な雲が蔽うてしまふ。ああ無情なる雲よと、涙に曇る目を上げて叫び悲しんだ嗟嘆の聲。何らの哀調。
 
反歌
 
18 三輪山を しかも隱すか 雲だにも 心あらなも 隱さふべしや
 
三輪山乎《ミワヤマヲ》 然毛隱賀《シカモカクスカ》 雲谷裳《クモダニモ》 情有南畝《ココロアラナモ》 可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
(34)雲ガ三輪山ヲ隱シテシマツタガ〔雲ガ〜傍線〕三輪山ヲソンナニモマア隱スノカ。タトヒ雲デモ情ガ有ツテ呉レ。私ガコレホド見タク思ツテ居ルノニ〔私ガ傍線〕隱ストイフコトガアルモノカ。ホントニ情ナイ雲ダ〔九字傍線〕。
 
○情有南畝《ココロアラナモ》――畝は呉音モであるから、ココロアラナモとよむがよい。但し類聚古集に畝は武となつてゐるから、それに從へばアラナムである。
〔評〕 長歌の意を繰返しただけだが、三輪山乎然毛隱賀《ミワヤマヲシカモカクスカ》といふので、身悶えして泣き濡れてゐる樣も見えて、哀な歌だ。傑作のうちに數ふべきものであらう。古今集に貫之「三輪山をしかもかくすか春霞人に知られぬ花や咲くらむ」とあるは、この歌の詞を取つたのである。
 
右二首(ノ)歌(ハ)山上憶良大夫類聚歌林(ニ)曰、遷(ス)2都(ヲ)近江國(ニ)1時、御2覽(セル)三輪山(ヲ)1御歌焉。日本書紀(ニ)曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷(ス)2都(ヲ)于近江1。
 
この註は、類聚歌林には天智天皇の御製とあるといふのだ。大海人皇子の御歌とする考の説は從ふべきでない。日本書紀曰六年丙寅とあるが、今本の書紀の六年は丁卯である。
 
19 綜麻形の 林のさきの さ野ばりの 衣に著くなす 目に着く我が背
 
綜麻形乃《ヘソカタノ》 林始乃《ハヤシノサキノ》 狹野榛能《サヌバリノ》 衣爾著成《キヌニツクナス》 目爾都久和我勢《メニツクワガセ》
 
綜麻形ノ林ノ端ノ方ニ生エテヰル野ノ萩ガ、押シ分ケテ行ク人ノ〔九字傍線〕着物ニ自然ニ〔三字傍線〕著クヤウニ、見ヨウトモセヌノニ〔九字傍線〕私ノ目ニ付ク愛ラシイ〔四字傍線〕私ノ夫君ヨ。
 
○綜麻形乃《ヘソカタノ》――舊訓はソマカタノ。契沖はヘソカタノ、僻案抄はミワヤマノとよんだ。三輪山は三輪傳説に、麻が三輪殘つたとあるのによつたので、前の歌につづいてゐるところから考へれば、三輪山説は面白いが、訓み方は無理である。綜の字、本集に他の用例がない。崇神紀に大綜麻杵《オホヘソキ》といふ人があるによれば、ヘソカタが一番よい。恐らく地名で、綜麻形の林といふのであらう。○林始乃《ハヤシノサキノ》――ハヤシハジメノとする舊訓はよくない。始(35)の字、本集にサキとよんだ例は他に無いが、ハヤシノサキノとよむより他はあるまい。○狹野榛能《サヌバリノ》――狹は接頭語、野榛は野の萩の花である。榛は本集の難問題の一であるが、山吹を山振と書くやうに、ハリとハギと音通じ、二樣に發音せられたもので、ハンの木ではない。榛の木の皮の煎汁は之を染料とするが、多く下染めにするものだ。所謂タンニン染料である。葉又は實を以て摺るといふ説も、事實に疎い。去來兒等倭部早白菅乃眞野乃榛原手折而將歸《イザコドモヤマトヘハヤクシラスゲノマヌノハリハラタヲリテユカム》(二八〇)・白菅乃眞野之榛原往左來左君社見良目眞野之榛原《シラスゲノマヌノハリハユクサクサキミコソミラメマヌノハリハラ》(二八一)の如き、花の咲く景色であるる。又、不時斑衣服欲香島針原時二不有鞆《トキナラヌマダラノコロモキホシキカシマノハリハラトキニアラネドモ》(一二六〇)も花咲く時季があるやうである。天武紀の蓁摺御衣とあるも萩の花摺衣に違ない。
〔評〕 女性の歌である。井戸王を女としても、額田王に和ふる歌としては變だ。格別取り立てていふほどの作でもない。
 
右一首歌今案不v似2和歌1但舊本載(ス)2于此(ノ)次1故(ニ)以猶載焉。
 
これはかなり新しい時代の註らしい。
 
天皇遊2獵|蒲生《カマフ》野(ニ)1時額田王作(レル)歌
 
遊獵は左註に五月五日とあれば藥獵である。卷十六に四月與五月間爾藥獵仕流時爾《ウツキトサツキノホトニクスリカリツカフルトキニ》(三八八五)とある。藥獵とは鹿の茸《ワカツノ》又は百草を採るので、支那の行事の模倣である。蒲生野は近江蒲生郡の野、今の八幡・安土・八日市附近の平原である。四四頁地圖參照。額田王は、天武紀に「天皇初娶2鏡王額田姫王1、生2十市皇女1」とあつて、始め大海人皇子に召され、後、天智天皇に寵せられたのである。この歌は天皇に侍つてゐる頃の作である。七參照。
 
20 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
 
茜草指《アカネサス》 武良前野逝《ムラサキノユキ》 標野行《シメヌユキ》 野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》 君之袖布流《キミガソデフル》
 
(36)(茜草指)紫草《ムラサキ》ガ生エテヰル野ニ行ツタリ、御獵ヲナサル爲ニ〔八字傍線〕領シテ置カレル野ニ行ツタリシテ、私ニ合圖シテ〔六字傍線〕貴方樣《アナタサマ》ガ袖ヲ御振リ遊バスノヲ、野ノ番人ハ見ナイデセウカ。野ノ番人ニ見ラレマスカラ、御止メ遊バセ〔野ノ〜傍線〕。
 
○茜草指《アカネサス》――日・晝・紫などの枕詞。赤味を帶ぶる意であらう。稀に君の上に冠してあるのも、顔色の美しきを賞めたのであらう。茜草は茜草科茜草屬の多年生草本で、莖は方形中空で逆刺あり葉は輪生、長卵形又は長心臓形、草葉共に逆刺を生ずる。花は總状花序で白色である。この太い髯状の根の汁を搾つて染料としたのが所謂茜色だ。○武良前野逝《ムラサキノユキ》――紫野行きの意で、紫野は地名ではなく、紫草の生えてゐる野。紫草は紫草科紫草屬の多年生草本、高さ二尺に達する。葉は互生、披針形或は長卵形、花は莖の上部に生じ、小形で白色。花が群つて咲くからムラサキといふといはれてゐるが、さほど密集してはゐない。この根から採る染料が即ち紫色である。紫根《シコン》色ともいふ。○標野行《シメヌユキ》――標野は占有した野の意で、個人でも若菜摘む爲などに、場所を占めて置いたらしいが、ここのは御料の蒲生野の一部をいつたのだ。もとより武艮前野と同一場所を、語を變へて言つたものである。○野守者不見哉《ノモリハミズヤ》――野守は野の番人である。この頃は所々の山野に番人を置いたと見える。
〔評〕 紫野へ行き標野へ走つて、自分に戀しさを示さうとして袖を振つてゐられる皇太子の大膽な態度を、危ぶみながら詠まれた、その氣分がよく出てゐる。四の句と五の句とを顛倒してあるので、調子が緊張してゐる點を注意すべきである。此の歌の標野や野守に、偶意があるやうに解く説が多い。美夫君志に、「野守者不見哉は額田王自らを、そへたるなり、……多くの官女たちに戯れ給へるをねたましく思して、とがめ奉りしなり。然るに代匠記に野守は皇太子を比して云也といひ、燈には皇太子の御思ひ(37)人に比したる也といひ、考には、つかさ人たちの見奉り思はん事をそへし也といへり。信友のながらの山風も此の説によれり。皆非也。……守部の檜嬬手には、野守は本主の天智天皇を申せる也とあれど、天皇を野守に比し奉るとは、いとなめげなるわざにて、いかでさる事のあるべき。」と論じてゐるのを見れば、古説の大體を知ることが出來よう。古義は野守を、女王附隨の警衛者としてゐる。併しこれ等はいづれも考へ過ぎた説で、表面的に見る方がよいと思ふ。但し野守は野守のみを恐れたのでなく、その周圍の人たちを含んでゐることは勿論である。
 
皇太子答御歌  明日香宮御宇天皇
 
皇太子は即ち大海人皇子。明日香宮御宇天皇とあるは、後人の註で、天武天皇を指し奉る。
 
21 紫の 匂へる妹を 惡《にく》くあらば 人妻故に 吾戀ひめやも
 
紫草能《ムラサキノ》 爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》 爾苦久有者《ニククアラバ》 人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》
 
紫(ノ)色ノ〔二字傍線〕ヤウニ美シイ貴女《アナタ》ガ惡《ニク》イナラバ、人ノ妻ト定マツテヰルノニ、私ガ〔二字傍線〕ドウシテ貴女ヲ戀ヒ慕ハウゾ。貴女ガ可愛イカラ、人ノ妻ト定ツテヰテモ、カウシテ戀ヒ慕ツテ居ルノダ〔貴女〜傍線〕。
 
○紫草能《ムラサキノ》――紫色の如くの意。前に武良前野逝《ムラサキヌユキ》とあるのを受けたもの。○爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》――ニホヘルは色の美しいこと。○人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》――人の妻であるのに。故爾《ユヱニ》にこの用法が少くない。
【評】 人妻故吾可戀奴《ヒトツマユヱニワレコヒヌベシ》(一九九九)といふやうな歌もないではないが、かうした教養ある高貴なお方の口から、この言葉を聞かうとは、ただその大膽さと、強烈な思慕の情とに、をののかざるを得ない。驚天動地の壬申の大亂は、その由る所が深いのである。
 
紀曰天皇七年丁卯夏五月五日、縱2獵(シタマフ)於蒲生野(ニ)1、于v時大皇弟・諸王・内臣及群臣皆悉從焉。
 
今本の日本書紀には、七年は戊辰になつてゐる。大皇弟は大海人皇子。大の字天に作る本は誤であらう。
 
(38)明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛眞人天皇《アメヌナハラオキノマヒトノスメラミコト》
 
明日香清御原宮は、今の高市郡高市村大字|上居《ジヤウコ》の地で、上居は淨御の音讀かといふ説が行はれてわたが、岡本の南、飛鳥村大字雷と飛鳥との中間であらうとする、喜田博士の説がよいやうである。上居は山腹狹隘の地で、都とすべきところでなく、その名も多武峯村の下居に對したもので、淨御には關係ない。卷三に妹毛吾毛清之河乃岸之妹我可悔心者不持《イモモワレモキヨミノカハノカハギシノイモガクユベキココロハモタジ》(四三七)とある清之河《キヨミノカハ》も、この清御原の川で、清御原は清み川近い原の意で、清み川は飛鳥川の一部を言つたらしいから、上居では地形が全く合致せず、喜田博士の推定された地點ならば、これによく合ふのである。宮の下、御宇の二字脱か。目録にはある。天渟中原瀛眞人天皇は、謚して天武天皇と申し奉る。
 
十市《トヲチ》皇女參2赴(シ)於伊勢神宮(ニ)1時、見(テ)2波多《ハダノ》横山(ノ)巖(ヲ)1吹黄《フキノ》刀自作(レル)歌
 
十市皇女は天武天皇の皇女、母は額田女王、大友皇子の妃。波多の横山は伊勢。松坂から初瀬越する途中にある八太里かと考に記してゐる。四○頁の地圖參照。但し大和山邊郡波多村の仲峯山とする説もある。吹黄刀自はどういふ人か分らぬ。黄の宇、元暦校本に※[草冠/欠]に作つてある。刀自は主婦のこと。戸主《トヌシ》の略かといふ。
 
22 河の上の ゆつ岩村に 草むさず 常にもがもな 常處女にて
 
河上乃《カハノヘノ》 湯都盤村二《ユツイハムラニ》 草武左受《クサムサズ》 常丹毛冀名《ツネニモガモナ》 常處女煮手《トコヲトメニテ》
 
河ノ中ノ澤山ノ石ガ集マツタ所ニ草ガ生エヌヤウニ、皇女樣モ〔四字傍線〕、今ノ少女ノ御姿デ、何時マデモ御若ク美シク〔六字傍線〕御出デ遊バスヤウニ願ヒマス。
 
○河上乃《カハノヘノ》――カハカミノと舊訓にあるが、河中のことだから、カハノヘと訓む略解説がよからう。○湯都盤村《ユツイハムラニ》――五百箇磐村の意といふ、多くの磐の集まつたところ。○草武左受《クサムサズ》――草産さずで、ムスは生ずること。産靈《ムスビ》神の産も同じである。○常丹毛冀名《ツネニモガモナ》――冀《ガモ》は希望の助詞。この句、實朝の「世の中は常にもがもな渚こぐ海人(39)の小舟のつなでかなしも」の歌にとられてゐる。○常處女煮手《トコヲトメニテ》――永久に變らぬ處女での意で、永遠の若さを希つたのである。但しこれを不老説話と結び付けようとするのはよくない。
〔評〕 苔の生えた岩は古々しい。草に蔽はれた巖の群も同じ感がある。河の中の岩は、時々水に洗はれて草が生える遑がなく、常磐ながらに新しい感じがする。自分がかしづいてゐる皇女は、花のやうな若さを持つて居られる。これは皇女の榮光であり、奉仕するものの誇りである。天つ少女のそれの如き皇女よ、永遠に若さを失ひ給はざれと望んだもので、上の句の譬喩も面白く、全體に整つた歌である。
 
吹黄刀自未v詳也。但紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女阿閉皇女、參2赴(キタマフ)於伊勢神宮(ニ)1。
 
阿閉皇女は天智天皇の皇女、後御即位なり、元明天皇と謚し奉る。
 
麻續《ヲミ》王流(サレシ)2於伊勢國|伊良虞《イラゴノ》島(ニ)1之時、人哀傷(シテ)作(レル)歌
 
麻續王は左註に引いた書紀の文の外に知る所がない。伊良虞島は三河の伊良胡崎で、半島であるが、伊勢の海中に島のやうに見えるから、島といつたのであらう。伊勢のうちではないが、直ぐ對岸なので、かう言ひならはしたものと見える。四二參照。時の下に更に時の字があるべきである。
 
23 うちそを 麻續の王 海人なれや 伊良虞が島の 玉藻刈り食す
 
打麻乎《ウチソヲ》 麻續王《ヲミノオホキミ》 白水郎有哉《アマナレヤ》 射等籠荷四間乃《イラゴカシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリヲス》
 
(打麻乎)麻續王ハ、身分ノ尊イ御方デ〔八字傍線〕海人デハナイノニ、伊良虞島ノ珠藻ヲ苅ツテ召シ上リナサル。ホントニ御氣ノ毒ナ〔九字傍線〕。
 
○打麻乎《ウチソヲ》――麻續の枕詞、打ちたる麻を績むとつづく。○白水郎有哉《アマナレヤ》――白水郎はアマとよむ。和名抄に「辨色立成云、白水郎、和名阿萬」とある。泉部とも書いてある。白水は支那の地名で、この地の人よく水に潜る(40)といふ説もあるが、明らかでない。有哉のヤは疑問の助詞で、反語的に用ゐてある。○珠藻苅麻須《タマモカリマス》――珠藻は藻を賞めていふ語。苅麻須は舊訓カリマスだが、麻はヲの假名にも用ゐる字であり、次の歌もこの句を繰返したらしいから、カリヲスがよからう。
【評】 三の句|白水郎有哉《アマナレヤ》に強い同情感が籠つて見える。高貴な皇族の配流は、既に同情に堪へぬところであるのに、玉藻を苅つて口に糊せられるとは、聞く耳をも疑ひたい程の哀な話である。時人の哀傷もさこそと思ひやられる。
 
麻績王聞(キ)v之(ヲ)感傷(シテ)和(フル)歌
 
24 うつせみの 命を惜しみ 浪に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す
 
空蝉之《ウツセミノ》 命平惜美《イノチヲヲシミ》 浪爾所濕《ナミニヌレ》 伊良虞能島之《イラゴノシマノ》 玉藻苅食《タマモカリヲス》
 
私ハ(空蝉之)命ガ惜シイノデ、此ノ樣ナヒドイ所ニ來テモ死ニモセズニ、浪ニ濕レテ伊良虞ノ島ノ玉藻ヲ苅ツテ食べテ命ヲ繋イデヰル。
 
○空蝉之《ウツセミノ》――現身のの意で、命・世・人・身などの枕詞となる。この世に生存してゐる身のといふ意。○命乎惜美《イノチヲヲシミ》――惜の字舊本情とあるは誤。元暦校本によつて改む。○玉藻苅食《タマモカリヲス》――カリハムといふ説もある。食はヲス・メス・ハムなどによまれる字だ。この場合、前の歌に揃へてヲスとよむのがよい。
【評】 命平惜美浪爾所濕《イノチヲヲシミナミニヌレ》は哀ないたいたしい言葉である。高貴な御方だけに特に悲しく感ぜられる。
 
(41)右案(ズルニ)2日本紀(ヲ)1曰(ク)天皇四年乙亥夏四月戊戌乙卯、三品麻績王有(リテ)v罪流(サレ)2于因幡1、一子流(サレ)2伊豆島(ニ)1、一子流(サレキ)2血鹿島(ニ)1也、是(ニ)云(ヘルハ)v配(サルト)2于伊勢國伊良虞島(ニ)1者、若(クハ)疑(フ)後人縁(リ)2歌辭(ニ)1而誤(リ)記(セル)乎。
 
今本の日本書紀には四年「四月甲戊朔辛卯三位。麻績王云々」とある。三品は、元暦校本に三位とある。
 
25 み芳野の 耳我の嶺に 時無くぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける 其の雪の 時無きが如 其の雨の 問無きが如 隈も落ちず 思ひつつぞ來る 其の山道を
 
天皇御製歌
 
三吉野之《ミヨシヌノ》 耳我嶺爾《ミミガノミネニ》 時無曽《トキナクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》 間無曽《マナクゾ》 雨者零計類《アメハフリケル》 其雪乃《ソノユキノ》 時無如《トキナキガゴト》 其雨乃《ソノアメノ》 間無如《マナキガゴト》 隈毛不落《クマモオチズ》 思乍叙來《オモヒツツゾクル》 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
芳野ノ耳我ノ嶺ニハ、何時デモ時ヲ定メズニ、雪ガ降ツテヰルヨ。止ム間モナク、始終雨ガ降ツテヰルヨ。ソノ雪ガ時ヲ定メズニ降ルヤウニ、又ソノ雨ガ止ム間モナク降ルヤウニ、長イ山道ノ曲リ角ゴトニ、一ツモ洩ラサズ、ソノ山道ヲ、行ク行ク思ヒ續ケテ來ルヨ。
 
○三吉野之《ミヨシヌノ》――三は美稱。○耳我嶺爾《ミミガノミネニ》――舊訓はミカノミネニであるが、今は僻案抄に從つてミミガノミネニが行はれてゐる。守部は耳我嶺嶽《ミカネノタケ》の誤だといつてゐる。三吉野之|御金高爾《ミカネノタケニ》(三二九三)とあるから、面白い説であるが、耳をミの假名に用ゐた例がない。併し地形から考へると、金峯山をさすものに違ない。○隈毛不落《クマモオチズ》――隈は道の曲つた所、一隈も洩らさす、隈毎にの意。
【評】 對句を巧に用ゐてゐる。卷十三(三二九二)にこれと殆ど同じ歌がある。卷十三は古民謡集であつて、この天皇と時代の前後は明らかでない。天皇の御製が民謡となつたと考へるよりも、民謡が御製として此處に入れられたとする方が穏當であらう。從つて、額田王を戀うて歌ひ給うたとする説には從ひたくない。
 
26 み芳野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間無くぞ 雨は降るといふ 其の雪の 時じきが如 其の雨の 間無きが如 隈も落ちず 思ひつつぞ來る 其の山道を
 
(42)或本(ノ)歌
 
三芳野之《ミヨシヌノ》 耳我山爾《ミミガノヤマニ》 時自久曽《トキジクゾ》 雪者落等言《ユキハフルトイフ》 無間曽《マナクゾ》 雨者落等言《アメハフルトイフ》 其雪《ソノユキノ》 不時如《トキジキガゴト》 其雨無間如《ソノアメノマナキガゴト》 隈毛不墮《クマモオチズ》 思乍叙來《オモヒツツゾクル》 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
これは全く同歌の異傳である。口から口に傳へられる時、これ位の相異が出來て行くのは當然である。
 
右句々相換、因(テ)v此(ニ)重(テ)載(ス)焉。
 
天皇幸(セル)于吉野宮1時(ニ)、御製(ノ)歌
 
吉野宮は今の中莊村大字宮瀧の地にあつた。この地は吉野鐵道の上市驛から、吉野川に沿うて上ること約一里のところにあつて、山形、水勢實に無比の勝景である。この宮址の所在について、特に異を立てて、なほ數里上流の大瀧の地に求めようとする説もあるが、夏身の川緩く流れ、夢のわだ藍を湛へ、象の中山・三舟の山、昔ながらに聳え、古の岩走る瀧のあとどころも、其の儘に殘つてゐるこの宮瀧の地を措いて、他に求めむとするは徒勞である。加ふるに昭和三年、同字内、今桑畑となつてゐる地點から、飛鳥朝時代のもの、と覺しき古瓦及び齋※[公/瓦]の破片を得、更にその下を發掘せるに、石茸及び礎石を發見したので、もはやこの地が古代の離宮址たるは、疑ふ餘地が無くなつた。今後更に發掘が進捗したならば、離宮の規模・構造が明らかにせられるであらう。この離宮に行幸の史に見(43)えてゐるのは、應神・雄略・齊明・天武・持統・文武・元正・聖武等の諸帝である。天武天皇は一度この地に隱遁せられたが、潜龍雲を得て天位に即かれてからも、この景勝に遊び給うたのである。この歌は左註にある如く、天皇の八年五月の行幸に際して詠ませ給うたものであらう。
 
27 よき人の よしとよく見て よしと言ひし 芳野よく見よ よき人よく見つ
 
淑人乃《ヨキヒトノ》 良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》 好常言師《ヨシトイヒシ》 芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》 良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》
 
古ノ君子ガ良イ所ダトテ、良ク見テ、實ニ良イ所ダト言ツタ此ノ芳野ヲ、今ノ人々モ良ク見ナサイ。昔ノ君子ハ良ク見タノダカラ。
 
○淑人乃《ヨキヒトノ》――淑人は君子、紳士などといふに似てゐる。古之賢人之遊兼吉野川原雖見不飽鴨《イニシヘノサカシキヒトノアソビケムヨシヌノカハラミレドアカヌカモ》(一七二五)とある賢人も同じだ。○良人四來三《ヨキヒトヨクミツ》――舊訓ヨキヒトヨキミで、その他ヨシトヨクミツ・ヨキヒトヨクミヨ・ヨキヒトヨクミなどがあるが、僻案抄にヨキヒトヨクミツとしたのが調子も佳く、意味も穏やかである。
【評】 ヨキ・ヨシの音を繰返し、各句に頭韻を踏んでゐる。卷四に將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムトイフモコヌトキアルヲコジトイフヲコムトハマタジコジトイフモノヲ》(五二七)といふ歌もあるけれども、本集でも珍らしい調子である。もとより特更に巧んだ、いはゆる弄語の歌であるが、浮薄に陷らず、嫌味のない輕妙な作である。
 
紀(ニ)曰八年己卯五月庚辰朔甲申、幸(ス)2于吉野宮(ニ)1、
 
書紀を引いて此の歌の作られた行幸の時日を推定した註である。
 
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
藤原は大和國高市郡香具山の西、耳梨山の南で、鴨公村大字高殿の地域内である。持統・文武二代の都。持統天皇の四年十月新都造營の地を見そなはし、翌年十月から着手、八年十二月庚戌朔乙卯淨御原から、ここに遷り給うた。
 
(44)天皇御製(ノ)歌
 
天皇は持統天皇
 
28 春過ぎて 夏來るらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山
 
春過而《ハルスギテ》 夏來良之《ナツキタルラシ》 白妙能《シロタヘノ》 衣乾有《コロモホシタリ》 天之香來山《アメノカグヤマ》
 
春ガ過ギテ夏ガ來タラシイ。白布ノ夏ノ〔二字傍線〕着物ヲ、天ノ香具山ニ乾シテアル。モハヤ夏ガ來タト見エル。サテサテ月日ノ經ツノハ早イモノダ〔モハ〜傍線〕。
 
○夏來良之《ナツキタルラシ》――舊訓ナツキニケラシとある。ナツキタルラシとよむべきだ。○白妙能《シロタヘノ》――衣の枕詞とするは誤つてゐる。妙は栲の借字で、白妙は白布である。
〔評〕 夏來良之《ナツキタルラシ》で切つて、衣乾有《コロモホシタリ》で切り、天之香來山と名詞止にした爲に、莊重な調子になつてゐる。名詞止は新古今時代に隆盛を極めたもので、萬葉には至つて少い。しかもこれが新古今調と違つてゐるところが面白い。これを新古今式に改めたのが新古今集や百人一首に出てゐる「春過ぎで夏來にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」である。
 
(45)過(グル)2近江(ノ)荒都(ヲ)1時、柿本朝臣人麿作(レル)歌
 
天智天皇六年飛鳥後岡本宮から大津の宮へ遷都、十年十二月崩。翌年七月弘文天皇崩御までの帝都。柿本朝臣人麻呂は孝昭天皇の皇子天押帶日子命の裔。傳の委しいことは知りがたい。本集に記せる以外のことは皆傳説である。
 
29 玉襷 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 或云、宮ゆ あれましし 神のことごと 樛の木の 彌つぎつぎに 天の下 知ろしめししを 或云、めしくる 空に見つ 大和を置きて 青丹よし 奈良山を越え 或云、そらみつ 大和を置き 青丹よし なら山 越えて いか樣に おもほしめせか 或云、おもほしけめか 天放る 夷にはあれど 岩走る 近江の國の さざ波の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ 天皇の 神のみことの 大宮は 此處と聞けども 大殿は 此處といへども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる 或云、霞立つ 春日かきれる 夏草か 繁くなりぬる 百敷の 大宮處 見れば悲しも 或云、見ればさぶしも
 
玉手次《タマダスキ》 畝火之山乃《ウネビノヤマノ》 橿原乃《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》 【或云、自宮《ミヤユ》】 阿禮座師《アレマシシ》 神之盡《カミノコトゴト》 樛木乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》 天下《アメノシタ》 所知食之乎《シロシメシシヲ》 【或云、食來《メシクル》】 天爾滿《ソラニミツ》 倭乎置而《ヤマトヲオキテ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平山乎越《ナラヤマヲコエ》 【或云、虚見《ソラミツ》 倭乎置《ヤマトヲオキ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平山越而《ナラヤマコエテ》】 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 【或云、所念計米可《オモホシケメカ》】 天離《アマザカル》 夷者雖有《ヒナニハアレド》 石走《イハハシル》 淡海國乃《アフミノクニノ》 樂浪乃《ササナミノ》 大津宮爾《オホツノミヤニ》 天下《アメノシタ》 所知食兼《シロシメシケム》 天皇之《スメロギノ》 神之御言能《カミノミコトノ》 大宮者《オホミヤハ》 此間等雖聞《ココトキケドモ》 大殿者《オホトノハ》 此間等雖云《ココトイヘドモ》 春草之《ハルクサノ》 茂生有《シゲクオヒタル》 霞立《カスミタツ》 春日之霧流《ハルビノキレル》 【或云|霞立《カスミタツ》 春日香霧流《ハルヒカキレル》 夏草香《ナツクサカ》 繁成奴留《シゲクナリヌル》】 百磯城之《モモシキノ》 大宮處《オホミヤドコロ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》 【或云、見者左夫思母《ミレバサブシモ》】
 
(玉手次)畝傍ノ山ノ橿原ニ都ヲ定メナサレタ、神武天皇ト申ス〔ニ都〜傍線〕天子樣ノ御代カラシテ、御生レ遊バシタ代々ノ〔三字傍線〕神樣ガ悉ク、大和ノ國デ〔五字傍線〕(樛木乃)次ギ次ギニ、コノ天下ヲ御支配ナサレタノニ、(天爾滿)大和ノ國ヲ御ヤメナサレテ、(青丹吉)奈良山ヲ御越エニナリ、何ト思召シタカ、アンナ〔三字傍線〕(天離)田舍ダノニ、(石走)近江ノ國ノ樂浪ノ大津ノ宮ニ、天下ヲ御治メナサレタ天智〔二字傍線〕天皇樣ト申シ上ゲル神樣ノ尊《ミコト》ガ、御住ヒナサレタ〔七字傍線〕御宮ハ、此處ダト聞(46)イテ居ルケレドモ、御殿ハ此處ニアツタノ〔五字傍線〕ダト、人ガ〔二字傍線〕言フケレドモ、春ノ草ガ生ヒ茂ツテヰル、サウシテ又〔五字傍線〕、春ノ日ガ霞ニ遮ラレテ、ドンヨリト〔霞ニ〜傍線〕曇ツテヰル、昔ノ〔二字傍線〕(百磯城之)御所ノ跡ヲ見ルト悲シイワイ。
 
○玉手次《タマダスギ》――枕詞、(五)參照。ここは纏《ウナ》げの意で、畝傍につづく。うなげは頸懸《ウナカ》けであらう。○日知之御世從《ヒジリノミヨユ》――日知は天つ日嗣知ろしめす意で、天皇の御事をさし奉る。ここもその意である。後、聖人・僧侶のことにもなつた。○阿禮座師《アレマシシ》――阿禮《アレ》は生れ。○樛木乃《ツガノキノ》――枕詞、ツガ、ツギと同音を繰返して、繼嗣《ツギツキ》に連つてゐる。樛は栂《トガ》ともいふ木で松杉科栂屬の常緑喬木、樅に似た木である。○天爾滿《ソラニミツ》――枕詞。(一)參照。○天離《アマザカル》――枕詞。天のあなたに遠ざかりたる地の夷《ヒナ》の意。夷《ヒナ》は田舍。○石走《イハハシル》――近江の枕詞。イハハシルと、イハハシノとの訓がある。石走無《イハハシモナシ》(一一二六)・石走者裳《イハノハシハモ》(一二八三)などに從へば、イハハシノでよいやうだが、イハハシルとよむのが穩やかのやうである。石の上を水が走り溢《アフ》れの意で、近江につづくのだ。○樂浪乃《ササナミノ》――サザナミは近江の琵琶湖の西南岸一帶の地をいふ。樂浪は神樂聲浪の略で、神樂の囃にササと懸聲をしたのから出た戯書らしい。○大津宮爾《オホツノミヤニ》――大津の都即ち滋賀の都の舊跡は、今の大津よりも北によつて、唐崎に近い滋賀の里であつたらしい。○霞立《カスミタツ》――カスミタチとよむ説もあるが、カスミタツでよからう。枕詞ではない。○春日之霧流《ハルヒノキレル》――春の太陽が霞んでゐる意で、霧流《キレル》は遮れる。霧《キリ》は動詞キルの名詞形で、霞と同じものである。或云、春日香霧流《ハルヒカキレル》とある。香《カ》は、疑問の助詞。カキレルとつづくのではない。○百磯城之《モモシキノ》――大宮につづく枕詞。百の石城《イシキ》で、石を築き廻した、廣大な地域を意味するらしい。
〔評〕前半には天智天皇の遷都が、民意に添はなかつたことを述べてあるが、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》は婉曲な巧な言ひ方だ。大宮者此間等雖聞《オホミヤハココトキケドモ》以下の叙述は、離々たる春草のうちに、大きな礎石のみが點在してゐる間に立ち盡して、轉變の世を嘆いてゐる、若い詩人の姿が見えるやうである。僻案抄には、「此の長歌句々相ととのひ、首尾かけ(47)あひて、一首の中に盛衰荒廢まのあたりにあらはれて、感慨の情きはまりなし」と評してゐる。
 
反歌
 
30 さざ浪の 滋賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 船待ち兼ねつ
 
樂浪之《サザナミノ》 思賀乃辛崎《シガノカラサキ》 雖幸有《サキクアレド》 大宮人之《オホミヤビトノ》 船麻知兼津《フネマチカネツ》
 
樂浪ノ志賀ノ辛崎ハ 昔ノ通リニ變ラズニ居ルガ、オマヘハ、昔ノ〔六字傍線〕御所ニ仕ヘタ人タチノ船ノ着クノヲ待ツテ居テモ、待ツ甲斐ガナイゾ。サゾ淋シイデアラウ〔九字傍線〕。
 
○思賀乃辛崎《シガノカラサキ》――滋賀の唐崎。一つ松で今も名高い地。○雖幸有《サキクアレド》――さきくあるとは、變りなく恙なきをいふ。○船麻知兼津《フネマチカネツ》――待ち兼ぬるとは待つてゐても其の甲斐のないこと。待遠い意ではない。
〔評〕 心なき唐崎を、心があつて昔の大宮人が再び舟を寄せるのを、待つて居る如くよんだところに、人麿の詩人的な考が見える。カラサキ、サキクと同音を繰返して、調を整へてゐる。
 
31 さざなみの 滋賀の 一云、比良の 大わだ 淀むとも 昔の人に 復も逢はめやも 一云、逢はむと念へや
 
左散難彌乃《サザナミノ》 志我能《シガノ》【一云|比良乃《ヒラノ》】 大和太《オホワダ》 與杼六友《ヨドムトモ》 昔人二《ムカシノヒトニ》 亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》 (48)一云|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》
 
樂浪ノ志賀ノ湖〔傍線〕ノ入江ハ、昔ノ通リニ〔五字傍線〕淀ンデヰテモ、昔ハ大宮人ガ淀ミヘ舟ヲ着ケタガ、今ハ大宮人ガ居ナイカラ、オマヘ〔昔ハ〜傍線〕ハ昔ノ大宮〔二字傍線〕人ニ復、逢フコトガ出來ヨウカ、トテモ出來ナイ。待ツ甲斐ガナクテ悲シカラウ〔トテ〜傍線〕。
 
○志賀能大和太《シガノオホワダ》――和太は曲《ワダ》の意で、灣のこととする説と、ワタで、海の意とする説とある。廣い湖面を言つたものとしては、與杼六友《ヨドムトモ》がふさはしくないから、灣の義とするがよい一云比良乃とあるが、比良は都から距り過ぎてゐて、ふさはしくない。○一云、將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》――逢はむと念はむや、逢はれないの意。母戸八《モヘヤ》の念ふは輕く用ゐてある。
〔評〕 靜かに淀んだ入江の水は、昔の儘の姿を思はしめる。多感の詩人にはその入江の水も、心ありて靜かに湛へてゐるやうに思はれるのである。
 
高市古人《タケチノフルヒト》感傷(シテ)2近江舊堵(ヲ)1作(レル)歌 或書云、高市連黒人
 
古人は審かでない。舊堵の堵は都に通じて用ゐる。或書の註は必ずしも從ふべきでない。
 
32 古の 人に我あれや さざ浪の 古き都を 見れば悲しき
 
古《イニシヘノ》、人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》、樂浪乃《サザナミノ》、故京乎《フルキミヤコヲ》、見者悲寸《ミレバカナシキ》
 
私ハ、コノ大津ノ宮ノ榮エテヰタ時ノ〔コノ〜傍線〕昔ノ人デモアルカラカ、コノ〔二字傍線〕樂浪ノ大津ノ〔三字傍線〕舊都ヲ見ルト悲シイヨ。併シ、ヤハリ私ハ今ノ世ノ者デアルノニ、コンナニ悲シイノハ不思議ダ〔併シ〜傍線〕。
 
○古人爾和禮有哉《イニシヘノヒトニワレアレヤ》――フルヒトニワレアルラメヤと舊訓にあるが、イニシヘノヒトニワレアレヤとよむべきだ。イニシヘノヒトは、古の大津宮時代の人。有哉《アレヤ》は、あればやの意。哉《ヤ》は悲寸《カナシキ》の係である。
〔評〕 舊都を見て、あまりに感傷的に陷つたのは、我ながら不思議だ。或は自分は現代人ではないのかと、ふと驚き怪しんだところ、熱情の歌といふべきである。
 
33 さざ浪の 國つみ神の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも
 
(49)樂浪乃《サザナミノ》 國都美神乃《クニツミカミノ》 浦佐備而《ウラサビテ》 荒有京《アレタルミヤコ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
天智天皇ガ此ノ大津ニ都ヲナサレタガ〔天智〜傍線〕、樂浪ノ地ヲ支配遊バス〔七字傍線〕國ノ神樣ノ〔九字傍線〕御心ニカナハズ、神ノ御心ガ荒レ怒リナサレテ、此ノ樣ニヒドク〔七字傍線〕荒レタ大津ノ〔三字傍線〕都ヲ見ルト悲シイワイ。
 
○浦佐備而《ウラサビテ》――心すさびての意。國つ神の御心荒れたるをいふ。國つ神の社の廣前の淋しくなつたことに見る、新考の説はとらない。天智の御代に、日吉神社が産土神として祀られてゐた確證はない。
〔評〕 滿目荒涼たる廢墟を見れば、とても人間の業とのみ思はれない。これは國つ神の御心が荒んで、守護を垂れ給はなかつたのであらうと、悲しんだもので、悲調人を動かさねばやまない。傑出した作である。
 
幸(セル)2于紀伊國(ニ)1時、川島皇子御作歌 或云、山上臣憶良作
 
川島皇子は天智天皇の第二皇子。或云山上臣憶良作とあるのは、かかる傳のあることを記したものだ。卷九の一七一六に山上歌として、これと殆ど同じ歌を載せてある。
 
34 白浪の 濱松が枝の 手向草 幾代までにか 年の經ぬらむ 一云、年は經にけむ
 
白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》 手向草《タムケクサ》 幾代左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》 【一云、年者經爾計武《トシハヘニケム》、】
 
白浪ガ打チ寄セルコ〔七字傍線〕ノ濱ノ松ノ枝ニカカツテヰル昔ノ人ガ〔四字傍線〕手向トシタモノハ、今マデニ〔四字傍線〕幾年ノ年ガ經《タ》ツタデアラウカ。サゾ古イモノダラウ〔九字傍線〕。
 
○白浪乃《シラナミノ》――下に濱とつづき方がおかしいといふので、誤字説もあるが、この儘でよい。白那彌之濱松之木乃《シラナミノハママツノキノ》(一七一六)とある。○手向草《タムケクサ》――神に手向けたもの、草ではない。○幾代左右二賀《イクヨマデニカ》――左右はマデとよむ。左右の兩手をマデといふからである。源順はこの句がよめないで石山に參籠して漸くよんだと仙覺抄に書いてある。
〔評〕 この歌は卷九に、山上歌一首、白那彌之濱松之木乃手酬草幾世左右二箇年薄經濫《シラナミノハママツノキノタムケクサイクヨマデニカトシハヘヌラム》(一七一六)とあるものと同歌(50)で、彼と此と作者を異にして傳へられたのだ。調が穩やかで、柔かい感じの作である。新古今の式子内親王、「逢ふ事を今日松が枝の手向草いく夜しをるる袖とかは知る」は、これを本歌としたものだ。ともかく平安朝人の好きさうな歌である。なほこの歌が新勅撰に初句「風吹けば」と改め、寂蓮の歌になつて出てゐるのは不思議である。
 
日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸(シタマフ)2紀伊國(ニ)1也
 
紀の今本に、持統天皇四年の幸がある。則ち朱鳥五年に當る。さうして此の年の干支が庚寅である。
 
越(ユル)2勢能山(ヲ)1時、阿閉皇女御作歌
 
勢能山は兄山、紀伊國伊都郡背山村にある。阿閉皇女は天智天皇の皇女、日並知皇子の妃、文武天皇の御母、後に元明天皇と申す。
 
35 これやこの 大和にしては 我が戀ふる 紀路に有りとふ 名に負ふ勢の山
 
此也是能《コレヤコノ》 倭爾四手者《ヤマトニシテハ》 我戀流《ワガコフル》 木路爾有云《キヂニアリトフ》 名爾負勢能山《ナニオフセノヤマ》
 
コレガアノ、大和ニ居テハ、私ガ戀ヒ慕ツテヰマス夫《セ》ノ君ノ、其ノセトイフ名ヲ持ツタ〔ノ君〜傍線〕、紀伊ノ國ニアリト豫ネテ聞イテ居タ勢能山デスヨ。アアナツカシイ〔七字傍線〕。
 
○此也是能《コレヤコノ》――コレガアノといふやうな意で、豫ねて聞いてゐたことを述べる時に使ふ言ひ方だ。○倭爾四手者《ヤマトニシテハ》――大和に於いてはの意。
〔評〕 これは旅に出て兄の山を越え給ひ、夫君日並皇子を思つて詠まれたものであらう。前の歌と同時の作とし、夫君薨去の後とするのは賛成出來ない。此也是能《コレヤコノ》と歌ひ出して、名詞で止める歌は時々あるが、かなり感嘆の意が籠るものである。
 
幸《セル》2于吉野宮(ニ)1之時、柿本朝臣人麿作(レル)歌
 
目録には作歌二首並短歌二首とある。
 
36 やすみしし 吾が大王の きこしをす 天の下に 國はしも さはに有れども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の國の 花散らふ 秋津の野邊に 宮柱 太しきませば 百敷の 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の 彌高からし 岩走る 瀧の都は 見れど飽かぬかも
 
(51)八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 所聞食《キコシヲス》 天下爾《アメノシタニ》 國者思毛《クニハシモ》 澤二雖有《サハニアレドモ》 山川之《ヤマカハノ》 清河内跡《キヨキカフチト》 御心乎《ミココロヲ》 吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》 花散相《ハナチラフ》 秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太敷座波《フトシキマセバ》 百磯城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 船並?《フネナメテ》 旦川渡《アサカハワタリ》 舟競《フナギホヒ》 夕河渡《ユフカハワタル》 此川乃《コノカハノ》 絶事奈久《タユルコトナク》 此山乃《コノヤマノ》 彌高良之《イヤタカカラシ》 珠水激《イハバシル》 瀧之宮子波《タギノミヤコハ》 見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》
 
(八隅知之)吾ガ天子樣ガ、御支配ナサル天下ノ中ニ、國ハ澤山アルケレドモ、山ト川トガ清ク回テツヰル所ダカラ、良イ所ダ〔四字傍線〕ト、(御心乎)吉野ノ國ノ、花ガ咲イテハ〔四字傍線〕散ル秋津野ノアタリニ、御所ノ柱ヲ太ク御立テニナツテ、離宮ヲ造營〔九字傍線〕遊バスト、(百磯城乃)大宮人タチハ、船ヲ並ベテ朝ニ川ヲ渡リ、舟ヲ競ウテ、我先ニト夕方川ヲ渡ツテ奉仕ス〔五字傍線〕ル。コノ川ノ水ノヤウニ絶エルコトガ無ク、此處ヘ行幸遊バシ〔八字傍線〕、コノ山ノ高イヤウニ、彌《イヤ》ガ上ニモ御所ハ〔三字傍線〕榮エ遊バセ。(珠水激)瀧ノ御所ハ、イクラ見テモ飽カナイワイ。
 
○八隅知之《ヤスミシシ》――枕詞。(三)參照。○山川之――山と川との。○清河内跡《キヨキカフチト》――河内は川の行き回れる所、宮瀧の邊は川の彎曲したところである。○御心乎《ミココロヲ》――吉野の枕詞。天皇の御心の吉いことをいふのであらう。書紀にある御心廣田國《ミココロヲヒロタノクニ》、御心長田國《ミココロヲナガタノクニ》などから考へると、吉・廣・長などの形容詞につづく枕詞である。○花散相《ハナチラフ》――花の咲きては散るの意。チラフはチルの延音。この語は枕詞ではない。○秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》――離宮附近の原野の名稱。今宮瀧の一部、離宮址の西方に開けた平坦地に秋戸、秋津野の名が殘つてゐる。○太敷座波《フトシキマセバ》――太敷は太く構へること。底津岩根に宮柱太敷くは古くからの慣用語である。太知《フトシリ》ともいふ。○且川渡《アサカハワタリ》――朝に川を渡るを朝川渡るといふ。朝川・夕川といふ熟字だ。○珠水激《イハバシル》――種々よみ方があつたが、今では考のイハバシルが一番行はれてゐる。但し元暦校本に、高思良珠とあるによつて、タカシラスとよみ、水激をミヅハシルとする(52)説もある。これに從ふべきか。珠は珠洲《スズ》など地名に用ゐられた外に、波太須珠寸《ハタススキ》(一六三九)の如くスの假名になる字である。○瀧之宮子波《タギノミヤコハ》――瀧はタギとよむ。動詞タギル・タギツは、これを語根として活用せしめたもの。宮子は都。
〔評〕 吉野の勝景、離宮の繁榮、それに奉仕する自分の心持などが順序よく歌はれてゐる。かういふ歌題は萬葉以前に無かつたので、支那文學の刺戟によつて人麿等が試み始めたものだ。當時の漢詩を集めた懷風藻に、大伴王の從駕吉野宮應詔二首や、高向朝臣諸足の從駕吉野宮一首などあるのを見ると、その關係は否むわけに行かない。
 
反歌
 
37 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく 復かへり見む
 
雖見飽奴《ミレドアカヌ》 吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》 常滑乃《トコナメノ》 絶事無久《タユルコトナク》 復還見牟《マタカヘリミム》
 
イクラ〔三字傍線〕見テモ飽キナイ景色ノ良イ〔五字傍線〕吉野川ガ、常ニ滑ラカデ變ルコトノナイヤウニ、私ドモハコノ瀧ノ都ヲ〔十字傍線〕絶エルコトナク幾度モ〔三字傍線〕來テ見マセウ。
 
○常滑乃《トコナメノ》――川邊の巖石の常に滑らかなることを指すか。隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《コモロリクノトヨツセヂハトコトメノカシコキミチゾ》(二五一一)とあるも、河の石の常に滑り易いのを言つたらしい。
〔評〕 眼前の風物を譬喩にとつて、絶事無久《タユルコトナク》と祝福してゐるところが巧である。
 
38 やすみしし 吾が大君 神ながら 神さびせすと 芳野川 瀧つ河内に 高殿を 高知りまして 上り立ち 國見をすれば たたなはる 青垣山 山つ神《み》の 奉《まつ》る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 紅葉かざせり 一云、紅葉かざし ゆふ川の 神も 大御食に 仕へまつると 上つ瀬に 鵜川を立て 下つ瀬に 小網さし渡し 山川も 依りてまつれる 神の御代かも
 
安見知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 芳野川《ヨシヌガハ》 多藝津河内爾《タギツカフチニ》 高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 上立《ノボリタチ》 國見乎爲波《クニミヲスレバ》 疊有《タタナハル》 青垣山《アヲガキヤマ》 山神乃《ヤマツミノ》 奉御調等《マツルミツキト》 春部者《ハルベハ》 花挿頭持《ハナカザシモチ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》 一云|黄葉加射之《モミチカザシ》 遊副川之《ユフカハノ》 神(53)母《カミモ》 大御食爾《オホミケニ》 仕奉等《ツカヘマツルト》 上瀬爾《カミツセニ》 鵜川乎立《ウカハヲタテ》 下瀬爾《シモツセニ》 小網刺渡《サデサシワタシ》 山川母《ヤマカハモ》 依?奉流《ヨリテマツレル》 神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
(安見知之)我ガ天子樣ガ神樣デ御イデナサルカラ、神樣ラシクナサルトテ、吉野川ノ泡立ツテ流レル、河ノ曲ツテ圍ンダヤウニナツテヰル所ニ、高イ御殿ヲ高ク御作リナサレテ、御住ヒナサレ〔六字傍線〕、ソレニ上ツテ、下ノ〔二字傍線〕國ヲ御覽ナサルト、(疊有)垣ノヤウニ聳エテヰル青山ノ山ノ神樣ガ、天子樣ニ〔四字傍線〕差シ上ゲル貢物トシテ、春ニハ花ヲ頭ニ挿シテ持チ、秋ガ來ルト〔五字傍線〕、紅葉ヲ頭ニ挿シテイラツシヤル。又〔傍線〕遊副川ノ川ノ神樣モ、天子樣ノ召シ上リ物ニ差シ上ゲルトテ、上ノ方ノ瀬デハ鵜ヲ仕ツテ魚ヲ取ラセ、下ノ方ノ瀬デハ※[糸+麗]《サデ》トイフ網ヲ川ニ入レテ魚ヲ取ラセル。カヤウニ人バカリデナク〔テ魚〜傍線〕、山ノ神〔二字傍線〕モ、川ノ神〔二字傍線〕モ靡キ寄ツテ來テ、御仕ヘ申ス畏イ〔二字傍線〕神樣デイラツシヤル天子樣〔十字傍線〕ノ御代デスワイ。誠ニ畏レ多イ御代ダ〔九字傍線〕。
 
○神長柄《カムナガラ》――隨神又は惟神と記す。神でいらせられるまま、神代のままなどの意であるが、時には神のままの御方、即ち天皇のことに用ゐてある。次の歌は即ちそれだ。○神佐備世須等《カムサビセスト》――神らしくなさるとての意、セスはスの敬語。○高知座而《タカシリマシテ》――高知は高く構へること。○疊有《タタナハル》――有を著の誤としてタタナツクの訓もあるが、文字のままによめばタタナハルであらう。タタナハルはたたまり重なる意。但し古く青垣山につづいたのは皆タタナツクである。書紀の日本武尊の御歌に、多多儺豆久阿鴉伽枳夜摩許莽例屡夜摩苫之于漏波試《タタナツクアヲカキヤマコモレルヤマトシウルハシ》、本集に立名附青墻隱《タタナツクアヲガキコモリ》(九二三)・田立名付青垣山之《タタナツクアヲカキヤマノ》(三一八七)とある。○春部者《ハルベハ》――部《ベ》は添へていふ言葉。多く方の字を當てる。ここは春の頃といふほどの意。○花挿頭持《ハナカザシモチ》――花が山に咲くのを、山神が天皇への貢物として、頭に挿し持つやうにいつたもの。次の黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》も同じ。○遊副川之《ユフカハノ》――宮瀧の末にユカハといふ川があるとか、卷八に結八川内《ユフヤカフチ》と詠んだ川だとか、或は吉野川の別名だとか、諸説別れて決し難い。しばらく吉野川の別名として置く。元暦校本に遊を逝に作つてゐるに從つて、ユキソフ川とよむ説もあるが、意味が分らない。もしそれを採るな(54)らば、寧ろ逝を迩の誤として、ニフ川としたい。即ち丹生川である。始水逝(四二一七)の逝を迩として、ミヅハナニとよむことは多くの學者が認める所であるから、此の場合もさうして差支あるまい。予は一説として此の私見を公にするものである。丹生川は吉野川の上流。○鵜川乎立《ウカハヲタテ》――鵜川は鵜飼を川に入れて魚をとること。立はその者を川に立たしめる意。○小網刺渡《サデサシワタシ》――小網はサデとよむ。和名抄に「文選注云※[糸+麗]【所買反師説佐天】網如2箕形1狹v後廣v前者也」とある通りだ。此の網をかけることをさすといふ。渡すは所々に小網をかけるのを言つたのだらう。○山川母《ヤマカハモ》――山の神も川の神もの意。○依?奉流《ヨリテマツレル》――心を寄せて從ひ奉仕する意。奉の字舊訓はツカフルであるが、集中にツカフルとよんだ例はない。攷證に從つてマツレルとよむべきである。
〔評〕 前の長歌と大體同じやうであるが、前者は主として離宮その物を讃へたので、これは山神河伯も寄り來つて奉仕する天皇の大御稜威を述べたものである。兩方とも佳作であるが、奇拔なだけに此の方が少し面白いやうに思はれる。
 
反歌
 
39 山川も 依りてまつれる 神ながら 瀧つ河内に 船出せすかも
 
山川毛《ヤマカハモ》 因而奉流《ヨリテマツレル》 神長柄《カムナガラ》 多藝津河内爾《タギツカフチニ》 船出爲加母《フナデセスカモ》
 
臣民ノミナラズ〔七字傍線〕、山モ川モ寄リ集マツテ御仕ヘ申ス、神ソノ儘ノ天子樣ガ、今〔傍線〕、水ガ泡立ツテ流レテヰル、川ノ曲ツテヰル所ニ船出ヲナサルワイ。
 
○神長柄《カムナガラ》――神隨の御方、即ち天皇をさし奉る。
〔評〕 長歌の終の詞を繰り返し、天皇の舟遊し給ふ樣を讃へ奉つたもので、格調雄偉、崇嚴な場面を現はし得てゐる。
 
右日本紀曰、三年己丑正月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、八月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、四年庚寅二月(55)幸(ス)2吉野宮(ニ)1、五月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、五年辛卯正月幸2吉野宮(ニ)1、四月幸(スト)2吉野宮(ニ)1者《イヘル》未v詳2知何月從駕(ノ)作歌(ナルヲ)1
 
持統天皇の吉野行幸の回數の多かつたことを、書紀によつて調べたものであるが、持統天皇の吉野行幸はこの外にまだ幾回もある。檜嬬手にこの歌に鵜川とあれば四年秋八月乙巳朔戊申とある度なるべしといひ、考に花散相とあるを以て春としてゐるが、いづれとも決定し難い。
 
幸(セル)2于伊勢國1時留(レル)v京(ニ)柿本朝臣人麿作(レル)歌
 
左註にある通り、朱鳥六年三月の行幸であらう。
 
40 英虞の浦に 船乘すらむ 少女らが 玉裳の裾に 潮滿つらむか
 
嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》 舶乘爲良武《フナノリスラム》 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠裳乃須十二《タマモノスソニ》 四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
志摩ノ國ノ〔五字傍線〕英虞ノ浦デ、都カラ行ツタ宮女ラガ〔都カ〜傍線〕、船ニ乘ルダラウガ、ソノ〔三字傍線〕女ラノ、立派ナ裳ノ裾ニ、潮ガ滿チテ來ルデアラウカ。潮ニ濡レハスマイカ〔九字傍線〕。
 
○嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》――舊本、兒を見に誤つて、アミノウラとよんでゐるが、その地名伊勢附近になく、アゴノウラたることは論がない。英虞《アゴ》浦は志摩にある。左註に引いた、書紀の文に「御2阿胡行宮1時云々」とあるのはここである。大日本地名辭書に、これを鳥羽浦としたのは誤であらう。三國地誌に「阿胡山は甲賀村に在り」とあり、甲賀は國府近い所であるから、國府附近の海であらう。二四の地圖參照。○※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》――※[女+感]嬬はヲトメとよむ。集中所々に見える熟字で、いづれもヲトメとよむが、※[女+感]の字、物に見えない。誤字説もあるが從ひがたい。ヲトメは宮女をさす。
(56)〔評〕 この歌卷十五に、誦詠古歌として、安胡乃宇良爾府奈能里須浪牟乎等女良我安可毛能須素爾之保美都良武賀《アゴノウラニフナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ》(三六一〇)とあると同歌であるが、その左注に、柿本朝臣人麿歌曰、安美能宇良《アミノウラ》、又曰|多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》とあるによつて、嗚呼見乃浦《アミノウラ》を肯定し、又その本歌によつて珠を赤に改めようとする説もある、けれども恐らくこの左注は後のもので、憑るべきではあるまい。
 
41 釧著く 答志の崎に 今もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
 
釼著《クシロツク》 手節乃崎二《タフシノサキニ》 今毛可母《イマモカモ》 大宮人之《オホミヤヒトノ》 (57)玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
(※[金+刃]著)答志ノ崎デ丁度〔二字傍線〕今頃、コチラカラ行ツタ〔十字傍線〕大宮人ガ、藻ヲ苅ツテ居ルデアラウカ。今頃ハ大宮人ハ面白ク遊ンデヰルダラ〔今頃〜傍線〕ウ。
 
○釼著《クシロツク》――手節の枕詞。釼は釧に同じ。釧は手に纏ふ環であるから、手節につゞくのであル。ここに歴世服飾圖説によつて、釧の數種を示して置いた。○手節乃崎二《タフシノサキニ》――志摩の鳥羽港の海上に答志島がある。その岬をいふ。○今毛可母《イマモカモ》――類聚古集に今日毛可母《ケフモカモ》とある。○玉藻苅良武《タマモカルラム》――面白く遊んでゐることを想像したもの、玉藻を苅る苅らぬは問題でない。
〔評〕 釼著くは巧みな枕詞だ。枕詞には古くから出來てゐて、慣用せられ使ひ古したものと、作者がその時に臨ん、特に作り出したものとの二種がある。これなどは後者に屬するもので、謂はゆる當意即妙、誠によく出來てゐる。恐らく當時の人の喝釆を博したところだらうと思はれる。
 
42 潮さゐに 伊良胡の島べ 漕ぐ船に 妹乘るらむか 荒き島みを
 
潮左爲二《シホサヰニ》 五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》 ※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》 妹乘良六鹿《イモノルラムカ》 荒島回乎《アラキシマミヲ》
 
潮ガザワ/\ト騷ギ流レル、伊良虞ノ島ノアタリヲ漕グ船ニ、女タチガ乘ルダラウカ。アノ荒イ島ノマワリダノニ。サゾ大騷ギデアラウ〔九字傍線〕。
 
○潮左爲二《シホサヰニ》――潮の騷ぎ鳴るをシホサヰといふ。○妹乘良六鹿《イモノルラムカ》――妹は從駕の宮女をさしたもので、人麿の愛人を言つたのではあるまい。○※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》――※[手偏+旁]の字、榜となつてゐる本もあり、相通じて用ゐたものである。舟を進める具。○荒島回乎《アラキシマミヲ》――島回はシマミとよむ。從來多くシマワ、シママとよんだが、之麻未《シマミ》・浦箕《ウラミ》。道乃久麻尾《ミチノクマミ》などの例から推して、ウラミとよむべきは否定出來ないやうである。乎《ヲ》は、なるものをの意であらう。
〔評〕 以上の三首は、遠い旅に出た供奉の人々を想像して、始に宮女、次に大宮人、その次に又宮女をよんでゐ(58)る。いづれも同じ氣分の歌で、留守居の人が一行を思ひやる情が、悠揚たる調子でよくよまれてゐる。
 
當麻眞人麿《タギマノマヒトマロ》妻作歌
 
當麻眞人麿はどういふ人か分らない。當麻氏は用明天皇の皇子麿子王の後。天武十三年眞人の姓を賜はる。
 
43 吾が背子は いづく行くらむ おきつもの 名張の山を 今日か越ゆらむ
 
吾勢枯波《ワガセコハ》 何所行良武《イヅクユクラム》 巳津物《オキツモノ》 隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》 今日香越等六《ケフカコユラム》
 
私ノ夫ハ旅ヘ御出ニナツタガ〔九字傍線〕、ドンナ所ヲ行カレルデアラウカ、伊賀ノ國ノ〔五字傍線〕(巳津物)名張ノ山ヲ今日アタリ御越エナサルノデアラウカ。
 
○巳津物《オキツモノ》――奧津藻の、即ち海底の藻で、隱れてゐるものだから隱《ナバリ》の枕詞に用ゐる。巳は超と同じ字で、オキとよむ。○隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》――舊訓カクレノヤマとあるはよくない。隱れることを、古くナバルと言つたのである。ナバリは今の伊賀の名張町で、大和から伊勢への通路にあたる。
〔評〕 まづ吾が背子はいづく行くらむと、何氣なく歌ひ出し、今日は名張の山あたりかと推量した言ひ方が、何となく、しつとりと、哀な感情が出てゐる。この歌卷四(五一一)に重出。
 
石上《イソノカミノ》大臣從駕作歌
 
石上大臣は麿。慶雲元年右大臣となつたので、この時未だ大臣でない。後からかう書いたのだ。和銅元年三月左大臣となり、養老元年三月薨じた。續紀に「大連物部目之後、難波朝、衛部大華上(59)宇麻呂之子也」とある。
 
44 吾妹子を 去來見《いざみ》の山を 高みかも 大和の見えぬ 國遠みかも
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》 去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》 高三香裳《タカミカモ》 日本能不所見《ヤマトノミエヌ》 國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
(吾妹子乎)去來見ノ山ガ高イカラカ、ソレトモ〔四字傍線〕國ガ遠イカラカシテ、大和ノ國ハ見エナイヨ。アア戀シイ故郷ヨ〔八字傍線〕。
 
〇吾妹子乎《ワキモコヲ》――去來見とつゞく枕詞。我が妻をいざ見むといふのである。○去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》――去來見の山は、イは發語で、伊勢の二見に近い佐見山だらうといふ説があるが、大日本地名辭書、伊勢飯南郡の部に「波瀬村の西嶺高見の別名なりといふ。この山は古來和州勢州の交通路にあたれば、萬葉集に詠ぜらるるも其以あり」と記せるに從ふべきである。前頁地圖參照。○高三香裳《タカミカモ》――高いからかといふので、香裳は不所見《ミエヌ》にかゝる疑の係辭。○日本能不所見《ヤマトノミエヌ》――日本は畿内の大和。この字を時々用ゐてある。○國遠見可聞《クニトホミカモ》――この可聞《カモ》も前の香裳《カモ》と同じであるが、結びがないだけに、モの詠嘆がよく響くやうに思はれる。
〔評〕 去來見山といふ地名に絡んで、故郷の戀しさを歌つたもの。吾妹子乎《ワキモコヲ》の枕詞も歌の内容に關係があり、カモの繰返しもあはれ深い。
 
右日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王等(ヲ)1爲《ス》2留守官(ト)1、於v是中納言三輪朝臣高市麿脱(シ)2其冠位(ヲ)1※[敬/手]《サヽゲ》2上於朝(ニ)1重諫(シテ)曰、農作之前、車駕未(ズ)v可(ラ)2以(テ)動(カス)、辛未、天皇不v從(ハ)v諫(ニ)、遂(ニ)幸(シタマフ)2伊勢(ニ)1五月乙丑朔庚午、御《オハス》2阿胡行宮(ニ)1
 
舊本に淨廣津とあるは誤、元暦校本によつて改む。淨廣肆は冠位の階級で、當時の制十四階中の第八階に當つてゐる。農作之前は紀に農作之節とある。五月乙丑以下の文は誤で、紀には三月乙酉、京に還り給ひ、五月に至りて阿胡行宮におはした時、贄を進れる者に賞を給へる由記せるを、讀み誤つたのだ。
 
(60)輕皇子《カルノミコ》宿(ル)2于安騎野(ニ)1時、柿本朝臣人麿作歌
 
輕皇子は天武天皇の皇太子草壁皇子の御子、文武天皇の御幼名である。御母は阿閇皇女、後に元明と申す。安騎野は宇陀郡に阿紀神社あり、書紀に吾城《アキ》と記してある。今の松山町附近の平地である。
 
45 八隅しし 吾が大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太しかす 都を置きて こもりくの 初瀬の山は 眞木立つ 荒山道を 岩が根の しもと押し並べ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕さり來れば み雪降る 阿騎の大野に 旗薄 篠を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古へ思ひて
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山者《ハツセノヤマハ》 眞木立《マキタツ》 荒山道乎《アラヤマミチヲ》 石根《イハガネノ》 禁樹押靡《シモトオシナベ》 坂鳥乃《サカトリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》 玉限《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》 三雪落《ミユキフル》 阿騎乃大野爾《アキノオホヌニ》 旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》 草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤトリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》
 
(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス皇子ノ輕皇子〔三字傍線〕、(高照)天津日嗣ノ御子樣ハ、神樣デイラセラレルカラ、神々シクナサルトテ、廣ク御構ヘナサレタ飛鳥ノ淨御原ノ〔七字傍線〕都ヲ御出遊バシテ、(隱口乃)泊瀬ノ山ハ、檜ノ生エテヰル人モアマリ通ハナイ〔九字傍線〕奧山道ヲ、岩根ニ生エタ若イ木ノ茂ツタノヲ押シ靡カセテ、(坂鳥乃)朝、山ヲ御越エナサレテ(玉限)夕方ニナルト、雪ガ降ル寒イ〔二字傍線〕安騎野トイフ廣イ野ニ、以前此ノ野ヘ獵ニ御出カケナサレタ故父上草壁皇子樣〔此ノ〜傍線〕ヲ思ヒナサレテ、旗薄ヤ篠ヲ押シ靡カセ(草枕)旅寢ヲナサル。
 
○高照《タカテラス》――タカヒカルとよむのが普通であるが、照の字は天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》(一六七)・照左豆我《テルサヅガ》(一三二六)・忍照《オシテル》(三三〇)などの如く、テルとよむべきで、これをヒカルとよまねばならぬ理由はない。タカテラスは日の枕詞。○隱口乃《コモリクノ》――泊瀬の枕詞。泊瀬の地形、大和平野から峽谷をなして隱《コモ》れる國《クニ》であるから、コモリクニを省いて、コモリクといふのだと言はれてゐる。ハツセは略してハセともいふ。長谷と書くのは地形から出たのだ。又、木盛處《コモリク》として樹木の繁つた處、隱り口の齒《ハ》の意で泊瀬に續くとするもの、隱城《コモリキ》(墓)の終《ハツ》とする説などがある。元來泊瀬は(61)葬所の義だらうとも言はれてゐるから、それによると隱城《コモリキ》説は面白い。○眞木立《マキタツ》――眞木は木を褒めていふので建築材料としてすぐれた檜を指すのである。立つは生えてゐること。○荒山道乎《アラヤマミチヲ》――荒は人里離れた荒凉たる所をいふので、荒野・荒山・荒磯皆同じ。○禁樹《シモト》――禁は楚の誤と言つた考に從つてシモトと訓む。シモトは木の細い枝をいふ。○坂鳥乃《サカトリノ》――朝越の枕詞、山から出た鳥が、朝、坂を飛び越えるよりいふ。○玉限《タマカギル》――枕詞。夕べとつゞく。舊訓タマキハルであつたが、管見にカケロフノとし、考は玉蜻の誤としてカギロヒノと訓み、それが廣く行はれて來た。併し卷十一に朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》(二三九四)とあるを、卷十二に朝影爾吾身者成奴玉蜻髣髴所見而往之兒故爾《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》(三〇八五)と重出してゐるのを見ると、玉垣入と玉蜻とは同訓であるべきで、從來玉蜻をカギロヒノとよんだのが、誤つてゐたことが分る。なほ又靈異記上に「多摩可妓留波呂可邇美縁而《タマカギルハロカニミエテ》」とあるので、タマカギルといふ詞があつたことも知られる。であるから玉蜻蜒髣髴所見而《タマカギルホノカニミエテ》(一五二六)玉蜻直一目耳視之人故爾《タマカギルタダヒトメノミミシヒトユヱニ》(二三一一)・珠蜻髣髴谷裳《タマカギルホノカニダニモ》(二一〇)の類、すべてタマカギルと訓むべきである。カギロヒノとよむべき場合は、蜻火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラヌニ》(二一〇)・蜻火之燎留春部常《カギロヒノモユルハルベト》(一八三五)蜻蜒火之心所燎管《カギロヒノココロモエツツ》(一八〇四)の如く、火の字が添へてあることを注意すべきである。蜻はカゲロフであるから、これをカギルに通用したのである。玉蜻とある玉を措いてカグロフノ・カギロヒノと訓むべき理由がない。扨タマカギルは玉耀るの意で、玉の美しく輝く意を以て、夕べの枕詞となつたのであらう。カギロヒは陽炎、春の野に燃えるもので、全く別である。なほこの詞については、伴信友の玉蜻考(比古婆衣卷四)・鹿持雅澄の玉蜻考(枕詞解附録)・木村正辭の玉蜻考及び補正(美夫君志別記附録)などに委しく論じてゐる。○三雪落《ミユキフル》――三は美稱。雪の降る頃であつたらしい。○旗須爲寸《ハタススキ》――穗に出た薄をいふ。○四能乎押靡《シノヲオシナベ》――四能は篠小竹。多くシヌといつてゐるが、これは四能とあるからシノだ。なほ、この四能を旗薄のしなひとする考の説、旗薄の幹とする古事記傳の説、旗須爲寸を四能の枕詞とする註疏の説がある。○古昔念而《イニシヘオモヒテ》――古昔とは昔の草壁皇子の、この野に御狩したまへるを指したもの。
〔評〕 この長歌は、輕皇子を主人公として、その行動を歌つたものだ。如何にも淋しく寒さうである。
 
短歌
 
(62)反歌とあるのが常の書き方である。守部はこの長歌は、謠はなかつたのだから反歌でない。反歌と短歌とは別であるといってゐるが、從ふべきでない。
 
46 阿騎の野に 宿る旅人 打ち靡き いも寢らめやも 古へ思ふに
 
阿騎乃野爾《アキノヌニ》 宿旅人《ヤドルタビビト》 打靡《ウチナビキ》 寢毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》 古部念爾《イニシヘオモフニ》
 
コノ荒凉タル〔五字傍線〕阿騎ノ野ニ宿ツタ皇子以下〔四字傍線〕ノ人々ハ、以前コノ野ニ遊獵ナサレタ草壁皇子ノコト〔コノ〜傍線〕ヲ思へバ、手足ヲ伸シテ〔四字傍線〕寝ルコトガ出來ヨウカ、トテモ寢ラレハスマイ〔十字傍線〕。
 
○阿騎乃野爾《アキノヌニ》――舊本に、乃の下、野が無いのは脱ちたのである。神田本によって補ふ。○宿旅人《ヤドルタビビト》――皇子以下供奉の人をさす。○打靡《ウチナビキ》――手足を延ばし安々と横たはること。美夫君志に輾轉反側の意とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 この短歌は、一行の人たちの、すべての心情を忖度して歌つてゐる。四の句が力強く斷定的で面白い。
 
47 眞草刈る 荒野にはあれど もみぢ葉の 過ぎにし君が 形見とぞ來し
 
眞草苅《マクサカル》 荒野者雖有《アラヌニハアレド》 葉《モミヂバノ》 過去君之《スギニシキミガ》 形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
コノ阿騎ノ野ハ〔七字傍線〕薄茅ナドヲ苅ル所デ〔二字傍線〕、荒凉タル野デハアルガ、ソレヲモ厭ハナイデ〔九字傍線〕(黄葉)ハカナク〔四字傍線〕亡クナラレタ、草壁ノ皇子ノ形見トシテ尋ネテ來タ。此處ヘ草壁皇子ガヨク獵ニ御出デナサレタカラ〔此處〜傍線〕。
 
○眞草苅《マクサガル》――古くはミクサカルとよんだが、マクサの方がよい。ただ草をいふ。何の草とさしたのでない。○荒野者雖有《アラヌニハアレド》――略解に野の下、二の字を補つてゐるが、さういふ本が見當らない。○葉《モミヂバノ》――上に黄の字が脱ちたのだ。過去《スギニシ》の枕詞。黄葉は直ちに散るものだからである。
 
〔評〕 この歌、卷九に塩氣立荒磯丹者雖在往水之過去妹之方見等曾來《シホケタツアリソニハアレドユクミヅノスギニシイモガカタミトゾコシ》(一七九七)とあるに似てゐる。さうして人麿歌集に出づとあるから同人作であらう。これも一行の人の心地を述べたので、長歌に言ひ足りなかつたことが、述べられてゐる。
 
48 東の 野にかぎろひの 立つ見えて 顧みすれば 月傾きぬ
 
(63)東《ヒムガシノ》 野炎《ヌニカギロヒノ》 立所見而《タツミエテ》 反見爲者《カヘリミスレバ》 月西渡《ツキカタブキヌ》
 
阿騎ノ野ニ宿ツテ目覺メテ見ルト、マダ夜明ケデハアルマイト思ツテヰタノニ〔阿騎〜傍線〕、東ノ方ニハシラジラト〔五字傍線〕曙ノ光ガ見エテ、振返ツテ見ルト、月ハ西ノ方ニ傾イテ山ニ入ラウトシテ〔八字傍線〕ヰル。
 
○野炎《ヌニカギロヒノ》――炎はカギロヒとよむ。炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレバ》(一〇四七)とあるも同じである。總べて光のチラチラするものをカギロヒ・カゲロフといふので、ここは曉天の曙光をいつてゐる。野にもえる陽炎も同語である。○月西渡《ツキカタブキヌ》――西渡をカタブキヌとよませたのは義訓である。
〔評〕 懷舊の情と寒冷の夜氣とに、殆ど夢をも結ばなかつたやうに思つたが、それでも曉方にまどろんだものと見える。ふと氣付けば、茫々たる曠野の果てに、東に當つて曙光の天に沖するのを認めた。ああ早くも夜は明けむとするかと首を廻らせば、月は西天に傾いて、薄れ始めた淡い光を投げてゐるといふ場面で、主觀の強く出てゐる叙景詩として、實に巧みなものだ。日と月とを並び歌つたのは、阿騎の野の大を思はしめるもので、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句は、季節と朝夕との相異はあるが、この歌とまづ同じ樣な場面である。而もその持つ感じは著しく異なつて、これは雄大な嚴肅な氣が漲つてゐ、彼は濃艶な長閑な作である。この歌は人麿の傑作であり、同時に萬葉短歌の代表作である。
 
49 日並知の 皇子の命の 馬並めて 御獵立たしし 時は來向ふ
 
日雙斯《ヒナメシノ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》 馬副而《ウマナメテ》 御獵立師斯《ミカリタタシシ》 時者來向《トキハキムカフ》
 
日並皇太子、即チ草壁皇子〔六字傍線〕ガ、コノ阿騎ノ野ヘ〔七字傍線〕馬ヲ並ベテ、御獵ニ御出カケナサレタ冬ノ〔二字傍線〕時節ニナツテ來タ。然ルニ日並皇太子ハ既ニ薨去ナサレテ、又御獵ニ御出ニナルコトモナイ。誠ニ悲シイコトダ〔然ル〜傍線〕。
 
○日雙斯《ヒナメシ》――日即ち天皇と並び給ひて、世を知ろしめす意で、日雙斯皇子は草壁皇子の謚號である。續日本紀に日並知皇子と記してある。
〔評〕 前の歌では古思ふにとか、過ぎにし君とか言つてゐたが、ここでは日並知皇子と明らかに申して、懷舊の情が痛烈に述べられてゐる。以上の長歌と短歌四首とが、纏つた連作になつてゐるのに、注意すべきである。
 
(64)藤原宮之役民作(レル)歌
 
持統天皇四年から藤原宮造營のことあり、八年十二月清御原宮より遷都。この宮は今の高市郡鴨公村大字高殿あたりを中心として、支那の長安京に傚つた廣大な規模であつたらしい。役民はエニタテルタミとよみ、宮殿の造營に人夫として徴せられた民をいふ。
 
50 やすみしし 吾が大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤原が上に 食す國を めし給はむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに 天地も 依りてあれこそ 磐走る 淡海の國の 衣手の 田上山の 眞木さく 檜の嬬手を もののふの 八十氏川に 玉藻なす 浮べ流せれ そを取ると さわぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて 吾が作る 日の御門に 知らぬ國 依り巨勢路より 我が國は 常世にならむ 圖《ふみ》負へる 神龜も 新代と いづみの河に 持ち越せる 眞木の嬬手を 百足らず 筏に作り のぼすらむ いそはく見れば 神ながらならし
 
八隅知之《ヤシミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 荒妙乃《アラタヘノ》 藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》 食國乎《ヲスクニヲ》 賣之賜牟登《メシタマハムト》 都宮者《ミアラカハ》 高所知武等《タカシラサムト》 神長柄《カムナガラ》 所念奈戸二《オモホスナベニ》 天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》 磐走《イハハシル》 淡海乃國之《アフミノクニノ》 衣手能《コロモデノ》 田上山之《タナガミヤマノ》 眞木佐苦《マキサク》 檜乃爾手乎《ヒノツマデヲ》 物乃布能《モノノフノ》 八十氏河爾《ヤソウヂカハニ》 玉藻成《タマモナス》 浮倍流禮《ウカベナガセレ》 其乎取登《ソヲトルト》 散和久御民毛《サワグミタミモ》 家忘《イヘワスレ》 身毛多奈不知《ミモタナシラズ》 鴨自物《カモジモノ》 水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》 吾作《ワガツクル》 日之御門爾《ヒノミカドニ》 不知國《シラヌクニ》 依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》 我國者《ワガクニハ》 常世爾成牟《トコヨニナラム》 圖負留《フミオヘル》 神龜毛《アヤシキカメモ》 新代登《アラタヨト》 泉乃河爾《イヅミノカハニ》 持越流《モチコセル》 眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》 百不足《モモタラズ》 五十日太爾作《イカダニツクリ》 泝須良牟《ノボスラム》 伊蘇波久見者《イソハクミレバ》 神隨爾有之《カムナガラナラシ》
 
(八隅知之)私ノオ仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣、(高照)天子樣ガ、(荒妙乃)藤原ノ邊ニ、御治メナサレテヰル國ヲ御支配ナサラウトテ、御住ヒノ場所ヲ立派ニ御作リナサラウトテ、神樣ノママノ御方ノ天皇〔二字傍線〕ガ、カウシタガヨイト〔八字傍線〕思シ召ス通リニ、天ツ神モ國ツ神モ、御心ヲヨセテ御仕ヘナサルノデ、(磐走)近江ノ國ノ、(衣手能)田上山ノ、(眞木佐苦)檜ノ材木ヲ、(物乃布能八十)宇治川ニハ、(玉藻成)浮ベテ流スト、ソノ材木〔二字傍線〕ヲ取ラウトテ、騷イデ働(65)ク臣民モ、自分ノ家ヲ忘レ、自分ノ〔三字傍線〕身ナドハ、丸デ考ヘズニ、(鴨自物)水ノ中ニ入ツテ働イテ〔三字傍線〕、(吾作、日之御御門爾、不知國依巨勢道從、我國者常世爾成牟、圖負留神龜毛、新代登)泉川マデ、宇治川ヲ〔四字傍線〕持チ搬ンデ來タ檜ノ材木ヲ、(百不足)筏ニ作ツテ、上《ノボ》スデアラウ。カヤウニ臣民ドモガ此ノ宮造リニ〔カヤ〜傍線〕勤メルノヲ見ルト、コレハ天子樣ガ〔七字傍線〕神樣ノママノ御方デアルカラデアラウ。
 
○八隅知之吾大王高照日之皇子《ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ》――既出。三・四五等參照。ここはすべて持統天皇を指し奉つてゐる。○荒妙乃《アラタヘノ》――藤の枕詞。昔は藤蔓を裂いて荒布《アラタヘ》を織つた。○藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》――宇倍は邊といふやうな意。考に高い所と見たのは惡い。○食國乎賣之賜牟登《ヲスクニヲメシタマハムト》――ヲスもメスも支配する意。きこしを〔二字傍点〕す、きこしめす〔二字傍点〕のヲス・メスも同じ。○都宮者《ミアラカハ》――都宮はミアラカとよむ。ミは敬語アラカは在處《アリカ》の意であらう。者《ハ》はヲバの意。○所念奈戸二《オモホスナベニ》――思召すままにの意。奈戸《ナヘ》はト共ニといふやうな意。○天地毛《アメツチモ》――天地の神もの意。○縁而有許曾《ヨリテアレコソ》――前に山川母依?奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》とあつたのと同じく、天地の神が寄り來て、奉仕すること。有許曾《アレコソ》はアレバコソに同じ。○衣手能《コロモデノ》――枕詞。衣手乎《コロモデヲ》、又は單に衣手《コロモヂ》とある場合もあり、種々議論のある枕詞だが、田上山とつづいたのは、衣手の手《タ》といふのであらう。手長《タナガ》だと古義には解いてゐる。○眞木佐苦《マキサク》――檜の枕詞。眞木は檜杉などを賞めていふ語。佐苦は拆くで、割る意である。眞木幸で、古義には眞木の功用をなし、さきはふ檜といふのだと言つてゐる。○檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》――嬬手は稜角ある材木。○物乃布能《モノノフノ》――次の八十《ヤソ》まで續いて、宇治川の序詞となる。物部に多くの氏があるからである。物部は朝廷奉仕の官人で、主として武事を司るものをいふ。○玉藻成《タマモナス》――玉藻の如くの意。浮ぶの枕詞。○浮倍流禮《ウカベナガセレ》――上の縁而有許曾《ヨリテアレコソ》を受けた結にはなつてゐるが、語氣は下に續いてゐる。○散和久御民毛《サワグミタミモ》――臣民は天皇のものであるから、自ら敬語を添へて御民といふ。○身毛多奈不知《ミモタナシラズ》――多奈は直《タダ》の意であらう。我が身を顧みざるをいふ。○鴨自物《カモジモノ》――鴨の如き物の意。鴨の如くと解してもよい。これは譬喩的用語であるが、枕詞と見てよい。前の玉藻成も同じ。○吾作《ワガツクル》――此の句以下、新代戸登《アラタヨト》までは、泉乃河の序詞。○不知國《シラヌクニ》――下の依《ヨリ》と續いて、巨勢の序詞となる。知らぬ國、即ち外國も從ひ寄り來るの意であ(66)る。○巨勢道從《コセヂヨリ》――巨勢は今の南葛城郡葛村古瀬で、此處は紀州へ出る通路に當つてゐた。○常世爾成牟《トコヨニナラム》――常世は外國・黄泉・仙境の三義あるが、ここは不老不死の國の意で、仙境をさす。○圖負留神龜毛《フミオヘルアヤシキカメモ》――背に模樣ある不思議な龜もの意。これは尚書の孔安國の註に「洛書者禹治v水時神龜負v文而出列2於背1有v數至v九云々」とあるのから出たので、圖は吉祥の模樣である。書紀には天智天皇の九年六月に、背に文字ある龜を獲たことがあり、又靈龜・神龜の年號を見ても、又天平改元の時の宣命に、「負圖龜一頭献【止】奏賜【不爾】」とあるのによつても、この頃かういふ支那風の勝瑞騷ぎが多かつたことが明らかである。○新代登《アラタヨト》――新しき御代だとての意。新代は新帝の代の義であらう。上の吾作《ワガツクル》より此の句までは、泉乃河爾の序詞である。「新代なりとて出づ」とかけたのだ。○泉乃河爾《イツミノカハニ》――泉河は今の木津川で、後の久邇の都の出來た山城相樂郡の瓶原《ミカノハラ》を流れる川である。○持越流《モチコセル》――宇治川を運搬したこと。宇治川から水路を今の木津あたりまで運び、更に、木津から陸上げして藤原へ運ぶ。○百不足《モモタラズ》――五十《イ》の枕詞。五十は百に足らぬからである。○泝須良牟《ノボスラム》――泉川を溯ることで、宇治川を流し下せる材木を、役夫どもが鴨じもの水に浮きゐて、筏に作つて泉川を泝すのであらう。○伊蘇波久見者《イソハクミレバ》――イソハクは爭ひ勤むること。○神隨爾有之《カムナガラナラシ》――神ながらの天皇でいらせられるからであらうの意。
〔評〕 實に堂々たる歌である。皇居造營に際して役に徴せられた民が、家を忘れ身を捨てて、働いてゐる有樣、そして新代を謳歌し、新都を祝する意がよく出てゐる。役民作歌とあるけれども、とても役民の作り得る歌ではない。圖魚へる神龜などは、當時の智識階級の人にして始めて、解し得る文句である。恐らく當時の歌人、たとへば人麿の如きものが、嘱によつて作つて、役民をして歌はしめたものであらう。この歌に見えた材木運搬の經路を、宇治川より陸上げして、泉川に持越して流し、淀川より難波に至り、海路紀の川に入れて、紀の川を泝し、巨勢路から藤原へ運ぶ、といふやうな奇説が宣長によつて説かれ、古義も亦これを肯定してゐるのは滑稽である。
 
右日本紀曰朱鳥七年癸巳秋八月幸(ス)2藤原宮地(ニ)1、八年甲午春正月幸(ス)2藤原(67)宮1、冬十二月庚戌朔乙卯遷(ス)2居藤原宮(ニ)1。
 
これは藤原宮造營に關する記事を、日本書紀から抽出して、註したものである。
 
從2明日香宮1遷2居藤原宮(ニ)1之後、志貴皇子御作歌
 
志貴皇子は天智天皇の第七皇子、持統天皇の皇弟。靈龜二年薨。光仁天皇の御父、後に春日宮御宇天皇と追尊あり、世に田原天皇と申す御方である。
 
51 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
 
※[女+采]女乃《ウネメノ》 袖吹反《ソデフキカヘス》 明日香風《アスカカゼ》 京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》 無用爾布久《イタヅラニフク》
 
此ノ飛鳥ニ都ガアルナラバ優シイ〔此ノ〜傍線〕釆女ノ袖ヲ吹キ飜スベキ飛鳥ノ里ノ風モ、今ハ都ガ藤原ニ遷ツテシマツテ宮女モ居ラズ〔今ハ〜傍線〕、都ガ遠クナツタノデ、空シク吹イテヰル。アア淋シイコトヨ〔八字傍線〕。
 
○※[女+采]女乃《ウネメノ》――タワヤメノ、或はヲトメノなどの訓が普通に行はれてゐるが、ウネメノとよむのがよい。※[女+采]女は宮女を意味する文字で、釆女にあたる。卷四に駿河※[女+采]女(五〇七)と出てゐる。采女は宮中にあつて御膳の事にあづかるもの、郡の少領以上の姉妹、子女の形容端正な者からとることになつてゐた。○袖吹反《ソデフキカヘス》――考にソデフキカヘセとよんだのはわるい。カヘスは袖を吹き反すべきの意。○明日香風《アスカカゼ》――明日香の地を吹く風。佐保風(九七九)泊瀬風(二二六一)・伊香保可是《イカホカゼ》(三四二二)の類である。○無用爾布久《イタヅラニフク》――甲斐なく、空しく吹く。
〔評〕 昨日今日、この飛鳥の里は目立つてさびれてしまつた。美しい花の少女、それは諸國から選り出された采女だ。それがその容姿をほこりかに、薄絹の領布を靡かし、長い袖を飜しながら、都大路をねり歩いたものだ。今はその宮女は、都と共に藤原へ去つた。淋しい飛鳥の里は人一人通らない。ただ空しく風の吹くにまかせて。嗚呼傷心の景、斷腸の調。
 
藤原宮(ノ)御井(ノ)歌
 
清い水の湧き出る所、そこを中心として新しい都は建設せられた。その井は藤井であり、この原(68)は藤井が原である。やがてその都は藤原宮と名づけられたのだ。
 
52 やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒拷の 藤井が原に 大御門 始め給ひて 埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は 日のたての 大御門に 春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山は 日のよこの 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨の 青すが山は そともの 大御門に 宜しなべ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御影の 水こそは 常にあらめ 御井の清水
 
八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王《ワゴオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 麁妙乃《アラタヘノ》 藤井我原爾《フヂヰガハラニ》 大御門《オホミカド》 始賜而《ハジメタマヒテ》 埴安乃《ハニヤスノ》 堤上爾《ツツミノウヘニ》 在立之《アリタタシ》 見之賜者《ミシタマヘバ》 日本乃《ヤマトノ》 青香具山者《アヲカグヤマハ》 日經乃《ヒノタテノ》 大御門爾《オホミカドニ》 春山跡《ハルヤマト》 之美佐備立有《シミサビタテリ》 畝火乃《ウネビノ》 此美豆山者《コノミヅヤマハ》 日緯能《ヒノヨコノ》 大御門爾《オホミカドニ》 彌豆山跡《ミヅヤマト》 山佐備伊座《ヤマサビイマス》 耳高之《ミミナシノ》 青菅山者《アヲスガヤマハ》 背友乃《ソトモノ》 大御門爾《オホミカドニ》 宜名倍《ヨロシナベ》 神佐備立有《カムサビタテリ》 名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》 影友乃《カゲトモノ》 大御門從《オホミカドユ》 雲居爾曾《クモヰニゾ》 遠久有家留《トホクアリケル》 高知也《タカシルヤ》 天之御蔭《アメノミカゲ》 天知也《アメシルヤ》 日御影乃《ヒノミカゲノ》 水許曾波《ミヅコソハ》 常爾有米《ツネニアラメ》 御井之清水《ミヰノシミヅ》
 
(八隅知之)私ノ天子樣、(高照)天子樣ガ、(麁妙乃)藤井ガ原即チ藤原〔四字傍線〕ニ御所ヲ御始メナサレテ、埴安ノ池ノ〔二字傍線〕堤ノ上ニ、御立チニナツテ御覽ナサルト、大和ノ都近クノ木ノヨク繁ツテ〔十一字傍線〕青々トシテヰル香具山ハ、東ノ方ノ御門ニ、青々トシタ春ノ山トシテ木ガ〔二字傍線〕繁リ榮エテ立ツテヰル。畝傍ノ此ノ瑞々シイ美シイ〔三字傍線〕山ハ、西ノ御門ニ、瑞々シイ山デ、山ラシク立ツテ〔三字傍線〕御出デナサル。又〔傍線〕耳梨ノ青イ菅草ノ生エタ山ハ、背面ノ北ノ〔二字傍線〕御門ニ、姿宜シク神々シク立ツテ居ル。(名細)吉野山ハ、南ノ御門カラ空ノアチラニ遠ク見エル。コノヨイ土地ニアル〔九字傍線〕(高知也)天ヲ蔽フ所ノ蔭、(天知也)日ノ光ヲ蔽フ蔭トシテ御住ヒ遊バス御所ノコ〔十三字傍線〕ノ水ハ、何時マデモ變ラズニ湧キ出ルデアラウ。コノ水ノヤウニ、コノ御所モ永久ニ續クデアラウ〔二十四字傍線〕。
 
○和期大王《ワゴオホキミ》――我が大王に同じ。ワガのガがオを發音する準備として、ゴに變じたのであらう。○麁妙乃《アラタヘノ》――(69)藤の枕詞、五〇參照。○藤井我原爾《フヂヰガハラニ》――題詞の説明參照。○埴安乃池《ハニヤスノイケ》――(ニ)參照。○在立之《アリタタシ》――アリはその事の繼續して行はれるをいふ。タタシは立ち給ふ意。即ち毎に行幸ありて、其處に立ち給ふこと。○見之賜者《ミシタマヘバ》――見之はミシともメシともよめる字である。見の字をメに用ゐて所聞見爲背友乃國之《キコシメスソトモノクニノ》(一九九)とある。併しこの場合、特にさうよまねばならぬ理由もないからミシタマヘバとよむことにする。意は御覽遊ばせばである。○日本之《ヤマトノ》――畿内の大和に當てて書いたもの。○青香具山者《アヲカグヤマハ》――青々とした香具山は。青は木の繁つてゐるのを賞めた詞。○日經乃《ヒノタテノ》――これは高橋氏文に「日竪日横陰面背面乃諸國人乎割移天《ヒノタテヒノヨコカゲトモソトモノモロクニビトヲサキウツシテ》」とあつて、東を日竪、西を日横、南を陰面、北を背面と言つてゐる如くである。成務紀にも「因以2東西1爲2日縱1、南北爲2日横1、山陽曰2影面1、山陰曰2背面1」とあるも同じであるが、少しく言ひ方が異なつてゐる。○春山跡《ハルヤマト》−春山としての意。春山は青山の誤と、玉の小琴には言つてゐる。跡は古本皆路に誤つてゐる。古葉略類聚鈔に跡とあるによるべきだ。○之美佐備立有《シミサビタテリ》――之美《シミ》は繁《シミ》、佐備《サビ》は、らしい樣子をすること。○此美豆山者《コノミヅヤマハ》――美豆山はみづみづしき山。ミヅは草木の榮え繁れるをいふ。○山佐備伊座《ヤマサビイマス》――佐備《サビ》は之美佐備《シミサビ》の佐備《サビ》に同じ。伊座《イマス》はイラッシャル意。山佐備《ヤマサビ》は山の神々しき意にいふ。○耳高之《ミミナシノ》――高は成の誤。○青菅山《アヲスガヤマ》――青々と草の茂つた山。○背友《ソトモ》――背《ソ》ツ面《オモ》の義、北の方。○宜名倍《ヨロシナヘ》――宜しき樣にの意。○名細《ナクハシ》――枕詞。名の佳きの意で、名高きこと。細は精し・委し・麗しなどの意がある。○影友《カゲトモ》――影《カゲ》ツ面《オモ》の義、日の影の當る方、即ち南。○雲居爾曾《クモヰニゾ》――雲居は空、但し雲をさすこともある。○高知也《タカシルヤ》 ――天の枕詞、高く領するの意でつづく。也《ヤ》は歎辭。○天之御蔭《アメノミカゲ》――天を蔽ひて蔭をなす意で、皇宮をいふ。日御影《ヒノミカゲ)と對句として用ゐる。祈年祭祝詞にもある。○天知也《アメシルヤ》――日の枕詞。天を領する日とつづく。○日御影乃《ヒノミカゲノ》――日を蔽うて蔭をなす意で、皇宮のこと。○常爾有米《ツネニアラメ》――トコシヘナラメとも、ツネニアラメともよめる。常はトコ・ト・ツネなどとよむ字であるが、トコシへとよんだ例が一寸見當らぬから、ツネにして置かう。○御井之清水《ミヰノシミヅ》――ミヰノマシミヅの訓が、最も行はれてゐるが、眞の字を入れて調を整へる必要はない。シミヅでよい。シミヅはスミミヅの略なることは、清江乃《スミノエノ》(二九五)を見れば明らかである。だからここも調を塾へるならば、ミヰノスミミヅでよいやうに思はれるが、スミミヅと言つたらしい證(70)がなく、却つて山振之立儀足山清水《ヤマブキノタチヨソヒタルヤマシミヅ》(一五八)のやうに、シミヅとよんだらしい例があるから、ここもミヰノシミヅがよからうと思ふ。
〔評〕 香具・畝傍・耳成の三山は、東西北の三方に爭ひ立ち、南は遙かに、時じくにみ雪降るといふ吉野の嶺を望んでゐる藤原の皇居の景勝を歌ひ、その都の中心ともなり、上は九重の貴きより、下々の市人まで、悉く汲んで飲まぬものなき、清列の藤井の眞清水を賞め稱へて、この水の盡きぬ如く、皇城も永遠なれと壽いた作である。冒頭から結末まで、天皇を中心として、皇室尊崇の念が濃くよみ込まれてゐる。理路整然、格調雄偉、實に立派な傑作である。
 
短歌
 
反歌とあるべきを短歌と記したのだ。端詞のありしが落ちたるならむといふ考の説は從ひがたい。
 
53 藤原の 大宮づかへ あれつがむ 處女がともは ともしきろかも
 
藤原之《フヂハラノ》 大宮都加倍《オホミヤツカヘ》 安禮衝哉《アレツガム》 處女之友者《ヲトメガトモハ》 之吉召賀聞《トモシキロカモ》
 
今ノ天子樣ハサゾ御長命ノコトデアラウガ、コノ〔今ノ〜傍線〕藤原ノ大宮ニ御仕ヘスル宮女トシテ私ドモノ後ニ〔スル〜傍線〕生レテ、後ヲ繼グデアラウトコロノ處女タチハ羨マシイコトヨ。
 
○安禮衝哉《アレツガム》――生れ繼がむの意であらう。安禮衝は八千年爾安禮衝之乍《ヤチトセニアレツガシツツ》(一〇五〇)とあるから、アレツゲに違ない。哉を武の誤とするはわるい。この儘でムとよむのである。○處女之友者《ヲトメガトモハ》――處女の輩はの意。○之吉召賀聞《トモシキロカモ》――シキメサルカモといふ、僻案抄のよみ方が廣く行はれてゐて、頻りに召されるよの意として解かれてゐるが、無理である。田中道麿の、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》を誤つたのだといふ説に從ふことにする。トモシキは羨しき、ロはヨと同じ。
〔評〕 短歌とはあるが、前の長歌の反歌である。長歌で皇城の景勝と、御井の清澄とを讃へ、反歌で奉仕する宮女を羨むに託して、皇城の悠久をことほいだのである。
 
(71)右歌作者未詳
 
大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸(セル)2于紀伊國(ニ)1時(ノ)歌
 
文武天皇の五年に大寶と改元せられた。ここまで持統天皇の御代の歌であつたが、ここからは同じ藤原宮ながら文武天皇であるから、年號を記すことにしたのである。太上天皇は持統天皇。
 
54 巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思ふな 巨勢の春野を
 
巨勢山乃《コセヤマノ》 列列椿《ツラツラツバキ》 都良都良爾《ツラツラニ》 見乍思奈《ミツツオモフナ》 許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》
 
巨勢山ノ、數多列ツテ茂ツテヰル椿ヲツクヅクト見テ、椿ノ花ノ盛ニ咲ク、コノ〔十字傍線〕巨勢ノ野ノ春ノ景ノオモシロサ〔八字傍線〕ヲ、想ヒヤルナア。今ハ九月デ花モナイガ、春ハサゾ綺麗デアラウ〔今ハ〜傍線〕。
 
○巨勢山《コセヤマ》――五〇參照。寫眞中のステーシヨンは吉野口驛。○列列椿《ツラツラツバキ》――葉の列なり茂れる(72)椿。○都良都良爾《ツラツラニ》――倩。つくづくの意。この句、上の句を受けて同音を繰返し、調子をとつてゐる。○見乍思奈《ミツツオモフナ》――ミツツオモハナ、又はシヌバナとする説はわるい。オモフナは次の句から反る言ひ方である。思ふよの意。
〔許〕 椿の廣葉が繁りに繁つて、秋の日をうけて輝いてゐるのを見て、これが花の時期であつたら、どんなに美しいだらうと、想像したのである。山とあり、野とあるのに拘泥してはいけない。巨勢野から巨勢山につづいて、椿が路傍に繁つてゐたのだ。此の歌も亦椿の葉のやうな滑かな、さうして光澤のある、明い感じの作である。
 
右一首|坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
從駕の人の一人である。傳未詳、身分のない人らしい。
 
55 麻裳よし 紀人ともしも 亦打山 行き來と見らむ 紀人ともしも
 
朝毛吉《アサモヨシ》 木人乏母《キビトトモシモ》 亦打山《マツチヤマ》 行來跡見良武《ユキクトミラム》 樹人友師母《キビトトモシモ》
 
私ハ今始メテ此處ヘ來テ亦打山ノ好景ニ飽クコトヲ知ラナイガ〔私ハ〜傍線〕、(朝毛吉)紀伊ノ國ノ人ハ羨シ(73)イワイ。コノ景色ノヨイ〔七字傍線〕亦打山ヲ行キニモ歸リニモ、往來ノ度毎ニ〔六字傍線〕見ルデアラウ、紀伊ノ國ノ人ハ羨シイナア。
 
○朝毛吉《アサモヨシ》――麻裳よしで、着と續く枕詞。ヨは呼びかけ、シは強める助詞と見た久老の説がよい。○木人乏母《キビトトモシモ》――木は紀の國の人、乏母《トモシモ》は羨しいよの意。○亦打山《マツチヤマ》――眞土山・信土山・待乳山とも書く。大和から紀州へ越える山で、山を越えた所が、紀伊國伊都郡隅田村待乳である。舊本亦を赤に誤る。延暦校本によつて改む。
〔評〕 始に木人乏母《キヒトトモシモ》と詠歎して置いて、次に理由をも言ひ添へて、再び樹人友師母《キヒトトモシモ》と繰返して、歎聲を放つてゐるのが、本當に羨しさうである。
 
右一首|調首淡海《ツキノオヒトアフミ》
 
天武紀にこの人の名見え、續紀に、「和銅二年正月丙寅、正六位上調連淡海授2從五位下1、同六年四月乙卯、授2從五位上1養老七年正月丙子、授2正五位上1」とある。
 
或本歌
 
56 河の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は
 
河上乃《カハノヘノ》 列列椿《ツラツラツバキ》 都良都良爾《ツラツラニ》 雖見安可受《ミレドモアカズ》 巨勢能春野者《コセノハルヌハ》
 
巨勢野ヲ流レル能登瀬川〔巨勢〜傍線〕ノ邊ノ茂ツタ椿ノ花〔傍線〕ヲツクヅク見テモ、巨勢野ノ春景色ハ見飽ガシナイ。佳イ景色ダ〔五字傍線〕。
 
○河上乃《カハノヘノ》――カハノヘノとカハカミノと兩訓あるが、河の岸のことであるから、カハノヘノがよい。○雖見安可受《ミレドモアカズ》――見れども飽かすといふのだから、今見る景色をよんだので、春の歌である。從つて行幸の時の作でない。右の歌に似てゐるところから、こゝに書き入れたのだらう。
〔評〕 巨勢野を流れてゐる能登瀬川のほとりに立つ旅人が、春の野を埋めて咲いてゐる椿の花に見とれて詠んだものであらう。日光に輝く廣葉のきらめきと、其の緑を蔽ふやうに咲き滿ちた紅の色とが目に見えるやうで、前の巨勢山乃《コセヤマノ》の歌よりも、寫實的なだけに面白い。
 
右一首|春日藏首老《カスカノクラヒトオユ》
 
(74)大寶元年三月、僧辨基還俗して春日藏首老といつた。勅によつて姓を賜つたのである。續紀和銅七年正月の條に、正六位上春日椋首老に從五位下を授ける由見える。懷風藻には、「從五位下常陸介春日藏老年五十二」とある。藏首はクラビトといふ尸《カバネ》で、クラノオヒトではないと、古事記傳四十四に論じてゐる。
 
二年壬寅太上天皇幸(セル)2于參河國》1時(ノ)歌
 
續紀に此の幸のことをのせて冬十月とある。
 
57 引馬野に にほふ榛原 入り亂り 衣にほはせ 旅のしるしに
 
引馬野爾《ヒクマヌニ》 仁保布榛原《ニホフハリハラ》 入亂《イリミダリ》 衣爾保波勢《コロモニホハセ》 多鼻能知師爾《タビノシルシニ》
 
御供ノ人々ヨ。コノ〔八字傍線〕引馬野デ綺麗ニ咲イテヰル萩原ノ中ニ、アチコチト〔五字傍線〕入リ交ツテ、此度ノ〔三字傍線〕旅ノ記念トシテ、衣ヲ染メナサイヨ。
 
○引馬野《ヒクマヌ》――遠江國今の濱松附近の原野。今、濱松の北方に曳馬村がある。蓋し三方が原の一部分であらう。三方が原の全部ではあるまい。この歌、參河國に幸とあるのに、遠江の引馬野では、いはれがないといふので、引馬野を三河に求める説があるが、直ぐ隣國だから、ついでに行つて見たのであらう。○仁保布榛原《ニホフハリハラ》――仁保布《ニホフ》は咲き匂ふこと、榛原は萩原。○人亂《イリミダリ》――萩原に入り亂れての意。○衣爾保波勢《コロモニホハセ》――衣を染めよといふのである。
〔評〕 素直なよい歌である。榛原をハンの木に見る説もあるが、當らないことは前に一九で述べた。併しこの御幸を續紀によつて十月とすれば、萩にしては花期を過ぎてゐるやうだが、十月の記載に誤がないとも言へないし、又十月に咲き殘つた花があつたかも知れない。ともかく萩の歌に相違ない。
 
右一首|長忌寸奧麿《ナガノイミキオキマロ》
 
長忌寸奧麿の傳は詳でない。意寸麿又は意吉麿とあるも同人である。
 
58 何所にか 船はてすらむ 安禮の埼 こぎ回み行きし 棚無し小舟
 
(75)何所爾可《イヅクニカ》 船泊爲良武《フナハテスラム》 安禮乃崎《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
今彼處ニ小舟ガ見エタガ、アノ〔今彼〜傍線〕安禮崎ヲ漕ギ廻ツテ行ツタ、舟棚モナイ小舟ハ、何處ニ泊ルノデアラウカ。
 
○船泊爲良武《フナハテスラム》――フナハテは船の碇泊するをいふ。○安禮乃崎《アレノサキ》――所在不明。和名抄に美濃國不破郡荒崎とある所だらうといふ説は、もとより從ひがたい。檜嬬手には遠江數智部、今の荒井だらうといつてゐる。○榜多味行之《コギタミユキシ》―多味《タミ》は曲り廻ること。○棚無小舟《タナナシヲブネ》――棚は和名抄に「※[木+世]、大船旁板也、不奈太那」とあるもので、大船の左右の舷に、水夫の歩く爲に渡した板をいふ。棚無小舟はその舟棚の無い小さい舟。
〔評〕 浦傳ひに漕いでゐた小舟が、波の花散る安禮の崎を廻つて、何處へか姿を没した。それを見送る吾さへに、心も消えるやうだ。ああ彼らは今宵いづくに舟を着けるであらうと、舟中の人の心細さを思ひやつた歌。哀な感情が流れてゐる。
 
右一首高市連黒人
 
高市連黒人は傑れた作を遺してゐる人であるが、傳が詳かでないのは遺憾である。
 
譽謝《ヨザノ》女王作歌
 
續紀に文武天皇「慶雲三年六月丙申、從四位下與射女王卒」と見える。
 
59 ながらふる つま吹く風の 寒き夜に 吾が背の君は ひとりか寢らむ
 
流經《ナガラフル》 妻吹風之《ツマフクカゼノ》 寒夜爾《サムキヨニ》 吾勢能君者《ワガセノキミハ》 獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
長ク引イタ着物ノ〔三字傍線〕褄ヲ吹ク風ガ寒イ今夜ノヤウナ〔六字傍線〕晩ニ、私ガオ側ニ居ナイノデ〔十字傍線〕、私ノ夫ノ君ハ獨デ御寢ナサルデアラウカ。都ニ殘ツテイラツシヤル夫ノ君ハサゾオ淋シイデアラウ〔都ニ〜傍線〕。
 
○流經《ナガラフル》――動詞長ラフの連體形。長ラフは物の長くつづく形をいふので、妻に連つてゐる。〇妻吹風之《ツマフクカゼノ》――妻は衣服の褄で、我が着物の裾の長いのを、長ラフル褄といつたのであらう。その吾が着物の長き裾を吹く風の(76)寒き夜とつづくのである。妻を雪と改めて、長く雪の降りつづく意に見た説、又は雪の斜に降ることに見た説、共にわるい。
〔評〕 この歌は題詞の書き方から見ると、太上天皇の御幸には關係ないもののやうにも思はれるが、恐らくこの五首は同時の作であらう。譽謝女王は留守居せられたとも、一行に加つて供奉せられたとも、兩方に考へられるのである。この女王の配偶者について全く不明であるが、予をして想像を逞しうせしむれば、次の長皇子が妹と宣ひしは即ちこの女王であつたのではあるまいか。一對の作であるから此虚に並べのせたものか。然らばこれは旅中の作である。この歌初の一二句に、はつきりしない點がないでもないが、流麗なやさしい感じの作品である。
 
長《ナガノ》皇子御歌
 
天武天皇の第四皇子、御母は大江皇女、靈龜元年六月薨去。
 
60 よひに逢ひて あした面無み 名張にか けながき妹が 廬せりけむ
 
暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面無美《アシタオモナミ》 隱爾加《ナバリニカ》 氣長妹之《ケナガキイモガ》 廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
別レテカラ〔五字傍線〕久シクナル私ノ妻ハ、伊賀ノ國ノ〔五字傍線〕(暮相而朝面無美)名張ノ里ニデモ、廬ヲ造ツテ旅寢シテ〔四字傍線〕ヰルデアラウ。サゾ都ガ戀シイダラウ〔十字傍線〕。
 
○暮相而朝面無美《ヨヒニアヒテアシタオモナミ》――隱とつづく序詞。少女が男に逢つた翌朝、男に對して恥かしく思つて、顔を隱す意でつづく。面無美は、恥かしき故にの意。○隱爾加《ナバリニカ》――ナバリは伊賀の地名。ナバルは隱れること。(四三)の地圖參照。○氣長妹之《ケナガキイモガ》――氣は日のこと。日をカといふに同じ語である。氣長きは旅に日數の長くかかつた意。
〔評〕 序詞の使ひ方が面白い。殊に久しく離れてゐる妻を思つて、よんだものとすると、最もふさはしい。但しこの歌は、卷八に縁達師の歌として、暮相而朝面羞隱野乃芽子者散去寸黄葉早續也《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリヌノハギハチリニキモミヂハヤツゲ》(一五三六)とあるに似てゐる。縁達師の傳が分らないから、どれが元であるかを知らない。
 
(77)舎人娘子《トネリノヲトメ》從駕作歌
 
舎人氏は新撰姓氏録のに「百濟國人利加志貴王之後也」とある。娘子は女子を親しみ呼ぶ語。
 
61 ますらをが さつ矢手挿み 立ち向ひ 射る的形は 見るにさやけし
 
大夫之《マスラヲガ》 得物矢手挿《サツヤタバサミ》 立向《タチムカヒ》 射流圓方波《イルマトカタハ》 見爾清潔之《ミルニサヤケシ》
 
(大夫之得物矢手挿立向射流)的形浦ノ景色〔三字傍線〕ハ眺望ガ良イヨ。
 
○大夫之《マスラヲガ》――大を丈の誤とするのはよくない。マスラヲは荒益男で、男をほめて云ふ語、女を手弱女《タワヤメ》といふに對する。○得物矢手挿《サツヤタバサミ》――得物矢は幸夫、即ち獵に用ゐる矢。幸は山幸《ヤマサチ》・海幸《ウミサチ》などの幸である。手挿は二の矢を右手の小指に挿むをいふ。○射流圓方波《イルマトカタハ》――圓方は的形で、弓を射る時の標的。大夫之《マスラヲガ》から射流《イル》までは、的と言はむが爲の序である。圓方は伊勢の地名。多氣郡流田郷東黒部の海岸だといふ。(二四)の伊勢地圖參照。○見爾清潔之《ミルニサヤケシ》――サヤケシは景色の佳いのを褒めたのである。
〔評〕 此の歌、仙覺抄に伊勢風土記を引いて、「的形浦者此浦地形似v的故以爲v名也、今已跡絶成2江湖1也。天皇行2幸浦邊1歌云、麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤタバサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》」とある。右の歌とこれとは全く同じものと思はれる。この風土記に天皇とあるは、いづれの御代か知るよしはないが、古風土記逸文考證によれば、古寫本傍註に景行天皇也と載せてあるといふ。この傍註の記載は固より信憑すべき限でないが、風土記の中に傳説として掲げられたのを見ると、この歌よりも古いものたるは疑ない。して見ると、舍人娘子は駕に從つて古歌を誦したものであらう。序の作り方が強く勇ましく、調子が緊張して、すが/\しい歌だ。この點からいふと、女性の作らしくないとも言ひ得る。
 
三野《ミヌノ》連名闕入唐時|春日藏首老《カスガノクラビトオユ》作歌
 
三野(ノ)連は美努連である。古本の傍註に、「國史云、大寶元年正月遣唐使民部卿粟田朝臣眞人以下百六十人乘船五隻、小南監從七位下中宮少進美奴連岡麿云々」と見える。國史とは何を指すか明ら(78)かでない。續紀にこの遣唐使のことが記してあるが、岡麿の名は見えない。併し明治五年大和國平群郡萩原村から發掘せる岡麿の墓誌に「我祖美努岡萬連(中略)大寶元年歳次辛丑五月使2乎唐國1(中略)靈龜二年歳次丙辰正月五日授2從五位下1任2主殿寮頭1。神龜五年歳次戊辰十月廿日卒、春秋六十有七」とあるから、唐に使せること明らかで、これは岡麿なることは疑ひない。名闕とあるは後人の註であらう。春日藏首老は五六の左註に出づ。
 
62 ありねよし 對馬の渡 わた中に 幣取り向けて 早還り來ね
 
在根良《アリネヨシ》 對馬乃渡《ツシマノワタリ》 渡中爾《ワタナカニ》 幣取向而《ヌサトリムケテ》 早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
(在根艮)對馬ノ渡ヲ渡ル時ニ〔五字傍線〕、海ノ中ニ幣ヲ手ニ取ツテ手向ケテ、海神ニ無事ヲ祈ツテ、無事ニ唐土ニ到達シテ任ヲ果シテ〔海神〜傍線〕、早ク還ツテ御出デナサイ。今カラオ歸リガ待タレマス〔今カ〜傍線〕。
 
○在根良《アリネヨシ》――布根盡《フネハツル》、百船乃《モモフネノ》、百都舟《モモツフネ》の誤かと考に見え、玉の小琴に布根竟《フネハツル》の誤かと見え、古義に大夫根之《オホフネノ》の誤とあれど首肯しがたい。又、在明山といふ山名とする説もあるが、冠辭考續貂一説に、字を改めず、荒嶺の意としたのに從つて、荒々しく聳えた山の對馬とつゞく枕詞とするがよい。ヨシは青丹吉・朝毛吉のヨシで、感歎して添へたもの。○對馬乃渡《ツシマノワタリ》――對馬海峽。○渡中爾《ワタナカニ》――海中にの意。○幣取向而《ヌサトリムケテ》――幣は神を祀る爲に供へるもので、古くは木綿・麻などを用ゐた。ムケは手向けること。
〔評〕 航路の安全は、ただ神に祈るによつてのみ得られる。人力では如何ともし難い。ゆめゆめ、道すがら神を祀ることを怠るな。殊に波荒き對馬海峽を渡る時は心せよと、友の旅路安かれと希つた作。眞情が見えて嬉しい。
 
山上(ノ)臣憶良在(リシ)2大唐(ニ)1時、憶(ヘル)2本郷(ヲ)1歌
 
山上憶良は人麿・赤人に比肩すべき歌人で、作も多い。續紀に「大寶元年正月乙亥朔丁酉以2守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人1爲2遣唐執節使1云々、無位|山於《ヤマノウヘ》憶良爲2少録1」とあり。前の三野連と同時である。此の時まだ微官であつたが、少録は即ち書記であるから、學問は認められてゐたのだら(79)う。續紀によれば、この一行は慶雲元年秋七月歸朝してゐる。尚、この人については、「和銅七年正月甲子、授2正六位下山上憶良等1、退朝之後、令v侍2東宮1焉」と續紀に見える。卷五に筑前守となつてゐることが分るが天平五年の沈痾自哀文に「是時七十有四」とあり、その年歿したらしい。憶本郷は故郷を思ふこと。歌の上に作の字ある本がよい。
 
63 いざ子ども はやく日本へ 大伴の 御津の濱松 待ち戀ひぬらむ
 
去來子等《イザコドモ》 早日本邊《ハヤクヤマトヘ》 大伴乃《オホトモノ》 御津乃濱松《ミツノハママツ》 待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
サア人々ヨ、早ク日本ノ國ヘ歸ラウ〔三字傍線〕。大伴ノ御津ノ濱ノ松ハ、私ドモノ歸リヲ待チ焦レテヰルデアラウ。故郷ノ者ハ皆待ツテヰルダラウ。早ク歸ラウ〔故郷〜傍線〕。
 
○去來子等《イザコドモ》――去來《イザ》はサアと誘ふ辭。子等《コドモ》は友人同輩をさす。○早日本邊《ハヤクヤマトヘ》――この句の訓は、なか/\むつかしい。舊訓はハヤヒノモトヘであるが、ハヤクヤマトヘ、又はハヤモヤマトへが廣く行はれてゐる。これに就いて先づ決すべきは、日本の二字を如何によむべきかといふことだ。日本能不所見《ヤマトノミエヌ》(四四)・日本乃青香具山《ヤマトノアヲカグヤマ》(五二)・磯城島能日本國乃石上振里爾《シキシマノヤマトノクニノイソノカミフルノサトニ》(一七八七)・日本之室原乃毛桃《ヤマトノムロフノケモモ》(二八三四)などの例を見ると、畿内の大和をさしてゐるから、これもヤマトとよんで畿内の大和と見る説が多い。併し卷三に大日本久邇乃京者《オホヤマトクニノミヤコハ》(四七五)とあつて、日本を吾が國の總稱をあらはす文字に用ゐてゐるから、ここも同じく見るべきであらう。殊にこれは外國にあつてよんだのであるから、自分の郷里の小範圍を指さずして、國家全體を指す語を用ゐる方が、當然の心理状態ではあるまいかと思はれる。更に別の方面から見ると、この歌は懷風藻の、釋辨正の五言、在v唐憶2本郷1一絶と題した「日邊瞻2日本1。雲裡望2雲端1。遠遊勞2遠國1。長恨苦2長安1。」といふ詩と比較するに、先づその題詞の書き方が殆ど同樣であり、詩中に日本の文字が我が國の總稱として出てゐる。しかのみならず、懷風藻によれば、辨正は大寶年中唐に學んだ人で、彼の土に歿した者である。恐らく憶良と同船して入唐し、彼の地に於ても行動を共にしたもので、この歌と詩とは、或は時を同じうして作られたものではないかとも想像せられる。この(80)詩が懷風藻に記されるに至つたのも、憶良などが携へ歸つたものかとも思はれる。かう考へると、この日本はどうしても畿内の大和をさすのではないのである。然らばこれをヒノモトとよんではどうかといふに、一體この日本といふ熟語は、孝徳紀大化元年の條に、「以2巨勢徳大臣1詔2於高麗使1曰、明神御宇日本天皇詔旨云々」とあるのが物に見えた始で、音読したものと思はれる。(これより以前の記事に日本の字を用ゐたのは、恐らく、後世の書き方によつたものに過ぎない)即ち對外的の稱呼であつたのである。卷三の不盡山の長歌に、日本之山跡國乃鎭十方座神可聞《ヒノモトノヤマトノクニノシヅメトモイマスカミカモ》(三一九)とあるやうに、已に我が國の總稱としてのヤマトの上に冠らせてあるが、未だヒノモトといふ國號が用ゐられてゐた確證がないから、ここもヤマトとよむことにする。さうすれば早の字は當然ハヤクとよむことになる。モを添へてハヤモとする理由はない。○大伴乃《オホトモノ》――地名、攝津難波あたりを中心とした、かなり廣い區域だ。これを枕詞として、大伴氏のみつみつしき、武勇に言ひかけたものとする説も廣く行はれてゐる。併しさうすると、下に大伴乃高師能濱《オホトモノタカシノハマ》(六六)とあるのが分らなくなる。○御津乃濱松《ミツノハママツ》――御津乃濱は今の大阪、古の難波津。この句、下に同音を繰返して待戀と續ける爲であるが、單なる序詞とも見難い。松が待つやうに言つて、故郷人をも含めたのである。濱松を遊女のこととする説は、奇に過ぎて恐らく當を得て居らぬ。
〔評〕 去來子等《イザコドモ》と呼びかけて早日本邊《ハヤクヤマトヘ》と切つて。三句目以下に理由を説明してゐる。前の、木人乏母《キビトトモシモ》(五五)の歌に似たやり方である。難波津を舟出する時に、なつかしいものとして眼底に燒付けられた濱松、故郷に近づいて第一に眼に入るであらう所の濱松を點出して、故郷戀しき情を述べたのである。三四句を序詞とのみ見ては如何にも物足りない。
 
慶雲三年丙午幸2于難波宮1時、志貴皇子御作歌
 
續紀慶雲二年の條に「九月丙寅行2幸難波1冬十月壬午還宮」とある。目録に時の下、歌二首とあるのがよいやうである。志貴皇子、五一參照。
 
64 蘆邊ゆく 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ
 
葦邊行《アシベユク》 鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》 霜零而《シモフリテ》 寒暮夕《サムキユフベハ》 和之所念《ヤマトシオモホユ》
 
(81)葦ノ生エテヰルアタリヲ、飛ンデヰル鴨ノ翼ニモ霜ガ降ツテ、寒サ烈シイ夕方ニハ、旅宿ノツラサニ、自分ノ郷里ノ〔旅宿〜傍線〕大和ノ國ガ戀シク思ハレル。
 
○葦邊行《アシベユク》――葦の生えてゐるあたりを飛んでゐること。泳ぎ行くことに見た説はわるい。葦邊往鴨之羽音之《アシベユクカモノハオトノ》(三〇九〇)など,正しく飛んでゐる趣である。○鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》――羽我比《ハガヒ》は翼。○和之所念《ヤマトシオモホユ》――和は大和國即ち故郷、之《シ》は強辭。
 
〔評〕 冬の夕暮、霜の降つてゐる海邊の荒凉たる景と、其處に旅泊してゐる旅人のやるせない思郷の情と、共にあはれに身に沁みる歌である。
 
長皇子御歌
 
この皇子のこと既出六〇。
 
65 霰うつ 安良禮松原 住のえの 弟日娘と 見れど飽かぬかも
 
霰打《アラレウツ》 安良禮松原《アラレマツバラ》 住吉之《スミノエノ》 弟日娘與《オトヒヲトメト》 見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
(霞打)安良禮松原ヲ住吉ノ弟日少女トイフ美人ト一緒ニ〔八字傍線〕見テモ飽キナイワイ。誠ニコノ住吉ノ松原ハ世に稀ナ良イ景色ダ〔誠ニ〜傍線〕。
 
○霰打《アラレウツ》――安良禮と言はむため、同音を繰返して作つた枕詞。これを目前の實景と見るのはわるい。○安良禮松原《アラレマツバラ》――神功紀に鴉智箇多能阿邏邏摩菟麼邏《ヲチカタノアララマツバラ》とあるによつて、考は禮《レ》を羅《ラ》の誤としてゐる。疎に立つた松原と見たのである。併し新撰姓氏録、攝津國諸蕃に荒荒公があり、日本記略には「延喜三年癸丑五月十九日授2攝津國荒荒神從五位下1」とあるから、攝津のうちにアララといふ地名があつたのである。その場所は今知り難いが、暫くこの安良禮の地としで置かう。攝津志に「霰松原在2住吉安立町1」とある。○住吉之《スミノエノ》――スミヨシと訓むはわるい。吉はエとよむのである。スミヨシと唱へるのは後世のことだ。○弟日娘與《オトヒヲトメト》――弟日娘は遊女の名であらう。オトヒを姉妹とする説は當らない。トはと共にの意。松原と、弟日娘との二つはと解する説はとらな(82)い。
〔評〕 古くから都人遊覽の地であつた住吉は、村立つ青松の景で有名であつたが、旅人の集りを見込んで、多くの遊女も集ひ來つた。中でも弟日娘は名高い美人であつた。一日この娘子を聘し、この好景に對した皇子は、愉悦の頂點に達したのである。見禮常不飽香聞《ミレドアカヌカモ》は、その歡喜の情を述べたので、なほ不滿だといふのではない。この歌の解、種々に分れてゐるが、少しく表現に無理があるやうである。
 
太上天皇幸(セル)2于難波宮1時(ノ)歌
 
太上天皇は持統天皇。但し太上天皇として難波御幸のこと、物に見えない。これより以下四首、年次不明。
 
66 大伴の 高師の濱の 松が根を まきてし寢れど 家し偲ばゆ
 
大伴乃《オホトモノ》 高師能濱乃《タカシノハマノ》 松之根乎《マツガネヲ》 枕宿杼《マキテシヌレド》 家之所偲《イヘシシヌバユ》
 
私ハ旅ニ出テコノ景色ノヨイ〔私ハ〜傍線〕、大伴ノ高師ノ濱ノ松ノ根ヲ枕トシテ寢ルケレドモ、私ノ〔二字傍線〕家ガ思ハレテナラヌ〔四字傍線〕。
 
○大伴乃――地名。○高師能濱乃《タカシノハマノ》――和泉。今の濱寺町地方の海岸。○枕宿杼《マキテシヌレド》――種々の訓があるが、マキテシヌレドが一番穩かである。杼《ド》の意を解しかねて、宣長は夜《ヤ》の誤としてゐるが、音に名高き大伴の高師の濱に旅寢して、佳景の中の人として、松の根を枕してゐるが、猶家が思はれるといふのである。
〔評〕 佳景は佳景であるが、旅情はこれによつて、全く慰められるものではない。松籟濤聲、夢を妨ぐる旅愁があはれによまれてゐる。。
 
右一首|置始東人《オキソメノアヅマト》
 
この人の傳は明らかでない。
 
67 旅にして 物戀ほしぎの 鳴くことも 聞えざりせば 戀ひて死なまし
 
旅爾之而《タビニシテ》 物戀之伎乃《モノコホシギノ》 鳴事毛《ナクコトモ》 不所聞有世者《キコヘザリセバ》 孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》
 
(83)私ハ〔二字傍線〕旅ニ出テ、戀シサガ堪ヘラレナイ程ダガ、ソレデモ鴫ノ鳴ク聲ヲ聞イテ、イクラカ心ヲ慰メテヰル。モシモ、アノ〔戀シ〜傍線〕物戀シサウニ鳴ク鴫ノ聲ガ聞エナカツタナラバ、私ハ〔二字傍線〕戀ヒ死スルカモ知レナイ。
 
○物戀之伎乃《モノコホシギノ》――舊訓モノコヒシキノとあるを、略解にコノコフシギノとし、燈にコノコホシギノ、古義は乃を爾の誤とし、モノコホシキニとしてゐる。コヒシの古形にコホシがあつて、古事記顯宗天皇の御歌に「宇良胡本斯祁牟志毘都久志毘《ウラコホシケムシビツクシビ》、」齊明紀に「枳彌我梅能姑※[哀ノ口が臼]之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《キミガメノコホシキカラニ》」とあり、木集にも、伊加婆加利故保斯苦阿利家武《イカバカリコホシクアリケム》(八七五)とある。伊麻能其等古非之久伎美我於毛保要婆《イマノゴトコヒシクキミガオモホエバ》(三九二八)・故非之伎和我勢《コヒシキワガセ》(四四四三)など、コヒシの形も極めて多いが、この卷は古形に從つてよんだがよからう。卷三|客爲而物戀敷爾山下赤乃曾保船奧榜所見《タビニシテモノコホシキニヤマシタノアケノソホブネオキニコグミユ》(二七〇)とあるによると、戀ホシキのシキに、鴫をかけた言ひ方である。○鳴事毛《ナクコトモ》――鳴を家の誤とする古義や、美夫君志の説はとらない。燈に事を聲としたのも、よくない。
〔評〕 鴫の聲は淋しい。シギといふ名は物戀ホシキといふ語を連想せしめる。あの鳥も自分のやうに戀をしてゐるのだなと思へば、せめて心が慰められるといふのである。感情を強く言ひあらはしてある。
 
右一首高安大島
 
目録に作主未詳歌とあつて、その下に高安大島と小書してゐる。どちらが正しいか、今からは分らぬ。高安大島は傳未詳。
 
68 大伴の 美津の濱なる 忘貝 家なる妹を 忘れて念へや
 
大伴乃《オホトモノ》 美津能濱爾有《ミツノハマナル》 忘貝《ワスレガヒ》 家爾有妹乎《イヘナルイモヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
私ハ〔二字傍線〕家ニ殘シテ來タ妻ヲ(大伴乃美津能濱爾有忘貝)忘レヨウカ、決シテ忘レハシナイ〔九字傍線〕。
 
○大伴乃美津能濱爾有忘貝《オホトモノミツノハマナルワスレガヒ》――忘るといふ音を繰返して、忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》につづく序詞である。大伴乃御津の濱は六三に出てゐる。○忘貝――「何にても濱邊に打ち上げたる貝をいふ」と檜嬬手・美夫君志に見えてゐるが、海處女潜取云忘貝《アマヲトメカヅキトルトフワスレガヒ》(三〇八四)といふ歌から考へると、ともかくも貝の一種である。古義には蛤に似て小なりと(84)ある。今忘貝と稱するは、瀬戸内海に多い、淡紫色で裏の白い扁平な貝である。○忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》――忘れて思はむや、思はじといふので、忘れて思ふは古い言ひ方で、思ひ忘れむやといふに同じ。
〔評〕 所の物を材として旅情を述べただけである。忘貝、忘草などを忘れにつづける一種の型が出來てゐる。
 
右一首|身人部《ムトベ》王
 
續紀に「和銅三年正月甲子、無位六人部王授2從四位下1」「天平元年正月壬寅正四位上六人部王卒」と見えてゐる。
 
69 草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生に にほはさましを
 
草枕《クサマクラ》 客去君跡《タビユクキミト》 知麻世婆《シラマセバ》 岸之埴布爾《キシノハニフニ》 仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
 
貴方ガ此處ヲ〔三字傍線〕、(草枕)旅立チシテ都ヘ御歸リ〔七字傍線〕ナサルト、私ガ〔二字傍線〕知ツテ居リマシタナラバ、貴方ノ御召シ物ヲ記念ノ爲ニコノ住吉ノ〔貴方〜傍線〕、岸ノ黄色ノ土デ染メマセウノニ、殘念ナコトヲ致シマシタ〔殘念〜傍線〕。
 
○客去君跡《タビユクキミト》――京へ歸られたのであるが、この地を出立するを旅と言つたのである。○知麻世婆《シラマセバ》――麻世《マセ》はマシの未然形。○岸之埴布爾《キシノハニフニ》――埴布の布は借字で、淺茅生・園生・埴生などの如く生と書くべき所である。岸之黄土粉《キシノハニフ》(九三二)とも記してあるから、黄土である。
〔評〕 長皇子に進めた歌である。貴人は都へ歸らうとしてゐられる。あまりの親しさに、今までは旅人たるを忘れたやうになつてゐたので、今は都へ行かれるのが却つて旅のやうに思はれる。その名殘惜しい情は、上の句だけにもよくあらはれてゐる。
 
右一首|清江娘子《スミノエノヲトメ》進(レリ)2長皇子(ニ)1   姓氏未詳
 
姓氏未詳は、清江娘子の姓氏の明かならぬをいつたのである。(六五)の歌の弟日娘だらうと、美夫君志に(85)は言つてゐる。或はさうかも知れない。
 
太上天皇幸(セル)2于吉野宮1時、高市連黒人作(レル)歌
 
太上天皇は持統天皇。古義に、太上天皇の上に、大寶元年辛丑の六字を補つてあるのは、妄である。
 
70 大和には 鳴きてか來らむ 呼子鳥 象の中山 呼びぞ越ゆなる
 
倭爾者《ヤマトニハ》 鳴而歟來良武《ナキテカクラム》 呼兒鳥《ヨブコドリ》 象乃中山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
ヤガテ〔三字傍線〕都ノアタリニ、アノ呼兒鳥〔五字傍線〕ガ嶋イテ行クノデアラウ。今コノ吉野ノ〔六字傍線〕象ノ中山ヲ、呼兒鳥ガ人ヲ〔二字傍線〕呼ブヤウナ聲ヲシテ飛ビ越エテ行クヨ。
 
○倭爾者《ヤマトニハ》――倭は當時の都なる藤原あたりをさしたのである。これはヤマトの狹義的用法で、吉野は別に、吉野の國といつたのである。○鳴而歟來良武《ナキテカクラム》――來良武は行くらむの意、自分は都の者であるから、都の方を内にして言つたのである。○呼兒鳥《ヨブコドリ》――呼兒鳥はカンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥などとも稱し、深山に棲み、(86)大さ鳩の如く、全身黒文、灰黒相雜り、腹は淡黄で白黒文あり、尾は灰赤色で白點あり、目の邊薄赤く、嘴は尖つてゐる。指は前後各二、尖つて黒い。鳴く聲物を喚ぶやうに聞える。○象乃中山《キサノナカヤマ》――吉野の宮瀧の上、喜佐谷村にある。離宮址の前方に聳え、象の小川がその左の谷を流れて、吉野川に注いでゐる。寫眞は釣橋の上から下流に向つた景で、左方の山が象の中山で、その手前の小流が象の小川である。象は和名抄に象、和名岐佐とあつて、元來梵語だといふ。
〔評〕 呼子鳥が面白い聲で、象の中山を鳴き越えるのを聞いて、あの鳥はわが故郷へ行くのだらう。誰があの聲を聞くかと、急に故郷が慕はしくなつた歌。言ひ知れぬうるほひのある歌である。
 
大行天皇《サキノスメラミコトセル》幸(セル)2于難波宮1時(ノ)歌
 
天子の崩御ありて、謚號の定まらぬ間を大行天皇と申す。これは文武天皇である。
 
71 大和戀ひ いの寢らえぬに 心なく この渚の埼に 鶴鳴くべしや
 
倭戀《ヤマトコヒ》 寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》 情無《ココロナク》 此渚崎爾《コノスノサキニ》 多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
只サヘ私ハ〔五字傍線〕、都ノ方ガ戀シクテ眠ラレナイノニ、何ノ斟酌モナク、コノ私ガ旅宿シテヰル難波ノ宮ノ近所ノ海邊ノ〔私ガ〜傍線〕洲ノ崎デ、鶴ガ嶋クト云フコトガアルモノカ。考ノナイ鶴ダ。私ハ家ガ思ヒ出サレテ堪ヘラレヌ。鳴クナラバモツト沖ノ方デ鳴ケバヨイニ〔考ノ〜傍線〕。
 
○寐之不所宿爾《イノネラエヌニ》――不所宿爾《ネラエヌニ》はねられぬにの意。寐《イ》は眠ること。○此渚崎爾《コノスノサキニ》――渚は、普通ナギサとよむ字のやうに、美夫君志や講義に書いてあるが、集中どこでもスとのみ用ゐてある。波麻渚杼里《ハマスドリ》(三五三三)・河渚爾母《カハスニモ》(四二八八)・渚爾居舟之《スニヰルフネノ》(三二〇三)の如し。この句元暦校本に此渚埼未爾《コノスサキミニ》とある。
〔評〕 情無《ココロナク》といつて、多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》と詰責するやうに言ひ放つたところ、如何にも物あはれである。哀調人を動かすものがある。
 
右一首|忍坂部乙麿《オサカベノオトマロ》
 
(87)この人の傳は明かでない。
 
72 玉藻苅る 沖へは榜がじ 敷妙の 枕のあたり 忘れかねつも
 
玉藻苅《タマモカル》 奧敝波不榜《オキヘハコガジ》 敷妙之《シキタヘノ》 枕之邊《マクラノアタリ》 忘可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
玉藻ヲ刈リ取ル、沖ノ方ヘハ私ハ〔二字傍線〕船ヲ漕イデ出マイ。何故ナレバ玉藻ヲ見レバ、玉藻ニ似タ女ト〔何故〜傍線〕(敷妙之)枕ヲシテ寐タ岸ノ〔二字傍線〕方ガナツカシクテ忘レラレナイヨ。
 
○玉藻苅《タマモカル》――奧《オキ》の枕詞とも考へられるが、恐らくさうであるまい。○敷妙之《シキタヘノ》――枕・床・宅などの枕詞となる。○枕之邊《マクラノアタリ》――僻案抄や古義に、マクラノホトリとあるが、アタリが古いやうである。枕のあたりは女の寢たところをいふ。
〔評〕 この歌は異説が極めて多い。今一々擧げないが、ここでは燈の説に從ふことにした。玉藻は集中、女の靡き寢る樣に譬へてはあるが、どうもかうした言ひ方では、少し謎めいた獨合點になりはしないか。ともかく表現に無理がある歌だ。
 
右一首式部卿藤原|宇合《ウマカヒ》
 
目録に作主未詳とある。式部卿藤原宇合とあるは別の傳か。宇合は不比等の三男で、式家の祖。馬養とも記してあるから、ウマカヒとよむのである。續紀によると、天平九年八月薨とある。公卿補任ではその年齡四十四となつてゐる。假に行幸を、文武天皇崩去の慶雲四年としても、僅かに十五歳の少年で、この歌の内容にふさはしくない。況んや懷風藻には、年三十四とあるから、それによれば、まだほんの嬰兒である。この左註は誤とせねばならぬ。
 
長皇子御歌
 
73 吾妹子を はやみ濱風 大和なる 吾を松椿 吹かざるなゆめ
 
吾妹子乎《ワギモコヲ》 早見濱風《ハヤミハマカゼ》 倭有《ヤマトナル》 吾松椿《ワヲマツツバキ》 不吹有勿勤《フカザルナユメ》
 
(88)私ハ今旅ニ出テ家ニ殘シテ來タ〔私ハ〜傍線〕吾ガ妻ヲ、早ク見タク思フガ、コノ疾イ濱風ヨ、大和ニ私ヲ待ツテヰル妻ノ所〔ニ私〜傍線〕ノ松ヤ椿ヲ、決シテ決シテ吹カズニ居テクレルナ。是非トモ此方カラ吹イテ行ツテ、私ガ濱風ニ吹カレナガラ、都ヲ思ヒ出シテヰルコトヲ知ラセテクレヨ〔是非〜傍線〕。
 
○吾妹乎《ワギモコヲ》――早見濱風とつづいて序詞的であるが、この語、歌の全體に重要な意義があるから、序詞とは言へない。吾が妹を早く見たいといふ意で下へつづいてゐる。○早見濱風《ハヤミハマカゼ》――早見濱といふ地名と解する説もあるが、難波邊にその地名がない。泊湍川速見早湍乎《ハツセガハハヤミハヤセヲ》(二七〇六)とあるハヤミと同じく、早い濱風の意らしい。○吾松椿《ワヲマツツバキ》――松を待つにかけてゐる。吾を待てる妻の家の松椿の木をの意である。○不吹有勿勤《フカザルナユメ》――吹カズアルナ、ユメで、必ず吹けよの意。
〔評〕 早見濱風だの、吾松椿だのと、掛詞が巧に用ゐられてゐるが、少し煩はしくもあり、難解の傾もある。
 
大行天皇幸(セル)2于吉野宮1時(ノ)歌
 
大行天皇は文武天皇。
 
74 み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜も 我がひとり寢む
 
見吉野乃《ミヨシヌノ》 山下風之《ヤマノアラシノ》 寒久爾《サムケクニ》 爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獨宿牟《ワガヒトリネム》
 
私ハコノ吉野ニ淋シイ旅寢ヲ永ラクシタガ〔私ハ〜傍線〕、コノ吉野ノ山ノ嵐ノ寒イノニ、又シテモ今夜モ、私ガ獨デ寢ルコトカ。嗚呼辛イ〔四字傍線〕。
 
○山下風之《ヤマノアラシノ》――下風はアラシとよむ。山下風波《ヤマノアラシハ》(二三五〇)・下風之吹禮波《アラシノフケレバ》(二六七七)・下風吹夜者《アラシフクヨハ》(二六七九)の類皆さうである。○寒久爾《サムケクニ》――寒けくあるにの意。○爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》――爲當《ハタ》は將《ハタ》、又してもの意。爲當の二字は漢文の熟字を用ゐたのである。○我獨宿牟《ワガヒトリネム》――ワガヒトリネムと、ワレヒトリネムと、兩訓あつて、いづれとも決し難い。語調によつてワガとよむことにしよう。
(89)〔評〕 たるみの無い調子で、旅の淋しさが歌はれてゐる。山の嵐の寒けさが身に迫るやうだ。佳作。
 
右一首或(ハ)云(フ)天皇御製歌
 
端詞に御製とないのは、皆從駕の人の歌である。歌のさまも天皇の御詠とは思はれない。但し新勅撰にこの歌を、持統天皇御製として出したのは、この註によつたのである。拾遺集戀三に、題不知讀人不知、「あしびきの山下風も寒けきに今夜もまたやわが獨りねむ」とある。
 
75 宇治間山 朝風さむし 旅にして 衣借すべき 妹もあらなくに
 
宇治間山《ウヂマヤマ》 朝風寒之《アサカゼサムシ》 旅爾師手《タビニシテ》 衣應借《コロモカスベキ》 妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》
 
私ハ今〔三字傍線〕旅ニ出テ居テ、都トハ違ヒ〔五字傍線〕、着物ヲ貸シテクレル女モナイノニ、宇治間山ノ朝風ガ寒イ。サテサテ思ヒ遣リノナイ朝風ダ〔サテ〜傍線〕。
 
○宇治間山《ウヂマヤマ》――吉野郡池田莊千俣村にありと、大和志に見える。上市町の北にある山で、今千股山と曰ふと。
〔評〕 これもあはれな歌である。この頃下着には、男女の別がなかつたから、女の衣をも男が着用し得たのである。吾妹兒爾衣借香之宜寸河《ワギモコニコロモカスガノヨシキガハ》(三〇一一)・秋風乃寒朝開乎佐農能崗將超公爾衣借益矣《アキカゼノサムキアサケヲサヌノヲカコユラムキミニキヌカサマシヲ》(三六一)など。その例である。
 
右一首長屋王
 
長屋王は天武天皇の御孫、高市皇子の御子、正二位左大臣に至る。天平元年二月讒によつて自盡せられた。懷風藻には「左大臣正二位長屋王三首、年五十四」とある。
 
和銅元年戊申、天皇御製歌
 
元明天皇の御製で、即位の翌年正月和銅と改元せられた。代匠記に和銅元年十一月大嘗會を行はせ給ふ時の御製と見えてゐる。考には和銅元年の前に、寧樂宮の三字を補ひ、戊申の下に冬十一月を脱すとしてゐるが、この時は奈良へ遷都以前で、藤原におはしたのである。十一月とする理(90)由はない。
 
76 ますら男の 鞆の音すなり もののふの おほまへつ公 楯立つらしも
 
大夫之《マスラヲノ》 鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》 物部乃《モノノフノ》 大臣《オホマヘツギミ》 楯立良思母《タテタツラシモ》
 
今〔傍線〕兵士ドモノ鞆ノ音ガスルワイ。軍ノ大將ガ、楯ヲ立テ列ベテ、軍ノ稽古ヲサセテ〔八字傍線〕ヰルラシイワイ。朕ガ即位ノ初ニ蝦夷ガ亂レテヰルノハ嘆カハシイ〔朕ガ〜傍線〕。
 
○大夫之《マスラヲノ》――兵士どもをいふ。○鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》――トモノトスナリとよむ説もあるが、音は場合により、オトともトとも訓む字である。ここは語調から考へて、オトの方がよい。鞆は音物《トモノ》の義と言はれてゐる。革で作つて左手の臂に着ける圓形の物だ。實物は正倉院に存してゐる。延喜式に鞆一枚の料として、熊革一條鞆料長九寸廣五寸、牛革一條鞆手料長五寸廣二寸とあるので、大體その制を知ることが出來る。この具の用法效用に就いて兩説ある。一は左臂の内側に圓形部を出し、弦を防ぐもので、音は即ちその場合に發するのだといふ説、眞淵はこの方である。二は左臂の外側に圓形部を置くといふ説で、弓反りの際弦が當つて音を立て、その音によつて敵を威嚇するのだといふのだ。伊勢貞丈はさういつてゐる。著者も少年時代から弓を學んでゐるものであるが、弦を防ぐ爲に、内側に隆起物があつては、弓勢を殺ぐこと夥しく、又、弓反りの爲には、さしたる音を發するとも思はれないので、二説のいづれをよしとも決し兼ねてゐたが、伴信友の鞆考補證にある、年中行事古畫射遺の圖を見ると、外側に凸起物がない、又武器を帶した埴輪の寫眞を見ると、悉く内側に凸起部があるので、疑問は全く氷解した。挿入の圖は伴信友の鞆考補證に出てゐるもので、二人の射手の圖は、土佐光長の筆になつた建久頃のものといふ。後世のものではあるが、參考のため此處に掲(91)げることにした。なほ、鞆は和字である。その製に從つて革扁とし、その形炎の状をなすによつて、丙を旁としたものか。○物部乃《モノノフノ》――物部は、武事に奉仕する者をいふ。○大臣《オホマヘツキミ》――大前公《オホマヘツキミ》の意で、天子の御前に侍る大官である。ここは將軍をいふ。續紀によれば、和銅二年三月、巨勢麿、佐伯石湯を大將軍として、蝦夷を討たしめられたとあるから、この將軍は即ちこの二人であらう。○楯立良思母《タテタツラシモ》――楯を立てならべて軍の調練をするらしいよの意。
〔評〕 頻りに響いて來る、鞆の音に耳を傾け給うて、今、楯を並べて軍の調練をしてゐるのか「即位の當初から兵を用ゐねばならぬとは、心憂いことよと宣うたので、國を思ふ大御心の内に、女帝らしい柔和さが認められる。
 
御名部《ミナベノ》皇女奉(レル)v和(ヘ)御歌
 
御名部皇女は天智天皇の皇女で、元明天皇の御姉に渡らせられる。
 
77 吾が大王 ものな思ほし 皇神の 嗣ぎて賜へる 吾無けなくに
 
吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》 須賣神乃《スメカミノ》 嗣而賜流《ツギテタマヘル》 吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》
 
アア恐レ多イコトデゴザイマス〔アア〜傍線〕。陛下ヨ、決シテ〔三字傍線〕御心配遊バシマスナ。神樣ガ、陛下ニ〔三字傍線〕次グ者トシテ、地位〔五字傍線〕ヲ賜ハツタ私ガ御座イマス。事件ガアラバ御名代トシテ私ガ何デモ致シテ御力ニナリマセウ〔事件〜傍線〕。
 
○須賣神乃《スメカミノ》――皇神で、天皇の御系統の神をいふのが本義であるが、一般の神をいふこともある。ここはその後者である。○嗣而賜流《ツギテタマヘル》――從來、天つ日嗣の位を繼ぎ賜へると説いたので、次の句吾を君の誤とする説も出たが、新考及び講義の説を參酌して、予は嗣而は次手で、次ぐ者の意としようと思ふ。後繼者の意ではなく、副者の意である。ツギテ、ツイデに、その意があるとするのは無理ではあるまい。賜流《タマヘル》は次手たる地位を賜へる意。○吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》――吾なきにあらざるにの意。即ち吾あるからは心配あらせらるるなと二句へかへるのである。
(92)〔評〕 つはものの鞆の音を聞し召して、物思はしげに宣うた天皇の御言葉を承つて、姉君が、私がついて居りますから大丈夫ですと、御力を添へられた御歌である。調の雄々しさは、やがてこの皇女の御氣質を語るものであらう。
 
和銅三年庚戌春二月、從2藤原宮1遷(ル)2于寧樂宮1時、御與(ヲ)停(メテ)2長屋(ノ)原(ニ)1※[シンニョウ+向](ニ)望(ミテ)2古郷(ヲ)1御作歌
 
ここには二月とあるが、續日本紀に「和銅三年三月辛酉始遷2都于平城1」とある。新古今卷十四※[覊の馬が奇]旅には三月として出てゐる。長屋原は和名抄に山邊郡長屋とあり。今の朝和村大字長原の邊かといふ。
 
一書云太上天皇御製
 
太上天皇は誰を指し奉るか不明。新古今集には元明天皇御歌とある。時代を以て推すに恐らくさうであらう。
 
78 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ 一云、君があたりを見ずてかもあらむ
 
飛鳥《トブトリノ》 明日香能里乎《アスカノサトヲ》 置而伊奈婆《オキテイナバ》 君之當者《キミガアタリハ》 不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》 【一云|君之當乎不見而香毛安良牟《キミガアタリヲミズテカモアラム》
 
(飛鳥)明日香ノ里ヲ立ツテ奈良ヘ〔三字傍線〕行ツタナラバ、アナタガ住ンデヰル明日香ノ里〔ガ住〜傍線〕ノ方ハ見エナイカモ知レナイ。ナツカシイ明日香ノ里ヨ〔ナツ〜傍線〕。
 
○飛鳥《トブトリノ》――明日香の枕詞。飛ぶ島の足輕《アシカル》の、シがスに轉じたとする説、飛ぶ鳥の幽《カスカ》の轉とする説、その他尚多いが、よいと思はれるものがない。飛鳥と書いて直ぐにアスカとよむのは、春日をカスガとよむと同じく、下に來るべき詞を取つたのである。飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》(一六七)とあるから、この用法も古いのである。○明日香能里(93)乎《アスカノサトヲ》――明日香の里は今の飛鳥村の邊である。この御歌は藤原を去り給ふ時の作であるのに、明日香能里乎置而伊奈婆《アスカノサトヲオキテイナバ》と仰せられたので見ると、藤原の宮も、廣義の飛鳥京の一部と、考へられてゐたのであらう。これを宣長が、持統天皇が飛鳥から藤原へ遷都の時の御製として、和銅三年を否定したのは妄である。○君之當者《キミガアタリハ》――君が住む明日香の里の邊はの意。
〔評〕 飛鳥の里は欽明天皇の御代の、佛教草創の地であり、推古天皇以來の皇居であつた。孝徳・天智の二帝は都を他に遷されたけれども、此處に根を張つた舊勢力は、再び都を復さしめた。この頃の人の飛鳥京に對する執着は、蓋し想像の外であつたらう。さう思つて見ると、政策上止むを得ず寧樂に移られるのであるが、至尊の御心中にも、堪へ難いものがあらせられたであらう。偶舊都に殘る人を偲ぶに托して、君があたりは見えずかもあらむと、胸中の思慕の情を洩し給うたのであらう。あはれな感情が溢れた御作である。
 
或本、從2藤原宮1遷(ル)2于寧樂宮1時(ノ)歌
 
普通の萬葉集の本に無かつたものを加へたことを、明らかにしたもので、美夫君志には梨壺で點をつけた時に、或本を校合して書き加へたものかと言つてゐる。
 
79 大きみの 御命かしこみ 柔《にき》びにし 家を置き 隱國の 泊瀬の川に 舶浮けて 吾が行く河の 川隈の 八十隈おちず 萬づ度 かへりみしつつ 玉ぼこの 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやに見ゆれば 栲《たへ》の穗に 夜の霜降り 磐床と 川の氷凝り 寒き夜を 息ふことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 來まさむ君と 吾も通はむ
 
天皇之《オホキミノ》 御命畏美《ミコトカシコミ》 柔偏爾之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲオキ》 隱國乃《コモリクノ》 泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》 ※[舟+共]浮而《フネウケテ》 吾行河乃《ワガユクカハノ》 川隈之《カハクマノ》 八十阿不落《ヤソクマオチズ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲乍《カヘリミシツツ》 玉桙乃《タマボコノ》 道行晩《ミチユキクラシ》 青丹吉《アヲニヨシ》 楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》 佐保川爾《サホカハニ》 伊去至而《イユキイタリテ》 我宿有《ワガネタル》 衣乃上從《コロモノウヘユ》 朝月夜《アサヅクヨ》 清爾見者《サヤニミユレバ》 栲乃穗爾《タヘノホニ》 夜之霜落《ヨルノシモフリ》 磐床等《イハドコト》 川之水凝《カハノミヅコリ》 冷夜乎《サムキヨヲ》 息言無久《イコフコトナク》 通乍《カヨヒツツ》 作家爾《ツクレルイヘニ》 千代二手《チヨマデニ》 來座多公與《キマサムキミト》 吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
都ヲ遷スゾトノ〔七字傍線〕天子樣ノ御命令ヲ畏マリ、御承ケヲシテ、久シク住ミナレテ居心地ノヨイ家ヲ放レテ、(隱國乃)(94)泊瀬川ニ船ヲ浮ベテ、私ガ通ル河ノ曲リ角ノ、澤山ノ曲リ角毎ニ、一ツモ洩レナク、萬遍モ振リ返ツテ見テ、川ノ〔二字傍線〕(玉桙乃)途中デノ日ヲ暮シ、(青丹吉)奈良ノ都ノ佐保川ニ行ツテ、其處ニ宿ルト〔六字傍線〕、私ガ被ツテ〔三字傍線〕寢テヰル着物ノ上カラ、明ケ方ノ月ガ清ク照ルノガ見エルノデ見ルト〔三字傍線〕、白イ布ノヤウニ眞白〔二字傍線〕ニ夜ノ霜ガ降ツテ居〔三字傍線〕リ、又磐ノ床ノヤウニ平ニ堅ク〔四字傍線〕川ノ水ガ氷ツテ、寒イ晩ニ少シモ私ハ〔五字傍線〕休マズニ、藤原カラ船デコノ奈良ヘ〔十一字傍線〕通ツテ作ツタコノ家ニ、來テ〔二字傍線〕千年モ御住ヒナサル貴方デスカラ、私モ亦度々〔二字傍線〕彼處カラ通ツテ參リマセウ。
 
○柔備爾之《ニキビニシ》――丹杵火爾之家從裳出而《ニキビニシイヘユモイデテ》(四八一)とあるから、これもニキビニシとよむべきである。柔備爾之家《ニキビニシイヘ》は住み馴れた親しい家。○家乎擇《イヘヲオキ》――舊訓はイヘヲエラビテであるが、面白くない。但し擇の字は擇月日《ツキヒエリ》(二〇六六)擇爲我《エラエシワレゾ》(二四七六)・擇擢之業曾《エラエシワザゾ》(二九九九)のやうに、すべてエルとよんである。これを放の誤として、イヘヲサカリテとよむ略解説は、廣く行はれてゐるが、冷泉本に釋とあるによつて、イヘヲオキとよまう。オキは倭乎置而《ヤマトヲオキテ》(二九)京乎置而《ミヤコヲオキテ》(四五)・明日香能里乎置而伊奈婆《アスカノサトヲオキテイナバ》(七八)のオキである。但し釋の字、集中に一度も見えない。恐らく擇は釋に通じて用ゐられるのであらう。○隱國乃《コモリクノ》――枕詞。四五參照。○泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》――泊瀬川は今の大和川の上流で、初瀬から佐保川との合流地點までをいふらしい。○※[舟+共]浮而《フネウケテ》――※[舟+共]は繹名に「艇小而深者曰v※[舟+共]」とあるやうに、小舟である。〇八十阿不落《ヤソクマオチズ》――阿は岸・岡・曲・隅などと同義の文字。八十阿は多くの隈、不落《オチズ》は洩らさず。○玉桙乃《タマボコノ》――道の枕詞。玉桙の刃《ミ》とつづくと言はれてゐるが、古の桙は比比羅木之八尋矛《ヒヒラギノヤヒロボコ》とあるやうに、全部木製で、刃《ミ》といふ部分が無かつたのではないかと思はれる。鉾の字を用ゐず、特に和字桙を以て記すのも、その爲ではあるまいか。桙には幡《ハタ》を附ける爲に、乳と稱するものがあるからだといふ説に從つて置かう。○道行晩《ミチユキクラシ》――道を歩いてゐるうちに日が晩れること。道は川の道で、初瀬川から佐保川へかけての舟行をいふ。陸路と見る説は誤つてゐる。○青丹吉《アヲニヨシ》――奈良の枕詞。一七參照。〇佐保川爾《サホカハニ》――佐保川は春日に源を發し、今の奈良市の北部佐保地方を流れ、古の寧樂の都を貫流し、北吐田村のあたりで初瀬川に合する。○伊去至而《イユキイタリテ》――伊は發語。○衣乃上從《コロモノウヘユ》――被つて寢てゐる衣の上からの意。考に衣を床としたのは誤解である。○清爾見者《サヤニミユレバ》(95)――考の説に從つてサヤニミユレバとよむ。清《サヤ》は月のさやかなるを言ふので、明瞭に見るといふのではない。○栲乃穗爾――※[栲の異体字]と書くを正しとす。栲は別字なるを混同したのだ。※[栲の異体字]は※[木+紵の旁]楮に同じく、カウゾの類。栲は爾雅に山樗也とある。※[栲の異体字]はタヘ又はタクと言つて、この木の皮を以て、布を織つたのである。白いものであるから、白又は雪の字をタヘとよんだ例もある。即ちタヘノホは白いことで、穗《ホ》は賞めていふ言葉。國の秀《ホ》などと同じであらう。○磐床等《イハトコト》――磐の平らなるをいふ。等《ト》は、の如くにの意。○川之水凝《カハノミヅコリ》――水は氷に作つてゐる本が多いが、水になつてゐる古本に從はう。凝は磐根己凝敷《イハネコゴシキ》(一一三〇)・興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》(三二七四)・根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロゴロニ》(三二八四)・凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》(三〇一)・味凝《ウマゴリ》(一六二)・潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》(九七六)などの如く、ゴ、コゴ、ゴリとよんである字である。元來この字を斯くよむのは字音らしい。この字は蒸韻魚陵切、呉音ゴウで、韻を省いてゴ、省かなければコゴ、ゴリとなるのである。音訓の一致は偶然か否か分らないが、この字をゴリとのみよんで、他の活用形に用ゐてないところを見ると字音らしい。元來蒸韻はngの音であるから、語尾が、リに轉ずるのである。それは敦賀《ツルガ》・播磨《ハリマ》などの例に明らかなる如くである。これを字音とすれば、コゴリとも、コホリとも、よめないことになつて、コリのみが許されるわけになる。但し凝は濁音だから、コリと清音には、よめまいといふ人もあるかも知れないが、萬葉假名は殆ど清濁の別が無いから、拘泥してはならぬ。○冷夜乎《サムキヨヲ》――サユルヨヲ、サムキヨヲの兩訓のうち、いづれとも決し難い。冷の字は冷成奴《スズシクナリヌ》(二一〇三)・冷芽子丹《アキハギニ》(二一六八)などがあるばかりで、サユルとは訓んだ例が無いが、世間之遊道爾冷者《ヨノナカノアソビノミチニサブシクハ》(三四七)とある冷《サブシク》は、多少の近似點があるから、サムキヨと訓むことにした。○千代二手《チヨマデニ》――二手をマデとよむのは、左右をマデとよむと同じく、用例が澤山ある。○來座多公與《キマサムキミト》――多は牟の誤とする燈の説に從ふべきだ、キマサムキミトは來給はむ君と共にの意。來の字、爾の誤として上の句につけ、座牟公與をイマサムキミとよむ説もある。多公はオホキミの意かと講義にあるが、集中には多の字オホとよんだ例を見ない。
〔評〕 寧樂に新都造營の勅が出た。藤原あたりに住んでゐた工匠らは、佐保川の兩岸に展開してゐる奈良平野を、都にすべく急いで行つた。この歌は或る貴人の命によつて、邸宅建築に從つた工人が、その落成に際して、今までの苦心を述べ、新室の悠久をことほいだものである。藤原から三輪あたりへ、そこから初瀬川を下つて北(96)上し、更に佐保川を遡つて奈良に至り、川原に舟を泊めて工作に從事した間の、景と情とが、目に見るやうにあらはされて、身もそぞろ寒きを覺えるばかりである。
 
反歌
 
80 あをによし 寧樂の家には 萬代に 吾も通はむ 忘ると思ふな
 
青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 吾母將通《ワレモカヨハム》 忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
 
アナタ樣ノ〔五字傍線〕(青丹吉)奈良ノ御宅ヘハ、萬年マデモ變ラズニ、私モ彼處カラ〔四字傍線〕通ツテ參リマセウ。古京ト新京ト離レテヰテモ私ガ〔古京〜傍線〕、忘レルコトガアルトハ思召シナサルナ。
 
○忘跡念勿《ワスルトオモフナ》――跡を而の誤かとして、ワスレテオモフナとする新考の説は賛成出來ぬ。これは自分のことだけを言つてゐるのである。高山岑行宍友衆袖不振來忘念勿《タカヤマノミネユクシシノトモヲオホミソデフラズキヌワスルトオモフナ》(二四九三)・人事茂君玉梓之使不遣忘跡思名《ヒトゴトヲシゲミトキミニタマヅサノツカヒモヤラズワスルトオモフナ》(二五八六)の類皆同じである。
〔評〕長歌の終の部を、更に言ひ反しただけである。
 
右歌作主未v詳
 
作の字の無い古本も數種ある。
 
和銅五年壬子夏四月、遣(ス)2長田王(ヲ)于伊勢|齊宮《イツキノミヤ》1時、山邊御井(ニテ)作歌
 
長田王は續紀に「天平九年六月甲辰朔辛酉、散位正四位下長田王卒」とある。天武天皇の皇子長親王の御子だともいふが確かでない。伊勢齋宮は伊勢神宮に奉仕し給ふ内親王、又はそのおはします宮、ここは後者である。伊勢多氣郡に齋宮村がある。御所の址は字御館といつて今に殘つてゐる。齊は齋に通用せしめたか。山邊御井は伊勢鈴鹿郡山邊村にある由、玉勝間に委しく論じてあるが、山田孝雄氏はこれを退けて、壹志郡新家村なることを考證してゐる。二四の地圖參照。
 
81 山の邊の 御井を見がてり 神風の 伊勢處女ども 相見つるかも
 
(97)山邊乃《ヤマノベノ》 御井乎見我?利《ミヰヲミガテリ》 神風乃《カムカゼノ》 伊勢處女等《イセヲトメドモ》 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕山邊ノ御井ヲ見ニ來タツイデニ、思ハズモ御井ノアタリデ美シイ〔思ハ〜傍線〕、(神風乃)伊勢ノ少女等ヲ見タワイ。思ヒ掛ケナク面白カツタ〔思ヒ〜傍線〕。
 
○御井乎見我見利《ミヰヲミガテリ》――見がてりは見がてらに同じ。見る序にの意。○神風乃《カムカゼノ》――伊勢の枕詞。よく分らないが、神風の息《イ》とする説に從つて置かう。風は科戸《シナト》の神の息である。○伊勢處女等《イセヲトメドモ》――御井のほとりに行宮があり、その宮女かといふ説があるが、果してどうであらう。里の少女ではあるまいか。古義には伊勢處女は一人の美人の名とし、等《ドモ》は複數でないと言つてゐる。
〔評〕名高い御井を見に立ち寄つたところ、美しい伊勢の少女にも出逢つたと、二つながら見得て、旅情を慰め得たことを喜んだ歌である。長閑な氣分だ。
 
82 うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天の時雨の 流らふ見れば
 
浦佐末流《ウラサブル》 情佐麻禰之《ココロサマネシ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天之四具禮能《アメノシグレノ》 流相見者《ナガラフミレバ》
 
(久堅乃)天カラ降ル時雨ガ、斜ニ降リ注グノヲ見ルト、私ハタダサヘ旅中ノ〔九字傍線〕心淋シサガ、甚ダシクナルバカリダヨ。何故コンナニヒドク時雨ガ降ルノダラウ〔バカ〜傍線〕。
 
○浦佐夫流《ウラサブル》――心の淋しいこと。樂浪乃國都美神乃浦佐備而《ササナミノクニツミカミノウラサビテ》(三三)とは少し違ふ。○情佐麻彌之《ココロサマネシ》――彌は禰の誤と言つた契沖説に從つて、ココロサマネシとよむ。佐は發語、麻彌之《マネシ》は、多し、甚だし、頻なりといふやうな意。○久堅乃《ヒサカタノ》――天・空・日・月・などの枕詞。瓠形《ヒサカタ》の意で、天が圓く空虚であるのを、瓠に譬へたのだといふ説が廣く行はれてゐる。この他、日刺す方、日離《ヒサガ》る方など種々ある。○天之四具禮能《アメノシグレノ》――天より降る時雨の意。時雨は後世は、初冬の雨としてゐるが、この集では秋に詠じたもの多く、長月乃鐘禮乃雨丹《ナガツキノシグレノアメニ》(二一八〇)もあれば又、十月鐘禮乃雨丹《カミナヅキシグレノアメニ》(三二一三)も無いではない。ともかく秋から冬へかけて降る、村雨を言つたのだ。○流相見者《ナガラフミレバ》(98)――ナガラフは流るの延言。流るは斜に降ること。永く續くといふ解は當らない。
〔評〕一二の句の言ひ方に古風なところがある。斜に降り注ぐ雨の脚を見つめて、淋しがつてゐるところである。御井には關係ない歌で、時季も違つてゐる。
 
83 わたの底 沖つ白浪 立田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
 
海底《ワタノソコ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》 何時鹿越奈武《イツカコエナム》 妹之當見武《イモガアタリミム》
 
(海底奧津白浪〕立田山ヲ何時私ハ〔二字傍線〕越スダラウ。アノ山ヲ越シテ終へバ戀シイ女ノ家ガ見ラレルガ〔アノ〜傍線〕、女ノ家ガ見タイモノダ。アア待チ遠イ〔六字傍線〕。
 
○海底奧津白浪《ワタノソコオキツシラナミ》――立つと言はん爲の序詞。奧《オキ》はすべて物の奧深いことをいふから、海の底の奧とつづけて、序詞とし、下へは沖の意で、沖つ白浪と言つて立の序としたのだ。〇立田山《タツタヤマ》――生駒郡三郷村の西方信貴山の南方に連つた山で河内に跨つてゐる。大和から西方諸國に通ずる要路で、天武天皇八年十一月、此所に關を設置せられた。
〔評〕序の用ゐ方が、伊勢物語と古今集とにある「風吹けば沖つ白浪立田山夜半にや君がひとり越ゆらむ」に似てゐる。この歌は西の國から大和へ歸る旅人が、遙かに故郷を思つて詠んだものであるから、御井とは何等關係はない。
 
右二首今案(ズルニ)不v似2御井(ニテ)所(ニ)1v作、若疑(ラクハ)當時誦(セル)之古歌歟
 
右の二首は、この注の通り御井での作ではあるまい。けれども目録に山邊御井作歌三首とあるから、古くからさう傳へられてゐたのであらう。これが長田王の作か、或はこの注の如く古歌を誦したものか、今から知る由はないが、ついでに此處に長田王の作を掲げるといふのも少し變であるから、或は古歌を誦したものかも知れない。
 
寧樂宮
 
(99)長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1惧(ニ)宴(セル)歌
 
舊本に寧樂宮の三字が、この長皇子の上に冠して記されてゐる。目録も同樣に記されてゐるが、誤なることは論がない。寧樂宮の三字は此處に入るべきではなく、上の和銅五年壬子夏四月遣長田王云々、の前に置くべきものを、誤つて此處に入れたのである。長皇子は天武天皇の皇子で、志貴皇子は天智天皇の皇子。佐紀宮は寧樂の都の西北、今の平城村、都跡《ミアト》村(大字、佐紀)伏見村の邊にあつた宮で、長皇子の御殿であつたらしい。志貴皇子の宮は高圓にあつたことは卷二の卷末の歌に明らかである。
 
84 秋さらば 今も見るごと 妻ごひに 鹿鳴かむ山ぞ 高野原の上
 
秋去者《アキサラバ》 今毛見如《イマモミルゴト》 妻戀爾《ツマコヒニ》 鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》 高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》
 
今私ドモハ此處デ秋ノ景色ヲ賞シテヰルガ〔今私〜傍線〕、コノ高野原ノ山ノ手ハ、秋ニナツタナラバ何時デモ毎年〔六字傍線〕、丁度今我ラガ〔三字傍線〕見ルヤウニ、妻ヲ戀ヒ慕ツテ鹿ガ鳴ク山デアリマスヨ。又來年モ此處デ樂シク遊ビマセウカラ必ズ御出デ下サイ〔又來〜傍線〕。
 
○秋去者《アキサラバ》――秋來らばの意。今毛見如《イマモミルゴト》とあるから、この宴の時、秋であつたのである。即ち秋去者《アキサラバ》の秋は、明年以後毎年の秋をいふ。○今毛見如《イマモミルゴト》――今も見るとは、眼前に鹿が山に鳴きながら遊んでゐる景で、昔は鹿が多かつたから、人家近くに來て鳴いてゐた。○鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》――鹿はカとよむがよい。シカとよむ時は勝牡鹿乃《カツシカノ》(四三一)・小牡鹿之角乃《ヲシカノツヌノ》(五〇二)・棹牡鹿鳴母《サヲシカナクモ》(二一五〇)・妻呼雄鹿之《ツマヨブシカノ》(二一四一)・住云男鹿之《スムチフシカノ》(二〇九八)などの如く、牡鹿・雄鹿・男鹿などと記すのが常である。極めて稀に鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》(五六六)の如きが無いではないが、それは特例である。○高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》――高野原は佐紀の宮のあるところで、この邊一體を高野と言つたのである。續紀に「葬2高野天皇於大倭國添下郡佐貴郷高野山陵1」とあつて、他に成務・神功皇后などの御陵もある。此處の高地は即ち高野山で、低地は高野原である。宮は山麓にあつたらしい。高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》は即ちこの高地の高野山を指したもので、佐紀(100)山といふも同じであらう。卷十に佐紀山爾開有櫻之花乃可見《サキヤマニサケルサクラノハナノミユベク》(一八八七)とあるから、櫻の名所でもあつたのだ。宇倍《ウヘ》を藤原我字倍爾《フヂハラガウヘニ》(五〇)と同じく、あたりと解く説もあるが、ここは山曾《ヤマゾ》あるのを受けてあるから、この字倍《ウヘ》は山を云ふのであらう。
〔評〕 從來この歌は解き難いもののやうに考へられてゐたが、別段むづかしいこともなく、却つて安らかな作である。今頻りに鳴く鹿の淋しい聲、それは妻を戀して鳴くらしい、悲しい聲である。その聲する方を見れば、落葉するあたりに、嚴めしい角も見えてゐる。この我が佐紀の宮は、高野原に面し、佐紀山を負ひ、景色は捨て難いところである。今日の宴何の好下物もないが、この好景に對し、かの鹿の音に聞き入りつつ、盃を擧げ給へ。かくて今年のみならず、秋ともならば、何時にても今日と同じく好景あり、鹿の音も聞える。必ず忘れず訪れ給へと宣うたので、親密な友情がよくあらはれてゐる。
 
右一首長皇子
 
これによると、志貴皇子の御歌もあつたのではないかと思はれる。
 
萬葉集卷第一終
 
卷第二
 
萬葉集卷第二解説
 
(101)卷二は卷一と姉妹篇で、時代の古い作者の明らかな歌を集めてゐる。卷一に雜歌のみを收めたのに對して、これは相聞と挽歌とを集めてゐる。相聞の部は、難波高津宮御宇天皇代・近江大津宮御宇天皇代・明日香清御原宮御宇天皇代・藤原宮御宇天皇代で、挽歌は後岡本宮御宇天皇代・近江大津宮御宇天皇代・明日香清御原宮御宇天皇代・藤原宮御宇天皇代・寧樂宮とし、卷一と同じやうに、皇都の所在地を以て時代を分けてゐる。卷一は、雄略天皇の朝からの歌であるが、これは更に遠く仁徳天皇の御代のものが掲げられてゐる。併しその歌數も數首に過ぎず、その時代も亦信じ難いものである。相聞の部には年月の明記せられたものはなく、挽歌の部には天武天皇崩後八年九月九日の御齋會の夜の夢中の歌と、大寶元年紀伊行幸の時の歌と、寧樂宮の部にあるものとだけが年月が記されてゐる。併し年月の記してないものも、天皇や皇族の崩御薨去に關したものは、年代はおのづから明らかで、それを辿つて調べて見ると、大體年代順に正しく駢べられてゐることがわかる。ただ、明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮の時の歌が、高市皇子城上殯宮時の歌よりも前に置かれ、但馬皇女薨後の穗積皇子の歌が、弓削皇子薨時置始東人の歌よりも前にあるのは、順序が転倒してゐる。歌數は百四十九首あり、他に古事記の歌が一首引かれてゐる。その内・長歌が十九首で、殘が短歌である。この内には、或本の異傳も含まれてゐるかち、實數はまう少し少いわけである。相聞・挽歌の(102)二部共に、皇室に關係したものが大部分を占め、眞率な戀歌や、悲痛な哀傷の歌の間に、この時代の皇族間の軋轢と、それに關聯した悲劇とが、痛々しく展開せられてゐる。作者としては、天智天皇・天武天皇・持統天皇を始め、磐姫皇后・鏡王女・藤原夫人・大伯皇女・但馬皇女・大津皇子・有間皇子など、皇室關係の方方が多く、いづれもあはれな作を遺して居られるが、併し何と言つても、この卷での大立者は柿本人麿で、他を壓し群を拔いて、燦然たる光輝を放つてゐる。人麿の雄篇は、この卷に集め盡されてゐると稱してもよいほどで、萬葉集中の最大篇であり、和歌史上長歌の第一傑作と謂はれてゐる高市皇子尊城上殯宮時の作もこの卷にあるのである。その他、藤原鎌足・三方沙彌・山上憶良・長忌寸意吉麿・石川郎女・巨勢郎女らの名も見えてゐる。
又、この卷一卷二の兩卷は、寧樂宮に入つてから間もなく編纂せられたもので、元明天皇から元正天皇の御代にかけて、古事記や日本書紀・風土記などの出來たあの氣運が生み出したものかも知れない。兩卷とも卷末に寧樂官の歌はほんの申譯に僅かばかり載せてあるのも、それを思はしめる。又、寧樂宮とのみあつて、御宇天皇代が添へて無いのは、未だ天皇御一代も經過してゐなかつた爲かも知れない。ともかくこの卷二は、卷一と共に、奈良朝の冒頭に於て編輯し、精撰せられたものであらう。
 
(103)萬葉集卷第二
 
相聞
難波高津宮御宇天皇代
 磐姫皇后思2天皇1御作歌四首
 或本歌一首
 古事記歌一首
近江大津宮御宇天皇代
 天皇賜2鏡王女1御歌一首
 鏡王女奉知歌一首
 内大臣藤原卿娉2鏡王女1時鏡王女贈2内大臣1歌一首
 内大臣報2贈鏡王女1歌一首
 内大臣娶2采女安見兒1時作歌一首
(104〜109、目次省略)
 
(111)相聞
 
相聞はサウモンとよむ。これは文選の曹子建與2呉季重1書に、「口授不v悉往來數相聞」とあるなどから出た熟字で、呂向の注に「聞問也」とあるので分るやうに、互に問ひかはす意である。これを訓讀して、眞淵はアヒギコエとし、古義にはシタシミウタとあるが、もし訓を附したものとするならば、アヒギコエがよいであらう。主として男女の間に交換せられた戀歌が集められてゐるが、中には親子兄弟の間に取りかはされた往來の歌も稀には載せられてゐる。
 
難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯《オホササギノ》天皇
 
この皇居の所在は明確でないが、古の難波の崎の北端、今の大阪城の邊らしい。
 
磐姫皇后思2天皇1御作歌四首
 
磐姫皇后は葛城襲津彦の女、履仲・反正・允恭の三天皇を生み給うた。天皇の三十五年筒城宮に薨じ給ひ、三十七年那羅山に葬り奉つた。皇后には御名を記さぬ例であるが、天皇が皇子にましました時よりのならはしに從つて、かくよび奉つたのであらう。磐姫の二字を後人のさかしらとして、取り去らむとする考、古義などの説は從ひがたい。
 
85 君が行 け長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか持たむ
 
君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》 山多都禰《ヤマタヅネ》 迎加將行《ムカヘカユカム》 待爾可將待《マチニカマタム》 
 
陛下ノ御旅行ハ、日數ガ多ク經《タ》チマシタ。私ハ淋シク戀シクテ堪ヘラレマセヌ〔私ハ〜傍線〕。アノ山路ヲ尋ネテ御迎ニ參リマセウカ。ソレトモ御歸ニナルノヲ宅ニ居テ〔ソレ〜傍線〕、タダ待チニ待ツテ居リマセウカ。ドウシタモノデセウ〔九字傍線〕。
 
(112)○君之行《キミガユキ》――御幸といふに同じで、行は名詞である。吾行者久者不有《ワガユキハヒサニハアラジ》(三三五)・吾去者七日不過《ワガユキハナヌカハスキジ》(一七四八)・枳美可由伎氣那我久奈理努《キミガユキケナガクナリヌ》(八六七)・君之往若久爾有婆《キミガユキモシヒサナラバ》(四三三八)など皆さうである。○氣長成奴《ケナガクナリヌ》――氣は日に同じ。この語が轉じて日《カ》となつたのである。○山多都禰《ヤマタヅネ》――山尋ねである。禰を美夫君志にノの假字に用ゐたものだと論じてゐるが、韻鏡を振廻し過ぎた失敗である。禰をノの假名に用ゐた例は全く無い。
〔評〕 これは左註にある古事記の衣通王の歌と同歌の異傳である。歌調から見ても、却つて衣通王のものよりも新しい感がある。但しこの歌を古事記の歌の謬傳とした考・略解の説は從ふべきでない。下句に待つ人の煩悶の情がよくあらはれてゐる。
 
右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 
類聚歌林に就いては卷一の六の左註參照。
 
86 かくばかり 戀ひつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
 
此如許《カクバカリ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》 死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕コレ程マデモ貴方ヲ〔三字傍線〕戀ヒ慕ツテヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕高イ山ノ岩ヲ枕トシテ、巖ノ中ニ葬ラレテ〔八字傍線〕、死ナウモノヲ。カウシテ生キテヰテ徒ラニ煩悶シテ苦シンデヰル〔カウ〜傍線〕。
 
○戀乍不有者《コヒツツアラズハ》――戀ひつつあらむよりはの意と、宣長の玉の緒に説明せられてゐるのが、一般に行はれてゐる。語意は大體それでよいが、山田孝雄氏の奈良朝文法史に、この「ずは」を説明して、「云々の事を今現に云爲す。若出來うべくば、之と正反對に即、之を否定して、次にいふ云々の事を云爲すべきを」といふ意としてゐる。「戀してゐないで寧ろ」と譯したら、大體當つてゐるだらう。○磐根四卷手《イハネシマキテ》――岩根を枕としての意。磐根の根は接尾語で、四《シ》は強める助詞。この語の解は山の中で、岩を枕して倒れ死ぬこととする説と、山中に葬られることとする説と、二つに分れてゐる。古代の墓地の構造から考へて、後説がよいやうである。人麿が死に臨んで作つた。鴨山之磐根之卷有吾乎鴨《カモヤマノイハネシマケルワレヲカモ》(二二三)も同樣の言ひかたである。
(113)〔評〕略解にこれより以下三首は、皇后の御歌とあるが、これも皇后の御歌がそのままに傳つたものではない。寧ろ切なる戀を歌つた民謠が、歴史に結び付いて、皇后の御歌として傳へられるやうになつたものである。歌調もこの時代のものとしては新しい。
 
87 在りつつも 君をば待たむ うち靡く 吾が黒髪に 霜の置くまでに
 
在管裳《アリツツモ》 君乎者將待《キミヲバマタム》 打靡《ウチナビク》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》
 
カウシテ居テコノ長ク垂レテヰル私ノ黒髪ニ、霜ガ降ルマデモ、外ニ出テ居テ〔六字傍線〕、貴方ノ御|來《イデ》ヲ待チマセウ。
 
○在管裳《アリツツモ》――屋外に立つてゐるところであるから、この句は、かうして立ちてありつつもの意である。これを考に生き存へてありつつもの意とし、これに從ふ説が多いが、それは誤つてゐる。前の歌と連絡せしめようとするからの誤である。○打靡《ウチナビク》――黒髪に續く枕詞とする説が多いが、ここはさう見ない方がよからう。○霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》――これを白髪になるまでと見た説は惡い。日の字をニの假名に用ゐた例は他に無い。唯一の例である。先人の疑はなかつた所であるが、予は或は耳《ニ》又は目《モ》の誤ではなからうかと思つてゐる。
〔評〕 これは次の或本歌と同じ意味で、やはり民謠風の作だ。女の歌としてやさしい感情が出てゐる。
 
88 秋の田の 穗の上に霧らふ 朝霞 いづへの方に 我が戀ひやまむ
 
秋之田《アキノタノ》 穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》 朝霞《アサガスミ》 何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》 我戀將息《ワガコヒヤマム》
 
秋ノ田ノ稻ノ〔二字傍線〕穗ノ上ニ朝ノ霞ガカカツテヰル。コノ朝霞ハドチラノ方カヘ自然ニ消エテ終フモノダガ〔コノ〜傍線〕、私ノコノ戀シイ心ハ何方《ドチラ》ノ方ニ消エテ行クダラウ。ドウモ辛クテタマラヌ、何トカシテコノ思ヲ無クシタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○秋之田《アキノタノ》――この句を秋田之の誤とした拾穗本・古義は、不要の修正をしたものである。○穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》――霧相は遮《キ》るの延言。キリアフの約とするのは惡い。檜嬬手に、きらきら渡るとあるのは論外。○朝霞――秋の歌に霞とあるのはをかしいやうであるが、この頃は霧霞を區別しなかつたもので、波流能能爾紀利多知和多利《ハルノノニキリタチワタリ》(八三九)霞立天河原爾《カスミタツアマノカハラニ》(一五二八)・春山霧惑在《ハルヤマノキリニマドヘル》(一八九二)などが、その例である。○何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》――邊の字は清んで讀むがよ(114)い。いづれの方の方向にの意。○我戀將息《ワガコヒヤマム》――息の字、遣の誤とある新考の説は賛成出來ない。
〔評〕 上句の譬喩が面白い。晴れない胸の思ひを秋の田に棚曳く朝霞と比較し右の霞は何處へか消失するが、さてこの惱みは如何にせば消えるかと悶えたもの。さすがに古調ではあるが、皇后の作でないことは確である。
 
或本(ノ)歌(ニ)曰(ク)
 
89 居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 吾が黒髪に 霜は降るとも
 
居明而《ヰアカシテ》 君乎者將待《キミヲバマタム》 奴婆珠乃《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 霜者零騰文《シモハフルトモ》
 
私ノ(奴婆珠乃)黒髪ニ、霜ガ降ツテモカマハズニ家ノ外ニ〔九字傍線〕居テ、寢ナイデ夜ヲ〔六字傍線〕明カシテ、貴方ノ御イデ〔四字傍線〕ヲ待チマセウ。
 
○居明而《ヰアカシテ》――代匠記初稿本にヲリアカシテとあり、それに從ふ説も多いが、ヰアカシテでも同じである。居の字ヰともヲリとも兩樣によまれてゐる。寢ないでゐて夜を明かす意。○奴婆珠乃《ヌバタマノ》――黒の枕詞。諸説あるが、烏扇又は檜扇と稱する草で、黒い實がなるから、かく用ゐられるのだ。鳶尾《イチハツ》科、射干屬の多年生草本、葉の排列状態が檜扇を廣げたのに似てゐる。花は帶黄色又は帶赤色で、濃紫色の點がある。
〔評〕 この歌は前の在管裳《アリツツモ》の歌の異傳で、意味は殆ど違はない。秋之田《アキノタノ》の歌の前に置くべきであるが、右の四首を磐姫皇后の御歌としたから、中に挾まないで終に記したのであらう。歌の氣分も在管裳《アリツツモ》の歌によく似てゐる。
 
右一首古歌集中出
 
古歌集の名は、卷二・卷七・卷九・卷十・卷十一などに見える。何人かが古い歌を集めたもので、萬葉以前の歌集である。
 
(115)古事記(ニ)曰(ク)輕太子、奸《タハク》2輕(ノ)太郎女(ニ)1、故其(ノ)太子(ハ)流(サル)2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也、此(ノ)時衣通王、不v堪2戀慕(ニ)1而追(ヒ)往(ク)時(ノ)歌(ニ)曰(ク)
 
90 君が行 け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
 
君之行《キミガユキ》 氣長久成奴《ケナガクナリヌ》 山多豆乃《ヤマタヅノ》 迎乎將往《ムカヘヲユカム》 待爾者不待《マツニハマタジ》
 
此(ニ)云(ヘル)2山多豆(ト)1者、是今|造木《ミヤツコギ》者也
 
これは卷首の歌に就いて、考證したのである。但し古事記の文をそのまま取つたものでなく、摘要して繋ぎ合はせたものである。この衣通王は輕太郎女の別名で、日本書紀にある、「和餓勢故餓勾倍枳豫臂奈利佐瑳餓泥能區茂能於虚奈比虚豫比辭流辭毛《ワガセコガクベキヨヒナリササガニノクモノオコナヒコヨヒシルシモ》」と詠まれた允恭天皇の妃、衣通姫とは別人である。此の君之行《キミガユキ》の歌は三の句以下に於て、少しく異なつてゐるが、同歌たることは爭はれない。山多豆乃《ヤマタヅノ》は、今造木者也と註があるが、これを宣長は造木は建木の誤で、タツゲ、即ち立削《タツケ》で手斧のこと。山多豆は山釿(山手斧)で、手斧の刃はこちらに向いてゐるから、迎の冠詞となる、といふやうな説明をしてゐるが、造木はミヤツコギで、即ち今轉訛してニハトコ(接骨木)といふ。その葉が對生してゐるから、むかへの上に冠するのである。まう一つ注意すべきは、この註の歌の書き方は古事記の用字を勝手に書き直したことで、古事記には「岐美加由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能牟加閇袁由加牟麻都爾波麻多士」とあるのである。この註は餘程後代のものかと思はれるが、美夫君志には、原著者の記したものと言つてゐる。
 
右(ノ)一首(ノ)歌(ハ)古事記|與《ト》2類聚歌林1所v説(ク)不v同、歌(ノ)主亦異(ナリ)焉、因(リテ)※[手偏+僉](スルニ)2日本紀(ヲ)1、曰(ク)、難波(ノ)高津宮(ノ)御宇大鷦鷯天皇(ノ)廿二年春正月天皇語(リテ)2皇后(ニ)1、納(レテ)2八田皇女(ヲ)1將《トス》v爲(サム)v妃(ト)、(116)時(ニ)皇后不v聽(サ)爰(ニ)天皇歌(ヲ)以(テ)乞(フ)2於皇后(ニ)1云々、三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行(シ)紀伊國(ニ)1到(リ)熊野岬(ニ)1取(リ)2其處之|御綱葉《ミツナカシハヲ》1而還(ル)、於v是天皇、伺(ヒ)2皇后(ノ)不1v在(ヲ)而娶(テ)2八田皇女(ヲ)1納(ル)2於宮中(ニ)1、時(ニ)皇后到(テ)2難波(ノ)濟《ワタリニ》1、聞(キテ)3天皇合(フト)2八田皇女(ニ)1大(ニ)恨(ム)v之(ヲ)云々、亦曰(ク)、遠(ツ)飛鳥宮御宇|雄朝嬬稚子宿禰《ヲアサヅマワクコノスクネ》天皇廿三年春正月甲午(ノ)朔庚子、木梨輕《キナシカル》皇子、爲(ル)2太子(ト)1、容姿佳麗、見者自(ラ)感(ズ)、同母妹輕(ノ)太娘《オホイラツメ》皇女亦艶妙也云々、遂(ニ)竊(ニ)通(ズ)乃(チ)悒懷少(ク)息(ム)、廿四年夏六月、御羮(ノ)汁凝(テ)以作(ル)v氷(ト)、天皇異(ミ)v之(ヲ)卜(ス)2其|所由《ユエヲ》1、卜者曰(ク)有(リ)2内亂1、盖(シ)親親相姦(スル)乎(ト)云々、仍(テ)移(ス)2太娘皇女(ヲ)於伊與(ニ)1者、今案(ズルニ)二代二時不(ル)v見2此歌(ヲ)1也、
 
御綱葉は延喜酒造司式に三津野柏とあり、大神宮儀式帳九月祭の條に御角柏とある。ミツノカシハといふも同じで、古、神酒を入れる爲に用ゐた木の葉である。この柏の葉が三岐になつて角のやうであるから、三角柏といふのだといふ。今カクレミノといふものに同じ。二代二時不見此歌也とは、仁徳天皇・允恭天皇の二代にも、磐姫皇后・輕太娘皇女の二方の御事蹟にも、日本紀にこの歌が見えないといふのである。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇《アメミコトヒラカスワケノスメラミコト》
 
天智天皇をさし奉る。この下に謚曰2天智天皇1と小字で記した本があるのは、後世の註である。
 
天皇賜(ヘル)2鏡王女(ニ)1御歌一首
 
(117)鏡王女は鏡女王の誤である。鏡王の御娘で、額田女王の姉でいらせられた。天武天皇紀に、「十二年秋七月己丑、天皇幸2鏡姫王之家1訊v病、庚寅鏡姫王薨」とあり、諸陵式に「押坂墓、鏡女王、在2大和國城上郡押坂陵域内東南1」とある。興福寺縁起によれば、「至2於天命開別天皇即位二年歳次己巳冬十月1内大臣枕席不v安、嫡室鏡女王請曰云々」とあるから、鎌足の正妻である。鎌足は天智天皇即位の二年十月に薨じてゐるが、都は即位の前年の三月に大津に遷つてゐた。次の歌は女王が大和に止つてゐるのに、贈られたものと見える。天智天皇の崩御は、鎌足の薨後、二年目の十二月であるから、この歌の詠まれた時期は、かなり狹い範圍に推定出來よう。題詞の御の字の下、製の字が脱したのだらうといふ説はよくない。かうした例は他にもあるから、この儘でよい。
 
91 妹が家も 繼ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家も在らましを
 一云、妹があたりつぎても見むに
 一云、家居らましを
 
妹之家毛《イモガイヘモ》 繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》 山跡有《ヤマトナル》 大島嶺爾《オホシマノネニ》 家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》
 一云|妹之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》
 一云|家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》
 
戀シイ〔三字傍線〕オマヘノ住ンデヰル家ノ方ヲ絶エズ〔三字傍線〕續イテ見テヰタイノニ。アノ〔二字傍線〕大和ニアル大島ノ嶺ニ私ノ住〔四字傍線〕家ガアレバヨイガ。コノ大津ニ來テヰテハダメダ〔コノ〜傍線〕。
 
○繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》――次相見六事計爲與《ツキテアヒミムコトハカリセヨ》(七五六)・用流能伊時仁越都伎提美延許曾《ヨルノイメニヲツギテミエコソ》(八〇七)その他用例があるが、繼而《ツキテ》は續いて斷えずの意、ここは斷えず見むものをの意。○大島嶺爾《オホシマノネニ》――この女王は額田王の姉で、平群郡額田郷に住まれたのであらう。額田郷は丘陵をなしてゐるから、大島嶺と呼ばれたのであらうと言はれてゐる。但しその舊地らしい今の額田部は平地でそれらしい丘も見えない。檜嬬手には山跡有大島嶺は、大倭島根の山の義で、山の名ではないといつてゐる。○家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》――猿をマシに用ゐるのは、マシラから出たのである。マシラは翻譯名義集に、摩斯※[口+託ノ旁]とあつて、梵語である。その頃梵語が民間にも行はれるやうになつてゐた一證である。(118)○一云|妹之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》――一二句の異傳である。古義はこれに從つてゐる。○一云|家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》――これは五の句のの異傳である。古義はこれを採つてゐる。
〔評〕 二の句と末句とにマシヲを並べて、韻を押んだやうになつてゐるのは、特更の技巧か、或は偶然か。二の句が、一云ツギテモミムニとなつてゐるのを見ると、この反覆法は、あまりよい手法とは見られない場合もあつたのだらう。併し予はその効果はともかくとして、これを原作の一技巧と認めたいと思ふ。
 
鏡王女奉(ル)v和(ヘ)御歌一首 鏡王女又曰2額田姫王也
 
御歌とある御は天皇・皇后・皇子・皇女の外には例なく、目録にも歌とのみあれば、御は衍であらう。端詞の下に鏡王女又曰額田姫王也とあるは後人の註である。金澤本にはない。
 
92 秋山の 樹の下がくり 逝く水の 吾こそ益さめ 御思よりは
 
秋山之《アキヤマノ》 樹下隱《コノシタガクリ》 逝水乃《ユクミヅノ》 吾許曾益目《ワレコソマサメ》 御念從者《ミオモヒヨリハ》
 
秋ノ山ノ木ノ落葉ノ〔三字傍線〕下ヲ隱レテ流レ行ク水ガ、外ニハアラハレテ見エナイガ、實際ハドンドン流レテヰル〔水ガ〜傍線〕ヤウニ、外ニハアラハナイデモ、實際ハ〔外ニ〜傍線〕私ガ貴方樣ヲ御慕ヒ申ス方ガ、貴方樣ノ御心ヨリモ勝ツテ居リマセウ。
 
○樹下隱《コノシタガクリ》――上に秋山之とあるから、この句は木の下の落葉に隱れるのをいつたものである。○逝水乃《ユクミヅノ》――逝く水の如くの意。舊本逝を遊に誤つてゐる。今、元暦校本・金澤本などに從つて改めた。
〔評〕 落葉の下を潜つて、外にあらはれずに流れて行く水に、我が忍戀の心を譬へたのは面白い。これを略解に、「秋は水の下れば、山下水の増るに譬へて、吾戀奉ることこそ君よりも増りたれと云也」と言つたのにも、古義に上句を序として、「秋はことさらに水の増れば、山下水の増るとつづきたり」といつたのにも從ひ難い。
 
内大臣藤原卿娉(スル)2鏡王女(ヲ)1時、鏡王女贈(レル)2内大臣(ニ)1歌一首
 
内大臣藤原卿は鎌足である。娉は娶りて妻とすること。
 
93 玉匣 覆ふを安み 明けて行かば 君が名はあれど 吾が名し惜しも
 
(119)玉匣《タマクシゲ》 覆乎安美《オホフヲヤスミ》 開而行者《アケテユカバ》 君名者雖有《キミガナハアレド》 吾名之惜毛《ワガナシヲシモ》
 
(玉匣覆乎安美)夜ガ明ケテカラ貴方ガ〔三字傍線〕御歸リナサルナラバ、キツト人ニ見付ケラレテ二人ノ浮名ガ立チマセウ〔キツ〜傍線〕。貴方ハ浮名ガ立ツテモ、男ノコトデ〔五字傍線〕平氣デセウガ、私ハ女デスカラ、サウハ參リマセヌ〔私ハ〜傍線〕。私ノ名ノ立ツノハ厭デゴザイマス。何卒早ク御歸リ下サイマセ〔何卒〜傍線〕。
 
○玉匣覆乎安美《タマクシゲオホフヲヤスミ》――開而《アケテ》と言ふ爲の序詞。玉匣の玉は美稱で、匣は櫛笥。櫛などを入れる箱。覆乎安美は、その蓋を覆ひかぶせることが容易であるから、從つて開けるのも亦易いといふ意で、開而に續いて序となるのである。匣の蓋は蝶つがひだから、覆ふのが易くて開くとかかるのだと檜嬬手には言つてゐる。○開而行者《アケテユカバ》――開而を玉匣にかかつてゐるといつた宣長説はどうであらう。なるほど玉匣は、あくの枕詞となるのを常とするが、この場合恐らくさうではあるまい。行者をイナバとよむのは賛し難い。
〔評〕 一二の句から開而《アケテ》と續いた序詞は、輕妙な巧みな感がする。又下の句は世に立つ名を恐れる女らしい心持がよくあらはれてゐる。これを略解に「君吾二字互に誤りつらむ。ワガナハアレドキミガナシヲシモとあるべし」と言つたのは、六帖に出た歌を參考とはしてゐるが、從ひ難い説である。
 
内大臣藤原卿報(ヘ)2贈(レル)鏡王女(ニ)1歌一首
 
94 玉くしげ みむろの山の さなかづら さ寢ずは遂に 有りがつましじ
 或本歌云、玉くしげみむろと山の
 
玉匣《タマクシゲ》 將見圓山乃《ミムロノヤマノ》 狹名葛《サナカヅラ》 佐不寢者遂爾《サネズハツヒニ》 有勝麻之自《アリガツマシジ》【或本歌云、玉匣三室戸山乃《タマクシゲミムロトヤマノ》】
 
貴女ハ早ク歸レト私ニ言ハレルガ、私ハ貴女ト一緒ニ〔貴女〜傍線〕(玉匣將見圓山乃狹名葛)寢ナイデハ、トテモアルコトガ出來ナイデセウヨ。共寢シナイデハ歸ルワケニイキマセヌ〔共寢〜傍線〕。
 
○玉匣將見圓山乃狹名葛《タマクシゲミムロノヤマノサナカヅラ》――サナカヅラから、同音を繰返してサネと續いた序詞。玉匣は身とかかる枕詞。將見圓山《ミムロノヤマ》は三室山で卷七に味酒三室山黄葉爲在《ウマサケミムロノヤマハモミヂセリケリ》(一〇九四)とあつて、次に三諸就三輪山見者《ミモロツクミワヤマミレバ》(一〇九五)とあるので見れば、三室山は即ち三輪山である。ミモロはミムロに同じ。御室即ち神の座す山の意であるから、神を齋く山(120)をかく呼ぶので、本來の固有名詞ではない。將見はミムとよんだもの。これで古代の助詞のムが撥音でなかつたことが分る。圓をロによむのは、マロのマが上のムと合して消えたものであらう。この字は他にロとよんだ例が無い。狹名葛《サナカヅラ》はさねかづらに同じ。美男かづらともいふ。木蘭科、南五味子屬の常緑木本で、蔓になつてゐる。莖は多量の粘液を含み、葉は長卵形で光澤がある。夏季帶白色の花を葉腋に開き、果實は赤色の小球の集合である。○佐不寢者遂爾《サネズハツヒニ》――佐《サ》は發語で、意味はない。○有勝麻之自《アリガツマシジ》――有るに堪へじの意である。從來アリガテマシモとよんでゐたが、モ(目)は元暦校本に自とあり、有不勝自《アリカツマシジ》(六一〇)・由吉可都麻思自《ユキガツマシジ》(三三五三)・有勝益士《アリガツマシジ》(七二三)・依勝益士《ヨリガツマシジ》(一三五二)の例によつて、アリガツマシジとよむべしといふ橋本進吉氏の説は、極めて條理あるものであるから、これに從ふべきである。勝《カツ》は堪ふる意。マシジは續紀の宣命にもアフマシジトシテ(二十六詔)、忘|得《ウ》マシジミナモ(五十八詔)と見える語で、マジといふ推量して打消す助動詞の原形であらう。その用例から推せば、すべて動詞の終止形に連るので、ガツは下二段の動詞であるから、ガツマシジと訓まねばならぬのである。○三室戸山乃《ミムロトヤマノ》――これは第二句の異傳である。三室戸山は、卷七に珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔所念《タマクシゲミモロトヤマヲユキシカバオモシロクシテイニシヘオモホユ》(一二四〇)とあつて、考には備中にある山としてゐるが、その次に玄髪《クロカミ》山の歌が出てゐるので見ると、やはり大和であらう。かつ歌意から考へて、どうも三輪山らしく思はれる。恐らくミムロトは御室處《ミムロト》の意で、三室山と同じである。美夫君志に、室戸の二字でムロとよむのだといつてゐるのは誤であらう。又、三室戸山は山城の宇治にもあるが、それは古からの名なるや否や明らかでない。
〔評〕 贈られた歌の初句玉匣を、こちらでも初句に使つて序詞を作り、狹名葛から、さ寢ずばと續けたところが、作者の技巧である。併し上古人の卒直な僞はらぬ表現とは言ふものの、下の句はあまり露骨で、貴紳らしい品位がないやうである。
 
(121)内(ノ)大臣藤原(ノ)卿娶(レル)2采女安見兒(ヲ)1時作(レル)歌一首
 
采女は孝徳紀に「凡采女者、貢(レ)2郡(ノ)少領以上、姉妹及子女、形容端正者1。從丁一人、從女一人、以2一百戸1宛(ツ)2采女一人(ノ)粮1、庸米、皆准(ヘ)2次丁(ニ)」とあり、内膳司式下に采女六十人と見え、天皇の御饌に奉仕するものである。采は采擇の義で、多くの内から擇び出した女の意であらう。語意はウナゲベの約で、ウナゲは物を頂《ウナジ》に掛けることであるから、采女は、領巾を首に掛けて奉仕する者の義であらう。大祓詞に比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》とあるも同じである。安見兒は采女の名。
 
95 吾はもや 安見兒得たり 皆人の 得がてにすとふ 安見兒得たり
 
吾者毛也《ワレハモヤ》 安見兒得有《ヤスミコエタリ》 皆人乃《ミナヒトノ》 得難爾爲云《エガテニストフ》 安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》
 
私ハヨ、安見兒ヲ娶ツタ。世間ノ〔三字傍線〕多クノ人々ガ、得ヨウトシテナカナカ得ラレナイトイフ、アノ美シイ〔五字傍線〕安見兒ヲ得タ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○吾者毛也《ワレハモヤ》――毛也《モヤ》は詠嘆の助詞。この句を古義にアハモヤとよんでゐるのは面白くない。
〔評〕 采女の安見兒といふ美人、それは、多くの大宮人が手に入れようとして、目的を達し得なかつた女である。それを得た鎌足の喜悦と滿足と、得意らしさとが、極めて輕快な調子で詠まれてゐる。第二句と第五句との繰返が、如何にも愉快らしい感じを出してゐる。
 
久米禅師娉(スル)石川|郎女《イラツメヲ》1時(ノ)歌五首
 
禅師は俗人か。續紀に阿彌陀、釋迦などの名を禁ずることが見えてゐる。これもその類であらう。美夫君志には僧侶として説いてゐる。久米氏は姓氏録に「武内宿禰五世孫稻目宿禰(ノ)後」と見えてゐる。石川郎女はもと筑前の遊行女婦であつたが、後、京に上つて多くの人にあつた女であると、檜嬬手の別記に委しく論じてある。併し石川郎女は一人ではないらしく思はれる。
 
96 みすず苅る 信濃の眞弓 吾が引かば うま人さびて 否と言はむかも
 
(122)水薦苅《ミスズカル》 信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》 吾引者《ワガヒカバ》 宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》 不欲常將言可聞《イナトイハムカモ》  禅師
 
(水薦苅、信濃乃眞弓)私ガ貴女ヲ〔三字傍線〕引キ誘フ〔三字傍線〕ナラバ、貴女ハ〔三字傍線〕貴人ブツテ、コノ賤シイ私ノ言フコトヲ〔コノ〜傍線〕否ト言ウテ撥ネツケル〔六字傍線〕カモ知レナイヨ。
 
○水薦苅信濃乃眞弓《ミスズカルシナヌノマユミ》――引者《ヒカバ》につづく序詞。水薦苅は信濃の枕詞。水薦《ミスズ》は小竹のことで、信濃の山に多く生えてゐる。冠辭考には薦を篶の誤として改めてゐるが、美夫君志に篶は古くは用ゐなかつた文字だと考證してゐる。神代紀にも、五百箇野薦《イホツヌズズ》とあるから、この説に從ふべきだ。薦は茂草の義であるが、これを小竹の意に用ひたもの。篶は黒竹。水《ミ》は借字で、眞と同じ。次の歌には三を用ゐてゐる。舊訓にミクサとあるのも、古義にミコモとあるのもよくない。信濃・甲斐から弓を貢つたことが、續紀や延喜式に見えてゐる。○宇眞人佐備而《ウマヒトサビテ》――宇眞人《ウマヒト》は貴人、佐備而《サビテ》は、ぶりての意。
〔評〕 一寸女の心を引いて見たまでの歌。新後拾遺集に寄弓戀、前大納言爲定、「強ひてよも言ふにもあらじみこもかる信濃の眞弓ひかぬ心は」とあるのはこれを本歌としたもの。
 
97 み薦苅る 信濃の眞弓 引かずして 弦はくるわざを 知ると言はなくに
 
三薦苅《ミスズカル》 信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》 不引爲而《ヒカズシテ》 弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》 知跡言莫君二《シルトイハナクニ》    郎女
 
(三薦苅信濃乃)弓ヲ引カナイデハ、弦ヲ張ルコトヲ知ルモノハナイト、世間デ〔三字傍線〕言フデハアリマセンカ。貴方モ私ヲ引イテ御覽ナサラナケレバ私ガ否ト云フカ、ドウカ分カラナイデハアリマセンカ〔貴方〜傍線〕。
 
○絃作留行事乎《ヲハクルワザヲ》――作は矢作部《ヤハギベ》と書紀に見えるによつて、ハグとよむべきだが、下の歌に都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》(九九)とあるによつても、亦卷十六に牛爾己曾鼻繩波久禮《ウシニコソハナナハハクレ》(三八八六)とあるので見ても、ここはハクルとよむのがよい。ハクルは佩かしむること。即ち弓に弦を著けることである。弦の字、舊本に強とあるは誤。○知跡言莫君二《シルトイハナクニ》――知と言はざるにの意。檜嬬手に「唯、知らなくといふ言なり」とあるが、語勢から考へて、さうは思はれない。
(123)〔評〕 贈られた歌の序詞を巧みに生かして、弓をもつて暗喩法を用ゐて答へたのは、あなどり難い巧手である。男を呑んでかかつた蓮葉な態度である。
 
98 梓弓 引かばまにまに よらめども 後の心を 知りがてぬかも
 
梓弓《アヅサユミ》 引者隨意《ヒカバマニマニ》 依目友《ヨラメドモ》 後心乎《ノチノココロヲ》 知勝奴鴨《シリガテヌカモ》
 
(梓弓)引クナラバ私ハ貴君ノ心ノママニ、引クニ〔私ハ〜傍線〕從ツテ依リモシマセウガ、シカシアナタガ、行末永ク愛シテ下サルカドウカ〔シカ〜傍線〕、後々マデノ心ガ分リマセンヨ。
 
○梓弓《アヅサユミ》――引者《ヒカバ》の枕詞に用ゐてある。梓弓は、梓の木で作つた弓。○依目友《ヨラメドモ》――依るは心の靡き依るをいふ。引き寄せる意から出たもの。弓の縁語として用例が多い。梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アズサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》(二九八五)の類である。○知勝奴鴨《シリガテヌカモ》――知り得ざるかもといふに同じ。奴は否定の助詞。このガテヌについては古來諸説があつて、ヌを完了とするものと、否定とするものとに見解が分れてゐる。併し九四の歌に述べたやうに、勝《ガテ》は堪ふ、能ふの意であるから、ヌを完了とするわけには行かぬ。從來ガテを難の意としたのは間違つてゐる。
〔評〕 前の歌があまり能動的に聞えるので、ともかくも後の心を知りたいと、女らしく言ひ出たのである。この二首は一緒に贈つたのである。
 
99 梓弓 つらをとりはけ 引く人は 後の心を 知る人ぞ引く
 
梓弓《アヅサユミ》 都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》 引人者《ヒクヒトハ》 後心乎《ノチノココロヲ》 知人曾引《シルヒトゾヒク》        禅師
 
(梓弓都良絃取波氣)人ヲ引キ誘フ人ハ、後々マデノ心ヲ定メテカラ引クモノデス。決シテ私ハ貴方ヲ後ニナツテ捨テルコトハアリマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》――蔓弦取佩けで、ツラはツルと同語。元來藤づるなどを弦としたのである。ツラヲは同意の語を重ねたもの。絃の字は弦に通はして用ゐてゐる。取波氣《トリハケ》は前の弦作皆《ヲハクル》で説明した通り、弓に弦をかけるこ(124)と。この一二の兩句は引くの序である。○引人者《ヒクヒトハ》――自分を指してゐる。
〔評〕 前の梓弓の歌に對する返事で、後の心變りなどは絶對にないから、安心して我により給へといふのである。濱臣がこの二歌の作者を下に記したのは、後人の業で、ここは郎女と禅師とが反對になつてゐるやうに言つたのは賛同出來ない。
 
100 東人の 荷前の箱の 荷の緒にも 妹が心に 乘りにけるかも
 
東人之《アヅマビトノ》 荷向※[しんにょう+筴]乃《ノザキノハコノ》 荷之緒爾毛《ニノヲニモ》 妹情爾《イモガココロニ》 乘爾家留家聞《ノリニケルカモ》 禅師
 
坂東ノ人ガ貢物ノ御初穗ヲ入レル箱ヲ、馬ニ乘セテ〔五字傍線〕縛ル緒ノヤウニ、愛スル女ハ始終〔二字傍線〕私ノ心ニ乘ツテヰテ目ニ見エルヤウデ忘レル間モナカツ〔テ目〜傍線〕タワイ。
 
○東人之《アヅマヒトノ》――舊訓アヅマヅとあり。アヅマドと訓むを可とする説もあるが、アツマビトでよからう。坂東諸國の人をいふ。狩谷望之は、萬葉集の東人は廣く邊鄙の人をいふと和名抄箋注にいつてゐるが、さうではあるまい。○荷向※[しんにょう+筴]乃《ノザキノハコノ》――荷向《ノザキ》は貢物として朝廷に奉る物の初物をいふ。※[しんにょう+筴]は諸本に篋に作るは俗字である。篋は笥に同じく、箱である。○荷之緒爾毛《ニノヲニモ》――荷の緒の如くにもの意で、荷の緒は、祈年祭祝詞に「荷前者《ノザキハ》云々、自陸往道者荷緒縛堅弖《クガヨリユクミチハニノヲユヒカタメテ》」とある如く、荷物の緒を結んで、馬の背に乘せるから、乘ると五の句へ續くのである。○妹情爾《イモガココロニ》――妹のことが我が心にの意。○乘爾家留家聞《ノリニケルカモ》――心に乘るとは、妹のことが我が心の上に常に忘れる間もなく、思はれる意。聞を舊本問に作るは誤。元暦校本によつて改めた。
〔評〕 この譬喩は奇拔である。荷前といへばこの上もない神聖なものだ。祝詞にもあるやうに、荷の緒結ひ堅めて運ぶ間の心づかひは一通りではあるまい。この荷前を馬に乘せたやうに、女のことが我が心に乘つてゐるといふので、寸時も忘れ得ぬ重苦しさがよく現はれてゐる。
 
大伴宿禰娉(セシ)2巨勢郎女(ヲ)1時(ノ)歌一首
 
(125)大伴宿禰は家持の祖父安麻呂であらう。考には大伴御行として。その若き時近江宮でよんだものだらうといってゐるが、元暦校本などの古註に「大伴宿禰諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子、平城朝任2大納言兼大將軍(ニ)1薨」とあるのに從つてもよからう。
 
101 玉葛 實ならぬ樹には ちはやぶる 神ぞ着くとふ 成らぬ樹ごとに
 
玉葛《タマカヅラ》 實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》 千磐破《チハヤブル》 神曾著常云《カミゾツクトフ》 不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》
 
(玉葛)實ノ成ラナイ木ニハドノ木ニモ必ズ(千磐破)神樣ガオ着《ツ》キナサルトイフ諺ガアリマス。ソレト同ジヤウニ貴方ガイツマデモ男ヲ持タズニ一人デヰルナラバ、神樣ガ御著キナサルダラウカラ用心ナサイ。私ト結婚シテハドウデス〔ソレ〜二字傍線〕。
 
○玉葛《タマガヅラ》――蔓になりたる草木の總稱。玉は美稱である。多く實あるものであるから、實の枕詞に用ゐた。○實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》――玉葛は實にのみかかつてゐる。不成までにはかからない。實不成樹とは、女が男を持たぬに譬へたのである。女が眞實なく口先ばかりなるに譬へたといふ説はよくない。○千磐破《チハヤブル》――最速振《イチハヤブル》を約めた語で、強い、勇猛なといふ意から起つて、神の枕詞となつた。○神曾著常云《カミゾツクトフ》――神がその木に憑きて、それを領するといふ諺があるといふ意で、常云《トフ》は、と云ふの約。神が領ずればいよいよ男を得難くなるのである。
〔評〕 實ならぬ樹には神が著くものだといつて、男せぬ女にも神が著いて、ますます、男を得難くなるものであると、ほのめかしたのは、面白い。もとより戯言であるが、聞く方には、薄氣昧惡い脅し文句にも聞える。神威を恐れることの甚だしかつたこの時代には、一寸聞き捨てならぬ言葉であつたに違ひない。
 
巨勢郎女報(ヘ)贈(レル)歌一首
 
元暦校本に、ここに小文字で、「即近江朝大納言巨勢人卿之女也、」と注してある。
 
102 玉かづら 花のみ咲きて 成らざるは 誰が戀ならめ 吾は戀ひ念ふを
 
(126)玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不成有者《ナラザルハ》 誰戀爾有目《タガコヒナラメ》 吾孤悲念乎《ワハコヒモフヲ》
 
(玉葛)花バカリ咲イテ實ガナラナイ、口先バカリデ眞實ガナイトアナタガ仰ル〔口先〜傍線〕ノハ誰ノ戀デアリマセウ。私ハ眞實ニ貴方ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマスノニ。大方貴方御自身ノコトデモアリマセウ〔大方〜傍線〕。
 
○花耳開而不成者《ハナノミサキテナラザルハ》――前の實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》とあつたのを受けて、口先ばかりで眞實のない戀に言ひ變へたのである。○誰戀有目《タガコヒナラメ》――後世の語法ならばナラムと言ふべきであるが、ナラメと言ふのは古法である。略解一説にナラモとあり、古義もこれに從つてゐる。目をモの假名に用ゐた例は他もあるが、恐らくこれはナラメであらう。不所見十方孰不戀有米《ミエズトモタレコヒザラメ》(三九三)の如きはこれと同じ例である。
〔評〕 贈つた歌は單に實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》といつたのを、花耳開而不成者《ハナノミサキテナラザルハ》はとして、花ばかりで實がないと言つたので、前の歌の意を、そしらぬふりして言ひ替へた趣が見えて面白い。又、誰戀有目《タガコヒナラメ》も空とぼけた風で、それとなく男に當てつけ、吾孤戀念乎《ワハコヒモフヲ》と駄目を押したところは巧なものである。
 
明日香清御原宮御宇天皇代  天渟名原瀛眞人天皇《アメノヌハラオキノマヒトノスメラミコト》
 
天渟名原瀛眞人天皇とあるは、後人の注であるが、天皇の下、諸本、謚曰天武天皇の六字あるのは、更に後人の注である。
 
天皇賜(ヘル)2藤原夫人(ニ)1御歌一首
 
書紀天武天皇二年の條に「夫人(ハ)藤原大臣女(ノ)氷上娘、生2但馬皇女1、次(ニ)夫人氷上(ノ)娘|弟《イモ》五百重娘、生2新田部皇子1」とあり、卷八夏雜歌の初に藤原夫人として、細字をもつて「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也」とあれば、妹の方であらう。大原大刀自とは大原に住んでゐたから呼んだものであらう。御の下、製の字を脱したかとも思はれるが、このままでよいであらう。
 
103 吾が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後
 
(127)吾里爾《ワガサトニ》 大雪落有《オホユキフレリ》 大原乃《オホハラノ》 古爾之郷爾《フリニシサトニ》 落卷者後《フラマクハノチ》
 
私ノ住ムコノ〔二字傍線〕里ニ大雪ガ降ツタ。ヨイ景色ダ。オマヘノ居ル大原ノ淋シイ〔三字傍線〕古郷ニ降ルノハ、マダマダ後ダ。羨シイダラウ〔六字傍線〕。
 
○大原乃古爾之郷爾《オホハラノフリニシサトニ》――大原は續紀に「天平神護元年十月己未朔辛未、行2幸紀伊國(ニ)1云々、是日到2大和(ノ)國高市(ノ)小治田(ノ)宮1、壬申、車駕巡2歴大原長谷(ヲ)1臨2明日香川(ニ)1而還」とあるによつて、考には、「今にも飛鳥の西北の方に大原てふ所ありて、鎌足公の生れ給へる所とて社あり。是大方右の紀にかなへり」と言つてゐる。大日本地名辭書には、この地を藤原の別稱として、今の鴨公村高殿の地だらうと推定してゐる。然るに古義の一説に「大原は後飛鳥岡本宮の舊跡の、東北三四丁ばかりあり。かかれば舊にし里とはよませ給へるなるべしといへり。いかがあらむ」といつてゐるが、近時、辰巳利文氏は、その著、大和萬葉地理研究に「私は大原の里は、今の高市郡飛島村|小原《をはら》の地であること(128)のみを明記して置けばいいのであります。小原村の西端に神社があつて、そこを藤原鎌足の誕生地と稱してをるのでありますが、鎌足の誕生地がはたして今申す神社の位置にあたるか、あたらないかは別問題として、私は藤原鎌足の居住地はたしかに今の小原でなくではならないと考へるのであります。ここを別に藤原の里とも申してをりますが、これは藤原氏の居住地であつたことから出てきた名稱であると考へられるのであります。ただし藤原宮は別のものであります」と記してゐる。次の歌に吾崗之於可美爾言而《ワガヲカノオカミニイヒテ》とあるのを見ても、これを飛鳥の西北の平坦地に求めるよりも、山近い東北方に求めるのが穩やかで、辰己利文氏の研究は蓋し當を得てゐるであらう。古爾之郷《フリニシサト》は、古々しく淋れた郷といふのであらう。舊都と關係はあるまい。挿入の寫眞は即ち古の大原の里で、前方の神社の境内が藤原鎌足の誕生地と稱せられてゐるところ、村落は飛鳥村大字小原である。左方の山が八釣山。○落卷者後《フラマクハノチ》――降らむは後なりの意。マクは未來の助動詞ムの延言と説明せられてゐる。
〔評〕 この御歌は頗る輕い氣分で、藤原夫人を揶揄せられたもので、さ程にもない雪を大雪と宣ひ、夫人の住む里を古りにし里と貶しめ、落らまくは後と羨しがらせるやうに詠まれたものである。その諧謔的氣味は輕い調子の上にもよくあらはれてゐる。
 
藤原夫人奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
104 わが岡の ※[雨/龍]神に言ひて 降らしめし 雪の摧けし 其處に散りけむ
 
吾崗之《ワガヲカノ》 於可美爾言而《オカミニイヒテ》 令落《フラシメシ》 雪之摧之《ユキノクダケシ》 彼所爾塵家武《ソコニチリケム》
 
陛下ハソチラバカリ雪ガ降ルヤウニ仰リマスガ、コチラハ、モツトエライ大雪デゴザイマス。ソチラニ降ル雪ハ〔陛下〜傍線〕私ノ住ンデヰマス里ノ〔八字傍線〕岡ノ、※[雨/龍]《オカミ》ト云イフ神樣〔六字傍線〕ニ御祈シテ、私ガ私ノ里ニ〔六字傍線〕降ラセマシタ雪ノ碎ケタ片ガ、少シバカリ〔五字傍線〕ソチラニ降ツタノデゴザイマセウ。
 
○於可美爾言而《オカミニイヒテ》――於可美は※[雨/龍]である。神代紀に高※[雨/龍]《タカオカミ》・闇※[雨/龍]《クラオカミ》の名が見える。古事記にも闇於可美神《クラオカミノカミ》とある。蓋し(129)高※[雨/龍]は空にゐる龍神で、闇※[雨/龍]は谷の龍神である。水を掌るから、この神に申して雪を降らしめ給ふやうに言はれたのである。言の字を古義に乞に改めたのは、例のさかしらである。○令落《フラシメシ》――フラセタルの訓も行はれてゐるが、やはりフラシメシがよからう。○雪之摧之《ユキノクダケシ》――摧《クダケ》は動詞の連用形から來た名詞で、之《シ》は強める助詞である。これを略解に「くだけしのしは過去の言なり」とあるは誤つてゐる。
〔評〕 これは又ひどい竹箆返である。※[雨/龍]神に言つて降らせた雪の碎けが、そちらに降つたのでせうとは、隨分思ひ切つた串戯であるが、誠に機智に富んだ巧な作である。これをお受取りになつた天皇が、これはうまくしてやられたと、笑ひくづれ給うたであらうことが想像されて面白い。この種の歌としては傑作であらう。
 
藤原宮御宇天皇代  高天原廣野姫天皇《タカマノハラヒロヌヒメノスメラミコト》
 
元暦校本に藤原宮御宇高天原廣野姫天皇の代とあるのは、他の例に異なつてゐるから誤であらう。舊本、天皇代の下に天皇謚曰2持統天皇1の八字があるのも、後人の注で用ゐるべきない。ここは卷一の例に傚つた。
 
大津皇子竊(ニ)下(リテ)2於伊勢神宮(ニ)1上(リ)來(ル)時、大伯《オホク》皇女御作歌
 
大津皇子は書紀、天武天皇二年の條に「先納(レテ)2皇后(ノ)姉大田(ノ)皇女(ヲ)1爲v妃(ト)生(ム)2大來皇女(ト)與2大津皇子1、」とあり、持統紀には、「朱鳥元年十月己巳、皇子大津、謀反發覺、逮2捕(ス)皇子大津(ヲ)1、庚午賜2死(ヲ)皇子大津(ニ)於|譯語田舍《ヲサダノイヘニ》1時年二十四、妃皇女山(ノ)邊、被髪徒跣、奔赴(シテ)殉(ス)焉、見者皆歔欷(ス)、皇子大津(ハ)、天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)第三子也、容止墻岸、音辭俊明爲(ニ)2天命開別天皇1所v愛、及v長辨有2才學1、尤愛2文筆(ヲ)1詩賦之興、自2大津1始也」とある。窺下2於伊勢神宮(ニ)1とあるは、大津皇子が姉君大伯皇女に遭ひ給はむ爲に、伊勢に下り給ひしをいふのである。皇子は兼ねての御企圖が露見し、身邊の危急を感ぜられて、竊かに伊勢の齋宮にまします姉宮と、訣別に赴かれたものと見える。天武天皇は朱鳥元年九月九日崩御、皇子の謀反露見は十月二日で、三日に死を賜はつたのであるから、伊勢へ下られたのは、(130)或は天武天皇崩御の以前かも知れない。併し次の歌に、二人行杼去去難寸秋山乎《フタリユケドユキスギガタキアキヤマヲ》とあつて、秋の頃であつたから、崩御の前後であつたに相違ない。大伯皇女は、大來皇女とも記してある。齊明天皇紀に「七年正月甲辰、御船到2于大伯海1時大田姫皇女産v女焉、仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。又天武天皇紀に「二年夏四月己巳、欲v遣v侍2大來皇女(ヲ)于天照大神宮(ニ)1而令v居2泊瀬齋宮1云々、三年冬十月乙酉、大來皇女、自2泊瀬齋宮1向2伊勢神宮1」とある。
 
105 わが背子を 大和へ遣ると さ夜更けて あかとき露に 吾が立ち霑れし
 
吾勢枯乎《ワガセコヲ》 倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》 佐夜深而《サヨフケテ》 ※[奚+隹]鳴露爾《アカトキツユニ》 吾立所霑之《ワガタチヌレシ》
 
吾ガ弟ガ大和ヘノ歸リヲ送ルトテ、夜更ケテ外ニ出テ〔四字傍線〕、夜明ノ露ニ、私ハ立ツテ居テ霑レマシタヨ。名殘惜シイコトデシタ〔十字傍線〕。
 
○吾勢枯乎《ワガセコヲ》――勢枯は背子で、普通は夫をいふのであるが、元來、男を親しみ呼ぶ名で、ここは弟君をさしたのである。○※[奚+隹]鳴露爾《アカトキツユニ》――アカトキは明時で、即ち後世のアカツキである。※[奚+隹]鳴をアカトキと訓むのは、仁徳紀にも見える。○吾立所霑之《ワガタチヌレシ》――之《シ》を以て留めたのは詠歎の意が籠つて、ヌレシヨの意になる。吾はワレとよんでもあるが、ワガとよむ方がよからう。この下にも吾二人宿之《ワガフタリネシ》(一〇九)とある。
〔評〕 佐夜深而《サヨフケテ》と言つて、更に鷄鳴露爾《アカトキツユニ》とあるのは、夜と曉とを混同してゐるやうに見えるかも知れないが、さうではない。夜深けに大和へ旅立ち給ふ君を送つて、そのまま立ち盡して、曉の露に濡れ給うたのである。下の句はあはれな感情が籠つてゐる。
 
106 二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越えなむ
 
二人行杼《フタリユケド》 去過難寸《ユキスギガタキ》 秋山乎《アキヤマヲ》 如何君之《イカニカキミガ》 獨越武《ヒトリコエナム》
 
我ラ姉弟一緒ニ〔七字傍線〕、二人デ行ツテモ淋シクテ〔四字傍線〕通リ過ギ難イ秋ノ山ヲ、ドンナ御樣子デ我ガ弟ノ君ハ、タダ一人デ越エナサルダラウ。サゾ淋シデアラウ〔八字傍線〕。
 
(131)○二人行杼《フタリユケド》――二人行クトモといふに同じ。去過難寸《ユキスギガタキ》と下に斷定的の語があるので、上にかうしたのである。○如何君之《イカニカキミガ》――舊訓はイカデカであるが、イカニカとすべきである。伊可爾可和可武《イカニカワカム》(八二六)・伊可爾可由迦牟《イカニカユカム》(八八八)とあり、又|燎火乎何如問者《モユルヒヲイカニトトヘバ》(二三〇)・思情乎何如裳勢武《オモフココロヲイカニカモセム》(一三三四)など、いづれもイカデカとは訓み得ざるところである。○獨越武《ヒトリコエナム》――ヒトリコユラムが舊訓であるのを、考にコエナムと改めた。これはどちらが良いとも分らないが、ラムといふ時には、多く良の字を用ゐるか、又は覽か濫の一字で記すやうであるから、ナムとよむことにして置かう。
〔評〕 前の歌と共に、言ひ知れぬ悲調が溢れてゐて、皇子の御身の異變を、豫め感知してゐられたやうに思はれる。肉身の愛情がかうした悲歌を生んだのである。この二歌は訣別後、詠吟せられたものである。
 
大津皇子贈(レル)2石川郎女(ニ)1御歌一首
 
石川郎女又は女郎といふ人が所々に出てゐるが、同一人と思はれないのもある。これは前の久米禅師が娉した女とは、別人で、下に大津宮(ノ)侍とあつて、古注に女郎字曰2山田郎女1也とある女らしく思はれる。
 
107 あしびきの 山の雫に 妹待つと われ立ち霑れぬ 山の雫に
 
足日木乃《アシビキノ》 山之四付二《ヤマノシヅクニ》 妹待跡《イモマツト》 吾立所沾《ワレタチヌレヌ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 
私ハアナタノ來ルノヲ待ツトテ、立ツテヰテ、(足日木乃)山ノ木カラ落チル〔六字傍線〕雫ニ濡レマシタ。山ノ木カラ落チル〔六字傍線〕雫ニ濡レマシタ。誠ニツライコトデシタヨ〔誠ニ〜傍線〕。
 
○足日木乃《アシビキノ》――山の枕詞で、最も多く用ゐられる枕詞であるが、その意味は明らかでない。山はあへぎあへぎ足を曳いて登るものだから、足曳の意とする契沖説は、あまりに俗らしく、青茂木《アヲシミキ》の略とした冠辭考や、茂檜木《イカシヒキ》の略とした古義の説は、あまり學者めいてゐる。寧ろ、脚を長く引いた一構の地の義で、足引城《アシヒキ》だとした古(132)事記傳の説が穩やかさうである。
〔評〕 やさしい、優麗ななつかしい感じの歌である。山之四付二《ヤマノシヅクニ》を繰返したところ、快い調子が相手の哀情をそそるやうである。
 
石川郎女奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
108 吾を待つと 君が霑れけむ あしびきの 山の雫に ならましものを
 
吾乎待跡《アヲマツト》 君之沾計武《キミガヌレケム》 足日木能《アシビキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》 成益物乎《ナラマシモノヲ》
 
私ガ行クノ〔四字傍線〕ヲ待ツトテ、アナタガ御濡レナサツタ(足日木能)山ノ木カラ落チル〔六字傍線〕雫ニ私ハ〔二字傍線〕成リタイモノデス。サウシタラ、貴方ニツイテヰテ、逢ハレナイ心配モナク、ドンナニヨイカ知レマセヌ〔サウ〜傍線〕。
 
〔評〕吾立所沾山之四附二《ワレタチヌレヌヤマノシヅクニ》と同情を求めて來たのに對して、山之四附二成益物乎《ヤマノシヅクニナラマシモノヲ》と輕く受け流したのは、實に巧妙な、否寧ろ老獪な手法である。妖艶な蠱惑的なところがあつて、守部が石川郎女を遊行女婦と見たのも、一理あることのやうに思はれる。
 
大津皇子竊(ニ)2婚(スル)石川女郎(ニ)1時、津守(ノ)連通占(ヒ)2露《アラハス》其事(ヲ)1皇子御作歌一首
 
續日本紀に「養老五年正月甲戌詔曰、宜【丙】擢d於百僚之内、優2遊(シ)學業(ニ)1堪v爲2師範(ト)1者(ヲ)u特(ニ)加(テ)2賞賜(ヲ)1勸(メ)【乙】勵(ス)後生(ヲ)【甲】、因賜2陰陽從五位下津守(ノ)連通(ニ)※[糸+施の旁]十疋絲十絢、布二十端、鍬二十口(ヲ)1。」「同七年正月丙子、津守連通從五位上」とある。
 
109 大船の 津守の占に 告らむとは 正しに知りて 我が二人宿し
 
大船之《オホフネノ》 津守之占爾《ツモリノウラニ》 將告登波《ノラムトハ》 益爲爾知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》
 
(大船之)津守(ノ)連ノ占卜《ウラナヒ》ニウラナハレテ、アラハサレヨウトハ、前カラ〔三字傍線〕慥カニ知ツテ居テ、私ラ二人ハ寢タノダ(133)ヨ。今更顯ハレタトテ騷グニモ及ブマイ〔今更〜傍線〕。
 
○大船之《オホフネノ》――大船の泊る津の意で、枕詞としたもの。○津守之占爾《ツモリノウラニ》――津守連通の占にの意で、この人卜占に秀でたことは、右に掲げた續紀の文に明らかである。○益爲爾知而《マサシニシリテ》――誤字ありとして宣長は益?爾《マサデニ》とし、古義は兼而乎《カネテヲ》としてゐるが、益爲爾は正しに〔三字傍点〕で、正しといふ形容詞の終止形に、にを添へたものか。書紀の厩戸皇子の御詠に、於夜那斯爾那禮奈理※[奚+隹]迷夜《オヤナシニナレナリケメヤ》とある、無しに〔三字傍点〕と同じ形であらう。○我二人宿之《ワガフタリネシ》――我が二人寢しよの意で、前の吾立所霑之《ワガタチヌレシ》と同じ形。
〔評〕 この御歌は事の露見した後に、度胸を据ゑて、覺悟の前だと、平然として居られるやうな態度の作である。下の句の語氣の捨鉢的なところに、この皇子の豪邁な御氣性も見えてゐる。
 
日並皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》贈2賜(ヘル)石川女郎(ニ)1御歌一首 女郎字曰2大名兒1也
 
考には日並の下、知の字を補ってゐる。これは續紀に日並知皇子尊とあるによつたのであらうが、本集では總べてかう記してあるから、知を省いたものである。元暦校本目録や、本朝月令には、日並所知皇子と記してあるから、日並知もその省略なのである。訓は卷一に日雙斯皇子命とあるに同じ。草壁の皇太子を指し奉つたのである。女郎字曰2大名兒1也とあるのは舊本にはないが、金澤本にはある。古注である。
 
110 大名兒を をち方野邊に 苅るかやの 束の間も 吾忘れめや
 
大名兒《オホナゴヲ》 彼方野邊爾《ヲチカタヌベニ》 苅草乃《カルカヤノ》 束間毛《ツカノアヒダモ》 吾忘目八《ワレワスレメヤ》
 
大名兒ヲ(彼方野邊爾、苅草乃)少シノ間デモ私ハ忘レヨウカ、決シテ忘レハシナイ。オマヘノ事ヲ始終思ツテヰルヨ〔オマ〜傍線〕。
 
○大名兒《オホナゴヲ》――大名兒は題詞の下の注にある如く、石川女郎の字《アザナ》である。オホナゴヤ、又はオホナゴとよむ説も(134)あるが、下へ續くにはオホナゴヲとある方がよい。この句から五の句に連なるのである。○彼方野邊爾苅草乃《ヲチカヌベニカルカヤノ》――これは束《ツカ》とつづく序詞で、束は握むこと、即ち一握の長さをいふので、短いことを示す。それを時間の短いのにも用ゐるのである。苅草は、美夫君志にカルクサとよんでゐるが、カルカヤでよからう。卷十一の紅之淺葉乃野良爾《クレナヰノアサバノヌラニ》苅草乃(二七六三)とあるのも、卷十二に三吉野之蜻乃小野爾《ミヨシヌノアキツノヲヌニ》苅草之(三〇六五)とあるのも、前後の歌を見ると、皆草の名をあげてゐるから、カルカヤノとよむべきやうに思はれる。彼方野邊爾苅草乃《ヲチカタヌベニカルカヤノ》といふ言ひ方は、祝詞大祓詞に、彼方之繁木本乎燒鎌乃敏鎌以?打掃之如久《ヲチカタノシゲキガモトヲヤギガマノトガマモチテウチハラフコトノゴトク》とあるのを思はしめるものがある。
〔評〕 彼方野邊爾苅草乃《ヲチカヌベニカルカヤノ》といふ序詞から、束間毛《ツカノアヒダモ》とつづいたところが、この歌の技巧の中心點である。かうした言ひ方は後世の歌の規準になつてゐるのであるが、卷十一に、紅之淺葉乃野良爾苅草乃束之間毛吾忘渚菜《クレナヰノアサバノヌラニカルカヤノツカノアヒダモワヲワスラスナ》(二七六三)といふ古い民謠らしいものが載せてあるのを見ると、これは果して皇子の創意であるや否や疑はしい。大名兒《オホナゴヲ》の句の坐りの惡さを考へると、これは從來あつた歌の型に嵌めたものではあるまいか。
 
幸(セル)2于吉野宮1時、弓削皇子贈2與(フル)額田王(ニ)1歌一首
 
弓削皇子は天武天皇の第六子である。天武天皇紀に「次(ノ)妃大江皇女、生2長皇子|與《ト》弓削皇子1」とある。續紀に文武天皇の三年七月薨と見える。
 
111 いにしへに 戀ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より 鳴きわたり行く
 
古爾《イニシヘニ》 戀流鳥鴨《コフルトリカモ》 弓絃葉乃《ユヅルハノ》 三井能上從《ミヰノウヘヨリ》 鳴渡遊久《ナキワタリユク》
 
今鳥ガ鳴イテ通ルガ、アノ鳥ハ、父ノ天皇ガ此處ヘ御出デナサレタ〔今鳥〜傍線〕昔ヲ戀ヒ慕ツテ、嶋ク〔四字傍線〕鳥カヨ。チヤウド〔四字傍線〕、コノ弓弦葉ノ三井ノアタリヲ、心有リサウニ〔六字傍線〕嶋イテ飛ンデ行クヨ。
 
○古爾戀流鳥鴨《イニシヘニコフルトリカモ》――古を戀ふる鳥なるかもと推測したのである。古とはこの皇子の父君天武天皇の行幸をさしたので、今、持統天皇の吉野宮へ行幸に際して、天武天皇の行幸あらせられたことを思ひ出され、鳥もそのか(135)みを思つて鳴くかと宣うたのである。○弓絃葉乃三井能上從《ユヅルハノミヰノウヘヨリ》――弓絃葉の三井は泉の名である。その邊に弓弦葉の大木があつたのであらう。弓絃葉は交讓《ユヅリハ》木のことで、この木の葉を、年賀の飾に用ゐるので、人によく知られてゐる。絃の字、弦の誤とした説もあるが、前に弦と絃と通じて、都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》とあり、齋宮寮式にも、弓絃葉一荷とあるから、これでよいのである。三井は御井で、藤原御井・山邊御井とある御井と同じである。この井は大和志に「弓絃葉(ノ)井在v二、一在2池田莊六田村1、一在2川上莊大瀧村1」とある。上從は上をの意。
〔評〕 持統天皇の駕に從つて、吉野に來給うた弓削皇子は、父君天武天皇の皇子時代の隱處でもあり、即位後の遊覽の地でもあつたこの勝景に對して、父君を偲ばずには居られなかつた。今、山にさわぐ群鳥の聲も、昔を思つて鳴くのではないかと疑はれるのである。かうした心を語り、共に昔を懷ふ人は、天武天皇の寵妃であつた額田王である。ここに忽ち一首の歌は使によつて、都なる額田王の許に贈られたのである。柔い感情のあらはれた歌。
 
額田王奉(レル)v和(ヘ)歌一首 從2倭京1進入
 
從2倭京1進入は舊本にないが、元暦校本その他にある。古い注であらう。
 
112 いにしへに 戀ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 吾が戀ふるごと
 
古爾《イニシヘニ》 戀良武鳥者《コフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》 盖哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾戀流其騰《ワガコフルゴト》
 
アナタハ、鳥ガ昔ヲ戀ウテ鳴イタト仰リマシタガ、ソノ〔アナ〜傍線〕古ヲ慕ツテ鳴イタ鳥ハ、郭公デ御座イマセウ。サウシテソノ郭公ハ〔九字傍線〕、私ガ、先帝ヲ〔三字傍線〕御慕ヒ申スヤウニ、多分昔ヲ思ツテ〔五字傍線〕鳴イタノデセウ。
 
○古爾戀良武鳥者霍公鳥《イニシヘニコフラムトリハホトトギス》――郭公は昔を懷ふ鳥、故人を慕ふ鳥だといふ傳説によつたのであらう。卷八の大伴旅人の妻が死んだ時に、石上朝臣堅魚がよんだ霍公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物乎《ホトトギスキナキトヨモスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》(一四七二)、卷十の山跡庭啼而香將來霍公鳥汝鳴毎無人所念《ヤマトニハナキテカクラムホトトキスナガナクゴトニナキヒトオモホユ》(一九五六)はそれを證するやうに思はれる。○盖哉鳴之《ケダシヤナキシ》――盖し鳴い(136)たのであらうかの意。考に盖し郭公ならむとしたのは當らない。盖しは若しに同じ。この集にはこの他|盖《ケダシ》・盖毛《ケダシクモ》といふやうな形で用ゐられてゐる。○吾戀流其騰《ワガコフルゴト》――この句から五の句へ續くのである。戀の字、元暦本・金澤本・神田本・類聚古集などに念の字に作るによれば、ワガモヘルゴトであるが、これでは何となく意が弱いやうであるから、舊本のままにして置かう。
〔評〕 弓削皇子の御歌の、古爾戀流鳥《イニシヘニコフルトリ》とあつたのを踏襲し、それを郭公ならむと推定し、都にありながら常に先帝を思ふ心を、吾戀流其騰《ワガコフルゴト》として巧に歌ひ出してゐる。盖といふ語は萬葉以外の歌集には見えないもので、何となく硬い感じがする。
 
從2吉野1折(リ)2取(リテ)蘿生《コケムセル》松(ガ)柯《エヲ》1遺(シシ)時、額田王|奉入《タテマツレル》歌一首
 
蘿は即ち松蘿《サルヲガセ》で、又さがりごけともいふ。地衣類松蘿屬で、深山の樹枝に自生し、糸状をなして懸垂してゐる。松柯は松の枝。この歌は、弓削皇子が蘿の生えてゐる松の枝を、額田王に遣はし給うた時、額田王からそれに答へられた御歌である。遺の字、舊本遣とあるが、古寫本も、目録も遺に作つてゐる。
 
113 み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも 君が御言を 持ちて通はく
 
三芳野乃《ミヨシヌノ》 玉松之枝者《タママツガエハ》 波思吉香聞《ハシキカモ》 君之御言乎《キミガミコトヲ》 持而加欲波久《モチテカヨハク》
 
吉野ノ松ノ枝ハ可愛ラシイモノデスヨ。貴方ノ御言葉ヲ持ツテ來マシタ。
 
○玉松之枝者《タママヅガエハ》――玉は美稱に過ぎない。この松の枝に添へた弓削皇子の御文があつたものか。或は前の古爾戀流鳥鴨《イニシヘニコフルトリカモ》の歌を、この松の枝に結んで贈られたのかも知れない。中古時代、人に物を贈るに、木の枝に結んだ習慣は、既にこの時から見えてゐるのだ。玉松は山松の誤と玉勝間に委しく述べてゐる。○波思吉香聞《ハシキカモ》――愛《は》し(137)きことよの意。○持而加欲波久《モチテカヨハク》――加欲波久《カヨハク》は通ふの延言で、輕く言ひをさめたのである。
〔評〕 波思吉香聞《ハシキカモ》と三句切にして、持而加欲波久《モチテカヨハク》と上の句の意を説明したところに、何となく柔い感が漂つてゐる。この歌の内容と調子とが持つ、典雅と優麗さとを讃歎せずには居られない。
 
但馬皇女在(ル)2高市皇子宮(ニ)1時思(フ)2穗積皇子(ヲ)1御歌一首
 
天武天皇紀に「夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1。蘇我赤兄大臣女|大※[草冠/(豕+生)]《オホヌ》娘生2一男二女1其一曰2穗積皇子1云々、納2※[匈/月]形君|徳善《トコセ》女尼子娘1生2高市皇子命1」とある。いづれも異腹の御兄弟にまします。
 
114 秋の田の 穗向のよれる 片縁に 君によりなな こちたかりとも
 
秋田之《アキノタノ》 穗向之所縁《ホムキノヨレル》 異所縁《カタヨリニ》 君爾因奈名《キミニヨリナナ》 車痛有登母《コチタカリトモ》
 
(秋田之穗向之所縁)タダ一向ニバカリタ依ツテ、アナタバカリ〔三字傍線〕ニ御タヨリ致シマセウ。タトヒ〔三字傍線〕人ニハヒドク言ヒ騷ガレテモ、カマヒマセヌ〔六字傍線〕。
 
○秋田之穗向之所縁《アキノタノホムキノヨレル》――異所縁《カタヨリニ》の序詞。秋の田の稻穗は一方にばかリ向いて、片寄り靡くからである。○穗向《ホムキ》は稻穗の實り靡いた樣をいふ。秋田之穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミガテリ》(三九四三)ともある。○異所縁《カタヨリニ》――異の字をカタと訓んだ例は他に無い。この字はイ・ケ・ケシキなどが普通で、又|異手枕《コトタマクラ》(二四五一)の如くコトとよんだ例もある。これをアダシタマクラとよむのは惡い。カタとよむのはコトと通はしたものであらう。○君爾因奈名《キミニヨリナナ》――奈名《ナナ》は未來完了の「なむ」と同じである。○事痛有登母萱《コチタカリトモ》――事痛《コチタ》は言痛とも記してある、事の甚だしきこと、又は、人の口喧しきこと。ここは後者。
〔評〕 この歌の序詞は面白い。秋の田が稔つて一方に靡いた樣は、目に心地よいものである。併しかうした景は寧ろ耕人の捉へさうな詩材である。卷十に秋田之穗向之所依片縁吾者物念都禮無物乎《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニワレハモノオモフツレナキモノヲ》(二二四七)とあるのは、正(138)に耕人の社會に行はれた民謠である。これを基として下句を變へたものに過ぎないと思はれる。
 
勅(シテ)2穗積皇子(ニ)1遣(シシ)2近江志賀山寺(ニ)1時、但馬皇女御作歌一首
 
志賀山寺は崇福寺のことで、扶桑略記に「天智天皇七年正月十一日、於2近江國(ノ)志賀郡1建2崇福寺1」とあり、續日本紀に「天平十二年十二月乙丑、幸2志賀山寺1禮v佛」と見える。考にこの皇子を志賀山寺に遣はされたのは、但馬皇女との事が露はれ、法師にし給ふ爲であらうと言つてゐるが、或はさうかも知れない。遣の字、舊本遺とあるは誤。元暦校本による。
 
115 後れてゐて 戀ひつつあらずは 追ひしかむ 道のくまみに 標結へ吾が背
 
遺居而《オクレヰテ》 戀管不有者《コヒツツアラズハ》 追及武《オヒシカム》 道之阿回爾《ミチノクマミニ》 標結吾勢《シメユヘワガセ》
 
アナタニ別レテ私一人〔十字傍線〕遺ツテ居テ、アナタヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居ナイデ、寧ロアナタノ跡ニツイテ行ツテ〔寧ロ〜傍線〕追ヒ付キマセウ。私ガ道ニ迷ハナイヤウニ〔私ガ〜傍線〕、我ガ背ノ君ヨ。御通リナサレタ〔七字傍線〕道ノ曲角毎ニ、道栞ヲシテ下サイ。
 
○戀管不有者《コヒツツアラズハ》――戀ひつつあらむよりはの意。戀ひつつあらむをズで否定し、寧ろそれよりもと、下へ續くのである。○追及武《オヒシカム》――及は、しきおよぶと今も用ゐる如く、追ひ付く意である。○道之阿回爾《ミチノクマミニ》――阿回の阿はクマとよんで、隅・曲・隈の意に用ゐてある。○標結吾勢《シメユヘワガセ》――此の標《シメ》は目標即ち道しるべである。
〔評〕 戀しさに落ち付いてあり得ない、焦燥の情がよくあらはれてゐる。あはれな歌。
 
但馬(ノ)皇女|在《イマセル》2高市皇子(ノ)宮(ニ)1時、竊(ニ)接(シ)2穗積皇子(ニ)1事既(ニ)形《アラハレテ》而後、御作歌一首
 
116 人言を 繁みこちたみ おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
 
人事乎《ヒトゴトヲ》 繁美許知痛美《シゲミコチタミ》 巳母世爾《オノガヨニ》 未渡《イマダワタラヌ》 朝川渡《アサカハワタル》
 
人ノ噂ガ盛デヒドイノデ、居ニククナツテ〔七字傍線〕、私ハカウシテ朝早クニ〔八字傍線〕、未ダ曾テ渡ツタコトノナイ朝川ヲ渡ツテ(139)他所ヘ出カケタ〔八字傍線〕。
 
○巳母世爾《オノガヨニ》――この句の訓は種々ある。代匠記はイモセニ、考はオノモヨニ、略解は母を我としてオノガヨニ、宣長は爾は、川・河又は水の誤としてイモセガハ、古義は生有世爾としてイケルヨニなどである。併し母の字が無い古本に從つてオノガヨニとよむのが、最も穩かのやうである。○朝川渡《アサカハワタル》――朝に川を渡るを朝川といふ。
〔評〕 己が世に未だ渡らぬ朝川を渡ると仰つたのは、如何にも高貴な御身分らしく、それだけまた痛々しさも深く感ぜられる。朝の流の冷い水は、徒渉せられるる皇女の御身に、どんなにわびしく辛く感ぜられたことであらう。哀調人を動かすものがある。守部が、朝川渡を禊し給ふことに見て、卷四の君爾因言之繁乎古郷之明日香乃河爾潔身爲爾去《キミニヨリコトノシゲキヲフルサトノアスカノカハニミゾギシニユク》(六二六)とあるのを證としてゐるのは、飛んでもない見當違である。これでは歌のあはれは半減して終ふ。
 
舍人親王御歌一首
 
舍人親王は、天武天皇紀に「次妃新田部皇女、生2舍人皇子1」とあり、天武天皇の皇子で、元正天皇の勅を奉じて日本紀を編纂せられた御方である。天平七年十一月薨。この御歌は次の歌によれば、舍人娘子に贈られたものである。
 
117 ますらをや 片戀せむと 嘆けども 醜のますらを なほ戀ひにけり
 
大夫哉《マスラヲヤ》 片戀將爲跡《カタコヒセムト》 嘆友《ナゲケドモ》 鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
大丈夫トイフモノハ片戀ナドヲスルモノカ、片戀ナドハスマイ〔八字傍線〕ト思ツテ嘆クケレドモ、コノ馬鹿ナ大丈夫ハ、ヤハリ戀ヲスルワイ。エエ我ナガラ腑甲斐ナイ〔エエ〜傍線〕。
 
○鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》――鬼は醜の省畫。鬼乃志許草《シコノシコクサ》(七二七)・鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》(三二七〇)とあるも同じ。醜の益卜雄は自から罵つたのである。
〔評〕 三の句、思へどもとも言ふべきであるが、さう言はずに嘆友《ナゲケドモ》といつたところに、幾度か戀せじと努力し、嘆息してゐる樣が見えるやうである。鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》と自から責めて、尚戀二家里《ナホコヒニケリ》と言ひ捨てたところに、塞き止(140)め難い感情が現はれてあはれである。
 
舍人娘子奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
舍人娘子は卷一(六一)に出てゐる。舍人皇子の乳母の女などであらうか。
 
118 歎きつつ ますらをのこの 戀ふれこそ 吾が元結の 漬ぢて濕れけれ
 
歎管《ナゲキツツ》 大夫之《マスラヲノコノ》 戀禮許曾《コフレコソ》 吾髪結乃《ワガモトユヒノ》 漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》
 
思ヒ歎イテ、大丈夫ノ貴方〔三字傍線〕ガ私ヲ〔二字傍線〕御慕ヒナサレバコソ、私ノ髪ヲ結ブ元結ノ紐ガカヤウニ〔四字傍点〕霑ヒ濡レマシタヨ。
 
○戀禮許曾《コフレコソ》――戀ふればこその意。舊本禮を亂に誤つてゐる。金澤本に禮とあるに從ふべきである。略解に、マスラヲノコヒ、ミダレコソとよんだのは拙い。○吾髪結乃《ワガモトユヒノ》――髪結は髪を結ぶ紐、即ち元結である。○漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》――漬は霑ふこと、奴禮は濕れること。これを下の多氣婆奴禮《タケバヌレ》(一二三)の歌によつて、解け垂れることに見る説はどうであらう。人に戀ひせられる時は、おのづから髪の元結が濡れるといふ言ひならはしがあつたのであらう。
〔評〕 片戀とは宣ふけれども、こちらには御志が通じて、髪の元結が濡れて居りますと申し上げたので、親王の眞心を汲んではゐるが、贈られた歌に比すれば情熱が缺けてゐるやうである。
 
弓削皇子思2紀皇女1御歌四首
 
弓削皇子は一一一に出づ。紀皇女は天武天皇紀に「次(ノ)夫人、蘇我赤兄(ノ)大臣(ノ)女、大※[草冠/(豕+生)]《オホヌノ》娘生2一男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰2穗積皇子1、其二曰2紀(ノ)皇女1云々」と見え、弓削皇子の異母の御妹である。
 
119 芳野河 行く瀬の早み しましくも よどむことなく 在りこせぬかも
 
芳野河《ヨシヌガハ》 逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》 須臾毛《シマシクモ》 不通事無《ヨドムコトナク》 有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》
 
芳野川ノ流レル瀬ガ早イノデ、少シノ間モ淀ムコトノナイヤウニ、私モアナタヲ〔少シ〜傍線〕暫時モ絶エズニ、、通ツテ〔三字傍線〕逢ヒ(141)タイモノデスヨ。
 
○逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》――ユクセヲハヤミといふのが常の例である。檜嬬手には之を乎の誤としてゐる。○須臾毛《シマシクモ》――シバラクモ・シマラクモの訓もあるが、シマシクモがよからう。之麻思久母比等利安里宇流《シマシクモヒトリアリウル》(三六〇一)・思末志久母見禰婆古非思吉《シマシクモミネバコヒシキ》(三六三四)などの例がある。○有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》――巨勢《コセ》はコソに同じで、希望の辭、この句は有つてくれぬかよといふ意。即ち有つてくれよに同じ。
〔評〕 當時大和人の間に、好景として語られてゐた吉野の急流を取つて、暫時も絶えないことの譬喩としてゐる。格別新味があるわけではないが、素直な無難な作である。
 
120 吾妹子に 戀ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花ならましを
 
吉妹兒爾《ワギモコニ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 秋芽之《アキハギノ》 咲而散去流《サキテチリヌル》 花爾有猿尾《ハナナラマシヲ》
 
私ノ思フ女ヲ戀ヒ慕ツ〔二字傍線〕テヰルヨリモ、寧ロ〔二字傍線〕咲イテ綺麗ニ散ツテ終フ秋萩ノ花デ、私ガ〔二字傍線〕アレバヨイニ。サウスレバ何ノ思ヒモナクテ、サゾヨイデアラウ〔サウ〜傍線〕。
 
○秋芽之《アキハギノ》――芽は萩のこと。この集の頃は萩の文字が無くて、芽、又は芽子と記してゐる。この文字の萩に當ることは、美夫君志の別記に委しく説いてゐる。○咲而散去流《サキテチリヌル》――咲くはただ添へたもので、散るを主とし、萩の花の散るが如く、早く死にたいといふ意に見た注釋が多いが、予は、咲き散る萩の無心さを羨んだものと思ふ。この四首の歌にはいづれも、緩やかな感情が流れてゐて、死を思ふやうな突き詰めたものでないと思はれる。
〔評〕 獨り物思ひに沈んで居ると、秋萩の花が咲きては散る無心な風姿が美しく思はれる。人身は受け難しといふが、寧ろあの花である方が、幸福ではあるまいかと思はれるのである。感じのよい作ではあるが、磐姫皇后の、如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈麻死物乎《カクバカリコヒツツアラズハタカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》(八六)などの歌型に嵌つてゐるのが、少しく興味を殺ぐやうである。
 
121 夕さらば 潮滿ちきなむ 住の吉の 淺香の浦に 玉藻苅りてな
 
(142)暮去者《ユフサラバ》 鹽滿來奈武《シホミチキナム》 住吉乃《スミノエノ》 淺香乃浦爾《アサカノウラニ》 玉藻苅手名《タマモカリテナ》
 
夕方ニナルト潮ガ浦チテ來ルダラウ。ダカラ潮ノ滿チナイウチニ〔ダカ〜二字傍線〕、コノ住吉ノ淺香ノ浦デ玉藻ヲ苅リマセウ。躊躇シテヰルト邪魔ガ這入ルカラ、邪魔ノナイウチニアノ皇女ヲ得タイモノダ〔躊躇〜傍線〕。
 
○淺香乃浦爾《アサカノウラニ》――攝津志に「淺香丘、在2住吉郡船堂村(ニ)1、林木緑茂迎v春霞香、臨2滄溟1遊賞之地」とあるところであらう。船堂村は即ち今の五箇莊村で、堺市の東方に當つてゐるが、淺香の浦はその西方で、今の大和川の南岸、堺市の北方であらねばならぬ。大日本地名辭書には「淺香。今五箇莊村と稱す。……淺香浦は後世地形變じ、今此の名なし。盖堺北莊の西なる三寶村の地、古は海灣に屬す。淺香浦此に外ならず。」とある。卷十一に往而見而來戀敷朝香方《ユキテミテクレバコヒシキアサカガタ》(二六九八)とあるのも此處か。謡曲高砂に「殘んの雪の淺香潟、玉藻苅るなる岸かげの」とあるのも、この歌によつたのであらう。
〔評〕 皇女を玉藻に譬へた、暗喩の歌である。もし作られた場合が不明であつたならば、これは全く海邊遊覽の歌となつてしまふ。それほどに穩やかな迫らぬ氣分で詠まれたものと言つてよい。
 
122 大船の はつる泊の たゆたひに 物念ひ痩せぬ 人の兒ゆゑに
 
大船之《オフブネノ》 泊流登麻里能《ハツルトマリノ》 絶多日二《タユタヒニ》 物念痩奴《モノモヒヤセヌ》 人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》
 
アノ女ハ〔四字傍線〕人ノ妻ダノニ、私ハ〔二字傍線〕(大船之泊流登麻里能)心ガ落チツカズニ、物ヲ思ツテ痩セタ。何故コンナ甲斐ナイ戀ヲスルノダラウ〔何故〜傍線〕。
 
○大船之泊流登麻里能《オホフネノハツルトマリノ》――絶多日二《タユタヒニ》にかかる序詞で、タユタフは船の動搖することである。それを心の動搖し落ち付かぬことに用ゐてゐる。○人能兒政爾《ヒトノコユヱニ》――人の妻であるのにの意。
〔評〕 大船が港にかかつてゐて、ゆらゆらと波に搖れる樣を取つて序とし、心の動搖を歌ひ出したのは面白い。大船之行良行良爾思乍《オホブネノユクラユクラニオモヒツツ》(三三二九)といふやうな歌は外にもあるが、海國民らしい譬喩である。これも絶えざる煩惱に苦しむ樣は見えるが、さして烈しい焦立たしさではない。
 
三方(ノ)沙彌娶(リ)2園臣生羽之女《ソノノオミイクハノメヲ》1未v經2幾時(ヲ)1臥(シテ)v病(ニ)作(レル)歌三首
 
三方沙彌は、持統天皇紀に「六年十月壬戌朔壬申授2山田史御形務廣肆1前爲2沙門1學2問新羅1」とあり。續紀に「周防前守山田史御方云々」とある人か。或は前に見えた久米禅師の如く、三方は氏で、沙彌は名であるかも知れない。美夫君志には三方氏の沙彌として僧侶と見てゐるやうだが、僧侶としてはあまりに不似合である。卷六にも、三方沙彌戀2妻苑臣1作歌云々と見えてゐる。園臣生羽はどういふ人か、その父祖も明らかでない。作の字は時の誤かと略解に言つてゐる。
 
123 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに 掻入れつらむか
 
多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》 比來不見爾《コノコロミヌニ》 掻入津良武香《カキレツラムカ》    三方沙彌
 
束ネレバ短クテ〔三字傍線〕、ヌルヌル垂レテ結ビ難ク、束ネナケレ長過ギル我ガ妻ノ髪ハ、モウ掻キ上ゲテ結フ頃ニナツタガ、私ガ病氣ヲシテ〔モウ〜傍線〕近頃見ナイウチニ、モウ掻キ上ゲテ結《ユ》ツタダラウカ。ドウデス。見タイモノダナ〔ドウ〜傍線〕。
 
○多氣婆奴禮《タケバヌレ》――多氣《タケ》は四段活用の動詞、タクの已然形で、タクは髪を掻き上げること。小放爾髪多久麻庭爾《ヲバナリニカミタクマデニ》(一八〇九)・青草髪爾多久濫妹乎師曾於母布《ワカクサヲカミニタクラムイモヲシゾオモフ》(二五四〇)の如き例がある。○掻入津良武香《カキレツラムカ》――掻入《カキレ》は掻き上げ束ねること。入は上の誤でカカゲだらうと宣長は言つてゐる。この句は自から掻き上げたのをいふのである。古義に「此の頃病臥して、行きて見ぬ間に、誰ぞの男が、かかげ結ひつらむかと、おぼめきて、とひやれるなり」とあるのは誤である。そんな嫉妬の氣分のある歌ではない。
〔評〕 多氣婆奴禮多香根者長寸妹之髪《タケバヌレタカネバナガキイモガカミ》は、大人にならうとしてゐる女の髪を形容すべく、實に巧妙な詞である。その年輩では暫く見ない間に、著しく樣子がかはるもので、自分が病床にある内に、若い妻の髪は、どんなになつたであらう。今までの子供の姿か、それとも大人らしく掻き上げたかと、なつかしく思つたのである。
 
124 人みなは 今は長しと たけと言へど 君が見し髪 亂れたりとも
 
(144)人皆者《ヒトミナハ》 今波長跡《イマハナガシト》 多計登雖言《タケトイヘド》 君之見師髪《キミガミシカミ》 亂有等母《ミダレタリトモ》 娘子《イラツメ》
 
私ノ髪ハコノ頃大層伸ビマシタノデ〔私ノ〜傍線〕、皆ノ人ガ、今ハモウ長過ギルカラ束ネナサイト言ヒマスケレドモ、アナタガ御覽ニナツタ髪デスカラ、タトヒ〔三字傍線〕亂レテヰマセウトモ、貴方ニ御相談セズニ自分デ猥リニ束ネルヤウナコトハ致シマセヌ〔貴方〜傍線〕。
 
○人皆者《ヒトミナハ》――人者皆と元暦校本にあるが、人皆者芽子乎秋云《ヒトミナハハギヲアキトイフ》(二一一〇)ともあつて、人皆といふ熟字のやうな使方と思はれるから、流布本のままでよからう。○多計登雖言《タケトイヘド》――たけよと言へど、即ち束ねよといへどの意。この頃の女は、十四五歳までは髪を垂れてゐた。即ちうなゐ〔三字傍点〕又は童放《ウナヰバナリ》である。十四五歳に至るころ、髪揚げといつて髪を束ねるのである。
〔評〕 何といふやさしい少女心であらう。純眞な心の底から、おのづからに湧き出た詞が、そのまま歌になつてゐる。技巧もない、修飾もない。亂有等母《ミダレタリトモ》と言ひ盡さぬやうであるが、妾は何とも思はず、ただ君が御手によつて掻き上げられむ、といふ意は充分にあらはれてゐる。傑作。伊勢物語の「比べこし振分髪も肩過ぎぬ君ならずして誰かあぐべき」といふも、これに似た心である。
 
125 橘の 蔭ふむ路の 八ちまたに 物をぞ思ふ 妹に逢はずて
 
《タチバナノ》 蔭履路乃《カゲフムミチノ》 八衢爾《ヤチマタニ》 物乎曾念《モノヲゾオモフ》 妹爾不相而《イモニアハズテ》    三方沙彌
 
私ハ病氣デ寢テ居テ〔九字傍線〕女ニ逢フコトガ出來ナイノデ、(橘之蔭履路乃)イロイロサマザマニ物思ヒヲスルヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○橘之蔭履路乃《タチバナノカゲフムミチノ》――八衢の序詞。橘の木蔭を履み行く路が、幾條にも別れてゐるので、八衢とつづけたのである。古昔橘はその實と花とを愛して、街路樹として植ゑられた。○八衢爾《ヤチマタニ》――八は數の多きをあらはす。衢は道股《チマタ》で、道の岐路をいふ。八衢に物を思ふとは、あれを思ひ、これを思つて、物思に惱むを言ふ。
〔評〕 病の床に横たはつてゐる人の思ひは、次から次へと走馬燈のやうに變つて行くが、要するに戀人の慕はしさが、種々の場面となつてあらはれて來る。忽ち目に浮ぶのは橘の街路樹が並び植ゑられた市の景色である。強い光線は橘の木蔭を地上に濃く投げてゐる。其處は幾條もの道に分れて、多くの男女が群りざわめいてゐる。ああこの市の八衢よと思へば、我が物思ひも八衢に、戀人の上に注がれてゐるに心付いて、物をぞ思ふ妹に逢はずてと嘆息したもので、序詞の作り方が實に巧妙である。卷六に橘本爾道履八衢爾物乎曾念人爾不所知《タチバナノモトニミチフミヤチマタニモノヲゾオモフヒトニシラエズ》(一〇二七)とあるのは、これを歌ひ更へたものらしいが、甚く拙い。
 
石川女郎贈(ル)2大伴宿禰田主(ニ)1歌一首
 
石川女郎は既出(九六・一〇七・一一〇)。大伴田主は大伴安麻呂の第二子、母は巨勢郎女である。元暦校本には題詞の下に註して、「即佐保大納言大伴卿之第二子母曰2巨勢朝臣1也」とある。
 
126 みやびをと 吾は聞けるを 宿かさず 吾を還せり おその風流士
 
遊士跡《ミヤビヲト》 吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》 屋戸不借《ヤドカサズ》 吾乎還利《ワレヲカヘセリ》 於曾能風流士《オソノミヤビヲ》
 
アナタハ〔四字傍線〕風流ナ御方ダト私ハ聞イテヰマシタノニ、私ガ折角參リマシタノニ〔私ガ〜傍線〕、宿モ貸サズニ私ヲ御還シニナリマシタ。シテミルト、貴方ハ〔八字傍線〕愚《オロカ》ナ風流人デスナ〔三字傍線〕。
 
○遊士跡《ミヤビヲト》――遊士はタハレヲ、ミヤビトなどの訓もあるが、宣長がミヤビヲとよんだのがよい。宮びやかなる男の意。下の風流士も同樣である。○於曾能風流士《オソノミヤビヲ》――於曾は遲鈍の意で、敏速の反對。卷十二に山代石田杜心鈍《ヤマシロノイハタノモリニココロオソク》(二八五六)、又は卷九の浦島をよんだ歌に、己之心柄於曾也是君《シガココロカラオソヤコノキミ》(一七四一)とある通りである。
〔評〕 左注にある通りで、石川女郎といふ女は、途方もないあばずれである。貴方は風流人だとの世評だが、馬鹿な風流人だのと罵つたのである。於曾能風流士《オソノミヤビヲ》は、かなりひどい言葉である。
 
大伴田主(ハ)字(ヲ)曰(フ)2仲郎(ト)1、容姿佳艶、風流秀絶(ナリ)、見(ル)人聞(ク)者靡(キ)v不《ザル》2歎息(セ)1也、時(ニ)有(リ)2石川(146)女郎1、自(ラ)成(シ)2雙栖之感(ヲ)1恒(ニ)悲(シム)2獨守之難(キヲ)1、意《ココロニ》欲(シ)v寄(セント)v書(ヲ)、未v逢(ハ)2良信(ニ)1、爰(ニ)作《ナシ》2方便(ヲ)1、而似(セ)2賤嫗(ニ)1、己(レ)提(ゲ)2堝子《クワシ》1而到(リ)寢側(ニ)1、哽音|跼足《キヨクソクシテ》、叩(キ)v戸(ヲ)諮《トウテ》曰(ク)、東隣(ノ)貧女、將(トシテ)v取(ラ)v火(ヲ)來(レリ)矣、於v是、仲郎、暗裏(ニ)非(ス)v識(ルニ)2冐隱之形(ヲ)1、慮外《オモヒノホカニ》不v堪2拘接之計《カヽヘトリノハカリゴト》1、任(セテ)v念(ニ)取(リ)v火(ヲ)、就(テ)v跡(ニ)歸(リ)去(リヌ)也、明(テ)後《ノチ》、女郎、既(ニ)恥(ヂ)2自(ラ)媒(スル)之可(ヲ)1v愧(ヅ)、復(タ)恨(ム)2心契之弗(ルヲ)1v果(サ)、因(リテ)作(リ)2斯(ノ)歌(ヲ)1、以(テ)贈(リ)諺戯(ス)焉
 
○仲郎――大伴家の第二子であるから、かう言つたのである。○成2雙栖之感1――同棲しようと欲する意。○堝子――流布本、鍋子とある。堝は土燒の鍋。○哽音――咽ぶ聲で、老婆らしい聲を出したこと。○跼足――足をかがめて歩くこと。○暗裏非v識2冐隱之形1――暗くて變装したのが分らぬといふのである。○慮外不v堪2拘接之計1――案外にも女郎が男を引つかけやうとした計劃に相手にならなかつたといふのだ。○就v跡歸去也――女郎は來た道を踏んで歸つて行つたといふ意。○諺戯――諧戯となつてゐる本がよからう。この歌を贈つて戯れたといふ意。
 
大伴宿禰田主報(イ)贈(レル)歌一首
 
127 みやびをに 吾はありけり 宿かさず 還しし吾ぞ 風流士にはある
 
遊士爾《ミヤビヲニ》 吾者有家里《ワレハアリケリ》 屋戸不借《ヤドカサズ》 令還吾曾《カヘシシワレゾ》 風流士者有《ミヤビヲニハアル》
 
アナタハ私ヲ、愚ナ風流人ダト言フガ、ドウシテドウシテ〔アナ〜傍線〕、私ハ風流人デアツタワイ。宿ヲ貸サズニアナタヲ〔四字傍線〕還シタコノ私ガ、眞ノ〔二字傍線〕風流人デアル。眞ノ風流人トイフモノハ老婆ノ姿ナドヲシテ來タモノニ、無暗ニ宿ヲ借スヤウナアサハカナコトハ、シナイモノダ〔眞ノ〜傍線〕。
 
○令還吾曾《カヘシシワレゾ》――カヘセルの訓が最も行はれてゐるが、カヘシシがよいやうに思はれる。
(147)〔評〕 贈られた歌に對して、吾こそ眞の風流男だと辨じたまでであるが、調がしつかりしてゐて、力がある。
 
同石川女郎更(ニ)贈(レル)2大伴田主中郎(ニ)1歌一首
 
128 吾が聞きし 耳によく似る 葦のうれの 足痛む吾が背 つとめたぶべし
 
吾聞之《ワガキキシ》 耳爾好似《ミミニヨクニル》 葦若末乃《アシノウレノ》 足痛吾勢《アシイタムワガセ》 勤多扶倍思《ツトメタブベシ》
 
私ガ聞イタ通リニ違ヒアリマセヌ。アナタハ足ノ御病氣デスガ〔アナ〜傍線〕、(葦若末乃)脚ノ惡イ貴方ヨ、ドウゾ御自愛ナサイマシ。
 
○吾聞之耳爾好似《ワガキキシミミニヨクニル》――私が兼ねて聞いた通りだの意。ミミニヨクニバと舊訓にあるが、これは聞くが如くばといふやうな解き方が、先入主となつたものであらう。既に田主の中郎に逢つた後で、その足の病を認めていふ趣であるから、ミミニヨクニバでは適當しない。それのみらず、この歌の書き方は皆助詞を記してあるから、もしヨクニバとよむなら、バに相當する文字がありさうに思はれる。○葦若末乃《アシノウレノ》――舊訓アシカビノであるが、若の字にカとよんだ例がない。恐らく未は末の誤で、アシノウレノであらう。卷十に小松之若末爾《コマツガウレニ》(一九三七)・芽子之若末長《ハギノウレナガシ》(二一〇九)の例がこれを證明する。葦若末乃《アシノウレノ》は足といふ爲の枕詞で、同音を繰返すので意味に關係はない。ウレは尖端をいふ。○足痛吾勢《アシイタムワガセ》――足痛は舊訓アシナヘで、他にアナヘグ・アナエテ・アナヤムなどの訓があるが、痛の字はイタとよむのが普通で(稀に痛背乃河乎《アナセノカハヲ》(六四三)の如きアナの訓もあるが)、ナヘともナヤムともよんだ例は無いやうであるから、アシイタムとよむがよい。○勤多扶倍思《ツトメタブベシ》――自愛し給ふべしの意。
〔評〕 誘惑に失敗して、於曾能風流士《オソノミヤビヲ》と罵つて置いたが、それでも殘念に堪へられなかつた女郎は、今度は田主中郎の足疾をよいことにして、冷やかしたものである。前の夜に彼の足疾を認めたやうに言つて、御用心なさいと、からかつてゐる。どこまでも蓮葉な女らしく現はされてゐる。
 
右依(リ)2中郎(ノ)足疾(ニ)1贈(リ)2此歌(ヲ)1問(ヒ)訊(フ)也
 
(148)大津皇子|宮侍《ミヤノマカタチ》石川女郎贈(レル)2大伴宿禰宿奈麿(ニ)1歌一首
 
大津皇子宮侍とあるについて、契沖は、大津皇子は藤原宮御宇となつて、僅かに十月の初まで世に在しましたのであるから、又天武天皇諒闇中のことでもあるから、淨御原御宇のことであらう、と言つてゐるが、これは、皇子薨去の後まで、舊のならはしをもつて呼んだもので、やはり持統天皇の御代の歌と見るべきであらう。此の題詞の下に、元暦校本は、「女郎字曰2山田郎女1也、宿奈麿宿禰者、大納言兼大將軍卿之第三子也」の二十九字がある。大納言兼大將軍卿は大伴安麻呂のこと。
 
129 古りにし 嫗にしてや かくばかり 戀に沈まむ た童の如
 
古之《フリニシ》 嫗爾爲而也《オムナニシテヤ》 如此許《カクバカリ》 戀爾將沈《コヒニシヅマム》 如手童兒《タワラハノゴト》
 
私ハモハヤ何デモ分別ノ出來ル〔私ハ〜傍線〕年ヲトツタ老婆デアリナガラ、コノ樣ニ、母ヤ乳母ノ手ヲ放セナイ〔母ヤ〜傍線〕小兒ノヤウニ少シモ分別ナク〔七字傍線〕戀ニ沈ンデ泣イテバカリヰルトイフコトガアリ〔デ泣〜傍線〕マセウカ。ホントニ我ナガラ愛相ガ盡キマス〔ホン〜傍線〕。
 
○古之嫗爾爲而也《フリニシオムナニシテヤ》――嫗は和名抄に嫗、於無奈、老女稱也とあり、字鏡に※[女+長]、於彌奈とある。オムナともオミナともよめる字であるが、暫くオムナとして置かう。古之嫗《フリニシオムナ》は、年を取つて經驗ある老女の意。○如手童兒《タワラハノゴト》――手童兒《タワラハ》は母や乳母の手を離れぬ小兒。この句は小兒の如く泣く意であらう。
〔評〕 自ら古之嫗《フリニシオムナ》と言つたり、如手童兒《タワラハノゴト》と言つたりして、極端に誇張し、對稱せしめてあるのが面白い。これもしんみりとした戀の歌ではなくて、少し戯れ氣味の歌である。
 
一云、戀乎太爾忍金手武多和良波乃如《コヒヲダニシヌビカネテムタワラハノゴト》、
 
これは三句以下の異傳である。戀乎太爾《コヒヲダニ》よりも如此許《カクバカリ》の方が、この場合の歌として適切のやうに思はれる。
 
(149)長皇子與(フル)2皇弟(ニ)1御歌一首
 
皇弟は弓削皇子であらう。天武紀に「妃大江(ノ)皇女生3長皇子|與《ト》2弓削皇子1」とある。
 
130 丹生の川 瀬は渡らずて ゆくゆくと 戀ひたき吾がせ こち通ひ來ね
 
丹生乃河《ニフノカハ》 瀬者不渡而《セハワタラズテ》 由久遊久登《ユクユクト》 戀痛吾弟《コヒタキワガセ》 乞通來禰《コチカヨヒコネ》
 
私ハアナタニ逢フ爲ニ〔私ハ〜傍線〕、丹生川ノ瀬ヲ渡ツテ、ソチラヘ行ケバヨイノダガ、都合アツテ〔瀬ヲ〜傍線〕、瀬ヲ渡ラズニヰテ、戀ヒ惱ンデヰル吾ガ弟ヨ、コチラヘ通ツテ來ナサイヨ。
 
○丹生乃河《ニフノカハ》――吉野川の支流で、賀名生の谷を流れて南宇智村で、吉野川に注いでゐるのを丹生川といふと大日本地名辭書に記してゐるが、上古は吉野川の上流をかう呼んだのであらうと思はれる。大瀧の上流、川上村邊に丹生川上上社があるのもその證ではあるまいか。又、宇智郡高野山の下、九度山町で吉野川に入る流をも、丹生川と呼んでゐるので見ても、今の丹生川(一名黒瀧川)を丹生川と呼んだのでないことがわかる。○由久遊久登《ユクユクト》――この語の解種々あるが、源氏物語賢木の卷に、「何ごとにかはとどこほり給はむ。ゆくゆくと宮にもうれへ聞え給ふ」とあるによれば、滞なくすらすらとの意である。さうすればこの句は、乞通來禰《コチカヨヒコネ》に續くものと見ねばならぬ。これを湯鞍干《ユクラカニ》(三一七四)・大舟乃往良行羅二《オホフネノユクラユクラニ》(三二七四)などと同じく見て、心の動搖する樣に解する説は採らない。○戀痛吾弟《コヒタキワガセ》――コヒタシワガセとよむ説もある。これは由久遊久登戀痛《ユクユクトコヒタシ》と續くものと見るのだが、由久遊久は通ふにかゝつてゐるものと見て、それには從はない。○乞通來禰《コチカヨヒコネ》――イデカヨヒコネとコチカヨヒコネの兩訓がある。乞は乞吾君《イデワキミ》(六六○)・乞如何《イデイカニ》(二八八九)・乞吾駒《イデワガコマ》(三一五四)に從へばイデであり、越乞爾《ヲチコチニ》(九二〇)・乞許世山登《コチコセヤマト》(一〇九七)・乞痛鴨《コチタカルカモ》(二七六八)に從へばコチである。此處の意から推してコチとよむことにした。
〔評〕 この兩皇子は丹生川を隔てて住み給うたものか、歌の趣はさう見えるが、川の所在地が吉野では少し變に(150)思はれる。と言うて、一二の句は譬喩的の用法とも思はれない。親しみの情は見えるが、さう佳作とも言はれまい。
 
柿本朝臣人麿、從2石見國1別(レテ)v妻(ニ)上(リ)來(ル)時(ノ)歌二首並短歌
 
人麿の妻としてこの集に出てゐるのは、三人あるやうに見える。その内の一人はこの卷の挽歌に出てゐる早く死んだ女である。(但しその二首を二人に見る説もある。さうすれば合せて四人である。)一人はこの歌の妻で、石見國にゐる間に馴れそめた女。まう一人は依羅娘子で、人麿の死んだ時大和に居つた女である。ここに上來とあるのは、石見の任の中途で、都に歸ることがあつたので、恐らく朝集使などで上京したのであらう。
 
131 石見の海 角の浦回を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 【一云磯なしと】 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は【一云、磯は】なくとも 鯨魚取り 海邊をさして 和多豆の 荒磯の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 浪こそ來寄せ 浪のむた 彼よりかくより 玉藻なす 寄り寢し妹を 【一云、はしきよし妹がたもとを】 露霜の おきてし來れば この道の 八十隈毎に 萬づたび かへりみすれど いや遠に 里は 放りぬ いや高に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山
 
石見乃海《イハミノミ》 角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》【一云|礒無登《イソナシト》】 人社見良目《ヒトコソミラメ》 能咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者無友《ウラハナクトモ》 縱畫屋師《ヨシヱヤシ》 滷者《カタハ》【一云|礒者《イソハ》】無鞆《ナクトモ》 鯨魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》 和多豆乃《ワタヅノ》 荒磯乃上爾《アリソノウヘニ》 香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》 朝羽振《アサハフル》 風社依米《カゼコソヨセメ》 夕羽振流《ユフハフル》 浪社來縁《ナミコソキヨセ》 浪之共《ナミノムタ》 彼縁此依《カヨリカクヨリ》 玉藻成《タマモナス》 依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》【一云|波之伎余思妹之手本乎《ハシキヨシイモガタモトヲ》】 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》 此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》 彌遠爾《イヤトホニ》 里者放奴《サトハサカリヌ》 益高爾《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》 夏草之《ナツクサノ》 念之奈要而《オモヒシナエテ》 志怒布良武《シヌブラム》 妹之門將見《イモガカドミム》 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
石見ノ海ノ角ノ浦ノメグリニハ良イ〔二字傍線〕浦ガ無イト人ガ見テ思フ〔三字傍線〕ダラウ。又良イ〔二字傍線〕潟ガ無イト人ガ見テ思フ〔三字傍線〕ダラウ。(151)ヨシヤ良イ〔二字傍線〕浦ハ無クトモ、ヨシヤ良イ〔二字傍線〕潟ハ無クトモ、私ハ妻ト二人デ住ンデイタノデ樂シカツタノニ〔私ハ〜傍線〕、(鯨魚取海邊乎指而 和多豆乃荒磯乃上爾 香青生玉藻息津藻 朝羽振風社依米 夕羽振流浪社來縁 浪之共彼縁此依 玉藻成)側ヘ寄ツテ並ンデ〔三字傍線〕寢タ可愛イ〔三字傍線〕妻ヲ(露霜乃)後ヘ置イテ別レテ出テ京都ノ方ヘ上ツテ〔別レ〜傍線〕來ルト、名殘惜シサニ〔六字傍線〕コノ街道ノ澤山ノ曲リ角毎ニ、幾度モ幾度モ振リ返ツテ見ルケレドモ、何時ノ間ニカ〔六字傍線〕、ダンダン遠ク里ハ離レタ。イヨイヨ高ク山ヲモ幾重カ越エテ來タ。アアイクラ悲シンデモ何トモ仕樣ガナイ。私ガ妻ヲ慕ツテヰルヤウニ妻モ〔アア〜傍線〕(夏草之)ガツカリ弱リ果テテ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ慕ツテヰルダラウガ、セメテアノ妻ノ〔七字傍線〕家ノ門デモ見ヨウ。エエ邪魔シテヰルコノ山ヨ、横ニ靡イテ低クナツテ妻ノ家ノ門ヲ見セテ〔七低ク〜傍線〕クレヨ。
 
○角乃浦回乎《ツヌノウラミヲ》――角乃浦は和名抄に、石見國那賀郡都農とあるところで、今の都野津である。國府の東北、二里の地である。地圖參照。浦回はウラミとよむのがよい。○浦無等《ウラナシト》――佳い浦が無いとの意。○人社見良目《ヒトコソミラメ》――人こそ見るらめに同じで、見らめは古い格である。社をコソと訓むのは神社は人の祈願する所であるからで、乞の字をコソと訓むに同じである。○滷無等《カタナシト》――これも良き潟なしとの意。滷は干潟となる遠淺の海岸をいふ。北海は干滿の差が無いから、潟もないわけである。滷の字は潟に同じ。○能咲八師《ヨシエヤシ》――よしやといふに同じで、ヱとシとは詠嘆の助詞である。よしやは、たとひの意。○浦者無友《ウラハナクトモ》――無友は舊訓ナクトモであるのを、宣長はナケドモに改めた。併しここは已然形でなくともよい所であり、又卷十五に與之惠也之比等里奴流欲波安氣婆安氣奴等母《ヨシエヤシヒトリヌルヨハアケバアケヌトモ》(三六六二)とあつて、ヨシヱヤシを、トモで受けてゐるから、これもナクトモがよからう。○鯨魚取《イサナトリ》――鯨を古名イサナと呼んだ。勇魚《イサナ》の義であらう。鯨を捕へる海の意で枕詞として用ゐられる。この句から玉藻成《タマモナス》までは、依宿之《ヨリネシ》と言はむ爲の序詞。○和多豆乃《ワタヅノ》――舊訓ニギタヅだが、玉の小琴に、石見國那賀郡の海邊に渡津村といふのが今もあると言つてから、ワタヅ説が有力になつた。次の或本の歌には柔田津とあるから、ニギタヅとよむのも捨つべきでないが、今、石見にその地名が無いから、暫くワタヅとよむことにする。(152)渡津は江川の河口、都濃村の東北にある。○荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》――荒磯は人げ疎き荒凉たる磯。波の荒きをいふのではない。○香青生《カアヲナル》――香は接頭語。さ青などいふも同じ。○朝羽振《アサハフル》――羽振は風の起るをいふ。鳥の羽たたきによつて、風が起るから出た語だと言はれてゐる。朝羽振《アサハフル》は朝吹く意で、下に風とつづいてゐる。次の夕羽振流《ユフハフル》は浪に續いてゐるが、これは夕風につれて立つ浪の意である。○彼縁此依《カヨリカクヨリ》――彼方に依り此方に依る意であるが、鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》(六二八)などの如く、カとカクとが連ねて用ゐられる習慣がある。○玉藻成《タマモナス》――玉藻の如くの意。依宿之妹《ヨリネシイモ》の枕詞であるが、上に海に關して述べて來たのは、玉藻を言はむ爲であり、又玉藻は女のは女の柔い形容であるから、普通の枕詞とは違ふところがある。○露霜乃《ツユジモノ》――置くの枕詞。露じ物で、露のやうな物の意である。秋の末に置く水霜を露霜といふのは、古意ではあるまい。○八十隈毎《ヤソクマゴトニ》――多くの曲り角毎にの意。○益高爾《イヤタカニ》――マスタカニ・マシタカニの訓もあるが、益目頼染《イヤメヅラシミ》(一九六)・益益南《イヤマサリナム》(三一三五)などによれば、イヤタカニがよい。○夏草之《ナツグサノ》――夏の草は日に照らされて、萎えるものであるから、之奈要《シナエ》の枕詞とする。○念之奈要而《オモヒシナエテ》――之奈要は萎えること。シは接頭語であらう。助詞のシではない。於君戀之奈要浦觸《キミニコヒシナエウラブレ》(二二九八)とある。○志怒布良武《シヌブラム》――志怒布は思ひ出しなつかしがること。
〔評〕 冐頭は住み馴れた石見の國の海邊に托して、吾にはよき妻ありといふ意をほのめかしてゐたが、やがて玉藻なす依り寢し妹をと、歌ひつづけてゐる内に、今までの悠揚たる迫らざる態度が漸く一變して、感情が高調し、戀しさなつかしさが込み上げて來て、我もかくばかり戀しければ、妻も亦思ひしなえて我を慕つてゐるであらう。ああその妻住む門なりとも見よう。靡けよこの山よと、身もだえして叫んだのである。感情がだんだんと高まつて行く樣も巧にあらはれ、調子の上にも氣分の上にも、謂はゆる序破急があつて實に感じの深い作だ。山に靡けと願つた歌は、卷十(153)二|惡木山木末悉明日從者靡有社妹之當將見《アシキヤマコヌレコトゴトアスヨリハナビキタリコソイモガアタリミム》(三一五五)、卷十三に奧十山三野之山靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奧礒山三野之山《オキソヤマミヌノヤマナビケトヒトハフメドモカクヨレトヒトハツケドモココロナキヤマノオキソヤマミヌノヤマ》(三二四二)などがあつて、いづれも古代の民謠と見えるが、人麿はこれらによつて作つたのでもあるまい。
 
反歌
 
132 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
 
石見乃也《イハミノヤ》 高角山之《タカツヌヤマノ》 木際從《コノマヨリ》 我振袖乎《ワガフルソデヲ》 味見都良武香《イモミツラムカ》
 
私ガ妻ト別レテ旅ニ出テ名殘惜シサニ〔妻ト〜傍線〕、石見ノ國ノ高角山ノ木ノ間カラ振ル袖ヲ妻ハ見タダラウカ。ドウデアラウ〔六字傍線〕。
 
○石見乃也《イハミノヤ》――也《ヤ》は輕く添へていふ歎辭である。近江のや鏡の山・ささなみや志賀の都などの、やに同じ。○高角山之《タカツヌヤマノ》――高角山は石見國美濃郡に、今、高津といふ所があつて、人麿を祀る社もあり、其處の山だらうと言はれてゐたが、その村は國府より遙か西方に當つて、都への歸路ではない。恐らく高角山は都農の附近の高い山の意で、都農の里は、人麿の妻の住んでゐた地であるから、その後方の山に違ない。今、島星山と稱するものが、それだと言はれてゐる。地圖參照。○木際從《コノマヨリ》――この句は、第五句の妹見都良武香《イモミツラムカ》につづくものと見る説が多かつたが、それでは句の續が穩やかでないから、我振袖乎《ワガフルソテヲ》につづくものと見るがよい。
〔評〕 妻に別れて都農の里を離れ、山にさしかかつた時のことを述べたもので、もう逢はれぬと思ふにつけても、別を惜しんで高角山の木の間より我が袖を振つたのは、果して妻の目にとまつたであらうかと、今はそれが心にかかり出したのである。せめてあれでも妹の目に止まつて、彼の女の胸にやきつけられたならば、私は切めてそれで心を慰めよう。さてどうであつたらうと思ふのである。あはれな歌だ。
 
133 小竹の葉は み山もさやに さやげども 吾は妹おもふ 別れ來ぬれば
 
小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤゲドモ》 吾者妹思《ワレハイモオモフ》 別來禮婆《ワカレキヌレバ》
 
私ハ親シイ〔三字傍線〕妻ト別レテ來タノデ、コノ道スガラ〔六字傍線〕、山ノ中ガザワザワト音ヲ立テテ、篠ノ葉ガ騷イデ居ルケレド、(154)別段淋シイトモ恐ロシイトモ思ハズ、タダ〔別段〜傍線〕妻ノコトバカリヲ思ツテヰル。
 
○三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》――三山《ミヤマ》の三《ミ》は接頭語で意味はない。清爾《サヤニ》はさやさやとの意で、清の字は借字である。○亂友《サヤゲドモ》――亂の字、種々の訓があるが、上からの續き方では、サヤゲドモとよむのが一番よい。舊訓ミダレドモで、古義がこれに從つてゐるのは、諒解に苦しむ。
〔評〕 笹の葉のさやさやと、山風に打ちそよぐ、淋しい路を辿りつつ、妻を思ふ若い旅人の情緒がか細く、か弱く、物哀げにあらはされてゐる。歌の調子も、笹の葉の戰ぎ鳴る旋律と一致してゐるやうな感がある。新古今に「ささの葉はみ山もそよに亂るなり我は妹思ふ別れ來ぬれば」として出てゐるのは、この歌が、かの繊細な新古今風に通ずるところがあつて、當時にも喜ばれたものであらう。
 
或本反歌
 
134 石見なる 高角山の 木の間ゆも 吾が袖振るを 妹見けむかも
 
石見爾有《イハミナル》 高角山乃《タカツヌヤマノ》 木間從文《コノマユモ》 吾袂振乎《ワガソデフルヲ》 妹見監鴨《イモミケムカモ》
 
これは本文の歌と、殆ど意味にかはりはない。美夫君志に、「見監鴨の見監は過去なれば、此には叶はず」とあるが、これで少しも差支ない。
 
135 つぬさはふ 石見の海の ことさへぐ 韓の埼なる いくりにぞ 深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寢し兒を 深海松の 深めて思へど さ寢し夜は 幾だもあらず 延ふつたの 別れし來れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへりみすれど 大舟の 渡りの山の もみぢ葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 嬬ごもる 屋上の【一云、室上山】山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隱ろひ來れば 天づたふ 入日さしぬれ ますらをと 思へる吾も 敷妙の 衣の袖は 通りて沾れぬ
 
角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》 石見之海乃《イハミノウミノ》 言佐敝久《コトサヘク》 辛乃埼有《カラノサキナル》 伊久里爾曾《イクリニゾ》 深海松生流《フカミオルオフル》 荒礒爾曾《アリソニゾ》 玉藻者生流《タマモハオフル》 玉藻成《タマモナス》 靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》 深海松乃《フカミルノ》 深目手思騰《フカメテモヘド》 左宿夜者《サネシヨハ》 幾毛不有《イクダモアラズ》 延都多乃《ハフツタノ》 別之來者《ワカレシクレバ》 肝向《キモムカフ》 心乎痛《ココロヲイタミ》 念乍《オモヒツツ》 顧爲騰《カヘリミスレド》 大舟之《オホフネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》 黄葉乃《モミヂバノ》 散之亂爾《チリノマガヒニ》 妹袖《イモガソデ》 清爾毛不見《サヤニモミエズ》 嬬隱有《ツマゴモル》 屋上乃《ヤガミノ》【一云室上山】山乃《ヤマノ》 自雲間《クモマヨリ》 渡相月乃《ワタラフツキノ》 雖惜《ヲシケドモ》 隱比(154)來者《カクロヒクレバ》 天傳《アマヅタフ》 入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》 大夫跡《マスラヲト》 念有吾毛《オモヘルワレモ》 敷妙乃《シキタヘノ》 衣袖者《コロモノソデハ》 通而沾奴《トホリテヌレヌ》
 
コノ石見ノ國ニ居ル間ニ親シクシテ〔コノ〜傍線〕、(角※[章+おおざと]經石見之海乃 言佐敝久辛乃埼有 伊久里爾曾深海松生流 荒礒爾曾玉藻者生流 玉藻成)靡イテ寄リ臥シテ寢タ妻ヲ、(深海松乃)深ク心ノ中デハ可愛イト思フケレドモ、人目ヲ憚ツテ〔六字傍線〕共寢スル晩ハ幾程モナイ、サウシテ〔四字傍線〕(延都多乃)別レテ私ハ旅ニ出テ來ルト、(肝向)心ガ痛ミ悲シイノデ、妻ノコトヲ〔五字傍線〕思ツテハ振リ返ツテ見ルケレレドモ(大舟之)渡ノ山トイフ山ノ、紅葉ノ葉ガ散リ亂レルノニ紛レテ、妻ガ立ツテ私ヲ見送ツテ振ツテヰル着物〔ガ立〜傍線〕ノ袖ハ瞭然《ハツキリ》トハ見エナイデ、(嬬隱有屋上乃山乃 自雲間渡相月乃)見エナクナルノガ名殘〔見エ〜傍線〕惜シクハアルケレドモ、ダンダン妻ノ方ガ〔八字傍線〕隱レテ見エナイヤウニナツテ〔見エ〜傍線〕行クト、夕方ニナツテ〔六字傍線〕(天傳)夕日ガサシテ來ルト、イヨイヨ心細ク悲シクナツテ〔イヨ〜傍線〕、吾コソハ男ダト思ツテヰル私モ、涙ガ自然ト流レ出シテ〔涙ガ〜傍線〕(敷妙乃)衣ノ抽ガ裏マデ通ツテ霑レタ。
 
○角※[章+おおざと]經《ツヌサハフ》――蔦多蔓《ツヌサハフ》の意で、蔦かづらの類の、多く這ひまつはる石とづづく枕詞である。この他にこの語の解は多いが、採るべきものがない。この句から玉藻成までは靡くと言はむ爲の序詞。○言佐敝久《コトサヘグ》――韓の枕詞。言葉のさやぎ、喧しき韓人といふのである。○辛乃埼有《カラノサキナル》――辛乃埼は「石見(ノ)國邇摩郡託農浦にありと國人云へり」と、古義に記してあるが、石見風土記に、「可良島秀2海中1、因v之可良埼云。度半里」とあつて、その島の對岸に當るのであらう。託農は即ち今の宅野村である。卷三の三五五の地圖參照。○伊久里爾曾《イクリニゾ》――伊久里は海の石をいふ。釋日本紀に「句離《クリ》謂v石也、伊(ハ)助語也」とあるに(156)よれば、伊は接頭語で、石をクリといふのである。今も日本海沿岸地方では海礁をグリといつてゐる。○深海松生流《フカミルオフル》――深海松は、深きところに生ずる海松《ミル》をいふ。海松は水松とも書く。水松科水松屬の海藻で、體の長さ四五寸、徑一二分の紐状をなし、枝をさして分れてゐて、食用になるものである。○靡寢之兒乎《ナビキネシコヲ》――添ひ臥した女をの意。○深海松乃《フカミルノ》――深目手《フカメテ》の枕詞。○幾毛不有《イクダモアラズ》――イクダとよむがよい。卷五に左禰斯欲能伊久陀母阿蘇禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》(八〇四)とある。○延都多乃《ハフツタノ》――這ふ蔦の別るとつづく枕詞。蔦蔓のたぐひは、枝を分ちて延び行くものだからである。○肝向《キモムカフ》――「五臓六臓相向かひ集まりて、凝々《コリコリ》すといふ意より、こりこりの約轉なる心につづく」と、宣長は言つてゐるが、肝心《キモココロ》も失すなどと言つて、古昔は心も肝も同じ意に用ゐられてゐるので、要するに肝の向ひ合ふ間に、心があると考へたものとすべきであらう。村肝の心と同じやうな語法である。○大舟之《オホフネノ》――渡りとつづく枕詞。○渡乃山之《ワタリノヤマノ》――渡津附近の山であらう。○散之亂爾《チリノマガヒニ》――チリノミダリニとよむ説もある。亂の字は、ミダリとよむのが普通であるが、中にはミダリでは意をなさぬ處もある。例へば、吾岳爾盛開有梅花遺有雪乎亂鶴鴨《ワガヲカニサカリニサケルウメノハナノコレルユキニマガヘツルカモ》(一六四〇)の如きがそれである。して見れば無理にミダリに統一しようとするのはよくない。ここなどはマガヒとよむ方がよい。○嬬隱有《ツマゴモル》――屋の枕詞である。妻を迎ふる爲に屋を作り、その内に妻と籠るのである。この句から渡相月乃《ワタラフツキノ》までは雖惜《ヲシケドモ》といはむ爲の序詞。今、雲間を月が渡るのではない。○屋上乃山乃《ヤガミノヤマノ》―一云室上山とある室上山も同じで、今、下松山村大字八神といふ地の山である。地圖參照。○自雲間《クモマヨリ》――雲間をといふに同じ。○天傳《アマヅタフ》――天を傳ふ日とつづく枕詞。○入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》――入日さしぬればに同じ。○敷妙乃《シキタヘノ》――衣の枕詞。敷妙は床に敷く布で、夜の衣にかけていふ。轉じて枕・袖・床の枕詞となる。
〔評〕 前の長歌と、大體の手法を等しくしてゐるが、前者は末句に近づいて感情が激したやうに作られてゐるに反し、これは總體にしんみりとした哀感が流れてゐる。さうして終末に近づいては、傾く入日を點出して淋しい景を述べ、益荒雄と思へる我も、女々しくも涙に袖をぬらしたと言つてゐる。殊に衣の袖は通りてぬれぬと言つたのは、如何にもさめざめと泣き霑れたやうで、悲しい言葉である。前の歌に劣らぬ佳作である。
 
反歌二首                                                          
136 青駒の 足掻きを速み 雲居にぞ 妹があたりを 過ぎて來にける 一云、あたりは隱り來にける
 
青駒之《アヲゴマノ》 足掻乎速《アガキヲハヤミ》 雲居曾《クモヰニゾ》 妹之當乎《イモガアタリヲ》 過而來計類《スギテキニケル》 【一云、當者隱來計留《アタリハカクリキニケル》
 
私ガ乘ツテヰル〔七字傍線〕、青イ毛色ノ馬ノ歩キ方ガアマリ早イノデ、何時ノ間ニカ〔六字傍線〕、妻ノ家ト、空ノ彼方ニカケ離レテ過ギテ來タヨ。隨分遠ク離レタモノダ。アア妻ガナツカシイ〔隨分〜傍線〕。
 
○青駒之《アヲゴマノ》――和名抄に説文云、※[馬+總の旁]音聰、漢語抄云、※[馬+總の旁]青馬也、とあり、新撰字鏡にも※[馬+總の旁]阿乎支馬とある。卷二十に水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハイロノアヲウマヲ》(四四九四)とあるから、青毛の馬である。白馬ではない。安田躬弦が赤駒の誤かと言つた説は從ふべきでない。○足掻乎速《アガキヲハヤミ》――足掻は足を動かすこと。○雲居曾《クモヰニゾ》――雲居は空、ここは空の如くに遠くの意。
〔評〕 後髪引かれる心地で、妻と別れて來た彼は、その乘る駒のいつもの歩みも、今日は取り分け速いやうに思ふのである。顧みれば妻の家は、既に空のあなたに遠ざかつたと悲しんでゐるのだ。雲居曾《クモヰニゾ》といふ誇張した言ひ方も、わざとらしくなく、哀れに響いてゐる。
 
137 秋山に 落つるもみぢ葉 しましくは な散り亂れそ 妹があたり見む 一云、散りな亂れそ
 
秋山爾《アキヤマニ》 落黄葉《オツルモミヂバ》 須臾者《シマシクハ》 勿散亂曾《ナチリミダレソ》 妹之當將見《イモガアタリミム》 【一云|知里勿亂曾《チリナミダレソ》】
 
名殘惜シイ妻ノ家ハタダサヘ見エナクナルノニ、ソノ上紅葉ノ葉ガ散リ亂レテ先ガ見エナイ。アア〔名殘〜傍線〕、秋ノ山ニ散ル紅葉ヨ、暫時ノ間散リ亂レルナヨ。私ガ〔二字傍線〕妻ノ家ノ邊ヲ見ヨウカラ。
 
○勿散亂曾《ナチリミダレソ》――この句をナチリミダリソとよんだ、古義や美夫君志説は惡い。ミダリとなるのは四段活用で、他動詞である。○須臾者《シマシクハ》――須臾は之麻思久母《シマシクモ》(三六〇一)とも思麻良久波《シマラクハ》(三四七一)ともあるから、どちらでもよい。
〔評〕 落葉雨と降る中を、顧み勝ちに山路を分け行く、旅人の姿が思はれて悲しい。須臾者《シマシクハ》といふ句がやさしみを添へてゐる。素純な作である。
 
或本歌一首并短歌
 
138 石見の海 つの浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は無くとも いさなとり 海べをさして 柔田津の 荒磯の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け來れば 浪こそ來よせ 夕されば 風こそ來よせ 浪のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き吾が寢し 敷妙の 妹が袂を 露霜の おきてし來れば この道の 八十隈毎に 萬づ度 かへりみすれど いや遠に 里放り來ぬ いや高に 山も越え來ぬ はしきやし 吾が妻の子が 夏草の 思ひしなえて 嘆くらむ 角の里見む 靡け此の山
 
(158)石見之海《イハミノミ》 津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》 浦無跡《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無跡《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者雖無《ウラハナクトモ》 縱惠夜思《ヨシヱヤシ》 滷者雖無《カタハナクトモ》 勇魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》 柔田津乃《ニギタヅノ》 荒礒之上爾《アリソノウヘニ》 蚊青生《カアヲナル》 玉藻息都藻《タマモオキツモ》 明來者《アケクレバ》 浪巳曾來依《ナミコソキヨセ》 夕去者《ユフサレバ》 風已曾來依《カゼコソキヨセ》 浪之共《ナミノムタ》 彼依此依《カヨリカクヨリ》 玉藻成《タマモナス》 靡吾宿之《ナビキワガネシ》 敷妙之《シキタヘノ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》 此道之《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《ヨロヅタビ》 顧雖爲《カヘリミスレド》 彌遠爾《イヤトホニ》 里放來奴《サトサカリキヌ》 益高爾《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》 早敷屋師《ハシキヤシ》 吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》 夏草乃《ナツクサノ》 思志萎而《オモヒシナエテ》 將嘆《ナゲクラム》 角里將見《ツヌノサトミム》 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
○津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》――この句は津能乃浦回乎《ツノノウラミヲ》の誤で、能の字脱ち、無美は衍であらうと考に見えるが、ツヌと言ふべき處であるから、能ではあるまい。○柔田津乃《ニギタヅノ》――本文に和多豆乃とあるので、これをワタヅとすれば、柔田津の傳はどうして出來たものか、頗る迷はざるを得ない。○蚊青生《カアヲナル》――蚊《カ》は接頭語、さ青といふに同じ。○早敷屋師《ハシキヤシ》――美《ハ》しきやしで、ヤとシとは詠嘆の辭、ヨシヱヤシのヤシに同じ。ハシキは美しき、又は愛すべきの意。
 
反歌
 
139 石見の海 打歌の山の 木のまより 吾が振る袖を 妹見つらむか
 
石見之海《イハミノミ》 打歌山乃《タカツヌヤマノ》 木際從《コノマヨリ》 吾振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹將見香《イモミツラムカ》
 
○石見之海《イハミノミ》――海とは言ふべからざるところのやうに思はれる。それとも石見の海に近い意か。○打歌山乃――この句は舊訓ウツタノヤマノであるが、頗る穩やかでない。考には打歌《タカ》は假名で、次に角か津乃などが落ち(159)たのであらうと言つてゐる。角の字を補ふのはよいやうだが、打の字はタとよんだ例がなく、歌もカとよんだものはない。哥を何哥毛《ナニシカモ》(一四七五)とよんだのがあるのみである。恐らくは誤字であらう。古義の竹綱《タカツヌ》説はあまり物遠い。
 
右(ノ)歌(ノ)體雖v同(ト)句句相替因(リテ)v此(ニ)重(テ)載(ス)
 
柿本朝臣人麿(ノ)妻|依羅娘子《ヨサミノイラツメ》與2人麿1相別(ルル)歌一首
 
依羅娘子は依羅氏の人であらう。人麿の二度目の妻で大和に住んでゐた。この歌は人麿が再び石見へ赴かうとした時、別を惜しんでよんだものである。これを石見にゐる女とする説もあるが、それは誤である。二二四の題詞參照。
 
140 な念ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 吾が戀ひざらむ
 
勿念跡《ナオモヒト》 君者雖言《キミハイヘドモ》 相時《アハムトキ》 何時跡知而加《イツトシリテカ》 吾不戀有牟《ワガコヒザラム》
 
貴方ハ、今別レテモ直ニ歸ツテ來ルカラ、戀ヒ慕ツテ物ヲ〔今別〜傍線〕思フナト仰ルケレドモ、貴方ガ御歸リニナツテ、又〔貴方〜傍線〕御目ニカカル時ハ何時ト思ツテ、私ハ貴方ヲ慕ハズニ居リマセウゾ。何時トモ分ラナイノデスカラ、慕ハズニハ居ラレマセヌ〔何時〜傍線〕。
 
○勿念跡《ナオモヒト》――この句は舊訓オモフナト、考はナモヒソトであるが、代匠紀にナオモヒトとよんだのが良いやうである。勿の字は、不吹有勿勤《フカザルナユメ》(七三)・妹森毛有勿久爾《イモモアラナクニ》(七五)。置勿爾到《オキナニイタリ》(三八八六)などの如く、ナとよむのが常である。ソを附する必要はない。
〔評〕 相時何時跡知而加《アハムトキイツトシリテカ》は、哀な悲しい言葉である。女らしい切な情が見えてゐる。この句によつて守部が、人麿は石見の國司の屬官ではなく、高角山に住んでゐた石見の人であるとしたのは當らない。この句は、必ずし(160)も後會の期が絶對に無いといふのではない。柿本氏は大和國北葛城郡新庄村大字柿本を本郷とした氏で、人麿の生誕地は大和である。
 
挽歌
 
挽歌はバンカとよむ。葬送の際に歌ふ歌。挽の字を用ゐるのは、柩を載せた車を挽く意である。晋書に「挽歌出2于漢武帝、役人之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送v終之禮1」崔豹古今注「薤露蒿里、竝出2田横門人1、至2李延年1、乃分爲2兩曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽v柩者歌1v之、世亦呼爲2挽歌1」とあるから、彼土の熟語で、音讀したに相違ない。考はカナシミノウタとよみ、古義はカナシミウタとしたのは從はれぬ。ヒキウタの訓はありさうであるが、その確證を認め得ない。古今集以後の哀傷に相當するものである。
 
後崗本宮御宇天皇代   天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》天皇
 
齊明天皇の御代である。卷一の八參照。
 
有間皇子自(ラ)傷(ミテ)結(ベル)2松枝(ヲ)1歌二首
 
有間皇子は孝徳天皇の御子である。孝徳紀に、「妃阿部(ノ)倉梯麻呂(ノ)大臣(ノ)女曰2小足媛1、生2有間皇子1」とある。又齊明紀の四年十一月の條に、この皇子の謀反があらはれたことを記し、「於v是皇太子、親問2有間皇子1曰、何故謀反、答曰、天與2赤兄1知(ル)、吾全不v解、庚寅遣2丹比小澤連國襲1、絞2有間皇子於藤白坂1」とある。皇子の謀反あらはれ、折から天皇紀(ノ)温湯に行幸中であつたから、其處へお連れ申す道すがら、磐代で自ら傷んで、松の枝を結ばれたのである。
 
141 磐代の 濱松が枝を 引き結び 眞さきくあらば またかへり見む
 
(161)磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママツガエヲ》 引結《ヒキムスビ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦還見武《マタカヘリミム》
 
私ハ今罪ヲ得テ連レラレテ行ク道スガラコノヤウニ〔私ハ〜傍線〕磐白ノ濱ニ生エテヰル松ノ枝ヲ結ンデ置クガ、自分ノ身ノ申シ開キガ出來テ〔自分ノ〜傍線〕、無事デアルナラバ、再ビコノ結ンダ松ノ枝ヲ見ルコトガ出來ヨウ。アアサウデアレバヨイガ〔アア〜傍線〕。
 
○磐白乃《イハシロノ》――磐白は紀伊日高郡、卷一の一〇に出た。○濱松之枝乎引結《ハママツガエヲヒキムスビ》――濱の松の枝をわがねること。草木の枝を結ぶことは、記念として、又は、後會を期するやうな意味でやつた風俗らしい。既に卷一に磐代乃岡之草根乎去來結手名《イハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》(一〇)とあつたが、その他卷六、靈剋壽者不知松之枝結情者長等曾念《タマキハルイノチハシラズマツガエヲムスブココロハナガクトゾオモフ》(一〇四三)、卷二十に夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマヅノサエダヲワレハムスバナ》(四五〇一)などがそれである。皇子は温湯にましました天皇にま見え給うて、謀反の辯解が出來て、再びこの地を過ぎむと思し召して、松の枝を結ばれたものである。
〔評〕 あはれな事件に伴なつた歌の故か、何となく悲しい感じを與へる作である。皇子への同情は、後の人をして多くの結松の歌をよましめた。それは次の數首のみではなく、萬葉以後にも澤山あるのである。
 
142 家にあれば けに盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
 
家有者《イヘニアレバ》 笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》 草枕《クサマクラ》 旅爾之有者《タビニシアレバ》 椎之葉爾盛《シヒノハニモル》
 
家ニ居レバ器ニ盛ツテ食ベ〔四字傍線〕ル飯ヲ(草枕)旅ニ出テヰルト、カヤウニ〔四字傍線〕椎ノ葉ニ盛ツテ食ベル。アア辛イ旅ダ〔六字傍線〕。
 
○家有者《イヘニアレバ》――イヘニアラバとよむ説はよくない。旅爾之有者《タビニシアレバ》に對して、これは、アレバといふべきである。○笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》――笥は器であるが、狹義では食器をいふ。和名抄に「禮記注云笥、【思吏反和名介】盛v食器也」とある。○椎之葉爾盛《シヒノハニモル》――椎の小枝を折つて飯を盛るのである。新考に椎の葉は細かにてふさはしからずと云つて、椎は楢とよむのだらうとあるが、一枚の葉に盛るのではなく、枝の上に載せるのだから、椎の葉でよいのである。
〔評〕 旅寢となれば物憂きにとは、近代までの言葉であつた。文字通りに草枕旅であつたのだから、飯を椎の葉(162)に盛つて食べたのに僞はない。ましてこれは、囚はれの御身としての旅であるから、いろいろ悲しい考がお湧きになつたであらう。物あはれな調子が、人を動かさずには置かない作である。
 
長忌寸意吉麿《ナガノイミキノオキマロ》見(テ)2結松(ヲ)1哀咽(セル)歌二首
 
意吉麻呂は卷一の五七に奧麻呂とある人で、文武天皇の時の人であるが、結松に關した歌であるから、ここに載せたのである。
 
143 磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人はかへりて また見けむかも
 
磐代乃《イハシロノ》 岸之松枝《キシノマツガエ》 將結《ムスビケム》 人者反而《ヒトハカヘリテ》 復將見鴨《マタミケムカモ》
 
コノ磐代ノ濱ノ松ノ木ノ枝ヲ、結ンダトカイフアノ有間ノ皇子ハ、再還ツテ來テコノ結松ヲ〔五字傍線〕見タデアラウカナア。アノ皇子ハ藤代デ殺サレナサツタカラ、アレ限デ御覽ナサラナカツタラウノニ、今來テ見レバ依然トシテ松ノ枝ハ結バレタ儘ニナツテ居ル。アア御氣ノ毒ナコトダ〔アノ〜傍線〕。
 
○岸之松枝《キシノマヅガエ》――岸の字、元暦校本その他に崖に作つてゐる。いづれでもよからう。
〔評〕 有間皇子が再び歸つて、結松を見られなかつたことは、承知してゐるのだが、復將見鴨《マタミケムカモ》と疑ふやうに言つたのである。其處に餘情が籠つてゐる。略解に「皇子の御魂の、結枝を又見給ひけむかといふ也」とあるは、下の鳥翔成の歌から思ひ付いたのであらうが、非常な誤解である。
 
144 磐代の 野中に立てる 結び松 情も解けず いにしへ思ほゆ
 
磐代乃《イハシロノ》 野中爾立有《ノナカニタテル》 結松《ムスビマツ》 情毛不解《ココロモトケズ》 古所念《イニシヘオモホユ》 未詳
 
有間ノ皇子ガ結ンデ置カレタ〔有間〜傍線〕、磐代ノ野中ニ立タツテヰル結松ヲ見ルニツケテモ、皇子ノコトガ御氣ノ毒デ〔ヲ見〜傍線〕、胸ノウチガ結バツタヤウニナツテ、昔ノコトガ思ハレル。
 
(163)○情毛不解《ココロモトケズ》――不解《トケズ》は結ぶの縁語として用ゐられたもの。この句を美夫君志に「その結びし人の心の解けずぞありけむとなり」とあるのは誤である。下の古所念《イニシヘオモホユ》にかかつてゐるのだから、この結松を見た作者自身の心が、解けないのである。
〔評〕 有間皇子の結ばれた松が、その時までその儘に成長してゐたのを見て、よんだのである。結びと解けずとの縁語の用法は、萬葉集には極めて珍らしい技巧である。その小細工がどうも面白くない。この歌の下に未詳の二字があるのは不要である。
 
山上臣憶良追和(セル)歌一首
 
憶良は意吉麻呂よりも更に後の人である。追和歌とは、意吉麻呂の歌に追和した意である。
 
145 つばさなす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
 
鳥翔成《ツバサナス》 有我欲比管《アリガヨヒツツ》 見良目杼母《ミラメドモ》 人社不知《ヒトコソシラネ》 松者知良武《マツハシルラム》
 
有間ノ皇子ノ御魂ハ〔九字傍線〕、飛ブ鳥ノヤウニ、天ヲ飛ンデ〔五字傍線〕絶エズ此處ニ〔三字傍線〕通ツテ來テ、御形見ノコノ結ビ松ヲ〔御形〜傍線〕御覽ナサルデセウケレドモ、世ノ人ハソレヲ知ラナイガ、松ハ多分知ツテヰルダラウ。
 
○鳥翔成《ツバサナス》――舊訓トリハナスとあるのはよくない。ツバサナスでよい。ツバサは翼であるが、これは鳥を言つたのである。新考にトトビナスとよんだのは語をなさぬやうだ。翔の字は新考に言ふ如く、トブとよむ字であるが、また鶴翔所見《タヅカケルミユ》(一一九九)・天雲翔《アマクモカケル》(一七〇〇)・飛翔《トビカケル》(三七九一)の如くカケルにも用ゐられてゐる。この場合は鳥翔《ツバサ》と熟して用ゐたのである。成《ナス》は如くの意。似すの轉であらう。○有我欲比管《アリガヨヒツツ》――皇子の魂のありありて通ひつつの意。有通ふは集中に多い言葉である。
〔評〕 意吉麻呂の歌の、人者反而復將見鴨《ヒトハカヘリテマタミケムカモ》といふに對して、追和したものである。皇子の御身は再び還られなかつたけれども、御魂は絶えず通つて、結松を見られるのを、松は知つてゐるだらうといふので、天翔る皇子の(164)魂と、松の靈とを認めたもので、神秘的なところに特色がある。
 
右件(ノ)歌等(ハ)雖v不(ト)2挽(ク)v柩(ヲ)之時(ニ)所(ニ)1v作(ル)唯擬(ス)2歌意(ニ)1故(ニ)以(テ)載(ス)2于挽歌(ノ)類(ニ)1焉
 
これは挽歌の意をよく辨へないものが、柩を挽くこととのみ思つて加へた註である。固より必要がない。
 
大寶元年辛丑、幸2于紀伊國1時、見(ル)2結松(ヲ)1歌一首
 
續日本紀に「大寶元年九月丁亥、天皇幸2于紀伊國1、十月丁未、車駕至2武漏温泉1」とある時のことであらう。元暦校本及び諸古本に小字で「柿本朝臣人麿歌集中出也」の十一宇がある。
 
146 後見むと 君が結べる 磐代の 子松がうれを 又見けむかも
 
後將見跡《ノチミムト》 君之結有《キミガムスベル》 磐代乃《イハシロノ》 子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》 又將見香聞《マタミケムカモ》
 
後デ又見ヨウト思召シテ〔四字傍線〕、有間皇子ガ結ンデ置カレタ、コノ〔二字傍線〕磐代ノ子松ノ梢ヲ、有間皇子ハ〔五字傍線〕又御覽ナサレタデアラウカ。殺サレテオシマヒニナツテ御覽ナサラナカツタサウダ。御氣ノ毒ナ〔殺サ〜傍線〕。
 
○子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》――小松の末《ウレ》をの意。宇禮はウラに同じで梢をいふ。
〔評〕 この歌は長忌寸意吉麻呂の磐代乃岸之松枝《イハシロノキシノマツガエ》(一四三)の歌と、酷似してゐる。大寶元年といへば時代も意吉麻呂の頃である。この點から考へれば、これは前の歌の異傳とも言ひ得る。考にはこれを、後人の猥りに書加へたものとして除いてあり、古義は磐代乃岸之松枝《イハシロノキシノマヅガエ》の歌の一本として、その次に小字で記してゐる。併し後人の業とも思はれないから、やはり別の歌として見るべきである。君といふ語を用ゐただけ、この歌の方が鄭重な感じがする。
 
近江大津宮御宇天皇代  天命開別天皇《アメミコトヒラカスワケノスメラミコト》
 
(165)天智天皇の御代
 
天皇聖躬不豫之時、大后《オホキサキ》奉(レル)御歌一首
 
天智天皇不豫のことは、書紀に「十年九月天皇寢疾不豫、(或本八月天皇疾病)冬十月甲子朔庚辰天皇疾病彌|留《オモシ》」とあり、その年「十二月癸亥朔乙丑天皇崩于近江宮」とある。大后は太后に作る本が多いが、誤であらう。大后は皇后で、他の妃と區別してオホキサキと申上げるのである。書紀に、「七年二月丙辰朔戊寅立(テ)2古人大兄皇子女倭姫王(ヲ)1爲2皇后1」と見える御方である。
 
147 天の原 ふりさけ見れば 大きみの 御いのちは長く 天足らしたり
 
天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》 大王乃《オホキミノ》 御壽者長久《ミイノチハナガク》 天足有《アマタラシタリ》
 
大空ヲ遠ク離レテ仰イデ見ルト、天ハ悠々トシテ永ヘニ廣ク蒼々トシテヰマス。天ハ天子樣ノ御姿トモ見ラレルモノデスカラ、アノ樣ニ天ガ廣ク極リ無イノヲ見ルト、今ノ〔天ハ〜傍線〕陛下ノ御壽命ガ長ク天ノヤウニ滿チ足リテ居ルト思ハレマス。御病ノ御平癒遊バスノハ勿論ノコトデス〔ト思〜傍線〕。
 
○天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》――天を遙かに離れて見ればの意。即ち天を仰ぎ見れば。これは恐らく天皇の御病氣を占はむ爲に天を仰ぎ見られたのであらう。檜嬬手や美夫君志に、天皇の寢殿を仰ぎ見ることとして、下の天足有《アマタラシタリ》を、屋上の葛根《ツナネ》の長く垂れたるによりて、御壽も長くつづき給ふことを宣うたのだと言つてゐるのは、穿鑿に過ぎた説だ。○御壽者長久天足有《ミイノチハナガクアマタラシタリ》――御壽命は長く天のやうに滿ち足りてゐるといふのである。
〔評〕 天つ神の御末の天皇に、萬一の事があらせられるとすれば、天に何かの兆がある筈だ。今、大空を振り仰いで見ると、空は心地よく晴れて、いづこにも愁の影は見えない。天皇の御壽命は、この天の如く際涯なくあらせられるよと、喜び給うた御歌である。日本國民の純粹思想を基とした、實に雄大な心地よい作品である。
 
(166)一書曰近江天皇聖體不豫、御病急時大后奉献御歌一首
 
これは、右の御歌の註なりと古義にあるが、註とは思はれない。恐らく此の次に一書の歌があつたのが、脱ちたのであらう。次の歌はこの題詞に關係がない。
 
148 青旗の 木旗の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも
 
青旗乃《アヲバタノ》 木旗能上乎《コバタノウヘヲ》 賀欲布跡羽《カヨフトハ》 目爾者雖視《メニハミレドモ》 直爾不相香裳《タダニアハヌカモ》
 
青イ旗ノ小サイ旗ガ立チ列ンデヰル御陵〔ガ立〜傍線〕ノ上ヲ、亡キ天子樣ハ御魂ガ天ヲ飛ンデ〔亡キ〜傍線〕通ツテ御出デナサルト、私ノ〔二字傍線〕目ニ幻ノヤウニ〔五字傍線〕見エルケレドモ、直接ニ天子樣ニ〔四字傍線〕御逢ヒ申スコトハ出來マセヌワイ。アア悲シイコトデス〔九字傍線〕。
 
○青旗乃《アヲバタノ》――青い色の旗であらう。大葬に立てたものか。これを枕詞とする説もある。卷四に青旗乃葛木山《アヲハタノカツラキヤマ》(五〇九)・卷十三に青旗之忍坂山《アヲハタノオサカノヤマ》(三三三一)の如きはさうらしいが、これはどうであらう。○木旗能上乎《コハタノウヘヲ》――小旗の上をの意であらう。代匠記に木幡といふ地名に見てゐる。木幡は天智天皇の御陵山科に近いところであるから、縁ある地名ではあるが、特にこの地を詠まれたのは、どういふ理由か。これは寧ろ地名と見ない方が穩ではあるまいか。○目爾者雖視《メニハミレドモ》――雖視をミユレドとよむ説が多い。併し舊訓はミレドモで、この字は雖見安可受《ミレドモアカズ》(五六)などとあるから、ミユレドと改める必要はない。
〔評〕 御葬儀に用ゐた旗は、その儘御陵の上に立てられてゐる。その上に天皇の御魂が通ひ給ふを、まざまざと拜するけれども、それは幻で、現し世の御姿には、もはやお目にかゝることが出來ない。さても悲しやと嘆かせられたもので、戀しき天皇の御姿が面影に添うて離れ給はぬ思慕の情が、よくあらはれて悲しい作である。
 
天皇崩御之時倭大后御作歌一首
 
倭大后は前に大后とあつた御方と同じである。この題詞は一首を二首と改めて前の歌の前に置くべきものかとも思はれるが、なほ初からかうあつたのであらう。
 
149 人はよし 思ひ止むとも 玉かづら 影に見えつつ 忘らえぬかも
 
(167)人者縱《ヒトハヨシ》 念息登母《オモヒヤムトモ》 玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》 影爾所見乍《カゲニミエツツ》 不所忘鴨《ワスラエヌカモ》
 
他人ハタトヒ、御崩御遊バシタ天子樣ヲ〔御崩〜傍線〕思ヒ止ツテ歎カヌヤウナコトガアルトモ〔歎カ〜傍線〕、私ハ御姿ガ〔五字傍線〕(玉※[草冠/縵])面影トナツテ目ノ前ニチラツイテ見エテ忘レラレナイワイ。
 
○玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》――懸けとつづく枕詞。それを影《カゲ》に續けたのである。宜長が山※[草冠/縵]の誤としたのは當らない。他にも諸説あるが從ひ難い。○影爾所見乍《カゲニミエツツ》――影に見えて、亡き御姿の眼前にちらつくこと。飲酒坏爾陰爾所見管《ノムサカヅキニカゲニミエツツ》(一二九五)・安加良多知婆奈可氣爾見要都追《アカラタチバナカゲニミエツツ》(四〇六〇)の類とは、詞は同じくて、意は異なつてゐる。
〔評〕 人は月日を經るにつけて、今の悲しみを忘れるかも知れぬが、我のみは戀しいお姿が、目の前に絶えず髣髴とあらはれ給ふ故、永久に忘れることは出來ないといふので、人者縱念息登母《ヒトハヨシオモヒヤムトモ》といつて、自分の思の格別なことを強調せられたところに、哀が籠つてゐる。源氏物語桐壺の卷に「はかなく聞え出づる言の葉も、人よりは異なりしけはひかたちの、面影につと添ひて思さるるも、闇のうつつには猶劣りけり」と更衣を失つた帝の悲愁を述べた筆は、ここに移して大后のお心地をあらはすことも出來るのである。
 
天皇崩時|婦人《ヲムナメ》作歌一首 姓氏未詳
 
婦人は宮嬪の稱呼であらう。和名抄に「妾和名乎無奈女、」安康天皇紀に※[草冠/行]菜《ヲムナメ》、孝徳天皇紀に嬬妾《ヲムナメ》とあるによつて、ヲムナメとよむべきか。守部が夫人の誤としたのは妄斷である。姓氏未詳とあるは婦人の姓氏の未詳をいつたのである。
 
150 うつせ身し 神に堪へねば さかり居て 朝嘆く君 放れ居て 吾が戀ふる君 玉ならば 手に卷き持ちて 衣ならば 脱ぐ時もなく 吾が戀ひむ 君ぞ咋の夜 夢に見えつる
 
空蝉師《ウツセミシ》 神爾不勝者《カミニタヘネバ》 離居而《サカリヰテ》 朝嘆君《アサナゲクキミ》 放居而《ハナレヰテ》 吾戀君《ワガコフルキミ》 玉有者《タマナラバ》 手爾卷持而《テニマキモチテ》 衣有者《キヌナラバ》 脱時毛無《ヌグトキモナク》 吾戀《ワガコヒム》 君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》 夢所見鶴《イメニミエツル》
 
(168)現在ノ生キテヰルコノ私ノ〔九字傍線〕身ハ、神樣ト御成リナサレタ天子樣ノ御供ヲ致スコトモ〔御成〜傍線〕出來マセンカラ、彼ノ世ト此ノ世トニ離レテ居テ、毎朝毎朝私ガ御慕ヒ申シテ嘆ク天子樣、放レテヰテ、私ガ御慕ヒ申ス天子樣、實ニ戀シクナツカシクテ仕方ガアリマセヌ。モシ天子樣〔實ニ〜傍線〕ガ玉デアルナラバ、釧トシテ〔四字傍線〕手ニ卷キ付ケテ持ツテ居ツテ、體カラ放サナイヤウニシ〔居ツ〜傍線〕、着物ナラバ脱グ時モ無ク、始終膚身ニ付ケテ置イテ〔始終〜傍線〕私ガ御慕ヒ申サウト思ヒマス天子樣ガ、昨夜ハ私ノ夢ニ顯ハレナサイマシタ。カヤウニ戀シイ御方モ、今ハ夢デナクテハ逢ハレヌヤウニナツタノハ實ニ悲シウ存ジマス〔カヤ〜傍線〕。
 
○空蝉師《ウツセミシ》――空蝉《ウツセミ》は現し身。現在この世に生きてゐる身。即ち人間。師《シ》は強める助詞。○神爾不勝者《カミニタヘネバ》――神には勝たねばの意で、神となり給へる天皇に、隨ひ天上することの出來ぬをいふ。○離居而《サカリヰテ》――下の放居而と同意の文字で、共にサカリヰテとも、ハナレヰテともよめるのであるが、他の例から推せば、離の字は、天離《アマサカル》(二二七)朝不離《アササラズ》(三七二)・己妻離而《オノツマカレテ》(一七三八)の如くサカル、サル、カルとよまれるのが常である。放は振放見都追《フリサケミツツ》(四一七七)の如く、サクが多いが、放鳥《ハナチトリ》(一七〇)・雖放《ハナツトモ》(三二七)の如く、これをハナツとよんだのもある。そこで離をサカリ、放をハナレとよむことにした。○君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》――伎賊《キゾ》は昨の意。去年をコゾといふと同一語である。
〔評〕 短い長歌ながラ、對句を巧みに用ゐて、悲しさと、慕はしさとをあらはしてゐる。君といふ語が三箇所に繰返されてゐるのも、如何にも慕はしさに堪へぬやうに聞える。但し朝嘆君《アサナゲクキミ》と吾戀君《ワガコフルキミ》との對句は少しくどうかと思はれる。朝の字、マヰとよむべきだといふやうな説も、この對句がうまく行つてゐないところから、出たのである。ともかくも佳作を以て許すべき歌である。
 
天皇|大殯《オホアラキ》之時歌二首
 
大殯はオホアラキとよむ。殯は天皇崩じて未だ葬り奉らず、別殿に奉安せる間をいふ。大は敬稱(169)である。
 
151 かからむと 豫ねて知りせば 大御船 はてし泊に しめ結はましを
 
如是有刀《カカラムト》 豫知勢婆《カナテシリセバ》 大御船《オホミフネ》 泊之登萬里人《ハテシトマリニ》 標結麻思乎《シメユハマシヲ》  額田王
 
カヤウニ天子樣ガ御崩御遊バスト〔天子〜傍線〕前カラ知ツタナラバ、天子樣ガ琵琶湖デ舟遊ビヲナサツタ時〔天子〜傍線〕、御船ノ着イタ場所ニ標繩ヲ張ツテ、永ク御留メ申ス〔九字傍線〕ノデアツタノニ。殘念ナコトヲシマシタヨ〔殘念〜傍線〕。
 
○如是有刀《カカラムト》――刀の字舊本乃に作るは誤である。美夫君志に乃にトの音ありと論じ、誤字にあらずと言つてゐるのは、字音學者の弊に落ちたものである。○標結麻思乎《シメユハマシヲ》――標を結ぶべき筈であつたのにの意。これは古事記天の岩屋戸の條に、大神を岩戸より引き出しまつりて、布刀玉命が、尻久米繩を御後へに引き渡して、ここより内になかへり入りましそ、と申した故事を思つて、よまれたものであらう。
〔評〕 この汀に御舟が着いた時に、標繩を張り渡してお止め申したならば、かやうに神去り給ふこともなかつたらうにと、常識的でない想像が、悲痛の情をあらはして、人をして哀感を催さしめる。
 
152 やすみしし わご大王の 大御船 持ちか戀ふらむ 志賀の辛崎
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾期大王乃《ワゴオホキミノ》 大御船《オホミフネ》 待可將戀《マチカコフラム》 四賀乃辛崎《シガノカラサキ》  舍人吉年
 
コノ志賀ノ辛崎ハ、御崩レ遊バシタ〔七字傍線〕(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス天子樣ノ御船ガ、着クダラウカト思ツテ、ソレ〔ガ着〜傍線〕ヲ戀ヒ慕ツテ御待チ申シテ居ルデセウ。天子樣ノ御崩レ遊バシタコトモ知ラナイデ御船ヲ待ツテヰルノデセウ〔天子〜傍線〕。
○八隅知之吾期大王乃《ヤスミシシワゴオホキミノ》――卷一の五二に出づ。○待可將戀《マチカコフラム》――コヒナムと美夫君志にあるのはその意を得ない。コヒナムと未來に言ふべきところでない。
〔評〕 心なき志賀の唐崎を、心あるものの如くによまれたのである。卷一の人麿の、樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大(170)宮人之船麻知兼津《ササナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤヒトノフネマチカネツ》(三〇)の前驅をなした作である。人麿はこれを紛本としたと言つても差支あるまい。純眞な上古人らしい想像が、何となくなつかしい。舍人吉年は宮女らしい名である。
 
大后御歌一首
 
153 いさなとり 近江の海を 沖さけて 漕ぎ來る船 邊附きて 漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ
 
鯨魚取《イサナトリ》 淡海乃海乎《アフミノウミヲ》 奧放而《オキサケテ》 榜來船《コギクルフネ》 邊附而《ヘツキテ》 榜來船《コギクルフネ》 奧津加伊《オキツカイ》 痛勿波禰曾《イタクナハネソ》 邊津加伊《ヘツカイ》 痛莫波禰曾《イタクナハネソ》 若草乃《ワカクサノ》 嬬之《ツマノ》 念鳥立《オモフトリタツ》
 
(鯨魚取)近江ノ海即チ琵琶湖〔五字傍線〕ヲ、沖遠ク離レテ漕イデ來ル船ヨ、岸ノ方ニ付イテ漕イデ來ル船ヨ、沖ヲ漕グ時ニ〔五字傍線〕櫂ヲヒドク撥ネテ漕グ〔三字傍線〕ナヨ、岸ノ方ヲ漕グ時ニ〔六字傍線〕櫂ヲヒドク撥ネテ漕グ〔三字傍線〕ナヨ、甚ク漕グト〔五字傍線〕(若草乃)夫ノ君ガ御好キデアツタ鳥ガ飛ビ立ツカラ。セメテアノ鳥デモ夫ノ君ノ形見ト見タイカラ、遁ゲナイヤウニ音ヲ立テナイデクレ〔セメ〜傍線〕。
 
○鯨魚取《イナサトリ》――海の枕詞。一三一參照。○奧津加伊《オキツカイ》――沖を漕ぐ舟の櫂。加伊は水を掻く具。動詞掻き〔二字傍点〕から出た名詞。○若草乃《ワカクサノ》――嬬《ツマ》の枕詞。若草は愛らしく美しきものであるから、嬬又は夫にかける。又、時に若《ワカ》又は新《ニヒ》の枕詞にも用ゐられる。この點から考へれば、二葉相對してゐるから夫婦によそへて、つづけるものと、守部が説いたのは面白くない。○念鳥立《オモフトリタツ》――恐らく生前飼養してゐられた、鴨のやうな鳥を、崩御の後放鳥としたのが、湖上に浮んでゐるのであらう。
〔評〕 全體の組織が奧《オキ》と邊《ヘ》との對立で出來てゐると言つてもよい。簡潔に、整齊に、且つ力強くよまれてゐる。末尾の若草乃嬬之《ワカクサノツマノ》の破調も、却つて悲しげな感を増すものがある。
 
(171)石川夫人歌
 
天智天皇、蘇我山田石川麻呂大臣の女を納れて、嬪とし給ふ由紀に見えてゐる。石川夫人はその御方かとも思はれるが、詳かでない。
 
154 さざなみの 大山守は 誰が爲か 山にしめ結ふ 君もあらなくに
 
神樂浪乃《サザナミノ》 大山守者《オホヤマモリハ》 爲誰可《タガタメカ》 山爾標結《ヤマニシメユフ》 君毛不有國《キミモアラナクニ》
 
天子樣ハ既ニ御崩レ遊バシタノニ、コノ神樂浪ノ御山ノ番人ハ、誰ノ爲ニ山ニ標繩張ツテ番ヲスルノカヨ。天子樣御存命中ハ、御山ニ人ヲ猥リニ入レナイヤウニ番ヲスル必要モアルガ、今ニナツテハソノヤウナ必要モナイモノヲ。アア悲シイ〔天子〜傍線〕。
 
○神樂浪乃《サザナミノ》――志賀附近の總名。既出(三〇)。○大山守者《オホヤマモリハ》――猥りに山に入つて、伐木などをせぬやうに、山守を置いてあつた。山守部といふものが應神天皇の御代に定められたことも書紀に見える。大は都のほとりの山を守る者であるから、特に敬つて附したものである。○君毛不有國《キミモアラナクニ》――天皇もおはしまさぬにの意。略解に有は在の誤かとあるが、この二字は常に相通じて用ゐられてゐるから、誤ではない。又マサナクニとよんだのも、泥み過ぎた。
〔評〕 大津の宮のやうに、天智天皇の御計畫で出來た新都は、天皇の崩御と共に、どうなるのかといふ心配が誰の胸にも湧き起る。山守の職務は、天皇の崩御によつて、別に影響はない筈であるが、何事も天皇の爲に盡すものといふ考へ方からすれば、都近い山の山守が、今まで通りに番をしてゐるのを見ると、何の爲にさうしたことをするのかと、疑念がふと湧いて來るのである。いたましい歌。
 
從2山科御陵1退散之時、額田王作(レル)歌一首
 
山科御陵は天智天皇の御陵。文武天皇三年十月にこの陵を營まれたことが續紀に見えてゐる。こ(172)の歌は葬送の後一年で退散した時の作である。
 
155 やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 晝はも 日のことごと 音のみを 泣きつつありてや 百磯城の 大宮人は 行き別れなむ
 
八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》 恐也《カシコキヤ》 御陵奉仕流《ミハカツカフル》 山科乃《ヤマシナノ》 鏡山爾《カガミノヤマニ》 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 晝者母《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 哭耳呼《ネノミヲ》 泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 去別南《ユキワカレナム》
 
(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス天子樣ノ、畏レ多イ御陵ヲ御造リ申ス山科ノ鏡山ニ夜ハ終夜、晝ハ終日、聲ヲ出シテ泣イテバカリ居タウチニ、既ニ一周年トモナツタノデ〔既ニ〜傍線〕(百磯城乃)大宮ニ奉仕スル人タチハ、今ハ各自散リ散リニ〔八字傍線〕別レテ、歸ツテシマフダラウカ。アア名殘惜シイコトヨ〔アア〜傍線〕。
 
○御陵奉仕流《ミハカツカフル》――御陵を造ることを、鄭重にかく言つたのである。天皇の御爲にするのであるから、奉仕流《ツカフル》と言つたのだ。○山科乃鏡山爾《ヤマシナノカガミノヤマニ》――天智天皇の御陵を、山科鏡山陵と今も申す。「日岡の東、大字御陵の北に在り。後山を鏡山と云ひ、傍に鏡池あり。今琵琶湖疏水陵畔を繞る」と大日本地名辭書に記してある。○夜之盡《ヨノコトゴト》――ヨノアクルキハミといふ訓はよくない。盡の字は、神之盡《カミノコトゴト》(二九九)・國之盡《クニノコトゴト》(三二二)・人之盡《ヒトノコトゴト》(四六〇)などの例によると、ここもヨノコトゴトとよむより外はない。
〔評〕 御陵に奉仕して、終日終夜泣き暮してゐるうちに、早くも月日は經つて行つた。その涙に霑れた間のことが強調されて、退散のことは最後の一句にのみ述べられてゐる。泣乍在而哉《ナキヅツアリテヤ》の哉《ヤ》が、下の去別南《ユキワカレナム》に響いてゐるのが、深い悲痛と名殘惜しさとを語るやうに思はれて、哀慟の聲も耳に聞えるばかりである。
 
明日香清御原御宇天皇代  天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
天武天皇の御代
 
十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首
 
十市皇女は天武天皇の皇女、御母は額田女王。既出(二二)。天武天皇紀「七年夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨2宮中(ニ)1庚子、葬2十市皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1天皇臨之、降v恩以發哀」とある。高市皇子尊は天武天皇の皇子、既出、(一一四)。ここに尊の字を添へたのは、後に皇太子とならせ給うたからである。
 
156 三諸の 神の神杉 夢にをし 見むとすれども いねぬ夜ぞ多き
 
三諸之《ミモロノ》 神之神須疑《カミノカミスギ》 巳具耳矣自《イメニヲシ》 得見監乍共《ミムトスレドモ》 不寐夜叙多《イネヌヨゾオホキ》
 
亡クナラレタ十市皇女ヲ〔亡ク〜傍線〕、(三諸之神之神須疑)夢ニデモ見ヨウト思フケレドモ、寢ラレナイ夜ガ多イノデ夢ニモ見ラレナイ〔ノデ〜傍線〕。
 
〇三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカミスギ》――三諸の神の神杉で、下に齋《イ》とつづいて、夢の序詞としたものであらう。三諸は三輪山か。○巳具耳矣自得見監乍共――この二句古來訓法が種々あるが、當れりと思はれるものがない。恐らく誤字があるのであらう。今は、具を目とし、得を將とし、乍を爲の誤として、イメニヲシミムトスレドモと訓む美夫君志説に從ふことにする。
〔評〕 亡き人を慕うて、せめてその姿を夢にでも見ようと思へど、それもかなはずと歎いた歌はかなり多く見えるが、蓋しこれ人情の常である。
 
157 神山の 山邊眞蘇木綿 短木綿 かくのみからに 長くと思ひき
 
神山之《カミヤマノ》 山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》 短木綿《ミジカユフ》 如此耳故爾《カクノミカラニ》 長等思伎《ナガクトオモヒキ》
 
(神山之山邊眞蘇木綿短木綿)カヤウニ皇女ノ御壽命ハ、短イ御壽命〔皇女〜傍線〕ダツタノニ、長クトバカリ思ツテ居リマシタ。誠ニ悲シイハカナイコトデス〔誠ニ〜傍線〕。
 
(174)○神山之《カミヤマノ》――ミワヤマノと訓む説もある。大神をオホミワとよむ例もあるが、尚カミヤマでよからう。○山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》――山邊にかけた木綿をいふ。眞蘇は眞麻で眞は發語である。木綿は栲の皮で織つた布であるが、眞蘇木綿は麻を垂れて、木綿の如く神に捧げるのをいふのであらう。○短木綿《ミジカユフ》――眞蘇木綿のうちに短い木綿もあるから、短木綿といつて、皇女の短命を思はしめたので、この句までは如此耳故爾《カクノミカラニ》の序であるが、普通ならば短きものをとでも受ける所を、特に趣を變へたものである。○如此耳故爾《カクノミカラニ》――故爾をユヱニともよみ得るが、加久乃未加良爾《カクノミカラニ》(七九六)とあるから、それに傚ふことにする。故爾《カラニ》はモノヲの意である。
〔評〕 上の句の序が、神々しく、且調子よく出來てゐる。山邊眞蘇木綿短木綿《ヤマベマソユフミジカユフ》の繰返が滑らかである。短木綿で皇女の短き御命を思はしめて、如此耳故爾《カクノミカラニ》とつづけたのは工夫のあるところで、全體に優麗な調をなしてゐる。
 
158 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
 
山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》 酌爾雖行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》
 
皇女ハ今ハ黄泉ニ行カレタガ、私ハ皇女ニ逢フ爲ニ〔皇女〜傍線〕、黄泉ヘ行キタイノデアルガ遺憾ナガラ〔五字傍線〕道ガワカラナイ。
 
○山振之《ヤマブキノ》――振をフキといふのは、古事記に「みはかせる十拳の劔を拔きて於後手布伎都都《シリヘデニフキツツ》逃來ませるを」とある如く、古言である。この集では多くは山振と記してあるが、山吹とした所もある。卷十九|山吹乃《ヤマブキノ》(四一八四)とあり、又卷九に山吹瀬乃《ヤマブキノセノ》(一七〇)とある。○立儀足山清水《タチヨソヒタルヤマシミヅ》――儀の字はスガタとのみよんであつて、他の訓はないが、ここではヨソヒより外によみ方がないやうだ。山振の立ちよそひたる山清水とは、山吹の花の咲いてゐる山の清水で、即ち黄色の泉即ち黄泉で、幽冥の界をいふのであらう。少し物遠い謎のやうであるけれども、戯書の書き方などから見ると、かういふ言ひ方も認めてよささうである。代匠記には「皇女四月七日に薨じ給ふを十四日に赤穗に納む。赤穗は添上郡にあり。この歌によれば赤穗は山なるべければ、その比猶山吹有りぬべし。山吹の匂へる妹などもよそへよめる花なれば、立ちよそひたるといふべし。さらぬだにある山の井に、山吹の影うつせらむは、殊に清かりぬべし。云々」とあるのは、一説として參考すべきである。○酌爾雖行道之白鳴《クミニユカメドミチノシラナク》――黄泉へ行くことを、酌みに行かうが、と言つたものと、見るがよい。契沖は「その山の井を酌みて(175)だになきひとの手向にすべきを、歎きにくづほれて、うつつ心もなければ、道をもしらせ給はずとなり」と言つてゐる。
〔評〕 山吹の咲いてゐる山清水といふことがどういふ意味であるとしても、この表現法は、かなり落ち付いた、餘裕のある歌ひぶりである。下の句には、かなりいたましい感情が見えるけれども、全體としては、悲痛に身悶えするやうな作でない。歌を綺麗に作り上げようとする態度が見える。前の歌にもさういふ傾向がある。
 
天皇崩之時大后御作歌一首
 
日本書紀に、「朱鳥元年九月丙午、天皇病遂不v差、崩2于正宮1、戊申始發v哭、則起2殯宮於南庭1」とあ、り。大后は古本多く太后に作る。大后後に即位ありて持統天皇と申上げる。
 
159 やすみしし 我が大王の 夕されば めし賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし 神岳の 山の紅葉を 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも めし賜はまし その山を 振放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明けくれば うらさび暮し 荒妙の 衣の袖は 乾る時もなし
 
八隅知之《ヤスミシシ》 我大王之《ワガオホキミノ》 暮去者《ユフサレバ》 召賜良之《メシタマフラシ》 明來者《アケクレバ》 問賜良之《トヒタマフラシ》 神岳乃《カミヲカノ》 山之黄葉乎《ヤマノモミヂヲ》 今日毛鴨《ケフモカモ》 問給麻思《トヒタマハマシ》 明日毛鴨《アスモカモ》 召賜萬旨《メシタマハマシ》 其山乎《ソノヤマヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》 暮去者《ユフサレバ》 綾哀《アヤニカナシミ》 明來者《アケクレバ》 裏佐備晩《ウラサビクラシ》 荒妙乃《アラタヘノ》 衣之袖者《コロモノソデハ》 乾時文無《ヒルトキモナシ》
 
(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣ガ、夕方ニナルト山ノ紅葉ヲ〔五字傍線〕御覽ナサレテ御心ヲ慰メナサレ〔九字傍線〕、夜ガ明ケレバ、近臣ラニ山ノ紅葉ハドウダト〔近臣〜傍線〕御尋ネナサレテ、常ニ御心ニカケ御樂シミトナサツ〔テ常〜傍線〕タ神岳山ノ紅葉ヲ、今日モ御尋ネナサラウカ、明日モ御覽遊バサウカ、イヤイヤ、天子樣ハ既ニ御崩レニナツタカラ、今日モ明日モ御尋モナク御覽モ無イ。デ、私ハ悲シサニ〔イヤ〜傍線〕、ソノ神岳山ヲ遠クカラ離レテ仰イデ見テ、夕方ニナルト不思議ナ程モ悲シ(176)イノデ、又〔傍線〕、明ケ方ガ來ルト終日〔二字傍線〕心淋シク日ヲ暮シテ、私ノ着テヰル〔六字傍線〕荒々シイ太イ栲デ織ツタ喪〔傍線〕服ノ袖ハ、涙ノ爲ニ〔四字傍線〕乾ク時ハアリマセヌ。
 
○召賜良之《メシタマフラシ》――召は見の借字である。ミシともメシとも言つたのである。良之《ラシ》は推量の助動詞であるが、ここの用法は、普通の場合と異なつて、確定的事實を述べてゐる。卷十八に美與之努能許乃於保美夜爾安里我欲比賣之多麻布良之毛能乃散能夜蘇等母能乎毛《ミヨシヌノコノオホミヤニアリガヨヒメシタマフラシモノノフノヤソトモノヲモ》(四〇九八)とあるのも、卷二十の於保吉美乃都藝弖賣須良之多加麻刀能努敝美流其等爾禰能未之奈加由《オホキミノツギテメスラシタカマトノヌベミルゴトニネノミシンナカユ》(四五一〇)とある良之《ラシ》も、同樣の用法である。中古時代に、推量の助動詞めり〔二字傍点〕を、確定的の場合に用ゐる慣習があつたのと同じものか。○神岳乃《カミヲカノ》――飛鳥の神岳、即ち雷岳《イカヅチノヲカ》のことである。卷三の二三五の寫眞參照。○綾哀《アヤニカナシミ》――綾は借字で、あやしく不思議の意。○裏佐備晩《ウラサビクラシ》――心淋しく暮す意。○荒妙乃《アラタヘノ》――枕詞として用ゐられるが、これはさうではない。藤などで織つたあらあらしい布をいふ。荒妙乃衣は即ち喪服である。○乾時文無《ヒルトキモナシ》――景行紀の市乾鹿文《イチフカヤ》の訓註に「乾此云v賦」とあるによると、乾は古くはフルであつたやうであるが、伊摩陀飛那久爾《イマダヒナクニ》(七九八)とあるによれば、ヒルもあつたのであるから、ここはヒルとして置く。
〔評〕 天皇の賞翫せられた神岳の紅葉を中心として、悲哀の感情が歌はれてゐる。朝・夕、今日・明日などの對句が整然として、全體がよく齊つてゐる。
 
一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首
 
天武天皇崩御の時、大后即ち持統天皇の御製である。太上天皇と記し奉つたのは、文武天皇の御代に誰かが記したものを、その儘ここに書き込んだのである。
 
160 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずやも 知ると言はなくも
 
燃火物《モユルヒモ》 取而※[果/衣の鍋ぶたなし]而《トリテツツミテ》 福路庭《フクロニハ》 入澄不言八面《イルトイハズヤモ》 智男雲《シルトイハナクモ》
 
役ノ行者ノ術デハ〔八字傍線〕、燃エテヰル火ヲ手ニ取ツテ、包ンデソレヲ袋ニ入レルト云フデハナイカ、ソノヤウナ不思(177)議ナコトモ、出來ルモノヲ、御崩レ遊バシタ天子樣ニ御遭ヒ申ス術ヲ〔ソノ〜傍線〕知ツテヰルト言ハナイヨ。知ツテヰサウナモノダニ。アアドウゾシテ御逢ヒ申シタイモノダ〔知ツ〜傍線〕。
 
○燃火物取而※[果/衣の鍋ぶたなし]而《モユルヒモトリテツツミテ》――燃える火を、手に執り、紙などに包んで、袋に入れるといふ不思議な術が、役行者などによつて行はれてゐた話をお聞きになつて、お詠みになつたのであらう。○凋智男雲《シルトイハナクモ》――考に、智を知曰の二字にして、シルトイハナクモとよんだのに從ふ。面を五の句に入れて、オモシルナクモとよむのも、又、面知日としてアハムヒナクモとよむのも、面知因としてアフヨシナクモとよむ説も、賛成出來ない。面知をアフとよんだ例は一つもない。
〔評〕 珍らしい材料を取入れた歌である。かかる妖術さへ行はれる世に、神去り給うた御魂を、呼び返し得ぬとは悲しいことよと宣うたので、親しい者を亡つた人が、現代の醫學に呪の聲を發するのに、いくらか似通つた考へ方である。
 
161 北山に たなびく雲の 青雲の 星さかりゆき 月もさかりて
 
向南山《キタヤマニ》 陣雲之《タナビククモノ》 青雲之《アヲクモノ》 星離去《ホシサカリユキ》 月牟離而《ツキモサカリテ》
 
天子樣ガ崩御ノ後、何時ノ間ニカ〔天子〜傍線〕、(向南山陣雲之)大空ノ星モ移リ行キ、月モ移ツテ行ツテ月日ガ大分經ツタ。シカシ私ノ胸ノ中ノ悲シサハ少シモ滅ジナイ〔月日〜傍線〕。
 
○向南山《キタヤマニ》――向南をキタとよむのは義訓である。北山は山の名ではない。○陣雲之《タナビククモノ》――陣は陳に作る本もある。この二字は常に相通じて用ゐられてゐるから、どちらでもよい。布列の意である。この句をツラナルクモノとよむ説があるが、雲に列なるといふのは、普通でないから、タナビクの方がよい。卷十六に青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲクモノタナビクヒスラコサメソボフル》(三八八三)とあるから、猶更である。陣の字は本集中他に見えぬ字である。陳はチの假名に用ゐられてゐる。上の二句は青雲之《アヲグモノ》の序詞。○青雲之《アヲグモノ》――青空説と白雲説と二つあつて、いづれとも決し難い。古事(178)記に「青雲之白肩津《アヲクモノシラカタノツ》」として、白の枕詞に用ゐてあるのは、白は著《シル》しの意で青空の鮮かなことに言ひかけたのだと宣長は言つてゐる。祈年祭祝詞に「青雲能靄極白雲能墜坐向伏限《シラクモノタナビクキハミシラクモノオリヰムカブスカギリ》」とあり、卷十三には白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃《シラクモノタナビククニノアヲクモノムカブスクニノ》(三三二九)とある。卷十四には安乎久毛能伊?來和伎母兒安必見而由可武《アヲクモノイデコワギモコアヒミテユカム》(三五一九)といふやうな用例もある。これらから論ずれば、どちらにもなるので、新考の青雲はブリユーでなくペールであると言ふ説は、最も新説であらうが、卷十六の青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲグモノタナビクヒスラコサメソボフル》(三八八三)などは、どうしても、晴天でも小雨が降るといふ意でなければならぬと思ふ。もし、この青雲を、白雲の薄いペールの雲とするならば、さういふ雲を後世でも何とか呼んだであらうが、その所見が更に無い。又青雲を白い薄雲とするならば、快晴の場合は、古代人は何といつて、それを讃へたらう。これも一寸見當らぬやうである。天原雲無夕爾《アマノハラクモナキヨヒニ》(一七一二)といふやうな言ひ方もあるが、青雲のたなびく空といふ語が用ゐられるのが常であつたのではあるまいかと思はれる。扨この歌では青空にある星と下につづくのである。○星離去月牟離而《ホシサカリユキツキモサカリテ》――離をサカリとよむのは、一五〇に述べた通りだ。牟は毛の誤。正辭が牟をモとよむのだと言つたのは僻論であらう。本集には牟をモとよんだ例は他にない。星を新考に日毛の誤としたのはよくない。
〔評〕 月日の經つのを月星の移るを以てあらはしたのは、純日本思想ではないやうだ。支那の陰陽説などの影響があるやうに思はれる。考にはこの二首は持統天皇の御製の風でなく、こちごちしい歌だといつてゐるのは、予も同感である。
 
