卷第八
(497)萬葉集卷第八解説
この卷は春雜歌・春相聞・夏雜歌・夏相聞・秋雜・秋相聞・冬雜歌・冬相聞の八部に別れてゐる。これは全體を春・夏・秋・冬の四季に分つて更にその各を雜歌と相聞とに類別したものと考へてもよい。この分類法は他卷に比して一歩を進めたものと言ふべきで、萬葉人が漸く四季の景物の鑑賞に眼を開いた結果と見ることが出來る。この四季の雜歌が、やがて古今集以下の勅撰集に、四季の部を立てる基礎をなしたものである、併し後世の歌集の四季の歌は、各季節の風物を、その移りゆく順序に從つて配列してゐるのに、これは、作の年代順に並べてゐるのが、異つた點である。さうして今、この分類の跡を熟視すると、已に後世の俳句の李のやうに、概括的にその季節を決定してゐるものがあるやうに思はれる。例へば紅葉を秋とするが故に、冬十月の作ながらそれを秋雜歌の中に收め、夏六月の萩紅葉を詠じた歌を、秋相聞の中に入れてゐるやうな類である。なほ集中この卷と同一分類法を採つてゐるものに卷十があるが、それは全部作者不明のもののみを輯録してゐるので、配列が年代順になつてゐない。内容からいへば卷十は卷七に似て、卷八は寧ろ卷三・卷四に近いものである。歌數は總計二百四十六首。これを細別すると、長歌六首・旋頭歌四首・短歌二百三十六首となつてゐる。短歌の内一首は、上句を尼が作り、下句を大伴家持が續いだもので、全く後世の連歌の形になつてゐるのは注意すべきである。作者は時代の古いものでは、舒明天皇・鏡王女・額田王・大津皇子・志貴皇子などが見えてゐるが、いづれもその歌數砂尠く、(498)目立つた作もない。比較的時代の新らしいものでは、元正天皇・聖武天皇・厚見王・湯原王など高貴の方々も見えてゐるが、やはりその歌數は尠い。この他、山部赤人・山上憶良・橘奈良麻呂・笠女郎らの作もあるが、歌數の多いものは、大伴氏の人たちの、旅人・坂上郎女・家持・書持・田村大孃・坂上大孃のやうな人々である。就中、家持の作は實に五十三首の多きに達してゐる。さうしてそれはいづれも彼が無官から、内舍人時代のもので、年月の明記せられてゐる最後のものは、天平十五年秋八月十六日である。眞淵はこの卷を卷十五の次、卷四の前に置いて、第十二位としてゐる。ともかく天平の初期、大伴家持が、まだ越中守とならない間の作を中心として輯録したもので、その他、主として、大伴氏一族、及びそれに親密な關係を持つてゐる人たちの作が集められてゐることは、この卷の編者が家持たるを思はしめるものがあるのである。右に述べたやうに、四季の風物を詠じたことはこの卷の一特色であるが、全卷を通じて、四季の變遷にやさしい凝視の目を見はつてゐるやうな作者の姿が偲ばれる。併しまた一面には、その爲に徒らに優雅ならむとして平板に陷り、藝術的燃燒の足りない作品も尠くないのである。文字使用法は戯書としては八十一《クク》・左右《マデ》・喚鷄《ツツ》などがあり、また鷄鵡鴨《ケムカモ》の如く、特更に鳥名を列記したやうな書き方もあるが、大體に於て卷三・卷四・卷六などと同じやうである。
(499)〜(511)〔目録省略〕
(512)大伴宿禰駿河麻呂歌一首
紀少鹿女郎歌一首
大伴田村大孃與2妹坂上大娘1歌一首
大伴宿禰家持歌一首
(513)春雜歌
志貴皇子|懽御歌《ヨロコビノミウタ》一首
志貴皇子は天智天皇の皇子。光仁天皇の御父。五一參照。
1418 石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも
石激《イハバシル》 垂見之上乃《タルミノウヘノ》 左和良妣乃《サワラビノ》 毛要出春爾《モエイヅルハルニ》 成來鴨《ナリニケルカモ》
(石激)瀧ノ落チテヰル〔七字傍線〕垂水ノ上ノ山ノ〔二字傍線〕早蕨ガ、萠ニ出ス春ニナツタナア。
○石激《イハバシル》――枕詞。石の上を走り流れる垂水とつづくのである。舊訓イハソソグとあるが、石流垂水水乎《イハバシルタルミノミヅヲ》(一一四二)のやうに、イハバシルがよい。○垂見之上乃《タルミノウヘノ》――垂見は地名と見るものと、垂れる水、即ち瀧と見るものと兩説に分れてゐる。地名とするのは、代匠記に「たるみは津の國豐島郡に有」とあるやうに、今、豐能郡豐津村字垂水といふ地とするもので、吹田町の西方十町ばかりの地である。卷七の一一四二及び攝津地圖參照。ここの垂水神社の境内に、今も小さい瀧が落ちてゐる。袖中抄にたるみのうへのさわらびとは、攝津と播磨とのさかひに、たるみと云處あり、岸よりえもいはぬ水出る故に、たる水と云なり、垂水の明神と申す神おはす、そのたるみのうへをば、たるみ野といへば、其の野にさわらびはもえ出るなり」とあるのを、古義にそのまま肯定して、これを豐島郡の垂水神社のこととして説明してゐるのは、地理を辨へない大なる誤である。攝津と播磨との境にある垂水は、今、須磨と明石との中間に、鹽屋・垂水と並んでゐる地で、播磨に屬してゐる。和名抄に、「明石郡垂見郷」とあるから、古くから攝津ではなかつたのである。さてこの垂見の地名は、垂水即ち瀧があるので起つたもので、ここは地名と見ても、瀧を考慮に入れねばならぬのである。垂見といふ地の、瀧の上の山の早蕨と解したいと思ふ。この垂見を瀧とのみ見る説も從ひたくない。ウヘをほとりの意とする説も、ここではおのづから成立しなくなる。○左和良妣乃《サワラビノ》――早蕨の。サは意味のない接頭語。早の字を當てるのに拘(514)泥しててはいけない。
〔評〕 何か機會があつて、春淺い頃攝津の垂水に赴かれ、その丘上の眺望を恣にせられて、この歌を作られたものか。題に懽御歌とあるが、春の來たのを喜び給うた作とも、亦、御自分の御運が開けた御喜悦の情を寓せられたものとも二樣の見方がある。志貴皇子は天智天皇の御子にておはしながら、不遇の地位にあらせられたが、慶雲元年に百戸を封ぜられ、和銅七年に二百戸、靈龜元年に一品となつて居られるから、それらの折の御歌ではなからうか、又この地名をよみ給うたのは、封戸が攝津などにあつたのではないかと略解には想像してゐる。かやうに想像を逞しくすれば際限のないことであるから、予はこれを一切考へないで、唯春の來たのを喜び給うた歌として解釋したいと思ふ。まことに明朗な調で、愉悦の情に滿ち滿ちた歌である。この歌は和歌色葉集・袖中抄・和歌童蒙抄などに載せてゐるが、童蒙抄はタルヒノウヘノとしてゐる。新古今集も同樣になつてゐるのは、垂水即ち氷柱に誤つたのである。
鏡王女歌
鏡王の御女。額田王の御姉、藤原鎌足の正妻。天武天皇の十二年秋七月薨。九一參照。
1419 神奈備の 岩瀬の杜の 喚子鳥 いたくな鳴きそ 吾が戀増る
神奈備乃《カムナビノ》 伊波瀬乃杜之《イハセノモリノ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 痛莫鳴《イタクナナキソ》 吾戀益《ワガコヒマサル》
神奈備ノ石瀬ノ杜ノ呼子鳥ヨ。ヒドク嶋クナヨ。サウヒドク鳴イテハ〔九字傍線〕、私ガ人ヲ戀シク思フ心ガ、増スバカリダカラ。
○神奈備乃《カムナビノ》――神奈備は神の森・神を祭るところをいふのであるが、やがて固有名詞として用ゐられてゐる。さうして卷三に神名備山《カムナビヤマ》(三二四)とあつたのは飛鳥の雷山で、卷六に神名火乃淵《カムナビノフチ》(九六九)とあるのは飛鳥川で、卷七に甘南備乃里《カムナビノサト》(一一二五)とあるのは、飛鳥の里である。これらはいづれも飛鳥方面であるが、ここによまれてゐ(515)るのはさうではなく、龍田の神奈備である。ここは龍田村大字神南にあり、生駒川の下流(今、龍田川と呼んでゐるが、本集の龍田川ではない)に臨んでゐる。歌に三室山といふもこの神南の高地である。○伊波瀬乃杜之《イハセノモリノ》――上に述べた三室山の東方、龍田町の南、車瀬と稱する地にある森で、今も小祠があるといふ。○喚子鳥《ヨブコドリ》――カンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥ともいふ。卷一の七〇參照。
〔評〕 喚子鳥はその名の如く人を呼ぶやうな聲で鳴くものである。その聲を聞くと、何となく人なつかしい感情が湧いて來るので、かう詠んだのである。神奈備の岩瀬の森と作者との關係は明らかでない。多分あの邊に旅居してよまれたものであらう。しかし下に、神名火乃磐瀬乃杜之霍公鳥《カムナビノイハセノモリノホトトギス》(一四六六)とあるから、かうした鳥の集まるところでもあつたのであらう。他に類想の歌もあるが、調子にたるみのないはつきりとした作である。
駿河釆女歌一首
卷四の五〇七に駿河※[女+采]女とあるのも同人で、駿河から召された采女であらう。
1420 沫雪か はだれに零ると 見るまでに 流らへ散るは 何の花ぞも
沫雪香《アワユキカ》 薄太禮爾零登《ハダレニチルト》 見左右二《ミルマデニ》 流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物花其毛《ナニノハナゾモ》
雪ガ薄雪トシテ、降ルノデハナイカト思ハレルヤウニ、流レルヤウニ斜ニ地上〔四字傍線〕ニ散ツテ來ルノハ、何ノ花デアラウゾヨ。アアヨイ景色ダ〔七字傍線〕。
○沫雪香《アハユキカ》――沫雪は沫のやうな雪。雪は沫のやうに白く消え易いからいふので、春の雪に限るわけではない。(516)後世淡雪と記して春の雪のことにしてゐるが、淡はアハで、假名が違ふから、沫雪とは混同してはならない。○薄太禮爾零登《ハダレニフルト》――薄太禮は集中の難語の一である。この語はここのやうに副詞的になつてゐるものと、御食向南淵山之巖者落波太列可削遺有《ミケムカフミナフチヤマノイハホニハフレルハダレカケノコリテアル》(一七〇九)小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴨將忘云者益所念《ササノハニハダレフリオホヒケナバカモワスレムトイヘバマシテオモホユ》(二三三七)・吾開之李花可庭爾落波太禮能未遺有可母《ワガソノノスモモノハナカニハニチルハダレノイマダノコリタルカモ》(四一四〇)などの如く、名詞として用ゐられたものもある。な隠別に天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者《アマグモノヨソニカリガネキキシヨリハダレシモフリサムシコノヨハ》(二一三二)のやうに霜と熟して、ハダレシモと言つた例もある。またこれと同語と思はれるものに、ハダラがあつて、夜乎寒三朝戸乎開出見者庭毛薄太良爾三雪落有《ヨヲサムミアサトヲヒラキイデミレバニハモハダラニミユキフリタリ》(二三一八)と用ゐられ、又ホドロがあつて、吾背子乎且今且今出見者沫雪零有庭毛保抒呂爾《ワガセコヲイマカイマカトイデミレバアワユキフレリニハモホドロニ》(二三二三)・沫雪保抒呂保抒呂爾零敷者平城京師所念可聞《アワユキノホドロホドロニフリシケバナラノミヤコシオモホユルカモ》(一六三九)など用ゐてある。さてこの語の意味を、代匠記は「まだらなり」と解し、考にも「斑にふるなりとあり、古義には「雪のはなればなれに散て降よしなり」とあり、信濃漫録には、「雪の次第にふり積るべき始にふれる雪をはだれ雪、霜の次第にふり覆ふべき始に置わたしたるを、はだれ霜とはいふなるべし。下の、れはすべてふるものにつけていふ言葉なり。今も北國の方言に雪のはじめてふりつもれるをはだれ雪といへり」とある。鐘の響には「雪はもはら沫のむらがれるさまにして、いともやはらかにはららぎやすき物なれば、其形についてはだれ雪〔四字傍点〕とはいひつづけけるが、體語となりつるからに、ただはだれ〔三字傍点〕とのみもいひし也。(中略)はらら〔三字傍点〕と同音なり。(中略)故、雪のみならず霜にもよめり」とある。右のうちで、荒木田久老の信濃漫録の「雪の次第にふり積るべき始にふれる雪」といふ説は、いかにも受取り難いやうに思はれる。北國の方言に今も行はれてゐるといふが、北國とは何處か。今、北陸に住んでゐる著者はまだそれを聞いたことがない。これを除いた他の三説では、斑説が最も廣く行はれてゐる。これはハダレ・ハダラ・ホドロとマダラと音が相通ずる點があるからである。併し雪は薄雪でも一面に白くなるもので、特別の理由なき限り、斑には降らぬものである。殊に笹の葉に積つた雪を、ハダレフリオホヒといふのも、ふさはしくなく、ほどろ〔三字傍点〕を同語とすると、沫雪ノホドロホドロニフリシケバといふのは、斑では全く解し難いやうに思はれる。古義に、離れ離れに散つて降るやうに見たのも、鐘の響に、積つた状態が、はららぎ易い形をしてゐるからと見たのも、この點の矛盾を避けようとしたのではあるまいか。併し古義のやうに紛々たる飛雪と見ては、庭モハダラニミ雪降リタリ、沫雪降レリ庭モホド(517)ロニには適せぬやうであり、鐘の響のやうに、雪の積つた状態は動的に考ふべきものとは思はれないから、これも從ひ難い。そこでこれを解決する傍證とべきは、夜之穗杼呂《ヨノホトロ》(七五四・七五五)のホドロである。これは宣長説に從へば「曉がた、うすく明くる時をいふ。まだほの暗きうちなり」とあつて、薄いことである。予は今これに傚つて、ハダレ・ハダラ・ホドロを雪の薄く降る状態に解釋しようと思ふ。これを薄雪と見れば、以上の諸例はいづれも無理なく解けるのである。さうしてハダレのレは、ミゾレ・シグレ・サミダレなどのレで、空から降る動作を名詞化する時に添へる語らしく思はれる。なほ、これは強ひて主張するわけではないが、この薄をハの假名に用ゐることは、集中この例に乏しく、予の計算では、僅かに九例に過ぎず、その内、五例が助詞のハ・バに用ゐられ、他の四例はハダレ・ハダラに用ゐられてゐる。ハの音を含んだ語は無數であるに、實辭としては唯このハダレ・ハダラにのみ用ゐられてゐるのは、或はこの薄といふ文字が、ハダレの本質をあらはしてゐる爲であるまいかと想像せられるのである。即ち薄い雪といふ意味ではないかと思ふのである。丁度、川を河波《カハ》、馬を宇馬《ウマ》、鷄《カケ》を可鷄《カケ》と書くのと、同じ考ではあるまいかと思はれるのである。○流倍散波《ナガラヘチルハ》――ナガラヘはナガレに同じ。この句は斜に散るのはの意。
〔評〕 梅の花が雪のやうに散つてゐるのを見て、それと知りつつも、何の花ぞと疑つたやうに言つてゐる。そこに落花を見た刹那的の驚きがあらはれてゐるのである。第三句にミルマデニを置いて譬喩を作つてゐる例は澤山あるが、この歌と内容まで似たものに、卷五の小野氏國堅、伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛《イモガヘニユキカモフルトミルマデニココダモマガフウメノハナカモ》(八四四)、この卷の忌部首黒麻呂作の梅花枝爾可散登見左右二風爾亂而雪曾落久類《ウメノハナエダニカチルトミルマテニカゼニミダレテユキゾチリクル》(一六四七)がある。なほこの歌の結句は古今集旋頭歌、「打わたす遠方人に物申すわれそのそこに白く咲けるは何の花ぞも」と同一である。
尾張連歌二首 名闕
尾張連の傳は明らかでない。名闕の二字は後人の註か。卷一の六二にも三野連名闕とあつた。
(518)1421 春山の さきのををりに 若菜つむ 妹が白紐 見らくしよしも
春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲黒爾《サキノヲヲリニ》 春菜採《ワカナツム》 妹之白紐《イモガシラヒモ》 見九四與四門《ミラクシヨシモ》
春ノ山ノ花ガ〔二字傍線〕枝モタワワニ咲イテヰル時ニ、若菜ヲ摘ンデヰル女ノ着物ノ〔三字傍線〕白紐ヲ見レバ實ニヨイモノダナア。
○開乃乎爲黒爾《サキノヲヲリニ》――舊訓サクノヲスクルニとあるのではわからない。考に乎爲黒は乎烏里の誤で、サキノヲヲリであると言つてゐるのに從ふ。卷三に打靡春去奴禮婆山邊爾波花咲乎爲里《ウチナビクハルサリヌレバヤマベニハハナサキヲヲリ》(四七五)とあるこころである。但し爲を烏の誤とするのはよくない。右に引いたやうに、卷三の歌にも爲となつてゐるのである。略解には、手烏里《タヲリ》と改めた宣長説を擧げて、「さきのたをりは山の崎のたわみたる所を言へれば、宣長説に從ふべき也」と言つてゐる。なほ袖中抄に「すぐろのすすき」を「春のやけ野の薄の末黒きなり。ゑ文字を略してすくろといへるなり」と解説し、この歌を「春山のせきのをすくろにわかなつむ妹が白紐見しくともしも」として掲げてその證としてゐる。かくこの歌の誤寫・誤訓からスグロといふ語が出來て、和歌に折々用ゐられ、蕪村の句にも、「曉の雨やすぐろのすすき原」と用ゐられるに至つたのである。○春菜採《ワカナツム》――ハルナツムとよむ説もあるが、舊訓に從つて置きたい。○妹之白紐《イモガシラヒモ》――白紐は衣の上着の紐で、長く結び垂れてゐたのである。
〔評〕 美しく櫻花の咲き滿ちた山を背景として、その山裾ありたりで若菜を摘んでゐる少女を點出してゐる。春風にひらめく白紐が、著しく目立つてゐる。全く繪のやうだ。
1422 うち靡く 春來るらし 山のまの 遠き木ぬれの 咲き行く見れば
打靡《ウチナビク》 春來良之《ハルキタルラシ》 山際《ヤマノマノ》 遠木末乃《トホキコヌレノ》 開往見者《サキユクミレバ》
山際ノ遠クノ梢ニ、花ガダンダンニ咲イテ行クノデ見ルト、(打靡)春ハモウ〔二字傍線〕來タラシイ。
○打靡《ウチナビク》――枕詞。春の草木がしなひ靡くから、春とつづける。二六〇參照。○開往見者《サキユクミレバ》――舊訓を考にサキヌルミレバと改めたのに略解も從つてゐるが、もとのままがよい。
〔評〕 遠い山際の木末が段々と日毎に花になつて行くのを詠んだのは面白い。併しこれは卷十の打靡春避來之山際最木末之咲往見者《ウチナビクハルサリクラシヤマノマノトホキコヌレノサキユクミレバ》(一八六五)と酷似してゐて、その燒直しなることは疑ふべくもないのは遺憾である。
(519)中納言阿倍廣庭卿歌一首
阿倍廣庭の傳は三〇二參照。
1423 去年の春 いこじて植ゑし 吾がやどの 若木の梅は 花咲きにけり
去年春《コゾノハル》 伊許自而植之《イコジテウヱシ》 吾屋外之《ワガヤドノ》 若樹梅者《ワカキノウメハ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》
去年ノ春ニ、根カラ引キ拔イテ來テ植ヱタ私ノ家ノ、若イ梅ノ木ハ今年ハ〔三字傍線〕花ガ咲イタワイ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○伊許自而植之《イコジテウヱシ》――イコジのイは接頭語で意味はない。許自《コジ》は根こじにすること。即ち根のまま拔きとること。古事記に「天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而《ネコジニコジテ》」とある。
〔評〕 簡明な歌である。始めて花を見た、若木の梢に對してゐる、作者の歡喜の情があらはれてゐる。
山部宿禰赤人歌四首
1424 春の野に 菫つみにと 來し我ぞ 野をなつかしみ 一夜ねにける
春野爾《ハルノヌニ》 須美禮採爾等《スミレツミニト》 來師吾曾《コシワレゾ》 野乎奈都可之美《ヌヲナツカシミ》 一夜宿二來《ヒトヨネニケル》
春ノ野ニ菫ヲ摘マウト思ツテ來タ私ハ、野ガナツカシイノデ、歸リカネテ〔五字傍線〕一晩寢テシマツタ。
○須美禮採爾等《スミレツミニト》――須美禮《スミレ》は菫。景樹が紫雲英《レンゲ》であらうといつたのは誤つてゐる。紫雲英は支那原産の植物で、古くは吾が國にあつたとは思はれない。
〔評〕 自然詩人としての、赤人の心境を遺憾なくあらはしてゐる作として名高い。作者が菫咲く野のなつかしさに、そこを立ち去りかねて、そのまま自然の懷に抱擁せられて、一夜を眠ることを喜んだのである。この直情徑行的のところは、後代人には眞似の出來ない點である。菫を摘みに出かけて野宿をするとは、あまりに大人氣ない行動であるとして、これを女を菫に譬へた譬喩歌と見る人もあるが、この四首はいづれも春の景物を詠(520)じたもので、譬喩とは思はれない。また略解・古義・新考などには、菫を摘むのは衣服を摺る爲だらうと言つてゐるが、菫を衣の染料に用ゐたらしい歌は他に見えないし、そんなに實用的・功利的に見るのは、あまりになさけない。赤人はただ春の野に遊びに出かけたのである。春の象徴ともいふべき、可憐な菫が好きであつたから、かうよんだので、菫を摘んで何の用途に當てるといふやうな考があつたのではない。良寛の「飯乞ふとわが來しかども春の野に董つみつつ時を經にけり」も、これと相通ずる心境である。
1425 足引の 山櫻花 日ならべて かく咲きたらば いと戀ひめやも
足比奇乃《アシビキノ》山櫻花《ヤマザクラバナ》 日並而《ヒナラベテ》 如是開有者《カクサキタラバ》 甚戀目夜裳《イトコヒメヤモ》
(足比奇乃)山ノ櫻ノ花ハ、毎日毎日、幾日モカヤウニ咲イテヰルナラバ、ヒドク私ハ戀ヒ慕ヒハセヌ。一寸咲クバカリダカラ戀シイノダ〔一寸〜傍線〕。
○日並而《ヒナラベテ》――日を並べて、毎日毎日。これをケナラベテと訓む人もある。なるほどケナラベテの例も多いけれども、ここは文字通りに訓みたい。卷二十に比奈良倍弖安米波布禮抒母《ヒナラベテアメハフレドモ》(四四四二)とあるから、ヒナラベテも行はれてゐたのである。○甚戀目夜裳《イトコヒメヤモ》――略解にイタモコヒメヤモと訓んでゐるが、舊訓のままがよい。
〔評〕 燦爛と咲き亂れてゐる山櫻に對して、歌ひかけたやうな作である。毎日こんなに咲いてゐるなら、そんなに戀しがりはしないのにと、率直な、うぶな點が赤人らしい。
1426 吾が兄子に 見せむと思ひし梅の花 それとも見えず 雪のふれれば
吾勢子爾《ワガセコニ》 令見常念之《ミセムトオモヒシ》 梅花《ウメノハナ》 其十方不所見《ソレトモミエズ》 雪乃零有者《ユキノフレレバ》
私ノ友ニ見セヨウト思ツテヰタ梅ノ花ガ、雪ガ一體ニ〔三字傍線〕降ツタノデ、梅ノ花トモ分ラナイヤウニナツタ〔六字傍線〕。
○吾勢子爾《ワガセコニ》――勢子《セコ》は男を親しんでいふ語。ここは友人をさしてゐる。いつでも女が男に對していふ語とは限つてゐない。
〔評〕 友を前にして詠んだ歌のやうに思はれる。折角咲いた梅の花を見せようと思つてゐたのに、待ち得た友は(521)前にゐるけれども、霏々たる白雪に梅花の姿は埋れて、それとも見分けかねる情景である。古今集冬歌に「梅の花それとも見えず久かたのあまぎる雪のなべてふれれば」をよみ人しらすとして出してゐるが、この赤人の歌の改作であらう。
1427 明日よりは 若菜つまむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
從明日者《アスヨリハ》 春菜將採跡《ワカナツマムト》 標之野爾《シメシヌニ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 雪波布利管《ユキハフリツツ》
明日カラハ若菜ヲ摘マウト思ツテ、私ガ〔二字傍線〕標ヲシテ置イタ野ニ、昨日モ今日モ雪ガ降ツテヰル。毎日雪バカリデ困ツタモノダ〔毎日〜傍線〕。
○從明日者《アスヨリハ》――古訓はアスカラハであつたと見えて、袖中抄・新古今ともにさうなつておる。○春菜將採跡《ワカナヅマムト》――春菜を文字通りにハルナと訓む説もあるが、何となく落ちつかぬやうであり、河上爾洗若菜之洗來而《カハカミニアラフワカナノナガレキテ》(二八三六)の例もあるから、春菜は若菜と同訓にしたいと思ふ。春菜の用例は他にも多い。○標之野爾《シメシヌニ》――舊本、標を※[手偏+栗]に誤つてゐる。温故堂本による。シメシヌは占領した野。しるしを立てた野。地名ではない。
〔評〕 雪に妨げられて、春の野遊が出來ない焦燥の念が歌はれてゐるが、結句の雪波布利管《ユキハフリツツ》のツツがまことに、物柔かに歌ひ納めて、歌を上品にしてゐる。若菜を摘む野に標を立てるといふのも、仰山らしいといふ見地から、これを女に逢はうとして逢ひ難い意の、譬喩歌と見る人もある。併し野山に標結ふことをよんだ歌は澤山あるので、それには譬喩歌が多いけれども、實際さうしたことが行はれてゐなければ、そんな譬喩も成立たないのではあるまいかと思はれるから、これを譬喩と見る説には賛成しかねる。
草香山歌一首
草香山は河内國中河内郡生駒山の一部で、その北方にある。大和から難波への通路に當つてゐた。九九六參照。
(522)1428 押照る 難波を過ぎて うち靡く 草香の山を 夕暮に 吾が越え來れば 山もせに 咲ける馬醉木の にくからぬ 君をいつしか 往きてはや見む
忍照《オシテル》 難波乎過而《ナニハヲスギテ》 打靡《ウチナビク》 草香乃山乎《クサカノヤマヲ》 暮晩爾《ユフグレニ》 吾越來者《ワガコエクレバ》 山毛世爾《ヤマモセニ》 咲有馬醉木乃《サケルアシビノ》 不惡《ニクカラヌ》 君乎何時《キミヲイツシカ》 往而早將見《ユキテハヤミム》
(忍照)難波ヲ通ツテ(打靡)草香ノ山ヲ夕方私ガ越エテ來ルト、山ニ滿チ滿チテ、山モ狹シト馬醉木ノ花ガ咲イテヰルガ〔山ニ〜傍線〕、(山毛世爾咲有馬醉木乃)イトシイト思ツテヰルアナタヲ、私ハ何時ニナツタラ行ツテ、早ク見ラレルダラウカ。早ク逢ヒタイモノダ〔早ク〜傍線〕。
○忍照《オシテル》――枕詞。難波に冠する、草香山から見れば、難波の海が輝いてゐるからだと言はれてゐるが、よくわからない。四四三參照。○打靡《ウチナビク》――枕詞。草は柔かに靡くから、草に冠してゐる。○山毛世爾《ヤマモセニ》――山も狹しと。山一面に。○咲有馬醉木乃《サケルアシビノ》――馬醉木は俗にアセミ・アセビ・アセボといふ、鈴蘭のやうな白い花を澤山につける常緑灌木である。一六六參照。○不惡《ニクカラヌ》――童蒙抄にアシカラヌとよんでゐる。古義もさう訓んでゐるが、人を愛してニクカラヌと言つた例は多いけれども、アシカラヌといつた例はない。ここと同巧の歌に卷十、春山之馬醉花之不惡公爾波思惠他所因友好《ハルヤマノアシビノハナノ二クカラヌキミニハシヱヤヨソルトモヨシ》(一九二六)とあつて、これをもアシカラヌと訓んでゐる。蓋し、アシの音を繰返すものと見たので、それもよささうであるけれども、他に用例もないから慎重に考へなければならない。惡の字は、惡有名國《ニクカラナクニ》(二五六二)・神毛惡爲《カミモニクマス》(二六五九)・惡氷木之《アシヒキノ》(二七〇四)・惡木山《アシキヤマ》(三一五五)の如く、ニクムともアシとも訓んである。ニクカラヌは、憎くはないといふやうな、消極的の意味でなくて、愛らしい・なつかしいといふやうな意に用ゐてある。
〔評〕 草香山を越えて大和へ歸らうとしてゐる男が、夕日に映える山の馬醉木の花を見て、それになつかしい妻を思ひよせて、戀ひ慕ひつつ詠んだ歌である。短くよく纏つた整つた作である。この卷の編者は、この作者の卑賤の故を以て、捨て去るに忍びなかつたと見える。
右一首依(リテ)2作者微(シキニ)1不v顯2名字(ヲ)1
(523)右の一首は作者の身分が賤しいので、その名字は分つてはゐるが、書かないといふのである。この集の編纂に、作者の身分も考慮に入れられたことがこれで明らかにされてゐる。
櫻花歌一首并短歌
1429 をとめらが 挿頭のために みやびをが かづらのためと 敷きませる 國のはたてに 咲きにける 櫻の花の 匂ひはもあなに
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 頭挿乃多米爾《カザシノタメニ》 遊士之《ミヤビヲガ》 ※[草冠/縵]之多米等《カヅラノタメト》 敷座流《シキマセル》 國乃波多弖爾《クニノハタテニ》 開爾鷄類《サキニケル》 櫻花能《サクラノハナノ》 丹穗日波母安奈何《ニホヒハモアナニ》
少女等ノ頭ニ挿ス花ノ〔二字傍線〕爲ニ、マタ風流男ガ髪ノ飾ニツケル※[草冠/縵]ノ爲トシテ、天子樣ノ御支配遊バス國ノ果テマデモ、ドコカラドコマデモ〔九字傍線〕咲イテヰル櫻ノ花ノ色ハ、アブ美シイコトダ。
○※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》――※[女+感]嬬はヲトメと訓む。集中に用例が多いが、※[女+感]は物に見えない文字である。感の俗字で、下の嬬の字にならつて、女扁を添へたものかと岡本保孝は言つてゐる。○敷座流《シキマセル》――天皇の支配し給へる。代匠記精撰本に、「この句の上には二句許落ちたるか、(中略)試に補て云はば、八隅知之吾大君乃などなるべし」とあるが、必ずしも脱漏とは言はれない。○國乃波多弖爾《クニノハタテニ》――波多弖《ハタテ》は果て、極根の意。古今集戀一に「夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて」とある。雲のはたても同じ。○丹穗日波母安奈何《ニホヒハモアナニ》――丹穗日《ニホヒ》は色。波母《ハモ》は詠嘆の助詞。安奈《アナ》は嗚呼。何《ニ》は妍、美しいこと。書紀に妍哉をアナニヱヤと訓んでゐるのと同じである、宣長は何は荷の誤かといつてゐる。類聚古集・神田本などには爾に作つてゐる。
〔評〕 櫻花禮讃の歌で、國民の總べてが言はうとしてゐるやうなことを、短く纏めた手際は決して凡手ではない。作者のわからぬのは遺憾である。この歌、袖中抄に載つてゐる。
(524)反謌
1430 去年の春 逢へりし君に 戀ひにてし 櫻の花は 迎へ來らしも
去年之春《コゾノハル》 相有之君爾《アヘリシキミニ》 戀爾手師《コヒニテシ》 櫻花者《サクラノハナハ》 迎來良之母《ムカヘクラシモ》
昨年ノ春、花ノ咲ク頃アナタニ〔九字傍線〕オ目ニカカツタノデ、櫻ノ花ハ〔六字傍線〕アナタヲ戀シク思ツテヰタガ、今年モ亦春ニナツタノデ、ソノ〔今年〜傍線〕櫻ノ花ハ、アナタヲ〔四字傍線〕オ迎ヘニ來タラシイヨ。櫻モアナタニ逢ヒタサニ咲イタノデセウ〔櫻モ〜傍線〕。
○相有之君爾《アヘリシキミニ》――逢つたあなたに。君は宴席などの主人をさすか。又は長歌中の、をとめとみやびをとをさすか。恐らくは前者か。○戀爾手師《コヒニテシ》――戀してゐた。爾《ニ》・手《テ》・師《シ》共に時の助動詞。新解にシを強める助詞として、委しい考説が附いてゐるが、賛同し難い。○迎來良之母《ムカヘクラシモ》――迎へに來るらしいよの意。あなたを待ち迎へる爲に咲くらしいよの意。
〔評〕 この歌の解には、諸説が分れて歸するところを知らない。長歌の内容と、あまりかけ隔つてゐるからである。しかし長歌の反歌としては、右のやうに解くより外はあるまいと思はれる。かなり空想的な※[行人偏+?]徊的な作で、歌品は長歌には及ばない。
右二首若宮年魚麻呂誦v之
右の二首は若宮年魚麻呂が宴會の席などで、誦つた歌だといふ註である。即ちこの二首は古歌で作者は不明である。若宮年魚麻呂は傳が明らかでない。卷三に柘枝傳説に關した一首の作があり(三八七)、その次に※[覊の馬が奇]旅歌一首並短歌を誦してゐる。或は宴席などで謠ふことを業としてゐたものか。
山邊宿禰赤人歌一首
(525)1431 百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも
百濟野乃《クダラヌノ》 芽古枝爾《ハギノフルエニ》 待春跡《ハルマツト》 居之※[(貝+貝)/鳥]《ヲリシウグヒス》 鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》
百濟野ノ、萩ノ古イ枝ニトマツテ、春ノ來ルノヲ待ツテヰタ鶯は、モウ既ニ春ニナツタノダカラ〔モウ〜傍線〕、鳴イタデアラウカナア。ドウタラウ〔五字傍線〕。
○百濟野乃《クダラヌノ》――百濟野は大和國北葛城郡百濟村附近の野。曾我川(百濟川)と葛城川とに挾まれた細長い平地である。卷二の言左敝久百濟之原《コトサヘグクダラノハラ》(一九九)も同所。そこに舒明天皇の百濟宮があつた。寫眞はその舊地と稱せられる附近。○待春跡《ハルマツト》――用字が漢文式に倒置してあるのに注意される。○居之※[(貝+貝)/鳥]《ヲリシウグヒス》――舊訓スミシウグヒス。古義は居の上に來を脱としてキヰシウグヒスとしてゐる。それでは意味が少し違つて來るから、もとのままで訓はヲリシウグヒスがよい。○鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》――鳴いたであらうかよ。上に※[(貝+貝)/鳥]とあつて鳴の字が出たので、鶏・鵡・鴨など、鳥の名を列記してゐる。謂はゆる戯書のうちには入つてゐないが、これも戯れた書き方である。
(526)〔評〕 鶯が春を待つて、萩の古枝に冬籠りしてゐるといふ着想は、極めて自然的で、しかも言ふべからざる滋味がある。既に世界が春になつたのにつけて、百濟野を思ひ、鶯の初音を想像したのである。これも赤人らしいすがすがしい歌である。
大伴坂上郎女柳歌二首
1432 吾が背子が 見らむ佐保道の 青柳を 手折りてだにも 見むよしもがも
吾背兒我《ワガセコガ》 見良牟佐保道乃《ミラムサホヂノ》 青柳乎《アヲヤギヲ》 手折而谷裳《タヲリテダニモ》 見綵欲得《ミムヨシモガモ》
アナタガ是カラ折ツテ〔六字傍線〕見ルデアラウ所ノ、アノ奈良ノ〔三字傍線〕佐保ノ道ニ生エテヰル青柳ヲ、セメテ私ハ〔五字傍線〕手折ツタノデモ見ルコトガ出來レバヨイガ。コンナ太宰府ニヰテハソレモ出來ナイノハ悲シイ〔コン〜傍線〕。
○吾背兒我《ワガセコガ》――背兒《セコ》はここでは夫をさすのではない。この歌は坂上郎女が太宰府での作らしく、その頃太宰府から京へ歸る男を背兒《セコ》といつたのである。○見良牟佐保道乃《ミラムサホヂノ》――大伴氏一族の家は、奈良の佐保地方にあつたから、特に佐保道といつたのである。○見綵欲得《ミムヨシモガモ》――舊訓ミルイロニモカとあるのではわからない。代匠記に綵を縁の誤としたのにより、訓は略解に從つた。
〔評〕 春も酣なる頃、都へ歸りゆく人を送るに際し、先づ思ひ出でられるのは、春風に靡く佐保道の青柳である。その好景に接する人を羨むと共に、西陲にあつて、その手折つた枝をも見ることが出來ないのを悲しんだのである。下句哀切の辭。
1433 うち上る 佐保の河原の 青柳は 今は春べと なりにけるかも
打上《ウチノボル》 佐保能河原之《サホノカハラノ》 青柳者《アヲヤギハ》 今者春部登《イマハハルベト》 成爾鷄類鴨《ナリニケルカモ》
(打上)佐保ノ川原ニ生エテヰル青柳は、モウ春ノ時節トナツテ春ラシク芽ヲ吹イテ〔春ラ〜傍線〕ヰル筈ダヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
○打上《ウチノボル》――枕詞。佐保とつづく。舊訓ウチアグルとあるが、類聚古集・神田本などウチノボルとあり、六帖にも(527)同樣になつてゐるから、ウチノボルが却つて古訓である、「佐保道は打上つつ行處ならむからに冠らせしにや」と冠辭考にあるのが當つてゐる。古義に打|揚《アグ》る眞帆又は打|登《ノボ》る眞穗にいひかけたのであらう、と言つたのは從ひ難い。○成爾鷄類鴨《ナリニケルカモ》――新考にケムカモの誤だらうとある。太宰府で想像しての作だから、ケムと言ふべきところであるが、確定的事實であるから、ケルカモとしたので、ここをケムカモとしては調が弱くなつて感情が鈍つて見える。ここに鷄・鴨の字を用ゐてゐるのは、やはり前の一四三一と、ほぼ同樣の戯である。
〔評〕 佐保の河原の青柳も、前の佐保路の青柳も、共に同じものであらう。下句に故郷の春色を偲ぶ情が、強くはつきりと現はれてゐる。
大伴宿禰三林梅歌一首
大伴三林の傳はわからない。略解に林は依の誤かとある。併しさうなつてゐる異本もなく、目録も三林となつてゐる。三依は五五二・八一九參照。
1434 霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに 春日の里に 梅の花見つ
霜雪毛《シモユキモ》 未過者《イマダスギネバ》 不思爾《オモハヌニ》 春日里爾《カスガノサトニ》 梅花見都《ウメノハナミツ》
春トハ名バカリデマダ寒クテ〔春ト〜傍線〕、霜ヤ雪ノ降ルノ〔四字傍線〕モマダヤマナイノニ、意外ニモ私ハ〔二字傍線〕春日ノ里デ梅ノ花ノ咲イタノ〔五字傍線〕ヲ見タ。珍ラシイナア〔六字傍線〕。
○未過者《イマダスギネバ》――未だ過ぎないのにの意、このネバが萬葉集にお多い。
〔評〕 平明な作である。春淺い頃、梅の初花を見出した淡い驚きが、あらはされてゐる。
厚見王歌一首
厚見王は卷四の六六八參照。
1435 かはづ鳴く 甘南備河に かげ見えて 今か咲くらむ 山吹の花
(528)河津鳴《カハヅナク》 甘南備河爾《カムナビガハニ》 陰所見《カゲミエテ》 今哉開良武《イマカサクラム》 山振乃花《ヤマブキノハナ》
河鹿ガヨイ聲デ〔四字傍線〕鳴ク、甘南備河ニ影ヲ映シテ、今頃ハ、アノ名高イ〔五字傍線〕山吹ノ花ガ咲イテヰルダラウカナア。嘸美シカラウ〔六字傍線〕。
○甘南備河爾《カムナビガハニ》――甘南備川は飛鳥川をも龍田川をもいふので、これはいづれともわからない。六人部是香は龍田考に、これを龍田川としてゐるが、予は、卷三の登2神岳1山部宿禰赤人作歌に、夕霧丹河津者驟《ユフギリニカハヅハサワグ》(三二四)とあるによつて、雷山の麓を廻れる飛鳥川としたいと思ふ。○今哉開良武《イマカサクラム》――舊本|今哉《イマヤ》とあるが、類聚古集・神田本その他の古寫本、多くは今香《イマカ》とあるから、それに從ふことにする。○山振乃花《ヤマブキノハナ》――山吹を山振と記すことに就いては、一五八參照。
〔評〕 河鹿の名所であり、山吹の花が美しいので、世に聞えてゐる甘南備河の春景を想像して詠んだもの。實境に臨んでの作ではないが、實に明麗な調子を以て、清流の佳景が詠まれてゐる。氣品の高い作である。中古人に喜ばれたと見えて、六帖や新古今に載せてあり、金葉集の「春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花」古今集の「逢坂の關の清水にかげ見えて今や曳くらむ望月の駒」など、或は内容的に、或は外形的に、これを模倣したものである。
大伴宿禰村上梅歌二首
大伴宿禰村上は、續紀に、「神護景雲二年七月壬申朔庚辰、日向國献2白龜1。九月辛巳勅、今年七月十一日得2日向國宮崎郡人大伴人益所v献白龜赤眼1、云々。大伴人益授2從八位下1賜2※[糸+施の旁]十匹、綿廿屯、布卅端、正税一千束1、又父子之際、因心天性、恩賞所v被事須2同沐1、人益父村上者恕以2縁黨1宜v放2入京1。」とあり、又「寶龜二年四月壬午、正六位上大伴宿禰村上授2從五位下1、十一月癸未朔辛丑、肥後介。三年四月從五位上大伴宿禰村上爲2阿波守1」と見えてゐる。この白龜を献じた人益の父の(529)大伴村上と、寶龜二年以後續紀に叙位任官のことが見える大伴宿禰村上とは別人である。人益の父の村上は日向の片田舍人で、卷五に見えた大伴君熊凝などと同じく、宿禰姓でない大伴氏である。代匠記や古義にその別を立ててゐないのは誤つてゐる。ここの作者の大伴宿禰村上は家持の一族で、續紀に阿波守になつたと記されてゐる人である。この歌が作られたと思はれる天平の初年頃はまだ無位無官であつたらしい。
1436 ふふめりと 言ひし梅が枝 今朝ふりし 沫雪にあひて 咲きぬらむかも
含有常《フフメリト》 言之梅我枝《イヒシウメガエ》 今旦零四《ケサフリシ》 沫雪二相而《アワユキニアヒテ》 將開可聞《サキヌラムカモ》
昨日マデハ〔五字傍線〕マダ蕾ンデヰルト人ガ〔二字傍線〕言ツタ梅ノ枝ハ、今朝降ツタ春ノ〔二字傍線〕泡雪ニ逢ツテ、咲イタダラウカナア。多分美シク咲イタデアラウ〔多分〜傍線〕。
○今旦零四《ケサフリシ》――舊訓ケサフリシとあつたのを、代匠記にケサフリシと訓んだのがよい。
〔評〕 雪中に梅花を待つ心である。雪に催されて蕾を破つたかと想像したのは面白い。
1437 霞立つ 春日の里の 梅の花 山のあらしに 散りこすなゆめ
霞立《カスミタツ》 春日之里《カスガノサトノ》 梅花《ウメノハナ》 山下風爾《ヤマノアラシニ》 落許須莫湯目《チリコスナユメ》
(霞立)春日ノ里ニ咲イタ梅ノ花ヨ。春日山カラ吹ク嵐ノ風デ決シテ散ツテクレルナヨ。イツマデモ美シク咲イテヰテクレヨ〔イツ〜傍線〕。
○霞立《カスミタツ》――枕詞。カスの音を繰返して春日へつづく。略解にカスミタチと訓んだのはおもしろくない。○山下風爾《ヤマノアラシニ》――略解・古義にアラシノカゼニとよんでゐるが、山下風之《ヤマノアラシノ》(七五)・山下風波《ヤマノアラシハ》(二三五〇)・下風吹夜者《アラシンフクヨハ》(二六七九)などの例によるべきである。○落許須莫湯目《チリコスナユメ》――散つてくれるなよ、ゆめの意。コスは希望をあらはす動詞。ユメは決して。
(530)〔評〕 山の嵐とは春日山おろしをいふのであらう。當時まだ珍らしい花であつたらしい梅を、賞翫する意は見えてゐるが、歌は平凡である。
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
駿河麻呂は大伴道足の子。四〇〇參照。
1438 霞立つ 春日の里の 梅の花 はなに問はむと 吾がもはなくに
霞立《カスミタツ》 春日里之《カスガノサトノ》 梅花《ウメノハナ》 波奈爾將問常《ハナニトハムト》 吾念奈久爾《ワガモハナクニ》
(霞立)春日ノ里ニ咲イテヰル梅ノ花ヲ、アダアダシイ心デ私ハ見ニ來タノデハナイヨ。私ハコノ花ヲ心力ラ愛シテヰルノダ〔私ハ〜傍線〕。
○波奈爾將問常《ハナニトハふト》――波奈爾《ハナニ》は上の梅花《ウメノハナ》を受けて、ハナの音を繰返してゐるが、意は、外面のみで眞實味のないこと。あだにといふも同じである。○吾念奈久爾《ワガモハナクニ》――我は思はぬよの意で、この用例は多い。
〔評〕 上句を序詞と見て、女を梅に譬へた相聞と解する説もあるが、梅を愛するこころを述べたものとして置きたい。ここに春日の梅を詠んだ歌が三首出てゐる。春日の里に梅を多く植ゑてあつたか。
中臣朝臣|武良自《ムラジ》歌一首
中臣朝臣武良自は傳が明らかでない。
1439 時は今は 春になりぬと み雪ふる 遠山のべに 霞棚引く
時者今者《トキハイマハ》 春爾成跡《ハルニナリヌト》 三雪零《ミユキフル》 遠山邊爾《トホヤマノベニ》 霞多奈婢久《カスミタナビク》
冬ガ過ギテ〔五字傍線〕時節ハ今コソ春ニナツタトバカリニ、アノ雪ノ降ツテヰル、遠イ山ニ霞ガ棚曳イテヰル。アアイヨ(531)イヨ春ラシクナツテ來タ〔アア〜傍線〕。
○三雪零《ミユキフル》――三《ミ》は接頭語で意味はない。○遠山邊爾《トホヤマノベニ》――舊訓トホキヤマベニとあるが、トホヤマと熟語にした方がよい。卷十一に遠山霞被《トホヤマニカスミタナビキ》(二四二六)とある。
〔評〕 春を悦ぶうららかな聲である。遠山の雪を包む薄絹のやうな霞のヴエールが春を語つてゐる。氣特のよい歌だ。これを少しく理智的にすると、古今集「春立つといふばかりにや三吉野の山もかすみて今朝は見ゆらむ」となり、更に技巧的に改作すると、新古今集の「み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は來にけり」となるのである。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
河邊朝臣東人歌一首
續紀に、「神護景雲元年正月己巳正六位上川邊朝臣東人授2從五位下1、寶龜元年十月辛亥爲石見守」とある人で、山上憶良が痾に沈んだ時、藤原八束の使者として見舞に行つた人である。卷六の九七八參照。
1440 春雨の しくしくふるに 高圓の 山の櫻は いかにかあるらむ
春雨乃《ハルサメノ》 敷布零爾《シクシクフルニ》 高圓《タカマドノ》 山能櫻者《ヤマノサクラハ》 何如有良武《イカニカアルラム》
昨日今日春雨ガ頻リニ降ツテヰルガ、アノ〔二字傍線〕高圓山ノ櫻ハドウナツタダラウ。雨雲デ山ノ景色モ見エナイガ、アノ櫻ノ花ハ咲イタデアラウカ〔雨雲〜傍線〕。
○敷布零爾《シクシクフルニ》――敷布《シクシク》はシゲクシゲク。頻りに降りつづくこと。○何如有良武《イカニカアルラム》――舊訓イカニアルラムとあるが、イカニカアルラムと訓むべきである。
〔評〕、山の櫻が咲いたであらうかと想像したものと見る説と、既に咲いてゐる山の櫻が、雨の爲に散りはせぬかと案じたものと見る説と兩方に分れてゐるが、恐らく前者であらう。連日の雨に高圓山も雲の底に没して見え(532)ない頃、山の花はこの雨に催されてもはや咲いたであらうかどうであらうと、花を待つ心である。何となく温雅な情趣が決つてゐる作である。
大伴宿禰家持※[(貝+貝)/鳥]歌一首
1441 うち霧らし 雪はふりつつ しかすがに 吾家の苑に うぐひす鳴くも
打霧之《ウチキラシ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》 然爲我二《シカスガニ》 吾宅乃苑爾《ワギヘノソノニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウグヒスナクモ》
春ニナツタガマダ〔八字傍線〕ゲ空カキ曇ツテ、雪ガ降ツテヰル。然シナガラ私ノ家ノ園デハ鶯ガ嶋イテヰルヨ。春ハヤハリ春ダナア〔九字傍線〕。
○打霧之《ウチキラシ》――打は接頸語。キラシは遮ラシで、空を曇らすこと。○然爲我二《シカスガニ》――然しながら、それでも。この語を用ゐると、その節と後とが對比的になる。
〔評〕 平明にして優麗、家持の初期の作中の佳作であらう。後撰集に「かきくらし雪はふりつつしかすがに吾家のそのに鶯ぞなく」と出てゐる。
大藏少輔|丹比屋主眞人《タヂヒノヤヌシノマヒト》歌一首
續紀に「神龜元年二月壬子正六位上多治比眞人屋主授2從五位下1。天平十七年正月乙丑從五位下多治比眞人屋主授2從五位上1、十八年九月己巳爲2備前守1。二十年二月二日己未授2正五位下1。天平勝寶元年閏五月甲午朔爲2左大舍人頭1」とある。大藏少輔になつたことは見えないが、この人であらう。卷六の一〇三一參照。
1442 灘波べに 人の行ければ おくれゐて 若菜つむ兒を 見るが悲しさ
難波邊爾《ナニハベニ》 人之行禮波《ヒトノユケレバ》 後居而《オクレヰテ》 春菜採兒乎《ワカナツムコヲ》 見之悲也《ミルガカナシサ》
(533)難波ノ方ヘ夫ガ行ツタノデ、家ニ唯獨リデ〔六字傍線〕殘ツテヰテ、淋シイ心ヲ慰メヨウト思ツテ野邊ヘ出テ〔淋シ〜傍線〕、若菜ヲ摘ンデヰル女ヲ見ルト私ハ、氣ノ毒ニナツ〔八字傍線〕テ、悲シク思フヨ。
○人之行禮波《ヒトノユケレバ》――人は女の夫をさす。○春菜採兒乎《ワカナツムコヲ》――若菜を摘む女を。春菜はハルナと訓む説もあるが、ワカナとよむことにする。○見之悲也《ミルガカナシサ》――也を添へて書いてゐる。音乃清也《オトノサヤケサ》(一二〇二)と同例であるが、この他、戀許増益也《コヒコソマサレ》(二二六九)・黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》(一五三六)などいくらもある。
〔評〕 難波へ夫が赴いた留守に、若菜を摘んでゐる女の淋しい姿に同情してゐる。温情の溢れた歌である、或はこの若菜つむ女は、作者の娘などか。さもなくば、難波べに夫が行つてゐることは一寸わかりかねる筈である。次の乙麿もこの人の子であるから、或は親子數人で若菜つみに行つたものかも知れない。
丹比眞人乙麻呂歌一首
目録には「屋主眞人の第二子」とある。續紀に「天平神護元年正月己亥正六位上多治比眞人乙麿授2從五位下1。十月辛未、行幸紀伊國、以2云々從五位下多治比眞人乙麿1爲2御前次第司次官1」と見える。
1443 霞立つ 野の上の方に 行きしかば 鶯鳴きつ 春になるらし
霞立《カスミタツ》 野上乃方爾《ヌノヘノカタニ》 行之可波《ユキシカバ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウグヒスナキツ》 春爾成良思《ハルニナルラシ》
霞ノタナビイテヰル野原ノ方ヘ行ツタ所ガ、鶯ガ鳴イテヰタ。コレハ私ガ聞イタ初音ダ。アア、モウイヨイヨ〔コレ〜傍線〕春ニナツタラシイ。
○野上乃方爾《ヌノヘノカタニ》――野上《ヌノヘ》は野邊。上はほとりなどいふに同じ。舊訓ノカミノカタニとあるのは、地名としたのか。誤つてゐる。○春爾成良思《ハルニナルラシ》――春は來ぬらしといふ意になつてゐる。春の來ることを、現在に言つたのである。
(534)〔評〕 春を告げる霞と鶯とを歌つてゐるが、何等餘情の籠るものがないのは、叙述が散文的なる爲か。稚い歌である。