天皇崩之後、八年九月九日奉(ル)v爲(シ)2御齊會1之夜、夢裏(ニ)習(ヒ)賜(ヘル)御歌一首
 
天武天皇崩御は、朱鳥元年であるから、後八年は持統天皇七年である。持統天皇紀に「七年九月丙申、爲2清御原天皇1設2無遮(ノ)大會於内裏1」とあるのが、即ちこの齊會であらう。齊は齋に通じて用ゐたもの。夢裏習賜は、夢の内に幾度か口吟み給うた歌の意である。習は繰返すこと。この題詞の下に「古歌集中出」の五字が古本にある。
 
162 明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし やすみしし 吾大王 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の國は 沖つ藻も なみたる波に 鹽氣のみ 香れる國に 味凝《うまごり》 あやにともしき 高照らす 日の皇子
 
(179)明日香能《アスカノ》 清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》 天下《アメノシタ》 所知食之《シロシメシシ》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》 何方爾《イカサマニ》 所念食可《オモホシメセカ》 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國者《イセノクニハ》 奧津藻毛《オキツモモ》 靡足波爾《ナミタルナミニ》 鹽氣能味《シホゲノミ》 香乎禮流國爾《カヲレルクニニ》 味凝《ウマゴリ》 文爾乏寸《アヤニトモシキ》 高照《タカテラス》 日之御《ヒノミコ》
 
飛鳥ノ淨見原ノ宮デ、天下ヲ御支配ナサツタ(八隅知之)私ノ天子樣(高照)天子樣ガ何ト思召シタカ(神風乃)伊勢國ハ、アノ沖ノ藻ガ靡イタ波ニ、潮ノ重吹《シブキ》バカリガ薫ツテヰル伊勢ノ〔三字傍線〕國ニ、遙々御出デ下サツテ誠ニ〔遙々〜傍線〕(味凝)不思議ナ程珍ラシイ(高照)天子樣デヰラツシヤルヨ〔八字傍線〕。
 
○神風乃《カムカゼノ》――伊勢の枕詞。既出(八一)。○奧津藻毛《オキツモモ》――毛は乃の誤と古義にあるが、改める必要はあるまい。○靡足波爾《ナミタルナミニ》――足を留としてナビケル、合としてナビカフの訓もあるが、代匠記にナミタルとよんだのに從ふことにする。ナミタルは靡きたるの意。○鹽氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》――鹽氣は海上にかかつた潮の氣でもや〔二字傍点〕の如きをいふ。香乎禮流《カヲレル》は潮の香のするをいふ。○昧凝《ウマゴリ》――アヤの枕詞。味織《ウマオリ》の綾とつづくのだらうといふ。○文爾乏寸《アヤニトモシキ》――不思議に珍らしき意。この乏寸《トモシキ》は羨しい意ではない。
〔評〕 天武天皇が、伊勢の國におはしました御有樣を、ほめたたへたのである。この天武天皇の御英姿は、吉野から伊勢へ幸して、桑名にあらせられた時の事とする説もあるが、要するに、夢中伊勢の海岸に立たせられた御姿である。何處とか何時とか、定める必要はない。夢の中の御歌だから、通ぜぬも道理だと宣長は言つてゐるが、別に意味の不明なところも無く、普通の御歌である。但し挽歌といふ感じはしない。
 
(180)藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇《タカマノハラヒロヌヒメノスメラミコト》
 
持統天皇の御代
 
大津皇子薨之後、大來《オホク》皇女、從2伊勢|齊宮《イツキノミヤ》1上京之時、御作歌二首
 
大津皇子は朱鳥元年十月二日謀叛のことあらはれ、三日、譯語田舍《ヲサダノイヘ》で殺され給うた。御年二十四。同元年十一月丁酉朔壬子伊勢より大來皇女都に還り拾ふ。大來は前に(一〇五)大伯と記してあつた。齊は齋に通用せしめたもの。
 
163 神風の 伊勢の國にも あらましを なにしか來けむ 君も在らなくに
 
神風之《カムカゼノ》 伊勢能國爾母《イセノクニニモ》 有益乎《アラマシヲ》 奈何可來計武《ナニシカキケム》 君毛不有爾《キミモアラナクニ》
 
私ハ〔二字傍線〕、(神風之)伊勢ノ國ニ居ルベキデアツタノニ、弟ノ君ガ御薨レナツタノニ、何シニ都ヘ上ツテ〔五字傍線〕來タノデアラウ。薨クナラレタコトヲ知ラズニ來テ、悲シイコトデス〔薨ク〜傍線〕。
 
○君毛不有爾《キミモアラナクニ》――君は御弟大津皇子を指して言はれた。アラナクニを古義にマサナクニとよんでゐる。
〔評〕 皇子の薨去を全く御存じなく、御着京になつて始めて變事を聞かれ、驚愕と落膽とに洩らされた、嗟嘆の聲が、如何にも痛々しい。
 
164 見まくほり 吾がする君も あらなくに 何しか來けむ 馬疲るるに
 
欲見《ミマクホリ》 吾爲君毛《ワガスルキミモ》 不有爾《アラナクニ》 奈何可來計武《ナニシカキケム》 馬疲爾《ウマツカルルニ》
 
逢ヒタイト私ガ思ツテヰル御方ハ、御薨去ナサレテ、コノ世ニハ〔御薨〜傍線〕御イデナサラナイノニ、何シニ私ハ、伊勢カラ遙々急イデ〔私ハ〜傍線〕、馬ガ疲レルノモカマハズニ、都ニ上ツテ〔五字傍線〕來タノデアラウ。
 
(181)○馬疲爾《ウマツカルルニ》――舊訓ウマツカラシニとあるが、疲らすと他動詞に見ては、歌品が下るやうに思はれる。ツカルルと言ふべきところである。
〔評〕 遙々の上京も、得たところは何もない。ただ徒に馬を疲勞せしめたのみであると嘆ぜられたので、哀調人を動かすものがある。
 
移2葬大津皇子屍(ヲ)於葛城(ノ)二上山1之時、大來皇女哀傷御作歌二首
 
移葬とは一度葬りて、更に移した意か。或は殯宮から移して葬つた意か。恐らく後者であらう。葛城二上山は、北葛城郡で河内の國境にあり。頂が二つに分れて雄嶽女嶽といふ。ここに挿入の寫眞は天香具山から西方を望んだもので、辰巳利文氏の撮影にかかる。同氏の大和萬葉古蹟寫眞解説によれば「左端前方の人家は磯城郡香久山村大字木之本で啼澤森はこの村落にある。そのすぐ後方に見えるのは高市郡鴨公村大(182)字別所である。右端の人家は同じく鴨公村大字高殿である。このあたりが藤原宮址とされてゐる。今前方にひらけて見えるたんぼ〔三字傍点〕の大部分は宮地と見てさしつかへがなからうと思ふ。黒く小高い山が畝傍山で、山の右麓(北)に見える茂みが神武帝陵である。遠景の山脈は葛城山で、その右端が二上山である。云々」とある。
165 うつそ身の 人なる吾や 明日よりは 二上山を いもせと吾が見む
宇都曾見乃《ウツソミノ》 人爾有吾哉《ヒトナルワレヤ》 從明日者《アスヨリハ》 二上山乎《フタカミヤマヲ》 弟世登吾將見《イモセトワガミム》
 
カウシテ〔四字傍線〕現ノ身ヲ持ツテヰル人間デアリナガラ私ハ明日カラハ、私ノ弟ノ大津皇子ヲ葬ツタ〔十二字傍線〕アノ二上山ヲ、兄弟ダト思ツテ私ハ見ヨウカ。悲シイコトニナリマシタ〔十一字傍線〕。
○字都曾見乃《ウツソミノ》――現身《ウツシミ》のに同じ。この世に肉體を持つてゐるの意。○弟世登吾將見――弟世は種々の訓があるが、イモセが無難であらう。弟をイモとよんだ例は他に見えないが、さうよんで差支ない文字であらう。イモセは兄弟の意。但しこれをイロセとよんで、同母弟の意に見られないこともない。
〔評〕 明日からは謠かに二上山を仰いで、亡き弟を思はうと言ふ御心が痛ましい。併し二上山の雙峰相並んでゐるのを、我ら姉弟の姿と思はうと宣つたのか、或は單に二上山を弟として眺めようと、仰せになつたのかといふ疑問が生ずる。イモセとよめば、前者の解が至當であらうし、又その方が哀情が深いやうに思はれる。
166 磯の上に 生ふる馬醉木を 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに
礒之於爾《イソノウヘニ》 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》 手折目杼《タヲラメド》 令視倍吉君之《ミスベキキミガ》 在常不言爾《アリトイハナクニ》
川ノ邊ノ〔四字傍線〕、岩ノ上ニ生エテヰル馬醉木ノ花ヲ、手折ラウト思フガ、コレヲ折ツテ歸ツテモ〔十字傍線〕、見セルベキ貴方ガ、コノ世ニ生キテ居ラレナイカラ悲シイ〔五字傍線〕。
○礒之於爾《イソノウヘニ》――礒はイシと通ずる語で、凡て石の多い所、主に水邊の石崖などをいふ。ここは川の岸であらう。於は山於憶良《ヤマノウヘノオクラ》とある如く、ウヘとよむ字である。○生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》――馬醉木は※[木+浸の旁]とも記す。石南科※[木+浸の旁]木屬の(183)常緑灌木で、樒・榊に類した葉である。花は白色又は僅かに淡紅色を帶びてゐるものもあり、壺状をなして、總状花序に排列し、早春より開く。花房は長くはないが、葉の上に蔽ふやうに澤山咲くので、誠に美觀である。萬葉人の愛した花だ。○在常不言爾《アリトイハナクニ》――不言《イハナク》は極めて輕く添へたもので、アラナクニとしても同じやうな意味である。
〔評〕 弟君への家苞に、この馬醉木を手折らうと思はれたので、御兄弟の親密さがよくあらはれてゐる。しかも見すべき弟君は既に亡しと、嘆かれた御心の悲しさが、思ひやられて哀切な歌である。
右一首、今案(ズルニ)不v似2移葬之歌(ニ)1盖(シ)疑(フラクハ)從2伊勢神宮1還(ル)v京之時、路上(ニ)見(テ)v花(ヲ)感傷(ミ)哀咽(シテ)作(ル)2此歌(ヲ)1乎
この註は後人のさかしらである。不似移葬之歌とあるのは、礒之於爾とあるのを御墓への道すがらとしては似合はぬと考へたものであらう。皇女の上京は十一月であるから馬醉木は未だ咲かぬ筈である。見花感傷の感は流布本は盛であるが、古本多く感であるから、それに從ふことにした。
日並皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》殯宮《アラキノミヤ》之時、柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
日並皇子尊は草壁皇太子。文武天皇の御父。朱鳥三年四月薨。御年二十八。殯宮之時は御喪の時といふ意である。元來殯は死して未だ葬らず、假に棺に斂めて賓客として待遇する意であるが、漢字本來の用法とは異つて本集では、葬り奉つた後、御墓所に奉仕する間を殯宮之時といふのである。
 
167 天地の 初の時し ひさかたの 天の河原に 八百萬 千萬神の 神集ひ 集ひいまして 神はかり はかりし時に 天照らす ひるめの尊 一云、さしのぼる 日女の命 天をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穗の國を 天地の 依り合ひの極み 知ろしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 一云、天雲の八重雲別きて 神下し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 淨みの宮に 神ながら 太敷きまして すめろぎの 敷きます國と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ 一云、神登りいましにしかば わが大王 皇子の命の 天の下 知ろしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 滿《たた》はしけむと 天の下 一云、食す國 四方の人の 大船の 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 眞弓の岡に 宮柱 太敷きまし みあらかを 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず 日月の まねくなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも 一云、刺竹の 皇子の宮人 行方知らにす
 
(184)天地之《アメツチノ》 初時之《ハジメノトキシ》 久堅之《ヒサカタノ》 天河原爾《アマノカハラニ》 八百萬《ヤホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅカミノ》 神集《カムツドヒ》 集座而《ツドヒイマシテ》 神分《カムハカリ》 分之時爾《ハカリシトキニ》 天照《アマテラス》 日女之命《ヒルメノミコト》【一云|指上《サシノボル》 日女之命《ヒルメノミコト》】 天乎波《アメヲバ》 所知食登《シロシメスト》 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》 天地之《アメツチノ》 依相之極《ヨリアヒノキハミ》 所知行《シロシメス》 神之命等《カミノミコトト》 天雲之《アマグモノ》 八重掻別而《ヤヘカキワケテ》 【一云|天雲之《アマグモノ》 八重雲別而《ヤヘクモワキテ》】 神下《カムクダシ》 座奉之《イマセマツリシ》 高照《タカテラス》 日之皇子波《ヒノミコハ》 飛鳥之《アスカノ》 淨之宮爾《キヨミノミヤニ》 神髄《カムナガラ》 太布座而《フトシキマシテ》 天皇之《スメロギノ》 敷座國等《シキマスクニト》 天原《アマノハラ》 石門乎開《イハトヲヒラキ》 神上《カムアガリ》 上座奴《アガリイマシヌ》【一云|神登《カムノボリ》 座爾之可婆《イマシニシカバ》】 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 天下《アメノシタ》 所知食世者《シロシメシセバ》 春花之《ハルハナノ》 貴在等《タフトカラムト》 望月乃《モチヅキノ》 滿波之計武跡《タタハシケムト》 天下《アメノシタ》【一云|食國《ヲスクニ》】 四方之人乃《ヨモノヒトノ》 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 天水《アマツミヅ》 仰而待爾《アフギテマツニ》 何方爾《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 由縁母無《ツレモナキ》 眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》 御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 明言爾《アサゴトニ》 御言不御問《ミコトトハサズ》 日月之《ヒツキノ》 數多成塗《マネクナリヌレ》 其故《ソコユヱニ》 皇子之宮人《ミコノミヤビト》 行方不知毛《ユクヘシラズモ》【一云|刺竹之《サスタケノ》 皇子宮人《ミコノミヤヒト》 歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》】
 
天地開闢ノ始ニ、(久堅之)天ノ安河原ニ數多ノ神樣達ガ御集リナサレテ、御相談遊バシタ時ニ、天照大御神、即チ〔二字傍線〕大日〓命ガ、天ヲ御支配ナサルノデ、葦原ノ水穗ノ國ヲ、天ト地トガ相合シテ一トナルヤウナ、極リノ無イ後ノ世マデモ、天地ノアラン限リ〔八字傍線〕、御支配ナサル神樣トシテ、皇孫瓊瓊杵命ヲ〔七字傍線〕、天ノ雲ノ、幾重ニモ重ツタ中ヲ押シ分ケテ、天降ラセ申シナサレタ。昔ハ斯樣ニシテ皇孫ガ天降リ遊バシタガ、天武天皇ト申ス〔昔ハ〜傍線〕(高照)天子樣ガ飛鳥ノ淨御原ノ宮ニ、昔ノ神樣ノママニ、大キク御構ヘナサレテ、天下ヲ御治メナサレタガ、天ハ〔テ天〜傍線〕天(185)子樣ガ、御支配ナサル國ダトシテ、天ノ岩戸ヲ開イテ神樣トナツテ、天ヘ御上リナサレテ、天ヲ御支配〔九字傍線〕ナサレタ。天武天皇樣ハ御崩レ遊バシタ。斯クテ〔天武〜傍線〕、私ガ御仕ヘシテヰル皇子ノ日並皇子ガ將來ハ天子トナツテ、コノ〔將來〜傍線〕天下ヲ御支配遊バシタナラバ、サゾカシ、(春花之)結構ナコトデアラウ、又、(望月乃)、何モ缺ケルコトナク滿足デアラウトテ、天下ノ四方ノ人等ガ、擧ツテ〔三字傍線〕(大船之)當ニシテ思ツテ居テ、(天水)仰イデ、サウナルコトヲ〔七字傍線〕待ツテ居タノニ、日並皇子ハ〔五字傍線〕何ト思召シテカ、カヤウナ縁故ノナイ眞弓ノ岡ニ、宮ノ柱ヲ太ク御構ヘナサレテ、御殿ヲ高ク御作リナサレテ、御薨去遊バシテ眞弓ノ岡ヲ御墓トナサツタノデ〔御薨〜傍線〕、毎朝毎朝何トモ〔三字傍線〕物モ仰セラレズ、月日バカリガ數多過ギマシタ。斯樣ニ御薨去ノ後、月日ガ多ク過ギタノデ、御墓ノ邊ニ仕ヘテヰタ〔十字傍線〕コノ皇子ノ御側付ノ人〔五字傍線〕タチモ、ドウシテヨイカ、途方ニクレテヰルヨ。
 
○初時之《ハジメノトキシ》――之《シ》の宇無い本もある。○神分分之時爾《カムハカリハカリシトキニ》――分をハカルとよむのを疑つて、カムアガチ又はカムクバリなどの訓があるが、分の字美夫君志によれば、字鏡集にハカルとよんでゐるとあり、神集集賜比神議議賜?《カムツドヒニツドヒタマヒカムハカリニハカリタマヒテ》、は古事記や祝詞の成語であるから、他によみ方はない。又、八百萬の神の集會で、神の知り給ふ所の、分配を議したことは無い。○天照日女之命《ァマテラスヒルメノミコト》――天照大御神を書紀に「生2日神1、號2大日〓貴《オホヒルメノムチ》1」とある。○葦原乃水穗之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》――古事記に、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國《トヨアシハラノチアキノナガイホアキノミヅホノクニ》とあり。葦原に包まれた國で、みづみづしく稻穗の榮える國といふ意である。但し水穗を水田の穗と見る説もある。我が國の地味肥沃を賞めた稱呼である。○天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》――天地は元來一體であつたのが、分離したのであるから、又何時か相合して一體となるものとして、その極限の際までの意。○神下座奉之《カムクダリイマセマツリシ》――神が下り給ふのであるから、神下りである。座奉之《イマセマツリシ》は、神下りをおさせ申したといふやうな意。これは皇孫瓊々杵尊を申し奉るのであるが、次への續きは、その御系統の天皇を申すのが常である。ここは次に高照日之皇子波《タカテヲスヒノミコハ》として、天武天皇を申してゐる。○天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》――天皇の支配し給ふ國なりとての意で、天皇の崩御を天を支配し給ふことと古代人は考へたのである。○石門(186)乎開神上上座奴《イハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌ》――天の石門を開けて、天上せられたといふので、これは天皇の崩御などについて、言ふ言葉である。○吾王皇子之命乃《ワガオホキミミコノミコトノ》――日並皇子を申し奉る。○春花之《ハルハナノ》――枕詞。春の花の榮えて美はしいのを貴しとつづけたのであらう。○望月乃《モチヅキノ》――滿月の如くの意。枕詞。○滿波之計武跡《タタハシケムト》――卷十三に十五月之多田波思家武登《モチヅキノタタハシケムト》(三三二四)とあるに同じく、たたはしくあらむとの意。たたはしは滿ちて缺けざること。○大船之《オホブネノ》――思憑而《オモヒタノミテ》の枕詞。大きい船に乘れば、心が安じて憑みとするからである。○天水《アマツミヅ》――雨のこと、仰而待爾《アフギテマツニ》の枕詞。空を仰ぎて雨を待つからである。○何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》――何と思召せばかの意。○由縁母無《ツレモナキ》――由縁は舊訓ユヱであるが、卷三に何方爾念鷄目鴨都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《イカサマニオモヒケメカモツレモナキサホノヤマベニ》(四六○)・卷十三に何方御念食可津禮毛無城上宮爾《イカサマニオモホシメセカツレモナキキノヘノミヤニ》(三三二六)とあるからツレモナキがよい。縁故の無い意である。○眞弓乃岡爾《マユミノヲカニ》――高市郡坂合村大字眞弓にある岡。挿入した寫眞は、橘寺から西方を望んだ景で、遠景左方は金剛山、右方は葛城山。金剛山の前に見える丘陵の右が眞弓の丘で、左が佐田の丘である葛城山の前面に見える丘陵が、天武・持統兩帝の檜(187)隈大内陵である。○御在香乎《ミアラカヲ》――御在處《ミアリカ》の意。宮殿。○高知座而《タカシリマシテ》――高く構へ給ひての意。○明言爾《アサゴトニ》――朝毎に。○御言不御問《ミコトトハサズ》――御言葉を宣はずの意。コトトフは物を言ふことである。○日月之《ヒツキノ》――考にツキヒノとよんであるが、文字通りがよからう。○數多成塗《マネクナリヌレ》――物の頻りなることをマネクといふ。ヌレはヌレバに同じ。○皇子之宮人行方不知毛《ミコノミヤビトユクヘシラズモ》――日並皇子の宮に奉仕した舍人どもは、途方にくれてゐるといふのである。
〔評〕 天地開闢から、天孫降臨へと説き起すのが、人麿の好んで用ゐた手法だ。さうして皇室の尊嚴を、口を極めてたたへてゐる。天皇の崩御を天原石門乎開神上上座奴《アマノハライハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌ》などと言つてゐるのは、實に神々しい表現法である。皇子の薨去を何方爾御念食可由縁無眞弓乃崗爾《イカサマニオモホシメセカツレモナキマユミノヲカニ》云々といぶかしげに言つて、露骨な述法を避けたのも巧みである。後の高市皇子尊城上殯宮之時の歌には及ばないが、典重の調に悲凉の氣を盛つた佳作である。
 
反歌二首
 
168 ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも
 
久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》 仰見之《アフギミシ》 皇子乃御門之《ミコノミカドノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
(久堅乃)空ヲ見ルヤウニ、私ドモガ〔四字傍線〕仰イデ見タ日並皇子ノ御所ガ、皇子ガ御薨去遊バシタノデ〔皇子〜傍線〕、荒レルデアラウガ惜シイコトデアルヨ。
 
○天見如久仰見之《アメミルゴトクアフギミシ》――皇子へかかるのである。日並皇子を尊んでかく申したのだ。○皇子乃御門《ミコノミカド》――日並皇子の御殿。今、高市郡高市村に大字島の庄があつて、そこがこの皇子の宮址だといはれてゐる。
〔評〕 皇子に對する敬意と思慕の情がよくあらはれてゐる。天見る如く仰ぐは、ふさはしい譬喩である。
 
169 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隱らく惜しも
 
茜刺《アカネサス》 日者雖照有《ヒハテラセレド》 烏玉之《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》 隱良久惜毛《カクラクヲシモ》
 
(茜刺)太陽ハ空ニ〔二字傍線〕照ツテヰルケレドモ、(烏玉乃)夜空ヲ〔二字傍線〕渡ル月ガ隱レルノハ惜シイヨ。日並皇子ガ御薨去遊(188)バシタノハ惜シイコトダ〔バシ〜傍線〕。
 
○茜刺――日の枕詞。既出(二〇)○烏玉之《ヌバタマノ》――夜の枕詞。既出(八九)○夜渡月之《ヨワタルツキノ》――夜空を行く月がの意。皇子を月に譬へたのである。○隱良久惜毛《カクラクヲシモ》――隱良久《カクラク》は隱るの延言。
〔評〕 皇子を月に譬へて、如何にも嚴かな堂々たる舒法である。日並皇子の貴さと、その薨去を傷む念とが、よくあらはされてゐる。日はただ、月の對照として出したもので、天皇を指し奉つたのではあるまい。天武天皇の崩後三年、天皇空位であつた間のことである。
 
或本云、以(テ)2件歌(ヲ)1爲(ス)2後皇子尊殯宮之時歌反(ト)1也
 
後皇子は高市皇子を指したのである。古義はこの註によつて、前の歌を天皇(持統)は御在しませど皇子の薨れ給うたのは惜しいと解いてゐる。尊を舊本貴に作る。金澤本による。歌反也は歌の反歌也の意。
 
或本歌一首
 
170 島の宮 勾の池の 放ち鳥 人目に戀ひて 池に潜かず
 
島宮《シマノミヤ》 勾之池之《マガリノイケノ》 放鳥《ハナチドリ》 人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》 池爾不潜《イケニカヅカズ》
 
日並皇子ノ〔五字傍線〕島ノ宮トイフ御所〔五字傍線〕ノ、勾ノ池ノ放シ飼ヒニシテアル鳥ハ、人ヲ戀シガツテ、池ノ底〔二字傍線〕ニ潜ラナイデ、水ノ上ニ浮イテ淋シサウニシテヰル、鳥モ皇子ガ薨去ナサツタノデ、淋シイト見エル〔デ、水〜傍線〕。
 
○島宮《シマノミヤ》――日並皇子の宮の名である。島は庭の池の島をいふので、庭に池を掘つて島を作られたから、かくよんだのである。後世では庭を島とよんでゐる。島宮については、大和志に、「島宮、嶋莊村、一名橘島又名御島宮。天武天皇元年、便2居於此1先此蘇我馬子、家2於飛鳥河傍1乃庭中開2小池1築2小島於池中1時人曰2島大臣1」と見えてゐる。○勾之池之《マガリノイケノ》――池の名である。曲つた形をしてゐるのでかく名づけたのであらう。美夫君志(189)や古義に、安閑天皇の宮を勾金箸《マガリノカナハシ》宮と申すのも同所のやうに言つてゐるが、全く別の所で、金箸宮の舊地は高市郡の西北隅で、島の宮の地は、同郡の東南隅にある。挿入した寫眞は、島の宮の舊地で、大和萬葉古蹟寫眞から轉載したもの。辰巳利文氏は「高市郡高市村で、左端小學校のあたりが池址ではないかと思ふ。小學校のすぐ右方(北方)のたんぼを、今もイケダといふところから、さう考へられないこともない。近景村落は、大字島之庄と岡で、ここから右方(北方)に向つてひらける山峽が、すなはち飛鳥京である。……遠景高く見えるのが二上山で、中間の黒い高い山が畝傍山である。前方の古墳(石をつみかさねたもの)は、謂はゆる「島の石舞臺」と稱するもので、或は蘇我馬子の墓ではないかとも言はれてゐる。馬子はこのほとりに住んでゐたのである。」と解説してゐる。○放鳥《ハナチドリ》――放飼ひにしてある鳥。薨去の後に放した鳥だといつた古義説は從はれない。○池爾不潜《イケニカヅカズ》――カヅクは水を潜ること。
〔評〕 これは長歌の反歌とは見えない。恐らく次の島宮上池有《シマノミヤウヘノイケナル》(一七二)の歌の或本であらう。我が心の淋しさから、池の鳥も人目を戀ひて池にかづか(190)ずと斷定的に言つたところに、悵然たる作者の姿が見えるやうである。
 
皇子尊宮舍人等慟傷(ミテ)作(レル)歌二十三首
 
職員令によれば春宮の大舍人六百人とあるから、大さうな人數である。それらの人等が各所に宿直してゐた有樣が想像せられる。
 
171 高光る 我が日の皇子の 萬代に 國知らさまし 島の宮はも
 
高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所知麻之《クニシラサマシ》 島宮婆毛《シマノミヤハモ》
 
(高光)私ノ御仕ヘ申ス日並〔私ノ〜傍点〕皇子ガ、萬代ノ後マデモ永イ間、コノ日本〔七字傍線〕國ヲ御治メ遊バス筈ノ島ノ宮ヨナア。噫。今ハ皇子ハ御薨レ遊バシタカラ、コノ御宮モ駄目デアル〔噫今〜傍線〕。
 
○高光《タカヒカル》――日の枕詞。○國所知麻之《クニシラサマシ》――天皇として此處にましまして、國を知ろしめし給ふらむ島の宮よの意で、麻之《マシ》はマシ、マシ、マシカと活用する未來の助動詞の連體形である。
〔評〕 奉仕する皇子にかけてゐた期待が、薨去と共に消滅した悲哀と痛惜の情とを歌つたものである。島宮婆毛《シマノミヤハモ》の婆毛《ハモ》が如何にも悲しげに胸にこたへる。
 
172 島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君坐さずとも
 
島宮《シマノミヤ》 上池有《ウヘノイケナル》 放鳥《ハナチドリ》 荒備勿行《アラビナユキソ》 君不座十方《キミマサズトモ》
 
日並皇子ノ〔五字傍線〕島ノ宮ノ御所ニアル、上ノ池ニ浮イテヰル放シ飼ヒノ鳥ヨ、皇子ハ既ニコノ世ニハ〔七字傍線〕御イデナサラズトモ、決シテ他ヘ散リ散リニ飛ンデ行クナヨ。切メテオマヘデモ皇子ノ御形見ト見ヨウカラ〔切メ〜傍線〕。
 
○上池有《ウヘノイケナル》――略解は一本に從つて池上有《イケノウヘナル》と改めてゐる。古義は上を勾の誤としてゐるが、いづれにも從はぬことにする。これは矢張池の名で、勾の池とは別であらう。○荒備勿行《アラビナユキソ》――荒ぶはここでは、疎くなること。即ち(191)飛び去ること。
〔評〕 皇子の愛し給うた鳥を、その形見として眺めようといふ心がいたいたしい。一五三の歌に似た點がある。
 
173 高光る わが日の皇子の いましせば 島の御門は 荒れざらましを
 
高光《タカヒカル》 吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》 伊座世者《イマシセバ》 島御門者《シマノミカドハ》 不荒有益乎《アレザラマシヲ》
 
(高光)私ノ御仕ヘシテヰタ日並〔二字傍線〕皇子ガ御イデ遊バシタナラバ、コノ〔二字傍線〕島ノ御殿ハ斯樣ニ〔三字傍線〕荒レナイデセウノニ、御薨レナサツタモノダカラ、モハヤカヤウニ荒レテ了ツタ〔御薨〜傍線〕。
 
○伊座世者《イマシセバ》――セは過去の助動詞キの未然形である。居られたならばの意。○島御門者《シマノミカドハ》――島の御殿はの意。
〔評〕 御殿の荒れ行くのを見て、皇子の薨去が今更に悲しまれる心をよんだのである。斷腸の聲。
 
174 よそに見し 眞弓の岡も 君坐せば 常つ御門と とのゐするかも
 
外爾見之《ヨソニミシ》 檀乃岡毛《マユミノヲカモ》 君座者《キミマセバ》 常都御門跡《トコツミカドト》 侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》
 
今マデハ、何ノ關係モナイ所ト思ツテ居ツタ檀ノ岡モ、今ハ日並皇子ヲ御葬リ申シテ〔今ハ〜傍線〕、皇子ハ此所ニ永久ニ御鎭マリナサツテ〔此所〜傍線〕イラツシヤルノデ、コノ岡ヲ〔四字傍線〕何時マデモ變ラナイ御殿トシテ、宿直ヲシテ居リマスヨ。
 
○外爾見之《ヨソニミシ》――今まで自分には關係ないものとして、眺めて居たの意。○常都御門跡《トコツミカドト》――永久の御殿との意で、即ち御墓をいふのである。
〔評〕 外爾見之檀乃岡毛《ヨソニミシマユミノヲカモ》といふ言葉に、皇子の思ひかけない薨去によつて、かかる眞弓の岡に御墓の出來た意外さを嘆いてゐる。
 
175 夢にだに 見ざりしものを おほほしく 宮出もするか さ日の隈みを
 
夢爾谷《イメニダニ》 不見在之物乎《ミザリシモノヲ》 欝悒《オホホシク》 宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》 作日之隈回乎《サヒノクマミヲ》
 
夢ニデモ、見ナイコトデアツタノニ、コンナニ悲シイ思ヲシナガラ、檀ノ岡ノ御墓ニ宿直シテ居テ〔檀ノ〜傍線〕、コノ檜隈(192)ノアタリノ御墓ノ御所〔六字傍線〕ヲ出入スルコトヨ。アア、意外ダ〔五字傍線〕。
 
○欝悒《オホホシク》――この集に多く用ゐられた熟字である。心の晴れぬをいふ。ここは悲しみつつの意。○宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》――宮出《ミヤデ》は宮に出仕すること。宮は眞弓の岡に建つた御墓附近の御殿である。爲鹿《スルカ》はするかなの意。○作日之隈回乎《サヒノクマミヲ》――作《サ》は發語、檜隈の邊をの意。檜隈は和名抄に「高市郡檜前郷、訓比乃久末」とあるところで、今は坂合村と改めたが、なほ、大字檜前が存してゐる。丁度島の庄の西南で、眞弓の岡の東に當つてゐる。宣長が、作日を佐田と改めたのは從ふべきでない。隈は舊本隅に作つてゐるが、金澤本に隈とあるのがよいであらう。
〔評〕 眞弓の御墓に奉仕する爲に、島の宮から通つて行く舍人の道すがらの詠であらう。檜隈の道を辿りながら、かかる所を通うて、悲しみに閉された胸を抱きつつ宮仕をするとは、と事の意外に驚いた聲が、あはれに響いてゐる。
 
176 天地と 共に終へむと 念ひつつ 仕へまつりし 心違ひぬ
 
天地與《アメツチト》 共將終登《トモニオヘムト》 念乍《オモヒツツ》 奉仕之《ツカヘマツリシ》 惰違奴《ココロタガヒヌ》
 
天地ト共ニ、ソノ盡キル時マデト思ツテ、皇子ニ御仕ヘシタ私ノ豫〔三字傍線〕想ハ、スツカリ違ツテ終ツタ。實ニ殘念ナコトヲシタ〔十三字傍線〕。
[評] 天地與共將終登念乍《アメツチトトモニオヘムトオモヒツツ》は、實に力の強い句法である。卷四に天地與共久住波牟等念而有師家之庭羽裳《アメツチトトモニヒサシクスマハムトオモヒテアリシイヘノニハハモ》(五七八)に似てゐるが、それよりも、なほあはれが深い。
 
177 朝日照る 佐太の岡邊に 群れゐつつ 吾が哭く涙 やむ時もなし
 
朝日弖流《アサヒテル》 佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》 群居乍《ムレヰツツ》 吾等哭涙《ワガナクナミダ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
日並ノ皇子ノ御墓ガアル〔十字傍線〕、朝日ノ美シク照ル、佐多ノ岡ノアタリニ群ツテ居テ、皇子ノコトヲ御慕ヒ申シテ〔皇子〜傍線〕、私ドモガ泣ク涙ハ、何時マデ立ツテモ止ム時ハナイヨ。
 
○佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》――佐太乃岡は、大日本地名辭書に、「眞弓岡に接し、今、越智岡村に屬す、大字佐田是なり」と(193)ある通りである。辰巳利文氏の大和萬葉地理研究には「眞弓の丘は、只今は一面に小松が生茂つてゐて、佐田の丘と相對峙してをるのであります。ところで佐田の丘と眞弓の丘とは、さほど明瞭にわけることが出來にくいのであつて、一見一つの丘陵の樣にながめられるのであります。佐田の丘の麓には、今、佐田といふ村落があり、眞弓の丘の麓には矢張同じく眞弓といふ村落があるのであります」とある。この佐田の丘に日並皇子即ち岡宮天皇の御陵があるのである。
[評]夜の間は、おのがじし悲しい思を抱きつつも、黙々として明したが、朝日が斜に岡の上に鮮かな光を投げると、其處に展開せられる御墓の周圍の情景は、何一つとして舍人らの心を掻き亂さぬものはない。彼らの集團は、ただ相擁して號泣するの外はないのだ。何らの悲痛なる場面ぞ。蓋しこの二十三首中の傑出した作。
 
178 み立たしし 島を見る時 庭たづみ 流るる涙 止めぞ兼ねつる
 
御立爲之《ミタタシシ》 島乎見時《シマヲミルトキ》 庭多泉《ニハタヅミ》 流涙《ナガルルナミダ》 止曾金鶴《トメゾカネツル》
 
日並皇子ガ、オ池ノ景色ヲ御覽ナサルトテ〔日並〜傍線〕、御立チナサレタ池ノ中ノ〔四字傍線〕島ヲ見ルト、庭ノ雨水ノ溜リノヤウニ、漾《タヾヨ》ヒ流レル私ノ〔二字傍線〕涙ハ止メカネルヨ。
 
○御立爲之《ミタタシシ》――舊訓ミタチセシであるが、ミタチと名詞によむよりも、動詞として、ミタタシシとよむ方がよからう。爲は爲垂柳《シダリヤナギ》(一八九六)の如くシともよむ字である。タタシシはタタスに、過去のシを附けた形。○庭多泉《ニハタヅミ》――雨が降つて庭に漾ひ流れる水をいふ。冠辭考には俄泉《ニハカイヅミ》・俄立水《ニハカタチミヅ》の二説をあげ、檜嬬手に庭立水《ニハタチミヅ》、古義に庭漾水《ニハタタヨフミヅ》と言つてゐる。
〔許〕 島の宮にゐる舍人の作である。皇子が時々お立ちになつた池中の島、御在世當時の儘に、水に影を映してゐるのを見て、遽に哀感が胸を打つて堪へ兼ぬる心情を述べたのである。涙を庭潦に譬へたのは、適切な秀でた譬喩である、卷十九に爾波多豆美流H等騰米可禰都母《ニハタヅミナガルルナミダトドメカネツモ》(四一六〇)・(四二一四)とあるのは全くこの歌の模傚である。
 
179 橘の 島の宮には 飽かねかも 佐田の岡邊に 侍宿しに行く
 
(194)橘之《タチバナノ》 島宮爾者《シマノミヤニハ》 不飽鴨《アカネカモ》 佐田乃岡邊爾《サダノヲカベニ》 侍宿爲爾往《トノヰシニユク》
 
橘ニアル、日並皇子ノ〔五字傍線〕島ノ宮ノ御所デハ、マダ飽キ足ラナイカラカ、私ハ〔二字傍線〕佐田ノ岡アタリノ、オ墓〔三字傍線〕ニマデモ宿直ヲシニ行キマス。
 
○橘之《タチバナノ》――今、高市村大字橘の地がある。古はあの附近一帶を橘といつたのである。
〔評〕 舍人らは島の宮と御墓とに交代で宿直してゐる。今、島宮から佐田の丘へ行かうとしてゐる舍人が、よんだのである。不飽鴨《アカネカモ》は幼げな言ひ方であるが、御墓にも奉仕したい眞情があらはされてゐるのである。
 
180 御立たしし 島をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年かはるまで
 
御立爲之《ミタタシノ》 島乎母家跡《シマヲモイヘト》 住鳥毛《スムトリモ》 荒備勿行《アラビナユキソ》 年替左右《トシカハルマデ》
 
皇子ガ景色ヲ御覽ナサル爲ニ、常ニ〔皇子〜傍線〕オ立チナサレタ島ヲ、家トシテ住ンヂ居ル鳥モ、來年マデハ、他ヘ飛ンデ行ツテ終フナヨ。一年間ハ亡クナツタ主人ノオ側ニヰル筈ノモノダカラ〔一年〜傍線〕。
〔評〕 自分らは、一年間この淋しい舊殿に、皇子を偲んで住むのである。この庭の島を家として住む鳥よ、汝は我らの好伴侶であるから、汝らも亦それまで立ち去ること勿れと、無心の鳥に言ひかけたところに、淋しさと悲しさとがよくあらはれてゐる。純情の歌。
 
181 御立たしし 島の荒磯を 今見れば 生ひざりし草 生ひにけるかも
 
御立爲之《ミタタシシ》 島之荒礒乎《シマノアリソヲ》 今見者《イマミレバ》 不生有之草《オヒザリシクサ》 生爾來鴨《オヒニケルカモ》
 
皇子ガ常ニ〔五字傍線〕オ立チナサレタ、島ノ荒磯ノヤウニ岩ナド峙ツテヰル所〔ノヤ〜傍線〕ヲ今見ルト、皇子御存命中ニ草ナドハ生エナカツタノニソノ〔皇子〜傍線〕生エタコトガ無イ草ガ、生エタワイ。ヒドク荒レタモノダ〔九字傍線〕。
〔評〕 實にあはれ深い歌である。島の宮の荒れ行く樣が目に見える。不生有之草生爾來鴨《オヒザリシクサオヒニケルカモ》は悲しい調子が、切々と(195)して胸に迫るのを覺える。この中の勝れた作である。
 
182 鳥ぐら立て 飼ひし鴈の兒 巣立ちなば 眞弓の岡に 飛び歸り來ね
 
鳥※[土+(一/皿)]立《トグラタテ》 飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》 栖立去者《スダチナバ》 檀崗爾《マユミノヲカニ》 飛反來年《トビガヘリコネ》
 
皇子ガ〔三字傍線〕鳥屋ヲ作ツテ、オ飼ヒナサレタ鴨ノ兒ガ、成長シテ〔四字傍線〕巣立ツテ飛ビ出シ〔五字傍線〕タナラバ、皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕檀ノ岡ニ幾度モ幾度モ飛ンデ來ヨ。
 
○鳥※[土+(一/皿)]立《トグラタテ》――※[土+(一/皿)]は栖の俗字。鳥※[土+(一/皿)]は塒で、和名抄に、塒【音時訓止久良】とある。卷十九に鳥座由比須惠?曾我飼眞白部乃多可《トクラユヒスヱテゾワガカフマシラフノタカ》(四一五四)とある鳥座も同じ。○飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》――鴈は鳧のことで、この頃、鴨の類を飼養したのである。鴈を※[鷹の鳥なし]の誤として、鷹とする代匠記の説は從はれない。巣立するまで鳥屋の中で飼養するので、巣立ち後は放飼にしてある歌の趣であるから、鷹ではふさはしくない。○飛反來年《トビガヘリコネ》――飛反は幾度も飛び返り、往還するをいふ。來年《コネ》は來よに同じ。
〔評〕 鳥屋を作つて飼つてゐる鴨の雛は、未だ巣立たぬ内に皇子は他界遊ばして、もはやこの鳥も皇子の御覽に供することは出來ない。やがて巣立つて自由に飛ぶやうになつたら、せめて皇子の御墓のあたりへ飛び通ひ來よと嘆いたので、恐らく鳥の飼養にたづさはつてゐた舍人がよんだ作であらう。悲しい歌である。
 
183 吾が御門 千代常とはに 榮えむと 念ひてありし 吾し悲しも
 
吾御門《ワガミカド》 千代常登婆爾《チヨトコトハニ》 將榮等《サカエムト》 念而有之《オモヒテアリシ》 吾志悲毛《ワレシカナシモ》
 
私ガオ仕ヘシテヰル皇子ノ〔十字傍線〕御殿ハ、千年モ萬年モ〔三字傍線〕、何時マデモ變ルコトナクテ、御繁昌ナサルコトト思ツテ居リマシタ私ハ、豫想ガ外レテ、皇子ガオ薨レ遊バシタカラ〔豫想〜傍線〕、悲シイヨ。
〔評〕 平凡な言ひ方である。併しこれは僞らぬ飾らぬ有りままの表現である。そこにこの作の價値があるのである。
 
184 東の 瀧の御門に 侍へど 昨日も今日も 召すこともなし
 
(196)東乃《ヒムガシノ》 多藝能御門爾《タギノミカドニ》 雖伺侍《サモラヘド》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 召言毛無《メスコトモナシ》
 
御邸内ノ〔四字傍線〕、東ノ方ノ、瀧ノ近所ノ御門ニ居リマスケレドモ、常ト違ツテ〔五字傍線〕、昨日モ今日モ少シモ私ヲオ召シニナルコトモ無イ。ソレモソノ筈ダ、皇子ハオ薨レ遊バシタノダモノ。アア悲シイ〔ソレ〜傍線〕。
 
○多藝能御門爾《タギノミカドニ》――瀧を落してある附近の御門である。下の東乃大寸御門《ヒムガシノタギノミカト》とあるのも同じであらう。
〔評〕 島の宮の御殿は元のままで、御庭の池へ水を落す瀧も皇子御在世の時と何の變りもない。その殿中に今まで通り伺候してゐれば、皇子の御召が今にもありさうな心地がする。が、併し召される筈はない。ただ淋しく悲しく奉仕してゐるばかりだといふので、昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》が斷腸の響である。住い作だ。
 
185 水傳ふ 磯の浦みの 岩躑躅 もく咲く道を また見なむかも
 
水傳《ミヅツタフ》 礒乃浦回乃《イソノウラミノ》 石乍自《イハツツジ》 木丘開道乎《モクサクミチヲ》 又將見鴨《マタミナムカモ》
 
コノ島ノ宮ノ、瀧ガカカツテ〔コノ〜傍線〕水ガ落チル、岩ガ疊ンデアル池ノ岸ノ岩ニ生エテヰル躑躅ガ、繁ク澤山ニ咲イテ居ル道ヲ、今此所ヲ別レテハ〔八字傍線〕、又ト再ビ見ル時ガアルデセウカ。ドウデアラウ。名殘惜シイコトダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○水傳《ミヅツタフ》――磯の枕詞と見る説が多いが、これは、瀧などのかかつてゐる實況をいつたものとする方が、當つてゐるであらう。美夫君志に「池の磯邊を行くには、その磯邊の水につきてつたひゆくをいふ」とあるのも恐らく誤であらう。○木丘開道乎《モクサクミチヲ》――木丘《モク》は繁くに同じ。應神紀に芳草|薈蔚《モクシゲシ》とある通りである。
〔評〕 島の宮の磯の景は實に美しい。折から岩躑躅が奇麗に水に影を映しつつ咲いてゐる。もうこの舊殿に奉仕することも僅かになつた。一度ここを去つたならば、この御殿の景に再び接することが出來ようかと、嘆く心が又將見鴨《マタミナムカモ》の一句に籠つてゐる。
 
186 一日には 千度參りし ひむがしの たぎの御門を 入がてぬかも
 
一日者《ヒトヒニハ》 千遍參入之《チタビマヰリシ》 東乃《ヒムガシノ》 太寸御門乎《タギノミカドヲ》 入不勝鴨《イリガテヌカモ》
 
(197)皇子御在世ノ時ハ〔八字傍線〕、一日ノ中ニ千度モ參ツタコノ東ノ方ニアル瀧ノ御門ヲ、今ハ皇子ガオ亡クナリナサレタノデ、何トナク足ガ進マズ〔今ハ〜傍線〕入リカネルワイ。
 
○太寸御門乎《タギノミカドヲ》――考にオホキミカドヲと訓んでゐるが、前の歌によると必ずタギノミカドヲであらう。○入不勝鴨《イリガテヌカモ》――不勝《ガテヌ》は堪へずと同意で、ここは入るに堪へぬよの意である。門が閉ぢてあつて入り得ないやうに見る説は惡い。足が進まぬのである。
〔評〕 一日に幾度となく、今まで出入した御門ながら、皇子が薨去になつたので、その馴れた親しい御門も、今は入るに躊躇せられるといふのである。上の句で御門に對する親愛の情をあらはし、さて入不勝鴨《イリガテヌカモ》と言つたところに悲愁の情が溢れてゐる。
 
187 つれもなき 佐太の岡邊に 反りゐば 島の御階に 誰か住まはむ
 
所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》 反居者《カヘリヰバ》 島御橋爾《シマノミハシニ》 誰加住舞無《タレカスマハム》
 
皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕淋シイ縁故ノナイ佐太ノ岡ヘ、私ガ〔二字傍線〕歸ツテ行ツタナラバ、コノ島ノ宮ノ御階ノ下〔二字傍線〕ニハ、誰ガ住ツテコノ御殿ヲ番スル〔八字傍線〕ダラウ。此處ヲ放レルノハ氣ガカリダ〔此處〜傍線〕。
 
○反居者《カヘリヰバ》――舍人は、島の宮と御墓とを、交代に宿直したので、今まで島の宮にゐたものが、御墓へ赴いて宿直するのを、かく言つたのである。古義に反を君と改め、キミマセバとよんでゐるのに從ふ説もあるが、この儘でわかるから、改める必要はない。○嶋御橋爾《シマノミハシニ》――島の宮の御階で、御殿に登る階段を御橋といつたのである。池に架した橋と新考にあるが、橋に住まはむではをかしい。止まらむの意と言つてゐるが、やはりわからない。
〔評〕 荒れ行く島の宮を、立去らむとして、名殘を惜しんだのである。代りの番人がないのではないが、御殿に對する愛着は、おのづからかうした語をなさしめたのである。
 
188 旦覆《あさくもり》 日の入りぬれば 御立たしし 島に下りゐて 嘆きつるかも
 
且覆《アサグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》 御立之《ミタタシシ》 島爾下座而《シマニオリヰテ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
(198)朝ノウチニ空ガ曇ツテ、太陽ガ入ツテシマフト、悲シクナツテ、皇子ガ〔三字傍線〕オ立チナサレタ島ニ下リテ居テ、皇子ノコトヲ思ツテ〔九字傍線〕嘆イタヨ。
 
○且覆《アサグモリ》――舊訓はアサクモリであるが、考は天覆としてアマグモリ、檜嬬手はアサカヘリ、古義は茜刺としてアカネサス、美夫君志は且をタナとよんで、タナグモリとしてゐる。美夫君志の説は、最も合理的ではあるが、他に例がないから遽に從ひ難い。且の字はこの集に尠い字で、且比等波安良自等《マタヒトハアラジト》(四〇九四)とある位のものである。但し入而《イリテ》且|將眠《ネム》(三三一〇)といふ、アサともカツともマタともよめる例もある。旦の字は用例多く皆アサとよんである。(これにも旦今日且今日《ケフケフト》(二二四)の如き特例もあるが)覆は覆來禮婆《オホヒキヌレバ》(九〇四)・覆羽之《オホヒバノ》(二二三八)の如くオホフとよむのが常であるが、又稀には覆者覆《カヘラバカヘレ》(五五七)の如くカヘルとよんだものもある。クモルとよんだ例は一つもない。それで、且覆の二字は恐らく誤かと思はれる。この儘ならば且と旦と混用したものとして、やはりアサグモリとする外はないであらう。朝の内に雲が出て空を蔽ふことをいふのであらう。○日之入去者《ヒノイリヌレバ》――イリユケバとよんであるが、去は客去君跡《タビユクキミト》(六九)・吾去鹿齒《ワガユキシガバ》(二八四)の如くユクとよむこともあるが、此日暮去者《コノヒクレナバ》(二七五)・散去奚留鴨《チリニケルカモ》(二七七)・年乃經去良武《トシノヘヌラム》(三四)・消去之如久《ケヌルカゴトク》(四六六)・移伊去者《ウツリイヌレバ》(四五九)の如く、ナ・ニ・ヌ・ヌル・ヌレの總べてに用ゐられる文字であるから、ここはイリヌレバがよい。○御立之《ミタタシシ》――前にミタチセシとよんだ説によると、爲の字が脱ちたとせねばならない。ミタタシシならば爲の有無に關係なくよめる。
〔評〕 朝日が雲に隱れた景は、若くて失せ給うた皇子を思はしめる。舍人らは皇子の下り立ちて遊び給うた島に行つて、皇子を偲んで歎くのである。少し曖昧な叙法であるが、情と景とあはれに描し出されてゐる。
 
189 あさ日照る 島の御門に おほほしく 人音もせねば まうらがなしも
 
且日照《アサヒテル》 島乃御門爾《シマノミカドニ》 欝悒《オホホシク》 人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》 眞浦悲毛《マウラガナシモ》
 
朝日ガ照ツテヰル島ノ御所ニハ、氣ガカリニモ、人ノヰル音モシナイカラ、實ニ心悲シイワイ。イツデモ朝ハ殊更賑ヤカナ御殿ダカラ、カヤウニ闃トシテヰルト、何ダカ不安ナ淋シイ感ジガスル〔イツ〜傍線〕。
 
(199)○眞浦悲毛《マウラガナシモ》――眞は接頭語。浦悲は心悲し。
〔評〕 夜の幕は切り落されて、明るい朝が來た。宏大な島の宮は、何の變事も無ささうに朝日に照らされてゐる。併し殿中は闃として更に人音もしない。賑やかなるべき朝の大氣は、靜かに、淋しく黙々としてゐる。何といふ陰慘な情景よ。寫し得て眞に迫る。佳作。
 
190 眞木柱 太き心は 有りしかど この吾が心 しづめかねつも
 
眞木柱《マキバシラ》 太心者《フトキココロハ》 有之香杼《アリシカド》 此吾心《コノワガココロ》 鎭目金津毛《シヅメカネツモ》
 
私ハ〔二字傍線〕(眞木柱)太イ確カリシタ男〔六字傍線〕心ヲ持ツテ居マシタガ、ドウシタモノカ、皇子ノ御薨去ヲ悲シム〔ドウ〜傍線〕コノ今ノ〔二字傍線〕私ノ心ハ、鎭メヨウト思ツテモ〔九字傍線〕鎭メルコトガ出來カネルヨ。ドウシテモ悲シイ〔八字傍線〕。
 
○眞木柱――卷六に眞木柱太高敷而《マキバシラフトタカシキテ》(九二八)とある如く、眞木の柱は太いものであるから太《フトキ》の枕詞として用ゐてある。眞木は檜。
〔評〕 女々しく悲しまぬことを自負してゐた身が、この悲しさには打ち勝ち得ないのを嘆いたのである。卷六の大夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルワレヤミヅクキノミヅキノウヘニナミダノゴハム》(九六八)のやうに、かういふ意味を歌つたものは澤山あるが、この歌は用語が類型的でなく、素直によく出來てゐる。
 
191 毛衣を 春冬片設けて いでましし 宇陀の大野は 思ほえむかも
 
毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》 春冬片設而《ハルフユカタマケテ》 幸之《イデマシシ》 宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》 所念武鴨《オモホエムカモ》
 
皇子ガ〔三字傍線〕毛衣ヲ御召シナサツテ、春冬ノ時節ヲ待チ設ケテ、獵ニ〔二字傍線〕オ出カケナサツタ、アノ宇陀ノ廣イ野ハ、今後ハナツカシク〔八字傍線〕、思ヒ出サレルデアラウカナア。
 
○毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》――毛衣は毛皮の衣服である。皮衣といふも同じで、即ち裘である。※[敞/毛]もケゴロモといつてゐるが、これは鳥の羽毛を織り込んだもので、普通人の着るものでない。この句を春の枕詞とする説は誤つてゐる。裳は糊を着けて張るものではないから、春にかくべくもない。○春冬片設而《ハルフユカタマケテ》――片設《カタマケ》はその方に片寄り向ふこ(200)ととして近づきての意とする説と、片より待つ意とする説とあるが、設《マ》くは他動詞であるから、これも他動詞として後説に從ふ。○宇陀乃大野者《ウダノオホヌハ》――書紀に菟田野とある地で、今の宇陀郡榛原町附近である。
〔評〕 宇陀の野の御獵に、供奉したことのある舍人の作。貴人の象徴ともいふべき、毛衣をお召しになつた、皇子の高雅な凛凛しいお姿の思ひ出がよまれてゐる。毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》を受ける動詞が、略されてゐるのが、少し意味を曖昧ならしめる難はあるが、取材に珍らしい點のあるのを認めてやらぬばならぬ。
 
192 朝日照る 佐太の岡邊に 鳴く鳥の 夜鳴かへらふ この年ごろを
 
朝日照《アサヒテル》 佐太力岡邊爾《サダノヲカベニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 夜鳴變布《ヨナキカヘラフ》 此年巳呂乎《コノトシゴロヲ》
 
皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕、朝日ガ照ツテヰル佐太ノ岡ノアタリデ、鳴ク鳥ノヤウニコノ一年間、舍人ドモハ、オ墓ニ交ル交ル夜宿直ヲスルカラ〔舍人〜傍線〕、夜毎ニ頻リニ聲ヲアゲテ泣キマス。
 
○朝日照佐太力岡邊爾鳴鳥之《アサヒテルサダノヲカベニナクトリノ》――夜が明けて、佐太の丘に鳴く朝鳥の聲の、喧しき如くの意である。これを序と見る説は惡い。○夜鳴變布《ヨナキカヘラフ》――變布は舊訓のやうにカヘラフとよむべし。伊往變良比《イユキカヘラヒ》(一一七七)・見變來六《ミテカヘリコム》(一六六九)袂變所見《ソデカヘルミユ》(一七一五)の例によるべきである。カヘルは繰返す意であるから、この句は舍人らが、夜に入りて頻りに泣きに泣くを言つたのである。代匠記に、「歌の心は此の年比、佐太の岡邊に凶鳥の夜鳴に、惡き聲鳴きつるはかゝらむとてのさとしなりけるよと、思ひ合せてなげく意なり」とあるのを、美夫君志にも採つてゐるが、途方もない見當違である。さうすれば朝日照《アサヒテル》は夜鳴に對して全く矛盾することとなり、又|由縁《ツレ》も無き佐太の岡とあつたのに對して、一年以前から、その丘の鳥の夜鳴を聞き知つてゐたといふのも、無理な點がある。○此年巳呂乎《コノトシコロヲ》――この年頃を、夜鳴きかへらふとつづくのである。この年頃は御墓に奉仕する、一年間を言つたのである。乎はヨの意ではあるまい。巳は諸本皆かうなつてゐるが、己と通用せしめた例が多い。
〔評〕 夜の間舍人らが悲しみに泣き叫ぶ聲を、朝鳥の喧しさに比した譬喩は面白いが、難解の謗は免れまい。
 
193 旅籠らが 夜晝といはず 行く路を 吾はことごと 宮路にぞする
 
八多籠良家《ハタコラガ》 夜晝登不云《ヨルヒルトイハズ》 行路乎《ユクミチヲ》 吾者皆悉《ワレハコトゴト》 宮路除爲《ミヤヂニゾスル》
 
(201)賤シイ〔三字傍線〕旅籠ナドヲ運ブモノドモガ、夜晝トイフ區別ヲセズニ、夜モ晝モ〔四字傍線〕通ツテヰル道ヲ、私ラ舍人ドモ〔四字傍線〕ハ、誰モ誰モ皇子ノ佐太ノ岡ノオ墓ヘ〔皇子〜傍線〕宮仕ヘノ道トシテ通ツテ行クヨ。アア思ヒガケモナイコトダ〔アア〜傍線〕。
 
○八多籠良家《ハタゴラガ》――旅籠等《ハタゴラ》がであらう。ハタゴは、馬の飼料を入れる旅行用の籠である。和名抄に「〓漢語抄云、波太古。俗用2旅籠二字1。飼v馬籠也」とある。轉じて旅行用の荷物をもいふ。ここは旅籠を運ぶものをいふ。宣長は良は馬の誤かといつてゐるが、或はさうかも知れない。旅籠馬の名は、宇津保物語や、今昔物語に出てゐる。家の字我の誤といふ説もあるが、これをカの假名に用ゐたのは、麻萬能手兒奈家安里之可婆《ママノテゴナガアリシカバ》(三三八五)の如き例もあるから、この儘でよい。○吾者皆悉《ワレハコトゴト》――皆悉を、舊訓サナガラとあるのに從ふ説もあるが、コトゴトがよい。皆にも悉にもサナガラの訓はない。木末悉《コヌレコトコト》(三一五五)とあるに倣ふべきである。
〔評〕 人馬の往來烈しい街道を、御墓への宮仕の道として通ふことの、意外さを歎いたものである。格別秀でた歌ではない。
 
右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨
 
日並皇子の薨去を日本書紀に就いて調べたもの。三年は持統天皇の三年である。
 
柿本朝臣人麿獻(レル)2泊瀬部皇女忍坂部皇子(ニ)1歌一首並短歌
 
泊瀬部皇女は、天武天皇紀に、「宍人(ノ)臣大麻呂女|※[木+穀]《カヂ》媛娘生2二男二女1云々、其(ノ)三(ヲ)曰2泊瀬部皇女1、」とあり。續紀に、「天平十三年三月壬午朔己酉、三品長谷部内親王薨天武天皇之皇女也」とある。忍坂部皇子は泊瀬部皇女の同母兄でいらせられる。續紀に「慶雲二年五月丙戌、三品忍壁親王薨天武天皇第九皇子也」とある。この題詞の忍坂部皇子の五宇は衍で、葬2河島皇子於越智野1之時、柿本朝臣人麿獻2泊瀬部皇女1歌とすべきであると考に述べてから、それに從ふ説が多い。左註の或本によれば、河鳥皇子の薨去に際して、泊瀬部皇女に献じたのであるから忍坂部皇子に献ずる(202)筈はないといふので、それも一應尤ながら、この皇子は泊瀕部皇女の同母兄に渡らせられるから、人麿は特に弔意を表して、皇子に献じたものかも知れない。これを削除する説は、遽かに從ふべきでない。
 
194 飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ觸らばへ 玉藻なす か依りかく依り 靡かひし 妻の命の たたなづく 柔膚すらを 劔たち 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ 一云、あれなむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 一云、君もあへやと 玉垂れの 越智の大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣は霑れて 草枕 旅寢かもする 逢はぬ君ゆゑ
 
飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 生玉藻者《オフルタマモハ》 下瀬爾《シモツセニ》 流觸經《ナガレフラバヘ》 玉藻成《タマモナス》 彼依此依《カヨリカクヨリ》 靡相之《ナビカヒシ》 嬬乃命乃《ツマノミコトノ》 多田名附《タタナツク》 柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》 劔刀《ツルギタチ》 於身副不寐者《ミニソヘネネバ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》【一云|阿禮奈牟《アレナム》】 所虚故《ソコユヱニ》 名具鮫魚天《ナグサメカネテ》 氣留敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトオモヒテ》【一云|公毛相哉登《キミモアヘヤト》】 玉垂乃《タマダレノ》 越乃大野之《ヲチノオホヌノ》 旦露爾《アサツユニ》 玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》 夕霧爾《ユフギリニ》 衣者沾而《コロモハヌレテ》 草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》 不相君故《アハヌキミユヱ》
 
(飛鳥明日香乃河之 上瀬爾生玉藻者 下瀬爾流觸經 玉藻成)アア寄ツタリ、カウ寄ツタリシテ、貴女樣ガ〔四字傍線〕相並ンデ、御寢ナサツタ御夫君河島皇子〔四字傍線〕ノ、(多田名附)柔イ膚サヘモ、今ハ(劔太刀)御身ニ副ヘテ御寢ナサルコトガナイカラ、カヤウニ獨寢ヲナサルウチニハ〔カヤ〜傍線〕、(烏玉乃)夜ノオ寢床モソノ儘トナツテヰテ〔九字傍線〕、嘸ヒドクナツタラウ。ソレ故ニ心ガ欝々トシテ慰〔七字傍線〕メルコトガ出來ナイデ、萬一亡クナツタ夫ノ君ニ〔九字傍線〕、逢フコトガ出來ルカモ知レナイト思召シテ皇子ノオ墓ノアル〔八字傍線〕(玉垂乃)越智ノ大野ノ朝露ニ、立派ナ裳ヲオ霑シナサレ、夕方立ツ霧ノ爲ニ着物ガ霑レテ、イクラ戀ヒ慕ツテモ〔九字傍線〕、逢フコトガ出來ナイ夫君ダノニ、(草枕)旅寢ヲナサルカマア。サテサテオ氣ノ毒ナコトデス〔サテ〜傍線〕。
 
○流觸經《ナガレフラバヘ》――舊訓ナガレフレフルで、ナガレフラヘリ、ナガレフラヘ、ナガレフラフ、ナガレフラハフなどの訓(203)があるが、古事記雄略天皇の時の歌に、本都延能延能宇良婆波《ホツエノエノウラバハ》、那加都延爾淤知布良婆閇《ナカツエニオチフラバヘ》とあるによつてフラバヘとよむがよい。經の字は打經而《ウチハヘテ》(一〇四七)とよんだ例があるからハヘでよいのである。フラバフと終止形にするのは、この種の長歌の語勢でない。飛鳥《トブトリノ》から玉藻成《タマモナス》までの七句は彼依此依《カヨリカクヨリ》の序である。○嬬乃命乃《ツマノミコトノ》――夫の君のといふ意。○多田名附《タタナツク》――疊《タタナ》はり付く意。柔膚の枕詞。○柔膚尚乎《ニギハダスラヲ》――柔膚はヤハハダと訓まれてゐるが、柔の字、本集ではニギ又はニとよまれて、ヤハの例は他にないから、これもニギハダとよむことにする。尚《スラ》は一をあげて他を類推せしめる助詞であるが、ここでは、極めて輕く用ゐられてゐる。○劔刀《ツルギダチ》――於身副《ミニソヘ》の枕詞。劍の太刀で劍と太刀とではない。○名具鮫魚天氣留敷藻相屋常念而《ナグサメカネテケダシクモアフヤトオモヒテ》――この三の句は舊の儘では訓み得ない。魚は兼の誤とし、留は類聚古集に田とあるによれば、明瞭となる。「慰め兼ねて蓋しくも逢ふやと思ひて、」である。○玉垂乃《タマダレノ》――玉垂の緒の意で越《ヲチ》につづく枕詞。○越乃大野之《ヲチノオホヌノ》――越智野は高市郡の西部の平地で、今の越智岡、新澤の二村に亘つてゐる。○玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》――玉藻は王裳の借字。※[泥/土]打《ヒヅチ》はヒヂウチの約訓で、こんな字を用ゐたのである。卷十五に安佐都由爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒヅチ》(三六九一)とあるに同じく、水に濡れること。○旅宿鴨爲留《タビネカモスル》――旅宿は御墓のほとりに、奉仕して宿り給ふをいふ。○不相君故《アハヌキミユヱ》――逢はぬ君なるものをの意。
〔評〕 上つ瀬と下つ瀬の對句は、古事記に木梨之輕太子の歌として出てゐる、許母埋久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》云々の長歌に見え、玉藻成彼依此依《タマモナスカヨリカクヨリ》も、既に卷一に見えた彼の作に用ゐられた語で、人麿の常用語であり、又當時の他の作にも、類似したものがあるのである。併し後半部は、夫を失はれた皇女に對する同情があらはれて、實に悲痛な歌である。
 
反歌一首
 
195 敷妙の 袖交へし君 玉垂の をち野過ぎゆく 亦も逢はめやも 一云、をち野に過ぎぬ
 
敷妙乃《シキタヘノ》 袖易之君《ソデカヘシキミ》 玉垂之《タマダレノ》 越野過去《ヲチヌスギユク》 亦毛將相八方《マタモアハメヤモ》【一云|乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》
 
アナタガ〔四字傍線〕(敷妙乃)袖ヲサシカハシテ共寢シ〔四字傍線〕タ夫ノ君ハ、オ薨レ遊バシテ〔七字傍線〕、(玉垂之)越智野ヲ通ツテ葬ラレナ(204)サツタ。カウナツタ以上ハ〔八字傍線〕又ト再ビオ逢ヒニナルコトガ出來ヨウカ、到底出來マセヌ。オ氣ノ毒ナコトデス〔到底〜傍線〕。
 
○敷妙乃《シキタヘノ》――袖の枕詞。既出(七二)。○越野過去《ヲチヌスギユク》――越野に葬られたことをいつたのである。ヲチヌニスギヌとよむ説もあるが、それでは一云と同じになるからいけない。去鳥乃《ユクトリノ》(一九九)・吾去鹿齒《ワガユキシカバ》(二八四)の例によつて、去の字をユクとよむがよい。越野を過ぎて山の手に御墓が出來たのであらう。
〔評〕 長歌の全體の意を纏めて歌つたまでである。
 
右或本曰葬(ル)2河島皇子越智野(ニ)1之時、獻(レル)2泊瀬部皇女(ニ)1歌也、日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨、
 
舊本、泊瀬の下、部の字がないのは脱ちたのである。古葉略類聚鈔によつて補つた。舊本淨太參とあるは誤。金澤本に淨大參とあるに從ふ。川島皇子は卷一の三四にも見えてゐるが、天智天皇紀に「七年云々、又有2宮女1生2男女者四人1、有2忍海造小龍女1、曰2色夫古《シコブコ》娘1、生2一男二女1、其一曰2大江皇女1、其二曰2川島皇子1、其三曰2泉皇女1」とある。天武天皇紀に「十四年春正月丁未朔丁卯、是日川島皇子、忍壁皇子、授2淨大參位1」とあり、持統天皇紀に右の薨去の文が見える。尚、懷風藻には「川島皇子一首、皇子者淡海帝之第二子也、云々、位終2于淨大參1時年三十五」と記してある。泊瀬部皇女の夫君であらせられた。
 
明日香皇女|木※[瓦+缶]《キノヘ》殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
 
明日香皇女は、天智天皇紀に「次(ニ)有2阿倍倉梯腑呂大臣(ノ)女1曰2橘娘(ト)1生3飛鳥皇女(ト)與2新田部皇女1」とある。續紀に「文武天皇四年夏四月癸未淨廣肆明日香皇女薨、遣v使弔2賻之1、天智天皇女也」とある。木※[瓦+缶]は城上で、和名抄廣瀬郡城戸郷とあるが、今の北葛城都馬見村が其處である。城上の岡は馬見村大塚といふことになつてゐるが、北葛城郡史には、「城上岡、六道山の畑地をいふ」とあつて、辰巳利文氏もこれに賛して、今俗にシンヤマと稱する丘陵であらうと推定してゐる。考に(205)は、この題詞は、人麿の下に獻2忍坂部皇子1の六字があつたのが、落ちたのだと言つてゐる。
 
196 飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 一云、岩浪 下つ瀬に 打橋渡す 岩橋に 一云、岩浪 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる 何しかも わが大王の 立たせば 玉藻のもころ こやせば 川藻の如く 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を 背き給ふや 現身と 思ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば もみぢ葉かざし 敷妙の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時時 いでまして 遊び給ひし みけ向ふ 城上の宮を 常宮と 定め給ひて あぢさはふ 目言も絶えぬ 然れかも 一云 そこをしも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片戀づま 一云、しつつ 朝鳥の 一云、朝露の 通はす君が 夏草の 思ひしなて 夕づつの か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰むる 心もあらず そこ故に 術知らましや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲び行かむ み名に懸かせる 明日香河 萬代までに 愛しきやし わが大王の 形見かここを
 
飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》 上瀬《カミツセニ》 石橋渡《イハハシワタシ》【一云、石浪《イハナミ》】 下瀬《シモツセニ》 打橋渡《ウチハシワタス》 石橋《イハハシニ》【一云、石浪《イハナミ》】 生靡留《オヒナビケル》 玉藻毛叙《タマモモゾ》 絶者生流《タユレバオフル》 打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オホヲヲレル》 川藻毛叙《カハモモゾ》 干者波由流《カルレバハユル》 何然毛《ナニシカモ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 立者《タタセバ》 玉藻之如許呂《タマモノモコロ》 臥者《コヤセバ》 川藻之如久《カハモノゴトク》 靡相之《ナビカヒシ》 宜君之《ヨロシキキミガ》 朝宮乎《アサミヤヲ》 忘賜哉《ワスレタマフヤ》 夕宮乎《ユフミヤヲ》 背賜哉《ソムキタマフヤ》 宇都曾臣跡《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキ》 春部者《ハルベハ》 花折挿頭《ハナヲリカザシ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉挿頭《モミヂバカザシ》 敷妙之《シキタヘノ》 袖携《ソデタヅサハリ》 鏡成《カガミナス》 雖見不厭《ミレドモアカズ》 三五月之《モチヅキノ》 益目頬染《イヤメヅラシミ》 所念之《オモホシシ》 君與時時《キミトトキドキ》 幸而《イデマシテ》 遊賜之《アソビタマヒシ》 御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》 常宮跡《トコミヤト》 定賜《サダメタマヒテ》 味澤相《アヂサハフ》 目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》 然有鴨《シカレカモ》【一云|所已乎之毛《ソコヲシモ》】 綾爾憐《アヤニカナシミ》 宿兄鳥之《ヌエトリノ》 片戀嬬《カタコヒヅマ》【一云|爲乍《シツツ》】 朝鳥《アサトリノ》【一云|朝露《アサツユノ》】 往來爲君之《カヨハスキミガ》 夏草乃《ナツグサノ》 念之萎而《オモヒシナエテ》 夕星之《ユフヅツノ》 彼往此去《カユキカクユキ》 大船《オホブネノ》 猶預不定見者《タユタフミレバ》 遣悶流《ナグサムル》 情毛不在《ココロモアラズ》 其故《ソコユヱニ》 爲便知之也《スベシラマシヤ》 音耳母《オトノミモ》 名耳毛不絶《ナノミモタエズ》 天地之《アメツチノ》 彌遠長久《イヤトホナガク》 思將往《シヌビユカム》 御名爾懸世流《ミナニカカセル》 明日香河《アスカガハ》 及萬代《ヨロヅヨマデニ》 早布屋師《ハシキヤシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 形見何此焉《カタミカココヲ》
 
(飛鳥明日香乃河之、上瀬石橋渡、下瀬打橋渡)石ヲ並ベテ傳ツテ渡ル〔石ヲ〜傍線〕石橋ニ、生エテ靡イテ居ル美シイ藻ハ、(206)切レテモ亦生エルモノダ。又取リハヅシガ出來ルヤウニナツテヰル〔亦取〜傍線〕、板ノ打橋ニ二生エカカツテ亂レカランデヰル川ノ藻ハ、枯レレバ復後カラ生エルモノダ。斯樣ニ玉藻ヤ川藻ハ、一旦亡クナツテモ、亦モトノ通リニナルモノダガ〔斯樣〜傍線〕、ドウシテ私ノ仰キ奉ツテヰル明日香〔仰キ〜傍線〕皇女ハ、立チ給ヘバ玉藻ノヤウニ優シイオ姿ヲナサリ〔九字傍線〕、臥シ給ヘバ川ノ藻ノヤウニ靡イテ、横ニナツテ寄リ添ヒナサツタ、アノ立派ナ忍壁皇子ノ、オ住ヒナサル〔六字傍線〕朝ノ御殿ヲオ忘レナサツタノダラウ。晩ノ御殿ヲ別レテコノ世ヲ〔四字傍線〕背イテ、冥途ヘ〔三字傍線〕オ立ナサツタノダラウ。サウシテ玉藻川藻トハ違ツテ、ドウシテ皇女ハ復コノ世ニ歸リ給ハヌノデアラウ〔サウ〜傍線〕。皇女ガ御在世中ニ、春頃ニハ花ヲ折ツテ頭ノ飾トシ、秋ガ來ルト、黄葉ヲ頭ニ挿シテ飾トシテ、二人互ニ〔四字傍線〕(敷妙之)袖ヲ連ネ顔ヲ〔二字傍線〕(鏡成)見テモ見テモ倦ク事モナク、(三五月之)彌愛ラシクバカリ思ツテ、戀ヒ慕ツテ居タ皇子ト、時々オ出掛ケナサツテオ遊ビナサツタ(御食向)城上ノ宮ヲ、皇女ガ〔三字傍線〕永久ニ鎭リマシマス宮トオ定メナサツテ、オ薨レナサツテ、其處ニオ墓ガ出來テ〔オ薨〜傍線〕、(味澤相)目ニ見給フコトモ、話ヲナサルコトモ、二ツトモ駄目トナツタ。カヤウニ皇女ガ御薨去遊バシ〔ニ皇〜傍線〕タカラ、皇子ハ〔三字傍線〕非常ニ悲シク思シ召シテ、(宿兄鳥之)片戀ヲシテ、獨リデ皇女ヲ慕ツテオイデナサリ、オ墓ヘ〔三字傍線〕(朝鳥)通ツテ行ツタリ來タリシテヰラレル皇子ハ、皇女ノコトヲ〔六字傍線〕思ヒ焦レテ、(夏草乃)弱リ果テテ、(夕星之)彼方ヘ行ツタリ、此方ヘ行ツタリシテ、(大船)フラフラトシテ居ラレル樣子ヲ見ルト、ドウシテモ私ハ〔六字傍線〕心ノ悲シサヲ晴ラスコトガ出來ズ、夫故何トモ仕方ガ無イヨ。切メテコノ皇女ノ〔八字傍線〕、御評判デモ御名聲デモ、絶エルコトナク、天地ト共ニ彌々長ク、遙ニ皇女ヲ思ヒ出シテ忘レナイデ〔五字傍線〕居ラウ。明日香皇女ノオ名前ニツイテヰルコノ明日香川ヲ、萬代ノ後々マデモ、愛ラシイ私ノ仰ギ奉ル明日香皇女ノオ形見トシテ、此所ヲ思ヒ出シテ行カウ。
 
(207)○石橋渡《イハハシワタシ》――石を川の中などに並べて、渡るやうにしたものを石橋といふ。一云石浪とあるも、石並で、石を並べたもの。○打橋渡《ウチハシワタス》――打橋は、板を掛けはづしの出來るやうにした橋。打ちかけた橋の意か。玉の小琴にうつしの約つたもので、遷しもて行きて、時に臨みてかりそめに渡す橋だと、いつてゐるのは果してどうであらう。飛鳥から打橋渡までの六句は、下に、石橋・打橋を言ひ出す爲の序である。○生乎爲禮流《オホヲヲレル》――乎爲《ヲヲ》はトヲヲ又はタワワなどのヲヲ、ワワと同じもので、生ひ繁つて撓む樣を言つたのである。爲の字を烏の誤とする説もあるが、花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》(四七五)・開乎爲流(サキヲヲル)(一七五二)などの例もあるから、爲はヲとよむ字である。ヰの音であるから、和行の中に轉じて、ヲともなるので、恐らく古音であらう。○吾王乃《ワガオホキミノ》――明日香皇女をさす。檜嬬手に忍坂部皇子をさすとあるは誤。○玉藻之如許呂臥者《タマモノモコロコヤセバ》――從來この二句を、タマモノゴトクコロブセバとよんだのであるが、如はゴトクとよむ時は次の句にあるやうに、久の假名を送るのが例であり、許呂臥者《コロブセバ》といふ語も、他に例がない。この卷に荒床自伏君之《アラドコニヨリブスキミガ》(二二〇)とあるのを、從來コロブスキミガとよんでゐるが、この歌に許呂臥とあるのを、ココブスと訓んだのにならつたもので、例證にはならない。如許呂としてモコロとよむのは、山田孝雄氏の説で、よい説と思はれる。モコロは如くと同意で、於吉爾須毛乎加母乃母己呂《オキニスモヲカモノモコロ》(三五二七)・和例乎美於久流等多々理之母己呂《ワレヲミオクルトタタリシモコロ》(四三七五)の母己呂もこれに同じである。如己男爾(一八〇九)をモコロヲニとよんであるのも、母許呂乎乃《モコロヲノ》(三四八六)によつたのであらう。この句は金澤本に母許呂《モコロ》とあるから、いよ/\如許呂《モコロ》に違ひない。○臥者《コヤセバ》――許呂を上に附けると、臥はコヤスとよむより外はない。客爾臥有《タビニコヤセル》(四一五)君之臥有《キミガコヤセル》(四二一)妹之臥勢流《イモガコヤセル》(一八〇七)の例の通りである。○宜君之《ヨロシキキミガ》――忍坂部皇子をさす。○朝宮乎《アサミヤヲ》――下の夕宮に對したもので、朝おはします宮の意。○宇都曾臣跡念之時《ウツソミトオモヒシトキ》――字都曾臣《ウツソミ》は現身《ウツシミ》に同じ。念之時《オモヒシトキ》は現身であつた時の意であるのに、念といふ語を用ゐたのは一寸用法が珍らしいが、この下にも打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》(二一〇)とあつて、特種の言ひ方である。○鏡成《カガミナス》――見の枕詞。○三五月之《モチヅキノ》――益自頬染《イヤメヅラシミ》の枕詞。望月は愛らしいものだからである。三五月をモチヅキとよむのは、一種の戯書である。○益目頬染《イヤメヅラシミ》――彌愛らしくの意。メヅラシは珍しと愛しとの二義があるが、ここは後者である。○御食向《ミケムカフ》――御食に供へる酒《キ》とつづいて、キの枕詞とするのである。○常(208)宮跡《トコミヤト》――永久の宮殿即ち御墓としての意。○味澤相《アヂサハフ》――昧鴨といふ鳥は、多く群れて飛び行くものであるから、ムレを約めてメとして、メの枕詞になると言はれてゐるが、難解の枕詞の一である。○目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》――目に見ることも、口に言ふ言葉も、絶えたといふので、皇女の薨去をいふ。○宿兄鳥之《ヌエトリノ》――※[空+鳥]島は、前に奴要子鳥卜歎居者《ヌエコトリウラナケヲレバ》(五)とあつたやうに、悲しげに鳴く島であるから、片戀の枕詞にしたのである。○朝鳥《アサトリノ》――往以爲《カヨハス》の枕詞である。鳥は朝塒を出でて、里に通ふからである。○夏草乃――枕詞、既出(一三一)。○夕星之《ユフヅツノ》――太白星のこと。又長庚とも云ふ。即ち金星である。この星、宵に西にあらはれ、曉には東にありて明星《アカホシ》といふ。かく所在を異にするところから、彼往此去《カユキカクユキ》の枕詞となる。○大船《オホブネノ》――海上に漂ふから、猶預不定《タユタフ》の枕詞とした。○遣悶流《ナグサムル》――オモヒヤルの訓もあるが、下に遣悶流情毛有八等《ナグサムルココロモアリヤト》(二〇七)とあるのは、オモヒヤルでは當らぬやうであるから、これもナゲサムルと訓むことにする。○其故爲便知之也《ソコユヱニスベシラマシヤ》――それだから術を知らむや。全く途方にくれるといふ意。○音耳母名耳毛不絶《オトノミモナノミモタエズ》――せめて音にのみなりとも、名にのみなりとも絶えずの意。○御名爾懸世流《ミナニカカセル》――御名にかけ給へるの意で、皇女の御名と、川の名と共に明日香であるから、かく言つたのである。○明日香川――高市村大字畑の山中から出た稻淵川と、多武峯から出た細川川とが合して飛鳥川となる。その流路約八里。○早布屋師《ハシキヤシ》――愛《ハ》しきに、ヤとシとが附いたもの。○形見何此焉《カタミカココヲ》――何は荷の誤でカタミニココヲであらうと宣長はいつてゐる。美夫君志は、この儘でニとよむべきものだといつてゐる。併しもとのままで、カタミカココヲでも分らぬことはない。此處を形見としてか偲び行かむといふのである。
〔評〕 この歌は前の泊瀬部皇女に献じた長歌と、全くその手法を等しくしてゐる。上つ瀬・下つ瀬、玉藻・川藻の對句も殆ど同じであるが、この方が長いだけに、如何にも立派に出來てゐる。全體の氣分は流麗な、滑らかな、深い哀愁の漂つたものである。朝宮・夕宮は前に出てゐた芳野離宮の歌の、朝川・夕川を思はしめ、夏草乃念之萎而《ナツクサノオモヒシナエテ》は、石見の國から妻に別れて上京の時の歌中に見えた句である。この歌が、文武天皇四年の作で、年代の明らかな彼の作の最後のものである點から考へて、從來の彼の傾向を綜合大成した作品と言つてもよい。確かに傑出した歌である。
 
(209)短歌二首
 
197 明日香川 しがらみ渡し 塞かませば 流るる水も のどにかあらまし 一云、水のよどにかあらまし
 
明日香川《アスカガハ》 四我良美渡之《シガラミワタシ》 塞益者《セカマセバ》 進留水母《ナガルルミヅモ》 能杼爾賀有萬志《ノドニカアラマシ》【一云、水乃與杼爾加有益《ミヅノヨドニカアラマシ》】
 
明日香川ノヤウナ流レノ早イ川デモ〔ノヤ〜傍線〕、※[竹/冊]ヲ渡シカケテ、流ヲ〔二字傍線〕塞イダナラバ、流レル水モ淀ンデ〔三字傍線〕、長閑ニ湛ヘルデアラウ。シカシ明日香皇女ノ御壽命ヲ塞キトメテ、尚御在命ナサルヤウニスルコトガ出來ナイノハ、殘念ダ〔シカ〜傍線〕。
 
○四我良美渡之《シガラミワタシ》――四我良美《シガラミ》は川中に杙を打ちて、横に竹木などをからみつけ、水を塞き止めるもの。※[竹/冊]。柵。○塞益者《セカマセバ》――塞かましかばに同じ。塞いだならばの意。○能杼爾賀有萬志《ノドニカアラマシ》――長閑にかあらむの意。
〔評〕 直接に皇女の薨去を言はないで、他所事のやうに明日香川について言つたところに、却つて悲しさが籠つてゐる。調子が實に滑かに出來てゐる。古今集の壬生忠岑が姉の身まかつた時に、「瀬をせけば淵となりてもよどみけり別をとむるしがらみぞなき」とよんだのは、これとその意味は全く同じであるが、二者の間に、格調の上に、技巧の上に大差があつて、歌風の變遷の跡が明らかに見えて面白い。
 
198 明日香川 明日だに 一云、さへ 見むと 思へやも 一云、思ヘかも わが王の み名忘れせぬ 一云、御名忘らえぬ
 
明日香川《アスカガハ》 明日谷《アスダニ》【一云|左倍《サヘ》】將見等《ミムト》 念八方《オモヘヤモ》【一云|念香毛《オモヘカモ》】 吾王《ワガオホキミノ》 御名忘世奴《ミナワスレセヌ》【一云|御名不所忘《ミナワスラエヌ》】
 
(明日香川)明日デモ亦、明日香皇女ヲ〔六字傍線〕見奉ラウト思フカラカ、私ハ明日香〔五字傍線〕皇女ノオ名ヲ忘レルコトガ出來ナイ。モハヤ悲シンデモ甲斐ナイ皇女ノオ名ハ、忘レル方ガヨイノニ〔モハ〜傍線〕。
 
○明日香川――同音を繰り返して下につづく枕詞として用ゐてゐる。○念八方《オモヘヤモ》――この句で切つて見る説はよくない。ヤは疑の助辭で、モは添へていふ感動の助詞である。この句は下の句|御名忘世奴《ミナワスレセヌ》に係つてゐる。一云の如くヤをカとしても、全く同じである。
(210)〔評〕 念八方《オモヘヤモ》で、切るか切らないかによって、意味が著しく違つて來る。代匠記・略解・古義、皆説を異にしてゐる。それだけ叙述に曖昧なところがあるといつてよからう。
 
高市皇子尊|城上殯宮《キノヘノアラキノミヤ》之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
高市皇子尊は天武天皇の皇子で、御母は※[匈/月]形君徳善(ノ)女尼子娘である。草壁親王の薨去後、皇太子に立たせられたが、持統天皇の十年七月薨去あらせられた。御墓は諸陵式に「三立(ノ)岡墓。高市皇子、在2大和國廣瀬郡1兆域東西六町、南北四町無2守戸1」とある。城上は前の歌に、明日香皇女の本※[瓦+缶]殯宮とあるのと同じである。
 
199 かけまくも ゆゆしきかも 一云、ゆゆしけれども 言はまくも あやに畏き 明日香の 眞神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて 神さぶと 磐隱ります やすみしし 吾が大王の きこしめす 背面《そとも》の國の 眞木立つ 不破山越えて 高麗劔 わざみが原の かり宮に 天降りいまして 天の下 治め給ひ 一云、拂ひ給ひて をす國を 定めたまふと 鳥が鳴く 吾妻の國の 御軍を 召し給ひて ちはやぶる 人をやはせと まつろはぬ 國を治めと 一云、拂へと 皇子ながら 任け給へば 大御身に 太刀取りはかし 大御手に 弓取り持たし 御いくさを あともひたまひ 齊ふる 鼓の音は 雷の 聲と聞くまで 吹きなせる 小角《くた》の音も 一云、笛のおとは あた見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 一云、聞き惑ふまで 捧げたる 幡の靡きは 冬ごもり 春さり來れば 野ごとに 著きてある火の 一云、冬ごもり春野燒く火の 風のむた 靡くが如く 取りもたる 弓弭の騷 み雪降る 冬の林に 一云、ゆふの林 飄《つむじ》かも い卷渡ると 思ふまで 聞の恐く 一云。諸人の見惑ふまでに 引き放つ 箭の繁けく 大雪の 亂れて來たれ 一云、霰なすそちより來れば まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 去く鳥の 爭ふはしに 一云、朝霜の消なば消ぬとふに現身と爭ふはしに 渡會の 齋の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ給ひて 定めてし 瑞穗の國を 神ながら 太敷き坐して やすみしし 吾大王の 天の下 申し給へば 萬代に 然しもあらむと 一云、かくもあらむと 木綿花の 榮ゆる時に わが大王 皇子の御門を 一云、さす竹の皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて つかはしし 御門の人も 白妙の 麻衣著 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕べになれば 大殿を ふり放け見つつ 鶉なす い匍ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ盡きねば 言さへぐ 百濟の原ゆ 神葬り 葬りいまして 麻裳よし 城上の宮を 常宮と 定めまつりて 神ながら 鎭りましぬ 然れども わが大王の 萬代と 思ほし召して 作らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放け見つつ 玉襷 かけて偲ばむ 恐かれども
 
挂文《カケマクモ》 忌之伎鴨《ユユシキカモ》【一云|由遊志計禮杼母《ユユシケレドモ》】 言久母《イハマクモ》 綾爾畏伎《アヤニカシコキ》 明日香乃《アスカノ》 眞神之原爾《マガミノハラニ》 久堅能《ヒサカタノ》 天津御門乎《アマツミカドヲ》 懼母《カシコクモ》 定賜而《サダメタマヒテ》 神佐扶跡《カムサブト》 磐隱座《イハガクリマス》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 所聞見爲《キコシメス》 背友乃國之《ソトモノクニノ》 眞木立《マキタツ》 不破山越而《フハヤマコエテ》 狛劍《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》 行宮爾《カリミヤニ》 安母理座而《アモリイマシテ》 天下《アメノシタ》 治賜《ヲサメタマヒ》【一云|拂賜而《ハラヒタマヒテ》】 食國乎《ヲスクニヲ》 定賜等《サダメタマフト》 鳥之鳴《トリガナク》 吾妻乃國之《アヅマノクニノ》 御軍士乎《ミイクサヲ》 喚賜而《メシタマヒテ》 千磐破《チハヤブル》 人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》 不奉仕《マツロハヌ》 國乎治跡《クニヲオサメト》【一云|掃部等《ハラヘト》】 皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》 大御身爾《オホミミニ》 大刀取帶之《タチトリハカシ》 大御手爾《オホミテニ》 弓取持之《ユミトリモタシ》 御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》 齊流《トトノフル》 皷之音者《ツヅミノオトハ》 雷之《イカヅチノ》 聲登聞麻低《コヱトキクマデ》 吹響流《フキナセル》 小角乃音母《クダノオトモ》【一云|笛之音波《フエノオトハ》】 敵見有《テキミタル》 虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》 諸人之《モロビトノ》 (211)恊流麻低爾《オビユルマデニ》【一云|聞惑麻低《キキマドフマデ》】 指擧有《ササゲタル》 幡之靡者《ハタノナビキハ》 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 野毎《ヌゴトニ》 著而有火之《ツキテアルヒノ》【一云|冬木成春野燒火乃《フユゴモリハルヌヤクヒノ》】 風之共《カゼノムタ》 靡如久《ナビクガゴトク》 取持流《トリモタル》 弓波受乃驟《ユハズノサワギ》 三雪落《ミユキフル》 冬乃林爾《フユノハヤシニ》【一云|由布之林《ユフノハヤシ》】 飄可母《ツムジカモ》 伊卷渡等《イマキワタルト》 念麻低《オモフマデ》 聞之恐久《キキノカシコク》【一云|諸人見惑麻低爾《モロビトノミマドフマデニ》】 引放《ヒキハナツ》 箭繁計久《ヤノシゲケク》 大雪乃《オホユキノ》 亂而來禮《ミダレテキタレ》【一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》】 不奉仕《マツロハズ》 立向之毛《タチムカヒシモ》 露霜之《ツユジモノ》 消者消倍久《ケナバケヌベク》 去鳥乃《ユクトリノ》 相競端爾《アラソフハシニ》【一云|朝霜之《アサシモノ》 消者消言爾《ケナバケヌトフニ》 打蝉等《ウツセミト》 安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》】 渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤユ》 神風爾《カムカゼニ》 伊吹惑之《イブキマドハシ》 天雲乎《アマグモヲ》 日之目毛不令見《ヒノメモミセズ》 常闇爾《トコヤミニ》 覆賜而《オホヒタマヒテ》 定之《サダメテシ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》 神隨《カムナガラ》 太敷座而《フトシキマシテ》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 天下《アメノシタ》 申賜者《マヲシタマヘバ》 萬代《ヨロヅヨニ》 然之毛將有登《シカシモアラムト》【一云|如是毛安良無等《カクモアラムト》】 木綿花乃《ユフバナノ》 榮時爾《サカユルトキニ》 吾大王《ワガオホキミ》 皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》【一云|刺竹《サスタケノ》 皇子御門乎《ミコノミカドヲ》】 神宮爾《カムミヤニ》 装束奉而《ヨソヒマツリテ》 遣使《ツカハシシ》 御門之人毛《ミカドノヒトモ》 白妙乃《シロタヘノ》 麻衣著《アサゴロモキ》 埴安乃《ハニヤスノ》 御門之原爾《ミカドノハラニ》 赤根刺《アカネサス》 日之盡《ヒノコトゴト》 鹿自物《シシジモノ》 伊波比伏管《イハヒフシツツ》 烏玉能《ヌバタマノ》 暮爾至者《ユフベニナレバ》 大殿乎《オホトノヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》 鶉成《ウヅラナス》 伊波比廻《イハヒモトホリ》 雖侍候《サモラヘド》 佐母良比不得者《サモラヒエネバ》 春鳥之《ハルトリノ》 佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》 嘆毛《ナゲキモ》 未過爾《イマダスギヌニ》 憶毛《オモヒモ》 未盡者《イマダツキネバ》 言左敝久《コトサヘグ》 百濟之原從《クダラノハラユ》 神葬《カムハフリ》 葬伊座而《ハフリイマシテ》 朝毛吉《アサモヨシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》 (212)常宮等《トコミヤト》 高之奉而《サダメマツリテ》 神隨《カムナガラ》 安定座奴《シヅマリマシヌ》 雖然《シカレドモ》 吾大王之《ワガオホキミノ》 萬代跡《ヨロヅヨト》 所念食而《オモホシメシテ》 作良志之《ツクラシシ》 香來山之宮《カグヤマノミヤ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》 天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》 玉手次《タマダスキ》 懸而將偲《カケテシヌバム》 恐有騰文《カシコカレドモ》
 
心ニ〔二字傍線〕カケテ思フダケデモ、憚リ多イコトデアルヨ。口ニ〔二字傍線〕言フノモ、怪シク畏イ、明日香ノ眞神ノ原ニ、(久堅能)天ノ御殿ヲ畏クモオ定メ遊バシテ、即チ御陵ヲオ構ヘナサツテ〔即チ〜傍線〕、神樣ラシクナサルトテ、磐ニ隱レテ葬ラレテ〔四字傍線〕オイデ遊バス、(八隅知之)吾ガ仰ギ奉ル天武〔二字傍線〕天皇樣ガ、御支配遊バス、大和カラハ〔五字傍線〕後ロノ方ニ當ル美濃ノ〔七字傍線〕國ノ、(眞木立)不破山ヲ越シテ、(狛劔)和※[斬/足]原ノ行宮ニオ出デ遊バシテ、コノ天下ヲ鎭メ給ヒ、又〔傍線〕御支配ナサル國ヲ、御平定遊バサンガ爲ニ、(鳥之鳴)關東ノ國ノ、兵士ラヲオ呼ビ寄セナサツテ、勇猛ナ人ヲ和ゲヨ、又〔傍線〕從ハナイ國ヲ鎭定セヨト、高市皇子ガ〔五字傍線〕皇子ノ御身分ソノママデ、天子樣ガ〔四字傍線〕御委任遊バスト、皇子ガ〔三字傍線〕御身ニハ大刀ヲ佩キ給ヒ、御手ニ弓ヲ持チ給ウテ、官軍ヲオ引連レナサリ、味方ノ〔三字傍線〕軍勢ヲ呼ビ〔二字傍線〕齊ヘル太鼓ノ音ハ、恰モ〔二字傍線〕雷ノ轟クガ如ク聞エ、又〔三字傍線〕吹キ鳴ラセル角笛ノ音ハ、敵ヲ見ツケタ虎ガ吼エルノデハナイカト思ツテ〔三字傍線〕、人々ガ戰キ恐レル程モ、鳴リ轟キ〔四字傍線〕、高ク差シ上ゲテ持ツテ居ル軍旗ガ、風ニ〔二字傍線〕靡ク有樣〔二字傍線〕ハ、(冬木成)春ガ來ルト、彼方此方ノ〔五字傍線〕野毎ニ著イテ居ル野火ガ、風ノマニマニ靡イテヰルヤウニ、赤クヒラメイテヰル〔九字傍線〕。又手ニ取リ持ツテ居ル弓ノ弭《ハズ》ガ、矢ヲ放ス度ニビシビシト響ク〔矢ヲ〜傍線〕騷ギハ、雪ノ降リシキツテヰル冬ノ林ニ、ツムジノ風ガ吹キ卷イテ通ルノデハナカラウカト思ハレル程モ、恐ロシク聞エ、又〔傍線〕引イテ放ス矢ガ澤山ニ飛ビ交フ〔五字傍線〕樣ハ、大雪ガ降ル〔三字傍線〕ヤウニ亂レ合ツテ來ルカラ、天子樣ニ對シテ〔七字傍線〕從ハズニ敵對シタ敵ドモ〔二字傍線〕モ、命ガ(露霜之)消エルナラバ消エヨト(213)命ヲ惜シマズニ、(去鳥乃)先ヲ爭ツテ攻メ寄セテ〔五字傍線〕來ル時ニ、丁度、伊勢ノ國ノ〔七字傍線〕渡會ニアル大廟カラシテ、神風ヲ吹カセナサツテ、ソ〔神風〜傍線〕ノ神風デ敵ヲ吹キ惑ハシ、天ノ雲ヲ起シテ〔三字傍線〕、太陽ノ姿モ見セヌヤウニ眞暗ニ蔽ヒカブセテ、敵ノ軍ヲ打チ破リ討チ平ゲテ、御平定遊バシタ、コノ日本ノ〔三字傍線〕水穗國ヲ、神ソノ物デイラセラレル天子樣ガ、大キク御構ヘナサツテ、御支配遊バスト、(八隅知之)吾ガ仰ギ奉ル高市皇子ガ、天下ノ政ヲ天皇ニ〔三字傍線〕申シアゲル役、即チ太政大臣トナリ〔ル役〜傍線〕給ウタ故、斯樣ニシテ皇子ハ〔八字傍線〕、萬代ノ後マデモオイデナサルコトト思ハレテ、(木綿花乃)繁昌シテイラセラレル時ニ、私ガ仰ギ奉ル高市〔二字傍線〕皇子ハ御薨去遊バシテ〔八字傍線〕、皇子ノ御所ハ神ノ宮殿トシテノ飾リ付ケヲシテ、今マデオ使ヒナサツタ御所ノ番人即チ舍人ラモ〔六字傍線〕、白イ麻ノ喪服ヲ着テ、埴安ノ御所ノ附近ノ〔三字傍線〕原ニ、(赤根刺)日ガ暮レルマデモ、終日〔二字傍線〕(鹿自物)這ヒ伏シテ居リ、(烏玉能)夕方ニナルト、皇子ノ〔三字傍線〕御殿ヲ遙ニ眺メテ、(鶉成)這ヒ廻ツテ悲シミナガラ、遙カニソノ宮ニ〔悲シ〜傍線〕奉仕スルケレドモ、悲シサニ堪ヘカネテ〔九字傍線〕、奉仕スルニモ堪ヘズ、(春鳥之)泣キ叫ンデ居ルト、コノ嘆キモ未ダ過ギ去ラナイウチニ、コノ悲シイ〔三字傍線〕心モ未ダ盡キナイウチニ、御葬式トナツテ、コノ宮ヲ出テ〔御葬〜傍線〕、(言佐敝久)百濟ノ原カラシテ、御遺骸ヲ城上ニ〔七字傍線〕神樣トシテ御葬送申シ上ゲテ、(朝毛吉)城ノ上ノオ墓ヲ、永久ニ更ラナイオ宮トシテ、オ定メニナツテ、神樣ノママニ此處ニ〔三字傍線〕オ鎭マリナサツタ。斯樣ニ高市皇子ハオ薨レニナリ城上ニ葬ラレナサツタガ〔斯樣〜傍線〕、私ガオ仕ヘシテヰル高市〔二字傍線〕皇子ガ、萬代マデモ住マウト思召シテ、作リ給ウタ彼ノ埴安ニアル〔五字傍線〕香具山ノオ宮ハ、萬代ノ後マデモ無クナラウト私ハ〔二字傍線〕思ハウカ、否々決シテ無クナルコトハナイト思フ。アア私ハコノ御所ヲ皇子ノオ形見ト思ツテ〔アア〜傍線〕、誠ニ畏イコトダガ、天ノ如ク遙カニ仰イデ見テ、皇子ヲ心ニ〔五字傍線〕カケテ思ヒ出シマセウ。アア、悲シイコトダ〔八字傍線〕。
 
○挂文《カケマクモ》――言久毛《イハマクモ》に對して用ゐられてゐる。心に掛けむもの意。○忌之伎鴨《ユユシキカモ》――憚多いことよの意。○明日香乃眞神之原爾《アスカノマガミノハラニ》――飛鳥の眞神の原は、飛鳥法興寺の地で鳥形《トリカタ》山の下である。崇唆紀に、「元年始作2法興寺1此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1」とある。天武天皇の御陵は式に檜隈大内陵とある。檜隈は飛鳥と接したところで、大内は眞神の一部なのであらう。○天津御門乎《アマツミカドヲ》――天皇皇子などの神去り給ふことを、天知らすなどと申すところから、陵を天津御門と言つたのである。○磐隱座《イハガクリマス》――岩戸の内に隱れ給ふこと、即ち葬られ給うたことを言つたもの。○背友乃國之《ソトモノクニノ》――背友は背面で、北をいふ。五二參照。大和から後の方にあるから、美濃國をかういつたのである。○眞木立《マキタツ》――不破山の枕詞。檜の生ひたるの意。○不破山越而《フハヤマコエテ》――不破山は美濃國不破郡、今の伊増峠のことで、伊勢から入つて、これを越えると、關ケ原に出られる。書紀によると、天武天皇は桑名に御滯在の後、高市皇子の御勸告によつて、美濃の野上の行宮に入り給ひ、其處から屡、和※[斬/足]へ行幸あつて、軍を見給うたのである。○狛劔――高麗の劔は頭に環があるから、高麗劔|環《ワ》とつづけて、和射見《ワザミ》の枕詞とした。ここに掲げたのは高麗劍の環頭式柄頭の一例で、上野國群馬郡倉賀野發掘のものである。狛の字を高麗に用ゐるに就いて、同文通考に、「狛與2高麗1訓同、狛音泊、獣名、按狛蓋貊之訛、貊國名三韓之屬」と見えてゐる。○和射見我原乃《ワザミガハラノ》――書紀に和※[斬/足]の字が用ゐてある。今の關ケ原の舊名。前述の如く行宮は野上にあつて、時々和※[斬/足]へ行幸せられたのであるが、簡單にかう詠んである。○安母理座而《アモリイマシテ》――アモリは天降の約。天皇の行幸を斯く申したのである。○鳥之鳴《トリガナク》――吾妻の枕詞。「鷄之鳴明《トリガナクアカ》とつづけたるにて、あづまといふも、本は吾妻《アガツマ》のがを略けるなれば、アカの意こもれるによつて、しかつづけしなり」とは、冠辭考の説であるが、鷄が鳴くよ吾が夫と、夫を起す妻の呼聲によつたのだといふ説が、專ら行はれてゐる。○御軍士乎《ミイクサヲ》――イクサは軍隊・兵卒の意。古事記の黄泉軍《ヨモツイクサ》や、卷六の千萬乃軍奈利友《チヨロヅノイクサナリトモ》(九七二)によると、これが本義らしい。〇千磐破《チハヤブル》――イチハヤブルの略。いち早き樣をなしてゐる意、惡く猛きといふ。○不奉仕《マツロハズ》――服從せざる意。○皇子隨《ミコナガラ》――皇子の御身分その儘での意。○大刀取帶之《タチトリハカシ》――刀を高市皇子が御身に着け給ふをいふ。ハカシをオバシとよむ説もあるが、大刀はハクといふのが常であるから、ハカシとよまう。○安騰毛(215)比賜《アトモヒタマヒ》――後《アト》に伴《トモナ》ふ意か。率ゐること。誘ふ意になることもある。○齊流《トトノフル》――呼び集める。○皷之音者《ツヅミノオトハ》――皷は軍皷で、大きなものであらう。ツヅミは古事記の建内宿禰の歌にもあるが、梵語|都曇《トドム》で、外來の樂器である。正倉院に陶製の皷胴を藏してゐる。○吹響流《フキナセル》――鳴らすを鳴《ナ》すといふ例が古言に多い。ここをフキトヨムルと新訓によんでゐるが、響の字は響苗爾《ナルナヘニ》(一〇八八)響神之《ナルカミノ》(一三六九)の如くナルとよんだ例もあるから、ここはフキナセルがよい。○小角乃音母《クダノオトモ》――天武紀に「十四年十一月癸卯朔丙午詔2四方(ノ)國1曰、大角《ハラ》、小角《クダ》、皷吹、幡旗及弩抛之類、不v應v存2私家1、」とある。その他軍防令・和名抄征戰具などにこの名が見えてゐるから、軍器として用ゐられたものと見える。和名抄には「小角、久太乃布江」とあつて角笛の小なるものである。○虎可※[口+立刀]吼登《トラカホユルト》――※[口+立刀]は叫に同じきか、古本皆この字を記してゐる。○恊流麻低爾《オビユルマデニ》――恊は脅に同じ。幡之靡者《ハタノナビキハ》――幡は軍旗である。野火に譬へてゐるので見ると、赤旗に違ひない。○三雪落《ミユキフル》――三は添へただけ。この句、冬の枕詞とも見得るが、實景の形容とした方が面白い。○一云|由布之林《ユフノハヤシニ》――布由の誤である。○飄可母《ツムジカモ》――飄は舊訓アラシであるが、神功皇后紀に、飄風をツムジカゼとよんでゐるし、神名帳、出雲國意宇郡|破夜都武自和氣《ハヤツムジワケ》神社を文徳實録に速飄別命《ハヤヅムジワケノミコト》としてゐるから、ツムジとよむべきである。○伊卷渡等《イマキワタルト》――伊は発語。○聞之恐久《キキノカシコク》――聞いて恐ろしくの意。聞は名詞である。○一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》――大雪乃亂而來禮《オホユキノミダレテキタレ》の異傳で、曾知余里久禮婆《ソチヨリクレバ》は其方より來ればであらうが、變な言ひ方である。○立向之毛《タチムカヒシモ》――立ち向ひし者もの意。○露霜之《ツユシモノ》――枕詞。露の如き物。既出(一三一)。○消者消倍久《ケナバケヌベク》――消えなば消えぬべくで、卷十一に朝霜消消念乍《アサシモノケナバケヌベクオモヒツツ》(二四五八)とあるも同じく、死ぬなら死ねよと、命を捨ててかかること。○去鳥乃《ユクトリノ》――枕詞。飛び行く鳥は先を爭ふものであるから、相競端爾《アラソフハシニ》とつづけたのである。○相競端爾《アラソフハシニ》――競ひ進む間にの意。端は間。間人をハシウドと卷一(三)に見えてゐた。端の字は初の意であるから、借字である。○渡會乃齋宮從《ワタラヒノイツキノミヤユ》――渡會は伊勢の郡名、齋宮は垂仁紀に、「隨2大神教1其祠立2於伊勢國1、因興2齋宮于五十鈴川上1」とある通りで、即ち大神宮のことである。齋王の宮ではない。○神風爾伊吹惑之《カムカゼニイブキマドハシ》――伊吹は息吹きで、風は科戸神の息を吹き給ふによつて起るといふ、古傳説から出た語である。天武天皇が伊勢大神宮に祈り給うて、神風を吹かせ給うたことは、書紀には見えない(216)が人麿が若い頃から聞いてゐたことであらう。○水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》――水穗は瑞々しき稻の穗で、吾が國に稻のよく稔り、地味肥沃なることを賞めた國名である。水田の穗と見るのは當らない。○神隨太敷座而《カムナガラフトシキマシテ》――神その儘の御方にておはします天皇が、大きくお構へ遊ばして御支配なさる意。神隨は上からの續きは天武天皇を申上げてゐるが、持統天皇を含めてある。太敷座而《フトシキマシテ》は、而の字は衍で、フトシキイマスであると古義には言つてゐるが、ここは分り切つたことは省略する態度で、簡單に續けて言つてゐるのだから、而の字は省くべきでない。○吾大王之《ワガオホキミノ》――高市皇子がの意。大王を天皇と見る説は惡い。○天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》――天下の政を執奏し給へばの意。この皇子は、持統天皇の四年七月から、草壁皇太子の薨後を受けて、太政大臣となられたのである。○木綿花能《ユフバナノ》――枕詞。木綿を以て造つた花は、散る時なく榮ゆるものだから、榮時爾《サカユルトキニ》に冠らせたのである。○吾大王皇子之御門乎《ワガオホキミミコノミカドヲ》――吾が大王なる高市皇子の御殿をの意。○神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》――神の宮として装ひ申しての意で、皇子の薨去によつて、今までの御殿を、神の在ます宮として、装を改めたことをいふ。卷十三の挽歌に、大殿矣振放見者白細布飾奉而《オホトノヲフリサケミレバシロタヘニカザリマツリテ》(三三二四)とあるので、その趣が想像される。○御門之人毛《ミカドノヒトモ》――主として舍人をさす。○埴安能御門之原爾《ハニヤスノミカドノハラニ》――皇子の御殿の前の野原で、埴安池に續いた所であらう。○赤根刺《アカネサス》――枕詞。二〇參照。○日之盡《ヒノコトゴト》――ヒノクルルマデといふ訓は惡い。○鹿自物《シシジモノ》――枕詞。自物《ジモノ》は、の如き物の意で。譬喩のやうであるが、眞の譬ではない。シシは肉。肉の美味なる鹿猪の類をもシシといふ。○伊波比伏管《イハヒフシツツ》――伊は發語。這ひ伏しつつ。○烏玉能《ヌバタマノ》――枕詞。既出。(八九)○鶉成《ウヅラナス》――枕詞。鶉の如くの意で、伊波比廻《イハヒモトホリ》につづく。○伊波比廻《イハヒモトホリ》――伊は發語、モトホルは字の如く、廻ること。○佐母良比不得者《サモラヒエネバ》――奉仕するに堪へざればの意。宣長は不得者を不得天の誤として、カネテとよんでゐるが、猥に文字を改むべきでない。○春鳥之《ハルトリノ》――枕詞。佐麻欲比《サマヨヒ》につづく。○佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》――サマヨフは呻吟。聲をあげて嘆くこと。○憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネバ》――悲しむ心も未だ盡きざるにの意。○言左敝久《コトサヘグ》――枕詞。百濟につづく、既出(一三五)。○百濟之原從《クダラノハラユ》――今の北葛城郡百濟村附近の野。東に曾我川(百濟川)、西に葛城川が流れ、二川合して廣瀬川となる。この二川に挾まれた細長い原野。○神葬《カムハフリ》――天皇皇子などの如く神となられた御方を葬るのであるから、神葬《カムハフリ》といふ。○朝毛吉《アサモヨシ》――枕詞。(217)既出(五五)○常宮等《トコミヤト》――永久の御宮、即ち御墓。○高之奉而《サダメマツリテ》――高之の二字は定の誤であらうといつた玉の小琴の説による。もとの儘では訓みやうがない。○吾大王之《ワガオホキミノ》――高市皇子。○香來山之宮《カグヤマノミヤ》――香具山の麓にあつた高市皇子の御殿を、斯く呼んだのである。○玉手次《タマダスキ》――枕詞。襷はかけるものであるから、懸而《カケテ》につづく。○懸而將偲《カケテシヌバム》――心に掛けて、なつかしく思ひ起さうといふ意である。
〔評〕 萬葉集中の第一の長篇で、また最も雄大崇嚴を極めた傑作である。獨り萬葉集のみならず、實に我が國文學史中の最大雄篇である。長さに於てはこれを凌ぐものに、續日本後紀に見えてゐる、興福寺大法師らが仁明天皇の四十の寶算を賀し奉つたものがあるけれども、徒らに冗長で、これとは到底比較にならぬものである。この篇は全體の結構が、如何にも堂々としてゐる。和射見が原に於ける戰闘を叙するあたりの、勇ましい活々とした譬喩と、語句の中に溢れてゐる雄壯な氣魄とは、目も眩むばかりである。一轉して高市皇子の薨去から、斂葬を述べる段になると、落膽と悲痛とに、身悶えしてゐる舍人の情態が、目に見えるやうにあはれに詠まれてゐる。最後に、切めて皇子の舊殿、香來山の宮を、記念として遙拜して、ありし日を偲び奉らむと結んで、敬慕の情を述べてゐるところ、實に整然たる組織である。冒頭から嚴かに説き起して、戰闘の有樣を叙べるあたりは、滔々たる大河が、岩に激し谿を搖がして、瀧つ瀬となつて落下する樣にも比すべく、薨去の悲哀を歌つてゐるところは、奔流忽ち藍を湛へて、緩かに囁き流れる淋しさにも比することが出來る。實に讀んでゐて、胸の廣くなるやうな、さうして感激に涙を催すやうな作品である。全篇中、殆ど語法の終止したところがなく唯一箇所、神隨安定座奴《カムナガラシヅマリマシヌ》に文法上の切目を作つてあるのも、この人獨特の面白い手法である。
 
短歌二首
 
200 ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らに 戀ひわたるかも
 
久堅之《ヒサカタノ》 天所知流《アメシラシヌル》 君故爾《キミユヱニ》 日月毛不知《ヒツキモシラニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
已ニコノ世ヲ去リ給ウテ〔已ニ〜傍線〕、(久堅之)天ヲ支配シテイラセラレル高市皇子ダノニ、私ハ〔二字傍線〕月日ノ經《タ》ツノモ知ラズニ、(218)歸ラヌ〔三字傍線〕君ヲ戀ヒ慕ツテ居リマスワイ。イクラ戀ヒテモ慕ツテモ、何ノ甲斐モナイモノヲ〔イク〜傍線〕。
 
○天所知流《アメシラシヌル》――皇子の神去り給ひしを言つたのである。○君政爾《キミユヱニ》――君だのにの意。○日月毛不知《ヒツキモシラニ》――月日の立つのも知らずにの意。日月を考にはツキヒと逆によんである。國語の熟語としては大體さうなつてゐるが、ここは文字通りに訓む方が寧ろ古意であらう。日月を、太陽と月のこととするのは惡い。
〔評〕 日月毛不知《ヒツキモシラニ》といふ誇張が面白い。天と日月との間に、縁語的技巧があるやうにも考へられないこともないが、恐らくそんなことはあるまい。
 
201 はにやすの 池の堤の 隱沼の 行方を知らに 舍人は惑ふ
 
埴安乃《ハニヤスノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》 去方乎不知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》
 
何方ヘ行ツテ身ヲ寄セタラヨイモノカ〔何方〜傍線〕、(埴安池之堤之隱沼之)行ク方ガ分ラナイノデ、舍人ドモハ惑ツテ居ル。
 
○埴安乃池之堤之隱沼之《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノ》――埴安の池の堤に接した隱沼の意で、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》の序詞。隱沼は水の流れない沼とする説もあるが、隈沼從裏戀者《コモリヌノシタユコフレバ》(二四四一)絶沼之下從者將戀《コモリヌノシタユハコヒム》(三〇二一)等、その他|下《シタ》とつづいた例が多いので見ると、草に蔽はれて、水の見えない沼とする説がよいやうである。埴安の池は水淺く、水草が生ひ茂り、堤近きところは特に隱沼になつてゐたのである。隱沼の水は何方へ流れ行くとも知られないので、去方乎不知《ユクヘヲシラニ》とつづけてある。埴安の池は香具山の麓にあつた池で、今、山の南方に香久山村大字南浦があつて、昔の名殘らしい地名をとどめてゐる。そこから山の西麓を廻つて隨分大きな池であつたのである。卷一の二の寫眞參照。○去方乎不知《ユクヘヲシラニ》――行くべき方向を知らずの意。つまり今後の身の振り方がわからず、途方にくれること。
〔評〕 埴安の御門の原に接した、埴安の池の實景を捉へて、途方に暮れた舍人の心境をよんだのが、この場合適切で、成程とうなづかしめる。
 
或書反歌一首
 
202 哭澤の もりにみわすゑ 祷れども わが大君は 高日知らしぬ
 
哭澤之《ナキサハノ》 神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》 雖祷祈《イノレドモ》 我王者《ワガオホキミハ》 高日所知奴《タカヒシラシヌ》
 
香具山ニアル〔六字傍線〕、哭澤女ヲ祭ツタ神社ニ、酒甕ヲ供ヘテオ祈リヲスルケレドモ、私ノ仰ギ奉ル高市皇子ハ、已ニオ薨レニナツテ天ヘ昇リ〔已ニ〜傍線〕、天ヲ御支配ナサツテ居ラレルカラ、何ノ甲斐モナイ。アア〔カラ〜傍線〕。
 
○哭澤之神社爾三輪須惠意《ナキサハノモリニミワスヱ》――哭澤之神社は古事記に、坐香山之畝尾木本名泣澤女神《カクヤマノウネヲノコノモトニマスナハナキサハメノカミ》とある神社で、伊邪那岐命の御涙から出來た神である。神社をモリといふのは、森には神が祭られてゐるからである。一六五の題詞の寫眞解説參照。三輪は、和名抄祭祀具に「日本紀私記云、神酒、和語云2美和1」とあつて、神酒をいふのである。神酒を甕に釀し神に供へるのを三輪須惠《ミワスヱ》といつたのだ。○雖祷祈《イノレドモ》――玉の小琴にコヒノメドとあるに從ふ説もある。祈の字|不祈日者無《ノマヌヒハナシ》(二六六〇)の如くノムとよんだ例もあるが、祈奈牟《コヒナム》(三七九)ともある。祷の字は神祇乞祷《カミニコヒノミ》(四四三)祷豐御酒爾《ホグトヨミキニ》(九八九)の例もあるが、和禮波雖祷《ワレハイノレド》(四二三六)神乎祷迹《カミヲイノレド》(三三〇六)に、イノルと訓んでゐる。この歌で祷祈の二字を重ねて記したのは、齋祈者歟《イハハバカ》(一七八四)と同じく、上の文字を主としてよむべきもので、イノレドモが最もよいやうに思はれる。○高日所知奴《タカヒシラシヌ》――前に天所知流《アメシラシヌル》とあつたのと同樣で、薨去遊ばしたことを言つたもの。檜嬬手に日の下に不の字を補つて、タカヒシラサヌとしたのは亂暴である。
〔評〕 皇子の御病中、香具山の宮に近い哭澤の杜に御全癒を祈つたのが、空しかつた悲しみを歌つたもので、神酒の甕をすゑて祈るのは、かなり鄭重な奉賽の形式であつたらうに、それが報いられなかつたのは、眞にあはれに思はれる。
 
右一首類聚歌林曰、檜隈女王、怨(ム)2泣澤神社(ヲ)1之歌也、案(スルニ)2日本紀(ヲ)1曰、持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨、
 
檜隈女王は續日本紀に「天平九年二月、授2從四位下檜前王從四位上1」とある御方か。美夫君志に高市皇(220)子の御妃なるべしとある。持統天皇の四字は、後に書き添へたものであらう。後皇子尊は草壁皇子尊に對して、高市皇子をかく申したのである。
 
但馬皇女薨後、穗積皇子冬日雪落(リ)遙(ニ)望(ミ)2御墓(ヲ)1、悲傷流(シテ)v涕(ヲ)御作歌一首
 
元明紀「和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也」とあり。穗積皇子は天武天皇の第五皇子。この皇女と皇子と密かに通ぜられたことは、一一四以下三首に見えてゐる。この歌は、年代順に從ふならば、次の弓削皇子薨時云々の歌の次に入るべきである。
 
203 零る雪は あはにな降りそ 吉隱の 猪養の岡の 塞なさまくに
 
零雪者《フルユキハ》 安幡爾勿落《アハニナフリソ》 吉隱之《ヨナバリノ》 猪養乃岡之《ヰガヒノヲカノ》 塞爲卷爾《セキナサマクニ》
 
降ル雪ハ澤山ニ降ルナヨ、但馬皇女ノオ墓ガアル〔但馬〜傍線〕吉隱ノ里ノ猪養ノ岡ヘ行ク道〔四字傍線〕ガ塞キ止マツテ了フダラウカラ。オ墓ヘ通フ道モナクナルカラ雪ヨ、ヒドク降ルナ〔雪ヨ〜傍線〕。
 
○安幡爾勿落《アハニナフリソ》――安幡《アハ》について種々の説がある。地名とするもの。深雪を近江淺井郡あたりで、アハといふから、深い雪であるとする説。同じく近江彦根で、なだれをアハといふから、それだらうといふ説。アハはサハと同じで、多くの意であらうとする説等に分れてゐるが、最後に擧げた、サハに同じとする説がよいやうに思ふ。○吉隱之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》――吉隱は大和磯城郡で、今の初瀬町の東一里にある。大和志城上部に「猪飼山在2吉隱村上方1。持統紀曰、九年十月、幸2菟田吉隱1、即此今隷2本郡1、其野曰2浪芝野1」とあつて、春日宮天皇妃陵も此處にあるから、但馬皇女の御墓もこの邊にあるのであらう。○塞爲卷爾《セキナサマクニ》――猪養の岡が雪に埋れて、關となつて通へないであらうから、といふ意である。考のやうにセキナラマクニと訓んでは、意がよく通じない。金澤本だけは、塞が寒になつてゐる。これによつて爲を有と改めて、サムカラマクニと新訓にあるが、文字を改め過ぎるから從はない。
〔評〕 題詞に遙望御墓とあるので見ると、雪の盛に降つてゐる日に、皇女の御墓のあたりを、御在所からお眺め(221)になつて、お詠みになつたのである。雪によつて御墓への通路が塞がれるのを恐れられたお心は、實にあはれである。
 
弓削《ユゲ》皇子薨時、置始《オキソメ》東人歌一首并短歌
 
續紀に「文武天皇三年秋七月癸酉淨廣貳弓削皇子薨云々、皇子天武天皇之第六皇子也」とある。置始東人は傳未詳。
 
204 やすみしし わが王 高光る 日の皇子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神といませば そこをしも あやにかしこみ 晝はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも
 
安見知之《ヤスミシシ》 吾王《ワガオホキミ》 高光《タカヒカル》 日之皇子《ヒノミコ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天宮爾《アマツミヤニ》 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》 其乎霜《ソコヲシモ》 文爾恐美《アヤニカシコミ》 晝波毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 夜羽毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 臥居雖嘆《フシヰナゲケド》 飽不足香裳《アキタラヌカモ》
 
(安見知之)私ノ仰キ奉ル王(高光)日ノ皇子タル弓削皇子樣ハオ薨レ遊バシテ〔弓削〜傍線〕、(久堅乃)天ノ御宮ニ、神樣ノママニ、神樣トシテイラセラレルト、カヤウニ皇子ガコノ世ヲ去リ給ウタコト〔皇子〜傍線〕ガ、怪シキマデニ私ハ〔二字傍線〕悲シイノデ、晝ハ終日、夜ハ終夜、臥シタリ座ツタリ、始終〔二字傍線〕嘆イテヰルケレドモ、悲シクテコノ悲シミノ〔悲シ〜傍線〕心ヲ晴ラスコトガ出來ナイワイ。噫〔傍線〕。
 
○安見知之吾王高光日之皇子《ヤスミシシワガオホキミタカヒカルヒノミコ》――これは天皇を申し奉るのを常としてゐるが、皇子を申した例もある。ここは弓削皇子を申し奉つたのである。○天宮爾神隨神等座者《アマツミヤニカムナガラカミトイマセバ》――これは皇子の薨去を言つたのである。○其乎霜《ソコヲシモ》――ソコは普通場所を指す代名詞であるが、これはソレといふのと同じデ、前に所己乎之毛綾爾憐《ソコヲシモアヤニカナシビ》(一九六)其故《ソコユヱ》(一九六)とあつたのと同樣である。
〔評〕 人麿の作中の句を少しづつ頂戴して、小さい長歌を作つたまでで、作者の特色は少しも見えてゐない。
 
(222)反歌一首
 
205 王は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隱りたまひぬ
 
王者《オホキミハ》 神西座者《カミニシマセバ》 天雲之《アマグモノ》 五百重之下爾《イホヘガシタニ》 隱賜奴《カクリタマヒヌ》
 
弓削ノ〔三字傍線〕皇子ハ神樣デイラツシヤルカラ、天ヘ御上リナサレテ〔九字傍線〕、天ノ雲ノ澤山ニ重ツタ内ニ、オ隱レ遊バシタ。普通ノ人間トハ違ツタモノダ〔普通〜傍線〕。
 
○天雲之五百重之下爾《アマクモノイホヘガシタニ》――考に五百重之上爾の誤としたのは惡い。下は裏《ウチ》と同じで、天の雲の幾重にも重なつた中にの意である。
〔評〕 これは誠に堂々たる佳作である。けれどもこれも卷三の冐頭に出てゐる人麿の、皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカヅチノウヘニイホリセルカモ》(二三五)と同じく、或本の王神座者雲隱伊加土山爾宮敷座《オホキミハカミニシマセバクモカクルイカヅチヤマニミヤシキイマス》。或は皇者神爾之生者眞木之立荒山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセバマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》(二四一)の類と照合すると、これも亦人麿の模傚と言はねばならぬ。
 
又短歌一首
 
206 さざなみの 志賀さざれ波 しくしくに 常にと君が 念ほせりける
 
神樂波之《サザナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》 敷布爾《シクシクニ》 常丹跡君之《ツネニトキミガ》 所念有計類《オモホセリケル》
 
(神樂波之志賀左射禮浪)何時モ何時モ、常ニ變ルコトナク、コノ世ニ榮エテ坐スモノト〔コノ〜傍線〕、貴方ハ何時モ思ツテ居ラレマシタ。ソレダノニ早クオ亡クナリニナツテシマヒマシタ〔ソレ〜傍線〕。
 
○神樂波之志賀左射禮浪《サザナミノシガサザレナミ》――敷布爾《シクシクニ》とつづく序詞。近江のさざ浪の志賀の浦わに打寄せる漣は、絶え間も無いものであるから、敷布《シクシク》とつづけた。敷布《シクシク》は頻りに、繁《シゲ》くなどと同語である。敷布爾《シクシクニ》から所念有計類《オモホセリケル》につづいてゐる。○常丹跡《ツネニト》――常に變ることなく、永久に生きておはすものとの意。
(223)〔評〕 敷布爾《シクシクニ》の序詞に、近江の景物を持つて來たのは、何か理由のあつたことであらう。ササナミノ……サザレナミといふ同音語の繰返も、偶然ではあるまい。もしさうとすると、かなり工夫ある歌であるが、その割合に感情が籠つてゐない。
 
柿本朝臣人麿妻死之後、泣血哀慟(シテ)作(レル)歌二首并短歌
 
この人麿の妻は輕に住んでゐた女である。考には柿本人麿竊所通娘子死之時悲傷作歌としてゐるが、つまらぬさかしらである。人目を忍んで通ふやうなものも、矢張妻である。若い間は大體かうした状態で、夫婦の間は經過して行くのが常である。泣血は血の涙を流して泣くこと。支那風の熟語であるが、中古からは、歌の中にもこの趣が多くよまれてゐる。この二首の長歌によまれた人麿の妻は、題詞の書き方から見ると同一人のやうであるが、内容から見ると、どうもさうは思はれない。前のは忍んで通つてゐたので、後のは同棲して子までなした中である。
 
207 天飛ぶや 輕の路は 吾妹子が 里にしあれば ねもごろに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さねかづら 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵の こもりのみ 戀ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるが如 照る月の 雲隱る如 奧つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 おとに聞きて 一云、おとのみ聞きて 言はむ術 爲むすべ知らに おとのみを 聞きてあり得ねば 吾が戀ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば 玉襷 畝火の山に 喧く鳥の 聲も聞えず 玉桙の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚びて 袖ぞ振りつる 或本、名のみ聞きてあり得ねばといへる句あり
 
天飛也《アマトブヤ》 輕路者《カルノミチハ》 吾妹兒之《ワキモコガ》 里爾思有者《サトニシアレバ》 懃《ネモゴロニ》 欲見騰《ミマクホシケド》 不止行者《ヤマズユカバ》 人目乎多見《ヒトメヲオホミ》 眞根久往者《マネクユカバ》 人應知見《ヒトシリヌベミ》 狹根葛《サネカヅラ》 後毛將相等《ノチモアハムト》 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 玉蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキフチノ》 隱耳《コモリノミ》 戀管在爾《コヒツツアルニ》 度日之《ワタルヒノ》 晩去之如《クレヌルガゴト》 照月乃《テルツキノ》 雲隱如《クモガクルゴト》 奧津藻之《オキツモノ》 名延之妹者《ナビキシイモハ》 黄葉乃《モミヂバノ》 過伊去等《スギテイニキト》 玉梓之《タマヅサノ》 使乃言者《ツカヒノイヘバ》 梓弓《アヅサユミ》 聲爾聞而《オトニキキテ》【一云|聲耳聞而《オトノミキキテ》】 將言爲便《イハムスベ》 世武爲便不知爾《セムスベシラニ》 聲耳乎《オトノミヲ》 聞而有不得者《キキテアリエネバ》 吾戀《ワガコフル》 千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》 遣悶流《ナグサムル》 情毛有八等《ココロモアリヤト》 吾妹子之《ワギモコガ》 不止出見之《ヤマズイデミシ》 輕市爾《カルノイチニ》 吾立聞者《ワガタチキケバ》 玉手次《タマダスキ》 畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》 喧鳥之《ナクトリノ》 (224)音母不所聞《コヱモキコエズ》 玉桙《タマボコノ》 道行人毛《ミチユクヒトモ》 獨谷《ヒトリダニ》 似之不去者《ニテシユカネバ》 爲便乎無見《スベヲナミ》 妹之名喚而《イモガナヨビテ》 袖曾振鶴《ソデゾフリツル》
 
(天飛也)輕ノ街道ハ、私ノ妻ノ家ノアル里デアルカラシテ、私ハ輕ヘ行ツテ〔七字傍線〕、能ク能ク見タイノダケレドモ、始終行ツタナラバ、人ニ見ラレルコトガ多イカラ、又頻リニ往ツテハ、人ガ知ルダラウカラ、ソノ爲評判サレルノガ辛ラサニ〔ソノ〜傍線〕、(狹根葛)後ニモ亦逢ハウト、(大船之)思ツテ當テニシテ、(玉蜻)磐ニ四方ヲ圍マレタ淵ノヤウニ、人ニハ分ラズ〔六字傍線〕、心ノ中デバカリ戀ヒ慕ツテ居ツタノニ、丁度空ヲ〔四字傍線〕通ル太陽ガ、夕方ニナツテ西ノ山ニ〔四字傍線〕隱レタヤウニ、或ハ又空ニ照〔五字傍線〕ツテヰル月ガ、雲ニ隱レタヤウニ、(奧津藻之)横ニナツテ一緒ニ寢タ妻ハ、(黄葉乃)死ンデコノ世ヲ〔四字傍線〕去ツテシマツタト、(玉梓之)使ノ人ガ知ラセニ來テ〔六字傍線〕言ツタカラ、(梓弓)音信ヲ聞イテ悲シサニ〔四字傍線〕、何ト言ツタモノヤラ、ドウシタモノヤラ仕樣ガナク、コノ音信バカリヲ聞イテ、落付イテヰルコトガ出來ナイカラ、私ガ戀ヒ慕フ千分ノ一デモ、心ガ慰ムカト思ツテ、切メテ〔三字傍線〕吾ガ妻ガ常ニ出テ、私ノ來ルノヲ〔六字傍線〕見タ輕ノ市ニ、私ガ立ツテ聞イテヰルト、亡キ妻ノ〔四字傍線〕(玉手次畝火乃山爾喧鳥之)聲モ聞エナイシ、(玉桙)道ヲ歩イテヰル人モ、唯ノ一人モ妻ニ〔二字傍線〕似テ居ルモノガ通ラナイカラ、悲シサ戀シサニ〔七字傍線〕、爲方ガナクテ、妻ノ名前ヲ呼ンデ、私ノ着物ノ〔五字傍線〕袖ヲ振ツタヨ。
 
○天飛也《アマトブヤ》――枕詞、天を飛ぶ雁の意で、輕の地名に言ひかけたのである。○輕路者《カルノミチハ》――輕の街道。輕は高市白橿村の東部で、大字、大輕・和田・石川・五條野あたりを總稱したものらしい。輕の市といふ市場もあつたのである。○懃《ネモゴロニ》――今の懇にと同じで、丁寧・親切などの意である。○眞根久往者《マネクユカバ》――頻りに往かばの意。但し間無くの意ではない。○人應知見《ヒトシリヌベミ》――人が知るであらうから。ベミは、べき故にの意。○狹根葛《サネカヅラ》――枕詞。葛は(225)長く別れて延び這ふけれども、後にまた逢ふものであるからである。狹根葛《サネカヅラ》とあるも同じ。九四參照。○大船之《オホブネノ》――枕詞。一六七參照。○玉蜻《タマカギル》――枕詞。舊訓はカゲロフであつたが、考以來カギロヒとすることになつた。併しこれは鹿持雅澄の玉蜻考に委く論じたやうに、タマカギルとよむべきである。蜻はカギロフであるから、フを省き、ロをルに轉じて、カギルとよんだのであらう。この枕詞の用例は、この歌に磐垣淵につづいた外、珠蜻|髣髴谷裳《ホノカニダニモ》(二一〇)・玉蜻|夕去來者《ユフサリクレバ》(一八一六)・玉蜻|直人目耳《タダヒトメノミ》(二三二)といふやうなもので、その意は明瞭でないが、恐らく玉カギルは玉の輝くことで、玉の光の如く輝く意にて、夕の枕詞とし、玉の光の柔かなる意で髣髴《ホノカ》とつづけ、轉じて直一目のみ見るにも用ゐたのであらう。磐垣淵につづくのは、玉は淵にあるから、玉の輝く淵とつづけたといふ正辭の説に從つて置かう。四五の玉限の解參照。○磐垣淵之《イハガキフチノ》――谷川などの、磐で圍れた淵をいふ。この句は次の隱《コモリ》の譬喩である。○黄葉乃《モミヂバノ》――枕詞。黄葉は落ち散るのが早いから、過《スギ》ての上に冠らせたのである。○過伊去等《スギテイニキト》――考にイニシとよんだのはよくない。イユキと文法通りで差支ないところだ。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。宣長は、上代には梓の木に玉を著けたのを、使のしるしに持つてあるいたから、玉梓の使とつづくことになつたのだらうと言つてゐる。何となく受取難い説であるが、他に良説と思はれるものもないから、まづそれに從ふことにする。○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。弓の聲《オト》とつづく。○遣悶流情毛有八等《ナグサムルココロモアリヤト》――遣悶は吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡《ワガコフリチヘノヒトヘモナグサムルココロモアリヤト》(五〇九)とある通り、ナグサムルとよむべきである。ナグサモルの訓もあるがよくない。情毛有八等《ココロモアリヤト》を、アレヤと宣長はよんだが、アリヤがよいやうに思はれる。アレヨの意ではなく、アルカの意である。○玉手次《タマダスキ》――畝火乃山の枕詞。二九參照。玉手次畝火乃山爾喧鳥之《タマダスキウネビノヤマニナクトリノ》は、音母不所聞《コヱモキコエズ》の序である。輕の市は畝傍山の東南近くにあるが、鳥の聲が聞える所ではあるまい。これは眼前に見える畝傍山をとつて、聲といはむが爲に、喧鳥之を置いたまでである。○音母不所聞《コヱモキコエズ》――上に梓弓聲爾聞而《アヅサユミオトニキキテ》とあるやうに、聲と音とは通じて用ゐる字である。これをオトモキコヱズとよむのは惡い。○玉桙《タマボコノ》――枕詞。既出(七九)。
〔評〕 相語らつて久しからず、人目を忍んで稀の遭ふ瀬を樂んでゐた女が、突如として死んで了つたその驚愕、その報知に接して矢も楯もたまらず、妻の里なる輕の市の、雜閙の中に混つて、妻を偲ぶよすがもがなと思つ(226)たが、妻らしい聲も聞えず、似た女も通らない。仕方がなくて妻の名をよんで袖を振つた、その思慕の情と、涙にぬれて走り廻つた樣が目に見えるやうである。純情の人でなくては、かうした作は出來難い。妹之名喚而袖曾振鶴《イモガナヨビテソデゾフリツル》は感情の高潮がよくあらはれた句で、前の一三一の靡此山《ナビケコノヤマ》に似た手法である。
 
或本、有(リ)2謂(ル)之|名耳聞而有不得者《ナノミキキテアリエネバノ》句1
 
これは或本に聲耳乎聞而有不得者《オトノミヲキキテアリエネバ》の下に、名耳聞而有不得者《ナノミキキテアリエネバ》の句があるといふのである。略解に謂之の二宇は衍かといつてゐる。
 
短歌二首
 
208 秋山の 紅葉を茂み 迷ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも 一云、路知らずして
 
秋山之《アキヤマノ》 黄葉乎茂《モミヂヲシケミ》 迷流《マドヒヌル》 妹乎將求《イモヲモトメム》 山道不知母《ヤマヂシラズモ》【一云|路不知而《ミチシラズシテ》】
 
秋ノ山ノ、紅葉ガ澤山ニ茂ツテヰルノデ、紅葉見ニ行ツテ〔七字傍線〕、迷ヒ込ンヂ了ツテ、歸ツテ來ナイ私ノ〔九字傍線〕妻ヲ捜サウト思フケレドモ、山ノ道ガ不案内デ、行クコトガ出來ナイヨ〔デ行〜傍線〕。
 
○迷流《マドヒヌル》――舊訓マドヒヌルであるのを、考にマドハセル、※[手偏+君]解にマヨヒヌル、檜嬬手にサドハセルとしたのは、皆惡い。迷は如是迷有者《カクマドヘレバ》(一七三八)・思迷匍匐《オモヒマドハヒ》(一八〇四)など、皆マドフとよむ字であるから、舊訓のままがよい。山に葬られたのを、山路に迷つて歸らぬやうに言つたのである。卷七に秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而入西妹者待不來《アキヤマノモミヂアハレミウラブレテイリニシイモハマテドキマサズ》(一四〇九)とあるのは、同じやうな考である。
〔評〕 妻の死んだのを、秋山の黄葉を見に行つたまま歸らぬやうに言つたのは、死といふ語を嫌つて、過ぎるといつたり、隱れるといつたりした古代人としては、尤な言ひ方で、これによつて言葉が美的になり、しかも山道不知母《ヤマヂシラズモ》に悲しいこころは充分あらはされてゐる。
 
209 もみぢ葉の 落りぬるなべに 玉梓の 使を見れば 逢ひし日念ほゆ
 
(227)黄葉之《モミヂバノ》 落去奈倍爾《チリヌルナベニ》 玉梓之《タマヅサノ》 使乎見者《ツカヒヲミレバ》 相日所念《アヒシヒオモホユ》
 
紅葉ガ散ルノニツレテ、妻ノ家カラ妻ガ死ンダト云フ報知ノ〔妻ノ〜傍線〕、(玉梓之)使ガ來タノヲ見ルト、妻ト曾ツテ〔五字傍線〕逢ツタ日モ、斯樣ニ紅葉ガ散ツテヰタモノヲト過ギ去ツタソノ日〔モ斯〜傍線〕ノコトガ思ヒ出サレテ悲シイ〔三字傍線〕。
 
○相日所念《アヒシヒオモホユ》――考にアヘルヒオモホユとあるが、舊訓の如くアヒシヒとよむべきである。
〔評〕 長歌の中の句を再び用ゐたやうに見えるが、長歌では黄葉乃は唯枕詞であつたのに、これは晩秋の景を叙べて、過去を追憶し、故人を悲しむ情があらはされてゐる。情と景と融合し、いたましい律動をなしてゐる。
 
210 現身と 念ひし時に 一云、うつそみと思ひし たづさへて 吾が二人見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 念へりし 妹にはあれど 憑めりし 兒らにはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 然ゆる荒野に 白妙の 天領巾隱り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隱りにしかば 吾妹子が 形見に置ける みどり兒の 乞ひ泣く毎に 取り與ふ 物し無ければ 男じもの 腋ばさみ持ち 吾妹子と 二人吾が寢し 枕づく 嬬屋の内に 晝はも うらさび暮し 夜はも 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 戀ふれども 逢ふよしを無み 大鳥の 羽易の山に 吾が戀ふる 妹は坐すと 人の言へば 石根さくみて なづみ來し よけくもぞなき うつせみと 念ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば
 
打蝉等《ウツセミト》 念之時爾《オモヒシトキニ》【一云|宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》 取持而《タヅサヘテ》 吾二人見之《ワガフタリミシ》 ※[走+多]出之《ハシリデノ》 堤爾立有《ツツミニタテル》 槻木之《ツキノキノ》 己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》 春葉之《ハルノハノ》 茂之知久《シゲキガゴトク》 念有之《オモヘリシ》 妹者雖有《イモニハアレド》 憑有之《タノメリシ》 兒等爾者雖有《コラニハアレド》 世間乎《ヨノナカヲ》 背之不得者《ソムキシエネバ》 蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラノニ》 白妙之《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》 入日成《イリヒナス》 隱去之鹿齒《カクリニシカバ》 吾妹子之《ワギモコガ》 形見爾置《カタミニオケル》 若兒乃《ミドリコノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》 取與《トリアタフ》 物之無者《モノシナケレバ》 鳥穗自物《ヲトコジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》 吾妹子與《ワキモコト》 二人吾宿之《フタリワガネシ》 枕付《マクラツク》 嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》 晝羽裳《ヒルハモ》 浦不樂晩之《ウラサビクラシ》 夜者裳《ヨルハモ》 氣衝明之《イキヅキアカシ》 嘆友《ナゲケドモ》 世武爲便不知爾《セムスベシラニ》 戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》 大鳥《オホトリノ》 羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》 吾戀流《ワガコフル》 妹者伊座等《イモハイマスト》 人之云者《ヒトノイヘバ》 石根左(228)久見手《イハネサクミテ》 名積來之《ナヅミコシ》 吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》 打蝉跡《ウツセミト》 念之妹之《オモヒシイモガ》 珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》 不見思者《ミエヌオモヘバ》
 
私ノ妻ガ〔四字傍線〕生キテ居タ時ニ、手ヲ取リ合ツテ、私ガ妻ト〔三字傍点〕二人デ見タ、門ノ近所ノ堤ニ立ツテヰル槻ノ木ノ、アチラノ枝コチラノ枝ノ、春ノ葉ガ澤山ニ繁ツテヰルヤウニ、非常ニ可愛ト思ツテヰタ妻デハアルガ、憑ミニ思ツテ居ツタ女デハアルケレドモ、生者必滅ノ〔五字傍線〕世ノ中ノ道理カラ外レラレナイカラ、ハカナクモ死ンデ了ツテ〔ハカ〜傍線〕、陽炎ガ立ツ廣イ荒レハテタ野原ニ、葬列ノ〔三字傍線〕白イ旗ノ蔭ニカクレテ、(鳥自物)朝立ツテ出掛ケテ、(入日成)隱レテ了ツテ野邊ニ葬ラレ〔テ野〜傍線〕タカラ、吾ノ亡キ〔二字傍線〕妻ガ、形見トシテ殘シテ置イタ赤兒ガ、物ヲ欲シガツテ泣ク度ニ、何モ〔二字傍線〕取ツテ與ヘルモノガナイノデ、私ハ〔二字傍線〕男ダノニ女ノヤウニ〔五字傍線〕、子供ヲ腋ニ挾ンデ抱ヘテ、私ノ妻ト二人デ私ガ寢タ(枕付)閨ノ内ニ、晝ハサア終日〔二字傍線〕心淋シイ日ヲ暮シ、夜ハサア終夜〔二字傍線〕呻キ嘆イテ夜ヲ明シテ、嘆キ悲シムケレドモ、別ニ〔二字傍線〕何トモ仕樣ガナク、イクラ妻ヲ〔五字傍線〕戀ヒ慕ツテモ妻ト〔二字傍線〕逢フ方法ガナイノデ、(大鳥)羽易ノ山ニ、私ガ戀ヒ慕ツテヰル妻ハ居ルト、或ル人ガ言フノデ、ソノ羽易ノ山ニ〔七字傍線〕岩根ヲ蹈ミ裂イテ、ドシドシト石ヲ蹈ミツケテ〔ドシ〜傍線〕、難儀ヲシテ尋ネテ〔三字傍線〕來タケレドモ、生キテ居タアノ私ノ妻ガ(珠蜻)ボンヤリトデモ見エナイカラ、何ノヨイコトモナイヨ。
 
○打蝉等念之時爾《ウツセミトオモヒシトキニ》――打蝉は現し身、即ち生きてゐる身をいふ。念之時爾《オモヒシトキニ》の念之は輕く用ゐたので、現身なりし時の意である。○一云|宇都曾臣等《ウツソミト》――これもウツセミに同じ。○取持而《タヅサヘテ》――舊訓トリモチテとあるに從ふ説もあるが、さうよむならば、乎とおふ語がなくては、落つきが惡い。義を以て記したもので、タヅサヘテとよむべきであらう。○※[走+多]出之《ハシリデノ》――家から走り出た近い所にある意。雄略記に和斯里底能與盧斯企野磨能《ワシリデノヨロシキヤマノ》とあるによ(229)つて、これをワシリデとよまうとする説もある。○槻木之《ツキノキノ》――欅の一種で、葉の鋸齒深く、葉裏と葉柄とに毛がある。つきげやきともいふ。字鏡に※[木+觀]の木を用ゐてゐる。○己知碁智之枝之《コチゴチノエノ》――彼方此方《アチコチ》の枝のの意。卷三に奈麻余美乃甲斐乃國打縁流駿河能國與己知其智乃國之三中從《ナマヨミノカヒノクニウチヨスルスルガノクニトコチゴチノクニノミナカユ》(三一九)とあるも同じだ。○兒等爾者雖有《コラニハアレド》――兒等は妻をさす。等は添へていつたもの。○世間乎背之不得者《ヨノナカヲソムキシエネバ》――世間の無常から免れられないからの意。○蜻火之《カギロヒノ》――このカギロヒは陽炎である。日光に照らされて、野原などに水蒸氣のちらつき見えるもの。蜻をカギロとよむのは蜻蛉をカゲロフといふを借りたのである。○白妙之《シロタヘノ》――白栲に同じ。白い布をいふ。これを領巾《ヒレ》の枕詞と見る説は當らない。○天領巾隱《アマヒレガクリ》――領巾は女の肩にかける細布であるが、天領巾といつて葬送の旗をさしたのである。葬送は天に隱れるものとして天領巾隱といつたのである。卷十に秋風吹漂蕩白雲者織女之天津領巾毳《アキカゼノフキタダヨハスシラクモハタナバタツメノアマツヒレカモ》(二〇四一)とあるによつて、白雲とする契沖・眞淵の説は、想像と實際の物との間に區別を立てないもので、甚しい誤解であり、古義に柩の周圍に立てる歩障だとあるが、これも隱りといふ語に囚はれてゐるやうである。守部が天蓋だといつたのも天領巾の天《アマ》に囚はれたもので、領巾といふ語からして、どうしても旗でなくてはならぬと思はれる。○鳥自物《トリジモノ》――鳥のごときもの、即ち鳥の如くの意であるが、これは朝立の枕詞とするがよい。○入日成《イリヒナス》――入日の如くの意。これも隱と言はむ爲の枕詞とするがよい。○若兒乃《ミドリコノ》――次の或本歌に、緑兒之とあるのと同じに見て、ミドリコノとよむべきであらう。緑兒之《ミドリコノ》(二九二五)・彌騰里兒能《ミドリコノ》(四一二二)などの例がある。但し齊明紀に于都倶之枳柯餓倭柯枳古弘《ウツクシキワガワカキコヲ》とあり、卷十七にも伊母毛勢母和可伎兒等毛波《イモモセモワカキコドモハ》(三九六二)とあるによれば、ワカキコノとよむもよいやうであるが、此處は、尚、ミドリコノとよみたいやうに思ふ。みどり兒は、みづみづしく、若々しい兒の意で、後世の赤兒といふに同じである。○乞泣毎《コヒナクゴトニ》――物を乞ひて泣く毎にの意。○取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》――取與ふ物とは食物をいふやうである。但し或本|取委《トリマカス》とあるによれば、玩弄物である。○鳥穗自物《ヲトコジモノ》――鳥穗を考に鳥徳の誤としたのはよい。次の或本に、男自物《ヲトコジモノ》とある。男なるにの意。○枕付《マクラツク》――枕詞。嬬屋につづくのは、夫婦枕を並べ付けて、寢るからである。○嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》――嬬屋は夫婦の閨である。端《ツマ》にあるから名づけたといふ説はとるに足らぬ。○浦不樂晩之《ウラサビクラシ》――ウラは心である。心淋しく暮しの意。(230)○大鳥《オホトリノ》――枕詞。羽易の山につづけたのは、翼《ハガヒ》にかけたのである。大鳥は大きな鳥の意で、鳥の名ではあるまい。○羽易乃山爾《ハガヒノヤマニ》――卷十に春日有羽易之山從《カスガナルハガヒノヤマユ》(一八二七)とあるから、春日山つづきの、どの山かに違ひない。これを今の若草山にあてる説が多いやうだ。但し春日では、次の短歌に衾路乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》とあると一致しない。猶研究を要する。○石根左久見手《イハネサクミテ》――石を踏み分けての意。サクムといふ動詞は、裂くにムを附して活かしめたものであらう。この語について種々の説があるが、多くは牽強である。○名積來之《ナヅミコシ》――なづむは惱むこと、苦しむこと。○吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》――良いこともない、即ち來た甲斐もないといふのである。この句をヨクモゾナキとも訓めぬこともないが、安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》(九〇四)の如き例もあるから、やはりヨケクモゾナキと七音によむべきであらう。寶永版一本、寸を有に作るは誤。○珠蜻《タマカギル》――枕詞。二〇七參照。○髣髴谷裳《ホノカニダニモ》――ホノカは、ほんのりと、幽かにの意。幽かにすらも少しも見えないのを嘆いたのである。
〔評〕 人麿の長歌の常用手段である、遠き開闢の昔から説き起したり、長々しい序を置いたりするものと違つて、これは短刀直入的に、妻に對する愛を歌つて、直ちにその死を述べ、形見の子を持ち惱むを悲しみ、切めて墓參に心を慰めむとしたが、その甲斐も無い憂苦煩悶の情が、強くあはれに詠ぜられて、同情の涙禁ずる能はざるものがある。二人の交情の濃かなるを、走出の堤の槻の枝の春の葉の茂きに譬へたのは、實に柔かい感じの佳い句であり、赤兒に泣かれてその子を脇に挾んで、閨の内をうろつく姿は、實に目に見えるやうである。結末の數句も誠に物哀れである。よく引緊つてたるみのない作で、全篇これ涙の聲と言つてもよい歌である。
 
短歌二首
 
211 去年見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる
 
去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》 雖照《テラセレド》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 彌年放《イヤトシサカル》
 
去年見タ、秋ノ月ハ今年モ同ジヤウニ〔八字傍線〕照ラシテヰルガ、私ガ親シクシテヰタ亡キ〔二字傍線〕妻ハ、イヨイヨ年ガ距ツテ別レテカラモウ一年ニナツ〔テ別〜傍線〕タヨ。嗚呼アノ月ノヤウニ又見ラレルモノダトヨイニ〔嗚呼〜傍線〕。
(231)〔評〕 亡妻の死後翌年の秋によんだ歌である。去年のままの秋の月を眺めて、愁傷更に新なるものがあり、滂沱たる悲涙に咽んでよんだこの歌が、悲しい調べをなしてゐるのは當然であらう。人の涙をさそふ哀調。
 
212 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし
 
衾道乎《フスマヂヲ》 引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》 妹乎置而《イモヲオキテ》 山徑往者《ヤマヂヲユケバ》 生跡毛無《イケリトモナシ》
 
衾路ニアル、引手ノ山ト云フ山〔四字傍線〕ニ、私ノ妻ヲ葬ツテ〔三字傍線〕置イテ、ソノ山路ヲ辿ツテ行クト、私モ悲シサニ〔六字傍線〕生キテヰルヤウデモナイ。丸デ心ガ死ンダヤウダ〔丸デ〜傍線〕。
 
○衾道乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》――衾路にある引手の山にの意。衾道乎を枕詞とする説は從ひ難い。大和山邊郡に衾田といふ地があつて、延喜式にも衾田墓が見えてゐるから、そのあたりに違ひない。引手の山も名所圖繪に「中山の東に龍王山高く聳ゆ。即ち引手山なり。衾道は此の邊に在り。」と見え、地名辭書に、「按ずるに引手山即ち釜口山の一峯ならん、南は纏向弓月岳に連る」と云つてゐる。春日の羽易山とは遠く距つてゐるが、或はこの山をも羽易山といつたのであらう。尚考ふべきである。○山徑往者《ヤマヂヲユケバ》――引手の山の山路を辿つて行けばの意であるが、これを葬送の歸路として、歸り行けばの意とし、從來の諸説が一致してゐる。併しこの長歌も葬送の際のではなく、去年見而之《コゾミテシ》の短歌も同樣であるから、これも墓參の際の作と見ねばならぬ。○生跡毛無《イケリトモナシ》――イケルトモナシとよむ説もあるが、イケリトモナシがよい。生きてゐるとも無いの意。生ける利心《トゴコロ》もなしとする宣長の説は、飛んでもない間違である。但しイケルトモナシといふ例は夷爾之乎禮婆伊家流等毛奈之《ヒナニシヲレバイケルトモナシ》(四一七〇)に唯一つあるが、これは特例で、その意はイケリトモナシに同じである。
〔評〕 長歌の結尾の句と同意で、墓所を尋ねた時の作である。結句は痛恨の響である。
 
或本歌曰
 
213 うつそ身と 念ひし時 手携へ 吾が二人見し 出で立ちの 百枝槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂きがごと 念へりし 妹にはあれど 恃めりし 妹にはあれど 世の中を 背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隱り 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隱りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 緑子の 乞ひ哭く毎に 取り委す 物しなければ 男じもの 腋挿み持ち 吾妹子と 二人吾が宿し 枕つく 嬬屋の内に 晝は うらさび暮し 夜は 息衝き明し 嘆けども せむ術しらに 戀ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易の山に 汝が戀ふる 妹はいますと 人の言へば 石根さくみて なづみ來し 好けくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば
 
宇都曾臣等《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキ》 携手《テタヅサヘ》 吾二見之《ワガフタリミシ》 出立《イデタチノ》 百兄槻木《モモエツキノキ》 虚知期知(232)爾《コチゴチニ》 枝刺有如《エダセルゴト》 春葉《ハルノハノ》 茂如《シゲキガゴト》 念有之《オモヘリシ》 妹庭雖在《イモニハアレド》 恃有之《タノメリシ》 妹庭雖有《イモニハアレド》 世中《ヨノナカヲ》 背不得者《ソムキシエネバ》 香切火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラノニ》 白栲《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊行而《アサタチイユキテ》 入日成《イリヒナス》 隱西加婆《カクリニシカバ》 吾妹子之《ワキモコガ》 形見爾置有《カタミニオケル》 緑兒之《ミドリコノ》 乞哭別《コヒナクゴトニ》 取委《トリマカス》 物之無者《モノシナケレバ》 男自物《ヲトコジモノ》 脇挿持《ワキバサミモチ》 吾妹子與《ワキモコト》 二吾宿之《フタリワガネシ》 枕附《マクラヅク》 嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》 且者《ヒルハ》 浦不怜晩之《ウラサビクラシ》 夜者《ヨルハ》 息衝明之《イキヅキアカシ》 雖嘆《ナゲケドモ》 爲便不知《セムスベシラニ》 雖戀《コフレドモ》 相緑無《アフヨシヲナミ》 大鳥《オホトリノ》 羽易山爾《ハガヒノヤマニ》 汝戀《ナガコフル》 妹座等《イモハイマスト》 人云者《ヒトノイヘバ》 石根割見而《イハネサクミテ》 奈積來之《ナヅミコシ》 好雲叙無《ヨケクモゾナキ》 宇都曾臣《ウツソミト》 念之妹我《オモヒシイモガ》 灰而座者《ハヒニテマセバ》
 
この或本は原歌とあまり違ってゐない。今異つた所だけを少し説明すると、○取委物之無者《トリマカスモノシナケレバ》――兒の手に持たしめ、玩ばしめるものがないといふのである。○灰而座者《ハヒニテマセバ》――火葬せられて、灰になつたことをいつたもの。
 
火葬して灰を蒔き散したことは、卷七に蜻野※[口+刀]人之懸者朝蒔君之所思而嗟齒不病《アキツヌヲヒトノカクレバアサマキシキミガオモホエテナゲキハヤマズ》(一四〇五)・玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染《タマヅサノイモハタマカモアシビキノキヨキヤマベニマケバチリヌル》(一四一五)の類、皆それで、火葬は文武天皇四年三月に、道昭を火葬したのが始めと續紀に見えてゐるが、それ以前にあつたらしい形跡も見える。考にこの句の灰は仄の誤で、珠蜻仄谷毛見所不座者《カギロヒノホノカニダニモミエテマサネバ》とあつたらうと言つてゐるのは、臆斷に過ぎる。
 
短歌三首
 
214 去年見てし 秋の月夜は 渡れども 相見し妹は いや年さかる
 
去年見而之《コゾミテシ》 秋月夜《アキノツクヨハ》 雖度《ワタレドモ》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 益年離《イヤトシサカル》
 
○雖度《ワタレドモ》――空を通るけれどの意。
 
215 衾路を 引出の山に 妹を置きて 山路念ふに 生けりともなし
 
(233)衾路《フスマヂヲ》 引出山《ヒキデノヤマニ》 妹置《イモヲオキテ》 山路念邇《ヤマヂオモフニ》 生刀毛無《イケリトモナシ》
 
○山路念邇《ヤマヂオモフニ》――山道を物思ひつつ行くにの意であらう、少しく曖昧な句である。
 
216 家に來て 吾が屋を見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕
 
家來而《イヘニキテ》 吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》 玉床之《タマドコノ》 外向來《ホカニムキケリ》 妹木枕《イモガコマクラ》
 
羽易ノ山カラ〔六字傍線〕家ニ歸ツテ來テ閨ノ内ヲ見ルト、妻ガシテ寢タ木枕ハ、床カラ横ノ方ニヤラレテアルワイ。アアコノ荒レタ閨、サテ、マア、何トシタモノダラウ〔アア〜傍線〕。
 
○吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》――吾を妻の誤かと考には疑つてゐて、古義・新考にこれを採つてゐる。成るほど少しく穩かでないが、元の儘でわからぬことはない。○玉床之《タマトコノ》――玉は美稱で、閨中の床といふ。靈床と見た考の説は當らない。枕を大切にして死後も床の上に並べ置くのである。卷十に明日從者吾玉床乎打拂《アスヨリハワガタマドコヲウチハラヒ》(二〇五〇)とあるも同じ。○妹木枕《イモガコマクラ》――木枕は木を以て造つた枕である。
〔評〕 墓所から歸つて、閨中を見て、妻の大切な形見の枕が、取り亂されてゐるを見て嘆いたもので、悲痛な佳作である。この歌が原本にないのは脱ちたのであらう。
 
吉備津采女死(セル)時、柿本朝臣人麿作(レル)歌一首並短歌
 
反歌によれば吉備津采女は志賀津采女の誤なること明かである。時の字目録に後とある。
 
217 秋山の したぶる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 念ひ居れか 栲繩の 長き命を 露こそは 朝に置きて 夕べは 消ゆと言へ 霧こそは 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓 音聞く吾も ほの見し 事悔しきを 敷妙の 手枕纏きて 劔太刀 身に副へ寢けむ 若草の そのつまの子は さぶしみか 念ひて寢らむ 悔しみか 念ひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露の如 夕霧の如
 
秋山《アキヤマノ》 下部留妹《シタブルイモ》 奈用竹乃《ナヨタケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》 何方爾《イカサマニ》 念居可《オモヒヲレカ》 栲紲之《タクナハノ》 長命乎《ナガキイノチヲ》 露己曾婆《ツユコソハ》 朝爾置而《アシタニオキテ》 夕者《ユフベハ》 消等言《キユトイヘ》 霧已曾婆《キリコソハ》 夕立(234)而《ユフベニタチテ》 明者《アシタハ》 失等言《ウストイヘ》 梓弓《アヅサユミ》 音聞吾母《オトキクワレモ》 髣髴見之《ホノミシ》 事悔敷乎《コトクヤシキヲ》 布栲乃《シキタヘノ》 手枕纏而《タマクラマキテ》 劔刀《ツルギタチ》 身二副寢價牟《ミニソヘネケム》 若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》 不怜彌可《サブシミカ》 念而寢良武《オモヒテヌラム》 悔彌可《クヤシミカ》 念戀良武《オモヒコフラム》 時不在《トキナラズ》 過去子等我《スギニシコラガ》 朝露乃如也《アサツユノゴト》 夕霧乃如也《ユフギリノゴト》
 
(秋山)美シイ紅イ顔ヲシテヰル女、(奈用竹乃)シナヤカナ女アノ志賀津采女〔七字傍線〕ハ何ト思ツテ居ルカラカ、(栲紲之)長イ人間ノ壽命ダノニ、早クモ死ンデ終ツタ〔九字傍線〕。一體〔早ク〜傍線〕露コソ朝降リテモ、夕方ニハ消エテ終フト言ハレテヰル。又〔傍線〕霧コソハ夕方立ツテモ、夜明ケニハ消エテ無クナルモノダト言ハレテ居ルガ、露デモ霧デモナク、壽命ノ長イ人間ダノニ、早死スルトハ何ト云フコトダラウ。コノ事ヲ今〔露デ〜傍線〕、(梓弓)話ニ聞ク私モ、曾テ〔二字傍線〕一寸アノ女ヲ瞥見シタコトガアツタノデ、ソノ面影ガ思ヒ出サレテ、コノ女ノ死ンダノガ〔アツ〜傍線〕殘念デアルノニ、コノ女ノ〔四字傍線〕(布栲乃)手枕ヲシテ、(劔刀)體ニ添ヘテ女ト一緒ニ寢タ(若草)ソノ夫ハ、淋シク女ノコトヲ〔五字傍線〕思ツテ寢ルデアラウ。悔シク思ツテ戀シガツテヰルデアラウ。死ヌべキ時デモナク、若クテ〔三字傍線〕死ンダコノ女ノ壽命〔三字傍線〕ハ、朝露ノヤウニ又ハ〔二字傍線〕夕霧ノヤウニ、儚イ脆イモノデアツタ〔儚イ〜傍線〕。
 
○秋山下部留妹《アキヤマノシダブルイモ》――秋山《アキヤマノ》は下部留《シタブル》の枕詞。下部留《シタブル》は木の葉の紅葉すること。古事記に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》とあるシタヒも同意で、上二段に活く動詞である。舊訓にシタベルとよんだのは誤ってゐる。○奈用竹乃《ナヨケケノ》――枕詞。なよなよとした竹で、騰遠依《トヲヨル》につづく。○騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》――騰遠《トヲ》は卷八に秋芽子乃枝毛十尾二《アキハギノエダモトヲヲニ》(一九九五)、卷十|白杜材枝母等乎乎爾《シラカシノエダモトヲヲニ》(二三一五)の如く、撓むをいふ。依《ヨル》は寄り添ふ意。女のやさしい姿を言つたのである。○念居(235)可《オモヒヲレカ》――思ひ居ればかの意。○栲紲之《タクナハノ》――枕詞。長きとつづく。考に、タクヅヌノとよんだのは惡い。紲は玉篇に凡繋2縲牛馬1皆曰v紲とあつて繩のことである。タクヅヌノは白の枕詞で、タクナハノは長の枕詞である。ここは栲繩之永命乎《タクナハノナガキイノチヲ》(七〇四)とあると同じ。栲繩は栲の木の皮でよつた繩。○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。音とつづく。○音聞吾母《オトキクワレモ》――采女の死を話に聞いた我もの意。○髣髴見之《ホノミシ》――反歌に於保爾見敷者《オホニミシカバ》とあるによつて、オホニミシとよむ説もあるが、集中の髣髴はすべてホノ、ホノカで訓めるやうであるから、此處もホノとよむことにする。○布栲乃《シキタヘノ》――枕詞。枕とつづく。七二參照。○劔刀《ツルグダチ》――枕詞。身二副《ミニソヘ》につづく。○若草《ワカクサ》――枕詞。嬬《ツマ》とつづく。一五三參照。○其嬬子者《ソノツマノコハ》――嬬は借字で采女の夫をさしたのである。子は親しんて添へたもの。○不怜彌可《サブシミカ》――サブシミのミは、故にの意とは違つて、唯、サブシクと同じやうである。○悔彌可念戀良武《クヤシミカオモヒコフラム》――この二句は舊本にはないけれども、類聚古集・神田本、その他數種の古本に見えてゐるから、後に脱ちたのであらう。○時不在過去子等我《トキナラズスギニシコラガ》――死ぬべき年齡でなくて早く死んだ女がの意。古義に我を香の誤かといつて、カナの意としてゐるのは獨斷に過ぎる。○朝露乃如也夕霧乃如也《アサツユノゴトユフツユノゴト》――也の字は添へただけで、よむのではない。也の字は戀許増益也《コヒコソマサレ》(二二六九)・黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》(一五三六)・君乎社待也《キミヲコソマテ》(二三四九)の如く、漢文流に、終に添へてある場合が澤山ある。
〔評〕 當時美人の聞え高かつた、志賀津采女の死を惜しんだ歌である。美人の形容と、その死を惜しむ情がよく出てゐる。露と霧とを用ゐて、無常をあらはしてゐるのも、何でもないことだが巧みに取扱はれてゐる。
 
短歌二首
 
218 樂浪の 志賀津の子らが 一云、志我津の子が まかりぢの 川瀬の道を 見ればさぶしも
 
樂浪之《サザナミノ》 志我津子等何《シガツノコラガ》【一云|志我津之子我《シガツノコガ》 罷道之《マカリヂノ》 川瀬道《カハセノミチヲ》 見者不怜毛《ミレバサブシモ》
 
樂浪ノ志賀津ノ女ガ死ンデ、葬ラレテ〔七字傍線〕行ツタ時通ツタ、川ノ淺瀬ノ道ヲ見テモ、女ノコトガ思ヒ出サレテ〔女ノ〜傍線〕悲シイヨ。
 
(236)○樂浪之志我津子等何《ササナミノシガツノコラガ》――ささ浪の志賀津の采女がの意。近江のささ浪の滋賀の大津から出てゐた采女である。○罷道之《マカリヂノ》――死んで葬られた時通つた道をいふ。宣長が道を邇の誤として、マカリニシとしたのは、從ふべきでない。拾遺集に、「さざ波やしがのてこらがまかりにし川せの道を見れば悲しも」として出てゐるが、拾遺集の訓は全く參考にはならない。○川瀬道《カハセノミチヲ》――川瀬を横ぎり行く道で、葬送の通路をいつたもの。新訓にカハセノミチハとよんであるのもよいやうであるが、久漏牛方乎見佐府下《クロウシガタタミレバサブシモ》(一七九八)・水分山乎見者悲毛《ミクマリヤマヲミレバカナシモ》(一一三〇)とあるから、カハセノミチヲがよい。
〔評〕 罷道之川瀬道《マカリヂノカハセノミチヲ》の道の重複が、後の人には目障りであつたかも知れないが、そこが古風なところである。
 
219 天數ふ 大津の子が 逢ひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき
 
天數《ソラカゾフ》 凡津子之《オホツノコガ》 相日《アヒシヒニ》 於保爾見敷者《オホニミシカバ》 今叙悔《イマゾクヤシキ》
 
私ハ〔二字傍線〕(天數)大津ノ女ト逢ツタ時ニ、オロソカニ見テ、良ク見ナカツ〔七字傍線〕タカラ今ニナツテ悔シイヨ。アンナニ若死スルナラバ、アノ美人ヲヨク見テ置ク所ダツタノニ〔アン〜傍線〕。
 
○天數《ソラカゾフ》――枕詞。そらはそら覺え、そら讀みなどのそらで、そら數ふは、空におほよそに數へる義で、おほにかかるのだといふが、まだ明瞭でない。或は天の星の數を數へて、多い意かも知れない。それならば舊訓のアマカゾフでもよいわけである。檜嬬手に「按ずるに佛説の天數にて、兜率の三十三を思へるなるべし。さらば三三並ぶ意にて三三並《ササナミ》とよまする義訓とすべし」とあるは面白い考であるが、この戯書はあまり物遠く佛臭く、どうもさうとは思はれない。又この卷には、かうした戯書的のものは見えないことも考へなくてはならぬ。古義に左右數か樂數の誤でサザナミであらうとあるのも、從ひ難い。○凡津子之《オホツノコガ》――志我津子等我《シガツノコラガ》とあるも同樣で、凡津は即ち大津である。この句或は子の下に、等《ラ》の字が脱ちたのかも知れない。○於保爾見敷者《オホニミシカバ》――於保《オホ》はオホヨソのオホで、一通りに、おろそかに見たからの意。
〔評〕 前の歌に志我津子等我《シガツノコラガ》とあるのを、これには凡津子之《オホツノコガ》としたのは、於保爾見敷者《オホニミシカバ》と言はんが爲で、オホの音を繰返して訓を整へたものである。
 
(237)讃岐|狹岑《サミネノ》島(ニ)視(テ)2石中(ノ)死人(ヲ)1柿本朝臣人麿作(レル)歌一首並短歌
 
狹岑《サミネ》島は今、沙彌《サミ》島といふ。讃岐仲多度郡、宇多津の海岸から二海里にあり、長十町横三町ばかりの孤島であるが、人家が多い。狹岑をサミとよむ説もある。反歌には佐美乃山とあるが、岑の字は岑朝霧《ミネノアサギリ》(二四五五)・岑行宍《ミネユクシシ》(二四九三)などの如くミネとのみよんであり、又ミネといふべきに、ミを省くのは常であるが、ネを省くことはありさうに思はれない。サミといふ島名にネを添へて言つたもので、ネは山の意で、サミネはサミ山の意かも知れない。さう見れば、反歌に佐美乃山とあるのと一致する。石中死人は磯の岩の間に死して横はつてゐた屍をいつたのである。
 
220 玉藻よし 讃岐の國は 國からか 見れども飽かぬ 神からか ここだたふとき あめつち 日月とともに 足りゆかむ 神の御面と 繼ぎ來る 中の水門ゆ 船浮けて 吾が榜ぎ來れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち 邊見れば 白浪とよむ 鯨魚取り 海をかしこみ 行く船の かぢ引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯もに 庵りて見れば 浪の音の 繁き濱邊を 敷妙の 枕になして 荒床に より臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 來も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか戀ふらむ はしき妻らは
 
玉藻吉《タマモヨシ》 讃岐國者《サヌキノクニハ》 國柄加《クニカラカ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》 天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》 滿將行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》 次來《ツギキタル》 中乃水門從《ナカノミナトユ》 船浮而《フネウケテ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》 時風《トキツカゼ》 雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》 奧見者《オキミレバ》 跡位浪立《シキナミタチ》 邊見者《ヘミレバ》 白浪散動《シラナミトヨム》 鯨魚取《イサナトリ》 海乎恐《ウミヲカシコミ》 行船乃《ユクフネノ》 梶引折而《カヂヒキオリテ》 彼此之《ヲチコチノ》 島者雖多《シマハオホケド》 名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》 荒礒面爾《アリソモニ》 廬作而見者《イホリテミレバ》 浪音乃《ナミノトノ》 茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》 敷妙乃《シキタヘノ》 枕爾爲而《マクラニナシテ》 荒床《アラドコニ》 自伏君之《ヨリフスキミガ》 家知者《イヘシラバ》 往而毛將告《ユキテモツゲム》 妻知者《ツマシラバ》 來毛問益乎《キモトハマシヲ》 玉桙之《タマボコノ》 道太爾不知《ミチダニシラズ》 欝悒久《オホホシク》 待加戀良武《マチカコフラム》 愛伎妻等者《ハシキツマラハ》
 
(玉藻吉)讃岐ノ國ハ、國ガ良イ〔三字傍線〕故カ、イクラ見テモ飽クコトハナイ。又〔傍線〕神樣ノ故カ、大層貴イ國デアル。天地日月ト共ニ、滿チ榮エテ行ク神樣ノ御顔ト思ツテヰルガ〔六字傍線〕、私ハコノ國ノ〔四字傍線〕(次來)那珂ノ湊カラ、船ヲ浮ベテ私(238)ガ漕ギ出シテ來ルト、潮ノ滿チルニツレテ、吹イテ來ル風ガ空ニ吹クノデ、沖ヲ見ルト、繁ク浪ガ立チ、岸ヲ見ルト白浪ガ騒イデヰル。コンナ荒レ模樣ナノデ〔コン〜傍線〕(鯨魚取)海ノ荒レルノガ〔五字傍線〕恐ロシサニ、乘ツテヰル船ノ櫓モ折レル程ニ、力一杯〔三字傍線〕漕イデ、彼方此方ニ島ハ澤山アルケレドモ、ソノ中ノ有名ナ狹岑ノ島ノ荒磯岸ニ、船ヲ着ケテ上リ〔七字傍線〕、庵ヲ作ツテ宿ツテ、其邊ヲ〔三字傍線〕見ルト、打チ寄セテ來ル〔七字傍線〕浪ノ音ガ間斷ナクシテヰル濱邊ヲ、(敷妙乃)枕ニシテ、コンナ石ノ上ノ〔七字傍線〕ヒドイ寝床ニ横ハツテ、死ンデ〔三字傍線〕ヰル人ガアルガ、コノ人〔七字傍線〕ノ家ヲ私ガ〔二字傍線〕知ツテヰルナラバ、往ツテ斯樣々々ト〔五字傍線〕告ゲテヤラウノニ、又コノ人ノ〔五字傍線〕妻ガコレヲ知ルナラバ、訪ネテ來サウナモノダノニ、可愛イ妻等ハ尋ネテ行ク(玉桙之)道サヘモ知ラナイデ、氣ニカカリナガラコノ人〔三字傍線〕ヲ戀ヒ慕ツテ待ツテヰルダラウヨ。
 
○玉藻吉《タマモヨシ》――枕詞。玉藻の多く生えてゐる、讃岐の國といふ意で、ヨシは、蒼丹よし、眞菅よし、朝毛よしの類で、添へて言ふ感嘆の助詞である。○國柄加《クニカラカ》――柄は清音か濁音かの論が分れてゐる。濁音説は眞淵のやうに、隨《ナガラ》の略と見るものか、又は人がら、身がら、日がら、事がらなどの、ガラと同じと見たものである。柄の字の用法を檢すると、咲之柄爾《ヱマシシカラニ》(六二四)・宇能花邊柄《ウノヘナベカラ》(一九四五)・自身之柄《オノガミノカラ》(二七九九)の如くカラが多いが、稀に夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》(三二七〇)の如く、濁音に用ゐられてゐるのもある。して見ると、この文字を以てしては、クニカラとも、クニガラとも決し難い。併し卷三に、芳野乃宮者山可良志貴有師水可良思清有師《ヨシヌノミヤハヤマカラシタフトカラシミヅカラシサヤケクアラシ》(三一五)とあるのは、清音と見るべきであらうから、先づクニカ(239)ラと清音によむべきである。扨カラは故の義で、本來は名詞なので、國柄・神柄は、國故・神故といふ名詞である。カラニとなれば、副詞として、用ゐられたものである。神隨《カムナガラ》のナガラも、自身之柄《オノガミノカラ》(三七九九)・比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》(四〇六九)などの例から見ると、ノカラと同じものである。後世の、人がら・身がら・日がら・事がらの如きも、本來これと同じもので、濁音となるのは慣用に過ぎないのであらう。折からなどは濁音ではないが、全く同じものである。要するに國柄加《クニカラカ》は國故かの意である。○神柄加《カムカラカ》――神故かの意。前の國柄加《クニカラカ》と同樣で、古代人は國土は即ち神なりとの考を持つてゐた。古事記に「次に伊豫の二名の島を生む。この島は身一つして面四つあり。面毎に名あり。かれ伊豫の國を愛比賣《エヒメ》といひ、讃岐の國を飯依比古《イヒヨリヒコ》といふ」とある通りである。○幾許貴寸《ココダタフトキ》――ココダはココラと同じく澤山の意。〇滿將行神乃御面跡《タリユカムカミノミオモト》――滿の字は望月乃滿波之計武跡《モチツキノタタハシケムト》(一六七)・望月之滿有面輪二《モチツキノタレルオモワニ》(一八〇七)に從つて、タリとよむべきで、神乃御面は、右に引いた古事記の文に「面四つあり」とある面である。古事記に淤母陀琉神《オモダルノカミ》、書紀に面足尊《オモタルノミコト》とあるも、この意を以て名づけた神名である。この句の次に、「と思ひて」といふやうな意が含まれてゐる。此處を誤解した説が多い。○次來《ツギキタル》――枕詞。中は始の次に來るからである。舊訓ツギテクルとあるが、テに當る文字がないから、生來《アレキタル》(三七九)の例に傚つて、ツギキタルとよむことにする。云の字を補つて、イヒツゲルとよんだ古義、仰來の誤としてアフギクルとした新考の説は論外である。○中乃水門從《ナカノミナトユ》――中乃水門は、今の仲多度都下金倉で、中津とよんでゐる。古は那珂郡に屬してゐた。この地は丸龜の西にあるから、沙彌島の西南で、即ちこれは、瀬戸内海を西から東へ航行の際の作である。○時風《トキツカゼ》――潮の滿ち來ると共に吹く風。○跡位浪立《シキナミタチ》――考に「跡位は敷生《シキヰル》てふ意の字なるを借りて書けり云々」とあるが、どうも解し兼ぬる用字である。保孝の書入には「跡(スル)v位(ニ)といふ意なり。位は人の立つ處にて、そこに跡を付くるといふ、これしきます意なり」とあるがこれも同じやうな説である。卷十三に跡座浪之立塞道麻《シキナミノタチサフミチヲ》(三三三五)とあるも同樣の用字法で、同じ訓を附すべき字である。新訓にこの二つを共に、トヰナミとよんだのは、最も合理的の訓法で、跡はトとよんだ例多く、位も座もヰとよんである。併しトヰナミといふ語は全く所見がない。用法から見れば、烈しき浪、高い浪などの意らしく、或はトヨム浪とか、サヰ浪とかいふやうな語の轉かとも想像せられるが、さういふ語があつたらしい證がないから、致し方がない。假に眞淵に從つてシキナミとよん(240)で、頻りに立つ浪と解して置く。○邊見者《ヘミレバ》――ヘタミレバとよむのは良くない。奧に對しては、へといふが常である。○白浪散勤《シラナミトヨム》――散動は、サワグとも訓みたいやうにも思はれるけれども、動の字は、宮動々爾《ミヤモトドロニ》(九四九)・山裳動響爾《ヤマモトドロニ》(一〇五〇)・動神之《ナルカミノ》(一〇九二)・雷神小動《ナルカミノスコシトヨミテ》(二三一三)など用ゐてある例から推すと、散動もトヨムであるらしい。舊訓トヨミと中止形になつてゐるのも良くない。トヨムは鳴り響くこと。ドヨムと濁つては惡い。○鯨魚取《イサナトリ》――枕詞。海につづく。一三一參照。○梶引折而《カヂヒキヲリテ》――梶は楫の借字。舟を漕ぐ艪櫂の類をいふ。引折而《ヒキヲリテ》は引き曲げての意で、漕ぐ力で艪がしわり曲るをいふ。○名細之《ナグハシ》――名の良い意で、有名なること。これを枕詞とするは當らない。○荒磯面爾《アリソモニ》――荒磯の岸に、面を回の誤とする代匠記説も尤であるが、尚、この儘として置きたい。○廬作而見者《イホリテミレバ》――イホリといふ名詞を動詞として、イホリテとしてあるやうだ。イホリシテミレバ、イホリツクリテミレバの訓もあるが、恐らくさうではあるまい。○荒床《アラドコニ》――あらあらしき寢床の意。海岸を指したのである。○自伏君之《ヨリフスキミガ》――舊訓コロブスで、ころび臥す意としてゐるが、自の字コロとよんだ例は他に無く、又さう訓むべき理由もない。この字は自明門《アカシノトヨリ》(二五五)・神世自《カミヨヨリ》(一〇六九)などの如く、ヨリとよんであるから、これを借字としてヨリフスと、よましめたのであらう。寄り臥す意である。○玉桙之《タマボコノ》――枕詞。道と續く。七九參照。○愛伎妻等者《ハシキツマラハ》――愛伎《ハシキ》は文字の如く愛する意。
〔評〕 先づ讃岐の國を讃めて、例によつて、古傳説により、神の御面といふやうな言葉を連ねて、神々しい太古を偲ばしめ、さて、その國の那珂の湊を舟出して、海上に浮んだ時、意外の難航に沙彌島に上陸して庵を結んで宿らんとして、磯邊に漂着してゐる死屍を見た有樣が、突如として歌ひ出され、讀者も亦大きな衝動を受ける。ここで作者は、この家も妻も分らない死骸に、滿腔の同情を注ぎ、併せて家なる妻に、告ぐる方法のないことを悲しんでゐる。荒床自伏君之《アラドコニヨリフスキミガ》の句は、死樣のいたいたしさと、死人に對する敬意とがあらはれ、家知者《イヘシラバ》以下の數句は、眞に同情の歌聲である。人麿は實に愛の詩人であり、純情の人である。
 
反歌
 
221 妻もあらば 採みてたげまし 佐美の山 野の上の宇波疑 過ぎにけらずや
 
(241)妻毛有者《ツマモアラバ》 採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》 佐美乃山《サミノヤマ》 野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》 過去計良受也《スギニケラズヤ》
 
コノ近所ニ〔五字傍線〕妻ガ居ルナラバ、コノ沙彌山ノ嫁菜ヲ〔九字傍線〕採ツテ食ベルデアラウニ、コンナニ〔四字傍線〕沙彌ノ山ノ野ノアタリノ嫁菜ハ、既ニ摘ミトルベキ時期ガ〔既ニ〜傍線〕過ギテ終ツタデハナイカ。斯樣ニ嫁菜ガ延ビ過ギル迄、摘ミニ來ナイノデ見ルト、コノ邊ニ妻ハ居ナイモノト見エル〔斯樣〜傍線〕。
 
○採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》――採の字、舊訓トリテとあるが、集中ツミとよんだ場合が多く、又卷十の春日野爾煙律所見※[女+感]嬬等四春野菟芽子採而※[者/火]良思文《カスガヌニケブリタツミユヲトメラシハルヌノウハギツミテニラシモ》(一八七九)も、ツミテとよんであるから、これもツミテがよい。多宜麻之《タゲマシ》は食はむの意。多宜《タゲ》は食ふといふ意の古語、タグの將然形。タグは雄略紀に共食者《アヒタゲヒト》とあり、皇極紀に渠梅多※[人偏+爾]母多礙底騰〓羅栖歌麻之々能烏膩《コメダニモタゲテトホラセカマシシノヲヂ》とある。この語を髪を上げる意として、死屍を取り揚げることにしたのは、無理な説である。それでは宇波疑が不要になつてしまふ。又髪上げする意のタクは清音で、これは濁音である。○野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》――野上《ヌノヘ》は野邊といふと同じである。宇波疑は今の嫁菜で、古名オハギとも言つた。○過去計良受也《スギニケラズヤ》――採みて食ふべき時を過ぎたるにあらずやの意。
〔評〕 歌意が少し不明瞭である。右のやうに解いても、又死骸を宇波疑に譬へた説によつても、いづれにしても落ち着かない感がある。佳作とはいはれまい。
 
222 奧つ浪 來よる荒磯を 敷妙の 枕と纏きて なせる君かも
 
奧波《オキツナミ》 來依荒礒乎《キヨルアリソヲ》 色妙乃《シキタヘノ》 枕等卷而《マクラトマキテ》 奈世流君香聞《ナセルキミカモ》
 
沖ノ波ガ打チ寄セテ來ル荒磯ヲ、(色妙乃)枕トシテ寢テヰル貴方ヨ。コンナ所ニ人ニ知ラレナイデ、死ンデ横ハルトハ氣ノ毒ナコトダ〔コン〜三字傍線〕。
 
○奈世流君香聞《ナセルキミカモ》――奈世流《ナセル》は寢たるの意。古事記に伊波那佐牟遠《イハナサムヲ》とあるナサムも、夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》(八〇二)のナサヌも、皆|寢《ネ》ずの轉じたもので、この語はナ、ヌ、ネと活くのである。
(242)〔評〕 前の歌は妻を主としてよんだもので、これは死人を主としてゐる。同情の籠つた醇厚な歌である。君といふ語が鄭重に響いてゐる。
 
柿本朝臣人麿在(リテ)2石見國(ニ)1臨(ミシ)v死(ニ)時自(ラ)傷(ミテ)作(レル)歌一首
 
223 鴨山の 磐根し纏ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
 
鴨山之《カモヤマノ》 磐根之卷有《イハネシマケル》 吾乎鴨《ワレヲカモ》 不知等妹之《シラニトイモガ》 待乍將有《マチツツアラム》
 
コノ石見ノ國デ死ンデ葬ラレテ〔コノ〜三字傍線〕、鴨山ノ岩ヲ枕トシテ横タハツテヰル私ヲ、コンナコトトモ知ラナイデ〔コン〜傍線〕、妻ハ待ツテ居ルヂアラウカヨ。可愛サウニ〔五字傍線〕。
 
○鴨山之《カモヤマノ》――歌の趣から推せば、鴨山は墓所と思はれる。死に臨んでその山に葬られることを豫想したのである。鴨山の所在不明、地名辭書には、神村《カムラ》の山を指したのだらうといつてゐる。神村《カムラ》は今の二宮村のうちで、都野津の東南にある。その他諸説あれど、假にこれに從ふことにする。一三一の地圖參照。○磐根之卷有《イハネシマケル》――岩根を枕とした意で、死して葬られたことを言つたのである。○不知等妹之《シラニトイモガ》――舊訓シラズトであつたが、宣長がシラニトとよんで以來、これによるものが多い。曾許母安加爾等《ソコモアカニト》(三九九一)とあり、又古事記にも、宇迦迦波久斯良爾登美麻紀伊埋毘古波夜《ウカガハクシラニトミマキイリヒコハヤ》とあるから、ここでもこれに從ふことにしよう。但し舊訓の通りでも誤ではない。シラニトは知らないでの意。
〔評〕 死に臨んで故郷の妻を思うて、不知等妹之待乍將有《シラニトイモガマチツツアラム》といつたのは、如何にも自然人らしい、純情的な飾らない、人麿の姿が見えて嬉しい。宗教にも道徳にも、彼は拘束せられてゐなかつた。唯愛の人、誠の人であつたのである。
 
柿本朝臣人麿死(セシ)時、妻|依羅《ヨサミ》娘子作(レル)歌二首
 
依羅娘子は、大和にゐた人麿の三度目の妻である。石見にゐてこの歌をよんだとする説は當らな(243)い。
 
224 今日今日と 吾が待つ君は 石川の 貝に 一云、谷に 交りて 在りといはずやも
 
且今日且今日《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》 石水《イシカハノ》 貝爾《カヒニ》【一云|谷爾《タニニ》】交而《マジリテ》 有登不言八方《アリトイハズヤモ》
 
今日歸ル〔二字傍線〕カ今日歸ル〔二字傍線〕カト思ツテ、私ガ待ツテヰタ夫ハ、アチラデ死ンデ、今ハ石見ノ國ノ〔アチ〜傍線〕石川トイフ川ノ、貝ト一緒ニナツテ、葬ラレテヰルト人ガ話シテ呉レタデハナイカ。アア、思ヒガケナイ〔八字傍線〕。
 
○旦今日且今日《ケフケフト》――旦(又は且)の字は不要のやうであるが、卷九にも旦今日旦今日吾待君之《ケフケフトワガマツキミガ》(一七六五)とあり、かういふ書き方は他にもある。契沖は且の字として、「且は苟且の義にてかりそめなればたしかならぬ心なり」と言つてゐる。何時曾旦今登《イツゾイマカト》(一五三五)などの用例を見ると、且の字で、不確實な意を含めたものらしく思はれる。○石水《イシカハノ》――石川は次の歌によれば、固有名詞らしい。水の字は川に用ゐた例が多いから、イシカハに違ひない。檜嬬手に、山の字が脱ちたものとしてイハミ山とよんで、下の貝を峽のことにしてゐるのも面白い。又、川の字が脱ちたものとしてイハミカハと訓めないこともないが、先づ舊の儘にして置かう。○貝爾交而《カヒニマジリテ》――石川の貝の中に混じての意。これは夫の死を、特にわびしげに歌つたものである。一云谷爾とあるに從つても、分らぬこともないが、交而《マジリテ》が少しく變である。守部が峽《カヒ》ニコヤシテとよんだのは面白いが、獨斷たるを免かれない。
〔評〕 夫の死を聞いて、悲痛のあまり、その死をいたいたしげに、荒凉たる樣に詠んだものである。悲愴な歌。
 
225 直のあひは あひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ
 
直相者《タダノアヒハ》 相不勝《アヒカツマシジ》 石川爾《イシカハニ》 雲立渡禮《クモタチワタレ》 見乍將偲《ミツツシヌバム》
 
私ノ夫ハ死ンデシマツタカ〔私ノ〜傍線〕ラ、ホントニ逢フトイフコトハ出來ナイダラウ。ダカラ〔三字傍線〕石川ニ雲ガ立チ靡ケヨ。ソレヲ夫ノ形見トシテ〔ソレ〜傍線〕見テ夫ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シマセウ。
 
○直相者《タダノアヒハ》――舊訓タダニアハバとあるが、宣長がタダノアヒハとよんだのがよい。直接に逢ふことはの意。○(244)相不勝《アヒカツマシジ》――舊訓アヒモカネテムであるが、九四で解いたやうにアヒカツマシジとよむべきで、逢ふことは出來まいの意。○石川爾《イシカハニ》――前の歌の石水と同じであらう。石の下に水の字が脱ちたものとして、イハミカハニとしても見られるが、やはり元の儘にして置くべきであらう。
〔評〕 感情のこもつた歌であるが、石川を前の歌と同所とすると、下の句のよみぶりは、大和に居て作つたものらしくない。と言つて娘子は石見にゐたものとすると、前の歌がふさはしくなくなる。そこで、夫の死を聞いて石見に下つて、この歌をよんだといふやうな説も出て來るのである。どうも娘子の居所が確かでないのと、石川の所在が不明なので、解釋に不徹底な點があるのは遺憾である。
 
丹比眞人 名闕 擬2柿本朝臣人麿之意(ニ)1報(フル)歌一首
 
丹比眞人で名の明らかなのは、數人見えてゐるが、名の闕けてゐるのも、この外に卷八・卷九に出て居る。古義には「丹比眞人縣守のことにや」といつてゐるが、分らぬとして置くがよい。報の字は考に「後人のさかしらに加へし言と見ゆ」と言つてゐる。予はこの儘にして置かうと思ふ。
 
226 荒浪に 寄り來る玉を 枕に置き 吾ここなりと 誰か告げけむ
 
荒海爾《アラナミニ》 緑來玉乎《ヨリクツタマヲ》 枕爾置《マクラニオキ》 吾此間有跡《ワレココナリト》 誰將告《タレカツゲケム》
 
荒浪デ打チ寄セテ來ル玉ヲ枕邊ニ置イテ、私ガ此所ニ死ンデ〔三字傍線〕居ルトイフコトヲ、誰ガ故郷ノ妻ニ〔五字傍線〕告ゲタデアラウカ。
 
○荒波爾《アラナミニ》――依羅娘子の歌に、石水貝爾交而《イシカハノカヒニマジリテ》とあつたに對したので、石川の荒浪をいふのである。○枕爾置《マクラニオキ》――枕の方に置くこと。置は卷の誤で、マクラニマキだらうと考には言つてゐる。○誰將告《タレカツゲケム》――舊訓タレカツゲナムで、今もそれが廣く行はれてゐるが、題詞にある報の字を衍としない以上は、タレカツゲケムと言はねばならぬところである。石川の荒浪に寄せ來る玉を枕として、死して横はつてゐることを、誰が娘子に告げたのであらうの意。
(245)〔評〕 人麿の心になつてよんだもので、多少歌を弄ぶ氣分があるわけである。前の山上憶良らが、結松の歌に追加したものとは、少しく趣を異にしてゐる。守部はこの歌を、丹比眞人が石中死人に擬して、人麿に報いて作つた歌だとしてゐるのは、例の妄斷である。
 
或本歌曰
 
227 天離る 夷の荒野に 君を置きて 念ひつつあれば 生けりともなし
 
天離《アマサカル》 夷之荒野爾《ヒナノアラヌニ》 君乎置而《キミヲオキテ》 念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケリトモナシ》
 
(天離)田舍ノ人里遠イ野ニ私ノ〔二字傍線〕夫ヲ葬ツテ〔三字傍線〕置イテ、夫ノコト〔四字傍線〕ヲ思ツテ居ルト、悲シクテ悲シクテ〔八字傍線〕、生キテヰル心地ハシナイ。
 
○天離《アマサカル》――枕詞。二九參照。○生刀毛無《イケリトモナシ》――二一二參照。イケルトモナシと訓むのは惡い。
〔評〕 これは依羅娘子の意に擬して、丹比眞人が作つたものであらう。前に出てゐた人麿の、衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマヂヲユケバイケリトモナシ》(二一二)の歌に傚つて作つたものである。
 
右一首(ノ)歌(ハ)作者未v詳但古本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於此次1也
 
後人の註の中でも、比較的新らしいものであらう。
 
寧樂宮
 
寧樂宮とのみ記して、御宇天皇代とないのは卷一も同じである。元明天皇和銅三年三月藤原から奈良へ遷御あらせられた以後の歌を、ここに入れてある。
 
和銅四年歳次辛亥、河邊宮人《カハベノミヤビト》、姫島松原(ニ)見(テ)2孃子《ヲトメノ》屍(ヲ)1悲(シミ)歎(キテ)作(レル)歌二首
 
(246)河邊宮人はどういふ人か全く分らない。姫島松原は安閑紀に「別勅2大連1云、宜v放2牛(ヲ)於難波(ノ)大隅島與2媛島松原1冀垂2名於後1」とあるところで、攝津風土記に、比賣島松原としてその名の由縁が書いてある。今、稗島と稱す。中津神崎の二川に挾まれた地である。但し喜田貞吉氏はこれを拒けて今の西成區小松地方だと言つてゐる。
 
228 妹が名は 千代に流れむ 姫島の 子松がうれに こけむすまでに
 
妹之名者《イモガナハ》 千代爾將流《チヨニナガレム》 姫島之《ヒメシマノ》 子松之末爾《コマツガウレニ》 蘿生萬代爾《コケムスマデニ》
 
今此處ニ屍トナツテ、横タハツテヰル〔今此〜傍線〕孃子ノ名ハ、千年ノ後マデモ傳ハルダラウ。コノ〔二字傍線〕姫島ノ小松ガ、大キクナツテ、ソノ〔八字傍線〕梢ニ蘿ガ生エルヤウナ後〔四字傍線〕マデモ傳ハルデアラウ〔七字傍線〕。
 
○妹之名者《イモガナハ》――妹は孃子を指したもの。孃子の名は明らかにされてゐないが、作者はその名を知つてゐたのであらう。○千代爾將流《チヨニナガレム》――永久に傳はらむの意で、名の傳播するを、流るといふ。卷十八に、大夫乃伎欲吉彼名乎伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾奈我佐敝流於夜能子等毛曾《マスラヲノキヨキソノナヲイニシヘヨイマノヲツツニナガサヘルオヤノコドモゾ》(四〇九四)とある。
〔評〕 美人の死屍に對して、これを慰めたものである。名を世に遺すことを希望した時代思潮が、かうした歌にもあらはれてゐる。
 
229 難波潟 潮干なありそね 沈みにし 妹がすがたを 見まく苦しも
 
難波方《ナニハガタ》 鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》 沈之《シヅミニシ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》 見卷苦流思母《ミマククルシモ》
 
難波潟ニハ潮干ハアルナヨ。潮ガ干ルト、底ニ〔七字傍線〕沈ンダ女ノ姿ガ見エルガ、ソレ〔七字傍線〕ヲ見ルノハイヤナモノダヨ。
〔評〕 死屍を見て、その痛ましさに堪へかねた感情が、鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》と、無理な注文を發するに至らしめた。無垢な純情の歌である。
 
靈龜元年歳次乙卯秋九月、志貴親王(ノ)薨時、作(レル)歌一首 並 短歌
 
(247)志貴親王は、天智天皇の第三皇子施基皇子である。御子白壁王(光仁)即位せられたによつて、追尊して、そのご住所によつて春日宮天皇と申し、又御陵の所在地の名によつて、田原天皇と申し上げる。續紀によればこの親王の薨去は靈龜二年八月甲寅で、この集の記載と一年の差があるが、これは何か理由のあつたことであらう。この頃、別に天武天皇の皇子に磯城皇子があつて、その御方の薨去が續紀に記されてゐないので、この志貴親王を磯城皇子とした契沖や雅澄の説もあるが、歌の内容から考へると、どうしても施基皇子でなくてはならない。
 
230 梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挿み 立ち向ふ 高圓山に 春野燒く 野火と見るまで 燎ゆる火を いかにと問へば 玉桙の 道來る人の 泣く涙 ひさめに降れば 白妙の 衣ひづちて 立ち留り 吾に語らく 何しかも もとな言へる 聞けば 音のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き すめろぎの 神の御子の いでましの 手火の光ぞ ここだ照りたる
 
梓弓《アヅサユミ》 手取持而《テニトリモチテ》 丈夫之《マスラヲノ》 得物矢手挿《サツヤタバサミ》 立向《タチムカフ》 高圓山爾《タカマドヤマニ》 春野燒《ハルヌヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》 燎火乎《モユルヒヲ》 何如問者《イカニトトヘバ》 玉桙之《タマボコノ》 道來人乃《ミチクルヒトノ》 泣涙《ナクナミダ》 霈霖爾落者《ヒサメニフレバ》 白妙之《シロタヘノ》 衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》 立留《タチトマリ》 吾爾語久《ワレニカタラク》 何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイヘル》 聞者泣耳師所哭《キケバネノミシナカユ》 語者《カタレバ》 心曾痛《ココロゾイタキ》 天皇之《スメロギノ》 神之御子之《カミノミコノ》 御駕之《イデマシノ》 手火之光曾《タビノヒカリゾ》 幾許照而有《ココダテリタル》
 
(梓弓手取持而 大夫之得物矢手挿 立向)高圓山ニ、春ノ野ヲ燒ク野火カト思ハレル程、燃エテヰル火ヲ、アレハ〔三字傍線〕何カト聞イテ見ルト、(玉桙之)道ヲ歩イテ來ル人ガ、泣ク涙ハ丁度大雨ノヤウニ甚《ヒド》ク流レルノデ、(白妙之)着物ハ、ビシヨ霑レニナツテ立チ留ツテ、ソノ人ガ〔四字傍線〕私ニ話シテ言フニハ、何故汝ハミダリニソンナコトヲ言フノカ、サウイフコトヲ聞クト、唯〔傍線〕聲ヲ出シテ泣クバカリダ。ソンナコトヲ話スルト、心ガ苦シイ。アレハ〔三字傍線〕天子樣ト云フ生キ神樣ノ御子樣ノ、御葬式ノ御供ノ火ガ、澤山ニ輝イテヰルノダ。
 
○梓弓手取持而大夫之得物矢手挿立向《アヅサユミテニトリモチテマスラヲノサツヤタバサミタチムカフ》――この五句は、高圓《タカマト》山の圓《マト》を、的《マト》の意としてつづけた序詞で、卷一(248)の大夫之得物矢手挿立向射流圓方波見爾清潔之《マスラヲガサツヤタバサミタチムカヒイルマトカタハミルニサヤケシ》(六一)の詞を採つたものである。得物矢《サツヤ》は獵に用ゐる矢。○高圓山爾《タカマトヤマニ》――高圓山は春日山の南方に連つてゐるなだらかな感じの山で、この集に澤山よまれてゐる。○霈霖爾落者《ヒサメニフレバ》――霈霖《ヒサメ》となつて降るの意。ヒサメは直雨《ヒタアメ》の約で、書紀に、大雨・甚雨をヒサメとよんでゐる。舊訓コサメとあるは惡い。○白妙之《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。○衣泥漬而《コロモヒヅチテ》――泥漬《ヒヅチ》は漬《ヒ》づに更に語尾を添へて、四段活にした動詞らしい。意は霑れること。○本名言《モトナイヘル》――本名《モトナ》は集中に多く用ゐられる語で、その解説も種々ある。山田孝雄氏が奈良文化第十二號に、もとなはもと〔二字傍点〕といふ名詞と、形容詞なし〔二字傍点〕の語幹な〔傍点〕との合成語で、もとは根元又は根據の義にあたり、もとなは理由もなく、根據なく、わけもなく、よしなく、みだりに、といふやうな意で解すべし(摘要)と述べて居るのは面白い説である。ここはみだりにといふやうな意であらう。○天皇之神之御子之《スメロギノカミノミコノ》――天皇と申す神の御子の意で、施基皇子をさす。○御駕之《イデマシノ》――舊訓オホムタノとあるのは解しがたい。考にイデマシとよんだのに從ふことにする。文字(249)から考へると、他にまだよい訓があるかも知れないが、この文字は集中他に用例がないのは、遺憾である。○手火之光曾《タビノヒカリゾ》――手火は手に持つ火、書紀に「秉炬此云2多妣1」と註してある。ここでは御葬儀に點ずるタイマツを言つたもの。
〔評〕 この歌は全體の組織が巧妙に出來て、特異なところがある。高圓山を燒くかとばかり燃ゆる火に驚いて、道行く人に何事ぞと尋ねると、その人が涙にぬれながら、志貴親王の御葬儀の松明の火なることを語つたといふので、自己の主觀を述べないで、道行く人に語らしめた結構は、この種の歌としては珍らしいものである。しかも親王の御住居になつてゐた春日の宮から出た葬列が、高圓山の裾をめぐつて、田原の西陵(大和地圖參照)へ續く情景と、それを眺めて泣き悲しんでゐる人々の有樣が、ありありと目に浮ぶやうに詠まれてゐる。人麿の長歌とは型を異にしてゐて、それに劣らない立派な技倆である。左註によると、笠金村歌集に出てゐるとあるから、恐らくこの人の作であらう。
 
短歌二首
 
231 高圓の 野邊の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに
 
高圓之《タカマトノ》 野邊秋芽子《ヌベノアキハギ》 徒《イタヅラニ》 開香將散《サキカチルラム》 見人無爾《ミルヒトナシニ》
 
高圓ノ野ノ秋萩ノ花ハ、志貴皇子ガオナクナリナサツタカラ〔志貴〜傍線〕、空シク誰モ見ル人無クテ、咲イテ散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○高圓之野邊秋芽子《タカマトノヌベノアキハギ》――高圓の野は高圓山の麓の野で、能登川が流れてゐるあたりをいふ。此處は萩・女郎花・撫子などの秋草の花が、よく詠まれる所である。○徒《イタヅラニ》――舊本、從に誤つてゐる。金澤本による。
〔評〕 續日本紀に春日離宮とあり、後世の歌に高圓の尾の上の宮と詠まれてゐるのは、この親王のおはしました春日の宮と、同所であるか否かは不明であるが、ともかくも高圓の野の一部に、親王の宮殿があつたのである。今、親王は既におはしまさぬ。この秋萩の花も見る人もなくて、徒らに咲き散ることかよと嘆いた聲は、實に(250)無限の悲しさが籠つてゐる。
 
232 三笠山 野邊行く道は こきだくも 繁り荒れたるか 久にあらなくに
 
御笠山《ミカサヤマ》 野邊往道者《ヌベユクミチハ》 巳伎太雲《コキダクモ》 繁荒有可《シゲリアレタルカ》 久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》
 
春日ノ宮ヘ通フ〔七字傍線〕御笠山ノ下ノ〔二字傍線〕野道ハ、大層草ガ繋ツテマア甚《ヒド》ク荒レタワイ。マダ皇子薨去ノ後〔八字傍線〕、久シクモナラナイノニ。
 
○御笠山《ミカサヤマ》――春日山の一部で、前方に蓋《キヌガサ》のやうな形をなしてゐるのを、特に三笠山いふ。○巳伎太雲《コキダクモ》――コキダクは數多く、甚だしくなどの意。モは添へた詠嘆の助詞。○繁荒有可《シゲリアレタルカ》――舊訓シゲリとあるのを、略解にシジニと改めてあるが、ここは副詞でなく、動詞として、シゲリとよむ方がよいやうである。可《カ》はカナの意。
〔評〕 皇子の薨去の後、幾何ならずして、春日の宮に通ふ道の、甚だしく荒れたのを歎いたので、平明な調のうちに、哀切の情が盛られてゐる。
 
右歌笠朝臣金村歌集出
 
笠金村歌集は自分の作を主として集め、又他人のものも入れてある。署名のないのは金村の作と見てよい。多く作の年月が明記してあるのは、他の集と異なつてゐる。
 
或本歌曰
 
233 高圓の 野邊の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲ばむ
 
高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》 勿散禰《ナチリソネ》 君之形見爾《キミガカタミニ》 見管思奴幡武《ミツツシヌバム》
 
高圓ノ野ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ散ラナイデヰテクレヨ。セメテコノ花デモ、オ亡クナリニナツタ〔セメ〜傍線〕皇子ノ形見トシテ眺メテ、皇子ヲ〔三字傍線〕思ヒ出シオ慕ヒ申シ〔五字傍線〕マセウ。
〔評〕 この歌は三句以下全く異つて、意味も別であるから、前の歌の異傳といふわけではなく、別の歌である。
 
234 三笠山 野邊ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに
 
(251)三笠山《ミカサヤマ》 野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》 巳伎太久母《コキダクモ》 荒爾計類鴨《アレニケルカモ》 久爾有名國《ヒサニアラナクニ》
 
〔評〕 これは第二句と第四句とが少し異つてゐるだけであるから、二三二の歌の異傳である。
 
萬葉集卷第二
 
(253)萬葉集卷第三解説
 
この卷は雜歌・譬喩歌・挽歌の三部に分れてゐる。雜歌と譬喩歌とには題詞に年次を記したものは見えないが、挽歌にはそれを明記したものが多い。雜歌で年代の明かなものの最古なるは、大寶二年持統天皇志賀行幸の時の石上卿の作で、最も新しいのは、天平五年の大伴坂上郎女の祭神の歌である。歌數は長歌十三首、短歌百四十首で、大體、※[覊の馬が奇]旅の歌が多い。譬喩歌は二十七首の短歌を含んでゐるだけで、多くは戀愛の歌である。年次はいづれも明らかでなく、大伴家持が坂上大孃に贈つたものが、おほよそ天平十年前後かと推定せられる位のものである。挽歌は上宮聖徳皇子竹原井に出遊の時の御作歌から、高橋朝臣が死妻を悲傷した歌まで、長歌九首、短歌五十八首を收めてゐる。年代から言へば、推古天皇の朝から天平十六年までであるが、聖徳太子の御歌は推古紀に見えた長歌の改作されたもので、年代は信を措き難い。先づ古いものとしては、朱鳥元年十月の大津皇子が磐余池の堤で殺され給うた時の作であらう。この卷を全體として見渡すと、歌數は長歌二十二首、短歌二百二十五首、總計二百四十七首で、年代はおよそ天武・持統の朝から聖武天皇の天平十六年七月までと考へてよいのである。即ちこの卷は集中で比較的新しいもので、眞淵はこれを第十四に置いてゐる。作者は、皇族では聖徳太子・大津皇子・弓削皇子・志貴皇子・春日王・長田王・長屋王らの御名が見える。臣下では人麿・赤人・黒人らが傑作を遺してゐるが、卷一・卷二などと異なつて目に立つのは旅人・坂上郎女・家持、その他大伴氏關係者の作が多く載せてあることである。殊に譬(254)喩歌は初の數首を除いては、悉く家持及びその周圍の人らの作である。これらからして、この卷は卷一・卷二に傚つて、大伴家持が編纂したものではないか、といふ推定もなし得るやうに思はれる。又この卷の分類法が、卷七と全く同樣な點も注意すべきである。奈良初期の民謠を集めたらしい卷七は、この卷の編輯に際して、參考とせられたのではあるまいか。文字使用法は十六《シシ》・義之《テシ》のやうな戯書もあらはれてゐるが、大體卷一・卷二と同一傾向である。但し、思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》・將爲須便毛奈志《セムスベモナシ》・於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》といふやうな假名書も、家持の歌には時々見えてゐるのは、彼の後年の書き方が、既にその傾向を現はしてゐるものと言つてよからう。
 
(255)萬葉集卷第三
 
天皇御2遊雷岳1之時柿本朝臣人麿作歌一首
天皇賜2志斐嫗1御歌一首
志斐嫗奉v和歌一首
長忌寸意吉麿應v詔歌一首
長皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
或本反歌一首
弓削皇子遊2吉野1之時御歌一首
春日王奉v和歌一首
或本歌一首
長田王被v遣2筑紫1渡2水島1之時歌二首
石川大夫和歌一首 名闕
又長田王作歌一首
〔256〜264、目次省略〕
 
(265)雜歌
 
天皇御2遊雷岳《イカヅチノヲカニ》1之時柿本朝臣人麿作(レル)歌一首
 
天皇は持統天皇であらう。雷岳は大和國高市郡飛鳥村大字雷村にあり、飛鳥の神奈備、三諸山のことで、雄略記に少子部連|※[虫+果]羸《スガル》がこの山で雷を捕へたことが見えてゐる。神山とも神岳山とも記されてゐる。挿入の寫眞は豐浦寺の前なる飛鳥河畔から、著者が撮影したものである。
 
235 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬せるかも
 
皇者《オホキミハ》 神二四座者《カミニシマセバ》 天雲之《アマグモノ》 雷之上爾《イカヅチノウヘニ》 廬爲流鴨《イホリセルカモ》
 
天子樣ハ、現世ノ生キテオイデナサル〔現世〜傍線〕神樣デイラツシヤルカラ、天ノ雲ノ中ノ雷トイフ名ヲ持ツタ〔九字傍線〕、雷岳〔傍線〕ノ上ニ、庵ヲ拵ヘテ宿ツテイラツシヤルワイ。誠ニイカメシイコトダ〔誠ニ〜傍線〕。
 
○皇者《オホキミハ》――舊訓スメロギハであるが、考にオホキミハと訓めるに從ふ。○神二四座者《カミニシマセバ》――神は現《アキ》つ御神《ミカミ》・現人神《アラヒトガミ》といふやうな意に用ゐてゐる。一體神は上《カミ》で、我が國では總べて優れ秀でたものに言ふのであるから、現世のオ方にも用ゐるのである。○雷之上爾《イカヅチノウヘニ》――雷岳といふ名を、眞の雷のやうに言ひナして、その雷の上に庵してゐられると驚嘆した言ひ方である。上の字を山と改める説もあるが、山といつては更に面白味がなく、又|王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセバアマグモノイホヘガシタニカクリタマヒヌ》(二〇五)といふ歌は、この歌を模倣したもので、雷之上爾《イカヅチノウヘニ》に對して五百重之下爾《イホヘガシタニ》としたのであるから、これを山とする説は當らない。○廬爲流鴨《イホリセルカモ》――舊訓イホリスルカモであつたのを、槻落葉にセルカモとし、略解もこれに從つてゐるが、舊訓の儘に從ふ説も多い。併しこの歌の趣を見ると、今天皇の庵し給へると仰ぎ見て詠んだのであるから、スルカモよりも、セルカモと言ふ方が妥當である。スルカモは庵ナサルヨといふ意で、セルカモは庵シテイラセラレルヨの意である。又、流を須に改めてセスカモと(266)訓まうとする説は妄斷である。尚、この度は普通の場合の如く、臨時に建てた小舍をいふものと考へないでもよい。卷十三に三諸之山之礪津宮地《ミムロノヤマノトツミヤトコロ》(三二三一)とあるから、ここに離宮があつたのである。
〔評〕 數多い人麿の短歌中でも、格別出色の作である。雄大な格調と、奇拔な着想とは、實に人を驚嘆せしめるもので、而も我ら日本人の、天皇を現つ御神として崇めてゐる傳統的の感情を、有りのままに詠出し、我が國民が歌はうとして歌ひ得なかつたところを、國民を代表して表現してゐるやうな感があり、誠に胸のすくやうな作である。オホキミハカミニシマセバといふ句は、卷二の置始東人の作の外に、人麿に尚一首(二四一)あり、卷十九に贈右大臣大伴卿と作者未詳の作各一首ある。卷十九のは壬申の年之亂平定後歌とあつて人麿以前の作のやうであるが、その左註に天平勝寶四年二月二日聞v之即載2於茲1也とあつて、作の年代は不明と言つてよい。兎も角もそのいづれも、人麿のこの作には及ばないのである。
 
大君は 神にしませば 雲隱る 雷山に 宮しきいます
 
右、或本(ニ)云(フ)、獻(ズル)1忍壁《オサカベ》皇子(ニ)1也、 其(ノ)歌曰 王《オホキミハ》 神座者《カミニシマセバ》 雲隱《クモガクル》 伊加土山爾《イカヅチヤマニ》 (267)宮敷座《ミヤシキイマス》
 
忍壁皇子は、天武紀に、「次宍人(ノ)臣大麻呂(ガ)女※[木+穀]媛娘、生2二男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰2忍壁皇子1」とあり、續紀に「慶雲二年五月丙戌、三品忍壁親王薨、天武天皇第九皇子也」とある。この歌に伊加土山爾宮敷座《イカヅイチヤマニミヤシキイマス》とあるのは、この皇子の宮が雷山にあつたものであらうか。
 
天皇賜2志斐嫗《シヒノオミナニ》1御歌一首
 
天皇は持統天皇。志斐嫗は志斐氏の老女。姓氏録左京神別に、中臣志斐連とある。續紀和銅二年六月志斐連の姓を賜ふと見えてゐる。尚、次の評の部參照。
 
236 否といへど 強ふる志斐のが 強ひがたり この頃聞かずて われ戀ひにけり
 
不聽跡雖云《イナトイヘド》 強流志斐能我《シフルシヒノガ》 強語《シヒガタリ》 此者不聞而《コノゴロキカズテ》 朕戀爾家里《ワレコヒニケリ》
 
イヤモウ澤山ダ〔七字傍線〕、聞カナイト言ツテモ、無理ニ話シテ聞カセル志斐嫗ノ無理強ヒ話ヲ、コノ頃聞カナイノデ朕ハ戀ヒシク思フヨ。時々ハ、ヤツテ來テ例ノ話ヲシテクレ〔時々〜傍線〕。
 
○不聽跡雖云《イナトイヘド》――不聽をイナと訓むのは義訓で、不言常將言可聞《イナトイハムカモ》(九六)。不欲常云者《イナトイヘバ》(六七九)・不許者不有《イナニハアラズ》(一六一二)の類と同じである。○強流志斐能我《シフルシヒノガ》――志斐能《シヒノ》の能《ノ》は助詞。勢奈能我素低母《セナノガソデモ》(三四〇二)・故之能吉美能等《コシノキミノト》(四〇七一)の如き能《ノ》と同じやうで、間に挾んだだけのものである。○此者不聞而《コノコロキカズテ》――比者となつてゐる古本に從ふべし。
〔評〕 諧謔に富んだ御串戯である。君臣の間の親密さが、いかにもなつかしい。この頃、尚、古代の語部の系統を引いた語連のあつたことが、天武紀や元正紀に見えるから、この老女も朝廷に奉仕して、物語ることを職としてゐたのではあるまいかとも想像せられる。尚、姓氏録には前記の中臣志斐連の外に、阿倍志斐連が見えてゐて、それには「大彦命八世孫稚子臣之後也。自2孫臣久世孫名代、謚天武御世献2之楊花1勅曰何花哉、名代奏(268)曰、辛夷《コブシ》花也、群臣奏曰、是楊花也、名代猶強奏2辛夷花1、因賜2阿倍志斐連姓1也」とある。これによると、志斐連に、強ひ言は附き物である。この名代の事件は天武の御代とすれば、この天皇もよく御存じのことであるから、この御歌も一層面白く感ぜられる。
 
志斐嫗奉(レル)v和(ヘ)歌一首 嫗名未詳
 
237 否といへど 語れ語れと のらせこそ 志斐いは奏せ 強語りとのる
 
不聽雖謂《イナトイヘド》 話禮話禮常《カタレカタレト》 詔許曾《ノラセコソ》 志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》 強話登言《シヒカタリトノル》
 
イヤモウ申シ上ゲマスマイト申シマスケレドモ、陛下ガ〔三字傍線〕話セ話セトオツシヤイマスノデ、コノ〔二字傍線〕志斐ノ婆ハオ話シ申シ上ゲタノデゴザイマス。ソレダノニ〔五字傍線〕強ヒ語リナドトオツシヤイマス。隨分非道イ仰デゴザイマス〔隨分〜傍線〕。
 
○詔許曾《ノラセコソ》――詔り給へばこその意。○志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》――自分の名の志斐に伊《イ》といふ助詞を添へたのである。伊《イ》は主格をあらはすもので、下にシ又はハの助詞を件ふことが多い。○強話登言《シヒカタリトノル》――舊訓シヒゴトトノルとあるのはわるい。前の歌をうけてシヒガタリとよむべきである。話を語の誤とするのもよくない。
〔評〕 打ち解けた奉答が畏いほどに感ぜられるが、お咎めのないのも歌の徳であらう。
 
長忌寸|意吉《オキ》麻呂應(フル)v詔(ニ)歌一首
 
意吉麻呂の傳は明らかでない。應詔の作は懷風藻に多く見えてゐる。卷一には太上天皇(持統)・大行天皇(文武)が難波宮に行幸のことが見える。そのいづれかの時の作であらう。
 
238 大宮の 内まで聞ゆ 網引すと 網子ととのふる あまの呼び聲
 
大宮之《オホミヤノ》 内二手所聞《ウチマデキコユ》 網引爲跡《アビキスト》 網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビコヱ》
 
アレアノヤウニ〔七字傍線〕、網ヲ引カウトテ 網引ク者ドモヲ呼ビ集メル漁師ノ聲ガ、御所ノ中マデ聞エマス。ホントニ(269)ノ御所ハ結構ナ御所デゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○大宮之《オホミヤノ》――大宮は難波の長柄豐埼宮である。孝徳天皇の皇居であつたが、その後、歴代の離宮となつてゐた。今の大阪市の北端豐崎町南北長柄の地にあつたのである。○網引爲跡《アビキスト》――アミヒキを約めて、アビキと訓ませた例は他にもある。爲跡《スト》はするとての意。○網子調流《アゴトトノフル》――網を曳く者をアゴといふ。調流《トトノフル》は呼び集める。卷二に齊流鼓之音者《トトノフルツヅミノオトハ》(一九九)とあるに同じ。
〔評〕 難波の離宮に行幸があつた際に、詔に應へた作であらう。實にすがすがしい明るい感じのする佳作である。海に遠い大和の都から來た人たちには、宮の内を轟かす海人の呼聲は、珍らしく面白く感じたのである。
 
長《ナガノ》皇子遊2獵路《カリヂノ》池1之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
 
長皇子は天武天皇第四皇子。六九參照。獵路池は古義に池を野に改め、十市郡鹿路村なるべしと言つてゐる。鹿路は今、磯城郡に屬し、多武峯東南の山地である。卷十二|遠津人獵道之池爾《トホツヒトカリヂノイケニ》(三〇八九)とあるから、池は誤ではあるまい。殊に或本反歌は池のある趣である。舊本獵の字が一宇になつてゐるのは、脱ちたのであらう。遊獵獵路池とあるべきである。
 
239 やすみしし 吾が大王 高光る わが日の皇子の 馬竝めて み獵立たせる わかごもを 獵路の小野に 鹿猪《しし》こそは い匍ひをろがめ 鶉こそ い匍ひもとほれ 猪鹿《しゝ》じもの い匍ひをろがみ 鶉なす い匍ひもとほり かしこみと 仕へ奉りて ひさかたの 天見るごとく 眞十鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わが大王かも
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高光《タカヒカル》 吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》 馬並而《ウマナメテ》 三獵立流《ミカリタタセル》 弱薦乎《ワカゴモヲ》 獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》 十六社者《シシコソハ》 伊波比拜目《イハヒヲロガメ》 鶉已曾《ウヅラコソ》 伊波比回禮《イハヒモトホレ》 四時自物《シシジモノ》 伊波比拜《イハヒヲロガミ》 鶉成《ウヅラナス》 伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》 恐等《カシコミト》 仕奉而《ツカヘマツリテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》 眞十鏡《マソカガミ》 仰而雖見《アフギテミレド》 春草之《ハルクサノ》 益目頬四寸《イヤメヅラシキ》 吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》
 
(270)(八隅知之)私ガオ仕ヘ申ス長〔傍線〕皇子樣、私ノ(高光)日ノ御子樣ガ、馬ヲ並ベテ、御獵ヲ遊バシタク(弱薦乎)獵路ノ野ニハ、猪鹿ノ類コソハ膝ヲ折ツテ〔五字傍線〕這ヒ拜ムモノデアル。又〔傍線〕鶉トイフ烏コソハ這ヒ廻ルモノデアルガ、我々ハ恰モ〔五字傍線〕猪・鹿ノヤウニ、皇子ノ前ニ這ヒ伏シテ拜シ奉リ、又鶉ノ如クニ這ヒ廻ツテ、カシコク思ツテ、オ仕ヘ申シテ(久竪乃)天ヲ仰グガ如クニ、仰イデ(眞十鏡)見ルガ、見ル度ニ彌々(春草之)立派ニオ見エ遊バス、私ノ仕ヘ申ス長皇子樣ヨ。ホントニエライ御方デス〔ホン〜傍線〕。
 
〇八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃《ヤスミシシワガオホキミタカヒカルワガヒノミコノ》――前に屡々出た句。五〇参照。ここは長皇子を指す。○三獵立流《ミカリタタセル》――三は御《ミ》に借りて用ゐたもの。立流《タタセル》は立ち給へる。○弱薦乎《ワカゴモヲ》――枕詞。若き薦を刈ると言ひかけ、獵路に冠せしめてある。薦は沼澤に自生する禾本科の植物で、葉を刈り取つて蓆に織る。○獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》――獵路は今の磯城郡|鹿路《ロクロ》村であらうと言はれてゐる。多武峯の東南方の山村である。○十六社者《シシコソハ》――十六は戯書で猪鹿をさしたのである。社の字は神社は乞ひ祈るところであるから、希ふ意のコソに通じて訓んだので、此處は係詞のコソである。○伊波比拜目《イハヒヲロガメ》――伊《イ》は添へて言ふのみ。這ひ拜むこと。○伊波比回禮《イハヒモトホレ》――伊《イ》は發語。廻るをモトホルといふ。○四時自物《シシジモノ》――猪鹿じ物で、じ物は、の如きもの。○鶉成《ウヅラナス》――鶉の如く。○恐等《カシコミト》――恐しとての意。○久竪乃《ヒサカタノ》――天の枕詞。八二參照。○眞十鏡《マソカガミ》――見の枕詞。○春草之《ハルクサノ》――目頬四寸《メヅラシキ》の枕詞。春の草は愛《メヅ》らしいものだからである。○吾於富吉美可聞《ワガオホキミカモ》――吾が大君は長皇子を指す。
〔評〕 長皇子に對する敬意が充分に表現せられてゐる。鹿猪や鶉に譬へて自己の額づく樣を述べたのも面白い。併しすべてが常用の修辭で、特異の點がない。
 
反歌
 
240 ひさかたの 天行く月を 綱に刺し 我が大王は 蓋にせり
 
(271)久堅乃《ヒサカタノ》 天歸月乎《アメユクツキヲ》 綱爾刺《ツナニサシ》 我大王者《ワガオホキミハ》 盖爾爲有《キヌガサニセリ》
 
天ノヤウニ私ドモガ仰ギ奉ル〔天ノ〜五字傍線〕長皇子樣ハ(久堅乃)天ヲ通ル月ヲ綱デ刺シ通シテ、御頭上ニサシカケル〔九字傍線〕蓋ニシテイラツシヤル。誠ニエライコトデス〔誠ニ〜傍線〕。
 
○綱爾刺《ヅナニサシ》――舊本網とあり、アミニサシとよんでゐる。考に從つてツナに改める。綱爾《ツナニ》は綱での意。盖に綱は附屬したもので、踐祚大甞祭式に、「車持朝臣一人執2菅蓋1子部(ノ)宿禰一人笠取(ノ)直一人、並執2盖綱1膝行、各供2其職1」とある通である。○盖爾爲有《キヌガサニセリ》――盖は和名抄に岐奴加散と訓じてある。絹を張つた天蓋樣のもので、貴人にさし懸けたもの。大神宮奉遷御料の御蓋は方五尺五寸、柄の長一丈三尺五寸とある。
〔評〕 夕暮まで獵してゐられる皇子の頭上に、いつしか月の輝いてゐるのを見て、月を蓋と見立てて、皇子の尊容と威光とヲ讃へたので、前の天雲之雷之上爾廬爲流鴨《アマグモノイカヅチノウヘニイホリセルカモ》(二三五)と同じやうな趣を歌ひ、實に壯大な感がある。古義に「圓蓋を月に見なしたるなり」とあるは誤つてゐる。
 
或本反歌一首
 
241 大君は 神にしませば 眞木の立つ 荒山中に 海をなすかも
 
皇者《オホキミハ》 神爾之坐者《カミニシマセバ》 眞木之立《マキノタツ》 荒山中爾《アラヤマナカニ》 海成可聞《ウミヲナスカモ》
 
長皇子樣ハ人間以上ノ〔五字傍線〕神樣デイラツシヤルカラ、カヤウニ〔四字傍線〕檜ノ生エテヰル人跡ノ稀ナ山中ニ、海ヲオ作リニナツタナア。不思議ナ力ヲ持ツテオイデナサル〔不思〜傍線〕。
 
○眞木之立《マキノタツ》――檜(ノ)木の立つてゐる意。次の句への續き方は、卷一眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》(四五)とあるに似てゐる。○海成可聞《ウミヲナスカモ》――海は獵路の池をさしたもの。すべて水の廣きを海といふ。
〔評〕 遊獵の途、山中の獵路の池を見て、皇子の威光によつて山中に海が出來てゐると誇張したので、例の大き(272)な感じを與へる作品ではあるが、かなりわざとらしさがある。この皇者《オホキミハ》を天皇とし、この御代に池を掘らせられたのを見て、皇徳をたたへたもののやうに、略解や古義にあるのは誤である。又これを右の反歌でないといふ説も當を得ない。
 
  弓削皇子遊(ビタマヘル)2吉野(ニ)1時、御歌一首
 
弓削皇子は天武天皇第六皇子。卷二の一一一參照。
 
242 瀧の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと わが思はなくに
 
瀧上之《タギノヘノ》 三船乃山爾《ミフネノヤマニ》 居雲乃《ヰルクモノ》 常將有等《ツネニアラムト》 和我不念久爾《ワガモハナクニ》
 
コノ吉野ノ〔四字傍線〕瀧ノ上ニアル、三船山ニハ、アノヤウニ毎時デモ雲ガカカツテヰて、誠ニ面白イ景色ダガ、アノ〔アノヤ〜傍線〕雲ガ常ニ掛ツテヰルヤウニ、私ハ何時マデモ變ルコトナク〔何時〜傍線〕永久コノ世ニ生キテ居ラレル身ノ上ダトハ思ハレナイ。アノ絶エズ棚曳(273)イテヰル雲ヲ見レバ無常ナ人間ノ命ガ恨メシクナル〔アノ〜傍線〕。
 
○瀧上之三船乃山爾《タギノウヘノミフネノヤマニ》――瀧は今の宮瀧の急流で、その上にある三船の山の意である。船を伏せた形をしてゐるので、斯く名づけたのだらう。一名舟岡山ともいふ。○居雲乃《ヰルクモノ》――居る雲の如くの意で、三船の山の雲が、常に懸つてゐるのに譬へたのである。契沖が「雲の起滅定めなきが如くなる世なれば」と言つたのは誤。○和我不念久爾《ワガモハナクニ》――我は思はぬよと、餘情を籠めて言ひをさめたのである。
〔評〕 吉野川沿岸の勝景に對し、人命の短いのを嘆ぜられたのである。源實朝の「世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手悲しも」も同じやうである。卷六に人皆乃壽毛吾母三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨《ヒトミナノイノチモワレモミヨシヌノタギノトコハノツネナラヌカモ》(九二二)とあるのも似てゐる。
 
春日王奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
春日王は續紀に、文武天皇の三年六月庚戌淨大肆春日王卒と見えてゐる御方で、弓削皇子は同年の七月に薨じて居られ、御年齡もあまり違はないお親しい間柄であつたと見える。諸註に志貴親王の御子とあるけれども、それは別人の春日王で、卷四(六六五)に湯原王の歌に和へられたお方である。その春日王と湯原王とは春日宮天皇と追尊せられた志貴親王の御子で、年代が新しいやうである。志貴親王は天智天皇の七年の御誕生で、文武天皇の三年は三十三歳であらせられたから、この歌を詠み給ふやうな、王子がましましたとは考へられない。尚、この親王の第六王子であらせられた光仁天皇は、和銅二年の御降誕で、文武天皇三年から、十年の後であることも考ふべきである。
 
243 大君は 千歳にまさむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや
 
王者《オホキミハ》 千歳爾麻佐武《チトセニマサム》 白雲毛《シラクモモ》 三船乃山爾《ミフネノヤマニ》 絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》
 
貴方樣ハ大層オ嘆キナサイマスガ〔貴方〜傍線〕、貴方樣ハ千年ノ御壽命ヲオ保チナサイマスデセウ。白雲モ三船ノ山ノ上ニ(274)棚曳イテヰナイ日ハ御座イマスマイ。アノ白雲ノ通リニ永久ニコノ世ニオイデ遊バシマス。オ嘆キ遊バシマスナ〔アノ〜傍線〕。
〔評〕 三船山の雲に我が身を比べて、無常を感ぜられたのに對し、その雲の如く御壽命が絶えないと慰められたのは、時に取つて巧妙に出來た平明な作である。敬意と温情とがあらはれてゐる。
 
或本歌一首
 
244 み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに
 
三吉野之《ミヨシヌノ》 御船乃山爾《ミフネノヤマニ》 立雲之《タツクモノ》 常將在跡《ツネニアラムト》 我思莫苦二《ワガモハナクニ》
 
コノ〔二字傍線〕吉野ノ御船ノ山ノ上ニハ絶エズ雲ガ立ツテヰルガ、アノ〔上ニ〜傍線〕雲ノヤウニ、永久ニコノ世ニ〔四字傍線〕生存シヨウトハ、私ハ思ハナイヨ。ヤガテハ死ンデシマフ壽命ダ〔ヤガ〜傍線〕。
〔評〕 前の瀧上之《タギノウヘノ》の歌の第一句と第三句との異傳である。大した相異でもない。
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集(ニ)出(ヅ)
 
長田《ナガタ》王、被(レ)v遣(ハ)2筑紫(ニ)1渡(レル)2水島(ニ)1之時(ノ)歌二首
 
長田王は卷一(八一)に出てゐる。續紀によれば、和銅四年「四月壬午、從五位上長田王授2正五位下1」とあり、さうしてこの作は前後の歌から考へれば慶雲頃らしいから、長田王はまだ若年であつたらしい。水島は景行紀に「十八年夏四月壬戌朔壬申、自2海路1泊《テ》2於葦北小島(ニ)1而進食(ス)、時召2山部|阿弭古《アビコ》之祖|小左《ヲヒダリ》1、令v進2冷水1、適2此時1島中無v水、不知2所爲1則仰之、祈2于天神地祇1、忽寒泉從2崖傍1湧出、乃酌以獻焉、故(ニ)號2其島1、曰2水島1也、其泉猶今在2水島崖1也」とある。枕草子に(275)も、「島は……水島」とある。今は八代郡の内に入り、球磨川の流砂によつて陸地に續いてゐる。植柳西南の地らしい。
 
245 聞きしごと まこと貴く くすしくも 神さび居るか これの水島
 
如聞《キキシゴト》 眞貴久《マコトタフトク》 奇母《クスシクモ》 神左備居賀《カムサビヲルカ》 許禮能水島《コレノミヅシマ》
 
豫テ聞イテヰタ通リニ、來テ見ルト〔五字傍線〕、コノ水島トイフ島ハ、ホントニ貴ク珍シク神々シイ姿ヲシテヰルヨ。
 
○神左備居賀《カムサビヲルカ》――神々しくあることよの意で、居賀《ヲルカ》は居ルカナに同じ。
〔評〕 水島は上に記したやうに、古い傳説を持つてゐる島であるから、その名は都人も聞き傳へてゐたのである。王は今眼前に傳説の島を御覽になつて、名にし負ふ小島の、神々しい姿を喜ばれたのである。その感じが充分に現はされてゐる。
 
246 葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ
 
葦北乃《アシキタノ》 野坂乃浦從《ヌザカノウラユ》 船出爲而《フナデシテ》 水島爾將去《ミヅシマニユカム》 波立莫動《ナミタツナユメ》
 
葦北郡ノ野坂ノ浦カラ船出ヲシテ、今カラ私ガ〔五字傍線〕水島ヘ行カウトシテヰル所ダ。決シテ浪ガ立ツテハナラヌゾヨ。
 
○葦北乃《アシキタノ》――肥後の最南部にあり、薩摩に隣れる郡名。○野坂乃浦從《ヌザカノウラユ》――野坂の浦の所在が、今判明しない。(276)増補國志に「野坂は佐敷太郎坂の舊名にして、田浦村は野坂里なるべし」とあり、肥後地志略には、「野坂浦は今の湯地坂を云ふ。佐敷と湯浦との間にあり。又歌坂とも稱す」とある。著者も青年時代、彼の邊を船で往還したものであるが、海岸には謂はゆる三太郎越あり、陸路は交通困難である。王が舟行せられたのもその爲で、これらの點から考へても、又舟泊の適地としても、今の佐敷附近が野坂の浦らしく想像せられる」
〔評〕 海路平安の希望が素直にありのままに歌ひ出されてゐる。明澄な作である。
 
  石川大夫和(フル)歌一首  名闕
 
247 沖つ浪 邊浪立つとも わがせこが 御船の泊り 波立ためやも
 
奧浪《オキツナミ》 邊波雖立《ヘナミタツトモ》 和我世故我《ワガセコガ》 三船乃登麻里《ミフネノトマリ》 瀾立目八方《ナミタタメヤモ》
 
沖ノ浪ヤ岸ノ浪ガ、タトヒ立タウトモ、貴方樣ガ乘ツテイラツシヤル御船ノ泊ル所ニ、波ガ立チマセウカ、何處ニ波ガ立タウトモ、御船ノ碇泊スル所ニハ決シテ波ハ立チマセヌ。御心配ナサイマスナ〔何處〜傍線〕。
 
○和我世故我《ワガセコガ》――セコは男を親しんでいふ語であるから、男子間相互に用ゐる場合もある。ここは王を指してゐる。○三船乃登麻里《ミフネノトマリ》――御船の泊。王の船の碇泊所をいふ。
〔評〕 王の御船の安穩をことほいだもの。ほぎ言には幸福が伴なふといふ信念を、古代人は持つてゐた。それが謂はゆる言靈の幸ふ國人の思想であつたのである。下句の道理を超越した言ひ方が面白い。
 
右今案、從四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲年中任(ス)2大貳(ニ)1、又正五位下石川朝臣吉美侯、神龜年中任2少貳1、不v知3兩人誰作(レルカ)2此歌(ヲ)1焉
 
この註は後人の仕業である。略解に「この集、大夫とあるは五位の人を言へり。續紀を考ふるに、宮麻呂はこの註に言へる如く、四位なれば大夫と書くべからず。吉美侯は、養老五年侍從と見えて、少貳に任じた(277)る事見えず。さればこの石川大夫は、宮麻呂にも吉美侯にもあらず。卷四に、神龜五年戊辰、太宰少貳石川足人朝臣遷任餞2于筑前國蘆城驛家1歌三首と有、此の足人也。左註は誤れり」といつてゐる。古義はこれに反對して宮麻呂だらうと言つてゐるが、誰とも分らない。この作を慶雲以前とし、宮麻呂がその時少貳であつた考へられないこともない。但しさうすると、長田王があまり若冠のやうである。
 
又、長田王作歌一首
 
248 隼人の 薩摩の瀬戸を 雲居なす 遠くも吾は 今日見つるかも
 
隼人乃《ハヤヒトノ》 薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》 雲居奈須《クモヰナス》 遠毛吾者《トホクモワレハ》 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
隼人ノ國ノ薩摩ノ瀬戸ノ佳イ景色〔五字傍線〕ヲ、私ハ空ノヤウニ遙カ遠クニ、今日ハ眺メタヨ。
 
○隼人乃《ハヤヒトノ》――枕詞と冠詞考にあるのは誤つてゐる。續紀に隼人國とあるから、國名である。○薩摩乃追門乎《サツマノセトヲ》――薩摩は未だ國名でなく、この地方の名であつた。薩摩の迫門は長島との間の海峽で、今は黒瀬戸といつてゐる。卷六に隼人乃湍門乃磐母年魚走芳野之瀧爾尚不及家里《ハヤヒトノセトノイハホモアユハシルヨシヌノタキニナホシカズケリ》(九六〇)とあるから景色のよい所である。和名抄に薩摩國出水郡に勢度郷あり、これはこの迫門に面した里である。
〔評〕 海上に浮んで、隼人の薩摩の迫戸は彼方だとお聞きになつて、お詠みになつた御歌である。水天髣髴の間に望んだ陸影によつて、音に聞いた迫戸の好景を偲んで、淡い滿足の感と、親しく實境に接し得ざる物足りなさとが、こんがらかつたやうな情が歌はれてゐる。
 
柿本朝臣人麿※[覊の馬が奇]旅歌八首
 
249 三津の埼 浪をかしこみ こもり江の 舟こぐきみが 乘るか野島に
 
三津埼《ミツノサキ》 波矣恐《ナミヲカシコミ》 隱江乃《コモリエノ》 舟公《フネコグキミガ》 宣奴島爾《ノルカヌジマニ》
 
三津ノ埼ニ立ツ波ガ荒クテ〔三字傍線〕恐ロシサニ、靜カナ入江ノ奧ニ隱レテヰタガ、船人ハ風ガ凪イダノデ〔七字傍線〕野島ノ埼ヘ(278)アノヤウニ〔五字傍線〕乘リ出シテ行クカヨ。
 
○三津埼《ミツノサキ》――卷八に難波方三津埼從《ナニハガタミツノサキヨリ》(一四五三)とあるから、難波の三津に違ない。○隱江乃《コモリエノ》――水の淀んで流れない入江を隱江《コモリエ》と言ひ、籠るにかけてある。隱江の舟は三津埼の波のしづまるのを待つて、難波江の奧にかくれてゐた舟である。○舟公《フネコグキミガ》――船人。この句或は誤字か。○宣奴島爾《ノルカヌジマニ》――野島をさして舟を乘り出したよといふのであらう。この歌の下句は古來誤字として、これを改める説が多い。考は舟令寄敏馬崎爾《フネハヨセナムミヌメノサキニ》、玉の小琴は、舟八毛何時寄奴島爾《フネハモイツカヨセムヌジマニ》、槻の落葉は、舟八毛不通奴島埼爾《フネハモユカズヌジマガサキニ》、古義は、舟寄金津奴島埼爾《フネヨセカネツヌジマガサキニ》 など樣々であるが、文字を改めないで、宣をノルとよみ、フネコグキミガノルカヌジマニとよんで、右の通りに解した。宣の字は他に用例はないが、乘るに借り用ゐられない字ではあるまい。野島は地圖に示す如く、淡路の北部の西岸にある。古義に淡路の南方の海上にある、沼島としたのは大なる誤である。これは瀬戸内海航行の際の作であるから、紀淡海峽を出て南行する筈はない。
〔許〕 誤字があるらしいから、評はやめて置かう。ともかく難波津から西行する時の作らしい。下に、柿本朝臣人麿下2筑紫國1海路作歌二首があるから、或はその往路の作かも知れない。
 
250 玉藻苅る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が埼に 船近づきぬ 一本云、處女を過ぎて夏草の野島が埼にいほりす吾は
 
玉藻苅《タマモカル》 敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》 夏草之《ナツクサノ》 野島之埼爾《ヌジマガサキニ》 船近著奴《フネチカヅキヌ》
 
美シイ藻ヲ苅ル敏馬ノ浦ヲ過ギテ(夏草之)野島ノ埼ニ舟ガ近ヅイテ來タ。今夜ノ泊ル所モ近ヅイタ。嬉シイ〔今夜〜傍線〕。
 
(279)○珠藻苅敏馬乎過《タマモカルミヌメヲスギテ》――珠藻苅ハ敏馬の上に冠したのであるが、純粹の枕詞ではない。敏馬は神戸の東に接した今の西灘村。○夏草之《ナツクサノ》――枕詞。夏草の萎《ナ》ゆを約めて、ヌとして野島に續けたもの。
〔評〕 難波の三津の崎を出た舟が、敏馬の浦も過ぎて、明石海峽に入り、野島が埼に近づいたのである。宿泊地の近づいた嬉しさが、歌調にもあらはれてゐる。珠藻苅と夏草之とを對比して調を整へてゐるやうだ。
 
一本云、處女乎過而《ヲトメヲスギテ》 夏草乃《ナツクサノ》 野島我埼爾《ヌジマガサキニ》 伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》
 
○處女乎過而《ヲトメヲスギテ》――處女は敏馬の誤とする説もあるが、處女塚のある地で、即ち蘆屋である。○伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》――我らは庵すの意。庵すは小屋を作つて宿ること。この歌卷十五の三六〇六に當v所誦詠古歌として遣新羅使一行に歌はれたことが出てゐる。
 
251 淡路の 野島が埼の 濱風に 妹が結びし 紐吹きかへす
 
粟路之《アハヂノ》 野島之前乃《ヌジマガサキノ》 濱風爾《ハマカゼニ》 妹之結《イモガムスビシ》 紐吹返《ヒモフキカヘス》
 
今〔傍線〕淡路ノ野島埼ニ碇泊シテヰルト、其處〔ニ碇〜傍線〕ノ濱風デ、旅ニ出ル時ニ〔六字傍線〕、妻ガ結ンデクレタ私ノ衣服ノ〔五字傍線〕紐ヲ、吹キ翻ヘスヨ。家ニ遺シテ來タ妻ガ思ヒ出サレテ恋戀シイ〔家ニ〜傍線〕。
 
○粟路之《アハヂノ》――淡路の國の。この國名は、阿波への通路にあるから、起つたものと言はれてゐる。○妹之結《イモガムスビシ》――ムスベルとよむべしと槻の落葉や、古義にいつてゐるが、舊訓のままでよからう。○紐吹返《ヒモフキカヘス》――紐は上衣(280)の紐である。挿入圖は日本風俗沿革圖から摸寫縮圖したもので、人麿時代官吏の平常服である。領の紐を示す爲に掲げたのである。
〔評〕 實に哀情の籠つた歌である。眞心こめて旅の安全を祈つて、妻が結んでくれた紐のはためきが、さながら其處に妻の心の躍動を見るやうに思はれるのである。
 
252 あらたへの 藤江の浦に 鱸釣る 海人とか見らむ 旅行く吾を 一本云、白栲の藤江の浦にいざりする
 
荒栲《アラタヘノ》 藤江之浦爾《フヂエノウラニ》 鈴寸釣《スズキツル》 白水郎跡香將見《アマトカミラム》 旅去吾乎《タビユクワレヲ》
 
旅ヲシテヰル私ダノニ、世間ノ人ハ〔五字傍線〕(荒栲)藤江ノ浦デ鱸ヲ釣ル漁師ト思フデアラウカ。私ハ今コノ浦ノ景色ヲ見テヰルノニ、海人ト思フカモシレナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○荒栲《アラタヘノ》――枕詞。藤麓で織つた衣を荒栲といふからである。○藤江之浦爾《フヂエノウラニ》――和名抄に播磨國明石郡葛江、布知衣とある處で、明石の西に接した地。二四九の地圖參照。○旅去吾乎《タビユクワレヲ》――旅行く我なるものをの意。
〔評〕 旅人のみすぼらしい姿が、漁夫に見違へられさうなのである。旅のあはれと共に、輕い氣分も出てゐるやうだ。この歌は次の卷十五の三六〇七の外に、卷七の一一八七・一二〇四・一二三四など似通つた歌がある。
 
一本云、白栲乃《シロタヘノ》 藤江能浦爾《フヂエノウラニ》 伊射利爲流《イザリスル》
 
上の句の異傳である。前の玉藻苅の歌と共に、卷十五の三六〇七にこの通りに出てゐる。白栲乃では藤につづく枕詞として、穩やかでないやうに思はれる。
 
253 稻日野も 行き過ぎがてに 思へれば 心戀しき 可古の島見ゆ 一云、みなと見ゆ
 
稻日野毛《イナビヌモ》 去過勝爾《ユキスギガテニ》 思有者《オモヘレバ》 心戀敷《ココロコホシキ》 可古能島所見《カコノシマミユ》
 
印南野ノ景色〔三字傍線〕モ面白クテ、行キ過ギ難ク思ツテヰルノニ、カネガネ聞キ及ンデ見タイモノト〔カネ〜傍線〕戀シク思ツテヰタ、可古ノ島ガ彼方ニ〔三字傍線〕見エル。彼方ヘモ早ク行キタイシ此處モ見捨テ難イ〔彼方〜傍線〕。
 
(281)○稻日野毛《イナビヌモ》――稻日は卷一に伊奈美國波良《イナミクニハラ》(一四)とあると同じく、即ち播磨の印南野である。明石と可古川との中間の平野。○去過難爾《ユキスギガテニ》――去き過ぎ兼ねての意であるが、勝《ガテ》は堪《タヘ》と同じく、爾《ニ》は打消である。即ち行き過ぐるに堪へずの意。○心戀敷《ココロコホシキ》――卷五に毛毛等利能己惠能古保志枳《モモトリノコヱノコホシキ》(八三四)とあるから、コホシキがよからう。卷十七には鳴鳥能許惠乃孤悲思吉登岐波伎爾家里《ナクトリノコヱノコヒシキトキハキニケリ》(三九八七)とあるから、コヒシキでもよいのである。が、ここは古い形によらう。六七參照。○可古能島所見《カコノシマミユ》――可古能島は加古川の河口の渚《ス》だらうといふ。この邊には島といふべきものは他にない。この渚が即ち高砂である。久老が阿古の誤として攝津の地名とし、吾兒にかけて見たのはわるい。
〔評〕 印南野の好景にも未だ飽かぬに、可古の島の佳景も前に迫つたといふので、舟中の眺望が次から次へと轉轉して、旅情を慰める心持がよく出てゐる。ふつくりした柔味のある歌である。
 
一云|潮見《ミナトミユ》
 
潮の字は湖の誤と槻落葉にあるのは誤。潮葦《ミナトアシニ》(二四六八)・潮核延子菅《ミナトニサネハフコスゲ》(二四七〇)の如き、皆ミナトとよんでゐる。蓋し湖と通じて用ゐるので、湖の字はミナトとよんだ例が多い。島よりも湊の方がよいやうだ。
 
254 ともしびの 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず
 
留火之《トモシビノ》 明大門爾《アカシオホトニ》 入日哉《イラムヒヤ》 榜將別《コギワカレナム》 家當不見《イヘノアタリミズ》
 
私ノ乘ツテヰル船ガ〔九字傍線〕(留火之)明石ノ大瀬戸ニ入ラウトスル日ニハ、今マデ見エテヰタ〔八字傍線〕家ノ方ガ見エナクナルヤウニ、漕ギ離レテシマフデアラウ。名殘惜シイ〔五字傍線〕。
 
○留火之《トモシビノ》――留の字は燭又はその省畫の蜀の誤だらうといふ説がある。さうかも知れない。併し留は、留不得《トドメエヌ》(四六一)留有《トドマレル》(一四五三)留不知毛《トマリシラズモ》(一七一九)誰留流《タレカトドムル》(二六一七)などの例によれば、トムとトモと音が近いから、トモシと用ゐられぬ文字でも無ささうである。槻の落葉にトマリ火の轉として、トモリ火とよんだのも參考すべき説で(282)あらう。明石の枕詞。○明大門爾《アカシオホトニ》――大門はオト又はオドともよんであるが、オホトがよからう。大瀬戸の意。○家當不見《イヘノアタリミズ》――家の邊も見えずの意で、四の句の上に轉じて解すべきであらう。哉《ヤ》を不見《ミズ》で結んだのではない。
〔評〕 大和を出て西航する時の歌である。これをイヘノアタリミユとする説があるのは、西から都へ歸る時と見たものであるが、よくない。下の句の措辭に落付かぬところがある。
 
255 天さかる 夷の長道ゆ 戀ひ來れば 明石の門より 大和島見ゆ 一本云、やどのあたり見ゆ
 
天離《アマサカル》 夷之長道從《ヒナノナガヂユ》 戀來者《コヒクレバ》 自明門《アカシノトヨリ》 倭島所見《ヤマトシマミユ》
 
私ガ〔二字傍線〕(天離)田舍ノ長イ道中ヲ、家ノ方ガ〔四字傍線〕戀シクナツカシク思ヒツツ漕イデ〔三字傍線〕來ルト、明石ノ瀬戸カラ大和ノ國ガ見エルヨ。イヨイヨ家モ近ヅイタ。嬉シイ、嬉シイ〔イヨ〜傍線〕。
 
○天離夷之長道從《アマサカルヒナノナガヂユ》――從《ユ》はヨリ、カラの意に用ゐられるのが常であるが、ヲの意の場合もある。これはそれである。○倭島所見《ヤマトシマミユ》――倭嶋は大和の國をいつたのである。島でなくてもシマといつた例は、ないことはないが、これは海上に見えるから、シマといつたのであらう。この倭島を淡路に求めて、繪島の南、石屋神社の祠前にあるとした大日本地名辭書は、大なる誤である。
〔評〕 これは西より大和へ歸らうとして、明石海峽に至り、始めて遠く葛城・生駒の諸山を望んで、狂喜した歌である。雀躍抃舞の樣も思ひやられて、あはれである。これを西航の時の作とするのは、この歡喜に溢れてゐる歌詞を味はひ得ざるものである。
 
一本云|家門當所見《ヤドノアタリミユ》
 
五の句の異傳である。本歌よりも劣つてゐる。門は乃の誤だらうといふ説もある。これも卷十五に安麻射可流比奈乃奈我道乎孤悲久禮婆安可思能門欲里伊敝乃安多里見由《アマザカルヒナノナガヂヲコヒクレバアカシノトヨリイヘノアタリミユ》(三六〇八)とある歌である。
 
256 飼飯の海の には好くあらし 苅薦の 亂れ出づ見ゆ 海人の釣船
 
飼飯海乃《ケヒノウミノ》 庭好有之《ニハヨクアラシ》 苅薦乃《カリコモノ》 亂出所見《ミダレイヅミユ》 海人釣船《アマノツリブネ》
 
(283)飼飯ノ海ハ海上穩ヤカト見エル。遙カニ見渡スト澤山ニ〔遙カ〜傍線〕(苅薦乃)バラバラニナツテ、漁師ノ釣舟ドモガ出テヰルノガ見エル。
 
○飼飯海乃《ケヒノウミノ》――淡路國三原郡の西海岸に笥飯野といふ所がある。そこの海であらう。越前の敦賀の海も笥飯といふが、それではない。○庭好有之《ニハヨクアラシ》――庭《ニハ》は海面を言つたのである。好有之《ヨクアラシ》は好くあるらしで、穩やかであらうの意。○苅薦乃《カリコモノ》――亂れとつづく枕詞。○亂出所見《ミダレイヅミユ》――亂れ出づるが見ゆの意ではあるが、略解のやうにイヅルミユとせず、イヅミユと訓むのが古格である。
〔評〕 海上に、多くの漁船が算を亂して出た有樣を歌つたのである。すがすがしい氣分の叙景詩である。玲瓏として玉を延べたやうな光輝と、氣韻とを備へてゐる。
 
一本云、武庫の海 にはよくあらし 漁する 海人の釣船 浪の上ゆ見ゆ
 
一本云、武庫乃海舶爾波有之伊射里爲流海部乃釣船浪上從所見《ムコノウミニハヨクアラシイザリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》
 
これも卷十五、武庫能宇美能爾波余久安良之伊射里須流安麻能都里船奈美能宇倍由見由《ムコノウミノニハヨクアラシイザリスルアマノツリフネナミノウヘユミユ》(三六〇九)とある歌である。この武庫乃海舶爾波有之を、ムコノウミフナニハナラシとよんだり、ムコノウミノフネニハアラシとよんだりしてゐるが、いづれも無理である。ここの一本とあるは、すべて卷十五の歌に一致してゐるから、これも卷十五の通りによむべきで、舶は衍、波の下に好の字を脱したのであらう。神田本にはさうなつてゐる。
 
鴨君足人《カモノキミタリヒト》香具山(ノ)歌一首并短歌
 
鴨君足人は傳未詳。君の字、續紀「天平寶宇三年冬十月辛丑天下諸姓著2君字1者、換以2公字1、」とある。これはそれ以前に書いたものであらう。香具山は二及び二八參照。
 
257 天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池浪立ちて 櫻花 木のくれ茂に 沖邊には 鴨め喚ばひ 邊つべに あぢむらさわぎ 百磯城の 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には かぢ棹も 無くてさぶしも 漕ぐ人なしに
 
(284)天降付《アモリツク》 天之芳來山《アメノカグヤマ》 霞立《カスミタツ》 春爾至婆《ハルニイタレバ》 松風爾《マツカゼニ》 池浪立而《イケナミタチテ》 櫻花《サクラバナ》 木晩茂爾《コノクレシゲニ》 奧邊波《オキベニハ》 鴨妻喚《カモメヨバヒ》 邊津方爾《ヘツベニ》 味村左和伎《アヂムラサワギ》 百磯城之《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》 退出而《マカリデテ》 遊船爾波《アソブフネニハ》 梶棹尾《カヂサヲモ》 無而不樂毛《ナクテサブシモ》 已具人奈四二《コグヒトナシニ》
 
(天降付)天ノ香具山は、霞ノ立ツ春ニナルト、松風デ埴安ノ〔三字傍線〕池ノ浪ガ立チ騒ギ、櫻ノ花ハ木ガ暗イヤウニ茂ツテヰル奧ニ咲イテヰル。池ノ〔六字傍線〕沖ノ方ニハ鴎ガ嶋イテ居、岸ノ方ニハ味鴨ガ群ヲナシテ騒イデヰル。(百磯城之)御所ニ奉仕スル人ガ、退出シテ乘ツテ遊ブ船ニハ、櫂モ棹モ無クテ淋シイ景色ダナア。漕グ人ガ無イカラ。高市皇子ガ薨去遊バシテカラハ、皇子ノ香具山ノ御所ヒドク荒レ果テタモノダ。アア悲シイ〔高市〜傍線〕。
 
○天降付《アモリツク》――アマオリツクの約で、天から天降つて地上に附いた意。伊豫風土記に「伊豫郡、自2郡家1以東北、在2天山1、所v名2天山1由者、倭在天加具山自v天降時、二分而以2片端1者天2降於倭國1、以2片端1者天2降於此土1、因謂2天山1本也」と見える古傳説から出來た枕詞らしい。○木晩茂爾《コノクレシゲニ》――木晩《コノクレ》は木の茂つた陰の暗いこと。爾《ニ》を古義に彌《ミ》の誤としてゐる。もとの儘で、咲きといふ詞を添へて見るがよい。○鴨妻喚《カモメヨバヒ》――カモツマヨバヒと契沖はよんでゐるが、卷一の天皇登2香具山1望v國之時御製歌に加萬目立多都《カマメクチタツ》(二)とあるから、これも鴨妻《カモメ》に相違ない。又次の味村左和伎《アヂムラサワギ》の句の對としても、カモメヨバヒと言ふべきところである。○味村左和伎《アヂムラサワギ》――味村《アヂムラ》は味といふ鳥の群、味は味鳧《アヂカモ》といふ游禽類の一で、鴨に似て小さく、頭は黒褐色、翼は灰色、背は藍灰色に暗赤色の羽根を混じ、胸部は黄赤色に小さい黒點があり、群棲を好む性質がある。○遊船爾波《アソブフネニハ》――遊ぶべき船にはの意。ここでは遊んだ舟といつても同じである。
(285)〔評〕 高市皇子の薨去後、その香具山の宮には奉仕する人も無く、日々に荒れ増つて行つた四邊の荒凉・寂寥の景を、巧みに詠出してゐる。松風に池の浪が立ち、櫻花が木陰に咲き、埴安の池には、鴎や味鳧の群が騷いでゐる景色は、一幅の好畫圖である。この景中に、汀に乘り捨てられた小舟を點出して、往時を偲ばしめ、漕ぐ人なしにと結んだところは、言ふべからざる淋しさが漲つてゐる。
 
反歌二首
 
258 人榜がず 在らくも著《しる》し かづきする 鴛鴦とたかべと 船の上に住む
 
人不榜《ヒトコガズ》 有雲知之《アラクモシルシ》 潜爲《カヅキスル》 鴦與高部共《ヲシトタカベト》 船上住《フネノヘニスム》
 
人ガコノ頃乘ツテ〔六字傍線〕漕ガナイコトハ、著シクヨクワカル。見レバ〔三字傍線〕水ノ中ヘモグリ込ム鳥ノ鴛鴦ト※[爾+鳥]《タカベ》トガ、共ニ舟ノ上ニ棲ンデヰルヨ。
 
○有雲知之《アラクモシルシ》――有ルラクモ著シで、有ることが著しくよく分るといふのだ。○潜爲《カヅキスル》――鴦と高部とにかかつてゐて、その性質を述べたのである。固より今水中に潜つてゐるのではないが、枕詞でもない。○鴦與高部共《ヲシトタカベト》――鴦《ヲシ》は人のよく知る水鳥である。高部《タカベ》は和名抄に「※[爾+鳥]多加閉。一名沈鳧、貌似v鴨而小、背上有v文」とある。俗に小鴨と稱する鳥である。
〔許〕 乘る人もない捨小舟の上に、鴦と高部とが靜かに眠つてゐる樣を述べて、閑寂蕭條の趣をあらはしてゐる。老巧な手腕である。
 
259 何時の間も 神さびけるか 香具山の 鉾杉が本に こけ生すまでに
 
何時問毛《イツノマモ》 神左備祁留鹿《カムサビケルカ》 香山之《カグヤマノ》 鉾椙之本爾《ホコスギガモトニ》 薛生左右二《コケムスマデニ》
 
コノ〔二字傍線〕香具山ノ、鉾ノヤウナ形ヲシテヰル杉ノ幹ニ、蘿《コケ》ガ生エル程モ、何時ノ間ニマア、カヤウニ古ビテ神々シク(286)ナツタノデアラウゾ。高市皇子ノ薨去遊バシタノハ、昨日ノヤウニ思ハレルノニ、御所ノアタリノ樹木ハ、コンナニ古々シクナツタ。年月ノ經ツノハ早イモノダ〔高市〜傍線〕。
 
○何時間毛《イツノマモ》――毛《モ》はマアといふ意で、詠歎の助詞である。○香山之《カグヤマノ》――香具山之とあるべき具の字を省いてあるやうに見えるが、さうではない。香は韻鏡内轉第三十一開、陽韻喉音曉母の音で呉音Kangであるから、おのづからカグの音があるのである。卷十一にも香山爾《カグヤマニ》(二四四九)とあり、又卷八の伊香山《イカゴヤマ》(一五三三)とあるも同理である。○鉾椙之本爾《ホコスギガモトニ》――鉾椙は鉾のやうな形をした杉で、杉は眞直に伸びてゐるから、鉾の形をしてゐるものが多い。鉾ほどの長さの若杉だといふ説も、亦、鉾の形をした若杉と見る説も、どうかと思はれる。もし若杉に限つて鉾椙といふとすれば、神さびて蘿むせるものは、もはや鉾椙とは言はれないのではあるまいか。本《モト》は、幹である。根元ではない。これを末《ウレ》と改めた考の説はいけない。卷二に子松之末爾蘿生萬代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》(二二八)とあつても、それに傚ふ必要はない。椙は※[木+温の旁]と同じく、杉に用ゐてある。これを※[木+温の旁]の誤字とした説はわるい。○薛生左右二《コケムスマデニ》――薛はマサキノカヅラのことであるが、ここは蘿と同じく、サガリゴケのことに用ゐたのである。一一三參照。
〔評〕 前の歌どもと着眼點を異にし、月日は知らぬ間に經過して、皇子の御在世中、若木であつた杉の、何時しか古々しくなつたことを詠嘆して、あはれ深い。敬慎な懷舊、沈重な語氣。
 
或本歌云
 
260 天降りつく 神の香具山 うち靡く 春さりくれば 櫻花 木のくれ茂み 松風に 池浪さわぎ 邊つべには あぢむらとよみ 沖邊には 鴎喚ばふ 百磯城の 大宮人の 退り出でて 榜ぎける船は 棹かぢも 無くてさぶしも 榜がむと思へど
 
天降就《アモリツク》 神乃香山《カミノカグヤマ》 打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》 櫻花《サクラバナ》 木晩茂《コノクレシゲミ》 松風丹《マツカゼニ》 池浪※[風+火三つ]《イケナミサワギ》 邊津返者《ヘツベニハ》 阿遲村動《アヂムラトヨミ》 奧邊者《オキベニハ》 鴨妻喚《カモメヨバフ》 百式乃《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》 去出《マカリイデテ》 ※[手偏+旁]來舟者《コギケルフネハ》 竿梶母《サヲカヂモ》 無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》 ※[手偏+旁]與雖思《コガムトモヘド》
 
(287)○神乃香山《カミノカグヤマ》――神乃《カミノ》は神聖なる意。○打靡《ウチナビク》――枕詞。春は草木の若くて、しなひ靡く故に春とつづけるのである。○池浪※[風邪+炎三つ]《イケナミサワギ》――※[風邪+炎三つ]はツムジカゼ、オホカゼといふ字であるが、ここは動詞として、風に波の立ち騷ぐことに用ゐたのである。舊訓はタチテ、古義はタチとある。
 
右今案(ズルニ)遷(シシ)2都(ヲ)寧樂1之後、怜(シミテ)v舊(ヲ)作(ル)v此歌(ヲ)1歟
 
これは後人の註で、飛んでもない見當違ひである。
 
柿本朝臣人麿献(ズル)2新田部皇子(ニ)1歌一首、并短歌
 
新田部皇子は天武天皇紀に「藤原大臣(ノ)女、五百重娘、生2新田部皇子1」とあり、續紀に、「七年九月壬午、一品新田部親王薨云々、親王、天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也」とある。
 
261 やすみしし 吾大王 高光る 日の皇子 敷きいます 大殿の上に ひさかたの 天傳ひ來る 雪じもの 往きかよひつつ いや常世まで
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》 高輝《タカヒカル》 日之皇子《ヒノミコ》 茂座《シキイマス》 大殿於《オホトノノウヘニ》 久方《ヒサタラノ》 天傳來《アマヅタヒクル》 白雪仕物《ユキジモノ》 往來乍《ユキカヨヒツツ》 益及常世《イヤトコトマデ》
 
(八隅知之)私ノオ仕ヘ申ス新田部皇子樣(高輝)天子樣ノ皇子ガ、オ構ヘ遊バシテ御住ヒナ〔六字傍線〕サル御殿ヘ(久方天傳來白雪仕物)往キ通ツテ、永久ニ奉仕致シマセウ〔七字傍線〕。
 
○高輝《タカヒカル》――輝の字、神田本に耀とある。いづれでもヒカルとよんでよい。○茂座《シキイマス》――茂《シキ》は借字で、占め構ふること。座の字はマスともイマスともよむ。ここはイマスがよい。○大殿於《オホトノノウヘニ》――大殿は八釣山なる皇子の宮を言つたのである。於は上と同じ字である。ここは荒妙之藤原我宇倍爾《アラタヘノフヂハラガウヘニ》(五〇)と同じく、邊にの意であらう。○久方天傳來白雪仕物《ヒサカタノアマヅタヒクルユキジモノ》――往きと績ける爲の序詞。舊本白を自に誤る。○往來乍益及常世《ユキカヨヒツツイヤトコヨマデ》――往來乍は上の續き(288)からユキとよみ起すべきは當然であるが、往來の二字は蟻往來《アリガヨヒ》(九三八)・言母不往來《コトモカヨハヌ》(一七八二)の如く、カヨフとよむ慣習があるから、ここはユキカヨヒツツと、よむがよいやうに思はれる。ユキキタリツツともよめるが、語をなさない。及常世は及萬代《ヨロヅヨマデニ》(一九六)・及家左右《イヘニイタルマデ》(九七九)などに從へば、トコヨマデであるから、益をイヤとよんでイヤトコヨマデが最も合理的訓法である。この句は文字を補つたり改めたりして、種々のよみ方があるけれども、いづれも採るに足らぬ。
〔評〕 卷一にあつた吉野宮に行幸の時に、この人が作つた歌を、更に切りつめて短くしたやうな歌だ。この人の作としては珍らしい短い長歌である。
 
反歌一首
 
262 矢釣山 木立も見えず 落り亂る 雪にさわげる 朝樂しも
 
矢釣山《ヤツリヤマ》 木立不見《コダチモミエズ》 落亂《フリミダル》 雲驪《ユキニサワゲル》 朝樂毛《アシタタヌシモ》
 
矢釣山ノ木立モ見エナイ程モ盛ニ〔二字傍線〕降リ亂レテヰル雪ノ中デ、騷ギ遊ン〔二字傍線〕デヰル今朝ハ樂シイヨ。
 
○矢釣山《ヤツリヤマ》――高市郡飛鳥村大字八釣の山で、卷二(一〇三)の大原の里の寫眞の左方の山が即ちそれである。この麓に新田部皇子の宮殿があつたのであらう。顯宗天皇の近飛鳥八釣宮も此處にあつたのである。○雪驪《ユキニサワゲル》――驪の字の訓、古來樣々である。これをハダラとよむ説が仙覺以來多く行はれてゐる。考には※[足+麗]の誤としてユキニキホヒテ、古義には驟の誤としてユキニサワギテとよんでゐる。文字を改めるのは賛成しかねるが、類聚古集は驟となつてゐるのであるから、或は本來驟であつたかも知れない。又この驪の字は、本集中全く他に用例がないから、誤字説も有力である。予は類聚古集に從ひ、サワゲルと訓まうと思ふ。もし文字を流布本通りにして置くならば、代匠記精撰本にユキニクロコマとよんであるのに從ひたい。新訓にユキニコマウツとあるのも面白いが、ウツがどうも賛同しかねる。ユキニサワゲルは雪の中で戯れ騷いでゐる意。○朝樂毛《アシタタヌシモ》――朝は樂しいよの意。朝をマヰリとよんで、マヰテクラクモ、マヰデタノシモ、マヰリクラクモ、マヰラクヨシモなどの訓(289)があるが、從ふべきでない。朝はマヰリとよんだ例は他にない。卷十八に朝參乃《マヰリノ》(四一二一)とあるが、これは朝の字をマヰリとよんだのではない。
〔評〕 矢釣山の冬の朝の好景に雀躍してゐる樣が、見えるやうである。長歌よりもこの反歌の方がすぐれてゐる。
 
從2近江(ノ)國1上(リ)來(ル)時、刑部垂麿《オサカベタリマロ》作(レル)歌一首
 
刑部は忍坂部で、和名抄に「大和國城上郡忍坂、於佐加」とあるから、此處から出た氏であらう。この氏人が刑部《ウタヘ》の職にあつたから、刑部をオサカベといふのだらうと宣長は言つてゐる。垂麿の傳は明らかでない。
 
263 馬ないたく 打ちてな行きそ け竝べて 見ても我が行く 志賀にあらなくに
 
馬莫疾《ウマナイタク》 打莫行《ウチテナユキソ》 氣並而《ケナラベテ》 見?毛和我歸《ミテモワガユク》 志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》
 
私ハコノ景色ノヨイ志賀ヲ〔コノ〜傍線〕、日ヲ重ネテ幾日モ幾日モカカツテ〔幾日〜傍線〕見テ行クトイフ譯ニハ行カヌ旅ダカラ、馬ヲヒドク打ツテ速ク〔二字傍線〕歩カセルナ。セメテ馬上ナガラユルユル見テ行カウ〔セメ〜傍線〕。
 
○馬莫疾《ウマナイタク》――この句の莫《ナ》の字を衍とする説が多い。第二句に莫《ナ》があつて重複するからである。併し恐らくこの儘でよいのであらう。古義に吾馬疾《アガマイタク》と改めたのは妄で、かつ拙い。○氣並而《ケナラベテ》――氣《ケ》は日。日を並べ重ねて、數日かかつて。○見?毛和我歸《ミテモワガユク》――歸の字はユクとよむ。天歸月乎《アメユクツキヲ》(二四〇)・手折而將歸《タヲリテユカム》(二八〇)の類、用例が多い。○志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》――志賀ではないのにの意。七の字は亡の誤と槻の落葉・略解・古義にあるのは、了解に苦しむ。奈具佐末七國《ナグサマナクニ》(九六三)・濱有七國《ハマナラナクニ》(一〇六六)などいくらも例がある。
〔評〕 この歌は馬方に向つて言ふものとも、又僚友に言ふものとも解せられるが、數人の同行があるとも思はれないから、馬方に言ふのであらう。題詞では近江から始めて都に上る時のやうに思はれるが、歌の趣では、琵琶湖畔の好景を見馴れてゐる人らしくない。やはり大和の人で、志賀に赴いて、歸らうとする時に詠んだので(290)あらう。次の人麿の作の題詞にも、從2近江國1上來時とある。
 
柿本朝臣人麿、從2近江國1上來《ル》時、至(リ)2宇治河邊(ニ)1作(レル)歌一首
 
この題詞の書き方によつて、人麿は近江の人であらうといふ考の別記にあるやうな説も出てゐる。固より遽かに從ひ難い。
 
264 もののふの 八十氏河の 網代木に いさよふ浪の 行方知らずも
 
物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》 不知代經浪乃《イサヨフナミノ》 去邊白不母《ユクヘシラズモ》
 
(物乃部能八十)宇治川ノ網代木ニ漂ツテヰル波ガ、見テヰル内ニ見エナクナツテ〔見テ〜傍線〕、何處ヘ行ツタトモワカラナイナア。人モソノ通リデ、一寸コノ世ニ生レテモ、スグニ何處ヘカ去ツテシマフモノダ〔人モ〜傍線〕。
 
○物乃部能八十氏河乃《モノノフノヤソウヂガハノ》――物乃部能八十《モノノフノヤソ》は宇治河の序詞である。物の部、即ち朝廷に奉仕する武人の、氏の數が多いので、八十氏といつて、宇治川につづける。○阿白木爾《アジロギニ》――竹木を編んで列ね、これを川の瀬に網として、魚を捕へるものを網代といふ。網代の代は、苗代の代と同じで、網を架ける場所をいふのであらう。網の代《カハリ》と解する舊説は、蓋し當つてゐない。竹の簀でも、魚を捕る爲に編んで作つたのは網である。その網代の料に立てた棒杭が網代木である。宇治の網代は冬季流れ下る氷魚《ヒヲ》を捕へるもの。○不知代經浪乃《イサヨフナミノ》――イサヨフは、すべて進まむとして進み得ないことをいふ。浪が流れようとして流れないで、たゆたふのをいふのである。○去邊白不母《ユクヘシラズモ》――波が流れ去つて、その行方が分らぬといふのである。母《モ》は詠嘆の助詞。
〔評〕 單なる叙景と見る説と、無常觀を歌つたのだとする説とある。去邊白不母《ユクヘシラズモ》といふ句には、叙景以外に感傷的な氣分があり、又近江國から上つて來た時とすると、近江の舊都が荒廢した状況を目のあたりに見て、世の變轉の激しいのに驚いた彼は、ここにいさよふ浪に感慨を托して、詠出したとも考へられるのである。予は後説を採らうと思ふ。網代木にいさよふ浪を見て感慨に沈んだのは、いかにも多感の詩人らしい。卷七の大伴之(291)三津之濱邊乎打曝因來浪之逝方不知毛《オホトモノミツノハマベヲウチサラシヨリクルナミノユクヘシラズモ》(一一五一)と似た作である。
 
長忌寸奧麻呂《ナガノイミキオキマロ》歌一首
 
265 苦しくも 零り來る雨か みわが埼 佐野のわたりに 家もあらなくに
 
苦毛《クルシクモ》 零來雨可《フリクルアメカ》 神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡爾《サヌノワタリニ》 家裳不有國《イヘモアラナクニ》
 
苦シクモマア、降ツテ來ルヒドイ〔三字傍線〕雨ダヨ。コノ三輪ガ崎ノ佐野ノ渡場ニハ家モナイノニ。アア辛イコトダ〔七字傍線〕。
 
○零來雨可《フリクルアメカ》――降り來る雨かなの意。○神之埼狹野乃渡爾《ミワガサキサヌノワタリニ》――神之埼は舊訓ミワノサキであるが、ミワガサキがよいやうに思ふ。即ち紀伊國東牟婁郡の海岸で、那智と新宮との間にあり、狹野も其處にあつて、川が流れてゐる。渡は即ちその川の渡船場である。
〔評〕 雨に惱んだ困惑の情をありのままに飾らず表現して、あはれが深い作である。これを本歌として藤原定家は「駒とめて袖うち拂ふかげもなし佐野の渡の雪の夕ぐれ」(新古今集)とし、またその歌よりして、謠曲鉢の木の雄篇が生れたことを考へると、この歌は、我が文學史上に大きな影響を及ぼした作と言はねばならぬ。
 
柿本朝臣人麿歌一首
 
266 淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ
 
淡海乃海《アフミノミ》 夕浪千鳥《ユフナミチドリ》 汝鳴者《ナガナケバ》 情毛思努爾《ココロモシヌニ》 古所念《イニシヘオモホユ》
 
(292)近江ノ琵琶湖デ、夕方立ツ浪ニツレテ鳴ク千鳥ヨ。汝ガ鳴クト、私ハ〔二字傍線〕心モシヲシヲト萎レテ、昔此所ニアツタ志賀ノ都〔十字傍線〕ガ思ハレル。
 
○夕浪千鳥《ユフナミチドリ》――夕方立つ浪につれて鳴く千鳥。人麿の巧な新造語である。千鳥は水邊にゐる小さい鳥で、嘴は蒼黒く背は青黒、腹は白く、尾は短く脚は細くて後趾が無い。○情毛思努爾《ココロモシヌニ》――心もしをれてといふ意。卷八に暮月夜心毛思努爾《ユフツクヨココロモシヌニ》(一五五二)、卷十三|借薦之心文小竹荷《カリコモノココロモシヌニ》(三二五五)などその他用例が多い。
〔評〕 感傷的な、物哀な歌としては、人麿作中屈指の佳什である。心無き千鳥の聲に耳を傾けて、往時を思ふ情が、流麗な温雅な、滑らかな調子に盛られて、汲めども盡きないあはれさが泉の如く湛へられてゐる。
 
志貴《シキノ》皇子御歌一首
 
志費皇子は天智天皇の皇子、靈龜二年八月五日薨、春日宮天皇と謚す。五一・二三〇參照。
 
267 ※[鼠+吾]鼠は 木ぬれ求むと あしびきの 山の獵夫《さつを》に あひにけるかも
 
卑佐佐婢波《ムササビハ》 木末求跡《コヌレモトムト》 足日木乃《アシヒキノ》 山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》 相爾來鴨《アヒニケルカモ》
 
※[鼠+吾]鼠ハ梢ニ行カウト思ツテ、却ツテ〔三字傍線〕(足日木乃)山ノ獵師ニ見ツカツテ、獲ラレテシマツ〔七字傍線〕タワイ。オトナシクシテヰレバヨイニ、馬鹿ナ奴ダ〔オト〜傍線〕。
 
(293)○牟佐佐婢波《ムササビハ》――※[鼠+吾]鼠は囓齒類の一種で兎に似て、前後の肢間に膜があつて、樹上を飛行する小獣である。深山の林中に棲んでゐる。○山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》――山能佐都雄の佐都《サツ》は得物矢《サツヤ》のサツで、山の幸《サチ》のサチと同じである。山で獵をする男をいふ。
〔評〕 面白い作である。徒らに高きを望んで、身をあやまつた者を嘲はれたのである。この頃皇族の間に、謀叛の罪に問はれた方々があつたのを詠まれたものか。
 
長屋《ナガヤノ》王故郷歌一首
 
長屋王は天武天皇の御孫。高市親王の御子。佐保大臣と號した。天平元年謀叛の疑を受けて、自盡せしめられたお方である。七五參照。故郷は舊都、即ち飛鳥都をさしてゐる。
 
268 吾背子が 古家の里の 明日香には 千鳥なくなり 君待ちかねて
 
吾吉子我《ワガセコガ》 古家乃里之《フルヘノサトノ》 明日香庭《アスカニハ》 乳鳥鳴成《チドリナクナリ》 島待不得而《キミマチカネテ》
 
貴方ガモト住ンデイラシヤツタ、家ノアル飛鳥ノ里デハ、貴方ノオ歸リヲ待チカネテ、千島ガ頻リニ嶋イテ居リマス。
 
○吾背子我《ワガセコガ》――背子《セコ》は男を親しんでいふ語で、ここは友人を指されたのである。○島待不得而《キミマチカネテ》――島の字は誤謬であらう。君の誤とする考の説に從ふ。
〔評〕 舊都の飛鳥を訪問せられ、他の皇子たちの舊宅を御覽になつて、この歌を詠み贈られたものであらう。何となく人なつこい感じの作である。
 
右今案從2明日香1遷(レル)2藤原宮1之後、作(レル)2此歌(ヲ)1歟
 
この註の通りである。然るに喜田貞吉氏の「帝都」の飛島京の條に、藤原を飛鳥といつた證として、この(294)歌を擧げてゐる。併しこの歌は前後を見ても藤原京時代の作と思はれ、又長屋王は、平城遷都の前年、即ち和銅二年十一月には、從三位で宮内卿になられ、年齡も三十四歳になつて居られるから、右の歌を藤原に於て作られたと見て、少しも差支ないのである。予はこの註に從はうと思ふ。但し藤原も、廣義の飛鳥の一部と見られたことは、既に七八に説いて置いた。
 
阿倍女郎|屋部坂《ヤベサカ》歌一首
 
阿倍女郎は傳未詳。阿倍氏の女であらう。屋部坂は三代實録三十八に、高市郡夜部村とある地の坂であらうと宣長は言つてゐる。大日本地名辭書には、今、磯城郡多村大字矢部をこれに擬してゐるが、ここは平坦地で、こんな坂がありさうでない。又、歌の内容から忖度して、屋祁《ヤケ》坂だらうといふ説をなすものもあるが、臆説に過ぎない。
 
269 人見ずば 我が袖もちて 隱さむを 燒けつつかあらむ 著ずて來にけり
 
人不見者《ヒトミズバ》 我袖用手《ワガソデモチテ》 將隱乎《カクサムヲ》 所燒乍可將有《ヤケツツカアラム》 不服而來來《キズテキニケリ》
 
コノ山ハ燒山デ赤裸デ、見苦シイカラ〔コノ〜傍線〕人ガ見テヰナイナラバ、私ノ袖ヲ以テ隱シテヤラウヨ。イツモコノ山ハ〔七字傍線〕燒ケテヰルノデセウ。着物ナシデ以前カラ〔四字傍線〕丸裸デ居マスワイ。
 
○人不見者《ヒトミズバ》――この句はこの儘では分らないといふので、種々なよみ方をしてゐる。古點はヒトメニハ、仙覺はシノヒニハ、考はシヌビナバである。併し文字の上からヒトミズバとよむ外はない。○不服而來來《キズテキニケリ》――この句も亦誤字説があつて、考は上の來を坐としてキズテヲリケリ、槻の落葉はキズテマシケリ、檜嬬手は上の來を有としてキズテアリケリとしてゐるが、これも本の儘にして置きたい。キズテキニケリは着物を着ないで、即ち禿山で以前からあつたよといふのである。
〔評〕 萬葉集中の難解歌の一である。が、右のやうに解けば、分らぬこともないと思ふ。諧謔的な子供らしい作(295)である。
 
高市連黒人※[覊の馬が奇]旅(ノ)歌八首
 
270 旅にして 惣戀しきに 山下の 赤のそほ船 沖に榜ぐ見ゆ
 
客爲而《タビニシテ》 物戀敷爾《モノコホシキニ》 山下《ヤマシタノ》 赤乃曾保船《アケノソホブネ》 奧※[手偏+旁]所見《オキニコグミユ》
 
旅二出テ居テ何ニ付ケテモ都ガ戀シイノニ、(山下)赤イ塗料ヲ塗ツタ官〔傍線〕船ガ、沖ヲ漕イデ行クノガ見エル。アレハ都へ歸ルノデモアラウカ。羨シイナア〔アレ〜傍線〕。
 
○物戀敷爾《モノコホシキニ》――モノコホシキニと古風によむことにする。六七・二五三參照。○山下《ヤマシタノ》――枕詞。赤とつづく。古事記の秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》や、卷二の秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》(二一七)なども同義で、秋の山が紅葉するのを、秋山の下ひといふところから、山下《ヤマシタ》を赤の枕詞としたものらしい。仙覺は地名とし、契沖は山の下を漕ぐ意に解してゐるが、當らぬやうである。○赤乃曾保船《アケノソホブネ》――曾保は赤い土で、塗料に用ゐたもの。麻可禰布久爾布能麻曾保乃《マカネフクニフノマソホノ》(三五六〇)佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)も同じで、この塗料を施した舟を赤の曾保船といふのだ。卷十三に忍照難波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾綱取繋《オシテルナニハノサキニヒキノボルアケノソホブネソホブネニツナトリカケ》(三三〇〇)とある。槻落葉別記に赤く塗つた船は官船だといつてゐる。
〔評〕 蒼々とした海上に、朱塗の舟が浮んでゐる繪のやうな景色は、その美を讃へしめる前に、先づ人の旅愁をそそつたのである。餘情のある作だ。
 
271 櫻田へ 鶴なきわたる 年魚市潟 潮干にけらし 鶴なきわたる
 
櫻田部《サクラダヘ》 鶴鳴渡《タヅナキワタル》 年魚市方《アユチガタ》 鹽干二家良進《シホヒニケラシ》 鶴鳴渡《タヅナキワタル》
 
作良ノ里ノ田ノ方ヘ、鶴ガ鳴イテ通ルヨ。愛知渇ハ汐ガ干タモノト見エル。アレアンナニ〔六字傍線〕鶴ガ嶋イテ通ル。
 
○櫻田部《サクラダヘ》――作良の里の田への義。和名抄に「尾張國愛智郡作良郷」とある。今、熱田の東南方に櫻といふ地(296)があるのは、即ち此處である。○年魚市方《アユチガタ》――年魚市は和名抄に「尾張國愛智郡、阿伊智」とある所で、中世訛つてアイチとなつたのである。年魚市方は、即ち愛知潟で、今の熱田の南方の陸地は昔の愛知潟であり、作良は愛知潟沿岸であつたのである。今、鶴が作良の田の方向に鳴いて行くのを見て、汐千の潟に餌をあさる鶴の習性を知つてゐる作者は、愛知潟の汐千を想像したのである。愛知潟から作良田へ鶴が鳴いて行くやうに見た古義・檜嬬手の説は誤つてゐる。
〔評〕 實にさわやかな歌だ。格調高邁、品位の勝れた作である。鶴鳴渡《タヅナキワタル》の繰返が好景を鮮明に表出してゐる。賀茂眞淵の「見渡せばほのへきりあふ櫻田へ雁鳴きわたる秋の夕ぐれ」は、この歌と卷二の秋之田穗上爾霧相朝霞《アキノタノホノヘニキラフアサガスミ》(八八)とを一緒にしたやうな作である。
 
272 四極山 うち越え見れば 笠縫の 島榜ぎかくる 棚無し小舟
 
四極山《シハツヤマ》 打越見者《ウチコエミレバ》 笠縫之《カサヌヒノ》 島※[手偏+旁]隱《シマコギカクル》 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
四極山ヲ打チ越シテ見渡スト、笠縫ノ島蔭ニ船棚ノナイ小サイ舟ガ、漕ギ隱レテ行くノガ見エ〔七字傍線〕ル。
 
○四極山《シハツヤマ》――豐後・三河・攝津にある。豐後のは別府の東南海岸に聳える山で、これはこの歌の趣にあはないから問題にならないが、三河と攝津とはいづれとも決しかねる。三河説は契沖が勝地吐懷篇に述べたもので、大日本地名辭書もこれに從つてゐる。それは和名抄に「幡豆郡磯伯郷、訓|之破止《シハト》」とある所の山だらうといふのである。この郷の地位、今明らかでないが、「今の吉田村、宮崎村、保定村並に幡豆村などにあらずや」と地名辭書は述べてゐる。さうして「笠縫島とはこの沖の島嶼をさせることも疑ひなし」といつてゐるが、それは臆測に過ぎない。攝津説は宣長が古事記傳に述べたもので、四極山は住吉から喜連《キレ》村に行く間の小丘で、雄略天皇紀に泊2於住吉津1是月爲2呉客道1通2磯齒津《シハツ》路1名2呉坂1とあり、今の喜連《キレ》は呉を誤つたのだといふのであル。卷六に從千沼廻雨曾零來四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞《チヌミヨリアメゾフリクルシハツノアマアミタヅナホセリヌレアヘムカモ》(九九九)、右一首遊2覽住吉濱1還v宮之時、道上(ニテ)守部王應v詔作歌とあるのも同じであつて、三説中でこれが一番信ずべきに近い。三河説は他に例がないのと、シハトで、シハツではないことと、笠縫島の名が無いのが缺點である。攝津地圖參照。○笠縫之島《カサヌヒノシマ》――攝津説(297)に從へば、今の東成郡深江の地だといふ。ここは大阪の東にあつて、河内に接したところで、古昔はこの附近は島をなして、大和川・百濟川その他の川に挾まれた沼澤地であつたので、菅を産し、里人は笠を縫ふことを業としてゐたのである。笠縫といふ地名は所々にあるが、いづれも笠縫を業とする者の居たところである。そこは必ず菅の産地であらねばならぬ。三河の海中の小島は菅を産するに適するや否や。そこに笠縫島ありとも思はれない。○棚無小舟《タナナシヲブネ》――舟棚のない小舟。舟棚は舟の左右の側板をいふ。
〔評〕 四曲山を越えてから、遽かに景色が展開して、遙かに笠縫島かげに漕ぎ隱れる小舟を望見し、矚目するところを客觀的に述べただけであるが、靜かな廣豁な景色が目に浮ぶやうに詠まれてゐる。古今集大歌所の歌に、「しはつ山ぶり」として、「しはつ山うち出でて見れば笠ゆひの島こぎかくる棚なし小舟」とあるのは、これを謠ひ違へたのである。
 
273 磯の埼 榜ぎたみ行けば 近江の海 八十の湊に たづさはに鳴く
 
礒前《イソノサキ》 榜手回行者《コギタミユケバ》 近江海《アフミノミ》 八十之湊爾《ヤソノミナトニ》 鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》 未詳
 
磯ノ岬ヲ、舟ニ乘ツテ〔五字傍線〕漕ギ廻ツテ行クト、近江ノ琵琶湖ノ多クノ湊ゴトニ、鶴ガ澤山鳴イテヰル。
 
○磯前《イソノサキ》――湖中に出た岬。地名と見るは取るに足らぬ。○※[手偏+旁]手回行者《コギタミユケバ》――漕ぎ廻り行けばの意。○八十之湊爾《ヤソノミナトニ》――湊は水門即ち河口で、そこに舟を泊するのである。八十は數多きをいふ。一説に磯崎は坂田郡の磯崎村、八十之湊は犬上郡八坂村であらうと言ふが、信ずべくもない。卷七に近江海湖者八十《アフミノミミナトハヤソヂ》(一一六九)とあるのも同じ。○鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》――鵠の字、和名抄に久々比とあれど、ここは鶴に通じて用ゐたのである。五雜爼にも鵠即是鶴とある。尚歌の下に未詳の二字があるのは後人の註である。磯前八十之湊を地名と考へたものかも知れない。
〔評〕 湖中に突出してゐる岬端を漕ぎ廻ると、蘆葦の生ひ茂つた河口に、鶴が頻りに鳴いてゐる景である。岬端は湖中に幾條となく突き出してゐる。それを廻るごとに賑やかな鶴の聲を開くのであらう。※[手偏+旁]手回行者《コギタミユケバ》の行けばは、多くの磯埼を廻りつつ行く意と思はれる。爽快な叙景である。
 
274 吾が船は 比良の湊に 榜ぎ泊てむ 沖へなさかり さ夜ふけにけり
 
(298)吾船者《ワガフネハ》 枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》 ※[手偏+旁]將泊《コギハテム》 奧部莫避《オキヘナサカリ》 左夜深去來《サヨフケニケリ》
 
私ノ乘ツテヰル舟ハ、今夜ハ〔三字傍線〕比良ノ湊マデ漕イデ行ツテ泊ラウ。ダカラ〔三字傍線〕、沖ノ方ヘ遠ク放レテ漕グ〔三字傍線〕ナ。大分〔二字傍線〕夜モ更ケタワイ。
 
○枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》――比良の湊に。比良は近江滋賀郡比良で、書紀に齊明天皇五年、幸2近江之|平浦《ヒラウラ》1とあるところである。今の木戸・小松の二村に亘つた地。北比良・南比良に分れてゐる。二九の近江地圖參照。○奧部莫避《オキヘナサカリ》――沖の方へ離れるなの意。この句に泊を急ぐ心が見えてゐる。
〔評〕 琵琶の湖上を、夜舟の旅路は心細い。急ぐ道ではあるが、今夜は夜も更けた。もう比良の湊に舟を止めようと、舟人に命ずるのである。さう沖へ出るな、早く泊へと急ぐ心の不安と淋しさとがあらはれてゐる。卷七に吾舟者明石之湖爾※[手偏+旁]泊牟奧方莫放狹夜深去來《ワガフネハアカシノウラニコギハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》(一二二九)とあるは、これを歌ひかへたのであらう。
 
275 何處にか 吾は宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば
 
何處《イヅクニカ》 吾將宿《ワレハヤドラム》 高島乃《タカシマノ》 勝野原爾《カチヌノハラニ》 此日暮去者《コノヒクレナバ》
 
モシ〔二字傍線〕高島ノ勝野原デコノ日ガ暮レテシマツタラ、私ハ今夜ハ〔三字傍線〕何處ヘ宿ツタモノデアラウ。廣イ原デハ宿ルベキ家モナイカラ困ツタモノダ〔廣イ〜傍線〕。
 
○高島乃勝野原爾《タカシマノカチヌノハラニ》――近江高島郡、今の大溝村を昔は勝野といつた。そこの湊が勝野津である。卷七に大御舟竟而作守布高島之三尾勝野之奈伎左思所思《オホミフネハテテサモラフタカシマノミヲノカチヌノナギサシオモホユ》(一一七一)とあるは即ちその湊である。勝野原とよんだのは大溝から北方、水尾・安曇地方の平野であらう。二九の地圖參照。
〔評〕 廣い勝野原を辿りつつ、傾く日影を眺めて、行手を急ぐ心である。平淡な作。
 
276 妹も吾も 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる
 
妹母吾母《イモモワレモ》 一有加母《ヒトツナレカモ》 三河有《ミカハナル》 二見自道《フタミノミチユ》 別不勝鶴《ワカレカネツル》
 
(299)妻ト私トハ、一ツノ體デアルカラカ、カウシテ二見マデ一緒ニ來テ、サテココカラ別レヨウトスルト、コノ〔カウ〜傍線〕三河ノ二見ノ道カラハ、兩方ヘ〔三字傍線〕ナカナカ別レ難クテ悲シンダ〔六字傍線〕ヨ。
 
○一有加母《ヒトツナレカモ》――一體なればかもの意。○三河有二見自道《ミカハナルフタミノミチユ》――二見の道の所在が明らかでないが、大日本地名辭書には、本野原から本坂越をするのを二見路といつて、後世の姫街道がそれだと述べてゐるが、それは國府から東行する道であるから、この人の歌にふさはしくない。恐らくこの二見路の稱呼は後世になつて言ひ出したものであらう。新考がこの説によつて、夫婦、道を別にして行く場合の作としたのは從はれない。姫街道でも男子禁制ではあるまい。要するに二見の道は三河の内ではあるが、所在は分らぬとする方がよい。
〔評〕 黒人が三河の任を終へて、都に歸らうとする時の作である。妹は其處で親しんだ女で、その女に對して別れ難い情を述べたのである。一・二・三の數字を巧みによみ込んだのは、語を弄んだものではあるが、それが無理なく巧に出來てゐる。
 
一本云
 
三河の 二見の道ゆ 分れなば 吾がせも我も 獨かも行かむ
 
水河乃《ミカハノ》 二見之自道《フタミノミチユ》 別者《ワカレナバ》 吾勢毛吾毛《ワガセモワレモ》 獨可毛將去《ヒトリカモユカム》
 
三河ノ國ノ、二見ノ路カラ別レタナラバ、私ノ夫モ私モ、二人トモ互ニコレカラハ〔二人〜傍線〕一人デ行クコトデアラウカ。
 
〔評〕 前の歌に對して黒人の愛人が答へたのである。高市黒人妻和歌と題詞があつたのだと考に言つてゐる。二見の道で袂を別つて、女はもと來た道を戻るのである。取り立てていふ程の作でない。
 
277 疾く來ても 見てましものを 山背の 高槻の村 散にけるかも
 
速來而母《トクキテモ》 見手益物乎《ミテマシモノヲ》 山背《ヤマシロノ》 高槻村《タカツキノムラ》 散去奚留鴨《チリニケルカモ》
 
早ク此所ヘ歸ツテ來テ見タカツタノニ、コノ山背ノ高イ槻ノ木ノ群ノ紅葉〔三字傍線〕ハ、散ツテシマツタナア。惜シイコト(300)ヲシタ。
 
○山背高槻村《ヤマシロノタカツキノムラ》――山城國の高槻村と見、これを今の攝津の高槻とする説もあるが、不當である。高槻が山城に屬してゐたといふ證據もなく、却つて東大寺奴婢籍帳に「攝津國島上郡野身里戸主輕部造弓張戸口」とあり、又「攝津國島上郡濃味里戸主辛矢田部君水内戸口」ともあつて、この野身里・濃味里は即ち和名抄に「島上郡濃見郷」とあるところで、今の高槻に野見天神があり、明らかにその地たることを示してゐる。して見ると、奈良朝に於ては高槻は攝津であつて、山背ではなかつたのである。尚、文政三年三月に攝津島上郡眞上郷光徳寺村から掘り出した石川年足朝臣(天平寶字六年薨)の墓誌にも「葬于攝津國島上郡白髪郷酒垂山墓」とあつて、島上郡(今三島郡に編入)は攝津國であつたのである。正倉院文書の天平勝寶八歳攝津國嶋上郡水無瀬繪圖を見ると、水無瀬が當時攝津であつたのであるから、高槻は無論攝津の内であつたのである。だから今の攝津の高槻とする説は全く成り立たない。然らば山背の高槻村は何處かといふに、高槻村は地名ではなく、高槻の群で、大きな槻の木の群が山背の地にあつたのである。槻の黄葉もかなり美しいもので、高い槻の木の森があつて有名であつたのであらう。その黄葉の既に散り過ぎたのを惜しんだのである。かう見ると、山背を國名としてはあまりに範圍が廣きに過ぎて、ふさはしくない。だからこの山背は國ではなく、奈良山の北方、山背川(泉川)の沿岸、相樂郡の地をさしたのだらうと思はれる。元來山背の國は、國郡制置の時に、葛野《カツヌ》・宇治《ウヂ》などの地をこの山背に併せて作られたので、國名の起源はこの地にあるのである。都近い奈良山の背《ウシロ》の地であるから、都人の間にもその高槻の群の立派さがよく知られてゐたのであらうと思ふ。(奈良文化十六號拙稿參照)
〔評〕 疾く來なかつたことを悲しむ情が、あはれである。二の句|見手益物手《ミテマシモノヲ》と、五の句|散去奚留鴨《チリニケルカモ》とが殘念さうに響いてゐる。
 
石川少郎歌一首
 
石川少郎は左註によれば、石川朝臣君子といふ人である。少郎は大郎・仲郎に對するもので、末男(301)の意である。少の字を女の誤として、これを石川女郎とする説が多いけれども、どうであらう。予は左註を信用するものである。
 
278 しかの海人は め苅り鹽やき 暇なみ くしげの小櫛 取りも見なくに
 
然之海人者《シカノアマハ》 軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》 無暇《イトマナミ》 髪梳乃少櫛《クシゲノヲグシ》 取毛不見久爾《トリモミナクニ》
 
志賀ノ海女ドモハ、海草ヲ苅ツタリ、鹽ヲ燒イタリスルノデ、忙ハシクテ〔五字傍線〕暇ガナイカラ、櫛箱ノ小櫛ハ、少シモ手ニトツテ見タコトモナイヨ。
 
○然之海人者《シカノアマハ》――然《シカ》は和名抄に「筑前國糟屋郡志珂」とあるところで、本集中屡々見える地名。博多灣の北部に志賀島がある。○軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》――軍布は葷布の誤だらうといふ説もあるが、※[草冠/昆]布に通じて用ゐたものか。海草たるを示す爲に、布の上に軍の字を添へてメと訓ましめたのであらう。○髪梳乃少櫛《クシゲノヲグシ》――髪梳は文字から見れば、くしけづるといふ動詞から來たやうにも思はれるが、それでは詞として穩やかでないから、櫛匣の借字に違ない。○取毛不見久爾《トリモミナクニ》――手に取りても見ぬよの意。かうしたナクニがいくらもある。
〔評〕 石川少郎が筑前に赴いて、女の身たしなみをする暇もない、志珂の海女を見てよんだのである。これを女の歌として石川女郎と改め、筑前の人とする説は甚だしい誤である。
 
右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也
 
これは後人の註であるが、これによれば少郎とあるのもかなり古いわけである。女郎の誤とはし難い。又この君子を檜嬬手に江口の君・神崎の君などと同じく、遊女であるといつてゐるが、それは妄説である。
 
高市連黒人歌二首
 
279 吾妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ
 
(302)吾妹兒二《ワギモコニ》 猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》 名次山《ナスギヤマ》 角松原《ツヌノマツバラ》 何時可將示《イツカシメサム》
 
私ノ妻ニ私ハ〔二字傍線〕猪名野ハ既ニ〔二字傍線〕見セタ。名次山ヤ角ノ松原ハ何時ニナツタラ見セテヤレルダラウ。早ク見セテヤリタイモノダ〔早ク〜傍線〕。
 
○猪名野者令見都《ヰナヌハミセツ》――猪名野は和名抄に「攝津河邊郡|爲奈《ヰナ》」とある所の野である。この野は猪名川の兩岸の平地であるから、川邊・豐能の二郡に亘つた廣野である。猪名川は丹後・攝津の國境から發して、池田・伊丹の側を流れ、神崎に至り、三國川と合して海に入る。○名次山《ナスギヤマ》――廣田大社の西の岡で、名次神の鎭座するところである。神名帳に「攝津國武庫郡名次神社」とある。今の西ノ宮町の北方である。次の字は玉手次《タマタスキ》(二〇七)などの如く、スキに用ゐられた例が多い。○角松原《ツヌノマツバラ》――卷十七に都努乃松原於母保由流可聞《ツヌノマツバラオモホユルカモ》(三八九九)とあるも同所で、和名抄に「武庫郡津門郷訓都止」とある所の松原であらう。津門は今、今津村の中に大字となつて名が殘つてゐる。松原山昌林寺といふ寺があるのは、角の松原の名殘であらうと言はれてゐる。
〔評〕 これは黒人が、妻を伴なつて西に旅する時の作と見える。猪名野は見せたが、名次山や角の松原の好景は未だ見せない。早く其處へ到着したいと思ふが、廣々とした猪名野が、果しもなくつづいて、倦きはてた氣分をよんだのであらう。
 
280 いざ兒ども 大和へ早く 白菅の 眞野の榛原 手折りて行かむ
 
去來兒等《イザコドモ》 倭部早《ヤマトヘハヤク》 白菅乃《シラスゲノ》 眞野乃榛原《マヌノハリハラ》 手折而將歸《タヲリテユカム》
 
サアオマヘタチヨ、大和國ヘ早ク歸ラウ〔三字傍線〕。白菅ノ生エテヰル、コノ眞野ノ萩原ヲ手折ツテ、土産ニ持ツテ〔六字傍線〕行カウヨ。
 
○去來兒等《イザコドモ》――兒等《コドモ》は同行の部下をさす。○白菅乃《シラスゲノ》――白菅の生ふる眞野とつづいて、枕詞の如く用ゐられてゐるが、眞の枕詞ではない。白菅は菅の一種で、莖の高さ一尺餘、かやつり草に似てゐる。○眞野乃榛原《マヌノハリハラ》――(303)眞野は攝津武庫郡にあり、今は神戸市に編入せられ、眞野町といふ町名に名殘を止めてゐる。卷十一の眞野池之小菅乎笠爾不縫爲而人之遠名乎可立物可《マヌノイケノコスゲヲカサニヌハズシテヒトノトホナヲタツベキモノカ》(二七七二)とある眞野の池も、今、形だけは殘つてゐる。榛原は萩原。榛の木ではない。卷七に古爾有監人之※[不/見]乍衣丹摺牟眞野之榛原《イニシヘニアリケムヒトノモトメツツキヌニスリケムアヌノハリハラ》(一一六六)とあるところで、萩の名所である。
〔評〕 西から大和へ歸る時の作である。卷一の、山上憶良の、去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イザコドモハヤヒノモトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》(六三)と著しく似た歌である。咲き亂れた眞野の萩原の美景に、心も勇んで、同行の部下に呼びかけた、晴々しい氣分が見える。
 
黒人妻答歌一首
 
281 白菅の 眞野の榛原 往くさ來さ 君こそ見らめ 眞野の榛原
 
白管乃《シラスゲノ》 眞野之榛原《マヌノハリハラ》 往左來左《ユクサクサ》 君社見良目《キミコソミラメ》 眞野之榛原《マヌノハリハラ》
 
白菅ノ生エテヰルコノ〔二字傍線〕眞野ノ萩原ノ面白イ景色ヲ〔七字傍線〕、貴方ハ旅ノ往キ還リニ御覽ニナルデアリマセウ。私ハ女ノコトデゴザイマシテ、又參ルワケニハユキマセヌカラ、ヨク見テマヰリマセウ〔私ハ〜傍線〕。
 
○往左來左《ユクサクサ》――往く時還る時の意。サは樣《サマ》の略か。卷十八|多多佐爾毛可爾母與己佐母《タタサニモカニモヨコサモ》(四一三二)とある竪《タタ》さ、横《ヨコ》さも同じであらう。
〔評〕 佳景に對して、男の自由な身を羨んだ、女らしいつつましさがあらはれてゐる。
 
春日藏首老《カスガクラヒトオユ》歌一首
 
この人の傳は六二に出てゐる。
 
282 つぬさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜は更けにつつ
 
(304)角障經《ツヌサハフ》 石村毛不過《イハレモスギズ》 泊瀬山《ハツセヤマ》 何時毛將超《イツカモコエム》 夜者深去通都《ヨハフケニツツ》
 
モハヤコンナニ〔七字傍線〕夜モ更ケタノニ、マダ〔二字傍線〕(角障經)磐余《イハレ》モ通リ過ギナイガ、初瀬山ハ一體〔二字傍線〕イツニナツタラ越エルコトガ出來ルノダラウ。
 
○角障經《ツヌサハフ》――枕詞。岩とつづく。一三五參照。○石村毛不過《イハレモスギズ》――石村《イハレ》は大和國磯城郡。もとの十市郡を中心とした地方で、今、安倍村に磐余《イハレ》川がある。阿倍村は香具山の東方、櫻井町の南方にある。石村をイハレと訓むのはイハフレの略で、村の古訓にフレがある。これは朝鮮語|夫里《フリ》から出たものだといふ説がある。○泊瀬山《ハツセヤマ》――初瀬町大字初瀬にある山。○夜者深去通都《ヨハフケニツツ》――夜ハ更ケヌに、助詞ツツを添へた形である。ツツは完了の助動詞ツの重つたもの。
〔評〕 藤原の都を出立して、磐余から初瀬山越えに、遠く旅する時の歌であらう。藤原から磐余までは、いくらの道程でもないから、何か理由があつて遲くなつたものか。次に東國での作があるから、或はその旅に出る時の作か。夜の旅の不安と焦燥とが、痛ましげに響いてゐる。
 
高市連黒人(ノ)歌一首
 
283 住のえの 得名津に立ちて 見渡せば 武庫の泊ゆ 出づる船人
 
墨吉乃《スミノエノ》 得名津爾立而《エナツニタチテ》 見渡者《ミワタセバ》 六兒乃泊從《ムコノトマリユ》 出流船人《イヅルフナビト》
 
攝津國〔三字傍線〕住吉ノ、榎津《エナツ》トイフトコロニ立ツテ見渡スト、遙カ向フノ〔五字傍線〕武庫ノ港カラ、舟人ガ舟ヲ出スノガ見エル。ヨイ景色ダ〔五字傍線〕。
 
○墨吉乃得名津爾立而《スミノエノエナツニタチテ》――墨吉乃得名津は和名抄に「攝津國住吉郡榎津郷以奈豆」とあるところ。今の墨江村安立町のあたりであらう。○六兒乃泊從《ムコノトマリユ》――武庫の港からの意。武庫の泊は今の兵庫であらう。古來の要津で(305)あつた。別に武庫郷の名が和名抄に見えて、今も武庫村の名を存してゐるが、それは西宮の東北里餘の地で、武庫川に沿うてゐる。六兒の泊は、この武庫川の河口かとも想像せられるが、恐らくさうではあるまい。
〔評〕 住吉の濱から見渡すと、海人の小舟が遠く海上から、一つ一つ現はれて來るのを、武庫の泊を船出したものと見て詠んだのである。武庫は冠辭考の一説に、「向《ムカ》つ峰・向《ムカ》つ國など古へ多く云へり。この地海頭へさし出たる地にて、難波より向はるる故に向《ムコ》といふか」とある如く、遙かに對岸をなしてゐる。好景が目に見えるやうで面白い。
 
春日|藏首老《クラビトオユノ》歌一首
 
284 燒津べに 吾が行きしかば 駿河なる 阿倍の市ぢに 逢ひし兒らはも
 
燒津邊《ヤキツベニ》 吾去鹿齒《ワガユキシカバ》 駿河奈流《スルガナル》 阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》 相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》
 
燒津ノ方ヘ私ガ行ツタ所ガ、駿河ノ國ノ阿部ノ市ノ道デ、美シイ女ニ〔五字傍線〕出會ツタ。アノ美シイ〔五字傍線〕女ヨナア。私ハドウシテモ忘レルコトガ出來ナイ〔私ハ〜傍線〕
 
○燒津邊《ヤキツベニ》――燒津は、日本武尊が草を燒いて、賊を亡ぼし給うた所として、古事記や書紀にその名が見えてゐる。靜岡市の西南方の海岸で、今、東海道線にヤイヅといふ驛がある。邊は清音だと古義には言つてゐるが、濁音であらう。○阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》――阿倍は「駿河國國府在2安倍郡1」と和名抄にあり、即ち今の靜岡市である。市道は阿倍の市の道。(306)○相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》――逢つた女よの意で、その下に、さても美しやといふやうな意が含まれてゐる。
〔評〕 この歌は春日藏首老が、駿河の國府に居つて、偶々所用あつて燒津の方へ赴いた際、阿倍の市の雜閙の巷を通つて、美人に逢つてよんだものらしい。この作者の傳(五六參照)には見えないが、恐らく駿河の任にあつたのであらう。美人は遊女か。
 
丹比眞人笠麻呂、往(キ)2紀伊國(ニ)1超(ユル)2勢能山(ヲ)1時作(レル)歌一首
 
丹比眞人笠麻呂の傳は明らかでない。卷四にも筑紫國へ下つた時の歌がある。勢能山は紀伊國伊都郡笠田村にある。孝徳紀に「南自紀伊兄山以來爲畿内」とあるところである。三五參照。
 
285 栲領巾の 懸けまく欲しき 妹が名を この勢の山に 懸けばいかにあらむ 一云、代へばいかにあらむ
 
栲領巾乃《タクヒレノ》 懸卷欲寸《カケマクホシキ》 妹名乎《イモガナヲ》 此勢能山爾《コノセノヤマニ》 懸者奈何將有《カケバイカニアラム》
一云|可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》
 
口ニ出シテ、言葉ニ〔八字傍線〕(栲領巾乃)カケテ言ヒタイ妹トイフ名ヲ、コノ勢能山ニカケテ、勢能山ハ夫ノ山トイフ名ダカラ〔勢能〜傍線〕、ソレト反對ニ試ミニ妹山ト名付ケテ見タナラバ、ドンナモノデアラウ。少シハ戀シイ嬬ヲ思フ旅情ガ慰ムデアラウカ〔少シ〜傍線〕。
 
○栲領巾乃《タクヒレノ》――枕詞。栲布で作つた領巾。頸にかけるものだから懸《カケ》につづく。○懸卷欲寸《カケマクホシキ》――口に懸けて言ひたき意で、懸卷《カケマク》は、かけまくも畏きなどと用ゐるものと同じ。○此勢能山爾《コノセノヤマニ》――勢能山は夫の山の意であるから、この山名に對して妹山を思ひ出し、勢能山を妹山と呼ばば心が慰むであらうかと言つたのである。○一云|可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》――この句について略解に「一本にはあらで、佛足石の御歌の如く一句餘れるなるべし」といつてゐる。佛足石の歌は、美阿止都久留伊志乃比鼻伎波阿米爾伊多利都知佐閇由須禮智々波々賀多米爾毛(307)呂比止乃多米爾《ミアトツクルイシノヒビキハアメニイタリツチサヘユスレチチハハガタメニモロロヒトノタメニ》の如く、五七五七七七の體をなすもので、本集にもかうした形の歌と思はれるものが他にもあつて、それが一云として第六句が誤り記されてゐるから、これも同じであらう。
〔評〕 旅に出て妻を戀しく思つて、どうかして妹と呼んで見たい心地がしてゐる時、背の山があつたので、これを試みに妹山といつたらば、どうだらう、と言つたので、多少遊戯的氣分もあるが、戀する人の可憐な心からと見てよいだらう。
 
春日藏頸老即(チ)和(フル)歌一首
 
春日藏首老は笠麻呂の友人として同行したものと見える。
 
286 宜しなべ 吾背の君が 負ひ來にし 此の勢の山を 妹とは喚ばじ
 
宜奈倍《ヨロシナベ》 吾背乃君之《ワガセノキミガ》 負來爾之《オヒキニシ》 此勢能山乎《コノセノヤマヲ》 妹者不喚《イモトハヨバジ》
 
私ノ兄《セ》ノ君ノ兄トイフ名〔六字傍線〕ニ、ウマク適合シテヰルコノ勢能山ヲ、私ハ今更〔二字傍線〕妹ナドト換ヘテ呼ブコトハ致シマスマイ。
 
○宜奈倍《ヨロシナベ》――ナベは共に、ままになどの意で、この句は宜しき樣にの意であらう。負來爾之《オヒキニシ》にかかつてゐる。卷一の五二にもあつた。○吾背乃君之《ワガセノキミガ》――私の親愛なる貴君がの意で、笠麻呂を背《セ》と言つたもの。
〔評〕 春日老は笠麻呂と共に紀伊に旅行したのである。友人の笠麻呂を親しむ心をあらはしてゐるが、即興的の機智が見える。
 
幸(ノ)2志賀(ニ)1時、石上《イソノカミ》卿作(レル)歌一首 名闕
 
續紀に、元正天皇養老元年九月美濃に幸し、近江に到つて淡海を見給ふことが見えてゐる。その時のことか。左大臣石上麻呂は、その年の三月に薨じてゐるから、この人ではないらしいが、石(308)上氏に卿といふべき人は他にないやうである。或は久老が言つてゐるやうに、大寶二年に太上天皇(持統)が三河・美濃に幸せられたことが見えるから、その時志賀に赴かれたかも知れない。
 それならば麻呂でさしつかへない。古義には麻呂の子の乙麻呂だらうといつてゐる。乙麻呂も中納言從三位兼中務卿に至つた人であるから、後から書くならば卿としてもよいのである。
 
287 此處にして 家やもいづく 白雲の たなびく山を 越えて來にけり
 
此間爲而《ココニシテ》 家八方何處《イヘヤモイヅク》 白雲乃《シラクモノ》 棚引山乎《タナビクヤマヲ》 超而來二家里《コエテキニケリ》
 
此處ヘ來テ見ルト、大分家ト難レタヤウダガ、一體私ノ〔見ル〜傍線〕家ハ何處ダラウ。フリカヘツテ見ルト〔九字傍線〕、白雲ノ靡イテヰル山ヲ越エテ來タワイ。
〔評〕 卷四の大伴旅人の作|此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思《ココニアリテツクシヤイヅクシラクモノタナビクヤマノカタニシアルラシ》(五七四)はこの歌に著しく似てゐる。併し自ら問ひ自ら答へたやうな旅人の歌と、棚引山乎超而來二家里《タナビクヤマヲコエテキニケリ》と詠嘆したこの歌とは、感じの上にかなりの距りがある。かれには筑紫をなつかしむ感が見え、これは家を遠く離れた淋しさがあらはれてゐる。
 
穗積朝臣老(ノ)歌一首
 
穗積朝臣老の名は、大寶三年正月から天平十六年二月までの間、續紀に散見してゐるが、養老六年正月、罪有つて佐渡島へ配流せられたことが記されてゐるから、次の歌はその時のものらしい。南京遺芳所載、維摩經奧書によつて、この人が天平勝寶元年八月廿六日逝去のことが明らかである。
 
288 吾が命し 眞幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白浪
 
吾命之《ワガイノチシ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦毛將見《マタモミム》 志賀乃大津爾《シガノオホツニ》 縁流白浪《ヨスルシラナミ》
 
私ノ命ガサ無事ナラバ、コノ志賀ノ大津ニ打チ寄セテ來ル白浪ノ面白イ景色〔六字傍線〕ヲ復モウ一度見タイモノダ。(309)果シテ無事デ歸ラレルデアラウカ〔果シ〜傍線〕。
〔評〕 この歌詞の物あはれなことは、到底遊覽の時の作とは思はれない。佐渡島への道すがら、この大津を舟出し、湖水を縱斷して、海津方面へ向はうとしてよんだものに違ない。卷十三に長歌一首と反歌、天地乎歎乞祷幸有者又反見思我能韓埼《アメツチヲナゲキコヒノミサキクアラバマタカヘリミムシガノカラサキ》(三二四一)を載せて、左註に但此短歌者或書云、穗積朝臣老配2於佐渡1之時作歌者也とあるが、この反歌は、此處の歌と著しく似たものである。
 
右今案不v審2幸行年月1
 
穗積朝臣老の作も、近江行幸の時のものと思つて、此處にこんな註を入れたのである。後人の註の内でも、最も拙いものである。
 
間人《ハシヒトノ》宿禰大浦(ノ)初月歌二首
 
舊本ここに大浦紀氏見六帖とある。見紀氏六帖の誤である。後人の註なることいふまでもない。初月は三日月をいふ。
 
289 天の原 ふりさけ見れば 白眞弓 張りて懸けたり 夜路は吉けむ
 
天原《アマノハラ》 振離見者《フリサケミレバ》 白眞弓《シラマユミ》 張而懸有《ハリテカケタリ》 夜路者將吉《ヨミチハヨケム》
 
天ヲ遙カニ見渡スト、三日月ガ〔四字傍線〕白イ弓ヲ張ツタヤウニ〔三字傍線〕懸ツテヰル。誠ニ良イ晩ダ〔六字傍線〕。今夜ノ夜道ハヨイ心地ダラウ。サア行カウ、サア行カウ〔十字傍線〕。
 
○白眞弓《シヲマユミ》――三日月をその形を以て白眞弓とし、直ちに次の句|張而《ハリテ》へ續けたのである。○張而懸有《ハリテカケタリ》――カケタルとよむ説が多いが、カケタリと終止形にした方がよいやうだ。○夜路者將吉《ヨミチハヨケム》――吉の字一本に去とあるによ(310)つて、ヨミチハユカム又はユカナとする説もあるが、吉の方が面白いやうであるから、流布の儘にして置かう。
〔評〕 弓張月と言はずに、白眞弓とのみ言つて、張而懸有《ハリテカケタリ》とつづけたのは思ひ切つた修辭法である。月夜の澄み切つた愉快な感が滿ちた作で、足の歩みも輕げに思はれる。古義に「天の原に白眞弓を張りて懸けたれば、いかなる夜路を行くとも、賊徒妖物などの恐れはあらじ。いざ夜路は行かむといへるなり」とあるは、途方もない考へ方である。
 
290 倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出で來る月の 光ともしき
 
椋橋乃《クラハシノ》 山乎高可《ヤマヲタカミカ》 夜隱爾《ヨゴモリニ》 出來月乃《イデクルツキノ》 光乏寸《ヒカリトモシキ》
 
椋橋山ガ高イ爲カ、山ニ邪魔サレテ〔七字傍線〕、夜更ケテカラ出テ來ル月ノ光ガ、物足リナイヨ。
 
○椋橋乃山乎高可《クラハシノヤマヲタカミカ》――椋橋山は大和磯城郡の南部で、多武峯の東に連り、直ぐ宇陀郡に界してゐる。俗に音羽山といつて海拔八五一・七米で、この邊では高い山である。飛鳥地方に住む人はこの山から出る月を仰ぐのである。椋の字は小椋山爾《ヲクラノヤマニ》(一六六四)・巨椋乃入江《オホクラノイリエ》(一六九九)などの如く、クラと訓んでゐる。その理由は判然しないが、狩谷望之の靈異記攷證に「谷川氏曰、椋與v倉同訓、字書未v得2其義1、説文廩之圓(311)謂2之※[因の大が禾]1、方謂2之京1、盖據v之也。按以v京爲v倉、與2京都字1混、故加2木旁1分v之也」とあると、訓義辨證に言つてゐる。寫眞は著者撮影。○夜隱爾《ヨゴモリニ》――夜深くの意。○光乏寸《ヒカリトモシキ》――トモシは羨し、美しなどの意ともなるが、ここのは少くて物足らぬ義である。
〔評〕 卷九に沙彌女王の作として、倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來槻之片待難《クラハシノヤマヲタカミカヨコモリニイデクルツキノカタマチガタキ》(一七六三)といふ歌が出てゐるが、結句を異にするのみで、同一と見なければならない。光乏寸《ヒカリトモシキ》よりも片待難《カタマチガタキ》の方が理に合ふやうに思はれる。又これは初月の歌とあるが、夜半になつて出る片破月で、三日月ではない。題詞に二首とあるは誤つてゐる。
 
小田(ノ)事《ツカフ》勢能山(ノ)歌一首
 
小田事は傳未詳。古今六帖にこの歌を載せて小田事主とある。勢能山は三五・二八五參照。
 
291 眞木の葉の 撓ふ勢の山 忍ばずて 吾が越え行けば 木の葉知りけむ
 
眞木葉乃《マキノハノ》 之奈布勢能山《シナフセノヤマ》 之奴波受而《シヌバズテ》 吾超去者《ワガコエユケバ》 木葉知家武《コノハシリケム》
 
檜ノ木ノ葉ガウナダレテヰルコノ〔二字傍線〕勢ノ山ヨ。私ガ家ヲ慕ツ〔六字傍線〕テ堪ヘカネナガラ、コノ山ヲ〔四字傍線〕越エテ行クト、木ノ葉モ私ノ心ヲ〔四字傍線〕知ツタノダラウ。アンナニ木ノ葉ガウナダレテヰル〔アン〜傍線〕。
 
○之奈布勢能山《シナフセノヤマ》――撓ふ勢の山の意で、檜の葉の枝重げに垂れてゐるをいふ。眞木は檜。この句で切れてゐる。○之奴波受而《シヌバズテ》――家を戀しく思ふ心に堪へかねての意。○木葉知家武《コノハシリケム》――木の葉も吾が心のうちを知つたのであらうの意。
〔評〕 卷七に天雲棚引山隱在吾忘木葉知《アマクモノタナビクヤマノコモリタルワガシタゴコロコノハシルラム》(一三〇四)とあるに似た作で、自分の悲しい心から、山の木の葉もうなだれてゐるやうに見えるのである。シ〔傍点〕ナフセ〔傍点〕ノヤマ、シ〔傍点〕ヌバズ〔傍点〕テ、コノハシ〔傍点〕リケムとサ行の音を繰返して調子を取つてゐる。
 
(312)角《ロクノ》麻呂歌四首
 
角はロクで、録と通じて用ゐたものらしい。續紀大寶元年八月の條に「惠耀姓(ハ)録、名兄麻呂」とあつて、僧の惠耀が勅によつて還俗して本姓に復したことが見え、又、養老三年正月の條に、「授2正六位上角兄麻呂從五位下1」とあるのは同一人である。この角を※[角の一画目と二画眼の半分なし]に作る本もあるが、これは同字である。續紀の文によつて代匠記に角の下、兄の字脱ちたものとしてゐるが、この儘にして置かう。角をツヌと訓む説もあるが、その氏を見ないから、ロクがよいのであらう。
 
292 ひさかたの 天の探女が 石船の 泊てし高津は 淺せにけるかも
 
久方乃《ヒサカタノ》 天之探女之《アマノサグメガ》 石船乃《イハフネノ》 泊師高津者《ハテシタカツハ》 淺爾家留香裳《アセニケルカモ》
 
昔〔傍線〕、(久方乃)天ノ探女ガ、乘ツテ天カラ降リテ來タ〔乘ツ〜傍線〕、岩船ノ泊ツタトイフコノ高津ハ、變リ果テテ〔五字傍線〕淺クナツタモノダナア。
 
○天之探女之《アマノサグメガ》――古事記に「天(ノ)佐具賣《サグメ》」、書紀に「天探女、此云2阿麻能佐愚謎《アマノサグメ》1」とある女で、天稚彦に仕へて雉名鳴女を射しめた人である。探は他の心を探つて邪思が多い義だとせられ、書紀口訣に「天探女者從神讒女也」とある。後に天之邪鬼《アマノジヤク》といひ、轉じて兩金剛のふまへた小惡鬼を呼んでゐるが、とかく評判の惡い女である。○石船乃《イハフネノ》――堅固な船の義。神武紀にも「亦有d乘2天磐船1飛降者u」トあり、卷十九に天雲爾磐船浮《アマグモニイハフネウカベ(四二五四)とある。○泊師高津者《ハテシタカツハ》――泊師《ハテシ》は舟の着いたこと。高津は高津宮の條に記した如く、大阪城の邊らしく思はれる。卷二の冒頭參照。○淺爾家留香裳《アセニケルカモ》――淺くなつたよといふので、昔の泊は名のみで、今は舟を泊すべくもないやうになつたのを詠嘆したのである。
〔評〕 攝津風土記に、「難波高津者天稚彦天降時、屬之神天(ノ)探女、乘2磐舟1而至2于此(ニ)1其磐舟所泊故(ニ)號2高津(ト)1」とある傳説をよんだもので、萬葉集には古傳説を取扱つたものはかなりあるが、神代説話をよんだものとして、この歌は最も注意すべきものである。謠曲岩船はこの歌を基として構成せられたもので、その中に「久方の天(313)の探女が岩船をとめし神代の幾久し」などの句がある。ともかく文學史的に價値ある作である。
 
293 鹽干の 三津の海女の くぐつ持ち 玉藻苅るらむ いざ行きて見む
 
鹽干乃《シホヒノ》 三津之海女乃《ミツノアマノ》 久具都持《クグツモチ》 玉藻將苅《タマモカルラム》 率行見《イザユキテミム》
 
汐ノ干テヰル三津ノ海女ドモガ、藁デ編ンダ袋ヲ持ツテ、美シイ藻ヲ苅ツテヰルダラウ。サアソノ樣子ヲ〔五字傍線〕見ニ行カウ。
 
○三津之海女乃《ミツノアマノ》――三津は難波の三津である。海女は舊訓アマメとあるが、海人・海夫・海子などと共にアマとよむべきである。アマメといふ語は他にないやうだ。○久具都持《クグツモチ》――久具都《クグツ》は藁で編んだ袋で、藻貝などを入れるもの。袖中抄に「顯昭云、くぐつとは藁にて袋のやうに編みたる物なり。夫れに藻などをいるるなり」とある。莎草《クグ》の繩をクグナハといふやうに、莎草《クグ》で作つた袋をクグツといふものと考へられてゐる。現に若越地方では、叺《カマス》をククツといふさうだ。和名抄に、傀儡をクグツとよませてあつて、中世、人形・人形遣ひ・遊女をもクグツといつた。これに就いて安藤正次氏は、傀儡子をクグツといふのは、朝鮮語の Koangtai から出たもので、歌舞伎藝をなすものを、廣大、又は才人と稱し、謂はゆる我が國の人形遣ひである。これが我に渡來し、柳器を編んでゐたので、袋をクグツといふやうになつたと言つてゐる。考ふべき説である。
〔評〕 都人の間には、海女の持つクグツが、珍らしく語られてゐたのではあるまいか。この歌では、久具都持《クゲツモチ》が特更らしく聞えて、率行見《イザユキテミム》に對してゐる。初の二句が四音と六音とで、破調になつてゐるのも風變りである。
 
294 風を疾み 奧つ白浪 高からし 海人の釣船 濱に歸りぬ
 
風乎疾《カゼヲイタミ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 高有之《タカカラシ》 海人釣船《アマノツリブネ》 濱眷奴《ハマニカヘリヌ》
 
風ガヒドイノデ、沖デハ白浪ガ高ク立ツテヰルラシイ。海人ノ釣船ガ濱ヘ歸ツテ來タ。
 
○濱眷奴《ハマニカヘリヌ》――眷はかへり見る意の文字であるのを、歸る意に借り用ゐたのであらう。
 
(314)〔評〕 海人の釣船が、三三伍伍、濱に歸つて來たのを見て、沖の高い白浪を想像したもので、實に鮮明な、さわやかな歌で、一種縹渺たる風韻が漂つてゐる。
 
295 住吉の 岸の松原 遠つ神 わが大王の いでまし處
 
清江乃《スミノエノ》 木※[竹冠/矢]松原《キシノマツバラ》 遠神《トホツカミ》 我王之《ワガオホキミノ》 幸行處《イデマシドコロ》
 
コノ住吉ノ岸ノ松原ハ(遠神)私ノ仕ヘ奉ル天皇陛下ノ行幸遊バシタ所ダ。
 
○清江乃木笶松原《スミノエノキシノマツバラ》――清江は住吉。木笶松原は岸の松原。岸は住吉の地名である。單に海岸の意ではない。姓氏録にある攝津國皇別吉志はこの地を本據とした氏である。笶は竹矢の義で、集中多くノの假名に用ゐてゐるが、ここはシノに用ゐたのであらう。木の下に志を補ふ古義の説はどうであらう。○遠神《トホツカミ》――枕詞。王《オホキミ》につづく。五を見よ。
〔評〕 住吉の佳景に對して、此處が曾て天皇行幸の地であつたのは、誠に當然であると、感じた儘をよんだものである。平語ではあるが敬慎の語氣である。
 
田口|益人《マスヒトノ》大夫、任(ゼラレシ)2上野(ノ)國司(ニ)1時、至(リテ)2駿河淨見埼(ニ)1作(レル)歌二首
 
續紀に「和銅元年三月丙午從五位上田口朝臣益人爲2上野守1」とあるから、その時の作である。
 
296 廬原の 清見が埼の 三保の浦の 寛けき見つつ もの思ひもなし
 
廬原乃《イホハラノ》 清見之埼乃《キヨミガサキノ》 見穗乃浦乃《ミホノウラノ》 寛見乍《ユタケキミツツ》 物念毛奈信《モノモヒモナシ》
 
廬原ノ清見ガ埼ノ三保ノ浦ノ、ユツタリトシタ長閑ナ景色〔五字傍線〕ヲ見ナガラ通ツ〔五字傍線〕テ、私ハ、旅ノ憂モナク〔八字傍線〕、何ノ心配モナイ。實ニ佳イ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○廬原乃《イホハラノ》――和名抄、駿河國廬原郡廬原 伊保波良とある。今、この郡は富士川以西江尻までの地であるが、(315)上古は庵原の國の名が見え、富士川以西の全部、安倍、志太二郡をも含んでゐたらしい。○清見之埼乃《キヨミガサキノ》――今の興津町の西、大字|清見寺《セイケンジ》の磯埼であらう。三保松原の眞埼と相對してゐる。○見穗乃浦乃《ミホノウラノ》――清水港の海上で、清水・江尻・三保埼の間の灣である。○寛見乍《ユタケキミツツ》――ゆたけきは廣く靜かな景色である。
[評] 上の三句が盡く乃《ノ》で終つてゐるのが、一寸耳ざはりのやうでもある。清見之埼從《キヨミガサキユ》の誤かと新考に疑つたのも、さることだが、從《ユ》では清見が埼と三穗の浦とが離れてしまつて面白くない。矢張|乃《ノ》で續くべき所だ。あの景色を知るものは、作者が旅中の苦を忘れたのも、さもこそとうなづくであらう。
 
297 晝見れど 飽かぬ田兒の浦 大王の 命かしこみ 夜見つるかも
 
晝見騰《ヒルミレド》 不飽田兒浦《アカヌタゴノウラ》 大王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》
 
晝見テモ飽カナイ、面白イ田兒ノ浦ヲ、天子樣ノ仰ガ恐レ多クテ、急イデ任國ヘ下ラウト思ツテ、夜通シシテ〔急イ〜傍線〕夜見テ行キマシタワイ。
 
○田兒浦《タゴノウラ》――今、田子の浦と稱するは、富士川の東であるが、續紀「天平勝寶二年駿河國盧原郡、多胡浦濱獲2黄金1献v之」とあるのは、今の蒲原町大字小金のことであるから、古の田兒の浦は蒲原町の海岸だらうといふ。但し十六夜日記にも「二十七日、明けはなれて後富士川わたる。云々、今日は日いとうららかにて田子の浦に打ち出づ」とあるから、富士川の東方としたのも古いことである。
〔評〕 君命を重じ、晝夜兼行で急いで任に赴く氣分が、よくあらはれてゐる。大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》といふ慣用語が、少し事々しい位に用ゐられてゐるが、そこにこの時代の人の、皇室尊崇の誠意が見えてゐるのである。
 
辨基歌一首
 
左註の通り、春日藏首老が還俗しない頃の法師名である。この人は續紀によれば、大寶元年三月に還俗してゐるから、この歌はその以前の作である。
 
298 眞土山 夕越え行きて いほさきの 角太河原に ひとりかも宿む
 
(316)亦打山《マツチヤマ》 暮越行而《ユフコエユキテ》 廬前乃《イホサキノ》 角太河原爾《スミダカハラニ》 獨可毛將宿《ヒトリカモネム》
 
眞土山ヲ夕方越シテ行ツテ、私ハ今夜〔四字傍線〕盧前ノ角太河ノ河原デ、一人デ寢ルコトカナア。アア淋シイ辛イコトダ〔十字傍線〕。
 
○亦打山《マツチヤマ》――大和紀伊の國境にある山。山を越すと紀伊國伊都郡隅田村眞土である。五五寫眞參照。○盧前乃角太河原爾《イホサキノスミダガハラニ》――伊都郡志に、「イホサキは本村(隅田村)大字|芋生《イモフ》なる出崎をいひしものならんと、紀伊續風土記に記せり」とあり、角田川は「落合川と紀之川との合流點より下、橋本町大字妻に至る紀之川をいふ」とある。落合川は古く眞土川といつた、紀の川へ注ぐ小川である。今はその芋生に隅田驛が出來てゐる。角太河原は即ち其處の紀の川の河原である。
〔評〕 藤原の都を出かけて、紀伊へ赴かうとした作者は、眞土山を越えてゐる内に、早くも日が暮れかかつた。山のあなたは宿るべき家もない角田河原である。其處に野宿をすることかと、淋しがつた趣で、法師の作ではあるが、西行などの旅の歌とは著しく異なつた氣分である。
 
右或云、辨基者春日藏首老之法師名也
 
これは續紀によつて、後人が記したものか。舊本に小字を用ゐてある。
 
大納言大伴卿歌一首 未詳
 
諸註にこれを旅人の作としてあるが、旅人が大納言になつたのは、この卷の奧書に天平二年十月一日とあるのに、このあたりの作者は皆、和銅前後の人たちであるから、これは安麻呂卿のことであらう。安麻呂の傳は一〇一參照。題詞の下の未詳の二字は後人の加へたもので不要である。大伴卿が誰であるか不明だといふのである、
 
299 奧山の 菅の葉凌ぎ 零る雪の 消なば惜しけむ 雨なふりそね
 
(317)奧山之《オクヤマノ》 菅葉凌《スガノハシヌギ》 零雪乃《フルユキノ》 消者將惜《ケナバヲシケム》 雨莫零行年《アメナフリソネ》
 
奧山ノ菅ノ葉ヲ靡カセテ降ツタ雪ガ、消エタナラバ惜シイデアラウ。雨ヨ、降ツテクレルナ。雨ガ降ルト雪ガ消エテシマフカラ〔雨ガ〜傍線〕。
 
○菅葉凌《スガノハシヌギ》――菅の葉を靡かしての意。凌ぐは、たわます、靡かすの意。菅は即ち山菅で麥門冬のことであらう。一にやぶらんと稱する。山蘭に似た百合科の草である。和名抄にも、「麥門冬、和名夜末須介」トある。但し、これは山に生ずる菅で、普通の菅の山に生じたのを云つたのかも知れない。山菅笠・山菅蓑などの名もあつて山菅を以て笠蓑などを編んだのである。ここではしばらく麥門冬として置かう。山菅の圖は五六四參照。○雨莫零行年《アメナフリソネ》――雨な降りそ、にね〔傍点〕を添へた形である。行年の二字は舊訓コソであつたが、宣長が行を所の誤としてソネとよんでから、それに從ふ説が多い。併し風莫吹行年《カゼナフキソネ》(一三一九)・言勿絶行年《コトナタエソネ》(一三六三)・雨莫零行年《アメナフリソネ》(一九七〇)・犬莫吠行年《イヌナホエソネ》(三二七八)の類を盡く誤とは言はれない。恐らく行にソの音があるのであらう。
〔評〕 雪を賞でた歌である。如何なる場合の作か明らかでないが、奧山の山菅の葉を靡かして、降つた雪を見てよんだのであらう。卷六に奧山之眞木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノフりハマストモツチニオチメヤモ》(一〇一〇)と上句は似てゐるが、眞木の葉の雪の方が深さうである。これは山菅の葉の上の薄い雪で、降る雨には一溜りもなく消えさうに思はれる。やさしい、細い感じがする歌。
 
長屋王駐(メテ)2馬(ヲ)寧樂山(ニ)1作(レル)歌二首
 
長屋王は七五參照。寧樂山は奈良市北方の山で、今の奈良坂以西をいふ。この山を越えれば即ち山背であるが、その主なる道路は今の奈良坂ではなく、郡山街道の歌姫越であらうと思はれる。
 
300 佐保過ぎて 寧樂のたむけに 置くぬさは 妹を目離れず 相見しめとぞ
 
佐保過而《サホスギテ》 寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》 置幣者《オクヌサハ》 妹乎目不離《イモヲメカレズ》 相見染跡衣《アヒミシメトゾ》
 
(318)旅ニ出カケテ〔六字傍線〕佐保ヲ通ツテ、奈良山ノ峠デ幣ヲ供ヘテ、神樣ヲオ祭リス〔八字傍線〕ルノハ、私ノ戀シイ妻〔五字傍線〕ヲ、絶エズ逢ハセテ下サイトイフツモリデスヨ。
 
○佐保過而《サホスギテ》――佐保は今の奈良市の北方から以西の地で、今は法蓮・法華寺の二大字に分れてゐる。此處を通過して奈良山へかかられたのである。契沖は「佐保は長屋王の宅ある所なり」といつてゐるが、果して然らば過而《スギテ》は出立したこととなる。○寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》――寧樂山の峠にの意で、タウゲは手向《タムケ》の轉である。山の頂を通る時、山神に幣を手向けるから、手向がタウゲとなつたのである。手向ける山を手向山といふのである。○置幣者《オクヌサハ》――幣は神を祭るに供へるもので、多く布帛の類を細かに切つたものを用ゐた。それを袋に入れ携へて行つて、道すがら神を祭つたのである。○妹乎目不雖《イモヲメカレズ》――雖は離の誤に相違ない。類聚古集に離とある。目不離は目離れずの意で、目離さず、常にといふに同じ。○相見染跡衣《アヒミシメトゾ》――相見しめよと思つて置く幣ぞの意。
〔評〕 旅に出でようとして、先づ無事を祈つて神を祭るのは、他の理由ではない。唯妻に幾久しく逢はむが爲だといふので、妻戀ふる心を強く言ひあらはしたものである。卷二十、知波夜布留賀実乃美佐貿爾怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知知我多米《チハヤフルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチチガタメ》(四四〇二)とあるに似てゐる。
 
301 岩が根の こごしき山を 越えかねて 音には泣くとも 色に出でめやも
 
磐金之《イハガネノ》 凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》 超不勝而《コエカネテ》 哭者泣友《ネニハナクトモ》 色爾將出八方《イロニイデメヤモ》
 
岩ノ重ナリ合ツテ嶮シイ山ヲ越エカネテ、家ニ遺シテ置イタ妻ガ戀シクテ〔家ニ〜傍線〕、聲ヲ出シテ泣クトモ、顔色ニ出シテ、人ニ覺ラレルヤウナコトヲシヨ〔シテ〜傍線〕ウカ、決シテソンナコトハシナイ〔決シ〜傍線〕。
 
○磐金之《イハガネノ》――磐金は岩が根の借字。○凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》――凝敷《コゴシキ》は嶮しき意。凝の字は磐根已凝敷《イハネコゴシキ》(二三〇)興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》(三二七四)の如くゴに用ゐられ、又は夕凝《ユフゴリノ》(二六九二)・潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》(九七六)の如く、ゴリとよまれてゐるが、ここはコゴとよんでゐる。この字は蒸韻魚陵切、呉音ゴウで、ng の音尾であるからコゴとなるのである。
(319)〔評〕 聲を出して泣いても、顔色には出さないといふのは、少し矛盾したやうにも聞える。そこで第四句をナキハナクトモとよまうといふ説もあるが、やはり同じことである。聲を出しては泣くとも、妹思うて泣くものと人に覺られまいと言ふのであらうから、もとの儘でよい。寧樂山を超える歌としては、一二の句はかなり大袈裟過ぎる。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
續紀に「神龜四年十月甲戌以2從三位阿倍朝臣廣庭1爲2中納言1天平四年二月甲戌朔乙未中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨、右大臣從二位御主人之子也」とある。懷風藻に「從三位中納言兼催造宮長官安倍朝臣廣庭二首、年七十四」とある。
 
302 兒らが家道 やや間遠きを ぬばたまの 夜渡る月に 競ひあへむかも
 
兒等之家道《コラガイヘヂ》 差間遠烏《ヤヤマドホキヲ》 野干玉乃《ヌバタマノ》 夜渡月爾《ヨワタルツキニ》 競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》
 
妻ノ家ヘハ、マダ〔二字傍線〕カナリ間ガアルガ(野干玉乃)今夜空行ク月ノ速サニハ、競爭ガ出來ヨウカ、トテモ出來マイナア。月ガ西山ニ没セヌウチニ、家ヘ着カウト思フケレドモ、トテモ出來サウニモナイ〔月ガ〜傍線〕。
 
○差間遠烏《ヤヤマドホキヲ》――差《ヤヤ》は程度をいふ語で、ここは、かなり、よほどなどの意。良久《ヤヤヒサシ》などのヤヤと同じであらう。間遠烏《マドホキヲ》は距離があるがの意。新訓にヤヤアヒダトホシとあるのは、烏の字一本に焉とあるに從つたものか。併し間遠之有者《マトホクシアレバ》(四一三)ともあるから、マドホキヲとして置きたい。烏の字は焉を誤つた場合も多いけれども、ヲの假名に用ゐたものに、將吹烏《フキナムヲ》(四六二)の如き例もあるのである。○野干玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》――略解にキソヒとよんだのはどうであらう。安治牟良能佐和伎伎保比弖《アヂムラノサワギキホヒテ》(四三六〇)とある。
〔評〕 家路をさして、夜道を急いでゐる人の心持が、よく歌はれてゐる。月光を浴びながら、急ぎ足に歩いてゐる人の姿も、目に見えるやうだ。佳作。
 
(320)柿本朝臣人麿下(レル)2筑紫國(ニ)1時、海路作(レル)歌二首
 
筑紫國は、次の歌によると太宰府をさしたものである。人麿が太宰府に赴いたのは、いづれ役人としての公用であらうが、その時期は分らない。
 
303 名ぐはしき 稻見の海の 沖つ浪 千重に隱りぬ 大和島根は
 
名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》 奧津浪《オキツナミ》 千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》 山跡島根者《ヤマトシマネハ》
 
有名ナ景色ノヨイ〔五字傍線〕、印南ノ海ノ沖ノ浪ガ幾重ニモ立ツテヰル。私ノ故郷ノ大和ノ〔ガ幾〜傍線〕國ハ、ソノ浪ノ〔四字傍線〕幾重ニモ立ツテヰル彼方ニ〔三字傍線〕隱レテシマツタ。アア心細イ〔五字傍線〕。
 
○名細寸《ナグハシキ》――名の精美《クハシ》き意で、稻見の海の名高きを賞めたのである。○稻見乃海之《イナミノウミノ》――印南の海即ち播磨の明石海峽以西の海。〇千重爾隱奴《チヘニカクリヌ》――沖つ浪の千重の彼方に隱れたといふので、沖に立つ浪が幾重とも知らず立つてゐる彼方に、見えなくなつたこと。カクリヌをカクシヌとよむ説は甚だしい惡訓である。○山跡島根者《ヤマトシマネハ》――大和の國をいふ。海の彼方にあるから、かく言つたのである。
〔評〕 明石海峽を過ぎると、もはや畿内の山々も見えなくなつて、顧みれば唯渺茫たる海波のみが幾重とも無く立つてゐる。淋しい心細い感じが詠まれてゐて、前にあつたこの人の、天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマサカルヒナノナガヂユコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》(二五五)を逆に行つただけで、故郷なつかしい心は同じである。
 
304 大王の 遠の朝庭と 在り通ふ 島門を見れば 神代し念ほゆ
 
大王之《オホキミノ》 遠乃朝庭跡《トホノミカドト》 蟻通《アリガヨフ》 島門乎見者《シマトヲミレバ》 神代之所念《カミヨシオモホユ》
 
太宰府トイフ所ハ〔八字傍線〕、天皇ノ御支配遊バス遠クニアル役所デアルトテ、昔カラ人々ガ行キ通ツテ來タ、澤山ノ〔三字傍線〕島ノ間ノ海路ヲ見ルト、コレラノ島ヲ作ツタ神樣ノ力ハエライモノダト〔コレ〜傍線〕、神代ノコトガ思ヒ出サレル。
 
○大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》――天皇の遠くの役所といふ意で、太宰府をさした例が多い。七九四・九七三・三六六八・四(321)三三一などがさうである。○蟻通《アリガヨフ》――ありありて來通ふの意で、昔から通つて來たこと。○島門乎見者《シマトヲミレバ》――島門は島と島との間の舟の通路。○神代之所念《カミヨシオモホユ》――島々を生み給へる、神代のことが思はれる。
〔評〕 瀬戸内海の島々は、記紀によれば、いづれも諾冊二神の生み給へるか、又は潮泡の凝りて成つたものである。太宰府を大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》といひ、其處へ通ふ道すがら、神代を懷ひ起したのは、彼の尊皇敬神の念の篤いことを示すもので、如何にも人麿らしい歌である。
 
高市連黒人(ノ)近江舊都(ノ)歌一首
 
305 斯く故に 見じと云ふものを さざ浪の 舊き都を 見せつつもとな
 
如是故爾《カクユヱニ》 不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》 樂浪乃《サザナミノ》 舊都乎《フルキミヤコヲ》 令見乍本名《ミセツツモトナ》
 
私ハ大津ノ舊都ヲ見タラ、キツト懷舊ノ情ニ堪ヘラレナイデ悲シクテ仕樣ガアルマイト思ツテヰタ〔私ハ〜傍線〕。必ズコンナダラウト思ツタノデ見マイト言ツテ斷《コトハ》ツタノニ、コノサザ浪ノ大津ノ〔三字傍線〕舊都ノ荒廢シタ樣子〔七字傍線〕ヲ徒ラニ見セテ案ノ通リコンナ悲シイ思ヲサセタ〔案ノ〜傍線〕。
 
○樂浪乃舊都乎《サザナミノフルキミヤコヲ》――近江の樂浪にある舊都。即ち天智天皇の大津の宮をいふ。○令見乍本名《ミセツツモトナ》――見せたのはもとなしといふので、もとな〔三字傍点〕は考なし、徒らなりといふやうな意。委しくは二三〇を見よ。
 
〔評〕 如是故爾不見跡云物乎《カクユヱニミジトイフモノヲ》が、如何にも悲痛に堪へないで、身悶えでもしてゐるやうに強く響いてゐる。令見乍本名《ミセツツモトナ》も、亦恨めし氣に聞えて、感慨切實である。惨澹たる現實に目を蔽うてゐる、黒人の姿が見えるやうである。
 
右謌或本曰(フ)2小辨作(ト)1也、未《セズ》v審(ニ)2此(ノ)小辨者(ヲ)1也
 
この註はかなり古いものであらう。併し右の歌はどうも黒人らしい。
 
(322)幸(セル)2伊勢國(ニ)1之時、安貴王作歌一首
 
幸2伊勢國1之時とあるは、續紀に「天平十二年冬十月壬午、行2幸伊勢國1」とある時らしく思はれるが、このあたりの他の作に比して、年次が新し過ぎるから、或は養老二年二月美濃行幸の時かも知れない。併し王は天平元年に始めて從五位下になつてゐられるから、養老の頃はまだ小兒であらう。この行事は恐らく天平の初年頃のもので紀に洩れたのであらう。安貴王は續紀に「天平元年三月無位阿紀王(ニ)授2從五位下(ヲ)1。十七年正月乙丑從五位上」とあり、志貴皇子の御子なる春日王の御子で、市原王の父である。卷六に、市原王宴(ニ)祷2父安貴王1歌とある。
 
306 伊勢の海の 沖つ白浪 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ
 
伊勢海之《イセノウミノ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 花爾欲得《ハナニモガ》 ※[果/衣の鍋ぶたなし]而妹之《ツツミテイモガ》 家※[果/衣の鍋ぶたなし]爲《イヘヅトニセム》
 
伊勢ノ海ノ沖ニ立ツテヰル白浪ガ花ノヤウダガ、ホントノ〔花ノ〜傍線〕花デアレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕包ンデイツテ、家ノ妻ヘノ土産ニシヨウ。
 
○家※[果/衣の鍋ぶたなし]爲《イヘツトニセム》――家※[果/衣の鍋ぶたなし]は家へ携へ歸る苞の義で、即ち土産物である。ツトは藁などに包んだもので、本來包ミの意であらう。
〔評〕 白浪を花に譬へて、花ならば携へて家に歸らうものをと、幼げな考へ方が上代人らしく、無邪氣で面白い。
 
博通法師、往(キ)2紀伊國(ニ)1見(テ)2三穗石室(ヲ)1作(レル)歌三首
 
博通の傳はわからぬ。三穗石室は紀伊日高郡で日御崎の東方にある。この邊が謂はゆる風早の濱である。卷一の一〇の紀伊西南海岸地圖參照。
 
307 はた薄 久米の若子が いましける 一云、けむ 三穗の岩屋は 見れど飽かぬかも 一云、あれにけるかも
 
(323)皮爲酢寸《ハタススキ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊座家留《イマシケル》【一云|家牟《ケム》】 三穗乃岩室者《ミホノイハヤハ》 雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》【一云|安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》】
 
昔〔傍線〕(皮爲酢寸)久米ノ稚子ガ住ンデヰラレタ、コノ三穗ノ石室ハ、イクラ見テモ飽カナイナア。コレヲ見ルト昔ノコトガ思ヒ出サレテ立チ去リ難イ〔コレ〜傍線〕。
 
○皮爲酢寸《ハタススキ》――旗薄で、久米とつづく枕詞。穗が籠《コモ》つてゐる意で、コメが轉じて久米とかかるのであらう。宣長が句を距てて、三穗へかかると言つたのは從ひがたい。○久米能若子《クメノワクゴ》――顯宗紀に「弘計王、更名、來目稚子」とあるによつて、弘計王のこととする説もあるが、この王が紀伊におはしたことは物に見えない。又次の歌から考へても、帝位に即かれた御方を申し奉つたものとは思はれない。これは誰か別人である。○雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》――この句は景色のよい場合の褒詞によく使つてあるが、一云、安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》とあるによると、ここは恐らく懷舊の情に堪へず、立ち去りかねる意であらう。
〔評〕 古傳説を詠じただけで、さして面白い作でもない。久米の若子を久米の仙人とする説もあるが、さうとも思はれない。ともかく傳説がはつきりしてゐないのは遺憾である。
 