高田女王歌一首 高安之女也
高安之女也とある注は高安王の女といふ意か。高田女王は傳が明らかでないが、注の如くならば、高安王即ち後臣下に列した、大原眞人高安の女である。卷四の五三七參照。
1444 山吹の 咲きたる野べの つぼ董 この春の雨に 盛なりけり
山振撮《ヤマブキノ》 咲有野邊乃《サキタルヌベノ》 都保須美禮《ツボスミレ》 此春之雨爾《コノハルノアメニ》 盛奈里鷄利《サカリナリケリ》
山吹ノ咲イテヰル野ノ壺菫ハ、コノ春ノ雨ニ濡レテ盛ニ咲イテヰルヨ。雨ノ中ニ董ノ咲イテヰルノハ、美シイモノダ〔雨ノ〜傍線〕。
○都保須美禮《ヅボスミレ》――「菫の花には下の方にまろくて壺の如くなる所あれば、つぼすみれとはいふなり」と代匠記にある。かやうに菫の一種と見ない説も多い。併し今日ツボスミレと稱する菫菜科の植物があるのは、葉が普通よりも短く三角形をなし、花の色は白で青紫色を帶びてゐる一種をいふのである。平安朝でも襲の色目に菫(表紫・裏薄紫)と壺菫(表紫・裏薄青)とを別にしてゐるから、奈良朝でも菫と壺菫とは別種の花の名であつたらうと思はれる。
〔評〕 山吹と壺菫と春雨との取り合せが美しい。可憐な歌である。代匠記には「山吹の咲たる野へとかざりていへるは、をみなへし咲澤におふる花かつみなどよめるたぐひなり」といひ、新考にも、「ヤマブキノサケルは野ノヘの装に飾いへるのみ」とある。もとより菫を主としてはあるが、山吹の花も背景として重要な役割をつとめ(535)てゐるので、これを無用視してはいけない。
大伴坂上郎女歌一首
1445 風交り 雪はふるとも 實にならぬ 吾家の梅を 花に散らすな
風交《カゼマジリ》 雪者雖零《ユキハフルトモ》 實爾不成《ミニナラヌ》 吾宅之梅乎《ワギヘノウメヲ》 花爾令落莫《ハナニチラスナ》
風ヲ交ヘテ雪ガ降ツテモ、マダ實ニナラナイ私ノ家ノ梅ヲ、花ノウチニ空シク〔三字傍線〕散ラシテシマフナヨ。
○風交《カゼマジリ》――舊訓カゼマゼニとあるのはよくない。卷五にも風雜雨布流欲乃《カゼマジリアメフルヨノ》(八九二)とあつた。○實爾不成《ミニナラヌ》――この句は考へやうによつては意味がわからなくなる。新考に「不を將の誤として、ミニナラムとよむべし」とあるのは尤ものやうに思はれる。併しこれは花が咲いたばかりで、風雪の爲に散つてしまつては、實を結ばずに了ることを恐れたものと見るべきで、さうすれば何等不合理もないやうである。○花爾令落莫《ハナニチラスナ》――あだに空しく散らすなの意。ここは花のままで散らすなと解しても、つまり同じである。
〔評〕 略解は「いまだ逢も見ぬ男のうへを言ひさわぐ事なかれといふ譬喩か。」と如ひ、古義は「初二句は、たとひ世間の人は、とりどりさまざまに、いひたてさわぐとも、と云意をたとへたり。實爾不成《ミニナラヌ》はまだ實《マコト》に夫婦となりえぬをいふ。花爾令落莫《ハナニチラスナ》は唯|風《ホノカ》に言かはしたるのみにて、止ことなかれの意なるべし、云々」とある。かく譬喩歌と見るのも道理はあるが、右のやうに解して、表面的に言葉通りに見るのが、却つて當つてゐるのではないかと思ふ。又若し略解や古義に言ふやうな内容ならば、寧ろ次の春相聞に入るべきではあるまいか。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
大伴宿禰家持養※[矢+鳥]歌一首
養※[矢+鳥]は神田本・温故堂本など春※[矢+鳥]に作つてゐるのが正しい。舊本は誤である。なほ卷十に春※[矢+鳥]鳴(536)高圓邊爾《キギシナクタカマドノヘニ》(一八六六)とあるから、二字でキギシと訓ましめるのであらう。
1446 春の野に あさるきぎしの 妻戀に おのがあたりを 人に知れつつ
春野爾《ハルノヌニ》 安佐留※[矢+鳥]乃《アサルキギシノ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 己我當乎《オノガアタリヲ》 人爾令知管《ヒトニシレツツ》
春ノ野デ餌ヲ〔二字傍線〕アサツテヰル雉ガ、妻ヲ戀ヒ慕ツテ鳴クノデ〔四字傍線〕、自分ノ在リ所ヲ人ニ知ラレル。ソノ爲ニ獵人ニ獲ラレルコトニナル。可哀サウニ〔ソノ〜傍線〕。
○安佐留※[矢+鳥]乃《アサルキギシノ》――安佐留《アサル》は餌を求め捜すこと。求食爲而《アサリシテ》(三〇九一)の用字例もある。○人爾令知管《ヒトニシレツツ》――人に知られつつの意。人に知られずを人知れずといふのと同じである。令知は使役相をあらはす筈であるから、シレと訓むのはどうかと思ふが、所知に通じたものか。ともかくシレツツと訓むべきもののやうである。ツツは助動詞ツを二つ重ねた形で、輕く言ひをさめて、餘韻を含ませてある。
〔評〕 これも譬喩として略解に、「おのが思ひ餘りて言に出しより、他つ人に知られたるをそへたる譬歌なるべし」とし、古義も大躰同意になつてゐるが、言葉通りに見ても、差支はないからさうして置く。「雉も鳴かずは打たれまい」といふ後世の成句の意味が、ここに既に見えてゐるやうに思はれる。この歌、拾遺集にも載せてゐる。
大伴坂上郎女歌一首
1447 よのつねに 聞くは苦しき 喚子鳥 聲なつかしき 時にはなりぬ
尋常《ヨノツネニ》 聞者苦寸《キクハクルシキ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 音奈都炊《コヱナツカシキ》 時庭成奴《トキニハナリヌ》
春デナイ〔四字傍線〕平常ノ時ニ聞クノハ、イヤナ聲デ〔五字傍線〕聞キ苦シイ喚子鳥ノ聲ガ、ナツカシイ春ノ〔二字傍線〕時ニナツタ。コレカラ喚子鳥ノヨイ聲ヲ面白ク聞カウト思フ〔コレ〜傍線〕。
○尋常《ヨノツネニ》――平常の時に。春以外の他の時季に。○聞者苦寸《キクハクルシキ》――聞くのは聞き苦しい。聲がわるいからである。
(537)代匠記に「聞はくるしきとは、見くるしきといふごとく、聞かまうきをいへり」とある。○喚子鳥《ヨブコドリ》――カンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥。七〇參照。
〔評〕 喚子鳥は春の鳥として歌などに詠まれてゐるが、これで見るといつでも鳴く鳥で、春になると聲がよくなることが分るのはおもしろい。歌はあまりおもしろくない。
右一首、天平四年三月一日佐保宅作
佐保の宅は大伴坂上郎女の父の大伴安麿の家で、卷四の五二八によれば、安麿は佐保大納言と稱した。郎女がその家にゐての作であらう。
春相聞
大伴宿禰家持贈(レル)2坂上家之大孃(ニ)1歌一首
坂上家之大孃は大伴宿奈麻呂の女で、田村の大孃の妹、坂上二孃の姉である。
1448 吾がやどに 蒔きし瞿麥 いつしかも 花に咲きなむ なぞへつつ見む
吾屋外爾《ワガヤドニ》 蒔之瞿麥《マキシナデシコ》 何時毛《イツシカモ》 花爾咲奈武《ハナニサキナム》 名蘇經乍見武《ナゾヘツツミム》
私ノ家ノ庭ニ蒔イテ置イタ瞿麥ハ、何時ニナツタラバ花トナツテ咲クデアラウ。花ガ咲イタナラバ、アノ花ヲアナタニ〔花ガ〜傍線〕ナゾラヘテ、アナタト思ツテ〔七字傍線〕見テ思ヒヲ慰メ〔五字傍線〕マセウ。
○蒔之瞿麥《マキシナデシコ》――瞿麥は下の夏雜歌に、吾屋前之瞿麥乃花盛有手折而一目令見兒毛我母《ワガヤドノナデシコノハナサカリナウタヲリテヒトメミセムコモガモ》(一四九六)とあり、又卷十九には奈泥之故波秋咲物乎君宅之雪巖爾左家理家流可母《ナデシコハアキサクモノヲキミガイヘノユキノイハホニサケリケルカモ》(四二三一)ともあつて、春又は秋の花としてある。ここに春相聞に入れてあるのは、贈つたのが春なのであらう。花が春咲くのではない。○名蘇經乍見武《ナゾヘツツミム》――なぞら(538)へつつ見むに同じ。貴女になぞらへて見ようといふのである。
〔評〕 優しい歌である。可憐な作である。しかし、相聞としては熱情が足りないやうに思はれる。
大伴田村家之大孃與(フル)2妹坂上大孃(ニ)1歌一首
之の字、舊本毛に作るのは誤。神田本には毛の字がない。
1449 茅花拔く 淺茅が原の つぼ菫 いま盛なり 吾が戀ふらくは
茅花拔《ツバナヌク》 淺茅之原乃《アサヂガハラノ》 都保須美禮《ツボスミレ》 今盛有《イマサカリナリ》 吾戀苦波《ワガコフラクハ》
私ガアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕フコトハ、(茅花拔淺茅之原乃都保須美禮)今ガ盛デアリマス。戀シクテ戀シクテ仕方ガアリマセヌ〔戀シクテ戀〜傍線〕。
○茅花拔《ツバナヌク》――茅花《ツバナ》は茅《チ》の花で、春の頃それを拔き取つて食べたことは、下の一四六〇・一四六二に明らかである。○都保須美禮《ツボスミレ》――一四四四參照。この句までは、今盛有《イマサカリナリ》につづく序詞で、折からの風物を以て巧みに作つてある。○吾戀苦波《ワガコフラクハ》――吾が戀ふるはの延言。
〔評〕 何といふやさしい女らしい歌であらう。淺茅が原に茅花を拔くのは、處女らの遊である。そこには壺菫の花がいつも咲いてゐる。その景色をとり入れて序としてゐるが、曾て姉妹相携へて菫咲く野に、茅花を拔いたことがあつたのを思ひ起したのであり、又相手にそれを想起せしめることにもなるであらう。妹を思ふ眞情が流露してゐる。相聞ながら、姉から妹へ贈つたもので、戀愛歌ではない。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
大伴宿禰坂上郎女歌一首
禰の字の下に家持贈の三字を脱したのであらうと考に言つてゐる。恐らくさうであらう。
(539)1450 こころぐき 物にぞありける 春霞 たなびく時に 戀の繁きは
情具伎《コヽログキ》 物爾曾有鷄類《モノニゾアリケル》 春霞《ハルガスミ》 多奈引時爾《タナビクトキニ》 戀乃繁者《コヒノシゲキハ》
春ノ霞ガタ靡イテヰル春ノ〔二字傍線〕頃ニ、人ヲ頻リニ戀シク思フノハ、常ヨリモ格別ニ〔七字傍線〕、心ガ曇ツタヤウデ〔六字傍線〕イラダタシイモノデスヨ。
○情具伎《ココログキ》――ココログシといふ形容詞。心のくぐもりて、おぼつかない感を惹さしめること。七三五參照。
〔評〕 春霞の欝陶しい情景と、戀に晴れない心の欝陶しさとの一致を歌つて、面白く出來てゐる。卷四の大伴家持が藤原久須麿に贈つた情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者《ココログクオモホユルカモハルガスミタナビクトキニコトノカヨヘバ》(七八九)と酷似してゐるが、この二歌はいづれが先に出來たものかわからない。年代は略同じ頃のやうに思はれる。この歌の作者を家持とすると、同じ人が兩方へ同じやうな歌を贈つたのである。古今六帖に初句を「心うき」として出てゐる。
笠女郎贈(レル)2大伴家持(ニ)1歌一首
1451 水鳥の 鴨の羽色の 春山の おぼつかなくも 念ほゆるかも
水鳥之《ミヅトリノ》 鴨乃羽色乃《カモノハイロノ》 春山乃《ハルヤマノ》 於保束無毛《オボツカナクモ》 所念可聞《オモホユルカモ》
私ハコノ頃胸ノ内ガ〔九字傍線〕(水鳥之鴨乃羽色乃春山乃)晴レナイデ欝陶シク思ハレマスヨ。ホントニ貴方ガ戀シウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
○水鳥之《ミヅトリノ》――鴨の枕詞。○鴨乃羽色乃《カモノハイロノ》――カモノハイロノと舊訓にあるのに從ひたい。卷二十に水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハイロノアヲウマヲ》(四四九四)あるが、この歌ではノの假名は皆記してあるのに、ここは羽色とあるから、文字通りによむべきであらう。この一二句は春山の色の青い形容である。○春山乃《ハルヤマノ》――この句までの三句は序詞で於保束無毛《オボツカナクモ》にかかつてゐる。春の山が霞に包まれて、はつきりしない意を以て、心のおぼつかないのにかけてゐる。○於保束無毛《オボツカナクモ》――オボツカナシは心の欝々として晴れないこと。戀故の惱みである。
(540)〔評〕 綺麗に出來た歌である。器用な序詞である。さうして女らしい作である。
紀女郎歌一首
西本願寺本・細井本たど、ここに「名曰小鹿也」とある。卷四の紀女郎怨恨歌三首(六四三)の題の下に、古葉略類聚鈔には「鹿人大夫之女名曰小鹿也、安貴王之妻也」とある。
1452 闇ならば うべも來まさじ 梅の花 咲ける月夜に 出でまさじとや
闇夜有者《ヤミナラバ》 宇倍毛不來座《ウベモキマサジ》 梅花《ウメノハナ》 開月夜爾《サケルツクヨニ》 伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》
アナタガ〔四字傍線〕闇ノ夜ニオイデニナラナイトイフノハ、尤モデス。シカシ〔三字傍線〕梅ノ花ノ咲イテヰルヨイ月夜ニモ、オイデナサラナイトイフノデスカ。コンナヨイ晩ニハオイデ下サツテモ、ヨササウナモノデスネ〔コン〜傍線〕。
○闇夜有者《ヤミナラバ》――新訓にヤミヨナラバと訓んでゐるが、ここは闇夜の二字でヤミとよむべきである。卷十一にも、暮月夜曉闇夜乃朝影爾《ユフツクヨアカトキヤミノアサカゲニ》(二六六四)とあつて、ヤミヨとは訓み得ないところである。○宇倍毛不來座《ウベモキマサジ》――來まさざらむも宜なりの意。○伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》――「而」は耐などの誤れるか」と略解にあり、古義にも「而は耐の省文なるべし」とあるが、而をテの假名に用ゐた例は多く、ここは濁音になつてゐるが、その例も多いのである。耐をデの假名に用ゐた例も無く、從つて誤とも省文とも思はれない。
〔評〕 女らしい優雅な作品で、暗香疎影、月前の梅花に對して人を待つ氣分があはれである。結句の伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》が詰るが如く怨むが如く、洵にあはれに聞える。
天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村贈(レル)2入唐使(ニ)1歌一首并短歌
續紀に「天平四年八月以2從四位下多治比眞人廣成1爲2遣唐大使1從五位下中臣朝臣名代爲副使」と(541)見えてゐるから、その時の遣唐使であらう。卷五に山上憶良のよんだ好去好來歌(八九四)もこの時のことであるし遣唐使を入唐使とも呼んだので、その例は卷九の一七八四、卷十九の四二四〇・四二四五・四二六三にもある。
1453 玉襷 かけぬ時無く いきの緒に 吾が念ふ君は うつせみの みことかしこみ 夕されば 鶴が妻喚ぶ 難波潟 三津の崎より 大船に 眞楫しじ貫き 白浪の 高き荒海を 島傳ひ い別れ行かば 留まれる 我は幣引き 齋ひつつ 君をばやらむ はや還りませ
玉手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 氣緒爾《イキノヲニ》 吾念公者《ワガモフキミハ》 虚蝉之《ウツセミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 夕去者《ユフサレバ》 鶴之妻喚《タヅガツマヨブ》 難波方《ナニハガタ》 三津埼從《ミツノサキヨリ》 大舶爾《オホブネニ》 二梶繁貫《マカヂシジヌキ》 白浪乃《シラナミノ》 高荒海乎《タカキアルミヲ》 島傳《シマヅタヒ》 伊別往者《イワカレユカバ》 留有《トドマレル》 吾者幣引《ワレハヌサヒキ》 齊乍《イハヒツツ》 公乎者將往《キミヲバヤラム》 早還萬世《ハヤカヘリマセ》
(玉手次)心ニカケナイ時モナク、命ニカケテ私ガ思ツテヰル貴方ハ、天子樣ノ〔四字傍線〕(虚蝉之)命令ガ畏多イノデ、勅ノマニマニ〔六字傍線〕、夕方ニナルト鶴ガ妻ヲ呼ンデ鳴イテヰル難波潟ノ三津ノ埼カラシテ、大船ニ左右ノ楫ヲ澤山ニ貫イテ白浪ノ高ク立チ騷グ荒海ヲ、島々ノ間ヲ傳ツテ漕ギ出シテ〔五字傍線〕、別レテオ出カケナサルト、後ニ遺サレテ〔六字傍線〕留ツテヰル私ハ、幣ヲ手ニ持ツテ神樣ヲ祭リナガラ、アナタヲオ送リシマセウ。ドウゾ御無事デ〔七字傍線〕早クオ歸リナサイマシ。
○葺玉手次《タマダスキ》――枕詞。懸につづく。五參照。○氣緒爾吾念公者《イキノヲニワガモフキミハ》――イキノヲニオモフは卷七、氣緒爾念有吾乎《イキノヲニオモヘルワレヲ》(一一六〇)にもあるやうに、命にかけて思ふこと。○虚蝉之《ウツセミノ》――枕詞。命《ミコト》のミにつづいてゐる。現身《ウツセミ》の身といふのである。代匠記精撰本には、「今按空蝉之の下に世人有者大王之《ヨノヒトナレバオホキミノ》と云二句を落せり。其例證は第九に、神龜五年戊辰秋八月歌の中に、死毛生毛君之隨意常念乍有之間爾虚蝉乃代人有者大王之御命恐美《シニモイキモキミガマニマトオモヒツツアリシアヒダニウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》云々。又天平元年己已冬十二月の歌發端に云。虚蝉乃世人有者大王之御命恐彌《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》云々、此に准らへて知べしとあつて、略解・古義などもこれに從つてゐる。○二梶繁貫《マカヂシジヌキ》――マカヂは左右の楫をいふ。○伊別往者《イワカレユカバ》――イは接頭語で意味はない。○吾者弊引《ワレハヌサヒキ》――舊訓ワレハタムケニとあるが、考に引を取の誤として、ヌサトリとよんだのが多く行はれてゐる。し(542)かし契沖が「ヌサヒキとよむべきか」といつたのに從はう。幣引は幣を手向けることであらう。○齊乍《イハヒツツ》――イハフは神を祭る。齊は齋に通じて用ゐたのであらう。○公乎者將往《キミヲバヤラム》――舊訓にかうあるのを代匠記に往を待の誤として、キミヲバマタムとしてゐる。和禮立待速歸坐勢《ワレタチマタムハヤカヘリマセ》(八九五)とあるに傚つたのであらうが、舊のままでよい。
〔評〕 これは入唐使への餞別の歌で、これと内容を等しくしたものが、卷五には雜歌として出てゐる、卷六の藤原宇合卿西海道節度使に遣はされた時、高橋連蟲麿の作つた歌なども、略、似た内容であるが、やはり雜歌となつてゐる。相聞はもとより戀愛には限らないが、ここに收めねばならぬ作とは思はれない。これが春閏三月の作であるのと、友を思ふ情がよくあらはれてゐるので、ここに置いたものか。
反歌
1454 波の上ゆ 見ゆる兒島の 雲がくり あないきづかし 相別れなば
波上從《ナミノウヘユ》 所見兒島之《ミユルコジマノ》 雲隱《クモガクリ》 穴氣衝之《アナイキヅカシ》 相別去者《アヒワカレナバ》
アナタト〔四字傍線〕オ別レシタナラバ。アナタノオ船ハ〔七字傍線〕波ノ上カラ見エル小サイ島ノヤウニ、雲ニ隱レテンマツテ、私ハアア嘆息セラレルコトデアラウ〔六字傍線〕。
○所見兒島之《ミユルコジマノ》――兒島は小さい島。略解に「兒島は備前也」とあるのは誤であらう。之《ノ》は、の如く。○穴氣衝之《アナイキヅカシ》――嗚呼息吐かしきことよ。氣突之《イキヅカシ》は嘆息せられること。ここは相別去者《アヒワカレナバ》と未來に言ふとすれば、イキヅカシカラムと言ふべきであるが、決定的事實としてかう述べたのであらう。卷十四の阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母埋沼乃安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキヅカシミズヒサニシテ》(三五四七)はその無理がなく出來てゐる。○相別去者《アヒワカレナバ》――略解にアヒワカレイネバ、新考にアヒワカレユケバとあるが從ひ難い。
〔評〕 初二句は卷十一の浪間從所見小島之濱久木《ナミノマユミユルコジマノハマヒサギ》(二七五三)と似てゐる。或はこれに傚つたものか。淋しい心をあらはすにはふさはしい譬喩である。併し三句以下、少しく叙法に無理があるのではないかと思はれる。
(543)1455 たまきはる 命に向ひ 戀ひむゆは 君がみ船の 楫からにもが
玉切《タマキハル》 命向《ノチニムカヒ》 戀從者《コヒムユハ》 公之三舶乃《キミガミフネノ》 梶柄母我《カヂカラニモガ》
私ハアナタニオ別レシテ〔私ハ〜傍線〕(玉切)命ニ代ヘル程モアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思フヨリハ、アナタノ乘ツテオイデナサル〔九字傍線〕船ノ、楫ノ柄ニデモナツテ、始終オ側ヲ離レナイヤウニシ〔テ始〜傍線〕タイモノデス。
○玉切《タマキハル》――枕詞。命とつづくのは、魂に極りある命の意。四參照。○梶柄母我《カヂカラニモガ》――梶柄はカヂツカとカヂカラとの兩訓がある。柄は集中の用例を見ると、多くカラとよんであり、稀にエにも用ゐてある。ツカとよんだ例は見あたらぬ。詞として考へると、楫には柄《カラ》といふよりもツカといふ方がよいやうであるが、字鏡に〓保己乃加良とあつて,桙の柄をカラといつてゐるから、ここもカヂカラがよいのである。
〔評〕 熱烈な惜別の情をあらはし得てゐる、御船の楫の柄にもなりたいといつたのは、類例のない寄拔な言ひ方である。
藤原朝臣廣嗣櫻花(ヲ)贈(レル)2娘子(ニ)1歌一首
廣嗣は式部卿宇合の第一子。卷六の一〇二九參照。
1456 この花の 一よのうちに 百くさの 言ぞこもれる おほろかにすな
此花乃《コノハナノ》 一與能内爾《ヒトヨノウチニ》 百種乃《モモクサノ》 言曾隱有《コトゾコモレル》 於保呂可爾爲莫《オホロカニスナ》
私ガ今貴女ニアゲマス〔私ガ〜傍線〕コノ櫻ノ花ノ一|瓣《ヒラ》ノウチニ、私ガ言ハウト思フ〔八字傍線〕イロイロノ言葉ガ籠ツテヰマスヨ。デスカラコノ花ヲ〔八字傍線〕アダヤオロカニ思ヒナサルナ。
○一興能内爾《ヒトヨノウチニ》――一與《ヒトヨ》は花瓣の一片をいふのであらう。他に考へ方がないやうである。
〔評〕 卷二に三芳野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久《ミヨシヌノタママツガエハハシキカモキミカミコトヲモチチカヨハク》(一一三)のやうに、思ひを櫻花に托したのである。ヒトヨに對してモモクサと言つてゐるのも巧で、才氣のあらほれた歌である。
(544)娘子和(フル)歌一首
1457 この花の 一よのうちは 百くさの 言持ちかねて 折らえけらずや
此花乃《コノハナノ》 一與能裏波《ヒトヨノウチハ》 百種乃《モモクサノ》 言持不勝而《コトモチカネテ》 所折家良受也《ヲラエケラズヤ》
アナタハコノ花ノ一瓣ノウチニ、イロイロノ言葉ガコモツテヰルトオツシヤリマスガ、ナルホド〔アナ〜傍線〕コノ櫻ノ花ノ瓣ノウチニハ、イロイロノ言葉ヲ、モチキレナイデ、アマリノ〔七字傍線〕重サニ折ラレテシマツタノデハアリマセンカ。
○一與能裏波《ヒトヨノウチハ》――一|瓣《ヨ》の内にはの意。○所折家良受也《ヲラエケラズヤ》――舊訓ヲラレケラズヤとあるが、ヲラエと訓む方が古意であらう。折られたではないかの意。
〔評〕 折つて贈つて來た櫻の枝を、相手の歌の意を受けて、一瓣の内に籠つた、その百種の言葉の重さによつて、折れたやうに言ひなしたのは、なかなか隅に置けない娘子である。機智を以てすぐれた歌。
厚見王贈(レル)2久米女郎(ニ)1歌一首
厚見王は卷四の六六八參腰。久米女郎はよく分らない。古義には久米連若賣のことかとある。若賣は石上乙麿と姦して下總に流された人で、右大臣藤原百川の母である。
1458 やどにある 櫻の花は 今もかも 松風はやみ 地に落つらむ
屋戸在《ヤドニアル》 櫻花者《サクラノハナハ》 今毛香聞《イマモカモ》 松風疾《マツカゼハヤミ》 地爾落良武《ツチニオツラム》
アナタノ〔四字傍線〕家ニ咲イテヰル櫻ノ花ハ、今頃ハ松風ガヒドク吹クノデ、地面ニ散ツテヰルデセウ。イカガデスカ〔六字傍線〕。
○屋戸在《ヤドニアル》――次に屋戸爾有《ヤドニアル》とあるによつて、爾の字が脱ちたものと見る説もあり、又このままでヤドナルと四音によまうとするものもある。ここはこの儘でヤドニアルとよむことにする。この屋戸《ヤド》は久米女郎の宿である。○地爾落良武《ツチニオツラム》――舊訓ツチニチルラムとあるのを略解にツチニオツラムと改めたのに從ふ。落の字は梅花開而(545)落去登《ウメノハナサキテチリヌト》(四〇〇)の如き用例もあるが、ここはオツと言つてもよいやうに思はれる。
〔評〕 イマモカモを受けて下にラムと結んだ例は他に數首あつて、形式的には新しいとは言ひ難いが、宿の櫻の松風に散るのを想像したのは、實に優雅な趣の上に立つてゐる。厚見王はいつも上品な歌を作られるお方である。
久米女郎報贈(レル)歌一首
1459 世のなかも 常にしあらねば やどにある 櫻の花の 散れる頃かも
世間毛《ヨノナカモ》 常爾師不有者《ツネニシアラネバ》 屋戸爾有《ヤドニアル》 櫻花乃《サクラノハナノ》 不所比日可聞《チレルコロカモ》
仰ル通リ私ノ家ノ櫻ノ花ハ散ツテヰマス〔仰ル〜傍線〕。世間ト云フモノハ、無常ナモノデスカラ、私ノ〔二字傍線〕ノ櫻ノ花モ今日コノ頃、散ツテ居リマスヨ。
○不所比日可聞《チレルコロカモ》――代匠紀初稿本に、「不所をちれるとよめるは、もとの所にあらぬは、花にてはちるなれば、義をもてかけるなり」とあり。同精撰本には、「不所は、今按、ちれるもおつるも義訓背かねど、うつると讀て散を云と意得べきにや、神代紀に移の字をちるとよめり」とある。考にはウツロフコロカモとある。不所の二字は少し穩やかでないやうに思はれるが、暫く舊訓に從つて置く。この句は花の散れるこの頃よの意で、即ち今日この頃、花が散つてゐますよの意。
〔評〕 厚見王が松風疾地爾落良武《マツカゼハヤミツチニオツラム》と仰になつたのに對して、世間毛常爾師不有者《ヨノナカモツネニシアラネバ》と理窟を附けて、佛教の無常觀へ持つて行つたのは面白くない。王の御歌に比して劣つてゐる。なほこの歌、古義に、「これにて思へば花も一時、我身も一時にて君に訪れむも今しばらくの間にて、ほどなく見苦しきものになり、老はてむとおもへば、あはれかなしき世間にてあらずやはとの下心なり」と解してゐるのは當つてゐない。こんな寓意などはありさうに思はれない。
(546)紀女郎、贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌二首
紀女郎は卷四の七六二・七六三‥七七六などにも家持に贈つた歌が出てゐる。古義に、紀女郎の下に、折攀合歡木花并茅花の九字を補つたのは、左註によつて猥りに改めたのである。從ふべきでない。
1460 わけがため 吾が手もすまに 春の野に 拔ける茅花ぞ めして肥えませ
戯奴《ワケ》【變云和氣】之爲《ガタメ》 吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》 春野爾《ハルノヌニ》 拔流茅花曾《ヌケルツバナゾ》 御食而肥座《メシテコエマセ》
コレハ〔三字傍線〕オマヘノ爲ニ私ノ手モ休メズニ春ノ野デ拔イタ茅花デスゾヨ。コレヲ今アゲマスカラ〔コレ〜傍線〕食ベテ肥リナサイ。
○戯奴《ワケ》【變云和氣】之爲《ガタメ》率――戯奴《ワケ》は卷四に吾君者和氣乎波死常念可毛《ワガキミハワケヲバシネトオモヘカモ》(五五二)・勤和氣登將譽十方不在《イソシキワケトホメムトモアラズ》(七八〇)の和氣と同じで、もと一人稱代名詞であつたものを、二人稱に用ゐたものらしい。ともかく汝の意で相手を見下げた言葉であるが、ここは戯れて言ふので戯奴と記したものか。新考には「案ずるにワケは奴といふことなるべし。さればこそ人にも自にもいふなれ」といつてゐる。なほ考ふべき語である。變云和氣の四字は筆者の自註で、戯奴 では訓み難いから訓法を記したのである、變は卷五の八九四に反云2大命1、反云2布奈能閇爾1とあるから、反と同じくカヘシテと訓むのであらう。變を反の誤とするのはよくない。變・反の二字相通ずるのである。○吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》――須麻爾《スマニ》は代匠記に「手もひまなくといふ心なり」、考に「吾手も不休《ヤスマズ》にといふ歟」、略解に「宣長は數《シバ》にの意歟と言へり」とある。休まずの古形、休まにのヤを略した形か。ともかく休まず、暇なくなどの意である。下に、手母須麻爾殖之芽子爾也還者雅見不飽情將盡《テモスマニウヱシハギニヤカヘリテハミレドモアカズココロツクサム》(一六三三)ともある。散木集に、「山吹のみきはもすまに咲きぬれば洗ふさ波もいとなかりけり」とあるのは、更に轉じたものか。○御食而肥座《メシテコエマセ》――御食而はヲシテとも訓めさうであるが、武奈伎取食《ムナギトリメセ》賣世《メセ》反也(三八五三)とあるから、メシテとよむべきである。當時茅花を食へば肥えると信ぜられてゐたものと見える。
〔評〕 卷十六の石麻呂爾吾物申夏痩爾吉跡云物曾武奈伎取食《イシマロニワレモノマヲスナツヤセニヨシトイフモノゾムナギトリメセ》(三八五三)は大伴家持が吉田連右麻呂の痩躯を咄つた(547)歌であるが、實は彼自身痩せた男であつたらしく、紀女郎にかうして揶揄せられてゐる。戯奴《ワケ》といふやうな言葉を用ゐてゐるのみならず、歌全躰がまことに輕い調子で、はすば〔三字傍点〕な女らしく詠まれてゐる。この歌袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
1461 晝は咲き 夜は戀ひ宿る 合歡木の花 君のみ見めや わけさへに見よ
晝者咲《ヒルハサキ》 夜者戀宿《ヨルハコヒヌル》 合歡木花《ネブノハナ》 君耳將見哉《キミノミミメヤ》 和氣佐倍爾見代《ワケサヘニミヨ》
晝ノ間ハ花ガ〔二字傍線〕開イテヰタ、夜ニナルト戀ヒ慕ヒナガラ葉ガ〔二字傍線〕眠ル合歡ノ花ヲ、私バカリデ見ルトイフコトハナイ。コレヲオマヘニ贈ルカラ〔コレ〜傍線〕、オマヘモ亦見ナサイ。
○合歡木花《ネブノハナ》――合歡木は今ネムノキといふもので、山野に貝生する落葉喬木、葉は二回羽状複葉で、多數の小葉から成り、小葉は夜になると閉合する。ネムノキは即ち眠りの木の意で、葉の閉合することから得た名である、花は紅色で刷毛のやうに見えて可憐である。成夏の頃開く。この上句は、花が晝咲いて夜萎むやうにきこえるが、夜萎むのは葉であるから、晝花が咲いて、葉が夜萎む合歡木の花といふのであらう。咲を開の借字とし、第一句も葉が晝開くものとしても見られぬこともないが、咲の字は他の用例を見ると、必ず花の咲くことか、又は笑ふ義にのみ用ゐてあるから、恐らくさうではあるまい。なほ合歡の花は夕刻以前に開くものである。○君耳將見哉《キミノミミメヤ》――君を吾の誤とする説が多い。これも尤もであるが、ここは相手を戯奴《ワケ》と言つたに對して、戯れて自分を君といつたものと見るべきやうに思はれる。卷四の五五二でも、またこの歌でも、次の歌でも、戯奴に對照して君を用ゐた例が多いのに注意したい。もし新考の解の如く、ワケを奴の意とすれば、なほ更右の見解でよいやうに思はれる。
〔評〕 右に述べたやうに、上句が少し不明瞭なのは缺點であるが、合歡木の葉が夜萎むのを戀宿《コヒヌル》と心ありげに言つたのは面白い。但しこれを作者が家持を戀ふる心を寓したやうに見るのは當るまい。これは唯歌を面白くす(548)る爲の技巧に過ぎない。
右折2攀(ヂテ)合歡花并茅花(ヲ)1贈(レル)也
折攀の二字は珍らしい熟語である。意は折り引くことで、攀ぢ登るのではない。茅花には攀ぢ登ることは出來ない。攀の字は集中に多く用ゐられてゐるが、いづれも木に攀ぢ上ることとは解せられぬもののみである。攀而手折都見末世吾妹兒《ヨヂテタヲリツミマセワギモコ》(一五〇七)・引攀而折者可落《ヒキヨヂテヲラバチルベミ》(一六四四)・引攀而峯文十遠仁《ヒキヨヂテエダモトヲヲニ》(三三二三)・引登而折毛不折毛《ヒキヨヂテヲリモヲラズモ》(四一八五)・引攀而袖爾古伎禮都《ヒキヨヂテソデニコキレツ》(四一九二)・攀2橘花1(一五〇七)・攀2非時藤花竝芽子黄葉二物1(一六二七)・攀2折堅香子草花1歌一首(四一四三)の例が明らかに示してゐる。一體、攀の字は廣韻に「※[手偏+反]音班挽也、又音攀同※[手偏+反]」とあり攀を※[手偏+反]にも作るのである。國語晋語に「攀輦即利而舍、韋昭注引也」とあり、李白詩に「籍革依流水攀花贈遠人」とあるのも木に登ることではなく、引又は折ると解すべきである。なほ集中假名書きになつてゐる。乎佐刀奈流波奈多知波奈乎比伎余知?《ヲサトナルハナタチバナヲヒキヨヂテ》(三五七四)・妹手取而引與治《イモガテヲトリテヒキヨヂ》(一六八一)・青柳乃保都枝與治等理《アヲヤギノホヅエヨヂトリ》(四二八九)などもいづれも同樣である。これによつて考へると、攀の字もヨヅといふ國語も共に、木に登ることではなく、引くの意で、稀に折ることにもなるのである。なほ、盛夏の候に咲くべき合歡木と、春の茅花とを同時に贈つたのは不思議である。これについて略解には、茅花三月、合歡の花は六月比さくなれば時異なり。是は藥に服せんために拔てたくはへ置たるを贈れるなるべし」とあるが、さらばこれを夏の部に入れなければならない。考には「前の歌は茅花にて春なり。合歡木の花は六月咲ければ夏なり。仍て一時の歌ならねど、同じ人と同じ意をよみかはせるなれば思ひ出る序にかくかかれしならん」とあるが、ここの書きぶりを見ても、歌の風を見ても、別の時の作とは考へられない。右のいづれに從ふべきか、判斷に苦しむところである。ここは略解の説に從ひ、前の歌に、春野爾拔流茅花曾《ハルノヌニヌケルツバナゾ》とあるによつて季を定めて、春相聞に入れたものとしたいと思ふ。
大伴家持贈(リ)和(フル)歌二首
1462 吾が君に わけは戀ふらし たばりたる 茅花をはめど いや痩せに痩す
(549)吾君爾《ワガキミニ》 戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》 給有《タバリタル》 茅花乎雖喫《ツバナヲハメド》 彌痩爾夜須《イヤヤセニヤス》
アナタニ私ハ戀シテヰルト見エマス。何故ナレバアナタガ私ガ肥レト言ツテ贈ツテ〔何故〜傍線〕下サツタ、茅花ヲ食ベテモ、イヨイヨ瘠セルバカリデス。
○戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》――紀女郎が家持を戯奴《ワケ》と言つたのを、そのまま受けて、家持自から戯奴《ワケ》と稱したのである。○給有《タバリタル》――舊訓タマヒタルとあるが、新訓にタバリタルとしたのがよい。○茅花乎雖喫《ツバナヲハメド》――舊訓ツバナヲクヘドとあるが、代匠記精撰本に傚つてツバナヲハメドとしよう。喫の字は鳥者雖不契《トリハハマネド》(一八五六)・屎鮒喫有《クソブナハメル》(三八二八)・喫烏《ハムカラス》(三八五六)などハムとよんだ例が多い。
〔評〕 殊更に戯れて戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》とか、茅花乎雖喫彌痩爾夜須《ツバナヲハメドイヤヤセニヤス》などと言つてまことに輕い氣分の作である。この歌と前の戯奴之爲《ワケガタメ》(一四六〇)との二首を一括して、卷十六の戯咲歌、石麻呂爾吾物申《イシマロニワレモノマヲス》(三八五三)の歌と並べてもよいやうに思はれる。この歌、袖中抄と和歌童蒙抄とに出てゐる。
1463 吾妹子が 形見の合歡木は 花のみに 咲きて蓋しく 實に成らじかも
吾妹子之《ワギモコガ》 形見乃合歡木者《カタミノネブハ》 花耳爾《ハナノミニ》 咲而蓋《サキテケダシク》 實爾不成鴨《ミニナラジカモ》
アナタガ形見トシテ贈ツテ〔三字傍線〕下サツタ合歡ノ花ハ、多分花バカリ咲イテ實ニナラナイノデハナイデスカ。アナタモ口バカリデ、眞實ノ間柄ニハナラナイノデハアリマセンカ〔アナ〜傍線〕。
○形見乃合歡木者《カタミノネブハ》――形見は記念となるもの、又は記念として遺して置いたものをいふ。併し卷十六の三八〇九の左註に、右傳云、時有2所v幸娘子1也【姓名未詳】寵薄之後、還2賜寄物1【俗云可多美】於v是娘子怨恨聊作2斯歌1獻上とあつて、寄物を可多美と註してゐるのは、恰もここの形見と一致してゐる。即ち他からの贈物である
〔評〕 折つて來た合歡の花だから、花のみ咲いて實にならぬのは當然である。作者の言葉はその意味で言つてゐるかどうか明らかでないが、さう考へた方が、歌に滑稽味があつて面白いやうである、併しこの思想はげ波之吉也思吾家乃毛桃本繁花耳開而不成在目八方《ハシキヤシワギヘノケモモモトシゲクハナノミサキテナラザラメヤモ》(一三五八)・欲見戀管待之秋芽子者花耳開而不成可毛將有《ミマクホリコヒツツマチシアキハギハハナノミサキテナラズカモアラム》(一三六四)な(550)どにも見えて、類型的といふことが出來る。
大伴家持贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌一首
1464 春霞 たなびく山の へなれれば 妹に逢はずて 月ぞ經にける
春霞《ハルガスミ》 輕引山乃《タナビクヤマノ》 隔者《ヘナレレバ》 妹爾不相而《イモニアハズテ》 月曾經爾來《ツキゾヘニケル》
久邇ノ都ト奈良トハ〔九字傍線〕、春霞ガ棚引イテヰル山ガ、間ニ隔ツテヰルノデ、自由ニ通ヘズ〔六字傍線〕、アナタニ逢ハナイデコノ〔二字傍線〕月モ經ツテシマツタヨ。
○隔者《ヘナレレバ》――舊訓ヘダタレバとあるのでもよいが、隔の字ハヘタツともヘナルともよんであるから、卷十一、山隔愛妹隔有鴨《ヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》(二四二〇)・卷十二、青垣山之隔者《アヲガキヤマノヘナリナバ》(三一八七)の例により、又この作者が、同じく坂上大孃を思つて詠んだ、卷四の一隔山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待《ヒトヘヤマヘナレルモノヲツクヨヨミカドニイデタチイモカマツラム》(七六五)に傚つて、ここはヘナレレバとよむことにする。
〔評〕 左註の如く久邇宮から寧樂の宅へ贈つたもの。右に掲げた卷四の一隔山《ヒトヘヤマ》の歌と全く同一氣分で、同じ頃の作であらうと、思はれる。ここの數首は、卷四の卷末に近い部分と、内容が似通つてゐる。
右從2久邇京1贈(ル)寧樂宅(ニ)1
寧樂から久邇へ遷都せられた、天平十三年春のことであらう。家持は單身久邇へ赴いてゐたのである。
(551)夏雜歌
藤原夫人歌【明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也】
卷二の一〇三に見えた藤原夫人で、天武天皇の夫人、鎌足の二女五百重娘である。夫人は宣長がキサキと訓んだのに對して、雅澄はオホトジとよむべしと言つてゐる。
1465 ほととぎす いたくな鳴きそ 汝が聲を 五月の玉に あへぬくまでに
霍公鳥《ホトトギス》 痛莫鳴《イタクナナキソ》 汝音乎《ナガコヱヲ》 五月玉爾《サツキノタマニ》 相貫左右二《アヘヌクマデニ》
マダ四月ダカラ郭公モヒドク啼クナヨ。五月ニナツテオマヘノ鳴ク聲ヲ、五月ニ拵ヘル藥〔六字傍線〕玉ニ混ゼテ、糸ニ〔二字傍線〕通サウト思フカラ、ソレ〔六字傍線〕マデハ、ヒドクナクナヨ。今ノウチニ鳴イテシマツテハ惜シイモノダ〔ヒド〜傍線〕。
○五月玉爾《サツキノタマニ》――五月の節に飾る玉、即ち藥玉。麝香・沈香・丁子などの藥を錦の袋に入れ、蓬・菖蒲又は造花を結附け、五色の糸を垂れたもの。五月五日これを室内に掛け、又は身に添へて邪氣・惡疫を除き、延命の呪とする。續命縷・長命縷といふ。○相貫左右二《アヘヌクマデニ》――交へ貫く頃まではの意。郭公の聲を藥玉に交へて、糸に貫くのである。卷十七、和我勢故婆多麻爾母我毛奈保等登伎須詐惠爾安倍奴伎手爾麻伎底由加牟《ワガセコハタマニモガモナホトトギスコヱニアヘヌキテニマキテユカム》(四〇〇七)・卷十九、霍公鳥喧始音乎橘珠爾安倍貫《ホトトギスナクハツコヱヲタチバナノタマニアヘヌキ》(四一八九)など類似した例が多い。
〔評〕 四月に早く喧く郭公を惜しんだのであるが、郭公の聲を藥玉と一緒に交へ貫くといふのが、この作の構想の中心となつてゐる。もとより不可能のことであるけれでも、かうした空想的な點が面白いのである。時代が古いから、この種の詩想の前驅をなした作といつてよからう。
(552)志貴皇子御歌一首
1466 神名火の 磐瀬の杜の ほととぎす ならしの岳に いつか來鳴かむ
神名火乃《カムナビノ》 磐瀬乃杜之《イハセノモリノ》 霍公鳥《ホトトギス》 毛無乃岳爾《ナラシノヲカニ》 何時來將鳴《イツカキナカム》
神名火ニアル磐瀬ノ森ニヰル郭公ヨ、コノ〔二字傍線〕奈良思ノ岡ニハ、イツ來テ鳴クノダラウ。早ク來レバヨイニ〔八字傍線〕。
○神名火乃磐瀬乃杜之《カムナビノイハセノモリノ》――前に、神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥《カムナビノイハセノモリノヨブコドリ》(一四一九)とあつた。龍田町の南方、車瀬にある。○毛無乃岳爾《ナラシノヲカニ》――毛無をナラシと訓むのは、代匠記に「左傳曰、食3土之|毛《クサ》誰非2君臣1、【毛草也】史記鄭世家云、錫《タマフ》2不毛之地1、【何休云、※[土+堯]※[土+角]不生五穀曰不毛也】」の例を引いて毛を草とし、毛無は、人がふみならして草のなき心であるといつてゐる、この毛無乃岳《ナラシノヲカ》は下に、古郷之奈良思之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトトギス》(一五〇六)とあるのと同所か。龍田考には「奈良思岡とよめるは、岩瀬杜のあたりより東南をかけて、弘く南さがりの岡なるを、古くより悉畑にすきかへして、いと弘き畑あり。此あたりを古へよりひろくならしの岡といへりしなるべし」といつてゐる。これは大日本地名辭書に、「奈良志岡。龍田村の南なる小吉田車瀬目安の邊を曰ふ。神南山と龍田川を隔てて其東方なり。磐瀕森は其北に在り」とあるのに一致するやうである。然るに辰己利文氏は大和萬葉地理研究に於て、生駒郡三郷村立野字|坂上《サカネ》に、俗にオヤシキと稱せられる台地があつて、そこが大伴坂上郎女の住んでゐた坂上里らしく、又この坂上から信貴山朝護孫子寺に至る山道のほとりに、俗にケナシと稱する台地があるが、そこが毛無之岳であり、奈良思之岡であらうといふ意味を委しく述べてゐられる。生駒郡三郷村史にも「毛無丘は坂上にあり」とあるといふことである。なほ攻究すべき問題であるが、奈良志は平石《ナラシ》とも記して、天武紀に、「初將軍吹負向2乃樂1至2稗田1之日、有v人曰、自2河内1軍多至、則遣2坂本臣財1……率2三百軍士1距2於龍田1、……是日坂本臣財等次2于平石野1」とあるところであるから、龍田方面なることは明らかである。
〔評〕 素純な平明な作である。志貴皇子の作にはかうした風趣のものが多い。
(553)弓削皇子御歌一首
弓削皇子は天武天皇の皇子。一一一參照。
1467 ほととぎす 無かる國にも 行きてしか その鳴く聲を 聞けば苦しも
霍公鳥《ホトトギス》 無流國爾毛《ナカルクニニモ》 去而師香《ユキテシカ》 其鳴音乎《ソノナクコヱヲ》 聞者辛苦母《キケバクルシモ》
郭公ノ居ナイ國ニ行キタイモノダナア。私ハ〔二字傍線〕アノ郭公ノ鳴ク聲ヲ聞クト、何ダカ悲シクナツテ〔九字傍線〕胸ガ苦シイワイ。
○無流國爾毛《ナカルクニニモ》――無くある國にも。無い國にもといふに同じ。
〔評〕 郭公の聲はめづらしく面白いものとのみよまれてゐるのに、これはその聲によつて憂を増すのを苦しんだので、何か御心に悲しみ給ふことがあらせられたのであらう。悲痛な叫びである。代匠記に「宋人の詩云、客情唯有2夜難1v過、宿處先尋無2杜鵑1。此意相似たり」とある。
小治田《ヲハリタノ》廣瀬王霍公鳥歌一首
廣瀬王は天武天皇紀に「十年三月丙戍詔2云々廣瀬王云々1令v記2定帝紀及上古諸事1十三年二月庚辰、遣2淨廣肆廣瀬王云云等於畿内1令v看2占應v都之地1、十四年九月甲寅遣云々廣瀬王於京及畿内1各令2v校人夫之兵1。」持統天皇紀に、「六年二月丁酉朔丁未、詔2諸官1曰當以2三月三日1將v幸2伊勢1云々、三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王云々等1爲2留守官1。續紀「文武天皇大寶二年十二月乙卯、以2從五位下廣瀬王1爲2造大殿垣司1、三年十月丁卯任2太上天皇御葬司1云々、廣瀬王云々爲2御装副1、元明天皇和銅元年三月丙午、從四位上廣瀬王爲2大藏卿1元正天皇養老二年正月庚子、正四位下、六年正月庚午、散位正四位下廣湍王卒」と見えてゐる。小治田は推古天皇の小墾田宮のあつたところで、即ち今の高市郡高市村あたりである。ここにこの王が住み給うたのであらう。
1468 ほととぎす 聲聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 聲の乏しき
(554)霍公鳥《ホトトギス》 音聞小野乃《コエキクヲヌノ》 秋風《アキカゼニ》 芽開禮也《ハギサキヌレヤ》 聲之乏寸《コヱノトモシキ》
郭公ノ鳴く〔二字傍線〕聲ガイツモ〔三字傍線〕聞エル野ニ來テ見ルト、メツキリ、鳴カナクナツタガ、モハヤ〔野ニ〜傍線〕秋風ガ吹イテ、萩ノ花ガ咲イタノデ、コンナニ郭公〔六字傍線〕ノ聲ガ少イノデアラウ。
○芽開禮也《ハギサキスレヤ》――萩咲きぬればやの意。○聲之乏寸《コヱノトモシキ》――このトモシは少いこと。羨ましではない。
〔評〕 かなり際味な歌である。夏の郭公の歌に秋風や萩を持つて來たのが異樣の感がある。これは早咲の萩で夏ながら早くも咲いてゐるのを見て、郭公の聲がしないのも道理だと、自からうなづいた歌である。代匠記に「秋風吹きて萩も咲かぬに、など聲のすくなきぞとよまれたるなり」とあるがさうではない。ともかくその野に出てよんだのである。材料の取合が珍らしい爲に、誤解され易いのは遺憾である。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
沙彌霍公鳥謌一首
沙彌とのみあるのは如何なる人か、分らない。集中、三方沙彌沙彌女王・沙彌滿誓の名が見えるが、歌に家有妹《イヘナルイモ》とあるから、女王でも滿誓でもあるまい。代匠記には沙彌の上、三方の二字が脱ちたものとしてゐる。三方沙彌は卷二の一二三參照。
1469 あしびきの 山ほととぎす 汝が鳴けば 家なる妹し 常に思ほゆ
足引之《アシビキノ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 汝鳴者《ナガナケバ》 家有妹《イヘナルイモシ》 常所思《ツネニオモホユ》
(足引之)山ノ郭公ヨ、オマヘガ鳴クト、和ハ〔二字傍線〕家ニ置イテ來タ妻ガイツデモ思ヒ出サレル。
〔評〕 旅中などの作であらう。極めて平易で、はつきりしてゐる。調子だけは人麿の、淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバココロモシヌニイニシヘオモホユ》(二六六)に似てゐるが、歌品は遠く及ばない。
(555)刀理宣令歌一首
卷三の三一三參照。
1470 もののふの 石瀬の杜の ほととぎす 今も鳴かぬか 山のと陰に
物部乃《モノノフノ》 石瀬之杜乃《イハセノモリノ》 霍公鳥《ホトトギス》 今毛鳴奴《イマモナカヌカ》 山之常影爾《ヤマノトカゲニ》
(物部乃)石瀬ノ森ニ住ンデヰル郭公ヨ。コノ〔二字傍線〕山ノ蔭デ今鳴イテクレナイカヨ。私ハ今オマヘノ聲ヲ聞キタイノダカラ〔私ハ〜傍線〕。
○物部乃《モノノフノ》――枕詞。石瀬《イハセ》につづくについて、代匠記には「もののふの屯聚《イハム》といふ心にいひかけたるなり。いはむは陣を張居る心なり。(中略)又いはむといふは陣を張心のみにもあらず、みちあふるる心なり」とある。この説が廣く行はれてゐるが、少し物遠い説である。仙覺抄に、武士は弓を射、馬を馳せるから射馳とつづくと言つてゐるのも少し穩やかでない。恐らく物部の八十とつづくのと同意で、武士の五十《イ》とつづくのであらう。○今毛鳴奴《イマモナカヌカ》――奴の下、香が落ちたのだらうと契沖は言つてゐる。今も鳴けよの意。○山之常影爾《ヤマノトカゲニ》――常影《トカゲ》は諸説がある。契沖は常に日のめもみぬ影とし、宣長は、たを陰即ち山のたわんだ所の蔭と解してゐる。契沖説は面白くないやうである。なほ代匠記の精撰本には「ともじは發語の詞などのやうにて、山陰と意得べし」とあるが、むしろこれに從ふべきか。