308 常磐なす 岩屋は今も 有りけれど 住みける人ぞ 常なかりける
 
常磐成《トキハナス》 石室者今毛《イハヤハイマモ》 安里家禮騰《アリケレド》 住家類人曾《スミケルヒトゾ》 常無里家留《ツネナカリケル》
 
永久ニ變ラナイコノ三穗ノ〔五字傍線〕石室ハ、昔ノママデ〔五字傍線〕今モ殘ツテヰルガ、コノ中ニ〔四字傍線〕住ンヂヰタ久米ノ稚子ハ常ナキ人ノナラハシトシテ、モウ〔常ナ〜傍線〕疾ニ死ンデシマツタヨ。
 
○常磐成《トキハナス》――トキハナルともよんであるが、卷五に等伎波奈周《トキハナス》(八〇五)・常磐奈須《トキハナス》(四一一一)・時齒成吾者通《トキハナスワレハカヨハム》(一一三四)とあり、又|玉藻成《タマモナス》(二四八三)・闇夜成《ヤミヨナス》(一八〇四)・百重成《モモヘナス》(二九〇三)・續麻成《ウミヲナス》(三二四三)等などの例によるも、トキハナスがよい。
(324)〔評〕 昔の儘に變らない岩窟に對し、人間の無常を痛感したところが僧侶の歌らしい。
 
309 岩屋戸に 立てる松の樹 汝を見れば 昔の人を 相見るごとし
 
石室戸爾《イハヤドニ》 立材松樹《タテルマツノキ》 汝乎見者《ナヲミレバ》 昔人乎《ムカシノヒトヲ》 相見如之《アヒミルゴトシ》
 
石窟ノ所ニ立ツテヰル松ノ樹ヨ。私ハ〔二字傍線〕汝ヲ見ルト、汝ハ昔ノコトヲ知ツテヰルモノト思フカラ〔汝ハ〜傍線〕、昔此所ニ住ンデヰタ久米ノ稚子トイフ〔此所〜傍線〕人ト逢フヤウナ心地ガスル。
 
○石室戸爾《イハヤドニ》――石屋處であらう。戸は借字である。槻の落葉や、古義に石室外としたのも、略解に石室の門とあるのも從ひがたい。○昔人乎《ムカシノヒトヲ》――久米の稚子を指す。
〔評〕 老松に對して故人を偲んだのである。紀州名勝記に「三穗村の南(ノ)岡(ノ)上に久米(ノ)墓と云ふあり。昔は古木(ノ)松二三株ありきといへど、今はただ家のみなり」とあるのを引いて、檜嬬手に「その墓をよみたるにあらざるか」と述べてゐるが、この歌の趣は決してさうではない。岩窟の前に老松が聳えてゐたのである。
 
門部王詠(ミテ)2東市之樹(ヲ)1作(レル)歌一首
 
門部王は古葉略類聚抄に「後賜姓大原眞人氏也」と小字で註を加へてゐる。この王は續紀によれば、和銅三年正月に無位から從五位下に叙せられ、累進して天平九年十二月には、從四位下で右京大夫となつてゐるが、後臣下に列して、「同十四年四月戊戌、授2從四位下大原眞人門部(ニ)從四位上(ヲ)1十七年四月戊子朔庚戌大藏卿從四位上大原眞人門部卒」とある。なほ和銅六年正月の條に「丁亥授2無位門部王從四位下〔授無〜傍点〕1」とある。古義に「此十字誤あるべし、他處の文の混入たるか」と言つてゐるが、この條は一本に内部王とあるに從ふべきものか、又は全く同名異人とすべきものである。ともかくも本集の門部王は古注を尊重して、後に大原眞人の姓を賜はつた人としてよいやうである。東市は、都を東の京と西の京とに分ち、東の京に東の市があり、西の京には西の市があつた。(325)關野貞氏の説によれば、東市は辰市村大字杏に小字辰市があるから、その附近であらうし、西市は郡山町大字九條に田市と稱する地があるから、その附近らしく、要するに東西兩市は八條の内にあつたものであらうといふことである。さうして、その各市には樹木を多く植ゑた。雄略紀に※[食+甘]香市《ヱカノイチノ》橘(ノ)本とあり、卷二にも橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》(一二五)とある。さて、ここに詠とありて作歌とあるは、恐らく作の字は衍であらう。類聚古集には作の字がない。卷六の一〇三一の左註に詠2思泥埼1作歌とあるが、後人の註だから例にはならない。
 
310 ひむがしの 市の植木の 木垂るまで 逢はず久しみ うべ戀ひにけり
 
東《ヒムガシノ》 市之殖木乃《イチノウヱキノ》 木足左右《コダルマデ》 不相久美《アハズヒサシミ》 宇倍《ウベ》吾|戀爾家利《コヒニケリ》
 
東ノ市ニ植ヱタ若イ〔二字傍線〕木ガ、老木トナツテ〔六字傍線〕枝ガ垂レルマデ、隨分永ク思フ人ト逢ハナイノデ〔隨分〜傍線〕、私ガ戀シク思ツテヰルノハ尤ナコトダワイ。
 
○東市之殖木乃《ヒムガシノイチノウヱキノ》――右に述べたやうに、東の市に植ゑてある木であるが、何の木であるかは分らない。橘を植ゑたのは※[食+甘]香市の例があるが、他に海柘榴市《ツバイチ》・桑市などもあるから、種々の木が植ゑられたものである。併しこの東市の舊地を大字|杏《カラモモ》とよんでゐることから想像して、予は多分この市の木は杏であつたのであらうと推定したいのである。杏の字は卷九(一六八九)に杏人とあり、カラヒトノとよんでゐるが、これには異説があつて、谷川士清は、下の濱の字につづけて、カラモモノハマとよまうと言つてゐるが、和名抄にも「杏子、加良毛毛」とあり、宇津保物語にこの名が見えてゐるから、奈良朝にもあつたものと思ふ。この推定はあまり牽強の言でもあるまい。○木足左右《コダルマデ》――木足《コダル》は木垂で、老木となつて枝が垂れるをいふ。卷十四に、可麻久良夜麻能許太流木乎《カマクラヤマノコダルキヲ》(三四三三)とある。○宇倍《ウベ》吾|戀爾家利《コヒニケリ》――類聚古集に吾の字が無いのに從ふべきである。吾が戀ふるはうべなりけりといふのである。
〔評〕 東の市の植木と、戀人との間に、何か關係があるのであらう。或は東の市で戀人を見そめたものか。前にも春日藏首老の駿河奈流阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《スルガナルアベノイチヂニアヒシコラハモ》(二八四)とあるから、門部王も市で女に逢はれたものかも知(326)れない。市の植木をよんだのは取材が珍らしい。
 
※[木+安]作村主益人《クラツクリノスグリマスヒト》從2豐前國1上(レル)v京(ニ)時、作(レル)歌一首
 
※[木+安]作村主益人の傳は詳でない。卷六に内匠寮大屬※[木+安]作益人云々と見える。※[木+安]は鞍に同じ。字鏡に、「※[木+安]、乘久艮」とある。※[木+安]作は氏、村主は尸である。
 
311 梓弓 引き豐國の 鏡山 見ず久ならば 戀しけむかも
 
梓弓《アヅサユミ》 引豐國之《ヒキトヨクニノ》 鏡山《カガミヤマ》 不見久有者《ミズヒサナラバ》 戀敷牟鴨《コヒシケムカモ》
 
私ハ今、コノ豐前國ヲ去ラウトシテヰルガ〔私ハ〜傍線〕、(梓弓引)豐前ノ國ノ鏡山ヲ、久シク見ナイナラバ戀シク思ハレルデアラウカナア。名殘惜シイコトダ〔八字傍線〕。
 
○梓弓引豐國之《アヅサユミヒキトヨクニノ》――梓弓を引き響《トヨモ》す意で、豐國につづけたものであるから、梓弓引は豐の序詞である。豐國は今の豐前・豐後。○鏡山《カガミヤマ》――今、豐前國田川郡の東部に勾金村があり、その大字に鏡山といふがある。此處に神功皇后を祀つた鏡神社があり、枕草子に見えた鏡の池もある。この邊に御陵と覺しきものがあるから、昔は墳墓の地であつたのである。この下に、河内王、葬2豐前國鏡山1之時作歌二首とある。
〔評〕 古義に、「この鏡山の佳景を見ずして久しくなりなば云々」とあるのは違つてゐる。景色を戀しく思ふのではない。この國にゐた間に仕へた御方(或は河内王か)の墓所に別れるのを悲しんだのである。不見久有者《ミズヒサナラバ》の見《ミ》を、鏡の縁語とするのは考へ過ぎであらう。この集には殆んど縁語は用ゐて居ない。
 
式部卿藤原|宇合《ウマカヒノ》卿、被(ル)v使v改(メ)2造(ラ)難波|堵《ミヤコヲ》1之時、作(レル)歌一首
 
藤原宇合は不比等の第三子。馬養とあるも同一人である。式部卿になつたのは、續紀によれば神龜元年である。神龜三年十月に、知造難波宮事となり、難波宮造營の事に從つたが、天平四年(327)三月にはその功によつて、物を賜はつてゐる。
 
312 昔こそ 難波田舍と 言はれけめ 今は京引き 都びにけり
 
昔者社《ムカシコソ》 難波居中跡《ナニハヰナカト》 所言奚米《イハレケメ》 今者京引《イマハミヤコビキ》 都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》
 
昔コソハ難波ハ、田舍ト言ハレタデアラウガ、今ハ都ガ遷ツテ、スツカリ〔四字傍線〕都ラシクナツタワイ。
 
○難波居中跡《ナニハヰナカト》――聖武天皇が御造営になつた難波の京は、孝徳天皇の長柄の宮を修復せられたもので、神龜二年十月に行幸あらせられて、造営のことを始められたのであるが、眞に都を遷されたのは天平十六年である。居中《ヰナカ》は田舍。○今者京引都備仁鷄里《イマハミヤコビキミヤコビニケリ》――この二句には例の誤字説が跋扈して、種々臆測を逞うし、樣々な訓があるが、元のままで、契沖がよんだのに從はうと思ふ。京引《ミヤコビキ》は少し熟しない語のやうにも思はれるが、これでよからう。まだ眞の遷都はないにしても、兎も角、都としての形を備へたから、ミヤコビキと言つたのであらう。都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》は都らしくなつたの意。
〔評〕 難波は孝徳天皇以來の舊郡で、更に遡れば仁徳天皇からの都である。歴代の天皇のうちには、行幸あらせられた方もあるから、田舍といふのは少々ひどすぎるが、新宮の造営を喜んで、かう言つたのであらう。自分の主管した事業の成功を喜んでゐる心持が見えてゐる。
 
土理宣令《トリノセムリヤウ》歌一首
 
土理は氏、宣令は名である。續紀に「元正天皇養老五年正月戊申朔庚午詔云々、從七位下刀利宣令等退朝之後令v侍2東宮1焉」とある。懷風藻に正六位上刀利宣令二首(年五十九)と見える。刀利氏は鳥佛師の家で歸化人の系統であらう。
 
313 み吉野の 瀧の白浪 知らねども 語りしつげば いにしへ念ほゆ
 
見吉野之《モヨシヌノ》 瀧乃白浪《タギノシラナミ》 雖不知《シラネドモ》 語之告者《カタリシツゲバ》 古所念《イニシヘオモホユ》
 
(328)私ハ〔二字傍線〕吉野ノ昔ノ樣ハ〔四字傍線〕(瀧乃白浪)知ラナイケレドモ、語リ傳ヘテ昔カラ離宮ガアツテ、行幸遊バシタコトナドヲ聞〔昔カ〜傍線〕クト、昔ノ盛ナ有樣〔五字傍線〕ガ、思ヒヤラレテナツカシイ。
 
○瀧乃白浪《タキノシラナミ》――瀧は今の宮瀧のあたりの瀧つ瀬を言つたもの。この句は雖不知《シラネドモ》に冠せた序詞。○雖不知《シラネドモ》――古昔のことは知らねどもといふので、瀧の白浪を知らねどもといふのではない。○古所念《イニシヘオモホユ》――舊訓はムカシであるが、一寸例が見當らない。古部念爾《イニシヘオモフニ》(四六)などによつてイニシヘと訓むべきである。この古へといふのは古來天皇の吉野に行幸あらせられたことをいふのである。
〔評〕 吉野懷古の作であるが、吉野の好景の代表ともいふべき、瀧の白浪を點出して、それを序に用ゐ、シラナミ、シラネドモと頭韻を押したところは、一寸器用な作である。
 
波多朝臣|少足《ヲタリ》歌一首
 
續紀に波多朝臣廣足・足人・百足等の名が見えるが少足はない。少足もこれらと同族であらう。
 
314 さざれ波 磯巨勢道なる 能登湍河 音のさやけさ たぎつ瀬ごとに
 
小浪《サザレナミ》 礒越道有《イソコセヂナル》 能登湍河《ノトセガハ》 音之清左《オトノサヤケサ》 多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》
 
(小浪礒)巨勢路ニアル能登湍河ハ、水ガ泡立ツテ、流レル瀬毎ニ水ノ落ツル〔五字傍線〕音ガサヤカニ清ク聞エルコトヨ。
 
○小浪礒越道有《サザレナミイソコセヂナル》――小浪が礒を越すといふ意で、巨勢につづいたのであるから、小浪礒は越道《コセヂ》の序である。越道《コセヂ》は巨勢街道で、巨勢は今の南葛城郡葛村古瀬附近の地。大和から紀州の眞土方面へ出る通路である。○能登湍河《ノトセガハ》――曾我川の上流で、今、吉野口驛附近を流れてゐる川。重坂川といふ。
〔評〕 始に置かれた序詞は、ただ越《コセ》といふ爲であるが、併し下の川瀬の音にふさはしい感じがあつて面白い。全體が清い快い格調を湛へた歌だ。卷十二に高湍爾有能登瀬乃河之後將合妹者吾者今爾不有十方《コセナルノトセノカハノノチモアハムイモニハアレハイマナラズトモ》(三〇一八)とある。(329)金槐集に「白浪の磯巨勢ぢなる能登湍河後も相見む水をしたえずは」とあるのは、この二歌を合したやうな作である。
 
暮春之月、幸(セル)2芳野離宮(ニ)1時、中納言大伴脚、奉(シテ)v勅(ヲ)作(レル)歌一首、并短歌 未2v逕奏上1歌
 
續紀に聖武天皇「神龜元年三月庚申朔、天皇幸2吉野宮1、甲子車駕還宮」とあるからこの時であらう。中納言大伴卿は旅人。元正天皇の養老二年三月に中納言となる。註の未逕奏上歌は家持の註か。逕は經に通じて用ゐる。
 
315 み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 萬代に 變らずあらむ いでましの宮
 
見吉野之《ミヨシヌノ》 芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》 山可良志《ヤマカラシ》 貴有師《タフトクアラシ》 永可良思《カハカラシ》 清有師《サヤケクアタシ》 天地與《アメツチト》 長久《ナガクヒサシク》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 不改將有《カハラズアラム》 行幸之宮《イデマシノミヤ》
 
吉野ノ吉野宮ハ山ガヨイ〔二字傍線〕爲ニ貴イ景色〔二字傍線〕デアラウ(330)カ。河ガヨイ〔二字傍線〕爲ニ清イ景色〔二字傍線〕デアラウカ。此處ニアル〔五字傍線〕離宮ハ、天地ト共ニ長ク久シク、萬代ノ後マデモ變ラナイデアルデアラウ。
 
○山可良志《ヤマカラシ》――山故にの意。志《シ》は強めて言ふ助詞。○永可良思《カハカラシ》――永は水の誤で、カハとよむ説がよい。類聚古集には水に作つてゐる。訓義辨證に永は説文に水長也とあつて、水の流るる貌の文字であるから、この儘でカハとよむべき由を説いてゐるが、果してどうであらう。予は水の誤とするものである。○天地與長久《アメツチトナガクヒサシク》――神代紀に「寶祚之隆當與2天壤1無v窮者矣」とあるに同じで、與《ト》は共にの意。○行幸之宮《イデマシノミヤ》――離宮をいふ。
〔評〕 卷一に出てゐた人麿の歌などと同じ精神で、吉野の山川を賞めたたへ、離宮の長久を祝福してゐる。短くて纏つた歌。
 
反歌
 
316 昔見し 象の小河を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも
 
昔見之《ムカシミシ》 象乃小河乎《キサノヲガハヲ》 今見者《イマミレバ》 彌清《イヨヨサヤケク》 成爾來鴨《ナリニケルカモ》
 
以前來テ見タコトノアル象ノ小河ヲ、今マタ來テ見ルト、以前ヨリモ一層清イ、ヨイ景色ニナツタワイ。
 
○象乃小河乎《キサノヲガハヲ》――卷一に象乃中山《キサノナカヤマ》(七〇)とあり、卷六に象山際乃《キサヤマノマノ》(九二四)とあるところの川で、宮瀧の對岸に今、喜佐谷と稱するところがあり、そこを流れる小川である。七〇の寫眞參照。
〔評〕 以前見た時よりも、更に美を加へた象の小川を賞めたもので、淡白な叙述ではあるが、この下に帥大伴卿歌五首の内に、吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲《ワガイノチモツネニアラヌカムカシミシキサノヲガハヲユキテミムタメ》(三三二)とあるので見ると、この時の清遊が、いつまでも忘れられなかつたものと見える。田安宗武の歌に「いよよ清くなりにしといひし象川は今はいかならむ見まほしきかも」とあるのは、この歌によつたのである。
 
山部宿禰赤人望(メル)2不盡山(ヲ)1歌、一首并短歌
 
(331)山部宿禰赤人の傳は明らかでない。山部氏は顯宗紀に伊與の來目部小楯に、初めて山部連の姓を賜はつたと見えてゐる。天武天皇の十三年十二月に、山部連に宿禰の姓を賜はつたのである。この人は身分低く、舍人などであつたらしい。從駕の歌が見えてゐる。併し歌人としての名聲は高かつたのであらう。卷十七に幼年未逕山柿之門とあつて、當時既に人麿と並び稱せられたものである。その足跡は吉野・近江・伊豫温泉及び下總に及んでゐる。東國行について略解は、「東に下りしは國官にてはあらじ、班田使などの時なるべし」といつてゐる。不盡山は不盡の他にこの集では布士・布仕・不自・布時・布自などとも書いてある。この山名について種々の説があるが、アイノ語、フンチ(火の義)とするのが最も信すべきである。歌の上、作の字が脱ちたのだらうとする説が多い。
 
317 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふり放け見れば 渡る日の 影も隱ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行き憚り 時じくぞ 雪は降りける 語り繼ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡の高嶺は
 
天地之《アメツチノ》 分時從《ワカレシトキユ》 神左備手《カムサビテ》 高貴寸《タカクタフトキ》 駿河有《スルガナル》 布士能高嶺乎《フジノタカネヲ》 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》 度日之《ワタルヒノ》 陰毛隱比《カゲモカクロヒ》 照月乃《テルツキノ》 光毛不見《ヒカリモミエズ》 白雲母《シラクモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》 時自久層《トキジクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》 語告《カタリツギ》 言繼將往《イヒツギユカム》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》
 
天地ノ分レタ開闢ノ〔三字傍線〕時カラ、神々シク高クテ貴イ、駿河ノ國ニアル富士ノ高イ山ヲ、空高ク仰イデ見ルト、空ヲ通ル太陽ノ姿モ、山ガ高イ爲ニ〔六字傍線〕隱レテ見エズ、照リ渡ル月ノ光モ、山ノ爲ニ障ヘラレテ〔九字傍線〕見エナイ。白雲モ通ルコトヲ憚ツテ、山ニツカヘテヰテ、春夏秋冬〔山ニ〜傍線〕時ヲ分タズニ、雪ハ降ツテヰルヨ。實ニ立派ナ名山ダカラ、コノ〔實ニ〜傍線〕富士トイフ高山ノコトハ、語リ傳ヘ言ヒ傳ヘテ行カウ。
 
○天地之分時從《アメツチノワカレシトキユ》――富士山が天地開闢の時からあるといふのである。孝靈五年に一夜のうちに近江の湖水が出來、富士山が噴出したといふ傳説が、年代記に記されてゐるが、赤人の頃にはさうした傳は信じられてゐなかつたものと見える。○度日之陰毛隱比《ワタルヒノカゲモカクロヒ》――空を渡る太陽の光も隱れるの意で、陰は光である。○伊去波伐加利《イユキハバカリ》(332)――行くことを憚る意。伊は發語。伐の字を舊本代に作るは誤、古葉略類聚抄等に伐とある。○時自久曾《トキジクゾ》――時自久《トキジク》は非時とも書く。時ならぬ折に常にあるをいふ。○語告《カタリツギ》――語繼の借字に相違ないが、告をツギと用ゐるのは隨分亂暴のやうでもある。併し卷十にも告思者《ツギテシオモヘバ》(二〇〇二)とあつて、告を繼の代りに用ゐてゐるから、通じて使はれたのである。
〔評〕 富士といふ名は、吾々國民の耳には、一種崇高な神秘的な、感を覺えしめる。我らは無條件で富士を讃美する。その思想は蓋し餘程古い時代からのものであらう。この歌は、かうした思想のあらはれの最古のもので、又後世に富士禮讃の觀念を増大せしめた作品でもある。天地開闢から説き起し、日・月・白雲非時雪といふやうなものを用ゐて、この山の雄大さ崇嚴さを、簡潔に述べ盡してゐる。味はへば味はふほど整つた、力の籠つた作品である。彼が語りつぎ言ひつぎ行かむと言つた通りに、この山が萬世に、全世界に遠永く語られてゐるのも嬉しいことである。
 
反歌
 
318 田兒の浦ゆ うち出でて見れぱ 眞白にぞ 不盡の高嶺に 雪は零りける
 
田兒之浦從《タゴノウラユ》 打出而見者《ウチイデテミレバ》 眞白衣《マシロニゾ》 不盡能高嶺爾《フジノタカネニ》 雪波零家留《ユキハフリケル》
 
田兒ノ浦ニ出テ見ルト、眞白ニ不盡ノ高嶺ニ雪ガ降ツテヰルヨ。アア實ニ壯大ナ景ダ〔九字傍線〕。
 
○田兒之浦從《タゴノウラユ》――從《ユ》は普通カラと譯される語であるが、ここは輕くニの意に見る方がよい。ユは往々ニの意に用ゐられる助詞である。これをカラとすると、考にあるやうに、「打出でて田兒の浦より見れば」とするか、又は略解の如く、「田兒の浦より東へうち出で見ればといふ意」とするか、或は古義のやうに「田兒の浦より沖の方へといふ意なり」と、船に乘つて出かけるやうな奇説までも生ずることになる。いづれも無理である。槻落葉や檜嬬手の説がよい。新古今に「田子の浦に打出でて見れば」として出してあるのは、他の點は兎も角、改作としては至當である。○雪波零家留《ユキハフリケル》――雪が降つてゐるよといふので、雪の眞白に降つてゐる状態を嘆美したのである。この三句以下を「白妙の富士の高根に雪は降りつつ」と新古今に改めて載せたのは改惡である。こ(333)れでは詠嘆の氣分が希薄で歌の力がなくなつて終つた。
〔評〕 すつきりとした、氣品の高い雄大な作である。叙景の絶唱として、古來尊崇せられてゐる。右に説いた新古今や百人一首に出てゐる改竄歌と、この原歌とを對比して、よく翫味して見ると面白い。この歌の傑作たることがわかるやうになれば、歌を鑑賞する力が出來たのだと言つてよい。
 
詠(メル)2不盡山(ヲ)1歌一首并短歌
 
319 なまよみの 甲斐の國 打ち寄する 駿河の國と こちごちの 國のみなかゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行き憚り 飛ぶ鳥も 翔びも上らず 燎ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひもかね 名づけも知らに 靈《くす》しくも 坐す神かも 石花《セ》の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの國の 鎭めとも 坐す神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高峯は 見れど飽かぬかも
 
奈麻余美乃《ナマヨミノ》 甲斐乃國《カヒノクニ》 打縁流《ウチヨスル》 駿河能國與《スルガノクニト》 己知其智乃《コチゴチノ》 國之三中從《クニノミナカユ》 出立有《イデタテル》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》 天雲毛《アマグモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》 飛鳥毛《トブトリモ》 翔毛不上《トビモノボラズ》 燎火乎《モユルヒヲ》 雪以滅《ユキモテケチ》 落雪乎《フルユキヲ》 火用消通都《ヒモテケチツツ》 言不得《イヒモカネ》 名不知《ナヅケモシラニ》 靈母《クスシクモ》 座神香聞《イマスカミカモ》 石花海跡《セノウミト》 名付而有毛《ナヅケテアルモ》 彼山之《ソノヤマノ》 堤有海曾《ツツメルウミゾ》 不盡河跡《フジカハト》 人乃渡毛《ヒトノワタルモ》 其山之《ソノヤマノ》 水之當烏《ミヅノタギチゾ》 日本乃《ヒノモトノ》 山跡國乃《ヤマトノクニノ》 鎭十方《シヅメトモ》 座神可聞《イマスカミカモ》 寶十方《タカラトモ》 成有山可聞《ナレルヤマカモ》 駿河有《スルガナル》 不盡能高峯者《フジノタカネハ》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
(奈麻余美乃)甲斐ノ國ト、(打縁流)駿河ノ國ト、彼方此方ノ兩國ノ眞中ニ、聳エ立ツテヰル富士トイフ高山ハ、天ノ雲モ行キ憚ツテ山ノ腹ニ棚引キ、空ヲ飛ブ鳥モ、コノ山ホド高クハ〔八字傍線〕、飛ビ上ルコトガ出來ナイ。山ノ上ニ〔四字傍線〕燃エテヰル火ヲバ、空カラ降ル〔五字傍線〕雪ヲ以テ消シ、空カラ〔三字傍線〕降ル雪ヲ、山ノ上ニ燃エテヰル〔九字傍線〕火デ消シテ、何ト形容ノ(334)仕様モナク、何ト名ノ付ケヤウモナク、不思議ニモイラツシヤル、神様デアルヨ。石花海《セノウミ》ト名ヅケテアル湖モ、ソノ山ニ包マレテヰル湖デアルゾヨ。富士河トイツテ人ノ渡ル河モ、ソノ富士山ノ水ガ泡立ツテ落チルノデアルゾヨ。一體コノ山ハ〔七字傍線〕(日本之)日本ノ國ノ、鎭護トシテオイデナサル神樣デアラウカ。又ハ〔二字傍線〕寶トシテ出來上ツタ山デアラウカ。實ニコノ〔四字傍線〕駿河ノ國ニアル富士ノ高嶺ハ、イクラ見テモ見飽クコトハナイワイ。
 
○奈麻余美乃《ナマヨミノ》――枕詞。甲斐につづくについて、冠辭考に、生弓《ナマユミ》の反《カヘ》る意だといひ、契沖は生吉貝《ナマヨミノカヒ》、古義は生善肉《ナマヨミ》の貝と言つてゐるが、生木の弓を生弓《ナマユミ》といふことも變であり、新弓が反り易いといふのも恐らく後世の弓のことで、上代の弓に就いて云ふべきではあるまいと思ふから、この説は退けたい。生吉《ナマヨミノ》も生善肉《ナマヨミノ》も詞として少し整はないが、生善肉《ナマヨミノ》の方が多少よいやうであるし、又生の貝を好んで食べた太古の遺風もあつたであらうから、假に生善肉《ナマヨミノ》の貝説を採ることにしよう。○打縁流 《ウチヨスル》――枕詞。駿河に冠するのは、冠辭考に打※[さんずい+甘]《ウチユス》る※[さんずい+甘]《ス》る髪《ガ》とあるが、あまり物遠い。仙覺は、浪のよする洲と云ひかけたものとし、檜嬬手に、「浪の打ちよするするどき川とつづくなり」とあり。古義は駿河國號の起原は動河《ユスリカハ》であつたらうから、打動動河《ウチユスルスルカハ》とつづけたのだらうといつてゐる。どうも分りかねる枕詞であるが、駿河國名の起原は、ともかくとして、富士川などの急流があるから、名を負うたものとする俗解が、必ずあつたであらうから、川(335)波の激しく寄せる駿河とつづけたものとするのが、穩やかであらうと思はれる。○己知其智乃《コチゴチノ》――彼方此方《アチコチ》といふに同じ。○國之三中從《クニノミナカユ》――三中《ミナカ》は眞中《マナカ》と同じ。從《ユ》は前の田兒之浦從《タゴノウラユ》の如く、これもニと同じと思はれる。○雪以滅《ユキモテケチ》――噴火を雪を以て消すこと、モチと古義にあるのはよくない。ケチはケスの古言。○言不得《イヒモカネ》――イヒモエズともよんであるが、カネがよからう。この卷の言毛不得名付毛不知《イヒモカネナヅケモシラニ》(四六六)を見ても、その他、島待付得而《キミマチカネテ》(二六八)・隱不得而《カクロヒカネテ》(二二六七)などいづれもカネである。○靈母《クスシクモ》――靈妙にもの意。アヤシクモともよんであるが、用例から推斷すると、單に不思議といぶかる意の時は、恠の字を用ゐてアヤシクとよみ、神秘的な意には靈の字を用ゐて、クスシクとよませたやうに見える。○座神香聞《イマスカミカモ》――山を直ちに神と貴ぶのである。太古、天然崇拜の名殘である。○石花海跡《セノウミト》――石花海は三代實録に、※[戔+立刀]水海《セノミヅウミ》と記して、富士北方の湖水で、本栖・※[戔+立刀]と並んでゐたが、就中、※[戔+立刀]の水海が大きかつたやうである。然るに貞觀六七年に噴火があつて、溶岩が※[戔+立刀]海を中斷し、今の四湖と精進湖とが出來た。三代實録に「七年十二月甲斐國言、云々、異火之變于今未止、や使者檢察、埋※[戔+立刀]海千許町」とある。今、精進湖と西湖との間、二里を距つるを思へば、この湖の大さと噴火の惨状とを想像することが出來る。今、西湖《セイコ》と呼ぶのは※[戔+立刀]の海の名殘であらう。駿河灣に瀬の海の名があるのは、後人がこの歌によつて名づけたのである。二八四の地圖參照。これを鳴澤とする説も取るに足らぬ。鳴澤については三三五八を見よ。石花をセと訓むのは、卷十二にも、馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イブセクモアルカ》(二九九一)とあつて、貝の名のセを借り用ゐたのである。セと稱する貝は俗に龜の手と稱するもので、體は數多の鱗になつてゐる石灰片に被はれ、海岸の岩石に固着してゐる。その状が、石に白い花が咲いたやうに見えるからであらう。和名抄に、「石花、二三月皆紫舒v花、附v石而生、故以名v之、」とあるものではない。○不盡河跡《フジガハト》――富士川といひての意。○水乃當烏《ミヅノタギチゾ》――當の下、知が脱ちたのだといふ説もある。卷十に落當知足《オチタギチタル》(二一六四)とあるによればさうも思はれるが、恐らく知は略して書いたのであらう。當は韻鏡内轉第三十一開、宕攝の音で、唐韻 toang であ(336)るからタギとなるので、布當乃宮者(一〇五〇)などもその例である。烏はゾとよむ例が多い。焉又は曾の誤とする説もあるが、訓義辨證に、烏は焉の俗體といつてゐるのに從ふべきであらう。○日本之《ヒノモトノ》――枕詞。日の出づる本の意。○山跡國乃《ヤマトノクニノ》――この山跡は我が國の總號、即ち日本である。日本の稱呼は、推古天皇の朝に小野妹子を隋に使した時の國書に、日出處天子と書かれた御精神で、やがて孝徳天皇の御代に日本の號を用ゐられたのであるから、この日本之山跡國乃《ヒノモトノヤマトノクニノ》といふ使ひ方も、日本の國號から思ひついて用ゐ始めたのであらう。○鎭十方《シヅメトモ》――鎭護としての意。
〔評〕 前の赤人の長歌に比して、叙述が精細である。場所を甲斐と駿河の中間とし、天雲もい行き憚り、飛ぶ鳥も飛びものぼらずの句は、前の歌に略々同じであるが、噴火と降雪の絶え間ないことを述べ、※[戔+立刀]の海・富士川など、附近の湖川をも點出して富士山の高大な姿を形容してゐるのは、實に巧みである。靈しくもいます神といひ、日の本の國の鎭護であり、同時に寶であると賞め稱へ、殆どあらむ限の讃辭を盡してゐる。蓋し日本人のこの靈山に對して抱いてゐる觀念を、全國民に代つて述べてゐるかの觀がある。赤人の歌に比して、更に一歩優れてゐるやうに思はれる。作者は誰とも分らない。左註によつて高橋蟲麻呂説をなす人もあるが、左註は布士能嶺乎《フジノネヲ》の一首にのみかかつてゐるらしい。拾穗抄に笠金村の作とあるが、歌風が全く異なつてゐる。藤井高尚は赤人作とし、守部は人麿の作であらうと推測してゐる。ともかく格調崇嚴、思想雄大な傑作である。
 
反歌
 
320 不盡の嶺に 零り置ける雪は 六月の 十五日に消ぬれば 
 
不盡嶺爾《フジノネニ》 零置雪者《フリオケルユキハ》 六月《ミナヅキノ》 十五日消者《モチニケヌレバ》 其夜布里家利《ソノヨフリケリ》
 
富士山ニ降リ積ツタ雪ハ、暑中ノ〔三字傍線〕六月ノ十五日ニ消エルト、直グソノ夜ノ中ニ、又降ルワイ。ホントニ一年中無クナル間ハナイモノダ〔ホン〜傍線〕。
 
○六月《ミナヅキノ》――六月をミナヅキといふ。水無月《ミナヅキ》として、田に水の無くなる炎熱の月とし、水之月《ミナツキ》として、田に水を(337)張る月とし、雷《カミナリ》月として雷鳴多き月とするなど諸説がある。○十五日消者《モチニケヌレバ》――十五日をモチといふのは、滿月の意で、ミチの轉である。
〔評〕 富士の雪の消える間のない意味を、誇張して言つたもののやうである。但し仙覺抄には、「富士の山には雪のふりつもりてあるが、六月十五日にその雪のきえて、子の時よりしもには、又ふりかはると駿河風土記に見えたり」と言つてゐるから、和銅の風土記にかうあつたのであらう。然らば古傳説の儘によんだものである。
 
321 不盡の嶺を 高みかしこみ 天雲も い行きはばかり 棚引くものを
 
布士能嶺乎《フジノネヲ》 高見恐見《タカミカシコミ》 天雲毛《アマグモモ》 伊去羽計《イユキハバカリ》 田菜引物緒《タナビクモノヲ》
 
富士山ガ高イカラ、恐ロシイカラ、空ノ雲モ通ルコトヲ憚ツテ、山ノ中腹デ〔五字傍線〕棚曳イテヰルヨ。
 
○田菜引物緒《タナビクモノヲ》――棚曳いてゐるよの意。田菜引は、た靡く。たは發語。物緒《モノヲ》は添へていふ感嘆の詞。ヲはヨの意であらう。
〔評〕 赤人の長歌には、白雲母伊去波伐加利《シラクモモイユキハバカリ》とあり、又この長歌には天雲毛伊去波伐加利《アマグモモイユギハバカリ》とあり、さうしてこの短歌にも天雲毛伊去羽計《アマグモモイユキハバカリ》とある。要するに前の二首の長歌と同じやうなことを歌つたものである。併しそれだからといつて、この短歌を、長歌と同一作者とは認め難い。左註の通りこの一首は高橋蟲麻呂の作であらう。
 
右一首(ハ)、高橋連蟲麻呂之歌中(ニ)出(ヅ)焉。以(テ)v類(ヲ)載(ス)v此(ニ)
 
他の例によれば歌の下に、集の字があるべきである。
 
山部宿禰赤人、至《リテ》2伊豫温泉(ニ)1作(レル)歌一首并短歌
 
伊豫温泉は道後温泉である。この湯は古事記允恭卷に伊余湯とし、舒明紀に伊豫温泉と記し、齊明紀には石湯《イハユ》とある。今、道後と稱するのは、古く東伊豫を道前とし、西伊豫を道後と言つたの(338)が、温泉の名として殘つてゐるのである。
 
322 すめろぎの 神の命の 敷きます 國のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宜しき國と こごしかも 伊豫の高嶺の 伊佐庭の 岡に立たして 歌思ひ 辭思はしし み湯の上の 樹むらを見れば 臣の木も 生ひ繼ぎにけり 鳴く鳥の 聲も變らず 遠き代に 神さびゆかむ いでまし所
 
皇神祖之《スメロギノ》 神乃御言乃《カミノミコトノ》 敷座《シキマス》 國之盡《クニノコトゴト》 湯者霜《ユハシモ》 左波爾雖在《サハニアレドモ》 島山之《シマヤマノ》 宜國跡《ヨロシキクニト》 極此疑《コゴシカモ》 伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》 射狹庭乃《イサニハノ》 崗爾立之而《ヲカニタタシテ》 歌思《ウタオモヒ》 辭思爲師《コトオモハシシ》 三湯之上乃《ミユノウヘノ》 樹村乎見者《コムラヲミレバ》 臣木毛《オミノキモ》 生繼爾家里《オヒツギニケリ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 音毛不更《コヱモカハラズ》 遐代爾《トホキヨニ》 神左備將在《カムサビユカム》 行幸處《イデマシドコロ》
 
代々ノ〔三字傍線〕皇統ノ神樣ガタガ、御支配遊バス國ノ何處ニモ、温泉ハ澤山アルガ、コノ伊豫ノ國ハ〔七字傍線〕、島山ノ姿ノ面白イ國デアルトテ、昔聖徳太子ガ〔六字傍線〕、嶮岨ナ伊豫ノ高嶺ノ麓ニアル〔四字傍線〕伊佐庭ノ岡ニオ立チ遊バシテ、歌ヲ思ヒ廻ラシ、辭ヲ思ヒ廻ラシナサツタトイフ、湯ノ上ノ方ノ、木ノ茂リ生エテヰル所ヲ今、私ガ來テ〔五字傍線〕見ルト、昔齊明天皇樣ノ御代カラ名高イ〔齊明〜傍線〕臣《オミ》ノ木トイフ木〔四字傍線〕モ、根絶エセズニ今マデ生ヒ〔根絶〜傍線〕續イテヰルワイ。又、ソノ時臣ノ木ニトマツテ〔ソノ〜傍線〕鳴イタ斑鳩ダノ此米ダノトイフ〔タ斑〜傍線〕鳥ノ鳴ク聲モ昔ト變ルコトナク、遠イ後々ノ代マデモ、コノ昔ノ天子樣ノ〔八字傍線〕行幸遊バシタ所ハ、神々シイ姿デ續クデアラウ。
 
○皇神祖之神乃御言乃《スメロギノカミノミコトノ》――皇神祖を考にカミロギとよんだのは惡い。皇祖神之《スメロギノ》(一一三三)。皇祖乃《スメロギノ》(二五〇八)・皇御祖乃《スメロギノ》(四〇九四)・皇神祖能《スメロギノ》(四一一一・四二〇五)の類皆同じである。但しスメロギは今上天皇を申し奉る時と、歴代の天皇を指し奉る時とあるが、祖の字を用ゐたのは多く後者である。神乃御言《カミノミコト》は神樣の意で、御言は御事。敬語。○國之盡《クニノコトゴト》――國の盡く。その國にも。○湯者霜《ユハシモ》――湯はサアといふやうな意、湯は温泉。○島山之宜國跡《シマヤマノヨロシキクニト》――島山の姿の佳い國なりとての意。○極此疑《コゴシカモ》――コゴシキカモの意で、下の伊豫能高嶺につづく。極は渠力の反、呉音ゴキ、慣用音ゴクから轉じて、コゴと用ゐたのであらう。用字格に極此《コゴシ》を借訓の部に入れ「凝なり」とあるは(339)蓋し誤である。○伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》――石槌山のことであらう。射狹庭の崗とは大ぶん距離があるが、他に高嶺と稱すべき山はないから、ここは伊豫の高嶺の麓なる射狹庭の崗といふ意であらう。高濱の沖の興居《コゴ》島をこれに當てる説もあるが、この極此疑《コゴシカモ》に附會したものだ。○射狹庭乃崗爾立之而《イサニハノヲカニタタシテ》――射狹庭乃崗は仙覺が引いた伊豫風土記に「立2湯岡側(ニ)碑文1、其立2碑文1處、曰2伊社邇波《イサニハ》之岡1也、所3以名2伊社邇波1者、當土諸人等其碑文欲v見、而|伊社那比《イサナヒ》來、因謂2伊社爾波《イサニハ》1本也」とあるところで、今、道後公園となつてゐる湯月城址と、湯月八幡のある丘とが、往古は連續してゐて、伊佐爾波の岡と稱せられてゐたらしい。聖徳太子の碑は今の公園の南側にあつたらしいが、河野氏がこの城を築いた時、或はそれ以前に湮滅したものらしいと言はれてゐる。又温泉の側に湯神社が祀られてゐて、もと其處に石清水八幡を勸請し合祀してあつたのを、松平定長公が湯月八幡として、東の岡の上に祀殿を建てられたといふことである。現在湯月八幡の樓門に伊佐爾波神社と額が懸けてあるが、延喜式に温泉郡伊佐爾波神社とある社が、昔の位置に存してゐるのではない。(以上松山高等學校教授井手淳二郎氏の所報による)崗爾立之而《ヲカニタタシテ》は、聖徳太子がこの岡に立たせ給うたことを言つたもので、神田本に之《シ》が無いけれども、ある方がよいやうに思はれる。○歌思辭思爲師《ウタオモヒコトオモハシシ》――聖徳太子が此處に碑を立て給はむとして、文(340)を草せられたことを言つたのである。歌に關しては物に見えないが、必ず歌をも作られたものと想像して、辭《コト》と並べたのである。或は赤人の當時には、太子の御歌が傳つてゐたかも知れない。釋日本紀に引用した伊豫國風土記には、この湯の由來に就いて述べ、かつ碑文をも載せてゐる。次に掲げたものは、即ちそれである。「伊豫國風土記曰、湯郡、大穴持命見2悔恥1而宿奈※[田+比]古那命欲v活、而大分速見湯自2下樋1持度(リ)來、以2宿奈※[田+比]古奈命1而漬浴者、暫間《シマシ》有活起居、然詠2日眞|※[斬/足]《シマシ》寢哉1、踐健跡處、今在2湯中石上1也、凡湯之貴奇不2神世時|耳《ノミ》1、於2今世1染2》疹痾1萬生爲除病存身要藥也、天皇等於v湯幸行降坐五度也、以d大帶日子天皇與大后八坂入姫命、二躯u爲2一度1也、以d帶中日子天皇與2大后息長帶姫命1二躯u爲2一度1也、以2上宮聖徳皇子1爲2一度1、及侍高麗惠總僧葛城臣等也、于v時立2湯岡側1碑文記云、法興六年十月歳在2丙辰1、我法王大王與2惠總法師及葛城臣1、逍2遥|夷與《イヨ》村1、正觀2神井1、歎2世妙驗1、欲v叙v意聊作2碑文一首1、惟夫日月照2於上而不v私神井出2於下1無v不v給、萬機所以妙應、百姓所以潜扇、若乃照給無2偏私1、何異2于壽國1、隨2華臺1而開合、沐2神井1而※[病垂+樛の旁]v疹、※[言+巨]升于落花池而化溺、窺2望山岳之※[山+嚴]※[山+愕の旁]1反冀2子平之能往1、椿樹相※[麻垂/陰]而穹窿、實相2五百之張蓋1、臨朝啼鳥而戯吐下、何暁2亂音之※[耳+舌]1v耳、丹花卷葉而映照、玉菓彌葩以垂v井、經2過其下1可2優遊1豈悟洪灌霄庭意與v才拙、實漸2七歩1、後定君子、幸無2蚩咲1也、以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1、以2後岡本天皇、近江大津宮御宇天皇、淨御原宮御宇天皇三躯1爲2一度1、此謂2幸行五度1也、」この碑の所在に關して種々の傳があるが、今、消滅して知る術がない。思の字を考にシヌビとよんでゐる。シヌビは、なつかしく思ひ出す義であるから、此處はさうは讀まれない。○三湯之上乃《ミユノウヘノ》――三《ミ》は美稱に過ぎない。上は湯の湧く所の上の方で小高い所であらう。ヘと訓んで邊と解するのは賛成し難い。○樹村乎見者《コムラヲミレバ》――木の群り茂つてゐるところを見れば。○臣木毛《オミノキモ》――臣木は今のモミの木である。和名抄に「爾雅云樅松葉柏身、和名|毛美《モミ》」、宇鏡に樅毛牟乃木とある。この木に關して神武紀に「初孔舍衛之戰、有v人隱2於大樹1而得v免v難、仍(テ)指2其樹1曰、恩如v母、時人因號2其地1曰2母木邑《オモノキムラ》1今云2飫悶廼奇《オモノキ》1訛也」とあるは面白い傳説である。この歌に臣木を詠んだ理由は、この地に古來有名な臣の木があつたからで、仙覺抄に引いた伊豫風土記には、「以2岡本天皇并皇后二躯(ヲ)1爲2一度1、于時於2大殿戸1有2椹《ムク》與|臣木《オミノキ》1於其上集2鵤與此米鳥1天皇爲2此鳥1繋v穗養賜也」とある。即ち伊豫の臣の木は、舒明天皇行幸以來、都人の間に知れ渡(341)つてゐたのである。○生繼爾家里《オヒツギニケリ》――舒明天皇當時のではないが、後繼のものが生えて、立派に榮えてゐるのを言つたのである。○鳴鳥之音毛不更《ナクトリノコヱモカハラズ》――右の文に引いた、鵤《イカルガ》と此米とが、今も鳴いてゐるといふのである。尚この件については、卷一の六の左註を參照せられたい。○遐代爾神左備將在《トホキヨニカムサビユカム》――遠き後世までも神々しく續くであらうの意。○行幸處《イデマシドコロ》――風土記に五度の行幸とある意を以ていつたのである。
〔評〕 伊豫温泉の懷古の歌である。古典を貴び、古傳説をなつかしんで、臣の木の梢を仰ぎ、斑鳩《イカルガ》や此米《シメ》の聲に聞き入つて、この由緒ある地の將來を祝福してゐる詩人の純情が、うるはしく詞句の上に流れてゐる。結句も、語り繼ぎ言ひつぎ行かむなどと、お定りの文句にならなかつたのが嬉しい。
 
反歌
 
323 百敷の 大宮人の 飽田津に 船乘りしけむ 年の知らなく
 
百式紀乃《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 飽田津爾《ニギタヅニ》 船乘將爲《フナノリシケム》 年之不知久《トシノシラナク》
 
昔〔傍線〕(百式紀乃)大宮人タチガ、行幸ノオ伴ヲシテ〔八字傍線〕、飽田津デ舟ニ乘ツテ出タ時カラハ、モウ幾年ニナルカ、隨分古イコトデ〔七字傍線〕、分ラナイ。
 
○百式紀乃《モモシキノ》――枕詞。百石城《モモイシキ》の意で大宮につづく。○飽田津爾《ニギタヅニ》――飽は饒の誤とする説が多いが、ニギは賑ふ意で、書紀に饒富、字鏡に稼、名義抄に贍、運歩色葉集に※[貝+周]、※[禾+農]の字が用ゐてある。これらによれば飽滿の意で、飽をニギと訓ましめるのは、理由あることと思はれる。槻の落葉にアキタヅとし、古義にもその地名ありといつてゐるのは疑はしい。「愛媛の面影」にはそれを否定してゐる。飽田津《ニギタヅ》は、卷一の額田王の歌(八)に見えた地で、今の三津が濱であらうといふ。
〔評〕 長歌の方では、主として温泉そのものに就いて、懷古の情を歌つたが、反歌では、行幸などに際して、御船の發着場たる飽田津について古を偲んだのである。卷一額田王の歌に熟田津爾船乘世武登《ニギタヅニフナノリセムト》とあるから、その歌を思つてよんだやうに見る説もあるが、さう狹く限定するのはどうであらう。謂はゆる五度の行幸の總べて(342)の場合を言つたのであらう。
 
登(リテ)2神岳(ニ)1山部宿禰赤人作(レル)歌一首并短歌
 
神岳は即ち雷山のこと。二三五參照。この歌では三諸の神名備山といつてゐる。
 
324 三諸の 神名備山に 五百枝さし しじに生ひたる 樛の木の いやつぎつぎに 玉葛 絶ゆることなく 在りつつも 止まず通はむ 明日香の 舊き都は 山高み 河とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 河し清し 朝雲に 鶴は亂れ 夕霧に かはづはさわぐ 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば
 
三諸乃《ミモロノ》 神名備山爾《カミナビヤマニ》 五百枝刺《イホエサシ》 繁生有《シジニオヒタル》 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》 玉葛《タマカヅラ》 絶事無《タユルコトナク》 在管裳《アリツツモ》 不止將通《ヤマズカヨハム》 明日香能《アスカノ》 舊京師者《フルキミヤコハ》 山高三《ヤマタカミ》 河登保志呂之《カハトホシロシ》 春日者《ハルノヒハ》 山四見容之《ヤマシミガホシ》 秋夜者《アキノヨハ》 河四清之《カハシサヤケシ》 旦雲二《アサグモニ》 多頭羽亂《タヅハミダレ》 夕霧丹《ユフギリニ》 河津者驟《カハヅハサワグ》 毎見《ミルゴトニ》 哭耳所泣《ネノミシナカユ》 古思者《イニシヘオモヘバ》
 
(三諸乃神名備山爾、五百枝刺繁生有、都賀乃樹乃)イツデモ續ギ續ギニ(玉葛)絶エルコトガナク、斯樣ニシテ常ニ、通ツテ見タク思ハレルコノ〔二字傍線〕飛鳥ノ舊都ハ、山ガ高クテ、河ハ遠ク遙カニハツキリト流レテヰル。春ノ日ニハ山ノ景色ガ面白イノデ〔十字傍線〕、山ガ見タク思ハレル。秋ノ夜ニハ河ノ音ガ清ク聞エル。朝ノ雲ニ鶴ハ亂レテ飛ビ、夕方立ツ霧ノ中ニ河鹿ハ嶋キ騷イデヰル。コノ三諸ノ神名備山ニ登ツテ飛鳥ノ舊都ヲ見テ〔コノ〜傍線〕、昔盛デアツタコト〔七字傍線〕ヲ思フト、何デモ見ルモノゴトニ、悲シイ情ヲ起サセテ、自然〔悲シ〜傍線〕ニ、聲ヲアゲテ泣クヨ。
 
○三諸乃神名備山爾五百枝刺繁生有都賀乃樹乃《ミモロノカミナビヤマニイホエサシシジニオヒタルツガノキノ》――彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》の序詞。三諸の神名備山に、多くの枝をさして、繁く生ひ茂つてゐる樛の木の意で、ツガの音を繰返し彌《イヤ》ツギツギとつづけたのである。二九參照。これは神岳に登り、目に觸れたものを採つて序としたのである。○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。絶事無《タユルコトナク》につづく。玉は美稱で、蔓草の類をカヅラといふ。蔓草が這ひつづいて絶えない意を以てつづけたもの。○在管裳《アリツツモ》――ありありつつもに同じ。ありありては物の繼續するのをいふので、かうしてゐての意。○不止將通《ヤマズカヨハム》――不止をツネニと略解によんである(343)のは惡い。不止をヤマズとよんだのは集中に例多く、夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》(四〇〇五)・也麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》(四三〇三)など假名書の例も少くない。○明日香能舊京師者《アスカノフルキミヤコハ》――飛鳥の舊都は即ち天武天皇の明日香淨御原宮をいふ。○山高三《ヤマタカミ》――山が高くての意。このミは故にの意とは違つてゐる。山は飛鳥附近の連山を指したのである。東から南にかけて、倉橋・多武・細川・南淵・高取などの諸山が連なつてゐる。○河登保志呂之《カハトホシロシ》――河遠白しで、河が遠く鮮かに流れてゐること。これを雄大の意とする説もあるが、恐らくさうではあるまい。卷十七にも山高美河登保之呂思《ヤマタカミカハトホシロシ》(四〇一一)とあつて、此處と全く同樣である。長明無名抄に、「すがたうるはしく、清げにいひ下して、たけ高くとほしろきなり云々。これははじめの歌のやうにかぎりなく、とほしろくなどはあらねど云々。はじめの歌はすがたきよげにとほしろければ云々」とあるは氣高く明澄なる意と思はれるから、結局同じである。○山四見容之《ヤマシミガホシ》――山が見たいの意で、春は山に花が咲いて景色が面白く、望を恣にしたい意である。容は借字で見が欲しである。○河四清之《カハシサヤケシ》――秋の夜は月の光に照らされて、河の景色もことに美しきを賞めたのである。○河津者驟《カハヅハサワグ》――河鹿の鳴くをいふ。河津は後世河鹿と稱して、山間の清流に住む蛙に似て黒く、指に吸盤を持つてゐるもので、澄んだ美しい聲で鳴く。
〔評〕 冒頭の序詞も氣がきいてゐるし、河登保志呂之《カハトホシロシ》の句も、感じのよい清新な氣分がする。春秋朝夕の對句もよく整つて、舊都の佳景を叙べて餘蘊なく、最後に毎見哭耳所泣古思者《ミルゴトニネノミシナカユイニシヘオモヘバ》と懷古の涙に咽び、景と情と併せ歌ひ盡した佳作である。登保志呂之《トホシロシ》、見容之《ミガホシ》、清之《サヤケシ》など終止形の句切に、シの韻を押んでゐるのも力強く、瓊の響の※[王+倉]々たるが如き、さわやかな調をなしてゐる。
 
反歌
 
325 明日香河 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 戀にあらなくに
 
明日香河《アスカガハ》 川余藤不去《カハヨドサラズ》 立霧乃《タツキリノ》 念應過《オモヒスグベキ》 孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》
 
私ガコノ飛鳥ノ舊都ヲ慕フ心ハ〔私ガ〜傍線〕、(明日香河川余藤不去立霧乃)ヨイ加減デ〔五字傍線〕晴ラスコトガ出來ルヤウナ、ソンナ(344)一寸シタ〔七字傍線〕思慕ノ情デハアリマセンヨ。
 
○明日香河川余藤不去立霧乃《アスカガハカハヨドサラズタツキリノ》――明日香川の川の淀みの上に、常に立ち去らずに立つてゐる霧の意で、念應過《オモヒスグベキ》の過ぐにかかる序詞である。藤は他に用例がないから誤だらうと、濱臣は言つて居るが、卷五にも胡藤母意母保由《コドモオモホユ》(八〇二)とあるから誤ではない。○念應過《オモヒスグベキ》――思ひ忘れるやうなの意。過は晴れること。○孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》――戀ではないよの意。
〔評〕 神岳から見下し、飛鳥川の上に棚曳いてゐる霧を以て序詞とし、去り難い舊都の愛慕を述べてゐる。結句の孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》が、哀に響いて餘情がある。
 
門部《カドベノ》王、在(リテ)2難波(ニ)1見(テ)2漁父(ノ)燭光(ヲ)1作(レル)歌一首
 
門部王は三一〇參照。古寫本多くはここに「後賜姓大原眞人氏也」とある。
 
326 見渡せば 明石の浦に ともす火の ほにぞ出でぬる 妹に戀ふらく
 
見渡者《ミワタセバ》 明石之浦爾《アカシノウラニ》 燒火乃《トモスヒノ》 保爾曾出流《ホニゾイデヌル》 妹爾戀久《イモニコフラク》
 
(見渡者明石之浦爾燒火乃)私ハ妻ヲ戀フルコトガ、外ニアラハレテ、人ノ目ニ立ツヤウニナツタヨ。
 
○見渡者明石之浦爾燒火乃《ミワタセバアカシノウラニトモスヒノ》――これはホと言はむ爲の序詞である。火は又ホともいふからである。○保爾曾出流《ホニゾイデヌル》――ホは即ち秀、穗で、ホニイヅルとは、目に立つやうに著しく顯はれるをいふ。
〔評〕 これも前の歌と同じく、眼前の景色を以て序を作つたのである。難波から見渡しても、明石の浦は見えないけれども、その方向に當つて輝いてゐる漁火を以て、明石の浦と斷じたもので、燭火に明石といふ地名は應はしいやうに思はれる。前にも留火之明大門爾入日哉《トモシビノアカシノオドニイラムヒヤ》(二五四)とあつた。この頃の歌には、かやうに矚目するところを採つて、手輕に戀の心を述べたものが隨分ある。この歌も如何なる事實に關連してゐるものか明らかでないが、輕い氣分のやうに思はれる。
 
(345)或娘子等、賜(リ)2※[果/衣のなべぶたなし]乾鰒《ツツメルホシアハビヲ》1戯(ニ)請(ヒシ)2通觀僧之|咒願《カジリヲ》1時、通觀作歌一首
 
目録に「或娘子等以2※[果/衣のなべぶたなし]乾鰒1贈2通觀僧1戯請2呪願1時云々」とあるによれば、賜の字は神田本の如く贈とあるべきであらう。通觀の傳は明らかでない。呪願は書紀にカジリとよんである。
 
327 わたつみの 沖に持ち行きて 放つとも うれむぞこれが よみがへりなむ
 
海若之《ワタツミノ》 奧爾持行而《オキニモチユキテ》 雖放《ハナツトモ》 宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》 將死還生《ヨミガヘリナム》
 
タトヒ〔三字傍線〕海ノ沖ヘ持ツテ行ツテ放シタ所デ、ドウシテコノ乾鮑ガ生キカヘリマセウカ。イクラ私ノ呪ガ上手デモ駄目デス〔イク〜傍線〕。
 
○海若之《ワタツミノ》――海若《ワタツミ》は山祇《ヤマツミ》に對した語で、海神をいふのであるが、後世では單に海を指す場合が多い。これは後世式の用法である。○宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》――宇禮牟曾《ウレムゾ》は如何ぞに同じ。卷十一に平山子松末有廉奴波《ナラヤマノコマツガウレノウレムゾハ》(二四八七)とあるのと共に、ただ二例のみである。○將死還生《ヨミガヘリナム》――ヨミガヘラマシと略解によんであるが、將の字はム・ラム・ナム・ケムなどと訓むのが常で、マシの訓は他に一寸見當らぬから、これもヨミガヘリナムとすべきである。ヨミガヘルは黄泉《ヨミ》より還る意、即ち蘇生すること。
〔評〕 物もあらうに、乾鮑を僧に贈るとは、隨分ひどいいたづらである。呪願を請ふとは、どんな願か分らないが、娘子が僧を誘惑しようとしたものと思はれる。通觀はそれと知つて、相手にならず、あつさりと串戯にしてしまつたのは、中々偉い坊さんだ。この歌は内容の洒落な點が愉快であるが、宇麗牟曾《ウレムゾ》などといふ珍らしい語を用ゐて、歌詞を力強くしてゐる。この語は焉ぞなどと同語で、漢文直譯式の堅い感じのする語である。その點がまた坊さんらしくて面白い。
 
太宰少式小野|老《オユ》朝臣歌一首
 
太宰府は帥を長官とし、その下に大貳一人、少貳二人あつた。小野老朝臣は續紀によれば、「天平(346)九年六月甲寅太宰大貳從四位下小野朝臣卒」と見えてゐるが、南京遺芳所載、天平十年周防國正税帳斷簡に、この人が病を養はむ爲に、下野那須温泉に赴いたこと、及び彼の地に歿して、骨送使が周防國を通過したことが見えてゐるから、續紀に九年とあるのは十年の誤であらう。次の歌どもから考へると、大伴旅人が帥であつた頃、少貳としてその部下にゐたのである。
 
328 あをによし 寧樂の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今さかりなり
 
青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》 咲花乃《サクハナノ》 薫如《ニホフガゴトク》 今盛有《イマサカリナリ》
 
(青丹吉)奈良ノ都ハ咲ク花ガ美シク〔三字傍線〕咲キ匂ウテヰルヤウニ、今ハ繁盛ナ有樣デアル。
 
○青丹吉《アヲニヨシ》――寧樂の枕詞。一七參照。○咲花乃薫如《サクハナノニホフガゴトク》――薫の字は香ることであるが、ニホフは色で見る美しさをいふのである。して見ると、この字は當つてゐないやうにも思はれるが、卷六にも丹管士乃將薫時能《ニツツジノニホハムトキノ》(九七一)とあつて、香る意味でなく用ゐてある。蓋しこの時代に於て、既にニホフといふ語が、香る意にも用ゐられてゐたので、薫の字をニホフと讀ませたものである。卷十七に橘乃爾保弊流香可聞《タチバナノニホヘルカカモ》(三九一六)とあるのは、ニホフを香に用ゐた例であらう。
〔評〕 天平時代の奈良の都を謳歌したものとして、人のよく知る歌である。何らの工夫もなく修飾もなく、思ふ儘を舒べた作で、咲花乃薫如《サクハナノニホフガゴトク》の譬喩が全體の中心をなしてゐる。力のある、はつきりとした作だ。但し作者は太宰府にゐて詠んだのである。
 
防人司佑《サキモリツカサノスケ》大伴|四繩《ヨツナ》歌二首
 
防人司は太宰府下の役所で、防人に關する事務を掌る。佑はその次官で、五八位上の卑官である。舊本祐に作るは誤。四繩は目録・類聚古集などに四綱とあるからヨツナであらう。古今六帖にも大伴よつなとある。この人の傳は明らかでない。
 
329 やすみしし 吾が大君の 敷きませる 國の中には 都念ほゆ
 
(347)安見知之《ヤスミシシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 敷座在《シキマセル》 國中者《クニノナカニハ》 京師所念《ミヤコオモホユ》
 
(安見知之)私ノ天子樣ガ御支配遊バス國ノ中デハ、都ガ一番ナツカシク思ハレル。カウシテ田舍ニヰテハ、何處ヨリモ都ガナツカシイ〔カウ〜傍線〕。
 
○安見知之《ヤスミシシ》――王《オホキミ》の枕詞。三參照。○國中者《クニノナカニハ》――國内ではの意。者を在に改めて、クニノナカナルとよまうとする説は妄である。○京師所念《ミヤコオモホユ》――京は一字でミヤコとよんだ例が多いが、前の歌の書き方から見ても、亦卷五に伊都斯可母京師乎美武登《イツシカモミヤコヲミムト》(八八六)とあるを見ても、此處は京師の二字でミヤコとよむのである。さうするとミヤコオモホユと訓むより外はない。ミヤコシオモホユとシを補ひたいが、文字が無いから入れない方がよい。
〔評〕 普天の下、率土の濱、何處か王土ならざる、とは思へども、やはりなつかしいのは都である、咲く花の薫ふが如くといつた同僚の言葉によつて、都慕はしい心が刺戟せられて、以下の數首も出來たのであらう。
 
330 藤浪の 花は盛りに なりにけり 平城の京を 思ほすや君
 
藤浪之《フヂナミノ》 花者盛爾《ハナハサカリニ》 成來《ナリニケリ》 平城京乎《ナラノミヤコヲ》 御念八君《オモホスヤキミ》
 
藤ノ花ハ今ハ盛トナリマシタ。貴方ハコノ花ヲ見ルニツケテモ〔コノ〜傍線〕、奈良ノ都ヲ思ヒ出シナサイマスカ。如何デス〔四字傍線〕。
 
○藤波之《フヂナミノ》――藤は花房長く垂れて、靡き動く樣が波のやうであるから、藤波といふのであらう。
〔評〕 師の大伴旅人に奉つたのであらう。何につけても都は戀しいが、取り分け、紫の花色なつかしい藤の盛に會つては、その花の多い奈良の都が思ひ出されるのである。自分の心から忖度して、人に問ひかけたものであらう。三句目をケリで言ひ切つたのは、この集では珍らしい型である。卷六に太宰少貳石川朝臣足人の刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君《サスタケノオホミヤビトノイヘトスムサホノヤマヲバオモフヤモキミ》(九五五)とあるのも、師の旅人に捧げたもので、似た歌である。
 
帥《ソチ》大伴(ノ)卿歌五首
 
旅人の歌である。この人が帥になつた記事は續紀にないが、卷十七に「天平二年庚午冬十一月太(348)宰帥大伴卿被2v任大納言1【兼v帥如v故】上v京之時云々」とあるから、それまで數年間太宰帥であつたのである。帥は太宰府の長官で、令には從三位とあるが、旅人は既に神龜元年に正三位になつてゐる。
 
331 吾が盛 またをちめやも ほとほとに 寧樂の京を 見ずかなりなむ
 
吾盛《ワガサカリ》 復將變八方《マタヲチメヤモ》 殆《ホトホトニ》 寧樂京師乎《ナラノミヤコヲ》 不見歟將成《ミズカナリナム》
 
私ノ若イ〔二字傍線〕盛リガ復ト再ビ返ツテ來ヨウカ、決シテ再ビ若返ルコトハナイ。カウシテ年老ツテシマツテ〔決シ〜傍線〕、大抵ハ奈良ノ都ヲ見ナイデシマフコトニナルデアラウカ。殘念ナコトダ〔六字傍線〕。
 
○復將變八方《マタヲチメヤモ》――舊訓はマタカヘレハモであるが、宣長がマタヲチメヤモとよんだのがよい。變若益爾家利《ヲチマシニケリ》(六五〇)・又變若反《マタヲチカヘリ》(一〇四六)などによつて、若の字を補ふ説もあるが、この儘でよいであらう。ヲツは初めにかへる、もとへもどる意の動詞である。○殆《ホトホトニ》――殆ど、大抵、……するに近くなどの意。
〔評〕 齡の傾いた誰もが感ずることは、寄る年波の立ちかへらぬ悲しみである。それと同時に、避けがたい死が近づきつつあることを自覺する。邊土にあつて淋しい生活をしてゐるものは、住み馴れた都に再び歸り得るか否かを危むのである。この歌にはその感じが、殆ど絶望的な口調を以てあはれに述べられてゐる。
 
332 わが命も 常にあらぬか 昔見し 象の小河を 行きて見むため
 
吾命毛《ワガイノチモ》 常有奴可《ツネニアラヌカ》 昔見之《ムカシミシ》 象小河乎《キサノヲガハヲ》 行見爲《ユキテミムタメ》
 
昔、大和ノ國ニヰタ時ニ〔九字傍線〕見タ、アノ吉野ノ〔三字傍線〕象ノ小河ヲ、モウ一度行ツテ見タイカラ、私ノ命ガイツマデモ無クナラヌモノデアツテクレヌカヨ。
 
○常有奴可《ツネニアラヌカ》――常ニアレカシの意と解かれてゐるが、常デアツテクレヌカヨの意であらう。古義にこのヌを名告佐禰《ナノラサネ》のネと同じく、希望辭なり。可はかな〔二字傍点〕にて歎辭なりといつてゐるのは從ひがたい。○象小河乎《キサノヲガハヲ》――前にこの人の作に昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨《ムカシミシキサノヲガハヲイマミレバイヨヨサヤケクナリニケルカモ》(三一六)といふのがあつた。吉野なるこの小川が餘程氣に入つたものと見える。
(349)〔評〕 前の吾盛《ワガサカリ》の歌と、殆ど同樣の氣分であるが、曾遊の地吉野の象の小川を憶ひ起して、その佳景に接せん爲に、命長かれと祈つたもので、旅人はかなり煙霞の癖があつた人と見える。
 
333 淺茅原 つばらつばらに もの思へば ふりにし郷の 思ほゆるかも
 
淺茅原《アサヂハラ》 曲曲二《ツバラツバラニ》 物念者《モノモヘバ》 故郷之《フリニシサトノ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
(淺茅原)細々ト物ヲ思ツテヰルト。取リ分ケ自分ノ故都ガ戀シク思ハレルワイ。
 
○淺茅原《アサヂハラ》――枕詞。チハラ、ツバラと音を繰返してつづく。淺茅原は即ちまばらに生えた茅原である。○曲曲二《ツバラツバラニ》――ツバラは、ツマビラカ、委しく、細かに、などの意。○故郷之《フリニシサトノ》――大伴氏の舊地であらう。次に香具山乃故去之里乎《カグヤマノフリニシサトヲ》とあるから、香具山の麓である。之の字、古義にシとよんでゐるが、この歌ではシは強過ぎると思ふ。舊訓の通りノとよみたい。
〔評〕 なつかしいやさしい感情が流れてゐる。調子が穩やかで、しんみりとした追憶の感があらはれてゐる。
 
334 忘草 わが紐につく 香具山の ふりにし里を 忘れぬがため
 
萱草《ワスレグサ》 吾紐二付《ワガヒモニツク》 香具山乃《カグヤマノ》 故去之里乎《フリニシサトヲ》 不忘之爲《ワスレヌガタメ》
 
私ハ旅ニ出テヰテ〔八字傍線〕香具山ノ麓ニアル〔四字傍線〕故郷ガ忘レラレナイデ仕樣ガナイ〔六字傍線〕カラ、ドウカシテ故郷ヲ忘レテコノ苦シミカラ遁レヨウト思ツテ〔ドウ〜傍線〕、萱草ヲ私ノ着物ノ紐ニ結ヒ付ケテミタ。萱草ヲ付ケルト物忘ヲスルトイフガ、ドウカキキ目ガアレバヨイガ〔萱草〜傍線〕。
 
○萱草《ワスレグサ》――和名抄に「兼名苑云、萱草一名忘憂、漢語抄云、和須禮久佐、俗云如2環藻(ノ)二音1」とあつて、今もクワンゾウと稱する草である。萱の呉音クワンであり、又一に※[草冠/(言+爰)]に作るも同字である。この草は百合科の植物で、黄赤色の百合のやうな花を開く。山間に自生し、又庭園にも植ゑる。この草を身に附ければ、物思ひを忘れるといふのだが、稽康、養生(350)論「合歡※[益+蜀]v念、萱草忘v憂、愚智所2共知1也」とあるから、支那の俚諺から出たものである。○不忘之爲《ワスレヌガタメ》――忘れようとしても、忘れ得ないからの意。新訓にワスレジガタメとあるは、古點によつたものか。さう訓む時は忘れまい爲にとなつて、意味が分らなくなりはせぬか。
〔評〕 この頃から忘草や忘貝を、思ひを忘れる爲に弄ぶことがよく歌によまれてゐる。まさか言葉だけではなく、實際に用ゐたのであらう。上代人の幼兒のやうな純情と、長閑な生治とを思はしめるものがある。
 
335 吾が行は 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にてあれも
 
吾行者《ワガユキハ》 久者不有《ヒサニハアラジ》 夢乃和太《イメノワダ》 湍者不成而《セニハナラズテ》 淵有毛《フチニテアレモ》
 
私ノ旅行ハ永イ間トイフ程デハナイ。ダカラアノ吉野川ノ〔九字傍線〕夢ノ和太トイフ淵〔四字傍線〕モ私ノ歸ルマデ〔六字傍線〕瀬トハナラナイデ淵ノママデヰテクレヨ。
 
○吾行者《ワガユキハ》――吾が旅行はの意。ユキは名詞である。○夢乃和太《イメノワダ》――吉野川の曲つて淵をなしてゐるところの名である。懷風藻に吉田連宜の從駕吉野宮の詩に、「今日夢淵上、遺響千年流」とあり、大和志に「夢(ノ)回淵、在2吉野郡御料莊新住村1俗呼2梅(ノ)回1淵中奇石多」と出てゐる。新住《アタラスミ》は下市の下流で、離宮址からあまりに距つてゐる。今も宮瀧の下流象の小川の注ぐあたりを、所(351)の人が夢淵《ユメブチ》といつてゐるから、恐らくそこであらう。和太は曲《ワタ》の意で淵をいふ。寫眞は著者の撮影にかかる。○湍者不成而《セニハナラズテ》――セトハナラズテと舊訓にあつて、いづれとも定め難いが、卷六にある旅人の歌に、瀬二香成良武《セニカナルラム》(九六九)とあり、その他、古歌に「今日は瀬になる」、「瀬にかはりゆく」、などの例が多いから、それに從ふことにしよう。○淵有毛《フチニテアレモ》――淵にてあれよといふのである。この句の訓、諸説がある。例の改字説には從はぬとして新訓にフチニシアラモとある。シは或は可であらうが、アラモはどうであらう。未然形に續くモはムの變形で、東歌に多く出てゐて、東國の方言らしい。ここはアレモとよみたい。アレは命令、モは詠嘆の助詞。
〔評〕 夢の回淵の佳景よ、我がこの旅を終つて、再び訪ふまで、瀬にはならずに居てくれよといふので、この人の純な自然愛がここにもあらはれてゐる。著者も昭和四年八月其處に舟を浮べて「夢のわだ瀬にはならずて遠遠し千年の今日を淀みてあるかも」と口吟んだことであつた。
 
沙彌滿誓詠v緜歌一首
 
續紀に「養老七年二月丁酉勅2僧滿誓1 俗名從四位上笠朝臣麻呂 於2筑紫1令v造2觀世音寺1」とあるが、笠朝臣麻呂は永く美濃守の任にあり、右大辨從四位上になつて出家した人である。沙彌は梵語 Sramanera の訛で、息慈と譯す。佛門に入りて剃髪し受戒したばかりの男子をいふ。
 
336 しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖けく見ゆ
 
白縫《シラヌヒ》 筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》 身著而《ミニツケテ》 未者伎禰杼《イマダハキネド》 暖所見《アタタケクミユ》
 
(白縫)筑紫ノ綿ハ身ニツケテ、マダ着テハ見ナイケレドモ、カウシテ積ンデアルノヲ見タダケデモ〔カウ−傍線〕暖サウニ見エル。着タラドンナニ暖イダラウ〔着タ〜傍線〕。
 
○白縫《シラヌヒ》――舊訓シラヌヒノとあるが、卷五に斯良農比筑紫國《シラヌヒツクシノクニ》(七九四)、卷二十に之良奴日筑紫國《シラヌヒツクシノクニ》(四三三一)とあるから、シラヌヒとよむべきである。筑紫の枕詞とするのは、古事記に筑紫國を白日別《シラヒワケ》といふとあるシラヒから出たもので、かの肥後の國の海上にあらはれるといふ不知火ではあるまい。景行天皇紀十八年の條に「五月壬辰朔(ニ)從2(352)葦北1發v船到2火(ノ)國1。於v是日没也。夜冥不v知2著岸1、遙視2火光1、天皇詔2挾抄者《カヂトリ》1曰、直指2火處1、因指v火往v之、即得v著v岸、天皇問2其火光處1曰、何謂邑也、國人對曰、是八代縣豐村、亦尋2其火1、是誰人之火也、然不v得v主、茲知v非2人火1故名2其國1曰2火國1」とあるのが不知火の起源のやうに論ぜられるが、後世の不知火は、天草方面の海中にあらはれるのに、これは海中から東方の陸地の火を御覽になつたので、全く別物である。又謂はゆる不知火は出現の時期も七月晦と十二月晦とが最も著しいといはれてゐるが、紀の文は五月になつてゐる。萬葉には不知火の文字を用ゐないのも考ふべき點で、今の不知火の話は、後になつて言ひ出したものであらう。○筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》――筑紫は筑前筑後で、ここは太宰府を指す。太宰府の綿は續紀に「神護景雲三年三月乙未、始毎年、運2太宰府綿二十萬屯(ヲ)1輪2京庫1」とある。この綿は眞綿説と木綿《キワタ》説と二つに分れてゐる。ワタは海《ワタ》、渡《ワタ》と同語で、海を渡つて來たものと思はれ、又右の續紀の文のやうに、太宰府から都に送つた點を見ても、舶來品たるは爭はれない。木綿《キワタ》は印度原産で、支那を經て輸入せられたものである。尚、右の續妃の文に二十萬屯とあるが、和名抄に「綿六兩爲v屯、一屯讀2飛止毛遲1」とあつて、六兩は二斤に相當するから、二十萬屯はかなり夥しい數量である。當時これだけものを輸入したかと思へば、貿易の盛大に驚かされる。卷十四に伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太伊利奈麻之母乃伊毛我乎抒許爾《キヘビトノマダラフスマニワタサハダイリナマシモノイモガヲドコニ》(三三五四)とあつて、田舍人の衾にも入れられたもので、この點から考へても、眞綿説には從ひ難い。○未者伎禰抒《イマタハキネド》――者の字は添へて言へるのみ。○暖所見《アタタケクミユ》――舊訓アタタカニミユであるが、宣長説に從つてアクタケクミユと訓むことにする。
〔評〕 實に平明な歌だ。詩趣が乏しいとも言へぬこともないが、綿のふかふかとしたのを眺めた時の、實感その儘をよんだもので、面白いところがある。
 
山上臣憶良罷(ル)v宴(ヲ)歌一首
 
臣の字、憶良の下にある本もある。この歌は太宰府での作で、憶良が筑前守時代のものである。憶良の履歴は六二に記して置いた。
 
337 憶良らは 今は罷らん 子哭くらむ 其の彼の母も 吾を待つらむぞ
 
(353)憶良等者《オクララハ》 今者將罷《イマハマカラム》 子將哭《コナクラム》 其彼母毛《ソノカノハハモ》 吾乎將待曾《ワヲマツラムゾ》
 
私ドモハモウ歸リマセウ。宅デハ〔三字傍線〕子供ガ泣イテ居リマセウ。サウシテ又〔五字傍線〕アレノ母モ、私ヲ待ツテ居リマセウヨ。ドリヤ失禮致シテ歸リマセウ〔ドリ〜傍線〕。
 
○憶良等者《オクララハ》――等《ラ》は添へただけ。○其彼母毛《ソノカノハハモ》――ソモソノハハモとよむ説が槻落葉や古義にあるが、よくない。ソモはソレモの意とし、子を指したものと見たのであるが、この句は妻だけのことにして考へる方がよい。ソノカノハハモは其の彼奴《アイツ》の母といふやうな意で、言葉が荒々しく、親しみがあつて面白い。
〔評〕 自分のことを、代名詞を用ゐないで、實名を以て歌ひ出したのが、既に異なつてゐて面白い。今者將罷《イマハマカラム》と言ひ切つて、後で述べてゐる理由が頗る振つてゐる。粗野といへば粗野に違ないが、天眞爛漫、實に愉快な作品である。調子も内容にふさはしく、ざつくばらんなところがよい。
 
太宰帥大伴卿讃(ムル)v酒(ヲ)歌十三首
 
338 しるしなき 物を思はずは 一杯の 濁れる酒を 飲むべく有るらし
 
驗無《シルシナキ》 物乎不念者《モノヲオモハズハ》 一坏乃《ヒトツキノ》 濁酒乎《ニゴレルサケヲ》 可飲有良師《ノムベクアルラシ》
 
イクラ考ヘテモ、何ノ〔九字傍線〕甲斐モナイ事ヲ、クヨクヨ思ハナイデ、寧ロ一杯ノ濁リ酒ヲ飲ンデ憂ヲ忘レタ方〔六字傍線〕ガマシデアラウ。
 
○驗無《シルシナキ》――甲斐なき・益なき。○物乎不念者《モノヲオモハズハ》――物を思はないでの意。○一坏乃《ヒトツキノ》――坏《ツキ》は飲食物を盛る器。土扁になつてゐるのは土燒だからである。久老は四時祭式に等呂須伎《トロスキ》とあるによつてスキとよまうと言つてゐるが、ツキも亦古言で、卷五に佐加豆岐能倍爾《サカヅキノヘニ》(八四〇)とあるから、ここもヒトツキノでよい。○濁酒乎《ニゴレルサケヲ》――濁酒は精製しない酒。清酒に對す。謂はゆるドブロク。○可飲有良師《ノムベクアルラシ》――ノムベカルラシの訓が童蒙抄・略解にあるが、ノムベクアルラシがよい。アラシでもよいが、下にも有良師《アルラシ》とある。飲むべきであるらしいの意。
(354)〔評〕 一杯の濁れる酒といふ句に、酒を貴む情が盛られてゐる。同時に俗事に没頭し、焦慮するものの愚を笑ふ意も含まれてゐる。
 
339 酒の名を 聖と負せし 古の 大き聖の 言のよろしさ
 
酒名乎《サケノナヲ》 聖跡負師《ヒジリトオホセシ》 古昔《イニシヘノ》 大聖之《オホキヒジリノ》 言乃宜左《コトノヨロシサ》
 
昔、魏ノ人ハ酒ヲ聖人ト言ツタサウダガ〔昔魏〜傍線〕、酒ニ聖人ト名ヲ付ケタ、昔ノ大聖ノ言葉ノ面白サヨ。ホントニ酒ハ貴イモノダ〔ホン〜傍線〕。
 
○酒名乎聖跡負師《サケノナヲヒジリトオホセシ》――魏書に、「太祖禁v酒而人竊飲、故難v言v酒、以2白酒1爲2賢者1以2清酒1爲2聖人1」とあるによつたもの。槻の落葉や檜の嬬手に、オホシシとよんでゐるが、卷十八に可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於促世母天《カタオモヒヲウマニフツマニオホセモテ》(四〇八一)とあるから、下二段動詞である。○大聖之《オホキヒジリノ》――禁を破つて、酒を聖人と呼んで飲んだ魏人を賞めて、大聖人といつたもの。
〔評〕 支那の故事をよみ込んだのは、文人氣取である。大聖人と魏人を賞めたの如何にも酒飲みらしい。禁酒の制を破つた者を大聖人とよんだのは、ひどい皮肉である。この讃酒歌は古來有名で、これを學んだ作品も尠くない。八田知紀のしのぶ草に「酒といふひじりになれて願はくは竹の林に世をばつくさむ」とあるのは、その一例である。
 
340 いにしへの 七のさかしき 人どもも 欲りせしものは 酒にしあるらし
 
古之《イニシヘノ》 七賢《ナナノサカシキ》 人等毛《ヒトドモモ》 欲爲物者《ホリセシモノハ》 酒西有良師《サケニシアルラシ》
 
昔ノ竹林ノ七賢人デモ、欲シガツタモノハ酒デアルラシイ。マシテ我々ガ酒ヲ欲シガルノハ當然ダ〔マシ〜傍線〕。
 
○七賢人等毛《ナナノサカシキヒトドモモ》――賢はサカシキとよむがよい。古義に「カシコキてふ言は恐懼の字の意にてかしこき人などいふは、至尊くして、恐懼き人をのみ云ふ言なりしを云々」と言つてゐるのに從ふべきである。七賢は、※[稽の旨が山]康・阮籍・山濤・劉伶・阮咸・向秀・王戎の七人であつて、「爲2竹林之游1世所謂竹林七賢也」と晋書列傳に見える。○(355)欲爲物者《ホリセシモノハ》――舊訓ホリスルモノハとあるが、ホリセシモノハがよいであらう。
〔評〕 聖人といひ賢人といへば、儒者らは大に尊崇する。その七賢人といへども酒は大の好物でしたぞと、鹿爪らしい儒者連に一矢を酬いたものである。前に聖人のことを述べたので、これは賢人を材としてよんだのである。七賢人の竹林之游を慕つた享楽的氣分が見えてゐる。
 
341 さかしみと 物いふよりは 酒のみて 醉哭するし まさりたるらし
 
賢跡《サカシミト》 物言從者《モノイフヨリハ》 酒飲而《サケノミテ》 醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》 益有良之《マサリタルラシ》
 
賢人ブツテ得意氣ニ〔四字傍線〕口ヲキクヨリハ、酒ヲ飲ンデ醉ツテ哭クノガ、勝《マサ》ツテヰルヤウダ。
 
○賢跡《サカシミト》――舊訓はカシコシトであるが、サカシとよまねばならぬことは、前の歌に述べた通りであるから、ここではミを添へてよむ古義の説に從はう。このミは山高三河登保志呂之《ヤマタカミカハトホシロシ》(三二四)のミと同じく、添へて言ふだけである。○醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》――醉哭は醉つて泣くこと。
〔評〕 悧巧振つてゐる奴を罵り、それよりも不體裁の極のやうに言はれる醉泣の方が、却つてまさつてゐるといふので、醉拂ひと悧巧ぶりとを比較して、醉拂に團扇を上げたものである。甚だしい享樂本位である。
 
342 言はむすべ 爲むすべ知らに 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし
 
將言爲便《イハムスベ》 將爲便不知《セムスベシラニ》 極《キハマリテ》 貴物者《タフトキモノハ》 酒西有良之《サケニシアルラシ》
 
何トモ言ヒヤウモナク、何ト爲ヤウモナイ程、コノ上ナク貴イモノハ、酒デアルラシイ。
〔評〕 酒の貴さを極言したもの。無上の至寶のやうに言つたところが面白い。
 
343 なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりてしがも 酒にしみなむ
 
中中二《ナカナカニ》 人跡不有者《ヒトトアラズハ》 酒壺二《サカツボニ》 成而師鴨《ナリテシガモ》 酒二染甞《サケニシミナム》
 
却ツテ人間デヰナイデ、寧ロ酒壺ニナリタイモノダ。サウシテ始終〔二字傍線〕酒ニ浸ツテヰヨウ。
 
○中中二《ナカナカニ》――却て。○人跡不有者《ヒトトアラズハ》――人とあらずに、それよりもの意。○成而師鴨《ナリテシガモ》――舊訓はナリニテシガモ(356)であるが、ニの字を入れず六言によむべきであらう。テシは助動詞ツとキとを重ねたもの。ガモは希望の助詞。酒壺になるとは、略解に「呉誌に、鄭泉臨v卒時語2同輩1曰、必葬2我陶家之後1化而爲v土、幸見v取爲2酒壺1、實獲2我心1矣」とあるが、山田孝雄氏は呉志は神護景雲三年に太宰府の學府に賜つた本で、旅人は恐らくこれを讀んでゐなかつたであらう。さうして當時、※[王+周]玉集が傳つてゐて、鄭泉の故事はその嗜酒篇に、「鄭泉字文淵陳郡人也、孫權時爲2太中大夫1、爲v性好v酒、乃嘆曰願得2三百※[百+升]船1酒滿2其中1、以2四時甘※[食+肴]1置2於兩頭1安2升升1在傍、隨減隨益、方可v足2一生1耳、臨死之日勅2其子1曰、我死可v埋2於窯之側1、數百年之後化而成v土、覬取爲2酒瓶1獲2心願1矣、出2呉書1、」と見えてゐるから、これによつて詠んだのであらうと言つて居られる。(藝文第十五年十一號)傾聽すべき説である。
〔評〕 呉國の鄭泉の説話を基としたもので、自分の創意ではないやうであるが、隨分極端な希望である。佛者の謂はゆる「人身受け難し」も、これでは全く滅茶苦茶である。
 
344 あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見れば 猿にかも似る
 
痛醜《アナミニク》 賢良乎爲跡《サカシラヲスト》 酒不飲《サケノマヌ》 人乎熟見者《ヒトヲヨクミレバ》 猿二鴨似《サルニカモニル》
 
アア見ニクイヨ。賢人ブラウト思ツテ、酒ヲ飲マナイ人ヲツクヅク見ルト、生意氣ナ樣子ガ〔七字傍線〕猿ニ似テヰルヤウダ。
 
○賢良乎爲跡《サカシラヲスト》――賢しにラを添へて名詞にしたのがサカシラである。このラは物悲良爾《モノカナシラニ》(七二三)安加良多知婆奈《アカラタチバナ》(四〇六〇)宇須良婢乃《ウスラヒノ》(四四七八)のラと同じく、形容詞の語幹に附いてゐる。この句は悧巧ぶるとての意。○人乎熟見者猿二鴨似《ヒトヲヨクミレバサルニカモニル》――ヒトヲヨクミバサルニカモニムとよむ説も有力だが、ミレバと言はなくては言葉が弱くて駄目だ。必ずミレバといふべき所と思ふ。ミレバとよんだら、カモとあつても、ニルとよむ外はない。
〔評〕 この集では珍らしい初句切法を用ゐて、痛醜《アナミニク》と劈頭第一に喝破したところが、強い調子になつてゐる。酒を飲まないで、悧巧振つて、眞面目腐つてゐる生意氣先生を罵つたのである。道學先生も猿に譬へられてはたまらない。西山物語に、「あなみにく、酒うち飲みてまあかなる人の顔こそ猿とかもみめ」とあるのは、この歌を(357)本にして、反對に、酒を飲んだ者の顔の赤さを、猿に似てゐると言つたものである。
 
345 價無き 寶といふとも 一坏の 濁れる酒に 豈まさめやも
 
價無《アタヒナキ》 寶跡言十方《タカラトイフトモ》 一坏乃《ヒトツキノ》 濁酒爾《ニゴレルサケニ》 豈益目八《アニマサメヤモ》
 
價ノ知レナイ程貴イ〔九字傍線〕無價ノ寶珠デモ、一坏ノ 濁酒ニドウシテ勝《マサ》ラウカ。トテモ勝リハシナイ。
 
○價無寶跡言十方《アタヒナキタカラトイフトモ》――價無き寶は、法華經五百弟子受記品に謂はゆる無價の寶珠である。何物を以ても易へ難い、評價し難い寶珠。○豈益目八《アニマサメヤモ》――豈は何《ナニ》に同じ。何ぞ勝らむやといふのである。類聚古集等古寫本に八の下、方の字があるによつて、斯くよむがよい。
〔評〕 前の將言爲便將爲便不知《イハムスベセムスベシラニ》の歌に似てゐるが、無價の寶珠に比したところに、佛教に反抗した態度が見えてゐる。豈といふ語を和歌に用ゐるのは、萬葉に限られたもので、漢文直譯式の力強い硬い感じがする。
 
346 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あに若かめやも
 
夜光《ヨルヒカル》 玉跡言十方《タマトイフトモ》 酒飲而《サケノミテ》 情乎遣爾《ココロヲヤルニ》 豈若目八目《アニシカメヤモ》【一云|八方《ヤモ》】
 
タトヒ有名ナ〔六字傍線〕夜光ノ玉ノ貴サ〔三字傍線〕デモ、酒ヲ飲ンデ心ヲ晴ラス樂〔傍線〕ニ比ベタラ〔四字傍線〕、ドウシテ及バウカ、トテモ及ブコトデハナイ〔トテ〜傍線〕。
 
○夜光玉《ヨルヒカルタマ》――述異記に「南海有v珠即鯨目、夜可2以鑒1謂2之(ヲ)夜光1」とある。その他戰國策・史記などにも見え、夜、明光を放つ寶珠で、無上の貴寶である。
〔評〕 前の歌に無價の寶珠に比したから、今度は夜光の珠と較べて酒を讃めたので、夜光の寶玉も酒の前には光を失つて終つた。
 
347 世の中の 遊びの道に さぶしくは 醉哭するに 有りぬべからし
 
世間之《ヨノナカノ》 遊道爾《アソビノミチニ》 冷者《サブシクハ》 醉哭爲爾《ヱヒナキスルニ》 可有良師《アリヌベカラシ》
 
世間ノ遊ノ道ガ面白クナイナラバ、醉拂ツテ哭ク方ガマシダラウ。
 
(358)○世間之遊道爾《ヨノナカノアソビノミチニ》――世の中の遊びの道がの意。○冷者《サブシクハ》――淋しく、面白くないならばの意。この句は誤字説が勢力があつて、宣長は怜として、タヌシキハとよみ、古義は洽として、アマネキハとよんでゐるが、共によくない。舊訓のマシラハハは不可解な訓法である。冷の字は卷一に冷夜乎《サブキヨヲ》(七九)とあり、サブシクとよんでもよい字であらう。
〔評〕 遊の道は多いが、いづれもつまらないなら、酒だ、酒だ、酒を飲んで醉哭する位面白い道はないといふので、勤勞努力を否定して、遊戯三昧に世を送らうとする、儒教反抗の態度が見える。
 
348 この代にし 樂しくあらば 來む世には 蟲に鳥にも 吾はなりなむ
 
今代爾之《コノヨニシ》 樂有者《タヌシクアラバ》 來生者《コムヨニハ》 蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》 吾羽成奈武《ワレハナリナム》
 
コノ今ノ世デサヘ面白イナラバ、來世デハ虫ニデモ鳥ニデモ私ハナリマセウ。コノ世サヘ樂シイナラ後ハドウデモカマワヌ。酒ヲ飲ンデ樂シク暮サウ〔コノ〜傍線〕。
 
○今代爾之《コノヨニシ》――今代《コノヨ》は現世をいふ。拾穗抄や槻の落葉に、イマノヨとあり、新訓にもさうよんであるが、舊訓のやうにコノヨとよみたい。今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》(一五)などによれば、コノヨでよからうと思ふ。○來生者《コムヨニハ》――來世にはの意。
〔評〕 甚だしい佛教否定の言だ。天皇自ら三寶の奴と稱せられた天平時代に、思ひ切つた現世享樂を歌つたものである。輪廻も、三惡・四趣も馬耳東風と聞き流して、酒に親しまうといふのである。酒といふ語はないが、それは題詞や他の歌に讓つてある。濟度し難い外道だが、痛快味が溢れてゐる。
 
349 生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 樂しくをあらな
 
生者《イケルモノ》 逐毛死《ツヒニモシヌル》 物爾有者《モノニアレバ》 今生在間者《コノヨナルマハ》 樂乎有名《タヌシクヲアラナ》
 
生者必滅ダカラ、コノ世ニ生キテヰル間ハ、面白クアリタイモノダ。酒ヲ飲ンデ面白ククラサウ〔酒ヲ〜傍線〕。
 
○生者《イケルモノ》――上の句は生者必滅の意を述べたのであるから、ウマルレバの訓はよくない。イケルヒトと舊訓にあ(359)るが、人には限らないから、イケルモノとしよう。○物爾有者《モノニアレバ》――モノナレバも惡くはないが、爾有とあるから、約めないでよまう。○今生在間者《コノヨナルマハ》――前に來世をコムヨとよんだから、今世はコノヨと訓むべきである。類古集に生の字がないのは、脱ちたのであらう。新訓のイマアルホドハは、賛成し難い。○樂乎有名《タヌシクヲアラナ》――乎《ヲ》は強めて言ふのみ。樂しくありたいの意。
〔評〕 生者必滅、會者常離だ。無常の世だから來世を願へと佛者は説く。それを逆に取つて、生者必滅だからこの世の間は人生を享樂しなければならぬと、佛説に逆ねぢを喰はした痛快な作だ。酒の字はないが、酒を飲んで樂しく現世を送らうといふ意は、前の作と同じである。
 
350 もだ居りて 賢しらするは 酒飲みて 醉哭するに なほ若かずけり
 
黙然居而《モダヲリテ》 賢良爲者《サカシラスルハ》 飲酒而《サケノミテ》 醉泣爲爾《ヱヒナキスルニ》 尚不如來《ナホシカズケリ》
 
黙ツテヰテ賢ブルノハ、酒ヲ飲ンデ醉拂ツテ泣クノニヤハリ及バナイヨ。黙ツテヰテ悧巧ブル奴ハ、酒飲ムモノヲ見下ゲルカモ知レナイガ、ナカナカソンナモノジヤナイ〔黙ツ〜傍線〕。
 
○黙然居而《モダヲリテ》――童蒙抄にモダシヰテとよんだのに從ふ説も多いが、黙然不有跡《モダアラジト》(一五二八)・黙然毛將有《モダモアラム》(一九六四)などの例によつて、黙然はモダとよむべきである。
〔評〕 賢しらを拒け、醉哭を賞めてゐるのは、前の三四一の歌と同じであるが、この作では尚不如來《ナホシカズケリ》が異調に力強く響いてゐる。このシカズケリは、萬葉以後には全く見えない。以上十三首は酒を讃むるに托して、儒佛の教への窮屈さを罵つたものである。一つの思想を數首の短歌に纏めて述べてゐるのは、謂はゆる連作の歌である。だから酒といふ文字が無くても、やはり酒を讃めたものとしなければならない。
 
沙彌滿誓歌一首
 
351 世の中を 何に譬へむ 朝びらき 榜ぎ去にし船の 跡なきがごと
 
世間乎《ヨノナカヲ》 何物爾將譬《ナニニタトヘム》 旦開《アサビラキ》 ※[手偏+旁]去師船之《コギイニシフネノ》 跡無如《アトナキガゴト》
 
(360)コノ世ノ中ノ無常ナコト〔六字傍線〕ヲ、何ニ譬ヘタモノデアラウ。サウダ、先ヅ譬ヘテ見レバ〔サウ〜傍線〕、朝港ヲ出テ漕イデ去ツタ船ノ跡ガ殘ラナイノト同ジコトダ。
 
○旦開《アサビラキ》――舟が朝港を出ること。開きは發船すること。○跡無如《アトナキガゴト》――槻落葉にアトナキゴトシとよんだのが、專ら行はれてゐるが、予は舊訓にアトナキガゴトとあるに從はうと思ふ。如の字は相見如之《アヒミルゴトシ》(三〇九)・鬚無如之《ヒゲナキゴトシ》(三八三五)・客宿之如久《タビネノゴトク》(三三七二)・川藻之如久《カハモノゴトク》(一九六)・船己具如久《フネコグゴトク》(一八〇七)・散去如岐《チリニシゴトキ》(四七七)・爲輕如來《スガルノゴトキ》(三七九一)のやうに送假名を附するのが常となつてゐる。但し三名沫如世人吾等者《ミナハノゴトシヨノヒトワレハ》(一二六九)は送假名がないがゴトシとよむべき語法であるから、これは當然である。また新考に「雅澄の云へる如く、ゴトはゴトクの略にて、ゴトシを略してゴトといふことなければなり」とあるのは一應尤もであるが、卷十四に佐奴良久波多麻乃緒婆可里古布良久波布自能多可禰乃奈流佐波能其登《サヌラクハタマノヲバカリコフラクハフジノタカネノナルサハノゴト》(三三五八)とあるのは立派な終止形であるから、時無知《トキナキガゴト》(二五)などと同じく、アトナキガゴトとよみたい。
〔評〕 前の讃酒歌を讀んで、この歌に來ると、明るい世界から急に暗い世界に突き落されたやうな感がする。酒に醉つてよい機嫌になつてゐる處へ、冷水を頭からかけられたやうなものだ。人生のはかなさを、漕ぎ去つた船の跡無きに比したのは、譬喩が實に巧妙である。拾遺集にこれを改めて、「世の中を何に譬へむあさぼらけ漕ぎ行く舟のあとの白波」としたのは拙い。朝開きして漕ぎ去つた船が海上に跡を止めないのに譬へたもので、朝ぼらけとしては不要の句となり、漕ぎ行くでは現在になつて面白くない。
 
若湯座《ワカユヱ》王歌一首
 
この王の傳は明かでない。古事記に大湯坐《オホユヱ》・若湯坐《ワカユヱ》、續紀に若湯坐連・若湯坐宿禰が見えてゐる。湯坐をユヱとよむのは、ユスヱの略であらう。雄略紀には湯人此云2臾衛1とある。
 
352 葦邊には 鶴が音鳴きて みなと風 寒く吹くらむ 津乎の埼はも
 
葦邊波《アシベニハ》 鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》 湖風《ミナトカゼ》 寒吹良武《サムクフクラム》 津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》
 
(361)津乎ノ埼デハ葦ノ生エテヰルアタリデ、鶴ノ哭ク聲ガシテ、河口ノ風ガ寒ク吹イテヰルデアラウヨ。アアアノ津乎ノ埼アタリニヰル旅人ハサゾ辛イコトデアラウ〔アア〜傍線〕。
 
○湖風《ミナトカゼ》――湖をミナトとよむのは、この集に多い。潮となつてゐる本もあるが湖の方がよい。ミナトは河口である。○津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》――津乎能埼《ツヲノサキ》の所在不明。契沖は「和名抄に近江國淺井郡に都宇郷ありこの處にや」と言つてゐる。大日本地名辭書はこの郷を今の朝日村としてゐる。この地は余吾川の河口で、洵にミナトといふべき處である。羽毛《ハモ》は詠歎助詞。
〔評〕 これは旅人を思つて詠んだものか。前の近江海八十之湊爾鶴佐波二鳴《アフミノミヤソノミナトニタヅサハニナク》(二七三)の歌も思ひ出されてあはれである。琅※[王+干]のやうな光澤と響とを持つてゐる。
 
釋通觀歌一首
 
前に乾鰒の歌を詠んだ坊さんである。三二七參照。
 
353 み吉野の 高城の山に 白雲は 行きはばかりて たなびけり見ゆ
 
見吉野之《ミヨシヌノ》 高城乃山爾《タカキノヤマニ》 白雲者《シラクモハ》 行憚而《ユキハバカリテ》 棚引所見《タナビケリミユ》
 
吉野ノ高城山ニハ、白雲ガ通ルノヲ憚ツテ、棚引イテヰルノガ見エル。ナカナカ高イ山ダ〔八字傍線〕。
 
○高城乃山爾《タカキノヤマニ》――この山の所在は古書に明瞭でないが、吉野研究家、中岡清一氏の吉野名所誌に「城山又は鉢伏山ともいふ。頂上は展望大に開けて、高取山を掠めて國中平坦地方を望むべく、又遠く高野諸山と對し、理源大師の大蛇を退治せしといふ、百螺岳は近く指呼の間にあり。海拔七〇二米」とあるに從はう。水分山と青根が峯との中間にある。○棚引所見《タナビケリミユ》――舊訓タナビキテミユ、老にタナビケルミユとあるを、古義にタナビケリミユと改めたのはよい。恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》(一〇〇三)・安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《アマノイザリハトモシアヘリミユ》(三六七二)とある。
〔評〕 前の不盡山の長歌の反歌、天雲毛伊去羽計田菜引物緒《アマグモモイユキハバカリタナビクモノヲ》(三二一)と似たところがある。見た通りを有りのまま(362)に詠んだだけだが、高城山が如何にも高さうに聞える。
 
日置少老《ヘキノヲオユ》歌一首
 
古事記應神天皇の條に「大山守(ノ)命者云々|弊伎《ヘキ》君等之祖」とあり、姓氏録に「日置朝臣應神天皇皇子大山守王之後世」とあるから、日置はヘキである。この人の傳未詳。
 
354 繩の浦に 潮燒くけぶり 夕されば 行過ぎかねて 山に棚引く
 
繩乃浦爾《ナハノウラニ》 潮燒火氣《シホヤクケブリ》 夕去者《ユフサレバ》 行過不得而《ユキスギカネテ》 山爾棚引《ヤマニタナヒク》
 
繩ノ浦デ潮ヲ燒ク烟ガ、夕方ニナルト、後ロノ山ヲ〔五字傍線〕通リ過ギカネテ、山ニ棚曳イテヰル。
 
○繩乃浦爾《ナハノウラニ》――繩乃浦は所在不明。下の赤人の歌(三七五)にあるのと、同所であらうから、近畿の沿岸に違ない。催馬樂になはのつぶら江とあるも同所かと思はれる。然らばなはのつぶら江は難波の津村であるから、繩の浦は即ち難波の浦である。○行過不得而《ユキスギカネテ》――前に伊去波伐加利《イユキハバカリ》と同じ意で、少しく穩やかな言ひ方である。古義に得消失ずしてとあるは誤であらう。綱の浦とする説は從はない。
〔評〕 穩やかな夕方には氣壓の關係で、烟が一直線に地面と平行に棚曳くものである。その景色を捉へた鮮明な叙景歌である、卷七に之加乃白水郎乃燒鹽煙風乎疾立者不止山禰輕引《シカノアマノシホヤクケブリカゼヲイタミタチハノボラズヤマニタナビク》(一二四六)と少しく似た所がある。併し眞淵がこの繩の浦の歌を卷七の歌の唱へ誤としたのは妄斷である。前の歌と類似點があるので、ここに並記したか。
 
生石村主眞人《オフシノスグリマヒト》歌一首
 
生石は氏、村主はかばね、眞人は名である。續紀に「天平勝寶二年正月乙巳正六位上大石村主眞人授2外從五位下1」とある。
 
355 大汝 少彦名の いましけむ しづの石室は いく代へぬらむ
 
大汝《オホナムヂ》 少彦名乃《スクナヒコナノ》 將座《イマシケム》 志都乃石室者《シヅノイハヤハ》 幾代將經《イクヨヘヌラム》
 
(363)神代ノ大昔ニ〔六字傍線〕、大己貴命・少彦名命ノ二神〔二字傍線〕ガオイデ遊バシタコノ志津ノ石室ハ幾年ノ永イ間〔四字傍線〕經ツタコトデアラウ。
 
○大汝――大穴牟遲即ち大國主神である。○少彦名乃《スクナヒコナノ》――少彦名神で古事記に、神産巣日神の御子で、その指の股から漏れて行かれたといふ小さい神である。この二神が協力して經營し給うたことが紀に見えてゐる。○志都乃石室者《シヅノイハヤハ》――志都の石室は、石見國邇摩郡靜間村の海岸にある岩窟で、横八間許、奧行十五間許、内の高さ十三間餘あるといふ。
〔評〕 前にあつた博通法師の、三穗の石室の歌(三〇七)に似たところがある。檜嬬手に、生石村主は播磨國赤石の生石子《オフシコ》村の村主で、一二の句は億計・弘計に比へて云つたのだらうと述べてあるのは、例の臆斷である。
 
上古麻呂《カミノフルマロ》歌一首
 
上古麻呂は傳未詳。姓氏録に「上村主廣階連同祖陳思王植之後也」とある。
 
356 今日もかも 明日香の河の 夕さらず 川津なく瀬の さやけかるらむ 或本歌發句云、明日香川今もかもとな
 
今日可聞《ケフモカモ》 明日香河乃《アスカノカハノ》 夕不離《ユフサラズ》 川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》 清有良武《サヤケカルラム》【或本歌發句云、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》】
 
飛鳥川ノ、毎夕蛙ノ鳴ク淺瀬ガ、今日モヤハリ景色ガ佳イデアラウカ。アノ飛鳥川ガナツカシク思ハレル〔アノ〜傍線〕。
 
○今日可聞《ケフモカモ》――今日モに疑問の助詞カを添へ、更に、感歎の助詞モを添へたもの。今日の下モの假名が無いのは省いたのであらう。日の字は目の誤かと略解にあるが、さうではあるまい。但し、新考に目をモの假名に用ゐた例がないとあるのも、どうでからう。○夕不離《ユフサラズ》――夕毎にの意。この下に朝不離雲居多奈引《アササラズクモヰタナビク》(三七二)ともあ(364)る。〇清有良武《サヤケカルラム》――キヨクアルラムと舊訓にあるのはよくない。尚、或本歌發句云として、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》とあるのは一二句の異傳である。毛等奈《モトナ》は川津鳴《カハヅナク》へかかつてゐる言葉で、みだりになどの意。發句は初の句といふやうな意である。この異本の書き方、他の例と異なつて舊本に別行にしてないのは注意すべきである。
〔評〕 他郷にあつて故郷の明日香川の清き瀬を思ひやり、なつかしがつて詠んだものである。さびしい懷郷の情がよくあらはれてゐる。
 
山部宿禰赤人(ノ)歌六首
 
357 繩の浦ゆ 背向に見ゆる 奧つ島 榜ぎ囘む舟は 釣せすらしも
 
繩浦從《ナハノウラユ》 背向爾所見《ソガヒニミユル》 奧島《オキツシマ》 ※[手偏+旁]囘舟者《コギタムフネハ》 釣爲良下《ツリセスラシモ》
 
繩ノ浦カラ、横ノ方ニ見エル沖ノ島ヲ、漕ギ廻ツテヰル舟ハ、釣ヲシテヰルラシイワイ。
 
○繩浦從《ナハノウラユ》――難波《ナハ》の浦からの意。○背向爾所見《ソガヒニミユル》――背向はソムカヒの略で、背面即ち後方の意と解かれてゐるが、この集には、三五八・四六〇・五〇九・四〇二・四四七二のソガヒニミツツとしたもの、九一七・三三九一・四〇〇三・四二〇七のソガヒニミユルとしたものなどの諸例を見るに、いづれも背面又は後方としては解し難いものである。ただ一四一二・三五七七にソガヒニネシクとある二例は相背いて寢ることであるから、後向で差支ない。これから推して考へると、ソガヒは斜又は横向といふやうな意で、正面でないことをいふらしい。予が曾てこの疑問を心の花誌上に提出した時に、スヂカヒの意であらうといふ説を寄せられた人があつたのは、傾聽に値するものと思つた。ともかく後方とか、背面とかいふ意では解き難い。
〔評〕 海上の景色をその儘に述べてゐるが、釣爲良下《ツリセスラシモ》とあるので、純客觀詩になつてゐない。この集の叙景にはかういふのが多いやうである。赤人らしい一種の氣韻が漂つてゐる。
 
358 武庫の浦を 榜ぎたむ小舟 粟島を 背向に見つつ ともしきこぶね
 
武庫浦乎《ムコノウラヲ》 ※[手偏+旁]轉小舟《コギタムヲブネ》 粟島矣《アハシマヲ》 背爾見乍《ソガヒニミツツ》 乏小舟《トモシキヲブネ》
 
(365)武庫ノ浦ヲ漕ギ廻ツテヰル舟ヨ、サウシテ〔四字傍線〕粟島ヲ横ノ方ニ見ナガラ漕イデヰル〔五字傍線〕羨シイ小舟ヨ。面白サウデ羨シイ舟ダナア〔面白〜傍線〕。
 
○粟島矣《アハシマヲ》――粟島は所在不明。古事記に「次生2淡島1是亦不v入2子之例1」とある島で淡路の屬島らしく思はれる。卷九に粟小島者雖見不足可聞《アハノコジマハミレドアカヌカモ》(一一七二)とあるのも同じであらう。大日本地名辭書には、淡路の北端岩屋岬の一部かと推定してゐる。○乏小舟《トモシキヲブネ》――羨しき小舟よの意。略解に「ともしきは賞る詞にて、ここのともしきは粟島を舟より見る人の心なり。舟を言ふにはあらず、粟島をともしく思ふ也。漕ぎたむ小舟は、此の作者の乘れる船にて、結句の小舟も同じ。粟島をともしく見る小舟と言ふ意也と宜長いへり」とあるのは、無理な説である。古義に「歌の意は讃岐のかたへ下るほど、過來し方の舟を、粟島の邊より見やりて詠めるにて、この粟島をよそに見棄て、武庫の浦を榜めぐりつつ倭の方へのぼり行くは、うらやましき小舟ぞと云るなり」とあるは、ソガヒを後方とした爲に誤つたもので、これは海上の漁舟を羨んだものである。
〔評〕 小舟を二の句と結句とに繰り返して調子を整へてゐる。この反覆が有效にはたらいて、輕快な格調をなしてゐる。
 
359 阿倍の島 鵜の住む磯に 寄する波 間なくこのごろ 大和し念ほゆ
 
阿倍乃島《アベノシマ》 宇乃住石爾《ウノスムイソニ》 依浪《ヨスルナミ》 間爲比來《マナクコノゴロ》 日本師所念《ヤマトシオモホユ》
 
(阿倍乃島宇乃住石爾依浪)少シノ間斷モナク、コノ頃ハ大和ノ國ガ戀シク〔三字傍線〕思ハレル。
 
○阿倍乃島《アベノシマ》――所在不明。前の歌から推すと、攝津にある島と思はれる。大日本地名辭書に阿倍野の海岸としてゐる。○宇乃住右爾《ウノスムイソニ》――鵜の棲む磯にの意。○依浪《ヨスルナミ》――舊訓ヨルナミノであるが、伊勢海之磯毛動爾因流浪恐人爾戀度鴨《イセノウミノイソモトドロニヨスルナミカシコキヒトニコヒワタルカモ》(六〇〇)などによれば、ヨスルナミとよむやうに思はれる。斯くの如く上の句を序として、ヨスルナミを第三句に置いた例は他にも尚多い。○日本師所念《ヤマトシオモホユ》――日本は畿内の大和、即ち赤人の故郷である。
〔評〕 實景を捉へて序を作つてゐる。斯く浪に寄せた歌は澤山あるが、これは途上の實景だけに哀が深い。
 
360 潮干なば 玉藻苅りをさめ 家の妹が 濱づと乞はば 何を示さむ
 
(366)鹽干去者《シホヒナバ》 玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》 家妹之《イヘノイモガ》 濱※[果/衣ノ鍋ぶた無し]乞者《ハマヅトコハバ》 何矣示《ナニヲシメサム》
 
汐ガ干タナラバ、玉藻ヲ苅ツテ藏ツテ置キナサイ。歸宅シテカラ〔六字傍線〕、家ニ留守シテヰル妻ガ、濱ノ土産ヲ下サイ〔三字傍線〕ト言ツタナラバ、何ヲヤラウニ。何モ別ニヤルモノガナイカラコノ玉藻ヲ苅ツテ置ケ〔何モ〜傍線〕。
 
○玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》――藏の字舊訓ツメとあるが、苅將藏《カリテヲサメム》(一七一〇)・藏而師《ヲサメテシ》(三八一六)の例によつてヲサメと訓まう。古義のコメは從ひがたい。槻の落葉のカラサムは論外である。
〔評〕 旅中の興を詠んだもの。長閑な旅と、上代人らしい感情があらはれてゐる。
 
361 秋風の 寒き朝けを 佐農の岡 越ゆらむ君に 衣借さましを
 
秋風乃《アキカゼノ》 寒朝開乎《サムキアサケヲ》 佐農能崗《サヌノヲカ》 將超公爾《コユラムキミニ》 衣借益矣《キヌカサマシヲ》
 
タダサヘ旅ハ辛イノニ〔タダ〜傍線〕、秋風ガ寒ク吹ク朝ニ、着物モ薄クテ、貴方ハ〔九字傍線〕、佐野(ノ)岡ヲ越エルダラウガ、サゾ寒カラウカラ〔九字傍線〕、貴方ニ私ノ〔二字傍線〕着物ヲ借シテアゲタイ。ガ、遠ク離レテヰルカラ心バカリデ何トモシヤウガナイ〔ガ遠〜傍線〕。
 
○寒朝開乎《サムキアサケヲ》――寒い夜明にの意。アサケはアサアケの略。ヲはニに同じ。○佐農能崗《サヌノヲカ》――紀伊の三輪が崎の佐野であらう。二六五の地圖參照。○將越公爾《コユラムキミニ》――略解にコエナムとあるが、舊訓の儘がよからう。
〔評〕 赤人の歌とあるが、女性らしい感情が流れてゐる。考には赤人の妻の作とし、宣長は旅宿の遊女の詠としてゐる。併しこの卷はいづれも作者の明らかなものを集めてゐるから、これだけを赤人の六首中から除き去るわけには行かない。予は原形を尊重して、やはり赤人の作としたい。この人にはかうした柔い優しいものが他にもあるやうである。卷八の吾勢子爾令見常念之梅花《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナ》(一四二六)の如きも女らしい叙述である。
 
362 みさごゐる 磯みに生ふる 名乘藻の 名は告らしてよ 親は知るとも
 
美沙居《ミサゴヰル》 石轉爾生《イソミニオフル》 名乘藻乃《ナノリソノ》 名者告志五余《ナハノラシテヨ》 親者知友《オヤハシルトモ》
 
タトヒ親ハ知ツテ咎メテ〔三字傍線〕モ、私ハ惡クハ取計ラハナイカラ、アナタノ〔私ハ〜傍線〕(美沙居石轉爾生名乘藻乃)名ヲ名乘ツテ(367)下サイ。モウ私ニ心ヲ許シナサイヨ〔モウ〜傍線〕。
 
○美沙居《ミサゴヰル》――美沙《ミサゴ》は雎鳩、荒磯に棲む猛禽類で、體の長さ一尺六寸許、背は褐色原は白い。○石轉爾生《イソミニオフル》――石轉は磯廻に同じ。轉と廻とは同意の文字であるから、通じて用ゐるのである。湖轉爾《ミナトミニ》(三一五九)ともある。○名乘藻乃《ナノリソノ》――名乘藻《ナノリソ》は、ほんだはらの古名。ほんだはらは馬尾藻と書く、文字のやうに馬尾に似た褐色の海藻で、新年の飾に用ゐらる。この句までは序で、同音を繰返して第四句を言ひ起すに用ゐたもの。○名者告志五余《ナハノラシテヨ》――五の字は代匠記に弖の誤とあるに從ふ。舊訓ナハツゲシコヨとあるのでは分らない。
〔評〕 旅中に女に歌ひかけたものか。併し旅の歌としては、ふさはしくないやうに思はれる。或は荒磯の上の雎鳩を見て戯に作つたものかも知れない。眞淵が女の歌としたのは從はれない。
 
或本歌曰
 
363 みさごゐる 荒磯に生ふる 名乘藻の 名のりは告らせ 親は知るとも
 
美沙居《ミサゴヰル》 荒礒爾生《アリソニオフル》 名乘藻乃《ナノリソノ》 告名者告世《ナノリハノラセ》 父母者知友《オヤハシルトモ》
 
告名者はノリナハと訓みたいが、語をなさないやうだから、舊訓に從つてナノリハとして置かう。但しこの歌卷十二に「三佐呉集荒磯爾生流勿謂藻乃吉名者不告父母者知鞆《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラジオヤハシルトモ》(三〇七七)とある歌の異傳と考へられるから、告を吉の誤としてヨシとよまうとする、略解説も捨て難いやうに思はれる。
 
笠朝臣金村、鹽津山(ニテ)作(レル)歌二首
 
(368)笠朝臣金村は傳が明らかでない。作歌のかなりに多い點から言つても、笠金村歌集を殘してぬることから言つても、この集中の注意すべき歌人である。鹽津は和名抄に「淺井郡鹽津、之保津」とあり、今は伊香郡に屬す。鹽津村の北方二里に鹽津越と稱して、越前へ越える道がある。それが即ち鹽津山であらう。三〇の近江地圖參照。
 
364 益荒雄の 弓末振り起し 射つる矢を 後見む人は 語り繼ぐがね
 
大夫之《マスラヲノ》 弓上振起《ユズヱフリオコシ》 射都流矢乎《イツルヤヲ》 後將見人者《ノチミムヒトハ》 語繼金《カタリツグガネ》
 
大丈夫タル私〔三字傍線〕ガ、弓ノ先端ヲ振リ起テテ、私ノ弓勢ノ強サヲ示ス爲ニ、此處ニ〔私ノ〜傍線〕射立テテ置イタコノ〔二字傍線〕矢ヲ、後デ見ル人ハ、私ノ弓勢ヲ〔五字傍線〕語リ繼イデ貰ヒタイモノダ。
 
○弓上振起《ユズヱフリオコシ》――弓上は弓末。弓の上端をいふ。振起はフリタテと訓むのはよくない。卷十九に梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》(四一六四)とあるに傚つて、フリオコシとよむべきであらう。○射都流矢乎《イツルヤヲ》――古義に「射つる矢なる物をの意なり、この詞の下に意を含め餘したるなり」「四五一二三と句を次第して聞べし」と言つて、この句で切るものと見てゐる。新考にも「射ツル失ゾといふことなり。射ツル矢ヲ後見ムとつづけるにはあらず」とあるが、この句で切るべき語勢になつてゐない。射つる矢を見む人と受けてゐるやうに思はれる。○語繼金《カタリツグカネ》――古い助詞にガネとガニとがあつて、その用法が略似てゐる。この二つは共に「やうに」「爲に」「料に」といふやうな意と考へられてゐたが、古義にはこれを否定して、ガネは之根《ガネ》の意で、その根本と謂ふより起つた言、ガニは之似《ガニ》であるとして宣長がガネは豫《カネ》の意、ガニは豫《カネ》にの意としたのを駁してゐる。然るに、山田孝雄氏は奈良朝文法史に新説を立てて、『又「がに」「がね」といへるあり。こは格助詞の「が」に「に」及終助詞の「ね」の添はりてなれるものなり。「がに」は、「が」にて結體せしめ、これを「に」にて目的とせるものなり。即「が爲に」といふ意に適當せる語法なり。「がね」は然らず。「が」にて之を指定し、「ね」にて冀望をあらはすなり。「がに」と意頗異なり。古來之を混同せるものあるは如何なることぞ』と述べて居られる。なほ多少研究の餘地があるやうに思れるが、古來の諸説のいづれよりも勝つてゐることは確かであるから、今はこれに從つて説くことに(369)する。
〔評〕 金村が、その弓勢を誇つて、路傍に矢を射立てたものであらう。雄々しい動作に適應した語調以て歌はれてゐる。益荒雄ぶりの作の多いこの集中でも、目立つてゐる。路傍の木などに矢を射立ることは、當時かなり行はれたらしく、益荒雄の旅のなぐさであつたのであらう。金村もそれに傚つたのではあるまいか。
 
365 鹽津山 うち越え行けば 我が乘れる 馬ぞつまづく 家戀ふらしも
 
鹽津山《シホツヤマ》 打越去者《ウチコエユケバ》 我乘有《ワガノレル》 馬曾爪突《ウマゾツマヅク》 家戀良霜《イヘコフラシモ》
 
鹽津山ヲ越エテ行クト、私ガ乘ツテヰル馬ガ蹴ツマヅイタ。家デ私ノコトヲ今頃〔七字傍線〕思ヒ出シテヰルト見エル。
 
○家戀良霜《イヘコフラシモ》――家が戀ふるらしいよの意。家は家人をいふ。馬が家を戀ふらしもと見る説もあるが採らぬ。
〔評〕 古代には人の精神は相感應し、通じ合ふものだといふ觀念が強かつた。そこで卜占のやうなものや、一寸したことを前兆視して判斷するやうな習慣が出來て來た。馬が躓くのは、家人の戀ふる兆だとした歌は、卷七に妹門出入乃河之瀬速見吾馬爪衝家思良下《イモガカドイデイリノカハノセヲハヤミワガウマツマヅクイヘモフラシモ》(一一九一)白栲爾丹保布信士之山川爾吾馬難家戀良下《シロタヘニニホフマツチノヤマカハニワガウマナヅムイヘコフラシモ》(一一九二)の二首がある。
 
角鹿《ツヌガノ》津(ニテ)乘(ル)v船(ニ)時、笠朝臣金村(ノ)作(レル)謌、一首并短歌
 
角鹿は越前の敦賀。和名抄に越前國敦賀郡、都留我とある。古くはツヌガといつた。垂仁紀に「一云御間城天皇世、額有v角人、乘(テ)2一船(ニ)1、泊2于越前笥飯浦1。故號2其處1曰2角鹿1」とある。古事記に鼻の破れた入鹿がこの浦に寄り集り、その血が臭かつたので、血浦といつたのを訛りてツヌガと言つたと見えてゐる。
 
366 越の海の 角鹿の濱ゆ 大船に 眞楫貫きおろし いさなとり 海路に出でて 喘ぎつつ 我が榜ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海未通女 鹽燒くけぶり 草枕 旅にしあれば 獨して 見る驗無み わたつみの 手に卷かしたる 玉襷 懸けて偲びつ 大和島根を
 
越海之《コシノウミノ》 角鹿之濱從《ツヌガノハマユ》 大舟爾《オホブネニ》 眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》 勇魚取《イサナトリ》 海路爾出而《ウミヂニイデテ》 阿倍寸管《アヘギツツ》 我※[手偏+旁]行者《ワガコギユケバ》 大夫之《マスラヲノ》 手結我浦爾《タユヒガウラニ》 海未通女《アマヲトメ》 鹽燒炎《シホヤクケブリ》 草枕《クサマクラ》(370) 客之有者《タビシニシアレバ》 獨爲而《ヒトリシテ》 見知師無美《ミルシルシナミ》 綿津海乃《ワタツミノ》 手二卷四而有《テニマカシタル》 珠手次《タマダスキ》 懸而之努櫃《カケテシヌビツ》 日本島根乎《ヤマトシマネヲ》
 
越ノ海ノ敦賀ノ濱カラ、大キナ舟ニ、櫂ヲ取リ付ケ下シテ、(勇魚取)海ニ乘リ出シテ、喘ギ喘ギ私ガ漕イデ行クト(丈夫之)手結ノ浦デ海女ドモガ鹽ヲ燒ク烟ガ立ツテヰルガ、ソレ〔ガ立〜傍線〕ヲ私ハ〔二字傍線〕(草枕)旅ニ出テヰテタダ獨デ見テモ、何ノ面白味モナク〔八字傍線〕、ツマラナイカラ大和ノ國ノコトヲ心ニ〔二字傍線〕(綿津見乃手二卷四而有珠手次)カケテ思ヒ出シタ。
 
○眞梶貰下《マカヂヌキオロシ》――眞梶は左右の舷にかけた櫂をいふ。○勇魚取《イサナトリ》――海の枕詞。○阿倍寸管《アヘギツツ》――喘ぎつつ。○大夫之《マスラヲノ》――枕詞。益荒男の手に著ける手結とつづく。手結は籠手《コテ》のやうなもので、弓を射る時に用ゐるもの。○手結我浦爾《タユヒガウラニ》――神名帳に敦賀郡由結神社とある。田結は今東浦村といふ。金崎の北十餘町、敦賀灣の東岸。北陸線杉津の海岸である。寫眞は著者撮影。○綿津海手二卷四而有珠手次《ワタツミテニマカシタルタマダスキ》――とつづく序詞。海神の手に卷き給ひたる珠とつづく。珠襷を手に卷くのではない。○日本島根乎《ヤマトシマネヲ》――日本《ヤマト》は畿内の大和である。島根(371)とあるのは、千重爾隱奴山跡島根者《チヘニカクリヌヤマトシマネハ》(三〇三)に似てゐるが、ここは單に大和國をさしたのである。
〔評〕 敦賀から船出して、何處へ行くのか不明であるが、海上に浮び出づる心細さが現はれてゐる。併し卷一の軍王の歌(五)に似た句がかなり多く、その影響を受けてゐることは爭はれない。
 
反歌
 
367 越の海の 手結の浦を 旅にして 見ればともしみ 大和偲びつ
 
越海乃《コシノウミノ》 手結之浦矣《タユヒノウラヲ》 客爲而《タビニシテ》 見者乏見《ミレバトモシミ》 日本思櫃《ヤマトシヌビツ》
 
越ノ海ノ手結ノ浦ヲ、旅ニ出テヰテ、眺ルト、アマリ珍ラシイ佳イ景色ナノデ、一人デ見ルノハ惜シクテ故郷ノ〔一人〜傍線〕大和ヲ思ヒ出シタ。
 
○見者乏見《ミレバトモシミ》――乏見《トモシミ》は乏しき故にの意。この乏しは珍らしくて賞づる意である。
〔評〕 これも結句は、軍王の長歌の反歌に似てゐる。さうして歌品は彼よりも劣つてゐる。
 
石上《イソノカミノ》大夫歌一首
 
石上大夫は乙麻呂であらう。左註によれば、越前國守に任命せられてよんだやうであるが、この人が越前國守となつたことは續紀に見えない。略解には「續紀に天平十一年三月、石上朝臣乙麻呂罪ありて土佐國へ配流と見ゆ。此の時の歌なるべし」とある。久老は「續紀に天平十六年九月石上朝臣乙麻呂、爲2西海道使1と見えたる、此時の歌なるべし」と云つてゐる。
 
368 大船に 眞かぢしじ貫き 大王の みことかしこみ 磯みするかも
 
大船二《オホブネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 大王之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》 礒廻爲鴨《イソミスルカモ》
 
大キイ船ニ櫂ヲ澤山ニ貫イテ取リツケテ〔五字傍線〕、天子樣ノ勅ガ畏サニ、海岸ヲ漕イデ行クワイ。
 
(372)○眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》――左右の兩舷に櫂を多くかけること。集中に數多の例があつて、慣用句のやうになつてゐる。○礒廻爲鴨《イソミスルカモ》――磯廻《イソミ》は磯の廻りの意で、これをすぐ動詞にして磯|廻《ミ》するといふのは、をかしいやうであるが、卷六に嶋回爲流《シマミスル》(九四三)、卷十九に灣回爲流《ウラミスル》(四二〇二)などあるから、イソミスルも當然用ゐらるべき語である。舊訓アサリとあるのは、いけない。アサリは餌を求めること、又は漁ることで、此處に用ゐるべくもない。
〔評〕 歌の氣分から言つても、亦次の和歌から考へても、配流の時の作とは思はれない。乙麻呂が越前守になつたことが、續紀にないにしても、左註を尊重すべきであらうと思ふ。前の田口益人大夫の田兒の浦の歌(二九七)と同じ精神が歌はれてゐる。
 
右今案(ズルニ)石上朝臣乙麻呂、任(ゼラル)2越前國守(ニ)1蓋(シ)此(ノ)大夫歟
 
右に述べたやうに、續紀にないからといつて、この註を猥りに疑ふのはよくない。
 
和(フル)歌一首
 
369 もののふの 臣のをとこは 大王の まけのまにまに 聞くといふものぞ
 
物部乃《モノノフノ》 臣之壯士者《オミノオトコハ》 大王《オホキミノ》 任乃隨意《マケノマニマニ》 聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》
 
武人トシテ朝廷ニ奉仕スル〔十字傍線〕臣タル男ハ、天子樣ノ御委任通リニ、何モ不平ヲ言ハズニ〔九字傍線〕、從フベキモノトシテアルゾヨ。苦シクトモ忍耐シタマヘ〔苦シ〜傍線〕。
 
○物部乃臣之壯士者《モノノフノオミノヲトコハ》――物部氏が滅びてから、石上氏が專ら武事を掌つたのである。石上氏はもと物部氏から出てゐる。元來モノノフはモノノベから轉じた語で、武事を以て朝廷に仕へるものをすべてかう呼んだのである。臣《オミ》は元來かばねであるが、臣下の意にも古くから用ゐてゐる。古事記に美那曾曾久淤美能袁登賣本陀哩登良須母《ミナソソグオミノヲトメホダリトラスモ》とある。○任乃隨意《マケノマニマニ》――任《マケ》はマカセの約であらう。天皇の任命といふ。
〔評〕 天皇の命には絶對に服從すべきことを、謹嚴な口調を以て説いてゐる。前の歌と共に皇室尊崇の念が、濃厚に力強く發表せられてゐるのは愉快である。
 
(373)右(ノ)作者未v審、但(シ)笠朝臣金村之歌中出也
 
この註によると、恐らく作者は笠朝臣金村であらう。前の金村の歌から考へると、この時金村は石上大夫の一行中の一人であつたのである。
 
安倍廣庭《アベノヒロニハノ》卿歌一首
 
この人の傳は三〇二に述べてある。
 
370 雨零らず との曇る夜の ぬれひでど 戀ひつつ居りき 君待ちがてり
 
雨不零《アメフラズ》 殿雲流夜之《トノグモルヨノ》 潤濕跡《ヌレヒデド》 戀乍居寸《コヒツツヲリキ》 君待香光《キミマチガテリ》
 
雨ガ降ラナイデ、ドンヨリト曇ツテヰル夜ニ、露〔傍線〕ニ濡レルノモカマハズニ、貴方ノオイデヲ待ツテ、外ニ立ツテ貴方ヲ〔八字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマシタ。
 
○雨不零《アメフラズ》――アメフラデと舊訓にある。玉の小琴に零を霽としてアメハレズ、槻の落葉に雨不を※[雨/沐]としてコサメフリとよんでゐる。○殿雲流夜之《トノグモルヨノ》――トノグモルはタナグモルと同じで、雲の棚曳き曇る意。○潤濕跡《ヌレヒデド》――他ニヌレヒツト、シメジメト、ウルホヘド、などの訓があり、考には蟾竢跡としてツキマツトとしてゐる。併し裳襴潤《モスソヌラシツ》(二四二九)とあるから、潤はヌレでよい。濕はヒヅとよんでよい字である。この動詞は四段に活用するからヒデドと用ゐられる。これは露に霑れるの意であらう。○君待香光《キミマチガテリ》――香光は舊訓はガテラであるが、ガテリの方が古く、卷一にも山邊乃御井乎見我?利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》(八一)とあつた。これもガテリであらう。但しガテラも卷十八に、伎美我都可比乎可多麻知我底良《キミガツカヒヲカタマチガテラ》(四〇四一)とあるから、兩語共に行はれたのである。この語は一事をなしながら、他事を兼ぬる意をあらはす。
〔評〕 これは難解歌の一であらう。誤字説に從へば容易に形つくのであるが、それは亂暴であるからさし扣へることにして、先づ右のやうに解いて置いた。全體に女らしい感じのする歌であるが、立派な有髯男子の作であ(374)るのも面白い。猶よく考ふべきであらう。
 
出雲守門部王思(フ)v京(ヲ)歌一首
 
門部王の傳は三一〇參照。出雲守になつたことは續紀に見えないが、養老三年に伊勢守であつたから、その頃から天平三年に治部卿になるまでの間のことであらう。
 
371 ※[飫の異体字]宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 吾が佐保河の 念ほゆらくに
 
※[飫の異体字]海乃《オウノウミノ》 河原之乳鳥《カハラノチドリ》 汝鳴者《ナガナケバ》 吾佐保河乃《ワガサホガハノ》 所念國《オモホユラクニ》
 
飫宇ノ海ニ注グ河〔四字傍線〕ノ河原ニヰル千鳥ヨ、汝ガ嶋クト、私ノ故郷ノ千鳥ノ澤山ヰル〔故郷〜傍線〕佐保川ガ思ヒ出サレルヨ。
 
○飫海乃《オウノウミノ》――出雲國意宇部の海、即ち今の中の海の南岸である。卷四にこの王の歌に、飫宇《オウ》能|海之鹽干乃滷之《ウミノシホヒノカタノ》(五三六)とあるも同じ。これによつて※[飫の異体字]の下に宇の字が脱ちたのだとする説が多い。海を河の誤とし、飫宇河とする説は從はない。※[飫の異体字]は飫と同字である。○河原之乳鳥《カハラノチドリ》――※[飫の異体字]宇の海に注ぐ熊野川(古名意字川)の河口の河原であらう。風土記意宇部の條に、不v在2神祇官1の十九社の内に、河原社があるのは、恐らく其處にあつた社であらう。乳鳥は言ふまでもなく千鳥である。○所念國《オモホユラクニ》――思はれるよといふに同じ。
〔評〕 都の佐保川も千鳥の名所である。今、出雲にゐて千鳥の聲を聞いて、都を思ひ出したあはれな作である。但し人麿の淡海乃海夕浪千鳥汝嶋者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバココロモシヌニイニシヘオモホユ》(二六六)によく似てゐる。
 
山部宿禰赤人登(リテ)2春日野(ニ)1作(レル)歌一首并短歌
 
春日野は小高い所であるから登るといつたのであらう。槻の落葉に春日山と改めたのは亂暴である。
 
372 春日を 春日の山の 高座の 三笠の山に 朝さらず 雲居たな引き 容鳥の 間なくしば鳴く 雲居なす 心いさよひ 其の鳥の 片戀のみに 晝はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ吾がする 逢はぬ兒ゆゑに
 
春日乎《ハルビヲ》 春日山乃《カスガノヤマノ》 高座之《タカクラノ》 御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》 朝不離《アササラズ》 雲居多奈引《クモヰタナビキ》 容(375)鳥能《カホトリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》 雲居奈須《クモヰナス》 心射左欲比《ココロイサヨヒ》 其鳥乃《ソノトリノ》 片戀耳爾《カタコヒノミニ》 晝者毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》 立而居而《タチテヰテ》 念曾吾爲流《オモヒゾワガスル》 不相兒故荷《アハヌコユヱニ》
 
(春日乎春日山乃 高座之御笠乃山爾 朝不離雲居多奈引 容鳥能間無數鳴)雲ノヤウニ心ガブラブラト動イテ靜マラズ、ソノ容鳥ノヤウニ、片戀バカリヲシテ、晝ハ終日、夜ハ終夜、私ハ私ノ意ニ靡イテ〔七字傍線〕逢ツテクレナイ女ダノニ、立ツタリ座ツタリシテ戀ヒ焦レテヰルヨ。
 
○春日乎《ハルビヲ》――枕詞。春の日の霞む意で、春日山につづくと言はれてゐる。乎《ヲ》はヨの意。○春日山乃《カスガノヤマノ》――奈良の東に峙つてゐる山で、上古その山麓を春日郷と稱したからの名である。○高座之《タカクラノ》――枕詞。意は高御座と同じで、高御座の上に蓋《ミカサ》をかけるから、御笠とつづけるのである。○御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》――御笠山は春日山の一部の西峯で、春日神社の背後である。蓋のやうな形をしてゐるから附いた名である。嫩草山ではない。○朝不離《アササラズ》――毎朝、○雲居多奈引《クモヰタナビキ》――雲居は雲のこと。古事記日本武尊の波斯祁夜斯和岐幣能迦多用久毛韋多知久母《ハシケヤシワギヘノカタヨクモヰタチクモ》とある久毛韋《クモヰ》に同じ。○容鳥能《カホトリノ》――容鳥はどんな鳥かわからない。後世にはかほよ鳥の名もあり、又雉の雄鳥とする説もあるが信じ難い。眞淵は呼子鳥と同じで、今のカツポ鳥だと言つてゐるのは、信ずべきに近い。カホは鳴聲によつて附けた名らしく思はれる。○間無數鳴《マナクシバナク》――冒頭からこの句までの八句は序詞。○雲居奈須《クモヰナス》――雲の如くの意で、序詞の中から抽き出して、譬喩に用ゐたもの。○心射左欲比《ココロイサヨヒ》――イサヨヒは心の動いて靜まらぬこと。○其鳥乃《ソノトリノ》――序詞中に述べた容鳥を指して、容鳥のしば鳴くに譬へて、片戀とつづけたもの。片戀は片思ひに同じ。○不相兒故荷《アハヌコユヱニ》――我が心に從つて逢はない女だのにの意。
〔評〕 冒頭に春日山の景を述べ、棚曳く雲と絶え間なく鳴く容鳥とを點出し、その雲と容鳥とに托して、自己の戀慕の情を歌つてゐる。人麿の從石見國別妻上來時の歌(一三一・一三五)などに似てゐるところもあるが、赤人の方が叙景詩人だけに、場面が鮮明に寫し出されてゐる。
 
(376)反歌
 
373 高くらの 三笠の山に 鳴く鳥の 止めばつがるる 戀もするかも
 
高※[木+安]之《タカクラノ》 三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 止者繼流《ヤメバツガルル》 戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》
 
(高※[木+安]之三笠乃山爾鳴鳥之)泣キ止ンデモ、直グ後カラ又次イデ、泣カズニハ居ラレナイ烈シイ〔三字傍線〕戀ヲ私ハスルコトヨ。
 
○高※[木+安]之三笠乃山爾嶋鳥之《タカクラノミカサノヤマニナクトリノ》――止者繼流《ヤメバツガルル》につづく序詞。三笠山に鳴く容鳥の絶えず鳴くに寄せたのである。※[木+安]の字は鞍の扁を更へたものであらう。鉾を桙。杯を坏とするのと同じである。○止者繼流《ヤメバツガルル》――止んだかと思ふと、直に後からまた繼續するの意で、鳥の鳴聲に寄せて、自分の戀の切なさを述べたもの。○戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》――哭の字を、略解に喪に改めたのは惡い。哭は狹尾牡鹿鳴哭《サヲシカナクモ》(一六〇三)・解者悲哭《トカバカナシモ》(一六一二)・數悲哭《アマタカナシモ》(一一八四)・荒樂苦惜哭《アルラクヲシモ》(一〇五九)の如く、モとよむ例が多い。喪《モ》には哭くからである。新訓のコヒナキスルカモは賛成し難い。
〔評〕 止者繼流《ヤメバヅガルル》は面白い珍しい語句である。この歌の内容は相聞であるが、春日野に登つて詠んだと題詞にあるから、雜歌として此處に入れたのであらう。
 
石上乙麻呂朝臣歌一首
 
乙麻呂の傳は二八七參照。
 
374 雨零らば きむと念へる 笠の山 人になきしめ 霑れはひづとも
 
雨零者《アメフラバ》 將盖跡念有《キムトオモヘル》 笠乃山《カサノヤマ》 人爾莫令蓋《ヒトニナキシメ》 霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》
 
雨ガ降ツタラ、私ガ〔二字傍線〕被《カブ》ラウト思ツテヰル笠ノ、ソノ笠トイフ名ノ〔八字傍線〕山ダ。タトヒ雨ニ〔五字傍線〕、ヅブ霑レニナツテモ、人ニ被ラセテハナラヌゾ。私ノ妻ト思ツテヰル女ダ。ドンナ事ガアツテモ他人ノモノニシテハナラナイ〔私ノ〜傍線〕。
 
(377)○笠乃山《カサノヤマ》――三笠山であらう。○人爾莫令蓋《ヒトニナキシメ》――舊訓ヒトニキサスナであつたが、代匠記のヒトニナキセソが廣く行はれてゐる。今は古義に從つてキシメとする。
〔評〕 三笠山を女に譬へて、吾が領じた女に人に逢ふことなかれと言つたものであらう。さうすれば相聞歌でここにはふさはしくないが、前に三笠山の歌があつたので、それに引かれて入れたものか。下に赤人の、韓藍に女を譬へた歌(三八四)もある。但し古義には宮地春樹の説をあげ、偶意を認めてゐない。
 
湯原《ユハラ》王、芳野(ニテ)作(レル)歌一首
 
この王のことは續紀に見えない。古義に「志貴親王の御子にて春日王の弟などにや。後妃に延暦廿四年十一月丁丑、壹志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子と見ゆ」とある。
 
375 吉野なる 夏實の河の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山かげにして
 
吉野爾有《ヨシヌナル》 夏實之河乃《ナツミノカハノ》 川余杼爾《カハヨドニ》 鴨曾鳴成《カモゾナクナル》 山影爾之?《ヤマカゲニシテ》
 
(378)吉野ニアル夏實川ノ山蔭ノ川ノヨドミデ、鴨ガ嶋イテヰルヨ。アアヨイ聲ダ。ヨイ景色ダ〔嗟〜三字傍線〕。
 
○夏實之河乃《ナツミノカハノ》――國※[木+巣]村大字菜摘は宮瀧の上流數町にある。この邊の吉野川を菜摘川といふ。此處は川幅が廣くかつ灣曲し、青々とした淵をなしてゐる。寫眞は萬葉古蹟寫眞による。
〔評〕 吉野の清流の碧潭、山蔭の物靜かな處で、鴨が頻りに鳴いてゐる。丸で畫のやうな景だ。否、有聲の畫だ。柔みのある、麗はしい、滑らかな感觸を持つた歌である。叙景詩の上乘。
 
湯原王宴席歌二首
 
376 蜻蛉羽の 袖振る妹を 玉くしげ 奧におもふを 見給へ吾君
 
秋津羽之《アキツハノ》 袖振妹乎《ソデフルイモヲ》 珠※[シンニョウ+更]《タマクシゲ》 奧爾念乎《オクニオモフヲ》 見賜吾君《ミタマヘワギミ》
 
蜻蛉ノ羽ノヤウナ薄イ〔二字傍線〕袖ヲ振ツテ、今踊ツテ〔四字傍線〕居ル女ヲ私ハ大切ニシテ〔七字傍線〕(珠※[シンニョウ+更])深ク思ツテ居リマスガ、ドウデス佳イ女デゴザイマセウ〔ドウ〜傍線〕、御覽下サイ、貴君。
 
○秋津羽之《アキツハノ》――蜻蛉の羽の如き意で、羅《ウスモノ》の衣をいふ。○珠※[シンニョウ+更]――枕詞。珠は美稱。※[シンニョウ+更]は櫛笥。匣に同じ。底を奧といふので、奧とつづけるのである。○奧爾念乎《オクニオモフヲ》――奧は底の意で上につづき、本意は、心から深くである。
〔評〕 客人を歡待しようとして、郎女に舞を舞はしめたものらしい。その女は自分の妻妾か。それとも遊行女婦か。自分の妻妾としてはあまりのろけがひど過ぎる。恐らく後者であらう。
 
377 青山の 嶺の白雲 朝にけに 常に見れども めづらし吾君
 
青山之《アヲヤマノ》 嶺乃白雲《ミネノシラクモ》 朝爾食爾《アサニケニ》 恒見杼毛《ツネニミレドモ》 目頬四吾君《メヅラシワギミ》
 
青々トシタ山ニ懸ツテヰル白雲ノ姿ハ、面白クテ見飽カナイガ、丁度ソノ通リニ〔ノ姿〜傍線〕、毎朝毎日始終見テヰテモ、貴君ハ立派ナオ方デス。
 
○青山之《アヲヤマノ》――青葉の茂つた山。○朝爾食爾《アサニケニ》――朝に日にと同じで、毎日の意。ケはカの轉言で、日のこと。(379)○目頬四吾君《メヅラシワギミ》――メヅラシは愛らしの意で、客人を愛でたのである。形は終止であるが意は連體である。
〔評〕 青山の嶺にかかつた白雲の、愛らしいのを客人に譬へたものである。青々とした山にかかつた白雲、思ふだにすがすがしい景色が目に浮ぶ。譬喩が清新で心地がよい。上二句を序と見る説もあるが、序としては無理なところがある。
 
山部宿禰赤人詠(メル)2故太政大臣藤原(ノ)家之山池(ヲ)1歌一首
 
太政大臣は淡海公不比等である。不比等は養老四年八月薨じ、十月太政大臣を贈られた。藤原家は藤原氏の家である。高市都の藤原とするは當らない。
 
378 いにしへの 舊き堤は 年深み 池の渚に 水草生ひにけり
 
昔者之《イニシヘノ》 舊堤者《フルキツツミハ》 年深《トシフカミ》 池之瀲爾《イケノナギサニ》 水草生家里《ミクサオヒニケリ》
 
昔ノ古イ堤ハ年ガ久シクナツタノデ、池ノ渚ニ水草ガ生エタワイ。昔ノ立派ナ家モ隨分荒レ果テタモノダ〔昔ノ〜傍線〕。
 
○昔者之《イニシヘノ》――者は看の誤だらうといふ田中道麻呂の説に從ふ人が多いが、なほ者としてイニシヘノと訓むべきであらう。○舊堤者《フルキツツミハ》――堤は池の堤である。○池之瀲爾《イケノナギサニ》――瀲は水際、古來ナギサと訓んでゐるのに從ふべきである。○水草生家里《ミクサオヒニケリ》――水草は水に生える草、槻の落葉に眞草ならむといつたのは從ひ難い。
〔評〕 淋しい懷舊の情が溢れてゐる。作者の情感がその儘にあらはれてゐるのであらう。卷二の御立爲之島之荒磯乎今見者不生有之草生爾來鴨《ミタタシシシマノアリソヲイマミレバオヒザリシクサオヒニケルカモ》(一八一)とあるに似てゐる。
 
大伴坂上郎女《オホトモサカノヘノイラツメ》祭v神歌一首并短歌
 
大伴坂上郎女は佐保大納言安麻呂の女で、旅人の妹、家持の叔母で姑である。始、天武天皇の皇子、穗積皇子に愛せられたが、靈龜元年七月皇子が薨去の後、藤原不比等の第四子麻呂に嫁した。併しその關係は長くつづかなかつたものか、彼女は養老・神龜の間に於て、大伴宿奈麻呂との(380)中に、坂上大孃同二孃を産んでゐる。古義には麻呂の歿後、宿奈麻呂に嫁したやうに書いてあるが、麻呂は天平九年七月に薨じてゐるから、その後、宿奈麻呂との間に出來た娘が、天平十一年の頃、大伴家持と親しむ筈はない。(卷八に坂上大娘秋稻縵贈2大伴宿禰家持1歌(一六二四)があつて、その左註に天平十一年己卯秋九月としてある。)坂上の里に居つたので坂上郎女と呼ぶのである、)
 
379 ひさかたの 天の原より あれきたる 神の命 奧山の 榊の枝に しらがつく 木綿とりつけて 齋瓮を 忌ひ穿り居ゑ 竹玉を 繁に貫き垂り 鹿猪じもの 膝折り伏せ 手弱女の おすひ取り懸け かくだにも 吾はこひなむ 君に逢はじかも
 
久堅之《ヒサカタノ》 天原從《アマノハラヨリ》 生來《アレキタル》 神之命《カミノミコト》 奧山乃《オクヤマノ》 賢木之枝爾《サカキノエダニ》 白香付《シラガツク》 木緜取付而《ユフトリツケテ》 齋戸乎《イハヒベヲ》 忌穿居《イハヒホリスヱ》 竹玉乎《タカダマヲ》 繁爾貫垂《シジニヌキタリ》 十六自物《シシジモノ》 膝折伏《ヒザヲリフセ》 手弱女之《タワヤメノ》 押日取懸《オスヒトリカケ》 如此谷裳《カクダニモ》 吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》 君爾不相可聞《キミニアハジカモ》
 
(久堅之)天デ生レテ天降ツテオイデナサレタ大伴氏ノ氏神樣ヨ。奧山カラ採ツテ來タ神聖ナ〔十字傍線〕榊ノ枝ニ、白麻ヲ漆ヘタ木綿ヲトリツケテ、清淨ナ酒瓶ヲ忌ミ清メテ、地ヲ掘ツテ据ヱ付ケ、管玉ヲ澤山ニ貫イテソノ瓮ニ〔四字傍線〕垂レカケ、(十六自物)膝ヲ折リ伏セテ平伏シテ拜ミ〔六字傍線〕、女ノ着ル襲《オスヒ》トイフ被衣〔五字傍線〕ヲ頭カラ〔三字傍線〕引キカケテ、カヤウニシテマデ私ハオ願ヒ致シマス。コレデモ〔四字傍線〕思フ人ニ逢フコトハ出來マスマイカナア。逢ヘサウナモノデス。ドウゾ逢ハシテ下サイマシ〔逢ヘ〜傍線〕。
 
○久堅之天原從生來神之命《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタルカミノミコト》――高天原から、生れ出でて天降り給ひし神で、天孫降臨の際御伴仕つた大伴氏の遠祖天(ノ)忍日(ノ)命を指す。○賢木之枝爾《サカキノエダニ》――賢木は榮木の意で、上古は常磐木の總稱であつたと眞淵が言つてゐる通りで、榊の外、種々の濶葉常緑木をさしたらしい。新撰字鏡には、榊佐加木とあり、龍眼佐加木ともある。和名抄にも、龍眼木佐賀岐とある。斯く異なつた木をサカキと稱するのは、上古の名殘であらう。○白香付《シラガツク》――冠辭考に枕詞とし、木綿は白髪に似てゐるからだと言つてゐるが、考には後※[糸+舌]著《ウシロカツク》の略として、冠辭考説を打ち消して(381)ゐる。本居太平はシラカ白紙《シラカミ》の略とし、「奈良の比より木々に取そへて白紙をも切かけて著けたりけむ、されば白紙を添付くる木綿といふ意にて、白香付木綿とは云へるなるべし」と言つてゐる。又守部は檜嬬手に、「枕詞にあらず、白き苧のことなり。木綿は必ず此の苧以て取りつくるものなればいふ也、云々。また此の白苧ばかりも祝ふことには用ゐけむ云々」と言つてゐる。これらの諸説を比較して見ると、白紙《シラカミ》をシラガといふのは、白髪《シラガミ》をシラガといふのと同樣で、尤らしい説だが、元來白紙を榊に取り付けるのは、上古の木綿を簡略にしたもので、木綿と白紙とを併せ用ゐたとは思はれない。今日榊に麻と白紙とを取り付けるのが、即ち白香付木緜取付而の遺風であらうと思はれる。だから予は白香を白苧する説に賛成する。然らばシラガとユフとは別々のものとして、シラガツケユフトリツケテとよむべきかといふに、卷十九に白香著朕裳鋸爾鎭而將待《シラガツケワガモノスソニイハヒテマタム》(四二六五)とあり、單獨にシラカだけを付けることもあつたのだが、卷十二の白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛常不所念《シラカツクユフハハナモノコトコソハイツノサエダモツネワスラエネ》(二九九六)とあるのを見ると、白香付は木綿を修飾した語となつてゐて、枕詞として見ても差支ない位である。併し枕詞説には賛成出來ないが、木綿に白香を付けたことは確かである。即ちシラガツクと訓むべきで、この歌に於ても同樣にシラガツクとよんで、白苧を付けた木綿を、榊の枝に取付けるものと解釋したいと思ふ。○木緜取付而《ユフトリツケテ》――木緜は古語拾遺に「令d長白羽神、種v麻、以爲c青和幣u、令d天(ノ)日鷲神、以2津咋見神1穀《カヂ》木種殖之、以作c白和幣u、是木綿也」とあつて、穀《カヂ》即ち栲の木の皮を以て織つた白布である。○齋戸乎《イハヒベヲ》――齋戸は齋瓮で、神を祀るに用ゐる酒瓶などをいふ。○忌穿居《イハヒホリスヱ》――地を清めて掘つて据ゑ付け。○竹玉乎《タカダマヲ》――竹玉は竹をぶつぶつと切つて、糸に貫いたものともいひ、又宣長は神代紀の五百箇野篶乃八十玉籤《イホツヌスズノヤソタマクシ》で、玉を緒に貫いて小竹に著けたのを、後に玉の代に竹を管の如くに切つて、緒を貫いたのであらうといつてゐる。然るに高橋健自氏は管玉のこととしてゐる。管玉は竹を切つて緒に通して、装身具としたのが發達して、碧玉などを用ゐるやうになつたものらしく、この頃管玉を尚タカダマと稱してゐたものであらう。○繁爾貫垂《シジニヌキタリ》――竹玉を澤山緒に通して、齋瓮の周圍に垂れ懸けるのである。垂りは垂らしに同じ。○十六自物《シシジモノ》――鹿猪《シシ》の如きもの。枕詞とするがよい。○押日取懸《オスヒトリカケ》――押日《オスヒ》は装束の上を被ふ服で、頭から裾まで垂れ、顔を隱すもの。カヅキに同じ。○如此谷裳《カクダニモ》――かくまでにもの意。○吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》――吾は祈《コ》ひ祷《ノ》むに同じ。奈牟《ナム》は祷《ノ》むの轉音である。○君爾不相可聞《キミニアハジカモ》―(382)−貴方に逢はれまいかよ。逢へさうなものだの意。
〔評〕 萬葉集の女流歌人として、一頭地を抽いた作者だけに、他の女性に見られない特色がある。多くの女性作家が短歌にのみ親しんでゐたのに、この人はこんな長歌を試みた。さうして珍らしい材料を取り扱つて、祭神歌と題されてゐる。併しその内容は他の巾※[巾+國]者流の如く、やはり戀慕の情を述べるに過ぎないのは、當代女性の一般傾向と同樣である。祭神の形式がよく分るやうに詠まれてゐるのも面白い。
 
反歌
 
380 木綿疊 手に取り持ちて 斯くだにも 吾はこひなむ 君に逢はじかも
 
木綿疊《ユフダタミ》 手取持而《テニトリモチテ》 如此谷母《カクダニモ》 吾波乞甞《ワレハコヒナム》 君爾不相鴨《キミニアハジカモ》
 
木綿ヲ疊ミ重ネタモノヲ手ニ取リ持ツテ、コレ程モ私ハ神樣ニ〔三字傍線〕乞ヒ祷リマス。ソレデモマダ〔六字傍線〕、アノオ方ニ逢ハレナイノデスカナア。
 
○木綿疊《ユフタタミ》――神に捧げる爲に木綿を疊み重ねたもの。
〔評〕 長歌に述べたことを繰返したに過ぎない。詞も全く同じである爲に申譯に添へたやうな感がある。
 
右歌者、以(テ)2天平五年冬十一月(ヲ)1供2祭(スル)大伴氏神(ヲ)1之時、聊作(ル)2此歌(ヲ)1故曰(フ)2祭神歌(ト)1
 
氏族の繁榮でも祷るべき氏神祭に際して、戀人との逢瀬を祈願してゐるのは、愛情に生きる女性として、當然でもあらうが、聊か不思議の感がないでもない。
 
筑紫娘子贈(レル)2行旅《タビビトニ》1歌一首【娘子字曰2兒島1】
 
筑紫娘子は筑紫にゐた遊女である。「娘子字曰兒島」の六字は神田本その他の古本にあるのによつて補つた。兒島は卷六の太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌二首の左註に、「于時送v卿府吏之中、有2遊行女婦1其字曰兒島也云々、自吟2袖振之歌1」とある女である。この歌、何時誰に贈つたものとも(383)分らないが、旅人は天平二年に大納言になつて京に歸つてゐるから、この行旅とあるは或はその時の一行中の一人かも知れない。さうすれば天平二年の作である。
 
381 家思ふと こころ進むな 風守り 好くしていませ 荒きその路
 
家思登《イヘオモフト》 情進莫《ココロススムナ》 風候《カゼマモリ》 好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》 荒其路《アラキソノミチ》
 
家ヲ思ツテ早ク歸ルノニ氣ガ取ラレテ〔早ク〜傍線〕、心ガハヤツテハイケマセンヨ。風ノ見定メヲヨクシテ浪風ノ〔三字傍線〕荒イソノ舟〔傍線〕路ヲ用心シテ〔四字傍線〕イラツシヤイ。
 
○情進莫《ココロススムナ》――舊訓にココロススムナとあるのを、代匠記にサカシラスルナ、考にサカシラナセソと改めたのは卷十六に情進爾《サカシラニ》(三八六〇)情出爾《サカシラニ》(三八六四)とあるのに傚つたのであらうが、ここには當らぬやうである。心はやる勿れの意。輕はずみを戒めたのである。○風候《カゼマモリ》――候の字、舊本俟とあるは誤。神田本その他の古本に候とある。候は候水門《マモルミナトニ》(一三〇八)とあるによつてマモルと訓むべし。風を見定めること。○好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》――風まもりを好くしていらつしやいの意。
〔評〕 歸心矢の如き旅人に對して、歸りを急いで輕はずみをなさるなと、親切らしく言つてゐるのが、又輕い揶揄のやうにも聞えて面白い。遊女らしい氣分の歌である。
 
登(リテ)2筑波岳(ニ)1丹比眞人國人作(レル)歌一首并短歌、
 
丹比眞人國人は續紀に「天平八年正月辛丑正六位上多治比眞人國人授2從五位下1十年閏七月癸卯爲2民部少輔1」とある。この歌は天平の初の頃東國の任にあつて作つたものか。
 
382 鵜が鳴く 東の國に 高山は さはにあれども 二神の 貴き山の 竝み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひつぎ 國見する 筑波の山を 冬ごもり 時じき時と 見ずて行かば まして戀しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ吾が來し
 
鷄之鳴《トリガナク》 東國爾《アヅマノクニニ》 高山者《タカヤマハ》 左波爾雖有《サハニアレドモ》 明神之《フタガミノ》 貴山乃《タフトキヤマノ》 儕立乃《ナミタチノ》 見杲石山跡《ミガホシヤマト》 神代從《カミヨヨリ》 人之言嗣《ヒトノイヒツギ》 國見爲《クニミスル》 筑羽乃山矣《ツクバノヤマヲ》 冬木成《フユゴモリ》 時(384)敷時跡《トキジキトキト》 不見而往者《ミズテユカバ》 益而戀石見《マシテコヒシミ》 雪消爲《ユキゲスル》 山道尚矣《ヤマミチスラヲ》 名積叙吾來並二《ナヅミゾワガコシ》
 
(鶏之鳴)東ノ國ニ、高イ山ハ澤山アルケレドモ、男女〔二字傍線〕二神ノ鎭座マシマス〔六字傍線〕貴イ山デ、二ツノ峯ノ〔五字傍線〕並ビ立ツテヰル樣子ガヨクテ、イツデモ〔七字傍線〕見タイ山デアルト、神代カラシテ人ノ言ヒ繼イデ來テ、コノ山ニ登ツテ人々ガ〔十字傍線〕國ノ平野ヲ見渡ス有名ナ〔三字傍線〕筑波山ヲ(冬木成)春ガ來タケレド降ル雪ガ〔春ガ〜傍線〕時ヲカマハズ降ツテヰル時ナノデ、ソレニ恐ヂテ〔六字傍線〕山ヲ登ツテ〔三字傍線〕見ナイデ行ツタナラバ、後ニナツテ〔五字傍線〕非常ニ戀シク思フダラウカラ、雪|消《ドケ》ノ歩キニクイ〔五字傍線〕山道ヲモ、無理ニ〔三字傍線〕難儀ヲシナガラ私ハヤツテ來タヨ。
 
○鶏之鳴《トリガナク》――枕詞、一九九參照。○左波爾雖有《サハニアレドモ》――多《サハ》にあれども。○明神之《フタガミノ》――二神の並び給ふ意で、筑波山は頂上が、謂はゆる男體女體の二峯に分れて、相對立してゐる。風土記に「夫筑波岳、(385)高秀2于雲1、最頂西峰※[山+爭]※[山+榮]、謂2之雄神1、不v令2登臨1、但東峰四方盤石、昇降決屹」とある。舊本明神とあるは誤。童蒙抄によつて朋神とし、訓は考に從ふ。○儕立乃《ナミタチノ》――並び立てる姿の意。○見杲石山跡《ミガホシヤマト》――見が欲しき山なりとての意。杲は皓韻古老切で、漢音カウ(kao)、呉音コウ(koo)なるを借りて、カホに用ゐたのである。さすれば漢音を用ゐいたものか。これと同じ用例は在杲石住吉里乃《アリガホシスミヨキサトノ》(一〇五九)、顔に用ゐたものは來鳴杲鳥《キナクカホトリ》(一八二三)・朝杲《アサガホ》(二一〇四)・己蚊杲《オノガカホ》(三七九一)などである。○冬木成《フユコモリ》――いつも春の枕詞であるのに、ここは時敷《トキジキ》と續いてゐるのは不思議である。代匠記初稿本は冬木成の下、ハルハクレドモシラユキノを補ひ、同精撰本は春去來跡白雪乃《ハルサリクレドシラユキノ》を補つてゐる。槻落葉は春爾波雖有零雪能《ハルニハアレドフルユキノ》を脱としてゐるが、かうした脱落と見る説が有力である。予はこの場合、冬木成を春の枕詞とせず、原形の儘で解き得るやうに思ふのであるが、さうすれば、下の時敷時跡《トキジキトキト》・雪消爲《ユキゲスル》などの句に影響を及ぼし、幾多考慮すべき點を生じ、解決に苦しむので、暫く假りに脱落説に從つて置かうと思ふ。○時敷時跡《トキジキトキト》――脱落説に從へば雪の非時に、絶えず降る時なりとての意となる。舊訓トコシクトキは固より當つてゐない。代匠記にトキジクトキトと訓んで、非時と解したのが廣く用ゐられてゐる。意はそれに違ないが、訓がトキジクか、トキジキかに説が分れてゐる。この語の品詞・活用形などに就いては、研究すべき點が殘つてゐるであらうが、予は形容詞として、トキジキトキトと訓みたいと思つてゐる。○益而戀石見《マシテコヒシミ》――彌益りて戀しき故にの意。○雪消爲《ユキゲスル》――略解にユキゲセルと改めたのは惡い。舊訓の通りユキゲスルがよい。○山道尚矣《ヤマミチスラヲ》――山道さへをの意。○名積叙吾來並二《ナヅミゾワガコシ――難儀しながら私は來たの意。並二、舊本に前二とあるは誤。神田本によつて改めた。並二は二二で四である。
〔評〕 筑波の靈峰を空しく過ぎることの惜しさに、春淺き雪消の道を分け登つたといふので、この山に對する尊崇の念がよくあらはれてゐる。富士筑波と神話にも並び語られてゐる山だけあつて、古代人の敬尚も一通りでなかつたと見える。
 
反歌
 
383 筑波ねを よそのみ見つつ 有りかねて 雪消の道を なづみけるかも
 
(386)筑波根矣《ツクバネヲ》 四十耳見乍《ヨソノミミツツ》 有金手《アリカネテ》 雪消乃道矣《ユキゲノミチヲ》 名積來有鴨《ナヅミケルカモ》
 
筑波ノ山ヲ他所カラバカリ見テヰルコトガ出來ナイデ、登ツテ見タクテ〔七字傍線〕、雪解ケノ惡イ〔二字傍線〕道ヲ難儀シテヤツテ來タワイ。
 
〔評〕 長歌の文句をそのまま繰返したまでで、別段面白いこともない。
 
山部宿禰赤人歌一首
 
384 吾がやどに 韓藍蒔き生し 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとぞ思ふ
 
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》 雖干《カレヌレド》 不懲而亦毛《コリステマタモ》 將蒔登曾念《マカムトゾオモフ》
 
私ハ〔二字傍線〕私ノ家ニ、鶏頭花ヲ蒔イテ育テタトコロガ枯レテシマツタケレドモ、懲リナイデ又モウ一度蒔カウト思フヨ。私ハ早クカラ或女ヲ戀シテ駄目ダツタガ、懲リナイデ又モ思ヒヲ懸ケヨウト思〔ハ早〜傍線〕フ。
 
○幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》――幹の字は韓とある古本も多い。幹もカラと訓める字であるから、必ずしも誤とは言はれない。卷十一に穗蓼古幹《ホタデフルカラ》(二七五九)とある。但し卷七には韓藍之花乎《カラアヰノハナヲ》(一三六二)とある。韓藍は卷十一に三苑原之鷄冠草花乃《ミソノフノカラアヰノハナノ》(二七八四)とあつて、今の鷄頭花に相違ない。和名本草にも鷄冠草、和名加良阿爲とある。或はこれを鴨頭草《ツキクサ》とし、或は紅花《ベニハナ》とする説もあるが、それらは共に夏の花であるのに、カラアヰは卷七に秋去者影毛將爲跡吾蒔之韓藍之花乎誰採家牟《アキサラバウツシモセムトワガマキシカラアヰノハナヲタレカツミケム》(一三六二)とあつて、秋の花であるから、鷄頭花に違ない。
〔評〕 雜歌ではあるが、韓藍に女を譬へた相聞としか思はれない。暗喩が上品に淡泊に出來てゐるのは、この人の性格のあらはれであらう。
 
仙|柘枝《ツミノエ》歌三首
 
仙柘枝は左註に柘枝仙媛とあるやうに、柘枝といふ仙女である。委しくは左註の解説參照。
 
385 霰ふり きしみが嶽を さがしみと 草取りかなわ 妹が手を取る
 
(387)霰零《アラレフリ》 吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》 險跡《サガシミト》 草取可奈和《クサトリカナワ》 妹手乎取《イモガテヲトル》
 
(霰零)杵島ノ嶽ガ險阻ナノデ、登ルノニ草ニツカマラウト思ツテモ〔登ル〜傍線〕、草ニモ取リツカレナイデ、妻ノ手ヲ捕ヘテ相輔ケテヤツト登ツ〔十字傍線〕タ。
 
○霰零《アラレフリ》――枕詞。霞の降る音は、かしましいから、かしまとつづくのを、轉じて吉志美《キシミ》に連ねたのである。卷七に霞零鹿島之崎乎《アラレフリカシマノサキヲ》(一一七四)、卷二十に阿良例布理可志麻能可美乎《アラレフリカシマノカミヲ》(四三七〇)とある。○吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》――吉志美は和名抄に肥前國杵島郡杵島、木之萬とある杵島の轉訛である。杵島は景行紀にも見えて、古來名高い山である。○險跡《サガシミト》――さがしさにの意。○草取可奈和《クサトリカナワ》――草取りかねての意であらう。可奈和は可禰手《カネテ》の誤だらうと、久老は言つてゐる。肥前風土記の歌には區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》とある。
〔評〕 この歌は肥前風土記に「杵島郡、縣南二里有2一孤山1從v坤指v艮三峯相連、是名曰2杵島1坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神(一名軍神、動則兵興矣)郷閭(ノ)士女提v酒抱v琴、毎v歳春秋携v手登望、樂飲歌舞、曲盡而歸、歌詞曰、阿羅禮布縷《アラレフル》、耆資麼加多※[土+豈]塢嵯峨紫彌苫《キシマガタケヲサガシミト》、區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》、伊母我堤塢刀縷《イモガテヲトル》、是杵島曲也」とあるものと全く同歌で、異なつてゐる部分は、ただ發音の訛つたに過ぎない。常陸風土記によると、崇神の朝に建借間命《タケカシマノミコト》が、この杵島曲《キシマブリ》を七日七夜遊樂歌※[人偏+舞]したと見えてゐて、太古から廣く知られてゐた歌舞の曲である。古事記に速總別王が女鳥王と倉椅山を越え給ふ時の歌に、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀斯美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母《ハシタデノクラハシヤマヲサガシミトイハカキカネテワガテトラスモ》とあるのも、この杵島曲を歌ひ更へたものである。宣長はこの萬葉の歌を、古事記の歌の轉じたものと言つてゐるが、さうではなくて、古事記の歌もこの歌も、共に杵島曲から出たもので、却つてこの方が原形その儘といつてもよい程に酷似してゐる。否、寧ろ風土記の歌よりも古い感じもするのである。
 兎も角この歌は、吉野にゐた仙女柘枝には關係はなく、民間に歌はれてゐた民謠であるが、左註のやうな傳説が行はれてゐたので、ここに記載したのであらう。
 
右一首或云、吉野人|味稻《ウマシイネ》與(ヘシ)2柘枝仙媛(ニ)1歌也、但見(ルニ)2拓枝傳(ヲ)1無(シ)v有(ルコト)2此(ノ)歌1
 
(388)右の歌を、吉野の人味稻が、仙女の柘枝《ツミノエ》に與へたものとする傳説があつたことを記したものである。さうして柘枝傳といふ書が、當時行はれてゐたことも、この註によつて明らかであるが、その書が早く亡びたのは遺憾である。この傳説は餘程、上代人の興味を引いたものと見え、懷風藻にもこれに關して歌つた詩が十首ばかりあり、續日本後紀に見えてゐる、仁明天皇四十賀に興福寺の僧が奉つた長歌にも詠まれてゐる。(それには味稻を熊志禰《クマシネ》としてゐる)。この話の大體は、昔味稻といふ男が吉野にゐた。吉野川に簗を架けて漁るのを仕事としてゐた。或日、その簗に柘の枝が流れかかつたので、それを家に持つて歸ると、それが美女と變じた。これは仙女が味稻に戀して、柘の枝に化して、男の手に取られたのである。二人は夫婦になつて長生したが、後、常世の國に飛び去つたといふのである。この話は奈良朝に流行した神仙譚の一で、又神婚説話でもある。白氏文集に、柘枝妓・柘枝詞があり、説郛百に柘枝譜といふものを收めてゐるさうだから、或は支那種の説話かも知れない。
 
386 此の夕べ 柘のさ枝の 流れこば 梁は打たずて 取らずかもあらむ
 
此暮《コノユフベ》 柘之左枝乃《ツミノサエダノ》 流來者《ナガレコバ》 梁者不打而《ヤナハウタズテ》 不取香聞將有《トラズカモアラム》
 
昔ノ人ハ簗ヲカケタカラコソ、柘枝ガカカツタノダ〔昔ノ〜傍線〕。今晩柘ノ枝ガ流レテ來タナラバ、簗ガカケテナイカラ、柘ノ枝ハ〔四字傍線〕取ラズニシマフデモアラウ。
 
○柘之左枝乃《ツミノサエダノ》――柘は山桑のこと。和名抄に桑柘、久波、一名都美とある。左枝のサは發語。○梁者不打而《ヤナハウタズテ》――梁は和名抄に「毛詩注云、梁(ハ)魚梁也和名夜奈」とあつて、川の瀬に杭を打ち並べて、水を堰きとめ、一部分をあけて置いて、そこに梁簀と稱する竹の簀をかけて、上流から流れ下る魚をそれに受けて捕へるもの。杭を打ち並べるから、梁を打つといふのである。
〔評〕 自分は梁をかけてゐないから、柘枝が流れて來ても取らずにゐるだらうと言つたので、今でも仙女が柘枝に化して流れて來るやうに想像したのは、神仙思想の行はれてゐた奈良朝人らしい歌である。歌は別によい作でもない。
 
(389)右一首 此下(ニ)無v詞諸本同(シ)
 
右一首の下に作者の名がありさうでないのは、落ちたのか。この下云々の註は、後の人がこれを怪しんで附けたものである。神田本にはない。
 
387 古へに 梁打つ人の 無かりせば ここもあらまし 柘の枝はも
 
古爾《イニシヘニ》 梁打人乃《ヤナウツヒトノ》 無有世伐《ナカリセバ》 此間毛有益《ココモアラマシ》 柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》
 
昔簗ヲカケタ味稻トイフ〔五字傍線〕人ガナカツタナラバ、アノ柘ノ枝ハ今デモ此處ニ流レテ來テヰルダラウニ。昔ノ人ガ簗ヲカケテ取ツテシマツタカラ、今ハ無クナツタ。惜シイコトヲシタ〔昔ノ〜傍線〕。
 
○古爾簗打人乃《イニシヘニヤナウツヒトノ》――味稻をさしたもの。○此間毛有益《ココモアラマシ》――此處にもあるだらうの意。ココニモとよむ説もあるが、ニは不要だ。イマモとよむ景樹説も、コノトモとよむ久老説もいけない。此間等雖聞《ココトキケドモ》(二九)・彼所此間毛《ソコココモ》(四一八九)・此間將會十羽《ココニアハムトハ》(二六〇一)の類に從ふべきである。○柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》――柘の枝よの意。羽裳《ハモ》は詠歎の辭。
〔評〕 自分が仙女を手に入れなかつたことを殘念がつた歌で、前の歌と似た思想である。
 
右一首若宮|年魚《アユ》麻呂作
 
若宮年魚麻呂は傳が明らかでない。
 
※[覊の馬が奇]旅歌一首并短歌
 
388 わたつみは 靈しきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊豫に回らし 座待月 明石の門ゆは 夕されば 汐を滿たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮さゐの 浪をかしこみ 淡路島 磯隱りゐて 何時しかも この夜の明けむと さもらふに いのねがてねば 瀧の上の 淺野のきぎし 明けぬとし 立ち響むらし いざ兒ども 敢へて榜ぎいででむ にはも靜けし
 
海若者《ワタツミハ》 靈寸物香《クスシキモノカ》 淡路島《アハヂシマ》 中爾立置而《ナカニタテオキテ》 白浪乎《シラナミヲ》 伊與爾囘之《イヨニメグラシ》 座待月《ヰマチヅキ》 開乃門從者《アカシノトユハ》 暮去者《ユフサレバ》 鹽乎令滿《シホヲミタシメ》 明去者《アケサレバ》 鹽乎令干《シホヲヒシム》 鹽左爲能《シホサヰノ》 浪乎恐美《ナミヲカシコミ》 淡路島《アハヂシマ》 礒隱居而《イソガクリヰテ》 何時鴨《イツシカモ》 此夜乃將明跡《コノヨノアケムト》 待從爾《サモラフニ》 (390)寢乃不勝宿者《イノネガテネバ》 瀧上乃《タギノウヘノ》 淺野之雉《アサヌノキギシ》 開去歳《アケヌトシ》 立動良之《タチトヨムラシ》 率兒等《イザコドモ》 安倍而※[手偏+旁]出牟《アヘテコギイデム》 爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》
 
海ノ神樣トイフモノハ不思議ナモノダワイ。淡路島ヲ中ニ立テテ置イテ、白浪ヲ四國ノ國マデモ廻ラシテ、(座待月)明石ノ瀬戸カラハ、夕方ニナルト汐ヲ滿タセ、夜明ケニナルト汐ヲ干サセル。私ハ〔二字傍線〕汐ノ流ガ荒レテ浪ガ恐ロシイノデ、淡路島ノ磯ニ舟ヲ寄セテ〔五字傍線〕隱レテ居テ、何時ニナツタラ夜ガ明ケルデアラウト思ツテ待ツテヰルノデ、眠ルコトガ出來ナイノニ、瀧ノ上ノ淺野トイフ所ノ雉ガ、夜ガ明ケタトイツテ飛ビ立チ騷グラシイ。サア船頭ラヨ、思ヒ切ツテ漕イデ出ヨウ。海上モ平穩ダカラ。
 
○海若者《ワタツミハ》――海の神である。海をいふ場合もあるが、ここはさうではない。○靈寸物香《クスシキモノカ》――靈妙な者よの意。アヤシクとよむのはよくない。三一九參照。カはカナの意。〇伊與爾回之《イヨニメグラシ》――伊與は四國を指す。古事記に伊豫之二名島とある。○座待月《ヰマチツキ》――枕詞。十八日の月をいふ。明《アカ》しの意で明石にかける。○開乃門從者《アカシノトユハ》――明石の海峽からは、明石海峽は狹くて、汐の滿干が著しく目立つから、下のやうにつづけたのであらう。○鹽左爲能《シホサヰノ》――鹽左爲は潮水の騷ぐをいふ。語意はシホサワギであらう。この句以下、作者自身の海路の樣を述べてゐる。○磯隱居而《イソカクリヰテ》――舟をとどめて磯かげに波風を避けてゐること。○侍從爾《サモラフニ》――種々の訓があるが、サモラフニがよい。マツカラニの訓もよささうであるが、從の字、故の意に借りたのは一寸見當らぬ。待は侍の誤として、侍從時爾《サモラフトキニ》(二五〇八)の例によるべきであらう。○寢乃不勝宿者《イノネカテネバ》――玉の小琴のイノネカテネバとあるのが廣く行はれてゐる。イノネラエネバの訓もよいやうだが、勝の字はカテとよむ例が多いから、寐不勝鴨《イネガテヌカモ》(六〇七)の例によるべきだ。寢られないからの意。○瀧上乃淺野之雉《タギノウヘノアサヌノキギシ》――瀧の落ちてゐる上方の淺野といふところに鳴く雉の意。淺野は淡路の西海岸で北端から二里許の地にあり、今淺野村といふ。二四九の地圖參照。この村の上方十町許のところに淺野の瀧一に紅葉瀧といふ飛泉がある。高さ五丈。この瀧上乃《タキノウヘノ》とあるは、即ちこれをいふのであらう。(391)小高い丘をなしてゐるから上《ウヘ》といつたのである。圖は淡路名所圖會によつた。○開去歳《アケヌトシ》――明ケヌトにシを添へたのである。歳は借字。○立動良之《タチトヨムラシ》――飛び立つて聲を響かせて鳴くらしいの意。○率兒等《イザコドモ》――イザは誘ふ語。兒等は船頭らを指す。○安倍而※[手偏+旁]出牟《アヘテコギデム》――敢へて漕ぎ出でむの意。喘ぎてではない。○爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》――海上も平穩だの意。爾波《ニハ》は海面をいふ。前に飼飯海乃庭好有之《ケヒノウミノニハヨクアラシ》(二五六)とあつたのと同じである。
〔評〕 左註にある通り、この歌の作者は不明であるが、恐らく名ある人であらう。先づ冒頭に海の靈威と雄大さとを歌ひ、一轉して自己の海路の有樣を述べて、いざ漕ぎ出さうと勇み立つた趣、誠に快活な氣分の溢れた作である。海に對して驚異の目をみはりつつも、それに親しんでゐた古代人の感情が、よくあらはれてゐる。結末の爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》の一句は點睛の妙がある。
 
反歌
 
389 島つたひ 敏馬の埼を 榜ぎためば 大和戀しく 鶴さはに鳴く
 
島傳《シマヅタヒ》 敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》 許藝廻者《コギタメバ》 日本戀久《ヤマトコヒシク》 鶴左波爾鳴《タヅサハニナク》
 
島々ヲ傳ヒツツ、敏馬ノ埼ヲ漕ギ廻ルト、鶴ガ澤山ニ嶋イテヰル。アア、アノ聲ヲ聞クト〔九字傍線〕、大和ガ戀シイヨ。
 
○敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》――敏馬浦の中央、岩屋に※[さんずい+文]賣《ミヌメ》神社が祀つてある。ここが敏馬埼であらう。今、攝津武庫郡都賀野村大字岩屋といふ。神戸市の東方にある。○日本戀久《ヤマトコヒシク》――日本《ヤマト》は畿内の大和、即ち自分の故郷である。戀久はコホシクとよむ人もある。コホシクはコヒシクの古語ではあるが、コヒシクも多く行はれてゐたのだから、コホシクに統一しなければならぬことはない。大和を戀しく思はしめて、鶴が頻りに鳴く意。即ち、鶴の鳴く聲を聞いて故郷が戀しくなるのである。
(392)〔評〕 長歌は、四國を出て東上する道すがらを述べたもので、淡路の西岸に假泊して歸路を急ぐ心持を述べてゐるが、これはそのつづきで、明石海峽を過ぎて敏馬埼に到り、鶴の聲を聞いて愈々故郷の戀しさがそそられる心境を歌つたので、途中の景物に觸れて、旅愁が彌増す趣がよくあらはれてゐる。申譯に添へた反歌とは異なつて、長歌の意を補ひ、兩々相俟つて立派な作品をなしてゐる。
 
右歌若宮年魚麿誦v之、但未v審2作者1
 
作者の分らないのは遺憾であるが、この佳作を諳誦して後世に傳へてくれた、年魚麻呂に感謝しなければならない。
 
譬喩謌
 
タトヘウタとよむ。他の部の例によれば、音讀もしたかと思はれる。戀の心を物に譬へ、物に托して述べた歌である。
 
紀(ノ)皇女御歌一首
 
天武天皇の皇女で、穗積皇子の御妹である。一一九參照。
 
390 輕の池の 浦み行きめぐる 鴨すらに 玉藻のうへに 獨寢なくに
 
輕池之《カルノイケノ》 納囘往轉留《ウラミユキメグル》 鴨尚爾《カモスラニ》 玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》 獨宿名久二《ヒトリネナクニ》
 
輕ノ池ノ岸ノ周圍ヲグルグルト泳ギ廻ツテヰル鴨デサヘモ、玉藻ノ上ニ獨デハ寢ナイノニ、私ガタダ獨デ寢ル〔私ガ〜傍線〕トハ辛イコトヨ〔私ガ〜傍線〕。
 
○輕池之《カルノイケノ》――輕池は書紀に「應神天皇十一年冬十月作2輕池1」とある池で、大和高市郡白橿村の東部に、大字大(393)輕の名が今も殘つてゐる。その附近にあつた池である。○納囘往轉留《ウラミユキメグル》――納は西本願寺本に?とあるに從ふべきである。○鴨尚爾《カモスラニ》――爾は毛の誤かと古義にあるのは從ひ難い。鴨でさへにの意。
〔評〕 鴨に寄せて獨寢の淋しさを詠んだもの。上品に出來てはゐるが、露骨でもある。この歌古今六帖に「かるの池の入江めぐれる鴨だにも玉藻の上に獨寢なくに」として出てゐる。
 
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓歌一首
 
續紀によれば、養老七年二月に滿誓に勅して、筑紫に觀世音寺を造らしめられたとある。滿誓の傳は三三六參照。
 
391 鳥總立て 足柄山に 船木伐り 樹に伐り行きつ あたら船木を
 
鳥總立《トブサタテ》 足柄山爾《アシカラヤマニ》 船木伐《フナギキリ》 樹爾伐歸都《キニキリユキツ》 安多良船材乎《アタラフナギヲ》
 
私ガ船ヲ造ル材ニシヨウト思ツテヰタノニ〔私ガ〜傍線〕、足柄山ヘ(鳥總立)船材ヲ伐リニ、木ヲ伐リニ人ガ〔二字傍線〕行ツタ。アツタラ惜シイ船材ダノニ。私ガ物ニシヨウト思ツテヰタ女ヲ、人ガ横取リシテシマツタ。惜シイ女ダツタノニ〔私ガ〜傍線〕。
 
○鳥總立《トブサタテ》――枕詞。樵夫が山で木を伐る時、鳥總を立てて置くから、船木伐りとつづく。鳥總に就いて諸説があるが、昔、樵夫が山で木を伐つた時、山神を祭る爲に、梢の方だけを殘して立て置く習慣があつたらしい。宇鏡集に朶の字をトブサ、エダなどと訓んであり、堀河百首や、謠曲「右近」にも、梢の義に用ゐた例があるから、梢のことと見るべきであらう。○足柄山爾《アシガラヤマニ》――相模國の足柄山は、船材を伐り出す古來の名所で、相模風土記にはこの山の杉を以て舟を造つたところが、その船足が輕かつたので、足柄の名が起つたとある。○樹爾伐歸都《キニキリユキツ》――舟木として伐りに行つた。○安多良船材乎《アタラフナギヲ》――あつたら惜しい舟木だのにの意。安多良《アタラ》は可惜の意。
〔評〕 三句目以下に頻りにキの音を繰返してゐる。第四句目が少しく無理に聞えるのも、その爲であらう。僧侶の歌らしくないから、滿誓が俗人の時の作でらうとする説もある。けれども滿誓は筑紫にあつて、女と通じて子(394)を生ませたとも言はれてゐるから、僧になつてからの歌であらう。次の百代の歌と並んでゐるのでも、太宰府での作たることは疑もない。
 
太宰大監大伴宿禰|百代《モモヨ》梅(ノ)歌一首
 
太宰大藍は太宰府の判官で定員二人あつた。大伴百代は續紀に天平十年閏七月以後の履歴が見えてゐる。それによると、兵部少輔・美作守・筑紫鎭西府副將軍・豐前守などになつた人である。併しこの歌は旅人の帥時代のもので、天平二年以前であらう。
 
392 烏玉の 其の夜の梅を た忘れて 折らず來にけり 思ひしものを
 
烏珠之《ヌバタマノ》 其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》 手忘而《タワスレテ》 不所來家里《ヲラズキニケリ》 思之物乎《オモヒシモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕アノ(烏珠之)夜見タ梅ヲ、ツヒ忘レテ折ラナイデ來テシマツタ。心ニハ思ツテ居タノニ。アノ晩アノ女ニ逢ハナカツタノハ殘念ナコトヲシタ〔アノ晩〜傍線〕。
 
○手忘而《タワスレテ》――手《タ》は發語に過ぎない。
〔評〕 これは女を梅に譬へた暗喩の歌である。梅花の宴を開いて、文士氣取をしてゐた太宰府の役人としては、梅花に女をなぞらへたのはふさはしい。
 
滿誓沙彌月歌一首
 
393 見えずとも 誰戀ざらめ 山のはに いさよふ月を よそに見てしが
 
不所見十方《ミエズトモ》 孰不戀有米《タレコヒザラメ》 山之末爾《ヤマノハニ》 射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》 外爾見而思香《ヨソニミテシガ》
 
山ノ端ニ出ヨウトシテ躊躇シテヰル月ヲ、誰ガ慕ハナイモノガアラウ、誰デモ慕フモノデアル。私モ〔誰デ〜傍線〕見ルコトガ出來ナイデモ、セメテ他所ナガラデモ見タイト思フ。私ハ女ニ他所ナガラデモ逢ヒタイト思フ〔私ハ〜傍線〕。
 
(395)○孰不戀有米《タレコヒザラメ》――米《メ》は牟《ム》の誤であらうといふ説もあるが、後世の文法では確かにさうだけれども、恐らくこれはメであらう。○山之末爾《ヤマノハニ》――末はマとよむのだらうと槻の落葉にあるが、末は音を用ゐたものではあるまい。○射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》――射狹夜歴《イサヨフ》は進まんとして進まぬこと。○外爾見而思香《ヨソニミテシガ》――外ながらも見たいの意。ガは冀望の助詞。
〔評〕 女を月に譬へたもの。句の順序が、三四二一五と置き替へて見なければ、分らぬやうになつてゐる爲に、少しく難解の傾がある。
 
金明軍《コムノメウグム》歌一首
 
この人が旅人の資人たることは四五八の左註に明らかである。金といふ姓で見ると、三韓からの歸化人であらうか。持統天皇紀には百濟王余禅廣の名が見えるが、一本に金に作つてゐる。ここも神田本などに余となつてゐるのによれば、余氏の人である。續紀養老七年正月の條に余仁軍の名が出てゐるが、これも一本に金に作つてゐる。ともかくも、この仁軍と明軍とは名が似てゐて。同系の近い肉親の間柄らしく想像される。略解には「聖武紀に金氏を賜ひしことあり、その子孫ならむ」とある。
 
394 標結ひて 我が定めてし 住のえの 濱の小松は 後も吾が松
 
印結而《シメユヒテ》 我定義之《ワガサダメテシ》 住吉乃《スミノエノ》 濱乃小松者《ハマノコマツハ》 後毛吾松《ノチモワガマツ》
 
標ヲ結ンデ、私ガ自分ノモノト〔六字傍線〕定メタ、住吉ノ濱ノ小松ハ、何時マデモ私ノモノダ。アノ少女ハ私ノモノトシタ以上ハ、後々マデモ私ノ女ダ〔アノ〜傍線〕。
 
○印結而《シメユヒテ》――印はシルシと訓ましめたところと、シメとよませたところとある。ここはシメで、標の義である。○我定義之《ワガサダメテシ》――義之はテシの戯書。義は羲の誤で、王羲之は書家で、即ち手の師であるから、羲之をテシの假名に用ゐたのである。他に言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》(六六四)・結義之《ムスビテシ》(一三二四・三〇二八)・觸義之鬼男《フリテシモノヲ》(二五七八)などの用例がある。
(396)〔評〕 女を濱の小松に譬へたもの。前の歌などとは違つて鮮明に詠まれてゐる。
 
笠女郎贈2大伴宿禰家持1歌三首
 
笠女郎の傳は明らかでない。笠金村の一族か。大伴家持は旅人の子、卷十七の三九一三によれば天平十三年四月には内舍人になつてゐる。卷八の一五六六には大伴家持とのみあつて、天平八年九月のことになつてゐる。その例に從へばこれも無官時代のことであらう。
 
395 託馬野に 生ふる紫草 衣にしめ 未だ着ずして 色に出でにけり
 
託馬野爾《ツクマヌニ》 生流紫《オフルムラサキ》 衣染《キヌニシメ》 未服而《イマダキズシテ》 色爾出來《イロニイデニケリ》
 
託馬野ニ生エテヰル紫草ヲ取ツテ、着物ヲ染メテ、未ダ着ナイウチニ人ニ見付ケラレマシタヨ。私ハ貴方ト約束ダケシテ未ダ親シク逢ハナイノニ、人ニサトラレテシマヒマシタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○託馬野爾《ツクマヌニ》――託馬野は近江坂田郡、今の彦根米原附近の平野。三〇の近江地圖參照。○生流紫《オフルムラサキ》――紫は紫草といふ草の名。その根の汁を搾つて紫色を作る。二一參照。○衣染《キヌニシメ》――染の字は益目頬染《イヤメヅラシミ》(一九六)・和備染責《ワビシミセム》(六四一)のやうに、シミの假名に用ゐたところが多いから、ここもシメとよむべきだ。ソメと訓むのは惡い。
〔評〕 紫の衣に譬へた歌である。五句の色爾出來《イロニイデニケリ》は、多く用ゐられた句であるが、この慣用句の爲に全體が暗喩にならなかつたのは惜しいやうに思はれる。
 
396 陸奧の 眞野のかや原 遠けども 面影にして 見ゆとふものを
 
陸奧之《ミチノクノ》 眞野乃草原《マヌノカヤハラ》 雖遠《トホケドモ》 面影爾爲而《オモカゲニシテ》 所見云物乎《ミユトフモノヲ》
 
(陸奧之眞野乃草原)遠イケレド、目ノ前ニ貴方ノ御樣子ガ見エマスヨ。貴方ハ遠ク離レテオイデナサイマスガ、私ノ目ニハオ姿ガ絶エズチラツイテ見エマスヨ〔貴方〜傍線〕
 
○陸奧之眞野乃草原《ミチノクノマヌノカヤハラ》――和名抄に陸奧國行方郡眞野とある地。今、行方郡は相馬郡に合はせられてゐる。磐城(397)北部の眞野川の流域の平野で、今、原町の北方にあたる。この句は雖遠《トホケドモ》と言はむ爲の序。新考に本歌のあつたのを取つたのだらうと言つてゐるのは從はれない。○雖遠《トホケドモ》――卷四に遠鷄跡裳《トホケドモ》(五五三)とあるによつてトホケドモと訓むべし。トホケレドモに同じ。○面影爾爲而《オモカゲニシテ》――面影となりての意。面影に見ゆるとは、髣髴として目の前にちらつくをいふ。○所見云物乎《ミユトフモノヲ》――見えるといふよの意。
〔評〕 初の二句が序とも譬喩とも見られるが、序とする方がよからう。前の託馬野の歌も、この歌も、遠隔の地を材料にしたもので、作者未踏の地であらう。歌人は居ながらにして名所を知るのは、必ずしも平安朝以後のことではない。
 
397 奧山の 磐もと管を 根深めて 結びし心 忘れかねつも
 
奧山之《オクヤマノ》 磐本菅乎《イハモトスゲヲ》 根深目手《ネフカメテ》 結之情《ムスビシココロ》 忘不得裳《ワスレカネツモ》
 
(奧山之磐本管乎)根深ク、眞底カラ貴方ト〔七字傍線〕約束ヲシタアノ時ノ〔四字傍線〕心ハ、ドウシテモ忘レルコトハ出來マセンヨ。
 
○奧山之磐本管乎《オクヤマノイハモトスゲヲ》――下の根につづく序詞。奧山にある磐根のもとに生えてゐる菅の意。乎《ヲ》は之《ノ》の誤かと古義にある。これはヲとすれば結之情《ムスビシココロ》にかかるやうになるからである。
〔評〕 菅に寄せた歌である。この三首はいづれも寄草戀の歌である。家持が青年時代から、かうした熱烈な戀歌を贈られてゐるのは、彼のみやび男であつたことを證明するものである。
 
藤原朝臣|八束《ヤツカ》梅歌二首
 
八束は房前の第三子で、天平十二年正月に正六位上から從五位下になり、累進して天平寶字四年に從三位となり、更に眞楯と名を賜はつた。天平神護二年大納言兼式部卿で五十二歳を以て薨じてゐる。この歌は天平の初年、その青年時代の作か。
 
398 妹が家に 咲きたる梅の いつもいつも なりなむ時に 事は定めむ
 
妹家爾《イモガイヘニ》 開有梅之《サキタルウメノ》 何時毛何時毛《イツモイツモ》 將成時爾《ナリナムトキニ》 事者將定《コトハサダメム》
 
(398)女ノ家ニ咲イタ梅ガ、何時ナリトモ實ノ成ツタ時ニ、アノコトハ定メヨウ。女ガ承知シタ時ニ何時デモヨイカラ夫婦トナラウ〔女ガ〜傍線〕。
 
○何時毛何時毛《イツモイヅモ》――いつでもいつでもの意。槻の落葉に梅は五瓣のものであるから、何時毛《イツモ》とつづくとあるのは考へ過ぎであらう。○將成時爾《ナリナムトキニ》――梅が實となつた時といつて、女の眞實に承諾した時にの意にしてゐる。○事者將定《コトハサダメム》――夫婦の契を定めようの意。
〔評〕 梅に寄せて女を戀ふる心を述べたもので、眞の譬喩にはなつてゐない。ナルといふ語が、かけ詞になつて歌の中心をなしてゐる。氣長な、あせらない戀である。
 
399 妹が家に 咲きたる花の 梅の花 實にしなりなば かもかくもせむ
 
妹家爾《イモガイヘニ》 開有花之《サキタルハナノ》 梅花《ウメノハナ》 實之成名者《ミニシナリナバ》 左右將爲《カモカクモセム》
 
女ノ家ニ咲イタ梅ノ花ガ、實ニナツタナラバ何トカシヨウ。本當ニ承知スル時ヲ待ツテ、夫婦ノ約束ヲシヨウ〔女ガ〜傍線〕。
 
○左右將爲《カモカクモセム》――とにもかくにもしようの意で、前の歌の事者將定《コトハサダメム》に同じ。
〔評〕 前の歌と全く同意で、實之成名者《ミニシナリナバ》が主點である。二首ともに、心に悶えつつも、時期の到來を待つ慎重な態度の戀である。
 
大伴宿禰駿河麻呂梅歌一首
 
大伴駿河麻呂は誰の子か分らないが、卷四の六四九の左註に、「右坂上郎女者佐保大納言卿女也、駿河麻呂此高市大卿之孫也、兩卿兄弟之家女孫、始姪之族云々」とあつて、高市大卿は大納言大件御行のことらしいから、大體その系統は明らかである。大日本史に「系圖一本曰、參議道足之子續日本紀補任不v載今無v所v考」としるしてゐる。略解にも道足の子とある。これによれば馬來田の孫で、御行の孫ではない。御行と安麻呂と道足とは從兄弟の間柄であるから、駿河麻呂を道(399)足の子とすれば、安麻呂の子たる坂上郎女とは、叔母・姪の關係にならない。これは卷四の左註によるべきであらう。駿河麻呂は天平十五年五月、正六位上から從五位下に叙せられ、それから越前守になつてゐたが、天平寶字元年八月橘奈良麻呂の反に坐して罪せられた。寶龜元年五月出雲守となり、その後、肥後守・陸奧按察使・同鎭守府將軍を經て參議になつて、正四位上勲三等で卒したが、從三位を追贈せられた。時に寶龜七年七月であつた。この歌も彼の青年時代の作で、天平の初頃のものであらう。
 
400 梅の花 咲きて散りぬと 人は云へど 吾が標ゆひし 枝ならめやも
 
梅花《ウメノハナ》 開而落去登《サキテチリヌト》 人者雖云《ヒトハイヘド》 吾標結之《ワガシメユヒシ》 枝將有八方《エダナラメヤモ》
 
梅ノ花ハ咲イテ散ツテシマツタト人ハイフガ、私ガ自分ノモノトシテ〔八字傍線〕標ヲシテ置イタ、枝ノコトデハアルマイ。女ガ心變リシタトイフ噂ダガ、ソレハ私ガ約束シテ置イタ女ノコトデハアルマイ。人違ダラウ〔女ガ〜傍線〕。
 
○枝將有八方《エダナラメヤモ》――枝ならんや、枝ではあるまいの意。
〔評〕 女を梅に譬へてゐる。まさか他の人のことだらうと、特更に心にかけないやうに言つて、實は問ひ質してゐるのである。女に贈つた歌らしい。卷八に大伴家持が紀郎女に贈る歌として、瞿麥者咲而落去常人者雖言吾標之野乃花爾有目八方《ナデシコハサキテチリヌトヒトハイヘドワガシメシヌノハナニアラメヤモ》(一五一〇)とあるのは、梅を瞿麥にかへたのみで、よく似た歌である。駿河麻呂は家持よりも、官位は少しく先んじてゐるが、家持の妻坂上大孃の妹坂上二孃を妻としてゐる。從つてこの兩歌はいづれが先であるかを明らかにし難い。
 
大伴坂上郎女、宴(スル)2親族(ト)1之日|吟《ウタヘル》歌一首
 
401 山守の ありける知らに その山に 標ゆひ立てて 結ひの辱しつ
 
山守之《ヤマモリノ》 有家留不知爾《アリケルシラニ》 其山爾《ソノヤマニ》 標結立而《シメユヒタテテ》 結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》
 
山ノ番人ガ居ルノモ知ラナイデ、ソノ山ヲ自分ノ山ダト〔七字傍線〕、標ヲ立テテ置イテ、標ヲ立テタ恥ヲカイタ。私ハ貴方(400)ガ他ニ約束シタ女ガアルノモ知ラナイデ、貴君ヲ私ノ娘ノ聟トシテ置イテ恥ヲカキマシタ〔私ハ〜傍点〕。
 
○山守之《ヤマモリノ》――山の番人がの意で、駿河麻呂が他に通じてゐる女をさす。○其山爾《ソノヤマニ》――駿河麻呂を指す。○標結立而《シメユヒタテテ》――駿河麻呂を娘の聟と定めたことをいふ。
〔評〕 坂上郎女には二人の娘があつた。長女の坂上大孃は家持の妻で、次女の坂上二孃は駿河麻呂に配した。これは駿河麻呂の變心を恨んであてつけた歌である。親類が多く集まつた中で、ひどい皮肉をやつたものである。歌はうまく出來てゐる。
 
大伴宿禰駿河麻呂即(チ)和(フル)歌一首
 
402 山もりは けだしありとも 吾妹子が ゆひけむ標を 人解かめやも
 
山主者《ヤマモリハ》 葢雖有《ケダシアリトモ》 吾妹子之《ワギモコガ》 將結標乎《ユヒケムシメヲ》 人將解八方《ヒトトカメヤモ》
 
タトヒ、山ノ番人ガアルトシテモ、貴女ガ結ンデ置イタ標ヲ、誰ガ無暗ニ解キマセウニ。別ニ約束シタ女ガアルトシテモ、貴方ガ私ヲ聟ト定メナサツタ心ヲ、誰ガ邪魔ヲシマセウゾ。マシテ別ニ女ハナイノデスカラ御安心下サイ〔別ニ約〜傍線〕。
 
○山主者《ヤマモリハ》――文字に從へばヤマヌシハとよむ方がよいやうでもあるが、前の歌をそのまま受けて言つたものとすべきであらうから、ヤマモリハとよむ。○蓋雖有《ケダシアリトモ》――萬一あつてもの意。○吾妹子之《ワギモコガ》――坂上郎女を親しんで言つたのである。
〔評〕 坂上郎女に衆人の前できめつけれて、冑を脱いた姿である。前の歌の言葉をそのまま採つて使つてゐるだけで、これといふ程のこともない。
 
大伴宿禰家持贈(レル)2同坂上家之|大孃《オホイラツメニ》1歌一首
 
(401)坂上大孃は坂上郎女の女で、父は大伴宿奈麻呂である。母と共に坂上の家にゐたからかう呼んだ。田村大孃の妹である。
 
403 朝にけに 見まくほりする その玉を 如何にしてかも 手ゆかれざらむ
 
朝爾食爾《アサニケニ》 欲見《ミマクホリスル》 其玉乎《ソノタマヲ》 如何爲鴨《イカニシテカモ》 從手不離有牟《テユカレザラム》
 
毎朝毎日私ガ見タイト思ツテヰルソノ玉ヲ、ドウシタラ手カラ放サナイデヰラレルダラウ。私ハ始終逢ヒタイト思ツテヰル貴方ト、ドウカシテ何時マデモ放レナイデヰタイト思ヒマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○朝爾食爾《アサニケニ》――朝に日に、毎朝毎日の意。食《ケ》は借字。
〔評〕 坂上大孃を玉に譬へた歌で、はつきりとした素直な作である。
 
娘子、報(ユル)2佐伯宿禰赤麿贈(レル)歌(ニ)1一首
 
娘子は誰とも分らない、遊行女婦であらう。赤麻呂は未詳。續紀に佐伯宿禰淨麻呂といふ人があるが、或は赤はキヨとよむのかといふ説もある。又この歌の前に赤麻呂が娘子に贈つた歌があつたのだらうと、槻の落葉に言つてゐる。
 
404 千早振る 神の社し 無かりせば 春日の野べに 粟蒔かましを
 
千磐破《チハヤフル》 神之社四《カミノヤシロシ》 無有世伐《ナカリセバ》 春日之野邊《カスガノヌベニ》 粟種益乎《アハマカマシヲ》
 
(千磐破)神ノ社ガ無力ツタナラバ、私ハ〔二字傍線〕春日野ニ粟ヲ蒔カウト思ヒマスノニ。神樣ガ鎭座シテオイデニナルノデ、サウモ出來マセヌ。貴方ガ別ニ約束シタ女ガ無イナラ、私ハ貴方ト會ハウト思ヒマスガ、他ニ女ガアルカラ駄目デゴザイマス〔神樣〜傍線〕。
○粟種益乎《アハマカマシヲ》――粟と逢ふとをかけたもの。卷十四の安思我良能波姑禰乃夜麻爾安波麻吉?實登波奈禮留乎阿波奈久毛安夜思《アシガラノハコネノヤマニアハマキテミトハナレルヲアハナクモアヤシ》(三三六四)も同である。
(402)〔評〕 都近い春日野を材として、他の女を社に譬へて、神聖らしく近づくべからざるやうに言つてゐるのは面白い。粟と逢とをかけたのも一寸思ひつきだ。
 
佐伯宿禰赤麿、更(ニ)贈(レル)歌一首
 
405 春日野に 粟蒔けりせば しし持ちに 繼ぎて行かましを 社しとどむる
 
春日野爾《カスガヌニ》 粟種有世伐《アハマケリセバ》 待鹿爾《シシマチニ》 繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》 社師留烏《ヤシロシトドムル》
 
春日野ニ粟ヲ蒔イタナラバ、粟ヲ食ベヨウトシテ出テ來ル〔粟ヲ〜傍線〕鹿ヲ、待チウケテ、後ヲツケテ行クヤウニ〔後ヲ〜傍線〕、絶エズ行カウト思フガ、社ガアツテ通サナイノデ困ル。別ニ約束シタ人ガアルトイフノハ貴女ノコトデス。私ハ行カウト思ツテモ行カレマセヌ〔別ニ〜傍線〕。
 
○待鹿爾《シシマチニ》――マツシカニ、マタムカニ、マタスカニ、マチヌカニなどの訓があるが、鹿は鹿自物《シシジモノ》(一九九)の例によつてシシとよむべきである。シカとよむのは通例、牡鹿とある場合である。又、鹿待君之《シシマツキミガ》(一二六二)・十六待如《シシマツガコト》(三二七八)の例によつてもシシマチにとよむ外はない。この句の意は、粟を食べに出て來る鹿を待つての意。○繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》――引きつづき絶えず行かうものをの意。○社師留烏《ヤシロシトドムル》――烏は焉の略體から誤つたもので、古本に焉と思はれる字を書いたものがある。焉は句の終に添へて記しただけ。この句は他に多くの訓があるが皆いけない。
〔評〕 この歌は少しく難解である。粟・鹿といふやうなものが、當時の生活に深い關係があつたことや、神社を畏敬してゐたことも知れて面白い。
 
娘子、復報(フル)歌一首
 
406 吾が祭る 神にはあらず ますらをに とめたる神ぞ よくまつるべき
 
吾祭《ワガマツル》 神者不有《カミニハアラズ》 大夫爾《マスラヲニ》 認有神曾《トメタルカミゾ》 好應祀《ヨクマツルベキ》
 
(403)ソノ社ハ私ガ祭ツテヰル神樣デハアリマセヌ。貴方ニツイタ神社ヲヨクオ祭リナサイマシヨ。貴方ハ私ニ約束シタ男ガアルヤウナコトヲ仰リマスガ、ソレハ兎モ角トシテ、貴方ハ貴方ガ約束ヲナサツタ女ヲ大切ニ遊バシマセ〔貴方ハ私〜傍線〕。
 
○吾祭神者不有《ワガマツルカミニハアラズ》――宣長はワハマツル、古義はアハマツルとよんでゐるが、舊訓の儘がよい。神は社の誤だと略解にある。ここは、前の歌の社をうけたのであるが、神で少しも差支ない。○大夫爾《マスラヲニ》――大夫は赤麻呂をさす。○認有神曾《トメタルカミゾ》――考はツナゲルカミゾ、槻の落葉にシメタルカミゾ、古義にツキタルカミゾとある。認の字は此處と、卷十六に所※[身+矢]鹿乎認河邊之《イユシシヲツナグカハベノ》(三八七四)とあるのみであるが、卷十六の歌は齊明紀の歌と同じで、ツナグとよむべきは疑を入れない。此處もそれによるとすれば考に從ふべきであるが、神にツナグでは語をなさない。予は舊訓にトメタルカミヅとあるに從はうと思ふ。トメは求《モト》メと同じで、尋ねてそれと知る意である。即ちミトメといふも同じで、認はミトメとよむを常とする。そのミを省いたものと思へばよい。ここは男を尋ねて男に著いてゐる神、即ち他の女に譬へたものである。
〔評〕 どこまでも揶揄する熊度である。男を男と思はない蓮葉らしい樣子があらはれてゐる。
 
大伴宿禰駿河麻呂|娉《ツマドフ》2同坂上家之|二孃《オトイラツメ》1歌一首
 
坂上家之二孃は坂上郎女の生んだ次女で、母と共に坂上の家にゐた。駿河麻呂の妻になつた人である。略解に坂上大孃のことにしてゐるのはどうであらう。
 
407 春霞 春日の里の うゑこなぎ 苗なりといひし えはさしにけむ
 
春霞《ハルカスミ》 春日里爾《カスガノサトノ》 殖子水葱《ウヱコナギ》 苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》 柄者指爾家牟《エハサシニケム》
 
(春霞)春日ノ里ノ植ヱテアル小水葱ハ、未ダ苗ダトイフコトダツタガ、今ハ〔二字傍線〕枝サシノビ大キクナツテ食ベラレルヤウニナツ〔大キ〜傍線〕タラウ、貴女ハコノ頃ハ成人ナサツタデセウ。夫婦ニナツテハ如何デス〔貴女〜傍線〕。
 
(404)○春霞《ハルカスミ》――枕詞。霞む意で春日とつづく。○春日里爾《カスガノサトノ》――春日の里は寧樂の都の東、即ち今の奈良市の一部にあつた里。爾の字、類聚古集その他の古本に、これに作つてゐるのがよい。爾をノとよむとする木村氏の説には從はれない。○殖子水葱《ウヱコナギ》――卷十四に伊可保乃奴麻爾宇惠古奈宜《イカホノヌマニウヱコナギ》」(三四一五)ともあつて、殖は宇惠多氣能《ウヱタケノ》(三四七四)とある殖竹も、殖槻於之《ウヱツキガウヘノ》(三三二四)も、皆自から生じてゐる意で、特更に植ゑたのではない。子水葱《コナギ》はナギにコを添へたもので、コは全く意味はない。水葱《ナギ》は卷十六に水葱乃煮物《ナギノアツモノ》(三八二九)とあつて、水田や小川などに自生する一年生の草本で、莖は短く、葉は叢生し、心臓形又は細い卵形の葉柄の長い葉を有つてゐる。これを煮て食べたものである。夏秋の交紫青色の小花が叢つて咲く。鴨舌草。○柄者指爾家牟《エハサシニケム》――柄は枝と同じ。葉柄の長く延びて、葉の大きくなつたのをいふ。指爾家牟《サシニケム》は延びたのであらうの意。
〔評〕 坂上二孃を子水葱に譬へ、その成長を待ちかねてゐた心を歌つてある。材料が珍らしくて、可憐な感がする。葉柄の長い水葱に譬へて柄者指爾家牟《エハサシニケム》と言つたのはふさはしい。
 
大伴宿禰家持、贈(レル)2同坂上家之大孃(ニ)1歌一首
 
408 石竹の その花にもが あさなさな 手に取り持ちて 戀ひぬ日無けむ
 
石竹之《ナデシコノ》 其花爾毛我《ソノハナニモガ》 朝旦《アサナサナ》 手取持而《テニトリモチテ》 不戀日將無《コヒヌヒナケム》
 
貴女は石竹ノ花デアレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕毎朝毎朝手ニ取リ持ツテ、戀ヒナイ日ハナイダラウニ。花デナイカラ始終手ニ取ルトイフワケニ行カナイノハ殘念ダ〔花デ〜傍線〕。
 
○石竹之《ナデシコノ》――ナデシコは、この集では石竹・瞿麥・牛麥などと記してある。後世では庭に植ゑるものを石竹といふやうだが、この頃はそんな區別はない。すべて山野に自生したもので、それを庭にも植ゑたのである。(405)○其花爾毛我《ソノハナニモガ》――ガは冀望の助詞。○朝旦《アサナサナ》――阿佐奈佐奈《アサナサナ》(四四三三)の例に傚つて、アサナサナとよむがよい。
〔評〕 庭の石竹の花を折つて、添へて贈つた歌のやうに思はれる。缺點もないが、深味もない作だ。譬喩の意は極めて薄い。この人の作、宇良故非之和賀勢能伎美波奈泥之故我波奈爾毛我母奈安佐奈佐奈見牟《ウラゴヒシワガセノキミハナデシコガハナニモガモナアサナサナミム》(四〇一〇)に似てゐる。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
坂上二孃に贈つた歌であらう。古義に歌の字の上に、贈2同坂上家之大孃1の八字を入れてあるのは誤つてゐる。
 
409 一日には 千重浪しきに 思へども なぞその玉の 手にまきがたき
 
一日爾波《ヒトヒニハ》 千重波敷爾《チヘナミシキニ》 雖念《オモヘドモ》 奈何其玉之《ナゾソノタマノ》 手二卷難寸《テニマキガタキ》
 
一日ノ中ニハ、私ハ〔二字傍線〕干重ニ立ツ浪ノ繁キヤウニ頻リニ思ツテヰルガ、ドウシテアノ玉ガ手ニ纏フコトガ出來ナイノダラウ。貴女ヲ一日ノ中ニ千遍モ思フケレドモ、私ノモノニスルコトガ出來ナイノハ殘念ダ〔貴女〜傍線〕。
 
○千重波敷爾《チヘナミシキニ》――干重に立つ波の繁きやうにの意。
〔評〕一日と千重とを對照せしめ、女を玉(海中から得るものとしてあつた)に譬へて言はむ爲に、上に波を置いてあるなど、かなり工夫した作のやうである。
 
大伴坂上郎女橘歌一首
 
駿河麻呂に贈つたものか、家持に贈つたものか不明である。次の答歌に名を記さないので見ると、家持かも知れない。
 
410 橘を やどに植ゑ生し 立ちてゐて 後に悔ゆとも しるしあらめやも
 
橘乎《タチバナヲ》 屋前爾殖生《ヤドニウヱオホシ》 立而居而《タチテヰテ》 後雖悔《ノチニクユトモ》 驗將有八方《シルシアラメヤモ》
 
橘ヲ私ノ庭ニ植ヱテ、後ニナツテカラ、立ツタリ坐ツタリシテ悔ンダ所デ何ノ效能ガアリマセウニ。貴方ヲ娘(406)ノ聟ト定メテ、後デドンナニ悔ンデモ甲斐ガアリマセウヤ。貴方ノ心ヲ見定メテカラニシヨウト思ヒマス〔貴方ヲ〜傍線〕。
 
○屋前爾殖生《ヤドニウヱオホシ》――屋前は攷證にニハとよんでゐるのは、尤にも思はれるが、尚舊訓の儘にヤドとよんで置かう。生はオホシと舊訓にあるを、玉の小琴にオホセとして以來、それに從ふ説が多い。併しやはりオホシの方が無難で、それで意が聞える。橘を家持に譬へたのである。攷證に娘を橘に譬へた謙遜の辭と見たのはどうであらう。○立而居而《タチテヰテ》――立つたり坐つたりしての意。
〔評〕 家持を聟とすることを、橘を宿に植ゑるのになぞらへたもので、娘を婚せしめる時の不安から、聟の心を確めようとする母としての態度が、なる程とうなづかれる。
 
和《コタヘ》歌一首
 
この卷は家持の集めたものと思はれる節があるから、名の無いのは家持作の證ではあるまいか。
 
411 吾妹子が やどの橘 いと近く 植ゑてし故に 成らずは止まじ
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 屋前之橘《ヤドノタチバナ》 甚近《イトチカク》 殖而師故二《ウヱテシカラニ》 不成者不止《ナラズハヤマジ》
 
貴女ノ家ノ橘ヲ極ク近クニ植ヱテ置キマシタカラ、實ガナラヌウチハ承知デキマセヌ。私ハ貴女ノオ宅ノ御娘ト至ツテ親密ニシテ居マシタノデスカラ、夫婦ノ契ヲ結バナイデハ置キマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
○吾妹兒之《ワギモコガ》――坂上郎女をさしたもの。
〔評〕 相手が自分を橘に喩へたのを、その儘採つて答へ、橘の實の縁で成るをかけ詞に用ゐてゐる。
 
市原王歌一首
 
市原王は卷六(九八八)に市原王宴に祷2父安貴王1歌とあつて、安貴王の子である。天平十五年五月に從五位下になり、その後、攝津大夫・造東大寺長官に歴任したことが續紀に見える。
 
412 いなだきに きすめる玉は 二つ無し こなたかなたも 君がまにまに
 
伊奈太吉爾《イナダキニ》 伎須賣流玉者《キスメルタマハ》 無二《フタツナシ》 此方彼方毛《コナタカナタモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
頭ノ上ニ着ケテ居ル御統ノ玉ハ、類ノナイ貴イ〔二字傍線〕モノデス。ソノ玉ノヤウニ大切ナ貴女デスカラ〔ソノ〜傍線〕、ドウトモカウトモ貴女ノ御心次第ニマカセマセウ。ドンナ事デモアナタノ爲ナラ致シマセウ〔ドン〜傍線〕。
 
○伊奈太吉爾《イナダキニ》――伊奈太吉《イナダキ》は和名抄に、「陸詞曰、顛頂也、※[寧+頁](ハ)頭上也、訓伊奈太岐」とあり、イタダキと同じである。○伎須賣流玉者《キスメルタマハ》――伎須賣流《キスメル》は着|統《スメ》るで、玉の緒に貫き通したものを御統の玉といふことが、古事記に見える。キシムル(令著)とする契沖・久老の説も、令著《キス》めるとした攷證の説も、キスムは藏むる事なりと播磨風土記を引いて述べた新考の説も、諾ひ難い。○無二《フタツナシ》――無比の貴いものだの意。○此方彼方毛《コナタカナタモ》――カニモカクニモともよんであるが、文字に着いてよめば、コナタカナタであらう。どうにもかうにもの意。
〔評〕 御統の玉に女を譬へてゐる。頭上を飾る御統の玉は、珠のうちでも特に貴いものであらう。愛する女を物に譬へるとすれば、當時においてそれに勝るものは恐らくあるまい。かなり熱情があらはれてゐる。
 
大綱公人主《オホアミノキミヒトヌシ》、宴(ニ)吟(ヘル)歌一首
 
大綱公は大網公の誤。神田本に網とある。姓氏録にも左京皇別大網公云々と出てゐる。人主の傳は明らかでない。吟とあるのは宴會に吟じたもので、自作ではないかも知れない。
 
413 須磨のあまの 鹽燒衣の 藤ごろも ま遠にしあれば いまだ著なれず
 
須麻乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 藤服《フヂロロモ》 間遠之有者《マドホニシアレバ》 未著穢《イマダキナレズ》
 
須磨ノ海人ノ鹽ヲ燒ク時ニ着ル藤ノ皮デ繊ツタ着物ハ、目ガアライノデ、マダ着馴レマセヌ。私ハアノ女トハ疎遠ニシテ居ルカラ、未ダ親シク逢フコトヲシマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
○須麻乃海人之鹽燒衣乃《スマノアマノシホヤキキヌノ》――須麻は攝津の須磨、今の神戸市の西部。○藤服《フヂゴロモ》――藤の皮を以て織つた衣、賤者の服。○間遠之有者《マドホニシアレバ》――藤衣の糸が太く、目の荒きを、戀人に逢ふことの間遠きにかけて言つたのである。こ(408)の句は、古今集戀四に、「須磨の海人の鹽燒衣をさを荒み間遠にあれや君がきまさぬ」とあるによれば、箴が粗いので間遠なのである。槻の落葉は、之を久に改めて、マトホクシアレバとし、古義はこの儘で同樣によんでゐるが、クとしなければならぬ理由なく、却つて古今集のやうに、ニとするのが古訓であらうと思はれる。○未著穢《イマダキナレズ》――未だ戀人と親しまぬを、衣の縁で著馴れずといつたのだ。衣を着古すを着馴るといふ。
〔評〕 戀人との關係の親しみ難いのを、藤衣に寄せたので、縁語が巧に用ゐられてゐる。よく整つた歌である。右に引いた古今集の歌はこれを歌ひ變へたものであらう。
 
大伴宿禰家持歌一首
 
414 あしびきの 岩根こごしみ 菅の根を 引かば難みと 標のみぞ結ふ
 
足日木能《アシヒキノ》 石根許其思美《イハネコゴシミ》 菅根乎《スガノネヲ》 引者難三等《ヒカバカタミト》 標耳曾結烏《シメノミゾユフ》
 
山ノ岩ガ嶮岨ナノデ、菅ノ根ヲ引イテモ、取リ難イカラ、標バカリヲ結ツテ自分ノモノトシテ〔八字傍線〕置クヨ。色々ト故障ガアツテ、女ガ私ノ心ノ儘ニナリサウニモナイカラ、タダ私ノ心ノ中ニ、アレハ私ノ女ダト思ツテ辛抱シテヰルノダ〔色々〜傍線〕。
 
○足日木能《アシビキノ》――山の枕詞であるのを、山の意に用ゐてゐる。○石根許其思美《イハネコゴシミ》――許其思美は凝々しき故にの意。コゴシは嶮岨なる意。○引者難三等《ヒカバカタミト》――引かば難いからとて、即ち引いても取り難い故にの意。○標耳曾結烏《シメノミゾユフ》――烏は焉の略字から誤つたのである。
〔評〕 思ふ女の得難きを、岩根こごしき山の、菅の根の引き難きに譬へてゐる。譬喩の材料は上代人らしい趣である。
 
(409)挽歌
 
上宮聖徳皇子、出2遊|竹原《タケハラ》井1時、見(テ)2龍田山(ノ)死人(ヲ)1悲傷(テ)御作歌一首
 
上宮聖徳皇子は用明天皇の第二皇子、厩戸豐聰耳皇子と申す。推古天皇の元年四月に皇太子とならせらる。上宮と申すのは、父の天皇がこの皇子を御寵愛になつて、宮(ノ)南(ノ)上殿に居らしめられたからである。推古天皇の二十九年二月斑鳩宮に薨じ給うた。竹原井は今の河内國中河内郡堅下村高井田であるといふ。此處は奈良朝の頃、離宮のあつた所で、奈良から難波への往復に、龍駕を駐め給うたことが續紀に屡々見えてゐる。
 
415 家にあらば 妹が手纏かむ 草枕 旅にこやせる この旅人あはれ
 
家有者《イヘニアラバ》 妹之手將纏《イモガテマカム》 草枕《クサマクラ》 客爾臥有《タビニコヤセル》 此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》
 
今コノ龍田山デ死ンデヰル人ハ〔今コ〜傍線〕、家ニヰルナラバ妻ノ手ヲ枕ニシテ死ヌデアラウ。カウシテ〔四字傍線〕(草枕)旅デ死ンデ〔三字傍線〕臥テヰナサルコノ旅人ハアア可哀サウナモノダ。
 
○家有者《イヘニアラバ》――卷五に國爾阿良波《クニニアラバ》(八八六)とあるによつて、イヘニアラバとよむがよい。○客爾臥有《タビニコヤセル》――コヤスはコユの敬語らしい。コユはコヤル、コイの用例があり、古語で、臥すの意。コヤセルは臥して居られると敬つて宣うたのである。○此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》――※[立心偏+可]怜は嗟乎《アア》と歎息した辭で、この旅人よ、あはれ、悲しきかなといふ意である。
〔評〕 この歌は書紀に見えてゐる聖徳太子の、斯那提流箇多烏箇夜摩爾伊比爾慧弖許夜勢屡諸能多比等阿波禮《シナテチルカタヲカヤマニイヒニヱテコヤセルソノタビトアハレ》、於夜那斯爾那禮奈理※[奚+隹]迷夜佐須陀氣能枳彌波夜那祇伊比爾惠弖許夜勢留諸能多比等阿波禮《オヤナシニナレナリケメヤサスダケノキミハヤナキイヒニヱテコヤセルソノタビトアハレ》の御歌から出たもので、詞が著しく似てゐる。片岡山と龍田山と所も異なり、歌形も三十一文字に短縮せられてゐるのは、後にかうした傳が出來たものである。此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》は古い格調である。
 
(410)大津皇子被(ル)v死之時、磐余《イハレノ》池(ノ)般《ツツミニテ》流(シ)v涕(ヲ)御作歌一首
 
大津皇子謀叛の事あらはれ、持統天皇元年十月三日|驛語田《ヲサダノ》舍で死を賜はつた。一〇五參照。磐余池は今は無くなつゐるが、磯城郡安倍村大字池内、香久山村大字池尻の名が遺つてゐるのは、その名殘であらうといふ。履仲天皇紀に「作磐余池」とある。般の字は珍らしいが、史記孝武紀の「鴻漸2于般1」とある注に、漢書音義を引いて、「般(ハ)水涯堆也」とあるから、ツツミと訓むべきである。古本陂に作るものあり、目録にもさうあるが、般の儘でよい。
 
416 百傳ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隱りなむ
 
百傳《モモツタフ》 磐余池爾《イハレノイケニ》 鳴鴨乎《ナクカモヲ》 今日耳見哉《ケフノミミテヤ》 雲隱去牟《クモガクリナム》
 
(百傳)磐余ノ池ニ鳴ク鴨ヲ今日ガ見納メデ私ハ今殺サレテ〔七字傍線〕死ンデ行クコトカナア。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○百傳《モモツタフ》――枕詞。百に數へ傳ふる意で五十《イ》にかけ磐余《イハレ》とつづくのであらう。但し宣長は角障經《ツヌサハフ》の誤だと言つてゐる。○雪隱去牟《クモガクリナム》――雪隱《クモカクル》は死ぬこと。死者が天上するといふ考から起つたのである。
〔評〕 誠にあはれな御歌である。蓋し衷心の歎聲であるからであらう。懷風藻にはこの皇子の辭世として、「金烏臨2西舍1、鼓聲催2短命1、泉路無2賓主1此夕離v家向」といふ詩が掲げてある。
 
右藤原宮朱鳥元年冬十月
 
朱鳥はアカミトリと訓む。天武天皇十五年七月二十日改元して朱鳥となつたが、天皇は九月六日崩御あらせられ、持統天皇の御代となつた。未だ遷都以前であるが、後の稱呼のままに藤原宮と記したのである。
 
河内《カフチノ》王葬(ル)2豐前國鏡山(ニ)1之時|手持《タモチノ》女王作歌三首
 
河内王は天武紀朱鳥元年正月の條に「爲v饗2新羅金智淨1遣2淨廣肆川内王等于筑紫1」とあり、持統紀三年閏八月の條に「以2淨廣肆河内王1爲2筑紫太宰帥1」とあり、筑紫で歿せられたらしい。(411)鏡山は三一一にも出てゐたが、三松莊一氏の好意によつてその寫眞を得たから、ここは掲げないほ同氏著の九州萬葉手記によつて委しい説明を加へよう。鏡山は豐前國風土記に、田河郡鏡山、在郡東、昔者息長足姫尊、在2此山1遙覽2國形1勅祈曰、天神地祇爲v我助v福、便用2御鏡1安2置此處1、其鏡化爲v石、在2此山中1焉と見えて、今はこの息長足姫尊即ち神功皇后と、御鏡とを崇め奉つた鏡山神社がある。福岡縣郷土史誌には「高丘凡そ百二十尺周廻凡そ二百十間、樹木欝蒼として平地の間に屹立せり、古來より其の南に大道を通ぜり。之を官道とす。是れ往昔京都より太宰府に通ずる驛路なり。而して官道より之を望めば、東北に障子嶽四方寺山の諸山連り、西に香春嶽の三峰屏列し南に小富士山ありて鏡山その中央に立てり、之を眺望するに恰も明鏡を靈臺に装置せるが如し。往古神功皇后此の山に於て神祇を祭祀し、河内王太宰府に御赴任の際この佳境を經過あらせらるるや矚目後事を遺命せられたる誠に故ある哉」とある。挿入寫眞中の樹木の欝蒼たる小山が即ち鏡山で、その左方に少しく距つて小さい森のやうに見えるのが河内王の墓と傳へらるゝもので、福岡縣郷土史誌に、「其の構造巨大にして乃ち前方後圓の古墳なり。地盤周廻凡そ百十七間五歩、高さ凡そ二十四尺、塚上に一大石槨あり、一千二百年の久しき陵土は雨水の爲に流下し、今や石棺は露出して南端の崖に接したり。石材總て寒水石を用ゆ。其の構造は即ち(412)穴居式にして北端に柩を治むる所ありて南方に二三の室あり。葢石四個を聯置せり。南北長二十五尺東西廣十二尺、南に長形の大石を立てて岩戸と爲せり」記してある。今は清楚に整理されて杉垣で圍まれ、中央に櫨の大木が一木茂つてゐる。上の寫眞はその正面から撮影したもので、これも三松氏の惠贈によつたのである。河内王は長皇子の御子であるが、手持女王は王の妃か。女王の墓と傳へられるものが、鏡山の西方にあると豐前今昔説に見えてゐる。同書によれば、「手持女王の墓、鏡山の西ハハキ原と云ふ小松原にあり、古塚方二間高二尺餘、二つの墓の間十間ばかりあり、何れなる事を知らず。民家近し」とあつて手持女王の御墓も河内王の御墓の附近にあると言つてゐる。若し手持女王もこの地に葬られ給うたとすれば、鏡山の裏手の大君原にある欝林がその御墓ではないかと考へられるが、俄かに定めることは出來ないと三松氏は言つてゐられる。
 
417 おほきみの むつたま合へや 豐國の 鏡の山を 宮と定むる
 
王之《オホキミノ》 親魄相哉《ムツタマアヘヤ》 豐國乃《トヨクニノ》 鏡山乎《カガミノヤマヲ》 宮登定流《ミヤトサダムル》
 
コノ鏡山ハ河内〔七字傍線〕王樣ノ御心ニ叶ツタカラ、コノ〔二字傍線〕豐前ノ國ノ鏡山ヲオ〔傍線〕墓トオ定メナサツタ。此所ヘ葬ラレナサツタノハ、コノ鏡山ガオ氣ニ召シタモノト見エル〔此所〜傍線〕。
 
○親魄相哉《ムツタマアヘヤ》――親魄あへばにやの意。ムツタマは睦じき魂で(413)あるが、ムツタマアフといふ熟語として、氣に入る意に用ゐられたのである。
〔評〕 鏡山に葬られ給うたのを、自ら其處を宮と定めたやうに言つたもので、人麿の高市皇子尊城上殯宮の時の歌に明日香乃眞神之原爾久堅能天津御門乎懼母定賜而神佐扶跡磐隱座《アスカノマガミノハラニヒサカタノアマツミカドヲカシコクモサダメタマヒテカムサブトイハガクリマス》(一九九)とあるのと同一思想である。
 
418 豐國の 鏡の山の 岩戸立て 隱りにけらし 待てど來まさぬ
 
豐國乃《トヨクニノ》 鏡山之《カガミノヤマノ》 石戸立《イハトタテ》 隱爾計良思《カクリニケラシ》 雖待不來座《マテドキマサヌ》
 
河内王樣ハ〔五字傍線〕豐前ノ國ノ、鏡山ノ岩戸ヲ立テテ、アノ山ヘオ隱レ遊バシタモノト見エル。イクラ〔三字傍線〕オ待チ申シテモオイデニナラヌヨ。
 
○石戸立《イハトタテ》――岩戸を閉ぢての意。古墳の横穴式石槨は、奧に石棺を安置する玄室があり、その室から外部への通路が羨道で、すべて石で疊んである。羨道の入口は羨門と稱し、必ず石を以て塞いである。
〔評〕 これも右に引いた人麿の歌に磐隱座《イハガクリマス》とある通り、墓に葬られることを岩戸を閉ぢて隱れるものと、古代の人が言ひならはしたので、古事記にある、天照大神の天岩戸隱れも、主權者の死を語つた傳説だとする説もあるほどである。雖待不來座《マテドキマサヌ》と稚げに言つたのが、古代人らしく純朴に聞える。
 
419 岩戸わる 手力もがも 乎弱き 女にしあれば 術の知らなく
 
石戸破《イハトワル》 手力毛欲得《タヂカラモガモ》 手弱寸《タヨワキ》 女有者《ヲミナニシアレバ》 爲便乃不知苦《スベノシラナク》
 
河内王樣ガオ隱レ遊バシタ鏡山ノ〔河内〜傍線〕石戸ヲ、破ルダケノ手力ガ欲シイモノデス。力ノ弱イ女デスカラ何トモ仕樣ガアリマセヌ。
 
(414)○女有者《ヲミナニシアレバ》――舊訓ヲトメニシアレバ、宣長・久老・雅澄らはメニシアレバとよんだが、略解にヲミナニシアレバとあるに從ふべきである。
〔評〕 石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》は天の岩戸の條の、手力男神の説話を思ひ出させる。顯界と幽界との境とも考へられる墳墓の冷い岩戸に對し、女の身の力なさを歎じたのが、あはれに痛ましい。
 
石田《イハタノ》王卒(セシ)之時、丹生王作(レル)歌一首并短歌
 
石田王の傳はわからない。歌の趣では女王らしくも見えるが、さうではあるまい。丹生王も傳が詳でない。卷四(五五三)・卷八(一六一〇)に丹生女王とあるによれば、女王であらう。
 
420 なゆ竹の とをよる皇子 さ丹づらふ 吾が大王は こもりくの 泊瀬の山に 神さびに 齋きいますと 玉梓の 人ぞ言ひつる およづれか 吾が聞きつる まが言か 我が聞きつる 天地に 悔しき事の 世の中の 悔しき事は 天雲の そくへの極み 天地の 至れるまでに 杖つきも 衝かずも行きて 夕占問ひ 石占以ちて 吾が屋戸に 御室を立てて 枕邊に 齋瓮をすゑ 竹玉を 間なく貫き垂り 木綿襷 かひなに懸けて 天なる 左佐羅の小野の 七ふ菅 手に取り持ちて ひさかたの 天の川原に 出で立ちて みそぎてましを 高山の 巖の上に いませつるかも
 
名湯竹乃《ナユタケノ》 十縁皇子《トヲヨルミコ》 狹丹頬相《サニヅラフ》 吾大王者《ワガオホキミハ》 隱久乃《コモリクノ》 始瀬乃山爾《ハツセノヤマニ》 神左備爾《カムサビニ》 伊都伎座等《イツキイマスト》 玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》 於余頭禮可《オヨヅレカ》 吾聞都流《ワガキキツル》 枉言加《マガゴトカ》 我聞都流母《ワガキキツルモ》 天地爾《アメツチニ》 悔事乃《クヤシキコトノ》 世間乃《ヨノナカノ》 悔言者《クヤシキコトハ》 天雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》 天地乃《アメツチノ》 至流左右二《イタレルマデニ》 枚策毛《ツヱツキモ》 不衝毛去而《ツカズモユキテ》 夕衢占問《ユフケトヒ》 石卜以而《イシウラモチテ》 吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》 竹玉乎《タカダマヲ》 無間貫垂《マナクヌキタリ》 木綿手次《ユフダスキ》 可此奈爾懸而《カヒナニカケテ》 天有《アメナル》 左佐羅能小野之《ササラノヲヌノ》 七相菅《ナナフスゲ》 手取持而《テニトリモチテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天川原爾《アマノカハラニ》 出立而《イデタチテ》 潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》 高山乃《タカヤマノ》 石穗乃上爾《イハホノウヘニ》 伊座都流香物《イマセツルカモ》
 
(415)(名湯竹乃)優シイ石田王樣、顔ノ色ノ赤ク美シイ石田王樣ハ、(隱久乃)初瀬ノ山ニ、神樣トシテ祭ラレテオイデニナルト、使ノ人ガ來テ言ツタ。根無シ言ヲ私ガ聞イタノデアラウカ。間違ツタ言葉ヲ私ガ聞イタノデアラウカヨ。ドウモ本當トハ思ハレナイ〔ドウ〜傍線〕。天地間ノ第一〔二字傍線〕残念ナコトデ、世ノ中デ第一残念ナコトハ、カウト知ツタナラバ〔九字傍線〕天ノ雲ノ遠ク離レテヰル極限マデ、天地ノ果マデモ、杖ヲツイテデモ、ツカナイデモ歩イテ〔三字傍線〕行ツテ、夕方町ニ出テ、道行ク人ノ言葉デ〔町ニ〜傍線〕占ヲシテ見、又、石ノ占ヲシテ、私ノ家ニ神ノ御堂ヲ立テ、枕ノ方ニハ齋瓮ヲ据ヱ、竹玉ヲ澤山ニ貫キ垂レ、木綿デ作ツタ襷ヲ腕ニカケテ、天ニアル佐佐良ノ小野ニ生エテヰル長イ菅ヲ手ニ持ツテ、(久堅乃)天ノ川原ニ出テ行ツテ、祓ヲシテ石田王ノ御身ノ幸ヲ祈ラ〔石田〜傍線〕ウノニ、石田王ハ既ニ〔六字傍線〕高イ初瀬山トイフ〔六字傍線〕山ノ巖ノ上ニオ葬リ申シテシマツタヨ。アア残念ナコトダ〔八字傍線〕。
 
○名湯竹乃《ナユタケノ》――枕詞。ナヨ竹と同じで、なよなよと靡く竹に譬へて十縁皇子《トヲヨルミコ》に續けたのである。○十縁皇子《トヲヨルミコ》――たわたわとたわみ寄る皇子の意、皇子の若さを述べたのである。卷二にも、奈用竹乃騰遠依子等《ナヨタケノトヲヨルコラ》(二一七)とある。○狹丹頬相《サニヅラフ》――狹《サ》は發語。ニヅラフは紅い顔をしてゐること。この語の用例は澤山ある。○隱久乃始瀬乃山爾《コモリクノハツセノヤマニ》――七九參照。○神佐備爾《カムサビニ》――爾を而・?・手などの誤とする説もあるが、もとの儘でよい。○伊都伎座等《イツギイマスト》――齋き祀られています意。即ち葬られ給ふこと。○玉梓乃《タマヅサノ》――使の枕詞を、使の義に用ゐたもの。○於余頭禮可《オヨヅレカ》――妖言《オヨヅレゴト》かの略。怪しき言葉・僞り言をオヨヅレゴトといふ。○枉言加《マガゴトカ》――マガゴトは曲つた言・正しからぬ言葉。枉の字を狂の誤としてタハゴトと宣長はよんでゐる。なるほど卷十七に於餘豆禮能多婆許登等可毛《オヨヅレノタハコトトカモ》(三九五七)とあつて、それも尤らしいが、枉は邪曲の意で、この儘でよみ得るから、改むべきでない。○天地爾悔事乃《アメツチニクヤシキコトノ》――天地間の最大恨事での意。○天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》――天の雲の距つてゐる方の果で、曾久敝《ソクヘ》は退く方。遠方をいふ。ソキヘとも言つてある。この句の前に、かうと知つたならばの意を補つて見ねばならぬ。○天地乃至流左右二《アメツチノイタレルマデニ》――天地の果までもの意。○杖策毛不衝毛去而《ツヱツキモツカズモユキテ》――杖をついてでも、つかないで(416)も、道を歩いて行きての意で、卷十三に杖衝毛不衝毛吾者行目友《ツヱツキモツカズモワレハユカメドモ》(三三一九)とあるも同じである。策はツヱの字であるのを動詞として、杖つくことに用ゐたのである。○夕衢占問《ユフケトヒ》――ユフケは夕方の辻占で、夕方街の辻に立つて、道行く人の言葉を聞いて、吉凶を判斷するをいふ。衢の字は衢で行ふものであるから、添へて書いたので、無くてもよい。卷十六に夕占爾毛卜爾毛曾問《ユフケニモウラニモゾトフ》(三八一一)とある。問《トヒ》は尋ね判斷すること。○石卜以而《イシウラモチテ》――石卜は石を以てする占であるが、その方法は明らかでない。伴信友の正卜考には、道祖神の社内の石の輕重を試みて占ふことと述べてあるが、石を蹴上げて見たり、又は石の數を數へたり、石を持ち上げて見てその輕重によつたりして占つたものらしい。朝鮮では、大きい石の上に小石を立てて、その倒れた方向によつて吉凶を判することが、今も行はれてゐるさうだから、我が上古にもさうした石占があつたかと思はれる。○御諸乎立而《ミモロヲタテテ》――ミモロは御室で、神を祭り祈るところ。○枕邊爾《マクラベニ》――枕は牀《トコ》の誤かと考にある。○齋戸乎居《イハヒベヲスエ》――イハヒベは齋瓮、三七九參照。○竹玉乎《タカタマヲ》――三七九參照。○木綿手次《ユフダスキ》――木綿で作つた襷。○天有左佐羅能小野之《アメナルササラノヲヌノ》――天にあるささら野といふ野の。左佐羅能小野《ササラノヲヌ》は卷十六に天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤササラノヲヌニチガヤカリ》(三八八七)とあつて、天上にあるとせられた野の名である。これは月を左左良榎壯士《ササラエヲトコ》といふのと、關係がありさうに思はれる。○七相菅《ナナフスケ》――どんなものか明かでない。ナナフは袖中抄に「みちのくのとふのすがこも七ふには」とある歌によつて、宣長が七節の義としたが、この節《フ》は莚にして編んだ節の數であるから、自から生えてゐるものをいふ筈はないと反對する人も多い。フの語義はともかくとして、ナナフスゲは恐らく長い菅の義であらう。例の誤字説は從ふべきでない。菅を以て祓ひ清めることは、大祓詞にも天津菅麻《アマツスガソ》を用ゐることが見えてゐる。○潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》――ミソギは水邊に至つて身の不淨を祓ひ、身を清めること。かくして石田王の無事を祈らむものをの意である。○高山乃石穗乃上爾《タカヤマノイハホノウヘニ》――高山は初瀬山を指す。石穗は石秀《イハホ》、石の大なるもの。○伊座都流香物《イマセツルカモ》――イマサセツルカモの意で、ここはお墓に葬り申したことを言つたのである。
〔評〕 石田王の死を傷んで、自分の耳を疑ひ、もしかくと豫め知つたならば、卜占もし、神にも祷つて、如何なる方法を以てしても快癒を祈るべきであつたのに、遺憾なことをしたと。痛恨してゐる有樣がよく歌ひ出され(417)てゐる。但し詞のつづき方に多少尋常でないところがあり、そこに無理がないとは言はれないが、普通の哀傷歌と異つた内容を有し、殊に卜占や祈祷の樣式がこれによつて知られるのは、古代文化史の資料として誠に貴いものと言はねばならない。
 
反歌
 
421 およづれの まが言とかも 高山の 巖の上に 君が臥せる
 
逆言之《オヨヅレノ》 枉言等可聞《マガゴトトカモ》 高山之《タカヤマノ》 石穗乃上爾《イハホノウヘニ》 君之臥有《キミガコヤセル》
 
根無シ言ノ虚ノ言葉デアラウカヨ。高イ山ノ巖ノ上ニ貴君ガ葬ラレテ〔四字傍線〕、臥テヰラレルト使ノ者ガイフコトハ〔ト使〜傍線〕。
〔評〕 長歌の始の方の二句と、終の三句とを繋ぎ合はせたやうな歌で、取り立てて言ふべき程のことはない。
 
422 石上 布留の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに
 
石上《イソノカミ》 振乃山有《フルノヤマナル》 杉村乃《スギムラノ》 思遇倍吉《オモヒスグベキ》 君爾有名國《キミニアラナクニ》
 
(石上振乃山有杉村乃)思ヒ忘レテシマフコトノ出來ル貴君デハナイヨ。私ハ死ンダ貴君ヲ到底忘レルコトハ出來ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○石上振乃山有杉村乃《イソノカミフルノヤマナルスギムラノ》――スグと連なる序詞。石上の布留の山に生えてゐる杉の群。石上の布留は、大和山邊郡。○思過倍吉《オモヒスグベキ》――悲しき思を忘れ遣るべきの意。
〔評〕 同音を繰返したこの序詞は、卷十三にも神名備能三諸之山丹隱藏杉思將過哉蘿生左右《カムナビノミモロノヤマニイハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》(三二二八)とあつて、詞は慣用的のものであるが、初瀬の山つづきであり、又、布留の杉は有名な神木でもあるから、これを用ゐたのであらう。
 
同(ジキ)石田王卒之時、山|前《クマ》王哀傷(シテ)作(レル)歌一首
 
(418)山前王は忍壁皇子の御子で、茅原王の父。即ち天武天皇の御孫、養老七年十二月辛亥散位從四位下山前王卒と續紀に見える。又懷風藻に、從四位下刑部卿山前王一首として宴に侍して作つた詩が出てゐる。同の字を略解に後人の書入と疑ひ、古義に石田王卒之の五字を削つてゐるが、もとの儘でよい。
 
423 つぬさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 念ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥 鳴く五月は 菖蒲草 花橘を 玉に貫き 一云、貫き交へ かづらにせむと 九月の 時雨の時は 黄葉ばを 折り挿頭さむと 延ふ葛の いや遠永く 一云、葛の根のいや遠長に 萬世に 絶えじと念ひて 一云、大船の思ひたのみて 通ひけむ 君をば明日ゆ 一云、君を明日ゆか よそにかも見む
 
角障經《ツヌサハフ》 石村之道乎《イハレノミチヲ》 朝不離《アササラズ》 將歸人乃《ユキケムヒトノ》 念乍《オモヒツツ》 通計萬四波《カヨヒケマクハ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴五月者《ナクサツキハ》 菖蒲《アヤメグサ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 玉爾貫《タマニヌキ》【一云|貫交《ヌキマジヘ》】 ※[草冠/縵]爾將爲登《カヅラニセムト》 九月能《ナガツキノ》 四具禮能時者《シグレノトキハ》 黄葉乎《モミヂバヲ》 折挿頭跡《ヲリカザサムト》 延葛乃《ハフクズノ》 彌遠永《イヤトホナガク》【一云|田葛根乃彌遠長爾《クズノネノイヤトホナガニ》】 萬世爾《ヨロヅヨニ》 不絶等念而《タエジトオモヒテ》【一云|大船之念憑而《オホフネノオモヒタノミテ》】 將通《カヨヒケム》 君乎婆明日從《キミヲバアスユ》【一云|君乎從明日香《キミヲアスユカ》】 外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》
 
(角障經)磐余ノ道ヲ毎朝毎朝、通ツテ初瀬ノ女ノ所ヘ〔七字傍線〕行ツタ石田王ガ、心ニ〔二字傍線〕思ヒツツ通ツタデアラウコトハ、カウイフコトデアル〔九字傍線〕。郭公ノ鳴ク五月ニハ、菖蒲ヤ橘ノ花ヲ、玉ノヤウニ糸ニ通シテ、頭ヲ飾ル鬘二シヨウ、九月ノ時雨ノ降ル時ハ、紅葉ヲ折ツテ髪ニ挿サウ、サウシチ(延葛乃)彌々遠ク永ク、萬年ノ後マデモ絶エズニ、初瀬ノ女ノ所ヘ通ハウ〔ニ初〜傍線〕ト思ツテ通ツテ居タ貴方ヲ、明日カラハ、外ノモノトシテ見ルコトカナア。石田王ノ卒去ハ實ニ思ヒモ寄ラヌコトダ〔石田〜傍線〕。
 
○角障經《ツヌサハフ》――防詞。一三五參觀。○石村之道乎《イハレノミチヲ》――二八二參照。○通計萬四波《カヨヒケマクハ》――四は類聚古集に口になつてゐるのがよい。マクは未來助動詞ムの延言。この通ふは、次の或本反歌から考へても、亦二八二の歌で見ても、初瀬へ通ふことに違ない。○菖蒲花橘乎玉爾貫《アヤメグサハナタチバナヲタマニヌキ》――集中、菖蒲を玉に貫くとも、花橘を玉に貫くとも詠んだ歌が多いが、卷十八に保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐波奈多知波奈尓奴吉麻自倍可頭良爾世餘等《ホトトギスキナクサツキノアヤメグサハナタチバナニヌキマジヘカヅラニセヨト》(四一〇一)・(419)卷十九に昌蒲花橘乎貫交可頭良久麻而爾《アヤメグサハナタチバナヲヌキマジヘカヅラクマデニ》(四一八〇)とあるから、菖蒲と花橘とを一緒にして、玉の如く糸に貫いたのである。玉爾《タマニ》は玉のやうに、又は玉としての意。○※[草冠/縵]爾將爲登《カヅラニセムト》――※[草冠/縵]は上代の男女が頭の飾として纏うたもので、多くは蔓草を用ゐたが、かうした菖蒲の類も鬘としたのである。續紀に「天平十九年五月庚辰、太上天皇詔曰、昔者五日之節、常用2菖蒲1爲v縵、比來已停2此事1、從v今而後、非2菖蒲1者勿v入2宮中1云々」と見えてゐるので、當時の状態がよくわかる。○九月能四具禮能時者《ナガツキノシグレノトキハ》――時雨は後世では冬十月の雨としてあるが、この集ではかく九月にもいひ、又、十月鐘禮爾相有黄葉乃《カミナツキシグレニアヘルモミヂバノ》(一五九〇)ともあつて、晩秋から初冬へかけて降る驟雨性の雨を言つたのである。○延葛乃《ハフクズノ》――枕詞。葛の蔓が長いので、遠永《トホナガク》を言ひ起すのに用ゐたのだ。一云|田葛根乃《クズノネノ》とあるのは面白くない。根は不要である。クズを田葛と記す理由は明らかでないが、眞田葛原《マクズハラ》(一三四六)・眞田葛延《マクズハフ》(一九八五)・田葛葉日殊《クズハヒニケニ》(二二九五)・崗乃田葛葉緒《ヲカノクズハヲ》(三〇六八)・延田葛乃《ハフクズノ》(三八三四)などの類極めて多い。○外爾可聞見牟《ヨソニカモミム――外に見るとは、石田王が亡くなられて、通ひ給はぬやうになつたことをいふ。
〔評〕 石田王が初瀬の女に通つた心中を忖度して詠んだもので、死者を悼む歌としては、悲歎の情が稀薄である。左註に或云として人麿の作とあるが、人麿らしい熱情が見えて居らぬ。尚この歌は石田王を女王とする説によれば解が著しく異なつて來るが、ここには述べないことにする。
 
右一首(ハ)或(ハ)云(フ)柿本朝臣人麿(ノ)作
 
この註は後人のもので、信ずべからずと古説が一致してゐる。
 
或本反歌二首
 
略解には反歌でないとして左註を採用してゐる。槻の落葉は初の一首だけを反歌とし、後のものを左註に從つてゐる。これは反歌二首とある記述を尊重して解釋すべきである。
 
424 こもりくの 泊瀬をとめが 手にまける 玉は亂れて ありといはずやも
 
隱口乃《コモリクノ》 泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》 手二纏在《テニマケル》 玉者亂而《タマハミダレテ》 有不言八方《アリトイハズヤモ》
 
(420)(隱口乃)初瀬ノ女ガ大事ニシテ〔五字傍線〕手ニ卷イテヰタ玉ハ、亂レテヰルトイフデハナイカ。初瀬少女ト親シカツタ石田王ハ御薨去遊バシタトイフデハナイカ〔初瀬〜傍線〕。
 
○玉者亂而《タマハミダレテ》――手に纏ける玉が亂れたとは、王の薨去を言つたもので、まことに美しい譬である。○有不言八方《アリトイハズヤモ》――有りと言ふではないかの意。
〔評〕 女王の薨去を露骨な詞で言ひあらはさずに、手にまいた玉の亂れを以てその意を示してゐるのは面白い。
 
425 河風の 寒き長谷を 歎きつつ 君が歩くに 似る人も逢へや
 
河風《カハカゼノ》 寒長谷乎《サムキハツセヲ》 歎乍《ナゲキツツ》 公之阿流久爾《キミガアルクニ》 似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》
 
河風ノ寒ク吹ク長谷ヲ石田王ヲ思ツテ〔七字傍線〕歎キナガラ、初潮ノ少女ガ歩イテ居ルガ、セメテ王ニ似タ人デモ逢へバヨイガ。
 
○公之阿流久爾《キミガアルクニ》――キミは初瀬の少女をさしたものである。○似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》――王に似る人にも逢へよの意。卷二の人麿が妻の死後作つた長歌に、玉桙道行人毛獨谷似之不去者《タマボコノミチユクヒトモヒトリダニテシユカネバ》(二〇七)とあるに似てゐる。
〔評〕 河風寒長谷乎《カハカゼノサムキハツセヲ》は、所がら如何にもさうありさうに見える叙述で、寒い河風に吹かれる初潮少女のいたいたしい姿と、それに對する同情が似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》であはれに歌はれてある。
 
右二首者、或(ハ)云(フ)紀皇女(ノ)薨後、山前王代(リテ)2石田王(ニ)1作(レル)v之(ヲ)也
 
この註は、前の或云と異なつた傳を記したもので、そのいづれが眞なるか、今から判斷のしやうがない。紀皇女は卷二の一一九參照。
 
柿本朝臣人麻呂、見(テ)2香具山(ノ)屍(ヲ)1悲慟(シテ)作(レル)歌一首
 
426 草枕 旅のやどりに 誰がつまか 國忘れたる 家待たまくに
 
草枕《クサマクラ》 ※[覊の馬が奇]宿爾《タビノヤドリニ》 誰嬬可《タガツマカ》 國忘有《クニワスレタル》 家待莫國《イヘマタマクニ》
 
(421)(草枕)旅ノ宿リニ何處〔二字傍線〕ノ誰ノ夫デアラウ。カウシテ自分ノ國ヲ忘レテシマツテコンナ所ニ死ンデヰルノハ〔コン〜傍線〕。家デモ歸リヲ〔三字傍線〕待ツテヰテルデアラウニ。
 
○家待莫國《イヘマタマクニ》――イヘマタナクニと舊訓にあるが、莫は類聚古集に眞とあるに從つて、イヘマタマクニとよむがよい。宣長が舊訓のままとして、このナクは、はしたなくなどのなくと同じと言つたのは、從ひ難い説だ。
〔評〕 嬬とあるが女の死屍ではあるまい。香具山あたりの都近いところにも、往々死人が横たはつてゐたものと見える。題に悲慟とあるが、それほどでないとしても、同情心の深い人麿は、かうした何處の人ともわからぬ屍に、涙を濺いだのである。
 
田口廣麿死之時、刑部垂麻呂《オサカベノタリマロ》作(レル)歌一首
 
田口廣麻呂の傳はわからない。刑部垂麻呂も分らない。二六三參照。
 
427 百足らず 八十隈坂に 手何せば 過ぎにし人に 蓋し逢はむかも
 
百不足《モモタラズ》 八十隅坂爾《ヤソクマサカニ》 手向爲者《タムケセバ》 過去人爾《スギニシヒトニ》 盖相牟鴨《ケダシアハムカモ》
 
(百不足)澤山ノ道ノ曲角ノ坂ニ手向ヲシテ、道ノ神樣ヲ祭ツ〔八字傍線〕タナラバ、死ンダ人ニ、或ハ逢フコトガ出來ルカモ知レナイナア。ドウモソノ外ニハアノ人ニ逢ヘサウニモナイ。アア悲シイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○百不足《モモタラズ》――枕詞。百に足らぬ八十とつづく。○八十隅坂爾《ヤソクマサカニ》――隅の字はこの儘でクマとよんでよい。隈の誤とするには及ばない。坂は路のあやまりとしてクマヂ又はクマデとよむ説もあるが、坂でも分るから改めない方がよい。ヤソクマサカは道の八十隈の坂で、多くの曲り角の坂、即ち坂の多くの曲り角である。坂とあるは山で手向するからであらう。古事記の大國主神の言に、僕《ア》は百不足八十の※[土+向]手《クマデ》に隱りて侍ひなむとあるから、クマデとよむ説も一顧の價値がないではない。スミサカとすれば大和宇陀郡萩原の附近に墨坂があつて、書紀にも見える地であり、又卷四にも君家爾吾住坂乃家道乎毛《キミガイヘニワガスミサカノイヘヂヲモ》(五〇四)とあるが、どうも八十とのつづきが分らないか(422)ら、それは採らぬことにしようと思ふ。
〔評〕 神に手向けるのは、多く自己又は他人の幸福を祈るものであるが、又希望所願をかなへる爲にすることもある。山代石田杜心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニココロオゾクタムケシタレヤイモニアヒガタキ》(二八五六)とあるのは、女に逢はむ爲の手向で、死者に逢はむ爲の手向が、即ちこの歌である。古代人の信仰を知ることが出來るといふだけの歌であらう。
 
土形娘子《ヒヂカタノヲトメノ》火2葬(セシ)泊瀬山(ニ)1時、柿本朝臣人麿作歌一首
 
土形娘子は傳が明らかでない。土形は氏であらうが、これは遊女らしく思はれる。
 
428 こもりくの 泊瀬の山の 山のまに いさよふ雲は 妹にかもあらむ
 
隱口能《コモリクノ》 泊瀬山之《ハツセノヤマノ》 山際爾《ヤマノマニ》 伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》 妹鴨有牟《イモニカモアラム》
 
(隱口能)初瀬ノ山ノ山ノ間ニ、漂ウテヰル雲ハ、アレハ眞ノ雲デハアルマイ。多分〔アレ〜傍線〕土形娘子ヲ火葬シ夕煙〔六字傍線〕デアラウ。
 
○伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》――イサヨフは一所に漂ひて去らぬをいふ。
〔評〕 火葬は文武天皇の四年に僧道昭を火葬したのが最初だといふが、果して然らばこの歌は火葬が始まつてから、あまり程經ない時であらう。何となく物珍らしげな感じが出てゐるやうだ。卷七に隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在武《コモリクノハツセノヤマニカスミタチタナビククモハイモニカモアラム》(一四〇七)とあるのは酷似した歌である。
 
溺(レ)死(ニシ)出雲娘子(ヲ)火2葬(セシ)吉野(ニ)1時、柿本朝臣人麿作歌二首
 
出雲娘子も亦遊女であらう。傳はわからない。
 
429 山のまゆ 出雲の兒らは 霧なれや 吉野の山の 嶺に棚引く
 
山際從《ヤマノマユ》 出雲兒等者《イヅモノコラハ》 霧有哉《キリナレヤ》 吉野山《ヨシヌノヤマノ》 嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》
 
(423)(山際從)出雲ノ娘子ハ火葬セラレテ今ハ〔九字傍線〕霧デアルカラカ、吉野山ノ嶺ニ棚曳イテヰル。
 
○山際從《ヤマノマユ》――枕詞。出づをかけ詞として出雲につづけたのである。○出雲兒等者《イヅモノコラハ》――等はこの場合複數ではない。○霧有哉《キリナレヤ》――霧なればやの意。○嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》――霏の字は雨の細く降るをいふので、※[雨/微]は一寸見當らぬ字である。霏微といふ熟字はある。この集では霏※[雨/微]の二字をタナビクとよんだ例が七回ばかり見える。
〔評〕 見たままをよんだのであるが、霧有哉《キリナレヤ》が何となくあはれに聞える。枕詞の山際從《ヤマノマユ》も歌全體の氣分に合致してゐて面白い。
 
430 八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の おきになづさふ
 
八雲刺《ヤクモサス》 出雲子等《イヅモノコラガ》 黒髪者《クロカミハ》 吉野川《ヨシヌノカハノ》 奧名豆颯《オキニナヅサフ》
 
(八雲刺)出雲娘子ハ、吉野川ニ溺死シテ、ソ〔ハ吉〜傍線〕ノ黒髪ガ吉野川ノ眞中ニ漬ツテヰル。
 
○八雲刺《ヤクモサス》――枕詞。八雲立つとも、やつめさすともいふので、類音を繰返して作られた枕詞である。サスとタツは相轉する音である。素盞嗚尊の神詠に起るとする説はいけない。あの神詠にも、やはり普通の枕詞として用ゐてあるのだ。古事記に、雲が立ちのぼつたから、八雲立つの歌を詠まれとあるのは、あの歌からして出來た傳説に過ぎない。○奧名豆颯《オキニナヅサフ》――奧は沖。名豆颯《ナヅサフ》は水に漬つてゐること。颯をサフに用ゐたのは、言ふまでもなく字音であるが、面白い使ひ方である。
〔評〕 これは溺死した状態を歌つたのであるが、吉野の山に棚引く霞よりも、吉野川の深みに浸つて、漂うてゐる黒髪の方が、より以上、あはれにいたいたしく感ぜられる。死人を見て詠んだ歌は他にもあるが、人麿にはかの狹岑島の石中死人を詠じたものや、香具山の屍を見てよんだ歌などもあり、それらに同情の涙を濺いでゐるのは、彼が愛の詩人であるからである。
 
過(レル)2勝鹿眞間《カツシカノママ》娘子(ノ)墓(ヲ)1時、山部宿禰赤人作(レル)歌一首并短歌
 
勝鹿の眞間は、下總東葛飾郡の市川町大字眞間の地である。國府臺の下に當つて、古昔は謂はゆる(424)眞間の入江が灣入し、海岸へも近く交通至便な國府の近郊であつた。娘子は即ち眞間手兒名で、その地方の有名な美人であつたが、多くの男に戀せられて、せん方なく自から命を絶つたといふのである。これは三山の歌や、處女塚の話、卷十六のかつら兒、櫻兒の話と共に、謂はゆる妻爭傳説に屬するものである。娘子の墓と稱するものが、この頃あつたものと見える。赤人は官命によつて東國に旅して富士山麓を過ぎて、下總に入り眞間を通つたのであらう。赤人の遺跡が、上總國山邊郡大和村大字田中にあるといふのは、この歌から推測した捏造説に過ぎない。
 
431 古に 在りけむ人の 倭文幡の 帶解きかへて ふせ屋立て 妻問しけむ 葛飾の 眞間の手兒名が 奧津城を 此處とは聞けど 眞木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らえなくに
 
古昔《イニシヘニ》 有家武人之《アリケムヒトノ》 倭文幡乃《シヅハタノ》 帶解替而《オビトキカヘテ》 廬屋立《フセヤタテ》 妻問爲家武《ツマドヒシケム》 勝牡鹿乃《カツシカノ》 眞間之手兒名之《ママノテコナガ》 奧槨乎《オクツキヲ》 此間登波聞杼《ココトハキケド》 眞木葉哉《マキノハヤ》 茂有良武《シゲリタルラム》 松之根也《マツガネヤ》 遠久寸《トホクヒサシキ》 言耳毛《コトノミモ》 名耳母吾者《ナノミモワレハ》 不所忘《ワスラエナクニ》
 
昔コノ葛飾ニ〔五字傍線〕居タ男ガ、娘子ヲ妻トシテ迎ヘル爲ニ〔娘子〜傍線〕、小サイ低イ家ヲ建テテ、倭文布デ作ツタ帶ヲ解キ変ハシテ、娘子ト婚シタトイフソノ〔二字傍線〕葛飾ノ眞間ノ手兒名ノ墓所ハ、此處ダト聞キテヰルガ、檜ノ葉ガ茂ツテヰテ見エナイ〔四字傍線〕ノダラウカ。或ハ松ノ根ガ張ツテ、ソレカラ〔七字傍線〕遠ク久シク時代ガ經ツタカラデアラウカ。ワザワザ尋ネテ來テモ墓所モ明瞭デナイ。コノ手兒名ノコトヲ〔ワザ〜傍線〕話ニバカリ聞キ、評判ニバカリ聞イテ、私ハ忘レルコトガ出來ナイヨ。
 
○古昔有家武人之《イニシヘニアリケムヒトノ》――古昔あつたであらう人がの意。即ち手兒名當時の男をいふ。○倭文幡乃《シヅハタノ》――倭文《シヅ》はスヂと同語で穀《カヂ》又は麻を用ゐて織つた布で、縞になつてゐもものらしい。これは當時に於ても古風な布であつたのであらう。卷十一に古家之倭文旗帶結垂《イニシヘノシヅハタオビヲムスビタレ》(二六二八)ともある。神代紀に倭文《シドリ》神此云2斯圖梨能俄未1とあるはシヅオリの略である。これで見ても我が固有の文布《アヤヌノ》たることがわかる。○帶解替而《オビトキカヘテ》――帶を解き交はしての意。(425)併しそれでは手兒名が男に逢つたことになつて、一般に傳へられてゐる説話と異なり、卷九に出てゐるものとも違ふことになるといふので、古い帶を解き、新しい倭文の帶に替へての意、即ち帶しめ替へての意とすべしとする説もあるが、この句の替而《カヘテ》は、敷妙乃袖替易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》(一五五)、敷細乃衣手易而《シキタヘノコロモデカヘテ》(五四六)摩多麻提乃多麻提佐斯迦閉《マタマデノタマデサシカヘ》(八〇四)手枕易寢夜《タマクラカヘテネタルヨハ》(二〇三一)の類と同じく、交はしての意である。解替而《トキカヘテ》を古きを解き、新しきに替へるとは、あまり勝手な説明であらう。又妻を迎へむ爲ならば、帶を解き改めるといふのもどうであらう。寧ろ衣を改めるとか、或は新装してとかいふやうな意を歌ふべきではないか。この句は下に續き方が少し穩やかでない爲、かやうな説も出たのであるが、ここは盧屋立て、倭文幡の帶解きかへて妻問ひしけむといふ意になつてゐるのである。○盧屋立《フセヤタテ》――伏屋建ての意で、結婚の爲に謂はゆる嬬屋を新築するのである。盧の字は、田盧爾居者《タブセニヲレバ》(一五九二)・盧八燎《フセヤタキ》(一八〇九)などと同じくフセとよむべきである。○妻問爲家武《ツマトヒシケム》――ツマドヒは求婚の意と、婚することの兩義がある。ここは男女相逢うて婚することである。但しさう見る時は、前に述べたやうに、この女が、既に或男を夫としたことになり、多くの男に言ひ寄られて、いづれにも身を任せかねて死んだとする傳と異なつて來るが、それは妻爭傳説の一形式として少しも差支ないので、この赤人の詠んだのは、卷九のとは異なつて手兒名に夫があつたといふ話によつたのであらう。葦屋處女の傳説でも、卷九の反歌には墓上之木枝靡有如聞陳努壯士爾之依家良信母《ハカノウヘノコノエナビケリキキシゴトチヌヲトコニシヨリニケラシモ》(一八一一)とあつて、陳努壯士を夫と定めてゐたらしい傳もあつたのである。さうすれば、手兒名が身を捨てたのは、袈裟御前の心事と同じことになるのであるが、さう見て少しも差支はない。○勝牡鹿乃眞間之手兒名之《カツシカノママノテゴナガ》――右の題詞に説明した通りであるが、手兒名の語義について考へると、波爾思奈能伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰《ハニシナノイシヰノテコガコトナタエソネ》(三三九八)の歌に手兒とあるから、ナは親しみ添へたものと思はれる。さうして手兒は父母の手に養はれる愛子といふやうな意で、哭乎曾奈伎都流手兒爾安良奈久爾《ネヲゾナキツルテコニアラナクニ》(三四八五)は赤兒のことに用ゐられてゐる。だから手兒名は固有名詞ではなく、處女《ヲトメ》といふのと殆ど同じ意義と考へてよい。今、眞間山弘法寺内に手古奈明神として祭られてゐる。尚、和訓栞には「奧州津輕の邊にて蝶をテコナといふ」と記してあるが、それとこれとは關係があるまい。○奧槨乎《オクツキヲ》――オクツキは奧つ城。墓のこと。槨は棺の外郭を意味する文字。○眞木葉哉茂有良武《マキノハヤシゲリタルラム》――眞木は檜などの類。眞木が生ひ茂つて墓が確かには見えないといふのである。(426)○松之根也遠久寸《マツガネヤトホクヒサシキ》――松の根が張つて老松となり、時代が遠く久しく距つてゐる爲かの意。○言耳毛名耳母吾者不所忘《コトノミモナノミモワレハワスラエナクニ》――言にのみ聞き、名にのみ聞きて、吾は忘られぬよの意。言は言葉で、世の人の話をいふ。名は世の評判をいふ。ワスラエナクニは忘れられないよの意。
〔評〕 娘子に關する説話と、墓所の叙景と、自己の感情とが短い章句の中に、ぎつしりと詰め込まれてゐる。それだけ全體が緊張してゐる。奧槨乎此間登波聞杼《オクツキヲココトハキケド》、眞木葉哉茂有良武松之根也遠久寸《マキノハヤシゲリタルラムマツガネヤトホクヒサシキ》の數句は人麿の大宮者此間等雖聞大殿者此間等雖云春草之茂生有霞立春日之霧流《オホミヤハココトキケドモオホトノハココトイヘドモハルクサノシゲクオヒタルカスミタツハルヒノキレル》(二九)とあるのに、よく似た句法である。
 
反歌
 
432 われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 眞間の手兒名が 奧津城處
 
吾毛見都《ワレモミツ》 人爾毛將告《ヒトニモツゲム》 勝牡鹿之《カツシカノ》 間間能手兒名之《ママノテゴナガ》 奧津城處《オクツキドコロ》
 
昔カラ有名ナ〔六字傍線〕葛飾ノ眞間ノ手兒名ノコノ墓所ヲ、私モ見タ。人ニモ話シテ聞カセテヤラウ。
〔評〕 珍らしいものを見て、言ひ繼がむとか、語り繼がむといふのが、古代の人の常である。文筆に記し止めるよりも、口から口に語り傳へるを常とした、上代のならはしが、かうした表現をおのづからなさしめてゐるのである。
 
433 葛飾の 眞間の入江に うち靡く 玉藻苅りけむ 手兒名し思ほゆ
 
勝牡鹿乃《カツシカノ》 眞眞乃入江爾《ママノイリエニ》 打靡《ウチナビク》 玉藻苅兼《タマモカリケム》 手兒名志所念《テゴナシオモホユ》
 
來テ見レバ眞間ノ入江ニ玉藻ガ靡イテヰルガ〔來テ〜傍線〕、葛飾ノ眞間ノ入江デ水ノマニマニ〔六字傍線〕靡イテヰル玉藻ヲ苅ツタダラウト思ハレル、アノ手兒名ガ思ヒ出サレルヨ。サゾ美人デアツタラウ〔十字傍線〕。
〔評〕 滿々と水を湛へた眞間の入江に、美しい藻が流に漂うてゐるのを見て、この玉藻を苅る鄙の手業にいそしんでゐたらしい手兒名を偲んだのである。玉藻を美人に譬へた例は澤山あるが、これは玉藻を見て美人を懷ひ(427)起したのである。やさしい懷古の情が、柔らかいしんみりとした調子で述べられてゐる。
 
和銅四年辛亥、河邊宮人、見(テ)2姫島(ノ)松原(ニ)美人(ノ)屍(ヲ)1哀慟(シテ)作(レル)歌四首
 
この題詞は既に卷二の二二八の題詞に、和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見2孃子屍1悲嘆作歌二首として出てゐるものを、誤つて再び掲げたものか。以下の四首には全くその趣が見えない。
 
434 風速の 美保の浦みの 白躑躅 見れどもさぶし 亡き人思へば 或云、見れば悲しも無き人思ふに
 
加麻※[白+番]夜能《カザハヤノ》 美保乃浦廻之《ミホノウラミノ》 白管仕《シラツツジ》 見十方不怜《ミレドモサブシ》 無人念者《ナキヒトオモヘバ》【或云|見者悲霜無人思丹《ミレバカナシモナキヒトオモフニ》
 
風早ノ美保ノ浦ノアタリニ咲イテヰル白イ躑躅ノ花ヲ見テモ、私ハ昔此處ニヰタ〔八字傍線〕久米稚子ヲ追憶スルト、心ガ淋シク悲シイ。
 
○加麻※[白+番]夜能《カザハヤノ》――風早の三穗の浦は紀伊國日高郡で、前にあつた博通法師の三穗石室の歌(三〇七)と同じところである。名所圖會に「三穗は今三尾と書く。この浦の浪打こゆる岩群ある所をあさはいと字す、即ち風早の名の遺れるなり」と見えてゐる。卷七に風早之三穗乃浦廻乎榜舟之《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノ》(三二八)とあるのも同所らしい。卷十五に風速浦舶泊之夜作歌二首とあるのは、安藝である。麻の字はアサの略サとも思はれぬことはないが、麻をサの假名に用ゐた例は全く無いから、座の誤であらう。※[白+番]の字も他に用例はないが、これは呉音バ、漢音ハであるから、これでよからう。○白管仕《シラツツジ》――白躑躅。○見十方不怜《ミレドモサブシ》――不怜は不樂と同じ意。○無人念者《ナキヒトオモヘバ》――無人《ナキヒト》は次の歌によれば、久米若子である。
〔評〕 これは前にあつた博通法師の、三穗石室の歌と同じ趣で、恐らく同一人の作であらう。美しい白躑躅を見ても感興を催さず、故人を偲ぶ樣があはれである。或云の方も大同小異であるが、見者《ミレバ》よりも見十方《ミレドモ》の方がよいやうである。
 
435 みつみつし 久米の若子が い觸りけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも
 
見津見津四《ミツミツシ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊觸家武《イフリケム》 礒之草根乃《イソノクサネノ》 干卷惜裳《カレマクヲシモ》
 
(428)(見津見津四)久米ノ稚子ガ觸レタラウト思ハレル、磯ノ草ノ根ガ枯レテシマフノハ惜シイモノダ。コノ草ハ稚子ノ形見ダノニ〔コノ〜傍線〕。
 
○見津見津四《ミツミツシ》――枕詞。勢威あるの義で、久米は神代の天津久米命、神武天皇の御代の大久米命などが、勇武の譽があつたから、ミツミツシ久米とつづくことになつたと言はれてゐる。○久米能若子《クメノワクゴ》――三〇七參照。○伊觸家武《イフリケム》――伊《イ》は發語。觸はフレとよむよりもフリの方がよい。○礒之草根乃《イソノクサネノ》――草は略解にカヤとよんでゐるが、屋根に葺くのではないから、ここはカヤとよむべくもない。
〔評〕 これも言ふまでもなく前の歌と同じく、三穗の石室に關する作である。前の白躑躅の歌と同じやうな感じが出て見る。
 
436 人言の 繁きこの頃 玉ならば 手に卷き持ちて 戀ひずあらましを
 
人言之《ヒトゴトノ》 繁比日《シゲキコノゴロ》 玉有者《タマナラバ》 手爾卷以而《テニマキモチテ》 不戀有益雄《コヒズアラマシヲ》
 
人ノ口ガヤカマシイコノ頃、モシアノ女ガ〔六字傍線〕玉ナラバ、手ニ卷キ付ケテ持ツテヰテ、戀ヒシガラズニヰヨウノニ。玉デナイカラサウモナラヌ、サテモサテモ戀シイ〔玉デ〜傍線〕。
〔評〕 これは相聞の歌で、此處に入るべきではない。卷二に玉有者手爾卷持而《タマナラハテニマキモチテ》(一五〇)とあり、卷四に玉有者手二母將卷乎《タマナラバテニモマカムヲ》(七二九)とあつて、愛人を玉ならば手に卷かむといふのは、類型的思想で、あまり面白いことはない。
 
437 妹も吾も きよみの河の 川岸の 妹が悔ゆべき 心は持たじ
 
妹毛吾毛《イモモワレモ》 清之河乃《キヨミノカハノ》 河岸之《カハギシノ》 妹我可悔《イモガクユベキ》 心者不持《ココロハモタジ》
 
妻モ私モ、心ガ清クテ〔九字傍線〕(妹毛吾毛清之河乃河岸之)妻ガ後デ悔ムヤウナ、ソンナ薄情ナ〔六字傍線〕心ハ私ハ〔二字傍線〕持チマセヌ。安心シナサイ〔六字傍線〕。
 
○妹毛吾毛清之河乃河岸之《イモモワレモキヨミノカハノカハギシノ》――可悔《クユベキ》と言はむ爲の序詞。崩ゆべきの意にかけてある。妹毛吾毛《イモモワレモ》とは清と言はむ爲(429)に置いたので、二人の心の清きをいふのである。枕詞のやうな役目をしてゐるが、眞の枕詞ではない。清之河《キヨミノカハ》は卷二に飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》(一六七)とあつて、淨御原の宮をさしてゐるから、淨御原附近で飛鳥川をかく呼んだものであらう。
〔評〕 これも相聞の歌である。序の作り方が面白いが、併し東歌に可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《カマクラノミコシノサキノイハクエノキミガクユベキココロハモタジ》(三三五六)とあるのと、下句は殆ど同じで、これを本として、歌ひ變へたものと思はれる。又卷十に雨零者瀧都山川於石觸君之摧情者不持《アメフレバタギツヤマカハイハニフリキミガクダカムココロハモタジ》(二三〇八)とあるのも似た歌である。
 
右案(ズルニ)年紀并所處及(ビ)娘子(ノ)屍(ノ)作歌人名、已(ニ)見(ユル)v上(ニ)也。但歌辭相違(シ)是非難(シ)v別(チ)、因(テ)以(テ)累(ネテ)載(ス)2於茲(ノ)次(ニ)1焉。
 
所處の下、及の字、舊本乃になつてゐるのは誤である。この註を古義に、仙覺などが註せるにやと言つてゐるが、さう新しいものとも思はれない。
 
神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿、思(ヒ)2戀(フル)故人(ヲ)1歌三首
 
大伴卿は旅人。故人はその妻大伴郎女をいふ。卷八に、神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇v病長逝焉云々とある。舊本故人の下に歌の字がない。類聚古集によつて補ふ。
 
438 うつくしき 人の纏きてし 敷妙の 吾が手枕を 纏く人あらめや
 
愛《ウツクシキ》 人纏而師《ヒトノマキテシ》 敷細之《シキタヘノ》 吾手枕乎《ワガタマクラヲ》 纏人將有哉《マクヒトアラメヤ》
 
私ノ〔二字傍線〕愛スル人ガ、枕トシテ寢タ(敷細之)私ノ手枕ヲ、アノ人ヨリ外ニ〔七字傍線〕枕トシテ寢ル人ガアラウカ。ソンナ人ハアリマセヌ〔ソン〜傍線〕。
 
○愛《ウツクシキ》――童蒙抄にウルハシキとよんだ説に略解は從つてゐるが、舊訓にウツクシキとあるのがよい。
〔評〕 愛する妻はこの世の人でなくなつた。この我が腕は、もはや枕する者もなくなつたと悲傷したので、孤獨(430)になつた淋しさを嘆いたのである。略解に「心は他人に又あはじといふなり」とあるのは少し言ひ過ぎであらう。
 
右一首(ハ)別(レ)去(リテ)而經(テ)2數句(ヲ)1作(レル)歌
 
別去は死去と同義である。
 
439 還るべく 時は成りけり 都にて 誰が袂をか 吾が枕かむ
 
應還《カヘルベク》 時者成來《トキハナリケリ》 京師爾而《ミヤコニテ》 誰手本乎可《タガタモトヲカ》 吾將枕《ワガマクラカム》
 
イヨイヨ都ヘ〔六字傍線〕歸ルベキ時トナツタワイ。都ヘ歸ツテ私ハ、誰ノ袂ヲ枕ニシテ寢ヨウゾ。妻ハスデニ死ンデシマツタカラ誰モ袂ヲ枕サセルモノモナイ。アア〔妻ハ〜傍線〕。
 
○應還時者成來《カヘルベクトキハナリケリ》――舊訓カヘルベキトキニハナリヌとあるのを、代匠記精撰本にカヘルベクトキハナリケリとしたのがよい。宣長が來を去として、カヘルベキトキニハナリヌとしたのも、古義に成を來として、カヘルベキトキハキニケリとしたのも皆惡い。
〔評〕 京に歸るべき時が近づくに從つて、亡妻を思ふ情はいよいよ募つて來る。京に歸つても誰の手枕をしようぞ、ただ妻の手枕が戀しく思はれる。前の歌は我が手を妻にまかしめた思ひ出で、これは妻の手を枕とした追憶である。
 
440 みやこなる 荒れたる家に ひとり宿ば 旅に増りて 苦しかるべし
 
在京師《ミヤコナル》 荒有家爾《アレタルイヘニ》 一宿者《ヒトリネバ》 益旅而《タビニマサリテ》 可辛苦《クルシカルベシ》
 
久シ振デ都ニ歸ツテ〔九字傍線〕、都ニアル荒レ果テタ家ニ一人デ寢タナラバ、旅ニアル時以上ニ苦シカラウト思ハレル。ソレニツケテモ亡キ妻ガ戀シイヨ〔ト思〜傍線〕。
〔評〕 歸京せんとする喜びも、亡妻を思へば全く幻のやうに消え去つてしまふ。荒有家爾一宿者《アレタルイヘニヒトリネバ》は、實に悲しい淋しいいたましい詞である。右三首はいづれも平明な作であるが、最後のこの一首が最もあはれに出來てゐる。(431)下にある歸京途上の作や、京に入つてからの作を見ても、旅人の衷情を思へば、眞に涙を催さずには居られない。
 
右二首(ハ)臨(ミ)2近(ヅキ)向(フ)v京(ニ)之時(ニ)1作(レル)歌
 
題詞に神龜五年戊辰云々として歌三首とある。併し後の二首は歸京の期が近づいてからの作で、即ち天平二年の冬になつてからのことである。
 
神龜六年己巳、左大臣長屋王(ニ)賜(ヒシ)v死(ヲ)之後、倉橋部女王(ノ)作(レル)歌一首
 
長屋王は天武天皇之御孫、高市親王の御子。私に左道を學んで國家を傾けむとしたといふので、自盡せしめられたことが續紀に見えてゐる。七五參照。倉橋部女王は傳が明らかでない。
 
441 大きみの 命恐み 大あらきの 時にはあらぬど 雲隱ります
 
大皇之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 大荒城乃《オホアラキノ》 時爾波不有跡《トキニハアラネド》 雲隱座《クモガクリマス》
 
天子樣ノ勅ノ畏サニ、長屋王樣ハ〔五字傍線〕、今薨去ナサルベキ時デハナイガ、自殺セヨトノ勅ニ從ツテ〔自殺〜傍線〕、御自害遊バシタ。オ氣ノ毒ナコトデス〔九字傍線〕。
 
○大皇之《オホキミノ》――大の字、太とある古本も多い。いづれでもよいであらう。この句舊訓はスベロギノであるが、類聚古集にオホキミとあるのに從つて置かう。天皇を指し奉る。○大荒城乃《オホアラキノ》――大は美稱、アラキは新城で、殯殿をいふ。殯殿は本葬までの假宮であるが、孝徳天皇の大化二年に「凡王以下乃至2庶民1不v得v營v殯」といふ制が出てから、殯殿は作らなくなつたが、やはり葬送の時を大アラキと言つたものである。
〔評〕 長屋王に對する同情をあらはしつつ、しかも天皇に對する敬意を失はぬやうに、巧みに詠んである。
 
悲2傷(メル)膳部《カシハデベノ》王(ヲ)1歌一首
 
續妃に「令2長屋王(ヲ)自盡1其室二品吉備(ノ)内親王、男從四位下膳夫王、无位桑田王、葛木王、釣取王(432)等、同亦自縊」とある。
 
442 世の中は 空しきものと あらむとぞ この照る月は 滿闕しける
 
世間者《ヨノナカハ》 空物跡《ムナシキモノト》 將有登曾《アラムトゾ》 此照月者《コノテルツキハ》 滿闕爲家流《ミチカケシケル》
 
世間ハ無常ナモノデアラウトイフノデ、ソノ道理ヲ示シテ〔八字傍線〕、アノ空ニ〔二字傍線〕照ツテヰル月ハ、滿チタリ缺ケタリスルワイ。膳部王ノ突然ノ薨去ハ實ニ悲シクイタマシイ。アア無常ノ世ノ中ダ〔膳部〜傍線〕。
 
○空物跡《ムナシキモノト》――空物《ムナシキモノ》は無常な物といふに同じ。跡《ト》はデの意。
〔評〕 卷七に隱口乃泊瀬之山丹照月者盈※[日/仄]爲烏人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケシケリヒトノツネナキ》(一二七〇)、卷十九に天原振左氣見婆照月毛盈※[日/仄]之家里《アマノハラフリサケミレバテルツキモミチカケシケリ》(四一六〇)とあつて、月の滿ち闕けに世の無常を感ずるのは佛教思想で、この歌は上の句に殊に無常觀が強く言ひあらはされてゐる。左註にある如く作者不明であるが、當時に於て既にかうした佛教的無常觀が、かなり深く一般の人心に食ひ込んだ跡が見える。
 
右一首、作者未v詳
 
天平元年己已、攝津國班田(ノ)史生|丈部龍麿《ハセツカベノタツマロ》自(ラ)經(レ)死(セ)之時、判官大伴宿禰|三中《ミナカ》作(レル)歌一首短歌
 
班田(ノ)史生は班田のことを掌る史生で、班田は公民に口分田及びその他の賜田を班ち授けることで、この事務を掌るのは諸國の國司であつたが、五畿内だけは特に班田使を任命して、これに當らしめた。これに長官・次官・判官・主典・史生などがあつた。史生は書紀で卑官である。丈部龍麻呂は傳が明らかでない。この氏は卷二十の防人に多く見え、元來安房國長狹郡の地名であるから、この人も恐らく東國人であらう。經死は縊死に同じ。判官は班田使の判官即ち龍麻呂の上官である。三中はこの後、遣新羅使副使・兵部少輔・山陽道巡察使・少貳・長門守・刑部大判事などになつたこと(433)が續紀に見えてゐる。
 
443 天雲の 向伏す國の 武士と 云はれし人は すめろぎの 神の御門に 外のへに 立ちさもらひ 内のへに 仕へ奉り 玉かづら いや遠長く 祖の名も 繼ぎゆくものと おも父に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より 垂乳根の 母の命は いはひべを 前にすゑ置きて 一手には 木綿取り持ち 一手には にぎたへ奉り 平らけく ま幸く坐せと 天地の 神に乞ひのみ 如何ならむ 歳月日にか つつじ花 匂へる君が 牛留鳥の なづさひ來むと 立ちてゐて 待ちけむ人は 大きみの 命恐み 押てる 難波の國に あらたまの 年經るまでに 白妙の 衣手干さず 朝よひに 在りつる君は いかさまに 念ませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて往にけむ 時ならずして
 
天雲之《アマグモノ》 向伏國《ムカフスクニノ》 武士登《モノノフト》 所云人者《イハレシヒトハ》 皇祖《スメロギノ》 神之御門爾《カミノミカドニ》 外重爾《トノヘニ》 立候《タチサモラヒ》 内重爾《ウチノヘニ》 仕奉《ツカヘマツリ》 玉葛《タマカヅラ》 彌遠長《イヤトホナガク》 祖名文《オヤノナモ》 繼往物與《ツギユクモノト》 母父爾《オモチチニ》 妻爾子等爾《ツマニコドモニ》 語而《カタラヒテ》 立西日從《タチニシヒヨリ》 帶乳根乃《タラチネノ》 母命者《ハハノミコトハ》 齋忌戸乎《イハヒベヲ》 前座置而《マヘニスヱオキテ》 一手者《ヒトテニハ》 木綿取持《ユフトリモチ》 一手者《ヒトテニハ》 和細布奉《ニギタヘマツリ》 平《タヒラケク》 間幸座與《マサキクマセト》 天地乃《アメツチノ》 神祇乞祷《カミニコヒノミ》 何在《イカナラム》 歳月日香《トシツキヒニカ》 茵花《ツツジバナ》 香君之《ニホヘルキミガ》 牛留鳥《クロトリノ》 名津匝來與《ナヅサヒコムト》 立居而《タチテヰテ》 待監人者《マチケムヒトハ》 王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 押光《オシテル》 難波國爾《ナニハノクニニ》 荒玉之《アラタマノ》 年經左右二《トシフルマデニ》 白栲《シロタヘノ》 衣不干《コロモデホサズ》 朝夕《アサヨヒニ》 在鶴公者《アリツルキミハ》 何方爾《イカサマニ》 念座可《オモヒマセカ》 鬱蝉乃《ウツセミノ》 惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》 露霜《ツユジモノ》 置而往監《オキテイニケム》 時爾不在之天《トキナラズシテ》
 
天ノ雲ガ低ク地ニ向ツテ垂レ伏シテヰル遠イ〔二字傍線〕國ノ、東國人ノ中デモ〔七字傍線〕強イ武士ト言ハレタ龍麻呂トイフ〔六字傍線〕人ハ、コノ世ノ神樣デアル〔九字傍線〕天子樣ノ朝廷ニ、外廓ヲ守ル爲ニ立チテ仕ヘ、内ノ御門ノ役ヲ勤メ、オ仕ヘ申シテ(玉葛)彌々遠ク永ク、先祖カラノ勇名ヲ受ケ繼イデ行クベキモノト、父母ニモ妻子ニモ話ヲシテ、故郷ヲ〔三字傍線〕出立シタ日カラ、(帶乳根乃)母上ハ神樣ヲ祭ル〔五字傍線〕酒甕ヲ前ニ据ヱテ置イテ、片手ニハ木綿ヲ取ツテ、オ持チナサレ、他ノ片手ニハ柔カイ布ヲ持ツテ神ニ〔二字傍線〕奉ツテ、平穩無事デオイデナサイト、天神地祇ニ祈ツテ、何年、何月、何日ニナツタラ、(茵花)美シイ貴方ガ(牛留鳥)難儀ヲシナガラ歸ツテ來ルダラウト、立ツタリ居タリシテ貴方ヲ〔三字傍線〕(434)待ツテヰタラウノニ、天子樣ノ勅ヲ畏多ク謹ンデ、(押光)難波ノ國ニ(荒玉之)年ガ立ツマデモ田ノ見廻リヲシテ〔八字傍線〕(白栲)衣ノ袖ヲ干ス暇モナク、朝ニ晩ニ暮シテヰタ貴方ハ、何ト思召シテカ、アタラ惜シイコノ(欝蝉乃)世ノ中ヲ、死スベキ時デモナイノニ、(露霜)棄テテ置イテ去ツテシマツタノデアラウ。悲シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○天雲之向伏國《アマグモノムカブスクニノ》――空の雲が地に向つて伏してゐるやうに見える國の果、即ち遠國の意で、これは龍麻呂が東國の人であつたから、かう言つたのである。○武士登《モノノフト》――武士は舊訓モノノフであるのを、古義にマスラヲと改めてあるが、集中の用例少く、訓はいづれとも定め難い。暫く舊訓に從ふことにする。○皇祖神之御門爾《スメロギノカミノミカドニ》――天皇の朝廷にの意。これを「前つ御代々々をかねてかく言へるなり」と略解にあるのはどうであらう。龍麻呂だけのことを言つたものである。○外重爾《トノヘニ》――宮城の外郭に、即ち外側の門にの意。○内重爾《ウチノヘニ》――内郭に即ち閣門。○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。遠長とつづく。○祖名文繼往物與《オヤノナモヅギユクモノト》――先祖の佳き名を繼いで行くべきものとての意。○母父爾《オモチチニ》――母をオモといふのは古語である。卷二十に意毛知知我多米《オモチチガタメ》(四四〇二)とある。その他例が多い。○帶乳根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。タラチはタラシと同じく滿ち足りてゐること、讃める意で、、ネは親しみ添へたもの。○和細布奉《ニギタヘマツリ》――和栲を神に供へること。○乎《タヒラケク》――神田本に平とあるに從ふべきである。○茵花《ツツジバナ》――枕詞。躑躅花匂ふとつづく。紅きをほめたのである。○香君之《ニホヘルキミガ》――香の字はカ、カグ、カグハシなどよむ例であるが、ここはニホヘルとよむべきである。卷十三に都追慈花爾太遙越賣《ツツジバナニホエヲトメ》(三三〇九)とある。蓋し薫の字を薫如《ニホフガゴトク》(三二八)とよむのと同樣である。○牛留鳥《クロトリノ》――牛をヒクとよみ、留鳥をアミとよんでヒクアミノとする説、又は牛の字を上の之と合して、牽としてヒクとよむ説が行はれ、又牛留を爾富の誤として、ニホ鳥とする槻の落葉説など勢力があるが、誤字とするはなるべく排すべきである。字音辨證に、牛はク留はロとよむべきを、字音の方面から評論してゐるのは傾聽すべきで、今暫くこれに從ふこことする。黒鳥は黒鴨のことである。この句名津匝《ナヅサヒ》とつづく枕詞。○名津匝來與《ナヅサヒコムト》――水に漬るをナヅサフといふ。ここは難澁する意に用ゐたものか。匝の字はサフの音なるを、サヒと用ゐたのである。前に奧名豆颯《オキニナヅサフ》(四三〇)とある颯と同じく、入聲の音を用ゐたのは(435)珍しい例だ。○押光《オシテル》――枕詞。難波とつづく。その連續の意味については、よく分らない。卷二十に難波乃海於之弖流宮爾伎許之賣須奈倍《ナニハノウミオシテルミヤニキコシメスナベ》(四三六一)とあつて、オシテルは難波の一名のやうになつてゐる。卷六に超2草香山1時、神社忌寸老麻呂の作歌に、直超乃此徑爾師弖押照哉難波乃海跡名附家良思裳《タダコエノコノミチニテオシテルヤナニハノウミトナヅケケラシモ》(九七七)とあるのは、これを説明した歌であるが、作者の私言で、これを以てこの枕詞の起源を説くわけには行かぬ。冠辭考には襲立浪急之崎《オソヒタテルナミハヤノサキ》として、波の並び重れる意としてゐる。○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。年とつづくのは、荒玉は砥にかけて磨ぐからだとする説がよいやうに思ふ。宣長は新新間《アタラアタラマ》の移り行く年の義としてゐる。冠辭考|明宝《アラタマ》の貴《タカ》しの意で、タカシの約が年になるのだと言つてゐるのは無理な説であらう。○衣不干《コロモテホサズ》――コロモモホサズと槻の落葉によんだのもよいが、下に白細之衣袖不干《シロタヘノコロモテホサズ》(四六〇)とあるに傚つてよむべきであらう。旅にあつて雨露に袖を霑すをいふので、班田使の卑官として田圃の間にいそしんだ意である。○鬱蝉乃《ウツセミノ》――枕詞。現身《ウツシミ》のの意。○露霜《ツユジモノ》――枕詞。置くとつづく。○時不在之天《トキナラズシテ》――死すべき時にはあらずしての意。自殺したことをいふ。
〔評〕 自分の部下の死を悲しむ衷情がよく出てゐる。部下ながらも用語も丁寧で、龍麻呂の東國から出でて宮仕した抱負と、故郷の母がその歸りを待つてゐる親心とを思ひやり、それが突如として裏切られた不慮の死を、驚き傷んでゐるのは、親切な眞心の作といふべきである。
 
反歌
 
444 昨日こそ 君は在りしか 思はぬに 濱松の上に 雲と棚引く
 
昨日社《キノフコソ》 公者在然《キミハアリシカ》 不思爾《オモハヌニ》 濱松之上於《ハママツノウヘニ》 雲棚引《クモトタナビク》
 
昨日ハ貴方ハ生キテヰタ。然ルニ今日ハ〔六字傍線〕思ヒモヨラズ濱ノ松ノ上ニ、火葬ノ煙トナツテ〔八字傍線〕雲ノヤウニ棚曳イテヰル。實ニ人ノ命ハタノミ難イモノダ〔實ニ〜傍線〕。
 
○昨日社公者在然《キノフコソキミハアリシカ》――昨日こそ君は生きてゐた。然るにの意。卷九の昨日己曾吾越來牡鹿《キノフコソワガコエコシカ》(一七五一)、卷十の昨日社年者極之賀《キノフコソトシハハテシカ》(一八四三)、卷十七の昨日許曾敷奈底姿勢之可《キノフコソフナデハセシカ》(三八九三)などと同じ型である。○濱松之上於雲棚引《ハママツノウヘニクモトタナビク》―(436)―火葬した烟が濱松の上に棚引くといふのである。舊訓を改めて、ハママツノヘノクモニタナビクとよむ説が多いが、上の字は類聚古集その他の古本にないから、於をウヘとよむべきである。舊訓のままにして置かう。
〔評〕 前に掲げられてゐる出雲娘子を火葬した時、人麿がよんだ歌(四二九)などから暗示を得たものか。事の意外に驚いた感情はよくあらはれてゐる。「昨日こそ……しか」は右に掲げた諸例によつて、既に型となつてゐたことがわかる。古今集の「昨日こそ早苗とりしか」はこれを踏襲したものである。
 
445 いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 言だに告げず 往にし君かも
 
何時然跡《イツシカト》 待牟妹爾《マツラムイモニ》 玉梓乃《タマヅサノ》 事太爾不告《コトダニツゲズ》 往公鴨《イニシキミカモ》
 
何時カ何時カト貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテヰル妻ニ、使ヲヤル言傳モシナイデ、貴方ハ死ンデシマツタヨ。ドンナニカ待ツテヰルダラウニ〔ドン〜傍線〕。
 
○玉梓乃《タマヅサノ》――使の枕詞を使の意に用ゐてある。玉梓乃人曾言鶴《タマヅサノヒトゾイヒツル》(四二〇)とあるに同じ。○事太爾不告《コトダニツゲズ》――事は言の借字。
〔評〕 故郷の妻に書置状もなく、死んだ人の心中を測りかね、その妻をあはれんでゐる。往公鴨《イニシキミカモ》と歌ひ捨てたところに死者に對する同情感が籠つてゐる。
 
天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿、向(ヒテ)v京(ニ)上(リシ)v道(ニ)之時、作(レル)歌五首
 
大伴旅人が、大納言となつて歸京途上の作である。
 
446 吾妹子が 見し鞆の浦の 室の木は 常世にあれど 見し人ぞ亡き
 
吾妹子之《ワギモコガ》 見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》 天木香樹者《ムロノキハ》 常世有跡《トコヨニアレド》 見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》
 
私ノ妻ガ都カラ太宰府ヘ下ル時ニ〔都カ〜三字傍線〕見タ、鞆ノ浦ノ室ノ木ハ、ソノ時ノ儘デ少シモカハラナイガ、ソレヲ見タ妻ハ死ンデシマツタ。アア悲シイ〔五字傍線〕
 
(437)○見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》――鞆浦は備後國沼隈郡にある。古代外賓接待の海驛として榮えてゐた。挿入寫眞は高石眞五郎氏の好意による。○天木香樹者《ムロノキハ》――新撰字鏡に※[木+泉]をムロノ木とよんでゐるから、天木香樹はムロノキとよんでよいのであらう。この木を和名抄に※[木+聖]一名河柳、牟呂乃岐とあるによつて、御柳《ギヨリウ》とする説もあるが、御柳は支那原産の觀賞植物で、山野に自生するを見ない。しかも小野蘭山の天明二年に出した本草講義には「五十年前來る」とあるので、白井光太郎氏は享保十八年に渡來したと推定して居られる。その上、御柳は落葉樹で、極めて枝のか細いものであるから、十二月の頃はあまり目立たない筈である。玉勝間に田中道麿説として出てゐる杜松《ネズ》とするのが當つてゐるやうである。この木は關西・中國地方に多く、今もムロ・ネズムロなどと呼ばれてゐる。山地に自生する松科の常緑樹で、葉は針形に輪生し、硬くて手に觸れると痛いので、ネズミサシといふのを略して、俗にネズと稱へるやうになつたのである。○常世有跡《トコヨニアレド》――永久に變らねどの意。この語もこの木の常磐樹たることを思はしめる。
〔評〕 卷十五にも鞆の浦の室の木を詠んだ歌が二首(三六〇〇・三六〇一)あるので見ると、瀬戸内海の航路ではかなり名高い木であつたと見える。その木が往路と同じ姿をしてゐるのに、歸路に妻が居ないのを悲しんだもので、見之《ミシ》といふ語の繰返しが拙いやうで、又あはれである。
 
447 鞆の浦の 磯の室の木 見む毎に 相見し妹は 忘らえめやも
 
鞆浦之《トモノウラノ》 礒之室木《イソノムロノキ》 將見毎《ミムゴトニ》 相見之妹者《アヒミシイモハ》 將所忘八方《ワスラエメヤモ》
 
(438)鞆ノ浦ノ磯ニアル有名ナ〔三字傍線〕室ノ木ヲコレカラ〔四字傍線〕見ル度ニ、相共ニコレヲ眺メタ妻ノコトガ忘レラレヨウカ。何時デモコノ木サヘ見レバ、妻モコレヲ見タノダナト思ツテ妻ガ思ヒ出サレテ悲シイデアララウ〔何時〜傍線〕。
 
○將見毎《ミムゴトニ》――將來見るであらう度毎にの意。○相見之妹者《アヒミシイモハ》――相共に見し妻はの意。
〔評〕 將所忘八方《ワスラエメヤモ》に悲痛の情が強くあらはされてゐる。
 
448 磯の上に 根蔓ふ室の木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか
 
礒上丹《イソノウヘニ》 根蔓室木《ネハフムロノキ》 見之人乎《ミシヒトヲ》 何在登問者《イヅラトトハバ》 語將告可《カタリツゲムカ》
 
磯ノ上ニ根ヲ延バシテヰル室ノ木ハ、曾テコノ室ノ木ヲ〔八字傍線〕見タ妻ヲ今ハ死ンデ何處ニ〔八字傍線〕ドウシチテヰルカト問ウテ見タナラバ、語ツテ聞カシテクレルカモ知レナィ。
 
○見之人乎《ミシヒトヲ》――妻を指していふ。○何在登問者《イヅラトトハバ》――舊訓イカナリトトハバとあるが、考にイヅラトトハバとあるに從ふことにする。何處にあるかと室の木に問ふのである。室の木が問はばの意に解する説もある。
〔評〕 共に見し室の木をなつかしむの餘り、室の木に妻の所在を尋ねんとする心根は、實にいたましくもあはれである。
 
右三首過(グル)2鞆浦(ヲ)1日作(レル)歌
 
449 妹と來し 敏馬の埼を 還るさに 獨して見れば 涕ぐましも
 
與妹來之《イモトコシ》 敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》 還在爾《カヘルサニ》 獨而見者《ヒトリシテミレバ》 涕具末之毛《ナミダグマシモ》
 
妻ト一緒ニ太宰府ヘ下ル時ニ〔八字傍線〕來タ、敏馬ノ埼ヲ、太宰府カラノ〔六字傍線〕
 
歸途ニ、妻ヲ彼地デ亡クシテ〔九字傍線〕私一人デ見テ行クト、妻ノコトガ思ヒ出サレテ〔妻ノ〜傍線〕涙グマレルワイ
 
(439)○敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》――敏馬は攝津武庫郡。二五〇參照。
〔評〕 思つたままを何の技巧もなしに述べてゐる。涙を湛へつつ、陸地を眺め入る舟中の貴人の樣が、思ひやられる。
 
450 往くさには 二人吾が見し この埼を ひとり過くれば こころ悲しも 一云、見もさかず來ぬ
 
去左爾波《ユクサニハ》 二吾見之《フタリワガミシ》 此埼乎《コノサキヲ》 獨過者《ヒトリスグレバ》 惰悲喪《ココロカナシモ》【一云|見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》】
 
太宰府ヘ〔四字傍線〕行ク時ニハ。妻ト〔二字傍線〕二人デ私ガ見タコノ敏馬ノ〔三字傍線〕埼ヲ、歸リ途ニ〔四字傍線〕、私一人デ通ルト心悲シイワイ。死ンダ妻ノコトガ何ニツケテモ思ヒ出サレル〔死ン〜傍線〕。
○見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》――見も放かず來ぬで、眺めずに來たの意。この一云の句は第五句の異傳として掲げてあるが、或はこれは第六句で、即ち佛足跡歌體としても見られないことはない。
〔評〕 普通の短歌とすれば情悲喪《コココカナシモ》では感情の發表が稀薄過ぎるから、見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》の方が遙かによい。目を擧げて見るに堪へない、悲しむ人の心が同情禁じ難い。
 
右二首過(グル)2敏馬埼(ヲ)1日、作(レル)歌
 
還(リ)2入(リテ)故卿(ノ)家(ニ)1即(チ)作(レル)歌三首
 
451 人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり
 
人毛奈吉《ヒトモナキ》 空家者《ムナシキイヘハ》 草枕《クサマクラ》 旅爾益而《タビニマサリテ》 辛苦有家里《クルシカリケリ》
 
妻モヰナイコノ空《カラ》ノ家ハ(草枕)旅行中以上ニ苦シイワイ。折角歸宅シテモ、妻ガ死ンデシマツタノデ、淋シクテ堪ヘラレナイ〔折角〜傍線〕。
〔評〕 何の修飾を用ゐずして哀調惻々人を動かすものがある。眞心の歌だからであらう。前にあつた臨2近向v京之時1作歌の在京師荒有家爾一宿者益旅而可辛苦《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネバタビニマサリテクルシカルベシ》(四四〇)とあるに呼應したもので、兩者相俟つていよいよ悲愁(440)の深きを覺える。
 
452 妹として 二人作りし 吾がしまは 木高く茂く なりにけるかも
 
與妹爲而《イモトシテ》 二作之《フタリツクリシ》 吾山齋者《ワガシマハ》 木高繁《コダカクシゲク》 成家留鴨《ナリニケルカモ》
 
妻ト共ニ二人デ作ツタコノ私ノ家ノ庭ハ、太宰府ノ在任中留守ニシテヰタ間ニ〔太宰〜傍線〕、丈高ク枝葉モ〔三字傍線〕繁クナツタワイ。折角木モ大キクナツタノニ、妻ハ死ンデシマツタ。アア〔折角〜傍線〕。
 
○吾山齋者《ワガシマハ》――山齋は舊訓ヤマであるが、シマとよむがよい。卷二十に屬2目山齋1作歌三首とあつて、乎之能須牟伎美我許乃之麻《ヲシノスムキミガコノシマ》(四五一一)の歌をのせてゐる。庭をシマといつたのは、蘇我馬子を島の大臣と呼んだことや、日並皇子の宮を、島の宮といつたなどで明らかである。
〔評〕 これも哀な歌だ。次と同じ趣である。
 
453 吾妹子が うゑし梅の木 見る毎に 心むせつつ 涕し流る
 
吾妹子之《ワギモコガ》 殖之梅樹《ウヱシウメノキ》 毎見《ミルゴトニ》 情咽都追《ココロムセツツ》 涕之流《ナミダシナガル》
 
私ノ妻ガ植ヱタ梅ノ木ヲ見ル度ニ、コレヲ植ヱタ妻ハ死ンダノダナアト思フト〔コレ〜傍線〕、心ガ悲シク〔三字傍線〕咽ビ返ツテ、涙ガ流レルヨ。
 
○情咽都追《ココロムセツツ》――心に悲しんで、涙に咽びつつの意。情耳咽乍有爾《ココロノミムセツツアルニ》(五四六)ともある。
〔評〕 前の歌と共に、土佐日記の終の部分が思ひ出される。貫之が「見し人を松の千歳に見ましかば遠く悲しき別せましや」とよんだのは、全く同巧異曲と言つてよい。十二月に太宰府を出立した旅人が、京に入つた時は丁度庭の梅が、主人の歸りを待ち顔に、馥郁たる香を放つてゐたであらう。亡妻が植ゑたその木の梢を眺め、香をかいで、涕に泣き沾れたのはさもこそと同情に堪へない。
 
天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿(ノ)薨之時(ノ)謌六首
 
(441)歸京後半歳にして、旅人は遂に妻の後を追うて逝つた。孤獨の淋しさが六十七歳(懷風藻による)の老躯に堪へられなかつたかと思へば氣の毒である。
 
454 はしきやし 榮えし君の いましせば 昨日も今日も 吾を召さましを
 
愛八師《ハシキヤシ》 榮之君乃《サカエシキミノ》 伊座勢波《イマシセバ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 吾乎召麻之乎《ワヲメサマシヲ》
 
慕ハシイト私ガ思フ〔五字傍線〕權勢ノ盛デアツタ貴方樣ガ、生キ〔二字傍線〕テイラシツタナラバ、昨日モ今日モ私ヲオ呼ビナサルダラウニ。オ亡クナリニナツタノデ、オ呼ビニナルコトモナイ。アア悲シイ〔オ亡〜傍線〕。
 
○愛八師《ハシキヤシ》――愛シキは慕はしいこと。君にかかつてゐる。ヤシは共に歎辭。ハシキヨシ・ハシケヤシなども同じ。
〔評〕 卷二日並皇子尊薨去に際し、舍人がよんだ歌の中に、昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》(一八四)とあるによく似てゐる。
 
455 かくのみに ありけるものを 萩が花 咲きてありやと 問ひし君はも
 
如是耳《カクノミニ》 有家類物乎《アリケルモノヲ》 芽子花《ハギガハナ》 咲而有哉跡《サキテアリヤト》 問之君波母《トヒシキミハモ》
 
コノ樣ニハカナクナツテオシマヒナサルオ命デ〔ハカ〜傍線〕アツタノニ、今ハオ慕ヒ申シテモ何ニモナラヌ〔今ハ〜傍線〕。アノ萩ノ花ハ咲イタカトオ尋ネナサッタ貴方樣ヨ。オ慕ハシウ存ジマス〔九字傍線〕。
 
○如是耳《カクノミニ》――ニに當る文字は用ゐてないが、卷十六|如是耳爾有家流物乎《カクノミニアリケルモノヲ》(三八〇四)に從ふべきであらう。
〔評〕 病床にあつて萩の花は咲いたかと尋ねられた主人が、その花を見ずして死んだのを悲しんだので、庭の萩に對して涙を濺いでゐる樣も見えるやうである。
 
456 君に戀ひ いたもすべ無み あしたづの 音のみし泣かゆ 朝よひにして
 
君爾戀《キミニコヒ》 痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》 蘆鶴之《アシタヅノ》 哭耳所泣《ネノミシナカユ》 朝夕四天《アサヨヒニシテ》
 
オ亡クナリナサツタ〔九字傍線〕貴方樣ノコトガ戀シクテ、ヒドクテ何トモ仕樣ガナイノデ、朝ニ晩ニ(蘆鶴之)聲ヲ出シテ嶋イテバカリ居リマス。
 
(442)○痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》――イタモは甚《イタ》くもで、イタはイトと同じである。○蘆鶴之《アシタヅノ》――ネと言はむ爲にのみ役立つてゐるから、枕詞である。略解に譬喩に見てゐるのはどうであらう。蘆鶴は葦の中にゐる鶴、葦鴨・葦蟹の類皆同じやうな言ひ方である。○朝夕四天《アサヨヒニシテ》――このシテは輕く添へただけ。
〔評〕 卷二十にある藤原夫人の可之故伎也安米乃美加度乎可氣都禮婆禰能未之奈加由安左欲比爾之弖《カシコキヤアメノミカドヲカケツレバネノミシナカユアサヨヒニシテ》(四四八〇)とある歌と下句全く同じである。
 
457 遠長く 仕へむものと 念へりし 君しまさねば 心どもなし
 
遠長《トホナガク》 將仕物常《ツカヘムモノト》 念有之《オモヘリシ》 君師不座者《キミシマサネバ》 心神毛奈思《ココロドモナシ》
 
永久ニオ仕ヘ申サウト思ツテヰマシタ貴方樣ガ、オ亡クナリナサイマシタカラ、私ハ〔二字傍線〕魂モナクナリマシタ。
 
○心神毛奈思《ココロドモナシ》――ココロドはトゴコロと同じものと解釋せられてゐる。成程集中の用字法を見ると、鋒心無《トゴコロモナシ》(二八九四)・利心《トゴコロノ》(二四〇〇)と同樣に、吾情利乃《ワガココロドノ》(二五二五)・情利文梨《ココロドモナシ》(三二七五)などとなつてゐる。併しココロドは多くは心神(三〇五五)・情神(四七一)・情度(四一七三)の如き文字が用ゐられてゐるので見ると、上に擧げた情利の利は假名であつて、意字ではなからうと思はれる。利の宇は當念弊利《ツネニオモヘド》(六一三)・仕目利《ツカヘメド》(七八〇)などの如く、ドの假名になることが多いのである。又、意味の方から考へて見ると、吾情利乃生戸裳名寸《ワガココロドノイケリトモナキ》(二五二五)や、吾情度乃奈具流日毛無《ワガココロドノナグルヒモナシ》(四一七三)の如きは單に心又は魂といふまでの意で、利心としては解しかねる歌である。さう思つて見ると、心神・情神などの文字が使はれてゐるのも、なるほどとうなづかれる。ココロドの意を槻の落葉に心所としたのが當つてゐるやうに思はれる。
〔評〕 悲しみの情はあらはれてゐるが、多少型に嵌つてゐるやうでもある。
 
458 みどり子の 這ひたもとほり 朝よひに 音のみぞ吾が泣く 君無しにして
 
若子乃《ミドリコノ》 匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》 朝夕《アサヨヒニ》 哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》 君無二四天《キミナシニシテ》
 
貴方樣ガオ亡クナリニナツタノデ、私ハ赤兒ノヤウニ這ヒ廻ツテ朝ニ晩ニ聲ヲ出シテ泣イテバカリヰマス。
 
○若子乃《ミドリコノ》――ワカキコノとよむ説もあるが、匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》とつづく上からは、ミドリコノがよいと思ふ。二(443)一〇參照。この句は次の句の枕詞のやうに見る説もあるが、さうではあるまい。これは哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》へもかかつた譬喩であらう。
〔評〕 前の君爾戀《キミニコヒ》の歌に調子が似てゐる。内容も略同じで、まづ同等の謌品である。
 
右五首|資人金明軍《ツカヒビトコムノミヤウグム》不v勝2犬馬之慕心(ニ)1。中(ベテ)2感緒(ヲ)1作(レル)歌
 
資人は舊本には仕人とあるが、今は神田本によつて改めた。資人は朝廷からつけられた仕人で、續紀に「養老五年三月勅給2右大臣從二位長屋王、帶刀資人十人、中納言從三位巨勢朝臣邑治、大伴宿禰旅人、藤原朝臣武智麻呂各四人1云々とあるから、金明軍もその四人中の一人と見える。金澤本に金を余に作つてゐる。三九四參照。中の字申の誤と槻の落葉にあるによるべきであらう。
 
459 見れど飽かず いましし君が 黄葉の 移りいぬれば 悲しくもあるか
 
見禮杼不飽《ミレドアカズ》 伊座之君我《イマシシキミガ》 黄葉乃《モミヂバノ》 移伊去者《ウツリイヌレバ》 悲喪有香《カナシクモアルカ》
 
常ニ見テモ飽カナイ立派ナ御樣子〔六字傍線〕デイラシツタ貴方樣ガ、(黄葉乃)オ亡クナリニナリマシタカラ、悲シイコトデゴサイマスヨ。
 
○黄葉乃《モミヂハノ》――枕詞。散り易いのに譬へていふ。○移伊去者《ウツリイヌレバ》――イユケバとよむ説もあるが、日之入去者《ヒノリイヌレバ》(一八八)の例に傚ふべきである。一八八參照。○悲喪有香《カナシクモアルカ》――カナシクモアルカナの意。
 
右一首勅(シテ)2内禮正、縣犬養宿禰人上《アガタイヌカヒノスクネヒトカミニ》1、使(シム)v檢2護(セ)卿(ノ)病(ヲ)1、而醫藥無(ク)v驗、逝(ク)水不v留(マラ)、因(リテ)v斯(ニ)悲慟(シテ)、即作(ル)v此(ノ)歌(ヲ)1
 
内禮正は内禮司の長官。職員令に「内禮司、正一人、掌2宮内禮儀1、禁2察非違1」とある。縣犬養宿禰人上は傳未詳。縣犬養氏は、天武紀に「十三年十二月己卯、縣犬養連賜v姓曰2宿禰1」とある。姓氏録に「縣犬養宿禰、神魂命八世孫、阿居太都命之後也」とある。
〔評〕 哀愁の情はあらはれてゐるが、先づ普通の作と言つてよからう。
 
(444)  七年乙亥大伴坂上郎女、悲2嘆(シテ)尼理願(ノ)死去(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
 
坂上郎女は旅人の妹。二五七参照。理願は左註にある如く新羅から來てゐた尼である。
 
460 たくづぬの 新羅の國ゆ 人言を よしと聞かして 問ひさくる うからはらから 無き國に 渡り來まして 大きみの 敷きます國に うち日さす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山べに 泣く兒なす 慕ひ來まして しき妙の 家をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生ける者 死ぬとふことに まぬかれぬ ものにしあれば 憑めりし 人のことこと 草枕 旅なるほどに 佐保河を 朝川わたり 春日野を 背がひに見つつ 足曳の 山べをさして くらやみと 隱りましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに たもとほり ただ獨して 白妙の 衣手干さず 嘆きつつ 吾が泣く涙 有間山 雲ゐ棚引き 雨にふりきや
 
栲角乃《タクヅヌノ》 新羅國從《シラギノクニユ》 人事乎《ヒトゴトヲ》 吉跡所聞而《ヨシトキカシテ》 問放流《トヒサクル》 親族兄弟《ウカラハラカラ》 無國爾《ナキクニニ》 渡來座而《ワタリキマシテ》 天皇之《オホキミノ》 敷座國爾《シキマスクニニ》 内日指《ウチヒサス》 京思美禰爾《ミヤコシミミニ》 里家者《サトイヘハ》 左波爾雖在《サハニアレドモ》 何方爾《イカサマニ》 念鷄目鴨《オモヒケメカモ》 都禮毛奈吉《ツレモナキ》 佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》 哭兒成《ナクコナス》 慕來座而《シタヒキマシテ》 布細乃《シキタヘノ》 宅乎宅造《イヘヲモツクリ》 荒玉乃《アラタマノ》 年緒長久《トシノヲナガク》 往乍《スマヒツツ》 座之物乎《イマシシモノヲ》 生者《イケルモノ》 死云事爾《シヌトフコトニ》 不免《マヌカレヌ》 物爾之有者《モノニシアレバ》 憑有之《タノメリシ》 人乃盡《ヒトノコトゴト》 草枕《クサマクラ》 客有間爾《タビナルホドニ》 佐保河乎《サホガハヲ》 朝川渡《アサカハワタリ》 春日野乎《カスガノヲ》 背向爾見乍《ソガヒニミツツ》 足氷木乃《アシビキノ》 山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》 晩闇跡《クラヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》 將言爲便《イハムスベ》 將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》 徘徊《タモトホリ》 直獨而《タダヒトリシテ》 白細之《シロタヘノ》 衣袖不干《コロモデホサズ》 嘆乍《ナゲキツツ》 吾泣涙《ワガナクナミダ》 有間山《アリマヤマ》 雲居輕引《クモヰタナビキ》 雨爾零寸八《アメニフリキヤ》
 
理願尼ハ〔四字傍線〕(栲角乃)新羅ノ國カラ、人ノ話デヨイ所ダトオ聞キナサツテ、物ヲ問ウテ心ヲハラスヤウナ親族モ兄弟モナイコノ日本〔四字傍線〕國ニ渡ツテオイデナサツテ、天皇陛下ノ御支配遊バス國ニ、(内日指)都ガ繁昌シテヰテ、里ヤ家ハ澤山アルノニ、何ト思召シテカ、何ノ縁故モナイ佐保ノ山ノアタリニ(哭兒成)慕ツテ來ラレテ(布細乃)家ヲモ作ツテ、(荒玉乃)年永ク住ンデイラシツタノニ、生者ハ必滅トイフ世ノ定則ニ免レナイモノダカ(445)ラ、理願尼ガ〔四字傍線〕憑ミニ思ツテヰタ人タチガ、皆(草枕)旅ニ出テヰル間ニ、死ンデシマツテ〔七字傍線〕佐保川ヲ朝ノウチニ渡リ、春日野ヲ横ノ方ニ見ナガラ(足氷木乃)山ノ方ヲ指シテ、暗ニ隱レルヤウニ隱レテ葬ラレテ〔四字傍線〕シマハレタ。私ハ〔二字傍線〕何トモ言ヒヤウモナク、何ト爲ヤウモナク、彼方此方ト〔五字傍線〕徘徊シテタダ一人デ、(白細之)衣ノ袖ヲ干ス間モナク、泣キ悲シンデ私ガコボス涙ガ、貴女ガオ在デナサル〔九字傍線〕有馬ノ山ニ雲ガ棚曳イテ、雨トナツテ降リマシタカ。ドウデスカ〔五字傍線〕。
 
○栲角乃《タクツヌノ》――枕詞。栲で綯つた綱の白い意で新羅にかけてある。○人事乎吉跡所聞所《ヒトゴトヲヨシトキカシテ》――人事は人言の借字である。この二句、よしと人言を聞かしての意に解すべきで、良しと賞めた人の言葉を聞き給うての意。左註に遠感2王徳1歸2化聖朝1とあると同意である。○問放流《トヒサクル》――問うて心を晴らすの意。古義に言問ひすることとあるは當らない。卷五に石木乎母刀比佐氣斯艮受《イハキヲモトヒサケシラズ》(七九四)、續紀の宣命に朕大臣誰爾加母我語比佐氣牟《アガオホオミタレニカモアガカタラヒサケム》、誰爾加母我問比佐氣牟止《タレニカモアガトヒサケムト》とある。○親族兄弟《ウカラハラカラ》――親族は神代紀に不v負2於族1此云2宇我邏磨概茸《ウカラマケジ》1とあるによつてウカラとよむべきである。兄弟は續紀の宣命に父母|波良何良爾至麻弖爾《ハラカラニイタルマデニ》とあるから、ハラカラである。○大皇之《オホキミノ》――大を太に作る本もあるが、古本多くは大である。略解に天に改めたのは惡い。四四一參照。○内日指《ウチヒサス》――枕詞。美日差《ウツクシキヒサス》の意で、宮殿は高大であるから、さす日影も美しきをいふとも、又は現日差《ウツヒサス》で、ありありと日のさす意ともいふが、よくわからない。○京思美彌爾《ミヤコシミミニ》――思美彌《シミミ》は、繁く・しみら、などと同じく、繁く盛なること。○都禮毛奈吉《ツレモナキ》――由縁《ユカリ》の無きこと。卷二に由縁母旡眞弓乃岡爾《ツレモナキマユミノヲカニ》(一六七)とある。○佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》――左註に於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1とあるを言つたので、安麻呂の家は佐保山のほとりにあつたから、世人彼を佐保大納言とよんだ。○布細乃《シキタヘノ》――枕詞。床とつづくのが本義であるが、家は寢るところであるから、それにも轉用されるのである。○荒玉乃《アラタマノ》――枕詞。四四二參照。○年緒長久《トシノヲナガク》――年は長くつづくから、年の緒と言つたのだ。○生者《イケルモノ》――ウマルレバ、イケルヒトなどの訓もあるが惡い。三四九參照。○不免《マヌカレヌ》――ノガロエヌと訓む説もある。その例とすべきものは、卷五令反惑情歌の一本に遁路得奴《ノガロエヌ》云々とあるものだけで、この一本は誤と推定すべきで(446)あるから、證とは出來ない。舊訓に從つて置く方が穩であらう。八〇〇參照。○朝川渡《アサカハワタリ》――三六參照。○背向爾見乍《ソガヒニミツツ》――三五八參照。○晩闇跡隱益去禮《クラヤミトカクレマシヌレ》――暗闇の如く隱れ給へればの意で、佐保河乎からここまで八句は、葬送の樣を述べたもの。晩闇は舊訓ユフヤミであるが、晩の字は暮晩爾《ユフクレニ》(一四二八)・來鳴日晩《キナクヒグラシ》(一四七九)・戀其晩師之《コヒゾクラシシ》(二六八二)などの如くクレ、クラとよんである。ユフの例は一寸見當らない。ここは宣長説に從つてクラとよむことにする。○徘徊《タモトホリ》――匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》(四五八)とあると同じく、タモトホリとよむ。○白細之《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。○有問山《アリマヤマ》――攝津國有馬郡の山で、六甲山の北に連り、有馬温泉の南に當る、諸山の總稱であらう。○雲居輕引《クモヰタナビキ》――雲居はここでは雲のことで、空ではない。
〔評〕 女性の長歌はその數が少く、又形式が短いのに、これはかなり堂々たる作で、叙述も整然としてゐる。結尾の數句は少しく工夫に過ぎたやうであるが、自己の悲痛の情を巧にあらはしてゐる。異國人に對する懇情が見えてゐるのも嬉しい。家族の一人のやうに對遇されてゐたらしい理願は、よろこんで最後の息を引取つたであらう。
 
反歌
 
461 とどめ得ぬ 命にしあれば 敷妙の 家ゆは出でて 雲がくりにき
 
留不得《トドメエヌ》 壽爾之在者《イノチニシアレバ》 敷細乃《シキタヘノ》 家從者出而《イヘユハイデテ》 雲隱去寸《クモガクリニキ》
 
留メルコトノ出來ナイ人間ノ〔三字傍点〕壽命デスカラ、理願尼ハ〔四字傍線〕(敷細乃)家カラ出テ行ツテ雲隱レナサツタ。死ンデ葬ラレテシマハレタ。何トモ仕方ガアリマセン。〔死ン〜傍線〕。
 
○雲隱去寸《クモガクリニキ》――雲隱るとは死ぬこと。四一六・四四一など參照。
[評] 佛者の死を弔ふ歌として、佛教的の語を用ゐて留不得壽《トドメエヌイノチ》といつたのはふさはしい。
 
右新羅(ノ)國(ノ)尼、名(ヲ)曰(ヘル)2理願(ト)1也、遠(ク)感(シ)2王徳(ニ)1、歸2化(セリ)聖朝(ニ)1、於v時寄2住(シ)大納言大將軍大(447)伴卿家(ニ)1、既(ニ)※[しんにょう+至](タリ)2數紀(ヲ)1焉。惟(ニ)以(テ)2天平七年乙亥1、忽(チ)沈(ミ)2運病(ニ)1、既(ニ)趣(ク)2泉界(ニ)1、於v是大家石川命婦、依(リテ)2餌藥(ノ)事(ニ)1往(キテ)2有間温泉(ニ)1、而不v會(ハ)2此(ノ)喪(ニ)1、但郎女獨留(リテ)葬(リ)2送(ルコト)屍柩(ヲ)1、既(ニ)訖(リヌ)仍(テ)作(リテ)2此(ノ)歌(ヲ)1贈2入(ル)温泉(ニ)1
 
※[しんにょう+至]ハ逕と通じ、經の意に用ゐられてゐる。數紀は數年に同じ。運病は天運免れ難き病の意か。或は時の運氣にあたつた病の意か。大家は大姑と通じ、女子の尊稱である。類書纂要に「婦稱v姑爲2大家1」とある。石川命婦は卷四に大伴坂上郎女之母石川内命婦とあり、安麻呂の妻で坂上郎女の母である。
 
十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持、悲2傷(ミテ)亡妾(ヲ)1作(レル)歌一首
 
462 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか獨 長き夜を宿む
 
從今者《イマヨリハ》 秋風寒《アキカゼサムク》 將吹烏《フキナムヲ》 如何獨《イカニカヒトリ》 長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》
 
今カラハ秋風ガ寒ク吹クデアラウノニ私ハ愛スル女ヲナクシテ〔私ハ〜傍線〕、ドウシテ獨デ秋ノ〔二字傍線〕長夜ヲ寢ヨウカ。トテモ寢ラレハシナイ〔十字傍線〕。
 
○將吹鳥《フキナムヲ》――烏の字は焉に作る古本が多い。焉の草體を烏に誤つたのも多いが、ここは始めから烏であつたかも知れない。○如何獨《イカニカヒトリ》――如何はイカニカとよむべし。一〇六參照。
〔評〕 大伴系圖の六十八歳説に從へば、天平十一年は、家持未だ二十二歳の青年である。愛人を失つた青春の悲痛が、全體に渡つて哀調をなしてゐる。
 
弟大伴宿禰書持即(チ)和(フル)歌一首
卷十七にこの人の死を悲しんだ家持の歌がある。この歌で見ると、あまり年の違はない弟らしい。
 
463 長き夜を 獨や宿むと 君がいへば 過ぎにし人の おもほゆらくに
 
長夜乎《ナガキヨヲ》 獨哉將宿跡《ヒトリヤネムト》 君之云者《キミガイヘバ》 過去人之《スギニシヒトノ》 所念久爾《オモホユラクニ》
 
(448)兄上ガ秋ノ〔二字傍線〕長夜ヲ一人デ寢ルコトカトオ嘆キナサレルト、私モ兄上ノ〔五字傍線〕亡クナツタ愛〔傍線〕人ガ思ヒ出サレテ悲シウゴザイ〔七字傍線〕マスヨ。オン嘆キハモ御尤デス〔九字傍線〕。
 
○過去人之所念久爾《スギニシヒトノオモホユラクニ》――故人となつた家持の妾のことが、思ひ出されるよの意。略解に「黄泉の人も獨いねがてにすらむといふ也」とあるのは誤である。
〔評〕 兄の悲しみに同情してゐるが、下句の言ひ方が少しく微温的の感がある。
 
又家持見(テ)2砌《ミギリノ》上(ノ)瞿麥花(ヲ)1作歌一首
 
砌は軒下の石疊のこと。ここは前庭をいつたもの。
 
464 秋さらば 見つつしぬべと 妹がうゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも
 
秋去者《アキサラバ》 見乍思跡《ミツツシヌベト》 妹之殖之《イモガウヱシ》 屋前之石竹《ヤドノナデシコ》 開家流香聞《サキニケルカモ》
 
秋ニナツタナラバ、見テ賞美ナサイト女ガ植ヱタ、庭ノ撫子ノ花ハ咲イタナア。女ハ死ンデシマツテモ植ヱタ花ハ咲イタ。セメテアレガ形見ダナア〔女ハ〜傍線〕。
 
○見乍思跡《ミツツシヌベト》――このシヌブは愛翫する意である。普通の、なつかしく思ひ出す意とは異つてゐる。○屋前之石竹《ヤドノナデシコ》――セキチクは支那から渡來したもので、花期は夏である。ここは瞿麥と同じく、野生のナデシコに用ゐてある。屋前を攷證にはニハとよんである。
〔評〕 平明な調で、悲哀の情を歌つてゐる。これが家持の初期の作の特色で、父の旅人の作に近いものがあると言へよう。
 
移(シテ)v朔(ヲ)而後、悲2嘆(シテ)秋風(ヲ)1家持作(レル)歌一首
 
移朔は朔日が來て、即ち月が改つての意。
 
465 うつせみの 代は常なしと 知るものを 秋風寒み しぬびつるかも
 
(449)虚蝉之《ウツセミノ》 代者無常跡《ヨハツネナシト》 知物乎《シルモノヲ》 秋風寒《アキカゼサムミ》 思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》
 
(虚蝉之)世ノ中ハ無常ナモノダト知ツテヰルガ、秋風ガ寒イノデ、死ンダ人ノコトガ〔八字傍線〕思ヒ出サレタワイ。アア〔二字傍線〕。
 
○思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》――このシヌブはなつかしく思ひ出す意で、前の見乍思跡とは異なつてゐる。
〔評〕前の秋風寒將吹烏《アキカゼサムクフキナムヲ》に呼應して、悲しくいたましい作だ。人生の無常を知りつつ、あきらめ得ぬ悲しさがあはれである。佛教的無常觀が、日常語のやうに用ゐられてゐるのは注意すべきである。
 
又家持作歌一首并短歌
 
466 吾がやどに 花ぞ咲きたる そを見れど 心も行かず 愛しきやし 妹が在りせば み鴨なす 二人雙び居 手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば 露霜の けぬるが如く あしびきの 山路を指して 入日なす 隱りにしかば そこ思ふに 胸こそ痛め 言ひもかね 名づけも知らに 跡なき 世の中にあれば 爲むすべも無し
吾屋前爾《ワガヤドニ》 花曾咲有《ハナゾサキタル》 其乎見杼《ソヲミレド》 情毛不行《ココロモユカズ》 愛八師《ハシキヤシ》 妹之有世婆《イモガアリセバ》 水鴨成《ミカモナス》 二人雙居《フタリナラビヰ》 手折而毛《タヲリテモ》 令見麻思物乎《ミセマシモノヲ》 打蝉乃《ウツセミノ》 借有身在者《カレルミナレバ》 露霜乃《ツユシモノ》 消去之如久《ケヌルガゴトク》 足日木乃《アシヒキノ》 山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》 入日成《イリヒナス》 隱去可婆《カクリニシカバ》 曾許念爾《ソコモフニ》 胸己所痛《ムネコソイタメ》 言毛不得《イヒモカネ》 名付毛不知《ナヅケモシラニ》 跡無《アトナキ》 世間爾有者《ヨノナカニアレバ》 將爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》
 
私ノ家ニ女ガ植ヱタ石竹ノ〔八字傍線〕花ガ咲イタ。ソノ花ヲ見テモ、心ガ慰マナイ。愛ラシイアノ〔二字傍線〕女ガヰタナラバ、(水鴨成)二人デ並ンデヰテ、アノ花ヲ手折ツテ見セヨウノニ、人ノ肉體ハ假ノ身デアルカラ、アノ女ハ〔四字傍線〕露ガ消エルヤウニ死ンデ葬ラレテ〔七字傍線〕(足日木乃)山道ヲ指シテ、(入日成)隱レテシマツタカラ、ソレヲ考ヘルト胸ガ痛イ。言ヒヤウモナク名ノ付ケヤウモナク、跡モナク死ンデ行ク人ハカナ〔九字傍線〕イ世ノ中ダカラ、何トモ仕樣ガナイ。
 
○水鴨成《ミカモナス》――枕詞。水に住む鴨の如く二人並ぶと續く。古義には水は御《ミ》の假字だと言つてゐる。○打蝉之《ウツセミノ》――(450)現身のの意。枕詞ではない。○借有身在者《カレルミナレバ》――借の字、舊本惜とあるのは惡い。類聚古集等の古本に、借とあるによるべきだ。○露霜乃《ツユシモノ》――舊本、霜霑乃とあるが、古寫本に多く露霜とあるから、それに違ない。露霜乃は常に枕詞として用ゐられるが、ここは露の如くの意で、下につづいてゐるから枕詞ではない。一三一參照。○曾許念爾《ソコモフニ》――それを念ふにの意。○跡無《アトナキ》――沙彌滿誓が榜去師船之跡無如《コギイニシフネノアトナキガゴト》(三五一)とよんだのと同樣な思想であらう。死して行方の不明なるをいふ。
〔評〕 足日木乃山道乎指而《アシビキノヤマヂヲサシテ》云々は、尼理願の死を報じた大伴坂上郎女の長歌の句に酷似し、曾許念爾胸己所痛《ソコモフニムネコソイタメ》は卷十三の次嶺經《ツギネフ》(三三一四)の歌の曾許思爾心之痛之《ソコモフニココロシイタシ》に似て居り、言毛不得名付毛不知《イヒモカネナヅケモシラニ》は詠不盡山歌(三一九)中の句と全く同じく、跡無世間爾有者《アトモナキヨノナカニアレバ》は沙滿滿誓の歌(三五一)に似た所がある。どうもこの人の初期の作には、かういふ模傚が、かなり多いやうに思はれる。
 
反歌
 
467 時はしも いつもあらむを こころいたく いにし吾妹か みどり子を置きて
 
時者霜《トキハシモ》 何時毛將有乎《イツモアラムヲ》 情哀《ココロイタク》 伊去吾味可《イニシワギモカ》 若子乎置而《ミドリコヲオキテ》
 
時ハ何時デモアルノニ、今頃〔二字傍線〕赤兒ヲ後ニ殘シテ置イテ、悲シクモ死ンダ私ノ女ヨ。ホントニ今死ナナイデモヨカラウニ。コノ兒ヲ何トシタモノヤラ〔ホン〜傍線〕。
 
○情哀《ココロイタク》――心悲しくもの意。○伊去吾妹可《イニシワギモカ》――死したる我殊かなの意。○若子乎置而《ミドリコヲオキテ》――若子はワカキコともよむべきだが、前例によつてミドリコとよんで置かう。玉の小琴はワクゴとよんでゐる。
〔評〕 嬰兒のあることは、長歌には更に述べてゐないのを、ここで補つたのである。嬰兒を殘して死なれては、夫にはこの上ない迷惑である。その困惑の情がよくあらはれてゐる。
 
468 出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 關も置かましを
 
出行《イデテユク》 道知末世波《ミチシラマセバ》 豫《アラカジメ》 妹乎將留《イモヲトドメム》 塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》
 
(451)女ガ死ンデ、冥途ヘ〔八字傍線〕出テ行ク道ヲ知ツテヰタナラバ、前以テ女ヲ留メル關ヲ置カウノニ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○豫《アラカジメ》――舊訓カネテヨリであるが、五五六・六五九・九四八などの例によるに、アラカジメとよむべきである。
〔評〕 かへらぬ愚痴があはれである。
 
469 妹が見し やどに花咲く 時は經ぬ 吾が泣く涙 いまだ干なくに
 
妹之見師《イモガミシ》 屋前爾花咲《ヤドニハナサク》 時者經去《トキハヘヌ》 吾泣涙《ワガナクナミダ》 未干爾《イマダヒナクニ》
 
女ガ見タ庭ノ花ガ咲ク時ガ過ギテ花モ無クナツ〔七字傍線〕タ。私ガ女ヲ亡ツテ〔五字傍線〕泣ク涙ハ、未ダ乾キモシナイノニ。
 
○屋前爾花咲《ヤドニハナサク》――長歌の冒頭に吾屋前爾花曾咲有《ワガヤドニハナゾサキタル》とあると同じで、この花は前の歌によるに、瞿麥らしい。ハナサキと中止法に訓む説が宣長によつて稱へられ、それに從ふ人が多いが、ハナサクとよまなくては調も惡く、意味もどうかと思はれる。○時者經去《トキハヘヌ》――この句も上の花咲の訓によつて意が變るが、これは花咲く時が過ぎたといふのである。諸註皆誤つてゐる。元來この歌は卷五の山上憶良の作、伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯和何那久那美多伊摩陀飛那久爾《イモガミシアフチノハナバチリヌベシワガナクナミダイマダヒナクニ》(七九八)を模傚したもので、一の句と四五の句は全く同じであるから二三句も亦同じ趣に見るべきで、二句を中止法に見るべきではない。
〔評〕 これにも家持の模傚性があらはれてゐる。さうして宿に花咲く時の過ぎたのよりも、棟の花の散るのを惜しんだ憶良の歌の方が、悲しみが深くあはれである。
 
悲緒未v息(マ)更(ニ)作(レル)歌五首
 
470 斯くのみに ありけるものを 妹も吾も 千歳の如も 憑みたりける
 
如是耳《カクノミニ》 有家留物乎《アリケルモノヲ》 妹毛吾毛《イモモワレモ》 如千歳《チトセノゴトモ》 憑有來《タノミタリケル》
 
カヤウニ短イ契〔四字傍線〕デアツタノニ、女モ私モ、夫婦トシテ〔五字傍線〕千年モ居ルヤウニアテニシテヰタワイ。アアタノミ難イ世ノ中ダ〔アア〜傍線〕。
 
(452)○如千歳《チトセノゴトモ》――チトセノゴトクともよめるが、なほゴトモがよからう。二三八一・二三八七も共に同じである。○憑有來《タノミタリケル》――ケリとよむのは惡い。詠歎の意を強く込めてケルといふべき所である。
〔評〕 如是耳有家留物乎《カクノミニアケルモノヲ》は前の芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハギガハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》(四五五)の一二句と同じなのが目につく。
 
471 家離り 坐す吾妹を 停めかね 山隱りつれ 心どもなし
 
離家《イヘサカリ》 伊麻須吾妹乎《イマスワギモヲ》 停不得《トドメカネ》 山隱都禮《ヤマガクリツレ》 情神毛奈思《ココロドモナシ》
 
死ンデ〔三字傍線〕家ヲ放レテ行ツテシマフ私ノ女ヲ停メルコトガ出來ナイノデ、女ハ〔二字傍線〕山ニ隱レテ葬ラレテ〔四字傍線〕シマツタノデ私ハ心ガ挫ケテ〔七字傍線〕魂モナイ。
 
○山隱都禮《ヤマガクリツレ》――山隱りつればの意。隱りは隱れと同意の古語で、四段活用の動詞である。山隱るとは葬られたこと。○情神毛奈思《ココロドモナシ》――四五七參照。
〔評〕 四六六の長歌の後半を短歌に纏めたやうな作である。
 
472 世の中し 常斯くのみと かつ知れど 痛き心は 忍びかねつも
 
世間之《ヨノナカノ》 常如此耳跡《ツネカクノミト》 可都知跡《カツシレド》 痛情者《イタキココロハ》 不忍都毛《シヌビカネツモ》
 
世ノ中トイフモノハ、何時デモカウダト一方デハ知ツテヰルガ、女ヲ亡クシタ〔六字傍線〕悲シイ心ハ、忍耐ガ出來ナイワイ。
〔評〕 四六五の歌と内容を同じくしてゐる。これも哀調人を動かすものがある。
 
473 佐保山に 棚引く霞 見るごとに 妹を思ひ出 泣かぬ日は無し
 
佐保山爾《サホヤマニ》 多奈引霞《タナビクカスミ》 毎見《ミルゴトニ》 妹乎思出《イモヲオモヒイデ》 不泣日者無《ナカヌヒハナシ》
 
佐保山ニ棚曳イテヰル霞ヲ見ル毎ニ、アノ霞ノヤウニアノ女モ火葬サレテ、烟トナツタノダナト、アノ〔アノ霞〜傍線〕女ノコトヲ思ヒ出シテ、泣カナイ日ハ一日モ〔三字傍線〕無イ。
 
(453)○多奈引霞《タナビクカスミ》――此處ノ數首は皆秋の歌であるから、霞とあるは霧のことである。霧を霞といふこと、八八參照。
〔評〕 霧や雲を見て火葬せられた人を思ふ歌は、いくらもある。これは四二八・四二九の人麿の作などから思ひついたものか。
 
474 昔こそ よそにも見しか 吾妹子が 奧津城ともへば はしき佐保山
 
昔許曾《ムカシコソ》 外爾毛見之加《ヨソニモミシカ》 吾妹子之《ワギモコガ》 奧槨當念者《オクツキトモヘバ》 波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》
 
佐保山トイフ山ハ〔八字傍線〕昔コソハ自分ニ關係ノナイ山トシテ見テ居ツタ。然ルニ今ハ〔五字傍線〕、私ノ女ノ墓所ダト思フト、可愛イ佐保山ダヨ。
 
○波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》――波之吉《ハシキ》は愛らしき意。
〔評〕 二句で切つて名詞止にしたのが、切なる感情が籠つて聞える。素直な作である。
 
十六年甲申春二月、安積《アサカ》皇子薨之時、内舍人大伴宿禰家持作(レル)歌六首
 
安積皇子は聖武天皇の皇子、續紀に「天平十六年閏正月乙亥、安積親王縁2脚病1、從2櫻井頓宮1還、丁丑薨、年十七、云々」とある。ここに二月とあるは續紀の文に合はぬやうであるが、左註に右三首二月三曰作歌とあるから、初の作歌の時を以て、かく記したのであらう。内舍人は職員令に「中務省、内舍人九十人、掌d帶v刀宿衛、供2奉雜使1、若駕行、分c衛前後u云々」とあり、軍防令には「※[手偏+僉]2簡性識聰敏儀容可1v取、宛2内舍人1云々」とある。大伴家持が内舍人になつたのは、天平十二年らしい。前の十一年六月の歌には官名を記してゐないが、卷六の十二年庚辰冬十月の歌には、内舍人大伴宿禰家持とある。
 
475 かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 吾が大王 皇子の命 萬代に めしたまはまし 大やまと 久邇の京は うち靡く 春さりぬれば 山邊には 花吹きををり 河瀬には 年魚子さ走り いや日けに 榮ゆる時に およづれの まが言とかも 白妙に 舎人装ひて 和豆香山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ こい轉び ひづち泣けども せむすべも無し
 
掛卷母《カケマクモ》 綾爾恐之《アヤニカシコシ》 言卷毛《イハマクモ》 齋忌志伎可物《ユユシキカモ》 吾王《ワガオホギミ》 御子乃命《ミコノミコト》 萬代(454)爾《ヨロヅヨニ》 食賜麻思《メシタマハマシ》 大日本《オホヤマト》 久邇乃京者《クニノミヤコハ》 打靡《ウチナビク》 春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》 山邊爾波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》 河湍爾波《カハセニハ》 年魚小狹走《アユコサバシリ》 彌日異《イヤヒケニ》 榮時爾《サカユルトキニ》 逆言之《オヨヅレノ》 枉言登加聞《マガゴトトカモ》 白細爾《シロタヘニ》 舍人装束而《トネリヨソヒテ》 和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天所知奴禮《アメシラシヌレ》 展轉《コイマロビ》 泥土打雖泣《ヒヅチナケドモ》 將爲須便毛奈思《セムスベモナシ》
 
心ニカケテ思フダケデモ怪シク畏イコトダ。ロニ出シテ言フモ由々シイ事デアルワイ。私ノオ仕ヘ申ス皇子ノ、安積〔二字傍線〕皇子樣ガ、萬年モ永ク御支配ナサルダラウ所ノ、大日本國ノ久邇ノ都ハ(打靡)春ガ來ルト、山ノアタリニハ花ガ枝モ曲ル程一パイニ咲キ、河ノ瀬ニハ鮎ノ子ガ走ツテ、山河ノ景色ガヨク〔八字傍線〕、日毎日毎ニ、彌々榮エ榮エテ行ク時ニ、根無シ言ノ戯言デアラウカ、皇子ガ薨去ナサツテ〔九字傍線〕白イ着物ヲ舎人ドモガ着装ツテ、和豆香山ニ御葬送ノ〔四字傍線〕御輿ガオ出ニナツテ、(久堅乃)天ヘ登ツテオシマヒナサツタカラ、臥シ轉ガリ涙ニ濡レテ泣イテモ、何トモ仕様ガナイ。
 
○食賜麻思――食をヲシとよむ説もよいが、舊訓のままにメシとして置かう。所知食之《シロシメシシ》(一六二)などの例による。○大日本《オホヤマト》――日本の總稱である。畿内の大和ではない。○久邇乃京者《クニノミヤコハ》――山城國相楽郡瓶原村に出來た都。天平十二年十二月から造營に着手せられ、天平十六年正月まで聖武天皇の郡であったが、その月の十一日、天皇難波に行幸せられ、二月二十日に久邇京の高御座竝びに大楯を難波京に搬び、郡が難波に遷つたのであるから、丁度この皇子の薨去は、そのどさくさの最中であったのである。○打靡《ウチナビク》――枕詞。二六〇参照。○花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》――枝もたわわに花咲くこと。爲は烏の誤とする説もあるがよくない。これをヲの仮名に用ゐたことについては字音辨證に論じてある。一九六參照。○彌日異《イヤヒケニ》――彌日に異《ケ》に。異《ケ》は日《カ》に同じ。○逆言之枉言登加聞《オヨヅレノマガゴトトカモ》――逆言と枉言については種々の説があるが、オヨヅレ、マガゴトとよむことにする。四二〇、四二一參照。○和(455)豆香山《ワヅカヤマ》――和豆香は瓶原の東、布當川の沿岸で、今、東和束、西和束、中和束の三村に分れてゐる。和豆香山は即ちその地方の山である。七六五の地圖參照。○御輿立之而《ミコシタタシテ》――御輿は靈柩を乘せた御葬送の輿である。○天所知奴禮《アメシラシヌレ》――薨去せられたことをいふ。奴禮はヌレバの意である。○展轉《コイマロビ》――コイマロビは反側と記したところ(一七四〇)もある。語意はその文字の通り。○泥土打雖泣《ヒヅチナケドモ》――ヒヅチはヒヅツといふ動詞で、濡れ漬ること。泥土打と書くのはヒヂウチの略言としたのである。
〔評〕 悲愁の情はあらはれてゐるが、例の模傚の跡を指摘し得るのは遺憾である。冒頭の句は人麿の高市皇子尊城上殯宮の時の長歌(一一九)に、逆言之枉言登加聞《オヨヅレノマガゴトトカモ》は石田王の卒した時、丹生王の作つた歌(四二〇)に、泥土打雖泣將爲須便毛奈之《ヒヅチナケドモセムスベモナシ》は巻十三の長歌(三三二六)の結句に、いづれも大同小異である。
 
反歌
 
476 吾が大君 天知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和豆香杣山
 
吾王《ワガオホギミ》 天所知牟登《アメシラサムト》 不思者《オモハネバ》 於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》 和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》
 
私ノ仕ヘ申ス安積皇子ガ御薨去ナサツテ、和豆香山ニ葬ラレナサ〔ツテ〜傍線〕ラウナドトハ思ハナカツタノデ、アノ和豆山トイフ材木ノ出ル山ヲ、疎カニ見過ゴシテヰタコ。コレカラハサゾナツカシク眺メルデアラウ〔コレ〜傍線〕。
 
○於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》――オホはオホヨソの意で、疎かにに同じ。○和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》――和豆香山といふ杣山の意。袖山は木材を伐り出す山。
〔評〕 あはれに悲しく詠まれてゐる。調にたるみがない。卷七の佐保山乎於凡爾見之鹿跡今見者山夏香思母風吹莫勤《サホヤマヲオホニミシカドイマミレバヤマナツカシモカゼフクナユメ》(一三三三)は、この歌より早い作ではあるが、粉本と見るのは、少しく氣の毒であらう。
 
477 あしびきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬる如き 吾が大きみかも
 
足檜木乃《アシビキノ》 山佐倍光《ヤマサヘヒカリ》 咲花乃《サクハナノ》 散去如寸《チリヌルゴトキ》 吾王香聞《ワガオホキミカモ》
 
(足檜木乃)山マデモ光リ渡ツテ、美シク咲イテヰル花ガ、散ツタヤウニ私ノオ仕ヘ申ス〔五字傍線〕皇子ノ御薨去ハハカナ(456)ク思ハレマス〔ノ御〜傍線〕ヨ。
〔評〕 希望に輝いた青春の皇子の薨去を弔ふ歌としては、實にふさはしい優麗なものである。時しも春二月、正に櫻花の時節である。季節のものを直ちに採つた譬喩が、實に適切なるを覺える。家持の初期の作中の逸品であらう。
 
右三首二月三日作歌
 
478 かけまくも あやにかしこし わが大君 皇子の命 武士の 八十件の男を 召し集へ あともひ賜ひ 朝獵に しし踐み起し 暮獵に とり履み立て 大御馬の 口抑へ駐め 御心を 見し明らめし 活道山 木立の繁に 咲く花も 移ひにけり 世の中は 斯くのみならし ますらをの 心振り起し 劔だち 腰に取り佩き 梓弓 靱取り負ひて 天地と いや遠長に 萬代に 斯くしもがもと 憑めりし 皇子の御門の 五月蠅なす 騷く舍人は 白栲に ころも取り着て 常なりし ゑまひ振舞ひ いや日けに 變らふ見れば 悲しきろかも
 