〔評〕 山のと蔭とあるのは何所か、作者の地位が取らかでないのは遺憾である。さして勝れた點もない歌だ。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に載つてゐる。
山部赤人歌一首
1471 戀しけば 形見にせむと 吾がやどに 植ゑし藤浪 いま咲きにけり
戀之家婆《コヒシケバ》 形見爾將爲跡《カタミニセムト》 吾屋戸爾《ワガヤドニ》 殖之藤浪《ウヱシフヂナミ》 今開爾家里《イマサキニケリ》
(556)女ガ〔二字傍線〕戀シイ時ニハ、女ノ〔二字傍線〕形見ニシヨウト思ツテ、吾ガ家ニ植ヱテ置イタ、藤ノ花ガ今咲イタナア。ホントニ女ノ形見トナツテ、是ヲ見レバ女ニ逢フヤウナ心地ガスル〔ホン〜傍線〕。
○戀之家婆《コヒシケバ》――戀しいならば。戀しい時には。女が戀しくなつた時にはの意。契沖が、「前後皆ほととぎすの哥なれば、此こひしければといふは、ほととぎすをいへり」と言つたのは誤つてゐる。○殖之藤波《ウヱシフヂナミ》――藤浪は藤の花。花房が並んで垂れてゐるからいふのであらう。
〔評〕 紫の色なつかしい、姿のやさしい藤浪を植ゑて、戀しい女を偲ぶよすがとした赤人は、まことに優美な感情の持主である。この歌も亦その藤の花のやうなやさしい姿をなしてゐる。
式部大輔石上|竪魚《カツヲ》朝臣歌一首
石上堅魚朝臣は、續紀「元正天皇養老三年正月壬寅授2從六位下石上朝臣堅魚從五位下1、聖武天皇神龜三年正月庚子從五位上、天平三年正月丙子正五位下、八年正月正五位上」と見えてゐる。
1472 ほととぎす 來鳴きとよもす 卯の花の 共にや來しと 問はましものを
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令響《キナキトヨモス》 宇乃花能《ウノハナノ》 共也來之登《トモニヤコシト》 問麻思物乎《トハマシモノヲ》
郭公ガココヘ來テ頻リニ鳴キ騷イデヰル。郭公ハ〔三字傍線〕卯ノ花ト一緒ニ、死ンダ人ノ魂ト〔七字傍線〕共ニ、ココヘ來タノカト尋ネタイガ、鳥ダカラ尋ネルワケニモユカヌ。郭公ハ冥途ノ鳥ダト云フカラ死人ノ魂ト共ニ來タノデハナイカ〔鳥ダ〜傍線〕。
○宇乃花能《ウノハナノ》――卯の花との意であらう。卯の花は郭公の鳴く頃咲くものであるから、共にとつづけたので、この句は枕詞ではないが、殆どそれに近い用法になつてゐる。○共也來之登《トモニヤコシト》――死人と共に來たかとの意か。この句はあまり明瞭でない。郭公は蜀魂又は不如歸と稱へ、吾が國でも伊勢物語に、しでの田をさと見え、冥途の鳥で死出の山に鳴くやうに考へられてゐる。しでの田長については異説もあるから、遽かにさうとも定め難いが、この場合郭公を聞いて亡くなつた大伴郎女を思ひ出したものとすると、右のやうに釋きたいやうに思ふ。(557)なほ攻究を要する問題である。なほ宣長は來を成の誤としてムタヤナリシと訓んでゐる。
〔評〕 鳴き過ぎる郭公を聞いて、それに言問ふことが出來たならばと嘆じたのである、意味が不明瞭な點があるのは殘念だ。
右、神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇(ヒテ)v病(ニ)長逝(セリ)焉、于時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚(ヲ)遣(シ)2太宰府(ニ)1弔(ヒ)v喪(ヲ)并(ニ)贈(ル)v物(ヲ)也、其事既(ニ)畢(リ)驛便及(ビ)府(ノ)諸卿大夫等、共(ニ)登(リ)2記夷城(ニ)1而望遊之日、乃作(ル)2此歌(ヲ)1
舊本、贈物色とある色は也の誤。神田本によつて改む。記夷城は卷四に從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》(五七六)とある城山と同じで、筑前筑紫郡と肥前基肆郡との界にある。基肆の郡名(今、三養基郡)もこれに起つてゐるのであらう。天智天皇の四年にここに城を築かれたことが紀に見え、又續紀にも「文武天皇二年五月甲申、今2太宰府1、修2治大野・基肆・鞠智三城1」とある。記夷と記すのは、紀の國を紀伊とするに同じ。
太宰帥大伴卿和(フル)歌一首
1473 橘の 花散る里の ほととぎす 片戀しつつ 鳴く日しぞ多き
橘之《タチバナノ》 花散里乃《ハナチルサトノ》 霍公鳥《ホトトギス》 片戀爲乍《カタコヒシツツ》 鳴日四曾多寸《ナクヒシゾオホキ》
橘ノ花ガ散ル里ノ郭公ハ、相手ノ花ガナクナツテシマツタノデ〔相手〜傍線〕、片戀バカリヲシテ鳴ク日ガ多ウゴザイマスヨ。私ハ妻ヲナクシタノデ、片思ヒデ泣イテバカリ居リマス〔私ハ〜傍線〕。
○橘之花散里乃《タチバナノハナチルサトノ》――橘の花の散る里に、妻を失つた自分を寓してゐる。卷十にも橘花落里爾通名者《タチバナノハナチルサトニカヨヒナバ》(一九七八)とある。源氏物語の花數里も、これらの歌を前驅としてゐる。
(558)〔評〕 石上堅魚に答へて、妻を失つた悲愁を述べてゐる。悲しみの歌ながら、例によつて清楚な感じがする。
大伴坂上郎女思(フ)2筑紫大城山(ヲ)1歌一首
卷六、天平二年のところに、冬十一月大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡名兒山之時作歌(九六三)とあるから、歸京後その翌年夏の歌であらう。大城山は大野山に同じく、太宰府背後の山である。七九九參照。
1474 今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 我無けれども
今毛可聞《イマモカモ》 大城乃山爾《オホキノヤマニ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴令響良武《ナキトヨムラム》 吾無禮杼毛《ワレナケレドモ》
私ガ太宰府ニキタ頃ハ、アノ大城ノ山ノ郭公ヲヨク聞イタガ、今都ニ歸ツテ〔私ガ〜傍線〕、私ハアチラニハ居ラナイケレドモ、ヤハリ、今頃ハ大城ノ山デ郭公ガ鳴キ騷イデヰルダラウ。アノ聲ガ聞キタイヨ〔九字傍線〕。
○今毛可聞《イマモカモ》――モは兩つながら詠嘆の助詞。用例の多い句である。
〔評〕 大城山は太宰府背後の山で、郎女が滯在中その山の郭公の聲を聞きなれてゐた。今都に歸つてその季節が廻り來てその聲を思ふとき、なつかしさがこみあげて來るままに詠んだのがこの歌である。結句吾無禮杼毛《ワレナケレドモ》が、蛇足のやうで、さうではなく、懷舊の情があらはれてゐる。
大伴坂上郎女霍公鳥歌一首
1475 何しかも ここだく戀ふる ほととぎす 鳴く聲聞けば 戀こそまされ
何哥毛《ナニシカモ》 幾許戀流《ココダクコフル》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴音聞者《ナクコヱキケバ》 戀許曾益禮《コヒコソマサレ》
ドウシテマア私ハ郭公ヲ〔五字傍線〕コンナニヒドク戀ヒ慕フノデセウ。郭公ノ鳴ク聲ヲ聞クト、人戀シサガ増スバカリデスノニ。我ナガラ不思議デス〔九字傍線〕。
(559)○幾許戀《ココダクコフル》――幾彗はココダクとよむ。ココバクとよむのもわるくはない。卷十七、許己太久母之氣伎孤悲可毛《ココダクモシゲキコヒカモ》(四〇一九)とも、許己婆久毛見乃佐夜氣吉加《ココバクモミノサヤケキカ》(三九九一)ともある。甚だしく澤山になどの意。この句の戀は郭公を戀ふるので、末句の戀は人を戀ふるのである。
〔評〕 初二句で切つて、白からあやしみ自から疑つてゐるのが、力強い表現になつてゐる。全體に調子が緊張してゐる。古今集の「郭公鳴く聲きけばあぢきなく主定まらぬ戀せらるはた」に、内容相通ずるところがある。
小治田朝臣廣耳歌一首
續紀に廣耳の名が見えない。小治太廣千といふ人が見えるが或はその誤か。廣千は天平五年三月外從五位下、後、尾張守・讃岐守などになつた人である。
1476 獨居て 物思ふよひに ほととぎす こゆ鳴き渡る 心しあるらし
獨居而《ヒトリヰテ》 物念夕爾《モノモフヨヒニ》 霍公鳥《ホトトギス》 從此間鳴渡《コユナキワタル》 心四有良思《ココロシアルラシ》
私ガ〔二字傍線〕唯一人デ居テ、人ヲ戀シク〔五字傍線〕思ツテヰル晩方ニ、郭公ガ此處ヲ鳴イテ通ルヨ。多分アレハ〔五字傍線〕心ガアツテ、アンナニスルノデアラウ。私ノ心ニ同情シテ鳴クノダラウ〔私ノ〜傍線〕。
○從此間鳴渡《コユナキワタル》――ユはカラの意なるを常とするがさうでなく、ニ又はヲと解すべき場合も少くない。ここはその一例である。
〔評〕 郭公の鳴くのを、自己の胸中に同情して慰め顔に鳴くやうに聞いたのである。これも戀する人の共通心理であらう。
大伴家持霍公鳥歌一首
1477 卯の花も 未だ咲かねば ほととぎす 佐保の山べに 來鳴きとよもす
宇能花毛《ウノハナモ》 未開者《イマダサカネバ》 霍公鳥《ホトトギス》 佐保乃山邊《サホノヤマベニ》 來鳴令響《キナキトヨモス》
(560)マダ卯ノ花モ咲カナイノニ、郭公ハ佐保山ノアタリヘ來テ鳴キ騷グヨ。隨分早イモノダ。珍ラシイ初音ダ〔隨分〜傍線〕。
○未開者《イマダサカネバ》――未だ咲かざるにの意。このネバの例は集中に多い。○佐保乃山邊《サホノヤマベニ》――舊訓ヤマベヲとあるが、古義に從つてヤマベニとした。類聚古集・西本願寺本などの古訓もヤマベニとなつてゐる。
〔評〕 佐保の里に住んでゐた家持が、その里近い佐保山に來鳴く郭公が、卯の花さへまだ咲かぬ初夏に、早くも鳴きしきるのを聞いて詠んだのである。珍らしがり愛する感じがほのかながらあらはれてゐる。
大伴家持橘歌一首
1478 吾がやどの 花橘の いつしかも 珠にぬくべく その實なりなむ
吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘乃《ハナタチバナノ》 何時毛《イツシカモ》 珠貫倍久《タマニヌクベク》 其實成奈武《ソノミナリナム》
私ノ家ノ庭ニ今咲イテヰル花橘ハ、何時ニナツタラバ、玉トシテ糸ニ通スホドニ、アノ實ガナルデアラウカ。アア待遠イナア〔七字傍線〕。
○珠貫倍久《タマニヌクベク》――珠として糸に貫くべきほどにの意。橘の花が散つて間なき實を、糸に貫き列ねて樂玉とするのである。○其實成奈武《ソノミナリナム》――代匠記精撰本にソノミナラナムとあるが、その實がなるであらうかといふのだから、舊訓の如くナリナムがよい。
〔評〕 内容が可愛らしいといふまでで、よい歌ではない。
大伴家持|晩蝉《ヒグラシ》歌一首
晩蝉は茅蜩。和名抄に、「爾雅註云、茅蜩一名〓子列反、和名比久良之小青蝉也」とある。今のカナカナ蝉。古今集から、蝉は夏、茅蜩は秋の部に入れてあるが、この集ではその區別がない。
(561)1479 こもりのみ 居ればいぶせみ なぐさむと 出で立ち聞けば 來鳴くひぐらし
隱耳《コモリノミ》 居者欝悒《ヲレバイブセミ》 奈具左武登《ナグサムト》 出立聞者《イデタチキケバ》 來鳴日晩《キナクヒグラシ》
家ニバカリ〔五字傍線〕引キ籠ツテヰテハ氣ガ欝陶シクテ面白クナ〔六字傍線〕イノデ、氣ガ晴レルカト思ツテ、外ニ出テ聞クト、蜩ガ來テ鳴イテヰル。ヤハリ淋シイ〔六字傍線〕。
○奈具左武登《ナグサムト》――慰むと。心を慰める爲にと解する説が多いが、自動詞と見るべきであらう。
〔評〕 あはれな、しんみりとした感傷的な歌である。この人の詩人らしい情緒があらはれてゐる。下に、雨隱情欝悒出見者春日山者色付二家利《アマゴモリココロイブセミイデテミレバカスガノヤマハイロヅキニケリ》(一五六八)と詞は似てゐるが、氣分は少し異なつてゐる。この歌、袖中抄にある。
大伴|書持《フミモチ》歌二首
書特は家持の弟。四六三參照。卷十七によれば天平十八年秋九月初旬に死んだやうである。
1480 吾がやどに 月押し照れり ほととぎす 心あらばこよひ 來鳴きとよもせ
我屋戸爾《ワガヤドニ》 月押照有《ツキオシテレリ》 霍公鳥《ホトトギス》 心有今夜《ココロアラバコヨヒ》 來鳴令響《キナキトヨモセ》
今夜ハ〔三字傍線〕私ノ家ニハ月ガ美シク〔三字傍線〕一タイニ照ツテヰルヨ。郭公ヨ。オマヘニ〔四字傍線〕心ガアルナラバ、コノ景色ノヨイ〔七字傍線〕今夜|此處ヘ〔三字傍線〕來テ聲高ク鳴キナサイヨ。
○月押照有《ツキオシテレリ》――押照はおしなべて照る。○心有今夜《ココロアラバコヨヒ》――舊訓ココロアルコヨヒとあるが、考にココロアラバコヨヒとよんだのがよい。その方が意味も自然で、且おもしろく、次の歌の趣にも一致するやうである。
〔評〕 月明に對して郭公を思ふのである。恰も心合つた友も來たり訪うてゐたらしい。すがすがしい感じの歌。
1481 吾がやどの 花橘に ほととぎす 今こそ鳴かめ 友に逢へる時
我屋前乃《ワガヤドノ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 霍公鳥《ホトトギス》 今社鳴米《イマコソナカメ》 友爾相流時《トモニアヘルトキ》
今丁度友達モ來テヰル時ダカラ、吾ガ家ノ庭ノ〔二字傍線〕花橘ニ郭公ヨ。今コソ鳴イテクレヨ。友ヘノ御馳走ニモナルカ(562)ラ、是非鳴イテクレ〔友ヘ〜傍線〕。
○我屋前乃《ワガヤドノ》――屋前を攷證にニハとよんでゐる。前の歌に屋戸とあるのと區別して書いたやうでもあるが、恐らくさうではあるまい。この他ヤドには室戸・屋所・屋外・家門などの用字例があるが、その間に別を立て難い。
〔評〕 平凡ではあるが、友を待ち得た喜びは見えてゐる。
大伴|清繩《キヨナハ》歌一首
清繩の傳は明らかでない。卷十九の四二六五に大伴清繼とあるのは、別人であらう。
1482 皆人の 待ちし卯の花 散りぬとも 鳴くほととぎす 我忘れめや
皆人之《ミナビトノ》 待師宇能花《マチシウノハナ》 雖落《チリヌトモ》 奈久霍公鳥《ナクホトトギス》 吾將忘哉《ワレワスレメヤ》
皆ノ人ガ待ツテヰタ卯ノ花ハ散ツテシマツテ、郭公モ鳴カナイヤウニナツテ〔郭公〜傍線〕モ、私ハ面白イ聲デ鳴ク〔六字傍線〕郭公ダケハ忘レヨウカ、決シテ忘レハシナイ。
○皆人之《ミナヒトノ》――古義に人皆之の誤とあるのは妄斷である。○雖落《チリヌトモ》――舊訓チルトイヘドを代匠記にチリヌトモと改めた。併しこれはチリヌレドとも訓み得るので、極めて曖昧である。しばらく代匠記に從ふ。
〔評〕 意味が不明瞭である。卯花と郭公とを連絡せしめたのみで面白いこともない。
庵(ノ)君|諸立《モロタツ》歌一首
この作者の傳は全くわからない。作も集中この一首のみである。
1483 吾がせこが やどのたちばな 花をよみ 鳴くほととぎす 見にぞ吾が來し
吾背子之《ワガセコガ》 屋戸乃橘《ヤドノタチバナ》 花乎吉美《ハナヲヨミ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 見曾吾來之《ミニゾワガコシ》
貴君ノオ宅ノ橘ノ花ガ美シイノデ、キツト郭公ガ來テ鳴クダラウト思ツテ、ソノ〔キツ〜傍線〕鳴ク郭公ヲ見ニ私ハ來マシタ。
(563)○吾背子之《ワガセコガ》――吾が背子とは友を親しんでいふ。
〔評〕 何となく拙いたどたどしい歌である。ことに三四の句がまづい。この人の歌は集中この一首のみである。
大伴坂上郎女歌一首
1484 ほととぎす いたくな鳴きそ 獨居て いのねらえぬに 聞けば苦しも
霍公鳥《ホトトギス》 痛莫鳴《イタクナナキソ》 獨居而《ヒトリヰテ》 寐乃不所宿《イノネラエヌニ》 聞者苦毛《キケバクルシモ》
郭公ヨ。ヒドク鳴クナヨ。私ガ獨デ居ツテ淋シクテ〔四字傍線〕寢ラレナイノニ、オマヘノ鳴ク聲ヲ〔八字傍線〕聞クト苦シイヨ。
○寐乃不所宿《イノネラエヌニ》――集中に多い句である。イは寐ることで、寐《イ》が寐られないのに、即ち眠《ネム》られないのにの意。
〔評〕 この作者は前に何哥毛幾許戀流霍公鳥鳴音聞者戀許曾益禮《ナニシカモココダクコフルホトトギスナクコエキケバコヒコソマサレ》(一四七五)と言つてゐるが、またかうした嘆聲をも發してゐる。兩々相對比して見ると面白い。
大伴家持|唐棣花《ハネズノ》歌一首
唐棣花は波禰受《ハネズ》。庭梅のこと。卷四の翼酢色之《ハネズイロノ》(六五七)參照。
1485 夏まけて 咲きたる唐棣花 久方の 雨うち降らば うつろひなむか
夏儲而《ナツマケテ》 開有波禰受《サキタルハネズ》 久方乃《ヒサカタノ》 雨打零者《アメウチフラバ》 將移香《ウツロヒナムカ》
夏ニ近クナツテ咲イタ庭梅ノ花ガ、(久方乃)雨ガ降ツタナラバ、色ガアセテシマフダラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
○夏儲而《ナツマケテ》――夏に向つて。夏に近づいての意。唐棣花即ち庭梅は春の末に咲くからである。
〔評〕 可憐な庭梅の花が春から夏に亘つて咲いてゐる。もうその盛りも久しい。一雨來たら一たまりもなくやられさうだ。ああ惜しいものだと嘆じたので、歌としてはさして秀でてゐるといふほどではないが、このやさし(564)い小花を詠んだ珍らしい作として、この作者に敬意を表したい。この歌、袖中抄に載せてある。
大伴家持恨(ムル)2霍公鳥|晩《オソク》喧《ナクヲ》1歌二首
1486 吾がやどの 花橘を ほととぎす 來鳴かず土に 散らしめむとか
吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 霍公鳥《ホトトギス》 來不喧地爾《キナカズツチニ》 令落常香《チラシメムトカ》
私ノ家ノ庭ニ吹イタ花橘ヲ、郭公ガマダ來テ鳴カナイウチニ、土ニ散ラシテシマハウト云フノカ。惜シイコトダ。郭公ガ早ク來テ鳴ケバヨイニ〔惜シ〜傍線〕。
○令落常香《チラシメムトカ》――舊訓チラシナムトカとあるが、チラシメムトカと訓むべきである。略解にオトシナムトカとよんだのは特に面白くない。
〔評〕 花橘に郭公は好配遇である。折角咲いた花橘に、郭公が來喧かぬのは、この上ない物足りなさを感ずる。その物足りなさを述べてゐるが、結句の詰問的なのが、力強い表現になつてゐる。
1487 ほととぎす 思はずありき 木のくれの かくなるまでに などか來鳴かぬ
霍公鳥《ホトトギス》 不念有寸《オモハズアリキ》 木晩乃《コノクレノ》 如此成左右爾《カクナルマデニ》 奈何不來喧《ナドカキナカヌ》
木ガ繁ツテコンナニ暗クナルマデニ、郭公ハ何故來テ鳴カナイノダラウ。ソンナコトト私ハ〔八字傍線〕思ハナカツタノニ。ドウシテ今年ハコンナニ郭公ガ遲イノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
○木晩乃《コノクレノ》――木が茂つて暗くなるのを、コノクレといふ。
〔評〕 夏木立小暗くなるまで、郭公の來喧かぬのに、今更驚きの目を見張つたのである。前の歌と同樣、結句に(565)力がある。
大伴家持懽(ブ)2霍公鳥(ヲ)1歌一首
1488 いづくには 鳴きもしにけむ ほととぎす わぎへの里に 今日のみぞ鳴く
何處者《イヅクニハ》 鳴毛思仁家武《ナキモシニケム》 霍公鳥《ホトトギス》 吾家乃里爾《ワギヘノサトニ》 今日耳曾鳴《ケフノミゾナク》
何處カニハ、モウ郭公ハ鳴イタカモシレヌガ、私ノ家ノアル里デハ、今日初メテ鳴イタ。兎モ角モ嬉シイコトダ〔兎モ〜傍線〕。
○何處者《イヅクニハ》――舊訓イツコカハとあるのを、略解にイヅクニハと改めたのがよい。何處か他所にはの意。
〔評〕 待つてゐた郭公の初音を聞き得て喜んだ歌である。その初音が果して眞の初音であるかはわからないが、ともかく自分としては今年の初音だと喜んでゐる。誰しも考へさうなことで、しかも巧に言ひ得ないことであらう。
大伴家持惜(シム)2橘花(ヲ)1歌一首
1489 吾がやどの 花橘は 散り過ぎて 珠にぬくべく 實になりにけり
吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 落過而《チリスギテ》 珠爾可貫《タマニヌクベク》 實爾成二家利《ミニナリニケリ》
私ノ家ノ庭ニ咲イテヰタ花橘ハモウ散ツテシマツテ、藥玉ニ通シテコシラヘルホドニ實ニナツタワイ。花ガ散ツタノハ惜シイコトダ〔花カガ〜傍線〕。
〔評〕この歌は前の同じ作者の、吾屋前之花橘乃何時毛珠貫倍久其實成奈武《ワガヤドノハナタチバナノイツシカモタマニヌクベクソノミナリナム》(一四七八)に對したもので、さう見ると、惜2橘花1といふ題はをかしいくらゐに思はれる。しかしそれはそれとして、ここでは花を惜しむ意を含め(566)て見るべきであらう。
大伴家持霍公鳥歌一首
1490 ほととぎす 待てど來鳴かず あやめ草 玉に貫く日を 末だ遠みか
霍公鳥《ホトトギス》 雖待不來喧《マテドキナカズ》 蒲草《アヤメグサ》 玉爾貫日乎《タマニヌクヒヲ》 未遠美香《イマダトホミカ》
郭公ガモウ鳴クカ鳴クカト〔モウ〜傍線〕待ツテ居ルケレドモ、マダ來テ鳴カナイ、コレハ〔三字傍点〕菖蒲ヲ藥玉ニ通シテコシラヘル、五月五日ノ〔五字傍線〕日ガ遠イカラダラウカ。
○蒲草《アヤメグサ》――蒲の上に菖の字が脱ちたのだらうと契沖は言つてゐる。他の用例は、すべてさうなつて居る(卷十九に昌を用ゐたところが一つある)から、多分契沖説の通りであらう。
〔評〕 初夏の頃から、郭公を待つ心である。前の霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトトギスイタクナナキソナガコヱヲサツキノタマニアヘヌクマデニ》(一四六五)と反對の場合になつてゐる。
大伴家持雨(ノ)日聞(ケル)2霍公鳥(ノ)喧(クヲ)1歌一首
1491 卯の花の 過ぎば惜しみか ほととぎす 雨間もおかず こゆ鳴き渡る
宇乃花能《ウノハナノ》 過者惜香《スギバヲシミカ》 霍公鳥《ホトトギス》 雨間毛不置《アママモオカズ》 從此間喧渡《コユナキワタル》
卯ノ花ガ散ツテシマツテハ惜シイカラカ、アンナニ〔四字傍線〕郭公ハ雨ノ降ル間ニモ休マズニ、此處ニ來テ鳴イテ通ルヨ。
○過者惜香《スギバヲシミカ》――古義にこの句を説明して、「散過なば惜しからむとてかの意なり。惜しからむとといふ意の所を惜美《ヲシミ》といふは、一の格なり」と言つて、未然形の下をミで受けた多くの用例を引いてゐる。これは尤もの説であるが、ミと受けるのは決定的で、推量の餘地がないからと考へたいやうに思ふ。○雨間毛不置《アママモオカズ》――雨間には雨(567)の降つてゐる間と雨の晴間との二樣の用例があるから、その場合を考へて解釋しなければならない。ここは前者で、雨の降つてゐる間もかまはずにの意。卷十二の十月雨間毛不置零爾西者《カムナヅキアママモオカズフリニセバ》(三二一四)、卷十の雨間開而國見毛將爲乎《アママアケテクニミモセムヲ》(一九七一)は後者の例である。○從此喧渡《コユナキワタル》――コユは此處を。
〔評〕 雨を厭はず頻りに喧く郭公を聞いて、卯の花の散るのを惜しんで鳴くやうに想像したので、郭公に心があるやうに美化してはゐるが、格別面白いことはない。
橘歌一首 遊行女婦
遊行女婦は遊女。和名抄に「楊氏漢語抄云、遊行女兒、【和名宇加禮女又云阿曾比】」とある。
1492 君が家の 花橘は なりにけり 花なる時に 逢はましものを
君家乃《キミガイヘノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 成爾家利《ナリニケリ》 花乃有時爾《ハナナルトキニ》 相益物乎《アハマシモノヲ》
アナタノオ宅ノ花橘ハ、花ガ濟ンデ〔五字傍線〕實ニナツテシマヒマシタヨ。花ノウチニオ尋ネシテ、花ノ盛ニ〔オ尋〜傍線〕逢フ筈デシタノニ。惜シイコトヲシマシタ〔十字傍線〕。
○成爾家利《ナリニケリ》――實になりにけりの意。成《ナリ》は實のること。○花乃有時爾《ハナナルトキニ》――舊訓ハナノサカリニとあるのは、意を以てよんだのであらうが、面白くない。類聚古集、神田本に乃の字が無いのに從ふべきである。
〔評〕 散文的で詞にうるほひがない。古今集の「かはづなく井手の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」はこれと形式を同じくしてゐる。或はこれに傚つたものかも知れないが、歌品は遙かに高い。
大伴村上橘歌一首
大伴村上は四三六參照。
1493 吾がやどの 花橘を ほととぎす 來鳴きとよめて 本に散らしつ
(568)吾屋前乃《ワガヤドノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令動而《キナキトヨメテ》 本爾令散都《モトニチラシツ》
私ノ家ノ庭ニ咲イテヰル〔六字傍線〕花橘ヲ、郭公ガ來テ鳴キ騒イデ、木ノ下ニ散シテシマツタ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
○本爾令散都《モトニチラシツ》――本は木の下である。古義には本は地《ツチ》の誤であらうといつて.多くの例を引いてゐるが從ひ難い。
〔評〕 これも前の歌と同様.何等餘韻のない作である。
大伴家持霍公鳥歌二首
1494 夏山の 木ぬれのしげに ほととぎす 鳴きとよむなる 聲のはるけさ
夏山之《ナツヤマノ》 木末乃繁爾《コヌレノシゲニ》 霍公烏《ホトトギス》 鳴響奈流《ナキトヨムナル》 聲之遙佐《コヱノハルケサ》
夏ノ山ノ梢ノ繁ミニ郭公ガ、鳴キ騒イデヰル聲ガ遠クニ聞エルヨ。アアヨイ聲ダ〔六字傍線〕。
○木末乃繁爾《コヌレノシゲニ》――舊訓コスヱノシノニとあつたのを代匠記コヌレノシジニとし、略解・古義など皆これによる。卷三に活道山木立之繁爾《イクヂヤマコタチノシゲニ》(四七八)とあるところに述べたやうに、副詞の時はシジニ、名詞の時はシゲニと訓むことにする。
〔評〕 これは前の歌どもよりは、少しく感情の籠つた作である。第四句が少し滑らかでない。
1495 足引の 木の間立ちくく ほととぎす かく聞きそめて 後戀ひむかも
足引乃《アシビキノ》 許乃間立八十一《コノマタチクク》 霍公鳥《ホトトギス》 如此開始而《カクキキソメテ》 後將戀可聞《ノチコヒムカモ》
山ノ木ノ間ヲ立チクグツテ鳴ク郭公ノ聲〔二字傍線〕ヲ、カヤウニ聞キ初メテハ、面白サガ忘レラレナイデ〔面白〜傍線〕、後ニナツテカラ戀シク思フダラウカヨ。ホントニ佳イ聲ダ〔八字傍線〕。
○足引乃《アシビキノ》――山の枕詞であるのを、直ちに山の意に用ゐてゐる。卷三にも足日木能石根許其思美《アシビキノイハネコゴシミ》(四一四)とあつた。
(569)○許乃間立八十一《コノマタチクク》――木の間を立ち潜る。八十一をククとよむのは算術の九九から出た戯書である。卷四の情八十一所念可聞《ココロククオモホユルカモ》(七八九)に同じ。ククは潜《クク》るの意であるが、もと漏《ク》くといふ加行四段の動詞で、ここはその連體形である。卷十七に波流乃野能之氣美登妣久久※[(貝+貝)/鳥]音太爾伎加受《ハルノヌノシゲミトビククウグヒスノコヱダニキカズ》(三九六九)とある。
〔評〕 足引乃許乃間立八十一《アシビキノコノマタチクク》といふ句は、多少の新味もあつて、作者の得意なものであつたであらうか。後年越中で作つた歌に、安之比奇能山邊爾乎禮婆保登等藝須木際多知久吉奈可奴日波奈之《アシビキノヤマベニヲレバホトトギスコノマタチクキナカヌヒハナシ》(三九一一)とある。この歌、袖中抄に載つてゐる。
大伴家持石竹(ノ)花(ノ)歌一首
1496 吾がやどの なでしこの花 盛なり 手折りて一目 見せむ兒もがも
吾屋前之《ワガヤドノ》 瞿麥乃花《ナデシコノハナ》 盛有《サカリナリ》 手折而一目《タヲリテヒトメ》 令見兒毛我母《ミセムコモガモ》
私ノ家ノ庭ニハ石竹ガ今ハ丁度〔四字傍線〕盛ダ。コノ花ヲ〔四字傍線〕折ツテ、一目見セタイト思フアノ〔七字傍線〕女ガ、ココニ居レバヨイガ。獨デ見ルノハ惜シイモノダ〔獨デ〜傍線〕。
○瞿麥乃花《ナデシコノハナ》――石竹《セキチク》は外來のもので、ナデシコは野生の日本種である。この頃まだセキチクが渡來してゐなかつたのであらう。題に石竹とあるのは瞿麥との區別を立てずに用ゐたのである。○令見兒毛我母《ミセムコモガモ》――見すべき女も此處にあれよといふのだ。かういふ用例は他にも見える。
〔評〕 卷三に家持が天平十一年夏六月妾を亡つて、秋去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞《アキサラバミツツシヌベトイモガウヱシヤドノナデシコサキニケルカモ》(四六四)とよんだ歌が出てゐる。かれとこれとを比較すると相似たところがあり、時代も略同樣らしく思はれる。これには深い悲傷の感は見えないが、或は妾を亡つた頃の作か。この歌、和歌童蒙抄にある。
惜(シム)v不(ルヲ)v登(ラ)2筑波山(ニ)1歌一首
略解・古義に惜は恨の誤かとあるが、もとのままでよいのであらう。
1497 筑波嶺に 吾が行けりせば ほととぎす 山彦とよめ 鳴かましやそれ
(570)筑波根爾《ツクバネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》 霍公鳥《ホトトギス》 山妣兒令響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》
アノ人ハ筑波山ヘ上ツテ郭公ガ鳴クノヲ聞イタトイフガ〔アノ〜傍線〕、筑波山ニ私ガ行ツタナラバ、郭公ガ聲ヲ山ニ反響サセテソレガ、盛ニ鳴クデアラウカ。トテモ私ノヤウナ運ノ惡イ者ガ行ケバ、ヤハり郭公ハ鳴カナイダラウ〔トテ〜傍線〕。
○吾行利世波《ワガユケリセバ》――吾が行けりに過去の助動詞キの未然形セが附いた形。私が行つたならば。○山妣兒令響《ヤマビコトヨメ》――山妣兒《ヤマビコ》は山彦。木魂《コダマ》と同じ。反響。元來、山中に住む男の意で、反響はそれが答へるものと考へたのである。○鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》――鳴かうや、否鳴くまじ、それがの意。其《ソレ》は霍公鳥をさしてゐる。
〔評〕 題と歌とが、しつくり合はぬやうにも思はれる。結句が少し變つた調子である。左註によれば高橋連蟲麻呂の歌らしい。卷九に蟲麻呂が登2筑波嶺1爲2〓歌會1日作歌(一七五九)があるから、ここに不v登2筑波山1とあるのと合はぬやうであるが、それは場合が別なのであらうから、拘泥してはならぬ。
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出
歌の下、集の字が脱ちたものと代匠記に言つてゐる。
夏相聞
大伴坂上郎女歌一首
1498 いとまなみ 來ざりし君に ほととぎす 吾がかく戀ふと 行きて告げこそ
無暇《イトマナミ》 不來之君爾《コザリシキミニ》 霍公鳥《ホトトギス》 吾如此戀常《ワガカクコフト》 往而告社《ユキテツゲコソ》
暇ガ無イノデ、オイデナサラナイアナタニ、郭公ヨ、私ガアノオ方ヲ〔五字傍線〕コレホドモ戀ヒ慕ツテヰルト、飛ンデ〔三字傍線〕行(571)ツテ知ラセテクレヨ。
○無暇《イトマナミ》――暇がないので。略解に「いとまなしとてとはぬ君に」とあるのは當らねやうである。暇がないと托言したのではあるまい。〇不來之君爾《コザリシキミニ》――この句、新千載集に出て、「來まさぬ君に」となつてゐるので、之の字を坐の誤だらうと略解に述べてゐる。古義にも坐か益かの誤だらうとあるが、不要の訂正である。○往而告社《ユキテツゲコソ》――社《コソ》は希望をあらはす。係詞ではない。
〔評〕 來らぬ戀人を恨んで、折から鳴く郭公に托して、その思ひを傳へようといふのである。戀する人の常ではあるが、あはれな言葉である。次の歌に比べて見ると、これも人を待ちあかした朝の歌らしい。
大伴|四繩《ヨツナ》宴吟歌一首
卷三の三二九・卷四の五七一の防人佑大伴四綱と同人であらう。卷四の六二九にも大伴四綱宴席歌一首とあつて、ここと題が似てゐる。この人は宿禰と記してないから、家持らの一族ではない。
1499 事しげみ 君は來まさず ほととぎす なれだに來鳴け 朝戸開かむ
事繁《コトシゲミ》 君者不來益《キミハキマサズ》 霍公鳥《ホトトギス》 汝太爾來鳴《ナレダニキナケ》 朝戸將開《アサドヒラカム》
忙シイノデアノオ方ハオイデ下サラナイ。待チボウケヲクヒマシタ。セメテ〔待チ〜傍線〕郭公ヨ、オマヘダケデモ來テ鳴キナサイ。サウシタラ私ハアナタノツモリデ〔サウ〜傍線〕朝戸ヲ開ケヨウ。
○事繋《コトシゲミ》――言繁《コトシゲ》みとも解き得るが、前の無暇《イトマナミ》と同樣であらう。○朝戸將開《アサトヒラカム》――朝戸は朝開けた戸。朝、戸を開けることを朝戸開くといふ。但しここは人を待つて夜が明けた頃で、必ずしも明るくなつてゐる朝ではない。曉の頃であらう。
〔評〕 女の氣分がよくあらはれてゐる。宴吟歌とあるから、宴會の席で吟じたもので、四繩の自作ではない。
(572)大伴坂上郎女歌一首
1500 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ戀は 苦しきものを
夏野乃《ナツノヌノ》 繁見丹開有《シゲミニサケル》 姫由理乃《ヒメユリノ》 不所知戀者《シラエヌコヒハ》 苦物乎《クルシキモノヲ》
夏ノ野ノ草ノ繁リ生エテヰル中ニ咲イテヰル姫百合ハ、人ニ見ツカラナイモノダガ、丁度ソノ〔ハ人〜傍線〕ヤウニ、イクラ思ツテモ思ツテモ相手ニ〔イク〜傍線〕知ラレナイ片戀ハ、苦シイモノデスヨ。
○姫由理乃《ヒメユリノ》――姫百合のやうに、姫百合は、百合の一種で、山野に自生す。高さ二尺ばかり、夏日、莖上に一箇又は數箇の花をつける。花辨は狹くして反卷することはない。花色は赤色、稀に黄色のものもある。この句を序詞と見る説も多いが、譬喩とするのがよいと思ふ。○苦物乎《クルシキモノヲ》――苦しいよの意。苦しいのにの意ではない。
〔評〕 夏の野の、草深い中に隱れて見えない姫百合は、人知れぬ思ひをあらはすに、何といふ適切な、さうして可憐な譬喩であらう。殊にこれが女性によつて用ゐられたものなることを思へば、一層ふさはしい感じがする。
小治田朝臣廣耳歌一首
小治田廣耳は一四七六參照。
1501 ほととぎす 鳴くをの上の 卯の花の うきことあれや 君が來まさぬ
霍公鳥《ホトトギス》 鳴峯乃上能《ナクヲノウヘノ》 宇乃花之《ウノハナノ》 ※[厭のがんだれなし]事有哉《ウキコトアレヤ》 君之不來益《キミガキマサヌ》
(霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之)何カ私ニ對シテ〔七字傍線〕不快ナコトガアツテカ、アノオ方ハ私ノ所ヘ〔四字傍線〕オイデニナラナイ。ドウシタノデアラウ。心配ナコトダ〔ドウ〜傍線〕。
○霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之《ホトトギスナクヲノウヘノウノハナノ》――厭《ウキ》と言はむ爲の序詞で、同音を繰返して下につづいてゐる。序詞の意は、郭(573)公が鳴く峯の上に咲く卯の花の。○※[厭のがんだれなし]事有哉《ウキコトアレヤ》――厭きことがあればにやの意。厭きことは我に對して心憂しと思ふこと。即ち不愉快なことをいふ。一般的にいふ心配ごとの意ではない。※[厭のがんだれなし]は厭と同字。
〔評〕 卷十に※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之厭事有哉君之不來座《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノウキコトアレヤキミガキマサヌ》(一九八八)と全く同型の作。恐らくこれを本として、※[(貝+貝)/鳥]を郭公に改めたものであらう。さうすれば敬意を表するに當らぬ作である。
大伴坂上郎女歌一首
1502 五月の 花橘を 君がため 珠にこそぬけ 散らまく惜しみ
五月之《サツキノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 爲君《キミガタメ》 珠爾貫《タマニコソヌケ》 零卷惜美《チラマクヲシミ》
五月ノ花橘ガ散ルノガ惜シサニ、私ハアナタニアゲヤウト思ツテ、花橘ヲ藥玉ニコシラヘマシタ。
○五月之《サツキノ》――之の字、古義に山の誤としてサツキヤマと訓んでゐるのは臆斷に過ぎる。○珠爾貫《タマニコソヌケ》――コソに當る字はないが、京大本に社があるから、もとあつたのが脱ちたのであらう。社《コソ》を補はずにクマニツラヌクとも訓み得るが、貫の字は常にヌクとのみよまれてゐるから、タマニコソヌケとよむのが穩やかである。○零卷惜美《チラマクヲシミ》――略解に舊訓を改めてオチマクヲシミとしてゐる。橘の實であるから、散るといふのはふさはしくないと思つたものか。それも一理あるが、散るでよいのであらう。
〔評〕 可憐な歌ではあるが、相聞の歌としては熱情が足りな過ぎる。
紀朝臣豐河歌一首
紀朝臣豐河は、續紀に「天平十一年正月丙午、正六位上紀朝臣豐河授2外從五位下1」と見える人である。
1503 吾妹子が 家の垣内の さ百合花 ゆりと云へるは いなとふに似る
吾妹兒之《ワギモコガ》 家乃垣内乃《イヘノカキツノ》 佐由理花《サユリバナ》 由利登云者《ユリトイヘルハ》 不謌云二似《イナトフニニル》
(574)(吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花)後デ逢ハウ〔三字傍線〕トアナタガ〔四字傍線〕云ツタノハ、逢ハナイト云フノト同ジヤウナモノダ。アナタハソンナコトヲ言ツテ、私ヲ體ヨク斷ルツモリデセウ〔アナ〜傍線〕。
○家乃垣内乃《イヘノカキツノ》――垣内は舊訓カキウチとあるが、垣津田《カキツダ》(三二二三)・可伎都楊疑《カキツヤギ》(三四五五)なども、垣内田・垣内柳であるから、ここもカキツと訓むべきである。○佐由理花《サユリバナ》――小百合花。サは接頭語で意味はない、ここまでの三句は、由利《ユリ》と言はんが爲、同音を繰返す序詞である。○由利登云者《ユリトイヘルハ》――由利《ユリ》は後《ノチ》にの意。この句は後で逢はうと言つたのはの意。○不謌云二似《イナトフニニル》――舊訓ウタハヌニニルとあるのでは分らない。謌は恐らく誤字であらう。宣長は許の誤で、不許はイナであらうといつてゐる。集中、不欲・不聽・不許・不言などがイナと訓まれてゐるから、そのうちのいづれかであらうと思はれる。ここは新訓に從ふ。
〔評〕 右のやうに解すると、戀する人の言葉として無理のない、尤もらしい内容になる。序の作り方も優美で、しかも男性らしくよまれてゐる。卷十八に佐由理婆奈由利毛安波牟等《サユリバナユリモアハムト》(四〇八七)の如き例が四首ばかりあるのは、これに傚つたものか。
高安歌一首
卷一の六七に高安大島とある人かと思はれるが、それでは前後の歌に比して時代が古過ぎるやうである。或は高安王の王の字が脱ちたのかとする説もある。王は天平十一年四月に大原眞人の姓を賜はつてゐて、この歌は前後を見ると家持が内舍人にならない前、即ち天平十三年以前のものらしいから、ここは脱字があるのではなくて、大原高安眞人を略してかう書いたのかも知れない。卷十七の三九五二に大原高安眞人の名が見える。
1504 いとま無み 五月をすらに 吾妹子が 花橘を 見ずか過ぎなむ
暇無《イトマナミ》 五月乎尚爾《サツキヲスラニ》 吾妹兒我《ワギモコガ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 不見可將過《ミズカスギナム》
(575)暇ガナイカラコノ面白イ〔五字傍線〕五月ニサヘモ私ノ妻ノ家ノ〔二字傍線〕、花橘ヲ見ナイデ空シク〔三字傍線〕過スコトカナア。殘念ナコトダ〔六字傍線〕。
〔評〕 五月は節會などがあつて、宮中奉仕の生活は格別多忙なので、こんなことを言つたのであらう。前の坂上郎女の歌に、無暇不來之君爾《イトマナミコザリシキミニ》(一四九八)と並べて見ると、かれはこの歌の答のやうにも見えるが、さうとも斷じ難い。歌は平凡である。
大神《オホミワ》女郎贈(レル)2大伴家持(ニ)1歌一首
大神女郎はわからない。六一八參照。
1505 ほととぎす なきしすなはち 君が家に 行けと追ひしは 至りけむかも
霍公鳥《ホトトギス》 鳴之登時《ナキシスナハチ》 君之家爾《キミガイヘニ》 往跡追者《ユケトオヒシハ》 將至鴨《イタリケムカモ》
アナタガ郭公ノ鳴クノヲ待ツテオイデナサルダラウト思ツテ〔アナ〜傍線〕、郭公ガ鳴クトスグニ私ハ〔二字傍線〕、アナタノ家ヘ行ケト云ツテ郭公ヲ追ツテヤリマシタガ、アレハ〔三字傍線〕參リマシタデセウカナア。イカガデス〔五字傍線〕。
○鳴之登時《ナキシスナハチ》――登時は即時の意でスナハチと訓む。卷六の九六二の左註にも登時《スナハナ》廣成應聲即吟此歌とある。
〔評〕 やさしい、親しい、おもしろい戯の言葉である、これだけでは戀の歌とも思はれないが、卷四に、狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名《サヨナカニトモヨブチドリモノモフトワビヲルトキニナキツツモトナ》(六一八)といふ歌を家持に贈つてゐるから、やはり戀中である。
大伴田村大孃與(フル)2妹坂上大孃(ニ)1歌一首
卷四の七五六にも大伴田村家之大孃贈2妹坂上大孃1歌四首があり、その左注に記してあるやうに、姉の田村大孃は父に從つて田村の里に居り、妹の坂上大孃は母と共に坂上の里にゐた。この姉から妹に贈つたものであるが、田村の里と坂上の里との所在が必ずしも明確でない。蓋し田村の里は、續紀に、「天平寶字元年四月大納言仲麿招2大炊王1居2於田村第1……五月辛亥天皇移2御田村(576)宮1、爲v改2修大宮1也……六月從四位上山背王複告、橘奈良麻呂備2兵器1、謀v圍2田村宮1」とあるところで、奈良の宮の地内にあつたらしい。これを丹波市附近とする説もあるが誤つてゐる。坂上の里は前の一四六六に見えた毛無乃岳の所在地とすれば、龍田町西方の山手で、奈良からそこへ手紙を贈つたわけである。
1506 ふるさとの ならしの岳の ほととぎす 言告げやりし いかに告げきや
古郷之《フルサトノ》 奈良思之岳能《ナラシノヲカノ》 霍公鳥《ホトトギス》 言告遣之《コトツゲヤリシ》 何如告寸八《イカニツゲキヤ》
アナタノ〔四字傍線〕故郷ノ奈良思之岳ノ郭公ハ、私ガアナタニ〔六字傍線〕傳言ヲタノンダノヲ、ドンナニ傳ヘタデセウカ。私ハアナタノ御返事ヲ待ツテヰマス〔私ハ〜傍線〕。
○古郷之《フルサトノ》――舊本、古を舌に誤る。類聚古集・神田本などによつて改めた。大伴氏の故地であるから、古郷といふのであらう。○奈良思之岳能《ナラシノヲカノ》――奈良思の岳は、前に毛無乃岳(一四六六)とあつたのと同じ。坂上大孃の住んでゐる坂上の里に近い山。○何如告寸八《イカニツゲキヤ》――如何に告げしかに同じであらう。古義に「告しや如何にありしといふ意なり。何如の言.下に置て心得べし。いかやうに告しやといふ意にききては甚わろし。」とあり、新考もこの説を採つてゐるが、どうもさうは思はれない。なるほど文法上からいへば、如何にの下には、カを以て受けるべきで、ヤは用ゐないのであるが、その法則は平安朝に於ても屡々破られてゐるもので、これを以てこの集を律せむとするのは無理である。どんな告げ方をしたのだらうかと、坂上大孃から、久しく來書のないのを催促したのでたちう。
〔評〕 第五句を如何に告げきやと見るのと、告げきや如何にと解するとによつて、少し意を異にするが、いづれにしても郭公に思を托したもので、この歌の興味はその點にあるのである。郭公は本人《モトツヒト》(一九六二)などとも言つて、これを擬人的に用ゐることが多い。
大伴家持攀(ヂテ)2橘花(ヲ)1贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌一首并短歌
(577) 攀は引き折る意。一四一六参照。
1507 いかといかと ある吾がやどに 百枝さし 生ふる橘 玉にぬく 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝にけに 出で見るごとに いきの緒に 吾が念ふ妹に まそ鏡 清き月夜に ただ一目 見せむまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 吾が守るものを うれたきや しこほととぎす あかときの うら悲しきに 追へど追へど なほも來鳴きて いたづらに つちに散らせば すべを無み 攀ぢて手折りつ 見ませ吾妹子
伊加登伊可等《イカトイカト》 有吾屋前爾《アルワガヤドニ》 百枝刺《モモエサシ》 於布流橘《オフルタチバナ》 玉爾貫《タマニヌク》 五月乎近美《サツキヲチカミ》 安要奴我爾《アエヌガニ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》 朝爾食爾《アサニケニ》 出見毎《イデミルゴトニ》 氣緒爾《イキノヲニ》 吾念妹爾《ワガモフイモニ》 銅鏡《マソカガミ》 清月夜爾《キヨキツクヨニ》 直一眼《タダヒトメ》 令覩麻而爾波《ミセムマデニハ》 落許須奈《チリコスナ》 由米登云管《ユメトイヒツツ》 幾許《ココダクモ》 吾守物乎《ワガモルモノヲ》 宇禮多伎也《ウレタキヤ》 志許霍公鳥《シコホトトギス》 曉之《アカトキノ》 裏悲爾《ウラカナシキニ》 雖追雖追《オヘドオヘド》 尚來鳴而《ナホモキナキテ》 徒《イタヅラニ》 地爾令散者《ツチニチラセバ》 爲便乎奈美《スベヲナミ》 攀而手折都《ヨヂテタヲリツ》 見末世吾妹兒《ミマセワギモコ》
ドウカドウカト思ツテ、橘ノ咲クノヲ待ツテ〔九字傍線〕ヰル私ノ家ニ、澤山枝ヲサシ交シテヰル橘ハ、藥玉ニ貫イテ拵ヘル五月ガ近イノデ、落チサウナ程モ澤山ニ〔三字傍線〕花ガ咲イタヨ。毎朝毎日外ヘ出テコレヲ〔三字傍線〕見ル度ニ、私ガ命ニカケテ戀ヒ慕ツテヰルアナタニ、(銅鏡)月ノ清ク照ル晩ニ、唯一目デモヨイカラ、コノ花ヲ〔四字傍線〕見セルマデハ、決シテ散ツテクレルナト言ツテ、大事ニシテヨクヨク私ガ番ヲシテヰルノニ、困ツタコトダアノ馬鹿ナ郭公奴ガ、夜明ケ頃ノ悲シイ時ニ來テ、イクラ追ヒ拂ツテモ拂ツテモ、ヤハリ寄ツテ來テ鳴イテ、空シク花橘ヲ地ノ上ニ散ラシテシマフノデ、仕方ガナイカラ引キヨセテ折リマシタ。コレヲ貴女ニ差止ゲルカラ〔コレ〜傍線〕御覽ナサイヨ。貴女ヨ。
○伊加登伊可等《イカトイカト》――如何と如何と。如何にと如何にと意。略解に「宣長云、いかといかとは誤字なるべし。或人云.伊追之可等待《イツシカトマツ》の誤歟。追之を加登に誤り、下の伊は衍、待は有に誤れる也。花の咲をいつしかと待也と言へり」とあるが、原文のままでよい。○有吾屋前爾《アルワガヤドニ》――上に述べたやうに宣長は有を待の誤としてゐる。な(578)るほど有は少しおだやかでないが、上につづいて、如何に如何にと思ひてある意とすれば、解せられないこともないから、このままにして置かう。○安要奴我爾《アエヌガニ》――落ちるほどに。アエはアユといふ動詞の連用形。アユは木の實など、あまり大きくない物の落ちることで、今も九州方面では廣く用ゐられてゐる。卷十八に安由流實波多麻爾奴伎都追《アユルミハタマニヌキヅツ》(四一一一)とある。奴《ヌ》は完了の助詞で、語勢を強める爲に用ゐられたのである。ガニは、やうに・ほどにの意となる。ガで上を名詞的とし、それをニで受けてゐる。この句は橘の枝に咲き滿ちてゐるのを形容したのである。卷十にも秋就者水草花乃阿要奴蟹《アキツカバミクサノハナノアエヌガニ》(二二七二)とある。○朝爾食爾《アサニケニ》――食《ケ》は借字、日《カ》に同じ。毎日。○氣緒爾《イキノヲニ》――命に代へて、心からの意を強く言ふに用ゐる。懸命になどいふと同じであらう。○銅鏡《マソカガミ》――白銅鏡の略であらう。卷十二に白銅鏡手二取持而《マソカガミテニトリモチテ》(三一八五)とある。白銅鏡は古代の鏡の最も明澄なもので、書紀の一書には、伊弉諾尊の持ち給うた白銅鏡から、日神月神が出現し給うたことになつてゐる。ここは清きに冠せる枕詞である。○落許須奈《チリコスナ》――散つてくれるな。コスは希望の意の動詞。○宇禮多伎也《ウレタキヤ》――形容詞ウレタシに詠歎の助詞ヤを添へてゐるが、ヤは極めて輕い。ウレタシは歎かはし・厭はしなどの意。神武紀に、「慨裁、此云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤ》1」とある。○志許霍公鳥《シコホトトギス》――志許《シコ》は醜。郭公を罵つて言ふ。鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》(一一七)・鬼乃志許草《シコノシコクサ》(七二七)の類である。○裏悲爾《ウラガナシキニ》――心悲しい時に、ウラは心。○攀而手折都《ヨヂテタヲリツ》――攀は引き折る。木に登ることではない。一四六一の左註參照。