掛卷毛《カケマクモ》 文爾恐之《アヤニカシコシ》 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命《ミコノミコト》 物乃負能《モノノフノ》 八十伴男乎《ヤソトモノヲヲ》 召集《メシツトヘ》 聚率比賜比《アトモヒタマヒ》 朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフガリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》 大御馬之《オホミマノ》 口押駐《クチオサヘトドメ》 御心乎《ミココロヲ》 見爲明米之《ミシアキラメシ》 活道山《イクヂヤマ》 木立之繁爾《コダチノシゲニ》 咲花毛《サクハナモ》 移爾家里《ウツロヒニケリ》 世間者《ヨノナカハ》 如此耳奈良之《カクノミナラシ》 大夫之《マスラヲノ》 心振起《ココロフリオコシ》 劔刀《ツルギダチ》 腰爾取佩《コシニトリハキ》 梓弓《アヅサユミ》 靱取負而《ユギトリオヒテ》 天地與《アメツチト》 彌遠長爾《イヤトホナガニ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 如此毛欲得跡《カクシモガモト》 憑有之《タノメリシ》 皇子之御門乃《ミコノミカドノ》 五月蠅成《サバヘナス》 驟騷舍人者《サワグトネリハ》 白栲爾《シロタヘニ》 服取着而《コロモトリキテ》 常有之《ツネナリシ》 咲比振麻比《ヱマヒフルマヒ》 彌日異《イヤヒケニ》 更經見者《カハラフミレバ》 悲呂可毛《カナシキロカモ》
 
心ニカケテ思フダケデモ、怪シク畏イコトダ。私ノオ仕ヘ申ス皇子ノ安積〔二字傍線〕皇子樣ガ、朝廷ニ仕ヘル武人ノ、澤山ノ部屬ノ長ヲ召シ集メ、オ率ヰナサツテ、朝ノ獵ニハ鹿猪ノ類ヲ追ヒ出シ、夕方ノ獵ニハ鳥ヲ追ヒ立テテ獵ヲナサリ〔五字傍線〕、御乘馬ノ口ヲ抑ヘ止メテ、四方ノ形勢ヲ〔六字傍線〕見給ヒオ心ヲ晴シニナツタ、活道山ノ木ノ繁ツタ所ニ咲イテヰル花モ、モハヤ〔三字傍線〕盛ガ過ギテシマツタワイ。其處ニ皇子ノ御墓ガ出來タ〔其處〜傍線〕。世ノ中トイフモノハ何デモカウデ(457)バカリアルラシイ。私ガ〔二字傍線〕大丈夫ノ心ヲ振ヒ起シテ、劔ヤ太刀ヲ腰ニ取リ帶ビテ、弓ヲ持チ〔三字傍線〕、矢入ヲ背ニ負ウテ、天地ト共ニマスマス遠ク永ク、萬年ノ後マデモカヤウニシテ御仕ヘシ〔五字傍線〕タイモノダト、憑ミニ思ツテヰタ安積〔二字傍線〕皇子ノ御所ニヰル舍人ドモハ皇子ガ薨去ナサツタカラ(五月蠅成)ワイワイト騷イデ、白イ布ノ着物ヲ着テ、悲シサニ、今マデ〔七字傍線〕、絶エナカツタ笑顔ヤ嬉シサウナ〔五字傍線〕動作ガ、日毎日毎ニ段々ト變ツテ、悲シサウニナツテ〔八字傍線〕行クノヲ見ルト、私ハ〔二字傍線〕悲シイヨ。
 
○物乃負能八十件男乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》――モノノフは朝廷奉仕の武人で、その氏族が多かつたのである。三六九參照。八十伴男《ヤソトモノヲ》は多くの部屬《トモガラ》の長《ヲサ》の義。○聚率比賜比《アトモヒタマヒ》――アトモフは後伴《アトトモ》なふ意。一九九參照。聚の字を、上の召集に附けて見る説もある。○鹿猪踐起《シシフミオコシ》――鹿猪をシシと書いたので、下にトリを鶉雉と書いてある。○口抑駐《クチオサヘトドメ》――童蒙抄にクチオシトドメとある説も廣く行はれてゐる。抑は抑刺《オサヘサス》(三二九五)の如く、オサヘとよんであり、駐は押止駐余《オシテトドメヨ》(一〇〇ニ)・駐馬《ウマトドメ》(三〇九七)・馬駐《ウマトドメ》(三九五七)の如くトドメとよむのが常である。オシといふ時はいつも押の字を用ゐてあるから、ここではオサヘトドメとよむことにする。○見爲明米之《ミシアキラメシ》――見爲《ミシ》のシは敬語。明らむは明らかにすること、即ち心を晴らし給ふこと。上の、御心乎《ミココロヲ》を見爲《ミシ》の下に置いて見るがよい。○活道山《イクヂヤマ》――西和束村大字白柄の東大勘定にある岡で、ここに安積皇子の御墓がある。○木立之繁爾《コダチノシゲニ》――シジニと舊訓にあるが、副詞の場合はシジニがよいが、名詞の時はシゲニとよむがよからう。○咲花毛移爾家里《サクハナモウツロヒニケリ》――皇子が薨じて、其處に葬られ給うたこと。三月二十四日の作であるから花も散つてしまつてゐた。○靱取負而《ユギトリオヒテ》――靱は矢笥《ヤゲ》の轉か。矢を入れて背に負ふもの。ウツボに同じ。○皇子乃御門乃《ミコノミカドノ》――御門《ミカド》は御殿をいふ。○五月蠅成《サバヘナス》――枕詞。五月の蠅は多くてうるさいから、騷ぐに冠する。○常有之咲比振麻比《ツネナリシヱマヒフルマヒ》――平素の笑顔や快活な動作の意。○悲呂可毛《カナシキロカモ》――呂の字舊本召とあるは誤。類聚古集に呂とあるに從ふべきである。
〔評〕 聖武天皇の皇子として、將來は天位に即かれるものと期待せられ、家持ら一族はこの御方によつて、自家の勢力の振張を圖らうと思つてゐたらしい。その仰ぎ奉つた安積皇子の薨去によつて、前途の光明を失つた家(458)持の心情が、實によく言ひあらはしてある。大夫之心振起《マスラヲノココロフリオコシ》以下の數句は、武人らしい彼の面目を躍如たらしめてゐる。この句は彼の得意と見えて、卷十七(三九六二)にも、卷二十(四三九八)にも使つてゐる。
 
反歌
 
479 愛しきかも 皇子の命の 在り通ひ 見しし活道の 路は荒れにけり
 
波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 見之活道乃《ミシシイクヂノ》 路波荒爾※[奚+隹]里《ミチハアレニケリ》
 
ナツカシイ安積皇子樣ガ、イツモオ通ヒ遊バシテ、御覽ニナツタ活道山ノ道ハ皇子ガ御薨去遊バシテ今ハ誰モ行クモノモナイノデ〔皇子〜傍線〕荒レテシマツタワイ。
 
○波之吉可聞《ハシキカモ》――愛《ハ》しきかもで、皇子之命につづいてゐる。カモは形式的に切れてゐるが、意は續いてゐる。○安里我欲比《アリガヨヒ》――在り在りて通ふ。常に通ふこと、通ひ馴れたこと。
〔評〕 波之吉可聞《ハシキカモ》と詠嘆的に歌ひかけて、路波荒爾鶏里《ミチハアレニケリ》と同じく詠嘆的に歌ひ納めてあるのが、感情が籠つてあはれである。
 
480 大伴の 名に負ふ靱帶びて 萬代に 憑みし心 何處か寄せむ
 
大伴之《オホトモノ》 名負靱帶而《ナニオフユギオビテ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 憑之心《タノミシココロ》 何所可將寄《イヅクカヨセム》
 
靭ヲ帶ビル〔五字傍線〕大伴氏ダト昔カラ定ツテヰルソノ靭ヲ帶ビテ、大伴氏ノ一人タル私ハ〔十五字傍線〕萬年ノ後マデモ、安積皇子ニオ仕ヘシヨウ〔安積〜傍線〕ト思ツテヰタコノ〔二字傍線〕心ヲ、今ハ〔二字傍線〕何處ニヨセテ、オ憑リ申シタモノデアラ〔テオ〜傍線〕ウ。
 
○大伴之名負靱帶而《オホトモノナニオフユギオビテ》――大伴氏が武族として、昔から靱を負うて奉仕したことをいつたもの。神代紀に「大伴連遠祖天忍日命、帥2來目部遠祖天(ノ)穗津大來目1背負2天(ノ)磐靱1云々」とあり、景行紀に、「日本武尊居2甲斐國酒折宮1以2靱負1賜2大伴連遠祖武日1云々」とある、比較的近代になつても、孝徳紀に「大伴長徳連帶2金靱1立2於壇右1云々」とある。
(459)〔評〕かうした氏でありながら、藤原氏に壓へられて振はなくなつてゐるのを慨嘆した家持が、皇儲たるべく擬せられてゐた安積皇子に、期待してゐたことは大きかつた。それが裏切られた悲痛の情は、眞に憑之心何所可得寄《タノミシココロイヅクカヨセム》であつたらう。途方に暮れた彼の心境がいたましく詠まれてゐる。
 
右三首三月廿四日作歌
 
悲(ミ)2傷(ミテ)死妻(ヲ)1高橋朝臣(ノ)作(レル)歌一首并短歌
 
高橋朝臣は誰とも分らない。卷六、天平十年の條に右大辨高橋安麻呂(一〇二七)とあり、卷十七、天平十八年の條に高橋朝臣國足(三九二六)とある。ここは天平十六年でほぼ年時を同じうしてゐるが、そのいづれとも判じ難い。或は高橋蟲麿か。
 
481 白妙の 袖さし交へて 靡き寢し わが黒髪の ま白髪に 成らむ極 新世に 共に在らむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言は果さず 思へりし 心は遂げず 白妙の 袂を別れ にきびにし 家ゆも出でて 緑兒の 泣くをも置きて 朝霧の ほのになりつつ 山背の 相樂山の 山のまに 往き過ぎぬれば 言はむすべ 爲むすべ知らに 吾妹子と さ宿し妻屋に 朝には 出で立ち偲び 夕には 入り居嘆かひ 腋挾む 兒の泣く毎に 男じもの 負ひみ抱きみ 朝鳥の 音のみ哭きつつ 戀ふれども しるしを無みと 言問はぬ ものにはあれど 吾妹子が 入りにし山を よすがとぞ念ふ
 
白細之《シロタヘノ》 袖指可倍?《ソデサシカヘテ》 靡寢《ナビキネシ》 吾黒髪乃《ワガクロカミノ》 眞白髪爾《マシラガニ》 成極《ナラムキハミ》 新世爾《アラタヨニ》 共將有跡《トモニアラムト》 玉緒乃《タマノヲノ》 不絶射妹跡《タエジイイモト》 結而石《ムスビテシ》 事者不果《コトハハタサズ》 思有之《オモヘリシ》 心者不遂《ココロハトゲズ》 白妙之《シロタヘノ》 手本矣別《タモトヲワカレ》 丹杵火爾之《ニキビニシ》 家從裳出而《イヘユモイデテ》 緑兒乃《ミドリコノ》 哭乎毛置而《ナクヲモオキテ》 朝霧《アサギリノ》 髣髴爲乍《ホノニナリツツ》 山代乃《ヤマシロノ》 相樂山乃《サガラカヤマノ》 山際《ヤマノマニ》 往過奴禮婆《ユキスギヌレバ》 將云爲便《イハムスベ》 將爲便不知《セムスベシラニ》 吾妹子跡《ワギモコト》 左宿之妻屋爾《サネシツマヤニ》 朝庭《アシタニハ》 出立偲《イデタチシヌビ》 夕爾波《ユフベニハ》 入居嘆舍《イリヰナゲカヒ》 腋挾《ワキバサム》 兒乃泣母《コノナクゴトニ》 雄自毛能《ヲトコジモノ》 負見抱見《オヒミイダキミ》 朝鳥之《アサトリノ》 啼耳哭管《ネノミナキツツ》 雖戀《コフレドモ》 効矣無跡《シルシヲナミト》 辭不問《コトトハヌ》 物爾波在跡《モノニハアレド》 吾妹子之《ワギモコガ》 入爾之山乎《イリニシヤマヲ》 因鹿跡叙念《ヨスガトゾオモフ》
 
(460)(白細之)袖ヲサシ交シテ、妻ト〔二字傍線〕寄リ添ウテ寢タ私ノ黒髪ガ、眞白髪ニナルマデモコノ今ノ大御代ニ共ニ居ヨウ、(玉緒乃)切レマイヨ妻ヨト約束シタ言葉ハ果サズ、思ツテヰタ心ハ爲遂ゲルコトガ出來ズ、(白妙之)袂ヲ分ツテ、住ミ馴レタ家カラ出テ、赤兒ノ泣クノモ後ニ殘シテ、(朝霧)ボンヤリト遙カニ遠ザカツテ、山背ノ相樂ノ山ノ山ノ間ニ葬ラレテ〔四字傍線〕往クト、何トモ言ヒヤウガナク、何ト爲樣モナクテ、私ガ〔二字傍線〕妻ト寢タ閨ノ内ニヰテ、朝ニハ外ニ出テ立ツテ妻ヲ思ヒ出シ、夕方ニハ堂内ニ入ツテ嘆キ、腋ノ間ニ挾ンデ抱イテヰル赤兒ガ泣ク度ニ、私ハ男ダノニ背負ツタリ抱イタリシテ見テ、(朝鳥之)聲ヲ出シテ泣イデバカリ居テ、亡キ妻ヲ戀ヒ慕ツテモ、何ノ效モナイカラ、山トイフモノハ〔七字傍線〕物ヲ言ハヌモノデハアルガ、私ノ妻ガ葬ラレテ入ツタ山ヲ妻ノ〔二字傍線〕由縁ノ所ト思ツテヰル。
 
○成極《ナラムキハミ》――成る極まり、即ち成るまでの意。○新世爾《アラタヨニ》――アタラヨとよむのは惡い。新しき御代の意で、今上陛下の御代を申す語である。○玉緒乃《タマノヲノ》――枕詞。玉を緒に通したもの。絶ゆる意で下につづく。○不絶射妹跡《タエジイイモト》――イは語勢を強めを爲の助詞。○事者不果《コトハハタサズ》――事は言の借字で、言葉の意。○白妙之《シロタヘノ》――枕詞。袂とつづく。白栲の布の意である。○丹杵火爾之《ニキビニシ》――卷一に柔備爾之家乎擇《ニキビニシイヘヲオキ》(七九)とあつて、住み馴れた意である。○朝霧《アサギリノ》――枕詞。アサギリニとよんで、枕詞と見ない説もある。この長歌には、ノで終つた枕詞が多く、それは皆、乃又は之の如き文字が用ゐてあるのに、この語だけにそれが無いのは、或はアサギリニと訓ませるのかも知れない。○髣髴爲乍《ホノニナリツツ》――オホニナリツツとよむ説が多いが、卷二にも髣髴見之事悔敷乎《ホノミシコトクヤシキヲ》(二一七)とあるからホノがよい。尚、二一七を參照。○山代乃相樂山乃《ヤマシロノサガラカヤマノ》――山城國相樂郡相樂の地で、今の奈良の北、大和山城國境歌姫越附近をいふのであらう。和名抄に佐加良加《サガラカ》とある。○山際往過奴禮婆《ヤマノマニユキスギヌレバ》――舊訓ヤマノマヲとあるが、ユキスギヌレバは葬られたことと思はれるから、ヤマノマニと訓む考の説に從ふことにする。○入居嘆舍《イリヰナゲカヒ》――舍は神田本に會に作るに從ふべきだ。○兒乃泣母《コノナクゴトニ》――母は毎の誤と考にあるに從ふべきである。○負見抱見《オヒミイダキミ》――負つた(461)り抱いたりの意。今も負つてみたり抱いてみたりなどいふに同じである。○朝鳥之《アサトリノ》――枕詞。啼哭《ネナク》とつづく。○辭不問《コトトハヌ》――物を言はぬこと。○入爾之山乎《イリニシヤマヲ》――葬つた山即ち相樂山をの意。○因鹿跡叙念《ヨスカトゾオモフ》――ヨスガは由縁《ユカリ》で、妻の由縁と思つてなつかしがる意である。
〔評〕 吾妹子跡左宿之妻屋爾《ワギモコトサネシツマヤニ》から、腋挾兒乃泣母《ワキバサムコノナクゴトニ》のあたりは、卷二の人麿の作(二一〇)に似たところもあるが、妻との漆膠の約が、忽ち空しくなつた悲しみ、嬰兒を遺して逝かれた困惑、遙かに墓所の山を望んで切めての心遣りとする哀愁を、順序よく述べてあつて、かなりな作と言はなければならない。
 
反歌
 
482 うつせみの 世の事なれば よそに見し 山をや今は よすがと思はむ
 
打背見乃《ウツセミノ》 世之事爾在者《ヨノコトナレバ》 外爾見之《ヨソニミシ》 山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》 因香跡思波牟《ヨスガトオモハム》
 
人ガ死ヌトイフコトハ〔十字傍線〕、コノ現世ノナラハシデアルカラ、今マデハ自分ニ〔七字傍線〕關係ガナイモノノヤウニ思ツテヰタ山ヲ、妻ヲ葬ツタ所ダカラ〔九字傍線〕今ハ妻ノ〔二字傍線〕ユカリノ所ト思ツテ、自ラ慰メヨ〔七字傍線〕ウ。
 
〔評〕 佛教の無常觀によつて、強ひて諦めようとするのが痛々しい。
 
483 朝鳥の 音のみし泣かむ 吾妹子に 今また更に 逢ふよしをなみ
朝鳥之《アサトリノ》 啼耳鳴六《ネノミシナカム》 吾妹子爾《ワギモコニ》 今亦更《イママタサラニ》 逢因矣無《アフヨシヲナミ》
 
死ンア〔三字傍線〕私ノ妻ニ今更復ト逢フ方法ガナイカラ、(朝鳥之)聲ヲ出シテ泣イテバカリヰヨウ。
 
〔評〕 この二つの反歌は長歌の終の方を更に繰り返したもので、取り立てていふことも無い。
 
右三首、七月廿日高橋朝臣(ノ)作(レル)歌也。名字未v審、但云(ヘリ)2奉膳之男子(ト)1焉
 
名字から下は後人の書き加へたものであらう。奉膳は内膳司の長官である。續紀に 寶宇三年十一月丁卯從五位下高橋朝臣子老爲2内膳奉膳1。六年四月庚戌朔從五位下高橋朝臣老麻呂爲2内膳奉膳1」と見えてゐる(462)が、これらの奉膳では少し時代が後れるやうである。
 
卷第四
 
(463)萬葉集卷第四解説
 
この巻は總べて相聞のみで、歌数は長歌七首、旋頭歌一首、短歌三百一首合計三百九首である。時代は難波天皇妹奉上在山跡皇兄御歌を最古としてゐる。難波天皇は學著によつて見解を異にしてゐるが、仁徳天皇とした從來の説に從ふべきであらう。この天皇は、卷二の冒頭にも磐姫皇后の御作が出てゐるやうに、又古事記にも、多くの和歌を伴なつた戀愛譚が記されてゐるやうに、古い歌謠・説話中の、主要なる地位を占めて居られるのであるから、この御歌もこの天皇に奉つたものと推定すべきであらう。次いで舒明天皇の御製もあるが、天智天皇以前のものはただこれだけで、人麿時代のものも比較的尠く、多くは奈良遷都以後の作である。年代を明記したのは神龜時代のものに數首と、大伴旅人関係のものに二首あるが、他は悉く年次を明らかにしてゐない。併し卷の後半に多く見える大伴氏一族の作、殊に家持が坂上大孃や他の娘子と贈答した歌によつて、彼が未だ青年であつた天平十二三年頃までのものが收めてあることがわかる。大體において卷三及び卷八とほぼ時代を同じうしたものである。眞淵はこの卷を卷八の次、卷三の前に置いて第十三としてゐる。作者は聖武天皇を始め、志貴皇子・春日王・額田王・鏡女王・安貴王・市原王・湯原王・厚見王・高安王・海上女王ら皇族の名が見え、その中では湯原王が一番光つてゐるやうである。臣下では人麿の作が七首ばかり掲げられてゐるが、いづれも短歌のみで卷一・卷二にあるやうな力の籠つたものではない。言はば卷一・卷二の拾遺といふやうな感がある。この卷の作家の中(464)心になつてゐるものは、やはり大伴旅人及びその子家持らである。旅人の妹坂上郎女も亦重要な作家の一人である。家持を※[しんにょう+堯]る多くの女性、即ち坂上大孃・笠女郎・紀女郎・山口女王・中臣女郎・巫部麻蘇娘子・大神女郎・河内百枝娘子・粟田娘子といふやうな人たちの消息が赤裸々に掲げられてゐるのは、家持の編纂したものたることを語るものであり、同時に萬葉人の拘束されない戀愛觀を示してゐるやうに見える。またこの卷の歌に卷十一・卷十二等の古歌に類似したものの多いのが著しく目に立つ。さうしてその模倣の最も甚だしいのは家持の作で、彼の歌の目ぼしいものの多くは、古歌を學んでゐることを指摘し得るほどである。彼らが作歌の學習にいそしんでゐたことが、これによって證據立てられるやうに思はれる。文字の使用法は、卷三と殆ど變りはないが、義訓が少し多いやうである。義之《テシ》・八十一《グク》の如き戯書も見えてゐる。
 
(465)相聞
 
難波天皇妹奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首
崗本天皇御製一首并短歌
額田王思2近江天皇1作歌一首
鏡王女作歌一首
吹黄刀自歌二首
田部忌寸櫟子任2太宰1時歌四首
柿本朝臣人麿歌四首
碁檀越往2伊勢國1時留妻作歌一首
柿本朝臣人麿歌三首
柿本朝臣人麿妻歌一首
阿倍女郎歌二首
〔466〜475の目次省略〕
 
(477)相聞
 
難波天皇|妹《イモウトノミコ》奉d上(ル)在《イマス》2山跡(ニ)1皇兄《イロセノミコニ》u御歌一首
 
難波天皇は仁徳天皇を申し奉つたものと考へられる。應神天皇の九皇女ましました中で、仁徳天皇の皇妹は八人おはしましたが、そのうちのいづれでましますか不明。皇兄は仁徳天皇の兄君のやうに思はれないこともないけれども、天皇には庶兄は額田(ノ)大中彦皇子・大山守皇子・去来眞稚皇子などおはしましたが、同母兄はあらせられぬ筈である。この題詞の書きぶりから推測すると、皇兄は即ち難波天皇をさし奉つたやうに見られる。巻二の一三〇の題詞に、長皇子與2皇弟1御歌一首とあるのも、長皇子の御弟を皇弟と申してゐる。ともかく古い時代のもので、傳説的になってゐるから、この題詞をその儘に信ずるわけには行かない。但しこの難波天皇を、難波長柄豐島宮にましました孝徳天皇としても考へられないことはない。然る時は次の歌も、齊明天皇のこととなつて、時代が著しく新しくなるが、普通の説に從つて仁徳天皇とする方が穩やかであらう。
 
484 一日こそ 人も待ち吉き 長き日を 斯くのみ待たば 在りかつましじ
 
一日社《ヒトヒコソ》 人母待告《ヒトモマチヨキ》 長氣乎《ナガキケヲ》 如此所待者《カクノミマタバ》 有不得勝《アリカツマシジ》
 
一日位ハ誰デモ待チヨイ。長イ日數ヲコンナニ待ツテバカリヰルナラバ、堪ヘラレナイデアラウ。
 
○人母待告《ヒトモマチヨキ》――告は元暦校本・神田本などに吉とあるのがよい。舊訓ヒトモマチツゲとあるは穩やかでない。その他の誤字説は採るに足らぬ。○長氣乎《ナガキケヲ》――氣《ケ》は日《カ》に同じ。長き日數をの意。○如此所待者《カクノミマタバ》――舊訓カクマタルレバとあるは面白くない。所は耳の誤として、玉の小琴にカクノミマテバとよんだのに從ふべきか。但し第五句に呼應する爲に、マタバとよみたい。○有不得勝《アリカツマシジ》――舊訓はアリエタヘズモであつたのを、考にアリガテナクモとし、玉の小琴の道麻呂説では、勝を鴨の誤としてアリカテヌカモとしてゐるが、いづれもよくない。(478)新訓にアリカツマシジとよんでゐるのがよからう。委しくは九四參照。
〔評〕 この訓のやうにすると、誠に平明な歌で、かなり古調を帶びてゐる。卷二の卷頭の磐姫皇后の御歌を思ひ出させるものがある。
 
岳本天皇御製一首并短歌
 
岳本天皇は舒明天皇で、後岡本天皇は齊明天皇である。そのいづれとも分らないと左註にも記してある。併し岳本とあるからは舒明天皇とするより外はない。ただ疑はしいのは、この歌が女性の作らしいことである。思ふにこれも前の歌と同じく、作者には信を措き難いもので、歌風から考へても、もう少し新しいやうである。
 
485 神代より 生れ繼ぎ來れば 人さはに 國には滿ちて 味むらの ゆき來は行けど 吾が戀ふる 君にしあらねば 晝は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み おもひつつ いもねがてにと 明しつらくも 長き此の夜を
 
神代從《カミヨヨリ》 生繼來者《アレツギクレバ》 人多《ヒトサハニ》 國爾波滿而《クニニハミチテ》 味村乃《アヂムラノ》 去來者行跡《ユキキハユケド》 吾戀流《アガコフル》 君爾之不有者《キミニシアラネバ》 晝波《ヒルハ》 日乃久流麻弖《ヒノクルルマデ》 夜者《ヨルハ》 夜之明流寸食《ヨノアクルキハミ》 念乍《オモヒツツ》 寢宿難爾登《イモネガテニト》 阿可思通良久茂《アカシツラクモ》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》
 
神代カラシテ段々ト〔三字傍線〕生レ續イテ來タノデ、人ガ澤山コノ國ニ滿チテ(味村乃)往ツタリ來タリシテ居ルガ、ソレラノ人達ハ〔七字傍線〕、私ガ戀シク思フ貴方デハナイカラ、晝ハ日ガ暮レルマデ、夜ハ夜ノ明ケルマデ、戀シイ人ヲ〔五字傍線〕思ヒ焦レテ寢ラレナイデ、長イ夜ヲ明シタワイ。
 
○味村乃《アヂムラノ》――枕詞。騷ぐとつづく例であるが、ここは去來《ユキキ》とつづいてゐる。○去來者行跡《ユキキハユケド》――去來はイザとよむを常とするので、ここもイザトハユケドと舊訓にはよんでゐる。味鳧の群が友を誘つて行く意に解いてあるけれども穩やかでない。今はユキキとよんで道行く人の往還することと見よう。○寢宿難爾登《イモネガテニト》――登の字を誤(479)字としたり、脱字があるやうに見たりする説が多いが、舊訓にイモネガテニトとあるので毫も差支はない。
〔評〕 吾戀流君爾之不有者《アガコフルキミニシアラネバ》の句は、確かに女性の詞である。又全體の趣が卷十三、式島之山跡之土丹人多爾滿而雖有藤浪乃思纏若草乃思就西君目二戀八將明長此夜乎《シキシマノヤマトノクニニヒトサハニミチテアレドモフヂナミノオモヒマツハリワカクサノオモヒツキニシキミガメニコヒヤアカサムナガキコノヨヲ》(三二四八)に著しく似てゐる點などを考へると、これを舒明天皇御製とはしがたい。民謠が傳説的になつたものであらう。人戀ふる遣瀬なさが、よくあらはれてゐる歌である。
 
反歌
 
486 山の端に 味群騷ぎ 行くなれど 吾はさぶしゑ 君にしあらねば
 
山羽爾《ヤマノハニ》 味村騷《アヂムラサワギ》 去奈禮騰《ユクナレド》 吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》 君二四不在者《キミニシアラネバ》
 
山ノ端ニ味鴨ノ群ガ騷イデ飛ンデ行クヤウニ、人ガ大勢通〔九字傍線〕ツテ賑カデアルガ、アレハ貴方デナイカラ私ハヤハリ〔三字傍線〕淋シイデスヨ。貴方ニ逢ヒタク思ヒマス〔貴方〜傍線〕。
 
○山羽爾味村騷去奈禮騰《ヤマノハニアヂムラサワギユクナレド》――山の端に味鳧の群が騷いで行く如く、人も行くなれどの意。騷の字、古寫本に鰺とあるは誤。○吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》――我は淋しいよの意。ヱは感歎の助詞。心者吉惠君之隨意《ココロハヨシヱキミガマニマニ》(一五三七)安禮波麻多牟惠許登之許受登母《アレハマタムヱコトシコズトモ》(三四〇六)などの惠《ヱ》に同じ。
〔評〕 上句に味村を持つて來たのが、譬喩のやうでなくて、實は譬喩になつてゐるのが、一寸奇異な感を起さしめる。この味村は、長歌中の句を取り出して用ゐたのであらう、
 
487 淡海路の 鳥籠の山なる 不知哉川 けのころごろは 戀ひつつもあらむ
 
淡海路乃《アフミヂノ》 鳥籠之山有《トコノヤマナル》 不知哉川《イサヤガハ》 氣乃己呂其侶波《ケノコロゴロハ》 戀乍裳將有《コヒツツモアラム》
 
貴方ノオ心ハ〔六字傍線〕(淡海路乃鳥籠之山有不知哉川)イヤ分リマセヌ〔七字傍線〕。コノ日頃ハ貴方ガ私ヲ戀ヒ慕ツテ居ラレルカ。イヤ分リマセヌ〔七字傍線〕。
 
(480)○淡海路乃烏籠之山有不知哉川《アフミヂ(ノ)トコ(ノ)ヤマナリイサヤガハ》――これだけで序となつてゐるが、下にはいさ知らずの意として續かしめてある。卷十一に狗上之鳥籠山爾有不知也河《イヌカミノトコノヤマナルイサヤガハ》(二七一〇)とあつて、近江國犬上郡なる鳥籠の山の附近を流れるいさや川である。犬上郡は今の彦根の附近、鳥籠山は今の坂田郡鳥居本村の南、大字原の上方なる正法寺山をいふ。不知哉川は大堀川で、靈仙の芹谷から發し、彦根町に至つて湖水に注いでゐる。二九近江地圖參照。○氣乃己呂其侶波《ケノコノゴロハ》――日《ケ》のこの頃はの意。呂は乃の誤と宣長は言つてゐるが、この儘でよいであらう。
〔評〕 上の句の序のつづきが、少しく變つてゐることは、前の歌と同樣である。前の長歌の反歌としては、更に關係がなく、歌意も相應しない。民間の歌が誤つて反歌に採り入れられたものであらう。
 
右、今案(ズルニ)高市岳本宮、後岡本宮二代二帝、各有v異焉、但稱(スル)2岡本天皇(ト)1未v審2其指(ストコロヲ)1
 
これは後人の註であらう。題詞の岳本天皇が舒明天皇か齊明天皇か分らぬといふのである。
 
額田王思(ヒテ)2近江天皇(ヲ)1作(レル)歌一首
 
額田王は鏡王の女、二〇參照。近江天皇は天智天皇。
 
488 君待つと 吾が戀ひ居れば わが屋戸の 簾うごかし 秋の風吹く
君待登《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 我屋戸之《ワガヤドノ》 簾動之《スダレウゴカシ》 秋風吹《アキノカゼフク》
 
貴方樣ノオイデニナルノ〔八字傍線〕ヲ待ツテ、私ガ貴方樣ヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマスト、我ガ家ノ簾ヲ動カシテ秋ノ風ガソヨソヨト〔五字傍線〕吹キマス。只々貴方樣ガオナツカシウゴザイマス〔只々〜傍線〕。
〔評〕 萬葉初期の歌とは思はれない程、柔味のある優麗な姿である。さうしてあえかな宮びやかな歌詞は、當に高貴な寶珠に比すべき光を放つてゐる。止み難い思慕の情が、綿々嫋々としていつまでも流れ漂うてゐるやうな感がある。古義に、「風の吹來るは、其の人の來らむとする前兆ぞといふ諺のありしをふみて、よみ給へるなるべし」と言つてゐるのは、穿ち過ぎて詩趣を損ふもので、略解・新考に、簾の動くのを君の來ませるかと思つた(481)やうに見たのも、なほ過ぎてゐる。簾動之秋風吹《スダレウゴカシアキノカゼフク》は、ただその場合の景趣を述べただけである。この歌卷八に重ねて出てゐる。又、古今六帖に「君まつと戀ひつつふれば吾が宿のすすきうごきて秋風ぞ吹く」とある。
 
鏡王女作歌一首
 
額田王の姉君である。九一參照。
 
489 風をだに 戀ふるはともし 風をだに 來むとし待たば 何か嘆かむ
 
風乎太爾《カゼヲダニ》 戀流波乏之《コフルハトモシ》 風小谷《カゼヲダニ》 將來登時待者《コムトシマタバ》 何香將嘆《ナニカナゲカム》
 
風ノ吹クノヲナツカシガル貴方ハ〔三字傍線〕ウラヤマシイ。貴方ノヤウニ〔六字傍線〕人ガ來ルノヲアテニシテ待ツノデアルナラバ何シニ私ハ嘆キマセウ。來ルアテガ無クテ待ツノダカラ悲シウゴザイマス〔來ル〜傍線〕。
 
○戀流波乏之《コフルハトモシ》――トモシは羨しの意。○風小谷《カゼヲダニ》――この三の句は下へつづくものとしては、意をなさないやうであるから、宣長が言つたやうに、第一句を繰返しただけと見て置かう。○將來登時待者《コムトシマタバ》――待人が來むとて、その人を待つならばの意。
〔評〕 鏡王女も額田王と共に天智天皇に愛せられたお方である。額田王が天皇を待つ歌を詠まれたのを見て、我は今は寵衰へて、天皇のみゆきを期待すべきやうなしと、羨み且つ嘆かれたものである。張りつめた調子に心の悶えはあらはれてゐるが、意味の明瞭を缺くのは缺點であらう。この歌も卷八に出てゐる。
 
吹黄《フキノ》刀自歌二首
 
吹黄刀自は卷一に見える。天武天皇の頃の人で、安貴王に侍してゐた。二二參照
 
490 眞野の浦の 淀の繼橋 心ゆも 思へや妹が 夢にし見ゆる
 
眞野之浦乃《マヌノウラノ》 與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》 情由毛《ココロユモ》 思哉妹之《オモヘヤイモガ》 伊目爾之所見《イメニシミユル》
 
私ハ(眞野之浦乃與騰乃繼橋)絶エズ續ケテ〔六字傍線〕心力ラ物ヲ思フカラカ、妻ガ夢ニ見エルヨ。
 
(482)○眞野之浦乃《マヌノウラノ》――卷三に白管乃眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》(二八〇)とあつた所で、今の神戸市の西部、眞野町の海岸。○與騰乃繼橋《ヨドノツキハシ》――攝津志に「苅藻橋在2矢田部郡(ノ)東尻池村1或曰、眞野繼橋即此」とあつて、所在は明らかでないが、往昔苅藻川の川淀に架けてあつた橋であらう。繼橋は柱を河中に打ち立てて、板を懸け渡したものらしい。ここまでの二句は序詞的用法であるが、繼橋に、續いての意を持たせてある。○情由毛《ココロユモ》――心からもの意、モは詠歎の助詞である。○思哉妹之《オモヘヤイモガ》――オモヘヤは思へばにやの意。
〔評〕 上の二句の用法が特異であるが、前の山羽爾《ヤマノハニ》、淡路路乃《アフミヂノ》の歌と似た點がある。女性たるべき吹黄刀自が思哉妹之《オモヘヤイモガ》といふのはをかしいわけだが、女同志で妹と言つた例もあるから、このままでよいとせねばなるまい。但しこれを男から贈られた歌として、次のを刀自の返歌とする説もある。
 
491 河の上の いつ藻の花の 何時も何時も 來ませ我が背子 時じけめやも
 
河上乃《カハノヘノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時何時《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》
 
(河上乃伊都藻之花乃)何時デモ何時デモ、始終〔二字傍線〕オイデナサイ、私ノ夫ヨ。來テ惡イトイフ時ガアリマセウカ。ソンナコトハアリマセヌカラオイデナサイ〔ソン〜傍線〕。
 
○河上乃伊都藻之花乃《カハノヘノイツモノハナノ》――卷一にもこの人の歌に、河上乃湯都磐村二《カハノヘノユツイハムラニ》(二二)とあつた。舊訓カハカミとあるのはよくあるまい。伊都藻《イヅモ》は五百箇藻《ユツモ》の轉で、繁つた藻のことであらう。この二句は何時何時《イツモイツモ》と言はむ爲に、同音を繰返すやうにした序詞である。○時自異目八方《トキジケメヤモ》――時じからめやもで、時ならずといふことはない、即ち何時でもおいでなさいの意。
〔評〕 この人の卷一の二二の歌と言葉が似てゐる點がある。内容は、かれは十市皇女を敬讃したのに、これは相聞であるから、異なつてゐるが、やはり相通じたところがあるのはおもしろい。この歌、卷十(一九二一)に問答歌の答歌として出てゐる。卷十は總べて作者のない歌で、古い卷ではあるが、吹黄刀自との時代の前後は判斷しがたい。
 
(483)田部《タノベノ》忌寸|櫟子《イチヒコ》、任(ゼラルル)2太宰1時(ノ)歌四首
 
田部忌寸櫟子の傳は分らない。
 
492 衣手に 取りとどこほり 哭く兒にも まされる吾を 置きていかにせむ
 
衣手爾《コロモデニ》 取等騰己保里《トリトドコホリ》 哭兒爾毛《ナクコニモ》 益有吾乎《マサレルワレヲ》 置而如何將爲《オキテイカニセム》 舍人吉年
 
母ノ〔二字傍線〕着物ノ袖ニ取リツイテ哭ク子供ヨリモ以上ニ別レヲ悲シンデ泣ク〔九字傍線〕私ヲ遺シテ置イテ、一體〔二字傍線〕アナタハドウナサラウトイフノデスカ。アマリ無情デハアリマセンカ〔アマ〜傍線〕。
 
○取等勝己保里《トリトドコホリ》――取り滯り、取り付いて離れぬこと。○舍人吉年は、無い本もあり、また元暦校本には舍人千年とあるが、ここは類聚古集に吉年とあるのによつた。舍人吉年は卷二の一五二に見えてゐる。この歌で見ると、櫟子の妻のやうである。
〔評〕 舍人吉年は女性らしい。訣別の悲しさの表現が手弱女ぶりであはれである。吾を君の誤とした説は妄であらう。
 
493 置きて行かば 妹戀ひむかも 敷妙の 黒髪布きて 長をこの夜を
 
置而行者《オキテユカバ》 妹將戀可聞《イモコヒムカモ》 敷妙乃《シキタヘノ》 黒髪布而《クロカミシキテ》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》 田部忌寸櫟子
 
後ニ遺シテ置イタナラバ妻ハ、(敷細乃)黒髪ヲ靡カセテ、一人デ〔三字傍線〕長イコノ夜ヲ寢テ、私ヲ〔二字傍線〕戀シガルデアラウカナア。可愛サウニ〔五字傍線〕。
 
○敷細乃《シキタヘノ》――枕詞。袖・袂・衣手・枕・床・家などにつづくのであるが、ここは黒髪に冠してあるのは疑はしい。烏珠《ヌバタマ》の誤だらうとも言はれてゐるが、さうは思はれない。或は黒髪を隔てて布而《シキテ》につづけたものか。
〔評〕 別れた後の妻の胸中を察したのが、いたいたしい。黒髪布而《クロカミシキテ》が表現の重點をなして、官覺的の臭を添へてゐる。
 
494 吾妹子を 相知らしめし 人をこそ 戀のまされば 恨めしみ念へ
 
(484) 吾妹兒矣《ワギモコヲ》 相令知《アヒシラシメシ》 人乎許曾《ヒトヲコソ》 戀之益者《コヒノマサレバ》 恨三念《ウラメシミオモヘ》
 
今妻ト別レル時ニ當ツテ〔今妻〜傍線〕、戀シサニ堪ヘカネテ、私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ヲ私ニ仲立シテ逢ハセルヤウニシタ人ヲ、却ツテ〔三字傍線〕恨メシク思フヨ。
〔評〕 熱烈な愛情と止み難い離愁とが、理性を滅却してゐるのが、悲痛の感を惹さしめる。
 
495 朝日影 にほへる山に 照る月の 厭かざる君を 山越に記きて
 
朝日影《アサヒカゲ》 爾保敝流山爾《ニホヘルヤマニ》 照月乃《テルツキノ》 不厭君乎《アカザルキミヲ》 山越爾置手《ヤマゴシニオキテ》
 
(朝日影爾保敝流山爾照月乃)厭クコナナク可愛〔三字傍線〕イ妻ヲ、山ノアナタニ殘シテ置イテ遠クヘ行クカト思ヘバ悲シイ〔遠ク〜傍線〕。
 
○朝日影爾保敝流山爾照月乃《アサヒカゲニホヘルヤマニテルツキノ》――不厭君《アカザルキミ》と言はむ爲の序である。旭日の影がさし初めた、東の山の端に照つてゐる有明月の光の、隱れ行くを惜しむ意で續くのである。
〔評〕 序が優艶であり、結句は餘情を含めて輕く歌ひ納めてある。序詞は出立の際の實景を捕へたものかと思はれる。三首ともそれぞれ異なつた情味で離愁をあらはしてゐる。櫟子は決して凡手ではない。
 
柿本朝臣人麿歌四首
 
496 み熊野の 浦の濱木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも
 
三熊野之《ミクマヌノ》 浦乃濱木綿《ウラノハマユフ》 百重成《モモヘナス》 心者雖念《ココロハモヘド》 直不相鴨《タダニアハヌカモ》
 
私ハ女ノコトヲ〔七字傍線〕(三熊野之浦乃濱木綿)幾重ニモ、心ニハ思ツテヰルガ、直接ニ逢フコトガデキナイナア。アア逢ヒタイ〔六字傍線〕。
 
○三熊野之浦乃濱木綿《ミクマヌノウラノハマユフ》――紀伊の熊野の海岸に生ずる濱木綿といふ草は、その葉が幾重にも重なつてゐるので、(485)それを百重の序としたもの。濱木綿は濱おもとともいふ。我が國南國の海岸に生ずる石蒜科の常緑草本で、莖の高さ四尺に達するものがある。莖の上部に萬年青のやうな葉を出し、夏日、傘形をなして十餘の白花を着ける。花の色白く、木綿に似てゐるので、かく呼ぶのであらう。
〔評〕 序の材料が奇拔で面白い。熊野の濱木綿は珍らしい植物として、大和人の間に知られてゐたのであらう。全體に力の籠つた、重みのある、調の高い歌である。
 
497 いにしへに ありけむ人も 吾が如か 妹に戀ひつつ 宿ねがてずけむ
 
古爾《イニシヘニ》 有兼人毛《アリケムヒトモ》 如吾歟《ワガゴトカ》 妹爾戀乍《イモニコヒツヽ》 宿不勝家牟《イネガテズケム》
 
昔ノ人タチモ、私ノヤウニ妻ヲ戀ヒ慕ツテ、寢ラレナカツタダラウカ。ホントニ辛クテ仕樣ガナイ。ヨク昔ノ人ハコレヲ辛卯シタモノダ〔ホン〜傍線〕
 
○宿不勝家牟《イネガテズケム》――舊訓イネガテニケムであるが、代匠記の訓に從はう。母等米安波受家牟《モトメアハズケム》(四〇一四)・佐吉低己受祁牟《サキテコズケム》(四三二三)と同一語法である。
〔評〕 あまりの戀の苦しさに、古人もかかる經驗をしたかと疑つたのである。卷七の古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾挿頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトトカミワノヒバラニカザシヲリケム》(二一八)と上句全く同じで、それが柿本朝臣人麿之歌集出とあるのは注意すべきである。
 
498 今のみの わざにはあらず 古の 人ぞまさりて 哭にさへ泣きし
 
今耳之《イマノミノ》 行事庭不有《ワザニハアラズ》 古《イニシヘノ》 人曾益而《ヒトゾマサリテ》 哭左倍鳴四《ネニサヘナキシ》
 
妻ヲ戀ヒ慕フノハ〔八字傍線〕、今バカリノコトデハナイ。昔ノ人ハ却ツテ今ノ〔五字傍線〕人以上ニ悲シンデ〔五字傍線〕、聲ヲ出シテマデ泣イタモノダ。私バカリデモナイカラセメテ心ヲ慰メヨウ〔私バ〜傍線〕。
 
○哭左倍鳴四《ネニサヘナキシ》――ナキサヘナキシと略解にあるのは惡い。
(486)〔評〕 前の歌では、ふと思ひついたことを述べたが、古歌などを思ひ合はせると、音に泣くといふことをよんであるから、前の歌の意を自ら打ち消し、自ら慰めたものである。淋しい反省であり、悲しい靜觀である。
 
499 百重にも 來しけかもと 念へかも 君が使の 見れど飽かさらむ
 
百重二物《モモヘニモ》 來及毳常《キシケカモト》 念鴨《オモヘカモ》 公之使乃《キミガツカヒノ》 雖見不飽有哉《ミレドアカザラム》
 
百度デモ貴女ノ使ガ〔五字傍線〕重ネテ來ルヤウニト思フカラカ、貴女ノ使ヲ見テモ私ハ〔二字傍線〕滿足シナイノデアラウ。
 
○來及毳常《キシケカモト》――舊訓キオヨベカモトであるが、キオヨベでは意味が分らない。及の字は集中多くシクとよんであるから、キシケに違ない。古義にキシカヌとよんだのは、無理に字數を揃へたもので面白くない。毳は氈《カモ》と同じで、かもしか〔四字傍点〕などの毛で作つた敷物である。和名抄に「氈賀毛毛席、撚v毛爲v席也」とある。ここは冀望のカモに借り用ゐたのである。○雖見不飽有哉《ミレドアカザラム》――哉は元暦校本に武とあるがよい。
〔評〕 カモの重用も面白くないし、少しく理に落ちて、内容もさしてすぐれてはゐない。
 
碁檀越《ゴノダヌヲチ》往(ケル)2伊勢國(ニ)1時、留(レル)妻作(レル)歌一首
 
碁は姓、檀越は名であらう。傳は分らない。舊本の目録に碁を基に誤つてゐる。
 
500 神風の 伊勢の濱荻 折り伏せて 旅宿やすらむ 荒き濱邊に
 
神風之《カムカゼノ》 伊勢乃濱荻《イセノハマヲギ》 折伏《オリフセテ》 客宿也將爲《タビネヤスラム》 荒濱邊爾《アラキハマベニ》
 
(神風之)伊勢ノ濱ニ生エタ荻ヲ折リ伏セテ、淋シイ荒凉タル海岸デ、我ガ夫ハ〔四字傍線〕旅寢ヲナサルノデアラウ。サぞ辛イこと〔六字傍線〕デセウ。
 
○神風之《カムカゼノ》――枕詞。伊勢とつづく。八一參照。○伊勢乃濱荻――濱荻は濱に生えた荻。荻は薄によく似た禾本科の多年生草本で、水邊及び原野に自生する。薄と異なる點は葉に鋭齒がないことと、花穗が薄よりも大きくて、芒がないことである。
(487)〔評〕 女らしいやさしみの溢れた歌。演荻折伏《ハマヲギオリフセテ》に夫の辛苦を思ふ眞情があらはれてゐる。
 
柿本朝臣人麻呂歌三首
 
501 をとめらが 袖振る山の 瑞籬の 久しき時ゆ 思ひき吾は
 
未通女等之《ヲトメラガ》 袖振山乃《ソデフルヤマノ》 水垣之《ミヅガキノ》 久時從《ヒサシキトキユ》 憶寸吾者《オモヒキワレハ》
 
(未通女等之抽振山乃水垣之)久シイ以前カラ私ハ貴女ヲ〔三字傍線〕思ツテヰマシタ。
 
○未通女等之袖振山乃水垣之《ヲトメラガドデフルヤマノミヅガキノ》――久しきとつづく序詞。さうして未通女等之袖《ヲトメラガソデ》は、更に振山の序となつてゐる。振山は大和國山邊郡石上の布留で、即ち今の山邊村大字布留の高庭《タカバ》。紀に謂はゆる、石上神宮がここに祀られてゐる。水垣はその神宮の瑞籬で、すべて神社の周圍の垣をかく呼ぶのである。卷十三に?垣久時從《ミヅカキノヒサシキトキユ》(三二六二)とあり、?は若木の合字と思はれるから、ミヅはみづみづしく、若々しき意であらう。石上神宮奉祀の起源が、古い意を以て久しきとつづけたものらしい。但しこの神社が古く瑞籬宮、即ち崇神天皇の御世に建てられたから、瑞籬の久しとつづくのだとする説もあるが、從ひがたい。瑞籬宮は考慮に入れる要はあるまい。
〔評〕 未通女等之袖《ヲトメラガソデ》は、振山を言ひ出す爲に置いただけであるが、この詞がなつかしい美女への思慕の情を、ほのめかしてゐるやうに思はれる。さうして振山乃水垣之《フルヤマノミヅガキノ》は、その思慕の情の悠久さ、深切さ、眞面目さを示してゐるやうで、全體に輕浮な感じが少しも見えない。この歌は卷十一に處女等乎袖振山水垣久時由念來吾等者《ヲトメラヲソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒケリワレハ》(二四一五)とあつて、柿本朝臣人麿之歌集出としてある。
 
502 夏野行く 牡鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて念へや
 
夏野去《ナツヌユク》 小牡鹿之角乃《ヲシカノツヌノ》 束間毛《ツカノマモ》 妹之心乎《イモガココロヲ》 忘而念哉《ワスレテモヘヤ》
 
(夏野去小牡鹿之角乃)少時ノ間デモ、妻ノ親切ナ〔三字傍線〕心ヲ私ハ〔二字傍線〕忘レヨウカ。否々決シテ忘レハセヌ〔否々〜傍線〕。
 
○夏野去小牡鹿之角乃《ナツヌユクヲシカノツヌノ》――束間《ツカノマ》とつづく序詞。夏の野の雄鹿は、まだ角が伸びないで、短いからである。○束《》間毛《ツカノマモ》――束は一握だけの長さ。即ち元來空間的の稱呼であつたのを、時間的にも用ゐるやうになつたのである。
(488)○妹之心乎《イモガココロヲ》――妹が心のやさしさをの意。古義に「妹がことを心にといふ意なり」とあるのはどうであらう。○忘而念哉《ワスレテモヘヤ》――忘れて思はむや、忘れはせじといふので、念ふは極めて輕く用ゐてある。
〔評〕 序が實に巧である。短い若角を夏の野の草の上から覗かせて、のそりのそりと鹿が歩いてゐる姿は、當時の人の折々目睹するところであつたらう。全體に、悠揚たる、上品な、しかも切實な戀情があらはれてゐる。
 
503 珠衣の さゐさゐしづみ 家の妹に もの言はず來て 思ひかねつも
 
珠衣乃《タマギヌノ》 狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》 家妹爾《イヘノイモニ》 物不語來而《モノイハズキテ》 思金津裳《オモヒカネツモ》
 
別レヲ悲シンデ〔七字傍線〕(珠衣乃)ザワザワト騷イデヰル妻ヲ押シ〔四字傍線〕鎭メテ、強ヒテ平氣ヲ装ツテ〔九字傍線〕、家ノ妻ニ別レノ〔三字傍線〕辭モ言ハナイデ別レテ〔三字傍線〕來タノデ、悲シクテ思ヒニ堪ヘカネテヰルヨ。
 
○珠衣乃《タマギヌノ》――枕詞。蟻衣《アリギヌ》の誤とする説もあるが、この儘でよいであらう。珠は美稱で衣の音のさやさやと鳴るのを狹藍左謂《サヰサヰ》とつづけたもの。○狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》――サヰサヰは、さやさや、さわさわなどと同意で、騷ぐ音をいふ。シヅミは鎭めの意で、別れの悲しさに女の物騷がしく言ひ立てるのを、叱り鎭めての意であらう。○思金津裳《オモヒカネツモ》――思に堪へ兼ねるよの意。
〔評〕 悲しさを忍んで騷ぐ妻を叱りながら、しみじみと別れの辭も述べないで來た後の淋しさ、心苦しさを歌つたもので、男性らしい眞情があらはれてゐる。この歌、卷十四に
波受伎爾氏於毛比具流之母《アリキヌノサヱサヱシヅミイヘノイモニモノイハズキニテオモヒグルシモ》(三四八一)とある。その左註に、柿本朝臣人麿歌集中出見v上已記也とある。東歌中に人麿の歌と同歌があるのは研究を要する問題である。
 
柿本朝臣人麿妻歌一首
 
504 君が家に われ住坂の 家路をも 吾は忘れじ 命死なずは
 
君家爾《キミガイヘニ》 吾住坂乃《ワレスミサカノ》 家道乎毛《イヘヂヲモ》 吾者不忘《ワレハワスレジ》 命不死者《イノチシナズハ》
 
(君家爾吾)住坂ノ貴方ノ家〔三字傍線〕ヘ行ク道ヲ、私ハ私ノ命ノ〔四字傍線〕亡クナルマデハ忘レハシマスマイ。
 
(489)○君家爾吾住坂乃《キミガイヘニワレスミサカノ》――君家爾吾《キミガイヘニワレ》は住坂の序。住坂といふ地名に住みをかけたのである。住坂は大和國宇陀郡墨坂であらう。然らば萩原町の西にある。神武紀に「國見岳上有八十梟師、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置黒墨、其女坂男坂墨坂之號由以而起也」とあるところである。
〔評〕 住むとは男が女の許に通ふをいふのである。上は序ではあるが、女がかくの如き言をなす筈はない。三の句以下も女の歌らしくない。人麿妻歌とあるのを疑はぬわけには行かない。
 
安倍女郎歌二首
 
傳未詳。卷三の二六九に見えてゐる。
 
505 今更に 何をか念はむ うち靡き こころは君に 縁りにしものを
 
今更《イマサラニ》 何乎可將念《ナニヲカオモハム》 打靡《ウチナビキ》 情者君爾《ココロハキミニ》 縁爾之物乎《ヨリニシモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕心ハ打チ靡イテ、貴方ニオタヨリ申シタノデスカラ、今更何ヲ心配致シマセウニ。何ノ心配モアリマセヌ〔何ノ〜傍線〕。
 
○打靡《ウチナビキ》――句を隔てて縁爾之《ヨリニシ》につづいてゐる。
〔評〕 平明な、しかも力の籠つた眞情の歌。女性の貴い純一性が、直線的にあらはされてゐる。
 
506 吾が背子は 物な念ほし 事しあらば 火にも水にも 吾無けなくに
 
吾背子波《ワガセコハ》 物莫念《モノナオモホシ》 事之有者《コトシアラバ》 火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》 吾莫七國《ワレナケナクニ》
 
私ノ夫ハ、物ヲクヨクヨ〔四字傍線〕オ考ヘナサイマスナ。何カ事ノアル場合ニハ、火ノ中ニデモ水ノ中ニデモ、私ガ御一緒ニ〔四字傍線〕參ラナイコトハアリマセヌカラ。
 
○物莫念《モノナオモホシ》――舊訓モノナオモヒソであるが、必ずしもソで受けねばならなぬこともないから、故證の訓に從ふことにする。○吾莫七國《ワレナゲナクニ》――我が無いことはないよの意。七七參照。七を亡の誤とする説は從ふべきでない。
〔評〕 水火の中をも辭せない熱烈な戀情が、何の粉飾もなく、思つた儘に述べられてゐる。貴い純情の歌。卷一(490)の吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワガオホキミモノナオモホシセメガミノツギテタマヘルワレナケナクニ》(七七)と同型の歌である。
 
駿河|※[女+采]女《ウネメ》歌一首
 
駿河※[女+采]女の傳は明らかでない。卷八に駿河采女とあるも同人で、駿河國から召された采女であらう。
 
507 敷妙の 枕ゆくくる 涙にぞ 浮宿をしける 鯉の繁きに
 
敷細乃《シキタヘノ》 枕從久久流《マクラユククル》 涙二曾《ナミダニゾ》 浮宿乎思家類《ウキネヲシケル》 戀乃繁爾《コヒノシゲキニ》
 
私ノ〔二字傍線〕戀ノ心ガ深イノデ、(敷細乃)枕カラ漏レテ落チル涙デ、體ガ浮イテ〔五字傍線〕浮寢ヲシマシタヨ。
 
○敷細乃《シキタヘノ》――枕詞。枕とつづく、細をタヘとよむのは、和細布奉《ニギタヘマツリ》(四四三)とあると同意である。○枕從久久流《マクラユククル》――ククルは洩れ潜ること。伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》(一八九七)・保登等藝須木際多知久吉《ホトトギスコノマタチクキ》(三九一一)・波流乃野能之氣美登妣久久《ハルノヌノシゲミトビクク》(三九六九)のクキ、ククも同じである。
〔評〕 かなり誇張した言ひ方である。浮寢といふ言葉に弄語的氣分が見える。この傾向を進めて行くと、古今集の「涙川枕流るる浮寢には夢もさだかに見えずぞありける」になるのである。
 
三方沙彌歌一首
 
三方沙彌は卷二に出てゐる。一二三參照。
 
508 衣手の 別る今夜ゆ 妹も吾も いたく戀ひむな 逢ふよしをなみ
 
衣手乃《コロモデノ》 別今夜從《ワカルコヨヒユ》 妹毛吾母《イモモワレモ》 甚戀名《イタクコヒムナ》 相因乎奈美《アフヨシヲナミ》
 
二人デ〔三字傍線〕袂ヲ分ツ今夜カラハ、再ビ相逢フコトガ出來ナイノデ、妻モ私モ甚ク戀ヒ慕フデアラウナア。
 
○衣手乃《コロモデノ》――枕詞にも用ゐられるが、ここはさうではない。下につづいて、謂はゆる袂を別つことをいつたの(491)である。○別今夜從《ワカルコヨヒユ》――別るは下二段の動詞であるから、ワカルルといふべきであるが、代匠記にワカルとよんだのが一般に行はれてゐる。卷十八に流水沫能《ナガルミナワノ》(四一〇六)とあるナガルも同格である。或は古訓にワクコヨヒヨリとある方がよいかも知れない。○甚戀名《イタクコヒムナ》――ナはナアの意の歎辭である。
〔評〕 三方沙彌が、園臣生羽の女を娶つて幾時もなく病に臥した時の歌が、卷二の一二三以下に三首出てゐる。これも生羽の女との別れ難さの情を述べたものか。素直な言ひ方のうちに、相愛の夫婦の離別の哀感がよくあらはれてゐる。
 
丹比眞人笠麻呂《タヂヒノマヒトカサマロ》下(レル)2筑紫國(ニ)1時作(レル)歌一首并短歌
 
丹比眞人笠麻呂の名は卷三の二八五に見えてゐる。傳は明らかでない。
 
509 たわやめの 匣に乘れる 鏡なす 見津の濱邊に さ丹づらふ 紐解き離けず 吾妹子に 戀ひつつをれば 明ぐれの 朝霧隱り 鳴く鶴の 哭のみし哭かゆ 吾が戀ふる 千重の一重も 慰もる 心もあれやと 家のあたり 吾が立ち見れば 青旗の 葛城山に 棚引ける 白雲隱り 天さかる 夷の國邊に 直向ふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ 朝なぎに 水手の聲喚び 夕なぎに 楫の音しつつ 波の上を い行きさぐくみ 磐の間を い往きもとほり 稻日都麻 浦回を過ぎて 鳥じもの なづさひゆけば 家の島 荒磯の上に うち靡き しじに生ひたる 莫告藻が 何どかも妹に 告らず來にけむ
 
臣女乃《タワヤメノ》 匣爾乘有《クシゲニノレル》 鏡成《カガミナス》 見津乃濱邊爾《ミツノハマベニ》 狹丹頬相《サニヅラフ》 紐解不離《ヒモトキサケズ》 吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》 明晩乃《アケグレノ》 旦霧隱《アサギリガクリ》 鳴多頭乃《ナクタヅノ》 哭耳之所哭《ネノミシナカユ》 吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》 名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアレヤト》 家當《イヘノアタリ》 吾立見者《ワガタチミレバ》 青※[弓+其]乃《アヲハタノ》 葛木山爾《カヅラキヤマニ》 多奈引流《タナビケル》 白雲隱《シラクモガクリ》 天佐我留《アマサカル》 夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》 直向《タダムカフ》 淡路乎過《アハヂヲスギ》 粟島乎《アハシマヲ》 背爾見管《ソガヒニミツツ》 朝名寸二《アサナギニ》 水手之音喚《カコノコヱヨビ》 暮名寸二《ユフナギニ》 梶之聲爲乍《カヂノトシツツ》 浪上乎《ナミノヘヲ》 五十行左具久美《イユキサグクミ》 磐間乎《イハノマヲ》 射往廻《イユキモトホリ》 稻日都麻《イナビツマ》 浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》 鳥自物《トリジモノ》 魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》 家乃島《イヘノシマ》 荒礒之宇倍爾《アリソノウヘニ》 打靡《ウチナビキ》 四時二生有《シジニオヒタル》 莫告我《ナノリソガ》 奈騰可聞妹爾《ナドカモイモニ》 不告來二計謀《ノラズキニケム》
 
(492)(臣女乃匣爾乘有鏡成)三津ノ濱邊ニ、赤イ紐モ解キ放サズニ、丸寢ヲシテ〔五字傍線〕我ガ妻ヲ戀ヒ慕ヒツツ居ルト、私ハ〔二字傍線〕夜明ケ方ノ薄暗イ時ニ、立ツ朝霧ニ隱レテ鳴ク鶴ノヤウニ、聲ヲ出シテ哭クバカリデアル。私ガ戀ヒ慕フ心ノ千分ノ一ダケデモ、慰ムルコトガ出來ルカト思ツテ、家ノ邊ヲ私ガ立ツテ眺メルト、(青※[弓+其]乃)葛城山ニ棚曳イテヰル白雲ニ隱レテ見エナイ。(天佐我留)田舍ノ國ノ方ニココカラ直接ニ對シテヰル淡路ヲ過ギ、粟島ヲ斜ニ見ナガラ、朝風ノ凪イダ時ニ水夫ガ掛聲ヲ合ハセテ舟ヲ漕ギ〔四字傍線〕、夕方風ノ静マツタ時ニ櫂ノ音ヲサセナガラ、浪ノ上ヲ漕イデ〔三字傍線〕、押シ分ケテ行ツテ、岩ノ間ヲ行キ廻ツテ印南郡麻ノ浦ノメグリヲ過ギテ、(鳥自物)浪ニ漬ツテ難儀ヲシナガラ〔七字傍線〕、行クト、家ノ島ガ見エテ、家ガナツカシク思ハレルガ〔家ノ〜傍線〕、(家乃島荒磯之宇倍爾 打靡四時二生有 莫告我)ドウシテ妻トヨク〔二字傍線〕話モシナイデ來タデアラウ。コンナニ戀シイノニ〔九字傍線〕。
 
○臣女乃《タワヤメノ》――マウトメノ、オミノメノ、ミヤビメノなどの訓があるが、恐らく姫の字を別つて臣女の二字としたもので、タワヤメノとよむのであらう。木村正辭は官女の意でタヲヤメとよむべきだと言つてゐる。タヲヤメの訓もよいやうだが、卷十五に多和也女能《タワヤメノ》(三七五三)とあるに從ふべきであらう。○匣爾乘有鏡成《クシゲニノレルカガミナス》――櫛笥の上に乘せて見る鏡の如くの意で、この句までは見津乃濱邊爾《ミツノハマベニ》の序詞である。見津乃濱は難波。○狹丹頬相《サニヅラフ》――サは發語。ニヅラフは色の赤く匂ふこと。○紐解不離《ヒモトキサケズ》――衣の紐を解かず、丸寢する意。○明晩乃《アケグレノ》――夜明け方の暗き頃の。○名草漏《ナグサモル》――ナグサムルと訓めと古義には言つてゐるが、モルともムルとも通じて用ゐたので、漏の字は何處漏香《イヅクモリテカ》(二二三八)などの如くモルとよんであるから、これもナグサモルでよろしい。○青※[弓+其]乃《アヲハタノ》――枕詞。青い布《ハタ》を縵として頭に纏うたので、青幡の縵の意でつづいたものか。紫綵色之※[草冠/縵]《ムラサキノマダラノカヅラ》(二九九三)とある類であらう。但し卷十三に、青幡之忍坂山者《アヲハタノオサカノヤマハ》(三三三一)とあるので見ると、山の青々としてゐるのを譬へて、青布《アヲハタ》の如き葛城山とも、忍坂山とも言つたものかも知れない。冠辭考には※[弓+其]を楊の誤としてアヲヤギノと訓んでゐる。○葛木山爾《カヅラキヤマニ》――大和河内國境の峻嶺で、南葛城郡に屬してゐる。即ち金剛山である。○白雲隱《シラクモガクリ》――この句で切(493)れたものと見るべきである。○天佐我留《アマサカル》――枕詞。我は濁音の字であるが、ここは清音に用ゐたものであらう。○夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》――西國地方をさして夷といつたもの。○直向《タダムカフ》――宣長はタダムカヒとよんだが、この句は卷十五に、可良久爾爾和多理由加武等多太牟可布美奴面乎左指天《カラクニニワタリユカムトタダムカフミヌメヲサシテ》(三六二七)とあるやうに、下の、淡路に冠してあるので、三津の濱と相對してゐる淡路の意で、上の夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》は、句を隔てて魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》につづくのである。○粟島乎《アハシマヲ》――卷三の三五八參照。○五十行左具久美《イユキサグクミ》――イは發語。サグクムはサクムに同じ。蹈み分けること。○射往廻《イユキモトホリ》――イは發語。行きめぐること。○稻日都麻《イナビツマ》――加古川の河口にあつた小島らしい。後世陸に連つて、高砂と稱した。播磨風土記には、景行天皇がこの地に行幸あらせられた時に、印南別孃《イナミノワキイラツメ》がそれを聞いて驚き畏れて、南※[田+比]都麻島《ナビツマシマ》に遁れたので、天皇もそのあとを尋ねてこの島に渡つて別孃にお逢ひになつて、この島に隱愛妻と《イナミハシツマアリ》と仰せになつたので、それからそこを南※[田+比]都麻《ナビツマ》とよんだと記してある。これは例の地名傳説に過ぎない。ツマは恐らく端《ツマ》で、印南の突端などの意らしい。○家乃島《イヘノシマ》――播磨の海中にあり、古は揖保郡に屬してゐたが、今は飾磨郡になつてゐる。室津の南七海里で面積は三分の一方里ある。二四九の地圖參照。○莫告我《ナノリソガ》――莫告の二字をナノリソとよんだのだ。ナノリソはほんだはらのこと。三六二の圖參照。我《ガ》は毛《モ》又は能《ノ》の誤とする説もあるが、この儘でよい。家乃島からこれまでの五句は、家の島の荒磯の上に、打ち靡いて繁く生ひたる莫告藻の意で、不告來二計謀《ノラズキニケム》に冠した序詞。
〔評〕 吾戀流千重乃一隔母名草漏情毛有哉跡《ワガコフルチヘノヒトヘモナグサモルココロモアレヤト》の四句は卷二の二〇七の柿本人麿の歌と同じで、粟島乎背爾見管《アハシマヲソガヒニミツツ》も卷三の三五八の山部赤人の歌にある句で、多少先人のあとを踏んだ點はあるが、旅情のよくあらはれた、平明な佳作と言つてよいと思ふ。
 
反歌
 
510 白妙の 袖解き更へて 還り來む 月日をよみて 往きて來ましを
 
白妙乃《シロタヘノ》 袖解更而《ソデトキカヘテ》 還來武《カヘリコム》 月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》 往而來猿尾《ユキテコマシヲ》
 
(494)妻卜別レタ時ニ〔七字傍線〕(白妙乃)袖ヲ解キ交シテ、筑紫カラ〔四字傍線〕歸ツテ來ル月日ヲ數ヘテ、行ツテ來ル筈デアツタノニ。サウモセズニ別レテ來テ惜シイコトヲシタ〔サウ〜傍線〕。
 
○袖解更而《ソデトキカヘテ》――袖を解きかはしての意で、二人で共寢することらしい。宣長が、袖を解き離して形見として携へ行く意としたのは、どうであらう。袖は紐の誤といふ説も尤らしいが、白妙乃といふ枕詞につづくには、袖の方が穩やかである。
〔評〕 二句と四句とに而の字を置いたのも、煩はしい感があり、叙法も少しごてついた點がある。
 
幸(ノ)2伊勢國(ニ)1時、當麻《タギマ》麻呂大夫妻作歌一首
 
511 わが背子は いづく行くらむ 奧つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ
 
吾背子者《ワガセコハ》 何處將行《イヅクユクラム》 已津物《オキツモノ》 隱之山乎《ナバリノヤマヲ》 今日歟超良武《ケフカコユラム》
 
卷一の四三に當麻眞人麿妻作歌、吾勢枯波何所行良武已津物隱乃山乎今日香越等六《ワガセコハイヅクユクラムオキツモノナバリノヤマヲケフカコユラム》として出てゐるのと、全く同じであるから、解も評も省く。
 
草孃歌一首
 
草人は田舍者のことであるから、草孃は田舍娘の義であらう。略解には草香孃《クサカノイラツメ》の香が落ちたのかといつてゐる。古義には娼婦のこととしてゐる。
 
512 秋の田の 穗田の刈ばか かより合はば そこもか人の わを言なさむ
 
秋田之《アキノタノ》 穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》 香縁相者《カヨリアハバ》 彼所毛加人之《ソコモカヒトノ》 吾乎事將成《ワヲコトナサム》
 
貴方ト私トガ〔六字傍線〕(秋田之穗田乃刈婆加)寄リ合ツタナラバ、ソレヲモ、人ガ私ヲ兎ヤ角ト〔四字傍線〕惡評スルデアラウ。
 
○穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》――穗の出た田の刈り取る範圍での意、刈婆加《カリバカ》は刈分。ハカはワカツ、アガツなどと同語。稻(495)を刈り取るべき範圍を量つて、區分するのであらう。ハカルも同一系の語で、今、ハカが行くとか、ハカどるなどと用ゐるのもこれであらう。卷十に秋田吾苅婆可能過去者《アキノタノワカカリバカノスギヌレバ》(二一三三)、卷十六に草苅婆可爾鶉乎立毛《カヤカリバカニウヅラヲタツモ》(三八八七)とあるも同じである。初の二句は序詞。苅り取るべき同一區域内の稻は、寄り合ふから、香縁相者《カヨリアハバ》とつづけたのであらう。○香縁相者《カヨリアハバ》――カは發語。この句は男と寄り合はばの意。○彼所毛加人之《ソコモカヒトノ》――その點を人がの意。○吾乎事將成《ワヲコトナサム》――コトナサムは言葉に言ひ立てむの意。
〔評〕 田舍少女らしい歌だ。材料が野臭を帶びてゐて、耕人の作としてふさはしい。
 
志貴皇子(ノ)御歌一首
 
天智天皇の皇子であらせられた施基皇子か、天武天皇の皇子の磯城皇子か、確かなことは分らない。紀に施基を志貴と記したところもあるから、これは天智天皇の皇子と見てよいであらう。五一・二三〇參照。
 
513 大原の この市柴の いつしかと 吾がもふ妹に 今宵逢へるかも
 
大原之《オホハラノ》 此市柴乃《コノイチシバノ》 何時鹿跡《イツシカト》 吾念妹爾《オモヘルイモニ》 今夜相有香裳《コヨヒアヘルカモ》
 
(大原之此市柴乃)何時逢ヘル〔三字傍線〕カ何時逢ヘル〔三字傍線〕カト、私ガ戀シガツテヰル妻ニ、ヤツトノコトデ〔七字傍線〕今夜逢ツタワイ。嬉シイ、嬉シイ〔六字傍線〕。
 
○大原之《オホハラノ》――卷二の一〇三に大原乃古爾之郷爾《オホハラノフリニシサトニ》とあつた所。○此市柴乃《コノイチシバノ》――市柴は卷八に此五柴爾《コノイツシバニ》(一六四三)、卷十一に道邊乃五柴原能《ミチノベノイツシバハラノ》(二七七〇)とあるイツシバと同じで、茂つた柴である。芝草と見る説もあり、路邊乃など訓んである點を考へれば、それも尤もらしいが、大原は山間であるから、木の柴と見るがよいやうに思はれる。卷一の九の五可新《イツカシ》(嚴橿)も同じであらう、この二句は序詞で、イチとイツと類似音を繰返したもの。○何時鹿跡《イツシカト》――鹿をシカとよんだのではない。鹿はカとよむのが常である。卷八に秋風之吹爾之日從何時可登《アキカゼノフキニシヒヨリイツシカト》(一五二三)(496)とあるを見よ。
〔評〕 如何にも喜ばしさうで、愉快な歌である。志貴皇子が大原に住み給うた時の作であらう。
 
阿倍女郎歌一首
 
阿倍女郎は二六九參照。
 
514 吾が背子が けせる衣の 針目落ちず 入りにけらしも 我が心さへ
 
吾背子之《ワガセコガ》 盖世流衣之《ケセルコロモノ》 針目不落《ハリメオチズ》 入爾家良之《イリニケラシモ》 我情副《ワガココロサヘ》
 
私ノ夫ガ着テ居ラレル着物ノ針目ノ一ツ一ツニ、私ノ心マデモ入リ込ンダモノト見エマスヨ。私ノ心ハ貴方ニ附キキリニ附イテヰテ、離ルコトハアリマセヌ〔私ノ〜傍線〕。
 
○蓋世流衣之《ケセルコロモノ》――ケセルは着すに、完了の助動詞リが附いたもの。スは敬語。○針目不落《ハリメオチズ》――針目毎にといふに同じい。寢衣不落《ヌルヨオチズ》(六)とあつたのと同じである。○入爾家良之《イリニケラシモ》――この句の終に、毛《モ》又は奈《ナ》の脱字があるに違ない。しばらく類聚古集に從つて、イリニケラシモとよんで置く。
〔評〕 この女郎が、自ら仕立てた着物を着てゐる男に贈つた歌であらう、相手は多分、次の中臣朝臣東人ではあるまいか。針目不落《ハリメオチズ》は女でなくては詠めない詞である。一針毎に自分の魂を縫ひ込んだ熱烈な全身的な戀が、いたましくあはれである。
 
中臣朝臣東人贈(レル)2阿倍女郎(ニ)1歌一首
 
續紀、和銅四年四月の條に、「正七位上中臣朝臣東人授2從五位下1」とあり、それから式部少輔・右中辨・兵部大輔などを經て、天平五年三月從四位下に叙せられてゐる。三代實録に「故刑部卿從四位下中臣朝臣東人」とあるから刑部卿になつたらしい。
 
(497)515 獨寢て 絶えにし紐を ゆゆしみと 爲むすべ知らに ねのみしぞ泣く
 
獨宿而《ヒトリネテ》 絶西紐緒《タエニシヒモヲ》 忌見跡《ユユシミト》 世武爲便不知《セムスベシラニ》 哭耳之曾泣《ネノミシゾナク》
 
私ガ獨デ寢テヰテ着物ノ〔三字傍線〕紐ガ切レテシマツタノガイマイマシク、何トモ仕樣ガナクテ、聲ヲ出シテ泣イテバカリヰルヨ。アア困ツタ〔五字傍線〕。
 
○絶四紐緒《タエニシヒモヲ》――絶えた紐がの意。緒《ヲ》は助詞である。○忌見跡《ユユシミト》――ゆゆしさにとての意で、いまいましく腹立たしいこと。
〔評〕 獨寢の床に丸寢の衣の紐が絶えたのは、忌はしいことであつたらう。種々な不吉な聯想も湧いて來るわけである。男の歌としては、下の句が誇張に過ぎたやうでもあるが、それが萬葉人らしいところでもある。
 
阿倍女郎答(フル)歌一首
 
516 吾が持たる 三相に搓れる 絲もちて 附けてましもの 今ぞ悔しき
 
吾以在《ワガモタル》 三相二搓流《ミツアヒニヨレル》 絲用而《イトモチテ》 附手益物《ツケテマシモノ》 今曾悔寸《イマゾクヤシキ》
 
私ガ持ツテヰル文夫ナ〔三字傍線〕三ツ合ノ糸デモツテ、貴方ノ紐ヲシツカリト〔十字傍線〕附ケテ上ゲル筈デシタノニ、切レマシタサウデ〔八三字傍線〕今更殘念デスヨ。
 
○三相二搓流絲用而《ミツアヒニヨレルイトモチテ》――三相二搓流絲《ミツアヒニヨレルイト》は三本の糸をより合はせた謂はゆる三つ合《コ》の糸で、丈夫な強いものである。出雲風土記に三自之綱打掛而《ミツヨリノツナウチカケテ》とあるミツヨリノツナも三本搓の綱である。(但し三自之綱は三身之綱だといふ説もある。)孝徳紀に三絞之鋼ともある。
〔評〕 これも女らしい情緒を端的に表現した歌である。この人の作は尠いが、いづれも光つてゐる。
 
大納言兼大將軍大伴卿歌一首
 
この大伴卿は安麻呂であらう。續紀に、「和銅七年五月朔、大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麻呂(498)薨」とある。
 
517 神樹にも 手は觸るとふを うつたへに 人妻といへば 觸れぬものかも
 
神樹爾毛《カムキニモ》 手者觸云乎《テハフルトフヲ》 打細丹《ウツタヘニ》 人妻跡云者《ヒトヅマトイヘバ》 不觸物可聞《フレヌモノカモ》
 
神聖ナ〔三字傍線〕神ノ木デモ、手ヲ觸レルモノダトイフノニ、人ノ妻ダトイフト、全然手ヲ觸レテハナラナイモノカナア。戀シイケレドモ仕方ガナイ〔戀シ〜傍線〕。
 
○神樹爾毛《カムキニモ》――舊訓サカキニモとあるのはよくない。これは神木の意であるから、カムキがよい。カミキでもよいやうに思はれるが、神風《カムカゼ》・神柄《カムカラ》・神集《カムツドヒ》・神議《カムハカリ》・神上《カムアガリ》・神降《カムクダシ》の類、多くカムであるから、これもカムキとして置かう。○打細丹《ウツタヘニ》――ひとへに、うちつけに、全然などの意。
〔評〕 人妻を戀した苦惱がいたましい。義理と人情との葛藤も見え、漸くきびしくなりかけて來た道徳の桎梏に對する、上代人の呪の聲とも聞かれる。
 
石川郎女歌一首
 
元暦校本、その他の古寫本に、小字で、ここに「即佐保大伴大家也」と註してある。大家は姑のことであるが、ここでは安麻呂の未亡人を尊んでかう記したのであらう。内命婦で、名を邑婆《オホバ》と言つた人である。
 
518 春日野の 山邊の道を よそりなく 通ひし君が 見えぬ頃かも
 
春日野之《カスガヌノ》 山邊道乎《ヤマベノミチヲ》 與曾理無《ヨソリナク》 通之君我《カヨヒシキミガ》 不所見許呂香裳《ミエヌコロカモ》
 
春日野ノ山ノホトリノ道ヲ、何ノタヨリトスルモノモナクテ、タダ一人デ淋シク〔八字傍線〕通ツテオイデナサツタ貴方ガ、コノ頃ハオ見エニナリマセンネ。ドウナサツタノデセウ〔十字傍線〕。
 
○與曾理無《ヨソリナク》――ヨソリは寄り從ふこと。ここは心のたよるところの意であるから、ヨソリ無くは便なく、淋し(499)いこと。新訓には、元暦校本に與を於とあるによつて、恐《オソリ》なくとしてゐる。
〔評〕 春日野の山邊の道といへば、如何にも淋しさうだ。其處を夜毎に通うて來た愛人の途絶えに、不安な心持を歌つたもの。これも女らしい作である。
 
大伴女郎歌一首
 
元暦校本、その他の古寫本に小字で、ここに「今城王之母也、今城王後賜2大原眞人(ノ)氏1也」と註してある。大伴旅人の妻の大伴郎女と同人かどうかは分らない。
 
519 雨障り 常する君は ひさかたの きぞの夜の雨に 懲りにけむかも
 
雨障《アマサハリ》 常爲公者《ツネスルキミハ》 久堅乃《ヒサカタノ》 昨夜雨爾《キゾノヨノアメニ》 將懲鴨《コリニケムカモ》
 
雨嫌ヒデ外出ナサラナイ貴方ハ到頭オイデニナリマセンデシタネ〔到頭〜傍線〕。昨夜ノ(久竪乃)雨ニオ戀リナサツタノデセウヨ。
 
○雨障《アマザハリ》――雨に障へられて家に閉ぢ籠つてゐること。次の歌に雨乍見《アマヅツミ》とあるによつて、この句をもさう訓まうとする説は從はれない。○昨夜雨爾《キゾノヨノアメニ》――舊訓はヨフベノアメニであつたのを、略解にキノフノアメニ、古義にキゾノアメニとしたが、昨はキゾであるからキゾノヨとよむべきものと思はれる。キゾヨでもよいかと思はれるが、キノフがキゾノヒの略であるのに傚つて、ノを添へてよむことにしよう。卷二にも君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》(一五〇)とある。
〔評〕 愛人が訪ねて來なかつた翌朝、詠んで贈つた歌であらう。初の二句はかなり皮肉な言葉である。古義・新考に、今夜は來まさぬならむの意としてゐるのはどうであらう。
 
後人追(ヒテ)同(フル)歌一首
 
元暦校本には同の字がない。同は和の誤と童蒙抄にある。同も和も意は異ならない。なぞらふる(500)とよむがよからう。
 
520 ひさかたの 雨も降らぬか 雨づつみ 君にたぐひて この日暮さむ
 
久堅乃《ヒサカタノ》 雨毛落糠《アメモフラヌカ》 雨乍見《アマヅツミ》 於君副而《キミニタグヒテ》 此日令晩《コノヒクラサム》
 
(久堅乃)雨デモ降ラナイカナア。サウシタラ貴方ハ雨嫌ヒデ外出ナサラナイカラ、私ハ〔サウ〜傍線〕貴方ト一緒ニ並ンデヰテ、今日ノ日ヲ暮ラシマセウ。
 
○雨毛落糠《アメモフラヌカ》――雨も降らないかよ。降れよの意。糠を元暦校本に粳に作る。○雨乍見《アマヅツミ》――雨の爲に屋内に籠りゐること。○於君副而《キミニタグヒテ》――君と並んでの意。
〔評〕 後人が大伴女郎の意に和して詠んだので、女郎の言はむとするところを忖度して言つたわけである。雨障常爲公《アマザハリツネスルキミ》であるから、終日君と並び暮さむ爲に、雨も降れよと希つたところが面白い。
 
藤原|宇合《ウマカヒノ》大夫、遷(サレテ)v任(ヲ)上(ル)v京(ニ)時、常陸娘子贈(レル)歌一首
 
字合は馬養と同じで、マの字を省き合《カフ》をカヒに用ゐたものか。續紀に「養老三年七月、始置2按祭使1常陸國守正五位上藤原宇合管2安房上總下總三國1」とあるから、上京はこの任期の果てた時、即ち養老七年頃であつたらう。常陸娘子は常陸國にゐた遊女であらう。
 
521 庭に立つ 麻を刈り干し しきしぬぶ 東女を 忘れたまふな
 
庭立《ニハニタツ》 麻乎刈干《アサヲカリホシ》 布慕《シキシヌブ》 東女乎《アヅマヲミナヲ》 忘賜名《ワスレタマフナ》
 
庭ニ生エテヰル麻ヲ苅ツテ干シテ敷キ並ベテ、シキリニ貴方樣ノコトヲ〔七字傍線〕思ヒ出シマスコノ賤シイ〔四字傍線〕東ノ國ノ女ヲオ忘レナサイマスナ。
 
○麻乎刈干《アサヲカリホシ》――舊本|麻手《アサテ》とあるが、類聚古集によつて置かう。但し卷十四に爾波爾多都安佐提古夫須麻《ニハニタツアサデコブスマ》(三四五四)とあるによれば、麻手は麻布《アサタヘ》のことである。○布慕《シキシヌブ》――シキは敷き並べる意と、頻りにとをかけたもの。元暦(501)校本に布暴とあるので、新訓にヌノサラスとよんでゐる。尚考ふべきである。
〔評〕 常陸娘子は國守宇合の知遇を得た女であるから、麻を苅り干してゐた勞働女ではあるまい。恐らく宴席などに侍つた遊女であらうが、田舍女として、耕人の業をよみ込んであるのが面白い。千載集に「あさでほすあづまをとめのかやむしろしきしのびても過ごす頃かな」とあるのはこれによったものである。シキシヌブの訓が古いこともこれで分る。
 
京職大夫藤原大夫、賜(レル)2大伴郎女(ニ)1歌三首
 
京職大夫は左右京職の長官。藤原大夫は元暦校本などに下に小字で「卿諱曰麻呂也」とあるやうに藤原麻呂のことである。續紀養老五年六月の條に「從四位上藤原朝臣麻呂爲2左右京大夫1」とある。不比等の第四子で、その家を京家と稱するやうになつたのも、左右京大夫であつた爲である。元暦校本に京職の下、大夫を缺き賜を贈に作つてゐる。次の五二八の左註にあるやうに、麻呂は穗積親王の薨後坂上郎女を得たのであるが、その交情は長く續かなかつたらしい。麻呂は天平九年七月まで存命してゐたにもかかはらず、郎女は天平以前に於て大伴宿奈麻呂と婚し、その間に坂上大孃を産んだからである。三七九題詞の註參照。
 
522 をとめらが 珠匣なる 玉櫛の 神さびけむも 妹に逢はずあれば
 
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠篋有《タマクシゲナル》 玉櫛乃《タマクシノ》 神家武毛《カミサビケムモ》 妹爾阿波受有者《イモニアハズアレバ》
 
少女ドモガ持ツテヰル〔五字傍線〕立派ナ櫛笥ノ中ノ立派ナ櫛ノヤウニ、妻ニ逢ハナイウチニ妻ハ〔二字傍線〕古クナツテシマツタラウ。
 
○神家武毛《カミサビケムモ》――舊訓メヅラシケムモとあるのはわからない。古義にタマシヒケムモとあるのも、神をタマシヒとよんだ例は他に無いから、從ひがたい。暫く契沖説によつてカミサビケムモとよまう。モは歎辭。上は櫛笥の中なる櫛の、垢つきて古々しくなつたのに譬へたものであらう。
〔評〕 上句の譬喩が、五句の妹と關係があつて面白い。
 
523 よくわたる 人は年にも ありとふを 何時の間にぞも 吾が戀ひにける
 
(502)好渡《ヨクワタル》 人者年母《ヒトハトシニモ》 有云乎《アリトフヲ》 何時間曾毛《イツノマニゾモ》 吾戀爾來《ワガコヒニケル》
 
ヨク忍耐スル人ハ、妻ニ逢ハナイデ〔七字傍線〕一年間モ辛抱スルトイフコトダガ、私ハ妻ト別レタノハ〔九字傍線〕何時ノコトカ、ツヒコノ間ノコトダノニ〔十字傍線〕、私ハ妻ヲモウ〔四字傍線〕戀ヒシク思ツテヰルヨ。
 
○好渡《ヨクワタル》――好く年月を渡りて堪へ忍ぶ意。○何時間曾毛《イツノマニゾモ》――イツノホドゾモの訓もよいが、ここは拾穗抄・略解などによつて置かう。
〔評〕 この歌は、卷十三に年渡麻弖爾毛人者有云乎何時之間曾母吾戀爾來《トシワタルマデニモヒトハアリトイフヲイツノマニゾモワガコヒニケル》(三二六四)とあるのと殆ど同じで、麻呂が古歌を記憶してゐて用ゐたものらしい。
 
524 蒸ぶすま なごやが下に 臥せれども 妹とし宿ねば 肌し寒しも
 
蒸被《ムシブスマ》 奈胡也我下丹《ナゴヤガシタニ》 雖臥《フセレドモ》 與妹不宿者《イモトシネネバ》 肌之寒霜《ハダシサムシモ》
 
苧麻布ノ蒲團ノ柔ラカナ下ニ寢テヰルガ、妻ト一緒ニ寢ナイノデ、膚ガ寒イヨ。
 
○蒸被《ムシブスマ》――暖き衾の意とする説もあるが、苧麻《ムシ》の衾であらう。ムシはカラムシのムシである。古事記須勢理比賣の御歌に、牟斯夫須麻爾古夜賀斯多爾《ムシブスマニコヤガシタニ》とあるも同じ。舊訓アツフスマとあるのはよくない。蒸の字、※[蒸の草冠なし]とある本は惡い。元暦校本による。○奈胡也我下丹《ナゴヤガシタニ》――なごやかなるが下にの意。奈を爾の誤と久老が言つたのは從ひ難い。ナゴもニゴも相通じて同意である。○雖臥《フセレドモ》――フシタレド、コヤセレドの訓もあるが、舊訓のままでよい。
〔評〕 古事記の歌にただ一回用ゐられた、蒸被云々といふ古い句を生かして使つてゐるのが、作者の得意なところであらう。下句は上代人らしい、むき出しの叙法である。
 
大伴郎女和(フル)歌四首
 
大伴の下に坂上の二字が脱ちたものか。
 
525 佐保河の 小石踐み渡り ぬばたまの 黒馬の來る夜は 年にもあらぬか
 
(503)狹穗河乃《サホガハノ》 小石踐渡《コイシフミワタリ》 夜干玉之《ヌバタマノ》 黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》 年爾母有糠《トシニモアラヌカ》
 
佐保川ノ小石ヲ踐ミ渡ツテ、貴方樣ノ乘ツテイラツシヤル〔貴方〜傍線〕(夜干玉之)黒馬ガ私ノ所ヘ〔四字傍線〕通ツテ來ル夜ガ、一年ニ一度デモヨイカラ、アリタイモノデスヨ。
 
○小石踐渡《コイシフミワタリ》――舊訓サザレフミワタリとあるが、文字通りにコイシフミワタリと訓む方がよいやうである。サザレは小さいことで、小石は卷十四に佐射禮伊思爾《サザレイシニ》(三五四二)・左射禮之母《サザレシモ》(三四〇〇)とあるやうに、サザレイシ又はサザレシと言ふべきである。又この歌は次の評に掲げた卷十三の歌から出たもので、その歌によつてもコイシとよむ方がよいやうである。○黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》――黒馬は舊訓コマである。宣長は黒の音コクをコに用ゐたやうに言つてゐるが、この文字をコマと訓ましめるのは無理であり、且、他の用例を見ても、烏玉之黒馬爾乘而《ヌバタマノクロマニノリテ》(三三〇三)・野干玉之黒馬之來夜者《ヌバタマノクロマノクルヨハ》(三三一三)の如く、必ずヌバタマノの枕詞を冠してゐるから、クロと訓まなければならない。○年爾母有糠《トシニモアラヌカ》――せめて一年に一度あれかしの意。
〔評〕 卷十三に川瀬之石迹渡野干玉之黒馬之來夜者常二有沼鴨《カハノセノイシフミワタリヌバタマノクロマノクルヨハツネニアラヌカモ》(三三一三)とあるを本歌としたもの。佐保川といふ附近の地名を採り入れ、麻呂からして好渡人者年母有云乎《ヨクワタルヒトハトシニモアリトフヲ》と言つてよこしたので、七夕の年のわたりを思ひ浮べ、佐(504)保川を天の川に見立てて、原歌の常《ツネ》を年に改作したものであらう。平安中期から段々盛になつた。本歌取はこの集でも、かうした人たちの間に既に行はれてゐたのである。
 
526 千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ浪 止む時も無し 吾が戀ふらくは
 
千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河瀬之《サホノカハセノ》 小浪《サザレナミ》 止時毛無《ヤムトキモナシ》 吾戀爾《ワガコフラクハ》
 
私ガ貴方ヲ戀シク思フコトハ(千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪)止ム時ハアリマセヌ。
 
○千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪《チドリナクサホノカハセノサザレナミ》――序詞。小浪の止む時が無いのを、止時毛無《ヤムトキモナシ》の上に冠らせたもの。○吾戀爾《ワガコフラクハ》――爾は元暦校本に者とあるに從ふべきである。
〔評〕 所の風物を以て序詞を巧に作つてある。女らしいやさしい歌。併しこれも卷十三の阿胡乃海之荒礒之上之小浪吾戀者息時毛無《アゴノウミノアリソノウヘノサザレナミワガコフラクハヤムトキモナシ》(三二四四)に比較して見ると、甚だしい類似が目につく。
 
527 來むといふも 來ぬ時あるを 來じといふを 來むとは待たじ 來じといふものを
 
將來云毛《コムトイフモ》 不來時有乎《コヌトキアルヲ》 不來云乎《コジトイフヲ》 將來常者不待《コムトハマタジ》 不來云物乎《コジトイフモノヲ》
 
貴方ハ〔三字傍線〕來ヨウト仰ツテモ來ナイコトガアルノデスカラ、來ナイト仰ルノニ、來ルダラウト思ツテ待チハ致シマスマイ。來ナイト仰ルノデスカラネ。
 
〔評〕 頭韻法・反復法を應用したもので、卷一の二七、天武天皇の淑人乃《ヨキヒトノ》の御製や、卷二の一〇一の玉葛實不成樹爾波《タマカツラミナラヌキニハ》など、かうした手法を用ゐたものが尠くない。卷十一の梓弓引見弛見不來者不來來者其其乎素何不來者來者其乎《アヅサユミヒキミユルベミコズハコズコバソソヲナゾコズバコハソヲ》(二六四〇)はこの作者に多少の暗示を與へたものかも知れない。
 
528 千鳥鳴く 佐保の河との 瀬を廣み 打橋渡す 汝が來と思へば
 
千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門乃《サホノカハトノ》 瀬乎廣彌《セヲヒロミ》 打橋渡須《ウチハシワタス》 奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》
 
千鳥ガ鳴ク佐保川ノ渡リ場所ハ、瀬ガ廣クテ渡リニク〔六字傍線〕イカラ、貴方ガ今夜〔二字傍線〕オイデニナリサウナ氣ガスルノデ、オ渡リナサルノニ便利ナヤウニ〔オ渡〜傍線〕假ノ板ノ橋ヲカケマス。
 
(505)○佐保乃河門乃《サホノカハトノ》――佐保川の渡り場。○打橋渡須《ウチハシワタス》――打橋はかけ橋。取りはづしの出來る橋。
〔評〕 はつきりした安らかな叙法で、感じのよい作である。もしこの作の動機に、七夕の連想があるとするならば、卷十の機※[足+搨の旁]木持往而天河打橋度公之來爲《ハタモノノフミキモチユキテアマノカハウチハシワタスキミガコムタメ》(二〇六二)を擧げたいと思ふ。
 
右、郎女者、佐保大納言卿之女也。初(メ)嫁(シ)2一品穗積皇子(ニ)1、被《ラルル》v寵無(シ)v儔、而皇子薨之後、時藤原麻呂大夫、娉(ヘリ)2之(ノ)郎女(ヲ)1焉。郎女家(ス)2於坂上里(ニ)1、仍(リテ)族氏號(ケテ)曰(ヘリ)2坂上郎女(ト)1也
 
佐保大納言は大伴安麻呂。佐保の里に住んでゐたのである。穗積皇子は天武天皇の皇子、一一四參照。
 
又大伴坂上郎女歌一首
 
529 佐保河の 岸のつかさの 柴な刈りそね ありつつも 春し來らば 立ち隱るがね
 
佐保河乃《サホガハノ》 涯之官能《キシノツカサノ》 小歴木莫刈烏《シバナカリソネ》 在乍毛《アリツツモ》 張之來者《ハルシキタラバ》 立隱金《タチカクルガネ》
 
(506)佐保川ノ岸ノ高イ所ノ柴ヲ苅リナサルナ。カウシテ置イテ、春ニナツテ葉ガ茂ツ〔五字傍線〕タナラバ、貴方ト一緒ニ〔六字傍線〕隱レテ逢フ〔三字傍線〕爲ニナリマセウ。
 
○涯之官能《キシノツカサノ》――岸の高いところ。すべてツカサは高いものをさす。官司・頭梁などの意となるのもそれからである。ツカサドルといふ動詞もこれから出たもの。○小歴木莫刈烏《シバナカリソネ》――歴木はクヌギとよむ字であるが、小きは柴として薪などに用ゐるから、シバとよんだのである。烏は焉の草體から誤つたもの。舊本鳥となつてゐるのは固より誤である。○在乍毛《アリツツモ》――かうして置いての意。毛《モ》は歎辭。
〔評〕 珍らしい旋頭歌の形式を採つたのは、彼女の歌人としの多方面を語るものである。教養ある上流婦人の作としては、かなり大膽な内容であるが、殊更に田舍女らしく作つたものか。卷七の人麿歌集出の歌に、住吉出見濱柴莫苅曾尼《スミノエノイデミノハマノシバナカリソネ》(一二七四)といふのがあるが、粉本といふ程でもあるまい。
 
天皇賜(ヘル)2海上《ウナカミノ》女王(ニ)1御歌一首
 
天皇は聖武天皇。海上女王は元暦校本などの古本に、ここに小字で「志貴皇子之女也」と註してある、續紀に「養老七年正月丙子、授海上女王從四位下、神龜元年二月丙申海上女王授從三位」と見えてゐる。
 
530 赤駒の 越ゆる馬せの 標結ひし 妹が心は 疑ひもなし
 
赤駒之《アカゴマノ》 越馬柵乃《コユルウマセノ》 緘結師《シメユヒシ》 妹情者《イモガココロハ》 疑毛奈思《ウタガヒモナシ》
 
赤駒ガ越エテ逃ゲナイヤウニ〔八字傍線〕馬柵トイフモノヲ作ル〔八字傍線〕ガ、ソレト同ジク自分ノ女ダト〔ソレ〜傍線〕標ヲ立テテ約束ヲ堅クシタ〔七字傍線〕女ノ心ノカハラナイコト〔八字傍線〕ハ少シモ〔三字傍線〕疑ガナイ。
 
○赤駒之越馬柵乃《アカゴマノコユルウマセノ》――馬柵は舊訓ウマヲリとあるは惡い。宣長がウマセとよんだのに從ふ。馬塞《ウマセキ》の意である。駒が乘り越えようとするのを防ぐ爲に馬柵を作るが、そのやうに我がものとして標を立てた我が妻の意。これ(507)を序詞とする説は無理であらう。
〔評〕 天皇の御歌としては、初の二句がふさはしくない。古歌の流用か、又は古歌を模し給うたものであらう。
 
右今案、此(ノ)哥擬古之作也、但(シ)以(テ)2往《トキノ》當(レルヲ)1便(チ)賜(フ)2斯歌(ヲ)1歟
 
擬古之作といふのは古歌に摸したといふのか、往當便はよくわからない。源道別は擬は疑の誤、往は時の誤で、當時とあつたのが轉倒し、疑(ラクハ)古之作也、但以2當時便1云々あつたのだらつといつてゐる。ここでは新訓に桂本によつて往を時とし、「時の當れるを以て便ち」とよんでゐるのに從つて置かう。
 
海上女王奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
531 梓弓 爪引くよとの とほとにも 君が御言を 聞かくしよしも
 
梓弓《アヅサユミ》 爪引夜音之《ツマビクヨトノ》 遠音爾毛《トホトニモ》 君之御幸乎《キミガミコトヲ》 聞之好毛《キカクシヨシモ》
 
(梓弓爪引夜音之)遠方カラノ御音信ニデモ、天子樣ノ御仰ヲ承リマスノハ嬉シウゴザイマスヨ。
 
○梓弓爪引夜音之《アヅサユミツマヒクヨトノ》――遠音爾毛《トホトニモ》の序詞。禁裏守護の武夫の鳴弦の音の遠く聞える意にかけたのである。○君之御幸乎《キミガミコトヲ》――幸は事の誤だらうと眞淵が言つたのがよい。ミコトは御言である。○聞之好毛《キカクシヨシモ》――舊訓キクハシヨシモとあるが、卷十の清瀬音乎聞師吉毛《キヨキセノトヲキカクシヨシモ》(二二二二)と共に、キカクシヨシモと詠むべきである。開かくは聞くの延言。
〔評〕 序詞は巧に出來てゐる。妖魔を拂ふ鳴弦の響は、遠音に聞いても心地よいものである。常に遠音に聞くものであるから、遠音の上に冠してあるが、下の聞之好毛《キカクシヨシモ》までにかかつてゐるものとして見ると、更に面白味が加はつて來る。卷十九家持の歌に、梓弧爪夜音之遠音爾毛《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモ》(四二一四)とあるは、これを摸したものである。
 
大伴宿奈麻呂宿禰歌二首
 
宿奈麻呂は安麻呂の三子である。續妃に「養老三年七月庚子、始置2按察使1令3備後國守正五位下大伴宿禰宿奈麻呂管2安藝周防二國1」とあるから、その頃任國から女を宮仕に出した時の作であ(508)らう。元暦校本には、ここに小字で「佐保大納言第三之子也」とある。
 
532 うち日さす 宮に行く兒を まがなしみ 留むるは苦し 遣るはすべなし
 
打日指《ウチヒサス》 宮爾行兒乎《ミヤニユクコヲ》 眞悲見《マガナシミ》 留者苦《トムルハクルシ》 聽去者爲便無《ヤルハスベナシ》
 
(打日指)宮仕スルトテ出掛ケテ行ク女ガナツカシサニ、留メルノモ心苦シイシ、行ツテモヨイト〔七字傍線〕出シテ遣ルノハ悲シイ。サテ何トシタモノダラウ〔サテ〜傍線〕。
 
○打日指《ウチヒサス》――枕詞。既出、四六〇參照。○眞悲見《マカナシミ》――マは發語。カナシは愛する意。この句は可愛さにの意である。○聽去者爲便無《ヤルハスベナシ》――聽去は去るをゆるす意で、ヤルと訓ませたもの。舊訓トムレバクルシヤレバスベナシとあるが、ここは古義に從つて置く。
〔評〕 兎やせむ角やせむと、思ひ煩ふ心持が、下の二句によくあらはれてゐる。
 
533 難波渇 潮干のなごり 飽くまでに 人の見む子を 吾し乏しも
 
難波方《ナニハガタ》 鹽干之名凝《シホヒノナゴリ》 飽左右二《アクマデニ》 人之見兒乎《ヒトノミムコヲ》 吾四乏毛《ワレシトモシモ》
 
今宮仕ニ出ル女ヲ〔八字傍線〕(難波方鹽干之名凝)飽キル程モ、宮仕シテヰル人ハ見ルデアラウガ、アノ〔七字傍線〕女ヲ飽ク程モ見ル人ハ〔八字傍線〕羨シイナア。
 
○難波方鹽干之名凝《ナニハガタシホヒノナゴリ》――序詞。ナゴリは波殘で、潮の引いたあとに、なほ海水の所々に溜つてゐるのをいふ。飽左右二《アクマデニ》と續くのは、汐干の潟に飽くまで遊ばうとする意である。卷六に、難波方潮干乃奈凝委曲見在家妹之待將問多米《ナニハガタシホヒノナゴリツバラニミイヘナルイモガマチトハムタメ》(九七六)とあるのと同趣である。○人之見兒乎《ヒトノミムコヲ》――ミルコヲと舊訓にあるが、未來であるからミムコがよい。兒は女を指す。○吾四乏毛《ワレシトモシモ》――トモシは羨しの意。飽くまでに見む人を羨しく思ふのである。
〔評〕 戀しい女を、義理にからまれて手離す哀感がよく見えてゐる。
 
安貴王謌一首并短歌
 
(509)安貴王は春日王の御子、卷三の三〇六參照。
 
534 遠嬬の ここにあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けくなくに 嘆くそら 安からぬものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言とひ 吾がために 妹も事無く 妹がため 吾も事無く 今も見る如 たぐひてもがも
 
遠嬬《トホヅマノ》 此間不在者《ココニアラネバ》 玉桙之《タマボコノ》 道乎多遠見《ミチヲタトホミ》 思空《オモフソラ》 安莫國《ヤスケナクニ》 嘆虚《ナゲクソラ》 不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》 水空往《ミソラユク》 雲爾毛欲成《クモニモガモ》 高飛《タカトブ》 鳥爾毛欲成《トリニモガモ》 明日去而《アスユキテ》 於妹言問《イモニコトトヒ》 爲吾《ワガタメニ》 妹毛事無《イモモコトナク》 爲妹《イモガタメ》 吾毛事無久《ワレモコトナク》 今裳見如《イマモミルゴト》 副而毛欲得《タグヒテモガモ》
 
遠クノ方ニヰル妻ガ此處ニヰナイカラ(玉桙之)遺ガ遠イノデ妻ヲ私ガ〔四字傍線〕思フ心ハ安クモナク、嘆ク心モ安クモナイヨ、私ノ體ガ〔四字傍線〕空ヲ通ル雲デアレバヨイ、高ク飛ブ鳥デモアレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕明日ニモ行ツテ妻ト話ヲシテ、私ノ爲ニ嬬モ何ノ障リモナク、妻ノ爲ニ私モ無事デ、オ互ニ安穩ニ暮ラシテ、以前ノヤウニ變リナク〔オ互〜傍線〕今モ二人並ンデヰタイモノダ。
 
○遠嬬《トホツマノ》――遠く離れてゐる妻。○道乎多遠見《ミチヲタトホミ》――多《タ》は發語。道が遠さにの意。○思空《オモフソラ》――思ふ心の意。下の嘆虚《ナゲクソラ》も嘆く心。○安莫國《ヤスケクナクニ》――舊訓ヤスカラナクニであるが、意空不安久爾嘆空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニ》(一五二〇)の如く、不安久とある場合はそれでよいが、安莫國とあるは、嘆蘇良夜須家久奈久爾《ナゲクソラヤスケクナクニ》(四一六九)とあるによつて、ヤスケクナクニとよむがよい。但し奈氣久蘇良夜須家奈久爾《ナゲクソラヤスケナクニ》(三九六九)とあるによつて訓めないこともないが、これには從はぬことにしたい。○水空往《ミソラユク》――ミは發語で、水は借字。○今毛見如《イマモミルゴト》――ここは意味から考へると、見シゴト今モと言ふべきである。ここに七言の句が三句連續してゐるのも、少しどうかと思はれる。或は脱落があるのかも知れない。略解にはイマモミシゴトとよんでゐる。○副而毛欲得《タグヒテモガモ》――並び副ひてありたいといふ意。
〔評〕 安貴王は、天平元年三月に無位から始めて從五位下になつた人であるから、一寸考へると、この作は天平元年後のものと思はれるが、併しこの歌の前後を見れば、天平以前のことらしい。果して然らば、卷八にある天平元年七月七日夜の憶良の作(一五二〇)はこれに傚つたと言ふことが出來る。爲吾妹毛事無爲妹吾毛事無久《ワガタメニイモモコトナクイモガタメワレモコトナク》は殊(510)に哀な句で、全體に熱烈な戀情が人を動かすものがある。遠嬬《トホツマ》・雲爾毛欲成《クモニモガモ》・鳥爾毛欲成《チリニモガモ》などと歌はれた理由が、左註によつてなるほどとうなづかれる。
 
反歌
 
535 敷妙の 手枕纏かず 間置きて 年ぞ經にける 逢はぬ念へば
 
敷細乃《シキタヘノ》 手枕不纏《タマクラマカズ》 間置而《アヒダオキテ》 年曾經來《トシゾヘニケル》 不相念者《アハヌオモヘバ》
 
妻ト私トガ〔五字傍線〕逢ハナイコトヲ考ヘテ見ルト、私ハ〔二字傍線〕妻ノ(敷細乃)手枕ヲセズニ、間ヲ距テテスデニ一年經ツタヨ。
 
○間置而《アヒダオキテ》――舊訓ヘダテオキテであつたのを、宣長がアヒダオキテに改めた。間の字は、マ、ホド、アヒダ、ヘダテなどに訓まれてゐるから、ここもヘダテともよまれるのであるが、暫く宣長に從つて置かう。新考にヘダタリテとよんで、處の隔たりたることとしたのはどうであらう。間の字を空間に用ゐた例は極めて稀である。やはり時間の隔つたことにしたい。○不相念者《アハヌオモヘバ》――舊訓アハヌオモヒハであり、その他諸説があるが、宣長説に從はう。不相をアハナクとよむのもよいやうだが、妹爾不相而《イモニアハズテ》(一二五)・不相久美《アハズヒサシミ》(三一〇)などの例によつてズの連體形のヌによみたいと思ふ。
〔評〕 長歌の緊張したに似ず、これは少しく整はぬところがある。三句と五句とが何となく、しつくりと落ちつかない。
 
右、安貴王、娶(リテ)2因幡(ノ)八上釆女(ヲ)1、係念極(メテ)甚(シク)、愛情尤(モ)盛(ナリ)。於v時勅(シテ)斷(ジ)2不敬之罪(ニ)1、退2却(セシム)本郷(ニ)1焉。于v是王(ノ)意、悼※[立心偏+且](シテ)聊(カ)、作(レリ)2此(ノ)歌(ヲ)1也
 
八上采女は因幡國八上郡から出た采女である。古事記の稻羽之八上比賣が思ひ浮べられる。王は采女と婚したので不敬の罪に問はれ、采女は因幡へ歸されたのである。悼怛《タウダツ》はいたみ悲しむこと。※[立心偏+且]に作るは誤。
 
門部王戀歌一首
 
(511)門部王の傳は三一〇參照。
 
536 飫宇の海の 潮干の潟の 片念に 思ひや行かむ 道の長手を
 
飫宇能海之《オウノウミノ》 鹽干乃滷之《シホヒノカタノ》 片念爾《カタモヒニ》 思哉將去《オモヒヤユカム》 道之永手呼《ミチノナガテヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕(飫宇能海之鹽干乃滷之)片思ニオマヘヲ思ヒナガラ、永イ道ヲ辿ツテオマヘノ所ヘ〔六字傍線〕行カウヨ。オマヘハ俺ヲ忘レタカモ知レナイガ〔オマ〜傍線〕。
 
○飫宇能海之鹽干乃滷之《オウノウミノシホヒノカタノ》――同音を繰返して、片念爾《カタモヒニ》に冠した序詞。飫宇の海は出雲の意宇郡の海、即ち今の中の海。當時の國府に近い海岸である。三七一參照。○道之永手呼《ミチノナガテヲ》――永手は永道《ナガチ》に同じ。
〔評〕 略解や古義に歸京に際しての歌のやうにあるが、左註によるとさうではない。飫宇の海は王の居られた國府に近いから、それを序に用ゐられたのである。
 
右門部王、任(ゼラレシ)2出雲守(ニ)1時、娶(レリ)2部内(ノ)娘子(ヲ)1也。未v有(ラ)2幾時1既(ニ)絶(ツ)2往來(ヲ)1。累(ヌル)v月(ヲ)之後、更(ニ)起(ス)2愛心(ヲ)1、仍作(リテ)2此(ノ)歌(ヲ)1贈2致(ス)娘子(ニ)1
 
門部王が出雲守になつたことは續紀にないが、養老三年七月始めて按察使を置かれた時、それに任ぜられ、伊賀志摩の二國を管したとある。按察使は國守中の故參者がなつたのであるから、その時既に出雲守を經てゐたのではないかと思はれる。天平三年十二月には治部卿になつてゐる。
 
高田女王贈(レル)2今城王(ニ)1歌六首
 
高田女王は卷八の一四四四にも出で、其處には「高安之女也」と註してある。高安は初め高安王、後姓を賜はつて、大原眞人高安といつた人。今城王は傳未詳。卷八に大原眞人今城とあるのは時代が少しく後れるやうであるから、別人であらう。
 
537 言清く いともな言ひそ 一日だに 君いし無くば いたききずぞも
 
事清《コトキヨク》 甚毛莫言《イトモナイヒソ》 一日太爾《ヒトヒダニ》 君伊之哭者《キミイシナクバ》 痛寸取物《イタキキズゾモ》
 
(512)エラサウニコレ限リ逢ハナイナドト〔コレ〜傍線〕平氣ラシクオツシヤルナ。一日デモ貴方ガオイデナサラナクテハ、私ハ〔二字傍線〕苦シウゴザイマスヨ。
 
○事清《コトキヨク》――言清く、さつぱりと平氣らしく言ふこと。○君伊之哭者《キミイシナクバ》――伊《イ》は名詞の下に添へていふ語。哭は無の借字。○痛寸取物《イタキキズゾモ》――この句は舊訓イタキキズゾモとあるが、その意を得ない。古義に偲不敢物と改めてシヌビアヘヌモノとよんでゐるのは、意は聞えるが從ふわけに行かぬ。取の宇、最の誤字か省畫で、イタキイダモノなどではないかと、私かに考へてゐるが、暫らく舊訓の儘にして、私にとつては苦しい瘡ですよの意と解して置く。
〔評〕 女らしい、か弱い感情が現はれてゐる。
 
538 人言を 繁みこちたみ 逢はざりき 心ある如 な思ひ吾が背子
 
他辭乎《ヒトゴトヲ》 繁言痛《シゲミコチタミ》 不相有寸《アハザリキ》 心在如《ココロアルゴト》 莫思吾背子《ナオモヒワガセコ》
 
人ノ噂ガ頻繁ナノトヒドイノトデ、私ハ貴方ニ〔五字傍線〕オ目ニカカリマセンデシタ。何カアダシ〔五字傍線〕心デモ持ツテヰルヤウニ思シ召シナサイマスナ。私ノ夫ヨ。
 
○他辭乎繁言痛《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》――卷二の一一六、卷十二の二八九五・二九三八などに出てゐるので見ると、この頃の慣用句である。○莫思吾背子《ナオモヒワガセコ》――舊本背の下に子が無いが、次の歌は皆背子とあるから、これもさうであらう。子を添へた古寫本も多い。どちらでもよい。
〔評〕 はつきりと第三句で切つたのが、著しく目立つ調子になつてゐる。平語を用ゐた飾氣のない作だ。
 
539 吾が背子し 遂げむといはば 人言は 繁くありとも 出でて逢はましを
 
吾背子師《ワガセコシ》 遂當云者《トゲムトイハバ》 人事者《ヒトゴトハ》 繁有登毛《シゲクアリトモ》 出而相麻志呼《イデテアハマシヲ》
 
私ノ夫ガ是非逢ハウトサヘオツシヤルナラバ、私ハ人ノ口ハドンナニヤカマシクトモ、出テ行ツテ〔三字傍線〕逢フノデシタノニ。ハツキリシタコトヲオツシヤラナイモノデスカラ駄目デシタ〔ハツ〜傍線〕。
(513)〔評〕 前の歌に續いてゐる。初の二句に男の熱烈な抱擁を要求してゐるのが、あはれである。
 
540 吾が背子に 復は逢はじかと 思へばか 今朝の別の すべなかりつる
 
吾背子爾《ワガセコニ》 復者不相香常《マタハアハジカト》 思墓《オモヘバカ》 今朝別之《ケサノワカレノ》 爲便無有都流《スベナカリツル》
 
私ノ夫ニハ復オ目ニカカラナイノデハアルマイカト思ヒマシタカラカ、今朝オ別レヲ致シタトキハ何トモ仕樣ノナイ程悲シウゴザイマシタ。
 
○都復者不相香常《マタハアハジカト》――常の字を下に移して、三句を常思墓《トオモヘバカ》とよんでゐるのは從はれない。
〔評〕 後朝の戀の心を述べたもの。期し難い再會を悲しんで、泣き霑れた女の姿もしのばれる。
 
541 この世には 人言繋し 來むよにも 逢はむ吾が背子 今ならずとも
 
現世爾波《コノヨニハ》 人事繁《ヒトゴトシゲシ》 來生爾毛《コムヨニモ》 將相吾背子《アハムワガセコ》 今不有十方《イマナラズトモ》
 
私ハコノ世デオニ目カカリタウゴザイマスガ〔私ハ〜傍点〕、コノ世デハ人ノ口ガヤカマシウゴザイマス。デスカラ〔四字傍線〕今デナクテモ來世ニデモ又ユツクリ〔四字傍線〕オ目ニカカリマセウ。
 
○來生爾毛《コムヨニモ》――せめて來世にてもの意。
〔評〕 現世に對して來世に希望を繋ぐ思想が、かうした作にもあらはれてゐるのは、佛教の影響の深大さを思はしめる。
 
542 常止まず 通ひし君が 使來ず 今は逢はじと たゆたひぬらし
 
常不止《ツネヤマズ》 通之君我《カヨヒシキミガ》 使不來《ツカヒコズ》 今者不相跡《イマハアハジト》 絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》
 
常ニ止ム時モナク、通《カヨ》ツテ來タ貴方カラコノ頃ハ〔四字傍線〕使サヘモ參リマセヌ。人ノ口ガヤカマシイノデ〔人ノ〜傍線〕モウ逢フマイト思ツテ躊躇シテイラツシヤルノデセウ。
○常不止通之君我《ツネヤマズカヨヒシキミガ》――常止マズ通ヒシは君にかかるのか、又は使にかかつてゐるのか、兩方にとられる。ここ(514)は君にかかるものとして解いて置く。○絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》――タユタフは躊躇逡巡すること。
〔評〕 使の途絶えたのを嘆いてゐるが、男の變心を憤つたやうな強烈な點はない。この六首はすべて世間を憚り、人言を恐れた、か弱い作ばかりであるが、同時の作ではない。
 
神龜元年甲子冬十月、幸(セル)2紀伊國(ニ)1之時、爲(メ)v贈(ル)2從駕(ノ)人(ニ)1所《ラレテ》v誂(ヘ)2娘子(ニ)1笠朝臣金村作(レル)歌一首并短歌
 
桂本に笠朝臣金村の五字を別にして、下に記してゐる。次の歌によると、これもさうすべきであらう。
 
543 おほきみの いでましのまに もののふの 八十伴の雄と 出で行きし うつくし夫は 天翔ぶや 輕の路より 玉襷 畝火を見つつ 麻裳よし 紀路に入り立ち 眞土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ 親しくも 吾をば思はず 草枕 旅を宜しと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙も得あらねば 吾が背子が 行のまにまに 追はむとは 千度おもへど 手弱女の 吾が身にしあれば 道守の 問はむ答を 言ひ遣らむ 術を知らにと 立ちて躓づく
 
天皇之《オホキミノ》 行幸乃隨意《イデマシノマニ》 物部乃《モノノフノ》 八十件雄與《ヤソトモノヲト》 出去之《イデユキシ》 愛夫者《ウツクシヅマハ》 天翔哉《アマトブヤ》 輕路從《カルノミチヨリ》 玉田次《タマダスキ》 畝火乎見管《ウネビヲミツツ》 麻裳吉《アサモヨシ》 木道爾入立《キヂニイリタチ》 眞土山《マツチヤマ》 越良武公者《コユラムキミハ》 黄葉乃《モミチバノ》 散飛見乍《チリトブミツツ》 親《シタシクモ》 吾者不念《ワヲバオモハズ》 草枕《クサマクラ》 客乎便宜常《タビヲヨロシト》 思乍《オモヒツツ》 公將有跡《キミハアラムト》 安蘇蘇二破《アソソニハ》 且者雖知《カツハシレドモ》 之加須我仁《シカスガニ》 黙然得不在者《モダモエアラネバ》 吾背子之《ワガセコガ》 往乃萬萬《ユキノマニマニ》 將追跡者《オハムトハ》 千遍雖念《チタビオモヘド》 手嫋女《タワヤメノ》 吾身之有者《ワガミニシアレバ》 道守之《ミチモリノ》 將問答乎《トハムコタヘヲ》 言將遣《イヒヤラム》 爲便乎不知跡《スベヲシラニト》 立而爪衝《タチテツマヅク》
 
天子樣ノ行幸ノ御供ヲシテ、武士ノ大勢ノ輩ノ長ト共ニ出テ行ツタ私ノ可愛イ夫ハ、(天翔哉)輕ノ路カラ、(玉田次)畝傍ヲ見ナガラ、(麻裳吉)紀伊ノ國ヘ入リ込ンデ、眞土山ヲ越エテ行カレル貴方ハ、途中デ〔三字傍線〕紅葉ノ散リ亂レル面白イ〔三字傍線〕景色ヲ見テ、私ノコトヲナツカシイトモ思ハズ、(草枕)旅ノ方ガ面白イト貴方ガ思ツテイラ(515)ツシヤルダラウト、一方デハウスウス知ツテヰルガ、流石ニ黙ツテヰルトイフ譯ニモ行カナイカラ、私ノ夫ガ行ツタ通リニ、後ヲ追ヒカケテ行カウトハ千度モ思ツタガ、カ弱イ女ノ身ダカラ、道ノ番人カラ問ハレタ時ニ、何ト答ヘタモノカ答ノ仕樣ガナイノデ、行キカネテ躊躇シテヰル。
 
○行幸乃隨意《イデマシノマニ》――隨意はマニとよむがよい。宣命に己可欲末仁行止念天《オノガホシキマニオコナハムトオモヒテ》とあり、宇鏡にも、態、保志萬爾《ホシキマニ》とある。○物部乃八十伴雄與《モモノフノヤソトモノヲト》――四七八參照。○天翔哉《アマトブヤ》――枕詞。輕とつづく。二〇七參照。○輕路從《カルノミチヨリ》――輕の街道を通つて。二〇七參照。○玉田次《タマダスキ》――枕詞。畝とつづく。二九參照。○麻裳吉《アサモヨシ》――枕詞。キとつづく。五五參照。○木道爾入立《キヂニイリタチ》――イリタツとよむのは惡い。眞土山は大和紀伊の境で、地籍は大和に屬してゐるが、卷一の朝毛吉木人乏母《アサモヨシキビトトモシモ》(五五)の歌でもわかるやうに、紀州の山のやうに考へられてゐたものである。○安蘇蘇二破《アソソニハ》――珍らしい語で、用例が見當らないが、淺々薄々《アサアサウスウス》などの意らしい。○之加須我仁《シカスガニ》――さすがに、それでもやはりなどの意。○往乃萬萬《ユキノマニマニ》――萬はn音尾であるから、母音を補つてマニとよましめるのである。○手嫋女《タワヤメノ》――嫋の字は弱女の二字を合はせたものであらう。○道守之《ミチモリノ》――通路の番人が、要所にゐたのを道守といつた。反歌の關守と同じであらう。○立而爪衝《タチテツマヅク》――立ちて逡巡し、行きかねる意であらう。考に「そば立ちて望むさまなり」とあるのを、新考に「我意を獲たり」と言つてゐるが、どうであらう。
〔評〕 手弱女ぶりにやさしく作つてある。殊に最後の立而爪衝《タチテツマヅク》が讀者の同情を引く言葉であらう。併し要するに代作である。この人は歌集の殘つてゐる點から見ても、當時に於ても歌人として認められてゐたのであらうが、人麿以來專門歌人が出現して、段々かういふ傾向を生じて來たのである。
 
反歌
 
544 後れ居て 戀ひつつあらずは 紀の國の 妹背の山に あらましものを
 
後居而《オクレヰテ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 木國乃《キノクニノ》 妹背乃山爾《イモセノヤマニ》 有益物乎《アラマシモノヲ》
 
後ニ殘ツテヰテ夫を〔二字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルヨリハ、寧ロ〔二字傍線〕紀伊ノ國ノ妹背山デアリタイノニ。サウシタラ妹ト背ト相並(516)ンデ離レルコトモナイカラ〔サウ〜傍線〕。
 
○戀乍不有著《コヒツヅアラズハ》――八六及び一一五參照。○妹背乃山爾《イモセノヤマニ》――妹背山は紀伊伊都郡。背山は紀の川の北岸にあり、笠田村に屬し、妹山は南岸にあり、澁田村に屬すといふ。
〔評〕 初二句は類例もあり、この頃の慣用であるが、妹背乃山爾有益物乎《イモセノヤマニアラマシモノヲ》は、かなり奇故な願である。
 
545 吾が背子が 跡ふみ求め 追ひ行かば 紀の關守い とどめなむかも
 
吾背子之《ワガセコガ》 跡履求《アトフミモトメ》 追去者《オヒユカバ》 木乃關守伊《キノセキモリイ》 將留鴨《トドメナムカモ》
 
紀伊ヘ行ツタ〔六字傍線〕私ノ夫ノ足跡ヲ捜シテ歩イテ、夫ノ後ヲ列〔四字傍線〕追ヒカケテ行ツタラバ、紀ノ關ノ番人ハ止メルデアラウナア。行クノハ止メテ置カウ〔十字傍線〕。
 
○木乃關守伊《キノセキモリイ》――木乃關は紀の關。海草郡中山の南大字湯屋谷で、和泉より紀伊に越える道にあたつてゐる。白鳥の關ともいつた。伊は名詞に添へる助詞で、意味は無い。○將留鴨《トドメナムカモ》――トドメナムカモも惡くはないが、將の字はナムとよんだ例が多いから、トドメナムカモとして置かう。留めるであらうかよの意。
〔評〕 長歌の終の意を繰返したものに過ぎないが、調子は美はしい。
 
二年乙丑春三月、幸(セル)2三香原離宮(ニ)1之時、得(テ)2娘子(ヲ)1作(レル)歌一首 并短歌  
                     笠朝臣金村
 
金村の歌に限つてその名を離して別に書いてあるのは、注意すべき點である。三香原離宮は、恭仁京の以前からあつた離宮。續紀に「和銅元年、天皇行幸山背國相樂都岡田離宮」とある所で、泉川の南岸、今の加茂村にあつたのである。七六五の地圖參照。娘子は歌によると遊女らしい。
 
546 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行合に 天雲の よそのみ見つつ 言問はむ よしの無ければ 心のみ 咽せつつあるに 天地の 神こと伏せて 敷妙の 衣手かへて おの妻と 憑める今よひ 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも
 
三香之原《ミカノハラ》 客之屋取爾《タビノヤドリニ》 珠桙乃《タマボコノ》 道能去相爾《ミチノユキアヒニ》 天雲之《アマグモノ》 外耳見管《ヨソノミミツツ》 (517)言將問《コトトハム》 縁乃無者《ヨシノナケレバ》 情耳《ココロノミ》 咽乍有爾《ムセツツアルニ》 天地《アメツチノ》 神祇辭因而《カミコトヨセテ》 敷細乃《シキタヘノ》 衣手易而《コロモデカヘテ》 自妻跡《オノヅマト》 憑有今夜《タノメルコヨヒ》 秋夜之《アキノヨノ》 百夜乃長《モモヨノナガサ》 有與宿鴨《アリコセヌカモ》
 
私ハ行幸ノオ伴ヲシテ〔ワタシは〜傍線〕、三香原ノ旅ノ宿ニヰテモ(珠桙乃)途中デ行キ合ツタ時モ、私ハオマヘヲ〔六字傍線〕(天雲之)他所ノ人トシテバカリ見テ、近シクナイノデ〔八字傍線〕、話ヲスルタヨリガナイカラ、心バカリ咽ンデ悲シンデヰルト、天地ノ神樣タチガ、私ニオマヘヲ〔六字傍線〕オ任セ下サツテ、(敷細乃)袖ヲ交ハシテ、私ノ妻トシテ親シクシテヰル今夜ハ、ドウカ〔三字傍線〕秋ノ長夜ノ百夜ノ長サホド永クアツテクレレバヨイガナア。
 
○客之屋取爾《タビノヤドリニ》――旅の宿に於ての意。○道能去相爾《ミチノユキアヒニ》――途中で行き合ひたる際にの意で、上の客之屋取爾《タビノヤドリニ》と並べた句。○天雲之《アマグモノ》――枕詞。ここは外《ヨソ》につづいてゐる。○神祇辭因而《カミミコトヨセテ》――辭因而《コトヨセテ》は言|依《ヨサ》してに同じく、神が任せ給うての意。○百夜乃長《モモヨノナガサ》――舊訓にナガサとあつたのを、考にナガクと改めた。舊訓の方がよくはないか。○有與宿鴨《アリコセヌカモ》――あつてくれぬかよの意。與《コセ》は希望をあらはす。
〔評〕漸く女を手に入れた喜びを歌つてゐるが、相手が遊女だけに、こちらも口先だけうまいことを言つてゐるやうな感がある。
 
反歌
 
547 天雲の よそに見しより 吾妹子に 心も身さへ よりにしものを
 
天雲之《アマグモノ》 外從見《ヨソニミシヨリ》 吾妹兒爾《ワキモコニ》 心毛身副《ココロモミサヘ》 縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》
 
(天雲之)他所ノ人トシテ〔四字傍線〕バカリ見テ居タ頃カラ、私ハ〔二字傍線〕オマヘニ心サヘモ身サヘモ、打チ込ンデ寄セテヰタヨ。今夜漸ク逢フコトガ出來テ、滿足シタ〔今夜〜傍線〕。
 
○縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》――寄つてゐたよの意。モノヲは詠嘆の辭。伊去羽計田菜引物緒《イユキハバカリタナビクモノヲ》(三二一)の物緒《モノヲ》に同じ。鬼《モノ》の字は物(518)の怪《ケ》のモノの意で用ゐてある。
〔評〕 交會の歡、言外に溢れてゐる。
 
548 今夜の 早く明けなば すべをなみ 秋の百夜を 願ひつるかも
 
今夜之《コヨヒノ》 早開者《ハヤクアケナバ》 爲使乎無三《スベヲナミ》 秋百夜乎《アキノモモヨヲ》 願鶴鴨《ネガヒツルカモ》
 
折角思ヒ焦レテ逢フコトガ出來タ〔折角〜傍点〕今夜ガ、早ク明ケテハ仕樣ガナイノデ、今夜ノ長サガ〔六字傍線〕秋ノ長夜ノ百夜ダケノ長サモアルヤウニト願ヒマシタワイ。
 
○今夜之《コヨヒノ》――舊訓コノヨラノとあつて、この三字を用ゐた一九五二・二二六九などすべてさう訓んであるが、此夜等者《コノヨラハ》(二二二四)によれば、今夜とあるのはコヨヒとよむがよいやうである。○早開者《ハヤクアケナバ》――舊訓ハヤクアクレバ、略解ハヤアケヌレバであるが、代匠記にハヤクアケナバとあるがよい。
〔評〕 女を得た喜びに飽くことを知らぬ一種の焦燥感が上句にあらはれてゐる。下句は長歌の末句と同意である。
 
五年戊辰、太宰少貳石川|足人《タリヒトノ》朝臣遷任(ノトキ)餞(スル)2于筑前國蘆城驛家(ニ)1歌三首
 
石川足人は續紀に和銅四年四月に正六位下から從五位下を、神龜元年二月從五位上を授かつたと見えてゐる。少貳になつたことが記されてゐないのは洩れたのである。蘆城驛は筑前國筑紫郡で今、御笠村大字阿志岐がある。太宰府の東南方に當る。五六八の地圖及び題詞解説參照。
 
549 天地の 神も助けよ 草枕 旅行く君が 家に至るまで
 
天地之《アメツチノ》 神毛助與《カミモタスケヨ》 草枕《クサマクラ》 ※[覊の馬が奇]行君之《タビユクキミガ》 至家左右《イヘニイタルマデ》
 
歸京ノ〔三字傍線〕(草枕)ニ出カケナサル貴方ガ、家ニ御到着ナサルマデハ天地ノ神樣達モドウゾ〔三字傍線〕オ守リ下サイヨ。
〔評〕 平板な、併し素純な作である。以下三首は一人の作ではあるまい。
 
550 大船の おもひ憑みし 君がいなば 吾は戀ひむな 直に逢ふまでに
 
(519)大船之《オホブネノ》 念憑師《オモヒタノミシ》 君之去者《キミガイナバ》 吾者將戀名《ワレハコヒムナ》 直相左右二《タダニアフマデニ》
 
(大船之)タヨリニ思ツテヰタ貴方ガ、去ツテオシマヒニナツタナラバ、私ハ復直接ニオ目ニカカルマデハ、貴方ヲ〔三字傍線〕戀ヒシク思フデゴザイマセウナア。
 
○大船之《オホブネノ》――枕詞。念憑《オモヒタノミ》につづく。○吾者將戀名《ワレハコヒムナ》――ナはナアと歎息する辭である。
〔評〕 格別とり立てて言ふ程の作ではない。悲しみの熱情が見えてゐない。
 
551 大和路の 島の浦廻ニ 寄する浪 間も無けむ 吾が戀ひまくは
 
山跡道之《ヤマトヂノ》 島乃涌廻爾《シマノウラミニ》 縁浪《ヨスルナミ》 間無牟《アヒダモナケム》 吾戀卷者《ワガコヒマクハ》
 
私ガ貴方ヲ〔五字傍線〕オ慕ヒ申スコトハ、貴方ガ今カラオイデナサル〔貴方〜傍線〕大和ヘ行ク道ニアル、島ノマワリニ打チ寄セル浪ノヤウニ、間斷ナイコトデアリマセウ。
 
○山跡道之《ヤマトヂノ》――大和へ行く道の意。○島乃浦廻爾《シマノウラミニ》――島は志摩郡志麻郷と和名抄にある地とする説もあるが、そこは福岡灣の西に半島をなしてゐる地で、海路によるとしても、都への通路には當らぬやうである。○縁浪《ヨスルナミ》――舊訓を改めてヨルナミノとしたのは惡い。縁浪をヨスルナミとよんだ例は一三八八などにもある。
〔評〕 上の句は途中の景物をとつて譬喩としたので、浪を見たならば、その浪の如く絶間なく、戀ふる我あるを思へと、ほのめかしたやうにも作られてゐる。この種の着想は類歌が多いから、褒める程のこともなからう。
 
右三首作者未v詳
 
大伴宿禰|三依《ミヨリ》歌一首
 
續紀によれば、天平二十年二月正六位上大伴宿禰御依に從五位下を授けられてゐる。この人は賓龜五年五月從四位下で死んでゐる。この歌は天平元年前後のことであるから、三依と御依とを同(520)人とすれば、まだ青年時代である。
 
552 吾が君は わけをば死ねと 念へかも 逢ふ夜逢はぬ夜 二はしるらむ
 
吾君者《ワガキミハ》 和氣乎波死常《ワケヲバシネト》 念可毛《オモヘカモ》 相夜不相夜《アフヨアハヌヨ》 二走良武《フタハシルラム》
 
貴女ハ私ヲ死ネト思ツテイラツシヤルカラカ、逢フ夜ト逢ハナイ夜トガ兩方アルノデセウ。逢フナラ逢フ、逢ハナイナラ逢ハナイト一方ニ定メテ下サレハヨイニ。私ハ焦レ死ニシサウデス〔逢フナ〜傍線〕。
 
○和氣乎波死常《ワケヲバシネト》――和氣は一人稱の代名稱と見る説と、二人稱と見る説とがある。用例から考へると、一人稱にも二人稱にも使つてある。一人稱の、おのれ・われが、相手を賤しめていふ時に二人稱として用ゐられてゐるので見ると、これもわれ〔二字傍点〕と同じかも知れない。新考には卷八の紀女郎贈2大件宿禰家持1歌(一四六〇)に戯奴と書いて反云2和氣1とあるによつて、ワケは奴の義であるといつてゐるのも面白いが、尚研究を要する。○二走良武《フタハシルラム》――走の字は集中、ハシルとかハシとか訓まれてゐる。だからこの儘ならば、フタハシルラムとよむより外はない。走を去の誤としてフタユキヌラムとよむ宣長説もよいやうだが、なほ原形を尊重して置かう。二走るは二者共に行はれる意か。
〔評〕 結句が少し變つた言ひ方で、他に訓法があるかも知れないが、全體として女が男に怨言をならべるやうな氣分の作である。卷八の大伴家持の歌(一四六二)も初の二句が、これに似てゐる。
 
丹生《ニフ》女王、贈(レル)2太宰帥大伴卿(ニ)1歌二首
 
續紀に天平十一年正月從四位下丹生女王に從四位上を授けるとあり、天平勝寶二年八月に正四位上を授かつてゐる。都から太宰帥大伴旅人へ贈られた歌である。卷八の一六一〇にもこの女王が太宰帥大伴卿に贈られた歌がある。
 
553 天雲の そきへのきはみ 遠けども 心し行けば 戀ふるものかも
 
天雲乃《アマグモノ》 遠隔乃極《ソキヘノキハミ》 遠鷄跡裳《トホケドモ》 情志行者《ココロシユケバ》 戀流物可聞《コフルモノカモ》
 
(521)貴方ノオイデニナル太宰府ト私ノヰル都トハ〔貴方〜傍線〕、天ノ雲ノ遠クハナレテヰル果テ程ノ遠サデスガ、ソレデモ此方デ思フ心ガ貴方ノ方ヘ屆クノデ、貴方ノ方デモ〔六字傍線〕私ヲ思ハレルモノト見エマスネ。種々品物を送ヲツテ下サツテ御親切有リガタウ〔種々〜傍線〕。
 
○遠隔乃極《ソキヘノキハミ》――卷十九に天雲能曾伎敝能伎波美《アマグモノソキヘノキハミ》(四二七二)とあり、卷三に天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》(四二〇)とあり、どちらによんでもよい。字音辨證に久をキとよむべしと言つたのは妄斷である。○戀流物可聞《コフルモノカモ》――この句の上に、其方からもの語を補つて見るがよい。
〔評〕 酒を旅人から獻じたのを喜び給うた歌である。卷八の一六一〇の歌によれば、旅人と親しかつた御方と見える。上の句は古來の慣用語である。
 
554 古りにし 人のをさせる 吉備の酒 病めばすべなし ぬきすたばらむ
 
古《フリニシ》 人乃令食有《ヒトノヲサセル》 吉備能酒《キビノサケ》 痛者爲便無《ヤメバスベナシ》 貫簀賜牟《ヌキスタバラム》
 
老人ノ貴方ガ私ニ送ツテ〔五字傍線〕飲マセナサツタ吉備ノ酒ハ結構デスガ、アレヲ飲ンデ〔は結〜傍線〕醉ツテハ仕樣ガアリマセン。醉ツテ嘔吐スル時ノ用意ニ〔醉ツ〜傍線〕貫簀モ一緒ニ〔三字傍線〕下サイマシ。
 
○古人乃令食有《フリニシヒトノヲサセル》――舊訓イニシヘノヒトノノマセルとあるが、古は古義にフリニシとあるがよい。古りにし人は旅人をさしたので、彼は既に六十四五歳に及んでゐたから、かう言はれたのであらう。古馴染の人とも解せられぬことはないが、老人の方がよささうである。令食有は宣長に從つてヲサセルとしよう。飲ましめた意である。○吉備能酒《キビノサケ》――吉備の國の酒とも、黍の酒とも考へられる。太宰府からの進物に、吉備の國の消はどうであらう。黍酒の方がよい。次の歌には爲君釀之待酒《キミガタメカミシマチサケ》とあり、自家製の自慢の酒を京に贈つたのであらう。○痛者爲便無《ヤメバスベナシ》――痛の字、元暦校本などに病に作つてあるのがよい。病むは酒に醉つて苦しむこと。○貫簀賜牟《ヌキスタバラム》――貫簀は丸く削つた竹で編んだ簾。手を洗ふ時盥の上にかけて、水の飛ばぬやうにするもの。江次第に「供2御手水1、中略、打敷、御手洗※[木+泉]、手拭臺、貫簀等如v恒」とある。ここは酒に醉つて嘔吐する時の用意に、貫(522)簀を賜へと言はれたのである。ヌキスを酢に言ひかけたものとする説は妄であらう。
〔評〕 串戯滑稽な作である。材料も表現法も、卷十六に入れれば立派な戯咲歌である。巧な思ひ切つた作と言つてよい。
 
太宰帥大伴卿、贈(レル)3大貳|丹比縣守《タヂヒノアガタモリ》卿(ノ)選2任(セル)民部卿(ニ)1歌一首
 
丹比縣守は左大臣正二位島の子で、靈龜二年八月遣唐押使となり、養老二年十月歸國した。太宰大貳から中央官に轉じたのは、天平元年二月のことである。績紀には權りに參議とし、後民部卿になつたやうに記してある。天平九年六月中納言正三位で薨じた。
 
555 君がため かみし待酒 やすの野に 獨や飲まむ 友無しにして
 
爲君《キミガタメ》 釀之待酒《カミシマチザケ》 安野爾《ヤスノヌニ》 獨哉將飲《ヒトリヤノマム》 友無二思手《トモナシニシテ》
 
貴方ヲ待チ受ケテ、差シ上ゲヨウト思ツテ私ガ〔差シ〜傍線〕釀シタ酒ヲ、貴方ガ都へ轉任ナサツテハ私ハ此處ノ〔貴方〜傍線〕安ノ野デ、友モナク唯一人デ飲ムコトデセウ。誠ニ悲シイコトデス〔九字傍線〕。
 
○釀之待酒《カミシマチザケ》――カムはカモスに同じ。元、原料を噛んで作つたから起つた語。待酒は人の來るのを待ち受け、飲ましめる爲の酒。○安野爾《ヤスノヌニ》――安野は夜須郡の野で、この郡は今、朝倉郡に編入せられてゐる。筑前名寄に「長者町と四三島の間を安野と曰ふ。方一里の平野なり」とある。太宰府の東南三里餘、太宰府の官人たちが遊獵の地であつたらう。五六八地圖參照。
〔評〕 遣唐使までもやつて來た丹比縣守は、當時のハイカラ長官の旅人には、最もよい話し相手であつたらう。この歌にも酒を愛した支那の文人らしい氣分が見えて、卷三の讃酒歌十三首を思はしめるものがある。
 
賀茂女王贈2大伴宿禰三依1詔一首
 
元暦校本その他古本に、下に小字で「故左大臣長屋王之女也」とある。卷八の一六一三の題詞の(523)下に、長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也とある。
 
556 筑紫船 いまだも來ねば あらかじめ 荒ぶる君を 見るが悲しさ
 
筑紫船《ツクシブネ》 未毛不來者《イマダモコネバ》 豫《アラカジメ》 荒振公乎《アラブルキミヲ》 見之悲左《ミルガカナシサ》
 
貴方ガ乘ツテ行カレル筈ノ〔アナタ〜傍線〕筑紫船ガ、未ダ此處ヘ〔三字傍線〕來ナイノニ、早クモ私ヲ疎ンジナサレテ〔九字傍線〕、薄情ラシイ風ヲナサル貴方ヲ見ルノガ悲シイデスヨ。筑紫ヘ下ラレタ後ノコトガ思ヒヤラレマス〔筑紫〜傍線〕。
 
○筑紫船《ツクシブネ》――筑紫で出來て、筑紫人が乘込んでゐる船で、筑紫へ行くに便乘するのだ。○未毛不來者《イマダモコネバ》――未だ來らざるにの意。O荒振公乎《アヲブルキミヲ》――心の荒びて、自分を疎んじょうとする君をの意。○見之悲左《ミルガカナシサ》――古義にミムガカナシサとよんで、三依が筑紫から歸來の時の歌としてゐる。下の五六五の歌によるに、決してさうではない。
〔評〕 難波あたりを舟出せむとするに先立ち、別を悲しんでよんだもので、女らしい取越苦勞が真に悲しい。
 
土師《ハニシ》宿禰|水通《ミヅヂ》、從《ヨリ》2筑紫1上(ル)v京(ニ)海路(ニテ)作(レル)歌二首
 
土師宿禰水通の傳は分らない。卷十六の三八四三の左註に「有2大舍人土師宿禰水通1字曰志婢麻呂也」と見えてゐる。
 
557 大船を 榜ぎの進みに 磐に觸り 覆らば覆れ 妹に依りてば
 
大船乎《オホブネヲ》 ※[手偏+旁]乃進爾《コギノススミニ》 磐爾觸《イハニフリ》 覆者覆《カヘラバカヘレ》 妹爾因而者《イモニヨリテバ》
 
私ガ都ニ歸ルノニ乘ツテ行ク〔私ガ〜傍線〕大船ヲ、漕イデ行ク張合デ、岩ニ打チツケテ覆ルナラ覆レ。妻ニ逢フ爲〔四字傍線〕ナラバ何トモ思ハナイ〔七字傍線〕。
 
○※[手偏+旁]乃進爾《コギノススミニ》――漕いで行く勢での意。○磐爾觸《イハニフリ》――海中の岩礁に觸れて。○妹爾因而者《イモニヨリテバ》――妹の爲ならばの意。古義に「吾が思ふ妹に一日も早く依らば、戀しく思ふ心の安からむぞとなり」とあるのは、誤つてゐる。
〔評〕 珍らしい強烈な豪快な作意である。集中海路に關する歌は多いが、こんな熾烈な戀情を托したものは尠(524)い。
 
558 ちはやぶる 神の社に 我が掛けし 幣はたばらむ 妹に逢はなくに
 
千磐破《チハヤブル》 神之社爾《カミノヤシロニ》 我掛師《ワガカケシ》 幣者將賜《ヌサハタバラム》 妹爾不相國《イモニアハナクニ》
 
(千磐破)神ノ社ニ私ガ上ゲマシタ幣は、御返シ下サイマシ。アレホド幣ヲ上ゲテオ祈リシマシタノニ効能モナクテ〔アレ〜傍線〕、海ガアレテ舟ガ進マズ、カウシテ妻ニ逢ヘナイカラ。早クオカヘシ下サイ〔早ク〜傍線〕。
〔評〕 海路の久しきに堪へかねて、神を呪つたのである。これにも男性らしい強さがあらはれてゐる。神への反逆は、當時としては、たとひ口だけにしても極めて重大なことであった。これはかなり思ひ切った歌と言はねばならぬ。
 
太宰大監大伴宿禰百代戀歌四首
 
百代は巻三の三九二に見えてゐる。
 
559 事もなく 生き來しものを 老いなみに かかる戀にも 吾は遇へるかも
 
事毛無《コトモナク》 生來之物乎《イキコシモノヲ》 老奈美爾《オイナミニ》 如此戀于毛《カカルコヒニモ》 吾者遇流香聞《ワレハアヘルカモ》
 
今マデ何ノコトモ無ク暮ラシテ來タノニ、年老ツタコノ頃ニナツテ、コンナ苦シイ〔三字傍線〕戀ニ逢ツタワイ。
 
○生來之物乎《イキコシモノヲ》――生を在の誤かと童蒙抄に出てゐるのが、廣く行はれてゐる。又このままにしてアレコシと代匠記にあるが、これは面白くない。字を改めないとすればイキコシとよむ外はあるまい。新訓にはオヒコシとある。○老奈美爾《オイナミニ》――老の頃といふ意。年なみ、月なみなども同じでからう。老の波といふ語はこれから出たのであらう。
〔評〕 大さう老人めかして詠んでゐるが、續紀によると、この人は天平十九年正月に正五位下になってゐるから、この歌の作られた頃から、まだ少くとも二十年は生存して居たのでこの頃、四十歳位になってゐたものか。ともかくこの四首の歌は、古歌の改作が多くて眞實性が缺けてゐるやうに思ふ。
 
560 戀ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の 爲こそ妹を 見まく欲りすれ
 
(525)孤悲死牟《コヒシナム》 後者何爲牟《ノチハナニセム》 生日之《イケルヒノ》 爲社妹乎《タメコソイモヲ》 欲見爲禮《ミマクホリスレ》
 
來世ヲタノムナドト言フガ〔來世〜傍線〕焦レ死ニシタ後デハ何ニナラウカ、何ニモナラヌ〔六字傍線〕。私ハ生キテヰル現世ノ爲ニコソ女ト逢ヒタイト思フヨ。
〔評〕 卷十一に戀死後何爲吾命生日社見幕欲爲禮《コヒシナムノチハナニセムワガイノチノイケルヒニコソミマクホリスレ》(二五九二)とある古歌を、少し手を入れただけの作である。
 
561 念はぬを 思ふと言はば 大野なる 三笠のもりの 神し知らさむ
 
不念乎《オモハヌヲ》 思當云者《オモフトイハバ》 大野有《オホヌナル》 三笠杜之《ミカサノモリノ》 神思知三《カミシシラサム》
 
私ガ心カラ〔三字傍線〕戀シテヰナイノヲ僞ツテ〔三字傍線〕、戀シテヰルト人ニ言フナラバ、ソレハ大野ノ三笠ノ杜ノ神樣ガオ知リナサツテ罰ヲオ當テ〔九字傍線〕ナサルデセウ。
 
○大野有三笠杜之《オホヌナルミカサノモリノ》――和名抄に筑前國御笠郡大野とあり、今の筑紫郡大野村。三笠杜は神功皇后紀に「皇后欲v撃2熊襲1而自2橿日宮1遷2于松峽宮1時飄風忽起御笠墮v風、故時人號2其處1曰2御笠1也」とあつて、今、雜餉隈の東北にあたる。五六八の地圍參照。寫眞は太宰府大薮氏の撮影寄贈にかかる。
〔評〕 神に自ら誓言する歌。卷十二に不想乎想常云者眞島任卯名手乃杜之神思將御知《オモハヌヲオモフトイヘバマトリスムウナテノモリノカミシシラサム》(三一〇〇)とある古歌を神名だけを入れかへて借りたもの。六五五にも駿河麻呂の歌に似たのがある。
 
562 いとま無く 人の眉根を いたづらに 掻かしめつつも 逢はぬ妹かも
 
(526)無暇《イトマナク》 人之眉根乎《ヒトノマヨネヲ》 徒《イタヅラニ》 令掻乍《カカシメツツモ》 不相妹可聞《アハヌイモカモ》
 
人ニ戀ヒセラレルト眉ガ痒クナルトイフコトダガ、私モ眉ガ痒イカラ、アノ女ガ私ヲ戀シガツテヰルノダラウト思ツテヰルノニ〔人ニ〜傍線〕、アノ女ハ斷エズ私ノ眉ヲ空シク掻カセルバカリデ、少シモ逢ツテクレナイヨ。ドウシタノダラウ〔八字傍線〕。
 
○無暇《イトマナク》――この句は令掻乍《カカシメツツモ》にかかつてゐる。○人之眉根乎《ヒトノマヨネヲ》――眉は古事記に麻用賀岐《マヨガキ》とあるからマヨとよむ。
〔評〕 眉が痒いのは人に思はれてゐる兆とする俚言によつたものである。これも卷十二の五十殿寸天薄寸眉根乎徒令掻管不相人可母《イトノキテウスキマヨネヲヲイタヅラニカカシメツツモアハヌヒトカモ》(二九〇三)といふ古歌の燒直しである。
 
大伴坂上郎女歌二首
 
563 黒髪に しろ髪交り 老ゆるまで かかる戀には いまだ逢はなくに
 
黒髪二《クロカミニ》 白髪交《シロカミマジリ》 至耆《オユルマデ》 如是有戀庭《カカルコヒニハ》 未相爾《イマダアハナクニ》
 
コンナニ〔四字傍線〕黒髪ニ白髪ガ混ル程ニ年トルマデ、私ハ〔二字傍線〕コレホド烈シイ〔三字傍線〕戀ヲシタコトハナイ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
〔評〕 前の百代の歌に和へたものとする説が多い。この郎女は、兄の旅人と共に太宰府にゐて、天平二年十一月に歸京の途についたことは、卷六の九六三の歌で明らかであるから、太宰府滞在中、百代と親しくしてゐたと思はれる。新考に「この歌の戀は、おのが戀にあらで、人の戀なり」とあるは從ひ難い。略解に「郎女いまだ老いたる程にはあらじを、百代が歌にこたふる故に、かく白髪交などと詠めるなり」とある。郎女はまだ老境に入つたといふほどではあるまいが、初、穗積親王に愛せられ、靈龜元年七月皇子の薨去に遭つてから、藤原麻呂と婚し、吏に大伴宿奈麻呂の妻となつて、坂上大孃同二孃を産んだ。靈龜元年から天平元年まで十五年であるから、少くとも三十三四歳にはなつてゐたのである。
 
564 山菅の 實ならぬことを 吾に伏せ 言はれし君は 誰とかぬらむ
 
(527)山菅乃《ヤマスゲノ》 實不成事乎《ミナラヌコトヲ》 吾爾所依《ワレニヨセ》 言禮師君者《イハレシキミハ》 與孰可宿良牟《タレトカヌラム》
 
私ト關係ガアルヤウニ〔私ト〜傍線〕、(山菅乃)實ノナイコトヲ評判サレタ貴方ハ、今ハ〔二字傍線〕誰ト一緒ニ〔三字傍線〕寢テヰルデセウ。私ト貴方ト浮名ヲ立テラレテ、ソノ實、貴方ハ他ノ女ト親シクシテ私バカリ本當ニツマラナイ話デス〔私ト〜傍線〕。
 
○山管乃《ヤマスゲノ》――枕詞。實とつづく。ヤブラン(麥門冬)といふ蘭のやうな草で、黒い實が澤山生ずる。
〔評〕 しばらく逢はない男に贈つたのである。男との關係が淺いやうに見えるが、百代に和へたとすると、前の無暇《イトマナク》に和したものであらう。
 
賀茂女王歌一首
 
賀茂女王は五五六參照。
 
565 大伴の みつとは言はじ あかねさし 照れる月夜に ただにあへりとも
 
大伴乃《オホトモノ》 見津跡者不云《ミツトハイハジ》 赤根指《アカネサシ》 照有月夜爾《テレルツクヨニ》 直相在登聞《タダニアヘリトモ》
 
(赤根指)照リ渡ツテヰル明ラカナ月夜ニ、カウシテ〔四字傍線〕直接貴方ニ〔三字傍線〕逢ツタトモ、私ガ貴方ヲ〔五字傍線〕(大伴乃)見タトモ人ニ〔二字傍線〕言ヒマスマイ。隱シマスカラ心配ナサルナ〔隱シ〜傍線〕。
 
○大伴乃《オホトモノ》――枕詞。三津は難波で、大伴はあの地方の總稱であつたらしい。卷一には大伴乃高師能濱乃《オホトモノタカシノハマノ》(六六)とある。○見津跡者不云《ミツトハイハジ》――地名の三津に、見つをかけたもの。○赤根指《アカネサシ》――照るとつづいてゐるから、アカネサスをアカネサシとよんでゐる。照るを修飾してゐるが、やはり枕詞として置かう。○直相在登聞《タダニアヘリトモ》――直に逢へりといふこともの意。トモは雖もの意ではない。
(528)〔評〕 前の五五六の歌から推せば、これは難波で、大伴三依に贈られた歌らしい。さうすれば初の二句の意が、廣くなって來る。
 
太宰大監大伴宿禰百代等、贈2驛使《ハユマツカヒニ》1歌二首
 
驛使は驛馬に乘つて急行する使者。ここは稻公と胡麻呂とを指してゐる。
 
566 草枕 旅行く君を うつくしみ たぐひてぞ來し 志珂の濱邊を
 
草枕《クサマクラ》 羈行君乎《タビユクキミヲ》 愛見《ウツクシミ》 副而曾來四《タグヒテゾコシ》 鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕(草枕)旅ニオ出ナサル貴方ヲナツカシク思ヒマシテ、オ見送ノ爲ニ〔六字傍線〕志珂ノ濱邊ヲ貴方ト〔三字傍線〕一緒ニ並ンデ參リマシタ。
 
○愛見《ウツクシミ》――なつかしく思ふ故にの意。他の訓もあるがウツクシミがよい。○鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》――筑前粕屋郡、謂はゆる博多灣の沿岸である。これを海の中道の濱とする説もあるが、左註に夷守とあるによれば、決してさうではない。
〔評〕 別れ難さに白砂青松の汀を、肩を並べて送つて來た人たちの心持が、この歌で代表せられてゐる、温情の漂つた、なごやかな歌である。
 
右一首大監大伴宿禰百代
 
567 周防なる 磐國山を 越えむ日は 手向よくせよ 荒き其の道
 
周防在《スハフナル》 磐國山乎《イハクニヤマヲ》 將超日者《コエムヒハ》 手向好爲與《タムケヨクセヨ》 荒其道《アラキソノミチ》
 
周防ノ國ノ岩國ノ山ヲオ越エナサル日ニハ、山ノ神樣ニ幣ヲ〔七字傍線〕ヨク手向ケナサイマシ。アノ人里離レタヒドイソノ山道ヲ、オ越エナサル時ニハ手向ヲナサイマシ〔オ越〜傍線〕。
 
○周防在磐國山乎《スハフナルイハクニヤマヲ》――周防の岩國の山で、當時その邊は海に迫つた難路であつたのだらう。今は海岸から一里(529)ばかり遠く隔つてゐる。岩國川の土砂が堆積して、この陸地を作つたのである。山中には古昔の通路のあとも殘り、石壘などの尚存するものがあつて、人家のあつたことをしのばしめるものがある。寫眞は岩國中學校の上田純雄氏の寄贈に係る。○荒其道《アラキソノミチ》――アラシとよむ古訓に從ふ説もある。アラキと續く方がよくはないか。
〔評〕 ただ親切な餞の言葉といふだけである。行く行く神を祭つた上代の旅の風俗がしのばれる。
 
右一首少典山口忌寸若麻呂
 
以《サキニ》2※[止/舟]天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽生(ジ)2瘡(ヲ)脚(ニ)1疾2苦(ス)枕席(ニ)1、因(リテ)v此(ニ)馳(セテ)v驛(ヲ)上奏(シ)望(ミ)3請(ヘレ)庶弟|稻公《イナキミ》、姪|胡《コ》麻呂(ニ)欲(スト)v語(ラント)2遺言(ヲ)1者《バ》 勅(シテ)2右兵庫助大伴宿禰稻公、治部少亟大伴宿禰胡麻呂兩人(ニ)1、給(ヒテ)v驛(ヲ)發遣(シ)令(ム)v看2卿(ノ)病(ヲ)1、而(テ)※[しんにょう+至](テ)2數旬(ヲ)1幸(ニ)得(タリ)2平復(スルヲ)1。于v時稻公等以(テ)2病(ノ)既(ニ)療(エタル)1發(シテ)v府(ヲ)上(ル)v京(ニ)、於v是、大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂、及卿(ノ)男家持等、相2送(リテ)驛使(ヲ)1、共(ニ)到(リ)2夷守《ヒナモリノ》驛家(ニ)1聊(カ)飲(ミテ)悲(シミ)v別(ヲ)、乃(チ)作(ル)2此(ノ)歌(ヲ)1、
 
※[止/舟]は肯と同じで、前と通じて用ゐられる。稻公はここに庶弟とあるから旅人の腹違の弟である。續紀によれば、天平十三年十二月に從五位下で因幡守となり、その後兵部大輔・上總守などを歴て、天平寶字二年(530)二月に大和國守從四位下になつたことまで見えてゐる。この頃はまだ右兵庫助の卑官であつて、年齡も旅人よりはよほど若かつたらうと思はれる。なほこの人の歌が下の五八六に見えてゐる。胡麻呂は旅人の姪とのみあつて、父が明らかにしてない。旅人の弟は他に田主と宿奈麻呂とがあるが、この二人の子と思はれるふしがなく、ここの書き方で見ると稻公が父子で來らしく見えるから、恐らく稻公の子であらう。この人は續紀によれば、天平十七年正月に正六位上から從五位下を授かり、その後左少辨・遣唐副使・左大辨・陸奧鎭守府兼將軍・陸奧按察使などになつたが、天平寶宇元年七月、橘奈良麻呂の反に坐して、獄中に死んだ人である。なほ、この人の入唐を餞した歌が卷十九(四二六二)に見えてゐる。療は癒と同意に用ゐられたのであらう。夷守驛は所在が確かでない。延喜式に驛馬をあげて「席打、夷守、美野各十五疋」とある。席打は今の古賀附近で、三野は即ち博多であるから、その中間の多々羅あたりであらうと推定せられる。ここに家持の名が見えるのは注意すべきである。彼は父に伴なはれて、太宰府に來てゐたのであるが、歌を遺してゐないのでも、まだ少年であつたことがわかる。たの人の享年を六十八歳とする、大伴氏系圖の傳に從へば、この年は僅かに十三歳であつたのである。
 
太宰帥大伴卿、被《レ》v任(ゼ)2大納言(ニ)1臨(ミ)2入(ラントスルニ)v京(ニ)之時(ニ)1府官人等、餞(スル)2卿(ヲ)筑前(ノ)國|蘆城《アシキ》驛家(ニ)1歌四首
 
旅人が大納言に任せられたのは卷三の奧書によれば天平二年十月一日である。蘆城驛家は、既に前の五四九の題詞に説明した通りであるが、卷六の九六六の左註に、右太宰帥大伴卿兼2任大納言1向v京上道。此日馬駐2水城1顧望府家1云々とあつて、この蘆城驛家で府の官人らの餞を受けた後、彼は水城を經て歸京の旅に上つたのである。此處で地理を案じて見ると、府から水城の方へ向はむとする者が、何故に寧ろ反對の方角にある芦城驛へ行くかといふことである。この芦城驛は平安朝になつては、夙に廢止せられたものらしく延喜式にも見えてゐないのであるが、京都か(531)ら太宰府へ通ずる幹線道路、即ち大路を式によつて調べて見ると、九州の地に入つては、先づ豐前の社崎に始まり、到津を經て筑前に入り、獨見・夜久・島門・津日・席打・夷守・美野・久爾を過ぎて太宰府に到着するので、還路は固よりこれを逆に行くだけで、府の次は久爾驛、即ち今の席田村であるから芦城の方へ行くわけはないのである。この他、太宰府から南方筑後肥後に赴くには長丘驛があり、豐後方面へは、隈崎・廣瀬・把技等の諸驛があるが、芦城と思しき地はない。唯、注意すべきは豐前方面への捷路に田河道と稱するものがあつて、續紀天平十二年十月、廣嗣の亂を記した條に「降服隼人贈唹君多理志佐申(シテ)云(フ)、逆賊廣嗣謀(リテ)云(フ)、從(リ)2三道1往(カムト)、即廣嗣(ハ)自(ラ)率(テ)2大隅、薩摩、筑前、豐後等國軍合(テ)五千人許(ヲ)1從(リ)2鞍手道1往、綱手率(テ)2筑後、肥前等國軍合(セテ)五千人許(ヲ)1從2豐後國1往(キ)、多胡麻呂不v知2所(ノ)v率軍數(ヲ)1從(リ)2田河道〔三字右○〕1一往(ムト)」と見えてゐる。これは乃ち太宰府から東、米の山を越えて網分驛を經て田河・米多に通ずるもので、式にその名が見えてゐる。芦城は或はこの道の小驛であつたのであらうか。この地は芦城川・芦城山等の好景を控へてゐた爲、官人等遊宴の地として喜ばれ、都へ還らうとする者は此處で馬の餞を受けて旅立ち、更に大路に戻つて水城方面へ向つたものであらうか。さうでも考へるより他に判斷がつかないのである。なほ後の考究に俟ちたいと思ふ。
 
568 み埼みの 荒磯に寄する 五百重浪 立ちてもゐても 我が念へる
 
三埼廻之《ミサキミノ》 荒礒爾縁《アリソニヨスル》 五百重浪《イホヘナミ》 立毛居毛《タチテモヰテモ》 我念流吉美《ワガモヘルキミ》
 
(532)(三埼廻之荒磯爾縁五百重浪)立ツテモ座ツテモ始終私〔四字傍線〕ガ思ツテヰル貴方ヨ。オ別レ申スノハ、ツラウゴザイマス〔オ別〜傍線〕。
 
○三埼廻之《ミサキミノ》――三は美稱。この句は岬の回りのことで、地名ではない。○五百重浪《イホヘナミ》――幾重にも頻りに立つ浪で、この句までは、立つといふ爲の序詞である。
〔評〕 この下句に似た歌が卷十の二二九四、卷十一の二四五三などにもある。それに添へる序詞だけを、新しく工夫したといふに過ぎない。しかも海に遠い芦城驛では、あまり興味を惹かない序詞の用法である。
 
右一首筑前掾門部連|右足《イソタリ》
 
門部運石足の傳は明らかでない。
 
569 韓人の 衣染むといふ 紫の 心にしみて 念ほゆるかも
 
辛人之《カラヒトノ》 衣染云《コロモソムトイフ》 紫之《ムラサキノ》 惰爾染而《ココロニシミテ》 所念鴨《オモホユルカモ》
 
私ハ貴方トオ別レ申スコトハ〔私ハ〜傍線〕、(辛人之衣染云紫之)心ニ深ク染ミ込ンデ悲シク思ヒ〔八字傍線〕マスワイ。
 
○辛人之衣染云紫之《カヲヒトノコロモソムトイフムラサキノ》――韓人が衣を染めるといふ紫色の意で、下の染而《シミテ》に續く序詞である。辛人は、淑《ヨキ》人・宇萬《ウマ》人・宮《ミヤ》人などの誤とする説があるが、辛は辛埼、辛衣、辛藍などと多く用ゐられてゐる文字で、誤とは思はれない。衣染云《コロモソムトイフ》も遙かに傳へ聞く趣である。
〔評〕 序詞が新奇なさうして高雅な感を與へる歌である。懷風藻の作者だけに、異國情調があらはれてゐる。
 
570 大和へ 君が五つ日の 近づけば 野に立つ鹿も とよみてぞ鳴く
 
山跡邊《ヤマトヘ》 君之立日乃《キミガタツヒノ》 近付者《チカヅケバ》 野立鹿毛《ヌニタツシカモ》 動而曾鳴《トヨミテゾナク》
 
大和ノ方ヘ、貴方ガ御出立ナサル日ガ近ヅクト、人ハ勿論ノコト〔七字傍線〕野ニ立ツ鹿マデモ、貴方トノ別レヲ悲シンデ〔貴方〜傍線〕聲ヲ響カセテ鳴キマスヨ。
 
○山跡邊《ヤマトヘ》――ヤマトヘト又はヤマトヘニの訓もあるが、四音によむ方がよい。○野立鹿毛《ヌニタツシカモ》――鹿をシカとよま(533)せるのは、殆ど類例がない。萬葉問答や、※[手偏+君]解にヌニタテルカモとよんだのがよいかも知れない。
〔評〕 平明な、情愛の籠つた作。野の鹿の聲を點出したのが、哀深い。
 
右二首大典|麻田連陽春《アサダノムラジヤス》
 
典は太宰府の屬官で、監の下である。大典と少典とに別れてゐた。續紀に「神龜元年五月辛未正八位上答本陽春賜2姓(ヲ)麻田連1」、「天平十一年正月丙午、正六位上麻田連陽春授2外從五位下1」とある。懷風藻には「外從五位下石見守麻田連陽春一首、年五十六」と見えてゐる。
 
571 月夜よし 河音さやけし いざここに 行くも行かぬも 遊びてゆかむ
 
月夜吉《ツクヨヨシ》 河音清之《カハトサヤケシ》 ※[攣の手が十]此間《イザココニ》 行毛不去毛《ユクモユカヌモ》 遊而將歸《アソビテユカム》
 
今夜ハ〔三字傍線〕月ガ良ウゴザイマス、川ノ音モ澄ンダヨイ音ヲ立テテヰマス。サア此處デ、都ヘ〔二字傍線〕行ク人モ後ヘ殘ル人モ、共ニ遊ンデ行カウデハアリマセンカ。
 
○河音清之《カハトサヤケシ》――童蒙抄の訓がよい。清はサヤカとよんだ例が多い。卷八に珠匣葦木乃河乎《タマクシゲアシキノカハヲ》(一五二一)とあるからこの河音は芦城川の音である。
〔評〕 實に明澄な佳調である。一二の句で韻を押んだのも氣持が良い。すがすがしい月夜の感がよく現はれてゐる。
 
右一首防人佑大伴四綱
 
四綱は卷三の三二九に出てゐる。防人佑は防人司の判官。舊本佑を佐に作るは誤。元暦校本による。
 
太宰帥大伴卿、上(リシ)v京(ニ)之後、沙彌滿誓、賜(レル)v卿(ニ)歌二首
 
滿誓は造筑紫觀世音寺別當として、太宰府にゐた。卷三の三三六參照。賜は元暦校本などに贈とあるのがよい。
 
572 眞そ鏡 見飽かぬ君に 後れてや あした夕に さびつつ居らむ
 
(534)眞十鏡《マソカガミ》 見不飽君爾《ミアカヌキミニ》 所贈哉《オクレテヤ》 旦夕爾《アシタユフベニ》 左備乍將居《サビツツヲラム》
 
イクラ見テモ〔六字傍線〕(眞十鏡)見アキノシナイ貴方ニ別レテ、後ニ殘サレテ、私ハカウシテ〔後ニ〜傍線〕朝ニ晩ニ心淋シク暮ラスコトデゴザイマセウカ。ホントニ淋シウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。見とつづく。○所贈哉《オクレテヤ》――贈は遲の意に借り用ゐたのである。題詞にあつた字が紛れたのだといふ説もある。このヤは五句の下に着いてゐるので、かうした語法はいくらもある。○左備乍將居《サビツツヲラム》――淋びしく思ひつつ居らむやの意。
〔評〕 戀ひしき君とか、我が思ふ君とか言はないで、見不飽君爾《ミアカヌキミニ》としたのが、敬慕の情をあらはしてゐる。
 
573 ぬば玉の 黒髪變り しらけても 痛き戀には 遇ふ時ありけり
 
野干玉之《ヌバタマノ》 黒髪變《クロカミカハリ》 白髪手裳《シラケテモ》 痛戀庭《イタキコヒニハ》 相時有來《アフトキアリケリ》
 
戀ハ若イ中トバカり思ツテヰマシタノニ〔戀ハ〜傍線〕(野干玉之)黒髪ガ白髪ニナルヤウナ老年ニナリマシテモ、カヤウナ苦シイ戀ヲスル時ガアルモノデスナア。ホントニ私ハ貴方トオ別レシテ悲シウゴサイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○黒髪變白髪手裳《クロカミカハリシラケテモ》――舊訓の儘がよい。玉の小琴にクロカミシロクカハリテモとしたのは妄である。白髪手《シヲケテ》を動詞によんであるのは少し變であるが、髪は毛と同字に見て、かうよんだのであらう。
〔評〕 旅人との離別を、男女間の戀の悲しみのやうに詠みなしたのが面白い。また滿誓は、俗名は笠朝臣麻呂で、慶雲元年に、正六位下から從五位下を授つてゐる。それからこの天平二年までは二十七年目に當つて、彼もはや老境に入つた頃である。併し黒髪變白髪手裳《クロカミカハリシラケテモ》が、圓顱禿頭の人によつて歌はれたとすると、頗る滑稽を感ぜざるを得ない。この作はかうしたところに面白味を狙つてあるのであらう。この歌の題詞が脱ちたのだらうとするのは、深く考へない説である。但しこれは前の大伴坂上郎女の歌(五六三)と全く同歌であるから、老をあらはすかうした慣用法を踏襲したのに過ぎないかも知れない。
 
(535)大納言大伴卿和(フル)歌二首
 
574 此處に在りて 筑紫やいづく 白雲の 棚引く山の 方にしあるらし
 
此間在而《ココニアリテ》 筑紫也何處《ツクシヤイヅク》 白雲乃《シラクモノ》 棚引山之《タナビクヤマノ》 方西有良思《カタニシアルラシ》
 
コノ都ヘ歸ツテ來テ、筑紫ハドチラノ方デアラウ。彼方ニ白雲ガ棚曳イテヰルガ、アノ〔彼方〜傍線〕白雲ノ棚曳イテヰル山ノ方デモアラウカ。アナタノ居ラレル筑紫ノ方ガナツカシウゴザイマス〔アナ〜傍線〕。
 
〔評〕 なつかしい情緒を、やさしい調子で歌つてある。初の二句で切つて、自問自答の體にしてあるのも、變つた歌品をなしてゐる。但し卷三の石上卿の此間爲而家八方何處白雪乃棚引山乎超而來二家里《ココニシテイヘヤモイヅクシラクモノタナビクヤマヲコエテキニケリ》(二八七)に倣つたことは確かである。
 
575 草香江の 入江にあさる 蘆鶴の あなたづたづし 友なしにして
 
草香江之《クサカエノ》 入江二求食《イリエニアサル》 蘆鶴乃《アシタヅノ》 痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》 友無二指天《トモナシニシテ》
 
私ハ、コチラヘ參リマシテカラ〔私ハ〜傍線〕、友達トイフノガアリマセンカラ、(草香江之入江二求食蘆鶴乃)アア心ガ落チ付キマセン。貴方バカリガナツカシウゴザイマス〔貴方〜傍線〕。
 
○草香江之《クサカエノ》――草香江は河内國中河内郡、生駒山の西麓の日根市村附近、往古はこの邊は一體の沼澤地で、北河内郡の深野池、寢屋川と通じて一面の水であつた。神武天皇の東征の際も浪速から舟行して、草香の蓼津に到り給うたのである。後世地形の變化はあつたが、寶永の頃新大和川の開疏せられるに至つて、始めて今日の如き状態になつたのである。この草香江に鶴が多くゐたから、入江二求食蘆鶴乃《イりエニアサルアシタヅノ》として、序詞を作つたのである。同音を繰り返して下につづくのである。筑前名寄に草香江を福岡の西なる鳥飼村としてゐるのは、八雲御抄などの記述によつて、強ひて求めたもので、從ふべきでない。○痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》――アナは嗚呼と嘆ずる辭。タヅタヅシはタドタドシに同じ。心のおぼつかなく、晴れぬをいふのである。
〔評〕 これも平明な調に哀感を包んで歌はれてゐる。草香江の蘆鶴は、大和人の普く知るところであるから、こ(536)れを取り入れたのであらう。筑紫にゐる人には郷愁が、これによつて更に幾段の深さを増したらうと思はれる。巻十一の天雲爾翼打附而飛鶴乃多頭多頭思鴨君不座者《アマクモニハネウチツケテトブタヅノタヅタヅシカモキミイマサネバ》(二四九○)などに多少の類似は認められるにしても、それは咎めるに及ぶまい。
 
太宰帥大伴卿、上(レル)v京(ニ)之後、筑後守|葛井連大成《フヂヰノムラジオホナリガ》悲(ミ)歎(キテ)作(レル)歌一首
 
大成は續紀に「神龜五年五月丙辰、正六位葛井連大成(ニ)授2外從五位下1」とある。
 
576 今よりは 城の山道は さぶしけむ 吾が通はむと 思ひしものを
 
從今者《イマヨリハ》 城山道者《キノヤマミチハ》 不樂牟《サブシケム》 吾將通常《ワガカヨハムト》 念之物乎《オモヒシモノヲ》
 
私ハ帥殿ノ居ラレル太宰府ヘ城ノ山ヲ通ツテ〔帥殿〜傍線〕、通ハウト思ツテヰタノニ、今ハ帥殿モ御歸京ナサツタカラ〔今ハ〜傍線〕、今カラアノ城ノ山ノ道ヲ通ルノ〔四字傍線〕モツマラナイデアラウ。
 
○城山道者《キノヤマミチハ》――城山は筑前筑紫郡と肥前基肆郡との界の山で、天智天皇の四年に此處に城塞を築かしめられた。今の原田の西方の山で、肥前・筑後の国府から太宰府へ通ずる要路であつたのである。古義に大城山と混同してゐるのは非常な誤である。五六八の地圖参照。○不樂牟《サブシケム》――このサブシは寂寥といふ意ではなく、心面白からず、氣の引き立たぬことをいふ。
〔評〕 帥の歸京を見送つて、間もなくよんだものであらう。今まで筑後から通ふ時、城の山まで來て、遙かに都府樓を望み、帥との會見を心に勸んだこともわかるやうである。
 
大納言大伴卿、新袍(ヲ)贈(レル)2攝津大夫高安王(ニ)1歌一首
 
袍は束帶の表衣で、襴の附いた袷衣。攝津大夫は攝津職の長官。高安王は績紀によれば、和銅六年正月無位から從五位下を授かつた人で、伊豫守・按察使・衛門督などを經て、天平十一年大原眞人の姓を賜はり、同十四年十二月正四位下で卒してゐる。皇胤紹運録に川内王の子とある。
 
577 吾が衣 人にな着せそ 網引する 難波壯士の 手には觸るとも
 
(537)吾衣《ワガコロモ》 人莫著曾《ヒトニナキセソ》 網引爲《アビキスル》 難波壯士乃《ナニハヲトコノ》 手爾者雖觸《テニハフルトモ》
 
私ガ差シ上ゲマスコ〔八字傍線〕ノ着物ヲ他人ニハオ着セナサルナ。タトヘオ氣ニ召サナイデ〔タト〜傍線〕、コレヲ網ヲ引難波ノ男ノ手ニ觸レテ彼ラニ與ヘルニシテ〔彼ラ〜傍線〕モ他ノ人ニ着セナサルナ〔他ノ〜傍線〕。
 
○難波壯士乃《ナニハヲトコノ》――難波の浦に住む海士であらう。高安王のこととする古義説はとらぬ。○手爾者雖觸《テニハフルトモ》――宣長は雖の下に不の字あるものとして、フレズトモとよまうと言ひ、古義はフレレドとよんで、題詞の大納言大伴卿と攝津大夫高安王とが入れ替はつたものとしてゐる。併しこれは、この儘でよいので、この句は難波の海士たちに與へるとしてもの意であらう、袍はそのまま漁夫らの着料とはならないから、手爾者雖觸《テニハフルトモ》としたので、 かう見れば人莫着曾《ヒトニナキセソ》と矛盾することもない。
〔評〕 旅人が太宰府から歸京の途、難波に上陸して、其處の長官に手土産として、新しい袍を贈つた時の作で、謙遜の心を以てよんである。
 
大伴宿禰三依悲v別歌一首
 
三依の傳は五五二參照。
 
578 天地と 共に久しく 住まはむと 思ひてありし 家の庭はも
 
天地與《アメツチト》 共久《トモニヒサシク》 住波牟等《スマハムト》 念而有師《オモヒテアリシ》 家之庭羽裳《イヘノニハハモ》
 
天地ト共ニイツマデモ久シク住マハウト思ツテ居タコノ家ノ庭ヨナア。今コノ家ヲ去ルニ當ツテ私ハ實二別レガ悲シク思ハレル〔今コ〜傍線〕。
〔評〕 太宰府から歸る時の作であらう。假の住居ながら天地與共久《アメツチトトモニヒサシク》と言つた誇張が、その時の感じをあらはしてゐる。卷二に天地與共將終登念乍奉仕之情違奴《アメツチトヲヘムトオモヒツツツカヘマツリシココロタガヒヌ》(一七六)とあつたのと、似たところがある。
 
(538)金明軍與(フル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌二首
 
元暦校本などの古本に、小字で、「明軍者大納言卿之資人也」とある。この人のこと三九四參照。
 
579 見まつりて いまだ時だに 更らねば 年月の如 おもほゆる君
 
奉見而《ミマツリテ》 未時太爾《イマダトキダニ》 不更者《カハラネバ》 如年月《トシツキノゴト》 所念君《オモホユルキミ》
 
貴方ニオ〔四字傍線〕目ニカカツテオ別レ致シマシテ〔八字傍線〕カラ未ダ時モ經チマセンノニ、年月ガ經ツタヤウニ私ハ思ヒマス。
 
○末時太爾《イマダトキダニ》――時は年月に對したので、暫くの間をいつたのである。四季と見る説もあるが、それでは年月に對し難い。○不更者《カハラネバ》――更らざるにの意。
〔評〕 主人旅人の長男たる家持に敬意を表はしたものである。所念君《オモホユルキミ》と呼びかけた言葉に、篤實な忠僕のやうな心持があらはれてゐる。
 
580 足引の 山に生ひたる 菅の根の ねもごろ見まく ほしき君かも
 
足引乃《アシビキノ》 山爾生有《ヤマニオヒタル》 菅根乃《スガノネノ》 懃見卷《ネモゴロミマク》 欲君可聞《ホシキキミカモ》
 
(足引乃山爾生有菅根乃)懇ロニツクヅクト貴方ニオ目ニカカリタウ存ジマスヨ。
 
○足引乃山爾生有菅根乃《アシビキノヤマニオヒタルスガノネノ》――序詞。ネの音を繰り返して下につづくだけである。○懃見卷《ネモゴロミマク》――ネモゴロはネンゴロに同じく、心から深く切になどの意。
〔評〕 菅の根のねもごろといふやうな叙法は、この頃の慣用と見えて、類例は多いが、これはあつさりと素直に出來てゐる。これにも前の歌と同樣の氣分が見える。
 
大伴坂上家之大娘、報(ヘ)2贈(レル)大伴宿禰家持(ニ)1歌四首
 
坂上家之大娘、坂上の家にゐた第一の孃の意。田村大孃の妹で坂上二孃の姉である。母は坂上郎女、父は大伴宿奈麻呂。古義にはこの歌の前に家持から贈つた歌があつたのが、脱ちたのだら(539)うといつてゐる。
 
581 生きてあらば 見まくも知らに 何しかも 死なむよ妹と 夢に見えつる
 
生而有者《イキテアラバ》 見卷毛不知《ミマクモシラニ》 何如毛《ナニシカモ》 將死與妹常《シナムヨイモト》 夢所見鶴《イメニミエツル》
 
生キテ居サヘスレバ又逢フコトガアルカモ知レナイノニ、貴方ガコノ世デハ逢ヘナイカラ〔貴方〜傍線〕、死ンデシマハウヨ我ガ妻ト仰ルノヲ、ドウシテ我ハ夢ニ見タノデセウ。氣長ニ待ツテ居リマセウ〔氣長〜傍線〕。
〔評〕 語は平易であるが、續き方が少しく曖昧なので、解釋が種々に分れてゐるのは遺憾である。ここでは代匠記の説によつて置く。若い人の戀らしい詞だし。
 
582 ますらをも かく戀ひけるを 手弱女の 戀ふる心に たぐへらめやも
 
丈夫毛《マスラヲモ》 如此戀家流乎《カクコヒケルヲ》 幼婦之《タワヤメノ》 戀情爾《コフルココロニ》 比有目八方《タグヘラメヤモ》
 
貴方ハ大層戀ヲシテイラツシヤルサウデスガ〔貴方〜傍線〕、男デスラモソンナニ戀ヲナサルガ、併シ〔二字傍線〕女ガ戀ヲスル熱烈ナ〔三字傍線〕心ニハ比ベモノニハナリマセンヨ。
〔評〕 女の戀の眞劍さは、男の戀の及ぶところでない。をの誇を誇らしげに述べてゐる。蓋し多くの女性が男性に向つて言ひたいと思ふところであらう。
 
583 月草の うつろひやすく 思へかも 我が思ふ人の 事も告げ來ぬ
 
月草之《ツキクサノ》 徙安久《ウツロヒヤスク》 念可母《オモヘカモ》 我念人之《ワガモフヒトノ》 事毛告不來《コトモツゲコヌ》
 
月草ノ花染ノ色ノ〔六字傍線〕ヤウナ變リ易イ心デ私ヲ〔二字傍線〕思ツテイラツシヤルモノト見エテ、コノ頃ハ私ヲオ見捨テナサツタノカ〔コノ〜傍線〕、私ノ戀人ノ貴方〔三字傍線〕ハ何ノ御音信モナサリマセヌ。恨メシウ存ジマス〔八字傍線〕。
 
(540)○月草之《ツキクサノ》――月草は鴨頭草とも書いてある。つゆ草といふも同じで、路傍などに自生する二尺許の草で、夏日藍色の花を開く。古はこれを染料とした。謂はゆる縹色・花色である。變色し易きを以て從安久《ウツロヒヤスク》の譬にしたのである。○事毛告不來《コトモツゲコヌ》――事は言の借字。何の消息もない意。
〔評〕 月草を變り易い譬にするのは他にも例はある。男の薄情を憤つて語氣が荒々しい歌である。
 
584 春日山 朝立つ雲の ゐぬ日無く 見まくのほしき 君にもあるかも
 
春日山《カスガヤマ》 朝立雲之《アサタツクモノ》 不居日無《ヰヌヒナク》 見卷之欲寸《ミマクノホシキ》 君毛有鴨《キミニモアルカモ》
 
春日ノ山ニ毎朝立ツ雲ガカカツテ〔四字傍線〕居ナイ日ガ無イヤウニ、毎日、毎日、私ガ〔六字傍線〕オ目ニカカリタイト思フ貴方デゴザイマスナア。オナツカシウ存ジマス〔オナ〜傍線〕。
〔評〕毎朝目睹する景を捉へて譬喩として、男の慕はしさをあらはしてゐる。明るい、はつきりした作。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
585 出でていなむ 時しはあらむを ことさらに 妻戀しつつ 立ちて去ぬべしや
 
出而將去《イデテイナム》 時之波將有乎《トキシハアラムヲ》 故《コトサラニ》 妻戀爲乍《ツマゴヒシツツ》 立而可去哉《タチテイヌベシヤ》
 
貴方ハ私ノコトヲ戀シク思ツテ下サルトノコトデスガ〔貴方〜傍線〕、旅ヘオ出ナサルニモ時モアラウノニ、ワザワザ妻ヲ戀ヒシイト思シ召シナガラ、オ出掛ケナサラナイデモヨカラウト存ジマス。何モ御出立ハ今ニ限リマスマイ〔何モ〜傍線〕。
〔評〕 夫の旅に出ようとしてゐる時に、贈つた歌であらう。平明な作であるが、五の句が力強い、突込むやうな表現である。
 
大伴宿禰|稻公《イナギミ》贈2田村大孃1歌一首
 
稻公は前に旅人の處弟とある。續紀によると、天平十三年十二月に從五位下で因幡守、それから、(541)兵部大輔・上總守・大和國守などになつたことが見える。田村大孃は宿奈麻呂の子で、その家が田村の里にあつたので、かうよんでゐる。母の坂上郎女、及び二妹と別居してゐたので見ると、坂上郎女の實子ではないらしい。元暦校本などにこの下に小字で「大伴宿奈麻呂卿之女也」とある。
 
586 相見ずは 戀ひざらましを 妹を見て もとなかくのみ 戀ひば如何にせむ
 
不相見者《アヒミズハ》 不戀有益乎《コヒザラマシヲ》 妹乎見而《イモヲミテ》 本名如此耳《モトナカクノミ》 戀者奈何將爲《コヒバイカニセム》
 
逢ヒサヘシナケレバ戀シイコトモアルマイニ、貴女ニ逢ツテ、コンナニ無暗ニ戀シガツテ、末ハドサナルコトデセウ。
 
○本名如此耳《モトナカクノミ》――モトナは戀者《コヒバ》にかかつてゐる。猥りにと解してよからう。二三〇參照。
〔評〕 「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり」( )に似て、更に強い困惑の情が下句にあらはれてゐる。
 
右一首姉坂上郎女作
 
首は云の誤であらう。
 
笠女郎贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌廿四首
 
587 吾が形見 見つつ偲ばせ あらたまの 年の緒長く 吾もしぬばむ
 
吾形見《ワガカタミ》 見管之努波世《ミツツシヌハセ》 荒珠《アラタマノ》 年之緒長《トシノヲナガク》 吾毛將思《ワレモオモハム》
 
私ガ差シ上ゲマスコノ形見ノ品ヲ御覽ニナツテ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シテ下サイマセ。私モ(荒珠)年ノ永イ間、貴方ヲ〔三字傍線〕オ慕ヒ申シマセウカラ〔二字傍線〕。
〔評〕 何か形見となる品を贈つたのに添へたのであらう。しんみりとした女性らしい戀情が見える。
 
588 白鳥の 飛羽山松の 待ちつつぞ 吾が戀ひわたる 此の月頃を
 
(542)白鳥能《シラトリノ》 飛羽山松之《トナヤママツノ》 待乍曾《マチツツゾ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 此月比乎《コノツキゴロヲ》
 
貴方ノオイデニナルノヲ〔八字傍線〕(白鳥能飛羽山松之)待チナガラ、私ハコノ數月ノ間貴方ヲ〔三字傍線〕オ慕ヒ申シテ居リマス。
 
○白鳥能飛羽山松之《シラトリノトバヤママツノ》――待《マチ》とつづく序詞。白鳥能《シラトリノ》は白鳥が飛ぶ意で、飛羽山につづけた枕詞。飛羽山は何處にあるか不明。この歌では郡近い大和のうちに求むべきであらう。契沖は勝地吐懷編に、龍田の神南備山だらうと言つてゐる。
〔評〕 やさしい感じの歌。微温的ではあるが、優雅な作である。
 
589 衣手を 打ち多武の里に ある吾を 知らずぞ人は 待てど來ずける 
 
衣手乎《コロモデヲ》 打廻乃里爾《ウチタムノサトニ》 有吾乎《アルワレヲ》 不知曾人者《シラズゾヒトハ》 跡待不來家留《マテドコズケル》
 
(衣手乎打)多武ノ里ニ居ル私ヲ、知ラナイデ、貴方ハ私ガ〔二字傍線〕オ待チ申シテヰテモ、オイデ下サイマセンデシタネ。
 
○衣手乎打廻乃里爾《コロモデヲウツタムノサトニ》――衣手乎《コロモデヲ》は枕詞と考へられてゐるが、續き方が明らかでない。ここでは衣手を打つと、つづけたものと見る外はない。打廻乃里《ウチタムノサト》は分らない。元來この句は舊訓ウチワノサトとあるが、意義が明らかでないので、玉の小琴に打を折の誤とし、乃を衍としてヲリタムサトと訓み、道を折れまはれば至る里で、極めて近い里としてゐる。併しそれは牽強の説としか思はれない。卷十一にも神名火打廻前乃《カムナビノウチタムサキノ》(二七一五)とあるから、打を誤字とするは早計である。略解には「飛鳥川の行めぐれる神南備山の麓に打廻といふ所有りしならむ。卷三に、神なびの淵とも詠めれば、石淵は即そこなるべし。されば其の邊を打廻の前と言ふかと翁は言はれき」とあるが、これは舊訓のウチワに從つたので、地名説も單なる想像に過ぎない。尚、卷八に明日香河逝回岳之秋芽子者《アスカガハユキタムヲカノアキハギハ》(一五五七)とある逝回岳に就いて諸説がある。宣長はこれをユキタムヲカとして地名ではないとしてゐるが、辰巳利文氏は、大和萬葉地理研究に「ゆきたむ岡は高市村岡から、飛鳥村飛鳥に出る縣道の東方の丘陵(543)であります。私はその地形から見て、飛鳥京當時の貴人たちの遊宴地となつた所ではないかと考へてをります」と書いて居られる。これは何か根據のあることであらうが、委しい説明が載せられてゐないから分らない。然るに、予が前掲の類例から歸納し、又實地を踏査したところによると、神名火打廻前《カムナビノウチタムサキ》も明日香河逝廻岳《アスカガハウチタムヲカ》も共に飛鳥川に沿うた岡(恐らく雷岳)を指してゐるらしく、ここの打廻乃里《ウチタムノサト》とは別である。この打はタムの上に冠したまでの語で、ウチタムといふ地名ではない。地名は多武《タム》即ち今の多武峯村附近らしく思はれる。さうすれば衣手乎打は、多武の里につづいた序に過ぎないことになり、意味は分明する。衣は打つものであるから、衣手乎打とつづけ、タムはやはり廻り撓む意で、上に強辭としての打を添へたのであらう。新訓に「衣手を打ち多武の里に」と記してあるのは、理由は知り難いが、予は上述の意を以て、これに賛成するものである。
○待跡不來家留《マテドコズケル》――待てど來ざりけるの意で、コズケルは萬葉式の古い語法である。
〔評〕第四句の人は家持を指してゐる。家持の來なかつたのを怨んだ歌と見えるが、別段優れたものとは思はれない。
 
590 あらたまの 年の經ぬれば 今しはと ゆめよ吾がせこ 吾が名のらすな
 
荒玉《アラタマノ》 年之經去者《トシノヘヌレバ》 今師波登《イマシハト》 勤與吾背子《ユメヨワガセコ》 吾名告爲莫《ワガナノラスナ》
 
(荒玉)年ガ久シク經ツト、今コソ大丈夫〔三字傍線〕ト思ツテ油斷シテ〔七字傍線〕、決シテ決シテ私ノ夫ヨ、私ノ名ヲ人ニ〔二字傍線〕洩ラシナサイマスナヨ。御用心、御用心〔六字傍線〕。
 
○年之經去者《トシノヘヌレバ》――舊訓ヘユケバとあるが、考にヘヌレバとあるのがよい。○今師波登《イマシハト》――シは強辭。
〔評〕世を憚る女の戀の不安が、いたいたしくよまれてゐる。
 
591 吾が思ひを 人に知らせや 玉匣 開き明けつと 夢にし見ゆる
 
吾念乎《ワガオモヒヲ》 人爾令知哉《ヒトニシラセヤ》 玉匣《タマクシゲ》 開阿氣津跡《ヒラキアケツト》 夢西所見《イメニシミユル》
 
私ガ貴方ヲ思ツテヰル〔八字傍線〕ヲ心ヲ、貴方ハ〔三字傍線〕人ニ知ラセナサツタカラカ、私ハ〔二字傍線〕櫛笥ヲ開ケト夢ニ見マシタ。決シテ人ニ洩ラシテハ下サイマスナ〔決シ〜傍線〕。
 
(544)○人爾令知哉《ヒトニシラセヤ》――シラセヤはシラセバニヤに同じで、知らしむればにやの意であらう。この句、新考にヒトニシラスレヤとよんだのはどうでからう。○夢四所見《イメニシミユル》――略解にミエツとよんだのは、上の開阿氣津《ヒラキアケツ》と文法上の時を揃へたのであらうが、所見の二字はミユルとよむのが妥當である。
〔評〕 契沖が「箱をあくると夢に見れば、思を人に知らするといひならはしける古語ありけるなるべし」と言つてから、大抵その説に從つてゐる。單なる作者獨自の夢占とも見られぬことはないが、かういふ言ひならはしがあつたといふことも、必ずしも否定出來ないから、先づこれに從つて置かう。ともかく、吾名告爲莫《ワガナノラスナ》と言つたものの、なほ堪へかねて、不安な心中を訴へたのである。
 
592 闇の夜の 鳴くなる鶴の よそのみに 聞きつつかあらむ 逢ふとはなしに
 
闇夜爾《ヤミノヨニ》 嶋奈流鶴之《ナクナルタヅノ》 外耳《ヨソノミニ》 聞乍可將有《キキツツカアラム》 相跡羽奈之爾《アフトハナシニ》
 
暗イ夜ニ嶋ク鶴ノ聲ガ、他所ニ聞エルバカリデ姿ガ目ニ見エナイ〔聲ガ〜傍線〕ヤウニ、私ハ貴方ニ〔五字傍線〕逢ヘナイデ、他所ニバカリ貴方ノコトヲ〔六字傍線〕聞イテ過ゴスノデハアリマスマイカ。氣ガカリデス〔六字傍線〕。
 
○闇夜爾《ヤミヨニ》――舊訓クラキヨニとあるが、常間爾《トコヤミニ》(一九九)・闇夜者《ヤミノヨハ》(一三七四)などヤミとよんだ例が多い。○嶋奈流鶴之《ナクナルタヅノ》――この句までは譬喩で、暗夜に鳴く鶴が、よそながら聲を聞くのみで、姿が見えぬに譬へたのである。序詞とする説は、蓋し當らない。
〔評〕 暗夜の鶴唳の譬喩が珍らしく、且しつくりと當て嵌つてゐる。
 
593 君に戀ひ いたも術なみ なら山の 小松が下に 立ち嘆くかも
 
君爾戀《キミニコヒ》 痛毛爲便無見《イタモスベナミ》 楢山之《ナラヤマノ》 小松下爾《コマツガモトニ》 立嘆鴨《タチナゲクカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕貴方ヲ戀シク思ヒマシテ、ホントニ何トモ仕樣ガナイノデ、奈良山ノ小松ノ下ニ立ツテ嘆息シマスヨ。
 
○痛毛爲便無見《イタモスベナミ》――イタモはイタクモで、甚だしくの意。○楢山之《ナラヤマノ》――奈良の都の北なる那羅山である。楢は蓋し借字であるが、ナラといふ地名は、楢の木が多かつたのに因つたものだらうと思はれる。私見は奈良文化第(545)四號「寧樂雜考」に載せて置いた。○立嘆鴨《タチナゲクカモ》――鴨の字、鶴となつてゐる本もある。考・略解・新考などこれによつてタチナゲキツルとよんでゐる。鶴でも聞えぬことはないが、鴨の本が多く、意も廣い。ツルでは過去の或時に狹く限られて、繼續的に聞えない。又係辭の無いのも物足りない。
〔評〕 卷十一に平山子松末有廉叙波《ナラヤマノコマツガウレノウレムゾハ》(二四八七)とあつて、奈良山には松が多かつたのであらう。老松でないものはすべて子松といつたらしいが、この山松の間に立つて、佐保の里あたりにゐた家持の家を見下ろして詠んだ趣である。胸奧から湧き出た哀怨の嘆聲が、人に迫るやうである。
 
594 吾がやどの 夕陰草の 白露の 消ぬがにもとな おもほゆるかも
 
吾屋戸之《ワガヤドノ》 暮陰草乃《ユフカゲグサノ》 白露之《シラツユノ》 消蟹本名《ケヌガニモトナ》 所念鴨《オモホユルカモ》
 
私ノ家ノ夕方ノ日陰ノ所ニ生エテヰル草ノ上ニ、宿ツタ白露ノ消エルヤウニ、私モ〔二字傍線〕消エ入リサウニ、無暗ニ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ヒマスヨ。
 
○暮陰草乃《ユフカゲグサノ》――暮陰草は暮陰の草とも、暮のかげ草とも考へられるが、恐らく前者であらう。暮陰は夕日が傾いて蔭をなしたところを云ふ場合と、夕日・夕照をさす場合とがある。ここは薄暗くなつた夕暗のうちにある草であらう。○消蟹本名《ケヌガニモトナ》――ガニは動詞・助動詞につづいて副詞化する助詞で、ガとニとの合成語である。その意は、程に、ばかりに、が爲にといふやうなものらしい。尚これに似たものにガネがあり、從來ガニと同語とせられてゐたが、古義にその別を論じ、ガニは、ばかりにの意、ガネは、が爲にの意としてゐる。山田孝雄氏は奈良朝文法史に、ガニはガにて結體せしめ、これをニにて目的とせるもので、即ちが爲にの意とし、ガネはガにてこれを指定し、ネにて冀望をあらはすとしてゐる。これは尚研究を要する問題である。本名《モトナ》は、わけもなく、みだりになどの意。二三〇參照。
〔評〕 上の句の譬喩が如何にも物哀れで、身も心も消え入りさうである。略解や新考に上句を序と見てゐるが、この女郎が家持を戀うて、庭前の夕暗の中に、草の葉末の白露を眺めてよんだもので、白露は消ゆと言はんが爲にのみ用ゐられてゐるものとは思はれないから、單なる序とは見られない。
 
595 わが命の 全けむかぎり 忘れめや いや日にけには おもひ益すとも
 
(546)吾命之《ワガイノチノ》 將全幸限《マタケムカギリ》 忘目八《ワスレメヤ》 彌日異者《イヤヒニケニハ》 念益十方《オモヒマストモ》
 
私ノ命ガ全イウチハ貴方ヲ〔三字傍線〕忘レマセウヤ決シテ忘レマセヌ。毎日毎日マスマス思ヒガ増スコトハアツテモ忘レルコトハアリマセヌ〔忘レ〜傍線〕。
 
○將全幸限《マタケムカギリ》――全幸といふ熟字はおかしいやうに思はれる。元暦校本に幸を牟に作つてゐるに從ふべきであらう。マタケムは全からむに同じ。
〔評〕 念益十方《オモヒマストモ》が上句にしつくり合はぬやうでもあるが、これは古い用法であらう。思ひが増せばとて忘れはせぬといふのである、卷十二に不相而戀度等母忘哉彌日異者思益等母《アハズシテコヒワタルトモワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》(二八八二)とある歌の上句を少し改めたものに過ぎない。
 
596 八百日行く 濱のまなごも 吾が戀に あに益らじか 奧つ島守
 
八百日往《ヤホカユク》 濱之沙毛《ハマノマナゴモ》 吾戀二《ワガコヒニ》 豈不益歟《アニマサラジカ》 奧島守《オキツシマモリ》
 
八百日モカカツテ通ルヤウナ廣イ〔二字傍線〕濱ノ砂ノ數デモ、私ノ戀シイ思ヒノ數〔六字傍線〕ニ比較シタナラバ〔七字傍線〕恐ラク勝リハスマイナア。沖ノ島ノ番人ヨ。ドウダ、汝ハ何ト思フカ〔十字傍線〕。
 
○八百日往濱之沙毛《ヤホカユクハマノマナゴモ》――八百日往濱は八百日を費して行く濱の意で、廣い濱を言つたのである。沙の字舊訓マサゴとあるが、卷七の紫之名高浦之愛子地《ムラサキノナタカノウラノマナゴヂ》(一三九二)・豐國之聞之濱邊之愛子地《トヨクニノキクノハマベノマナゴチ》(一三九三)、卷十四の相模治乃余呂伎能波麻乃麻奈胡奈須《サガミヂノヨロギノハマノマナゴナス》(三三七二)などによると、マナゴと訓むべきである。○豈不益歟《アニマサラジカ》――豈は普通は、何ぞといふうやな意に用ゐられるのだが、此處のはそれと少しく異なつてゐる。恐らく、多分などの意であらう。不益歟《マサラジカ》は増るまいかの意。
〔評〕 八百日往濱は珍らしい面白い熟語で、濱の眞砂を戀の繁きに譬へる後世の歌は、これに傚つたものらしい。豈不益歟《アニマサラジカ》の語法も、奧島守と呼びかけたのも、總べてが新味に滿ちてゐる。八百日往く廣漠たる濱邊に立つ(547)て、沖の島を眺めつつ、思ひ餘つて島守に問ひかけたやうに詠んであるのも巧である。さうした實境に臨んだ作でもあるまいし、もとより沖の島に島守が實際にゐたのでもない。要は八百行く濱の眞砂に戀を譬へたところに主眼があるのである。
 
597 うつせみの 人目をしげみ 石ばしの 間近き君に 戀ひわたるかも
 
宇都蝉之《ウツセミノ》 人目乎繁見《ヒトメヲシゲミ》 石走《イハバシノ》 間近君爾《マヂカキキミニ》 戀度可聞《コヒワタルカモ》
 
(宇都蝉之)人ノ目ニ觸レルコトガ多イノデ、(石走)スグ近所ニヰル貴方ニ逢ヘナイデ、私ハ〔七字傍線〕戀シクバカリ思ツテ居リマスワイ、
 
○宇都蝉之――枕詞。現身の意で、人とつづく。○石走《イハバシノ》――枕詞。イハバシは石を河中に並べて渡るやうにしたもの。間あるものなれば間とつづく。この句をイハハシルとよむ説は下のつづきが穩やかでない。
〔評〕 他の作に比して、これは微温的で、平板である。
 
598 戀にもぞ 人はしにする 水無瀬河 下ゆ吾痩す 月に日にけに
 
戀爾毛曾《コヒニモゾ》 人者死爲《ヒトハシニスル》 水瀬河《ミナセガハ》 下從吾痩《シタユワレヤス》 月日異《ツキニヒニケニ》
 
戀ノ爲ニハ人ハ死ヌモノデスヨ。(水瀬河)人ニ知ラレヌウチニ何時ノ間ニカ〔六字傍線〕、月毎ニ日毎ニ段々ト私ノ身體ガ痩セテ來マシタ。コレデ見ルト戀ノ爲ニ私ハ死ンデシマフノデセウ〔コレ〜傍線〕。
 
○水瀬河《ミナセガハ》――枕詞。水無瀬川と書いても同じで、ミナシ川の轉であらう。川の名ではない。水無瀬川の水は砂の下を潜り流れるから下從《シタユ》とつづけたのである。○下從吾痩《シタユワレヤス》――人に知られぬ内にいつしか痩せ行く意。○月日異《ツキニヒニケニ》――月に日に日にで、月毎に日毎にの意。
〔評〕 戀故に人は死ぬものだと言つて置いて、下句でその戀死に自分が段々近づきつつあることを訴へてゐる。相手を脅すやうな表現が、面白く力がある。
 
599 朝霧の おほに相見し 人ゆゑに 命死ぬべく 戀ひわたるかも
 
(548)朝霧之《アサギリノ》 欝相見之《オホニアヒミシ》 人故爾《ヒトユヱニ》 命可死《イノチシヌベク》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
(朝霧之)ボンヤリトオ目ニカカツタ人ダノニ、私ハ〔二字傍線〕命モナクナリサウニ戀シク思ヒツヅケテヰマスワイ。ロクニオ目ニカカラナイ貴方ガ、コンナニ戀シイトハ自分ナガラ不思議ナ位デゴザイマス〔ロク〜傍線〕。
 
○朝霧之《アサギリノ》――枕詞。欝《オホ》とつづく。○人故爾《ヒトユヱニ》――人だのにの意。
〔評〕 未だ逢ひ初めた頃の歌と見える。命可死《イノチシヌベク》は戀する人の常套語であらうが、必ずしも口先だけの誇張ではあるまい。
 
600 伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波 かしこき人に 戀ひわたるかも
 
伊勢海之《イセノウミノ》 礒毛動爾《イソモトドロニ》 因流浪《ヨスルナミ》 恐人爾《カシコキヒトニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
(伊勢海之磯毛動爾因流浪)畏イ身分ノ高イ〔五字傍線〕貴方ヲ私〔傍線〕ハ戀ヒシク思ヒツヅケテ居リマスワイ。
 
○伊勢海之磯毛動爾囚流浪《イセノウミノイソモトドロニヨスルナミ》――恐《カシコキ》と言はん爲の序詞である。磯を搖つて打ち寄せる波の、恐ろしげなのに寄せたものである。○恐人爾《カシコキヒトニ》――カシコキ人は身分高き人の意。カシコクヒトニとよむ説もあるが、恐海爾《カシコキウミニ》(一〇〇三)・恐山常《カシコキヤマト》(一三三一)・恐道曾《カシコキミチゾ》(二五一一)などによつても、亦歌調の上からもカシコキヒトといふべき所である。玉の小琴に、この時家持はさのみ貴人にあらずとあるが、これは自から卑下の語であるから、相手の地位は左程高貴でなくともよいし、家持は立派な家柄であるから、もとより恐き人である。
〔評〕 張りつめた調子の歌だ。姿は雄々しく、心はあはれである。佳作。
 
601 心ゆも 吾は念はざりき 山河も 隔たらなくに 斯く戀ひむとは
 
從惰毛《ココロユモ》 吾者不念寸《アハモハザリキ》 山河毛《ヤマカハモ》 隔莫國《ヘダタラナクニ》 如是戀常羽《カクコヒムトハ》
 
貴方ト私ノ家トハ〔八字傍線〕、山ヤ河ヲ距テタトイフ程ノ所デモナイ、ホンノ近所デス〔七字傍線〕ノニ、コンナニ私ガ貴方ヲ〔五字傍線〕戀シク思ハウトハ、私ノ〔二字傍線〕心デモ思ヒガケナイコトデアリマシタ。
 
(549)○從情毛《ココロユモ》――心でもに同じ。モは歎辭として添へたもの。
〔評〕 前に間近君爾戀度可聞《マヂカキキミニコヒワタルカモ》とあつたのと同意で、下の六〇九と初の二句を同じうしてゐる。近い所にありながら、逢はれぬ悲しさを嘆いたのである。
 
602 夕されば ものもひ益る 見し人の 言問ふすがた 面影にして
 
暮去者《ユフサレバ》 物念益《モノモヒマサル》 見之人乃《ミシヒトノ》 言問爲形《コトトフスガタ》 面景爲而《オモカゲニシテ》
 
曾テオ逢ヒ申シタ貴方ガ、物ヲ仰ル樣子ガ目ノ前ニ見エマシテ、オ目ニカカツタ時節ダカラカ〔オ目〜傍線〕夕方ニナルト、晝ヨリモ〔四字傍線〕物思ヒガ増サツテ參リマス。
 
○言問爲形 《コトトフスガタ》――舊訓コトトヒシサマ、考はコトトハスサマとよんでゐるが、形の字はカタ又はスガタとよまれて、サマの訓が他に見當らないから、これは契沖に從つて爲形《スガタ》とよむべきである。言問《コトトフ》は物を言ふこと、即ち話すること。○面景爲而《オモカゲニシテ》――面影に見えてに同じ。
〔評〕 可憐な女性的な作である。特に言問爲形《コトトフスガタ》といつたのが、二人の戀のささやきも偲ばれて痛々しい。
 
603 おもふにし 死にするものに あらませば 千度ぞ吾は 死にかへらまし
 
念西《オモフニシ》 死爲物爾《シニスルモノニ》 有麻世波《アラマセバ》 千遍曾吾者《チタビゾワレハ》 死變益《シニカヘラマシ》
 
モシモ戀シイ人ヲ〔八字傍線〕思フノデ、死ヌモノデアツタナラバ、私ノヤウニ貴方ヲ戀シク思ツテヰルモノハ〔私ノ〜傍線〕、千遍モ死ンデハ死ニ死ンデハ死ニスルデアリマセウ。
 
○念西《オモフニシ》――思ふ爲にの意。シは強めて添へたるのみ。○死變益《シニカヘラマシ》――シニカヘルは幾度も幾度も繰返し死ぬこと。變は反の借字である。
〔評〕 熱情の歌。自分の戀の強烈さが、下句に強く言ひあらはされてゐる。死變益《シニカヘヲマシ》は奇拔な思ひ切つた言葉で、戀の悶絶を表示し得て餘がある。
 
604 釼太刀 身に取り副ふと 夢に見つ 何のさとしぞも 君に逢はむ爲
 
(550)釼太刀《ツルギタチ》 身爾取副常《ミニトリソフト》 夢見津《ユメニミツ》 何如之怪曾毛《ナニノサトシゾモ》 君爾相爲《キミニアハムタメ》
 
釼ノ太刀ヲ私ノ身〔三字傍線〕ニ取リツケルト私ハ夢二見マシタ。コレハ〔三字傍線〕何ノ前兆デセウカ。貴方ニオ目ニカカル前兆デス。
 
釼太刀《ツルギタチ》――釼の太刀、即ち兩匁の太刀である。○何如之怪曾毛《ナニノサトシゾモ》――怪の字は舊訓サトシとあるのを、考はサガ、攷證はシルシとした。この字は集中、他に比較すべき用例無く、書紀には神功紀仁徳紀に怪の字をシルマシと訓ませてあるから、これに從ひたいのであるが、それではあまり破調になるから、暫く舊訓によつてサトシとして置かう。
〔評〕 上句で夢見の内容を述べ、第四句が自問で第五句が自答である。この句の並べ方がおもしろい。劍太刀を身に着けると夢に見るのは、戀人に遭ふ前兆といふ言ひならはしがあつたものと言はれてゐるが、下句を見ると、夢占の歌のやうに思はれる。
 
605 天地の 神しことわり なくばこそ 吾が念ふ君に 逢はず死にせめ
 
天地之《アメツチノ》 神理《カミシコトワリ》 無者社《ナクバコソ》 吾念君爾《ワガモフキミニ》 不相死爲目《アハズシニセメ》
 
私ハ貴方ニ逢ヒタサニ、天地ノ神樣ニオ祈リシテヰマスガ、モシ〔私ハ〜傍線〕天ノ神ヤ地ノ神ガ、道理ヲ辨ヘナサラナイモノナラバ、私ハ私ノ〔四字傍線〕思フ貴方ニ逢ハナイデ、焦レ〔二字傍線〕死ニヲスルデアリマセウ。併シ神樣ニ道理ノナイ筈ハアリマセンカラ、必ズ逢ヘルモノト信ジマス〔併シ〜傍線〕。
 
○天地之神理《アメツチノカミシコトワリ――天地之神は天神地祇、即ち天つ神、國つ神である。コトワリは道理。シを補つてよむべき所である。
〔評〕 實に非痛な戀の歎聲である。猥りに神佛を口にする後代人と違つて、神に對して極度の敬虔さを持つてゐた萬葉人の言葉としては、餘程思ひつめた果ての叫びであらう。但しこれは卷十五に中臣朝臣宅守の、安米都知能可未奈伎毛能熊爾安良婆許曾安我毛布伊母爾安波受思仁世米《アメツチノカミナキモノニアラバコソアガモフイモニアハズシニセメ》(三七四〇)とあるのと酷似してゐる。宅守は、狹野茅上娘子を聘し、勅によつて越前に配流せられた人で、右の歌は目録に配所に至つて作つたとあるが、その(551)年月は不明である。續紀によれば、天平十二年六月十五日に大赦があつたが「中臣宅守等不v在2赦限1」とあるから、その時は大赦の恩恵に浴しなかつたので、恐らく刑を受けて間も無かつたものかと思はれる。天平十二年は家持が内舍人になつた年で、その前年に亡妾を傷んだり、坂上大娘を娶つたりしてゐるやうだから、この歌も大よそその頃笠女郎から贈られたものか。して見ると、愈々卷十五の作との前後が辨じ難い。或はこの二つは、一が他を學んだのではなく、別にこれに似た古歌があつたのを、共に粉本としたものかも知れない。
 
606 吾も念ふ 人もな忘れ おほなわに 浦吹く風の 止む時なかれ
 
吾毛念《ワレモオモフ》 人毛莫忘《ヒトモナワスレ》 多奈和丹《オホナワニ》 浦吹風之《ウラフクカゼノ》 止時無有《ヤムトキナカレ》
 
私モ貴方ヲ〔三字傍線〕思ヒマス。デスカラ〔四字傍線〕貴方モ私ヲ〔二字傍線〕オ忘レナサイマスナ。オホナワノ浦ヲ吹ク風ガ止マナイヤウニ、止マズニ私ヲ〔二字傍線〕思ツテ下サイ。
 
○多奈和丹《オホナワニ》――この句は解し難い。玉の小琴は旦爾氣丹の誤としてアサニケニとよんでゐるが、猥りに文字を改むべきでない。攷證は丹を乃としてオホナワノとよみ、契沖は大繩といふ地名としてゐる。古義には「此の歌六帖には君もおもへ我も忘れじありそ海の浦吹く風の止む時もなく、(後撰集には吾も思ふ人も忘るな有磯海の云々とあり)とあるを思へば、もと有曾海乃《アリソウミノ》などありしを、よりよりに寫し誤れるにや」とある。地名説も一顧の價値はあるが、どうも副詞らしく思はれる。併しここは假に攷證に從つて置かう。○止時無有《ヤムトキナカレ》――玉の小琴に有を爾の誤として、ナシニかと言つたのは從はれない。
〔評〕 前の歌の強いのに比して、著しく穩やかであるが、その内に相手に着き纏ふ執拗さが見えてゐる。
 
607 皆人を 寢よとの鐘は 打つなれど 君をし念へば 寢ねがてぬかも
 
皆人乎《ミナヒトヲ》 宿與殿金者《ネヨトノカネハ》 打禮杼《ウツナレド》 君乎之念者《キミヲシモヘバ》 寢不勝鴨《イネガテヌカモ》
 
皆ノ人ニ寢ヨト知ラセル亥ノ時〔七字傍線〕ノ鐘ガ打ツケレドモ、私ハ〔二字傍線〕貴方ヲ思ヒマスト眠ルコトハ出來マヤヌヨ。
 
○宿與殿金者《ネヨトノカネハ》――寢よと告げる鐘。天武天皇紀に人定《ヰノトキ》とあつて、亥の時は人の寢しづまる時であるから、かう(552)書くのである。亥の時は今の午後十時。○打禮杼《ウツナレド》――古葉略類聚鈔に打の下、奈の字があるのによるべきである。○寢不勝鴨《イネガテヌカモ》――寢ねかねるよの意。
〔評〕 皆人を寢よとの鐘は類の無い言葉で、かうした語句を巧みに使ひこなしてゐる手腕はすぐれたものである。女性らしい和やかさもあらはれてゐる。
 
608 相念はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後へに 額づくが如
 
不相念《アヒオモハヌ》 人乎思者《ヒトヲオモフハ》 大寺之《オホデラノ》 餓鬼之後爾《ガキノシリヘニ》 額衝如《ヌカヅクガゴト》
 
コチラカライクラ思ツテモ、思ツテクレナイ人ヲ戀ヒ慕フノハ、丁度〔二字傍線〕大寺ニアル餓鬼ノ像ノ尻ノ方カラ禮拜スルヤウナモノデス。何ノ效モアリマセヌ。佛樣ナラバ拜ンデモ甲斐ガアリマセウガ、餓鬼ノ像ノ尻ヲ拜ンデモ何ニモナリマセヌ〔何ノ〜傍線〕。
 
○餓鬼之後爾《ガキノシリヘニ》――この頃の寺には餓鬼道の状態をあらはした像があつたのである。卷十六に寺々之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被賜而其子將播《テラテラノメガキマヲサクオホミワノヲガキタリテソノコウマハム》(三八四〇)とあるのでもわかる。後爾《シリヘニ》は強い言葉である。餓鬼は前から拜んでも無效であるから、後から拜んでは尚更である。○額衝如《ヌカツクガゴト》――ヌカツクゴトシと古義に訓んだのが廣く行はれるやうになつたが、やはり舊訓のままがよい。三五一參照。
〔評〕 譬喩が痛快である、かういふ皮肉を戀人にあびせかけた女郎は、かなはぬ戀に捨鉢になつてゐたものか。ともかくも出色の作である。
 
609 心ゆも 我は念はざりき 又更に 吾が故郷に 還り來むとは
 
從情毛《ココロユモ》 我者不念寸《アハモハザリキ》 又更《マタサラニ》 吾故郷爾《ワガフルサトニ》 將還來者《カヘリコムトハ》
 
今マデ御近所ニ居リマシタノニ〔今マ〜傍線〕、再ビ又更ニ、私ノ元居リマシタ里ニ歸ツテ來ヨウトハ、私ハ私ノ〔二字傍線〕心デハサウハ豫想シナカツタコトデス。思ヒガケモアリマセン〔思ヒ〜傍線〕。
 
○吾故郷爾《ワガフルサトニ》――フルサトは昔は舊都の意に多く用ゐられたが、批處のやうに現今の故郷の意と同じ用法もあつ(553)たのである。
〔評〕 左註にあるやうに、家持の家近くにるつたのが別れて、女郎の舊地に歸つて詠み贈つたのである。戀を遂げずして遠く去つた恨がほの見えてゐる。
 
610 近くあれば 見ねどもあるを いや遠く 君がいまさば ありかつましじ
 
近有者《チカクアラバ》 雖不見在乎《ミネドモアルヲ》 彌遠《イヤトホク》 君之伊座者《キミガイマサバ》 有不勝自《アリカツマシジ》
 
御近所ニ居レバオ目ニカカラナイデモ、我慢ガ出來マスガ、コンナニ〔四字傍線〕彌々遠イ所ニ貴方ガオイデニナルヤウデハ、私ハ〔二字傍線〕生キテヰルコトハ出來マスマイヨ。
 
○雖不見在乎《ミネドモアルヲ》――ミズトモと新訓にあるが、然らばアラムヲとしたい。舊訓の儘でよい。○有不勝自《アリカツマシジ》――自を目と改めて、アリガツマシモとよむのは惡い。生きてあるに堪へまいの意。卷二の九四參照。
〔評〕 別後の悲哀が女らしく述べられてゐる。
 
右二首相別(レテ)後更(ニ)來贈(レリ)
 
大伴宿禰家持和(フル)歌二首
 
611 今更に 妹に逢はめやと 念へかも ここだわが胸 おほほしからむ
 
今更《イマサラニ》 妹爾將相八跡《イモニアハメヤト》 念可聞《オモヘカモ》 幾許吾※[匈/月]《ココダワガムネ》 鬱悒將有《オホホシカラム》
 
カウシテ遠ク離レテ〔九字傍線〕、今トナツテハモハヤ、貴女ニ逢ハレマイト思フ故デスカ、コンナニ〔四字傍線〕大層私ノ胸ガ、欝々トシマスノデセウ。ホントニ苦シウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○幾許吾胸《ココダワガムネ》――ココダはココラに同じ、多くの意。
〔評〕 女が言つて來た趣に共鳴して、素直に返事したまでである。
 
612 なかなかに もだもあらましを 何すとか 相見そめけむ 遂げざらなくに
 
中中者《ナカナカニ》 黙毛有益呼《モダモアラマシヲ》 何爲跡香《ナニストカ》 相見始兼《アヒミソメケム》 不遂等《トゲザラナクニ》
 
(554)トテモ貴方ト私トノ戀中ハ〔トテ〜傍線〕、遂ゲラレナイノニ、却ツテ黙ツテ居ルベキモノヲ、何ダツテ逢ヒ初メタノデセウ。丸デ逢ハナイデ居レバヨカツタ〔丸デ〜傍線〕。
 
○中中者《ナカナカニ》――却つて。者は六條本に爾《ニ》とあるによるべし。○不遂等《トゲザラナクニ》――遂げざるにの意。等は金澤本に爾とあるによるべきである。
 
〔評〕 卷十二の中々獣然毛有申尾小豆無相見始而毛吾者戀香《ナカナカニモダモアラマシヲアヂキナクアヒミソメテモワレハコフルカ》(二八九九)を少し改作したまでである。
 
山口女王贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌五首
 
山口女王の傳は詳かでない。
 
613 物思ふと 人に見えじと なまじひに 常に思へり 在りぞかねつる
 
物念跡《モノモフト》 人爾不見常《ヒトニミエジト》 奈麻強《ナマジヒニ》 常念幣利《ツネニオモヘリ》 在曾金津流《アリゾカネツル》
 
心ノ中ニ物ヲ思ツテヰルトハ人ニハ見ラレマイト、出來モセヌコトヲ〔八字傍線〕ナマハンカ常ニ思ツテヰマス。コレデハトテモ〔七字傍線〕命ガツヅキサウデモアリマセヌ。
 
○奈麻強《ナマジヒニ》――生強ひで、不可能なことを無理に仕遂げようとするやうなことを言ふ。○常念敝利《ツネニオモヘリ》――略解にツネニオモヘドとよんでゐる。利は卷九に足利思代《アトモヒテ》(一七一八)・足利湖乎《アトノミナトヲ》(一七三四)などの用法があり、トとよめないことはないが、ここは意味の上から言つて、下に續くべき所でない。舊訓のままにオモヘリがよい。○在曾金津流《アリゾカネツル》――生きてあり難しといふ意である。古義に「物念ふと人目には見えじと常々思へども、なまなまに強ひたることにては、さはありえがたしとなり」とあるのは誤つてゐる。「三四の句は置倒へて意得べし」とあるのも惡い。
〔評〕 忍ぶ戀の苦しさが哀に悲しく述べられてゐる。
 
614 相念はぬ 人をやもとな 白妙の 袖ひづまでに 哭のみし泣かも
 
不相念《アヒオモハヌ》 人乎也本名《ヒトヲヤモトナ》 白細之《シロタヘノ》 袖漬左右二《ソデヒヅマデニ》 哭耳四泣裳《ネノミシナカモ》
 
(555)コチラカ思ツテモ、ソチラデハ思ツテ下サラナイ貴方ヲ思ツテ、無暗ニ私ハ(白細之)袖ガ涙ニ〔二字傍線〕ヌレル程モ、聲ヲ出シテ哭キマセウヨ。ツマラナイコトデス〔九字傍線〕。
 
○人乎也本名《ヒトヲヤモトナ》――人を思つて無暗にの意。本名は二三〇參照。ヤは泣裳《ナカモ》で結んである。○哭耳四泣裳《ネノミシナカモ》――音のみし泣かむに同じ。
〔評〕 あはれなしんみりとした感じの歌。
 
615 吾が背子は 相念はずとも 敷妙の 君が枕は 夢に見えこそ
 
吾背子者《ワガセコハ》 不相念跡裳《アヒモハズトモ》 敷細乃《シキタヘノ》 君之枕者《キミガマクラハ》 夢爾見乞《イメニミエコソ》
 
私ノ夫ハ私ガ貴方ヲ思フヤウニ〔私ガ〜傍線〕私ヲ思ツテ下サラナイニシテモ、セメテ〔三字傍線〕貴方ノ(敷細乃)枕ダケデモ私ノ〔二字傍線〕夢ニ見エテクデサイヨ。ソレデイクラカ心ヲ慰メマセウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○夢爾見乞《イメニミエコソ》――夢に見えよと願ふ意。コソは願望をあらはす。
〔評〕 第四句の君之枕者《キミガマクラハ》が少しく不可解である。人を夢に見るのは、人に戀せられるしるしとする言ひならはしがあつたから、吾を戀せぬ君の姿は夢には見えまいが、それにしても、君が寢る時に用ゐる枕なりとも、夢に見えよと希ふのであらう。さう見ればあはれな女心のあらはれた歌である。
 
616 劍太刀 名の惜しけくも 吾は無し 君に逢はずて 年の經ぬれば
 
釼太刀《ツルギタチ》 名惜雲《ナノヲシケクモ》 吾者無《ワレハナシ》 君爾不相而《キミニアハズテ》 年之經去禮者《トシノヘヌレバ》
 
私ハ(釼太刀)名ナドハ惜シイトモ思ヒマセヌ。ドンナ惡名ガ立ツテモカマヒマセヌ〔ドン〜傍線〕。貴方ニオ目ニカカラナイデ幾年モ經チマシタカラ、モウ我慢ガ出來マセヌ〔モウ〜傍線〕。
 
○劍太刀《ツルギタチ》――枕詞。名とつづくのは刃をナといふからであらう。
〔評〕 女は浮名の立つのを恐れるのは、男以上である。そのつつましやかさも、かなはぬ戀故にはかなぐり捨てて、忍ぶにあまる思慕の情を訴へたのは、誠にいたましい。併し卷十二の三空去名之惜毛吾者無不相日數多年(556)之經者《ミソラユクナノヲシケクモワレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》(二八七九)・釼太刀名之惜毛吾者無比來之間鯉之紫爾《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシコノコロノマノコヒノシゲキニ》(二九八四)を二つ合はせると、この歌になる。
 
617 葦邊より 滿ち來る潮の いや益しに 念へか君が 忘れかねつる
 
從蘆邊《アシベヨリ》 滿來鹽乃《ミチクルシホノ》 彌益荷《イヤマシニ》 念歟君之《オモヘカキミガ》 忘金鶴《ワスレカネツル》
 
(從蘆邊滿來鹽乃)彌々益々ヒドク私ハ貴方ヲ〔五字傍線〕思フ故カ、私ハ〔二字傍線〕貴方ヲ忘レルコトガ出來マセヌ。
 
○從蘆邊滿來鹽乃《アシベヨリミチクルシホノ》――彌益荷《イヤマシニ》の序詞。ヨリはニの意で、芦邊に滿ち來る潮の盛なるに言ひ寄せたのである。
〔評〕 卷十二に湖轄爾滿來鹽能彌益二戀者雖剰不所忘鴨《ミナトミニミチクルシホノイヤマシニコヒハマサレドワスラエヌカモ》(三一五九)とあり、卷十三長歌にも朝奈祇爾滿來鹽之《アサナギニミチクルシホノ》……彼鹽乃伊夜益舛二《ソノシホノイヤマスマスニ》……(三二四三)とある。それらを粉本としたものと思はれる。なほかうした言ひ方が喜ばれたものか、新撰萬葉・伊勢物語・古今六帖などに、これと殆ど同じ歌を載せてゐる。
 
大神《オホミワ》女郎、贈2大件宿禰家持(ニ)1歌一首
 
大神女郎の傳は詳かでない。
 
618 さ夜中に 友喚ぶ千鳥 もの念ふと 佗び居る時に 鳴きつつもとな
 
狹夜中爾《サヨナカニ》 友喚千鳥《トモヨブチドリ》 物念跡《モノモフト》 和備居時二《ワビヲルトキニ》 鳴乍本名《ナキツツモトナ》
 
夜中ニ友ヲ求メテ呼ブ千鳥ガ、貴方ヲ〔三字傍線〕思ツテ私ガ苦シンデヰル時ニ淋シサウニ〔五字傍線〕、鳴クノハ困ツタモノデス。イヨイヨ戀シサヲ増サセルバカリデス〔イヨ〜傍線〕。
 
○鳴乍本名《ナキツツモトナ》――鳴くのはよしないことだといふ意。
〔評〕 卷十に黙然毛將有時母鳴奈武日晩乃物念時爾鳴管本名《モダモアラムトキモナカナムヒグラシノモノモフトキニナキツツモトナ》(一九六四)とあるに似てゐる。併し蝉よりも友呼ぶ千鳥の方が、戀する人には、あはれに悲しく聞えるであらう。
 
大伴坂上郎女、怨恨(ノ)歌一首并短歌
 
619 押照る 難波の菅の ねもころに 君がきこして 年深く 長くし言へば 眞十鏡 磨ぎし心を 許してし その日の極み 浪のむた 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の 潜める時に ちはやぶる 神や離けけむ うつせみの 人かさふらむ 通はしし 君も來まさず 玉梓の 使も見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの 夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 驗をなみ 念へども たづきを知らに 手弱女と 言はくもしるく たわらはの 音のみ泣きつつ たもとほり 君が使を 待ちやかねてむ
 
(557)押照《オシテル》 難波乃菅之《ナニハノスゲノ》 根毛許呂爾《ネモコロニ》 君之聞四乎《キミガキコシテ》 年深《トシフカク》 長四云者《ナガクシイヘバ》 眞十鏡《マソカガミ》 磨師情乎《トギシココロヲ》 縱手師《ユルシテシ》 其日之極《ソノヒノキハミ》 浪之共《ナミノムタ》 靡珠藻乃《ナビクタマモノ》 云云《カニカクニ》 意者不持《ココロハモタズ》 大船乃《オホブネノ》 憑有時丹《タノメルトキニ》 千磐破《チハヤブル》 神哉將離《カミヤサケケム》 空蝉乃《ウツセミノ》 人歟禁良武《ヒトカサフラム》 通爲《カヨハシシ》 君毛不來座《キミモキマサズ》 玉梓之《タマヅサノ》 使母不所見《ツカヒモミエズ》 成奴禮婆《ナリヌレバ》 痛毛爲便無三《イタモスベナミ》 夜干玉乃《ヌバタマノ》 夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》 赤羅引《アカラヒク》 日母至闇《ヒモクルルマデ》 雖嘆《ナゲケドモ》 知師乎無三《シルシヲナミ》 雖念《オモヘドモ》 田付乎白二《タヅキヲシラニ》 幼婦當《タワヤメト》 言雲知久《イハクモシルク》 手小童之《タワラハノ》 哭耳泣管《ネノミナキツツ》 俳※[人偏+回]《タモトホリ》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 待八兼手六《マチヤカネテム》
 
(押照難波乃菅之)懇ニ貴方ガ仰ツテ年久シク長ク變ルマイ〔四字傍線〕ト仰ルノデ、(眞十鏡)磨ギ澄シ〔三字傍線〕タ清イ私ノ〔四字傍線〕心ヲ貴方ニ許シテシマツタソノ日カラ以來、(浪之共靡玉藻乃)彼方此方ニ動クヤウナ〔五字傍線〕心ハ持タナイデ、(大船乃)タヨリニシテヰタ時ニ、(千磐破)神樣ガ二人ノ間ヲ〔五字傍線〕割イタノデアラウカ。又ハ〔二字傍線〕(空蝉乃)人ガ邪魔ヲシタノデアラウカ、今マデ〔三字傍線〕通《カヨ》ツテコラレタ貴方モオイデニナラズ、又貴方カラノ〔六字傍線〕(玉梓之)使モ見エナイヤウニナツタノデ、誠ニ何トモ仕樣ガナイカラ、(夜干玉乃)夜ハ夜通シ、(赤羅引)日モ暮レルマデ、嘆イテモ何ノ効能モナイノデ、又〔傍線〕、思ツテモ何トモ方法ヲ知ラナイカラ、カヨワイ女ト人ガ〔二字傍線〕言フノモ道理デ、私ハ〔二字傍線〕手ニ抱ク子供ノヤウニ聲ヲ出シテ泣イテバカリヰテ、ウロウロト歩キ廻ツテ、貴方カラノオ使ヲ待ツテモ待ツ甲斐モナイコトデアラウ。
 
○押照難波乃菅之《オシテルナニハノスゲノ》――根にかけて懇《ネモコロ》とつづく序詞。押照は難波の枕詞。四四三五參照。○君之聞四乎《キミガキコシテ》――舊本(558)乎とあるは誤で、金澤本に手《テ》とあるに從ふべきである。キコシテは宣ひてに同じ。この句を聞き給ひての意とし、根毛許呂爾《ネモコロニ》から年深長四云者《トシフカクナガクシイヘバ》とつづくとせる新考の説はどうであらう。○年深長四云者《トシフカクナガクシイヘバ》――年久しく長く變るまじと言へばの意で、行末かけて契る語である。新考には過去のことをいつたものとしてゐるが、さうすると、次の反歌にあはない。○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。鏡は磨ぐものであるから磨師《トキシ》とつづく。○磨師情乎《トギシココロヲ》――磨ぎ澄ました清き眞心を。○縱手師《ユルシテシ》――心を許して男の戀を受け入れた意。○其日之極《ソノヒノキハミ》――その日から以後の意。○浪之共靡珠藻乃《ナミノムタナビクタマモノ》――云云《カニカクニ》の序詞。カニカクニは、いろいろと、彼方此方になどの意。この下に靡くを補つて見るがよい。○神哉將離《カミヤサケケム》――神が二人の間を裂いたのか。サケは他動詞で離す意である。○人歟禁良武《ヒトカサフラム》――人が邪魔したか。禁《サフ》は障《ササ》ふに同じ。○通爲《カヨハシシ》――舊訓カヨヒセシとあるはよくない。略解のカヨハセルもよいが、玉の小琴のカヨハシシに從はう。拾穗本は爲の下に之の字がある。○夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》――終夜。すがらは、その儘、盡く、終までなどの意ある語である。○赤羅引《アカラヒク》――枕詞。赤く延くの意で、日とつづくのは日の先の赤く照り輝くからであらう。卷十五に安可禰佐須比流波毛能母比奴婆多麻乃欲流波須我良爾禰能未之奈加由《アカネサスヒルハモノモヒヌバタマノヨルハスガラニネノミシナカユ》(三七三二)とあるはこの句に似てゐる。○田付乎白二《タヅキヲシラニ》――方法を知らず。○言雲知久《イハクモシルク》――言はくも著く。手弱女と人が言ふも道理での意。○手小童之《タワラハノ》――手小童の如く。手小童《タワラハ》は手に抱く程の小兒。○俳※[人偏+回]《タモトホリ》――タは接頭語で、モトホリに同じ。徘徊の誤字であらう。○待八兼手六《マチヤカネテム》――待兼ねるであらうかの意。待ち兼ねるは待つてもその甲斐のないこと。
〔評〕 これは郎女が、誰を恨んで作つたものか明らかでないが、恐らく宿奈麻呂の薄情を憤つたものであらう。火のやうな情熟と、忘れられた怨恨とが、強く呪はしげに叙べられてゐる。この長歌の中程の玉梓之使母不所見成奴禮婆痛毛爲使無三《タマヅサノツカヒモミエズナリヌレバイタモスベナミ》が、變な珍らしい調をなしてゐることに、注意すべきである。
 
反歌
 
620 はじめより 長くいひつつ たのめすば 斯かる思ひに 逢はましものか
 
從元《ハジメヨリ》 長謂管《ナガクイヒツツ》 不念恃者《タノメズバ》 如是念二《カカルオモヒニ》 相益物歟《アハマシモノカ》
 
(559)貴方ガ〔三字傍線〕始カラ末長ク添ヒ遂ゲルヤウニ〔八字傍線〕仰ツテ、私ニ〔二字傍線〕アテニサセナカツタナラ、私ハ〔二字傍線〕コンナ物思ヒニ逢フモノデスカ。人ヲオダマシナサツテヒドイ御方デス〔人ヲ〜傍線〕。。
 
○不念恃者《クノメズハ》――頼ましめずばの意。念を神田本に令に作る。代匠記に念は令の誤とある。
〔評〕 相益物歟《アハマシモノカ》が絶望の嗟嘆の聲らしく聞えて、怨めしさが籠つてゐる。
 
西海道節度使判官|佐伯《サヘキノ》宿禰|東人《アヅマビト》妻贈(レル)2夫君(ニ)1歌一首
 
東人は續紀に「天平四年八月丁酉西海道節度使判官佐伯宿禰東人(ニ)授(ク)2外從五位下1」とある。
 
621 間無く 戀ふれにかあらむ 草枕 旅なる君が 夢にし見ゆる
 
無間《アヒダナク》 戀爾可有牟《コフレニカアラム》 草枕《クサマクラ》 客有公之《タビナルキミガ》 夢爾之所見《イメニシミユル》
 
貴方ガ私ヲ〔五字傍線〕絶エズ戀シク思ツテオイデニナルカラカ、旅ニ出テヰル貴方ガ私ノ夢ニ見エマスヨ。
〔評〕 菩背子我如是戀禮許曾夜干玉能夢所見管寢不所宿家禮《ワガセコガカクコフレコソヌバタマノイメニミエツツイネラエズケレ》(六三九)とある如く、人を夢に見るのは、その人に戀ひられる爲とする俗言があつたのである。この歌もそれによつて作つてある。格別すぐれた作でもない。
 
佐伯宿禰東人和(フル)歌一首
 
622 草枕 旅に久しく なりぬれば 汝をこそ思へ な戀ひそ吾妹
 
草枕《クサマクラ》 客爾久《タビニヒサシク》 成宿者《ナリヌレバ》 汝乎社念《ナヲコソオモヘ》 莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》
 
私ハ〔二字傍線〕は(草枕)旅ニ出テ長クナルノデ貴方ヲ戀シク思フヨ。ソレデ私ガ貴女ノ夢ニ見エタノデアラウ。併シ〔ソレ〜傍線〕妻ヨ、アマリ私ヲ〔五字傍線〕戀シク思ヒナサルナ。無事デヰルカラ〔七字傍線〕。
〔評〕 愛情の溢れた親切な歌である。この歌の古義の解は非常に誤つてゐる。
 
(560)池邊王宴(ニ)誦(ヘル)歌一首
 
池邊王は續紀に、神龜四年正月に無位から從五位下になり、天平九年十二月に内匠頭になつたと見えてゐる。弘文天皇の皇子なる葛野王の御子と皇胤紹運録に見え、續紀に淡海三船の父とある。
 
623 松の葉に 月はゆづりぬ 黄葉の 過ぎぬや君が あはぬ夜多し
 
松之葉爾《マツノハニ》 月者由移去《ツキハユヅリヌ》 黄葉乃《モミヂバノ》 過哉君之《スギヌヤキミガ》 不相夜多焉《アハヌヨオホシ》
 
庭ノ〔二字傍線〕松ノ葉ニ月影ガカカルヤウニ〔六字傍線〕移ツテ來タ。今夜モ亦空シク〔七字傍線〕(黄葉乃)過ギテシマツタヨ。カウシテ〔四字傍線〕貴方ガ私ニ〔二字傍線〕逢ハナイ夜ガ多イノハ悲シイコトダ〔八字傍線〕。
 
○月者由移去《ツキハユヅリヌ》――月は移りぬに同じで、月の傾いたこと。ユヅルは卷十一に眞素鏡清月夜之湯徒去者《マソカガミキヨキツクヨノユヅリナバ》(二六七〇)・烏玉乃夜渡月之湯徒去者《ヌバタマノヨワタルツキノユヅリナバ》(二六七三)、卷十四に等伎由郡利奈波阿波受可母安良牟《トキユヅリナバアハズカモアラム》(三三五五)とあるので、その意は明らかである。○黄葉乃《モミヂバノ》――枕詞。過《スギ》と續くのは黄葉は散り過ぎるからである。○過哉君之《スギヌヤキミガ》――ヤは歎辭で、過ぎたよの意であらう。ヤで切つて見るがよい。今夜も逢はずして空しく過ぎたるよといふのである。○不相夜多焉《アハスヨオホシ》――舊本焉を鳥に作つてゐるのは誤である。焉は言ひ終つたところに添へる字であるから、アハヌヨオホシとよむがよい。アハヌヨオホミ・アハヌヨオホキ・アハヌヨオホクなどの訓は皆面白くない。
〔評〕 これは宴倉で誦つた歌であるから、自作ではあるまい。女性の氣分らしい作である。松の葉に傾く月を詠めて、戀人の來ないのを悲しんだのは、あはれな情景である。
 
天皇思2酒人女王1 御製歌一首
 
元暦校本等の古本に小字で、「女王者穗積皇子之孫女也」と註がある。天皇は聖武天皇。酒人女王は續紀に「寶龜元年十一月己未朔甲子、授2從四位下酒人内親王(ニ)三品1。三年十一月己丑、以2酒人内親王1爲2伊勢齋1權(ニ)居2春日齋宮1」と見えてゐるが、これは光仁天皇の皇女で、御年齡も合はぬ(561)やうである。この歌はおよそ天平十年以前と思はれるから、和銅二年御降誕の光仁天皇は當時三十餘歳にましまし、酒人内親王がかかる妙齡に達せられたとは思はれない。又、内親王を女王と記すべくもない。恐らく古本の註の通り、穗積皇子の御孫で、光仁天皇の皇女とは別であらう。
 
624 道に逢ひて 笑まししからに 零る雪の 消なば消ぬがに 戀ふとふ吾妹
 
道相而《ミチニアヒテ》 咲之柄爾《ヱマシシカラニ》 零雪乃《フルユキノ》 消者消香二《ケナバケヌガニ》 戀云吾妹《コフトフワギモ》
 
途中デ出逢ツテ女王ガ〔三字傍線〕笑ヒナサツタノデ命ガ〔二字傍線〕(零雪乃)消エルナラ消エヨトバカリニ、人ガ〔二字傍線〕戀シク思フトイフ我ガ愛スル女王ヨ。私モ逢タイモノダ〔八字傍線〕。
 
○咲之柄爾《ヱマシシカラニ》――笑み給ひし故に。カラは口語のからと同じ。○零雪乃《フルユキノ》――枕詞。消者《ケナバ》とつづく。○消者消香二《ケナバケヌガニ》――消ゆるならば消えるほどにの意で、命を顧みず戀ふるをいふ。○戀云吾妹《コフトフワギモ》――この句は解し難いので、云を念の誤として、コヒモフワギモと訓む宣長説に從ふものが多い。併し予は原形を尊重して、世の人が戀ふと言ふ我妹よの意に見ようと思ふ。蓋し途にこの女王に逢つて、その笑顔に接したものは、皆命を忘れて戀すると當時語られてゐたのを、天皇が聞き給うて、なつかしう思はれたのである。天皇が途に女王の笑顔を見られたのではあるまい。
〔評〕 右のやうに解釋すると、この歌は上品な素直な、なごやかな感じの作である。
 
高安王|※[果/衣のなべぶたなし]鮒《ツツメルフナヲ》贈(レル)2娘子(ニ)1歌一首
 
元暦校本に小字で、「高安王者後賜姓大原眞人氏」とある。この王の傳は五七七を見よ。
 
625 おきへ行き 邊に行き今や 妹がため 吾が漁れる 藻臥束鮒
 
奧幣往《オキヘユキ》 邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》 爲妹《イモガタメ》 吾漁有《ワガスナドレル》 藻臥束鮒《モフシツカブナ》
 
コノ鮒ハ私ガ〔六字傍線〕、沖ノ方ヘ行ツタリ、岸ノ方ヘ行ツタリシテ、只今|汝《オマヘ》ノ爲ニ私ガ捕ツタ、藻ノ中ニ隱レテヰル小(562)サイ鮒デアル。アダヤオロカニハ思フナヨ〔アダ〜傍線〕。
 
○奧幣往《オキヘユキ》――奧の方へ行きの意。へは助詞ではない。但しべと濁つては惡い。○邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》――伊麻夜は今やであるが、ヤは輕く添へた歎辭である。○藻臥束鮒《モフシツカブナ》――藻臥は藻の中に臥してゐる意であらう。鰍を石伏といふのと同樣の名附け方である。但し、古事記傳に掲げた田中道麻呂の説に、「萬葉四の歌に、吾漁有藻臥束鮒《ワガスナドレルモフシツカフナ》とあるは、誰もただ藻にかくれたる鮒と心得たるめれども、若は此裳伏の地よりいづるよしにはあらじか」とあるのは一説として考ふべきである。藻伏は河内國惠我之藻伏岡の地で、應神天皇の御陵が此處にある。南河内郡古市村譽田の地内に屬す。古昔は沼澤地で鮒の産地であつたかも知れない。束鮒は一束ほどの長さの鮒、束は一握の長さ程、即ち二寸許をいふ。
〔評〕 親切な温情の歌である。藻臥束鮒も珍らしい句だ。
 
八代《ヤシロノ》女王獻2天皇1歌一首
 
八代女王は續紀に「天平九年二月戊午、授(ク)2旡位矢代女王正五位下(ヲ)1天平寶字二年十二月丙午、毀(ツ)2從四位下矢代女王位記(ヲ)1以d被v幸2先帝1而改志u也」と見える。
 
626 君に因り 言の繁きを 古郷の 明日香の河に 禊しに行く 一尾云、龍田超え三津の濱べに
 
君爾因《キミニヨリ》 言之繁乎《コトノシゲキヲ》 古郷之《フルサトノ》 明日香之河爾《アスカノカハニ》 潔身爲爾去《ミソギシニユク》
 
陛下ノ爲ニ人ノ口ガヤカマシイノデ、私ハ身ニ積ツタ人ノ言葉ノ汚レヲ拂フ爲ニ〔私ハ〜傍線〕、舊都ノ明日香川ヘ祓ヲシニ參リマス。
 
○言之繁乎《コトノシゲキヲ》――人の口が喧ましいので。ヲはを以ての意。○古郷之《フルサトノ》――舊都の。○潔身爲爾去《ミソギシニユク》――人の言葉が汚れとして我が身に積つてゐるのを、拂ひ落す爲に禊をしに行く意。ミソギは身滌《ミソソギ》の略。川又は海で身を清めること。右にあげた續紀の文に、被v幸2先帝1とあるので、この歌の趣もなるほどとうなづかれる。
(563)〔評〕 汚らはしい世人の噂を身に受けて、それを禊して祓はうとした萬葉人の心理は面白い。古郷の飛鳥川を選んだのは、舊都して傳統的に聖地と考へられた爲か。この歌、六帖に第二句を言のしげさとして載せてゐる。
上代人の間にかなり知られた歌であつたであらう。
 
一尾云、龍田超《タツタコエ》、三津之濱邊爾潔身四二由久《ミツノハマベニミソギシニユク》
 
これは三句以下の異傳である。龍田山を越えて、難波の三津の濱べに禊に行くといふので、場所が全く方角違である。難波は禊の場所として、上代人の常に赴いたところだ。
 
娘子報(イ)2贈(レル)佐伯宿禰赤麻呂(ニ)1歌一首
 
娘子と赤麻呂との問答が卷三の四〇三以下三首に出てゐる。ここに報贈とあるので、略解には「報は衍字か、又別に贈歌有りしが落ちたるか」といひ、古義は次の初花之の歌の答歌としてゐるが、共に惡い。卷三にも娘子報2佐伯宿禰赤麻呂贈1歌一首(四〇三)とあつて、同樣の書き方である。
 
627 吾が袂 纏かむと念はむ 丈夫は なみだに沈み 白髪生ひにたり
 
吾手本《ワガタモト》 將卷跡念牟《マカムトオモハム》 大夫者《マスラヲハ》 戀水定《ナミダニシヅミ》 白髪生二有《シラガオヒニタリ》
 
私ノ愛スル〔四字傍線〕丈夫ノ貴方〔三字傍線〕ハ私ノ袂ヲ枕ニシテ寢ヨウト思シ召スデセウ。併シ私ハ貴方ヲ思ツテ〔併シ〜傍線〕涙ニ沈ンデ頭ニハ〔三字傍線〕白髪ガ生エテヒドク年ヲトリマシタ。コンナニ醜イ姿ニナリマシタガ、ヨウゴザイマスカ〔コン〜傍線〕。
 
○大夫者《マスラヲハ》――赤麻呂を指す。この句を吾手本《ワガタモト》の上に置いて見るがよい。○戀水定《ナミダニシヅミ》――涙に沈み。戀水をナミダと訓むのは義訓で、戯書の一種とも言へよう。古來皆かうよんでゐるが、新訓は元暦校本に變とあるによつて、ヲチミヅモトメとしてゐる。變はヲチと訓めないこともないが、定はモトメとはよめないし、この句をさうよんでも、意の通じないことは同樣であるから、舊訓の儘にして置かう。
〔評〕 娘子から先づ贈つた歌が分らないので、本當の意味がはつきりしないのは殘念である。兎も角輕い諧謔氣分の歌である。
 
(564)佐伯宿禰赤麻呂和(フル)謌一首
 
628 白髪生ふる 事は念はず なみだをば かにもかくにも 求めて行かむ
 
白髪生流《シラガオフル》 事者不念《コトハオモハズ》 戀水者《ナミダヲバ》 鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》 求而將行《モトメテユカム》
 
オマヘニ〔四字傍線〕白髪ナドガ生エテモ私ハイヤトハ〔六字傍線〕思ヒハシナイ。トモカクモ〔五字傍線〕オマヘノ流ス〔二字傍線〕涙ヲ尋ネテオマヘノ所ヘ〔六字傍線〕行カウ。心配スルナ〔五字傍線〕。
 
○事者不念《コトハオモハズ》――舊訓オモハジともよんであるが、オモハズと明確に言ひ切つた方がよい。○戀水者《ナミダヲバ》――新訓ではヲチミヅハとあつて、この歌では當て嵌まるやうである。
〔評〕 これも諧謔氣分の歌といふまでである。
 
大伴四綱、宴席(ノ)歌一首
 
四綱は傳が詳かでない。
 
629 何すとか 使の來つる 君をこそ かにもかくにも 待ちがてにすれ
 
奈何鹿《ナニストカ》 使之來流《ツカヒノキツル》 君乎社《キミヲコソ》 左右裳《カニモカクニモ》 待難爲禮《マチガテニスレ》
 
何シニ使ガ來タノカ、私ハ使ナドニ用ハアリマセン〔私ハ〜傍線〕。貴方ヲコソ兎モ角モ待チカネテ居リマス。
 
○左右裳《カニモカクニモ》――前の歌の鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》と同じで、兎に角にといふこと。
〔評〕 宴會に來ると約束した人が、使を以て不參を通知して來た際の歌と見える。使の來意に頓着せず、本人を待つてゐる心をつかつかと直線的に述べたのが面白い。
 
佐伯宿禰赤麻呂(ノ)歌一首
 
630 初花の 散るべきものを 人言の 繁きによりて よどむ頃かも
 
初花之《ハツハナノ》 可散物乎《チルベキモノヲ》 人事乃《ヒトゴトノ》 繁爾因而《シゲキニヨリテ》 止息比者鴨《ヨドムコロカモ》
 
(565)初メテ咲イタ花ガモハヤ散ルダラウノニ、人ノ口ガヤカマシイノデ、手折ルコトモセズニ私ハ〔手折〜傍線〕コノ頃ハ忍耐シテヰルワイ。アノ少女モ他人ニ取ラレテシマフダラウガ、私ハ人ノ口ガ喧シイノデ、ドウスルコトモ出來ズニ忍耐シテヰル〔アノ〜傍線〕。
 
○初花之《ハツハナノ》――女を譬へたので、特に初花と言つたのは、うら若い少女だからであらう。略解に「思ふ女の家に花の木有りしが、今は散らむと思へど、人めの憚有りてとどまれるか」と言つたのは從ふべきでない。○可散物乎《チルベキモノヲ》――女が他の男の妻となるを譬へたもの。
〔評〕 初花のやうなうら若い戀人が、他の男に領せられむとするを恐れつつも、人の噂を憚つて徒らに焦慮してゐる氣分が出てゐる。古義にこれを吾手本《ワガタモト》の歌の前に置いて、娘子に贈つたものとしてゐるが、彼と此とに毫も贈答の關係があらうとは思はれない。
 
湯原王贈(レル)2娘子(ニ)1歌一首
 
元暦校本などの古寫本、ここに「志貴皇子之子也」と註してある。湯原王の傳は明らかでない。三七五を見よ。
 
631 うはへなき ものかも人は 然ばかり 遠き家路を 還すおもへば
 
宇波弊無《ウハヘナキ》 物可聞人者《モノカモヒトハ》 然許《シカバカリ》 遠家路乎《トホキイヘヂヲ》 令還念者《カヘスオモヘバ》
 
遠イ家カラ尋ネテ來タ私ヲ空シク〔五字傍線〕返スコトヲ考ヘテ見ルト、ソレホドモ、オマヘハ、アイソガ無イモノカナア。ホントニヒドイ人ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○宇波幣無《サハヘナキ》――契沖は無表邊也といつてゐる。表面無の意で、上べの情もないといふことか。宣長は「あいそなきといふ意にて、中昔の物語などにあへなきと言へる言は、此のうはへなきの轉じたるにて同じ意に聞ゆ」といつてゐる。略解に「うはへは上重にてなきは添へたる詞ならむ」とあるのはどうであらう。○然許《シカバカリ》――こ(566)の句は第一句の上に置いて見るがよい。
〔評〕 戀のかなはぬ嗟嘆の聲であるが、穏やかに上品に述べてあるのは、この王の氣品のあらはれといつてよからう。いつも風格の高い歌をよむ御方である。
 
632 目には見て 手には取らえぬ 月の内の かつらの如き 妹をいかにせむ
 
目二破見而《メニハミテ》 手二破不所取《テニハトラエヌ》 月内之《ツキノウチノ》 楓如《カツラノゴトキ》 妹乎奈何責《イモヲイカニセム》
 
目ニハ見エルケレドモ、手ニ持ツコトノ出來ナイ、月中ノ桂ノヤウナ、オマヘヲサテ何トシタモノダララ。イクラ戀シク思ツテモ、顔ヲ見ルバカリデ打チトケラレナイノハ殘念ダ〔イク〜傍線〕。
 
○月内之楓如《ツキノウチノカツラノゴトキ》――月の内の楓は和名抄に、「兼名苑云、月中有河、河上有v桂、高五百丈」とあるもので、支那の傳説によつたのである。卷十にモミヂスルトキニナルラシツキヒトノカツラノエダノイロツクミレバ(二二〇二)とあるも同じである。楓は古くはカツラと訓んだ字で、本集でも總べてカツラとのみ用ゐてたる。和名抄に「楓|乎加まめ良《ヲカヅラ》、桂|女加豆艮《メカヅラ》」とある。現今カツラと稱する樹は、山地に自生する落葉喬木で、高さ十丈周圍丈餘に達するものもある。早春、葉に先立つて紅色の花を開く。材は赤味を帶びて家具を作るに用ゐられる。古代のカツラも恐らく同じものであらう。
〔評〕 戀の歌ながら、高雅な佳什である。支那傳説を採つたのも教養ある貴人らしい。
 
娘子報贈歌二首
 
633 如何ばかり 思ひけめかも 敷妙の 枕片去り 夢に見え來し
 
幾許《イカバカリ》 思異目鴨《オモヒケメカモ》 敷細之《シキタヘノ》 枕片去《マクラカタサリ》 夢所見來之《イメニミエコシ》
 
ドレホド貴方樣ガ私ヲ〔六字傍線〕思ツテ下サルカラカ、(敷細之)枕ヲ片方ヘヨセテ、二人デ寢ル時ノヤウニ端ノ方ニ一人(567)デ〔二人〜傍線〕寢テ夢ニ、アナタガ〔四字傍線〕見エタノデアリマセウカ。有リガタウ存ジマス
 
○枕片去《マクラカタサリ》――枕を床の間の片側によせての意で、獨寢に己が枕を片寄せること。舊訓カタサリとあるのを、代匠記にカタサルとしたのが廣く行はれてゐるが、片去る夢ではつづきが面白くないから、片去りての意で、舊訓の儘に從ふべきであらう。新考に枕がおのづから片去るやうに解いてあるが、枕を片去る意であらう。この語の例は、卷十八に夜床加多左里《ヨトコカタサリ》(四一〇一)とある。
〔評〕 これは前の歌に報いたものではない。王と娘子との戀が成つてからの作である。王の厚意に對して感謝するやさしさが見えてゐる。
 
634 家にして 見れど飽かぬを 草枕 旅にもつまと あるがともしさ
 
家二四手《イヘニシテ》 雖見不飽乎《ミレドアカヌヲ》 草枕《クサマクラ》 客毛妻與《タビニモツマト》 有之乏左《アルガトモシサ》
 
家ニ一緒ニ〔三字傍線〕ヰテ貴方ヲ〔三字傍線〕見飽クコトガナイノニ、(草枕)旅ニモ夫ト共ニ居ラレルノハ嬉シウゴザイマスヨ。
 
○客毛妻與有之乏左《タビニモツマトアルガトモシサ》――旅でも夫と一緒にあるが嬉しいといふので、妻は借字で夫のこと。與を乃の誤かと玉の小琴に大平説を掲げてゐる。さらば旅に夫が出たのは淋しいといふのであらうが、從はれない。古義に妻與を君之の誤としたのは臆斷にすぎる。乏左《トモシサ》は種々の意のある語であるが、ここは珍らしく面白いことであらう。
〔評〕 平板なおだやかな措辭であるが、意味が明瞭を缺いて、解釋が種々に分れてゐるのは遺憾である。妻を夫の意と見ない説もあるのは、詠んだ事情が判明しないからであらう。
 
湯原王亦贈歌二首
 
635 草枕 旅にはつまは ゐたれども 櫛笥の内の 玉とこそ念へ
 
草枕《クサマクラ》 客者嬬者《タビニハツマハ》 雖※[攣の手が十]有《ヰタレドモ》 匣内之《クシゲノウチノ》 珠社所念《タマトコソオモヘ》
 
(草枕)旅ニ愛スル女ヲ連レテ來タガ、櫛笥ノ中ノ玉ノヤウニ思ツテ、風ニモアテヌヤウニ大切ニシテ〔風ニ〜傍線〕ヰルヨ。
 
(568)○客者嬬者《タビニハツマハ》――嬬、舊訓イモとあるのは惡い。○雖※[攣の手が十]有《ヰタレドモ》――玉の小琴にあげた大平説によつて、古義にはヰタラメドとしてゐるが、さう訓むのは無理らしい字である。○匣内之珠社所念《クシゲノウチノタマトコソオモヘ》――匣底に藏した珠のやうに、大切に思つてゐるといふのだらう。新考に文選なる石崇の王明君(ノ)辭に「昔爲2匣中(ノ)玉1、今爲2糞上(ノ)英1」とあるを證として、「げに旅にあだし妻を件ひたれど、そは櫛笥のうちなる玉と同樣に用ふる事もなし」と解いたのはどうであらう。
〔評〕 匣中の珠に女を譬へたのは、新味があり上品でもある。この人らしい作である。
 
636 吾が衣 形見にまたす 敷妙の 枕をさけず 纏きてさねませ
 
余衣《ワガコロモ》 形見爾奉《カタミニマタス》 布細之《シキタヘノ》 枕不離《マクラヲサケズ》 卷而左宿座《マキテサネマセ》
 
私ノコノ着物ヲ形見ニオマヘニ〔四字傍線〕上ゲマス。ダカラコレヲ私卜思ツテ〔ダカ〜傍線〕、(布細之)枕カラ離サズニ、纏ウテオ寢ナサイ。
 
○形見爾奉《カタミニマタス》――舊訓マタスとあるを、攷證・古義などにマツルとしてゐるが、神代紀上卷に遣v使白2於天神1を使ニマタシテと訓んで居り、その他タテマタスの例も多いから、ここは舊訓の通りがよい。○枕不離《マクラヲサゲズ》――枕から離さずの意。舊訓マクラカラサズとあるのも、意は聞えるが、次の歌に余身者不離《ワガミハサケジ》とあるから、これもマクラヲサケズとよんだ契沖説に從ふがよい。
〔評〕 娘子に贈られた歌としては、少し言葉が鄭重過ぎるやうな感がある。平明な作。
 
娘子復報(ヘ)贈(レル)歌一首
 
637 吾が背子が 形見の衣 つまどひに わが身はさけじ 言問はずとも
 
吾背子之《ワガセコガ》 形見之衣《カタミノコロモ》 嬬問爾《ツマドヒニ》 余身者不離《ワガミハサケジ》 事不問友《コトトハズトモ》
 
私ノ夫ガ殘シテ置イタ〔六字傍線〕形見ノ着物ハ、物ヲ言ハナイデモ、貴方ト共寢ヲスルト思ツテ、私ハ〔二字傍線〕私ノ身カラ離サズニ寢マセウ。
 
(569)○嬬問爾《ツマドヒニ》――夫婦共寢するをツマドヒといふ。古事記下卷に「都摩杼比之物云而《ツマドヒノモノトイヒテ》、橘入也《タマヒイレキ》」とあり、本集卷十八に氣奈我伎古良河都麻度比能欲曾《ケナガキコラガツマドヒノヨゾ》(四一二七)とある。嬬問爾は嬬問のつもりでの意。○事不問友《コトトハズトモ》――コトトフとは物を言ふこと。
〔評〕 形見の衣は、物を言はねども、夫と思つて膚身を放すまいとは、物狂はしい戀情を強ひて慰めようと悶えてゐる言葉で、どこまでもやさしい女心である。
 
湯原王、亦贈(レル)歌一首
 
638 ただ一夜 隔てしからに あらたまの 月か經ぬると 心はまどふ
 
直一夜《タダヒトヨ》 隔之可良爾《ヘダテシカラニ》 荒玉乃《アラタマノ》 月歟經去跡《ツキカヘヌルト》 心遮《ココロハマドフ》
 
タダ一夜オマヘニ〔四字傍線〕遭ハナカツタノデ、(荒玉乃)一月モ經ツタノカト心ガ惑ツテヰル。
 
○荒玉乃――枕詞。年とつづくので、月にも冠らしめたのであらう。四四三參照。○心遮《ココロハマドフ》――舊訓オモホユルカモとあるのは、その理由がわからない。略解には、道別云として、所思毳とあつたのが誤つたのだらうといつてゐるが、當つてゐるとも思はれない。その他契沖は心の下、不を補つてココロハナカスとし、眞淵はココロサヘギルとよんでゐる。遮はサヘギルといふ字であるが、ココロサヘギルでは意をなさないから、新訓にココロハマドフとあるに從ふことにする。卷十二にも、繼而之聞者心遮焉《ツキテシキケバココロマドヒヌ》(二九六一)とある。
〔評〕 極めて平易な作である。戀する人の常套語であるが、しかもさもこそと頷かずにはゐられない。
 
娘子、復報(イ)贈(レル)歌一首
 
639 吾が背子が 斯く戀ふれこそ ぬば玉の 夢に見えつつ いねらえずけれ
 
吾背子我《ワガセコガ》 如是戀禮許曾《カクコフレコソ》 夜干玉能《ヌバタマノ》 夢所見管《イメニミエツツ》 寐不所宿家禮《イネラエズケレ》
 
貴方樣ガソンナニ私ヲ思ツテ下サルノデ、(夜干玉能)夢ニ貴方樣ノオ姿ガ〔七字傍線〕見エヲ寢ラレマセヌワイ。
 
(570)○寐不所宿家禮《イネラエズケレ》――ズケレはズの連用形にケリが連なつたので、文法上當然な形であるが、中世以後は全く用ゐられないで、かういふ場合は、ザリケリといふのが普通になつた。
〔評〕 厚意を感謝しつつも、夢のみ見て安眠し得ない苦惱を語つてゐる。一寸巧なところがある。卷二の歎管大夫之戀禮許曾吾髪結乃漬而奴禮計禮《ナゲキツツマスラヲノコノコフレコソワガモトユヒノヒヂテヌレケレ》(一一八)とあるに似てゐる。
 
湯原王、亦贈(レル)歌一首
 
640 はしけやし ま近き里を 雲居にや 戀ひつつ居らむ 月も經なくに
 
波之家也思《ハシケヤシ》 不遠里乎《マヂカキサトヲ》 雲居爾也《クモヰニヤ》 戀管將居《コヒツツヲラム》 月毛不經國《ツキモヘナクニ》
 
近所ニアルナツカシイオマヘノ〔四字傍線〕里ヲ、空ノアナタノ遠イ所ニアル〔六字傍線〕ヤウニ戀ヒ慕ツテ居ルコトデアラウカ。逢ツテカラマダ〔七字傍線〕一月モタタナイノニ、ドウシテコンナニ戀シイノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○波之家也思《ハシケヤシ》――愛《ハ》しけやしで、ヤシは添へていふ感歎詞であるから、この句は愛《ハ》しきと同じで、下の里にかかつてゐる。妹の住む里であるから愛しきといつたのである。○雲居爾也《クモヰニヤ》――雲居は空。空の如く遠く隔つた心地での意。ヤは下の將居《ヲラム》にかかる疑の助詞。
〔評〕 卷六に愛也思不遠里乃君來跡大能備爾鴨月之照有《ハシケヤシマヂカキサトノキミコムトオホノビニカモツキノテリタル》(九八六)とあるのは、湯原王月歌二首と題したものの一である。一二の句が全く同じで、歌の内容にも相通ずる點があるのは、注意すべきである。
 
娘子復(タ)報(イ)贈(リ)和(フル)歌一首
 
和の字は元暦校本・金澤本等に無い。目録にも無いから衍字であらう。
 
641 絶ゆといはば わびしみせむと 燒太刀の へつかふことは よけくや吾君
 
絶常云者《タユトイハバ》 和備染責跡《ワビシミセムト》 燒太刀乃《ヤキダチノ》 隔付經事者《ヘツカフコトハ》 幸也吾君《ヨケクヤワギミ》
 
モウコレ限リ〔六字傍線〕縁切リダト言ツタラ、私ガ〔二字傍線〕辛ク思フダラウト思シ召シテ貴方樣ガ〔四字傍線〕、(燒太刀乃)ヨラズサハラズニ(571)シテイラツシヤリマスガ、ソンナコトヲナサ〔リマ〜傍線〕ルノハ、オ心持ガ〔四字傍線〕ヨイモノデスカ、イカガデスカ〔六字傍線〕。貴方樣。
 
○和備染責跡《ワビシミセムト》――侘しみ爲むとで、わびしく思はむとての意。○燒太刀乃《ヤキタチノ》――枕詞。太刀は人の體の側に著くものであるから、邊著《ヘツ》かふとつづくのであらう。○隔付經事者《ヘツカフコトハ》――物の側に接するのみで、實體に定着しないこと。即ち寄らずさはらずなどいふ意に當るのであらう。ツカフは着くの延言。○幸也吾君《ヨケクヤワギミ》――舊訓ヨシヤワガキミとあるのを、眞淵はヨケクヤワギミとした。略解に擧げた宣長云或人説に幸を辛の誤とし、古義は苛とし、共にカラシヤとしてゐる。幸をヨケクと訓むのは少しく無理のやうでもあるが、さうよめないこともない。ここでは原字のままにして、考の訓に從つて解いた。
〔評〕 少しく意味の明瞭でない點があり、誤字もあるかも知れないが、前の數首が親愛懇誠の言なるに比して、これは少しく怨嗟の聲であるのはどうしたものだらう。親しさが過ぎて波瀾を生じたものか。
 
湯原王歌一首
 
642 吾妹子に 戀ひて亂れり くるべきに かけてよせむと 吾が戀ひそめし
 
吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀而亂在《コヒテミダレリ》 久流部寸二《クルベキニ》 懸而縁與《カケテヨセムト》 余戀始《ワガコヒソメシ》
 
私ノ愛スル女ニ戀ヒテ私ノ〔二字傍線〕心ガ亂レタ。私ハ始メ〔四字傍線〕反轉《クルベキニ》トイフ糸繰機械〔七字傍線〕デ糸ヲ繰リ寄セルヤウニ、女ヲ〔糸ヲ〜傍線〕引キ寄セヨウト思ツテ私ハ戀ヲシ初メタノダ。併シ思フヤウニ女ヲ引キ寄セルコトガ出來ナイノデ困ツテヰル〔併シ〜傍線〕。
 
○戀而亂在《コヒテミタレリ》――舊訓コヒテミダルルを、考にコヒテミタレハとし、略解に在は者の誤としたのが廣く行はれてゐる。併し二句で切るべき歌のやうであり、又在の字はケリ、タリの助動詞に用ゐた例があるから、ここもさう訓みたいのだが、而《テ》の字が上にあるから、契沖の訓法に從つてコヒテミダレリと七言によんで置かう。○久流部寸二《クルベキニ》――久流部寸《クルベキ》は和名抄蠶絲具部に「辨色立成云反轉(ハ)久流閇枳」とあるもので、糸を繰る機械である。但し枕草子に「見も知らぬくるべき物二人して引かせ、歌うたはせなどするをめづらしくて笑ふに」とあるくるべき物は引臼のことであるから、すべて廻轉機をかう呼んだのかも知れない。○懸而縁與《カケテヨセムト》――略解に「戀々(572)て思ひ亂るる心を絲にたとへて、くるべきにかけても妹が方へよせむとこそ戀ひ始めつれと也」とあり、古義も同樣で、新考は「我心モシ絲ノ如ク亂レナバ、クルベキ〔四字傍点〕ニカケテ繰リ集メムト覺悟シテワガコヒソメシナリ」とあるがいづれも面白くない。女を機械にかけて引き寄せようといふのである。
〔評〕 久流部寸《クルベキ》といふ機械を取り出したのは奇拔である。余戀始《ワガコヒソメシ》の結句も餘情が籠つて面白い。詩才の豐かさがあらはれてゐる。
 
紀女郎怨恨歌三首
 
ここに古葉略類聚鈔に「鹿人大夫之女名曰小鹿也、安貴王之妻也」と註してある。この三首は、夫の心變りを怨んだ歌であらう。この卷の五三五の左註に、安貴王と八上釆女との關係が明らかにされてゐるから、女郎はこの事件を恨んだのかも知れない。
 
643 世の中の 女にしあらば 吾が渡る あなせの河を 渡りかねめや
 
世間之《ヨノナカノ》 女爾思有者《ヲミナニシアラバ》 吾渡《ワガワタル》 痛背乃河乎《アナセノカハヲ》 波金目八《ワタリカネメヤ》
 
世間ノ普通ノ〔三字傍線〕女ナラバ私ガ渡ル痛足川ヲ渡リカネルコトハアルマイニ。私ハ夫ノ後ヲ慕ツテ來テ、痛足川ヲ渡リカネテ困ツタガ、我ナガラ腑甲斐ナイコトダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○吾渡《ワガワタル》――宣長は君渡《キミワタル》の誤とし、古義は直渡か《タダワタリ》と疑つてゐる。舊の儘にして解すべきである。○痛背乃河乎《アナセノカハヲ》――この河について諸説があるが、例の誤字と見るのは從ひ難い。これは痛足《アナシ》河のことで、アナセとも呼んだのであらう。痛足は大和磯城郡纏向村大字穴師で、痛足河は卷向山から出て三輪山の北を流れ、穴師の南方を過ぎて初瀬川に入る川である。今は卷向川と呼んでゐる。
〔評〕 夫の安貴王の変心を怨んで、その後を慕つて、痛足河を渡り惱みつつよんだものか。少し意味の分明しない憾はあるが、ともかく強烈な感じが出てゐる。痛足河は今は水量も少いが、卷七に痛足河河浪立奴卷目之由槻我高仁雲居立良志《アナシカハカハナミタチヌマキムクノユツキガタケニクモヰタツラシ》(一〇八七)とあるので見ても、かなりの水量があつたのであらう。
 
644 今は吾は わびぞしにける いきの緒に 思ひし君を ゆるさく思へば
 
(573)今者吾羽《イマハアハ》 和備曾四二結類《ワビゾシニケル》 氣乃緒爾《イキノヲニ》 念師君乎《オモヒシキミヲ》 縱左思者《ユルサクオモヘバ》
 
今ハ私ハホントニ〔四字傍線〕困リ切ツテシマヒマシタヨ。私ガ〔二字傍線〕命ヲカケテ思ツテヰタ大事ナ〔三字傍線〕オ方ヲ、手放シテシマフト思フト。ホントニガツカリシマシタヨ〔ホン〜傍線〕。
 
○和備曾四二結類《ワビゾシニケル》――困つてしまつたよの意。新考のあきらめたといふ意とする説は、ここには當るまい。○氣乃緒爾念師君乎《イキノヲニオモヒシキミヲ》――イキノヲは玉の緒と同じく、命の意で、命はつづくものであるから、緒を添へていふのであらう。但し古事記崇紳天皇の條には意能賀袁袁《オノガヲヲ》とあつて、命を袁《ヲ》と言つてゐる。○縱左思者《ユルサクオモヘバ》――ユルサクは手より離して、自分の所有でなくなるをいふ。元暦校本などの古寫本に左の下、久の字あるに從ふべきである。
〔評〕 和備曾四二結類《ワビゾシニケル》と大過去の形にして、詠歎の意を持たせたのが、如何にもがつかりしたやうな感じが出てゐる。胸中に不壞の愛を抱いて、慟哭する聲である。
 
645 白妙の 袖別るべき 日を近み 心にむせび 音のみし泣かゆ
 
白妙乃《シロタヘノ》 袖可別《ソデワカルベキ》 日乎近見《ヒヲチカミ》 心爾咽飲《ココロニムセビ》 哭耳四所流《ネノミシナカユ》
 
私ハ戀人ト〔五字傍線〕(白妙乃)袂ヲ分ツ日ガ近イノデ、心中デ咽ビ悲シンデ、聲ヲ出シテ泣イテバカリヰル。
 
○袖可別《ソデワカルベキ》――袂を別つて、縁を切るべきの意。卷十二に、白妙乃袖之別乎難見爲而《シロタヘノソデノワカレヲカタミシテ》(三二一五)とある。○心爾咽飲《ココロエムセビ》――心の中に咽び悲しむことで、咽飲と書くのは、咽びつつ涙を呑むからであらう。○哭耳四所流《ネノミシナカユ》――流は元暦校本などの古本に泣とあるに從ふべきである。
〔評〕 袖可別《ソデウカルベキ》は、卷十二の袖之別《ゾデノワカレ》などから出た言葉であらう。絶ち切り難い戀情に、身悶えして泣いてゐる姿も思はれて、悲哀の情が漲つてゐる歌である。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
大伴駿河麻呂は大伴御行の孫、坂上郎女の甥である。六四九の左註參照。
 
(574)646 ますらをの 思ひわびつつ 度まねく 嘆く嘆を 負はぬものかも
 
大夫之《マスラヲノ》 思和備乍《オモヒワビツツ》 遍多《タビマネク》 嘆久嘆乎《ナゲクナゲキヲ》 不負物可聞《オハヌモノカモ》
 
男ノ私〔二字傍線〕ガ、戀ヒ焦レテ困ツテ、何度モ何度モ嘆キ悲シム、コノ嘆キヲ貴女ガ身ニ〔五字傍線〕受ケナイモノカシラ。ソンナコトハナイ。今ニ私ノ嘆デヒドイ目ニアフダラウ〔ソン〜傍線〕。
 
○遍多《タビマネク》――度多く。マネクは間無くではない。多いといふ意の形容詞である。○不負物可聞《オハヌモノカモ》――嘆を負ふとは、人の嘆によつて恨を受けること。カモは反語。
〔評〕 駿河麻呂が坂上郎女に贈つた歌である。戀愛關係のやうに見えるが、駿河麻呂は坂上郎女の娘なる坂上二孃の夫たることを忘れてはならない。卷四の四〇一參照。こんなことを平氣で言ひあふのが當時の風習と見える。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
647 心には 忘るる日無く 思へども 人の言こそ 繋き君にあれ
 
心者《ココロニハ》 忘日無久《ワスルルヒナク》 雖念《オモヘドモ》 人之事社《ヒトノコトコソ》 繁君爾阿禮《シゲキキミニアレ》
 
私ノ〔二字傍線〕心ノ中デハ忘レル日モナク貴方ヲ〔三字傍線〕思ツテヰマスガ、人ノ口ガヤカマシイ貴方デシテオ目ニカカルコトモ出來マセヌヨ〔シテ〜傍線〕。
 
○人之事社《ヒトノコトコソ》――事は言の借字。
〔評〕 前の歌に答へたのだが、これも娘の婿に言ふ言葉としては、少し變である。四五の句は、男の浮氣を皮肉つたやうなところもある。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
648 相見ずて け長くなりぬ この頃は 如何にさきくや いぶかし吾妹
 
(575)不相見而《アヒミズテ》 氣長久成奴《ケナガクナリヌ》 比日者《コノコロハ》 奈何好去哉《イカニサキクヤ》 言借吾妹《イブカシワギモ》
 
二人逢ハナイデ隨分〔二字傍線〕久シクナリマシタ。コノ頃ハドウデス、御機嫌ハヨイデスカ。氣ニナリマス、貴女ヨ。御知ラセ下サイ〔七字傍線〕。
 
○氣長久成奴《ケナガクナリヌ》――日長く成りぬ。○奈何好去哉《イカニサキクヤ》――御無事かどうですかの意。好去は舊訓ヨシユキとあるは拙い。考にヨケクとよんだのに略解も從つてゐるが、古義にサキクとよんだのがよいやうである。卷九に眞好去有欲得《マサキクアリコソ》(一七九〇)とある。○言借吾妹《イブカシワギモ》――言借は欝悒《イブカシ》の借字。
〔評〕 これは穩やかな普通の音信の言葉である。親愛の情はあらはれてゐる。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
649 夏葛の 絶えぬ使の よどめれば 事しもある如 おもひつるかも
 
夏葛之《ナツクヅノ》 不絶使乃《タエヌツカヒノ》 不通有者《ヨドメレバ》 言下有如《コトシモアルゴト》 念鶴鴨《オモヒツルカモ》
 
(夏葛之)絶エタコトノナイ貴女カラノ〔五字傍線〕使ガ少シト切レタノデ、何カ變リ事デモアルヤウニ氣ガカリニ〔五字傍線〕思ヒマシタワイ。
 
○夏葛之《ナツクズノ》――枕詞。夏は葛蔓の強靱なるより不絶に冠せしめたものか。夏の字を蔓《ハフ》の誤と宣長はいつてゐるが、卷七の釼後鞘納野邇葛引吾妹眞袖以著點等鴨夏草苅母《タチノシリサヤニイリヌニクズヒクワギモマソデモチキセテムトカモナツクサカルモ》(一二七二)とあつて、葛は夏引くもので、夏葛といふ熟語がありさうに思はれる。○言下有如《コトシモアルゴト》――言《コト》は事の借字。シモは強くいふのみ。
〔評〕前の駿河麻呂から贈られた歌と、氣分がぴつたりと合致して、親しさが見えて氣特のよい歌である。
 
右、坂上郎女者、佐保大納言卿(ノ)女也、駿河麻呂(ハ)此(レ)高市大卿之孫也、兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族、是(ヲ)以(テ)題(シ)v歌(ヲ)送答(シ)相2問(フ)起居(ヲ)1
 
(576)佐保大納言は大伴安麻呂。高市大卿は安麻呂の兄、御行。郎女は安麻呂の女で、駿河麻呂は御行の孫であるから、女孫とし、二人は叔母・甥の關係であるから、姑蛭としたのである。考に此は者の誤としたのは、必ずしも從ひがたい。
 
大伴宿禰三依、離(レテ)復相(ヘルヲ)歡(ブ)歌一首
 
三依の傳は五五二に出づ。歡の字、舊本歎とあるは誤。元暦校本・金澤本・神田本等の古本皆歡となつてゐる。
 
650 吾妹子は 常世の國に 住みけらし 昔見しより をちましにけり
 
吾妹兒者《ワギモコハ》 常世國爾《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益爾家利《ヲチマシニケリ》
 
貴女ハ仙郷ニデモ住ンデヰタノデセウ。久シク逢ハナイデヰテ今見ルト〔久シ〜傍線〕、昔見タ時ヨリモ、却ツテ〔三字傍線〕若返リナサツタワイ。
 
○常世國爾《トコヨノクニニ》――常世の國に三義がある。一は遠隔の地即ち外國、二は黄泉即ち死者の行く所、三は不老不死の仙境、即ち蓬莱などをさす。ここは第三に擧げたもので、浦島などの行つた仙人の世界をさしたのである。○愛若益爾家利《ヲチマシニケリ》――愛若《ヲチ》は卷三に復將變八方《マタヲチメヤモ》(三三一)とあるところに説いた通りで、卷五に和我佐可理伊多久久多知奴久毛爾得夫久須利波武等母麻多遠知米也母《ワガサカリイタククダチヌクモニトブクスリハムトモマタヲチメヤモ》(八四七)の遠知《ヲチ》と同じである。舊訓ワカヘマシニケリを攷證にヲチマシニケリとしたのがよい。
〔評〕 久しぶりで逢つた女に、「却つて若くおなりになつた」と歌ひかけたので、歡喜の情から、感じたままを述べたものである。決してお世辭を言つたのではない。蓬莱などを詠み込んだのは、太宰府に行つてゐた、當代の新人らしくて面白い。
 
大伴坂上郎女歌二首
 
651 久堅の 天の露霜 置きにけり 家なる人も 待ち戀ひぬらむ
 
(577)久堅乃《ヒサカタノ》 天露霜《アメノツユシモ》 置二家里《オキニケリ》 宅有人毛《イヘナルヒトモ》 待戀奴濫《マチコヒヌラム》
 
イツノ間ニカ秋ニナツテ〔イツ〜傍線〕(久堅乃)空カラ降ル露ガ置イタワイ。モウ家ヲ離レテ大分ニナツタカラ私モ家ニヰル人ガ戀シイガ〔モウ〜傍線〕、家ニヰル人モ私ヲ〔二字傍線〕戀ヒシガツテ待ツテヰルダラウ。
 
○天露霜《アメノツユシモ》――天から降る露。卷七に詠露の歌に、天之露霜取者消乍《アメノツユジモトレバキエツツ》(一一一六)、卷十に同じく、詠露の歌に秋芽子之枝毛十尾丹露霜置《アキハギノエダモトヲヲニツユジモオキ》(二一七〇)とあり、その他二二五三・二二五七など露霜とあるのは、皆、露のことと思はれる。露と霜とでもなく、露のやうな霜即ち水霜のことでもない。恐らく露じ物の、のを省いた形ではないかと思ふ。宣長は玉かつまに、「ただ露を露霜といはむことは、いかにぞや聞ゆめれども、この名によりて思ふに、志毛《シモ》といふはもとは露をもかねたる惣名にて、その中に氷らであるを、都由志毛《ツユシモ》といひ、省きて都由《ツユ》とのみもいへるなり、そは都由《ツユ》は粒忌《ツブユ》のよしにて、忌《ユ》とは清潔《キヲラ》なるをいふ。雪の由《ユ》も同じ。さればつゆしもとは、粒《ツブ》だちて清らなる志毛《シモ》といふことにぞ有りける」と述べてゐる。○宅有人毛《イヘナルヒトモ》――家に留守居してゐる二人の娘を指したのである。駿河麻呂の妻なる坂上二孃とのみ見る説は當らない。
〔評〕 作者が兄の旅人と共に太宰府にゐた頃、即ち天平二年の秋の作かと思はれる。露の冷やかに置いたのを見て、他郷での長い滯在に驚き、故郷に遺して來た二人の娘を思ひ出したもので、彼女の母性としての愛情が、泉のやうに溢れる哀音は、人の胸を打つものがある。卷六によると、彼の女は、この年の十一月、兄の旅人に先立つて歸京の途に就いてゐる。
 
652 玉主に 玉は授けて かつがつも 枕と吾は いざ二人ねむ
 
玉主爾《タマヌシニ》 珠者授而《タマハサヅケテ》 勝且毛《カツガツモ》 枕與吾者《マクラトワレハ》 率二將宿《イザフタリネム》
 
アノ手放シ難イ〔七字傍線〕玉ノヤウニ思フ娘〔七字傍線〕ヲ娘ノ〔二字傍線〕持主ニマヅマヅ渡シテ置イテ。枕ト私ハサア二人デ淋シク〔三字傍線〕寢ヨウ。
 
○玉主爾《タマヌシニ》――舊訓タマモリニであるが、古葉略類聚鈔・神田本などは、タマヌシとある。いづれでもよいが、ここではタマヌシニを採ることにする。玉主は娘の夫、駿河麻呂をさしたのである。玉はもとより愛娘、坂上(578)二孃をたとへたもの。○勝且毛《カツカツモ》――カツガツは不十分ながら、まづまづこれでもよいからといふやうな意である。授而《サヅケテ》を修辭した副詞である。
〔評〕 娘を嫁がしめた母の、これでどうやらよいと言つたやうな安心と、同時に胸に滿ちて來る寂寥の感とが、あはれに歌はれて、何となく涙ぐましい感じのする作である。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌三首
 
653 心には 忘れぬものを たまたまも 見ぬ日さまねく 月ぞへにける
 
情者《ココロニハ》 不忘物乎《ワスレヌモノヲ》 儻《タマタマモ》 不見日數多《ミヌヒサマネク》 月曾經去來《ツキゾヘニケル》
 
私ハアナタヲ〔六字傍線〕心ニ忘レル時ハナイノニ、時タマニモ逢ハナイ日ガ多クテ、月ガ經ツタ。ホントニ辛イ〔六字傍線〕。
 
○儻《タマタマモ》――この字は本集中此處に一箇所のみ用ゐられたもので、誠に珍らしい。モシ又はタマタマと訓すべき字で、ここは舊訓タマタマモとあり、すべてこれに從つてゐる。ただ攷證のみはタマサカニとよんでゐるが、殊更に異を立てるにも及ぶまい。この句略解には、「思ひかけず不意に也」と言つてゐるけれども、稀にの意と見る方がよいかと思はれる。○不見日數多《ミヌヒサマネク》――卷十八に月可佐禰美奴日佐末禰美《ツキカサネミヌヒサマネミ》(四一一六)、卷十七に見奴日佐麻禰美孤悲思家武可母《ミヌヒサマネミコヒシケムカモ》(三九九五)とあるによつて訓むがよい。
〔評〕 心に思ひつつも、故障があつて、全く逢ふことが出來ないのを悲しんだ歌。平易な表現ながら、感情はあらはれてゐる。
 
654 あひ見ては 月もへなくに 戀ふといはば をそろと吾を 思ほさむかも
 
相見者《アヒミテハ》 月毛不經爾《ツキモヘナクニ》 戀云者《コフトイハバ》 乎曾呂登吾乎《ヲソロトワレヲ》 於毛保寒毳《オモホサムカモ》
 
私ハ貴方ニ〔五字傍線〕オ目ニカカツテカラ、未ダ一月ニモナラナイノニ、モウ戀シイト言ツタナラバ、嘘ダヨト貴方ハ〔三字傍線〕私ヲ思シ召スデセウカナア。
 
○乎曾呂登吾乎《ヲソロトワレヲ》――乎曾《ヲソ》は嘘《ウソ》に同じ。卷十四に可良須等布於保乎曾杼里能《カラストフオホヲソドリノ》(三五二一)とあるも、烏といふ大嘘鳥(579)の意。呂は添へていふ詞で、東歌には用例が極めて多い、ここはよ〔傍点〕と同じ意と思はれる。○於毛保寒毳《オモホサムカモ》――寒毳の用字が振つてゐる。毳の字は氈と同じで、かもしかの皮などの敷物である。句意は明らかであらう。
 
〔評〕 乎曾呂といふ語は東語で、都人には普通使はれなかつたものであらう。少くとも餘程下卑た語であつたらう。これを用ゐて、この歌の中心點としてゐるのが、人の興味をひいたであらうと思はれる。
 
655 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさむ うたがふなゆめ
 
不念乎《オモハヌヲ》 思常云者《オモフトイハバ》 天地之《アメツチノ》 神祇毛知寒《カミモシラサム》 邑禮左變《ウタガフナユメ》
 
戀シクモ〔四字傍線〕思ハナイノニ戀シク〔三字傍線〕思フヤウナコトヲ言ツタナラバ、天地ノ神樣方モ御存ジテアラウカラ私ハ罰ヲ受ケマス〔カラ〜傍線〕。決シテ疑ヒナサルナ。
 
○邑禮左變《ウタガフナユメ》――この句は必ず誤字であらう。舊訓サトレサカハリとあるが意が通じない。その他文字を改めて、童蒙抄は巴禮左變《トマレカクマレ》、考は哥詞名齋《ウタガフナユメ》、古義は言借名齋《イフカルナユメ》としてゐる。ここでは假に考の説に從つて置く。
〔評〕前に不念乎思當云者大野有三笠杜之神思知三《オモハヌヲオモフトイハバオホヌナルミカサノモリノカミシシラサム》(五六一)といふ太宰大監大伴宿禰百代の歌があつて、それが卷十二の不想乎想常云者眞鳥住卯名手乃社之神思將御知《オモハヌヲオモフトイハバマトリスムウナテノモリノカミシシラサム》(三一〇〇)の燒直したることを述べたが、これも同じくその改作に過ぎない。
 
大伴坂上郎女歌六首
 
656 吾のみぞ 君には戀ふる 吾背子が 戀ふとふことは ことのなぐさぞ
 
吾耳曾《ワレノミゾ》 君爾者戀流《キミニハコフル》 吾背子之《ワガセコガ》 戀云事波《コフトフコトハ》 言乃名具左曾《コトノナグサゾ》
 
私バカリガホントニ〔四字傍線〕貴方ヲ思ツテヰルノデス。貴方ガ私ヲ〔二字傍線〕思ツテヰルナドトイフコトハ、唯ノ〔二字傍線〕慰メノ言葉ニ過ギマセンヨ。私ハ信用シマセヌ〔八字傍線〕。
 
○言乃名具左曾《コトノナグサゾ》――名具左《ナグサ》は慰めで、この句は氣休めの言葉ぞといふやうな意。卷七にも黙然不有跡事之名種(580)爾云言乎《モダアラジトコトノナグサニイフコトヲ》(一二五八)とある。
〔評〕 明快な直線的の歌。調子が緊張して力がある。
 
657 思はじと 言ひてしものを はねず色の うつろひやすき わが心かも
 
不念常《オモハジト》 曰手師物乎《イヒテシモノヲ》 翼酢色之《ハネズイロノ》 變安寸《ウツロヒヤスキ》 吾意可聞《ワガココロカモ》
 
私ハ貴方ノコトハモウ〔私ハ〜傍線〕思フマイ、斷念シヨウ〔五字傍線〕ト言ヒマシタガ、サウモ行カナイデ、ヤハリ貴方ヲ思ヒマス〔サウ〜傍線〕。(翼酢色之)變リヤスイ私ノ心デスナア。ホントニドウシタノデセウ〔ホン〜傍線〕。
 
○翼酢色之《ハネズイロノ》――枕詞。ハネズは卷十二には唐棣花(三〇七四)と記してある。仙覺抄に「或云庭櫻或云李花或云木蓮花」とあり、後世の學者にも諸説あるが、卷八に夏儲而開有波禰受《ナツマケテサキタルハネズ》(一四八五)とあるから、暮春の花で、卷十一の翼酢色乃赤裳之爲形《ハネズイロノアカモノスガタ》(二七八六)から推しても、亦天武天皇紀に「勅定2明位已下之朝服色1淨位已上者朱華朱華此云波泥須」とあるので見ても、染料に用ゐた赤い花たることは論がない。うつろひ易いのはその染色が變り易いのである。これらの諸點から考へて、庭梅説が當つてゐるやうに思はれる。庭梅は庭櫻と同じで、委しくいへば單瓣なるを庭梅と稱し、重瓣なるを庭櫻といふやうである。淡紅色の小花を開く灌木で、果實は櫻實のやうな赤い小果で、食ふに堪へる。
〔評〕 うつろひ易いとは、薄情な浮氣心をいふのであるが、それを反對に、戀を斷念しようとして斷念し得ないことに用ゐてゐるのが、珍らしくて面白い。
 
658 思へども しるしもなしと 知るものを いかにここだく 吾が戀ひわたる
 
雖念《オモヘドモ》 知僧裳無跡《シルシモナシト》 知物乎《シルモノヲ》 奈何幾許《イカニココダク》 吾戀渡《ワガコヒワタル》
 
イクラ思ツテモ何ノ甲斐モナイトイフコトハ知ツテヰルノニ、ドウシテコンナニ〔四字傍線〕頻リニアノ人ヲ〔四字傍線〕私ハ思ヒ續ケルノデアラウア。吾マガラ呆レタモノダ〔我ナ〜傍線〕。
 
(581)○知僧裳無跡《シルシモナシト》――舊訓もシルシモナシトであるが、僧の字シとよむべき謂がない。考は倍と改めてシルベとし、略解は信《シ》の誤だらうと言つてゐる。略解に從ふがよい。○奈何幾許《イカニココダク》――奈何はナゾ・ナニカとよんだ説が多いけれども、ここは懸者奈何將有《カケバイカニアラム》(二八五)・奈何梶取《イカニカヂトリ》(一一三五)の例によつてイカニとよむことにする。
(評) 理智を離れた、止むに止まれぬ戀を歌つたのである。四の句が力強く且いたいたしく、苦悶の喘を語つてゐる。
 
659 あらかじめ 人言繁し かくしあらば しゑや吾が背子 奧も如何にあらめ
 
豫《アラカジメ》 人事繁《ヒトゴトシゲシ》 如是有者《カクシアラバ》 四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》 奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》
 
唯一寸逢ツタバカリダノニ〔唯一〜傍線〕、今カラモウ人ノ口ガヤカマシイ。コンナコトナラバ、エエ困ツタ。貴方、コレカラ先ハドウナルデセウ。心配ナコトデス〔七字傍線〕。
 
○四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》――シヱヤは歎息の語で、困惑の情を述べたのである。ヨシヤと解するは當らない。卷十の思惠也安多良思又將相八方《シヱヤアタラシマタアハメヤモ》(二一二〇)、卷十一の思惠也出來根後者何將爲《シヱヤイデコネノチハナニニセム》(二五一九)・四惠也壽之〓無《シヱヤイノチノヲシケクモナシ》(二六六一)など、いづれも歎息の語と見るべきである。○奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ)》――行末如何にあらむといふのだ。奧を置くの意とした、新考の説は解しがたい。こその係辭なくしてアラメで結んだのは、集中他に例がある。
〔評〕 人口を恐れ行末を案ずる、女らしい歌だ。東歌にあるやうに於久乎奈加禰曾麻佐可思余加婆《オクヲナカネソマサカシヨカバ》(三四一〇)とまでは大膽になり得ないのである。
 
660 汝をと吾を 人ぞさくなる いで吾君 人の中言 聞きこすなゆめ
 
汝乎奧吾乎《ナヲトアヲ》 人曾離奈流《ヒトゾサクナル》 乞吾君《イデワギミ》 人之中言《ヒトノナカゴト》 聞起名湯目《キキコスナユメ》
 
貴方ト私トノ間ヲ人ガ引離サウトシマスヨ。サア、貴方ヨ。人ガ間ニ立ツテ言フ言葉ヲ決シテオ聞キナサルナ。
 
○人之中言《ヒトノナカゴト》――他人の中傷の言。○聞起名湯目《キキコスナユメ》――起はオコスのオを省いて、コスとよむのだと見る説もあるが、卷十一、有超名湯目《アリコスナユメ》(二七一二)とあるので見ると、超《コス》の誤であらう。越と見る説もある。舊訓キキタツナユ(582)メとあるのは、穩やかでないやうだ。コスは希望の助詞コソの轉である。
〔評〕 これも女らしい歌、甘い戀の破滅を恐れる危惧の念と、惶惑の情とがあはれに訴へられてゐる。
 
661 戀ひ戀ひて 逢へる時だに うつくしき 言盡してよ 長くと思はば
 
戀戀而《コヒコヒテ》 相有時谷《アヘルトキダニ》 愛寸《ウツクシキ》 事盡手四《コトツクシテヨ》 長常念者《ナガクトモハバ》
 
行末永ク逢ハウト思召スナラバ、戀シガツテ戀シガツテ、ヤツト〔三字傍線〕逢ツタ時ダケデモ、セメテ情ノ籠ツタ言葉ノアリタケヲ仰ツテ下サイヨ。
 
○愛寸《ウツクシキ》――ナツカシキ、ウルハシキの訓もある。ウルハシキでも、ここはよいやうであるが、舊訓に從ふことにする。
〔評〕 男に身を寄せかけて、そのやさしい言葉を聞かうとする、なよやかな態度である。男の頑な心もこれには敵すまいと思はれる。
 
市原王歌一首
 
市原王の傳は卷三の四一二參照。
 
662 阿胡の山 五百重かくせる 佐堤の埼 さではへし子が 夢にし見ゆる
 
網兒之山《アゴノヤマ》 五百重隱有《イホヘカクセル》 佐堤乃埼《サデノサキ》 左手繩師子之《サデハヘシコガ》 夢二四所見《イメニシミユル》
 
阿胡ノ山ガ幾重ニモ重ツテ、隱シタヤウニナツテヰル佐堤ノ埼デ、小網ヲ張ツテ漁ヲシテ〔四字傍線〕ヰタ女ガ夢ニ見エルヨ。
 
○網兒之山《アゴノヤマ》――志摩國の英虞である。卷一に嗚呼兒乃浦《アゴノウラ》(四〇)とあつた地である。大日本地名辭書に今の鳥羽の異名とあれど、後世の英虞郡の地方と思はれるから、もつと南方である。持統天皇六年に行幸のあつた阿胡行宮も、同郡の國府あたりであらうと思はれる。○佐堤乃埼《サデノサキ》――大日本地名辭書には、これを鳥初灣中の坂手(583)島に擬してゐるが、この歌の趣ではさうは思はれない。やはり志摩南方の岬であらう。宣長が、神名帳伊勢朝明郡に志?神社があり、今、志?《シテ》埼といふ地としたのは、地理に合はない。二四の地圖參照。○左手蠅師子之《サデハヘシコガ》――サデは小網である。卷一に下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタシ》(三八)とあつた。上の佐堤乃埼と同音を繰返してゐる。
〔評〕 旅で逢つた海女の美しかつたのを思ひ出して、詠んだものである。上の句を契沖は序とし、新考もこれを採つてゐるが、サデの音の反覆が、さうした感を與へるのであらうけれども、上句に、阿胡の山の彼方に遠い佐堤乃埼を思ひ出した情が見はれてゐて、決して序詞ではない。微妙な旋律が流れてゐるやうな歌である。
 
安部宿禰年足歌一首
 
元暦校本に部の字は都となつてゐる。目録も同じ。安部は安倍氏としても、朝臣であるから、ここに宿禰とあるに合はない。安都は阿刀か。續紀に養老三年五月正八位下阿刀連人足等に宿禰の姓を賜ふことあり、寶龜二年十一月正六位上阿刀宿禰眞足に外從五位下を授けるなどのことが見えてゐる。契沖は年足は人足の子で、眞足の父かと言つてゐるが、恐らくこの一族であらう。
 
663 佐保渡り 吾家の上に 鳴く鳥の 聲なつかしき はしき妻の兒
 
佐穗度《サホワタリ》 吾家之上二《ワギヘノウヘニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 音夏可思吉《コヱナツカシキ》 愛妻之兒《ハシキツマノコ》
 
(佐穗度吾家之上二鳴鳥之)聲ガナツカシイ可愛イ私ノ妻ヨ。
 
○佐穗度吾家之上二鳴鳥之《サホワタリワギヘノウヘニナクトリノ》――音《コヱ》といふ爲の序詞で、佐穗度《サホワタリ》は佐保川を渡りて、吾家之上二《ワギヘノウヘニ》は屋上を掠めて飛び行く意であらう。古義に「上はほとり、あたりなどいふが如し」と言つてゐる。新考には音《コヱ》までを序詞としてゐる。○愛妻之兒《ハシキツマノコ》――妻之兒とは妻を親しんで言つたもので、卷二に若草其嬬子者《ワカクサソノツマノコハ》(二一七)、卷十に其夫乃子我《ソノツマノコガ》(二〇八九)、卷十八に波之吉余之曾能都末能古等《ハシキヨシソノツマノコト》(四一〇六)などの例がある。
〔評〕 作者は佐保川のほとりに住んでゐたものと見える。この序は決してただ無意味に置いたものではあるまい。聲聞くだにもなつかしい妻、その聲を聞けば萬づの物思ひも消え失せる妻よと、愛妻禮讃の聲が至つて生(584)眞面目である。
 
大伴宿禰|像見《カタミ》歌一首
 
像見は續紀に「天平寶字八年十月庚午、正六位上大伴宿禰形見授2從五位下1、景雲二年三月戊寅爲2左大舍人助1、寶龜三年正月甲申從五位上」などと見える。
 
664 石上 ふるとも雨に 障らめや 妹に逢はむと 言ひてしものを
 
石上《イソノカミ》 零十方雨二《フルトモアメニ》 將關哉《サハラメヤ》 妹似相武登《イモニアハムト》 言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》
 
(石上)降ツテモ雨ニ邪魔サレテ行カナイ〔五字傍線〕コトガアラウカ。私ハ〔二字傍線〕女ト逢フト約束ヲシタノダカラ、ドンナニ降ツテモ關ハズニ行クツモリダ〔ドン〜傍線〕。
 
○石上《イソノカミ》――枕詞。石上の布留の地名を降るにかけたのである。○將關哉《サハラメヤ》――障らめやである。代匠記にセカレメヤ、古義にツツマメヤとあるけれども、舊訓のままがよい。
〔評〕 眞實な戀で、淳朴な無垢な生地そのままの聲である。平安朝の人にも好まれたものと見えて、拾遺集に「石上ふるとも雨にさはらめや逢はむと妹にいひてしものを」とあり、落窪物語にもこれを引歌として、「いでや降るともといふこともあるを云々」と書いてゐる。
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
安倍蟲麻呂は續紀によると皇后宮亮・中務少輔・播磨守・中務大輔などに任ぜられて、天平勝寶四年三月に從四位下で卒した人である。太宰少貳藤原廣嗣の亂には、勅をうけて軍事に參與してゐる。
 
665 向ひゐて 見れども飽かぬ 吾妹子に 立ち離れ行かむ たづき知らずも
 
向座而《ムカヒヰテ》 雖見不飽《ミレドモアカヌ》 吾妹子二《ワギモコニ》 立離往六《タチワカレユカム》 田付不知毛《タヅキシラズモ》
 
差シ向ニニナツテヰテ、見テモ飽カナイ私ノ愛スル女ニ、別レテ行ク方法ヲ知ラナイワイ。ナツカシクテトテ(585)モ別レラレナイ〔ナツ〜傍線〕。
〔評〕 左註によれば、大伴坂上郎女に戯れて贈つた歌で、戀歌らしく誇張してあるのが面白いといふべきか。
 
大伴坂上郎女(ノ)歌二首
 
666 相見ぬは いくばく久も あらなくに ここだく吾は 戀ひつつもあるか
 
不相見者《アヒミヌハ》 幾久毛《イクバクヒサモ》 不有國《アラナクニ》 幾許吾者《ココダクワレハ》 戀乍裳荒鹿《コヒツツモアルカ》
 
オ目ニカカリマセンノハ、ドレホト久シイトイフノデモアリマセンノニ、大層私は戀シク思ツテ居リマスヨ。
 
○不相見者《アヒミヌハ》――相逢はざることはの意。古義に者を而の誤として、アヒミズテと改めたのは、專斷であらう。
○戀乍裳荒鹿《コヒツツモアルカ》――アルカはあるかなの意。
〔評〕 右の歌に答へたもので、これは平板な作である。
 
667 戀ひ戀ひて 逢ひたるものを 月しあれば 夜はこもるらむ しましは在りまて
 
戀戀而《コヒコヒテ》 相有物乎《アヒタルモノヲ》 月四有者《ツキシアレバ》 夜波隱良武《ヨハコモルラム》 須臾羽蟻待《シマシハアリマテ》
 
戀シク思ヒ戀シク思ツタ末ニヤツト〔三字傍線〕、逢ツタノデスノニ、マダ月ガアルノデ見ルト、夜ガアケルマデニ間ガアルノデセウ。モウ暫時サウシテ待ツテイラツシヤイ。オ急ナサイマスナ〔九字傍線〕。
 
○夜波隱良武《ヨハコモルヲム》――夜は未だ深くて明けないであらうの意。
〔評〕 この串戯はかなりに深入してゐる。今の若い男女では、かうした戯言は一寸言ひかねるであらう。ここに時代相も見え、作者の個性もあらはれてゐると言へよう。
 
右、大伴坂上郎女之母石川内命婦|與《ト》2安倍朝臣蟲滿之母|安曇《アヅミ》外命婦1、同居(ノ)姉妹、同氣之親焉、縁(リテ)v此(ニ)郎女(ト)蟲滿(ト)相見(ルコト)不v踈(カラ)相談(ラフ)既(ニ)密(ナリ)、聊(カ)作(リテ)2戯歌(ヲ)1以(テ)爲(ス)2問答(ヲ)1也
 
(586)石川内命婦は安麻呂の妻、邑婆《オホバ》のこと。安曇外命婦は邑婆の姉妹である。令義解の職員令中務省の部に、内外(ノ)命婦を註して「謂婦人帶2五位以上1曰2内命婦1。五位以上妻曰2外(ノ)命婦1也」とある。
 
厚見《アツミ》王謌一首
 
厚見王は續紀に「天平勝寶元年四月庚午朔丁未授2無位厚見王從五位下1。七年十一月丁己遣2少納言厚見王1奉幣2帛于伊勢太神宮1。天平寶字元年五月丁卯授2厚見王從五位上1」と見える。
 
668 朝にけに 色づく山の 白雲の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに
 
朝爾日爾《アサニケニ》 色付山乃《イロヅクヤマノ》 白雲之《シラクモノ》 可思過《オモヒスグベキ》 君爾不有國《キミニアラナクニ》
 
(朝爾日爾色付山乃白雲之)思ヒヲ他所へ遣ツテ忘レテシマハレルヤウナ貴方デハナイヨ。私ハ貴方ヲドウシテモ忘レルコトハ出來マセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
○朝爾日爾色付山乃白雲之《アサニケニイロヅクヤマノシラクモノ》――過ぐとつづく序詞。日毎に紅葉する山にかかつてゐる白雲は、その動きが殊更目立つから、かう續けたのであらう。○可思過《オモヒスグベキ》――思を遣り過ぐすべき。○君爾不有國《キミニアラナクニ》――君にはあらぬよの意で、不有國《アラナクニ》は、ないのにと譯しては當らない。
〔評〕 この下に、大伴千室の歌として、如此耳戀哉將度秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《カクノミニコヒヤワタラムアキツヌニタナビククモノスグトハナシニ》(六九三)とあるのも、似た歌であるが、これは紅葉する山の白雲を序としてゐるので、紅葉と白雲との配合も、目に快さを思はしめる。又曰、この歌は此處の年次から考へると、王未だ弱年でおはした頃の作である。
 
春日王歌一首
 
元磨校本にこの下、小字で「志貴皇子之子母曰多紀皇女也」とある。
 
669 足引の 山橘の 色に出でよ 語らひ繼ぎて 逢ふこともあらむ
 
足引之《アシヒキノ》 山橘乃《ヤマタチバナノ》 色丹出而《イロニイデヨ》 語言繼而《カタラヒツギテ》 相事毛將有《アフコトモアラム》
 
(587)(足引之山橘乃)顔色ニ出シテ大ビラニ戀ヲシ〔七字傍線〕ナサイ。サウシタラ私ドモ二人ハオ互ニ〔サウ〜傍線〕思ヒヲ語リ合ツテ、永ク逢フコトモ出來ルデアラウ。忍ンデヰテハ却ツテ逢ハレサウニモナイカラ〔忍ン〜傍線〕。
 
○足引之山橘乃《アシビキノヤマタチバナノ》――足引之は山の枕詞。山橘は今ヤブカウジと稱するもの。山林の陰地に生ずる常緑の小灌木で、高さは四尺に滿たない。その果實は赤く小さくて可憐である。その色が美しく目立つから、色丹出《イロニイデヨ》の序となるのである。○色丹出而《イロニイデヨ》――而の字、元暦校本に與の草體になつてゐるに從ふべきであらう。この儘では歌の意が解し難い。○語言繼而《カタラヒツギテ》――二人で語り合ふことを永く繼續しての意であらう。宣長は言は者の誤で、カタラバツギテであらうと言つてゐる。
〔評〕 逢ひ難き煩悶に堪へ兼ねて、積極的方針によつて活路を求めようといふのである。一寸變つた歌である。
 
湯原王歌一首
 
670 月讀の 光に來ませ あし曳の 山をへだてて 遠からなくに
 
月讀之《ツクヨミノ》 光二來益《ヒカリニキマセ》 足疾乃《アシビキノ》 山乎隔而《ヤマヲヘダテテ》 不遠國《トホカラナクニ》
 
月ノ光ヲタヨリトシテ〔六字傍線〕テ通ツテ〔三字傍線〕オイデナサイ。貴方ノ所カラ私ノ所マデハ〔貴方〜傍線〕(足疾乃)山越シテ來ル程ノ、遠イ道デモアリマセンカラ。
 
○月讀之《ツクヨミノ》――古事記に月讀命、書紀に月弓尊・月夜見尊・月讀尊とあつて、月神の名であるが、ここは月のことに用ゐてゐる。○足疾乃《アシビキノ》――疾の字をヒキとよんだ例は他にない。足を疾んで引きずり行く意で、ヒキとよましめるのでもあらうか。○山乎隔而《ヤマヲヘダテテ》――乎の字、元暦校本に寸に作るによれば、ヤマキヘナリテとよむべきであらうが、意がよく通じない。この句は山を隔ててゐる程にの意であらう。
(588)〔評〕 柔らかな感じの歌である。古義が題詞の上に娘子贈の三字を補つて、娘子から湯原王に贈つた歌としたのは、妄斷ではあるが、氣分の上からはさうも考へ得るのである。良寛の「月よみの光をまちて歸りませ山路は栗のいがの多きに」は、この歌と、下の夕闇者《ユフヤミハ》(七〇九)の歌との影響を受けてゐると思はれる。
 
和(フル)歌一首
 
元暦校本には、ここに「不審作者」と小字で記してある。
 
671 月讀の 光は清く 照らせれど まどへる心 堪へずおもほゆ
 
月讀之《ツクヨミノ》 光者清《ヒカリハキヨク》 雖照有《テラセレド》 惑情《マドヘルココロ》 不堪念《タヘズオモホユ》
 
月ノ光ハ明ラカニ照ラシテヰマスガ、私ガ貴方ヲ思ツテ〔八字傍線〕惑ツテヰル心ハ、眞暗デ行クニ〔六字傍線〕堪ヘマイト思ハレマス。
 
○光者清《ヒカリハキヨク》――略解にはヒカリハサヤニとよんでゐる。清の字はサヤ、サヤカとよむ例が多いが、必すしもさう限るべきではない。左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》(三二三四)の如きもある。ここは舊訓に從つて置く。○不堪念《タヘズオモホユ》――これも考にタヘジトゾオモフとよんだのが廣く行はれてゐるけれども、尚、舊訓のままでよからう。
〔評〕 古義は題詞の上に、湯原王の三字を補つて、湯原王が娘子に和へた歌としてゐる。成るほど前の歌よりも優麗さが足りなくて、男性の作とも言へるが、さう改めるのはあまり獨斷に過ぎる。先方の誘引に對して、自己の戀の煩悶を訴へたものである。必ずしも拒絶したのではない。
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首
 
672 しづたまき 數にもあらぬ 命もち いかにここだく 吾が戀ひわたる
 
倭文手纏《シヅタマキ》 數二毛不有《カズニモアラヌ》 壽持《イノチモチ》 奈何幾許《イカニココダク》 吾戀渡《ワガコヒワタル》
 
(倭文手纏)人數ニ入ラナイヤウナ賤シイ〔三字傍線〕身ヲ持チナガラ、ドウシテコンナニ〔四字傍線〕ヒドク、私ハ戀ヒツヅケテヰルノデアラウ。誰モ相手ニシナイノニ、ツマラヌコトダ〔誰モ〜傍線〕。
 
(589)○倭文手纏《シヅタマキ》――枕詞。數二毛不有《カズニモアラ337とつづくのは、卷九に倭文手纏賤吾之故《シヅタマキイヤシキワガユヱ》(一八〇九)とあると同樣に、シヅを賤しき意として、つづけたのであらう。手纏《タマキ》は手に纏く飾の玉であらう。字鏡には釧の字を太萬支とよんでゐる。シヅタマキは即ち賤しき手玉である。別に武装の場合に用ゐる籠手《コテ》の如きものをタマキと言つた例もあるが、これはさうではない。○壽持《イノチモチ》――數にもあらぬ命とは、少し妥當でないやうに聞えるところから、考は壽を身《ミ》の誤とし、略解は吾身《ワガミ》の二字の誤としてゐるが、イノチは命ある身、即ち肉體といふ意に用ゐたものとして、この儘でよからう。
〔評〕 前に坂上郎女の歌(六五八)に下句がこれと全く同じものがある。或はあの歌とこれとは贈答の關係になつてゐるか。
 
大伴坂上郎女歌二首
 
673 まそ鏡 とぎし心を ゆるしてば 後にいふとも しるしあらめやも
 
眞十鏡《マソカガミ》 磨師心乎《トギシココロヲ》 縱者《ユルシテバ》 後爾雖云《ノチニイフトモ》 驗將在八方《シルシアラメヤモ》
 
(眞十鏡)研ギ澄シタ清イ私ノ〔四字傍線〕心ヲ許シテ人ニ身ヲ任セ〔七字傍線〕タナラバ、後ニナツテ悔イテ兎ヤ角〔六字傍線〕言ツテモ、何ノ甲斐モアリマセンヨ。ダカラナカナカ心ガ許セマセヌ〔ダカ〜傍線〕。
 
○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。鏡は磨ぎて明らかにするものであるから、磨師《トギシ》とつづけてある。○磨師心乎《トギシココロヲ》――研ぎ澄したやうな清い心、僞を知らぬ純潔な心といふやうな意であらう。
〔評〕 男から戀を求められた殆ど總べての女が、言はむとするところを代つて言つてゐるやうな歌である。前の六一九のこの人の長歌に、この上句と全く同じ句が使つてある。
 
674 眞玉つく をちこちかねて 言はいへど 逢ひて後こそ 悔にはありと言へ
 
眞玉付《マタマツク》 彼此兼手《ヲチコチカネテ》 言齒五十戸常《コトハイヘド》 相而後社《アヒテノチコソ》 悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》
 
(眞玉付)今デモ後デモ、決シテ變ラナイト〔八字傍線〕、口ニハ仰ルガ、逢ツタ後デハ、貴方ニ捨テラレテ〔八字傍線〕、悔イルモノダ(590)ト人ガ言ヒマス。デスカラナカナカ從ハレマセヌ〔デス〜傍線〕。
○眞玉付《マタマツク》――枕詞。玉を付けた緒とつづけるのである。○彼此兼手《ヲチコチ勿ネテ》――ヲチは未來を、コチは現在をいふ。カネテは、かけてに同じ。現在より未來に渡つて、永くの意。○言齒五十戸常《コトハイヘド》――言葉には言へどの意。舊訓イヒハイヘドとある。今は考による。○悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》――二の字を衍とする説が多いが、必ずしもさうではあるまい。
〔評〕 卷十二に眞玉就越乞兼而結鶴《マタマツクヲチコチカネテムスヒツル》(二九七三)とあるから、冒頭の二句はその模倣であらう。下句は前の歌と同意で、男の誠意を疑つてゐる。若い女への良い教訓でもある。
 
中臣女郎贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌五首
 
中臣女郎の傳は詳でない。
 
675 女郎花 佐紀澤に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 戀もするかも
 
娘子部四《ヲミナヘシ》 咲澤二生流《サキサハニオフル》 花勝見《ハナカツミ》 都毛不知《カツテモシラヌ》 戀裳摺可聞《コヒモスルカモ》
 
(娘子部四咲澤二生流花勝見)全ク知ラナカツタ苦シイ〔三字傍線〕戀ヲ私ハ〔二字傍線〕シマスワイ。コレモ貴方故デス〔八字傍線〕。
 
○娘子部四咲澤二生流花勝見《ヲミナヘシサキサハニオフルハナカツミ》――都《カツテ》と言はむ爲の序。娘子部四《ヲミナヘシ》は女郎花で、咲きとつづけた枕詞である。咲澤は卷一に長皇子與2志貴皇子1於2佐紀宮1倶宴(八四)とある佐妃地方の澤であらう。卷十に姫部思咲野爾生白管自《ヲミナヘシサキヌニオフルシラツツジ》(一九〇五)とも、佳人部思咲野之芽子爾《ヲミナヘシサキヌノハギニ》(二一〇七)ともあり、卷十一には垣津旗開沼之菅乎《カキツバタサキヌノスゲヲ》(二八一八)、卷十二には垣津旗開澤澤生菅根之《カキツバタサキサハニオフルスガノネノ》(三〇五二)とあり、いづれも(591)同地で、平城京の北方である。花勝見は古來種々論ぜられた草で、眞菰の異名とする説が廣く行はれてゐるが、白井光太郎氏が、野生の花菖蒲の一種で、日光で赤沼あやめといふものだと斷定せられたのは、恐らく妥當な見解であらう。この圖は「日光」の中に收めてある同氏の論文の挿圖を縮寫したものである。この花は古今集に「みちのくの淺香の沼の花かつみかつ見る人に戀やわたらむ」とよまれ、實方の傳説などもあつて、後世頗る名高いものとなつた。○都毛不知《カツテモシラヌ》――都はスベテといふ字であつて、カツテはスベテの意である。曾の字を書くカツテとは違つてゐる。
〔評〕 右に掲げた卷十・十一・十二の諸例によつて明らかなる如く、この歌の一二句は古來の型によつたものであるが、花勝見以下の連續は、洵に無理のない、滯のない調子である。住い作と言はねばならぬ。古今集の淺香の沼の歌は、蓋しこれを本としたものであらう。
 
676 わたの底 奧を深めて 吾がもへる 君には逢はむ 年は經ぬとも
 
海底《ワタノソコ》 奧乎深目手《オキヲフカメテ》 吾念有《ワガモヘル》 君二波將相《キミニハアハム》 年者經十方《トシハヘヌトモ》
 
(海底奧乎)深ク心ニ染ミテ、私ガ思ツテヰル貴方ニ、タトヒ〔三字傍線〕年ガ經ツタ後デモ、何時カ〔三字傍線〕オ目ニカカリマセウ。決シテ思切リハ致シマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○海底奧乎 《ワタノソコオキヲ》――深目手《フカメテ》と言はむ爲の序。深目手《フカメテ》は心を深くしての意で、心深く、熱心になどに同じ。
〔評〕 卷十一に、海底奧乎深目手生藻之最今社戀者爲便無寸《ワタノソコオキヲフカメテオフルモノイトモイマコソコヒハスベナキ》(二七八一)とあるのと、初二句同じで、又卷十六に如是耳爾有家流物乎猪名川之奧乎深目而吾念有來《カクノミニアリケルモノヲヰナカハノオキヲフカメテワガモヘリケル》(三七〇四)の下句とも似てゐる、恐らくかういふ歌を先蹤としたのであらう。かなはぬ戀を斷念し得ぬ心中があはれである。
 
677 春日山 朝ゐる雲の おほほしく 知らぬ人にも 戀ふるものかも
 
春日山《カスガヤマ》 朝居雲乃《アサヰルクモノ》 鬱《オホホシク》 不知人爾毛《シラヌヒトニモ》 戀物香聞《コフルモノカモ》
 
私ハ未ダ〔四字傍線〕見タコトノナイ人ヲ、(春日山朝居雲乃)オボツカナクモ、戀ヲシマスワイ。思ノ晴シヤウガナクテ、(592)マコトニ不安デス〔思ノ〜傍線〕。
 
○春日山朝居雲乃《カスガヤマアサヰルクモノ》――欝《オホホシク》と言はむ爲の序。雲がかかれば、おぼつかない感がするからである。○欝《オホホシク》――心の晴れないで、不安の思あるを言つたので、この句は戀ふるにかかつてゐる。
〔評〕 春日山に朝居る雲を序としたのは、蓋し日毎に見る實景を捉へたものであらう。下にも春日野爾朝居雲之敷布二《カスガヌニアサヰルクモノシクシクニ》(六九八)とある。不知人爾毛《シラスヒトニモ》とあるので見ると、女郎はまた家持に逢はぬと見える。哀切な戀である。
 
678 直に逢ひて 見てばのみこそ たまきはる 命に向ふ 吾が戀止まめ
 
直相而《タダニアヒテ》 見而者耳社《ミテバノミコソ》 靈尅《タマキハル》 命向《イノチニムカフ》 吾戀止眼《ワガコヒヤマメ》
 
直接ニ貴方ニ〔三字傍線〕逢ツテ、オ目ニカカリサヘスレバ(靈尅)命トカケカヘノ私ノ戀モ、止ムデアリマセウ。ソノ外ニ戀ノヤミヤウハアリマセヌ、ドウカシテオ目ニカカリタウゴザイイマス〔ソノ〜傍線〕。
 
○見而者耳社《ミテバノミコソ》――見たらばのみこその意。○靈尅《タマキハル》――枕詞。魂極まる命とつづくのである。○命向《イノチニムカフ》――命に匹敵する意。即ち命をかけたるに同じ。
〔評〕 この五首中で、他の四首が比較的微温的なのに比して、これは甚だ強烈で、熱情が燃えてゐるやうである。併しこれも卷十二の二八八三の一云に、外目毛君光儀乎見而者社壽向吾戀止目《ヨソメニモキミガスガタヲミテバコソイノチニムカフワガコヒヤマメ》と下句が全く同じであるから、作者に多大の讃辭を呈するわけには行かぬ。
 
679 いなと言はば 強ひめや吾が背 菅の根の 念ひ亂れて 戀ひつつもあらむ
 
不欲常云者《イナトイハバ》 將強哉吾背《シヒメヤワガセ》 菅根之《スゲノネノ》 念亂而《オモヒミダレテ》 戀管母將有《コヒツツモアラム》
 
貴方ガ〔三字傍線〕嫌ダト仰ルナラ貴方ヨ。無理ニ申シマセウカ。決シテ無理ニ私ノ心ヲ叶へテ下サイトハ申シマセヌ。唯私ハ心ノ中デ〔決シ〜傍線〕(菅根之)思ヒ亂レテ戀ヒ慕ツテ居リマセウ。
 
○菅根之《スガノネノ》――枕詞。菅の根が彼方此方に根を張るので、亂れに冠したのである。
〔評〕 いかにも消極的態度である。しかしこれが却つて男を動かす所以でもある。眞の手弱女振りと言つてよか(593)らう。
 
大伴宿禰家持、與2交遊1別(ルル)歌三首
 
目録には別の字の下に久の字がある。交遊は仲のよかつた友の意。
 
680 蓋しくも 人の中言 聞けるかも ここだく待てど 君が來まさぬ
 
蓋毛《ケダシクモ》 人之中言《ヒトノナカゴト》 聞可毛《キケルカモ》 幾許雖待《ココダクマテド》 君之不來益《キミガキマサヌ》
 
多分貴方ハ二人ノ間ヲ割カウトシテヰル〔貴方〜傍線〕人ノ中傷ノ言葉ヲ聞イタノデセウ。コンナニ〔四字傍線〕長イ間待ツテ居テモ貴方ハ、オイデニナリマセヌ。待遠イデス〔五字傍線〕。
 
○蓋毛《ケダシクモ》――ケダシにクを添へ更にモを添へたもの。クは若シクハのクと同じく、語氣を強めるだけの用をなしてゐるやうだ。モは感動の助詞。○聞可毛《キケルカモ》――古義にキカセカモとよんでゐるが、ここだけ特に敬語を用ゐるわけはない。
〔評〕 友人と意志の疎通を缺いで、相別れねばならぬさびしさを歌つたのである。その友に對する作者の相も變らぬ友情と、この事件に伴なふ自分の暗い氣分とがあらはれてゐる。
 
681 なかなかに 絶ゆとし言はば 斯くばかり いきの緒にして 吾が戀ひめやも
 
中々爾《ナカナカニ》 絶年云者《タユトシイハバ》 如此許《カクバカリ》 氣緒爾四而《イキノヲニシテ》 吾將戀八方《ワガコヒメヤモ》
 
却ツテ貴方ガ〔三字傍線〕絶交スルト仰ルナラバ、コンナニ命ノ限リ私ガ貴方ヲ〔三字傍線〕戀ヒ慕ヒマセウカ。ナマナカ、ヤサシイ言葉ヲ時々カケテ下サルカラ、思ヒ切レマセヌ〔ナマ〜傍線〕。
 
○絶年云者《タユトシイハバ》――舊訓タエネトシイハバを、童蒙抄にタエントシイハバとし、略解補正にタユトシイハバとしてゐる。新訓はタツトシイハバで、これもよいやうだが、あまり語氣が強すぎるやうだ。タユに從ふことにする。
 
○氣緒爾四而《イキノヲニシテ》――命にかけてといふやうな意。イキノヲは息の緒で、生命の長くつづくのを緒と言つたのであ(594)る。
〔評〕 相手の煮え切らぬ態度を恨んでゐるが、未練はこちらにあるやうだ。
 
682 思ふらむ 人にあらなくに ねもころに 心盡して 戀ふる吾かも
 
將念《オモフラム》 人爾有莫國《ヒトニアラナクニ》 懃《ネモコロニ》 情盡而《ココロツクシテ》 戀流吾毳《コフルワレカモ》
 
イクラコチラカラ思ツテモ〔イク〜傍線〕ソチラデ思ツテ下サル貴方デハナイノニ、心力ラ情ヲ盡シテ、貴方ヲ〔三字傍線〕私ハ戀ヒ慕ヒマスワイ。ドウモツマラナイ戀ダガ思ヒ切レナイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○將念《オモフラム》――略解に一本によつて將を相に改め、アヒオモフとしてゐるが、元の儘がよい。
〔評〕 女性的なやさしい情緒である。作者が絶交を遺憾としたからでもあらう。この三首は如何なる場合の作かよく分らないが、作者のうるはしい友情が、どの歌にもあらはれてゐる。
 
大伴坂上郎女歌七首
 
683 謂ふことの かしこき國ぞ 紅の 色にな出でそ 思ひ死ぬとも
 
謂言之《イフコトノ》 恐國曾《カシコキクニゾ》 紅之《クレナヰノ》 色莫出曾《イロニナイデソ》 念死友《オモヒシヌトモ》
 
人ノ口ノ恐ロシイ國デスヨ。タトヒ焦レ死シヨウトモ(紅之)顔色ニ出シナサルナ。人ニサトラレテ噂ヲサレテハ大變デスカラ〔人ニ〜傍線〕。
 
○紅之《クレナヰノ》――枕詞。クレナヰは呉藍とも記してある。末採花《スエツムハナ》といふのも同じで、今のベニバナである。莖の高さ三四尺で、葉は互生し、廣披針形で鋭い鋸齒を有してゐる。薊に似た黄紅色の花を着ける。その色が目立つて美しいから、色に出づとつづけるのである。
〔評〕 初二句が大袈裟て面白い。最後を念死友《オモヒシヌトモ》と強く結んだのも力が籠つてゐる。
 
684 今は吾は 死なむよ吾が背 生けりとも 我によるべしと 言ふといはなくに
 
(595)今者吾波《イマハアハ》 將死與吾背《シナムヨワガセ》 生十方《イケリトモ》 吾二可縁跡《ワレニヨルベシト》 言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》
 
今ハモウ私ハ死ニマセウヨ、貴方。生キテヰテモ、貴方ガ〔三字傍線〕私ニタ據ツテ私ヲ妾ニス〔七字傍線〕ルト言フト人ガ〔二字傍線〕言ハナイカラ生キテヰテモ何ノ甲斐モアリマセヌ〔生キ〜傍線〕。
 
○言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》――君が……と言ふと世の人が言はざるにの意であらう。宣長は言《イフ》は添へたる詞なりと言つてゐるが、どうであらう。詞通りに直譯する方がよいのではあるまいか。
〔評〕 これは強烈な言葉である。突如として初の二句に死を叫んだのが、相手の胸を脅かしてゐる。併し卷十二に今者吾者指南與我兄戀爲者一夜一日毛安毛無《イマハアハシナムヨワガセコヒスレバヒトヨヒトヒモヤスケクモナシ》(二九三六)とある。なほ同卷の二八六九、卷十三の三二九八も同じやうな歌である。これらを思へば、作者の技倆は、大ぶ割引して考へなくてはならない。
 
685 人ごとを 繁みや君を 二鞘の 家を隔てて 戀ひつつをらむ
 
人事《ヒトゴトヲ》 繁哉君乎《シゲミヤキミヲ》 二鞘之《フタサヤノ》 家乎隔而《イヘヲヘダテテ》 戀乍將座《コヒツツヲラム》
 
私ハ貴方ト同ジ家ニ住ミタイノダガ〔私ハ〜傍線〕、人ノ口ガヤカマシイカラ私ハ〔二字傍線〕、貴方ヲ(二鞘之)家ヲ別ニシテ隔テタ所ニ戀シク思ヒナガラ住マフコトデセウカ。誠ニ辛ウゴザイマス〔九字傍線〕。
 
○繋哉君乎《シゲミヤキミヲ》――乎の字元暦校本、之の草體のやうになつてゐるので、新訓に之《ガ》としてゐる。併しこの七首は自分の戀を歌つたもので、中に相手に向つて言つてゐるものがあつても、要するに自己を主としてゐる。新訓の如くキミガとしては、全く相手の上だけを言つたことになつて、常に自主的な作者の態度と、趣を異にすることとなる。○二鞘之《フタサヤノ》――枕詞。家を隔つの枕詞。二鞘の刀は、一つの鞘に刀二振を並べて納めるやうになつてゐるもので、問に隔てがあるから、二鞘の家を隔てとつづくのである。二鞘の隔てとつづくとも見られるが、元來鞘は刀室《サヤ》即ち刀家《サヒヤ》の略であるから、サヤといへば家といふ意がおのづから含まれるので、家の連想があるのだから、家を隔てと(596)つづくものと見なければならぬ。考にモロサヤとよんで、「今も一家の一重の圍をさやと云ふ。しかれば吾が住む方の家にも一重、夫の住む家にも一重圍あればもろさやといふならむ」とあるのは、ここには當らぬやうに思はれる。圖は束※[さんずい+贏]珠光に載せた正倉院御物の、三枝刀の寫眞の縮圖である。これで二鞘を想像することが出來よう。○戀乍將座《コヒツツヲラム》――新訓にコヒツツマサムとしてゐる。なるほど座の字多くはマスに用ゐてあるが、卷一に、獨座《ヒトリヲル》(五)ともあつて、ヲルとよめない字ではないから、やはりヲルがよい。
〔評〕 二鞘之は他に用例が見當らぬから、作者獨自の創案かも知れない。面白い言葉である。戀人に近づき難い焦燥感がよく出てゐる。
 
686 この頃は 千歳や往きも 過ぎぬると 我やしか思ふ 見まくほれかも
 
比者《コノコロハ》 千歳八往裳《チトセヤユキモ》 過與《スギヌレト》 吾哉然念《ワレヤシカモフ》 欲見鴨《ミマクホレカモ》
 
コノ頃ハ一寸ノ間ニ〔五字傍線〕千年モ經ツタヤウニ、私ハサウ思ヒマス。コレハ私ガ貴方ニ〔八字傍線〕オ目ニカカリタイカラデセウカナア。キツトサウデセウ〔八字傍線〕。
 
○欲見鴨《ミマクホレカモ》――舊訓ミマクホリカモを、略解にミマクホレカモとしたのに從ふ。ミマクホレバカモの略である。
 
〔評〕 これも面白いが、卷十一に相見者千歳八去流否乎鴨我哉然念待公難爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモワレヤシカオモフキミマチガテニ》(二五三九)とあるのに、倣つた形跡があるのは遺憾である。
 
687 うつくしと 吾が念ふ心 速河の 塞きと塞くとも なほやくづれむ
 
愛常《ウツクシト》 吾念情《ワガモフココロ》 速河之《ハヤカハノ》 雖塞塞友《セキトセクトモ》 猶哉將崩《ナホヤクヅレム》
 
私ガ貴方ヲ可愛イト思フ心ハ、丁度流レノ〔五字傍線〕速イ川ガイクラ塞キ止メテモ、直グニ崩レテシマ〔ガイ〜傍線〕フヤウナモノデ、焦レル心ヲ一時ハ無理ニ〔焦レ〜傍線〕抑ヘテモヤハリ後カラソノ思ヒガ溢レテ來テ〔後カ〜傍線〕、崩レテシマフデセウ。
 
○猶哉將崩《ナホヤクヅレム》――略解にクエナムともよむべしとある如く、どちらにも訓めるが、崩の字は集中他に用例が見當らぬから、まづ舊訓のままにして置く。どちらにしても意は同じ。
(597)〔評〕 譬喩巧妙。他に類歌も見當らないから、これは佳作を以て許さねばなるまい。
 
688 青山を 横切る雲の いちしろく 我と笑まして 人に知らゆな
 
青山乎《アヲヤマヲ》 横※[殺の異体字]雲之《ヨコギルクモノ》 灼然《イチシロク》 吾共咲爲而《ワレトヱマシテ》 人二所知名《ヒトニシラユナ》
 
青々ト草木ノ茂ツタ山ビ、棚引イテヰル白雲ハ、著シク見エルモノダガ、丁度ソノ〔育々〜傍線〕青イ山ニ棚引イテヰル白雲ノヤウニ、人ニ著シク目立ツホドニ、私ト顔ヲ見合ハセテ〔七字傍線〕笑ツテ、二人ノ間ヲ〔五字傍線〕人ニ悟ラレナサルナ。御用心、御用心〔六字傍線〕。
 
○横※[殺の異体字]雲之《ヨコギルクモノ》――※[殺の異体字]は殺と同字で、本集のみならず、古事記、靈異記にも用ゐてゐる。○灼然《イチシロク》――イチシロクとよむ外はない。一六四三・二一九七・二二六八・二二七四・四一四八などに用例がある。
〔評〕 上の句は青々とした緑の山に、細布をはつたやうに、地面と平行に棚引いてゐる白雲が、くつきりと目立つてゐる有樣を思はしめて、まことに面白い。柵引く雲などと平凡な言ひ方をしないで、横※[殺の異体字]雲《ヨコギルクモ》といつたのが、清新な感を與へる。併し卷十一に、蘆垣之中之似兒草爾故余漢我共咲爲而人爾所知名《アシガキノナカノニコクサニコヨカニワレトヱマシテヒトニシラユナ》(二七六二)とあるのは、作者の爲に惜しむべきである。
 
689 海山も 隔らなくに 何しかも 目言をだにも ここだ乏しき
 
海山毛《ウミヤマモ》 隔莫國《ヘダタラナクニ》 奈何鴨《ナニシカモ》 目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》 幾許乏寸《ココダトモシキ》
 
貴方ト私トノ家ハ〔八字傍線〕、海ヤ山ガ隔タツテヰルト云フ程ノ遠イ所デモ〔ルト〜傍線〕ナイノニ逢フコトハサテ置イテ〔逢フ〜傍線〕、ドウシテ相見ルコトモ、言葉ヲカハスコトモ、コンナニ〔四字傍線〕、大層稀ナノデアラウカ。ママニナラヌモノダ〔九字傍線〕。
 
○目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》――見ることと、語ることだにもの意。卷二に味澤相目辭毛絶奴《アヂサハフメゴトモタエヌ》(一九六)とある。
〔評〕 近くに居ながら、逢ひ難きを恨んだもの。格別の作でもない。
 
大伴宿禰三依悲v別歌一首
 
(598)大伴三依の傳は五五二參照。
 
690 照らす日を 闇に見なして 泣く涙 衣ぬらしつ ほす人無しに
 
照日乎《テラスヒヲ》 闇爾見成而《ヤミニミナシテ》 哭涙《ナクナミダ》 衣沾津《コロモヌラシツ》 干人無二《ホスヒトナシニ》
 
女ト別ノ悲シサニ、空ニ〔女ト〜傍線〕照ツテヰル太陽ノ光〔二字傍線〕ヲモ、眞暗ニスル程泣イテ流ス私ノ〔六字傍線〕涙ガ、着物ヲ沾シタ。乾シテクレル人モナイノニ。何トシタモノダラウ〔九字傍線〕。
 
○照日乎《テラスヒヲ》――舊訓のテレルヒヲとあるよりも、古義にテラスヒヲとよんだのがよいであらう。宣長は日は月の誤で、テルツキヲであると云つてゐるが、月となつてゐる本はないから、この儘がよい。又、月よりも日の方が歌として面白い。
〔評〕 初二句の誇大な叙法がよい。四句で切つて。干人無二《ホスヒトナシニ》と言ひ添へたのも、女と離れた孤獨の情がよく出てゐる。
 
大伴宿禰家持、贈(レル)2娘子(ニ)1歌二首
 
691 百敷の 大宮人は 多かれど 心に乘りて 思ほゆる妹
 
百礒城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 雖多有《オホカレド》 情爾乘而《ココロニノリテ》 所念妹《オモホユルイモ》
 
(百磯城之)大宮ニツカへテヰル女ノ數ハ澤山アルガ、姿ガ格別私ノ〔六字傍線〕氣ニ止ツタオマヘヨ。オマヘホド心ヲ引カサレル人ハナイ〔オマ〜傍線〕。
 
○大宮人《オホミヤビト》――宮中に仕へる人で、男にも女にも言ふのである。ここは宮女をさしてゐる。
〔評〕 卷十一に打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドワガオモフキミハタダヒトリノミ》(二三八二)とあるのに似て、劣つてゐる。情熱のひらめきが見えない。
 
692 うはへなき 妹にもあるかも かくばかり 人の心を 盡す思へば
 
得羽重無《ウハヘナキ》 妹二毛有鴨《イモニモアルカモ》 如此許《カクバカリ》 人情乎《ヒトノココロヲ》 令盡念者《ツクスオモヘバ》
 
(599)コンナニ私ノココロヲ盡シテ、戀シク思ハセルコトヲ考ヘテ見ルト、ホントニ〔四字傍線〕アイソノナイオマヘダナア。
 
○得羽重無《ウハヘナキ》――六三一に宇波幣無《ウハヘナキ》とあるに同じく、あいそなき意。
〔評〕 これは前の六三一の湯原主の歌を燒直したもので、家持の先輩模倣期の作である。
 
大伴宿禰|千室《チムロ歌一首 未詳
 
千室の傳は明らかでない。未詳の二字は千室の傳の詳かでないことを註したもので、後人の註である。
 
693 かくしのみ 戀ひやわたらむ 秋津野に 棚引く雲の 過ぐとはなしに
 
如此耳《カクシノミ》 戀哉將度《コヒヤワタラム》 秋津野爾《アキツヌニ》 多奈引雲能《タナビククモノ》 過跡者無二《スグトハナシニ》
 
(秋津野爾多奈引雲能)思ヒヲ忘レ、アキラメルコトガ出來〔アキ〜傍線〕ナイデ、コンナニ私ハ貴方ヲ〔五字傍線〕戀ヒ慕ツテバカリ日ヲ送ルコトデアラウカ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
 
○如此耳《カクシノミ》――舊訓に從ふ。カクノミシとよむ説もあるが、その場合は、如是耳志(一七六九)・如是耳師(三二五九)の如くシの字が送られてゐる。それが添へてない二三七四・二五七〇・二五九六、皆カクシノミとよむべきである。攷證にカクノミニとよんだのは惡い。○秋津野爾多奈引雲能《アキツヌニタナビククモノ》――過《スグ》と言はむ爲の序である。秋津野は吉野。
〔評〕 初二句は卷十一の二三七四・二五九六と同じで、かうした常套語があつたのであるが、さまで咎めるにも當るまい。秋津野を詠んだのは吉野での作か。卷七に秋津野爾朝居雲之失去者《アキツヌニアサヰルクモノウセユケバ》(一四〇六)とあるのは、挽歌であるから、これと同想ではあるまい。
 
廣河女王歌二首
 
元暦校本・神田本等の古寫本に「穗積皇子之孫女上道王之女也」と註してゐる。續紀に、「天平寶(600)字七年正月甲辰朔壬子無位廣河王授2從五位下1」とある。
 
694 戀草を 力車に 七車 つみて戀ふらく 吾が心から
 
戀草呼《コヒグサヲ》 力車二《チカラグルマニ》 七車《ナナグルマ》 積而戀良苦《ツミテコフラク》 吾心柄《ワガココロカラ》
 
私は〔二字傍線〕戀草ヲ荷車ニ七車モ積ンダ程モ、苦シイ〔三字傍線〕戀ヲスルコトヨ。コレモ〔三字傍線〕私ノ心カラデ何トモ仕方ガナイ。
 
○戀草呼《コヒクサヲ》――戀ふる心を、思草・忘草などに傚つて、戀草と言つたのである。呼をヲの假名に用ゐるは、乎をヲとよむと同じく、古音である。○力車二《チカラクルマニ》――力車は人の力にて曳く車、即ち荷車。○七車《ナナクルマ》――車の數多きを云つたもの。七輌。○積而戀良久《ツミテコフラク》――積みて戀ふるよといふやうな意。戀良久《コフラク》は戀ふるの延言であるが、ここは感歎の意が含まれてゐる。○吾心柄《ワガココロカラ》――吾が心よりの意。古義に「心の裏より眞實に戀しく思ふよしなり」とあるは當らない。
〔評〕 面白い。珍らしい。巧だ。戀の數を八百行く濱の眞砂に譬へたのは、量の多い點を現はし得て妙であるが、これは數の夥しさをあらはすと同時に、戀の苦惱をも思はしめてゐる。狹衣物語に、「七車つむとも盡きじ思ふにも言ふにもあまる吾が戀草は」とあるのは、これを本としたものである。
 
695 戀は今は あらじと我は 思へるを いづくの戀ぞ つかみかかれる
 
戀者今葉《コヒハイマハ》 不有常吾羽《アラジトワレハ》 念乎《オモヘルヲ》 何處戀其《イヅクノコヒゾ》 附見繋有《ツカミカカレル》
 
私ノ心ヲ吉シメル戀ノ心ヲ退治シテシマツタカラ、私ノ心ノ中ニハ〔私ノ心ヲ〜傍線〕、戀トイフモノハ今ハモウ有ルマイト思ツテヰルノニ、伺處ノ戀カ知ランガエライ勢デ私ニ〔七字傍線〕ツカミカカツテ來タ。何處ニ隱レテヰタノカ知ラ〔何處〜傍線〕。
 
○念乎《オモヘルヲ》――オモヒシヲと舊訓にあるが、童蒙抄にオモヘルヲとよんだのに從ふ。
〔評〕 戀を擬人化したのが面白い。代匠記に「戀といふほどの戀を盡しつれば今は戀といふものはあらじ」と説いてゐるが、戀が品切れになつたのではなくて、戀を撃退したのであらう。さう見ないと下句が生きて來ない。卷十六に家爾有之櫃爾※[金+巣]利藏而師戀乃奴之束見懸而《イヘニアリシヒツニザウサシヲサメチシコヒノヤツコノツカミカカリテ》(三八一六)とあるのも、ほぼ似た趣である。ともかく滑稽味の(601)溢れた作である。
 
石川朝臣廣成歌一首
 
西本願寺本に、ここに小字で「後賜高圓朝臣氏也」とある。石川朝臣廣成は、績紀に「天平寶字二年八月朔、從六位上石川朝臣廣成授2從五位下1」とあり。四年二月壬寅從五位下石川朝臣廣成賜2姓高圓朝臣1」と見えてゐる。その後、文部少輔となつたが、五年五月からは、高圓朝臣廣世の名で出てゐる。恐らく改名したのであらう。
 
696 家人に 戀ひ過ぎめやも かはづ鳴く 泉の里に 年のへぬれば
 
家人爾《イヘヒトニ》 戀過目八方《コヒスギメヤモ》 川津鳴《カハヅナク》 泉之里爾《イヅミノサトニ》 年之歴去者《トシノヘヌレバ》
 
私ハ奈良ノ都ヲ去ツテ〔私ハ〜傍線〕、川鹿ノ鳴ク聲ノ聞エル〔五字傍線〕泉ノ里デ幾年モ過ギタカラ、奈良ノ家ニ殘シテ置イタ〔奈良〜傍線〕家人ヲ思ヒ忘レルコトガ出來ヨウカヨ。トテモ忘レラレナイ〔九字傍線〕。
 
○戀過目八方《コヒスギメヤモ》――戀過ぐとは、戀しく思ふ心の過ぎ去るをいふ。即ちこの句は家人を忘れかねるといふのである。○川津鳴《カハヅナク》――泉の里は即ち泉川のほとりで、河鹿の清い聲が聞えるから、泉の里の形容詞句として置いたのである。枕詞ではない。○泉之里《イヅミノサト》――山城國相樂郡泉川の南岸の地。今の加茂附近の地である。恭仁京の一部をなしてゐた。七六五の地圖參照。
〔評〕 これは天平十二年の冬、奈良から恭仁へ遷都あり、その翌年になつて詠んだものと見える。この卷の年次から言つても、正にそのあたりである。廣成の官位から推すと、未だ弱年の作である。川津鳴泉之里とあるのが、奈良と異なつたその土地の情趣をあらはして、舊都の戀しさが實にもとうなづかれる。
 
大伴宿禰像見謌三首
 
像見の傳は六六四參照。
 
(602)697 吾が聞きに かけてな言ひそ 刈薦の 亂れて思ふ 君がただかぞ
 
吾聞爾《ワガキキニ》 繋菜言《カケテナイヒソ》 刈薦之《カリゴモノ》 亂而念《ミダレテオモフ》 君之直香曾《キミガタダカゾ》
 
私ニ聞エルヤウニ、決シテロニ出シテ仰ルナ。私ノ心ガ〔四字傍線〕(刈薦之)亂レテ戀シク〔三字傍線〕思ツテヰル貴方ノ、身ノ上デアルゾ。聞クトイヨイヨ心ヲ亂スバカリダカラ、仰ツテ下サルナ〔聞ク〜傍線〕。
 
○吾聞爾《ワガキキニ》――考はキクニと訓んでゐるが、舊訓に從はう。キキは名詞で、私の聞きに達するやうにの意。○繋莫言《カケテナイヒソ》――カケテは口にかけて。○君之直香曾《キミガタダカゾ》――直香《タダカ》は玉勝間に「多太加とは、君また妹をただにさしあてていへる言にて、君妹とのみいふも同じことに聞ゆるなり」とあり、織錦舍隨筆には、「タタカは、へだたりたる時いふ詞。マサカはまのあたりにいふ詞と見えたり。タタカは其の人のうはさの正説をいふ。其の人にあはむ事をかねていふ時タタカといひて、マサカといはず。云々」とある。兎も角も、他人の身上・消息・動靜などをいふのである。
〔評〕 愛人の動靜を知り、消息を得ようとするのは、戀する人の常である。これはそれを聞き知ることによつて、心の安靜が破られ、いよいよ思の増大せむことを恐れたのである。これこそ眞に戀の至情であらう。
 
698 春日野に 朝ゐる雲の しくしくに 吾は戀ひまさる 月に日にけに
 
春日野爾《カスガヌニ》 朝居雲之《アサヰルクモノ》 敷布二《シクシクニ》 吾者戀益《アハコヒマサル》 月二日二異二《ツキニヒニケニ》
 
(春日野爾朝居雲之)頻リニマスマス〔四字傍線〕、私ハ毎月毎日月日ガ經ツト共ニ〔八字傍線〕、戀ノ心ガ増シテ行クバカリダ。
 
○春日野爾朝居雲之《カスガヌニアサヰルクモノ》――敷布二《シクシクニ》の序詞。春日野に朝ごとに棚引く雲の繁きにかけたのである。○敷布二《シクシクニ》――頻りに益益の意。○吾者戀益《アハコヒマサル》――舊訓ワレハコヒマスとあるのを、古義にアハコヒマサルとしたのがよい。益の字はこの場合は益益南《イヤマサリナム》(三一三五)の例に從つてマサルと訓むがよい。
〔評〕 上の句は春日山朝居雲乃欝《カスガヤマアサヰルクモノオホホシク》(六七六)に似て居り、結句|月二日二異二《ツキニヒニケニ》も五九八・二五九六などに用例がある。創意の乏しい作と評してよからう。
 
699 一瀬には 千度さはらひ 逝く水の 後にも逢はむ 今ならずとも
 
(603)一瀬二波《ヒトセニハ》 千遍障良比《チタビサハラヒ》 逝水之《ユクミヅノ》 後毛將相《ノチモアハム》 今爾不有十方《イマナラズトモ》
 
一ツノ瀬ヲ越スノニハ、千遍モ岩ニ障ツテ分レテ〔三字傍線〕流レ行ク水ガ終ニハ相合スル〔八字傍線〕ヤウニ、私ハ貴方ニ〔五字傍線〕今ハ逢ヘナイニシテモ、後デハ逢ハウト思フ。
 
○復毛將相《ノチニモアハム》――ノチモアハム・ノチモアヒナム・ノチニモアハナ・ノチモアヒテムなどの訓があり、どうでもよまれる文字であるが、ここは古點に從つて置かう。
〔評〕卷十一の鴨川後瀬靜後相妹者我雖不今《カモカハノノチセシヅケクノチモアハムイモニハワレハイマナラズトモ》(二四三二)、卷十二の高湍爾有能登瀬乃河之後將合妹者吾者今爾不十方《コセナルノトセノカハノノチモアハムイモニハワレハイマナナラズトモ》(三〇一八)などに傚つたものと見てよからう。併し上句は感じのよい譬喩である。崇徳天皇御製の「瀬をはやみ岩にせかるる瀧河のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(詞花集)はこれと同一趣向の歌である。
 
大伴宿禰家持、到(リテ)2娘子之門(ニ)1作(レル)歌一首
 
娘子とのみあるのは、恐らく遊女であらう。
 
700 かくしてや なほやまからむ 近からぬ 道の間を なづみまゐ來て
 
如此爲而哉《カクシテヤ》 猶八將退《ナホヤマカラム》 不近《チカカラヌ》 道之間乎《ミチノアヒダヲ》 煩參來而《ナヅミマヰキテ》
 
私ハ〔二字傍線〕近クモナイ道ノ程ヲオマヘニ逢フ爲ニ〔八字傍線〕辛苦ヲシテヤツテキタノニ、逢フコトモ出來ズ〔八字傍線〕コノ儘デヤハリ歸ルコトカナア。サテサテ殘念ダナ〔八字傍線〕。
 
○猶八將退《ナホヤマカヲム》――古義に猶を借字とし、「思ふことを獣止《モダ》りて、徒に打過ぐることをいふ言なり」とあるのはどうであらう。これほど骨折つて來たのに、やはり歸ることかといふのである。
〔評〕 平板の作ながら、殘り惜しげな情はよく出てゐる。
 