〔評〕 新婚の妻に贈つたものだけに、愛情が溢れてゐる。橘の花を大切にして、その枝に來鳴く郭公を罵つてゐるのが、人の聞きたがる鳥だけに面白く思はれる。
反歌
1508 もちくだち 清き月夜に 吾妹子に 見せむと念ひし やどの橘
望降《モチクダチ》 清月夜爾《キヨキツクヨニ》 吾妹兒爾《ワギモコニ》 令覩常念之《ミセムトオモヒシ》 屋前之橘《ヤドノタチバナ》
十五日過ギノ清イ月夜ニ、アナタニ見セヨウト思ツテ、大事ニシテ置イ〔七字傍線〕タ吾ガ庭ノ花橘ハコレデス。ソレマデ待(579)テバ郭公ガ散ラシテシマフカラ今折ツテ差上ゲマス〔ハコ〜傍線〕。
○望降《モチクダチ》――望《モチ》は滿《ミチ》の轉であらう。月の十五日をいふ。クダチは降り。過ぎること。特に十五日過ぎと限定したのは、その頃逢ふ約束になつてゐたものか。長歌には、銅鏡清月夜爾《マソカガミキヨキツクヨニ》とのみある。
〔評〕 月明の清夜に、女と共に眺めようと待つてゐた花橘を、待ちかねて手折つて贈る歌である。結句の名詞止が、本集では珍らしい形になつてゐる。
1509 妹が見て 後も鳴かなむ ほととぎす 花橘を つちに散らしつ
妹之見而《イモガミテ》 後毛將鳴《ノチモナカナム》 霍公鳥《ホトトギス》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 地爾落津《ツチニチラシツ》
郭公ハ花橘ヲ〔三字傍線〕アナタガ一目〔二字傍線〕見テ、ソノ後ニデモ鳴イテクレレバヨイ。アマリ早ク來テ鳴イテ〔レバ〜傍線〕、花橘ヲ地ニ散ラシテシマツタ。ホントニヒドイ郭公ダ〔ホン〜傍線〕。
○後毛將鳴《ノチモナカナム》――舊訓を改めて略解にナキナムとしたのはわるい。鳴いてくれと希望するのである。○地爾落津《ツチニチラシツ》――舊訓を略解にオトシツと改めてゐる。長歌に地爾令散者《ツチニチラセバ》とあるから、チラシツと訓むがよからう。
〔評〕 長歌の意を繰返しただけで、平凡な歌である。
大伴家持贈(レル)2紀郎女(ニ)1作歌一首
郎女は神田本に女郎とあるのがよい。作の字は衍であらう。神田本にない。
1510 なでしこは 咲きて散りぬと 人は言へど 吾がしめし野の 花にあらめやも
瞿麥者《ナデシコハ》 咲而落去常《サキテチリヌト》 人者雖言《ヒトハイヘド》 吾標之野乃《ワガシメシヌノ》 花爾有目八方《ハナニアラメヤモ》
瞿麥ノ花ハ咲イテ散ツタト世間ノ人ハ言フガ、私ガ私ノモノトシテ〔七字傍線〕標ヲシテ置イタ野ノ花デハアリマスマイナア。女ガ心ガハリシタト云フガ、ソレハ私ガ約束シタアナタデハアリマスマイネ〔女ガ〜傍線〕。
(580)○花爾有目八方《ハナニアラメヤモ》――花ならむや。花にはあらじの意。
〔評〕 卷三の、大伴宿禰駿河麻呂梅歌。梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方《ウメノハナサキテチリヌトヒトハイヘドワガシメユヒシエダナラメヤモ》(四〇〇)と全く同趣同型で、この二つのうちいづれかが模倣であるに違ひないが、作の年代が明らかでないからいづれとも斷じ難い。或はこの作が後か。
秋雜歌
崗本天皇御製歌一首
崗本天皇は高市の崗本宮に世を知ろしめした天皇、即ち舒明天皇。
1511 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿の こよひは鳴かず いねにけらしも
暮去者《ユフサレバ》 小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》 鳴鹿之《ナクシカノ》 今夜波不鳴《コヨヒハナカズ》 寢宿家良思母《イネニケラシモ》
夕方ニナルトイツデモ〔四字傍線〕小倉山デ鳴ク鹿ガ、今夜ハ鳴カナイ。多分臥タノデアラウヨ。イツモハ妻ヲ慕ツテ鳴クガ、今夜ハ鳴カナイノデ見レバ、妻ニ逢ツテ寢テヰルラシイ〔イツ〜傍線〕。
○小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》――この山名は卷九の冒頭に、小椋山《ヲグラヤマ》(一六六四)とあり、同じく同卷の長歌に小鞍嶺《ヲグラノミネ》(一七四七)とある。この歌と卷九卷頭の歌とは全く同一であるから、山名も當然同所であるが、小鞍嶺は龍田山中の巓として歌はれてゐるから、所在は明らかである。併しこの小倉山は(卷九の小椋山も同所)皇居近い山らしく詠ぜられてゐるから、龍田の小鞍嶺とは別と思はれる。もしこの歌を卷九に記載してあるやうに、雄略天皇の御製とするならば、この山はその皇居であつた、初瀬峽谷の入口、朝倉村岩坂の南方の山であらうと推定せられるが、下に記したやうにそれは疑はしいから、舒明天皇の皇居に近い山としたい。而も飛鳥の岡本宮の舊址附近には、小倉山といふ名を聞かない。恐らく今、古名が忘れられてゐるので、やはり岡本宮に近い山であらう。併しこ(581)の宮の舊地を喜多博士のやうに雷岡の麓とするならば、全然それらしい山はないのである。○寐宿家良思母《イネニケラシモ》――寐《イ》は寢ること。名詞、宿《ネ》は動詞|寢《ヌ》るの連用形。ニケラシは過去完了の助動詞ニケリに、推量のラシを添へたもの。モは感歎の助詞。
〔評〕 優雅な純情のあらはれた作である。卷一の天皇登2香具山1望v國之時御製歌(二)と共に立派な御製である。卷九の冒頭に第三句を、臥鹿之《フスシカノ》としては歌品が下るやうに思はれるから、この方がよい。なほこれを雄略天皇の御製としては、歌風が新らしきに過ぎる。實は舒明天皇としても、まだその感があるくらゐである。この兩帝のうちで選ぶならば、もとより舒明天皇とすべきである。
大津皇子御歌一首
大津皇子は天武天皇の皇子。一〇五の題詞參照。
1512 經《たて》もなく 緯《ぬき》も定めず をとめらが 織る黄葉ばに 霜なふりそね
經毛無《タテモナク》 緯毛不定《ヌキモサダメズ》 未通女等之《ヲトメラガ》 織黄葉爾《オルモミヂバニ》 霜莫零《シモナフリソネ》
縱ノ糸モ無ク、横ノ糸モ定メナイデ、天女等ガ織ツタ錦ノヤウナ〔五字傍線〕紅葉ニ霜ガ降ルナヨ。霜ガ降ルト色ガ變ツテシマフカラ〔霜ガ〜傍線〕。
○未通女等之《ヲトメラガ》――この未通女《ヲトメ》は即ち天つ處女であらう。人間の少女としては意味をなさない。諸註それに言及しないのはどうしたわけか。○織黄葉爾《オルモミヂバニ》――織る黄葉の錦にと言はないでは言葉が足りないが、それは咎むべきではない。新訓にはこの句をオレルモミヂニとよんでゐるが、黄葉はモミヂバとよんだ例が多い。
〔評〕 初二句は三芳野之青根我峰之蘿席誰將織經緯無二《ミヨシヌノアヲネガミネノコケムシロタレカオリケムタテヌキナシニ》(一一二〇)に似た點もあり、しかも天つ處女を點出したのは面白い想像である。懷風藻に見える、この皇子の御作、「天紙風筆畫2雲鶴1山機霜杼織葉錦」と略同一の構想であるが、歌と詩といづれが先であるか不明である。ともかく漢詩の影響による作品で、かういふものが前驅(582)をなして、古今集の「霜のたて露のぬきこそよわからし山の錦の織ればかつ散る」「たつ田川錦織りかく神無月時雨の雨をたてぬきにして」などが作られるやうになつたのである。書紀にこの皇子を叙して、「及v長辨有2才學1、尤愛2文筆1詩賦之興自2大津1始也」とあるのは、なるほどとうなづかしめる。この歌、和歌童蒙抄・八雲御抄に見える。
穗積皇子御歌二首
穗積皇子は天武天皇の皇子。一一四參照。
1513 今朝の朝け 雁が音聞きつ 春日山 黄葉にけらし 吾が心いたし
今朝之旦開《ケサノアサケ》 雁之鳴聞都《カリガネキキツ》 春日山《カスガヤマ》 黄葉家良思《モミヂニケラシ》 吾情痛之《ワガココロイタシ》
今朝ノ夜明ケニ雁ノ鳴ク聲ヲ初メテ〔三字傍線〕聞イタ。雁ガ鳴イタカラニハ〔九字傍線〕、春日山ハ紅葉シタデアラウ。私ノ心モ景色ガ秋深クナルニツレテ〔景色〜傍線〕、悲シイヨ。
○雁之鳴聞都《カリガネキキツ》――雁之鳴《カリガネ》は雁の鳴く音。後には雁をカリガネともいふやうになつた。○黄葉家良思《モミヂニケラシ》――黄葉《モミヂ》が動詞として、用ゐられてゐる。
〔評〕 秋は八千草の花を愛で紅葉を惜しんで、面白い季節と考へたのが古代思想である。後世のやうに、秋を悲哀的に見るのは萬葉にはめづらしい。この歌はその心境を極めて感傷的口吻で巧みに詠出せられてゐる。よほど詩人的の性格のお方であつたらしい。
1514 秋萩は 咲きぬべからし 吾がやどの 淺茅が花の 散りぬる見れば
秋芽子者《アキハギハ》 可咲有良之《サキヌベカラシ》 吾屋戸之《ワガヤドノ》 淺茅之花乃《アサヂガハナノ》 散去見者《チリヌルミレバ》
吾ノ家ノ庭ニマバラニ生エテヰル茅ノ花ガ散ツタノデ見ルト、モウソロソロ〔六字傍線〕秋萩ノ花ガ咲クラシイ。
○可咲有良之《サキヌベカラシ》――サクベカラシとよんでもよいであらうが、ヌに當る文字がないのを添へてよんだのであ(583)る。咲くであらうの意。
〔評〕 春の頃穗に出たささやかな茅花が、夏になつてもまだ草かげに、ほほけて殘つてゐる。が、それもやがて散つてしまふと夏も終つたのである。ああもう秋も來て萩の花も咲くであらうと、皇子はこんな小さい景物をも見遁さない、敏感な詩人であつたのだ。そこにこの歌の特色も美點もある。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
但馬皇女御歌一首 【一書云子部王作】
但馬皇女は天武天皇の皇女。前の穗積皇子とは異腹の兄妹であつて、戀に落ちて問題を惹起した。一一四・一一五參照。舊本但馬皇子とあるは誤。西本願寺本によつて改む。子部王は卷十六に兒部《チヒサコベノ》女王(三八二一)とあるお方か。代匠記精撰本に、女の字が脱ちたのであらうと言つてゐる。このお方の傳は明らかでない。
1515 事しげき 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを 一云、國に有らずは
事繁《コトシゲキ》 里爾不住者《サトニスマズハ》 今朝鳴之《ケサナキシ》 雁爾副而《カリニタグヒテ》 去益物乎《ユカマシモノヲ》
一云|國爾不有者《クニニアラズハ》
コンナ面倒ナ里ニ住マナイデ、寧ロ〔二字傍線〕今朝鳴イタ雁ト一緒ニ、何處カヘ往ツテシマヒタイモノヲ、ホントニイヤナ世ノ中ダ〔ホン〜傍線〕。
○事繁《コトシゲキ》――忙しいといふ意ではない。面倒な、人の口の喧ましいことであらう。○里爾不住者《サトニスマズハ》――里に住まないで、寧ろの意。このズハは前に澤山用例があつた。普通「……よりは」と譯されてゐる。○一云|國爾不有者《クニニアラズハ》――第二句の異傳である。この方が更に面白いやうである。類聚古集・神田本などには小字になつてゐる。
〔評〕 雁と一緒に何處へ行かうといふのであらう。勿論何處といふ當てはない。唯雁があはれな聲で鳴いて行く所、そこはこの世とは違つた穩やかな・口善悪さの無いところのやうに思はれる。この鳥の聲をあはれむ心か(584)ら、ふとかうした考が胸中に湧き出たのである。なほこの歌の解には、穗積皇子との間に浮名が立つてゐたことも、考慮に入れねばならない。古義に「世間の繁務をいとはせ給へるとき、よみ賜へるなるべし」とあるのも、新考に「此御歌は、穗積皇子のケノアサケ雁ガネキキツといふ御歌の和なるべし」とあるのも從ひ難い。
山部《ヤマベノ》王惜(シム)2秋葉(ヲ)1歌一首
山部王は詳かでない。天武天皇紀に、「時近江命2山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等1率2數萬衆1將v襲2不破1而軍2于犬上川濱1、山部王爲2蘇賀臣果安、巨勢臣比等1見v殺、由2是亂1以2軍不1進乃蘇賀臣果安自2犬上1返刺v頸而死」とある山部王は時代が古過ぎるから、ここの山部王でなく、又桓武天皇が諸王でいらせられた時の御名を、山邊王と申し奉つたが、文字も異なり、年代も新しきに過ぎるから違つてゐる。ここの山部王は前後の作者から考へると、和銅から天平初年までの間であらねばならぬ。必ず別人である。
1516 秋山に もみづ木の葉の うつりなば 更にや秋を 見まく欲りせむ
秋山爾《アキヤマニ》 黄反木葉乃《モミヅコノハノ》 移去者《ウツリナバ》 更哉秋乎《サラニヤアキヲ》 欲見世武《ミマクホリセム》
秋ノ山ニ紅葉シタ美シイ木ノ葉ガ散ツテシマツタナラバ、今更惜シクナツテ〔八字傍線〕、一層秋ノ景色〔三字傍線〕ガ見タクナルデアラウ。
○黄反木葉乃《モミヅコノハノ》――黄反を舊訓キバムとよみ、考はニホフとあるが、略解にモミヅとしたのがよい。代匠記精撰本にモミヅルとあるのは上二段活に見たのだが、下の如此曾毛美照《カクゾモミデル》(一六二八)にならつて、四段活をとることにする。黄反は黄變に同じ。下に黄變蝦手《モミヅカヘルデ》(一六二三)とある。○移去者《ウツリナバ》――ウツリはウツロフに同じ。盛の過ぎるをいふので、色の褪せるのにも、散るのにもいふ。ここは紅葉の散る意である。
〔評〕 紅葉を以て秋景の代表と見て、それが散つたのを惜しんで、更に秋に逢はうと思ふであらうと言ふのであ(585)る。古義に「歌意かくれなし」とあるが、下句の意は必ずしも明瞭とは言はれない。
長屋王一首
高市皇子の御子。七五參照。
1517 味酒 三輪のはふりの 山照らす 秋のもみぢば 散らまく惜しも
味酒《ウマサケ》 三輪乃祝之《ミワノハフリノ》 山照《ヤマテラス》 秋乃黄葉《アキノモミヂバ》 散莫惜毛《チラマクヲシモ》
(味酒)三輪ノ神主ガ神樣ヲ祀ツテヰル〔八字傍線〕三輪山ニ、山ガ輝クホドニ美シク紅葉シテヰル〔ホド〜傍線〕秋ノ黄葉ガ、散ルノハ惜シイコトダ。
○味酒《ウマサケ》――枕詞。味酒を掌る三輪の神の意であらう。一七參牌。○三輪乃祝之《ミワノハフリノ》――舊訓ミワノハフリガとある。略解に「宣長云、三輪のいはひのやまひかると訓べし。いはひの山は神を齋まつる山といふ事也と言へり。是然るべきか」とあるが、いはひの山は語をなさぬやうである。祝《ハフリ》は神を祀るもの。神職。その祝が司る山とつづくのであらう。
〔評〕 三輪山の秋色を愛し給ふ御歌である。三四の句は、滿山の紅葉の美觀を思はしめるよい詞である。この歌は和歌童蒙抄に出てゐる。
山上臣憶良七夕歌十二首
七夕は即ち七月七日の夕で、その夜牽牛・織女の二星相逢ふといふ傳説から、この二星を祭ることが始まつたのである。公事根源、乞巧奠の條にその次第を記して、「天平勝寶七年にはじまる」とあるが、これはその儀式が朝廷に於て行はれるやうになつた起源を述べたもので、七夕傳説はそれよりも遙か以前に吾が國に入つたものであらう。否、曲水宴の如きも書紀によれば、顯宗天皇の(586)二年三月上巳に行はれたと記してあるから、乞巧奠も必ず、天平勝寶七年以前から廣く行はれてゐたらうと思はれる。集中に七夕の歌は二百首に近いのであるが、かかる盛況を來したのは、唯この傳説が廣く語られてゐた爲ばかりでなく、七日の夕の星祭が、かなり古くから一般に行はれてゐたものに相違ない。
1518 天の川 相向き立ちて 吾が戀ひし 君來ますなり 紐解きまけな 一云、河に向ひて
天漢《アマノガハ》 相向立而《アヒムキタチテ》 吾戀之《ワガコヒシ》 君來益奈利《キミキマスナリ》 紐解設奈《ヒモトキマケナ》
一云|向河《カハニムカヒテ》
天ノ川ヲ間ニシテ〔五字傍線〕、相向ヒアツテ、一年ノ間〔四字傍線〕私ガ戀ヒ慕ツテヰタアノ方ガオイデナサルヨ。着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ解イテオ待チシマセウ。
○天漢《アマノガハ》――漢はもと漢水と稱する河の名であるが、轉じて天の川のことに用ゐる。天漢はもとより天の川で、雲漢・星漢・銀漢・霄漢・銀河・漢河などいふに同じ。天の川は元來無數の恒星の集合で、凸レンズのやうな形をなした約二十億の恒星團をその幅の方向から眺めるから、白い帶状をなして見えるのだといふ。○君來益奈利《キミキマスナリ》――第二句の吾は織女みづからいふのであるから、この句の君は牽牛をさしてゐる。○紐解設奈《ヒモトキマケナ》――紐は着物の上着の紐。紐を解くのは、くつろいで寢るのである。マケは文字の如く、(587)設けること。用意すること。○一云|向河《カハニムカヒテ》――これは第二句の異傳である。河といふ語が重つて面白くない。
〔評〕 これは織女星の心になつて詠んだのである。結句が少し感覺的でもあるが、さして咎むべきほどでもない。卷十の天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノカハカハトニタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマタム》(二〇四八)に酷似した歌である。
右養老八年七月七日應v令
養老八年二月四日、聖武天皇御即位と同時に改元あつて神龜元年となる。次の歌に神龜元年七月七日と記してあるから養老八年は誤である。また應令とある令は、即ち東宮の令旨で、皇太子の仰によつて作つたことであるが、右に述べたやうに、養老八年の二月四日皇太子は即位あらせられ、天平十年まで皇太子はおはしまさなかつたから、この八年は確かに誤である。代匠記精撰本に六の誤とし、考には七の誤としてゐる。そのいづれかであらう。なほ山上憶良は養老五年正月以降、勅によつて退朝の後、東宮に待せしめられたのであるから、この歌を作つたのは、その時から三年間のことに違ひない。
1519 久方の 天の川せに 船泛けて こよひか君が わがり來まさむ
久方之《ヒサカタノ》 漢瀬爾《アマノカハセニ》 船泛而《フネウケテ》 今夜可君之《コヨヒカキミガ》 我許來益武《ワガリキマサム》
(久方之)天ノ川ノ瀬ニ船ヲ泛ベテ、今夜ハアノオ方ガ、私ノ所ヘオイデナサルダラウカ。ウレシイコ卜ダ〔七字傍線〕。
○漢瀬爾《アマノカハセニ》――漢は右に述べたやうに、天の川のことであるからかうよんだのである。代匠記精撰本に天の字を脱とし、古義もこれを補つてゐるが、このままでよい。瀬は淺いところで、船を泛べるのに適しないわけである。併し卷七に從此川船可行雖在渡瀬別守人有《コノカハユフネハユクベクアリトイヘドワタリセゴトニモルヒトアルヲ》(一三〇七)などの如き用例もあるから、一概には言はれない。但し神田本・西本願寺本など、瀬の字の無い古寫本が多いから、なほ考ふべきである。
〔評〕 これも織女星の心になつて詠んだもの。あまり感興のない作である。
右神龜元年七月七日夜左大臣家
左大臣は長屋王である。神龜元年二月甲午、聖武天皇御即位に當つて、長屋王は右大臣から左大臣に昇つ(588)た。家の字は神田本その他、宅に作る本が多い。
1520 ひこほしは たなばたつ女と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 河に向き立ち 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 青浪に 望は絶えぬ 白雲に 涙は盡きぬ 斯くのみや いきづきをらむ 斯くのみや 戀ひつつあらむ さ丹塗の 小船もがも 玉まきの 眞かいもがも 一云、小棹もがも 朝なぎに い掻き渡り 夕潮に 一云、夕べにも い榜ぎ渡り ひさかたの 天の河原に 天飛ぶや 領巾片敷き 眞玉手の 玉手さしかへ あまたいも 寐てしがも 一云、いもさねてしが 秋にあらずとも 一云、秋またずとも
牽牛者《ヒコホシハ》 織女等《タナバタツメト》 天地之《アメツチノ》 別時由《ワカレシトキユ》 伊奈宇之呂《イナウシロ》 河向立《カハニムキタチ》 意空《オモフソラ》 不安久爾《ヤスカラナクニ》 嘆空《ナゲクソラ》 不安久爾《ヤスカラナクニ》 青浪爾《アヲナミニ》 望者多要奴《ノゾミハタエヌ》 白雲爾《シラクモニ》 ※[さんずい+帝]者盡奴《ナミダハツキヌ》 如是耳也《カクノミヤ》 伊伎都枳乎良武《イキヅキヲラム》 如是耳也《カクノミヤ》 戀都追安良牟《コヒツツアラム》 佐丹塗之《サニヌリノ》 小船毛賀茂《ヲブネモガモ》 玉纏之《タママキノ》 眞可伊毛我母《マカイモガモ》【一云|小棹毛何毛《ヲサヲモガモ》】 朝奈藝爾《アサナギニ》 伊可伎渡《イカキワタリ》 夕鹽爾《ユフシホニ》【一云|夕倍爾毛《ユフベニモ》】 伊許藝渡《イコギワタリ》 久方之《ヒサカタノ》 天河原爾《アマノガハラニ》 天飛也《アマトブヤ》 領布可多思吉《ヒレカタシキ》 眞玉手乃《マタマデノ》 玉手指更《タマデサシカヘ》 餘宿毛《アマタイモ》 寐而師可聞《ネテシガモ》【一云|伊毛左禰而師加《イモサネテシカ》】 秋爾安良受登母《アキニアラズトモ》【一云|秋不待登母《アキマタズトモ》】
牽牛星ハ織女星ト、天地ガ初メテ〔三字傍線〕分レタ開闢ノ〔三字傍線〕時カラ(伊奈宇之呂)天ノ〔二字傍線〕河ニ向ヒ合ツテ〔三字傍線〕立ツテヰテ、容易ニ逢フコトガ出來ナイカラ〔容易〜傍線〕、思フ心ハ安ラカデナイノニ、又〔傍線〕、嘆キ悲シム心モ安ラカデナイノニ、遙カニ川ヲ眺メルト〔九字傍線〕、青イ波ガ立チ列ナツテヰルノ〔九字傍線〕デ、遠クテ目モ屆キカネル。又〔傍線〕白雲ガ棚引イテヰルノデ、向ヲ見ルコトガ出來ズ悲シク〔ガ棚〜傍線〕テアマリ泣イテ〔六字傍線〕涙モナクナツテシマツタ。カウシテタメ息バカサヲツイテヰヨウカ。カウシテ戀ヒ慕ツテバカリ居リマセウカ。空シク嘆イテバカリヰテモツマラナイ〔空シ〜傍線〕。赤ク塗ツタ小舟ガアレバヨイ。サウシテ〔四字傍線〕玉ヲ纒イタ櫂ガアレバヨイ。サウシタラソノ小舟ニ乘リ、ソノ櫂ヲ繰ツテ〔サウ〜傍線〕、朝風ノ靜カナ時ニ水ヲ〔二字傍線〕掻イテ渡ツテ、夕方ノサシ汐ニ漕イデ渡ツテ、(久方之)天ノ河原デ、天ヲ飛ブ時二使フ〔四字傍線〕領巾ヲ下ニ敷イテ、玉ノヤウナ美シイ手ヲサシ交シテ、秋デハナクトモ、イツデモ〔四字傍線〕、幾度モ寝タイモノダ。今ノヤウニ秋ノ一夜ノ逢瀬デハ悲シイカラ〔今ノ〜傍線〕。
(589)○牽牛者《ヒコホシハ》――牽牛は牽牛星。和名抄に「爾雅註云、牽牛一名河皷、和名比古保之、又以奴加比保之」とあり、ヒコホシは彦星で男星の義である。この名はこの傳説が傳來した時、吾が國人がかく呼び初めたのであらう。紀記には見えない。この星は鷲星座のa星で、altair と呼ぶ一等星である。天の川の西岸に光つてゐる。○織女等《タナバタツメト》――織女は織女星。和名抄に「兼名苑云、織女牽牛疋也、和名太奈八太豆女」とあり、タナバタツメは、棚機つ女即ち棚機を織る女の意である。この織女を古事記神代の卷の高比賣の歌「阿米那流夜淤登多那婆多能宇那賀世流多麻能美須麻流《アメナルヤオトタナバタノウナガセルタマノミスマル》云々」の弟棚機《オトタナバタ》と同一視する説もあるが、妄である。七夕傳説渡來の後、吾が古傳説中の神名を、それに流用したのに過ぎない。支那ではこの星を牽牛星の妻で、天の川のほとりで機を織つてゐる女としてゐる。荊楚歳時記に「天河之東有2織女1天帝之子也、年々織杼勞役、織2成雲錦天衣1、天帝憐2其獨處1許v嫁2河西牽牛1、即嫁後遂廢2織袵1、天帝怒責、令v歸2河東1但使2其一年一度相會1」とある。この星は琴星座のa星で vega と稱し、天の北半球では最大の光度を有し、天の川の東に輝いてゐる。○天地之別時由《アメツチノワカレシトキユ》――天地開闢の時から、この宇宙の創造された時から。○伊奈宇之呂《イナウシロ》――枕詞。宇《ウ》は牟《ム》の誤で、イナムシロであらうと言はれてゐる。或は宇と牟と通ずるのかも知れない。顯宗紀に「伊儺武斯廬※[加/可]簸泝比野儺擬寐豆愈凱麼儺弭企於巳陀智曾能泥播宇世儒《イナムシロカハソヒヤナギミヅユケバナビキオシタチソノネハウセズ》」、本集卷十一に伊奈武思侶敷而毛君乎將見因母鴨《イナムシロシキテモキミヲミムヨシモガモ》(二六四三)とある。寐席《イナムシロ》の意で、皮で作るから、河につづけるのだとも、また稻席で強《コハ》いものであるから、コハの轉カハにつづくともいふ。敷《シキ》につづくのは席を敷く意にかけたのである。○意空《オモフソラ》――思ふ心。○不安久爾《ヤスカラナクニ》――安くあらなくに。安くはないのにの意。新訓にヤスケナクニとある。○青浪爾望者多要奴《アヲナミニノゾミハタエヌ》――古義に「遙々蒼浪を望み見やるに遠くして見屆かねば、目のつきたるをいふならむ」とあるに從はう。青波の彼方に目が屆かぬのである。新考にはノゾミを希望の義として、「眺望の義のノゾミは古書には見えず」とあるが、仁徳紀「登2高臺1以遠2望之1」の望の字にミノゾムニと訓してあるから、必ずしもさうは言はれない。○白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴《シラクモニナミダハツキヌ》――目を遮る白雲を仰ぎ見て逢はれぬ戀を嘆いて、涙が盡きるほど泣いたといふのである。○佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモガモ》――サは接頭語。佐丹塗之小船《サニヌリノヲブネ》は、赤く塗つた小船。赤乃曾保船《アケノソホフネ》(二七〇)・赤曾朋舟《アケノソホフネ》(三三〇〇)・赤羅小船《アカラヲフネ》(三八六八)と同じ。○玉纏之眞可伊毛(590)我母《タママキノマカイモガモ》――玉の緒を卷きつけた櫂もあれかしの意。王を飾として卷くのは古代の風習であるが、丹塗の小船にふさはしく、美的に言つたのであらう。眞《マ》は接頭語であるが、左右揃つたものにいふのである。○伊可伎渡《イカキワタリ》――伊《イ》は接頭語で意味はない。次に伊許藝渡《イコギワタリ》の伊《イ》も同じ。○夕鹽爾《ユフシホニ》――上の朝奈藝爾《アサナギニ》に對したのであるが、河に夕鹽といふのは穩かでない。天の川を廣い海のやうにいつてゐるので、おのづからかういふ句を用ゐたのであらう。一云|夕倍爾毛《ユフベニモ》とあるのは難はないが、朝奈藝爾の對句としては拙い。○天飛地《アマトブヤ》――天を飛ぶ爲のの意であらう。ヤは輕く添へた詠歎の助詞。ここは織女を天女に見たててゐる。略解に「天飛やは、天上の事なれば、冠らせたるのみにて、たゞ領巾を敷寢る也」とあるが、枕詞と見てはわるい。○領巾可多思吉《ヒレカタシキ》――領巾は女の肩からかける細い布。可多思吉《カタシキ》は片敷き。多く片方の袖を敷いて寢ることで、獨寢するにいふが、ここは少し用方が違つてゐる。○眞玉手乃玉手指更《マタマデノタマデサシカヘ》――手と手とを指しかはして。卷五にも、麻多麻提乃多麻提佐斯迦閉《マタマデノタマデサシカヘ》(八〇四)とある。古事記八千矛神の御歌に、麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐《マタマデタマデサシマキ》とあるに似てゐる。○餘宿毛《アマタイモ》――舊訓ヨイモとあるのはよくない。考に從ふ。宣長は、宿の字の上に一句脱たるにて、餘の字は其中の一字なるべしと言つてゐる。古義は餘の下、多の字が脱ちたものとして、次の句へつづけて、アマタタビイモネテシカモとよんでゐる。次に一云|伊毛左禰而師加《イモサネテシカ》とあるによれば、古義の訓も一理はある。
〔評〕 この長歌には、對句を多く用ゐてゐるのが目に立つ。意空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニ》から、夕鹽爾伊許藝渡《ユフシホニイコギワタリ》までの二十句は、二句づつ五對句をなしてゐる。對句は祝詞や、他の長歌にもあるが、かく多數にならべるのは、六朝詩文の影響と言はねばならぬ。ことに青浪爾望者多要奴白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴《アヲナミニノゾミハタエヌシラクモニナミダハツキヌ》の如き、全く漢文直譯式の叙法であり、且この題材と、作者が山上憶良なることを思へば、この歌が全く支那趣味によつて作られてゐることを認めねばなるまい。なほこの長歌は卷十三の見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而思虚不安國嘆虚不安國左丹漆之小舟毛鴨玉纒之小楫毛鴨榜渡乍毛相語妻遠《ミワタシニイモラハタタシコノカタニワレハタチテオモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニサニヌリノヲブネモガモタママキノヲカイモガモコギワタリツツモアヒカタラメヲ》(三二九九)を基として、手を入れたものであるのは、憶良のために惜まざるを得ない。またこの歌と卷九の一七八〇とも少し似てゐる。
(591)反歌
1521 風雲は 二つの岸に 通へども 吾が遠嬬の 一云、はしづまの 言ぞ通はぬ
風雲者《カゼクモハ》 二岸爾《フタツノキシニ》 可欲倍杼母《カヨヘドモ》 吾遠嬬之《ワガトホヅマノ》【一云|波之嬬乃《ハシヅマノ》 事曾不通《コトゾカヨハヌ》
風ト雲トハコノ天ノ川ノ〔六字傍線〕、アチラノ岸トコチラノ岸トニ往來スルガ、實ノ使デハナイカラ〔九字傍線〕私ノ遠クニヰル妻ノ織女〔二字傍線〕ノ言葉モ傳ヘナイヨ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
○風雲者《カゼクモハ》――風と雲とは。これも漢文調らしく聞える。○吾遠嬬之《ワガトホヅマノ》――遠嬬は遠くに在る妻。ここは織女をさす。一云|波之嬬乃《ハシヅマノ》のとあるのは、愛嬬《ハシヅマ》で、愛《ハ》しき妻の略である。○事曾不通《コトゾカヨハヌ》――事は言の借字。
〔評〕 牽牛星の心になつてよんでゐる。冒頭が漢文調になつてゐるのみならず、全體が堅い調子になつてゐる。
1522 たぶてにも 投げ越しつべき 天の川 隔てればかも あまた術無き
多夫手二毛《タブテニモ》 投越都倍伎《ナゲコシツベキ》 天漢《アマノガハ》 敝太而禮婆可母《ヘダテレバカモ》 安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》
礫ヲナゲテデモ、越スコトガ出來サウナ狹イ〔二字傍線〕天ノ川デハアルガ〔五字傍線〕、カケ隔ツテヰテ渡ルコトガ出來ナイ〔九字傍線〕カラカ、コンナニヒドク何トモ仕樣ガナイホド戀シイ〔五字傍線〕ノデアラウカ。
○多夫手二毛《タブテニモ》――多夫手《タブテ》はツブテ。礫。手にて擲るやうな小石。手棄《タウテ》の義かといふ。ニモはニテモの意。古義に二を乎《ヲ》の誤としたのは從ひ難い。○安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》――安麻多《アマタ》は數多。甚だしくの意。奧津浪驂乎聞者數悲哭《オキツナミサワグヲキケバアマタカナシモ》(一一八四)・袖不振爲而安萬田悔毛《ソデフラズシテアマタクヤシモ》(三一八四)の類と同じである。
〔評〕 これも牽牛星の心であるが、前の歌と同樣調子が堅い。長歌では海のやうに廣い天の川だつたが、これでは石を投げても越せさうになつてゐる。いづれ空想の作品であるから、この矛盾を咎めてはいけない。また、つぶてでも投げ越せるといふのは、男性らしい言葉でそこに面白味もあるのである。
(592)右天平元年七月七日(ノ)夜、憶良、仰2觀(ル)天河(ヲ)1【一云帥家作】
天平元年は憶良が筑前守として筑紫にあつた時である。一云帥家作とあるのは多分正しい傳であらう。河の字の下に、作の字があるべきが脱ちたのだらうと代匠記に言つてゐる通りであらう。舊本、帥を師に作るは誤。京大本による。
1523 秋風の 吹きにし日より いつしかと 吾が待ち戀ひし 君ぞ來ませる
秋風之《アキカゼノ》 吹爾之日從《フキニシヒヨリ》 何時可登《イツシカト》 吾待戀之《ワガマチコヒシ》 君曾來座流《キミゾキマセル》
秋風ガ吹キハジメタ日カラ、イツニナツタラ逢へルカ〔四字傍線〕ト、ソノ日ヲ指折り數ヘテ〔十字傍線〕私ガ待ツテ戀ヒ慕ツテヰタオ方ガ、オイデニナリマシタヨ。アア嬉シイ嬉シイ〔八字傍線〕。
○君曾來座流《キミゾキマセル》――君は牽牛をさす。
〔評〕 極めて平易な歌で、地上の戀と何ら變らぬやうによんである。織女星の心になつてよんでゐる。
1524 天の川 いと河浪は 立たねども さもらひ難し 近きこの瀬を
天漢《アマノガハ》 伊刀河浪者《イトカハナミハ》 多多禰杼母《タタネドモ》 伺候難之《サモラヒガタシ》 近此瀬乎《チカキコノセヲ》
天ノ川ニハ、ヒドク川浪ハ立タナイケレドモ、サウシテ〔四字傍線〕近イコノ瀬ダノニ、年ニ一度シカ渡レナイノデ、ソレヲ待ツテ〔年ニ〜傍線〕待チカネテヰル。
○伊刀河浪者《イトカハナミハ》――伊刀《イト》は甚だ。この語は第三句の多多禰杼母《タタネドモ》につづいてゐる。○伺候難之《サモラヒガタシ》――伺候《サモラヒ》は大御舟竟而佐守布《オホミフネハテテサモラフ》(一一七一)・大船候水門事有《オホフネノサモラフミナトコトシアラバ》(一三〇八)・妹爾相時候跡《イモニアフトキサモラフト》(二〇七二)など皆、時期を待つことである。ここも待つてゐて、待つに堪へかねる意である。この句の解、略解に「川瀬をうかがひ渡りがたきといふ也」古義に「牽牛のもとにさぶらひ難し」とあるのはいづれも誤つてゐる。
〔評〕 これは二星のいづれの心とも判じがたい。少し表現に曖昧な點がある。
(593)1525 袖振らば 見もかはしつぺく 近けども 渡るすべ無し 秋にしあらぬば
袖振者《ソデフラバ》 見毛可波之都倍久《ミモカハシツベク》 雖近《チカケドモ》 度爲便無《ワタルスベナシ》 秋西安良禰波《アキニシアラネバ》
袖ヲ振レバ、互ニ顔ヲ見合セルコトガ出來ルホドニ近イケレドモ、間ヲ隔テテヰル天ノ川ハ〔間ヲ〜傍線〕、秋デナイカラ今ハ〔二字傍線〕渡ルベキ方法モナイ。
○雖近《チカケドモ》――舊訓チカケレドとあるが、代匠記精撰本に「今按、雖遠をトホケドモとよめる古語になずらへば、チカケドモと讀べし」と言つたのに從ふべきである。
〔評〕 これも二星の心である。考には「牽牛になりて云なり」とある。天の川が狹いやうに詠んで、逢瀬のままならぬと對照さしてある。
1526 玉かぎる ほのかに見えて 別れなば もとなや戀ひむ 逢ふ時までは
玉蜻※[虫+延]《タマカギル》 髣髴所見而《ホノカニミエテ》 別去者《ワカレナバ》 毛等奈也戀牟《モトナヤコヒム》 相時麻而波《アフトキマデハ》
私ハアナタト〔六字傍線〕(玉蜻※[虫+延])タダ一寸一夜ダケ〔四字傍線〕オ目ニカカツタバカリデオ別レシタナラバ、又オ目ニカカル時マデハ、徒ラニ戀ヒ慕ツテヰルコトデセウ。
○玉蜻※[虫+延]《タマカギル》――枕詞。この句は從來カゲロフノ又はカギロヒノとよまれて來たが、タマカギルとよむべきである。蜻※[虫+延]はカゲロフであるのを、カギロフに通ぜしめ、カギルに用ゐたのである。この枕詞については四五に委しく説いて置いたから、參照せられたい。玉の輝きの光ほのかなる意で、髣髴《ホノカ》につづけるのである。○毛等奈也戀牟《モトナヤコヒム》――毛等奈《モトナ》はここでは、徒らに・猥りになどの意。委しくは二三〇參照。
〔評〕 一夜の逢瀬をホノカニミエテと言つたのが、いかにも物足りなさうに、物はかなさうに聞えて、あはれである。
右天平二年七月八日(ノ)夜、帥(ノ)家集會
太宰帥大伴旅人の家の集倉で、憶良が作つたもの。この年十月一日を以て旅人は大納言になつて都に歸つ(594)た。
1527 彦ほしの 嬬迎へ船 こぎ出らし 天の河原に 霧の立てるは
牽牛之《ヒコホシノ》 迎嬬船《ツマムカヘブネ》 己藝出良之《コギヅラシ》 漢原爾《アマノカハラニ》 霧之立波《キリノタテルハ》
今天ノ川ヲ見ルト〔八字傍線〕、天ノ川原ノ上ニ霧ガ立チ罩メテヰルガ、アノ霧ハ〔四字傍線〕牽牛星ガ妻ノ織女星〔四字傍線〕ヲ迎ヘル爲ノ舟ガ、天ノ川ヲ漕ギ出ルノデ、水烟ガ立ツテ霧ト見エル〔ノデ〜傍線〕ノデアラウ。
○迎嬬船《ツマムカヘブネ》――牽牛が織女を迎へに出る船。普通の傳説では牽年が織女に逢ひに行くので、織女を迎へて來ることはないやうである、かうした傳もあつものと見える。○霧之立波《キリノタテルハ》――舊訓キリノタテレバとあるのを、考にタテルハと改めたのがよい。
〔評〕 これは天の川のほとりに、夕霧のかかつてゐるのを見て、これを天の川を漕ぐ船の櫂の水烟と見たもので、客觀的想像によつたのである。前の歌が、星の心になつてよんだのに比して、情趣が豐かである。
1528 霞立つ 天の河原に 君待つと いかよふほどに 裳の裾ぬれぬ
霞立《カスミタツ》 天河原爾《アマノカハラニ》 待君登《キミマツト》 伊往還程爾《イカヨフホドニ》 裳襴所沾《モノスソヌレヌ》
霞ノ立ツテヰル天ノ川原デアナタノオイデ〔四字傍線〕ヲ待ツトテ、行ツタリ來タリシテヰルウチニ、着物ノ裳ノ裾ガヌレマシタ。
○霞立《カスミタツ》――霞は即ち霧である。この時代は秋霧をも霞と言つた。卷二の八八參照。○伊往還程爾《イカヨフホドニ》――イは接頭語で意味はない。往還《カヨフ》は行きつもどりつ往反すること、新訓は類聚古集に、伊往還爾とあるによつて、イユキカヘルニとよんでゐる。
〔評〕 織女になつてよんでゐる。牽牛を待つ焦燥的な氣分も見えて、しかも優雅な作品である。
1529 天の河 浮津の浪|音《と》 騷ぐなり 吾が待つ君し 舟出すらしも
天河《アマノガハ》 浮津之浪音《ウキツノナミト》 佐和久奈里《サワグナリ》 吾待君思《ワガマツキミシ》 舟出爲良之母《フナデスラシモ》
天ノ川ノ浮津ノ浪ノ音ガ騷イデ聞ニルワイ。私ガ待ツテヰルアノオ方ガ、舟出ヲナサルラシイヨ。モウスグオイデナサルダラウ〔モウ〜傍線〕。
○浮津之浪音《ウキツノナミト》――考には浮を彌の誤として、ミツノナミオトとよんでゐる。古義には、「岡部氏云、浮洲と云へば、浮津ともいはむか、されどなみとといへるは、おぼつかなし。仍て思ふに、浮は御の誤にてミツノナミノトとよむべく覺ゆ」とあり。新考に渡津《ワタツ》の誤とあるが、誤字としないでこのままで考ふべきであらう。略解に「天上の事故に浮津といふか。神代紀天浮橋なども言へり」とあるのが、むしろ穩かであらう。天上にある川であるから、空想的に浮津といつたので、浮津は浮いた津。津は舟の着くところ。天の川の舟着き場である。
〔評〕 これも織女の心になつてよんでゐる。天の川の浮津の浪音の騷ぎを思ひやつて、織女の喜悦に同情してゐるが、全く空想の歌である。以上の諸作はいづれも典雅な感じのよいもので、風流才子たる作者の俤が偲ばれる。
太宰(ノ)諸卿大夫并宮人等宴(スル)2筑前國蘆城驛家(ニ)1歌二首
卿は上達部、大夫は五位、官人はそれ以下の卑官である。卷五の梅花の宴(八一五)の條に大貳紀卿とあるから、帥と大貳とが卿で、少貳・筑前守・筑後守が大夫と記してあるから、少貳と國守とが大夫である。官の字舊本宮に作るは誤。神田本・西本願寺本などの古本多くは官に作つてゐる。蘆城驛は太宰府の東南一里許の地にあつた。五四九・五六八參照。
1530 をみなへし 秋萩まじる 蘆城の野 今日をはじめて 萬代に見む
娘部思《ヲミナヘシ》 秋芽子交《アキハギマジル》 蘆城野《アシキノヌ》 今日乎始而《ケフヲハジメテ》 萬代爾將見《ヨロヅヨニミム》
女郎花ニ秋ノ萩ガマジツテ美シク咲イテヰル〔八字傍線〕蘆城ノ野ハ、實ニ美シイ景色ダカラコノ野〔ハ實〜傍線〕ヲ今日ヲ最初トシテ、イツマデモ見ルコトニシマセウ。
(596)○蘆城野《アシキノヌ》――蘆城山を背にして展開した野原で、蘆城川がそこを流れてゐる。○今日乎始而《ケフヲハジメテ》――今日を始として、新考に「ケフヲハジメテは今日ヨリ始メテなり。ヨリがヲにかはれるなり」とあるのはどうであらう。
〔評〕 女郎花と萩とが、野を彩つて咲いてゐるその美しさは想像せられるが、下句が型に嵌つたやうで、さして面白いことはない。併し明るい感じの作ではある。
1531 珠くしげ 蘆城の河を 今日見てば 萬代までに 忘らえめやも
珠〓《タマクシゲ》 葦木乃河乎《アシキノカハヲ》 今日見者《ケフミテハ》 迄萬代《ヨロヅヨマデニ》 將忘八方《ワスラエメヤモ》
(珠〓)葦城川ノ面白イ景色〔六字傍線〕ヲ今日見ルト、萬年ノ後モ面白サガ〔四字傍線〕忘レラレヨウカ、決シテ忘レルコトは出來ナイ〔決シ〜傍線〕。
○珠〓《タマクシゲ》――枕詞。葦木の川に續くのは、冠辭考にあるやうに、揃笥を開《アク》といひかけたのである。古義に「葦木を淺笥《アサケ》の意にとりてつづけたるなるべし」とあるのは當らない。○葦木乃河乎《アシキノカハヲ》――葦木川は寶滿山及び大根地山の水を集め、葦(597)木山(宮地嶽)の麓に沿うて、南流する川である。寫眞は太宰府大藪氏の好意によつて、特に撮影したもの。○今日見者《ケフミテバ》――舊訓ケフミレバを、古義にケフミテバと改めたのに從ふ。
〔評〕 これも前の歌と同じく、蘆城風景禮讃の歌であり、また宴席でのことほぎ歌である。葦木河の叙景がない爲に、更に感興が湧かない。
右二首作者未v詳
長官であつた大伴旅人の下僚の誰かが作つて、宴席で歌つたものでもあらうか。さして名ある人の作とは思はれない。
笠朝臣金村|伊香《イカゴ》山作歌二首
伊香山は近江國伊香郡にある。和名抄に伊香郡伊香郷が見え、そこが郡家であつた。今の古保利村附近である。又、その附近に伊香具村があり、式内社の伊香具社も祀られてゐるから、恐らくそこの山をさしたのであらう。即ち余呉湖の南、賤ケ岳の南嶺である。笠金村は卷三に、鹽津山作歌二首(三六四)があるから、その時の作であらう。
1532 草枕 旅行く人も 行き觸らば にほひぬべくも 咲ける萩かも
草枕《クサマクラ》 客行人毛《タビユクヒトモ》 往觸者《ユキフラバ》 爾保此奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》 開流芽子香聞《サケルハギカモ》
(草枕)旅行シテヰル人デモ、ソレニ〔三字傍線〕觸レルト、着物ガ〔三字傍線〕色ニ染リサウニ美シク咲イテヰル萩ノ花ヨ。ホントニコノ伊香山ノ麓ノ萩ハ美シイ〔ホン〜傍線〕。
○往觸者《ユキフラバ》――舊訓ユキフレバとあるが、集中四段活の用例が多いから、フラバとよむことにする。○爾保比奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》――ニホフは色に染まること。
〔評〕 野もせに咲いた萩が、枝もたわわに路を蔽うてゐる樣が見える。旅路の憂さもしばしは打忘れて、花に見(598)とれてゐる趣である。平明な作。
1533 伊香山 野邊に咲きたる 萩見れば 君が家なる 尾花し念ほゆ
伊香山《イカゴヤマ》 野邊爾開有《ヌベニサキタル》 芽子見者《ハギミレバ》 公之家有《キミガイヘナル》 尾花之所念《ヲバナシオモホユ》
今コノ伊香山ノ麓ノ野ニ咲イテヰル萩ノ花〔二字傍線〕ヲ見ルト、アナタノ家ノオ庭〔三字傍線〕ノ尾花ガナツカシク〔五字傍線〕思ヒ出サレマス。オ宅ノオ庭ノ尾花モ美シク穗ニ出タデセウ〔オ宅〜傍線〕。
○伊香山野邊爾開有《イカゴヤマヌベニサキタル》――伊香山野邊とは伊香山の野邊で、右に述べた伊香山に近い野である。即ち今の伊香具村附近の平地であらう。○公之家有《キミガイヘナル》――公は誰をさしたものか不明。契沖は「公とは故郷の妻なり」といひ、略解に「故郷の友へ、詠みてやれるなるべし」とし、古義は「本郷なる某公の家の庭にある尾花のさまの思ひ出されて云々」と言つてゐる。
〔評〕 この歌は故郷へ贈つた歌と解釋する説が多い。恐らくそれでよいのであらうが、旅の同伴者を公《キミ》とよんで、歌ひかけたものとも見られないことはないのである。さう思つて見ると、前の歌も自己の直感を、旅の友に語つてゐるやうにも見える。要するに題詞が簡單に過ぎて、その點の明瞭を缺いてゐるのは遺憾である。どちらにも(599)考へられるから、殊更に異を立てないで、舊説のままにして置いた。歌は平庸といつてよい。袖中抄に出てゐる。
石川朝臣|老夫《オキナ》歌一首
石川朝臣老夫の傳は明らかでない。契沖は、續紀に「文武天皇二年秋七月己未、直廣肆石川朝臣小老爲2美濃守1」とあるから、その小老の子であらうといつてゐる。
1534 女郎花 秋萩を折れ 玉桙の 道行づとと 乞はむ兒の爲
娘部志《ヲミナヘシ》 秋芽子折禮《アキハギヲヲレ》 玉桙乃《タマボコノ》 道去※[果/衣のなべぶたなし]跡《ミチユキヅトト》 爲乞兒《コハムコノタメ》
家ニ歸ツタヲ〔六字傍線〕(玉桙乃)道中ノオ土産ヲ下サイト女ガ〔二字傍線〕乞フデアラウガ、ソノ〔三字傍線〕女ノ爲ニ、土産トシテ〔五字傍線〕、女郎花ト秋萩トヲ折ツテ持ツテ行キナサイ。
○秋芽子折禮《アキハギヲヲレ》――アキノハギヲレといふ古訓もあるが、舊訓はアキハギタヲレである。併しタに當る文字がない。契沖は、子の下、手の字が脱ちたか、又は子は手の誤かといひ、精撰本には「アキハキヲヲレとも點すべし」といつてゐる。少し調子が惡いが、これに從ふのが穩かであらう。宣長は禮は那の誤でヲラナであらうと言つてゐる。意はそれでよく聞えるが、もとのままにして改めない方がよい。○玉桙乃《タマボコノ》――道の枕詞。七九參照。○道去※[果/衣のなべぶたなし]跡《ミチユキヅトト》――旅から歸つた家苞。旅行のみやげ。※[果/衣のなべぶたなし]《ツト》は藁に包んだもの。轉じて、みやげ。道去《ミチユキ》は道を行くこと。即ち旅行。路行占《ミチユキウラ》(二五〇七)・路行人《ミチユキヒト》(二三七〇)・道去夫利《ミチユキブリ》(二六〇五)などの熟語がある。
〔評〕 旅行中の即興である。家路を急ぐ同行の人たちに呼びかけてゐる、ほがらかな感じの歌。
藤原宇合卿歌一首
宇合は不比等の三男。式家の祖。七二參照。
1535 吾がせこを いつぞ今かと 待つなべに 面やは見えむ 秋の風吹く
(600)我背兒乎《ワガセコヲ》 何時曾旦今登《イツゾイマカト》 待苗爾《マツナベニ》 於毛也者將見《オモヤハミエム》 秋風吹《アキノカゼフク》
私ノ夫ガ何時來ルダラウ〔五字傍線〕カ、今カ今カ〔二字傍線〕ト思ツテ〔三字傍線〕待ツテヰルト、夫ノ〔二字傍線〕顔ガ見エル時ニナツタノダラウ。秋風ガソヨソヨト〔五字傍線〕吹イテ來タ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○何時曾旦今登《イツゾイマカト》――何時來るぞ、今來るかとの意。旦今はイマとよむのは、卷七に旦今跡香毛《イマトカモ》(一〇七八)とある。舊本、旦とあるは且の誤。○於毛也者將見《オモヤハミエム》――面やは見えむ。面は見えるであらうかと疑ひ、期待するのである。反語ではない。略解に「面也は面輪の意か。卷十八、於毛|夜《ヤ》目都良之みやこがたびとと詠めり云々」とあり、宣長は「於は聲の誤。也は世の誤にて、聲毛世者將見《オトモセバミム》あきかぜのふけなるべし。おとは風の音也」といつてゐる。その他にも文字を改める説があるが、從ひがたい。
〔評〕 これは七夕の歌で、織女の心をよんだのである。そよ吹き初めた秋風に、彦星に逢ふべき時の近づいたのを喜んでゐる。古義に、「思ふ人の來むとする前表には、風のそよそよと吹來ると云ふならはしのありしならむ」といつて卷四の、君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトアガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》(四八八)を引いてゐるのは見當違ひであらう。
縁達師《エヌタチシ》謌一首
縁達師は舊本に振假名して、ヨリユキノイクサとあるがわからない。契沖は縁達は僧の名で、師は法師の師であらうといつてゐる。縁は古義にエムと假名をつけてゐるが、この字は韻鏡、山攝の音で、n音尾であるから、エヌと振假名すべきである。
1536 よひに逢ひて 朝南無み 隱野の 萩は散りにき 黄葉はやつげ
暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面羞《アシタオモナミ》 隱野乃《ナバリヌノ》 芽子者散去寸《ハギハチリニキ》 黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》
(暮相而朝面羞)名張ノ野ノ萩ノ花〔二字傍線〕ハモウ散ツテシマツタ。今度ハ〔三字傍線〕紅葉ガ早クソノアトニ〔五字傍線〕續イテクレヨ。秋ノ眺メガ淋シクナルカラ〔秋ノ〜傍線〕。
○暮相而朝面羞《ヨヒニアヒテアシタオモナミ》――序詞。隱野《ナバリヌ》につづくのは、女が男に逢つた翌朝、男に對して恥かしく思つて、顔を隱す意である。六〇參照。○隱野乃《ナバリヌノ》――隱野《ナバリヌ》は伊賀の名張地方の野。○黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》――代匠記に「黄葉早續とは即芽子の黄葉なり」とあるのは、甚だしい誤である。黄葉は隱野の木々の紅葉をいふ。也は添へて書いたもので、漢文式字用例である、朝露乃如也夕霧乃如也《アサツユノゴトユフツユノゴト》(二一七)參照。
〔評〕 卷一の長皇子の御歌、暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカケナガキイモガイホリセリケム》(六〇)と序詞が全く同じである。長皇子の御歌は、序詞が歌の内容と幾分の關係を有つてゐるが、これは何の所縁もなく、全く旅中の叙景歌である、この二歌はいづれが先か明らかでないが、若しこの卷の作家の順序によつて判斷するならば、この縁達師が後のやうに思はれる。
山上臣憶良詠2秋野花1二首
目録には花の下に歌の字がある、大矢本・京大本にもあるから、それが原形かも知れない。
1537 秋の野に 咲きたる花を および折り かき數ふれば 七種の花
秋野爾《アキノヌニ》 咲有花乎《サキタルハナヲ》 指折《オヨビヲリ》 可伎數者《カキカゾフレバ》 七種花《ナナクサノハナ》 其一
秋ノ野ニ咲イテヰル花ヲ、指ヲ折ツテ數ヘルト、七種類ノ花ガアル。
○指所《オヨビヲリ》――和名抄に、指、手指也、和名由比、俗云於與比とある。指を折るは指を屈すること。○可伎數者《カキカゾフレバ》――カキは強く言ふのみ。○七種花《ナナクサノハナ》――文字の通り、七種類の花である。七草ではない。
〔評〕 短歌の形式になつてゐるといふまでで、全く散文式の凡作である。但しこれは内容を見るべきもので、詩としての價値を論ずべきではあるまい。この歌袖中抄に出てゐる。
1538 萩が花 尾花葛花 なでしこの花 女郎花 また藤袴 朝貌の花
芽之花《ハギガハナ》 乎花葛花《ヲバナクズバナ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》 姫部志《ヲミナヘシ》 又藤袴《マタフヂバカマ》 朝顔之花《アサガホノハナ》 其二
(603)ソノ七種類ノ花ト云フノハ〔ソノ〜傍線〕、萩ノ花、尾花、葛花、撫子ノ花、女郎花及ビ藤袴ト朝顔ノ花トデアル〔四字傍線〕。
○芽之花《ハギガハナ》――萩の花。萩は集中、芽又は芽子と記されてゐて、萩の字はない。萩の字はヨモギの義であるのを、秋草の代表といふやうな意で、ハギに用ゐるやうになつたらしい。萬葉集に詠まれた花の中で、最も多數なものである。○乎花葛花《ヲバナクズバナ》――乎花《ヲバナ》は尾花。薄の花の形が尾のやうに見えるから、かく名づけたのであらう。この花の集中に詠まれた數は、七種の花の内では第三に位してゐる。葛花《ケズバナ》は豆に似た紫赤色の花で、かなり美しい。併し花の美しさを歌つたものは、集中この歌の外にない。○瞿麥之花《ナデシコノハナ》――前にも屡々出た花で、牛麥とも石竹とも記してある。集中に詠まれた數は、この七種の中で第二位である。○姫部志《ヲミナヘシ》――女郎花のことである。集中にあらはれた歌數は(603)第四位になつてゐる。○又藤袴《マタフヂバカマ》――又は音數の都合で入れたもの。藤袴は高さ三四尺の多年生草本で、葉は對生し、下部のものは三裂し、上部のものは廣披針形で鋸齒を有してゐる。乾けば佳香を發する。花は稍頭に群り咲いて淡紫色である。さしたる美觀ではないが、今も往々庭園に栽培せられる。藤は花の色を以て名づけたもので、袴は花瓣が筒状をなしてゐるのが、袴に似てゐるからであらう。和名抄「蘭、一名宦A布知波加麻」とあり、蘭又は蘭草と記し、ラニノハナと稱するのもこれである。一説に藤袴を野菊とするのは誤である。藤袴は集中この歌以外には見えない。○朝貌之花《アサガホノハナ》――萬葉集のアサガホについては、古來諸説紛々として 未だ決定しない有樣で、木槿《ムクゲ》説、桔梗説、旋花《ヒルガホ》説、牽牛花説の四がある。(1)木槿説の理由とするところは、(イ)槿は槿花一日榮と言はれ、花の盛が短くて朝顔といふ名にふさはしいと。(ロ)槿花は支那でも日及といつて、朝に開いて暮に落つるものとしてゐること。(ハ)和名抄に文字集略を引いて、「蕣、音舜、和名木波知須、地蓮花、朝生夕落者也」とあり、蕣と槿とは同一物で、蕣は常にアサガホと用ゐられてゐること。(ニ)舜は毛詩に「有v女同v車顔如2舜華1」とあつて、朝顔の名にふさはしいこと。以上の理由で、古來これを主張する學者が多い。次に(2)桔梗説の由るところは、(イ)新撰宇鏡に「桔梗、上居頡反、下柯杏反、加良久波、又云、阿佐加保」とあり、又別に「桔梗、阿佐加保、又云、岡止々支」とあること。(ロ)秋の野に咲く花としては、最も美しいもので、七種を數ふれば、當然そのうちに擧げらるべき花であること。この二つである。(イ)に掲げた新撰宇鏡の所載は、最も有力な論據となるわけであるが、ただ恠しむべきは同書に桔梗の二字が木篇になつてゐることで、その爲同書にも木の部に入れてある。又カラクハといふ名は、唐桑の意であらうが、寧ろ木槿を思はしめるものがないでもない。併し支那でも、桔梗の文字は吾が國のものと同一物をさしてゐるやうであるから、桔梗の古名をアサガホと呼んだことを認めねばなるまい。(ロ)に對しては誰も異論はあるまいと思ふ。次に(3)旋花説は狩谷掖齋が箋注和名類聚抄に述べたところで、同書に、「岡村氏曰、舜楚謂2之〓1者本草所謂旋花也、旋即舜假借也、蘇敬云、此即生2平澤1旋〓是也、旋〓亦即舜〓、舜〓或單呼累呼或並通、救荒本草云、〓子根、幽薊間謂2之燕〓根1者、亦即是、今俗呼2比流加保1」とあり、舜と旋と通じ、旋花は即ちヒルガホであるといふのである。この説には新考なども賛意を表してゐるが、古く旋花をアサガホといつた證は全くなく、却て本草和名にハヤヒト(604)グサ、一名カマとあるのである、一説に、集中に容花《カホバナ》とよんだものは恐らく今のヒルガホのことで、牽牛花をアサガホといふやうになつてから、區別してヒルガホといふことになつたのであらうとも言はれてゐる。ともかくヒルガホは野の花ではあるが、花期は秋ではなくて、酷熱の眞夏であり、朝露おひて咲くといふやうな趣もない。花品も賤しくて後世でも殆ど歌によまれないやうであるから、この説は遽かに賛成出來ないものである。(4)牽牛花説、牽牛花即ち今のアサガホは、古昔は槿の字を用ゐたもので、萬葉の朝貌は槿即ち牽牛花であるといふ説である。つまり槿と牽牛花とを混同したものである。これは古く和漢朗詠集にも、槿、松樹千年終是朽槿花一日自爲榮來而不留薤※[土+龍]有拂晨之露去而不返槿籬無投暮之花とあるに並べて、「おぼつかな誰とか知らむ朝露の絶間に見ゆるあさかほの花、」「朝かほをなにはかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ」とあつて、詩文の句はムクゲであるのに、歌は牽牛花をよんだもので、この「朝がほを」の歌は、今昔物語に道信が牽牛花を見るといふ心をよんだものとして出てゐるのである。牽牛花は古今要覽にも「延喜のむかし呉船舶の載せ來りしが云々」とあつて、平安朝の中葉に、藥品としてその種子を舶來してから、世に行はれるやうになつた。古今集にケニコシとあるのは、牽牛子の音讀で、これが舶來當時の名であつたらうと思はれる。和名抄には「牽牛子和名阿佐加保」とある。右にあげた道信は爲光の子、正暦五年に卒した人であるから、アサガホの名も間もなく行はれたのである。源氏物語に見えるあさがはも牽牛花である。ともかく、この花が古くから吾が國にあつたといふ證はない。況んや野草として見ることは絶對に出來ないのである。この牽牛花説は、四説のうちで最も取るに足らぬものである。右の四説を比較して見ると、結局第一の木槿《ムクゲ》説と第二の桔梗説とが有力で、他の二説は顧るに足らぬやうである。さうして木槿説は古義に力説してゐるところで、廣く信じられてゐるやうだが,この説の缺點は、木槿《ムクゲ》は吾が國の固有の植物でなく、もと支那から舶載したものであることである。これについて白井光太郎氏の植物渡來考には「アルメニヤ、レンコル等にあれども、眞のシリヤには自生なしと云ふ。支那には古代よりあり。爾雅に椴は木槿、※[木+親]は木槿とあり云々」と記して、これを外來植物としてゐる。又この花は漢文にあらはれたものを見ても、多くは籬に植ゑるものとして記されてゐるので、現今吾が國に於ても、籬に植ゑるのを常とし、野生のものは全く見ないのである。して見ると憶良の七種花の朝貌を、木槿と(605)するのは穩當でないやうに思はれる。然らば萬葉のアサガホは何と定むべきかといふに、それはもはや第二説の桔梗とするより外はないのである。この花については前に掲げたやうに、なほ多少の疑點が無いではなく、又特にアサガホと呼ぶ理由を見出し難いやうであるが、アサガホの名が、平安朝初期に行はれてゐたことは、新撰宇鏡によつて認むべきであるから、萬葉のアサガホは桔梗と推定すべきであらうと思はれる。古今集に桔梗をキチカウとよんであるのは、殊更に漢名を用ゐたので、和名が當時なかつたのではない。しかしそれ以來漢名を日本的にしたキキヤウが普通に用ゐられ、はやく源氏物語にも記されて居り、アサガホの名は牽牛花の稱呼となつて了つたのであらう。
〔評〕 旋頭歌の形式に七種の花名を詠み込んだといふまでで、藝術的價値はない。併しこれが後世の藝術に影響したことは頗る大きい。
天皇御製歌二首
ここに天皇とあるのは、前後の歌から推測すると聖武天皇である。ただ天皇とのみ記し奉つたので、この卷の資料が、この天皇の御代に形作られたことがわかる。
1539 秋の田の 穂田をかりが音 闇けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも
秋田乃《アキノタノ》 穂田乎鴈之鳴《ホダヲカリガネ》 闇爾《クラケクニ》 夜之穂杼呂爾毛《ヨノホドロニモ》 鳴渡可聞《ナキワタルカモ》
(秋田乃穗田乎)鴈ガマダ暗イノニ、夜明ケ方ニ鳴イテ行クヨ。
○秋田乃穂田乎鴈之鳴《アキノタノホダヲカリガネ》――秋の田の穂田をは、苅りを雁に言ひかけたので、序詞である。併し時節が既に秋の田を苅るべき頃で、その頃に來鳴く雁なることを思はしめるやうに詠まれてゐる。類聚古集・神田本などの古本も亦、和歌童蒙抄、袖中抄などに引かれたのにも、初句、秋日となつてゐるが、秋田がよいやうである。○闇爾《クラケクニ》――舊訓クラヤミニとあり、略解はクラケキニともヤミナルニともあるが、古義にクラケクニとよんだのが(606)よい。見吉野乃山下風之寒久爾《ミヨシヌノヤマノアラシノサムケクニ》(七四)のサムケクニと同形である。○夜之穗杼呂爾毛《ヨノホドロニモ》――夜之穗杼呂《ヨノホドロ》は夜明け頃のほの暗い時をいふ。七五四參照。
〔評〕 序詞が歌の内容と關係を持つてをり、從つて歌を複雜にしてゐる。全體の調子が莊重で、まことに至尊の品格を備へた御作である。
1540 今朝の朝け 雁が音寒く 聞きしなべ 野邊の淺茅ぞ 色づきにける
今朝乃旦開《ケサノアサケ》 鴈之鳴寒《カリガネサムク》 聞之奈倍《キキシナベ》 野邊能淺茅曾《ヌベノアサヂゾ》 色付丹來《イロヅキニケル》
今朝ノ夜明ケ方、雁ガ寒サウナ聲ヲ出シテ鳴クノヲ聞イタガ、ソノ聲ニ〔五字傍線〕ツレテ、野ノマバラニ生エタ茅原ハ、色ガ赤ク染マツテ來タ。
○今朝乃旦開《ケサノアサケ》――舊本且とあるが、西本願寺本など旦に作るがよい。アサケはアサアケ。
〔評〕 夜のほどろに鳴き渡る雁の聲を聞き給うた日、たまたま遙かに野邊の方を眺めやり給うて、霜枯れた淺茅の色に驚き給うたのである。霜まよふ空に翼をしをらかして、飛び來る雁の聲を聞けば、直ちに野山は紅葉に飾られる。今朝之旦開雁之鳴聞都春日山黄葉家良思吾情痛之《ケサノアサケカリガネキキツカスガヤマモミヂニケラシワガココロイタシ》(一五一三)といふやうな詩想が、おのづから型に嵌つたやうに出來て來るわけであるが、この御歌は、直感そのままを何の粉飾もなく、直線的に述べ給うたので、そこに力強さがあり、風物の變化に驚き給うた感情が流露してゐる。
太宰帥大伴卿歌二首
1541 吾が岳に さを鹿來鳴く 先萩の 萩嬬問ひに 來鳴くさを鹿
菩岳爾《ワガヲカニ》 棹牡鹿來鳴《サヲシカキナク》 先芽之《サキハギノ》 花婿問爾《ハナヅマトヒニ》 來鳴棹牡鹿《キナクサヲシカ》
私ノ家近イ〔三字傍線〕岡ニ、男鹿ガ來テ鳴クヨ。初咲ノ萩ノ花妻ヲ訪ネニ來テ男ノ鹿ガ鳴クヨ。ホントニ悲シサウナ聲ダ〔ホン〜傍線〕。
○吾岳爾《ワガヲカニ》――吾が家近い岡に。帥の家が岡の上にあつたのではあるまい。○先芽之《サキハギノ》――先芽は早咲きの萩であら(607)う。神樂歌の「さいばりに衣はそめむ雨ふれどうつろひがたし深くそめてば」とある「さいばり」もこのサキハギの音便である。拆榛《サキハリ》として、榛の皮を細かく割いたものと見る説は當らない。新考にこの句を花にかかる枕詞と見たのは從ひ難い。○花嬬問爾《ハナヅマトヒニ》――花嬬は花のやうに美しい妻の意であるが、鹿と萩の花との親しさから、特に萩を鹿の妻に見なしていふ。後世に多く用られる萩の花妻なる語は、濫觴をここに發してゐるのである。
〔評〕 先芽之花嬬《サキハギノハナヅマ》なる語が珍らしくて面白い。第二句に棹牡鹿來鳴《サヲシカキナク》とあるのを、第五句に顛倒して來鳴棹牡鹿《キナクサヲシカ》としたのは、よい工風である。同形の反滅では、この内容としては、あまり調子が輕くなり過ぎるから、かうしたのであらう。
1542 吾が岳の 秋萩の花 風をいたみ 散るべくなりぬ 見む人もがも
吾岳之《ワガヲカノ》 秋芽花《アキハギノハナ》 風乎痛《カゼヲイタミ》 可落成《チルベクナリヌ》 將見人裳欲得《ミムヒトモガモ》
吾ガ家近イ〔三字傍線〕岡ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ風ガヒドイノデ、モウ散リサウニナツタ。惜シイモノダ。散ラナイウチニ〔惜シ〜傍線〕見ニ來〔二字傍線〕ル人ガアレパヨイガナア。
〔評〕 平板の評は免かれないが、旅人らしい明るい氣分の歌である。卷五のこの作者の、後追和梅歌四首の内の、和我夜度爾左加里爾散家留牟梅能波奈知留倍久奈里奴美牟必登聞我母《ワガヤドニサカリニサケルムメノハナチルベクナリヌミムヒトモガモ》(八五一)と、梅と萩との相異のみで、全く同じ歌である。いづれも太宰府での作で、その前後を辨へ難い。或はこれは梅の後に作つたか。
三原王歌一首
三原王は續紀、「元正天皇養老元年正月乙己授2旡位御原王從四位下1、十月戊寅益v封。聖武天皇天平元年三月甲牛從四位下三原王授2從四位上1、九年十二月壬戍、從四位上御原王爲2弾正尹1、十二年九月乙未治部卿從四位上三原王云々、十八年三月戊辰、以2從四位上三原王1、爲2大藏卿1、四年癸卯正(608)四位下、十九年正月丙申正四位上、二十年二月己未從三位。孝謙天皇天平勝寶元年八月辛未從三位三原王爲2中務卿1同十一月丙辰正三位、四年七月甲寅中務卿正三位三原王薨一品贈太政大臣舍人親王之子也」と見えてゐる。なほ續日本後紀に、「承和四年十月丁酉右大臣從二位清原朝臣夏野薨御原王孫正五位下小倉王之第五子也」とある。ここは大伴旅人が太宰帥であつた頃の作と見えるから、三原王は從四位上であつたであらう。
1543 秋の露は 移しなりけり 水鳥の 青葉の山の 色づく見れば
秋露者《アキノツユハ》 移爾有家里《ウツシナリケリ》 水鳥乃《ミヅトリノ》 青羽乃山能《アヲバノヤマノ》 色付見者《イロヅクミレバ》
秋ニナツテ霹ガオクト〔秋ニ〜傍線〕、(水鳥乃)青々ト木ノ葉ノ茂ツタ山ガ赤ク〔二字傍線〕色ガ付クノデ見ルト、秋ノ露ハ着物ナドヲ染メル〔八字傍線〕移紙ノヤウナモノ〔六字傍線〕ダワイ。
○移爾有家里《ウツシナリケリ》――移とは木草の花を紙に染めて置いて、これをもつて、布帛の類を染めるに用ゐるもの。ウツシバナともいふ。東鑑に「移花十五枚」とあるから、かなり後世まで用ゐられたものである。月草をウツシクサ又はウツシバナと言ふので見ると、主として月草が用ゐられたのである。但しこの歌では紅に染めるのであるから、月草ではなく、當時月草以外に、紅花・唐藍などの移《ウツシ》があつたのである、秋去者影毛將爲跡手蒔之韓藍之花乎誰採家牟《アキサヲバウツシモセムトワガマキシカラアヰノハナヲタレカツミケム》(一三六三)の影《ウツシ》も同樣であらう。○水鳥乃《ミヅトリノ》――枕詞。青羽の意で青葉につづく。○青羽乃山能《アヲバノヤマノ》――青羽は青葉の借字。青葉の山は木の葉の青々とした山。若狹にあるといふ説もあるが、山の名ではない。ここは、前の水鳥之鴨乃羽色乃春山乃《ミヅトリノカモノハイロノハルヤマノ》(一四五一)・卷二十の水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハイロノアヲウマヲ》(四四九四)と同趣である。
〔評〕 露によつて秋の葉が色づくことは多く詠まれてゐるが、これはそれに理智を加へて、譬喩化してゐる。そこに興味もあり嫌味もあるわけである。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
湯原王七夕歌二首
湯原王は志貴皇子の御子。三七五參照。
1544 牽牛の 念ひますらむ こころゆも 見る我苦し 夜の更け行けば
(609)牽牛之《ヒコホシノ》 念座良武《オモヒマスラム》 從情《ココロユモ》 見吾辛苦《ミルワレクルシ》 夜之更降去者《ヨノフケユケバ》
久シ振リデ織女星ニ逢ツタ牽牛星ハ、今夜〔久シ〜傍線〕夜ガ深ケルノニツレテ、別レノ近ヅクノヲ思ツテ、悲シク〔別レ〜傍線〕思ハレルデアラウガ、私ハ空ヲ仰イデ〔八字傍線〕見ルト牽牛星ノ心ヨリモ、私ノ心〔二字傍線〕ガ苦シイヨ。
○念座良武《オモヒマスラム》――思ひいますらむで、思ひ増すらむではない。
〔評〕 年に一夜の逢瀬を喜んだのも束の間、夜の更けると共に別れを悲しむ心が深くなつて行く。その牽牛の胸中を推察し同情したので、男の星の心を思ひやつたのは、男性の作者らしく、歌は例によつて品よく出來てゐる。
1545 織女の 袖つぐよひの あかときは 河瀬の鶴は 鳴かずともよし
織女之《タナバタノ》 袖續三更之《ソデツグヨヒノ》 五更者《アカトキハ》 河瀬之鶴者《カハセノタヅハ》 不鳴友吉《ナカズトモヨシ》
織女ト袖ヲサシ交ハシテ牽牛星ガ寢ル〔六字傍線〕夜ノ明ケ方ハ、天ノ川ノ瀬ニ居ル鶴ハ鳴カナイデモヨイ。鶴ガ鳴カズニヰテ曉ヲ知ラセナケレバ、二ツノ星ハイツマデモ寢テヰルダラウカラ〔鶴ガ〜傍線〕。
○袖續三更之《ソデツグヨヒノ》――袖續《ソデツグ》は袖を連ぬる意で、代匠記に、「袖續とは、たがひの袖をかはして枕とする心なり」とある通りであらう。古義に續を纒の誤として、ソデマクヨヒノとよんでゐる。○不鳴友吉《ナカズトモヨシ》――鳴かずもあれよといふべきを、鳴かないでもよい。鳴くに及ばぬと婉曲に言つたのである。
〔評〕 地上なら鷄か鴉といふところだが、水邊であり天上であるから鶴を持つて來てゐる。それだけ歌が上品に聞える。三更と五更との文字の使ひ方にも注意すべきである。三更は夜の意に用ゐ、五更は曉に用ゐてある。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に載せてある。
市原王七夕歌一首
市原王は安貴王の御子。四一二參照。
1546 妹がりと 吾が行く道の 河しあれば 人目つつむと 夜ぞくだちける
(610)妹許登《イモガリト》 吾去道乃《ワガユクミチノ》 河有者《カハシアレバ》 附目緘結跡《ヒトメツツムト》 夜更降家類《ヨゾクダチケル》
妻ノ織女ノ〔三字傍線〕所ヘト私ガ行ク道ニ天ノ川ト云フ〔六字傍線〕川ガアルノデ、ソレヲ渡ル時ニ〔七字傍線〕、人目ニ立タヌヤウニシテヰルウチニ、モウ夜ガ更ケテシマツタ。アチラデハ織女星ガ嘸待ツテヰルデアラウ〔アチ〜傍線〕。
○附目緘結跡《ヒトメツツムト》――これは集中の難訓の一である。目の字は。神田本・京大本に固に作つてゐるが、このままではよみ難いやうである。併し附をヒトとよむのは無理ではあるが、これを忍ぶとすれば舊訓のヒトメツツムトで、曲りなりにも訓めるのであるから、暫くこれに從つて置く。代匠記のツクメシメユフではどうも解しかねるやうである。考に附目を脚の誤とし、訓はアユヒムスブトとし、略解に附を脚の誤とし、目を固として、アナユヒツクルトと訓むかと言つてゐる。宣長は緘結跡をナダストと訓むべきかと言つてゐる。雄略紀の歌の阿遙比那陀須暮《アヨヒナダスモ》によつたのであるが、遽かに從ひ難い。なほ研究を要する問題である。
〔評〕 牽牛星の心になつてよんだのであるが、歌の中心になつてゐるらしい肝腎な第四句が、明瞭でないのは遺憾である。
藤原朝臣八束歌一首
八束は藤原房前の第三子。後、眞楯と名を賜はる。三九八參照。
1547 さを鹿の 萩にぬき置ける 露の白珠 あふさわに 誰の人かも 手に纒かむちふ
掉四香能《サヲシカノ》 芽二貫置有《ハギニヌキオケル》 露之白珠《ツユノシラタマ》 相佐和仁《アフサワニ》 誰人可毛《タレノヒトカモ》 手爾將卷知布《テニマカムチフ》
男鹿ガ萩ノ枝〔二字傍線〕ニ貫イテ置イタ霧ノ白玉。ソノ白玉〔四字傍線〕ヲ何處ノ誰ガガラニモナイ考デ、手ニ纒キツケヨウナドト言ウノカ。コンナ美シイモノヲサウ無暗ニ取ルワケニハユカナイ〔コン〜傍線〕。
(611)○相佐和仁《アフサワニ》――難解の語である。淡騷《アハサワ》で、心なくあはつけくさわぎての意と眞淵は言つてゐる。宣長は「物語ふみにおほざふといふ詞あり。これ此あふさわの訛れるにて、其おほざふといへる詞の意と、あふさわと全同じ」といつてゐる。伴信友は比古婆衣に、身の分に隨つて似合はしい意だと言つてるるが、卷十一の開木代來背若子欲云余相狹丸吾欲云開木代來背《ヤマシロノクセノワクゴガホシトイフワヲアフサワニワヲホシトイフヤマシロノクセ》(二三六二)の相狹丸《アフサワニ》と對照して見ると、代匠記精撰本に、「非分の物を押て領せむとする意をあふさわと云なるべし」、と言つたのがよいやうである。
〔評〕 これは旋頭歌であるから、第三句で切つて見るべきである。萩に宿つた白露を、棹鹿が貫いて置いた白珠と見たのが、歌の主たる構想になつてゐる。萩は謂はゆる鹿の花妻であるから、かういつたのであるが、鹿が萩の枝に露の白玉を貫いたとする想は、類例もなく珍らしいものである。これも上品な作である。
大伴坂上郎女(ノ)晩(キ)芽子(ノ)歌一首
1548 咲く花も をそろはうとし おくてなる 長き心に なほ如かずけり
咲花毛《サクハナモ》 宇都呂波※[厭のがんだれなし]《ヲソロハウトシ》 奧手有《オクテナル》 長意爾《ナガキココロニ》 尚不如家里《ナホシカズケリ》
咲ク花モアワテテ早ク咲キ散ル〔五字傍線〕ノハイヤナモノダ。晩ク咲ク花〔四字傍線〕ノ氣ノ長イノニハ、ヤハリ及バナイワイ。氣長ク晩クマデ咲イテヰルノガ一番ヨイ〔氣長〜傍線〕。
○宇都呂波※[厭のがんだれなし]《ヲソロハウトシ》――宇都の二字は、類聚古集・神田本などに乎曾となつてゐるのに從つて、ヲソロハウトシと訓むべきである。舊訓ウツロハウキヲとあり、略解に呂の下布の字落として、ウツロフハウシとあるがよくない。ヲソロは嘘よの意と解せられてあるが、新訓に輕率の文字を當ててゐる。ここは輕々しく早く咲くことを言つたものらしい。○奥手有《オクテナル》――今、晩稻をオクテといふと同じで、晩く花咲き又は實を結ぶものを、すべて言ふらしい。○長意爾《ナガキココロニ》――長き心は、氣長に急がぬ心。
〔評〕 花に心があつて、急がずに咲くやうに言つてゐる。そこに面白味を持たしてあるのみで、大した作でない。
(612)典鑄正《イモノノカミ》紀朝臣鹿人(ガ)至(リテ)2衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄(ニ)1作歌一首
典鑄正は典鑄司の長官。職員令に「典鑄司、正一人掌d造2鑄金銀銅鐵1、塗飾瑠璃、謂火齊珠也玉作及工戸戸口戸籍事u、佑一人、大令史一人、少令史一人、雜工部十人、使部十人、直丁一人、雜工戸、」と記してある。寶龜五年廢止せられた。官位令によれば正は正六位の官である。紀朝臣鹿人は卷六に跡見茂崗之松樹歌一首(九九〇)を載せてゐる。衛門大尉は衛門府の大尉。衛門府は職員令に「督一人、掌2諸門禁衛、出入、禮儀以v時巡檢、及隼人1門籍、門膀事1、佐一人、大尉二人、少尉二人、大志二人、少志二人、醫師一人、門部二百人、物部三十人、使部三十人、直丁四人、衛士」と記してある。大尉は官位令によれば、從六位の官である。大伴宿禰稻公は卷四の五六七の左註に、天平二年六月大伴旅人の脚疾によつて、太宰府へ下つた人で、旅人の庶弟。その當時は右兵庫助であつた。その條參照。跡見圧は今の大和磯城郡外山。櫻井町の東方。
1549 射部立てて 跡見の岳べの 瞿麥の花 ふさ手折り 我は持ちいなむ 寧樂人の爲
射目立而《イメタテテ》 跡見乃岳邊之《トミノヲカベノ》 瞿麥花《ナデシコノハナ》 總手折《フサタヲリ》 吾者將去《ワレハモチイナム》 寧樂人之爲《ナラビトノタメ》
(射目立而)跡見ノ岡ノホトリニ咲イテヰル撫子ノ花。ソノ撫子ヲ〔五字傍線〕フサフサト澤山ニ〔四字傍線〕手折ツテ、私ハ奈良ニヰル人ヘノ土産〔四字傍線〕ノ爲ニ持ツテ行キマセウ。
○射目立而《イメタテテ》――枕詞。射目は御山者射目立渡《ミヤマニハイメタテワタシ》(九二六)とあつたやうに射部。弓を射るともがら。射部を野山に立てて、獣の跡を見させるから、跡見《トミ》とつづける。○總手折《フサタヲリ》――總《フサ》は多く、澤山、ふさふさとなどの意。卷十七に和我勢古我布佐多乎里家流乎美奈敝之香物《ワガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》(三九四三)ともある。○吾者將去《ワレハモチイナム》――略解に者の下、持を補つて「一本に依て改む」とあるが、校本萬葉集にはさうした本がない。將はモチと訓む字だからこの儘でよいか。
(613)〔評〕 旋頭歌である。別に特異の點もない平板な作である。
湯原王鳴鹿歌一首
1550 秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 聲の遙けさ
秋芽之《アキハギノ》 落乃亂爾《チリノマガヒニ》 呼立而《ヨビタテテ》 鳴奈流鹿之《ナクナルシカノ》 音遙者《コヱノハルケサ》
秋ノ萩ノ花ノ散リマガフノニツレテ、聲ヲ立テテ鳴ク鹿ノ音ガ、遙カニ遠ク聞エルヨ。
○落乃亂爾《チリノマガヒニ》――チリノミダリニと新訓にあるが、散之亂爾《チリノマガヒニ》(一三五)と一致せしめて置く。その條參照。○音遙者《コヱノハルケサ》――者はサの假名に用ゐてある、有之苦者《アルガクルシサ》(一〇〇七)・秋香乃吉者《アキノカノヨサ》(二二三三)の類である。
〔評〕 情景を眼前に髣髴せしめ、すがすがしい感觸の歌である。
市原王歌一首
1551 時待ちて 落つる時雨の ふりふりぬ 明けむあしたか 山のもみぢむ
待時而《トキマチテ》 落鐘禮能《オツルシグレノ》 雨令零收《フリフリヌ》 朝香《アケムアシタカ》 山之將黄變《ヤマノモミヂム》
秋ノ〔二字傍線〕時節ヲ待ツテ降ル、時雨ノ雨ガ頻リニ降ツタ。明朝ハ山ガ紅葉スルデアラウカ。サゾ美シイダラウ〔八字傍線〕。
○落鐘禮能《オツルシグレノ》――鐘は鍾に作つてゐる古本もある。これはどちらでも同じで、鐘・鍾共に韻鏡内轉第二合。通攝の文字。ngの吉尾で、呉音シユであるから、シグとよまれるのである。鐘禮《シグレ》は時雨。○雨令零收《フリフリヌ》――舊訓アメヤミテとあるが無理である。雨と令とは零の一字と見られるから、收を奴と見て、フリフリヌとよむ新訓に從ふ。○朝香《アケムアシタカ》――この句は舊訓、山之までを一句として、アサカノヤマノとあるが、類聚古集・神田本など、收の下に開の字がある本が多いから、それによつてアケムアシタカとよんだ新訓の説に從ふ。朝香山は住吉と陸奥と(614)に名が見えるが、住吉のは山といふほどのものでなく、陸奥のは市原王がその方面に旅し給うたらしい形跡がない。
〔評〕 この歌は古來、種々の訓があつていづれとも定め難い。しばらく解し易きに從つて新訓によつた。まだしつくりと落つかぬところがないでもないから、評は略して置かう。
湯原王蟋蟀歌一首
蟋蟀はキリギリスとも訓む字であるが、集中の用例を見ると、すべてコホロギとよまないでは調が整はない。略解に、「蟋蟀舊訓きりぎりすと訓みたれど、すべて此字をきりぎりすと訓てはしらべととのひがたければ翁はこほろぎと訓まれし也。和名抄文字集略云、蜻※[虫+列]精列二音、和名古保呂木と有によりて也。春海云、蜻※[虫+列]といふ名は文選晋張孟陽七哀詩に、仰聽2離鴻鳴1俯聽2蜻※[虫+列]吟1と見え、李善が註に、易通卦驗曰、立秋蜻[虫+列]鳴、蔡〓月令章句曰、蟋蟀虫名。俗謂2之蜻※[虫+列]1といひ、又古詩に蟋蟀吟、蜻※[虫+列]吟と通はして常にいへり。かかれば蜻※[虫+列]と蟋蟀とは同物なれば、蜻※[虫+列]に古保呂木と有にて、古より蟋蟀にこほろぎと名有事しるし。且和名抄に兼名苑云、蟋蟀一名蛬、和名木里木里須とみえたれば、きりぎりすの名も古へ言へる名なるべし。」とあつて、平安朝では、コホロギとキリギリスと、二つながら行はれてゐたのである。けれども歌文にあらはれたものを見ると、萬葉集ではコホロギ、平安朝ではキリギリスに限られてゐる。(鴨長明の四季物語に、「なりはうつくしう、玉虫など云ていみじけれど、きりぎりす・はたおり・こほろぎにさへおとりて、聲たてぬもあれど云々」とあるがこれは僞書と考へられるものであり、且時代も下つてゐるから、ここの例にはならぬ)して見ると、萬葉集のコホロギと、平安朝のキリギリスとは、同一物と考へるのが穩當である。さうして平安朝のキリギリスは、その用例から見て、今のコホロギに相違ないから、萬葉集のコホロギは即ち今のコホロギなのである。コホロギは今のキリギリスの古名(615)だといふ説は當らない。
1552 夕月夜 心もしぬに 白露の 置くこの庭に こほろぎ鳴くも
暮月夜《ユフヅクヨ》 心毛思努爾《ココロモシヌニ》 白露乃《シラツユノ》 置此庭爾《オクコノニハニ》 蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》
夕方月ノヨイ頃ニ私ノ〔二字傍線〕心ガシヲシヲト萎レテ、白露ガ置イテヰルコノ庭デ蟋蟀ガ鳴クヨ。何ト云フ悲シイ聲デアラウ。アレヲ聞クト私ノ心ハ萎レテシマフ〔何ト〜傍線〕。
○心毛思努爾《ココロモシヌニ》――心も萎れて。卷三の柿本人麿の歌に、情毛思努爾古所念《ココロモシヌニイニシヘオモホユ》(二六六)とある。
〔評〕 玲瓏玉の如き風格。感傷的な情緒が流麗な韻律によつて快く述べられてゐる。佳作だ。袖中抄に載せてあるのも尤もである。
衛門大尉大伴宿禰稻公歌一首
この作者については、一五四九の題詞の説明を參照せられたい。
1553 時雨の雨 間なくしふれば 三笠山 こぬれあまねく 色づきにけり
鐘禮能雨《シグレノアメ》 無間零者《マナクシフレバ》 三笠山《ミカサヤマ》 木末歴《コヌレアマネク》 色附爾家里《イロヅキニケリ》
時雨ガ絶エ間ナク降ルト、三笠山ハ梢ガ一面ニ色ガ付イタワイ。
○鐘禮能雨《シグレノアメ》――鐘禮の用字と訓とについては一五五一參照。
〔評〕 卷十に四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《シグレノアメマナクシフレバマキノハモアラソヒカネテイロヅキニケリ》(二一九)と酷似してゐる。これは古歌を學んだものと言はれても仕方があるまい。
大伴家持和(フル)歌一首
1554 大君の 三笠の山の もみぢばは 今日の時雨に 散りか過ぎなむ
皇之《オホキミノ》 御笠乃山能《ミカサノヤマノ》 黄葉《モミヂバハ》 今日之鐘禮爾《ケフノシグレニ》 散香過奈牟《チリカスギナム》
(616)(皇之)三笠山ノ紅葉ハ、今日降ル時雨ニ散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
○皇之《オホキミノ》――枕詞。天皇のかざし給ふ御蓋《ミカサ》とつづく。
〔評〕 題詞によると、前の稻公の歌に和へたものである。時雨を中心として、三笠山の紅葉について述べてゐるのみで、淺い感興の歌である。
安貴王歌一首
安貴王は志貴皇子の御孫、市原王の御父、卷三の三〇六參照。
1555 秋立ちて 幾日もあらねば この寢ぬる 朝けの風は 袂寒しも
秋立而《アキタチテ》 幾日毛不有者《イクカモアラネバ》 此宿流《コノネヌル》 朝開之風者《アサケノカゼハ》 手本寒母《タモトサムシモ》
秋ニナツテカラマダ幾日モ經タナイノニ、寢テ起キタコノ朝明ケノ風ハ、袂ニ寒ク吹クワイ。コレカラハ嘸カシ寒イコトデアラウ〔コレ〜傍線〕。
○幾日毛不有者《イクカモアラネバ》――幾日もあらざるにに同じ。このネバは古い語法である。○此宿流《コノネスル》――下の朝開につづいて、寢て起きたこの朝開けの意。何となくなつかしい語感を持つ語である。
(評〕 うるはしい滑らかな感じの歌である。新古今集に「このねぬる夜の間に秋は來にけらし朝けの風の昨日にも似ぬ」はこれを本歌としたもので、金槐集の「このねぬるあさけの風にかをるなり軒端の梅の春の初花」もこれから脱化したのである。
忌部首黒麻呂歌一首
忌部首黒麻呂は卷六の一〇〇八參照。
1556 秋田刈る 假廬もいまだ こぼたねば 雁が音寒し 霜も置きぬがに
(617)秋田苅《アキタカル》 借廬毛未《カリホモイマダ》 壞者《コボタネバ》 鴈鳴寒《カリガネサムシ》 霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》
秋ノ田ヲ苅ル爲ニ作ツタ〔五字傍線〕假小屋モマダソノ儘デ〔四字傍線〕、毀タズニ置イテアルノニ、霜モ降リサウニ、雁ノ鳴ク聲ガ寒ク聞エルヨ。時候ノカハルノハ早イモノダ〔時候〜傍線〕。
○借廬毛未壞者《カリホモイマダコボタネバ》――借廬は借は借字で、假小屋である。コボタネバは壞たざるにの意。舊本壞を壤に作るは誤。○霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》――前に安要奴我爾花咲爾家里《アエスガニハナサキニケリ》(一五〇七)とあつたのと同格で、霜も置きさうにの意。ヌは完了の助動詞であるが、語勢を強めるだけに役立つてゐる。ガニはほどに・ばかりにの意。委しくは一五〇七參照。
〔評〕 時候の變化の迅速なのに驚いたのであるが、明澄透徹の調子で、力強い歌である。この歌、和歌童蒙抄に見える。
故郷(ノ)豐浦寺之尼(ノ)私房(ノ)宴歌三首
豐浦寺は大和國高市郡飛鳥村|豐浦《トヨラ》にある。飛鳥川の西岸、甘橿の岡の北麓にある。この寺は古の向原寺の舊地で、即ち蘇我稻目の邸宅を寺としたものである。後、ここに推古天皇の豐浦宮が出來、その址が豐浦寺となつたので、吾が國最初の尼寺である。ここに故郷とあるのは、推古天皇の舊郡であつたからであらう。上宮聖徳法王帝説裏書に「庚戌春三月學問尼善信等自2百濟1還住2櫻井寺1、今豐浦寺也 初櫻井寺云後豐浦寺云」とあるから、初は櫻井寺と稱したので、續紀の童謠に、「葛城の寺の前なるや、豐浦の寺の西なるやおしとどとしとど、櫻井に白璧しづくやよき璧しづくや、おしとどとしとど、しかすれば國ぞさかゆるや、吾家らぞさかゆるや、おしとどとしとど」とある豐浦寺である。今もその附近に豐浦寺と稱する小寺がある。
1557 明日香河 行きたむ岳の 秋萩は 今日ふる雨に 散りか過ぎなむ
明日香河《アスカガハ》 逝回岳之《ユキタムヲカノ》 秋芽子者《アキハギハ》 今日零雨爾《ケフフルアメニ》 落香過奈牟《チリカスギナム》
(618)明日香川ガ流レテ曲ツテヰル岡ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ、今日降ル雨デ散リ過ギテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
○逝囘岳之《ユキタムヲカノ》――明日香川が流れて曲つてゐる岡、即ち雷岡・神南備山のことである。舊訓にユキキノヲカノとあるのは誤つてゐる。宣長の説に從つてユキタムヲカとよむことにする。しかし宣長が岡の行廻れる所と言つたのはどうであらう。飛鳥川が雷岳の邊で曲つてゐるから、このユキタムヲカは雷岳に違ひない。
〔評〕 豐浦寺にゐて、すぐ飛鳥川の對岸の雷岡の萩の花を思ひやつたのである。尼の私房で雨の日に酒宴を催して、こんな歌を作つた作者の態度は、あまり嚴粛さを缺いてゐる。歌は拙くはない。
右一首丹比眞人國人
丹比眞人國人は卷三の三八二參照。
1558 鶉鳴く 古りにし郷の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも
鶉鳴《ウヅラナク》 古郷之《フリニシサトノ》 秋芽子乎《アキハギヲ》 思人共《オモフヒトドチ》 相見都流可聞《アヒミツルカモ》
(619)荒レハテタ〔五字傍線〕(鶉鳴)舊イ都ニ咲イテヰル秋萩ノ花ヲ、心ノ合ツタ友ダチドモト一緒ニ見タヨ。アア樂シカツタ〔七字傍線〕。
○鶉鳴《ウヅラナク》――枕詞。鶉は荒れたところにゐるから古郷《フリニシサト》につづく。これを枕詞と見ない説も多いが、卷四に鶉鳴故郷從念友《ウヅラナクフリニシサトユオモヘドモ》(七七五)と同じく、枕詞として置く。○相見都流可聞《アヒミツルカモ》――相共に見たよの意。會ひ見つるかもではない。
〔評〕 前の歌の雷岡の萩を、ふりにし里の秋萩と言つたものか。僧尼の歌らしくない作である。和漢朗詠集に「うづらなくいはれの小野の秋はぎを思ふ人ども見つる今日かな」とあるのは、この歌を少し改めたのみである。
1559 秋萩は 盛すぐるを いたづらに かざしにささず かへりなむとや
秋芽子者《アキハギハ》 盛過乎《サカリスグルヲ》 徒爾《イタヅラニ》 頭刺不挿《カザシニササズ》 還去牟跡哉《カヘリナムトヤ》
コノ秋萩ノ花ハ盛モ將ニ過ギヨサトシテヰルノニ、コレヲ折ツテ〔六字傍線〕挿頭ノ花トモシナイデ、空シク歸ラウトナサルノデスカ。惜シイコトデス〔七字傍線〕。
○盛過乎《サカリスグルヲ》――盛過ぎむとするをの意。○頭刺不挿《カザシニササズ》――插の字は舊本、搖に作つてゐる。古本多く種々の書體になつてゐるが、挿の誤なることは明らかであるから改めた。
〔評〕 これは、僧尼が來訪の客を引止めようとする歌である。寺の尼の私房で、よい氣になつて遊んでゐる態度が氣にくはない。歌も格別面白くもない。
右二首沙彌尼等
沙彌は僧、尼は比丘尼である。この頃僧尼が俗人と一緒に、寺内で宴を催したのは不思議である。佛教の墮落を語るといつてよからう。
(620)大伴坂上郎女|跡見田庄《トミノタドコロニテ》作歌二首
跡見田庄は卷六の跡見茂岡(九九〇)、この卷の跡見庄(一五四九)と同所で、大伴氏の領地であつたのである。
1560 妹が目を 始見の埼の 秋萩は この月頃は 散りこすなゆめ
妹目乎《イモガメヲ》 始見之埼乃《ハツミノサキノ》 秋芽子者《アキハギハ》 此月其呂波《コノツキゴロハ》 落許須莫湯目《チリコスナユメ》
(妹目乎)始見ノ埼ノアタリニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ、コノ月ノ中ハ決シテ散ラズニヰテクレヨ。マダ見飽カナイカラ〔九字傍線〕。
○妹目乎《イモガメヲ》――枕詞。妹に始めて逢ふ意で始見につづけてある。この枕詞は卷十二に妹目乎見卷欲江之《イモガメヲミマクホリエノ》(三〇二四)と用ゐられてゐるのみ。しかも卷十二のは、獨立した枕詞にはなつてゐない。○始見之埼乃《ハツミノサキノ》――舊訓ミソメノサキノとあるのもるろくはないが、その地名が今、明らかでないから、むしろ文字遣りにハツミノサキノとよんだ新訓の説に從ふのがよいやうに思ふ。始は來喧始音《キナクハツコヱ》(四一七一)・始瀬之檜原《ハツセノヒバラ》(一〇九五)などのやうに、ハツの用例が多いからである。考に跡見之丘邊乃《トミノヲカベノ》の誤とし、古義に跡見之埼有《トミノサキナル》と改めてゐるが、いづれも從ひがたい。ハツミノサキは何處とも明らかでないが、跡見田庄から遠からぬところにあつたつたのであらう。○此月其呂波《コノツキゴロハ》――月の字、舊本目に作るは誤。類聚古集・神田本など、古本多くは月に作つてゐる、
〔評〕 跡見の田庄にゐて、その附近の始見の埼といふ山裾の萩を、思ひやつてよんだのである、跡見にゐながら、他所の萩を詠む筈はないといふので、始見を跡見に改める説が多いのであるが、それはよくない。又略解に「此時郎女佐保の坂上に在て、跡見庄のはぎを思ひてよめるを、後人さかしらに、跡見田庄作歌と書るならむか」とあるのも、いはれなき推測であらう。妹目乎《イモガメヲ》の枕詞が、女性の作らしくないのも、却て面白い感を與へる。
1561 吉名張の 猪養の山に 伏す鹿の 嬬呼ぶ聲を 聞くがともしさ
吉名張乃《ヨナバリノ》 猪養山爾《ヰカヒノヤマニ》 伏鹿之《フスシカノ》 嬬呼音乎《ツマヨブコヱヲ》 聞之登聞思佐《キクガトモシサ》
(621)吉名張ノ猪養山ニカクレテヰル鹿ガ、妻ヲ戀ヒ慕ツテ〔五字傍線〕呼ンデ鳴ク聲ウ聞クノハ面白イヨ。
○吉名張乃猪養山爾《ヨナバリノヰカヒノヤマニ》――卷二に吉隱之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》(二〇三)とあるところで、磯城郡初瀬の東方一里の地點にある。その條參照。○聞之登聞思佐《キクガトモシサ》――トモシは珍しく、面白いこと。
〔評〕跡見にゐる郎女が、その東方數里を距てる、吉隱の猪養の山に鳴く鹿の聲を聞くのは、おかしいわけである。歌はまさしく猪養山麓で聞いた趣であるから、或はこの山名が跡見の附近にあるのかとも思はれるが、どうもさうでもないらしい。猪養山の曾遊を思ひ出して、跡見田庄で作つたものか。
巫部麻蘇《カムコベノマソ》娘子鴈歌一首
卷四の七〇三に見えた作者である。傳はよくわからない。
1562 誰聞きつ こゆ鳴き渡る 雁が音の 嬬呼ぶ聲の ともしくもあるか
誰聞都《タレキキツ》 從此間鳴渡《コユナキワタル》 鴈鳴乃《カリガネノ》 嬬呼音乃《ツマヨブコヱノ》 之知左寸《トモシクモアルカ》
誰ガアレヲ聞イタダラウ。アノ此處ヲ鳴イテ通ツテ行ク雁ガ、妻ヲ呼ンデ鳴ク聲ガ、マコトニ佳イ聲デスヨ。アナタハオ聞キナサイマセンデシタカ〔アナ〜傍線〕。
○誰聞都《タレキキツ》――宣長は都は跡の誤と言つてゐるが、このままでよい。○從此間鳴渡《コユナキワタル》――コユは此處をの意。○之知左寸《トモシクモアルカ》――舊訓はユクヲシラサズであるが、和歌童蒙抄、カクシルクソアル、京大本にも、カクシルクサルとある。代匠記精撰本には之の下、方を脱として、ユクヘシラサズかとし、考は之を去の誤とし、下に方を補つてユクヘとよんでゐる。略解にあげた宣長説は乏蜘在可の誤とし、トモシクモアルカとよんでゐる。古義は乏左右爾として、トモシキマデニとよんでゐる。猥りに文字を改むべきではないが、どうもここは誤があるやうである。寸の字もスの假字に用ゐたのは、卷十一に玉垂小簾之寸鶏吉仁《タマダレノヲスノスゲキニ》(二三六四)とあるのみで、他の用例は疑はしいものであるから、ここも果してスとよむべきか否かを知らない。しばらく宣長説を採用して置かう。
(622)〔評〕 これは家持に示した歌である。この作者は卷四でも家持との間に、交渉があつたやうに見えてゐる。結句が不明瞭な爲に、充分な批評が出來ないのは遺憾である。
大伴家持和(ヘ)歌一首
1563 聞きつやと 妹が問はせる 雁が音は まことも遠く 雪がくるなり
聞津哉登《キキツヤト》 妹之問勢流《イモガトハセル》 鴈鳴者《カリガネハ》 眞毛遠《マコトモトホク》 雲隱奈利《クモガクルナリ》
聞イタカト云ツテワザワザアナタガ尋ネテオヨコシナサツタ雁ノ聲ハ、ホントニ遠ク空ノ上ニ聞エテ〔七字傍線〕、雲ニ隱レテ鳴イテ行キマシタ。面白ウゴザイマシタ〔九字傍線〕。
○妹之問勢流《イモガトハセル》――妹は巫部麻蘇娘子を指す。トハセルは問へるの敬相。
〔評〕 空のあなたに雲がくれて、幽かに聞いた雁の聲をなつかしがつたのである。新考に「逢ふ事の絶えたるを恨みたるなり。ケリといはでナリといへるを見れば、よそふる意あるなり」とあるのは從ひ難い。
日置長枝《ヘキノナガエ》娘子歌一首
日置長枝娘子の傳は明らかでない。日置は地名として、ヘキともヒオキともよんであるが、古事記中卷に是(ノ)大山守命者、土形君・幣伎《ヘキ》君等之祖也とあるから、ヘキとよんで置かう。
1564 秋づけば 尾花が上に 置く露の 消ぬべくも吾は おもほゆるかも
秋付者《アキヅケバ》 尾花我上爾《ヲバナガウヘニ》 置露乃《オクツユノ》 應消毛吾者《ケヌベクモアハ》 所念香聞《オモホユルカモ》
私ハ戀シサニ苦ンデ〔九字傍線〕、(秋付者、尾花我上爾置露乃)私ハホントニ命モ消エサウニ思ハレマスヨ。アアツライ〔五字傍線〕。
○秋付者尾花我上爾置露乃《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノ》――ケヌベクと言はむ爲の序詞。○秋付者《アキヅケバ》――秋になればの意〕。朝附日《アサヅクヒ》、夕附日《ユフヅクヒ》の(623)附《ツク》に同じ。
〔評〕 眼前の景物を採つて作つた序で、女性らしいやさしさが見える。しかしこれを卷十の秋田乃穗上爾置白露之可消吾者所念鴨《アキノタノホノヘニオケルシラツユノケヌベクワレハオモホルカモ》(一二四六)と比較すると、その類似の甚しさが目に立つ。これは必ず卷十の歌を粉本としたものであらう。なほこれは次の歌を見ると、家持の家でよんだのである。
大伴家持和(ヘ)歌一首
古義は和の字を衍としてゐるのは、臆斷に過ぎる。
1565 吾がやどの 一むら萩を 思ふ兒に 見せずほとほと 散らしつるかも
吾屋戸乃《ワガヤドノ》 一村芽子乎《ヒトムラハギヲ》 念兒爾《オモフコニ》 不令見殆《ミセズホトホト》 令散都類香聞《チラシツルカモ》
私ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕一群茂ツタ〔二字傍線〕萩ノ花ヲ、私ノ〔二字傍線〕愛スルアナタニ見セモシナイデ、モウ少シデ散ラシテシマフトコロデシタヨ。アナタガ今日來ナケレパ花モ散ツテシマフトコロデシタ〔アナ〜傍線〕。
○一村芽子乎《ヒトムラハギヲ》――一群に茂つた萩を、一村萩は、古今集に見える一村薄などと同じやうな語である。○不令見殆令散都類香聞《ミセズホトホトチラシツルカモ》――殆《ホトホト》は令散《チラシ》につづいてゐる。危いところで散してしまふことであつたといふのである。ホトホトは三三一及び一四〇三參照。
〔評〕 女を待ち得てよろこんだのである。一村萩の造語も清新の感を與へる。
大伴家持秋歌四首
1566 ひさかたの 雨間もおかず 雲がくり 鳴きぞ行くなる 早田かりがね
久堅之《ヒサカタノ》 雨間毛不置《アママモオカズ》 雲隱《クモガクリ》 鳴曾去奈流《ナキゾユクナル》 早田鴈之哭《ワサダカリガネ》
(624)(久堅之)雨ノ降ル間モ休マナイデ、雲ニ隱レツツ(早田)鴈ガ鳴イテ行クワイ。雨ニ霑レテ嘸ツラカラウニ〔雨ニ〜傍線〕。
○久堅之《ヒサカタノ》――枕詞。天とつづくのを、雨に通はしたのである。○早田鴈之哭《ワサダカリガネ》――早田《ワサダ》はただ苅りにかけて、雁と言ふために置いたもので、歌の上には意味はない。