河内百枝《カフチノモモエ》娘子贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌二首
 
(605)河内百枝娘子は傳が明らかでない。遊女の類か。
 
701 はつはつに 人を相見て いかならむ いづれの日にか 又よそに見む
 
波都波都爾《ハツハツニ》 人乎相見而《ヒトヲアヒミテ》 何將有《イカナラム》 何日二箇《イヅレノヒニカ》 又外二將見《マタヨソニミム》
 
一寸貴方ニオ目ニカカツタバカリデ別レマシタガ、戀シクテシヤウガアリマセン〔別レ〜傍線〕。ドウイフ何時ノ日ニ、又ヨソナガラデモオ目ニカカルコトガ出來ルデセウカ。是非トモ一寸デモオ目ニカカリタウ存ジマス〔是非〜傍線〕。
 
○波都波都爾《ハツハヅニ》――極めて僅かに、ほんの一寸。小橋見《ハツハツニミテ》(一三〇六)追出月端端《サシイヅルツキノハツハツニ》(二四六一)などの用字を以ても、意味を推測し得るであらう。○又外二將見《マタヨソニミム》――再びよそながらも見むといふのである。契沖が「いづれの日にかよそ人に見なさむと、おぼつかなく思ふなり」といつたのは當らない。次の歌を見ても將來の不安などの氣分は少しもない。
〔評〕 再會の渇望が火の如く燃えてゐる。遊女と思つて見ると、男を誘惑する言葉のやうに思はれる。
 
702 ぬば玉の 其の夜の月夜 今日までに 我は忘れず 間なくし思へば
 
夜干玉之《ヌバタマノ》 其夜乃月夜《ソノヨノツキヨ》 至于今日《ケフマデニ》 吾者不忘《ワレハワスレズ》 無間思念者《マナクソモヘバ》
 
私ハ責方ニオ目ニカカツテカラ〔貴方〜傍線〕、絶エズ貴方〔二字傍線〕ヲ思ツテヲリマスノデ(夜千玉之)アノ晩ノ月夜ノ景色ヲ今日マデマダ忘レマセヌ。
 
○夜干玉之《ヌバタマノ》――夜の枕詞。夜は射と音が同しだから、射に借り用ゐたのである。
〔評〕 其夜乃月夜《ソノヨノツクヨ》といつたので、歌が美化され、典雅なものとなつてゐる。
 
巫部麻蘇《カムコベノマソ》娘子歌二首
 
巫部は姓で麻蘇は名であらう。續紀や姓氏録に巫部宿禰と見えてゐる。
 
703 吾が背子を 相見し其の日 今日までに 吾が衣手は 乾る時も無し
 
吾背子乎《ワガセコヲ》 相見之其日《アヒミシソノヒ》 至于今日《ケフマデニ》 吾衣手者《ワガコロモデハ》 乾時毛奈志《ヒルトキモナシ》
 
(605)私ハ〔二字傍線〕私ノ戀シイ人ト逢ツタソノ日カラ、今日マデ、絶エズ逢ヒタクテ悲シンデ泣イテヰルノデ〔絶エ〜傍線〕、私ノ着物ノ袖ハ、乾ク時ハアリマセン。
 
○相見之其日《アヒミシソノヒ》――其日はその日からの意。○乾時毛奈志《ヒルトキモナシ》――ヒルの訓については一五九參照。
〔評〕 戀する人の常套語で、格別のことはない。
 
704 栲繩の 永き命を ほしけくは 絶えずて人を 見まくほれこそ
 
栲繩之《タクナハノ》 永命乎《ナガキイノチヲ》 欲苦波《ホシケクハ》 不絶而人乎《タエズテヒトヲ》 見欲見社《ミマクホレコソ》
 
(栲繩之)永イ壽命ガ欲シイト思フノハ、絶エズニ愛スル〔三字傍線〕人ニ逢ヒタイト思フカラノコトデズ。逢ヘナケレバ命モ何モ欲シクハアリマセン〔逢ヘ〜傍線〕。
 
○栲繩之《タクナハノ》――枕詞。栲で綯うつた繩は漁師の用ゐるもので、卷五に栲繩能千尋爾母何等慕久良志都《タクナハノチヒロニモガトネガヒクラシツ》(九〇二)とあるやうに、長いものであるから、永に冠したのである。○欲見社《ミマクホレコソ》――舊訓ミマクホリコソ、略解ミマホシミコソなども惡くはないが、前に欲見鴨《ミマクホレカモ》とあつたのに準じて、ミマクホレコソとしよう。ミマクホレバコソの略である。
〔評〕 愛人に逢ふことを除いては、生存の價値を認めぬやうな言ひ方は、思ひ切つた言葉である。栲繩の永きといつて絶えずとつづけたのが縁語のやうにも見えるが、恐らく特にさうしたのではあるまい。
 
大伴宿禰家持、贈(レル)2童女《ヲトメニ》1歌一首
 
705 はねかづら 今する妹を 夢に見て こころのうちに 戀ひわたるかも
 
葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹乎《イマスルイモヲ》 夢見而《イメニミテ》 情内二《ココロノウチニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
 
髪ノ飾ニ〔四字傍線〕葉根※[草冠/縵]ヲ近頃シタバカリノ若イ〔二字傍線〕オマヘヲ夢ニ見テ、私ハ〔二字傍線〕心ノ中デ戀シク思ヒツヅケテ居ルワイ。
 
○葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》――その制は明らかでないが、古の女が頭髪の飾としたもので、少女の間はしないものと見える。或(606)は結び目をはねた※[草冠/縵]か、仙覺は花※[草冠/縵]だといつてゐる。或は卷十二紫彩色之※[草冠/縵]花八香爾《ムラサキノマダラノカヅラハナヤカニ》(二九九三)とあるものと同じか。又は羽根※[草冠/縵]か。埴輪土偶に、大きな鳥の羽を頭に附けたものがある。恐らくこれであらう。
〔評〕 集中ハネカヅラの歌が四首あるが、皆|今爲妹《イマスルイモ》とつづいてゐるので見ると、當時のきまり文句と見える。して見ると、三句以下は平凡で、さして褒むべき作でもない。
 
童女來報歌一首
 
706 はねかづら 今する妹は 無かりしを いづれの妹ぞ ここだ戀ひたる
 
葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹者《イマスルイモハ》 無四乎《ナカリシヲ》 何妹其《イヅレノイモゾ》 幾許戀多類《ココダコヒタル》
 
葉根※[草冠/縵]ヲ今シタバカリノ少女ハココニハ居リマセンノニ、貴方ハ〔三字傍線〕何處ノ女ヲ貴方ノ夢ニアラハレル程〔貴方〜傍線〕、熱心ニ戀シク思ハレタノデセウ。私ハマダ葉根※[草冠/縵]ヲツケマセンカラ、私ノコトデハアリマスマイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○無四乎《ナカリシヲ》――宣長が四を物の誤かといつたのに、古義・新考など從つてゐるが、益なき改訂である。
〔評〕 輕く受け流して、ここには葉根※[草冠/縵]をしたばかりの少女はゐないと言つたのである。略解に「このこたへし童女は十五六にも成るぺければ、はねかづらする年頃は過ぎつるを、わが事にはあらじ云々」といつたのは、全く誤つてゐる。
 
粟田娘子贈2大伴宿禰家持1歌二首
 
粟田娘子は傳未詳。元暦校本・神田本・古葉略類聚鈔に田の下、女の字があるによらば、アハタメであらう。次に大宅女とあるから、これも女の字があるのかも知れない。
 
707 思ひやる 術の知らねば 片もひの 底にぞ我は 戀ひなりにける
 
思遣《オモヒヤル》 爲便乃不知者《スベノシラネバ》 片※[土+完]之《カタモヒノ》 底曾吾者《ソコニゾワレハ》 戀成爾家類《コヒナリニケル》
 
思ヒヲハラス方法ヲ知りマセンカラ、段々ト戀ガ募ツテ行ツテコノ頃デハ〔段々〜傍線〕戀ノ(片※[土+完]之)ドン底マデモ來テシ(607)マヒマシタヨ。苦シクテ困ツテ居リマス〔苦シ〜傍線〕。
 
○片咤之《カタモヒノ》――枕詞。片※[土+完]は蓋の無い椀の類をいふ。※[土+完]の字は※[土+宛]の異體で、古く用ゐた字である。狩谷望之の攻證※[土+完]字注に「※[金+完](ハ)即鋺字、續日本紀大安寺資財帳用2此體1字鏡集亦※[金+完]訓2カナマリ1集韻※[金+完](ハ)刀也、非2此義1、萬葉集片※[土+完]、玉造小町子壯衰書(ノ)金※[土+完]、江次第(ノ)茶※[土+完]、東鑑※[土+完]飯亦※[土+完]字也」とある。土扁を用ゐるのは土器の椀だからである。○底曾吾者《ソコニゾワレハ》――底は至極の意で、底に戀してゐるとは、謂はゆる徹底的に戀してゐるの意。
〔評〕 片もひの底まで戀してゐるとは、珍奇な言ひ方である。片もひは底の枕詞で、片戀とは關係がないと言はれてゐるが、集中獨念・片思などをカタモヒとよんだ例もあるのに、ここまで來て、かけてないとは一寸受取れない。若しかけないとすれば、玉もひなどのやうな、他に類似の語もあらうに、殊更カタモヒと言つてゐるのは考ふべきではあるまいか。尤も次の歌では、忍戀ながら二人は逢つてゐるので、片戀とは言はれぬやうでもあるが、これはこれとして考へてよからうと思ふ。
 
708 又も逢はむ よしもあらぬか 白妙の 吾が衣手に いはひとどめむ
 
復毛將相《マタモアハム》 因毛有奴可《ヨシモアラヌカ》 白細之《シロタヘノ》 我衣手二《ワガコロモデニ》 齋留目六《イハヒトドメム》
 
復、モウ一度貴方ニ〔三字傍線〕オ目ニカカレル方法ハナイカシラ。今度オ目ニカカツタラ〔今度〜傍線〕(白細之)私ノ着物ノ袖ニ、マジナイヲシテ貴方ヲ離レヌヤウニ〔九字傍線〕附ケテ置カウ。サウデモシナイト滅多ニ逢ハレナイカラ〔サウ〜傍線〕。
 
○齋留目六《イハヒトドメム》――イハフは神を祀る義であるから、ここは神に祈り、まじなひをして、衣の袖に貴方を離れぬやうに、附けて置かうといふのである。
〔評〕 これも奇拔な想像である。この人の作はこの二首だけしかないが、共に變つた作である。
 
豐前國娘子|大宅女《オホヤケメ》歌一首
 
この娘子の傳は明らかでない。卷六に、豐前國娘子月歌一首とある註に「娘子字曰2大宅1姓氏未詳也」とある。元暦校本・神田本などに、ここに小字で「未審姓氏」と註がある。
 
(608)709 夕闇は 路たづたづし 月待ちて いませ吾がせこ その間にも見む
 
夕闇者《ユフヤミハ》 路多豆多頭四《ミチタヅタヅシ》 待月而《ツキマチテ》 行吾背子《イマセワガセコ》 其間爾母將見《ソノマニモミム》
 
夕方ノ闇ノウチハ、暗クテ道ガ不安心デス。デスカラ〔四字傍線〕月ノ出ルノヲ待ツテ、オ出掛ケナサイマシ、貴方。サウシタラ、月ヲ待ツテ、イラツシヤル〔サウ〜傍線〕ソノ間ニデモ、貴方ノオ顔ヲ〔六字傍線〕見テ心ヲ慰メ〔五字傍線〕マセウ。
 
○行吾背子《イマセワガセコ》――舊訓ユカムワガセコとあるのは面白くない。代匠記にユカセとあるのもよいが、略解にイマセとあるのが、女らしくてよい。行くをイマスと言つた例は澤山ある。
〔評〕 女らしいやさしい歌である。結句に別れ難い情が籠つてゐる。新勅撰集に四の句「かへれわがせこ」として出てゐる。前に六七〇のところで述べたやうに、良寛の「月よみの光をまちて歸りませ山路は栗のいがの多きに」はこれに似たところがある。これは戀情の歌で、かれは友情の歌である。
 
安都扉娘子《アトノトビラヲトメノ》歌一首
 
安都は氏で扉は名であらう。略解には安都扉をアツミとよんでゐる。この娘子の傳は分らない。
 
710 み空行く 月の光に ただ一目 あひ見し人の 夢にし見ゆる
 
三空去《ミソラユク》 月之光二《ツキノヒカリニ》 直一目《タダヒトメ》 相三師人之《アヒミシヒトノ》 夢西所見《イメニシミユル》
 
空ヲ通ル月ノ光デ、唯ホンノ〔三字傍線〕一目ダケ逢ツタアノ御方ガ、私ノ夢ニ見エル。アアオナツカシイ〔八字傍線〕。
〔評〕 面白さうな場面が想像されるが、歌は大したものでない。卷十一に、花細葦垣越爾直一目相視之兒故千遍嘆津《ハナクハシアシガキコシニタダヒトメアヒミシコユヱチタビナゲキツ》(二五六五)とあるに、少しく似てゐる。
 
丹波大女娘子《タニハオホメヲトメ》歌三首
 
この娘子の傳は詳でない。大の下、女の字、流布本にはないが、元麿校本・神田本などに從ふべき(609)であらう。
 
711 鴨鳥の 遊ぶ此の池に 木の葉落ちて 浮べる心 吾が思はなくに
 
鴨鳥之《カモトリノ》 遊此池爾《アソブコノイケニ》 木葉落而《コノハオチテ》 浮心《ウカベルココロ》 吾不念國《ワガモハナクニ》
 
(鴨島之遊此池爾木葉落而)浮キ浮キシタ心デ、私ハアナタヲ思ツテハ居リマセンヨ。オ疑ヒ遊バシマスナ〔九字傍線〕。
 
○鴨烏之遊此池爾木葉落而《カモトリノアソブコノイケニコノハオチテ》――浮べるの序詞。意義は説明するまでもない。○浮心《ウカベルココロ》――浮き浮きとした、あだし心。浮氣心。心のないことを、心を思はぬといふのがこの頃の言ひ方である。
〔評〕 序詞が巧妙である。此池爾《コノイケニ》と指したのは、何かさうした背景を有つてゐる歌かとも思はれないこともないが、ともかく鴨が水の上に輕々と浮いて遊んでゐる池に、更に小さな浮動する木の葉を點出して、輕い浮いた感じを出したのは面白い。全體の形式は卷十六の安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノアサキココロヲワガモハナクニ》(三八〇七)などに似通つてゐる。
 
712 味酒を 三輪のはふりが いはふ杉 手觸れし罪か 君に遇ひ難き
 
味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》 忌杉《イハフスギ》 手觸之罪歟《テフレシツミカ》 君二遇難寸《キミニアヒガタキ》
 
(味酒呼)三輪ノ神主ガ忌ミ祭ツテヰル神杉ニ、何時カ知ラヌガ〔七字傍線〕手ヲ觸レタ罪ダラウカ、カウシテ私ガ戀シイ〔ダラ〜傍線〕貴方ニオ目ヲカカレマセヌ。コンナニオ目ニカカレナイノハ神樣ノ罰ニ違ヒアリマセヌ〔コン〜傍線〕。
 
○味酒呼《ウマサケヲ》――枕詞。三輪に冠す。卷一の一七參照。○三輪之祝我忌杉《ミワノハフリガイハフスギ》――三輪神社に仕へる神職が、神聖なるものとして、注連繩などを引張つて、手も觸れないやうにして祀つてゐる杉の神木。かうした神木がこの頃所所にあつたのであらう。神樹爾毛手者觸云乎《カムキニモテハフルトフヲ》(五一七)・三幣取神之祝之鎭齋杉原《ミヌサトリカミノハフリガイハフスギハラ》(一四〇三)・神名備能三諸之山丹隱藏杉《カムナビノミモロノヤマニイハフスギ》(三二二八)などの例を見ても、想像がつくであらう。○手觸之罪歟《テフレシツミカ》――古義にテフリシとよんであるが、觸るは下二段も四段も共に行はれてゐたのであり、且、卷十四に仁必波太布禮思古呂之可奈思母《ニヒハダフレシコロシカナシモ》(三五三七)とあるので見ても、フレシを排斥する理由はない。
(610)〔評〕 神が民衆生活に深い交渉を有してゐた、上代の社會が窺ひ知られる、
 
713 垣ほなす 人言聞きて 吾が背子が 心たゆひ 逢はぬこの頃
 
垣穗成《カキホナス》 人辭聞而《ヒトゴトキキテ》 吾背子之《ワガセコガ》 情多由多比《ココロタユタヒ》 不合頃者《アハヌコノゴロ》
 
垣根ノヤウニ二人ノ間ヲ隔テル〔八字傍線〕人ノ言葉ヲ聞イテ、私ノ夫ガ躊躇シテコノ頃ハ逢ハナイヨ。アア殘念ナ〔五字傍線〕。
 
○垣穗成《カキホナス》――垣根の如く。即ち人の間を隔てる意であらう。略解には「垣ほのほはすべてあらはるる物をいふ詞也。宣長はかきほなすは繁きことなり。隔つることとしては、ほの詞いたづら也と言へり」とあるが、どうであらう。カキホは、垣の丈高く抽んでたる意の語ではあるが、この場合は單に垣の意に用ゐたものであらう。○情多由多比《ココロタユタヒ》――心が躊躇しての意。
〔評〕 人が戀の邪魔をするのを、垣穗なすと譬へた例は他にもある。さうすると別に取り立てて言ふこともないが、結句アハヌコロカモと言ひさうなところを、アハヌコノゴロと名詞止にしたのは、一寸目立つてゐる。
 
大伴宿禰家持贈2娘子1歌七首
 
前の七〇〇に出てゐた娘子と同じ女か。
 
714 心には 思ひわたれど よしをなみ よそのみにして 嘆きぞ吾がする
 
情爾者《ココロニハ》 思渡跡《オモヒワタレド》 縁乎無三《ヨシヲナミ》 外耳爲而《ヨソノミニシテ》 嘆曾吾爲《ナゲキゾワガスル》
 
私ハ心ノ中デハオマヘヲ〔四字傍線〕始終思ヒツヅケテヰルガ、逢フ〔二字傍線〕方法ガ無イノデ、他所ニ離レテヰテ嘆イテ私ハ居ルヨ。
 
○縁乎無三《ヨシヲナミ》――縁《ヨシ》は方法、術の意である。ここは逢ふべき術なき故にの意。
〔評〕 別に面白いこともない歌である。
 
715 千鳥鳴く 佐保の川門の 清き瀬を 馬打ち渡し 何時か通はむ
 
千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門之《サホノカハトノ》 清瀬乎《キヨキセヲ》 馬打和多思《ウマウチワタシ》 何時將通《イツカカヨハム》
 
千鳥ノ嶋ク佐保ノ川ノ渡リ場ノ清イ瀬ヲ、馬デ乘リ入レテ渡ツテ、何時私ハオマヘノ所へ〔八字傍線〕通フコトデアラウ。(611)早ク通ヒタイノダガナア。早ク心ガ解ケテクレレバヨイ〔早ク通〜傍線〕。
 
○佐保乃河門之《サホノカハトノ》――河門《カハト》は河の渡り場。○馬打和多思《ウマウチワタシ》――打は強めて言つただけであらう。古義に「鞭にて打て令渡といふなり」とあるのはどうであらう。
チドリナクサホノカハセノサザレナミチドリナクサホノカハトノセヲヒロミ
〔評〕 大伴郎女の歌に千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪《》(五二六)・千島鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌(五二八)といふのがあつて、冐頭の句が似てゐる。大伴氏の一族は佐保あたりに住んでゐたからではあらうが、必ずしも偶然の一致とばかりは言はれまい。併しこの歌は上品な貴公子らしい作である、新勅撰集に四の句「駒打ちわたし」として出てゐる。
 
716 夜晝と いふ別知らに 吾が戀ふる 心は蓋し 夢に見えきや
 
夜畫《ヨルヒルト》 云別不知《イフワキシラニ》 吾戀《ワガコフル》 情蓋《ココロハケダシ》 夢所見寸八《イメニミエキヤ》
 
晝夜ノ區別モナク、始終私ガオマヘヲ〔四字傍線〕戀シク思ツテヰル心ハ、多分夢ニ見エタデアラウナア。ドウダ。戀ノ心ガ通ヘバ夢ニミエルトイフカラ、キツトオマヘノ夢ニ私ノコトガ見エタニ違ナイ〔ドウ〜傍線〕。
 
717 つれもなく あるらむ人を 片思に 吾は思へば わびしくもあるか
 
都禮毛無《ツレモナク》 將有人乎《アルラムヒトヲ》 獨念爾《カタモヒニ》 吾念者《ワレハオモヘバ》 惑毛安流香《ワビシクモアルカ》
 
ツレナイ強情ナ〔三字傍線〕人ヲ片思デ、自分バカリデ〔六字傍線〕私ガ思ツテヰルト辛イモノダヨ。ホントニオマヘハヒドイ女ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○都禮毛無《ツレモナク》――モは添へた詞で、ツレナクは強情な冷淡なこと。○惑毛安流香《ワビシクモアルカ》――舊訓のマドヒモアルカではわからない。契沖がワビシクモアルカと訓んだのに從はう。考には惑は※[戚/心]の誤と言つてゐるけれども、さういふ文字は他に用例がないからいけない。この儘でワビシクとよめないことはない。アルカはアルカナの意。
〔評〕 これも平板で、熱情が見えてゐない。
 
718 思はぬに 妹がゑまひを 夢に見て 心のうちに 燃えつつぞ居る
 
不念爾《オモハヌニ》 妹之咲※[人偏+舞]乎《イモガヱマヒヲ》 夢見而《イメニミテ》 心中二《ココロノウチニ》 燒管曾呼留《モエツツゾヲル》
 
(612)思ヒモヨラズオマヘノ笑顔ヲ夢ニ見テ、私ハイヨイヨ戀シクナツテ〔私ハ〜傍線〕心ノ中デ焦レテヰルヨ。
〔評〕 前の歌よりは熱がある。燃ゆるおもひに身をこがすといふやうな、後世風になつてゐないのが嬉しい。
 
719 ますらをと 思へる我を かくばかり みつれにみつれ 片思をせむ
 
丈夫跡《マスラヲト》 念流吾乎《オモヘルワレヲ》 如此許《カクバカリ》 三禮二見津禮《ミツレニミツレ》 片思男責《カタモヒヲセム》
 
我コソハ勇マシイ〔八字傍線〕大丈夫ト思ツテ自慢シテ〔四字傍線〕ヰル私ダノニ、コンナニ窶レタ上ニモ窶レテ、片思ヲスルトイフコトガアルモノカ。ホントニ腑甲斐ナイコトダ〔ホン〜傍線〕。
 
○三禮二見津禮《ミツレニミツレ》――三禮《ミツレ》はやつれること。卷十に香細寸花橘乎玉貫將送妹者三禮而毛有香《カクハシキハナタチバナヲタマニヌキオクラムイモハミツレテモアルカ》(一九六七)とあり、書紀に羸の字をミツレとよんでゐる。ここはやつれた上にもやつれの意。
 
〔評〕 卷十一に大夫登念有吾乎如是許令戀波小可者在來《マスラヲトオモヘルワレヲカクバカリコヒセシムルハカラクハアリケリ》(二五八四)とあるに上句全く同じで、又卷六に丈夫跡念在吾哉水莖之水城之上爾泣將拭《マスラヲトオモヘルワレヤミヅクキノミヅキノウヘニナミダノコハム》(九六八)とあるのにも似たところがある。ともかく上句は當時の成句と言ふを妨げない。下句は情が籠つてゐる。略解に乎は也の誤かといつたのは尤だが、右に掲げた卷十一の歌をその儘とつたものらしいから誤ではあるまい。
 
720 村肝の 心くだけて 斯くばかり 吾が戀ふらくを 知らずかあるらむ
 
村肝之《ムラギモノ》 情摧而《ココロクダケテ》 如此許《カクバカリ》 余戀良菩乎《ワガコフラクヲ》 不知香安類良武《シラズカアルラム》
 
(村肝之)心ガ種々ニ苦シンデ、コレホドニ私ガオマヘヲ〔四字傍線〕戀シテヰルノヲ、オマヘハ〔四字傍線〕知ラズニヰルノダラウカ。
少シ察シテクレヨ〔八字傍線〕。
 
○村肝之《ムラギモノ》――心の枕詞。五參照。○情摧而《ココロクダケテ》――情の字舊本於とあるは誤。元暦校本に情とあるに從ふ。心摧く
キミガクダカムココロハモタジワガムネハワレテクダケテトゴコロモナシ
るとは苦心煩悶すること。君之摧情者不持《》(二三〇八)・我胸者破而摧而鋒心無《》(二八九四)などの用例がある。
〔評〕 あはれな片戀の情がよくあらはれてゐる、併し上句は右に述べたやうな例があり、下句は卷十一に大伴之《》
三津乃白浪間無我戀良苦乎人之不知久《オホトモノミツノシラナミアヒダナクワガコフラクヲヒトノシラナク》(二七三七)とあるのに似てゐるから、別に獨創は無い歌である。
 
(613)獻(レル)2天皇(ニ)1歌一首
 
元麿校本、ここに小字で、「大伴坂上郎女在佐保宅作之」とある。略解は坂上郎女説を疑つて、「もし是はその母の内命婦の歌にや」と述べてゐる。
 
721 足引の 山にし居れば みやび無み 吾がする業を 咎め給ふな
 
足引乃《アシビキノ》 山二四居者《ヤマニシヲレバ》 風流無三《ミヤビナミ》 吾爲類和射乎《ワガスルワザヲ》 害目賜名《トガメタマフナ》
 
(足引乃)山ノ中ニ居リマスノデ、都風デアリマセンカラ、私ノ致シマスコトノ田舍風ナノ〔六字傍線〕ヲオ咎メ遊バシマスナ。コンナ田舍風ノモノヲ獻上致シマシタガ、オ咎メナサイマスナ〔コン〜傍線〕。
 
○風流無三《ミヤビナミ》――風流は卷二に於曾能風流士《オソノミヤビヲ》(一二六)とある如く、ミヤビとよむがよい。舊訓ヨシヲナミ、古義はミサヲナミとよんでゐる。
〔評〕 吾爲類和射《ワガスルワザ》といふのは、天皇に何か品物を献上したものであらう。作者が坂上郎女たるや否やは遽かに斷じ難いが、如何にも親和の情があらはれた作である。
 
大伴宿爾家持歌一首
 
722 かくばかり 戀ひつつあらずは 石木にも ならましものを 物思はずして
 
如是許《カクバカリ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 石木二毛《イハキニモ》 成益物乎《ナラマシモノヲ》 物不思四手《モノモハズシテ》
 
コンナニ戀ヒ慕ツテ居ナイデ、寧ロ岩ヤ木ノヤウナ心ノナイモノ〔ノヤ〜傍線〕ニナラウモノヲ、サウシタラ〔五字傍線〕物ヲ思ハナイデ居ラレテヨカラウ〔八字傍線〕。
〔評〕 卷二の如此許戀乍不有者高山之磐根四卷手死奈麻死物乎《カクバカリコヒツツアラズハタカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》(八六)、卷十一の如是許戀乍不有者朝爾日爾妹之將履地爾有申尾《カクバカリコヒツツアラズハアサニケニイモガフムラムツチナラマシヲ》(二六九三)などを見ると、類型的作品たることがうなづかれるであらう。さう見ると、さしたる佳作とも言ひ難い。
 
(614)大伴坂上郎女從(リ)2跡見庄《トミノタドコロ》1贈2賜(レル)留(レル)v宅(ニ)女子大孃(ニ)1歌一首并短歌
 
跡見庄は今の外山《トミ》で、磯城都城島村に屬し、櫻井町の東方に當る地である。卷八に典鑄正紀朝臣鹿人至2衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄1作歌(一五四九)とあるから、大伴氏の別邸のあつた地である。庄はタドコロと訓む。田處の義で、宅は坂上の家である。女子大孃は坂上大孃のこと。
 
723 常世にと 吾が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 吾が兒の刀自を ぬば玉の 夜晝と言はず 思ふにし 吾が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへぬれぬ かくばかり もとなし戀ひば 古郷に 比の月頃も 在りかつましじ
 
常呼二跡《トコヨニト》 吾行莫國《ワガユカナクニ》 小金門爾《ヲカナドニ》 物悲良爾《モノガナシラニ》 念有之《オモヘリシ》 吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》 野干玉之《ヌバタマノ》 夜晝跡不言《ヨルヒルトイハズ》 念二思《オモフニシ》 吾身者瘠奴《ワガミハヤセヌ》 嘆丹師《ナゲクニシ》 袖左倍沾奴《ソデサヘヌレヌ》 如是許《カクバカリ》 本名四戀者《モトナシコヒバ》 古郷爾《フルサトニ》 此月期呂毛《コノツキゴロモ》 有勝益士《アリカツマシジ》
 
外國ヘ私ガ行クトイフノデモナイノニ、家ヲ離レル時ニ〔七字傍線〕金具ノ打ツテアル門ニ立ツテ、物悲シサウニ私トノ別レヲ〔六字傍線〕思ツテヰタ私ノ娘ラヲ、(野干玉之)夜畫トイフ區別ナシニ戀シク思フノデ、私ノ身體ハ痩セマシタ。嘆クノデ私ノ〔二字傍線〕着物ノ袖マデモ涙ニ〔二字傍線〕霑レマシタ。コンナニ無暗ニ戀ヒ慕ツタラ、私ノ古ク住ンデヰ夕コノ跡見庄ノ〔六字傍線〕里ニコノ月ダケデモ、居ルコトハ出來ナイデセウヨ。
 
○常呼二跡《トコヨニト》――常呼《トユヨ》は常世で、異國をいふ。一體トコヨには三義があつて、一は異國、二は仙郷、三は黄泉である。いづれも遠隔な別天地といふ考から出たものである。この場合も黄泉と見て、死を意味したものとする説が多く、宣長・古義・新考など、いづれもさうであるが、略解に「ここは異國をいふ」とあるに從ひたいと思ふ。呼の字はヨの假名に用ゐた例は、他に一つもない。元暦校本トコヲニトとよんだのは、尤だが、それでは意味をなさぬから、恐らく誤字であらう。考に與の誤としてゐる。○小金門爾《ヲカナドニ》――小《ヲ》は接頭語で意味はない。金門《カナト》は金具を多く打つた門の戸であらう。卷九の金門爾之人乃來立者《カナトニシヒトノキタテバ》(一七三九)、卷十四の兒呂我可那門欲《コロガカナトヨ》(三五三〇)・(615)佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾《サキモリニタチシアサケノカナトデニ》(三五六九)なる例がある。○物悲良爾《モノカナシラニ》――この良は形容詞の語根に添うたもので、別に意味はない。稀ら〔傍点〕・うまら〔傍点〕に・うすら〔傍点〕ひ(薄氷)・あから〔傍点〕橘など同じであらう。○吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》――刀自は、すべて婦人を呼ぶ稱である、戸主の義で、婦人が屋内のことを主どるに起るといはれてゐる。必ずしも老女に限るのでないことは、この用例によつて明らかである。○本名四戀者《モトナシコヒバ》――本名は、猥りに、四《シ》は強めていふのみ。○古郷爾《フルサトニ》――跡見庄をいふ。ここが大伴家の舊い領地で、別邸などがあつたからであらう。○有勝益士《アリカツマシジ》――舊訓アリカテマシヲとあるはよくない。アリカツマシジとよむべきは、九四に委しく述べてある。意は有るに堪へまいといふのである。
〔評〕強烈な戀愛生活を送つた彼女は、母性愛にも人なみ勝れて燃えてゐた。暫しの別れにも子を思つて落付いてゐられない樣子が、ありありと見えるやうに詠まれてゐる。卷九の遣唐使に從つて行く子に贈つた母の歌(一七九〇)と共に、この種の作の出色のものである。
 
反歌
 
724 朝髪の 思ひ亂れて かくばかり なねが戀ふれぞ 夢に見えける
 
朝髪之《アサガミノ》 念亂而《オモヒミダレテ》 如是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》 夢爾所見家留《イメニミエケル》
 
(朝髪之)思ヒ亂レテコレホドマデモ、オマヘガ私ヲ戀シク思フノデ、射、オマヘガ私ヲ〔六字傍線〕夢ニ見エタノデスヨ。
 
○朝髪之《アサガミノ》――枕詞。亂《ミダレ》とつづく。○名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》――名姉《ナネ》のナは親しむ意。ネはアネの略。男を親しんでナセといふに對した語ではあるが、ナネは古く男に用ゐた例もある。ここは固より女兒を親しんで言つたものである。戀曾《コフレゾ》はコフレバゾの意。この句は宣長が「こふれぞなねがと打返して心得べし。わが戀ふればぞなねが吾夢に見えたるといふなり」と言つたのに從ふべきであるが、左註によれば大孃からの歌に答へたものであるから、如是許《カクバカリ》を大孃の歌をさしたものと見ねばなるまいと思ふ。
〔評〕朝髪之といふ枕詞は用例が他に見えないから、未だ慣用的になつたのではなく、作者の創意といつてよい(616)であらう。ここにしつくりと當てはまつて、歌全體を柔らかに、やさしくしてゐるやうに見える。
 
右歌(ハ)報2賜(レル)大孃(ニ)1歌也
 
この註を考に衍とし、略解・古義などそれに從つてゐるが、それは反歌だけにかかつたものと見た誤で、衍とは言はれない。元暦校本には歌の上に進の字がある。
 
獻(レル)2天皇(ニ)1歌二首
 
元暦校本には、ここに小字で「大伴坂上郎女在春日里作也」とある。
 
725 鳰烏の かづく池水 心あらば 君に吾が戀ふる 心示さね
 
二寶鳥乃《ニホドリノ》 潜池水《カヅクイケミヅ》 情有者《ココロアラバ》 君爾吾戀《キミニワガコフル》 情示左禰《ココロシメサネ》
 
鳰鳥ガ潜ツテ遊ンデヰル池ノ水ヨ。モシオマヘニ〔四字傍線〕心ガアルナラバ、私ガ陛下ヲ思ツテ居ル心ノ深サ〔三字傍線〕ヲ陛下ニ〔三字傍線〕オ知ラセ申シテクレヨ。
 
○二寶鳥乃《ニホドリノ》――鳩鳥は今のカイツブリである。游禽類で、七寸ばかりの鳥である。背は黒褐色、腹は灰色を帶びてゐる。カイツブリは、よく水に潜るからの名である。長く水中にあるから息の長い意でシナガドニリともいふ。○情有者《ココロアラバ》――池水につづいてゐるのは、單に池を有情のものと見傚して言ふのではなく、池の中心、池の底といふやうな意に、かけたものかも知れない。躬恒集に「散りぬともかげをやとめぬ藤の花池の心のあるかひもなし」源氏物語に「池の心廣くなして、めでたく作りののしる」といふやうな用法が、既にこの頃出來てゐたのかも知れない。
〔評〕 池水を擬人したのはよいが、心を示せとは如何にすることか明らかでない。情《ココロ》の字が三句と五句とにある(617)も、少し面白くない。ともかく佳作とは言ひ難い。
 
726 よそに居て 戀ひつつあらずは 君が家の 池に住むとふ 鴨にあらましを
 
外居而《ヨソニヰテ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 君之家乃《キミガイヘノ》 池爾住云《イケニスムトフ》 鴨二有益雄《カモニアラマシヲ》
 
他所ニ居ツテ戀シガツテヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕貴方樣ノオ家ノ池ニ住ムトイフ鴨デアル方ガマシデゴザイマス。サウシタラ始終オ側ニヰラレテ嬉シウゴザイマセウ〔サウ〜傍線〕。
〔評〕 君之家乃《キミガイヘノ》といふ句は、天皇に奉る語としては、ふさはしくないやうである。又これは全く類型的の歌で、かうした類歌は卷二の吾味兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾《ワキモコニコヒツツアラズハアキハギノサキチチリヌルハナナラマシヲ》(一二〇)、その他卷四の五四四・七二二、卷二の八六、卷十一の二六九三など、かなり澤山ある。
 
大伴宿禰家持、贈(レル)2坂上家大孃(ニ)1歌二首【離2絶(エテ)數年(ヲ)1後會(ヒテ)相聞往來】
 
離の字、舊本は雖となつてゐるが、元麿校本に離とあるがよいやうである。
 
727 忘草 吾が下紐に 著けたれど 醜の醜草 ことにしありけり
 
萱草《ワスレグサ》 吾下紐爾《ワガシタヒモニ》 著有跡《ツケタレド》 鬼乃志許草《シコノシコクサ》 事二思安利家理《コトニシアリケリ》
 
アマリ戀シク苦シイノデ、少シ苦ヲ忘レヨウト思ツテ〔アマ〜傍線〕、萱草ヲ身ニツケルト物ヲ忘レルトイフカラ〔身ニ〜傍線〕、下紐ニ付ケテ見タガ、何ノ效能モナカツタ。コノ〔何ノ〜傍線〕ツマラナイ草奴。名前バカリノ忘レ草〔四字傍線〕デ世間ノ言ヒナラハシトハ違ツテ〔世間〜傍線〕名バカリデアツタワイ。
 
○萱草《ワスレグサ》――草の名。クワンザウ。卷三の三三四を見よ。○吾下紐爾《ワガシタヒモニ》――下紐は、小袖の上に結ぶ紐、又は下裳・下袴の紐をいふ。すべて表にあらはれぬ紐である。○鬼乃志許草《シコノシコクサ》――醜の醜草で、その草を罵つたのである。鬼は醜の省畫で、鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》(一一七)・鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》(三二七〇)の如く、シコとよむべきを、中世以來文字通りによん(618)だと見えて、八雲御抄にオニノシコクサとして、この歌を出してゐる。謡曲大江山には「頃しも秋の山草、桔梗・刈萱・われもかう・紫苑といふは何やらむ、鬼のしこ草とは誰かつけし名なるぞ」とあつて、紫苑のことにして終つたのは滑稽である。○事二思安利家理《コトニシアリケリ》――コトは言で、忘草とは名のみであつたといふのだ。卷七に戀忘貝事二四有家里《コヒワスレガヒコトニシアリケリ》(一一四九・一一九七)とあるも同じ。
〔評〕 卷十二の萱草垣毛繁森雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利《ワスレグサカキモシミミニウエタレドシコノシコクサナホコヒニケリ》(三〇六二)と、卷七の戀忘貝事二四有家里《コヒワスレガヒコトニシアリケリ》とを一緒にしただけで、下紐に萱草を付けることも、卷三の旅人の萱草吾紐二付《ワスレグサワガヒモニツク》(三三四)を學んだものと言へよう。更に創意のない歌である。
 
728 人も無き 國もあらぬか 吾妹兒と 携ひ行きて たぐひて居らむ
 
人毛無《ヒトモナキ》 國母有粳《クニモアラヌカ》 吾妹兒與《ワギモコト》 携行而《タヅサヒユキテ》 副而將座《タグヒテヲラム》
 
人ノ居ナイ國ハナイカ。モシアルナラ其處ヘ〔九字傍線〕男女ヲ連レテ行ツテ、二人デ並ンデ暮ラシテヰヨウ。ホントニコノ世ノ人ノ口ノ多イニハ困リマス〔ホン〜傍線〕。
 
○國母有粳《クニモアヲスカ》――國もないかよ。國もあれよの意。粳の字は糠の誤とする説もあるが、卷十にも不晩毛荒粳《クレズモアラヌカ》(一八八二)とあつて、糠と粳と通じて用ゐたので、倭名抄箋註に掖齋は、續日本紀に、人名糠蟲を粳蟲とも記し、又同書道鏡傳に「竊(ニ)挾(ム)2舐v粳(ヲ)之心(ヲ)1」とあるなどをあげて、委しく論じてゐる。古義にも同樣の説が出てゐる。
〔評〕 人毛無國母有粳《ヒトモナキクニモアラヌカ》は可憐な考で、世を憚りつつ戀する人の多くがさう思ふことであらう。古今集の「いかならむいはほの中に住まばかは世の憂きことの聞え來ざらむ」と、内容は著しく異なつてゐるが、人を避けて浮世の外に安住の地を求めようとする心は、似たところがある。
 
大伴坂上大孃、贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌三首
 
729 玉ならば 手にも卷かむを うつせみの 世の人なれば 手に卷きがたし
 
玉有者《タマナラバ》 手二母將卷乎《テニモマカムヲ》 欝瞻乃《ウツセミノ》 世人有者《ヨノヒトナレバ》 手二卷難石《テニマキガタシ》
 
モシ戀シイ貴方ガ〔八字傍線〕玉ナラバ手ニ卷キツケテ、放サズニ持ツテヰ〔九字傍線〕ヨウノニ、貴方〔二字傍線〕ハ(欝瞻乃)世ノ人間ダカラ、手ニ卷キツケルワケニモ行カナイ。困リマシタ〔五字傍線〕。
 
○欝瞻乃《ウツセミノ》――枕詞。世とつづく。欝瞻は字音を用ゐたので、珍らしい用例である。瞻は鹽韻咸攝の音で、即ちm音尾であるから、セミに借りたのである。
〔評〕 愛人が玉ならば、手に卷いて持つてゐようと冀ふ意をよんだものは、かなり澤山ある。上代人が如何に玉を愛したかを語ると共に、さうした譬喩が既に一の型になつたことを示すものである。この歌の二の句と五の句との重複は、技巧的に拙いやうに思はれる。
 
730 逢はむ夜は いつもあらむを 何すとか そのよひ逢ひて 言の繁きも
 
將相夜者《アハムヨハ》 何時將有乎《イツモアラムヲ》 何如爲當香《ナニストカ》 彼夕相而《ソノヨヒアヒテ》 事之繁裳《コトノシゲキモ》
 
貴方ト私トガ〔六字傍線〕逢フ夜ハ何時トイツテ限ツタコトデハナイノニ、何シニアノ晩ニオ逢ヒシテ、コンナニ人ノ口ガヤカマシイノデアラウヨ。生憎人ノ目ニ立ツ時ニ逢ツタモノデス〔生憎〜字傍線〕。
 
○事之繁裳《コトノシゲキモ》――事は言の借字。略解にコトシシゲキモとよんでゐるが、言之繋乎《コトノシゲキヲ》(六二六)・事之繁家口《コトノシゲケク》(二三〇七)など總べてコトノよんであつて、コトシとつづいた例は、他に見當らないから、ここもコトノとよむべきである。シゲキモはシゲシモとよんであるが、シゲキモの方が文法的で、且、安らかに聞える。
〔評〕 二人の交歡が人の目に觸れて、言ひ騷がれるのを悲しんだので、隱れたるよりあらはるるはなく、いつかは人に知られではすまぬことながら、丁度惡い機會に逢着したやうに思ふのは、世人の常であらう。その當惑感があらはれてゐる。
 
731 吾が名はも 千名の五百名に 立ちぬとも 君が名立たば 惜しみこそ泣け
 
吾名者毛《ワガナハモ》 千名之五百名爾《チナノイホナニ》 雖立《タチヌトモ》 君之名立者《キミガナタタバ》 惜社泣《ヲシミコソナケ》
 
私ノ浮〔傍線〕名ハドンナニヒドク立ツテモ何トモ思ヒハシマセヌガ〔何ト〜傍線〕、貴方ノ浮名ガ立チマシタラ、私ハ貴方ノ名譽ヲ〔私ハ〜傍線〕(620)惜シンデ泣キマスヨ。
 
○千名之五百名爾《チナノイホナニ》――名の甚だしく立つこと。千と五百とを重ねていふのは、古事記に「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國《トヨアシハラノチアキノナガイホアキノミヅホノクニ》」とあるのと同じであらう。○君之名立者《キミガナタタバ》――タテバとよむがよいといふ説もあるが、雖立《タチヌトモ》のつづきとしては、タタバが當然である。五句の呼應などは深く問ふの要はない。
〔評〕 卷二に鏡王女が、内大臣に贈つた、君名者雖有吾名之惜毛《キミガナハアレドワガナシヲシモ》(九三)とあるのも、女らしい態度であるが、更に熱情的になれば、自己を忘れ、吾が名の立つのを恐れぬやうになる。この熾烈な献身的な戀は貴いものである。千名之五百名《チナノイホナ》も新しい造語であらう。卷十二に百爾千爾人者雖言《モモニチニヒトハイフトモ》(三〇五九)とあるよりも、この歌が巧である。
 
又大伴宿禰家持和(フル)歌三首
 
732 今しはし 名の惜しけくも 吾はなし 妹によりては 千たび立つとも
 
今時有四《イマシハシ》 名之惜雲《ナノヲシケクモ》 吾者無《ワレハナシ》 妹丹因者《イモニヨリテハ》 千遍立十方《チタビタツトモ》
 
今ハモウ私ハ浮名ガ立ツテモ〔四字傍線〕惜シクモナイ。アナタノ爲ナラドンナニ盛ニ評判ガ立ツテモカマハナイ。
 
○今時有四《イマシハシ》――シは二つながら強める助詞。有は誤字、元暦校本に者とあるがよい。○妹丹因者《イモニヨリテハ》――妹の爲ならばの意。古義に「妹によりそひたらば吾が心安からむぞとなり」とあるのはどうであらう。
〔評〕 前の吾名者毛《ワガナハモ》の歌に答へたので、女の誠意に感謝し、今は世をも人をも恐れじと、強く叫んでゐる。但し二三の句はこの頃の常套語であつたらしい。六一六・二八七九・二九八四などに用ゐられてゐる。六一六の註參照。
 
733 うつせみの 世やも二行く 何すとか 妹に逢はずて 吾が獨ねむ
 
空蝉乃《ウツセミノ》 代也毛二行《ヨヤモフタユク》 何爲跡鹿《ナニストカ》 妹爾不相而《イモニアハズテ》 吾獨將宿《ワガヒトリネム》
 
(空蝉乃)コノ世ハ二度ハ廻ツテ來ナイモノダ。ダカラ〔三字傍線〕ドウシテ私ハ貴女ニ逢ハナイデ獨デ寢ヨウカ。ドウシテ(621)モ逢ハネバナラヌ〔四字傍線〕。
 
○代也毛二行《ヨヤモフタユク》――同じ代は二度廻つて來ない意である。卷七に世間者信二代者不往有之過妹爾不相念者《ヨノナカハマコトニフタヨハユカザラシスギニシイモニアハナクオモヘハ》(一四一〇)とある通りである。
〔評〕 右に掲げた卷七の歌から暗示を得て、代也毛二行《ヨヤモフタユク》と言つたのかも知れないが、ともかくも面白い叙法である。吾獨將宿《ワガヒトリネム》といふやうな句は、集中に多數見出されるが、上代人の率直さが、かういふ表現を平氣で用ゐしめてゐるのである。
 
734 吾が念 かくてあらずは 玉にもが 眞も妹が 手に纏かれなむ
 
吾念《ワガオモヒ》 如此而不有者《カクテアラズハ》 玉二毛我《タマニモガ》 眞毛妹之《マコトモイモガ》 手二所纏牟《テニマカレナム》
 
貴女ハ私ノコトヲ玉ナラバヨイガト仰ツタガ〔貴女〜傍線〕、私ノコノ戀シイ心ヲ果サズニ〔四字傍線〕カウシテヰナイデ、寧ロ私ガ玉デアレバヨイ。サウシテ〔四字傍線〕ホントニ貴女ノ手ニ卷イテ貰ヒマセウ。
 
○手二所纏牟《テニマカレナム》――略解にテニマトハレムとあるが、纏の字は手枕纏而《タマクラマキテ》(二一七)・水阿和逆纏《ミナワサカマキ》(二四三〇)などの如く、マクと用ゐた例が多く、且、前の玉有者《タマナラバ》の歌が、すべてマクになつてゐるから、ここはマカレナムがよろしい。牟の字は元麿校本に乎とあるによらばマカレムヲであらう。
〔評〕 前の玉有者《タマナラバ》の歌に對する返歌である。戀の心の滿されない悲しさに、寧ろ玉となつて愛人の手に卷かれようと希つただけで、格別のことはない。
 
同坂上大孃贈(レル)2家持(ニ)1歌一首
 
735 春日山 霞たなびき 心ぐく 照れる月夜に 獨かもねむ
 
春日山《カスガヤマ》 霞多奈引《カスミタナビキ》 情具久《ココログク》 照月夜爾《テレルツクヨニ》 獨鴨念《ヒトリカモネム》
 
春日山ニハ霞ガ棚引イテボンヤリト〔五字傍線〕心オボツカナク月ガ照ツテヰルガ、コンナ〔四字傍線〕晩ニ私ガ一人デ寢ルノデセウカ(622)ナア。アアツマラナイ〔七字傍線〕。
 
○情具久《ココログク》――ココログシといふ形容詞である。心のくぐもりて、おぼつかない不安焦燥の感を惹さしめることであらう。この卷末の情八十一所念可聞春霞棚引時二事之通者《ココログクオモホユルカモハルガスミタナビクトキニコトノカヨヘバ》(七八九)、卷八の情具伎物爾曾有鷄類春霞多奈引時爾戀乃繁者《ココログキモノニゾアリケルハルガスミタナビクトキニコヒノシゲキハ》(一四五〇)の如き例から見ると、霞のかかつた欝陶しい景色について言ふらしい。古義にめでなつかしむ意としたのは、當らぬやうである。
〔評〕 照りもせず曇りもはてぬ春の朧月に對して、人戀ふる心はいよいよ不安に、又いらだたしさを感ずるのである。獨鴨念《ヒトリカモネム》といつた歌はいくらもあるが、これなどは眞に獨寢の堪へ難さを述べたものとして、上乘の作であらう。
 
又家持和(フル)2坂上大孃(ニ)1歌一首
 
736 月夜には 門に出で立ち 夕|占《け》問ひ 足卜をぞせし 行かまくを欲り
 
月夜爾波《ツクヨニハ》 門爾出立《カドニイデタチ》 夕占問《ユフケトヒ》 足卜乎曾爲之《アウラヲゾセシ》 行乎欲焉《ユカマクヲホリ》
 
私ハアナタノ所ヘ〔八字傍線〕行キタイト思ツテ今夜行ツテヨイカ惡イカヲ知ル爲ニ〔今夜〜傍線〕、月夜ニハ門ヘ出テ、夕方ノ辻占ヲシタリ、足デ判斷スル〔六字傍線〕足卜ヲシタリシタ。
 
○夕占問《ユフケトヒ》――夕方辻占で判斷すること。四二〇を見よ。○足卜乎曾爲之《アウラヲゾセシ》――足卜は、伴信友の正卜考には、「俗に童子などのする趣にて、まづ歩きて踏止るべき標を定めおきて、さて吉凶の辭をもて、歩く足に合せつつ踏みわたり、標の處にて踏止りたる足に當りたる辭をもて、吉凶を定むるわざにもやあらむ」言つてゐる。神代紀に「告2其弟1曰、吾永(ク)爲(ラム)2汝俳優者(ト)1、乃擧(ゲテ)v足(ヲ)蹈行學2其溺苦之状1、初潮漬v足時、則爲(ス)2足占(ヲ)1」とあるが、爲(ス)2足占(ヲ)1とは足占をなすの態を爲す意であらうから、是の踏み方も定つてゐたと見える。續古今集にも權中納言定頼「行き行かず問はまほしきは何方に踏定むらむあしうらの山」と出てゐるが、この歌から推測しても、大體信友の考のやうなことであつたらうと思はれる。
〔評〕 前の春日山の歌に和したものであらう。作者の焦燥氣分があらはれてゐる。夕占とか足卜とかいふやうな卜占が、智識階級の間にも眞面目に行はれてゐたことも分つて面白い。
 
同大孃贈(レル)2家持(ニ)1歌敬二首
 
737 かにかくに 人は言ふとも 若狹道の 後瀬の山の 後も會はむ君
 
云云《カニカクニ》 人者雖云《ヒトハイフトモ》 若狹道乃《ワカサヂノ》 後瀬山之《ノチセノヤマノ》 後毛將念君《ノチモアハムキミ》
 
トヤカク下人ハ噂ヲシテモ、今ハ逢ヘナイデモ〔八字傍線〕(若狹道乃後瀬山之)後デ逢ヒマセウヨ。アナタヨ。
 
○若狹道乃後瀬山之《ワカサヂノノチセノヤマノ》――後といはむ爲の序詞で、同音を繰返してゐる。後瀬山は若狹國遠敷郡にあり、小濱町の南方の小山で、武田氏がこの山下に築城したので、城山と稱してゐる。寫眞は松見三郎氏寄贈。○復毛將念君《ノチモアハムキミ》――念は會の誤か。代匠記は合の誤としてゐる。
〔評〕 唯後を契つただけであるが、女らしい感情は見えてゐる。後瀬山は作者には恐らく無關係の山であらう。後瀬は後の機會・後の逢瀬などの意がある語であるから、丁度ここに當て嵌るのである。
 
738 世の中の 苦しきものに ありけらく 戀に堪へずて 死ぬべき思へば
 
世間之《ヨノナカノ》 苦物爾《クルシキモノニ》 有家良久《アリケラク》 戀二不勝而《コヒニタヘズテ》 可死念者《シヌベキオモヘバ》
 
私ハ戀シサニ堪ヘナイデ死ニサウダガ、カウシテ〔私ハ〜傍線〕戀シサニ堪ヘナイデ死ニサウナノヲ考ヘテ見ルト、戀トイフ(624)モノハ〔七字傍線〕世ノ中デ一番〔三字傍線〕苦シイモノデアツタヨ。
 
○世間之《ヨノナカノ》――攷證にはヨノナカシとよんでゐるが、舊訓の儘がよからう。○有家良久《アリケラク》――有りけるに同じ。ここで終止して下句から上句へ反る形である。
〔評〕 戀の惱に堪へずして死することを思へば、戀こそ世の中の最も苦しいものだと、自己の體驗を訴へたので、戀の爲に死にさうだと平らかに言はないで、世間之苦物《ヨノナカノクルシキモノ》と言つたのが、面白い點でもありまた多少理窟を付けた傾向がないでもない。
 
又家持、和(フル)2坂上大孃(ニ)1歌二首
 
739 後瀬山 後も會はむと 念へこそ 死ぬべきものを 今日までも生けれ
 
後湍山《ノチセヤマ》 後毛將相常《ノチモアハムト》 念社《オモヘコソ》 可死物乎《シヌベキモノヲ》 至今計毛生有《ケフマデモイケリ》
 
今ハ逢ヘナイデモ〔八字傍線〕(後湍山)後デアナタニ〔四字傍線〕逢ハウト思へバコソ私ハ、逢ハレナイ苦シサニ〔私ハ〜傍線〕焦レ死スベキ筈ダノニ、今日マデモ生キテヰルノデスヨ。
 
○念社《オモヘコソ》――思へばこそに同じ。
〔評〕 前の云云《カニカクニ》の歌に和したのである。熱情的にかなりよく出來てゐる。
 
740 言のみを 後も逢はむと ねもごろに 吾を憑めて 逢はざらむかも
 
事耳乎《コトノミヲ》 後手相跡《ノチモアハムト》 懃《ネモゴロニ》 吾乎令憑而《ワレヲタノメテ》 不相可聞《アハザラムカモ》
 
アナタハ〔四字傍線〕口デバカリ、後デ逢ハウト心カラ私ニアテニサセテ泣イテ、逢ハナイノデハアリマセンカ。大丈夫デスカ〔六字傍線〕。
 
○後手相跡《ノチモアハムト》――手は毛の誤であらう。元暦校本はさうなつてゐる。○吾乎令憑而《ワレヲタノメテ》――たのめては、たのましめての意。○不相可聞《アハザラムカモ》――舊訓アハザラメカモであるが、元暦校本などの古訓に、アハザラムカモとあるのを採(625)るべきやうに思はれる。逢はざるにあらずやと疑ふ意である。宣長は不相妹可聞《アハヌイモカモ》又は不相有可聞《アハズアルカモ》かといつてゐる。
〔評〕 これも云云《カニカクニ》の歌の、後毛將念君《ノチモアハムキミ》といつたのに答へたので、口ばかりで逢はないのではないですかと、念を推したのである。從來の諸説は、多く誤解してゐるやうに思はれる。
 
更(ニ)大伴宿禰家持、贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌十五首
 
741 夢の逢は 苦しかりけり おどろきて かき探れども 手にも觸れねば
 
夢之相者《イメノアヒハ》 苦有家里《クルシカリケリ》 覺而《オドロキテ》 掻探友《カキサグレドモ》 手二毛不所觸者《テニモフレネバ》
 
夢ノ中デ戀シイ人ト〔五字傍線〕逢フノハ苦シイモノダワイ。目ガ覺メテ、戀人ヲ捜シテ〔六字傍線〕サグツテ見テモ、手ニモ觸ラナイカラツマラナイ〔五字傍線〕。
 
○覺而《オドロキテ》――目を覺して。
〔評〕 契沖は遊仙窟の「少時睡則夢見2十娘1、驚覺攪v之忽然空v手」とあるによつて詠んだものだらうといつてゐる。この下にも遊仙窟によつた歌があるからこれもさうであらう。卷十二の愛等念吾妹乎夢見而起而探爾無之不怜《ウツクシトオモフワギモヲイメニミテオキテサグルニナキガサブシサ》(二九一四)と似てゐるが、この卷十二の歌も遊仙窟の模倣であらう。
 
742 一重のみ 妹が結ばむ 帶をすら 三重結ぶべく 吾が身はなりぬ
 
一重耳《ヒトヘノミ》 妹之將結《イモガムスバム》 帶乎尚《オビヲスラ》 三重可結《ミヘムスブベク》 吾身者成《ワガミハナリヌ》
 
妻ガ結ンデクレルノニ、常ニハ〔三字傍線〕一重ニ結ブ帶ヲ、コノ頃ハ戀ノ爲ニ瘠セタノデ〔コノ〜傍線〕、三重ニ結ブヤウニ私ノ身體ガナツタ。ヒドク瘠セタモノデス〔ヒド〜傍線〕。
〔評〕 これも遊仙窟に「日々衣寛朝々帶緩」とあるのに意は同じであるが、卷九に白細乃紐緒毛不解一重結帶矣三重結《シロタヘノヒモヲモトカズヒトヘユフオビヲミヘユヒ》、卷十三に?垣久時從戀爲者吾帶緩朝夕毎《ミヅガキノヒサシキトキユコヒスレバワガオビユルブアサヨヒゴトニ》(三二六二)・二無戀乎思爲者常帶乎三重可結我身者成《フタツナキコヒヲシスレバヅネノオビヲミヘムスブベクワガミハナリヌ》(三二七三)の類(626)があり、ことに最後の歌は下句全く同じであるから、恐らくこれを學んだのであらう。
 
743 吾が戀は 千引のいはを 七ばかり 頸にかけむも 神のもろふし
 
吾戀者《ワガコヒハ》 千引乃石乎《チビキノイハヲ》 七許《ナナバカリ》 頸二將繋母《クビニカケムモ》 神之諸伏《カミノモロフシ》
 
私ガ戀ニ苦シンデヰルココロを譬ヘテ見ルト、丁度〔ニ苦〜傍線〕千人デ引張ルヤウナ大キナ石ヲ、七ツバカリモ頸ニ縣ケタヤウナモノデ、實ニツライガ、コンナニツライ思ヒヲシテモ、アナタニハ神樣ガツイテヰテ〔實ニ〜傍線〕、神樣ガ共寢ヲセラレルカラ駄目ダ〔五字傍線〕。
 
○千引乃右手《チビキノイハヲ》――書紀には千人所引磐石とあり、古事記にも千引石とある。千人にて引く程の重い大きい石である。○頸二將繋母《クビニカケムモ》――頸に懸けむほどの重き苦しさなれどもの意であらう。○神之諸伏《カミノモロフシ》――神が女と共に臥し給ふ意であらう。誤字説もあるが、この儘にして見るがよい。
〔評〕 前の戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄《コヒクサヲチカラクルマニナナクルマツミテコフラクワガココロカラ》(六九四)の氣分に似たところがあり、奇拔で面白い。下句少し無理な言ひ方のやうでもあるが、眞淵が言つたやうに、感二の玉葛實不成樹爾波千磐破神曾著常云不成樹別爾《タマカヅラミナラヌキニハチハヤフルカミゾツクトイフナラヌキゴトニ》(一〇一)の如く、神の領じたる女の意に見るべきであらう。
 
744 暮さらば やどあけ設《ま》けて 我待たむ 夢に相見に 來むといふ人を
 
暮去者《ユフサラバ》 屋戸開設而《ヤドアケマケテ》 吾將待《ワレマタム》 夢爾相見二《イメニアヒミニ》 將來云比登乎《コムトイフヒトヲ》
 
夢デ逢ヒニ行カウトイフアナタヲ、夕方ニナツタナラバ、家ノ戸ヲ開ケテ、私ハ待ツテヰマセウ。
 
○屋戸開設而《ヤドアケマケテ》――家の戸を開けて用意して。屋戸は文字通りに屋の戸である。宿の義ではない。
〔評〕 遊仙窟に「今宵莫v閉v戸夢裏向1渠邊1」とあるのを譯すれば、人見而事害目不爲夢爾吾今夜將至屋戸閉勿勤《ヒトノミテコトトガメセヌイメニワガコヨヒイタラムヤドサスナユメ》(二九一二)となるが、この家持の作は又それに答へたやうな歌である。ともかく遊仙窟の影響は否まれない。
 
745 朝よひに 見む時さへや 吾妹子が 見とも見ぬごと なほ戀しけむ
 
朝夕二《アサヨヒニ》 將見時左倍也《ミムトキサヘヤ》 吾妹之《ワギモコガ》 雖見如不見《ミトモミヌゴト》 由戀四家武《ナホコヒシケム》
 
朝ニ晩ニ絶エズ〔七字傍線〕逢フ時デサヘモ、私ハ〔二字傍線〕アナタノコトガ、逢ツテヰナガラ逢ハナイヤウニヤハリ戀シイデアラウ。況ンヤ久シク逢ハナイデヰテハ戀シイノハ當然ダ〔況ン〜傍線〕。
 
○雖見如不見《ミトモミヌゴト》――舊訓はミレドミヌゴトであるが、總べて假定であるから、略解によんだミトモがよからう。○由戀四家武《ナホコヒシケム》――由をナホとよむのは、猶と通じて用ゐるのである。
〔評〕 餘情を籠めた叙法であるが、深さも、うるほひも足りない。平庸の評は免れない。
 
746 生ける世に 吾は未だ見ず 言絶えて 斯くおもしろく 經へる嚢は
 
生有代爾《イケルヨニ》 吾者未見《ワハイマダミズ》 事絶而《コトタエテ》 如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》 縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》
 
何ト形容ノシヤウモナク、コンナニ面白ク縫ツテアル袋ハ、コノ世デハ私ハ未ダ見タコトガアリマセヌ。コノ樣ナ珍ラシイ袋ヲ贈ツテ下サツテアリガタウ〔コノ〜傍線〕。
 
○事絶而《コトタエテ》――言語に絶しての意。
〔評〕 大孃から袋を贈られたのに對するお禮である。これは平語である。さうですか歌である。
 
747 吾妹子が 形見の衣 下に著て 直に逢ふまでは 我脱がめやも
 
吾味兒之《ワギモコガ》 形見乃服《カタミノコロモ》 下著而《シタニキテ》 直相左右者《タダニアフマデハ》 吾將脱八方《ワレヌガメヤモ》
 
アナタガ形見トシテ私ニ贈ツタ〔八字傍線〕着物ヲ肌ニツケテ着テヰテ、直接又逢フマデハ私ハ脱ギマセヌゾ。
 
〔評〕 嚢と一緒に衣を贈られたものと見える。これもお禮の言葉に過ぎないが、前の歌よりは幾分よいところがある。
 
748 戀死なむ それも同じぞ 何せむに 人目ひとごと こちたみ吾が爲む
 
戀死六《コヒシナム》 其毛同曾《ソレモオナジゾ》 奈何爲二《ナニセムニ》 人目他言《ヒトメヒトゴト》 辭痛書將爲《コチタミワガセム》
 
焦死スル苦シサ〔三字傍線〕モ、人ニ浮名ヲ立テラレルツラサモ〔人ニ〜傍線〕、ソレハ同ジコトデスゾ。ダカラ私ハ〔五字傍線〕何故ニ人ニ見ツカルコトヤ、人ノ噂ナドヲ辛イト思ハウカ、決シテ辛イトハ思ハナィ。モウ誰憚ラズ戀ヲシヨウ〔モウ〜傍線〕。
 
(628)○其毛同曾《ソレモオナジゾ》――同の字オヤジとよむ説もある。併し於奈自許等《オナジコト》(三七七三)・於奈自伎佐刀乎《オナジキサトヲ》(四〇七六)などもあるから、オナジでもよいわけである。○辭痛吾將爲《コチタミワガセム》――吾が辭痛しとせむといふ意。即ち人の口喧しとて厭ひ憚ることをせぬといふのである。
〔評〕 これはかなりに情熱的である。世をも人をも憚らぬ熱し切つた心情が、力強い調子で述べられてゐる。
 
749 夢にだに 見えばこそあらめ 斯くばかり 見えずしあるは 戀ひて死ねとか
 
夢二谷《イメニダニ》 所見者社有《ミエバコソアラメ》 如此許《カクバカリ》 不所見有者《ミエズシアルハ》 戀而死跡香《コヒテシネトカ》
 
逢ハレナイ悲シサハ言フマデモナイガ、戀人ガ〔逢ハ〜傍線〕夢ニデモ見エレバ少シハ心モ慰ムモノダノニ、コンナニ、夢ニモ〔三字傍線〕見ニナイノハ、焦死セヨトイフコトカ。アアツライ。ツライ〔八字傍線〕。
 
○所見者社有《ミエバコソアラメ》――古義にミエバコソアレとあるのもよいが、舊訓アラメとあるに從つて置かう。○不所見有者《ミエズシアルハ》――舊訓ミエズテアルハとあるのもわるくはない。古義に見の下、而を補つてゐるのは從ひがたい。宣長が、同じく念の字を補つて、ミエザルモヘバとしたのは獨斷過ぎる。
〔評〕 夢にも見ないことは、單なる物足りなさの外に、この頃の信念から言へば、相手の薄情を語るものである。結句、戀而死跡香《コヒテシネトカ》が、如何にも憤懣の情に堪へぬやうに、謂はゆる噛んで吐き担すやうに言ひ放つたのが、よくその感情を表現してゐる。
 
750 思ひ絶え わびにしものを なかなかに 何か苦しく 相見そめけむ
 
念絶《オモヒタエ》 和偏西物尾《ワビニシモノヲ》 中々爾《ナカナカニ》 奈何辛苦《ナニカクルシク》 相見始兼《アヒミソメケム》
 
私ハアナク〔五字傍線〕ヲ思ヒ切ツテ、心デ唯〔三字傍線〕辛イト思ツテヰタノニ、ドウシテナマナカ又〔五字傍線〕逢ヒ初メテ却ツテ苦シムノダラウ。逢ハナケレバコノ苦シミハ受ケマイモノヲ〔逢ハ〜傍線〕。
 
○和備西物尾《ワビニシモノヲ》――わぶは心に淋しく辛く思ふことである。新考にアキラメタと譯したのは、その意を得ぬ。さういふ確かな用例が見當らない。○中々爾《ナカナカニ》――却つて。
〔評〕前の七二七の題詞の下に、離2絶數年1後會相聞往來とある趣が、この歌に歌はれてゐる。奈何辛苦《ナニカクルシク》は簡潔な、力ある述法である。
 
751 相見ては 幾日も經ぬを ここだくも 狂ひに狂ひ おもほゆるかも
 
相見而者《アヒミテハ》 幾日毛不經乎《イクカモヘヌヲ》 幾許久毛《ココダクモ》 久流比爾久流必《クルヒニクルヒ》 所念鴨《オモホユルカモ》
 
アナタニ〔四字傍線〕逢ツテカラ、マダイクラモ經タナイノニ、コンナニ〔四字傍線〕ヒドク私ハ〔二字傍線〕狂ヒニ狂ツテ、戀シク思フワイ。ホントニドウシタノデアラウ〔ホン〜傍線〕。
 
○幾許久毛《コゴダクモ》――舊訓ココバクモとある。許己婆久毛《ココバクモ》(三九九一)の用例があるから、これもわるくはないが、許己太久母《ココダクモ》(四〇一九)・許己太久爾《ココダクニ》(四〇三六)の例の外、語根だけで、ココダと用ゐた例は極めて多いから、ここもココダクがよからう。○久流比爾久流必《クルヒニクルヒ》――狂ひに狂ひで、頻りに狂ふこと。この句のみが一字一音式になつてゐるのは注意すべき點である。
〔評〕 四の句が作者の熱した感情、矢も楯もたまらぬ懊惱をよく現はしてゐる。
 
752 かくばかり 面影のみに 思ほえば 如何にかもせむ 人目繁くて
 
如是許《カクバカリ》 面影耳《オモカゲノミニ》 所念者《オモホエバ》 何如將爲《イカニカモセム》 人目繁而《ヒトメシゲクテ》
 
コンナニアナタノ姿ガ、目ノ前ニチラツイテ戀ヒ慕ツテバカリヰテハ、コレカラ先ハ〔六字傍線〕何トシタモノデアラウ。シカシ〔三字傍線〕人目ガ多クテ逢フコトモ出來ナイ。困ツタモノダ〔逢フ〜傍線〕。
 
○面影耳所念者《オモカゲニノミオモホエバ》――面影にのみ見えて戀しく思はるればの意。面影に見ゆるは、目の前に姿のちらついて見えること。○人目繋而《ヒトメシゲクテ》――この句を初句の上に反して解く説が多いが、さういふ語勢とは思はれないから、この儘にして、言葉を補つて解いて置いた。
〔評〕 面影にのみ見える物足りなさ、人目の關の苦しさ、何如將爲《イカニカモセム》と投げ出したやうに言つたのが、眞にいたはしい。
 
(630)753 相見ては しましく戀は 和ぎむかと 思へどいよよ 戀ひまさりけり
 
相見者《アヒミテハ》 須臾戀者《シマシクコヒハ》 奈木六香登《ナギムカト》 雖念彌《オモヘドイヨヨ》 戀益來《コヒマサリケリ》
 
アナタニ〔四字傍線〕逢ツタラ、暫時ハ戀モ鎭マルダラウト心ニハ思フガ、實際逢ツテ見ルトナカナカサウハ行カズ〔實際〜傍線〕、戀シサガ増ルワイ。
 
○須臾戀者《シマシクコヒハ》――舊訓はシバシモコヒハであるが、モに當る字がないから、シマシクと古義によんだのがよい。○奈木六香登《ナギムカト》――和ぎむかと。この和ぐは上二段活用の動詞である。
〔評〕 拾遺集の「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」と意は同じくして、表現上の技巧の著しい相違が、即ち奈良朝と平安朝の歌風の隔りをあらはしてゐる。
 
754 夜のほどろ 吾が出でて來れば 吾妹子が 思へりしくし 面影に見ゆ
 
夜之穗杼呂《ヨノホドロ》 吾出而來者《ワガイデテクレバ》 吾妹子之《ワギモコガ》 念有四九四《オモヘリシクシ》 面影二三湯《オモカゲニミユ》
 
夜明ケ方ニ、私ガアナタニ別レテ〔七字傍線〕出テ來タ時、アナタガ別レテ悲シク思ツタ姿ガ、目ノ前ニチラツイテ見エル。
 
○夜之穂杼呂《ヨノホドロ》――穗杼呂《ホドロ》は程に助詞ろが附いたものと説明せられてゐるが、物の不充分なことを言ふ語のやうに思はれを宣長がこの歌の解に、「曉がたうすく明くる時をいふ。まだほの暗きうちなり」と言つたのが、當つてゐると思はれる。落波太列可消遺有《フレルハダレカキエノコリタル》(一六〇九九)・沫雪保杼呂保杼呂爾零敷者《アワユキノホドロホドロニフリシケバ》(一六三九)・沫雪香薄太禮爾零登《アワユキカハダレニフルト》(一四二〇)・庭毛薄太良爾三雪落有《ニハモハダラニミユキフリタリ》(二三一五)の、ハダレ・ホドロ・ハダレニ・ハダラニなどは皆、雪の薄きを言つたので、これと同一系統語であらう。從來ハダレをマダラと同じとし、斑雪と解したのはよくない。○念有四九四《オモヘリシクシ》――オモヘリシクに強辭のシが添つたのである。さうして、クは上を名詞にする語のやうである。ここでは、思へりしことはといふやうな意と思はれる。
〔評〕 別後の戀である。變つた技巧もないが、あはれに出來てゐる。
 
755 夜のほどろ 出でつつ來らく たびまねく なれば吾が胸 きり燒くが如
 
夜之穂杼呂《ヨノホドロ》 出都追來良久《イデツツクラク》 遍多數《タビマネク》 成者吾※[匈/月]《ナレバワガムネ》 截燒如《キリヤクガゴト》
 
(631)夜明ケ方ニ、アナタト別レヲ惜シミツツ〔アナ〜傍線〕出テクルコトガ度重ルト、私ノ胸ハ刃物デ〔三字傍線〕切ツタリ、火デ〔二字傍線〕燒イタリスルヤウナ苦シミ〔四字傍線〕デス。
 
○截燒如《キリヤクガゴト》――古義にタチヤクゴトシとあるのも、よいかも知れぬが、截の字は他の用例が無く、判斷しかねるから、ここでは舊訓に從つて置かう。如《ゴト》の訓については、三五一に委しく述べて置いた。
〔評〕 遊仙窟に未2曾(テ)飲1v炭(ヲ)腹熱如v燒、不v憶v呑v刃(ヲ)腸穿(ツ)似(タリ)v割、とあるによつたものであらう。五の句は新味があつて面白い。
 
大伴田村家之大孃、贈(レル)2妹坂上大孃(ニ)1歌四首
 
田村大孃は左註の如く、大伴宿奈麻呂の女で、父と共に田村の里に住んでゐたのである。
 
756 よそに居て 戀ふるは苦し 吾妹子を 繼ぎて相見む 事はかりせよ
 
外居而《ヨソニヰテ》 戀者苦《コフルハクルシ》 吾妹子乎《ワギモコヲ》 次相見六《ツギテアヒミム》 事計爲與《コトハカリセヨ》
 
他所ニ居ツテ戀シク思ツテヰルノハ苦シィ。ダカラ〔三字傍線〕アナタニ絶エズ逢フ計畫ヲシテ下サイ。
 
○吾妹子乎《ワギモコヲ》――妹坂上大孃を指してゐる。○事計爲與 《コトハカリセヨ》――事計《コトハカリ》は事の計畫の意。
〔評〕 素直な、ありのままの歌である。眞情流露。
 
757 遠からば わびてもあらむを 里近く 在りと聞きつつ 見ぬがすべなさ
 
遠有者《トホカラバ》 和備而毛有乎《ワビテモアラムヲ》 里近《サトチカク》 有常聞乍《アリトキキツツ》 不見之爲便奈沙《ミヌガスベナサ》
 
アナタガ〔四字傍線〕遠ク難レテヰルナラバ、辛イト思ヒツツモアキラメテ〔五字傍線〕ヰヨウノニ、ホンノ〔三字傍線〕近所ニ居ルト聞キナガラ、逢ヘナイノハ、何トモ仕樣ノナイホド苦シイデスヨ〔八字傍線〕。
 
○遠有者和備而毛有乎《トホカラバワビテモアラムヲ》――略解の訓に從ふ。舊訓はトホクアレバワビテモアルヲである。古義に乎を牟の誤として、ワビテモアラムとよんでゐるのは、從はれない。
(632)〔評〕 これも前の歌と同じやうに、平明な、さうして女らしい感情のあらはれた作である。
 
758 白雲の 棚引く山の 高高に 吾が思ふ妹を 見むよしもがも
 
白雲之《シラクモノ》 多奈引山之《タナビクヤマノ》 高高二《タカタカニ》 吾念妹乎《ワガオモフイモヲ》 將見因我母《ミムヨシモガモ》
 
(白雲之多奈引山乃)待チ望ンデ逢ヒタイト私ガ思ツテヰルアナタニ、オ目ニカカリタイモノデスヨ。
 
○白雲之多奈引山之《シラクモノタナビクヤマノ》――高高と言はむ爲の序詞。山の高いのにかけたのである。○高高二《タカダカニ》――この語の解は諸説が分れてゐる。眞淵はたまたまの意とし、略解に掲げた宣長説には「すべてこの言は仰ぎ望む意よりいふ言なり。あふぎこひのみなどの、あふぎの意にて、乞ひ願ふ意あり。常に物を願ふことを望むといふも、高きを望むより出でたり云云」とある。古義は宮地春樹の説として、「高高は、居長高《ヰタケタカ》に延あがる義にて、遠く望む意なるべし」と云つてゐるが、集中の用例から見ると、高高爾余待公乎《タカタカニワガマツキミヲ》(二八〇四)・高高爾妹之將待《タカダカニイモガマツラム》(二九九七)・高高二君待夜等者《タカダカニキミマツヨラハ》(三二二〇)・高高二來跡待異六《タカタカニコムトマチケム》(三三三七)・(三三四〇)・多可多可爾麻都良牟伎美也《タカタカニマツラムキミヤ》(三六九二)・多可多可爾麻都良牟許己呂《タカタカニマツラムココロ》(四一〇七)など、待つの副詞に用ゐられたものが多く、この歌が念ふを修飾してゐるのと、卷十二に高高《タカタカ》爾君乎座而《ニキミヲイマセテ》(三〇〇五)とあるのが、少しく異なつてゐるだけである。この卷十二の歌も、宣長は、「望み願ひたる心の如く、君を待ちつけたるなり」と言つてゐる。であるから、此處の高高二《タカタカニ》も待ち望んでゐる意と解釋すべきである。
〔評〕 高高二《タカダカニミ》の用例は、前掲の如くかなり多く、さうして大部分は序詞に續いてゐるのは、この詞の持つ語感が然らしめたのでもあらうが、それが卷十一・十二の古歌であるので見ると、さうした型が出來てゐたとも言へよう。その中で卷十一の高山爾高部左渡高高爾《タカヤマニタカベサワタリタカタカニ》(二八〇四)が序詞として傑出してゐるが、此處のはそれには及ばぬけれども、品よく出來てゐる。
 
759 いかならむ 時にか妹を 葎生の いやしきやどに 入りいませなむ
 
何《イカナラム》 時爾加妹乎《トキニカイモヲ》 牟具良布能《ムグラフノ》 穢屋戸爾《イヤシキヤドニ》 入將座《イリイマセナム》
 
何時ニナツタラ貴女ヲ、葎ノ生エテヰル賤シイ私ノ家ヘ、オ入レ申スコトガ出來マセウゾ。早ク此處ヘオ連レ(633)シタイノデスガ〔早ク〜傍線〕。
 
○牟具良布能《ムグラフノ》――葎生の。葎生は葎の生ひたる處で、荒れたる宿などをいふに用ゐる。葎は和名抄に葎草、和名、毛久良とある草で、今、俗にカナムゲラと稱するものである。路傍雜草の間に繁る一年生の纏繞草本である。葉は對生で楓のやうな掌状をなし、莖に短い刺が密生してゐる。この草は麻などと同樣の桑科に屬するものであるが、別にヤヘムグラと稱するものがあるのは、茜科の二年生草本で、植物學上は全く別種である。古歌に八重葎とあるは、このカナムグラの密生したのを言つたので、謂はゆるヤヘムゲラではない。○入將座《イリイマセナム》――舊訓のイリマサシメムはよくない。略解のイリマサセナムよりも、古義のイリイマセナムがよいやうである。
〔評〕 牟具良布能穢屋戸爾《ムグラフノイヤシキヤドニ》は卷十一に八重六倉覆庭爾《ヤヘムグラオホヘルニハニ》(二八二四)とあるので見ると、必ずしも作者の創意とは言はれないが、淋しいあばら屋の感じを出すには、よい語である。以上の四首はいづれも妹に對する親愛の情が溢れ、歌品は清楚平淡で、處女らしい氣分が出てゐるのが、嬉しく感ぜられる。友誼によつて、作者が母や妹と別居した淋しさの程も偲ばれ、かうした作のあることも、成程とうなづかれる。
 
右、田村大孃(ト)坂上大孃(ト)并(ニ)是(レ)右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也、卿(ハ)居(リ)2田村(ノ)里(ニ)1、號(ヲ)曰(ヘリ)2田村大孃(ト)1但(シ)妹坂上大孃者、母居(リ)2坂上里(ニ)1仍(テ)曰(ヘリ)2坂上大孃(ト)1、于v時姉妹諮問(シ)以(テ)v歌(ヲ)贈答(ス)
 
大伴坂上郎女、從(リ)2竹田庄1贈2賜(レル)女子(ノ)大孃(ニ)1歌二首
 
竹田庄は今の大和磯城郡耳成村大字東竹田の地で、延喜式の竹田神社のあるところである。書紀(634)の神武天皇卷に、「又皇師立誥之處是謂2猛田1」とあるも此處であらう。此處も大伴氏の領地であつたか。
 
760 うち渡す 竹田の原に 鳴くたづの 間無く時無し 吾が戀ふらくは
 
打渡《ウチワタス》 竹田之原爾《タケダノハラニ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》 間無時無《マナクトキナシ》 吾戀良久波《ワガコフラクハ》
 
私ガ貴女ヲ戀シク思フコトハ(打渡竹田之原爾鳴鶴之)止ム間モナク、何時トイフ定ツタ時モアリマセヌ。
 
○打渡竹田之原爾鳴鶴之《ウチワタスタケダノハラニナクタヅノ》――間無《マナク》とつづく序詞。打渡《ウチワタス》は打ち見渡す意で、前に展開する景色についていふのである。竹田之原《クケダノハラ》は竹田の庄のある平地、即ち今日の東竹田附近をいふ。
〔評〕 かういふ言ひ方は他に類があるが、殊に似てゐるのは、卷十二の戀衣著楢乃山爾鳴鳥之間無時無吾戀良苦者《コヒゴロモキナラノヤマニナクトリノマナクトキナシワガコフラクハ》(三〇八八)である。楢山を自分のゐる竹田に改め、鳴鳥とあるのを、子を思つて鳴くと言はれる鶴に變へて、子に贈るにふさはしくしたまでである。
 
761 早河の 瀬にゐる鳥の よしを無み 思ひてありし 吾が兒はもあはれ
 
早河之《ハヤカハノ》 湍爾居鳥之《セニヰルトリノ》 緑乎奈彌《ヨシヲナミ》 念而有師《オモヒテアリシ》 吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》
 
別レルノハツライケレドモ〔別レ〜傍線〕(早河之湍爾居鳥之)何トモ仕樣ガナイノデ、別レル時ニ悲シク〔八字傍線〕思ツテヰタ私ノ娘よ、アア可哀サウニ。
 
○早河之湍爾居鳥之《ハヤカハノセニヰルトリノ》――縁乎奈彌《ヨシヲナミ》の序詞。流の早い河の淺瀬に居る鳥は、草木などのたよりとすべき物がないから、かくつづけたのである。○縁乎奈彌《ヨシヲナミ》――たよりとすべきものが無いからの意で、上につづいてゐるが、下へは引き止むべき方法がないからの意でつづいてゐる。○念而有師《オモヒテアリシ》――悲しと思ひに沈んでゐたの意。○吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》――ハモは感動の助詞。※[立心偏+可]怜《アハレ》は嗚呼と歎息する感動詞である。この感動詞を結尾に添へるのは紀記の歌謠に見える古體で、例へば古事記の倭建命の、夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多如都豆良佐波麻岐佐味那
志爾阿波禮《ヤツメサスイヅモタケルガハケルタチツヅラサハマキサミナシニアハレ》の如きがその一例である。萬葉集には希有の例である。
(635)〔評〕 前の跡見圧から女子大孃に贈つた歌(七二三)にあるやうに、別れに際して大孃が悲しみ歎いたことを、追懷して詠んだ歌である。序詞も巧であり、結句の古風な點が珍らしく、又感情があらはれてゐる。
 
紀女郎贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌二首【女郎名曰2小鹿1也】
 
762 神さぶと いなにはあらず やや多や 斯くして後に さぶしけむかも
 
神左夫跡《カムサブト》 不欲者不有《イナニハアラズ》 八也多八《ヤヤオホヤ》 如是爲而後二《カクシテノチニ》 佐夫之家牟可聞《サブシケムカモ》
 
私ガ〔二字傍線〕年ヲトツタ婆ニナッ〔五字傍線〕タカラトテ、戀心ガ失セテ貴方ニ逢フノガ〔戀心〜傍線〕嫌ナノデハアリマヤヌ。サウシテオ逢ヒ申シタ〔六字傍線〕後デ、大抵ハ心變リヲサレテ〔七字傍線〕淋シイデセウヨ。ソレガイヤナノデス〔九字傍線〕。
 
○神左夫跡《カムサブト》――自分が老いたからとての意。この下に、貴方に逢ふのがの語を補つて見るがよい。○八也多八《ヤヤオホヤ》――やや多くやで、大抵はの意。この句は少し意が明らかでないが、大體舊訓を尊重し、ただハをヤに改めたのみ。古來種々の訓がある。宣長が八多也八多《ハタヤハタ》の誤としたのも、かなり行はれてゐる。
〔評〕 卷八、石川賀係女郎歌に神佐夫登不許者不有秋草乃結之紐乎解者悲哭《カムサブトイナニハアラズアキクサノムスビシヒモヲトクハカナシモ》(一六一二)とあるのと、初二句が同じである。石川賀係女郎の傳も不明であり、作つた時期が共に明らかでないから、いづれが先とも判じかねるが、いづれにしても相距たることは僅かである。椀曲に男の變心せぬやうに、釘を打つたものである。
 
763 玉の緒を 沫緒によりて 結べれば ありて後にも 逢はざらめやも
 
玉緒乎《タマノヲヲ》 沫緒二搓而《アワヲニヨリテ》 結有者《ムスベレバ》 在手後二毛《アリテノチニモ》 不相在目八方《アハザラメヤモ》
 
玉ヲツナイダ緒ヲアワ結ビニ結ンデ置イタカラ、ソノ玉ノ緒ノヤウニ私モ貴方ト〔ソノ〜傍線〕カウシテヰテ後デハ、逢ハナイコトガアリマセウカ。必ズ後デ逢ヘルデセウ〔必ズ〜傍線〕。
 
○沫緒二搓而《アワヲニヨリテ》――沫緒は緒の結び方の名。山彦册子にあやをの轉かと言つてゐるのがよいかも知れない。後世あはびむすび、又はあはぢむすびといふものと同じとも言はれてゐる。(略解・伊勢物語新釋)この句は搓リテ沫緒ニ結ベレバと下につづくのである。なほ、アワの用例の古歌に見えたものは、拾遺集貫之の「春くれば瀧のし(636)ら糸いかなれや結べどもなほあわに見ゆらむ」枕草子の、「薄氷あわにむすべる紐なればかざす日影にゆるぶばかりぞ」などがある。新考には玉緒を壽命とし、沫緒の解も在來の説と異なり、上句を「我ハ長命スル筈ナレバと戯れ云へるなり」としてゐるのは、なほ深く考ふべき説である。
〔評〕 玉の緒の兩端を結んで、二人も斯く逢はむと心に誓つたのであらう。前の歌とは異なつて、二人の戀の悠久性を堅く信ずる心が、九強く言ひあらはしてある。この歌、伊勢物語に「むかし心にもあらで絶えたる人のもとに」として「玉の緒をあわをによりてむすべれば絶えての後もあはむとぞ思ふ」と改めて出してある。
 
大伴宿禰家持和(フル)歌一首
 
764 百年に 老舌出でて よよむとも 吾は厭はじ 戀は益すとも
 
百年爾《モモトセニ》 老舌出而《オイジタイデテ》 與余牟友《ヨヨムトモ》 吾者不厭《ワレハイトハジ》 戀者益友《コヒハマストモ》
 
貴女ハ年ヲトツタノデ私ガ嫌フヤウナコトヲ思ツテイラツシヤルガ、貴女ガ〔貴女ハ〜傍線〕百歳ニモナツテ、年ヲトツテ舌モマハラナイヤウニナツテモ、私ハ貴女ヲ〔三字傍線〕戀フル心ガ増ストモ、嫌ニナルヤウナコトハアリマセヌ。
 
○老舌出而《オイシタイデテ》――老人は齒が無いので、物言ふ毎に舌が見えるから、かう言つたのであらう。○與余牟友《ヨヨムトモ》――物言ふのが、よゝよゝといふやうに聞えて、不明瞭でもの意。
〔評〕 前に神左夫跡不欲者不有《カムサブトイナニハアラズ》と、女郎は如何にも老女らしく言つたに答へたもので、老舌出而與余牟友《オイジタイデテヨヨムトモ》は老人の風姿を形容し得て妙を極めてゐる。そしてこれに似た例が他に見出されないのは嬉しい。
 
在(リテ)2久邇京(ニ)1思(ヒテ)d留(レル)2寧樂(ノ)宅(ニ)1坂上大孃(ヲ)u大伴宿禰家持作(レル)歌一首
 
765 ひとへ山 へなれるものを 月夜よみ 門に出で立ち 妹か待つらむ
 
一隔山《ヒトヘヤマ》 重成物乎《ヘナレルモノヲ》 月夜好見《ツクヨヨミ》 門爾出立《カドニイデタチ》 妹可將待《イモカマツラム》
 
アノ女ノヰル奈良ヘハ此處カラハ〔アノ〜傍線〕、山一重隔ツテヰテ、サウタ易クハ行カレナイ〔サウ〜傍線〕ノニ、今夜ハ〔三字傍線〕月ガヨイカラ、ア(637)ノ女ハ私ガ來ルダラウト思ツテ〔私ガ〜傍線〕、門ニ出テ私ヲ〔三字傍線〕待ツテヰルダラウ。
 
○一隔山重成物乎《ヒトヘヤマヘナレルモノヲ》――一隔山は平城と久邇との間にある奈良山・相樂山の山脈を指したもの。眞に一重山といふにふさはしい低い淺い連山である。重成物乎《ヘナレルモノヲ》は隔たれるものを。
〔評〕 久邇と奈良に別居して、月明の夜、奈良の妻を思うて詠んだので、月前に故郷の妻を偲んだ心があはれである。卷六の故郷者遠毛不有一重山越我可良爾念曾吾世思《フルサトハトホクモアラズヒトヘヤマコユルガカラニオモヒゾワガセシ》(一〇三八)といふ高丘(ノ)河内連の歌と似た趣である。
 
藤原郎女、聞(キテ)v之(ヲ)即(チ)和(フル)歌一首
 
藤原郎女は久邇宮にゐた宮女で、家持が坂上大孃に贈つた歌を聞いて詠んだのであらう。古義に「藤原朝臣麻呂の子にて、母は坂上郎女なるべし。さて藤原郎女と呼びなせるならむといへり。さらば坂上大孃には異父姉なり云云」とあるが、果してどうであらう。
 
766 路遠み 來じとは知れる ものからに しかぞ待つらむ 君が目を欲り
 
路遠《ミチトホミ》 不來當波知有《コジトハシレル》 物可良爾《モノカラニ》 然曾將待《シカゾマツラム》 君之目乎保利《キミガメヲホリ》
 
道ガ遠イカラ、貴方ハ〔三字傍線〕オイデハアルマイト坂上大孃ハ〔五字傍線〕知ツテヰテモ、ヤハリ〔三字傍線〕貴方ニオ目ニカカリタクテ、サウシテ、門ニ出テ〔四字傍線〕待ツテヰナサルコトデセウ。
 
○物可良爾《モノカラニ》――物ながらにの意。○然曾將待《シカゾマツラム》――左樣に待つらむといふので、シカは前の歌の月夜好見門爾出(638)立《ツキヨヨミカドニイデタチ》を受けて言つたのである。○君之目乎保利《キミガメヲホリ》――君に逢ひたさにの意。
〔評〕 平淡な作ながら、女らしい同情心が流れてゐる。
 
大伴宿禰家持、更(ニ)贈(レル)2大孃(ニ)1歌二首
 
767 都路を 遠みや妹が この頃は うけひて寢れど 夢に見えこぬ
 
都路乎《ミヤコヂヲ》 遠哉妹之《トホミヤイモガ》 比來者《コノゴロハ》 得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》 夢爾不所見來《イメニミエコヌ》
 
コノ久邇ノ〔五字傍線〕ヘハ、貴女ノ所カラ〔六字傍線〕遠イカラカ私ガ毎晩夢ニ見ルヤウニ〔私ガ〜傍線〕神樣ニオ祈リシテ寢テモ、貴女ハ一向〔二字傍線〕夢ニ見エマセヌ。
 
○都路乎《ミヤコヂヲ》――久邇の都へ到る路を言つたもの。○得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》――神武天皇紀に「天皇是夜自|祈而《ウケヒテ》寢、夢有2天神1訓之曰云云」とあり、古事記に「於是速須佐之男命、答2白各宇氣比而〔四字傍点〕生v子」とある。神に祈誓する意で、語源は受魂《ウケヒ》、即ち神の魂を受けて事を行ふことと思はれる。宣長が飼を笥の誤だらうとしたのはよくない。飼飯海乃《ケヒノウミノ》(二五六)とあつて、飼飯と續いた點も、ここと全く同じである。
〔評〕前の歌の一隔山を隔ててゐるといふのと、この歌の都路乎遠哉《ミヤコヂヲトホミヤ》といふのとは、同じやうな考である。集中ウケヒの歌は數首あつて、この頃の人は眞面目にやつたのであらうが、卷十一に不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡《アヒオモハズキミハアルヲシヌバタマノイメニモミエズウケヒテヌレド》(二五八九)とあるのを見ると、その影響が無いとは言はれない。
 
768 今しらす 久邇の京に 妹に逢はず 久しくなりぬ 行きてはや見な
 
今所知《イマシラス》 久邇乃京爾《クニノミヤコニ》 妹二不相《イモニアハズ》 久成《ヒサシクナリヌ》 行而早見奈《ユキテハヤミナ》
 
今度新ニオ拵ヘナサツテ〔七字傍線〕御支配遊バス久邇ノ都ニヰテ、奈良ニ殘シテ置イタ〔九字傍線〕妻ニ逢ハナイデ、久シクナツタ。奈良ヘ〔三字傍線〕行ツテ早ク逢ヒタイモノダ。
 
○今所知《イマシラス》――今《イマ》は新にといふに同じ。所知《シラス》はしろしめす。天皇の都して世を知しめすことである。○行而早見(639)奈《ユキテハヤミナ》――行きて早く見なむ。ナは希望をあらはす助詞で、ナムに同じ。
〔評〕 續紀、天平十三年閏三月乙丑の詔に「自今以後、五位以上、不v得3任v意住2於平城(ニ)1如有2事故1應2須退歸1被2賜官符1然後聽v之、其見(ニ)在2平城1者、限2今日内(ヲ)1悉皆催發、自餘散2在他所(ニ)1者亦宜2急追1」とある。隨分手嚴しい唐突な命令であつたから、妻子を携ふるに遑なく、新京に赴いた者も多かつたのであらう。家持のこれら作によつて、當時をしのぶことが出來る。
 
大伴宿禰家持、報2贈(レル)紀女郎(ニ)1歌一首
 
769 ひさかたの 雨の降る日を ただ獨 山邊にをれば いぶせかりけり
 
久堅之《ヒサカタノ》 雨之落日乎《アメノフルヒヲ》 直獨《タダヒトリ》 山邊爾居者《ヤマベニヲレバ》 欝有來《イブセカリケリ》
 
(久堅之)雨ノ降ル日ニ貴女ニ逢ハナイデ〔八字傍線〕、タダ一人デ、山近イ久邇ノ宮〔五字傍線〕ニ居ルト氣ガクサクサシマスワイ。
 
〔評〕 前後の歌から見れば、これも久邇京での作である。新都の造営が未だ捗らず、都とは名のみで淋しかつたのであらう。山とは鹿脊山などを指したものか、下句は新都の寂寥さをあらはしてゐる。
 
大伴宿禰家持、從2久邇京1贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌五首
 
770 人眼多み 逢はざるのみぞ こころさへ 妹を忘れて 吾が思はなくに
 
人眼多見《ヒトメオホミ》 不相耳曾《アハザルノミゾ》 情左倍《ココロサヘ》 妹乎忘而《イモヲワスレテ》 吾念莫國《ワガモハナクニ》
 
人目ガ多イノデ、貴女ニ逢ヒタクテモ〔九字傍線〕、逢ハナイダケノコトデスヨ。心カラマデ、貴女ヲ忘レタノデハアリマセン。心變リデモシタト思ヒナサルナ〔心變〜傍線〕。
 
○不相耳曾《アハザルノミゾ》――古義にはアハナクノミゾと訓んでゐるが、用字の上からはいづれとも判じ難い。舊訓のままでよからう。○吾念莫國《ワガモハナクニ》――吾は思はぬよといふのである。ナクニは輕く見るがよい。
〔評〕 不沙汰の申しわけで、又慰めの言葉である、親の許した間柄に、人眼多見《ヒトメオホミ》は餘計な言ひ草のやうだが、これ(640)が、この頃の戀の常套語でもあったのである。併しこの歌も巻十二の人目多見眼社忍禮小毛心中爾吾念莫國《ヒトメオホミメコソシスブレスクナクモココロノウチニワガモハナクニ》(二九一一)と類似點がかなりに多いので見ると、人眼多見《ヒトメオホミ》を用ゐた理由は、さうばかりでも無いやうでもある。
 
771 偽も につきてぞする うつしくも まこと吾妹子 吾に戀ひめや
 
僞毛《イツハリモ》 似付而曾爲流《ニツキテゾスル》 打布裳《ウツシクモ》 眞吾妹兒《マコトワギモコ》 吾爾戀目八《ワレニコヒメヤ》
 
嘘トイフモノモ、イクラカ本當ニ〔七字傍線〕似クコトヲ言フモノデスヨ。實際、本當ニアナタガ私ニ戀ヒマセウカ。戀シイナドト仰ルガソンナ嘘ハトテモ信用ガ出來マセヌ〔戀シ〜傍線〕。
 
○僞毛似付而曾爲流《イツハリモニツキテゾスル》――嘘も似つかはしい嘘をいふものだといふので、貴女の嘘は嘘にしてもあんまりひどいといふのである。○打布裳《ウツシクモ》――ウツシクは形容詞、現《ウツ》しの副詞法である。現《ウツ》しは實際に存在することをいふ。
〔評〕 初二句は面白い言ひ方で、三句以下の詰問的な語氣がよく出來てゐるが、卷十一の僞毛似付曾爲何時從鹿不見人戀爾人之死爲《イツハリモニツキテゾスルイツヨリカミヌヒトコフニヒトノシニセシ》(二五七二)に比すると、劣つて見える。模倣は遂に原作に及ばない。又曰、この歌の内容について、二人の間の不和を想像したり、或は坂上大孃に贈つたものではあるまいとする説もあるが、つまらない話である。これは古歌を學んで一寸からかつて見たに過ぎない。
 
772 夢にだに 見えむと吾は ほどけども 相し思はねば うべ見えざらむ
 
夢爾谷《イメニダニ》 將所見常吾者《ミエムトワレハ》 保杼毛友《ホドケドモ》 不相志思《アヒシモハネバ》 諾不所見武《ウベミエザラム》
 
夢ニデモ貴女ガ〔三字傍線〕見エルヤウニト思ツテ、紐ヲ〔二字傍線〕解イテ寢ルガ、此方カラ思フバカリデ〔此方〜傍線〕、貴女ノ方デモ思ハナイカラ夢ニ見エナイノハ尤ナコトデセウ。
 
○保杼毛友《ホドケドモ》――よく分らない言葉で、宣長は保邪毛友《ホザケドモ》と改め、古義は得毛經友《ウケヘトモ》としてゐる。併しここでは略解に紐とけどもの意としたのに暫く從つて置かう。紐解くを、ほどくといふのは、中世以後の物に見えるが、この頃も無かつたとは斷ぜられないからである。紐を解きて寢れば、思ふ人を夢に見るとせられたのであらう。○不相志思《アヒシモハネバ》――思の下、元暦校本・桂本などに者の字があるのがよい。この句も諸訓あり、又誤字説もあるが、原(641)形を尊重し、舊訓によつて解くことにした。相の字は會の意に用ゐて、不相久美《アハズヒサシミ》(三一〇)・蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》(四二七)のやうな例が多いが、天地與相左可延牟等《アメツチトアヒサカエムト》(四二七三)の如き用例も少くない。相の下に志《シ》があるのは奇異の感がないでもないが、可久之都追安比之惠美天婆《カクシツツアヒシヱミテバ》(四一三七)の如きがあるから、相思の二字の間に、特に志の字を挾んだものと見て差支はない。○諾不所見武《ウベミエザラム》――見の下、元暦校本・桂本などに有の字がある。訓にかはりはない。濱臣がこの歌の見えを見られの意に解したのはよくない。
〔評〕 これも前の歌と同じく、戀人に嫌がらせを言つて、からかつたのである。さしたる歌ではない。
 
773 言問はぬ 木すら紫陽花 もろちらが 練の村どに 詐かえけり
 
事不問《コトトハヌ》 木尚味狹藍《キスラアヂサヰ》 諸弟等之《モロチラガ》 練乃村戸二《ネリノムラドニ》 所詐來《アザムカエケリ》
 
物ヲ言八ナイ木デスラ紫陽花ノヤウナカハリヤスイモノガアル私ハ〔ノヤ〜傍線〕諸茅ラノ上手ナ村人ノ口ニダマサレテシマツタワイ。私ハ貴女ノ上手ナ口ニダマサレマシタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○不問木尚味狹藍《コトトハヌキスラアヂサヰ》――物を言はぬ木すら紫陽花のやうな變りやすいものがあるといふのであらう。味狹藍は紫陽花、藍紫色の花で密聚し球状をなして開く。漸次色を變ずるのがこの花の特色である。觀賞用としてよく庭園に植ゑられる。○諸※[第の竹が草]等之《モロチラガ》――これは全くわからない。古寫本中には茅を※[第の竹が草]としたのもある。さらばモロトラガとよむべきか。それでも意味は分らない。しばらく諸茅といふ地名として置かう。なほ茅と弟とは字體が似通つてゐるから、茅とあるべきところに、弟に似た字が記してあつても、直ちにこれを弟と認めるのは早計に失する。例へば卷三淺茅原(三三三)の茅は、類聚古集に※[第の竹が草]に作り、卷十一の淺茅原(二七五五)も、嘉暦傳承本・類聚古集・金澤文庫本・京都帝大本などは※[第の竹が草]に作つてゐる。又卷七の淺茅之上爾(一一七九)の茅も・四本願寺本・大矢本・細井本などは※[第の竹が草]の字になつて居り、卷八の茅〔右○〕花拔淺茅〔右○〕之原乃(一四四九)も二字ともに類聚古集・神田本は※[第の竹が草]とし、西本願寺本は下のだけを※[第の竹が草]のやうな字にしてゐる。卷十五の三六九七の題詞に淺茅浦とあるのも、神田本では※[第の竹が草]となつてゐる。ここの諸茅等之も、桂本・古葉略類聚鈔・神田本は弟、西本願寺本・温故堂本・大矢本は茅としてゐる。次の歌では元麿校本・神田本・京都帝大本は※[第の竹が草]、桂本は弟になつてゐる。これらから見ると、茅と※[第の竹が草]とは同(642)字として見るべきもので、寛永本には、この歌を諸※[第の竹が草]等之とし、次の歌を、諸茅等之としてゐるのは、全く同字として取扱つたものである。弟とあるのは、※[第の竹が草]の略體と見るべきではあるまいか。卷十五の三七二三の題詞に、狹野茅上娘子とあるのも、西本願寺本・神田本・温故堂本・大矢本・京都帝大本等に弟となつて居り、中にはヲトと假名附した本もあるが、細井本・無訓本に茅となつてゐるのに從ふべきではあるまいか。なほ、當然、弟とあるべきもの、例へば卷一の弟日娘《オトレヲトメ》(六五)も神田本は※[第の竹が草]に作り、卷二の弟世登吾將見《イモセトワガミム》(一六五)も金澤本・神田本・古葉略弊聚鈔は茅とし、類聚古集は※[第の竹が草]を茅に直してゐる。卷九の弟乃命者《オトノミコトハ》(一八〇四)も、元暦校本と藍紙本とは※[第の竹が草]に作つてゐる。これも亦、茅・※[第の竹が草]・弟の三字相通を證據立てるものではあるまいか。○練乃村戸二《ネリノムラドニ》――練は上手といふ意か。村戸《ムラト》は村人《ムラト》か。これも確かには分らない。
〔評〕 意味が不明瞭だから、從つて批評も出來ない。何か古傳説をもととして詠んだのかも知れない。
 
774 百千たび 戀ふといふとも もろちらが 練の言葉は 吾はたのまじ
 
百千遍《モモチタビ》 戀跡云友《コフトイフトモ》 諸茅等之《モロチラガ》 練之言羽志《ネリノコトバハ》 吾波不信《ワレハタノマジ》
 
アナタガタトヘ〔三字傍線〕、百遍モ千遍モ私ヲ〔二字傍線〕戀シテヰルト言ツテモ、諸茅等ノ上手ノ口ノヤウナアナタヲ、モウ私ハアテニシマセヌ。
 
○練之言弱志《ネリノコトバハ》――志の字、元暦校本・桂本などに者とあるによつて、ネリノコトバハと詠まう。○吾波不信《ワレハタノマジ》――舊訓タノマズであるが、戀跡云友《コフトイフトモ》を受けるから、タノマジの方がよい。
〔評〕 前の歌を受けたもので、前の歌がよくわからないから、これも確かなことは言はれない。
 
大伴宿禰家持、贈(レル)2紀女郎(ニ)1歌一首
 
775 鶉鳴く ふりにし郷ゆ 思へども 何ぞも妹に 逢ふよしも無き
 
鶉鳴《ウヅラナク》 故郷從《フリニシサトユ》 念友《オモヘドモ》 何如裳妹爾《ナニゾモイモニ》 相縁毛無寸《アフヨシモナキ》
 
(鶉鳴)舊都ノ奈良ニヰタ時カラシテ、私ハ貴女ヲ〔五字傍線〕思ツテヰタガコノ久邇都ニ來テモマダ〔コノ〜傍線〕、ドウシテ貴女ニ私ハ逢ヘナイノカ知ラ。隨分前カラ思ツテヰルノダカラ逢ヘサウナモノダニ〔隨分〜傍線〕。
 
○鶉嶋《ウヅラナク》――枕詞。鶉はすべて草深きところ、荒れたる里、人住まぬ古家などに鳴くものであるから、故郷《フリニシサト》に冠したのである。○故郷從《フリニシサトユ》――フリニシサトは奈良を指す。都が久邇に遷つたので、奈良はふるさととなつたのである。
〔評〕 上句に久しい戀情をあらはし得た點は、認められぬこともないが、別に感銘の深い作ではない。
 
紀女郎、報2贈(レル)家持(ニ)1歌一首
 
776 言出しは 誰が言なるか 小山田の 苗代水の 中淀にして
 
事出之者《コトデシハ》 誰言爾有鹿《タガコトナルカ》 小山田之《ヲヤマダノ》 苗代水乃《ナハシロミヅノ》 中與杼爾四手《ナカヨドニシテ》
 
口ニ出シテ心ヲ打チ明ケ〔七字傍線〕タノハ誰ノ言葉デセウ。貴方ガ初ニ仰ツタノデハアリマセンカ〔貴方〜傍線〕。ソレダノニ(小山田之苗代水乃)中途デ淀ンデ、私ニオ逢ヒ下サラナイトイフノハドウイウ譯デスカ〔私ニ〜傍線〕。
 
○事出之者《コトデシハ》――言葉に出したのはの意で、戀ふる心を打ち明けて、口を切つたのはといふのである。○小山田之苗代水乃《ヲヤマダノナハシロミヅノ》――中與杼《ナカヨド》の序。澤水などを引いて作る山田は、上方より流れ來る水が、苗代に入つて湛へられるから、中淀とつづくのである。
〔評〕小山田之苗代水乃《ヲヤマダノナハシロミヅノ》といふ序詞が、ここによく當てはまり、又類例が無い爲か、清新な感を與へる。中與杼爾四手《ナカヨドニシテ》の結句が物柔らかに、餘韻を含めて言ひをさめてあつて、却つて詰問が手きびしくこたへるやうである。
 
大伴宿禰家持、更(ニ)贈(レル)2紀女郎(ニ)1歌五首
 
777 吾妹子が やどのまがきを 見に行かば 蓋し門より 返しなむかも
 
吾妹子之《ワギモコガ》 屋戸乃笆乎《ヤドノマガキヲ》 見爾往者《ミニユカバ》 盖從門《ケダシカドヨリ》 將返却可聞《カヘシナムカモ》
 
貴女ノ家ノ籬ヲ私ガ〔二字傍線〕見ニ行ツタナラ、多分門カラ私ヲ〔二字傍線〕追ヒ返スデセウナア。
 
(644)○屋戸乃笆乎《ヤドノマガキヲ》――笆は竹の籬である。但し元暦校本・桂本・類聚古集などの古寫本に、籬の字に作つてゐる。いづれにしても訓にかはりはない。マガキのマは接頭語である。
〔評〕 これは次の歌の前提として作つたやうなもので、籬を見るのが目的でないのは勿論である。蓋從門將返却可聞《ケダシカドヨリカヘシナムカモ》は一寸嫌味を言つて見ただけである。
 
778 うつたへに まがきの姿 見まく欲り 行かむといへや 君を見にこそ
 
打妙爾《ウツタヘニ》 前垣乃酢堅《マガキノスガタ》 欲見《ミマクホリ》 將行常云哉《ユカムトイヘヤ》 君乎見爾許曾《キミヲミニコソ》
 
ト言ツタ所デ〔六字傍線〕、ホントニタダ籬ヲ見ヨウトバカリ思ツテ、貴女ノ所ヘ行カウト言ヒマセウカ。決シテサウデハアリマセキ〔決シ〜傍線〕。貴女ヲ見ニ行クノデスヨ。
 
○打妙爾《ウツタヘニ》――ひたすらに、ひとへに、などの意。五一七にもあつた。○將行常云哉《ユカムトイヘヤ》――行かむと言はむやに同じ。行かうといふのではないの意。
〔評〕 前の歌を受けて、本音を吹いたのである。君乎見爾許曾《キミヲミニコソ》とあつさり言ひ放つたのが男らしくてよい。
 
779 板ぶきの 黒木の屋根は 山近し あすの日取りて 持ち參り來む
 
板盖之《イタブキノ》 黒木乃屋根者《クロキノヤネハ》 山近之《ヤマチカシ》 明日取而《アスノヒトリテ》 持將參來《モチマヰリコム》
 
貴女ハ屋根ヲ葺クサウデスガ〔貴女〜傍線〕、板葺ノ皮付キ丸太ノ屋根ハ別ニ面倒ナコトハアリマセヌ。此處ハ〔別ニ〜傍線〕山ガ近イデス。明日カラデモ山ヘ行ツテ私ガ〔七字傍線〕取ツテ持ツテ參リマセウ。屋根葺ノオ手傳ヲシマセウ〔屋根〜傍線〕。
 
○板盖之黒木乃屋根者《イタブキノクロキノヤネハ》――この頃一般には枚盖や草葺の家が多かつたのである。續日本紀に「神龜元年十一月甲子、太政官奏言、云々、其(ノ)板屋草舎(ハ)中古(ノ)遺制、雖v營(ト)易v破、空(ク)殫2民財(ヲ)1請d仰2五位已上及衆人堪v營者1、構2立瓦舎(ヲ)1塗爲u2赤白(ト)1奏可v之」とあるのでその趣がわかる。黒木は皮を剥がないままの木。○山近之《ヤマチカシ》――山は鹿脊山をさすか。この句は二の句に調の上からはつづいてゐるが、意味はしつくりと連ならない。言葉を補はねば意が明らかでない。○明日取而《アスノヒトリテ》――舊訓にアスモトリテハとあるのは拙い。古義に從はう。宣長は取の上に伐(645)の字が脱ちたのかといつて、アスキリトリテとよんでゐる。
〔評〕 これも次の作と連作になつてゐる。女郎に對し戀の代償として、建築の手傳をしようといふ申出である。手輕なところが上代人らしいが、そこが串戯らしくも聞える。この歌二三句の連絡に無理がある。
 
780 黒木取り 草も刈りつつ 仕へめど いそしきわけと 譽めむともあらじ 一云、仕ふとも
 
黒樹取《クロギトリ》 草毛刈乍《カヤモカリツツ》 仕目利《ツカヘメド》 勤知氣登《イソシキワケト》 將譽十方不在《ホメムトモアラジ》【一云|仕登母《ツカフトモ》】
 
シカシサウシテ〔七字傍線〕皮付ノ木ヲ山カラ〔三字傍線〕取ツタリ、茅ヲモ刈ツタリシテ貴女ノ普請ノ〔六字傍線〕手傳ヲシマセウガソレデモ、勤勉ナオマヘヨト褒メモシナイデセウ。
 
○勤知氣登《イソシキワケト》――舊訓のユメシリニキトではよくわからない。考に知を和の誤として、イソシキワケとよんだのに從ふ外はあるまい。イソシキは勤勉な意。勤をイソシキとよんだ例は、集中に見あたらないが、敏達紀に「勤《イソシキ》乎辰爾」とあるから、さう訓める字である。和氣は汝の意。五五二に出づ。○將譽十方不在《ホメムトモアクジ》――舊訓アラズとあるが、上からのつづきでアラジといふべきである。在の字、古寫本多くは有に作つてゐる。○一云、仕登母《ツカフトモ》――これは三の句の異傳である。どちらにしても大差はない。
〔評〕 普請のお手傳までしても、お褒めにも預りさうもないから、先づ見合はせようと、至つて輕い氣分で串戯にしてしまつた。眞劍な戀らしくない。
 
781 ぬば玉の きぞは還しつ こよひさへ 我を還すな 路の長てを
 
野干玉能《ヌバタマノ》 昨夜者令還《キゾハカヘシツ》 今夜左倍《コヨヒサヘ》 吾乎還莫《ワレヲカヘスナ》 路之長手呼《ミチノナガテヲ》
 
折角行ツタノニ〔七字傍線〕(野干玉能)咋夜ハ逢ハナイデ私ヲ〔七字傍線〕還シテシマツタ。今夜モ亦私ヲオ還シナサルナ。隨分〔二字傍線〕路モ遠イ道ヲ來タノ〔四字傍線〕ダカラ。
 
○昨夜者令還《キゾハカヘシツ》――舊訓ユフベハカヘルとあり、その他諸訓あるが、古義に從つておく。但し令還はカヘセリがよいかも知れぬ。○路之長手呼《ミチノナガテヲ》――集中に多い句である。長手は長|道《チ》に同じ。
(646)〔評〕 五首のうちでこれだけが孤立してゐる。さうして前の歌が輕い氣分なのに、これは眞面目で言つてゐるやうであるが、前の紀女郎の作と對比すると、二人の間をどう考へてよいのかわからなくなる。
 
紀女郎、裏(ミテ)v物(ヲ)贈(レル)v友(ニ)歌一首【女郎名(ヲ)曰(フ)2小鹿(ト)1】
 
782 風高く 邊には吹けども 妹がため 袖さへぬれて 刈れる玉藻ぞ
風高《カゼタカク》 邊者雖吹《ヘニハフケドモ》 爲妹《イモガタメ》 袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》 刈流玉藻烏《カレルタマモゾ》
 
コノ美シイ藻ハ〔七字傍線〕、風ガヒドク海岸デ吹イテヰマシタガ、貴女ノ爲ニ私ガ袖マデモ濡シテ刈ツタ玉藻デスヨ。アダヤオロカニ思シ召スナ〔アダ〜傍線〕。
 
○風高《カゼタカク》――風の烈しいことであらう。一寸珍らしい言ひ方である。○邊者雖吹《ヘニハフケドモ》――略解にフケレドとある。ここは舊訓に從つて置く。○刈流玉藻烏《カレルタマモゾ》――烏は焉の草體から誤つたもの、舊訓カレルタマモヲとあるのは惡い。
〔評〕 人に物を贈るのに、粗品呈上に慣らされた現代人には、多少奇異の感があるかも知れないが、かういふのが寧ろ自然な、僞のない心情であらう。卷十に爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《キミガタメヤマダノサハニヱグツムトユキゲノミヅニモノスソスレヌ》(一八三九)とあるのと、似た趣である。
 
大伴宿爾家持、贈(レル)1娘子(ニ)1歌三首
 
この娘子は前に六九一・六九二・七〇〇・七一四以下六首などに見えたものと同じきか。
 
783 をと年の 先つ年より 今年まで 戀ふれどなぞも 妹に逢ひ難き
 
前年之《ヲトトシノ》 先年從《サキツトシヨリ》 至今年《コトシマデ》 戀跡奈何毛《コフレドナゾモ》 妹爾相難《イモニアヒガタキ》
 
一昨年ノ前ノ年即チ一昨々年〔六字傍線〕カラ今年マデ、私ハオマヘニ戀シテヰルガ、ドウシテ逢ハレナイノカシラ。逢ヘサウナモノダノニ〔十字傍線〕。
 
(647)○前年之《ヲトトシノ》――前年をヲトトシとよむのは、從來の諸訓皆一致するところである。獨り新訓のみはマヘノトシとよんでゐる。集中の用例を見るに、前の字はサキとよむを普通とし、また卷七に前日毛昨日毛今日毛《ヲトツヒモキノフモケフモ》(一〇一四)とあるのは、必ずヲトツヒと訓むべきところであり、卷七に前裳今裳無人所念《キノフモケフモナキヒトオモホユ》(一四〇六)とあるのも、キノフと訓まねばならぬところである。さうして今ここの場合を考へて見ると、どうも舊訓のヲトトシが最もよく當つてゐるやうに思はれる。マヘノトシは用例がないのみならず、意味が不明瞭である。
〔評〕一二の句は、自分の戀の久しく舊いことを訴へたものであるが、詞句の中に更に熱情の迸るものもなく、何らの感激もないのはどうしたものであらう。
 
784 うつつには さらにも得言はず 夢にだに 妹が袂を まきぬとし見ば
 
打乍二波《ウツツニハ》 更毛不得言《サラニモエイハズ》 夢谷《イメニダニ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 纏宿常思見者《マキヌトシミバ》
 
實際ニオマヘニ逢ハウナドトハ出來ナイ相談ダカラ〔オマ〜傍線〕、決シテ言ヒマセヌ。セメテ〔三字傍線〕夢ニデモオマヘノ袖ヲ枕ニシテ寢ルト見タナラ、サゾ心ガ慰ムダラウニ。ソレモ出來ナイノハ悲シイコトダ〔サゾ〜傍線〕。
 
○譬更毛不得言《サラニモエイハズ》――舊訓はサラニモイハズであるが、ここでは略解に從つて置く。新訓にマタモエイハジとあるが、更はマタとよんだ例が一寸見當らぬ上、さうよんでは意味がどうであらう。契沖は得の字を衍としてゐる。さうすれば、現に逢ふことの嬉しさは、更にも言はずの意となる。
〔評〕 これは前の歌よりは、却つてあはれが籠つてゐる。
 
785 吾がやどの 草の上白く 置く露の いのちも惜しからず 妹に逢はざれば
 
吾屋戸之《ワガヤドノ》 草上白久《クサノヘシロク》 置露乃《オクツユノ》 壽母不有情《イノチモヲシカラズ》 妹爾不相有者《イモニアハザレバ》
 
(吾屋戸之草上白久)置ク露ノヤウナ短イ私ノ〔二字傍線〕命モオマヘニ逢ハナイカラ惜シイトハ思ハナイ。逢ヘナクテハ生キテヰル甲斐ガナイ〔逢ヘ〜傍線〕。
 
○吾屋戸之草上白久《ワガヤドノクサノヘシロク》――置露の序詞。第三句までを序詞と見る説もあるが、第三句は譬喩として用ゐられてゐ(648)るから、序詞のうちには入れ難い。一二の句は、ただ露と言はむ爲に使はれただけである。○置露乃《オクツユノ》――置く露の如きの意。人命のはかなさを露に譬へる佛教思想が、一般化してゐたことは、こんな用法でも明らかに知られる。○壽母不有情《イノチモヲシカラズ》――露の如き壽命も惜しくないといふのは、壽命は短きが故に更に貴いといふ考である。卷十五の和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ワキモコニコフルニアレハタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》(三七四四)も同じである。壽の字、宣長は身《ミ》の誤かと言つてゐるが、ここはさうではあるまい。惜の字、舊本情とあるは誤なること言ふまでもない。元暦校本・桂本などによつて改むべきである。
〔評〕 初二句は序詞であるが、庭上を眺めつつ、物思ひに沈んでゐるやうな氣分がおのづから出てゐて、歌にあはれな趣を添へてゐる。
 
大伴宿禰家持、報2贈(レル)藤原朝臣久須麻呂(ニ)1歌三首
 
藤原朝臣久須麻呂は意美押勝の二男で、續紀によれば、天平寶字二年八月に正六位下から、從五位下となり、同三年五月美濃守、六月從四位下、五年正月大和守、六年八月には、左右京尹として記されてゐる。七年四月には參議で丹波守を兼ね、左右京尹は故の如しとあるが、八年九月父の押勝の謀反によつて射殺された。次の歌は天平十二三年頃のことであるから、久須麻呂は未だ青年であつたらう。
 
786 春の雨は いやしき降るに 梅の花 いまだ咲かなく いと若みかも
 
春之雨者《ハルノアメハ》 彌布落爾《イヤシキフルニ》 梅花《ウメノハナ》 未咲久《イマダサカナク》 伊等若美可聞《イトワカミカモ》
 
春ノ雨ハイヨイヨ頻リニ降ルノニ、梅ノ花ハマダ咲カナイ。マダ〔二字傍線〕アマリ木ガ〔二字傍線〕若イカラデアラウカ。オ宅ノ御女ハ未ダオ若イノデ、私ノ戀ヲ御理解ナサラナイノデセウ〔オ宅〜傍線〕。
 
〔評〕 暗喩の歌である。久須麻呂の家の少女を梅花に喩へたのであらう。當時青年であつたらしい久須麻呂には、未だ年頃の娘はなかつたのであらうから、これは家持がその妹などに思ひを寄せた歌らしく思はれる。代匠記(649)の一説に「若は久須麻呂の美少年なるにつかはされたるか」と見え、それを認める人もあるが、既に妾までも持つてゐた家持としては、同性愛はありさうにもない。また攷證に初めて見えた説で、久須麻呂が家持の女に戀してゐたとする者があり、これにも武田祐吉氏の如き賛同者もある。(上代國文學の研究一七一頁)これは歌の上から見ればさうも説けるのであるが、これを天平十二三年の頃とすれば、家持は二十三四歳で、内舍人になつたかならぬかといふ年頃であるから、いくら幼年としても、婚を求められるやうな娘があつたらうとは考へられない。で予はやはり家持が、久須麻呂家の少女に戀したものとしたいと思ふ。
 
787 夢のごと 思ほゆるかも 愛しきやし 君が使の まねく通へば
 
如夢《イメノゴト》 所念鴨《オモホユルカモ》 愛八師《ハシキヤシ》 君之使乃《キミガツカヒノ》 麻禰久通者《マネクカヨヘバ》
 
ナツカシイ貴方カラノオ使ガ屡々通ツテ來ルト、ドウモ實際ノコトトハ思ハレナイ〔ドウ〜傍線〕。夢ノヤウニ思ハレマスヨ。
 
○麻禰久通者《マネクカヨヘバ》――麻禰久《マネク》は頻りにの意。間無くから出た語ではない。
〔評〕 久須麻呂からの使の頻繁なのに、心の踊躍を報じたので、畢竟、久須麻呂の厚意に對する感謝の辭であらう。濱臣はこれと、次の歌とは久須麻呂の答歌で、端詞の脱ちたものか言つてゐるが、さうではあるまい。
 
788 うらわかみ 花咲きがたき 梅を植ゑて 人の言繁み 思ひぞ吾がする
 
浦若見《ウラワカミ》 花咲難寸《ハナサキガタキ》 梅乎植而《ウメヲウヱテ》 人之事重三《ヒトノコトシゲミ》 念曾吾爲類《オモヒゾワガスル》
 
私ハ〔二字傍線〕、マダ年ガ若イノデ花ガ咲カナイ梅ヲ植ヱテ、人ノ口ガヤカマシイノデ、物思ヒヲシマスヨ。私ハマダ年ノ若イ女ノ兒ヲ戀シテ、人ノ口ガヤカマシイノデ困ツテヰマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○浦若見《ウラワカミ》――ウラは末《ウラ》か。ウラワカは草木の末若く、みづみづしきことで、後には人の上にもいふやうになつたものらしい。ここは梅の若いのを言つたものである。○人之事重三《ヒトノコトシゲミ》――事は言の借字。
〔評〕 未だ手にも入らぬ女故に、早くも人の噂に上つたことを嘆息したものである。歌は平凡で、取り立てて言ふまでもない。
 
(650)又家持、贈(レル)2藤原朝臣久須麻呂(ニ)1歌二首
 
789 心ぐく おもほゆるかも 春霞 たなびく時に 言の通へば
 
情八十《ココログク》 所念《オモホユルカモ》 春霞《ハルガスミ》 輕引時二《タナビクトキニ》 事之通者《コトノカヨヘバ》
 
春ノ霞ガ棚引イテヰル時ニ、貴方カラ音信ガアルト、私ハ心オボツカナク、不安ナ〔三字傍線〕感ジガシマスヨ。
 
○情八十《ココログク》――心の曇つた不安な状態を言つたのであらう。七三五參照。八十一は例の戯書で九九、八十一といふ洒落で、グクとよませるもの。○事之通者《コトノカヨヘバ》――事は言の借字。
〔評〕 如夢所念鴨《イメノゴトオモホユルカモ》と喜んで見ても、それは色よい返事の使ではなかつた。その使はただ焦燥と不安とを増すのみであつた。その不平を歌つたのがこの作である。春霞のかかつた欝陶しい情景に寄せて、自己の心中の懊惱を述べたのが、作者の工夫であらう。
 
790 春風の をとにし出なば ありさりて 今ならずとも 君がまにまに
 
春風之《ハルカゼノ》 聲爾四出名者《オトニシデナバ》 有去而《アリサリテ》 不有今友《イマナラズトモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
(春風之)口ニ出シテ貴方ガ承諾〔六字傍線〕サヘナサラバ、コノ儘ニシテ時ガタツテ、今デ無クトモ、貴方ノオ心次第ニ何時デモ宜シウゴザイマス。ドウゾアノ少女ヲ私ニ下サルヤウニ、御返答ヲ願ヒマス〔ドウ〜傍線〕。
 
○春風之《ハルカゼノ》――枕詞。聲《オト》とつづく。○聲爾四出名者《オトニシデナバ》――音に出るとは言葉にあらはすことで、ここは返答することである。○有去而《アリサリテ》――かうして時日を經過しての意。
〔評〕 前の歌に春霞輕引時二《ハルカスミタナビクトキニ》とあるのを受けて、春風之を枕詞に使つたのは、同じくその時季の景物を用ゐたのである。卷十二に木綿疊田上山之狹名葛在去之毛今不有十方《ユフタタミタナカミヤマノサナカヅラアリサリテシモイマナラズトモ》(三〇七〇)と三四の句が同じであるが、模傚といふ程でもあるまい。
 
藤原朝臣久須麻呂來報歌二首
 
(651)791 奧山の 磐蔭に生ふる 菅の根の ねもごろ我も 相念はざれや
 
奧山之《オクヤマノ》 磐影爾生流《イハカゲニオフル》 菅根乃《スガノネノ》 懃吾毛《ネモゴロワレモ》 不相念有哉《アヒモハザレヤ》
 
(奧山之磐影爾生流菅根乃)懇ロニ私モ貴方ヲ思ハナイコトガアリマセウカ。私モ貴方ノオ心ヲウレシク思ヒマス〔私モ〜傍線〕。
 
○奧山之磐影爾生流菅根乃《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノ》――序詞。菅根乃《スガノネノ》から、ネモゴロへネの同音を繰返してつづけたものである。○不相念有哉《アヒモハザレヤ》――相思はざらむやに同じ。
〔評〕 久須麻呂が家持の厚意に感謝の意を表したものであらう。古義に「童女の心にかはりて、よめるなるべし」とあるのはどうであらう。
 
792 春雨を 待つとにしあらし 吾がやどの 若木の梅も いまだふふめり
 
春雨乎《ハルサメヲ》 待常二師有四《マツトニシアラシ》 吾屋戸之《ワガヤドノ》 若木乃梅毛《ワカキノウメモ》 未含有《イマダフフメリ》
 
春雨ヲ待ツトイフノデセウ。私ノ家ノ若イ梅ノ木モ、マダ蕾デス。私ノ家ノ少女ハ未ダ子供デ、成長ノ時ヲ待ツテヰマス〔私ノ〜傍線〕。
 
○未含有《イマダフフメリ》――舊訓イマソククメリとあるのは論ずるに足らぬ。フフムはフクムの古語で、集中に例が多い。卷二十の布敷賣里之波奈乃波自米爾《フフメリシハナノハジメニ》(四四三五)、卷十九の梅花開有之中爾布敷賣流波《ウメノハナサケルガナカニフフメルハ》(四二八三)などの如きである。
〔評〕 前の春之雨者彌布落爾《ハルノアメハイヤシキフルニ》(七八六)に對した作である。春雨を待つ心になつてゐるのが、この歌の趣と異なつてはゐるが、それは將來への冀望を持つ心を含めて、かう詠んだものであらう。この家持と久須麻呂との贈答歌は、上品ではあるが、どちらも熱がないのは、兩者の問に燃えた戀情がないからであらう。
なほ家持と久須麿との關係に就いて一言して置かう。卷十九の挽歌一首竝短歌(四二一六)の左註に、右大伴宿禰家持弔d聟南右大臣家藤原二郎之衷2慈母1患u也とある藤原二郎を、武田祐吉氏はこの久須麿として居られるが、それは誤つてゐるやうに思はれる。何となれば南右大臣家とあるのは、武智麻呂の嫡子たる豐成のことで、彼は續紀によれば天平勝寶元年四月右大臣に叙せられてゐるから、右の歌が家持によつて詠まれた天平勝寶二年(652)五月二十七日には、正しく右大臣であつたのである。彼はその時愛妻を失つたものと見える。もしこの藤原二郎を久須麻呂とするならば、その父の仲麻呂が當時右大臣でなければならぬのであるが、續紀によれば仲麻呂は天平勝寶元年七月大納言となり、八月紫微令を兼ねてゐて、四年四月の記事も大納言となつてゐる。であるからこの藤原二郎は決して久須麻呂ではないのである。またその天平勝寶二年は家持が三十三歳の時で、その時南家の次男の妻になつてゐる女子があつたわけであるが、これでもずゐぶん早い子で、當時結婚後間もないことであつたらうと思はれる。さうしてその女子は恐らく天平十一年六月に死んだ妾との間に出來たものであらう。卷三の四六七參照。かかる次第であるから、家持と久須麻呂との間には姻戚の關係はないのである。
 
萬葉葉卷第四
 
(653)萬葉第一奧書
 
文永《本云》十年八月八日於2鎌倉1書寫畢
 此本者、正二位前大納言征夷大將軍藤原卿、始自2寛元元年初秋之比1、仰2付李部大夫源親行1、校2調萬葉集一部1、爲2令v書本1、以2三箇證本1。令v比2校親行本1了。同四年正月、仙覺又請2取親行本、竝三箇本1、重校合畢。是即一人枚勘、依v可v有2見漏事1也。三箇證本者、松殿入道殿下御本、【帥中納言伊房卿手跡也】光明峯寺入道前攝政左大臣家御本、鎌倉右大臣家本也。此外又以2兩三本1令2比校1畢。而依2多本1、直(シ)付2損字1、書2入落字1畢。寛元四年十二月二十二日、於2相州比企谷新釋迦堂僧坊1、以2治定(ノ)本1、書寫畢。同五年二月十日校點畢。又重校畢。今此萬葉集假名、他本皆漢字歌一首書畢、假名哥更(ニ)書v之常儀也。然而於2今本1者、爲(ニ)v糺2和漢之符合1、於2漢字右1令v付2假名1畢。如v此雖v令2治定1、今又見v之、不審文字且千也。仍去(ヌル)弘長元年夏(ノ)比、又以2松殿御本竝兩本1、【尚書禅門眞觀本基長中納言本也】遂2再校1糺2文理※[言+比]謬1畢。又同二年正月以2六條家本1比校畢。此本異v他、其徳甚多。珍重々々。
彼本奧書云。
 承安元年六月十五日以2平三品經盛本1、手自書寫畢。件本以2 二條院(ノ)御本1書寫(スルノ)本也。他本假名別書v之。而起v自2 叡慮1。被v付2假名(ヲ)於眞名(ニ)1珍重々々。可2秘藏1々々々。
(654)               從三位行備中權守藤原重家
 
彼御本清輔朝臣點v之云々、
 愚本假名皆以符合。水月融即、千悦萬感。
 弘長三年十一月又以2忠定卿本1比校畢。凡此集既以2十本(ヲ)1遂2校合1畢。又文永二年閏四月之比、以2左京兆(ノ)本1【伊房卿手跡也】令2比校1畢。而後、同年五六兩月之間、終2書寫之功1、初秋一月之内、令v校2點之1畢。抑先度愚本假名者、古次兩點有2異説1歌者、於2漢字左右1付2假名1畢。其上猶於d有2心詞※[穴/爪]曲1歌u者加2新點1畢。如v此異説多種之間、其點勝劣、輕以難v辨者歟。依v之去今兩年二箇度書寫本者、不v論2古點新點1、取2捨其正訓1於2漢字右1。一筋所2點下1也。其内古次兩點詞者、撰2其秀逸1、同以v墨點v之。次(ニ)雖v有2古次兩點1、而爲2心詞參差1句者、以2紺青1點v之。所謂不v勘2古語1之點、并手爾乎波之字相違等、皆以2紺青1令2v點直1v之也。是則先顯v有2古次兩點1、亦示3偏非2新點1也。次新點謌、并訓中補闕之句、又雖v爲2一字1而漏2古點1之字。以v朱點v之。偏是爲2自身所1v見點v之 爲2他人所1v用不v點v之而巳。
   文永三年八月十八日
                  權律師仙覺
 
(655)卷第三奧書
〔頭注、この五字舊本にないを著者が加へたのである。〕
大納言從二位大伴宿禰旅人【大納言安麻呂第一男】
養老二年三月三日任2中納言1【不v歴2參議1】
三年正月七日叙2正四位下1
五年正月七日叙2從三位1
神龜元年二月日叙2正三位1
天平二年十月一日任2大納言1
三年正月七日叙2二位1七月一日薨【在官二年】
 
中納言從三位大伴宿禰家持【大納言贈從二位安麻呂之孫大納言從二位旅人男】
天平七年正月叙2從五位下1
十八年三月任2兵部大輔1
天平寶字二年六月任2因幡守1
六年三月日任2民部大輔1
(656)八年正月日任2薩摩守1
神護景雲元年八月日任2太宰少貳1
四月六日任2民部少輔1【日月并官不v審可v尋】
九月日任2左中弁1兼2中務大輔1
寶龜元年十月日叙2正五位下1
二年十一月日叙2從四位下1
三年二月日兼2式部權大輔1
五年三月日任2相模守1九月日兼2左京大夫上總守1
六年十一月日任2衛門督1
七年三月日任2伊勢守1
八年正月日叙2從四位上1
九年正月十七日叙2正四位下1
十一年二月一日任2參議1同九日兼2右大辨1
天應元年四月十五日叙2正四位上1、同十四日兼2春宮大夫1、五月四日任2左大辨1【大夫如v故】八月一日復任2參議1【大辨大夫如v故】十一月十三日叙2從三位1
(657)延暦元年閏正月坐v事除2官位1五月十一日兼2春宮大夫1六月日兼2陸奧按察使1二年七月十三日任2中納言1【春宮大夫如v故】
三年二月兼2持節征東將軍1
四年八月日薨
 
右大臣正二位藤原朝臣不比等【内大臣大職冠第二男子】
大寶元年三月十九日任2中納言1
同日停2中納言1叙2正三位1任2大納言1
慶雲元年正月七日叙2從二位1
五年五月臥2重病1詔賜2度者二十人1
和銅元年正月七日叙2正二位1任2右大臣1
養老四年八月三日薨【年六十二】
詔賜2太政大臣正一位1【謚曰2淡海公1以2近江國十二郡1封v之】
――第一册、終――
 
(658)楢の葉のしづ枝の諸葉つみ柊へて見放くる秀枝もく茂きかも
天雲のそきへのきはみとほけどもことひの牛は倦まず歩めり
天つ水仰ぎこひのむわがわざの未遂ぐるがにみたまたばりね
(萬葉集全釋第一冊の校正を終へて)
               〔2009年11月20日(金)、午前9時25分、入力終了〕
 
萬葉集全釋 第二册、鴻巣盛廣、廣文堂書店、1935.12.10(39.5.25.3p)四円五〇銭、690頁(1348頁)
 
〔目次省略〕
 
(1)萬葉集卷第五解説
この卷は、部門としては雜歌のみを立ててゐるが、その内容から見れば、他の卷に於て、挽歌の部に收めてあるやうなものが、かなり澤山取入れられてゐる。さうしてその内に、神仙譚的のものが大伴旅人によつて作られ、社會詩的のものが山上憶良によつて歌はれてゐることが、この卷の特色である。しかもそれらの作品の中に、想を構へ趣向を凝らして、小説的、或は劇的に仕組まうとした跡が見えるものがあるのは注意すべき點である。旅人の梧桐日本琴の歌や、遊2於松浦河1序の如きはいふまでもないが、憶良の貧窮問答歌などにもそれがあらはれてゐる。ともかく、この卷は、ひとり萬葉集中に於てのみならず、吾が和歌史上に特殊の光輝を放つ作品を藏してゐる卷である。歌數は長歌拾首、短歌百四首であるが、短歌のうちには、五七五七七七の六句から成る、謂はゆる佛足跡歌體と思はれる四首を含んでゐる、さうしてその他に、二篇の漢詩と、漢文の序・書牘・叙事文・論文のやうなものの、數篇を載せてゐる。年代は神龜五年から天平六年までの七年間で、主として、太宰府における大伴旅人の生活を中心として、蒐集せられてゐる。從來この卷が、山上憶良の家集と考へられてゐたのは大なる誤で、旅人の自作と、旅人の手許へ他から贈られたものとを以て一卷としたので、憶良の家集と思はれる點は少しもない。從來の説の多くが、卷末の歌に署名が無くて、憶良の作と推定せられるところから、署名の無いものをすべて憶良としたのであるが、卷末の戀男子名古日歌を除けば、署名のないものは却つて旅人の作なので(2)ある。要するにこの卷は、旅人の手記と、その篋中に藏せられてゐた、知己から贈られたものとを、年代を追うて並べたものを根幹とし、それに旅人の死んだ天平三年以後の、憶良の作をも收めたのである。これらは固より旅人に贈られたものではなく、編纂者が便宜によつて、これを得たものであらう。然らばこの編纂者は誰であるかといふに、これは旅人に最も密接の關係を有つてゐる、大伴家の人であらねばならぬから、自然これを家持と推定することになるのである、ことに卷頭の歌の題詞に、旅人を太宰帥大伴卿と記し、龍の馬の歌の前に、歌詞兩首、太宰帥大伴卿と敬つて書いてあるのは、家持らしく思はれる點である。なほこの卷の用字法が、大體に於て一字一音式の假名書になつてゐるのは、卷十七以下の家持の家集と思はれる部分と、略同一方針になつてゐるもので、これも編者の家持たるを思はしめる點である。但しこの卷の假名には、他の卷に用例の無い、※[さんずい+于]《ウ》・愛《エ》・棄《キ》・隅《ク》・遇《ク》・夏《ケ》・社《サ》・特《ス》・僧《ソ》・俗《ソ》・丹《タ》・茅《チ》・帝《テ》・毘《ヒ》・肥《ヒ》・卑《ヒ》・嬪《ヒ》・覇《ヘ》・陛《ヘ》・返《ヘ》・別《ヘ》・滿《マ》・微《ミ》・※[口+羊]《メ》・昧《メ》・迷《メ》・※[人偏+舞]《モ》・忘《モ》・野《ヤ》・移《ヤ》・喩《ユ》・容《ヨ》・越《ヲ》・怨《ヲ》などがあることを注意したい。
 
〔目録省略〕
 
(7)雜歌
太宰帥大伴脚、報(フル)2凶問(ニ)1歌一首
大伴卿は旅人。報凶問とは妻の逝去を都から吊つたのに答ふる意。卷八の一四七二の左註に、神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇v病長逝焉とあるのと同時である、卷三の四三八に、神龜五年戊辰太宰帥大伴卿思2戀故人1歌としてあげてあるのも同じ悲である。
禍故重疊(シ)。凶問|累《シキリニ》集(ル)。永(ク)懷(キ)2崩心之悲(ヲ)1。獨流(ス)2斷腸之|泣《ナミダヲ》1。但(シ)依(リテ)2兩君(ノ)大助(ニ)1。傾命纔(ニ)繼(ク)耳。筆|不《ザルハ》v盡(サ)v言(ヲ)古今(ノ)所(ナリ)v歎(ク)。
○禍故――禍の事故、即ち凶事をいふ。禍の字、舊本福に作るのは誤。神田本・古葉略類聚鈔・西本願寺本などによる。○崩心――心をいためること。○兩君――都よりの弔問者で、公卿のうちの二人であらうが、誰とも分らない。○傾命――齡の傾いたこと、即ち自分の老年になつたことをいつたのである。○纔繼――老齡の身が辛じて病の癒えたのを言つたもの。○筆不v盡v言――易繋辭に書不v盡v志、言不v盡v意とあるのから出たので、筆では口で言ふだけは書けないといふこと。
793 世の中は 空しきものと 知る時し いよよ益々 悲しかりけり
 
余能奈可波《ヨノナカハ》 牟奈之伎母乃等《ムナシキモノト》 志流等伎子《シルトキシ》 伊興余麻須萬須《イヨヨマスマス》 加奈之可利家理《カナシカリケリ》
世ノ中ハ、ハカナイモノダトイフコトガ、本當ニ身ニコタヘテ分ツタ時ニ、愈々今マデヨリモ増シテ〔今マ〜傍線〕、益々悲シイワイ。私ハ妻ヲ亡クシテ實ニコノ世ノ無常ヲ知リマシタ〔私ハ〜傍線〕。
〔評〕 妻の死によつて世の無常を痛感し、益々深い悲哀に陷つたことを述べてゐる。悲痛の叫びがいたましく聞(8)えるが、多少反省的なところもあり、調子が明澄に過ぎて、哀感の流露が濃厚でないやうでもある。
 
神龜五年六月二十三日
 
ここまでが旅人の書信である。
盖聞(ク)四生(ノ)起滅、方《アタリ》2夢(ノ)皆空(シキニ)1。 三界(ノ)漂流。喩(フ)2環(ノ)不1v息。所以(ニ)維摩大士(ハ)在(リテ)2乎方丈(ニ)1。有(リ)v懐(クコト)2染(ム)v疾(ニ)之患(ヲ)1。釋迦能仁(ハ)坐(シテ)2於雙林(ニ)1。無(シ)v免(ルルコト)2泥※[さんずい+亘]《ナイオン》之苦(ヲ)1。故(ニ)知(ル)二聖至極(モ)。不v能v拂(フコト)2力負之|尋《ツギテ》至(ルヲ)1。三千世界。誰(カ)能(ク)逃(レム)2黒闇之|捜《サグリ》來(ルヲ)1。二鼠競(ヒ)走(リテ)而度(ル)v目(ヲ)之鳥旦(ニ)飛(ビ)。四蛇爭(ヒ)侵(シテ)而過(グル)v隙(ヲ)之駒夕(ニ)走(ル)。嗟乎痛(シキ)哉 紅顏共(ニ)2三從(ト)1長(ク)逝(キ)。素質與2四徳1永(ク)滅(ス)。何(ゾ)圖(ラム)偕老違(ヒ)2於要期(ニ)1、獨飛生(ゼムトハ)2於半路(ニ)1。蘭室(ノ)屏風徒(ニ)張(リ)。斷腸之哀彌(ヤ)痛(シ)。枕頭(ノ)明鏡空(シク)懸(リ)。染※[竹/均]之涙逾落(ツ)。泉門一(タビ)掩(ヘバ)無(シ)v由2再見(ルニ)1。嗚呼哀(シキ)哉。
 
この文章も詩歌も左註にある如く、神龜五年七月二十一日山上憶良が大伴旅人に上つて、旅人の妻の死を悼んだものである。委しくは七九四の評を參照せよ。
 
○四生――胎生・卵生・濕生・化生。○起滅――生死といふに同じ。○方2夢皆空1――方は比と同じで夢の空しきに比すべきをいふ。○三界――欲界・色界・無色界。○漂流――漂ひつつ生活してゐること。○維摩大士――釋迦と時代を同じうし※[田+比]舍離國、毘耶離城にゐた長者で、毘摩羅詰又は維摩詰ともいふ。又譯して淨名居士ともいふ。維摩が方丈の室にあつて、疾を現じたこと維摩經に委しく出てゐる。○釋迦能仁――能仁は釋迦の意の漢譯。祖庭事苑に「梵云2釋迦1此言2能仁1」とある。○雙林――娑羅双樹林。釋迦入滅の地、拘尸那城外、跋提河畔。娑羅の双樹が東西南北の四方にあつたが、入滅と同時に東西の(9)二双合して一樹となり、南北の二双も合して一樹となり、釋迦の寶牀に垂覆し、やがて皆枯れて白鶴のやうになつたといふ。○泥※[さんずい+亘]――梵語。涅槃に同じ。寂滅・滅度と譯す。○二聖――釋迦と維摩とをさす。○力負――莊子の大宗師篇に、「藏2舟於壑1、藏2山於澤1、謂2之固1矣、然而夜半有v力者負v之而走、昧者不v知也」とあるのから來たもので、死生の變化の逃れ難きを言つたのである。○三千世界――一大三千大千世界の略で、廣漠たる一切世界の稱。須彌山を中軸として、日・月・四大洲・六欲天、乃至、梵天等を附屬せる一團を一世界といひ、千の須彌山、千の日月、千の四大洲、千の梵天、千の六欲天等の集合體を指して、小千世界と名づけ、この小千世界を一千取り集めたものが、中千世界で、更に中千世界を一千取り集めたものが、一大三千大千世界である。○黒闇――死のこと。涅槃聖行品に、功徳大天と黒闇との姉妹があつて、功徳天は生、黒闇は死のことと見えてゐる。○二鼠――日月に譬ふ。即ち畫夜を意味す。賓頭廬爲優陀延王説法經に。「我今爲v王略説2譬喩1。王志心聽。昔日有v人行在2曠路1逢2大惡象1。爲v象所逐、狂懼走突無v所2依怙1。見2一丘井1即尋2樹根1入2井中1藏(ル)。上有2黒白二鼠1牙齧2樹根1。此井四邊有2四毒蛇1欲v螫2其人1、而此井下有2三大毒龍1。旁畏2四蛇1下畏2毒龍1。所v攀之樹、其根動搖。樹上有2蜜三兩1。滴墮2其口中1。于v時動v樹敲2壞蜜※[穴/果]1。衆蜂散飛※[口+妾]2螫其人1。有2野火1起復來燒v樹。大王當v知彼人苦惱不3可2稱計1。而彼人得v味甚少苦患甚多。大王曠野者喩2於生死1。彼男子者喩2於凡夫1。象喩2於無常1。井喩2於人身1。樹喩2於人命1。白黒鼠者喩2於昼夜1。樹根者喩2念々滅1。四毒蛇者喩2於四大1。蜜者喩2於五欲1。衆蜂喩2惡覺1。野火燒者喩2其老邁1。下有2三毒龍1喩3其死去堕2三惡道1。是故當v知慾味甚少、苦患甚多。」とある。○度目之鳥――人生の早く過ぎるをいふ。文選張景陽雜詩に「人生2瀛海内1、忽(タルコト)如2鳥過1v目」とある。○四蛇――地水火風に譬へたもの。最勝王經に「地水火風共成v身、隨2彼因縁1招2異果1。同在2一處1相違害、如3四毒蛇居2一篋1。云々」とある。○過隙之駒――光陰の矢の如く早く過ぎるをいふ。莊子盗跖篇に「忽然無v異2※[馬+其]※[馬+冀]之馳過1v隙也。」とある。○三從――婦人の義務をいふ。禮記に「婦人有2三從之義1。無2專用之道1。故未v嫁從v父、既嫁從v夫、夫死從v子。」とある。○四徳――禮記に「古者婦人教以2婦徳・婦容・婦言・婦功1」とある。○偕老――夫婦の倶に老ゆること。○獨飛――人(10)と別るるをいふ。ここでは妻を失つたこと。李陵與2蘇武1詩に「雙鳧倶北飛、一鳧獨南翔」とある。○蘭室――婦人の閨房をいふ。○屏風――婦人の身邊に立て置くから、斯く用ゐたのである。○染※[竹/均]――※[竹/均]は竹。舜が死んだ時、其の妃、蛾皇女英、洞庭の山に至つて泣く涙が、竹を染めて斑となつたとの故事。博物志に「舜南巡不v返葬2蒼梧之野1。堯二女蛾皇女英追v之不v及。至2洞庭之山1、涙下染v竹即斑。妃死爲2湘水之神1。」とある。○泉門――黄泉の門をいふ。
 
愛河(ノ)波浪已(ニ)先(ヅ)滅(シ)。苦海(ノ)煩惱亦無(シ)v結(ブコト)。從來厭2離(ス)此(ノ)穢土(ヲ)1。本願詑(セム)2生(ヲ)彼(ノ)淨刹(ニ)1。
 
○愛河――人情の愛に溺れるのを河に譬へたもの。下の苦海と對句にしてある。○苦海――世の渡り難いのを譬へていふ。○無結――再びこの世に生を結ばぬをいふ。○穢土――この現世。○本願――根本の誓願。○淨刹――淨土に同じ。刹は梵語、國土の義。
 
日本挽歌一首
 
前掲の漢詩に對して、次の歌を、日本挽歌といつたのである。目録には筑前守山上臣憶良挽歌一首并短歌とある。
 
794 大きみの 遠のみかどと しらぬひ 筑紫の國に 泣く子なす 慕ひ來まして 息だにも 未だ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き こやしぬれ 言はむ術 爲む術知らに 岩木をも 問ひさけ知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき 妹の命の 我をばも 如何にせよとか 鳰鳥の 二人並びゐ 語らひし 心背きて 家さかりいます
 
大王能《オホギミノ》 等保乃朝廷等《トホノミカドト》 斯良農比《シラヌヒ》 筑紫國爾《ツクシノクニニ》 泣子那須《ナクコナス》 斯多比枳摩斯提《シタヒキマシテ》 伊企陀爾母《イキダニモ》 伊摩陀夜周米受《イマダヤスメズ》 年月母《トシツキモ》 伊摩他阿良禰婆《イマダアラネバ》 許許呂由母《ココロユモ》 於母波奴阿比※[こざと+施の旁]爾《オモハヌアヒダニ》 宇知那比枳《ウチナビキ》 許夜斯努禮《コヤシヌレ》 伊波牟須弊《イハムスベ》 世武須弊期良爾《セムスベシラニ》 石木乎母《イハキヲモ》 刀此佐氣斯良受《トヒサケシラズ》 伊弊那良婆《イヘナラバ》 (11)迦多知波阿良牟乎《カタチハアラムヲ》 宇良賣斯企《ウラメシキ》 伊毛乃美許等能《イモノミコトノ》 阿禮乎婆母《アレヲバモ》 伊可爾世與等可《イカニセヨトカ》 爾保鳥能《ニホドリノ》 布多利那良※[田+比]爲《フタリナラビヰ》 加多良比斯《カタラヒシ》 許々呂曾牟企弖《ココロソムキテ》 伊弊社可利伊摩須《イヘサカリイマス》
 
天子様ノ遠ノ役所ノ太宰府ダ〔五字傍線〕トテ、(斯良農比)筑紫ノ國ニ、泣ク子ノヤウニ慕ツテオ出デナサツテ、未ダ休息モセズ、年月モイクラモマダ經タナイノニ、コンナコトガアラウトハ〔コン〜傍線〕、心ニ思ヒカケナイウチニ、病氣トナツテ床ノ上ニ〔病氣〜傍線〕長々ト横タハツテ死ンデ〔三字傍線〕シマツタカラ、何ト言ヒヤウモナク、何ト仕樣モナク、セメテ岩、木トデモ語ツテ心ヲ慰メヨウト思フガ〔セメ〜傍線〕、岩ヤ木ハ物ヲ言ハヌカラ尋ネテ心ヲ晴ラスワケニモ行カズ、コノ〔二字傍線〕家ニ止メテ置イタ〔七字傍線〕ナラバ、形見ノ〔三字傍線〕屍モアラウガ、サウスル譯ニモユカズ〔サウ〜傍線〕。恨メシイ妻ノ君ガ、私ヲドウセヨト思ツテ、(爾保鳥能)二人デ並ンデヰテ、話ヲシアツタ心ニ背イテ、偕老ノ契ヲ破ツテ、コノ〔偕老〜傍線〕家ヲ離レテ葬ラレテ〔四字傍線〕行キナサルカ。ホントニ名殘ガ惜シイ〔ホン〜傍線〕。
 
○大王能等保乃朝廷等《オホキミノトホノミカドト》――天皇の遠くの朝廷で、即ち太宰府をいふ。等《ト》はなりとて〔四字傍点〕の意。○斯良農比《シラヌヒ》――枕詞。筑紫につづく。三三六参照。○泣子那須《ナクコナス》――泣く子の如く。ナスは似スの轉。○伊企陀爾母伊摩陀夜周米受《イキダニモイマダヤスメズ》――息だにも未だ休めずとは、到着して幾程もない意味を、誇張したものである。巻十七の家持が越中で作つた長歌に、伊伎太爾毛伊麻太夜須米受年月毛伊久良母阿良奴爾《イキダニモイマダヤスメズトシツキモイクラモアラヌニ》(三九六二)とあるは、これを學んだものに相違ない。○伊摩他阿良禰婆《イマダアラネバ》――未だあらざるにの意。このネバは集中に多い、古風の用法である。○許許呂由母《ココロユモ》――由《ユ》は從《ユ》で、ヨリの意なるを常とするが、時としてニと同樣な用法がある。ここはニと見る方が當るやうである。○宇知那比枳《ウチナビキ》――打ち靡き。身を横にすること。○許夜斯努禮《コヤシヌレ》――臥《コヤ》しぬればの意。コヤスは本集では、臥又は偃の字を當て、倒れ伏すことではあるが、用例を見ると、客爾臥有《タビニコヤセル》(四一五)・君之臥有《キミガコヤセル》(四二一)・妹之臥流《イモガコヤセル》(一八〇七)・(12)此間偃有《ココニコヤセル》(一八〇〇)・偃爲公者《コヤセルキミハ》(三三二九)・偃爲公矣《コヤセルキミヲ》(三三四二)の類、死の意に用ゐてある。ここも單に病臥したのではなく、死んだことを言つたのである。但しこの語の原形はコイ・コユであつて、古事記にコイマロビテバとあるから、原義はコロブことである。ここは七言であるべきところを五言にしたのは古調で、文字が脱ちたのではない。○刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》――言訪ひて心を晴らす術を知らずといふのであらう。○伊弊那良婆迦多知波阿良牟乎《イヘナラバカタナハアラムヲ》――家に殘して葬らずに置くならば、屍は形見として留まつてあらうがの意。○伊毛乃美許等能《イモノミコトノ》――妹の命の。命は尊稱で、靡相之嬬乃命乃《ナビカヒシツマノミコトノ》(一九四)・波之伎余思奈弟乃美許等《ハシキヨシナセノミコト》(三九五七)などあるも同じ。○爾保鳥能《ニホドリノ》――枕詞。鳰鳥は雌雄並びて、水に浮んでゐるから用ゐたもの。水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》(四六六)とあると同じ心である。○許許呂曾牟企?《ココロソムキテ》――心に背いて。契約に反しての意。
〔評〕 この歌は憶良がその妻の死を悲しんだものか、又は旅人の妻の死を悼んだものかといふ、二様の見方がある。憶良の妻が死んだとする説は、舊くから行はれてゐるもので、旅人の妻の死は神龜五年五月の頃であるのに、憶良がこの歌をよんだのは、終の添へ書によれば、神龜五年七月二十一日筑前國守山上憶良上とあつて、同じ太宰府にゐた憶良が、かく時日を置いて弔歌を贈ることは、ふさはしくないこと、この歌の格調・叙法が、人の妻の死を弔つたものとは思はれず、阿禮乎婆母伊可爾世與等可《アレヲバモイカニセヨトカ》といふやうに、一人稱代名詞を用ゐてあること、旅人は筑紫に赴任の際、妻を伴つたのに、この歌には、斯良農比筑紫國爾泣子那須斯多比枳摩斯提《シラヌヒツクシノクニニナクコナスシタヒキマシテ》とあつて、後から妻が慕つて來たやうに詠んであることなどが擧げられる。後説の旅人の妻を弔つたものとする側から言へば、時日をおいて憶良がよんだのは、元來弔問といふ意で作づたのではなく、旅人の心になつてよんだのであるから、別に不思議はない。一人稱を用ゐてゐるのも、全くその爲であると考へられる。また泣く子なす慕ひ來ましてといふのは、必ずしも後から來たことにはならない。筑紫への同伴を希望した意と考へ得るのである。加之、この歌には右に擧げたやうに斯多比枳摩斯提《シタヒキマシテ》だの、伊弊社可利伊摩須《イヘサカリイマス》などの敬語が使つてあり、終に筑前國守山上憶良上とあつて、自分の妻の死を悲しんだ歌としては受取り難い。また憶良の妻が死んだことは、他に全く證とすべきものがない。以上は從來の諸説を綜合して、兩派に分つて記したのであるがこの兩(13)説のいづれを是とすべきか、人によつて各その見るところを異にするわけである。併し、予は後説即ち旅人の妻の死を憶良が同情して旅人に獻つたものとしたいのである。その理由として從來の學者の説かなかつた點を一つ附け加へたい。それは旅人の妻の死んだ時日は明記されてゐないが、前の太宰帥大伴卿報凶問歌の左に、神龜五年六月二十三日とあるから、それより三四十日前即ち五月であつたと推定せられる。然るに憶良作のこの長歌の反歌に伊毛何美斯阿布知乃波那波知利奴倍斯《イモガミシアフチノハナハチリヌベシ》(七九八)とあつて、楝の花の頃として歌はれてゐる。楝はいふまでもなく五月の花で、郭公と同じ頃のもの。卷十七に、保登等藝須安不知能枝爾由吉底居者花波知良牟奈珠登見流麻泥《ホトトギスアフチノエタニユキテヰバハナハチラムナタマトミルマデ》(三九一三)などその一例である。して見ると、この歌の終に七月二十一日とあつても、それは獻つた日で、凶事のあつたのは確かに五月であつて、憶良が旅人の妻の死を悼んでこの作をなしたことは爭ふ餘地がない。もしこの予の説に對して、憶良の妻も、旅人の妻も同じ頃に死んだのだとする人があつたならば、予は唯黙して止まう。
 
反歌
 
795 家に行きて 如何にか吾がせむ 枕つく つま屋さぶしく 思ほゆべしも
 
伊弊爾由伎弖《イヘニユキテ》 伊可爾可阿我世武《イカニカアガセム》 摩久良豆久《マクラツク》 都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》 於母保由倍斯母《オモホユベシモ》
 
今葬式カラ〔五字傍線〕家ニ歸ツテ行ツテ何トシタモノダラウ。妻ガヰナイカラ〔七字傍線〕、(摩久良豆久)閨ノ中ガ淋シク思ハレルダラウヨ。
 
○摩久良豆久《マクラクク》――枕詞。枕を付け合つて寢る都摩夜《ツマヤ》とつづく。都摩夜《ツマヤ》は嬬屋。妻とすむ家。轉じて閨。
〔評〕 野邊の送りも済んで、妻亡き家にとぼとぼと歸つて行く人の心地は、實にかうであらう。伊可爾可阿我世武《イカニカアガセム》が、悲痛そのもののやうな聲である。但しこれは憶良が旅人に同情して、その心になつて詠んだものであるのは(14)前掲の通りである。
 
796 はしきよし 斯くのみからに 慕ひ來し 妹が心の 術もすべなさ
 
伴之伎與之《ハシキヨシ》 加久乃未可良爾《カクノミカラニ》 之多比己之《シタヒコシ》 伊毛我己許呂乃《イモガココロノ》 須別毛須別那左《スベモスベナサ》
 
コレダケノ壽命〔三字傍線〕ダツタノニ、私ヲ〔二字傍線〕慕ツテ、遙々太宰府マデ〔七字傍線〕ツイテ來タ可愛イ妻ノ心ガイタイタシクテ〔七字傍線〕、何トモ仕方ガナイ。
 
○伴之伎與之《ハシキヨシ》――四句の伊毛《イモ》にかかつてゐる。愛しきに感歎の助詞の、ヨとシとが附いたのである。この句で切つて見たいやうな感があるかも知れないが、四の句につづくものと見るべきである。舊本、伎を枝に誤つてゐる。○加久乃未可良爾《カクノミカラニ》――斯くのみなる故にの意。○之多比己之《シタヒコシ》――慕ひ來しは、前に述べたやうに、後を慕つて共に太宰府へ來たことである。○須別毛須別那左《スベモスベナサ》――術も術無さ。何の術も無い意で、痛々しくて何の仕方もないといふのである。モは語氣を強めた感歎詞。
〔評〕 都から遙々隨つて來た妻は、忽ち筑紫の土となつた。全く死ぬ爲に來たやうなものである。その妻の心のいたいたしさ、思へば身を切られるやう、唯長大息して途方に暮れるのみである。悽切哀慟の聲。
 
797 悔しかも かく知らませば あをによし くぬちことごと 見せましものを
 
久夜期可母《クヤシカモ》 可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》 阿乎爾與斯《アヲニヨシ》 久奴知許等其等《クヌチコトゴト》 美世摩斯母乃乎《ミセマシモノヲ》
 
殘念ナコトヲシタヨ。コンナニ早ク妻ガ死ヌモノ〔八字傍線〕ト知ツテヰタナラバ、コノ〔二字傍線〕オモシロイ筑紫ノ國内ヲ盡ク見セル筈ダツタノニ。
 
○阿乎爾與斯《アヲニヨシ》――青丹吉。枕詞として常に奈良の上に冠せられるのであるが、ここは國内《クヌチ》に續いてゐる。語義(15)は久老は槻の落葉に説いたやうに、アナニヤシと同意と見るべきであらう。即ちああ美しいの意。これを奈良の意とした契沖・眞淵・雅澄の説は、全くここには當らない。この語の原義に就いては種々の説があるが、上當つてゐるとは思はれないから省く。一七參照。○久奴知許等其等《クヌチコトゴト》――國内盡く。久奴知《クヌチ》は筑紫の國内を指したのである。
〔評〕 これも哀惜の情が溢れた作である。卷十七に大伴家持が弟書持の死を聞いて詠んだ、可加良牟等可禰底思里世婆古之能宇美乃安里蘇乃奈美母見世麻之物能乎《カカラムトカネテシリセバコシノウミノアリソノナミモミセマシモノヲ》(三九五九)は、この歌の模倣と言つてさしつかへあるまい。
 
798 妹が見し 楝の花は 散りぬべし 吾が泣く涙 いまだ干なくに
 
伊毛何美斯《イモガミシ》 阿布知乃波那波《アフチノハナハ》 知利双倍斯《チリヌベシ》 和何那久那美多《ワガナクナミダ》 伊摩陀飛那久爾《イマダヒナクニ》
 
私ガ妻ノ死ンダノヲ悲シンデ〔妻ノ〜傍線〕泣ク涙ガ未ダ乾カナイウチニ、生前〔二字傍線〕妻ガ見タコノ太宰府ニアル〔八字傍線〕楝ノ花ハ、散ツテシマフダラウ。日ノ立ツノ八早イモノダガ、日ハ經ツテモ悲シサハ少シモ滅ジナイ〔日ノ〜傍線〕。
 
○伊毛何美斯阿布知乃波那波《イモガミシアフチノハナハ》――妹が見し楝の花とは、妻が太宰府にあつて、見た楝の花である。略解に、奈良の家の楝としたのは當らない。阿布知は和名抄に楝、阿布智とあるもので、俗にいふ栴檀である。楝科、楝屬の落葉喬木、羽状複葉で、各小葉は長卵形、又は披針形で鋸齒がある。五月の頃淡紫色の小花を開き、圓錐花序に排列する。果實は黄色小楕圓形をなしてゐる。この木を古くは樗の字を以て記してゐるが、それは全く別の木であるから、用ゐるべきでない。
〔評〕 府舍の庭前の花、それは亡妻が病中に眺めたものである。今はそれが悲しい形見となつたのであるが、そ(16)れさへ何時しか散り失せむとしてゐると、悲傷徒らに綿々として盡きざることを嘆いたもので、三句切の倒置法が、歌詞に新しい感を與へてゐる。卷三の大伴家持が妾を亡つて、妹之見師屋前爾花咲時者經去吾泣涙未干爾《イモガミシヤドニハナサクトキハヘヌワガナクナミダイマダヒナクニ》(四六九)と詠んだのは、これに傚つて及ばざるものである。
 
799 大野山 霧立ちわたる 吾が嘆く おきその風に 霧立ちわたる
 
大野山《オホヌヤマ》 紀利多知和多流《キリタチワタル》 和何那宜久《ワガナゲク》 於伎蘇乃可是爾《オキソノカゼニ》 紀利多知和多流《キリタチワタル》
 
アノ〔二字傍線〕大野山ニハ霧ガ立チ靡イテヰルヨ。私ガ妻ヲ亡クシテ〔六字傍線〕嘆ク息ノ風デ、アノ霧ハ棚引イテヰルヨ。私ノ息ガ風ノヤウニ出ルトソレガ霧トナツテ靡イテヰル〔私ノ〜傍線〕。
 
○大野山《オホヌヤマ》――和名抄に「筑前國御笠郡大野」とあるところの山で、卷八(一四七四)・卷十(二一九七)に大城の山とあるのも同じである。御笠の杜の西方、都府樓舊址の背後の山である。五六八の地圖參照。○於伎蘇乃可是爾《オキソノカゼニ》――息の風にの意で、語義は息嘯《オキウソ》の風の略かと宣長は言つてゐる。○紀利多知和多流《キリタチワタル》――息から霧が起ることは、古事記に「吹き棄《ウ》つる息吹の狹霧になりませる神の御名は」とある。
〔評〕 吾が嘆息の風によつて、霧が棚曳くといつたのは、輪廓の大きい、豪放な氣魂を宿した、益荒男ぶりの嘆息を思はしめ、且神話への聯想をも伴つて、歌に強さと氣高さとを與へてゐるが、第二句で切つて、それを第五句に反覆してゐるのが、その氣(17)分を表現するのにふさはしい調をなしてゐる。
 
神龜五年七月二十一日筑前守山上憶良上
 
これは右の漢文・漢詩・長歌・短歌を一括して、長官たる太宰帥大伴旅人に奉つた時の日付である。かうして奉上せられたものが、大伴家に保存せられてゐたのである。憶良の妻の死を悼んだのではない。
 
令(ムル)v反(サ)2惑情《マドヘルココロヲ》1歌一首并序
 
或人が人間の本情に悖つた心になつてゐるのを、その本然に立ち反らしめようとしてよんだ歌。一首とのみあつて反歌を數へないのは例に違つてゐる。目録には上に山上臣憶良の五字を冠してゐる。
 
或(ハ)有(リ)v人、知(レドモ)v敬(フコトヲ)2父母(ヲ)1、忘(レ)2於侍養(ヲ)1、不(シテ)v顧(ミ)2妻子(ヲ)1輕(ズ)2於脱履(ヨリモ)1、自(ラ)稱《ナノル》2異俗|先生《セムジヤウト》1、意氣(ハ)雖(モ)v揚(ルト)2青雲之上(ニ)1、身體(ハ)猶在(リ)2塵俗之中(ニ)1、未v驗(サ)2修行得道之聖(ヲ)1、蓋(シ)是亡2命(スル)山澤(ニ)1之民(ナリ)、所以(ニ)指2示(シ)三綱(ヲ)1、更(ニ)開(キ)2五教(ヲ)1、遺《オクルニ》v之(ニ)以(テシ)v歌(ヲ)令(ム)v反(サ)2其(ノ)惑(ヲ)1、歌(ニ)曰(ク)、
 
○或有v人――誰と名を指さすに漠然と言つたのである。○知v敬2父母1忘2於侍養1――父母を敬ふべきことのみを知つてゐるが、父母に侍して孝養することを知らぬといふのである。宣長は知の上に不の字が脱ちたものかと言つてゐる。次の句に不顧とあるのに對すると、不知と言ひたいところであるが、字數から言へば、不知としては不顧妻子よりも一字多くなるから、恐らくこの儘がよいのであらう。○輕2於脱履1――脱履は脱き捨てた履。それよりも妻子を輕んずといふのである。次の長歌に宇既具都遠奴伎都流其等久布美奴伎提由久智布比等波《ウケグツヲヌキツルゴトクフミヌキテユクチフヒトハ》とあると同意である。○畏俗先生――畏俗は代匠記に異俗の魯魚かとあるのが(18)よいやうである。畏では解し難い。○意氣雖v揚2青雲之上1――意氣は志。青雲之上は高いこと。青雲之志は高位高官に上る意であるが、ここでは次の塵俗之中に對して文字通り、青雲のた靡く上空を指してゐるのである。○身體猶在2塵俗之中1――塵俗は塵深い俗世間をいふ。○未v驗2修行得道之聖1――未だ修行を積んで、道を得た聖たる所以を明らかに示さないといふのである。○蓋是亡2命山澤之民1――亡命は遁げ匿れること。既に身を世に置くことが出來ないで、山や澤の中に跡をくらます者であるといふ意。續紀に見えた元明天皇の大赦の中に「亡2命山澤1挾2藏軍器1百日不v首、復v罪如v初」とあるから.この頃罪を犯して山澤に亡命してゐたものもあつたと見える。○指2示三綱1――三綱は君臣・父子・夫婦の道。白虎通に、「三綱者何謂也、謂2君臣父子夫婦1也、君爲2臣之綱1、父爲2子之綱1夫爲2婦之綱1」とある。○更(ニ)開(キ)2五教1――五教は、父は義、母は慈.兄は友、弟は恭、子は孝たるべしといふ教。この句は、殊更にここに五教を明らかに示す意。
 
800 父母を 見れば尊し めこ見れは めぐしうつくし 世の中は かくぞことわり 黐鳥の かからはしもよ 行方知らねば うけ沓を 脱ぎつる如く 踏み脱ぎて 行くちふ人は 岩木より 成り出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 谷ぐくの さ渡る極み 聞しをす 國のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに 然にはあらじか
 
父母乎《チチハハヲ》 美禮婆多布斗斯《ミレバタフトシ》 妻子美禮婆《メコミレバ》 米具斯宇都久志《メグシウツクシ》 余能奈迦波《ヨノナカハ》 加久叙許等和理《カクゾコトワリ》 母智騰利乃《モチドリノ》 可可良波志母與《カカラハシモヨ》 由久弊斯良禰婆《ユクヘシラネバ》 宇既具都遠《ウケグツヲ》 奴伎都流其等久《ヌギツルゴトク》 布美奴伎提《フミヌギテ》 由久智布比等波《ユクチフヒトハ》 伊波紀欲利《イハキヨリ》 奈利提志比等迦《ナリデシヒトカ》 奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》 阿米弊由迦婆《アメヘユカバ》 奈何麻爾麻爾《ナガマニマニ》 都智奈良婆《ツチナラバ》 大王伊麻周《オホキミイマス》 許能提羅周《コノテラス》 日月能斯多波《ヒツキノシタハ》 阿麻久毛能《アマグモノ》 牟迦夫周伎波美《ムカブスキハミ》 多爾具久能《タニグクノ》 佐和多流伎波美《サワタルキハミ》 企許斯遠周《キコシヲス》 久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》 可爾迦久爾《カニカクニ》 保志伎麻爾麻爾《ホシキマニマニ》 斯可爾波(19)阿羅慈迦《シカニハアラジカ》
 
父ヤ母ヲ見ルト尊イモノダ。妻ヤ子ヲ見ルト愛ラシク可愛イモノダ。世ノナカトイフモノハカウアルノガ道理デアル。親ヤ妻子ニ〔五字傍線〕(母智騰利乃)引ツカカツテ遁レラレナイ〔七字傍線〕モノダヨ。シカシコノ係累ヲドウシテモ避ケテ〔シカ〜傍線〕行クコトガ出來ナイモノダカラ仕方ガナイ〔五字傍線〕。穴ノアイタ破レタ履ヲ脱キ捨テル如クニ、親ヤ妻子ヲ〔五字傍線〕踏ミ脱ギ棄テテ家ヲ出テ〔四字傍線〕行クトイフ人ハ、情ノナイ〔四字傍線〕岩ヤ木カラデモ生レタ人デアルカ。オマヘノ名ヲ言ヒナサイ。オマヘガモシ仙術ヲ成就シテ〔オマ〜傍線〕天ヘ上ツタナラバ、ソノ時ハ〔四字傍線〕オマヘノ勝手次第ダ。シカシ苟クモ〔六字傍線〕コノ地上ニ居ル間ハ、天子様ガオイデ遊バス。アノ太陽ヤ月ガ照ラス下ハ、天ノ雲ガ地ニ〔二字傍線〕向ツテ垂レ臥シテヰル天ノ〔二字傍線〕果テマデモ、又蝦蟇ガ歩キマハル地ノ〔二字傍線〕果テマデモ、盡ク陛下ノ〔五字傍線〕御支配ナサル國デアルゾヨ。アレコレト思フ氣儘ニオマヘハ行動シテヰル〔十字傍線〕。サウデハナイカ。ソレハヨクナイゾ〔八字傍線〕。
 
○米具斯宇都久志《メグシウツクシ》――米具斯《メグシ》はここでは可愛らし、いとほしの意。巻十七に情其之眼具之毛奈之爾《ココログシメグシモナシニ》(三九七八)とあるから、目に見ることのいたいたしい意で、可憐・可愛・見苦し・むごたらしい等の諸義に轉じて用ゐられる。巻九|今日耳者目串毛勿見《ケフノミハメグシモナミソ》(一七五九)巻十一|愍久也君之戀爾令死《メグクヤキミガコヒニシナセム》(二五六〇)巻十八|妻子見波可奈之久米具之《メコミレバカナシクメグシ》(四一〇六)等の用例があり、その義を異にしてゐる。宇都久志《ウツクシ》は愛らし。慈《イツク》しに同じ。或本この句の下に、遁路得奴兄弟親族遁路得奴老見幼見朋友乃言問交之《ノガロエヌハラカラウカラノガロエヌオイミイトケミトモカキノコトトヒカハシ》の二十三字があると代匠記に見えてゐる。併しこれは略解に「この歌の書體とも異なれば、恐らくは非なるべし」とある通り、用字法がこの歌と一致しないから、後人のさかしらであらう。遁路得奴《ノガロエヌ》の語法も珍らしく、老見幼見《オイミイトケミ》は意が通じ難い、遁の字は本集中、他に用例が無いやうである。○加久叙許等和理《カクゾコトワリ》――斯くあるぞ道理なるの意。○母智騰利乃《モチドリノ》――枕詞。可可良波之《カカラハシ》にかかる。黐《モチ》に附いた鳥が、懸つて離れ難いからである。母智は和名抄、畋獵具に黐和名毛知とあつて、謂はゆる鳥もちのことである。(20)○可可良波志母與《カカラハシモヨ》――形容詞カカラハシに助詞モとヨとが附いたもの。カカラハシは動詞|懸《カカ》る又は拘《カカハ》るから出た形容詞であらう。關聯して係累となつて離れ難い意。攷證に「如此有《カカラ》ばよといふ也」とあるのは誤つてゐる。○由久弊斯良禰婆《ユクヘシラネバ》――避けて行くべき方を知らねばの意。この下に致し方がないの意を補つて見るべきである。代匠記に、この句の上に脱字あるものとし、古義には、卷十三の速川之往文不知《ハヤカハノユクヘモシラズ》とあるによつて、波夜可波力《ハヤカハノ》の一句を補つてゐるが、ここはこの句を以て一段落となす爲に、七七としたのであるから、脱句説は當らない。○宇既具都遠《ウケグツヲ》――ウケグツは穿沓・破れた沓・穴のあいた沓。ウケは穿《ウ》くといふ動詞の連用形である。この動詞はウゲと濁るものとする説もあるが、既の字は集中、既夜須伎我身《ケヤスキワガミ》(八八五)・可久由既婆《カクユケバ》(八〇四)・宇奈我既利爲?《ウナガケリヰテ》(四一二五)の類、皆清音であるから、これも清音として置かう。既をケとよむは呉音である。○奴伎都流其等久《ヌギツルゴトク》――脱ぎ棄つる如くの意。ツルはウツルの略であらう。棄つるを古語でウツルと言つた。○布美奴伎提《フミヌキテ》――履み脱ぎて、脱ぎ捨ててに同じ。○奈利提志比等迦《ナリデシヒトカ》――生《ナ》り出《デ》し人かの意。○奈加名能良佐禰《ナガナノラサネ》――汝が名を告り給への意。サはスの未然形で敬語。ネは希望をあらはす。ここで七七の句を重ねて、また一段落をなしてゐる。これから人間として、この世に生活するものの心得を説くのである。○阿米弊由迦婆奈何麻爾麻爾《アメヘユカバナガマニマニ》――天へ昇らば汝の意のまにまに思ふ通りにしてもよいといふのである。蓋しこの或人は、仙術を學んで、天へ昇らうとしてゐたのである。○都智奈良婆大王伊麻周《ツチナラバオホキミイマス》――苟くも地上にある間は、其處には天皇がおはしますから勝手には出來ぬといふのである。詩經の「普天下莫v非2王土1」と一致する思想である。○阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマクモノムカブスキハミ》――天雲の向伏す極み。祈年祭祝詞に、「皇神《スメカミ》見|霽《ハルカ》坐《マス》四方國壁立極、國退《ソギ》立限、青雲靄《タナビク》極、白雲墜坐《オリヰ》向伏限」とあるのと同じやうな言葉で、古代に於ける慣用の成語である。向伏《ムカブ》すは地に向つて、低く伏してゐること。○多爾具久能佐和多流伎波美《タニグクノサワタルキハミ》――谷蟆のさ渡る極み。多爾具久《タニグク》は蝦蟇《ヒキガヘル》のこと。宣長は、物のはざまで、グクと鳴くからとし、雅澄は、谷潜る意味で名づけたのであらうと言つてゐる。サは接頭語。この句も祈年祭祝詞に、「谷蟆《タニグク》狹度極《サワタルキハミ》」とあつて、古代の成語である。蝦蟇が這ひ歩く地の果てまでの意で、蝦蟇は、一種靈妙な動物として、考へられてゐたのであらう。古事記にも、大國主神が始めて少彦名神を相見給うた(21))時、御供の諸神にその名を問はれたけれども、皆知らずと答へた時、「多邇具久《タニグク》白さく、こは久延毘古ぞ必ず知りたらむと白せば云々」と記して、その言によつて少彦名神たることが、明らかになつたと書いてあるから、上代人に靈異視せられたものであらう。現代でも民間にはかなり、その名殘があるやうである。要するに、この句は地上の果てまでの意である。○企許斯遠周《キコシヲス》――天皇の支配し給ふ意。○久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》――麻保良《マホラ》は古事記、倭建命の御歌に「夜麻登波久爾能麻本呂婆《ヤマトハクニノマホロバ》」とある麻本呂婆《マホロバ》、書紀、景行天皇の御製に、「夜磨苫波區珥能摩保邏摩《ヤマトハクニノマホラマ》」とある摩保邏摩《マホラマ》と同じで、上のマは接頭語である。更に古事記、應神天皇の御製に、「毛毛知陀流夜邇波母美由久爾能富母美由《モモチダルヤニハモミユクニノホモミユ》」とあるから、ラも亦接尾語で意味は無いのである。「國のほ」は國のすぐれて秀でたるところをいふので、秀《ホ》は波の穗・稻の穗・鎗の穗などのホで、山の高き頂を高千穗(高つ穗の轉)、頂きの高い山の名に穗高山があり、枝の高いのを上《ホ》つ枝といひ、總べて抽き出でたるを秀《ヒイ》づといふのでもわかる。但し國の秀は山に圍まれて、一區劃をなしてゐる形勝の地を指すやうである。○可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾《カニカクニホシキマニマニ》――あれやこれやと欲する儘に行動する意。○斯可爾波阿羅慈迦《シカニハアラジカ》――この句は代匠記に「ほしきままに、さはあるまじきことか」とあり、略解もこれを踏襲し、古義には「然欲しき隨にはあるまじきことかとなり」とあり。これも同樣と思はれる。これによつて説けない事もないが、猶無理な點がある。然るに卷十八に、大伴家持が教2喩
史生尾張少咋1歌の反歌に、安乎爾與之奈良爾安流伊毛我多可多可爾麻都良牟許己呂之可爾波安良司可《アヲニヨシナラニアルイモガタカタカニマツラムココロシカニハアラジカ》(四一〇七)とあるのによれば、一度言ひ切つた所を更に念を押して、サウデハアルマイカ。サウデアラウといふ語勢であるから、ここも、そんなにあれこれと勝手氣儘に行動して、さうではないか、と詰つたものと解すべきである。この他諸説があるが、當らないものが多い。要するに、可爾迦久爾《カニカクニ》の解を「兎に角に」、又は「ともかくも」、などとするのが、誤謬の基と思はれる。
〔評〕 この長歌は、當時流行してたた神仙術にかぶれて、家出をしようとしてゐる者を戒しめたやうに作つたものである。從來多くは、老莊の學説にかぶれた者の感情を反へさしめたやうに説いてあるが、さうではなくて仙術の研究者に與へたものであることは、序文の、意氣雖v揚2青雲之上1、身體猶在2塵俗之中1未v驗修行得遇之聖1とあるのでも、反歌に比佐迦多能阿麻遲波等保斯《ヒサカタノアマヂハトホシ》とあるのでも、明らかである。吉野の柘枝の仙女や、五節(22)舞の基をなした天女など、天空飛行の術が實際に行はれるものとして、役行者の妖術などと共に、世に語られたのである。久米仙人の話も、この系統のものと思はれる。今から考へれば馬鹿げたことであるが、續紀天平元年夏四月の條に「癸亥勅(ス)、内外文武(ノ)百官及(ビ)天下(ノ)百姓、有(ラバ)d學2習(シ)異端(ヲ)1蓄2積(シ)幻術(ヲ)1魘魅咒咀害2傷百物(ヲ)1者u、首(ハ)斬(シ)從(ハ)流(セン)如《モシ》有(ラバ)d停2住(シ)山林(ニ)1詳道(ヒ)2佛法(ヲ)1自作(シテ)2教化(ヲ)1、傳習授業(シ)、封2印(シ)書符(ヲ)1合藥造毒(シ)、萬方作(シ)v恠(ヲ)違2犯勅禁(ヲ)1者u罪亦如v此。其妖訛害者勅出以後五十日内|首訖《マヲシヲハレ》云々」とあるので見ても、當時如何にこの種の惡思潮が行はれてゐたかがわかる。して見ると、憶良のこの作は、當時に於ける思想善導の歌で、儒教の説を基調としたものである。全體が三段に分れ、明瞭に區劃せられてゐるのも、人麿式長歌の型を破つたもので、第一節に三綱中の父子・夫婦の道を述べ、第二節に敝履を脱する如く家族を捨てて、家を出で行く者の非人情を罵り、第三節に三綱中の最高道徳たる君臣の道を、吾が國性に照らして説いてゐる。洵に整然たる佳作といふべきである。卷十八の大伴家持の教2喩史生尾張少咋1歌はこれに類似した點が如く、摸傚のあとが否まれない。
 
反歌
 
801 久方の 天路は遠し なほなほに 家に歸りて 業をしまさに
 
比佐迦多能《ヒサカタノ》 阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》 奈保奈保爾《ナホナホニ》 伊弊爾可弊利提《イヘニカヘリテ》 奈利乎斯麻佐爾《ナリヲシマサニ》
 
オマヘハ天ヘ昇ル考ダラウガ〔オマ〜傍線〕(比佐迦多能)天ヘ昇ル路ハ遠クテ容易ニ行カレルモノデナイカラ〔容易〜傍線〕、世間並ニ家ヘ歸ツテオマヘノ〔四字傍線〕業ヲシナサイヨ。ツマラナイ仙人ノ眞似ハ止メロ、止メロ〔ツマ〜傍線〕。
 
○阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》――天路は遠し。阿麻遲《アマヂ》は天への通路。○奈保奈保爾《ナホナホニ》――直々に・世間並に。奈保は普通尋常の意。○奈利乎斯麻佐爾《ナリヲシマサニ》――奈利は業。生り即ち生産の意である。期麻佐爾《シマサニ》はシマセといふに同じ。ニはネ(23)と同じく希望をあらはす助詞である。これを禰《ネ》の誤とするはよくない。余知乎曾母?流伊底兒多婆里爾《ヨチヲゾモテルイデコタバリニ》(三四四〇)は東歌であるから、例にならぬとしても、吾爾尼保波尼《ワレニニホハニ》(一六九四)などがあり、その他尼の字を從來希望のネによんでゐるのを、ニとすべきところが多い。
〔評〕 丁寧な親切な歌である。邪路に彷徨してゐる者に呼びかける温情が見える。異俗先生といふ左傾派もこれでは、正道に善導せられさうである。
 
思(フ)2子等(ヲ)1歌一首并序
 
これも一首とのみあつて反歌は數へてない。目録には山上臣憶良思2子等1歌一首并短歌とある。
 
釋迦如來、金口正(シク)説(ク)、等(シク)思(フコト)2衆生(ヲ)1如(シト)2羅※[目+侯]羅(ノ)1、又説(ク)、愛(ハ)無(シト)v過(ギタルハ)v子(ニ)、至極大聖(スラ)尚有(リ)2愛(シム)v子(ヲ)之心1、况《マシテ》乎世間(ノ)蒼生《アヲヒトグサ》、誰(カ)不(ラメ)v愛(シマ)v子(ヲ)乎
 
金口は釋迦は金身であるから、その口をかく言つたのである。羅※[目+侯]羅は釋迦の子。代匠記に、最勝王經曰、普觀2衆生1愛無2偏黨1如2羅怙羅1愛無v過v子誰不v愛v子乎と見える。正説とあるのは、この最勝王經を指したのであらう。愛無v過v子も右の經中の語である。
 
802 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば ましてしぬばゆ いづくより 來りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寢しなさぬ
 
宇利波米婆《ウリハメバ》 胡藤母意母保由《コドモオモホユ》 久利波米婆《クリハメバ》 麻斯提斯農波由《マシテシヌバユ》 伊豆久欲利《イヅクヨリ》 枳多利斯物能曾《キタリシモノゾ》 麻奈迦比爾《マナカヒニ》 母等奈可可利堤《モトナカカリテ》 夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》
 
瓜ヲ食ベルト、子供ニ食ベサセタイト思ツテ〔子供〜傍線〕子供ノコトガ思ヒ出サレル。栗ヲ食ベルト子供ニ食ベサセタクテ〔子供〜傍線〕(24)一層子供ノコトガ思ヒ出サレル。一體子供トイフモノハ〔十字傍点〕何處力ラ來タモノカヨ。目ノ前ニ徒ラニチラツイテ見エテ、安眠スルコトガ出來ナイ。
 
○字利波米婆《ウリハメバ》――瓜を食べればの意、瓜は甜爪即ちマクハウリのことであらう。元來亞細亞南部及び熱帶亞弗利加を原産地とするもので、支那で禮記に天子の爲に瓜を削ることや、瓜祭のことがあるのも皆甜瓜であるといふ。併し古事記倭建命の條に熟※[草冠/瓜]《ホゾチ》とあり。これもこの瓜の熟したものと思はれるから、傳來は古いものであらう。○久利波米婆《クリハメバ》――久利は栗。吾が固有の植物で山野に自生してゐる。和名抄菓類に、「栗子、和名久利」とある。○麻斯提斯農波由《マシテシヌバユ》――増して偲ばゆ。マシテはそれ以上に・一層といふ意である。况んやではない。自荒磯毛益而思哉《アリソユモマシテオモヘヤ》(一二〇二)・毎見益而所思《ミルゴトニマシテオモホユ》(一六二九)將忘云者益所念《ワスレムトイヘバマシテオモホユ》(三三七)・戀心益念《コヒシキココロマシテオモホユ》(二三九二)など皆さうである。况の字を當てたところが無いのも注意すべきである。シヌバユは偲ばるに同じ。○伊豆久欲利枳多利斯物能曾《イヅクヨリキタリシモノゾ》――何處から來たものかの意。即ち如何なる前世からの因縁で、何處から吾が子として生れて來たのかと怪しむ意である。○麻奈迦比爾《マナカヒニ》――目の間《アハヒ》。目と目との間。即ち眼の前。○母等奈可可利提《モトナカカリテ》――モトナは徒らに・猥りに・わけもなくなどの意。二三〇參照。○夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》――安寢しなさぬ。ヤスイは安らかに寢ること。シは強める助詞。ナサヌは寢《ナ》さぬである。ナスは寢《ヌ》と同じ。この語については二〇二にも説明して置いたが、これを爲サヌとした説は大なる誤謬である。
〔評〕 序の書き方からして、佛臭くなつてゐるが、歌の中にも佛教的の宿縁觀と思はれるものが、少しよまれてゐる。瓜と栗との對句は當時の子供の間食の好物として、さもあらうとうなづかれるが、ウリ・クリが類似音で、韻を押したやうになつてゐるのも面白い。末尾は子煩惱の老爺の姿も思はれてあはれである。これは太宰府にあつて、京に殘して來た子供らを思つての作であらう。
 
反歌
 
803 しろかねも 黄金も玉も 何せむに まされる寶 子にしかめやも
 
(25)銀母《シロガネモ》 金母玉母《クガネモタマモ》 奈爾世武爾《ナニセムニ》 麻佐禮留多可良《マサレルタカラ》 古爾斯迦米夜母《コニシカメヤモ》
 
銀モ金モ珠モ貴イ寶デハアルガ〔八字傍線〕ソンナモノハ何ニナラウカ。何ニモナラナイ。コレラノ〔何ニ〜傍線〕優ツタ賓モ子ニ及バウカ。子以上ノ寶ハナイ〔八字傍線〕。
 
○金母玉母《クガネモタマモ》――金は新撰字鏡・和名抄などにコガネと訓んである。黄金《キガネ》の意で、コガネの訓が行はれてゐるが、卷十八に久我禰可毛多能之氣久安良牟登《クガネカモタノシケクアラムト》(四〇九四)とあるから、ここはクガネと訓むことにする。○奈爾世武爾《ナニセムニ》――何に爲むに。何にしようぞ。何にもならぬの意。この句で切れてゐる。○麻佐禮留多可良《マサレルタカラ》――勝寶。すぐれた寶。この語は上の銀金珠の類を受けたもので、即ちこれらのまされる寶も子に及ばぬと解くか、又はこれらに勝つた寶は子に及ぶものはないといふのか、或はすぐれた寶としては子に及ぶものはないといふのか、種々に考へられる。併し天平二十一年に年號を天平感寶と改め、幾何もなくして天平勝寶と改めたのは、陸奧から金を出した爲で、この事は天平寶字二年八月の勅に、「天感2至心1也、信(ニ)終(ニ)出(セリ)2勝賓之金(ヲ)1、我國家於是初有(リ)2奇珍1」とあるのでも明かなる如く、黄金を勝寶とした爲であるから、ここも一二句の銀も黄金も珠もをうけて、勝れる寶といつたものとして、これらの勝れた寶もと解くべきであらうと思ふ。古義に、この句を「上の玉の下にめぐらして意得べし……銀や金や玉の勝れる寶も何故にといふが如し」とあるのも誤である。
〔評〕 謂はゆる、子寶の思想を詠んだもので、廣く人口に膾炙してゐる。この卷の末の戀2男子名古日1歌に、世人之貴慕七種之寶母我波何爲和我中能産禮出有白玉之吾子古日者《ヨノヒトノタフトミネガフナナクサノタカラモワレハナニセムニワガナカノウマレイデタルシラタマノワガコフルヒハ》(九〇四)とあるのと同一で、多くの人が言はうとしてゐることを、代つて歌つたやうな感がある。さてこそ永く國民の共鳴を得て、後には「萬の藏より子が寶」などの俚諺も出來たのである。一にはこの平明な叙法が、その流布を手傳つてゐるやうに思はれる。
 
哀(シメル)2世間(ノ)難(キヲ)1v住《トドマリ》歌一首并序
 
難住は留まり難きをとよむ。住は常住不斷などの住で、留まること。住む意ではない。
 
(26)易(ク)v集(リ)難(キハ)v排(シ)、八大辛苦、難(ク)v遂(ゲ)易(キハ)v盡(シ)百年(ノ)賞樂、古人(ノ)所v歎(キシ)、今亦及(ケリ)v之(ニ)、所以《カレ》因(リテ)作(リテ)2一章之歌(ヲ)1、以(テ)撥(フ)2二毛之歎(ヲ)1、其(ノ)歌(ニ)曰(ク)
 
○難v排――排はハラヒと訓む。押し除ける意である。○八大辛苦――八大辛苦は、代匠記に、「生・老・病・死・愛別離・怨憎會・求不得・五陰盛」とある。○賞樂――これも代匠記に、「賞心樂事、四美中擧v二兼v餘」とあるが、要するに樂しみをいふ。○撥2二毛之歎1――二毛之歎とは左傳に「宋公曰、君子不v重v傷、不v禽《トリコニセ》2二毛(ヲ)1【二毛頭白有2二色1】」とあり、潘岳が秋興賦序に「晋十有四年、余春秋三十有二、始見2二毛1」とあり,斑白の頭を歎くをいふのであるが、下の天平五年の憶良の文に、是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[瓦+王]羸云々」とあるから、この歌の左註に神龜五年とあるによつて逆算すると、六十九歳になつてゐるわけで、潘岳が三十二歳で二毛と言つたのと、あまりに相異してゐる。しかし七十四歳でも斑白と言つてゐるのだから、ここで二毛と言つても不合理ではない。尚委しく後條に説かう。撥は拂ふ、思ひをはらすことである。
 
804 世の中の すべなきものは 年月は 流るる如し 取りつづき 追ひ來るものは 百くさに せめ依り來る をとめらが 少女さびすと 唐玉を たもとにまかし 或は此の句 白妙の 袖ふりかはし 紅の 赤裳裾引き といへるあり よち兒らと てたづさはりて 遊びけむ 時の盛を とどみかね 過しやりつれ 蜷のわた か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の 一云、丹のほなす おもての上に いづくゆか 皺掻き垂りし 一云、常なりし 笑まひ眉引 咲く花の 移ろひにけり 世の中は かくのみならし 益荒雄の をとこさびすと 劔太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に しづ鞍打置き はひ乘りて 遊び歩きし 世の中や 常にありける 少女らが さなす板戸を 押し開き い辿りよりて 眞玉手の 玉手さしかへ さねし夜の いくだもあらねば 手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に惡まえ およしをは かくのみならし たまきはる 命惜しけど せむ術もなし
 
世間能《ヨノナカノ》 周弊奈伎物能波《スベナキモノハ》 年月波《トシツキハ》 奈何流々其等斯《ナガルルゴトシ》 等利都々伎《トリツヅキ》 意比久留母能波《オヒクルモノハ》 毛々久佐爾《モモクサニ》 勢米余利伎多流《セメヨリキタル》 遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》 遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメサビスト》 可羅多麻乎《カラタマヲ》 多母等爾麻可志《タモトニマカシ》【[或有此句云、之路多倍乃袖布利可伴之久禮奈爲乃阿可毛須蘇毘伎《シロタヘノソデフリカハシクレナヰノアカモスソビキ》】 余知古良等《ヨチコラト》 手多豆佐波利提《テタツサハリテ》 阿蘇比家武《アソビケム》 等伎能佐迦利乎《トキノサカリヲ》 等々尾迦禰《トドミカネ》 周具斯野利都禮《スグシヤリツレ》 美奈乃和多《ミナノワタ》 迦具漏伎可美爾《カグロキカミニ》 伊都乃麻可《イツノマカ》 斯毛乃布利家武《シモノフリケム》 久禮奈爲能《クレナヰノ》【一云 爾能保奈須《ニノホナス》】 意母提乃宇倍爾《オモテノウヘニ》 伊豆久由可《イヅクユカ》(27) 斯和何伎多利斯《シワカキタリシ》【一云、都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎散久伴奈能宇都呂比爾家利余乃奈可伴可久乃未奈良之《ツネナリシヱマヒマヨビキサクハナノウツロヒニケリヨノナカハカクノミナラシ》、】 麻周羅遠乃《マスラヲノ》 遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》 都流伎多智《ツルギタチ》 許志爾刀利波枳《コシニトリハキ》 佐都由美乎《サツユミヲ》 多爾伎利物知提《タニギリモチテ》 阿迦胡麻爾《アカゴマニ》 志都久良宇知意伎《シヅクラウチオキ》 波比能利提《ハヒノリテ》 阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》 余乃奈迦野《ヨノナカヤ》 都禰爾阿利家留《ツネニアリケル》 遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》 佐那周伊多斗乎《サナスイタドヲ》 意斯比良伎《オシヒラキ》 伊多度利與利提《イタドリヨリテ》 麻多麻提乃《マタマデノ》 多麻提佐斯迦閉《タマデサシカヘ》 佐禰斯欲能《サネシヨノ》 伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》 多都可豆惠《タツカヅヱ》 許志爾多何禰提《コシニタガネテ》 可由既婆《カユケバ》 比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》 可久由既婆《カクユケバ》 比等爾邇久麻延《ヒトニニクマエ》 意余斯遠波《オヨシヲハ》 迦久能尾奈良志《カクノミナラシ》 多麻枳波流《タマキハル》 伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》 世武周弊母奈斯《セムスベモナシ》
 
世ノ中ノ何トモ仕樣ノナイモノハ、何カトイフト〔六字傍線〕.歳月ガ流レルヤウニドンドント逝クコト〔十字傍線〕デアル。引キ續イテ後カラ追ヒカケテ來ル八大辛苦トイフヤウナ〔十字傍線〕モノハ、種々澤山ニ責メ寄セテ來ル。少女ラガ少女ラシクスルトテ唐ノ玉ヲ手頸ニ纏キ付ケ.(之路多倍乃)袖ヲ振リ交ハシ紅ノ赤裳ノ裾ヲ曳イテ、同年輩ノ子ドモラト手ヲ携ヘテ遊ンダ若イ〔二字傍線〕盛リノ時ヲ、止メルコトガ出來ナイノデ、空シク〔三字傍線〕過ゴシテシマツタ。(美奈乃和多)黒イ髪ニ何時ノ間ニ霜ガ降ツタノダラウ。髪ガ眞白ニナツテシマツタ〔髪ガ〜傍線〕。紅イ顔ノ上ニ何處カラ來テ〔二字傍線〕皺ガ垂レタノダラウ。顔ガ皺ダラケニナツテ了ツタ。又〔顔ガ〜傍線〕益荒夫ドモガ男ラシクスルトテ、劍太刀ヲ腰ニトリ佩キ、獵ニ用ヰル弓ヲ手ニ握ツテ持ツテ、赤イ駒ニ倭文ノ布ヲ張ツタ鞍ヲ置イテ、ソレニ這フヤウニシテ乘ツテ遊ンデ歩イタ若イ時〔三字傍線〕ノ世ガ、(28)イツモ變ラズニアツタラウカ。スグニ若イ時ハ去ツテシマツタ〔スグ〜傍線〕。少女ドモガ閉メル板戸ヲ押シ開ケテ辿リ寄ツテ、玉ノヤウナ美シイ手ト手トヲ差シ交ハシテ、二人デ寢タ晩ハ幾何モ無イノニ、老年ニナツテシマツテ〔十字傍線〕手束杖ヲ腰ニ束ネテ持ツテ、彼方ヘ行クト人ニ嫌ハレルシ、此方ヘ行クト人ニ惡クマレテ、凡ソ人トイフモノハ〔七字傍線〕コンナデバカリアルヲシイ。(多摩枳波流)命ガ惜シイケレドモ何トモ仕樣ガナイ。
 
○世間能周弊奈伎物能波《ヨノナカノスベナキモノハ》――世間に於ける仕方の無い者はの意である。○年月波奈何流流其等斯《トシツキハナガルルゴトシ》――歳月は水の流るるが如しといふのであるが、上への連續が少し惡いやうでもある。新考に「スベナキモノハ年月ニテソノ年月ハとなり」とある通りであらう。○等利都都伎意比久留母能波《トリツヅキオヒクルモノハ》――取續き追ひ來る者は。取りは接頭語で、打ちと同じである。意比《オヒ》を生ひとする説は惡い。○毛毛久佐爾勢米余利伎多流《モモクサニセメヨリキタル》――百種に責め依り來るは、八大辛苦などの身に迫り寄せ來るをいふ。○遠等※[口+羊]良何遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメラガヲトメサビスト》――少女らが少女さびすと。少女どもが少女らしくするとての意で、女の身だしなみをし粉黛を施し、綺羅を飾ること。※[口+羊]の字、舊本呼に作るは誤。西本願寺本によつて改めた。○可羅多麻乎多母等爾麻可志《カラタマヲタモトニマカシ》――唐玉を手本に纏かし。唐玉は外來の珠玉で、當時貴ばれたものであらう。多母等《タモト》は手の下で、袂のことではなく、手頸をさすのであらう。ここの四句は、本朝月令に五節舞の起源を説いて、天女が歌つた「乎度綿度茂遠度綿左備須茂可良多萬乎多茂度邇麻岐底乎度綿左備須茂《ヲトメドモヲトメサビスモカラタマヲタモトニマキテヲトメサビスモ》」といふをあげてゐるが、恐らく古くかう云ふ民謠が行はれてゐたのが、憶良によつてこの長歌に採られ、又一方では天女の歌として傳へられたものであらう。○之路多倍乃袖布利可伴之《シロタヘノソデフリカハシ》――この句以下四句二十三字は小字で書いて、或有此句云とあるが、或は原作にあつたものが脱ちたのかも知れない。有る方がよささうな句である。伴の字、舊本に佯に作るは誤。神田本による。○余知古良《ヨチコラ》――仙覺が同じ程の子らといふ意と解いたのに從ふ外はあるまい。同年輩の女兒である。東歌に許乃河泊爾安佐奈安良布兒奈禮毛安禮毛《コノカハニアサナアラワコナレモアレモ》、余知乎曾母底流伊低兒多婆里爾《ヨチヲゾモテルイデコタバリニ》(三四四〇)・卷十六に丹因子等何四千庭三名之綿蚊黒爲髪尾《ニヨルコラガヨチニハミナノワタカクロシカミヲ》(三七九一)とあるヨチと同じであらう。○等等尾迦禰《トドミカネ》――留めかねに同じ。○美奈乃和多《ミナノワタ》――蜷の腸、枕詞。蜷といふ貝の腸は黒いから、(29)黒の上に冠する。蜷はニナともいふ。字鏡に蜷、彌奈、和名抄に河貝子美奈とある貝で、殻の長さは一寸ばかり、筒状の螺層の長い黒い貝である。淺い川に多く棲んでゐる。○迦具漏伎可美爾《カグロキカミニ》――か黒き髪に。カは接頭語である。○一云、爾能保奈酒《ニノホナス》――丹の秀如《ホナ》す。ニノホは赤い色の秀で美しきをいふ。顔の色の赤きに用ゐてある。祝詞に「赤丹の穗にきこしめす」とあるのも同じである。○伊豆久由可斯和何伎多利斯《イヅクユカシワカキタリシ》――何處よりか皺掻き垂りし。何處から來て、皺が顔に掻き垂れたのであらうの意。皺か來りしではない。○一云、都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎《ツネナリシヱマヒマヨビキ》――常なりし笑まひ眉引。眉引は眉を黛で畫いて化粧すること。これより以下六句は卷三の安積皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌六首の内の長歌(四七八)に咲花毛移爾家里世間者如此耳奈良之《サクハナモウツロヒニケリヨノナカハカクノミナラシ》……常有之咲比振麻比《ツネナリシヱマヒフルマヒ》などと用ゐてある。○佐都由美乎《サツユミヲ》――獵弓を。獵に用ゐる矢を得物矢《サツヤ》(六一)といふやうに、その弓をかく呼んだのである。サツは幸《サチ》と同じで、古事記の山の幸・海の幸も同じく、又獵師を佐都雄《サツヲ》(二六七)といふのも同じである。○志都久良宇知意伎《シヅクラウチオキ》――倭文鞍打置き。倭文鞍は倭文布を纏つた鞍であらう。即ち縞ある布で蔽うた鞍である。下鞍とする説には從はれない。○波比能利提《ハヒノリテ》――這ひ乘りて。その鞍の上に這ひ乘つて。○佐那周伊多斗乎《サナスイタドヲ》――佐《サ》は接頭語。那周《ナス》は鳴らす。伊多斗《イタド》は板戸で、板戸は開閉の度に音を立てるからである。但し契沖は、サナスを閉す意とし、雅澄は閉し鳴らすとしてゐる。これは古事記の八千矛神の長歌に、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタドヲ》とあると同意と見えるから、サナスはナスと同じく鳴らすこと、即ちここでは鳴らし閉すことである。○伊多度利與利提《イタドリヨリテ》――伊は接頭語。辿り寄りての意。○摩多麻提乃多麻提佐斯迦閉《マタマデノタマデサシカヘ》――眞玉手の玉手差し交へ。右にあげた古事記の歌に麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐《マタマデタマデサシマキ》云々とあるのと似てゐる。卷八|眞玉手乃玉手指更《マタマデノタマデサシカヘ》(一五二〇)とあるのと同じである。○伊久※[こざと+施の旁]母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》――いくらもあらぬにの意。○多都可豆惠《タツカヅエ》――手束杖。手束弓などと同じく、手束は手に執り持つ意である。○許志爾多何禰提《コシニタガネテ》――腰に綰ねて。綰ぬは束ぬと同じである。○可由既婆《カユケバ》――舊本、可久由既婆《カクユケバ》とあるが、同句を重ねるべきでなく、彼往此去《カユキカクユキ》(一九六)・可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》(三九九一)などいふのが通例であるから、上は必ずカユケバである。神田本にはさうな(30)つてゐる。○比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》――人に厭はれに同じ。○意余斯遠波《オヨシヲハ》――分らない言葉である。略解に、「およしをばは老し人をばといふ也と翁はいはれつれど、仍おだやかならず。およそは也と契沖がいへるによらんか」と言つてゐるのに從つて置かう。但し契沖は、遠《ヲ》を助語とし、斯《シ》と曾《ソ》と通ずるものと説き、雅澄は斯遠《シヲ》の約が曾《ソ》であると言つてゐる。○多摩枳波流《タマキハル》――枕詞。命とつづく、四參照。
〔評〕 この長歌は冒頭から毛毛久佐爾勢米余利伎多流《モモクサニセメヨリキタル》までを、一首の總序として大意を述べ、次に若き花の少女も忽ちに白髪の老媼となることを歌ひ、これに對して太刀弓矢に身を堅め快馬に跨つて、都大路を練つて歩いた益荒雄も、何時しか枚にすがつてよろめき行く、老翁となると述べ、多摩枳波流《タマキハル》以下の三句を結語として、自然の力に抗すべからざることを説いてゐる。全篇盡く佛教の無常觀から成つてゐるもので、陰鬱な瞑想的なわびしさが漾つてゐる。同じ外來思想を歌ひつつも、常に明るい享樂的氣分であつた旅人とは、全く反對である。年月波奈何流流其等斯《トシツキハナガルルゴトシ》といふやうな漢文式叙法の中に、吾が古歌謠の成句をも取り混ぜて、悲しい現實への歎聲を發してゐるのは巧みなものである。
 
反歌
 
805 常磐なす かくしもがもと 思へども 世の事なれば 留みかねつも
 
等伎波奈周《トキハナス》 迦久斯母何母等《カクシモガモト》 意母閉騰母《オモヘドモ》 余能許等奈禮婆《ヨノコトナレバ》 等登尾可禰都母《トドミカネツモ》
 
常ニカハラナイ〔六字傍線〕磐ノヤウニ、カウシテ若ク盛デ何時マデモ〔九字傍線〕ヰタイト思フケレドモ、若イ者ガ年ヲトルコトハ〔若イ〜傍線〕世間ノナラハシダカラ、年トルノヲ〔五字傍線〕止《ト》メルコトガ出來ナイナア。
 
○迦久斯母何母等《カクシモガモト》――舊本、何母の二字が無いのは脱ちたのである。類聚古集によつて補ふ。何母《ガモ》は希望の助詞。○余能許等奈禮婆《ヨノコトナレバ》――許等《コト》は事で、ならはしといふやうな意である。
(31)〔評〕 長歌の結語と同じやうな趣意を、更に繰返したもので、無常な娑婆に對する絶望的な吐息である。
 
神龜五年七月二十一日、於2嘉摩《カマ》郡1撰定、筑前國守山上憶良
 
嘉摩郡は和名抄郡名に、筑前國嘉麻加萬とある地で、明治二十九年に穗波郡と合して、嘉穗郡と呼ぶことになつた。豐前の田川郡に接した地方である。ここに於嘉摩郡撰定とあるは、嘉摩の郡家に於て製作したことで、國内巡視の序、この郡家に滯在して詠じたのであらう。大日本地名辭書には「大村郷、今|稻築《イナツキ》村なるべし。大字|鴨生《カモフ》あり。鴨生盖|嘉麻原《カマフ》の轉にして、、嘉麻の郡名も之に出でしならむ。大村郷といふも嘉麻の郡家なれば、斯く呼べりと想はる」とある。神龜五年七月二十一日は、前の旅人の妻を弔つた詩歌を旅人に奉つた日で、この日郡衛にあつて弔詞を奉ると共に、この歌を作つたのである。或はこれも奉つたもので、名の下に上の字が晩ちたものか。ともかくこの歌は大伴家に藏せられてゐたのである。
 ――――――――――
   目録には、ここに太宰帥大伴卿相聞歌二首答歌二首とある。ここにもし題があつたとすれば、斯樣な文字であるべきであるが、題は始から無かつたのである。
 
伏(テ)辱(シ)2來書(ヲ)1、具(ニ)承(ル)2芳旨(ヲ)1、忽(チ)成(シ)2隔(ル)v漢(ヲ)之戀(ヲ)1、復《マタ》傷(ム)2抱(ク)v梁(ヲ)之意(ヲ)1、唯羨(クハ)去留無(ク)v恙、遂(ニ)待(タム)2披雲(ヲ)1耳《ノミ》
 
これは旅人が太宰府にあつて、京人よりの來書に接した時、それに贈つた返簡である。代匠記・略解・古義に、これを京人より旅人への返簡としたのは非常な誤謬である。
○伏辱(ス)2來書(ヲ)1――旅人が京人よりの來書を謝した詞である。○芳旨――書を贈つた人の趣意を尊んで言つたのである。○忽(チ)成(シ)2隔(ル)v漢(ヲ)之戀(ヲ)1――隔漢之戀とは銀漢を隔てて相戀ふる牽牛・織女のやうな戀といふ意で、この句は山河千里を隔てた、京人の戀しさが胸に湧いたといふのである。○復(タ)傷(ム)2抱(ク)v梁(ヲ)之意(ヲ)1――抱梁之(32)意とは、荘子盗跖篇に、「尾生與2女子1期2於梁下1、女子不v來、水至不v去、抱2梁柱1而死云々」とある故事によつたもので、上の句は女と橋の下で逢ふことを約した尾生が、水は増しても文を待つて其處を去らずに、梁柱を抱いたままで死んだやうに、堅い約束をした貴方と逢はれぬことを傷むといふのである。○唯羨(クハ)――羨は欲し望む意である。願はくはと訓むがよい。契沖が冀の誤かといつたのは從はれない。○去留無v恙――去留は旅に出た者も、都に留つてゐる者もの意。即ち旅人と京人との兩人をさしたのである。無v恙は無事なること。恙は疾病・憂愁の義である。一説に古昔草居時代に、人を噛む恙と稱する蟲が居つたので、人の起居如何を問ふ時に、必ず無恙哉とたづねたのから起るともいはれてゐる。ツツガをこの頃ツツミと言つたことは八九四に出てゐる。○遂(ニ)待(タム)2披雲(ヲ)1耳――披雲は徐幹の中論に「文王過2姜公於渭陽1、灼然如3披v雲見2白日1」とあるなどから出たので、人に逢ふことを尊んだのである。この句は、遂に貴君に面會の期を待つばかりであるといふのである。
 
歌詞兩首【太宰帥大伴卿】
 
歌詞兩首は歌二首といふのと同じである。太宰帥大伴卿の六字は次の二首は旅人の作だといふ註である。
 
806 龍の馬も 今も得てしが 青丹吉 奈良の都に 行きて來む爲
 
多都能馬母《タツノマモ》 伊麻勿愛弖之可《イマモエテシガ》 阿遠爾與志《アヲニヨシ》 奈良乃美夜古爾《ナラノミヤコニ》 由吉帝己牟丹米《ユキテコムタメ》
 
私ハアナタニオ目ニカカリタイノデ〔私ハ〜傍線〕、(阿遠爾與志)奈良ノ都ヘ行ツテスグ歸ツテ〔五字傍線〕來ル爲ニ、昔アツタトイフ非常ニ足ノ早イ〔昔ア〜傍線〕龍馬ヲモ今ノ世ニモ手ニ入レタイモノデス。
 
○多都能馬母――龍馬《タツノマ》は、文選赭白馬賦に「馬以v龍名」注に「周禮曰凡(ソ)馬八尺以上爲v龍」とあるから、大きな駿(33)馬である。○伊麻勿愛弖之可《イマモエテシガ》――今にても直ちに得たいといふのか、或は、昔あつたといふ龍馬を現代に於ても手に入れたいといふのか、兩樣に考へられる。恐らく後者であらう。
〔評〕 駿馬に關する傳説は雄略紀や欽明紀にも見えて居り、欽明紀の話は日本紀竟宴の歌にも三善清行、「とつゑあまり八つゑをこゆるたつのこま君すさめねば老いはてぬべし」と作られてゐて、かなり古くからの民間傳説であることは、爭はれないが、併しこれが支那傳來の思想たることも言ふまでもない。當時の支那趣味の代表者とも言ふべき旅人には、應はしい取材である。夫木集二十七に「山高み石ふむ道のはるけさに龍の馬をも今えてしがな」とあるは、この歌によつたものである。なほこの歌は八雲御抄に載せられてゐる。
 
807 うつつには 逢ふよしもなし ぬば玉の 夜の夢にを つぎて見えこそ
 
宇豆都仁波《ウツツニハ》 安布余志勿奈子《アフヨシモナシ》 奴波多麻能《ヌバタマノ》 用流能伊昧仁越《ヨルノイメニヲ》 都伎提美延許曾《ツギテミエコソ》
 
イクラ戀シク思ツテモ、私ハ貴方ニトテモ〔イク〜傍線〕實際ニハ逢フ方法ハアリマセヌ。ダカラ(奴波多麻能)夜ノ夢ニデモ絶エズ見エテ下サイ。
 
○用流能伊昧仁越《ヨルノイメニヲ》――夜の夢にを。越は感嘆の助詞。○都伎提美延許會《ツギテミエコソ》――繼ぎて見えよの意。許曾《コソ》は希望の助詞。
〔評〕 極めて平板な歌である。龍の馬を得むとしても得られさうもないから、切めて夢にでも見ようといふのである。
 
答歌二首
 
京人が旅人に答へた歌である。京人の名は分らない。
 
(34)808 龍の馬を あれは求めむ 青丹吉 奈良の都に 來む人のたに
 
多都乃麻乎《タツノマヲ》 阿禮波毛等米牟《アレハモトメム》 阿遠爾與志《アヲニヨシ》 奈良乃美夜古邇《ナラノミヤコニ》 許牟比等乃多仁《コムヒトノタニ》
 
貴方ハ奈良ノ都ヘオイデナサル爲ニ龍馬ガ欲シイトオツシヤルガ〔貴方〜傍線〕、奈良ノ都ヘオイデナサル貴方ノ爲ニ、龍馬ヲ私ハ捜サウト存ジマス。
 
○許牟比等乃多仁《コムヒトノタニ》――多仁は神田本に多米とある他、諸本皆かうなつてゐる。續紀宣命第十三詔に種々法中爾波佛大御言之國家護我多仁波勝在止聞召《クサクサノノリノナカニ》ハホトケノオホミコシミカドマモルガタニハスグレタリトキコシメシテ》云々とある多仁〔二字傍点〕もこれと同じで、佛足石歌に「比止乃微波衣賀多久阿禮婆乃利乃多能與須加止奈禮利《ヒトノミハエガタクアレハノリノタノヨスガトナレリ》云々」とある乃利乃多能《ノリノタノ》も、法の爲のであるから、多仁《タニ》は爲にの意である。仁を米の誤とするはわるい。
〔評〕 これは多都能馬母《タツノマモ》の歌に答へたのである。贈歌の言葉を多く採り過ぎて、鸚鵡返し式になつたのは、あまり藝がなさ過ぎる。この歌は和歌童蒙抄に出てゐる。
 
809 ただに逢はず あらくも多く しき妙の 枕さらずて 夢にし見えむ
 
多陀爾阿波須《タダニアハズ》 阿良久毛於保久《アラクモオホク》 志岐多閉乃《シキタヘノ》 麻久良佐良受提《マクラサラズテ》 伊米爾之美延牟《イメニシミエム》
 
直接ニ貴方ニ〔三字傍線〕逢ハナイデ居リマスコトモ長クナリマス。デスカラ、貴方ノ仰ル通リ〔デス〜傍線〕、私ハ毎晩貴方ノ(志岐多閉乃)枕ヲ離レナイデ、貴方ノ〔三字傍線〕夢ニ見エルヤウニ致シマセウ。
 
○阿良久毛於保久《アラクモオホク》――宣長は於保久《オホシ》の久《ク》を之《シ》の誤としてゐるが、この儘でよからう。併し意はここで切れてゐる。○志岐多閉乃《シキタヘノ》――枕詞。枕とつづく。七二參照。
〔評〕 これは前の字豆都仁波《ウツツニハ》の歌の答である。旅人から夜の夢に繼ぎて見えよと言つてよこしたのに對して、夢(35)にし見えむと穩やかに應じただけで、何の工夫もない歌であるが、そこに温情もあらはれてゐる。
――――――――――
大伴(ノ)淡等謹状
 
淡等はタビトと訓むので、旅人の二字を唐風に氣取つて書いたものである。淡の字は咸攝の音m音尾で、タムであるから、bに轉じてタビに用ゐられるのである。但し公卿補任に「大伴宿禰旅人天平二年十月朔任2大納言1改2名淡等1」とあるのは、この集によつて思ひ誤つたのであらう。東大寺献物帳に、大伴淡等の名があるが、別人であらう。なほこの大伴淡等謹状の六字を古義には前の贈答歌に附くものとして、伏辱來書の前に移してあるのは、非常な誤である。これは次の文と歌とに附いてゐる。目録にここに、帥大伴卿梧桐日本琴贈2中衛大將藤原卿1歌二首とあるのは、意を以て設けて記したので、古義がこれを題詞として、ここに採り入れたのは妄である。
 
梧桐(ノ)日本琴一面【對馬|結石《ユフシ》山(ノ)桐孫枝、】
 
これは次の文の題詞の如く、又和琴一面を贈る目録のやうなものである。梧桐はアヲギリのことであるが、ここは琴を作るのであるから、普通の桐であらう。アヲギリは吾が(36)國の山野に自生しない筈である。日本琴は即ち和琴である。日本固有の琴の發達したもので、絃數は初め定まつてゐなかつたやうであるが、後、六に固定した。栗里先生雜著所載の樂器考には、「大きなるは長六尺二寸、中は六尺、小は五尺或は五尺八寸、横六寸」とある、和名抄には「躰似v筝而短小有2六絃1俗用2倭琴二字1夜萬止古止」とある。挿入の圖は嚴島神社所藏で、集古十種に載つてゐるものである。結石山は對馬上縣郡即ち北島の北部にある山で、絶頂に平坦地があつて、石垣が殘つてゐるのは、昔狼烟をあげたところであらうといふ。ともかく當時にあつては、我が領土の限極と考へられたところである。今この附近に琴村といふ地のあるのは、偶然かどうか面白いことである。孫枝はヒコエ、側から生えた細い枝をいふ。文選稽康琴賦に「乃斷2孫枝1准2量所1v任、至人※[手偏+慮]v思制爲2雅琴1」と見えてゐる。
 
此琴夢(ニ)化《ナリテ》2娘子(ニ)1曰(ケラク)、余|託《ヨセ》2根(ヲ)遙島之崇巒(ニ)1晞《サラス》2〓《カラヲ》九陽之休光(ニ)1、長(ク)帶(テ)2烟霞(ヲ)1、逍2遙(ス)山川之阿(ニ)1、遠(ク)望(テ)2風波(ヲ)1、出2入(ス)鴈木之間(ニ)1、 唯恐(レキ)3百年之後、空(シク)朽(ナムコトヲ)2溝壑(ニ)1偶遭(テ)2良匠(ニ)1、散爲(リキ)2小琴(ト)1、不v顧(ミ)2質麁(ク)音少(ヲ)1、恒(ニ)希(フト)2君子《ウマヒトノ》左琴(トナラムコトヲ)1、即(チ)歌曰《ウタヒケラク》
 
○余託2根遙島之崇巒1――遙島之崇巒は、遙かなる島の重なる山、即ち對馬の結石山を指したのである。この句は文選稽康の琴賦に、「惟椅桐之所v生兮、託2峻嶽之崇岡1云々」とあるのによつてゐる。○晞〓九陽之休光――〓は幹と同じで、晞は日に暴すこと。九陽の九は陽の數、陽は日。休光は美しい光。この句は、桐の木がその幹を太陽の美しい光に暴すといふ意で、これも琴賦に、「含2天地之醇和1兮、吸2日月之休光1、欝紛々以獨茂兮、飛2英※[草がんむり/(豕+生)]於昊蒼1、夕納2景于虞淵1兮、旦晞2幹於九陽1云々」からとつたものである。○長帶2煙霞1――久しく霞の中に包まれて。○逍2遥山川之阿1――山川の隈《クマ》に遊び戯れてゐるの意。○出2入雁木之間1――雁木は荘子山木篇に、「莊子行2於山中1、見2大木枝葉盛茂1、伐v木者止2其旁1全不v取也。問2其故1、曰、無v所v可v用。莊子曰、此木以2不材1得v終2其天年1。夫子出2於山1、舍2於故人之家1、故人喜命2(37)豎子1殺v雁而烹v之、豎子請曰、其一能鳴、其一不v能v鳴、請奚殺、主人曰、殺2不v能v鳴者1。明日弟子問2於莊子1曰、咋日山中之木、以2不材1得v終2其天年1今主人之雁、以2不材1死、先生將2何處1。莊子笑曰、周將v處d夫材與2不材1之間u云々」とある故事によつたもので、用ゐられると用ゐられないとの間にある意である。○空朽2溝壑1――壑は谷のことで、空しく溝壑に朽ちるを恐れたといふのは、この桐の木が誰にも用ゐられないで、遂にこの山の谷で腐つてしまふかと、心配したといふのである。○散爲2小琴1――散は切りほどかれてといふやうな意。古義には敢の誤としてるる○不v顧2質麁音少1――質が惡くて、琴の音がよく出ないのをもかまはず。○恒希2君子左琴1――常に君子の座の左に置かれる琴となりたいと希望してゐる。古列女傳に「君子左v琴右v書樂材2其中1」とあつて、琴は左方に置くものとしてある。
 
810 如何にあらむ 日の時にかも 聲知らむ 人の膝の上《へ》 吾が枕らかむ
 
伊可爾安良武《イカニアラム》 日能等伎爾可母《ヒノトキニカモ》 許惠之良武《コヱシラム》 比等能比射乃倍《ヒトノヒザノヘ》 和我摩久良可武《アガマクラカム》
 
ドウイフ日ノ何ノ時ニ琴ノ〔二字傍線〕音ノ良否〔二字傍線〕ヲ聞キ分ケル人ノ膝ノ上ニ私ハ枕ヲシヨウカ。音ヲヨク聞キ分ケル人ノ膝ニ乘セラレテ彈イテ貰ヒタイモノデス〔音ヲ〜傍線〕。
 
○許惠之良武《コヱシラム》――聲知らむ。音の巧拙を知ること。列子に伯牙善鼓v琴、鐘子期善聽とあるのによつたのである。○和我摩久良可武《ワガマクヲカム》――吾が枕らかむ。枕することを、まくらくといふ。琴を膝の上に載せて彈くことを、琴の身になつて、膝を枕するといつたのである。
〔評〕 琴が夢に娘子になつて來て詠んだ歌とあるが、もとより作者の神仙趣味が作り出した根無し言である。伯牙・鐘子期の故事が取扱はれてゐるのも、その氣分にふさしはく、琴の娘子が君子の膝の上に枕するといふのも、巫山の夢とか、柘枝の仙女などの故事を思はしめるものがあつて、巧に出來てゐる。但し卷十二の何日之時可毛吾妹子之裳引之容儀朝爾食爾將見《イカナラムヒノトキニカモワキモコガモヒキノスガタアサニケニミム》(二八九七)と同型で、その影響は否まれない。
 
(38)僕報(ヘテ)2詩詠(ニ)1曰(ク)
 
詩詠は前の娘子の歌を指してゐる。
 
811 言問はぬ 木にはありとも うるはしき 君がたなれの 琴にしあるべし
 
許等等波奴《コトトハヌ》 樹爾波安里等母《キニハアリトモ》 宇流波之吉《ウルハシキ》 伎美我手奈禮能《キミガタナレノ》 許等爾之安流倍志《コトニシアルベシ》
 
オマヘハ〔四字傍線〕物ヲ言ハナイ木デハアルガ、ソノウチニ〔五字傍線〕立派ナ御方ノ手馴ノ琴トナルデアラウ。ソノウチニ私ガオマヘヲ立派ナ御方ノ御側ヘアゲテヤラウ〔ソノ〜傍線〕。
 
○許等等波奴《コトトハヌ》――言問はぬ。物を言はぬこと。○宇流波之吉《ウルハシキ》――うるはしきは端正な立派なこと。美しきとは意味が違つてゐる。ここの宇流波之吉伎美《ウルハシキキミ》は、この琴を贈らるべき中衛高明閣下、即ち藤原房前をさしてゐるのである。○手奈禮能《タナレノ》――手馴れの。用ゐならす意である。舊本※[行人偏+手]とあるのは手の誤で、類聚古集に手となつてゐる。
〔評〕 これは娘子の歌に答へた歌としてあるが、もとより作り事で、房前に琴を贈る意を面白く述べたものである。
 
琴娘子答曰、敬(ミテ)奉(ハル)2徳音(ヲ)1、幸甚幸甚(トイヘリ)。片時(ニシテ)覺(タリ)、即(チ)感《カマケ》2於夢(ノ)言(ニ)1、慨然(トシテ)不v得2黙止(リ)1、故附(ケテ)2公使(ニ)1、聊(カ)以(テ)進御(スル)耳《ノミ》。謹状、不具、
 
○奉2徳音1――徳音をうけたまはる。徳音は詩經に「貊2其徳音1」とあつて善音の意。前の許等等波奴《コトトハヌ》の歌を指す。次の幸甚幸甚までが琴の娘子の言葉で、それ以下は書簡の地の文である。
 
(39)天平元年十月七日、附v使進上
 
謹(ミテ)通《タテマツル》2 中衛高明閤下(ニ)1謹空
 
古葉略類聚鈔のみは十月を十一月に作つてゐるが、返書が十一月になつてゐるので見ると、十月でなければならない。中衛高明閣下は藤原房前を指す。中衛は續日本紀に「神龜五年八月甲子勅、始(中略)置2中衛府1、大將一人【從四位上】少將一人【正五位上】將監四人【從六位上】將曹四人【從七位上】府生六人、番長六人、中衛三百人【號日來舍人】使部已下亦有v數、其職掌常在2大内1以備2周衛1事並在v格」とあつて、この時初めて置避かれたのである。房前は多分この時に大將に任ぜられたのであらう。公卿補任に、「藤原房前、天平二年月日任2中衛大將1」とあるのは誤であらう。公卿補任は年代の古いところは疑はしい個所が少くない。なほ、日本紀略に「大同二年四月己卯詔近衛府者爲2左近衛1、中衛府者爲2右近衛1云々」とあつて、その時に中衛の稱呼が廢せられたのである。高明は高く明らかとその人を讃へたもの。閤下は尊稱。閣下の誤とするのはよくない。謹空は代匠記に謹堂又は謹室の誤かと疑つてゐるが、謹んでここに空白を存して置くといふ意で、書牘の終に空白を殘して置くのは先方を敬ふ意なのである。拾穗本に謹言に作つて、次の書牘の初に連ねて書いてゐるのは誤つてゐる。
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跪(テ)承(ハル)2芳音(ヲ)1嘉懽交々深(シ)、乃(チ)知(リヌ)3龍門之恩、復厚(キコトヲ)2蓬身之上(ニ)1、戀望(ノ)殊念常心(ニ)百倍(セリ)、謹(ミテ)和(ヘテ)2白雲之什(ニ)1以(テ)奏《タテマツル》2野鄙之歌(ヲ)1房前謹状、
 
これ以下は、旅人に對する房前の返翰である。目録に、中衛大將藤原卿報歌一首とあるのは、後に設けて書いたので、ここにさういふ題詞があつたのではない。○龍門之思――龍門は後漢書、李膺傳に、「膺獨持2風裁1、以2聲名1自高、士有d被2其容接1者u、名爲v登2籠門1云々」とあるによつたもので、李膺の門に入り難い(40)のを龍門の登り難いのに譬へたやうに、相手の大伴旅人の門に入るのを光榮とする意に用ゐて、旅人の家を龍門と言つたのである。○蓬身――蓬の如き身。自分を卑下したもの。○戀望殊念――戀ひ慕ふ熱情。○白雲之什――旅人の歌を褒めたもの。攷證には穆天子傳に、「天子觴2西王母于瑤池之上1西王母爲2天子1謠曰、白雲在v天、山陵自出云々」とあるによつたのだらうとあるが、略解に雲は雪の誤で、文選、宋玉が楚王の問に答ふる文に、白雪之什と見えると言つてゐる。
 
812 言問はぬ 木にもありとも わがせこが たなれのみ琴 つちにおかめやも
 
許等騰波奴《コトトハヌ》 紀爾茂安理等毛《キニモアリトモ》 和何世古我《ワガセコガ》 多那禮乃美巨騰《タナレノミコト》 都地爾意加米移母《ツチニオカメヤモ》
 
タトヒ〔三字傍線〕物ヲ言ハナイ木デモ、コレハ〔三字傍線〕貴君ガ手馴シタ御琴デスカラ、土ニ置クヤウナコトヲシマセウカ。イツデモ膝ノ上ニ置イテ大事ニ致シマス。有リ難ウ存ジマス〔イツ〜傍線〕。
 
○和何世古我《ワガセコガ》――吾が背子が。旅人を親んで背子といつた。○都地爾意加米移母《ツチニオカメヤモ》――土に置かんや、土には置かぬといふのであるが、土に置くとは下に置くと同義であらう。移をヤの假名に用ゐるのは、略解に「移は神功紀、【人偏+兼】人爾波移《シタガヘルヒトニハヤ》とありて、移の字の傍に、私記、野とせり。また欽明紀、宮家《ミヤケ》を彌移居《ミヤケ》と書けり。是ら移をやの假字に用ゐたる證なり」とある通りであるが、本集中唯一の用例である。元來この字は韻鏡内轉第四開喩母四等の音でヤ行のイであるが、周代ではヤと發音せられたもので、それが早く吾が國に傳はつてゐた。即ちこれは呉音以前の古音の一なのである。
〔評〕 始の一二句は、贈られた歌の句をその儘鸚鵡返しにして、以下は大切に取あつかふ意を述べて、謝禮の辭としたのである。さして出色の點もない。
 
十一月八日。附(ス)2還使大監(ニ)1
 
(41)都から太宰府へ還る使、大監大伴宿禰百代に托してこの書を送るといふのである。
 
謹(ミテ)通(ズ)2尊門記室(ニ)1
 
尊門は相手の家を尊んでいふ。記室は書記で、侍史、侍曹などに同じ。先方を敬つて直接に指さぬのである。
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筑前國|怡土《イト》郡深江村|子負《コフノ》原、臨(メル)v海(ニ)丘(ノ)上(ニ)有(リ)2二(ノ)石1、大(ナル)者(ハ)長(サ)一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重(サ)十八斤五兩、小(キ)者(ハ)長(サ)一尺一寸、圍一尺八寸、重(サ)十六斤十兩、並皆《ミナ》楕圓(ニシテ)状如(シ)2鷄子(ノ)1、其(ノ)美好(キ)者《コト》不v可v勝(フ)v論(ズルニ)、所謂(ユル)徑尺璧是|也《ナリ》【或云、此(ノ)二石者肥前國彼杵郡平敷之石、當v占(ニ)而取之、】去(ルコト)2深江(ノ)驛家(ヲ)1二十許里、近(ク)在(リ)2路頭(ニ)1公私(ノ)徃來、莫v不(ルハ)2下(テ)v馬(ヨリ)跪拜(セ)1、古老相傳(ヘテ)曰(ク)、往者《イニシヘ》息長足日女(ノ)命、征2討(マシヽ)新羅國(ヲ)1之時、用(チテ)2茲(ノ)兩(ノ)石(ヲ)1挿2著(ケテ)御袖之中(ニ)1、以爲(ス)2鎮懷(ト)1、【實(ハ)是御裳(ノ)中矣、】所以(ニ)行人敬2拜(スト)此(ノ)石(ヲ)1乃(チ)作歌、曰(ク)
 
目録に山上憶良詠2鎭懷石1歌一首并短歌とあるのによつて、この文の前にこの題詞があつたのが脱ちたのだとする説はよくない。目録は必要上後に設けて書いたものである。しかもこの歌を憶良の作としたのは目録作者の錯覺で、古來の學者がこれを踏襲したのは、あまりに目録を買ひかぶつた誤である。これは憶良の作と見るべき點は少しもない。委しくは後に記すところを參照せられたい。
○怡土郡深江村子負原――怡土郡は明治二十九年志摩郡と合して、糸島郡と稱するやうになつた地で、その南部を占めてゐる。深江は今も深江村と稱し、肥前の國境を距る三里ばかりの海驛で、遙かに姫嶋を望(42)むところである。子負原は兒饗野とも記すところで、今その地に子負が原の八幡が奉祀せられてゐる。深江驛の西五六町、海に臨んだ岡である。○徑尺璧――直徑一尺の玉。尺璧は淮南子に「聖人不v貴2尺之璧1而貴2寸之陰1」とある。○肥前國彼杵部平敷之石――彼杵郡は今長崎縣に屬し、大浦灣を挾んで東彼杵・西彼杵に分れてゐる。平敷は所在不明。古事記傳に、「或人の云、平敷といふは今長崎に近き浦上村|平野宿《ヒラノシユク》と云所にて、今も赤石、白石の美しきが多く出るを、火打石にも又磨りて緒締と云ふものにもするなり云々」とある。○當v占而取V之――占に當つて、この平敷の石をよしとして子負原に運んだといふのである。○去2深江驛家1、二十許里。――前に記したやうに、子負原は今、深江村の西、五六町の所と推定せられてゐるが。ここに二十許里とあるのは不思義である。二十許里は六町を一里とすると、三里以上で、既に肥前の國境を超えるやうに思はれる。その間には延喜式によると、佐尉驛即ち今の鹿家の地があるのであるから、特に深江と記す理由がない。文字の誤かとも思はれない書き方である。これは左註にもあるやうに、那珂郡伊知郷簑島人建部牛麻呂に聞いたところを、そのまま記し且、歌に作つたので、作者が實境に臨んで實物を觀て詠ん(43)だのではないのである。牛麿の言ひ誤もあらうし、作者の聞き違ひもあつたらう。だから、これを深く咎めるには當らない。○息長足日女命《オキナガタラシヒメノミコト》――息長足日女命は神功皇后。皇后が三韓征伐に先立つて、この石を御裳に着けて鎭懷と爲し給ひ、折から御姙娠中の皇子、應神天皇の御誕生を、凱旋の日まで、延ばし給うたといふ傳説である。「これは釋日本紀所載の筑前風土記に、「怡土郡兒饗野、在2郡西1此野之西(ニ)有2白石二顆1、一顆長一尺二寸、太一尺、重四十一斤、一顆長一尺一寸、太一尺、重四十九斤、曩者、氣長足姫尊欲v征2伐新羅1到2於此村1、御身有v姙、忽當2誕生1、登時取2此二顆石1挿2於御腰1祈曰d朕欲v定2西堺1來2着此野1、所姙皇子若此神者、凱旋之後誕生其可u遂定2四堺1還來即産也、所2謂譽田天皇1是也、時人號2其石1曰2皇子産石《ミコウミイシ》1、今訛謂2兒饗《コフ》石1とある。又筑紫風土記には「逸郡《イト》縣子饗原、有2石兩顆1一者片長一尺二寸、周一尺八寸、一者長一尺一寸、周一尺八寸、色白而便圓如2磨成1、俗傳云、息長足比賣命欲v伐2新羅國1閲v軍之際(ノ)懷娠漸動時取2兩石1捕2着裙腰1遂襲2新羅1凱旋之日、至2芋※[さんずい+眉]《ウミ》野1太子誕生、有2此因縁1曰2芋※[さんずい+眉]《ウミ》野1謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風俗言詞耳、俗間婦人忽然娠動、裙腰挿v石、厭令v延v時、蓋由v此乎」とある。本集に記すところと石の重量が異つてゐるが、大さは大同小異である。この傳説はこの他書紀に「其石今在2于伊都縣道邊1」と記し、古事記に「所纏其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也」とあつて、古代に於て、よほど人口に膾炙したものと見える。
 
813 かけまくは あやに畏し たらし比賣 神の命 韓國を むけ平げて 御心を 鎭め給ふと い取らして 齋ひ給ひし 眞珠なす 二つの石を 世の人に 示し給ひて 萬代に 言ひつぐがねと わたの底 おきつ深江の うながみの 子負の原に み手づから 置かし給ひて 神ながら 神さびいます くしみたま 今のをつつに 尊きろかも
 
可既麻久波《カケマクハ》 阿夜爾可斯故斯《アヤニカシコシ》 多良志比※[口+羊]《タラシヒメ》 可尾能彌許等《カミノミコト》 可良久爾遠《カラクニヲ》 武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》 彌許々呂遠《ミココロヲ》 斯豆迷多麻布等《シヅメタマフト》 伊刀良斯弖《イトラシテ》 伊波比多麻比斯《イハヒタマヒシ》 麻多麻奈須《マタマナス》 布多都能伊斯乎《フタツノイシヲ》 世人爾《ヨノヒトニ》 斯※[口+羊]斯多麻比弖《シメシタマヒテ》 余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊比都具可禰等《イヒツグガネト》 和多能曾許《ワタノソコ》 意枳都布可延乃《オキツフカエノ》 宇奈可美乃《ウナカミノ》 故布乃波良爾《コフノハラニ》 美弖豆加良《ミテヅカラ》 意可志多麻比弖《オカシタマヒテ》 可武(44)奈何良《カムナガラ》 可武佐備伊麻須《カムサビイマス》 久志美多麻《クシミタマ》 伊麻能遠都豆爾《イマノヲツツニ》 多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》
 
口ニ出シテ言フノハ怪シクモ畏イコトデアル。神功皇后ト申シ上ゲル神樣ガ、三韓ヲ御征伐ナサツテ、オ心ヲオ鎭メナサラウト思シ召シテ、オ産ガ延ビルヤウニ〔思シ〜傍線〕オ取リニナツテ、オ袖ニオ附ケナサツテ〔オ袖〜傍線〕オ祀リナサツタ玉ノヤウナコノ〔二字傍線〕二ツノ石ヲ、後世ノ人ニオ示シ遊バシテ、萬年ノ後マデモ語リ傳ヘテ行ク爲ニトテ、(和多能曾許意枳都)深江村ノ、海岸ノ子負ノ原ニ御自分デオ置キ遊バシテ、神ノママニ、神々シクテイラツシヤル不思議ナコノ石ノ〔三字傍線〕神靈ハ、今ノコノ現世ニオイテモ尊イコトデアルワイ。
 
○多良志比※[口+羊]《タラシヒメ》――息長足姫《オキナガタラシヒメ》と申すべきを略したのである。開化天皇の曾孫、氣長宿禰王の御女、母は葛城高|〓《ヌカ》媛と申す。仲哀天皇の二年、皇后に立ち給ふ。神功皇后と謚す。○武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》――向け平げて。向けは向はしめること。即ち歸服せしめること。○伊刀良斯弖《イトラシテ》――伊《イ》は發語。お取りになつて。○伊波比多麻比斯《イハヒタマヒシ》――齋ひ給ひし。齋ふは、ここでは袖の中に神として祀ること。○和多能曾許意枳都《ワタノソコオキツ》――海の底が奧深い意につづけて、深江の序としたのである。○字奈可美乃《ウナカミノ》――海上の。海のほとり、海邊などの意。○久志美多麻《クシミタマ》――奇御魂。石を尊んでいふ。○伊麻能遠都豆爾《イマノヲツツニ》――今の現に。今の現在の世に於て。
〔評〕 神功皇后鎭懷石の傳説を聞いて、これをその儘に歌にしたまでである。歌として見ると平板で、さしたる佳作ではない。珍らしい形の石や、大きな巖などを禮拜するのは古代からの遺風で、それには種々の意味で拜まれるものがあるが、中に生殖關係のものが最も多いやうである。これもその一と見るべきもので、又これは一種の禁呪《マジナヒ》とも考へられのである。子負原といふ地名は子生《コブ》に通じて、子を産むことを聯想せしめるものがあり、從つてかかる傳説を生じたのであらう。旅人は例の神仙癖と獵奇性とから、この話を聞いて早速歌作を試みたのである。これを憶良と見るのは、この卷を憶良の歌集とし、署名のないのをすべて憶良の作とした誤で(45)ある。却つてこの集は旅人の手許にあつたものを輯録したので、署名の無いのは旅人の作とすべきである。
 
814 天地の 共に久しく 言ひつげと 此のくし御魂 しかしけらしも
阿米都知能《アメツチノ》 等母爾比佐斯久《トモニヒサシク》 伊比都夏等《イヒツゲト》 許能久斯美多麻《コノクシミタマ》 志可志家良斯母《シカシケラシモ》
 
天地ト共ニ絶ユルコトナク〔七字傍線〕、永久ニ語リ傳ヘテ行ケトノ思召デ、神功皇后ハ〔九字傍線〕コノ不思議ナ石ノ〔二字傍線〕神靈ヲ止メテオ置キニナツタノデアラウヨ。
 
○阿米都知能《アメツチノ》――天地の。この能《ノ》はトと同じである。霍公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物乎《ホトトギスキナキトヨモスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》(一四七二)の宇乃花能《ウノハナノ》の能《ノ》と同じであらう。○志可志家良斯母《シカシケラシモ》――敷かしけらしも。敷かせ給うたのであらうよの意。敷くは止め置くこと。
〔評〕 何によらず珍らしいことに對して、これを語り告ぎ言ひ傳へようとするのが、古代人の常である。この鎭懷石に對しても、後世に語り傳へむが爲に、此處に置き給うたものと、皇后の思召を忖度し奉つたのである。素直な、調のしつかりした歌である。
 
右(ノ)事傳(ヘ)言(ハ)那珂郡伊知郷簑島人建部牛麻呂是也
 
これはこの鎭懷石の事を、旅人に聞かせた人を明記して置いたのである。牛麿は那珂郡伊知郷簑島の人とあるが、那珂郡は明治二十九年に廢せられて、筑紫郡に入つた。那珂川の流域地方で、今の福岡市南方一帶である。伊知郷簑島は、和名抄に見えた海部郷の別名だらうと大日本地名辭書に見える。海部郷は今の福岡市の南郊住吉であらうといふ。要するに、これは旅人が太宰府にあつて牛麿に聞いたもので、牛麿も深江の人ではなく、旅人も實地を見ないので、石の所在地なども見當違なことを記したものである。
 
梅花歌三十二首并序
 
(46)この梅花歌三十二首は太宰府の官人が、長官大伴旅人の宅に集まつて作つたもので、それを一括して序を添へたのである。梅は外來の花で、その渡來の時期は明らかでないが、恐らく左程古いものではあるまい。いづれも庭園に植ゑてこれを愛したのである。眞淵は古今集打聽に「菊をも字音のままにきくとよめる如く、うめも烏梅《ウメ》の字音とおもはるるなり。烏梅とはふすべうめとて、梅の子を火にふすべて乾したるを云ふ。はじめ藥用の爲に烏梅をから國より渡し來て、後又其の木を根こじて來りし時、是ぞかの烏梅の木なりといへるより、つひにその木を烏梅の木とよべるならむ」といつてゐるが、これはあてにならぬ。この集では梅は梅・烏梅・汗米・宇米・宇梅・有米・于梅などと記してあつて(牟梅もあるが、誤だといふ)、烏・汗・宇・有・于の字は、メを發音する前の準備としてのウを記したもので、馬のウと同じであらう。烏梅といふ漢藥があるとしても、それに關係はあるまい。
 
天平二年正月十三日、萃(リテ)2于帥老之宅1、申(ブ)2宴會(ヲ)1也、于時初春令月、氣淑(ク)風和(ギ)梅披(キ)2鏡前之粉(ヲ)1、蘭薫(ズ)2珮後之香(ヲ)1、加以《シカノミナラズ》曙(ノ)嶺移(シ)v雲(ヲ)、松掛(ケテ)v羅(ヲ)而傾(ク)v蓋(ヲ)夕(ノ)岫結(ビ)v霧(ヲ)、鳥封v※[穀の左の禾が米+炎](ニ)而迷(フ)v林(ニ)庭(ニハ)舞(フ)新蝶(アリ)、空(ニハ)歸(ル)故鴈(アリ)、於是|盖《キヌガサニシ》v天(ヲ)坐(ニシ)v地(ヲ)、促(ガシ)v膝(ヲ)飛(バス)v觴(ヲ)、忘(レ)2言(ヲ)一室(ノ)之裏(ニ)1、開(キ)2衿(ヲ)煙霞之外(ニ)1、淡然(トシテ)自|放《ホシイママニ》、快然(トシテ)自(ラ)足(ル)、若(シ)非(ズハ)2翰苑(ニ)1、何(ヲ)以(テカ)※[手偏+慮](ベム)v情(ヲ)、請紀(セリ)2落梅之篇(ヲ)1、古今夫何(ゾ)異(ラム)矣、宜(シク)d賦(シテ)2園梅(ヲ)1聊(カ)成(ス)c短詠(ヲ)u、
○萃2于帥老之宅11――帥老の宅に集まり。玉篇に萃は集也とある。帥老は旅人が自からをさした語である。從來この序の作者について、憶良説を採るものと、旅人説を持するものとに分れてゐるが、第一にこの帥老の二字は、次の松浦河に遊んだ時の歌の後人追和之詩三首の下にも書いてあり、旅人が自らを指したと見るべきであること。次にこの梅花歌の順序が、すべて官位の順になつてゐるにもかかはらず、旅人だけ(47)は主人として、その時の客中の重立つた人と思はれる。七人の次に置いてあることなどからして、又已に逃べたやうに、この卷に特に名を記さないものは、すべて旅人の作と見るが合理的であるといふ見地からして、予はこの序文を旅人の作とするのである。なほ、後に載つてゐる吉田宜の書簡を見ると、旅人がこの序と、梅花歌とを彼に贈つたことが分る。これも亦この文の旅人作たる一證である。○梅披2鏡前之粉1――梅は美人が鏡の前で紅粉を粧つてゐるやうに美しく開いてゐる。宋書に「武帝女壽陽公主(ノ)臥2含章檐下1、梅花落2公主額上1、成2五出花1拂v之不v去、皇后留v之、自v是後有2梅花妝1」とあるによつたのであらうといふ。○蘭薫2珮後之香1――蘭が珮の後によい香を放つてゐる。珮は佩と同じく、玉を飾つた大帶をいふ。これは楚詞に「?2秋蘭1以爲v佩云々」とあるによつたのであらう。○松掛v羅而傾v蓋――松が下りごけを枝に掛けて蓋《キスガサ》を傾けたやうになつてゐる。羅は蘿に通じて用ゐたのであらう。○鳥對〓而迷v林――鳥が紗物《ウスモノ》のやうな霧に對し塒を求め得ないで林の中を迷つてゐる。對は神田本に封に作つてゐるに從つて、新訓に※[穀の禾が糸]に封ぜられてとよんでゐるが、少し無理ではあるまいか。〓は※[穀の禾が糸]の誤で、霧※[穀の禾が糸]といふ熟字もあるから、霧を薄い織物に見立てて、この文字を用ゐたのであらう。古寫本に※[穀の禾が糸]に作つてゐるのも澤山ある。○庭舞新蝶、空歸故鴈――ここまでは庭上の景を褒めたのである。○盖v天坐v地――夫を蓋《キヌカサ》とし地を坐席として庭に遊ぶこと。○促v陣飛v觴――互に膝を近づけて盃をとりかはす。促は近と同じである。○忘2言一室之裏1――朋友相會して、言ふことを忘れるほどに興あること。この文は蘭亭記に「悟2言一室之内1云々」とあるのによつたのであらう。○開2衿煙霞之外1――打ち解けて外の景色を眺めること。衿は襟で、衿を開くとは、謂はゆる胸襟を開くと同義であらう。○若非2翰苑1何以※[手偏+慮]v情――文筆によらなくては、何を以て心を述べることが出來よう。翰苑は筆の苑、即ち文筆をいふ。舊本、翰を輸に誤つてゐる。西本願寺本による。※[手偏+慮]は舒と同意。○請紀2落梅之篇1――請の字は神田本に詩に作つてゐるのに從つて、新訓に「詩に落梅の篇を紀せり」と訓んだのに從はう。さうすると古今夫何異矣とあるのに續きがよくなる。
 
815 む月立ち 春の來らば かくしこそ 梅を折りつつ たぬしき竟へめ
 
武都紀多知《ムツキタチ》 波流能吉多良婆《ハルノキタラバ》 可久斯許曾《カクシコソ》 烏梅乎乎利都都《ウメヲヲリツツ》 多努(48)之岐乎倍米《タヌシキオヘメ》  大貳紀卿
 
正月ガ來テ春ニナツタナラバ、コレカラ先モイツデモ〔十字傍線〕コンナニシテ梅ノ花ヲ折ツテ、樂シイコトノ限ヲ盡シマセウヨ。
 
○武郡紀多知《ムツキタチ》――正月立ち。正月をムツキといふのは、生む月の義で、春の始、物の生れ出づる月の意であらう。○多努之岐乎倍米《タヌシキヲヘメ》――乎倍米《ヲヘメ》は終へめで、樂しきことの限を盡さうといふのである。天地與共將終登念乍《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツツ》(一七六)春裏樂終者《ハルノウチノタヌシキヲヘバ》(四七一四)と同樣の言ひ方である。なほ大貳紀卿とあるのは、この歌の作者で、太宰大貳で紀氏の人であるが、名は明らかでない。卿とあるのは三位以上で、大貳は四位の官であるが、これは當日の主賓として特に敬意を拂つてかう書いたものか。
〔評〕 長閑な、梅花の宴にふさはしい歌であるが、第五句があまり急追な調子である。古今集大歌所の歌の「あたらしき年のはじめにかくしこそ千歳をかねてたのしきをつめ」とあるのは、この歌と、續日本紀の天平十四年正月の歌「新しき年のはじめにかくしこそ仕へまつらめよろづ代までに」とを一緒にしたやうな作である。琴歌譜には「阿良多之支止之乃波之女爾可久之己曾知止世乎可禰弖多乃之支乎倍女《アラタシキトシノハシメニカクシコソチトセヲカネテタノシキヲヘメ》」とある。
 
816 梅の花 今咲ける如 散り過ぎず 吾が家の苑に ありこせぬかも
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊麻佐家留期等《イマサケルゴト》 知利須義受《チリスギズ》 和我覇能曾能爾《ワガヘノソノニ》 阿利己世奴加毛《チリコセヌカモ》  少貳小野大夫
 
梅ノ花ヨ、今コンナニ美シク咲〔八字傍線〕イテルヤウニ何時マデモ散ツテナクナラズ、私ノ家ノ園ニアツテクレナイカヨ。
 
○阿利己世奴加毛《アリコセヌカモ》――在つてくれないかよの意。己世《コセ》は希望をあらはす動詞の未然形で、原形はコスである。知里許須奈由米《チリコスナユメ》(三七〇二)と用ゐられてゐる。この語の解は種々あるが、山田孝雄氏の奈良朝文法史によることにする。卷二の有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》(一一九)の説明も、これで補つて置きたいと思ふ。なほこの歌の作者、少貳小野大(49)夫は小野老のことである。この人の傳は三二八の題詞に委しい。
〔評〕満開の梅の花を愛して何時までもかく盛なれと願つたので、さしたる佳作でもあるまい。帥の家の梅花の宴ではあるが、歌には所々の梅がよんである。
 
817 梅の花 咲きたる苑の 青柳は ※[草冠/縵]にすべく 成りにけらずや
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 佐吉多流僧能能《サキタルソノノ》 阿遠也疑波《アヲヤギハ》 可豆良爾須倍久《カヅラニスベク》 奈利爾家良受夜《ナリニケラズヤ》  少貳粟田大夫
 
梅ノ花ノ咲イテヰルコノ〔二字傍線〕園ノ青柳ハ、丁度頭ノ飾ニスル〔八字傍線〕※[草冠/縵]ニ拵ヘルノニヨイヤウニナツタデハナイカ。皆サンアノ柳ヲ※[草冠/縵]ニ作ラウデハアリマセヌカ〔皆サ〜傍線〕。
 
○可豆良爾須倍久《カヅラニスベク》――柳を※[草冠/縵]にすることを詠んだ歌は、この他にも霜干冬柳者見人之※[草冠/縵]可爲目生來鴨《シモカレシフユノヤナギハミルヒトノカヅラニスベクメバエケルカモ》(一八四六)・百磯城大宮人之※[草冠/縵]有垂柳者雖見不飽鴨《モモシキノオホミヤビトノカヅラケルシダリヤナギハミレドアカヌカモ》(一八五二)・楊奈疑可豆良枳多努之久安蘇婆米《ヤナギカヅラキタヌシクアソバメ》(四〇七一)の類、なほ多い。柳の細い枝が※[草冠/縵]に適したのである。なほ作者の少貳粟田大夫は誰とも明らかでない。續紀に粟田朝臣人上といふ人が見え、天平十年六月に武藏守從四位下で卒してゐるが、天平元年三月甲午正五位上を授つてゐるから、丁度この頃少貳であつたものか。
〔評〕 この歌は梅よりも柳の方が主になつてゐる。梅に柳を配した歌は集中尠くなく.梅柳過良久惜佐保乃内爾遊事乎宮動々爾《ウメヤナギスグラクヲシミサホノウチニアソビシコトヲミヤモトドロニ》(九四九)梅花取持見者吾屋前之柳乃眉師所念可聞《ウメノハナトリモチミレバワガヤドノヤトナギノマユシオモホユルカモ》(一八五三)・遊内乃多努之吉庭爾梅柳乎理加謝思底婆意毛比奈美可毛《アソブウチノタヌシキニハニウメヤナギヲリカザシテバオモヒナミカモ》(三九〇五)などがそれである。中古以來の柳櫻と並び稱へたのと違つてゐる點に注意したい。
 
818 春されば 先づ咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮さむ
 
波流佐禮婆《ハルサレバ》 麻豆佐久耶登能《マヅサクヤドノ》 烏梅能波奈《ウメノハナ》 比等利美都都夜《ヒトリミツツヤ》 波流比久良佐武《ハルヒクラサム》  筑前守山上大夫
 
(50)春ニナルト、外ノ花ヨリモ〔六字傍線〕先ヅ第一番ニ咲クコノ家ノ梅ノ花ヲ、私ガ唯一人デ見テ、春ノ日ヲ暮シマセウカ。大勢デ一緒ニ見テ樂シマウト思ツテ、カウシテ集ツテヰルノデス〔大勢〜傍線〕。
 
作者の筑前守山上大夫とあるのは山上憶良である。
 
〔評〕 獨見つつや春日暮らさむと、多人數の集會を喜んだところは、長官の旅人のやうに、超俗的神仙的になり得ず、人間味に富んでゐた憶良の歌らしい。
 
819 世の中は 戀繁しゑや かくしあらば 梅の花にも 成らましものを
 
余能奈可波《ヨノナカハ》 古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》 加久之阿良婆《カクシアラバ》 烏梅能波奈爾母《ウメノハナニモ》 奈良麻之勿能怨《ナラマシモノヲ》  豐後守大伴大夫
 
世ノ中ハ戀ガ繁クウルサイ〔四字傍線〕モノダワイ。コンナニ苦シイ思ヒヲスル〔八字傍線〕ヨリハ梅ノ花ニデモナリタイノニ。サウシタラ思フコトモナクテヨイデアラウ〔サウ〜傍線〕。
 
○古飛斯宜志惠夜《コヒシゲシヱヤ》――戀繁しゑやで、戀ふる心の繁く盛なのを言つたのである、惠《ヱ》は吾者左夫思惠《ワレハサブシエ》(四八六)の惠《ヱ》と同じく感歎の助詞。宜《ゲ》は企《キ》の誤で、こひしきであらう、と眞淵は言つてゐる。彼は戀ひしき、しゑやと解したのであるが、これは全く誤つてゐる。なほ作者の豐後守大伴大夫は大伴三依であらう、と代匠記にある。卷四の五五二の題詞のところで説明したやうに、續紀に天平二十年正月、正六位上大伴宿禰御依に從五位下を授けるとある御依と同人だとすると、この天平二年の頃は豐後守であつたとは思はれない。併し三依が太宰府にあつたことは卷四の五五六・五七八などから想像が出來るから、これは三依とすべきであらう。さうすると三依と御依とを同人とする説は成立しなくなる。
〔評〕 戀繁しゑやと言ひ捨てたのが、非常に力強い。必ずしも男女の戀のけみをさしたのではなく、凡べて物思ひの煩はしいのを嫌つたのであらうが、さりとて眞の厭世觀を述べたのではない。清楚な梅の花になりたいと望んだのは、當代の文人らしいところがある。
 
820 梅の花 今盛なり 思ふどち かざしにしてな 今さかりなり
 
(51)烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》 意母布度知《オモフドチ》 加射之爾斯弖奈《カザシニシテナ》 伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》  筑後守|葛井《フヂイ》大夫
 
梅ノ花ハ今ガ眞盛ダ。心ノ合ツタ友ダチト一緒ニ挿頭ノ花ニシヨウ。今丁度〔二字傍線〕盛ダ。
 
○意母布度知《オモフドチ》――心の合つた相思ふ人だちの意で、鶉鳴古郷之秋芽子乎思人共相見都流可聞《ウヅラナクフリニシサトノアキハギヲオモフヒトドチアヒミツルカモ》(一五五八)とあるので見ると、思ふ人どちの略である。作者葛井大夫は、卷四の五七六に.太宰帥大伴卿上京之後筑後守葛井連大成悲歎作歌一首とある人である。
〔評〕 二句を五句で反覆したのが、花を歡び、友と樂しまうとする感情をよくあらはし得てゐる。
 
821 青やなぎ 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし
 
阿乎夜奈義《アヲヤナギ》 烏梅等能波奈乎《ウメトノハナヲ》 遠理可射之《ヲリカザシ》 能彌弖能々知波《ノミテノノチハ》 知利奴得母與斯《チリヌトモヨシ》  笠沙彌《カサノサミ》
 
青柳ト梅ノ花トヲ折ツテ挿頭ニシテ、ココデ皆サント酒ヲ〔九字傍線〕飲ンデ遊ンダ〔三字傍線〕後デハ、梅ノ花ハ〔四字傍線〕散ツテモカマハナイ。ソレデ満足デス〔七字傍線〕。
 
○烏梅等能波奈乎《ウメトノハナヲ》――梅の花とをといふのと同じであらう。一寸變つた言ひ方である。作者の笠沙彌は沙彌滿誓のことで、彼は卷三の三九一に造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓とあるやうに、太宰府の觀世音寺建立の爲に來てゐた人で、僧ではあるが、もと笠朝臣麿といつて、右大辨從四位上になつてゐたのである。略解や古義に沙彌を俗人の名としたのは、非常な誤である。
〔評〕 坊さんが柳と梅とを折つて挿頭にするといつたのは面白い。この人は僧體になつても俗氣が失せなかつたものと見えて、卷四にも野干玉之黒髪變白髪手裳痛戀庭相時有來《ヌバタマノクロカミカハリシラケテモイタキコヒニハアフトキアリケリ》(五七三)とある。なほ卷八の大伴坂上郎女の作、(52)酒杯爾梅花浮念共飲而後者落去登母與之《サカヅキニウメノハナウカベオモフドチノミテノノチハチリヌトモヨシ》(一六五六)とあるのはこれに傚つたものであらう。
 
822 わが苑に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ來るかも
 
和何則能爾《ワガソノニ》 宇米能波奈知流《ウメノハナチル》 比佐可多能《ヒサカタノ》 阿米欲里由吉能《アメヨリユキノ》 那何列久流加母《ナガレクルカモ》  主人
 
私ノ家ノ〔二字傍線〕園ニ梅ノ花ガ散ルヨ。イヤアレハ花デハナクテ〔イヤ〜傍線〕(比佐可多能)空カラ雪ガ斜ニ降ツテ來ルノカナア。アア綺麗ダ〔五字傍線〕。
 
○那何列久流加母《ナガレクルカモ》――雨や雪の斜に降るのを、流る父は流らふと言つた例が少くない。作者を主人と記したのは大伴旅人のことで、これは旅人が自ら記した證據である。笠沙彌までは卿又は大夫の格で、この日の主賓であるから、敬意を表して始に記し、その次に自らの作を掲げたのである。又これらの主賓は姓のみを記して名を書かないのも、敬んだ書き方である。
〔評〕 花の散るのを雪と見まがつた作は、後世にはいくらでもあるが、この頃でも珍らしい想とは言へない。現にこの一聯の作中にも次の八三九・八四四などがさうである。この歌は第二句で梅の花散ると言ひ切つてゐながら、紛々たる落花に、ふと雪ではないかと疑つても見たので、そこに言ひ知れぬ面白味があるやうに思ふ。
 
823 梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 知良久波伊豆久《チラクハイヅク》 志可須我爾《シカスガニ》 許能紀能夜麻爾《コノキノヤマニ》 由企波布理都々《ユキハフリツツ》  大監大伴氏百代
 
梅ノ花ガ散ルト仰ルガ〔梅ノ〜傍線〕、梅ノ花ノ散ルノハ何處デスカ。シカシマダ春モ淺クテ〔七字傍線〕コノ城ノ山デハ雪ガ降ツテ居マス。
 
○知良久波伊豆久《チラクハ†ヅク》――良久《ラク》はルの延言で、散るのは何處ぞと人に問ふ意である。○志可須我爾《シカスガニ》――流石にに同(53)じ。しかしながら、それでもやはりなどの意。○  《コノキノヤマニ》――城の山は從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》(五七六)とあるところで、筑前筑紫郡と肥前基肆郡(今、三養基郡)との境である。五七六參照。作者の大監大伴氏百代は卷三に太宰大監大伴宿禰百代梅歌一首(三九二)とあつた人で、譬喩歌であるが梅を詠んでゐるのはおもしろい。大監は職員令に「太宰府、大監二人掌d糺2判府内1審2署文案1勾2稽失1察c非違u」とある。
〔評〕 百代が城の山を通つた時の感じを、今この宴席でよんだものか。ここでの作としてはふさはしくない。卷十の打靡春去來者然爲蟹天雲霧相雪者零管《ウチナビキハルサリクレバシカスガニアマグモモラヒユキハフリツツ》(一八三二)に多少似た歌である。
 
824 梅の花 散らまく惜しみ 吾が苑の 竹の林に 鶯鳴くも
 
烏梅乃波奈《ウメノハナ》 知良麻久怨之美《チラマクヲシミ》 和家曾乃乃《ワガソノノ》 多氣乃波也之爾《タケノハヤシニ》 于具比須奈久母《ウグヒスナクモ》  少監阿氏|奧島《オキシマ》
 
梅ノ花ノ散ルノヲ惜シガツテ、私ノ家ノ園ノ竹ノ林ニ鷺ガ鳴クワイ。
 
○和家曾乃乃《ワガソノノ》――家の字は多くケの假名に用ゐてあるのに、ここにカの假名に用ゐたのは不思議である。萬葉假名は多く呉音により、稀に古音を用ゐてゐるが、漢音を用ゐるのは極めて珍らしいことである。ここは類聚古集に賀とし、神田本その他の古寫本に我に作つてゐるものが多い。併し家の字を寛永本にカの假名に用ゐたところは、この他に、一九三・八二六・三三八五・三三九二・三四六〇・三五三〇などがある。これらはすべて誤とすべきや否や、研究を要する問題である。作者の少監阿氏奧島は詳かでない。少監は職員令に「少監二人、掌同2大監1」とある。阿氏とは阿倍・阿刀・阿曇などを省略したものであらうが、何とも分らない。これ以下の作者はすべて氏を一字としてあるのは、支那風を模したものであらう。從つて姓《カバネ》を省いてある。
〔評〕 竹の林に鳴く鶯の聲を、梅の花の散るのを惜しんで鳴くと思つた情趣は、優にやさしいものがある。一體に上品な長閑な作である。
 
825 梅の花 咲きたる苑の 青柳を ※[草冠/縵]にしつつ 遊びくらさな
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 佐岐多流曾能能《サキタルソノノ》 阿乎夜疑遠《アヲヤギヲ》 加豆良爾志都都《カヅラニシツツ》 阿素(54)※[田+比]久良佐奈《アソビクラサナ》  少監土氏百村
 
梅ノ花ノ咲イテヰル園ノ青柳ノ枝〔二字傍線〕ヲ、頭ノ飾ニスル〔六字傍線〕※[草冠/縵]ニシテ遊ンデ暮シタイモノダ。
 
○作者の少監土氏百村は土師宿禰百村であらう。續紀に、「養老五年正月庚午、詔中略從五位下山上臣憶良・正七位上土師宿禰百村等、退朝之後令v侍2春宮1焉」とある。憶良とこの人との官位を對比して見ると、しつくり合ふやうである。
〔評〕 青柳が歌の中心になつてゐるやうであるが、さう見ては面白くない。梅の花の咲いてゐる園で、梅の花に枝を交へてゐる柳の枝を折つて、※[草冠/縵]にして遊ばうといふのである。青柳を※[草冠/縵]とするのは、梅花を鑑賞する態度である。これも上品な作だ。
 
826 うち靡く 春の柳と 吾が宿の 梅の花とを いかにか分かむ
 
有知奈※[田+比]久《ウチナビク》 波流能也奈宜等《ハルノヤナギト》 和家夜度能《ワガヤドノ》 烏梅能波奈等遠《ウメノハナトヲ》 伊可爾可和可武《イカニカワカム》  大典史氏大原
 
私ノ家ニ芽バエタ〔四字傍線〕(有知奈※[田+比]久)春ノ青柳ノ景色〔三字傍線〕ト、私ノ家ニ咲イタ〔四字傍線〕梅ノ花トノ優劣〔三字傍線〕ヲ、何ト判斷シタモノダラウ。ドチラガヨイカ分ラナイ〔ドチ〜傍線〕。
 
○有知奈※[田+比]久批《ウチナビク》――枕詞。春とつづく。春の草木が柔かに靡くからである。二六〇參照。○和家夜度能《ワガヤドノ》――家の字については、八二四參瀕。この句は第一句の上に移して見るべきである。作者の大典史氏大原は詳かでない。原の字を魚に作る本がある。名としてはその方がふさはしいやうである。大典は職員令に、「太宰府、大典二人、掌d受v事上抄、勘2署文案1、檢2出稽失1、讀c申公文u、少典二人、掌同2大典1」とある。史氏は史部氏であらう。
〔評〕 柳と梅とを對比せしめて、その優劣を判斷しかねる趣である。佳作といふほどでもない。
 
(55)827 春されば こぬれ隱りて 鶯ぞ 鳴きていぬなる 梅が下枝に
 
波流佐禮婆《ハルサレバ》 許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》 宇具比須曾《ウグヒスゾ》 奈岐弖伊奴奈流《ナキテイヌナル》 烏梅我志豆延爾《ウメガシヅエニ》
  小典山氏若麻呂
 
春ニナルト、鶯ハ梢ノ茂ミ〔三字傍線〕ニ隱レテ梅ノ下枝ニ鳴イテ飛ンデ行クヨ。
 
○許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》――木末《コヌレ》隱りて。許奴禮《コヌレ》は木《コ》の末《ウレ》の約で、梢のことである。これを木闇《コクレ》と同一視してゐる説は從はれない。又古義には弖《テ》を之《シ》の誤として、冬の間、木に隱れて見えなかつたことと解した、中山嚴水説を可としてゐるが、これは膠見の甚だしいものである。○奈妓弖伊奴奈流《ナキテイスナル》――眞淵と雅澄とは、「鳴きて寢ぬなる」と解してゐるが、當つてゐるとも思はれない。「鳴きて往ぬなる」である。作者の少典山氏若麻呂は、山口忌寸若麻呂であらう。この人は卷四の五六七にも名が見えてゐる。
〔評〕 第二句の許奴禮は生ひ繁つた園の梢を言ふので、この歌は梅の花の香をもとめて鶯が、何處とも知らず木傳ひ來つて、やがて梅の下枝に姿をあらはして鳴く意であらうが、これを冬の木と見たり、又は岡本保孝のやうに、その梅の木の上枝から下枝に下りて來るやうに見るのは、當つてゐるとも考へられない。かく意味の明瞭を缺いてゐるのは、この作の拙さからと言つてよからう。
 
828 人毎に 折りかざしつつ 遊べども いやめづらしき 梅の花かも
比等期等爾《ヒトゴトニ》 乎理加射之都都《ヲリカザシツツ》 阿蘇倍等母《アソベドモ》 伊夜米豆良之岐《イヤメヅラシキ》 鳥梅能波奈加母《ウメノハナカモ》  判事舟氏麻呂
 
人ゴトニ誰モ誰モ〔四字傍線〕折ツテ挿頭ニシテハ遊ンデヰルガ、少シモ飽キルコトナク〔少シ〜傍線〕益々愛ラシイ梅ノ花ダナア。
 
○伊夜米豆良之岐《イヤメヅラシキ》――米豆良之《メヅラシ》は愛づべき樣なるをいふのである。從つて珍奇の意ともなる。ここは珍の字を當てても解し得るが、やはりいくら見ても見飽かず、愛せられる意であらう。作者の大判事舟氏麻呂は詳かでない。大判事は、職員令に、「大判事一人、掌d案2覆犯状1斷2定刑名1判c諸爭訟u、小判事一人、掌同2大判事1」と(56)ある。舟の字は丹に作る本も多い。新撰姓氏録に船連がある、丹ならば丹比か丹波であらう。
〔評〕 梅花を翫ぶ樣と、その花に對する愛慕の情とがよくあらはれてゐる。
 
829 梅の花 咲きて散りなば 櫻花 繼ぎて咲くべく なりにてあらずや
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 佐企弖知理奈婆《サキテチリナバ》 佐久良婆那《サクラバナ》 都伎弖佐久倍久《ツギテサクベク》 奈利爾弖阿良受也《ナリニテアラズヤ》  藥師《クスリシ》張氏|福子《サキコ》
 
梅ノ花ガ咲イテ散ツタナラバ、櫻ノ花ガ續イテ咲クヤウニナツテヰルデハナイカ。春ハ何レニシテモ樂シイ時ダ〔春ハ〜傍線〕。
 
○佐久良婆那《サクラバナ》――佐の字が舊本にないのは脱ちたのである。類聚古集その他の古寫本によつて補つた。作者の藥師張氏福子は傳が詳かでない。藥師は職員令に、「太宰府、醫師一人、掌2診候療1v病」とあるものであらう。類聚古集には醫師とある。藥師は佛足石の歌に久須理師波都禰乃母阿禮等麻良比止乃伊麻乃久須理師多布止可理家利《クスリシハツネノモアレドマラヒトノイマノクスリシタフトカリケリ》とあるから、クスリシと訓むのであらう。張氏は略解古義などに尾張氏かとあるが、續紀天平寶字八年十月庚午の條に張禄滿といふ人が見えるから、これと同氏であらう。福子はサキコであらう。女ではない。
〔評〕 春を懽んだ歌である。この梅が散つたら次は櫻であると、花に遊ぶ樂しさを歌つてゐる。第五句|阿良受也《アラズヤ》がその愉悦をあらはし得てゐる。
 
830 萬世に 年は來經とも 梅の花 絶ゆることなく 咲き渡るべし
 
萬世爾《ヨロヅヨニ》 得之波岐布得母《トシハキフトモ》 烏梅能婆奈《ウメノハナ》 多由流己等奈久《タユルコトナク》 佐吉和多流倍子《サキワタルベシ》  筑前介佐氏子首
 
萬年マデモ年ガ來テハ經ツテ行ツテモ何時マデモ〔五字傍線〕、梅ノ花ハ無クナルコトガナク、咲イテ行クデアラウ。
 
○得之波岐布得母《トシハキフトモ》――年が來ては經行きてもの意。○烏梅能婆奈《ウメノハナ》――婆の字は類聚古集その他の古寫本に波に(57)作つてゐるから寛永本の誤であらう。作者の筑前介佐氏子首は傳が詳かでない。佐氏は佐伯氏か。子首は代匠記はコカウベ、攷證・古義はコビト、略解はコオフトとよんでゐる。天武紀に、三輪君子首・忌部首子首などの名を子人とも書いてあるから、これも恐らくコビトであらう。
〔評〕 古今集の業平が菊をよんだ「植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや」に似て、しかもこれは、ことほぎの言葉のやうで面白い。しかしあまり散文的なのが缺點であらう。
 
831 春なれば うべも咲きたる 梅の花 君を思ふと 夜いも寢なくに
 
波流奈例婆《ハルナレバ》 宇倍母佐枳多流《ウベモサキタル》 烏梅能波奈《ウメノハナ》 岐美乎於母布得《キミヲオモフト》 用伊母禰奈久爾《ヨイモネナクニ》  壹岐守板氏安麻呂
 
春ニナツタノデ、時ヲ知ツテ〔五字傍線〕ヨクモ梅ノ花ガ咲イタヨ。私ハオマヘノ咲クノヲ待ツテ、夜モ寢ラレナカツタノニ。ヨク咲イテクレタ〔八字傍線〕。
 
○宇倍母佐枳多流《ウベモサキタル》――宜も咲きたる。咲くべき時を知つて、よくも咲いたものだの意。○用伊母禰奈久爾《ヨイモネナクニ》――夜寢《ヨイ》も寢なくに。夜の眠も寢られなかつたのに。作者の壹岐守板氏安麻呂の傳は明らかでないが、恐らく續紀天平七年九月庚辰の條に從六位下|板茂《イタモチ》連安麻呂とある人であらう。壹岐は下國であるから、從六位下を以て國守に任じた。
〔評〕 梅を君と呼んだのは、竹を此君といつた故事も思はれて面白い。梅花を待ち得た喜びもよく述べてある。
 
832 梅の花 折りてかざせる 諸人は 今日の間は たぬしくあるべし
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 乎利弖加射世留《ヲリテカザセル》 母呂比得波《モロビトハ》 家布能阿比太波《ケフノアヒダハ》 多努斯久阿流倍斯《タヌシクアルベシ》  神司《カムツカサ》荒氏|稻布《イナフ》
 
梅ノ花ヲ折ツテ挿頭トシテヰル皆ノ人タチハ、今日カウシテ遊ンデヰル〔九字傍線〕間ハ何モ忘レテ〔五字傍線〕樂シイコトデアラウ。
 
(58)○作者の神司荒氏稻布は詳かでない。神司は職員令に、「太宰府、主神一人掌2諸祭祠事1」とあるものであらう。カムツカサとよむ、荒氏は荒城・荒田などの氏人であらう。稻布はイナブ。
〔評〕 少しく散文的の感はあるが、今日の間はと言つたのが、その日の遊の樂しさを強調するやうでよい。
 
833 年のはに 春の來らば かくしこそ 梅をかざして たぬしく飲まめ
 
得志能波爾《トシノハニ》 波流能伎多良婆《ハルノキタラバ》 可久斯己曾《カクシコソ》 烏梅乎加射之弖《ウメヲカザシテ》 多努志久能麻米《タヌシクノマメ》  大令史野氏|宿奈《スクナ》麻呂
 
春ガ來タナラバ、毎年カウシテ、梅ノ花ヲ挿頭ニシテ樂シク酒ヲ飲ンデ遊バ〔四字傍線〕ウヨ。
 
○得志能波爾《トシノハニ》――卷十九に毎年謂2之|等之乃波《トシノハ》1(四一六八)とある。この句は二句と置き換へて見るがよい。○多努志久能麻米《タヌシクノマメ》――樂しく酒を飲まうといふのである。作者の大令史野氏宿奈麻呂は詳かでない。大令史は、職員令に、「大令史一人、掌v抄2寫判文1、少令史一人、掌同2大令史1」とある。野氏は大野・小野・三野など、野の字のつく氏が多いから、いづれとも明らかでない。
〔評〕 冐頭に置かれた大貳紀卿の歌と全く同趣で、用語もかなり似てゐるが、もとより暗合である。
 
834 梅の花 今盛なり 百鳥の 聲の戀しき 春來るらし
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊麻佐加利奈利《イマサカリナリ》 毛毛等利能《モモトリノ》 己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》 波流岐多流良斯《ハルキタルラシ》  少令史田氏肥人
 
梅ノ花ハ今ガ盛ダ。コレデハ愈々〔六字傍線〕イロイロノ鳥ノ鳴ク聲ノナツカシイ春ガ來ルラシイ。
 
○己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》――古事記袁祁命の御歌に、宇良胡本斯祁牟《ウラコホシケム》、また齊明紀皇太子御歌、枳瀰我梅能姑〓之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《キミガメノコホシキカラニ》とあつて、古保志枳《コホシキ》は戀しきの古語である。作者の少令史田氏肥人は明らかでない。田氏は田口・田邊・矢田など、田の字の附く氏が多くて、いづれとも分らない。肥人は古來ウマビトとよむ説が多いが、ヒビトとよむの(59)がよいか。卷十一の二四九六にも肥人の二字が用ゐてあつて、その訓に諸説があるが、ヒビトがよいやうに思はれる。
〔評〕 百花に魁けて咲く梅の盛りを見て、春の來たのを喜んだのである。百鳥の聲の戀しきは、古今集の「百千鳥囀る春」と同じやうな詞である。
 
835 春さらば 逢はむと思ひし 梅の花 今日の遊びに あひ見つるかも
 
波流佐良婆《ハルサラバ》 阿波武等母比之《アハムトモヒシ》 烏梅能波奈《ウメノハナ》 家布能阿素※[田+比]爾《ケフノアソビニ》 阿比美都流可母《アヒミツルカモ》  藥師高氏義通
 
春ニナツタラ咲クノヲ〔四字傍線〕見ヨウト思ツテヰタ梅ノ花ヲ、今日ノコノ宴會デ私ハ〔二字傍線〕見タワイ。待チ兼ネテヰタ花エオ見ルコトガ出來テ喜バシイ〔待チ〜傍線〕。
 
○作者の藥師高氏義通は詳かでない。高といふ氏は古くから物に見えてゐる。高橋氏だらうとする説は當つてゐまい。
〔評〕 梅花を人に擬して、逢はむと思ひしと言つたり、逢ひ見つるかもと言つてゐる。
 
836 梅の花 手折りかざして 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 多乎利加射志弖《タヲリカザシテ》 阿蘇倍等母《アソベドモ》 阿岐太良奴比波《アキタラヌヒハ》 家布爾志阿利家利《ケフニシアリケリ》  陰陽師礒氏|法《ノリ》麻呂
 
梅ノ花ヲ折ツテ挿頭ニシテ、遊ンデモ滿足出來ナイノハ今日デアルヨ。今日ハイクラ遊ンデモ、面白クテ面白クテ飽キルトイフマデニハ至ラナイ〔今日〜傍線〕。
 
○作者の陰陽師礒氏法麻呂は詳かでない。陰陽師は職員令に、「太宰府、陰陽師一人、掌2占筮相1v地」とある。礒氏は礒部氏か。
(60)〔評〕 前の神司の歌(八三二)と同趣の歌である。
 
837 春の野に 鳴くや鶯 なづけむと 吾が家の園に 梅が花咲く
 
波流能努爾《ハルノヌニ》 奈久夜※[さんずい+于]隅比須《ナクヤウグヒス》 奈都氣牟得《ナヅケムト》 和何弊能會能爾《ワガヘノソノニ》 ※[さんずい+于]米何波奈佐久《ウメノハナサク》  ※[竹/卞]師《カゾヘシ》志氏大道
 
春ノ野ニ鳴クアノ〔二字傍線〕鶯ヲ誘ヒ寄セテ〔五字傍線〕手ナヅケヨウト思ツテ、私ノ家ノ園ニ梅ノ花ガ咲イタ。コノ花ガ咲イタノデ、キツト鶯ガ來テ嶋クダラウ〔コノ〜傍線〕。
 
○奈久夜※[さんずい+于]隅比須《ナクヤウグヒス》――夜《ヤ》は輕く添へた詠嘆の助詞。作者の※[竹/卞]師志氏大道は詳かでない。※[竹/卞]師は一本算師とある。※[竹/卞]は算と同字。職員令に「太宰府※[竹/卞]帥一人掌v勘2計物數1」とある。志氏は志賀・志斐・志貴などの氏人であらう。
〔評〕 鶯を誘はむとする心があつて、梅が咲くやうに言つたのが面白い。
 
838 梅の花 散りまがひたる 岡びには 鶯鳴くも 春片まけて
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 知利麻我比多流《チリマガヒタル》 乎加肥爾波《ヲカビニハ》 宇具比須奈久母《ウグヒスナクモ》 波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》  大隅目榎氏鉢麻呂
 
梅ノ花ガ散リ亂レテヰル岡ノホトリデハ春ヲ待チ受ケテ鶯ガ鳴クヨ。
 
○乎加肥爾波《ヲカビニハ》――岡邊には。ビはベと同じである。○波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》――加多麻氣《カタマケ》は片設け。ここは春の來るのを偏に待ち受けての意。なほ作者の大隅目榎氏鉢麻呂は詳かでない。目は職員令によれば「掌d受v事上抄、勘2署文案1檢2出稽失1、讀c申公文u」とある。大隅は中國でかるから、目の定員は一人である。榎氏は榎本・榎井などであらう。
〔評〕 明朗な、景色の目に浮ぶやうな作である。
 
(61)839 春の野に 霧立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る
 
波流能能爾《ハルノノニ》 紀利多知和多利《キリタチワタリ》 布流由岐等《フルユキト》 比得能美流麻提《ヒトノミルマデ》 烏梅能波奈知流《ウメノハナチル》  筑前目田氏眞人
 
春ノ野ニ霧ガ立チ渡ツテ、雪ガ降ルノカト人ガ思フホド梅ノ花ガ散ル。アアヨイ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○波流能能爾《ハルノノニ》――野は上代にはヌといふのが常で、ノといふことは殆ど見えない。併し集中を見渡すと、大能《》備爾鴨月之照有《オホノビニカモツキノテリタル》(九八六)は大野邊と解する説が多く、須我能安良能爾《スガノアラノニ》(三三五二)は確に野をノといふ例である。併し東歌であるから、特例と見られぬこともない。また野をノの假名に用ゐた例としては、安利蘇野米具利《アリソノメグリ》(四〇四九)須久奈比古奈野《スクナヒコナノ》(四一〇八)などがあるのみであるが、ともかくも野をノといふことも、そろそろ始まつてゐたと考へることが出來よう。けれども、ここの能の字は、類聚古集その他の古本に努に作つてゐるものが多いから、努の誤とすべきであらう。○紀利多知和多利《キリタチワタリ》――春であるから霞といふべきを霧といつてゐるのは、この集の頃はまだ後世のやうな定まつた慣用が無かつたのである。卷十に、春山霧惑在鶯《ハルヤマノキリニマドヘルウグヒスモ》(一八九二)とある。作者の筑前目田氏眞人は詳かでない。田氏は前にも出てゐる。
〔評〕 霞のかかつてゐる春の野と、雪と散る梅との關係が明白でない。即ち梅の咲いてゐる場所がはつきりしてゐないのが缺點である。
 
840 春柳 ※[草冠/縵]に折りし 梅の花 誰か浮べし 酒盃の上に
 
波流楊奈宜《ハルヤナギ》 可豆良爾乎利志《カヅラニヲリシ》 烏梅能波奈《ウメノハナ》 多禮可有可倍志《タレカウカベシ》 佐加豆岐能倍爾《サカヅキノヘニ》  壹岐目村氏|彼方《ヲチカタ》
 
(波流楊奈宜)※[草冠/縵]ニスルタメニ折ツタ梅ノ花ヲ、誰ガ盃ノ)ニ浮ベタノカ。コレハ面白イ趣好ダ〔九字傍線〕。
 
○波流楊奈宜《ハルヤナギ》――枕詞。春の柳は※[草冠/縵]にするものであるから、可豆良《カヅラ》につづけてある。春楊葛山發雲《ハルヤナギカヅラキヤマニタツクモノ》(二四五三)(62)ともある。舊本、波流楊奈那宜とあるが、類聚古集に那の字なく、神田本西本願寺本などに奈の字がない。いづれか衍であらう。○多禮可有可倍志《タレカウカベシ》――舊本、可の字がないのは誤。類聚古集によつて補ふ。作者の壹岐目村氏彼方は詳かでない。村氏は村上・村田・村國などの内か。彼方はヲチカタとよむのであらう。
〔評〕 梅の花を※[草冠/縵]としながら、梅の花を浮べた酒盃を擧げる趣で、蓋しこの席での實情であらう。これを契沖は、「かづらの影の盃にうつるを盃の上にたが浮べたるぞといひなすなり」と言つてゐるが、恐らく當を得てゐない。次の八五二を見ても、又卷八にも、酒杯爾梅花浮念共飲而後者落去登母與之《サカヅキニウメノハナウカベオモフドチノミテノノチハチリヌトモヨシ》(一六五六)とあるのを見ても、大盃の中に梅花を浮べて飲み廻すものと思はれる。昔の酒宴の樣子と、盃の大きかつたことと、作者が末席に坐してゐることを考へると、誰か浮べしといふ句が、よく了解せられるやうに思はれる。
 
841 鶯の おと聞くなべに 梅の花 吾家の園に 咲きて散る見ゆ
 
于遇比須能《ウグヒスノ》 於登企久奈倍爾《オトキクナベニ》 烏梅能波奈《ウメノハナ》 和企弊能曾能爾《ワギヘノソノニ》 佐岐弖知留美由《サキテチルミユ》  對馬目高氏|老《オユ》
 
鶯ノ鳴ク聲ガ聞エルノニツレテ、梅ノ花ガ私ノ家ノ園ニ咲イテ散ルノガ見エル。
 
○於登企久奈倍爾《オトキクナベニ》――聲聞くといふべきを、音聞くといつてゐる。源氏物語初音の卷にも「鶯のおとせぬ里は」とある。作者の對馬目高氏老は詳でない。高氏は前に出てゐる。
〔評〕 梅と鶯との關係を、型の如く述べたに過ぎない。
 
842 吾が宿の 梅の下枝に 遊びつつ 鶯鳴くも 散らまく惜しみ
 
和家夜度能《ワガヤドノ》 烏梅能之豆延爾《ウメノシヅエニ》 阿蘇※[田+比]都都《アソビツツ》 宇具比須奈久毛《ウグヒスナクモ》 知良麻久乎之美《チラマクヲシミ》  蒔摩目高氏|海人《アマ》
 
私ノ家ノ美シク咲イテヰル〔八字傍線〕梅ノ下枝ニ遊ビナガラ、花ノ〔二字傍線〕散ルノガ惜シサニ、鶯ガ悲シサウニ〔五字傍線〕鳴イテヰルヨ。
 
(63)○和家夜度能《ワガヤドノ》――家は類聚古集に我に作るのがよい。○知良麻久乎之美《チラマクヲシミ》――散るのが惜しさにの意。惜しむといふ動詞ではない。作者の薩摩目高氏海人は詳かでない。
〔評〕 これも梅と鶯との關係を歌つてゐるが、情も景も合はせ述べて面白いところがある。
 
843 梅の花 折りかざしつつ 諸人の 遊ぶを見れば 都しぞ思ふ
 
宇梅能波奈《ウメノハナ》 乎理加射之都都《ヲリカザシツツ》 毛呂比登能《モロビトノ》 阿蘇夫遠美禮婆《アソブヲミレバ》 彌夜古之叙毛布《ミヤコシゾモフ》  土師《ハニシ》氏|御通《ミミチ》
 
梅ノ花ヲ折ツテ挿頭シテ、多クノ人タチガ遊ブノヲ見ルト、ソノ樣子ガ大宮人等ノ樣子ニ似テヰルノデ〔ソノ〜傍線〕、都ノコトガナツカシク〔五字傍線〕思ハレルヨ。
 
○作者の土師氏御通は、卷四の五五七に土師宿禰水通とあつた人である。卷十六の註に「有2大舍人土師宿禰水通1字曰2志婢麻呂1」とあるのも同人であらう。この人以下、官のない人の氏は省かずに記してある。
〔評〕 今太宰府の宮人が梅の花を折りかざす姿の大宮人らしいのを見て、都を思ひ出した實感を歌つてゐる。
 
844 妹が家に 雪かも降ると 見るまでに ここだもまがふ 梅の花かも
 
伊母我陛邇《イモガヘニ》 由岐可母不流登《ユキカモフルト》 彌流麻提爾《ミルマデニ》 許許陀母麻我不《ココダモマガフ》 烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》  小野氏國堅
 
妻ノ家デ雪ガ降ルノデハナイカト思ハレルホドニ、梅ノ花ガ大層散リ亂レテヰルワイ。アアヨイ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○許許陀母麻我不《ココダモマガフ》――許許陀《ココダ》はココラと同じく、許多、數多の意である。麻我不《マガフ》は亂れること。作者の小野氏國堅は詳かでない。
〔評〕 平凡な作である。初句の妹が家にが、取つて附けたやうで役に立つてゐない。
 
845 鶯の 待ちがてにせし 梅が花 散らずありこそ 思ふ子が爲
 
(64)宇具比須能《ウグヒスノ》 麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》 宇米我波奈《ウメガハナ》 知良須阿利許曾《チラズアリコソ》 意母布故我多米《オモフコガタメ》  筑前椽門氏|石足《イソタリ》
 
鶯ガ待チカネテヤツト咲イ〔六字傍線〕タ梅ノ花ハ。私ノ愛スル女ニ見セタイノダカラ〔私ノ〜傍線〕、私ノ愛スル女ノ爲ニ、シバラク〔四字傍線〕散ラズニ居ツテクレ。
 
○麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》――待ち難くした。待ちかねたこと。○知良須阿利許曾《チラズアリコソ》――許曾《コソ》は希望をあらはす。作者の筑前掾門氏石足は、卷四の五六八の左註に、「右一首筑前掾門部連石足」とある人である。
〔評〕 前の八三七にもあつたが梅の花を梅が花といつたのが、何となく目立つてゐる。
 
846 霞立つ 長き春日を かざせれど いやなつかしき 梅の花かも
 
可須美多都《カスミタツ》 那我《ナガ》比|岐波流卑乎《キハルビヲ》 可謝勢例杼《カザセレド》 伊野那都可子岐《イヤナツカシキ》 烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》  小野氏|淡理《アハマロ》
 
霞ノ立ツ永イ春ノ日ニ終日〔二字傍線〕挿頭シテ遊ンデ〔三字傍線〕モ飽キルコトナク〔七字傍線〕、イヨイヨ懷カシク思ハレル梅ノ花ダナア。ホントニ良イ花ダ〔八字傍線〕。
 
○那我《ナガ》比|岐波流卑乎《キハルビヲ》――舊本比の字があるのは衍。類聚古集、神田本などにない。作者の小野氏淡理は詳でない。淡理はアハマロとよむべきか。
〔評〕 八三六の歌と同じで、平庸の作である。
 
員外思2故郷1歌兩首
 
員外は右の三十二首以外の意で、これも梅花宴の席上での作である。これを憶良作とするのは非(65)常な誤で、主人たる大伴旅人の歌である。目録には員外の二字がない。
 
847 吾が盛 いたく降ちぬ 雲に飛ぶ 藥はむとも またをちめやも
 
和我佐可理《ワガサカリ》 伊多久久多知奴《イタククダチヌ》 久毛爾得夫《クモニトブ》 久須利波武等母《クスリハムトモ》 麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》
 
私ノ盛リノ年モ、スツカリ衰ヘテ、老年ニナツテ〔六字傍線〕シマツタ。タトヒ〔三字傍線〕雲ノ上ヘ飛ブコトガ出來ル〔六字傍線〕仙藥ヲ飲ンデモ、元ノ若サニ返ルコトガ出來ヨウカ、トテモ出來ハシナイ〔九傍線〕。
 
○伊多久久多知奴《イタククダチヌ》――久多知《クダチ》は降ちで、ここは齡の傾いたこと。○久毛爾得夫久須利波武等母《クモニトブクスリハムトモ》――久毛爾得夫久須利《クモニトブクスリ》は雲中を飛行し得る靈藥で、列仙傳に、劉安高帝孫封2准南王1好2儒術方技1有2八公1往(テ)詣v之、遂授2丹經及三十六水銀等方1云々、八公告v安曰、可2以去1矣、於是與v安登v山大祭埋2金於地1白日昇v天焉、所2棄置1藥鼎、鷄犬舐v之並得2輕擧(ヲ)1鷄鳴2雲中1、犬吠2天上1」とあるやうなものを言つたのだが、この時代には雲中を飛行し得るといふ信念があつたので、その方法を習得する爲に苦心したものもあつたことは、役小角・吉野の仙女・久米仙人などの諸傳説で知ることが出來る。靈異記には、「大和國宇太郎漆部里漆部造麿之妾、春野採v菜、食2於仙草1而飛2於天1」と見えてゐる。○麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》――遠知《ヲチ》は初に返ること。ここは若返るをいふ。
〔評〕 旅人が例の神仙癖で、雲に飛ぶ仙藥を持ち出したのは面白い。既に六十六歳の老境に達してゐた彼は、かうした悲しい諦めの嘆息を吐くより外なかつたのである。
 
848 雲に飛ぶ 藥はむよは 都見ば いやしき吾が身 またをちぬべし
 
久毛爾得夫《クモニトブ》 久須利波牟用波《クスリハムヨハ》 美也古彌婆《ミヤコミバ》 伊夜之吉阿何微《イヤシキアガミ》 麻多越知奴倍之《マタヲチヌベシ》
 
雲ノ上ヘ飛ブコトガ出來ルヤウニナル仙〔コト〜傍線〕藥ヲ飲ムヨリモ、都ヲ見サヘスレバ、コノ賤シイ私ノ身ハ復若返ルコ(66)トガ出來ルダラウ。都ガ戀シイナア〔七字傍線〕。
 
○久須利波牟用波《クスリハムヨハ》――藥を食ふよりも。波牟《ハム》は食む。噛むと同一語である。用波《ヨハ》は、ヨリハに同じ。○麻多越知奴倍之《マタヲチヌベシ》――復、若返るだらうの意。
〔評〕 雲に飛ぶ仙藥よりも、京に歸ることが出來たら、それで若返るだらうといふので、彼が永く西陲の地にあり、刺へ最愛の妻を此處に失ひ、淋しさ悲しさに、如何ばかり都戀しさの念に驅られてゐたかがわかる。卷三の吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成《ワガサカリマタヲチメヤモホトホトニナラノミヤコヲミズカナリナム》(三三一)と彼が詠んだのと對比して見ると、彼の胸中を察することが出來る。この歌を憶良の作とするのは、思はざるの甚だしいものである。
 
後(ニ)追和梅歌四首
 
この四首も旅人の歌である。宴會の日ではなく、後日に詠んだのであらう。
 
849 殘りたる 雪に交れる 梅の花 早くな散りそ 雪は消ぬとも
 
能許利多流《ノコリタル》 由棄仁末自列留《ユキニマジレル》 烏梅能半奈《ウメノハナ》 半也久奈知利曾《ハヤクナチリソ》 由岐波氣奴等勿《ユキハケヌトモ》
 
消エ殘ツタ春ノ雪ニ混ツテ咲イテヰ〔四字傍線〕ル梅ノ花ヨ。雪ハ消エテシマツテモ、雪ト共ニ〔四字傍線〕早ク散ルデハナイゾヨ。
〔評〕 別に取り立てていふ點もない作である。後から追加するほどの歌ではない。
 
850 雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛なり 見む人もがも
 
由吉能伊呂遠《ユキノイロヲ》 有婆比弖佐家流《ウバヒテサケル》 有米能波奈《ウメノハナ》 伊麻佐加利奈利《イマサカリナリ》 彌牟必登母我聞《ミムヒトモガモ》
 
雪ガ積ツテ居ル處〔八字傍線〕ニ雪ノ色ヲマカシテ、雪ヨリモ白ク〔六字傍線〕咲イテヰル梅ノ花ガ今ガ眞盛リダ。アアコノ綺麗ナ花ヲ(67)私ト一緒ニ〔アア〜傍線〕見ル人ガアレバヨイガナア。
 
〔評〕 雪の色を奪ひて咲けるといふ句は一寸面白い。漢文式の叙法らしく思はれる。金葉集に「雪の色をうばひて咲ける卯の花に小野の里人冬ごもりすな」とあるのは、これによつたものであらう。なほ風雅集にこの歌を中納言家持として出してゐるのは亂暴である。
 
851 吾が宿に 盛に咲ける 梅の花 散るべくなりぬ 見む人もがも
 
和我夜度爾《ワガヤドニ》 左加里爾散家留《サカリニサケル》 牟梅能波奈《ウメノハナ》 知流倍久奈里奴《チルベクナリヌ》 美牟必登聞我母《ミムヒトモガモ》
 
私ノ家ニ盛リニ咲イタ梅ノ花ガ、モウ散リサウニナツテ來タ。惜シイモノダ。散ツテシマハナイウチニ早ク來テ〔惜シ〜傍線〕、見ル人ガアレバヨイガナア。
 
○牟梅能波奈《ウメノハナ》――すべて烏梅・汗米・宇米・宇梅・有米・于梅などとウの仮名を用ゐてゐるのに、ここに限つて牟梅とあるのは、大に注意すべきことである。但し類聚古集その他の古本に宇に作つてゐるから、これを誤寫とすれば問題ではないが.和名抄以來ムメと記すことが行はれ、ウメ・ムメの論爭がやかましく、遂に俳聖蕪村をして「梅咲きぬどれがうめやらむめぢややら」と叫ばしめるやうになつたのである。現代に於ても特殊の方言は別として、一般的には鼻音で發音してゐることを考へると、この頃も同様であつたらうと考へられないことはない。馬も本集では、馬・宇馬・宇萬などと記すを常としてゐるが、唯一つ卷二十に牟麻としたところがあつて、これは古本もすべてさうであるから誤とは言ひ難い。併し防人歌であるから.東國の方言だと言へないことはないわけであるが.恐らく馬は uma でも muma でもなく nma であつた爲に、一般にはウの仮名で記されてゐるが.時としてムの仮名を用ゐたこともあつたのであらう。梅に就いても同様なことが言ひ得るので、牟梅と記すことも無かつたとは言はれまいと思ふ。
〔評〕 平板な歌である。なほこの人の作に、卷八、我岳之秋芽花風乎痛可落成將見人裳欲得《ワガヲカノアキハギノハナカゼヲイタミチルベクナリヌミムヒトモガモ》(一五四二)とあるのは(68)全く同型の作で、その製作されたのも同年の秋のやうである。
 
852 梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我思ふ 酒に浮べこそ 一云、いたづらにあれを散らすな酒にうかべこそ
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊米爾加多良久《イメニカタラク》 美也備多流《ミヤビタル》 波奈等阿例母布《ハナトアレモフ》 左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》
 
梅ノ花ガ夢ニアラハレテ曰フノニ、「私ハ風流ナ花ダト自分デ思ヒマス。デスカラ〔四字傍線〕私ヲ酒ニ浮ベテ飲ンデ〔三字傍線〕下サイ」ト曰ツタ〔四字傍線〕。
 
○左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》――酒盃の中に浮べなさいの意で、盃に酒を注いで梅花を浮べるのである。前の波流楊奈宜可豆良爾乎利志《ハルヤナギカヅラニヲリシ》(八四〇)、卷八の酒杯爾梅花浮《サカヅキニウメノハナウカベ》(一六五 )と同趣である。
〔評〕 梅の花夢に語らくは、前にあつた琴が娘子に化した歌と同じ趣で、例の旅人の神仙癖から出た空想である。羅浮山の梅が美人となつて、夢にあらはれた故事によつたものだらうとする説もあるが、必ずしもさう見ないでもよいであらう。
 
一云 伊多豆良爾《イタツラニ》 阿例乎知良須奈《アレヲチラスナ》 左氣爾于可倍己曾《サケニウカベコソ》
 
これは三句以下の異傳である。恐らく最初から二樣に作つてあつたのであらう。
 
遊2於松浦河1序
 
これは大伴旅人の文である。これを憶良の作とするのは更に理由がない。その神仙的傾向から言つても、また下の八六八以下三首の憶良の歌に、領巾振山や、玉島川へ行つたことがないとよんでゐるのでも、憶良説は成立しない。松浦河は玉島川のこと。玉島川之潭の語釋参照。
 
余以(テ)d暫往(テ)2松浦之縣(ニ)1逍遥(スルヲ)u聊臨(テ)2玉島之潭(ニ)1遊覽(ス)、忽値(フ)2釣v魚女子等(ニ)也、花容無(ク)v(69)雙光儀無(シ)v匹開(キ)2柳葉(ヲ)於眉中(ニ)1發(ク)2桃花(ヲ)於頬上(ニ)1、意氣凌(キ)v雲(ヲ)、風流絶(タリ)v世(ニ)、僕問(ヒ)曰《ケラク》、誰郷誰家(ノ)兒等(ゾ)、若疑《ケダシ》神仙者乎、娘等《ヲトメラ》皆《ミナ》咲(テ)答(ヘ)曰《ケラク》兒等者漁夫之舍兒、草菴之|微者《イヤシキモノ》、無v郷(モ)無v家(モ)、何《ナニモ》足《タラム》2稱云《ナヲノルニ》1、唯性便(リ)v水(ニ)、復心(ニ)樂(フ)v山(ヲ)、或臨(テ)2洛浦(ニ)1、而徒(ニ)羨(ミ)2王魚(ヲ)1乍(チ)臥(シテ)2巫峡(ニ)1、以(テ)空(シク)望(ム)2煙霞(ヲ)1、今以|邂逅《ワクラバニ》相2遇《アヒ》貴客《ウマヒトニ》1、不v勝2感應(ニ)1、輙(チ)陳(ブ)2歎曲(ヲ)1而今而後《イマヨリノチ》、豈可v非(ル)2偕老(ナラ)1哉《ヤ》下官《オノレ》對(ヘテ)曰、唯唯《ヲヲ》、敬(テ)奉《ウケタマハリキ》2芳命(ヲ)1、于時《トキニ》日落2山西1驪馬將v去(ムト)、遂(ニ)申(ベ)2懷抱(ヲ)1、因(テ)贈詠歌曰《ヨミテオクレルウタニ》
 
○松浦之縣――和名抄に肥前國松浦郡萬豆浦とあるところで、九州西北部の海岸地方を稱したらしく、魏志に「末廬國、四千餘家、濱山海居焉」とある。今、東西南北の四郡とし、佐賀長崎の二縣に分轄してゐる。○玉島之潭――玉島川の淵。玉島川は大日本地名辭書に、「浮嶽山の南に發し、西流濱崎驛に至り海に入る。長(70)四里」と見え、濱崎村の東方で海に注いでゐる川である。太宰府管内志には、「松浦川すなはち玉島里を流る。土人の傳に此の河中昔までは、玉島のすこし北より西にをれ濱崎又虹の松原と鏡山との間を流れて、唐津城の東水島の邊にて鏡川に合し海に入れりしを、濱崎の東を堀て玉島より直に北に流せしものなりといふ。この傳説さもあるべし。土地の樣もしか思はるゝ所なり」とある。三松莊一氏の九州萬葉手記にもこれを認めて居られるが、なほ研究を要することであらう。今、濱崎村の上流十數町の地に玉島村があり、神功皇后を祀つた玉島神社もあつて、そこが神功皇后垂綸の傳説地なのである。一體この歌は神功皇后の故事から思ひついて、こんな空想的なロマンチツクなものに作り上げたので、全く跡形のないことである。なほその神功皇后の故事は、神功皇后紀に「仲哀天皇九年四月甲辰、北到2火前國松浦縣1而進2食於玉島里小河之側1。於v是皇后勾v針爲v鈎、取v粒爲v餌、抽2取裳糸1爲v緡登2河中石上1而投v鈎祈之曰、朕西欲v求2財國1若有2成事1者、河魚飲v鈎、因以擧v竿乃獲2組鱗魚1、時皇后曰、希見物也、希見此云梅豆邏志、故時人號2其處1曰2梅豆羅國1、今謂2松浦1訛焉云云」とあり、風土記にも古事記にも略同樣のことが記されてゐる。○光儀無匹――前の花容無雙に對した句で、光儀は妹之光儀乎《イモガスガタヲ》(二二九)夜戸出乃光儀《ヨトデノスガタ》(二九五〇)の如くスガタと訓む字である。○開2柳葉於眉中1發2桃花於頬上1――眉は柳葉の如く頬は桃花の如く美しい色をなしてゐることの譬。○意氣凌v雲、風流絶v世――意氣高くみやびやかなことが世に秀でてゐること。前の令v反2惑情1歌の序にも意氣雖v揚2青雲之上1とあつた。○或臨2洛浦1而徒羨2王魚1――洛神賦に出てゐる洛川の神女に擬したもので、洛浦は即ち洛川である。王魚は巨魚の誤だらうと略解にあるが、古本すべて王に作つてゐるから、さうも斷じ難い。この儘で大魚の意にならうかと思はれる。羨は淮南子に「臨v淵而羨v魚不v如2退而結1v網」とあるのに本づいたのであらう。○乍(チ)臥2巫峡1以空望2烟霞1――これは高唐賦にある巫山の仙女に擬したのである。巫峡は巫山。この句はただ、山に寢て空しく烟霞を眺める意。○邂逅――ワクラバニと訓む。偶然に、はからざるになどの意。○不v勝2感應1――深く感ずるに堪へかねて。○陳2歎曲1――歎は細井本、款に作るのがよい。款はマコトで款曲は眞心などいふに同じ。○偕老――共に老いること。夫婦の親しくすることをいふ。○下官――自ら卑下して言ふ詞。遊仙窟にヤツガレとよんである。○唯唯――敬ひ答へる辭。○驪馬將v去――驪は黒色の馬で、日が山の西に傾いて、乗つてゐる馬が家路に(71)就かうとするといふのである。文選應休連書に「徒(ニ)恨(ム)宴樂始酣白日傾v夕、驪駒就v駕意不2宣展1」とあるによつたものか。○遂申2懷抱1――懷抱は心に、思ふこと。申は述ぶること。
 
853 あさりする 海人の子どもと 人は言へど 見るに知らえぬ うま人の子と
 
阿佐里須流《アサリスル》 阿末能古等母等《アマノコドモト》 比得波伊倍騰《ヒトハイヘト》 美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》 有麻必等能古等《ウマビトノコト》
 
漁ヲスル漁師ノ子ダトアナタハイフガ、ソノ樣子ヲ見テ、立派ナ人ノ子ダトイフコトガ知ラレタ。
 
○比得波伊倍騰《ヒトハイヘド》――前の句に、漁する海人の子どもととあるのは、序中の漁夫之舍兒草庵之微者とあるのに當るから、從つてこの人は言へどといふ句は、この女を指したものとしなければならぬ。○美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》――知らえぬは知られぬに同じ。○有麻必等能古等《ウマビトノコト》――貴人の子と知らえぬと上に反るのである。有麻必等《ウマビト》は宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》(九六)とあつて、身分のある貴人をいふ。
〔評〕 ここの序も歌も、神功皇后紀に、「是以其國女人毎v當2四月上旬1以v鈎投2河中1捕2年魚1於v今不v絶」とある文から思ひついて作つたもので、元來、旅人の空想から産み出した小説のやうなものである。先づ年魚釣る女にかう歌ひかけて、漁夫の女を神仙化したのである。
 
答待曰
 
待は詩の誤だらうと代匠記にある。考には歌の誤とある、ここの他の例に從へば、歌とあるべきところであらう。
 
854 玉島の この川上に 家はあれど 君をやさしみ 顯はさずありき
 
多麻之末能《タマシマノ》 許能可波加美爾《コノカハカミニ》 伊返波阿禮騰《イヘハアレド》 吉美乎夜佐之美《キミヲヤサシミ》 阿良波佐受阿利吉《アラハサズアリキ》
 
(72)コノ玉島川ノ川上ニ私ノ〔二字傍線〕家ハアサマスガ、アナタガ恥カシサニ言ハズニ居リマシタ。
 
○吉美乎夜佐之美《キミヲヤサシミ》――夜佐之《ヤサシ》は恥かしに同じ。世間乎宇之等夜佐之等於母倍杼母《ヨノナカヲウシトヤサシトオモヘドモ》(八九三)とある。
〔評〕 この川の上流に家があつて、やはり漁夫の子でありますと、前の歌に美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》とあるに答へたのである。なほ序中に無v郷無v家何足2稱云1とあるのに對して、實は家があるのですと、言つたのでもあらう。但しこれはもとより女の歌ではなく、旅人が自ら作つたのである。
 
蓬客等更贈歌三首
 
蓬客を舊本蓬容とあるのは誤。類聚古集、古葉略類聚鈔などによつて改むべきである。蓬客は代匠記に轉蓬旅客の意といつてある。蓬の實が轉じて止まる所がない意で旅客のことになるのであるが.この卷の八一二の歌の序に蓬身とあり、卷十七の三九六九の序にも蓬體とあるから、なほ考ふべきである。もしこれによれば單なる卑下の語である。又これを蓬莱に來た客の意と岡本(73)保孝の書入にあるのには從ひ難い。
 
855 松浦河 河の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾ぬれぬ
 
麻都良河波《マツラカハ》 可波能世比可利《カハノセヒカリ》 阿由都流等《アユツルト》 多多勢流伊毛河《タタセルイモガ》 毛能須蘇奴例奴《モノスソヌレヌ》
 
松浦川ノ川ノ淺瀬ガオマヘノ美シイ姿ノ爲ニ〔オマ〜傍線〕光ツテ、鮎ヲ釣ラウト岸ニ立ツテヰルオマヘノ裳ノ裾ガ濡レタ。
 
○可波能世比可利《カハノセヒカリ》――女の美しい姿が水に映じて光るほどに見えるのである。
〔評〕 川の瀬光りといふ句が一寸面白く感ぜられるだけで、別段優れた作ではない。卷十五の可是能牟多與世久流奈美爾伊射里須流安麻乎等女良我毛能須素奴禮奴《カゼノムタヨセクルナミニイザリスルアマヲトメラガモノスソヌレヌ》(三六六一)はこれに似た作である。
 
856 松浦なる 玉島河に 鮎釣ると 立たせる子らが 家路知らずも
 
麻都良奈流《マツラナル》 多麻之麻河波爾《タマシマガハニ》 阿由都流等《アユツルト》 多多世流古良何《タタセルコラガ》 伊弊遲斯良受毛《イヘヂシラズモ》
 
松浦ノ玉島川デ、鮎ヲ釣ルトテ岸ニ〔三字傍線〕立ツテヰル女タチノ、家ヘ行ク路ハ何處カ分ラナイヨ。家ガ知リタイモノダ〔九字傍線〕。
 
〔評〕 これは前の答歌(八五四)に對したもので、五句が詠歎的に詠まれてゐる。
 
857 遠つ人 松浦の河に 若點釣る 妹が袂を 我こそ纏かめ
 
等冨都比等《トホツヒト》 末都良能加波爾《マツラノカハニ》 和可由都流《ワカユツル》 伊毛我多毛等乎《イモガタモトヲ》 和禮許曾末加米《ワレコソマカメ》
 
(等富郡比等)松浦ノ川デ、若點ヲ釣ツテヰルオマヘノ袂ヲ、私コソ枕ニシテ寢ルデアラウ。私ハ是非サウスルツモリダ〔私ハ〜傍線〕。
 
(74)○等富都比等《トホツヒト》――枕詞。遠く旅などにある人のことで、家で待つから、松にかけてつづけたのである。○和可由都流《ワカユツル》――ワカアユを約めてワカユといふ。若鮎は春の鮎。
〔評〕 結句、我こそ枕して寢るであらうと、決定的に言つてゐる。希望の詞を用ゐるよりも、却つて強い意志のあらはれがある。
 
娘等更(ニ)報(ル)歌三首
 
娘等は類聚古集や古葉略類聚鈔に娘子となつてゐる。
 
858 若鮎釣る 松浦の河の 河浪の なみにし思はば 我戀ひめやも
 
和可由都流《ワカユツル》 麻都良能可波能《マツラノカハノ》 可波奈美能《カハナミノ》 奈美邇之母波婆《ナミニシモハバ》 和禮故飛米夜母《ワレコヒメヤモ》
 
(和可由都流麻郡良能可波能可波奈美能)普通ニ私ガアナタヲ〔六字傍線〕思フナラバ、コンナニアナタヲ〔八字傍線〕戀ヒマセウカ。心カラ思フカラコソアナタガ戀シイノデス〔心カ〜傍線〕。
 
○和可由都流麻郡良能可波能可波奈美能《ワカユツルマツラノカハノカハナミノ》――奈美《ナミ》と言はむ爲の序詞。目前の風物を用ゐたので、波を並にかけてつづけてゐる。○奈美邇之母波婆《ナミニシモハバ》――奈美《ナミ》は普通・通常の意。
〔評〕 序が器用に出來てゐる。古今集戀四に、「み吉野の大河の邊の藤波のなみにしもはばわが戀ひめやも」は、これから學んだ作であらう。
 
859 春されば 吾家の里の 河とには 鮎兒さ走る 君待ちがてに
 
波流佐禮婆《ハルサレバ》 和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》 加波度爾波《カハトニハ》 阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》 吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》
 
(75)春ニナリマスト、私ノ家ノアル里ノ川ノ渡リ瀬ニハ、アナタノオ出デヲ待チカネテ、鮎子ガ駈ケ廻ツテヰマス。私ガアナタノオ出デヲ待ツテヰルノハ勿論デス〔私ガ〜傍線〕。
 
○和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》――吾が家の里の。○加波度爾波《カハトニハ》――河戸には。河戸は河瀬の渡るべきところ。千鳥鳴佐保乃河門乃《チドリナクサホノカハトノ》(五二八・七一五)とある。○阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》――卷三に河湍爾波年魚小狹走《カハセニハアユコサバシリ》(四七五)とあつたのと同じで佐婆斯留《サバシル》の佐《サ》は發語。
〔評〕 女が自ら待つ心を、鮎が君を待ちかねてさ走るやうに言つたので、そこに面白味があるわである。卷三の長屋王の歌、吾背子我古家乃里之明日香庭乳鳥鳴成君待不得而《ワガセコガフルヘノサトノアスカニハチドリナクナリキミマチカネテ》(二六八)に少し似た作である。
 
860 松浦河 七瀬の淀は 淀むとも 我はよどまず 君をし待たむ
 
麻都良我波《マツラガハ》 奈奈勢能與騰波《ナナセノヨドハ》 與等武等毛《ヨドムトモ》 和禮波與騰麻受《ワレハヨドマズ》 吉美遠志麻多武《キミヲシマタム》
 
松浦川ノ数多ノ瀬ノ水ノ淀ミハ、淀ンデ流レナイニシテモ〔九字傍線〕、私ハタユマズニアナタノオ來デ〔四字傍線〕ヲ待チマセウ。
 
○奈奈勢能與騰波《ナナセノヨドハ》――七瀬の淀。七瀬は多くの瀬。瀬を越した水が淀をなして、幾段にも湛へてゐるから、かういふのである。卷七に、明日香川七瀬之不行爾住鳥毛《アスカガハナナセノヨドニスムトリモ》(一三六六)とある。○和禮波與騰麻受《ワレハヨドマズ》――淀むは一所に停滯する意。ここでは、たゆみ懈らず、幾時もかはらずなどの意。
〔評〕 眼前の松浦川の風景に寄せて、心を述べたのである。七瀬の淀は、右に掲げた卷七の歌の句を學んだものかと思はれるが、滑らかに流麗な調をなしてゐる。
 
後人追和之詩三首 都帥老
 
詩は西本願寺本に謌とあるのがよいであらう。都の字は類聚古集に無い。前の梅花歌の序に、萃于帥老之宅とあるから、都の字は無い方がよいのであらう。もしこの儘ならば都督の意であらう。(76)この後人とあるのは旅人であることを註したのである。この三首はいづれも松浦を見ない趣なので、帥老とあるのを疑ふ説も多いが、これは後人に擬して作つたのであるから、歌の内容で判斷することは出來ぬ。同じく旅人の作たる、領巾麾嶺の歌の追和の歌と對比して見ると、いよいよ旅人の作たることが確かなやうに思はれる。なほ、目録にはここに帥大伴卿追和歌とある。
 
861 松浦河 河の瀬早み 紅の 裳の裾ぬれて 鮎か釣るらむ
 
麻都良河波《マツラガハ》 河波能世波夜美《カハノセハヤミ》 久禮奈爲能《クレナヰノ》 母能須蘇奴例弖《モノスソヌレテ》 阿由可都流良武《アユカツルラム》
 
松浦川ハ川ノ瀬ノ流レガ早イノデソコノ女ドモガ〔七字傍線〕紅イ裳ノ裾ヲ濡ラシテ、今頃ハ〔三字傍線〕鮎ヲ釣ルデアラウカ。
 
○阿由可都流良武《アユカツルラム》――舊本、都の字がないのは脱ちたのである。類聚古集によつて補ふ。
〔評〕 少女の象徴ともいふべき、紅の裳裾を取り入れただけで、別にかはつた點もない作である。
 
862 人皆の 見らむ松浦の 玉島を 見ずてや我は 懸ひつつ居らむ
 
比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムマツラノ》 多麻志末乎《タマシマヲ》 美受弖夜和禮波《ミズテヤワレハ》 故飛都都遠良武《コヒツツヲラム》
 
皆ノ人ガ見ルデアラウ所ノ、松浦ノ玉島ノ佳イ景色ヲ行ツテ〔九字傍線〕見ナイデ私ハ家ニ居テ〔四字傍線〕戀シガツテ居ルコトダラウカ。行ツテ見タイナ〔七字傍線〕。
〔評〕 名高い玉島川の景色を見る機會を得ないことを悲しんだもので、平凡な作である。攷證に「君をこひつつなり」とあるのは誤解であらう、
 
863 松浦河 玉島の浦に 若鮎釣る 妹らを見らむ 人のともしさ
 
麻都良河波《マツラガハ》 多麻斯麻能有良爾《タマシマノウラニ》 和可由都流《ワカユツル》 伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》 比(77)等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》
 
松浦川ノ玉島ノ浦デ、若鮎ヲ釣ル女タチヲ見ルダラウ所ノ人ガ羨シイナア。私モ行ツテ見タイ〔八字傍線〕。
 
○多麻斯麻能有良爾《タマシマノウラニ》――玉島川を玉島の浦といつたのが珍らしい。川に浦といふ例はないやうである。或は序中に洛川を洛浦と言つたのにならつたものか。○比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》――トモシは羨しの意。五三・五五參照。
〔評〕 以上の三首はいづれも平板で格別面白くはない。また後人を後れたる人、即ち留守居の人と見る古義説もあるが、それは賛成し難い。次の後人(八七二)・最後人(八七三)・最最後人(八七四)を合せて考ふべきである。
     ――――――――――
宜《ヨロシ》啓(ス)、伏(テ)奉《ウケタマハル》2四月六日(ノ)賜書(ヲ)1、跪(テ)開(キ)2對凾(ヲ)1、拜2讀(スルニ)芳藻(ヲ)1、心神開朗似v懷《ウタキシニ》2泰初之月(ヲ)1、鄙懷|除※[衣+去]《ノゾキノゾキ》若(シ)v披(キシガ)2樂廣之天(ヲ)1、至若《シカノミナラズ》※[覊の馬が奇]2旅(シ)邊城(ニ)1、懷(テ)2古舊(ヲ)1而傷(シム)v志(ヲ)、年矢不v停(ラ)、憶(ヒテ)2平生(ヲ)1而落v涙(ヲ)、但達人安(シ)v排(ニ)、君子無v悶(ユル)、伏(テ)冀(クハ)、朝(ニ)宣(ベ)2懷※[擢の旁]之化(ヲ)1、暮(ニ)存(シ)2放《ハナツ》v龜(ヲ)之術(ヲ)1、架《ワタシ》2張趙(ヲ)於百代(ニ)1、追(ハム)2松喬(ヲ)於千齡(ニ)1耳、兼(テ)奉(ハル)2垂示(ヲ)1、梅花(ノ)芳席、群英|※[手偏+離の旁]《ノベ》v藻(ヲ)、松浦(ノ)玉潭、仙暖(ノ)贈答、類(ヘ)2杏檀各言之作(ニ)1、疑《ナゾラフ》2衡皐税駕之篇(ニ)1、耽讀吟諷(シ)、戚謝歡怡(ス)、宜《ヨロシ》戀v主(ヲ)之誠(ハ)、誠逾(エ)2犬馬(ニ)1、仰(ク)v徳(ヲ)之心(ハ)、心同(シ)2葵※[草がんむり/霍](ニ)1、而碧海分(チ)v地(ヲ)、白雲隔(テ)v天(ヲ)、徒(ニ)積(ム)2傾延(ヲ)1、何(ゾ)慰(メム)2勞緒(ヲ)1、孟秋膺(ル)v節(ニ)伏(テ)願(クハ)萬祐日新(ムコトヲ)、今因(テ)2相撲部領《スマヒコトリ》使(ニ)1、謹付(ク)2片紙(ヲ)1、宜謹(ミ)啓(ス)不次。
 
○宜――宜は吉田連宜。自分の名を先づいふのである。續日本紀によれぼ、文武天皇四年八月乙丑に僧惠俊に勅して還俗せしめ、姓を吉、名を宜と賜はつた。「爲V用2其藝1也」とあるから、學者としてその才能を認められた結果らしい。その後神龜元年五月辛未に從五位上吉宜に吉田連の姓を賜はつた。天平二年三月辛亥(78)の條には「太政官奏※[人偏+爾]、陰陽醫術及七曜頒暦等類、國家要道、不v得廢闕1、但見2諸博士1年齒衰老、若不2教授1、恐2致絶業1、望仰吉田連宜等七人、各取2弟子1將v令v習v業。其時服食料亦准2大學生1、」とある。ここに掲げた旅人への一書は丁度この年の七月に認めたもので、極めて難解な字句と多くの故事を列ねてゐるのも、彼の學と地位とを以てすればなるほどとうなづかれる。その後五年十二月庚申に圖書頭となり、九年九月己亥に正五位下を授け、十年閏七月癸卯に典藥頭となつてゐる。懷風藻に正五位下尚書頭吉田連宜二首、年七十とある。○封凾――舊本對凾とあるは誤。神田本によつて改む。○芳藻――芳ばしき文章。○心神開朗――心が開けて朗らかになつて。○似v懷2泰和之月1――世説に時人目2夏侯太初1朗朗如2日月之入1v懷とあるによつたもので、心のほがらかなことは太初が月を懷くのに似てゐるといふのである。泰は太と同字。○鄙懷除※[衣+去]――舊本※[衣+去]を私に誤る。細井本によつて改めた。鄙しき思ひを除き去つての意。※[衣+去]は禳ふ、逐ふ、散らすなどの意である。○若v披2樂尋之天1――晋書に衛※[王+灌の旁]が樂尋といふ人を見て、之を奇として「岩d披2雲霧1而覩c青天u」と云つたとあるのによつたもので、鄙しい思ひを除き去づて、雲霧を披いて青天を望むやうだと言つたのである。樂廣は上述の故事によつて添へたものである。○覊2旅邊城1――太宰府に旅して。○懷2古舊1而傷v志――旅人が都にゐた時のことを思つて心を傷ましめる。○年矢不v停――年矢は年の過ぎ往くことの疾いのを矢に譬へたもの。○憶2平生1而落v涙――貴方が都においでになつた時の平生のことを思ひ出して涙を流しますの意。○達人安v排――達人は知能通達の人。安排は莊子大宗師篇に、「安v排而去v化」、とあり、註に排者は推移之謂也。安2於推移1而與v化倶去云々」とある。この句は物に通達してゐる人は物と共に推移して安んじてゐるの意。○君子無悶――君子は煩悶しない。○朝宜2懷v※[擢の旁]之化1――※[擢の旁]は山雉。朝に雉を懷くるの化を宣べとは、後漢の魯恭が、肅宗の時、中牟の令となり徳化を施した。他の郡國に螟が生じたが、中牟には入らない。河南の尹、袁安がこれを聞いて疑つて仁恕椽肥親をしてこれを視察せしめた。魯恭はその人に隨つて歩いて桑下に坐してゐると、雉が其處を通つて止まつた。傍に童兒がゐたので、肥親は「何故それを捕へないか」と童兒に訊ねると、雉が丁度雛をつれてゐるからと答へたので肥親は魯恭の徳化が鳥獣にも及んでゐるのに驚いたといふ故事(蒙求による)(79)によつたもので、どうぞ魯恭のやうに、雉をなづける徳化を宣べよといふ意。○暮存2放v龜之術1――前の對句で暮に龜を故つの術を存したとは、晋の孔愉といふ人が、餘不亭といふところを通つた時、路で龜を籠に入れてゐるものを見て、それを買つて溪中に放した。龜は中流で四回も左を顧みて去つたが、後餘不亭侯になつて侯の印を鑄た時、印鈕の龜が左顧してゐるので三度鑄直したが同樣であつたので、龜のお蔭で侯になれたのだと知つたといふ故事(蒙求による)によつたもので、孔愉のやうな仁術を存せまといふのである。○架2張趙於百代1――張趙を百代に架すとは、張は張安世、趙は趙充で、二人は前漢の名臣であつた。この人らに百代の後に於て負けないといふ意であらう。架は凌ぐこと。○追2松喬於千齡1耳――松喬を千齡に追はむのみといふのは.松は赤松子、神農の時の雨帥、喬は王子喬、周の靈王の太子晋。共に列仙傳中に掲げられた仙人で、この二人のあとを、千歳の後までも慕はうといふのであらう。千齡は舊本、十齡とあるのは誤。神田本による。○兼奉2垂示1――兼ねて垂示をうけたまはるとは、旅人から手紙を貰つたこと。○梅花芳席群英※[手偏+離の旁]v藻――梅花の芳席に群英藻を舒べとは、太宰府の梅花の宴で、三十二首の歌が作られたこと。※[手偏+離の旁]は舒と同じ。○類2杏壇各言之作1――杏壇各言の作にたぐへとは、莊子漁父篇に「孔子游2乎緇帷之林1休2坐乎杏壇之上1弟子讀v書孔子絃歌鼓v琴奏v曲未v半有2漁父者1下船而來云々」とあるによつて杏壇の二字を用ゐ、論語に「顔淵季路侍、子曰盍3各言2爾志1」とあるによつて各言といつたものか。意は梅花宴の歌を、孔子の弟子らの作にたぐへるといふのである、杏壇は舊本、杏壇に作つてゐるが、西本願寺本によつて改めた。○疑2衡皐税駕之篇1――疑は擬の誤で、なぞらふであらうといふ説に從つた。文選の洛神賦に、「税2駕乎※[草がんむり/衡]皐1秣2駟乎芝田1」とあつて、税は車につけた馬を解き放つこと。※[草がんむり/衡]皐は香草之澤也とあつて、洛川の神女にあつたこと。この句は松浦川の女に逢つた歌を洛神賦になぞらへるといふのである。衡は※[草がんむり/衡]に通じて用ゐてゐる。○耽讀吟諷感謝歡恰――御歌を耽り讀んで感じ有りがたく思つて歡び樂しんだの意。舊本、戚謝とあるのは感謝の誤であらう。○宜戀v主之誠、誠逾2犬馬1――私が貴方を戀ひしく思ふ誠は犬馬に越えてゐる。○仰v徳之心、心同2葵※[草がんむり/霍]――貴方の徳を仰ぎ慕ふ心は葵※[草がんむり/霍]のやうですの意。葵※[草がんむり/霍]は草の名で、曹植「若2葵※[草がんむり/霍]之傾1v葉、太陽雖v不2爲v之廻1v光、終向v之者誠也」とあるのをとつた。○(80)碧海分v地白雲隔v天――ここから太宰府まで海が地を分ち、白雲が天を隔ててゐる。○徒積2傾延1――傾延は傾首延領の意で、徒に首を傾け頸を延ばしてお待ちしてゐるが、お目にかかれないといふのであらう。○何慰2勞緒1――どうして貴方の御心勞を慰めようか。○孟秋膺v節――初秋の時節に當るの意。○伏願2萬祐日新1――貴方の幸福が日に新ならむことを祈る。○相撲部領使――スマヒコトリヅカヒと訓む。コトリヅカヒ事失使《コトトリヅカヒ》の意で、相撲部領使は相撲人を催し集める爲に、地方に派遣せられる官人。多く隼人を宮中に召して相撲を御覽になつたやうであるから、これも九州へ派遣せられたので、それに托して都から太宰府へ贈つたのである。○不次――順序がととのつてゐないといふ意で、書牘文の終に書く語。
 
奉v和2諸人梅花歌1一首
 
梅花歌三十二首に和したものである。目録に吉田連宜和梅花歌一首
 
864 後れゐて 長戀せずは み園生の 梅の花にも ならましものを
 
於久禮爲天《オクレヰテ》 那我古飛世殊波《ナガコヒセズハ》 彌曾能不乃《ミソノフノ》 于梅能波奈爾母《ウメノハナニモ》 奈良麻之母能乎《ナラマシモノヲ》
 
後ニ殘ツテヰテアナタヲ〔四字傍線〕長ク戀シテヰナイデ、寧ロ貴方ノ〔五字傍線〕御園ノ梅ノ花ニデモナラウモノヲ。サウシタラオ目ニカカレテ物思モアルマイ。私モ梅花ノ宴ニ列席シタウゴザイマシタ〔サウ〜傍線〕。
 
○於久禮爲天《オクレヰテ》――自分獨り後に殘つてゐて。その席に列せずして。○那我古飛世殊波《ナガコヒセズハ》――長戀せずば。長戀は珍らしい詞であるが、卷十二に長戀爲乍寢不勝可母《ナガコヒシツツイネガテヌカモ》(三一九三)とあるから用例がないのではない。汝が戀と見ては一首が解し難い。考に那は婀の誤としたのも獨斷に過ぎよう。世殊波《セズハ》は爲ないで寧ろ、などの意。殊をスの假名に用ゐた集中唯一の例である。
〔評〕卷十一の中々二君二不戀者枚浦乃白水郎有申尾玉藻刈管《ナカナカニキミニコヒズハヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツツ》(二七四三)、その他これに類した歌は尠くない。ただ(81)型にはめて作つたといふまでであらう。
 
和2松浦仙媛歌1一首
 
目録に、吉田連宜和松浦仙媛歌一首とある。
 
865 君を待つ 松浦の浦の をとめらは 常世の國の あま少女かも
 
伎彌乎麻都《キミヲマツ》 麻都良乃于良能《マツラノウラノ》 越等賣良波《ヲトメラハ》 等己與能久爾能《トコヨノクニノ》 阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》
 
貴方ノオ出デヲ待ツテヰル松浦ノ浦ノ少女ドモハ、唯ノ人間デハアリマスマイ〔唯ノ〜傍線〕。蓬莱ノ海人ノ少女デモアリマセウカナア。
 
○等己與能久爾能《トコヨノクニノ》――常世の國はここでは蓬莱のこと。卷四、吾妹兄者常世國爾住家良思《ワキモコハトコヨノクニニスミケラシ》(六五〇)の語釋参照。○阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》――阿麻越等賣《アマヲトメ》は海人少女と見る説と、天少女と見る説と二つに分れてゐる。用例から見ると、五・三六六・九三〇・一一五二・一二一六などすべて海人少女であるから、これもさうすべきであらう。天女の思想も廣く行はれてゐたが、常世は蓬莱で、海の彼方にある神仙の境と考へられ、天上とは思はれてゐなかつたやうであるから、海人少女の方がよいやうに思ふ。卷六に海原之遠渡乎遊士之遊乎將見登莫津左比曾來之《ウナバラノトホキワタリヲミヤビヲノアソブヲミムトナヅサヒゾコシ》(一〇一六)とある歌の左註に、右一首書2白紙1懸2著屋壁1也、題云蓬莱仙媛所嚢云々とあるのも傍證とすべきであらう。忘をモの仮名に用ゐたのは集中これと次の歌とのみである。
〔評〕 前の旅人の歌、和禮波與騰麻受吉美遠志麻多武《ワレハヨドマズキミヲシマタム》(八六〇)に和したものであらう。伎彌乎麻都《キミヲマツ》のマツを繰返して麻都良《マツラ》と受けて、調子を整へたのは作者の工夫である。この歌、八雲御抄に見える。
 
(82)思(フコト)v君(ヲ)未(ダ)v盡(キ)重(ベテ)題(スル)二首
 
君を思ふの情が未だ盡きないので、重ねて作つた二首の歌といふ意である。目録には、この上に吉田連宜の四字を冠してゐる。
 
866 はろばろに 思ほゆるかも 白雲の 千重に隔てる 筑紫の國は
 
波漏波漏爾《ハロバロニ》 於忘方由流可母《オモハユルカモ》 志良久毛能《シラクモノ》 智弊仁邊多天留《チヘニヘダテル》 都久紫能君仁波《ツクシノクニハ》
 
白雲ガ千重ニモ距テテヰル筑紫ノ國ハ遙カニ遠イ所ノヤウニ思ハレマスワイ。アナタノ所ヘ行キタイガ、遠クテ仕樣ガアリマセヌ〔アナ〜傍線〕。
 
○波漏婆渥爾《ハロバロニ》――遙々《ハルバル》にに同じ。○於忘方由流可母《オモハユルカモ》――舊訓オモホユルカモとあるが、方の字は末邊方《スヱベハ》(三二二二)宮舍人方《ミヤノトネリハ》(三三二四)の如くハとよんだ例はあるが、ホの用例はない。この字は呉音、漢音共にハウであるから、ハの假名に用ゐられるのが當然である。
〔評〕 友情はあらはれてゐるが、微温的である。旅人が京師に歸つてから滿沙彌に贈つた此間在而筑紫也何處白雲乃棚引山之方西有良思《ココニアリテツクシヤイヅクシラクモノタナビクヤマノカタニシアルラシ》(五七四)は内容が頗るこれに似てゐるが、歌品は遙かに優れてゐる。
 
867 君が行 けながくなりぬ 奈良路なる しまの木立も 神さびにけり
 
枳美可由伎《キミカユキ》 氣那我久奈理努《ケナガクナリヌ》 奈良遲那留《ナラヂナル》 志滿乃己太知母《シマノコタチモ》 可牟佐飛仁家理《カムサビニケリ》
 
貴方ガ筑紫ヘ〔三字傍線〕オイデニナツテカラ、モウ大ブ日數ガタチマシタ。ソレデ〔三字傍線〕奈良ニアル御宅ノ〔三字傍線〕御庭ノ木立モ古クナリマシタワイ。
 
(83)○枳美可由伎《キミカユキ》――貴方の旅行。ユキは名詞である。○氣那我久奈理努《ケナガクナリヌ》――日長くなりぬ。ケは日の轉。○奈良遲那留《ナラヂナル》――奈良へ通ふ路にあるの意であらうが、彼が太宰府への出發の期が近づいて在京師荒有爾一人宿者《ミヤコナルアレタルイヘニヒトリネバ》(四四〇)とよんだので見ると、奈良路の路は輕く見るべきで、旅人の邸宅は奈良又はその附近にあつたのであらう。旅人の父の安麿は佐保に住んで佐保大納言と稱し、旅人の子の家持も佐保にゐたらしいから、旅人の家も亦そこにあつたものと思はれるのである。○志滿乃己太知母《シマノコダチモ》――シマは吾山齋者《ワガシマハ》(四五二)とあるによれば.山齋即ち庭園のことである。大和の地名とするのは誤つてゐる。
〔評〕 一、二の句は卷二の八五・九〇と同樣で、古い歌の用語を學んだのであらうが、下句はあはれに出來てゐる。旅人が太宰府から故郷の家に還つて口吟んだ與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨《イモトシテフタリツクリシワガシマハコダカクシゲクナリニケルカモ》(四五二)は.この吉田連宜の歌と同想であるが、恐らく太宰府で受取つたこの歌が脳裏にあつて、かうした作をなさしめたのであらう。
 
天平二年七月十日
 
これは右の書牘の日附で、ここまでが吉田連宜から大伴旅人へ贈つた書簡である。
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ここに目録に山上臣憶良松浦歌三首とあるのは、目録の作者が意を以て猥りに作つたもの。
 
憶良誠惶頓首謹啓(ス)、
 
憶良聞(ク)、方岳諸侯、都督(ノ)刺史、並依(テ)2典法(ニ)1、巡2行(シ)部下(ヲ)1、察(ル)2其風俗(ヲ)1、意内多(ク)v端、口外難(シ)v出(シ)、謹(テ)以(テ)2三首之鄙歌(ヲ)1、欲(ス)v寫(サムト)2五藏之欝結(ヲ)1、其(ノ)歌(ニ)曰(ク)
 
○方岳諸侯――尚書周官に、「六年王乃時巡考2制度于四岳1諸侯各朝2于方岳1大明2黜陟1」とあるのをとつたので、方岳に朝する諸侯の意。方岳とは四方の岳。東岳は岱宗、南岳は衡山、西岳は華山、北岳は恒山(84)で、天子が巡狩して至れば、その方面の諸侯が右の方岳の下に、それぞれ集るのである。故に方岳の諸侯といふ。これは國守どもをさしたのである。○都督刺史――都督は太宰府にあてたので、刺史はその下吏。都督の刺史は太宰府の下役人どもをいふ。この二句從來の諸説多くは誤つてゐる。○意内多端――私の心の内に思ふととが多くての意。○五藏之欝結――藏は臓に同じ。五臓は肝・心・脾・肺・腎。
 
868 松浦縣 佐用姫の子が 領巾ふりし 山の名のみや 聞きつつをらむ
 
麻都良我多《マツラガタ》 佐欲比賣能故何《サヨヒメノコガ》 比列布利斯《ヒレフリシ》 夜麻能名乃美夜《ヤマノナノミヤ》 伎伎都都遠良武《キキツツヲラム》
 
松浦縣ノ佐用姫トイフ女ガ夫ノ大伴佐提比古ガ三韓ヘ行クノヲ見送ツテ〔夫ノ〜傍線〕、領巾ヲ振ツタトイフ領巾振山トイフ〔七字傍線〕山ノ名バカリヲ聞イテ、其處ヘ行カズニ〔七字傍線〕居ルコトカナア。行ツテ見タイモノデス〔十字傍線〕。
 
○麻都良我多《マツラガタ》――松浦縣であつて、松浦潟ではない。前の遊2於松浦河1歌序にも松浦之縣とあつた。○佐欲比賣能故何《サヨヒメノコガ》――佐用姫の子。佐用姫は次の序に委しい。子は親しんでいふのみ。○比列布利斯夜麻能名《ヒレフリシヤマノナ》――領巾(85)振山のこと、肥前風土記に、松浦縣之東三十里、有2※[巾+皮]搖峯1※[巾+皮]搖此云2比禮府離1とある。なほ次の序を見よ。
〔評〕 自分が旅人と共に松浦縣へ行かれなかつたことを悲しんだ歌である。山の名のみや聞きつつ居らむと言つたのが、恨しげに聞える。この歌、袖中抄に見えてゐる。
 
869 たらし姫 神の命の 魚釣らすと み立たしせりし 石を誰見き 一云、あゆつると
 
多良志比賣《タラシヒメ》 可尾能美許等能《カミノミコトノ》 奈都良須等《ナツラスト》 美多多志世利斯《ミタタシセリシ》 伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》
 
息長足媛命トイフ神樣ガ魚ヲオ釣リ遊バストテ、オ立チナサツタ玉島川ノ岸ノ〔六字傍線〕石ヲ誰ガ見マシタカ。私モ行ツテ見タイモノデス〔私モ〜傍線〕。
 
○多良志比賣《タラシヒメ》――息長足姫即ち神功皇后。○奈都良須等《ナツラスト》――魚を釣り給ふとて。ナは魚。○美多多志世利斯《ミタタシセリシ》――御立タシにセリを添へ、シを加へた形である。お立ちなさいましたの意。
〔評〕神功皇后が河中の石の上に登り、鈎を投じて祈り給うたといふことが、神功皇后紀に書いてあるのによつて、その石を見た人を羨んだのである。その石は七尺ばかりの紫色の兜櫃のやうな形のもので、後世まであつたのであるが、元和六年五月の大雨に砂に埋められてしまつたと傳へられてゐる。
 
一云、阿由都流等《アユツルト》
 
これは三の句|奈都良須等《ナツラスト》の異傳である。
 
870 百日しも 行かぬ松浦路 今日行きて 明曰は來なむを 何かさやれる
 
毛毛可斯母《モモカシモ》 由加奴麻都良遲《ユカヌマツラヂ》 家布由伎弖《ケフユキテ》 阿須波吉奈武遠《アスハキナムヲ》 奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》
 
(86)松浦ヘ行クノハ百日モカカルトイフ道デハナイ、今日行ツテ明日ハ歸ツテ來ラレヨウノニ、何ノ故障ガアツテ行カレナイノカシラ。近イ所ダノニ、ドウモ行ク機會ガナイ〔近イ〜傍線〕。
 
○奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》――奈爾可《ナニカ》は何事か。佐夜禮留《サヤレル》は障れる。サヤルはサハルに同じ。
〔評〕 神功皇后釣魚の聖地を訪ねようと心には思ひつつも、常にかなはぬことを歎じたのである。結句は何か障れると自から不思議とするやうに言つて、歌に婉曲味を持たせてゐる。
 
天平二年七、月十一日、筑前國司山上憶良謹上
 
これは右の歌を旅人に献じた日附である。
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目録に詠領巾麾嶺歌一首とあるが、かういふ題があつたのが脱ちたのではない。又この歌は大伴旅人の作たることはその内容から言つても爭ふべからざるものがある。憶良は右の歌にあるやうに、松浦へは行つたことがない。
 
大伴|佐提比古郎子《サテヒコイラツコ》、特(ニ)被(リテ)2朝命(ヲ)1、奉(ル)2使(ヲ)藩國《ミヤツコノクニニ》1艤棹(シテ)言《ココニ》歸《ユキ》、稍(ク)赴(ク)2蒼波(ニ)1、妾也松浦【佐用嬪面《サヨヒメ》】嗟(キ)2此(ノ)別(ノ)易(キヲ)1、歎(ク)2彼(ノ)會(ノ)難(ヲ)1、即(チ)登(リテ)2高山之嶺(ニ)1、遥(ニ)望(ミ)2離去之船(ヲ)1、悵然(トシテ)斷(チ)v肝(ヲ)、黯然(トシテ)銷(ツ)v魂(ヲ)、遂(ニ)脱(ギテ)2領巾《ヒレヲ》1麾《フル》v之(ヲ)、傍者莫(カリキ)v不(ルハ)2流涕(セ)1、因(リテ)號(ケテ)2此(ノ)山(ヲ)1曰(フ)2領巾麾之嶺(ト)1也、乃(チ)作(リテ)v歌(ヲ)曰(フ)
 
○大伴佐提比古――大伴金村の子。第一册卷末の大伴氏系圖參照。狹手彦のことは、日本書紀の宣化紀に、「二年十月壬辰朔、天皇以3新羅寇2於任那1詔2大伴金村大連1、遣3其子磐與2狹手彦1以助2任那1、是時磐留2筑紫1執2其國政1以備2三韓1、狹手彦往鎭2任那1加2救百濟1。」とあり、欽明紀に、「二十三年八月天皇遣2大將軍(87)大伴連狹手彦1、領2兵數萬1伐2于高麗1、狹手彦乃用2百濟計1打2破高麗1其王踰v墻而逃、狹手彦、遂乘v勝以入v宮、盡得2珍寶※[貝+化]賂七織帳于鐵屋1還來云々」とある。この譚は肥前風土記に檜前天皇とあるによれば、宜化天皇の御代である。○艤棹言歸――艤は舟よそひすること。艤棹は出帆の準備をなすこと。言はココニと訓ず。歸は行く。○松浦佐用殯面――舊本佐用殯面の四字を小字にしてゐるが、これは大字として松浦に續けるのがよいやうに思はれる。松浦に住んでゐた美女で、肥前風土記によれば乙等比賣といふ名になつてゐる。今、その文を引いて置かう。松浦縣之東三十里、有※[巾+皮]搖岑、※[巾+皮]搖此曰2比禮布里1俗傳云、昔者檜前天皇之世、遣2大伴紗手彦1鎭2任那國1、于時奉v命經2過此處1、篠原村有2娘子1名曰2乙等比賣1、容貌端正、孤爲2國色1、便娉成v婚、離別之日、乙等比賣登2此岑1、擧v※[巾+皮]招、因以爲v名、」○黯然――別離の悲しみに傷む貌。舊本、黙然とあるのは誤、古葉略類聚鈔によつて改めた。○領巾麾之嶺――今日も領巾振山の名を以て呼ばれてゐる。有名な虹の松原の南に聳えた姿のよい山で、三松莊一氏は九州萬葉手記に「虹の松原驛に下車し、畷道を二三町行くと、すぐ山下の(88)村から登山路が廣く拓かれてゐます。勾配が急なので思つたよりも苦しく感ぜられますが、六七町で頂上に達します。頂は東西四百間、南北二百間もある廣平の草山で、貂の皮で包んだやうに奇麗です。山の西北端老松の蟠屈するところから、双眸に展開される唐津灣一帶の景色は筆紙につくされぬ程の美觀です」と記して居られる。
 
871 遠つ人 松浦佐用比賣 つま戀に 領巾振りしより 負へる山の名
 
得保都必等《トホツヒト》 麻通良佐用比米《マツラサヨヒメ》 都麻胡非爾《ツマコヒニ》 比例布利之用利《ヒレフリシヨリ》 於返流夜麻能奈《オヘルヤマノナ》
 
(得保都必等)松浦ノ佐用比倍ガ、三韓ヘ行ク〔五字傍線〕夫ノ狭手彦〔四字傍線〕ヲ戀ヒ慕ツテ、山ニ登ツテ〔五字傍線〕領巾ヲ振ツタカラシテ、ツイタ山ノ名デアルゾヨ。領巾振山トイフ山ノ名ハ〔領巾〜傍線〕。
 
○得保都必等《トホツヒト》――遠つ人。枕詞。遠くの人を待つとつづく。八五七参照。
〔評〕 佐用比倍の領巾振山の傳説は書紀にも、風土記にも.亦この萬薬集にも記されてゐるのを見ると、よほど有名な譚であつたと見える。そしてこの故事をよんだものとして、この歌が袖中抄・和歌童蒙抄などにも記されてゐるのは、これが最古のもので、且よく纏つた平明な作であるからであらう。
 
後人追加
 
後人に擬したので旅人の作である。
 
872 山の名と 言ひ繼げとかも 佐用比賣が この山のへに 領巾を振りけむ
 
夜麻能奈等《ヤマノナト》 伊賓都夏等可母《イヒツゲトカモ》 佐用比賣何《サヨヒメガ》 許能野麻能閉仁《コノヤマノヘニ》 必例遠布利家無《ヒレヲフリケム》
 
(89)山ノ名トシテ後ニ言ヒ傳ヘヨトイフツモリデ、松浦佐用比賣ハコノ山ノ上デ領巾ヲ振ツタノデアラウカ。
〔評〕 山の名からして、佐用比賣の胸中を推測したのであるが、少しく考へ方に無理があるて、前の歌の平明なのには及ばない。
 
最後人追加
 
これも旅人の作である。
 
873 萬代に 語り繼げとし この嶽に 領巾振りけらし 松浦佐用比賣
 
余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 可多利津夏等之《カタリツゲトシ》 許能多氣仁《コノタケニ》 比例布利家良之《ヒレフリケラシ》 麻通羅佐用殯面《マツラサヨヒメ》
 