〔評〕 この人の歌に、この卷の夏雜歌のなかに、宇乃鳴能過者惜香霍公鳥雨間毛不置從此間喧渡《ウノハナノスギバヲシミカホトトギスアママモオカズコユナキワタル》(一四九一)とあるのと、まづ同型同想の歌である。早田鴈之哭《ワサダカリガネ》の方が、内容が簡素で力がある。
1567 雲がくり なくなる雁の ゆきてゐむ 秋田の穗立ち 繁くし念ほゆ
雲隱《クモガクリ》 鳴奈流雁乃《ナクナルカリノ》 去而將居《ユキテヰム》 秋田之穩立《アキタノホダチ》 繁之所念《シゲクシオモホユ》
私ハアノ人ノコトヲ戀ヒ焦レテ〔私ハ〜傍線〕(雲隱鳴奈流鴈乃去而將居秋田之穗立)頻リニ思ツテヰルヨ。
○雲隱鳴奈流雁乃去而將居秋田之穩立《クモガクリナクナルカリノユキテヰムアキタノホダチ》――この四句は繁くと言はむ爲の序詞。雲に隱れて空高く飛んで鳴く雁が、やがて飛んで行つて降りる秋の田の稻の穗立の意で、その數多く繁つてゐることにかけてつづけたのである。穗立は穗の出揃つて立ち並んでゐる状態。
〔評〕 これは雁・秋田・穗立といふやうな秋のものを材料として、序詞を作つたもので、序詞の發達した本集でも、四句に亘るものは珍らしい。内容は相聞であるが、別に誰に贈るともなく作つたので、ここに載せてあるのであらう。要するに技巧の爲に試作したといふやうな感じを免れない。
1568 雨ごもり こころいぶせみ 出で見れば 春日の山は 色づきにけり
雨隱《アマゴモリ》 情欝悒《ココロイブセミ》 出見者《イデミレバ》 春日山者《カスガノヤマハ》 色付二家里《イロヅキニケリ》
雨ニ降リ籠メラレテ、心ガ欝陶シイノデ、外ヘ出テ見ルト、降リツヅク秋ノ雨ニ〔九字傍線〕、春日山ハ紅葉シテ赤ク〔六字傍線〕色ヅイタワィ。
〔評〕 連日の時雨に閉ぢこめられて欝陶しさに、雨中を屋外に出て見て、何時の間にか春日山が紅葉したのに驚いた感じである。奈良の都人らしく、又暇のある大宮人らしい作である。温雅な歌と評してよい。前にこの人(625)の隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《コモリノモヲレバイブセミナグサムトイデタチキケバキナクヒグラシ》(一四七九)とあつたのと似通つた點がある。
1569 雨晴れて 清く照りたる この月夜 また更にして 雪な棚引き
雨晴而《アメハレテ》 清照有《キヨクテリタル》 此月夜《コノツクヨ》 又更而《マタサラニシテ》 雲勿田菜引《クモナタナビキ》
雨ガヤツト〔三字傍線〕晴レテ清ク照ツタコノ月夜ニ、又再ビ雲ガ棚引クナヨ。折角晴レタノダカラ〔九字傍線〕。
○又更而《マタサラニシテ》――又更めて、再びなどの意。新考に又夜更而《マタヨクダチテ》の夜を脱したのだらうとあるのは從ひ難い。
〔評〕 さしたる佳作ではないが、月夜のやうなすがすがしい感じを持つてゐる。
右四首天平八年丙子秋九月作
この年、家特の年齡十九歳と推定せられる。
藤原朝臣八束歌二首
藤原八束は三九八參照。
1570 ここに在りて 春日やいづく 雨さはり 出でて行かねば 戀ひつつぞをる
此間在而《ココニアリテ》 春日也何處《カスガヤイヅク》 雨障《アマサハリ》 出而不行者《イデテユカネバ》 戀乍曾乎流《コヒツツゾヲル》
此處ニ居ツテハ春日山ハ伺處ニアタルダラウ。私ハ〔二字傍線〕雨ニ降リコメラレテ、外ヘ出テ行ツテ見〔三字傍線〕ナイカラ、アノ春日山ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ツテ居ルバカリダ。
○雨障《アマサハリ》――雨に邪魔されること。雨乍見《アマツツミ》(五二〇)とあるによつて、これをもさうよまうとする説も多いが、文字の通りアマサハリがよい。
〔評〕 一二句は卷三の、此間爲而家八方何處《ココニシテイヘヤモイヅク》(二八七)。卷四の此間有而筑紫也何處《ココニアリテツクシヤイヅク》(九七四)と似てゐる。秋といへば都人はすぐに、近い春日山の紅葉を思ふ。それほど親しい山であるが、連日ノの降雨に雲深くして、長くその姿を(626)見ないので、その方向をも忘れたやうな氣分である。春日山を親しむ感情がよくあらはれてゐる。
1571 春日野に 時雨ふる見ゆ 明日よりは もみぢかざさむ 高圓の山
春日野爾《カスガヌニ》 鐘禮零所見《シグレフルミユ》 明日從者《アスヨリハ》 黄葉頭刺牟《モミヂカザサム》 高圓乃山《タカマドノヤマ》
春日野ニ時雨ガ降ルノガ見エルヨ。コノ模樣デハ〔六字傍線〕、明日カラハ高圓ノ山ハ紅葉ヲ挿頭スコトダラウ。コノ時雨デ紅葉スルデアラウ〔コノ〜傍線〕。
○黄葉頭利牟《モミヂカザサム》――高圓山が紅葉するのを、黄葉かざさむと言つたので、これは卷一の人麻呂の歌に、春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理《ハルベハハナカザシモチアキタテバモミヂカザセリ》(三八)とあるのを學んだものであらう。
〔評]春日野は都から東の方に、ゆるい傾斜をなして展開し、春日山・高圓山につづいてゐる。時雨の白い雨脚が、その廣い野に降り注ぐのが都からはつきり見えるのである。それを眺めながら、いよいよ明日から、この雨で高圓山も紅葉するだらうと想像してゐるので、寧樂の都の舊址に立つて、この歌を口吟む時、その情景がありありと見えてなつかしい。
大伴家持白露歌一首
1572 吾が屋戸の を花が上の 白露を 消たずて玉に 貫くものにもが
吾屋戸乃《ワガヤドノ》 草花上之《ヲバナガウヘノ》 白露乎《シラツユヲ》 不令消而玉爾《ケタズテタマニ》 貫物爾毛我《ヌクモノニモガ》
私ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕尾花ノ上ニ宿ツタ白露ハ玉ノヤウデ實ニ美シイガ、アノ露〔ハ玉〜傍線〕ヲ消サナイデ、玉ノヤウニ糸ニ〔二字傍線〕貫クコトガ出來ルモノダトヨイガナア。サウ出來ナイデ消エテシマフノデ殘念ダ〔サウ〜傍線〕。
○草花上之《ヲバナガウヘノ》――草花をヲバナとよむのは古い訓である。他にもこの用例がある。古義に「集中に、草の字をカヤと訓り、カヤは薄《ススキ》をいふ。されば、草《カヤ》の花てふ意にて、ヲバナとは訓ことなり。さる意をも得しらずて、岡部氏の草は葛の誤にて、クズバナガウヘノなるべきかといひ、又或人は、草は尾の草書より寫誤れるものなる(627)ベしといへるは大《イミ》じき非《ヒガゴト》なり。」といつてゐる通りであらう。
〔評〕 白露の歌として、尾花の上に宿つた露をよんだのはよいが、歌は平叙凡想である。
大伴利上歌一首
契沖は利上は村上の誤であらうといつてゐる。前に大伴村上橘歌一首(一四九三)とあり、又大伴宿禰村上梅歌二首(一三四六)ともあつたから、恐らくこれも村上であらう。
1573 秋の雨に ぬれつつをれば 賤しけど 吾妹が宿し おもほゆるかも
秋之雨爾《アキノアメニ》 所沾乍居者《ヌレツツヲレバ》 雖賤《イヤシケド》 吾妹之屋戸志《ワギモガヤドシ》 所念香聞《オモホユルカモ》
旅ニ出テ〔四字傍線〕、秋ノ雨ニ霑レテヰルト、アマリノ辛サニ〔七字傍線〕、ミスボラシイ家デハアルガ、私ノ妻ノ住ンデヰル私ノ〔二字傍線〕家ガ思ヒ出サレテ戀シイヨ。
○雖賤《イヤシケド》――いかに自分の妻の家でも、賤しけどといふわけはないから、これは自分が旅にあつて、留守居してゐる妻の家、即ちわが家をかく言つたのである。
〔評〕 秋の雨に濡れて旅する辛さに、郷里の妻の留守居してゐる家をなつかしく思ふのである。眞情はあらはれてゐる。
右大臣橘家宴歌七首
橘諸兄の家の宴會で作つた歌。諸兄が右大臣であつたのは、天平十年正月から、十五年五月までである。この七首の左註と、卷六の天平十年秋八月二十日宴右大臣橘家歌四首(一〇二四)と一致してゐる。なほこの橘家は都から遠い趣によまれてゐるから、相樂の別業であらう。
1574 雲の上に 鳴くなる雁の 遠けども 君に逢はむと たもとほり來つ
(628)雲上爾《クモノウヘニ》 鳴奈流鴈之《ナクナルカリノ》 雖遠《トホケドモ》 君將相跡《キミニアハムト》 手回來津《タモトホリキツ》
此處ヘ來ルノハ〔七字傍線〕(雲上爾鳴奈流鴈之)遠イケレドモ、私ハ〔二字傍線〕アナタニ逢ハウト思ツテ、道ヲ廻リ曲ツテ辿ツテ來マシタ。可愛サウト思ツテ下サイ〔可愛〜傍線〕。
○雲上爾鳴奈流鴈之《クモノウヘニナクナルカリノ》――雖遠《トホケドモ》と言はむ爲の序詞。雲の上に鳴く鴈の遙かに遠いのに譬へたのであるが、この意味は他に影響してゐないから、序詞である。○手回來津《タモトホリキツ》――タモトホルは曲りくねつた道を辿ることで、道は曲つたものであるから、かくいふのである、
〔評〕 いかにも遠路を辛苦したやうに、詠んであるのがおもしろい。卷七の春霞井上從直爾道者雖有君爾將相登他回來毛《ハルガスミヰノヘユタダニミチハアレドキミニアハムトタモトホリクモ》(一二五六)と少しく似てゐる。
1575 雲の上に 鳴きつる雁の 寒きなべ 萩の下葉は もみぢつるかも
雲上爾《クモノウヘニ》 鳴都流鴈乃《ナキツルカリノ》 寒苗《サムキナベ》 芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》 黄變可毛《モミヂツルカモ》
雲ノ上デ鳴イタ雁ノ聲ガ、寒ムサウナノニツレテ、萩ノ下葉ハ紅葉シテキタヨ。
○黄變可毛《モミヂツルカモ》――舊訓ウツロハカモとあるのはウツロハムカモの誤であらう。神田本・西本願寺本なども、さうよんでゐる。新訓もこれを採つてゐるが、黄變の二字は他の例を見ても、モミヅとよんであり、且、ここは未來を想像するところではないやうであるから、代匠記初稿本の書入・略解などに從つて、モミヂツルカモとよむことにした。
〔評〕 萩の下葉は秋風が吹くと直ちに紅葉する。吾屋前之芽子乃下葉者秋風毛未吹者如此曾毛美照《ワガヤドノハギノシタバハアキカゼモイマダフカネバカクゾモミデル》(一六二八)・比日之曉露爾吾屋前之芽乃下葉者色付爾家里《コノゴロノアカトキツユニワガヤドノハギノシタバハイロツキニケリ》(二一八二)などのやうに、初秋またはそれ以前から色づくのである。況んや雁の聲の寒い頃になれば、それが著しく目に立つ。庭前の萩の黄葉に對してゐる作者の直感がそのままに歌はれてゐる。蓋し橘家の宴に際し、庭前を屬目した作である。
右二首
(629)この下に人名が記してあつたのが、脱ちたのであらう。
1576 この岳に 小鹿ふみおこし うかねらひ かもかもすらく 君故にこそ
此岳爾《コノヲカニ》 小牡鹿履起《ヲシカフミオコシ》 宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》 可聞可開爲良久《カモカモスラク》 君故爾許曾《キミユヱニコソ》
(此岳爾小牡鹿履起宇加※[泥/土]良比)兎ヤ角ト、イロイロ工夫ヲ」〔七字傍線〕スルノハミナ〔二字傍線〕貴君故デアリマスヨ。サウ思ツテ憐ンデ下サイ〔サウ〜傍線〕。
○此岳爾小牡鹿履起宇加※[泥/土]良比《コノヲカニヲシカフミオコシウカネラヒ》――カモカモスラクの序詞。この岡で隱れてゐる鹿を追ひたてて、伺ひ覗つて、いろいろと工夫して射取る意でつづく。履起は朝獵爾鹿猪踐起暮獵爾鶉雉履立《アサガリニシシフミオコシユフカリニトリフミタテ》(四七八)・朝獵爾十六履起之夕狩爾十里〓立《アサガリニシシフミオコシユフカリニトリフミタテ》(九二六)あるのを見るとフミオコシである。新訓にフミタテとよんだのは誤つてゐる。蓋し、獣は臥してゐるから起しといひ、鳥は宿つてゐるのを追うて空に飛ばしめるから、立てといふのである。宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》はウカミネラヒの略、ウカミは孝徳紀に「蹟塞|斥候《ウカミ》防人」、天武紀に「自2近江京1至2于倭京1處處置v候《ウカミ》」、推古紀に「新羅之|間諜《ウカミヒト》者加摩多到2對馬1」とある。○可聞可開爲良久《カモカモスラク》――舊訓カモカクスラクとあるが、代匠記に開を聞の誤として、カモカモスラクとよんだのがよい。略解に「宣長云、或人の考に萬智乍居良久《マチツツヲラク》なるべし云々」とあるのは臆斷に過ぎる。
〔評〕 序詞はまことに物々しい感じがあり、大袈裟である。そこに面白さもあるのであらう。君は右大臣を指したので、諸兄に敬意を表したものである。これを戀の歌と見ては大なる誤である。この歌、和歌童蒙抄にある。
右一首長門守|巨曾倍《コソベノ》朝臣|津島《ツシマ》
舊本巨を臣に作るは誤。西本願寺本による。長門守巨曾倍朝臣津島は卷六に、長門守巨曾倍對馬朝臣(一〇二四)とあつた人である。
1577 秋の野の をばながうれを おしなべて 來しくもしるく 逢へる君かも
秋野之《アキノヌノ》 草花我末乎《ヲバナガウレヲ》 押靡而《オシナベテ》 來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可聞《アヘルキミカモ》
(630)秋ノ野ノ尾花ノ末ヲ押シ靡カセテ、辛苦シテ〔四字傍線〕尋ネテ來タ甲斐ガ〔三字傍線〕著シクアツテ、私ハ〔二字傍線〕アナタニオ目ニカカルコトガ出來マシタヨ。嬉シウゴザイマス〔八字傍線〕。
○押靡而《オシナベテ》――おし靡かせての意。旗須爲寸四能乎押靡《ハタススキシノヲオシナベ》(四五)のオシナベと同じである。○來之久毛知久《コシクモシルク》――來之久毛《コシクモ》は玉拾之久《タマヒロヒシク》(一一五三)・背向爾宿之久《ソガヒニネシク》(一四一二)などと同じく、過去の助動詞のシを名詞化するものと見える。
〔評〕 恭敬・懇切の情言外に溢れ、右大臣への敬意が充分に表明せられてゐる。
1578 今朝鳴きて 行きし雁が音 寒みかも この野の淺茅 色づきにける
今朝鳴而《ケサナキテ》 行之鴈鳴《ユキシカリガネ》 寒可聞《サムミカモ》 此野乃淺茅《コノヌノアサヂ》 色付爾家類《イロヅキニケル》
今朝鳴イテ行ツタ雁ノ聲ガ寒サウニ聞エタガ、ソ〔五字傍線〕ノ故カ、コノ野ニ生エテヰルマパラナ茅ガ、赤ク色付イタヨ。モウイヨイヨ寒ク秋モ深クナツテ來マシタ〔モウ〜傍線〕。
○寒可聞《サムミカモ》――寒く聞えし故か。このカモは結句の家類《ケル》の係詞となつてゐる。
〔評〕 前の雲上爾鳴都流鴈乃寒苗《クモノウヘニナキツルカリノサムキナベ》(一五七五)と全く同じことを言つてゐるのであるが、かれは庭前の庭の下葉の紅葉をよんでゐるのに、これは野の淺茅の色づいたのを歌つてゐる。この諸兄の邸宅は前の歌では野を過ぎて行くところにあるらしく、この歌でも野につづいてゐるやうであるから、彼が晩年に住んだ相樂の井手の別業であることがわかる。平板な歌だ。
右二首阿倍朝臣蟲麻呂
阿倍朝臣蟲麻呂の傳は六六五參照。續紀によれば天平十年秋閏七月癸卯、爲2中務少輔1とあるから、この宴の時は中務少輔であつたのである。
1579 朝戸あけて もの思ふ時に 白露の 置ける秋萩 見えつつもとな
朝扉開而《アサトアケテ》 物念時爾《モノオモフトキニ》 白露乃《シラツユノ》 置有秋芽子《オケルアキハギ》 所見喚鷄本名《ミエツツモトナ》
朝戸ヲ開ケテ、庭ノ景色ヲ眺メテイロイロ〔庭ノ〜傍線〕物ヲ考ヘテヰル時ニ、アイニク白露ノ置イテヰル秋萩ノ花ガ見エルヨ。ドウモアレヲ見ルトイヨイヨ秋ノアハレヲ感ジテナラヌ〔ドウ〜傍線〕。
○所見喚鷄本名《ミエツツモトナ》――喚鷄は鷄を喚ぶ時にツツと言ふので、こんな文字を用ゐたもの。追犬喚犬《ソマ》と同樣な、例の戯書である。本名《モトナ》は猥りに・空しく・よしなくなどの意であるが、ここは生憎と解して當るやうである。
〔評〕 これはここの宴の作としては、内容がふさはしくない。或はこの橘家に宿つた朝の感じを、歌つて見たものか。若人らしい感傷的の作品である。
1580 さを鹿の 來立ち鳴く野の 秋萩は 露霜おひて 散りにしものを
棹牡鹿之《サヲシカノ》 來立鳴野之《キタチナクヌノ》 秋芽子者《アキハギハ》 露霜負而《ツユジモオヒテ》 落去之物乎《チリニシモノヲ》
男鹿ガ來テ立ツテ鳴ク野原ニ咲イテヰタ〔六字傍線〕秋萩ノ花ハ、露ガカカツテ散ツテシマツタヨ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
○露霜負而《ツユシモオヒテ》――ツユジモは露のこと。九七一參照。○落去之物乎《チリニシモノヲ》――このモノヲは例の感嘆の意味で輕く添へたものである。略解の説が正しい。古義に「秋芽子は散すぎにしものを、なにをか今よりは愛賞《メデ》にせむといふほどの意なり」とあるのも、新考に「一首の意はサヲ鹿ガ來タチ鳴クガソノ野ノ秋萩ハ云々といへるなり。かく見ざればモノヲといふ辭、をり合はず」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 これは諸兄の別業周圍の風景を詠じたものであらう。すぐれた作ではない。
右二首|文忌寸馬養《フミノイミキウマカヒ》
馬養は、續紀に「元正天皇靈龜二年四月癸丑、詔、壬申年功臣、贈正四位上文意寸禰麿息正七位下馬養等一拾人賜v田各有v差。「聖武天皇、天平九年九月己亥正六位上文忌寸馬養等授2外從五位下1、十二月丙寅授2外從五位上1、十年閏七月癸卯、爲2主税頭1十七年九月戊午、爲2筑後守1」「孝謙天皇天平寶字元年六月壬辰、爲2鑄錢長官1二年八月庚子授2從五位下1」とある。文民は新撰姓氏録左京諸蕃上に「文宿禰。出v自2漢高皇帝之後鸞王1也。文忌寸。文宿禰同祖、宇爾古首之後也」とあり、又、右京諸蕃上に「文《フン》忌寸。都賀直之後也」(632)とある。さうして右の書紀の文中にある。馬養の父禰麻呂は天武紀に書首根麻呂とあると同人で、首姓を名乘つたのが、天武天皇の御代に忌寸に改められたのである。元來文氏には大和にゐた倭文直《ヤマトノフミノアタヘ》と、河内に住んでゐた河内文首《カハチノフミノオヒト》とあつたので、倭文直即ち東文部は、應神天皇の朝に韓の帶方の民を率ゐて歸化した阿知使主《アチノオミ》その子|都加使主《ツガノオミ》の子孫で、河内文首即ち西文部は、同じく應神の朝に來た百濟の王仁の子孫である。馬養の父禰麻呂は書紀の記載によれば、首姓であるから、馬養は即ち河内文首で王仁の系統の人である。この文の字を略解・古義にアヤと振假名してあるが、これは右に述べたやうに、書首とも記してある氏であるから、アヤではなくフミである。なほこの二氏は東文部が先づ宿禰になつたのを、延暦十年四月左大史正六位上文意寸最弟・播磨少目正八位上武生連眞象等の上表によつて、西文部も宿禰の姓を賜ることになつた。
天平十年戊寅秋八月二十日
これは右の右大臣橘家で行はれた宴會の日を記したのである。卷六に天平十年秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首(一〇二四)とあるのと一致してゐる。
橘朝臣奈良麻呂結2集宴1歌十一首
奈良麻呂は橘諸兄の長子。この人の傳は一〇一〇參照。續紀に「天平勝寶二年橘宿禰諸兄賜2朝臣姓1」とあるから、朝臣となつたのは、遙かに後のことであるが、後にかう改め記したのであらう。結集宴は集宴を結ぶといふのであらう。集中に集宴又は集飲の熟字が見える。古義にはこの三字を、ウタゲスルトキとよんでゐる。新考には「結集シテ宴セシトキノといふ意なり」とある。
1581 手折らずて 散りなば惜しと 吾が思ひし 秋のもみぢを かざしつるかも
不手折而《タヲラズテ》 落者惜常《チリナバヲシト》 我念之《ワガモヒシ》 秋紅葉乎《アキノモミヂヲ》 挿頭鶴鴨《カザシツルカモ》
手折ラナイウチニ、散ツテシマツタナラバ惜シイダラウ、是非トモ手折リタイモノダ〔是非〜傍線〕ト、私ガ思ツテヰタ、秋(633)ノ紅葉ヲ希望通リニ手折ツテコノ宴ノ席デ〔希望〜傍線〕挿頭ニシタヨ。嬉シイ嬉シイ〔六字傍線〕。
○落者惜常《チリナバヲシト》――古義にチラバヲシミトとよんでゐる。ナバと假定になつてゐるのを、ヲシと斷定に受けるのはわるいといふ考であらうが、かうした例は他にもあるからこれでよい。
〔評〕 喜びの感情は見えてゐるが、平凡の評は免れ難い。
1582 めづらしき 人に見せむと もみぢばを 手折りぞ吾が來し 雨のふらくに
布將見《メヅラシキ》 人爾令見跡《ヒトニミセムト》 黄葉乎《モミヂバヲ》 手折曾我來師《タヲリゾワガコシ》 雨零久仁《アメノフラクニ》
ナツカシク思フ客〔傍線〕人ニ見セヨウト思ツテ、雨ガ降ツテヰルノモカマハズ〔五字傍線〕ニ、私ハ紅葉ヲ手折ツテ持ツテ參リマシタ。ドウゾコレヲ御覽下サイマシ〔ドウ〜傍線〕。
○布將見《メヅラシキ》――舊訓はシキテミムとあるが穩やかでない。宣長は布は希の誤で、メヅラシキと訓むべきだといつてゐる。なるほど春花乃益希見《ハルハナノイヤメヅラシキ》(一八八六)・本人霍公鳥乎八希將見《モトツヒトホトトギスヲヤメヅラシミ》(一九六三)・希將見君乎見常衣《メヅラシキキミヲミムトゾ》(二五七五)・穢者雖爲益希將見裳《ナルトハスレドイヤメヅラシモ》(二六二三)など、いづれもさうなつてゐるから、宣長の説に從ふべきであらう。このメヅラシキは、珍らしきではなくて、愛づらしきである。メヅラシキ人は親愛なる人で、即ちここに集つた客人をさすのである。
〔評〕 橘邸の背後の奈良山から手折つて來た紅葉を前にして、主客が笑ひさざめいてゐる。屋外には時雨が銀絲のやうに降り注いでゐた夜だ。賓客を歡待してゐる主人ぶりが偲ばれる作品である。
右二首橘朝臣奈良麻呂
1583 もみぢ葉を 散らす時雨に ぬれて來て 君がもみぢを かざしつるかも
黄葉乎《モミヂバヲ》 令落鐘禮爾《チラスシグレニ》 所沾而來而《ヌレテキテ》 君之黄葉乎《キミガモミヂヲ》 挿頭鶴鴨《カザシツルカモ》
紅葉ノ葉ヲ散ラシテ降ル、今日ノ〔三字傍線〕時雨ノ雨ニ私モ〔二字傍線〕濡レテ來マシテ、アナタガ折ツテイラシツタ〔八字傍線〕紅葉ヲカザシマシタヨ。
(634)○君之紅葉乎《キミガモミヂヲ》――前の歌で見ても、亦後の數首を見ても、君が手折り來し紅葉をの意である。略解に「君が園のもみぢをかざし遊ぶといふ也」とあるのは誤つてゐる。古義に「君が家の黄葉と云むが如し」とあるのは、曖昧である。
〔評〕 これは前の歌の返歌とも言ふべきもので、手折曾我來師雨零久仁《タヲリゾワガコシアメノフラクニ》に對して、私もそのもみぢ葉を散らす時雨に濡れつつここへ來て、あなたの辛苦して折られた黄葉を挿頭としたと言はれたので、自分の辛勞を述べて、主人を輕く揶揄したやうな氣分である。主人に對する親睦の情が見えてゐる。
右、一首久|米《メノ》女王
久米女王は續紀に「聖武天皇天平十七年正月乙丑、無位久米女王授2從五位下1」とある。この頃はまだ若い年輩であらせられたらう。
1584 めづらしと 吾が思ふ君は 秋山の 初もみぢ葉に 似てこそありけれ
布將見跡《メヅラシト》 吾念君者《ワガモフキミハ》 秋山《アキヤマノ》 始黄葉爾《ハツモミチバニ》 似許曾有家禮《ニテコソアリケレ》
私ガナツカシク思フアナタハ、秋ノ山ノ初紅葉ニ似テオイデナサイマスヨ。イクラ見テモ見テモ見飽キマセヌ〔イク〜傍線〕。
○布將見跡《メヅラシト》――布は希の誤。一五八二參照。
〔評〕 主人が客人をメヅラシキヒトと言つたに對して、客人なる娘子も亦、主人ヲメヅラシトワガモフキミと稱してゐる。折から紅葉が話題の中心となつてゐるので、それを採つて主人のなつかしさを譬へたので、時にふさはしい、界用な作である。
右一首長忌寸娘
長忌寸娘は傳未詳。娘とのみ記したのは他に例がない。これは娘子ではなく、ムスメである。集中、長忌寸は奧麻呂の外には見えないが、これはその人の娘とも斷じ難い。恐らく久米女王の侍女であらう。
(635)1585 奈良山の 峯のもみぢ葉 取れば散る 時雨の雨し 間なくふるらし
平山乃《ナラヤマノ》 峯之黄葉《ミネノモミヂバ》 取者落《トレバチル》 鐘禮能雨師《シグレノアメシ》 無間零良志《マナクフルラシ》
奈良山ノ峯ノ紅葉ハ手ニ取ルトハラハラト〔五字傍線〕散ツテシマフ。コレハ多分コノ頃ハ〔九字傍線〕時雨ノ雨ガ絶エ間ナク降ルラシイ。ソレデコンナニメ散ルヤウニナツタノダ〔ソレ〜傍線〕。
○平山乃峯之黄葉《ナラヤマノミネノモミヂバ》――下に平山乎令丹黄葉手折來而《ナラヤマヲニホスモミヂバタヲリキテ》(一五八八)とあるから、これは奈良山の風景を詠じたのではなくて、奈良山から手折つて來た紅葉をよんだのである。○取者落《トレバチル》――手に取り持てば、ほろほろと葉が落ちることで、挿頭にしようとして手にするのである。略解に「山のもみぢを折とればもろく散ると也」とあるのは誤。
〔評〕 三句切で、素直な明瞭な歌である。
右一首内舍人縣犬養宿禰|吉男《ヨシヲ》
吉男は續紀に「孝謙天皇天平寶字二年八月庚子朔正六位上縣犬養宿禰吉男授2從五位下1、五月壬午爲2肥前守1廢帝天平寶字八年十月己丑爲2伊豫介1」とある。犬養宿禰は諸兄の母、即ち橘夫人三千代の實家であるから、吉男は奈良麻呂の親族である。
1586 もみぢ葉を 散らまく惜しみ 手折り來て こよひかざしつ 何か念はむ
黄葉乎《モミヂバヲ》 落卷惜見《チラマクヲシミ》 手折來而《タヲリキテ》 今夜挿頭津《コヨヒカザシツ》 何物可將念《ナニカオモハム》
紅葉ガ散ルノガ惜シイノデ、ソレヲ手折テ來テ、今夜コノ宴席デ〔五字傍線〕挿頭シテ遊ンダ。モウコノ上ハ私ハ〔八字傍線〕何モ心殘リニ〔四字傍線〕思フコトハナイ。
○何物可將念《ナニカオモハム》――略解に舊訓を改めて、ナニヲカオモハムとしたのはよくない。
〔評〕 これも平明な歌である。若人らしい率直さが見える。
右一首縣犬養宿禰持男
(636)持男は傳未詳。吉男の近親であらう。
1587 足引の 山のもみぢ葉 今夜もか 浮びいぬらむ 山川の瀬に
足引乃《アシビキノ》 山之黄葉《ヤマノモミジバ》 今夜毛加《コヨヒモカ》 浮去良武《ウカビイヌラム》 山河之瀬爾《ヤマガハノセニ》
(足引乃)山ノ紅葉ハ今夜アタリハ、散ツテシマツテ〔七字傍線〕、多分山川ノ瀬ニ浮ンデ流レテ行クコトデアラウ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
○浮去良武《ウカビイヌラム》――舊訓はウキテイヌラム、古義はウカビユクラムとある。略解札記にウカビイヌラムとよんだのがよい。
〔評〕 散り方になつてゐる奈良山の紅葉を、手折つて來て弄んでゐる人たちには、今朝の雨に、山々の紅葉が散つて、山川の瀬に浮び流れるであらうことが、想像せられるのである。この一群の中では出色の作である。
右一首大伴宿禰書持
書特は家持の弟。卷三の四六三參照。
1588 奈良山を にほすもみぢ葉 手折り來て こよひかざしつ 散らば散るとも
平山乎《ナラヤマヲ》 令丹黄葉《ニホスモミヂバ》 手折來而《タヲリキテ》 今夜挿頭都《コヨヒカザシツ》 落者雖落《チラバチルトモ》
奈良山ヲ美シク飾ツテヰタ紅葉ヲ手折ツテ來テ、今夜コノ席デ挿頭ニシテ遊ンダ。モウアノ紅葉モ〔七字傍線〕散ルナラ散ツテモ少シモカマハヌ。
○令丹黄葉《ニホスモミヂバ》――ニホスを古義にニホフと訓んでゐるが、令の字があるから、ニホハスの意で、ニホスとよむべきである。卷十六|墨江之遠里小野之眞榛持丹穗之爲衣丹《スミノエノトホザトヲヌノマハリモチニホシシキヌニ》(三七九一)とあるのも同じである。○落者雖落《チラバチルトモ》――散らば散るともかまはぬの意。
〔評〕 平明な歌といふまでである。前の持男の歌と三四の句が同樣である。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる、
(637)右一首|之手代人名《ミテシロノヒトナ》
之手代人名はわからない。之の字、細井本、三に作るによるべきであらう。さうすれば三手代が姓で、人名は名である。續紀「聖武天皇天平二十年七月丙戍從五位下大倭御手代連麻呂女賜2宿禰姓2」とある。その一族であらうか。
1589 露霜に あへるもみぢを 手折り來て 妹がかざしつ 後は散るとも
露霜爾《ツユジモニ》 逢有黄葉乎《アヘルモミヂヲ》 手折來而《タヲリキテ》 妹挿頭都《イモガカザシツ》 後者落十方《ノチハチルトモ》
露ニ逢ツテ色付イタ〔四字傍線〕紅葉ヲ手折ツテ來テ、女ドモガ頭ニ挿シテヰル。誠ニ綺麗ダ〔五字傍線〕。モウ散ルナラ散ツテモカマフコトハナイ〔八字傍線〕。
○妹挿頭都《イモガカザシツ》――妹は、この宴席に來てゐる女をさしたのである。久米女王をさすと見るのはあまりに無禮であらう。その他の女である。舊訓トモニカザシツ、古義はイモトカザシツとあるが略解に從ふ。考に妹を今夜とし、略解に、「宣長云、妹の字|今夜《コヨヒ》なりしを、今を落し、夜を妹に誤れるなるべしといへり」とある。
〔評〕 前の人名の作と下句が酷似してゐる。要するに持男・人名・許遍麿・三人の作は形式・内容に於て、著しい近似點を持つてゐる。
右一首|秦許遍《ハタノコベ》麻呂
秦許遍麻呂の傳は明らかでない。遍の字、京大本に部にも作つてゐる。
1590 十月 時雨にあへる もみぢ葉の 吹かば散りなむ 風のまにまに
十月《カミナヅキ》 鐘禮爾相有《シグレニアヘル》 黄葉乃《モミヂバノ》 吹者將落《フカバチリナム》 風之隨《カゼノマニマニ》
十月ノ時雨ニ逢ツテ脆クナツテヰル〔八字傍線〕紅葉ハ、風ガ吹イタナラバ、風ノ吹クノニツレテ散ツテシマフダラウ。
○十月《カミナヅキ》――十月をカミナヅキといふ意は、諸説があつて一定しない。雷無月《カミナツキ》といふ説が比較的よいか。その他、(638)新穀を以て神を祭る意で神之月《カミナヅキ》。酒を釀《か》み成し神に供ふる意で釀成月《カミナシヅキ》などの説がある。八百萬の神、出雲の大社に集つて、國々に神が無い月とするのは、俗説であらう。
〔評〕 これは手折つて來た紅葉を詠んだのではない。結句を代匠記初稿本に、「吹ぱちりなん風のまにまにとは、ともかくも君にしたがはむの心なり。げにも奈良麻呂寶字元年に謀反のやうの事有し時、此哥ぬしも方人はせられける。和哥も詩文も兼たる人とみゆるを惜むべきことなり」とあるのは、あまり考へ過ぎた説である。これはただ紅葉をよんだので、何の寓意もない。
右一首大伴宿禰池主
池主は卷十七以下に多くの作を殘してゐる人である。漢文にも秀でてゐた。家持が越中守として赴任した時、その國の椽であつたが、後、越前椽に轉じた。續紀によれば、天平寶字元年の奈良麻呂が、皇太子大炊王を廢し、藤原仲麿を殺さうとして事あらはれた際、この人の名がその一味の中に記されてゐるが、如何なる罪に服したかは明らかでない。
1591 黄葉の 過ぎまく惜しみ 思ふどち 遊ぶこよひは 明けずもあらぬか
黄葉乃《モミヂバノ》 過麻久惜美《スギマクヲシミ》 思共《オモフドチ》 遊今夜者《アソブコヨヒハ》 不開毛有奴香《アケズモアラヌカ》
紅葉ガ盛リ過ギテシマフノガ惜シサニ、紅葉ヲカザシテ〔七字傍線〕心ノ合ツタ友ダチガ一緒ニ遊ブ今夜ハ明ケナイデ居レバヨイガナア。ホントニ面白イ〔七字傍線〕。
○過麻久惜美《スギマクヲシミ》――散らまく惜しみに同じ。散るのが惜しさに。○不開毛有奴香《アケズモアラヌカ》――明けずもあれかしに同じ。明けずにゐてくれないかよの革。
〔評〕結句は卷十の久方之天河津爾舟泛而君待夜等者不明毛有寢鹿《ヒサカタノアマノカハヅニフネウケテキミマツヨラハアケズモアラヌカ》(二〇七〇)と同じで、全體の調も亦似てゐる。併し模倣とするのは、あまりに酷であらう。
右一首内舍人大伴宿禰家持
(639)家持が内舍人として記されてゐるのは、卷六の一〇二九に十二年庚辰冬十月云々とあるのを最初とするが、ここは前に天平十年とあり次に十一年とあるから、天平十年の十月のことに違ひない。
以前冬十月十七日集(ヒテ)2於右大臣橘卿之舊宅(ニ)1宴飲(セル)也
以前はこれより前の意であるから、ここでは以上と同じく、右の十一首をさしたのである。十月十七日は右に述べたやうに、天平十年のことである。十月の歌を秋の部に入れたのは、黄葉を詠んたものであるからであらうが、奇異の感がある。集の字は神田本・京大本にない。卿の字、舊本郷に作るはもとより誤である。類聚古集・西本願寺本など卿となつてゐる。橘卿之舊宅とあるについて、代匠記に「此歌共は天平十三年十四年兩年の間なり。其故は十三年に久邇京に定りて奈良は故郷となれるに,歌に平山《ナラヤマ》とよみ、今橘卿之舊宅と云ひ、又橘卿は十五年五月に左大臣に轉ぜられけるに、今右大臣とあれば、右の兩年の間の事なりとは知れり」とあるが、この舊宅は、前に右大臣橘家宴歌七首(一五七四)とある新築の橘家に對したもので、(恐らく相樂の邸であらう。諸兄はここに住んで井手の左大臣と言はれたのである)、諸兄が新邸に引移つたあと、その長子奈良麻呂が、そこに知己を集めて宴を催したのである。契沖説は全然誤つてゐる。年代順から言つても、ここに十三四年頃の作を入れる筈はない。奈良麻呂の招に應じた人たちは、橘家と親戚の關係か、又は親交ある青年たちであつた。これによつて當時政界の大御所であつた諸兄と、大伴氏との關係を知ることが出來て、後年奈良麻呂の失脚と共に、家持の失意時代が齎される端緒がここに見えてゐる。右の十一首はいづれも若人らしい、單純な簡素な歌のみである。
大伴坂上郎女竹田庄作歌二首
竹田庄は大和磯城郡耳成村大字東竹田の地であらう。卷四の七六〇參既。
1592 然とあらぬ 五百代小田を 苅りみだり 田廬に居れば 都し念ほゆ
然不有《シカトアラヌ》 五百代小田乎《イホシロヲダヲ》 苅亂《カリミダリ》 田廬爾居者《タブセニヲレバ》 京師所念《ミヤコシオモホユ》
(640)(然不有)五百代モアル廣イ〔五字傍線〕田ヲ苅リ亂ラカシテ、骨折ツテ仕事ヲシテ〔九字傍線〕、田ノ中ノ廬ニ居ルト、都ノコトガナツカシク思ハレマス。
○然不有《シカトアラヌ》――舊訓タダナラスとあるのでは分らないが、袖中抄・和歌童蒙抄にもさうなつてゐるから、これが古訓である。宣長が、然は黙の誤でモダアラズだらうと言つたのも、從ひがたいから、契沖がシカトアラヌと訓んだのに從ふ。シカトアラヌは枕詞。然とあらぬ廬の意で、五百代小田《イホシロヲダ》につづけたのである。これを第四句の田廬につづくとした説は無理であらう。志可登阿良農比宜可伎撫而《シカトアラヌヒゲカキナデテ》(八九二)參踊。○五百代小田乎《イホシロヲダヲ》――五百代小田は、廣い田。代は拾芥抄に、「方六尺爲2一歩1云々、積2七十二歩1爲2十代1百四十歩爲2二十代1云々、五十代爲2一段上1と見えてゐる。五百はただ數の多きをいふ。○刈亂《カリミダリ》――苅り亂しに同じ。稻を苅り倒した樣が、亂りがはしいので、かういつたのである。○田廬爾居者《タブセニヲレバ》――田廬は田の中にある伏庵《フセイホ》。低い番小家である。卷十六、可流羽須波田廬乃毛等爾《カルウスハタブセノモトニ》(三一八七)とある註に、田廬者、多夫世反とある。
〔評〕 田舍に來てゐるので、すつかり自分を農民らしく詠んでゐるのが面白い。才女らしいよみぶりである。
1593 こもりくの 泊瀬の山は 色づきぬ 時雨の雨は 零りにけらしも
隱口乃《コモリクノ》 始爾山者《ハツセノヤマハ》 色附奴《イロヅキヌ》 鐘禮乃雨者《シグレノアメハ》 零爾家良思母《フリニケラシモ》
(隱口乃)初瀬ノ山ハ赤ク〔二字傍線〕色ガツイタ。コレデ見ルトモウ山デハ〔コレ〜傍線〕時雨ノ雨ハ降ツタラシイヨ。
○隱口乃《コモリクノ》――枕詞。始瀕とつづく。四五參照。
〔評〕 竹田庄から目に見たままを詠んだものであらう。初瀬山は竹田庄の東方、三輪山の後に見える。平明な作。三句切になつてゐる。
右天平十一年己卯秋九月作
佛前(ノ)唱歌一首
1594 時雨の雨 間無くな零りそ くれなゐに にほへる山の 散らまく惜しも
(641)思具禮能雨《シグレノアメ》 無間莫零《マナクナフリソ》 紅爾《クレナヰニ》 丹保敝流山之《ニホヘルヤマノ》 落卷惜毛《チラマクヲシモ》
時雨ノ雨ヨ。絶エ間ナク降ルナヨ。折角紅葉シテ〔六字傍線〕赤ク色ヅイタ山ノ木ノ葉〔四字傍線〕ガ、散ルノハ惜シイモノダヨ。
〔評〕 神無月の時雨に染まつた、四圍の山々の紅葉に對しての直感を歌にしたもので、明瞭な平易な調子のよい作である。謠物としては、こんなものが却つて適應するであらう。併し佛前での唱歌としては、もつとそれらしい内容のものがありさうに思はれる。和讃などの發生してゐない時代ではあるが、かの佛足跡歌の如きものも出來た時代である。
右、冬十月、皇后宮之維摩講(ニ)終日供2養(ス)大唐高麗等種種音樂(ヲ)1爾乃《スナハチ》唱(フ)2此謌(ヲ)1、彈琴者市原王、忍坂王【後賜2姓大原眞人赤麻呂1也】歌子《ウタヒト》者田口朝臣|家守《ヤカモリ》、河邊朝臣|東人《アヅマド》、置始連|長谷《ハツセ》等十數人也
皇后宮は光明皇后。維摩講は維摩經を講ずる法會で、鎌足が山階寺に於て始めたものである。後これを永く傳へて、十月十日に始まり、鎌足の忌日、同月十六日に至つて講じ了ることになつてゐた。彈琴はコトヒキ、この琴は外來のものか。正倉院御物の琴の寫眞をここに載せる。市原王は四一二參照。忍坂王を續紀に、「天平寶字五年戊子、授2無位忍坂王從五位下1」とある。これで見ると市原王より遙かに後輩である。後に姓を大原眞人赤麻呂と賜ふ(642)とあるのは、續紀に記載がない。歌子は歌ひ手である。田口朝臣家守は傳未詳。河邊朝臣東人は卷六の九七八の左註にその名が見えてゐる。置始連長谷は傳未詳。
大伴宿禰像見歌一首
像見の傳は卷四の六六四に出てゐる。
1595 秋萩の 枝もとををに 降る露の 消なばけぬとも 色に出でめやも
秋芽子乃《アキハギノ》 枝毛十尾二《エダモトヲヲニ》 降露乃《フルツユノ》 消者雖消《ケナバケヌトモ》 色出目八方《イロニイデメヤモ》
(秋芽子乃枝毛十尾二降露乃)タトヒ私ノ命ハ〔七字傍線〕亡クナルナラ亡クナツテモ、私ハコノ心ニ思ツテヰルコトヲ〔私ハ〜傍線〕顔色ニ出サウカ、決シテ顔色ニ出シハセヌゾ〔決シ〜傍線〕。
○秋芽子乃枝毛十尾二降露乃《アキハギノエダモトヲヲニフルツユノ》――序詞。消とつづくこころは明らかであらう。十尾二《トヲヲニ》はクワワニに同じ。降露乃は舊訓オクツユノとあるが、無理であるから、古義によつてフルツユノとよむことにする。○消者雖消《ケナバケヌトモ》――命を亡ふなら亡ふともの意。ケナバケヌガニ・ケナバケヌベクなど集中に多い詞である。
〔評〕 序詞が秋の季になつてゐるのみで、内容は戀である。こんなのは次の秋相聞に入れるべきものと思はれる。下句も言葉は強烈らしいが、お定まりの文句を言つてゐるやうに思はれて、さしたる感激も與へない。
大伴宿禰家持到(リテ)2娘子門(ニ)1作(レル)歌一首
1596 妹が家の 門田を見むと うち出こし 心もしるく 照る月夜かも
妹家之《イモガイヘノ》 門田乎見跡《カドタヲミムト》 打出來之《ウチデコシ》 情毛知久《ココロモシルク》 照月夜鴨《テルツクヨカモ》
今夜私ハ〔四字傍線〕女ノ家ノ門ノ前ノ田ノ樣子〔三字傍線〕ヲ見ヨウト思ツテ、ワザワザ〔四字傍線〕出テ來タガソノ〔三字傍線〕心モ甲斐ガ〔三字傍線〕著シクアツテ、ヨ(643)ク照ル月ダヨ。門田ノ景色ハ手ニ取ルヤウニ見エルガ、サテ女ニ逢ヘナイノハ物足リナイ〔門田〜傍線〕。
○門田乎見跡《カドタヲミムト》――門田は門前の田。門田を見るのは目的でなく、女に逢ふつもりであるのを、かく言ひ寄せたのである。○打出來之《ウチデコシ》――打は強めて言へるのみ。古義に、馬に鞭打つて出て來たやうに言つてゐるのは誤つてゐる。○情毛知久《ココロモシルク》――心も著《シル》く。著しくその甲斐ありての意。
〔評〕 明皎々たる月夜に、愛人をおとづれて、門外に佇んでゐる若人の面影がしのばれる。一二句の娩曲な叙法がめづらしい。
大伴宿禰家持秋歌三首
1597 秋の野に 咲ける秋萩 秋風に 靡ける上に 秋の露おけり
秋野爾《アキノヌニ》 開流秋芽子《サケルアキハギ》 秋風爾《アキカゼニ》 靡流上爾《ナビケルウヘニ》 秋露置有《アキノツユオケリ》
秋ノ野ニ咲イタ秋萩ノ花ガ、秋風ニ靡イテヰル上ニ秋ノ露ガ宿ツテヰル。ヨイ景色ダ〔五字傍線〕。
〔評〕 秋の歌とあるだけに、秋の字が一・二・三・五の各句に用ゐてある。これはもとより偶然ではなく、もとめて試みたものである。歌を作ることを技術として考へるやうになつてゐたこの時代に、歌に深い趣味を有つてゐた家持が、かうした試みをしたのは當然である。
1598 さを鹿の 朝立つ野べの 秋萩に 玉と見るまで おける白露
棹牡鹿之《サヲシカノ》 朝立野邊乃《アサタツヌベノ》 秋芽子爾《アキハギニ》 玉跡見左右《タマトミルマデ》 置有白露《オケルシラツユ》
男鹿ガ朝、野原ニ出テ〔五字傍線〕立ツテヰルガソノ〔三字傍線〕野ニ生エテヰル秋萩ノ花ノ〔三字傍線〕上ニ、玉デハナイカト思ハレルホド白露ガ置イテヰル。美シイ野原ノ景色ダ〔九字傍線〕。
○朝立野邊乃《アサタツヌベノ》――朝、牡鹿が野原に出で立つてゐること。新考に「朝立ち行くなり。……アサダツとタを濁りて唱ふべし」とあるのは從ひ難い。
(644)〔評〕 秋の花の代表なる萩に、白露の玉を宿らせ、秋の獣の代表といふべき鹿を配したので、枝もたわわに咲いてゐる萩原に、いかめしい角をささげた牡鹿のさまよふ樣も見えるやうだ。これも考へて作つた歌と思はれるが、綺麗に出來てゐる。
1599 さを鹿の 胸別にかも 秋萩の 散り過ぎにける 盛かも去ぬる
狹尾牡鹿乃《サヲシカノ》 ※[匈/月]別爾可毛《ムナワケニカモ》 秋芽子乃《アキハギノ》 散過鷄類《チリスギニケル》 盛可毛行流《サカリカモイヌル》
見ルト大ブン萩ノ花ガ散ツテヰルガ、コレハ〔見ル〜傍線〕男鹿ガ胸デ押シ分ケテ通ツタ爲ニ、コンナニ秋萩ノ花ガ散ツタノカソレトモ已ニ盛リガ過ギタカラダラウカ。
○※[匈/月]別爾可毛《ムナワケニカモ》――胸で押し分け行くことを陶別といふ、卷二十にマスラヲノヨビタテシカバサヲシカノムナワ
氣由加牟安伎野波疑波良《ケユカムアキノハギハラ》(四三二〇)とあるのも同じ。
〔評〕 同じく秋萩の歌であるが、これは散り過ぎた野の萩の歌である。棹鹿の胸別は蓋し作者得意の用語で、彼は後年になつて、右に掲げた卷二十の歌に再び繰返してゐる。
右天平十五年癸未秋八月見(ル)2物色(ヲ)1作
物色は景色。
内舍人石川朝臣廣成歌二首
石川朝臣廣成は卷四の六九六參照。
1600 妻戀に 鹿鳴く山べの 秋萩は 露霜寒み 盛すぎ行く
妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》 秋芽子者《アキハギハ》 露霜寒《ツユジモサムミ》 盛須凝由君《サカリスギユク》
妻ヲ戀ヒ慕ツテ、鹿ガ鳴ク山ノアタリノ秋萩ノ花ハ、露ガ寒ク降ツタノデ、ダンダント〔五字傍線〕盛リガ過ギテユク。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
(645)○鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》――鹿とのみ記したのはカとよむべきで、シカとよんではいけない。卷一の鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》(八四)參照。○露霜寒《ヅユジモサムミ》――露霜は露のこととする宣長説に從ふ。
〔評〕 これは山の秋萩をよんでゐる。妻戀ふ鹿を點出し、散り方になつた花があはれによまれてゐる。
1601 めづらしき 君が家なる はな芒 穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも
目頬布《メヅラシキ》 君之家有《キミガイヘナル》 波奈須爲寸《ハナススキ》 穂出秋乃《ホニイヅルアキノ》 過良久惜母《スグラクヲシモ》
ナツカシイアナタノ家ノ花薄ガ、穗ニ出テ風ニ靡ク面白イ〔七字傍線〕秋ガ過ギルノハ惜シイコトダヨ。
○目頼布《メヅラシキ》――愛《メヅ》らしき。前の布將見《メヅラシキ》(一五八二)・布將見跡《メヅラシト》(一五八四)などと同じく、親愛なるといふやうな意。略解にメヅラシクとよんで、花薄へかかると言つてゐるのはよくない。○波奈須爲寸《ハナススキ》――花薄。考に奈は太の誤でハタススキかといつてゐる。神功皇后紀の神託の詞に幡萩穗出吾也《ハタススキホニイヅルワレヤ》とあり、また集中ハナススキとあるのはここのみで、他はすべてハタススキとなつてゐるからである。然し花薄は後世も常用せられる語であり、無理な詞でもないからこのままでよい。
〔評〕 尾花、すなはち花薄は萩についで秋の花として貴ばれたものである。今、親愛なる友人の家にあつて花薄をながめつつ、秋の名殘を惜しんだものか。素純な歌風である。
大伴宿禰家持鹿鳴歌二首
代匠記精撰本に、鹿の上に聞の字が脱ちたかと言つてゐる。なほ上に湯原王鳴鹿歌とあるから、これも文字が顛倒したのではないかとも思はれるが、このままでシカノネとよむのであらう。
1602 山彦の 相とよむまで 妻戀に 鹿鳴く山べに 獨のみして
山妣姑乃《ヤマビコノ》 相響左右《アヒトヨムマデ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》 獨耳爲手《ヒトリノミシテ》
山彦ガアチコチデ〔五字傍線〕反響シテヨク聞エルホドモ、妻ヲ戀ヒシテ鹿ガ高ク〔二字傍線〕鳴ク山ノアタリニ、私ハ〔二字傍線〕唯一人ノミデ居(646)ル。實ニ琳シイ〔五字傍線〕。
○山妣姑乃《ヤマビコノ》――山彦が。山彦は反響。九七一參照。○相響左右《アヒトヨムマデ》――あちこちで響きあふことをアヒトヨムと言つたのである。○獨耳爲手《ヒトリノミシテ》――穩やかに言ひをさめて、餘情を殘してゐる。下を省いたのではない。
〔評〕 棹鹿が頻りに鳴き立てる哀音が、腸を斷つやうである。ヒトリノミシテに餘情を持たしめてゐるのが、雄勁な萬葉ぶりに反して、平安朝の歌風になつてゐる。
1603 この頃の 朝けに聞けば あしびきの 山をとよもし さを鹿鳴くも
頃者之《コノゴロノ》 朝開爾聞者《アサケニキケバ》 足日木箆《アシビキノ》 山乎令響《ヤマヲトヨモシ》 狹尾牡鹿鳴哭《サヲシカナクモ》
コノ頃ノ朝ノ夜明ケ時ニ聞クト、(足日木箆)山ヲ反響サセテ、男鹿ガ大キナ聲デ〔五字傍線〕鳴イテヰルヨ。
○狹尾牡鹿鳴哭《サヲシカナクモ》――略解に、「哭は喪の字の誤なるべし」とあるのはよくない。哭をモの假名に用ゐるのである。他にもその例がある。
〔評〕 すがすがしい、何となく調の高い作である。
右二首天平十五年癸未八月十六日作
大原眞人|今城《イマキ》傷(ミ)2惜(シム)寧樂故郷(ヲ)1歌一首
大原眞人今城は、續紀に「孝謙天皇、天平寶字元年五月乙卯、正六位上大原眞人今木授2從五位下1、六月壬辰、爲2治部少輔1、廢帝同七年正月壬子、左少辨、四月丁亥爲2上野守1、八年正月乙巳、從五位上、」とあるが、惠美押勝の誅戮が、その年の九月にあつてそれに連坐して官を奪はれたものか、「光仁天皇、寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位大原眞人今城、復2本位從五位上1」とあり。つづいて、「七月丁未、爲2兵部少輔1、三年九月庚子、爲2駿河守1」と見えてゐる。なほ卷四に高田女王贈今城王歌六首(五三七)とある今城王はこの人とは別であらう。
(647)1604 秋されば 春日の山の 黄葉見る 寧樂の都の 荒るらく惜しも
秋去者《アキサレバ》 春日山之《カスガノヤマニ》 黄葉見流《モミヂミル》 寧樂乃京師乃《ナラノミヤコノ》 荒良久惜毛《アルラクヲシモ》
秋ニナルト、イツデモ〔四字傍線〕春日山ノ紅葉ヲ見テハ樂シミニシテ〔七字傍線〕ヰルコノ奈良ノ都ガ、今ハ都ガ久邇ヘ遷ツタノデ、段々〔今ハ〜傍線〕荒レルノハ惜シイコトダヨ。
〔評〕 久邇の都が出來て、寧樂の都の荒れ行くのを惜しんだのである。作つた年月は明らかになつてゐないが、春日山の紅葉をよんでゐるので、秋雜歌中にをさめたのであらう。久邇京への遷都は天平十三年であるから、前の天平十五年癸未、八月十六日作とあるのと、ほぼ同じ頃と考へてよいであらう。歌には、傷み惜しむ氣分がさほど濃厚に出てゐない。
大伴宿禰家持歌一首
1605 高圓の 野べの秋萩 この頃の 曉露に 咲きにけむかも
高圓之《タカマドノ》 野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》 比日之《コノゴロノ》 曉露爾《アカトキツユニ》 開兼可聞《サキニケムカモ》
高圓ノ野ノ秋萩ノ花ハ、コノ頃ノ夜明方ニ降ル(648)露ニヌレテ咲イタダラウカヨ。高圓ノ野ハ今頃ハサゾ美シイデアラウ〔高圓〜傍線〕。
○開兼可聞《サキニケムカモ》――兼の字、舊本葉に作るは誤。類聚古集・神田本など古本多くは兼に作つてゐる。
〔評〕 これも前と同じく、久邇の京にゐて高圓の野を偲んだものらしい。第四句、曉露爾《アカトキツユニ》が優雅な趣を添へ、全體を美化してゐる。
秋相聞
額田王思(ヒテ)2近江天皇(ヲ)1作(レル)歌一首
卷四の四八八の題詞も、全くこれと同樣である。
1606 君待つと 吾が戀ひをれば 吾が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く
君待跡《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 我屋戸乃《ワガヤドノ》 簾令動《スダレウゴカシ》 秋之風吹《アキノカゼフク》
アナタ樣ノオイデニナルノ〔八字傍線〕ヲ待ツテ、私ガ貴方樣ヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマスト、吾ガ家ノ簾ヲ動力シテ秋ノ風ガソヨソヨト〔五字傍線〕吹キマス。タダタダ貴方樣ガオナツカシウゴザイマス〔タダ〜傍線〕。
〔評〕 この歌は卷四に、君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトワガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》(四八八)と出てゐる。用字が少しく異なるのみで、全く同一である。
鏡王女作歌一首
卷四の四八九の題詞も、全くこれと同樣である。
1607 風をだに 戀ふるはともし 風をだに 來むとし待たば 何か嘆かむ
風乎谷《カゼヲダニ》 戀者乏《コフルハトモシ》 風乎谷《カゼヲダニ》 將來常思待者《コムトシマタバ》 何如將嘆《ナニカナゲカム》
(649)風ノ吹クノヲナツカシガル貴方ハ〔三字傍線〕ウラヤマシイ。貴女ノヤウニ〔六字傍線〕人ガ來ルノヲアテニシテ待ツノデアルナラバ何シニ私ハ嘆キマセウ。來ルアテガナクテ待ツノダカラ、悲シウゴザイマス〔來ル〜傍線〕。
〔評〕 この歌も卷四に風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カゼヲダニコフルハトモシカゼヲダニコムトシマタバナニカナゲカム》(四八九)と出てゐる。用字が少し異なるのみで、全く同一である。何故に卷四と卷八との間に、この重複があるか。大に考究すべき問題である。
弓削皇子御歌一首
弓削皇子は天武天皇の第六の皇子。御母は大江の皇女。一一一參照。
1608 秋萩の 上に置きたる 白露の けかもしなまし 戀ひつつあらずは
秋芽子之《アキハギノ》 上爾置有《ウヘニオキタル》 白露乃《シラツユノ》 消可毛思奈萬思《ケカモシナマシ》 戀管不有者《コヒツツアラズハ》
私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ヒツツ苦シシデ〔四字傍線〕居ナイデ、寧ロ(秋芽子之上爾置有白露乃)消エテシマハウカト思フ〔三字傍線〕。
○秋芽子之上爾置有白露乃《アキハギノウヘニオキタルシラツユノ》――消と言はむ爲の序詞。その意は明らかであらう。○消可毛思奈萬思《ケカモシナマシ》――シナマシは爲なましであつて、死なましではない。消《ケ》かも死なましでは、消と死とが重複する。
〔評〕 序詞がやさしくて、麗はしい歌であるが、卷十の、秋芽子之上爾置有白露之消鴨死猿戀爾不有者《アキハギノウヘニオキタルシラツユノケカモシナマシコヒツツアラズハ》(二二五四)と全く同歌である。恐らく皇子が古歌を誦せられたのであらう。なほこの下句と同じものが、二二五六・二二五八にあり、これと類想の作は他にもあるから、かうした型が出來上つてゐたのである。
丹比眞人歌一首 名闕
丹比眞人とのみで名を記してゐない。卷二(二二六)にも名闕とあり、卷九(一七二六)にも名を記してないのは、同人であらう。
1609 宇陀の野の 秋萩しぬぎ 鳴く鹿も 妻に戀ふらく 我には益さじ
(650)宇陀乃野之《ウダノヌノ》 秋芽子師弩藝《アキハギシヌギ》 鳴鹿毛《ナクシカモ》 妻爾戀樂苦《ツマニコフラク》 我者不益《ワレニハマサジ》
宇陀ノ野ノ秋萩ヲ押シ靡カセテ鳴ク鹿ハ、妻ヲ戀シガツテ嶋クノダガアノ鹿〔ハ妻〜傍線〕モ、妻ヲ戀ヒ慕フコトハ私ニハマサリハスマイ。
○宇陀乃野之《ウダノヌノ》――宇陀の野は今の大和國宇陀郡榛原町附近。卷二に宇陀乃大野《ウダノオホヌ》(一九一)とあつた。○秋芽子師弩藝《アキハギシヌギ》――シヌギは押靡けること。奥山之菅葉凌零雪乃《オクヤマノスガノハシヌギフルユキノ》(二九九)・奥山之眞木葉凌零雪乃《ナクヤマノマキノハシスギフルユキノ》(一〇一〇)の類と同じ。略解に、これらとの間に區別を立てたのはよくない。○鳴鹿毛《ナクシカモ》――鹿の一字でシカとよむ例は極めて稀で、多くはカとよんである。ここはシカであらう。
〔評〕 妻戀ふ鹿を萩に配した歌はかなり多い。卷十の於君戀裏觸居者敷野之秋芽子凌左牡鹿鳴裳《キミニコヒウラブレヲレバシキノヌノアキハギシヌギサヲシカナクモ》(二一四三)などは、この歌の前蹤をなしたものか。
丹生《ニフノ》女王贈(レル)2太宰帥大伴卿(ニ)1歌一首
丹生女王は、卷四にも。丹生女王贈2太宰帥大伴卿1歌二首(五五三)とある、大伴旅人と親しかつたお方らしい。卷三に石田王卒之時、丹生王作歌(四二〇)とある、丹生王は別人か。
1610 高圓の 秋野の上の 瞿麥の花 うらわかみ 人のかざしし 瞿麥の花
高圓之《タカマドノ》 秋野上乃《アキヌノウヘノ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》 于壯香見《ウラワカミ》 人之挿頭師《ヒトノカザシシ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》
秋ノ高圓ノ野ノ上ニ咲イテヰタ瞿麥ノ花ヨ。アノ花ハ〔四字傍線〕マダ若ク盛リダツタノデ、人ガ愛ラシガツテ手折ツテ〔十字傍線〕頭ニ挿シタ瞿麥ノ花ヨ。今ハ盛リガスギタノデ誰モ折ツテ頭ニサスモノモナイ。私モ若イ時ハ貴君ニ愛セラレタガ今ニナツテハ駄目デゴザイマス〔今ハ〜傍線〕。
○秋野上乃《アキヌノウヘノ》――略解にアキノヌノヘノとあるのはよくない。○于壯香見《ウラワカミ》――古くからウラワカミトよんであり、(651)また今もさうよむより外はないやうであるが、用字に疑はしい點がある。于は西本願寺本は丁に、京大本は下に作つてゐる。丁壯の二字をウラワカとよませ、香を送假名のやうに補つたのであらうか。訓義辨證にも丁壯が正しいことを論じてゐる。童蒙抄に、于を卜の誤としたのもおもしろいやうだ。
〔評〕 旋頭歌である。自分を瞿麥に譬へ、大伴卿を人と言つてゐる。旅人が太宰帥であつたのは、懷風藻にその享年を六十七としてゐるのによると、六十四五歳の頃であるが、若かつた頃、親しくしてゐた女王から、往時を追懷してこの歌を贈られたものか。はつきりした、滯りのない調子である。
笠縫女王歌一首
目録にこの題詞の下に小字で、「六人部親王之女、母曰田形皇女」とある。六人部親王は六人部王の誤で、卷一の六八の左註に、身人部王とあるお方である。田形皇女は天武天皇の皇女。
1611 あしびきの 山下とよみ 鳴く鹿の ことともしかも 吾がこころづま
足日木乃《アシビキノ》 山下響《ヤマシタトヨミ》 鳴鹿之《ナクシカノ》 事乏可母《コトトモシカモ》 吾情都末《ワガココロヅマ》
私ガ心ニ夫《ツマ》ト定メタ人ノ言葉ハ、(足日木乃山下響鳴鹿之)ホントニ〔四字傍線〕ユカシイ聲デスヨ。オナツカシウ存ジマス〔十字傍線〕。
○足日木乃山下響鳴鹿之《アシビキノヤマシタトヨミナクシカノ》――序詞で、次の句のコトトモシにつづいてゐる。コトトモシは言乏しで、鳴く鹿の音のなつかしいのを、愛人の言葉のゆかしいのに言ひかけたのである。ここにも鹿をシカとよませてある。○吾情郡末《ワガココロヅマ》――吾が心になつかしく思ふ夫《ツマ》の意。
〔評〕 序詞に鹿を用ゐたのみで、秋らしい感じは薄い。上句は卷十一の惡氷木之山下動逝水之《アシビキノヤマシタトヨミユクミヅノ》(二七〇四)などから思ひついたかも知れないが、よく當てはまつてゐる。
石川|賀係《カケノ》女郎歌一首
賀係女郎は、どういふ人かわからない。
1612 神さぶと いなにはあらず 秋草の 結びし紐を 解くは悲しも
(652)神佐夫等《カムサブト》 不許者不有《イナニハアラズ》 秋草乃《アキクサノ》 結之紐乎《ムスビシヒモヲ》 解者悲哭《トクハカナシモ》
私ハ年ヲトリマシタガ〔十字傍線〕、年ヲトツタカラアナタノ仰ルコト〔八字傍線〕ガイヤナノデハアリマセヌ。(秋草乃)結ンデ置イテ、モウ人ニハユルサヌト心ニ誓ツタ〔テモ〜傍線〕紐ヲ解クノハ悲シウゴザイマス。
○神佐夫登不許者不有《カムサブトイナニハアラズ》――卷四の七六二にこれと同じ句がある。老婆になつたから、逢はぬと言ふのではないの意。○秋草乃《アキクサノ》――枕詞。秋草は生ひ結ぼほれてゐるから、結《ムスビ》につづけたのである。略解には「秋草の如く枯方になりて、今更紐とかむは悲しと言へるか。秋草は結ぶといはむ料にて、契りし人あれば、更に紐とかむは悲しといへるならむとおもへどむつかしかるべし」とあるのは、なるほどむつかしい。結ぶは年老いて人に逢はじと、吾が心に誓つたのである。○解者悲哭《トクハカナシモ》――舊訓トケパカナシモとあるのを、代匠記に「トカバカナシモか」とし、略解はこれによつてゐるが、古義にトクハとしたのがよい。これも哭をモの假名に用ゐてゐる。
〔評〕 卷四の紀女郎が大伴家持に贈つた、神左夫跡不欲者不有八也多八如是爲而後二佐夫之家牟可聞《カムサブトイナニハナラズヤヤオホヤカクシテノチニサブシケムカモ》(七六二)と、殆ど内容を等しくしてゐる。世なれた女が、男の變心しないやうに、豫め釘を打つた形である。
賀茂女王歌一首【長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也】
賀茂女王の傳は右の註以外のことは明らかでない。卷四の五五六に、大伴宿禰三依に贈つた歌がある。
1613 秋の野を 朝行く鹿の 跡もなく 念ひし君に 逢へるこよひか
秋野乎《アキノヌヲ》 旦往鹿乃《アサユクシカノ》 跡毛奈久《アトモナク》 念之君爾《オモヒシキミニ》 相有今夜香《アヘルコヨヒカ》
一度縁ガ切レテ〔七字傍線〕(秋野乎旦往鹿乃)アトカタモナク、全ク絶エタト〔六字傍線〕思ツテヰタアナタニ、今夜思ヒモヨラズマタ〔八字傍線〕逢フコトガ出來マシタヨ。オナツカシウ存ジマス〔十字傍線〕。
(653)○秋野乎旦往鹿乃《アキノヌヲアサユクシカノ》――跡につづく序詞。秋野をわけ行く鹿の足跡が明らかなるについていふ、アトモナクにかかるのではない。○跡毛奈久《アトモナク》――あとかたもなく。何處へ行つたともわからないやうに。○相有今夜香《アヘルコヨヒカ》――カはカナに同じ。
〔評〕 これも秋野の鹿を序詞に用ゐたのみで、これだけでは、秋の季節の作といふことは明瞭でない。女性らしい柔さの見える歌である。
右歌或云椋橋部女王、或云笠縫女王作
椋橋部女王は卷三に神龜六年己巳左大臣長屋王賜V死之後倉橋部女王作歌一首(四四一)とあるお方であらう。傳は明らかでない。笠縫女王は一六一一參照。
遠江守櫻井王奉2 天皇1歌一首
櫻井王は皇胤紹選録によれば、天武天皇の曾孫長皇子の御孫、河内王の御子である。續紀に、和銅七年正月甲子無位から從五位下、養老五年正月壬子從五位上、神龜元年二月壬子正五位下、天平元年三月甲午正五位上、三年正月丙子從四位下に叙せられたことが見える。遠江等任官の記載はないが、このお方に相違ない。なほ卷二十に、大原櫻井眞人行2佐保邊1之時作歌(四四七八)があり、續紀、天平十六年二月丙申の條に大藏卿從四位下大原眞人櫻井とあるから、從四位下の時、即ち天平三年から十六年までの間に於て、姓を賜つて臣下に列したものである。從つてこの歌の製作時期も大體推定が出來るわけである。天皇は聖武天皇。
1614 九月の その初雁の 使にも 念ふ心は 聞え來ぬかも
九月之《ナガツキノ》 其始雁乃《ソノハツカリノ》 使爾毛《ツカヒニモ》 念心者《オモフココロハ》 可聞來奴鴨《キコエコヌカモ》
私ハコノ遠江ヘ國守トシテ參ツテ居リマシテ、陛下ガオナツカシクテ忘レラレマセヌガ、常ニハ何トオタヨリ(654)モ下サラズトモ〔私ハ〜傍線〕、九月ニ鳴イテ行クアノ初雁ノ使ニデモ、セメテ陛下ノオ心ヲオツゲ頂キタイノデゴザイマスノニ、コノ初鴈ノ使ニモ〔セメ〜傍線〕、オ心ノホドハ一向〔二字傍線〕聞エテ參リマセヌヨ。何トカオタヨリヲ、イタダキタウ存ジマス〔何ト〜傍線〕。
○其始鴈乃使爾毛《ソノハツカリノヅカヒニモ》――始鴈は秋になつて始めて鳴く雁、鴈は晩秋九月になつて來鳴くのである。鴈の使は前漢の蘇武の故事で、匈奴に使して捕はれ、本國に歸るを許されなかつたが、鴈の足に書を結んで放つたのが、漢の天子によつて得られ、その存命を知たといふ傳説によつたのである。雁書・雁信・雁札・雁帛などの熟語がこれから出てゐる。卷九に春草馬咋山自越來奈流鴈使者宿過奈利《ハルクサヲウマクヒヤマヨコエクナルカリノツカヒハヤドリスグナリ》(一七〇八)とある。
〔評〕 蘇武の故事を詠んだのは、當時にあつては、尖端的な新しさとして認められたのであらう。右にあげた卷九の歌といづれが早いかは問題であらうが、ともかく支那文學の影響があらはれた新文藝である。天皇に奉る歌としては、措辭が蕪雜といふ謗は免かれ難い。
天皇賜(ヘル)報和(ノ)御歌一首
天皇は聖武天皇。賜報和御歌は、賜へる報和《ミコタヘ》の御歌と訓むべきであらう。
1615 大の浦の その長濱に 寄する浪 寛けく君を 念ふこの頃
大乃浦之《オホノウラノ》 其長濱爾《ソノナガハマニ》 縁流浪《ヨスルナミ》 寛公乎《ユタケクキミヲ》 念比日《オモフコノゴロ》
朕ガ消息ヲシナイトテオマヘハ不平ノヤウダガ〔朕ガ〜傍線〕、朕ハ (大乃浦之其長濱爾縁流浪)スバラシク熱心ニ〔三字傍線〕オマヘヲコノ頃ハ思ツテヰルヨ。
○大乃浦之其長濱爾《オホノウラノソノナガハマニ》――大の浦は八雲御抄に遠江とあるのは、この歌によつたのであらうから、證とはなし難いが、遠江の地名に違ひない。今、見附町の南方に、於保村がある。即ち和名抄の飫寶《オホ》郷である。(今本、飫を(655)誤つて飯に作つてゐる)昔はこの村の南方に、砂丘を以て海と境した、一大湖があつて、天龍・太田の二川がこれに注いでゐた。これが大の浦である。後世この二川の河道の變更によつて、この湖は干拓せられてしまつた。長濱は長い濱の意で、固有名詞ではあるまい。○縁流浪《ヨスルナミ》――この句まではユタケクと言はむ爲の序詞である。○寛公乎《ユタケクキミヲ》――ユタケクはここでは、勢猛に、盛に、などの意である。源氏物語、若葉上に「藥師佛供養し給ふ。(中略)いとゆたけき御祈なり」、同じく東屋に、「ゆたけき勢をたのみて、父ぬしの后にもなしてむと思ひたる人人」などある。代匠記に「日本紀に、富寛とかきて、とみたゆたひてとよめれば、ゆたけくもたゆたひとおなじ心なり。一旦におもふにはあらで、ゆるゆるとおもふ心なり」とあるのはここには、かなはぬやうである。
〔評〕 櫻井王の任地、遠江の名勝を以て序詞をお作りになつたお手際は立派なものである。全體がゆるやかな、迫らない調をなしてゐるが、御製としては丁寧に過ぎるほどである、新考はこれによつて、歌が前後入れ違つたものとしてゐるのは、一應は尤もであるが、編者が猥りに誤るべきこととも思はれず、また其長濱爾《ソノナガハマニ》と其《ソノ》を添へられたのは、郡で思ひやり給うた御製らしく思はれる。
笠女郎贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
贈の字舊本に賜とあるのはよくない。神田本によつて改めた。笠女郎の歌は集中卷三に三首、卷四に二十四首、卷八に二首あるが、盡く大伴家持に贈つた戀の歌である。
1616 朝ごとに 吾が見るやどの 瞿麥の 花にも君は ありこせぬかも
毎朝《アサゴトニ》 吾見屋戸乃《ワガミルヤドノ》 瞿麥之《ナデシコノ》 花爾毛君波《ハナニモキミハ》 有許世奴香裳《アリコセヌカモ》
毎朝毎朝、私ガ見ル私ノ家ノ庭ノ、瞿麥ノ花デアナタガイラツシヤレパヨイガ。サウスレバ始終見ルコトガ出來テ嘸ヨイデセウ〔サウ〜傍線〕。
(656)○吾見屋戸乃《ワガミルヤドノ》――古義に見吾屋戸乃《ミルワガヤドノ》と改めてゐるが、必ずしも誤とはし難いから舊本に從つて置く。○有許世奴香裳《アリコセヌカモ》――有つてくれないかよの意。コセは希望を意味する動詞コスの變化。
〔評〕 強烈な戀情ではなく、なつかしい思ひを述べた、可憐な歌である。そこに女らしさが見えてよい。
山口女王贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
山口女王の傳未詳。卷四にも家持に贈られた五首が見えてゐる。贈の字舊本賜とあるのを、神田本によつて改めた。
1617 秋萩に 置きたる露の 風吹きて 落つる涙は 留みかねつも
秋芽子爾《アキハギニ》 置有露乃《オキタルツユノ》 風吹而《カゼフキテ》 落涙者《オツルナミダハ》 留不勝都毛《トドミカネツモ》
私ガアナタヲ戀ヒ慕ツテ〔私ガ〜傍線〕(秋芽子爾置有露乃風吹而)落チル涙ハ、ドウシテモ〔五字傍線〕留メカネマスヨ。ホントニシヤウガアリマセヌ〔ホン〜傍線〕。
○秋芽子爾置有露乃風吹而《アキハギニオキタルツユノカゼフキテ》――落《オツル》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 序詞から下句へのつづきが、實に滑らかで麗はしい。はらはらと風にこぼれる萩の露は、はふり落つる涙の玉を思はしめるものがある、譬喩の如くして譬喩にあらず、何とも言へない味がある。
湯原王贈(レル)2娘子(ニ)1歌一首
湯原王は志貴親王の御子。三七五參照。贈の字舊本賜とあるは誤。神田本によつて改めた。
1618 玉に貫き 消たず賜らむ 秋萩の 末わわら葉に 置ける白露
玉爾貫《タマニヌキ》 不令消賜良牟《ケタズタバラム》 秋芽子乃《アキハギノ》 宇禮和和良葉爾《ウレワワラバニ》 置有白露《オケルシラツユ》
秋萩ノ枝ノ末ノワワケ亂レタ葉ニ宿ツタ白露ヲ、玉トシテ糸ニ〔四字傍線〕貫イテ消ヤサナイデ、私ニ下サイ。ホントニ美(657)シイ露デスネ〔ホン〜傍線〕。
○宇禮和和良葉爾《ウレワワラバニ》――ウレは末、ワワラバはわわけたる葉で、ワワラは卷五に美留乃其等和和氣佐我禮留《ミルノゴトワワケサガレル》(八九二)のワワケと同語であらう。即ち亂れそそけた葉である。但し略解には「卷二、生乎鳥禮留《ヲヲレル》、其外ををりにををりなどいふも同じ語にて、ここははぎの末にしげく、おき亂れたる露をいふ」とあり、新考には「ワワケとは異なるべく、ウレワワラハニは末タワワニといふことにて、萩の末の打靡ける形容なるべし」とある。
〔評〕 例によつて上な打滋味のある作である。ウレワワラバニが、作者得意の新造語か。娘子に贈つたといふまでで、戀の歌にはなつてゐない。
大伴家持至(リテ)2姑(ノ)坂上郎女(ノ)竹田庄(ニ)1作(レル)歌一首
姑はヲバである。代匠記に「坂上郎女は家持のをばにして、しうとめなり。姑の字もまた兩方によめば、いづかたにつきてもよむべし」とあつて、下の長歌によれば、この頃家持は坂上大孃を妻としてゐたやうであるから、兩樣に考へられるが、恐らく叔母として用ゐたのであらう。卷四の六四九の左註に「姑姪之族云々」とあつて、ヲパのことに用ゐてある。
1619 玉桙の 道は遠けど はしきやし 妹をあひ見に 出でてぞ吾が來し
玉桙乃《タマボコノ》 道者雖遠《ミチハトホケド》 愛哉師《ハシキヤシ》 妹乎相見爾《イモヲアヒミニ》 出而曾吾來之《イデテゾワガコシ》
(玉桙乃)道ハ隨分〔二字傍線〕遠ク離レテヰルケレドモ、愛ラシイ妻ニ逢フ爲ニ、私ハココマデ〔四字傍線〕出テ參リマシタヨ。
○玉桙乃《タマボコノ》――枕詞。道とつづく。七九參照。○愛哉師《ハシキヤシ》――愛《ハ》シキに助詞ヤとシとを添へたもの。枕詞としない方がよい。○妹乎相見爾《イモヲアヒミニ》――妹は坂上郎女を親しんで言つたものと思はれないことはないが、やはりその娘で、家持の妻たる坂上大孃をさしたのであらう。下の長歌によればこの頃已に兩人は婚してゐたのである。ハシキヤシの句もこれを大孃とする方がふさはしい。
(658)〔評〕 奈良から竹田庄まで出かけた家持が、玉桙乃道者雖遠《タマボコノミチハトホケド》と言つたのに無理はないが、歌にはさしたる熱がない。
大伴坂上郎女和(ヘ)歌一首
1620 あら玉の 月立つまでに 來まさねば 夢にし見つつ 思ひぞ吾がせし
荒玉之《アラタマノ》 月立左右二《ツキタツマデニ》 來不益者《キマサネバ》 夢西見乍《イメニシミツツ》 思曾吾勢思《オモヒゾワガセシ》
(荒玉之)月ガカハルマデモアナタガ〔四字傍線〕オイデニナラナイカラ、私ハアナタノコトガ戀シクテ〔アナ〜傍線〕、夢ニアナタヲ〔四字傍線〕見テハ戀シク思ツテ居リマシタ。
○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。年に冠するを常とするが、轉じて月に用ゐてある。四四三參照。○月立左右二《ツキタツマデニ》――月立《ツキタツ》は文字通り月のあらたまり、初まること。古義に「一月の日の立まで、久しく來座ねば」とあるのは當るまい。これで見ると八月の初旬のことらしい。
〔評〕 甥に答ふる言葉としては、少し婀娜ぽ過ぎるやうであるが、この人はかういふことを、いつでも平氣で言ふ女である。この贈答は共に秋の趣が見えない。八月の作であるから、ここに收めたのである。この歌、和歌童蒙抄に見えてゐる。
右二首天平十一年己卯秋八月作
巫部麻蘇娘子《カムコベノマソヲトメガ》歌一首
巫部麻蘇娘子は傳未詳。卷四の七〇三參照。
1621 吾がやどの 萩の花咲けり 見に來ませ 今二日ばかり あらば散りなむ
吾屋前乃《ワガヤドノ》 芽子花咲有《ハギノハナサケリ》 見來益《ミニキマセ》 今二日許《イマフツカバカリ》 有者將落《アラバチリナム》
(659)私ノ家ノ庭ニアル〔四字傍線〕萩ノ花ガ咲キマシタ。見ニオイデナサイ。モウ二日バカリタツタナラ散リマセウ。散ラナイウチニオイデ下サイ〔散ラ〜傍線〕。
〔評〕 誰かに贈つた歌であるが、誰ともわからない。卷四にあるこの人の歌と同樣なはしがきになつてゐる。或は家持に贈つたものか。二句と三句とに切目があるのは、この集ではあまり多くない形である。歌は手紙がはりの平語である。
大伴田村大孃與(フル)2坂上大孃(ニ)1歌二首
1622 吾がやどの 秋の萩咲く 夕かげに 今も見てしが 妹が姿を
吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之芽子開《ハギノハナサク》 夕影爾《ユフカゲニ》 今毛見師香《イマモミテシガ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
私ノ家ノ秋萩ノ花ガ美シク〔三字傍線〕咲クコノ夕方ノ光デ、ナツカシイ妹ノ姿ヲ今見タイモノデス。ドウゾ逢ヒニ來テ下サイマシ〔ドウ〜傍線〕。
○夕影爾《ユフカゲニ》――夕影は夕方の日影。夕日のささない物の蔭をいふこともあるが、ここはさうではなく、夕方の弱い光をいふのである。晩景。○今毛見師香《イマモミテシガ》――モは強めていふのみ。○妹之光儀乎《イモガスガタヲ》――妹はこの場合、實の妹である。
〔評〕 吾が家の萩の花の艶にあえかな姿に對して、美しい妹を思ひ浮べ、この花の咲くところに、妹を迎へて逢つて見たいといふのである。二の句で切つても見られるが、これは三句へ續いてゐるので、さう見なければ歌が全く崩れてしまふ。歌の姿も亦優艶である。
1623 吾がやどに もみづかへるで 見るごとに 妹をかけつつ 戀ひぬ日はなし
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 黄變蝦手《モミヅカヘルデ》 毎見《ミルゴトニ》 妹乎懸管《イモヲカケツツ》 不戀日者無《コヒヌヒハナシ》
私ノ宿ノ庭〔二字傍線〕ニ美シク色ノツイタ楓ノ葉ヲ見ルト、コノ紅葉ノヤウナ美シイ〔コノ〜傍線〕妹ノコトヲ心ニカケテ、戀ヒ慕ハナ(660)イ日ハ一日モ〔三字傍線〕アリマセヌ。ドウゾ逢ヒニ來テ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
○黄變蝦手《モミヅカヘルデ》――舊訓モミヅルカヘデとあり、略解もこれによつてゐるが、ここには契沖説に從ふ。古義が黄變をニホフとよんだのは、あまり自由な訓法であらう。楓をカヘデといふは後世の稱呼で、カヘルデの略であるから、この集ではカヘルデとすべきである。卷十四に、兒毛知夜麻和可加敝流?能毛美都麻?《コモチヤマワカカヘルデノモミヅマデ》(三四一四)とあるのは、この句の訓法を示してゐるやうである。なほモミヅの活用については一六二八參照。○妹乎縣管《イモヲカケツツ》――妹を心に懸けての意。
〔評〕 楓の紅葉を見て妹を思ひおこすのは、その可憐な美しさが妹に似てゐるといふのか、又はこの美觀を妹に見せようと思ふのか、二樣に考へられる。しかし前の萩の歌について思ふに、どうも前者らしい。尋ね來よとは言はないで、その意が充分にあらはれてゐる。
坂上|大娘《オホイラツメ》秋|稻蘰《イナカヅラヲ》贈(ル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
稻蘰は稻の穗で造つた蘰。これも髪の飾として用ゐたものか。京大本、傍に訓してホクミとある。ホクミは穗組で、稻穗を組んで積みおくもの。方丈記に、「すそわの田ゐに至りて、落穗を拾ひてほくみを造る」とあるが、これと同じものではあるまい。
1624 吾がなりなる 早田の穗立ち 造りたる かづらぞ見つつ 偲ばせ吾が背
吾之蒔有《ワガナリナル》 早田之穗立《ワサダノホダチ》 造有《ツクリタル》 蘰曾見乍《カヅラゾミツツ》 師弩波世吾背《シヌバセワガセ》
今コノ差上ゲル稱蘰ハ〔今コ〜傍線〕、私ノ仕業トシテ耕作シテ〔四字傍線〕ヰマス、早稻田ノ稻穗デ自分デ〔三字傍線〕コシラヘタ蘰デスゾヨ。デスカラコレヲ〔七字傍線〕御覽ニナツテ、私ヲ思ヒ出シテ下サイマセ。
○吾之蒔有《ワガナリナル》――舊訓ワガワザナルとよんでゐる。蒔の字は類聚古集・神田本などに業に作つてゐるによると、舊訓に蒔をワザとよんだ理由もわかるやうに思ふ。次の歌に業跡造有《ナリトツクレル》とあるから、ここも業としてナリとよむが(661)よい。ナリはナリハヒのナリである。但し和歌童蒙抄にこの歌を引いて、ワガマケルとあるから、蒔の字の異本も古く行はれたのである。○早田之穗立《ワサダノホダチ》――早田は早稻を植ゑた田。穗立は穗に出た稻穗。
〔評〕 竹田庄から贈つた稻蘰であるから、自分が田を耕作してゐるやうに、田舍少女ぶつて詠んだのは、處にふさはしい戯である。第四句がカヅラゾで切れてゐるのは異樣であるが、調の滑かさを失つてゐないのはうれしい。
大伴宿禰家持報贈(レル)歌一首
1625 吾妹子が なりと造れる 秋の田の 早穗のかづら 見れど飽かぬかも
吾妹兒之《ワギモコガ》 業跡造有《ナリトツクレル》 秋田《アキノタノ》 早穗乃蘰《ワサホノカヅラ》 雖見不飽可聞《ミレドアカヌカモ》
アナタガ自分ノ仕事トシテ造ツタ、秋ノ田ノ早稻ノ穗デ作ツタ穗ハ、イクラ見テモ見飽カナイデスヨ。ホントニ有リガタウ〔九字傍線〕。
○業跡造有《ナリトツクレル》――業として造れる。舊訓、業をワザとよんだのを、略解にナルとしてゐるが、古義にナリとよんだのがよい。○早穗乃蘰《ワサホノカヅラ》――草稻の穗で造つた蘰、ワサは早芽子《ワサハギ》(二一一三)とも見えて、すべて早く出來るものをいふ。これが轉じてワセとなつてゐるが、稻についてのみいふのではない。
〔評〕 贈られた歌の言葉をそのまま受けて、見れどあかぬかもと結んだだけで、あまり藝がない。平凡なお禮の辭である。
又報(ユル)d脱(キテ)2著(ル)v身衣(ヲ)1贈(レルニ)c家持(ニ)u歌一首
著身衣は身に著けたる衣。坂上大娘がいつも着てゐる衣。古義にはキナラセルコロモとよんでゐる。
1626 秋風の 寒きこの頃 下に著む 妹が形見と かつも偲ばむ
(662)秋風之《アキカゼノ》 寒比日《サムキコノゴロ》 下爾將服《シタニキム》 妹之形見跡《イモガカタミト》 可都毛思努播武《カツモシヌバム》
秋風ガ寒ク吹クコノ頃、アナタガ下サツタ着物ヲ〔アナ〜傍線〕下ニ着テ寒サヲシノガ〔六字傍線〕ウ。又一ツニハアナタノ形見ト思ツテ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出シマセウ。
○可都毛思努播武《カツモシヌバム》――カツは、又一つにはの意。モは添へていふのみ。
〔評〕 三句で切つて、更に五句で同じく韻をそろへてあるのが珍らしい。その爲萬葉調らしくない歌になつてゐる。この頃下着には男女の別が無かつたことは、この歌でも明らかである。
右三首天平十一年己卯秋九月往來
早穗の蘰を作つたり、秋風が寒く吹いたりして、如何にも九月らしい風物である。往來は書信のやりとり、贈答である。卷十一、十二は古今相聞往來歌類と部立してゐる。この贈答も家持と大孃との結婚を證してゐるやうに思はれる。
大伴宿禰家持攀(ヂテ)2非時《トキジキ》藤花并(ビニ)芽子黄葉《ハギノモミヂ》二物(ヲ)1贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌二首
攀の字は引き折ること。一四六一參照。非時藤花は時ならぬ、時節はづれの藤の花。返り咲であらう。非時藤はトキジクフヂともよんであるが、トキジキフヂがよいであらう。三八二參照。
1627 吾がやどの 時じき藤の めづらしく 今も見てしが 妹がゑまひを
吾屋戸之《ワガヤドノ》 非時藤之《トキジキフヂノ》 目頬布《メヅラシク》 今毛見牡鹿《イマモミテシガ》 妹之咲容乎《イモガヱマヒヲ》
私ノ宿ノ庭ニ〔二字傍線〕時ハヅレテ咲イタ藤ノ花ハ珍ラシイデスガ、コノ藤ノ花〔ハ珍〜傍線〕ノヤウニ愛ラシク思フ〔二字傍線〕アナタノ笑顔ヲ今見タイモノデスネ。
○吾屋戸之《ワガヤドノ》――戸の字、類聚古集神田本など、みな前に作つてゐる。○目頬希《メヅラシク》――上へのつづきは時節はづれ(663)に咲いた藤の如く珍らしくで、下へは愛《メヅ》らしく思ひつつ妹を見る意でつづいてゐる。新考にメヅラシキとよんで、「メヅラシキ妹ガヱマヒヲ今モ見テシガとありしが顛倒せるならむ」とあるのは、思ひ切つた説である。これはメヅラシク見テシガとつづくので、メヅラシク見ルは珍らしく思ひて見るのである。
〔評〕 これは贈つた非時富士花に添へた歌である。前の田村大孃作の吾屋戸乃秋之芽子開夕影爾今毛見師香味之光儀乎《ワガヤドノアキノハギサクユフカゲニイマモミテシガイモガスガタヲ》(一六二二)と著しく似てゐる。
1628 吾がやどの 萩の下葉は 秋風も いまだ吹かねば かくぞもみでる
吾屋前之《ワガヤドノ》 芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》 秋風毛《アキカゼモ》 未吹者《イマダフカネバ》 如比曾毛美照《カクゾモミデル》
私ノ家ノ〔二字傍線〕庭ノ萩ノ下葉ハ、秋風モマダ吹カナイノニ、コンナニ紅葉シマシタ。珍ラシイモノデスカラ、アナタニ御覽ニ入レマス〔珍ラ〜傍線〕。
○未吹者《イマダフカネバ》――だ吹かざるにの意。○如此曾毛美照《カクゾモミデル》――照は濁つてよむがよい。モミデルは四段活の動詞モミヅに、完了の助動詞のリが添うた形である。黄葉《モミヂ》の動詞としての原形がこれで明らかにせられてゐる。
〔評〕 これは左註によれば夏六月の往來であるのに、秋相聞に入れたのは、黄葉が秋のものであるからである。歌の材料となるものの季節が、已にある程度まで定まつてゐることがこれで知られる。
右二首天平十二年庚辰夏六月在來
大伴宿禰家持贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌一首并短歌
1629 ねもごろに 物を思へば 言はむすべ 爲むすべもなし 妹と吾が 手たづさはりて あしたには 庭に出で立ち 夕べには 床うち拂ひ 白妙の 袖さしかへて さ寢し夜や 常にありける あしびきの 山鳥こそは を向ひに 妻問すといへ うつせみの 人なる我や 何すとか 一日一夜も さかりゐて 嘆き戀ふらむ ここ念へば 胸こそ痛め そこ故に 心なぐやと 高圓の 山にも野にも うち行きて 遊びゆけど 花のみ 句ひてあれば 見るごとに まして思ほゆ いかにして 忘れむものぞ 戀とふものを
叩々《ネモゴロニ》 物乎念者《モノヲオモヘバ》 將言爲便《イハムスベ》 將爲爲便毛奈之《セムスベモナシ》 妹與吾《イモトワガ》 手携拂而《テタヅサハリテ》 旦者《アシタニハ》 庭爾出立《ニハニイデタチ》 夕者《ユフベニハ》 床打拂《トコウチハラヒ》 白細乃《シロタヘノ》 袖指代而《ソデサシカヘテ》 佐寢之夜也《サネシヨヤ》 (664)常爾有家類《ツネニアリケル》 足日木能《アシビキノ》 山鳥許曾婆《ヤマドリコソハ》 峯向爾《ヲムカヒニ》 嬬問爲云《ツマドヒストイヘ》 打蝉乃《ウツセミノ》 人有我哉《ヒトナルワレヤ》 如何爲跡可《ナニストカ》 一日一夜毛《ヒトヒヒトヨモ》 離居而《サカリヰテ》 嘆戀良武《ナゲキコフラム》 許己念者《ココモヘバ》 胸許曾痛《ムネコソイタメ》 其故爾《ソコユヱニ》 情奈具夜登《ココロナグヤト》 高圓乃《タカマドノ》 山爾毛野爾母《ヤマニモヌニモ》 打行而《ウチユキテ》 遊往杼《アソビユケド》 花耳《ハナノミ》 丹穂日手有者《ニホヒテアレバ》 毎見《ミルゴトニ》 益而所思《マシテオモホユ》 奈何爲而《イカニシテ》 忘物曾《ワスレムモノゾ》 戀云物乎《コヒトフモノヲ》
ツクヅクト物ヲ考ヘルト、何トモ言ヒヤウモナク、何トモ仕様モナク悲シイ〔四字傍線〕。妻ト私トガ、手ヲ取リカハシテ、朝ニハ庭ニ出デ立チ、夕方ニハ寢床ノ塵ヲ打チ拂ツテ、(白細乃)袖ヲ二人デ〔三字傍線〕サシ交ハシテ、寢タ晩は絶エズ續イタデアラウカ。イヤソレハ、永クツヅカナカツタ〔イヤ〜傍線〕。(足日木能)山鳥コソ、峯ヲ隔テテ〔五字傍線〕、向ヒノ峯ニヰル妻ヲ、訪ネテ行クト云フコトダガ、(打蝉乃)人ト生レテヰル私ガ、ドウシテ、一日一夜ダケデモ妻ト〔二字傍線〕離レテ居テ、嘆キ戀シガルコトガアラウ。ソンナ筈ハナィ〔七字傍線〕。コレヲ考ヘルト悲シクテ〔四字傍線〕胸ガ痛ムヨ。ソレダカラ、コノ悲シイ〔五字傍線〕心モ慰ム〔二字傍線〕カト思ツテ、高圓ノ山ダノ野ダノニ、出カケテ行ツテ遊ンデ歩クケレドモ、花バカリ美シク咲イテヰルノデ、ソレヲ〔三字傍線〕見ルニツケテモ、妻ノコトガ〔五字傍線〕イヨイヨ思ハレル。サテサテ困ツタモノダ。コノ苦シイ〔サテ〜傍線〕戀ト云フモノヲ、何トシタラ忘レラレルモノダラウカ。ドウカシテ忘レタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
○叩々《ネモゴロニ》――舊訓イタミイタミ、代匠記初稿本書入オサヘオサヘ、童蒙抄ツクヅクト、考ウチウチニなど諸訓があるが、略解に「叩は字書に叩問也發也など有れば、必ず誤字なるべし。一本町に作る。是も誤ならむ。叮の誤にて、叮嚀の意もて ねもごろになるべし」とあるのに從ふ。なほ訓義辨證には東雅釋訓・廣雅疏證を引いて、「かかれば叩々懇々と同義にて誠也とあれば、もとよりネモゴロと訓べき文字なりけり。かくて又靈異記(665)中卷【三十九條】に叩《ネモゴロ》求之とあり。板本には此訓は削られたれど、其原本とある高野本の旁訓にかくあり、これらによりて、今も叩叩をネモゴロとよむべきなり」と論じてゐる。○手携拂而《テタヅサハリテ》――神田本・西本願寺本など、拂の字がないのによるべきであらう。この句は卷五の、山上憶良、哀2世間難1v住歌(八〇四)にあつた。○佐寐之夜也常爾有家類《サネシヨヤツネニアリケル》――サは接頭語のみ。この句は同じく哀2世間難1v住歌に余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》(八〇四)とあるに似てゐる。○山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云《ヤマドリコソハヲムカヒニツマドヒストイヘ》――山鳥こそ向ひの峯に妻を訪ねるといふものだ。山鳥は晝雌雄同じ處にゐるが、夜は峯を距てて別れ住むやうに言ひならはされてゐる。卷十一に足日木之山鳥尾乃一峯越《アシヒキノヤマドリノヲノヒトヲコエ》(二六九四)も、その傳説に關係ありげに思はれる。峯向《ヲムカヒ》は峯の向ひ、即ち向ひの峯。○如何爲跡可《ナニストカ》――どうして。いかでか。○打蝉乃《ウツセミノ》――枕詞。人とつづく。現身のの意である。二四參照。○情奈具夜登《ココロナグヤト》――心和ぐやと。ナグはナゴム、やはらぐこと。つまり慰むことである。○遊往杼《アソビユケド》――舊訓アソビテユケド、考はアソバヒユケド古義はアソビアルケドとしてゐる。往はユクとよむべく、アルクの訓は例がないから、アソビユケドとする。○益而所思《マシテオモホユ》――マシテは一層。古義にオモホユをシヌバユとよんでゐる。卷五の久利波米婆麻斯提斯農波由《クリハメバマシテシヌバユ》(八〇二)に一致させるつもりか。要なきことである。
〔評〕 綿々として絶えざる戀慕の情が、春蠶の糸を吐くやうに、靜かになごやかに述べられてゐる。しかし語句の上に、卷五の山上憶良の作の模倣のあとが、目に立つのは遺憾である。
反歌
1630 高圓の 野べの容花 おもかげに 見えつつ妹は 忘れかねつも
高圓之《タカマドノ》 野邊乃容花《ヌベノカホバナ》 面影爾《オモカゲニ》 所見乍妹者《ミエツツイモハ》 忘不勝裳《ワスレカネツモ》
(666)(高圓之野邊乃容花)目ノ前ニ妻ノ〔二字傍線〕姿ガ見エテ、私ハ〔二字傍線〕妻ガ忘レカネルヨ。
○高圓之野邊乃容花《タカマドノヌベノカホバナ》――容花といつて、面影につづけたので、高圓の野で容花を見ての作ではあるが、この二句は歌全體に直接の意味内容を與へてゐないから、序詞と見るべきである。容花は集中、難語の一で、その解説が一定してゐない。古く八雲御抄には、ただ美しい花をいふので、花の名ではないとあり、代匠記もそれによつてゐるが、歌林樸※[木+嫩の旁]に杜若とあり、眞淵は澤瀉とし、古義は晝顔としゐる。なほ略解には眞淵の槿花説をあげてゐる。その用例から見ると、卷十に石走間々生有貌花乃《イハハシノママニサキタルカホバノ》(二二八八)・卷十四に宇知比佐都美夜能瀬河泊能可保婆奈能《ウチヒサツミヤノセカハノカホバナノ》(三九七三)など、河中に生えるものとして詠まれてゐる、杜若、澤瀉説はこれから出たのであらうが、ここの歌に高圓の野べの容花とあるによると、水草ではないやうである。カホといふ名からいへば、今の晝顔説が最も穩やかであらう。これは野にも河原などにも咲く花である。なほ雅澄の萬葉集品物解には小野博の説として、備後では今も晝顔をカツボウといふ由を記してゐる。暫らく晝顔説に從はうと思ふ。○面影爾所見乍《オモカゲニミエツツ》――面影に見えるとは、目の前にちらついて見えること。三九六參照。
〔評〕 長歌によれば、高圓の山野に遊びに行くやうによまれてゐるから、この一二句は高圓の野に容花を見て、よんでゐるのである、容花は卷十と卷十四とに出ていづれも民謠らしく、歌人のいまだ用ゐなかつたところである。それを見出して用ゐたのが作者の手柄であらう。
大伴宿禰家持贈(レル)2安倍女郎(ニ)1歌一首
安倍女郎は卷三の二六九、卷四の五〇五・五一四・五一六などに名が見てゐるが、それは藤原宮の人と思はれるから、ここの安倍女郎とは別人である。
1631 今造る 久邇の都に 秋の夜の 長きに獨 ぬるが苦しさ
(667)今造《イマツクル》 久邇能京爾《クニノミヤコニ》 秋夜乃《アキノヨノ》 長爾獨《ナガキニヒトリ》 宿之苦左《ヌルガクルシサ》
新シク御造營ノ久邇ノ京ニ、秋ノ夜ノ〔四字傍線〕長イノニ、私ガ一人デ寢ルノガ苦シイヨ。アナタニ逢ヒタイモノデス〔アナ〜傍線〕。
○今造《イマツクル》――新しく造營の。只今建設中の意ではない。卷六に十五年癸未秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持讃2久邇京1作歌一首があつて、今造久邇乃王都者山河乃清見者宇倍所知良之《イマツクルクニノミヤコハヤマカハノキヨキヲミレバウベシラスラシ》(一〇三七)とあるが、久邇遷都は十三年正月である。
〔評〕 久邇京への遷都は事唐突であつたので、官人は家族を件なふ暇がないものが多かつた。家持もさうであつたらしい。彼をして長い秋の夜に獨寢の淋しさをかこたしめたのは、かうした實情があつたのである。安倍女郎は如何なる女かわからないが、いづれは家持と戀愛關係のあつた女であらう。
大伴宿禰家持從2久邇京1贈(レル)d留(レル)2寧樂宅(ニ)1坂上大娘(ニ)u歌一首
卷四に在2久邇京1思d留2寧樂宅1坂上大孃u大伴宿禰家持作歌一首(七六五)とあるのと同時であらう。
1632 足引の 山べにをりて 秋風の 日にけに吹けば 妹をしぞ思ふ
足日木乃《アシビキノ》 山邊爾居而《ヤマベニヲリテ》 秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》 妹乎之曾念《イモヲシゾオモフ》
(足日木乃)山ノホトリノコノ久邇ノ京〔七字傍線〕ニ居ツテ、秋風ガ毎日毎日吹クト、淋シクテ、奈良ニ置イテ來タ〔淋シ〜傍線〕、アナタヲ戀シク〔三字傍線〕思ツテヰル。
○山邊爾居而《ヤマベニヲリテ》――山は鹿脊山などをさすのであらう。卷六の讃2久邇新宮1歌に山代乃鹿脊山際爾宮柱太敷奉《ヤマシロノカセヤマノマニミヤハシラフトシキタテテ》(一〇五〇)とある。○日異吹者《ヒニケニフケバ》――日に日に吹けばの意。
〔評〕 これも前の歌と同時で、新婚間もない家持には、妻を伴なはないことは淋しいつらいことであつたらう。この歌にはあはれな淋しさが漂つてゐる。
(668)或者《アルヒト》贈(レル)v尼(ニ)歌二首
1633 手もすまに 植ゑし萩にや かへりては 見れども飽かず 心つくさむ
手母須麻爾《テモスマニ》 殖之芽子爾也《ウヱシハギニヤ》 還者《カヘリテハ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 惰將盡《ココロツクサム》
花ガ咲クノヲ樂シンデ〔花ガ〜傍線〕手モ休メズ、骨折ツテ〔四字傍線〕植ヱテ置イタ萩ノ爲ニ、花ガカウシテ咲イテ見ルト〔花ガ〜傍線〕、却ツテイクラ見テモ見飽カナイデ、散リハセヌカト〔七字傍線〕氣ヲモムコトデアラウ。私モアナクヲ自分デ育テ上ゲテ置イテ、却ツテ戀ノ心ニ胸ヲイタメルデアラウカ〔私モ〜傍線〕。
○手母須麻爾《テモスマニ》――手も休まずの意。前に吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》(一四六〇)とあつた。
〔評〕 人の娘などを育てて、尼にした男の作であらう。何か面白い話がありさうな歌である。この寓意を認めない説はよくない。
1634 衣手に みしぶつくまで 植ゑし田を 引板吾が延へ 守れる苦し
衣手爾《コロモデニ》 水澁付左右《ミシブツクマデ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》 引板吾波倍《ヒキタワガハヘ》 眞守有栗子《マモレルクルシ》
私ノ〔二字傍線〕着物ノ袖ニ、水垢ガ付クホドモ難儀ヲシテ、自分デ〔八字傍線〕植ヱタ田ヲ、獣ナドニアラサレナイヤウニ〔獣ナ〜傍線〕、引板ヲ私ガ引張ツテ、番シテヰルノハ苦シイモノダ。私ガ手鹽ニケケテ育テヤモノヲ、人ニトラレナイヤウニ番ヲスルノハ苦シイモノダ〔私ガ〜傍線〕。
○水澁付左右《ミシブツクマデ》――水澁《ミシブ》は文字通り水の澁で、水面に浮ぶ水あかである。澁は字音シフで吾が國音に似てゐるのは注意すべきである。○引板吾波倍《ヒキタサガハヘ》――引板を吾が引き延へて。引板《ヒキタ》はヒキイタの略で、更に略してヒタとも言つてある。田畑の中に懸けて置いて、鳥獣を驚かす爲に、引鳴らす板である。鳴子に同じ。繩を引延へてあるから、波倍《ハヘ》と言つたのである。
(669)〔評〕 農民が初夏の頃早苗を植ゑ、それが秋になつて稔つたのを、田の畔に庵作りして鳴子を引いて番をする。彼らの仕事はまことに辛勞そのものである。早苗を幼女に譬へてそれを育てた骨折を述べ、それが年頃になつたのを、稻の成熟したのに譬へ、人に得られまいと心をくばるのを、引板延へて秋の田を守るによそへてゐる。譬喩が巧妙で、いささかの無理もない。
尼作(リ)2頭句(ヲ)1并(ニ)大伴宿禰家持所(テ)v誂《アトラヘ》尼(ニ)續(ギ)2末句(ヲ)1等和《ヒトシクコタフル》歌一首
尼は前に出てゐる或者から歌を贈られた尼である。頭句は冒頭の句の意味で、ここでは一・二・三の三句、謂はゆる上句に一致してゐる。併し頭句はいつでも上句と同じだとは言へない。集中、短歌では他に用例がないが、長歌では卷十三の三二九九に、初の六句を頭句といつてゐる。しかし頭句を略して、頭とのみ言つた例は、卷十二の二九五八に、初句と二句とを指したのがあり、卷十八の四〇四三は初句のみを指してゐる。これを以て頭句の意味が明らかであらうと思ふ。なほこれと同じ意で、發句と記したところがある。これは卷三の三五六に、初句と二句とを、この卷の一六五七に、同じく初句と二句とを、卷十二の二八八〇に初句のみを、卷十四の三五三八に初句と二句とをさしてゐる。これも亦、その指す範圍が一定してゐないことを語つてゐる。ついでにここに續2末句1とある末句について述べよう。この末句はここでは四五の兩句で、即ち謂はゆる下句に一致してゐる。しかしこれも、いつでも下句と同じではない。用例を見ると、卷十二の三一七五では五句のみを、卷十四の三三六四では三・四・五の三句を指してゐるのである。またこれと同意のものに尾句がある。卷十二の三〇四四に三・四・五の三句をさして居り、その略で、單に尾とのみ記したものに、卷四の六二六があるが、これは同じく三・四・五の三句を指してゐる。ここで恰も、後世の連歌の形式が始まつてはゐるが、頭句・末句の稱呼は、後世の上句下句と全然一致したものではないことを斷つて置く。所v誂v尼は尼にあとらへられてと讀むがよい。アトラ(670)フはアツラフと同語で、幾分古いやうである。尼に注文せられての意。等和歌とあるのは等しく和ふる歌で尼と家持と二人がかりで、或者に答へた歌といふのである。
1635 佐保河の 水をせき上げて 植ゑし田を 苅るわさ飯は 獨なるべし
佐保河之《サホカハノ》 水乎塞上而《ミヅヲセキアゲテ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》尼作 苅流早飲者《カルワサイヒハ》 獨奈流倍思《ヒトリナルベシ》家特續
佐保川ノ水ヲ塞キトメテ田ヘ〔二字傍線〕上ゲテ、植ヱタ田ガ稔ツテ出來タノ〔八字傍線〕ヲ苅ツテ、ソノ初穗ヲ飯ニシテ食ベル人ハ、定ツタ人〔四字傍線〕一人デアラウ。アナタハ自分デ骨ヲ折ツテ、幼女ヲ育テタト仰ルガ、育テタモノガ自分ノモノニスルト云フワケニハ行キマスマイ〔アナ〜傍線〕。
○佐保河之《サホカハノ》――舊本、保佐河とあるのは、もとより誤である。神田本によつて改めた。○水乎塞上而《ミヅヲセキアゲテ》――水の流を塞き留め湛へて、側へ流すこと。かくして田に水を引くのである。○苅早飯者《カルワサイヒハ》――舊訓ワサイヒとあるのを、略解にハツイヒとよんだのはわるい。早の字は早田《ワサタ》(一三五三)・早穗《ワサホ》(一六二五)・早芽子《ワサハギ》(二一一三)など、ワサと訓んだ例が多い。早飯は初穗を飯にしたものであらう。早飯を苅るといふのは言葉が足りないが、上からのつづきでやむを得ないのであらう。○獨奈流倍思《ヒトリナルベシ》――古義に流を武の誤として、獨嘗むべしの意であらうと言つてゐるが、賛同し難い。