萬年ノ後マデモ語リ傳ヘヨトイフツモリデ、コノ山デ松浦佐用姫ハ領巾ヲ振ツタノデアラウ。
 
〔評〕 名を重んじて、何事も語り傳へた上代人の心理が、その儘に歌はれてゐる。
 
最最《イトイト》後人追加二首
 
これも旅人の作である。舊本、後の下に人の字が無いのは脱ちたのであらう。考によつて補ふ。
 
874 海原の 沖行く舟を 歸れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用比賣
 
宇奈波良能《ウナハラノ》 意吉由久布禰遠《オキユクフネヲ》 可弊禮等加《カヘレトカ》 比禮布良斯家武《ヒレフラシケム》 麻都良佐欲比賣《マツラサヨヒメ》
 
海ノ沖ノ方ヲ行ク夫ノ狭手彦ノ〔六字傍線〕船ヲ歸レトイフツモリデ、松浦佐用姫ハ袖ヲ振ツタデアラウカ。
 
(90)○可幣禮等加《カヘレトカ》――歸れとてかの意。歸れと呼んだのではない。
〔評〕 これは同じく佐用比賣の胸中を推測したのであるが、前の八七二よりも遙かにあはれである。袖中抄・和歌色葉集・八雲御抄などにも掲げられてゐる。
 
875 行く舟を 振りとどみかね 如何ばかり こほしくありけむ 松浦佐用比賣
 
由久布禰遠《ユクフネヲ》 布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》 伊加婆加利《イカバカリ》 故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》 麻都良佐欲比賣《マツラサヨヒメ》
 
三韓ヘ出テ〔五字傍線〕行ク夫ノ狹手彦〔五字傍線〕ノ船ヲ、領巾ヲ振ツテモ〔七字傍線〕留メルコトガ出來ナイノデ、松浦佐用比賣ハドンナニ戀シカツタデアラウカ。サゾ戀シカツタダラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
○故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》――コホシクはコヒシクに同じ。前に己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》(八三四)とあつた。
〔評〕 これは前の歌に次いで 佐用姫の心を察し同情したものである。つまりこの二首は連作になつてゐる。なほ佐用比賣が領巾を振つてゐて、遂に石に化したといふ俗説が後に生じ、馬琴の作に松浦佐用姫石魂録といふものがあるが、この集の歌にはその趣は全く見えてゐない。
 
書殿《フミトノニテ》餞酒(ノ)日(ノ)倭歌四首
 
これは大伴旅人が大納言となつて、上京の時の餞別の宴に山上憶良がよんだ歌である。書殿はフミトノで、都督府内に圖書に關することを司るところがあつたのであらう。これを憶良のゐた筑前國司館内にあつたものとする説と、憶良の私宅にあつたとする説とあるが、恐らく太宰府の都督府内で行はれた宴であらう。略解に「書院といふが如し」とあるが、後世の書院のやうなものはこの頃の建物には無かつた。なほ攷證には、書殿は人の尊稱で、旅人をさしたのだとあるのは珍らしい説であるが、ここには當らぬやうである。倭歌とある二字は集中唯一の例である。集中和歌とあ(91)るのは答ふる歌であるが、ここは倭の字を用ゐてあるから明らかに日本の意である。前に日本挽歌とあつたやうな意で、かうした用法も既に行はれてゐたものか。但し西本願寺本に和謌となつて居り、略解札記には和の誤といつてゐる。なほ研究を要する問題であらう。
 
876 天飛ぶや 鳥にもがもや 都まで 送り申して 飛び歸るもの
 
阿摩等夫夜《アマトブヤ》 等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》 美夜故摩提《ミヤコマデ》 意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》 等比可弊流母能《トビカヘルモノ》
 
私ガ〔二字傍線〕空ヲ飛ブ鳥デアレバヨイナア。サウシタラ〔五字傍線〕貴方ヲ都マデ御送リ申シテオイテ、飛ンデ歸ツテ參リマセウノニ。
 
○阿摩等夫夜《アマトブヤ》――天飛ぶや。ヤは感歎の助詞。輕く添へたもの。○等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》――鳥にもがもや。このヤは感歎の助詞。
〔評〕 前にあつた旅人が多都能馬母伊麻勿愛弖之可《タツノマモイマモエテシガ》(八〇六)と詠んだ歌の、龍の馬を鳥に換へただけのものである。都へ旅立つ大伴旅人に贈る爲に、その好きさうな歌を作つたのであらう。いつもの憶良と違つて、空想的作品なのはその爲である。卷四の長歌に高飛鳥爾毛欲成明日去而於妹言問《タカトブトリニモガモアスユキテイモニコトトヒ》(五三四)とあるが.句が類似してゐるだけで、その影響はあるまい。
 
877 人もねの うらぶれ居るに 立田山 み馬近づかば 忘らしなむか
 
比等母禰能《ヒトモネノ》 字良夫禮遠留爾《ウラブレヲルニ》 多都多夜麻《タツタヤマ》 美麻知可豆加婆《ミマチカヅカバ》 和周良志奈牟迦《ワスラシナムカ》
 
皆ノ人タチガ貴方トオ別レシテ〔八字傍線〕悲シンデ居ルノニ,貴方ハ郡近クノ〔七字傍線〕立田山ヘ乘ツテヰラツシヤル御馬ガ近ヅイタナラバ、都ノ近クナツタノガ嬉シクテ、此方ノコトハ〔都ノ〜傍線〕オ忘レナサルデセウカナア。
 
(92)○比等母禰能《ヒトモネノ》――宣長は比等彌那能《ヒトミナノ》の誤であらうと言つてゐる。この儘では解し雉い語で、或は宣長の言ふ通りかと思はれるが、又九州の方言かも知れない。ともかく意は人皆のであらう。字音辯證に母はミ禰はナの音あるから、この儘でヒトミナノとよむべき由を述べてゐるのは、例の音韻家の誤に陷つたものである。○宇良夫禮遠留爾《ウラブレヲルニ》――ウラブレは心《ウラ》ワブレか。心に悲しんでゐること。○多都多夜麻《タツタヤマ》――舊本・多都多都夜麻とあるのは誤。夜の上、都は衍である。龍田山は大和生駒郡の西南隅、河内と界するところにある山で、龍田川即ち今の大和川の北岸にある。古昔、難波方面と奈良とをつなぐ重要な通路に當つてゐた。○和周良志奈牟迦《ワスヲシナムカ》――忘ラシのシは敬語。
〔評〕 旅人の歸京を羨んで皮肉を言つたのであるが、趣味を同じくし、年齡もさしてかはらない好長官に別れた憶良としては、こんなことも言つて見たかつたであらう。
 
878 言ひつつも 後こそ知らめ とのしくも さぶしけめやも 君いまさずして
 
伊比都都母《イヒツツモ》 能知許曾斯良米《ノチコソシラメ》 等乃斯久母《トノシクモ》 佐夫志計米夜母《サブシケメヤモ》 吉美伊麻佐受斯弖《キミイマサズシテ》
 
コンナコトヲ申シテモ今ハオ分リニナリマスマイガ〔今ハ〜傍線〕、後ニオ分リニナルデセウ。私ハ〔二字傍線〕アナタガオイデナサラナイデハ、一通リノ淋シサデハゴサイマセン。
 
○伊比郡都母《イヒツツモ》――前の歌を受けたので、かくいひつつもの意であらう。○能知許曾斯艮米《ノチコソシラメ》――宣長は斯《シ》を阿《ア》の誤としてゐるが、この儘で解き得るから、改めないことにする。○等乃斯久母《トノシクモ》――これは分らない語で、他に類例も見當らない。代匠記一説に宣命に家自久母《イヘシクモ》とあるにならつて、これを殿しくと解してゐるが、よくわからない。他の一説に「毛と乃と同韻にて通ずれば、とのしくもは、」乏しくもにて、すくなくさびしからむや、多くさびしからむなり」とあつて、これは、比較的穩かであるから、これに從ふことにする。恐らくトノシクは前の歌のヒトモネノと同じく、太宰府地方の方言であらう。宣長が志萬斯久母《シマシクモ》に改めたのは臆斷に過ぎる。
(93)〔評〕 皮肉を言つて見たが、更に衷情を述べて同情を求めたやうな作である。
 
879 萬代に いまし給ひて 天の下 まをし給はね みかど去らずて
 
余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊麻志多麻比提《イマシタマヒテ》 阿米能志多《アメノシタ》 麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》 美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》
 
貴君ハ〔三字傍線〕萬年ノ壽命ヲオ保チナサツテ、朝廷ヲ離レズニ、天下ノ政ヲ執ツテ陛下ニ忠勤ヲオ勵ミ〔テ陛〜傍線〕ナサイ。
 
○阿米能志多麻乎志多麻波禰《アメノシタマヲシタマハネ》――天の下の政を奏し給へよといふ意で、これは大臣として政を執ることである。八隅知之吾大王之天下申賜者《ヤスミシシワガオホキミノアメノシタマヲシタマヘバ》(一九九)とあつた。○美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》――美加度《ミカド》は朝廷。朝廷を離れずしての意。
〔評〕 前の三首に惜別の情を述べ、最後に旅人の長壽と榮福とを祝したのである。餞別の作として意を盡した適切なものであらう。
 
聊(カ)布《ノブル》2私懷(ヲ)1歌三首
 
これも憶良の歌である。前の四首は餞別の作で、この三首に自己の胸中を述べて、旅人の眷顧を乞うたのである。聊の字、神田本に敢に作つてゐるのが、ここには當つてゐるやうに思はれる。
 
880 天さかる 鄙に五年 住ひつつ 都の手ぶり 志らえにけり
 
阿麻社迦留《アマサカル》 比奈爾伊都等世《ヒナニイツトセ》 周麻比都都《スマヒツツ》 美夜故能提夫利《ミヤコノテブリ》 和周良延爾家利《ワスラエニケリ》
 
私ハ〔二字傍線〕(阿麻社迦留)田舍ノ筑紫〔三字傍線〕ニ五年間住ンデ居ツタノデ、奈良ノ〔三字傍線〕都ノ風俗ハイツノマニカ〔六字傍線〕忘レラレテシマヒマシタヨ、。都ガナツカシウゴザイマス〔都ガ〜傍線〕。
 
○比奈爾伊都等世《ヒナニイツトセ》――憶良が筑前守として五年間、在任したことをいふ。國守の任期は、大寶の制では六年であ(94)つたのを慶雲三年二月四年とし、天平寶字二年令制に復した。丁度この天平二年は四年制の時であるから、ここに五年とよんであるのは不思議である、加之、次の大伴君熊凝をよんだ歌には天平三年六月十七日とあつて、その時まで憶良は筑前守であつたのであるから、六年在任したことになる。しかしこの五年《イツトセ》といつたのは、大數を言つたので、嚴密な言葉ではないとも考へられるし、又當時は必ずしも令制の通りに交任が行はれなかつたものと思はれる點があり、ことに九州の如き遠隔の地に於ては、さうであつたやうに見える。なほ國守の任期は天平寶字二年の令制復歸後、寶龜八年に四年となり、十二年に九州は遠國であるから特に五年とした。大同二年また六年とし、承和二年三月四年とし、太宰府・鎭守府・陸奧・出羽兩國は五年となつたのである。
〔評〕 永年の田舍住ひをしてゐる誰もが、かうした言葉を口にするのは、今も昔も變らぬことであらう。しかしこれは京へ歸る貴人に獻つた歌であるだけに、悲しい誇張の聲とも聞え、相手の同情に訴へる哀な叫びとも思はれる。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄・和歌色葉集に載つてゐる。
 
881 かくのみや 息づき居らむ あらたまの 來經ゆく年の 限知らずて
 
加久能未夜《カクノミヤ》 伊吉豆伎遠良牟《イキヅキヲラム》 阿良多麻能《アラタマノ》 吉倍由久等志乃《キヘユクトシノ》 可伎利斯良受提《カギリシラズテ》
 
コノ筑紫ニヰテ私ハ〔九字傍線〕來テハ經過シテ行ク(阿良多麻能)年ヲ何時マデ此處ニ〔三字傍線〕送ルノカモ知ラナイデ、カウシテ都ヲ戀シガツテ〔七字傍線〕吐息ヲツイテバカリ居ルノデセウカナア。早ク都ヘ行キタイモノデス〔早ク〜傍線〕。
 
○阿良多麻能《アラタマノ》――枕詞。年《トシ》にかかる。山から掘り出したばかりの玉で、磨ぐの意でトにつづくのである。
〔評〕 頽齡に及んでなほ邊土に守たる不遇を訴へた聲が、あはれにいたましい。全體が悲しい詞で埋められてゐる。これにも國守交任の期の不正確さを語つてゐるやうに見える。
 
882 吾が主の みたま賜ひて 春さらば 奈良の都に めさげ給はね
 
阿我農斯能《アガヌシノ》 美多麻多麻比弖《ミタマタマヒテ》 波流佐良婆《ハルサラバ》 奈良能美夜故爾《ナラノミヤコニ》 ※[口+羊]佐(95)宜多麻波禰《メサゲタマハネ》
 
貴方ノ御力ヲ頂キマシテ、春ニナツタナラバ、私ヲ〔二字傍線〕奈良ノ都ニオ召シ上ゲ下サイマシ。
 
○阿我農斯能《アガヌシノ》――吾が主の。ヌシはウシと同じく敬稱である。旅人をさしていふ。○美多麻多麻比弖《ミタマタマヒテ》――あなたの御魂のお力によつてといふやうな意で、書紀に恩頼・神靈などをミタマノフユとよんでゐるのも同じ精神である。俗にお蔭によつてなどといふのとかはりはない。○※[口+羊]佐宜多麻波禰《メサゲタマハネ》――メサゲは召し上げの約。
〔評〕 上官の愛顧によつて、鄙の住居の淋しさから免れようとする老翁の言葉は、聞くも氣の毒である。しかも次の大伴君熊凝を詠んだ歌の序文によれば、翌年の春になつても、依然として彼は筑前に國守として在任したのである。
 
天平二年十二月六日筑前國司山上憶良謹上
 
以上の七首を旅人に獻じた時の日附である。
 
三島王後追和(セル)松浦佐用殯面(ノ)歌一首
 
三島王は舍人親王の御子。續紀に養老七年正月内子、無位三島王に從四位下を授けることが見える。
 
883 音に聞き 目には未だ見ず 佐用比賣が 領巾振りきとふ 君松浦山
 
於登爾吉伎《オトニキキ》 目爾波伊麻大見受《メニハイマダミズ》 佐容比賣我《サヨヒメガ》 必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》 吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》
 
私ハ〔二字傍線〕佐用姫ガ領巾ヲ振ツタトイフ(吉民)松浦ノ山ヲ、評判ニハ聞イテヰルガ、目ニハ未ダ見ナイ。行ツテ見タイモノダ〔九字傍線〕。
 
(96)○吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》――君侍つの意を松浦山に言ひかけたので、キミは歌の上には意味がない。
〔評〕 卷七の音聞目者未見吉野河六田之與杼乎今月見鶴鴨《オトニキキメニハイマダミヌヨシヌガハハムツダノヨドヲケフミツルカモ》(一一〇五)に傚つて、その反對を言つたものか。ともかく平凡な作である。この歌、袖中抄と和歌色葉集とに載つてゐる。
 
大伴君熊凝歌二首 大典麻田陽春作
 
大伴君熊凝の傳は次の憶良の序に記してある。この二首は麻田陽春が熊凝の心になつて詠んだものである。目録に大典麻田連陽春爲2大件君熊凝1述v志歌とあるのは、次の憶良の歌の題詞に傚つて、意を以て書き改めたのである。大典麻田陽春は五七〇の左註の解を見よ。
 
884 國遠き 道の長手を おほほしく 今日や過ぎなむ 言問ひもなく
 
國遠伎《クニトホキ》 路乃長手遠《ミチノナガテヲ》 意保保斯久《オホホシク》 許布夜須疑南《ケフヤスギナム》 巳等騰比母奈久《コトドヒモナク》
 
私ノ〔二字傍線〕國カラ遠イ道ノ長イ途中デ、親ニ〔二字傍線〕物ヲ言フコトモナクテ、氣ニカカリナガラ今日死ンデ行クノダラウカ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○路乃長手遠《ミチノナガテヲ》――長手《ナガテ》は長道《ナガヂ》に同じ。五三六・七八一にもあつた。○許布夜須疑南《ケフヤスギナム》――許は類聚古集その他數種の古寫本に計とあるから、この句は今日や過ぎなむに違ひない。戀ふや過ぎなむと見る説は當らない。なほこの過ぎは次の歌によると死ぬことである。道を通り過ぎて行くことに解するのは誤であらう。
〔評〕 故郷を遠く離れた途中で、空しくなつた青年の臨終に際しての胸中を案じて、代つて詠んだ同情のあらはれた作である。次の歌に見える佛教思想に傚つて、この路の長手を冥途へ行く路と見るのは蓋し當つてゐない。
 
885 朝露の 消易き吾が身 ひと國に 過ぎがてぬかも 親の目をほり
 
朝露乃《アサツユノ》 既夜須伎我身《ケヤスキワガミ》 比等國爾《ヒトクニニ》 須疑加弖奴可母《スギカテヌカモ》 意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》
 
(97)朝露ノヤウナ消エ易イ吾ガ身デ無常ナモノデハアルガ、コノ故郷ヲ遠ク離レタ〔無常〜傍線〕他國デハ、親ニ一目〔二字傍線〕逢ヒタクテ、死ナレナイヨ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○比等國爾《ヒトクニニ》――他國に於ての意、これを黄泉とする契沖説はとらない。○朝露乃《アサツユノ》――露の字は類聚古集・神田本などに霧とあるによる説もあるが、消え易きにつづくには露の方がよい。朝露乃銷易杵壽《アサツユノケヤスキイノチ》(一八〇四)朝露之消安吾身《アサツユノケヤスキワガミ》(二六八九)などの諸例もそれを證するやうである。朝霧にはかういふ用例が見當らない。ここは舊本に從つて置く。○須疑加弖奴可母《スギガテヌカモ》――過ぎ不勝《カテス》かもで、ぬは打消の助動詞である。○意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》――親に逢ひたさにの意。君之目乎保利《キミガメヲホ,》(七六六)公之目乎欲《キミガメヲホリ》(二六七四)とあるのと同型である。
〔評〕 人生朝露の如しといふ佛教思想が、取り入れられて巧みに詠まれてゐる。なほ、この二首の書き方は、假名書が少しく緩和されてゐるのが目に付く。
 
筑前國司守山上憶良敬(テ)和(スル)d爲2熊凝1述(ブル)2其志(ヲ)1歌(ニ)u六首并序
 
山上憶良が、前の麻田陽春の歌を聞いてそれに和して作つたのである。筑前國司守とあるのは司の字が衍であらう。また神田本に敬和爲熊凝述其志歌六首并序として、次行に筑前國守山上憶良とあるのがよいであらう。敬和とあるのは、麻田陽春は大典で卑官ではあるが、旅人の直屬の官であり、これは旅人に献じた歌であるから、かうした敬語を用ゐたのであらう。
 
大伴君熊凝者、肥後國益城(ノ)郡(ノ)人也、年十八歳、以(テ)2天平三年六月十七日1爲(リ)2相撲使某(ノ)國司官位姓名(ノ)從人(ト)1參(リ)2向(フ)京都(ニ)1爲《ナルカモ》v天不v幸、在(リテ)v路(ニ)獲v疾(ヲ)、即於(テ)2安藝國佐伯(ノ)郡高庭(ノ)驛家(ニ)1身故《ミマカリヌ》也、臨(ム)v終(ニ)之時、長歎息(シテ)曰(ク)、傳(ヘ)聞(ク)假合之身易(ク)v滅(ビ)、泡沫之(98)命難(シ)v駐(メ)、所以(ニ)千聖已(ニ)去(リ)、百賢|不《ズ》v留(ラ)、况乎凡愚微(シキ)者、何(ゾ)能(ク)逃避(セム)、但《タダ》我(ガ)老(イタル)親、並(ニ)在(リ)2菴室(ニ)1、待(ツコト)v我(ヲ)過(サバ)v日(ヲ)、自(ラ)有(ラム)2傷(ムル)v心(ヲ)之恨1、望(ミテ)v我(ヲ)違(ハバ)v時(ニ)、必(ズ)致(サム)2喪(フ)v明(ヲ)之泣(ヲ)1、哀哉我(ガ)父。痛哉我(ガ)母、不《ズ》v患(ヘ)2一身向(フ)v死(ニ)之途(ヲ)1、唯悲(シブ)2二親在v生之苦(ヲ)1、今日長別(レナバ)、何(ノ)世(ニカ)得(ム)v覲(ルコトヲ)、乃(チ)作(リテ)2歌六首(ヲ)1而死(リヌ)、其歌(ニ)曰(ク)
 
○大伴君熊凝――大伴氏であるが、君とあるから、宿禰姓の家持一族とは、何ら關係のない氏であらう。○益城郡――和名抄に肥後國益城 萬志岐とある郡で、肥後の中央部に位してゐる。今は上益城・下益城に分れてゐる。○相撲使某國司官位姓名――相撲使は、相撲部領使。八六四の序文參照。其國司云々は國名を明らかにしないので略して書いたのである。○高庭驛――大日本地名辭書に「濃唹驛は萬葉集に安藝國佐伯郡高庭驛とあると同所なるべし。今、地御前村と大野村の間に中山といふ峠あり、其邊に高畠《タカバタケ》と字する地は、高庭《タカバ》の遺號とす。或は生中山《オブノナカヤマ》と號す」と述べてゐる。海を距てて嚴島に對するあたりである。○身故也――死んだといふのである。○假合之身――四大即ち地水火風が假に合して出來た肉體といふこと。舊本假令とあるは誤。西本願寺本によるべきである。○望v我違v時――我の歸りを門に侍つて望み眺めてゐても、その歸るべき時をはづしたならば。○必致2喪明之泣1――喪明は禮記檀弓上に、「子夏喪2其子1而喪2其明1云々」とあつて、子を失つた親が目を泣きつぶすことで、この句は必ず吾が親は目を泣きつぶすほど涙を流すであらうの意。○二親在生之苦其舊本、親を説に作るのは誤。神田本による。○何世得覲――覲は身分の高いものにまみえるの意。
 
886 うち日さす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 國のおくがを 百重山 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し いたはしければ 玉桙の 道のくまみに 草手折り 柴取り敷きて とけじもの うちこい伏して 思ひつつ 歎き臥せらく 國に在らは 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に臥してや 命過ぎなむ 一云、わが世過ぎなむ
 
宇知比佐受《ウチヒサス》 宮弊能保留等《ミヤヘノボルト》 多羅知斯夜《タラチシヤ》 波波何手波奈例《ハハガテハナレ》 常斯良奴《ツネシラヌ》 國乃意久迦袁《クニノオクガヲ》 百重山《モモヘヤマ》 越弖須疑由伎《コエテスギユキ》 伊都斯可母《イツシカモ》 京師乎美(99)武等《ミヤコヲミムト》 意母比都都《オモヒツツ》 迦多良比袁禮騰《カタラヒヲレド》 意乃何身志《オノガミシ》 伊多波斯計禮婆《イタハシケレバ》 玉桙乃《タマボコノ》 道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》 久佐太袁利《クサタヲリ》 志婆刀利志伎提《シバトリシキテ》 等許自母能《トケジモノ》 宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》 意母比都都《オモヒツツ》 奈宜伎布勢良久《ナゲキフセラク》 國爾阿良婆《クニニアラバ》 父刀利美麻之《チチトリミマシ》 家爾阿良婆《イヘニアラバ》 母刀利美麻志《ハハトリミマシ》 世間波《ヨノナカハ》 迦久乃尾奈良志《カクノミナラシ》 伊奴時母能《イヌジモノ》 道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》 伊能知周疑南《イノチスギナム》【[一云、和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》】
 
(宇知比佐受)都ヘ上ラウト思ツテ、(多羅知斯夜)母ノ手ヲ離レテ常ニ未ダ〔二字傍線〕知ラナイ國ノ果テヲ、澤山ニ重ツタ山ヲ越シテ通ツテ行ツテ、何時ニナツタラ都ヲ見ルコトガ出來ルダラウト思ツテ、道連レノ者ト〔六字傍線〕話ヲシテ心ヲ慰メテヰルガ、自分ノ身體ガ病氣ニナツテ〔六字傍線〕苦シイノデ、(玉桙乃)道ノ曲リ角二草ヲ手折リ、雜草ヲ取ツテ敷イテ床ノヤウニシテソノ上ニ〔四字傍線〕横ニ臥テ、心ノ中デ〔四字傍線〕考ヘテ臥ナガラ嘆クニハ、國ニ居ルナラバ父ガ手ニトツテ私ノ病氣ヲ〔五字傍線〕見テ下サルダラウ。家ニ居タナラ母ガ手ニトツテ私ノ病氣ヲ〔五字傍線〕見テ下サルダラウ。世聞トイフモノハコンナニ無常ナモノデアラウ。丁度〔二字傍線〕犬ノヤウニ道ノ上〔二字傍線〕ニ臥テ私ハ〔二字傍線〕命ヲ終ルコトデアラウカ。アア悲シイ悲シイ〔八字傍線〕。
 
○宇知比佐受《ウチヒサス》――枕詞。宮につづく。美しき日指す意か、四六〇參照。○多羅知斯夜《タラチシヤ》――枕詞。次の歌に多良知子能《タラチシノ》(八八七)とあるに同じく、また、垂乳爲母所懷《タラチシハハニウダカエ》(三七九一)とあるのも同じで、つまりタラチネノと異なることはない。帶乳根乃《タラチネノ》(四四二)參照)。○國乃意久迦袁《クニノオクガヲ》――國の奧處を、國のはての所をの意。○伊多波斯計禮婆《イタハシケレバ》――イタハシは惱まし、いたつかはしなどに同じで、病に惱むこと。○道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》――舊本、久の字が無いのは脱ちたのである。類聚古集によつて補ふ。クマミは隈回。道の曲つてゐる所。○志婆刀利志伎提《シバトリシキテ》――シバは莱草、即ち雜草の類。○等計自母能《トケジモノ》――仙覺説に解霜《トケシモ》のの意とあるが、それでは分らない。計は許の誤として床じも(100)のの意と見た、代匠記の説を認めるより外はあるまい。次の宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》の許も、神田本には計の字になつてゐるから、ここもさうでもよからう。床の如くにしての意。○父刀利美麻之《チチトリミマシ》――父が手に執つて私を見るであらうの意。トリを意味のない接頭語と見るのは當らない。○伊能知周疑南《イノチスギナム》――命が無くなるであらうの意。スグルは死ぬこと。○一云、和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》――これは伊能知周疑南《イノチスギナム》の異傳として後に添へたのである。併し或は同意の句を反覆したものかも知れない。また次の五首の内、四首までが一云を有つてゐるので見ると、この句は、一云の附いてゐない多良知子能《タラチシノ》の歌の下に、一云としてあつたものが、誤つてここに附いたのかも知れない。なほ考ふべきである、
〔評〕 前の麻田陽春の歌を長歌に引き延ばしたやうな作で、別に變つた點もない。併し流石に同情はあらはれてゐる。
 
887 たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか 吾が別るらむ
 
多良知遲能《タラチシノ》 波々何目美受提《ハハガメミズテ》 意保保斯久《オホホシク》 伊豆知武伎提可《イヅチムキテカ》 阿我和可留良武《アガワカルラム》
 
(多良知遲能)母ニ逢ハナイデ氣ニカカリナガラ、私ハ何處ヘ向ツテコノ世ヲ〔四字傍線〕別レテ行クノデアラウカ。アア心配ナコトダ〔八字傍線〕。
 
○多良知遲能《タラチシノ》――遲の字は類聚古集に、子とあるによるべきであらう。タラチシノはタラチネノに同じ。多羅知斯夜《タラチシヤ》(八八六)參照。
〔評〕 ここに反歌と記すべくして、さうなつてゐないが、題詞に六首としてあるので見ると、長歌と短歌とを一緒にして數へてあつて、反歌として長歌に附屬せしめてゐない。またこの歌だけが次の四首と異つて、一云を件なつてゐないのは、前の語釋に述べたやうに、長歌の終に一云、和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》とあるのが、ここに附くべきものらしく思はれる。しかもこの一云は短歌の末句の異傳ではなくて、當時歌の一體として認められてゐた五七五七七七の六句の形式の、謂はゆる佛足跡歌體の歌として作られたものと思はれる。次の四首も同樣であ(101)る。
 
888 常知らぬ 道の長手を くれくれと 如何にか行かむ かりては無しに 一云、乾飯はなしに
 
都禰斯良農《ツネシラヌ》 道乃長手袁《ミチノナガテヲ》 久禮久禮等《クレクレト》 伊可爾可由迦牟《イカニカユカム》 可利弖波奈斯爾《カリテハナシニ》【一云、可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》】
 
常ニ通ツタコトノナイ冥途ヘ行ク〔五字傍線〕道ノ長イ途中ヲ、氣ニカカリナガラ糧食モ持タズニ、ドウシテ私ハ行ツタラヨイノダラウ。心配ナコトダ〔六字傍線〕。
 
○久禮久禮等《クレクレト》――心も暗く、悲しみつつの意。契沖が遙かなる意としたのは當るまい。卷十三にも奧浪來因濱邊乎久禮久禮等獨曾我來妹之目乎欲《オキツナミキヨスハマベヲクレクレトヒトリゾワガコシイモガメヲホリ》(三二三七)とある。○都禰斯良農道乃長手袁《ツネシラヌミチノナガテヲ》――常知らぬ道の長芋手は、未だ通つたことのない長い道中で、即ち冥途をさしたのである。○可利弖波奈斯爾《カリテハナシニ》――カリテは糧食のことで、カテといふに同じである。靈異記に糧可里弖、宇鏡集に釋カリテ。カテ。アラヒヨネとある。○一云、可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》――カレヒは餉。乾飯《カレイヒ》の略。ほしいひ、ほしひ。旅行に携帶した米。
〔評〕 病者が臨終に際しての心情を歌つたものとすれば、考へ方が餘裕があり過ぎて適切でない。作つた歌としては趣向がかはつてゐて珍らしい。
 
889 家に在りて 母がとり見ば 慰むる 心はあらまし 死なば死ぬとも 一云、後は死ぬとも
 
家爾阿利弖《イヘニアリテ》 波波何刀利美婆《ハハガトリミバ》 奈具佐牟流《ナグサムル》 許許呂波阿良麻志《ココロハアラマシ》 斯奈婆利農等母《シナバシヌトモ》【一云、能知波志奴等母《ノチハシヌトモ》】
 
タトヒ〔三字傍線〕死ヌナラ死ヌニシテモ、家ニ居ツテ母ガ手ニ取ツテ私ノ病氣ヲ〔五字傍線〕見テクレタナラバ、心ヲ慰メルコトガ出來ルダラウノニ、今ハ旅行中デサウ出來ナイノハ悲シイコトダ〔今ハ〜傍線〕。
 
〔評〕 長歌中の家爾阿良婆母刀利美麻志《イヘニアラバハハトリミマシ》云々とあるのを引延ばしただけで、平凡な作である。一云、能知婆斯農(102)等母《ノチハシヌトモ》とあるのは第六句と見るがよい。
 
890 出でて行きし 日を數へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも 一云、母が悲しさ
 
出弖由伎斯《イデテユキシ》 日乎可俗閉都都《ヒヲカゾヘツツ》 家布家布等《ケフケフト》 阿袁麻多周良武《アヲマタスラム》 知知波波良波母《チチハハラハモ》【一云、波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》】
 
旅ニ〔二字傍線〕出テ行ツテカラ經ツタ〔三字傍線〕日ヲ數ヘテ、歸ルノヲ〔四字傍線〕今日カ今日カト毎日〔二字傍線〕私ヲ待ツテヰル父母ラヨ。私ガ此處デ死ヌノヲ御存ジナイデセウ〔私ガ〜傍線〕。
 
〔評〕 前の序文の中に、但我老親並在2菴室1待v我過v日、自有2傷心之恨1とあるのを、歌にしたやうなものである。一云、波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》は第六句と見るべきであらう。
 
891 一世には 二度見えぬ 父母を 置きてや長く 吾が別れなむ 一云、あひ別れなむ
 
一世爾波《ヒトヨニハ》 二遍美延農《フタタビミエヌ》 知知波波袁《チチハハヲ》 意伎弖夜奈何久《オキテヤナガク》 阿我和加禮南《アガワカレナム》【一云、相別南《アヒワカレナム》】
 
死ンデシマツタラ〔八字傍線〕一生ノウチニ、復ト逢フコトノ出來ナイ父ヤ母ヲ後ニ遺シテ、私ハ永久ニ別レテアノ世ヘ〔四字傍線〕行クコトダラウカナア。アア名殘ガ惜シイ〔八字傍線〕。
 
○一世爾波二遍美延農《ヒトヨニハフタタビミエヌ》――一度死しては二度と親に會はれないといふことであらう。親子は一世の緑で、二度は會はれぬといふ意かとも思はれるが、語のつづきはさうらしくない。
〔評〕 これも一云、相別南《アヒワカレナム》を第六句とした佛足跡歌體の歌らしい。序中の今日長別何せ得v覲とあるのを、歌にしたやうなものである。
 
貧窮問歌一首井短歌
 
(103)貧窮問歌とは、貧窮者の問答せることを作つた歌の意である。一貧困者と、より以上に貧困な者との問答の體に作つてある。山上憶良が當時の社會相の一面を歌にしたものである。
 
892 風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅鹽を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて 我をおきて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引きかかふり 布肩衣 有りのことごと 着そへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 廣しといへど 吾が爲は 狹くやなりぬる 日月は 明かしといへど 吾が爲は 照りや給はぬ 人皆か 我のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 我も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松の如 わわけさがれる かがふのみ 肩に打ちかけ 伏庵の 曲庵の内に ひた土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは あとの方に かくみ居て 憂ひさまよひ 竈には 烟ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊ぐ ことも忘れて 奴延鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を 端截ると 云へるが如く しともと執る 里長が聲は 閨どまで 來立ちよばひぬ かくばかり 術無きものか 世の中の道
 
風雜《カゼマジリ》 雨布流欲乃《アメフルヨノ》 雨雜《アメマジリ》 雪布流欲波《ユキフルヨハ》 爲部母奈久《スベモナク》 寒之安禮婆《サムクシアレバ》 堅鹽乎《カタシホヲ》 取都豆之呂比《トリツヅシロヒ》 糟湯酒《カスユザケ》 宇知須須呂比弖《ウチススロヒテ》 之可夫可比《シハブカヒ》 鼻※[田+比]之※[田+比]之爾《ハナビシビシニ》 志可登阿良農《シカトアラヌ》 比宜可伎撫而《ヒゲカキナデテ》 安禮乎於伎弖《アレヲオキテ》 人者安良自等《ヒトハアラジト》 富己呂陪騰《ホコロヘド》 寒之安禮婆《サムクシアレバ》 麻被《アサブスマ》 引可賀布利《ヒキカカフリ》 布可多衣《ヌノカタギヌ》 安里能許等其等《アリノコトゴト》 伎曾倍騰毛《キソヘドモ》 寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》 和禮欲利母《ワレヨリモ》 貧人乃《マヅシキヒトノ》 父母波《チチハハハ》 飢寒良牟《ウヱサムカラム》 妻子等波《メコドモハ》 乞乞泣良牟《コヒテナクラム》 此時者《コノトキハ》 伊可爾之都都可《イカニシツツカ》 汝代者和多流《ナガヨハワタル》 天地者《アメツチハ》 比呂之等伊倍杼《ヒロシトイヘド》 安我多米波《アガタメハ》 狹也奈理奴流《サクヤナリヌル》 日月波《ヒツキハ》 安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》 安我多米波《アガタメハ》 照哉多麻波奴《テリヤタマハヌ》 人皆可《ヒトミナカ》 吾耳也之可流《ワレノミヤシカル》 和久良婆爾《ワクラバニ》 比等等波安流乎《ヒトトハアルヲ》 比等奈美爾《ヒトナミニ》 安禮母作乎《アレモツクルヲ》 綿毛奈伎《ワタモナキ》 布可多衣乃《ヌノカタギヌノ》 美留乃其等《ミルノゴト》 和和氣佐我禮流《ワワケサガレル》 可可布能尾《カガフノミ》 肩爾打懸《カタニウチカケ》 布勢伊保能《フセイホノ》 麻宜伊保乃内爾《マゲイホノウチニ》 直土爾《ヒタツチニ》 藁解敷而《ワラトキシキテ》 父母波《チチハハハ》 枕乃可多爾《マクラノカタニ》 妻子等母波《メコドモハ》 足乃方爾《アトノカタニ》 圍居而《カクミヰテ》 憂(104)吟《ウレヒサマヨヒ》 可麻度柔播《カマドニハ》 火氣布伎多弖受《ケブリフキタテズ》 許之伎爾波《コシキニハ》 久毛能須可伎弖《クモノスカキテ》 飯炊《イヒカシグ》 事毛和須禮提《コトモワスレテ》 奴延鳥乃《ヌエトリノ》 能杼與比居爾《ノドヨビヲルニ》 伊等乃伎提《イトノキテ》 短物乎《ミジカキモノヲ》 端伎流等《ハシキルト》 云之如《イヘルガゴトク》 楚取《シモトトル》 五十戸良我許惠波《サトヲサガコヱハ》 寝屋度麻※[人偏+弖]《ネヤドマデ》 來立呼比奴《キタチヨバヒヌ》 可久婆可里《カクバカリ》 須部奈伎物能可《スベナキモノカ》 世間乃道《ヨノナカノミチ》
 
風ガ雜ツテ雨ノ降ル夜、雨ガ雜ツテ雪ノ降ル夜ニハ、何トモ仕樣ガ無イホドニ寒イノデ、堅イ黒鹽ヲ少シヅツ食ヒカイテ甜メナガラ、酒糟ヲ水ニ溶カシテ沸カシタ酒ヲ啜ツテ、咳ヲシテ鼻ヲビシビシト鳴ラシナガラ、ロクニアリモシナイ鬚ヲ掻キ撫デテ、私ヨリ以外ニ賓現ラシイ〔五字傍線〕人間ハアルマイト、得意ニナツテ〔六字傍線〕自慢ヲシテヰルガ、ヤハリ〔三字傍線〕寒イノデ、麻ノ衾ヲ引キ被ツテ、布ノ袖無シ〔三字傍線〕肩衣ヲ持ツテヰルダケ盡ク着重ネルケレドモ、寒イ夜デヤハリアルノニ、私ヨリ以上ニ貧シイ人ノ、父母ハ飢ヱテ寒イコトデアラウ。妻ヤ子ドモラハ物ヲ欲シガツテ泣クダラウ。コノ時ハ私以上ニ貧シイ人ハ〔九字傍線〕ドンナコトヲシテオマヘノ世ヲ渡ルカ。ドウシテコノ日ヲ暮スカ〔ドウ〜傍線〕。天地ハ廣イモノダト人ガ〔二字傍線〕イフガ、私ノ爲ニハ狹クナツタノカ知ラ。世ノ中ガ狹イヤウナ氣ガスル〔世ノ〜傍線〕。太陽ヤ月ハ明ルイモノダトイフガ、私ノ爲ニハオ照シナサラナイノカ知ラ。丸デ世ノ中ガ眞暗ノヤウナ氣ガスル〔丸デ〜傍線〕。人ガ皆サウ思フノカ知ラ、ソレトモ私バカリガサウ感ズルノダララカ。人ト生レルノハ容易ナコトデナク〔人ト〜傍線〕、偶然ニヨイ廻リ合ハセ〔七字傍線〕デ、人ニ生レテ來タノデアルノニ、サウシテ〔四字傍線〕人並ニ田畑ヲ〔三字傍線〕作ツテ仕事ニ精ヲ出シテ〔八字傍線〕ヰルノニ綿モ入ツテヰナイ布デ作ツタ肩衣ノ、海松ノヤウニボロボロニナツテ下ツテヰル、襤褸バカリヲ肩ニ打チカケテ、低イ庵ノ曲ツタ庵ノ中ニ、直接ニ土ノ上ニ藁ヲ解イテ敷イテ、父ヤ母ハ私ノ〔二字傍線〕枕ノ方ニ臥ルト、妻ヤ子ドモ(105)ハ私ノ〔二字傍線〕足ノ方ニ圍ンデ居テ、心配ヲシテ嘆イテヰテ、火ヲ焚クコトガ無イカラ〔火ヲ〜傍線〕竈ニハ煙ヲ吹キ立テルコトモトモナク甑ノ中ニハ蜘蛛ノ巣ガ張ツテ飯ヲ炊グコトヲ忘レテシマツテ(奴延鳥乃)咽カラ出ルヤウナ聲ヲ出シテ叫ンデヰルト、唯サヘ非常ニ短イモノヲソノ端ノ方ヲ切ルトイフ諺ガアル通リニ、笞ヲ持ツテ税ヲ催促シテ〔六字傍線〕歩ク村長ノ聲ハ、閨ノ處マデ來テ立ツテ怒鳴ツテヰル。コンナニ仕樣ノ無イモノカヨ。世ノ中ノナラハシトイフモノハ。
 
○風雜雨布流欲乃雨雜雪布流欲波《カゼマジリアメフルヨノアメマジリユキフルヨハ》――風を交へて雨が降り、雨を交へて雪の降る夜は。上は雨を主とし、次は雪を主としてゐるが、要するに言葉の綾で、風の寒い雨雪の降る夜の意である。舊本、風離とあるは誤。神田本によつて改めた。○堅鹽乎《カタシホヲ》――欽明紀二年に「蘇我大臣稱目宿禰女曰2堅鹽媛1、堅鹽此云岐?志」とある。又孝徳紀五年三月に、「皇太子妃蘇我造媛、聞2父大臣爲v鹽所1v斬、傷心痛※[立心偏+宛]惡(ミ)v聞2鹽名1所以近2侍於造媛1者、忌v稱2鹽名1、改2曰堅鹽1」とあり。和名抄に、「崔禹錫食經云、石鹽、一名白鹽、又有2黒鹽1、今按俗呼2黒鹽1爲2堅鹽1、日本紀私記云、堅鹽、木多師是也」とあるから、キタシとよむべきやうであるが、カタシホの訓がなかつたとも言はれないから、しばらく舊訓に從つて置く。堅鹽は和名抄にあるやうに黒い粗惡な鹽で、塊になつてゐたものである。○取都豆之呂比《トリツヅシロヒ》――取《トリ》は接頭語。ツヅシロヒはツヅシリに同じで、類聚名義抄・伊呂波字類抄に※[口+幾]を「ツヅシル」と訓んで居り、説文に「※[口+幾]、小食也」とあるから、少しづつ食ふことである。今昔物語二十八にも「鹽辛キ物共ヲツヅシルニ云々」とあり、新撰字鏡にも「醋、左加奈豆豆志留」とアる。源氏物語帚木に「かげもよしなどつづしりうたふほどに」、末摘花に「御つづしり歌のいとをかしきといへば」とあるのも、少しづつ歌ふことで、語源は同じである。○糟湯酒《カスユサケ》――酒の糟を湯に溶いて沸しもたの。酒を買ふことが出來ないので、これで辛抱するのである。○宇知須須呂比《ウチススロヒ》――ウチは接頭語。ススロヒはススリの延言。○之可夫可比《シハブカヒ》――シハブキの延言、咳をすること。上の可は波の誤と考にある。シカブクといふ語がシハブクと同樣に、用ゐられてゐたかとも思はれないこともないが、なほシハブカヒの誤であらうから、考に從ふべきであらう。○鼻※[田+比]之※[田+比]之爾《ハナビシヒシニ》――鼻がビシビシと鳴る意か。此床乃比師跡鳴左右嘆鶴鴨《コノトコノヒシトナルマデナゲギツルカモ》(三二七〇)とあるヒシも同じで、源氏物語夕顔にも、「ここ(106)かしこのくまぐましくおぼえ給ふに、物の足音ひしひしとふみならしつつうしろより來る心地す」とあり、同總角にも「はかなきさまなる蔀などは、ひしひしとまぎるる音に」とある。略解には「鼻ひしひしは嚔《ハナヒ》也、はなひしはなひしと重ねいふを略ていへり」とあるが、畧音とは考へられないから、クシヤミではなくて寒さに鼻汁の出るのを、すすり上げる音であらう。○志可登阿良農《シカトアラヌ》――確《シカ》と在らぬの意であらう。ろくに生えてゐないこと。卷八に然不有五百代小田乎《シカトアラヌイホシロヲダヲ》(一五九二)とあるが、然は借字と思はれる。○富己呂陪騰《ホコロヘド》――誇れどの延言。○麻被《アサフスマ》――麻の夜具。フスマは臥す裳の轉といふ。麻布を夜具として用ゐるので、綿は入つてゐないのであらう。但し東歌に伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太伊利奈麻之母乃伊毛我乎抒許爾《キベヒトノマダラブスマニワタサハダイリナマシモノイモガヲドコニ》(三三五四)とあるから、田舍でも綿の入つた衾が無かつたのではない。○布可多衣《ヌノカタギヌ》――布で作つた肩衣。カタギヌは肩と背のみを蔽ふやうな短い衣服。ヌノは麻・からむしなどで織つた織物の總稱で、和名抄には「布沼能織2麻及紵1爲v帛也」とある。○伎曾倍騰毛《キソヘドモ》――着襲へども。ソフはオソフ・ヨソフなどと同語で着物を着ること。衣服を古くソと言つたのを動詞にしたのであらう。○寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》――寒い夜でやはりあるのに。○乞乞泣良牟《コヒテナクラム》――乞の字は集中に、コヒ・イデ・コチ・コソなどとよんであるが、これを二つ重ねても何ともよみやうがない。下の乞は弖の誤とした代匠紀によつて、「乞ひて泣くらむ」と訓むべきであらう。○汝代者和多流《ナガヨハワタル》――汝の代を渡るかと、極負者に尋ねる言葉。ここまでが前半で、一貧者の言葉である。次の句からは極貧者の答ふる詞。○狭也奈理奴流《サクヤナリヌル》――セバクヤナリヌルとも訓んであるが、狹の字は狹野榛能《サヌハリノ》(一九)年魚小狹走《アユコサハシル》(四七五)などの如くサと訓むか、又は稀に思狹名盤《オモヒテセナハ》(二五二二)の如くセとよむ例があるのみであるから、ここもサクとよみたい。○和久良婆爾《ワクラバニ》――たまに稀に・偶然などの意。ここの意は卷九に、人跡成事者難乎和久良婆爾成吾身者《ヒトトナルコトハカタキヲワクラバニナレルワガミハ》(一七八五)とあるのと同じである。○安禮母作乎《アレモツクルヲ》――作の字は舊訓はツクルヲであつたのを、略解にナレルヲと訓んで、人並の肉體を持つて生れたことに見てゐる。意味のつづきはそれでもよいのであるが、集中この作の字は、ツクルとよむか、又はサの假名に用ゐるのを常とし、ナルと訓んだ例は他にないから、ここもツクルとよんで、田畠を作ることに解すべきであらう。○美皆乃其等《ミルノゴト》――海松の如。海松は一二五參照。○和和氣佐我禮流《ワワケサガレル》――ワワクは、ほつれ破れて(107)亂れること。○可可布能尾《カカフノミ》――カカフは襤褸《ボロ》。新撰字鏡に「※[巾+祭]、先列反、殘帛也、也不禮加々不」とある。○直土爾《ヒタツチニ》――直接に土の上に。ヒタはひたすらに、そればかりなるといふ。直佐麻乎《ヒタサヲヲ》(一八〇七)とあるヒタも同じ。打久津三宅乃原從當土足迹貫《ウチヒサツミヤケノハラユヒタツチニアシフミヌキ》(三二九五)のヒタツチも同じ。今俗にヂビタといふのも同語であらう。○足乃方爾《アトノカタニ》――略解は神代紀、「脚邊此云2阿度倍1」とあるにならつて、ここをアトノベニとよんでゐるが、邊と方との差異もあり、またここを五音に訓んではあまりに破調であるから、舊訓のままがよい。足をアトとよむのは右に引いた神代紀の註でも明らかであり、また古今集にも「枕よりあとより戀のせめくればせん方なみぞ床なかにをる」とある。○圍居而《カクミヰテ》――圍はカクミとよむ。乎知己知爾左波爾可久美爲《ヲチコチニサハニカクミヰ》(四四〇八)。○憂吟《ウレヒサマヨヒ》――悲しみ泣く。佐麻欲此奴禮者《サマヨヒヌレバ》(一九九)參照。○許之伎爾波《コシキニハ》――コシキは甑。今の蒸籠《セイロウ》。昔の飯は米を蒸したのである。○久毛能須可伎弖《クモノスカキテ》――蜘蛛の巣を張つて。攷證には「甑は必ず簀あるものなれば、蜘蛛の網を簀に見なして、蜘蛛の簀かきてとはいへり」とあるが、蜘蛛の巣といふ語も古くからあつたであらう。カキテは懸けてと同意で、四段活用の動詞である。○奴延鳥乃《ヌエトリノ》――枕詞。※[空+鳥]の鳴聲が咽喉で呼ぶやうな聲であるから、かうつづけるのだ。※[空+鳥]はトラツグミといふ鳥。委しくは卷一の五參照。○能杼與比居爾《ノドヨビヲルニ》――ノドヨビは咽喉呼びで、咽喉を搾つて啼くやうな聲を出すのをいふのであらう。攷證には長閑に呼ぶこととしたのは、ここの意に合はぬやうである。○伊等乃伎提《イトノキテ》――甚《イト》除《ノ》きてで、甚く格別になどの意。いとどしくといふのもおなじである。○短物乎端伎流等《ミジカキモノヲハシキルト》――下の沈痾自哀文に、「諺曰、痛瘡灌v鹽、短相截v端云々」とあるのと同じで、謂はゆる「泣顔に蜂」である。○楚取《シモトトル》――シモトは若木。細枝。轉じて笞のことに用ゐる。笞を執つて税の滯納を責めるのである。和名抄刑罰具に「笞、和名之毛度」とある。○五十戸良我許惠波《サトヲサガコヱハ》――舊訓イトラガコヱハとあるのでは分らない。戸令に「凡戸以2五十戸1爲v里、毎v里置2長一人1掌d※[手偏+僉]2校戸口1課2殖農桑1、禁2察非違1催2駈u賦役1」とあるから、五十戸はサトである。良は長の誤と見られてゐるが、廣雅釋詁四に「良長也」、爾雅釋詁に「良首也」とあるから、良でヲサと訓むのである。○寢屋度麻※[人偏+弖]《ネヤドマデ》――ネヤドは寢屋の處。
〔評〕 山上憶良の社會詩人としての特色を發揮した傑作である。前半には清貧に安じてゐる隱士のやうな人の状(108)態を述べ、後半には社會の最下級に沈淪してゐる農民の悲惨を極めた生活を叙して、いづれもその實相をさらけ出してゐる、前半にはいくらか憶良の俤もあらはれてゐるやうであるが、彼自らはこれ程の貧人であつたらうとは思はれない。下の老身重病經年辛苦及思兒等歌七首にも、彼の貧を訴へる悲しい叫びが聞えてゐるけれども、國守の榮職に到つた人の言葉としては、その儘には受取り得ない。後半の父母妻子を抱へて生活苦に惱み、徴税に責められてゐる極資者の生活の描寫は、眞に號泣の聲も聞えるばかりである。作者の同情の致すところであらう。形式からいへば、この兩者が問答の體になつてゐるのも面白い。一首を問答の形に整へるのは、旋頭歌に多いので、これはそれを長歌の形式に應用したのかも知れない。ともかくも憶良の大傑作であり、萬葉集中の異彩であり、我が和歌史上の珍寶である。
 
893 世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
 
世間乎《ヨノナカヲ》 宇之等夜佐之等《ウシトヤサシト》 於母倍杼母《オモヘドモ》 飛立可禰都《トビタチカネツ》 鳥爾之安良禰婆《トリニシアラネバ》
 
私ハ世ノ中ヲ辛イ恥カシイト思フガ、鳥デナイカラ飛ビ去ツテ何處ヘカ行ツテ〔七字傍線〕シマフワケニユカナイ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○宇之等夜佐之等――ヤサシは恥かしいこと。八五四參照。
〔評〕 ここに反歌とありさうなところであるが、何とも記してない。併しかういふ例は他にもあるから、特に理由があるのではあるまいと思はれる。この歌は反歌として見れば、極貧者の答の方についてゐるが、長歌ほどの深刻さがない。古義に次の老身重病經v年辛苦及思2兒等1歌七首の中から、冨人能《トミヒトノ》と麁妙能《アラタヘノ》の二首を割いて、この歌の次に入れたのは、甚だしい獨斷である。
 
山上憶良頓首謹上
 
(109)右の歌を大伴旅人に献ずる時に末尾に記したのである。その年月は明らかでないけれども、前の熊凝の歌に天平三年六月十七日とあるから、その後の作で、旅人が歸京以後であらう。
 
好去好來歌一首、反歌二首
 
好去は奈何好去哉《イカニサキクヤ》(六四八)眞好去有欲得《マサキクアリコソ》(一七九〇)の如くサキクとよむのを常とするが、ここは好去好來でサキクユキサキクキマセと訓むべきか。長歌の終に都都美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢《ツツミナクサキクイマシテハヤカヘリマセ》とある意である。この歌は天平五年三月多治比眞人廣成遣唐使として出立の際、その無事を祈つて山上憶良がよんだので、續紀には「天平五年三月戊午遣唐大使從四位上多治比眞人廣成等拜v朝。閏三月癸巳、遣唐大使多治比眞人廣成辭見、授2節刀1。夏四月己亥遣唐四船自2難波津1進發。」と見え、「七年三月丙寅、入唐大使從四位上多治比眞人廣成等、自2唐國1至進2節刀1」とある。挿入の印は集古十種に「天平五年月日遣唐使連署所印」とあるから、この時の一行が用ゐたものである。反歌二首とあるのを衍とする説もある。かうした書き方は異例ではあるが、必ずしも衍文とも言ひ難い。
 
894 神代より 言ひつて來らく そらみつ 倭の國は すめ神の いつくしき國 言靈の 幸はふ國と 語りつぎ 言ひつがひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 滿ちてはあれども 高光る 日のみかど 神ながら 愛での盛に 天の下 奏し給ひし 家の子と 選び給ひて おほみこと 戴き持ちて もろこしの 遠き境に 遣はされ まかりいませ 海原の 邊にも沖にも 神づまり うしはきいます もろもろの 大御神たち ふなのへに 導き申し 天地の 大御神たち 倭の 大國靈 ひさかたの 天のみそらゆ 天翔り 見渡し給ひ 事をはり 還らむ日は また更に 大御神たち ふなのへに み手打懸けて 墨繩を 延へたる如く あちかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の濱びに 直泊に 御船は泊てむ つつみなく さきくいまして 早歸りませ
 
神代欲理《カミヨヨリ》 云傳久良久《イヒツテクラク》 虚見通《ソラミツ》 倭國者《ヤマトノクニハ》 皇神能《スメガミノ》 伊都久志吉國《イツクシキクニ》 言靈能《コトダマノ》 佐吉播布國等《サキハフクニト》 加多利繼《カタリツギ》 伊比都賀比計理《イヒツガヒケリ》 今世能《イマノヨノ》 人母許等期等《ヒトモコトゴト》 目前爾《メノマヘニ》 見在知在《ミタリシリタリ》 人佐播爾《ヒトサハニ》 滿弖播阿禮等母《ミチテハアレドモ》 高光《タカヒカル》 日御朝廷《ヒノミカド》 神奈我良《カムナガラ》 愛能盛爾《メデノサカリニ》 天下《アメノシタ》 奏多麻比志《マヲシタマヒシ》 家子等《イヘノコト》 撰多(110)麻比天《エラビタマヒテ》 勅旨《オホミコト》【反云大命】 戴持弖《イタダキモチテ》 唐能《モロコシノ》 遠境爾《トホキサカヒニ》 都加播佐禮《ツカハサレ》 麻加利伊麻勢《マカリイマセ》 宇奈原能《ウナバラノ》 邊爾母奧爾母《ヘニモオキニモ》 神豆麻利《カムヅマリ》 宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》 諸能《モロモロノ》 大御神等《オホミカミタチ》 船舳爾《フナノヘニ》【反云布奈能閇爾】 道引麻遠志《ミチビキマヲシ》 天地能《アメツチノ》 大御神等《オホミカミタチ》 倭《ヤマトノ》 大國靈《オホクニミタマ》 久堅能《ヒサカタノ》 阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》 阿麻賀氣利《アマガケリ》 見渡多麻比《ミワタシタマヒ》 事了《コトヲハリ》 還日者《カヘラムヒハ》 又更《マタサラニ》 大御神等《オホミカミタチ》 船舳爾《フナノヘニ》 御手打掛弖《ミテウチカケテ》 墨繩袁《スミナハヲ》 播倍多留期等久《ハヘタルゴトク》 阿遲可遠志《アチカヲシ》 智可能岬欲利《チカノサキヨリ》 大伴《オホトモノ》 御津濱備爾《ミツノハマビニ》 多大泊爾《タダハテニ》 美船播將泊《ミフネハハテム》 都都美無久《ツツミナク》 佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》 速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》
 
神代カラ言ヒ傳ヘテ來タニハ、(虚見通)日本國ハ、皇神ノ御威光ノイカメシイ國デ、言葉ノ精靈ノ威徳ニヨツテ幸ノアル國ダト、語リ次ギ言ヒ次イデ來マシタヨ。今ノ世ノ人モ蓋ク其ノコトハ〔五字傍線〕見テ居ルシ、又知ツテモヰル。ソレ故ニ私ハココニ貴方ノ門出ニ際シ、佳イ言葉ヲ連ネテ祝福致シマス〔ソレ〜傍線〕。コノ國ニ人ハ澤山ニ滿チテヰルガ、(高光)天子樣ノ朝廷ニ天子樣ガ臣下ヲ御寵愛遊バスコトガ盛ナノデ、曾テ〔二字傍線〕天下ノ政治ヲ執奏シタ左大臣多治比眞人島ト云フ〔左大〜傍線〕人ノ家ノ子孫ダトテ、貴方ヲ遣唐使ニ〔四字傍線〕オ選ビニナツテ、勅旨ヲ奉戴シテ唐ト云フ遠イ處ヘオ遣シニナツテ、貴方ガ〔三字傍線〕オ出掛ケナサルト、海ノ岸ニモ沖ニモ神樣トシテ鎭座遊バシテ、其邊ヲ〔三字傍線〕主《アルジ》トシテ領シテイラツシヤル澤山ノ大御神樣タチガ、船ノ舳《ヘサキ》ニ立ツテ道案内ヲナサリ、天ノ大御神地ノ大御神タチ、ソレカラ〔四字傍線〕大和ニ鎭座マシマス大國靈ノ神ガ、(久堅能)天空カラ、天ヲ飛ビ廻ツテ歩イテ見渡シ遊バシテ、安全ニ唐(111)ヘ到着シテ〔九字傍線〕、使命ヲ果シテ還ル日ニ、又更ニ前ニ述ベタ〔五字傍線〕大御神等ガ、船ノ舳《ヘサキ》ニ御手ヲ打チ掛ケテ、墨繩ヲ引張ツタヤウニ、一直線ニ〔四字傍線〕(阿遲可遠志)智可ノ岬カラ、(大伴)御津ノ濱ノアタリニ、直接ニ貴方ノ乘ツテヰル〔八字傍線〕御船ガ着クデアラウ。恙ナク御無事デイラシツテ早クオ歸リナサイマセ。
 
○云傳久良久《イヒツテクラク》――舊本、云傳介良久とあるが、神田本その他の古寫本に久とあるによる。介の字はこの卷に於ては、他に用例なく、唯卷十八に數例あるのみであるから、恐らく久が原形であつたであらう。○虚見通《ソラミツ》――枕詞。大和につづくのは饒速日命が空より見給ひて、天降られたといふ古傳説によつたものとせられてゐる。卷一の一參照。○皇神能《スメガミノ》――スメガミは皇祖の神たちを申すのであるが、唯、神の尊稱にいふこともある。ここはその後者である。○伊都久志吉國《イツクシキクニ》――靈異記に儼然をイツクシクと訓んでゐるやうに、イツクシクは嚴重な・いかめしいことで、日本の國は神樣の御威光の、いかめしい國だといふのである。○言靈能《コトタマノ》――言靈は言葉の魂で、古代人は言語には精靈が宿つてゐると思つてゐたのである。卷十一に事靈八十衢夕占問《コトタマノヤソノチマタニユフケトフ》(二五〇六)の車靈《コトタマ》も同じで、事は借字。○佐吉播布國等《サキハフクニト》――サキハフは幸あること。ここは人に幸あらしめる國との意で、日本の國は言靈の作用によつて人に幸を與へる國だといふのである。これは善い言葉には佳い魂があり、惡い言葉には惡い魂が宿つてゐるから、お目出たい言葉を述べて、貴君の門出を祝福するといふ意を以て、言つてゐるのだ。卷十三に志貴島倭國者事靈之所佐國叙眞福與具《シキシマノヤマトノクニハコトタマノタスクルクニゾマサキクアリコソ》(三二五四)とあるのも同意である。○高光《タカヒカル》――枕詞。日とつづく。○日御朝庭《ヒノミカド》――天皇の朝廷。○神奈我良《カムナガラ》――神のままの御方即ち天皇。○愛能盛爾《メデノサカリニ》――盛に臣下を愛し給ふによつて。○天下奏多麻比志《アメノシタマヲシタマヒシ》――天下の政を執奏した大臣の意で、この廣成は、續妃に「天平十一年夏四月戊辰中納言從三位多治比眞人廣成薨、左大臣正二位島之第五子也」とあつて、左大臣たりし多治比眞人島の子である。島は續紀に「大寶元年七月壬辰左大臣正二位多治比眞人島薨云々大臣宜化天皇之玄孫多治比王之子也」とある。志の字が細井本に無いによつて、ここをアメノシタマヲシタマヒとする説もあるが、廣成は右の續紀の文に記したやうに、中納言で終つた人で、殊にこの時は未だ從四位上であつたのだから、天下奏し給ひなどと言ふ筈はない。○家子等《イヘノコト》――天の下奏し給ひし多治比の家の子孫としての意で、ここにも祖(112)先の遺勲を讃へる古代の風が見えてゐる。この句をヤツコラと訓んで、奴等と解する説もある。併し家の字をヤと訓んだ例は一寸見當らぬ上に、遣唐使として出發する者が、自己の從者を選擇することが、果してこの歌に詠み込むほどの重大なことであらうか。天の下奏し給ひと奴等選び給ふこととは、對句になりさうな内容とは考へられないから、予やその説に從ひかねる。○勅旨《オホミコト》――この下に小字で反云大命とあるのは、勅旨をオホミコトと訓めといふ註である。卷八にも戯奴變云和氣(一四六〇)とあり、卷十六にも田盧者多夫世反(三八一七)とあるから、反は訓法を示すものと見える。卷八の變は反の誤とする説もあるが、變と反と通じて用ゐ、言ひ變へ方、即ちよみ方を教へたのであらう。ともかく、注意すべき用字法である。○唐能《モロコシノ》――唐は普通モロコシとよんでゐるが、攷證にはカラクニとよんで、「唐をもろこしといへるは常のことなれど、奈良の京のころ、もろこしといひしを見ず。書紀大唐・漢・西士などをもろこしと訓みつれども、書紀の訓は、ひたぶるにうけがたきもの也。さればこのころは、唐の玄宗の代にて、唐と改まりて百年に餘りたれば、唐とさへいへば、西土《カラクニ》の事となるよりして、文字には唐と書きたれど猶からくにと訓むべきなり。そは本集十九、藤原大后賜2入唐使藤原清河1御歌に、大舶爾眞梶繋貫此吾子乎韓國邊遣伊波敝神多智《オホフネニマカチシジヌキコノアコヲカラクニヘヤルイハヘカミタチ》、また入唐副使に餞する歌に、韓國爾由伎多良波之?可敝里許牟麻須良多家乎爾美伎多?麻都流《カラクニニユキタラハシテカヘリコムマスラタケヲニミキタテマツル》など入唐使に贈れる歌にも、猶韓國とのみいへるにて、ここの唐の字もからくにと訓むべきを思ひ定むべし」と述べてゐる。これは一應尤な説で、これに從ふ學者もあるが、書紀の訓も古いもので、一概に捨て難く、支那をカラクニと言つたことは確であるが、モロコシと言はなかつたとは言ひ難い。また若しカラクニとよむならば、右の歌に韓國邊遣《カラクニヘヤル》(四一四〇)・韓國爾《カラクニニ》(四二六二)などとあるやうに、韓國と書きたいやうに思ふ。元來この唐の字は唐棣花《ハネズ》の例を除いては、集中に全く他の用例を見ないから判定に苦しむのであるが、ここには舊訓に從ふことにする。○麻加利伊麻勢《マカリイマセ》――罷りいませばの意。○神豆麻利《カムヅマリ》――神として鎭まりての意。祈年祭祝詞に「高天原爾神屡坐《タカマノハラニカムヅマリマス》云々」、續紀の宣命に「高天原神積坐皇親神魯伎神魯美命《タカマノハラニカムヅマリマススメラガムツカムロギカムロミノミコト》云々」とある。○宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》――ウシハクは主佩《ウシハク》で、主《ヌシ》として領すること。古事記上卷に、「汝之宇志波祁流葦原中國者《ナガウシハケルアシハラノナカツクニハ》、我御子之所知國言依賜《アガミコノシラサムクニトコトヨサシタマヒ》云々」とあり、集中にも船舳爾牛吐賜《フナノヘニウシハキタマヒ》(一〇二一)此山乎牛(113)掃神之《コノヤマヲウシハクカミノ》(一七五九)等なほ多い。○船舳爾《フナノヘニ》――この下に反云、布奈能閇爾とあるのも、前の勅旨《オホミコト》の下に反云大命とあると同じく、訓法を示したものである。○道引麻遠志《ミチビキマヲシ》――舊本|道引麻志遠《ミチビキマシヲ》とあるは誤。細井本による。導き申しは導くを丁寧に言つたので、廣成を敬つたもの。○倭大國靈《ヤマトノオホクニタマ》――大和國山邊郡大和に鎭座せられる大國魂の神で、大和國の産土神であつたらしい。崇神天皇卷に、「六年先v是天照大神倭大國魂二神並2祭於天皇大殿之内1然畏2其神勢1共住不v安、故以2天照大神1託2豐鍬入姫命1以2日本(ノ)大國魂神1託2渟名城入姫命1祭云々」とあつて、皇室の尊崇頗る厚かつた神である。今、大和神社として齋き奉る。○事了《コトヲハリ》――遣唐使の使命を果して。○墨繩袁播倍多留期等久《スミナハヲハヘタルゴトク》――墨繩は大工の用ゐる道具。墨壺の墨に染みた糸を繰り出して、木材の上に直線を引くやうになつてゐるから、延へるといふ。墨繩を延へたる如くは、船が航路のままに直線的に進む譬喩である。○阿遲可遠志《アチカヲシ》――舊本|阿庭可遠志《アテカヲシ》とあるが、分らない。神田本によつて改めた。智可能岬の枕詞で、恐らくチカの音を繰返したのであらう。遠志《ヲシ》はヨシと同じで、はしけやし・あなにやしなどのヤシと同じく詠歎の辭であらう。アチカの語義は審かでない。○智可能岫欲利《チカノサキヨリ》――岫は岬の誤であらう。舊訓クキとあるのでは分らない。チカノサキは値嘉の埼で、今の五島の岬であらう。古くは小近《ヲチカ》・大近《オホチカ》・遠値嘉《トホチカ》等に分れ、小近は宇久島、及び今の小値賀島で、大近は中通島、遠値嘉は福江島であらう。併し貞觀十八年|庇羅《ヒラ》郷を上近《カミチカ》郡と爲し、下近郡と共に値賀島といつたから、平戸までも、値嘉の一部をなしてゐたこともあつたのだ。この島は外國渡航の船溜所で、ここで天氣を見定めて、朝鮮海峽を渡つたのである。還路も同樣にここを目ざして來るのを常とした。國史大辭典には「航路は難波三津崎より乘船して博多に寄港し、風信を待つて支那に赴く。その道二あり。一は三韓を通過して北路を迂廻し、渤海灣に入り、山東角に上陸して、唐都長安に至る。一は直ちに楊子江に至り長安に至る。前者は初期遣唐使、後者は文武天皇以後の遣唐使の通路なるが如し」とあつて、楊子江への直線航路は、必ずこの五島の値嘉岬まで來たのである。卷十六の筑前國志賀白水郎歌十首の左註に「自2肥前國松浦縣|美彌良久《ミミラク》埼1發v舶、直射2對馬1渡海云々」とある。美彌良久埼は、今の福江島の三井樂で、これが即ち値嘉の岬かと思はれる。かやうに海峽を渡る船も、五島まで來ることもあつたのである。○大伴《オホトモノ》――御津濱とつづく枕詞。難波以南の地名であつたらしい。六三參照。○多大泊爾《タダハテニ》――直泊に。他には寄らず、直接に(114)其處へ船の碇泊する意。○都都美無久《ツツミナク》――恙無くといふに同じ。卷二十に多比良氣久於夜波伊麻佐禰都都美奈久都麻波麻多世等《タヒラケクオヤハイマサネツツミナクツマハマタセト》(四四〇八)とある。ツツミは慎みの義で病のこと。○佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》――幸く座《イマ》しての意。
〔評〕 推古天皇の十五年に小野妹子を隋に遣はされ、後、文武天皇の大寶元年に遣唐使が派遣せられるやうになつてから、彼の土の文化を輸入する爲に、四つの泊は絶えず難波の御津の濱から纜を解いた。併しこの航路の困難は實に甚しく、風波の爲に覆没漂流するものが多く、四艘が舳艫をふくんで平穩な往還の旅をするやうなことは、殆ど無いといつてもよい程であつた。だから往く者も留まる者も、この航海の安全を神に祈つたのである。この歌が徹頭徹尾、天神地祇・産土神・海邊鎭座の諸神への所願の詞であるのもその爲である。また當時に於ては、人の用ゐる言語にはそれぞれ精靈が宿つてゐて、佳い言葉を使へばそれに宿つてゐる善い魂の爲に幸福を得、これに反する時は凶難を招くものと考へられてゐた。そこでかかる旅行に出るやうな際には、謂はゆる言忌《コトイミ》が行はれ、祝福の賀辭を呈することが常となつたのである。言靈の幸はふ國と語り傳へた國民としては、これも當然なことで、この歌がおめでたい言葉を連ねてゐるのもその爲である。かうして少しの弛みもなく、難點もなく、力強く述べられてゐるのは、作者が曾て遣唐少録としての體驗から、自然に湧き起つた同情感のあらはれであらう。
 
反歌
 
895 大伴の みつの松原 かき掃きて 我立ち待たむ 早かへりませ
 
大伴《オホトモノ》 御津松原《ミツノマツバラ》 可吉掃弖《カキハキテ》 和禮立待《ワレタチマタム》 速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》
 
アナタガ唐カラオ歸リナサル時ハ〔アナ〜傍線〕私ハ(大伴)御津ノ松原ヲ掃除シテソノ濱〔三字傍線〕ニ立ツテ御着ヲ〔三字傍線〕オ待チ致シマセウ。早クオ歸リナサイ。
 
〔評〕 松原を清掃するのは、歡迎の意を表する所以であり、立ちて待つのは友の歸りを持ちわびて、落付かぬ意(115)をあらはしてゐる。友情の溢れた歌。
 
896 難波津に み船はてぬと きこえ來ば 紐解きさけて 立走りせむ
 
難波津爾《ナニハヅニ》 美船泊農等《ミフネハテヌト》 吉許延許婆《キコエコバ》 紐解佐氣弖《ヒモトキサケテ》 多知婆志利勢武《タチバシリセム》
 
難波ノ港ニ、貴方ノ〔三字傍線〕御船ガ着イタト聞キマシタナラ、私ハ嬉シクテ〔六字傍線〕着物ノ紐ヲ結ブ間モナク〔六字傍線〕、解ケタ儘デ駈ケテオ迎ニ〔三字傍線〕參リマセウ。
 
○紐解佐氣弖《ヒモトキサケテ》――紐解き放つて。衣服の紐を結ぶ暇も無くの意で、紐は上衣の紐である。二五一の挿畫參照。
〔評〕 これも友情の溢れた歌である。廣成一行は歸路は難風に遭つたものか、種子島に着いてゐるが、無事に任を果して歸京したのも、これ等の歌に宿つた言靈が助けたものであらう。併しその時憶良は既に黄泉の客となつてゐたやうだ。
 
天平五年三月一日良宅對面獻三日山上憶良 謹上
大唐大使卿記室
 
長宅對面は憶良の宅で面會した意。攷證には良宅は貴宅と同じで、尊んでいふのであらうと言つてゐる。獻三日はこの歌を獻じたのは、三月三日だといふのである。謹上の二字は行を更へて大唐大使の上に記してある本もある。前に謹通尊門記室(八一二)とあるによれば、これも上に書くべきか。大唐大使卿は多治比眞人廣成。廣成は和銅元年三月從五位下で下野守となり、七年十一月副將軍、養老三年越前守から按察使になつて能登・越中・越後三國を管した。天平四年八月遣唐大使に任ぜられ五年閏三月節刀を授る。四月難波から進發、六年十一月多禰島に來著、七年三月歸京、朝拜。四月正四位上を授かる。九年八月參議、九月中納言從三位、十一年四月戊辰薨じた人である。記室は書記。八一二參照。
 
(116)沈v痾自哀文 山上憶良作
 
痾は病に同じ。病に沈んで自らあはれんだ文である。卷六の天平五年の歌に、山上臣憶艮沈痾之時歌一首(九七八)があるから、これもその時の作であらう。
 
竊(ニ)以(ミルニ)朝佃2食(スル)山野(ニ)1者。猶無(ク)2災害1而得v度(ルヲ)v世(ヲ)、【謂d常(ニ)執(テ)2弓箭(ヲ)1不v避(ケ)2六齋(ヲ)1所(ノ)値禽獣不v論(ゼ)2大小(ヲ)孕及(ビ)不孕(ヲ)1、並(ニ)皆殺(シ)食(ヒ)、以(テ)v此(ヲ)爲(ル)v業(ト)者(ヲ)u也】晝夜釣2漁(スルニ)河海(ニ)1者、尚有(リ)2慶福1而全(クス)v經(フル)v俗(ヲ)、【謂d漁夫潜女各有(リ)v所v勤、男者手(ニ)把2竹竿(ヲ)1能(ク)釣(リ)2波浪之上(ニ)1女者腰(ニ)帶(ビ)2鑿籠(ヲ)1潜(キ)採(ル)2深潭之底(ニ)1者(ヲ)u也】況乎我從(リ)2胎生1迄2于今日1、自(ラ)有(リ)2修善之志1、曾(テ)無(シ)2作惡之心1、【謂(フ)v聞(クヲ)2諸惡莫作諸善奉行之教(ヲ)1也、】所以(ニ)禮2拜(シテ)三寶(ヲ)1、無(ク)2日(トシテ)不(ル)1v勤(メ)、【毎日誦經發露懺悔(スル)也、】敬2重(シ)百神(ヲ)1、鮮(ナシ)2夜(トシテ)有(ル)1v闕(ク)、【謂3敬2拜(スルヲ)天地諸神等(ヲ)1也、】嗟乎※[女+鬼](シキ)哉、我犯(シ)2何(ノ)罪(ヲ)1遭(ヘル)2此(ノ)重疾(ニ)1、【謂d未v知2過去所(ノ)v造(ル)之罪(ヲ)1、若(クハ)是現前所v犯(ス)之1過(カ)。無(ンバ)v犯(ス)2罪(シテ)過(ヲ)1何(ゾ)獲(ム)2此病(ヲ)1乎、】初(メ)沈(ミテ)v痾(ニ)已《イ》來、月稍多(シ)、【謂(フ)v經(ル)2十餘年(ヲ)1也、】是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力※[兀+王]羸、不2但(ニ)年老(イタルニ)1、復加(フ)2斯(ノ)病(ヲ)1。諺(ニ)曰(ク)。痛(キ)瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)。短(キ)材(ヲ)截(ルト)v端(ヲ)。此之謂也。四支不v動(カ)。百節皆疼(ミ)身體太(ダ)重(ク)猶(シ)v負(ヘルガ)2鈞石(ヲ)1。【二十四銖(ヲ)爲(シ)2一兩(ト)1。十六兩(ヲ)爲(シ)2一斤1三十斤(ヲ)爲(シ)2一鈞(ト)1。四鈞(ヲ)爲(シ)2一石(ト)1。合(セテ)一百二十斤也。】懸(リテ)v布(ニ)欲(スレバ)v立(タムト)如(ク)2折翼之鳥(ノ)1。倚(リテ)v杖(ニ)且《マサニ》歩(マムトスレバ)比(フ)2跛足之驢(ニ)1。吾以(テ)2身已(ニ)穿(タレ)v俗(ニ)、心亦累(ハサルルヲ)1v塵(ニ)。欲(シ)v知(ラムト)2禍之所v伏(スル)。祟之所(ヲ)1v隱(ルル)。龜卜之門。巫祝之室。無(シ)v不(ル)2徃(キテ)問(ハ)1。若(クハ)實、若(クハ)妄、隨(ヒ)2其所(ニ)1v教(フル)奉(リ)2幣帛(ヲ)1無(シ)v不(ル)2祈祷(セ)1然(レドモ)而彌有(リ)2増苦1。曾(テ)無(シ)2減差1。吾聞(ク)前代多(ク)有(リ)2良醫1。救2療(スト)蒼生(ノ)病患(ヲ)1。至(テハ)v若(キニ)2楡樹・扁鵲・華他・秦(ノ)和緩・葛稚川・陶隱居・張仲景等1皆是在(リシ)v世(ニ)(117)良醫無(キ)v不(ル)2除愈(セ)1也。【扁鵲姓(ハ)秦字(ハ)越人、勃海郡人也。割(キ)v胸(ヲ)採(リ)2心腸(ヲ)1而置(テ)v之(ヲ)投(スルニ)以(テス)2神藥(ヲ)1即(チ)寤(メテ)如(キ)v平也。華他字元化、沛國※[言+焦]人也、若(シ)有(ラバ)d病(ム)2結積沈重在(ルヲ)1v内(ニ)者u刳(リテ)v腸(ヲ)取(リ)v病(ヲ)縫(テ)復摩(ル)v膏(ヲ)四五日差(ス)v之(ヲ)】追(ヒ)2望(ムトモ)件(ノ)醫(ヲ)1。非2敢(テ)所(ニ)1v及(ブ)。若(シ)逢(ハバ)2聖醫神藥者(ニ)1。仰(ギ)願(クハ)割2刳(シ)五藏(ヲ)1。抄2探(シ)百病(ヲ)1。尋(ネ)2達(リ)膏肓之※[こざと+奥]處(ニ)1。【肓(ハ)※[隔の旁]也、心下(ヲ)爲(ス)v膏(ト)攻(レドモ)v之(ヲ)不v可、達(セムトシテ)v之(ニ)不v及(バ)藥(モ)不v至(ラ)焉。】欲(ス)v顯(サムト)2二竪之逃匿(ルルヲ)1【謂(フ)2晉景公疾秦醫緩視而還者1、可(シ)v謂(フ)3爲(ルヲ)2鬼(ノ)所(ト)1v殺也、】命根既(ニ)盡(キテ)終(フル)2其(ノ)天年(ヲ)1。尚爲(ス)v哀(ト)【聖人賢者一切含靈、誰(カ)免(ム)2此道(ヲ)1乎、】何(ニ)況(ムヤ)生録未v半、爲v鬼(ノ)枉殺(セラレ)顔色壯年爲(ニ)v病(ノ)横困者(セラルルヲヤ)乎。在(ル)v世(ニ)大患。孰(レカ)甚(カラム)2于此(ヨリ)1。【志恠記云、廣平(ノ)前(ノ)太守北海(ノ)徐玄方之女、年十八歳而死(ス)、其(ノ)靈謂(テ)2馮馬子(ニ)1曰(ク)、案(ズルニ)2我生録(ヲ)1當(ニ)2壽八十餘歳(ナル)1今爲(ニ)2妖鬼(ノ)1所《ラレ》2枉殺(セ)1已(ニ)經(タリ)2四年(ヲ)1、此(ニ)遇(ヒテ)2馮馬子(ニ)1乃(チ)得(タリ)2更(ニ)活(クルヲ)1是也。内教云、膽浮洲人(ハ)壽百二十歳(ト)謹(デ)案(ズルニ)此(ノ)數(ハ)非(ズ)2必(シモ)不《ズ》1v得v過(ルヲ)v此(ニ)、故(ニ)壽延經(ニ)云、有(リ)2比丘1名曰(フ)2難達(ト)1臨(テ)2命終(ル)時(ニ)1詣(デ)v佛(ニ)請(フ)v壽(ヲ)、則延(ベタリ)2十八年(ヲ)1但(シ)善(ク)爲(ムル)者(ハ)天地(ト)相畢(フ)2其壽(ヲ)1夭者業報(ノ)所v招(ク)、隨(ヒテ)2其脩短(ニ)1而爲(ル)v半(ト)也、未(シテ)v盈(タ)2斯(ノ)※[竹/卞](ニ)1而|※[しんにょう+端の旁](ニ)死去(ス)。故(ニ)曰(フ)v未v半(ナラ)也、任徴君曰、病(ハ)從(リ)v口入(ル)故(ニ)君子(ハ)節(ス)2其(ノ)飲食(ヲ)1。由(リテ)v斯(ニ)言(ヘバ)v之(ヲ)人(ノ)遇(ヘルハ)2疾病(ニ)1不2必(シモ)妖鬼(ナラ)1。夫(レ)醫方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知(リ)易(ク)行(ヒ)難(キ)之鈍情、三(ノ)者盈(チ)v目(ニ)滿(ツルコト)v耳(ニ)由來久(シ)矣。抱朴子曰(ク)、人但不v知(ラ)2其(ノ)當(キ)v死(ス)之日(ヲ)1。故(ニ)不(ル)v憂(ヘ)耳、若(シ)誠(ニ)知(ラ)2羽※[隔の旁+羽]可(ヲ)1v得v延(ブルヲ)v期(ヲ)者、必(ズ)將(ニ)v爲(サム)v之(ヲ)。以(テ)v此(ヲ)而觀(レバ)乃(チ)知(ル)我(ガ)病(ハ)蓋(シ)斯(レ)飲食(ノ)所(ニシテ)v招(ク)而不v能(ハ)2自(ラ)治(スル)1者乎。】帛公略説(ニ)曰(ク)、伏(テ)思(ヒ)自(ラ)※[蠣の旁](スニ)以(テス)2斯(ノ)長生(ヲ)1。生(ハ)可(キ)v貪(ル)也。死(ハ)可(キ)v畏(ル)也。天地之大徳(ヲ)曰(フ)v生(ト)。故(ニ)死人(ハ)不v及(カ)2生鼠(ニ)1。雖(モ)v爲(リト)2王侯1。一日絶(タバ)v氣(ヲ)積(ムコト)v金(ヲ)如(クナルモ)v山(ノ)誰(カ)爲(サム)v富(メリト)哉。威勢如(クナルモ)v海(ノ)誰(カ)爲(サム)v貴(シト)哉。遊仙窟(ニ)曰。九泉下(ノ)人(ハ)一錢(ニ)不(ト)v直(セ)。孔子曰(ク)、受(ケテ)2之(ヲ)於天(ニ)1不(ル)3可2變易(ス)1者(ハ)形也。受(ケテ)2之(ヲ)於命1不v可v請(フ)v益(ヲ)者(ハ)壽也(ト)。【見(エタリ)2鬼谷先生相人書(ニ)1、】故(ニ)知(ル)2生之極(メテ)貴(ク)命之至(リテ)重(キヲ)1欲(シテ)v言(ハムト)言窮(ル)。何(ヲ)以(テ)言(ハム)v之(ヲ)。欲(シテ)v慮(ラムト)慮絶(ユ)。何(ニ)由(テカ)慮(ラム)v之(ヲ)。惟以《オモムミレバ》人無(ク)2賢愚(ト)1世無(ク)2古今(ト)1咸悉(ク)嗟歎(ス)。歳月競(ヒ)流(レテ)晝夜不v息(マ)【曾子曰(ク)往而不v反者(ハ)年也。宣尼臨(メル)v川(ニ)之嘆(モ)亦是矣也。】老疾相催(シテ)朝夕侵(シ)動(ク)。一代(ノ)歡樂未(ダ)v盡(キ)2席前(ニ)1。(118)【魏文惜(メル)2時賢(ヲ)1詩(ニ)曰(ク)。未v盡(サ)2西苑(ノ)夜(ヲ)1。劇(カニ)作(ル)2北望(ノ)塵(ト)1也。】千年(ノ)愁苦更(ニ)繼(グ)2座後(ニ)1。【古詩(ニ)云(フ)。人生不v滿(タ)v百(ニ)、何(ゾ)懷(ク)2千年(ノ)憂(ヲ)1矣、】若(キハ)2夫(ノ)群生品類(ノ)1。莫(シ)v不(トイフコト)d皆以2有(ル)v盡之身(ヲ)1。竝(ニ)求(メ)c無(キ)v窮(リ)之命(ヲ)u。所以(ニ)道人方士自(ラ)負(ヒテ)2丹經(ヲ)1入(リ)2於名山(ニ)1、而(シテ)合(スルヲ)v藥(ヲ)之者養(ヒ)v性(ヲ)怡(バシメ)v神(ヲ)以(テ)求(ム)2長生(ヲ)1。抱朴子(ニ)曰(ク)、神農云(フ)百病不(ムバ)v愈(エ)安(ゾ)得(ムト)2長生(ヲ)1。帛公又曰(ク)、生(ハ)好物也。死(ハ)惡物也。若(シ)不幸(ニシテ)而不(ル)v得2長生(ヲ)1者(ハ)猶以(テ)d生涯無(キ)2病患1者(ヲ)u、爲(サム)2福大(ナリト)1哉。今吾爲v病見《サレ》v惱不v得2臥坐(スルコトヲ)1。向(ヒ)v東(ニ)向(ヒ)v西(ニ)莫(シ)v知(ルコト)v所(ヲ)v爲(ス)。無(キ)v福至(リテ)甚(シキ)※[手偏+總の旁](テ)集(ル)2于我(ニ)1。人願(ヘバ)天從(フ)。如(シ)有(ラバ)v實者。仰(ギ)顧(ハクハ)頓(ニ)除(キ)2此(ノ)病(ヲ)1頼《サイハヒニ》得(ム)v如(クナルヲ)v平。以(テ)v鼠(ヲ)爲(ス)v喩(ト)。豈不(ラム)v愧(ヂ)乎。【已(ニ)見(ユ)v上(ニ)也、】
 
○竊以――竊かに思ひ見るに。○朝夕佃2食山野1者――佃は易繋辭釋文に取v獣曰v佃とあり、佃食は獵りて食すること、夕の字舊本に無いのは脱ちたのである。西本願寺によつて補つた。○不v避2六齋1――六齋は雜令に「九月六齋日、公私皆斷2殺生1」とあり、義解に「謂六齋、八日十四日十五日二十三日二十九日三十日」とある。○所v値――舊本、値を盾に作る。神田本によつて改む。値は遇ふに同じ。○潜女――海中に入つて魚介を捕へる女。海女。○鑿籠――鑿《ノミ》と籠。鑿は海底の岩に附着した貝類を捕へる爲である。○諸惡莫作、諸善奉行――法句經述佛品の偈に諾惡莫作、諸善奉行、自淨其意、是諸佛教とある。○三寶――佛法僧。○鬢髪斑白――斑は舊本班に作つてゐるが、西本願寺本その他斑に作つた本が多い。斑白は所謂二毛で、即ち胡麻鹽頭である。新考にはこれによつて、七十有四とあるを疑つて、五十有四の誤であらうと言つてゐるが、必ずしもさうは斷じ難い。○※[兀+王]羸――弱くて瘠せてゐること。○痛瘡灌v鹽、短材戴v端――この卷に伊等能伎提痛伎瘡爾波鹹鹽遠灌知布何其等久《イトノキテイタキキズニハカラシホヲソソグチフガゴトク》(八九七)とあり、伊等乃伎提短物乎端伎流等云之如《イトノキテミジカキモノヲハシキルトイヘルガゴトク》(八九二)とあると同意である。この頃一般に行はれた諺と見える。○四支――四肢。手足。○百節――體の總べての關節。○懸v布欲v立――梁から吊した布につかまつて、立たうとしても。○跛足――チン(119)バ。○穿v俗――俗世に穿たれ、俗人と共に住む意か。○心亦――亦の字舊本思に作るは誤。神田本による。○然而彌――舊本彌を禰に作るは誤。神田本による。○楡※[木+付]――※[木+付]を舊本樹に作るは誤。細井本による。楡※[木+付]は黄帝の時の醫。○扁鵲――史記扁鵲傳に、扁鵲者、勃海郡鄭人也、姓秦氏、名越人とある。○華他――後漢書方術傳に、華他、字元化、沛國※[言+焦]人也とある。○秦和緩――秦の言、和と緩と二人のこと。○葛稚川――晋書列傳に、葛洪、字稚川、丹陽句容人也とある。名欝。舊本葛を※[草がんむり/易]に誤る。神田本による。○陶隱居――梁書列傳に、陶弘景、字通明丹陽秣陵人也とある。名言。○張仲景――漢書に、張機、字仲景、南陽人也とあり、有名な傷寒論の作者。○字元化――舊本元を無に誤る。神田本によつて改む。○尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1――左氏成公傳に、「晋景公疾病、求2言于秦1、秦伯使2醫緩爲1v之、未v至、公夢疾爲2二豎子1、曰彼良醫也、懼傷v我、焉逃v之、其一曰、居2肓之上膏之下1、若v我何、醫至曰、疾不v可v爲也、在2肓之上膏之下1、攻v之不v可、達v之不v及、藥不v至焉、不v可v爲也、公曰、良醫世、厚爲2之禮1而歸之」とある。下の註文はこの文によつて書いてゐる。○一切含靈――一切の人間。含靈は靈を有するもの。○生録――天壽。死を不禄といふに對するか。○志恠記――古書の名。今傳はらぬやうである。舊本、ここから而不能自治者乎までを、一字下げて記してあるが、西本願寺本によつて小字二行とした。○遇2馮馬子1――舊本遇を過に作るは誤。神田本による。○内教――佛教の道。ここは何かの經をさしたのである。○瞻浮州――佛語。須彌山の南方にある大洲。南瞻浮州とも閻浮ともいふ。即ち吾人の住する世界。舊本瞻を膽に誤つてゐる。神田本による。○壽延經――經の名であらうが、明らかでない。○善爲者――爲善者の誤とする説もある。○修短――長短に同じ。○未盈斯※[竹/卞]――舊本※[竹/卞]を竿に作るは誤。神田本による。※[竹/卞]は算に同じ。○任徴君――徴君は尊稱と見える。略解に「梁の任肪字元昇といへる人也」とある。○三者盈v目滿v耳――「三者は飲食聲色をいふなるべし」と攷證にある。○抱朴子――晋の葛稚川の著。○羽※[隔の旁+羽]――※[隔の旁+羽]は羽根の莖。ここは空中を飛行する仙人。○帛公略説――古書の名であらうが、今明らかでない。○遊仙窟――古く渡來した支那小説の名。張文成の作。この書の影響は本集中所々に見えてゐる。○一錢不直――一錢にも値せずの意。○鬼谷先生相人書――鬼谷先生は蘇秦。この書は蘇秦の著であらうが、今明かでない。(120)舊本谷を各に誤る。神田本によつて改む。○宣尼――孔子。論語に「子在2川上1曰逝者如v斯夫、不v舍2晝夜1。」とある。○魏文――魏の文帝か。○未盡西苑夜――舊本苑を花に誤る。西本願寺本による ○劇作北望塵也――望を※[亡+おおざと]に作る本もある。望を※[亡+おおざと]に通じて用ゐたか。○合藥之者――舊本藥を樂に誤る。神田本による。○帛公又曰――舊本公を出に誤る。神田本による。○以v鼠爲v喩――毛詩に「相v鼠有v皮人而無v儀、不v死何爲」とあるを指したのであらう。○已見v上也――この四字は後人の加へた註か。活字無訓本にはない。
 
悲2歎(スル)俗道(ノ)假合、即(チ)離(レテ)易(ク)v去(リ)難(キヲ)v留(リ)1詩一首并序
 
俗道假合は世間の人間の意。假合は四大が假に合した身。人身を形成する四大は直に離れて、世を去り易く留り難いことを悲み歎く詩。
 
竊(ニ)以(ルニ)釋慈之示教、【謂2釋氏慈氏1】先(ニ)開(キ)2三歸【謂(フ)v歸2依(スルヲ)佛法僧(ニ)1】五戒(ヲ)1。而化(ス)2法界(ヲ)1。【謂2一(ニ)不殺生、二(ニ)不偸盗、三(ニ)不邪淫、四(ニ)不妄語、五(ニ)不飲酒1也】周孔之垂訓(ハ)前(ニ)張(リ)2三綱【謂2君臣父子夫婦1】五教(ヲ)1、以(テ)濟(フ)2邦國(ヲ)1。【謂父義、母慈、兄友、弟順、子孝、】故(ニ)知(ル)引導雖(モ)v二(ナリト)得(ルハ)v悟(ヲ)惟一也(ヲ)、但、以《オモンミレバ》世無(シ)2恒質1所以(ニ)陵谷更變(ス)。人無(シ)2定期1、所以(ニ)壽夭不v同(ジカラ)。撃目《マタタキ》之間、百齡已(ニ)盡(キ)、申臂之頃、千代亦空(シ)。且(タニ)作(レドモ)2席上之主(ト)1夕(ニハ)爲(ル)2泉下之客(ト)1。白馬走(リ)來(レドモ)、黄泉何(ゾ)及(バム)。隴上(ノ)青松(ハ)空(ク)懸(ケ)2信釼(ヲ)1、野中白楊(ハ)但吹(カル)2悲風(ニ)1。是(ニ)知(ル)世俗本無(ク)2隱遁之室1、原野唯有(ルコトヲ)2長夜之臺1。先聖(ハ)已(ニ)去(リ)、後賢不v留。如《モシ》有(ラバ)2贖(ヒテ)而可(キ)v免(ル)者1、古人誰(カ)無(カラム)2價金1乎。未v聞d獨(リ)存(ヘテ)遂(ニ)見(ル)2世(ノ)終1者u。所以(ニ)維摩大士(ハ)疾(ミ)2玉體(ヲ)于方丈(ニ)1釋迦能仁(ハ)掩(ヘリ)2(121)金容(ヲ)乎雙樹(ニ)1内教(ニ)曰(ク)不(バ)v欲(セ)2黒闇之後(ニ)來(ルヲ)1、莫(シ)v入(ルルコト)2徳天之先(ヅ)至(ルニ)1【徳天者生也黒闇者死也】故(ニ)知(ル)生(レバ)必(ズ)有(ルコトヲ)v死、死若(シ)|不《ラバ》v欲(セ)不v如(カ)v不(ルニ)v生(レ)。況乎|縱《タトヒ》覺(ルトモ)2始終之恒數(ヲ)1何(ゾ)慮(ラム)2存亡之大期(ヲ)1者也。俗道變化(ハ)猶2撃目1。人事(ノ)經紀如2申臂1。空(シク)與《ト》2浮雲1行(ク)2大虚(ニ)1。心力共(ニ)盡(キテ)無(シ)v所v寄(ル)。
 
○釋慈之示教――釋は釋迦、慈は慈氏、即ち彌勒。○周孔之垂訓――周は周公、孔は孔子。○以濟2邦國1――舊本以齊濟郡國とある。今、西本願寺本による。○世無2恒質1――舊本無を元に誤る。神田本による。○無2定期1――舊本無を元に誤る。神田本による。○撃目之間――またたきの間。瞬間。○申臂之頃――少しの時間を臂を伸ばす間に譬へたもの。舊本、頃を項に誤る。代匠記の説によつて改む。○泉下之客――舊本客を容に誤る。神田本による。○隴上青松空懸2信釼1――季札が劍を徐君の墓の樹に懸けた故事。隴は墓。信釼は信義を守つて、死者に贈る劍。○野中白楊但吹2悲風1――文選古詩に、「古墓犂爲v田、松柏摧爲v薪、白楊多2悲風1蕭々愁2殺人1」とあるのをとつた。○長夜之臺――墓所をいふ。○維摩大士疾2玉體于方丈1――維摩居士方丈の室にあつて、病の床に臥す。維摩經に委しく出てゐる。于を舊本、千に誤る。神田本による。○釋迦能仁掩2金容乎雙樹1――釋迦が娑羅双樹の下で、涅槃に入つたこと。能仁は釋迦の譯。なし能ふ人の意といふ。○内教曰――涅槃經聖行品をさしてゐる。七九四の前の序文中の黒闇の註を見よ。○不v如v不v生――如を舊本知に誤つてゐる。西本願寺本によつて改む。○俗道變化猶2撃目1――世間の變化は瞬間に起る。これより以下七言絶句。○人事經紀如2申臂1――人事の生活は臂を伸すやうな短時間である。○空與2浮雲1行2大虚1――空しく浮雲と共に虚空を歩いて。○心力共盡無v所v寄――心も刀も共に盡きて寄る所がない。唯死あるのみ。
 
老身重病經v年辛苦、及思2兒等1歌七首【長一首・短六首】
 
ここは歌七首として、更に長歌短歌に分つて小書してあるのは、他の例と異つてゐる。次の戀2男(122)子名古日1歌も同樣になつてゐる。
 
897 たまきはる うちの限は 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世の中の 憂けく辛けく いとのきて 痛き瘡には から鹽を 灌ぐちふが如く ますますも 重き馬荷に 表荷打つと 云ふことの如 老いにてある 吾が身の上に 病をら 加へてあれば 晝はも 歎かひくらし 夜はも 息づきあかし 年長く 病みし渡れば 月累ね 憂ひ吟ひ ことごとは 死ななと思へど 五月蠅なす 騷ぐ兒どもを うつてては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひわづらひ 哭のみし泣かゆ
 
靈剋《タマキハル》 内限者《ウチノカギリハ》【謂瞻浮州人壽一百二十年也】 平氣久《タヒラケク》 安久母阿良牟遠《ヤスクモアラムヲ》 事母無《コトモナク》 裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》 世間能《ヨノナカノ》 宇計久都良計久《ウケクツラケク》 伊等能伎提《イトノキテ》 痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》 鹹鹽遠《カラシホヲ》 灌知布何其等久《ソソグチフガゴトク》 益益母《マスマスモ》 重馬荷爾《オモキウマニニ》 表荷打等《ウハニウツト》 伊布許等能其等《イフコトノゴト》 老爾弖阿留《オイニテアル》 我身上爾《ワガミノウヘニ》 病遠等《ヤマヒヲラ》 加弖阿禮婆《クハヘテアレバ》 晝波母《ヒルハモ》 歎加比久良思《ナゲカヒクラシ》 夜波母《ヨルハモ》 息豆伎阿可志《イキヅキアカシ》 年長久《トシナガク》 夜美志渡禮婆《ヤミシワタレバ》 月累《ツキカサネ》 憂吟比《ウレヘサマヨヒ》 許等許等波《コトゴトハ》 斯奈奈等思騰《シナナトオモヘド》 五月蠅奈周《サバヘナス》 佐和久兒等遠《サワグコドモヲ》 宇都弖弖波《ウツテテハ》 死波不知《シニハシラズ》 見乍阿禮婆《ミツツアレバ》 心波母延農《ココロハモエヌ》 可爾可久爾《カニカクニ》 思和豆良比《オモヒワヅラヒ》 禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》
 
人間ノ壽命ハ百二十歳ダト云フコトダハ〔人間〜傍線〕、(靈剋)生キテヰル間ハ平穩デ安泰デアリタイノニ、無事デ凶事モナクアリタイモノダノニ、世間ノ厭ナ辛イナラハシトシテ、唯サヘ非常ニ痛イ瘡ニハ鹹イ鹽ヲ注イデ愈苦シイ思ヒヲサセル〔イデ〜傍線〕トイフ諺ガアル如ク、或ハ又唯サヘヒドク重イ荷ヲ馬ニツケテ、ソノ上ニ又上荷ヲツケルト云フ諺ノ通リニ、年ヲトツタ私ノ身體ノ上ニ、病氣ヲサヘ加ヘタノデ、晝ハ、嘆イテ一日ヲ暮シ、夜ハ吐息ヲツキナガラ夜ヲ明カシテ、永年病氣ヲシテヰルノデ、幾月モ幾月モ憂ヒ叫ンデ、事毎ニツラクテ〔四字傍線〕死ナウト思フガ、併シ〔二字傍線〕、(五月蠅威)騷イデヰル子供ヲ打チ棄テテハ死ヌニモ死ナレズ、サウカト言ツテ辛イコトヲ現在目前ニ〔サウ〜傍線〕見(123)ルト、心ガ燃エルヤウデ苦シイ〔三字傍線〕。アレヤコレヤト、種々煩悶シテ聲ヲ出シテオノヅカラ〔五字傍線〕泣カレルバカリデアル。
 
○靈剋《タマキハル》――枕詞。内《ウチ》とつづけてある。四參照。○内限者《ウチノカギリハ――ウチは息《イキ》と通ずる語で、人の壽命をいふ。この句の下の註は、瞻浮州即ちこの世界の人の壽命は百二十歳だといふので、ウチノカギリハは百二十歳の間はの意となる。前の沈痾自哀文中にも「内教云、瞻浮州人壽百二十歳」とあつて、これは作者の自註である。○裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》――細井本に母裳無阿良牟遠《モモナクアアムヲ》とあるによる説もあるが、舊本のままでよいであらう。略解に裳は喪の誤としてゐる。喪はわざはひ、凶事の意である。伊麻太爾母毛奈久由可牟登《イマダニモモナクユカムト》(三六九四)多婢爾弖毛母奈久波也許登《タビニテモモナクハヤコト》(三七一七)の例もある。○宇計久都良計久《ウケクツラケク》――憂く辛くを延ばした形で、憂く辛きことはの意。世間之厭家口郡良家苦《ヨノナカノウケクツラケク》(四二一四)ともある。○伊等能伎提《イトノキテ》――最除きて。八九二參照。○痛伎瘡爾波鹹鹽遠灌知布何其等久《イタキキズニハカラシホヲソソグチフガゴトク》――沈痾自哀文に諺曰痛瘡灌v鹽、短材截V端、此之謂也とあるのと同意。○重馬荷爾表荷打等《オモキウマニニウハニウツト》――重荷を積んだ馬に、更にその上に荷を積むといふやうに。所謂泣面に蜂の意。○老爾弖阿留《オイニテアル》――ニは助動詞ヌの連用形、テは助動詞ツの連用形。この句は年をとつたの意。○病遠等《ヤマヒヲラ》――ラは助詞。ヤマヒヲトと訓む説もあるが、ここはトとよんでは意味がわからぬやうに思はれる。○愁吟比《ウレヘサマヨヒ》――八九二參照。○許等許等波《コトコトハ》――異事《コトコト》は、即ち子等を思ふ外の事はと見る説と、事毎はとして、何事につけてもの意と見る説とある。後説がよいであらう。○斯奈奈等思騰《シナナトオモヘド》――死ななは死ななむに同じ。死にたいの意。○五月蠅成《サバヘナス》――枕詞。騷ぐにつづく。四七八參照。○宇都弖弖波《ウツテテハ》――打棄ててはの略。○禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》――聲を出して泣かれるばかりである。ユはルの古形。可能の助動詞の自然相に用ゐられたもの。
〔評〕 老と病とに苦しめられてゐる有樣を、痛き瘡に鹹鹽を注ぐとか、重き馬荷に上荷を打つとかいふやうな諺を以て譬喩とし、日夜年月を經て悲惨な生治をし、寧ろ死を希ふけれども、兒を思へば死することも出來ないと、涙にくれる悲痛な有樣が、深酷に赤裸々に叙べられて、世を呪ふやうな陰惨な怨情が人に迫るのを覺える作である。
 
(124)反歌
 
898 慰むる 心はなしに 雲がくり 鳴き行く鳥の ねのみし泣かゆ
 
奈具佐牟留《ナグサムル》 心波奈之爾《ココロハナシニ》 雲隱《クモガクリ》 鳴往鳥乃《ナキユクトリノ》 禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》
 
私ハ自分ノ辛イコトヲ〔十字傍線〕慰メル心ハナクテ、タダ雲ニ隱レテ鳴イテ行ク鳥ガ、姿ハ見エナイデ聲バカリ聞エ〔鳥ガ〜傍線〕ルヤウニ聲ヲ出シテ泣イテバカリヰル。
 
○奈具佐牟留心波奈之爾《ナグサムルココロハナシニ》――慰める心がないといふのは、心を慰めることが出來ないといふのだ。名草漏心莫二如是耳戀也度月日殊《ナグサムルココロハナシニカクノミシコヒヤワタラムツキニヒニケニ》(二五九六)・奈具佐牟流許己呂波奈之爾《ナグサムルココロハナシニ》(二九六九)などの用例がある。
〔評〕 形式も内容も型にはまつたやうなところがあるが、雲がくれて鳴き行く鳥の譬喩はよく出來てゐる。
 
899 術も無く 苦しくあれば 出ではしり 去ななと思へど 兒らにさやりぬ
 
周幣母奈久《スベモナク》 苦志久阿禮婆《クルシクアレバ》 出波之利《イデハシリ》 伊奈奈等思騰《イナナトオモヘド》 許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》
 
私ハコノ世ノ中ガ〔八字傍線〕何トモ仕樣ガナイホド苦シイノデ、家ヲ〔二字傍線〕駈ケ出シテ、何處カヘ〔四字傍線〕去ツテシマヒタイト思フケレドモ、子供ラニ引カサレテサウモ出來ナイ〔八字傍線〕。
 
○伊奈奈等思騰《イナナトオモヘド》――伊奈奈《イナナ》は去にたいの意。○許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》――佐夜利《サヤリ》は障り。兒らに妨げられたの意。
〔評〕 子煩惱の作者の面目があらはれてゐる。長歌の中には、死ななと思へどとあるに、これには去ななと思へどと、穩やかに言つてある。
 
900 冨人の 家の子どもの 着る身なみ 腐し棄つらむ 絹綿らはも
 
冨人能《トミビトノ》 家能子等能《イヘノコドモノ》 伎留身奈美《キルミナミ》 久多志須都良牟《クダシスツラム》 ※[糸+包]綿良波母《キヌワタラハモ》
 
冨ンダ人ノ家ノ子供ガ、品物バカリアツテモ〔九字傍線〕着ル身體ガナイノデ、腐ラシ捨テテシマフダラウトコロノ着物ヤ(125)綿ナドヨ。アア惜シイモノダ〔八字傍線〕。自分ノ子供ニ着セテヤリタイ〔アア〜傍線〕。
 
○伎留美奈美《キルミナミ》――着る身がないので。着物ばかり澤山あつて、嫡きれないのを着る身無みといつたのである。○※[糸+包]綿良波母《キヌワタラハモ》――※[糸+包]はアシギヌ。紬の類。キヌと訓むべきである。舊本、袍とあるは説。類聚古集による。波母《ハモ》は詠歎の助詞。
〔評〕 自分が貧の爲に、子どもらに衣服も充分整へられないのを嘆いて、富者を羨んだのである。この長歌にも前の二首の反歌にも、貧を嘆く趣がないのに、これと次の歌とは、貧を呪ふ意味であるところから、この二首を前の貧窮問答歌の反歌が、紛れ込んだものと見る説が多い。それも一理はあるが、ここの反歌は連作のやうになつて、子どもを思ふ情が詠まれてゐるのであるから、この二首を切り放つことは出來ないと思はれる。
 
901 あらたへの 布きぬをだに 着せがてに かくや歎かむ せむすべを無み
 
麁妙能《アラタヘノ》 布衣遠※[こざと+施の旁]爾《ヌノキヌヲダニ》 伎世難爾《キセガテニ》 可久夜歎敢《カクヤナゲカム》 世牟周弊遠無美《セムスベヲナミ》
 
粗々シイ布ノ着物ヲサヘモ子供ラニ〔四字傍線〕着セルコトガ出來ナイデ、何トモ仕樣ガナイノデ、タダ〔二字傍線〕カウシヲ嘆イテヰルコトダラウカ。困ツタコト〔五字傍線〕ダ。
 
○麁妙能《アラタヘノ》――枕詞として用ゐられることもあるが、ここはさうではなく、粗々しい織物を言つたのである。五〇參照。○可久夜歎敢《カクヤナゲカム》――敢は韻鏡、外轉第四十開、咸攝の文字でm音尾であるから、カムの假名に用ゐられたのだ。集中唯一の例である。
〔評〕 前の歌に絹綿を羨んだに對して、これは麁妙の布衣も着せ得ない、貧を嘆いてゐる。子といふ語がないのは、前の歌に讓つたので、連作にはかうしたものがいくらもある。
 
902 みなわなす 脆き命も 栲繩の 千尋にもがと 願ひ暮しつ
 
水沫奈須《ミナワナス》 微命母《モロキイノチモ》 栲繩能《タクナハノ》 千尋爾母何等《チヒロニモガト》 慕久良志都《ネガヒクラシツ》
 
水ノ泡ノヤウニ消エヤスイ〔六字傍線〕脆イ命デハアルガ、子供ノコトヲ考へルト死ヌニモ死ナレズ〔子供〜傍線〕(栲繩能)長ク續クヤ(126)ウニト願ツテ日ヲ送ツテヰル。
 
○微命母《モロキイノチモ》――代匠記はイヤシキイノチとある。微の字は、前の遊松浦河序にも草菴之微者とあつて、イヤシキと訓むべき文字である。集中の歌には伊夜之吉阿何微《イヤシキアガミ》(八四八)の如く音假名に用ゐた例はあるが、訓に用ゐたのは、この歌のみで、他に比較すべきものがないのは遺憾である。併し初句からのつづきは、イヤシキといふのは穩かでなく、モロキと言ひたいところであるから、義訓と見て舊訓に從はうと思ふ。續古今集戀二、式乾門院御匣、「思ひ川逢瀬までとや水沫なすもろき命も消えのこるらむ」とある。○栲繩能《タクナハノ》――枕詞。千尋とつづく。○千等爾母何等《チヒロニモガト》――千尋は唯、長い譬喩に言つたので、尋《ヒロ》は兩手を廣げた長さ。約六尺。モガは願ふ助詞。
〔評〕 人生を泡沫に比するのは佛教的修辭である 憶良が佛の經典に通曉してゐたことは、前の悲2歎俗道假合即離易v去雛1v留詩l首並序その他彼の作品に屡見えるところである。この歌にも子どものことは述べてないが、前のつづきで、子供の爲に長き命を欲する意が明らかになつてゐる。命の長いことを、すぐに千尋と言つたのは少し變つた點であらう。
 
903 しつたまき 數にもあらぬ 身にはあれど 千年にもがと 思ほゆるかも
 
倭文手纏《シヅタマキ》 數母不在《カズニモアラヌ》 身爾波在等《ミニハアレド》 千年爾母何等《チトセニモガト》 意母保由留加母《オモホユルカモ》【去神龜二年作v之但以v類故更載2於茲1】
 
私ハ〔二字傍線〕(倭文手纏)人間ノ數〔四字傍線〕ニハ入ラナイヤウナツマラナイ身デハアルガ、子供ノコトヲ思ヘバ〔九字傍線〕千年モ長生キスルヤウニト願ハレルワイ。子供ノ爲ニ長生ガシタイ〔子供〜傍線〕。
 
○纏文手纏《シヅタマキ》――枕詞。數母不在《カズニモアラヌ》とつづく。卷四の六七二にもこれと同樣の句があつて、賤しき手玉と解繹して置いた。併し倭文《シヅ》はシドリともいふ粗末な織物で、手纏は手に纏く飾と見て、賤者が珠玉のかはりに、倭文を手纏としたので、數ならぬとか、賤しきとかの枕詞となるのだらうと、新解に出てゐるのは、一説として面白いからここに掲げて近く。なほ果して賤者がかくの如き手纏を用ゐたか否か、考古學上の證明が欲しいもので(127)ある。舊本、文を父に誤る。類聚古集による。○去神龜二年作之云々――下に小字で二行に書いてあるのは、神龜二年にこれを作つたので、この時一緒に詠んだのではないが、同じ類の歌であるから、ここに載せて置いたといふので、作者の自から記したものである。
 
天平五年六月丙申朔三日戊戌作
 
以上の長歌一首と短歌六首(内一首舊作)を製作した日を記したもの。彼は七十四の老齡で病の床に呻吟しての作である。
 
戀(フル)3男子名(ハ)古日(ヲ)1歌三首【長一首短二首】
 
作者の名は記してないが、山上憶良の作たることは、その用語と内容とによつて明らかである。
 
904 世の人の 貴み願ふ 七種の 寶も我は 何せむに 吾が中の 生れ出でたる 白玉の 吾が子古日は 明星の 明くるあしたは 敷妙の 床のべ去らず 立てれども 居れども 共に戯れ 夕づつの 夕べになれば いざ寢よと 手をたづさはり 父母も うへはなさかり さきくさの 中にを寢むと うつくしく しが語らへば 何時しかも 人となり出でて 惡しけくも 善けくも見むと 大船の 思ひたのむに 思はぬに 横しま風の にふふかに 覆ひ來れば せむ術の たどきを知らに 白妙の たすきを掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ乞ひのみ 國つ神 伏して額つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり 吾が乞ひのめど しましくも よけくは無しに ややややに かたちつくほり あさなさな 言ふこと止み たまきはる 命絶えぬれ 立ちをどり 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持たる 吾が兒飛ばしつ 世の中の道
 
世人之《ヨノヒトノ》 貴慕《タフトミネガフ》 七種之《ナナクサノ》 寶母我波《タカラモワレハ》 何爲《ナニセムニ》 和我中能《ワガナカノ》 産禮出有《ウマレイデタル》 白玉之《シラタマノ》 吾子古日者《ワガコフルヒハ》 明星之《アカホシノ》 開朝者《アクルアシタハ》 敷多倍乃《シキタヘノ》 登許能邊佐良受《トコノベサラズ》 立禮杼毛《タテレドモ》 居禮杼毛《ヰレドモ》 登母爾戯禮《トモニタハフレ》 夕星乃《ユフヅヅノ》 由布弊爾奈禮婆《ユフベニナレバ》 伊射禰余登《イザネヨト》 手乎多豆佐波里《テヲタヅサハリ》 父母毛《チチハハモ》 表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》 三枝之《サキクサノ》 中爾乎禰牟登《ナカニヲネムト》 愛久《ウツクシク》 志我可多良倍婆《シガカタラヘバ》 何時可毛《イツシカモ》 比等等奈理伊弖天《ヒトトナリイデテ》 安志家口毛《アシケクモ》 與家久母見牟登《ヨケクモミムト》 大船乃《オホブネノ》 於毛比多能無爾《オモヒタノムニ》 於毛波奴爾《オモハヌニ》 横風乃《ヨコシマカゼノ》 爾布敷可爾《ニフフカニ》 覆來禮婆《オホヒキタレバ》 世武須便乃《セムスベノ》 多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》 志路多倍乃《シロタヘノ》 多須吉乎可氣《タスキヲカケ》 麻蘇鏡《マソカガミ》 弖爾登利毛知弖《テニトリモチテ》 天神《アマツカミ》 阿布藝(128)許比乃美《アフギコヒノミ》 地祇《クニツカミ》 布之弖額拜《フシテヌカヅキ》 可加良受毛《カカラズモ》 可賀利毛《カカリモ》 神乃末爾麻仁等《カミノマニマニト》 立阿射里《タチアザリ》 我乞能米登《ワガコヒノメド》 須曳毛《シマシクモ》 余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》 漸漸《ヤヤヤヤニ》 可多知都久保里《カタチツクホリ》 朝朝《アサナサナ》 伊布許登夜美《イフコトヤミ》 靈剋《タマキハル》 伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》 立乎杼利《タチヲドリ》 足須里佐家婢《アシズリサケビ》 伏仰《フシアフギ》 武禰宇知奈氣吉《ムネウチナゲキ》 手爾持流《テニモタル》 安我古登婆之都《アガコトバシツ》 世間之道《ヨノナカノミチ》
 
仲間ノ人ガ貴ンデ欲ガル七寶モ私ニハ何ニナラウカ。ソンナ物ニハ用ハナイ〔ソン〜傍線〕。我等夫婦〔三字傍線〕ノ中ニ生レ出タ白玉ノヤウナ大事ナ可愛イ〔六字傍線〕私ノ子ノ古日ハ、(明星之)夜ガ明ケタ朝ハ(敷多倍乃)床ノアタリヲ去ラナイデ、立ツテヰテモ座ツテヰテモ、共ニ戯レテヰル。(夕星乃)夕方ニナルト、サア寢ナサイト言ツテ親ノ〔五字傍線〕手ヲトツテ父サンモ母サンモ側カラ放レナサルナ、私ハ父サント母サンノ〔私ハ〜傍線〕(三枝之)中ニ寢マセウヨト、可愛ラシク其ノ子ガ言フノデ、私ハ何時ニナツタラ成人シテドンナ人ニナルカ〔八字傍線〕良クモ惡シクモ生ヒ先ヲ〔四字傍線〕見ヨウト、(大船乃)頼ミニ思ツテヰタノニ、思ヒモヨラズ横シマナ風ガ遽カニ襲ツテ來テ子供ガ病氣二襲ハレ〔テ子〜傍線〕タノデ、何トモスル方法ガナイノデ、(志路多倍乃)襷ヲカケ鏡ヲ手ニ執リ持ツテ、天ノ神樣ヲ仰イデ祷ツテ、地ノ神樣ニ伏シテ禮拜シテ神ノ惠ニ〔四字傍線〕カカツテ癒ルノモ癒ラナイノモ、神樣ノ御心次第デスト、立チ騷イデ、私ガ乞ヒ祈ルガ、一寸ノ間モ良イ樣子ハナクテ、ダンダント姿ガヤツレテ行ツテ、毎朝毎朝言フ言葉モ言ハナイヤウニナツテ、終ニハ〔三字傍線〕(靈剋)命ガ絶エテシマツタノデ、立チ踊リ足ズリヲシテ、叫ンデ、打伏セニナツタリ、仰向キニナツタリシテ、胸ヲ叩イテ嘆イテ、私ノ掌中ノ玉ト愛シンデヰタ〔私ノ〜傍線〕私ノ子ヲ何處カヘ飛パシテシマツタ。アア悲シイ、クヤシイ。(129)コレガ悲シイ〔アア〜傍線〕世間ノナラハシデアル。
 
○七種之寶母我波《ナナクサノタカラモワレハ》――七種の寶は即ち七寶。七珍。飜釋名義集七寶篇に引いた佛地論・無量壽經・恒水經・大論等皆その品目を異にしてゐる。阿彌陀經では、金・銀・瑠璃・波璃・※[石+車]※[石+渠]・眞珠・瑪瑙をあげ、法華經では金・銀・瑠璃・※[石+車]※[石+渠]・眞珠・※[王+文]瑰・瑪瑙を數へてゐる。○何爲《ナニセムニ》――古義には慕欲世武《ネガヒホリセム》などの一句が、この下に脱ちたものかとしてゐる。○白玉之《シラタマノ》――白玉のやうな。シラタマは眞珠。○明星之《アカホシノ》――枕詞。明くるに懸かる。明星は金星で、夜明け頃に輝くからである。○敷多倍乃《シキタヘノ》――枕詞。床とつづく。七二參照。○登母爾戯禮《トモニタハフレ》――このあたりが破調になつてゐるので、考には登母爾《トモニ》の下、比留波母牟都禮《ヒルハモムツレ》の七字を補ひ、古義には同じく登母爾《トモニ》を上に附けて、下に七字を補ひ、可伎奈※[泥/土]弖言問戯禮《カキナデテコトトヒタハレ》としてゐる。○夕星乃《ユフヅツノ》――枕詞。夕星は太白星で、夕方の星であるから、由布幣《ユフベ》につづく。一九六參照。○表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》――ウヘはそのほとり・側などの意らしい。考に遠者奈佐柯利《トホクハナサカリ》と改めてゐるのは從ひ難い。ナサカリは、放るなの意。○三枝之《サキクサノ》――枕詞。さきくさは一莖から三枝に分れ出るから、三つ又は中にかけていふ。三枝はどんなものか諸説があつて決し難い。古くは檜とし、眞淵は山百合とし、雅澄は沈丁花とし、その他|三椏《ミヅマタ》・蒼朮《ウケラ》とする説もある。令義解に、「謂率川社祭也三枝華以飾2酒樽1祭、故曰2三枝1也」とあるから、美しい花のあるもので、さうして率《イサ》川は即ち古事記に見える狹井《サヰ》河のことで、同書に、「其河謂2佐韋河1由者於2其河邊1山由理草多在、故取2其山由理草之名1號2佐韋河1也、山由埋草之本名云2佐韋1也」と註してあるので見ると、山百合説がよいかと思はれる。○中爾乎禰牟登《ナカニヲネムト》――ヲは感動の助詞。○志我可多良倍婆《シガカタラヘバ》――シは其《ソレ》の意。多くは人に用ゐられる。其の子が語ればの意。○安志家口毛與家久母見牟登《アシケクモヨケクモミムト》――惡くも善くも成長したところも見ようと。○大船乃《オホブネノ》――枕詞。大きい船に乘れば、頼みに思ふので、於毛比多能無《オモヒタノム》とつづける。○横風乃《ヨコシマカゼノ》――代匠記に、ヨコシマカゼと訓んだのに從ふ。シマはサマに同じ。○爾布敷可爾――舊本爾母布敷可爾布敷可爾となつてゐるが、神田本に母が無く、西本願寺本に、下の布敷可爾の左に四字古本無之とあるから。それを除くと爾布敷可爾《ニフフカニ》となる。ニフフカニの語義は明らかでないが、此處の意を以て判ずれば、突然に又は烈しくなどあるべきところである。○志路多倍乃《シロタヘノ》――枕詞と見るべきであらう。襷に(130)かかる。○多須吉乎可氣《タスキヲカケ》――襷をかけるのは神を祭る時の姿である。○麻蘇鏡《マソカガミ》――眞澄の鏡。鏡は神事に用ゐるものである。○天神《アマツカミ》――高天原の神。○阿布藝許比乃美《アフギコヒノミ》――天つ神といふので、仰ぐといつたのである。コヒノミは乞ひ祈ること。○地祇《クニツカミ》――この國土に始から居給うた神。○布之弖額拜《フシテヌカヅキ》――國つ神であるから、伏して額づくといつたのである。○可加良受毛可賀利毛《カカラズモカカリモ》――契沖は惠にかからぬも、かかるも神の御心のまにまにの意としてゐるが、攷證には如此不有《カクアラズ》とも如此有《カクアリ》ともの意として「ここは天神地祇を祈りて、子の病の事を申せども、よしやかくあらで失するとも、またかく生きてありとも、神のまにまに任せ奉るよしなり」とある。暫く契沖説に從つて置く。○立阿射里《タチアザリ》――立ちて狂ふこと。アザルは亂れ騷ぐ意。土佐日記に「上中下醉ひ過ぎて、いとあやしく、しほ海のほとりにてあざれあへり」とあるあざれ〔三字傍点〕は下二段活用で、ここのアザルの四段活用なると異つてゐるが、意は同じであらう。○我乞能米登《ワガコヒノメド》――舊本|我例乞能米登《ワレコヒノメド》とあるが、細井本によつて改む。○漸漸《ヤヤヤヤニ》――舊訓ヤウヤクニとあるが、續紀の天平寶宇八年十月の宣命にも漸々をヤヤヤヤニと訓んだ例があるから、それによるがよい。○可多知都久保里《カタチツクホリ》――容貌の衰へる意であらうが、ツクホリといふ語例がない。代匠記に都久を久都の轉倒したものとしてゐる。クツホルは源氏物語枕草子などに用例があるから、或はさうかも知れない。○靈剋《タマキハル》――枕詞。命とつづく。○伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》――命絶えぬればの意。○足須里佐家婢《アシスリサケビ》――足摩り叫び。殘念がる樣子。○安我古登婆之都《アガコトバシツ》――吾が子を失つたことを、手にしてゐた物でも飛ばしたやうに、誇張して言つたのである。○世間之道《ヨノナカノミチ》――これが悲しい世間の常のならはしであるの意。
〔評〕 掌中の珠と子を愛してゐる樣子が始めに述べられてゐる、子供が朝の間、床を離れないでふざけてゐる有樣や、夕方父母と一緒に寢ようとあまえる樣子が目に見えるやうである。作者がその子の行末を惡しけくも善けくも見むと只管成長を待つてゐる心情は、眞に涙ぐましい感がある。その期待が遽かに裏切られて、病氣に罹り神佛への祈願も何の效なく、遂に死んでしまつた悲嘆はどんなであつたらう。足摩りして叫び、胸を打つて嘆いたと歌つてあるのが、誇張とは思はれないやうに、痛切に作者の子煩惱が歌はれてゐる。全篇これ愛の文字であり、涙の聲である。結末の句が、突如として鳴を鎭めたやうになつてゐるのは、作者の一技巧か。見樣によつては意味の明瞭を缺くとも言へるやうである。
 
(131)反歌
 
905 若ければ 道行き知らじ まひはせむ したべの使 負ひて通らせ
和可家禮婆《ワカケレバ》 道行之良士《ミチユキシラジ》 末比波世武《マヒハセム》 之多弊乃使《シタベノツカヒ》 於比弖登保良世《オヒテトホラセ》
 
私ノ死ンダ兒は〔七字傍線〕、未ダ年ガ若イノデ、冥土ヘ行クノニ〔七字傍線〕、道中ヲスルコトヲ知ルマイ。冥土ノ役人ヨ。贈物ヲシマセウカラ、ドウゾアノ兒ヲ〔九字傍線〕背負ツテオ通リナサイ。
 
○道行之良士《ミチユキシラジ》――道中することを知るまいの意。冥土への旅も出來まいといふのである。○末比波世武《マヒハセム》――マヒはマヒナヒのマヒで、書紀に幣の字をよんであるが、集中にも、天爾座月讀壯子幣者將爲《アメニマスツクヨミヲトコマヒハセム》・(九八五)幣者將爲避莫去《マヒハセムトホクナユキソ》(一七五五)など、幣の字をあててあるところがあり、他に假名書きの例もある。贈物の意。必ずしも不正の賄賂をいふのではない。○之多弊乃使《シタベノツカヒ》――シタベは下方、即ち黄泉で、黄泉《ヨモ》つ比良坂を下つた下の方にあるからかくいふのであるが、ここのは佛教思想で、黄泉の使は三途の川、死出の山、その他冥土への途に居る番人の類をいふのであらう。古義には冥官の使とある。○於比弖登保良世《オヒテトホラセ》――負ひて通らせ。トホラセは通るの敬語法トホラスの命令形である。
〔評〕 まだいたいけな小兒が死んだ時に、棺の中に履物や杖を入れてやつても、冥土までどうして歩いて行かれようと思ふのは、悲しい親心の常であらう。黄泉の使に負うて連れて行つてくれと頼むのは尤もな考である。幣はせむは、次の歌の布施置きてと同じであらうが、用例が多いので、多少型にはまつた感がある。
 
906 布施おきて 我は乞ひのむ 欺かず ただにゐゆきて 天路知らしめ
 
布施於吉弖《フセオキテ》 吾波許比能武《アレハコヒノム》 阿射無加受《アザムカズ》 多太爾率去弖《タダニヰユキテ》 阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》
 
(132)布施ヲ上ゲテ私ハ佛樣ニ〔三字傍線〕御祈リ致シマス。ドウゾダマサナイデ直接ニ連レテ行ツテ天ヘノ路ヲ知ラセテ下サイ。
 
○布施於吉弖《フセオキテ》――布施は佛教語で、佛又は僧に捧げるものをいふ。これを略解にヌサとよんだのはよくない。當時已にかうした外國語が行はれてゐたと思はれるから、音讀する方がよい。○多太爾率去弖《タダニヰユキテ》――眞直にずつと連れて行つて。○阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》――アマヂは天路。即ち天へ上る路をいふ。その道を教へ知らしめよといふのである。シラシメは命令のヨを省いた形で古躰である。
〔評〕 布施といふ佛教語が、その儘よみ込まれてゐるのが面白い。前に黄泉の使と言ひながら、天路しらしめといふのは、おかしいやうであるが、死者昇天の考は、日本固有のもので、古代人は死者に對して、この二つの考へ方を同時に持つてゐたのだから、必ずしも矛盾とするわけには行かない。殊にこれは左註にあるやうに、前の歌と同時の作ではないらしいから、もとより咎むべきではない。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
右一首作者未v詳。但(シ)以(テ)2裁(ル)v歌(ヲ)之體似(タルヲ)2於山上之操(ニ)1載(ス)2此次(ニ)1焉
 
これは、右の一首は作者は分らないが、作歌の體が、山上憶良の風に似てゐるから、この序に載せて置いたといふので、此の卷を集録した人が、記したものであらう。古來これを後人の註としたのは誤である。なほこの右一首を戀男子名古日歌三首を指したものとして、新考には論じてあるが、さうではなく、最後の一首のみであらう。
 
萬葉集卷第五終
 
卷第六
 
(133)萬葉集卷第六解説
 
この卷の部門は卷一・卷五と同じく雜歌のみで、その内容は※[覊の馬が奇]旅・皇都・宴席などに關したものが多く、殊に從駕の作が最多數を占めてゐる。また月歌の如き、謂はゆる詠物の歌といふべきものも混じてゐる。年代は養老七年に始まつて、天平十六年まで二十一年間に亘つてゐるが、眞淵が考の別記に、この卷を集中の第十五位と推定して、「久邇京の荒れたるを悲しむ歌あり。こは天平十八年九月より後の事なり。久邇京は十三年正月、此宮にて朝儀有しより、同十六年三月難波へいでませしまでを專らとす。かくて後故京と成て、同十八年九月大極殿を國分寺へ賜はりしよりぞもはら荒れけむ」と言つたのに從ふとすれば、更に二年を加へることになるわけである。始に年號を掲げてその年に屬する歌を順次に記し、盡く年次を追うて整然と載録し、作者は殆どすべてが明瞭になつてゐる。その作家の重なる者は、聖武天皇・市原王・湯原王・山部赤人・笠金村・高橋蟲麿・橘諸兄・石上乙麿・田邊福麿・坂上郎女・大伴家持などで、大伴氏と親密であつたらしい人と、大伴氏の一族との作が多い。ことに、家持と親しかつたと思はれる田邊福麿の歌集から、二十一首を採つてゐること、旅人を尊んで帥大伴卿と記したことなど、大伴家持の編纂たるを思はしめる點が多い。歌體は長歌・旋頭歌・短歌の三種であるが、長歌が二十七首・短歌が百三十二首で、旋頭歌は僅かに一首に過ぎない。歌數は併せて百六十首である。長歌は山部赤人・笠金村・車持千年・高橋蟲麿・田邊福麿らのものが多く、いづれも短くまとまつてゐて、人麿の作に見るやう(134)な、氣魄の雄偉な規模の宏大なものはない。且多少型に嵌つたやうな感あるものが多い。しかし聖武天皇が酒を節度使の卿らに賜はつた御製は、帝王の威嚴と、溢るるばかりの御慈愛とが籠つてゐて、まことに畏い御作である。短歌では山部赤人・山上憶良の作に、人口に膾炙する名作が載つてゐるが、海犬養宿禰岡麿の應詔歌は、吾が國民が言はむとしてゐるところを、代つて述べたやうなもので、實に千載に光輝を放つ傑作である。大體から言へば、この卷の藝術的價値はさほど高いものとは言ひ難い。文字使用法は卷三・卷四に類似してゐるが、數字を多く用ゐてあるのほ一特色とも言へよう。戯書としては、二二《シ》・重二《シ》・十六《シシ》・折木四哭《カリガネ》などが見えてゐる位のものである。
〔目録省略〕
 
(143)雜歌
 
養老七年癸亥夏五月、幸2于芳野離宮1時、笠朝臣金村作歌一首井短歌
 
續日本紀に「養老七年五月癸酉行2幸芳野宮1、丁丑車駕還v宮」とあるから、その時の行幸である。芳野離宮は吉野郡中莊村宮瀧。二七參照。笠朝臣金村は傳未詳。三六四参照。
 
907 瀧の上の 三舟の山に 瑞枝さし しじに生ひたる 栂の樹の いやつぎつぎに 萬代に かくし知らさむ み芳野の 蜻蛉の宮は 神からか 貴かるらむ 國からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも 
 
瀧上之《タギノウヘノ》 御舟乃山爾《ミフネノヤマニ》 水枝指《ミヅエサシ》 四時爾生有《シジニオヒタル》 刀我乃樹能《トガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》 萬代《ヨロヅヨニ》 如是二二知三《カクシシラサム》 三芳野之《ミヨシヌノ》 蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》 神柄香《カムカラカ》 貴將有《タフトカルラム》 國柄鹿《クニカラカ》 見欲將有《ミガホシカラム》 山川乎《ヤマカハヲ》 清清《キヨミサヤケミ》 諾之神代從《ウベシカミヨユ》 定家良思母《サダメケラシモ》
 
(瀧上之御舟山爾水枝指四時爾生有刀我乃木能)彌々繼々ニ天子様ガ〔四字傍線〕オ受ケ繼ギナサツテ、萬年ノ後マデモ、カヤウニシテ御支配ナサルダラウト思ハレル〔五字傍線〕コノ吉野ノ蜻蛉野ニアル離宮ハ、コノ吉野ノ〔四字傍線〕神ガ尊イ爲ニ、貴ク思ハレルノデアラウカ。或ハコノ吉野ノ國ガヨイ〔或ハ〜傍線〕國デアル爲ニ、見タク思ハレルノデアラウカ。何ニシテモヨイ御宮ダ〔何ニ〜傍線〕。山ヤ川ノ景色ガ立派デ、清イノデ、カウシテ此所ヲ離宮トシテ〔カウ〜傍線〕、ナルホド神代カラシテオ定メニナツタラシイヨ。ソレハ御尤ナコトダ〔九字傍線〕。
 
○瀧上之御舟乃山爾《タギノウヘノミフネノヤマニ》――タギは水の沸《タギ》り流れるところ。ここは吉野川が激流をなしてゐるところで、今.離宮址の上流にその名殘をとどめてゐる。急瀬の側に三舟の山が聳えてゐるから上《ウヘ》といつたのである。御舟山は二四(144)二參照。挿入寫眞は中央が瀧のあとどころで、右方の山が三舟山。萬葉古蹟寫眞による。○水枝指《ミヅエサシ》――ミヅエはみづみづしく榮えた枝。○四時爾生有《シジニオヒタル》――シジは繁《シジ》で、茂つての意。○刀我乃樹能《トガノキノ》――樛木乃《ツガノキノ》(二九)・都賀乃樹力《ツガノキノ》(三二四)とあつたのと同じく、枕詞で、同音を繰返して、ツギツギとつづくのである。ツガとトガとは同木。この句までの五句は、眼前の風物を以て、序詞を作つたのである。○如是二二知三《カクシシラサム》――カクシのシは強めて言ふのみ。二二をシと訓ましめたのは、二五《トヲ》・三五月《モチツキ》・十六《シシ》・八十一《クク》などの類と同じく、算術の九九から出た戯書である。知三《シラサム》と三を用ゐたのも、上の二二に傚つて特に數字を用ゐたので、多少戯れの氣分がある。知三《シラサム》は連體形である。○蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》――秋政津野に立つてゐるから、離宮をかくよぷのである。三六參照。○神柄香《カムカラカ》――神故にかの意。神は吉野の山川の神をいふ。○國柄鹿《クニカラカ》――國故にかの意で、吉野の國が、佳い國である故にかといふこと。○山
川乎《ヤマカハヲ》――山と川とを。○清清《キヨミサヤケミ》――舊訓サヤケクスメリ、代匠記サヤケクキヨシ、又はサヤニ(145)サヤケミ、またスカスカシミかとある。童蒙抄キヨクキヨシ又はキヨクサヤカニ、考は峻清の誤として、タカクサヤケミ、略解にはタカミサヤケミとし、その追加に※[山+青]清の誤とした、濱臣説を可とし、訓はタカミサヤケミをよしとしてゐる、古義には淳清の誤としてアツミサヤケミとし、この下に大宮等《オホミヤト》又は常宮等《トツミヤト》が脱ちたものとしてゐる。かやうな次第であるが、誤字説は採らぬこととして、清の字はキヨシ又はサヤカとよむ字であるから、キヨミサヤケミとよむのが、最も穩やかであらう。○諾之神代從《ウベシカミヨユ》――ウベはナルホドの意。シは強辭。神代從《カミヨユ》とあるが、これはただ悠久の古からの意で、嚴密に神代を指したのではない。
〔評〕 誠に平明なすがすがしい歌である。然し少し型にはまりすぎた感がある。瀧上之御舟乃山爾《タギノウヘノミフネノヤマニ》は二四二の弓削皇子の御歌にあり、水枝指《ミヅエサシ》以下の敷句は三二四の赤人の歌に、五百枝刺繁生有都賀乃樹乃彌繼嗣爾《イホエサシシジニオヒタルツガノキノイヤツギツギニ》云々とあるのと殆ど同じであつて、時代の前後ははつきりし難いが、この作は全體に右の赤人の歌と關係があるやうに思はれる。なほ、琴歌譜に見えた景行天皇の御製、蘇良美豆夜萬止乃久爾波可旡可良可阿利可保之支久爾可良可須美可保之支阿利可保之支久爾波阿伎豆之萬也萬止《ソラミツヤマトノクニハカムカラカアリカホシキクニカラカスミカホシキアリカホシキクニハアキツシマヤマト》とあるのも、用語が似てゐるが、恐らくかうした型が出來上つてゐたのであらう。
 
反歌
 
908 年のはに かくも見てしが み吉野の 清き河内の たぎつ白波
 
毎年《トシノハニ》 加是裳見牡鹿《カクモミテシガ》 三吉野乃《ミヨシヌノ》 清河内之《キヨキカフチノ》 多藝津白波《タギツシラナミ》
 
吉野ノ清イ河ノ廻ツテヰルトコロノ、水ノ泡立チ流レル白浪ノ面白イ景色〔六字傍線〕ヲ、毎年毎年コンナニシテ今日ノヤウニ〔六字傍線〕見タイモノダナア。ホントニ佳イトコロダ〔十字傍線〕。
 
○如是裳見牡鹿《カクモミテシガ》――シガは希望をあらはす。ここに牡鹿の字を用ゐて、清音のやうに記してあるが、元來ガといふ希望の助詞であるから、文字に拘はらず濁つてよむがよい。○清河内之《キヨキカフチノ》――カフチは河の廻つてゐるとこ(146)ろ。攷證に河端《カハフチ》の意としてゐるのは、變つた説である。
〔評〕これも平板な作で、格別面白味もない。
 
909 山高み 白ゆふ花に 落ちたぎつ 瀧の河内は 見れど飽かぬか
 
山高三《ヤマタカミ》 白木綿花《シラユフバナニ》 落多藝追《オチタギツ》 瀧之河内者《タギノカフチハ》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
山ガ高イノデ、白イ木綿デ作ツタ花ノヤウニ、泡立チ流レル、瀧ノヤウナ川ノ廻ツテヰル處ハ實ニ佳イ景色デ〔七字傍線〕、イクラ見テモ見飽キナイナア。
 
○白木綿花《シラユフバナニ》――白木綿で作つた花。白木綿は穀《カヂ》即ち栲の皮を以て作つた白緒。三七九參照。挿入寫眞は謂はゆる瀧つ河内で、昔は右方の巖石の上を水がたぎり落ちたのである。
 
〔評〕 卷七に泊瀬川白木綿花爾墮多藝都《ハツセカハシラユフバナニオチタギツ》(二一〇七)とある歌と上句が酷似してゐる。更に卷九の式部大倭芳野作歌の山高見白木綿花爾落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフハナニオチタギツナツミノカハトミレドアカヌカモ》(一七三六)に至つては、瀧の河内と夏身の河戸との相違のみで、(147)全く同じ歌である。これらの作の時代の前後は遽かに判斷しがたいが、かう類歌があるのは作者の爲に遺憾である。
 
或本反歌曰
 
910 神からか 見が欲しからむ み吉野の 瀧の河内は 見れど飽かぬかも
 
神柄加《カムカラカ》 見欲賀藍《ミガホシカラム》 三吉野乃《ミヨシヌノ》 瀧河内者《タギノカフチハ》 雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》
 
コノ山川ノ〔五字傍線〕神ガ尊イ〔二字傍線〕故ニ、見タイノデアラウカ。吉野ノ水ノ泡立チ流レル川ノ廻ツテヰルトコロノ景色〔三字傍線〕ハ見テモ見アカナイヨ。
 
○瀧河内者《タギノカフチハ》――金澤本に瀧乃河内者とあるによつて、タギノカフチハとよむがよい。
〔評〕 長歌中の句を一二の句にとり入れたまでで、前の山高三の歌より劣つてゐる。
 
911 み吉野の 秋津の川の 萬世に 絶ゆることなく また還り見む
 
三吉野之《ミヨシヌノ》 秋津乃川之《アキツノカハノ》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 斷事無《タユルコトナク》 又還將見《マタカヘリミム》
 
吉野ノ秋津ノ川ノヤウニ、萬世マデ絶エルコトナク、又立チカヘツテ幾度デモコノ景色ヲ〔九字傍線〕見ヨウ。
〔評〕 卷一の雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》(三七)に似た歌である。何の創意も見えない。
 
912 泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に さきにけらずや
 
泊瀬女《ハツセメノ》 造木綿花《ツクルユフバナ》 三吉野《ミヨシヌノ》 瀧乃水沫《タギノミナワニ》 開來受屋《サキニケラズヤ》
 
泊瀬ノ女ドモノ造ルアノ木綿ノ花ガ、今來テ見ルト〔六字傍線〕、吉野ノ瀧ノ水ノ泡トナツテ開イテヰルデハナイカ。水ノ白ク泡立ツ景色ハ、全ク木線花ノヤウデ美シイ〔水ノ〜傍線〕。
 
○泊瀬女造木綿花《ハツセメノツクルユフバナ》――泊瀬の女どもが造る木綿花。この頃木綿花は、泊瀬の女が主として造つたものと見(148)える。○瀧乃水沫《タギノミナワニ》――瀧の水沫としての意。○開來受屋《サキニケラズヤ》――咲いたではないかよの意。
〔評〕 瀧の水沫を木綿花に譬へたのであるが、正面から直喩せずに、瀧の水沫に咲きにけらずやと驚愕と感嘆の眼を見はつたところが面白い。ここの一團では圖拔けた佳作である。
 
車持《クラモチノ》朝臣|千年《チトセ》作歌一首并短歌
 
車持朝臣千年は傳未詳。續紀に「天平九年正月辛酉、正八位下車持君長谷賜2姓朝臣1」とあり、その以前にも車持朝臣益といふ人も見える。これも前の歌と同じ頃の作である。車特は竹取物語にも、車持皇子《クラモチノミコ》とあるから、クラモチとよむがよい。千年は舊本に于年とあるは誤。元暦校本による。
 
913 うまごり あやにともしく 鳴神の 音のみ聞きし み芳野の 眞木立つ山ゆ 見おろせば 川の瀬毎に あけ來れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなべ 紐解かぬ 旅にしあれば あのみして 清き川原を 見らくし惜しも
 
味凍《ウマゴリ》 綾丹乏敷《アヤニトモシク》 鳴神乃《ナルカミノ》 音耳聞師《オトノミキキシ》 三芳野之《ミヨシヌノ》 眞木立山湯《マキタツヤマユ》 見降者《ミオロセバ》 川之瀬毎《カハノセゴトニ》 開來者《アケクレバ》 朝霧立《アサギリタチ》 夕去者《ユフサレバ》 川津鳴奈拜《カハヅナクナベ》 紐不解《ヒモトカヌ》 客爾之有者《タビニシアレバ》 吾耳爲而《アノミシテ》 清川原乎《キヨキカハラヲ》 見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》
 
(味凍)怪シクモナツカシク(鳴神乃)音ニパカリ聞イテヰタ、吉野ノ檜ノ生エテヰル山カラ見下スト、川ノ瀬毎ニ、夜ガ明ケルト朝霧ガ立チ、夕方ニ成ルト河鹿ガナクノデ、私ハ夜着物ノ〔六字傍線〕紐ヲ廨カナイデ寢ル〔三字傍線〕旅ノコトデアルカヲ、私バカリデ家ノ人ニモ見セナイデコノ〔家ノ〜傍線〕佳イ川原ノ景色ヲ、見ルノハ惜シイコトダヨ。
 
○味凍《ウマゴリ》――アヂコリノ・ウマコホリ・ウマゴリノなどの訓があるが、古義にウマゴリとよんだのがよい。枕詞。綾とつづく。味織の綾とつづくのだらうといふ。一六二參照。○鳴神乃《ナルカミノ》――枕詞。音とつづく。○眞木立山湯《マキタツヤマユ》――眞木の生えてゐる山から、眞木は檜などをいふ。○川津鳴奈拜《カハヅナクナベ》――河鹿が鳴くままにの意で、吾耳爲而《アノミシテ》につづいてゐる。舊本、川津鳴奈辨詳とあるのは、元暦校本・金澤本などに川津鳴奈拜に作つてゐるので見ると、もと(149)拜とあつたのに、辨と記して、へと訓むことを示したものか。拜の字は集中ベの假名に用ゐた例は無いが、漢音ハイ、呉音ヘであるから、ヘと訓むべき文字である。古葉略類聚鈔に奈利とあるのは、猥りに從ひ難い。他の誤字説は採るに足らぬ。○見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》――惜の字、舊本、情に作るは誤。金澤本による。
〔評〕 芳野の山に登つて、謂はゆる清き河内を見下して、詠んだ歌である。反歌に三船之山とあるから、眞木立つ山とは三船の山をさしたものか。高きに登つて展望を喜ぶ心と、家を懷ふ旅愁とがあはれに歌はれてゐる。
 
反歌一首
 
914 瀧の上の 三舟の山は かしこけど 思ひ忘るる 時も日も無し
 
瀧上乃《タギノウヘノ》 三船之山者《ミフネノヤマハ》 雖畏《カシコケド》 思忘《オモヒワスルル》 時毛日毛無《トキモヒモナシ》
 
瀧ノ上ノ三船山ハ怖ロシイケレドモ、私ハ家ノ妻ヲ〔六字傍線〕思ヒ忘レル時モナク日モナイ。コンナ恐ロシイトコロニ居レバ、何モ外ノコトハ思ハナイ筈ダノニ〔コン〜傍線〕。
 
○雖畏《カシコケド》――宜長は畏は見の誤といつてゐるが、從ひ難い。眞木立つ三舟の山が神々しくて、物恐ろしきほどに、思はれる意である。この句の下に、故郷の妻をの意を補つて見るがよい。
〔評〕 身も引き締まるやうな、深山の靈氣に浸りながら、なほ家なる妻を忘れ難いこころを述べてゐる。人麿の小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《ササノハハミヤマモサヤニサヤゲドモワレハイモオモフワカレキヌレバ》(一三三)に氣分に於て似て、歌品は少しく劣つてゐる。
 
或本反歌曰
 
915 千鳥鳴く み吉野川の 川音なす 止む時なしに 思ほゆる君
 
千鳥鳴《チドリナク》 三吉野川之《ミヨシヌカハノ》 音成《カハトナス》 止時梨二《ヤムトキナシニ》 所思公《》オモホユルキミ
 
千鳥ガナク、吉野川ノ川音ノ絶エ間ノナイ〔六字傍線〕ヤウニ、止ム時モナク私ハ〔二字傍線〕貴方ノコトガ思ハレマスコヨ。
 
(150)○三吉野川之《ミヨシヌカハノ》――眞淵は三は衍としてゐるが、馬竝而三芳野河乎欲見《ウマナメテミヨシヌカハヲミマクホリ》(一一〇四)とあるから、この儘でよい。○音成《カハトナス》――金澤本・神田本、この上に川の字があり、成の字がない。それによればカハオトノと訓むべきであらう。併し成の字はあつてもよい字であるから、川の字を補つてカハトナスと訓む説に從ふ。
〔評〕卷四の大伴郎女の千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪止時毛無吾戀爾《チドリナクサホノカハセノサザレナミヤムトキモナシワガコフラクニ》(五二六)に酷似した作である。恐らく郎女は、この歌の三吉野川を、佐保川に詠みかへたものであらう。
 
916 あかねさす 日並べなくに 吾が戀は 吉野の河の 霧に立ちつつ茜刺《アカネサス》 日不並二《ヒナラベナクニ》 吾戀《ワガコヒハ》 吉野之河乃《ヨシヌノカハノ》 霧丹立乍《キリニタチツツ》
 
マダ旅ニ出テ〔六字傍線〕(西刺)日ヲ重ネタトイフデモナイノニ、私ガ家ヲ〔二字傍線〕戀ヒテ嘆ク息〔五字傍線〕ハ、吉野川ノ上〔二字傍線〕ニ嘆キノ〔三字傍線〕霧トナツテ立ツテヰル。
 
○茜刺《アカネサス》――枕詞。日とつづく。二〇參照。○日不並二《ヒナラベナクニ》――日を重ねないのに。幾日も經ないのにの意。氣並而《ケナラベテ》(二六三)のケナラベも同じ。○霧丹立乍《キリニタチツツ》――霧爾《キリニ》のニはトシテ又はトナリテなどの意。立乍《タチツヅ》は、立つてゐると、目に見る樣を確かにいふのである。ツツは助動詞のツを繰返した形から、出たらしい。
〔評〕 吉野川の霧を見て、吾が戀の嘆きの霧がかほど で、河の上に漂つてゐると、驚いた氣分の歌である。古事記の天の安川のほとりの神誓《ウケヒ》の段の、氣吹《イブキ》の狹霧《サギリ》の神話中に見える思想が、この歌や此小川白氣結瀧至八信井上爾事上不爲友《コノヲガハキリゾムスベルタギチユクハシリヰノウヘニコトアゲセネドモ》(一一一三)などに、なほ殘つてゐることが感ぜられる。
 
右年月不v審(ナガラ)但以(テ)2歌(ノ)類(ヲ)1載(ス)2於此次(ニ)1焉、或本(ニ)云(フ)、養老七年五月、幸(セル)2于芳野離宮(ニ)1之時(ノ)作。
 
右の車持朝臣千年の歌全體にかかる註である。或本云は右の或本反歌とある或本か。ともかくこの養老七年五月の作とあるのを、肯定したいやうに思ふ。
 
(151)神龜元年甲子冬十月五日、幸(セル)2于紀伊國(ニ)1時、山部宿禰赤人作(レル)歌一首并短歌
 
續紀に「神龜元年十月辛卯天皇幸2紀伊國1癸巳行至2紀伊國那賀郡玉垣勾頓宮1甲午至2海部郡玉津島頓宮1留十有餘日戊戌造2離宮於岡東1云々又詔曰、登v山望v海此間最好、不v勞2遠行1足2以遊覽1故改2弱濱名1爲2明光浦1」とある時の作である。卷四の五四三に見えた笠金村の作と同時。
 
917 やすみしし わご大君の とこ宮と 仕へまつれる 雜賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪騷ぎ 潮干れば 玉藻苅りつつ 神代より 然ぞ尊き 玉津島山
 
安見知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》 常宮等《トコミヤト》 仕奉流《ツカヘマツレル》 左日鹿野由《サヒカヌユ》 背上爾所見《ソガヒニミユル》 奧島《オキツシマ》 清波瀲爾《キヨキナギサニ》 風吹者《カゼフケバ》 白浪左和伎《シラナミサワギ》 潮干者《シホヒレバ》 玉藻苅管《タマモカリツツ》 神代從《カミヨヨリ》 然曾尊吉《シカゾタフトキ》 玉津島夜麻《タマツシマヤマ》
 
(安見知之)私ノオ仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣ノ永久ノ宮トシテ、臣下ノ者ガ〔五字傍線〕奉仕シテヰル、雜賀ノ宮カラ横ノ方ニ見エル、沖ノ島ノ清イ濱邊ニ、周ガ吹クト白波ガ騷ギ、汐ガ干ルト人ガ〔二字傍線〕美シイ藻ヲ苅ツテ遊ンデ〔三字傍線〕、神代カラシテ玉津島山ハ、コンナニ神々シイ景色デアルゾヨ。
 
○安見知之和期大王之《ヤスミシシワゴオホキミノ》――五二參照。○常ミヤ等《トコミヤト》――永久に變らぬ宮。宮をことほいだ言葉である。宣長が、トツミヤと訓み、常は借字で、外つ宮の意としたのは誤つてゐる。等《ト》はトシテの意。○仕奉流《ツカヘマツレル》――奉仕してゐる。離宮があつて其處に奉仕する意。○左日鹿野由《サヒガヌユ》――雜賀野から。雜賀野は紀伊海草郡、和歌山市の南方。和歌の浦の西方。○背上爾所見《ソガヒニミユル》――ソガヒが背向《ソムカヒ》の略で、背面の義であるが、斜横の方などに用ゐたことが多いやうである。ここも背面とは思はれない。三五七參照。○奧島《オキツシマ》――沖の島。玉津島をさしてゐる。○玉津島夜麻《タマツシマヤマ》――玉津島は玉出《タマデ》島ともいつて、玉を出す島と考へられてゐたものと見える。古昔は海中に山をなしてゐ(152)たので、島山といつたのである。
〔評〕 内容も組織も單純な長歌である。常宮《トコミヤ》といひ、神代從然曾尊吉《カミヨヨリシカゾタフトキ》と歌つたところは、全く離宮の風景敬讃の歌である。
 
反歌
 
918 沖つ島 荒磯の玉藻 潮干滿ち い隱くれゆかば 思ほえむかも
 
奧島《オキツシマ》 荒礒之玉藻《アリソノタマモ》 潮干滿《シホヒミチ》 伊隱去者《イカクレユカバ》 所念武香聞《オモホエムカモ》
 
沖ノ島ノ荒磯ニ生エテヰル玉藻ガモツト苅リタイガ〔八字傍線〕、汐干ガ滿チテ、隱レタナラバ玉藻ガ戀シク〔六字傍線〕思ハレルダラウカナア。ホントニ面白イトコロダ〔ホン〜傍線〕。
 
○伊隱去者《イカクレユカバ》――伊の字、金澤本・神田本などに※[人偏+弖]とあるによつて、第三句に附けて、シホヒミチテとし、この句をカクロヒユカバと訓む説もあるが、※[人偏+弖]の字はこの卷に用例なく、卷五に寢屋度麻※[人偏+弖]《ネヤドマデ》(八九三)、卷十六に河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]《カケテカケテ》(三八七八)があるくらゐのものである。この理由で、これを否定するわけではないが、伊として隱の上に附ける方が隱やかであらうと思ふ。イカクルといふ語は、袁登賣能伊加久流袁加袁《ヲトメノイカクルヲカヲ》と古事記にあり、本集卷一にも伊隱萬代《イカクルマデ》(一七)とあるから、ここの伊隱《イカクレ》も否定し難い。但し略解にイカクロヒナパと訓んだのは面白くない。なほ、隱をカクロフと訓む場合は度日之陰毛隱比《ワタルヒノカゲモカクロヒ》(三一七)・霍公鳥隱合時爾《ホトトギスカクロフトキニ》(一九八〇)などのやうに、送假名に當る文字が添へてあることも、考慮に入れたい。
〔評〕 素純なすがすがしい調ではあるが、さしたる作ではない。
 
919 若の浦に 潮滿ちくれば 潟をなみ 葦邊をさして 鶴鳴きわたる
 
若浦爾《ワカノウラニ》 鹽滿來者《シホミチクレバ》 滷乎無美《カタヲナミ》 葦邊乎指天《アシベヲサシテ》 多頭鳴渡《タヅナキワタル》
 
和歌ノ浦ニ汐ガ滿チテ來ルト、汐ノ于タ〔四字傍線〕潟ガナイノデ、葦ノ生エテヰル岸ノ〔二字傍線〕方ヘ向ツテ、鶴ガ鳴イテ飛ンデ來(153)ル。
 
○若浦爾《ワカノウラニ》――若浦は右の續紀の文にあるやうに、弱濱《アカハマ》とも記したが、また聖武天皇の神龜元年の行幸に、明光の浦と名を改めた。中世以來和歌の浦と記す。和歌山市南方の海岸。挿繪は紀州名所圖會からとつた。○滷乎無美《カタヲナミ》――汐の干潟がないので。何處の海濱にも、女波男波と交互に打ちよせるものだが、此處は男波のみであるから、片男波といふと解する俗説が行はれてゐるのは、滑稽である。
〔評〕 明朗な諧調、縹渺たる神韻、自然の精靈に感應し、その核心を把握し得たやう作である。主觀と客觀と融合し、視覺と聽覺と協和し、躍動の内に、悠揚温籍の趣を湛へて、實に得難い歌品である。赤人の傑作で、萬葉中の白眉、永久に和歌史上の光輝であらう。類歌としては、櫻田部鶴鳴渡年魚市方鹽干二家良進鶴鳴渡《サクラタヘタツナキワタルアユチガタシホヒニケラシタヅナキワタル》(二七一)・可之布江爾多豆奈吉和多流之可能宇良爾於枳都之良奈美多知之久良思毛《カシフエニタヅナキワタルシカノウラニオキツシラナミタチシクラシモ》(三七五四)などがあるが、想が似てゐるといふに過ぎない。古今集の雜上「なにはがた汐みちくらしあま衣たみのの島にたづ鳴きわたる」の方が、これらよりも更に似た歌である。
 
右、年月(ヲ)不v記(サ)。但※[人偏+稱の旁](ヘリ)2從2駕(スト)玉津島(ニ)1也因(リテ)今檢2注(シテ)行幸(ノ)年月(ヲ)1以(テ)載(ス)v之(ニ)焉
 
舊本、※[人偏+稱の旁]を〓に誤る。※[人偏+稱の旁]は稱に同じである。この註は編者の記したもの。
 
(154)神龜二年乙丑夏五月、幸2于芳野離宮1時、笠朝臣金村作歌一首并短歌
 
續日本紀にこの行幸に関する記事がない。
 
920 あしびきの み山もさやに 落ちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の 淨きを見れば 上べには 千鳥しば鳴き 下べには かはづ妻呼ぶ 百磯城の 大宮人も をちこちに しじにしあれば 見る毎に あやにともしみ 玉葛 絶ゆることなく 萬代に かくしもがもと 天地の 神をぞ祷る かしこかれども
 
足引之《アシビキノ》 御山毛清《ミヤマモサヤニ》 落多藝都《オチタギツ》 芳野河之《ヨシヌノカハノ》 河瀬乃《カハノセノ》 淨乎見者《キヨキヲミレバ》 上邊者《カミベニハ》 千鳥數鳴《チドリシバナキ》 下邊者《シモベニハ》 河津都麻喚《カハヅツマヨブ》 百磯城乃《モモシキノ》 大宮人毛《オホミヤビトモ》 越乞爾《ヲチコチニ》 思自仁思有者《シジニシアレバ》 毎見《ミルゴトニ》 文丹乏《アヤニトモシミ》 玉葛《タマカヅラ》 絶事無《タユルコトナク》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 如是霜願跡《カクシモガモト》 天地之《アメツチノ》 神乎曾祷《カミヲゾイノル》 恐有等毛《カシコカレドモ》
 
(足引之)山マデモ音騒ガシク轟イテ〔三字傍線〕、落チテ泡立ツテ流レル、吉野川ノ川ノ瀬ノ佳イ景色ヲ眺メルト、上流ノ方ニハ千鳥ガ頻リニ鳴イテヰルシ.下流ノ方ニハ河鹿ガ妻ヲ呼ンデヰル。(百礒城乃)御所ニ仕ヘテヰル人モ、彼方此方ニ澤山ニ往來シテヰルノデ、私ハコノ景色ヲ〔七字傍線〕見ル度ニ、不思議ナホド懷カシイカラ、(玉葛)絶エルコトガナク、萬年ノ後マデモ、カウシテ離宮ガ繁昌スルヤウニ〔離宮〜傍線〕ト、誠ニ畏多イコトデハアルガ、天神地祇ニ對シテオ祈スルヨ。
 
○御山毛清《ミヤマモサヤニ》――略解に「御山とは宮所あればなり」とあるのは惡い。御《ミ》は敬語ではなく、意味のない接頭語である。この清《サヤ》は借字で騷ぐ意である。卷二に小竹之葉者三山毛清爾亂友《ササノハハミヤマモサヤニサヤゲドモ》(一三三)とあるに同じ。○越乞爾《ヲチコチニ》――遠近にの意。眞淵が乞兒をかたゐといふより、こえがてにと訓まむと言つたと略解に見えるが、甚だしい誤で、これはヲチコチでよいのである。越乞所聞《ヲチコチニキコユ》(一一三四)・越乞兼而《ヲチコチカネテ》(二九七三)などの例もある。○思自仁思有者《シジニシアレバ》――繁に(155)しあれば。澤山あるからの意。○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。絶事無《タユルコトナク》とつづく。三二四にも同樣の用法がある。
〔評〕 卷一に見えた吉野宮に行幸の時に柿本人麿が作つた長歌(三六)と構想を等しくし、用語も亦似たところがある。整つた歌ではあるが、獨創性に缺けてゐる。
 
反歌二首
 
921 萬代に 見とも飽かめや み吉野の たぎつ河内の 大宮どころ
 
萬代《ヨロヅヨニ》 見友將飽八《ミトモアカメヤ》 三吉野乃《ミヨシヌノ》 多藝都河内之《タギツカフチノ》 大宮所《オホミヤドコロ》
 
コノ〔二字傍線〕吉野ノ水ノタギリ流レル、河ノ廻ツテヰル處ニアル御所ハ實ニヨイ所デ〔六字傍線〕、萬年ノ間見テヰテモ飽クコトガアラウカ。飽キハシナイ〔六字傍線〕。
 
○見友將飽八《ミトモアカメヤ》――トモといふ助詞は、終止形に着くのが普通であるが、この集には都良都良爾美等母安加米也《ツラツラニミトモアカメヤ》(四四八一)のやうにゝかうした形が見えるのは古體である。
〔評〕 卷一の三六、及びこの卷の冒頭のこの人の作などと類憩の歌で、何の新味もない。
 
922 人皆の いのちも我も み吉野の 瀧のとこはの 常ならぬかも
 
人皆乃《ヒトミナノ》 壽毛吾母《イノチモワレモ》 三吉野乃《ミヨシヌノ》 多吉能床磐乃《タギノトコハノ》 常有沼鴨《ツネナラヌカモ》
 
皆ノ人ノ命モ、私ノ命モ、コノ吉野ノ瀧ノ變ラナイ磐ノヤウニ何時モカハラナイデヰテクレヨ。
 
○人皆乃《ヒトミナノ》――元暦校本には皆人乃とあるが、必ずしもそれが原形とは言はれまい。卷五にも比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》(八六二)とある。○多吉能床磐乃《タギノトコハ/》――床磐《トコハ》はトコイハで、即ち常磐である。併し古義に、ここをトキハと訓めと言つたのは當らない。新考に古義の訓を良しとして、トキハの本義を床磐としたのもどうであらう。床のやうな磐ではなく、とこしへに變らぬ磐の義であらう。なほここに瀧の常磐と言うたのは、瀧の永久性を言つたのではなくて、瀧の側の磐の永遠に變らぬことを、譬へに取つたのであらう。○常有沼鴨《ツネナラヌカモ》――常であれ(156)よの意。ヌカモは願望の意となるが、ヌは打消で、カは疑問、モはヨに同じく、常でないといふことがあるものかよの意で、願望となるのであらう。又打山從還來奴香聞《マツチノヤマユカヘリコヌカモ》(一〇一九)・西山邊爾塞毛有糠毛《ニシノヤマベニセキモアラヌカモ》(一〇七七)・念心者可聞來奴鴨《オモフココロハキコエコヌカモ》(一六一四)など皆同じである。
〔評〕 前の歌に比して取材も用語も面白く出來てゐる。九〇九の寫眞に見えるやうに、吉野川の瀧つ河内の大磐石に對するものは、誰しもその偉大さと悠久性とを、嗟嘆しないものはないのである。
 
山部宿禰赤人作歌二首并短歌
 
923 やすみしし わご大王の 高知らす 芳野の宮は たたなつく 青墻こもり 河|並《ナミ》の 清き河内ぞ 春べは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益益に この河の 絶ゆることなく 百磯城の 大宮人は 常に通はむ
 
八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王乃《ワゴオホキミノ》 高知爲《タカシラス》 芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》 立名附《タタナツク》 青墻隱《アヲガキゴモリ》 河次乃《カハナミノ》 清河内曾《キヨキカフチゾ》 春部者《ハルベハ》 花咲乎遠里《ハナサキヲヲリ》 秋去者《アキサレバ》 霧立渡《キリタチワタル》 其山之《ソノヤマノ》 彌益益爾《イヤマスマスニ》 此河之《コノカハノ》 絶事無《タユルコトナク》 百石木能《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 常將通《ツネニカヨハム》
 
(八隅知之)私ノオ仕ヘ申ス天子樣ガ、高クオ構ヘナサツタ吉野ノ離宮ハ、疊ミ重ナツテヰル、青々トシタ垣ノヤウナ山ニ圍マレテヰテ、河ノ姿ガ佳イ、河ノ廻ツテヰル所デアルゾヨ。春ノ頃ハ花ガ枝モタワワニ曲ル程ニ咲キ亂レ、秋ニナルト霧ガ立チ渡ツテヰル。アノ山ノ如ク彌益々榮エ、コノ河ノヤウニ絶エルコトガナク(百石木能)大宮ニ仕ヘテヰル人ハイツデモ變ルコトナク通ハウヨ。
 
○八隅知之《ヤスミシシ》――枕詞。三參照。○和期大王乃《ワゴオホキミノ》――五二參照。○高知爲《タカシラス》――宮殿を高く構へること。祝詞・古事記などに「高天原に千木高知り」とあるに同じ。○芳野宮者――舊本、芳野離者《ヨシヌノミヤハ》とあるが、元麿校本に離を宮に作るに從ふべきである。離の下に宮を脱したものと見る説も多い。○立名附《タタナツク》――疊《タタナ》はり付く意。山の疊み重(157)つてゐる有樣を述べてゐるので、枕詞となつてゐることもあるが、ここはさう見ない方がよい。○河次乃《カハナミノ》――カハナミは川の續いて流れてゐる姿で、山並に對する言葉である、山並之宜國跡川次之立合郷跡《ヤマナミノヨロシキクニトカハナミノタチアフサトト》(一〇五〇)とある。○花咲乎遠里《ハナサキヲヲリ》――ヲヲルは枝などの撓むこと。○彌益益爾《イヤマスマスニ》――彌々益々高くの意で、大宮人の繁榮を山に寄せてことほいだのである。その山のやうに彌益々にでは、一寸分りかねるやうであるが、これは卷一に、此川乃絶事奈久此山乃彌高良之《コノカハノタユルコトナクコノヤマノイヤタカカラシ》(三六)とあるのと、全く同意と見て、かく解すべきであらう。○常將通《ツネユカヨハム》――略解にはトハニカヨハムとあるが、常の字はツネ・トコ・トなどとよむを普通とし、トハの訓は一寸見當らぬから賛成し難い。
〔評〕 卷一に見えた人麿の作と同巧異曲で、春と秋と、山と河とを對句にした、整然たる作ではあるが、個性が見えてゐない。
 
反歌二首
 
924 み吉野の 象山のまの 木ぬれには ここだも騷ぐ 鳥の聲かも
 
三吉野乃《ミヨシヌノ》 象山際乃《キサヤマノマノ》 木末爾波《コヌレニハ》 幾許毛散和口《ココダモサワグ》 鳥之聲可聞《トリノコヱカモ》
 
吉野ノ象山ノ中ノ木ノ上デハ、澤山ニ鳥ノ聲ガ噪イデヰルナア。アア面白イ鳥ノ聲ダ〔アア〜傍線〕。
 
○象山際乃《キサヤマノマノ》――象山は卷一に象乃中山《キサノナカヤマ》(七〇)とあるところに説明した通り、吉野離宮址の前方に聳えた山である。際の字は山際《ヤマノマニ》(一七)・木際從《コノマヨリ》(一三二)などの如く、マと訓むべきである。○本末爾波《コヌレニハ》――木末はコノウレの約、コヌレである。コズヱではない。○幾許毛散和口《ココダモサワグ》――幾許《ココダ》は文字のやうに、いかばかりといふ意にもなるが、澤山・甚だしくなどの意に用ゐられることが多い。
〔評〕 靜かな吉野の清流の彼方、象山の茂つた樹の間で、頻りに鳴いてゐる鳥の聲に耳を澄ましてゐる作者の虔ましやかな姿が目に浮んでくる。何といふ快い麗はしい、柔みのある、しかも直線的な力の籠つた調子であらう。ここだも騷ぐとありながら、山々に反響する鳥聲が、靜寂感の中心になつてゐるのも不思議である。赤人(158)の作中でも屈指の傑作。
 
925 ぬば玉の 夜の深けぬれば 久木生ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く
 
烏王之《ヌバタマノ》 夜乃深去者《ヨノフケヌレバ》 久木生留《ヒサギオフル》 清河原爾《キヨキカハラニ》 知鳥數鳴《チドリシバナク》
 
(烏王之)夜ガ更ケクタノデ、楸ガ生エテヰル景色ノ佳イ河原デ千鳥ガ頻リニナイテヰル。
 
○夜乃深去者《ヨノフケヌレバ》――舊訓ヨノフケユケバとあるが、ヨノフケヌレバがよいであらう。○久木生留《ヒサギオフル》――久木は諸説があるが、今いふアカメガシハとする説に從ひたい。この木は山野に自生する落葉喬木で、葉は大さ三四寸で、先端が尖り、時には三尖五尖になつてゐるものもある。夏の頃緑黄色の花を開く、和名抄に「唐韻云、楸木名也、漢語抄云、比佐木」とあつて、楸の字をあててある。貝原益軒は「楸樹《ヒサギ》は山林村落處々にあり、ひさきとも、又かしはとも云、其葉は桐葉に似、又梓にも似たり、苗及葉の筋赤し、故に赤目柏《アカメガシハ》と云ふ」といつてゐる。これをキササゲ即ち俗に梓と稱する樹とする説もあるが、さうではない。なほ卷十二に度會大河邊若歴木吾久在者妹戀鴨《ワタラヒノオホカハノベノワカヒサギワガヒサナラバイモコヒムカモ》(三一二七)とあるのは、歴木即ち櫪で、クヌギのことであるから、久木は即ちクヌギであると攷證に述べてゐるが、歴木は久木の代りに意を以て用ゐただけで、これを櫪と同一視するは無理であらう。
〔評〕 吉野河畔の夜の情景である。夜が漸く更けて、河晋も高くなつた頃、川千鳥の飛び交つては鳴いてゐる甲高い、しかも可憐な聲が、頻りに聞えて來るのである。清澄な、寂寥そのものといつてもよい歌だ。久木は、晝間の印象を呼び起して用ゐたまでで、今目前に見えるのではあるまい。
 
926 やすみしし わご大王は み芳野の 蜻蛉の小野の 野の上には とみすゑ置きて み山には いめ立て渡し 朝獵に 鹿猪ふみ起し 夕狩に 鳥ふみ立て 馬なめて 御獵ぞ立たす 春の茂野に
 
安見知之《ヤスミシシ》 和期大王波《ワゴオホキミハ》 見芳野乃《ミヨシヌノ》 飽津之小野笶《アキツノヲヌノ》 野上者《ヌノヘニハ》 跡見居置而《トミスエオキテ》 御山者《ミヤマニハ》 射目立渡《イメタテワタシ》 朝獵爾《アサガリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》 夕狩爾《ユフガリニ》 十里※[足+榻の旁]立《トリフミタテ》 (159)馬並而《ウマナメテ》 御※[獣偏+葛]曾立爲《ミカリゾタタス》 春之茂野爾《ハルノシゲヌニ》
 
(安見知之)私ノ御仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣ハ、吉野ノ蜻蛉ノ小野ノ、野ノアタリニハ島ヤ獣ノ通ツタ跡ヲ捜ス人ヲ据ヱテ置キ、山ニハ弓ヲ射ル人ヲ彼方此方ニ立テテ置イテ、朝ノ獵ニハ猪鹿ヲ追ヒ出シ、夕方ノ狩ニ鳥ヲ追ヒ出シ、馬ヲ並べテ春ノ草ノ茂ク生エタ野ニ狩ニ御立チナサイマスヨ。
 
○飽津之小野笶《アキツノヲヌノ》――飽津之小野《アキツノヲノ》は秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》(三六)とあつた所で、吉野離宮の所在地である。笶は矢に用ゐる竹で、今も箆《ノ》と言つてゐる。これを假名に使つた例は大海乃原笶《オホウミノハラノ》(九三八)その他なほ多い。○跡見居置而《トミスヱオキテ》――跡見《トミ》は狩獵の時に、鳥獣の通つた跡を見て、その行方を尋ねること、又は、その人をいふので、これは後者である。この句はその人を配置しての意。○御山者《ミヤマニハ》――ここは發語で、意味はない。○射目立渡《イメタテワタシ》――射目は射部で、弓を射る者。舊本、射固《セコ》とあるのは誤。元暦校本によるべきである。立渡《タテワケシ》は、ずらりと澤山に立たしめること。○十六履起之《シシフミオコシ》――シシを十六と書いたのは、九九算から出た戯書で、鹿猪の類をいふ。
〔評〕 これも前の歌と同じく、赤人の作であるが、これは前の歌が一般的に吉野の宮を祝福したのと違つて、主として狩獵について詠じてゐる。これで見ると、離宮附近の平地は、また狩獵の好適地であつて、ここへの行幸が狩獵を目的とせられたこともあつたのである。これも短く纏つた歌である。
 
反歌一首
 
927 足引の 山にも野にも み獵人 さつ矢手挾み とよみたり見ゆ
 
足引之《アシビキノ》 山毛野毛《ヤマニモヌニモ》 御※[獣偏+葛]人《ミカリビト》 得物矢手挾《サツヤタバサミ》 散動而有所見《トヨミタリミユ》
 
(足引之)山ニモ野ニモ御獵ヲスル人ガ獵ニ用ヰル矢ヲ手ニ挾ミ持ツテ、彼方此方ニ〔五字傍線〕騷イデヰルノガ見エル。
 
○得物矢手挾《サツヤタバサミ》――得物矢《サツヤ》は獵矢。サツはサチと同じで、古事記に見えた、海の幸山の幸のサチである。六一三(160)照。○散動而有所見《トヨミタリミユ》――散動は舊訓ミダレ、代匠記トヨミ、攷證サワギとあるが、卷二に白波散動《シラナミトヨム》(二二〇)とあるによれば、トヨミとよむべきである。卷二の場合はサワグとも訓み得るから、ここもサワギとするは必ずしも惡しくはないが、ミダレは當らぬやうである。なほ動の字の訓に關して、二二〇の語釋を參照せられたい。而有はタリとよんだ古義の説がよいやうである。船出爲利所見《フナデセリミユ》(一〇〇三)・等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》(三六七二)などによると、かう訓むべきやうに思はれる。
〔評〕 前の長歌に、述べたところを、引き纏めて、一首の短歌の中にその情景を髣髴せしめてゐる。叙景歌として、至純の風格を具へたものといつてよい。
 
右不v審(ニ)2先後(ヲ)1、但(シ)以(テノ)v便(ヲ)故(ニ)載(ス)2於此(ノ)次(ニ)1
 
これは右の二組の歌が、いづれが先か後か審かでないが、同人の作であるから、その便を以て此處に載せるといふのである。便の字、舊本に使とあるのは誤。元暦校本によつて改めた。
 
冬十月、幸(セル)2于難波宮(ニ)1時、笠朝臣金村作(レル)歌一首井短歌
 
續紀に「神龜二年冬十月庚申天皇幸2難波宮1」とあるからその時である。
 
928 押照る 難波の國は 葦垣の 古りにしさとと 人皆の 念ひ息みて つれも無く ありし間に うみをなす 長柄の宮に 眞木柱 太高しきて 食す國を 治め給へば 沖つ鳥 昧經の原に もののふの 八十伴の雄は 廬して 都なしたり 旅にはあれども
 
忍照《オシテル》 難波乃國者《ナニハノクニハ》 葦垣乃《アシガキノ》 古郷跡《フリニシサトト》 人皆之《ヒトミナノ》 念息而《オモヒヤスミテ》 都禮母爲《ツレモナク》 有之間爾《アリシアヒダニ》 續麻成《ウミヲナス》 長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》 眞木柱《マキハシラ》 太高敷而《フトタカシキテ》 食國乎《ヲスクニヲ》 收賜者《ヲサメタマヘバ》 奧鳥《オキツトリ》 味經乃原爾《アヂフノハラニ》 物部乃《モノノフノ》 八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》 廬爲而《イホリシテ》 都成有《ミヤコナシタリ》 旅者安禮十萬《タビニハアレドモ》
 
(161)(忍照)難波ノ國ハ(葦垣乃)古クナツタ郷ダト人ガ誰デモ思ツテ、モウ繁華ニハナルマイト〔モウ〜傍線〕心ヲユルシテ別ニ心ニモトメズ〔八字傍線〕冷淡ニシテヰルト、今上陛下ガ〔五字傍線〕(續麻成)長柄ノ宮ニ檜ノ柱ヲ太ク高クオ構へ遊バシテ、御支配ナサル國ヲオ治メ遊バスト、(奧鳥)昧經ノ原ニ從駕ノ〔三字傍線〕役人ノ澤山ノ長ノ人タチハ旅デハアルガ、假家ヲ建テテ都トナツタヨ。
 
○忍照《オシテル》――枕詞。難波につづく。四四三參照。○葦垣乃《アシガキノ》――枕詞。古郷《フリニシサト》とつづく。葦垣は淋しく古い郷などに作られるものであるから、かうつづくのであらうといふ。○古郷跡《フリニシサトト》――考にフリヌルサトトと訓んでゐるが、舊訓のままがよい。大原乃古爾之郷爾《オホハラノフリニシサトニ》(一〇三)・香具山乃故去之里乎《カグヤマノフリニシサトヲ》(三三四)などの例によるべきである。○念息而《オモヒヤスミテ》――これも考にオモヒイコヒテとあるが、舊訓の儘がよい。息の字はイコフとよんだ例もあるが、ヤム又はヤスムと訓むべき處が多く、またこの場合は心に安じてゐることであるから、ヤスミテと訓みたいやうに思ふ。イコフは息を繼ぐことで、苦しみから脱して休息するやうな時に言ふのが常で、ヤスムは意味が廣いやうである。○都禮母爲《ツレモナク》――平氣で、冷淡で。爲は元暦校本その他の古寫本に、無になつてゐるのが正しい。○續麻成《ウミヲナス》――枕詞。績んだ麻糸は長いから長とつづける。○長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》――孝徳紀に「白雉二年十二月天皇從2於大郡1遷居2新宮1、號曰2難波長柄豐碕宮1」とあるところで、孝徳天皇の皇居の舊跡にあつた宮である。紀によれば天武天皇の朱鳥元年正月に火を失して燒けてゐる。卷一の太上天皇幸2于難波宮1時歌一首(六六)、慶雲三年丙午幸2于難波宮1時志貴皇子御作(六四)とあるのは、持統天皇や文武天皇が此處に行幸せられたことを語つてゐるもので、燒亡の後も離宮があつたのである。その地位を、高津宮の舊址に近い大阪城の附近とするものと、今大阪市の北端豐崎本庄の地とするものと兩説に分れてゐる。恐らく後者か。○眞木柱――檜の柱。○太高敷而《フトタカシキテ》――太く高くお構へになつて。○奧鳥《オキツトリ》――枕詞。味とつづく。味は味鳧《アヂカモ》で海に居る鳥。○味經乃原爾《アヂフノハラニ》――味經の原は、孝徳紀に「白雉元年正月辛丑朔、事駕幸2味經宮1、觀2賀正禮1、味經此云2阿膩賦1是日車駕還v宮、二年十二月晦於2味經宮1請2二千一百餘僧尼》1使v讀2一切經1、」とあるところで、和名抄に、攝津國東生郡味原とある。(162)今、大阪市の東部に味原町がある。ここに豐埼宮の別宮があつたので、續紀に、「天平勝寶八歳春二月、天皇至2難波宮1、御2東南新宮1」とあるのも、この宮を改築せられたものであらうといふ。然るに喜田博士は味生の宮が今の三島郡内の味生なることを、その著「帝都」に委しく論じてゐる。なほ研究すべき問題である。この句は味經の宮の附近の平地に、從駕の人が假屋を建てて奉仕してゐる趣である。○物部乃八十伴雄者《モノノフノヤソトモノヲハ》――朝廷に奉仕する者の澤山の部屬の長。五〇・四七八參照。
〔評〕 從駕の者の一人として、味經の原に庵作りしてゐたらしい笠金村が、難波の舊郡の遽かた繁昌したのを喜んで作つたものである。都成有《ミヤコナシタリ》とはあるが、本當の都となつたのではない。皇威を讃め稱へた氣分がよく詠まれてゐる。
 
反歌二首
 
929 荒野らに 里はあれども 大王の しきます時は 都となりぬ
 
荒野等丹《アラヌラニ》 里者雖有《サトハアレドモ》 大王之《オホキミノ》 敷座時者《シキマストキハ》 京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》
 
コノ里ハ荒レタ野デハアルガ、天子樣ガ行幸遊バスト都トナツタ。ホントニ御威光ハ盛ハモノダ〔ホン〜傍線〕。
 
○荒野等丹《アラヌラニ》――荒野は荒涼たる野。人里から離れた野。等《ラ》は添へて言ふだけで意味はない。
〔評〕荒廢の地が皇威によつて都となつたことを詠んだ歌は、赤駒之腹婆布田爲乎京師跡奈之都《アカゴマノハラバフタヰヲミヤコトナシツ》(四二六〇)・水鳥乃須太久水奴麻乎皇都常成郡《ミヅトリノスダクミヌマヲミヤコトナシツ》(四二六一)などがあり、又、時之往者京都跡成宿《トキノユケレバミヤコトナリヌ》(一〇五六)もほぼ同型の歌である。類型的といふ評は免れがたい。
 
930 あまをとめ 棚無小舟 ※[手偏+旁]ぎ出らし 旅のやどりに かぢのおと聞ゆ
 
海未通女《アマヲトメ》 棚無小舟《タナナシヲブネ》 榜出良之《コギヅラシ》 客乃屋取爾《タビノヤドリニ》 梶音所聞《カヂノオトキコユ》
 
海人ノ少女ドモガ、舟棚モナイ小舟ヲ、今〔傍線〕、漕ギ出スラシイ。天子樣ノ御伴ヲシテ味經原ニ〔天子〜傍線〕旅宿ヲシテヰルト、(163)櫓ヲ漕グ音ガ聞エル。
 
○海未通女《アマヲトメ》――ヲトメを未通女と書くのは義訓で、三六六・五〇一など用例が多い。○棚無小舟《タナナシヲブネ》――舷側の船棚の無い小舟。五八・二七二參照。○梶音所聞《カヂノオトキコユ》――カヂノトともよんでよいが、可治能於等伎許由《カヂノオトキコユ》(三六六四)・可治能於等須奈里《カヂノオトスナリ》(三六二四)など假名書きになつてゐるのは、皆カヂノオトとあるから、ここもさうして置かう。
〔評〕 假屋の中で、櫓聲を聞いて船出する海女の釣舟を思ひやつた歌である。海を珍らしがつて、屋内にあつてもなほ聽覺を通して樂しんでゐる樣子が見えてゐる。
 
車持朝臣千年作歌一首并短歌
 
車持朝臣千年は九一三の題詞參照。
 
931 いさなとり 濱邊を清み うち靡き 生ふる玉藻に 朝なぎに 千重浪寄り 夕なぎに 五百重浪よる 邊つ浪の いやしくしくに 月にけに 日日に見るとも 今のみに 飽き足らめやも 白浪の いさき回れる 住吉の濱
 
鯨魚取《イサナトリ》 濱邊乎清三《ハマベヲキヨミ》 打靡《ウチナビキ》 生玉藻爾《オフルタマモニ》 朝名寸二《アサナギニ》 千重浪縁《チヘナミヨリ》 夕菜寸二《ユフナギニ》 五百重波因《イホヘナミヨル》 邊津浪之《ヘツナミノ》 益敷布爾《イヤシクシクニ》 月二異二《ツキニケニ》 日日雖見《ヒビニミルトモ》 今耳二《イマノミニ》 秋足目八方《アキタラメヤモ》 四良名美乃《シラナミノ》 五十開回有《イサキメグレル》 住吉能濱《スミノエノハマ》
 
(鯨魚取)濱邊ガ清イノデ波ノマニマニ〔六字傍線〕靡イテ生エテヰル玉藻ニ、朝※[さんずい+和]ニ千重ニモ波ガ打チヨセテクル、夕※[さんずい+和]ニ五百重ニモ波ガ打寄セテ來ルガ、岸ヘ寄セル波ノヤウニ愈々頻繁ニ、月ニ日ニ毎日毎日見テモ、白波ガ高ク起チ回ツテヰル住吉ノ濱ノ景色〔三字傍線〕ヲ、今度ダケデ飽キ足ルトイフ譯ニハ行カナイヨ。
 
○鯨魚取《イサナトリ》――枕詞。海とつづく。ここは濱に冠してある。語義は文字の通り鯨をイサナといふから出たらしい。○五百重波因《イホヘナミヨル》――舊本、百五とあるは誤。元暦校本によつて改めた。○月二異ニ《ツキニケニ》――月に日にに同じ。ケは日《カ》の轉である。○日日雖見《ヒビニミルトモ》――略解に、雖は欲の誤で、ヒビニミガホシであらうと言つてゐるが、この儘で(164)よく通ずるから、改めてはよくない。○五十開回有《イサキメグレル》――五十は接頭語で意義はない。開《サキ》は波の白く立つこと。阿遲可麻能可多爾左久奈美《アヂカマノカタニサクナミ》(三五五一)・宇奈波良乃字倍爾奈美那佐伎曾禰《ウナバラノウヘニナミナサキソネ》(四三三五)などの例がある。
〔評〕 朝なぎ・夕なぎ・千重浪・五百重浪といふやうな對句を連ねて、住吉の濱を褒めてゐるが、少しも住吉らしい特色は見えてゐない。これは獨りこの人のみについて言ふのではなく、この種の長歌の通弊である。
 
反歌一首
 
932 白浪の 千重に來よする 住のえの 岸の埴生に にほひて行かな
 
白浪之《シラナミノ》 千重來縁流《チヘニキヨスル》 住吉能《スミノエノ》 岸乃黄土粉《キシノハニフニ》 二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》
 
白浪ガ千重ニモ打チ寄セテ來ル、住吉ノ岸ノ黄土デ記念ノ爲ニ着物ヲ〔八字傍線〕染メテ行カウ。
 
○岸乃黄土粉《キシノハニフニ》――岸は住吉の地名で海に近い小高い所らしい。黄土《ハニ》は文字の通り黄又は赤の土で、衣を摺つて染める料とした。粉は韻鏡外轉第二十合、臻攝n音尾の音であるから、フニの假名に用ゐたのであらう。フは地といふやうな意のある語であるが、これらは唯添へていふのみである。蓬生・淺茅生・葎生・園生などの生も同じであらう。○二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》――ニホフは染めること。
〔評〕 卷一の草枕客去君跡知麻世婆岸之埴布爾仁寶播散麻思乎《クサマクラタビユクキミトシラマセバキシノハニフニニホハサマシヲ》(六九)に似た歌である。かれは文武天皇の頃の作であるから、この歌はその影響を受けてゐるに相違ない。住吉としての特色が出てはゐるが、古歌があるので褒めるわけには行かぬ。
 
山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
933 天地の 遠きが如く 日月の 長きが如く 押照る 難波の宮に わご天王 國知らすらし みけつ國 日の御調と 淡路の 野島の海人の わたの底 沖ついくりに 鰒珠 さはにかづき出 船なめて 仕へまつるし 貴し見れば
 
天地之《アメツチノ》 遠我如《トホキガゴトク》 日月之《ヒツキノ》 長我如《ナガキガゴトク》 臨照《オシテル》 難波乃宮爾《ナニハノミヤニ》 和期大王《ワゴオホキミ》 (165)國所知良之《クニシラスラシ》 御食都國《ミケツクニ》 日之御調等《ヒノミツキト》 淡路乃《アハヂノ》 野島之海子乃《ノジマノアマノ》 海底《ワタノソコ》 奧津伊久利二《オキツイクリニ》 鰒珠《アハビタマ》 左盤爾潜出《サハニカヅキテ》 船並而《フネナメテ》 仕奉之《ツカヘマツルシ》 貴見禮者《タフトシミレバ》
 
天地ノ永久ニ變ラナイヤウニ、日月ガ長ク續イテ亡クナルコトガ無〔ク續〜傍線〕イヤウニ(臨照)難波ノ宮ニ行幸遊バシテ〔六字傍線〕、今私ノオ仕ヘ申ス天子樣ガ國ヲ御支配ナサルラシイ。天子樣ノ御膳ノ物ヲ差シ上ケル國デ、日|並《ナミ》ノ貢トシテ、毎日ノ御物ヲ差上ゲル〔毎日〜傍線〕淡路ノ野島ノ海人ドモハ、(海底)沖ノ方ニアル海石ニ附イテヰル鰒ノ玉ヲ澤山ニ潜ツテ取ツテ、船ヲ並べテ陛下ニ仕ヘ奉ツテヰル樣子ガ、見ルト貴イコトデアル。
 
○臨照《オシテル》――難波の枕詞で、押光《オシテル》(四四三)・押照《オシテル》(六一九)・忍照《オシテル》(九二八)とあると同じであるが、臨をオシと訓ましめる意が明らかでない。恐らく臨は上から下にのぞむ意であるから、押す意になるのであらう。卷十一にも月臨照而《ツキオシテリテ》(二六七九)とある。○御食都國《ミケツクニ》――大御饌《オホミケ》を奉る國の意で、淡路は天皇の御食料の魚介類を奉つた國である。御食國志麻乃海部有之《ミケツクニシマノアマナラシ》(一〇三三)・御食都國神風之伊勢乃國者《ミケツクニカムカゼノイセノクニハ》(三二三四)などあるから、志摩・伊勢も、さうであつたのである。○日之御調等《ヒノミツギト》――日次《ヒナミ》の御調として。日之御調《ヒノミツギ》は延喜内膳式に、「凡諸國貢2進御厨御贄1結番者和泉國子巳紀伊國丑午酉淡路國寅未戌近江國卯若狹國辰申亥毎v當2件日1依v次貢進、預計2行程1莫v致2闕怠1」とあるので明らかなる如く、日毎に奉る貢物をいふ。○野島之海子乃《ヌジマノアマノ》――野島は粟路之野島之前乃《アハヂノヌジマガサキノ》(二五一)とあつたやうに淡路の西北部海岸にある。二四九の地圖參照。○海底《ワタノソコ》――奧《オキ》の枕詞と見るがよいであらう。○奧津伊久利二《オキツイクリニ》――沖の海石に。イクリは伊久里爾曾深海松生流《イクリニゾフカミルオフル》(一三五)とあるところに説明したやうに、海中の石をいふ。○鰒珠《アハビタマ》――鰒の貝から出る珠、即ち眞珠。安波妣多麻《アハビタマ》(四一〇一)・安波妣多痲母我《アハビタマモガ》(四一〇三)などによつて、かく訓むべきは明らかである。略解に「あはびたまは則鰒の貝をいふ」とあるは誤つてゐる。○仕奉之《ツカヘマツルシ》――略解にはツカヘマツルガとあるが、代匠記にツカヘマツルシとあるのがよいであらう。○貴見禮者《タフトシミレバ》――舊訓カシコシとあるが、タフトシがよい。略解にはタフトキとよんで、ミレパにつづけてゐるが、ミレバタフトシの意であるか(166)ら、タフトシと訓まねばならぬ。
〔評〕 難波の宮に御滯在中の天皇の御威勢を敬讃した歌である。國所知艮之《クニシラスラシ》で一段として、難波の行宮に行幸中なることを述べて、次いで淡路の海人が船を並べて、奉仕する情景を歌つたのである。略解に結句から、國所知良之《クニシラスラシ》へ反るやうに説いてゐるのは誤解である。
 
反歌一首
 
934 朝なぎに かぢの音聞ゆ みけつ國 野島の海人の 船にしあるらし
 
朝名寸二《アサナギニ》 梶音所聞《カヂノオトキコユ》 三食津國《ミケツクニ》 野島乃海子乃《ヌジマノアマノ》 船二四有良信《フネニシアルラシ》
 
朝※[さんずい+和]ノ海〔二字傍線〕ニ、舟ヲ漕グ〔四字傍線〕櫓ノ音ガ聞エル。アレハ天子樣ニ御膳ノ物ヲサシアゲル國ノ、淡路ノ〔三字傍線〕野島ノ海人ノ船デアラウ。御膳ニ差上ゲルモノヲ特ツテ來タノダラウ〔御膳〜傍線〕。
 
〔評〕 例によつて氣品の高い赤人らしい歌である。長歌ではさほどにないが、短歌の形に纏めると、一種の氣高い氣韻が漂つて來るのは、まことに赤人の不思議な靈腕である。なほこの歌は、漁船の出港の際とも思はれないこともないが、長歌の意を受けて考へれば、入港の場合と見るがよいであらう。
 
三年丙寅秋九月十五日幸(セル)2於播磨國印南野(ニ)1時、笠朝臣金村作(ル)歌一首并短歌
 
續紀に「神龜三年九月壬寅中略以2一十八人1爲2造頓宮司1爲v將v幸2播磨國印南野1也、冬十月辛酉行幸、癸亥行還、至2難波宮1癸酉車駕至v自2難波宮1」とある時の行幸である。舊本播を幡に作つてゐるが、元暦校本によつて改む。印南野は明石と加古川との中間の平野。
 
935 名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻鹽燒きつつ あまをとめ ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ ますらをの 心は無しに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我はぞ戀ふる 船かぢを無み
 
(167)名寸隅乃《ナキズミノ》 船瀬從所見《フナセユミユル》 淡路島《アハヂシマ》 松帆乃浦爾《マツホノウラニ》 朝名藝爾《アサナギニ》 玉藻苅管《タマモカリツツ》 暮菜寸二《ユフナギニ》 藻鹽燒乍《モシホヤキツツ》 海未通女《アマヲトメ》 有跡者雖聞《アリトハキケド》 見爾將去《ミニユカム》 餘四能無者《ヨシノナケレバ》 大夫之《マスラヲノ》 情者梨荷《ココロハナシニ》 手弱女乃《タワヤメノ》 念多和美手《オモヒタワミテ》 徘徊《タモトホリ》 吾者衣戀流《ワレハゾコフル》 船梶雄名三《フネカヂヲナミ》
 
名寸隅ノ船瀬トイフ所カラ見エル、淡路島ノ松帆ノ涌ニ、朝海ノ※[さんずい+和]イダ時ニ美シイ藻ヲ刈ツテ、夕方海ノ※[さんずい+和]イダ時ニ藻歴ヲ燒イテ、海人ノ少女ガ居ルトハ話ニ聞イタガ、海ヲ距テテヰテ〔七字傍線〕見ニ行ク方法ガナイノデ、大丈夫タル私〔六字傍線〕モ男ノヤウナ心モナクテ、丸デ〔二字傍線〕カヨワイ女ノヤウニ思ヒ屈シテ、彼方此方ト〔五字傍線〕歩キナガラ私ハ松帆ノ浦ノ景色ヲ〔八字傍線〕戀ヒ慕ヒマスヨ。船モ艪モナイノデ渡レナイデ因ツテヰマス〔渡レ〜傍線〕。
 
○名寸隅乃船瀬從所見《ナキズミノフナセユミユル》――代匠記に「名寸隅は八雲御抄に、播磨と注せさせ給へり。今按、本朝文粹第二に三善清行、延喜十四年四月上2意見1十二條終云、重請d修2復播磨國魚住泊1事u云々、この魚住泊は今の名寸隅にや云々」とある。大日本地名辭書には、「魚住、明石郡の舊泊所にして.上古は韓泊(印南郡)と輪田(兵庫)との間に此船瀬あり、西海の水驛とす。初め名寸隅《ナキズミ》と曰へるを.又|魚住《ナズミ》に作り、何の世よりか其文字により宇袁須美と呼ぶことと爲る。今の魚住村の東なる江井島を船瀬の築島址とす」と見えてゐる。魚住は明石と加古川との間で.今、省線大久保驛と土山驛との中間の海岸で、播磨灘を隔てて淡路島を望むところである。類聚三代格に掲げた貞觀九年の官符にも「明石郡魚住船瀬損廢已久、未能作治、往還舟路、動多漂没」とあるから、恐らくここに相違あるまい。○松帆乃浦爾《マツホノウラニ》――淡路の北端で播磨と相對したところ。挿繪は淡路名所圖會からとつた。○念多和美手《オモヒタワミテ》――タワムは撓むで、オモヒタワムは心の挫け屈すること。○徘徊《タモトホリ》――タは接頭語で、モトホルは、さまよひ廻ること。○船梶雄名三《フネカヂヲナミ》――舊訓フナカヂとあるが、船と楫とであるから、フネカヂと(168)訓まねばならぬ。この句は船と楫とが無いのでの意。
〔評〕 行幸に從つてゐるので、音に名高い松帆の浦を眼前にしながら、海峡を渡つて見に行きかねる焦燥の念を歌つたものである。好景に對しつつも、少しも客觀的に述べないで、をく主觀のみを歌つてゐるのが、他の作と異なつてゐる。新勅撰集に見える藤原定家の「來ぬ人を松帆の浦の夕なぎに燒くや藻鹽の身もこがれつつ」は、この長歌の句を本としたものであらう。
 
反歌二首
 
936 玉藻刈る あまをとめども 見に行かむ 船かぢもがも 浪高くとも
 
玉藻苅《タマモカル》 海未通女等《アマヲトメドモ》 見爾將去《ミニユカム》 船梶毛欲得《フネカヂモガモ》 浪高友《ナミタカクトモ》
 
美シイ藻ヲ刈ル淡路ノ松帆浦ノ〔七字傍線〕、海人ノ少女ヲ見ニ行カウト思フ〔二字傍線〕。波ハ高クトモ船ヤ櫓ガアレバヨイガ。
〔評〕 平明な作である。三句切になつてゐるのが、この頃の歌としては珍らしい。
 
937 ゆきめぐり 見とも飽かめや 名寸隅の 船瀬の濱に しきる白浪
 
(169)往回《ユキメグリ》 雖見將飽八《ミトモアカメヤ》 名寸隈乃《ナキズミノ》 船瀬之濱爾《フナセノハマニ》 四寸流思良名美《シキルシラナミ》
 
コノ〔二字傍線〕名寸隅ノ船瀬ノ濱ニ頻リニ打寄セテ來ル白波ノ景色〔三字傍線〕ヲ、私ハ〔二字傍線〕往ツタリ還ツタリシテ、見テモ飽クコトガアラウカ。決シテ飽キハシナイ〔九字傍線〕。
 
○往回《ユキメグリ》――舊訓にユキカヘリとあるが、ユキメグリがよいやうである。行つたり還つたりして。○四寸流思良名美《シキルシラナミ》――シキルはヨスルとも訓めさうで、古本にはさういふ訓もある。しかし、四をヨと訓むことは至つて稀であり、寸をスとよんだ確かな例は、卷十一に小簾之寸鷄吉仁《ヲスノスゲキニ》(二三六四)が唯一つあるだけであるのに、キとよんだ例は無數であるから、シキルとするのが穩やかであらう。シキルは頻りに寄せ來ること。
〔評〕 松帆の浦への憧憬をあきらめて、自分の眼前の名寸隅の船瀬の濱の景に心を慰めたのであらう。歌が熱のない、きまり文句になつてゐる。
 
山部宿禰赤人作歌一首井短歌
 
これも前の行幸の時の作であらう。
 
938 やすみしし 吾が大王の 神ながら 高知らせる 印南野の 大海の原の 荒妙の 藤井の浦に 鮪釣ると あま船とよみ 鹽燒くと 人ぞさはなる 浦をよみ うべも釣はす 濱をよみ うべも鹽燒く 在り通ひ みますもしるし 清き白濱
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 神隨《カムナガラ》 高所知流《タカシラセル》 稻見野能《イナミヌノ》 大海乃原笶《オホウミノハラノ》 荒妙《アラタヘノ》 藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》 鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマブネトヨミ》 鹽燒等《シホヤクト》 人曾左波爾有《ヒトゾサハナル》 浦乎吉美《ウラヲヨミ》 宇倍毛釣者爲《ウベモツリハス》 濱乎吉美《ハマヲヨミ》 諾毛鹽燒《ウベモシホヤク》 蟻往來《アリガヨヒ》 御覽母知師《ミマスモシルシ》 清白濱《キヨキシラハマ》
 
(八隅知之)私ノ天子樣ガ神樣デイラツシヤルカラ、高ク御殿ヲ〔三字傍線〕オ構ヘ遊バシテイラツシヤル、印南ノ野ノ邑美(170)ノ原ノ(荒妙)藤井ノ浦デ、鮪ヲ釣ラウト思ツテ、漁師ノ船ガ騷イデヰルシ、鹽ヲ燒クトテ人ガ澤山ニ集マツテヰル。此處ハ〔三字傍線〕ヨイ浦ダカラ釣ヲスルノハ尤モナコトダ。濱ガヨイ濱ダカラ鹽ヲ燒クノハ尤モナコトダ。コノ景色ノ佳イ砂ノ白イ濱ヲ、昔カラ行幸ガアツテ〔九字傍線〕御覽ナサツタ譯ガヨクワカル。
 
○高所知流《タカシラセル》――舊訓タカクシラセルとあるのを、考はタカシラスル、略解はタカシラシヌルと改めてゐるが、タカシラスといふ熟語であるから、古義に從つてタカシラセルと訓むべきであらう。高く構へ給うたの意で、行宮を御造営になつたことであらう。印南野に行宮の出來たことは、右に掲げた續紀の神龜三年九月壬寅の文に、「以2一十八人1爲2造頓宮司1爲v將v幸2播磨國印南野1也」とあるので明らかである。○大海乃原笶《オホウミノハラノ》――大海乃原は從來地名と見ない説が多いけれども、日本紀略に「神龜三年冬十月辛亥行2幸播磨國印南野1、甲寅至2印南野邑美頓宮1、」とある邑美であらう。邑美は和名抄、「明石郡邑美郷、訓於布美」(高山寺本、注、於保見)とあつて、邑はオフの假名であるが、オホとも言つたのである。大日本地名辭書には、「魚住泊の北一里、藤江浦の西北一里半許」とある。印南野の一部に邑美の原があつたのである。笶《ノ》の字については、九二六參照。○荒妙《アラタヘノ》――枕詞。五〇參照。○藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》――反歌には藤江乃浦とあり、卷三にも、藤江之浦爾(二五二)とあるから、恐らく誤字であらう。或は藤井とも言つたものか。二五二參照。二四九の地圖參照。○鮪釣等《シビツルト》――鮪は古事記に意布袁余志斯毘都久阿麻余《オフヲヨシシビツクアマヨ》とあつて、和名抄にも鮪、和名、之比とある。即ち今の、しぴまぐろである。○海人船散動《アマブネトヨミ》――散動は散動而所見《トヨミタリミユ》(九二七)に從つてトヨミと訓む。しかしサワグの訓もよいかも知れぬ。ミダレは從ひ難い。○蟻往來《アリカヨヒ》――ありありて通ひ。かうして行き通つて、○御覽母知師《ミマスモシルシ》――御覽遊ばす理由が明らかだの意、シルシは著しく明らかなりの意。
〔評〕 例によつて短いながら行き屆いた作で、海に近い印南の行幸の情景がよく詠まれてゐる。海を珍らしく思ふ都人の感じを代表したらしい作である。
 
反歌三首
 
(171)939 沖つ浪 へ浪しづけみ いざりすと 藤江の浦に 船ぞとよめる
 
奧浪《オキツナミ》 邊波安美《ヘナミシヅケミ》 射去爲登《イザリスト》 藤江乃浦爾《フヂエノウラニ》 船曾勤流《フネゾトヨメル》
 
沖ニ立ツ浪ヤ、芹ニ立ツ浪ガ靜カナノデ、漁ヲスルトテ藤江ノ浦デ船ガ騷イデヰルヨ。
 
○邊波安美《ヘナミシヅケミ》――安美はヤスケミと新訓にあるが、靜母岸者波者縁家留香《シヅケクモキシニハナミハヨリケルカ》(一二三七)とあるやうに、波にはシヅケミといふ方が穩やかのやうに思はれる。安定座取《シヅマリマシヌ》(一九九)ともあるから、必ずしもヤスとのみ訓むわけではない。○船曾動流《フネゾトヨメル》――動流は長歌中の海人船散動《アマフネトヨミ》と同じく、トヨメルとよむべきであらう。
〔評〕 卷三の柿本人麿作、飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人釣船《ケヒノウミノニハヨクアラシカリコモノミダレイヅミユアマノツリブネ》(二五六)に似たところがあるが、この赤人作の方が少し劣つてゐるやうに見える。
 
940 印南野の 淺茅おしなべ さぬる夜の け長くしあれば 家ししぬばゆ
 
不欲見野乃《イナミヌノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》 左宿夜之《サヌルヨノ》 氣長在者《ケナガクシアレバ》 家之小篠生《イヘシシヌバユ》
 
印南野ノマバラニ生エタ茅ヲ押シ靡カセテ、寢ル晩ガ、日ガ重ナツテ幾晩ニモ〔八字傍線〕長クナルノデ、家ノコトガ思ヒ出サレル。
 
○不欲見野乃《イナミヌノ》――印南野の。不欲をイナと訓むのは義訓で、否《イナ》の意である。○氣長有者《ケナガクシアレバ》――氣《ケ》は日《カ》の轉。この句は戀日之氣長有者《コフルヒノケナガクシアレバ》(二二七八)・氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》(三六六八)などに傚つて、シを補つてよむがよい。
〔評〕 頓宮にいます行幸ながら、從駕の人たちは、文字通りの草枕である。これは殊に淺茅押靡《アサヂオシナベ》が、廣漠たる印南野の原と、荒まじい旅寢の樣とを思はしめて哀深い。
 
941 明石潟 汐千の道を 明日よりは 下ゑましけむ 家近づけば
 
明方《アカシガタ》 潮干乃道乎《シホヒノミチヲ》 從明日者《アスヨリハ》 下咲異六《シタヱマシケム》 家近附者《イヘチカヅケバ》
 
明石潟ノ潮ノ干タ海岸ノ道ヲ、明日カラハ歸リ途デ〔四字傍線〕家ガ近ヅクノデ、心ノ中デホホ笑ミナガラ行クノデアラウ。早ク家ニ歸リタイナア〔十字傍線〕。
 
(172)○下咲異六《シタエマシケム》――下笑ましからむに同じ。顔色には出さずに、心の裏で嬉しく思ひ、ほほ笑みしつつの意。
〔評〕 いよいよ明日から還幸と決定した。永らく行幸に從つて、印南野の淺茅を押しなびかせて、旅寢した人たちは、この還幸の決定を如何に嬉しく聞いたであらう。併しいづれも有髯の男子であるから、敢て歡呼の聲をあげるわけではない。胸中の歡喜を包みつつ、明石潟の汐干の道を辿り行く明日の吾が姿を想像して、愉悦の情に浸つてゐるのである。
 
過2辛荷島1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
辛荷鳥は室津の沖にあつて、地辛荷・中辛荷・沖辛荷の三島からなつてゐる。播磨風土記には、「韓荷島、韓人破v船、所v漂之物、漂2就於此島1故云2韓荷島1」とある。これはもとより地名傳説に過ぎないであらう。
 
942 あぢさはふ 妹が目かれて 敷妙の 枕もまかず かには纏き 作れる舟に まかぢ貫き 吾がこぎ來れば 淡路の 野島も過ぎ 印南都麻 辛荷の島の 島のまゆ わぎへを見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり來ぬ 漕ぎたむる 浦のことごと 往き隱る 島の埼埼 隈も置かず 思ひぞ吾が來る 旅のけ長み
 
味澤相《アヂサハフ》 妹目不數見而《イモガメカレテ》 敷細乃《シキタヘノ》 枕毛不卷《マクラモマカズ》 櫻皮纏《カニハマキ》 作流舟二《ツクレルフネニ》 眞(173)梶貫《マカヂヌキ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》 淡路乃《アハヂシノ》 野島毛過《ヌジマモスギ》 伊奈美嬬《イナミヅマ》 辛荷乃島之《カラニノシマノ》 島際從《シマノマユ》 吾宅乎見者《ワギヘヲミレバ》 青山乃《アヲヤマノ》 曾許十方不見《ソコトモミエズ》 白雲毛《シラクモモ》 千重爾成來沼《チヘニナリキヌ》 許伎多武流《コギタムル》 浦乃盡《ウラノコトゴト》 往隱《ユキカクル》 島乃埼埼《シマノサキザキ》 隅毛不置《クマモオカズ》 憶曾吾來《オモヒゾワガクル》 客乃氣長彌《タビノケナガミ》
 
(味澤相)妻ニ逢ハナイデ(敷細乃)枕モセズニ、櫻ノ皮ヲ纏イテ作ツタ舟ニ、櫓ヲ貫キ通シテ、私ガ漕イデ來ルト、淡路ノ野島モ通リ過ギ、加古川ノ河口ニアル〔九字傍線〕印南都麻ヤ辛荷ノ島ノ島ノ間カラ、吾ガ家ノ方〔二字傍線〕ヲ見ルト、青々トシタ山ガ聳エテヰルパカリデ〔九字傍線〕何處トモ分ラズ、白雲モ千重ニ距テ夕遠クノ方ニ〔八字傍線〕來タ。漕イデ廻ル浦トイフ浦ノ總ベテ、漕イデ行ツテ〔三字傍線〕陰二隱レル島ノ岬ノドノ岬ニモ、道ノ曲リ角毎ニ一ツモ洩ラサズ、私ハアマリ〔五字傍線〕旅ノ日數ガ長イノデ、家ヲ〔二字傍線〕思ヒナガラ來マスヨ。
 
○味澤相《アヂサハフ》――枕詞。メとつづく。味鳧《アヂカモ》が澤山に群れて飛ぶ意を以て、ムレの約メにつづくと言はれてゐるが、異説もある。古義にウマサハフとよんだのは思ひ切つた説で從ひ難い。一九六參照。○妹目不數見而《イモガメミズテ》――諸本皆數の字があるが、これを衍とする考の説に從ふべきであらう。舊訓のイモガメシバミズテでは、あまりに整はない。上の枕詞とはイモガを距てて目《メ》につづいてゐる。○敷細乃《シキタヘノ》――舊本に敷を數に作つてゐるが、元暦校本その他の古寫本多くは敷であるから、それによつて改めた。枕詞。枕とつづく。七二參照。○櫻皮纏《カニハマキ》――櫻皮《カニハ》は和名抄に「樺迦邇波、今櫻皮有v之木名、皮可2以爲1v炬者也」とあつて、カニハザクラともいふもので、即ちシラカンバのことである。シラカンバは白樺。樺木科の落葉喬木で、樹皮は白色で剥げ易い。早春葉に先立つて帶黄褐色の花を聞く。カニハサクラともいふが、櫻とは全く別種である。この樹皮は曲物のやうな器具を綴ぢるに用ゐるもので、ここにカニハを卷いて船を造るとあるのは、船縁などに樺の皮を用ゐたものか。正倉院(174)御物中には、樺纏金銀装刀子・樺纏黄金珠玉装刀子・樺纏把鞘白銀玉虫装刀子などがあるが、これらは樺櫻の皮の如く密着せしめて卷くといふ意で、樺の皮を卷いたのではない。なほこの木とハハカとを混同するのは誤である。○伊奈美嬬《イナミツマ》――卷四に稻日都麻《イナヒツマ》(五〇九)とあるのと同じで、今の加古川の河口、高砂のことであらう。○青山乃《アヲヤマノ》――青山がの意であらう。青山のみ見えて、家はいづことも分かぬといふのである。攷證に青山の如くと解したのでは分らない。○許伎多武流《コギタムル》――漕ぎ回る。タムは廻ること。○隅毛不置《クマモオカズ》――卷一に隈毛不落《クマモオチズ》(二五)とあつたのと同じ。クマは舊本隅とあるが、元暦校本には隈の字が用ゐてある。○客乃氣長彌《タビノケナガミ》――氣《ケ》は日《カ》の轉。
〔評〕 淡路の海峽を通過して播磨灘を西行する船に乘つて室津の沖合なる辛荷島まで來て、後を振返つて詠んだ望郷の歌である。長途の海路の寂寥感がよく出てゐる。なほ櫻皮纏作流舟二《カニハマキツクレルフネニ》の句は、古代造船法研究の珍貴な資料であらう。
 
反歌三首
 
943 玉藻苅る 辛荷の島に 島みする 鵜にしもあれや 家思はざらむ
 
玉藻苅《タマモカル》 辛荷乃島爾《カラニノシマニ》 島回爲流《シマミスル》 水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》 家不念有六《イヘモハザラム》
 
(175)玉藻ヲ苅ル辛荷ノ島デ餌ヲアサツテヰル鵜デ私ガ〔二字傍線〕アレバヨイヨ。サウシタラ〔五字傍線〕家ノコトハ思ハナイダラウ。ドウモ家ノコトガ戀シクテ仕樣ガナイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○島回爲流《シマミスル》――島回は舊訓アサリであるが、古義にシマミとよんだのがよい。磯回爲等霜《イソミスラシモ》(一一六四)・磯廻爲鴨《イソミスルカモ》(三六八)・灣廻爲流《ウラミスル》(四二〇二)などがその傍證であらう。○水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》――水烏は鵜。卷十九にも贈2水烏越前判官大伴宿禰池主1歌(四一八七)とある。有哉《アレヤ》はアレヨの意。ヤは命令である。
〔評〕 悠々と物思ひなげに泳いでゐる鵜を羨んで、今の吾が身の切なさを嘆いてゐる。水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》が斷腸の聲である。
 
944 島がくり 吾がこぎ來れば ともしかも 大和へ上る ま熊野の船
島隱《シマガクリ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》 乏毳《トモシカモ》 倭邊上《ヤマトヘノボル》 眞熊野之船《マクマヌノフネ》
 
島カゲニ隱レツヅ私ガ漕イデクルト、羨シイナア。大和ノ方ヘ上ツテ行ク、熊野ノ船ガ見エルヨ。アア、アノ船ノヤウニ都ノ方ヘ行ク身ナラバヨイガ〔アア〜傍線〕。
 
○乏毳《トモシカモ》――トモシは羨し。毳をカモの假名に用ゐるのは、毳は氈で和名カモであるからである。四九九參照。○眞熊野之船《マクマヌノフネ》――マは接頭語で意味がない。熊野之船は神代紀下に「故以2熊野諸手船1、亦名天鳩船、載2使者稻背脛1」とあり、熊野の船は特異の形をなしてゐたのであらう。日本紀疏に、「熊野船名、伊與風土記云、昔野間郡有2一船1名曰2熊野1後化爲v石、蓋此類也」とあるけれども、船の名ではない。他に松浦船(一一四三・三一七三)足柄小船(三三六七)・伊豆手船(四三三六・四四六〇)などが見えてゐる。
〔評〕 段々故郷に遠ざかる往路に、大和の方を指して行く熊野船を見て、羨しく思つた心地が、直線的に述べられてゐる。先づトモシカモと三句で切つて、下の句を熊野之船と名詞止にしてあるのが、歌全體を嗟嘆の聲にしてしまつて、まことに力強い表現となつてゐる。
 
945 風吹けば 浪か立たむと さもらひに 都多の細江に 浦がくり居り
 
(176)風吹者《カゼフケバ》 浪可將立跡《ナミカタタムト》 伺候爾《サモラヒニ》 都多乃細江爾《ツタノホソエニ》 浦隱在《ウラガクリヲリ》
 
風ガ吹クノデ浪ガ立ツダラウト思ツテ、樣子ヲ伺ツテ、都多ノ細江ニ入ツテ〔三字傍線〕浦ニ隱レテヰル。
 
○伺候爾《サモラヒニ》――舊訓マツホドニ、代匠記サモラフニとあり、代匠記の訓が廣く行はれて來たが、古義にサモラヒニとあるのがよい。ここは名詞としてよむべきところである。卷三に何時鴨此夜乃將明跡待從爾《イツシカモコノヨノアケムトサモラフニ》(三八八)のサモラフと同意である。○都多乃細江爾《ツタノホソエニ》――都多の細江は今、津田・細江の二村に分れ、その中間を流れる飾磨川の海に注ぐあたりをいふので、思賀麻江者《シカマエハ》(一一七八の一云)とあるのも同所であらう。姫路市の西南方にあたる。○浦隱往《ウラガクリヲリ》――往の字は種々の訓が出來るが、ここは元暦校本等の古寫本に、居になつてゐるのに從つてヲリとよむのが穩やかであらう。
〔評〕 これは地理から考へると、辛荷島まで來る間の辛勞を歌つたものである。風波を避けた小船が、細江の奧に遁げ込んだ樣も想像せられてあはれである。
 
過(グル)2敏馬浦(ヲ)1時、山部宿禰赤人作(レル)歌一首并短歌
 
敏馬浦は今の神戸市の東に接した西灘村地方。
 
946 御食向ふ 淡路の島に ただ向ふ 敏馬の浦の 沖べには 深海松とり 浦みには 名告藻苅る 深海松の 見まく欲しけど 名告藻の 己が名惜しみ 間使も 遣らずて我は 生けりともなし
 
御食向《ミケムカフ》 淡路乃島二《アハヂノシマニ》 眞向《タダムカフ》 三犬女乃浦能《ミヌメノウラノ》 奧部庭《オキベニハ》 深海松採《フカミルトリ》 浦回庭《ウラミニハ》 名告藻苅《ナノリソカル》 深見流乃《フカミルノ》 見卷欲跡《ミマクホシケド》 莫告藻之《ナノリソノ》 己名惜三《オノガナヲシミ》 間使裳《マヅカヒモ》 不遣而吾者《ヤラズテワレハ》 生友奈重二《イケリトモナシ》
 
(御食向淡必乃島二、直向三犬女乃浦能、奧部庭深海松採、浦回庭名告藻苅、深見流乃)見タイケドモ(莫告藻(177)之)自分ノ惡名ガ立ツノガ惜シイノデ、彼方ト此方ノ〔六字傍線〕間ヲ通フ使モ遣ラナイデ、私ハ唯家ノ人ヲ思ツテ〔八字傍線〕生キテヰルヤウナ心地モシナイ。
 
○御食向《ミケムカフ》――枕詞。淡路とつづく。御饌に向ふ粟とつづくのであらう。この枕詞は、この他|味《アヂ》・肉《ミ》・酒《キ》などにもつづく。○三犬女乃浦能《ミヌメノウラノ》――敏馬を三犬女と記したのは、犬《イヌ》を略してヌに川ゐたのである。○深海松採《フカミルトリ》――深海松は深いところに生ずる海松。海松は海草。一三五參照。○名告藻苅《ナノリソカル》――名告藻《ナノリソ》は、ほんだはらの古名。三六二參照。○深見流乃《フカミルノ》――この句は前の深海松採《フカミルトリ》を受けたもので、ミの音を繰返して次の見卷欲跡《ミマクホシケド》につづくのである。即ち冒頭からここまでは、序詞で歌意には直接關係はないのである。この序詞の意は、「(御食向)淡路の島に眞向ひになつてゐる、敏馬の浦の沖の方には、深いところに生える海松を採り、浦の廻りでは名告藻を苅る、その深海松の」といふのである。○莫告藻之《ナノリソノ》――これも序詞中の名告藻苅《ナノリソカル》を受けて、次の己名惜三《オノガナヲシミ》につづけたので、名告藻《ナノリソ》を告るなの意として、つづけたもの。○間使裳《マヅカヒモ》――間使は兩者の間を行き通ふ使。○生友奈重二《イケリトモナシ》――二一二參照。重二は二二・並二と同じくシとよむのである。
〔評〕 敏馬浦を過ぎ、その風景に接して、深海松や名告藻などに寄せて、戀の心を詠んだものである。旅中の歌としては、ふさはしくない。
 
反歌一首
 
947 須磨の海人の 鹽燒衣の 馴れなばか 一日も君を 忘れて念はむ
爲間乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 奈禮名者香《ナレナバカ》 一日母君乎《ヒトヒモキミヲ》 忘而將念《ワスレテオモハム》
 
(爲問乃海人之鹽燒衣乃)近クニ居〔四字傍線〕テ馴レ親シンダ〔四字傍線〕ナラバ、一日デモ私ハ〔二字傍線〕アナタヲ忘レルコトガ出來ルデセウ。離レテバカリヰルカラ忘レラレナイノデス〔離レ〜傍線〕。
 
○爲間乃海人之鹽燒衣乃《スマノアマノシホヤキキヌノ》――奈禮《ナレ》につづく序詞。須磨の海人が鹽燒く時に着る衣は、着古して、よごれなえて(178)ゐるから、馴れにつづくのである。○奈禮名者香《ナレナバカ》――馴れ親しく女に逢ふことが出來たら。カは疑の助詞。下の將念《オモハム》に係つてゐる。
〔評〕 これも須磨の浦の鹽燒く煙を眺めて、戀の心を海人の鹽燒衣に托したのであらう。純粹な戀の歌である。卷三の須麻乃海人之鹽燒衣乃藤服《スマノアマノシホヤキギヌノフヂコロモ》(四一三)と上二句が同じである。恐らくこの赤人作を摸したものであらう。
 
右作歌(ノ)年月未v詳也、但以(テ)v類(ヲ)故(ニ)載(ス)2於此次(ニ)1
 
この敏馬浦を過ぐる時の歌は、何時の作か年月が確かでないが、前の歌と同じやうであるから、ここに載せて置いたといふのである。
 
四年丁卯春正月、勅(シテ)2諸王諸臣等(ニ)1散2禁(セシメラル)於授刀寮(ニ)1時、作(レル)歌一首并短歌
 
授刀寮は授刀舍人寮の略。天皇親衛の舍人を掌るところ。續紀に慶雲四年七月丙辰始置2授刀舍人寮」とあり、後「天平寶字三年十二月甲午置2授刀衛1」また「天平神護元年二月甲子、改2授刀衛1爲2近衛府1」とあり、その沿革を知ることが出來る。要するに兵杖を帶して禁中を警衛したもので、後の近衛に當るものである。この諸王諸臣とあるのは、授刀寮の長官(督)以下の官人、舍人どもであらう。散禁は禁足を命ずること。令によれば枚罪以下の輕い罪である。
 
948 眞葛はふ 春日の山は うち靡く 春さりゆくと 山の上に 霞棚引き 高圓に 鶯鳴きぬ もののふの 八十伴のをは 雁がねの 來つぐ此の頃し かく繼ぎて 常にありせば 友なめて 遊ばむものを 馬並めて 往かまし里を 待ちがてに 吾がせし春を かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしからむと あらかじめ かねて知りせば 千鳥鳴く その佐保川に いそに生ふる 菅の根取りて しぬぶ草 はらひてましを 往く水に みそぎてましを おほきみの 御命かしこみ ももしきの 大宮人の 玉桙の 道にも出です 戀ふるこの頃
 
眞葛延《マクズハフ》 春日之山者《カスガノヤマハ》 打靡《ウチナビク》 春去往跡《ハルサリユクト》 山上丹《ヤマノヘニ》 霞田名引《カスミタナビキ》 高圓爾《タカマドニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴沼《ウグヒスナキヌ》 物部乃《モノノフノ》 八十友能壯者《ヤソトモノヲハ》 折木四哭之《カリガネノ》 來繼皆石《キツグコノゴロシ》 此續《カクツギテ》 常丹有脊者《ツネニアリセバ》 友名目而《トモナメテ》 遊物尾《アソバムモノヲ》 馬名目而《ウマナメテ》 往益里乎《ユカマシサトヲ》 待難丹《マチガテニ》 吾爲春乎《ワガセシハルヲ》 決卷毛《カケマクモ》 綾爾恐《アヤニカシコシ》 言卷毛《イハマクモ》 湯湯敷有跡《ユユシカラムト》 豫《アラカジメ》 兼而知者《カネテシリセバ》 千鳥(179)鳴《チドリナク》 其佐保川丹《ソノサホガハニ》 石二生《イソニオフル》 菅根取而《スガノネトリテ》 之努布草《シヌブクサ》 解除而益乎《ハラヒテマシヲ》 往水丹《ユクミヅニ》 潔而益乎《ミソギテマシヲ》 天皇之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》 百礒城之《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤヒトノ》 玉桙之《タマボコノ》 道毛不出《ミチニモイデズ》 戀比日《コフルコノゴロ》
 
葛ガ這ツテヰル春日ノ山ハ(打靡)春ニナツテ行クトテ、山ノ上ニハ霞ガ棚引イテ、高圓山デハ鶯ガ鳴イタ。武士ノ澤山ノ連中ノ長ドモハ、歸ル〔二字傍線〕雁ガ頻リニ飛ンデ來ル此ノ頃、コンナニ續イテ常ニアツタナラバ、友ト連レ立ツテ遊バウノニ、馬ヲ並ベテ彼處ノ〔三字傍線〕里ヘ行カウノニ、早ク春ガ來レバヨイト待チカネテヰタノニ、心ニ思フダケデモ不思議ニ恐レ多イ、口ニ出シテ言フノモ恐ロシイコンナ散禁トイフヤウナヒドイ目ニ逢フダラウ〔コン〜傍線〕ト豫メ前カラ知ツテヰタナラバ、千鳥ノ鳴クアノ佐保川デ石ニ生エル菅ノ棍ヲ取ツテ、春日野ヲ〔四字傍線〕思ツテ遊ビニ行キタガル心ヲ拂ヒ清メテシマハウノニ、流レル水ニ御祓ヘヲシテソノ心ヲ流サウ〔八字傍線〕ノニ、サウシナカツタモノダカラ散禁ノ罪ニ處セラレテ〔サウ〜傍線〕勅命ガオソレ多イノデ(百礒城之)御所ニツカヘテヰル人タチガ、(玉桙之)道ニモ出ナイデ外ヲ〔二字傍線〕戀ヒシガツテヰルコノ頃ヨ。
 
○眞葛延《マクズハフ》――山には葛が這つてゐるから、春日山の上に修飾句として置いたもの。○打靡《ウチナビク》――枕詞。春とつづく。二六〇參照。○春去往跡《ハルサリユクト》――往は來ると同じに用ゐてある。舊本、住とあるは誤。元暦校本による。跡《ト》は、とての意。○山上丹《ヤマノヘニ》――元暦校本に上を匕とあるといふので、ヤマカヒニと新訓によんでゐる。和名抄に「匙、説文云、匕賀比所2以取1v飯也」とあるから、この訓も面白いやうであるが、本集中、匕の字は全く用例が無い上に、元暦校本に、別に上の字が記してあつて、果して匕の字として、記したものなるや否や疑はしいから、上の字として訓むのが穩當であらう。○折木四哭之《カリガネノ》――折木四哭はカリガネとよむ。卷十にも月乎吉三切木四之(180)泣所聞《ツキヲヨミカリガネキコユ》(二一三一)とあつて、切木四之泣もカリガネと訓んでゐる。これについて代匠記に、折木も切木も苅の義であるから雁に借りてかいたものだが、四の字は心得難いと言つてゐる。眞淵は折木四を雁に假りたのは、幹・蘖・枝・葉の四つを一手に切るのは、鎌で苅取る程の小木でこれは戯書だと言つてゐる。略解には、或人云として、折は斷の誤、孟莊子造v鋸、截2斷木1器とあつて、四は器の誤であらう。鋸の音が、カリカリと聞えるから、カリの假字に用ゐたのだらうと述べてゐる。以上の諸説はいづれも當つてゐない。これは喜多村節信の折木哭考に委しく説いてゐるのが今では定説となつてゐる。その説を要約して、木村正辭が美夫君志別記附録に載せ、併せて自説をも記してゐるから、便宜上それを次に採録することにする。「此折木四また切木四とかける事は、先哲の説すべてひがごとのみにて、いかなる意とも知がたかりしを、近き頃北村節信といへる人の考にて、其義いと明かになりたり。但し其説いと長ければ、今其意を採り約略してここにあぐ。和名抄雜藝部に兼名苑云樗蒲一名九采【内典云樗蒲賀利宇智】又陸詞曰〓【音軒、和名、加利】〓子樗蒲采名也とあり。これにて折木四は即樗蒲子の事にて、其は小木を薄く削て、兩邊を尖らしめて、其形杏仁をそきたるが如し。その半面は白く、半面は黒く塗て、白きかた二に雉を畫、黒き方二に犢を畫て、これを投じて其采色によりて、勝負をなすなり。但西土にては、これを五木といひて、其采五子なれども、皇國にては四子を用ゐるなり。(中略)かかれば、折木四は樗蒲子の事にて、加利の假字としたるなり。正辭云。此説は實に千古の發明にて、うごくまじき考なり。然るを、北靜廬が梅園日記に、自らの説として載たるはいとをこなる事なり。又按に、樗蒲を加利といふは梵語なるべし。此戯はもと西域より傳しなれば、其語をもて云ならへるならむ。其は飜譯名義集卷三帝王篇に十歌利、西域記云羯利王、唐言2闘諍1、舊云2歌利1訛也とある是也。樗蒲の互に勝負を諍ふは、即闘諍するに同じければ、加利とは呼べるなるべし」と。この句は從來枕詞と解せられてゐるが、どうもさうらしくない。春になつて動き出した歸雁をさすのであらう。○來繼皆石《キツクコノコロシ》――舊訓このままで、キツキミナシとなるが解し難い。假に考によつて來繼比日石の誤とし、訓は新訓による。歸雁が頻りに繼いて飛んで來を頃に。○決卷毛《カケマクモ》――下の言卷毛《イハマクモ》に對してゐる。心に掛けむもの意。○湯湯敷有跡《ユユシカラムト》――こんな、ゆゆしい、恐ろしい目に逢ふことと。○石二生《イソニオフル》――石はイソと訓まう。河岸の石である。○菅根取而《スガノネトリテ》――菅は祓に用ゐるものであるから、それを根のままに引拔(181)いたのであらう。○之努布草《シヌブクサ》――偲ぶ種《クサ》で、春日野を戀しく思ふ心をいふ。○潔而益乎《ミソギテマシヲ》――河水にその心を祓ひ滌がうのにの意。○大宮人之《オホミヤビトノ》――舊本大官人とあるは誤。元暦校本によつて改む。○玉桙之《タマボコノ》――道の枕詞。七九參照。
〔評〕 事件が珍らしいだけに、内容も變つた作である。勅命によつて禁足に處せられた人が、恐れ入つて謹慎してゐる樣子が見える。左註に悒憤即作斯歌とあるけれども、さして不平怨恨の氣分がなく、柔順な態度が上代人らしい。
 
反歌一首
 
949 梅柳 過ぐらく惜しみ 佐保の内に 遊びしことを 宮もとどろに
梅柳《ウメヤナギ》 過良久惜《スグラクヲシミ》 佐保乃内爾《サホノウチニ》 遊事乎《アソビシコトヲ》 宮動々爾《ミヤモトドロニ》
 
梅ヤ柳ノ面白イ盛〔五字傍線〕ガ過ギテシマフノガ惜シイノデ、佐保ノ内デ、出テ遊ンダコトヲ宮中ニヤカマシク言ヒ澡イデヰル。サウシテ結局コンナニ散禁ノ罰ヲ受ケテヰルノハツライコトダ〔サウ〜傍線〕。
 
○佐保乃内爾《サホノウチニ》――佐保の區域内で。左注によると春日野に集つたとあるが、佐保は奉日野の一部と見傚されてゐたものか。○宮動々爾《ミヤモトドロニ》――元暦校本に々の字がない。ある方がよいのではないか。
〔評〕 梅柳の好季が空しく過ぎるのを惜しんで、遊樂に外出したまでのことだのに、かくばかり宮廷中の評判となつて、遂に罰せられたと殘念がつたのである。稀薄ながら自己辯明的口吻でもある。宮動勤爾《ミヤモトドロニ》と婉曲に言ひ殘してあるのが、餘情を籠めてゐる。
 
右、神龜四年正月、數王子及(ビ)諸臣子等、集(ヒテ)2於春日野(ニ)1而作(ス)2打毬之樂(ヲ)1、其(ノ)日忽(チ)天陰(リ)雨(フリ)雷電(ス)、此(ノ)時宮中(ニ)無(シ)2侍從及(ビ)侍衛1、 勅(シテ)行(ヒ)2刑罰(ニ)1。皆散2禁(シテ)於授刀寮(ニ)1、而妄(リニ)(182)不(シム)v得v出(ヅルヲ)2道路(ニ)1、于v時悒憤(シテ)即(チ)作(ル)2斯(ノ)歌(ヲ)1、作者未v詳
 
打毬之樂は蹴鞠のことであらう。皇極紀三年春正月の條に「中臣鎌子連中略便附2心於中大兄1疎然未v獲v展2其幽抱1偶預2中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶1而候2皮鞋隨v毬脱落1取2置掌中1前跪恭奉云々」とある。和名抄雜藝類には「打毬……師説云、萬利宇知」、蹴鞠……世間云2末利古由1」と見えてゐるから蹴鞠の他に、枚を以つて打つ打毬もあつたのである。侍從はオモトビトと訓す。職員令によれば「中務省、侍從八人、掌2常侍規諫拾v遺補1v闕」とある。舊本、待に作るは誤。元暦校本によつて改む。侍衛は授刀寮の舍人をさしたのである。
 
年戊辰幸2于難波宮1作歌四首
 
この行幸のことは、續紀に見えてゐない。この四首はいづれも戀の歌で、行幸に從つてゐる趣が見えてゐない。元麿校本には、宮の下に時の字がある、目録にもあるから、もとあつたのが脱ちたのであらう。なほ目録に車持朝臣千年作歌とあるのは、左注によつて書いたものである。
 
950 大きみの 界賜ふと 山守すゑ 守るといふ山に 入らずは止まじ
 
大王之《オホキミノ》 界賜跡《サカヒタマフト》 山守居《ヤマモリスヱ》 守云山爾《モルトイフヤマニ》 不入者不止《イラズハヤマジ》
 
天子樣ガ境界ヲオ立テナサルトテ、山ノ番人ヲ据ヱテオ置キニナツテ、番ヲナサルト云フ神聖ナ〔三字傍線〕山ニモ、私ハ入ラナイデハオクマイ。親ガ番シテヰテ逢ハセナイアノ女ニドウカシテ逢ヒタイモノダ〔親ガ〜傍線〕。
 
○界賜跡《サカヒタマフト》――界を立てさせ給ふとて。古義に、このサカヒを用言だと言つてゐるが、やはり名詞であらう。○山守居《ヤマモリスヱ》――山の番人を置いて。
〔評〕 親が番をしてゐる女に戀した歌である。大王云々といつたのは、少し無禮のやうであるが、それは監視の嚴重さを譬へたので、深く咎むべきでない。
 
(183)951 見渡せば 近きものから いそがくり かがよふ珠を 取らずは止まじ
 
見渡者《ミワタセバ》 近物可良《チカキモノカラ》 石隱《イソガクリ》 加我欲布珠乎《カガヨフタマヲ》 不取不己《トラズハヤマジ》
 
見渡ストスグ目前ニハアルガ、石ノ蔭ニナツテ光ツテヰルアノ〔二字傍線〕玉ヲトラナイデハ置クマイ。スグ目ノ前ニ美シク見エルケレドモ、邪魔ガアツテ逢ヘナイアノ女ニ逢ハナイデハ私ハオクマイ〔スグ〜傍線〕。
 
○近物可良《チカキモノカラ》――近いけれども。モノカラはモノナガラ。○石隱《イソガクリ》――海の磯などの巖に隱れてゐることであらう。イハともイシともよみ得るが、イソがよいやうである。○加我欲布珠乎《カガヨフタマヲ》――輝く珠を。美しい女に譬へてある。
〔評〕これも譬喩の歌で、戀の心を述べてゐるが、石隱加我欲布珠《イソガクリカガヨフタマ》は巧妙な喩である。卷七寄v玉に海底沈白玉
風吹而海者雖荒不取者不止《ワタノソコシヅクシラタマカゼフキテウミハアルトモトラズハヤマジ》(一三一七)に少しく類似してゐる點がある。
 
952 韓衣 著奈良の里の しま松に 玉をしつけむ 好き人もがも
 
韓衣《カラコロモ》 服楢乃里之《キナラノサトノ》 島待爾《シママツニ》 玉乎師付牟《タマヲシツケム》 好人欲得《ヨキヒトモガモ》
 
(韓衣服)奈良ノ里ノ庭ノ松ノ樹ニ、玉ヲ付ケテクレル立派ナ人ガアレバヨイガナア。奈良ノ里ノ美シイ女ヲ寵愛シテクレル紳士ガアレバヨイ。カウシテオクノハ惜シイモノダ〔奈良〜傍線〕。
 
○韓衣服楢乃里之《カラコロモキナラノサトノ》――韓衣服《カラコロモキ》は着物を着褻れることにかけて、奈良の里につづけた序詞。○島待爾《シママヅニ》――シマは卷五、枳美可由佳氣那我久奈理努奈良遲那留志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理《キミガユキケナガクナリヌナラヂナルシマノコダチモカムサビニケリ》(八六七)とある志滿と同じく、山齋即ち庭のことである。島を君の誤とした宣長説は妾である。○好人欲得《ヨキヒトモガモ》――好人は淑人乃良跡吉見而好當言師《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシ》(二七)とあつたヨキヒトと同じで、君子紳士などの意である。宣長は好は取の誤として、トラムヒトモガと訓んでゐるが、この儘で聞えるから、改めるには及ばない。
〔評〕 女を松に譬へて、それに配すべき貴紳を得たいといふのであらう。同じ譬喩の歌ながら、自己の戀情を歌つたのではない。、攷證にはこれを譬喩と見ないで、文字通りに解繹してゐる。
 
953 さを鹿の 鳴くなる山を 越え行かむ 日だにや君に はた逢はざらむ
 
(184)竿牡鹿之《サヲシカノ》 鳴奈流山乎《ナクナルヤマヲ》 越將去《コエユカム》 日谷八君《ヒダニヤキミニ》 當不相將有《ハタアハザラム》
 
男鹿ガ妻ヲ呼ンデ悲シサウニ〔妻ヲ〜傍線〕啼ク山ヲ越シテ、アナタニ別レテ〔七字傍線〕行ク日デスラモ、私ハ〔二字傍線〕アナタニヤハリ逢ヘナイノデセウカ。常ニハ逢へナイデモ出立ノ時ダケテモ、逢ヒタイモノダ〔常ニ〜傍線〕。
 
○竿牡鹿之《サヲシカノ》――さ男鹿の。竿《サヲ》は借字。○當不相將有《ハタアハザラム》――當は、まさになどの意で、ハタと訓ませたのであらう。ハタは上の意を飜して、下を言ひ起す詞である。當の字、元暦校本にないのは脱ちたのであらう。
〔評〕 これは戀の歌ながら、譬喩歌にはなつてゐない。旅中の作としても當嵌つてゐる。但し契沖が「三諸山のあたりに、思かけたる人のあれど行幸の御供なれば、其女のあたりを見ずして過ぐる意ならむ」といつたのは考へ過ぎであらう。妻を戀ひて鳴く鹿を點出して自己の心境と一致させてゐるのが面白い。
 
右笠朝臣金村之歌中出也、或云車持朝臣千年作之也
 
歌の下に集の字が脱ちたのであらう。この註の意は笠朝臣金村歌集中の歌であるが、作者を車持千年とも傳へてゐるといふのであらう。古い註である。
 
膳王歌一首
 
卷三に膳部王とあつた人で、部の字がないのは脱ちたのか。長屋王の御子、高市皇子の御孫である。四四二の題詞參照。
 
954 あしたには 海べにあさりし 夕されば 大和へ越ゆる 雁しともしも
 
朝波《アシタニハ》 海邊爾安左里爲《ウミベニアサリシ》 暮去者《ユフサレバ》 倭部越《ヤマトヘコユル》 雁四乏母《カリシトモシモ》
 
朝ニハ海岸デ餌ヲアサツテ、夕方ニナルト私ノ家ノアル〔六字傍線〕大和ノ方ヘ越エテ行ク、雁ハ羨シイナア。私モアノヤウニ家ヘ一寸歸リタイモノダ〔私モ〜傍線〕。
 
(185)○海邊爾安左里爲《ウミベニアサリシ》−海邊は舊訓ウナビであるが、古義に「凡て海邊をウナビと云ること、古へあることなし」とあるのに從はう。アサリは求食。餌を尋ねること。
〔評〕 平板な作ながら、鮮明に言はむとするところを述べ得てゐる。旅のあはれが身に沁むやうだ。
 
右作歌之年不v審也、但以(テ)2歌類(ヲ)1便(チ)載(ス)2此次(ニ)1
 
これは難波あたりの作で、右の行幸の時の歌らしく思はれるから、ここに載せるといふのだ。
 
太宰少式石川朝臣足人歌一首
 
石川朝臣足人は卷四に、五年戊辰太宰少貳石川足人朝臣遷任餞于筑前國蘆城驛家歌三首(五四九)とあるところに述べて置いた。かれとこれと同年の作で、この人はこの年太宰府を去つてゐるが、この歌も内容から推すと京へ遷任のことが定つて、旅人に贈つたものかも知れない。
 
955 さす竹の 大宮人の 家と住む 佐保の山をば 思ふやも君
 
刺竹之《サスタケノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》 家跡住《イヘトスム》 佐保能山乎者《サホノヤマヲバ》 思哉毛君《オモフヤモキミ》
 
(刺竹之)大宮人ガ家トシテ住ンデヰル、奈良ノ〔三字傍線〕佐保ノ山ヲ、思ヒ出シナサイマスカ。貴方ヨ。
 
○刺竹之《サスタケノ》――冠辭考には、これは君とつづくのが原形で、それは立竹《タツクケ》のくみ〔二字傍点〕の點であらう。(くみは籠りで葉の茂きこと)大宮とつづくのは君のいます宮にも冠らせるのだらう、舍人《トネリ》につづくのは、刺竹のを直ちに大宮の意として、大宮の舍人とつづくのだらうといつてゐる。古義には、刺竹は黍《キミ》のことで、刺竹の君とつづくのだらうと言つてゐるが、首肯し難い説である。恐らく刺竹は立つ竹で、竹の繁茂してゐる状態をいふらしく、從つてその盛なる有樣によそへて君とか大宮とかにつづくのであらう。卷十六に舍人壯裳《トネリヲトコモ》(三七九一)につづいてゐるのは大宮につづくのから轉じたのであらう。卷二の刺竹之皇子宮人《サスタケノミコノミヤビト》(一六七)・刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカドヲ》(一九九)とつづいたのは特例のやうであるが、君と皇子とを同一に視たのであらう。
(186)〔評〕 佐保は大伴氏の邸宅のあるところ。久しい筑紫の住居に、都戀しからむと長官旅人に問ひかけた歌である。同情の聲であり、慰問の詞であらうが、聞きやうによつては、揶揄とも聞える。ことに作者が京へ轉任の場合だとすると尚更である。
 
帥大伴卿和(フル)歌一首
 
956 やすみしし わが大きみの をす國は 大和もここも 同じとぞ思ふ
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 御食國者《ヲスクニハ》 日本毛此間毛《ヤマトモココモ》 同登曾念《オナジトゾオモフ》
 
(八隅知之)私ノ御仕ヘ申ス天子樣ノ御支配遊バス國ハ、大和デモコノ太宰府デモ、同ジコトト私ハ思フヨ。別ニコノ太宰府ニ居ルノガ嫌トモ思ハナイ〔別ニ〜傍線〕。
 
○御食國者《ヲスクニハ》――舊訓ミケクニハとあるのは、ミケツクニハとしたい。しかも元暦校本などに御の字が無いによつて、ヲスクニハとよむのが穩やかのやうである。○日本毛此間毛《マトモココモ》――日本は畿内の大和《ヤマト》。此間《ココ》は筑紫。
〔評〕 普天の下率土の濱いづれか王土ならざる、遍き皇恩の下に生活するものは、幸福に日を過ごすことに於ては、都鄙の別は無いといふのである。忠誠な臣子の言といふべきであらう。併し問者の心情が揶揄であるとすると、これも瘠我慢に聞えて來るが、恐らく前者であらう。
 
冬十一月太宰官人等奉(リ)v拜(ミ)2香椎廟(ヲ)1訖(ヘテ)退(リ)歸(リシ)之時、馬《ヲ》駐(メテ)2于香椎浦(ニ)1各述(ベテ)v懷(ヲ)作(レル)歌
 
香椎は和名抄に筑前國糟屋郡香椎加須比とあるところで、福岡市の東北二里の地。福岡灣に面してゐる。香椎廟は即ち今の官幣大社香椎宮で、神功皇后を奉祀してある。(或云仲哀天皇合祀)宮地は仲哀天皇の橿日宮址である。
 
(187)帥大伴卿歌一首
 
957 いざ兒ども 香椎の潟に 白妙の 袖さへぬれて 朝菜採みてむ
 
去來兒等《イザコドモ》 香椎乃滷爾《カシヒノカタニ》 白妙之《シロタヘノ》 袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》 朝菜採手六《アサナツミテム》
 
サアオマヘ等ヨ、香椎ノ浦ノ潮ノ干滷デ、白イ袖マデモ霑シテ朝食ノ海藻ヲ摘マウヨ。
 
○去來兒等《イザコドモ》――兒等《コドモ》は親しみていふ語。ここは從者らを指すのであらう。○香椎乃滷爾《カシヒノカタニ》――香椎の浦は淺いところで、干滷となるから滷と言つてあるのだ。寫眞は三松莊一氏の好意による。○白妙之《シロタヘノ》――袖の枕詞であるが、ここは從者どもが白い着物を着てゐたのであらう。○朝菜採手六《アサナツミテム》――朝菜は朝食の料に摘む海藻をいふ。
〔評〕 明朗な歌である。長者らしいゆつたりした態度も見える。
 
大貳小野老朝臣歌一首
 
小野老については三二八の題詞參照
 
958 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな
 
時風《トキツカゼ》 應吹成奴《フクベクナリヌ》 香椎滷《カシヒガタ》 潮干(188)?爾《シホヒノウラニ》 玉藻苅而名《タマモカリテナ》
 
潮時ノ風ガ吹クベキ頃トナツテ來タ。コノ香椎潟ノ潮ノ干タ海岸デ、汐ノサシテ來ナイウチニ〔汐ノ〜傍線〕玉藻ヲ苅ラウヨ。
 
○時風《トキツカゼ》――潮の滿ちて來る時に吹いて來る風。○玉藻苅而名《タマモカリデナ》――ナはムと同じで未來をいふのであるが、自己の希望をあらはしてゐる、
〔評〕 長官の旅人のやうに、從者に命ずるのではなくて、自ら汐干の潟で玉藻を苅らうといふのである。これもすがすがしい感じの歌。
 
豐前守|宇努首男人《ウヌノオフトヲヒト》歌一首
 
政事要略二十二に、「舊紀云、養老四年大隅日向兩國隼人發亂、勅以2豐前守宇努首男人1爲2將軍1祈2八幡大神1伐v之、多殺2隼人1大勝v之、於是爲2放生會1報2神恩1」とある。姓氏録に宇努首百濟國君|彌奈曾富意彌《ミナソホオミ》之後也と見える。
 
959 往き還り 常に吾が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし
 
往還《ユキカヘリ》 常爾我見之《ツネニワガミシ》 香椎滷《カシヒガタ》 (189)從明日後爾波《アスユノチニハ》 見縁母奈思《ミムヨシモナシ》
 
任國カラ〔四字傍線〕太宰府ヘノ往キニモ還リニモ、常ニ私ガ見タ香椎潟ノ佳イ景色〔五字傍線〕ヲ、コレカラ任ヲ解カレルノデ〔コレ〜傍線〕明日カラハ見タクテモ〔五字傍線〕見ル方法ガナイ。
 
○往還《ユキカヘリ》――往くとて還るとて。任國豐前からの通路に、香椎潟が當つてゐたのである。
〔評〕 右の政事要略に引いてある文に、養老四年に豐前守宇努首男人を將軍として隼人征伐にやつたとあるから、もしこれを事實とすれば、この神龜五年までは、實に九年に亘つてゐる。これは任期が長過ぎるやうに思はれるが、ともかくこの時を以て解任になつたのであらう。從明日後爾波《アスユノチニハ》以下がそれを證明してゐる。任國へ歸る時の歌とする古義の説は從はれない。
 
帥大伴卿、遙(ニ)思(ヒテ)2芳野(ノ)離宮(ヲ)1作(レル)歌一首
 
960 隼人の 湍門の磐も 年魚走る 芳野の瀧に なほしかずけり
 
隼人乃《ハヤビトノ》 湍門乃磐母《セトノイハホモ》 年魚走《アユハシル》 芳野之瀧爾《ヨシヌノタギニ》 尚不及家里《ナホシカズケリ》
 
隼人ノ國ノ薩摩ノ〔五字傍線〕瀬戸ノ磐モ、ナカナカ佳イ景色ダガ、シカシ〔ナカ〜傍線〕鮎ノ走ツテヰル芳野ノ瀧ノ景色〔三字傍線〕ニハ、ヤハリ及バナイワイ。
 
○隼人乃湍門乃磐母《ハヤビトノセトノイハホモ》――卷三に隼人乃薩摩乃迫門乎雲居奈須遠毛吾者今日見鶴鴨《ハヤヒトノサツマノセトヲクモヰナストホクモワレハケフミツルカモ》(二四八)とあるやうに、隼人の薩摩の湍門とあるべきを略したのである。隼人は國名。この湍門は薩摩と長島との間の黒瀬戸である。磐の字、舊本、盤とあるは誤。元暦校本によつて改む。
〔評〕 太宰師として、大伴旅人が南方薩摩地方へ、巡視した時の作であらう。彼が同じく太宰府で詠じた、吾命毛常有奴可昔見之象小河乎行見爲《ワガイノチモツネニアラヌカムカシミシキサノヲガハヲユキテミムタメ》(三三二)とあるのを見ると、如何に吉野の風景に愛着を持つてゐたかが知ら(190)れる。これは旅人らしい平明な歌である。
 
帥大伴脚、宿(リテ)2次田《スギタノ》温泉(ニ)1聞(キテ)2鶴(ノ)喧(クヲ)1作(レル)歌一首
 
吹田温泉は和名抄「筑前國御笠郡次田」とある。今、筑紫郡二日市驛に近い武藏温泉である。古書に見える筑紫の湯はここであらうといふ。一説に北谷村の北十町ばかりにある平地は、昔の次田温泉の古蹟といつてゐるが、恐らくさうではあるまい。
 
961 湯の原に 鳴く蘆鶴は 吾が如く 妹に戀ふれや 時わかず鳴く
 
湯原爾《ユノハラニ》 鳴蘆多頭者《ナクアシタヅハ》 如吾《ワガゴトク》 妹爾戀哉《イモニコフレヤ》 時不定鳴《トキワカズナク》
 
湯ノ原デ鳴クアノ〔三字傍線〕葦鶴ハ私ノヤウニ、妻ヲ戀ヒ慕フカラカ、何時トイフ區別ガナク絶エズ〔三字傍線〕鳴クノデアラウ。
 
○湯原爾《ユノハラニ》――湯の原は温泉の湧出する平地で、やがてそこの地名となつてゐるのであらう。蘆鶴の鳴いてゐる、葦などの茂つてゐたところと見える。
〔評〕 例の平明な作風であるが、卷五の冒頭の歌によれ(191)ば、旅人はこの神龜五年の五月頃妻を失つてゐるから、この歌の如吾妹爾戀哉《ワガゴトクイモニコフレヤ》は、普通の人の口慣れた言葉とは違つて、亡妻を慕ふ愛惜の聲である。さう思つて見ると、心から彼の心境に同情せざるを得ない。
 
天平二年庚午、勅(シテ)遣(セル)擢駿馬使大伴道足宿禰(ヲ)1時(ノ)歌一首
 
擢駿馬使は駿馬を拔擢する勅使で、臨時に諸國に遣はされたもの。大伴道足は續紀「延暦元年二月丙辰、參議從三位大伴宿禰伯麻呂薨、祖馬來田贈内大紫、父道足、平城朝參議正四位下」とあつて、馬來田の子、伯麻呂の父である。續紀によつてその履歴を調べると、文武天皇の慶雲元年正月癸己に從六位下から、從五位下を授つてゐるのを始めの記録として、和銅元年三月丙午從五位上で讃岐守、同六年八月彈正尹、養老四年十月民部大輔、天平元年二月壬申、權りに參議となり、九月乙卯右大辨となつてゐる。この天平二年は即ちその右大辨たる時で、位は正四位下であつた。彼はこの官位を以て擢駿馬使として、太宰府へ來たのである。當時に於て大伴氏一族中では、旅人に次ぐ高位であつたであらうから、大に歡迎せられたわけである、その後、三年八月丁亥に參議となり、十一月丁卯に南海道鎭撫使になつてゐる。續紀に歿年を記してゐないが、公卿補任には天平十三年卒去とある。
 
962 奧山の 磐にこけむし かしこくも 問ひたまふかも 思ひあへなくに
 
奧山之《オクヤマノ》 磐爾蘿生《イハニコケムシ》 恐毛《カシコクモ》 問賜鴨《トヒタマフカモ》 念不堪國《オモヒアヘナクニ》
 
思ヒモヨラズ〔六字傍線〕(奧山之磐爾蘿生)恐レ多クモ歌〔六字傍線〕ヲヨメト仰セ遊バスコトヨ。私ハ歌ナドハ〔六字傍線〕思ヒツクコトハ出來マセンノニ困リマシタ〔五字傍線〕。
 
○奧山之磐爾蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》――恐毛《カシコクモ》の序詞。深山の巖にさがり苔などの生えたのは、見るからに恐ろしげなものであるからである。舊本磐を盤に作つてゐる。元暦校本によつて改む。
(192)〔評〕これは卷七の奧山之於石蘿生恐常思情乎何如裳勢武《オクヤマノイハニコケムシカシコケドオモフココロヲイカニカモセム》(一三三四)とある古歌を、歌ひかへたもので、時にとつてふさはしく改作した手際は、賞すべきであらう。
 
右、勅使大伴道足宿禰(ヲ)饗(ス)2于帥(ノ)家(ニ)1、此(ノ)日、會集衆諸、相2誘(ヒ)驛使|葛《フヂ》井連廣成(ヲ)1、言(フ)v須(シト)v作(ル)2歌詞(ヲ)1、登時《ソノトキ》廣成應(ジ)v聲(ニ)即(チ)吟(ヘリ)2此(ノ)歌(ヲ)1
 
驛使は集解に、驛使謂d送2文書1使u也とあつて、驛馬に乘つて急行する使をいふ。廣成當時六位の卑官ではあつたが、驛使の任はあまりに卑いやうに思はれる。何か太宰府に特に用があつて派遣せられたのであらう。葛井連廣成は續紀によれば、もと白猪史廣成と稱し、養老三年閏七月丁卯に大外記從六位下白猪史廣成を遺新羅使となし、八月癸巳、拜辭したとある。四年五月壬戌白猪史氏を改めて葛井連の姓を賜つた。この天平二年は丁度葛井連の姓を賜つてから、十一年目のことである。その後天平十五年三月には、筑前國司の進言によつて、新羅使の來朝に際し、筑前に派遣せられたことがあり、同六月備後守二十年八月己未には、散位從五位上であつた廣成の宅に、天皇が行幸あらせられて、一夜を過し給ひ、廣成とその室從五位下縣犬養宿禰八重とに、並びに正五位上を授けられた。その後勝賓元年八月辛未中務少輔となつてゐる。懷風藻には、正五位下中宮少輔葛井連廣威とあるが、正五位下は恐らく正五位上の誤であらう。懷風藻は從來淡海三船の撰と考へられて來たのであるが、近來これを疑つて葛井連廣成説に傾いて來たやうである。その學問や履歴から考へて、彼が吾が國最初の漢詩集を編纂したことも、強ちに否定出來ないやうに思はれる。
 
冬十一月、大伴坂上郎女、發(シテ)2帥家(ヲ)1上(リ)v道(ニ)、超(ユル)2筑前國宗形郡名兒山(ヲ)1之時作(レル)歌一首
 
坂上郎女が、暫く兄の旅人の任地、太宰府へ來てゐたのが、今別れて都に歸る時の作である。名(193)兒山は今も宗像郡に屬して、勝浦から田島へ越す山である。筑前續風土記に「宗像郡名兒山、田島の西の山なり。勝浦の方より田島へこす嶺なり。田島の方の東の麓を名兒浦といふ。昔は勝浦潟より名兒山を越え、田島より垂水越をして、内浦を通り、蘆屋へゆきしなり。これ昔の上方へ行く大道なり」とある。三松莊二氏の九州萬葉手記によれぼ、今、あの地方ではナチゴ山と呼んでゐるさうである。
 
963 大なむぢ 少彦名の 神こそは 名づけそめけめ 名のみを 名兒山と負ひて 吾が戀の 千重の一重も 慰めなくに
 
大汝《オホナムヂ》 小彦名能《スクナヒコナノ》 神社者《カミコソハ》 名著始※[奚+隹]目《ナヅケソメケメ》 名耳乎《ナノミヲ》 名兒山跡負而《ナゴヤマトオヒテ》 吾戀之《ワガコヒノ》 千重之一重裳《チヘノヒトヘモ》 奈具佐米七國《ナグサメナクニ》
 
コノ山ハ〔四字傍線〕大己貴神ト少彦名神トガオ作リ遊バシテ〔七字傍線〕、名兒山ト名ヲオ付ケナサツタノダラウ。コノ山ハ〔四字傍線〕名バカリヲ名兒山トイツテ人ノ心ヲ慰メサウナ山ダガ〔人ノ〜傍線〕、私ノ戀シイ心ノ千ノ一モ慰メハシナイヨ。
 
○大汝小彦名能《オホナムヂスクナヒコナノ》――大巳貴神即ち大國主神と少彦名神。三五五參照。○名兒山跡負而《ナゴヤマトオヒテ》――名兒《ナゴ》といふ名から、和《ナ》ぐを想像して、その名實相伴なはざるを恨んだのである。○奈具佐米七國《ナグサメナクニ》――米の字は舊本、末とあるのは誤である。元麿校本による。
〔評〕 卷七、名草山事西在來吾戀千重一重名草目名國《ナグサヤマコトニシアリケリワガコヒノチヘノヒトヘモナグサメナクニ》(三一三)から思ひ付いた作らしい。さうすると、名草山と名兒山との違ひだけで、あまりにも模倣の跡が著しい。なほ冐頭に大汝少彦名を引き出したのは、この頃の人たちが、國土經営神として、この二神を尊崇したことに基づくのであるから、一般的思想ではあるが、卷七にも大穴道少御神作妹勢能山見吉《オホナムナスクナミカミノツクラシシイモセノヤマヲミラクシヨシモ》(一二四七)といふ人麿歌集出の歌がある。略解には「この歌大汝の句の上に、猶句の有しが落しにや。又反歌も有しが、傳らぬなるべし」とあるが、これは臆斷で、賛成し難い説である。
 
同、坂上郎女、海路(ニ)見(テ)2濱貝(ヲ)1作(レル)歌一首
 
(194)元暦校本に海路の上、向京の二字がある。舊本、貝を具に作るは誤。元暦校本による。
 
964 吾がせこに 戀ふれば苦し 暇あらば 拾ひて行かむ 戀忘貝
 
吾背子爾《ワガセコニ》 戀者苦《コフレバクルシ》 暇有者《イトマアラバ》 拾而將去《ヒリヒテユカム》 戀忘貝《コヒワスレガヒ》
 
私ノ兄上ヲ戀ヒ慕ヘバ、心ガ苦シクテタマリマセヌ。コノ濱ニ貝ガ見エルガ、アノ中ニ忘貝モアルデセウ〔クテ〜傍線〕。暇ガアルナラバ、戀ヲ忘レルイトフ〔六字傍線〕忘貝ヲ拾ツテ行キマセウ。
〔評〕 この歌も卷七の暇有者拾爾將往住吉之岸因云戀忘貝《イトマアラバヒリヒニユカムスミノエノキシニヨルトイフコヒワスレガヒ》(一一四七)の燒直しである。この歌も前の歌と同じく、兄の旅人に別れて來た時の作であるから、ここに吾背子《ワガセコ》とあるのは、旅人をさしたのであらう。
 
冬十二月、太宰帥大伴脚上(ル)v京(ニ)時、娘子作(レル)歌二首
 
旅人は大納言になつて歸京することになつた。娘子は左註によると遊行女婦兒島のことである。
 
965 おほならば かもかもせむを かしこみと 振りたき袖を 忍びてあるかも
 
凡有者《オホナラバ》 左毛右毛將爲乎《カモカモセムヲ》 恐跡《カシコミト》 振痛袖乎《フリタキソデヲ》 忍而有香聞《シヌビテアルカモ》
 
貴方ガ〔三字傍線〕普通ノ身分卑イ〔四字傍線〕人ナラバ勝手ニドンナコトデモシマセウガ、貴方ハ貴人デスカラ失禮ニ當ルト思ツテ〔貴方〜傍線〕、恐レ多ク思ヒマシテ、振リタイ〔四字傍線〕袖ヲ振ラズニ我慢致シマシタヨ。オ別レガツラウゴザイマス〔オ別〜傍線〕。
 
○凡有者《オホナラバ》――なみなみの人ならば、普通の、身分の卑い人ならば。○左毛右毛將爲乎《カモカモセムヲ》――兎にも角にも、如何樣にでもすべきであるが。カモカモ又はカモカクモなどの用例が集中に多い。
〔評〕 賤しい遊女が、貴人に對して別離を惜しみつつも、その身の卑賤を忘れない態度があらはれて、あはれな歌である。
 
966 大和路は 雲がくりたり 然れども 吾が振る袖を なめしと思ふな
 
(195)倭道者《ヤマトヂハ》 雲隱有《クモガクリタリ》 雖然《シカレドモ》 余振袖乎《ワガフルソデヲ》 無禮登母布奈《ナメシトモフナ》
 
アナタガオ歸リナサル〔アナ〜傍線〕大和ノ方ハ遙カノ方ニ〔五字傍線〕雲ニカクレテヰマス。併シアナタガ見エナクナルマデ、アナタヲオ慕ヒ申シテ〔併シ〜傍線〕、私ガ振リマス袖ヲ、身分ヲ顧ミズ〔六字傍線〕失禮ナコトヲスル女ダ〔二字傍線〕ト思シ召シマスナ。我慢ニ我慢ヲ致シマシテモ堪ヘキレナイデ袖ヲ振リマスノデスカラ〔我慢〜傍線〕。
 
○倭道者《ヤマトヂハ》――大和へ行く路。太宰府から都への路をいつたのである。○雖然《シカレドモ》――併し雲隱れて見えなくなるまでの意。○無禮登母布奈《ナメシトモフナ》――無禮をナメシと訓むのは義訓である。卷十二にも妹登曰者無禮恐《イモトイフハナメシカシコシ》(二九一五)とある。
〔評〕 これも前の歌と同じく、身を恥ぢて卑下した態度である。この二首共に素純な、しかも麗しい感情の流れた歌である。西陲の地にもなほ、かうした遊女がゐることを思ふと、その都會化した文化の程度も想像せられる。
 
右、太宰帥大伴脚、兼2任(シテ)大納言(ニ)1向(ヒテ)v京(ニ)上(ル)v道(ニ)、此(ノ)日馬(ヲ)駐(メ)2水城(ニ)1、顧(ミ)2望(ム)府(ノ)家(ヲ)1、于v時送(ル)v卿(ヲ)府吏之中(ニ)有(リ)2遊行女婦1、其(ノ)字(ヲ)曰(フ)2兒島(ト)1也、於v是娘子傷(ミ)2此(ノ)易(キヲ)1v別嘆(キ)2彼(ノ)難(キヲ)1v會、拭(ヒ)v涕(ヲ)自(ラ)吟(フ)2振(ル)v袖(ヲ)之歌(ヲ)1
水城は天智天皇の御代、太宰府防禦の爲に築かれた土堤で、水を貯へられたものである。今、村名となつてゐる。その舊址は、鹿兒島本線水城驛に近く、今なほ僅かに存してゐる。天智妃には「三年於2對馬島、壹岐島筑紫國等1、置2防與烽1、又於2筑紫1、築2大堤1貯水、名曰2水城1」とある。なほ三松莊一氏の九州萬葉手記によつて、委しくその俤を偲ばう。「水城は天智天皇の時、御笠川の斷層地帶即ち西に天拜、東に寶滿四王寺の山脚の迫つたところに築かれた長堤でありまして、各層毎に樹の小枝を置いた純然たる土築であつて、構築の結果深き塹壕を前面に生じ、之に水が溜り、水湟の如きものをなしてゐたやうです。東の山際に水城關址があり、その關門の礎石は今も殘つてゐます。今は太宰府往還の路傍水城村大字水城の國道の左傍に、即ち昔の水城東關門に水城大堤碑が建つてゐます。曰く、天智天皇の三年、筑紫に大堤を築きて水を(196)貯へ名づけて水城と曰ふ。今を距ること一千二百五十二年。稱徳天皇、天平神護元年三月、太宰少貳從五位下采女朝臣淨庭水城修理專知官と爲る。今を距ること一千百五十一年。今、東堤の長さ百七十六間三尺、西堤三百八十四間三尺。總長五百六十一間。最も高き所五間五尺。盤根最も廣き所十九間一尺七寸。中央缺堤の所九十六間。西堤近年中斷して二堤と爲れり。此の所は即ち東方關門の趾にして片礎を存す。其の西方關門即ち吉松隧道の地なり。(譯文)」。寫眞は水城の殘墟。府家は都督府の家。遊行女婦は卷十八に佐夫流兒《サブルコ》とあり、和名抄には「遊女、楊氏漢語抄云、遊行女兒、和名宇加禮女、又云阿曾比」とあつて、遊女のことである。曰の字舊本、日とあるは誤。元暦校本によつて改む。
 
大納言大伴卿和(フル)歌二首
 
967 大和路の 吉備の兒島を 過ぎて行かば 筑紫の兒島 おもほえむかも
 
日本道乃《ヤマトヂノ》 吉備乃兒島乎《キビノコジマヲ》 過而行者《スギテユカバ》 筑紫乃子島《ツクシノコジマ》 所念香裳《オモホエムカモ》
 
大和へ行ク道ノ、吉備ノ國〔二字傍線〕ノ兒島ヲ通ツテ行ツタナラバ、私ハ〔二字傍線〕筑紫ノ兒島ノコトガ思ヒ出サレルダラウナア。オマヘヲ、イツデモ思ヒ出スだラウ〔オマ〜傍線〕。
 
(197)○吉備乃兒島《キビノコジマ》――備前國兒島郡で、古くは島であつたが、今は援續して半島をなしてゐる。
〔評〕 これは兒島といふ娘子の名に因んで、吉備の兒島を言ひ出したまでである。つまらない歌といつてよからう。
 
968 ますらをと 思へる我や 水莖の 水城の上に 涙拭はむ
 
大夫跡《マスラヲト》 念在吾哉《オモヘルワレヤ》 水莖之《ミヅグキノ》 水城之上爾《ミヅキノウヘニ》 泣將拭《ナミダノゴハム》
 
我コソハ〔四字傍線〕立派ナ男ダト思ツテヰル、コノ私ガ、(水莖之)水城ノ上ニ立ツテ別ノ悲シサニ〔六字傍線〕涙ヲ拭フナドトイフコトガアルモノカ。ドウシテコンナニ女ノヤウニ涙ガ出ルノダラウ。コレモ皆オマヘト別レガ辛イカラダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○水莖之《ミヅグキノ》――枕詞。ミヅの音を繰返して、水城につづいてゐる。卷七に水莖之崗水門爾《ミヅグキノヲカノミナトニ》(一二三二)その他岡につづいた例があるが、これについて宣長は、玉勝間に論じて、從來の地名説を退け、水くきはみづみづしき莖で、莖は木草ともいふことで、岡とつづけるのは、稚《ワカ》の意だといつてゐる。なほこの歌に水城とつづいてゐるのは、みづみづしき莖のみづ木と重ねたのだと説いてゐる。挿繪は前賢故實に載せた大伴旅人の旅姿で、ここにふさはしいから入れた。
〔評〕 これは前の歌の平庸なのに比して、あはれ深い作である。涕を拭ひつつ吟じた娘子の歌に、誘はれたのでもあらうが、こんな貴人から、かうした別離の悲歌を贈られたことは、この女に取つては身に餘る光榮と言はねばならない。
 
三年辛未、大納言大伴卿、在(リ)2寧樂(ノ)家(ニ)1思(フ)2故郷(ヲ)1歌二首
 
故郷とあるのは、神南備の里、即ち飛鳥である。
 
969 しましくも 行きて見てしか 神名火の 淵はあせにて 瀬にかなるらむ
(198)
須曳《シマシクモ》 去而見牡鹿《ユキテミテシカ》 神名火乃《カミナビノ》 淵者淺而《フチハアセニテ》 瀬二香成良牟《セニカナルラム》
 
暇ガアツタラ一寸デモ行ツテ見タイモノダ。故郷ノ飛鳥ノ〔六字傍線〕神南備川ノ淵ハ淺クナツテ瀬ニナツタラウ。
 
○神名火乃《カミナビノ》――神名火は神南備で、飛鳥の神南備山の下を流れる飛鳥川を、神名火乃淵と言つたのである。○淵者淺而《フチハアセニテ》――舊訓フチハアサビテとあるが、古義にアセニテと訓んだのがよい。淵は淺くなつての意。
〔評〕 旅人は長く太宰府にあつて、故郷の飛鳥を訪ふことが出來なかつた。彼の地にあつて彼が詠んだ歌に、萱《ワスレ》草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲《グサワガヒモニツクカグヤマノフリニシサトヲワスレヌガタメ》(三三四)とあるのも、やはりこの飛鳥の里を指したのであらう。今久しぶりで寧樂に歸つた彼は、どうかして神南備の里を訪づれたいと思つたのである。故郷の飛鳥川の變異を氣づかふ心は、彼が太宰府にあつて、吾行者久者不有夢乃和太湍者不成而淵有毛《ワガユキハヒサニハアラジイメノワダセニヘナラズテフチニテアレモ》(三三五)と詠んだのと、同じ思ひである。
 
970 指進の 栗栖の小野の 萩が花 散らむ時にし 行きて手向けむ
 
指進乃《サシスミノ》 栗栖乃小野之《クルスノヲヌノ》 芽花《ハギガハナ》 將落時爾之《チラムトキニシ》 行而手向六《ユキテタムケム》
 
私ノ故郷ノ〔五字傍線〕(指進乃)栗栖ノ小野ノ萩ノ花ヲ、盛リノ時ニ故郷ノ神樣ニ手向ケヨウト思フガ、暇ガナクテ行ケナイカラ〔盛リ〜傍線〕、花ガ散リサウナ時ニ行ツテ手向ケルコトニナルダラウ。
 
○精進乃《サシズミノ》――栗栖へつづく枕詞らしいが、そのつづく意味が明瞭でない。暫く冠辭考の説に從つて、さしずみは墨斗《スミツボ》のことで、これには墨繩を繰り卷く枢《クルル》があるから、さしすみのくるとつづけるものと解して置かう。舊訓はサシスキノで、サシスキは刺突《サシツキ》の音轉。くるすは栗毬《クリノイガ》で、物に觸れて、刺し突くものであるから、さしすきのくるすとつづけると解釋せられてゐる。この他、古義には村玉乃の誤寫としてゐる。これは牟浪他麻乃久留爾久枳作之《ムラタマノクルニクギサシ》(四三九〇)に傚つたのである。○栗栖乃小野之《クルスノヲヌノ》――栗栖乃小野は和名抄に、大和國忍海郡栗栖とあるところか。然らば今、南葛城郡で、飛鳥からは數里を距てた地(大和地圖參照)で、前の歌とあまりにかけ距(199)つてゐるやうである。栗栖といふ地名は所々にあるから、或は飛鳥あたりにも、古く在つたのかも知れない。新考に、神名火を龍田の神南とし、此の栗栖をも、平群郡内としてゐるが、前に掲げた旅人の香具山乃故去之里《カグヤマノフリニシサト》(三三四)の歌から推すと、どうもさうは考へられない。○芽花《ハギガハナ》――舊本、芽を茅に作るは誤。元暦校本による。○行而手向六《ユキテタムケム》――手向は、故郷の神に手向けるのである。妻の大伴郎女の墓に手向けると見るのは、あまり考へ過ぎである。
〔評〕 大納言の職に忙はしくて、空しく萩の花の盛の頃を過ごすことを悲しんだのである。併し旅人は、この年の七月に薨じて居るから、恐らく故郷へ還る暇を得ずして、他界したのであらう。病臥中も、彼の脳裏に、故郷の神名火川や、栗栖の小野が、絶えずちらついたであらうことを想ひ見れば、誠にあはれである。
 
四年壬申、藤原宇合卿(ノ)遣(サルル)2西海道(ノ)節度使1之時、高橋連蟲麻呂作(レル)歌一首并短歌
 
宇合は不比等の子。式家の祖。續紀「天平四年八月丁亥、從三位藤原朝臣宇合爲2西海路節度使1」とある。懷風藻に「正三位式部卿藤原朝臣宇合。五言。奉2西海道節度使1之作。往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1」とあるのも、この時のことである。節度使は、兵士並に子弟水手官船等を檢定し、弓馬を起し、陣列を調習し、兵器を作る等のことを掌るもので、天平四年八月、東海・東山・山陰・西海の四道に始めて設置せられ、天平寶字八年には靡止せられた。高橋連蟲麻呂の傳は明らかでない。この人はその當時、高橋蟲麻呂歌集を遺してゐたことと、好んで傳説を詠んだ歌人として、注目せられる作家である。
 
971 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち超えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ あた守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと ともの部を あがち遣し 山彦の 答へむ極み 谷蟆の さ渡る極み 國がたを 見し給ひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の はやく來まさね 龍田路の 岡べの道に 丹躑躅の にほはむ時の 櫻花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ參出む 君が來まさば
   
白雲乃《シラクモノ》 龍田山乃《タツタノヤマノ》 露霜爾《ツユジモニ》 色附時丹《イロヅクトキニ》 打超而《ウチコエテ》 客行公者《タビユクキミハ》 五百隔(200)山《イホヘヤマ》 伊去割見《イユキサクミ》 賊守《アタマモル》 筑紫爾至《ツクシニイタリ》 山乃曾伎《ヤマノソキ》 野之衣寸見世常《ヌノソキミヨト》 伴部乎《トモノベヲ》 班遣之《アガチツカハシ》 山彦乃《ヤマビコノ》 將應極《コタヘムキハミ》 谷潜乃《タニグクノ》 狹渡極《サワタルキハミ》 國方乎《クニガタヲ》 見之賜而《ミシタマヒテ》 冬木成《フユゴモリ》 春去行者《ハルサリユカバ》 飛鳥乃《トブトリノ》 早御來《ハヤクキマサネ》 龍田道之《タツタヂノ》 岳邊乃路爾《ヲカベノミチニ》 丹管士乃《ニツツヂノ》 將薫時能《ニホハムトキノ》 櫻花《サクラバナ》 將開時爾《サキナムトキニ》 山多頭能《ヤマタヅノ》 迎參出六《ムカヘマヰデム》 公之來盛者《キミガキマサバ》
 
(白雲乃)立田ノ山ガ露ニ色ガツイテ紅葉スル時二、立田山ヲ〔四字傍線〕打チ越エテ旅ニ出テ行クアナタハ、澤山ニ重ナツテヰル山々ヲ行キ踏ミ破ツテ、外國ノ〔三字傍線〕寇ヲ守ル筑紫ノ國ヘ行ツテ、山ノ果、野ノ果マデモ防備ガ屆イテヰルカ〔九字傍線〕ドウカ見ヨト、部下ノ者ドモヲ分ケテオ遣ハシニナリ、山彦ガ答ヘル山ノ〔二字傍線〕果マデモ、蟇ガ這ヒマハル地上ノ〔三字傍線〕果マデモ、何處カラ何處マデ〔八字傍線〕國ノ形勢ヲ御覽ニナツテ、(冬木成)春ニナツテ行ツタナラバ、空飛ブ鳥ノヤウニ早ク、歸ツテ〔三字傍線〕オイデナサイマシ。龍田山ノ道ノ、岡ノホトリノ道ニ、赤イ躑躅ノ花ガ咲キ句フ時ノ、櫻ノ花ガ咲ク時ニ、アナタガオ歸リニナツタナラバ、(山多頭能)迎ヘニマヰリ出マセウ。
 
○白雲乃《シラクモノ》――枕詞。立つとつづく。○龍田山乃《タツタノヤマノ》――大和から河内へ出る道に當る山。生駒郡三郷村の西方にある。八三參照。大和地圖參照 挿入の寫眞は、前面の山が龍田山で、その麓の道を龍田道といふ。萬葉古蹟寫眞による。○露霜爾《ツユジモニ》――露に。すべてツユジモとあるのは露のことである。○伊去割見《イユキサクミ》――イは發語。サクミは、動詞、裂くにムを添へて、活かしめたもの。行きさくむとは、山の石根などを踏み分けて行くこと。卷二に石根差久見手《イハネサクミテ》(二一〇)とある。○賊守《アダマモル》――外敵を守る。卷二十に之良奴日筑紫國波安多麻毛流於佐倍乃城曾等《シラヌヒツクシノクニハアタマモルオサヘノキゾト》(四三三一)とある。○山乃曾伎《ヤマノソキ》――曾伎《ソキ》は退《ソ》くの名詞形で、遠く距つてゐるところ、即ち山の果《ハテ》である。野之衣寸《ヌノソキ》の衣寸《ソキ》も同じ。○伴部乎《トモノベヲ》――節度使の部下の者。○山彦乃《ヤマビコノ》――山彦は反響。山の中などにて反響するのは、山(201)中に住む靈の答へるものと、古代人は考へたのである。ヒコは日子。男。次の句につづいて、山彦の答へるところはいづこまでもの意、即ち山の果《ハテ》までの義となる。○谷潜乃《タニグクノ》――卷五に多爾具久能佐和多流伎波美《タニグクノサワタルキハミ》(八〇〇)とあつたやうに、地の果《ハテ》の意で、谷潜《タニグク》は蟾※[虫+余]《ヒキカヘル》のことである。○國方乎《クニカタヲ》――國の形を。國内の樣子を。○見之賜而《ミシタマヒテ》――見《ミ》に之《シ》を添へて、敬相とし、更に賜而《タマヒテ》を加へた、鄭重な言ひ方である。○山多頭能《ヤマタヅノ》――枕詞。山たづは造木《ミヤツコギ》、即ち今の接骨木《ニハトコ》のこと。この木の葉が對生してゐるので、むかへとつづく。委しくは卷二の九〇參照。
〔評〕 節度使となつて行く人の、任の重さと、その權勢の偉大さとを述べて敬意を表し、任終つて歸り給ふと聞かば、途中まで出迎へ申さむと、どこまでも尊敬景仰の態度を失はぬ作である。蓋し作者は地位卑く、さしたる官職をも有しなかつた爲でもあらうが、その氣分が誠によくあらはれてゐる。
 
反歌一首
 
972 千萬の 軍なりとも 言擧げせず 取りて來ぬべき 男とぞ思ふ
 
(202)千萬乃《チヨロヅノ》 軍奈利友《イクサナリトモ》 言擧不爲《コトアゲセズ》 取而可來《トリテキヌベキ》 男常曾念《ヲトコトゾオモフ》
 
タトヒ〔三字傍線〕千萬ノ大軍ノ敵デ〔三字傍線〕モ、何トモ言ハズニ、討平ゲテ、來ベキ男ダト私ハアナタヲタノモシク〔私ハ〜傍線〕思ヒマス。サア行ツテイラツシヤイ〔サア〜傍線〕。
 
○千萬乃《チヨロヅノ》――舊本干萬乃とありてソコハクノと訓してゐるのは誤。元暦校本によつて改めた。○軍奈利友《イクサナリトモ》――イクサは軍兵のこと。戰闘のこととするは第二義である。○言擧不爲《コトアゲセズ》――言擧《コトアゲ》は言葉に出して、ことごとしく言ふこと。神代紀に興言を私記に古止安介とある。古事記、日本式尊伊吹山の條に、白猪逢于山邊、其大如牛、爾爲言擧而詔云々とあり、本集にも、事上不爲友《コトアゲセネドモ》(一一一三)・言擧不爲《コトアゲセズ》(二九一八)・神柄跡言擧不爲國《カムガラトコトアゲセヌクニ》(三二五〇)などその他なほ多い。○取而可來《トリテキヌベキ》――討取りて來るべき。
〔評〕 長歌に述べたところと方面をかへて、宇合を激励したのである。節度使の高官にあるものを、男といふのは無禮ではないかといふ見方もないではないが、この男は大丈夫・釜荒雄といふやうな意であるから、これで少しも差支ない。洵に格調雄偉、節度使を送るにふさはしい歌である。
 
右※[手偏+僉]2補任文1、八月十七日任2東山山陰西海節度使1
 
ここに補任文とあるのは、その頃かういふ書があつたのか、又は公卿補任のことか明らかでない。八月十七日は續紀に天平四年八月丁亥とあるのに一致してゐる。東山の上に東海とあつたのが、脱ちたのであらう。或は東海・東山二道を藤原房前が兼ねたので、かう略記したものか。ともかくこれは後人の注である。
 
天皇賜(フ)2洒(ヲ)節度使卿等(ニ)1御歌一首并短歌
 
天皇は聖武天皇。節度使卿とあるのは、續紀に「天平四年八月丁亥、正三位藤原朝臣房前爲2東海東山二道節度使1、從三位多治比眞人縣守爲2山陰道節度使1、從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1(203)とあるから、房前・縣守・宇合の三人である。
 
973 食國の 遠のみかどに いましらが かくまかりなば 平らけく 我は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ 天皇朕が うづのみ手もち 掻撫でぞ ねぎたまふ 打撫でぞ ねぎたまふ 還り來む日 相飲まむ酒《き》ぞ この豐御酒は
 
食國《ヲスクニノ》 遠乃御朝庭爾《トホノミカドニ》 汝等之《イマシラガ》 如是退去者《カクマカリナバ》 平久《タヒラケク》 吾者將遊《ワレハアソバム》 手抱而《タウダキテ》 我者將御在《ワレハイマサム》 天皇朕《スメラワガ》 宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》 掻撫曾《カキナデゾ》 禰宜賜《ネギタマフ》 打撫曾《ウチナデゾ》 禰宜賜《ネギタマフ》 將還來日《カヘリコムヒ》 相飲酒曾《アヒノマムキゾ》 此豐御酒者《コノトヨミキハ》
 
朕ガ支配スル國ノ、遠クノ役所ニ、汝ラガ斯樣ニシテ節度使トシテ〔六字傍線〕行ツタナラバ、平穩ニ朕ハ遊ンデヰヨウ。手ヲ拱イテ朕ハイラツシヤルダラウ。天皇タル朕ガ、コノ〔二字傍線〕立派ナ御手ヲ以テ、汝ラヲ〔三字傍線〕カキ撫デテ勞ツテ下サルゾ。打チ撫デテ勞ツテ下サルゾ。今此處ニ汝ラニ下サル〔十字傍線〕コノ良イ酒は、汝ラガ任ヲ果シテ〔八字傍線〕歸リ來ラン日ニ、朕ト共ニ〔四字傍線〕互ニ飲ムベキ酒デアルゾヨ。怠ラズ恙ク任ヲ果シテ歸ツテ來ヨ〔怠ラ〜傍線〕。
 
○食國遠乃御朝庭爾《ヲスクニノトホノミカドニ》――卷三に大王之遠乃朝庭跡《オホキミノトホノミカドト》(三〇四)とあるところに述べた通り、天皇の支配し給ふ國の遠くの役所。即ち國府をさす。○汝等之《イマシラガ》――汝は大汝《オホナムヂ》(九六三)の例によれば、ナムヂもよいやうであるが、伊麻思毛吾毛《イマシモワレモ》(二五一七)・伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》(三三五九)などによつて、イマシとよむべきであらう。○手抱而《タウダキテ》――抱は靈異記に抱于田伎とあるからウダキとよむがよい。可伎武太伎奴禮杼安加奴乎《カキムダキヌレドアカスヲ》(三四〇四)とあるのは東歌だから、これによるわけには行かぬ。タウダクは手を拱くこと。○天皇朕《スメラワガ》――舊訓キミノワガとあるのは惡い。大殿祭祝詞に「皇我宇都御子《スメラワガウヅノミコ》」とあり、集中にも須賣良弊爾伎波米都久之弖《スメラベニキハメツクシテ》(四四六五)などの例もあるから、天皇はスメラとよむべきである。○宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》――宇頭《ウヅ》は、祝詞に宇豆乃幣布《ウヅノミテグラ》などあるウヅと同じで、書紀には珍子を珍此云2于圖1とあり、今の、うづ高いなどのウヅも同じく、立派なことである、天皇御自ら、かく尊語を用ゐ給ふのが、ならはしである。以はモテと訓んで來たが、モチの方がよい。○掻撫曾《カキナデゾ》――掻は強めて宣ふのみ。次の打撫曾《ウチナデゾ》の打も同じ。○禰宜賜《ネギタマフ》――この禰宜《ネギ》は勞ふ意。○將還來日《カヘリコムヒ》――略解にカヘラムと訓んだのは惡い。
(204)〔評〕 臣下に對する御信頼と御慈愛と、しかも犯し難い威嚴とを兼ね傭へた、實に有り難い御製である。この御製を拜して感泣した三卿の姿も偲ばれる。日本後紀卷五、「延暦二十二年三月庚辰、遣唐大使葛野麻呂、副使石川道益賜2餞宴1設之事、一依2漢法1、酒酣上喚2葛野麻呂於御床下1賜v酒、天皇歌曰。許能佐氣波於保邇波安良須多比良可爾何倍理伎末勢止伊婆比多流佐氣《コノサケハオホニハアラズタヒラカニカヘリキマセトイハヒタルサケ》。葛野麻呂流v涙如v雨、侍宴群臣無v不v流涙」とあるのは、その場面も御製も、似たものがあるやうに思はれる。
 
反歌一首
 
974 ますらおの 行くとふ道ぞ おほろかに 思ひて行くな ますらをのとも
 
大夫之《マスラヲノ》 去跡云道曾《ユクトフミチゾ》 凡可爾《オホロカニ》 念而行勿《オモヒテユクナ》 大夫之伴《マスラヲノトモ》
 
汝ラガ今行カウトシテヰル節度使ノ役目ハ〔汝ラ〜傍線〕、大丈夫タルモノガ任ゼラレテ行クトイフ旅デアルゾヨ。ダカラシテ〔五字傍線〕アダヤオロカニ思ツテ行クナヨ。大丈夫タル汝ラ〔四字傍線〕ヨ。
 
○去跡云道曾《ユクトフミチゾ》――道は行旅などの意である。○凡可爾《オホロカニ》――於保呂可爾爲莫《オホロカニスナ》(一四五六)・於保呂可爾情盡而《オホロカニココロツクシテ》(四一六四)などによつて、オホロカニと訓むべきである。おほよそに、おろそかになどと同意。
〔評〕 實に嚴かな御歌である。帝王らしい重々しい、力強さが溢れてゐる。格調雄健。
 
右御歌者或云、太上天皇御製也
 
太上天皇は元正天皇。この註は元暦校本には行間に小字で記してある。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
安倍廣庭の傳は三〇二に出てゐる。
 
975 かくしつつ あらくをよみぞ たまきはる 短き命を 長く欲りする
 
(205)如是爲管《カクシツツ》 在久乎好叙《アラクヲヨミゾ》 靈剋《タマキハル》 短命乎《ミジカキイノチヲ》 長欲爲流《ナガクホリスル》
 
カヤウニシテ居ルノガ幸福ナノデ、私ハコノ短イ(靈剋)人生ヲ、モツト長クアリタイト思フ。私ハ今、幸福ナ生活ヲシテヰルコトヲ滿足ニ思ツテヰル〔私ハ〜傍線〕。
 
○如是爲管《カクシツツ》――舊本、管を菅に作る。元暦校本によつて改む。○靈剋《タマキハル》――枕詞。命とつづく、四參照。
〔評〕 幸福を感謝し、なほ人生を享樂しようといふのである。何か喜ばしいことがあつて、作つたのであらう。契沖がこれを前の、酒を節度使に賜へる時に詠んだものかと言つてゐるのは、恐らく當つてゐまい。如是爲管《カクシツツ》 在久乎好叙《アラクヲヨミゾ》は、節度使への賜宴に陪して言ふ言葉らしくない。
 
五年癸酉、超(ユル)2草香山(ヲ)1時、神社《カミコソ》忌寸老麻呂作歌二首
 
草香山は河内國日下の山で、生駒山の西に當り、奈良から謂はゆる闇峠を越えて、難波への通路にある。神社は氏。紀に神社福草《カミコソノサキクサ》、續紀に神社忌寸河内の名が見える。神名帳、近江淺井郡上許曾神社と關係ある氏か。
 
976 難波潟 汐干のなごり つばらに見 家なる妹が 待ち問はむ爲
 
難波方《ナニハガタ》 潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》 委曲見《ツバラニミ》 在家妹之《イヘナルイモガ》 待將問多米《マチトハムタメ》
 
此處カラハヨク難波ノ海ガ見エルガ、アノ〔此處〜傍線〕難波潟ノ汐ガ干タアトノ面白イ景色〔五字傍線〕ヲ、ヨク見テ來ヨウ。家ニヰル妻ガ私ノ歸リヲ〔五字傍線〕待チ受ケテ、コノ景色ヲ尋ネル時ノ爲ニ、ヨク見テ置カウ〔七字傍線〕。
 
○潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》――ナゴリは普通、餘波と記して、風の止んだあとに、なほ波のをさまらないのをいふのであるが、ここのはさうではない。汐の干たあとに海水の溜まつてゐるのをいふ。そこで魚介、海藻の類を獲るのである。○委曲見《ツバラニミ》――舊訓マクハシミであるが、略解にはヨクミテナ、古義にはヨクミテムとある。併し委曲毛見管行武雄《ツバラニモミツツユカムヲ》(一七)・委曲爾示賜者《ツバラカニシメシタマヘバ》(一七五三)の例によれば、ツバラニミと訓むべきである。この句で切れてゐるから、見は(206)見むの意である。
〔評〕 卷四に難波方鹽干之名凝飽左右二人之見兒乎吾四乏毛《ナニハガタシホヒノナゴリアクマデニヒトノミムコヲワレシトモシモ》(五三三)とあるやうに、難波潟の汐千のあとの景色は、飽くまでも見たいものと言はれてゐたものと見える。今、草香山の上から、遙かに難波の海を望見して、家土産に能く見て歸らうといつたのである。
 
977 ただ超の この道にして 押照るや 難波の海と 名づけけらしも
 
直超乃《タダゴエノ》 此徑爾師弖《コノミチニシテ》 押照哉《オシテルヤ》 難波乃海跡《ナニハノウミト》 名附家良思裳《ナヅケケラシモ》
 
昔カラ押シ照ル難波トイフガ〔昔カ〜傍線〕、押シ照ルヤ難波ノ海トイフコトハ、眞直ニコノ山ヲ越ス道デ名ヲツケタノダラウ。コノ山カラ見ルト、難波ノ海ノ上ハ一體ニ輝イテ、綺麗ニ見エルカラ押シ照ルトイツタノダラウ〔コノ〜傍線〕。
 
○直超乃此徑爾師互《タダゴエノコノミチニシチ》――直超《タダゴエ》は曲らずに眞直に超えることで、卷十二、磐城山直越來益《イハキヤマタタコエキマセ》(三一九五)・卷十七、之乎路可良多太古要久禮婆《シヲヂカラタダコエクレバ》(四〇二五)などの例がある。但しこの日下は古事記雄略天皇の條に、日下之直越道《クサカノタダコエノミチ》とあるから、古くから言ひ慣された稱呼である。○押照哉《オシテルヤ》――難波の枕詞として屡々用ゐられてゐる詞で、ここにはその語義を説かうとしたのである。
〔評〕 難波といへば、すぐに押照るといふ言葉が頭に浮んで來る。作者は今、山上から遙かに陽光に輝いてゐる難波の海を眺めて、ふと押照るといふ枕詞の意義がわかつたやうに思つて、かうした作をなしたのであらう。當座の即興に過ぎない。
 
山上臣憶良沈(メル)v痾(ニ)之時(ノ)歌一首
 
卷五にある山上憶良の沈痾自哀文は天平五年の歌の次に出てゐるが、この歌も亦、天平五年の歌の次になつてゐるから、全く同時の作である。
 
978 をとこやも 空しかるべき 萬代に 語りつぐべき 名は立たずして
 
士也母《ヲトコヤモ》 空應有《ムナシカルベキ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 語續可《カタリツグベキ》 名者不立之而《ナハタタズシテ》
 
(207)萬世ノ後マデモ語リツタヘルヤウナ、立派ナ名ガ立タナイデ、大丈夫タル者ハ空シク世ヲ終ルベキデアラウカ。決シテサウデハナイ。私ハ今病ニ沈ンデ死ニサウダ。實ニ殘念デタマラナイ〔決シ〜傍線〕。
 
○士也母《ヲトコヤモ》――ヲノコヤモと代匠記に訓んだのが、普通に行はれてゐるが、攷證・古義などにヲトコと訓んだのに從ふことにする。遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》(八〇四)・乎等古乎美奈能《ヲトコヲミナノ》(四三一七)など見ても、その他壯士基・智奴壯士・宇奈比壯士の類、皆ヲトコと訓んであるのに、これをヲノコと訓まねばならぬ理由はない。但し、卷二十の大伴家持の追痛防人悲別之心作歌に長歌には登利我奈久安豆麻乎能故波《トリガナクアヅマヲノコハ》(四三三一)とあり、その反歌には等里我奈久安豆麻乎等故能《トリガナクアヅマヲトコノ》(四三三三)とあるから、兩方共に行はれてゐたのである。○名者不立之而《ナハタタズシテ》――古義にタテズシテとあるに從ふものもあるが、名ハと訓めばタタズと、自動詞にする方が穩やかであらう。家持の歌には、大夫者名乎之立倍之《マスラヲハナヲシタツベシ》(四一六五)とあるが、これに傚ふ必要はない。
〔評〕 名を重んじ、萬世に語り傳へられることを以て、至上の榮譽と考へた上代人の、否、すべての時代の日本人の思想を代表したと言つてもよい作である。名を擧げるのは、固より政治的に、又は軍事的に功績を立てることである。彼はその希望を果たし得ずして、この悲しい叫びをあげた後、間もなく死んだらしいが、その夢想だにもしなかつた歌人としての名聲が、後世に高くなつて、今日では萬葉集中屈指の歌聖として、和歌史上無比の特色ある詩人として尊崇せられてゐるから、彼も以て瞑すべきであらう。卷十九に大伴家持の慕2振勇士之名1歌とあるのは、追和山上憶良臣作歌とあつて、その反歌はこの歌に傚つて作つたものである。
 
右一首山上憶良臣沈(ミシ)v痾(ニ)之時、藤原朝臣八束・使(シテ)2河邊朝臣東人(ヲ)1令(ム)v問(ハ)2所v疾(ム)之状(ヲ)1、於(テ)v是に憶良臣、報(ノ)語已(ニ)畢(リ)有(リテ)v須《シマラク》拭(ヒ)v涕(ヲ)悲(ミ)嘆(キテ)、口2吟(セリ)此歌(ヲ)1
 
藤原朝臣八束は藤原眞楯の先名。天平十二年正月に正六位上から從五位下になつてゐるから、天平五年には未だ地位もない青年であつたが、當時時めいた房前の第三子として、尊敬せられてゐたであらう。河邊朝臣東人は、續紀に「稱徳天皇、神護景雲元年正月己巳、從六位上川邊朝臣東人授2從五位下1。光仁天皇、(208)寶龜元年十月己丑朔辛亥、爲2石見守1」とある。この頃は身分のない青年であつたらう。
 
大伴坂上郎女、與(フル)d姪家持(ガ)從2佐保1還c歸(ルニ)西宅(ニ)u歌一首
 
姪は古くは男女に通じて用ゐた。ここは甥である。佐保は大伴家の邸宅のあつたところで、旅人の父安麻呂が佐保にあつて佐保大納言と呼ばれた(五二八)のでも、又坂上郎女の歌に、佐保の地に關する作の多いのでも、これを知ることが出來る。西宅は何處であるか分らない。佐保から程遠からぬ西方に別宅があつたか。或は坂上郎女の住んだ坂上の里を、今の生駒郡の西南隅、王子の西方の坂上とする説に從へば、そこを西宅と稱したと考へられないこともないが、これはなほ研究を要する。
 
979 吾が背子が ける衣薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで
 
吾吉子我《ワガセコガ》 著衣薄《ケルキヌウスシ》 佐保風者《サホカゼハ》 疾莫吹《イタクナフキソ》 及家左右《イヘニイタルマデ》
 
アナタガ著テヰル着物ガ薄イ。ダカラアナタガ〔七字傍線〕家ニ着クマデハ、佐保ノ風ハヒドク吹クナヨ。寒イダラウカラ〔七字傍線〕。
 
○吾背子我《ワガセコガ》――背子《セコ》は男を親しんでいふ語であるから、夫ならずとも用ゐることがある。これは叔母が甥を背子と呼んでゐる。○著衣薄《ケルキヌウスシ》――著るをケルといふは古言である。卷十五に許能安我家流伊毛我許呂母能阿可都久見禮婆《コノアガケルイモガコロモノアカツクミレバ》(三六六七)とあるのを見ても明らかだ。○佐保風者《サホカゼハ》――佐保風は佐保の里を吹く風。明日香風《アスカカゼ》(五一)・泊瀬風《ハツセカゼ》(二二六一)・伊香保可是《イカホカゼ》(三四二二)の類である。
〔評〕 親愛の情の溢れた歌。やがては自分の娘、坂上大嬢にめあはせようと思つてゐたであらうところの家持、漸く年齡十六歳になつた少年の、愛甥の身を勞はる女らしい心遣ひが、あはれに詠まれてゐる。
 
安倍朝臣蟲麻呂月歌一首
 
(209)安倍朝臣蟲麻呂の傳は六六五に委しく載せてある。續紀によれば、天平九年九月己亥正七位上から外從五位下を授つてゐるから、この時はまだ卑官の青年であつたらう。
 
980 雨隱り 三笠の山を 高みかも 月の出で來ぬ 夜はくだちつつ
 
雨隱《アマゴモリ》 三笠乃山乎《ミカサノヤマヲ》 高御香裳《タカミカモ》 月乃不出來《ツキノイデコヌ》 夜者更降管《ヨハクダチツツ》
 
(雨隱)三笠ノ山ガ高イカラカ、徒ニ〔二字傍線〕夜ガ更ケテ、出ル筈ノ月ガ出テ來ナイ。待遠イ月ダ。
 
○雨隱《アマゴモリ》――枕詞。雨に隱れこもる笠とつづくのである。○夜者更降管《ヨハクダチツツ》――舊訓ヨハフケニツツとあるのも惡くはないが、代匠記にヨハクダチツツとよんだのがよい。卷十九に、夜具多知爾寢覺而居者《ヨクダチニネザメテヲレバ》(四一四六)・夜降而鳴河波知登里《ヨクダチテナクカハチドリ》(四一四七)とある。
〔評〕 次の大伴坂上郎女の歌とよく似てゐる。又卷三の間人宿禰大浦の歌の、椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸《クラハシノヤマヲタカミカヨゴモリニイデクルツキノヒカリトモシキ》(二九〇)に似て居り、更に卷九に沙彌女王作として、この椋橋乃山の歌と結句のみを異にした歌(一七六三)があるので見ると、かういふ言ひ方は、かなり慣用的になつてゐたと思はれる。
 
大伴坂上郎女月歌三首
 
981 ※[獣偏+葛]高の 高圓山を 高みかも 出で來る月の 遲くてるらむ
 
※[獣偏+葛]高乃《カリタカノ》 高圓山乎《タカマドヤマヲ》 高彌鴨《タカミカモ》 出來月乃《イデクルツキノ》 遲將光《オソクテルラム》
 
※[獣偏+葛]高ニアル、高圓山ガ高イカラカ出テ來ル月ガ遲ク照ルノデアラウ。待チ遠イコトヨ〔七字傍線〕。
 
○※[獣偏+葛]高乃《カリタカノ》――卷七に借高之野邊副清照月夜可聞《カリタカノヌベサヘキヨクテルツクヨカモ》(一〇七〇)とあるのも同所で、高圓山を東にした、今の奈良市の東南方、鹿野園あたりの古名と思はれる。姓氏録の右京諸蕃に、雁高宿禰とあるのは、この地方に關係ある氏であらう。
〔評〕 前の歌に述べたところを、これにも繰返すよりほかはない。歌は平明な作である。
 
982 ぬば玉の 夜霧の立ちて おほほしく 照れる月夜の 見れば悲しさ
 
(210)烏玉乃《ヌバタマノ》 夜霧立而《ヨギリノタチテ》 不清《オホホシク》 照有月夜乃《テレルツクヨノ》 見者悲沙《ミレバカナシサ》
 
(烏玉乃)夜ノ霧ガ立ツテ、ボンヤリト照ツテヰル月夜ガ、見ルト悲シイヨ。
 
○烏玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○不清《オホホシク》――不清をかく訓むのは、卷十に不明公乎相見而《オホホシクキミヲアヒミテ》(一九二一)とあるのと同じである。オホホシクは不明瞭なこと。
〔評〕 有りの儘で、何の技巧もないが、そこがこの歌の佳いところである。朧月の夜の景を髣髴せしめてゐる。
 
983 山の端の ささらえ壯士 天の原 と渡る光 見らくしよしも
 
山葉《ヤマノハノ》 左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》 天原《アマノハラ》 門度光《トワタルヒカリ》 見良久之好藻《ミラクシヨシモ》
 
山ノ端ニ出タ、月ガ空ヲ通ツテ行ク光ヲ見ルノハヨイモノデスヨ。
 
○山葉《ヤマノハノ》――山の端の。○左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》――月の異名。月は月讀壯子《ツクヨミヲトコ》(一三七二)月人壯《ツキヒトヲトコ》(二〇一・二〇四二・二〇五一・二二二三・三六一一)などの如く、いつも男性として呼ばれてゐる。左佐良《ササラ》は細小なる意らしい。卷十四に伊毛奈呂我都可布河泊豆乃佐々良乎疑《イモナロガツカフカハヅノササラヲギ》(三四四六)とあるのも、小さい荻であらう。榎壯子《エヲトコ》は美男・愛男の意で、古事記に阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲ》、書紀に妍哉可愛少男《アナニエヤエヲトコ》とあるのと同じである。但しこの左佐良《ササラ》は卷三に天有左佐羅能小野之《アメナルササラノヲヌノ》(四二〇)・卷十六に天爾有哉神樂良能小野爾《アメナルヤササラノヲヌニ》(三八八七)とある。ささらの小野と何らかの關係があるかも知れない。○門度光《トワタルヒカリ》――トは明門《アカシノト》(二五五)・薩摩乃迫門《サツマノセト》(二四八)などの門《ト》と同じく、すべて舟で渡るところをいふのである。ここは天の原即ち空を、海と同じやうに見て、門度《トワタル》と言つたのである。
〔評〕 誠に珍らしい歌である。月の異名を、ささらえをとこと呼んだことが、この歌あつて始めて知られるのである。作者がかうした珍らしい詞を用ゐた動機は、どういふところにあるか明らかでないが、ともかくも我らはこの女流歌人に感謝の辭を捧げたいと思ふ。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首(ノ)歌、或云、月別名(ヲ)曰(フ)2佐散良衣壯士(ト)1也、縁(リ)2此辭(ニ)1作(レリ)2此(ノ)歌(ヲ)1
 
これは後人の註である。分り切つたことを註したものだ。
 
(211)豐前國娘子月歌一首【娘子字曰大宅姓氏未詳也】
 
卷四の七〇九に豐前國娘子大宅女とあつたのと同一であらう。
 
984 雪隱り 行方をなみと 吾が戀ふる 月をや君が 見まく欲りする
 
雲隱《クモガクリ》 去方乎無跡《ユクヘヲナミト》 吾戀《ワガコフル》 月哉君之《ツキヲヤキミガ》 欲見爲流《ミマクホリスル》
 
雲ニ隱レテ、何處ヘ去ツタカ分ラナイノデ、私ガ戀ヒ慕ツテヰル月ヲ、アナタモ見タガツテイラツシサイマスカ。
 
〔評〕 契沖は、拾遺集の源信明「戀ひしさは同じ心にあらずとも今宵の月を君見ざらめや」といふ歌の心に同じだといつてゐる。恐らくさう考へてよいであらう。攷證には「この歌、月によそへたる戀の歌にて、たとはば旅などに行きたる人を、月によそへて、その人を、吾も外の人も戀ふるを、その戀ふる人におくれる歌などにて、一首の意は、雲がくれて去方なくなりし月を戀ふる如く、吾戀ふる人を、また君も見まくほりするならむといへるなり」とあるのは當つてゐるとも思はれない。
 
湯原王月歌二首
 
志貴皇子の御子。三七五參照。
 
985 天にます 月讀壯士 まひはせむ 今宵の長さ 五百夜繼ぎこそ
 
天爾座《アメニマス》 月讀壯子《ツクヨミヲトコ》 幣者將爲《マヒハセム》 今夜乃長者《コヨヒノナガサ》 五百夜繼許増《イホヨツギコソ》
 
今夜ハ實ニ良イ月ダ〔九字傍線〕。天ニイラツシヤル御月樣ヨ。棒ゲ物ヲシマセウカラ〔二字傍線〕、今夜ノ長サヲ、常ノ〔二字傍線〕五百夜ノ長サニ續ケテ下サイ。
 
○月讀壯士《ヅクヨミヲトコ》――月を月讀といふのは、古事記に月讀命、書記に月弓尊・月夜見尊・月讀尊などとあるのから出た(212)ので、男性として月讀壯士といふのである。別に左佐良榎壯士《ササラエヲトコ》(九八三)・月人壯《ツキヒトヲトコ》(二〇一〇)の稱呼もある。○幣者將爲《マヒハセム》――マヒは贈物。賂物。九〇五參照。○今夜乃長者《コヨヒノナガサ》――代匠記には長者の者は音を取れりとあるが、攷證にはこれを退けて「すべて者をサの假字に用ひたる事なし。此卷に苦者《クルシサ》、八に謠者《ハルケサ》、九に樂者《タヌシサ》、十に吉者《ヨサ》などある者も、みな助字に置たるにて、集中、焉、矣、也、之、而などの字を助字に置る類なること、七に昔者《イニシヘ》、四に比者《コロ》など、者もじをそへて書るにてしるべし。また、七に清也《サヤケサ》、八に悲也《カナシサ》、十三に不怜也《サブシサ》など、サといふ所へ也の字の助字を置たるを見てしるべし」としある。その用例から見ると、攷證説がよいやうでかる。○五百夜繼許増《イホヨヅギコソ》――許増《コソ》は希望の詞。
〔評〕 湯原王は常に優雅な歌を作られるお方である。この歌はさして勝れてゐるといふ程でもないが、何となく氣品の備つた作である。幣者將爲《マヒハセム》は憶良の和可家禮婆道行之良士末比波世武《ワカケレバミチユキシラジマヒハセム》(九〇五)に傚つたやうに考へられないこともないが、この句は卷九の詠霍公鳥の長歌(一七五五)などにも見えてゐるから、必ずしも憶良を學んだとも言はれない。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
986 はしきやし ま近き里の 君來むと 大のびにかも 月の照りたる
愛也思《ハシキヤシ》 不遠里乃《マヂカキサトノ》 君來跡《キミコムト》 大能備爾鴨《オホノビニカモ》 月之照有《ツキノテリタル》
 
ナツカシイ近所ノ里ニヰルアナタガ今夜オイデニナル爲ニ、野原ノアタリニ月ガ照ツテヰルノデアラウカ。コノ良イ月ニアナタガオイデナサリサウナモノダ〔コノ〜傍線〕。
 
○愛也思不遠里乃《ハシキヤシマヂカキサトノ》――卷四の波之家也思不遠里乎《ハシケヤシマヂカキサトヲ》(六四〇)と同樣の句。○大能備爾鴨《オホノビニカモ》――解し難い句である。恐らく大野邊にかもであらう。袖中抄卷十六にこの歌を載せて、「或書云、大のびにとは、ゆたかに、しづかなりといふ也。これ江都督説也」とあるが、受取難い説である。宣長は君來跡之我待爾鴨《キミコトシワガマツニカモ》とあつたのが、誤つたのだらうといひ、雅澄は云知信爾鴨《イフシルシニカモ》の誤としてゐるか、いづれも獨斷に過ぎてゐる。
〔評〕 右のやうに解釋すれば「月明の夜、人待つ人の心もさこそと、思はれて,なつかしい歌である。卷四に、同じ湯原王の作に、波之家也思不遠里乎雲居爾也戀管將居月毛不經國《ハシケヤシマヂカキサトヲクモヰニヤコヒツツヲラムツキモヘナクニ》(六四〇)とあるのと、かなり類似點がある。
 
(213)藤原八束朝臣月歌一首
 
藤原八束朝臣は三九八參照。
 
987 待ちがてに 吾がする月は 妹が著る 三笠の山に こもりてありけり
 
待難爾《マチガテニ》 余爲月者《ワガスルツキハ》 妹之著《イモガキル》 三笠山爾《ミカサノヤマニ》 隱而有來《コモリテアリケリ》
 
私ガ待チカネテヰル月ハ(妹之著)三笠ノ山ニマダ〔二字傍線〕隱レテヰルワイ。
 
○妹之著《イモガキル》――枕詞。笠とつづく。
〔評〕 平庸な作である。前の安倍朝臣蟲麿の歌(九八〇)に似て、劣つてゐる。
 
市原王宴(ニ)祷(グ)2父(ノ)安貴王(ヲ)1歌一首
 
市原王の傳は四一二參照。安貴王の傳は三〇六參照。祷は、ことほぐ、壽を祷る意。この市原王の筆蹟は正倉院文書中のもので、王が造東大寺長官をしてゐられた時の書状である。
 
988 春草は 後は散り易し 巖なす 常磐にいませ 貴を吾が君
 
春草者《ハルクサハ》 後波落易《ノチハチリヤスシ》 巖成《イハホナス》 常盤爾座《トキハニイマセ》 貴吾君《タフトキワガキミ》
 
(214)春ノ草ノ花〔二字傍線〕ハ美シクテモ〔五字傍線〕、後デハ散ツテシマフモノデス。デスカラ〔四字傍線〕巖ノヤウニイツマデモ變ラナイデイラツシヤイ。貴イ私ノ父上ヨ。
 
○春草者《ハルクサハ》――代匠記に草は花の誤かとあるが、落易《チリヤスシ》に花の方がふさはしい。併し花となつてゐる本がないから、この儘とすべきである。○後波落易《ノチハチリヤスン》――舊訓カレヤスシを代匠記にチリヤスシとしたのがよい。落の字は多くチルと訓まれてゐる。略解にウツロフとあるのは、義訓に過ぎる。○巖成《イハホナス》――舊本、嚴とあるは誤。西本願寺本による。○常磐爾座《トキハニイマセ》――盤は磐に通用の字ではあるが、類聚古集に磐とあるのがよい。
〔評〕 二句で切つて、四句で切り、結句に貴吾君《タフトキワガキミ》と置いたのが、どつしりとした格調をなして、ことほぎ歌として適當してゐる。内容は別に珍らしいこともないが、祝賀の氣分が明瞭に出てゐる。
 
湯原王打酒歌一首
 
打酒は解し難い。誤かと思ふが、諸本皆かうなつてゐる。代匠記に酒に打たるると訓んで、「打は痛く強ふる意と見ゆれば今は強ひられて醉へる意なり」とある。宣長は「打は祈の誤か。さらば、さかほがひと訓むべし」といつてゐる。古義には打を折の誤かとする中山巖水説をあげてゐる。古事記に八鹽折之酒とあるから、酒を釀すことを折ともいつたのだらうといふのである。併しこの歌の祷の字を擣に誤つた本もあるから、祷を擣に誤り、更に打にしたものと考へられないこともない。ともかくこれは、酒ほがひの歌である。
 
989 燒太刀の かどうち放ち ますらをの ほぐ豐御酒に 我醉ひにけり
 
燒刀之《ヤキダチノ》 加度打放《カドウチハナチ》 大夫之《マスラヲノ》 祷豐御酒爾《ホグトヨミキニ》 吾醉爾家里《ワレヱヒニケリ》
 
燒イテ〔二字傍線〕鍛ツタ太刀ノ、稜《シノギ》ヲケヅツテ、男ガ祝ツテ飲ムコノヨイ酒デ、私ハ醉ツタワイ。アア愉快ダ〔五字傍線〕。
 
○燒刀之《ヤキダチノ》――よく鍛へた太刀。この語は枕詞として用ゐるられるが、ここはさうではない。○加度打放《カドウチハナチ》――加(215)度《カド》は太刀の稜《シノギ》。打放《ウチハナチ》は稜を削ること。これを舊訓にウチハナツとあるのは、よくない。○祷豐御酒爾《ホグトヨミキニ》――祷の字、大矢本に、擣と頭書してある。これを舊訓ツクとあるのはわからない。契沖がノムとよんだのも惡い。考にホグとしたのがよい。
〔評〕 燒刀之加度打放《ヤキタチノカドウチハナチ》と酒宴との關係が明らかでないが、格調の上から見ると、勇壯な愉快な氣分の溢れた歌である。
 
紀朝臣|鹿人《カビト》、跡見茂崗《トミノシゲヲカ》之松樹(ノ)歌一首
 
紀朝臣鹿人は續紀「天平九年九月癸巳授2紀朝臣鹿人、外從五位下1、十二月壬戍爲2主殿頭1、十二年十一月甲辰授2外從五位上1、十三年八月丁亥爲2大炊頭1」とある。跡見は磯城郡|外山《トビ》村のことで、今櫻井町の東方に當る。茂岡は其處の岡の名であらう。卷八に典鑄正紀朝臣鹿人、至2衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄1作歌一首として射目立而跡見乃岡邊之瞿麥花《イメタテテトミノヲカベノナデシコノハナ》(一五四九)とあるから、この作者は跡見庄に行通うた人と見える。舊本、跡の字が無いのは誤。神田本による。
 
990 茂岡に 神さび立ちて 榮えたる 千代まつの樹の 歳の知らなく
 
茂岡爾《シゲヲカニ》 神佐備立而《カミサビタチテ》 榮有《サカエタル》 千代松樹乃《チヨマツノキノ》 歳之不知久《トシノシラナク》
 
茂岡ニ神々シク古サウニシテ〔五字傍線〕テ立ツテヰル、千代ヲ待ツトイフ、松ノ樹ノ年ハ何年ニナルカ〔六字傍線〕分ラナイヨ。
 
○千代松樹乃《チヨマツノキノ》――待つと松とをかけてゐる。
〔評〕 岡の上の老松を見た感じを、素直にあらはしたまでである。この卷の一松幾代可歴流吹風乃聲之清者年深香聞《ヒトツマツイクヨカヘヌルフクカゼノコヱノスメルハトシフカミカモ》(一〇四二)などに比すれば、遙かに及ばない。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
同鹿人、至(リテ)2泊瀬河(ノ)邊(ニ)1作(レル)歌一首
 
991 いは走り たぎち流るる 泊瀬川 絶ゆることなく またも來て見む
 
(216)石走《イハバシリ》 多藝千流留《タギチナガルル》 泊瀬河《ハツセガハ》 絶事無《タユルコトナク》 亦毛來而將見《マタモキテミム》
 
石ノ上ヲ走ツテ、泡立ツテ流レル泊瀬川ヲ、コノ川ノ水ノ絶エナイヤウニ〔コノ〜傍線〕、絶エルコトガナク私ハ〔二字傍線〕、復來テ見マセウ。ホントニヨイ景色ダ〔九字傍線〕。
 
○石走《イハバシリ》――イハバシルとよんで枕詞とする説もあるが、イハバシリとして下へつづける方がよい。○泊瀬川《ハツセガハ》――泊瀬地方を流れる川。大和川の上流。挿入寫眞は大和萬葉古蹟寫眞による。
〔評〕 雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》(三七)に似て劣つた作である。叙法が平板に過ぎて、人の感興を呼び惹さない。なほこの歌、前の跡見の茂岡を見たついでに、程近い泊瀬川の邊に至ることがあつて、詠んだのであらう。
 
大伴坂上郎女詠(メル)2元興《グワンゴウ》寺之里(ヲ)1歌一首
 
(217)元興寺は謂はゆる新元興寺のことで、今、奈良市芝新屋町にその遺蹟がある。
 
992 古郷の 飛鳥はあれど あをによし ならの明日香を 見らくしよしも
 
古郷之《フルサトノ》 飛鳥者雖有《アスカハアレド》 青丹吉《アヲニヨシ》 平城之明日香乎《ナラノアスカヲ》 見樂思好裳《ミラクシヨシモ》
 
舊都トナツタ飛鳥ノ〔三字傍線〕飛鳥寺ハヨイ所ダガ、(青丹吉)奈良ノ都ノ、飛鳥寺ノ方ガ見ルトヨイ所デスヨ。
 
○古郷之飛鳥者雖有《フルサトノアスカハアレド》――舊都となつた飛鳥の飛鳥寺で、元興寺は一に飛鳥寺と稱した。元來この寺は崇峻天皇の元年、蘇我馬子が衣縫造の祖樹葉の家を壞つて、飛鳥眞神原に建立したもので、佛法興隆の意を以て法興寺と稱した。後、元興寺と稱し、又、地名によつて飛鳥寺とも稱したのである。寧樂遷都と共に諸寺も亦隨つて移つたのであるが、この元興寺のみは、佛法最初の靈地としてその儘になつてゐた。併し養老二年に至り、遂に移轉せられて、これを新元興寺と稱し、飛鳥の舊地にも一宇を立てて、本元興寺と稱した。續紀、靈龜二年五月の條に、「辛卯徙2建元興寺於左京六條四坊1」とあり、養老二年九月の條に「甲寅遷2法興寺於新京1」とあるので見ると、靈龜二年に元興寺を飛鳥より六條四坊に遷さうとしたが、故あつてその地は大安寺移建の地となつたので、更に養老二年に、左京五條七坊の地(今の芝新屋町)を卜して移したものと思はれる。飛鳥の本元興寺は、今、安居院の一宇と、飛鳥大佛とを殘してゐる。○平城之明日香乎《ナラノアスカヲ》――平城之明日香は寧樂の飛鳥寺、即ち新元興寺。
〔評〕 奈良に出來た新元興寺を見て、舊都の飛鳥の元興寺と對比して、その美を讃へたものである。飛鳥の元興寺は、今は飛鳥大佛に僅かにその名殘を止めてゐるに過ぎないが、その盛時には、東門に飛鳥寺、西門に法興寺、南門に元興寺、北門に法滿寺の額を掲げ、當時の高僧大徳の住したところで、天武天皇は屡々行幸あらせられた。その美觀のほども想像せられる。併し養老二年に功竣つて移轉した新元興寺は、方六町の廣大な地域を占めたもので、七堂伽藍の壯麗人目を奪ふものがあつたであらう。殊に落成後この天平五年まで十五年を經たのみであるから、新しいものに目うつりがするのは當然で、郎女はこれに讃辭を惜しまなかつたのである。歌として見れば、さしたる作ではない。
 
(218)同坂上郎女初月歌一首
 
初月は三日月をいふ。漂上
 
993 月立ちて ただ三日月の 眉根掻き け長く戀ひし 君にあへるかも
 
月立而《ツキタチテ》 直三日月之《タダミカヅキノ》 眉根掻《マユネカキ》 氣長戀之《ケナガクコヒシ》 君爾相有鴨《キミニアヘルカモ》
 
私ハ先方カラモ戀ヒセラレタモノト見エテ、諺デイフヤウニ眉ガカユクナツタノデ〔私ハ〜傍線〕、(月立而直三日月之)眉ヲ掻イテ、私ガ〔二字傍線〕永イ間戀ヒ慕ツテヰタアナタニ、逢フコトガ出來マシタヨ。アア、嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○月立而《ツキタチテ》――月が改つて、新しい月となつて。○直三日月之《タダミカヅキノ》――月が立つてから、唯三日目の三日月の如きの意で、ここまでは次の眉根につづく序である。月を眉に譬へることは、漢詩文に多い。○眉根掻《マユネカキ》――眉根は眉の根もと。當時眉が痒いのは、人に戀ひせられたしるしとする言ひならはしがあつた。卷十一|眉根掻鼻火紐解待八方何等毛將見跡戀來吾乎《マユネカキハナヒヒモトケマテリヤモイツカモミムトコヒコシワレヲ》(二八〇八)希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮《メヅラシキキミヲミムトゾヒダリテノユミトルカタノマユネカキツレ》(二五七五)などその例が多い。○氣長戀之《ケナガクコヒシ》――氣《ケ》は日に同じ。この句は久しく戀した意。
〔評〕 初月歌とあるけれども、三日月に寄せた戀の歌で、序が巧に出來てゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
大伴宿禰家持、初月歌一首
 
994 振さけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き おもほゆるかも
 
振仰而《フリサケテ》 若月見者《ミカヅキミレバ》 一目見之《ヒトメミシ》 人之眉引《ヒトノマヨビキ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
振リ仰イデ空ノ〔二字傍線〕三日月ヲ見ルト、私ハ〔二字傍線〕一目見タ、ナツカシノ〔五字傍線〕女ノ眉墨ヲ思ヒ出スワイ。ホントニアノ女ノ三日月ノヤウナ眉墨ハ美シカツタ〔ホン〜傍線〕。
 
○振仰而《フリサケテ》――振放而と書いたのと同じで、仰は意を以て書いたまでである。振仰見乍《フリサケミツツ》(二六六九)ともある。○若(219)月見者《ミカツキミレバ》――若月を三日月に用ゐたのは、初月と同じで義訓である。○人之眉引《ヒトノマヨビキ》――眉引は眉墨を引いたこと。黛。卷五に惠麻比麻飲毘伎《ヱマヒマヨビキ》(八〇四)とあつた。仲哀紀に、「譬如2美女之※[目+碌の旁]1有2向津國1、※[目+碌の旁]此云2麻用弭枳1」とある。
〔評〕 大伴家持の作中、年代の明らかなものの最初で、彼は年齒方に十六歳と推定せられる。しかも歌の内容を見れば、美人の妖眉を謳歌したもので、その早熟さを思はしめる。當時と今日とは、事情に於て異なるところあるにしても、後日の彼の戀愛生活が、なるほどとうなづかれる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
大伴坂上郎女、宴(スル)2親族(ト)1歌一首
 
卷三にも、大伴坂上郎女、宴2親族1之日吟歌一首(四〇二)がある。
 
995 かくしつつ 遊び飲みこそ 草木すら 春は生ひつつ 秋は散りゆく
 
如是爲乍《カクシツツ》 遊飲與《アソビノミコソ》 草木尚《クサキスラ》 春者生管《ハルハオヒツツ》 秋者落去《アキハチリユク》
 
カウシテ遊ンデ、酒ヲ〔二字傍線〕飲ンデ樂ミマセウヨ。草木デモ、春ハ生長シテ秋ハ散ツテシマフモノデス。マシテ人間ハ草木ヨリモ無常ナモノデスカラ、生キテヰル間ニ樂シク遊バナケレバ損デス〔マシ〜傍線〕。
 
○遊飲與《アソビノミコソ》――ツソ希望の詞。與の字を、コソと訓ましめたところが多い。略解に、與は乞の誤ならむと言つたのは當らない。○春者生管《ハルハオヒツツ》――舊訓モエツツとあるが、略解にオヒツツとあるのがよからう。古義にはサキツツとある。○秋者落去《アキハチリユク》――舊訓を尊重して置かう。略解はカレユク、古義はチリヌルとある、
〔評〕 この作者の享樂的氣分が、この歌にもあらはれてゐる。卷八に出てゐるこの人の、酒杯爾梅花浮念共飲而後者落去登母與之《サカヅキニウメノハナウカベオモフドチノミテノノチハチリヌトモヨシ》(一六五六)とを併せ考へると、かなり酒に親しんだ女と見える。
 
六年甲戍、海犬養《アマノイスカヒ》宿禰岡麻呂、應(フル)v詔(ニ)歌一首
 
(220)岡麻呂の傳は分らない。縣犬養氏は天武紀に「十三年十二月己卯、海犬養連賜2姓宿禰1」とあり、 姓氏録に「海犬養、海神綿積命之後也」とある。海は海部の略でアマと訓む。
 
996 御民我 生けるしるしあり 天地の 榮ゆる時に 遇へらく思へば
 
御民吾《ミタミワレ》 生有驗在《イケルシルシアリ》 天地之《アメツチノ》 榮時爾《サカユルトキニ》 相樂念者《アヘラクオモヘバ》
 
今ノ大御代ハ實ニ有リガタイ御代デゴザイマス。コノ泰平ナ〔今ノ〜傍線〕天地モ共ニ榮エテ稜威ノ盛ナ〔六字傍線〕ル時ニ生レ〔二字傍線〕逢ツタコトヲ考ヘテ見マスト、實ニ〔二字傍線〕陛下ノ蒼生ノ一人〔三字傍線〕タル私ハ生キ甲斐ガアルト存ジマス。
 
○御民吾《ミタミワレ》――民は天皇の所有し給ふものであるから、自ら敬つて御の字を添へて言ふのである。卷一にも散和久御民毛《サワグミタミモ》(五〇)とあつた。
〔評〕 天平の盛時を歌つた作として、實に適應してゐる。皇威八紘に輝き、文物燦然として前古にその比を見ない、天平の聖代を謳歌するには、この詞を以てするより他に、全く言ひあらはすべき言葉を知らないのである。冐頭に御民吾生有驗在《ミタミワレイケルシルシアリ》と、言ひ切つたのが、雄勁な格調をなし、滿悦の叫となつてゐるが、更に御代の繁榮を歌ふのに、他の小さな譬喩などを取らず、天地之榮時《アメツチノサカユルトキ》と言つたのが、何とも言へない輪廓の大きな歌になつてゐる。啻に天平時代のみならず、現代昭和の聖世をたたへようとするにも、我らはこの歌をその儘借りて、我らの感想とすることが出來る。後々たる一岡麻呂の歌ではなくて、吾が國民全體の聲とも考へられるのである。實に立派な作だ。涙ぐましい程に嬉しい作だ。この歌が天皇の御前に於て發表せられた時、並みゐる群臣の讃嘆は如何ばかりであつたらう。思ひやつても心が踊るやうである。
 
春三月幸2于難波宮1之時歌六首
 
續紀に「聖武天皇天平六年春三月辛未行2幸難波宮1、戊寅車駕發v自2難波1、宿2竹原井頓宮1、庚辰車駕還v宮」と見えてゐる。
 
997 住吉の 粉濱のしじみ あけも見ず こもりてのみや 戀ひわたりなむ
 
(221)住吉乃《スミノエノ》 粉濱之四時美《コハマノシジミ》 開藻不見《アケモミズ》 隱耳哉《コモリテノミヤ》 戀度南《コヒワタリナム》
 
私ハ〔二字傍線〕(住吉乃粉濱之四時美)打チ開ケテ心ノ中ヲ言ハナイデ、心ノナカデ隱シテバカリ戀ヲシテ日ヲ送ラウカ。イヤ、モウ堪ヘ切レナイカラ、表ニアラハシテ戀ヲシヨウカ〔イヤ〜傍線〕。
 
○粉濱之四時美《コハマノシジミ》――粉濱は住吉の地名。今は大大阪の内になつてゐるが、昔は住吉村の西北に接して、粉濱村があつた。四時美《シジミ》は蜆貝のことであらう。粉濱地方は古昔蜆貝の産地であつたか。海岸の砂濱とすれば蜆の生育に適應せぬやうに思はれるが、あの地方は一體に沼澤地であつたらうと想像せられるから、蜆も棲んでゐたであらう。四時美は元暦校本に四時華とあり、八雲御抄第三にも「萬六とこなつは四時華とかけり」とあつて、古くはトコナツと訓んだらしい。夫木集に、「住よしのこすのとこなつさくも見ずかくれてのみや戀わたるらむ」とあるのは、この歌の古訓であらう。併し四時華をトコナツと訓むのも無理があり、また集中の何處にもトコナツの花名を見ず、果して當時常夏の稱呼があつたか疑はしい。且題詞に春三月とあるのは、サクモ見ズとあるにしても、あまり季節が合はぬやうである。蜆貝も集中この歌以外に、詠まれた例を見ないから、この訓も頗るあやぶまざるを得ない。併し右に述べたやうに、粉濱が蜆の産地と考へられないこともないし、また萬葉にはないが、播磨風土記には、志深《シジミ》といふ地名を説明して、伊射報和氣命(履中天皇)が、この井で御食事の際、信深《シジミ》貝が御飯筥の縁に遊び上つた。時にこの貝は阿波國|和那散《ワナサ》で食べた貝だと仰せになつた。それからここを志深《シジミ》の里といふやうになつたと見えてゐる。この信深《シジミ》貝は蜆とは同一物でないやうに思はれ、古シジミと稱したのは、何か別種の貝らしく想像せられるが、ともかくその名があつたことは確かであるから、ここでは假に舊訓のままにして置く。さて冐頭の二句は序詞。蜆が常に口を開かぬに譬へて、開藻不見《アケモミズ》とつづけたのであらう。○開藻不見《アケモミズ》――心中を打開けて言はないことを言つたもの。○隱耳哉《コモリテノミヤ》――舊訓シノビテノミヤとあるのはよくない。代匠記にコモリテノミヤとあるに從ふ。略解に、コモリノミヤモとある。
〔評〕 旅中に住吉の女に戀して、思を打ちあけかねて、煩悶してゐる時の作であらう。古義には、本郷の家にあ(222)る妻を戀ふる歌と解してゐるが、恐らくさうではあるまい。一二の句が明確に訓めないのは遺憾である。
 
右一首作者未v詳
 
998 眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて榜ぐ舟 泊知らずも
 
如眉《マユノゴト》 雲居爾所見《クモヰニミユル》 阿波乃山《アハノヤマ》 懸而榜舟《カケテコグフネ》 泊不知毛《トマリシラズモ》
 
女ノ〔二字傍線〕眉ノヤウナ形デ、遙カ〔二字傍線〕空ノアナタニ見エル阿波ノ國ノ山ヲ、目ガケテ漕イデ行ク舟ノ著ク所ハ何處ダラウ。サゾ心細イコトデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
○如眉《マユノゴト》――遠山を女の眉に比した例は、漢籍に多く見えるが、これは必ずしも支那風の表現法とも言へない。住吉あたりの海岸に立つて、海のあなたに阿波の山を望んだ景は、眞に眉のやうであつたらう。○懸而榜舟《カケテコグフネ》――懸而《カケテ》は目指しての意。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
〔評〕 渺々たる海上に浮んだ扁舟を眺めて、その行程を思ひやつた歌で、淋しさと、たよりなさとがあらはれた、氣品の高い作である。
 
右一首船王作
 
船王は舍人親王の御子。淳仁天皇の御弟、神龜四年正月に無位から從四位下。天平十五年五月從四位上。十八年四月彈正尹。天平寶字元年五月正四位下、同二年八月從三位。同三年六月親王となり三品。同四年正月信部卿。同八年正月二品。八年十月仲麻呂の反に坐し王に下して隱岐國に流さる。
 
999 血沼みより 雨ぞふりくる 四極のあま 網手綱乾せり ぬれあへむかも
 
從千沼回《チヌミヨリ》 雨曾零來《アメゾフリクル》 四八津之白水郎《シハツノアマ》 網手綱乾有《アミテツナホセリ》 沾將堪香聞《ヌレアヘムカモ》
 
茅浮ノ海ノ岸カラ雨ガ降ツテ來ル。四極ノ浦ノ漁師ハ網ノ綱ヲ干シテヰル。霑レテモ差支へナイダラウカナア。取リ込メパヨイニ〔八字傍線〕。
 
(223)○從千沼回《チヌミヨリ》――千沼は血沼・茅渟・陳奴などと記してある。五瀬命が長髄彦の矢を受け給うて、この海に到つて御手の血をお洗ひになつたので、血沼の海といふことになつたと、古事記に記してある。書紀の欽明天皇十四年「河内國言、泉郡茅渟海中、有梵音」とあるから、茅渟は今の泉北郡地方の海岸である。併し卷七の攝津作の歌に、爲妹貝乎拾等陳奴乃海爾所沾之袖者雖凉常不干《イモガタメカヒヲヒリフトチヌノウミニヌレニシソデハホセドカハカズ》(一一四五)とあるから、攝津にも跨つてゐたのであらう。○四八津之泉郎《シハツノアマ》――四八津は四極。住吉から喜連村に行く間にある。二七二參照。白水郎は海人。二三參照。○網手綱乾有《アミテツナホセリ》――網手綱は舊訓アミテナハ、代匠記アミタツナ、童蒙抄アタツナ、アテナハ、略解は網は綱の誤として、ツナデナハと訓んでゐる。攷證は綱は繩の誤として、アミテナハ、古義には網を綱とし、綱を衍としてツナデとよんでゐる。かく樣々の訓があるが、ここには文字通りにアミテツナとよむことにする。○沾將堪香聞《ヌレアヘムカモ》――これも舊訓ヌレテタヘムカモであるが、ここには古義に從つて置く。霑れても堪へられようか。霑れても差支へないだらうかの意。
〔評〕 海の方から雨を運んだ雲が押し寄せて來るのに、海人の網の綱は乾したままになつてゐる景である。廣く展開した動的な場面がよくあらはれてゐる。
 
右一首、遊2覽(シテ)住吉濱(ニ)1還(ル)v宮(ニ)之時、道(ノ)上(ニテ)守部王應(ジテ)v詔(ニ)作(レル)歌
 
守部王は舍人親王の御子。續紀に聖武天皇の天平十二年正月無位守部王に從四位下を、同十一月從四位上を授ける由見えてゐる。
 
1000 兒らがあらば 二人聞かむを 沖つ渚に 鳴くなる鶴の 曉の聲
 
兒等之有者《コラガアラバ》 二人將聞乎《フタリキカムヲ》 奧渚爾《オキツスニ》 鳴成鶴乃《ナクナルタヅノ》 曉之聲《アカトキノコヱ》
 
妻ガ此處〔二字傍線〕ニヰルナラバ、アノ沖ノ洲デ鳴イテヰル鶴ノ夜明ケ方ノ聲ヲ、私ト〔二字傍線〕二人デ聞カウノニナア。アア何ト淋シイ聲ダラウ〔アア〜傍線〕。
 
○兒等之有者《コラガアラバ》――兒らは故郷に遺して來た妻をいふ。○鳴成鶴乃《ナクナルタヅノ》――鶴は元暦校本に多頭とある。
(224)〔評〕 旅情、物あはれに、哀調人を動かさねば止まない。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首守部王作
 
1001 ますらをは 御※[獣偏+葛]に立たし をとめらは 赤裳裾引く 清き濱びを
 
大夫者《マスラヲハ》 御※[獣偏+葛]爾立之《ミカリニタタシ》 未通女等者《ヲトメラハ》 赤裳須素引《アカモスソビク》 清濱備乎《キヨキハマビヲ》
 
男タチハ天子樣ノ御獵ノオ供ヲナサツテ、女ドモハ景色ノヨイ濱邊ニ、赤イ裳ノ裾ヲ引イテ遊ンデヰル。男モ女モ樂シイコトダ〔十字傍線〕。
 
○御※[獣偏+葛]爾立之《ミカリニタタシ》――略解に、「たたしはたちの延言」とあるが、敬語と見た古義説に從ふ。○清濱備乎《キヨキハマビヲ》――濱備は濱邊。
〔評〕 目前の景をその儘によんだもの。從駕の人が、各々所を得て和樂してゐる樣が、目に見えて嬉しい。
 
右一首山部宿禰赤人作
 
1002 馬の歩 おさへ駐めよ 住吉の 岸のはにふに にほひて行かむ
 
馬之歩《ウマノアユミ》 押止駐余《オサヘトドメヨ》 住吉之《スミノエノ》 岸乃黄土《キシノハニフニ》 爾保比而將去《ニホヒテユカム》
 
私ノ〔二字傍線〕馬ノ歩クノヲシバラク〔四字傍線〕押ヘ止メヨ。從者ヨ。私〔五字傍線〕ハコノ住吉ノ岸ノ赤土デ着物ヲ染メテ行カウ。
 
○押止駐余《オサヘトドメヨ》――舊訓オシテトドメヨとあるが、代匠記にオサヘトドメヨとしたのがよい。考に止を弖の誤としたのはよくない。○岸乃黄土《キシノハニフニ》――岸といふ所の、黄色の土。黄土はハニで、黄土粉などあるべきを略して書いたのである。
〔評〕 この卷に白浪之千重來緑流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名《シラナミノチヘニキヨスルスミノエノキシノハニフニニホヒテユカナ》(九三二)とあるのに似て、それよりも勝れた作だ。一二の句が從駕の官人らしくて面白い。
 
右一首安倍朝臣豐繼作
 
(225)豐繼は、續紀に「天平九年二月戊午授2外從五位下阿倍朝臣豐繼從五位下1」とあるだけで、その他の傳は明らかでない。ここまでが難波宮に行幸の時の作である。
 
筑後守外從五位下葛井連大成、遙(ニ)見(テ)2海人釣船(ヲ)1作(レル)歌一首
 
舊本、位を倍に、井を並に誤つてゐる。元暦校本によつて改む、葛井連大成は、五七六參照。
 
1003 あまをとめ 玉求むらし 沖つ浪 かしこき海に 船出せり見ゆ
 
海※[女+感]嬬《アマヲトメ》 玉求良之《タマモトムラシ》 奧浪《オキツナミ》 恐海爾《カシコキウミニ》 船出爲利所見《フナデセリミユ》
 
海人ノ少女ハ玉ヲ取ラウトスルノダラウ。沖ノ浪ガ惡恐ロシク立ツテヰル海こ、船出ヲシテヰルノガ見エル。
 
○海※[女+感]嬬《アマヲトメ》――海人の處女。海は海部・海人などを省略したのである。※[女+感]嬬は集中に多い用字であるが、※[女+感]の字が物に見えない。攷證には感嬬と書くべきを、連字偏傍を増す習によつて、感にも女偏を附けたのであると言つてゐる。○玉求良之《タマモトムラシ》――玉は貝又は石をも言ふことがあるが、ここは鰒玉即ち眞珠をさしてゐるらしい。○船出爲利所見《フナデセリミユ》――船出セル見ユといふのが、中世以來の語法であるが、集中には、卷十五|安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《アマノイザリハトモシアヘリミユ》(三六七二)とあり、その他、棚引所見《タナビケリミユ》(三五三)・波立見《ナミタテリミユ》(一一七八)・浪立有所見《ナミタテリミユ》(一一八二)など終止形セリに訓んである。
〔評〕 海上に浮んだ海女の勞苦を思ひやつた歌である。筑後守として任地でよんだものと見られないことはないが、恐らく旅行中の作であらう。海に馴れない都人らしい歌だ。
 
※[木+安]作村主益人《クラツクリノスグリマスビト》歌一首
 
左註に内匠寮大屬とある以上に、この人の傳はわからない。
 
1004 思ほえず 來ませる君を 佐保川の かはづ聞かせず 還しつるかも
 
不所念《オモホエズ》 來座君乎《キマセルキミヲ》 佐保川乃《サホガハノ》 河蝦不令聞《カハヅキカセズ》 還都流香聞《カヘシツルカモ》
 
(226)思ヒガケナクモオイデ下サツタ貴方ダノニ、佐保川ノ面白イ〔三字傍線〕河鹿ノ聲ヲ聞カセナイデ、オ歸シシマシタワイ。惜シイコトヲシタ。モウ少シイラツシヤレバ河鹿ガナキマスノニ〔惜シ〜傍線〕。
 
○來座君乎《キマセルキミヲ》――來給へる君なるをの意。略解に「君をといふよりかへしつるかもと隔てつづく也。後の歌にせば君にといふべし」とあるのは誤つてゐる。○河蝦不令聞《カハヅキカセズ》――河蝦は河鹿。三二四參照。
〔評〕 佐保川のほとりに住んでゐた作者が、突然來駕した長官に、自慢の河鹿の聲をも聞かせずに歸した名殘惜しさを歌つて、はつきりとその氣分をあらはし得てゐる。
 
右、内匠寮大屬※[木+安]作村主益人、聊設(ケ)2飲饌(ヲ)1、以(テ)饗(ス)2長官|佐爲《サヰノ》王(ヲ)1、未v及(バ)2日斜(ナルニ)1、王既(ニ)還歸(ス)、於v時益人、怜2惜(ミテ)不(ル)v厭(カ)之歸(ヲ)1、仍(テ)作(ル)2此歌(ヲ)1
 
内匠寮は、ウチノタクミノツカサと訓ず。中務省に屬して、巧匠技巧のことを掌り、公事の鋪設等をも兼ね行ふ。聖武天皇の神龜五年八月始めて置かれた。頭一人、助一人、大允一人、少允二人、大屬一人、少屬二人等の官があつた。益人は大屬であつたから、サクワンで、從八位上の卑官である。長官佐爲王とあるのは、佐爲王が内匠寮の頭であつたのであらう。佐爲王は葛城王、即ち橘諸兄の弟、天平八年十一月兄弟共に橘の姓を賜つたことは次の一〇〇九の歌に明らかである。なほ續紀によつて佐爲王の傳を記せば、「和銅七年正月甲子、授2無位佐爲王從五位下1、養老五年正月壬子、授2從五位上1、庚午詔2佐爲王等1退v朝之後、令v侍2東宮1焉、神龜元年二月壬子授2正五位上1、四年正月庚子、授2從四位下1、天平三年正月丙子、授2從四位上1、八年十一月壬辰、賜2姓橘宿禰1、九年二月戊午從四位上橘宿禰佐爲授2正四位上1、八月壬寅朔中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿禰佐爲卒」とある。
 
八年丙子夏六月幸2于芳野離宮(ニ)1之時、山部宿禰赤人應(ヘテ)v詔(ニ)作(レル)歌一首竝短歌
 
(227)續紀に「天平八年六月乙亥幸2于芳野1、七月庚寅車馬遷v宮」とある。舊本八年丙子の四字を別行にしてゐる。元暦校本・神田本など次の夏六月と同行にしたのがよい。
 
1005 やすみしし 吾が大王の 見し給ふ 芳野の宮は 山高み 雲ぞ棚引く 河はやみ 瀬の音ぞ清き 神さびて 見れば貴く 宜しなべ 見ればさやけし この山の 盡きばのみこそ この河の 絶えばのみこそ 百敷の 大宮所 止む時もあらめ
 
八隅知之《ヤスミシシ》 我大王之《ワガオホキミノ》 見給《ミシタマフ》 芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》 山高《ヤマタカミ》 雲曾輕引《クモゾタナビク》 河速彌《カハハヤミ》 湍之聲曾清寸《セノトゾキヨキ》 神佐備而《カムサビテ》 見者貴久《ミレバタフトク》 宜名倍《ヨロシナベ》 見者清之《ミレバサヤケシ》 此山乃《コノヤマノ》 盡者耳社《ツキバノミコソ》 此河乃《コノカハノ》 絶者耳社《タエバノミコソ》 百師紀能《モモシキノ》 大宮所《オホミヤドコロ》 止時裳有目《ヤムトキモアラメ》
 
(八隅知之)私ノオ任ヘ申ス天子樣ノ、御覽遊バス吉野ノ御所は、山ガ高イノデ雲ガ棚引イテヰル。河ノ流レガ早イノデ、瀬ノ音ガサヤカニ聞エル。神々シクテ見ルト貴ク思ハレ〔三字傍線〕、ヨイ姿ヲシテヰルノデ、見ルト佳イ景色ダ〔三字傍線〕。コノ山ガナクナル時ガアルナラバコソ、コノ河ノ絶エルコトガアルナラバ、(百師紀能)大宮所ハナクナルコトモアルダラウ。コノ山川ノアラム限リコノ御所モナクナルコトハナイ〔コノ山〜傍線〕。
 
○見給《ミシタマフ》――御賢になる。メシタマフと古義にはよんでゐる。○宜名倍《ヨロシナベ》――宜しき樣に、よい姿でなどの意。宜名倍神佐備立有《ヨロシナベカムサビタテリ》(五二)・宜奈倍吾背乃君之《ヨロシナベウガセノキミガ》(二八六)・與呂之奈倍此橘乎《ヨロシナベコノタチバナヲ》(四一一一)などの用例がある。○見者清之《ミレバサヤケシ》――前の湍之聲曾清寸《セノトゾキヨキ》の清をキヨとよんで、この句でサヤケシと訓むのは、どうかとも思はれるが、他に訓みやうも無いやうである。サヤケシは、すべてすがすがしく、心地よいことをいふ。
〔評〕 芳野の離宮の佳景を賞讃し、その繁榮をことほいだのである。明朗な作ではあるが、類型的で、形式的で、あまり感興を惹さしめない。
 
反歌一首
 
1006 神代より 芳野の宮に 在り通ひ 高知らせるは 山河をよみ
 
自神代《カミヨヨリ》 芳野宮爾《ヨシヌノミヤニ》 蟻通《アリガヨヒ》 高所知者《タカシラセルハ》 山河乎吉三《ヤマカハヲヨミ》
 
(228)神代ノ時代〔三字傍線〕カラシテコノ〔二字傍線〕吉野宮ニ代々絶エズ通ツテオイデナサツテ、高ク宮作リヲナサツテイラツシヤルノハ山ト河トノ景色ガヨイカラデアル。
 
○自神代《カミヨヨリ》――神代から吉野に離宮があつたのではない。ただ遼遠なる古代をさしたのである。○蟻通《アリガヨヒ》――ありありて通つて。古から通つて來たこと。三〇四參照。○高所知者《タカシラセルハ》――宮殿を高く構へられるのはの意。
〔評〕 これもあまりに平板で、あまりに説明的である。山河乎吉三《ヤマカハヲヨミ》の句も、少しく調が窮屈になつてゐる。なほ契沖が「赤人の歌に年を記せるは此八年六月を終とす。これより程なく死去せられけるにや」といつたのは、恐らく當つてゐるであらう。
 
市原王悲(メル)2獨子(ヲ)1歌一首
 
市原王は安貴王の御子。四一二參照。悲獨子は吾が身に兄弟のないことを悲しまれたのである。
 
1007 言問はぬ 木すら妹と兄 ありとふを ただ獨子に あるが苦しさ
 
不言問《コトトハヌ》 木尚妹與兄《キスライモトセ》 有云乎《アリトフヲ》 直獨子爾《タダヒトリゴニ》 有之苦者《アルガクルシサ》
物ヲ言ハナイ木デモ、芽バエナドガ幾本モ出テ〔芽バ〜傍線〕、兄弟姉妹ガアルトイフノニ、人間ノ私ガ〔五字傍線〕、唯一人兒デ兄弟モナイノ〔六字傍線〕ハ悲シイコトダ。
 
○木尚妹與兄《キスライモトセ》――妹與兄《イモトセ》は兄弟姉妹をいふ。夫婦に限つていふのではない。木に兄弟姉妹があるとは、木の根元から生じた蘖《ヒコバエ》などの、幾本も立ち並んだのを言つたものらしい。
〔評〕 從來この歌の獨子を、市原王の御子が、お一人なることと見た説が多かつた。續紀によると、「天應元年二月丙午三品能登内親王薨、内親王天皇之女也、適2正五位下市原王1生2五百井女王、五百枝王1、薨時年四十九」とあつて、市原王と能登内親王との間に、お二人のお子がおはしたことが記されてゐる。併し能登内親王の御年を逆算して見ると、天平五年の御誕生に當つてゐるから、この天平八年には僅かに四歳でおはしました。だ(229)からこの續紀の記載は、この問題に何の解決をも與へない。飜つて市原王の御年齡を考へると、天平十五年に、はじめて無位から從五位下に叔せられてゐるから、天平八年はまだ弱年でましましたに相違ない。能登内親王の前に配偶者があつたとしても、この時に御子を持ち給うたとは考へられない。況んや御子の一人のみなるを嘆じ給うたとすれば、かなりの御高齡であらせられるべき筈である。いづれから考へても、これは御自身に御兄弟のましまさぬを悲しみ給うたのである。さう思つて見ると、前の市原王宴祷2父安貴王1歌一首(九八八)に、父君に對する濃やかな敬愛の情があらはれてゐるのが、謂はゆる親一人子一人の間柄であるやうにも思はれるのである。この歌にもその淋しい人なつこい感情があらはれてゐる。
 
忌部首黒《イムベノオフトクロ》麻呂恨(ムル)2友(ノ)※[貝+余]《オソク》來(ルヲ)1歌一首
 
續紀に「天平寶字二年八月庚子朔、授2正六位上忌部首黒麻呂外從五位下1。三年十二月壬寅、外從五位下忌部黒麻H等七十四人賜2姓連1。六年正月癸未爲2内史局助1」とある。※[貝+余]は遲に同じ。
 
1008 山の端に いさよふ月の 出でむかと 吾が待つ君が 夜はくだちつつ
 
山之葉爾《ヤマノハニ》 不知世經月乃《イサヨフツキノ》 將出香常《イデムカト》 我待君之《ワガマツキミガ》 夜者更降管《ヨハクダチツツ》
 
山ノ端ニ出ヨウトシテ〔六字傍線〕躊躇シテヰル月ヲ、モウ出ルカ出ルカト待ツヤウニ、マダカマダカト思ツテ〔待ツ〜傍線〕、私ガ待ツテヰルアナタハ、オイデニナラズニ〔八字傍線〕、夜ハダンダント〔五字傍線〕更ケテ行ク。
 
○山之葉爾不知世經月乃《ヤマノハニイサヨフツキノ》――山の端から出でむとして逡巡躊躇してゐる月がの意。これを將去《イデム》の序詞とする説はよくない。
〔評〕 眼前山の端に上り來つた月に對して、友を待つ心を述べたのである。ワガマツキミガのガが少し無理な助詞のやうに思はれる。なほこれは卷七に山末爾不知與歴月乎將出香登待乍居爾與曾降家流《ヤマノハニイサヨフツキヲイデムカトマチツツヲルニヨゾクダチケル》(一〇七一)に傚つた作と見てよからう。この歌、袖中抄に出てゐる、
 
(230)冬十一月左大辨葛城王等(ニ)賜(フ)2姓橘氏(ヲ)1之時、御製歌一首
 
左大辨を舊本左大臣に作るは誤。元暦校本によつて改む。葛城王はこの時左大辨であつた。左大辨は職員令に「左大辨一人、掌d管2中務・式部・治部・民部1受2付庶事1、糺2判官内1、署2文案1、勾2稽失1知c諸司宿直、諸國朝集u、若右辨官不v在り、則併行v之」とある。葛城王は續紀にょれば、「和銅三年春正月壬子朔戊午、授2無位葛木王從五位下1、養老元年正月乙已從五位上、五年正月壬子、正五位下、七年正月丙子、正五位上、神龜二年二月壬子、從四位下、天平元年三月甲午、正四位下、九月乙卯、爲2左大辨1、二年九月丙午、任2催造司監1、本官如v故、三年八月丁亥、詔、依2諸司(ノ)擧1、擢2左大辨正四位下葛城王等六人1、並爲2參議1、四年正月乙巳朔甲子、從三位、八年十一月壬辰詔曰、一依v表賜2橘宿禰1、九年九月己亥、從三位橘宿禰諸兄爲2大納言1、十年正月庚午朔壬午、授2正三位1、拜2右大臣1、十一年正月甲午朔丙午、從二位、十二年十一月甲辰、正二位、十五年五月、癸卯、從一位左大臣、十八年四月丙戍、兼太宰帥、天平勝寶元年四月甲午朔丁末、正一位、二年正月庚寅明乙已、賜2朝臣姓1同八歳二月丙戍、致仕、天平寶字元年正月庚戍朔乙卯、前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨、大臣(ハ)贈從二阻栗隈王之孫、從四位下美努王之子也」とある。右の文中の天平八年十一月壬辰に橘宿禰を賜つた記載と、ここの左註とが一致してゐる。當時の最上の權力を有つてゐた人として、萬葉集勅撰の命を受けたとといふ傳によつて、又井手の玉川のほとりに別業を營んで、井手の左大臣と呼ばれたことなどによつて、世に名高い人である。賜2姓橘氏1とあるのは、姓と氏とを混同してゐるやうでをかしいが、この頃からカバネたる姓の字を、氏の意にも用ゐたのである。但し目録には橘姓と記してある。
 
1009 橘は 實さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の樹
 
橘花者《タチバナハ》 實左倍花左倍《ミサヘハナサヘ》 其葉左倍《ソノハサヘ》 枝爾霜雖降《エダニシモフレド》 益常葉之樹《イヤトコハノキ》
 
橘ハ實マデモ花マデモ、ソノ葉マデモ、冬ニナツテ〔五字傍線〕枝ニ霜ガ降ツテモ、何時デモカハラナイ、緑色ヲシテヰル(231)木ダ。今オマヘニ橘トイフ姓ヲ遣ハスガ、コノ木ノヤウニ何時マデモ變ラナイデ、榮エルデアラウ〔今ヲ〜傍線〕。
 
○枝爾霜雖降《エダニシモフレド》――古義にはエニシモフレドと訓んでゐる。併し枝は枝刺有如《エダサセルゴト》(二一三)・枝將有八方《エダナラメヤモ》(四〇〇)・枝毛十尾二《エダモトヲヲニ》(一五九五)など、エダと訓むべきものも多い。ここはエダと訓んで置く。○益常葉之樹《イヤトコハノキ》――舊訓マシトキハとあるのは拙いが、常葉を攷證にトキハと訓むべしといつてゐるのもどうであらう。續紀に「養老五年十月庚寅太上天皇又詔曰中略其地者皆殖2常葉之樹1云々」とあつて、この常葉は常磐・常盤と記すトキハとは違つてゐる。卷十四に宇良賀禮勢那奈登許波爾毛我母《ウラガレセナナトコハニモガモ》(三四三六)とあるのも、東歌ながら證とすることが出來る。
〔評〕 橘が花も實も葉も共に、勝れたことを褒めて、この木のやうに橘を氏とする汝の家も榮え行け。如何なる場合にも凋落しないで隆盛であらうと祝福し給うたので、まことにありがたいお歌である。卷十八の大伴家持の桶歌一首竝短歌(四一一一・四一一二)は、この御製を引延ばしたやうな作である。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右、冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐爲王等、辭(シテ)2皇族之高名(ヲ)1、賜2外家之橘姓(ヲ)1、已(ニ)訖(リヌ)。於v時太上天皇、皇后、共(ニ)在(リ)2于皇后宮1、以(テ)爲(シ)2肆宴(ヲ)1、而即(チ)御2製(シ)賀(グ)v橘(ヲ)之歌(ヲ)1、并(ニ)賜(ヒヌ)2御酒(ヲ)宿禰等(ニ)1也。或云(フ)此(ノ)歌一首(ハ)太上天皇御歌(ナリ)、但(シ)天皇皇后(ノ)御歌各有(リト)2一首1、其(ノ)歌遺落(シテ)、未v得2探(リ)求(ムルコトヲ)1焉。今※[手偏+僉](スルニ)2案内(ヲ)1、八年十一月九日、葛城王等願(ヒテ)2橘宿禰之姓(ヲ)1上(ル)v表(ヲ)、以(テ)2十七日(ヲ)1依(リテ)2表(ノ)乞(ニ)1賜(フ)2橘宿禰(ヲ)1
 
冬十一月九日は續紀に十二月丙戍とあり、丙子が朔であるから丙戍は十一日に當るわけである。傳の相違であらう。橘外家之橘姓とは葛城王の母、縣犬養橘宿禰東人の女三千代のことで、三千代は美努王に嫁して葛城王と佐爲王とを生んだ。元明天皇の和銅元年三千代が大嘗祭の宴に供奉してゐた時、酒杯に橘が浮んだので橘宿禰の姓を賜はつた。葛城王等は臣下に列して母の姓を名乘らむことを乞うて、許されたのであ(232)る。この時の上表が續紀に載せてある。肆宴は集中に多い文字で、トヨノアカリと訓んである。肆は陳ぶるとも、ほしいままとも用ゐる字であるが、肆筵といふ熟字もあつて、恐らく陳べ列ねる意であらう。この熟字は書紀に見えるが漢籍にないのは注意すべき事である。なほ卷五の梅花歌の序「申2宴會1」の申も、肆と同意と思はれる。太上天皇は元正天皇、天皇は聖武天皇、皇后は光明皇后。案内とは記録の文書。
 
橘宿禰奈良麻呂應(フル)v詔(ニ)歌一首
 
奈良麻呂は諸兄の長男である。續紀によれば、「天平十二年五月乙未、天皇右大臣相樂別業宴飲※[酉+斗]暢、授2大臣男、無位奈良麻呂從五位1、」とあるからこの時は未だ無位の弱冠であつたのである。その後「十一月授2從五位上1、十三年七月辛亥、爲2大學頭1十五年五月癸卯、授2正五位上1、十七年九月戊午、爲2攝津大夫1、十八年三月壬戍爲2民部大輔1、十九年正月丙申授2從四位下1、天平勝寶元年四月甲午朔、授2從四位上1、閏五月甲午朔爲2侍從1、七月甲午、爲2參議1、四年十一月乙己、爲2但馬因幡按察使1、六年正月壬子、授2正四位下1、天平寶字元年六月壬辰爲2左大辨1」のやうに累進したが、この時、孝謙天皇藤原仲麻呂を寵して紫微内相とせられ、仲麻呂權を檀にしたので、奈良麻呂これを除かんとして、廢太子道祖王及び鹽燒王・安宿王・黄文王・小野東人・大伴古麻呂等と謀つて仲麿を殺さうとした。謀洩れて奈良麻呂以下捕へられ、或は獄に死し、或は流罪となつた。獨、奈良麻呂の斷罪卒去に關しては續紀に記載がないが、計畫の張本人たる彼は、固より誅に伏したのであらう。續日本後紀には∴、和十年八月辛未、詔曰、旡位橘朝臣奈良麻呂云々宜d寛2典式1賁c申幽墳u、可v贈2從三位1十四年十月丁酉、詔、贈大納言從三位橘朝臣奈良麻呂更贈2太政大臣正一位1崇2帝戚1也」とあるのは、仁明天皇の即位あらせられるや、御母檀林皇后は奈良麻呂の孫でおはしますので、特に官位を追贈して尊崇せられたのである。この歌は右の御製に對する奉答の歌である。
 
(233)1010 奧山の 眞木の葉凌ぎ 零る雪の 零りは益すとも 地に落ちめやも
 
奧山之《オクヤマノ》 眞木葉凌《マキノハシヌギ》 零雪乃《フルユキノ》 零者雖益《フリハマストモ》 地爾落目八方《ツチニオチメヤモ》
 
(奥山之眞木葉凌零雪乃)年ハ經ツテモ橘ハ〔二字傍線〕土ニ落チルコトハアリマセヌ。幾年經テモ橘ノ姓ハ、ナリサガルヤウナコトハアリマセヌ〔二幾年〜線〕。
 
○奧山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》――零《フ》ると言はむ爲の序。奧山の檜杉などの葉を、押し靡かせて降る雪のの意。舊本、眞を直に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。○零者雖益《フリハマストモ》――古く年經て行くともの意。○地爾落目八方《ツチニオチメヤモ》――橘氏の零落しないことを言つたのであるが、御製に對して橘の實によそへて、土には落ちないと申し上げたのである。
〔評〕 前の御製に對して諸兄や佐爲は如何なる奉答をなしたか分つてゐない。或はこの年少の奈良麻呂をして、一同に代つて詔に應ぜしめたものかも知れない。若冠の作とは思はれない程、高雅な格調である。
 
冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所《ウタマヒドコロ》之諸王臣子等、集(ヒテ)2葛井連廣成家(ニ)1宴歌二首
 
歌※[人偏+舞]所は和名抄に字多末比乃豆加左《ウタマヒノツカサ》とある。雅樂寮。治部省の被官で、文武雅典正※[人偏+舞]及び雜樂男女の樂人、音聲人の名帳、曲課を試使練する事、其の他節會・祭神・釋奠・饗宴・佛會等のことを掌る。文武天皇の大寶元年に定置せられ、聖武天皇の天平三年雅樂生員を改定し、唐樂生三十九人、百濟樂生二十六人、高麗樂生八人、新羅樂生四人、度羅樂生六十二人、諸縣舞生八人、筑紫舞生三十人となつたのである。諸王臣子等は、諸王臣の子で、この舞生をいふ。葛井連廣成はこの卷の九六二にも出てゐる人で、この頃の才人であつたやうである。九六二參照。
 
比來《コノゴロ》古※[人偏+舞]盛(ニ)興(リテ)、古歳漸(ク)晩(レヌ)、理宜(ク)d共(ニ)盡(シテ)2古情(ヲ)1、同(ジク)唱(フ)u2此(ノ)歌(ヲ)1、故(ニ)擬(ヘテ)2此(ノ)趣(ニ)1輙(チ)獻(ル)2古曲二節(ヲ)1、風流意氣之士、儻有(ラバ)2此集之中(ニ)1爭(テ)發(シ)v念(ヲ)、心心(ニ)和(セヨ)2古體(ニ)1、
 
(234)これは次の二首の歌の序である。舊本、盛與とあるは誤。元暦校本による。古歳は古き年冬十二月のことであるから、古歳漸晩とは今年も漸く晩れんとしてゐるの意。此歌は元暦校本に古歌とあるのがよい。理宜以下の意は、道理からいへば皆共に古風の情を盡して、古い歌を唱ふのがよい。故に此の趣になぞらへて古い曲の歌二首を奉る。風流意氣の士が、この集會中にあるならば、爭つて考を述べて、この古風の歌に和せよといふのである。この文章は葛井連廣成の書いたものである。
 
1011 わがやどの 梅咲きたりと 告げやらば 來ちふに似たり 散りぬともよし
 
我屋戸之《ワガヤドノ》 梅咲有跡《ウメサキタリト》 告遣者《ツゲヤラバ》 來云似有《コチフニニタリ》 散去十方吉《チリヌトモヨシ》
 
私ノ家ノ梅ノ花〔二字傍線〕ガ咲イタト人ノ所へ〔四字傍線〕告ゲテヤツタナラバ、ツマリ〔三字傍線〕見ニ來ヨトイフノト同ジヤウナモノダ。サウシタラソノ後デハ花ハ〔サウ〜傍線〕散ツテモカマハナイ。カウ言ツテヤレバ人ガ尋ネテ來ルダラウカラ〔カウ〜傍線〕。
 
〔評〕 古今集戀四に、「月夜よし夜よしと人に告げやらば來でふに似たり待たずしもあらず」とあるのは、これにならつたのであらう。梅と月との差異はあるが全く同型の歌である。四句目で切つて、散去十方吉《チリヌトモヨシ》と斷じたのは、友の訪問に對する確信をあらはし、待たずしもあらずは、なほ疑念が濃厚である。從つてこれは直截的で、線が太く、彼は一二句も五句も婉麗で、縹渺たる味がある。それがやがて萬葉と古今との相異でもある。
 
1012 春さらば ををりにををり 鴬の 鳴く吾がしまぞ 止まず通はせ
 
春去者《ハルサラバ》 乎呼理爾乎呼里《ヲヲリニヲヲリ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 鳴吾島曾《ナクワガシマゾ》 不息通爲《ヤマズカヨハセ》
 
今ハ冬ダガ〔五字傍線〕春ガクレバ、花ガ〔二字傍線〕枝モ曲リニ曲ツテ咲キ亂レ〔四字傍線〕、鶯ガソノ枝ニ來テ〔六字傍線〕鳴ク私ノ庭デアルゾヨ。今カラハ〔四字傍線〕絶エズ遊ビニ〔三字傍線〕オイデナサイ。
 
○春去者《ハルサラバ》――諸本多くはハルサレバとあるが、ハルサラバとよむべきであらう。○乎呼理爾乎呼里《ヲヲリニヲヲリ》――卷三に花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》(四七五)とあると同じで、枝もたわわに花咲くこと。○鳴吾島曾《ナクワガシマゾ》――島《シマ》は庭園。山齋とも記してある。四五二參照。
(235)〔評] これも知己を待つ歌である。上品な貴人らしいところが見えてゐる。卷一長皇子の御歌に秋去者今毛見如妻戀爾鹿將鳴山曾高野原之宇倍《アキサラバイマモミルゴトツマゴヒニカナカムヤマゾタカヌハラノウヘ》(八四)とあるのと、多少似通つた點もある。なほこの二句を、花の咲くことと見ないで、鶯が木傳ひするので、枝が撓む意とする説もあるが、鶯のやうな小鳥にしては、あまり誇大な言ひ方である。恐らくさうではあるまい。
 
九年丁丑春正月、橘少卿并(ニ)諸大夫等、集(ヒテ)2彈正|尹《カミ》門部王(ノ)家(ニ)1宴(ノ)歌二首
 
橘少卿は橘宿禰佐爲。諸兄卿の弟であるから、少卿と言つたのであらう。彈正尹門部王は、左註にある如く、後に大原眞人と姓を賜はつた人であるが、この人の履歴中に彈正尹になつたことが、續紀に見えないのは脱ちたものか。三一〇參雌。彈正尹は彈正臺の長官。彈正臺は、風俗を肅清し、内外の非違を糺彈する役所である。
 
1013 あらかじめ 君來まさむと 知らませば 門にやどにも 珠しかましを
 
豫《アラカジメ》 公來座武跡《キミキマサムト》 知麻世婆《シラマセバ》 門爾屋戸爾毛《カドニヤドニモ》 珠敷盆乎《タマシカマシヲ》
 
前以テ、アナタガオイデニナルト知ツタナラバ、門ニモ家ニモ玉ヲ敷キ並べマセウノニ。折角ノオイデニ何ノオアイソモナクテ恐縮デス〔折角〜傍線〕。
 
○豫《アラカジメ》――舊訓カネテヨリとあるのはよくない。四六八參照。
 
〔評〕 人を迎へるのに珠敷益乎《タマシカマシヲ》といつた例は、八重六倉覆庭爾珠布益乎《ヤヘムグラオホヘルニハニタマシカマシヲ》(二八二四)・保里江爾波多麻之可麻之乎《ホリエニハタマシカマシヲ》(四〇五六)・座牟等知等者玉之可麻思乎《マサムトシラバタマシカマシヲ》(四二七〇)などがあつて、類型的思想ではあるが、感じのよい詞である。
 
右一首主人門部王【後賜2姓大原眞人氏1也】
 
この註はない本もある。
 
1014 をとつひも 昨日も今日も 見つれども 明日さへ見まく 欲しき君かも
 
(236)前日毛《ヲトツヒモ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 雖見《ミツレドモ》 明日左倍見卷《アスサヘミマク》 欲寸君香聞《ホシキキミカモ》
 
一昨日モ、昨日モ今日モ、オ目ニカカリマシタガ、マダ見飽キナイデ〔八字傍線〕、明日モ亦アナタニ、御目ニカカリタウ存ジマスヨ。
 
○前日毛《ヲトツヒモ》――前日はヲトツヒである。サキツヒと舊訓にはあるが、乎登都日毛今日毛《ヲトツヒモケフモ》(三九二四)乎等都日毛伎能敷母安里追《ヲトツヒモキノフモアリツ》(四〇一一)などによれば、ヲトツヒである。
〔評〕 まことに平易な、ありのままの歌と評するより外はない。
 
右一首橘宿禰文成 即少卿之子也
 
橘宿禰文成は註にあるやうに、橘佐爲の子であらう。併し系圖には見えてゐない。續紀に「天平勝寶三年正月辛亥、賜2文成王甘南備眞人姓1」とあるのは、この人のことではあるまい。文成は略解にフミナリと訓み、古義にはアヤナリとある。集中、文をフミとよんだ例は無いが、文爾乏寸《アヤニトモシキ》(一六二)・文爾恐《アヤニカシコキ》(三二三四)などアヤに用ゐた例は多いから、恐らくアヤナリであらう。
 
榎井王後(ニ)追和(セル)歌一首
 
榎井王は續紀に「天平寶字六年正月庚辰朔癸未、授2旡位榎井王從四位下1、六月戊辰、散位從四位下榎井王卒」とある。元暦校本に小字で「志貴親王之子也」とあるのは古註であらう。然らば光仁天皇の御弟でいらせられる。
 
1015 玉敷きて 待たましよりは たけそかに 來たるこよひし 樂しく念ほゆ
 
玉敷而《タマシキテ》 待益欲利者《マタマシヨリハ》 多鷄蘇香仁《タケソカニ》 來有今夜四《キタルコヨヒシ》 樂所念《タノシクオモホユ》
 
私ノ來ルノガ前カラ分ツテヰテ、アナ夕ガ〔私ノ〜傍線〕玉ヲ敷イテ待ツテ居ラレルヨリモ、アナタガ御存ジナイ所ニ〔アナ〜傍線〕、不意(237)ニ遊ビニ來タ今宵ノ方ガ、私ニハ〔三字傍線〕樂シク思ハレル。
 
○待益欲利者《マタマシヨリハ》――古義に益を衣四の誤として、マタエシヨリハと訓んでゐるが、このままで通ずるから、改むべきでない。○多鷄蘇香仁《タケソカニ》――他に用例のない語で、解し難いが、ここの用法によると、不意に・突然になどの意である。攷證に「タマサカニとふ詞にかよひて聞ゆ」とあるのは、稍々遠い説であるが、代匠記に「タケはタケキにて、ソカはオロソカ、オゴソカなどいふにも添へたる詞にや」とあるのも、略解に「たけは集中、たかたかといへる詞に同じ。そかはおろそかの意なるを合せいふ詞也」とあるのもどうであらう。荒木田久老の信濃浸録には、おしかけて凌ぎ來れる意としてゐるが、これも從ひ難い説である。
〔評〕 これは右の門部王の歌に和へたやうに詠んだもので、即ち橘少卿らの心になつて作つたのである。思ふ通りありのままに述べたといふに過ぎない。
 
春二月、諸大夫等、集(ヒテ)2左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣(ノ)家(ニ)1宴(セル)歌一首
 
巨勢宿奈麿は、續紀に「神龜五年五月丙辰、正六位下巨勢朝臣少麻呂等授2外從五位下1。天平元年二月壬申少納言。三月甲午從五位下。五年三月辛亥從五位上」などとあるのみで、その他の記事がない。この歌によつて天平九年の頃左少辨であつたことが分る。
 
1016 海原の 遠き渡を みやび男の 遊ぶを見むと なづさひぞ來し
 
海原之《ウナバラノ》 遠渡乎《トホキワタリヲ》 遊士之《ミヤビヲノ》 遊乎將見登《アソブヲミムト》 莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》
 
海ノ上ノ遠イ海路ヲ、風流男タチガ、遊ブノヲ見ヨウト思ツテ、私ハ遙々蓬莱カラ〔八字傍線〕苦シンデヤツテ來マシタ。
 
○遊士之《ミヤビヲノ》――遊士の二字はミヤビヲとよむがよい。一二六參照。○莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》――ナヅサフは水に漬ること。轉じて舟行に困難することにいふ。略解に莫は魚の誤かといつてゐる。魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》(五〇九)とあるによればさうもいへるが、この儘でよいのであらう。
(238)〔評〕 蓬莱の仙女になつて作つた歌で、作者はわからないが、恐らく宿奈麻呂の家の女房などが作つたのであらう。當時の神仙思想の盛であつたことを語る好資料である。集合の風流男どもが、如何にこの歌に興を湧かしたかが想像せられて面白い。
 
右(ノ)一首(ハ)書(キテ)2白紙(ニ)1懸2著(ケタリ)屋壁(ニ)1也、題(シテ)云(ハク)蓬莱仙媛所作嚢※[草冠/縵]、爲(ニス)2風流秀才之士(ノ)1矣、斯(レ)凡客(ノ)不(ム)v所(ナラ)2望見《ミル》1哉
 
莱の字、舊本菜とあるのは誤。元暦校本による。舊本、所の下に作の字が無いのは脱ちたのであらう。古葉略類聚鈔によつて補つた。嚢※[草冠/縵]の二字は明らかでない。契沖は嚢は賚の誤かと疑つてゐる。賚ふ所の※[草冠/縵]と訓んだのである。西本願寺本には、所嚢※[草冠/縵]の三字をムスブトコロノカヅラと訓んでゐるのは古訓であらうが、嚢の字は動詞となる時は、ツツム、ヲサムなどの意になるから、右の訓も強ちに否定出來ない。併し※[草冠/縵]はここには不要の文字らしく思はれる。略解には春海云として、「所の下一本作字あり。されば嚢は焉の誤。※[草冠/縵]は謾の誤にて、仙媛所v作焉。謾爲2風流秀才之士1矣なるべし」とある。これによれば容易に解決がつくが、なほ原形を尊重して、仙媛作るところの嚢※[草冠/縵]と見て置かう。右の歌と共に、※[草冠/縵]やうの物を壁に懸けたのであらう。
 
夏四月、大伴坂上邸女、奉(レル)v拜(ミ)2賀茂神社(ヲ)1之時、便(チ)超(エ)2相坂山(ヲ)1望(ミ)2見(テ)近江(ノ)海(ヲ)1而|晩頭《ユフベニ》還(リ)來(テ)作(レル)歌一首
 
賀茂神社は延喜式神名帳に「山城國愛宕郡賀茂別雷神社、賀茂御祖神社、二座」とあつて、今の京都の上賀茂下賀茂の兩杜である。便の字、舊本使に作るは誤。元暦校本による。相坂山は音羽・比叡山の間にある山で、近江と山城との界をなしてゐる。大化二年の詔に「北自近江|狹々波《ササナミ》合坂(239)山以來、爲畿内」とある。今、近江滋賀郡に屬してゐる。この山から湖水がよく見えることは卷十三、相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花浪立渡《アフサカヲウチイデテミレバアフミノミシラユフバナニナミタチワタル》(三二三八)とある通りである。寫眞は中島清氏撮影
 
1017 木綿疊 手向の山を 今日超えて いづれの野邊に 庵せむわれ
 
木綿疊《ユフダタミ》 手向乃山乎《タムケノヤマヲ》 今日超而《ケフコエテ》 何野邊爾《イヅレノヌベニ》 廬將爲吾等《イホリセムワレ》
 
(木綿疊)手向山ヲ今日越エテ、私ハ伺處ノ野ニ庵ヲ作ツテ、今夜ハ旅宿〔七字傍線〕ヲシヨウヨ。アア心細イ〔五字傍線〕。
 
○木綿疊《ユフダタミ》――枕詞。手向とつづく。幣として神に捧げる木綿は、疊んで手向けるからである。○手向乃山乎《タムケノヤマヲ》――相坂山の峠を言つてゐる。古昔、旅人は山を越える時に、神に幣を手向けたので、その山を手向山といつたのである。後世の峠《タウゲ》といふ詞は、即ち手向《タムケ》の轉である。卷十三にも、近江道乃相坂山丹手向爲吾越往者《アフミヂノアフサカヤマニタムケシテワガコエユケバ》(三二四〇)とある。○今日越而《ケフコエテ》――神田本・西本願寺本などに、越を超に作つてゐる。○廬將爲吾等《イホリセムワレ》――舊本、吾を子に作つてゐるのでも意は聞えるが、元暦校本に從つて改めた。等の字は意を以て添へたのであらう。女性の歌としては、子等よりも吾等《ワレ》の方が穩やかであらう。
〔評〕 題詞によると賀茂神社參拜の序に、相坂山を超えて近江の湖水を眺め、更に立ち戻つて來て夕方詠んだ(240)ものである。順路を想像すると、卷十三に、空見津倭國青丹吉寧山越而山代之管木之原血速舊于遲乃渡瀧屋之阿後尼之原尾千歳爾闕事無萬歳爾 有通將得山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠《ソラミツヤマトノクニアヲニヨシナラヤマコエテヤマシロノツツキノハラチハヤフルウヂノワタリタキノヤノアゴネノハラヲチトセニカクルコトナクヨロヅヨニアリカヨハムトヤマシナノイハタノモリノスメガミニヌサトリムケテワレハコエユクアフサカヤマヲ》(三二三六)とあるから、郎女も、宇治方面から山科を通つて相坂山を越えたので、山上から湖水の眺望を恣にして、更に賀茂方面へ赴くべく、山科方面へ逆戻りし、日没となつてこの歌を口吟したものと見える。旅行の困難と淋しさとが、想像せられてあはれである。卷十五の遣新羅使一行の一人が、出發に際して、大伴能美津爾布奈能里許藝出而者伊都禮乃思麻爾伊保里世武和禮《オホトモノミツニフナノリコギデテハイヅレノシマニイホリセムワレ》(三五九三)と詠んだのに、多少の類似點がある。これは天平八年六月のことであるから、この郎女のよりも、約十ケ月以前の作である。
 
十年戊寅、元興寺之僧自(ラ)嘆(ク)歌一首
 
元興寺は奈良の都の新元興寺であらう。九九二參照。
 
1018 白珠は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば 知らずともよし
 
白珠者《シラタマハ》  人爾不所知《ヒトニシラエズ》 不知友縱《シラズトモヨシ》 雖不知《シラズトモ》 吾之知有者《ワレシシレラバ》 不知友任意《シラズトモヨシ》
 
海中ノ〔三字傍線〕眞珠ノヤウナ立派ナコノ私〔ノヤ〜傍線〕ハ、ソノ價値ノアル存在〔ソノ〜傍線〕ヲ人ニ知ラレナイ。人ハ知ラナクテモカマハナイ。人ハ知ラナクテモ、私ガ自分ノ價値アル存在ヲ〔自分〜傍線〕知ツテサヘヰレバ、人ハ〔二字傍線〕知ラナクテモカマハナイ。
 
○白珠者《シラタマハ》――白珠は鰒白玉で、即ち眞珠をいふ。
〔評〕 同音を繰返して、面白く作りなした旋頭歌である。卷一の淑人乃良跡吉見而好常言師芳野吉見與良人四來三《ヨキヒトノヨシトヨクミテヨシトイヒシヨシヌヨクミヨヨキヒトヨクミツ》(一七)・卷四の將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムトイフモコヌトキアルヲコジトイフヲコムトハマタジコジトイフモノヲ》(五二七)などと共に、集中異彩を放つた作であるが、これはその語調の快さに於て出色の作である。自らを眞珠に比した僧は、げに才人であつた。
 
右一首(ハ)或云(フ)、元興寺之僧、獨覺(メテ)多智(ナレドモ)未v有1顯聞(スルトコロ)1衆諸押侮(ル)、因(リテ)v此(ニ)僧作(リテ)2此(ノ)歌(ヲ)1、自(ラ)(241)嘆(ク)2身(ノ)才(ヲ)1也、
 
押侮は、あなどる意。代匠記に押を狎の誤とし、攷證には押は狎に通ずるといつてゐる。嘆を賛に作る異本もある。
 
石上乙麿卿(ノ)配(セラレシ)2土左國(ニ)1之時(ノ)歌三首并短歌
 
石上乙麻呂は左大臣石上麻呂の第三子である。續紀によれば「神龜元年二月王子授2正六位下石上朝臣乙麻呂從五位下1」とあるを最初として、「十一月己卯、大嘗云々、石上乙麻呂云々等、率2内物部1立2神楯1云々、天平四年正月甲子、從五位上、九月乙巳、爲2丹波守1、八年正月辛丑、正五位下、九年九月己亥、正五位上、十年正月壬午、從四位下、乙未、爲2左大辨1、」とあるが、次いで彼の身に大變な事件が降つて湧いた。それは即ちここの歌に詠まれてゐることで、續紀には「十一年三月庚申、石上朝臣乙麻呂坐v※[(女/女)+干]2久米連若賣1配2流土佐國1若賣配2下總國1焉と記されてゐる。この集に、十年の條に入れてあるのはどうしたのであらう。その孰れが是であるか今からは分らない。「十三年九月乙卯大赦。十五年五月癸卯、從四位下石上朝臣乙麻呂授2從四位上1、十六年九月甲戍、爲2西海道巡察使1、十八年三月己未、治部卿石上朝臣乙麻呂等云々、四月己酉、爲2常陸守1、癸卯、正四位下、九月己巳爲2右大辨1、二十二年巳未、從三位、勝寶元年四月甲午、勅云へ、從三位中務卿云々、七月甲午、爲2中納言1、二年九月朔、中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨、左大臣贈從一位麻呂之子也」とあるから、後廟堂に復活して重きをなした人である。懷風藻には「石上中納言者、左大臣第三子也、地望清華、人才頴秀、雍容閑雅、甚善2風儀1、雖v勗2志典墳1、亦頗愛2篇翰1、嘗有2朝譴1、飄2寓南荒1、臨v淵吟v澤、寫2心文藻1、遂有2銜悲藻兩卷1、今傳2於世1、天平年中、詔簡2入唐使1、元來此擧、難v得2其人1、時選2朝堂1、無v出2公右1、遂拜2大使1、衆僉悦服、爲2時所1v推、皆此類也、然遂不v往、其後授2從三位中納言1、自v登2臺位1、風采日新、芳(242)猷雖v速、遺列蕩然、」とあつて、彼が當代の才人として、尊敬せられたこと、現存の最古の漢詩集懷風藻以前に、銜悲藻と稱する彼の集があつたことが明らかに記されてゐる。この詩集が亡佚したのは殘念である。なほこの人に關する記事は、二八七・三六八・三七四にも見えてゐるから、參照せられたい。
 
1019 石上 布留の尊は 手弱女の 惑によりて 馬じもの 繩取り附け ししじもの 弓矢かくみて おほきみの 命恐み 天離る 夷べにまかる 古衣 又打の山ゆ 還り來ぬかも
 
石上《イソノカミ》 振乃尊者《フルノミコトハ》 弱女乃《タワヤメノ》 惑爾縁而《マドヒニヨリテ》 馬自物《ウマジモノ》 繩取附《ナハトリツケ》 肉自物《シシジモノ》 弓笶圍而《ユミヤカクミテ》 王《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 天離《アマサカル》 夷部爾退《ヒナベニマカル》 古衣《フルゴロモ》 又打山從《マツチノヤマユ》 還來奴香聞《カヘリコヌカモ》
 
石上ノ古ノ尊乙麻呂ハ〔三字傍線〕久米ノ連若女トイフ〔九字傍線〕女ニ迷ツテ、不義ヲシ〔五字傍線〕タノデ、(馬自物)繩デ轉ラレ、(肉自物)弓矢デ圍マレテ、護ラレテ〔四字傍線〕、天子樣ノ勅ヲ畏レ慎ンデ、(天離)田舍ノ方ヘ流サレテ〔四字傍線〕行ク。配所ノ土佐マデ行クノハヒドトイカラ、紀州ノ〔配所〜傍線〕(古衣)眞土山カラ還ツテ來ナサラヌカナア。
 
○石上振乃尊者《イソノカミフルノミコトハ》――石上は布留とつづく枕詞であるから、ここは石上氏に用ゐて、乙麻呂を振乃尊《フルノミコト》といつたのである。尊は尊稱で、樣といふに同じ。○弱女乃《タワヤメノ》――弱女《タワヤメ》は、たをやかな女。右に掲げた續紀の文に見えた久米連|若賣《ワクメ》のことである。この女と姦したといふので、土佐へ配流せられたのは、甚だしい嚴罰である。續紀に「天平十二年六月庚午勅曰云々、宜v大2赦天下1其流人久米連若女等五人召令v入v京云々、石上乙麻呂不v在2赦限1」と見え、乙麻呂と同時に下總に流された若女は、翌年の大赦に會うてゐるが、乙麻呂は赦されないで、十三年九月に漸く京都新遷の大赦によつて歸京してゐる。久米連若女は「寶龜十一年六月散位從四位下久米連若女卒、贈右大臣從二位藤原朝臣百川之母也」とあるから、藤原宇合の妻で、百川を生んだのである、百川は續紀によれば、「寶龜十年七月薨時四十八」とあるから、天平四年の生れで、彼が八歳の時、母の若女が乙麻呂と通じたのである。乙麻呂は、その頃時めいてゐた宇合の妻と姦したのをかどに取られて、かかる嚴罰に處せられたものか。○馬自物《ウマジモノ》――枕詞。繩取附とつづく意は明らかである。○肉自物《シシジモノ》――枕詞。鹿の如きものの意。弓(243)笶圍而《ユミヤカクミテ》とつづくのは、狩の時、弓矢に取圍れるに譬へたのであらう。○古衣《フルゴロモ》――枕詞。又打山とつづくのは、古い衣を洗ひ張りして、砧などにかけて打つので、又打《マタウチ》とつづくのである。○又打山從《マツチノヤマユ》――又打山は大和から紀伊へ越える山。卷一には亦打山(五五)と書いてある。○還來奴香聞《カヘリコヌカモ》――歸つて來ないかよ。歸つて來なさいよの意。
〔評〕石上乙麻呂の配流に同情した人の詠である。馬自物繩取附肉自物弓笶圍而《ウマジモノナハトリツケシシジモノユミヤカクミテ》は誇張ではあらうが、流人のいたましい姿を形容し得てゐる。
 
1020・1021 おほきみの 命恐み さし並ぶ 國に出でますや 吾がせの君を 懸けまくも ゆゆしかしこし 住のえの あら人神 船の舳に うしはき賜ひ 附き給はむ 島の埼埼 依り賜はむ 磯の埼埼 荒き波 風に遇はせず つつみなく 疾あらせず すむやけく 還し賜はね 本の國べに
 
王《オホキミノ》 命恐見《ミコトカシコミ》 刺並《サシナラブ》 國爾出座耶《クニニイデマスヤ》 吾背乃公矣《ワガセノキミヲ》 繋卷裳《カケマクモ》 湯湯石恐石《ユユシカシコシ》 住吉乃《スミノエノ》 荒人神《アラヒトガミ》 船舳爾《フナノヘニ》 牛吐賜《ウシハキタマヒ》 付賜將《ツキタマハム》 島之埼前《シマノサキザキ》 依賜將《ヨリタマハム》 礒乃埼前《イソノサキザキ》 荒浪《アラキナミ》 風爾不令遇《カゼニアハセズ》 草菅見《ツツミナク》 身疾不有《ヤマヒアラセズ》 急《スムヤケク》 令變賜根《カヘシタマハネ》 本國部爾《モトノクニベニ》
 
天子樣ノ勅ヲ畏ンデ、コノ紀伊國ト並ンデヰル土佐ノ〔三字傍線〕國ニ、流サレテ〔四字傍線〕出テ行カレル吾ガ乙麻呂樣ヲ、口ニ出シテ言フノモ忌々シク畏多イコトデアル、人トシテアラハレナサル住吉ノ神樣ガ船ノ舳ニ珍座遊バシテ舟ノ〔二字傍線〕オ着キニナル島ノ岬々、寄リナサル磯ノ岬々ニ、荒イ浪ヤ風ニモ逢ハセナイデ、無事ニ病モナク、早速、本國ノ方ニ御還シ下サイマセ。
 
○刺並《サシナラブ》――舊本、この下に之の字があつて、サシナミノと訓んである。併し元暦校本・神田本などに之の字はない。卷九に指竝隣之君者《サシナラブトナリノキミハ》(一七三八)とあるのも、サシナミノとよんであるが、これも之の字がないから、サシナラブとよむがよい。これは紀伊から土佐へ向ふ時の歌と思はれるから、このサシナラブ國は、紀伊と並んでゐ(244)る土佐のことである。サシナラブは立ち並ぶに同じ。○吾背乃公矣《ワガセノキミヲ》――背《セ》は男を親しんでいふので、男性の語とも解せられないことはないが、やはり女性の言葉であらう。古くはこの句までを前の長歌の反歌と見たが、略解に「宣長云、或人の説に、此、王命恐云々は次なる長歌の和也。さて出座の下文字脱たり。國爾出座○○○《ハシキ》耶○《シ》吾背乃君矣繋卷裳云々とつづく也云々」と述べてから、これに從ふ説が多い。脱字説は遽かに賛同しがたいから、この儘として、この五句が次に續いて、一首の長歌であることは間違がない。○繋卷裳《カケマクモ》――舊本、繁とあるは誤、元暦校本に繋になつてゐるのがよい。〇住吉乃荒人神《スミノエノアラヒトカミ》――住吉の神は上筒男・中筒男・下筒男の三柱の神で、この神が海路を守護し給ふことは、書紀の神功皇后の卷に出てゐる。荒人神《アラヒトカミ》は現人神で、人として姿を現はし給へる神。住吉の神が現形し給へることは、攝津風土記に「昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出而巡2行天下1云々」とある如くである。○牛吐賜《ウシハキタマヒ》――領し給ふこと。卷五に宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》(八九四)とある。○草菅見《ツツミナク》――菅は管の誤で、元暦校本にはさうなつてゐる。この句の意義が明瞭でない。ツツミは慎しみの轉で、恙と同じであるが、クサは何の意とも分らない。次の句にヤマヒを身疾と記したによると、これは瘡《クサ》即ち外疾かとも考へられないことはない。和名抄に「※[皮+干]久路久佐」とあるから、クサも古語であらうが、本集では倉上之瘡《クラノヘノカサ》(三八三八)のやうにカサとのみ訓んである。宣長が玉勝間にこの句を解いて、莫管見《ツツミナク》の誤としたが穩やかであらう。○急《スムヤケク》――舊訓スミヤカニとあるのでもよいが、卷十五に須牟也氣久波也可反里萬世《スムヤケクハヤカヘリマセ》(三七四八)とあるによつて、スムヤケクとよむのがよい。○本國部爾《モトノクニベニ》――モトツクニベニと訓む説はよくない。卷十九に毛等能國家爾《モトノクニベニ》(四二四五)とある。この國家の二字をミカドと訓む説もあるが、いづれにしてもモトノと訓むべきである。この長歌は右の長歌の模倣と思はれるから、なるべく彼に傚つて訓まねばならない。
〔評〕 この歌は古く、冐頭の五句を短歌として、前の長歌の反歌と見られてゐた。國歌大觀にも、それを一首として一〇二〇の番號を附し、以下を一〇二一としてゐる。それは國爾出座耶吾背乃公矣《クニニイデマスヤワガセノキミヲ》と七七になつてゐるので、誤まられたものである。又この歌は右にも述べたやうに、卷十九の天平五年贈2入唐使1歌一首竝短歌(四二四五)と著しく類似したもので、それを摸傚したことは否定し難い。面白い作ではあるが、それが大きい缺點であ(245)る。また古義は、この次に「右二首石上卿妻作」とあるべきが脱ちたのかと疑つてゐるが、女性の歌とは認めてよいとしても、乙麻呂の妻とは斷定し難い。なほ乙麻呂の自作としては、この摸傚が、才人たる彼の名を傷つけるやうに思ふ。
 
1022 父ぎみに 我はまな子ぞ 母刀自に 我はまな兒ぞ 參のぼる 八十氏人の 手向する かしこの坂に 幣まつり 我はぞ追へる 遠き土佐道を
 
父公爾《チチギミニ》 吾者眞名子叙《ワレハマナゴゾ》 妣刀自爾《ハハトジニ》 吾者愛兒叙《ワレハマナゴゾ》 參昇《マヰノボル》 八十氏人乃《ヤソウヂビトノ》 手向爲《タムケスル》 恐乃坂爾《カシコノサカニ》 幣奉《ヌサマツリ》 吾者叙追《ワレハゾオヘル》 遠杵士左道矣《トホキトサヂヲ》
 
父上ニトツテ(私ハ愛スル子デアルゾヨ。母上ニトツテハ私ハ愛スル子デアルゾヨ。都ヘ〔二字傍線〕參上ル澤山ノ氏ノ人タチガ、道ノ神樣ニ〔五字傍線〕手向ヲスル恐ノ坂ニ上ツテ來テ、幣ヲ捧ゲテ祈リヲシテ、ソコカラ舟出ヲシテ〔祈リ〜傍線〕、私ハ遠イ土佐路ヘ向ツテ行キマス。
 
○吾者眞名子叙《ワレハマナゴゾ》――眞名子《マナゴ》は愛子。眞之子の意であらう。○妣刀自爾《ハハトジニ》――刀自は一家の主婦をいふ。戸主《トヌシ》の略かといはれてゐる。○吾者愛兒叙《ワレハマナゴゾ》――愛兒は考にメヅコと訓み、略解もそれによつてゐるが、名高浦之愛子地《ナタカノウラノマナゴチニ》(一三九二)・眞若之浦之愛子地《マワカノウラノマナゴチノ》(三一六八)などによれば、マナゴと訓むのが正しいことがわかる。○手向爲《クムケスル》――舊本、爲の下に等の字があるが、元暦校本に無いのがよい。タムケストでは、下への續きが穩かでない。○恐乃坂爾《カシコノサカニ》――天武紀に 「遣2紀臣大音1令v守2懼坂道1。於v是財等退2懼坂1而居2大音之營1云々」とあるのは、龍田山越の道であるから、眞土山を越えて土佐へ赴く途とは全く別で、ここに恐乃坂とあるのは、紀伊の内の地名であらねばならぬ。○吾者叙追《ワレハゾオヘル》――考に追は退の誤かとし、宣長も退《マカル》の誤と言つてゐる。これも一説として見るべきではあるが、追でも、土佐日記に「なはの湊をおふ」、「大みなとをおふ」などある類と見て、土佐へ向けて舟出することに解せられると思ふから、この儘にしたい。次の反歌も舟路の趣になつてゐる。
〔評〕 簡古な語法になつてゐる。妣刀自爾吾者愛兒叙《ハハトジニワレハマナゴゾ》の下、猶句有るべきが落ちたのだらうと略解に言つてゐる(246)のは、この簡潔さを物足らず思つたのであらうが、ここは脱落があるのではない。この時の乙麻呂の年齡は明らかでないが、八歳の子を持つてゐる若賣と通じてゐるから、もうかなりの年配であつたらう。その上、父の麻呂は養老元年に薨じて、その時から二十二三年になるのに、父公爾吾者眞名子敍《チチキミニワレハマナゴゾ》と歌つて、父母を戀しがつてゐるのは、かうして刑罰などに觸れた場合の人情の常であらうか。あはれさが籠つて聞える。
 
反歌一首
 
1023 大埼の 神の小濱は 狹けども 百船人も 過ぐといはなくに
 
大埼乃《オホサキノ》 神之小濱者《カミノヲバマハ》 雖小《セバケドモ》 百船純毛《モモフナビトモ》 過迹云莫國《スグトイハナクニ》
 
大埼ノ神ノ小濱ハ狹イ濱ダ〔二字傍線〕ケレドモ、景色ノヨイ所ダカラ〔九字傍線〕、澤山ノ舟人モ此處ヲ空シク〔六字傍線〕過ギテハ行カナイヨ。私ハ流罪ノ身デ見テ行クコトモ的來ナイノハ殘念ダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○大埼乃神之小濱者《オホサキノカミノヲバマハ》――大崎は紀伊國海草部の南部の海岸にある小港で、和歌の浦から南方四海里許を拒ててゐる。神の小濱は、この邊の總名を神《カム》といふやうに、大日本地名辭書に記してゐるが、それはこの歌によつて立てた説ではあるまいか。神之小濱は神之門《カミノト》(三八八八)・神之渡《カミノワタリ》(三三三五)などの如く、神のいます小濱などの意であらう。契沖が、ミワノヲバマとも訓むべきやうに言つてゐるのは、全く當らない。紀伊北部地圖參描。○雖小《セバケドモ》――舊訓セバケレドとあるよりも、セバケドモの方がよいやうだ。○百船純毛《モモフナビトモ》――純は一と同義の字であるから、ヒトに借りたのである。この下にも百船純乃《モモフナビトノ》(一〇六五)とある。○過迹云莫國《スグトイハナクニ》――直譯すれば、空しく通り過ぎ行くと人は言はぬに、であるが、云の意が輕く、必ずこの港に立ち寄つて行くものをの意である。
〔評〕 朝譴によつて配流の人の、心に任せない急ぎの旅を悲しむ情が、いたましく哀である。この前の長歌とこの反歌とには乙麻呂の作らしい眞情が見えてゐる。
 
(247)秋八月二十日、宴(セル)2右大臣橘家(ニ)1歌四首
 
右大臣橘家とあるのは、諸兄の家である。諸兄は續紀によれば、天平十年正月に右大臣になつてゐる。
 
1024 長門なる 沖つ借島 奧まへて 吾が念ふ君は 千歳にもがも
 
長門有《ナガトナル》 奧津借島《オキツカリシマ》 奥眞經而《オクマヘテ》我念君者《ワガモフキミハ》 千歳爾母我毛《チトセニモガモ》
 
(長門有奧津借嶋)心深ク熱心ニ〔三字傍線〕、私ガ思ツテヰル貴方ハ、千年モ長生キナサイマシ。
 
○長門有奧津借島《ナガトナルオキツカリシマ》――奧の音を繰返して、奧眞經而《オクマヘテ》につづく序詞。長門の國にある沖の借島の意。借島は所在明らかでない。攷證に「地圖をもて考ふるに、長府の奧にあたりて、かれ島といふあり。これなるべし」とあり、大日本地名辭書には、阿武郡の條に記して、「一書に、江崎の沖に加禮嶋あり。萬葉に見ゆる借島は此歟といひ、細川玄旨法師の筑紫紀行を引く」とあり、別に「鶴江台の邊は、歌名所の借島なりと傳ふ。或曰く松本河原より千本松の邊を、今|雁島《ガンシマ》と呼ぶは即借島を訛りたる也と」とも記してある。いづれを是とも定め難いが、奧津借島とあるので見ると、かなりの沖合にあるらしく、江崎の沖にあるといふ加禮島は、地圖に見えぬ程のもので疑はしく、長府の沖なる加禮島もどうかと思はれる。鶴江臺の邊とあるのは、島ではないから、これには當て嵌まらない。或は日本海中の孤島、見島の古名ではあるまいか。これならば奧津借島といふにふさはしい。しばらく疑を存して置く。○奥眞經而《オクマヘテ》――奧は奧爾念《オクニオモフ》(三六七)とある如く、心に深くの意である。眞經《マヘ》は奧の下につづいて、それを動詞にしてゐるので、深めなどの、めの延言と考へてよいのであらう。なほ卷十一に同一の歌を、奧間經而《オクマヘテ》(二七二八)とも、奧儲《オクマケテ》(二四三九)とも兩樣に出してあるから、この二句は同意と考へてよい。
〔評〕 自分の任地にある借島を、材料として序詞を作つたことほぎ歌である。併しこれを卷十一の淡海之海奧津島山奧間經而我念妹之言繁苦《アフミノミオキツシマヤマオクマヘテワガオモフイモガコトノシゲケク》(二七二八)に比べると、著しい類似が目について、作者が古歌を改作したことは否ま(248)れない。
 
右一首長門守|巨曾倍對馬《コソベノツシマノ》朝臣
 
巨曾倍對馬は續紀「天平四年八月丁酉、山陰道節度使判官巨曾部津島授2外從五位下1」とあるのみで、委しい傳は分らない。
 
1025 奧まへて 我を思へる 吾がせこは 千年五百歳 在りこせぬかも
 
奧眞經而《オクマヘテ》 吾乎念流《ワレヲオモヘル》 吾背子者《ワガセコハ》 千年五百歳《チトセイホトセ》 有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》
 
心深ク私ヲ思ツテヰル私ノ親シイ〔三字傍線〕アナタハ、千年モ五百年モ長生キナサイヨ。
 
○吾背子者《ワガセコハ》――背子《セコ》は巨曾倍對馬を親んで言つたもの、かやうに男性相互の間にも用ゐる。○有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》――コセは希望の詞。この句は有つてくれないかよ、即ち生き長らへよと希ふ意である。
〔評〕 贈られた歌の言葉を採つて、巧みに相手を祝した歌といふまでである。
 
右一首(ハ)右大臣(ノ)和(ヘ)歌
 
1026 百敷の 大宮人は 今日もかも 暇を無みと 里に出でざらむ
 
百磯城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 今日毛鴨《ケフモカモ》 暇無跡《イトマヲナミト》 里爾不出將有《サトニイデザラム》
 
(百磯城乃)大宮人ハ今日モ亦暇ガナイノデ、御所ノ外ヘハ出サイノデセウ。今日此處ヘオイデガナイノハオ忙シイノデセウ〔今日〜傍線〕。
 
○百磯城乃《モモシキノ》――枕詞。二九參照。○里爾不出將有《サトニイデザラム》――舊本、出を去に作つてゐるのでもわからないことはないが、類衆古集に從つて置いた。里はすべて宮中以外をいふ。ここは右大臣の家をさしたのであらう。
〔評〕 これは左註のやうに豐島采女の歌で、采女は宴に侍してゐたものと見える。第三句|今日毛鴨《ケフモカモ》に、この樂し(249)い宴席に列しない人を惜しんだ心が見えてゐる。
 
右一首(ハ)右大臣(ノ)傳(ヘ)云(フ)故|豐島《テシマノ》釆女(ノ)歌
 
右大臣の傳へ言はれるところでは、右の歌は死んだ豐島采女の作だといふのである。この書き方で、諸兄は少くともこの卷の編纂には、關係がないことが、證據立てられるやうに思ふ。豐島采女の傳は明らかでない。和名抄に攝津國豐嶋天之萬とも、武藏國豐嶋止志末ともあるが、多分攝津から出た采女であらう。
 
1027 橘の 本に道履み 八衢に 物をぞ思ふ 人に知らえず
 
橘《タチバナノ》 本爾道履《モトニミチフミ》 八衢爾《ヤチマタニ》 物乎曾念《モノヲゾオモフ》 人爾不所知《ヒトニシラエズ》
 
私ハ顔ニアラハサナイカラ〔私ハ〜傍線〕、人ニ知ラレナイデ、(橘本爾道履)イロイロト物思ヒヲシマスヨ。私ハ今、橘家ノ宴會ニ出マシテ、人知レズ思ヲ焦シテヰマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○橘本爾道履《タチバナノモトニミチフミ》――八衢の序詞。街路樹として、植ゑられた橘の下が、十字街になつてゐるのを、八衢に言ひかけたのである。八衢爾は、いろいろに、あれこれとの意。一二五參照。
〔評〕 これは卷二に載つてゐる三方沙彌の橘之蔭履路乃八衢爾物乎曾念妹爾不相而《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニモノヲゾオモフイモニアハズテ》(一二五)の歌を改作して、橘家の宴席にふさはしいやうにしたものであらう。人爾不所知《ヒトニシラエズ》として、自らこの席上に、戀しい人があるやうに言つたのが面白い。
 
右一首(ハ)右大辨高橋安麻呂卿語(リテ)云(フ)、故豐島釆女之作也(ト)、但(シ)或本(ニ)云(フ)、三方沙彌、戀(ヒテ)2妻苑臣(ヲ)1作(レル)歌也(ト)、然(ラバ)則豐島釆女、當時當所口2吟(メル)此歌(ヲ)1歟
 
高橋安麻呂は、續紀に、「養老二年正月庚子授2高橋朝臣安麻呂從五位下1、四年十月戊子、爲2宮内少輔1、神龜元年二月王子、授2從五位上1、四月丙申、爲2持節副將軍1、二年閏正月丁未、授2正五位下勲五等1、天平四年九月乙巳、爲2右中辨1、九年九月己亥、授2正五位上1、十年正月壬午、授2從四位下1、十二月丁卯、爲2太(250)宰大貳1」とあつて、その後が記してない。ここの記事を十年のこととすると、未だ右中辨であつた筈であり、假に續紀の記録に從つて、石上乙麻呂の配流を十一年とし、この記事を十一年とすると、安麻呂は太宰大貳であつたことになつて、頗る疑はしい。或は右大辨は右中辨の誤か。しかしそれでは卿とあるのが、あまりに尊稱に過ぎる。續紀の誤であらうか。
 
十一年己卯、天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野(ニ)1之時、示獣|泄《イデ》走《ハシル》2堵里《サト》之中(ニ)1、於v是適(マ)値(ヒテ)2勇士(ニ)1、生(ナガラ)而見(ル)v獲(ヘ)、即(チ)以(テ)2此(ノ)獣(ヲ)1獻2上(スルニ)御在所(ニ)1副(ヘタル)歌一首【獣名俗曰2牟射佐妣1】天皇は聖武天皇。泄は洩れ出ること、堵里の堵は都に通じて用ゐる。元暦校本神田本など、都に作つてゐる。
 
1028 ますらをの 高圓山に 迫めたれば 里に下りける ※[鼠+吾]鼠ぞこれ
 
大夫之《マスラヲノ》 高圓山爾《タカマドヤマニ》 迫有者《セメタレバ》 里爾下來流《サトニオリケル》 牟射佐妣曾此《ムササビゾコレ》
 
男ドモガ高圓山デ攻メ立テタノデ、里ニ下りテ來テ捕ヘラレ〔五字傍線〕タ※[鼠+吾]鼠ハコレデゴザイマス。御覽ニ供シマス〔七字傍線〕。
 
○里爾下來流《サトニオリケル》――舊訓サトニオリクルとあるのを、攷證にケルに改めたのはよい。來は多くケリ・ケルと訓まれてゐる字である。
〔評〕 ありのままの作ではあるが、一寸滑稽氣分もあつて面白い。
 
右一首大伴坂上郎女作(レリ)v之(ヲ)也、但(シ)未(ダ)v※[しんにょう+至]v奏(ヲ)而小獣死(シ)斃(ル)、因(リテ)v此(ニ)獻(ル)歌(ハ)停(ム)v之(ヲ)
 
※[しんにょう+至]は經に同じ。これで見ると、大伴坂上郎女が天皇の御獵に御伴をして行つたものである。さうして一行中の歌人と認められてゐた爲に、献上の小獣に添へて歌を作ることになつたのであらう。
 
十二年庚辰冬十月、依(リテ)2太宰少貳藤原朝臣廣嗣、謀(リ)v反(ヲ)發(セルニ)1v軍(ヲ)、幸(セル)2于伊(251)勢國1之時、河口行宮(ニテ)内舍人大伴宿禰家持作(レル)歌一首
 
藤原廣嗣は宇合の第一子である。續紀によれば「天平九月己亥授2藤原朝臣廣嗣從五位下1、十年四月爲2養徳守1十二月丁卯、爲2太宰少貳1、十二年八月癸未、太宰少貳從五位下藤原朝臣廣嗣、上v表指2時政之得失1、陳2天地之災異1、因以v除2僧正玄※[日+方]師、右衛士督從五位下下道朝臣眞備1爲v言、九月丁亥、廣嗣遂起v兵反」とある。蓋し彼の反亂は、藤原氏同族の軋轢に基づくもので、當時武智麻呂兄弟皆歿し、南家たる豐成・仲麻呂と、北家たる永手らは、式家の嫡子で偉才たる、廣嗣を太宰府に遠ざけた。玄※[日+方]と眞備とは帝の謀臣として、この事に參與してゐたので、廣嗣はこれを恨んで、君側の姦を除かむことを上表し、容れられずして兵を擧げたのであるが、敗れて松浦郡で誅せられた。廣嗣のこの擧兵には、都に於ても同情者あり、内應の虞があつたので、十月官軍が西に向つて、發向の後、俄かに平城に留守官を置いて、天皇は大和を避けて、東に向つて巡幸の途に就かせられた。十月壬午伊勢に行幸、山邊郡竹谿村堀越頓宮、癸未、伊賀國名張郡、十一月甲申朔伊賀郡阿保頓宮、乙酉、伊勢國壹志郎河口頓宮(關宮)、丙戍勅使を大神宮に遣はして、奉幣せしめらる。車駕は關宮に停り給ふこと十箇日、この間に廣嗣の亂の平いだことを聞し召し、更に乙未、河口から壹志郡へ、丁酉、鈴鹿郡赤坂(ノ)頓宮、丙午、赤坂を發して、朝明郡へ、戊申桑名郡石占頓宮へ、己酉、美濃國當伎郡へ十二月癸丑朔、不破郡不破頓宮へ戊午、不破より發して坂田郡横川頓宮へ、己未、横川から犬上頓宮へ、辛酉、犬上から蒲生郡へ、壬戍、蒲生郡宿から、野洲頓宮に、癸亥、野洲から志賀郡|禾津《アハツ》頓宮へ、乙丑、志賀山寺に禮佛、丙寅、禾津から山背國相紫郡玉井頓宮へ、丁卯恭仁宮に幸せられ、翌十三年正月はここで朝をお受けになつた。この御巡幸の次第を見ると、全く廣嗣の内應者を出し拔いて、地方をお巡りになり、その儘恭仁へ遷都せられたものらしい。河口は壹志郡の山村で、古はここに關があつて、大和への通路を監視したのである。右に掲げた續紀の文に、河口頓宮を關宮と稱してゐるのも、その爲である。二四の地圖參照。(252)ここに内舍人大伴宿禰家持とあるのは、彼が内舍人として記された最初で、この年家持は二十三歳になつてゐる。
 
1029 河口の 野邊に廬りて 夜の歴れば 妹が袂し 思ほゆるかも
 
河口之《カハグチノ》 野邊爾廬而《ヌベニイホリテ》 夜乃歴者《ヨノフレバ》 妹之手本師《イモガタモトシ》  所念鴨《オモホユルカモ》
 
河口ノ野ニ假屋ヲ立テテ、其處ニ宿ツテ〔六字傍線〕幾晩モ經ツト、私ハ家ニヰテ、枕シテ寢タ〔私ハ〜傍線〕妻ノ袂ガ思ヒ出サレルヨ。
 
○野邊爾廬而《ヌベニイホリテ》――庵を作ることをイホルといふ。荒磯面爾廬作而見者《アリソモニイホリテミレバ》(二二〇)もあつた。
〔評〕 右に掲げた續紀の文にあるやうに、十日間も此處に滯在せられたので、夜乃歴者《ヨノフレバ》とあるのが、なるほどと首肯せられる。家持は十一年の夏、妾を亡くし、その後坂上大孃との間に、關係が出來てゐるから、ここに妹とあるのは坂上大孃のことであらう。
 
天皇御製歌一首
 
同じき行幸の途中、聖武天皇の御製である。
 
1030 妹に戀ひ あがの松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴鳴き渡る
 
妹爾戀《イモニコヒ》 吾乃松原《アガノマツバラ》 見渡者《ミワタセバ》 潮干乃潟爾《シホヒノカタニ》 多頭鳴渡《タヅナキワタル》
 
(妹爾戀)吾ノ松原カラ見渡スト、汐ノ干タ潟デ鶴ガ鳴イテ飛ンデヰル。
 
○妹爾戀《イモニコヒ》――枕詞。妹に戀ひ吾が在るの意で、吾《アガ》につづけたものか。○吾乃松原《アガノマツバラ》――舊訓、ワカノマツバラを、考にはアコノマツハラと詠んで志摩|英虞《アゴ》郡としてゐる。略解にあげた宣長説には、乃を自の誤として、アガマツバラユとし、古義はアガマツバラヨと訓んで、いづれもアガは待つと松とをかける爲のもので、地名ではないとしてゐる。併し左註に吾松原在2三重郡1とあるから、地名であることは疑ない。或は左註の三重郡は誤で、吾乃松原は安濃《アノ》松原ではないかとも思はれる。然らば今の安濃津附近で、河口行宮から壹志郡家に赴かれ、更(253)に鈴鹿郡赤坂へ向つて北上の際、通過あらせられたものか、考ふべきである。なほ、卷十七に和我勢兒乎安我松原欲見度婆安麻乎等女登母多麻藻可流美由《ワガセコヲアガマツバラヨミワタセバアマヲトメドモタマモカルミユ》(三八九〇)とあるのは、これと少しく似た歌ではあるが、この安我松原《アガマツバラ》は吾が待つとかけたのみで、地名ではないから混同してはならない。
〔評〕 まこと高邁な堂々たる格調で、帝王の風格を備へた歌と申してよい。新古今集の「雪ふればわかの松原うづもれて汐干のたづの聲ぞ寒けき」、續古今集の「伊勢島やわかの松原見わたせば夕潮かけて秋風ぞ吹く」、風雅集の「伊勢島や汐干のかたの朝なぎに霞にまがふわかの松原」など、皆これを本歌としてゐる。
 
右一首、今案(ズルニ)吾松原(ハ)在(リ)2三重郡(ニ)1、相2去(ルコト)河口(ノ)行宮(ヲ)1遠(シ)矣、若(シ)疑(フラクハ)御2在|朝明《アサケノ》行宮(ニ)1之時、所v製御歌、傳(フル)者誤(レル)v之(ヲ)歟、
 
三重郡は今の四日市地方。古義に「三重郡なるは、赤(ノ)松原にて、其は天平の大安寺伽藍縁起流記資財帳に伊勢國三重郡赤(ノ)松原百町と記せる是なり。赤を吾と書くべき謂なければ、赤(ノ)松原ぞと思へるは、いみじきひがことなり。」と言つてゐる。これは後人の註には相違ないが、古いものであるから、地名などに誤はあるまいと思はれる。併し右に掲げた安濃説も、一私見として考慮に入れて頂きたいと思ふ。朝明行宮へは赤坂頓宮からおいでになつたので、その所在は明らかでないが、或は今の朝日で、アサヒはアサケの轉であらう。朝明郡は四日市の北方、朝明川の流域。明治二十九年三重郡に合併した。
 
丹比屋主《タヂヒノヤヌシ》眞人歌一首
 
丹比屋主眞人は續紀によれば、「神龜元年二月壬子、正六位上多治比眞人屋主授2從五位下1、天平十七年正月乙丑、從五位下多治比眞人屋主授2從五位上1、十八年九月己巳、爲2備前守1二十年二月己末、授2正五位下1、天平勝寶元年閏五月甲午朔、爲2左大舍人頭1」とあるが、この天平十二年十月の伊勢行幸の條には、赤坂頓宮で從駕の人々に叙位のことがあつた中に、從五位下多治比眞人家(254)主に從五位上を授けることが見えて、本集に屋主とあるのに、續紀に家《ヤカ》主とあるのは不思議である。屋《ヤ》主も家主も共に陪從してゐたが、家主のみが昇叙せられたものとも考へられないことはないが、その條の記載によると、橘諸兄似下多數の人々の叙位が、殆ど總花的に行はれた感があるから、屋主が居たとすれば、これも記載がありさうに思はれる。或は左註の如く屋主が河口から歸京した爲か。なほ家主の履歴を續紀によつて調べると、「養老七年九月己卯、出羽國司正六位上多治比眞人家主言、云々、天平九年二月戊子、正六位上多治比眞人家主授2從五位下1、十二年十月壬午、行2幸伊勢國1、十一月丁酉、進至2鈴鹿郡赤坂頓宮1、甲辰、詔陪2從云々等1、賜2爵人一級1從五位下多治比眞人家主授2從五位上1、十三年八月丁亥、從五位上多治比眞人家主、爲2鑄錢長官1、天平勝寶三年正月己酉、從五位上多治比眞人家主授2正五位下1、六年正月癸卯、天皇御2東院1宴2五位以上1有v勅、召2正五位下多治比眞人家主云々1、於2御前1、即授2從四位下1、天平寶字四年三月癸亥、散位從四位下多治比眞人家主卒」と見え、屋主とは全く別人である。
 
1031 後れにし 人をしぬばく 四泥の埼 木綿取りしでて さきくとぞ思ふ
 
後爾之《オクレニシ》 人乎思久《ヒトヲシヌバク》 四泥能埼《シデノサキ》 木綿取之泥而《ユフトリシデテ》 將住跡其念《サキクトゾオモフ》
 
私ノ〔二字傍線〕後ニ殘ツテ都ニ〔二字傍線〕ヰル妻ヲ、私ハ〔二字傍線〕戀ヒシク思フ。ダカラ〔三字傍線〕四泥ノ崎デ木綿ヲトリ垂ラシテ神樣ニオ供ヘシテ妻ガ〔神樣〜傍線〕無事デアルヤウニト思フヨ。
 
○人乎思久《ヒトヲシヌバク》――ヒトヲオモハクとも訓んであるが、下に念の字をオモフとよんでゐるから、これはシヌバクがよいやうである。シヌバクはシヌブに同じ。この句で意味が切れてゐる。○四泥能埼《シデノサキ》――神名帳に、伊勢國朝明郡志?神社があるから、そこの海岸に違ひない。即ち四日市の北方、羽津の濱である。○木綿取之泥而《ユフトリシデテ》――木綿を取りしだらかせて。神を祭る爲に木綿を取り垂らすのである。齋戸爾木綿取四手而《イハヒベニユフトリシデテ》(一七九〇)ともある。○將住跡其念《サキクトゾオモフ》――舊訓はスマムトゾオモフとあるが、これでは意味が通じない。童蒙抄に住を往の誤として、ユカムトゾオモフと訓んだのに從ふ説が多い。併し元暦校本に好住に作つてゐるのによつて、古義に好往とし(255)てサキクと訓まうかと言つたのが、從ふべきやうに思はれる。好往は好去と同じであらう。好去は八九四參照。
〔評〕 四泥能埼木綿取之泥而《シデノサキユフトリシデテ》とシデの音が繰返されてゐる。二句をヒトヲシヌバクと訓めば、そこにも、シの音がもう一つ重ねられてゐるわけである。旅なる人の、家を思ふ悲しい聲である。
 
右、案(ズルニ)此歌者不v有(ラ)2此行宮之作(ニ)1乎、所2以(ハ)然(カ)言(フ)1之、勅(シテ)2大夫(ニ)1從(リ)2河口行宮1還(リ)v京(ニ)、勿(シ)v令(ムル)v從(ハ)v駕(ニ)焉、何(ゾ)有(ラム)d詠(メテ)2思泥(ノ)埼(ヲ)1作(レル)歌u哉
 
この行宮の宮の字は、元暦校本・神田本等には無いが、無い方がよいやうに思はれる。右の歌の作者丹比屋主眞人が河口行宮から、京に歸つたことは續紀に見えない。併しここにかうあるからは、猥りに疑ふべきでない。右に記した、赤坂頓宮での叙位に、屋主の名が無いのは、彼が河口から歸京した爲かもしれない。
 
狹殘行宮大伴宿禰家持作歌二首
 
狹殘行宮は物に見えない。續紀に到2壹志郡1宿とあるのは、狹殘行宮のことかとも思はれるが、推測に過ぎない。荒木田久老は狹殘をサザムと訓んで、神名帳に、伊勢國多氣郡|佐佐美江《ササブエ》の神社があるから、其處だらうと言つてゐるが、殘は韻鏡、外轉第二十三開、山攝寒韻の音で、n音尾であるから、ザムとは訓まれない。且、天皇は河口頓宮に御滯在中、勅使を大神宮に洗遣せられたので、これより南方に赴かれる必要はないのである、古義には、狹を獨に改めて獨《ヒトリ》殘《オクレヰテ》2行宮1とよんでゐる。例の獨斷である。
 
1032 おほぎみの いでましのまに 吾妹子が 手枕まかず 月ぞへにける
 
天皇之《オホギミノ》 行幸之隨《イデマシノマニ》 吾妹子之《ワギモコガ》 手枕不卷《タマクラマカズ》 月曾歴去家留《ツキゾヘニケル》
 
天子樣ノ行幸ダカラ、ソノオ供ヲシテ私ハ〔九字傍線〕、私ノ妻ノ手枕ヲシナイデ月ガタツタヨ。アア家ノ妻ガ戀シイ〔九字傍線〕。
 
(256)○天皇之行幸之隨《オホギミノイデマシノマニ》――卷四に、天皇之行幸乃隨意《オホギミノイデマシノマニ》(五四三)とあるのと同じて、天皇の行幸の御供をしてゐるのでの意。
〔評〕 この人が河口頓宮で作つた、河口之野邊爾廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨《カハクチノヌベニイホリテヨノフレバイモガタモトシオモホユルカモ》(一〇二九)と全く同じ氣分の作である。新婚の妻を思ふの情切なるものがあつたと見える。
 
1033 御食つ國 志摩の海人ならし 眞熊野の 小船に乘りて 沖邊こぐ見ゆ
 
御食國《ミケツクニ》 志麻乃海部有之《シマノアマナラシ》 眞熊野之《マクマヌノ》 小船爾乘而《ヲブネニノリテ》 奧部榜所見《オキベコグミユ》
 
天子樣ノ御膳ノ御物ヲ差シアゲル國ノ、志摩ノ海人デアラウ。アチラニ〔四字傍線〕熊野ノ小舟ニ乘ツテ沖ノアタリヲ漕イデヰルノガ見エル。キツト天子樣ニサシ上ゲル御膳ノモノヲトルノダラウ〔キツ〜傍線〕。
 
○御食國《ミケツクニ》――三食津國野島乃海子乃《ミケツクニヌジマノアマノ》(九三四)とあつたやうに、天皇の供御を献る國の意で、志摩國は、古事記にも、島之速贄《シマノハヤニヘ》といふ語が見えて、神代から御食つ國たる謂れのある國である。この句は志麻乃海部といふ爲に、枕詞式に用ゐたものとも考へられないことはないが、これは供卿の贄をとる舟を詠んだものらしいから、その意味で解釋したい。○眞熊野之小船爾乘而《マクマヌノヲブネニノリテ》――眞熊野の小船は熊野船のこと。前に、倭邊上眞熊野之船《ヤマトヘノボルマクマヌノフネ》(九四四)とあつたやうに、熊野型の船であらう。九四四參照。
〔評〕 行宮から遙かに海上に點在する船を眺めて、今回の御巡幸に、皇威の邊陬に及んでゐることを感じた心を歌つてゐる。はつきりした、力のあるよい作である。
 
美濃國多藝(ノ)行宮(ニテ)大伴宿禰|東人《アヅマヒト》作(レル)歌一首
 
多藝行宮は、續紀に「天平十二年十一月己酉、到2美濃國|當伎《タギ》郡1」とあつて、ここに五日滯在ましまして、十二月朔に、不破頓宮に到りましたのである。古事記中卷には、倭建命が當藝野をお通りになつて、吾が足が當藝斯《タギシ》の形になつたと仰せられたので、當藝《タギ》の名を負ふことになつたと(257)記してあるが、これは地名傳説で、多度川の清瀬から當藝《タギ》といふのであらう。この行宮の所在は明らかでないが、大日本地名辭書に、「京華要誌に白石村に行在所といふ字ありて、此に行宮神社あり。元正帝を祭り、毎年例祭に元正帝行幸の儀を摸すと曰へり」とある。白石村は今、養老村の一部をなしてゐる。大伴宿禰東人は續紀に「天平寶字五年十月壬子朔、從五位下大伴宿禰東人、爲2武部少輔1、七年正月壬子、爲2少納言寶龜元年六月甲午、爲2散位助1、八月辛亥、爲2周防守1、五年三月甲辰、爲2彈正弼1」とある。この頃は未だ卑官であつたらう。
 
1034 古ゆ 人の言ひ來る 老人の をつとふ水ぞ 名に負ふ瀧の瀬
 
從古《イニシヘユ》 人之言來流《ヒトノイヒクル》 老人之《オイビトノ》 變若云水曾《ヲツトフミヅゾ》 名爾負瀧之瀬《ナニオフタギノセ》
 
昔カラ人ガ言ヒ傳ヘテ來テヰル、老人ガ若クナルトイフ水デアルゾヨ。コノ多藝トイフ〔七字傍線〕地名ニナツテヰル水ノ泡立ツテ流レル瀬ハ。ホントニヨイ水ダ〔八字傍線〕。
 
○變若云水曾《ヲツトフミヅゾ》――舊訓ワカユテフミヅゾとあつたのを、攷證にヲツトフミヅゾとよんだのがよい。古義にはヲツチフミヅゾと訓んである。變若の二字は昔見從變若益爾家利《ムカシミシヨリヲチマシニケリ》(六五〇)とあつたやうにヲツと訓むがよい。○名爾負瀧之瀬《ナニオフタギノセ》――名に負ふとは名と實と相一致してゐることであるが、それに二義がある。一は名高いなどの意で、一はその稱呼・名稱に負うてゐる意である。ここは多藝といふ地にある瀧之瀬《タギノセ》といふのだから、ただ有名なといふやうな意ではない。多藝といふ地名になつてゐる、瀧の瀬といふのであらう。次の歌に田跡河之瀧乎清美香《タドカハノタギヲキヨミカ》とあるやうに、多度川の清流で、それが即ち續紀の文に見える美泉であらう。なほ養老瀧から四町ばかり東の山腹に養老神社、土俗菊水天神と稱する社があつて、その境内に菊水といふ泉が出てゐる。これが謂はゆる美泉であるとも傳へられてゐるのは、もとより信ずべき説でない。
〔評〕 これは續紀に「養老元年九月丁末、天皇行2幸美濃國1。戊申、行至2近江國1觀2望淡海1云々、甲寅、至2美濃國1云々、丙辰、幸2當藝郡多度山美泉1云々。甲子、車駕還v宮。十一月癸丑、天皇臨軒詔曰、朕以2今年九月1、到2美濃國不破行宮1、留連數日、因覽2當耆郡多度山美泉1、自盥2手面1、皮膚如v滑、亦洗2痛處1無v不2除愈1、在2(258)朕之身其驗1、又就而飲2浴之1者、或白髪反v黒、或頭髪更生、或闇目如v明、自餘痼疾、咸皆平愈、昔聞、後漢光武時、醴泉出、飲v之者、痼疾平癒、符瑞曰、醴泉者美泉、可2以養1v老、盖水之精也、寔惟、美泉即合2大瑞1、朕雖2痛虚1、何違2天※[貝+兄]1、可d大2赦天下1、改2靈龜三年1爲c養老元年u云々。十二月丁亥、令d2美濃國1立春曉※[手偏+邑]2醴泉1而貢2於京都1爲c醴酒u也。二年二月壬申、行2幸美濃醴泉1」と見える多度の美泉を詠んだものである。この傳説は謂はゆる靈泉説話で、水の精を尊んだ古代の思想であらう。後世元旦に汲む水を若水と稱するのも、同一系の考である。併しこの養老改元の詔には、支那の醴泉思想が濃厚にあらはれてゐることが看取せられ、當時盛になりつつあつた、神仙思想のあらはれであることがわかる。これが後に養老の孝子の傳説を生じ、後世の文學に種々の作品となつてあらはれてゐる。ともかくこの歌は、わが傳説研究者にとつては好資料である。
 
大伴宿禰家持作歌一首
 
1035 田跡河の 瀧を清みか いにしへゆ 宮仕へけむ 多藝の野の上に
 
田跡河之《タドガハノ》 瀧乎清美香《タギヲキヨミカ》 從古《イニシヘユ》 宮仕兼《ミヤヅカヘケム》 多藝乃野之上爾《タギノヌノヘニ》
 
コノ多度川ノ瀧ノ流ガ清イノデ、古カラシテ多藝ノ野邊二宮ヲ造ツテオ仕ヘ申シタノデアラウ。キツトサウダラウ〔八字傍線〕。
 
○田跡河之《タドガハノ》――田跡河は今の養老川又は白石川といふ川で、多度地方を流れてゐるから、かう名づけたのであらう。○從古《イニシヘユ》――古は元正天皇養老の行幸をさしてゐる。○宮仕兼《ミヤツカヘケム》――宮仕とは(259)宮を作ることに奉仕すること。卷十九に、天地與相左可延牟等大宮乎都可倍麻都禮婆貴久宇禮之伎《アメツチトアヒサカエムトオホキミヲツカヘマツレバタフトクウレシキ》(四二七三)とあるのも大嘗宮を造營することである。
〔評〕 この卷冒頭の笠金村作、芳野離宮の長歌の末句、山川乎清清諾之神代從定家良思母《ヤマカハヲキヲミサヤケミウベシカミヨユサダメケラシモ》(九〇七)とあるのに似てゐる。
 
不破《フハノ》行宮大伴宿禰家持作歌一首
 
不破行宮は、前に引いた續紀に「十二月癸丑朔、到2不破郡不破頓宮1」とある。その所在は今詳ではないが、恐らく古の國府、即ち今の府中村であらう。
 
1036 關無くば かへりにだにも うち行きて 妹が手枕 まきて寢ましを
 
關無者《セキナクバ》 還爾谷藻《カヘリニダニモ》 打行而《ウチユキテ》 妹之手枕《イモガタマクラ》 卷手宿益乎《マキテネマシヲ》
 
關ガナイナラバ、此處カラ〔四字傍線〕歸ツテデモ行ツテ、妻ノ手枕ヲシテ寢ヨウノニ。此處ニハ不破ノ關ガアツテ無暗ニ人ヲ通サナイカラ、サウモ出來ナイ〔此處〜傍線〕。
 
○關無者《セキナクバ》――關は主として不破關をさすのであらう。軍防令義解に、三關者、謂2伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛發1是也」とある。○還爾谷藻打行而《カヘリニダニモウチユキテ》――立ち還つてでも行つての意。卷十七、この人の長歌に、近在者加弊利爾太仁母宇知由吉底妹我多麻久良佐之加倍底禰天蒙許萬思乎多麻保己乃路波之騰保久關左閉爾弊奈里底安禮許曾《チカクアラバカヘ》リニダニモウチユキテイモガタマクラサシカヘテネテモコマシヲタマホコノミチハシトホクセキサヘニヘナリテアレコソ》(三九七八)とあるのと同じである。
〔評〕 右に掲げた卷十七の述2戀緒1歌(三九七八)中の句と全く同じである。この行幸從駕の作が、後年越中在任中記憶から呼び起されて、用ゐられたのであらう。これも新婚の人らしい作である。
 
十五年癸未秋八月十六日、内舍人大伴宿禰家持、讃(メテ)2久邇京(ヲ)1作(レル)歌(260)一首
 
久邇宮は、續紀に、「十三年正月天皇始御2恭仁宮1受v朝」と見えてゐる。その後十六年二月難波京に遷り給ひ、同年五月また久邇宮に還らせ給ひ、同年十二月寧樂に復歸せられた。
 
1037 今作る 久邇の都は 山河の さやけき見れば うべ知らすらし
 
今造《イマツクル》 久邇乃王都者《クニノミヤコハ》 山河之《ヤマカハノ》 清見者《サヤケキミレバ》 宇倍所知良之《ウベシラスラシ》
 
今度新シク御造營遊バス久邇ノ都ハ、山モ河モ、コンナニ〔四字傍線〕ヨイ所デアルノヲ見ルト、此處ニ〔三字傍線〕都ヲオ構ヘ遊バスノハ、尤モナコトラシイ。
 
○今造《イマツクル》――新築のの意。この今は今來《イマキ》・今參《イママヰリ》の今と同じく、新の意である。○清見者《サヤケキミレバ》――舊訓キヨクミユレバとあるは惡い。童蒙抄にキヨキヲミレバとあるのも、ヲに當る字がないから、古義に從つてサヤケキミレバと訓むべきであらう。
〔評〕 これも前の田跡河の歌と同じやうに、大宮所の好景を讃へただけで、特色のない概念的な歌である。
 
高丘河内《タカヲカノカフチノ》連歌二首
 
高丘河内連は、始、樂浪河内といつた人で、後この姓を賜はつた。續紀に「和銅五年七月甲申、播磨國大目從八位上樂浪河内云々」とあり、又「養老五年正月庚午、詔2正六位下樂浪河内等1退朝之後令v侍2東宮1焉、申戌詔曰、云々、文章某某正六位下樂浪河内云々。神龜元年五月辛未、正六位下樂浪河内賜2高丘連1、天平三年正月丙子、正六位上高丘連河内授2外從五位下1、九月癸酉、外從五位下高丘連河内爲2右京亮1、十四年八月癸未、云々造宮輔外從五位下高岡連河内等四人爲2造離宮司1、十七年正月乙丑、外從五位上、十八年五月戌午、從五位下、九月己已、伯耆守、天平勝寶三年正月己酉、從五位上、六年正月壬子、正五位下」とある。この天平十五年の頃は外從五位下で(261)あつたのである。
 
1038 ふるさとは 遠くもあらず 一重山 越ゆるがからに 念ひぞ吾がせし
 
故郷者《フルサトハ》 遠毛不有《トホクモアラズ》 一重山《ヒトヘヤマ》 越我可良爾《コユルガカラニ》 念層吾世思《オモビゾワガセシ》
 
舊都ノ奈良〔三字傍線〕ハ、遠イ所デモアリマセヌ。シカシ〔三字傍線〕一重ノ山ヲ越エテ、行ク所ナノデ、私ハ奈良ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツタヨ。
 
○故郷者《フルサトハ》――この故郷《フルサト》は舊都。○一重山《ヒトヘヤマ》――奈良と久邇との間には、佐保・那羅・相樂の低い山脈が一列に連なつてゐる。それを一重山《ヒトヘヤマ》といつたのである。卷四にも、一隔山重成物乎《ヒトヘヤマヘナレルモノヲ》(七六五)とある。七六五の地圖參照。○越我可良爾《コユルガカラニ》――越ゆるが故に。古義に隔たれるばかりのことなるを、とあるのは當らない。
〔評〕 恭仁の京に居て舊都寧樂の戀しさを詠んだのである。舊都は遠くはないとは言ふものの、一重山が隔つてゐてさう容易くは行かれないと思へば、戀しくなつかしいわけだ。その一重山を恨むやうな、いらだたしい氣分が詠まれてゐる。
 
1039 吾背子と 二人し居れば 山高み 里には月は 照らずともよし
 
吾背子與《ワガセコト》 二人之居者《フタリシヲレバ》 山高《ヤマタカミ》 里爾者月波《サトニハツキハ》 不曜十方余思《テラズトモヨシ》
 
私ハ〔二字傍線〕私ノ親シイ友ト二人デカウシテ〔四字傍線〕ヰレバ、樂シク面白イカラ、此處ハ〔樂シ〜傍線〕山ガ高イ爲ニコノ里ニハ月ガ照ラナイデモカマハナイ。
 
○吾背子與《ワガセコト》――背子は友人。男性相互にも用ゐる語である。○山高《ヤマタカミ》――山が高いので。恭仁京の附近には狛山・鹿脊山・和束山などがあるが、これは東方の和束山及びその後方の國境の山をいふのであらう。○不曜十方余思《テラズトモヨシ》――曜は集中ここにのみ用ゐられてゐる文字である。本意は日の耀く意であるから、テルに用ゐられる。余思《ヨシ》はかまはぬの意。
〔評〕 如何なる時の作とも記してないが、月まだ出でぬ新都の宵に、友を待ち得て喜んだのであらう。恭仁京周圍の山はさして高いとも思はれないが、或は作者の家が山近くにあつたのかも知れない。場面がはつきりしな(262)いのは遺憾である。奈良の舊都での作とする説は採らぬ。
 
安積《アサカ》親王、宴(セル)2左少辨藤原八束朝臣家(ニ)1之日、内舍人大伴宿禰家持作歌一首
 
安積親王は聖武天皇の皇子。四七五參照。藤原八東は眞楯の前名。續紀によれば、天平十三年十二月己亥右衛士督となり、十五年五月癸卯正五位上となつてゐる。左少辨になつたことが見えないのは、脱ちたのであらう。天平神護二年三月丁卯五十二歳で薨じてゐるから、この時年二十八歳であつた。三九八參照。
 
1040 久方の 雨はふりしく 思ふ子が 宿に今宵は 明して行かむ
 
久堅乃《ヒサカタノ》 雨者零敷《アメハフリシク》 念子之《オモフコガ》 屋戸爾今夜者《ヤドニコヨヒハ》 明而將去《アカシテユカム》
 
(久竪乃)雨ハシキリニ降ルヨ、ダカラ私は〔五字傍線〕私ノ親シイコノ八束朝臣ノ家ニ、今夜ハ夜ヲ明シテ行キマセウ。
 
○雨者零敷《アメハフリシク》――フリシクは頻りに降る。古義にフリシケと訓んでゐるが、命令法でなくともよい所であるから、舊訓のままにしておく。○念子之《オモフコガ》――なつかしく慕はしく思ふ人。即ち藤原八束をさしてゐる。
〔評〕 友情のあらはれた歌。略解に「又おもふに相聞の古歌なるを、其時誦したるならむか」とあるのは、おそらく當つてゐまい。
 
十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、集(ヒテ)2安倍蟲麻呂朝臣(ノ)家(ニ)1宴(セル)歌一首 作者不審
 
安倍蟲麿は續紀によると、天平十三年八月丁亥播磨守となつてゐる。この時はなほそのままであ(263)つたか。六六五參照。作者不審の四字はここに作者を記さないのを恠しんで、後人が追記したものであらう。神田本は作者未詳とあり、無訓本にはこの四字が無い。
 
1041 吾がやどの 君松の木に ふる雪の 行きには行かじ 待ちにし待たむ
 
吾屋戸乃《ワガヤドノ》 君松樹爾《キミマツノキニ》 零雪乃《フルユキノ》 行者不去《ユキニハユカジ》 待西將待《マチニシマタム》
 
(吾屋戸乃君松樹爾零雪乃)行クノハヤメマヤウ。タダアナタノオイデヲ〔タダ〜傍線〕待チニ待チマセウ。
 
○君松樹爾《キミマツノキニ》――君待といひかけたので、卷五|吉民萬通艮楊滿《キミマツラヤマ》(八八三)この卷の千代松樹乃《チヨマツノキノ》(九九〇)・卷九|嬬待木者《ツママツノキハ》(一七九五)などその例が多い。○零雪乃《フルユキノ》――ユキの音を繰返して、下へつづくのであるから、この句までは序詞である。○待西將待《マチニシマタム》――舊本西を而に作るは誤。元暦校本によつて改めた。
〔評〕 正月五日の歌とすると、この上句は序詞ではあるが、恐らく實景をその儘とらへたものであらう。下句にユキ・マチの音を繰返して、偕調をなしてゐる。
 
同月十一日、登(リ)2活道《イクヂノ》岡(ニ)1集(ヒテ)2一株(ノ)松(ノ)下(ニ)1飲(セル)歌二首
 
活道岡は卷三に活道山木立繁爾《イクヂヤマコダチノシゲニ》(四七八)とある。恭仁京の東方、西和束村大字白柄の東大勘定にある。
 
1042 一つ松 幾代か歴ぬる 吹く風の 聲の清めるは 年深みかも
 
一松《ヒトツマツ》 幾代可歴流《イクヨカヘヌル》 吹風乃《フクカゼノ》 聲之清者《コヱノスメルハ》 年深香聞《トシフカミカモ》
 
コノ一本松は幾年タツタノダラウカ。コノ木ニ〔四字傍線〕吹ク風ノ音ガ格別〔二字傍線〕、ヨイノハ、コノ木ガ〔四字傍線〕年久シクタツテヰルカラデアラウカ。實ニヨイ音ダ〔六字傍線〕。
 
○一松《ヒトツマツ》――一本松。古事記倭建命の御歌に、袁波理邇多陀邇牟迦幣流袁都能佐岐那流比登都麻都阿勢袁比登都麻都比登邇阿理勢婆多知波氣麻斯袁岐奴岐勢麻斯袁比登都麻都阿勢袁《ヲハリニタダニムカヘルヲツノサキナルヒトツマツアセヲヒトツマツヒトニアリセバタチハケマシヲキヌキセマシヲヒトツマツアセヲ》とある。○年深香聞《トシフカミカモ》――年深しとは年久(264)しく經たるをいふ。卷三に昔看之舊堤者年深《ムカシミシフルキツツミハトシフカミ》(三七八)・卷十九に年深有之神佐備爾家里《トシフカカラシカムサビニケリ》(四一五九)とある。
〔評〕 何といふすがすがしい、さわやかな歌であらう。丘上の孤松の下に、盃を擧げて、頭上の松籟に聞き入つてゐる姿が、ありありと目に見えるやうである。枝の太い老松は、か細い若松とは違つて、風に對する抵抗が強いから、その響が著しく變つて聞えるものである、始に幾代可歴流《イクヨカヘヌル》と自ら問を發し、颯々たる清韻によつて、その年深いことを推定して自ら答へてゐる。實に調の高い、玲瓏玉の如き佳作である。
 
右一首市原王作
 
市原王は安貴王の御子。四一二參照。
 
1043 たまきはる 壽は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ念ふ
 
靈剋《タマキハル》 壽者不知《イノチハシラズ》 松之枝《マツガエヲ》 結情者《ムスブココロハ》 長等曾念《ナガクトゾオモフ》
 
私ノ〔二字傍線〕(靈剋)命ハイツマデカ〔五字傍線〕ワカラナイ。併シナガラコノ岡ノ〔九字傍線〕松ノ枝ヲ結ブツモリハ松ノ壽命ノヤウニ私ノ命ガ〔松ノ壽〜傍線〕長イヤウニト思ツテノコトデスヨ。
 
○靈剋《タマキハル》――枕詞。四・八九七など參照。
〔評〕 松の枝を結ぶことは、卷二の有間皇子自傷結松歌(一四一)にも見えるやうに、記念として後會を期するやうな意味で、松の壽にあやかるやうな考もあつたらしく思はれる。卷二十に等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《トキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》(四五〇一)ともある。これは平板な作である。
 
右一首大伴宿禰家持作
 
傷(ミ)2惜(ミテ)寧樂(ノ)京(ノ)荒墟(ヲ)1作(レル)歌三首 作者不審
 
1044 くれなゐに 深く染みにし 心かも 寧樂の都に 年の歴ぬべき
 
紅爾《クレナヰニ》 深染西《フカクシミニシ》 惰可母《ココロカモ》 寧樂乃京師爾《ナラノミヤコニ》 年之歴去倍吉《トシノヘヌベキ》
 
(265)私ノ心ハ〔四字傍線〕(紅爾)深クコノ奈良ノ都ニ〔七字傍線〕シミ込ンデヰルカラカ、コシナニ舊都トナツテ、荒レ果テタ〔コン〜傍線〕奈良ノ都ヲモ立チ去ルコトガ出來ナイデ、此處〔ヲモ〜傍線〕ニ年永ク暮スノデアラウ。アアコノ都ノ荒レルノハ惜シイコトダ〔アア〜傍線〕。
 
○紅爾《クレナヰニ》――深く染みといはむ爲の枕詞。かういふ枕詞は常套的になつてゐないで、多くの序詞のやうに、作者のその時の考で作つたものであらうが、五言であるから、枕詞として置かう。○深染西《フカクシミニシ》――染は舊訓ソミとあるが、卷二十|之美爾之許己呂《シミニシココロ》(四四四五)によつても、又卷二|益目頬染《イヤメヅラシミ》(一九六)の用字法によつても、シミと訓むべきは明らかである。
〔評〕 第三句のカモと第五句ベキとが係結の關係になつてゐて、しかもそれが落付きが惡い。そこで意味の明瞭を缺いてゐる點がある。佳い作とは言はれない。
 
1045 世の中を 常無きものと 今ぞ知る 平城の都の 移ろふ見れば
 
世間乎《ヨノナカヲ》 常無物跡《ツネナキモノト》 今曾知《イマゾシル》 平城京師之《ナラノミヤコノ》 移徒見者《ウツロフミレバ》
 
咲ク花ノ匂フヤウニ榮エテヰタ〔咲ク〜傍線〕奈良ノ都ガ、荒レテ行クノヲ見ルト、世間ガ無常ナモノダト云フコトガ今始メテワカツタヨ。
〔評〕 小野老が、青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフガゴトクイマサカリナリ》(三二八)と詠んだやうに、繁榮を極めてゐた寧樂の都が、恭仁への遷都の爲に、一朝にして廢墟のやうになつて、次の歌にある、道之志婆草長生爾異梨《ミチノシバクサナガクオヒニケリ》(一〇四八)のやうな状態になつたのであるから、誰しも無常を感ぜずには居られなかつたであらう。常無《ツネナキ》といふ佛教語が、ここにも日常語として用ゐられてゐる。歌は平淡であるが、第三句目に力が籠つてゐる。
 
1046 いはづなの またをちかへり 青丹よし 奈良の都を また見なむかも
 
石綱乃《イハヅナノ》 又變若反《マタヲチカヘリ》 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃都乎《ナラノミヤコヲ》 又將見鴨《マタミナムカモ》
 
私ハ年ヲトツテシマツタガ〔私ハ〜傍線〕、(石綱乃)又若カヘツテ、今ハ淋シイ舊都ニナツテヰル〔今ハ〜傍線〕(青丹吉)奈良ノ都ノ、再(266)ビ都トシテ榮エル有様〔ノ再〜傍線〕ヲ又見ヨウカヨ。ドウカ都ガモトニ戻ツタ姿ヲ見タイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○石綱乃《イハヅナノ》――枕詞。石綱は石に這ふ蔦葛。葛の類は這ひ延びて、枝さし分れても再び又もとにかへるものであるから、その意を以てつづけたのである。○又變若反《マタヲチカヘリ》――ヲチカヘリは、もとへ戻ること。ここは齡の若反ることである。舊訓マタワカガヘリとあるのは面白くない。舊本若を著に誤つてゐる。類聚古集によつて改む。○又將見鴨《マタミナムカモ》――舊訓はマタモミムカモであるが、今は古義に從ふことにした。
〔評〕遷都を悲しむ老人らしい歌である。古義に、卷三|吾盛復將變八方殆寧樂京師乎不見歟將成《ワガサカリマタヲチメヤモホトホトニナラノミヤコヲミズカナリナム》(三三一)に似てゐるとあるが、それとは少し異なつてゐる。右の三首は作者が審でなく、三首とも同一人か、或は別人かもわからない。ともかく、舊都にとり殘されて、日に淋れ行く悲しさをかこつたのである。
 
悲2寧樂故京郷1作歌一首并短歌
 
京の字元暦校本・神田本などに無いのがよいであらう。古義には寧樂京故郷と改めてゐる。
 
1047 やすみしし 吾が大王の 高敷かす 大和の國は すめろぎの 神の御代より 敷きませる 國にしあれば あれまさむ み子のつぎつぎ 天の下 知らしいませと 八百萬 千年を兼ねて 定めけむ 平城の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野べに 櫻花 木のくれ隱り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり來れば 生駒山 飛火がたけに 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼びとよむ 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴のをの うちはへて 里なみしけば 天地の 依りあひの限 萬代に 榮え行かむと 思ひにし 大宮すらを 恃めりし 奈良の都を 新世の 事にしあれば おほきみの 引のまにまに 春花の うつろひ易り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏みならし 通ひし道は 馬も行かず 人も往かねば 荒れにけるかも
 
八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 高敷爲《タカシカス》 日本國者《ヤマトノクニハ》 皇祖乃《スメロギノ》 神之御代自《カミノミヨヨリ》 敷座流《シキマセル》 國爾之有者《クニニシアレバ》 阿禮將座《アレマサム》 御子之嗣繼《ミコノツギツギ》 天下《アメノシタ》 所知座跡《シラシイマセト》 八百萬《ヤホヨロヅ》 千年矣兼而《チトセヲカネテ》 定家牟《サダメケム》 平城京師者《ナラノミヤコハ》 炎乃《カギロヒノ》 春爾之成者《ハルニシナレバ》 春日山《カスガヤマ》 御笠之野邊爾《ミカサノヌベニ》 櫻花《サクラバナ》 木晩※[穴/干]《コノクレガクリ》 貌鳥者《カホドリハ》 間無數鳴《マナクシバナク》 露霜乃《ツユジモノ》 秋去來者《アキサリクレバ》 射鈎山《イコマヤマ》 飛火賀塊丹《トブヒガタケニ》 芽乃枝乎《ハギノエヲ》 石辛見散之《シガラミチラシ》 狹男牡鹿者《サヲシカハ》 妻呼令動《ツマヨビトヨム》 山見者《ヤマミレバ》 山裳見貌石《ヤマモミガホシ》 里見者《サトミレバ》 里裳住吉《サトモスミヨシ》 物負之《モノノフノ》 八十伴(267)緒乃《ヤソトモヲノ》 打經而《ウチハヘテ》 思並敷者《サトナミシケバ》 天地乃《アメツチノ》 依會限《ヨリアヒノカギリ》 萬世丹《ヨロヅヨニ》 榮將往迹《サカエユカムト》 思煎石《オモヒニシ》 大宮尚矣《オホミヤスラヲ》 恃有之《タノメリシ》 名良乃京矣《ナラノミヤコヲ》 新世乃《アラタヨノ》 事爾之有者《コトニシアレバ》 皇之《オホキミノ》 引乃眞爾眞荷《ヒキノマニマニ》 春花乃《ハルバナノ》 遷日易《ウツロヒカハリ》 村鳥乃《ムラトリノ》 且立徃者《アサタチユケバ》 刺竹之《サスタケノ》 大宮人能《オホミヤヒトノ》 蹈平之《フミナラシ》 通之道者《カヨヒシミチハ》 馬裳不行《ウマモユカズ》 人裳往莫者《ヒトモユカネバ》 荒爾異類香聞《アレニケルカモ》
 
(八隅知之)私ノオ仕ヘ申ス天子樣ガ、立派ニ御支配遊バス大和國ハ、天子樣ノ御先祖ノ神武天皇ト申シアゲル〔神武〜傍線〕神樣ノ御代カラシテ、御支配遊バシタ國デアルカラ、オ生レ遊バス皇子ガ、繼々ニ相承ケ遊バシテ、天下ヲ御支配ナサレト、千萬年ノ後マデモ、豫想シテ都ト〔二字傍線〕定メタノデアラウト思ハレル〔五字傍線〕平城ノ都ハ、(炎乃)春ニナルト、春日山ノ三笠ノ野ノアタリニ、櫻花ハ木ノ繁ツタ所ニ隱レテ咲キ、貌鳥ハ絶エ間モナク頻リニ鳴イテヰル(露霜乃)秋ニナルト、生駒山ノ飛火ガ岡デ、萩ノ枝ヲ柵ノヤウニ結ンデ花ヲ散ラシテ、男鹿は妻ヲ呼ンデ聲ヲ響カセ、山ヲ見レバ山モ景色ガヨクテ〔六字傍線〕見タイ氣ガスル、里ヲ見ルト里モヨクテ〔五字傍線〕住ミ心地ガヨイ。朝廷ニ仕ヘル〔六字傍線〕役人ノ大勢ノ者ノ長ドモガ、里ニ家ヲ並ベ建テルト、天ト地トガ相合スルヤウニナルマデ、天地ノアランカギリ〔九字傍線〕萬世ノ後マデモ榮エテ行クダラうト思ツタ御所サヘモ、タノミニシテヰタ奈良ノ都サヘモ、新シイ御代デアルカラ、今ノ〔二字傍線〕天子樣ガ御引連レナサルニ從ツテ、(春花乃)遷リ易ツテ平城ノ都ヲ〔五字傍線〕(村鳥乃)朝立ツテ行クト、(刺竹之)大宮人ガ蹈ミナラシテ通ツタ道ハ、コノ頃ハ〔四字傍線〕馬モ通ハズ人モ通ラナイノデ、荒レハテテ終ツタワイ。
 
○高敷爲《タカシカス》――高く領し支配し姶ふ。高は勢の盛なるを、尊んで言ふのである。○日本國者《ヤマトノクニハ》――日本は借字で、畿内の大和をさす。○皇祖乃《スメロギノ》――スメロギはスメラギ・スベラギと同じで、いづれの御代の天皇もスメロギたる(268)にかはりはないから、皇祖をもかく申し奉るのである。ここは神武天皇をさし奉つたものであらう。攷證に元明天皇としたのは誤つてゐる。○所知座跡《シラシイマセト》――略解にシラシマサムトとあるが、下へのつづきから言つて、代匠記に、シラシイマセトと訓んだのがよい。○炎乃《カギロヒノ》――枕詞。陽炎の燃ゆる春とつづく。○木晩※[穴/干]《コノクレガクリ》――木の闇く生ひ茂つてゐるところに隱れて。※[穴/干]は元暦校本に※[穴/牛]に作つたのがよい。※[穴/牛]は牢の俗字で、圍む意であるから、隱に通じて用ゐたのであらう。○貌鳥者《カホドリハ》――貌鳥はどんな鳥かわからない。呼子鳥だといふ説もある。ともかくもいつも春の鳥として歌はれてゐる。三七二參照。○露霜乃《ツユジモノ》――枕詞。露の降る秋とつづく。○射駒山《イコマヤマ》――鉤は元暦校本その他古寫本多く駒に作つてゐるから、誤に違ひない。眞淵が八鉤山かといひ、宣長が羽飼《ハガヒ》の誤としたのも、從ふべきでない。ここは春に東の春日山を歌ひ、秋に固の生駒山を歌つてゐるのである。○飛火賀塊丹《トブヒガタケニ》――飛火《トブヒ》は烽火。塊は舊訓クレとよんであるが、元暦校本によつて、嵬に改める。嵬は山の高く峻しき貌であるから、タケと訓むべきであらう。考にヲカとあるのは未だしい感がある。飛火が嵬は即ち生駒山のこと。續紀に「和銅五年正月壬辰、廢2河内國高安烽1始置2高見烽及大倭國春日(269)烽1、以通2平城1也」とある高見烽が、この生駒の烽である。高見は、暗峠の北方にある。蓋し高安では南に偏するので、平城遷都と共に烽を生駒に移したのである。○石辛見散之《シガラミチラシ》――しがらみて散らす。しがらむは繁く絡む意か。古今集秋上に、「秩萩をしがらみ伏せて鳴く鹿の目には見えずて音のさやけさ」、拾遺集雜下に「さをしかのしがらみふする秋はぎは下葉や上になりかへるらむ」とあるのも同じで、しがらみちらすは鹿が萩の中を徘徊して、絡み歩いて花を散らすこと。○物負之八十伴緒乃《モノノフノヤソトモノヲノ》――モノノフは狹義では武士、廣義では朝廷奉仕の官人。ここは廣義の方に見なければならぬ。八十件緒は八十の輩《トモガラ》の長の意。○思並敷者《サトナミシケバ》――思は里の誤と童蒙抄にあるのに從ふ。家を並べて賑かに住んでゐること。○天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノカギリ》――眼を考にキハミと訓んだのもよいやうだが、なほ文字通りにカギリがよい。この句は卷二に天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》(一六七)とあつたのと同意である。○思煎石《オモヒニシ》――元暦校本・神田本などの古訓は、オモヒイリシであるから、恐らくこれが古點であらう。この煎の字は集中ここに用ゐられてゐるのみ。卷十三に津煎裳無《ツレモナク》(三三四一)・(三三四三)があるが、これは烈の誤らしい。從つてこの字を、何と訓むのが適當であるか、判斷に苦しむ。舊訓に從つて、ニの假名と見るのが穩やかであらうと思はれるから、暫くニと訓んで置く。○新世乃《アラタヨノ》――新世は今上天皇の御代をいふ。古義に「新々に經更る世間のならひにてあれば」とあるのは從はれない。○引乃眞爾眞爾《ヒキノマニマニ》――卒ゐて行き給ふままに。攷證に都を移すことと見たのはよくない。○春花乃《ハルバナノ》――枕詞。遷《ウツロ》ふにつづく。○村鳥乃《ムラトリノ》――枕詞。鳥が塒を朝飛立つので且立往者《アサタチユケバ》につづけてゐる。○刺竹之《サスタケノ》――枕詞。大宮につづく。九五五參照。
〔評〕 卷一の過2近江荒都1時柿本朝臣人麿作歌(二九)や、卷三の山部宿禰赤人登2春日野1作歌(三七二)などに用語の似た點はあるが、寧樂の都の由縁を語り、形勝を讃へ、それが一朝にして荒廢に歸した状態を述べて、實にあはれが深い。組織の整つたかなり洗練せられた佳作である。それだけ古代の素朴さが失せてゐるのはやむを得ない。
 
反歌二首
 
1048 立ちかはり 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生ひにけり
 
(270)立易《タチカハリ》 古京跡《フルキミヤコト》 成者《ナリヌレバ》 道之志婆草《ミチノシバクサ》 長生爾異梨《ナガクオヒニケリ》
 
昔トハ〔三字傍線〕ウツテカハツテ、コノ奈良ノ都モ〔七字傍線〕、舊イ都トナツテシマツタカラ、往來ノ人モ少イノデ〔九字傍線〕、道ノ芝草ガ長ク生エタワイ。アア何伺トイフヒドイ荒涼タル景色デアラウ〔アア〜傍線〕。
 
○立易《タチカハリ》――立《タチ》は接頭語のみ。古義に「帝都の建替と云なり」とあるのはわるい。○道之志婆草《ミチノシバクサ》―道傍の雜草をいふ。シバは莱草。八八六參照。畳薦隔編數通者道之柴草不生有申尾《タタミコモヘダテアムカズカヨハサバミチ/シバクサオヒザラマシヲ》(二七七七)ともある。
〔評〕 實に淋しい哀感が漂つてゐる作だ。荒涼たる情景が目に浮ぶやうだ。
 
1049 なつきにし 奈良の都の 荒れゆけば 出で立つごとに 嘆きし益る
 
名付西《ナツキニシ》 奈良乃京之《ナラノミヤコノ》 荒行者《アレユケバ》 出立毎爾《イデタツゴトニ》 嘆思益《ナゲキシマサル》
 
馴レ親シンダ奈良ノ都ガ、段々荒レテ行クノデ、悲シクテ私ハ〔六字傍線〕外出シテソノ荒レタ景色ヲ見ル〔シテ〜傍線〕度ニ嘆キガ益シテ行クヨ。
 
○名付西《ナツキニシ》――ナツキは馴著《ナレツキ》の略か。馴れ親しむこと。
〔評〕 出立毎爾《イデタツゴトニ》が、屋外の荒涼たる有様を思はしめる。この作者が、道の芝草に涙の雨を注ぎながら.歩いてゐる様も想像せられる。
 
讃(ムル)2久邇新宮(ヲ)1歌二首井短歌
 
久邇新宮は四七五及び七六五の地圖と口繪寫眞の説明とを參照せられたい。
 
1050 現つ神 わが大きみの 天の下 八島のうちに 國はしも 多くあれども 里はしも さはにあれども 山並の 宜しき国と 川なみの 立合ふさとと 山城の 鹿脊山のまに 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布當の宮は 河近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼びとよめ 春されば 岡べもしじに 巖には 花さきををり あな面白 布當の原 いと貴 大宮どころ うべしこそ わが大きみは 君のまに きかし給ひて さす竹の 大宮此處と 定めけらしも
 
明津神《アキツカミ》 吾皇之《ワガオホキミノ》 天下《アメノシタ》 八島之中爾《ヤシマノウチニ》 國者霜《クニハシモ》 多雖有《オホクアレドモ》 里者霜《サトハシモ》 澤爾雖有《サハニアレドモ》 山並之《ヤマナミノ》 宜國跡《ヨロシキクニト》 川次之《カハナミノ》 立合郷跡《タチアフサトト》 山代乃《ヤマシロノ》 鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太敷奉《フトシキマツリ》 高知爲《タカシラス》 布當乃宮者《フタギノミヤハ》 河近見《カハチカミ》 湍音叙清《セノトゾキヨキ》 山近見《ヤマチカミ》 鳥賀鳴慟《トリガネトヨム》 秋去者《アキサレバ》 山裳動響爾《ヤマモトドロニ》 左男鹿者《サヲシカハ》 妻呼令響《ツマヨビトヨメ》 春去者《ハルサレバ》 岡邊裳繁爾《ヲカベモシジニ》 巖者《イハホニハ》 花開乎呼里《ハナサキヲヲリ》 痛※[立心偏+可]怜《アナオモシロ》 布當乃原《フタギノハラ》 甚貴《イトタフト》 大宮處《オホミヤドコロ》 諾己曾《ウベシコソ》 吾大王者《ワガオホキミハ》 君之隨《キミノマニ》 所聞賜而《キカシタマヒテ》 刺竹乃《サスタケノ》 大宮此跡《オホミヤココト》 定異等霜《サダメケラシモ》
 
現世ノ生キタ神樣デイラツシヤル、私ノオ仕ヘ申ス天子樣ガ御支配遊バス〔七字傍線〕、天ノ下ノ大八洲國ノ中ニ、國ハサア澤山アルガ、里ハサア澤山アルガ、山ノ並ビノヨイ國デアルトテ、川ノ流ガ續イテ兩方カラ流レ合ツテヰル佳イ〔二字傍線〕里デアルトテ、山背ノ國ノ鹿脊ノ山ノ間ニ、御所ノ柱ヲ太ク御構ヘナサツテオ立テ遊バシテ、立派ニ御支配遊バス布當ノ宮ハ、河ガ近イノデ瀬ノ音ガ清《サヤ》カデアル。山ガ近イノデ鳥ノ音ガ響イテ聞エル。秋ニナルト山モ響ク程、男鹿ガ妻ヲ呼ンデ叫ビ、春ニナルト岡ノアタリモ一面ニ〔三字傍線〕繁ク、岩ノ上ニハ花ガ咲イテ枝モ〔二字傍線〕曲ツテヰテ、アアヨイ所ダ、コノ布當ノ原ハ。實ニ貴イ所ダ、コノ御所ノアル所ハ。私ノオツカヘ申ス天子樣ガ、天子樣デアルカラ、ヨイ所ト〔四字傍点〕オ聞キニナツテ、(刺竹乃)大宮ヲ此處トオ定メニナツタノハ、御尤モノコトダヨ。
 
○明津神《アキツカミ》――孝徳天皇紀に明津神《アキツカミ》御宇日本天皇とあり、天武天皇紀の詔にも、明神《アキツカミ》御大八洲日本根子天皇とある。明は借字で、現つ神、この世におはします神樣の意、〇八島之中爾《ヤシマノウチニ》――八島は大八洲。吾が國を大八島國といふ理由は、古事記上卷に、伊邪那岐命、伊那那美命が、御子生みませる時、淡道之穗之狹別島、次に伊豫之二名島、次に隱伎之三子島、次に筑紫島、次に伊伎島、次に津島、次に佐渡島、次に大倭豐秋津島を生み給うた。この八島を最初に生み給うたので、大八島國と謂ふと記してあるが、これは後世から説明した傳説で、八(272)は數の多いことを示したに過ぎない。○山並之《ヤマナミノ》――山の並びが。○川次之《カハナミノ》――川の流れ續きが。○立合郷跡《タチアフサトト》――川の流れ合ふ里なりとての意。恭仁京は、泉川と布當川との合流點近くにある。舊本、郷を卿に誤つてゐる。○鹿脊山際爾《カセマノマニ》――鹿脊山は泉川の南方、奈良山の北方に聳える山。恭仁京はこの山以東を左京とし、以西を右京としたから、つまり都の中心になつてゐた。一〇五六の寫處參照。○太敷奉《フトシキマツリ》――舊訓フトシキタテテとあるのはよくない。古義にフトシキマツリとあるのがよい。○布當乃宮者《フタギノミヤハ》――下にあるやうに、布當の原にあるから、恭仁京を、かうも呼ぶのである。その平地を布當乃野(一〇五一)といひ、そこの山を布當山(一〇五五)と稱し、泉川に注ぐ川を布當川といふのである。○鳥賀鳴慟《トリガネトヨム》――慟をトヨムと用ゐた例は、集中、この他にない。動をトヨムに用ゐた例が多いから、それと通用したものであらう。○花開乎呼理《ハナサキヲヲリ》――枝もたわわに花咲くこと。卷三に花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》(四七五)とある。○痛※[立心偏+可]怜《アナオモシロ》――舊訓イトアハレとあるのを、考にはアナニヤシ、略解はアナアハレ、攷證はアナタヌシとしてゐるが、古義にアナオモシロとあるに從ふ。○甚貴《イトタフト》――舊訓イトタカキを、略解にアナタフトとしてゐる。甚はイトと訓むべきであるから、イトタフトとする。○君之隨《キミノマニ》――君にてましますままにの意。○刺竹乃《サスタケノ》――枕詞。大宮とつづく。九五五參照。
〔評〕 恭仁京の山川の美を褒め、これに春の花秋の鹿などを配して、巧みにその好景を讃へ、天皇がここに皇都を御選定遊ばされたのは、道理あることと結んでゐる。皇室中心の時代思想もよくあらはれ、この種の歌としては、形式のよく具備したものであらう。
 
反歌二首
 
1051 三日の原 布當の野べを 清みこそ 大宮どころ 定めけらしも 一云こことしめさす
 
三日原《ミカノハラ》 布當乃野邊《フタギノヌベヲ》 清見社《キヨミコソ》 大宮處《オホミヤドコロ》 定異等霜《サダメケラシモ》【一云、此跡標刺《ココトシメサス》】
 
三日ノ原ノ布當ノ野ガヨイ景色デアルカラシテ、御所ヲ此處ニ〔三字傍線〕オ定メナサツタノダラウナ。
 
○三日原《ミカノハラ》――泉川治岸の平地をいふ。卷四の五四六に、三香原離宮とあるのは、川の南岸であるが、ここのは(273)北方の平地である。○一云、此跡標刺《ココトシメサス》――舊本にはない。元暦校本によつて補ふ。第五句の異傳であらう。これを佛足跡歌體の第六句と見られないこともないが、それでは落付きが惡い。
〔評〕 平板なありのままな歌。
 
1052 山高く 川の瀬清し 百世まで 神しみ行かむ 大宮どころ
 
弓高來《ヤマタカク》 川乃湍清石《カハノセキヨシ》 百世左右《モモヨマデ》 神之味將往《カムシミユカム》 大宮所《オホミヤドコロ》
 
山ガ高ク、川ノ瀬ハ清イ。ホントニヨイ所ダ。コノ久邇ノ〔ホン〜傍線〕大宮所ハ百代ノ後マデモ神々シク古ビテ〔三字傍線〕行クデアラウ。
 
○弓高來《ヤマタカク》――1弓は山の誤であらうが、古本すべてかうなつてゐる。○神之味將往《カムシミユカム》――シミはサビと同じで、カムシミは神サビであらう。木村正辭の字音辯證に、之の呉音サイを省いたので、サビと訓むのだといつてゐるのは、韻鏡濫用の僻論である。
〔評〕 これも前の歌と同じやうな歌品で、ただ形式的に反歌として添へた感がある。
 
1053 吾が大きみ 神の命の 高知らす 布當の宮は 百木もり 山は木高し 落ちたぎつ 瀬の音も清し 鶯の 來鳴く春べは 巖には 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧ふ 時雨をいたみ さ丹づらふ もみぢ散りつつ 八千年に あれつがしつつ 天の下 知ろしめさむと 百代にも 見るべからぬ 大宮處
 
吾皇《ワガオホキミ》 神乃命乃《カミノミコトノ》 高所知《タカシラス》 布當乃宮者《フタギノミヤハ》 百樹成《モモキモリ》 山者木高之《ヤマハコダカシ》 落多藝都《オチタギツ》 湍音毛清之《セノトモキヨシ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 來鳴春部者《キナクハルベハ》 巖者《イハホニハ》 山下耀《ヤマシタヒカリ》 錦成《ニシキナス》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》 左牝鹿乃《サヲシカノ》 妻呼秋者《ツマヨブアキハ》 天霧合《アマギラフ》 之具禮乎疾《シグレヲイタミ》 狹丹頬歴《サニヅラフ》 黄葉散乍《モミヂチリツツ》 八千年爾《ヤチトセニ》 安禮衝之乍《アレツガシツツ》 天下《アメノシタ》 所知食跡《シロシメサムト》 百代爾母《モモヨニモ》 不可易《カハルベカラヌ》 大宮處《オホミヤドコロ》
 
私ノオ仕へ申ス天子樣、コノ世ニオイデニナル〔コノ〜傍線〕神樣ガ、盛ナ御威勢デ御支配遊バス布當ノ宮ハ、(百樹成)山ハ木ガ高ク生エテヰルシ、泡立ツテ流レル川ノ〔二字傍線〕瀬ノ音モ清イ。鶯ガ來テ鳴ク春頃ニハ、岩ノ上ニハ山モ照り輝ク(274)ヤウニ、錦ノヤウナ花ガ枝モタワワニ咲キ、男鹿ガ妻ヲ呼ブ秋ニハ、空カキ曇ツテ降ル時雨ガヒドイノデ、赤イ色ノ紅葉ガ散ツテヰル。カウシテ〔七字傍線〕、八千年ノ後マデモ、段々ト天子様ガ御〔八字傍線〕生レ繼ニナツテ、天下ヲ此處デ〔三字傍線〕御支配ナサラウト、百代ノ後マデモ變ラナイ筈ノ大御所デアルヨ。
 
○百樹成《モモキモリ》――山の枕詞に相違ないが、成の字の訓が明らかでない爲、つづき方が分らない。成は次の錦成《ニシキナス》にならつてナスとよめば、如くの意であるが、よく通じない。又、冬木成《フユコモリ》(一六)にならつて、モリとよめば百木茂りなどの意と見ることも出來よう。假にモリとして置かう。古義は宣長説に從つてモモキモルとよんでゐる。○山下耀《ヤマシタヒカリ》――色の赤く照ることを、下照るとも、下光るともいふので、山の麓が光るのではない。卷十五に、安之比奇能山下比可流毛美知葉能《アシビキノヤマシタヒカルモミヂバノ》(三七〇〇)・卷十八|多知婆奈能之多泥流爾波爾《タチバナノシタテルニハニ》(四一三九)など、その他例が多い。○狹丹頼歴《サニヅラフ》――サは發語で、ニヅラフは色の紅いこと、枕詞と見る説もあるが、狹丹頬相吾大王者《サニヅラフワガオホギミハ》(四二〇)・狹丹頬相紐解不離《サニヅラフヒモトキサケズ》(五〇九)などの例にならつて、枕詞と見ないことにする。○安禮衝之乍《アレツガシツツ》――アレは生れ、ツガシツツは繼ぎ給ひつつ。卷一の安禮衝哉《アレツガム》(五三)參照。古義には、顯齋《アレツク》で、朝廷に奉仕することとしてゐる。
〔評〕 これは前の長歌を、少し短くしたやうな作であるが、宮の永久をことほぐことに重點を置いてゐる點が、少し異なつてゐる。やはり前と同一作家らしい歌風である。
 
反歌五首
 
1054 泉川 ゆく瀬の水の 絶えばこそ 大宮どころ 遷ろひ往かめ
 
泉川《イヅミガハ》 往瀬乃水之《ユクセノミヅノ》 絶者許曾《タエバコソ》 大宮地《オホミヤドコロ》 遷在目《ウツロヒユカメ》
 
泉川ノ流レル瀬ノ水ガ絶エタナラバコソ、コノ〔二字傍線〕御所ハ他ヘ變ルデアラウ。コノ川ノ水ガナクナルコトハナイカラ、御所モナクナルコトハナイ〔コノ〜傍線〕。
 
○泉川《イヅミガハ》――今の木津川。五〇參照。
(275)〔評〕 卷七に泊瀬川流水沫之絶者許曾吾念心不逐登思齒目《ハツセガハナガルミナワノタエバコソワガオモフココロトゲジトオモハメ(一三八二)とあるのと、多少の類似點もあるが、これに傚つたわけでもあるまい。長歌の意を繰返したまでである。
 
1055 布當山 山並みれば 百代にも 易るべからぬ 大宮どころ
 
布當山《フタギヤマ》 山並見者《ヤマナミミレバ》 百代爾毛《モモヨニモ》 不可易《カハルベカラヌ》 大宮處《オホミヤドコロ》
 
布當山ノ山ノナラビガヨイノ〔四字傍線〕ヲ見ルト、百代ノ後マデモ易ルコトハアリサウニモナイ御所ダ。コノ御所ハ永久ニツヅクデアラウ〔コノ〜傍線〕。
〔評〕 長歌の終末の三句を、そのままこの歌の下句としてゐるのはあまりに藝がない。
 
1056 をとめらが うみ苧かくとふ 鹿脊の山 時しゆければ 都となりぬ
 
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 續麻繋云《ウミヲカクトフ》 鹿脊之山《カセノヤマ》 時之往者《トキシユケレバ》 京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》
 
昔ハ何モナカツタコノ〔昔ハ〜字傍線〕(※[女+感]嬬等之續麻繋云)鹿脊ノ山ハ、時節ガ經ツテ、時世ガカハツ〔七字傍線〕タノデ今ハ都トナツタ。
 
○※[女+感]嬬等之續麻繋云《ヲトメラガウミヲカクトフ》――序詞。少女子らが績んだ麻糸を懸けるといふ※[木+峠の旁]《カセ》とつづけて、鹿脊之山にかけたのである。※[木+峠の旁]《カセ》は、新撰字鏡に、※[木+峠の旁]力棟反、加世比とあり、カセヒと(276)も言つたのである。續日本後記、天長十年三月乙卯の條に、山城國相樂郡※[木+峠の旁]山とあるのは、この鹿脊山のことで、カセともよんだ證である。※[女+感]嬬の二字については、四〇參照。挿入寫眞は恭仁京址から布當野を距てて西方鹿脊山(左)と狛山(右)とを望んだところ。萬葉古蹟寫眞による。
〔評〕 鹿脊の山邊が、意外にも帝都となつた驚きを述べたのである。卷十九に皇者神爾之座者赤駒之腹姿布田爲乎京師跡奈之都《オホキミハカミニシマセバアカコマノハラバフタヰヲミヤコトナシツ》(四二六〇)などに似たところもあるが、これは時又往者《トキシユケレバ》と言つて、時勢の變遷によつて、萬物の變轉するを痛感した言ひ方である。
 
1057 鹿脊の山 木立をしげみ 朝さらず 來鳴きとよもす 鶯の聲
 
鹿脊之山《カセノヤマ》 樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》 朝不去《アササラズ》 寸鳴響爲《キナキトヨモス》 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
 
鹿脊ノ山ハ樹ガ繋ク生エテヰルノデ、毎朝毎朝、來テハ鳴キサワグ鶯ノ聲ガスル。ホントニヨイ聲ダ〔ガス〜傍線〕。
 
○朝不去《アササラズ》――朝も洩れず。毎朝。
〔評〕 前の三首と異なつて、新都をそのままに讃美せずに、春の鹿脊山の、朝な朝なの鶯の聲を歌つて、まことに長閑な氣分の歌である。この歌、和歌童蒙抄に載せゐる。
 
1058 狛山に 鳴く郭公 泉川 渡を遠み ここに通はず 一云、渡遠みや 通はざるらむ
 
狛山爾《コマヤマニ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 泉河《イヅミガハ》 渡乎遠見《ワタリヲトホミ》 此間爾不通《ココニカヨハズ》
》 一云 渡遠哉不通有武
 
狛山デ嶋ク郭公は、泉河ノ渡リ瀬ガ遙カニ遠イノデ、此處マデハ來ナイ。ココマデ鳴イテ來レバヨイニ〔ココ〜傍線〕。
 
○狛山爾《コマヤマニ》――狛山は泉川の北岸、恭仁京の西方にある、七六五の地圍參照。○渡乎遠見《ワタリヲトホミ》――渡は泉川の渡瀬である。
〔評〕 これは泉川の對岸に住む人の作で、川の渡瀬が遠いので、郭公が通つて來ないやうに、人めかして言つて(277)ゐる。○一云、渡遠哉不通有武《ワタリトホミヤカヨハザルラム》は、少しく娩曲に言つたまでで、内容に變りはない。略解に、「反歌にほととぎすを詠めるはつきなし。此一首は別の歌なるべし」とあるのも、尤もらしいが、郭公はただ夏の景をよんだもので、前の鶯の歌と氣分も似てゐるから、これを反歌以外に除き去るわけにはゆかぬやうである。
 
春(ノ)日、悲2傷(ミテ)三香原(ノ)荒墟(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
 
續紀に「天平十五年十二月辛卯、初壞2平城大極殿并歩廊1遷2造於恭仁宮1、四2年於茲1其功纔畢矣、用度所v費不v可2勝計1、至v是更造2紫香樂宮1、仍停2恭仁宮造作1焉、十六年閏正月乙丑朔、詔喚2會百官於朝堂1問曰、恭仁難波二京、何定爲v都、各言2其志1、於是陳2恭仁京便宜1者、五位已上二十三人、六位已下百五十七人、陳2難波京便宜1者、五位已上二十三人、六位已下一百三十人、二月甲寅、運2恭仁宮高御座并大楯於難波宮1、庚申、左大臣宣v勅云、今以2難波宮1定爲2皇都1」とあり、天平十二年十二月、橘諸兄がこの地を經始し遷都に擬し、翌十三年正月、天皇ここに朝賀を受けさせられてから、三年餘で難波に遷都せられることになり、恭仁京は荒廢に歸したのである。
 
1059 三香の原 久邇の都は 山高く 河の瀬清み 住みよしと 人はいへども 在りよしと 我は念へど 古りにし 里にしあれば 國見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり はしけやし 斯くありけるか みもろつく 鹿脊山のまに 咲く花の 色めづらしく 百鳥の 聲なつかしく ありがほし 住みよき里の 荒るらく惜しも
 
三香原《ミカノハラ》 久邇乃京師者《クニノミヤコハ》 山高《ヤマタカク》 河之瀬清《カハノセキヨミ》 在吉迹《スミヨシト》 人者雖云《ヒトハイヘドモ》 在吉跡《アリヨシト》 吾者雖念《ワレハオモヘド》 故去之《フリニシ》 里爾四有者《サトニシアレバ》 國見跡《クニミレド》 人毛不通《ヒトモカヨハズ》 里見者《サトミレバ》 家裳荒有《イヘモアレタリ》 波之異耶《ハシケヤシ》 如此在家留可《カクアリケルカ》 三諸著《ミモロツク》 鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》 開花之《サクハナノ》 色目列敷《イロメヅラシク》 百鳥之《モモトリノ》 音名束敷《コヱナツカシク》 在杲石《アリガホシ》 住吉里乃《スミヨキサトノ》 荒樂苦惜喪《アルラクヲシモ》
 
三香ノ原ニアル久邇ノ都ハ、山ガ高ク河ノ瀬ガ清イノデ、居リヨイ所ダト人ハ云フガ住ミヨイ所ダト私ハ思フ(278)ガ、舊都トナツタ所ダカラ、國ヲ見テモ人モ通ハナイ。里ヲ見ルト家モ荒レテヰル。可愛サウナコトダ。コンナニ荒レ果テテシマフベキデアツタカ。神樣ヲ齋キ祭ル、鹿脊ノ山ノ間ニ、咲ク花ノ色モ珍ラシク、澤山ノ鳥ノ聲ガナツカシク聞エテ、カウシテ居タイコノ住ミヨイ里ガ、荒レルノハ惜シイコトダ。
 
○在吉迹《スミヨシト》――略解に「宣長云、或人の説に、後の在吉の在は住の誤なるべし。末にありがほし住よき里とあれば也と言へり。是然るべし」とある。併し前の在を類聚古集に住に作つてゐるから、それに從ひたい。○故去之里爾四有者《フリニシサトニシアレバ》――故去之里《フリニシサト》は舊都・故郷。香具山乃故去之里乎不忘之爲《カグヤマノフリニシサトヲワスレヌガタメ》(三三四)とある。○波之異耶《ハシケヤシ》――耶の下に思《シ》の字が脱ちたのであらう。釋日本紀卷第二十四に荒家有波之異耶思加此在家留可《イヘモアレタリハシケヤシカクアリケルカ》として出てゐる。この句の下に脱句あるものと見る説が多い。この語は名詞の上に冠するを例とするからである。併しかうした用法も不合理ではない。原義は愛《ハ》しき意であるが、ここは、いとしい、可愛さうなといふやうな意になつてゐる。これを鹿脊山にかかると見る説は、採るに足らぬ。○三諸著《ミモロツク》――三諸は御室《ミモロ》で、神社、ツクは齋《イツ》くの略であらう。卷十九に春日野爾伊都久三諸乃梅花《カスガヌニイツクミモロノウメノハナ》(四二四一)とある。御室築《ミモロツク》とする説もよいやうであるが、築くは牆などにいふべきで、御室にはふさはしくないからとらない。略解にあげた宜長説に生緒繋《ウミヲカク》の誤とある。○在杲石《アリガホシ》――在が欲しで、在りたいと思ふの意。杲は見杲石山跡《ミガホシヤマト》(三八二)とある(279)ところに説明した通り、字音によつてカホに用ゐたのであらう。
〔評〕 恭仁京を難波に遷すことは、當時一般に喜ばれなかつたところで、右に掲げた續紀の文にもある通り、遂に採決に問うた結果、恭仁京を便とするもの五位以上二十三人二、六位以下百五十七人、難波京を便とするものは、五位以上二十三人、六位以下百三十人で、高官の間では全く同點であつたが、卑官の得點は恭仁京が多かつたのである。況んや、巨勢奈?麻呂と藤原仲麻呂とを遣はして、市に就いて問はしめられた時、市人は皆、恭仁京を以て都と爲し給はむことを願つた。難波と平城とを希望した者は各、唯一人のみであつたのであるから、この遷都が民衆の意志に反してゐたことはいふまでもない。この長歌の作者はこれらの大衆の聲を代表してゐるといつてもよいので、三香原の荒墟に、愛惜の涙を濺ぐ氣分がよくあらはれてゐる。これも前の作者と同人らしい歌ひぶりである。
 
反歌二首
 
舊本三首とあるは誤。元暦校本によつて改む。
 
1060 三香の原 久邇の京は 荒れにけり 大宮人の うつろひぬれば
ミカノハラクニノミヤコハアレニケリオホミヤビトノウツロヒヌレバ
大宮人ガ難波ノ京ヘ〔五字傍線〕引キ遷ツテ行ツタノデ、三香ノ原ノ久邇ノ都ハ荒レ果テテ終ツタワイ。アア淋シクナツタ〔八字傍線〕。
 
○遷去禮者《ウツロヌレバ》――舊訓ウツリイヌレバとあるよりも、考にウツロヒヌレバと訓んだのがよい。
〔評〕 大宮人乃遷去禮者《オホミヤビトノウツロヒヌレバ》とあるのが、民衆の聲らしい感を與へる。大宮人によつて繁榮を來した恭仁の郷が、遷都によつて淋れ行くのは當然である。三句の荒去家里《アレニケリ》が悲歌の聲である。
 
1061 咲く花の 色はかはらず 百敷の 大宮人ぞ 立ちかはりぬる
 
咲花乃《サクハナノ》 色者不易《イロハカハラズ》 百石城乃《モモシキノ》 大宮人叙《オホミヤビトゾ》 立易去流《タチカハリヌル》
 
(280)咲ク花ノ色ハ變ラナイ。シカシ〔三字傍線〕(百石城乃)大宮人ガ難波ニ引キ遷ツテ〔八字傍線〕、變ツテシマツタヨ。
 
○立易去流《タチカハサヌル》――第二句の色者不易《イロハカハラズ》に對したので、立《タチ》は添へただけ。大宮人の去つたのをかく言つたのである。
〔評〕 年々歳々相似た春の花に對して、廢都の惨状を嘆いて、都の附隨者であり代表者でもある大宮人を戀しく思つたのである。近江の荒都を過ぎて、人麿が大宮人之船麻知兼津《オホミヤビトノフネマチカネツ》(三〇)と詠んだのも同じやうな心境であらう。花に思を寄せた點は、古今集の平城帝の御歌「ふるさととなりにしならの京にも色はかはらず花は咲きけり」と相通ずるものがある。
 
難波宮(ニテ)作(レル)一首并短歌
 
難波宮は右に引いた續紀の文に「天平十六年二月庚申、以2難波宮1定爲2皇都1」とあつて。この時から帝都と定まつた。歌中に味原宮《アヂフノミヤ》とあるから、孝徳紀に見える味經宮の舊地で、今の大阪市の東部、小橋寺町の西、桃木原御殿臺であらうといふ。一説に三島郡味生といふ。九二八參照。
 
1062 やすみしし 吾が大きみの 在り通ふ 難波の宮は いさなとり 海片つきて 玉拾ふ 濱邊を近み 朝はふる 浪の音さわぎ 夕なぎに 櫂のと聞ゆ あかときの 寢覺にきけば わたつみの 汐干のむた 浦渚には 千鳥妻呼び 葭べには 鶴が音とよむ 見る人の かたりにすれば 聞く人の 見まくほりする みけむかふ 味ふの宮は 見れど飽かぬかも
 
安見知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 在通《アリガヨフ》 名庭乃宮者《ナニハノミヤハ》 不知魚取《イサナトリ》 海片就而《ウミカタツキテ》 玉拾《タマヒリフ》 濱邊乎近見《ハマベヲチカミ》 朝羽振《アサハフル》 浪之聲※[足+參]《ナミノトサワギ》 夕薙丹《ユフナギニ》 櫂合之聲所聆《カヂノトキコユ》 曉之《アカトキノ》 寐覺爾聞者《ネザメニキケバ》 海石之《ワタツミノ》 鹽干乃共《シホヒノムタ》 納渚爾波《ウラスニハ》 千鳥妻呼《チドリツマヨビ》 葭部爾波《アシベニハ》 鶴鳴動《タヅガネトヨム》 視人乃《ミルヒトノ》 語丹爲者《カタリニスレバ》 聞人之《キクヒトノ》 見卷欲爲《ミマクホリスル》 御食向《ミケムカフ》 味原宮者《アヂフノミヤハ》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
(安見知之)私ノ天子樣ガ、度々行幸遊バス難波ノ宮ハ(不知魚取)海ニ片寄リ付イテヰテ、玉ヲ拾フ濱邊ガ近(281)イノデ、朝風ニツレテ立ツ浪ノ音ガ噪ガシク聞エ、夕方風ノ鎭マツタ時ニ舟ヲ漕グ〔四字傍線〕櫂ノ音ガ聞エル。夜明ケ方ノ目覺メタ時ニ聞クト、海ノ汐干ニツレテ、濱ノ洲ニハ千鳥ガ妻ヲ呼ンデ鳴キ、蘆ノ生エテヰルアタリニハ、鶴ガ鳴キ噪イデヰル。ホントニ佳イ所ダ。此處ヲ〔ホン〜傍線〕見ル人ガ語草ニスルト、ソレヲ〔三字傍線〕聞ク人ハ又〔傍線〕見ヨウト思フ、コノ(御食向)味原ノ宮ハイクラ〔三字傍線〕見テモ見飽カナイナア。
 
○不知魚取《イサナトリ》――枕詞。海とつづく。勇魚《イサナ》は鯨のことだといはれてゐる。○海片就而《ウミカタツキテ》――片就は片寄り付きで、海に近いこと。山片就而《ヤマカタツキテ》(一八四二)谷可多頭伎?《タニカタツキテ》(四二〇七)ともある。○朝羽振《アサハフル》――一三一參照。○浪之聲※[足+參]《ナミノトサワギ》――※[足+參]はこの他に葦邊爾※[足+參]《アシベニサワギ》(一〇六四)浪※[足+參]香《ナミノサワギカ》(二〇四七)の二例があるだけで、珍らしい字である。或は驂乎聞者《サワグヲキケバ》(一一八四)・友之驂爾《トモノサワギニ》(二五七一)などの驂と同字か。攷證に※[足+參]は躁の俗字也とある。○櫂合之聲所聆《カヂノトキコユ》――櫂合は舊本|擢合《カガヒ》とある、代匠記に擢を※[女+擢の旁]に改めてゐる。考は合を衍として擢をカヂとよんでゐる。擢は櫂で合は漕ぎ合ふ意で添へて書いたまでか。聆はさわやかに聽く意の文字である。○海石之《ワタツミノ》――舊訓アマイシノとあるのではわからない。略解に、石は若の誤としたのがよいやうだ。○納渚爾波《ウラスニハ》――納は?の誤か。納回往轉留《ウラミユキメグル》(三九〇)とあるのも、西本願寺本は?に作つてゐる。○御食向《ミケムカフ》――枕詞。味とつづくのは、御食に供へる味の意である。一九六・九四六參照。
〔評〕 難波京作歌とのみあるが、前の久邇新京を讃めた歌と同じく、新都禮讃の歌である。大體、人麿・赤人らの吉野宮の歌の跡を踏んだものだが、朝夕、?渚葭べ、千鳥鶴などの對句が巧みに並べられて、はつきりした歌である。
 
反歌二首
 
1063 在りがよふ 灘波の宮は 海近み あまをとめらが 乘れる船見ゆ
 
有通《アリガヨフ》 難波乃宮者《ナニハノミヤハ》 海近見《ウミチカミ》 漁童女等之《アマヲトメラガ》 乘船所見《ノレルフネミユ》
 
(282)度々陛下ガ〔五字傍線〕行幸遊バス、難波ノ宮ハ海ガ近イノデ、海人ノ少女ドモガ、乘ツテ魚ヲ捕ツテ〔五字傍線〕ヰル船ガ見エル。
〔評〕 宮城からの海の眺望が、さわやかに、よんである。海を珍らしがる都人の氣分も出てゐる。
 
1064 汐干れば 葦べに騷ぐ あしたづの 妻呼ぶ聲は 宮もとどろに
 
鹽干者《シホヒレバ》 葦邊爾※[足+參]《アシベニサワグ》 白鶴乃《アシタヅノ》 妻呼音者《ツマヨブコヱハ》 宮毛動響二《ミヤモトドロニ》
 
潮ガ干ルト、葦ノ生エテヰルアタリデ、噪イデ鳴イテヰル鶴ガ、妻ヲ戀シガツテ〔五字傍線〕呼ブ聲ハ、御所ノ中マデモ轟キ渡ツテ居ル。アア面白イ御所ダ〔八字傍線〕。
 
○白鶴乃《アシタヅノ》――考にシラツルノ、攷證にシラタヅノとあるが、舊訓に從つて置く。珍らしい用字列である。
〔評〕 卷三の長忌寸意吉麻呂の、大宮之内二手所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲《オホミヤノウチマデキコユアビキストアゴトトナフルアマノヨビコヱ》(二三八)と似て、しかも別の趣があり、縹渺たる風韻の漂つてゐる歌である。
 
過(グル)2敏馬浦(ヲ)1時作(レル)歌一首并短歌
 
敏馬浦は今の神戸市の東方、西灘村の海岸。二五〇の地圖參照。
 
1065 八千桙の 神の御世より 百船の はつる泊と 八島國 百船人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に 浦浪さわぎ 夕浪に 玉藻は來寄る 白まなご 清き濱べは 往き還り 見れども飽かず うべしこそ 見る人ごとに 語り繼ぎ 偲びけらしき 百世歴て しぬばえゆかむ 清き白濱
 
八千桙之《ヤチホコノ》 神之御世自《カミノミヨヨリ》 百船之《モモフネノ》 泊停跡《ハツルトマリト》 八島國《ヤシマグニ》 百船純乃《モモフナビトノ》 定而師《サダメテシ》 三犬女乃浦者《ミヌメノウラハ》 朝風爾《アサカゼニ》 浦浪左和寸《ウラナミサワギ》 夕浪爾《ユフナミニ》 玉藻者來依《タマモハキヨル》 白沙《シラマナゴ》 清濱部者《キヨキハマベハ》 去還《ユキカヘリ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 諾石社《ウベシコソ》 見人毎爾《ミルヒトゴトニ》 語嗣《カタリツギ》 偲家良思吉《シヌビケラシキ》 百世歴而《モモヨヘテ》 所偲將往《シヌバエユカム》 清白濱《キヨキシラハマ》
 
コノ天下ヲ御經營遊バシタ〔コノ〜傍線〕八千桙ノ神樣ノ御世カラ、多クノ船ノ泊ル港トシテ、日本國ノ多クノ船人ガ定メタ(283)敏馬ノ浦ハ、朝風ニ浦ノ浪ガ騷ギ、夕方立ツ浪ニ美シイ藻ガ打チ寄セテ來ル。白イ眞砂ノ清イ渡邊ハ、行ツタリ還ツタリシテ見テモ、見飽クコトガナイ。見ル人毎ニ此處ノ敏馬ノ浦ヲ〔八字傍線〕、語リ傳ヘテハ慕ウテ來タノハ尤モナコトダ。コノ清イ白濱ハ百代ノ後マデモ人ニ慕ハレテ忘レラレナイデ〔七字傍線〕行クダラウヨ。
 
○八千桙之神乃御世自《ヤチホコノカミノミヨヨリ》――八千桙の神は大己貴《オホナムチ》神の別名である。古事記によると、この神は大國主神|大穴牟遲《オホナムチ》神・葦原|色許男《シコヲ》神・八千矛神・宇都志國玉神の五つの御名があつたとある。八千桙は多くの桙で、即ちこの神名は多くの武器を有し、強大なる武力を有し給ふ神の意である。○八島國《ヤシマクニ》――前の讃久邇新京歌(一〇五〇)に八島之中爾《ヤシマノウチニ》とあつた八島と同じく、日本國をさしてゐる。○百船純乃《モモフナビトノ》――純をヒトとよむのは純一のヒトに借りたのである。一〇二三參照。○白沙《シラマナゴ》――沙はマサゴともよんであるが、マナゴがよいであらう。名高浦之愛子地《ナタカノウラノマナゴヂニ》(一三七二)などその例である。○偲家良思吉《シヌビケラシキ》――上にコソの係があつて、ここに家良思吉《ケラシキ》と結んである。卷一の古昔母然爾有許曾虚蝉毛嬬乎相格良思吉《イニシヘモシカナレコソウツセミモツマヲアラソフラシキ》(一三)と同格である。
〔評〕 敏馬浦の佳景をたたへたもの。この前の長歌どもと、全く手法を同じうしてゐるから、同一人の作たることは、疑ふ餘地がない。素純な、すつきりとした作ではあるが、敏馬といふ地の特性が出てゐない。
 
反歌二首
 
1066 まそかがみ 敏馬の浦は 百船の 過ぎて往くべき 濱ならなくに
 
眞十鏡《マソカガミ》 見宿女乃浦者《ミヌメノウラハ》 百船《モモフネノ》 過而可往《スギテユクベキ》 濱有七國《ハマナラナクニ》
 
(眞十鏡)敏馬ノ浦ハ多クノ船ガ、立チヨラズニ〔六字傍線〕空シク通リスギラレル濱デハナイヨ。景色ガヨイカラ皆立チ寄ツテ眺メテ行ク所ダ〔景色〜傍線〕。
 
○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。鏡は見るものなれば、見とつづけてある。
(284)〔評〕 長歌の百船之泊停跡八島國百楷純乃定而師三犬女乃浦者《モモフネノハツルトマリトヤシマクニモモフナビトノサダメテシミヌメノウラハ》とある意を、纏めたのである。このよい濱を、我は止まり難く過ぎて行くと、悲しむ意に見るのは當らないであらう。
 
1067 濱清み 浦うるはしみ 神代より 千船のとまる 大和田の濱
 
濱清《ハマキヨミ》 浦愛見《ウラウルハシミ》 神世自《カミヨヨリ》 千船湊《チブネノトマル》 大和太乃濱《オホワダノハマ》
 
濱ガ清イカラ、浦ガ美シイカラ、神代ノ昔カラ、多クノ船ガ泊ル大和田ノ濱ヨ。實ニヨイ所ダ〔七字傍線〕。
 
○千船湊《チブネノトマル》――湊の字、舊訓トマルを代匠記精撰本ツドフとし、考はハツルとしてゐる。字義に從へばツドフがよく、長歌中の百船之泊停跡《モモフネノハツルトマリト》にならへば、ハツルがよいやうである。然し集中の他の用例はすべてミナトであるから、ミナトの意を動詞にしたとすれば、トマルでもよいわけである。しばらく舊訓に從はう。○大和太乃濱《オホワダノハマ》――大和太は即ち兵庫のことで、古の務古《ムコ》の泊である。今、和田岬の名が存してゐる。三善清行意見封事に「臣伏見2山陽西海南海三道、舟船海行之程1、自2※[木+聖]生《ムロフ》泊1至2韓泊1一日行、自2韓泊1至2魚住泊1一日行、自2魚住泊1至2大輪田泊1一日行、自2大輪田泊1至2河尻1一日行、此皆行基菩薩計v程所2建置1也」とある。
〔評〕 これは敏馬浦つづきの大和田濱を褒めたので、長歌の冒頭の數句と同意である。
 
右二十一首田邊福麻呂之歌集中出也
 
悲2寧樂京故郷1作歌からここまで、二十一首は田邊福麻呂歌集中にあるといふのである。田邊福麻呂は、卷十八に天平二十年春三月二十三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗2于守大伴宿禰家持館1、爰新歌并使誦古詠と題して、作歌が出てゐる。この他卷九にもこの人の歌集中出の歌が出てゐる。以上の二十一首はこの人の自作と見ねばならない。
 
萬葉集卷第六
 
卷第七
 
(285)萬葉集卷第七解説
 
この卷の部門は雜歌・譬喩歌・挽歌の三に分たれてゐる。雜歌は詠天・詠月の如き詠物の歌十五種と、(他に思故郷がある)芳野作・山背作・攝津作・※[覊の馬が奇]旅作の如き旅行中の歌らしいもの、問答・臨時・就所發思・寄物發思・行路・旋頭歌等を含んで歌數二百二十八首であるが、旋頭歌二十五首を除けば、他はすべて短歌である。譬喩歌は寄衣・寄玉の如く物に寄せて作つたもの二十四種で、殆ど戀愛歌のみといつてよく、歌數は短歌百七首と他に旋頭歌が一首ある。挽歌は短歌のみで十三首ある。その終に※[覊の馬が奇]旅歌として一首載せてあるのは、前に掲ぐべきを脱したので、後から添へたものか。全體を通じて長歌は一首もなく、短歌三百二十四首、旋頭歌二十六首、總數三百五十首である。かくの如く歌の内容によつて類別せられてゐるにもかかはらず、旋頭歌のみは特にその種目を立てて別に記してゐる。歌の作者は記されてゐない。その中には民謠と思はれるものも多數に含まれてゐるやうである。併し雜歌のうちに「右七首者藤原卿作未審年月」と記したところがあるのは異例である。なほこの他、伊勢從駕作が一首あり、歌の内容から大寶元年紀伊行幸の時の作かと思はれるものがあり、東歌や高市黒人作と地名を變へたに過ぎないものがあつたりしてゐる。又この卷には柿本朝臣人麿歌集・古歌集・古集から採つたものがあつて、雜歌では、これらを各々題の下に分置してゐるが、譬喩歌では柿本朝臣人麿歌集のもののみは、特に冒頭に纏めて載せてある。その爲に同一の題が下に重出してゐるのは奇異の感を抱かしめる。目録にはこれを整理し(286)て題の重複を避けてゐるので、それを正しい舊の姿と見てゐる學者もあるが、卷十一・卷十二も同樣になつてゐるから、却つてこれが原形なのである。賀茂眞淵はこの卷の年代を、卷十と同じく、「奈良の始の人の集ならむ」として、第八位に置いてゐるが、大體その頃の歌が集められてゐるものと考へてよいであらう。編纂者はもとより明らかでない。併しこの卷の分類法が、大伴家持の手になつたらしい卷三と全く同一である點、歌の年代が奈良の初期らしい點などから想像して、大伴氏と深い關係のある卷たることは認めてよいかと思はれる。文字使用法は格別の特色はないが、夏樫《ナツカシ》・五百入※[金+施の旁]染《イホリカナシミ》・簀竹跡《スダケド》・田本欲《タモトホリ》・湯谷絶谷《ユタニタユタニ》など、滑稽味を帶びた借訓が割合に多く用ゐられてゐるやうである。謂はゆる戯書に屬するものには、大王《テシ》・義之《テシ》・神樂聲浪《ササナミ》・左右手《マデ》・味試《ナム》などがある。
 
(287)萬葉集卷第七
 
雜歌
 
詠天一首
詠月十八首
詠雲三首
詠雨二首
詠山七首
詠岳一首
詠河十六首
詠露一首
詠花一首
詠葉二皆
詠蘿一首
〔288頁〜289頁省略〕
(290)寄雨二首
寄月四首
寄赤土一首
寄神二首
寄河七首
寄埋木一首
寄海九首
寄浦沙二首、
寄藻四首
寄船五首
旋頭歌一昔
挽歌
雜挽十二首
或本歌一首
※[覊の馬が奇]旅歌一首
 
(291)雜謌
 
詠v天
 
1068 天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 榜ぎ隱る見ゆ
 
天海丹《アメノウミニ》  雲之波立《クモノナミタチ》 月船《ツキノフネ》 星之林丹《ホシノハヤシニ》 榜隱所見《コギカクルミユ》
 
空ノ海ニ雲ノ浪ガ立ツテ、月ノ舟ガ星ノ林ノ中ニ、漕ギ隱レルノガ見エル。
 
○雲之波立《クモノナミタチ》――雲之波《クモノナミ》は雲の形が波に似たのを言つたもの。雲波といふ熟字から出たのであらう。○月船《ツキノフネ》――三日月の形が船に似たのを言つたのである。これは全く漢文式叙法で、懷風藻に、文武天皇御製の月詩に、「月舟移2霧渚1、楓※[楫+戈]泛2霞濱1」とある。
〔評〕 天の蒼々として廣いのを海に、雲の白く立つのを浪に、月をその形によつて船に、星の數多いのを林に譬へたのである。語釋の部に述べたやうに、漢文學の影響から生れたもので、譬喩に無理があり、皮相的な淺い興趣で綴つたもので、少しも作者の心の躍動が見えない。殊に星の林に榜ぎ隱れるといふのは、苦しい作意である。人麻呂歌集に出てゐるので、人麿の歌と考へられてゐるが、もしさうとすれば、彼の惡作である。卷十に天海月船浮桂梶懸而※[手偏+旁]所見月人壯子《アメノウミニツキノフネウケカツラカヂカケテコグミユツキヒトヲトコ》(二二二三)とあるのは似た歌である。和歌童蒙抄には「あまのかはくものなみたちつきのふねほしのはやしにこぎかくされぬ」として出てゐる。
 
右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
詠v月
 
1069 常はかつて 思はぬものを この月の 過ぎかくれまく 惜しきよひかも
 
常者曾《ツネハカツテ》 不念物乎《オモハヌモノヲ》 此月之《コノツキノ》 過匿卷《スギカクレマク》 惜夕香裳《ヲシキヨヒカモ》
 
(292)イツモハ少シモ惜シイトモ〔五字傍線〕思ハナイノニ、今夜ハコノ月ノ過ギ隱レルノガ惜シイワイ。今夜ノ月ニハ格別心ガ引カレルヨ〔今夜〜傍線〕。
 
○常者曾《ツネハカツテ》――舊訓ツネハソモとあるのは惡い。曾は木高曾木不殖《コタカクハカツテキウエジ》(一九四六)・縄乘乃名者曾不告《ナハノリノナハカツテノラジ》(三〇八〇)・吾待之代者曾無《ワガマチシカヒハカツテナシ》(二八一〇)の類、皆カツテであるから、これもカツテと訓むべきである。但しこれらは皆、借字で卷四に花勝見都毛不知《ハナカツミカツテモシラズ》(六七五)とあつたのと同じく、總べて、全くなどの意である。一説に曾を毛の誤として、ツネニハモと訓まうといふのは妄である。○不念物乎《オモハヌモノヲ》――古義に「露ほども何とも思はぬ此月なれど」とあるが、これは惜しとも思はぬ意である。何とも思はぬではあまり無風流に聞える。
〔評〕 飽かなくにまだきも月の隱れるのを見て、今までに經驗したことのない、愛惜の念に打たれて詠んだのである。一二の句にその感じが強く述べられてゐるのだ。古義に、「宴席などの、興に乘てよめるか、又はめづらしき友などにあへる夜、よめるならむ」とあるのは、當らないやうだ。代匠記に、「常はとは、夕闇の時をいへるか」とあるのは、全く誤解である。
 
1070 ますらをの 弓末ふり起し 借高の 野べさへ清く 照る月夜かも
 
大夫之《マスラヲノ》 弓上振起《ユズヱフリオコシ》 借高之《カリタカノ》 野邊副清《ヌベサヘキヨク》 照月夜可聞《テルツクヨカモ》
 
(大夫之弓上振起)し借高ノ野邊ニモ清ク照ツテヰル今夜ノヨイ〔五字傍線〕月夜ヨ。アア、ヨイ月ダ〔六字傍線〕。
 
○大夫之弓上振起《マスラヲノユズヱフリオコシ》――序詞。勇士が弓の尖端を振り立てて、獵をするの意で、借高《カリタカ》につづくのである。弓上《ユズエ》は弓の末弭《ウラハズ》即ち上方である。○借高之野邊副清《カリタカノヌベサヘキヨク》――借高の野は卷六に※[獣偏+葛]高乃高圓山乎高彌鴨《カリタカノタカマドヤマヲタカミカモ》(九八一)とあつたとろで、奈良市の東南方、高圓山麓の平野である。第一册附録大和地圖參照。略解に「野べさへのさへは輕く意得べし。野べもいづくもといふが如し」とあるが、果して輕く見るべきか否か頗る疑問である。これは語氣を強めたものと、すべきであらう。
〔評〕 劈頭第一に雄渾な序詞を以て始まり、そのままの張り詰めた調子で、一貫してゐるので、かなり豪宕な氣品を備へて、月夜の曠野の樣も目に見えるやうである、八雲御抄には「ますらをのゆすゑふりたてかるたかの(293)のへさへきよくてる月よかな」と出てゐる。
 
1071 山のはに いさよふ月を 出でむかと 待ちつつをるに 夜ぞくだちける
 
山末爾《ヤマノハニ》 不知與歴月乎《イサヨフツキヲ》 將出香登《イデムカト》 待乍居爾《マチツツヲルニ》 與曾降家類《ヨゾクダチケル》
 
山ノ端デグヅグヅシテヰテ、ナカナカ出ナイ〔八字傍線〕月ヲ、モウ出ルカ出ルカト思ツテ待ツテ居ルト、月ハ出ナイデ〔六字傍線〕夜ガ更ケタヨ。
 
○不知與歴月乎《イサヨフツキヲ》――拾穗抄に、「童蒙抄云、いざよひとは十六夜の月を云也」とあるが、これは十六夜の歌ではない。五句によれば、夜更けて出る月である。
〔評〕 この歌は卷六の忌部首黒麻呂の山之葉爾不知世經月乃將出香常我待君之夜者更降管《ヤマノハニイサヨフツキノイデムカトワガマツキミガヨハクダチツツ》(一〇〇八)・及びこの下の、山末爾不知夜經月乎何時母吾待將座夜者深去乍《ヤマノハニイサヨフツキヲイツトカモワガマチヲラムヨハフケニツツ》(一〇八四)と似てゐる。忌部首黒麻呂はこれらの古歌を利用したものである。この歌は民謠風の素純な歌と評してよからう。袖中抄・和歌童蒙抄・八雲御抄などに收められてゐるのは、平安朝人にも歡ばれた證左である。
 
1072 明日のよひ 照らむ月夜は 片よりに こよひによりて 夜長からなむ
 
明日之夕《アスノヨヒ》 將照月夜者《テラムツクヨハ》 片因爾《カタヨリニ》 今夜爾因而《コヨヒニヨリテ》 夜長有《ヨナガカラナム》
 
明日ノ晩、照ル筈ノ月ハ、今夜一緒ニ片寄ツテ、照ツテシマツテ、今夜ハ〔三字傍線〕夜ガ長ケレバヨイナア。アマリヨイ月ダカラ、明日ノ分マデ今夜一緒ニ照レバヨイ。今夜ハ充分コノ月ヲ眺メタイモノダ〔アマ〜傍線〕。
 
○片因爾今夜爾因而《カタヨリニコヨヒニヨリテ》――今夜に片寄りに片寄りて、明夜の分までも照つての意。○夜長有《ヨナガカラナム》――この文字の書き方では種々の訓が出來るわけであるが、希望の意であるから、ヨナガカラナムと訓むがよい。
〔評〕 明月に對して宴でも催してゐる人の心をよんだものか。卷六の湯原王の天爾座月讀壯子幣者將爲今夜乃長者五百夜繼許増《アメニマスツクヨミヲトコマヒハセムコヨヒノナガサイホヨツギコソ》(九八五)と多少の近似點もあるが、またそれそれ異なつた面白味のある歌である。
 
1073 玉垂の 小簾の間通し ひとりゐて 見るしるしなき 夕月夜かも
 
(294)玉垂之《タマダレノ》 小簾之間通《ヲスノマトホシ》 獨居而《ヒトリヰテ》 見驗無《ミルシルシナキ》 暮月夜鴨《ユフヅクヨカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕獨デ居テ、(玉垂之)簾ノ間ヲ通シテ廉越シニ〔四字傍線〕見テモ、見ル甲斐ノナイ今夜ノ〔三字傍線〕夕月夜ヨ。折角ノ良イ月夜ダガ、一人デ見テヰルノデツマラナイ〔折角〜傍線〕。
 
○玉垂之《タマダレノ》――枕詞。冠辭考には「玉は緒を貫きて物に掛垂れて餝にする物なれば、玉だれの緒といひかけたるなり」とある。小簾までかけて見る説もあるが、當らぬやうである。○小簾之間通《ヲスノマトホシ》――この句から、第四句の見《ミル》へつづいてゐる。略解にヲスノマトホリと訓んで、この句から、結句へつづくとしてゐるが、さうすれば月光が簾を通して屋内にさし込む意となるであらうが、詞のつづきが穩やかでないから、恐らくさうではあるまい。靜母岸者波者縁家留香此屋通聞乍居者《シヅケクモキシニハナミハヨセケルカコレノヤトホシキキツツヲレバ》(一二三七)とある通《トホシ》と同じ趣で、簾越しに聞くのである。六帖にコスノマトホリとあるのは誤つてゐる。
〔評〕 夕月夜に人を待つ女の歌らしい。淋しい物哀な閨怨の情が、優艶な調を以て歌はれてゐる。この歌は和歌童蒙抄にも掲げられてゐる。
 
1074 春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも さやけかりけり
 
春日山《カスガヤマ》 押而照有《オシテテラセル》 此月者《コノツキハ》 妹之庭母《イモガニハニモ》 清有家里《サヤケカリケリ》
 
春日山ヲ、押シナベテ一體ニ〔三字傍線〕照シテヰルコノ月ハ、妻ノ家ノ庭ニモ清ク照ツテヰルワイ。
 
○押而照有《オシテテラセル》――舊訓ナベテテラセルとあるのはわるい。代匠記精撰本にテリタルとしたのもよくない。オシテは押しなべての意。○清有家里《サヤケカリケリ》――さやかなることよと感嘆したのである。家里を古義に良思の誤とする中山嚴水説を肯定して、「歌意は、春日山を押並て、清に照せる此の月は、きはめて妹が家の庭にも、清けくあるらしとなり」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 皎々たる月が、春日山を照らしてゐるのを眺めつつ、女の家へ來て見ると、その庭にも月光がさやかに照(295)してゐるのを見て、詠んだ歌である。この月のやうな明い快い調子である。
 
1075 うな原の 道遠みかも 月よみの あかりすくなき 夜はくだちつつ
 
海風之《ウナバラノ》 道遠鴨《ミチトホミカモ》 月讀《ツクヨミノ》 明少《アカリスクナキ》 夜者更下乍《ヨハクダチツツ》
 
海ノ上ガ廣々トシテ遙カナ爲カ、月ノ光ハ此處マデヨク到達シナイデ〔此處〜傍線〕薄イノダラウカ。サウシテ段々ト夜ガ更ケテ行ク。
 
○海風之道遠鴨《ウナバラノミチトホミカモ》――海路の遠きこと、即ち海上の廣いことをいふ。鴨《カモ》は疑問の助詞。○月讀《ツクヨミノ》――月を月讀といふのは、古事記に月讀命、書紀に月弓曾・月夜見尊・月讀尊などとあると同じで、もと三日月の弓形をなしてゐるのから出たものか。○明少《アカリスクナキ》――明を舊訓にヒカリとよんでゐる。古義にもこれを採つてゐるが、略解にアカリとしたのに從はう。意はヒカリと同じである。月の出る前の明りとする説は、面白くない。○夜者サラ下乍《ヨハクダチツツ》――夜が更けて行くの意。ツツは輕く言ひをさめたのである。
〔評〕 海岸に立つて、海のあなたに出た月の薄き光を歌つたのである。渺茫たる味ひもあるが、この歌の解が種種に分れてゐるのは、表現に多少の無理があることを語るものか。袖中抄に「あまのはら道遠みかもつきよみのひかりすくなしよはふけにつつ」とあるのは、これを採つたのである。
 
1076 百敷の 大宮人の まかり出て 遊ぶこよひの 月のさやけさ
 
百師木之《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 退出而《マカリデテ》 遊今夜之《アソブコヨヒノ》 月清左《ツキノサヤケサ》
 
(百師木之)大宮人ガ、御所カラ〔四字傍線〕退出シテ遊ブ今夜ノ、月ノ清ク、サヤケキコトヨ。
 
○百師木之《モモシキノ》――枕詞。大宮に冠す。二九參照。○退出而《マカリデテ》――御所から退出し、閑暇を得て遊ぶのである。○月清左《ツキノサヤケサ》――月のさやかなることよの意。詠歎の意が語尾に含まれてゐる。
〔評〕 これは大宮人の一人が、觀月の宴に列して、よんだものである。民衆の歌と考へ違ひしてはいけない。直線的の一本調子であるが、情景は鮮明にあらはれてゐる。
 
1077 ぬば玉の 夜渡る月を とゞめむに 西の山べに 關もあらぬかも
 
(296)夜干玉之《ヌバタマノ》 夜渡月乎《ヨワタルツキヲ》 將留爾《トドメムニ》 西山邊爾《ニシノヤマベニ》 塞毛有糠毛《セキモアラヌカモ》
 
(夜干玉之)夜空ヲ〔二字傍線〕通ツテ、沈ンデ〔三字傍線〕行ク月ヲ止メル爲ニ、西ノ山ノアタリニ、關デモナイカヨ。アアコノ月モヤガテ山ヘ、入ルダラウガ、惜シイモノダ〔アア〜傍線〕。
 
○夜干玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜につづく。八九參鳳。○塞毛有糠毛《セキモアラヌカモ》――關も無いかよ。關もあれかしと希望する意。
〔評〕 關は人の通路を止める爲に作られてゐる。月は空を渡つて、やがて西山に没してしまふが、それが如何にも惜しいから、西の山に關があつて、月を止めたならばよいであらうと思ふのである。古今集、在原葉平の「あかなくにまだきも月の隱るるか山の端にげて入れずもあらなむ」ほどの滑稽味はないが、幼らしい愛すべき歌である。
 
1078 この月の ここに來れば 今とかも 妹が出で立ち 待ちつつあらむ
 
此月之《コノツキノ》 此而來者《ココニキタレバ》 且今跡香毛《イマトカモ》 妹之出立《イモガイデタチ》 待乍將有《マチツツアラム》
 
コノ月ガ丁度此處マデ來タカラ、今コソ私ガ來ルダラウト思ツテ、門ニ〔私ガ〜傍線〕出テ立ツテ妻ガ私ヲ待ツテヰルデアラウカ。シカシ私ハ今夜ハ行クコトガ出來ナイ。アア戀シイ〔シカ〜傍線〕。
 
○此月之此間來者《コノツキノココニキタレバ》――家に居る男が、吾が家の軒などに見える月を眺めて、心に思つてゐることを述べたので、ココとは何か指すものがあるのである。○且今跡香毛《イマトカモ》――今こそ來るであらうと思つてかの意、毛《モ》は詠嘆の助詞を添へたのである。且今の二字は且今日且今日《ケフケフト》(二二四)とあるのを參照せられたい。
〔評〕 約束か夜は空しく更けて、月も移り行いたが、逢ひに行くすべもない。月光を浴びて戸外に立ち盡して居るだらうところの妹を思へば、眞に胸も刳られるばかりである。情緒纏綿、斷腸の聲。詠月の題下に集めてはあるが、これは相聞に入るべきで、月前戀の歌である。
 
1079 まそ鏡 照るべき月を 白妙の 雲か隱せる 天つ霧かも
 
眞十鏡《マソカガミ》 可照月乎《テルベキツキヲ》 白妙乃《シロタヘノ》 雲香隱流《クモカカクセル》 天津霧鴨《アマツキリカモ》
 
(297)(眞十鏡)明ラカニ〔四字傍線〕照ル筈ノ月ダノニ、コンナニボンヤリシテヰルノハ〔コン〜傍線〕(白イ雲ガ隱シテヰルノカ。ソレトモ〔四字傍線〕天ノ霧ガ被ウテヰルノカヨ。
 
○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。照るにかかる。代匠記に「神代紀上云、伊弉諾尊右手持2白銅鏡1則有2化出之神1是謂2月弓尊1。今のまそかがみは照べきと云はむためながら又此意も有べきか」とあるのは、考へ過ぎである。
〔評〕 略解には「未だ月の出ぬを、白雲の立かくせるか、霧のおほひて見せぬか」とあつて、これに賛成する説もあるが、既に出て居るべき月の見えないのを、雲の爲か霧の爲かと恠んだので、かうした情景は我らの屡々經驗するところである。文字通りに解した方が、自然でもあり、歌も佳くなると思ふ。下の霜雲入《シモクモリ》(一〇八三)の歌とも似たところがある。
 
1080 久方の 天照る月は 神代にか 出でかへるらむ 年は經につつ
 
久方乃《ヒサカタノ》 天照月者《アマテルツキハ》 神代爾加《カミヨニカ》 出反等六《イデカヘルラム》 年者經去乍《トシハヘニツツ》
 
(久方乃)空ヲ照ラス月ノ光ハ、年ガ經ツテモカハラナイガ、アレハ月ノ生レタ〔モカ〜傍線〕神代ノ古ニ立チカヘツテ、出直シテ來ルノデアラウ。サウデナケレバ光ノカハラナイ筈ガナイ〔サウ〜傍線〕。
 
○久方乃《ヒサカタノ》――枕詞。月に冠す。八二參照。○神代爾加出反等六《カミヨニカイデカヘルラム》――神代に戻つて出直しで來るのであらう。月光の常に變らないのを、讃めた詞である。月は神代に於て、伊弉諾尊の檍原の御禊によつて出現したのである。
〔評〕 古義に「あまた年經行つつ、後遂には昔の神代の如き世にも立かへりつつ、出て照すらむかと、月をうらやむやうによめるなるべし」とあるが、頗る拙い説と思はれる。未來に神代があるなどは、古人の絶對に考へなかつたところであらう。月光の永遠なる若さの理由を説明したもので、右のやうに解してこそ、古代人の純な想像があらはれて面白いのである。
 
1081 ぬば玉の 夜渡る月を おもしろみ 吾が居る袖に 露ぞ置きにける
 
(298)烏玉之《ヌバタマノ》 夜渡月乎《ヨワタルツキヲ》 ※[立心偏+可]怜《オモシロミ》 吾居袖爾《ワガヲルソデニ》 露曾置爾鷄類《ツユゾオキニケル》
 
(烏玉之)夜空ヲ〔二字傍線〕通ル月ガ面白イノデ、私ガ眺メテ〔三字傍線〕ヰル袖ニ、イツノマニカ〔六字傍線〕露ガ宿ツタヨ。
 
○※[立心偏+可]怜《オモシロミ》――字鏡に、※[立心偏+慈]※[立心偏+可]怜也於毛志呂志とある。ここは下へ續く關係上、オモシロミと訓むべきである。
〔評〕 まことに素朴な單純な歌である。調子のしつかりしてゐる點が、取得であらう。
 
1082 水底の 玉さへさやに 見つべくも 照る月夜かも 夜のふけゆけば
 
水底之《ミナソコノ》 玉障清《タマサヘサヤニ》 可見裳《ミツベクモ》 照月夜鴨《テルツクヨカモ》 夜之深去者《ヨノフケユケバ》
 
夜ガ更ケテ行クト、段々月ノ光ガ澄ンデ行ツテ〔段々〜傍線〕、水ノ座ノ玉サヘモ明ラカニ見エルヤウニ、照ツテヰル今夜ノ月ダナア。アア佳イ月ダ〔六字傍線〕。
 
○可見裳《ミツベクモ》――略解にミユベクモとあるが、舊訓にミツベクモとあるのがよい。
〔評〕 水邊の深夜の月の歌である。この夜景のやうに、歌も亦明澄な渾然たる調子をなしてゐる。和歌童蒙抄にも載せてある。
 
1083 霜ぐもり すとにかあらむ 久方の 夜わたる月の 見えぬおもへば
 
霜雲入《シモグモリ》 爲登爾可將有《ストニカアラム》 久竪之《ヒサカタノ》 夜度月乃《ヨワタルツキノ》 不見念者《ミエヌオモヘバ》
 
空ガ曇ツテ〔五字傍線〕夜空ヲ〔二字傍線〕通ル(久堅之)月ガ見エナイワケヲ〔三字傍線〕考ヘテ見レバ、多分〔二字傍線〕霜ガ降ラウトシテ、曇ツタノデアラウカ。
 
○霜雲入《シモグモリ》――霜曇。夜、霜が降らうとして空の曇ること。霜も雪のやうに空から降ると考へたので、こんな語が出來たのであらう。○不見念者《ミエヌオモヘバ》――古義にミエナクモヘバとあるが、舊訓のままでよい。
〔評〕 月あるべき寒夜に、靄のやうなものが空を蔽うて、月を隱してゐるのを霜曇と考へたので、これは集中にも(299)類想がなく、面白い歌である。
 
1084 山のはに いさよふ月を いつとかも 吾が待ち居らむ 夜はふけにつつ
 
山末爾《ヤマノハニ》 不知夜經月乎《イサヨフツキヲ》 何時母《イツトカモ》 吾待將座《ワガマチヲラム》 夜者深去乍《ヨハフケニツツ》
 
山ノ端デ躊躇シテ出テ來ナイデ〔六字傍線〕ヰル月ヲ、モウコンナニ〔六字傍線〕夜ガ更ケタノニ、何時ニナツタラ出ルカトアテニシテ〔五字傍線〕私ガ待ツテヰヨウカ。サウ待ツテハ居ラレナイ。待チ遠イコトダ〔サウ〜傍線〕、
 
〔評〕卷六の山之葉爾不知世經月乃將出香常我待君之夜者更降管《ヤマノハニイサヨフツキノイデムカトワガマツキミガヨハクダチツツ》(一〇〇八)及びこの卷の山末爾不知與歴月乎將出香登待乍居爾與曾降家留《ヤマノハニイサヨフツキヲイデムカトマチツツヲルニヨゾクダチケル》(一〇七一)と全く同歌の異傳である。袖中抄にも載つてゐる。
 
1085 妹があたり 吾が袖振らむ 木の間より 出で來る月に 雲な棚引き
 
妹之當《イモガアタリ》 吾袖將振《ワガソデフラム》 木間從《コノマヨリ》 出來月爾《イデクルツキニ》 雲莫棚引《クモナタナビキ》
 
コノ山ヲ越エレバ愈々妻ノ里トモ別レデアル。今ソノ名殘トシテ〔コノ〜傍線〕妻ノ家ノ方ヘ向ツテ〔三字傍線〕、私ガ袖ヲ振ラウト思フ。ダカラ〔六字傍線〕木ノ間カラ出テ來ル月ニ、雲ヨ棚曳クナヨ。私ノ袖ガ妻ノ方ニ見エナクナルカラ〔私ノ〜傍線〕。
 
○妹之當《イモガアタリ》――妻の附近。當の字は君之當者《キミガアケリハ》(七八)・妹之當乎《イモノアタリヲ》(一三六)・家當《イヘノアタリ》(五〇九)などのやうにアタリと訓ませる例が多い。
〔評〕 上句は卷二の柿本人麿、石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨサワガフルソデヲイモミツラムカ》(一三二)を想起せしめるものがある。併し新考に右の歌を本歌としたもので、妹之當吾袖將振《イモガアタリワガソデフラム》の二句は、木間從《コノマヨリ》と言はむ爲の序だといつてゐるのは、從ひ難い。別離に際して、木の間に袖を打振ることは世の常であり、又この歌と人麿の歌との時代の前後も別き難いのである。
 
1086 靱かくる 伴の雄ひろき 大伴に 國榮えむと 月は照るらし
 
靭懸流《ユギカクル》 件雄廣伎《トモノヲヒロキ》 大伴爾《オホトモニ》 國將榮常《クニサカエムト》 月者照良思《ツキハテルラシ》
 
矢入ヲ背ニカケテ戰ヲスル〔五字傍線〕、武士ノ黨類ガ澤山アル大伴氏ノ家〔二字傍線〕ニ、コノ家ノ武カニヨツテ〔十字傍線〕國ガ榮エルダラウト(300)テ、コンナニ〔四字傍線〕清ク月ガ照ルノデアラウ。コンナニ月ガ照ルノハ國ガ榮ル證據ダラウ〔コン〜傍線〕。
 
○靱懸流《ユギカクル》――靱は矢を入れて背に負ふもの。矢笥《ヤゲ》の轉といふ。懸流《カクル》は背に負ふこと。正倉院献物帳に烏漆靱・赤漆桐木靱が見えるが實物が傳はらぬのは遺憾である。○伴雄廣伎《トモノヲヒロキ》――伴雄《トモノヲ》は部屬の長の意と解せられる語で、大祓詞に、「比禮挂伴男手繦挂伴男靱負件男劍佩伴男伴男能八十伴男《ヒレカクルトモノヲタスキカクルトモノヲユギオフトモノヲタチハクトモノヲトモノヲノヤソトモノヲ》とあるのもさうであるが、ここでは長のみを指してゐるのでなく、大伴氏の一族の男子をいつてゐるのであるから、その意味で解釋しなければならない。廣伎《ヒロキ》は數の多いこと。○大伴爾《オホトモニ》――大伴を地名とする説もあるが、ここには當らない。併し略解や古義のやうに、衛府の陣をさしていへるものと見るのもどうであらう。これは大伴氏の家にの意と見るべきである。大伴氏によつてとする説もあるが、よくない。但しここに自らその意は含まれてゐるのである。
〔評〕 大伴氏の家で、宴會などを催してゐる時の氣分を歌つたものか。月光が普く地上に照り渡つてゐるのを見て、それが國威の隆昌を象徴してゐるやうに見たのである。古から海行者美都久屍山行者草牟須屍大皇乃敝爾許曾死米可幣里見波勢自《ウミユカバミツクカバネヤマユカバクサムスカバネオホギミノヘニコソシナメカヘリミハセジ》(四〇九四)の家訓を語り傳へた大伴氏のことであるから、宴席などに誦するものとして、こんな歌が傳へられてゐたのかも知れない。これが詠月歌十八首の最後に置かれてゐるのも、或はこの卷の編者が大伴氏の人で、その家傳をこの類の最後に添へたものと考へられないこともない。格調雄偉、益荒雄心の※[さんずい+翁]渤たるを覺える、氣持のよい作である。
 
詠v雲
 
1087 痛足河 河浪立ちぬ 卷目の ゆつきが嶽に 雲居立てるらし
 
痛足河《アナシガハ》 河浪立奴《カハナミタチヌ》 卷目之《マキムクノ》 由槻我高仁《ユツキガタケニ》 雲居立有良志《クモヰタテルラシ》
 
痛足河ニハ風ガ吹イテ〔五字傍線〕、河浪ガ立ツタ。卷目ノ弓月ノ岳ニ雨雲ガ立ツテヰルラシイ。ヤガテ雨ガ來ルダラウ〔十字傍線〕。
 
○痛足河《アナシガハ》――卷四に痛背乃河乎《アナセノカハヲ》(六四二)とあつたところに、説明したやうに、大和磯城部纏向村大字穴師にある(301)小流で、卷向山から出て三輪山の北を流れ、穴師の南方を過ぎて、初瀬川に合流してゐる。今は卷向川と呼ばれてゐる。○卷目之由槻我高仁《マキムクノユツキガタケニ》――卷目は他に、卷向之(一九〇三)・纏向之(三一二六)とあるによれば、マキムクと訓むべきである。ムとモと相通ずるから、目の字を用ゐたのである。古事記の歌に、麻岐牟久能比志呂能美夜波《マキムクノヒシロノミヤハ》とある。由槻我高《ユツキガタケ》は次に弓月高《ユツキガタケ》とあるのも同じで、三輪山の東方につづいた高い山である。應神天皇の御代に、百濟から百二十縣の人夫を率ゐて歸化した弓月君と、何らかの亂係がある地であらう。第一册附録、大和地圖參照。○雲居立有良志《クモヰタテルラシ》――舊本を改めて立の下、有の字を除いてクモヰタツラシとよむ説が多い。これは細井本と無訓本にさうなつてゐるのに從つたものであるが、舊本を尊重すべきもののやうに思はれる。雲居《クモヰ》は雲のこと。挿入寫眞は大和萬葉古蹟寫眞による。右三輪山。左穴師山。遠景卷向の弓月が岳。
〔評〕痛足川の水面に、さつと吹き渡る山おろしの風につれて、浪が立ち騷いだのを見て、附近での高山たる弓月が嶽には、雲が立つてゐるだらうと想像したもので、驟雨が將に到らむとして、疾風の吹き起つた瞬間の感じを述べたものである。躍動的なよい歌であ(302)る。和歌童蒙抄にも載せられてゐる。
 
1088 足引の 山河の瀬の なるなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る
 
足引之《アシビキノ》 山河之瀬之《ヤマカハノセノ》 響苗爾《ナルナベニ》 弓月高《ユヅキガタケニ》 雲立渡《クモタチワタル》
 
(足引之)山川ノ瀬ニ、風ガ吹イテ波ガ立ツテ〔十字傍線〕、音ガ高クナルノニツレテ、弓月ノ岳ニハ雲ガ一體ニ立ツタ。
 
○響苗爾《ナルナベニ》――鳴るにつれての意。苗はナヘであるべきを、濁音に用ゐてゐる。
〔評〕 前の歌と全く同意であるが、この方が力が溢れ、豪放な氣魄が漲つてゐる。左註に人麿歌集に出づとあるが、この作風から見ると、人麻呂の歌らしく思はれる。
 
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
1089 大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ浪に 立てる白雲
 
大海爾《オホウミニ》 島毛不在爾《シマモアラナクニ》 海原《ウナバラノ》 絶塔浪爾《タユタフナミニ》 立有白雲《タテルシラクモ》
 
廣イ海ノ中ニ、島モナイノニ、海ノ上ノ漂ツテヰル波ノ彼方〔三字傍線〕ニ、白雲ガ立ツテヰル。何處ヲ見テモ廣イ海デ、波ノ上ニ白雲ガ立ツテヰルバカリダ〔何處〜傍線〕。
 
○絶塔浪爾――卷二に大船猶預不定見者《オホフネノタユタフミレバ》(一九六)とあるやうに、タユタフは猶豫不定の意で、一所にためらひ漂ふをいふ。塔の字音が、正しくタフの假名に用ゐられてゐるのに、注意すべきである。
〔評〕 左註によると、伊勢へ行幸のあつた時、駕に從つた大宮人の作らしい。作者の名を逸したので、この卷に載せたものか。澎湃たる海上の眺望が實によく現はれてゐる。時候はよくわからないが、立有白雲《タテルシラクモ》の句が、晴れた日の夏か秋の海を思はしめる。和歌童蒙抄に「わたつみにしまもあらぬにあまのはらたゆたふ波に立てるしらくも」と出てゐる。
 
(303)右一首伊勢從駕作
 
考にはこの註を後人の註として、削るべしといつてゐる。併し作者が知れないからここに入れたので、後人の註と斷ずるのは、早計に失しはしないか。「代匠記に持統天皇朱鳥六年の御供なり」と推定したのも、必ずしも從ひ難い。
 
詠v雨
 
1090 吾妹子が 赤裳の裾の しめひぢむ 今日のこさめに 吾さへぬれな
 
吾妹子之《ワギモコガ》 赤裳裙之《アカモノスソノ》 將染※[泥/土]《シメヒヂム》 今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《ケフノコサメニ》 吾共所沾名《ワレサヘヌレナ》
 
今日ノ小雨ノ降ル中ヲ歩イテ〔今日〜傍線〕、吾ガ妻ノ赤イ裳ノ裙ガ、雨ニ〔二字傍線〕ニジミ濡レルデアラウガ、今日ノコノ小雨ニ私モ亦濡レタイト思フ。コノ雨マデモナツカシイカラ〔コノ〜傍線〕。
 
○赤裳裙之《アカモノスソノ》――裙はスソ又はモとよんでゐる字だ。これは下裳であるから、どちらにも訓めるわけである。○將染※[泥/土]《シメヒヂム》――染は益目頼染《イヤメヅラシミ》(一九六)・和備染責跡《ワビシミセムト》(六四一)・五百入※[金+施の旁]染《イホリカナシミ》(一二三八)などのやうに、シミと訓む字であり、※[泥/土]は玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》(一九四)・衣※[泥/土]漬而《コロモビヅチテ》(二三〇)とあるやうにヒヅと訓むべきである。舊訓ソメヒヂムとあるのを、考にヒヅチナム、古義にヒヅツラムと改めたのは面白くない。ここは代匠記精撰本に從つて、シメヒヂムとする。衣の裾が雨ににじみ濡れることである。○今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《ケフノコサメニ》――※[雨/脉]※[雨/沐]は爾雅に「小雨謂之※[雨/脉]霖」とあるから、コサメと訓むがよい。舊來の訓もさうなつてゐるが、集中に泣涙霈霖爾落者《ナクナミダヒサメニフレバ》(二三〇)の如き例があつて、※[雨/脉]※[雨/沐]と霈霖と字體類似し頗る紛らはしい。この歌も細井本と無訓本とは明らかに霈霖となつてゐる。併し元暦校本などは、必ずしもさうは思はれず、また和歌童蒙抄「わきもこがあかものすそをそめむとてけふのこさめにわれもぬらすな」とあり、古今六帖も、この歌のこの句をコサメと訓んでゐるから、古訓を尊重してコサメと訓んで置く。コサメは小雨、ヒサメは大雨である。○吾共所沾名《ワレサヘヌレナ》――名の字、舊本に者とあるは誤。元暦校本その他の古本(304)多く名に作るによつて改めた。
〔評〕 なつかしい純情の歌である。やさしみが溢れてゐる。和歌童蒙抄や、古今六帖に出てゐるのは、平安朝人士に喜ばれたことを證據立ててゐる。
 
1091 とほるべく 雨はな零りそ 吾妹子が 形見の衣 我下に著たり
 
可融《トホルベク》、雨者莫零《アメハナフリソ》 吾妹子之《ワギモコガ》 形見之服《カタミノコロモ》 吾下爾著有《ワレシタニキタリ》
 
私ノ身ニ霑レ〔六字傍線〕通ルホド雨ハ降ルナヨ。私ハ今〔三字傍線〕、私ノ妻ノ形見ノ着物ヲ下ニ着テヰルヨ。ソレヲ濡シテハ惜シイ〔十字傍線〕。
 
○吾下爾著有《ワレシタニキタリ》――古義に著有をケリと訓んだのも、わるくはないが、舊訓の方が穩やかのやうである。
〔評〕 明瞭な、物なつかしい歌である。前の作と同じやうな柔みを有つてゐる。卷四の家持作、吾妹兒之形見乃服下著而直相左右者吾將脱八方《ワギモコガカタミノコロモシタニキテタダニアフマデハワレヌカメヤモ》(七四七)、は、或はこの歌から思ひついたものか。
 
詠v山
 
1092 鳴る神の 音のみ聞きし 卷向の 檜原の山を 今日見つるかも
 
動神之《ナルカミノ》 音耳聞《オトノミキキシ》 卷向之《マキムクノ》 檜原山乎《ヒバラノヤマヲ》 今日見鶴鴫《ケフミツルカモ》
 
(動神之)評判ニバカリ聞イテヰタ卷向ノ檜原ノ山ヲ、今日始メテ〔三字傍線〕私ハ見タワイ。ホントニヨイ山ダ〔八字傍線〕。
 
○動神之《ナルカミノ》――枕詞。音にかかる。○卷向之檜原山乎《マキムクノヒバラノヤマヲ》――檜原は檜の林をなしてゐるところの意であつたらうが、やがてそれが地名ともなつてゐるのである。この下に古爾有險人母如吾等架彌和乃槍原爾挿頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカミワノヒバラニカザシヲリケム》(一一一八)・往川之過去人之手不折者裏觸立三和之檜原者《ユクカハノスギニシヒトノタヲラネバウラブレラレリミワノヒバラハ》(一一一九)とあつて三輪にも同樣の地名があつたのであるが、これは辰巳利文氏の大和萬葉地理研究によれば、今日、三輪山の西北麓に一丘陵があつて、それを村人は檜原さんとよんでゐる。この丘陵を境界として南方が三輪領、北方が卷向領となつてゐるから、この一丘陵を三輪領卷向領によつて三輪の檜原とも、卷向の檜原とも稱したものと見て差支がなからうとのことである。今はこれに從つ(305)て置く。第一册附録大和地圖參照。但し次に隱口乃始瀬之檜原《コモリクノハツセノヒバラ》(一〇九五)とあるから、初瀬にもあつたので、未だ固有名詞として、固定するまでに至つてゐなかつたやうにも思はれるのである、
〔評〕 檜の蔚然と生ひ茂つた山を讃美したのである。眞木立つといふ語が、枕詞として屡々用ゐられてゐるやうに、眞木即ち檜の密林の美しさが、古代人によつて褒め讃へられてゐたことが知られる。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》と喜んだ歌がこの他になほ多いのは、既に型が出來てゐたものである。
 
1093 三諸の その山並に 子等が手を 卷向山は つぎのよろしも
 
三毛侶之《ミモロノ》 其山奈美爾《ソノヤマナミニ》 兒等手乎《コラガテヲ》 卷向山者《マキムクヤマハ》 繼之宜霜《ツギノヨロシモ》
 
三輪山ノアノ山ツヅキニ、(兒等手乎)卷向山ハ續キ方ガヨイ景色デ並ンデヰルヨ。ヨイ山ダ〔景色〜傍線〕。
 
○三毛侶之《ミモロノ》――三毛侶は即ち御室で、神のいまし給ふところ。ここは三輪山をさしてゐる。○其山奈美爾《ソノヤマナミニ》――山奈美《ヤマナミ》は山並で、山續きの意。其《ソノ》は上の三毛侶《ミモロ》をさす。○兒等手乎《コラガテヲ》――枕詞。妻の手を枕として寢る意で、卷くとつづけて卷向山に冠してある。○繼之宜霜《ツギノヨロシモ》――山の續き方がよろしいよの意。
〔評〕 三輪山の東方に連なつて、卷向山が一段高く列んでゐる姿の美しさを褒めたものである。大自然を靜觀して、感動した嗟嘆の聲である。
 
1094 吾が衣 色きぬにしめむ 味酒 三室の山は 黄葉しにけり
 
我衣《ワガコロモ》 色服染《イロキヌニシメム》 味酒《ウマサケ》 三室山《ミムロノヤマハ》 黄葉爲在《モミヂシニケリ》
 
(味酒)三宝山ハアノヤウニ〔五字傍線〕紅葉シタワイ。アノ山ヘ行ツテ紅葉デ〔十字傍線〕私ハ着物ヲ赤衣ニ染メヨウ。
 
○色服染《イロキヌニシメム》――舊訓はイロキソメタリとあり、これに對して種々の改訂説がある。もし文字を改めることが、許されるならば、色服を顛倒してイロニソメナムと訓む宣長説、服を將に改めてイロニシメナムとする雅澄説などがよいであらうが、ここは原文のままで、イロキヌニシメムとした新訓説に從ふことにする。服の字は未服而《イマダキズシテ》(三九五)・形見乃服《カタミノコロモ》(七四七)・織服《オルハタノ》(二〇二八)の如く、キ・コロモ・ハタとよむ例であるが、キヌと訓めないこともあるまい。この句は赤い色の服に染めようの意。○味酒《ウマサケ》――枕詞。三室山につづく。三室山は三輪山と同じで、味(306)酒の神酒《ミワ》の意で三輪につづくに基づくものか。一説に味酒を釀《カ》みの意で、略してミにつづくといふ。古義に、美酒《ウマサケ》の實毛侶之《ミモロシ》といふ意で、實《ミ》甘美《アマ》しといはむが如くであるといつてゐるが、無理な説であらう。○黄葉爲在《モミヂシニケリ》――舊訓、モミヂシタルニとあるのは、面白くない。宣長がモミヂシニケリと訓んだのに從はう。在の字は乘在鴨《ノリニケルカモ》(一八九六)・沾在哉《ヌレニケルカモ》(二三九五)などの如く、ケルとよんだ例が多い。
〔評〕 紅葉した山を見て、衣服を染めに行かうと思ふのは、後世人の考へ及ばないところである。これが必ずしも實用の意でなく、一つの趣味娯樂として歌はれてゐるのが面白い。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
1095 みもろつく 三輪山見れば 隱口の 始瀬の檜原 おもほゆるかも
 
三諸就《ミモロツク》 三輪山見者《ミワヤマミレバ》 隱口乃《コモリクノ》 始瀬之檜原《ハツセノヒバラ》 所念鴨《》オモホユルカモ
 
御社トシテ神ヲ齋キマツル三輪山ヲ見ルト、同ジヤウニ茂ツタ〔八字傍線〕(隱口乃)泊瀬ノ檜原山ガ思ヒヤラレルワイ。
 
○三諸就《ミモロツク》――卷六に三諸著鹿脊山際爾《ミモロツクカセヤマノマニ》(一〇五九)とあつたやうに、御室齋《ミモロイツク》で、神を祀つてある意であらう。○隱口乃《コモリクノ》――枕詞。常に始瀬《ハツセ》につづく。四五參照。○始瀬之檜原《ハツセノヒバラ》――初瀬山にも、檜の欝蒼としたところがあつたので、三輪・卷向の檜原と並稱せられてゐたものらしい。
〔評〕 三輪山の神々しい密林を眺めて、それにも劣らぬ初瀬の檜原を思ひやつたもので、これにも古代人の、常緑林崇拜のあとが見えてゐる。
 
1096 いにしへの 事は知らぬを 我見ても 久しくなりぬ 天の香具山
 
昔者之《イニシヘノ》 事波不知乎《コトハシラヌヲ》 我見而毛《ワレミテモ》 久成奴《ヒサシクナリヌ》 天之香具山《アメノカグヤマ》
 
コノ山ニツイテハ種々ト語リ傳ヘモアルガ〔コノ〜傍線〕、昔ノコトハドウデアツタカ見ナイコトダカラ〔八字傍線〕ワカラナイガ、私ガ見テカラデモコノ〔二字傍線〕天ノ香具山ハ隨分久シデナツタヨ。神々シイ山ダナ〔七字傍線〕。
〔評〕多くの傳説を有つてゐる香具山、殊に天から飛來したといふ傳説のある香具山(二五七參照)に對して、自(307)分が見てからでもかなりの久しい間になるから、自分の知らない太古から幾多の説話を傳へて來たのは當然であるといふ意で、かう歌つてゐるのだ。古今集の「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾世經ぬらむ」とあるのは、これと想を同じくし型を同じうしてゐる。昔者之事波不知乎《イニシヘノコトハシラヌヲ》といつた方が、「幾代經ぬらむ」あるのよりも、深みがあり神秘性が濃厚で面白いやうに思はれる。新考に「山はもとより無生物なれば、今の歌は辭のままに聞きては何の感もなし。案ずるにこは香具山の山色のかはらぬを、即ち、樹木のいつも繁り榮えたるをたたへたるなり」とあるのは、いみじき誤解であらう。この歌は和歌童蒙抄にも採られてゐる。
 
1097 吾が背子を こち巨勢山と 人はいへど 君も來まさず 山の名にあらし
 
吾勢子乎《ワガセコヲ》 乞許世山登《コチコセヤマト》 人者雖云《ヒトハイヘド》 君毛不來益《キミモキマサズ》 山之名爾有之《ヤマノナニアラシ》
 
私ノ夫ヨコチラヘオイデナサイトイフ名ノ、巨勢山ト人ハイフガ、貴方ハオイデナサイマセヌ。コレデハ〔四字傍線〕タダ山ノ名バカリデアルラシイ。
 
○吾勢子乎乞許世山登《ワガセコヲコチコセヤマト》――巨勢山の名を來《コ》よの意として、吾が夫よ此方へ來よといふ名の巨勢山とつづけたのである。乞を古義にイデと訓んでゐる。なるほどイデと訓むところもあるが、ここは越乞爾《ヲチコチニ》(九二〇)・乞痛鴨《コチタカルカモ》(二七六八)などの例によつて、舊訓の通りコチと訓むべきであらう。乞の呉音はコチである。巨勢山は大和南葛城郡葛村古瀬の山、五四の寫眞參照。○山之名爾有之《ヤマノナニアラシ》――考に舊訓を改めてヤマノナナラシとしたのは、却つてわるい。
〔評〕 地名を意義的に解釋して、名實相添はざることを歎いた歌は、伊敝之麻波奈爾許曾安里家禮《イヘシマハナニコソアリケレ》(三七一八)・夢乃和太事西在來《イメノワダコトニシアリケリ》(一一三二)など數が多い。中でも、名草山事四在來吾戀千重一重名草目名國《ナクサヤマコトニシアリケリワガコヒノチヘノヒトヘモナグサメナクニ》(一二一三)はこれによく似た歌である。拾遺集にこの歌を「吾がせこを來ませの山と人はいへど君も來まさぬ山の名ならし」とある。
 
1098 紀路にこそ 妹山ありといへ くしげの 二上山も 妹こそありけれ
 
木道爾社《キヂニコソ》 妹山在云《イモヤマアリトイヘ》 櫛上《クシゲノ》 二上山母《フタガミヤマモ》 妹許曾有來《イモコソアリケレ》
 
紀伊ノ國ニコソ、妹山トイフ山ガアルトイフコトダガ、アノ〔二字傍線〕(櫛上)二上山モヤハリ妹ガアルヨ。夫婦並ンデヰ(308)テ羨マシイ〔十一字傍線〕。
 
○木道爾社《ギヂニコソ》――木道は紀路。紀伊の國をいふ。道はあまり重く見ない方がよからう。○櫛上《クシゲノ》――舊訓カヅラキノとあるのは、誤字と見たのであらう。古訓にクシカミノとあるのは奇神《クシカミ》の二神とつづくとする説もあるが、恐らく當つてゐまい。クシアゲノの略としてクシゲノと訓むがよい。櫛の上、三の脱として童蒙抄はミクシゲノとし、考は三を玉の誤として、タマクシゲとしてゐるが、いづれも獨斷に過ぎる。クシゲノは枕詞で、櫛笥の蓋の意で二上山につづくのである。○二上山母《フタガミマモ》――二上山は大和北葛城郡にあつて、頂が二つに分れて雄嶽、女嶽と言つてゐる。二上といふのもこれから出た名で、この歌に妹許曾有來《イモコソアリケレ》とあるのもこの女嶽をさしたのである。
〔評〕 妻に別れた人が、妻を戀しがつて詠んたのであらう。紀伊にも妹山があるが、二上山にも妹がある。然るに自分にはそれがないと嘆いたのだ。コソが二つあるのが目に付く。袖中抄に「木道にこそ妹山ありといへくしかみの二上山も妹こそありけれ」とある。
 
(309)詠v岳
 
1099 片岡の この向つ峯に 椎蒔かば 今年の夏の 陰に並みむか
 
片崗之《カタヲカノ》 此向峯《コノムカツヲニ》 椎蒔者《シヒマカバ》 今年夏之《コトシノナツノ》 陰爾將比疑《カゲニナミムカ》
 
片崗ノ向フノ峯ニ椎ヲ蒔イタラスグニ育ツテ〔六字傍線〕、今年ノ夏ノ日ヲヨケテ涼ム〔七字傍線〕蔭トシテ生ヒ並ブデアラウカ。
 
○片崗之《カタヲカノ》――片崗は地名でない場合も多いが、ここは恐らく地名であらう。大和北葛城郡の北部、今の王子附近の地である。○此向峯《コノムカツヲニ》――向峯《ムカツヲ》は文字の通り向ひの峯をいふ。○陰爾將比疑《カゲニナミムカ》――ナミムカは並みむかで、生ひ並ばむかの意であらう。略解に比は成の誤で訓ナラムカとし、古義は化の誤として同じく、ナラムカと訓んでゐる。
〔評〕 代匠記に「この歌は喩ふるところありてよめるか」とあるが、なるほど今年蒔いた椎が、その年のうちに蔭をなすとは、あまり生長が早過ぎるやうである。不可能のことを可能のことにして詠んだところに、面白味があるのであらう。民謠中にはそんなものもありさうに思はれる。
 
詠v河
 
1100 卷向の 痛足の川ゆ 往く水の 絶ゆることなく また反り見む
 
卷向之《マキムクノ》 病足之川由《アナシノカハユ》 往水之《ユクミヅノ》 絶事無《タユルコトナク》 又反將見《マタカヘリミム》
 
コノ〔二字傍線〕卷向ノ病足川ヲ流レル水ノ絶エナイ〔四字傍線〕ヤウニ、絶エズコノ川ヲマタ來テ見ヨウ。
 
○病足之川由《アナシノカハユ》――病は痛の誤とする説もあるが、この儘でよい。由《ユ》はヲの意である。
〔評〕 卷一の雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》(三七)、卷六の三吉野之秋津乃河之萬世爾斷事無又還將見《ミヨシヌノアキツノカハノヨロヅヨニタユルコトナクマタカヘリミム》(九一一)など同型の歌である。
 
1101 烏玉の 夜さり來れば まきむくの 川音高しも 嵐かも疾き
 
(310)黒玉之《ヌバタマノ》 夜去來者《ヨルサリクレバ》 卷向之《マキムクノ》 川音高之母《カハトタカシモ》 荒足鴨疾《アラシカモトキ》
 
(黒玉之)夜ガ來ルト、卷向川ノ音ガ高ク聞エル。今夜ハ山ノ〔五字傍線〕嵐ガヒドイノデアラウカ。
 
○荒足鴨疾《アラシカモトキ》――嵐が烈しいのかの意。
〔評〕 卷向川の邊に住んでゐる人が、川音の高いのに屋外の嵐の烈しさを想像したので、蒼勁莊巖な格調が、物凄い夜景をあらはし得てゐる。一〇八七・一〇八八の二首と氣分を同じくしてぬる。これも人麿の作であらう。
 
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
1102 大王の 三笠の山の 帶にせる 細谷川の 音のさやけさ
 
大王之《オホキミノ》 御笠山之《ミカサノヤマノ》 帶爾爲流《オビニセル》 細谷川之《ホソタニガハノ》 音乃清也《オトノサヤケサ》
 
(大王之)三笠山ガ帶ニシテヰルヤウニ、三笠山ノ麓ヲ廻ツテ流レテヰル〔ヤウ〜傍線〕、細イ谷川ノ水ノ音ガ佳イコトヨ。
 
○大王之《オホキミノ》――枕詞。御笠とつづく意は明らかである。○細谷川之細谷川之《ホソタニガハノ》――川の名ではない。能登河之水底拜爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトガハノミナソコサヘニテルマデニミカサノヤマハサキニケルカモ》(一八六一)とあるから、これは能登川であらう。○音乃清世《オトノサヤケサ》――也の字は添へて書いたもの。さやかなることよの意。
〔評〕 川を帶に譬へるのは、漢文にも見えるが、歌にも多い。卷十三に甘嘗備乃三諸乃神之帶爲明日香之河之《カムナビノミモロノカミノオビニセルアスカノカハノ》(三二二七)・神名火山之帶丹爲留明日香之河乃《カムナビヤマノオビニセルアスカノカハノ》(三二六六)などがある。古今集大歌所歌の「眞金ふく吉備の中山帶にせる細谷川の音のさやけさ」は、その左註に「この歌は承和の御べのきびの國のうた」とあるから、これを作りかへて、吉備の地名を入れたものに過ぎぬ。この歌は細い清流のやうな、さわやかな素純な氣分の作である。
 
1103 今しきは 見めやと念ひし み芳野の 大川淀を 今日見つるかも
 
今敷者《イマシキハ》 見目屋跡念之《ミメヤトオモヒシ》 三芳野之《ミヨシヌノ》 大川余杼乎《オホカハヨドヲ》 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
今ハトテモ、見ルコトハ出來マイト思ツテヰタ、吉野ノ大キナ河ノ淀ヲ、今日見ルコトガ出〔六字傍線〕來タナア。
 
(311)○今敷者《イマシキハ》――續紀の宣命二十五詔に、「今之紀乃間方念見定仁《イマシキノマハオモヒミテサダメムニ》云々」とあるからイマシキと訓むべきで、舊訓イマシクハとあるのはよくない。シキはそこを強く確かに言ふ語らしい。即ちイマシキハは、今はといふ意を強くいふのである。○大川余杼乎《オホカハヨドヲ》――吉野川の淵の廣く深く湛へたのを大川淀と言つたので、何處かを指してゐるのであらうが、これだけでは分らない。下に六田之與杼乎《ムツダノヨドヲ》(一一〇五)とあり、前に吉野爾有夏實之河乃川余杼爾《ヨシヌナルナツミノカハノカハヨドニ》(三七五)とあつたいづれかであらう。
〔評〕 思ひがけなく機會を得て、吉野川の好景に接したことを喜んだのである。老人の歌とする口譯の説は從ひ難い。喜ばしさがよくあらはれてゐる。
 
1104 馬なめて み芳野川を 見まくほり うち越え來てぞ 瀧に遊びつる
 
馬並而《ウマナメテ》 三芳野河乎《ミヨシヌガハヲ》 欲見《ミマクホリ》 打越來而曾《ウチコエキテゾ》 瀧爾遊鶴《タギニアソビツル》
 
吉野ノ川ガ見タイノデ、馬ヲ並ベテ友ダチト大勢デ〔七字傍線〕、山ヲ越シテ來テ瀧ニ遊ンダヨ。來テ見レバホントニヨイ處ダ〔來テ〜傍線〕)。
 
○打越來而曾《ウチコエキテゾ》――山を越えて來て。この山は飛鳥地方から坂田南淵を經、宇治間山を越えて千股から上市に出る道であらう。○瀧爾遊鶴《タギニアソビツル》――瀧は今の宮瀧即ち古の瀧つ河内である。
〔評〕 心の合つた友人らと馬を並べて吉野の急瀬の佳景に遊んだ喜びを歌つてゐる。この歌は今の宮瀧の地が、大和人の遊覽の場所であつたことを證するもので、また本集に歌はれた吉野の勝景が、今の宮瀧を中心とすることを語るものである。
 
1105 音に聞き 目には未だ見ぬ 吉野河 六田の淀を 今日見つるかも
 
音聞《オトニキキ》 目者未見《メニハイマダミヌ》 吉野河《ヨシヌガハ》 六田之與杼乎《ムツダノヨドヲ》 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
評判ニバカリ聞イテ、目デハ未ダ見タコトノナイ、吉野川ノ六田ノ淀ヲ、今日始メテ〔三字傍線〕見タワイ。ナルホド實ニ佳イ處ダ〔ナル〜傍線〕。
 
(312)○六田之與杼乎《ムツダノヨドヲ》――上市の下流にある。吉野川が廣い淀みをなし、岸には柳が多いので、その趣が歌に詠まれてゐる。今はムタと稱してゐる。
〔評〕 兼ねて噂に聞いてあこがれてゐた六田の淀の勝景に、始めて接した滿悦感があらはれてゐる。卷五の於登爾吉伎目爾波伊麻太見受佐容比賣我必禮布理伎等敷吉民萬通良楊滿《オトニキキメニハイマダミズサヨヒメガヒレフリキトフキミマツラヤマ》(八八二)はこれに傚つた作であらう。
 
1106 かはづ鳴く 清き川原を 今日見ては いつか越え來て 見つつ偲ばむ
 
河豆鳴《カハヅナク》 清川原乎《キヨキカハラヲ》 今日見而者《ケフミテハ》 何時可越來而《イツカコエキテ》 見乍偲食《ミツツシヌバム》
 
河鹿ノ鳴ク清イコノ〔二字傍線〕川原ヲ今日見テ、コノ後ハ〔四字傍線〕何時マタ今日ノヤウニ〔六字傍線〕山ヲ越エテ來テ、コノ景色ヲ見テナツカシガルコトガ出來ヨウカ。マタ來タイモノダガ思フヤウニ來ラレマイ〔マタ〜傍線〕。
 
○見乍偲食《ミツツシヌバム》――偲ぶは思出すことと、なつかしく思ひ慕ふことは二義がある。ここは後者である。
〔評〕 卷九に河蝦鳴六田乃河乃川楊乃《カハヅナクムツダノカハノカハヤギノ》(一七二三)とあるから、この前の歌どもを見ると、これは六田の淀あたりであらう。何時可越來而《イツカコエキテ》とあるのも、前の馬竝而《ウマナメテ》の歌と同じく宇治間山を越えて來ることである。ここの吉野川を歌つた四首は一人の連作のやうに思はれる。
 
1107 泊瀬川 白木綿花に 落ちたぎつ 瀬をさやけみと 見に來し我を
 
泊瀬川《ハツセガハ》 白木綿花爾《シラユフハナニ》 墮多藝都《オチタギツ》 瀬清跡《セヲサヤケミト》 見爾來之吾乎《ミニコシワレヲ》
 
泊瀬川ノ、白イ木綿デ作ツタ花ノヤウニ、眞白ニナツテ〔六字傍線〕落チテ泡立チ流レル瀬ガ清イノデ、私ハ見ニ來タノダ。
 
○白木綿花爾《シラユフバナニ》――白い木綿花のやうに。木綿花は木綿で作つた花。木綿は穀《カヂ》の木の皮を裂いて作つた緒である。○瀬清跡《セヲサヤケミト》――瀬が清いからとての意。○見爾來之吾乎《ミニコシワレヲ》――この乎《ヲ》はゾといふのと同じである。
〔評〕 卷六に笠金村の、山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフバナニオチタギツタギノカフチハミレドアカヌカモ》(九〇九)・泊瀬女造本綿花三吉野瀧乃水沫開來受屋《ハツセメノツクルユフバナミヨシヌノタギノミナワニサキニケラズヤ》(九一二)及び卷九の式部大倭の吉野作歌、山高見白木綿花爾落多藝津夏身之河門雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフバナニオチタギツナツミノカハトミレドアカヌカモ》(一七三六)などは、恐らくこの歌を粉本としたものであらう。卷六の金村の歌に泊瀬女の造る木綿花とあるから、泊瀬は(313)木綿花に關係ある地なので、特にかう詠んだものか。この歌は、和歌童蒙抄と和歌色葉集とに出てゐる。
 
1108 泊瀬川 流るるみをの 瀬を早み ゐで越す浪の 音のさやけく
 
泊瀬川《ハツセガハ》 流水尾之《ナガルルミヲノ》 湍乎早《セヲハヤミ》 井提越浪之《ヰデコスナミノ》 音之清久《オトノサヤケサ》
 
泊瀬川ノ流レル水筋ノ瀬ガ早イノデ、堰ヲ越エル浪ノ音ガ清クキコユル。
 
○流水尾之《ナガルルミヲノ》――水尾は水脈。河中に水の深く流れるところ。○井提越浪之《ヰデコスナミノ》――井提《ヰデ》は堰ぜきに同じく、水を堰き止める所。和名抄に、堰〓 井世木 堰〓※[雍/土]水、以v土遏v水也」とある。河中に堰を作つて、水を田に引くやうにしたもの。
〔評〕 活々とした爽やかな歌である。卷十一、朝東風爾井提越浪之《アサコチニヰデコスナミノ》(二七一七)とあるのと、いづれが前か明らかでないが、叙景の歌としてかなり優れてゐる。
 
1109 さ檜の隈 檜の隈川の 瀬を早み 君が手取らば よせ言はむかも
 
佐檜乃熊《サヒノクマ》 檜隈川之《ヒノクマガハノ》 瀬乎早《セヲハヤミ》 君之手取者《キミガテトラバ》 將縁言毳《ヨセイハムカモ》
 
檜隈ノ檜隈川ノ瀬ガ早イノデ、潮ヲ渡ル時ニコロバナイヤウニ〔潮ヲ〜傍線〕アナタノ手ヲ取ツタナラバ、人ガ見テ〔四字傍線〕何(314)トカ喧マシク〔四字傍線〕評判スルデアラウカヨ。
 
○佐檜乃熊《サヒノクマ》――熊の字、舊本に能とあるは誤。類聚古集その他の古寫本によつて改む。サは接頭語的に添へたもの。檜乃熊《ヒノクマ》は檜隈。大和高市郡。今は阪合村といふが、なほ檜隈といふ字《アザ》がある。卷二に宮出毛爲鹿作日之隈囘乎《ミヤデモスルカサヒノクマミヲ》(一七五)とあるも同じ。○檜隈川之《ヒノクマカハノ》――檜隈川は高取山から源を發して、高取川とよばれ、阪合村に至つて檜隈川といふ。更に眞弓川・久米川となり、下流は蘇我川に合してゐる。○將縁言毳《ヨセイハムカモ》――舊訓にヨラムテウカモとあるのを、考にコトヨセムカモとあるが、略解に從ふ。新訓にヨラムコトカモとあるのは、用字の上から考へれば尤もであるが、言葉として無理があるやうである、毳をカモと訓むことに就いては四四九參照。
〔評〕 卷十二に左檜隈檜隈河爾駐馬馬爾水令飲吾外將見《サヒノクマヒノクマカハニウマトドメウマニミヅカヘワレヨソニミム》(三〇九七)とあつて、大和平野の檜隈川には、里の若人の戀心が歌はれてゐる。これは人口を恐れ憚る戀である。
 
1110 齋種蒔く あらきの小田を 求めむと あゆひ出でぬれぬ この川の瀬に
 
湯種蒔《ユダネマク》 荒木之小田矣《アラキノヲダヲ》 求跡《モトメムト》 足結出所沾《アユヒイデヌレヌ》 此水之湍爾《コノカハノセニ》
 
神樣ヲオ祀リシテ蒔ク〔十字傍線〕神聖ナ種ヲオロス爲ニ、新墾ノ田ヲ捜サウトシテ脚絆ヲシテ出テ歩イテ、コノ川ノ瀬デ私ノ着物ガ〔三字傍線〕濡レタ。
 
○湯種蒔《ユダネマク》――湯種《ユタネ》は齋種《イムタネ》で、齋み淨めた稻種。等由氣宮儀式帳に「湯鍬特弖東向耕佃湯草湯種下始」とある。五百種《イホタネ》の意とするのは當らない。○荒木之小田矣《アラキノヲダヲ》――新墾の田をの意で、神名帳に大和國宇智郡荒木神社とある地とする説はよくない。○求跡《モトメムト》――新墾の田を求めるといふのは、新に開墾して田となすべきところを捜すのである。足結出所沾《アユヒイデヌレヌ》――足結をして出かけて、この川の瀬を渡つて、川の水で沾れたといふのである。足結《アユヒ》は上古、袴をかかげて、膝の邊で結び固める帶のやうなもの。鈴・玉などを装飾として附けてあつた。行縢《ムカバキ》・脛巾《ハバキ》と稱するものとは、異るやうである。出の字、宣長は者の誤で、アユヒハヌレヌであらうと言つてゐるが、もとの儘でよいやうである。
(315)〔評〕 當時、土地を新しく開墾したものは、それを私有地とすることが出來た。この男は開墾すべき地を求めむとして、河邊の低地を尋ねに出かけ、足結を濡らした辛苦を歌つてゐるのだ。この時代の世相がわかつて面白い。何か寓意があるやうでもあるが、必ずしもさう見ないでもよいであらう。
 
1111 いにしへも 斯く聞きつつや しぬびけむ この古河の 清き瀬のとを
 
古毛《イニシヘモ》 如此聞乍哉《カクキキツツヤ》 偲兼《シヌビケム》 此古河之《コノフルカハノ》 清瀬之音矣《キヨキセノトヲ》
 
コノ川ノ水ノ音ハ實ニヨイ音ダ。私ハコノ音ガ大好キダガ〔コノ〜傍線〕、昔ノ人モコンナニ私ノヤウニ〔五字傍線〕、コノ布留川ノ清イ瀬ノ音ヲ聞イテ、慕ハシク思ツタデアラウカ。必ズサウデアラウ〔八字傍線〕。
 
○此古河之《コノフルカハノ》――古河は布留川であらう。石上の布留から今の丹波市附近を流れて、初瀬川に合する川である。卷十二に登能雲入雨零河之《トノグモリアメフルカハノ》(三〇一二)・石上袖振河之《イソノカミソデフルカハノ》(三〇一三)ともある。
〔評〕 今、布留川の清瀬の音を聞いて、その千古に絶えないことを思ひ浮べると共に、この音を、古人は如何に賞したであらうかと思ひ遣つたもので、何事によらず古を思ひなつかしむ、吾が國民性があらはれてゐる。
 
1112 はねかづら いまする妹を うら若み いざいざ川の 音のさやけさ
 
波禰※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹乎《イマスルイモヲ》 浦若三《ウラワカミ》 去來率去河之《イザイザカハノ》 音之清左《オトノサヤケサ》
 
(波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三去)率川ノ流レノ音ノ清イコトヨ。ヨイ川ダ〔四字傍線〕。
 
○波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三《ハネカツライマスルイモヲウラワカミ》――次の句|去來《イザ》までは率去《イザ》河といはむ爲の序。羽根※[草冠/縵]を今する女がうら若いので、さあさあとこれを誘ふ意で率川の序となつてゐる。波禰※[草冠/縵]は頭の飾として、羽根を附けたものか、七〇五參照。○去來率去河之《イザイザカハノ》――去來《イザ》は上につづいて序の一部をなしてゐる。率去河は大和志に「率川、源自2春日山紀伊社1※[しんにょう+堯]2猿澤池南1、過2率川社前1至2奈良西1入2奈良川1」とあるもので、今の奈良市を横斷して、佐保川に合してゐる小流である。
〔評〕 序が巧妙に出來てゐる。官能的に陷らうとして陷らず、滑稽的に出來てゐる。(卷十一の波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦(316)若見咲見慍見著四紐解《ハネカヅライマスルイモガウラワカミヱミミイカリミツケシヒモトク》(二六二七)とあるのに似てぬるが、恐らくこれを本にして序を作り、叙景の歌としたのであらう。
 
1113 この小川 霧ぞ結べる 流れ行く はしり井の上に 言擧せねども
 
此小川《コノヲガハ》 白氣結《キリゾムスベル》 瀧至《ナガレユク》 八信井上爾《ハシリヰノウヘニ》 事上不爲友《コトアゲセネドモ》
 
私ハ〔三字傍線〕流レテ行ク流レ清水ノ上デ、言葉ヲ出シテ叫バナイケレドモ、天照大御神ト素盞嗚尊トガ天ノ眞名井デ誓ヲナサツタ時ノヤウニ〔天照〜傍線〕、コノ小川ニハ霧ガカカツテヰル。
 
○白氣結《キリゾムスベル》――白氣は、漢文で霧を白霧と記すのに傚つたのであらう。烟を火氣、霰を丸雪と書いてゐるのと同じである。結《ムスベル》は霧の生じたことで、露の生ずることを、露結ぶといふと同じであらう。○瀧至《ナガレユク》――舊本タギチユクとよんであるが、瀧の字は元暦校本・類聚古集などに流に作つてゐるのがよい。至は集中、イタル、ナル、マデと訓んであつて、ユクに用ゐた例がない。契沖は去の誤としてユクとよんでゐる。しかし舊訓のやうに、この儘でもユクとよめないこともあるまいから、そのままにして置かう。新訓は流至八をナガラフヤと訓んでゐる。○八信井上爾《ハシリヰノウヘニ》――古義はハシヰノウヘニとよんでゐるが、これも古訓を尊重しよう。信は韻鏡、外轉第十七開、臻攝の文字で、n音尾であるが、これが轉じて、シリとなるのは、平群をヘグリと訓ましめるのと同じである。八信井《ハシリヰ》は走井で、水の湧いて流れるもの。下に、隕田寸津走井水之清有者《オチタギツハシリヰノミヅノキヨクアレバ》(一一二七)とある。○事上不爲友《コトアゲセネドモ》――事上《コトアゲ》は言擧で、卷六に千萬乃軍奈利友言擧不爲《チヨロヅノイクサナリトモコトアゲセズ》(九七二)・言擧不爲《コトアゲセズ》(二九一八)・神柄跡言擧不爲國《カムガラトコトアゲセヌクニ》(三二五〇)神在隨事擧不爲國雖然辭擧叙吾爲《カムナガラコトアゲセヌクニシカレドモコトアゲゾワガスル》(三二五三)などあるのと同じで、言葉に擧げて言ひ立てることである。
〔評〕 高天原で天照大御神と素盞嗚尊とが天の安川を間にして、取持たせ給へる玉と劍とを天の眞名井に振り濺いで、神誓《ウケヒ》をし給うた時に、氣吹の狹霧から神々が生れ給うたことがある。この歌は、その神話を念頭において、作つたもののやうに思はれるが、さうでないと思へば、さうも思へるので、これには反對説もある。併しかなり神秘的氣分が濃いやうであるから、ここでは契沖などが解き來つたところに從つて、右の神話によつたものとして置かう。これにも戀の寓意があるやうに考へる説もあるが、從はない。尊い古傳説が民間に語り傳(317)へられて、深く民心に浸透してゐるのが見えて嬉しい。
 
1114 吾が紐を 妹が手もちて 結八川 またかへり見む 萬代までに
 
吾紐乎《ワガヒモヲ》 妹手以而《イモガテモチテ》 結八川《ユフヤガハ》 又還見《マタカヘリミム》 萬代左右荷《ヨロヅヨマデニ》
 
(吾紐乎妹手以而)結八川ノコノヨイ景色〔七字傍線〕ヲ、萬年ノ後マデモ絶エズ還ツテ來テ見ヨウ。
 
○吾紐乎妹手以而《ワガヒモヲイモガテモチテ》――結《ユ》ふと言はむ爲の序詞。吾が衣の紐を妻の手で結ぶの意で、結八川につづけてゐる、女が男の衣の紐を結ぶことを詠んだ歌は集中に多い。今一々例を擧げない。○結八川《ユフヤカハ》――舊訓ユフハカハとあるが、略解にユフヤカハかとある。これを吉野にありとする説が多いが、その所在がわからない。恐らく卷一の遊副川《ユフカハ》(三八)と混同したのであらう。
〔評〕 序に多少の面白味があるだけの歌である。下句は三吉野之秋津乃川之萬世爾斷事無又還將見《ミヨシヌノアキツノカハノヨロヅヨニタユルコトナクマタカヘリミム》(九一一)と似てゐる。
 
1115 妹が紐 ゆふや川内を いにしへの 皆人見きと こを誰か知る
 
妹之紐《イモガヒモ》 結八川内乎《ユウヤカフチヲ》 古之《イニシヘノ》 并人見等《ミナヒトミキト》 此乎誰知《コヲタレカシル》
 
(妹之紐)結八川ノ川ノ廻ツテヰル所ヲ、古ノ皆ノ人タチガ見タガ、ソノ時分ノ〔五字傍線〕コトヲ誰モ知ル人ハナイ。
 
○妹之紐《イモガヒモ》――枕詞。結《ユフ》にかかつてゐることは前の歌の序と同じであるが、彼は吾が紐を妹が結ふのであつて、これは妹の紐を、我が結ふのである。古義に「右の歌に同じく紐を妹が結ふとつづけたり」とあるのは誤つてゐる。○結八川内乎《ユフヤカフチヲ》――結八川の川内をの意。川内《カフチ》は川の行き廻れる所。○并人見等《ミナヒトミキト》――考に并を淑の誤としたのは、卷一の淑人乃良跡吉見而《ヨキヒトノヨシトヨクミテ》(二七)の歌に傚つたのであらうが、獨斷の誹を免れまい。ここは舊訓に從つて置く。
〔評〕 下句が少し曖昧でかる。或は誤字があるのかも知れない。ともかくさしたる歌ではない。
 
(318)詠v露
 
1116 ぬば玉の 吾が黒髪に 降りなづむ 天の露霜 取れば消につつ
 
烏玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 落名積《フリナヅム》 天之露霜《アメノツユジモ》 取者消乍《トレバケニツツ》
 
私ノ(烏玉之)黒イ髪ニ降ツテタマル天ノ露ノ玉ハ手ニ〔五字傍線〕取ルト消エテシマフ。
 
○落名積《フリナヅム》――名積《ナヅム》は滯ることで、ここは露の降りたまることである。○天之露霜《アメノツユシモ》――露霜は露のこと。九七一參照。○取者消乍《トレバケニツツ》――舊訓トレバキエツツとあるが、君爾令見跡取者消管《キミニミシムトトレバケニツツ》(一八三三)・於公令令視跡取者消管《キミニミシムトトレバケニツツ》(二六八六)と共に、トレバケニツツと訓むべきである。
〔評〕 屋外に立つて人を待つてゐる女の歌であらう。夜占問吾袖爾置白露乎於公令視跡取者消管《ユフケトフワガソデニオクシラツユヲキミニミシムトトレバケニツツ》(二六八六)の如き場面かも知れない。一種可憐な情緒が漂つてゐる。この歌は和歌童蒙抄にも載せてある。
 
詠v花
 
1117 島みすと 磯に見し花 風吹きて 波は寄るとも 取らずはやまじ
 
島廻爲等《シマミスト》 礒爾見之花《イソニミシハナ》 風吹而《カゼフキテ》 波者雖縁《ナミハヨルトモ》 不取不止《トラズハヤマジ》
 
島ノマハリヲ廻ルトテ、礒デ見タ花ヲ、私ハ美シク思ツタカラ、ソ〔花ヲ〜傍線〕ノ花ヲ、風ガ荒ク吹イテ浪ガ打チ寄セテモ、取ラナイデハオクマイ。
 
○島廻爲等《シマミスト》――舊訓アサリストとあるのはよくない。卷六、玉藻苅辛荷乃島爾鳥廻爲流《タマモカルカラニノシマニシマミスル》(九四三)とあるのと共に、シマミとよむべきである。シマミは島を廻ること。舟で島廻りするのである。
〔評〕 これは寓意のある歌と思はれる。よそながら見た女を、どうかして自分のものにしたいと言ふのであらう。これに似た歌は數首あるが、この卷の譬喩歌の寄v玉。海底沈白玉風吹而海者雖荒不取者不止《ワタノソコシヅクシラタマカゼフキテウミハアルトモトラズハヤマジ》(一三一七)とよく似(319)てゐる。これと同類と考へれば、譬喩歌に入るべきものである。
 
詠v葉
 
1118 いにしへに ありけむ人も 吾がごとか 三輪の檜原に かざし折りけむ
 
古爾《イニシヘニ》 有險人母《アリケムヒトモ》 如吾等架《ワガゴトカ》 彌和乃檜原爾《ミワノヒバラニ》 挿頭折兼《カザシヲリケム》
 
私ハ今三輪ノ檜ノ枝ヲ折ツテ挿頭トスルガ〔私ハ〜傍線〕、昔ノ人モ私ノヤウニ、三輪ノ檜原デ、挿頭ヲ折ツタデアラウカ。コノ檜ハヨホド昔カラノモノラシイガ、昔ノ人モコレヲ挿頭ニシタデアラウ〔コノ〜傍線〕。
 
○有險人母《アリケムヒトモ》――險をケムの假名に用ゐたのは、珍らしい例で、この他に妹觸險《イモガフレケム》(一七九九)ぐらゐのものである。險は外轉第四十開、咸攝の字で、m音尾であるから、ケムとなるのである。○如吾等架《ワガゴトカ》――この架の字をカの假字に用ゐるのは、集中に他に例がないやうである。異本もないから誤字とも思へない。注意すべき用例である。○彌和乃檜原爾《ミワノヒバラニ》――彌和乃檜原《ミワノヒバラ》は三輪の檜原。一〇九二參照。○挿頭折兼《カザシヲリケム》――卷五の梅花歌(八二〇)の中に、梅花を挿頭とすることを歌つたものがあつたが、花紅葉の類はもとより、槍の葉の如きものをも折り取つて冠に附けたのである。
〔評〕千代にかはらぬ常葉の檜の緑に對して、古もかくあつたであらうと思ふと共に、昔の人も我と同じやうにこれを挿頭にしたであらうかと、懷古の情に耽つてゐるのは、布留川の川音を聞いて、古人を偲んだ(一一一一)のと同樣であらう。なほ、卷四の古爾有兼人毛如吾歟妹爾戀乍宿不勝家牟《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカイモニコヒツツイネガテズケム》(四九七)と上句全く同一なることも注意すべき點であらう。上品な佳作である。この歌は和歌童蒙抄に載せてある。
 
1119 往く川の 過ぎにし人の 手折らねば うらぶれ立てり 三輪の檜原は
 
往川之《ユクカハノ》 過去人之《スギニシヒトノ》 手不折者《タヲラネバ》 裏觸立《ウラブレタテリ》 三和之檜原者《ミワノヒバラハ》
 
(320)(往川之)死ンデシマツタ昔ノ〔二字傍線〕人ガ、挿頭トシテコノ檜原ヲ折ツタガ、今ハコレヲ〔挿頭〜傍線〕手折ラナイノデ、コノ三輪ノ檜原ハ淋シサウニシテ立ツテヰル。
 
○往川之《ユクカハノ》――枕詞。過去《スギニシ》とつづぐのは、水の流れてかへらぬ意を以てしたのである。○過去人之《スギニシヒトノ》――死んだ古人をいふ。スギユク人とよむ説もあり、去の字はユクの例も多いが、ニシ、イニシなども多いから、ここではスギニシと訓むことにした。○裏觸立《ウラブレタテリ》――裏觸《ウラブレ》は、心樂しまず、淋しげな状態をいふ。
〔評〕 前の歌に、古人も我のやうにこの三輪の檜原に挿頭を折つたであらうかと言ひ、やがてそれを肯定して、三輪の檜原の淋しげに、葉をうなだれてゐるのは、その古人が今はこれを手折らぬが爲であると述べてゐる。これも懷古的情緒の深い歌である。これも和歌童蒙抄に載せてある。
 
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
詠v蘿
 
蘿はサガリゴケで、苔とは異なつてゐる。集中の用例を見ると、子松之末爾蘿生萬代爾《コマツガウレニコケムスマデニ》(二二八)のやうに、明らかにサガリゴケを歌つたやうなものもあるが、奥山之磐蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》( 六二)などは、苔らしく思はれる。だから必ずしも文字に拘泥する必要はない。ここは苔を詠じたのである。
 
1120 み芳野の 青根が峰の 蘿むしろ 誰か織りけむ たてぬき無しに
 
三芳野之《ミヨシヌノ》 青根我峯之《アヲネガミネノ》 蘿席《コケムシロ》 誰將織《タレカオリケム》 經緯無二《タテヌキナシニ》
 
芳野ノ青根ガ峯ノ苔ハ、蓆ノヤウニ一面ニ美シク生エテヰルガ、アノ〔苔ハ〜傍線〕苔ノ蓆ハ、横糸モ縱糸モナイノニ、誰ガ織ツタノデアラウカ。
 
(321)○青根我峯之《アヲネガミネノ》――青根が峯は吉野山の東南方につづいて、金峯山の北方にある。離宮址から見ると、三舟の山の上に青螺をあらはしてゐる山である。○蘿蓆《コケムシロ》――右に述べたやうに、苔の筵で、苔の青々と一面に生ひ茂つてゐるのを筵に譬へたのである。○經緯無二《タテヌキナシニ》――經は縱糸、緯は横糸。
〔評〕 高い藝術的感情の燃燒ではないが、悠揚たる長閑な、上代人らしい想像の産物である。
 
詠v草
 
1121 妹らがり 吾が通ひぢの しぬすすき 我し通はば 靡けしぬ原
 
妹等所《イモラガリ》 我通路《ワガカヨヒヂノ》 細竹爲酢寸《シヌススキ》 我通《ワレシカヨハバ》 靡細竹原《ナビケシヌハラ》
 
妻ノ所ヘ私ガ通ツテ行ク路ニ、生エテヰル篠薄ヨ。私ガ通ツテ行ク時ニハ、通リヨイヤウニ氣ヲキカシテ〔通リ〜傍線〕靡ケ。篠薄ノ原ヨ。
 
○妹等所《イモラガリ》――舊本|妹所等《イモガリト》とあるが、類聚古集や神田本によつて改めた。但しこの歌和歌童(322)蒙抄に載せて、妹ガリトとあるから、これも古い訓法である。○我通路《ワガカヨヒヂノ》――古義にアガユクミチノと改めたのは無益である。和歌童蒙抄にもワガカヨヒヂノとある。○細竹爲酢寸《シヌススキ》――篠と薄とか。又は篠薄といふ薄か。いづれとも考へられる。併し源氏物語宿木に「ほに出でぬ物思ふらししのすすき招く袂の露しげくして」とあるので見ると、しのすすきは穗の無い薄で、その樣が篠のやうに見えるから、名づけたものらしい。古今六帖に、「年ふともわれ忘れめや相坂のしののをすすき老いはてぬとも」とある、しののをすすきも同じ物であらう。して見ると、この細竹爲酢寸《シヌススキ》も穗に出ない薄である。略解には「しぬはしなふの約言。細竹は借字也」とある。○靡細竹原《ナビケシヌハラ》――この細竹原《シヌハラ》は上に述べてある細竹爲酢寸《シヌススキ》の原である。
〔評〕 民謠らしい感じの歌である。爽やかな聲調が快く流れてゐる。
 
詠v鳥
 
1122 山のまに 渡る秋沙の ゆきてゐむ その河の瀬に 波立つなゆめ
 
山際爾《ヤマノマニ》 渡秋沙乃《ワタルアキサノ》 往將居《ユキテヰム》 其河瀬爾《ソノカハノセニ》 浪立勿湯目《ナミタツナユメ》
 
アチラノ〔四字傍線〕山ノ間ヲ掠メテ〔四字傍線〕行ク秋沙ガ、ヤガテ河ニ飛ビ降リルデアラウガ、ソノ〔ヤガ〜傍線〕飛ビ降リル河ノ瀬ニ、決シテ浪ガ立ツナヨ。秋沙ガ可愛サウダカラ〔秋沙〜傍線〕。
 
○山際爾渡秋沙乃《ヤマノマニワタルアキサノ》――山の間を掠めて飛んで行く秋沙が。秋沙は游禽類で、體形は鴨に似て小さく、嘴端は鉤状に曲り、その縁邊に尖つた齒を生じてゐる。北地に生殖し、冬季は暖地に棲息する。俗に「あいさ」又は「あひがも」といふ。○往將居《ユキテヰム》――飛んで行つて、やがて降りて居るだらうの意で、下の其河瀬につづいてゐる。
〔評〕 遙かの山の端を飛んで行く秋沙の群を眺めて、その飛び降るべき河瀬を(323)思ひやつて、その鳥の休息地であめ食を求める場所たるその河の瀬の、穩やかならむことを祈つたもので、遠來の珍客としてこの鳥を勞り愛してゐる情が、まことにうるはしく、なつかしい。
 
1123 佐保河の 清き河原に 鳴く千鳥 かはづと二つ 忘れかねつも
 
佐保河之《サホガハノ》 清河原爾《キヨキカハラニ》 鳴知鳥《ナクチドリ》 河津跡二《カハヅトフタツ》 忘金都毛《ワスレカネツモ》
 
佐保川ノ清イ河原ニ鳴ク千鳥ノ聲〔二字傍線〕ト河鹿ノ聲〔二字傍線〕ト、コノ二ツノヨイ聲ヲ忘レルコトハ出來ナイヨ。時々思ヒ出シテナツカシガツテヰル〔時々〜傍線〕。
 
○鳴知鳥河津跡二《ナクチドリカハヅトフタツ》――鳴く千鳥のよい聲、河鹿のよい聲との二つをの意。略解にあげたる宣長説に、河津を河の景色と見たのは甚だしい誤解である。
〔評〕 奈良の佐保川は、今行つて見ると水量も少く、流も清くはないが、昔は千鳥や河鹿の住む清流であつたのである。千鳥は千鳥鳴佐保乃河瀬之小浪《チドリナクサホノカハセノサザレナミ》(五二六)とあるやうに、河鹿は不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞還都流香聞《オモホエズキマセルキミヲサホカハノカハヅキカセズカヘシツルカモ》(一一〇四)とあるやうに、共に佐保川の名物である。曾て佐保川に遊んだ人の作か、或はそこに住んでゐた人が旅に出て詠んだものであらう。
 
1124 佐保河に さわぐ千鳥 夜くだちて 汝が聲聞けば 寢ねがてなくに
 
佐保河爾《サホガハニ》 小驟千鳥《サワグチドリ》 夜三更而《ヨグダチテ》 爾音聞者《ナガコヱキケバ》 宿不難爾《イネガテナクニ》
 
佐保川デ集マリ遊ンデヰル千鳥ガ、夜ガ更ケテカラ鳴ク聲ヲ聞クト、悲シクナツテ〔六字傍線〕寢ルコトガ出來ナイヨ。
 
○小驟千鳥《サワグチドリ》――舊訓アソブチドリノとあるのを、略解はノを省いて六言に訓んでゐる。古義はサヲドルチドリとしてゐる。しかし驟の字は弓波受乃驟(《ユハズノサワギ》(一九九)・河津者驟《カハヅハサワグ》(三二四)・驟鞆《サワゲドモ》(一六九〇)・波驟祁留《ナミノサワゲル》(一一〇四)・驟湊之《サワグミナトノ》(一八〇七)などのやうに、皆サワグと詠んでゐる。なほ驟騷舍人者《サワグトネリ》(四七八)ともあつて騷と熟してもサワグとよんでゐるから、ここも小の字と熟してもサワグとよむのであらう。他によい訓法は無いやうに思はれる。○夜三更而《ヨクダチテ》――三更(324)の二字は此處の他に袖續三更之《ソデツグヨヒノ》(一五四五)・三更刺而《ヨナカヲサシテ》(一六九一)・三更而《サヨフケテ》(四一四一)などの訓があるが、ここはクダチとよむ外はあるまい。ヨクダチテは夜が更けての意。○宿不難爾《イネカデナクニ》――寢不勝鴨《イネガテヌカモ》(六〇七)と同樣で、寢るに堪へぬよの意である。難と勝との用字の上に、別を立てる必要はない。略解に「なくは詞也」とあり、古義に「不《ナク》は添たる辭にて難《カネ》v寢《イネ》にと云むが如し」とあるのは、共によくない。
〔評〕 平板ではあるが、氣分はよく出てゐる。
 
思2故郷1
 
故郷は舊都の意にも、吾が舊く住んだ里の意にも用ゐられる。六〇九參照。ここは舊都に住み馴れた人が、舊郡を思つて詠んだのである。
 
1125 清き瀬に 千鳥妻よび 山のまに 霞立つらむ 甘南備の里
 
清湍爾《キヨキセニ》 千鳥妻喚《チドリツマヨビ》 山際爾《ヤマノマニ》 霞立良武《カスミタツラム》 甘南備乃里《カムナビノサト》
 
清イ川ノ湍デ千鳥ガ妻ヲ呼ンデ鳴キ〔二字傍線〕、山ノ間デハ霞ガ立ツテヰルダラウ。アノ舊都ノ〔五字傍線〕廿南備ノ里ヨ。アア思ヘバ、ナツカシイ〔ヨア〜傍線〕。
 
○甘南備乃里《カムナビノサト》――集中飛鳥を神南備と稱した例が多いから、これも飛鳥の里を指したものである。
〔評〕 卷六の大納言大伴卿在2寧樂家1思2故郷1歌に、神名火乃淵者淺而瀬二香成良牟《カムナビノフチハアセニテセニカナルラム》(九六九)とあるやうに、飛鳥川の清瀬を歌ひ、また神南備山の靈山をもよんでゐる。自分の曾て住み馴れた舊都に對する思慕の情が、あはれになつかしく詠まれてゐる。明朗な作品である。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1126 年月も いまだ經なくに 明日香川 瀬々ゆ渡しし いはばしもなし
 
年月毛《トシツキモ》 未經爾《イマダヘナクニ》 明日香河《アスカガハ》 湍瀬由渡之《セゼユワタシシ》 石走無《イハバシモナシ》
 
(325)都ガ奈良ヘ遷ツテカラ〔十字傍線〕、年月モマダ可列、引「刊イクラモ〔四字傍線〕經タナイノニ、飛鳥川ハ私ガ〔二字傍線〕瀬々ヲ渡ツタ飛石ノ〔三字傍線〕橋モナクナツタ。實ニ荒レ果テタモノダ〔十字傍線〕。
 
○湍瀬由渡之《セゼユワタシシ》――瀬々を渡つたの意。瀬々に橋を懸けた意とも見られないことはないが、恐らくさうでははあるまい。但しワタリシよりもワタシシがよいであらう。○石走無《イハバシモナシ》――石走はイハバシリと新訓によんでゐるが、石走間近君爾《イハバシノマヂカキキミニ》(五九七)とあるやうに、イハバシがよい。モに當る字は無いが、補つてよむべきである。
〔評〕 これは前の歌とは違つて、その境地に臨んでの作である。淵瀬の變り易い飛鳥川であるから、河中の置石も、いつしか影を没したものか。吾が足跡を見るやうな心持で來たこの石の姿が見えないのが、どんなにか悲しいことであつたらう。あはれな作である。なほ辰己利文氏の大和萬葉地理研究によれば、この石走の名殘とも見られるものが、今尚殘つてゐるとのことである。同書二十六頁參照。
 
詠v井 
 
井は飲料とすべき水を湛へたところ。多くは今の泉をいふのであるが、ここは走井と堀井とが歌はれてゐる。
 
1127 落ちたぎつ 走り井の水の 清くあれば わたりは我は 行きがてぬかも
 
隕田寸津《オチタギツ》 走井水之《ハシリヰノミヅノ》 清有者《キヨクアレバ》 度者吾者《ワタリハワレハ》 去不勝可聞《ユキガテヌカモ》
 
落チテ泡立ツテ流レル、流レ清水ノ水ガ清イノデ、空シク通ルノガ惜シクテソノ水ヲ〔空シ〜傍線〕渡ツテ私ハ過ギ去ルコトガ出來ナイヨ。
 
○隕田寸津《オチタギツ》――水の落ちて泡立つこと。隕の字は、集中他に用例がない。○走井水之《ハシリヰミヅノ》――走井は八信井上爾《ハシリヰノウヘニ》(一一一三)とあるところに説明した通り、泉の流れるものである。○度者吾《ワタリハワレハ》――度の字、元暦校本・類聚古集・神田(326)本など、癈又は廢に作り、ステテハワレハの訓もあるが、この字は集中他に全く用ゐられない字であり、又ステテハと訓むのは無理かと思はれるから、舊本のまま度として、ワタリと訓みたい。度は多くワタルと馴まれてゐる。○去不勝可聞《ユキガテヌカモ》――行くに堪へぬよの意。寢不勝鴨《イネガテヌカモ》(六〇七)參照。
〔評〕 清列な水が、古代人にはなつかしく、さうして神秘的にまで考へられたことは、多くの靈泉傳説が示す通りである。この歌にもさうした思想の一端があらはれてゐる。
 
1128 馬醉木なす 榮えし君が 穿りし井の 岩井の水は 飲めど飽かぬかも
 
安志妣成《アシビナス》 榮之君之《サカエシキミガ》 穿之井之《ホリシヰノ》 石井之水者《イハヰノミヅハ》 雖飲不飽鴨《ノメドアカヌカモ》
 
(安志妣成)御繁昌ナサツタ御方ノオ掘リナサツタ岩井ノ水ハ、マコトニ良イ水デ〔八字傍線〕、イクラ飲ンデモ飽キナイヨ。
 
○安志妣成 《アシビナス》――枕詞。馬醉木のやうにの意で、榮之《サカエシ》につづいてゐる。馬醉木の花が枝を蔽うて咲く盛觀に譬へたのである。○鄭榮之君之《サカエシキミガ》――繁昌した貴方がの意で、この君は誰をさすとも明らかでないが、既に故人となつた貴人であらう。○穿之井之《ホリシヰノ》――普通の井は自然に水の湧くところであるが、これは人工によつて掘つた今日の井戸と同じものであつたのである。○石井之水者《イハヰノミヅハ》――石井は岩井で、井の周圍が岩となつてゐるもの、これは堀井であるから、井筒が石で出來てゐたのであらう。代匠記に、雄略紀の三輸磐井のことを引いてゐるが、それに關係はない。
〔評〕 この頃飲料水は、多く天然の泉を汲んでゐたのであるが、また人工を以て穿つた、いはゆる堀井もあつたのである。併しこれは費用もかかることであるから、普通人はなし得なかつた。この歌は夏日の暑い盛りなどに、或堀井の水を汲んだ人が、曾てそこに邸宅を構へて權勢のあつた貴人長者が、これを穿つたことを想起して、その餘徳を讃へたのである。この井の水のやうな清澄な感じの歌である。
 
(327)詠2和琴1
 
和琴は吾が國固有の琴。多くは六絃。卷五の八一〇參照。
 
1129 琴取れば なげき先立つ けだしくも 琴の下樋に 妻やこもれる
 
琴取者《コトトレバ》 嘆先立《ナゲキサキダツ》 蓋毛《ケダシクモ》 琴之下樋爾《コトノシタヒニ》 嬬哉匿有《ツマヤコモレル》
 
琴ヲ手ニ取ツテ彈カウトス〔七字傍線〕ルト、妻ノコトガ思ヒダサレテ〔妻ノ〜傍線〕、嘆キガ先ニ立ツ、ヒヨツトシタラ琴ノ胴ニ戀人ガ隱レテヰルノデモアラウカ。
 
○蓋毛《ケダシクモ》――ケダシは若しも。ひよつとしたら。○琴之下樋爾《コトノシタヒニ》――下樋は琴の胴。琴の表板と裏板との間の空虚で、樋のやうになつてゐる部分。○嬬哉匿有《ツマヤコモレル》――妻が隱れてゐるのか。慝は過慝卷《スギカクレマク》(一〇六九)とあるから、ここもツマヤカクルルともよめるが、コモレルがよいやうに思ふ。
〔評〕 妻を亡くした人の歌であらう。悲愁の爲に愚痴になつてゐる男の心があはれである。但し琴によつて嘆きが加はる意を詠んだものは、卷十八に和我勢古我許登等流奈倍爾都禰比登能伊布奈宜吉思毛伊夜之伎麻須毛《ワガセコガコトトルナベニツネヒトノイフナゲキシモイヤシキマスモ》(四一三五)とあり、古今集にも、「わびひとの住むべきやどと見るなべに嘆きくははる琴の音ぞする」とある。なほこの琴とればの歌は八雲御抄にも引いてある。
 
芳野作
 
1130 神さぶる 岩根こごしき み芳野の 水分山を 見れば悲しも
 
神左振《カムサブル》 磐根己凝敷《イハネコゴシキ》 三芳野之《ミヨシヌノ》 水分山乎《ミクマリヤマヲ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
神々シク磐ガゴツゴツト聳エテヰル芳野ノ、水分山ヲ見ルト、ヨイ山ナノデ〔六字傍線〕面白イナア。
 
(328)○三芳野之水分山乎《ミヨシヌノミクマリヤマヲ》――吉野の水分山は、神名帳に、「吉野水分神社、名神大、月次新嘗、」と見え、祈年祭の祝詞にも、「水分坐皇神等能前爾白久《ミクマリニマススメガミタチノマヘニマヲサク》、吉野宇陀都祁葛木登御名者白?《ヨシヌウダツゲカヅラキトミナハマヲシテ》」とある神を齋き祭つた山で、吉野の上千本の上方、高城山・青根が峯の前方にある。水分の神は中世以來子守の神といつてゐる。蓋しミクマリをミコモリに誤り、子守と呼ぶことになつたのであらう。大和地圖參照。插入寫眞は、前の青根が峯と共に、吉野研究家中岡清一氏が、特に撮影寄贈せられたものである。○見者悲毛《ミレバカナシモ》――悲毛はここは面白いよの意である。
〔評〕 水分山は吉野としては比較的奥深い山で、櫻の名所でなかつた頃には、水分の神に詣づるものなどの分け登る山であつたらう。併し既に奧の金峯山が役行者によつて開かれてゐたので、このあたりも大峯入の人たちの通路でもあつたのである。ともかくこれはこの山を實地踏査した人の歌らしい。水分の神への崇敬も、おのづからあらはれてゐるやうに思はれる。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
1131 皆人の 戀ふるみ吉野 今日見れば うべも戀ひけり 山川清み
 
(329)皆人之《ミナヒトノ》 戀三吉野《コフルミヨシヌ》 今日見者《ケフミレバ》 諾母戀來《ウベモコヒケリ》 山川清見《ヤマカハキヨミ》
 
皆ノ人ガ、誰デモ〔三字傍線〕戀ヒ慕フ吉野ヲ、今日來テ〔二字傍線〕見ルトホントニヨイ所ダ〔八字傍線〕。コンナニ〔四字傍線〕山ヤ川ガヨイ所ダカラ、皆ノ人ガ〔四字傍線〕戀シガルノハ道理ダヨ。
 
○山川清見《ヤマカハキヨミ》――山と川とが清いから。清は景色が佳いこと。
〔評〕 有名な吉野の山川に始めて接した人が、名の實に違はざるを見て、讃嘆した歌である。歌ははつきりと詠まれてゐるといふまでであらう。五句が少し迫つた調子である。
 
1132 夢のわだ ことにしありけり 現にも 見て來しものを 念ひし念へば
 
夢之和大《イメノワダ》 事西在來《コトニシアリケリ》 寤毛《ウツツニモ》 見而來物乎《ミテコシモノヲ》 念四念者《オモヒシモヘバ》
 
景色ノヨイ〔五字傍線〕夢ノ和太トイフ所ハ、夢ニバカリ見テ、實際ニハ見ラレナイ所カト思ツタガ、夢トイフ名ハ〔夢ニ〜傍線〕、名バカリデアツタヨ。行ツテ見タイ見タイト〔十字傍線〕、熱心ニ思ヘバ、カウシテ現在ニモ私ハ〔二字傍線〕行ツテ見テ來タノダカラ。有名ナ夢ノワダヲ見ルコトガ出來テヨカツタ〔有名〜傍線〕。
 
○夢乃和太《イメノワダ》――今、夢淵と稱してゐるところで、吉野離宮前の吉野川の回淵である。卷三の三三五參照。○事》西在來《コトニシアリケリ》――言にし在りけり。言葉のみで、實際に合はないよの意。○念四念者《オモヒシモヘバ》――思ひに思へば。シは強めたのである。心から思ふ上にも思へばの意。
〔評〕 夢のわだといふ名に因んで、現《ウツツ》と相對して、面白く詠んたのである。かういふ工風もこの程度のうちはよいが、これが過ぎると、いやになつて來るのである。その意味に於て、この歌は萬葉ぶりと中世風との岐路に立つものと言へる。
 
(330)1133 すめろぎの 神の宮人 ところづら いやとこしくに 我かへり見む
 
皇祖神之《スメロギノ》 神宮人《カミノミヤビト》 冬薯蕷葛《トコロヅラ》 彌常敷爾《イヤトコシクニ》 吾反將見《ワレカヘリミム》
 
昔ノ御代々ノ天子樣ニオ仕ヘシタ宮人ドモニ引キツヅイ〔六字傍線〕テ、私ハ(冬薯蕷葛)益々永久ニ、コノ吉野ノ宮ヲ幾度幾度モ〔コノ〜傍線〕立チ還ツテ見マセウ。
 
○皇祖神之神宮人《スメロギノカミノミヤビト》――皇祖の神々に仕へ奉つた宮人たちの意。スメロギは古代の天皇を申し奉る。○冬薯蕷葛 《トコロヅラ》――枕詞。舊訓サネカツラ、代匠記精撰本マサキヅラ、考はフユモツラとあるが、略解の宣長云に、トコロヅラとあるのがよい。常敷《トコシク》にかかつてゐる。トコロヅラはトコロの蔓で、トコロはやまのいも科の植物で、やまのいもと異る點は、その葉が彼に比して幅廣く、基脚の心臓形凹入やや淺く、又、互生してゐる點である。和名抄には「〓崔禹食經云、〓度古侶、俗用2〓字1、漢語抄用2野老二字1味苦少甘無毒、燒蒸充v粮」とある。野老の二字を用ゐるのは、その根に長い鬚があるからだと言はれてゐる。大膳式に「薯預《ヤマノイモ》、〓《トコロ》各二合云々」とあるから古くからヤマイモとの區別はあつたのである。これが下へのつづきは、トコの音を繰返したのであらう。冬も葉があるから冬薯蕷と記すといひ、その常葉の意味で、常敷《トコシク》へつづくといふのは信ぜられない。冬は、やはり葉が枯れ落ちる。○彌常敷爾《イヤトコシクニ》――舊本トコシキとあるが、代匠記精撰本にトコシクとあるのがよい。
〔評〕 吉野の佳景に接して、又還り見むといふやうな意を述べたものは、今までにも澤山あつた。その點から言へば類型的とも言へるが、この歌は上の四句は、詞もめづらしくもあり、又實感その儘を歌つてゐるのだから、それを認めてやらねばなるまい。
 
1134 芳野川 いはとかしはと 常磐なす 我は通はむ よろづ代までに
 
(331)能野川《ヨシヌガハ》 石迹柏等《イハトカシハト》 時齒成《トキハナス》 吾者通《ワレハカヨハム》 萬世左右二《ヨロヅヨマデニ》
 
吉野川ハヨイ景色ダカラ、ソノ岸ノ〔ハヨ〜傍線〕岩ノ堅イ磐ノヤウニ、變ラズニ、萬年ノ後マデモ絶エズ、私ハ通ツテ見ニ〔二字傍線〕行カウ。
 
○能野川《ヨシヌガハ》――集中、吉野を記すには常に、芳野又は吉野とのみあるに、(假名書の與之努《ヨシヌ》もあるが)ここに能野と記したのは唯一の例である。卷十二に浦回榜能野舟泊《ウラミコグヨシヌフネハテ》(三一七二)とある能は、熊の誤と思はれるによれば、これも誤字と考へられるが、これは芳野作中にあるから、さうとも言はれない。やはりこのままでヨシヌとする外はあるまい。○石迹柏等《イハトカシハト》――石迹柏《イハトカシは》は全く分らない。古來諸説があるが、まづ岩門堅磐《イハトカシハ》の意に見るものが多い。吉野川が、岸の岩の迫つてゐる間を流れるのを岩門《イハト》と言つたので、竪磐《カシハ》はカタシイハの略、そこの巖石をさしたものであらう。トは、の如くの意。代匠記に、雄略天皇が、大石を柏の葉のやうに蹶上げ給うた故事を引いて、石迹柏は石のことであらうといふやうな説も記してあるが、これは關係はあるまい。○時齒成《トキハナス》――變らずにの意。
〔評〕 石迹柏等《イハトカシハト》が明瞭でないが、ここは永久なるものの、譬喩にとつただけのやうであるから、どう解してもさして影響はないところである。三句から下は、例のまた還り見むと同意で、この歌は前の歌と同じく、また、卷一の雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》(三七)によく似てゐる。この歌袖中抄に出てゐる。
 
山背作
 
1135 宇治河は 淀瀬無からし 網代人 舟よばふ聲 をちこち聞ゆ
 
氏河齒《ウヂカハハ》 與杼湍無之《ヨドセナカラシ》 阿自呂人《アジロビト》 舟召音《フネヨバフコヱ》 越乞所聞《ヲチコチキコユ》
 
宇治川は徒歩デ渉ルベキ〔七字傍線〕、水ノ淀ンダ瀬ガナイラシイ。網代ヲ番スル人ガ、舟ヲ呼ブ聲ガアチコチニ聞エル。(332)彼等ハ舟デ渡ルモノト見エル〔五字傍線〕。
 
○與杼湍無之《ヨドセナカラシ》――與杼湍《ヨドセ》は淀と瀬との二つとも考へられるが、卷十七に、於姿勢流泉河乃可美郡瀬爾宇知橋和多之余登瀬爾波宇枳橋和多之《オバセルイヅミノカハノカミツセニウチハシワタシヨドセニハウキハシワタシ》(三九〇七)とあるから、ここも與杼湍《ヨドセ》といふ熟語らしい。意は淀んだ瀬である。水の穩やかに流れるところで、徒渉に適してゐる。それが無い爲に渡舟の力を借りるのである。○阿自呂人《アジロビト》――網代の番をする人。網代に寄る氷魚《ヒヲ》を捕る人。網代は河中の淺瀬に竹簀を渡して、流れ下る魚を捕るもの。二六四參照。正親内膳式に、「山城國近江國氷魚網代各一處、其氷魚始2九月1迄2十二月三十日1貢之」とあつて、秋の末から冬の間のものであるから、この歌もその期間の風景である。○越乞所聞《ヲチコチキコユ》――ヲチコチは遠近に、あちこちにの意。
〔評〕 すがすがしい、調子の高い歌である。人によつて解釋を異にしてゐるのは遺憾であるが、それはこの歌の表現法が曖昧なのではなくて、宇治川の古代の情景がよく分らない爲であるから、致し方がない。
 
1136 宇治河に 生ふる菅藻を 河早み 取らず來にけり つとにせましを
 
氏河爾《ウヂガハニ》、生菅藻乎《オフルスガモヲ》 河早《カハハヤミ》 不取來爾家里《トラズキニケリ》 ※[果/衣のなべぶたなし]爲益緒《ツトニセマシヲ》
 
宇治川ニ生エテヰル菅藻トイフ草ハ、珍ラシイモノダカラ、取ツテ〔ハ珍〜傍線〕土産ニシタイノダガ、河ノ流レ〔三字傍線〕ガ早イノデ取ラナイデ來タヨ。
 
○生菅藻乎《オフルスガモヲ》――菅藻は仙覺抄に、「菅に似たる河藻なり。人のくふ物といへり」とあるが、どんなものであるか分らない。ともかく藻の一種で、その頃宇治川の名物であつたと見える。このスガを清《スガ》の意とするのは當らない。なほスガモを一にスゲモと稱し、また、アマモともいふさうだが、これは眼子菜科の大葉藻屬のもので、根が甘くて兒童が食べるさうだ。併しそれは海中に生ずるものであるから、これとは別物である。○※[果/衣のなべぶたなし]爲益緒《ツトニセマシヲ》――※[果/衣のなべぶたなし]は藁などで包んだもの。即ち土産物の意となる。
(333)〔評〕 折角宇治川へ來ながら、名物の菅藻を採取し得なかつたことを遺憾に思つたのである。それが飾氣もなくありのままに述べられてゐる。後鳥羽院集の「すがも刈る八十宇治川のせをはやみ手にもたまらずくるる年かな」はこの歌を本とせられたのである。
 
1137 宇治人の 譬の網代 我ならば 今は依らまし こづみならずとも
 
氏人之《ウヂビトノ》 譬乃足白《タトヘノアジロ》 吾在者《ワレナラバ》 今齒王良増《イマハヨラマシ》 木積不來友《コヅミナラズトモ》
 
宇治ノ里人ガヨク〔二字傍線〕譬ニスル網代ヲ、一寸ワタシニ譬ヘテ見ヨウガ、アノ〔一寸〜傍線〕網代ガ私デアツタナラバ、網代ニハ塵芥ガ引ツカカルモノダガ〔網代〜傍線〕、塵芥デナクトモ、アナタハ〔四字傍線〕、今度ハ私ニ〔二字傍線〕ヨリカカリサウナモノダ。
 
○譬乃足白《タトヘノアジロ》――宇治の里人が、何かにつけて譬とする網代の意で、網代は宇治の名物だからである。タトヒと訓むのもよいが、クトヘも古くから用ゐられてゐるやうであるから、舊訓のままにして置く。なほ、この譬を仙覺抄に、ひを待つの意で、日を待つと氷魚待つとをかけたやうに説いてゐるのは、全く古意にはづれてゐる。○吾在者《ワレナラバ》――宣長は吾を君の誤としてゐる。それでも解けるが、もとのままでも解けるから、改めないことにする。○今齒王良増木積不來友《イマハヨラマシコヅミナラズトモ》――王は古葉略類聚鈔に生とあるが考に世の誤としたのにより、又、來も成の誤としたのによつて、かく訓むことにした。或は他にも誤字かあるのかも知れない。木積《コヅミ》は流れ寄る塵芥をいふ。木積成《コヅミナス》(二七二四)・緑木積成《ヨルコヅミナス》(四二一七)・與流許都美《ヨルコヅミ》(四三九六)などの例がある。古義に卷十四に奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコヅノヨスナス》(三五四八)とあるによつて、コヅと訓んだのはよくない。
〔評〕 誤字があるのであらう。少しく難解の點があるのは惜しい。
 
1138 宇治河を 船渡せをと よばへども 聞えざるらし 楫のともせず
 
氏河乎《ウヂカハヲ》 船令渡呼跡《フネワタセヲト》 雖喚《ヨバヘドモ》 不所聞有之《キコエザルラシ》 ※[楫+戈]音毛不爲《カヂノトモセズ》
 
コノ宇治川ヲ船ヲ渡セヨト大聲デ私ハ〔五字傍線〕呼ンデモ、川ガ廣イノデ渡守ニハ〔十字傍線〕聞エナイノダラウ。櫓ヲ漕イデ來ル〔四字傍線〕音モシナイ。
 
(334)○船令渡呼跡《フネワタセヲト》――呼《ヲ》はヨと同じで、呼びかけて命令する助詞である。○雖喚《ヨバヘドモ》――ヨバヘと延言によんであるのでよからう。
〔評〕 ありのままを卒直に述べて、更に斧鑿の跡がなく、しかも情景を眼前に髣髴せしめてゐる。傑れた作だ。卷十に渡守船度世乎跡呼音之不至者疑梶聲之不爲《ワタシモリフネワタセヲトヨブコヱノイタラネバカモカヂノトノセス》(二〇七二)とよく似た歌である。なほ、この歌は前の氏河齒與杼湍無之阿自呂人舟召音越乞所聞《ウヂカハハヨドセナカラシアジロビトフネヨバフコヱヲチコチキコユ》(一一三五)と同一場面をよんだものとも考へられる。然らばこの船渡せをと呼ぶのは、網代人で、旅行者自身ではないことになる。併し旅行者が自分のことをよんだものとする方が、歌があはれに聞える。
 
1139 千早人 宇治川浪を 清みかも 旅行く人の 立ちがてにする
 
千早人《チハヤビト》 氏川浪乎《ウヂカハナミヲ》 清可毛《キヨミカモ》 旅去人之《タビユクヒトノ》 立難爲《タチガテニスル》
 
(千早人)宇治川ノ浪ガ清イカラカ、旅行ク人ガ、景色ニ見トレテ〔七字傍線〕、立チ去リカネル。コンナニ佳イ景色ダカラ、ソレハモツトモナコトダ〔コン〜傍線〕。
 
(335)○千早人《チハヤビト》――枕詞。いちはや人、即ち勇猛なる人の義で、氏につづく。○立難爲《タチガテニスル》――立ち去りかねる。ガテニは稻日野毛去過勝爾思有者《イナビヌモユキスギガテニオモヘレバ》(二五三)の勝爾《ガテニ》と同樣で、不堪の意である。
〔評〕 宇治川の清流に見とれて、旅人が立去りかねる風姿を詠んだものか、又は旅人の一人が、一般的に旅人が宇治川に心引かれる理由を説明したものか、この二樣の見方があらうと思はれる。恐らく後者であらう。
 
攝津作
 
1140 しなが鳥 猪名野を來れば 有間山 夕霧立ちぬ 宿は無くして 一本云、 猪名の浦廻を 漕ぎ來れば
 
志長鳥《シナガドリ》 居名野乎來者《ヰナヌヲクレバ》 有間山《アリマヤマ》 夕霧立《ユフギリタチヌ》 宿者無爲《ヤドハナクシテ》
 
(志長鳥)猪名野ヲ通ツテヰルト、イツシカタ方ニナツテ〔十字傍線〕宿ルベキ所モナイノニ、アチラニ見エル〔七字傍線〕有間山ニハ、夕霧ガ立ツタ。アア心細イコトダ〔八字傍線〕。
 
○志長鳥《シナガドリ》――枕詞。志長鳥《シナガドリ》は鳩《ニホ》の別名で、即ちカイツブリのことである。シは息・風などの意であるから、この鳥が永く水中に潜いてゐるから附した名である。猪名につづくのは居並《ヰナラ》ぶの意で、この鳥が水上に群れてゐる姿によつたのであらう、七二五參照。○居名野乎來者《ヰナヌヲクレバ》――居名野《ヰナヌ》は猪名川を中心とした平野で、即ち今の豐能・川邊兩郡に渉つてゐる。第一冊附録攝津地圖參照。○有問山《アリマヤマ》――今の有馬温泉方面の山。四六〇參照。
〔評〕 何といふ寂寥感のあらはれた作であらう。猪名野は中世の作にさへ「有馬山猪名の笹原」(後拾遺集)と詠まれたほどであるから、この當時如何に荒涼たる曠野であつたかは想像するに餘ある。その野を、淋しく歩いてゐた旅人が、夕霧に包まれ始めた有馬山を眺めて、既に夕闇が遠くから迫つて來るのを感じ、しかも宿るべき家もないことを思つて、途方に暮れてゐる歌である。かういふ種類の作としては、蓋し集中の白眉を以て推すべきものであらう。
 
(336)一本云猪名乃|浦廻乎榜來者《ウラミヲコギクレバ》
 
これは右の歌の二三句の異傳であるが、これでは海路の歌となり、宿者無爲《ヤドハナクシテ》の寂寥感も薄くなるやうである。
 
1141 武庫河の みをを早けみ 赤駒の 足掻くたぎちに 沾れにけるかも
 
武庫河《ムコガハノ》 水尾急嘉《ミヲヲハヤケミ》 赤駒《アカゴマノ》 足何久激《アガクタギチニ》 沾祁流鴨《ヌレニケルカモ》
 
武庫川ノ水ノ流レガ早イ爲カ、川ヲ渡ル時ニ私ハ〔八字傍線〕赤駒ノ歩クノデ水ガハネ上ツテ、着物ガ濡レタワイ。
 
○武庫河《ムコカハノ》――武庫河はその源を丹波及び有馬郡から發して三田川となり、更に南流して今、西の宮と尼ケ崎との中間、鳴尾附近に於て海に入る川である。この歌の趣は、比較的上流の昆陽又は武庫あたりを徒渉するものである。攝津地圖參照。○水尾急嘉《ミヲヲハヤケミ》――舊本の嘉の字は、類聚古集・古葉略類聚鈔・神田本にない。一體、この嘉の字は集中の何處にも用例がないのであるから、古本に無いとすれば、後世の竄入と見るのが穩當であらう。古義に嘉を三等の誤としてハヤミトとしたのもよしない訂正である。水尾も舊訓はミヅヲとあるが、これは水脈の意のミヲに用ゐたもので、流水尾之《ナガルルミヲノ》(一一〇八)・水尾早見鴨《ミヲハヤミカモ》(一一四三)水尾之不斷者《ミヲシタエズバ》(一七一〇)・水屋母不絶《ミヲモタエセズ》(二八六〇)など皆さうであるから、舊訓は大なる誤で、略解古義などがこれに從つてゐるのはその意を得ない。○足何久激《アガクタギチニ》――足何久《アガク》は馬の足を動かすこと。激は石激《イハハシル》(一四一八)・激乎見者《タギルヲミレバ》(一六八五)の如く、ハシル又はタギルと訓む字で、舊訓ソソギとあるのも、必ずしも惡くはないが、ここではタギチの訓によることにした。
〔評〕 急流を駒に鞭打つて渡る姿が、生々と寫し出されてゐる。卷十七の宇佐可河泊和多流瀬於保美許乃安我馬乃安我枳乃美豆爾伎奴奴禮爾家里《ウサカガハワタルセオホミコノアガマノアガキノミヅニキヌヌレニケリ》(四〇二二)はこれに少しく似た歌である。
 
1142 命を さきくよけむと 石走る 垂水の水を 掬びて飲みつ
 
命《イノチヲ》 幸久吉《サキクヨケムト》 石流《イハバシル》 垂水水乎《タルミノミヅヲ》 結飲都《ムスビテノミツ》
 
命ガ恙ナイヤウニト思ツテ、大層ヨイ水ダト名高イ〔十字傍線〕(石流)垂水ノ水ヲ、私ハ〔二字傍線〕乎デ掬ツテ飲ンダヨ。
 
(337)○幸久吉《サキクヨケムト》――舊訓幸の字を第一句に入れてイノチサチ、ヒサシキヨシモとある。袖中抄にもさうあるから、これが古訓であるが、どうも落付がよくない。考にイノチノサキクヒサシキとあり、略解にあげた宣長説には、吉は在の誤とし、サキクアラムトとしてゐる。この説は面白いが、もとのままでサキクヨケムトと訓んだ新訓に從ふ。○石流《イハハシル》――流は激の誤と略解にある。なるほど、石激垂見之上乃《イハハシルタルミノウヘノ》(一四一八)とあるから、さう思はれないこともないが、この儘でもよいであらう。枕詞。垂水は瀧の意になるから、石の上を走り流れる垂水とつづくのである。○垂水水乎《タルミノミヅヲ》――垂水は瀧のことであるが、その水によつてやがて地名となつたのである。神名帳に、「攝津國豐島郡垂水神社、名神大、月次新嘗」とあり、姓氏録に「孝元天皇(ノ)御世、天下旱魃河井涸絶、于時阿利眞公、造2作高樋1、以垂2水四山1基2之水1令v通2宮内1供2奉御膳1、天皇美2其功1便賜2垂水公姓1掌2垂水神社1也」と見えてゐる。これは今、豐能那豐津村大字垂水の地で、垂水神社も現存してゐる。攝津地圖參照。
〔評〕 これも前にあつた變若云水《ヲツトフミヅ》(一〇三四)のやうな、靈水尊崇思想のあらはれである。石激垂見之上乃左和良妣乃《イハハシルタルミノウヘノサワラヒノ》(一四一八)も、石走垂水之水能早敷八師君爾戀良久吾情柄《イハハシルタルミノミヅノハシキヤシキミニコフラクワガココロカラ》(三〇二五)とあるのも皆この處を詠んだのである。
 
1143 さ夜ふけて 堀江漕ぐなる 松浦船 楫の音高し みを早みかも
 
作夜深而《サヨフケテ》 穿江水手鳴《ホリエコグナル》 松浦船《マツラフネ》 梶音高之《カヂノトタカシ》 水尾早見鴨《ミヲハヤミカモ》
 
夜ガ更ケテカラ難波ノ〔五字傍線〕堀江ヲ漕イデ行ク松浦ノ船ノ、櫓ヲ漕グ音ガ高ク聞エル。アレハ水ノ流ガ早イノデ力ヲ入レテ漕イデヰル〔デ力〜傍線〕カラデアラウカナア。
 
○穿江水手鳴《ホリエコクナル》――穿江《ホリエ》は難波の堀江である。仁徳紀十一年の條に「冬十月、掘2宮北之郊原1、引2南水1以入2西海1、因以號2其水1曰2掘江1」と見えてゐる。その所在に就いて諸説があるが、淀川の下流、今の天滿川であらうとするのが、蓋し當つてゐるであらう。上代難波に入る船舶は、多くこの堀江を航行したものと見えて、その趣を詠んだ歌が集中に多い。水手をコグと訓むのは、水夫が船を漕ぐからの義訓であるが、下の鳴の字を併はせて、古くからコグナルと訓んでゐるのは、古人が苦心したところであらう。○松浦船《マヅラブネ》――肥前の松浦から來た船で、その構造に特徴があつたのであらう。卷十二にも、松浦舟亂穿江之水尾早※[楫+戈]取間無所念鴨《マツラブネサワグホリエノミヲハヤミカヂトルマナクオモホユルカモ》(三一七三)とあ(338)る。眞熊野之船《マクマヌノフネ》(九四四)・足柄小船《アシガラヲブネ》(三三七六)などと共に、地名を冠してゐる點に於て注意すべきである。○水尾早見鴨《ミヲハヤミカモ》――水尾は水脈、ここでは河水の流れを言つてゐる、
〔評〕 深夜更け靜まつた江上に、烈しい櫓の音を聞いて、水勢の速さを想像したもので、全體に調子の張つた、生々した作品である。
 
1144 悔しくも 滿ちぬる潮か 住のえの 岸の浦みゆ 行かましものを
 
悔毛《クヤシクモ》 滿奴流鹽鹿《ミチヌルシホカ》 墨江之《スミノエノ》 岸乃浦回從《キシノウラミユ》 行益物乎《ユカマシモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕住吉ノ岸ノ浦回ヲ通ツテ景色ヲメデナガラ〔八字傍線〕行カウト思ツテヰタノニ、殘念ニモ潮ガ滿チテ來タモノダナア。コレデハ通レサウニモナイ〔コレ〜傍線〕。
○滿奴流鹽鹿《ミチヌルシホカ》――鹿《カ》はカナの意。この一二の句の語法は、卷三の苦毛零來雨可《クルシクモフリクルアメカ》(二六五)に似てゐる。○墨江之岸乃浦回從《スミノエノキシノウラミユ》――住吉の岸の浦わを通つて。從《ユ》はカラの意であるが、そこを通行することである。岸は前に屡々述べたやうに住吉の地名である。
〔評〕 汐千の浦傳ひに好景を愛で、貝などを拾ひつつ行かうと思つてゐたのに、滿潮の爲にその豫想が破られた遺憾さを歌つたものである。單純な作ながら、そこに鮮明さがあつて佳い。
 
1145 妹が爲 貝を拾ふと 血沼の海に 沾れにし袖は 乾せど乾かず
 
爲妹《イモガタメ》 貝乎拾等《カヒヲヒリフト》 陳奴乃海爾《チヌノウミニ》 所沾之袖者《ヌレニシソデハ》 雖凉常不千《ホセドカハカズ》
 
貴女ノ爲ニ土産ニシヨウト思ツテ〔十字傍線〕貝ヲ拾ハウトシテ、茅渟ノ梅デ濡ラシタ私ノ着物ノ〔五字傍線〕袖ハ、イクラ〔三字傍線〕干シテモ乾クコトハナイ。ヒドクヌレタモノダ〔九字傍線〕。
 
○貝乎拾等《カヒヲヒリフト》――拾は卷十四の伎彌之布美?婆多麻等比呂波牟《キミシフミテバタマトヒロハム》(三四〇〇)によれば、ヒロフと訓むべく、卷十五の伊敝豆刀爾可比乎比里布等《イヘヅトニカヒヲヒリフト》(三七〇九)に從へば、ヒリフとよむべきで、いづれでもよいやうであるが、ヒリフの方が數が多く出てゐるから、それに從ふことにする。○陳奴乃海爾《チヌノウミニ》――陳奴の海は卷六の從千沼回雨曾零來《チヌミヨリアメゾフリクル》(九九(339)九)のところで説明したやうに、紀に河内國泉郡茅渟海とあつて、もと河内の國でなつたのが、靈龜二年三月に分れて和泉國となつたのであるから、ここに攝津作とある中に收めたのは、をかしいやうであるが、住吉の濱つづきなので、ここに入れたのであらう。○雖涼常不干《ホセドカハカズ》――涼をホスに用ゐたのは曝涼の涼の意である。常《ト》の字は衍のやうであるが、沾西衣雖干跡不乾《ヌレニシコロモホセドカハカズ》(一一八六)の跡と同樣、添へて書いたのである。
〔評〕 語釋の部に述べたやうに、陳奴乃海とあるのはをかしいやうであるが、前後の歌が住吉の作であるので見ると、これは陳奴の海で沾れた袖が、住吉あたりへ來てもなほ干かぬことを詠んだので、歌はやはり攝津での作と見るべきものかも知れない。海に遠い都人などの、旅の歌らしい氣分が出てゐる。
 
1146 めづらしき 人をわぎへに 住のえの 岸のはにふを 見むよしもがも
 
目頬敷《メヅラシキ》 人乎吾家爾《ヒトヲワギヘニ》 住吉之《スミノエノ》 岸乃黄土《キシノハニフヲ》 將見因宅欲得《ミムヨシモガモ》
 
(目頬敷人乎吉家爾)住吉ノ岸ノ有名ナ〔三字傍線〕赤土ヲ見テ行キタイモノダ。
 
○目頬敷人乎吉家爾《メヅラシキヒトヲワギヘニ》――目頬敷人《メヅラシキヒト》は愛らしき人、即ち愛する妻をいふ。愛する女を吾が家に迎へて住むの意で、下に續いてゐるので、この二句は住の序詞である。新考に乎を與《ト》の誤として改めてゐるのは從はれない。○岸乃黄土《キシノハニフヲ》――黄土《ハニフ》は岸之埴布爾《キシノハニフニ》(六九)・岸乃黄土粉《キシノハニフニ》(九三二)ともあつて、赤い土が住吉の岸の名物であつたのである。九三二の語釋の部參照。
〔評〕 これは序詞だけに面白味のある歌である。これも卷四に君家爾吾住坂乃《キミガイヘニワレスミサカノ》(五〇四)などに似たところがあつて、さしたる歌とは言ひ難い。
 
1147 いとまあらば 拾ひに行かむ 住のえの 岸に寄るとふ 戀忘貝
 
暇有者《イトマアラバ》 拾爾將往《ヒリヒニユカム》 住吉之《スミノエノ》 岸因云《キシニヨルトフ》 戀忘貝《コヒワスレガヒ》
 
住吉ノ岸ニ波デ〔二字傍線〕打寄セテ來ルトイフ戀ヲ忘レル〔四字傍線〕忘貝ヲ、私ハ〔二字傍線〕暇ガアツタラ拾ヒニ行カウ。戀シイ人ノコトガ思ハレテ忘レラレナイデ困ルカラ〔戀シ〜傍線〕。
 
(340)○戀忘貝《コヒワスレガヒ》――戀を忘れるといふ名の忘貝の意。忘貝については六八參照。
〔評〕 卷六の坂上郎女の、吾背子爾戀者苦暇有者拾而將去戀忘貝《ワガセコニコフレバクルシイトマアラバヒリヒテユカムコヒワスレガヒ》(九六四)とよく似た歌である。戀忘貝とつづけたところに面白味を持たしめてあるのみだ。古今集の貫之「道知らばつみにもゆかむ住のえの岸に生ふてふ戀忘草」はこれを忘草に改めたのみである。
 
1148 馬なめて 今日吾が見つる 住のえの 岸の黄土を よろづ世に見む
 
馬雙而《ウマナメテ》 今日吾見鶴《ケフワガミツル》 住吉之《スミノエノ》 岸之黄土《キシノハニフヲ》 於萬世見《ヨロヅヨニミム》
 
馬ヲ並べテ友ダチト一緒ニ〔七字傍線〕今日私ガ見タ、住吉ノ岸ノ黄土ノ景色〔三字傍線〕ヲ、イツマデモ長命ヲシテ〔十字傍線〕萬年ノ後マデモ來テ〔二字傍線〕見タイモノダ。
 
○於萬世見《ヨロヅヨニミム》――於の字を上に置いたのは、漢文式倒置法である。
〔評〕 住吉に遊び、名勝に接して、それを再び立歸つて、永遠に見たいといふ意を詠じたものは集中に澤山ある。これもその一つで、勝地を謳歌すると共に、自らことほいでゐるのである。
 
1149 すみのえに 行くとふ道に 昨日見し 戀忘貝 ことにしありけり
 
住吉爾《スミノエニ》 往云道爾《ユクトフミチニ》 昨日見之《キノフミシ》 戀忘貝《コヒワスレガヒ》 事二四有家里《コトニシアリケリ》
 
住吉ヘ行クトイフ道デ、昨日私ガ〔二字傍線〕見タ戀ヲ忘レル〔四字傍線〕忘貝ハ、名バカリデアツタワイ。少シモ戀人ヲ忘レルコトハ出來ナイ〔少シ〜傍線〕。
 
○往云道爾《ユクトフミチニ》――云《トフ》は輕く用ゐてある。これを代匠記・精撰本に去の誤として、ユキニシと訓んだのを古義は採用してゐるが、おもしろくない。○戀忘貝《コヒワスレガヒ》――住吉を戀しく思ふことを忘れかねる意と、代匠記・略解にあるのは誤つてゐる。故郷の妻を戀ふる歌である。○事二四有家里《コトニシアリケリ》――事は言の借字。名のみであつたよの意。
〔評〕 住吉附近の濱の名物、戀を忘れるといふ名の、忘貝を見たけれども、更に效果がなかつたと嘆じたものである。名實相添はぬことを詰つて、コトニシアリケリと言つた歌は數が多いが、忘貝について述べたものに、(341)手取之柄二忘跡磯人之曰師戀忘貝言二師有來《テニトルガカラニワスルトアマノイヒシコヒワスレガヒコトニシアリケリ》(一一九七)があつて、かなり類型的の詩想といふことが出來る。
 
1150 住のえの 岸に家もが 沖に邊に 寄する白浪 見つつしぬばむ
 
墨吉之《スミノエノ》 岸爾家欲得《キシニイヘモガ》 奧爾邊爾《オキニヘニ》 縁白浪《ヨスルシラナミ》 見乍將思《ミツツシヌバム》
 
住吉ノ岸ニ私ノ〔二字傍線〕家ガアレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕沖ヤ海岸ニ打チヨセル白浪ヲ見テ、ナツカシク思ツテヰヨウ。
 
○墨吉之《スミノエノ》――舊本、黒吉之とあるは誤。類聚古集・神田本などによつて改めた。○岸爾家欲得《キシニイヘモガ》――舊訓はキシニイヘモカナ、代匠記にイヘモカモとあるが、考にイヘモガとあるのがよい。○見乍將思《ミツツシヌバム》――このシヌブは眼前に見る景色をなつかしく思ふ意である。
〔評〕 住吉の濱の佳景を見て、ここに家あらば心ゆくまで、この海上の風景を賞せむものをと言つたので、見なれぬ美景に接した歡喜の情が歌はれてゐる。
 
1151 大伴の 三津の濱邊を うちさらし 寄り來る浪の 行方知らずも
 
大伴之《オホトモノ》 三津之濱邊乎《ミツノハマベヲ》 打曝《ウチサラシ》 因來浪之《ヨリクルナミノ》 逝方不知毛《ユクヘシラズモ》
 
大伴ノ三津ノ濱邊ヲ洗ヒサラシテ、打チヨセテ來ル浪ハ、何處ヘ行ツテシマフカ分ラナイモノダナア。
 
○大伴之三津之濱邊乎《オホトモノミツノハマベヲ》――大伴は難波以南海岸地方の地名。三津之濱は難波。六三參照。○打曝《ウチサラシ》――打は發語。曝《サラシ》は布を水にさらすやうに、海波が濱邊を洗ふ意である。○因來浪之《ヨリクルナミノ》――舊訓ヨセクルとあるよりも、略解にヨリクルとしたのがよい。新考にヨリコシとしたのはいかが。現在絶えず寄り來る景であるから、過去に訓んではおもしろくない。次に掲げた卷三の二六四の人麿の作も過去の動詞を用ゐてゐない。
〔評〕 三津の濱邊に寄せては返す白波の、砂を噛んで展開する景と音とが、心地よく眼前に見え、耳底に響くやうに感ぜられる佳作である。卷三の人麿、物乃部能八十氏河乃阿白木爾不知代經浪乃去邊白不母《モノノフノヤソウヂガハノアジロギニイサヨフナミノユクヘシラズモ》(二六四)と似た歌である。なほ下の二五九とも似た點がある。
 
1152 楫のおとぞ ほのかにすなる あまをとめ 沖つ藻苅りに 舟出すらしも 一云、夕されば 楫の音すなり
 
梶之音曾《カヂノオトゾ》 髣髴爲鳴《ホノカニスナル》 海未通女《アマヲトメ》 奧藻苅爾《オキツモカリニ》 舟出爲等思母《フナデスラシモ》
 
(342)櫓ノ音ガカスカニ聞エルヨ。アレハ〔三字傍線〕海人ノ少女ガ、沖ニ生エテヰル藻ヲ苅ル爲ニ、舟出ヲスルラシイヨ。
〔評〕 平明な歌である。ほのかなる櫓聲によつて、遠く沖へ漕ぎ出る船を思ひやつたのが、自然でおもしろい。
 
一云|暮去者梶之音爲奈利《ユフサレバカヂノオトスナリ》
 
これは一二の句の異傳である。六帖にもこれが掲げてあるが、沖つ藻苅りに舟出するものとしては、夕方ではふさはしくないやうである。
 
1153 住のえの 名兒の濱邊に 馬立てて 玉拾ひしく 常志らえず
 
住吉之《スミノエノ》 名兒之濱邊爾《ナゴノハマベニ》 馬立而《ウマタテテ》 玉拾之久《タマヒリヒシク》 常不所忘《ツネワスラエズ》
 
住吉ノ名兒ノ濱ノアタリデ馬ヲ留メテ、友ダチト一緒ニ〔七字傍線〕玉ヲ拾ツタコトガ、面白カツタノデ〔七字傍線〕イツモ忘レラレナイ。
 
○名兒之濱邊爾《ナゴノハマベニ》――名兒はその所在が審かでない。攝津名所圖會には今の大阪道頓堀の南、今宮・木津・難波等の總名であらうと推定してゐる。然らば住吉はかなりに廣い範圍であつたのである。○馬立而《ウマタテテ》――略解に立を並に改め、ウマナメテとよんでゐる。○玉拾之久《タマヒリヒシク》――シクのシは過去の助動詞キの變化で、それにクを添へて上を名詞にしたのである。卷四に有念四九四《オモヘリシクシ》(七五四)とあつたシクと同じである、この形は集中に必ずしも尠くはないので、背向爾宿之久今思悔裳《ソガヒニネシクイマシクヤシモ》(一四一二)・來之久毛知久相流君可聞《コシクモシルクアヘルキミカモ》(一五七七)・欲見來之久毛知久《ミマクホリコシクモシルク》(一七二四)來之雲知師逢有久念者《コシクモシルシアヘラクオモヘバ》(二〇七四)の類である。この他續紀の宣命にも勅之久《ノタマヒシク》・奏之久《マヲシシク》・謂之久《イヒシク》などの用例がある。
〔評〕 これは住吉の曾遊を追懷したもので、攝津作としては、ふさはしくない。
 
1154 雨は降る かりほは作る いつの間に 阿胡の潮干に 玉は拾はむ
 
雨者零《アメハフル》 借廬者作《カリホハツクル》 何暇爾《イツノマニ》 吾兒之鹽干爾《アゴノシホヒニ》 玉者將拾《タマハヒリハム》
 
雨ハ降ルシ、旅ノ〔二字傍線〕假庵ハ作ラナケレバナラナイシ、少シモ外デ遊ブコトハ出來ナイ〔少シ〜傍線〕。何時ノ暇ニ吾兒ノ浦ノ汐(343)干ニ玉ヲ拾ハウカ。ソンナ遊ビハトテモ出來サウニモナイ〔ソン〜傍線〕。
 
○吾兒之鹽干繭《アゴノシホヒニ》――吾兒《アゴ》は名兒《ナゴ》と同所であらう。下に阿胡乃海之《アゴノウミノ》(一一五七)とあるも同じ所と見える。卷一の四〇に出てゐる志摩の英虞《アゴ》ではない。
〔評〕初句と二句と結句とに者《ハ》の助詞を繰返して、且、それぞれその句で切つてあるのが、一種の語調をなして、快い歌になつてゐる。古今集の「秋は來ぬ紅葉は宿にふりしきぬ道ふみわけて訪ふ人はなし」の型と相類似してゐる。古義に初句をアメハフリとしたのは この調子を辨へぬ説である。
 
1155 名兒の海の 朝けのなごり 今日もかも 磯の浦みに 亂れてあらむ
 
奈古乃海之《ナゴノウミノ》 朝開之奈凝《アサケノナゴリ》 今日毛鴨《ケフモカモ》 礒之浦回爾《イソノウラミニ》 亂而雨將有《ミダレテアラム》
 
奈古ノ海ノ朝潮ノ引イタアトニ殘ツタ海藻ノ類ガ、今日モ亦、磯ノ岸邊ニ散亂シテヰルデアラウ。見ニ行キタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○朝開之奈凝《アサケノナゴリ》――朝あけの頃の潮干の名殘の意であらう。朝潮の引いた後の溜水と共に、海藻などの殘つてゐるのを言つたのである。難波方鹽干之名凝《ナニハガタシホヒノナゴリ》(五五三・九七六)參照。○亂而雨將有《ミダレテアラム》――玉藻などが散亂してゐるであらうの意。古義には、朝潮の引いたあとの餘波が、亂れ散つてゐるだらうと解釋してゐる。
〔評〕 奈古の浦を過ぎた後で旅人が、その浦の佳景を追懷したので、奈呉の浦での作ではない。下句は面白い生々とした表現法になつてゐる。
 
1156 住のえの 遠里小野の 眞はりもち 摺れる衣の 盛過ぎぬる
 
住吉之《スミノエノ》 遠里小野之《トホザトヲヌノ》 眞榛以《マハリモチ》 須禮流衣乃《スレルコロモノ》 盛過去《サカリスギヌル》
 
住吉ノ遠里小野ニ生エテヰル萩ノ花デ、摺ツテ染メ〔三字傍線〕タ着物ノ色ガ、綺麗ダツタノガ、段々ニ〔綺麗〜傍線〕サメテシマツタ。
 
○遠里小野之《トホザトヲヌノ》――遠里小野は今、遠里小野《ヲリヲノ》と稱する地で中世、爪生野《ウリフノ》とも呼んだ。住吉南方の平地である。○眞榛以《マハリモチ》――榛《ハリ》は榛の木のことと見る説も多いが、萩の花とするのが當つてゐるやうである。名所圖會に「遠里(344)小野の榛實を以て油を絞り住吉の燈火に供す」とあるが、これを眞實としても、この眞榛はハンノキではない。以はモテと舊訓にあるが、古義にモチと改めたのがよい。○盛過去《サカリスギヌレ》――舊訓スギユクとある。今古義に從ふ。
〔評〕 旅の記念として、住吉の遠里小野の萩の花を以て染めた衣が、道すがら色のあせたのを悲しんだので、古代の旅の情景を思はしめる歌である。卷十六の長歌に、墨江之遠里小野之眞榛持丹穗之爲衣丹《スミノエノトホザトヲヌノマハリモチニホシシキヌニ》(三七九一)ともあるから、ここの眞榛は、衣に摺るものとして名高かつたのである。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1157 時つ風 吹かまく知らに 阿胡の海の あさけの潮に 玉藻刈りてな
 
時風《トキツカゼ》 吹麻久不知《フカマクシラニ》 阿胡乃海之《アゴノウミノ》 朝明之鹽爾《アサケノシホニ》 玉藻苅奈《タマモカリテナ》
 
潮時ノ風ガ吹クカモ知レナイカラ、阿胡ノ海ノ朝明ケノ潮干ノ海ニ出テ〔四字傍線〕玉藻ヲ苅ラウヨ。
 
○時風《トキツカゼ》――潮のさし來る時に吹く風。○吹麻久不知《フカマクシラニ》――吹くかも知れないからの意であらう。古義には、潮時の風の吹むと云心がかりもなしに」と解してゐる。○朝明之鹽爾《アサケノシホニ》――朝潮・夕潮などは、いづれも潮の滿ちるのをいふのであるが、ここの朝明之鹽は朝明頃の潮干をいふらしい。前の朝開之奈凝《アサケノナゴリ》(一一五五)も朝の潮干の趣であり、潮干の潟に玉藻を刈ることは、卷六の赤人の長歌に、潮干者玉藻苅管《シホヒレバタマモカリツツ》(九一七)とある。
〔評〕 この歌は卷六の小野老の、時風應吹成奴香椎渦潮千?爾玉藻苅而名《トキツカゼフクベクナリヌカシヒガタシホヒノウラニタマモカリテナ》(九五八)と似た點がある。恐らく老はこれを粉本としたのであらう。
 
1158 住のえの 沖つ白浪 風吹けば 來寄する濱を 見れば淨しも
 
住吉之《スミノエノ》 奧津白波《オキツシラナミ》 風吹者《カゼフケバ》 來依留濱乎《キヨスルハマヲ》 見者淨霜《ミレバキヨシモ》
 
風ガ吹クト住吉ノ沖ノ白浪ガ、打チ寄セテ來ル濱ヲ來テ見ルト、景色ノ佳イ濱ダ〔二字傍線〕ヨ。
 
○見者淨霜《ミレバキヨシモ》――キヨシモは淨シに感歎のモを添へたのである。淨シは景色の佳いこと。
〔評〕 二句から四句へ續いて、第三句は全體にかかつてゐる。結句が少し窮窟な言ひ方になつてゐる。
 
1159 住のえの 岸の松が根 うちさらし 寄り來る浪の 音の清らに
 
住吉之《スミノエノ》 岸之松根《キシノマツガネ》 打曝《ウチサラシ》 縁來浪之《ヨリクルナミノ》 音之清羅《オトノキヨラニ》
 
(345)住吉ノ岸ノ松ノ根ヲ洗ヒサラシテ、打チ寄セテ來ル浪ノ音ノ佳イコトヨ。
 
○音之清羅《オトノキヨラニ》――舊訓オトノサヤケサとあるのは、歌としては調もよく穩やかであるが、羅をサと訓むべくもないから、しばらく新訓に從つてキヨラニと訓むことにした。考に羅を霜の誤とし、訓はもとのままとし、略解に「羅一本霜とあるによるべし。」としてキヨシモと訓んでゐるが、さうした本はないやうである。
〔評〕 すがすがしい歌である。前の大伴之三津之濱邊乎《オホトモノミツノハマベヲ》(一一五一)と似てゐるが、彼は逝方不知毛《ユクヘシラズモ》と瞑想的なのに反して、これは音之清羅《オトノキヨラニ》と感觸をそのままに現はしてゐる。
 
1160 難波潟 潮干に立ちて 見わたせば 淡路の島に 鶴渡る見ゆ
 
難波方《ナニハガタ》 鹽干丹立而《シホヒニタチテ》 見渡者《ミワタセバ》 淡路島爾《アハヂノシマニ》 多豆渡所見《タヅワタルミユ》
 
難波潟ノ潮干ノ時ニ立ツテ見渡スト、淡路ノ島ヘ向ツテ〔三字傍線〕鶴ガ飛ブノガ見エル。ヨイ景色ダ〔五字傍線〕。
 
〔評〕 難波の潮干の潟で餌をあさつてゐた鶴が、遙かに廣い海面を横斷して、淡路島さして飛び去る景を歌つたので、場面が廣く、雄大である。
 
※[羈の馬が奇]旅作
 
旅行中の作である。
 
1161 家さかり 旅にしあれば 秋風の 寒き夕べに 鴈鳴きわたる
 
離家《イヘサカリ》 族西在者《タビニシアレバ》 秋風《アキカゼノ》 寒暮丹《サムキユフベニ》 雁喧渡《カリナキワタル》
 
家ヲ離レテ旅ニ出テ居ルト、秋風ノ寒ク身ニシミテ〔五字傍線〕吹ク晩ニ、雁ガ空ヲ〔二字傍線〕鳴イテ通ルヨ。アア淋シイ淋シイ〔八字傍線〕。
〔評〕 さらぬだに秋風の寒い夕べは人戀しいものであるのに、一行の過雁更に旅客の涙を誘ふものがある。或はこの雁の音を聞いて、蘇武の雁信の故事を思ひ起しての作か。
 
1162 圓方の 湊の渚鳥 浪立てや 妻呼び立てて 邊に近づくも
 
圓方之《マトカタノ》 湊之渚鳥《ミナトノスドリ》 浪立也《ナミタテヤ》 妻唱立而《ツマヨビタテテ》 邊近著毛《ヘニチカヅクモ》
 
(346)圓方ノ湊ノ洲デ鳴イテヰル鳥ガ、浪ガ荒ク立ツカラカ、妻ヲ呼ビ立テナガラ岸ノ方ヘ近寄ツテ來ルヨ。
 
○圓方之《マトカタノ》――圓方《マトカタ》の地名は、播磨國印南郡の海岸にもあるが、これは恐らく卷一の六一にあつた圓方で、伊勢國多氣郡東黒部の海岸であらう。○湊之渚鳥《ミナトノスドリ》――湊は河口。伊勢の圓方は櫛田川の河口になつてゐる。渚鳥は洲にゐる鳥。集中に多い。鳥の名ではない。○浪立也《ナミタテヤ》――也は舊本に巴に作るは誤である。元麿校本・類聚古集など、也となつてゐる。タテヤはタテバヤの意。
〔評〕 離れ洲にゐる鳥が、けたたましく鳴いて岸に近づいて來るので、波の高くなつたのを想像したもので、清澄にして生氣ある作である。
 
1163 年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖による見ゆ
 
年魚市方《アユチガタ》 鹽干家良思《シホヒニケラシ》 知多乃浦爾《チタノウラニ》 朝榜舟毛《アサコグフネモ》 奧爾依所見《オキニヨルミユ》
 
愛知潟は潮ガ干タモノト見エル。知多ノ浦デ、朝漕グ舟モ沖ノ方ヘ寄ツテヰルノガ見エル。キツト潮ガ干テヰテ岸ハ漕ガレナイノダラウ〔キツ〜傍線〕。
 
○年魚市方《アユチガタ》――愛知潟。今の名古屋市熱田の南方の海岸。この歌で見ると、昔はかなり廣い範圍を稱したものらしい。二七一參照。○知多乃浦爾《チタノウラニ》――知多の浦は。今の知多郡の西海岸の北部、大高町名和村邊の海岸をさしたものであらう。
〔評〕 知多の浦邊を歩いてゐる旅人が、沖行く舟を眺めて、愛知潟の潮干を想像したので、思つたところをその儘、何の粉飾もなく歌つてゐるが、推理が基礎をなしてゐる歌である。
 
1164 潮干れば 共に潟に出で 鳴く鶴の 聲遠ざかる 磯みすらし
 
鹽干者《シホヒレバ》 共滷爾出《トモニカタニイデ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》 音遠放《コヱトホザカル》 礒回爲等霜《イソミスラシモ》
 
潮ガ干ルト一緒ニ連レ立ツテ、潟ニ出テ鳴ク鶴ノ聲ガ、ダンダン遠クナツテ行ク。アレハ鶴ガ〔五字傍線〕磯傳ヒシテ、餌ヲアサル〔七字傍線〕ラシイヨ。
 
(347)○共滷爾出《トモニカタニイデ》――諸共に打連れて潮の干潟に出ての意。舊訓トモカタニイデとあるのはわるい。○礒回爲等霜《イソミスラシモ》――磯傳ひすることをイソミスルといふ。磯回を舊訓アサリと訓んでゐるが、古義にイソミとしたのがよい。卷三の御命恐磯廻爲鴨《ミコトカシコミイソミスルカモ》(三六八)參照。
〔評〕 遠ざかり行く鶴の聲に、その海岸傳ひに、餌をあさる樣を想像したので、これも推理的ではあるが、實景を偲ばしめるものがある。
 
1165 夕なぎに あさりする鶴 潮滿てば 沖波高み おの妻よばふ
 
暮名寸爾《ユフナギニ》 求食爲鶴《アサリスルタヅ》 鹽滿者《シホミテバ》 奧浪高三《オキナミタカミ》 己妻喚《オノヅマヨバフ》
 
夕方ノ風ノナイダ靜カナ時ニ、餌ヲアサツテヰル鶴ガ、潮ガ滿チルト、沖ノ浪ガ高クナツタノニ驚イテ心配シ〔七字傍線〕テ自分ノ妻ヲ呼ンデヰル。
 
○己妻喚《オノヅマヨバフ》――舊訓オノガツマヨブとあるが、己妻は己妻離而《オノヅマカレテ》(一七三八)・己妻尚乎《オノヅマスラヲ》(三八〇八)・白妻跡《オノヅマト》(五四六)・己夫之《オノヅマシ》(三一三四)などによるも、更に於能豆麻乎《オノヅマヲ》(三五七一)の例を考ふれば、これもオノヅマと訓むべきである。古義に、この句をオノヅマヨブモと訓んだのもよいやうであるが、猥にモの助詞を補ふは心すべきことであるから、喚の字を鴨妻喚《カモメヨバヒ》(二五七)の例によつてヨバフとよむがよい。
〔評〕 さし潮が白い波頭を擡げて、沖から押し寄せて來るあたりに、鶴が鳴き騷いでゐるのを、妻をいたはつて、呼びかはしてゐるものと考へたのは、麗はしい愛憐の情のあらはれたものであり、また何事も身に引受けて感ずる、旅人らしい感傷的の氣分でもある。快い韻律の歌である。以上海邊の作に鶴を詠んだものが多いのは、この鳥が、如何に多かつたかを偲ばしめるものがある。
 
1166 古に ありけむ人の 求めつつ 衣にすりけむ 眞野のはり原
 
古爾《イニシヘニ》 有監人之《アリケムヒトノ》 覓乍《モトメツツ》 衣丹摺牟《キヌニスリケム》 眞野之榛原《マヌノハリハラ》
 
昔ノ人ガコノ萩ノ花ヲ〔六字傍線〕求メ捜シテハ、着物ヲ染メタトイフ眞野ノ榛原ハ此處ダ。私ラモココデ着物ヲ染メテ行(348)カウ〔私ラ〜傍線〕。
 
○眞野之榛原《マヌノハリハラ》――卷三に白菅乃眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》(二八〇)とあるところで、今の神戸市の西部、眞野町附近である。榛原は萩原。
〔評〕 古から名高いところであるから、かう詠んだもので、略解や古義に故事があつて言つたやうに解してあるのは恐らく當るまい。古爾有險人母如吾等架彌和乃檜原爾挿頭折兼《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカミワノヒバラニカザシヲリケム》(一一一八)のやうに、すべて昔をなつかしむ態度である、この歌は袖中抄に出てゐる。
 
1167 あさりすと 磯に吾が見し 莫告藻を いづれの島の あまか刈るらむ
 
朝入爲等《アサリスト》 礒爾吾見之《イソニワガミシ》 莫告藻乎《ナノリソヲ》 誰島之《イヅレノシマノ》 泉郎可將刈《アマカカルラム》
 
獲物ヲ捜シテ、磯デ私ガ見タ莫告藻ヲ、何處ノ島ノ海人ガ苅リ取ルデアラウカ。私ガ見ツケタ女ヲ、他人ニ取ラレルノハ惜シイコトダ〔私ガ〜傍線〕。
 
○朝入爲等《アサリスト》――朝入《アサリ》は魚介海藻の類を捜し採ること。○莫告藻《ナノリソ》――ホンダワラの古名。三六二參照。○誰島之《イヅレノシマノ》――誰は集中皆タレとよんでゐるが、ここは舊訓のままに從つて置かう。新訓にタレシノシマノとあるのは、意味の上からどうかと思はれる。
〔評〕 前に島廼爲等磯爾見之花風吹而浪者雖縁不取不止《シマミストイソニミシハナカゼフキテナミハヨルトモトラズハヤマジ》(一一一七)とあるのに似て、譬喩歌である、併し略解に、「誤て旅の歌に入しならむ」とあるのは言ひ過ぎで、これは旅中に美女を見て、吾が物とし難きを嘆いた歌である。この歌袖中抄に出てゐる。
 
1168 今日もかも 沖つ玉藻は 白浪の 八重折が上に 亂れてあらむ
 
今日毛可母《ケフモカモ》 奧津玉藻者《オキツタマモハ》 白浪之《シラナミノ》 八重折之於丹《ヤヘヲルガウヘニ》 亂而將有《ミダレテアラム》
 
先日沖デ美シイ藻ノ漂フノヲ見タガ〔先日〜傍線〕。今日モ沖ノ玉藻ハ、白浪ガ幾重ニモ折リ返ル上ニ、浮イテ亂レテ居ルデアラウカナア。
 
(349)○今日毛可母《ケフモカモ》――この句で先日見た景色を思はしめてゐる。○八重折之於丹《ヤヘヲルガウヘニ》――ヲルは波の折れ返るやうに打つについていふ。八重折《ヤヘヲル》は浪の頻りに打ち返すこと。この句を舊訓にヤヘヲリノウヘニとあるが、卷二十に、之良奈美乃夜敝乎流我宇倍爾《シラナミノヤヘヲルガウヘニ》(四三六〇)とあるに從ふべきであらう。
〔評〕 前の奈呉之海之朝開之奈凝《ナゴノウミノアサケノナゴリ》(一一五五)と同じく、旅中に見て來た景を思つてなつかしがつてゐるので、下句の波にもまれる玉藻の景を捕へたのが、面白く出來てゐる。
 
1169 近江の海 湊八十あり いづくにか 君が船はて 草結びけむ
 
近江之海《アフミノミ》 湖者八十《ミナトヤソアリ》 何爾加《イヅクニカ》 君之舟泊《キミガフネハテ》 草結兼《クサムスビケム》
 
近江ノ海ニハ舟ノツク〔四字傍線〕河口ハ澤山アル。ソノ澤山ノ〔五字傍線〕河口ノ何處ニ、アナクノ船ハツイテ、草ヲ結ンデ旅行ノ安全ヲ祈ツ〔九字傍線〕タデアラウカ。
 
○湖者八十《ミナトヤソアリ》――舊本、十を千に作り、ミナトハヤソヂと訓んであるが、類聚古集その他の古本に十に作つてゐるのに從ふべきである。者は略解に有の誤としたのに從ふべきであらう。近江之海泊八十有《アフミノミトマリヤソアリ》(三二三九)・天漢河門八十有《アマノガハカハトヤソアリ》(二〇八二)などを參考すべきである。湖《ミナト》は河口で、この句は近江の湖水が廣くて、多くの河川が流れ込んでゐるをいふ。卷三の近江海八十之湊爾鶴佐波二鳴《アフミノミヤソノミナトニタヅサハニナク》(二七三)參照。○草結兼《クサムスビケム》――草を結ぶのは思ふことを叶へようとする呪咀の風俗であらう。卷一の君之齒母吾代毛所知哉磐代乃岡之草根乎去來結手名《キミガヨモワガヨモシラムイハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》(一〇)、卷十二の妹門去過不得而草結風吹解勿又將顧《イモガカドユキスギカネテクサムスブカゼフキトクナマタカヘリミム》(三〇五六)の類皆さうである。
〔評〕 近江の旅に出た人を思つて詠んだのであらう。自からその後を追うて、近江に赴いて作つたものとも見られぬことはないが、恐らくさうではあるまい。温雅な愛慕の情のあらはれた作である。
 
1170 さざなみの 連庫山に 雲ゐれば 雨ぞぶるちふ 歸りこ吾が背
 
佐左浪乃《サザナミノ》 連庫山爾《ナミクラヤマニ》 雲居者《クモヰレバ》 雨曾零智否《アメゾフルチフ》 反來吾背《カヘリコワガセ》
 
佐左浪ノ連庫山ニ雲ガカカルト、雨ガ降ルトイフコトデス。雨ガ降ラナイウチニ〔九字傍線〕歸ツテオイデナサイ、貴方。
 
(350)○佐左浪乃連庫山爾《ササナミノナミクラヤマニ》――佐左浪にある連庫山。佐左浪は近江滋賀附近。連庫山は集中他に見えない。他書にも殆ど見えない山名で、その所在を知るに苦しむが、この歌の趣によつて、地理を考へると、まづ比良であらうかと思はれる。予は始めこれを比叡山であらうと思つてゐたのであるが、昨夏親しく湖上に浮んで、附近の山容を眺め、比良山なるを確信するに至つた。ナミクラは並座《ナミクラ》又は並谷《ナミクラ》の二樣に解せられるが、そのいづれにしても、比良の連峯がふさはしい。サザナミを大津附近とのみ考へるのは誤で、卷九に樂波之平山風之《サザナミノヒラヤマカゼノ》(一七一五)とあるから、比良も亦サザナミである。代匠記に拾遺集神樂歌に、「高島や三尾の中山杣立てて作り重ねよ千世のなみくら」といふ歌を擧げて、「此のなみくらの詞は、もし高島郡に連庫山の有て、それをよせてよめるにや。次の歌二首も高島なれば、彌然らむとおぼし」と言つてゐるが、比良は高島に隣接してゐるから、かう歌つたものであらう。さう見れば、これも比良が連庫たる一證となるのである。
〔評〕 旅にある夫を思つて、その妻が詠んだものであるが、妻の所在については、人によつて説を異にしてゐる。略解は「家にとどまれる妻の歌なるべし」といひ、古義は「家にとどまれる妻の思ひやりてよめるなるべし」といひ、新考には、「連庫山の見やらるる處にてよめる調なる上に、雨ゾフルチフカヘリコワガセといへるも、暫時にして家に歸らるゝ程の處にゆきたりとせではかなはず。されば妻も夫に從ひて近江にありしにて、妻を旅宿又は船中におきて、夫の數時間程の處に、行きたりし程によめるなり」とある。この中で、夫婦共に旅に出たとする新考の説は、あまりに特別な場合を假想したもので、從ひ難い。恐らくこの妻は、近江の湖水の東方に住んでゐるもので、遙かにさざ波の連庫山にかかつた雲を眺めて、その山に雲がかかれば、雨が降ると言ひならはされてゐる言葉を思ひ出して、旅中の夫の身を氣づかつて、歸り來よと口ずさんだのであらう。もとより夫の耳に聞えるわけでもなく、又夫の行先が、雨と知つて直ちに歸り得るやうな、近いところでもないのであるが、夫の身を案じて、早く歸るやうに希つたのである。さう思つて見れば、まことにあはれな情趣の豐かな作品である。また、俚謠的の氣分を多量に持つてゐるから、或は江東の蒲生・犬上あたりの民衆に謠はれてゐたものであつたかも知れない。ともかく、※[羈の馬が奇]旅作中に收めてあるが、作者は旅には出てゐないのである。
 
1171 大御舟 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ
 
(351)大御舟《オホミフネ》 竟而佐守布《ハテテサモラフ》 高島之《タカシマノ》 三尾勝野之《ミヲノカチヌノ》 奈伎左思所念《ナギサシオモホユ》
 
天子樣ノ御舟ガ着イテ、日和ヲ〔三字傍線〕待ツテイラツシヤル、高島ノ三尾ノ勝野ノ渚ノ景色ガ、ドンナニヨイデアラウカト、遙カニ〔ドン〜傍線〕想像セラレルヨ〔傍線〕。
 
○大御舟《オホミフネ》――天皇の御乘船であらう。○竟而佐守布《ハテテサモラフ》――竟而《ハテテ》は船の泊ること。佐守布《サモラフ》は侍ふ。風吹者浪可將立跡伺候爾都多乃細江爾浦隱居《カゼフケバナミカタタムトサモラヒニツタノホソエニウラガクリヲリ》(九四五)・妹爾相時侯跡《イモニアフトキサモラフト》(二〇九二)の類すべて、待つ意で、船について言ふ時は、よい日和を待つのである。○高島之三尾勝野之《タカシマノミヲノカチヌノ》――卷三に高島乃勝野原爾《タカシマノカチヌノハラニ》(二七五)とあつたところで、近江高島郡大溝村。三尾は和名抄に、高島郡三尾郷訓美乎とあつて、滋賀郡に接し、今の大溝村附近の總稱であつた。○奈伎左思所思《ナギサシオモホユ》――舊訓にナギサシゾオモフとあるのはよくない。この句を卷一の兎道乃宮子能借五百磯所念《ウヂノミヤコノカリホシオモホユ》(七)の例によつて、新考に「ソノ渚ノオモシロカリシ事ガ忘レラレヌ」としてゐるのは無理であらう。
〔評〕 この歌は新考のやうに見れば、從駕の人が、後で詠んだことになり、又これを從駕の人が、出發に先立つて行程を豫想しての作とも見られないこともないが、留守の人が、一行の人の旅程を思ひやつて詠んだものとして、右のやうに解して置いた。優雅な作品である。袖中抄には「おほみふねきほひてさすふ高島の三尾のかつののなぎさしぞ思ふ」と出てゐる。
 
1172 いづくにか 舟乘しけむ 高島の 香取の浦ゆ 漕ぎ出くる船
 
何處可《イヅクニカ》 舟乘爲家牟《フナノリシケム》 高島之《タカシマノ》 香取乃浦從《カトリノウラユ》 己藝出來船《コギデクルフネ》
 
アノ〔二字傍線〕高島ノ香取ノ浦カラ漕ギ出シテ來ル舟ハ、何處カラ舟ニ乘ツテ漕ギ出シ始メ〔七字傍線〕タノデアラウ。
 
○高島之香取乃浦從《タカシマノカトリノウラユ》――前の歌と同じく近江の高島郡。香取の浦は勝野の津であらう。○己藝出來船《コギデクルフネ》――香取の浦を漕ぎ出して來る舟を眺めて言つたので、古義にコギデコシフネと訓んでゐるのも、道理はあるが、舊訓のままでも差支はない。
〔評〕 香取の浦を舟出して行く舟を眺めて、あれは抑何處から舟路の旅を初めたのであらう。遠長い湖上の行程(352)に、すでに幾日かを經て、難儀をしてゐるであらうと想像したもので、つらい舟路に對する同情感があらはれてゐる。
 
1173 斐太人の 眞木流すとふ 丹生の河 言はかよへど 船ぞ通はぬ
 
斐大人之《ヒダビトノ》 眞木流云《マキナガストフ》 爾布乃河《ニフノカハ》 事者雖通《コトハカヨヘド》 船曾不通《フネゾカヨハヌ》
 
木樵ドモガ檜ヲ伐リ出シテ〔五字傍線〕流ストイフ丹生ノ川ハ、水ノ流レガ早イノデ、此方ノ岸ト彼方ノ岸トデ〔水ノ〜傍線〕、言葉ヲカハスコトハ出來ルガ、舟ハ通ハナイ。私ハ戀人ト音信ハシ合ツテヰルガ、逢フコトハ出來ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○斐太人之《ヒダビトノ》――斐太人は木工、大工をいふ。また杣人をも言つたのである。飛騨の國人は、賦役令に「凡斐陀國(ハ)庸調倶(ニ)免(シ)毎(ニ)v里點(セ)2匠丁十人(ヲ)1」とあるやうに、匠丁として都へ上つて、木工や杣人として働いたので、後には飛騨から出た者でなくても、これらの工人を斐太人と稱したのであらう。○眞木流云《マキナガストフ》――眞木は檜杉など、建築に用ゐる材とするもの。○爾布乃河《ニフノカハ》――丹生川。吉野川の上流、一三〇參照。飛騨の乘鞍山麓なる大丹生池に發する川を、古く丹生川と稱した(今は小八賀川)やうであるが、この爾布乃河《ニフノカハ》ではあるまい。○事者雖通《コトハカヨヘド》――事は言の借字。新考に「川幅はさばかり廣からねば、あなたの岸と言語は通へど、急流なるによりて渡船は通はぬなり」とあるが、この句は川幅の狹さまでを言つたのではあるまい。また、船を渡船と定めるのも穩やかでない。
〔評〕 杣人が材木を伐つて流す急流、舟行の出來ない丹生川を以て、音信を通ずるのみで、逢ふことの出來ない吾が戀に譬へたので、全く譬喩歌である。これも民謠的の氣分が濃い。
 
1174 霰零り 鹿島の崎を 浪高み 過ぎてや行かむ 戀しきものを
 
霰零《アラレフリ》 鹿島之崎乎《カシマノサキヲ》 浪高《ナミタカミ》 過而夜將行《スギテヤユカム》 戀敷物乎《コヒシキモノヲ》
 
私ハ〔二字傍線〕コンナニナツカシク思フノニ、コノ(霰零)鹿島埼ヲ浪ガヒドク立ツノデ、立チ寄ラズニ〔六字傍線〕通リ過ギテ行クノカナア。惜シイコトダ〔六字傍線〕。
 
(353)○霰零《アラレフリ》――枕詞。霰の降るのがかしましい意で、鹿島《カシマ》につづける。○鹿島之崎乎《カシマノサキヲ》――常陸の鹿島であらう。卷二十に、阿良例布理可志麻能可美乎伊能利都都須米良美久佐爾和例波伎爾之乎《アラレフリカシマノカミヲイノリツツスメラミクサニワレハキニシヲ》(四三七〇)ともある。常陸の鹿島の崎は、即ち常陸鹿島郡の南端で、下總の海上郡に對してゐるところである。卷九に、牡牛乃三宅之滷爾指向鹿島之崎爾《コトヒウシノミヤケカタニサシムカフカシマノサキニ》(一七八〇)とある三宅も、この郡の地名である。崎の字は元暦校本に、埼とあるのがよい。○過而夜將行《スギテヤユカム》――空しく立寄らずに過ぎ行くことかよと嘆いた心である。古義に、「浪の高きが故に其(ノ)崎に留り居ること叶はずして、こぎ放れてや行む」とあるのは誤解である。
〔評〕 鹿島の崎は若松浦とも稱して、かの邊での屈指の佳景である。そこを空しく過ぎ行くことを、船の内から惜しんだもので、率直な作である。
 
1175 足柄の 筥根飛び越え 行く鶴の ともしき見れば 大和し念ほゆ
 
足柄乃《アシガラノ》 筥根飛超《ハコネトビコエ》 行鶴乃《ユクタヅノ》 乏見者《トモシキミレバ》 日本之所念《ヤマトシオモホユ》
 
足柄ノ箱根山ヲ飛ビ越シテ、都ノ方ヘ〔四字傍線〕行ク鶴ヲ見ルト、羨シクテ、大和ノ國ガ思ハレルヨ。
 
○足柄乃筥根飛超《アシガラノハコネトビコエ》――足柄は相模國にあつて、足柄上・足柄下の兩郡に分れてゐる。箱根は下郡に屬してゐる。足柄は集中、阿之我利能刀比能可布知爾《アシガリノトヒノカフチニ》(三三六八)のやうに、アシガリと言つた例もある。○乏見者《トモシキミレバ》――乏は羨しき意。珍らしき意とする説は當らない。この句はミレバトモシミとあるのと同意である。○日本之所念《ヤマトシオモホユ》――日本は畿内の大和。
〔評〕 關東に旅してゐる人が、凾嶺を飛び越える鶴を見て、故郷の大和を思ひ、翼無き身を悲しんだのである。卷一、志貴皇子の、葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念《アシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》(六四)に似て、少しく劣つた歌であらう。
 
1176 夏麻引く 海上潟の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず
 
夏麻引《ナツソビク》 海上滷乃《ウナカミガタノ》 奥津洲爾《オキツスニ》 鳥者簀竹跡《トリハスダケド》 君者音文不爲《キミハオトモセズ》
 
(夏麻引)海上潟ノ沖ノ洲デ、鳥ハ集マツテ騷イデ〔三字傍線〕ヰルガ、旅ニ出タアナタハ、一向〔二字傍線〕音信モナサラナイ。ドウナ(354)スツタノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○夏麻引《ナツソヒク》――枕詞。夏麻を引く畑の畦《ウネ》の意で、海上《ウナガミ》につづくのであらう。古義には、魚釣緡挽《ナツソヒク》、海上《ウナカミ》(海際の意)としてゐるが如何にも物遠い説である。○海上滷乃《ウナカミガタノ》――海上は古事記に上菟上《カミツウナガミ》國造、下菟上《シモツウナガミ》國造とあるところで、上菟上は上總に、下菟上は下總に屬してゐる、今、下總に海上郡があるが、上總のは市原郡となつてゐる。この郡名は已に天平時代からあつたので、卷二十の防人歌の上總國防人に、市原郡上丁刑部直千國とあり、同じく下總國防人に、助丁海上郡海上國造他田日奉直得大理とある。和名抄に、海上宇奈加美と見える。上總の海上は中世分れて海北・海南とし、海北を海保に作り、海南は佐是と稱した。これを市原郡に併せたのは近代のことである。然らば海上潟はいづれであるかといふに、上總の海上郡の海を稱したものとすれば、即ち東京灣方面であるが、下總の海上郡とすれば、利根川の下流、今の銚子港に近く今、海上村のある方面である。その更に上流が、東歌に比多知奈流奈左可能宇美乃《ヒタチナルナサカノウミノ》(三三九七)とある浪逆の海である。地形から考へれば、下總説がよいやうであるが、東歌の上總國歌に、この夏麻引《ナツソヒク》の歌と上句全く同じき歌があるから、これを上總の海上郡の海とする説も有力となるのである。併し東歌の國わけは、地名によつて編纂者が試みたものと思はれるから、そのまま信用は出來ない。予はむしろ、浪逆の海・鹿島の埼・三宅の滷など、本集の歌枕になつてゐる地に隣接した、下總の海上即ち、利根川の下流としたいのである。殊に卷九の鹿島縣苅野橋別2大伴卿1歌(一七八〇)に海上之其津於指而《ウナガミノソノツヲサシテ》とあるのは、今の下總の海上村に相違ないから、謂はゆる海上潟は下總と推定すべきである。○鳥者簀竹跡《トリハスダケド》――スダクは多く集る。葦鴨之多集池水《アシガモノスダクイケミヅ》(一八三三)の文字の示す通りである。○君者音文不爲《キミハオトモセズ》――旅に出かけたあなたは何の音信もない。代匠記・新考の説はあやまつてゐる。オトモセヌの訓はわるい。
〔評〕 民謡風の佳作で、女らしい感情、やるせない閨怨の情があはれに歌はれてゐる。卷十四東歌の劈頭に掲げられた奈都素妣久宇奈加美我多能於伎都渚爾布禰波等杼米牟佐欲布氣爾家里《ナツソヒクウナガミガタノオキツスニフネハトドメムサヨフケニケリ》(三三四八)と上句を同じくし、内容は、卷十六の吾門之榎實毛利喫百千鳥千鳥者雖來君曾不來座《ワガカドノエノミモリハムモモチドリチドリハクレドキミゾキマサヌ》(三八七二)と相通ずるところがある。賀茂眞淵の名作、「なつそ引く海上潟の沖つ風雲ゐに吹きて千鳥なくなり」はこれに傚つたのであらう。
 
(355)1177 若狹なる 三方の海の 濱清み い往き還らひ 見れど飽かぬかも
 
者若狹在《ワカサナル》 三方之海之《ミカタノウミノ》 濱清美《ハマキヨミ》 伊往變良比《イユキカヘラヒ》 見跡不飽可聞《ミレドアカヌヌカモ》
 
若狹ノ國ノ三方湖ノ濱ガ清イノデ、往ツタリ來タリシテ幾度モ見ルケレドモ見飽カナイナア。
 
○三方之海之《ミカタノウミノ》――若狹三方郡の三方湖。省線三方驛の西北なる淡水湖。○伊往變良比《イユキカヘラヒ》――伊は發語。行きつ戻りつすること。
〔評〕 平明な、ありのままの歌である。卷六の長歌に白沙清濱部者去還雖見不飽《シラマナゴキヨキハマベハユキカヘリミレドモアカズ》(一〇六五)と似てゐる。
 
1178 印南野は 往き過ぎぬらし 天づたふ 日笠の浦に 波立てり見ゆ 一云、餝磨江は こぎ過ぎぬらし
 
印南野者《イナミヌハ》 往過奴良之《ユキスギヌラシ》 天傳《アマヅタフ》 日笠浦《ヒガサノウラニ》 波立見《ナミタテリミユ》
 
印南ノ野ノ沖〔二字傍線〕ハモウ通リ過ギタモノト見エル。(天傳)日笠ノ浦ニ波ガ立ツテヰルノガ見エル。
 
○天傳《アマヅタフ》――枕詞。空を通る日とつづくのである。○日笠浦《ヒカサノウラニ》――日笠の浦は、大日本地名辭書に、「今詳ならず。浦并に岡の名に呼ぶ。名所方角抄によれば、藤江浦の邊にて、明石浦に近しと曰へり。……盖、明石川の河口邊を指す」とある。○波立見《ナミタテリミユ》――舊訓(356)ナミタテルミユとあるのはよくない。船出爲利所見《フナデセリミユ》(一〇〇三)參照。
〔評〕 加古川と明石川との間に、廣く展開してゐる印南野の沖を東に向つて航行してゐた旅人が、明石川の河口、日笠浦に立つ海波を見て、印南野の漸く盡きたことを知つたので、航程が次第に縮まつて行くのを喜んだ氣分が出てゐる。
 
一云、思賀麻江者許藝須疑奴良思《シカマエハコギスギヌラシ》
 
これは一二句の異傳で、飾磨虹は漕ぎ過ぎたであらうの意。飾磨江は播磨飾磨町の港で飾磨川(今船場川)の河口。都多乃細江《ツタノホソエ》(九四五)とあるのも同所である。この歌は海路を東行する趣である。なほこの一云の書き方が、一音一字の假名書式になつてゐるのも注意すべきである。
 
1179 家にして 我は戀ひむな 印南野の 淺茅が上に 照りし月夜を
 
家爾之?《イヘニシテ》 吾者將戀名《ワレハコヒムナ》 印南野乃《イナミヌノ》 淺茅之上爾《アサヂガウヘニ》 照之月夜乎《テリシツクヨヲ》
 
私ハコノ間、印南野デヨイ月ヲ見タガ〔私ハ〜傍線〕、家ニ歸ツテカラ、印南野ノ、マバラニ生エテヰル茅ノ上ニ照ツタアノ〔二字傍線〕月ヲ、思ヒ出シテ〔五字傍線〕ナツカシガルデアラウナア。ナツカシイ月ダ〔七字傍線〕。
 
○吾者將戀名《ワレハコヒムナ》――ナは詠嘆の助詞。○照之月夜乎《テリシツクヨヲ》――今、照つてゐる月をほめていふのではない。數日前の月明の夜を思ひ出して言つてゐるのである。
〔評〕 印南野の淺茅が原に、野宿した夜の佳い月を思ひ出して、家に歸つてからさぞ戀しく思ふであらうと想像したので、曠野の月に心ひかれた旅人の心がよく現はれてゐる、
 
1180 荒磯越す 浪をかしこみ 淡路島 見ずや過ぎなむ ここだ近きを
 
荒礒超《アリソコス》 浪乎恐見《ナミヲカシコミ》 淡路島《アハヂシマ》 不見哉將過《ミズヤスギナム》 幾許近乎《ココダチカキヲ》
 
荒磯ヲ越ス波ガ恐ロシサニ、舟ヲ着ケルコトモ出來ナイデ、スグ目ノ前ノ〔舟ヲ〜傍線〕大層近イ所ダノニ、淡路島ヲ見ナイデ通リ過ギルコトデアラウカ。殘念ナコトダ〔六字傍線〕。
 
(357)○荒磯超《アリソコス》――荒磯《アリソ》は人里遠い荒凉たる磯濱。○不見哉將過《ミズヤスギナム》――舊訓ミズテヤスギムとあるのを、略解に改めたのによつた。○幾許近乎《コヽダチカキヲ》――幾許《ココダ》はココラと同じく、多く・甚だなどの意。
〔評〕 前の霰零鹿島之崎乎浪高過而夜將行戀敷物乎《アラレフリカシマノサキヲナミタカミスギテヤユカムコヒシキモノヲ》(一一七四)に似てゐる。
 
1181 朝霞 やまず棚引く 龍田山 船出せむ日は 我戀ひむかも
 
朝霞《アサガスミ》、不止輕引《ヤマズタナビク》 龍田山《タツタヤマ》 船出將爲日者《フナデセムヒハ》 吾將戀香聞《ワレコヒムカモ》
 
朝ノ霞ガ絶エズ棚引イテ景色ノヨイ〔五字傍線〕龍田ヲ、私ハ舟ニ乘ツテ難波ノ港〔四字傍線〕ヲ出ル日ニハ、戀シク思フデアラウカナア。龍田山ハ故郷ノ山ダカラ、舟出トナレバ先ヅ戀シク思フデアラウ〔龍田〜傍線〕。
〔評〕 この歌は大和にあつて龍田山を眺めての作とも、又、難波に下つて滯在中の作とも、どちらにでも解釋出來ないことはない。併し朝霞やまずたなびくは、實景をながめての言葉と見るべきであらうから、大和での作で、今、その山に對して口吟んでゐるものとすれば、更にあはれが深い。
 
1182 海人小船 帆かも張れると 見るまでに 鞆の浦みに 浪立てり見ゆ
 
海人小船《アマヲブネ》 帆毳張流登《ホカモハレルト》 見左右荷《ミルマデニ》 鞆之浦回二《トモノウラミニ》 浪立有所見《ナミタテリミユ》
 
海人ノ乘ツテヰル小舟ガ、帆デモ張ツテヰルノカト思ハレルホドニ、鞆ノ浦邊ニハ浪ガ高ク白ク〔四字傍線〕立ツテルノガ見エル。
 
○帆毳張流登《ホカモハレルト》――毳は氈と同じで、かもしか〔四字傍点〕の毛で作つた織物、四九九參照。カは疑問。モは詠嘆の助詞。○鞆之浦回二《トモノウラミニ》――鞆の浦は備後の鞆の津、四四六參照。○浪立有所見《ナミタテリミユ》――一一七八と同じく、タテリミユと訓むがよい。
〔評〕 鞆の浦で白波を眺めて直感したところを、そのまま述べてゐるので、白波と白帆との錯覺は、かなり奇拔で、不自然のやうでもあるが、併し在り得ないことでもあるまい。
 
1183 好くゆきて またかへり見む ますらをの 手に卷き持たる 鞆の浦みを
 
(358)好去而《ヨクユキテ》 亦還見六《マタカヘリミム》 大夫乃《マスラヲノ》 手二卷持在《テニマキモタル》 鞆之浦回乎《トモノウラミヲ》
 
私ハ今此處ヲ去ツテモ〔十字傍線〕、無事デ又立チ還ツテ來テ、コノ〔二字傍線〕(大夫乃手二卷持在〕鞆ノ浦ノヨイ景色〔五字傍線〕ヲ、モウ一度見タイモノダ。マダ見飽カナイカラ〔九字傍線〕。
 
○好去而《ヨクユキテ》――好去の二字は好去通牟《サキクカヨハム》(三二二七)によつて、マサキクテなどの訓もよからうが、卷五の好去好來歌の好去と同じく、無事に行きての意があるやうであるから、ヨクユキテと訓むことにする。○大夫乃手二卷持在《マスラヲノテニマキモタル》――序詞。益荒男が手に卷き持つてゐる鞆とつづくのである。鞆は左手の臂に着けて、弓弦を防ぐもの。委しくは七六參照。
〔評〕 序詞が、まことに自然によく出來てゐる。好景に接してそれを再び見ようと思ふのは、人間の本性であるが、かうした内容の歌が、集中に、いくらもある。
 
1184 鳥じもの 海に浮きゐて 沖つ浪 さわぐを聞けば あまた悲しも
 
鳥自物《トリジモノ》 海二浮居而《ウミニウキヰテ》 奧津浪《オキツナミ》 驂乎聞者《サワグヲキケバ》 數悲哭《アマタカナシモ》
 
私ハ船ニ乘ツテ〔七字傍線〕、鳥ノヤウニ海ノ上ニ浮ンデヰテ、沖ノ浪ガドンドント〔五字傍線〕音ヲ立テルノヲ聞クト、非常ニ悲シイヨ。
 
○鳥自物《トリジモノ》――鳥のやうにの意。これを枕詞とする説も多いが、ここはさう見てはわるい。次の句につづいて船に乘つて海に浮んでゐることを譬へてゐる。
〔評〕 一二の句は、卷一の藤原宮之役民作歌の鴨自物水爾浮居而《カモジモノミヅニウキヰテ》(五〇)の句を思はしめるものがあるが、ここにはまことに適切に用ゐられて、淋しい海路の旅の感じを現はし得てゐる。歌全體に寂寥感が漲つた佳作と言つてよい。
 
1185 朝なぎに 眞楫漕ぎ出て 見つつ來し 三津の松原 浪越しに見ゆ
 
朝菜寸二《アサナギニ》 眞梶※[手偏+旁]出而《マカヂコギデテ》 見乍來之《ミツツコシ》 三津乃松原《ミツノマツバラ》 浪越似所見《ナミゴシニミユ》
(359)朝ノ靜カナ時こ、櫓ヲ槽イデ出テ、スグ目ノ前ニ〔五字傍線〕見ナガラヤツテ來タ三津ノ松原ガ、今ハ〔二字傍線〕浪ノアナタニ遙カニ〔三字傍線〕見エル。大ブン遠クヘ來タナア〔十字傍線〕。
 
○眞梶榜出而《マカヂコギデテ》――眞梶は兩舷にかけた楫。
〔評〕 朝、難波の三津を船出する時、眼前にあつた松原が、今は遙かの浪の彼方に、霞んで見えるので、沖遠くなつた淋しさ頼りなさを感じた作である。あはれな歌である。
 
1186 あさりする 海人少女らが 袖とほり 濡れにし衣 干せど乾かず
 
朝入爲流《アサリスル》 海未通女等之《アマヲトメラガ》 袖通《ソデトホリ》 沾西衣《ヌレニシコロモ》 雖干跡不乾《ホセドカハカズ》
 
漁ヲスル海人ノ少女ドモガ、潮ノ爲ニ〔四字傍線〕袖ガ通ツテ下マデ〔三字傍線〕霑レタ着物ハ、干シテモ乾カナイ。ヒドク濡レルモノダ〔九字傍線〕。
 
○雖干跡不乾《ホセドカハカズ》――跡《ド》は不要の文字であるが、前に雖涼常不干《ホセドカハカズ》(一一四五)とあつたと同じく、添へて書いたのである。
〔評〕 旅中に逢つた海女の、生業の辛さに同情した歌である。さしたる作ではない。
 
1187 網引する 海人とや見らむ 飽浦の 清き荒磯を 見に來し我を
 
網引爲《アビキスル》 海子哉見《アマトヤミラム》 飽浦《アクウラノ》 清荒礒《キヨキアリソヲ》 見來吾《ミニコシワレヲ》
 
飽浦ノ清イ荒磯ノヨイ景色〔五字傍線〕ヲ見ニ來タ私ダノニ、世ノ人ハ〔四字傍線〕網ヲ引イテ魚ヲ捕ル〔五字傍線〕漁師トデモ思フダラウカ。
 
○飽浦《アクウラノ》――卷十一に、木國之飽等濱之忘貝我者不忘年者雖歴《キノクニノアクラノハマノワスレガヒワレハワスレズトシハフレドモ》(二七八五)とある飽等《アクラ》と同所であらう。然らば紀伊海草郡、今、田倉《タクラ》埼と稱する邊であらう。本居宣長は玉勝間に、「飽等濱は海士《アマ》郡|賀田《カタ》の浦の南の方に田倉崎といふ所ある是なりと里人のいひ傳へたりとぞ」と言つてゐる。但し備前兒島郡に、飽浦と稱する地があるから、或は其處かも知れない。古義には海の字が脱ちたので、飽浦海《アクラノミ》かと言つてゐる。
〔評〕 卷三の柿本人麿の荒栲藤江之浦爾鈴寸釣白水郎跡香將見旅去吾乎《アラタヘノフヂエノウラニスズキツルアマトカミラムタビユクワレヲ》(二五二)とあるに似てゐる。この他、下の(360)一二〇四・一二三四なども似た趣である。左註のやうに人麿歌集に出てゐるから、卷三の藤江の浦の歌と同人の作とすれば、飽浦を備前と考へる方がよいかも知れない。
 
右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
1188 山越えて 遠津の濱の 岩躑躅 わが來るまでに 含みてあり待て
 
山越而《ヤマコエテ》 遠津之濱之《トホツノハマノ》 石管自《イハヅツジ》 迄吾來《ワガクルマデニ》 含而有待《フフミテアリマテ》
 
(山越而)遠津ノ濱ノ岩ニ咲イテヰル躑躅ハ、實ニ綺麗ダトイフガ〔九字傍線〕、私ガ歸ツテ來ル時マデ、蕾ノママデ〔五字傍線〕開カズニヰテ待ツテヰヨ。
 
○山越而《ヤマコエテ》――枕詞。山を越えて遠いといふ意で、かかつてゐるのである。これを枕詞としないで、下の遠津といふ地名につづくと見るのは無理であらう。古義にこれを「第四句の上に移して心得べし」とあるのは、更に無理である。○遠津之濱之《トホツノハマノ》――所在が明瞭でない。卷十一の霰零遠津大浦爾縁浪《アラレフリトホツオホウラニヨスルナミ》(二七二九)の遠津大浦を紀伊として、この遠津の濱をも同所と考へる説が多い。大日本地名辭書には、紀伊海草郡の條に、「徳勒津《トコロツ》。古の雄之水門に臨める津頭にして、中世|※[草がんむり/解]津《トコロツ》郷と稱し今中之島村の東に字を存す。……萬葉の遠津は徳勒津の訛歟」とあるが、疑はしい説である。卷十一の遠津大浦は遠つ近江の大浦の意。大浦は近江の伊香郡。鹽津・菅浦と共に萬葉の名所である。○迄吾來《ワガクルマデニ》――古義に吾を返の誤として、カヘリコムマデと訓んでゐるのは、妄斷である。なほこの句をワガコムマデニと訓む説もあるが、安利米具利和我久流麻泥爾《アリメグリワガクルマデニ》(四四〇八)とあるから、ワガクルマデニでよい。迄の字を上に置いたのは、漢文式書き方で、迄萬代《ヨロヅヨマデニ》(一五三一・一六三七)などの例がある。○含而有待《フフミテアリマテ》――フフミはフクミの古語。花の開かずに、蕾のままなるをいふ。
〔評〕 下の足代過而絲鹿乃山之櫻花不散在南還來萬代《アテスギテイトカノヤマノサクラバナチラズアラナムカヘリクルマデ》(一二一二)とあるのと、全く同形の歌である。躑躅は櫻のやうに潔く散るものでないから、含而有待《フフミテアリマテ》といつたのであらう。
 
1189 大海に 嵐な吹きそ しなが鳥 猪名の湊に 舟泊つるまで
 
(361)大海爾《オホウミニ》 荒莫吹《アラシナフキソ》 四長鳥《シナガドリ》 居名之湖爾《ヰナノミナトニ》 舟泊左右手《フネハツルマデ》
私ノ乘ツテヰル舟〔八字傍線〕ガ(四長鳥)猪名ノ湊ニ着クマデ八、コノ大海ノ中デ嵐ガ吹クナヨ。
 
○四長鳥《シナガドリ》――枕詞。息長鳥即ち鳰の水の上に居並ぶ意で、居名《ヰナ》につづく。○居名之湖《ヰナノミナト》――猪名川の河口。地形が變つてゐるが、今の尼ケ崎の北方、小田村長洲あたりであらうと大日本地名辭書には推定してゐる。湖の字、集中にミナトとよんだ例が多い。
〔評〕 西國から船で東上する時の作か。一二の句に、廣い海を渡る時の不安があらはれてゐる。この歌、袖中抄には「おほうみにあらくなふきそしなが鳥猪名のみづ海に舟とむるまで」と出てゐる。
 
1190 舟泊てて かし振り立てて 廬せむ 名子江の濱べ 過ぎがてぬかも
 
舟盡《フネハテテ》 可志振立而《カシフリタテテ》 廬利爲《イホリセム》 名子江乃濱邊《ナゴエノハマベ》 過不勝鳧《スギガテヌカモ》
 
コノ〔二字傍線〕名子江ノ濱邊ノ景氣ガヨクテ空シク〔ノ景〜傍線〕通リ過ギルコトハ出來ナイヨ。ダカラ〔三字傍線〕舟ヲ着ケテ※[爿+戈]※[爿+可]ヲ打チ立テテ舟ヲ繋イデ〔五字傍線〕、假庵ヲ作ツテ今夜ハ〔三字傍線〕宿ラウ。
 
○可志振立而《カシフリタテテ》――可志は※[爿+戈]※[爿+可]。船具の名。船を繋ぐ杙、又は棹で、舟に載せてあるもの。もやひぐひ。和名抄に「唐韻云、※[爿+戈]※[爿+可]所2以繋1v舟、漢語抄云、加之《カシ》」とある。大船爾可之布里多弖天《オホフネニカシフリタテテ》(三六三二)・許具布禰乃可之布流保刀爾《コグフネノカシフルホドニ》(四三一三)など他の用例もある。○名子江乃濱邊《ナゴエノハマベ》――名子江の濱は所在不明。或は攝津の住吉の名兒の濱か。しかし、其處に名子江と稱する江があつたといふ證がないから、さうとも定め難い。越中の奈呉には奈呉乃江《ナゴノエ》(四〇一八)があるが、この歌は越中とは思はれない。○過不勝鳧《スギガテカモ》――過ぐるに堪へぬよ。過ぎられないよの意。
〔評〕 上句で切つてある、謂はゆる三句切の歌である。上句に力強く自己の決意を表明し、下句にその理由を説明してある。はつきりした作だ。
 
1191 妹が門 出入の河の 瀬を早み 吾が馬つまづく 家思ふらしも
 
(362)妹門《イモガカド》 出入乃河之《イデイリノカハノ》 瀬速見《セヲハヤミ》 吾馬爪衝《ワガウマツマヅク》 家思良下《イヘモフラシモ》
 
(妹門出)入刀河ノ瀬ガ早イノデ、コノ川ヲ渡ラウトスルト〔コノ〜傍線〕私ノ乘ツテヰル馬ガ爪ヅクヨ。人ニ思ハレルト、馬ガツマヅクト言ヒナラハシテアルカラ〔人ニ〜傍線〕、家デ私ノコトヲ〔五字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルラシイヨ。
 
○妹門《イモガカド》――門は出入するものであるから、出の上に冠してある。○出入乃河之《イデイリノカハノ》――河の名と思はれるが、出入乃河《イデイリノカハ》といふのか、出は一句につづいて、下の入を呼び起すだけのもので、河の名は入乃川といふのか、全くわからない。卷九に妹門入出見河乃床奈馬爾《イモガカドイリイヅミカハノトコナメニ》(一六九五)とあるのは泉川といはむが爲に、妹門人《イモガカドイリ》を序詞として用ゐたのであるから、ここも妹門出《イモガカドイデ》までを序詞として、入乃河を河の名とするがよいであらう。略解はこの歌をも、卷九のに傚つて「入出水河と有しを、入出を下上に誤り、水を乃に誤れるもの也」とあるが、さうは斷じ難い。古義には入野河として、「神名帳に、山城國乙訓郡入野神社とあれば、其處の川を云ならむ。かくて古くは野をばヌとのみ云れば、此ももとは、入野川とありけむを、後に野をノと唱ふる世となりて、古へを知らぬ人の、ふと野を乃と寫誤れるならむか」とあるが、入野川といふ名も他に見えず、誤字説も獨斷であるから從ひ難い。ここではただ入乃河として固有名詞とするに止めて置かう。
〔評〕 卷三の鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜《シホツヤマウチコエユケバワガノレルウマゾツマヅクイヘコフラシモ》(三六五)及びこの次の歌と同趣の歌で、馬の躓くのは家人の戀ふる兆であると考へろ信仰があつたのによつたのである。そこに古代人らしい純情が見えてゐる。
 
1192 白妙に にほふ眞土の 山川に 吾が馬なづむ 家戀ふらしも
 
白栲爾《シロタヘニ》 丹保布信士之《ニホフマツチノ》 山川爾《ヤマカハニ》 吾馬難《ワガウマナヅム》 家戀良下《イヘコフラシモ》
 
(白栲爾丹保布)眞土山ノ川ヲ渡ルトキニ私ノ乘ツテヰル馬ガ爪ツイタ。家デ私ヲ〔二字傍線〕戀ヒ慕フラシイナア。
 
○白栲爾丹保布《シロクヘニニホフ》――眞土の序詞。白く色の美しい眞土として、眞土山につづけたのである。眞土はこの頃白色の土を稱したものであらう。○信士之山川爾《マツチノヤマカハニ》――眞土山の邊を流れてゐる川にの意。眞土山は大和から紀伊へ越えるところの山。五五參照。なほこの川は眞土山の峠の降り口を流れてゐる。今、落合川と呼ばれてゐるも(363)ので、古くは眞土川と呼ばれた。この川を境として紀和兩國が分れ、そこに兩國橋といふ橋が架してある。
〔評〕 前の歌と全く同趣同巧で、共に序詞の用法までが同一形式になつてゐるのも面白い。
 
1193 背の山に 直に向へる 妹の山 言ゆるせやも 打橋渡す
 
勢能山爾《セノヤマニ》 直向《タダニムカヘル》 妹之山《イモノヤマ》 車聽屋毛《コトユルセヤモ》 打橋渡《ウチハシワタス》
 
背ノ山ニ直接ニ向ツテヰル妹山ハ、背ノ山カラ結婚シヨウト申込ンダ〔背ノ〜傍線〕言葉ヲ許シタモノト見エテ、背山ト妹山トノ間ニハ〔背山〜傍線〕打橋ヲ渡シテアル。
 
○勢能山爾《セノヤマニ》――勢能山は紀伊國伊郡部笠田村字背山にある。○妹之山《イモノヤマ》――妹山は紀の川を距てて背山と相對した山で、澁田村に屬すと言はれてゐる。この妹背山の所在に就いて、古來異説多く、本居宣長は玉勝間にこれを考證して、「とにかくに妹山といへるはただ背の山といふ名につきての詞のあやのみにて、いはゆる序、枕詞の類にぞありける」と述べ、また、「妹山といふは兄山あるにつきて、ただ設けていへる名にて、實に然いふ山あるにはあらじとぞ思ふ」と言つてその存在を否定してゐる。併しこの歌によれば、ともかくも妹山と言はれた山があつたことは確かであるが、この打橋を渡す川が、紀の川なりや否やは遽かに決定し難いところで、兩山の間の小さい溪流とする説もある。併し古今集の、「流れては妹背の山の中におつる吉野の川のよしや世の中」といふ歌は、妹山・背山の間を吉野川の下流即ち紀の川が流れてゐるものとして詠んだらしく思はれるが、更にまた右の歌によつて、妹背山を吉野川のほとりに求め、宮瀧と上市との間に妹背山なる名勝を作つてゐるのは笑ふべきである。なほ次に紀伊國名所圖會所載の文を引いて參考としよう。「妹※[女+夫]山。妹山は澁田村にあり今長者屋敷といふ。※[女+夫]山は背山村にあり今鉢伏山といふ。紀の川を隔てて相對せり。或説に、大和國に妹※[女+夫]山ありといふ甚誤なり。兩山の際大に迫りてただ一條の流を通ず。孝徳天皇詔して爰を邦幾の南限を定給ふ。兄山は狹き山の義にして地形より起れる名なるべきを、史に兄山と書るは假字なるべし云々」○事聽屋毛《コトユルセヤモ》――事は言の借字で、妹山が背山の言葉を許し、その言葉に從つたからかの意。ユルセバニヤに感歎の助詞、モを添へてある。○打橋渡《ウチハシワタス》――打橋は掛けはづしの出來る板の橋。この打橋を渡す點から考へると、妹山・背山の間を(364)流れるのは、紀の川のやうな大河ではないやうである。溪流説もそれから出たのであらうが、飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡下瀬打橋渡《トブトリノアスカノカハノカミツセニイハハシワタシシモツセニウチハシワタス》(一九六)・千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌打橋渡須奈我來跡念者《チドリナクサホノカハトノセヲヒロミウチハシワタスナガクトオモヘバ》(五二八)などあるので見ると、飛鳥川や佐保川に掛けられたもので、その橋板は機〓木持往而天河打橋度公之來爲《ハタモノノフミキモチユキテアマノカハウチハシワタスキミガコムタメ》(二〇六二)のやうに、短い物であつても、河中に石を積んで柱のやうにして、その上に掛け渡すのであらうから、廣い河でも掛けられぬことはないのである。故に、打橋渡《ウチハシワタス》の句によつて、紀の川説を否定するわけにも行かない。なほ地形について研究し判定すべきである。
〔評〕 これは妹山・背山の邊を旅行した者が、この兩山の間を流れる河に架けた橋を見て詠んだもので、この山に關する歌は集中、この他に澤山あるが、多くは妹背の名によつて、夫婦を聯想したものである、稚氣の愛すべきものがある。
 
1194 紀の國の 雜賀の浦に 出で見れは 海人の燈火 浪の聞ゆ見ゆ
 
木國之《キノクニノ》 狹日鹿乃浦爾《サヒガノウラニ》 出見者《イデミレバ》 海人之燈火《アマノトモシビ》 浪間從所見《ナミノマユミユ》
 
紀伊ノ國ノ、雜賀ノ浦ヘ出テ見ルト、海人ガ漁ヲスル燈火ガ、波ノ間カラ見エル。
 
〇狹日鹿乃浦爾《ナヒガノウラニ》――狹日鹿乃浦《サヒガノウラ》は卷六に左日鹿野《サヒガヌ》(九一七)とあるところで、即ち和歌の浦の西方海岸、雜賀である。○浪間從所見《ナミノマユミユ》――舊訓ナミマヨリミユとあるが古義による。
〔評〕 平庸な歌、謂はゆるさうですか歌に近い。なほ元麿校本・西本願寺本などに、この歌より下|粟島爾《アハシマニ》(一二〇七)に至る十四首を玉津島《タマツシマ》(一二二二)の歌の次に置いてある。蓋しこれが原形で寛永本は錯簡本によつて誤つたものである。
 
1195 麻衣 著ればなつかし 紀の國の 妹背の山に 麻蒔く吾妹
 
麻衣《アサゴロモ》 著者夏樫《ケレバナツカシ》 木國之《キノクニノ》 妹背之山二《イモセノヤマニ》  麻蒔吾妹《アサマクワギモ》
 
私ハ麻ノ着物ヲ着テヰルノデ、紀伊ノ國ノ妹背山デ麻ヲ蒔イテヰル女ヨ。オマヘト縁ガアルヤウニ思ハレテ〔オマ〜傍線〕ナツカシイ。
 
(365)○著者夏樫《ケレバナツカシ》――著者は舊訓キレバとあつて、それでもよいやうであるが、卷十五に許能安我家流伊毛我許呂母能阿可都久見禮婆《コノアガケルイモガコロモノアカヅクミレバ》(三六六七)とあるから、ケレバがよいであらう。夏樫は面白い借字である。意はなつかしく親しい感じがすること。○麻蒔吾味《アサマクワギモ》――麻の種を妹背山の山畑に今蒔きつつある吾が妹よの意。吾妹は女を親しんで言つてゐるので、妻をさしたのではない。
〔評〕 旅の道すがら、妹背の山で麻の種を蒔いてゐる女を見て、なつかしがつて歌ひかけたやうな歌で、田舍少女の手ぶりに見とれてゐる、貴人の風貌も思ひ起されて面白い。古義に「己がさきに妹背山を往しほど、其山に麻蒔し妹が目につきてうるはしかりしが、今わが麻衣を取著ぬれば、いとどかの麻蒔居し妹が面影の思ひ出られてなつかしく、慕はしと云へるなるべし」と言つたのは非常な誤解である。
 
右七首者藤原卿作未v審2年月1
 
藤原卿は誰ともわからない。契沖は「藤原卿といへるは、藤原北卿と云へる北の字の落ちたる歟。大織冠ならば内大臣藤原卿と云べし。藤原卿とのみ云ひては、南卿北卿わかれず。南卿は武智麻呂なり。武智麻呂は和歌に不堪なりける歟。集中一首もなければ北卿なるべしとは云なり」と言つてゐる。若し北卿ならば房前であるが、それとも定め難い。なほ前の歌に述べたやうに、この部分は舊本に錯簡があるから、從つてここに右七首とあるのは、黒牛乃海《クロウシノウミ》(一二一八)から、玉津島《タマツシマ》(一二二二)までの五首と、ここの木國之《キノクニノ》(一一九四)麻衣《アサゴロモ》(一一九五)の二首を併せたものとなるので、この舊本の誤に注意しなければならない。
 
1196 つともがと 乞はば取らせむ 貝拾ふ 我をぬらすな 沖つ白浪
 
欲得※[果/衣のなべぶたなし]登《ツトモガト》 乞者令取《コハバトラセム》 貝拾《カヒヒリフ》 吾乎沾菜《ワレヲヌラスナ》 奥津白浪《オキツシラナミ》
 
家ノ人ガ〔四字傍線〕土産ヲ下サイト言ツタラ、クレテヤラウト思フ。ソノ爲ニ貝ヲ拾フノダカラ、カウシテ貝ヲ拾ツテヰル〔ソノ〜傍線〕私ヲ濡ラスナ、濱ヘ打チ寄セテクル沖ノ白浪ヨ〔濱ヘ〜傍線〕。
 
○欲得※[果/衣のなべぶたなし]登《ツトモガト》――家人が※[果/衣のなべぶたなし]が欲しいとの意。この用字法が漢文式になつてゐるのに注意したい。舊訓イテツトト(366)とあるのはわからない。
〔評〕 旅人の家を思ふ、可憐な純情があらはれてゐる。
 
1197 手に取るが からに志ると 海人の言ひし 戀忘貝 言にしありけり
 
手取之《テニトルガ》 柄二忘跡《カラニワスルト》 海人之曰師《アマノイヒシ》 戀忘貝《コヒワスレガヒ》 言二師有來《コトニシアリケリ》
 
手ニトツテ見ルト、ソノ爲ニ思フコト〔四字傍線〕ヲ忘レルト、海人ガ私ニ〔二字傍線〕言ツテ聞カセタ、戀ヲ忘レルトイフ忘貝ハ、タダ名バカリデアツタワイ。コノ貝ヲ拾ツタケレドモ、少シモ戀ヲ忘レルコトハ出來ナイ〔コノ〜傍線〕。
 
○手取之柄二忘跡《テニトルガカラニワスルト》――手に取るとその爲に忘るとの意。舊訓、テニトリシとあつたのを古義にテニトルガとしたのがよい。もとのままでは、文法上の時が調はない。これは、一重山越我可良爾《ヒトヘヤマコユルガカラニ》(一〇三八)・爾波爾多知惠麻須我可良爾《ニハニタチヱマスガカラニ》(三五三五)の類である。
〔評〕 第二句がカラニで始まつてゐる爲に、言葉の續きが異風に聞える。前の住吉爾往云道爾昨日見之戀忘貝事二四有家里《スミノエニユクトフミチニキノフミシコヒワスレガヒコトニシアリケリ》(一一四九)と同型の歌である。その項參照。
 
1198 あさりすと 磯に住む鶴 あけゆけば 濱風寒み おの妻喚ぶも
 
求食爲跡《アサリスト》 磯二住鶴《イソニスムタヅ》 曉去者《アケユケバ》 濱風寒彌《ハマカゼサムミ》 自妻喚毛《オノヅマヨブモ》
 
餌ヲアサルトテ磯ニヰル鶴ガ、夜ガ明ケルト濱風ガ寒イノデ、自分ノ妻ヲ頻リニ〔三字傍線〕呼ブヨ。アハレナ聲ダ〔六字傍線〕。
 
○磯二住鶴《イソニスムタヅ》――住《スム》はここでは、下りて居る意で、常に棲んでゐることではない。
〔評〕 前の暮名寸爾求食爲鶴鹽滿者奧浪高三己妻喚《ユフナギニアサリスルタヅシホミテバオキナミタカミオノヅマヨバフ》(一六五)と同型同趣の歌で、朝と夕と、風と浪との相異があるのみである。歌品も亦同樣と言つてよい。
 
1199 藻苅舟 沖こぎ來らし 妹が島 形見の浦に 鶴翔る見ゆ
 
藻苅舟《モカリブネ》 奧※[手偏+旁]來良之《オキコギクラシ》 妹之島《イモガシマ》 形見之浦爾《カタミノウラニ》 鶴翔所見《タヅカケルミユ》
 
藻ヲ刈ル舟ガ沖ヲ漕イデコチラヘ〔四字傍線〕來ルラシイ。妹ガ島ヤ形見ノ浦デ鶴ガ飛ンデヰルノガ見エル。アレハ舟ニ恐レテ沖カラ、鶴ガ飛ンデ來タノニ違ヒナイ〔アレ〜傍線〕。
 
○藻苅舟《モカリブネ》――藻を苅り採る業をする舟。下に海藻苅舟《メカリブネ》(一二二七)とあるから、これもメカリブネかも知れない。○妹之島形見之浦《イモガシマカタミ(ウラニ》――妹が島、所在不明。形見の浦は大日本地名辭書には、紀伊海部郡加太町の沖なる、友が島と陸との間の瀬戸をいふやうに記してある。カタミは加太《カタ》と音が近いから或は加太町の海を、古く形見の浦と稱したものかも知れない。なほ、友が島と妹が島とも音が似てゐるから、これもイモをトモに訛つたものかとも考へられないことはない。紀伊國名所圖會には、形見浦の條に、「古へは奈儀佐郡なりしが今海部郡に屬せり。世俗ここを加太の浦といへり。誤なり。加太は驛の名にして、むかし是より五六丁東なる山の麓にありしなり。此地はもと海中にて潮干には遠干潟となれる所なり。こをもつて潟海《カタミ》また潟海浦《カタミウラ》ともいひて、日本三ケの退潮の名所とす」とあり、友ケ島の條には、「また鞆がしまとも。土俗これを※[竹がんむり/占]がしまといへり。古名妹がしまとある。」なほ同書に載せた紀國文學春川川合衡襄平撰の友島記の中に「名2其地1曰2※[竹がんむり/占]島1後或爲2鞆島1又爲2友島1、蓋以2方言1相轉也其曰2妹島1者亦以2神后1謂之乎或曰以2二島1爲2妹兄1也云々」と記してある。これらによつて、妹が島を友島とし、形見の浦を加太の浦をとして置かう。
〔評〕 これも前の歌と同じく鶴の歌であるが、場面の大きい、さわやかな感じの作である。
 
1200 吾が舟は 沖ゆなさかり 迎へ舟 片待ちがてり 浦ゆ榜ぎ會はむ
 
吾舟者《ワガフネハ》 從奧莫離《オキユナサカリ》 向舟《ムカヘブネ》 片待香光《カタマチガテリ》 從浦※[手偏+旁]將會《ウラユコギアハム》
 
私ノ乘ツテヰル舟ハ、沖ノ方ニ離レテ行クナ。モウ迎ヘノ舟ガ來ル頃ダカラ〔モウ〜傍線〕、迎ヘノ舟ヲ、ヒタスラ待チナガラ、浦ヲ漕イデ行ツテ迎ヘノ舟ニ〔五字傍線〕會ハウト思フ。
 
○向舟《ムカヘブネ》――旅客の乘つてゐる舟を迎へて、港に案内する舟か。この語は他に用例なく、卷八に牽牛之迎嬬船《ヒコホシノツマムカヘブネ》(一五二七)があるのみである。思ふに港の遊女が舟に乘つて旅客を迎へて、招じ入れたものであらう。○片待香光《カタマチガテリ》――片待《カタマチ》は片寄りて待つ。ひたすらに待つ意である。舊訓ガテラとあるのはよくない。
〔評〕 港へ急ぐ旅人の心であらう。向舟を遊女の出迎の舟とすると更に面白くなる。自分の一族知己が迎へに來(368)るものとしては、この歌はふさはしくない。なほこの歌は卷三の吾船者牧乃湖爾榜將泊奥部莫避左夜深去來《ワガフネハホラノミナトニコギハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》(二七四)と多少似たところがある。
 
1201 大海の 水底とよみ 立つ浪の 寄らむと思へる 磯のさやけさ
 
大海之《オホウミノ》 水底豐三《ミナソコトヨミ》 立浪之《タツナミノ》 將依思有《ヨラムトモヘル》 礒之清左《イソノサヤケサ》
 
私ガ舟ヲ〔四字傍線〕(大海之水底豐三立浪之)寄セヨウト思ツテヰルコノ〔二字傍線〕磯ノ景色ノ佳イコトヨ。
 
○大海之水底豐三立浪之《オホウミノミナソコトヨミタツナミノ》――將依《ヨラム》と言はむ爲の序詞。今、眼前に水底をとよもす浪が立つてゐるのではない。若し序と見ないと五句を、磯のかしこさとでもしなければならぬことになる。○將依思有《ヨラムトモヘル》――古義にはヨセムトモヘルとあるが、舊訓のままでよいであらう。
〔評〕 第二句の水底豐三《ミナソコトヨミ》が物凄く力ある表現で、巧な序詞と言つてよい。單なる叙景歌であらうと思はれるが、略解には「右は譬喩歌と聞ゆ。吾いひよらむとすれば、人のいひさわぐといふ意なるべし」とある。波に心があつて寄せようと思つてゐるやうに見る説もあるが、從ふべくもない。なほこの歌は、この卷の大海之磯本由須
理立波之將依念有濱之淨奚久《オホウミノイソモトユスリタツナミノヨラムトモヘルハマノサヤケク》(一二三九)と同型の類歌である。
 
1202 ありそゆも まして思へや 玉の浦 離れ小島の 夢にし見ゆる
 
自荒礒毛《アリソユモ》 益而思哉《マシテオモヘヤ》 玉之浦《タマノウラ》 離小島《ハナレコジマノ》 夢石見《イメニシミユル》
 
荒磯モヨイ所ダガ〔八字傍線〕、荒磯ヨリモ以上ニ、ナツカシク〔五字傍線〕思フカラカ、玉ノ浦ノ離レ小島ノヨイ景色〔五字傍線〕ガ、夢ニモ見エルヨ。
 
○益而思哉《マシテオモヘヤ》――マシテオモヘバニヤの意。益而は久利波米婆麻斯提斯農波由《クリハメバマシテシヌバユ》(八〇二)とあるやうに、より以上にの意である。○玉之浦《タマノウラ》――卷九の紀伊國作歌二首に玉浦丹衣片敷一鴨將寢《タマノウラニコロモカタシキヒトリカモネム》(一六九二)とあるから、これも紀伊であらう。卷十五にも玉の浦の歌が三首あるが、いづれも遣新羅使一行の作で、中國瀬戸内海の沿岸である。宣長は紀伊の玉の浦について、玉勝間に、「那智山の下なる粉白浦といふところより、十町ばかり西南にあり。離(369)小島といへるは、玉の浦の南の海中にちりぢりに岩あれば、それをいへるなるべし」といつてゐる。○離小島《ハナレコジマノ》――古義にサカルコジマノとあり、新考にハナレヲジマノとあるが、舊訓のままがよい。小さい離島であらう。
〔評〕 この歌は寓意のある譬喩歌のやうにも思はれるが、なほ旅中の實情を詠じたものとすべきであらう。悦目抄には「荒磯よりまして思ふな玉の浦すぐる小島の夢にし見ゆる」と出てゐる。
 
1203 磯の上に つま木折り焚き 汝が爲と 吾が潜き來し 沖つ白玉
 
礒上爾《イソノヘニ》 爪木折燒《ツマギヲリタキ》 爲汝等《ナガタメト》 吾潜來之《ワガカヅキコシ》 奥津白玉《オキツシラタマ》
 
礒ノ上デ細イ薪ヲ折ツテ焚イテ身ヲ煖メナガラ〔七字傍線〕、オマヘノ爲ト思ツテ、私ガ水ヲ潜ツテ取ツテ來ク、沖ノ白玉デスヨ。コノ旅ノミヤゲヲ、アダヤオロカニ思ヒナサルナ〔デス〜傍線〕。
 
○爪木折燒《ツマギヲサタキ》――爪木は指で折つて焚く細い薪。○奥津白玉《オキツシラタマ》――沖つ白玉。白玉は鰒玉即ち眞珠である。
〔評〕 これは旅に獲た眞珠を、家の妻に贈る時の歌であらう。海底に潜る海人が、岸に上つて焚火をして身を煖める有樣を目撃し、これを吾が業のやうに詠みなしたので、かく贈物をする時に、自己の勞苦を述べて眞心を示すのが古意である。
 
1204 濱清み 磯に吾が居れば 見む人は 海人とか見らむ 釣もせなくに
 
濱清美《ハマキヨミ》 礒爾吾居者《イソニワガヲレバ》 見者《ミムヒトハ》 白水郎可將見《アマトカミラム》 釣不爲爾《ツリモセナクニ》
 
濱ガ清イノデソノ景色ヲナガメテ〔九字傍線〕、私ガヰルト、私ヲ〔二字傍線〕見ル人ハ、私ガ釣モシナイノニ漁師ダト思フデアラウ。
 
○見者《ミムヒトハ》――者をヒトとよむのであらう。略解に「ここは人の字脱たるか」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 海岸の佳景に旅の辛苦を忘れて、眺め入つてゐる時の歌で、旅人が海人と見誤られはせぬかと詠んだ歌は澤山ある。二五二・一一八七・一二三四など參照。
 
1205 沖つ楫 ややややしぶを 見まく欲り 吾がする里の 隱らく惜しも
 
奥津梶《オキツカヂ》 漸々志夫乎《ヤヤヤヤシブヲ》 欲見《ミマクホリ》 吾爲里乃《ワガスルサトノ》 隱久惜毛《カクラクヲシモ》
 
(370)沖ヲ漕グ私ノ舟ノ楫ガソロソロ疲レテ〔三字傍線〕湛澁ツテ來タガ、モツト〔三字傍線〕見タイト私ガ思フアノ〔二字傍線〕里ガ、隱レルノハ惜シイコトダヨ。
 
○奥津梶《オキツカヂ》――沖を漕ぐ舟の楫。卷二の奥津加伊《オキツカイ》(一五三)と同意である。これを左舷の楫とする説は誤つてゐる。○漸々憲夫乎《ヤヤヤヤシブヲ》――の句を誤字と見て訂正する説が多い。舊訓シバシバシブヲとあるのを、考はヤヤトヲツマヲと、略解の宣長説は志夫乎を爾水手の誤として、ヤヤヤヤニコゲと、古義は莫水乎の誤として、ヤウヤウナコギと訓んでゐる。漸々の二字は、他に漸々可多知久郡保里《ヤヤヤニカタチクツホリ》(九〇四)とあるから、これに從つて訓むこととし、志夫乎は舊のままとして、代匠記精撰本に、「志夫乎は澁るをなり。櫓をやうやう押くたびれてしぶるを、吾見まくほしうする里のおのづから、遠さかりて隱て見えぬか惜きとなり」とあるのに從はうと思ふ。
〔評〕 第二句が少しく難解で、或は誤字があるかとも思はれるから、委しいことは言はれないが、沖に漕ぎ出た旅人の淋しさがあらはれてゐる。
 
1206 沖つ波 邊つ藻まき持ち 寄り來とも 君にまされる 玉寄せめやも 一云、沖つ波邊波しくしく寄せ來とも
 
奥津波《オキツナミ》 部都藻纏持《ヘツモマキモチ》 依來十方《ヨリクトモ》 君爾益有《キミニマサレル》 玉將縁八方《タマヨセメヤモ》
 
沖ノ波ガ岸ニ生エテヰル藻ヲ卷イテ持ツテ、打チ寄セテ來ルト、ソレト一緒ニ種々ノ玉ガ寄セテ來ルガ、ソレニシテ〔ソレト〜傍線〕モ、貴方以上ノ玉ガ寄ツテ來マセウカ。アナタハ私ニハ玉ヨリモ大事ナモノデス〔アナ〜傍線〕。
 
○部都藻纏持《ヘツモマキモチ》――部都藻《ヘツモ》は海岸に生える藻。祝詞に奧津藻葉邊津藻葉《オキツモハヘツモハ》とある。○玉將縁八方《タマヨセメヤモ》――舊訓はタマヨラムヤモとあるのを、代匠記精撰本にタマヨラメヤモと改めたのが多く行はれてゐるが、古義にタマヨセメヤモとしたのがよい。
〔評〕 これは寄玉戀の歌で、必ずしも旅中の作とも言はれない。
 
一云|奧津浪邊波布敷緑來登母《オキツナミヘナミシクシクヨセクトモ》
 
これは第二句と第三句との異傳であらう。從來第二句のみと考へられてゐるが、第三句の縁の字も、第五(371)句と一致させてヨセと訓むがよいであらう。この傳によれば、上句の意味が全く異つて、言ひ方が平凡になつてゐる。
 
1207 粟島に 漕ぎ渡らむと 思へども 明石の門浪 いまだ騷げり
 
粟島爾《アハシマニ》 許枳將渡等《コギワタラムト》 思鞆《オモヘドモ》 赤石門浪《アカシノトナミ》 未佐和來《イマダサワゲリ》
 
粟島ヘ漕イデ渡ラウト思ツテヰルガ、明石ノ瀬戸ノ波ガ、マダ高ク立チ〔四字傍線〕騷イデヰル。モウ少シ待タウ〔七字傍線〕。
 
○粟島爾《アハシマニ》――粟島は淡路の屬島か。大日本地名辭書には、淡路の北端石屋岬の一部かと言つてゐる。三五八・五〇九參照。○赤石門浪《アカシノトナミ》――明石の海峽に立つてゐる泣。赤石門《アカシノト》は明大門爾《アカシオホトニ》(二五四)・自明門《アカシノトヨリ》(二五五)などとあるに同じ。
〔評〕 海波の靜まるを待つてゐる旅人の困惑の情がよくあらはれてゐる、何らの潤飾なくして、情も景も共に明瞭になつてゐる。この歌は、和歌童蒙抄に出てゐる。元麿校本はこの歌から、綿之底《ワタノソコ》(一二二三)の歌につづいておる。これが本集の原形であつたのである。
 
1208 妹に戀ひ 吾が越え行けば 背の山の 妹に戀ひずて あるがともしさ
 
 
妹爾戀《イモニコヒ》 余越去者《ワガコエユケバ》 勢能山之《セノヤマノ》 妹爾不戀而《イモニコヒズテ》 有之乏佐《アルガトモシサ》
 
私ハ家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ヲ戀ヒ慕ヒナガラ旅ヲシテ山ヲ〔六字傍線〕越エテ行クト、背《セ》ノ山ガ妻ヲ戀ヒシテヰル樣子モナク、立ツテ〔三字傍線〕ヰルノガ羨マシイナア。
 
○余越去者《ワガコエユケバ》――山を越え行けばの意で、山は大和から紀伊へ越える眞土山であらう。○有之乏左《アルガトモシサ》――トモシは羨ましの意。
〔評〕 大和から紀州へ出て旅に上つた人の作で、背山が妹山に對して並んでたるのを見て、妻と離れて來た自分に引きくらべて、悲しんだ作である。妻と別れて來て、未だ間もない氣分も出てゐるやうである。
 
1209 人ならば 母がまな子ぞ あさもよし 紀の川の邊の 妹と背の山
 
人在者《ヒトナラバ》 母之最愛子曾《ハハガマナゴゾ》 麻毛吉《アサモヨシ》 木川邊之《キノカハノベノ》 妹與背之山《イモトセノヤマ》
 
(372)(麻毛吉)紀ノ川ノホトリニアル妹山ト背山トハ、人ナラバ母ノ愛スル二人ノ子デアルゾヨ。ホントニ愛ラシク兄妹ノヤウニ並ンデヰル〔ホン〜傍線〕。
 
○母之最愛子曾《ハハガマナゴゾ》――集中、眞砂を愛子地《マナゴヂ》(一三九二・三一六八)と記してあるやうに、マナゴは愛する子のことで、ここには最の字を添へて書いてある。○麻毛吉《アサモヨシ》――枕詞。紀《キ》につづく。五五參照。○妹與背之山《イモトセノヤマ》――妹の山と背の山といふべきを、つづめて一つにしたのである。
〔評〕 これは妹背を夫婦と見ないで、兄と妹との意とし、低い小さい山が並んでゐる姿を、いつくしんだものである。口吟むと、ほほゑまれるやうな、可愛らしい歌である。
 
1210 吾妹子に 吾が戀ひ行けば ともしくも 並びをるかも 妹と背の山
 
吾妹子爾《ワギモコニ》 吾戀行者《ワガコヒユケバ》 乏雲《トモシクモ》 並居鴨《ナラビヲルカモ》 妹與勢能山《イモトセノヤマ》
 
私ガ家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕私ノ妻ヲ戀ヒ慕ツテ、旅行シテヰルト、妹山ト背山トガ、仲ヨササウニ〔六字傍線〕、羨マシクモ並ンデヰルヨ。アア羨マシイ。
 
〔評〕 これは前の妹爾戀《イモニコヒ》(一二〇八)の歌と全く同意同趣である。袖中抄、いもせ山の條にこの歌を引いてゐる。
 
1211 妹があたり 今ぞ吾が行く 目のみだに 我に見えこそ 言とはずとも
 
妹當《イモガアタリ》 今曾吾行《イマゾワガユク》 目耳谷《メノミダニ》 吾耳見乞《ワレニミエコソ》 事不問侶《コトトハズトモ》
 
(373)私ハ今妻ノ家ノ邊ヲ通ツテヰル。逢ツテ〔三字傍線〕物ヲ言フコトハ出來ナイニシテモ、顔ダケデモ一寸見セテクレヨ。セメテ顔ダケデモ見タイモノダ〔セメ〜傍線〕。
 
○妹當《イモガアタリ》――イモノアタリト訓む説もあるが、この儘でよい。
〔評〕 この歌は略解に「按に此歌は、ただ戀の歌にて、心明らけきを、妹とあるを妹山の事と見誤りて、ここに載せたりと思ゆ」とあるのが一般に認められてゐるから、ここにもそれによつて解いて置いた。併し若しこれを※[覊の馬が奇]旅の作とするならば、妹山の邊を過ぎて詠じたものとしなければならない。前の三首が妹背山の歌で、(元暦校本によれば四首)その次にこれを置いてゐるのは、妹山での作としたのに相違なく、又第五句の事不問侶《コトトハズトモ》が、物を言はぬにしてもの意で、山に向つて言ふ言葉とすれば、最も面白くなるやうに思はれる。代匠記に「此の句は妹山のあたりを妹になして云へり」とあるに、復歸すべきではあるまいか。
 
1212 あて過ぎて 糸鹿の山の 櫻花 散らずあらなむ 還り來るまで
 
足代過而《アテスギテ》 絲鹿乃山之《イトカノヤマノ》 櫻花《サクラバナ》 不散在南《チラズアラナム》 還來萬代《カヘリクルマデ》
 
足代ヲ通ツテ絲鹿山ヘ來テ見ルト、櫻ガ咲イテヰルガ、私ガ〔ヘ來〜傍線〕還ツテ來ルマデ、散ラズニ居テクレヨ。
 
○足代過而《アテスギテ》――紀伊の有田郡は、舊名|安諦《アテ》を改めたもので、日本後妃に「大同元年七月、改2紀伊國安諦郡1爲2在田郡1以2詞渉2天皇諱1也」とあつて、平城天皇の御諱が安殿《アテ》であらせられたからである。續紀には「大寶三年、令2紀伊國阿提軍1獻v銀也。」「天平三年、紀伊國|阿底《アテ》郡海水變如2血色1」などあつて、古くは、阿提・阿底・安諦などの文字を用ゐたが、ここの足代《アテ》もまたこれと同一地方である。舊訓アシロとあるのは誤。但しこの歌では、これを郡名とは考へられないので、或は今の有田川を古くは安諦川と稱したから、ここは安諦川を渡つたことを言つたものかとも、思はれないことはないが、恐らく郷名で、この郡名の由て來る地があつたのであらう。今それに當るべき地がないが、和名抄に英多《アタ》郷があり、今の宮原村・田殿村の邊である。ここをこの足代《アテ》とする説もある。併しこれは次の歌に出てゐる安太《アタ》であるから、足代《アテ》とは別である。なほこの郡の東隅に、安諦村があるけれども、これは新しい村名であるから證とはし難い。○絲我乃山之《イトカノヤマノ》――絲我山は即ち有田川の南岸にある糸(374)我村の南嶺で、これを越えて湯淺の方へ出る街道が古くからあつたのである。紀伊北部地圖參照。○不散在南《チラズアラナム》――散らずにゐてくれよの意。舊訓チラズモアラナムとある、モは添へない方がよい。○還來萬代《カヘリクルマデ》――古義にカヘリコムマデと改めてゐるが、必ずしもその要を認めないから舊訓のままにして置く。
〔評〕 前の山越而《ヤマコエテ》(一一八八)の歌と同型で、唯、躑躅と櫻との相異があるのみである。なほこの歌の解を、古義に「一五二三四と句を次第て見べし」とあるのは誤つてゐる。
 
1213 名草山 言にしありけり 吾が戀の 千重の一重も 慰めなくに
 
名草山《ナグサヤマ》 事西在來《コトニシアリケリ》 吾戀《ワガコヒノ》 千重一重《チヘノヒトヘモ》 名草目名國《ナグサメナクニ》
 
名草山トイフ山〔四字傍線〕ハ、心ヲ慰メルトイフ名ノ山ダト思ツテヰタガ來テ見レバ〔心ヲ〜傍線〕、名バカリデアツタワイ。私ノ戀シイ心ノ千ノ一モ慰マナイカラ。
 
○名草山《ナグサヤマ》――和歌の浦に面した紀三井寺後方の山。
〔評〕 名實相伴はぬことを嘆じてコトニシアリケリと詠んだ歌は前にも多く出てゐた。これもその類で名草山の名が慰めと通ふところから、自分の旅中の家思ふ心が、この山によつて慰まぬことを詠んだのである。卷(375)六の大伴坂上郎女の長歌に名耳乎名兒山跡負而吾戀之干重之一重裳奈具佐未七國《ナノミヲナゴヤマトオヒテワガコヒノチヘノヒトヘモナグサマナクニ》(九六三)とあるのは、この歌に倣つたのである。從つてこの歌の三句をワガコフルと訓む説は採らぬことにした。この歌、袖中抄に引いてある。
 
1214 あたへ行く をすての山の 眞木の葉も 久しく見ねば こけむしにけり
 
安太部去《アタヘユク》 小爲手乃山之《ヲステノヤマノ》 眞木葉毛《マキノハモ》 久不見者《ヒサシクミネバ》 蘿生爾家里《コケムシニケリ》
 
英多ヘ行ク道ノ〔二字傍線〕、小爲手ノ山ノ檜ノ葉モ、久シク見ナイカラ今度來テ見ルト〔七字傍線〕、蘿ガ生エタワイ。
 
○安太部去《アタヘユク》――安太の方へ行く、安太は和名抄に紀伊在田郡に英多郷があるから、其處であらう。今はその名が殘つてゐないが、宮原村・田殿村に當るであらうといふ。略解に「和名抄、紀伊名草郡誰戸郷有。是ならむか」とある説は從はれない。紀伊北部地圖參照。○小爲手乃山之《ヲステノヤマノ》――小爲手乃山は略解に、「紀伊牟婁郡緒捨山今も有り」と記してあるが、果してどうであらう。宣長が玉勝間に「小爲手の山は在田郡山保田庄に推手村といふあり。これか。其村は伊都郡の堺にて山の奧なり」とあるによれば在田郡東部の部界の地で、今、安諦村と改めその大字に押手の名が殘つてゐる。ここは在田川の上流に沿ひ、高野を距る三里で、その通路に當つてゐるが、未だ高野山も開けなかつた當時に於て、この山が何處より安太へ通ふ路に當つてゐたか疑問である。なほこの地名は研究を要する。大日本地名辭書には、「小爲手村はサヰテと訓むべく、今濱中村大字小畑に才《サイ》坂ありて、宮原村へ通ふ山徑とぞ」と記してある。○眞木葉毛《マキノハモ》――眞木は檜。葉はここでは要のない字で、檜の枝に蘿が生えたのである。○蘿生爾家里《コケムシニケリ》――蘿はサガリゴケ即ちサルヲガセである。略解に「蘿は日蔭かづら也」とあるのも誤つてゐるが、古義に、「蘿は苔なり。略解に蘿は日蔭葛なりと云るは、眞木の葉には苔の生べき理なしと思ひて、強て日かげ葛なりと云るなり。此等はかならず正しく苔の生たるをよめるには非ず。古へ凡て、年經て舊びたる物を苔生と云なれたれば、ただ苔生は舊りたるさまを云詞と心得べし」とあるのも、却つて古意を失つてゐる。サガリゴケは樹枝に生ずるものである。
〔評〕 これは曾て小爲手の山を通つたことのある人が、久しく經つてから其處を再び越えて見ると、以前若木であつた檜が、老木になつて、その枝にサガリゴケが生えてゐるのを見て、山中の樣子が著しく變つたことを詠(376)じたもので、久不見者蘿生爾家里《ヒサシクミネバコケムシニケリ》と、あつさりと言つてのけてゐるが、そこに詠嘆的の氣分も籠つてゐる。
 
1215 玉津島 よく見ていませ あをによし 平城なる人の 待ち問はばいかに
 
玉津島《タマヅシマ》 能見而伊座《ヨクミテイマセ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平城有人之《ナラナルヒトノ》 待問者如何《マチトハバイカニ》
 
玉津島ヲ能ク見テオイデナサイ。(青丹吉)平城ノ人ガ待ツテヰテ、玉津島ハドウデシタカト〔玉津〜傍線〕尋ネタラドウシマスカ。
 
○玉津島《タマヅシマ》――卷六に玉津島夜麻《タマツシマヤマ》(九一七)とあつたところに説明したやうに、和歌の浦にあつた島。今は陸地になつてゐる。○青丹吉《アヲニヨシ》――枕詞。一七參照。
〔評〕 和歌の浦あたりにゐた遊女らが、郡人に歌ひかけたやうな作である。彼の地方の民謠と考へてもよい。
 
1216 潮滿たば いかにせむとか わたつみの 神が手わたる 海人をとめども
 
鹽滿者《シホミタバ》 如何將爲跡香《イカニセムトカ》 方便海之《ワタツミノ》 神我手渡《カミガテワタル》 海部未通女等《アマヲトメドモ》
 
海人ノ少女ドモハコノ潮干ニ、遙カ遠イ沖ヘ出テヰルガ〔ハコ〜傍線〕、潮ガ滿チテ來タナラバ、ドウスルツモリデ、アンナニ遠イ〔六字傍線〕海ノ神樣ノ手モトトモイフベキ沖ヲ〔十字傍線〕通ルデアラウカ。
 
○方便海之《ワタツミノ》――集中唯一の珍らしい用字法である。代匠記精撰本に「方便海とかけること、其意を得ず。もし諸大龍王等は諸佛菩薩の善權方便なるも多ければ、其意にてかけるにや」とあるに從ふべきであらうか。○神我手渡《カミガテワタル》――この句は異説が多い。卷十六に、黄染乃屋形神之門渡《キソメノヤカタカミノトワタル》(三八八八)とあるによつて、これをこの儘でカミノトワタルとよまうとする管見の説、手を戸の誤として同樣によまうとする古義の説、更に解釋では、海神の手とした略解説。「凡て神とは何にまれいと恐惶きものを云名にて、ここは海上の波荒くて甚恐き所を云るなり」とした古義説。神の門といふ地名とする新考説など樣々である。卷六に大埼乃神之小濱者《オホサキノカミノヲバマハ》(一〇二三)とあるのを思ひ合せ、またこの前後の歌がすべて地名に關してゐることを考へると、これも同樣に見たいのであるが、神我手の文字を改めない以上は、さうは出來ないから、ここは契沖が「海神の掌中に入てたやすく取られぬべ(377)き意なり。鹽干の間に遠く出で、藻など拾ふを危く思ひやるなり」と言つたのに從ひたい。渡《ワタル》とあるのは船で海上を渡ることのやうであるが、海上では潮の滿干は問題でないから、汐千の渇を通ることと解する外はない。○海部未通女等《アマヲトメドモ》――舊訓アマノヲトメラとあるよりも、略解にアマヲトメドモとしたのがよい。
〔評〕 遠く潮干の渇に出て、魚介・海藻などを拾つてゐる海女を見て、一度に汐がさして來たならば、どうするであらうと危んだ歌であらう。海に馴れない都人らしい感じである。
 
1217 玉津島 見てしよけくも 我はなし 都に行きて 戀ひまく思へば
 
玉津島《タマツシマ》 見之善雲《ミテシヨケクモ》 吾無《ワレハナシ》 京往而《ミヤコニユキテ》 戀幕思者《コヒマクオモヘバ》
 
玉津島ノヨイ景色〔五字傍線〕ヲ見テモ、良イトハ思ハナイ。何故ナラバ〔五字傍線〕、都ヘ行ツテカラ嘸戀シカラウト思フカラ。
 
○見之善雲《ミテシヨケクモ》――シはテにつづいて、助動詞と見られぬこともないやうだが、助詞と見るのが當つてゐよう。善雲《∃ケクモ》は見たことがよいのではなくて、玉津島の景がよいのである。筑波(378)嶺乃吉久乎見者《ツクバネノヨケクヲミレバ》(一七五七)と同一に考ふべきであらう。○戀幕思者《コヒマクオモヘバ》――考にコハマクオモヘバとよんだのはわるい。舊訓のままがよい。
〔評〕 愛情が餘つて、却つて心の引かることを恐れたのである。卷十五に中臣宅守の、比等余里波伊毛曾母安之伎故非毛奈久安良末思毛能乎於毛波之米都追《ヒトヨリハイモゾモアシキコヒモナクアラマシモノヲオモハシメツツ》(三七三七)とあるのや、伊勢物語、業平の「世の中に絶えて櫻のなかりせば春のこころはのどけからまし」と同意であると、契沖は言つてゐる。前の玉津島《タマツシマ》(一二一五)の返歌のやうでもある。
 
1218 黒牛の海 くれなゐにほふ 百磯城の 大宮人し あさりすらしも
 
黒牛乃海《クロウシノウミ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人四《オホミヤビトシ》 朝入爲良霜《アサリスラシモ》
 
黒牛ノ海ガ眞赤ニナツテヰル。アレハ〔三字傍線〕(百礒城乃)大宮人ノ女官ナド〔五字傍線〕ガ魚介ノ類ノ〔五字傍線〕漁ヲスルラシイヨ。多分女官ノ装束デアンナニ海ガ赤ク見エルノダラウ〔多分〜傍線〕。
 
○黒牛乃海《クロウシノウミ》――紀伊海草郡、今の黒江町の海。玉勝間に「黒牛潟は今は黒江といひて、若山の方より熊野に物する大路にて、黒江・干潟・名高とつぎつぎに相つらなりて、三|里《サト》いづれも町づくりて、物うる家しげく立つづきにぎははしき里共なり」とある通りである。紀伊北部地圖參照。○紅丹穗經《クレナヰニホフ》――紅の色に映えて、赤々となつてゐる意。○百礒城乃《モモシキノ》――枕詞。二九參屈。○大宮人四《オホミヤビトシ》――大宮人はここでは女官をいふ。
〔評〕 天皇の行幸に從駕の女官らが、海邊で遊んでゐるのを遠く眺めて詠んだのであらう。これも亦從駕の男子の作か。卷九に、大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首の中に、黒牛潟鹽干乃浦乎紅玉緒須蘇延往者誰妻《クロウシガタシホヒノウラノクレナヰノタマモスソビキユクハタガツマ》(一六七二)とあるから、或はその時の作かも知れない。卷十七に大伴家持の、乎加未河泊久禮奈爲爾保布乎等賣良之葦附等流登湍爾多多須良之《ヲガミガハクレイヰニホフヲトメラシアシツキトルトセニタケスラシ》(四〇二一)とあるのは、この歌に傚つた跡がある。
 
1219 若の浦に 白浪立ちて 沖つ風 寒き夕べは 大和し念ほゆ
 
若浦爾《ワカノウラニ》 白浪立而《シラナミタチテ》 奧風《オキツカゼ》 寒暮者《サムキユフベハ》 山跡之所念《ヤマトシオモホユ》
 
(379)和歌ノ浦ニ白浪ガ立ツテ、沖カラ吹ク風ガ、寒イ夕方ニハ故郷ノ〔三字傍線〕大和ノ國ガ戀シク〔三字傍線〕思ハレルヨ。
 
○若浦爾《ワカノウラニ》――若浦は紀伊海草郡和歌の浦。九一參照。
〔評〕 何等斧鑿の痕なくして、一種優雅な風韻の漂つてゐる作である。卷一の葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念《アシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》(六四)と下句全く同一である。
 
1220 妹が爲 玉を拾ふと 紀の國の 由良の岬に この日暮しつ
 
爲妹《イモガタメ》 玉乎拾跡《タマヲヒリフト》 木國之《キノクニノ》 湯等乃三埼二《ユラノミサキニ》 此日鞍四通《コノヒクラシツ》
 
家ニ待ツテヰル〔七字傍線〕妻ノ土産ニ玉ヲ拾ハウト思ツテ、紀伊ノ國ノ由良ノ埼デ今日ハ一日〔三字傍線〕暮シテシマツ〔四字傍線〕タ。
 
○玉乎拾跡《タマヲヒリフト》――玉は美しい小石などを言ふのである。○湯等乃三埼二《ユラノミサキニ》――湯等乃三埼は紀伊日高郡の由良港のである。卷九に湯羅前《ユラノサキ》(一六七〇・一六七一)とある。紀伊北部地圖參照。
〔評〕 平板な作で、下の妹爲管實探行吾山路惑此日暮《イモカタメスガノミトリニユクワレハヤマヂマドヒテコノヒクラシツ》(一二五〇)と多くの類似點を持つ歌である。
 
1221 吾が舟の 楫はな引きそ 大和より 戀ひ來し心 いまだ飽かなくに
 
吾舟乃《ワガフネノ》 梶者莫引《カヂハナヒキソ》 自山跡《ヤマトヨリ》 戀來之心《コヒコシココロ》 未飽九二《イマダアカナクニ》
 
大和カラ此處ノ景色ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ツテ來タ心ガ、未ダ充分ニ〔三字傍線〕飽キ足ラナイノニ、私ノ乘ツテヰル〔五字傍線〕舟ノ楫ヲ引イテ舟ヲ進メル〔六字傍線〕ナヨ。モツト見タイモノダ〔九字傍線〕。
 
○梶者莫引《カヂハナヒキソ》――梶は楫。楫を引くとは、楫を動かして、舟を漕ぐこと。行船乃梶引折而《ユクフネノカヂヒキヲリテ》(二二〇)・安佐奈藝爾可治比伎能保里《アサナギニカヂヒキノボリ》(四三六〇)などともある。
〔評〕 紀伊の海岸づたひに漕いでゐる時の作で、平明な作。
 
1222 玉津島 見れども飽かず いかにして つつみ持ち行かむ 見ぬ人の爲
 
玉津島《タマヅシマ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 何爲而《イカニシテ》 ※[果/衣のなべぶたなし]持將去《ツツミモチユカム》 不見人之爲《ミヌヒトノタメ》
 
玉津島ハ見テモ見飽カナイヨイ景色ダ〔五字傍線〕。ドウシテコノ島ヲ未ダ〔六字傍線〕見ナイ人ノ爲ニ包ンデ行カウカ。ドウカサウ出(380)來レバヨイガ〔ドウ〜傍線〕。
 
※[果/衣のなべぶたなし]持將去《ツツミモチユカム》――家苞として、包んで行かうといふのである。
〔評〕 古今集の「をくろ埼みつの小島の人ならば都のつとにいざといはましをと似たところもあるが、この方が小供らしく、天眞爛漫でよい。元暦校本の順序によれば、この歌から木國之《キノクニノ》(一一九四)に連續するので、即ち黒牛乃海《クロウシノウミ》からこの玉津島《タマツシマ》までの五首は藤原卿の作である。
 
1223 わたの底 沖漕ぐ舟を 邊に寄せむ 風も吹かぬか 波立たずして
 
綿之底《ワタノソコ》 奧己具舟乎《オキコグフネヲ》 於邊將因《ヘニヨセム》 風毛吹額《カゼモフカヌカ》 波不立而《ナミタタズシテ》
 
(綿之底)岸ノ景色ガヨイカラ〔岸ノ〜傍線〕、沖ヲ漕イデヰル私ノ乘ツテヰルコノ〔九字傍線〕船ヲ岸ノ方ヘ吹キヨセル風ガ吹カナイカヨ。但シ〔二字傍線〕波ガ立タナイデ風ダケ吹イテクレ〔八字傍線〕。
 
○綿之底《ワタノソコ》――枕詞。奧《オキ》とつづく。海底の奥深き意でつづくのである。八七參照。○奥己具舟乎《オキコグフネヲ》――沖を漕ぐ吾が舟をの意。○於邊將因《ヘニヨセム》――海岸に吹き寄せる風と下へ續いてゐる。この句で切つてはいけない。於邊の書き方が漢文式になつてゐる。○風毛吹額《カゼモフカヌカ》――風も吹かぬかよ。吹けかしの意。○波不立而《ナミタタズシテ》――ナミタテズシテと訓む説は、四句の風を主格として一貫させようといふのであらうが、必ずしもさうする必要はなく、それは却つて調子を害ふから、舊訓のままとして置く。
〔評〕 沖を航行しつつ、海岸の好景を戀しく思ふ歌であるが、沖行く舟中の淋しさもあるやうである。下句は、卷十の年丹装吾舟榜天河風者吹友浪立勿忌《トシニヨソフワガフネコガムアマノガハカゼハフクトモナミタツナユメ》(二〇五八)の下句と意は同じてある。
 
1224 大葉山 霞たなびき さ夜ふけて 吾が船泊てむ 泊知らずも
 
大葉山《オオバヤマ》 霞蒙《カスミタナビキ》 狹夜深而《サヨフケテ》 吾船將泊《ワガフネハテム》 停不知文《トマリシラズモ》
 
大葉山ニハ霞ガ棚引イテ、何トナク淋シク〔七字傍線〕夜ガ更ケタノニ、私ノ船ガトマル泊ハ、何處ダカワカラナイヨ。アア淋シイ〔五字傍線〕。
 
(381)○大葉山《オホバヤマ》――所在不明。八雲御抄に紀伊とあり、この前後に紀伊の歌が多いからこれも紀伊か。然らば今、海草都と那賀郡との境界で、和歌の浦の東方に當つて大旗山があるが、或はそれか。卷九に母山(一七三二)とあるのは、祖母山の字が脱ちたので、同じくオホば山であらうと宣長は言つてゐる。○霞蒙《カスミタナビキ》――舊訓カスミタナビキとあるのを、新訓カスミカガフリと改めてゐる。蒙の字はモの假名に用ゐた外に、ここに似た例としては雲莫蒙《クモナタナビキ》(一二四四)・朝霞蒙山乎《アサガスミタナビクヤマヲ》(三一八八)などがあつて、タナビクと訓むのを常としてゐる。これらをカカフリとしても意をなさないことはないけれども、クモナカガフリは變な用語であり、殊に霞カガフリは全く用例がないであらうから、舊訓のままにタナビクが穩かである。
 
〔評〕 照月遠雲莫隱島陰爾吾船將極留不知毛《テルツキヲクモナカクシソシマカゲニワガフネハテムトマリシラズモ》(一七一九)に似て、ともにあはれな作である。なほ卷九の母山霞棚引左夜深而吾舟得泊等萬里不知母《オホバヤマカスミタナビキサヨフケテワガフネハテムトマリシラズモ》(一七三二)は全く同一の歌である。
 
1225 さ夜ふけて 夜中の潟に おほほしく 呼びし舟人 泊てにけむかも
 
狹夜深而《サヨフケテ》 夜中乃方爾《ヨナカノカタニ》 欝之苦《オホホシク》 呼之舟人《ヨビシフナビト》 泊兼鴨《ハテニケムカモ》
 
夜ガ更ケテ、夜中ノ海ノ中デ、不安ナ聲デ呼ンデヰタ舟人ハ、港ニツイタカシラ。
 
○夜中乃方爾《ヨナカノカタニ》――夜中の潟に。夜半の海中にの意であらう。夜中《ヨナカ》は卷九高島作歌の客在者三更刺而照月高島山隱惜毛《タビナレバヨナカヲサシテテルツキノタカシマヤマニカクラクヲシモ》(一六九一)とあるのよつて、近江高島郡の地名となす説もあるが、同地方にその地名を聞かないから、從ひ疑い。宣長が度中《トナカ》の誤として海上の意に見たのもよくない。○欝之苦《オホホシク》――舟人の聲を聞いて、不安な感を惹したことで、聲そのものが不明瞭な、はつきりしないことを言つたのではあるまい。
〔評〕 海邊に旅寢して、夢も結び難い夜中に、泊を求めるらしい水夫の聲が、海上にけたたましく聞えるので、その舟を思ひやつてゐると、暫くしてその聲も止んで、海上はもとの靜けさに歸つたので、その碇泊し終つたことを想像して意を安じたものである、かなり複雜した内容が、整然と鮮明に詠まれて、舟人に對する同情と、自己の心情の動搖から沈靜への經路が、巧にあらはれてゐる。
 
1226 みわの埼 荒磯も見えず 浪立ちぬ いづくゆ行かむ 避き路はなしに
 
(382)神前《ミワノサキ》 荒石毛不所見《アリソモミエズ》 浪立奴《ナミタチヌ》 從何處將行《イヅクユユカム》 與寄道者無荷《ヨキヂハナシニ》
 
三輪ノ埼ハ、荒磯モ見エナイホド高ク浪ガ立ツタ。舟ヲツケテコノ荒波ヲ〔十字傍線〕ヨケル道ハナイノニ、一體〔二字傍線〕何處ヲ通ツテ行クベキダラウ。困ツタコトダ〔六字傍線〕。
 
○神前《ミワノサキ》――卷三に神之埼狹野乃渡爾《ミワガサキサヌノワタリニ》(二六五)とあつたところであらう。然らば紀伊熊野浦に面してゐる、古義には、カミノサキとよんでゐる。○與奇道者無荷《ヨキヂハナシニ》――與奇《ヨキ》は避けること。キを濁つてはいけない。
〔評〕 磯に打寄せては萬斛の雪と碎ける大波の態が、上句に鮮明によまれてゐる。そこで下句の困惑の情が、なるほどと人をうなづかしめるやうになつてゐる。集中には比較的尠い三句切の形にはなつてゐるが、後世ぶりの繊弱に墮してゐないのが嬉しい。佳作を以てゆるすべきであらう。
 
1227 磯に立ち 沖べを見れば 海藻苅舟 海人こぎ出らし 鴨翔る見ゆ
 
礒立《イソニタチ》 奥邊乎見者《オキベヲミレバ》 海藻苅舟《メカリブネ》 海人※[手偏+旁]出良之《アマコギヅラシ》 鴨翔所見《カモモケルミユ》
 
海岸ニ立ツテ沖ノ方ヲ見ルト、海藻ヲ刈ル舟ニ乘ツテ〔四字傍線〕海人ガ榜ギ出ルノダラウ。舟ニ恐レテ〔五字傍線〕鴨ガ飛ンデヰルノガ見エル。
 
○海藻苅舟《メカリブネ》――海に出て、若海布などの海藻を苅る舟。
〔評〕 前に藻苅舟奧榜來良之妹之島形見之浦爾鶴翔所見《モカリフネオキコギクラシイモガシマカタミノウラニツルカケルミユ》(一一九九)とあつたのに似てゐる。これは出舟、彼は入舟、これは鴨、彼は鶴の差はあるが、共によい叙景歌である。
 
1228 風早の 三穗の浦みを こぐ舟の 船人とよむ 波立つらしも
 
風早之《カザハヤノ》 三穂乃浦廻乎《ミホノウラミヲ》 ※[手偏+旁]舟之《コグフネノ》 船人動《フナビトトヨム》 浪立良下《ナミタツラシモ》
 
風早ノ三穂ノ浦ノ岸ヲ漕グ舟ノ、船人ガ騷イデヰル。アレデ見ルト〔六字傍線〕浪ガ荒ク〔二字傍線〕立ツテヰルラシイヨ。
 
○風早乃三穗乃浦廻乎《カザハヤノミホノウラミヲ》――卷三に加麻※[白+番]夜能美保乃浦廻之白管仕《カザハヤノミホノウラミノシラツツジ》(四三四)とあるところで、紀伊日高郡に今、三尾(383)と稱する地が即ち其處である。四三四參照。○船人動《フナビトトヨム》――動は舊訓サワグとあるが、阿遲村動《アヂムラトヨミ》(二六〇)・立動良之《タチトヨムラシ》(三八八)・動而曾鳴《トヨミテゾナク》(五七〇)の例に傚つて、トヨムと訓まう。
〔評〕 旅宿にあつて、海上の騷音を聽いて、推測したところを有りの儘に述べてある。理窟ぽい推理ではなくて、聽覺から大自然の情景の推移を直感したので、そこに躍動・緊張・明朗といふやうな氣分が、こぐらかつてゐる。佳作。卷十四の東歌に、可豆思加乃麻萬能宇良末乎許具布禰能布奈妣等佐和久奈美多都良思母《カヅシカノママノウラミヲコグフネノフナビトサワグナミタツラシモ》(三三四九)と殆ど同一の作なのは如何なる理由であらうか。
 
1229 吾が舟は 明石の湊に 漕ぎ泊てむ 沖へなさかり さ夜ふけにけり
 
吾舟者《ワガフネハ》 明且石之湖爾《アカシノミナトニ》 ※[手偏+旁]泊牟《コギハテム》 奥方莫放《オキヘナサカリ》 狹夜深去來《サヨフケニケリ》
 
私ノ舟ハ明石ノ湊デ今夜ハ〔三字傍線〕泊ラウト思フ。沖ヘ遠ク〔二字傍線〕ハナレルヨ。夜モ大ブン更ケタヨ。
 
○明且石之湖爾《アカシノミナトニ》――元暦校本に且の字が無いのがよいのであらう。且は旦と紛れ易く、且は、且今日旦今日《ケフケフト》(一七六五)・且今且今《イマカイマカト》(二三二三)のやうに添へて用ゐた場合もあり、また旦明《アサケ》(一九四九)などに見るも、明旦と連ねてアカと訓まれぬ文字ではないやうであるから、必ずしも衍とはなし難い。潮は舊訓ハマとあるのを、考は滷の誤としてカタ訓じ、宣長は浦の誤としてウラとよんでゐるが、潮は元暦校本その他の古寫本に湖に作つてゐる。さうしてその場合は集中、枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》(二七四)・湖風《ミナトカゼ》(三五二)・湖者八十《ミナトハヤソヂ》(一一六九)などミナトと訓む例が多いから、ここもさうよむべきである。
〔評〕 この歌は卷三の高市連黒人※[覊の馬が奇]旅歌八首の内の吾船者枚乃湖爾榜將泊奥部莫避左夜深去來《ワガフネハヒラノミナトニコギハテムオキヘナサカリサヨフケニケリ》(二七四)と同じもので、唯地名が異なつてゐるのみである。黒人の作が、所を異にして傳へられたものであらう。
 
1230 ちはやふる 金の岬を 過ぎぬとも 我は忘れじ 志珂の皇神
 
千磐破《チハヤブル》 金之三崎乎《カネノミサキヲ》 過鞆《スギヌトモ》 吾者不忘《ワレハワスレジ》 牡鹿之須賣神《シカノスメガミ》
 
波ノ荒イ〔四字傍線〕恐ロシイ鐘ノ岬ヲ通リ過ギテ、故郷カラ遠クナツ〔テ故〜傍線〕テモ、私ハ故郷ノ〔三字傍線〕志珂ノ神樣ヲ忘レハスマイ。イツ(384)マデモ志珂ノ神ニ祈ツテ旅ヲ續ケヨウト思フ〔イツ〜傍線〕。
 
○千磐破《チハヤフル》――神の枕詞として常に用ゐられるが、ここはさうではなく、恐ろしい荒ぶる意であるから、波の荒いことを言つたのであらう。○金之三崎乎《カネノミサキヲ》――金之三崎は即ち鐘の岬で、筑前宗像郡の北端、海中に突出した圓形の孤山で樹木が繁つてゐる。續妃、稱徳天皇神護景雲元年の條に、「八月辛己、筑前國宗形郡大領外從六位下宗形朝臣深津(ニ)授2外從五位下、其妻無位竹生(ノ)王(ニ)從五位下1、並以d被2僧壽應(ニ)誘1、造c金埼船瀬u也」とあるから、航行の難所であつたのである。○牡鹿之須賣神《シカノスメガミ》――筑前糟屋郡志珂島に祀つてある神。今、志賀海《シカワタ》神社といふ。綿積の三神を祀る。舊事紀には「少童《ワタツミ》三神者阿曇連等齋祀、筑紫|斯香《シカ》神」とある、須賣《スメ》神はここでは、ただ神のこと。
〔評〕 志珂島から出て、東方に航するものが鐘の岬に到らぬ船の中で詠んだのであらう、玄界に面した荒波を冒して進む不安と、海神たる志珂の神に對する深い信仰があらほれてゐる。
 
1231 天ぎらひ 日方吹くらし 水莖の 岡の水門に 波立ちわたる
 
天霧相《アマギラヒ》 日方吹羅之《ヒカタフクラシ》 水莖之《ミヅグキノ》 崗水門爾《ヲカノミナトニ》 波立渡《ナミタチワタル》
 
空ガカキ曇ッテ、西南ノ風ガ吹クラシイ。(水莖之)崗ノ港デ浪ガ荒ク〔二字傍線〕一面ニ立ツテヰル。
 
(385)○天霧相《アマギラヒ》――卷六に天霧合《アマギラフ》(一〇五三)とあつたのと同じく、空の曇ること。ここは風の爲に海上に霧のかかるのを言つたのである。○日方吹羅之《ヒカタフクラシ》――日方は西南の風。袖中抄に「顯昭云、ひかたは坤風也」とある通りである。古義に「今土佐人は六月の頃、日中に南風の吹を、日方吹と云り」とある。○水莖之《ミヅクキノ》――枕詞。みづみづしき莖の稚《ワカ》の意で、崗《ヲカ》にかかるのだと宣長は言つてゐる。九六八參照。一説に水莖岡を近江蒲生郡の岡とし、又一説に水莖は仲哀紀に洞《クキ》海又單に洞《クキ》とあり、風土記に岫門《クキト》とあるから、クキは筑前遠賀郡崗地方の古名であつたのだといふ。併し地名説は今、殆ど顧みられない。○崗水門爾《ヲカノミナトニ》――崗は即ち今の遠賀郡の地で、崗水門は即ち遠賀川の河口なる、今の芦屋であを。風土記に「塢※[舟+可]縣之東側、近有2大江口1、名曰2塢※[舟+可]水門1、堪2v容大船1焉」とあるが、今は水が淺くなつて、大船を容れることは出來ない。この地は神武天皇東征の際の御滯在地であり、仲哀天皇西征の際に、船を止め給うたところで、上代の要津であつた。
〔評〕 沖には潮煙、岸には白波、※[火+爰]い強風が吹き荒んでゐる動的な場面が、遺憾なく歌はれた叙景詩の上乘。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1232 大海の 波はかしこし 然れども 神をいはひて 船出せばいかに
 
大海之《オホウミノ》 波者畏《ナミハカシコシ》 然有十方《シカレドモ》 神乎齊禮而《カミヲイハヒテ》 船出爲者如何《フナデセバイカニ》
 
大海ノ波ガ荒レテ〔三字傍線〕恐ロシイ。然シナガラ神樣ヲオ祀リシテ、船出ヲシタラドウダラウ。心配ハアルマイ〔七字傍線〕。
 
○神乎齊禮而《カミヲイハヒテ》――齊は齋に通じて用ゐたもの。齊禮の二字で神を禮拜祭祀の意としてゐる。舊訓タムケテとあるのを、考にイハヒテと訓んだのに從つた。神に手向けてといふべきで、神を手向けてでは語をなさないからである。考には又マツリテともある。
〔評〕 船頭などに言ひかける趣に詠んでゐる。その變つた調子が面白い。
 
1233 をとめらが 織る機の上を 眞櫛もち かかげ栲島 波の間ゆ見ゆ
 
未通女等之《ヲトメラガ》 織機上乎《オルハタノヘヲ》 眞櫛用《マグシモチ》 掻上栲島《カカゲタクシマ》 波間從所見《ナミノマユミユ》
 
(未通女等之織機上乎眞櫛用掻上)栲島ガ彼方ニ〔三字傍線〕浪ノ間カラ見エル。ヨイ景色ダ〔五字傍線〕。
 
(386)○未通女等之織機上乎眞櫛用掻上《ヲトメラガオルハタノヘヲマグシモチカカゲ》――序詞。少女等が織る機の上を糸の亂れぬやうに、櫛を以て掻き上げて、取り束ねるの意で栲島につづけてゐる。眞櫛《マグシ》のマは接頭語で、意味はない。○掻上栲島《カカゲタクシマ》――掻上は上に述べた通り、掻き上げの約。タクは髪などを掻き上げ束ねること。ここは機糸に用ゐてある。栲島は和名抄に出雲國島根郡多久とある地となす説が多い。出雲風土記島根郡の條に、※[虫+居]※[虫+者]《タコ》島、島周一十八里一百歩、高三丈、古老傳云、出雪郡杵築御埼(ニ)有2※[虫+居]※[虫+者]1、天羽々鷲《アメノハバワシ》掠持飛燕來止2于此島1、故云2※[虫+居]※[虫+者]1今人猶誤|栲《タク》島號耳。(中略)去v陸三里。とあり、後藤藏四郎氏の出雲風土記考證には、ここに註して「今の大根島である。大根烏から今よい大根を産出する。又牡丹の名所ともなつた。中海には小さい蛸が多い。大海崎から大根島の入江まで十八町ある」と述べてゐる。恐らくここであらう。大根島は中の海の中央にある、かなりな島である。大日本地名辭書によれば、肥前北松浦郡平戸島の屬島に度《タク》島があつて、平戸島の北端鍔崎の北二海里の海上に横はつてゐる。この地點は集中にあらはれた、旅行通路を離れてゐるから、恐らくこの度島ではあるまい。
〔評〕 序詞の上に工夫を集注した作である。さうしてそれが、實に巧妙に無理がなく、しかも奇拔に出來てゐる。當時の人々に喝采を博したところであらう。
 
1234 潮早み 磯みに居れば あさりする 海人とや見らむ 旅行く我を
 
鹽早三《シホハヤミ》 礒回荷居者《イソミニヲレバ》 入潮爲《アサリスル》 海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》 多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》
 
汐ガ早イノデ漕イデ出ラレナイ〔八字傍線〕デ、磯ノ岸ニ居ルト、私ハ〔二字傍線〕旅ニ行ク旅人ダノニ、漁ヲスル海人ト人ガ〔二字傍線〕見テ思フダラウ。
 
○人潮爲《アサリスル》――入潮はカヅキの訓も古くから行はれてゐるが、アサリでよいであらう 但し宣長がこれを、朝入の誤としたのに從ふのではない。このままでさう訓むのである。
〔評〕 前の荒栲藤江之浦爾《アラタヘノフヂエノウラニ》(二五三)・網引爲海子哉見《アビキスルアマトヤミラム》(一一八七)・濱清美礒爾吾居者(一二〇四)などと同想同型の歌で、これらに比して格別面白いこともない。
 
1235 波高し いかに楫取 水鳥の 浮寢やすべき なほや漕ぐべき
 
(387)浪高之《ナミタカシ》 奈何梶取《イカニカヂトリ》 水鳥之《ミヅトリノ》 浮宿也應爲《ウキネヤスベキ》 猶哉可※[手偏+旁]《ナホヤコグベキ》
 
浪ガ高イヨ。ドウダ船頭。舟ヲ止メテ今夜ハ〔八字傍線〕(水鳥之)水ノ上ニ浮イテ舟ノ中デ〔四字傍線〕寢ヨウカ。ソレトモ〔四字傍線〕、モツトカマハズニ〔五字傍線〕漕ガウカ。ドウシタモノダラウ〔九字傍線〕。
 
○水鳥之《ミヅトリノ》――枕詞。水島は水上に浮んで寢るから浮宿につづけてある。ここは譬喩とも考へられないことはないが、なほ通常の説に從つて枕詞として置かう。
〔評〕 第一句第二句第四句の三箇所に切目を作つて、船頭相手に問ひ詰めるやうな語調が、實に明快に、力強く出來てゐる、その上トリの音が第二句と第三句とに繰返され、第四句と第五句とがベキで終つてゐるのも面白い調をなしてゐるが、更に又全體として、第三句以外の四句が總べて、イの韻を押んでゐるのは、故意か、偶然か。ともかく一種微妙なる聲調の諧ひに、三唱措く能はざる佳作である。これは和歌童蒙抄に載せてある。
 
1236 夢のみに 繼ぎて見えつつ たか島の 磯越す波の しくしく念ほゆ
 
夢耳《イメノミニ》 繼而所見小《ツギテミエツツ》 竹島之《タカシマノ》 越礒波之《イソコスナミノ》 敷布所念《シクシクオモホユ》
 
家ノコトガ〔五字傍線〕夢ニバカリツヅイテ見エテ、(竹島之越礒波之)頻リニ家ガ〔二字傍線〕思ハレル。
 
○繼而所見小《ツギテミエツツ》――舊訓ツギテミユレバとして、次の句をササジマノと詠んでゐる。併し所見をミユレバとよむのは少し無理であり、ササジマの地名も明らかでないから、卷九の曉之夢所見乍梶島乃石越浪乃敷弖志所念《アカトキノイメニミエツツカヂシマノイソコスナミノシキテシオモホユ》(一七二九)に傚つて小は乍の誤としてこの句に入れ、ミエツツと訓まうと思ふ。○竹島之《タカシマノ》――舊訓小竹島之《ササジマノ》とあり、八雲御抄に、ささ島は石見とあるが、果してどうであらう。和名抄に隱岐海部郡佐作郷とあるから、そこの海かと略解に疑つてゐるが、これもさうらしくない。宣長は小を八の誤として前句につづけ、ツギテミユレバタカシマノとあるべきだと言つてゐる。下の歌に竹島乃《タカシマノ》(一二三八)として出て來るから、竹島説は當つてゐると思はれる。ここはそれに從ふことにする。なほ小竹の二字は、小竹之葉者《ササノハハ》(一三三)・小竹葉爾《ササノハニ》(二三三七)などササと訓んであるが、また、懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》(六)・小竹爾不有九二《シヌニアラナクニ》(一三四九)などシヌとよむべきも多いから、或はこれもシヌジマか。(388)併しその所在も明らかでないから、さうは訓まないことにする。この句は次の越磯波之《イソコスナミノ》と共に、第五句に冠して、敷布《シクシク》と言はむ爲の序詞である。○越礒波之《イソコスナミノ》――越礒が漢文式倒置法になつてゐる。
〔評〕 旅人が竹島の磯越す浪を見て、これを序詞に用ゐて、家を思ふ心を述べたのである。思慕の情の切なるをシクシクオモホユと言つたのは、他にも例があつて、類型的になつてゐるが、これらは古歌集出の歌であるから、そのうちの比較的古いものか。右の語釋の部にあげた卷九の曉之夢所見乍《アカトキノイメニミエツツ》(一七二九)の歌は、宇合卿歌三首中の一で、この歌に酷以してゐる。恐らく宇合がこれを學んだのであらう。
 
1237 靜けくも 岸には波は 寄せけるか これの屋通し 聞きつつ居れば
 
靜母《シヅケクモ》 岸者波者《キシニハナミハ》 縁家留香《ヨセケルカ》 此屋通《コレノヤトホシ》 聞乍居者《キキツツヲレバ》
 
コノ家ニ居ナガラ〔八字傍線〕、家ノ中ヲ通シテ聞イテヰルト、ソロソロト〔五字傍線〕靜カニ、岸ニ波ガ、寄セテ來ル音ガスルヨ〔五字傍線〕。
 
○縁家留香《ヨセケルカ》――舊訓ヨリケルカとあるのでもよいが、古義に從つて、ヨセケルカと訓まう。カはカナの意。○此屋通《コレノヤトホシ》――考にコノイヘトホシとあるけれども、集中、屋はすべてヤとのみ訓んであるから、イヘは面白くない。此は此也是能《コレヤコノ》(三五)・宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》(三二七)など、コレと訓んだ例があるから、コレノヤトホシがよからう。この句は、この家の中を通しての意で、屋内に居ながらにして、濤聲の聞えることである。
〔評〕 屋内にあつて、濤聲に耳を傾けて聞き入る人の、靜寂な境地があらはれてゐる。此屋通《コレノヤトホシ》の一句は、作者の位置を明瞭にあらはし得て妙である。
 
1238 高島の 阿渡白波は とよめども 我は家思ふ 廬悲しみ
 
竹島乃《タカシマノ》 阿戸白波者《アトシラナミハ》 動友《トヨメドモ》 吾家思《ワレハイヘオモフ》 五百入※[金+施の旁]染《イホリカナシミ》
 
竹島ノ安曇ノ白波ノ音ハ騷ガシク聞エテ淋シイ〔四字傍線〕ガ、私ハ旅ノ〔二字傍線〕假廬ノ宿〔二字傍線〕ガ悲シイノデ、家ヲ戀シク〔三字傍線〕思ツテヰル。
 
○竹島乃《タカシマノ》――近江高島郡。琵琶湖西岸の北部。○阿戸白波者《アトシラナミハ》――阿戸《アト》は安曇《アド》で、其處に安曇川が流れ、足速《アト》の水門《ミナト》がある、この句は舊訓にアトカハナミハとあるのは、卷九のに傚つて白を河の誤と見たのであらうが、文(389)字通りによむ方がよいであらう。併し意は、安曇川の白波と解するがよい。○五百入※[金+施の旁]染《イホリカナシミ》――廬悲しみで、これは戯書に近い用字法になつてゐる。
〔評〕卷九の高島之阿渡川波者驟鞆吾者家思宿加奈之彌《タカシマノアドカハナミハサワゲドモワレハイヘオモフヤドリカナシミ》(一六九〇)と、同歌と言つてもよいほど酷似してゐる。原作はどちらであるか分らないが、それを少し謠ひ更へてかうなつたのである。柿本人麿の、小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《ササノハハミヤマモサヤニサヤゲドモワレハイモオモフワカレキヌレバ》(一三三)に似たところもある。
 
1239 大海の 磯もとゆすり 立つ波の 寄らむと思へる 濱のさやけく
 
大海之《オホウミノ》 礒本由須理《イソモトユスリ》 立波之《タツナミノ》 將依念有《ヨラムトモヘル》 濱之淨奚久《ハマノサヤケク》
 
私ガ舟ヲ〔四字傍線〕(大海之礒本由須理立波之)寄セヨウト思ツテヰル濱ノ景色ノヨイコトヨ。
〔評〕 前に大海之水底豐三立浪之將依思有磯之清左《オホウミノミナソコトヨミタツナミノヨラムトモヘルイソノサヤケサ》(一二〇一)とあるのと殆ど同一で、この歌では磯と濱と二つになつてゐるだけ、用語が洗煉せられてゐないやうにも思はれる。
 
1240 珠くしげ みもろと山を 行きしかば 面白くして いにしへ念ほゆ
 
珠※[しんにょう+更]《タマクシゲ》 見諸戸山矣《ミモロトヤマヲ》 行之鹿齒《ユキシカバ》 面白四手《オモシロクシテ》 古昔所念《イニシヘオモホユ》
 
(珠※[しんにょう+更])見諸戸山ヲ行ツタトコロガ、山ノ景色ガ〔五字傍線〕面白イノデ、昔ノ御代ノ〔三字傍線〕コトマデモ思ヒ出サレタ。
 
○珠※[しんにょう+更]《タマクシゲ》――枕詞。身とつづく、玉櫛笥の身《ミ》の意である。蓋《フタ》につづくこともある。○見諸戸山矣《ミモロトヤマヲ》――見諸戸山は御室處《ミムロト》山の義で、即ち三輪山のことである。備中説・山城説ともによくない。玉匣三室戸山乃《タマクシゲミムロトヤマノ》(九四)參照。
〔評〕 古い傳説に富んだ三輪山に對して、古を偲んだ作である。歌はあまりに平叙的で感興に乏しい。
 
1241 ぬば玉の 黒髪山を 朝越えて 山下露に ぬれにけるかも
 
黒玉之《ヌバタマノ》 玄髪山乎《クロカミヤマヲ》 朝越而《アサコエテ》 山下露爾《ヤマシタツユニ》 沾來鴨《ヌレニケルカモ》
 
(黒玉之)黒髪山ヲ私ハ〔二字傍線〕朝越シテ、山ノ木ノ〔三字傍線〕下露ニ濡レタワイ。アアツライ山路ダ〔八字傍線〕。
 
(390)○黒玉之《ヌバタマノ》――枕詞。黒とつづく、八九參照。○玄髪山乎《クロカミヤマヲ》――この玄髪山を下野日光山とするは採るに足らぬ。備中阿貿郡(今、哲多郡と合して阿哲郡といふ)にも黒髪山があり、大日本地名辭書もその條にこの歌を記してゐるが、恐らく誤であらう。この玄髪山は奈良市の北方、佐保山の一部をなして、今なほ黒髪山の名を存してゐる山であらう。この山に關して奈良文化第五號に、辰巳利文氏が委しく述べられてゐるところに從ひたいと思ふ。卷十一にも烏玉玄髪山《ヌバタマノクロカミヤマノ》(二四五六)とある。
〔評〕 露に濡れそぼつた、朝の山路のわびしさを、極めて率直にあはれげに歌つてゐる。
 
1242 足引の 山行き暮し 宿借らば 妹立ち待ちて 宿借さむかも
 
足引之《アシビキノ》 山行暮《ヤマユキクラシ》 宿借者《ヤドカラバ》 妹立待而《イモタチマチテ》 宿將借鴨《ヤドカサムカモ》
 
(足引之)山ヲ歩イテ日ガ暮レテ、宿ヲ借リタナラバ、女ガ入口ニ〔三字傍線〕立ツテ待ツテヰテ、宿ヲ貸スダラウカナア。
 
○足引之《アシビキノ》――枕詞。山とつづく。一〇七參照。(391)○妹立待而《イモタチマチテ》――妹は女を親んでいふ語で、ここでは遊女である。これを家に殘した妻とし、又は單に美女とする説もあるが、さうではない。
〔評〕 山行き暮す旅人が、今宵の宿に於ける遊女の歡待を心に描きつつ、重い足を引きずつて行くところである。集中、遊行女婦その他遊女と思はれるものが頗る多い。如何なる山間にもゐたことは、平安朝のものながら、かの更科日記に、箱根山中に於ける遊女の状態が記されてゐるのでも推測される。
 
1243 見渡せば 近き里みを たもとほり 今ぞ吾が來し ひれ振りし野に
 
視渡者《ミワタセバ》 近里廻乎《チカキサトミヲ》 田本欲《タモトホリ》 今衣吾來《イマゾワガコシ》 禮巾振之野爾《ヒレフリシヌニ》
 
自分ノ里ヘ歸ラウトテ〔自分〜傍線〕、見渡ストスグ目ノ前ニ〔六字傍線〕近ク見エル里ダノニ、此處マデ來ルノニ〔八字傍線〕、迂回シテ、今ヤツトノコトデ、出立ノトキニ妻ガ別レヲ惜シンデ〔ヤツ〜傍線〕領巾ヲ振ツタ野マデ私ハ歸ツテ來タ。漸ク家ニ近クナツテ嬉シイ〔漸ク〜傍線〕。
 
○近里廻乎《チカキサトミヲ》――里廻《サトミ》は里のあたり。乎《ヲ》はなるものをの意。一二の句は見渡すと近く見えるが、道が迂廻してゐて遠いので右る。○田本欲《タモトホリ》――タは接頭語。モトホルは迂廻して行くこと。○禮巾振之野爾《ヒレフリシヌニ》――舊訓、禮を上につづけてイマゾワガクレとし、巾をヒレとよんでゐるのはわるい。禮巾の熟字がないので、略解に禮を領の誤としてゐるが、領巾はもと、婦人が儀禮的に懸けたものであるから、禮巾と書かぬとも言はれない。このままでヒレと訓むべきである。この句は旅に出かけた時に、妻が別離を悲しんで野に出て、領巾を振つたことを思ひ起してゐるのである。今、わが歸りに先立ちて、妻が領巾を振つて迎へるやうに見る説もあるが、さらば領巾振れる野にとあるべく、又迎への歌としては、その他にも無理があるやうであるから、さうは見ないことにする。
〔評〕 多くの内容を小さい詩形の中に、ぎつしりと詰め込んだやうに思はれる。併し窮窟な感のないのが、作者の手腕のあるところであらう。
 
1244 をとめらが はなりの髪を 木綿の山 雲なたなびき 家のあたり見む
 
未通女等之《ヲトメラガ》 放髪乎《ハナリノカミヲ》 木綿山《ユフノヤマ》 雲莫蒙《クモナタナビキ》 家當將見《イヘノアタリミム》
 
(392)(未通女等之放髪乎)木綿ノ山ニハ雲ガ棚曳クナヨ。私ハ遠ク離レテ來タ〔九字傍線〕家ノ方ヲ見ヨウト思フカラ〔二字傍線〕。
 
○未通女等之放髪乎《ヲトメラガハナリノカミヲ》――結ふを木綿《ユフ》にかけて、下につづけた序詞。少女らがうなゐの髪を結ふ意。ハナリは散髪と書いてあるやうに、童女の間、髪を束ねずに切り下げにしてあること。それを大人になる時結ぶのである。○木綿山《ユフノヤマ》――豐後速見郡の由布山で、別府温泉の後方に聳えた鶴見嶽の背後に、雄姿をあらはしてゐる死火山で、あの邊での高山である。○雲莫蒙《クモナタナビキ》――クモナカカフリとよむのはよくない。一二二四參照。
〔評〕 旅にあるものが、その故郷の目標となる由布山を眺めて、雲のかからぬやうに希つたので、序詞が巧妙に出來てゐる。家なる若妻などを思ふ趣もあるやうで、面白い作品である。
 
1245 志珂のあまの 釣舟の綱 堪へなくに こころに念ひて 出でて來にけり
 
四可能白水郎乃《シカノアマノ》 釣船之綱《ツリフネノツナ》 不堪《タヘナクニ》 情念而《コヽロニモヒテ》 出而來家里《イデテキニケリ》
 
(四可能白水郎乃釣船之綱)堪ヘキレナイヤウニ悲シク心ニ思ツテ、私ハ別レテ〔五字傍線〕出テ來タワイ。
 
(393)○四可能白水郎乃釣船之綱《シカノアマノツリフネノツナ》――序詞。堪へとつづいてゐる。志珂の海人が釣船に用ゐる綱が、強くてよく堪へる意である。不堪にかかるものとしては解し難い。○不堪――舊訓タヘズシテとあるが、少しく下へつづきが穩やかでないから、新訓によつて訓むことにした。悲しみに堪へないでの意。古義に不勝堪《タヘガテニ》と勝の字を補つて訓んでゐる。
〔評〕 別離の悲しみを詠んでゐる。志珂の海人の釣舟の綱を材料としたのは、あの邊で作つた旅人の歌なのであらう。
 
1246 志珂のあまの 鹽燒く煙 風をいたみ 立ちはのぼらず 山に棚引く
 
之加乃白水郎之《シカノアマノ》 燒鹽煙《シホヤクケブリ》 風乎疾《カゼヲイタミ》 立者不上《タチハノボラズ》 山爾輕引《ヤマニタナビク》
 
志珂ノ島ニヰル海人ガ鹽ヲ燒ク煙ガ、風ガヒドイノデ、空高クハ立チ上ラナイデ、山ニ棚引イテヰル。
 
〔評〕 實景見るが如きよい歌である。卷三の日置少老の歌に、繩乃浦爾鹽燒火氣夕去者行過不得而山爾棚引《ナハノウラニシホヤクケブリユフサレバユキスギカネテヤマニタナビク》(三五四)はこれに傚つて、少しく及ばぬものであらう。この歌は新古今集雜中にも載せてある。
 
右件歌者古集中(ニ)出(ヅ)
 
右何首と記すのを常とするに、ここに右件歌とあるのは、最後のもののみをいふか。又藤原卿の作以下を(394)いふか明らかでない。若し後者ならば、元暦校本の順序によれば、一一九六から一二〇七までの十二首と、一二二三から一二四六までの二十四首と、合せて三十六首をさしたことになる、古集とあるのは歌の字脱かと代匠記にある。他は皆、古歌集とあるから、さうかも知れない。
 
1247 大なむち 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくしよしも
 
大穴道《オホナムチ》 少御神《スクナミカミノ》 作《ツクラシシ》 妹勢能山《イモセノヤマヲ》 見吉《ミラクシヨシモ》
 
大己貴神ト少彦名神トガ、オ作リ遊バシタ妹背山ヲ見ルト、實ニ〔二字傍線〕ヨイ景色ダ。イクラ見テモ見飽カナイ〔イク〜傍線〕。
 
○大穴道少御神《オホナムチスクナミカミノ》――大己貴神即ち大國主命と少彦名命。三五五・九六三參照。古義には穴の下、六の字脱かと言つてゐる。○妹勢能山《イモセノヤマヲ》――イモセノヤマハとも訓み得るのであるが、平城之明日香乎見樂思好裳《ナラノアスカヲミラクシヨシモ》(九九二)・聞之吾妹乎見良久志吉裳《キキシワギモヲミラクシヨシモ》(一六六〇)の例にならふことにした。なほこの歌の記載法は、僅かに十三字を用ゐてある爲に、訓法に疑點が多くて、いづれとも決しかねるものがある。第三句舊訓ツクリタルとあるが、考により、第五句は舊訓ミレハシヨシモとあるのを、代匠記精撰本によつた。
〔評〕 例の妹山背山に對して、國土經營の二神たる大國主命と少彦名命とを思ひ起したので、この山に關する神話があつたのであらう。
 
1248 吾妹子と 見つつ偲ばむ 沖つ藻の 花咲きたらば 我に告げこそ
 
吾妹子《ワギモコト》 見偲《ミツツシヌバム》 奧藻《オキツモノ》 花開花《ハナサキタラバ》 我告與《ワレニツゲコソ》
 
私ハヤサシイ藻ノ花ヲ〔私ハ〜傍線〕妻ト思ツテ〔三字傍線〕見テ慰マウト思フ。ダカラ〔三字傍線〕沖ノ藻ノ花ガ咲イタナラバ、私ニ告ゲテクレヨ。
 
○吾妹子《ワギモコト》――舊訓ワキモコガとあるが、代匠記に從つて、ワキモコトとよみ、解も亦、同書に、「藻の花のうるはしきを見て、妻に思ひよそへてなくさまむとなり」とあるのに從はう。古義に「妹と共に見つつ愛《シヌバ》むの意なり」とあるのはよくないやうだ。○奧藻《オキツモノ》――海の沖に生ずる藻ではあるまい。川池などでも沖といふ例があるから、これは池などの藻の花であらう。奥幣往邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒《オキヘユキヘニユキイマヤイモガタメワガスナドレルモフシツカフナ》(九九五)とあるのは、その證とするに足る。○我告與《ワレニツゲコソ》――與は乞の誤と考にあるが、與をコソとよませたのは、遊飲與《アソビノミコソ》(九九五)・爾保比與《ニホヒコソ》(一九六五)・速(395)告與《ハヤクツゲコソ》(二〇〇八)などその例が多いから誤ではない。
〔評〕 旅中妹を思うて、可憐な藻の花に想を走せ、せめてそれを見て心を慰めようと言ふのである。上代人でなくては考へられさうもない詩想である。
 
1249 君がため 浮沼の池の 菱つむと 吾がしめし袖 ぬれにたるかも
 
君爲《キミガタメ》 浮沼池《ウキヌノイケノ》 菱採《ヒシツムト》 我染袖《ワガシメシソデ》 沾在哉《ヌレニタルカモ》
 
アナタニアゲル爲ニ、浮沼ノ池ノ菱ヲ採ラウト思ツテ、私ノ染メタ着物ノ袖ガ濡レマシタワイ。コノ菱ハ辛苦シテ採林ツタモノデス〔コノ〜傍線〕。
 
○浮沼池《ウキヌノイケノ》――大日本地名辭書、石見、三瓶山の條に、「且野史の傳ふる所によれば、人皇四十代天武天皇の御宇白鳳十三年、地大に霞ひ峰巒分れて三となる。即今の男三瓶女三瓶孫三瓶なり。時に一大池沼を生ず。之を浮沼の池といふ。後改めて浮布の池と云ふと、八重葎云、三瓶山一名形見山と云ひ、半腹に浮布の池ありて菖蒲多し。此池は歌枕に浮沼と云へり」とあるが、果してこの池をさしたのであらうか。八雲御抄に石見とあるに一致してゐるが、恐らく蓴《ヌナハ》・菱などのやうな水草の浮んである沼を、かう呼んだのではあるまいか。宣長はウキは泥のことだと言つてゐる。なほ考ふべきである。○菱採《ヒシツムト》――採はトルともツムとも訓んである。ここはツムがよいか。○我染袖《ワガシメシソデ》――古義に袖を衣の誤として、ワガシメゴロモとよんだのは、要なき改竄であらう。
 〔評〕 田舍少女らしい歌である。爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《キミガタメヤマダノサハニヱグツムトユキゲノミヅニモノスソヌレヌ》(一八三九)と同じ氣分であり、又、豐國企玖乃池奈流菱之宇禮乎採跡也妹之御袖所沾計武《トヨクニノキクノイケナルヒシノウレヲツムトヤイモガミソデヌレケム》(三八三六)と多少の類似點がある。
 
1250 妹が爲 菅の實とりに 行きし我 山路にまどひ この日暮しつ
 
妹爲《イモガタメ》 菅實採《スガノミトリニ》 行吾《ユキシワレ》 山路惑《ヤマヂニマドヒ》 此日暮《コノヒクラシツ》
 
妻ノ爲ニ菅ノ實ヲ採ラウト思ツテ、出掛ケテ行ツタ私ハ、山路ニマゴツイテ、今日一日暮シテシマツタ。
 
(396)○菅實採《スガノミトリニ》――菅の實は山菅の實であらう。山菅は麥門冬、即ちヤブランで、瑠璃色の實がなるものである。○行吾《ユキシワレ》――舊訓ユクワレヲとあるが、古義に從つた。○山路惑《ヤマヂニマドヒ》――舊訓ヤマヂマドヒテとあるのを、古義に改めたのに從つた。
〔評〕 何の實用にもならうとは思はれない山菅の實を、遙々山路を分けて妹の爲に採りに行つたとは、世智辛い現代人には解しかねることだ。前の爲妹玉乎拾跡木國之湯等乃三崎二此日鞍四通《イモガタメタマヲヒリフトキノクニノユラノミサキニコノヒクラシツ》(一二二〇)に似たところがあるが、それよりも更に長閑な上代氣分である。
 
右四首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
柿本朝臣人麿歌集は、その用字數が極端に尠のが特徴となつてゐる。ここの四首の短歌も、いづれも僅か十三字づつを以て記されてゐるのが、他と異なつて著しく目立つてゐる。
 
問答
 
問ひかけた歌とそれに答へた歌と、二首で一組になつてゐる。問答の題は卷十・十一・十二・十三にも設けられ、かなり多くの歌を集めてゐる。ここのは歌數も尠く、且内容が他の卷のものと異なつてゐる。左註によれば、これより以下十七首は古歌集に出てゐるので、この題も、古歌集のものをその儘採つたのであらう。目録に問答歌四首とある。
 
1251 佐保河に 鳴くなる千鳥 何しかも 川原をしぬび いや河のぼる
 
佐保河爾《サホガハニ》 鳴成智鳥《ナクナルチドリ》 何師鴨《ナニシカモ》 川原乎思努比《カハラヲシヌヒ》 益河上《イヤカハノボル》
 
佐保河ニ鳴イテヰル千鳥ヨ。オマヘハ〔四字傍線〕何故ニ、川原ヲナツカシガツテ、益々川上ニ遡ツテ行クノカ。
 
〔評〕 千鳥に問ひかけた歌。都近い佐保川、そこの名高いものになつてゐる千鳥が、題材になつたのだ。
 
1252 人こそは おほにも言はめ 吾がここだ しぬぶ川原を しめ結ふなゆめ
 
(397)人社者《ヒトコソハ》 意保爾毛言目《オホニモイハメ》 我幾許《ワガココダ》 師奴布川原乎《シヌフカハラヲ》 標結勿謹《シメユフナユメ》
 
人ハコノ川原ヲ慕フト〔八字傍線〕ホンノ一通リニ言フデアラウガ、私ガ非常ニナツカシガツテヰルコノ川原ヲ、標ヲ立テテ自分ノモノト〔七字傍線〕ハ決シテシナサルナ。私ガ川原ヲ自由ニ飛ビ歩クノニマカセテ下サイ〔私ガ〜傍線〕。
 
○意保爾毛言目《オホニモイハメ》――意保《オホ》はおよそ・おほよその意で、この句は、この佐保川を一通りに褒めるであらうの意。○標結勿謹《シメユフナユメ》――ゆめゆめ標結ふなかれ、標結は、しるしを立て繩張などをすることであるが、必ずしもさうしなくとも、猥りに他を入れぬやうにするをもいふのである。
〔評〕 これは千鳥が答へた歌で、佐保川の通行の自由を要求してゐる。千鳥に托して、他人の意志を猥りに束縛すべきでないことを、諷したもののやうにも思はれる。
 
右二首詠v鳥
 
詠鳥とはあるが、卷十などに見える詠鳥の歌とは違つて、これは鳥になつて詠んでゐる。
 
1253 さざなみの 志賀津のあまは 我無しに かづきはなせそ 浪立たずとも
 
神樂浪之《サザナミノ》 思我津乃白水郎者《シガツノアマハ》 吾無二《ワレナシニ》 潜者莫爲《カヅキハナセソ》 浪離不立《ナミタタズトモ》
 
サザナミノ志賀ノ津ノ漁師は、私ガヰナイ時ニハ、縱令〔二字傍線〕浪ガ立タナイ穩カナ時〔四字傍線〕デモ、水ヲ潜ツテ漁ヲス〔五字傍線〕ルナヨ。私ハオマヘタチノ水ヲ潜ル所ガ面白クテ見タイノダカラ〔私ハ〜傍線〕。
 
○神樂浪之《サザナミノ》――近江琵琶湖西南地方。○思我津乃白水郎者《シガツノアマハ》――思我津は志賀の大津に由じ。二一八・二八八參照。
〔評〕 白水郎に向つて、歌ひかけたので、白水郎の爲業を珍らしがる、都人の歌らしい。
 
1254 大船に 楫しもあらなむ 君無しに かづきせめやも 波立たずとも
 
大船爾《オホフネニ》 梶之母有奈牟《カヂシモアラナム》 君無爾《キミナシニ》 漕爲八方《カヅキセメヤモ》 波雖不起《ナミタタズトモ》
 
(398)大船ニ楫ガアレバヨイ。サウシタライツモノ水潜ハヤメテ、大船ニ乘ツテ沖ノ漁ヲシマセウ。アナタノ仰ル通リニ私ハ〔サウ〜傍線〕アナタガオイデニナラズニハ、クトヒ波ノ立リナイ靜カナ〔三字傍線〕時デモ、水ヲ潜ツテ漁ヲシ〔五字傍線〕マセウカ。決シテソンナコトハ致シマセヌ〔決シテ〜傍線〕。
 
〔評〕 何の爲に大船に楫が欲しいといふのか、曖昧な作である。略解・古義などは、大船に乘つて出て潜きするものと見てゐるが、特に大船に乘るのは沖へ出る爲であらうが、沖の深いところでは却つて潜水に不便であるから、これは潜水の目的ではない。海人の潜水は皆磯で爲す業である。これも白水郎の心になつてよんだもので、前の問の歌と同一人の作である。問を男、答を女として、互に相約する意を述べた、譬喩歌としても考へられないことはないが、これは、かの山上憶良の貧窮問答の歌のやうに、問答ともに同一人の作である。
 
右二首詠2白水郎1
 
これも白水郎の心になつて、詠んだので、白水郎を客觀的に見たのではない。海人を白水郎と記すことに就いては、二三參照。
 
臨時
 
時に臨んで詠んだ歌。すなはち折に觸れた即興的のもので、ここに十二首を收めて、多くは相聞である。これも前の問答と同じく、古歌集の題をその儘採用したのであらう。目録に臨時作歌十二首とある。
 
1255 鴨頭草に 衣ぞしむる 君がため まだらのころも 摺らむと念ひて
 
月草爾《ツキクサニ》 衣曾染流《コロモゾシムル》 君之爲《キミガタメ》 綵色衣《マダラノコロモ》 將摺跡念而《スラムトオモヒテ》
 
私ハ〔二字傍線〕アナタノ爲ニ月草ノ花デ〔五字傍線〕斑ノ衣ヲ摺ツテ染メヨウト思ツテ、月草ノ生エテヰル野ヲ分ケテ行ツタノデ〔月草〜傍線〕、月草デ着物ガ染リマシタ。
 
(399)○月草爾《ツキクサニ》――月草はつゆ草。ぼうしばなともいふ草。五八三參照。○綵色衣《マダラノコロモ》――舊訓イロトルコロモとあり。代匠記にイロトリコロモとよんでゐるが、略解にマダラノコロモとあるのに從ふ。綵の字はあや・いろ・いろどるなどの意であるが、集中の用例を見ると、綵色爾所見《マダラニミユル》(二一七七)綵色之※[草冠/縵]《マダラノカヅラ》(二九九三)など色と熟して用ゐられたのは、マダラとよむがよいやうであるから、これも他の訓を排して、さう訓むことにした。見綵欲得《ミムヨンモガモ》(一四三二)の綵は縁の誤らしいから、ここの例にはならぬ。マダラノコロモは斑色の衣で、摺り衣は當然斑に染まるのである。まだらは梵語曼陀羅(mandara)の雜色の義から出たとせられてゐるが、下にも斑衣《マダラノコロモ》(一二六〇)斑衣服《マダラノコロモ》(一二九六)とあり、卷十四にも伎倍比等乃萬太良夫須麻爾《キベヒトノマダラブスマニ》(二三五四)とあり、なほハダラ・ハダレなどとも同語のやうにも考へられて、その用例も古いことであるから、外來語説については、なほ※[手偏+僉]討を要することと思ふ。
〔評〕 やさしい女性の歌である、うつろひ易い月草の色ながら、なつかしい眞心が見えてゐる。
 
1256 春がすみ 井の上ゆ直に 道はあれど 君に逢はむと たもとほり來も
 
春霞《ハルガスミ》 井上從直爾《ヰノヘユタダニ》 道者雖有《ミチハアレド》 君爾將相登《キミニアハムト》 他回來毛《タモトホリクモ》
 
(春霞)井上カラ直接ニ行ケル〔三字傍線〕道ハアルケレドモ、私ハ〔二字傍線〕アナタニ逢ハウト思ツテ、ワザワザ廻リ道ヲシテ來マシタ。
 
○春霞《ハルガスミ》――枕詞。春霞|居《ヰ》るの意で、井上につづく。○井上從直爾《ヰノヘユタダニ》――井上は地名か。然らば大和磯城郡田原本町の東方に、今、東井上の地があるところであらう。しかし新考に、「ヰはヰ中、田Hヰなどのヰにて俗にいふタンボなり」とあるのも參考すべき説であらう。但しヰノヘにさうした用例が見當らない。○他回來毛《タモトホリクモ》――タモトホリのタは接頭語。モトホリは廻ること。この句は廻り道をして來たといふのである。
〔評〕 井上を地名と見ると、田圃と見るとで少しく感じを異にするが、ともかくも、近道があるのに、わざわざ廻り道をして、君の家の方へ來たといふので、戀しい女に歌ひかけたものである。田舍人らしい純情が見えてゐる。
 
1257 道の邊の 草深百合の 花ゑみに ゑまししからに 妻といふべし
 
(400)道邊之《ミチノベノ》 草深由利乃《クサフカユリノ》 花咲爾《ハナヱミニ》 咲之柄二《エマシシカラニ》 妻常可云也《ツマトイフベシ》
 
私ガ道デアナタニ逢ツタ時ニ、アナタガ〔私ガ〜傍線〕、道ノホトリノ草ノ深イ所ニ咲イテヰル百合ノヤウニ、美シク笑ツタガ、私ヲ見テニツコリシタ〔ガ私〜傍線〕カラニハ、アナタハ私ノ〔六字傍線〕妻ト言フベキデアル。
 
○草深由利乃《クサフカユリノ》――草深由利は草深きところに咲いてゐる百合。考にクサフケユリとあるのはわるい。○花咲《ハナヱミニ》――花の咲くのを花咲《ハナヱミ》といひ、それになぞらへて女の笑ふことを花咲みと言つたのである。ここまでの三句は序詞とも考へられるが、譬喩と見た方がよいやうである。卷十八の長歌にも夏野能佐由利能波奈能花咲爾爾布夫爾惠美天《ナツノヌノサユリノハナノハナヱミニニフブニヱミテ》(四一一六)とあるのも同樣である。○妻常可云也《ツマトイフベシ》――舊訓ツマトイフベシヤとあるが、ヤの助詞を添へる必要はなく、也の字は朝露乃如也夕霧乃如也《アサツユノゴトユフギリノゴト》(二一七)黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》(一五三六)君乎社待也《キミヲコゾマテ》(二三四九)の如く、漢文式に書き添へる場合が多いから、これもさう見るのが正しい。この歌を和歌童蒙抄に載せて、五の句はツマトイフベシとあるから、これが古訓なのである。たとひヤを添へてよんでも、それは疑問の助詞ではない。
〔評〕 譬喩が頗る巧妙で、途中で出遭つた美女のほほ笑みを譬へるにふさはしい。妻常可云也《ツマトイフベシ》の斷定も、戀する男の言葉として、力があつてよい。
 
1258 もだあらじと ことのなぐさに いふことを 聞き知れらくは すくなかりけり
 
黙然不有跡《モダアラジト》 事之名種爾《コトノナグサニ》 云言乎《イフコトヲ》 聞知良久波《キキシレラクハ》 少可者有來《スクナカリケリ》
 
黙ツテヰルワケニモユカナイトテ、人ヲ慰メル爲ニ言フ氣休メノ〔四字傍線〕言葉ヲ聞キ知ツテ、氣休メデナイカヲ開キワケ〔ツテ〜傍線〕ル人ハ少イモノデアリマスヨ。デスカラ私モアナタガ、ウマイ言ヲ仰ルト、ツヒ信ジマスカラ、氣休メハオヨシ下サイ〔デス〜傍線〕。
 
○事之名種爾《コトノナグサニ》――言の慰。即ち慰めの言葉。六五六參照。○少可者有來《スクナカリケリ》――考に者を衍とし、略解に宣長云或人説として、奇有來《アヤシカリケリ》、古義に中山嚴水云、或人説として苛曾有來《カラクゾアリケル》をあげてゐる。新訓に少可を苛の誤とする古(401)義説を採つて、カラクハアリケルとよんでゐる。以上のうちでは、新訓が最も穩かのやうであるから、これに從ひたいのであるが、苛の字は集中に用ゐられてゐないから、しばらく者を衍とする考の説により、舊訓を尊重して解釋して置いた。
〔評〕 女が男の口先だけのお世辭に、皮肉を浴せかけたので、かなり蓮葉な女らしく詠まれてゐる。
 
1259 佐伯山 卯の花持ちし かなしきが 手をし取りてば 花は散るとも
 
佐伯山《サヘキヤマ》 于花以之《ウノハナモチシ》 哀我《カナシキガ》 子鴛取而者《テヲシトリテバ》 花散鞆《ハナハチルトモ》
 
佐伯山デ、卯ノ花ヲ折ツテ持ツテヰル可愛イ女ノ手ヲ、私ガ〔二字傍線〕トツテ歩クコトガ出來〔八字傍線〕タナラバ、花ハ散ツテモカマハナイ。
 
○佐伯山《サヘキヤマ》――安藝佐伯郡の山かと契沖は言つてゐるが、この地名は所々にあるから遽かに斷じ難い。略解に、「伯は附の字の草より誤りて、さつき山ならむか。さつき山は地名に非ず」とある。大日本地名辭書の攝津豐能郡の部に、「五月山。池田町の上方、拔海凡二百米突、秦野山の西嶺なり。盖佐伯山の訛とす。日本書紀仁徳天皇の時猪名縣佐伯部移于安藝とある、その佐伯部の遺墟たるべし。寶龜勘録西大寺資財帳に「一巻豐島郡佐伯村和諸乙並布勢夜惠女等献」とあるも此地なり。」とあるに從ふべきか。○哀我《カナシキガ》――カナシキはカナシキ女で、即ち可愛い女である。曾能可奈之伎乎刀爾多?米也母《ソノカナシキヲトニタテメヤモ》(三三八六)とあるのも同じ。○子鴛取而者《テヲシトリテバ》――子は手の誤と契沖が言つたのに、從ふ外はあるまい。
〔評〕 材料も珍らしく.氣分も變つた歌である。如何にもその時に臨んで作つたものらしく、繪畫的な感じもあつて面白い。
 
1260 時ならぬ 斑のころも 著欲しきか 島のはり原 時にあらぬども
 
不時《トキナラヌ》 斑衣《マダラノコロモ》 服欲香《キホシキカ》 衣服針原《シマノハリハラ》 時二不有鞆《トキニアラネドモ》
 
島ノ萩原ハマダ花モ咲カズ、着物ヲ染メル〔マダ〜傍線〕時デハナイガ、時外レノ斑ノ摺〔傍線〕衣ガ私ハ〔二字傍線〕着タイモノダ。
 
○不時《トキナラヌ》――略解にトキジクニとよんだのはよくない。舊訓のままがよい。○斑衣《マダラノコロモ》――舊本班とあるのは誤。(402)元暦校本による。この衣については一二五五參照。○衣服針原《シマノハリハラ》――衣服の二字は舊本の誤である。元暦校本に島となつてゐるのがよい。この歌を袖中抄・和歌童蒙抄に載せて、いづれもこの句をシマノハリハラとよんでゐるから、これが古訓である。卷十にも島之榛原秋不立友《シマノハリハラアキタタズトモ》(一九六五)とある。島は大和高市郡の地名。高市皇子の島の宮のあつた附近である。針原《ハリハラ》は萩原。ハギをハリといふことに就いては、一九に委しく説いて置いた。
〔評〕 島の萩原を通つて、未だ花もなくて、斑の衣を摺ることが出來ないのを、物足らなく思つたので、この頃の民衆服の染色法などもわかつて、面白い歌である、略解に「まだいわけなき女を戀ふる也」とあるのは、誤つた見解であらう。代匠記や古義にも、同樣な意味が述べられてゐる。
 
1261 山守の 里へ通ひし 山道ぞ 茂くなりける 忘れけらしも
 
山守之《ヤマモリノ》 里邊通《サトヘカヨヒシ》 山道層《ヤマミチゾ》 茂成來《シゲクナリケル》 忘來下《ワスレケラシモ》
 
山ノ番人ガ里ヘ通ツテヰタ山道ハ、荒レ果テテ草木ガ〔八字傍線〕茂クナツタ。山番ガ里ヘ通フコトヲ〔十字傍線〕忘レタモノラシイヨ。
 
○山守之《ヤマモリノ》――自分の愛人たる男に譬へたもの。
〔評〕 これは訪れて來ない男を山守に譬へたもので、女が男の薄情を怨んだのである。しかも感情の發表は極めて穩かである。
 
1262 足引の 山椿咲く やつを越え しし待つ君が 齋ひ嬬かも
 
足病之《アシビキノ》 山海石榴開《ヤマツバキサク》 八岑越《ヤツヲコエ》 鹿待君之《シシマツキミガ》 伊波比嬬可聞《イハヒヅマカモ》
 
(足病之山海石榴開八岑越)獵人ガ鹿ノ出ルノヲ待ツテヰルヤウニ、大事ニシテヰル妻ダナア。アノ女ハ、アナタノ大事ナ奧サンデスネ〔アノ〜傍線〕。
 
○足病之《アシビキノ》――これは山の枕詞で、アシビキノとよむことは疑ないが、用字が珍らしい。足の病で、足を引きずつて歩く意で、かう書くのであらう。○山海石榴開《ヤマツバキサク》――海石榴をツバキに用ゐるのは、天武紀十三年に、「三月癸未朔庚寅、吉野人宇閉直弓貢2白海石榴1」とあつて古い書き方である。集中にも他に海石榴市之《ツバイチノ》(二九五一)八(403)峯乃海石榴《ヤツヲノツバキ》(四一五二)などの例がある。○八峯越《ヤツヲコエ》――八峯《ヤツヲ》は多くの峯。地名ではない。ここまでの三句は序詞で、山椿の咲いてゐる多くの峯を越えて、獵人が鹿をねらつて待つてゐると、つづくのである。○鹿待君之《シシマツキミガ》――鹿の出るのを待つてゐる人、即ち獵夫であらう。これは妻を大切にする男を、獵夫の鹿を待つて靜かにしてゐるのに譬へたのである。宣長はシシマチキミとよんでゐるが、ここは略解による。○伊波比嬬可聞《イハヒツマカモ》――齋ひ妻かも。齋ひ妻は、いつきかしつく妻。大切にする妻。
〔評〕 意味が不明瞭な點があつて、解釋がいろいろに別れてゐるが、ある女を大事にしてゐる男に對して、その知人である男が、からかつた歌と見える。序詞が優艶に出來てゐる點がこの歌の特色であらう。
 
1263 曉と 夜烏鳴けど このをかの 木ぬれの上は いまだ靜けし
 
曉跡《アカトキト》 夜烏雖鳴《ヨガラスナケド》 此山上之《コノヲカノ》 木末之於者《コヌレノウヘハ》 未靜之《イマダシヅケシ》
 
モウ夜明方ダトテ、夜烏ガ鳴ク聲ガスルガ、コノ岡ノ木ノ、梢ノ上ハマゲ鳥モ騷ガズ枝モ動カズ〔十字傍線〕靜カデアル。
 
○此山上之《コノヲカノ》――代匠記にコノミネノと訓んだのに、略解も從つてゐる。山上の文字から考へればミネもよいが、これは峯といふほどの高さではあるまいから舊訓のままにヲカとよむがよい。○木末之於者《コヌレノウヘハ》――コヌレは梢、於は集中、上の字に屡用ゐてある。
〔評〕 實にさわやかな歌である。曉を報ずる夜烏の聲を聞きながら、門出する人が、行く手の岡の樹木が、明方の大氣の中に、音もなく靜まりかへつてゐる樣を詠んだので、清肅明澄、縹渺たる情感が漂つてゐる。女の許から歸る時の男の歌とも考へられるが、離別の哀を詠んだのではなく、曉のすがすがしい叙景である。略解に「男の別れむとする時、女の詠める歌なるべし」とあるのは、誤つた見解であらう。和歌童蒙抄に載せてある。
 
1264 西の市に ただ獨出でて 眼竝べず 買へりし絹の あきじこりかも
 
西市爾《ニシノイチニ》 但獨出而《タダヒトリイデテ》 眼不並《メナラベズ》 買師絹之《カヘリシキヌノ》 商自許里鴨《アキジコリカモ》
 
西ノ市ニ唯一人デ私ガ〔二字傍線〕出テ行ツテ、ヨクモ〔三字傍線〕見クラベナイデ買ツタ絹ハ買ヒソコナヒダツタワイ。コノ女ヲ一人デ見立テテ妻トシタガ、見ソコナヒデ、感心シナイ女ダツタ〔コノ〜傍線〕。
 
(404)○西市爾《ニシノイチニ》――奈良の都に、東の市と西の市とが設けられてゐた。東の市は東の京にあり、今の辰市村大字、杏の小字、辰市の邊らしく、西の市は西の京にあり、今の郡山町大字九條の、田市と稱する邊にあつたらしい。三一〇參照。○眼不並《メナラベス》――舊訓メナラバスとあるが、古義に從ふ。見くらべずの意らしい。古今集「花がたみめならぶ人のあまたあれば忘られぬらむ數ならぬ身は」のめならぶ〔四字傍点〕と同意かといふ。○買師絹之《カヘリシキヌノ》――買師はカヒニシともカヒテシともよみ得るが、舊訓のままにして置かう。○商自許里鴨《アキジコリカモ》――アキジコリは珍らしい言葉で、他に用例がない。略解には「しこるはしみこるにて、物に執する意なるべし。」とあるが、當らぬやうである。古義に「商のしそこなひを云なるべし」とあるに從はうと思ふ。
〔評〕 衣帛の買ひ損じを悔いてゐるが、これにも當時の商市の状態を思はしめるものがあつて、その方面の資料となる歌である、但しこの歌の本意は、輕卒に婚したことを悔ゆる譬喩らしい。
 
1265 今年行く 新さきもりが 麻ごろも 肩のまよひは 誰か取り見む
 
今年去《コトシユク》 新島守之《ニヒサキモリガ》 麻衣《アサゴロモ》 肩乃間亂者《カタノマヨヒハ》 許誰取見《タレカトリミム》
 
今年防人トナツテ筑紫ヘ〔九字傍線〕行ク、新防人ノ着ル麻ノ着物ノ肩ノ切レカカツタノハ、誰ガ手ニ〔二字傍線〕トツテ繕ツテヤルダラウカ。妻モナイカラ誰モナホシテヤルモノモアルマイ〔妻モ〜傍線〕。
 
○新島守之《ニヒサキモリガ》――島守と記してあるが、ここはシマモリではなく、サキモリである。即ち防人で太宰府に防人司があり、東國の壯丁を徴發して、九州の北岸を守らしめたのである。シマモリを徴發したことは物に見えない。○肩乃間亂者《カタノマヨヒハ》――マヨヒは織物の糸のよれよれになつて破れかかること。白細之袖者間結奴《シロタヘノソデハマヨヒヌ》(二六〇九),多母登乃久太利麻欲比伎爾家利《タモトノクダリマヨヒキニケリ》(三四五三)とあるのも同樣である。和名抄に「※[糸+比]【萬與布一云與流】※[糸+曾]欲v壞也」とある。○許誰取見《タレカトリミム》――許は阿の誤か若くは衍かと契沖は言つてゐる。秋去衣孰取見《アキサリゴロモタレカトリミム》(二〇三四)とあるから、許は恐らく衍であらう。元暦校本には無い。この句は誰が手に取つて見て、繕つてやらうかの意。
〔評〕 新防人として筑紫へ赴く若者の上を氣づかつて、その母か妻かが詠んだもので、肩のまよひを心にかけたのは、女性の作らしく思はれる。眞情の溢れた佳作である。和歌童蒙抄に載せてある。
 
1266 大船を 荒海に漕ぎ出で や船たけ 吾が見し兒等が まみはしるしも
 
(405)大舟乎《オホブネヲ》 荒海爾※[手偏+旁]出《アルミニコギイデ》 八船多氣《ヤフネタケ》 吾見之兒等之《ワガミシコラガ》 目見者知之母《マミハシルシモ》
 
大キイ舟ヲ荒海ニ漕ギ出シテ、危イ所ヲ骨折ツテ漕イデ行クヤウニ、苦シイ思ヲシテヤツト〔十字傍線〕私ガ逢ツタ女ノ、目ツキガハツキリト目ノ前ニ〔四字傍線〕見エテ忘レカネ〔五字傍線〕ルヨ。
 
○荒海爾※[手偏+旁]出《アルミニコギイデ》――荒海は大船乎安流美爾伊多之《オホフネヲアルミニイダシ》(三五八二)とあるから、アルミと訓む。○八船多氣《ヤフネタケ》――多氣《タケ》は土佐日記に、「ゆくりなく風ふきて、たけどもしりへしぞきにしぞきて、ほとほとしくうちはめつべし」とある、「たけども」と同じで、舟を漕ぐことである。八《ヤ》は彌でタケにかゝかつてゐる。即ちこの句は頻りに舟を漕ぐことで、辛苦しての意で下の句へつづくのである。○目見者知之母《マミハシルシモ》――目見《マミ》は目つき。知之母《シルシモ》は著しも。目の前にはつきり見えるといふのである。
〔評〕、少し難解の點もないではないが、力の強い男性的の氣分が嬉しい。恐らく旅行中の作であらう。
 
就v所發v思 旋頭歌
 
これは所に臨んでの感慨を述べたものである。これも古歌集の標題のままか。卷十二に※[覊の馬が奇]旅發思歌と題してゐるのと、同じ意味である。
 
1267 百しきの 大宮人の 踏みし跡所 沖つ波 來よらざりせば 失せざらましを
 
百師木乃《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 蹈跡所《フミシアトドコロ》 奧浪《オキツナミ》 來不依有勢婆《キヨラザリセバ》 不失有麻思乎《ウセザラマシヲ》
 
(百師木乃)大宮人ノ蹈ンダコノ昔ノ都ノ〔六字傍線〕跡ドコロヨ。沖ノ浪ガ打チ寄セテ來ナイナラバ、無クナラズニヰルダラウノニ。浪ガ打チ寄セテクルノデ、昔ノ跡形ハ少シモナイ〔ガ打〜傍線〕。
 
○百師木乃《モモシキノ》――百敷の。枕詞。二九參照。○蹈跡所《フミシアトドコロ》――旋頭歌であるから、この句で切れてゐる。直に次の句につづけて解いてはいけない。
(406)〔評〕 近江の大津の宮の荒廢した有樣を見て、感慨を述べたのである。湖岸であるから、その荒廢を奥つ浪の仕業のやうに言つたので、そこに婉曲さがあり、含蓄・餘韻もたるわけである。まことに感情の籠つたあはれな作である。卷一の人麿の過2近江荒都1時の長歌の反歌(三〇・三一)に似て、それに劣らない。なほこの奧つ波を、天武天皇の軍を暗示したものとする説は、あまり想像に過ぎてゐる。
 
右十七首古歌集出
 
舊本、首の字がないのは、脱ちたのである。元暦校本その他の古寫本にはある。
 
1268 兒等が手を 卷向山は 常なれど 過ぎにし人に 行きまかめやも
 
兒等等乎《コラガテヲ》 卷向山者《マキムクヤマハ》 常在常《ツネナレド》 過往人爾《スギニシヒトニ》 往卷目八方《ユキマカメヤモ》
 
(兒等手乎)卷向山ハ昔ノヤウニ〔九字傍線〕少シモ變ラナイガ、死ンダ女ニ逢ツテ、一緒ニ寢ルコトガ出來ヨウカ。トテモ出來ハシナイ。マコトニハカナイモノダ〔トテ〜傍線〕。
 
○兒等手乎《コラガテヲ》――枕詞。女の手を枕する意で、卷向山にかかつてぬる。○卷向山《マキムクヤマ》――大和、磯城部三輪山の東方に聳えてゐる山。○過往人爾《スギニシヒトニ》――死んだ人に。一般的に昔の人をいふのではない。自分の亡くなつた愛人である。○往卷目八方《ユキマカメヤモ》――往き逢ひてその人を枕かむやの意。マクは枕することである。畧解に求《マ》くと解したのは、いけない。
〔評〕 千古に渝らない山容に對して、人生の無常を嘆じたのである。兒等手乎《コラガテヲ》の枕詞が、歌全躰の意味に關係があるのは、面白い用法である。
 
1269 卷向の 山邊とよみて 行く水の 水泡のごとし 世の人我は
 
卷向之《マキムクノ》 山邊響而《ヤマベトヨミテ》 往水之《ユクミヅノ》 三名沫如《ミナワノゴトシ》 世人吾等者《ヨノヒトワレハ》
 
コノハカナイ〔六字傍線〕世ノ人間タル吾々ハ、卷向ノ山ノアタリヲ響キ轟カシテ流レ行ク、水ノ泡ノヤウナモノダ。實ニ無常ナ人ノ命ダ〔九字傍線〕。
 
(407)○往水之三名沫如《ユクミヅノミナワノゴトシ》――流れる水上の水泡の如しの意。卷五に水沫奈須微命母《ミナワナスモロキイノチモ》(九〇二)と同じ。略解に上句を序としてゐるが、序とのみは考へられない。○世人吾等者《ヨノヒトワレハ》――特に吾等と複數の文字を用ゐてゐるのに注意したい。
〔評〕 佛教式の無常觀である。これは人麿の作らしいが、この人にはかうした思想が時々あらはれてゐる。なほ人麿が卷向山の麓、穴師川のほとりに住んでゐたらしいことを思へば、以上の二首は、實景に對して彼が感じたところを、そのままに表現したものである。
 
右二首柿本朝臣人麻呂歌集出
 
用字の尠い點が、人麿歌集の躰になつて居り、内容から見ると人麿の作らしい歌である。
 
寄v物發v思
 
前の就所發思に對する題である。卷十一・十二には、寄物陳思歌と題したものがあるが、これも同じ意味である。
 
1270 こもりくの 泊瀬の山に 照る月は みちかけしけり 人の常無き
 
隱口乃《コモリクノ》 泊瀬之山丹《ハツセノヤマニ》 照月者《テルツキハ》 盈昃爲烏《ミチカケシケリ》 人之常無《ヒトノツネナキ》
 
(隱口乃)初瀬ノ山ニ照ツテヰル月ハ、滿チタリ缺ケタリシテヰルヨ。アノ通リニ〔五字傍線〕人ノ命モ無常ナモノダヨ。
 
○隱口乃《コモリクノ》――枕詞。泊瀬とつづく。四五參照。○盈昃爲烏《ミチカケシケリ》――盈は滿、昃は日の西に傾くことで、ここは月に用ゐてある。舊本〓になつてゐるのは、俗字である。類聚古集に虧に作つてゐる。虧は缺けることで、盈昃とも盈虧とも用ゐるから、意に變りはない。烏は焉の、字を誤つたもので、古本多くは焉になつてゐる。舊訓ミチカケシテゾとなり、考はミチカケスルヲ、略解ミチカケシテヲとあるが、ここは古義に從ふことにした。○人之常無《ヒトノツネナキ》――人の常なきことよの意。
〔評〕 これも右の歌と同じく、佛教式の無常觀である。殊に泊瀬山の月を以て譬へたのは、作者の居住地の關係(408)であらうが、泊瀬が或説の如く、葬所の意の地名であるとするならば、いよいよこの無常觀を惹すのに、理由があるやうに思はれる。
 
右一首古歌集出
 
行路
 
これは珍らしい題で他に例がない。旅路の心を詠んでゐる。
 
1271 遠くありて 雲居に見ゆる 妹が家に 早くいたらむ 歩め黒駒
 
遠有而《トホクアリテ》 雲居爾所見《クモヰニミユル》 妹家爾《イモガヘニ》 早將至《ハヤクイタラム》 歩黒駒《アユメクロコマ》
 
遠クニハナレテヰテ、空ノアナタ〔四字傍線〕ニ見エル妻ノ家ニ、早ク行カウト思フ。歩メ私ノ乘ツテヰル〔七字傍線〕黒駒ヨ。
〔評〕 長い旅から家路をさして來る男の、矢の如き歸心が生々とあらはれて、情感の溌刺たる躍動が、聲調の上に踊つてゐる。この歌、東歌に麻等保久能久毛爲爾見由流伊毛我弊爾伊都可伊多良武安由賣安我古麻《マトホクノクモヰニミユルイモガヘニイツカイタラムアユメアガコマ》(三四四一)とあり、その左註に、柿本朝臣人麻呂歌集曰、等保久之?《トホクシテ》、又曰、安由賣久路古麻《アユメクロコマ》、とあるのは注意すべきである。
 
右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
右に記したやうに、卷十四の東歌の記載によれば、柿本朝臣人麻呂歌集には、「とほくしてくもゐにみゆるいもがへにいつかいたらむあゆめくろこま」とある筈で、ここと少しの異點がある。
 
旋頭歌
 
1272 たちのしり 鞘に納野に 葛引く吾妹 眞袖もち 着せてむとかも 夏草苅るも
 
釼後《タチノシリ》 鞘納野邇《サヤニイリヌニ》 葛引吾妹《クズヒクワギモ》 眞袖以《マソデモチ》 著點等鴨《キセテムトカモ》 夏草苅母《ナツクサカルモ》
 
(409)(釼尻鞘)納野デ葛ノ蔓ヲ引イテ取ツテ居ル吾ガ妻ヨ。私ノ着物ニ繊ツテ〔八字傍線〕着セヨウト思ツテカ、アアシテ〔四字傍線〕兩袖ヲ以テ、夏ノ葛ヲ引イテ取ツテヰルヨ。感心ナイトシイ女ダ〔九字傍線〕。
 
○釼尻鞘納野邇《タチノシリサヤニイリヌニ》――釼尻鞘《タチノシリサヤニ》までは納野《イリヌ》と言はむ爲の序詞。太刀の突端を鞘に納める意である。納野は代匠記に、和名抄を引いて、丹後國竹野郡納野とあるところかといつてゐるが、山城國乙訓郡大原野村大字上羽に入野神社があるから、其處だらうとする説が多い。卷十に、左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花《サヲシカノイリヌノススキハツヲバナ》(二二七七)とあるのも同所であらう。○葛引吾妹《クズヒクワギモ》――葛の蔓を引いてゐる吾が愛する妻よ。夏の頃、葛の蔓を採つて衣服を織る料としたのである。下に姫押生澤邊之眞田葛原何時鴨絡而我衣將服《ヲミナヘシオフルサハベノマクズハライツカモクリテワガキヌニキム》(一三四六)とあるのもその一證である。吾妹《ワギモ》を古義に、他人の妻としたのはよくない。これは自分の妻をいとしんだのである。○眞袖以《マソデモチ》――眞袖は兩袖。この句から第六句へつづいてゐる。兩手で葛蔓を引くのを、長い袖を着てゐるから、袖で引くやうに言つたのである。○著點等鴨《キセテムトカモ》――我に著せてむとかもの意。○夏草苅母《ナツクサカルモ》――草を葛の誤、苅を引の誤として、ナツクズヒクモとする説が多く行はれてゐる。第三句と一致せしめれば正にその通りで、さうなつてゐれば最も無難である。しかしこの儘で、夏草を夏葛の意とし、苅を引の意味に用ゐたものと解し得ぬこともないから、ここでは文字を改めないことにする。
〔評〕 自分の妻が野原の中で、葛蔓引きにいそしんでゐるのを見て、自分の着物を織る爲の辛勞を感謝して、これをあはれがつた歌である。眞袖以《マソデモチ》の一句がその動作を如實にあらはしてゐる。田舍人の生活と、その純情とがあらはれた民謠風の作品である。
 
1273 住吉の 波豆麻の公が 馬乘衣 さひづらふ あやめをすゑて 縫へる衣ぞ
 
住吉《スミノエノ》 波豆麻君之《ハヅマノキミガ》 馬乘衣《ウマノリゴロモ》 雜豆臘《サヒヅラフ》 漢女乎座而《アヤメヲスヱテ》 縫衣叙《ヌヘルコロモゾ》
 
住吉ノ波豆麻ノ君ガ着テヰル馬乘衣。アノ着物ハ〔五字傍線〕(雜豆臘)漢織《アヤハトリ》ノ女ヲヨンデ來テ、縫ハセタ着物デスヨ。立派(410)ナ着物デセウ〔八字傍線〕。
 
○波豆麻君之《ハヅマノキミガ》――代匠記にナミツマキミガとし、宣長は波里摩着の誤として、ハリスリツケシと訓んでゐるが、從ひ難い。ここは舊訓に從つてよみ、波豆麻を住吉の地名として置く。君の字、元暦校本その他の古寫本に公に作つてゐる、○馬乘衣《ウマノリゴロモ》――宣長は乘を垂の誤として、マダラノコロモとよんでゐるが、もとのままで文字通りによむべきである。○雜豆臘《サヒヅラフ》――枕詞。漢女《アヤメ》に冠してある。この句從來サニヅラフとよんで、顔の美しい義としてゐるが、雜はサフの音であるから、サニとなる筈はない。雜賀《サヒガ》の例に從つてこれをサヒとよむべきで、サヒヅラフは佐比豆留夜辛碓爾舂《サヒヅルヤカラウスニツキ》(三八八六)のサヒヅルヤが、言葉の囀るやうに聞える意で、韓《カラ》の枕詞となるやうに、言葉の囀るやうな漢女《アヤメ》とつづくのである。ラフはルの延言であるから、サヒヅラフは囀るに同じ。臘の字、元磨校本その他の古本に臈となつてゐる。臘も臈も共に合の韻であるから、いづれでも同じことであるが、古本にある臈の方が原形であらう。○漢女乎座而《アヤメヲスヱテ》――漢女は雄略紀に、「身狹村主《ムサノスグリ》青等共2異國使1將2呉所v献|手末才伎《テビト》漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》及|衣縫《キヌヌヒ》兄媛弟孃等1泊2於住吉津1云々とあるアヤハトリで、その言葉が解し難かつたのである。この歌によまれた漢女《アヤメ》は、雄略紀に記されてゐる女そのものではなく、その子孫か、又はその後に渡來したもであらうが、綾織に巧な女として、その業を營んでゐたのである。座而《スヱテ》を古義にはマセテとよんでゐる。さう敬語を用ゐる要はあるまい。
〔評〕 住吉地方の豪族らしい波豆麻の君が、立派な着物を装うて、馬上ゆたかに練り歩いてゐる姿を見て、側からその衣の由來を説明したものである。これも俚謠的氣分の作である。
 
1274 住の吉の 出見の濱の 柴な苅りそね をとめらが 赤裳の裾の ぬれて行かむ見む
 
住吉《スミノエノ》 出見濱《イデミノハマノ》 柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》 未通女等《ヲトメラガ》 赤裳下《アカモノスソノ》 閏將往見《ヌレテユカムミム》
 
草刈男等ヨ〔五字傍線〕。住吉ノ出見ノ濱ノ柴ヲ苅ルナヨ。アノ柴ノ中ニ隱レテ私ハ〔アノ〜傍線〕、少女ドモガ赤イ裳ノ裾ヲ波ニ濡ラシテ、濱ヲ歩イテ〔五字傍線〕行クノヲ見ヨウカラ。
 
(411)出見濱《イデミノハマ》――略解にイヅミノハマノか、又イデミルハマノかといつてゐるが、舊訓に從つて置く。大日本地名辭書には、「住吉森の西に松林あり、細江淺澤の水林際を過ぎ海に入る。此邊を出見濱と呼ぶ。住吉の獻火高燈籠あり。」とある。○柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》――柴を苅るなよの意。略解に、「濱に柴刈こといかが。尼をネの假名に用たる例もなし。是は字のいたく誤れるなるべし。試にいはば、三の句、莫乘曾苅尼とや有けむ。ナノリソカリニと訓べし。」とあるのは全然誤解で、海岸に灌木の叢生してゐるのは常のことで、尼をネの假名に用ゐた例も多い。古義に濱菜苅者尼《ハマナカラサネ》の誤としたのも、妄斷である。これは濱邊に密生した柴に身をひそめて、少女を垣間見るのである。○閏將往見《ヌレテユカムミム》――閏は潤の省畫。略解に「往將見と有てユクミムなるべし」とあるが、このままでよい。
〔評〕 住吉の濱の佳景は、都人をも里の少女をも誘つた。里の若い男は少女の赤裳の裾に心を奪はれたであらうことが想像せられる。さうした若い男の心持が、そのままかうした歌になつてゐるのである。大伴坂上郎女の佐保河乃涯之官能小歴木莫刈烏《サホガハノキシノツカサノシバナカリソネ》(五二九)は多少これを學んだ跡があるやうだ。
 
1275 住の吉の 小田を苅らす子 奴かも無き 奴あれど 妹がみ爲と 私田苅る
 
住吉《スミノエノ》 小田苅爲子《ヲダヲカラスコ》 賤鴨無《ヤツコカモナキ》 奴雖在《ヤツコアレド》 妹御爲《イモガミタメト》 私田苅《ワタクシタカル》
 
住吉ノ小田ヲ苅ツテイラツシヤル人ハ、下男ガナイカラサウシテ自分デ苅ツテヰル〔カラ〜傍線〕ノデスカ。イヤ下男ハアリマスガ妻ノ爲ト思ツテ大事ニシテ自分ノ〔七字傍線〕私田ヲ苅ルノデス。
 
○小田苅爲子《ヲダヲカヲスコ》――住吉の田を苅つてゐられる人よの意。苅らすは苅るの敬語。○賤鴨無《ヤツコカモナキ》――賤を古くイヤシ又はシヅとよんでゐるが、下の奴と同じく見てヤツコとよむがよい。ヤツコは即奴婢のことで、賤民として良民に使用せられたものがあつたのである。但し後世の下男と同じやうなもので、當時の奴(412)婢帳によると、稻束を以て賣買せられたものであるが、良民となることも出來るし、又口分田を賜はつてゐたのであるから、外國の奴隷と同一視してはならぬ。挿繪は日本風俗沿革圖説からとつた。○私田苅《ワタクシタカル》――舊訓はシノヒタヲカルとあなのを、童蒙抄にワレゾタヲカル、考にオノレタカラス、略解は私を秋の誤として、アキノタカラス、古義はアキノタカルモとしてゐるが、これは公田に對する私田であるから、文字通りワタクシタカルと訓むがよい。大寶令によれば位田・職田・賜田・口分田及び墾田等の、個人私有の田を私田と稱し、その他の剰餘の田を公田又は乘田といつて賃租したものである。ここに私田とあるのは住吉の濱近くに開墾した田で、謂はゆる墾田は永く私有することを許されてゐた。
〔評〕 前半は問、後半は答。即ち自問自答の躰になつてゐる。旋頭歌にはこの形式になつてゐるものが尠くない。この頃の耕人の生活が想像せられて、面白い歌である。
 
1276 池の邊の 小槻がもとの しぬな苅りそね そをだに 君が形見に 見つつしぬばむ
 
池邊《イケノベノ》 小槻下《ヲヅキガモトノ》 細竹苅嫌《シヌナカリソネ》 其谷《ソヲダニ》 君形見爾《キミガカタミニ》 監乍將偲《ミツツシヌバム》
 
池ノホトリニ生エテヰル、小サイ槻ノ木ノ下ノ篠ヲ苅ルナヨ。ソノ篠デモ、貴方ト私ガ遭ツタナツカシイ所ダカラ〔貴方〜傍線〕、貴方ノ形見トシテ、見テ貴方ヲ〔三字傍線〕思ヒ出ス料ニシマセウ。
 
○小槻下《ヲヅキガモトノ》――槻は欅の一種。二一〇參照。○細竹苅嫌《シヌナカリソネ》――契沖は竹の下に、莫の字が脱ちてゐると言つてゐる。次の歌に草莫苅嫌《クサナカリソネ》とあるのに從へば、その説がよいやうである。併し嫌はきらふといふ意で、おのづから打消を含んでゐるわけであるから、莫の字はなくともよいので、集中には、かうした、あつても無くてもよいやうな、字の使ひ方がしてあるところが往々ある。○監乍將偲《ミツツシヌバム》――監は覽の誤かと代匠記に見える。しかし監も見ることであるからこのままでよい。
〔評〕 曾て池邊の槻の木の下で、相逢うて相語つた情人を思つてよんだ歌である。その人は今は亡いのか、それとも健在か。ともかく、その後再び會ふ機會を得ないのを悲しんだ女の歌である。これこそ村孃の歌である。それだけ野趣が横溢してゐる。
 
(413)1277 天なる 姫菅原の 草な苅りそね 蜷の腸 か黒き髪に 芥し著くも
 
天在《アメナル》 日賣菅原《ヒメスガハラノ》 草莫苅嫌《クサナカリソネ》 彌那綿《ミナノワタ》 香烏髪《カグロキカミニ》 飽田志付勿《アクタシツクモ》
 
(天在)日賣菅原ノ草ヲ苅ルナヨ。(彌那綿)黒イオマヘノ〔四字傍線〕髪ノ毛ニ芥ガツクヨ。
 
○天在《アメナル》――枕詞。日とつづく。○日賣菅原《ヒメスガハラ》――地名らしいが何處にあるとも明らかでない。○彌那綿《ミナノワタ》――枕詞。蜷といふ貝の腸が黒いから、黒につづくを常とする。ここは黒に接頭語のカがついてゐる。○飽田志付勿《アクタシツクモ》――飽田《アクタ》は芥。勿は呉音モチであるのを、モの假名に用ゐたのである。舊訓ナの假名によんだのはわるい。
〔評〕 略解にあげた宣長説に、「天なるは天上にあるひめすが原也。然らざれば髪に芥のつくといふ事よしなし。是は天なるささらのを野のたぐひにて、ただまうけて言ふのみ」とあるのに從ふと、頗る空想的神秘的な歌となるが、どうもさうは思はれない。これはただ、自分の愛人が草を苅つてゐるのを見て、美しい黒髪に芥塵の附着するのを惜しんだのである。これも野趣に富んだ面白い歌だ。
 
1278 夏影の ねやのもとに きぬ裁つ吾妹 裏まけて 吾が爲たたば やや大に裁て
 
夏影《ナツカゲノ》 房之下邇《ネヤノモトニ》 衣裁吾妹《キヌタツワギモ》 裏儲《ウラマケテ》 吾爲裁者《ワガタメタタバ》 差大裁《ヤヤオホニタテ》
 
夏ノ木立ノ茂ッテ凉シイ〔九字傍線〕蔭ヲナシテヰル閨ノ内デ、着物ヲ裁ツテヰル吾ガ妻ヨ。裏ヲ設ケテ私ノ爲ニ着物ヲ〔三字傍線〕裁ツノナラバ、少シ大ブリニ仕立テテクレヨ。
 
○夏影房之下邇《ナツカゲノネヤノモトニ》――夏影房《ナツカゲノネヤ》とは、夏の木蔭の凉しいところにある、閨のことであらう。恐らく北方などに面した部屋の窓のうちである。舊本邇を庭に誤つてシタニテとあるが、元暦校本などに邇とあるに從つて、モトニと訓む。○裏儲《ウラマケテ》――着物の裏を用意しての意。○差大裁《ヤヤオホニタテ》――差は歌韻の時、副詞として用ゐられると、稍《ヤヤ》の意となる。この句を童蒙抄にヤヤヒロクタテ、古義はイヤヒロニタテと訓んでゐるが、代匠記精撰本に「ヤヤオホニと讀みてややおほきにと意得べし。」とあるに從はう。ややゆつくりと廣く裁ての意。
〔評〕 ある男が、自分の爲に裁縫をしてゐる妻に呼びかけた歌である、夫婦和合の平和な生活を思はしめるものがあつて、氣特のよい作である。ゆつくりと大き目に裁てといふのは、如何にも夏衣らしい氣分である。これ(414)も田舍の農民などの生活状態である。
 
1279 梓弓 引津の邊なる 莫告藻の花 つむまでに 逢はざらめやも なのりその花
 
梓弓《アヅサユミ》 引津邊在《ヒキツノベナル》 莫謂花《ナノリソノハナ》 及採《ツムマデニ》 不相有目八方《アハザラメヤモ》 勿謂花《ナノリソノハナ》
 
(梓弓)引津ノホトリニナノリソノ花ガ咲キマスヨ。コノ花ヲ摘ミ取ル頃マデニ、私ハ戀シイアナタニ〔九字傍線〕逢ハナイコトガアラウカ、必ズ必ズ逢フツモリデス。ソレマデ私ノ名ヲ口ニ出シテ、人ニ悟ラレルヤウナコトヲシナサルナヨ〔ソレ〜傍線〕。
 
○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。引きとつづく。○引津邊在《ヒキツノベナル》――引津のほとりにある。引津は卷十五にも引津亭舶泊之作とあつて、筑前糸島郡の西方海岸で、筑前名寄には志摩郡岐志といふ所の北に引津あり。昔は舟入りしも今は埋もれて田となつてゐる由を記してゐる。大日本地名辭書には、「引津、船越の古名にや」とある。然らば岐志の南方で、筑前名寄の記事は誤つてゐる。今、引津浦と稱するのは船越と岐志との聞の灣である。その東方に可也山が聳えてゐる。ヒキツノベは引津のほとりであらうが、地圖に岐志西方の岬を野邊崎とあるのは、後人がこの歌によつて命名したものか。若し古くから野邊といふ地名があつたとすれば、ここにも野の字がありさうなものである。卷十の歌もここと同じく野の字がない。○莫謂花《ナノリソノハナ》――ナノリソは今の名ホンダハラ。三六二參照。この海藻の名に、な告りその音を含めてある。○不相有目八方《アハザラメヤモ》――會はざらむや、必ず會ふ考なればの意。
〔評〕 ナノリソといふ海藻を、な告りその意とした作品はかなり澤山ある、これは上の三句に引津の莫告藻を出し、更に結句に繰返して、な告りその意を強く述べて面白く出來てゐる。引津といふやうな西陲の地名を詠んだのは、あの地方の歌か。人麿歌集の出であるが、彼が筑紫に赴いた時に記したものか。卷十に梓弓引津邊有莫告藻之花咲及二不會君毳《アヅサユミヒキツノベナルナノリソノハナサクマデニアハヌキミカモ》(一九三〇)とあるのと似てゐる。
 
1280 うつ日さす 宮路を行くに 吾が裳は破れぬ 玉の緒の 念ひみだれて 家に在らましを
 
撃日刺《ウチヒサス》 宮路行丹《ミヤヂヲユクニ》 吾裳破《ワガモハヤレヌ》 玉緒《タマノヲノ》 念委《オモヒミダレテ》 家在矣《イヘニアラマシヲ》
 
(415)(撃日射)宮ヘ行ク道ヲ、思フ人ニ逢フカト戀ヒ慕ヒツツ〔思フ〜傍線〕歩イテヰルト、アマリ歩イタノデ〔八字傍線〕私ノ着テ居ル〔四字傍線〕裳ガ破レテシマツタ。コンナ難儀ヲスルヨリモイツソノコト、心ニ〔コン〜傍線〕思ヒ(玉緒)亂レテ家ニヰヨウノニ。ツマラナイコトヲシタ〔十字傍線〕。
 
○撃日刺《ウチヒサス》――枕詞。宮とつづく。美日指す・現日差の兩説がある。四六〇參照。○宮路行丹《ミヤヂヲユクニ》――宮路は御所へ通ふ路、朱雀大路などをさすのであらう。○玉緒《タマノヲノ》――枕詞。ミダレテに冠す。○念委《オモヒミダレテ》――元暦校本・古葉略類聚鈔・神田本等の古訓はオモヒミダレテとあるが、舊訓はオモヒステテモとなつてゐる。代匠記精撰本にはオモヒツミテモと訓んで、「つむとは結へば重なるを云へり。それを思ひをはらしやらで、心に積置によそへて云へるなり」と解してゐる。考はオモヒシナヘテとし、略解もこれに從つてゐる。元來この委の字は、集中に委曲《ツバラ》の用法があるのみで、他の訓法を知り難いが、萎の誤として、シナエテとよむのも一法であらう。併し元暦校本その他、古本はすべてミダレテとなつてゐるから、或は委は誤寫かも知れないから、ここは、しばらく古訓によつて訓んで置かう。新訓にオモヒユダネテとあるのも、用例はないが、一寸面白い訓法である。
〔評〕 大宮人を戀した都處女の歌であらう。前の歌が野趣に滿ちてゐるに反して、これは流石に宮びてゐる。末句に女らしいつつましさが見えてゐる。
 
1281 君が爲 手力疲れ 織りたる衣ぞ 春さらば いかなる色に 摺りてばよけむ
 
君爲《キミガタメ》 手力勞《タチカラツカレ》 織在衣服斜《オリタルキヌゾ》 春去《ハルサラバ》 何何《イカナルイロニ》 摺者吉《スリテバヨケム》
 
貴方ニ著セヨウト思ツテ、手ガツカレルホド、骨ヲ折ツテ織ツタ着物デスゾ、春ニナツタナラバ、ドンナ色ニ摺ツテ染メタラヨカラウカ。貴方ニ似合フ色ハ何デセウカ〔貴方〜傍線〕。
 
○織在衣服斜《オリタルキヌゾ》――この句は古來種々の訓があるが、いづれも面白くない。略解に「宣長云、斜は料の誤」として、オリタルキヌヲとよんでゐる。衣服料の三字をキヌとよんで、ヲを添へてよむのであらうが、そのヲが客語をあらはす助詞ならば、その訓法は全然誤つてゐる。旋頭歌は第三句で切るのか本格である。これは必ず叙の字(416)に違ひない。ゾとすれば歌形が整然となるのである。○何何《イカナルイロニ》――舊訓イカニヤイカニとあるが、落ちつきが惡い。元暦校本その他の古寫本は、何々となつてゐるから、誤とは思はれないが、略解に載せた宣長説に、「何色を何何と誤れるは、何色と書るを何々と見たる也」とあるのに從つて置く。
〔評〕 女らしい優しい感情が流れてゐて、なつかしい。庶民階級の女性の純情の歌である。
 
1282 橋立の 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 吾がするなべに 立てる白雲
 
橋立《ハシタテノ》 倉橋山《クラハシヤマニ》 立白雲《タテルシラクモ》 見欲《ミマクホリ》 我爲苗《ワガスルナベニ》 立白雲《タテルシラクモ》
 
(橋立)倉椅山ニ立ツテヰル白雲ヨ。私ガ見タイト思ツテ居ルト、丁度立ツタ白雲ヨ。倉椅山ヲ隱スノハ無情ナ雲ダ〔倉椅〜傍線〕。
 
○橋立《ハシタテノ》――枕詞。倉につづくのは、古の倉は床が高くて、梯をかけて出入したからであらう。ハシダテは梯のこと。○倉椅山《クラハシヤマニ》――倉椅山は大和磯城郡の多武峰つづきの高峰、音羽である。二九〇參照。○我爲苗《ワガスルナベニ》――苗は借字で、共の字(417)を用ゐたところが多い。春霞流共爾《ハルガスミナガルルナベニ》(一八二一)はその一例である。共の字の意を以て解すればよい。
〔評〕 この歌は契沖が「立白雲とはうるはしき物から、目にのみ見て手にも取られぬを、女のさすがに目には見えて逢べくもなきによそへたるにや。云々」と言つたのに從つて譬喩歌とする説が多いが、叙景歌と見るのが穩やかであらう。碧空に浮んだ白雲のやうな、はつきりした歌である。
 
1283 橋立の 倉椅川の いはのはしはも をざかりに 吾が渡りたる いはのはしはも
 
橋立《ハシダテノ》 倉椅川《クラハシガハノ》 石走者裳《イハノハシハモ》 壯子時《ヲザカリニ》 我度爲《ワガワタリタル》 石走者裳《イハノハシハモ》
 
(橋立)倉椅川ニ掛ツテヰタ石ノ橋ヨ。若イ男盛リノ時ニ、私ガ渡ツタアノ〔二字傍線〕石ノ橋ヨ。今ハドウシタノカ知ラヌ。影モ形ナイ〔今ハ〜傍線〕。
 
○倉椅川《クラハシガハ》――倉椅川は大和萬葉地理に、「倉橋川は、磯城部多武峯山中から發して北流し、大字倉橋村をすぎて櫻井町の南端に於て西にまはり、別に忍坂谷から流れてくる忍坂川を合せて、寺川となつてをるものであります。云々」とある。寫眞は大和萬葉古蹟寫眞による。○石走者裳《イハノハシハモ》――石走《イハノハシ》は河中に石を並べて渡るやうにしたもの。イシノハシ、イハハシ、イハハシリなどの訓もある。○壯子時《ヲザカリニ》――男盛りの時代にの意。
〔評〕 久しく故郷を離れてゐた男が、年老いてから歸つて來て、自分が若い時に通ひなれた、河中の飛石の橋をなつかしがつて、詠んだのである。年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマダヘナクニアスカガハセゼユワタリシイハバシモナシ》(一一二六)に似たところがある。略解に、「昔逢し人の今は絶ぬるにたとへたるならむ。」とあるのは誤つてゐる。
 
1284 橋立の 倉橋川の 河のしづ菅 吾が苅りて 笠にも編まず 川のしづすげ
 
橋立《ハシダテノ》 倉橋川《クラハシガハノ》 河靜菅《カハノシヅスゲ》 余苅《ワガカリテ》 笠裳不編《カサニモアマズ》 川靜菅《カハノシヅスゲ》
 
(橋立)倉椅川ニ生エテヰル河ノ靜菅ヨ。アノ川ニ生エテヰル靜菅ヲ私ガ苅ツタバカリデ、編ンデ笠ヲ拵ヘルコトモシナイデシマツタ。殘念ナコトヲシタ。アノ女ト約束シタバカリデ、ホントニ自分ノモノニシナイデシマツタ。惜シイコトヲシタ〔殘念〜傍線〕。
 
(418)○河靜管《カハノシヅスゲ》――菅はかやつりぐさ科の植物で、その種類が極めて多いが、靜菅はどんなものかよくわからない。略解に、「菅の小きをいふか」といひ、古義に石著《シヅキ》菅なり」といつてゐるが、共に當つてゐるとは思はれない。笠に編むのであるから、相當大きい菅であらう。今じゆずすげといふものがある。或はそれか。○余苅《ワガカリテ》――吾が苅つたのみでの意。次の句の打消はここまで否定してゐるのではない。
〔評〕 これは確かに寓意のある歌で、約束のみしてまことの妻とならぬ女を、靜菅に譬へたのである。倉橋の里附近に行はれた民謡らしい。
 
1285 春日すら 田に立ち疲る 君はかなしも 若草の つまなき君が 田に立ち疲る
 
春日尚《ハルヒスラ》 田立羸《タニタチツカル》 公袁《キミハカナシモ》 若草《ワカクサノ》 ?無公《ツマナキキミガ》 田立羸《タニタチツカル》
 
長閑ナ〔三字傍線〕春ノ日デスラモ、手助ケヲスル人ガ無イノデ、一人デ〔手助〜傍線〕田ニ立ツテ仕事ヲシテ、疲レル貴方ハオ氣ノ毒デスヨ。(若草)妻ヲ持ツテヰナイ貴方ハ、一人デ仕事ヲスルノデ〔十字傍線〕田ニ立ツテ疲レテヰルヨ。オ氣ノ毒ナ〔五字傍線〕。
 
○春日尚《ハルヒスラ》――長閑な面白い春の日すらの意。略解・古義は長い春の日すらの意としてゐる。○田立羸《タニタチツカル》――下の公《キミ》に連續してゐるから、謂はゆる連體形で、中世の文法ならばツカルルといふべきであるが、本集には、かういふ例が尠くない。○若草――《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづく。一五三參照。
〔評〕 長閑な春の日もよそに、田の仕事にいそしんでゐる獨身者をからかつた、若い女の歌であらう。その頃の歌垣などに謠ふのにふさはしさうな、野趣に富んだ面白い作である。
 
1286 山城の 久世の社の 草な手折りそ わが時と 立ち榮ゆとも 草な手折りそ
 
開木代《ヤマシロノ》 來背社《クセノヤシロノ》 草勿手折《クサナタヲリソ》 己時《ワガトキト》 立雖榮《タチサカユトモ》 草勿手折《クサナタヲリソ》
 
山城ノ久世ノ社ニ生エテヰル草ヲ取ルナヨ。アレハ神樣ノモノダカラ、タトヒ草ガ〔アレ〜傍線〕自分ノ時ヲ得タトテ、時知リ顔ニ〔五字傍線〕繁り榮エテモ、アノ草ヲ苅ツテハナラヌゾ。主アル女ニ手ヲ出シテハナラヌゾ〔主ア〜傍線〕。
 
○開木代《ヤマシロノ》――開木をヤマとよむ理由はよくわからない。代匠記初稿本に、「諸木山より開出すゆゑか」とある。(419)卷十一にも開木代來背若子《ヤマシロノクセノワクゴガ》(二三六二)とある。○來背社《タセノヤシロノ》――山城久世郡の久津川村大字久世にある神社である。久津川村は和名抄に久世郡久世郷とあるところで、久世・津屋・平川の三大字を併せてこの村名を作つたのである。○己時《ワガトキト》――舊訓オノガトキとあるが、古事記傳卷三十六に、宣長がワガとよんだのに從ふ。
〔評〕 人妻に手を倒すなと戒めた歌である。久世の社の草に人妻を譬へ、その女盛りの美貌に心を囚はれるなと言つたのであらう。卷四の神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞《カミキニモテハフルトフヲウツタヘニヒトツマトイヘバフレヌモノカモ》(五一七)に多少似たところがあつて、上代の道徳の片影がほの見えてゐる。
 
1287 青みづら 依網の原に 人も逢はぬかも 石走る 淡海縣の 物がたりせむ
 
青角髪《アヲミヅラ》 依網原《ヨサミノハラニ》 人相鴨《ヒトモアハヌカモ》 石走《イハバシル》 淡海縣《アフミアガタノ》 物語爲《モノガタリセム》
 
(青角髪)依網ノ原デ知アヒノ〔四字傍線〕人ニ逢ヘバヨイガナア。サウシタラ私ハ〔七字傍線〕(石走)近江ノ國ノ話ヲシマセウ。
 
○青角髪《アヲミヅラ》――枕詞。依網《ヨサミ》とつづく理由について諸説がある。冠辭考には、青み蔓|※[瓠の旁が包]《ヨサ》とし、古義は若草を編み込んだ角髪《ミヅラ》で、青角髪|依編《ヨセア》み首といつてゐる。古義にあげた、南部嚴男説には、三河國碧海郡として、碧海面《アヲミヅラ》依網とつづくのであらうかと言つてゐる。この他なほ多いが、いづれも面白くない。蓋し、青み蔓|吉《ヨ》さとつづくのであらう。蔓の青いのが目に快い意であらう。なほアヲミヅラは青みある蔓ではなくて、青|眞《ミ》蔓であらうか。○依網原《ヨサミノハラニ》――依網は右に述べた南部嚴男説では、三河碧海郡となつてゐる。なるほど和名抄に、參河國碧海郡依網、與佐美とあるが、この説はアヲミヅラを碧海面とするのに伴つた解説で、碧海面では意味をなさぬやうであるから、これを採らぬとすると、自然これを三河とする根據がなくなるやうである。依網は河内にも攝津にもあるが、もと同地が分たれてその名が殘つたもので、崇神紀に見える依網の池、應神紀の歌に彌豆多摩盧豫佐彌能伊戒珥《ミヅタマルヨサミノイケニ》云々とある依網の池のある地方であらう。○人相鴨《ヒトモアハヌカモ》――ヌに當る文字はないが、元來全躰として打消の意ではないのであるから、否定の文字はなくてよいのである、人も逢はないかよ。逢へばよいの意。○石走《イハバシル》――枕詞。淡海とつづく。石の上を水が溢《アフ》れる意で、淡海につづく。○淡海縣《アフミアガタノ》――上の依網の原を三河とすると、近江では關係がないので、これを遠江とする説が、多く行はれてゐる。併し遠江は等保都安布美《トホツアフミ》(三四二九)(420)又は等倍多保美《トヘタホミ》(四三二四)とあつて、アフミとある例はない。であるからこれも近江と見るべきである。縣《アガタ》は朝廷の御領地のことであるが、また縣主の支配する地、即ち郡などをも言つたので、田舍といふやうな意ともなつてゐる。ここの近江縣も近江地方の意であらう。○物語爲《モノガタリセム》――物語はここでは話といふやうな意で、近江で見聞したことを語らうといふのである。近江に行はれてゐる傳説奇談の意ではない。
〔評〕 この歌は第五句の縣を任國の意とすることによつて、官人の作とするものがかなり多い。古今集雜下、「文屋康秀が三河の椽になりて、あがた見には出でたたじやといひける返事に」、土佐日記に、「ある人あがたの四年五年はてて」などとあるので、さう解するのであるが、ここは右に述べたやうに田舍地方の意であるから、必ずしも官人の歌とは定め難い。近江の國に赴いてゐた人が、故郷に歸る道で依網の原にさしかかつて、このあたりまで來れば故郷も近いから、知己に遭ひさうなものだのに、誰にも出合はぬよと物足りなく思つたのであらう。近江の國は志賀の都の壞滅と共に、悲惨な状態となり、世人はこれに同情の涙を濺いだ。近畿地方の人たちは近江から來た人の物語に、耳を傾けて聽いたのではあるまいか。さう思つて見ると、人麿や黒人らの荒都を悲しんだ作も、歌謠の形式を採つた近江縣物語とも言はれるやうに思ふ。これはあまり想像に過ぎた考かも知れぬが、ともかくも近江の國は、その頃の語り草となつてゐたものに違ひない。六樹園石川雅望の近江縣物語といふ小説は、この歌によつて名づけたものである。
 
1288 みなとの 葦のうら葉を 誰か手祈りし 吾が背子が 振る手を見むと 我ぞ手折りし
 
水門《ミナトノ》 葦末葉《アシノウラバヲ》 誰手折《タレカタヲリシ》 吾背子《ワガセコガ》 振手見《フルテヲミムト》 我手折《ワレゾタヲリシ》
 
河口ニ生エテヲル葦ノ末葉ヲ、誰ガ手折ツタノカ。ソレハ〔三字傍線〕私ノ夫ガ旅立チヲシテ別レル時ニ、名殘ヲ惜ンデ〔旅立〜傍線〕振ル袖ヲ見ヨウト思ツテ、邪魔ニナラヌヤウニ〔九字傍線〕、私ガ折ツタノデスヨ。
 
○水門《ミナトノ》――水門は河口。○葦末葉《アシノウラバヲ》――舊訓アシノスヱハヲとあるが、代匠記に「うらはとも讀むべし」とあるのに從はう。池邊乃松之末葉爾《イケベノマツノウラハニ》(一六五〇)ともある。源氏物語の藤のうら葉の卷なども傍證とならう。○振手見《フルテヲミムト》――略解に「振の下、衣の字を脱せしか。そでふるみむとと有べし」と言つてゐるが、このままでもよからう。
(421)〔評〕 上句は問で下句は答である。旅行く夫に別を惜しむやさしい、あはれな感情が溢れてゐて、まことになつかしい歌である。
 
1289 垣越ゆる 犬呼び越して 鳥獵する君 青山と しげき山邊に 馬やすめ君
 
垣越《カキコユル》 犬召越《イヌヨビコシテ》 鳥獵爲公《トガリスルキミ》 青山葉《アヲヤマト》 茂山邊《シゲキヤマベニ》 馬安君《ウマヤスメキミ》
 
(垣越)犬ヲ呼ンデ來サセテ、鳥獵ニ出カケナサル貴方樣ヨ。青々トシテ木ノ茂ツテヰル山ノアタリヘ行ツタナラバ、馬ヲ休メナサイマシ、アナタ樣ヨ。アマリ元氣任セニナサラナイヤウニ、御注意ヲ願ヒマス〔アマ〜傍線〕。
 
○垣越《カキコユル》――犬の枕詞として用ゐたらしい。歌の意に關係がない。○犬召越《イヌヨビコシテ》――宣長は、「よびこしては呼令(メ)v來(ラ)て也」と言つてゐる。○青山葉《アヲヤマト》――葉の字は西本願寺本に等《ト》になつてゐるに從ふ。舊訓は青山葉茂山邊《アヲヤマノハシゲキヤマベニ》とあるが、調子が落着がない。アヲヤマトは青山としての意。
〔評〕 鳥獵に出かける夫を思つて、茂つた山の青葉の蔭では、馬を休めて行かれよと夫に注文するところである。これも妻のやさしい心根が見えてなつかしい。犬を連れて烏獵に出かける趣のわかるのも面白い。
 
1290 わたの底 沖つ玉藻の なのりその花 妹と我と ここにありと なのりその花
 
海底《ワタノソコ》 奧玉藻之《オキツタマモノ》 名乘曾花《ナノリソノハナ》 妹與吾《イモトアレト》 此何有跡《ココニアリト》 莫語之花《ナノリソノハナ》
 
(海底奧玉藻之名乘曾花)女ト私ト此處ニカウシテヰルト、決シテ人ニ告ゲテハナラヌゾ。
 
○海底《ワタノソコ》――枕詞。奧《オキ》とつづく。海の底の奥深い意。○奥玉藻之名乘曾花《オキツタマモノナノリソノハナ》――沖の玉藻である莫告藻の花の意で、ここまでは結句の莫語之花《ナノリソノハナ》を言ひ出さむ爲に用ゐたものであるから、序詞と見るべきであらう。序詞としては變體であるが、これは上下兩句を對立せしめる旋頭歌の形式に基いてゐるのである。○此何有跡《コニニアリト》――何を荷の誤とする説が多いが、何は荷の省畫で、誤ではあるまい。卷八にも、丹穂日波母安奈何《ニホヒハモアナニ》(一四二九)とある。新訓にココニイカニアリトと訓んであるのは、變つた見解である。
〔評〕 莫告藻《ナノリソ》に、な告りその意を持たせたのは、前の一二七九と似てゐるが、これは譬喩として用ゐたのでもな(422)い。海岸地方に行はれた俚謠らしい作である。
 
1291 この岡に 草苅るわらは 然な苅りそね 在りつつも 君が來まさむ みまくさにせむ
 
此崗《コノヲカニ》 草苅小子《クサカルワラハ》 然苅《シカナカリソネ》 有乍《アリツツモ》 君來座《キミガキマサム》 御馬草爲《ミマクサニセム》
 
コノ岡デ草ヲ苅ル兒ドモラヨ、サウ無暗ニ〔三字傍線〕苅ルナヨ。サウシテ置イテ、アノ御方ガ馬ニ乘ツテ〔五字傍線〕オイデニナル時ノ、オ馬ニ食ベサセル秣ニシヨウト思フ。
 
○草苅小子《クサカルワラハ》――小子はヲノコ又はコドモと訓む説もよくない。舊訓によることにする。○然苅《シカナカリソネ》――元暦校本神田本に、勿然苅となつてゐるのがよい。舊本のままでは、打消にならない。○有乍《アリツツモ》――かうして置いて。このままで。
〔評〕 全く民謠式の歌である。女性のやさしい感情が顯はれてゐる。卷四の坂上郎女の佐保河乃涯之官能小歴木莫刈烏在乍毛張之來者立隱金《サホガハノキシノツカサノシバナカリソネアリツツモハルシキタラバタチカクルガネ》(五二九)はこれと形式が似てゐる。
 
1292 江林に 宿るししやも 求むるによき 白妙の 袖まき上げて ししまつ吾が背
 
江林《エバヤシニ》 次宍也物《ヤドルシシヤモ》 求吉《モトムルニヨキ》 白栲《シロタヘノ》 袖纏上《ソデマキアゲテ》 宍待我背《シシマツワガセ》
 
江林ニ宿ツテヰル猪鹿ハ、獲ルノニタヤスイノカ。(白栲)袖ヲマクリ上ゲテ、猪鹿ノ出テ來ルノヲ待ツ吾ガ夫ヨ。
 
○江林《エバヤシニ》――江場椰子は代匠記・略解には地名とあり、古義は、「奥深からぬ林の義なるべし」といつてゐるが、よくわからない。或は文字通り江に面した林か。○次宍也物求吉《ヤドルシシヤモモトムルニヨキ》――次は舊訓ヤドルとあるのでよいであらう。集中他にこの字をさうよんだところはないが、歳次などの次でヤドルとよむ字である。宍は猪鹿の借字、宣長が、伏宍也物來告の誤として、フセルシシヤモキヌトヅゲケムであらうといつてゐるのは從ひ難い説だ。○白栲《シロタヘノ》――枕詞。袖に冠す。古くは衣服は白布を以て作るのを常としたからである。
〔評〕 少し意味の曖昧なところもあり、又寓意がありさうでもあるが、恐らく文字通りに解せば足るのであらう。(423)吾が夫がまくり手して狩に出かける姿を見送つて、妻たる我に心引かれないことに對して、淡い不服を述べたやうな歌である。狩獵生活にいそしんでゐた、民衆の間に謠はれたらしい歌である。
 
1293 霰降り 遠つあふみの 阿渡川楊 苅れども またも生ふとふ 阿渡川楊
 
丸雪降《アラレフリ》 遠江《トホツアフミノ》 吾跡川楊《アドカハヤナギ》 雖苅《カレドモ》 亦生云《マタモオフトフ》 余跡川楊《アドカハヤナギ》
 
(丸雪降)遠イ近江ノ安曇川ノ川楊ヨ。イクラ苅ツテモ又スダニ後カラ〔六字傍線〕生エルト云フ、安曇川ノ川楊ヨ。アノ楊ノヤウニイクラ思ヒ切ツテモ、後カラ後カラ戀シクナルノハ困ツタモノダ〔アノ〜傍線〕。
 
○丸雪降《アラレフリ》――枕詞。遠江《トホツアフミ》に冠してあるが、その理由が明らかでない。冠辭考に、「允恭記に『篠葉にうつや霞のたしたしにゐねてむ後は』てふは、霰の篠葉打つ音はたしたしとも、てしてしとも、はしはしとも聞ゆるを、女君と慥に相寢することにいひよせ給へり。これに依るに今は霰降りたし〔二字右○〕といふ意にて遠つとは言ひ掛けしと見ゆ。遠しとたしと自ら音の通ふなり。」とあるのは、むつかしい説である。古義に「遠つと續けたるは、霞降り飛びうつといふ意に續けたるなるべし云々」とあるのも、物遠いやうだ。(424)恐らく霰の零る音が、とほとほと聞えるのであらうと思はれる。霰を丸雪と書いたのは面白い。○遠江《トホツアフミノ》――東海道の遠江國とする説も、靈異記下卷に、近江國坂田郡遠江里有2一富人1姓名未詳也」とあるによつて、近江坂田郡の地名とする説も共に誤つてゐる。吾跡川は卷九に高島之阿渡河波者驟鞆《タカシマノアトカハナミハサワゲドモ》(一二九〇)とあるから、近江高島郡である。信濃漫録に「門人御園常言がいはく、日本靈異記に近江國坂田郡遠江の里とあるを見れば、坂田郡と高島郡とはもと隣れる郡にて、あど川は兩郡に跨る川にてやありけむ、故にとほつあふみのあど川とも、たか島のあど川ともよめるなるべし」とあるのは、地理を辯ぜざる妄説である。坂田郡は湖東で、高島郡は湖西で、しかも安曇川は高島郡の南部にあるのであるから、坂田郡とは湖水を隔て相對してゐるのである。三〇の近江全圖參照。トホツアフミは即ち遠くの近江で、近江の國の、都から遠き方の意である。卷十一に霰零遠津大浦爾縁浪《アラレフリトホツオホウラニヨスルナミ》(二七二九)とある大浦も、トホツアフミの大浦で、高島郡に隣れる伊香郡に屬し、鹽津灣に面してゐるところである。○吾跡川楊《アドカハヤナギ》――吾跡川は今、安曇川と書く、比良連峯の西麓、朽木谷の奥から發して北流し、朽木の附近から東に折れ、船木に至つて湖水に注いでゐる。楊は川楊・猫楊の類で、枝のしだれた柳ではない。しだれ柳は集中に詠まれてゐるが、もと外來種で庭園に植ゑられたものである。寫眞は川楊の茂つた安曇川風景である。○雖苅《カレドモ》――舊訓カリツトモ、考カレリトモ、略カレレドモとあるが、カレドモと訓むがよい。
〔評〕 極めて明瞭な歌であるが、ただ川楊を詠んだものか、何等か寓意があるのか、兩樣に考へられるが、恐らく後者で、思ひ切らうとして切り得ない戀の心を詠んだものであらう。これも民謠らしい面白い歌である。
 
1294 朝づく日 向ひの山に 月立てり見ゆ 遠妻を 持ちたる人し 見つつしぬばむ
 
朝月日《アサヅクヒ》 向山《ムカヒノヤマニ》 月立所見《ツキタテリミユ》 遠妻《トホヅマヲ》 持在人《モチタルヒトシ》 看乍偲《ミツツシヌバム》
 
(朝月日)向ヒノ山ニ月ガ出ルノガ見エル。遠クノ方ニ思フ妻ヲ置イテ、戀ヒ焦レテ〔五字傍線〕ヰル人ハ、コノ月ヲ見テ、妻ノコトヲ〔五字傍線〕思ヒ出スデアラウ。
 
○朝月日《アサヅクヒ》――枕詞。向ひとつづくのは、人が朝日に向つて拜する意である、朝づく日は朝となる日、即ち朝日に同じ。夕づく日に對する語である。○月立所見《ツキタテリミユ》――舊訓ツキタチテミユ、略解はツキタテルミユとあるが、タ(425)テリとよむべきである。船出爲利所見《フナデセリミユ》(一〇〇三)參照。
〔評〕 向ひの山から昇つた月を見て、遠方に妻と離れてゐる人の心中を忖度し、同情したものである。月に對して遠き人を思ふのは人情の常で、かの「三五夜中新月色、二千里外故人心」といふ詩に一致してゐる。
 
右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
右の二十三首の書き方は、確かに人麻呂歌集所出の他の歌と一致してゐる。併し作の内容その他から觀察すると、人麿の自作でなく、民謠風のものが多くを占めてゐる。
 
1295 春日なる 三笠の山に 月の船出づ みやびをの 飲む酒杯に 影に見えつつ
 
春日在《カスガナル》 三笠乃山二《ミカサノヤマニ》 月船出《ツキノフネイヅ》 遊士之《ミヤビヲノ》 飲酒杯爾《ノムサカヅキニ》 陰爾所見管《カゲニミエツツ》
 
春日ニアル三笠ノ山ニ月ノ船ガ出タ。月ノ出ルノヲ見テ酒モリヲシテヰル〔月ノ〜傍線〕風流男ノ飲ンデヰル盃ニ、月ノ陰ガ映ツテ見エテヰル〔二字傍線〕。
 
○月船出《ツキノフネイヅ》――月を船に譬へたので、前に天海丹雲之波立月船星之林丹※[手偏+旁]隱所見《アメノウミニクモノナミタチツキノフネホシノハヤシニコギカクルミユ》(一〇六八)とあつたものと同樣である。○遊士之《ミヤビヲノ》――風流男。文人雅客。遊士跡《ミヤビヲト》(一二六)・遊士之《ミヤビヲノ》(一〇一六・一四二九)などの例がある。○陰爾所見管《カゲニミエツツ》――陰爾《カゲニ》は影としての意。月が酒杯に映つてゐること。
〔評〕 これは文人氣取りの歌で、月見の宴に大杯を擧げて吟じたらしい作だ。これに寓意があるやうに古義にいつてゐるのは、途方もない誤解である。
 
譬喩歌
 
目録には、寄衣八首・寄絲一首・寄和琴一首・寄弓二首・寄玉十六首・寄山五首・寄木八首・寄草十七首・寄花七首・寄稻一首(以下略)とある。これはこの部の同一題目のものを類別して計へたので、始めから、さうした順序になつてゐたのではあるまい。一つ題を二所に分けてあげてあるのは、(426)寫しあやまりだと略解にあるのは、輕卒な斷定であう。これは始の十五首は人麿歌集から取つたので、題も共に原形のままここに記したから、かうなつたのである。卷十一・卷十二にも、人麿歌集を別に取扱つてゐる。
 
寄衣
 
1296 今造る 斑の衣 目につきて 我に思ほゆ 未だ著ねども
 
今造《イマツクル》 斑衣服《マダラノコロモ》 面就《メニツキテ》 吾爾所念《ワレニオモホユ》 未服友《イマダキネドモ》
 
今造ツタバカリノ新ラシイ〔四字傍線〕斑ニ摺ツタ着物ハ、未ダ着ナイケレドモ、私ハ始終目ノ前ニチラツイテヰルヤウナ氣ガスル。未ダ逢ツテハ見ナイケレドモ、女ノ美シイ姿ガ目ノ前ニ見エテ戀シク思ハレルヨ〔未ダ〜傍線〕。
 
○今造《イマツクル》――略解にアタラシキとあるのは、童蒙抄によつたものか。代匠記にイマツクルとあるのがよい。○斑衣服《マダラノコロモ》――斑色の摺衣である。○面就《メニツキテ》――舊訓メニツクトとあるのを、略解にあげた宣長説には、オモヅキテとよんで、「われによく似あひたる衣と思はるるといふ意也」とあるが、契沖に從つてメニツキテと訓まう。卷一にメニツクワガセ》(一九)とある。
〔評〕 女を斑の摺衣に譬へたものである。全く暗喩になつてゐて、巧な作である。
 
1297 くれなゐに 衣しめまく 欲しけども きて匂はばや 人の知るべき
 
紅《クレナヰニ》 衣染《コロモシメマク》 雖欲《ホシケドモ》 著丹穗哉《キテニホハバヤ》 人可知《ヒトノシルベク》
 
紅花デ着物ヲ染メヨウト思フガ、ソノ着物ヲ着テ見テ、色ガ美シカツタラ、スグ人ノ目ニツクデアラウ。アノ女ト逢ハウト思フガ、サウシタラスグ人ニ悟ラレルダラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○紅《クレナヰニ》――クレナヰで。紅は紅花、即ち末摘花のこと。又六八三參照。○著丹穗哉《キテニホハバヤ》――衣を着てその色が美しいならば。著は集中ツク又はキルとよんである。ここも衣爾著成《キヌニツクナス》(一九)などの例によつて、ツキニホハバヤとよ(427)んでもよいやうであるが、麻衣著《アサゴロモキテ》(一九九)の例により、舊訓を尊重して置いた。
〔評〕 女を紅染の衣に譬へたのは、まことにふさはしい。上品な優雅な作である。
 
1298 かにかくに 人は言ふとも 織りつがむ 吾がはた物の 白麻衣
 
千名《カニカクニ》 人雖云《ヒトハイフトモ》 織次《オリツガム》 我二十物《ワガハタモノノ》 白麻衣《シロアサゴロモ》
 
イロイロト人ガ言ヒ騷グトモ、、私ハ〔二字傍線〕私ノ織物ノ白イ麻衣ヲ、カマハズニ織リツヅケヨウト思フ。何ト人ニ言ハレテモ、私ハ私ノ戀ヲ繼續シテ行カウ〔ト思〜傍線〕。
 
○千名《カニカクニ》――名は古葉略類聚紗に各に作つてゐる。さうして元麿校本その他にトニカクニとよんだのが多い。して見るとこれは干各の誤で、カニカクニとよむべきであらう。干は湯鞍干《ユクラカニ》(三一七四)の例によつてカニとよむべく、各は各鑿社告《カクノミコソワガ》(三二九八)に傚つて、カクとよむべきである。舊訓チナニハモとあるのはおもしろくない。○織次《オリツガム》――織り續けようの意。○我二十物《ワガハタモノ》――二十物《ハタモノ》は機物。機にかけて織る布の類。
〔評〕 世評を恐れず戀をつづけようといふので、譬へ方からいふと女の歌らしい。卷四の云云人者雖云若狹道乃後瀬山之後毛將念君《カニカクニヒトハイフトモワカサヂノノチセノヤマノノチモアハムキミ》(七三七)に似た内容である。
 
寄玉
 
1299 あぢ群の とを寄る海に 船浮けて 白玉採ると 人に知らゆな
 
安治村《アヂムラノ》 十依海《トヲヨルウミニ》 船浮《フネウケテ》 白玉採《シラタマトルト》 人所知勿《ヒトニシラユナ》
 
味ト云フ水鳥ノ〔六字傍線〕群ガ、列ガ撓ンダヤウニナツテ、飛ビ下ル海ニ船ヲ浮ベテ、私ハ白玉ヲトルガ、ソレ〔三字傍線〕ヲ人ニ知ラレルナヨ。人目ガ多イカラ、二人ガ逢ツタコトハ、決シテ人ニ知ラレルナヨ〔人目〜傍線〕。
 
○安治村《アヂムラノ》――味群の。味は味鳧《アヂカモ》。鴨に似て小さい。二五七參照。○十依海《トヲヨルウミ》――トヲヨルは名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》(四(428)二〇)・奈用竹乃陶遠依子等者《ナヨタケノトヲヨルコラハ》(二一七)とあつて、撓み寄る意である。空から列をなし海上に降りて來るその列が、一方に撓んで見えるのを言つたのであらう。海上に浮んだ列と見るのはあたらぬやうである。古義に群依《ムレヨル》の誤としたのは、妄斷である。○白玉採《シラタマトルト》――舊訓シラタマトラムとあるが、代匠記精撰本にシラタマトルトと訓んだのに從ふ。トラムとよんでは次の句との關係がおもしろくない。
〔評〕 女を白玉に譬へてゐる。安治村十依海《アヂムラノトヲヨルウミ》といふ句が、無意味のやうで實は、口さがない衆人の環視を語つてゐるのが巧である。
 
1300 遠近の 磯の中なる 白玉を 人に知らえず 見むよしもがも
 
遠近《ヲチコチノ》 礒中在《イソノナカナル》 白玉《シラタマヲ》 人不知《ヒトニシラエズ》 見依鴨《ミムヨシモガモ》
 
ソコラノ海岸)石ノ中ニアル白玉ヲ、人ニ知ラレナイデ、見ルコトガ出來レバヨイガナア。多クノ人ノ中ニ混ツテヰル女ヲ、人ニ知ラレナイヤウニシテ、逢ヒタイモノダ〔多ク〜傍線〕。
 
○遠近《ヲチコチノ》――代匠記に「遠近は此方彼方なり。遠近とかけるによりて、つよくみるべからず」とあり、新考には「集中にヲチコチといへるには遠及近(即今の世にいふ所)と遠或近との二種あり。ここは俗語にソコラといふ意にて遠近數處の謂にあらず」とある。この歌の礒中在白玉《イソノナカナルシラタマ》は主ある女に譬へたやうに見えるから、遠近も文字通りにアチラコチラの意では解し難いやうである。新考説に從はう。○白玉《シラタマヲ》――普通は鰒白玉即ち眞珠をさすのであるが、これは美しい白い小石であらう。
〔評〕 白玉を女に譬へてゐる。礒中在《イソノナカナル》とあるのは、人の領してゐる主ある女らしいから、これは人妻を戀ふる歌である。次の三首も同樣である。併し採《ト》ると言はないで、見依鴨《ミムヨシモガモ》と言つたのは穩かである。
 
1301 わたつみの 手に纏き持たる 玉ゆゑに 磯の浦みに かづきするかも
 
海神《ワタツミノ》 手纏持在《テニマキモタル》 玉故《タマユヱニ》 石浦廻《イソノウラミニ》 潜爲鴨《カヅキスルカモ》
 
海ノ神樣ガ手ニ卷キツケテヰル玉ハ、トルコトガ出來ナイガ、ドウカシテトラウト思ツテ、ソンナ取レナイ玉〔トル〜傍線〕ダ(429)ノニ、磯ノ浦ノホトリデ水ヲ潜ルヨ。ホントニツライ。私ハ主アル女故ニ心ヲナヤマシテ、逢ハウト骨ヲ折ルヨ〔ホン〜傍線〕。
 
○手纏持在玉故《テニマキモタルタマユヱニ》――手に纏き持つてゐる玉は即ち手玉で、手首に卷いた玉の緒である。玉故《タマユヱニ》は玉だのにの意。人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》(二一)・天所知流君故爾《アメシラシヌルキミユヱニ》(二〇〇)など、この類の「故に」がかなり多い。
〔評〕 人妻を戀ふる歌。海の神の手に纏いて持つてゐる玉に譬へたのは巧だ。それに近づき難い恐ろしさと、その女の主が、女を愛撫して手放さない面影とを、髣髴たらしめるものがある。
 
1302 わたつみの 持たる白玉 見まくほり 千度ぞ告りし かづきする海人
 
海神《ワタツミノ》 持在白玉《モタルシラタマ》 見欲《ミマクホリ》 千遍告《チタビゾノリシ》 潜爲海子《カヅキスルアマ》
 
海ノ神ガ持ツテヰル白玉ガ見タイノデ、水ヲ潜ル海人ハ見セテ下サイト〔七字傍線〕、千度モ申シマシタ。私ハ主アル女ニ逢ヒタサニ、千遍モコチラノ心ヲ言ツテヤツタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○千遍告《チタビゾノリシ》――代匠記精撰本にチタビヅツゲシとあつて、古義も同樣によんである。これはどちらでもよいやうであるが、考に從つて置く。○潜爲海子《カヅキスルアマ》――海人にの意とも解せられるが、海人は、とする方が歌詞の上から考へて自然である。從つて海人は自分を譬へたことになる。諸註多くは媒介人のことに見てゐるが、當つてゐまい。下の一三一八の歌も、海子が自分であることを證してゐる。
〔評〕 海神の玉を用ゐたところは前の歌に似てゐる。第五句を媒介人に譬へたものとすると、前の潜爲鴨《カヅキスルカモ》の句と一致しないことになつて、都合がわるい。これは用語の上から見て、前の歌と同樣に考ふべきであらう。人妻に戀するものとも、又は親の守る女に言ひよらうとするものとも、二樣の見解がある。しばらく人妻としておく。この歌は下の底清沈有玉乎欲見千遍曾告之潜爲白水郎《ソコキヨミシヅケルタマヲミマクホリチタビソノリシカヅキスルアマ》(一三一八)と殆ど同じであるが、小異があるので別々にかかげたのであらう。且これは人麻呂歌集の出で、書體が著しく異つてゐる。
 
1303 かづきする 海人は告れども わたつみの 心し得ねば 見ゆといはなくに
 
(430)潜爲《カヅキスル》 海子雖告《アマハノレドモ》 海神《ワタツミノ》 心不得《ココロシエネバ》 所見不云《ミユトイハナクニ》
 
水ヲ潜ル海人は白玉ニ〔三字傍線〕言ツタケレドモ、白玉ハ〔三字傍線〕海ノ神様ノ心ガワカラナイカラ、逢ハウトハ言ヒマセン。アナタノオ言葉ハ聞キマシタガ、夫ノ心ガワカリマセンノデ、逢ハウトオ答ハ出來マセン〔アナ〜傍線〕。
〔評〕 前の歌に答へたやうに作つてある。女の答である。併し前にもあつた問答の歌で、自問自答のやうに見える。ともかくこの二首は同一人の作である。或はここの三首は連作になつてゐると考へることも出來る。
 
寄v木
 
1304 天雲の 棚びく山の こもりたる 吾が下ごころ 木の葉知るらむ
 
天雲《アマグモノ》 棚引山《タナビクヤマノ》 隱在《コモリタル》 吾忘《ワガシタゴコロ》 木葉知《コノハシルラム》
 
(天雲棚引山)隱レテヰル私ノ内心ハ、木ノ葉ガ知ツテヰルデセウ。アナタニハ分ツテヰルデセウ〔アナ〜傍線〕。
 
○天雲棚引山《アマグモノタナビクヤマノ》――序詞。隱《コモリ》につづいてゐる。天雲が棚引いて山が籠り隱れるからである。○吾忘《ワガシタゴコロ》――舊訓ワレワスレメヤとあるのでは解し難い。宣長が忘は下心の誤としたのが、當つてゐるであらう。
〔評〕 序詞に雲の棚引く山を用ゐたので、山の木の葉を點出して女に譬へてゐる。木葉知《コノハシルラム》があまり漠然として、さす所がないやうでもあるが、これは女に譬へたものとしなければ寄木歌とはならなくなる、卷三、眞木葉乃之奈布勢能山之奴波受而吾超去者木葉知家武《マキノハノシナフセノヤマシヌバズテワガコエユケバコノハシリケム》(二九一)に多少の類似はあるが全く別趣の歌である。
 
1305 見れど飽かぬ 人國山の 木の葉をし わが心から 懷かしみ念ふ
 
雖見不飽《ミレドアカヌ》 人國山《ヒトクニヤマノ》 木葉《コノハヲシ》 己心《ワガココロカラ》 名著念《ナツカシミモフ》
 
イクラ見テモ見飽カナイ、他ノ國ノ山ノ木ノ葉ヲ、私ハ〔二字傍線〕私ノ心カラナツカシク思フヨ。私ハ人ノ妻ヲ私ノ心カラ、ナツカシガツテ、胸ヲイタメテヰルヨ〔私ハ〜傍線〕。
 
(431)○人國山《ヒトクニヤマノ》――他の國の山。これは次の句の木葉とつづいて、人の妻に譬へたのである。契沖が下の常不人國山乃秋津野乃《ツネナラヌヒトクニヤマノアキツヌノ》(一三四五)とあるのによつて、これを芳野にあるのだらうといつてゐるが、吉野にその山がなく、却て紀伊の田邊附近にそれがあるやうに、三十三所圖會に見えてゐる。しかし遽かに信じ難いやうに思はれる。○名著念《ナツカシミモフ》――なつかしく思ふに同じで、續紀に載つてゐる、光仁天皇が藤原永手の薨去に際して賜はつた詔に、歎 美 明 美 意太比之 美 多能母志 美 思 保之川川《イソシミアキラケミオダヒシミタノモシミオモホシツツ》とあるのと同形である。
〔評〕 人妻を戀ふる歌で木の葉に譬へてある。己心《ワガココロカラ》に、はかない反省の心が見えてゐる。宣長が、己心を「是も己は下の誤にて、したのこころにと訓べし」といつてゐるのは、當らぬであらう。
 
寄v花
 
1306 この山の 黄葉の下の 花を吾が はつはつに見て かへりて戀し
 
是山《コノヤマノ》 黄葉下《モミヂノシタノ》 花矣我《ハナヲワガ》 小端見《ハツハツニミテ》 反戀《カヘリテコヒシ》
 
コノ山ノ紅葉ノ下ニ咲イテヰル花ヲ私ハ、僅カニ一寸ト見タノデ却ツテ戀シイヨ。アノ美シイ女ヲチラヅト見タバカリナノデ、却ツテ戀シサガ増シタ〔アノ〜傍線〕。
 
○花矣我《ハナヲワガ》――少しどうかと思はれる調であるが、この儘では他に訓法もなささうである。宣長は花矣を咲花の誤としてサクハナヲとし、我を次の句に讓つてゐる。○小端見《ハツハツニミテ》――小端は卷十一にも白細布袖小端《シロタヘノソデヲハツハツ》(二四一一)とあり、ハツハツは波都波郡爾人乎相見而《ハツハヅニヒトヲアヒミテ》(七〇一)・波都波都爾安比見之兒良之《ハツハツニアヒミシコラシ》(三五三七)などあつて、僅かに一寸、ほんの少しばかりなどの意。○反戀《カヘリテコヒシ》――舊訓カヘルコヒシモとあるのも、必ずしもわるくはないが、意味の上より推すに、代匠記精撰本にカヘリテコヒシとしたのがよいやうである。反は人者反而《ヒトハカヘリテ》(一四三)反見爲者《カヘリミスレバ》(四八)などカヘリ、カヘルとよんだ例が多い。宣長が反を乍の誤として下句を、ワレハツハツニミツツコヒシモとしたのは獨斷に過ぎるであらう。新訓にサラニとあるが、さうよんだ例は無い。
(432)〔評〕 美女の艶麗さをあらはす爲に、紅葉の下の花に譬へたものか。かなり濃厚な色彩である。それだけ下句の戀しさの表現が、なるほどとうなづかれる。
 
寄v川
 
1307 この川ゆ 船はゆくべく ありといへど 渡り瀬ごとに 守る人あるを
 
從此川《コノカハユ》 船可行《フネハユクベク》 雖在《アリトイヘド》 渡瀬別《ワタリセゴトニ》 守人有《モルヒトアルヲ》
 
コノ川ヲ舟デ通ヘルト言フコトダガ、渡シ場ゴトニ番ヲスル人ガアルカラ、困ツタモノダ。アノ女ハ私ニ心ヲ許シテヰルガ、親兄弟ナドガ番ヲシテヰテ、許サナイカラ困ル〔困ツ〜傍点〕。
 
○從此川《コノカハユ》――この川をに同じ。○船可行《フネハユクベク》――船で行くべくの意か、船が行くべくの意か、二樣に解釋せられる。恐らく前者で、船で渡ることが出來る意であらう。○渡瀬別《ワタリセゴトニ》――渡り瀬は渡場所、即ち渡し場で、そこを船で渡るのである。瀬は必ずしも淺瀬ではない。○守人有《モルヒトアルヲ》――守人は即ち津守である。
〔評〕 女が戀を受容れたのを、川の渡瀬で舟を渡すに譬へ、女を守る親などを、渡瀬を守るものに譬へて、巧妙に無理なく出來てゐる。
 
寄v海
 
1308 大海の さもらふ水門 事しあらば いづへゆ君が わをゐしぬがむ
 
大海《オホウミノ》 候水門《サモラフミナト》 事有《コトシアラバ》 從何方君《イヅヘユキミガ》 吾率陵《ワヲヰシヌガム》
 
大海ノ船ガ〔二字傍線〕、船ガカリヲシテヰル湊デ、何カ事ガ起ツタナラバ、何處ヘ貴方ハ私ヲ連レテ遁ゲテ下サルカ。カウシテ二人デ人目ヲ忍ンデヰテ、ソレガ分ツタナラバ、貴方ハ何處ヘ私ヲ連レテ遁ゲテ下サルオツモリデスカ〔カウ〜傍線〕。
 
(433)○大海《オホウミノ》――舊訓はオホウミヲとある。新訓は元暦校本に船とあるによつてゐるが、これをさう改めては寄海といふ題に添はぬことになるから、海がよい。元暦校本にも右に赭で海とあるのは、後で正したのであらう。○候水門《サモラフミナト》――候は立候《タチサモラヒ》(四四三)・時候跡《トキサモラフト》(二〇九二)などによつて、サモラフとよむべきである。サモラフは舟を假泊して天氣を見てゐること。卷三に待從爾《サモラニ》(三八八)とある。舊訓マモルミナトノとあるのを、宣長はミナトヲマモルとよんでゐる。○吾率陵《ワヲヰシヌガム》――陵は浚又は凌に作る本が多いから、シヌガムである。考に隱の誤として、アヲヰカクサムとしたのは當らない。シヌグは高山之菅葉之努藝零雪之《タカヤマノスガノハシヌギフルユキノ》(一六五五)・宇陀乃野之秋芽子師弩藝鳴鹿毛《ウダノヌノアキハギシヌギナクシカモ》(一六〇九)などの例があつて、シノグに同じ。この句は我を率て行きて難を避けるであらうかの意。
〔評〕 上句の譬喩が物々しく、無氣味な感を起させる。類の少い珍らしい歌である。
 
1309 風吹きて 海は荒るとも 明日と言はば 久しかるべし 君がまにまに
 
風吹《カゼフキテ》 海荒《ウミハアルトモ》 明日言《アストイハバ》 應久《ヒサシカルベシ》 君隨《キミガマニマニ》
 
風ガ吹イテ海ハ荒レテモ、明日ヲ待ツテヰテハ待チ遠ダラウ。デスカラ〔四字傍線〕貴方ノオ心次第デ、今日ニシマセウ。今日ハ邪魔ガ入ルカモ知レナイガ、明日ト言ツテハ待チ遠イカラ、貴方ノオ心次第デ今日逢フコトニシマセウ〔今日ニ〜傍線〕。
 
○風吹海荒《カゼフキテウミハアルトモ》――二人相會ふことに故障が起るのを、風が吹いて海に波が立つて、船出し難いのに譬へたもの。
〔評〕 これははつきした歌で、他の譬喩よりもわかり易い。下の三句に譬喩の意が無いやうにも見られるが、さうではなく、全躰的の暗喩と見てよいであらう。
 
1310 雲隱る 小島の神の かしこけば 目は隔つれど 心隔てめや
 
雲隱《クモガクル》 小島神之《コジマノカミノ》 恐者《カシコケバ》 目間《メハヘダツレド》 心間哉《ココロヘタテメヤ》
 
雲ニ隱レテヰル、小島ニ鎭座シテヰル神樣ノヤウニ、貴方ノ番ヲスル親ナドガ〔貴方〜傍線〕恐ロシイノデ、相距ツテヰテ逢フコトハ出來ナイガ、心ハ距テヨウカ。決シテ距テハセヌゾ。安心シテヰナサイ〔決シ〜傍線〕。
 
(434)○雪隱小島神之《クモガクルコジマノカミノ》――雲に隱れて見えない、沖の小島に祀られてゐる神のやうに恐ろしい意。沖行く船は海中の小島の神に幣を捧げて、航路の安全を祈つたのである。卷五に宇奈原能邊爾母奧爾母神津麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等《ウナバラノヘニモオキニモカムヅマリウシハキイマスモロモロノオホミカミタチ》(八九四)とある沖にうしはきいます神である。○目間《メハヘダツレド》――逢はぬけれどもの意。○心間哉《ココロヘダテメヤ》――心は距てんや拒てはせじの意。代匠記にココロヘダツヤとよんだのに、略解・古義は從つてゐるが、少し語法に無理があるやうであるから、新訓に從つて置く。
〔評〕 寄海とあるが海といふ文字はない。併し上句に海中の小島の神に寄せてゐるから、もとよりこれでよいのである。親など守るものを小島の神に譬へたのは、如何にも恐ろしさうで面白い。この歌は初二句のみが直喩となつてゐる。
 
右十五首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
右の十五首の書體は字數が著しく尠く、中には十一字に過ぎないものすらある。これが人麿歌集の特徴である。
 
寄v衣
 
1311 橡の 衣は人皆 こと無しと いひし時より 着欲しく念ほゆ
 
橡《ツルバミノ》 衣人皆《キヌハヒトミナ》 事無跡《コトナシト》 曰師時從《イヒシトキヨリ》 欲服所念《キホシクオモホユ》
 
橡ノ着物ヲ着ル身分ノ賤シイ〔九字傍線〕人ハ誰デモ、何モ心配〔四字傍線〕事ガナイト人ガ言ツタ時カラ、自分モ〔三字傍線〕橡ノ着物ガ着タクナツタ。コノ思ヒニ惱ムヨリハ、賤者ニナリタイモノダ〔コノ〜傍線〕。
 
○橡《ツルバミノ》――どんぐりの古名。和名抄に「橡 都流波美 櫟實也」とある。どんぐりの煎汁に鐵媒染を行つて、黒染としたもの。その當時の賤者の服色であつた。○衣人皆《キヌハヒトミナ》――舊本、皆を者に作つて、キヌキルヒトハと訓んで(435)ゐるが、元暦校本その他古寫本多くは皆に作つてゐるから、それに從つて訓むことにした。橡色の衣を著る者は皆の意であらう。○事無跡《コトナシト》――故障がない、心配事が無いの意。○曰師時從《イヒシトキヨリ》――人の言ひし時よりの意。上の人皆を主語としてゐるのではない。
〔評〕 賤者の服たる橡の衣が、材料として取扱はれてゐるのは、文化史的に見てまことに面白い。黒い色の着物を着て、働いてゐる人たちを見て、その物思ひなささうなのを羨んだのは、生活苦を知らない、上流階級の人の作らしい。これは衣を歌材としたまでて、眞の譬喩にはなつてゐない。
 
1312 おほよそに 我し念はば 下に着て なれにしきぬを 取りて著めやも
 
凡爾《オホヨソニ》 吾之念者《ワレシオモハバ》 下服而《シタニキテ》 穢爾師衣乎《ナレニシキヌヲ》 取而將著八方《トリテキメヤモ》
 
普通大抵ニ私ガ思ツテヰルノナラ、下着ニシテ古クナツタ着物ヲ、又更ニ〔三字傍線〕取ツテ上ニ〔二字傍線〕着ヨウカ。ソンナ古着物ナドハ着ナイ筈ダ。一通ニ愛シテヰルノナラバ オマヘノヤウナ古馴染ノ女ヲ、取リ上ゲテ妻ニシヨウカ。決シテシハセヌゾ〔ソン〜傍線〕。
 
○凡爾《オホヨソニ》――オホロカニと訓む説もある。しかしオホロカは凡可爾《オホロカニ》(九七四)の如く書いてあるから、凡爾とあるのはオホヨソニがよいのではないか。且、オホロカは疎《オロソ》かの意であり、オホヨソは普通大抵などの意で少し違ふやうである。なほ集中オホヨソと表音的に記されてゐるものはないが、卷五の意余斯遠波《ヲヨシヲバ》(八〇四)はオヨソハと同語らしいから、オホヨソも用ゐられてゐたのである。○穢爾師衣乎《ナレニシキヌヲ》――奈禮爾之伎奴爾《ナレニシキヌニ》(四一〇九)とあるから穢はナレと訓むのである。奈禮其呂母《ナレゴロモ》(三六二五)ともあつて、着古した着物である。
〔評〕 永い間密かに通つてゐた女を、正式の妻としようとする時の歌であらう。既に盛過ぎた女ながら、これを妻としようとする誠意を述べたものである。古義に「これはいやしき婢などを久しくなれうつくしみて、妻とする時よめるか」とあるが、婢とばかりは言はれまい。
 
1313 くれなゐの 深染のきぬ 下に著て 上に取り著ば 言なさむかも
 
紅之《クレナヰノ》 深染之衣《フカゾメノキヌ》 下著而《シタニキテ》 上取著者《ウヘニトリキバ》 事將成鴨《コトナサムカモ》
 
(436)紅デ濃ク染メタ着物ヲ、下ニ着テヰタノヲ上ニ着タナラバ、評判ガ立ツダラウナア。今マデ内密デ通ツテヰタ女ヲ表向キニ妻トシタラ、嘸評判ガ立ツデアラウナア〔今マ〜傍線〕。
 
○深染之衣《フカゾメノキヌ》――舊訓コゾメノコロモとあるが、色にはフカといふ場合が多く、深はフカとのみ訓まれてゐるから、新訓に從ふことにした。○事將成鴨《コトナサムカモ》――言葉に言ひ騷ぐであらうかの意。彼所毛加人之吾乎事將成《ソコモカヒトノワヲコトナサム》(五一二)とあり、下の一三二九にも同樣の句がある。
〔評〕 前の歌とつづいたもののやうでもあるが、必ずしもさう見ないでよい。今までの隱し妻を紅の深染衣に譬へて、これを上に着たならば、人に言ひ騷がれるであらうと言つたのは、實に適切な譬喩である。調が安らかに穩かに出來てゐる。
 
1314 橡の 解あらひ衣の あやしくも 殊に著ほしき この夕かも
 
橡《ツルバミノ》 解濯衣之《トキアラヒギヌノ》 恠《アヤシクモ》 殊欲服《コトニキホシキ》 此暮可聞《コノユフベカモ》
 
橡色ノ解イテ洗ツタ着物ガ、不思議ニモ、格別今晩ハ着テ見タイヨ。着レバ物思ガナイト云フ、橡色ノ着物ヲ着テ、今夜ハドウカシテ物思ヲ忘レタイト思フ〔着レ〜傍線〕。
 
○解濯衣之《トキアラヒギヌノ》――解いて洗濯した衣、即ち仕立直した着物。橡色の下等な着物の、その仕立直しであるから、最も賤しい見すぼらしいものである。○殊欲服《コトニキホシキ》――代匠記初稿本ケニキマホシキ、古義ケニキホシケキとある。殊は集中コトニともケニとも訓んであるが。ここはコトニがよいやうである。
〔評〕 前の橡衣人皆《ツルバミノキヌハヒトミナ》(一三一一)の歌と同想で、賤者の衣たる橡の衣の、その解き洗ひ衣であるから、更に見苦しい衣で、これを着ればただの橡の衣以上に、苦しい戀から解放せられるわけである。あまりの苦しさに堪へかねて、その着物を着たいと希望するのである。これも上流人の作である。略解に「中絶たる人をまたおもひ出るをたとふ」とあるのは解濯衣を誤解したものだ。
 
1315 橘の 島にし居れば 河遠み 曝さず縫ひし 吾が下衣
 
(437)橘之《タチバナノ》 島爾之居者《シマニシヲレバ》 河遠《カハトホミ》 不曝縫之《サラサズヌヒシ》 吾下衣《ワガシタゴロモ》
 
私ハ〔二字傍線〕橘ノ島ニヰルノデ、河ガ遠イカラ、晒シモシナイデ縫ツタ私ノコノ下着ヨ。私ハコノ女ヲ一寸見タバカリデ、直ニ、妻トシテシマツタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○橘之島爾之居者《タチバナノシマニシヲレバ》――橘は大和高市郡高市村大字橘の地で、即ち橘寺のあるところである。島は今、鳥の庄と稱する地で、同じく高市村の大字になつてゐる。この歌で見ると、上古は今の島の庄あたりをも橘と稱したらしい。○河遠《カハトホミ》――橘の島を以上の如く解すれば、そこは飛鳥川の東岸の地で、河には遠くない。書紀によれば、蘇我馬子は飛鳥川の傍に家を作つて、庭中に池を作り島を築いたので、時の人が島の大臣と呼んだとある。今島の庄に、その舊地と思はれるところがあるとせられてゐるし、又卷二の日並皇子の島の宮もここにあつたので、同じく飛鳥川の水を曳いて池水を湛へたらしい。これらから考へるとこの橘の島は他に求むべきものか。新考に「島爾之不居者《シマニシヰネバ》とありし、不のおちたるにあらざるか」とあるのも遽かに賛成し難い。○不曝縫之《サラサズヌヒシ》――古は布を織りあげたものは、必ず河水などに洒して、日に干して縫つたのである。この句は何を譬へたものか明瞭でない。代匠記初稿本には、「種姓高貴の人をもあひすまんとおもへど、よしのなければさらぬ人を下におもふをたとふるにや」と言つたが、同じく清撰本には「河の遠くてさらさぬをば、あらはして妻と定むべき由のなきに譬へ、さらさずながら下衣に縫をばしのびしのびに逢に喩へたるか」と説を改めてゐる。略解に、「さらさずとは、あらはさぬをたとふるなるべし」と言ひ、古義には、「人遠くはなれたる地にゐたる故に、仲媒などをも立て、婚娶の禮を、ととのへたるにはあらで、其儘妻とせるよしをたとへいへるか」とある。そのいづれも從ひ難いから、予は、女を見て何等深く究めることもしないで、直ちに妻としたことを言つたものと解したいと思ふ。
〔評〕 寓意が不鮮明であるが、表面的には、まことにはつきりした表現になつてゐる。寓意を右のやうにすると、唐突の中に妻を定めて、納まりかへつてゐる姿である。
 
(438)寄v絲
 
1316 河内女の 手染の糸を くりかへし 片糸にあれど 絶えむと念へや
 
河内女之《カフチメノ》 手染之絲乎《テゾメノイトヲ》 絡反《クリカヘシ》 片絲爾雖有《カタイトニアレド》 將絶跡念也《タエムトオモヘヤ》
 
河内ノ國ノ女ガ作ル、手染メノ糸ヲ繰リ返シ繰リ返シスルガ、縒リ合ハセテナイ〔スル〜傍線〕片糸デハアルガ、決シテ切レヨウトハ思ハナイ。私ハ片思デハアルガ、繰リ返シ繰リ返シ、アノ人ト切レナイツモリダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○河内女之《カフチメノ》――河内の國の女が。河内は糸を産したものと見える。後世河内木綿を産したのは、上代の名殘か。○手染絲之乎《テゾメノイトヲ》――乎染は自分で染めること。○絡反《クリカヘシ》――絡は下に、何時鴨絡而《イツカモクリテ》(一三四六)とも用ゐてある。○片絲爾雖有《カタイトニアレド》――片絲は繰り合せてない、ひとこの絲。○將絶跡念也《タエムトオモヘヤ》――絶えむと思はむや、絶えむとは思はじの意であるが、念ふは輕く見るがよい。
〔評〕 繰《ク》り・絶えなどの糸に關係した語が、そのまま心のはたらきをあらはしてゐるのは巧なものである。温藉な調を以て、堅い心の盟を述べて、何となく物哀れな情緒がただよつてゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
寄v玉
 
1317 わたの底 しづく白玉 風吹きて 海は荒るとも 取らずは止まじ
 
海底《ワタノソコ》 沈白玉《シヅクシラタマ》 風吹而《カゼフキテ》 海者雖荒《ウミハアルトモ》 不取者不止《トラズハヤマジ》
 
海ノ底ニ沈ンデヰル白玉ヲ、風ガ吹イテ海ガ荒レテモ、私ハ取ラズニハ置キマスマイ。人ガドンナニ喧マシク言ツテモ、逢ヒ難イ女ニ逢ハナイデハ置カナイツモリダ〔人ガ〜傍線〕。
 
○沈白玉《シヅクシラタマ》――沈をシヅクとよんでゐる。この語は、靜か・沈む・鎭まる・沈むる・下《シタ》・滴《シタタ》る・下垂《シダ》る・雫《シヅク》・幣《シデ》などの語(439)源たるシヅ(下・賤)から出た語であるから、沈むことに違ひない。多くは沈んでゐる状態を言つてゐるやうに思はれる。宣長が古今集遠鏡卷五「水の面にしづく花の色」の歌の解に「しづくは物の水の中に見ゆることなり。萬葉に多し。其歌どもを考へて知べし。然るを或は沈浮なりといひ、或は沈むなりといふは、皆ひがことなり。萬葉にまれに沈《シヅク》とかけるところのあるは、借りて書る字なり。ただ沈むことを、しづくといへることなし」とあるのは、あまり狹く限つた説のやうである。略解には「しづくはしづけるを約云にて、沈みて有也」とある。白玉は白い小石であらう。
〔評〕 女を海底の白玉に譬へ萬難を排してこれを獲ようとする決心を述べてゐる。直線的な雄勁な格調である。
 
1318 底清み しづける玉を 見まくほり 千度ぞ告りし かづきする海人
 
底清《ソコキヨミ》 沈有玉乎《シヅケルタマヲ》 欲見《ミマクホリ》 千遍曾告之《チタビゾノリシ》 潜爲白水郎《カヅキスルアマ》
 
海ノ〔二字傍線〕底ガ清イノデ、底ニ〔二字傍線〕沈ンデヰル玉ガ見タサニ、水ヲ潜ル海人ハ、何度モ何度モ自分ノ考ヲ〔五字傍線〕申シマシタ。私ハ親ナドガ守ツテヰル女ニ逢ヒタサニ、何度モ申込ミマシタ〔私ハ〜傍線〕。
〔評〕 これは海神持在白玉見欲干遍告潜爲海子《ワタツミノモタルシヲタマミマクホリチタビゾノリシカヅキスルアマ》(一三〇二)と初二句が違ふのみである。しかも前の歌では、海神に告ることになつてゐるので、潜きする海人が自然に出來てゐるが、この歌では無理があるやうに思はれる。
 
1319 大海の 水底照らし しづく玉 齋ひて採らむ 風な吹きそね
 
大海之《オホウミノ》 水底照之《ミナゾコテラシ》 石著玉《シヅクタマ》 齋而將採《イハヒテトラム》 風莫吹行年《カゼナフキソネ》
 
大海ノ底ヲ照ラスヤウ光ヲ〔五字傍線〕放ツテ沈ンデヰル玉ヲ、神ニ祈ツテ取ラウト思フ。ダカラ〔三字傍線〕風ヨ吹クナヨ。私ガ戀ヒシテヰル美人ヲ、私ハ神樣ニ願ヲ立テテ、ウマク手ニ入レヨウト思フガ、邪魔ヲスルナヨ〔私ガ〜傍線〕。
 
○齋而將採《イハヒテトラム》――イハヒテは神に祈つて。○風莫吹行年《カゼナフキソネ》――舊訓|行年《コソ》とあるが、無理な訓である。行年《ソネ》は所年の誤であらうと宣長が言つたのがよい。この用字例は集中に五ケ所ある。ソネは住吉出見濱柴莫苅曾尼《スミノエノイデミノハマノシバナカリソネ》(一二七四)・難波方鹽干勿有曾禰《ナニハガタシホヒナアリソネ》(二三九)・日賣菅原草莫苅嫌《ヒメスガハラノクサナカリソネ》(一二七七)など例多く、禁止のナに呼應したソに、感嘆のヨと同意(440)のネを添へたのでる。
〔評〕 水底照ししづく玉は、女の美をあらはし、大海のと置いて、齋ひて採らむと言つたのは、女を獲ることの困難と、冐險とを思はしめる。譬喩がはつきりとよく出來てゐる。
 
1320 水底に しずく白玉 誰ゆゑに 心つくして 吾が念はなくに
 
水底爾《ミナソコニ》 沈白玉《シヅクシラタマ》 誰故《タレユヱニ》 心盡而《ココロツクシテ》 吾不念爾《ワガモハナクニ》
 
水ノ底ニ沈ンデヰル白玉ヲ私ハナツカシク思フガ〔十字傍線〕、誰故ニ私ハ心ヲ盡シテ思ハウゾ、唯アノ白玉ノ故ダゾ。私ハアノ女故ニコソ心ヲ痛メテヰルノダ、別ニ誰ノ爲デモナイ〔唯ア〜傍線〕。
 
○吾不念爾《ワガモハナクニ》――吾は思ひはせぬよの意で、吾は思はむと反語的に言ふべきを、かくの如く詠嘆的に言ふのである。
〔評〕 三句以下は朝霜之消安命爲誰千歳毛欲得跡吾念莫國《アサシモノケヤスキイノチタガタメニチトセモガモトワガモハナクニ》(一三七五)と似てゐ、且、古今集戀四の、「みちのくのしのぶもぢずり誰故にみだれむと思ふ我ならなくに」と同じ言ひ方である。この歌仙覺抄に濱成式を引いて、美那曾己幣旨都倶旨羅他麻他我由惠爾己己呂都倶旨弖和我母波那倶爾《ミナソコヘシヅクシラタマタガユヱニココロヅクシテワガモハナクニ》と載せてゐる。
 
1321 世の中は 常かくのみか 結びてし 白玉の緒の 絶ゆらく思ば
 
世間《ヨノナカハ》 常加是耳加《ツネカクノミカ》 結大王《ムスビテシ》 白玉之緒《シラタマノヲノ》 絶樂思者《タユラクオモヘバ》
 
(441)結ンデ置イタ白玉ノ玉ノ緒ガ絶エタガ、ソレ〔四字傍線〕ヲ考ヘテ見レバ、世ノ中ト云フモノハ常ニコンナモノダラサウカ。女ト深イ約束ヲシテ置イタノニ、ソレガ駄目ニナツテシマツタ。コレガ世ノ中ノ人情ノ常ナノダラウカ。實ニ薄情揃ヒノ世ノ中ダ〔女ト〜傍線〕。
 
○結大王《ムスビテシ》――大王をテシと訓むのは、羲之をテシとよむのと同じで、王羲之は手師(書家)として尊ばれたが、これを王獻之と區別して大王と言つたのである。この用字例はなほ多い、ここに大小王眞跡書一卷を献じた東大寺献物帳の寫眞を挿入して置いた。○絶樂思者《タユラクオモヘバ》――ラクはルの延言。
〔評〕 女との別れを、白玉の緒絶に譬へてゐるのは。いたいたしくも亦美しい感じがある。世間常如是耳加《ヨノナカハツネカクノミカ》は、はかないあきらめの嗟嘆の聲である。
 
1322 伊勢の海の 海人の島津が 鰒玉 取りて後もか 戀の繁けむ
 
伊勢海之《イセノウミノ》 白水郎之島津我《アマノシマツガ》 鰒玉《アハビタマ》 取而後毛可《トリテノチモカ》 戀之將繁《コヒノシゲケム》
 
伊勢ノ海ノ海人ノ島津ト云フモノガ鰒ノ玉ヲ、取ツタソウダガ、ソノ鰒ノ玉ヲ〔取ツ〜傍線〕取リ上ゲテ見タ後、私ハ玉ガ美シイノデ、益々〔私ハ〜傍線〕戀ノ心ガ盛ニナルデアラウカ。私ハ私ノ思フ女ヲ手ニ取レテ後ハ、愈々戀シク思フデアラサカ〔私ハ〜傍線〕。
 
○伊勢海之白水郎之島津我《イセノウミノアマノシマツガ》――伊勢の海人の島津といふ者がの意か。島津は海人の名らしく思はれる。仙覺は島人のこととしてゐるが、言葉のつづきがさうらしくない。略解に「島は鳥の誤。我は流の草書より誤りて、アマガトリツルなるべし」とあるは從ひ難い。島津といふ海人が鰒玉を採つた傳説があつたのであらう。○鰒玉鮫《アハビタマ》――鰒の貝の中に藏する玉、即ち眞珠。鰒は鮑・石決明に同じ。
〔評〕 少し意味の不明瞭な點もあるが、女を鮑玉に譬へたことは明かで、逢うて後更に戀のいや益すことを想像したものである。取材は頗る面白いが、島津に關する傳説がわからないのが遺憾である。
 
1323 わたの底 おきつ白玉 よしを無み 常かくのみや 戀ひわたりなむ
 
海之底《ワタノソコ》 奥津白玉《オキツシラタマ》 緑乎無三《ヨシヲナミ》 常如此耳也《ツネカクノミヤ》 戀度味試《コヒワタリナム》
 
(442)(海之底)沖ニアル白玉ヲ取ルニモ取ル〔七字傍線〕方法ガナイノデ、イツデモコンナニ戀ヒ慕ツテバカリヰルコトダラウカ。寄リツキ難イ所ニヰル女ヲ戀ヒシテモ、何トモシヤウガナイノデ、私ハ戀ヒ焦レテバカリヰルデアラウカ。ツライコトダ〔寄リ〜傍線〕。
 
○海之底《ワタノソコ》――枕詞。ここは枕詞とせずともよいやうに見えるかも知れないが、さうではない。海底奥玉藻之《ワタノソコオキツタマモノ》(一二九〇)と同樣である。○縁乎無三《ヨシヲナミ》――取るべき方法が無いからの意。○戀度味試《コヒワタリナム》――味試をナムと訓ませたのは、味を試みて嘗《ナ》める意である。戯書といつてよいものだ。
〔評〕 これも女を玉に譬へてゐる。親などの守る女か、又は謂はゆる高嶺の花か、いづれにしても近づき難い戀である。歌は平明と評してよからう。
 
1324 葦の根の ねもころもひて 結びてし 玉の緒といはば 人解かめやも
 
葦根之《アシノネノ》 懃念而《ネモコロモヒテ》 結義之《ムスビテシ》 玉緒云者《タマノヲトイハバ》 人將解八方《ヒトトカメヤモ》
 
コノ玉ノ緒ハ〔六字傍線〕(葦根之)熱心ニ思ツテ結ンダ、玉ノ緒ダト言ツタナラバ、人ガソレヲ解カウカ、誰モ解クモノハアルマイ。私トアナタトノ關係ハ、心カラ約束シタ深イ中ダト言ツタナラバ、人ガ二人ノ中ヲ裂クモノデスカ。安心シテオイデナサイ〔私ト〜傍線〕。
 
○葦根之《アシノネノ》――枕詞。葦の根のネと同音を繰返して、ネモコロに冠するのである。○懃念而《ネモコロモヒテ》――懇ろに思つて、熱心に深く思つて。○結義之《ムスビテシ》――結大王《ムスビテシ》(一三二一)に同じ。
〔評〕 二人の堅き契を述べて、相手の女を慰めるのである。前の世間《ヨノナカハ》(一三二一)の歌の答とも考へられないことはないが、恐らくさうではあるまい。
 
1325 白玉を 手にはまかずに 箱のみに 置けりし人ぞ 玉おぼらする
 
白玉乎《シラタマヲ》 手者不纏爾《テニハマカズニ》 匣耳《ハコニノミ》 置有之人曾《オケリシヒトゾ》 玉令泳流《タマオボラスル》
 
(443)白玉ヲ手ニ卷キツケナイデ、箱ノ中ニバカリシマツテ置イタ人ハ、却ツテ〔三字傍線〕玉ヲダメニシテシマフ。逢ハナイデ目立タヌヤウニバカリシテヰルト、シマヒニハ女ガドウカナツテシマヒマスゾ〔逢ハ〜傍線〕。
 
○手者不纏爾《テニハマカズニ》――舊訓テニハマカヌニとあるのではわからない。ズニとつづくのが俗調に聞えるとの考から、爾を而又は?にあらためてマカズテとよむ説もあるが、古義が多くの用例をあげて、ズニとしたのがよい。新訓にはマカナクニと訓んでゐる。○玉令泳流《タマオボラスル》――舊訓タマオボレスルとあるのではわからない。代匠記にオボラスルとあるのによる。泳をオボレとよむのは、あまり當らぬやうであるが、泳は水くぐる意であるから、よめないこともなからう。他に適當な訓もないから、これを採るのである。新訓に元暦校本によつて詠として、ナゲカスルとよんでゐるのも一案であらうが、詠はウタフで、嘆息の意には用ゐ難いやうであるし、さうよんでは譬喩が徹底せぬやうだ。
〔評〕 世評を恐れて逡巡してゐる男に對して、逢ふべきことを催促した女の歌か。最後の句が明確に解けないのは遺憾であるが、ともかく力強い歌である。
 
1326 照左豆が 手にまき古す 玉もがも その緒は替へて 吾が玉にせむ
 
照左豆我《テルサツガ》 手爾纏古須《テニマキフルス》 玉毛欲得《タマモガモ》 其緒者替而《ソノヲハカヘテ》 吾玉爾將爲《ワガタマニセム》
 
玉商人ガ手ニ卷キツケテ、古クカラ持ツテヰル玉ガ欲シイモノダ。サウシテ〔四字傍線〕アノ玉ノ紐ダケ取リ替ヘテ、私ノ玉トシタイモノダ。アノ人ガ持ツテヰル女ヲ手放シテクレレバヨイ。サウシタラ縁ヲ結ビナホシテ、私ノ妻トシヨウ〔アノ〜傍線〕。
 
○照左豆我《テルサツガ》――テルサツは分らない。契沖はテルは褒める詞。サツは薩男だといつて、獵師のことに解してゐるやうである。眞淵は玉商人をいふかと言つてゐる。玉の輝くをテルと言ひ、幸人の意で、賣る人をもサツと言つたものと見たのである。古義にはワタツミノなどあるべきところだといつてゐる。ここはしばらく眞淵説に從つて置く。○手爾纏古須《テニマキフルス》――手に纏いて古くなつた。長い以前から手に纏いてゐる。○其緒者替而《ソノヲハカヘテ》――玉(444)の緒をすげ替へて。これは縁を結びなほすに譬へてゐる。緒を先夫と見る眞淵説はよくない。
〔評〕 人妻を戀する歌であらう。卷十六の夫に棄てられて家に歸つてゐた女が、他に再嫁したことを知らないで、或る男が、女の親に贈つた、眞珠者緒絶爲爾伎登聞之故爾其緒復貫吾玉爾將爲《シラタマハヲダエシニキトキキシユヱニソノヲマタヌキワガタマニセム》(三八一四)と似た想である、玉を愛した上代人は、かやうに女を玉に譬へることが多かつたのである。
 
1327 秋風は つぎてな吹きそ わたの底 おきなる玉を 手にまくまでに
 
秋風者《アキカゼハ》 繼而莫吹《ツギテナフキソ》 海底《ワタノソコ》 奧在玉乎《オキナルタマヲ》 手纏左右二《テニマクマデニ》
 
(海底)沖ノ方ニアル玉ヲ取ツテ私ガ〔五字傍線〕手ニ卷キツケル迄ハ、秋風ハツヅイテ吹クナヨ。私ガアノ女ヲ手ニ入レル迄ハ、何モ故障ガ起ラナイデクレヨ〔私ガ〜傍線〕。
 
○海底《ワタノソコ》――枕詞。奥《オキ》とつづく。一三二三參照。
〔評〕 得難い女を沖の玉にたぐへ、邪魔を秋風になぞらへてゐる。特に秋風としたのは、秋は野分など烈しい風が吹く故か。ただ秋風と言つては、その故障の感が痛烈でないのは、後世ぶりに馴らされた爲か。
 
寄2日本琴1
 
日本琴は卷五の八一〇の題詞に見えてゐる。謂はゆる倭琴《ワゴン》である。
 
1328 膝に伏す 玉の小琴の 事なくば はなはだここだ 吾が戀ひめやも
 
伏膝《ヒザニフス》 玉之小琴之《タマノヲゴトノ》 事無者《コトナクバ》 甚幾許《ハナハダココダ》 吾將戀也毛《ワガコヒメヤモ》
 
(伏膝玉之小琴之)何モ障リノ事ガナイナラバ、コンナニ〔四字傍線〕大サウヒドク、私ガアノ女ヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ハウカ。イロイロ故障ガアルカラ心ヲ痛メテヰルノダ〔イロ〜傍線〕。
 
○伏膝玉之小琴之《ヒザニフスタマノヲゴトノ》――コトの音を繰返して下につづく序詞。膝の上に載せて彈く、玉の小琴の意。卷五に伊可小(445)爾安良武日能等伎爾可母許惠之良武比等能比射乃倍和我摩久良可武《イカヲニアラムヒノトキニカモコヱシラムヒトノヒザノヘワガマクラカム》(八一〇)と同じやうである。なほ和琴については八一〇に説明して置いたが、正倉院の栞、槍和琴の解説に「檜和琴は唐琴に比して大に、新羅琴よりは小にして、別に優婉嫻雅の體制を具へ、絃孔の數に據り六絃琴なること知るべし。云々」と記してある。○事無者《コトナクバ》――故障がなくば。邪魔がないなら。○甚幾許《ハナハダココダ》――甚はイトとよんだ例が多いが、天地之神毛甚《アメツチノカミモハナハダ》(三二五)の如くハナハダとよんだ例もある。ここはそれがよいやうに思ふ。
〔評〕 寄日本琴とあるが、日本琴はほんの序詞として用ゐられてゐるのみで、普通の意味の譬喩にはなつてゐない。また玉之小琴とあつて、日本琴といふことも明らかにされてゐない。併しそれだからとて、歌の價値を云云するわけでは勿論ないのである。
 
寄v弓
 
1329 陸奥の 安太多良眞弓 つらはけて 引かばか人の わを言なさむ
 
陸奥之《ミチノクノ》 吾田多良眞弓《アタタラマユミ》 著絲而《ツラハケテ》 引者香人之《ヒカバカヒトノ》 吾乎事將成《アヲコトナサム》
 
陸奥ノ安太多良デ出來ル弓ニ、弦ヲ張ツテ引クヤウニ、私ガアノ女ヲ引キ寄セ〔ヤウ〜傍線〕タナラバ、世間ノ人ガ私ノコトヲ言ヒ騷グデアラウカ。キツト騷グダラウ〔八字傍線〕。
 
○陸奧之吾田多良眞弓《ミチノクノアタタラマユミ》――陸奥の吾田多良で作る弓。吾田多良は地名。卷十四の陸奥歌に安太多良乃禰爾布須思之能《アダタラノネニフスシシノ》(三四二八)とも、美和乃久能安太多良末由美《ミチノクノアダタラマユミ》(三四三七)ともある地であらう。今の福島縣岩代國安達郡で、安達太良山・安達が原などのある地方、二本松町の附近である。古今集に「みちのくの安達のま弓わがひかば末さへよりこしのびしのびに」とあつて、中世以後は皆アダチと言つてゐる。蓋しアタタラのラを省いて安達の文字をあてたものを、アダチとよむことになつたのである。關政方の傭字例に安をアダとよみ、達をタラにあてたのだとあるのは、韻鏡に泥んだ説明で首肯し難い。そこの安達太良山は即ちアタタラヤマである。○著絲而《ツラハケテ》(446)――絲は元麿校本は絃に、類聚古集は弦に作つてゐる。ツラはツルに同じ。弦をかけることをツラハクといふ。卷二に都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》(六九)とある。○吾乎事將成《ワヲコトナサム》――コトナサムは、言葉に言ひ立てるであらうの意。
〔評〕 上句は引くといふ爲の序詞といつてもよいやうに用ゐられてゐる。しかし譬喩の意があるやうに思はれるから、まづ譬喩として置かう。東歌の美知乃久能安太多良末由美波自伎於伎?西良思馬伎那婆郡良波可馬可毛《ミチノクノアダタラマユミハジキオキテセラシメキナバツラハカメカモ》(三四三七)に似た點があつて.陸奥歌の中に入れてもよいほどである。この歌袖中抄和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1330 南淵の 細川山に 立つ檀 弓束まくまで 人に知らえじ
 
南淵之《ミナブチノ》 細川山《ホソカハヤマニ》 立檀《タツマユミ》 弓束級《ユヅカマクマデ》 人二不所知《ヒトニシラエジ》
 
南淵ノ細川山ニ生エテヰル檀ノ木ヲトツテ、弓ニ作ツテ、ソノ弓ガ出來上ツテ〔ノ木〜傍線〕握リ革ナドヲ卷ク迄ハ、人ニハ内密ニシテ置カウ。女ヲスツカリ手ニ入レテシマフマデハ、人ニハ知ラレナイヤウニシヨウ〔女ヲ〜傍線〕。
 
○南淵之細川山《ミナブチノホソカハヤマ》――南淵は大和高市郡東南方の山手で今稻淵といつてゐる。南淵と細川山とは相隣つたところであるから、かく言つたものか。細川山は島庄東方の低い山である。天武紀五年五月の條に、「是月勅禁2南淵山細川山1並莫2蒭薪1」とあるところである。○立檀《タツマユミ》――生えてゐる檀の木、檀は、にしきぎ科の植物(447)で、山地に自生する落葉小喬木高さ二丈に達するものもある。上古この木を以て弓を作つたので、この名を負うてゐるのである。またこの木の皮を以て紙を造つたのが即ち檀紙である。その紅葉の美觀も歌によまれてゐる。○弓束級《ユツカマクマデ》――級は古葉略類聚鈔に纏及とあるから、マクマデである。級は恐らく纏及の二字を一字に誤つたのであらう。弓束は弓の握りである。ここに革を卷くのを常とし、これを握り革といふ。和名抄に「釋名云弓末曰v※[弓+肅]和名由美波數中央曰v※[弓+付]和名由美都加」とある。
〔評〕 弓は弓束を卷いて始めて最後の完成となるのであるが、山に生えてゐる檀の木に、弓束が卷かれるまではかなりの時間を要するわけである。この弓の完成を自分の戀の完成に譬へたのは、實に適切にして且、珍らしいものがある。飛鳥あたりに住んでゐる男の作であらう。
 
寄v山
 
1331 磐疊 かしこき山と 知りつつも 我は戀ふるか なみならなくに
 
磐疊《イハダタミ》 恐山常《カシコキヤマト》 知管毛《シリツツモ》 吾者戀香《ワレハコフルカ》、同等不有爾《ナミナラナクニ》
 
岩ヲ疊ミ上ゲタ畏シイ山ノヤウナ、身分ガ高クテオソレ多イ人〔ノヤ〜傍線〕トハ知ツテヰルガ、比較ニモナラヌ賤シイ〔三字傍線〕身デアリナガラ、私ハアノ貴人ヲ〔五字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルヨ。
 
○磐疊《イハダタミ》――磐疊のの意。磐が重なつてゐる畏しい山とつづいてゐる。古義にはイハタタムとよんでゐる。○恐山常《カシコキヤマト》――おそろしい山と。貴人に譬へてある。○同等不有爾《ナミナラナクニ》――舊訓トモナラナクニとあるが、童蒙抄ヒトナラナクニ、考はナゾヘナラヌニ、略解はナゾヘラナクニとある。ここは新訓に從ふことにする。文字の如く、自分の地位が、戀しい貴人と同等でないことを悲しんだのである。
(448)〔評〕 及びもつかぬ貴人を戀ふる心が、いたいたしい。初二句の譬喩は、今日の「高嶺の花」といふ語と同樣な意味をあらはす爲に、慣用せられてゐたものか。以下の數首も同じ趣になつてゐる。なほ第五句は多少蛇足の感がありはしないか。この歌、和歌童蒙抄に、「いはたたみけはしき山と知りつつもわれは戀ふるかともならなくに」と出てゐる。
 
1332 磐が根の こごしき山に 入りそめて 山なつかしみ 出でがてぬかも
 
石金之《イハガネノ》 凝木敷山爾《コゴシキヤマニ》 入始而《イリソメテ》 山名付染《ヤマナツカシミ》 出不勝鴨《イデカテヌカモ》
 
岩根ガ峻シク重ナツテヰル山ニ入リ始メテ、恐ロシクハアルガ〔八字傍線〕山ガナツカシイノデ、私ハ〔二字傍線〕山カラ出ラレナイデヰルヨ。私ハ身分ノ高イ人ニ關係シテ、恐ロシクハアルガナツカシイノデ、手ヲ切リカネテヰル〔私ハ〜傍線〕。
 
○石金之《イハガネノ》――磐が根の。○凝木敷山爾《コゴシキヤマニ》――コゴシキは嶮岨なこと。古義にコゴシクとよんだのはいけない。凝の字については川之水凝《カハノミヅゴリ》(七九)參照。○出不勝鴨《イデガテヌカモ》――勝は堪と同じで、ここは出られないよの意。
〔評〕 前と同じく貴人を戀ふる歌で、平明な作である。和歌童蒙抄に、「いはがねのこりしく山に入りそめて山なつかしみいでかてにかも」と出てゐる。
 
1333 佐保山を おほに見しかど 今見れば 山なつかしも 風吹くなゆめ
 
佐保山乎《サホヤマヲ》 於凡爾見之鹿跡《オホニミシカド》 今見者《イマミレバ》 山夏香思母《ヤマナツカシモ》 風吹莫勤《カゼフクナユメ》
 
佐保山ヲ今マデ私ハ〔五字傍線〕ヨイ加減ニ見テヰタガ、今見ルト花ヤ紅葉ナドガアツテホントニ〔花ヤ〜傍線〕ナツカシイ山ダヨ。決シテ風ヨ吹クナヨ。今マデアノ女ヲ一通リニ見テヰタガ、コノ頃見ルトアノ女ガ、戀シクナツカシクナツタ。私ノ戀ヲ妨ゲルナヨ〔今マ〜傍線〕。
 
○佐保山乎於凡爾見之鹿跡《サホヤマヲオホニミシカド》――オホニミルはおろそかに見る。注意せずして一通りに見るの意。佐保山は女に譬へてある。
〔評〕今まではさほどに思はなかつた女が、今日は別人のやうに、美しくなつかしく思はれてならないので、是非(449)ともわが物としようといふのである。代匠記精撰本に「よそに見し人に云ひよりて、相見ていととあかれぬを山なつかしもと喩へたり」とあるが、まだ女をえない時の歌であらう。風吹莫勤《カゼフクナユメ》は、わが戀に邪魔が入るなの意であらうが、山がなつかしいから、風吹くなでは少し變である。これは代匠記・略解・古義などに、花紅葉の爲になつかしむやうに見てゐるのに從ふべきか。然らば少し言葉が足らぬ歌である。
 
1334 奥山の 岩に蘿むし かしこけど 思ふ情を いかにかもせむ
 
奥山之《オクヤマノ》 於石蘿生《イハニコケムシ》 恐常《カシコケド》 思情乎《オモフココロヲ》 何如裳勢武《イカニカモセム》
 
私ハアノ人ガ身分ガ高クテ〔私ハ〜傍線〕(奥山之於石蘿生)恐ロシイガ、心デ慕ハシク思フノヲ、サテ何トシタモノデアラウ。ホントニ遣瀬ナイ心ノ内ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○奥山之於石蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》――序詞。恐常《カシコケド》とつづく意は前の磐疊恐山常《イハタタミカシコキヤマト》(一三三一)の歌と同じである。○恐常《カシコケド》――カシコケレドの意。舊訓カシコミトとあるのはよくない。
〔評〕 これも貴人を戀ふる歌で、卒直な言ひ方が(450)人を動かすものがある。卷六の奥山之磐爾蘿生恐毛問賜鴨念不堪國《オクヤマノイハニコケムシカシコクモトヒタマフカモオモヒアヘナクニ》(九六二)は、葛井連廣成がこの歌を改作して口吟したものらしい。
 
1335 思ひあまり いたもすべなみ 玉襷 畝火の山に 吾が標ゆひつ
 
思?《オモヒアマリ》 痛文爲便無《イタモスベナミ》 玉手次《タマダスキ》 雲飛山仁《ウネビノヤマニ》 吾印結《ワガシメユヒツ》
 
イクラ我慢ヲシテモ、戀シクナツカシクテ、何トモシヤウガナイノデ、私ハ(王手次)畝傍山ニ標ヲ結ツタ。私ハ戀シクテ戀シクテ仕樣ガナイノデ、身分ガ違フトハ思ヒナガラ、身分ノ高イ女ヲカマハズニ手ニ入レテシマツタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○思?《オモヒアマリ》――?は餘の意であるから、オモヒアマリである。勝の誤として考にオモヒカネ、古義にオモヒカテとあるのはよくない。○痛文爲便無《イタモスベナミ》――舊訓イトモとあるのはよくない。この句は集中に用例が澤山ある。○玉手次《タマダスキ》――枕詞。纏《ウナ》ぐの意で、雲飛《ウネビ》につづく、二九參照。○雲飛山仁《ウネビノヤマニ》――雲飛《ウネビ》は畝傍。雲は臻攝文韻の音で、n 音尾であるから、ウネに用ゐられたのである、但し雪根火《ウネビ》(一三)と書いたところもある。畝傍山は貴人にたとへたのであるが、代匠記以來、この山を高く大い山として譬へたやうに言つてゐるが、むしろ神聖な山として、貴人になぞらへたものと見るべきであらう。○吾印結《ワガシメユヒツ》――印をシメとよんでゐる。占有の標《シルシ》である。前の句とつづいて、貴人の女を手に入れた意である。
〔評〕 これも貴人を戀する歌であらう。しかしこれは前のものと異なつて、ともかくも手に入れたのである。畝傍の山に標を結ふとは、大袈裟な言ひ方だが、そこがこの歌のおもしろいところであらう。
 
寄v草
 
1336 冬ごもり 春の大野を 燒く人は 燒き足らねかも 吾が心燒く
 
冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホヌヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》 燒不足香文《ヤキタラネカモ》 吾情熾《ワガココロヤク》
 
(451)(冬隱)春ノ廣イ野ノ草ヲ〔四字傍線〕燒キ拂フ人ハ、アンナニ草ヲ燒イテモマダ〔アン〜傍線〕燒キ足リナイカラカ、私ノ心マデ燒キ焦レサセル。私ハコノ頃無暗ニ思ヒ焦レルガ、アノ野ヲ燒ク人ガ私ノ心マデモ燒クノカ知ラ〔私ハ〜傍線〕。
 
○冬隱《フユゴモリ》――枕詞。冬木成《フユゴモリ》(一六)參照。○燒不足香文《ヤキタラネカモ》――舊訓ヤキタラヌカモとあるのを、略解にヤキアカヌカモとしたのは却つて惡い。古義にヤキタラネカモとよんだのがよい。燒き足らねばかもの意である。
〔評〕 戀故に胸を焦しつつある人が、※[火+餡の旁]々たる春野の野火に對して口吟んだものであらう。吾が胸の火の姿を、野火の上に見て、そのすさまじさに驚嘆しやうな心境である。この種の歌としては正に上乘の作であらう。
 
1337 葛城の 高間のかや野 早しりて 標ささましを 今ぞ悔しき
 
葛城乃《カツラキノ》 高間草野《タカマノカヤヌ》 早知而《ハヤシリテ》 標指益乎《シメササマシヲ》 今悔拭《イマゾクヤシキ》
 
葛城ノ高間野ト云フ〔四字傍線〕草ノ茂ツタ〔四字傍線〕野ヲ早ク自分ノモノニシテ、標ヲ立テルノダツタノニ、グズグズシテヰル内ニ人ニ取ラレテシマツテ〔グズ〜傍線〕、今ニナツテ後悔スルヨ。アノ女ヲ早ク私ノモノトシテシマフ筈ダツタノニ、グズグズシテヰル内ニ、人ニ取ラレテシマツテ、今ニナツテ後悔シテヰルヨ〔アノ〜傍線〕。
 
○葛城乃高間草野《カヅラキノタカマノカヤヌ》――葛城の高間は葛城山の中腹の高原で、今葛城村大字高間となつてゐる。ここの草を苅り取つて葦料としたので、草野《カヤヌ》といふのである。草をカヤと訓ませた例は、草無者《カヤナクバ》(一一)・眞野乃草原《マヌノカヤハラ》(三九六)など、その他なほ多い。○早知而《ハヤシリテ》――契沖が、「早く領してなり」と言つたのに諸註皆從つてゐる。早く見つけての意とも解せられぬことはないが、やはり舊説に從つて置かう。○今悔拭《イマゾクヤシキ》――拭を略解に茂の誤かといふ説をあげてゐるのに從ふものもあるが、拭は設職の切、呉音シキであるから、當然シキとよむべきである。かかるところに誤字説を立てるは全く氣が知れない。
〔評〕 思ふ女を手に入れないうちに、取られてしまつた後悔の歌である。葛城の高間の原野を譬へとした理由は明らかでないが、恐らくかの地方の俚謠であらう。或はこれも貴人を戀したものか。女を手に入れることを標ゆふ・標さすといつた例はいくらもあつて、類型的内容といつてよい。
 
1338 吾がやどに 生ふる土針 心ゆも 想はぬ人の 衣に摺らゆな
 
(452)吾屋前爾《ワガヤドニ》 生土針《オフルツチハリ》 從心毛《ココロユモ》 不想人之《オモハヌヒトノ》 衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》
 
私ノ宿ノ庭ニ〔二字傍線〕ニ生エテヰル土針ハ、オマヘヲ〔四字傍線〕心力ラ思ツテヰナイ人ノ着物ヲ染メル爲ニ使ハレルナヨ。私ノ愛スル女ヨ。オマヘヲ心力ラ愛シテヰナイ人ノモノトナルナヨ。心力ラ愛シテヰル私ノトコロニヰナサイ〔私ノ〜傍線〕。
 
○生土針《オフルツチハリ》――土針は和名抄に、「本草云、王孫一名黄孫、和名沼波利久佐此間云2豆和波利1」とあるものであらう。然らば今、つくばねさうと稱するもので、百合科王孫屬の多年生草本で、莖の高さ四五寸。五六月の頃莖頂に一箇の四辨花を開く。花の色は淡黄緑色である。各地の山地に自生するもので、昔はこの葉を摺染に用ひたのであらう、自分のものとして愛してゐる女を、吾が宿に生ふる土針にたとへたのである。○從心毛不想人之《ココロユモオモハヌヒトノ》――女を心から愛しない人、女がその心から愛せぬ人の意ではない。從心毛《ココロユモ》は心デモの意となる時もあるが、ここはさうではあるまい。
〔評〕 吾屋前爾生《ワガヤドニオフル》とあるので、女の親などが娘を戒めた歌として見る人もあるが、古義に、「吾屋前爾《ワガヤドニ》云々と云るは、わが手に入たる女にたとへたるなり」とあるのがよいであらう。親の歌としては教訓的で面白くない。土針の歌は集中この一首のみで、材料の珍らしいのが目につく。
 
1339 月草に 衣色どり 摺らめども うつろふ色と いふが苦しさ
 
鴨頭草丹《ツキクサニ》 服色取《コロモイロドリ》 摺目伴《スラメドモ》 移變色登《ウツロフイロト》 ※[人偏+稱の旁]之苦沙《イフガクルシサ》
 
私ハ〔二字傍線〕月草ノ花デ着物ヲ色ヲツケテ染メヨウト思フガ、アノ月草ノ花デ染メタノハ〔アノ〜傍線〕變リ易イ色ダト聞クノガツライコトダ。私ハナナタトヨイ仲ニナラウト思フガ、心變リスル浮氣ナ人ダト聞イテ困ツテヰル〔私ハ〜傍線〕。
 
○鴨頭草丹《ツキクサニ》――鴨頭草は露草。あをばな、帽子花ともいふ。五八三參照。○※[人偏+稱の旁]之苦沙《イフガクルシサ》――※[人偏+稱の旁]は稱の本字である。
〔評〕 女が男の戀を納れむとして躊躇する歌である。かう言つて男に念を押すのであらう。すなほな平明な作で(453)ある。
 
1340 紫の 絲をぞ吾がよる あしびきの 山橘を 貫かむと念ひて
 
紫《ムラサキノ》 絲乎曾吾搓《イトヲゾワガヨル》 足檜之《アシビキノ》 山橘乎《ヤマタチバナヲ》 將貫跡念而《ヌカムトオモヒテ》
 
(足檜之)山桶橘ノ實ヲ糸ニ通サウト思ツテ、紫ノ糸ヲ私ハヨリマシタ。アノ人ヲ手ニ入レヨウト思ツテ、私ハイロイロ苦心ヲシタ〔アノ〜傍線〕。
 
○絲乎曾吾搓《イトヲゾワガヨル》――搓の字、舊本※[手偏+義]に作るは誤。元暦校本による。○足檜之山橘乎《アシヒキノヤマタチバナヲ》――足檜之は山の枕詞。山橘はヤブカウジ。六六九參照。
〔評〕 女を可憐な山たちばなの實に譬へたのは面白い。紫の糸も山橘との配合が美しい。寄草の題の下に收めたのは、紫色は紫草《ムラサキ》から採るからであらうが、一寸無理である。
 
1341 眞珠つく 越の菅原 吾が苅らず 人の苅らまく 惜しき菅原
 
眞珠付《マタマツク》 越能菅原《ヲチノスガハラ》 吾不苅《ワガカラズ》 人之苅卷《ヒトノカラマク》 惜菅原《ヲシキスガハラ》
 
(眞珠付)越ノ菅原ハ私ガ苅ラナイデヰルガ、アノ菅原ヲ人ガ苅ルノハ惜シイモノダ。アノ女ハマダ私ノ手ニ入ラナイガ、人ニ取ラレルノハ惜シイモノダ〔アノ〜傍線〕。
 
○眞珠付《マタマツク》――枕詞。眞珠を付ける緒とつづくのである。○越能菅原《ヲチノスガハラ》――越《ヲチ》は卷二は玉垂之越野過去《タマダレノヲチヌスギユグ》(一九五)とある大和高市郡の野ではなくて、卷十三に息長之遠智能小菅《オキナガノヲチノコスゲ》(三三二三)とある近江の坂田郡であらう。彼もこれも共に菅をよんでゐるのが、さうらしく思はれる。
〔評〕 女を菅に譬へてゐる。調子のよい歌である。
 
1342 山高み 夕日隱りぬ 淺茅原 後見むために 標結はましを
 
山高《ヤマタカミ》 夕日隱奴《ユフヒカクリヌ》 淺茅原《アサヂハラ》 後見多米爾《ノチミムタメニ》 標結申尾《シメユハマシヲ》
 
茅ガマバラニ生エテヰル原ノ面白イ景色〔六字傍線〕ヲ、マタ後デ來テ見ル爲ニ、標ヲ張ツテシルシヲシテ〔六字傍線〕置ク筈ダツタノニ(454)山ガ高イノデ何時ノ間ニカ〔六字傍線〕タ日ガカクレテ夜ニナツタノデ見エナク〔夜ニ〜傍線〕ナツタ。惜シイコトヲシタ。アノ女ヲ他ニトラレナイヤウニ、堅イ約束ヲシテ置ク筈ダツタノニ、サウモセズニ別レテ惜シイコトヲシタ〔惜シイコトヲシタアノ〜傍線〕。
 
○淺茅原《アサヂハラ》――茅のまばらに生えた原。女に譬へてゐる。○標結申尾《シメユハマシヲ》――申をマシとよんだのは、猿をマシとよむのと同じで、梵語マシラから出てゐる。
〔評〕 女を淺茅原に譬へて、飽かずして別れたことを山高夕日隱奴《ヤマタカミユフヒカクリヌ》と言つたのは、適切な譬喩である。
 
1343 こちたくは かもかも爲むを 石代の 野邊の下草 我し苅てば 一云、紅のうつし心や妹にあはざらむ
 
事痛者《コチタクハ》 左右將爲乎《カモカモセムヲ》 石代之《イハシロノ》 野邊之下草《ヌベノシタクサ》 吾之刈而者《ワレシカリテバ》
 
石代ノ野邊ノ木ノ下ニ生エテヰル草ヲ、私ガ刈ツタ上ハ、人ノ口ガ喧シイナラ、ソノ時〔三字傍線〕何トデモシヨウモノヲ。アノ女ヲ手ニ入レタ上デハ、人ガ喧シク言ツタラ、何トデモ臨機ノ所置ヲシヨウ。兎モ角モ早ク手ニ入レタイモノダ〔アノ〜傍線〕。
 
○事通者椿《コチタクハ》――言痛くば。人の口が喧しいならば。○左右將爲乎《カモカモセムヲ》――舊訓カニカクセムヲとある。略解にトモカモセムヲとあるが、そんな言葉はない。古義に從ふ。○石代之《イハシロノ》――石代の野は磐代乃岡之草根乎去來結手名《イハシロノヲカノカヤネヲイザムスビテナ》(一〇)とあるところか。然らば紀伊の西海岸である。
〔評〕 女を石代の野邊の下草に譬へてゐる。戀の成就に心急いで、かなり大膽になつてゐる心境である。
 
一云 紅之《クレナヰノ》 寫心哉《ウツシココロヤ》 於妹不相將有《イモニアハザラム》
 
これは三句以下の異傳である。
 
人ノ口ガ喧シイナラ、ソノ時ニ何トデモシヨウノニ、何故私ハ〔四字傍線〕(紅之)正氣デハ女ニ逢ハナカツタノデアラウ。女ニ逢ハナカツタノヲ考ヘルト、夢心デハナカツタカト思ハレル〔女ニ〜傍線〕。
 
(455)紅之は枕詞として寫《ウツシ》に冠してある。寫《ウツシ》は、うつし花と言つて、花の汁を紙に染めて置いて、これを染料とするもの。それには月草が用ゐられるが、この歌で見ると、紅花も用ゐたものと見える。卷八に秋露者移爾有家里《アキノツユハウツシナリケリ》(一五四三)とある。この歌は初二句のみが前の歌と一致してゐるのみで、全く別歌である。一云とあるのは當を得ゐてないが、これは最初からかうなつてゐたので、紅花に寄せてあるものとして、前の歌の異傳と認定したのであらう。
 
1344 眞鳥すむ 卯名手のもりの 菅の根を 衣にかきつけ きせむ子もがも
 
眞鳥住《マトリスム》 卯名手之神社之《ウナテノモリノ》 菅根乎《スガネヲ》 衣爾書付《キヌニカキツケ》 令服兒欲得《キセムコモガモ》
 
鷲ノ住ム卯名手神社ノ森ニ生エテヰル菅ノ根ヲトツテ、着物ニ染メツケテ私ニ〔二字傍線〕着セル女ガアレバヨイガ。
 
○眞鳥住《マトリスム》――眞鳥は鷲であらう。今も矢の羽に用ゐたものは、鷲を眞鳥と言つてゐる。古くはこれを鵜の別名とした説が行はれ、袖中抄にも記され、代匠記にも掲げてあるがさうではない。又これを枕詞として眞鳥住む鵜として、卯名手につづいてゐると代匠記にあるのは、全くとるに足らぬ説である。○卯名手之神社之《ウナテノモリノ》――卯名手は和名抄に、大和國高市郡雲梯、宇奈天とあるところで、藤原の都の西方にある。この神社は出雲國造神賀詞に「事代主命能御魂乎宇奈提爾坐云々」とあるもので、車代主神を奉祀した舊い社である。この神社の森は特に大木が茂つてゐたので鷲がゐたのである。卷十二も眞鳥住卯名手乃社之神思將御知《マトリスムウナテノモリノカミシシラサム》(三一〇〇)とある。○菅根乎《スガノネヲ》――菅根を染料にするのは、どうかと思はれるので、根を彌《ミ》又は實《ミ》の誤とする説もある。これは前に妹爲菅實採《イモガタメスガノミトリニ》(一二五〇)とあるによつたのであるが、なほ考ふべきである。○衣爾書付《キヌニカキツケ》――書《カキ》は掻《カキ》の意で用ゐてある。カキツケは摺りつけに同じ。
〔評〕 特に卯名手の森の菅を取り出したのは、どういふわけか。或は神聖な靈地として恐れられてゐた爲か。その點に何等かの寓意でもないかぎりは、これはただ菅を材料としてゐるのみで、寄せる意味が無いと言つてよい。この歌は袖中抄に出てゐる。
 
1345 常ならぬ 人國山の 秋津野の 杜若をし 夢に見しかも
 
(456)常不《ツネナラヌ》 人國山乃《ヒトクニヤマノ》 秋津野乃《アキツヌノ》 垣津幡鴛《カキツバタヲシ》 夢見鴨《イメニシカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕(常不)人國ノ山ノ秋津野ニ咲イタ杜若ノ花ヲ夢ニ見タヨ。私ハ美シイ女ヲ夢ニ見タヨ〔私ハ〜傍線〕。
 
○常不《ツネナラヌ》――枕詞。人は無常なものであるから、つねならぬ人とつづけたのである。これを略解に「不の下知の字を脱せり、ツネシラヌとよむべし」と言つてゐるのは從ひがたい。○人國山乃秋津野乃《ヒトクニヤマノアキツヌノ》――秋津野は吉野にあるが、人國山の名を聞かない。然るに紀伊西牟婁郡田邊町の北に上秋津下秋津があつて、その西萬呂村に人國山があると大日本地名辭書に記してある。(萬呂は秋津の南にある。一一の紀伊海岸西南部地圖參照)秋津といふ地名は、古くからあつたであらうが、人國山はこの歌によつて好事者がつけたものかも知れないから、なほ研究を要する。○垣津幡《カキツバタ》――杜若。美しい女であるから女にたとへてある。後世かほよ花などといふのも尤もと思はれる。
〔評〕 美女を杜若に譬へて、夢にも見るといふのであるが、秋津野あたりに住む女を戀したものか。略解に「他妻を戀て夢に見しを詠めり」とあるのは、人國山に他人の意を持たせたのであらうが、なほ考ふべき説である。
 
1346 をみなへし 佐紀澤の邊の まくず原 いつかも絡りて 吾が衣に著む
 
姫押《ヲミナヘシ》 生澤邊之《サキサハノベノ》 眞田葛原《マクズハラ》 何時鴨絡而《イツカモクリテ》 我衣將服《ワガキヌニキム》
 
(姫押)佐紀澤ノホトリノ葛ノ澤山ニ茂ツテヰルノヲ、何時繰リ集メテ私ノ着物ニシテ着ルコトダラウ。早クサウシタイモノダ。早クアノ女ヲ手ニ入レテ、自分ノモノニシタイト思ツテヰル〔私ハ〜傍線〕。
 
○姫押《ヲミナヘシ》――枕詞。生とつづいてゐる。姫押は女郎花で、歌の七種の花の一として愛せれたものである。姫をヲミナと訓むのは論をまたないが、押をヘシと訓ませたのは、恐らく今、俗語でヘシツブス、ヘシヲルなどのヘシであらう。靈異記に「以2挫 敝師 釘1打立2我手於1」とあり、枕草子にも、「二藍のえび染めなどのさいでのおしへされて、草子の中にありけるを見つけたる。」とあるから古い動詞である。かやうに用字の上から、古語を證據立て得るのは面白い。○生澤邊之《サキサハノベノ》――從來の訓はオフルサハベノであつたのを、古義にサキサハノベノと(457)改めたのがよい。この歌の上句は、卷四の娘子部四咲澤二生流花勝見《ヲオミナヘシサキサハニオフルハナカツミ》(六七五)・卷十の姫部思咲野爾生白菅自《ヲオミナヘシサキヌニオフルシラツツジ》(一九〇五)・卷十二の垣津※[竹/旗]開澤生菅根之《カキツバタサキサハニオフルスガノネノ》(三〇五二)などと同型であり、又卷十|佳人部思咲野之芽子爾《ヲミナヘシサクヌノハギニ》(二〇一七)・卷十一に垣津※[竹/旗]開沼之菅乎《カキツバタサキヌノスゲヲ》(二八一八)とも似てゐる。これらから類推すると生は卷十六に八重花生跡《ヤヘハナサクト》(三八八五)とあるに傚つて、サキと訓むのが正しい。若しこれを女郎花の生えてゐる野邊とすると、女郎花が不要なものとなつて、譬喩歌としては、まことにおかしいものとなる。生澤《サキサハ》は佐紀澤で、奈良市の西北|都跡《ミアト》村大字佐紀の名が今も遺つてゐる。○眞田葛原《マクズハラ》――葛に田の字を冠して記す理由は明らかでないが、この他|眞田葛延《マクズハフ》(一九八五)・崗乃田葛葉緒《ヲカノクズハヲ》(三〇六八)・延田葛乃《ハフクズノ》(三八三四)などの例がある。この他は皆、葛とのみ記されてゐる。○何時鴨絡而《イツカモクリテ》――絡をクリとよむのは、絡反《クリカヘシ》(一三一六)とあつたところに説いて置いた。
〔評〕 女を葛に譬へてゐる。葛は即ち萬布を織る材料であるが、女を自分の方へ引き寄せるのを、何時鴨絡而《イツカモクリテ》と言つたのは、實にこの場合適切に當てはまつてゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1347 君に似る 草と見しより 吾がしめし 野山の淺茅 人な苅りそね
 
於君似《キミニニル》 草登見從《クサトミシヨリ》 我標之《ワガシメシ》 野山之淺茅《ヌヤマノアサヂ》 人莫苅根《ヒトナカリソネ》
 
アナタニ似タ草ダト思ツテカラ、私ガナツカシガツテ〔七字傍線〕標ヲシテ置イタ、野ヤ山ノマバラニ生エタ茅ヲ、人ガ苅ルナヨ。
 
○野山之淺茅《ヌヤマノアサヂ》――代匠記精撰本に野山を「野と山とにはあらで、野中の山なるべし」とあるのはどうであらう。さうした野山といふ熟語は、未だ見當らぬやうである。これは標をはへたところを、一個所と定めようとした爲に陷つた誤か。女を淺茅に譬へてゐる。代匠記・略解・古義などいづれも、淺茅が秋になつて色付くのを、紅顔に譬へたやうに見てゐるが、色付くといふ語は用ゐてないから、さうではあるまい。
〔評〕 女を淺茅の柔かい可憐な姿に譬へたのであらう。卷十九に妹爾似草等見之欲里吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《イモニニルクサトミシヨリワガシメシヌベノヤマブキタレカタヲリシ》(四一九七)とあるのは、これに傚つたものであらう。
 
1348 三島江の 玉江の薦を 標めしより おのがとぞ思ふ いまだ苅らねど
 
(458)三島江之《ミシマエノ》 玉江之薦乎《タマエノコモヲ》 從標之《シメシヨリ》 己我跡曾念《オノガトゾオモフ》 雖未苅《イマダカラネド》
 
三島江ノ玉江ニ生エテヰル薦ヲ、標ヲシテカラハ、私ハマダ苅ラナイケレドモ、私ノモノト思ツテヰル。女ト約束ガ出來テカラハ、マダ夫婦トハナラナイガ、アノ女ヲ私ノ妻ダト思ツテヰル〔女ト〜傍線〕。
 
○三島江之玉江之薦乎《ミシマエノタマエノコモヲ》――三島江は攝津三島郡で今三箇牧村と呼んでゐるところ。淀川の西岸で、茨木町の東南に當つてゐる。玉江は卷十一に、三島江之入江之薦乎苅爾社《ミシマエノイリエノコモヲカリニコソ》(二七六六)とある入江と同じで、玉は美稱であらう。大日本地名辭書には、「玉川。和歌六玉川の一所。攝州なるは三島江の西、西面《サイメン》に古跡を存す。萬葉集三島の玉江の遺號か」とあるが、果してどうであらう。ここは薦の名所なるは卷十一の歌が示す通りである。
〔評〕 薦を女に譬へてゐるが、玉江といふのが思ひなしか、美しい感じを惹さしめる、極めて無理のない、安らかな上品な歌である。この歌袖中抄に出てゐる。
 
1349 かくしてや なほや老いなむ み雪ふる 大荒木野の しぬにあらなくに
 
如是爲而也《カクシテヤ》 尚哉將老《ナホヤオイナム》 三雲零《ミユキフル》 大荒木野之《オホアラキヌノ》 小竹爾不有九二《シヌニアラナクニ》
 
雪ノ降ル大荒木ノ野ノ篠ハ、刈ル人モナクテ空シク年ヲトルモノダガ〔雪ノ〜傍線〕、私ハ雪ノ降ル大荒木野ノ篠デハナイガ、カウシテ空シク思フ人ニモ添ハレズニ〔空シ〜傍線〕、コノ上、年ヲトツテ行クコトカヨ。殘念ダ〔三字傍線〕。
 
○如是爲而也尚哉將老《カクシテヤナホヤオイナム》――ヤの助詞が二つ重つてゐるが、共に疑問で、集中かうした例は他にもある。卷四に如比爲而哉猶八將退《カクシテヤナホヤマカラム》(七〇〇)、卷十一に如是爲哉猶八成手鳴《カクシテヤナホヤナリナム》(二八三九)とあつて、全く同型になつてゐる。ナホはこの儘でやはりの意。○三雲零《ミユキフル》――大荒木野の上に冠してあるが、枕詞ではない。丁度卷一の、三雪落阿騎乃大野爾《ミユキフルアキノオホヌニ》(四五)の如く、輕く用ゐたものである。○大荒木野之《オホアラキヌノ》――大荒木野は代匠記に、「大和國宇智部荒木神社ある所なるべし」とあるところか。然らば五條町の東北なる宇智村大字今井にある。第一册附録大和地圖參照。卷十一の大荒木之浮田之杜之《オホアラキノウキタノモリノ》(二八三九)とあるのも同所か。
〔評〕 顧みる人もなくて、空しく老いて行く自分を、大あらき野の篠が、苅る人もなくて、冬の野に慄へてゐるの(459)に譬へたのである。傾く齡の悲哀を歌つたものと見てもよいのであるが、ここに收めたのはやはり、戀の心を寄せてゐるものと見たのであらう。卷十一の如是爲哉猶八成牛鳴大荒木之浮田之杜之標爾不有爾《カクシテヤナホヤナリナムオホアラキノウキタノモリノシメニアラナクニ》(二八三九)と全く同型同想で、小竹《シヌ》と標《シメ》との相異が、口から口へ傳へつつある間に生じたものなることを思はしめる。古今集の「おほあらきの森の下草老いぬれば駒もすさめず苅る人もなし」はこの歌から出たものに相違ない。但し、古今集の、大あらきの森は、山城愛宕郡市原野にあるとなつてゐる。
 
1350 淡海のや 矢橋のしぬを 矢はがずて まことありえむや 戀しきものを
 
淡海之哉《アフミノヤ》 八橋之小竹乎《ヤバセノシヌヲ》 不造矢而《ヤハガズテ》 信有得哉《マコトアリエムヤ》 戀敷鬼乎《コヒシキモノヲ》
 
淡海ノ國ノ矢橋ノ篠ヲ矢ニ作ラナイデ、實際私ハ居レヨウカ。コンナニ戀シク思ツテヰルノニ。私ハコンナニ戀シク思ツテヰルノニ、アノ女ヲ手ニ入レナイデ實際ヲラレヨウカ。トモ居ラレナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○淡海之哉《アフミノヤ》――近江の國の。ヤは輕く添へた感嘆の助詞。石見乃也《イハミノヤ》(一三二)のヤに同じ。○八橋之小竹乎《ヤバセノシヌヲ》――八橋は即ち近江八景の一なる矢橋で、勢田の北方一里ばかりの地である。橋をハセと訓むのははシの通音である。此處の篠は矢に作るので名高かつたのか。○不造矢而《ヤハガズテ》――造は矢について言ふのであるから、ハグと訓むより外はない。はぐは羽を動詞としたものか。○信有得哉《マコトアリエムヤ》――考にはサネアリエムヤとあるが、於毛波受母麻許等安里衣牟也《オモハズモマコトアリエムヤ》(三七三五)とあるに傚つて置かう。
〔評〕 八橋の小竹を女に譬へてゐるが、結句に戀敷鬼乎《コヒシキモノヲ》といつたのは、譬喩が徹底しないやうに思はれる。古義に、「矢橋といふにはかかはらぬなるべし。所はいづくにもあれ、ただ小竹を矢にするを云へるならむ」とあるのはどうであらう。矢橋の篠を得て、これを矢に矧がぬ筈はないといふのであるから、矢橋といふ地名が必要なのである。寄草の部に小竹に寄せた歌を入れたのは大まかな分類である。
 
1351 月草に 衣は摺らむ 朝露に ぬれての後は うつろひぬとも
 
月草爾《ツキクサニ》 衣者將摺《コロモハスラム》 朝露爾《アサツユニ》 所沾而後者《ヌレテノノチハ》 徒去友《ウツロヒヌトモ》
 
私ハ〔二字傍線〕月草ノ花デ着物ヲ摺ツテ染メヨウト思フ。朝露ニ濡レク後デハ色ガカハツテモカマハナイ。アノ人ハ變リ(460)易イ心ダト云フガ、ソレデモ私ハカマハナイ。是非ア)人ニ添ヒタイモノダ〔カマ〜傍線〕。
 
○所沾而後者《ヌレテノノチハ》――舊訓ヌレテノノチハとあるのがよい。和歌童蒙抄もさうなつてゐる。代匠記精撰本に從つてヌレテノチニハとよむ説もあるが、卷八、飲而後者《ノミテノノチハ》(一六五八)と共に舊訓に從ふ。一六五八參照。
〔評〕前に鴨頭草丹服色取摺目伴移變色登※[人偏+稱の旁]之苦沙《ツキクサニコロモイロトリスラメドモウツロフイロトイフガクルシサ》(一三三九)と似て、かれよりも更に熱烈な戀である。この歌は調子が穩かで、姿が優雅である。古今集秋上に讀人不知として載せてあるのは、萬葉らしい古朴な感がないからである。それにしても古今集の序には、「萬葉集に入らぬ古き歌、みづからのをも奉らしめ給ひてなむ。」とあるのに、この歌が入つてゐるのはどうしたのであらう。
 
1352 吾が心 ゆたにたゆたに 浮ぬなは 邊にも沖にも 依りがつましじ
 
吾情《ワガココロ》 湯谷絶谷《ユタニタユタニ》 浮蓴《ウキヌナハ》 邊毛奧毛《ヘニモオキニモ》 依勝益士《ヨリガツマシジ》
 
私ノ心ハフワリフワリト何處トナク漂ツテ〔八字傍線〕、浮イタ蓴菜ガ、岸ニモ沖ニモ定マツテ寄ルコトガ出來ナイヤウニ定マラナイ〔八字傍線〕。
 
○湯谷絶谷《ユタニタユタニ》――ユタは寛《ユタ》かのユタで、ゆるやかに長閑なこと。タユタは搖蕩《タユタ》ふのタユタで、所定めず漂ふこと。この句はゆらゆらとして定まらぬことで、古今集に「いでわれを人な咎めそ大船のゆたのたゆたに物思ふ頃ぞ」とある「ゆたのたゆた」と同樣である。○浮蓴《ウキヌナハ》――浮んでゐる蓴菜。じゆんさいは睡蓮科蓴屬の多年生の水草で、葉は橢圓形楯状をなし長さ二三寸、長い葉柄を有してゐる。若い莖葉は粘液で包まれて、滑かで、食ふに適してゐる。葉が水上に浮いてゐるので、浮蓴《ウキヌナハ》といふのである。ぬなはは沼繩の意であらう。○依勝益士《ヨリカツマシジ》――舊訓ヨリカタマシヲは勿論よくないが、代匠記にヨリガテマシヲとよんだのが今まで行はれて來た。しかしそれも誤で、ヨリカツマシジと訓まねばならぬことは、九四に説明して置いた。寄るに堪へまい。寄ることが出來まいの意。
(461)〔評〕 吾が心の動搖を蓴菜に譬へたのは適切である。古今集に載つてゐる小野小町の「わびぬれば身を浮草の根をたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ」の前驅をなしたものか。この歌は袖中抄・八雲御抄に載せてある。
 
寄v稻
 
1353 石上 布留のわさ田を ひでずとも 繩だにはへよ 守りつつ居らむ
 
石上《イソノカミ》 振之早田乎《フルノワサダヲ》 雖不秀《ヒデズトモ》 繩谷延與《ナハダニハヘヨ》 守乍將居《モリツツヲラム》
 
石上ニアル布留ノ早稻ノ田ヲ、マダ穗ガ出ナイニシテモ、今ノウチニ〔五字傍線〕繩ダケデモ張ツテ置キナサイ。サウシタラ私ハ〔七字傍線〕番ヲシテ居ラウ。マダアノ女ハ年ガ行カヌニシテモ、約束ダケデモシテ置キナサイ。私ハアノ女ヲ人ニ取ラレナイヤウニ番シテヰマセウ〔マダ〜傍線〕。
 
○石上振之早田乎《イソノカミフルノワサダヲ》――石上の布留の里にある早稻を植ゑた田。卷三、石上振乃山有杉村乃《イソノカミフルノヤマナルスギムラノ》(四二二)とある。このヲは第五句につづくものと諸註が一致してゐる。○雖不秀《ヒデズトモ》――秀《ヒデ》は穗出《ホデ》に同じ。まだ穗が出ないにしてもの意。○繩谷延與《ナハダニハヘヨ》――舊訓に繩をシメとよんでゐるのに從ふ人も多いが、文字通りでよからう。與は温故堂本に而に作つてゐるのに從つても、よめないこともないが、評の部に掲げて置いた卷十の歌に對比すると、やはりもとの儘がよい。
〔評〕 女の親から男に贈つた歌で、普通の相聞歌と異なつてゐる。稻に寄せたのも珍らしく、いかにも耕人の俚謠らしい。卷十に足曳之山田佃子不秀友繩谷延與守登知金《アシビキノヤマダツクルコヒデズトモナハダニハヘヨモルトシルガネ》(二二一九)と同型同意である。恐らく石上地方で謠はれる爲に、初二句が改作せられたものであらう。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
寄v木
 
1354 白菅の 眞野の榛原 心ゆも 念はぬ我し 衣に摺りつ
 
(462)白菅之《シラスゲノ》 眞野乃榛原《マヌノハリハラ》 心從毛《ココロユモ》 不念吾之《オモハヌワレシ》 衣爾摺《コロモニスリツ》
 
白菅ノ生エテヰル眞野ノ萩原ヲ、心デハ思ツテモヰナイ私ガ、着物ニ摺ツテシマツタ。私ハ思ハヌ人ト夫婦ノ縁ヲ結ンデシマツタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○白菅之眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》――白菅の生えてゐる眞野の萩原。眞野は今の神戸市の西部。二八〇參照。○不念吾之《オモハヌワレシ》――吾は舊本君とあるが、元暦校本・類聚古集・神田本・西本願寺本など吾に作つてゐるのによつた。從つて之をシとよむことになる。但しこの歌袖中抄に、「しらすげのまのの榛原心にも思はぬ君が衣にぞする」とあるから、君となつてゐる古本もあつたのである。
〔評〕 女を榛に譬へてゐる。「縁は異なもの」といふやうな意であるが、現代人がこの詞から受ける感じよりも、もつと突きつめたもので。一寸の動機から、思ひも寄らぬ女と契を結んだことを、驚きと不思議さから、自省してゐる歌らしい。攝津地方の唄か。それともあの地方の旅人が、旅中に女を得て妻として詠んだものか。
 
1355 眞木柱 つくる杣人 いささめに 假廬の爲と 造りけめやも
 
眞木柱《マキバシラ》 作蘇麻人《ツクルソマビト》 伊左佐目丹《イササメニ》 借廬之爲跡《カリホノタメト》 造計米八方《ツクリケメヤモ》
 
檜ノ柱ヲ作ル杣人ハ、ソノ檜ノ柱ヲ〔六字傍線〕只カリソメニ、假小屋ノ爲ト思ツテ、作ツタラウカ。イヤイヤ決シテサウデハナイ。立派ナ御殿ヲ作ル爲ナノダ。私ガ言ツタ言葉モ、ホンノ假デハナイ。末永ク夫婦ノ契ヲスル爲ニ言ヒ出シタノデスヨ〔イヤ〜傍線〕。
 
○眞木柱《マキバシラ》――眞木は木をほめていふ語で、主として檜をいふ。○伊左佐目丹《イササメニ》――率爾に、かりそめに。小間《イササマ》にの轉か。
〔評〕 自分を眞木柱を作る杣人に譬へて、吾が戀の眞實性永遠性を述べたものである。眞木柱と假廬との對比も面白く、譬喩巧妙で少しも無理がない。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
(463)1356 向つ峯に 立てる桃の樹 成らむやと 人ぞささめきし 汝が情ゆめ
 
向峯爾《ムカツヲニ》 立有桃樹《タテルモモノキ》 成哉等《ナラムヤト》 人曾耳言爲《ヒトゾササメキシ》 汝情勤《ナガココロユメ》
 
(向峯爾立有桃樹)戀ガ〔二字傍線〕成就スルダラウカト、アノ男ガ私ニササヤイタヨ。アノ男ハオマヘヲ手ニ入レルツモリダカラ〔アノ〜傍線〕、オマヘハ決シテ心ヲユルスナ。
 
○向峯爾立有桃樹《ムカツヲニタテルモモノキ》――成《ナリ》と言はむ爲の序詞。桃の實が生《ナ》るからである。向峯《ムカツヲ》は向ひの山。下に向岡之《ムカツヲノ》(一三五九)とある同にじ。○成哉等《ナラムヤト》――舊訓ナリヌヤトとあるが、元暦校本・類聚古集・神田本などに成の上、將の字があつてナラムヤトと訓んだのがよい。和歌童蒙抄にも、この歌を「かの岡にたてる桃の木ならむやと人のささめくなが心ゆめ」として出してゐる。この句は、次につづいて、「おまへとの戀がなるだらうかと、ある人が私にささやいた」といふのである。ナリヌヤトならば、我等二人の戀が成就したかと、世人が噂をしてゐるの意であらう。
〔評〕 桃の木に寄せてはゐるが、ただの序詞で、謂はゆる譬喩にはなつてゐない。歌は素直に出來てゐる。
 
1357 足乳根の 母がそのなりの 桑すらも 願へば衣に 著るとふものを
 
足乳根乃《タラチネノ》 母之其業《ハハガソノナリノ》 桑尚《クハスラモ》 願者衣爾《ネガヘバキヌニ》 著常云物乎《キルトフモノヲ》
 
(足乳根乃)母ガソノ手業トシテ蠶ヲ飼ツテヰル〔七字傍線〕桑デモ、ソノツモリデ蠶ヲ養ヘ〔四字傍線〕バ、着物ニシテ着ルコトガ出來ル〔六字傍線〕トイフモノダノニ。アノ女ヲ私ノ妻ニシテクレト頼ンダラ、何トカナリサウナモノダ〔アノ〜傍線〕。
 
○足乳根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○母之其業《ハハガソノナリノ》――舊訓ハハノソノナルとあり、略解はこれを園に在るの意とし、別にソノワザノと訓むべし言つてゐる。古義はナルは、「その産業《ナリハヒ》をするを云ふ詞」と解いてゐる。ここでは業の字は業跡造有《ナリトツクレル》(一六二五)・妻子之産業乎婆《メコノナリヲバ》(三八六五)にならつてナリと訓むのがよい。さうすると、ハハノはハハガとよむ方が、調が整つて來る。○桑尚《クハスラモ》――契沖は桑の下、子の字が脱ちたのでクハコスラであらうと言つてゐるが、それでは寄木の歌としては不似合になるからいけない。桑を以て蠶を飼ふから、桑が衣服を作るやうに言つたものである。○願者衣爾《ネガヘバキヌニ》――吾が心に願ふことで、そのつもりで蠶を飼へばの意。(464)桑に願ふのではない。
〔評〕 桑の葉が着物になる。それは奇蹟といつてよいほどのことだ。その不思議なことが眼前行はれてゐるのに、私の戀がならぬといふことはない筈だ、といふやうな氣分の歌である。養蠶にいそしんでゐる母と、一緒にゐる男の歌として見ると更に面白い。
 
1358 はしきやし 吾家の毛桃 本しげく 花のみ咲きて ならざらめやも
 
波之吉也思《ハシキヤシ》 吾家乃毛桃《ワギヘノケモモ》 本繁《モトシゲク》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不成在目八方《ナラザラメヤモ》
 
ナツカシイ私ノ家ノ毛桃ノ木は、幹ガ茂ツテ、花パカリ咲イテ實ガ、ナラナイトイフコトガアラウカ。決シテソンナコトハ無イ筈ダ。私タチノ間ガ、約束バカリデ逢ハズニシマフ筈ハナイ〔決シ〜傍線〕。
 
○波之吉也思《ハシキヤシ》――契沖は「發句は桃をほむる詞」と言つてゐるが、古事記倭建命の波斯祁夜斯和岐弊能迦多用久毛韋多知久母《ハシケヤシワギヘノカタヨクモヰタチクモ》に傚つて吾家《ワギヘ》につづくものとしたい。愛《ハ》しきに詠嘆の助詞、ヤとシとを添へたもの。○吾家乃毛桃《ワギヘノケモモ》――毛桃は桃の一品種で、外果皮に毛茸多く、且、大きい。○本繁《モトシゲク》――本は幹であらうが、ここは木の茂つてゐるをいふ。この句までは、下句を言ひ出す爲に用ゐられてゐる。併し歌全躰の中心が毛桃になつてゐるので、この上句を序詞とのみ見るわけには行かない。
〔評〕 戀が成就しないのを、花のみ咲いて實がならぬに譬へたものは、卷二の玉葛花耳開而不成者《タマカヅラハナノミサキテナラザルハ》(一〇二)・この卷の花耳開而不成可毛將有《ハナノミサキテナラズカモアラム》(一三六四)、卷八の花耳爾咲而盖實爾不成鴨《ハナノミサキテケダシクミニナラジカモ》(一四六三)など、この他なほ多い。その點から言へば類想的であるが、上句は女に對する親愛の情をあらはしてゐて、なつかしい感じがする。
 
1359 向つをの 若かつらの木 しづ枝取り 花待つい間に 嘆きつるかも
 
向岡之《ムカツヲノ》 若楓木《ワカカツラノキ》 下枝取《シヅエトリ》 花待伊間爾《ハナマツイマニ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
向ヒノ岡ノ若イカツラノ木ノ、下枝ヲ手ニ取ツテ持ツテ、私ハ〔二字傍線〕、花ノ咲ク間ヲ待チカネテ〔五字傍線〕歎イタヨ。私ハ少女ヲ戀ヒ慕ツテヰルガ、早ク女ガ成人シテ、連添フヤウニナレバヨイト、待遠クテ仕樣ガナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
(465)○若楓木《ワカカツラノキ》――楓は和名抄に「楓乎加豆良」とある木で、今カツラといふものであらう。六三二參照。○花待伊間爾《ハナマツイマニ》――イは意味のない接頭語である。花を待つ間にの意。卷十に、春風爾不亂伊間爾令視子裳欲得《ハルカゼニミダレヌイマニミセムコモガモ》(一八五一)とある。
〔評〕 若い少女を若楓に譬へて、その盛りの年頃になるのを待ちわびてゐる歌である。下枝取《シヅエトリ》の一句、何でもないやうであるが 若い少女を親しむ感情が流露してゐるやうに思はれる。
 
寄v花
 
1360 いきのをに 念へる我を 山ちさの 花にか君が 移ろひぬらむ
 
氣緒爾《イキノヲニ》 念有吾乎《オモヘルワレヲ》 山治左能《ヤマチサノ》 花爾香君之《ハナニカキミガ》 移奴良武《ウツロヒヌラム》
 
私ハ命ニカケテアナタヲ〔四字傍線〕思ツテヰルノニ、山治左ノ花ノヤウニ、アダニアナタハ心ガモウ〔四字傍線〕カハツテシマツタダラウカ。必スサウダラウ〔七字傍線〕。
 
○氣緒爾《イキノヲニ》――命にかけて。集中用例が多い。○山治左能《ヤマチサノ》――山治左《ヤマチサ》は卷十一に山萵苣《ヤマチサ》(二四六九)とも記してある。萵苣は蔬菜のチシヤで別物であるが借りて用ゐるのである。この治左は謂はゆるエゴノ木である。この木は山林に自生する小喬木で、幹の高さ一丈内外、葉は卵形で尖り、鋸齒はない。夏の頃總状花序をなして白色の花を開き、長い花梗を以て垂れ下つてゐる。花冠は五裂してゐる。果實は堅い殻に包まれてゐるが、熟すると破れて褐色の種子を出す。一説にさんごじゆのこととするが、さんごじゆは花がえごの木に及ばないから、さうして南國の木でもあるから、ここにはふさはしくないやうである。○花爾香君之移奴良武《ハナニカキミガウツロヒヌラム》――花に移ろふとは、眞實心なくあだに心の變ること。
(466)〔評〕 山治左能《ヤマヂサノ》は唯、花の種類を限定する爲に用ゐただけのもので、他の花でもよいのであるが、純白の花が簇つて滿枝盡く咲き亂れる、知佐の美觀を捉へたものであらう。これを枕詞とのみ見る説はあきたらない。
 
1361 住のえの 淺澤小野の 杜若 衣に摺りつけ 著む日知らずも
 
墨吉之《スミノエノ》 淺澤小野之《アサザハヲヌノ》 垣津幡《カキツバタ》 衣爾摺著《キヌニスリツケ》 將衣日不知毛《キムヒシラズモ》
 
住吉ノ淺澤小野ノ杜若ノ花ヲ、着物ニ摺リ付ケテ染メテ〔三字傍線〕、着ル日ハイツダカワカラナイ。早ク着タイモノダ。私ノアノ戀シイ女ト婚スルコトノ出來ルノハ何時ダラウ。早クサウナリタイモノダガ〔早ク着〜傍線〕。
 
○淺澤小野之《アサザハヲヌノ》――淺澤小野は住吉の地名。大日本地名辭書に、「住吉社の南に一條の窪地あり。東南依羅池に連る。今開きて田と爲し細流存す。古歌に淺澤の野とも沼とも詠ず」とある。第一册附録攝津地圖參照。
〔評〕 同じ社若に寄せてゐながら、前の常不人國山乃《ツネナラヌヒトクニヤマノ》(一三四五)の歌は寄草の部に収め、これは寄花のうちになつてゐる。共に花といふ文字は無いが、この方は衣を摺るので花に關することは明らかになつてゐる爲か。譬喩は素直であるが、類想的で變つたところがない。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1362 秋さらば うつしもせむと 吾が蒔きし 韓藍の花を 誰かつみけむ
 
秋去者《アキサラバ》 影毛將爲跡《ウツシモセムト》 吾蒔之《ワガマキシ》 韓藍之花乎《カラアヰノハナヲ》 誰採家牟《タレカツミケム》
 
秋ニナツタナラバ、咲イタ花ヲ〔五字傍線〕移花ニシヨウト思ツテ、私ガ蒔イテ置イタ鷄頭ノ花ヲ、誰ガ摘ンダノダラウ。私ノモノニシヨウト思ツテヰタ女ヲ、誰ガ取ツテシマツタノダラウ〔私ノ〜傍線〕。
 
○影毛將爲跡《ウツシモセムト》――影は舊訓カゲニモとあるのでは分らない。宣長は「影は移の誤にて、うつしもせむと訓むべし。うつすは染る事を言ふ也」といつてゐるが、影の字のままで、ウツシとよめる筈である。又ウツシは前に事痛者《コチタクハ》(一三四三)の歌の一云の紅之寫心哉《クレナイノウツシコヽロヤ》のところに解いたやうに、うつし花のことであるから、ここはウツシニモセムトの意である。○韓藍之花乎《カラアヰノハナヲ》――韓藍は鷄頭花のこと。三八四參照。
〔評〕 女を韓藍の花に譬へて、妻とすることを影毛將爲跡《ウツシモセムト》と言つたのは面白い譬喩である。女を取つた男が誰で(467)あるかを必ずしも知らないのではあるまいが、誰採家牟《タレカツミケム》と婉曲に言つたのも可憐である。
 
1363 春日野に 咲きたる萩は 片枝は いまだふふめり ことな絶えそね
 
春日野爾《カスガヌニ》 咲有芽子者《サキタルハギハ》 片枝者《カタエダハ》 未含有《イマダフフメリ》 言勿絶行年《コトナタエソネ》
 
春日野ニ咲イテヰル萩ノ花ハ、マダ咲キ初デ〔六字傍線〕片枝ハマダ蕾ダ。ソノヤウニ私ノ愛スル女ハマダ子供デ、今ハ夫婦ニハナレナイガ、シカシ〔ソノ〜傍線〕、音信ダケハ絶ヤサヌヤウニシテクレ。私ハ行ク行クハ夫婦ニナラウト思ツテヰル〔私ハ〜傍線〕。
 
○片枝者《カタエダハ》――舊訓カタエダハとあるのを改めて、童蒙抄にカタツエハとしたのに、略解も從つてゐるが、おもしろくない。○言勿絶行年《コトナタエソネ》――行年は舊訓コソであるが、宣長が所年の誤としてソネと訓んだのがよい。
〔評〕 春日野あたりの少女を、未だ片枝開かぬ萩に譬へたのである。結句はその女の親が。男に言ふものとも解せられぬことはないが、男が行末を約つて、女又はその親などに言ふのであらう。略解に「此歌より以下三首同じ人の歌なるべし」とあるが、必ずしもさうは見られぬやうである。
 
1364 見まく欲り 戀ひつつ待ちし 秋萩は 花のみ咲きて 成らずかもあらむ
 
欲見《ミマクホリ》 戀管待之《コヒツツマチシ》 秋芽子者《アキハギハ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不成可毛將有《ナラズカモアラム》
 
見タクテ、私ガ戀ヒシク思ヒツツ待ツテヰタ秋萩ハ、花バカリ咲イテ實ニナラナイノデハナイカ知ラ。夫婦ニナラウト思ツテ私ガ待ツテヰタ少女ハ、生長バカリシテモ、私ト夫婦ニナラナイノデハナイダラウカ〔夫婦ニナラウ〜傍線〕。
 
○花耳開而《ハナノミサキテ》――女の年頃になつたのをかく言つたのであらう。同樣の表現ながら前の波之吉也思《ハシキヤシ》(一三五八)の歌の花耳開而《ハナノミサキテ》とは意が異つてゐるやうである。
〔評〕 これも女を萩に譬へてある。戀してゐる女が漸く成人して來た頃、男が詠んだ歌らしい。前の歌と同人の作とも思はれるが、またさうでないとも言ひ得る。連作としてはあまり期間があり過ぎるやうである。
 
1365 吾妹子が やどの秋萩 花よりは 實になりてこそ 戀ひまさりけれ
 
吾妹子之《ワギモコガ》 屋前之秋芽子《ヤドノアキハギ》 自花者《ハナヨリハ》 實成而許曾《ミニナリテコソ》 戀益家禮《コヒマサリケレ》
 
(468)私ノ女ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕秋萩ハ、花ヨリハ實ニナツテカラコソ戀シサガ増サツタヨ。私ハアノ女ヲ唯見タ時ヨリモ、實際逢ツテカラ後コソ一層戀シサガ増シテ來タヨ〔私ハ〜傍線〕。
〔評〕 これも女を萩に譬へて、逢うて彌増す思ひを歌つてゐる。前の二首と同人の作とすると、始の歌が春日野に咲きたる萩になぞらへたのに、これは吾妹子が宿の純萩に譬へたのが異なつて、少し不合理に思はれる。ともかく花といひ實といふのは、類型的で別段面白くはない。
 
寄v鳥
 
1366 明日香川 七瀬の淀に 住む鳥も 心あれこそ 波立てざらめ
 
明日香川《アスカガハ》 七瀬之不行爾《ナナセノヨドニ》 住鳥毛《スムトリモ》 意有社《ココロアレコソ》 波不立目《ナミタテザラメ》
 
飛鳥川ノ澤山ノ瀬ノ淀ミニ住ンデヰル鳥モ、心ニ思フコトガアルノデ、浪ヲ立テナイデ靜カニシテヰル〔八字傍線〕ノダラウ。オマヘモ注意シテ靜カニシテヰテ、人ニ言ヒ騷ガレナイヤウニシテクレ〔オマ〜傍線〕。
 
○七瀬之不行爾《ナナセノヨドニ》――卷五に麻都良我波奈奈勢能與騰波《マツラガハナナセノヨドハ》(八六〇)とある。澤山の瀬の淀んだところにの意。○意有社波不立目《ココロアレコソナミタテザラメ》――心あればこそ波を立てないのであらう。心あればこそとは、鳥も人目を避ける心があつてといふ意であらう。
〔評〕 鳥のことのみを言つて、本意とするところは明らかに述べてゐないが、意は明らかである。謂はゆる譬喩にはなつてゐない。婉曲な上品な作である。
 
寄v獣
 
1367 三國山 木末に住まふ むささびの 鳥待つが如 我待ち痩せむ
 
三國山《ミクニヤマ》 木末爾住歴《コヌレニスマフ》 武佐左妣乃《ムササビノ》 此待鳥如《トリマツガゴト》 吾俟將痩《ワレマチヤセム》
 
(469)三國山ノ梢ニ住ツテヰル※[鼠+吾]鼠ガ、鳥ヲ捕ヘヨウト思ツテ〔八字傍線〕待ツテ、飢ヱテ瘠セテ〔六字傍線〕ヰルヤウニ、私ハ戀人ヲ〔三字傍線〕待ツテ痩セ衰ヘルデアラウカ。アア待ツノハ苦シイモノダ〔アア〜傍線〕。
 
○三國山《ミクニヤマ》――三國山の名は諸國にあつて何所とも判じ難い。八雲御抄に、攝津とあるのは三國川があるところから推測したもので、恐らく當を得てゐまい。越前國坂井郡三國港附近の山だらうとの説もある。この地名も書紀・續紀・延喜式神名帳などに見えてゐるから、或はこれかも知れない。但しそこの山を今は三國山と稱してゐない。○武佐左妣乃《ムササビノ》――武佐左妣《ムササビ》は※[鼠+吾]鼠、卷三の牟佐佐婢《ムササビ》(二六七)參照。○此待鳥如《トリマツガゴト》――此の字は細井本に無いのに從つた。※[鼠+吾]鼠は木の枝にかくれて、鳥を捕へて食ふのである。○吾俟將痩《ワレマチヤセム》――略解にワヲマチヤセムと訓んで、「妹が吾を待かせむと也。將痩は借字のみ」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 梢に隱れて鳥の來るのを待つてゐる※[鼠+吾]鼠は、食を得るまでの間に飢ゑて、痩せるであらうと想像して、それを吾が戀人を待つ思に堪へかねて、痩せ行くのに比してゐる。實に奇拔な譬喩で面白い。文選謝玄※[日+軍]、敬亭山の詩に、「獨鶴方(ニ)朝(ニ)唳(ク)、※[食+幾]※[鼠+吾]此夜啼」とはあるが、この句から脱化したものではあるまい。
 
寄v雲
 
1368 石倉の 小野ゆ秋津に 立ち渡る 雲にしもあれや 時をし待たむ
 
石倉之《イハクラノ》 小野從秋津爾《ヲヌユアキヅニ》 發渡《タチワタル》 雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》 時乎思將待《トキヲシマタム》
 
石倉ノ小野カラ、遙カニ距ツタ〔六字傍線〕秋津マデ風ノマニマニ〔六字傍線〕、立チ渡ル雲デ私ガ〔二字傍線〕アレバヨイ。サウシタラ雲ガ風ヲ待ツテ動クヤウニ、私モ〔サウ〜傍線〕時節ノ來ルノヲ待タウ。シカシ私ハ雲デハナイカラ、サウ時節バカリヲ待ツテハヰラレナイ。ドウカシテ思ヲ叶ヘタイ〔シカ〜傍線〕。
 
○石倉之小野《イハクラノヲヌ》――今吉野の宮瀧の西方に岩倉といふ地名がある。秋津も吉野の宮瀧附近の平地であるから、こ(470)の歌は吉野の作と思はれる。併し前の常不人國山乃秋津野乃《ツネナラヌヒトクニヤマノアキツヌノ》(一三四五)の歌で述べたやうに、秋津は紀伊の田邊附近にあり、そこに岩倉山もあるといふことで、大日本地名辭書によれば、三十三所圖會に「人國山は秋津村の西萬呂村に在り、岩倉山の號は下秋津村寶滿寺に遺る」と記してあるから、これに從ふことも出來るわけである。なほ研究を要する。○雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》――雲でもあれよの意で、下に、さらばを補つて次の時乎思將待《トキヲシマタム》につづいてゐる。
〔評〕 風に動く雲を見て、それを羨み、吾が戀の成らざるを嘆いた歌。四句から五句へのつづき方が不明瞭で、種々に解釋せられるのは遺憾である。卷六の玉藻苅辛荷乃島爾島回爲流水烏二四毛有哉家不念有六《タマモカルカラニノシマニシマミスルウニシモアレヤイヘオモハザラム》(九四三)と表現法を等しくしてゐるから、それに傚つて解くべきである。
 
寄v雷
 
1369 天雲に 近く光りて 鳴る神の 見ればかしこし 見ねば悲しも
 
天雲《アマグモニ》 近光而《チカクヒカリテ》 響神之《ナルカミノ》 見者恐《ミレバカシコシ》 不見者悲毛《ミネバカナシモ》
 
私ハアノ人ヲ見〔六字傍線〕見ルト(天雲近光而響神之)畏多イシ、ソレカト言ツテ〔七字傍線〕見ナケレバ悲シイヨ。
 
○天雲近光而響神之《アマグモニチカクヒカリテナルカミノ》――序詞。恐《カシコシ》につづいてゐる。空の雲の近くで光つて、鳴る雷の如くの意。
〔評〕 貴人を戀する歌で、調子の緊張したよい作である。内容も奇拔だ。
 
寄v雨
 
1370 甚だも ふらぬ雨故 にはたづみ いたくな行きそ 人の知るべく
 
甚多毛《ハナハダモ》 不零雨故《フラヌアメユヱ》 庭立水《ニハタヅミ》 大莫逝《イタクナユキソ》 人之應知《ヒトノシルベク》
 
アマリヒドクモ降ラナイ雨ダノニ、庭ノ雨ノ溜リ水ヨ、ヒドク流レテ〔三字傍線〕行クナヨ。人ガ氣ガツクカラ。心ニ忍ン(471)デ思ツテヰルノダカラ、涙ヨ、アマリヒドク流レルナヨ。戀シテヰルト人ニ知ラレルカラ〔心ニ〜傍線〕。
 
○甚多毛《ハナハダモ》――多の字は送假名のやうにして添へたのである。古義にココダクモと訓んだのはよくない。○不零雨故《フラヌアメユヱ》――降らない雨だのに。かういふ故《ユヱ》が集中に多い。○庭立水《ニハタヅミ》――雨が降つて庭を流れる水。庭多泉《ニハタヅミ》(一七八)參照。この詞は流るとつづく場合が多いが、ここは次の句の逝《ユク》につづいてゐる。やはり流ると同義である。
〔評〕 忍戀の歌には違ひないが、庭たづみに譬へたものが明らかでない。契沖が涙に譬へたものと見たのに從つて置く。次の歌も同樣であるから、恐らくさうであらう。
 
1371 久方の 雨には著ぬを あやしくも 吾が衣手は ひる時なきか
 
久堅之《ヒサカタノ》 雨爾波不著乎《アメニハキヌヲ》 恠毛《アヤシクモ》 吾袖者《ワガコロモデハ》 干時無香《ヒルトキナキカ》
 
(久堅之)雨ノ降ル時ニハ着ナイノニ、不思議ニモ、雨ノ降ル時ニデモ着タヤウニ〔雨ノ〜傍線〕、私ノ着物ノ袖ガ乾ク時ガナイヨ。涙ガヒドク流レルモノト見エル〔涙ガ〜傍線〕。
 
○干時無香《ヒルトキナキカ》――ナキカは無キカナの意。
〔評〕 涙といふ語を隱して、しかもそれが明らかにわかるやうになつてゐる。寄雨の題ながら、雨を詠んでゐるのではない。しかし涙が雨のやうだといふ譬喩にはなつてゐる。
 
寄v月
 
1372 み空ゆく 月讀壯士 夕去らず 目には見れども 寄るよしもなし
 
三空行《ミソラユク》 月讀壯士《ツクヨミヲトコ》 夕不去《ユフサラズ》 目庭雖見《メニハミレドモ》 因縁毛無《ヨルヨシモナシ》
 
空ヲ通ル月ハ夕方毎ニ目ニハ見ルケレドモ、近寄ルコトガ出來ナイ。始終目ニハ見ルガ、戀シイ人ノ側ヘモ寄リツケナイ〔始終〜傍線〕。
 
(472)○月讀壯士《ツクヨミヲトコ》――月の異名。卷六に天爾座月讀壯子《アメニマスツクヨミヲトコ》(九八五)とあつた。なほ卷四の月讀之《ツクヨミノ》(六七〇)をも參照せられたい。○夕不去《ユフサラズ》――毎夕。卷三にも夕不離川津鳴瀬之《ユフサラズカハヅナクセノ》(三五六)とある。○因縁毛無《ヨルヨシモナシ》――近寄る方法がない。
〔評〕 戀人を月に譬へたので、月讀壯士と言つてゐるところで見ると、女性の歌らしい。相手の男が身分の貴いのを歎いてゐるやうにも見えるが、さうではなくて、卷四の目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責《メニハミテテニハトラエヌツキノウチノカツラノゴトキイモヲイカニセム》(六三二)のやうに、ただ親しみ難いことを悲しんだものである、これも上品な温雅な作である。
 
1373 春日山 山高からし 石の上の 菅の根見むに 月待ちがてぬ
 
春日山《カスガヤマ》 山高有良之《ヤマタカカラシ》 石上《イソノウヘノ》 菅根將見爾《スガノネミムニ》 月待難《ツキマチガテヌ》
 
春日山ハ山ガ高イノダラウ。石ノ上ニ生エテヰル菅ヲ見ヨウト思ツテ月ヲ待ツテヰルガ、ナカナカ月ガ出」テ來ナイ。私ハ戀シイ人ニ逢ハウト思フガ、トカク邪魔ガアツテ、逢ハレナイノデ、ヨイ機會ヲ待チカネテヰル〔私ハ〜傍線〕。
 
○石上《イソノウヘノ》――舊訓イハノウヘノとあるのでも惡くはないが、卷六に石二生菅根取而《イソニオフルスガノネトリテ》(九四八)とよんであるから、これもイソがよい。○菅根將見爾《スガノネミムニ》――根は實の誤かと眞淵は言つてゐる。ここに根は全く要はないやうであるが、略解に「按に、かかる所に菅の根とよめる歌、集中に多し。根にはやうなけれど、ただ言ひなれたるによりて言へるのみにて、菅根とて菅の事なるべくおぼゆ」とある通りであらう。宣長が菅根を舊郷の誤として、イソノカミフルノサトミムニであらうと言つたのは、從ひ難い説である。○月待難《ツキマチガテヌ》――舊訓ツキマチカネヌ、古義ツキマチガタシとあるが、略解に從ふ。
〔評〕 女を菅に譬へて、故障があつて逢ひ難いのを、山が高い爲に月が出ることの遲いのになぞらへたものらしい。譬喩が少し煩はしくて鮮明を缺いてゐるやうである。春日山に近い地方人の作であらうが、山高有良之《ヤマタカカラシ》も落付きの惡い語である。
 
1374 闇の夜は 苦しをものを いつしかと 吾が待つ月も 早も照らぬか
 
闇夜者《ヤミノヨハ》 辛苦物乎《クルシキモノヲ》 何時跡《イツシカト》 吾待月毛《ワガマツツキモ》 早毛照奴賀《ハヤモテラヌカ》
 
闇夜ハ心モ曇ツタヤウデ〔八字傍線〕苦シイモノダカラ、何時出ルダラウカト私ガ待ツテヰル月ガ、早ク照ラナイカナア。戀(473)シイ人ニ逢ハナイノハ苦シイモノダカラ、私ノ戀人ヨ、早ク來テ下サイ〔戀シ〜傍線〕。
 
○吾待月毛《ワガマツツキモ》――考には毛を之の誤として、ワガマツツキノとよんでゐるが、このモは強く言ふのみで、下の早毛《ハヤモ》のモと同じであるから、改める必要はない。○早毛照奴賀《ハヤモテラヌカ》――テラヌカは照れよの意。
〔評〕 戀人を月に譬へて、逢はれない心の悶えを、闇夜の苦しさに比してゐる。全く暗喩の歌である。古義に、闇夜の苦痛に堪へないで、月を待つ心のやうに解いてゐるのは誤つてゐる。
 
1375 朝霜の 消やすき命 誰がために 千歳もがもと 吾が念はなくに
 
朝霜之《アサシモノ》 消安命《ケヤスキイノチ》 爲誰《タガタメニ》 千歳毛欲得跡《チトセモガモト》 吾念莫國《ワガモハナクニ》
 
朝ノ霜ノヤウナ消エヤスイ私ノ命ヲ、誰ノ爲ニ私ハ千年モ生キルヨウニト思フノデハアリマセヌ、皆アナタノ爲ニ長生ガシタイノデス〔皆ア〜傍線〕。
 
〔評〕 前の水底爾沈白玉誰故心盡而不念爾《ミナソコニシヅクシラタマタガユヱニココロツクシテワガモハナクニ》(一三二〇)と同型の歌である。寄月の部に入れてあるが、そんな意味は少しもなく、又左註の如く譬喩歌の類でもない。前の闇夜の歌と同一人の作だからと言つても、特にここに入れるほどの佳作でもない。
 
右一首者不(ル)v有(ラ)2譬喩歌(ノ)類(ニ)1也、但闇夜(ノ)歌人、所心之故(ニ)並(ニ)作(ル)2此歌(ヲ)1、因(リテ)以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)於2此次(ニ)1、
 
この註は、右の一首は譬喩の歌の類ではないが、前の闇夜者《ヤミノヨハ》の歌をよんだ人が考ふるところあつて此の歌を作つたので、これをこの次に載せたのだといふのである。所心の心は、思の誤かと略解にあるが、卷十七に於v是悲2傷※[覊の馬が奇]旅1各陳2所心1作歌(三八九〇)など所心の熟語が見えるから誤ではない。舊本、載の下、出とあるのでもわからないことはないが、元暦校本その他の古本、於の字に作つてゐるのが多いから、それに從ふべきである。この卷の歌は作者が記してないのは、不明なのであらうと思はれるのに、かういふ註(474)があるのは注意すべきことである。
 
寄2赤土1
 
1376 大和の 宇陀のまはにの さ丹つかば そこもか人の わをことなさむ
 
山跡之《ヤマトノ》 宇※[こざと+施の旁]乃眞赤土《ウダノマハニノ》 左丹著《サニツカバ》 曾許裳香人之《ソコモカヒトノ》 吾乎言將成《ワヲコトナサム》
 
大和ノ國ノ宇陀ノ赤土デ、赤ク色ツイタナラバ、即チ二人ノ間ノ戀ガ成ツタナラバ〔即チ〜傍線〕、ソノ點ヲ以テ人ガ私ノコトヲ兎ヤ角ト言ヒナスデアラウカ。
 
○宇※[こざと+施の旁]乃眞赤土《ウダノマハニノ》――宇陀は大和宇陀郡字太村であらう。字賀志村の西に接してゐる。第一册附録大和地圖參照。眞赤土《マハニ》は赤土。字太村附近から染料に供する赤い土が出たのである。○左丹著《サニツカバ》――左は發語。ニツカバは赤い色に染まつたならばの意で、二人が戀に落ちたならばの意とある。元暦校本その他の古寫本に、著の下、者の字があるのがよい。○曾許裳香人之吾乎言將成《ソコモカヒトノワヲコトナサム》――卷四の秋田之穗田乃刈婆加香縁相者《アキノタノホタノカリバカカヨリアハバ》(五一二)はこれと下句が同じである。
〔評〕 花になぞらへて色に出づなゆめと言つたり、海草によそへてなのりそと言つたりするのと同じやうに、赤土に寄せて戀の色に染んで、人の口に上ることを恐れたので、格別替つた想でもないが、上句は一寸類がない言ひ方である。右に掲げた卷四の歌は多分これを學んで、上句を替へたものであらう。
 
寄v神
 
1377 木綿かけて 祭る御室の 神さびて 齋ふにはあらず 人目多みこそ
 
木綿懸而《ユフカケテ》 祭三諸乃《マツルミモロノ》 神佐備而《カムサビテ》 齋爾者不在《イハフニハアラズ》 人目多見許曾《ヒトメオホミコソ》
 
(木綿懸而祭三諸乃)神々シイモノトシテ、自分デ自分ヲ〔六字傍線〕神聖ニシテアナタニ逢ハナイ〔九字傍線〕ノデハアリマセヌ。人目(475)ガ多クテ、人ニ見付カル虞ガアル〔クテ〜傍線〕カラデスヨ。
 
○木綿懸而《ユフカケテ》――木綿は神を祭る爲に、榊などに垂れ懸けるもの。梶の木の皮で作る。○祭三諸乃《マツルミモロノ》――三諸は御室。神を祀るところ。神社。この句までを神佐備而《カムサビテ》の序と見るがよい。○神佐備而《カムサビテ》――神々しくの意。これを年老いての意に解する説が多いが恐らく當るまい。○齋爾者不在《イハフニハアラズ》――舊訓イムニハアラズとあり、從つて舊註は皆あなたを嫌ふのではないの意に解してゐる。齋は齋部氏などと用ゐるやうに、イムとよむ字ではあるが、集中の用例は齋經社之《イハフヤシロノ》(二三〇九)・齋槻《イハヒツキ》(二六五六)などの如く、イハフとよむべきものが多く、イムとよまねばならぬところは一寸見當らぬから、イハフとよんで置く。自から身を守つて、逢はぬのではないといふのである。
〔評〕 この歌は一見解し易いやうでありながら、説が必ずしも一致しない。多くは老女を戀ふる歌としてゐるが、老女が人に與へたものと考へられないこともない。併し予はこれを人目を憚つて逢はぬ女から、男に贈つたものとしたいと思ふ。
 
1378 木綿かけて いはふこのもりも 超えぬべく おもほゆるかも 戀の繁きに
 
木綿懸而《ユフカケテ》 齋此神社《イハフコノモリモ》 可超《コエヌベク》 所念可毛《オモホユルカモ》 戀之繁爾《コヒノシゲキニ》
 
私ハ私ノ〔四字傍線〕戀ノ心ガ盛ナノデ、木綿シデヲカケテ祭ルコノ神社ノ、神聖ヲ犯シテ〔六字傍線〕中ニ入ラウカト思フヨ。私ノ戀ノ心ノ遣瀬ナサニ、無理ナコトヲシテモ逢ハウカト思フヨ〔私ノ〜傍線〕。
 
○齋此神社《イハフコノモリモ》――舊訓イミシヤシロモとあるのは拙い。代匠記精撰本にイムコノモリモと讀むべきかとあるに從ふ説が多いが、前の歌と伺じく齋をイハフとよむことにした。
〔評〕 神聖を犯し、無理をしてでも逢ひたいといふ意が上三句に譬へてある。それは、卷十一千葉破神之伊垣毛可越今者吾名之惜無《チハヤフルカミノイガキモコエヌベシイマハワガナノヲシケクモナシ》(二六六三)と同樣な思想で、かういふ譬喩が用ゐ慣らされてゐたのであらう。必ずしも人妻を戀する歌ではない。契沖が、「この歌、上と問答せるやうに見ゆるか」と言つたのに從ふとすれば、前の歌は右の解が當つてゐるやうである。
 
(476)寄v河
 
1379 絶えず逝く 飛鳥の川の ゆかずあらば 故しもあるごと 人の見まくに
 
不絶逝《タエズユク》 明日香川之《アスカノカハノ》 不逝有者《ユカズアラバ》 故霜有如《ユヱシモアルゴト》 人之見國《ヒトノミマクニ》
 
絶エズ流レテヰル飛鳥川ガ流レナイナラバ、何カワケノアルヤウニ、人ガ見ルデアラウニ。常ニ通ツテヰル女ノ所ヘ私ガ行カナカツタナラバ、何カワケノアルヤウニアノ女ハ思フデアラウニ〔常ニ〜傍線〕。
 
○不逝有者《ユカズアラバ》――舊訓ヨドメラバとあるのは、下に掲げた古今集の歌に傚つたのであらうが、文字に附いてユカズアラバとよんだ代匠記精撰本の訓がよい。○人之見國《ヒトノミマクニ》――舊訓はヒトノミラクニであるが、古義にヒトノミマクニとよんだのがよい。人が見るであらうにの意。人は女を指してゐる。一般の世人ではない。
〔評〕 一二の句を序詞と見ても、よいやうであるが、全躰が暗喩になつてゐるものとして解釋した。明日香川附近に住む男の作と思はれる。古今集に「たえず行く飛鳥の川のよどみなば心あるとや人の思はむ」とあるのは、この歌の改作らしい。なほその左に註して、「この歌、或人の云、中臣東人がうたなり」とある。中臣東人は本集の卷四に出てゐる人で、阿倍女郎と贈答してゐる。五一五に記したやうに、和銅四年から天平五年までの履歴が、續紀に記されてゐる人であるから、もし古今集の歌を東人の作とすれば、あれはこの改作であるから、この歌は當然東人の作といふことになる。古今集の記載はその儘信用し難いが、ともかくこれも古今集と本集との關係を見るべき一好資料である。
 
1380 飛鳥川 瀬々に玉藻は 生ひたれど しがらみあれば 靡きあはなくに
 
明日香川《アスカガハ》 湍瀬爾玉藻者《セゼニタマモハ》 雖生有《オヒタレド》 四賀良美有者《シガラミアレバ》 靡不相《ナビキアハナクニ》
 
飛鳥川ノ瀬毎ニ美シイ藻ハ生エテハヰルガ、瀬ト瀬トノ間ニハ〔八字傍線〕柵ガアルノデ、美シイ藻ハ互ニ〔七字傍線〕靡キ合フコトハシナイ。ソレト同ジヤウニ、思ヒ合ツテヰル私等モ邪魔物ガアツテ逢フコトガ出來ナイ〔ソレ〜傍線〕。
 
(477)○四賀良美有者《シガラミアレバ》――シガラミは河中に杙を打つて、横に竹木などをからみつけたもの。卷二に明日香川四我良美渡之《アスカガハシガラミワタシ》(一九七)とあつた。
〔評〕 戀する者を玉藻に、邪魔する者を柵にたとへてゐる。はつきりした平明な作といつてよからう。
 
1381 廣瀬川 袖つくばかり 淺きをや 心深めて 吾が念へらむ
 
廣瀬川《ヒロセカハ》 袖衝許《ソデツクバカリ》 淺乎也《アサキヲヤ》 心深目手《ココロフカメテ》 吾念有良武《ワガオモヘラム》
 
(廣瀬川袖衝許)淺イ心ノ人ヲ、心深ク何故〔二字傍線〕私ハ思フノダラウ。ツマラナイイコトダ〔八字傍線〕。
 
○廣瀬川袖衝許《ヒロセカハソデツクバカリ》――淺きと言はむ爲の序詞。廣瀬川は徒渉りすると、着物の長い袖が水に漬かるが、それ位徒渉の出來るほどの淺い河の意で、淺に冠してゐる。廣瀬川は大和北葛城郡河合村附近を流れる河で、上流は葛城川である。この河は瀬が廣くて淺いのであらう。袖衝許《ソデツクバカリ》の衝《ツク》は漬くで、海行者美都久屍《ウミユカバミツクカバネ》(四〇九四)の都久《ツク》と同じである。○淺乎也《アサキヲヤ》――心の淺を人をやの意。○吾念有良武《ワガオモヘラム》――私が思払込んでゐるのであらうかと、我ながら、怪しみ、且歎ずるのである。「良は衍文なるべし」と契沖は言つてゐるが、例の送假名式に添へて書いたのであらう。
〔評〕 廣瀬川の徒渉を以て序詞としたのは珍らしい。袖衝許《ソデツクバカリ》の句は淺につづくものとして、適切であるかどうか多少疑がないでもないが、下の三句には感情がこもつてゐる。
 
1382 泊瀬川 流る水沫の 絶えばこそ 吾が念ふ心 遂けじと思はめ
 
泊瀬川《ハツセカハ》 流水沫之《ナガルミナワノ》 絶者許曾《タエバコソ》 吾念心《ワガモフココロ》 不遂登思齒目《トゲジトモハメ》
 
泊瀬川ハイツモ水ガ滔々ト流レテヰルガ、アノ〔泊瀬〜傍線〕泊瀬川ノ流レル水ノ泡ガ、絶エル時ガアルナラバ、私ガ心ニ思ツテヰル戀ヲ、遂ゲズニ置カウト思ハウ。泊瀬川ノ水ノ泡ノ絶エナイカギリハ、私ハ決シテ私ノ戀ヲ遂ケルコトヲ思ヒ切ラナイ考ダ〔泊瀬〜傍線〕。
 
○流水沫之《ナガルミナワノ》――古義に沫は脈の誤で、ナガルルミヲノとよむべしと言つてゐるが、文字を改める理由はない。(478)卷十八にも射水河流水沫能《イミヅカハナガルミナワノ》(四一〇六)」とある。ナガルルミナワノと言ふべきところのやうであるが、かうした古格があつたのである。
〔評〕 必ず戀を遂げでは置かぬことを盟つたのである。表現に力強いところがある。泉川往瀬之水之絶者許曾大宮地遷往目《イヅミカハユクセノミヅノタエバコソオホミヤトコロウツロヒユカメ》(一〇五四)と形式を同じくしてゐる。
 
1383 嘆きせば 人知りぬべみ 山川の たぎつ情を 塞かへたるかも
 
名毛伎世婆《ナゲキセバ》 人可知見《ヒトシリヌベミ》 山川之《ヤマガハノ》 瀧情乎《タギツココロヲ》 塞敢而有鴨《セカヘタルカモ》
 
聲ニ出シテ嘆イテハ人ガ知ルダラウカラト思ツテ、私ハ〔二字傍線〕山川ガ泡立チ流レル〔七字傍線〕ヤウナ、沸キカヘル心ヲ無理ニ〔三字傍線〕セキ止メテヰルヨ。
 
○名毛伎世婆《ナゲキセバ》――名毛伎《ナゲキ》は長息《ナガイキ》の約。嘆息。○塞敢而有鴨《セカヘタルカモ》――セカヘは塞《セ》きの延言であらう。續後紀の長歌に堰加倍留天《セカヘトドメテ》とある。
〔評〕 これは卷十一の言出云忌々山川之當都心塞耐在《コトニイデテイハバユユシミヤマカハノタギツココロヲセカヘタリケリ》(二四三二)と同型で、同歌の異傳といつてもよいくらゐである。しつかりと力の籠つた作品である。
 
1384 水こもりに 息づきあまり 早川の 瀬には立つとも 人に言はめやも
 
水隱爾《ミコモリニ》 氣衝餘《イキヅキアマリ》 早川之《ハヤカハノ》 瀬者立友《セニハタツトモ》 人二將言八方《ヒトニイハメヤモ》
 
忍ビ隱サウトシテモ、ツヒ堰ヘカネテ吐息ヲツイテ、流レノ〔三字傍線〕早イ川ノ瀬ノヤウニ、心ノ中デ沸キカヘルヤウデアツテモ、私ハ苦シイ心中ヲ〔八字傍線〕人ニ言ハウカ、決シテ言ヒハシナイ。
 
○水隱爾《ミコモリニ》――ミコモリは水にかくれて見えないこと。ここは河に縁ある詞を用ゐたので、思を忍び隱してゐることである。卷十一の眞薦刈大野川原之水隱《マコモカルオホヌカハラノミコモリニ》(二七〇三)・青山之石垣沼間乃水隱爾《アヲヤマノイハガキヌマノミコモリニ》(一七〇七)などいづれも同じである。○氣衝餘《イキヅキアマリ》――吐息をつくに餘つて。外にあらはして吐息をついて。卷十七に於母比孤悲伊伎豆吉安麻利《オモヒコヒイキヅキアマリ》(四〇一一)とある。○瀬者立友《セニハタツトモ》――思ひの沸き立つことを、川の瀬の、泡立つに譬へたもの。
(479)〔評〕 早川を中心として、水隱《ミコモリ》・瀬者立友《セニハタツトモ》などの語が巧に用ゐられてゐる。古今集の「吉野川水の心は早くとも瀧の音にはたてじとぞ思ふ」と心は似てゐる。
 
寄2埋木1
 
太古の樹木が永く水中地中などに埋没して、炭化しかけたものを埋木といふ。
 
1385 まかな持ち 弓削の河原の 埋木の あらはるまじき 事にあらなくに
 
眞※[金+施の旁]持《マカナモチ》 弓削河原之《ユゲノカハラノ》 埋木之《ウモレギノ》 不可顯《アラハルマジキ》 事爾不有君《コトニアラナクニ》
 
(眞※[金+施の旁]持弓削河原之埋木之)イツマデモ現ハレズニ濟ムベキコトデハナイノニ、二人ノ間ノ關係ガアラハレタ時ニハ、何トシタモノダラウ〔二人〜傍線〕。
 
○眞※[金+施の旁]持《マカナモチ》――枕詞。弓削とつづくのは、眞※[金+施の旁]を以て弓を削るからである。眞※[金+施の旁]のマは發語で意味はない。※[金+施の旁]は、正倉院御物の十合鞘御刀子の中に、黒柿把※[金+施の旁]があり、同じく工匠具の中に、※[金+施の旁]五を藏してゐる。その形は謂はゆる「やりかんな」と稱するもので身が槍の穩先のやうになつてゐて、普通の「かんな」のやうに臺木はない。※[金+施の旁]は鉋と同字で、和名抄には、「※[金+斯]加奈、辨色立成用2曲刀二字1新撰萬葉集用2※[金+施の旁]字1平v木器也」とある。これによれば眞※[金+施の旁]は曲刀《マガナ》とも解せられるが、恐らくさうではあるまい。○弓削河原之《ユゲノカハラノ》――弓削は和名抄に「河内若江郡弓削 由介」とあるところで、稱徳天皇はそこに由義宮を御造營になつた。今中河内郡に編入せられてゐる。八尾町の附近である。弓削河は今、長瀬川といふ河で、高井田附近から、長瀬・八尾・弓削地方を東南に流れて大和川に注いでゐる。當時この河の弓削附近から埋木を産したのであらう。○不可顯《アラハルマジキ》――意を以て訓んだので、宣長が下可戀の誤でシタニコフベ(480)キとよむべしと言つたのは從ひ難い。○事爾不有君《コトニアラナクニ》――ことではないよの意。舊本、爾を等に作つてゐるが、元暦校本・類聚古集などによつて改めてた。
〔評〕 埋木の歌は集中これ一首のみである。古今集以後に時々見えるものは、この歌の影響か。下句に危惧の念がはつきりとあらほれてゐる。
 
寄v海
 
1386 大船に 眞楫しじ貫き 漕ぎ出にし 沖は深けむ 潮は干ぬとも
 
大船爾《オホフネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 水手出去之《コギデニシ》 奥將深《オキハフカケム》 潮者干去友《シホハヒヌトモ》
 
大キイ船ニ、楫ヲ澤山ニ貫イテ漕ギ出タ沖ノ方ハ、潮ガ干タ時デモ深イデアラウ。私ハヤツトノ思ヒデ、心中ヲ打チアケテ後ハ、イヨイヨドウイフコトガアツテモ、思ヒハイツモ深イデアラウ〔私ハ〜傍線〕。
 
○奥將深《オキハフカケム》――元暦校本・類聚古集などに奥の下、者の字があるのがよい。
〔評〕 全く暗喩の歌である。上句は萬難を排して戀の思ひを言ひあらはしたのに喩へ、下句は、いつも深い心の變らぬに喩へてゐる。潮干に深さのかはらぬ沖に、譬喩をとつたのは面白い。
 
1387 伏超えゆ 行かましものを 守らふに うちぬらさえぬ 浪よまずして
 
伏超從《フシゴエユ》 去益物乎《ユカマシモノヲ》 間守爾《マモラフニ》 所打沾《ウチヌラサエヌ》 浪不數爲而《ナミヨマズシテ》
 
コンナコトナラ〔七字傍線〕伏超ノ方カラ行クベキデアツタノニ、海岸ノ近道ヲシテ浪ノ隙間ヲ〔海岸〜傍線〕見テ通ラウトシテ、ウツカリ〔四字傍線〕浪ヲ數ヘソコナツテ、浪ニ濡ラサレテシマツタ。私ハアノ女ノ所へ、番人ノ居ライ方カラ通フ筈デアツタノニ、番人ノ居ルノニ注意ガ不充分デアツタノデ、見ツカツテヒドイ目ニアツタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○伏超從《フシゴエユ》――伏超は地名らしいが、何處とも明らかでない。仙覺は富士の山の横走とし、略解に土佐國安藝郡海(481)邊の山道に今、伏越といふ地名があるといつてゐる。ともかく海に近い山中の嶮路であらう。○間守爾《マモラフニ》――舊訓ヒマモリニとあるのを、考にヒマモルニとしてゐる。古義にマモラフニとしたのがよいであらう。通るべき間を伺つてゐての意。○浪不數爲而《ナミヨマズシテ》――浪を數へすして。浪と浪との間を注意して伺はないでの意。
〔評〕 面白い歌だが、寓意があまりはつきりしてゐない。いづれは戀の歌であるから、守る人ある女に通はうして、見あらはされたのを悔んだものであらう。
 
1388 石そそぐ 岸の浦みに 寄する浪 邊に來寄らばか 言の繁けむ
 
石灑《イハソソグ》 岸之浦廻爾《キシノウラミニ》 緑浪《ヨスルナミ》 邊爾來依者香《ヘニキヨラバカ》 言之將繁《コトノシゲケム》
 
私ハ戀シイ人ニ近ヅキタイノデアルガ〔私ハ〜傍線〕、(石灑岸之浦廻爾縁浪)側ニ近寄ツタナラバ、世間ノ人ノ〔五字傍線〕口ガヤカマシイデアラウ。
 
○石灑《イハソソグ》――灑は水を注ぎかける意の字であるから、ソソグと訓む外はない。考に隱の誤としてイハガクリ、略解イハカクレ、古義にイソガクリとしたのは皆わるい。代匠記精撰本のやうにイハソソギとすれば、第三句につづくことになつて歌意が少し變つて來る。この句は波の岩に打ち注ぐ岸とつづくので、枕詞式に岸の上に冠してゐるのである。○岸之浦廻爾縁浪《キシノウラミニヨスルナミ》――岸の海邊に打ち寄せる浪の意で、ここまでの三句は、次の邊と言はむ爲の序詞である。○邊爾來依者香《ヘニキヨラバカ》――舊訓ヘニキヨレバカとあるが、キヨラバとなくては、下のコトノシゲケムと呼應しない。未來のことを恐れるのである。略解に過去のことにして解いてゐるのは誤つゐる。
〔評〕 序詞に海に關したことが入れてあるのみで、譬喩の意はない。寄物の歌にこの種のものが尠くない。
 
1389 磯の浦に 來寄る白浪 反りつつ 過ぎがてなくは 岸にたゆたへ
 
礒之浦爾《イソノウラニ》 來依白浪《キヨルシラナミ》 反乍《カヘリツツ》 過不勝者《スギカテナクハ》 雉爾絶多倍《キシニタユタヘ》
 
磯ノ濱ベニ來テ寄セル白浪ガ立戻リ立戻リシテ、其處ヲ〔三字傍線〕過ギ去リ難イナラバ、イツソ〔三字傍線〕岸デグズグズシテ居レ。アナタハ此處マデ來ナガラ、人目ヲ恐レテ逢ハズニ立戻リ、立戻リシテ立チ去リカネルナラ、此處デブラブラ(482)シテ待ツテイラツシヤイ〔アナ〜傍線〕。
 
○反乍《カヘリツツ》――浪が打ち寄せは、立ち戻り立ち戻りすること。○雉爾絶多倍《キシニタユタヘ》――雉は古義に岸の借字であらうとし、宣長は涯の誤と言つてゐる。雉は古語キギシであつて、奈良朝に於てキジと言つた證は無いやうである。集中この字の用例は他に數例あるが、いづれもキギシとよむもののみである。元暦校本その他古寫本に誰の字に作つてゐるが、タレニタユタヘでは意味がわからないから仕方がない。それで、しばらく舊訓のままにキシとして、岸の意に解して置く。
〔評〕 末句が不明瞭の點があるので、疑問がないではないが、尋ねて來ながら入りかねてゐる男に向つて、女が暫時待つてゐよと言ふ歌らしい。全躰が譬喩になつて居るが、寄港といふよりも白浪に寄せた歌である。
 
1390 淡海の海 浪かしこみと 風守り 年はや經なむ 榜ぐとはなしに
 
淡海之海《アフミノミ》 浪恐登《ナミカシコミト》 風守《カゼマモリ》 年者也將經去《トシハヤヘナム》 ※[手偏+旁]者無二《コグトハナシニ》
 
近江ノ湖水デ、浪ガ恐ロシイトテ、風ノ止ムノヲ待ツテヰテ、舟ヲ漕ギ出シモシナイデ、空シク〔三字傍線〕年ヲ送ルダラウカ。人ニ見ツカルノガ恐ロシサニ、グズグズシテヰテ、空シク年ヲ過スコトカナア、アアツマラナイ〔人ニ〜傍線〕。
 
○浪恐登《ナミカシコミト》――舊訓ナミオソロシトとある。ここは古義に從ふ。○風守《カゼマモリ》――風の樣子を見定めること。ここでは、止むのを待つてゐることになる。卷三に風候《カゼマモリ》(三八一)とある。○年者也將經去《トシハヤヘナム》――年は經なむや。年を過すであらうか。
〔評〕 寓意が明らかで、よく出來てゐる。
 
1391 朝なぎに 來寄る白浪 見まくほり 我はすれども 風こそ寄せね
 
朝茶藝爾《アサナギニ》 來依白浪《キヨルシラナミ》 欲見《ミマクホリ》 吾雖爲《ワレハスレドモ》 風許増不令依《カゼコソヨセネ》
 
朝ノ凪イダ時ニ、打チ寄セテ來ル白浪ヲ、見タイト私ハ思ツテモ、風ガ吹キ〔二字傍線〕寄セナイヨ。私ハアノ人ヲ見タイト思フガ、都合ガ惡クテアノ人ガ來テクレナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
(483)○朝奈藝爾《アサナギニ》――朝の靜かに凪いだ時に。五句にカゼコソヨセネとあるが,風は全く無いのである。
〔評〕 戀人を白浪に譬へてゐる。女が男を待つ歌か。朝凪に白浪を見ようとする無理を期待したり、吹いてゐないことは分つてゐるのに、風許増不令依《カゼコソヨセネ》と言つてゐるなど、何だかとぼけたやうな言ひ方になつてゐる。そこに面白味があるのであらうか。
 
寄2浦沙1
 
1392 むらさきの 名高の浦の まなごぢに 袖のみ觸りて 寢ずかなりなむ
 
紫之《ムラサキノ》 名高浦之《ナタカノウラノ》 愛子地《マナゴヂニ》 袖耳觸而《ソデノミフリテ》 不寢香將成《ネズカナリナム》
 
(紫之)名高ノ浦ノ眞砂ノ道ニ、袖ヲ觸《サハ》ラセタバカリデ、寐ナイデシマフコトダラウカ。私ハアノ女ト親シクシタバカリデ、共寢モセズニシマフコトダラウカ。ソレデハ殘念ダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○紫之《ムラサキノ》――枕詞。紫は名高いよい色であるから名高の上に冠する。玉勝間にこれを地名としたのは當らない。○名高浦之《ナタカノウラノ》――名高浦は紀伊海草郡にあり。今、内海町の小字に名高がある。日方村の南に接した海岸である。玉勝間に、そこに紫川といふ小川があつて、紫はその邊の地名ではないかと思はれると言つてゐるが、恐らく好事家が、この歌によつてそんな川の名を付けたものであらう。卷十六に紫乃粉滷乃海爾《ムラサキノコカタノウミニ》(三八七〇)とあり、この海は、卷十二に越懈乃子難懈乃《コシノウミノコカタノウミノ》(三一六六)とあるから、越の國の海である。卷十六のは紫の濃《コ》とつづく枕詞であるから、紫を紀伊の地名とするのは無理である。○愛子地《マナゴヂニ》――眞砂道にであらう。古義はマナゴツチとよむべしと言つてゐるが、少し無理ではあるまいか。
〔評〕 かなり官能的である。紫・愛子《マナゴ》などの語が、美しい柔かい感じを與へる。ことに愛子地《マナゴヂニ》は愛娘・いとしい女といふやうな聯想を持たしめる語で、ここには極めて適切である。上句を序と見る説が多いが、全躰が譬喩になつてゐるものとしたい。
 
1393 豐國の 企救の濱邊の まなごぢの まなほにしあらば 何か嘆かむ
 
(484)豐國之《トヨクニノ》 聞之濱邊之《キクノハマベノ》 愛子地《マナゴヂノ》 眞直之有者《マナホニシアラバ》 何如將嘆《ナニカナゲカム》
 
(豐國之聞之濱邊之愛子地)正直ニアノ人ノ言葉通リデ〔九字傍線〕アルナラバ、私ハ〔二字傍線〕何ヲ嘆カウニ。言葉通リデナイカラ安心ガ出來ナイ〔言葉〜傍線〕。
 
○豐國之聞之濱邊之愛子地《トヨクニノキクノハマベノマナゴヂノ》――序詞。マナの音を繰返して眞直につづく。豐國は豐前豐後。聞之濱《キクノハマ》は豐前國企救郡の濱。今の小倉市の東につづいて大字長濱があるあたりであらう。卷十二に豐國乃聞之長濱去晩《トヨクニノキクノナガハマユキクラシ》(三二一九)ともある。舊本、聞を間に誤る。西本願寺本による。○眞直之有者《マナホニシアラバ》――眞直は文字の通りで、僞のないこと。
〔評〕 同音を繰返した序詞を用ゐてゐるが、上句には前の歌ほどでなくとも、やはり柔い感じがある。企救の濱の歌は卷十二にも三首見えていづれも旅中の作と思はれる。これもあの地方に旅した人の作か。
 
寄v藻
 
1394 潮滿てば 入りぬる磯の 草なれや 見らくすくなく 戀ふらくの多き
 
鹽滿者《シホミテバ》 入流礒之《イリヌルイソノ》 草有哉《クサナレヤ》 見良久少久《ミラクスクナク》 戀良久乃太寸《コフラクノオホキ》
 
私ノ戀人ハ丁度〔七字傍線〕、汐ガ滿チテ來ルト、水ニ隱レテシマフ磯ノ草ノヤウナモノダヨ。目ニ見ルコトハ少クテ、戀シク思フコトハ多イ。
 
○草有哉《クサナレヤ》――草であるよの意。ヤを係辭として下のオホキで結んでゐるやうにも見えるが、この句で切れてゐるものと見る方が、意味の上からも、歌詞の上からもよいやうに思ふ。オホキは結辭なくて詠嘆的に連體形を用ゐたものであらう。草は題の如く藻である。藻が滿つ潮に隱れることは卷六に、奧島荒磯之玉藻潮干滿伊隱去者所念武香聞《オキツシマアリソノタマモシホヒミチイカクレユカバオモホエムカモ》(九一八)とある通りである。○見良久少久《ミラクスクナク》――ミラクは見るの延言で名詞形である。見ることの意。古今集の「櫻花ちりかひ曇りれおいらくの來むといふなる道まがふがに」の老いらくも同形である。次の句(485)の戀良久《コフラク》も同じ。
〔評〕 調子が緊張したよい作である。四五の句にクの音を繰返してゐるのも快い。磯の藻の譬喩も適切である。この歌濱成式に「しほみてば入りぬる磯の草ならし見る目すくなくこふる夜おほみ」として出てゐる。
 
1395 沖つ浪 寄するありその 名告藻は 心のうちに 疾くとなりけり
 
奧浪《オキツナミ》 依流荒磯之《ヨスルアリソノ》 名告藻者《ナノリソハ》 心中爾《ココロノウチニ》 疾跡成有《トクトナリケリ》
 
(奧浪依流荒磯之名告藻者)口ニ出シテ言ハナイガ私ハ〔二字傍線〕、心ノ内ハ早ク思ヒガカナヘタイ〔八字傍線〕ト思ツテヰルヨ。
 
○奥浪依流荒磯之名告藻者《オキツナミヨスルアリソノナノリソハ》――名告藻者と言はむ爲に上二句は用ゐたのであるが、この名告藻も亦、な告りその意を取つて、戀の心を發表しないでゐる自分に譬へたのである。○疾跡成有《トクトナリケリ》――代匠記精撰本にヤマヒトナレリ、考は疾跡を靡の誤としてナビクナリケリ、略解は疾を知の誤として、シルトナリケリかといひ、古義の中山嚴水説は靡有來の誤として、ナビキタリケリと訓み、雅澄説は成は相又は合の誤として、ナビキアヒニケリとよんでゐる。かくの如く從來の説は殆どすべて、誤字として解釋してゐるが、予はもとの儘で、舊訓を尊重して右のやうに解いて置いた。これで少しも差支ないやうである。
〔評〕 名告藻に寄せてゐる思想は、例の慣習的のものであるが、それを直ちに自己のことにしてゐる點が少し異なつてゐる。女の心であらう。
 
1396 むらさきの 名高の浦の 名告藻の 磯に靡かむ 時待つ我を
 
紫之《ムラサキノ》 名高浦乃《ナタカノウラノ》 名告藻之《ナノリソノ》 於礒將靡《イソニナビカム》 時待吾乎《トキマツワレヲ》
 
(紫之)名高ノ浦ノ名告藻ガ、磯ニ靡イテ來ル時ヲ私ハ待ツテヰルヨ。女ガ自然ニ靡イテ來ル時ヲ、私ハ待ツテヰルヨ〔女ガ〜傍線〕。
 
○紫之名高浦乃《ムラサキノナタカノヴラノ》――紫のは枕詞で、名高の浦は紀伊海草郡。一三九二參照。○名告藻乏《ナノリソノ》――女に譬へてゐる。○時待吾乎《トキマツワレヲ》――ヲは詠嘆の助詞で。ヨの意である。
(486)〔評〕 古義に「本句は序にて云々」と言つてゐるが、もしさう見るならば、於磯《イソニ》までを序詞としなければならない。それも一説ではあるが、全體が譬喩になつてゐると見る方がよいであらう。男が女の靡くのを氣長に待つ心である。感じのよい作である。この歌袖中抄に出てゐる。
 
1397 荒磯越す 浪はかしこし しかすがに 海の玉藻 憎くはあらずて
 
荒礒超《アリソコス》 浪者恐《ナミハカシコシ》 然爲蟹《シカスガニ》 海之玉藻之《ウミノタマモノ》 憎者不有手《ニククハアラズテ》
 
荒磯ヲ越エテ打寄セテ來ル波ハ、恐ロシイモノダ。然シナガラ、海ニ生ニテヰル美シイ藻ハ、憎ラシクハナクテ、心ガ引力レル。女ヲ番シテヰル人ハ恐ロシイ。然シ女ガ可愛クテ仕方ガナイ。ドウカシテ逢ヒタイモノダ〔心ガ〜傍線〕。
 
○然爲蟹《シカスガニ》――然しながら。これを約めると、流石にとなる。○憎者不有手《ニククハアラズテ》――考に手を乎の誤としたのに、略解も古義も從つてゐるが、もとの儘で改める必要はない。
〔評〕 女を玉藻に譬へてゐる。明澄な快い歌である。
 
寄v船
 
1398 さざなみの 志賀津の浦の 船乘りに 乘りにし心 常忘らえず
 
神樂聲浪乃《サザナミノ》 四賀津之浦能《シガツノウラノ》 船乘爾《フナノリニ》 乘西意《ノリニシココロ》 常不所忘《ツネワスラエズ》
 
(神樂聲浪乃四賀津之浦能船乘爾)私ノ〔二字傍線〕心ニ乘ツタ私ノ心ニ深ク思ヒコンダ女ノ〔私ノ〜傍線〕コトガ、常ニ忘レラレナイ。
 
○神樂聲浪乃《サザナミノ》――近江の湖水の西南地方の地名。神樂聲浪をサザナミと訓む例は唯この一のみで、他は神樂浪之《サザナミノ》(一二五三)・樂浪乃《サザナミノ》(二九)などのやうに記してある。神樂を謠ふ時ササとかけ聲をするので、神樂聲がササとよまれるのだと言はれてゐる。然らばこれが本來的のもので、略して神樂浪とし、更に省いて樂浪としたのである。これを萬葉用字格に戯書の部に掲げてゐるが、續紀の人名にも樂浪河内《サザナミノカフチ》と見え、この書方は古いものらしく、本集筆者の獨創ではないやうである。○四賀津之浦能《シガツノウラノ》――滋賀津は今の大津市の北方附近。○船乘爾《フナノリニ》――この(487)句までは乘《ノリ》と言はむ爲の序詞。○乘西意《ノリニシココロ》――意《ココロ》は吾が心で、女が乘つた心、即ち女のことが燒付けられ心といふやうな意味であらう。自分の心が女に乘つたものと見る説もあるが、他の用例によると、さうではないやうに思はれる。
〔評〕意味は簡單である。寄船とあるが、船はほんお引合に出したのみで、謂はゆる譬喩歌にはなつてゐない。
 
1399 百傳ふ 八十の島みを 榜ぐ船に 乘りにし情 忘れかねつも
 
百傳《モモツタフ》 八十之島廻乎《ヤソノシマミヲ》 榜船爾《コグフネニ》 乘西情《ノリニシココロ》 忘不得裳《ワスレカネツモ》
 
(百傳八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾)私ノ心ニ〔四字傍線〕思ヒコンダ女ノコトガ、ドウシテモ〔五字傍線〕忘レカネルヨ。
 
○百傳《モモツタフ》――枕詞。百に數へ傳ふる意で、八十とつづく。○八十之島廻乎※[手偏+旁]船爾《ヤソノシマミヲコグフネニ》――くぐの島べりを漕いで行く船にの意で、ここまでは乘《ノリ》と言はむ爲の序詞である。
〔評〕 全く前の歌と同一構想に出てゐる。ただ僅かに異なるは、序詞の初二句の用法のみである。これも寄船の意が稀薄である。
 
1400 島づたふ 足速の小舟 風守り 年はや經なむ 逢ふとはなしに
 
島傳《シマツタフ》 足速乃小舟《アバヤノヲフネ》 風守《カゼマモリ》 年者也經南《トシハヤヘナム》 相常齒無二《アフトハナシニ》
 
島々ヲ傳ツテ漕イデ行ク、船足ノ早イ小舟ガ、風ノ止ムノヲ待ツテヰルヤウニ、グズグズシテ〔ヰル〜傍線〕ヰテ、思フ人ニモ〔五字傍線〕逢ハナイデ空シク〔三字傍線〕年ヲ經ルデアラウカ。ソレハ殘念ダ〔六字傍線〕。
 
○島傳《シマツタフ》――島から島へと傳つて漕いで行く意。○足速乃小舟《アバヤノヲフネ》――足の速い小舟。速力の疾い小舟。
〔評〕 前に寄海に淡海之海浪恐登風守年者也將經去※[手偏+旁]者無二《アフミノミナミカシコミトカゼマモリトシハヤヘナムコグトハナシニ》(一三九〇)とあるのと、下句殆ど同じであるが、これは足速小舟とあるので寄船の部に入れてある。足速の小舟がその用をなさすに、空しく淹留するいらいらしさに譬へてあるので、ただの舟よりも足速の小舟と言つたのが面白いやうである。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1401 みなぎらふ 沖つ小島に 風を疾み 船寄せかねつ 心は念へど
 
水霧相《ミナギラフ》 奥津小島爾《オキツヲジマニ》 風乎疾見《カゼヲイタミ》 船縁金都《フネヨセカネツ》 心者念杼《ココロハモヘド》
 
(488)私ハ〔二字傍線〕心デハ思ツテヰルガ、波ノシブキニ〔六字傍線〕煙ツテ見エル沖ノ小島ニ、風ガヒドイノデ船ヲヨセカネテヰルヨ。心デハ戀シク思ツテヰルガ、番ヲスル人ガサルノデ、思フ人ニ行ツテ逢フコトガ出來ナイ〔心デ〜傍線〕。
 
○水霧相《ミナギラフ》――風などの爲に空の曇ること。水烟が立つ。みなぎるに同じ。○心者念抒《ココロハモヘド》――心には思へど。
〔評〕 女を沖の小島に譬へ、守る人があつて近づき難いことを悲しんだ諷諭の歌である。無難な住い作といつてよからう。
 
1402 こと放けば 沖ゆ放けなむ 湊より 邊つかふ時に 放くべきものか
 
殊放者《コトサケバ》 奧從酒甞《オキユサケナム》 湊自《ミナトヨリ》 邊著經時爾《ヘツカフトキニ》 可放鬼香《サクベキモノカ》
 
ドウセ同ジコト遠ザケヨウトイフナラバ、沖カラ遠ザケテクレ。河口ニ入ツテカラ、間モナク岸ニ到着シヨウトシテヰル時ニナツテ、遠ザケルトイフコトガアルモノカ。モシ逢ハセナイトイフナラバ、初カラ二人ノ間ヲ離シテ置クベキダノニ、モウ少シデ逢ハウトイフ時ニナツテ、二人ノ間ヲ割カウト云フノハ無理ダ〔モシ〜傍線〕。
 
○殊放者《コトサケバ》――同じ事遠放けんとならばの意らしい。古義コトサカバとしたのはよくない。なほ古義に「殊は借字にて、如《コト》なり。かくの如く吾を遠離けむとならばの意なり云々」と述べ、委しく用例を擧げてこれを證明してゐるが、どうも無理があるやうである、如くはゴトと濁る語で、かつ語頭には用ゐないのを本則とする上に、語根のみで他の動詞と連續するのは全く異形であらう。允恭紀の御製に許等梅涅麼波椰區波梅涅嬬《コトメデガハヤクハメデズ》とあり、本集卷十に殊落者袖副沾而《コトフラバソデサヘヌレテ》(二三一七)、卷十三に琴酒者國丹放嘗別避者宅仁離南《コトサケバクニニサケナムコトサケバイヘニサケナム》(三三四六)とある。○整邊著經時爾《ヘツカフトキニ》――邊著く時に。岸に着く時になつての意。
〔評〕 船といふ語は入つてゐないが、寄船歌としてはよく出來てゐる。愛する人に近づかむとする間際になつて、遠ざけられた恨がよくあらはしてある。第五句がいかにも殘念さうに聞える。
 
旋頭歌
 
(789)1403 みぬさ取り 神のはふりが いはふ杉原 薪伐り ほとほとしくに 手斧取らえぬ
 
三幣帛取《ミヌサトリ》 神之祝我《カミノハフリガ》 鎭齋杉原《イハフスギハラ》 燎木伐《タキギキリ》 殆之國《ホトホトシクニ》 手斧所取奴《テヲノトラエヌ》
 
幣ヲトツテ神主ドモガ齋ヒ祭ツテヰル杉原。ソノ杉原ニ、私ハ禁ヲ破ツテ入リ込ンデ〔ソノ〜傍線〕、薪ヲ伐ツテ、殆ドモウ少シノコトデ手斧ヲ取ラレヨウトシタ。大事ニシテ守ツテヰル女ヲ手ニ人レヨウトシテ、モウ少シノコトデヒドイ目二逢ハウトシタ〔大事〜傍線〕。
 
○三幣帛取《ミヌサトリ》――ミは發語。幣を取つて神を齋ふ。舊訓、ミヌサトルとある。○神之祝我《カミノハフリガ》――舊訓ミワノハフリガとあるのは、卷四、味酒呼三輪之祝我忌杉《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギ》(七一二)とあるに傚つたのであらうが、ここは文字のままにカミとよむべきであらう。○燎木伐《タキギキリ》――燎は庭火・篝火などの意だが、ここは燃える意味に用ゐたので、燎木は薪のことである。○殆之國《ホトホトシクニ》――ホトホトシクは形容詞ホトホトシの連用形。殆ど危きに迫つてゐる状態をいふ。○手斧所取奴《テヲノトラエヌ》――手斧は、てうな〔三字傍点〕。※[金頁斤]。斧で削つたあとを平らかにする工具で、ここに薪を伐りに携へて行つたやうになつてゐるが、或は古代のものは今と制を異にし、用法も違つてゐたかも知れない。或は斧の小さいものか。
〔評〕 面白い歌だ。神木として祭つてある、杉林に入つて薪を切らうとして、すんでのことで手斧をとられようとしたといつて、思ふ女の許へ通つて、守る人に捕へられようとしたことに譬へたのは、實に奇拔でもあり、適切でもある。野趣に富んだ作である。
 
挽歌
 
雜挽
 
契沖は、「此は何れの人の爲に誰よめるともなきを云なるべし」と言つてゐるが、この雜挽の二字は他に用例なく、又意も明らかでない。元暦校本・神田本などの古寫本に、この二字が無いのが、(490)原形ではあるまいか。
 
1404 鏡なす 吾が見し君を 阿婆の野の 花橘の 玉に拾ひつ
 
鏡成《カガミナス》 吾見之君乎《ワガミシキミヲ》 阿婆乃野之《アバノヌノ》 花橘之《ハナタチバナノ》 珠爾拾都《タマニヒリヒツ》
 
鏡ノヤウニ常ニ相見テヰタ親シイ〔三字傍線〕アナタヲ、阿婆野デ火葬シテ私ハ〔阿婆〜傍線〕、阿婆ノ野ノ橘ノ花ノ玉ヲ取ルヤウニ、骨ヲ〔二字傍線〕拾ツタ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○鏡成《カガミナス》――鏡の如く常に見る意であらう。○吾見之君乎《ワガミシキミヲ》――吾が親しく見し君をの意で、必ずしも夫婦的關係になつてゐるのをいふのではない。○阿婆乃野之《アバノヌノ》――阿婆野は代匠記精撰本に、「皇極紀の童謠にも嗚智可?能阿婆努能枳枳始《ヲチカタノアバヌノキギシ》とよめり。延喜式に大和國添上郡に率川阿波神社あり。若し春日野のつづきに阿婆ありて、彼處に坐す神にや」といつてゐる。大方ここであらう。○墾花橘之珠爾拾都《ハナタチバナノタマニヒリヒツ》――橘は花のうちより實が黄金色に光つてゐる。その實は玉の緒に貫いて弄ばれたのである。その玉のやうに大切に、火葬の骨を拾つたといふのである。
〔評〕 いとしい人を火葬してその骨を拾ふ心は、まことに尊いなつかしい物を、取りあげるやうな感じであらう。當時珍重せられてゐた花橘の玉にこれを比したのは、そのかみの人の首肯したところであつたらう。
 
1405 秋津野を 人のかくれば 朝蒔きし 君が思ほえて 嘆は止まず
 
蜻野※[口+立刀]《アキツヌヲ》 人之懸者《ヒトノカクレバ》 朝蒔《アサマキシ》 君之所思而《キミガオモホエテ》 嗟齒不病《ナゲキハヤマズ》
 
蜻蛉野ノ話〔二字傍線〕ヲ人ガ口ニ出シテスルト、私ハアノ野デ火葬ヲシテ〔私ハ〜傍線〕、朝ソノ灰ヲ野ニ〔六字傍線〕蒔キ散シタ、アナタヲ思ヒ出シテナゲキガ止マラナイ。
 
○蜻野※[口+立刀]《アキツヌヲ》――蜻野は吉野の秋津野であらう。離宮址の附近である。○人之懸者《ヒトノカクレバ》――人が口にかけると。即ち人が話をすると。○朝蒔《アサマキシ》――火葬した骨灰をその翌朝蒔き散らすのである。この下に玉梓能妹者珠氈足氷木乃清山邊蒔散染《タマヅサノイモハタマカモアシビキノキヨキヤマベニマケバチルヌル》(一四一五)とあり、また卷二に宇都曾臣念之妹我灰而座者《ウツソミトオモヒシイモガハヒニテマセバ》(二一三)となるのも同樣である。新訓に麻蒔(492)きしとあるが、それでは挽歌にならぬやうに思はれる。○嗟齒不病《ナゲキハヤマズ》――齒不病に戯書的氣分が見える。
〔評〕 悲愁の情が痛切に表現せられて、人の涙をさそふものがある。當時の火葬の樣子などがわかつて參考になる。
 
1406 秋津野に 朝ゐる雲の 失せゆけば 昨日も今日も 亡き人念ほゆ
 
秋津野爾《アキツヌニ》 朝居雲之《アサヰルクモノ》 失去者《ウセユケバ》 前裳今裳《キノフモケフモ》 無人所念《ナキヒトオモホユ》
 
秋津ノ野ニ朝立ツテヰル雲ノヤウニ見エタ火葬ノ烟〔ノヤ〜傍線〕ガ消エテ行クト、死ンダ人ノ形見ト見ルベキモノガナイノデ〔死ン〜傍線〕、昨日モ今日モ死ンダアノ〔二字傍線〕人ノコトガ思ヒ出サレル。
 
○失去者《ウセユケバ》――考はウセヌレバとよんでゐるが、舊訓のままでよい。○前裳今裳《キノフモケフモ》――舊訓ムカシモイマモとあつたのを、契沖が改めたのによる。昔も今では、結句が自分の詠嘆らしいのに合はない。
〔評〕 火葬の烟を雲として詠んだ歌は中世以來のものに多い。たとへば新古今集の藤原定家、「夕ぐれはいづれの雲のなごりとて花橘に風のふくらむ」といふやうなものだ。これはその前驅をなした歌である。
 
1407 隱口の 泊瀬の山に 霞立ち 棚引く雲は 妹にかもあらむ
 
隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山爾《ハツセノヤマニ》 霞立《カスミタチ》 棚引雲者《タナビククモハ》 妹爾鴨在武《イモニカモアラム》
 
(隱口乃)初瀬ノ山ニ霞ガ立ツテ、雲ガ〔二字傍線〕棚引イテヰルガ、アノ〔三字傍線〕雲ハワタシノ妻ヲ火葬シタ烟〔六字傍線〕デアラウ。
 
○隱口乃《コモリクノ》――枕詞。泊瀬とつづく。四五參照。
〔評〕 霞立ちと言つて、また棚引く雲と言つたのが異樣に聞える。この歌は卷三の土形娘子を泊瀬山で火葬した時、人麿がよんだ隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟《コモリクノハツセノヤマノヤマノマニイサヨフクモハイモニカモアラム》(四二八)と酷似してゐるが、この歌の方が劣つてるやうに思はれる。
 
1408 まがごとか およづれごとか こもりくの 泊瀬の山に 廬すといふ
 
枉言香《マガゴトカ》 逆言哉《オヨヅレゴトカ》 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山爾《ハツセノヤマニ》 廬爲云《イホリストイフ》
 
(492)私ノ思フ人ガ〔六字傍線〕、(隱口乃)泊瀬山ニ、庵ヲ作ツテ葬ラレテ〔四字傍線〕ヰルト云フノハ、嘘ノ言葉カ逆樣《サカサマ》言ダラウ。ソンナコトハドウシテモ信用用來ナイ〔ソン〜傍線〕。
 
○枉言香《マガゴトカ》――曲つた言正しからぬ言。四二〇參照。○逆言哉《オヨヅレゴトカ》――舊訓サカサマコトカとある。卷三の逆言之枉言等可聞(四二一)が、卷十七の於餘豆禮能多婆許登等可毛《オヨヅレノタハゴトトカモ》(三九五七)と同樣とすると、これも略解に從つて、オヨヅレコトカと訓みたいと思ふ。○廬爲云《イホリストイフ》――舊訓を考にイホリセリトフと改めたのはよくない。
〔評〕 泊瀬山に葬つたのを、廬すといふと言つたのは面白い。かやうに物事を直接に言はない慣習があつた。さういふ種類の歌がここに數首集められてゐる。
 
1409 秋山の 黄葉あはれと うらぶれて 入りにし妹は 待てど來まさず
 
秋山《アキヤマノ》 黄葉※[立心偏+可]怜《モミヂアハレト》 浦觸而《ウラブレテ》 入西妹者《イリニシイモハ》 待不來《マテドキマサズ》
 
秋ノ山ノ黄葉ガ面白イト思ツテ、秋ノ山ニ〔四字傍線〕入リ込ンデ行ツタ私ノ妻ハ、イクラ私ガ〔五字傍線〕、心モボンヤリト悲シンデ、待ツテヰルケレドモ歸ツテ來ナイ。ドコヲドウ迷ツナヰルノダラウ〔ドコ〜傍線〕。
 
○黄葉※[立心偏+可]怜《モミヂアハレト》――略解にモミヂアハレミと改めたのはどうであらう。舊訓のままでよからう。紅葉が面白いとての意。○浦觸而《ウラブレテ》――うらぶるは、心詑ぶるの意か。心怏々として樂しまぬこと、この句は句を隔てて待不來《マテドキマサズ》につづいてゐる。
〔評〕 秋の頃山中の墓所に葬られたのを、娩曲にかう言つたのである。卷二の人麿作、秋山之黄葉乎茂迷流妹乎將求山道不知母《アキヤマノモミヂヲシゲミマドヒヌルイモヲモトメムヤマヂシラズモ》(二〇八)と同想で、陰慘な死といふものが、この表現によつて、いくらか美化されてゐる。
 
1410 世のなかは まこと二代は 行かざらし 過ぎにし妹に 逢はなく思へば
 
世間者《ヨノナカハ》 信二代者《マコトフタヨハ》 不往有之《ユカザラシ》 過妹爾《スギニシイモニ》 不相念者《アハナクオモヘバ》
 
死ンダ妻ニ逢フコトガ出來ナイノデ、考ヘテ見レバ、コノ世ノ中ハホントニ二度ハ來ナイモノト見エル。
 
(493)○信二代者不往有之《マコトフタヨハユカザラシ》――なるほど二度は廻つて來ないものらしいの意。卷四に空蝉乃代也毛二行《ウツセミノヨヤモフタユク》(七三三)と同樣である。古義にユカザリシとあるよりも舊訓のままがよい。
〔評〕 世の中が二度廻つて來ないことは知れ切つたことである。その分り切つたことを、今更なるほどと感心してゐるところに、作者の愁嘆がよくあらはれてゐるのである。あはれな作。
 
1411 さきはひの いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹がこゑを聞く
 
福《サキハヒノ》 何有人香《イカナルヒトカ》 黒髪之《クロカミノ》 白成左右《シロクナルマデ》 妹之音乎聞《イモガコヱヲキク》
 
ドンナ仕合セナ人ガ、黒イ髪ガ白髪ニナルマデ夫婦揃ツテ長ラヘテ〔九字傍線〕、妻ノ聲ヲ聞クコトガ出來ルノダラウ。サウイフ人ハヨホドノ仕合セ者ダ。私ハ妻ヲ亡クシタノデ、サウイフ人ガ羨シクテ仕方ガナイ〔サウイフ人ハ〜傍線〕。
〔評〕 かうした場合に誰しもが惹しさうな感情を、鮮明に力強くあらはし得た佳作である。纏綿たる愛慕と,腸を斷つ哀愁とが、絞り出す熱涙の音も聞えるばかりである。
 
1412 吾背子を いづく行かめと さき竹の そがひに宿しく 今し悔しも
 
吾背子乎《ワガセコヲ》 何處行目跡《イヅクユカメト》 辟竹之《サキタケノ》 背向爾宿之久《ソガヒニネシク》 今思悔裳《イマシクヤシモ》
 
私ノ夫ハ何處ヘモ行クコトハアルモノカト思ツテ、腹立チマギレニ、〔七字傍線〕(辟竹之)背中合ハセニ寢タノハ、今ニナツテ殘念ダヨ。意外ニモ夫ハ死ンデシマツタ〔意外〜傍線〕。
 
○辟竹之《サキタケノ》――枕詞。サキタケは割つた竹で、これを重ねると向き合はないから、背向《ソガヒ》とつづくのであらうといふ。冠辭考にはサキとソガヒと音が通ふから 冠らせたものと解釋してゐる。○背向爾宿之久《ソガヒニネシク》――背向《ソガヒ》はここは背を向けること。ソガヒについては三五七に委しく説明して置いた。之久《シク》のシは過去の助動詞。クは上を名詞とする爲に役立つてゐる。念有四九四《オモヘリシクシ》(七九四)・玉拾之久《タマヒリヒシク》(一一五二)參照。
〔評〕 眞情の歌である。何の潤飾もなく率直にありのままを述べてゐる。それだけに優雅な點には缺けてゐる。卷十四の可奈思伊毛乎伊都知由可米等夜麻須氣乃曾我比爾宿思久伊麻之久夜思母《カナシイモヲイヅチユカメトヤマスゲノソガヒニネシクイマシクヤシモ》(三五七七)とよく似た作で、こ(494)の二首は關係の深いものと見なければならぬ。
 
1413 庭つ鳥 鷄の垂尾の みだり尾の 長き心も おもほえぬかも
 
庭津鳥《ニハツトリ》 可鷄乃垂尾乃《カケノタリヲノ》 亂尾之《ミダリヲノ》 長心毛《ナガキココロモ》 不所念鴨《オモホエヌカモ》
 
私ハ戀シイ人ニ死ニ別レタノデ〔私ハ〜傍線〕、悲シクテ(庭津島可鷄乃垂尾乃亂尾乃)長クユツクリトシタ心モナイヨ。
 
○庭津鳥《ニハツトリ》――枕詞。庭の鳥の鷄《カケ》とつづく。○可鷄乃垂尾乃《カケノタリヲノ》――可鶏《カケ》は鷄。可鷄の字は音をあらはしてゐるが、ケに鷄をあてたのは、麻都良河波《マツラカハ》(八五五)のカに河をあててあるのと同じく、その物をあらはす文字を特に用ゐたのである。カケは鷄の鳴聲から出たので、神樂歌に、「には鳥はかけろと鳴きぬなり、おきよおきよわが一よつま人もこそ見れ」とある。垂尾《タリヲ》は、しだり尾に同じで、垂れ下つてゐる尾。○亂尾乃《ミダリヲノ》――尾が長くて亂れてゐる尾。ミダレヲよりもミダリヲの方がよい。ここまでの三句は序詞で、長《ナガ》きと言はむが爲に置かれてゐる。○長心毛《ナガキココロモ》――長き心は落ちついた、ゆつたりとした心。
〔評〕 序詞が巧である。作の技巧の重點はそこに置かれてゐる。卷十一の足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃長永夜乎一鴨將宿《アシビキノヤマドリノヲノシダリヲノナガキナガヨヲヒトリカモネム》(二八〇二の或本)と同巧である。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1414 薦枕 相まきし兒も あらばこそ 夜のふくらくも 吾が惜しみせめ
 
薦枕《コモマクラ》 相卷之兒毛《アヒマキシコモ》 在者社《アラバコソ》 夜乃深良久毛《ヨノフクラクモ》 吾惜責《ワガヲシミセメ》
 
薦ノ枕ヲ二人デシテ、共ニ寢〔四字傍線〕タ女ガ今生キテヰテ共ニ寢テ〔六字傍線〕ヰルノラバ、夜ノ更ケルノモ私ガ惜シイト思フダラウ。今ハ妻モ生キテヰナイカラ、夜ノ更ケルナドハ惜シクモナイ〔今ハ〜傍線〕。
 
○薦枕《コモマクラ》――薦を束ねて枕とするもの。高いものであるから高の上につづく枕詞として用ゐられるが、ここはさうではなく、薦枕をして相共に寢たのである。卷十四に比等其等乃之氣吉爾余里?麻乎其母能於夜自麻久艮波和波麻可自夜毛《ヒトゴトノシゲキニヨリチマヲゴモノオヤジマクラハワハマカジヤモ》(三四六四)とある麻乎其母《マヲゴモ》は眞小菰である。○夜乃深良久毛《ヨノフクラクモ》――フクラクはフクルの延言。
〔評〕 戀しい妻を亡つて、獨寢の淋しさに泣く男の歌である。結句、言外に意を含めて悲しさをあらはしてゐる。(495)薦枕を旅中の枕としてゐる説もあるが、これは旅中の戀の歌ではない。
 
1415 玉梓の 妹は珠かも あしびきの 清き山邊に 蒔けば散りぬる
 
玉梓能《タマヅサノ》 妹者珠氈《イモハタマカモ》 足氷木乃《アシビキノ》 清山邊《キヨキヤマベニ》 蒔散染《マケバチリヌル》
 
(玉梓能)妻ハ玉ダラウカ。妻ノ屍ヲ火葬シク骨ヲ〔十字傍線〕、景色ノヨイ(足氷木乃)山邊ニ蒔イタラバ、玉ノ緒ノ玉ガ亂レ散ルヤウニ〔玉ノ〜傍線〕散ツテシマツタ。
 
○玉梓能《タマヅサノ》――枕詞。使とつづくのを常とするが、ここは妹に冠してある。玉は美稱で、梓は梓弓の略、梓弓は男の秘藏して手に執るものであるから、女に譬へて妹にかけていふのであらうかと、契沖は言つてゐる。なほ考ふべき枕詞だ。○蒔散染《マケバチリヌル》――前の朝蒔《アサマキシ》(一四〇五)のやうに、火葬した灰を蒔き散らすことであらう。ここは珠カモとあるから、前の珠爾拾都《タマニヒリヒツ》(一四〇四)のやうに、骨を珠に譬へたのである。染は古葉略類聚鈔に漆とあるのがよいか。
〔評〕 玉の緒を切つて、玉を撒き散らすやうに、火葬した愛人の骨を山に捨てる時の、いたいたしい感じである。愛惜の情があらはれてゐる。
 
或本歌曰
 
1416 玉梓の 妹は花かも 足引の この山かげに 蒔けば失せぬる
 
玉梓之《タマヅサノ》 妹者花可毛《イモハハナカモ》 足日木乃《アシビキノ》 此山影爾《コノヤマカゲニ》 麻氣者失留《マケバウセヌル》
 
(玉梓之)妻ハ花デアラウカ。妻ヲ火葬シタ骨ヲ〔八字傍線〕(足日木乃)コノ山ノ蔭デ撒キ散ラスト、花ノ散ルヤウニ〔七字傍線〕散ツテ無クナツテシマツタ。
〔評〕 全く前の歌と同樣で、ただ珠を花に代へたのみである。骨灰を花に比するのは思ひ切つて美化したものだ。
 
(496)※[羈の馬が奇]旅歌
 
諸本※[羈の馬が奇]を覊に作るは誤。
 
1417 名兒の海を 朝こぎ來れば わた中に かこぞ呼ぶなる あはれその水手
 
名兒乃海乎《ナゴノウミヲ》 朝※[手偏+旁]來者《アサコギクレバ》 海中爾《ワタナカニ》 鹿子層鳴成《カコゾヨブナル》 ※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》
 
名兒ノ海ヲ朝漕イデ來ルト、海ノ上デ船頭ガ喚ンデヰルヨ。アア、アノ船頭ガ。面白イ聲ダ〔五字傍線〕。
 
○名兒乃海乎《ナゴノウミヲ》――名兒の海は攝津住吉から大阪附近の海であらう。○鹿子曾鳴成《カコゾヨブナル》――鹿子《カコ》は水主。水夫・船頭である。鳴は諸本みなかうなつてゐるが、このままでナクとよむのは穩かでない。考には呼とし、略解は喚の誤としてゐる。ともかくもヨブと訓むことにする。○※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》――言ひ切つた後に、更に詠嘆の意を以てこれを言ひ添へたものである。
〔評〕 穩やかな海上を傳つて來る、海人の聲の面白さに耳を傾けてゐる歌。靜かな朝の氣分である。卷九の掻霧之雨零夜乎霍公鳥鳴而去成※[立心偏+可]怜其鳥《カキキラシアメフルヨヲホトトギスナキテユクナリアハレソノトリ》(一七五六)と形が似てゐる。この歌は挽歌の部に入るべきものではなく、前の※[覊の馬が奇]旅作の部に入るべきを脱したので、ここに書き加へたものであらう。
 
萬葉集卷第七
〔2011年2月27日(日)午前10時35分、入力終了〕