〔評〕 初の三句を尼が作つて見たが、どうも思ふやうに後が續かない。そこで家持に、一つ附けて見て下さいと頼んだ。尼はどう答へるつもりであつたか知れないが、家持は委細かまはす、相手を冷かしたやうなことを言つてのけた。例の彼のふざけたがる性質が、かうさせたのである。しかし、彼が下の二句のうちに、これだけのことを纒めるにはかなりの苦心を要した。四の句にも、五の句にも、多少の無理と、きごちなさとが見えてゐる。なほこの歌は、謂はゆる連歌になつてゐるが、始から上下二句を分擔して作る意志があつたのではないやうであるから、その點を考慮に入れて置く必要があるやうに思はれる。
(671)冬雜歌
舍人娘子雪歌一首
舍人娘子は舍人氏の娘子か。卷二の一一八に舍人皇子に和へ奉つた歌がある。傳は明らかでない。
1636 大口の 眞神の原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに
大口能《オホクチノ》 眞神之原爾《マガミノハラニ》 零雪者《フルユキハ》 甚莫零《イタクナフリソ》 家母不有國《イヘモアラナクニ》
(大口能)眞神ノ原デ今降ル雪ハ、サウ〔二字傍線〕ヒドク降ルナヨ。立チ寄ルヤウナ〔七字傍線〕家モナイノダカラ。
○大口能《オホクチノ》――枕詞。眞神は狼のことで、狼は口の大きい獣であるから、かく冠らしめてある。○眞神之原爾《マガミノハラニ》――眞神の原は、飛鳥地方から檜隈方面に展開した平地である。卷二に明日香乃眞神之原爾《アスカノマガミノハラニ》(一九九)とある。
〔評〕 大口の眞神の原は、名を聞くだに恐ろしいところである。ここに老狼が住んで人を害したといふ傳説も殘つてゐたらしい。(代匠記による)今降りしきる大雪に、この原を通つてゐる人の心地は、どんなにか淋しく恐ろしいことであらう。さうした寂寥感がよくあらはれてゐる。卷三|苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國《クルシクモフリクルアメカミワガサキサヌノワタリニイヘモアラナクニ》(二六五)とかなりの類似點がある。
太上天皇御製歌一首
太上天皇は元正天皇。天武天皇の御孫で、草壁皇子の皇女。御母は元明天皇。文武天皇の御姉に渡らせらる。日本根子高瑞淨足姫天皇と申す。靈龜元年九月二日受禅、神龜元年二月四日位を聖武天皇に護り給ふ。天平二十年四月二十一日崩御。
1637 はだ薄 尾花逆葺き 黒木もち 造れる室は 萬代までに
(672)波太須珠寸《ハタススキ》 尾花逆葺《ヲバナサカブキ》 黒木用《クロキモチ》 造有室者《ツクレルムロハ》 迄萬代《ヨロヅヨマデニ》
旗薄即チ〔二字傍線〕尾花ヲ逆ニシテ葺イテ、皮ノ付イタママノ木デ造ツタコノ家ハ、萬年ノ後マデモ續クデアラウ。結構ナ家ダ〔續ク〜傍線〕。
○波太須珠寸《ハダススキ》――太は濁音の文字で、卷三に皮爲酢寸(三〇七)とあるによつてもハダススキらしい。併し卷一の旗須爲寸《ハタススキ》(四三)とあるによれば、ハタススキである。薄の穗に出て靡く樣が、旗に似てゐるので言ふのであるから、ハタススキでよいわけである。旗薄は尾花と同一物なるを重ねて言つたもの。○尾花逆葺《ヲバナサカフキ》――尾花を穗の方を下にして葺くのを逆葺といつた。○黒木用《クロキモチ》――舊訓クロキモテとあるのを、古義にクロキモチと改めたのがよい。黒木は皮を剥がない木。○造有室者《ツクレルムロハ》――室《ムロ》は家のこと。これを代匠記精撰本に室の下、戸の脱ちたものとして、室戸《ヤト》とよんでゐる。
〔評〕 次の歌の左註によれば、聖武天皇と御同列で、長屋王の佐保宅に御幸あらせられての御製である。この御殿の有樣は、簡素そのものといふやうな古風の建築である。如何に上代でも、左大臣の邸宅としてはあまり粗末に過ぎる。ことに恰もこの頃、神龜元年十一月勅を發して、五位已上及び庶人の營むに堪へるものに、瓦を以て葺かしめられた際であるから、太政官の首位にある左大臣が、かかる邸宅にゐる筈がない。なほ長屋王は神龜元年二月に左大臣となり、天平元年二月讒によつて自盡せられたのであるから、この御幸は神龜の五年の間のことである。さうしてこの御歌にも次の御歌にも冬の趣が見えないのに、冬雜歌に入れてあるのは、この逆葺いた尾花がこの季節を語つてゐるのではあるまいか。即ち尾花を苅り葺いて、而陛下入御の便殿を臨時に設け奉つたもので、御幸は初冬のことであつたから、ここに掲げられてゐるのである。萬代までにと仰せになつたのは、左大臣を祝福せられたのでもあるが、またこの新室に萬代も通はうと、御自らことほぎ給うたのでもあらう。なごやかな大御心も拜せられる明るい感じの御製である。この歌、袖中抄と和歌童蒙抄とに出てゐる。
(673)天皇御製歌一首
天皇は聖武天皇。
1638 あをによし 奈良の山なる 黒木もち 造れる室は ませど飽かぬかも
青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃山有《ナラノヤマナル》 黒木用《クロキモチ》 造有室者《ツクレルムロハ》 雖居座不飽可聞《マセドアカヌカモ》
(青丹吉)奈良山カラ切リ出シテ來タ〔九字傍線〕皮ノツイタママノ木デ、作ツタコノ家ハ、カウシテ〔四字傍線〕ヰテモ一向倦キナイヨ。ホントニ今曰ハ面白イ〔十字傍線〕。
○造有室者《ツクレルムロハ》――舊本、室の下に戸の字があつて、ヤドと訓んでゐるが、神田本・西本願寺本その他の古寫本に無いのが多いから、省いた。○雖居座不飽可聞《マセドアカヌカモ》――御製であるから、マセドと自から敬語を用ゐ給うたのである。
〔評〕 これも前の御製と同樣に明るい、しつかりした調子の御作である。
右、聞(ク)v之(ヲ)、御2在(シテ)左大臣長屋王佐保宅(ニ)1肆宴《トヨノアカリノ》御製
肆宴については卷六の一〇〇九參照。
太宰帥大伴卿、冬日見(テ)v雪(ヲ)憶(フ)v京(ヲ)歌一首
1639 沫雪の ほどろほどろに ふりしけば 平城の都し 念ほゆるかも
沫雪《アワユキノ》 保杼呂保杼呂爾《ホドロホドロニ》 零敷者《フリシケバ》 平城京師《ナラノミヤコシ》 所念可聞《オモホルカモ》
雪ガ薄ク降リ頻ルト、都ハ嘸綺麗ダラウト〔九字傍線〕奈良ノ都ガナツカシク〔五字傍線〕思ヒ出サレルヨ。
○泡雪《アワユキノ》――アワユキは泡のやうな雪。春の雪ではない。○保抒呂保杼呂爾《ホドロホドロニ》――ホドロはハダレと同樣に斑と解せられてゐる言葉であるが、當らぬやうである。ホドロは薄く不充分な意に統一すべきであらう。七五四參照。(674)古義には「離々にはらはら切離れてふるをいふ言なり」とある。
〔評〕 例によつて旅人らしい、うるほひのある上品な歌である。和歌童蒙抄・袖中抄に出てゐる。
太宰帥大伴卿梅(ノ)歌一首
1640 吾が岳に 盛に咲ける 梅の花 殘れる雪を まがへつるかも
吾岳爾《ワガヲカニ》、盛開有《サカリニサケル》 梅花《ウメノハナ》 遺有雪乎《ノコレルユキヲ》 亂鶴鴨《マガヘツルカモ》
吾ガ家ノ岡ニ、盛ニ咲イテヰル梅ノ花ハ、眞白クキレイナノデ〔九字傍線〕、消エ殘ツタ雪デハナイカ〔五字傍線〕ト、見〔傍線〕違ヘタヨ。
○吾岳爾《ワガヲカニ》――前にこの人の作に、吾岳爾棹牡鹿來鳴《ワガヲカニサヲシカキナク》(一五四一)・吾岳之秋茅花《ワガヲカノアキハギノハナ》(一五四二)などあるのと同じ、恐らく太宰府背後の大城の山であらう。
〔評〕 これも、この人らしい平明な作である、ノコレルユキといふのが、春の殘雪を思はしめるかも知れないが、これは冬梅の歌で、春ではない。古義に、誤つてここに收めたやうに見てゐるのはいけない。
角《ツヌノ》朝臣|廣辨《ヒロベ》雪梅歌一首
廣辨の傳はわからない。角朝臣は紀によれば、雄略天皇の朝、角國に留り住んだもので、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜はつてゐる。角國は即ち周防國都濃郡である。
1641 沫雪に 降らえて咲ける 梅の花 君がりやらば よそへてむかも
沫雪爾《アワユキニ》 所落開有《フラエテサケル》 梅花《ウメノハナ》 君之許遣者《キミガリヤラバ》 與曾倍弖牟可聞《ヨソヘテムカモ》
雪ニ降ラレテ咲キ出シタ梅ノ花ガ美シイカラコレ〔八字傍線〕ヲアナタノ所ヘ差上ゲタイガ、コレヲ差上ゲ〔九字傍線〕タナラバ、世間ノ人ハ私トアナタト深イ關係デモアルヤウニ〔世間〜傍線〕、ソレニ托シテ言フデアラウカヨ。
(675)○所落開有《フラエテサケル》――雪に降られて梅の花が咲くこと。春雨によつて花が綻ぶやうに、雪によつて梅が咲くとするのである。含有常言之梅我枝今日零四沫雪二相而將開可聞《フフメリトイヒシウメガエケフフリシアワユキニアヒテサキヌラムカモ》(一四三六)ともある。○與曾倍弖牟可聞《ヨソヘテムカモ》――ヨソヘはヨソフの連用形。ヨソフは寄スの延言である。人が言ひ寄すること。即ち關係ありと噂するをいふ。テムは未來完了助動詞。
〔評〕 この歌を略解に「梅の花を君がもとへやらば、我によそへてだに、思ひこしてむやと也」と解してゐるのは當らぬやうであるが、かかる説の起るのは、下句の表現に不充分な點があるからであらう。題辭の簡單に失したのも、誤解を助けるものである。
安倍朝原|奥道《オキミチ》雪歌一首
奧道は、續紀によれば、淳仁天皇の天平寶字六年正月、正六位上から從五位下を授かり、續いて若狹守となる。七年正月大和介、八年九月正五位上、十月攝津大夫、稱徳天皇天平神護元年正月勲六等、二月左衛士督、二年十一月從四位下、神護景雲元年三月中務大輔、二年十一月左兵衛督となつた。その後、道鏡の事件で官位を奪はれたらしく、光仁天皇の寶龜二年閏三月、無位から本位從四位下に復された。九月内藏頭、三年四月但馬守、五年三月に卒してゐる。これで見ると、この天平の初年頃はまだ弱輩であつたらう。
1642 たなぎらひ 雪もふらぬか 梅の花 咲かぬが代に そへてだに見む
棚霧合《タナギラヒ》 雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》 梅花《ウメノハナ》 不開之代爾《サカヌガシロニ》 曾倍而谷將見《ソヘテダニミム》
雲ガ〔二字傍線〕棚引キ曇ツテ、雪モ降ラナイカヨ。梅ノ花ハマゲ咲カナイガ、咲カンナイデモ、積ツタ雪ヲ梅ノ〔ガ咲〜傍線〕代リニシテ、梅ニ〔二字傍線〕ナゾラヘテ、梅ダト思ツテ〔六字傍線〕眺メヨウ。
○棚霧合《タナギラヒ》――タナギリの延言。タナギルは、た靡き遮ること。タナグモル・トノグモルなども同じである。(676)○雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》――雪も降らないかよ。降れよ。○不開之代爾《サカヌガシロニ》――シロは種々の意義あるが、ここは代り・代用といふやうな意と解せられてゐる。梅の花が咲かない代りとして。○曾倍而谷將見《ソヘテダニミム》――ソヘはヨソヘに同じ、但し前の歌のヨソヘとは異なつてゐる。梅の花になぞらへて見ようといふのである。
〔評〕 雪歌とあるが、雪を待つ心で、しかも梅花になぞらへて見む爲に降れといふのであるから、雪を愛づるこころが薄いやうにも思はれる。しかし作者は、雪が梅花をあざむく美觀を言はうとしたのである。
若櫻部《ワカサクラベ》朝臣|君足《キミタリ》雪歌一首
君足の傳は未詳。履仲天皇紀に長眞膽連の本姓を改めて、椎櫻部造といふと見えてゐる。
1643 天ぎらし 雪もふらぬか いちじろく このいつ芝に ふらまくを見む
天霧之《アマギラシ》 雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》 灼然《イチジロク》 此五柴爾《コノイツシバニ》 零卷乎將見《フラマクヲミム》
空ガ曇ツテ、雪ガ降ラナイカヨ。サウシタラ私ハ、眞白ニ〔サウ〜傍線〕千目ニツクヤウニコノ茂ツタ柴ニ降ツタノヲ見マセウ。嘸カシ綺麗ダラウナア〔十字傍線〕。
○天霧之《アマギラシ》――天遮りの延言。空をさへぎりての意。○灼然《イチジロク》――イチジルシクに同じ。はつきりと目に立つこと。イチは接頭語。シロクは著く。○此五柴爾《コノイツシバニ》――五柴《イツシバ》は嚴柴で、茂つた闊葉樹の類。卷四に大原之此市柴乃《オホハラノコノイチシバノ》(五一三)とある市柴と同じである。これを茂つた芝草とする説もあるが、雪の降る冬枯の頃につ茂つた芝草はない筈である。
〔評〕 前の歌と同型で、第二句が全く同じく、四五の句も句尾が揃つてゐる。歌品も亦同位といつてよからう。しかしこの歌は三の句イチジロクを、四の句でイツシバと同音を繰した點が、より技巧的である。蓋し卷四、此市柴乃何時鹿跡《コノイチシバノイツシカト》(五一三)・卷十一、壹師花灼然《イチシノハナノイチジロク》(二四八〇)などを學んだものであらう。
(677)三野《ミヌ》連|石守《イソモリ》梅歌一首
石守の傳は明らかでない。
1644 引きよぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖にこきれつ しまばしむとも
引攀而《ヒキヨヂテ》 折者可落《ヲラバチルベミ》 梅花《ウメノハナ》 袖爾古寸入津《ソデニコキレツ》 染者雖染《シマバシムトモ》
枝ヲ〔二字傍線〕引キヨセテ折ツタナラバ、花ガ散ルダラウカラ、梅ノ花ヲシゴイテ袖ニ入レタ。花ノ色デ〔四字傍線〕袖ガ染マルナラバ、染マツテモカマフコトハナイ〔八字傍線〕。
○引攀而《ヒキヨヂテ》――攀は引くこと。登ることではない。攀については一五〇七參照。○袖爾古寸入津《ソデニコキレツ》――袖に扱き入れつ。コキは扱き取ること。○染者雖染《シマバシムトモ》――舊訓は、ソマバソムトモであるが染の字、益目頬染《イヤメヅラシミ》(一九六)・和備染責跡《ワビシミセムト》(六四一)の如く用ゐられてゐるから、ここはシマ・シムに訓むべきである。
〔評〕 染まば染むともとあるのは紅梅らしい。紅梅の記録に見えた最初は、續日本後紀、仁明天皇、「承和十五年春正月壬午、上御2仁壽殿1内宴如v常、殿前紅梅、便入2詩題1、宴訖賜v禄有v差」とある條であるが、この歌によると已に奈良朝からあつたものか。なほ考究を要する。さて折らば散るであらうことの惜しさに、袖に扱き入れたといふのは、かなり荒つぽい鑑賞法であり、卷二十に家持作、伊氣美豆爾可氣左倍見要底佐伎爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈《イケミヅニカゲサヘミエテサキニホフアシビノハナヲソデニコキレナ》(四五一二)とあるが、それはまだ扱き入れてゐないのである。卷十九、家持作の詠2霍公鳥竝藤花1一首并短歌の長歌(四一九二)の末句が、引攀而袖爾古伎禮都染婆染等母《ヒキヨヂテソデニコキレツアイマバシムトモ》となつてゐるのは、これに傚つたものである。
巨勢朝臣宿奈麻呂雪歌一首
巨勢宿奈麻呂は卷六に春二月諸大夫等、集2左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家1宴歌一首(一〇一六)とある人(678)である。傳はその條參照。
1645 吾がやどの 冬木の上に ふる雪を 梅の花かと うち見つるかも
吾屋前之《ワガヤドノ》 冬木乃上爾《フユキノウヘニ》 零雪乎《フルユキヲ》 梅花香常《ウメノハナカト》 打見都流香裳《ウチミツルカモ》
私ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕、冬枯ノ木ノ上ニ降リ積ツタ雪ガ、丁度花ノヤウナノデ、ソレ〔ガ丁〜傍線〕ヲ私ハ一寸見テ〔六字傍線〕梅ノ花カト思ツタヨ。
○冬木乃上爾《フユキノウヘニ》――冬木は冬枯してゐる木。○打見都流香裳《ウチミツルカモ》――打ちは接頭語として添へてあるが、ふと見ることを打身《ウチミ》といふから、これもその意で解すべきであらう。
〔評〕 これは實景の直觀を述べたものであらう。類型凡想を平語を以て綴つたに過ぎない。
小治田《ヲハリダ》朝臣|東《アヅマ》麻呂雪歌一首
東麻呂の傳は明らかでない。
1646 ぬば玉の こよひの雪に いざぬれな 明けむあしたに けなば惜しけむ
夜干玉乃《ヌバタマノ》 今夜之雪爾《コヨヒノユキニ》 率所沾名《イザヌレナ》 將開朝爾《アケムアシタニ》 消者惜家牟《ケナバヲシケム》
(夜干玉乃)今夜降ル雪ニ、外ヘ出テ〔四字傍線〕、サア皆デ〔二字傍線〕濡レテ遊バ〔三字傍線〕ウ。翌朝マデ待ツテヰルウチ〔七字傍線〕ニ、消エテシマツタナラバ惜シイデアラウ。
○率所沾名《イザヌレナ》――イザは誘ひうながす詞。ナはムに同じくて、意が強い。○消者借家牟《ケナバヲシケム》――略解にキエバヲシケムとあるのはよくない。舊訓による。
〔評〕 雪を愛する心が強烈である。明くるを待たで夜の内に雪に濡れて遊ばうといふのは、純眞な童心でもあらう。この歌三句切になつてゐる。
(679)忌部首黒麻呂雪歌一首
忌部黒麻呂は卷六の一〇〇八參照。
1647 梅の花 枝にか散ると 見るまでに 風に亂れて 雪ぞ降りくる
梅花《ウメノハナ》 枝爾可散登《エダニカチルト》 見左右二《ミルマデニ》 風爾亂而《カゼニミダレテ》 雪曾落久類《ユキゾフリクル》
梅ノ花ガ、枝ノ上デ散リ飛ブ〔三字傍線〕ノカト思ハレルホドモ、吹ク風ノ爲ニ亂レテ雪ガ散ツテ來ル。アア美シイ景色ダ。マルデ花ガ散ルヤウダ〔アア〜傍線〕。
○枝爾可散登《エダニカチルト》――ニはデといふやうな意味で、場所をあらはしてゐる。カラといふに似てはゐるが、少し違つてゐる。
〔評〕 平易な歌である。三句にミルマデニを置いた歌は、集中に六首ばかりあつて、既に型が出來上つてゐるやうである。後世にもその型が繼承せられてゐる。なほこの歌の内容は、古今集の「冬こもり思ひもかけぬ木の間より花と見るまで雪ぞふりける」と同樣で、後世歌人によつて繰返されたものである。六帖にこの歌の二句を、エダニカサクトとして出してゐる。それでは四句が不要になる。
紀|少鹿《ヲシカ》女郎梅歌一首
卷四の六四三に、紀女郎怨恨歌三首と題してゐるが、古葉略類聚鈔に「鹿人大夫之女名曰小鹿也、安貴王之妻也」と註してゐる。この紀少鹿女郎はその人に違ひない。
1648 十二月には 沫雪ふると 知らねかも 梅の花咲く ふふめらずして
十二月爾者《シハスニハ》 沫雪零跡《アワユキフルト》 不知可毛《シラネカモ》 梅花開《ウメノハナサク》 含不有而《フフメラズシテ》
十二月ニハ、雪ガ降ルモノダト知ラナイカラカ、梅ノ花ガ蕾ンデ居レバヨイノニ〔十字傍線〕、蕾ンデヰナイデ、咲イテヰ(680)ル。雪ノ中ニ咲イテハ花ガカアイサウダ〔雪ノ〜傍線〕。
○十二月爾者《シハスニハ》――十二月をシハスといふのは爲果《シハ》つの意で、農民が一年の業を終つて、春を待つこころであらうといふ。年果つの略とも言はれてゐる、魂祭のため法師が忙しく走るより起つたといふのは、師走の文字について立てた説で、古意を辨へぬ妄説である。○不知可毛《シラネカモ》――知らねばかもの意。カは疑の係で、次の句でサクと結んである。舊訓シラヌカモとあるのはいけない。○含不有而《フフメラズシテ》――舊訓ツボメラズシテとあり、和歌童蒙抄にも、さう載せてあるから、それが古訓であらうが、含はフフムとよむのが古い。
〔評〕 冬の雪中梅をよんだものである。雪にほほゑむ雄々しさをたたへないで、雪に降られる苦しさをいとしがつたのである。子供のやうな氣分が嬉しい。
大伴宿禰家持雪梅歌一首
1649 今日ふりし 雪に競ひて 吾がやどの 冬木の梅は 花咲きにけり
今日零之《ケフフリシ》 雪爾競而《ユキニキホヒテ》 我屋前之《ワガヤドノ》 冬木梅者《フユキノウメハ》 花開二家里《ハナサキニケリ》
今日降ツタ雪ト競爭シテ、吾ガ宿ノ庭ノ〔二字傍線〕冬梅ノ木は、花ガ咲イタヨ。雪ガ降ツタラ、梅モ負ケナイ氣デ咲キ出シタ〔雪ガ〜傍線〕。
○冬木梅者《フユキノウメハ》――この冬木の梅は即ち冬梅で、春の梅ではないことをあらはすものである。
〔評〕前に沫雪爾所落開有梅花《アワユキニフラエテサケルウメノハナ》(一六四一)とあるのと同想であるが、雪爾競而《ユキニキホヒテ》と言つたのが、寒さにめげない梅の本性をあらはし得てゐる。
御2在《イマシテ》西(ノ)池邊(ニ)1肆宴歌《トヨノアカリキコシメスウタ》一首
續紀に、「天平十年秋七月癸酉、天皇御2大藏省1覽2相撲1、晩頭御2西池宮1因指2殿前梅樹1勅2右衛士(681)督下道朝臣眞備及諸才子1曰、人皆有v志、所v好不v同、朕去春欲v翫2此樹1而末v及2賞翫1、花葉遽落、意甚惜焉、宜d各賦2春意1詠c此梅樹u、文人三十人奉v詔賦v之、因賜2五位已上※[糸+施の旁]二十疋、六位已下各六疋1」とある。然しこれは季節も違ふ上に、左註に記された阿倍蟲麻呂はその時豎子ではなかつたやうである。なほ左註の解説を見よ。
1650 池のべの 松のうら葉に ふる雪は 五百重ふりしけ 明日さへも見む
池邊乃《イケノベノ》 松之末葉爾《マツノウラバニ》 零雪者《フルユキハ》 五百重零敷《イホヘフリシケ》 明日佐倍母將見《アスサヘモミム》
池ノホトリノ松ノ梢ノ葉ニ降ツタ雪ハ、ホントニヨイ景色ダガ、コノ上ニ〔ホン〜傍線〕幾重ニモ幾重ニモ降リツモリナサイ。私ハ〔二字傍線〕又明日モコノ景色ヲ見ヨウカラ。
○五百重零敷《イホヘフリシケ》――フリシケは降り頻れの意。敷き展べる意ではない。
〔評〕 西の池のほとりの宴會での歌であるから、池邊の松の末葉と詠んだものか、又はその折にふさはしい古歌を誦つたものか。二樣に考へられる。恐らく後者であらう。しつかりした調子の歌である。
右一首作者未v詳、但豎子阿倍朝臣蟲麻呂傳2誦之1
作者はこの宴席にゐた人ではないやうである。未詳とあるのは、古歌だからである。豎子は和名抄に「内豎三百人、俗云知比佐和良波」とあるから、チヒサワラハと訓む。豎は未だ元服しない少年の宮中に奉仕するもの。阿倍朝臣蟲麻呂の傳は卷四の六六五に略記して置いたが、なほ續紀の記するところによれば、天平九年九月己亥正七位上阿倍朝臣蟲麻呂等授2外從五位下1とあつて、既に立派な殿上人になつてゐるのであるから、これを天平十年秋七月の行幸とするのは當らない。この注は、右の歌の作者は分らないが、その時豎子であつた阿倍朝臣蟲麻呂がこれを、その席で傳誦したといふのである。
大伴坂上郎女歌一首
1651 沫雪の この頃つぎて かく降れば 梅の初花 散りか過ぎなむ
(682)沫雪乃《アワユキノ》 此日續而《コノゴロツギテ》 如此落者《カクフレバ》 梅始花《ウメノハツハナ》 散香過南《チリカスギナム》
雪ガコノ頃ハ毎日毎日ツヅイテ降ルガ〔三字傍線〕、コンナニ降ツテハ、梅ノ初咲キノ花モ散リスギテシマヒハセヌカ知ラ。ドウモ心配ダ〔六字傍線〕。
○如此落者《カクフレバ》――古義にカクフラバとあるのはよくない。カクフレバといふべきところである。
〔評〕 平庸な歌。何等の感興もない。
池田|廣津《ヒロツ》娘子梅歌一首
池田廣津娘子は傳未詳。池田は氏、廣津は字か。西本願寺本に他田とある。
1652 梅の花 折りも折らずも 見つれども こよひの花に なほしかずけり
梅花《ウメノハナ》 折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》 見都禮杼母《ミツレドモ》 今夜能花爾《コヨヒノハナニ》 尚不如家利《ナホシカズケリ》
梅ノ花ヲ私ハ今マデ〔五字傍線〕、折ツテ見タコトモアルシ、又木ニ咲イテヰルママデ見タコトモアルガ、今夜見ルコノ梅ノ花ニハヤハリ及バナイヨ。
〔評〕 人の家での宴席に列つての作であらう。主人の歡待に對する感謝の情が、席上の花をかやうにたたへしめてゐる。
縣犬養娘子依(セテ)v梅(ニ)發(セル)v思(ヲ)歌一首
縣犬養娘子は傳がわからない。依梅發思は卷七に寄物發思、卷十一・十二に寄物陳思とある類であらうが、ここに依の字を用ゐたのが異なつてゐる。
(683)1653 今のごと 心を常に 思へらば まづ咲く花の 地に落ちめやも
如今《イマノゴト》 心乎常爾《ココロヲツネニ》 念有者《オモヘラバ》 先咲花乃《マヅサクハナノ》 地爾將落八方《ツチニオチメヤモ》
今アナタガ私ヲ思ツテ下サル〔アナ〜傍線〕ヤウナ心ヲ、イツモ持ツテヰテ下サルナラバ、早ク咲イタ梅ノ〔二字傍線〕花ガ早ク地ニ落チ散ルヤウニ、スグニ捨テラレテシマフ〔スグ〜傍線〕コトハアルマイニ。ドウカ今ノヤウニイツマデモ、大切ニシテ貰ヘレバヨイガ〔ドウ〜傍線〕。
○心乎常爾念有者《ココロヲツネニオモヘラバ》――心を持つことを心を思ふといふのが、この集のならはしである。かの安積山の歌に淺乎吾念莫國心《アサキココロヲワガモハナクニ》(三八〇七)とあるのはその一例である。○先咲花乃《マヅサクハナノ》――第一に咲く花は梅をさしたのである。ここは冬の部に入れてあるが、それは分類の誤で、百花に魁する意でいつてゐるのである。ここのノはガの意と見る説もあるが、下へのつづきからは、どうしてもノ如クの意と解せねばならぬ。○地爾將落八方《ツチニオチメヤモ》――梅花の地に委するに譬へて、吾が身の人に捨てられるのをいつたもの。
〔評〕 題詞が委しくないので、歌意に不明な點がないではない。宣長は新に夫を持つた女の歌だらうと言つてゐる。恐らくさうであらう。下句の措辭に多少の無理がないではない。
大伴坂上郎女雪歌一首
1654 松蔭の 淺茅が上の 白雪を 消たずて置かむ ことはかも無き
松影乃《マツカゲノ》 淺茅之上乃《アサヂガウヘノ》 白雪乎《シラユキヲ》 不令消將置《ケタズテオカム》 言者可聞奈吉《コトハカモナキ》
松ノ木蔭ノマバラニ生エタ茅ノ上ニ積ツタ〔三字傍線〕白雪ヲ、消サナイデイツマデモ置クコトハ出來ナイモノデセウカナア。ホントニ面白イ景色デス〔ホン〜傍線〕。
○松影乃《マツカゲノ》――影は蔭の借字。○言者可聞奈吉《コトハカモナキ》――言は事の借字で、方法・術などの意であらう。宣長は言は吉の誤で、由の借字であらうといつゐるが、これは遽かに賛同し難い。
(684)〔評〕 旅中の屬目したところをよんだか、それとも庭中の景か。後世の歌には、松蔭の淺茅では庭園の景にはならぬ、下句は目に近い邸内の眺らしい。かく場面を正確に認識することが出來ないのは遺憾であるが、それは作者の罪ではない。ともかく雪の歌として材料が珍らしい。
冬相聞
三國眞人人足歌一首
人足は續紀によれば慶雲二年十二月從六位上から從五位下、靈龜元年四月從五位上、養老四年正月正五位下と見えてゐる。比較的古い時代の人である。
1655 高山の 菅の葉しぬぎ ふる雪の 消ぬとか言はも 戀の繁けく
高山之《タカヤマノ》 菅葉之努藝《スガノハシヌギ》 零雪之《フルユキノ》 消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》 戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》
私ハ戀ノ心ガヒドクテ、何トモシヤウガナイ。トヤカク言フヨリモ、イツソノコト〔何ト〜傍線〕(高山之菅葉之努藝零雪之)死ンデシマフト言ツテヤラウカヨ。
○菅葉之努藝《スガノハシヌギ》――菅の葉を押し靡かせて。菅は山菅即ちヤブランである。○零雪之《フルユキノ》――ここまでは消《ケ》と言はむ爲の序詞。○消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》――モはムに同じ。消えぬと言はむかの意。消ゆは死ぬこと。
〔評〕 卷三大納言大伴卿歌に、奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年《オクヤマノスガノハシヌギフルユキノケナバヲシケムアメナフリソネ》(二九九)がある。大納言は旅人だといふ説が多いが、さうではなくて、父の安麿らしく、ここの人足の歌と時代は略々同じであらう。また卷六に橘奈良麻呂の奥山之眞木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノフリハマストモツチニオチメヤモ》(一〇一〇)もあつて、かうした序詞の類型が出來てゐたやうに見える。これらの中ではこの歌が強烈な戀情を述べてゐるだけに、一番人を感動せしめるやうに思ふ。死を叫ぶもの、果して自から玉の緒を絶ち得るか。見ようによつては一種の強迫であり、また歎願でもある。古今(685)集戀一「おく山の菅の根しのぎふる雪のけぬとかいはむ戀のしげきに」はこの歌の異傳であらう。
大伴坂上郎女歌一首
1656 酒杯に 梅の花浮べ 念ふどち 飲みての後は 散りぬともよし
酒杯爾《サカヅキニ》 梅花浮《ウメノハナウカベ》 念共《オモフドチ》 飲而後者《ノミテノノチハ》 落去登母與之《チリヌトモヨシ》
酒盃ノ中ニ梅ノ花ヲ浮バセテ、心ノ合ツタモノ同士ガ、飲ンデ遊ン〔三字傍線〕ダ上デハ、花ハ散ツテモカマフコトハナイ。
○酒杯爾梅花浮《サカヅキニウメノハナウカベ》――酒杯の中に梅花をちぎつて浮ばしめるのであらう。卷五にも波流楊那宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈多禮可有可倍志佐加豆岐能倍爾《ハルヤナギカヅラニヲリシウメノハナタレカウカベシサカヅキノヘニ》(八四〇)とある。舊訓ウメノハナウケテとあるが、古義に從ふ。○飲而後者《ノミテノノチハ》――古義ノミテノチニハとあるが、八二一に傚つて舊訓に從ふ。
〔評〕 女だてらに酒杯に梅の花を浮べて飲まうとは、思ひ切つたモダン夫人らしい。併し當時の風習を、武家時代の道徳で律するのは無理であるから、あまり蓮葉なあばずれのやうに考へるのはよくない。なほ卷五の梅花歌中の笠沙彌の、阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與斯《アヲヤナギウメトノハナヲヲリカザシノミテノノチハチリヌトモヨシ》(八二一)とあるのと下句全く同じであり、又、卷六、我屋戸之梅咲有跡告遣者來云似有散去十方吉《ワガヤドノウメサキタリトツゲヤラバコチフニニタリチリヌトモヨシ》(一〇一一)に内容的にも形式的にも少しの近似點がある。この卷六の歌は古歌の名曲であつたから、郎女はこれによつて多少教へられるところがあつたであらう。
和(フル)歌一首
1657 つかさにも 許し給へり こよひのみ 飲まむ酒かも 散りこすなゆめ
官爾毛《ツカサニモ》 縱賜有《ユルシタマヘリ》 今夜耳《コヨヒノミ》 將飲酒可毛《ノマムサケカモ》 散許須奈由米《チリコスナユメ》
多勢集ツテ酒宴ヲスルノハ官ノ禁制ダガ、親シイモノガ少人數デ酒宴スルコトハ〔多勢〜傍線〕、官デモ許シテオイデナサル。(686)ダカラ今夜バカリ、カウシテ〔四字傍線〕飲ムコノ酒デハナイソ。コノ後モオマヘノ前デ酒モリヲスルノダカラ、梅ノ花ヨ〔コノ〜傍線〕決シテ散ツテシマフナヨ。
○官爾毛縱賜有《ツカサニモユルシタマヘリ》――左註にあるやうに、多人數集會して酒を用ゐることは、許されてゐなかつたが、親近者少人數の集りには、許容せられてゐた。ここは親近者少人數の集宴であるから、官でもお咎めがないといふのである。○今夜耳將飲酒可毛《コヨヒノミノマムサケカモ》――今夜のみ飲む酒であらうか。決してさうではないと反語で打消してぬる。○散許須奈由米《チリコスナユメ》――コスは集中に多い語で、希望をあらはす動詞。この句は散つてくれるなよ、ゆめゆめの意。
〔評〕 誰の作ともわからない。いづれその席に列なつてゐた大伴家の一人であらう。梅といふ語を前の郎女の歌にゆづつて、これにはただチリコスナユメとのみ言つてゐる。
右酒者、官禁制(シテ)※[人偏+稱の旁](ハク)、京中(ノ)閭里(ハ)不(レ)v得2集宴1、但(シ)親親一二飲樂(ハ)聽許(ストヘリ)者、縁(リテ)v此(ニ)和(フル)人作(レリ)2此發句(ヲ)1焉
※[人偏+稱の旁]は稱に同じく、ここは曰はくと訓むべきである。發句はここでは前の歌の初二句を指してゐる。一六三五參照。
藤原后奉(レル)2 天皇(ニ)1御歌一首
藤原后は光明皇后。太政大臣藤原不比等の女。御母は縣犬養橘宿禰三千代。天平元年八月皇后とならせ給ふ。天平寶字四年六月崩。御年六十。天皇は聖武天皇。
1658 吾が背子と 二人見ませば いくばくか この零る雪の うれしからまし
吾背兒與《ワガセコト》 二有見麻世波《フタリミマセバ》 幾許香《イクバクカ》 此零雪之《コノフルユキノ》 懽有麻思《ウレシカラマシ》
大層美シク雪ガツモリマシタガ私ハ〔大層〜傍線〕夫ノ君ト二人デコノ雪景色ヲ〔六字傍線〕見マシタナラバ、ドンナニコノ降ル雪ガオモ(687)シロウゴザイマセウノニ。一人デスカラ物見リマセヌ〔一人〜傍線〕。
○二有見麻世波《フタリミマセバ》――二人で見たらうならばの意。マセはマシカバと同義である。敬語ではない。
〔評〕 何等邊幅を飾らない、眞情その物の歌である。聖武天皇のよき輔佐役として、佛教の興隆、文化の向上に努力活動し給うた、光明皇后の貴い御心があらはれてゐる。皇后は實に日本上代女性精神の代表者でいらせられた。
池田廣津娘子歌一首
神田本に他田とある。
1659 眞木の上に ふり置ける雪の しくしくも 念ほゆるかも さ夜とへ吾が背
眞木乃於上《マキノウヘニ》 零置有雪乃《フリオケルユキノ》 敷布毛《シクシクモ》 所念可聞《オモホユルカモ》 佐夜問吾背《サヨトヘワガセ》
(眞木乃於上零置有雪乃)頻リニ私ハアナタガ〔六字傍線〕戀シク思ハレマスヨ。ドウゾ〔三字傍線〕今夜ハ私ノ夫ノ君ヨ。私ノ所ヘ〔四字傍線〕オイデ下サイマシ。
○眞木乃於上零置有雪乃《マキノウヘニフリオケルユキノ》――シクシクと言はむ爲の序詞。雪は頻りに降りつむからである、眞木は檜の類。
(688)〔評〕 雪をシクシクの序として用ゐたのは、さして珍らしいこともない。しかしもし雪の降る日に男に贈つた歌とすると、實情が織り込まれたわけで、、あはれが深い。末句の佐夜問吾背《サヨトヘワガセ》はサは接頭語で夜に訪ね來よといふのであらうが、言葉が急迫してゐて面白くない。
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
駿河麻呂の傳は卷三の四〇〇の題辭の解參照。
1660 梅の花 散らす嵐の 音のみに 聞きし吾味を 見らくしよしも
梅花《ウメノハナ》 令落冬風《チラスアラシノ》 音耳《オトノミニ》 聞之吾妹乎《キキシワギモヲ》 見良久志吉裳《ミラクシヨシモ》
(梅花令落冬風)評判ニバカリ聞イテ戀シク思ツ〔六字傍線〕テヰタ、私ノ愛スル女ヲ、今カウシテ目ノ前ニ見ルノハホントニ〔今カ〜傍線〕嬉シイコトダヨ。漸ク思ヒガカナツテ嬉シイ〔漸ク〜傍線〕。
○梅花令落冬風《ウメノハナチラスアラシノ》――音といはむ爲の序詞。冬風をアラシとよましめるのは、おもしろい義訓である。
〔評〕 序詞は音といはむが爲であるが、あまりいたいたしく烈し過ぎて、歌の内容と氣分が一致せぬやうである。戀した女を見た喜びをあらはしてゐる。古義に「今目の前に親しく見ればまことに聞し如くさても愛《ウルハ》しやとなり」とあるのは過ぎた説明で、ヨシモはただ嬉しいといふやうな意である。
紀少鹿女郎(ノ)歌一首
紀少鹿女郎は一六四八參照。
1661 久方の 月夜を清み 梅の花 心開けて 吾が念へる君
久方乃《ヒサカタノ》 月夜乎清美《ツクヨヲキヨミ》 梅花《ウメノハナ》 心開而《ココロヒラケテ》 吾念有公《ワガモヘルキミ》
(689)(久方乃)月ガヨイ晩ナノデ、アナタガオイデニナリサウナモノダト〔アナ〜傍線〕、心モハレバレト(梅花)開ケテ私ガ思ツテヰルアナタヨ。ソノアナタガ思ヒ通リニオイデニナツテ、アア嬉シイ〔ソノ〜傍線〕。
○梅花《ウメノハナ》――開くと言はむ爲に置いた枕詞である。上句全體を序詞とする説はとらない。○心開而《ココロヒラケテ》――心が樂しく愉快なこと。古義にココロニサキテとよんで、「梅の花の開《サキ》たるごとく心(ノ)中に咲《サキ》榮えて思へる君ぞといへるか」とある。
〔評〕 待つた男が訪ねて來たのを喜んだ歌である。折から月も清く梅も咲いてゐたので、それを巧みに取り入れて詠んでゐる。明るい感じの歌ながら、少し意味の不明瞭の感があるのは、解き得ぬ人の罪か。
大伴田村大娘與(フル)2妹坂上大娘(ニ)1歌一首
1662 沫雪の 消ぬべきものを 今までに ながらへふるは 妹に遇はむとぞ
沫雪之《アワユキノ》 可消物乎《ケヌベキモノヲ》 至今《イママデニ》 流經者《ナガラヘフルハ》 妹爾相曾《イモニアハムトゾ》
雪ノ消エル〔三字傍線〕ヤウニ、私モ〔二字傍線〕消エテ死ンデシマフ筈デシタガ、今迄カウシテ生キテヰルノハ、戀シイ〔三字傍線〕アナタニ逢フ爲バカリデスヨ。
○沫雪之《アワユキノ》――消《ケ》の枕詞のやうであるが、下には流經者《ナガラヘフルハ》と受けてゐるから、枕詞と見ないことにする。○流經者《ナガラヘフルハ》――生き長らへて世を經るはの意であるが、第一句の沫雪の縁語として雪の斜に降る意となつてゐる。
〔評〕 萬葉集には殆ど絶無と言つてもよい縁語が、ここに用ゐられてゐる。姉妹の間の言葉としては、穩やかでないやうな熱情が披瀝せられてゐる。しかしこれは要するに雪を材料として、相聞のこころを述べた言葉の遊戯である。文字通りには受取りにくい。
(690)大伴宿禰家持歌一首
1663 沫雪の 庭にふりしき 寒き夜を 手枕まかず 一人かも寢む
沫雪乃《アワユキノ》 庭爾零敷《ニハニフリシキ》 寒夜乎《サムキヨヲ》 手枕不纒《タマクラマカズ》 一香聞將宿《ヒトリカモネム》
雪ガ庭ニ降リ積ツテ寒イ晩ニ、妻ノ〔二字傍線〕手枕モシナイデ、私ハ〔二字傍線〕一人デ寢ルコトカナア。アア辛イコトダ〔七字傍線〕。
○手枕不纒《タマクラマカズ》――妹が手枕まかずといふべきを略してある。
〔評〕 平凡といへば平凡である。また類型的ともいへる。併しこれ蓋し彼の實感であり、體驗である。淋しさやるせなさが、あらはれてゐるといつてよからう。
萬葉集卷第八
――第二册、終――
鴻巣盛廣 萬葉集全釋 第三冊 廣文堂書店 1935.12.5印刷1935.12.10(37.7.1.2p、39.5.25.3p) 690頁、4圓50錢
〔2011年7月26日(火)午前10時10分巻8入力終了〕
鴻巣盛廣 萬葉集全釋 第三冊 廣文堂書店 1935.12.10(37.7.1.2p、39.5.25.3p) 650頁、4圓50錢
(1)〜(19)〔目次省略〕
卷第九
(1)萬葉集卷第九解説
卷九は雜歌・相聞・挽歌の三部に分れてゐる。雜歌は長歌十二首・旋頭歌一首・短歌八十九首を含んでゐる。紀伊・吉野などの行幸の歌を始として、旅行の歌が多い。水江浦島子を詠んだものなどもその舊蹟と稱せられる地に臨んでの作らしい。相聞は長歌五首・短歌二十四首で、戀愛の作が多いが、鹿島郡苅野橋で大伴卿に別れる時の高橋蟲麿の作らしい歌(高橋蟲麿歌集に出てゐる)、遣唐使に隨つて行く愛子に贈つた母の歌などもある。さうして、その多くは旅行に關係のある作である。挽歌は長歌五首・短歌十二首である。亡妻亡弟を思つて詠んだものもあるが、葦屋處女や勝鹿眞間娘子のやうな、人口に膾炙した古傳説を詠じたものが目立つてゐる。これも亦旅中に見聞したところによつたものが多い。歌數は全體を通じて、長歌二十二首・旋頭歌一首・短歌百二十五首である。配列は大よそ年代順になつてゐる。その最も古いものは、卷頭の雄略天皇の御製である。これは卷八の秋雜歌の劈頭に、岡本天皇御製歌として掲げられてゐるものと同一で、いづれの御製とすべきかは今日からは明らかでないが、歌詞から考へれば、新しきに從つて舒明天皇とすべきであらう。併しこれらの古い時代の作は極めて少數で、多くは大寶以後天平初期までの作である。年代を明記したものでは、天平五年のものが最も新らしいが、田邊福麻呂歌集出の歌は、卷六の例によれば、天平十六年までを含んでゐるから、この卷のものも大よそその頃までのものがあると考へることが出來る。眞淵はこの卷を卷五と卷十五との(2)間に置いて第十位としてぬるが、卷十五は天平十二年以前のものであるから、この斷定は誤つてゐるであらう。更に右に掲げた、卷頭歌の左註によつて、この卷が卷八の後に成つてゐることも想像せられるから、寧ろ卷八の次位に置くべきものかと思はれる。この卷の作者は多くは明記せられてゐるが、槐本・山上・春日・高市などの如く姓のみを記したものと、絹・島足・麻呂などのやうに名のみを記したものとがあるのは、他の卷と違つた書き方である。なほ泉河・名木河・鷺坂などの歌が、少しの間隔を置いて別個に記されてゐるのは、編纂の際、底本としたものが異なつてゐる爲か。−寸奇異の感がある。又この卷には忍壁皇子・舍人皇子・弓削皇子などの皇族がたに献じた作が多いのも目につく。柿本朝臣人麻呂歌集・高橋連蟲麻呂歌集・田邊福麻呂歌集などから多く採られてゐることも注意せられる。全體としてこの卷の大きな特色と見るべきは、傳説を取扱つた長歌の多いことで、それらの中にはかなりの佳作もあるが、藝術價値の特に勝れた作品と思はれるものはあまり見當らない。用字法には戯書として山上復有山《イデ》が用ゐられてゐる位のもので、格別の特色はない。
(3)萬葉集卷第九
雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首
崗本宮御宇天皇幸2紀伊國1時歌二首
大寶元年辛丑冬十月幸2紀伊國1時歌十三首
後人歌二首
獻2忍壁皇子1歌一首 詠2仙人形1
獻2舍人皇子1歌二首
泉河邊間人宿禰作歌二首
鷺坂作歌一首
名木河作歌二首
高島作歌二首
紀伊國作歌二首
(4)〜(8)〔目録省略〕
(9)雜歌
泊瀬朝倉宮御宇【大泊瀬幼武天皇】天皇御製歌一首
泊瀬朝倉宮に天が下知ろしめしし天皇は、雄略天皇。朝倉宮の舊址は大和國磯城郡朝倉村黒崎。
1664 夕されば 小椋の山に 臥す鹿の 今宵は鳴かず 寐ねにけらしも
暮去者《ユフサレバ》 小椋山爾《ヲグラノヤマニ》 臥鹿之《フスシカノ》 今夜者不鳴《コヨヒハナカズ》 寢家良霜《イネニケラシモ》
夕方ニナルトイツモ〔三字傍線〕小椋山デ寢ル鹿ガ、今夜ハ鳴カナイ。戀シイ妻ニ逢ツテ〔八字傍線〕寢タラシイヨ。
○小椋山爾《ヲグラノヤマニ》――卷八の歌には小倉乃山《ヲグラノヤマ》(一五一一)と記してある。この御製を雄略天皇とすれば、その皇居のあつた黒崎の南方の山かと推定せられるのであるが、今はつきりと定め難い。一五一一參照。○臥鹿之《フスシカノ》――卷八の歌に鳴鹿之《ナクシカノ》とある方がよい。このままでは落付がわるい。
〔評〕左註にあるやうに舒明天皇御製と傳へられるもので、卷八に暮去者小倉乃山爾鳴鹿之今夜波不鳴寐宿家良思母《ユフサレバヲグラノヤマニナクシカノコヨヒハナカズイネニケラシモ》(一五一一)と出てゐる。どちらが正傳なるかはもとよりわからないが、そこに記して置いたやうに、舒明天皇作とすべきもののやうに思はれる。第三句だけの異傳であるが、卷八のものよりも、歌として劣るやうだ。
右或本(ニ)云(フ)崗本天皇御製(ト)、不v審(カニ)2正指(ヲ)1因(リテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)
崗本天皇は舒明天皇。不審正指は正しく指すところを審かにせずといふので、いづれがよいかを、正しく指すことが出來ないといふのであらう。下に、亦作歌兩主不敢正指(一七六三の左註)とあるのと同意で(10)あらう。即ちこの文は、右の歌は或本に舒明天皇の御製とあるが、ここに雄略天皇とあるのと、いづれが正しいかを、正しく指定することが出來ないから、卷八に載せたものを、累ねてここに載せるといふのである。これによると。或本は萬葉集の或異本ではなくて、この集を編纂する時、底本とした他の本であることがわかる。累載とあるから、この卷九は卷八の後に出來たことも、證據立てられるわけである。
崗本宮御宇天皇幸(セル)2紀伊國(ニ)1時歌二首
崗本宮の天皇、即ち舒明天皇が、紀伊に幸せられたことは紀に見えない。或は齋明天皇で、後崗本宮かも知れない。齋明天皇が紀の温湯へ幸したことは、卷一の九に見えてゐる。
1665 妹がため 我玉拾ふ 沖べなる 玉よせ持ち來 押つ白浪
爲妹《イモガタメ》 吾玉拾《ワレタマヒリフ》 奥邊有《オキベナル》 王縁持來《タマヨセモチコ》 奥津白波《オキツシラナミ》
土産ニシヨウト思ツテ〔十字傍線〕私ハ妻ノ爲ニ玉ヲ拾フノダ。ダカラ〔五字傍線〕沖ノ方デ立ツテヰル白波ヨ、沖ノ方ノ玉ヲ濱ヘ持ツテ來テクレヨ。ソレヲ拾ツテ歸ルカラ〔十字傍線〕。
○玉縁持來《タマヲセモチコ》――玉は海底の美しい石であらう。鰒玉ではない。
〔評〕 妻の爲に玉を拾ふといふ歌は、卷七、爲妹玉乎拾跡《イモガタメタマヲヒリフト》(一二二〇)など他にもあつて、珍らしい想ではないが、海を珍らしがる大和人が旅中に妻を思ふ心が見えてゐる。
1666 朝霧に 沾れにし衣 ほさずして ひとりや君が 山路越ゆらむ
朝霧爾《アサギリニ》 沾爾之衣《ヌレニシコロモ》 不干而《ホサズシテ》 一哉君之《ヒトリヤキミガ》 山道將越《ヤマヂコユラム》
旅ニオイデナサレタ〔九字傍線〕私ノ夫ハ、朝霧ニ沾レタ着物ヲ干サナイデ、一人デ山路ヲオ越エナサルデアラウ。サゾオツライコトデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
(11)○不干而《ホサズシテ》――略解に舊訓を改めて、カワカズテとしたのは、その意を得ない。
〔評〕 これは從駕の人の妻が、都に留守居して詠んだのである。歌全體に女らしい思ひやりの情が溢れて、あはれな作である。伊勢物語に出てゐる、「風吹けば沖つ白浪立田山夜半にや君が一人こゆらむ」と似た情緒である。この歌、新古今集※[覊の馬が奇]旅歌に出てゐるのは、その典雅温籍な體が、かの時代の人に喜ばれた爲である。
右二首作者未v詳
右二首は同一人の作ではない。一は男、一は女。しかし夫婦唱和の作でもない。
大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸(セル)2紀伊國(ニ)1時(ノ)歌十三首
太上天皇は持統天皇、大行天皇は文武天皇を指し奉る。太上天皇はオホキスメラミコトで、大行天皇はサキノスメラミコトである。大行天皇とは、天皇崩じて御謚號いまだ定まらざる間に、申し奉る稱であるが、本集では、先帝と同意に用ゐてゐる。文武天皇は、慶雲四年六月十五日崩去あらせられ、元明天皇は同七月十七日即位あらせられた。卷一に、大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌(五四)とあり、續紀には、「文武天皇、大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊國1冬十月丁未、車駕至2武漏温泉1、戊午、車駕自2紀伊1至」とあつて、この二つの記録は、共にこの歌と同時のことであらう。九月から十月にかけての行幸、御幸であつたのである。略解に「ここの大行二字は全く衍文也」とあ名のは甚だしい妄斷である。
1667 妹がため 我玉求む 沖べなる 白玉寄せこ 沖つ白波
爲妹《イモガタメ》 我玉求《ワレタマモトム》 於伎邊有《オキベナル》 白玉依來《シラタマヨセコ》 於岐都白浪《オキツシラナミ》
土産ニシヨウト思ツテ私ハ〔土産〜傍線〕妻ノ爲ニ玉ヲサガシテヰル。ダカラ〔三字傍線〕沖ニ立ツテヰル白浪ヨ、沖ノ方ノ白玉ヲ濱ヘ〔二字傍線〕打寄セテクレヨ。ソレヲ持ツテ歸ルカラ〔十字傍線〕。
(12)〔評〕 前の一六六五の歌と殆ど同じで、ただ僅かに異なつてゐる。別歌として取扱ふべきものではない。
右一首上(ニ)見(エテ)既(ニ)畢(リヌ)、但歌(ノ)辭小(シク)換(リ)年代相違(ヘリ)、因(リテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)
上見既畢は少し變な文であるが、上に見えて既に畢りぬとよむことにしよう。代匠記には上既見畢の誤であらうとしてゐる。古義もさう言つてゐるが、このままでわからぬことはあるまい。上見といふ熟字のやうに思はれる。この文は、右の一首は前の一六六五に載せたのだが、歌辭が少し變つて居り、年代も違つてゐるから、累ねてここに載せるといふのである。
1668 白崎は 幸く在り待て 大船に 眞揖しじ貫き またかへり見む
白崎者《シラサキハ》 幸在待《サキクアリマテ》 大船爾《オホフネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 又將顧《マタカリミム》
白崎ハコノ儘デ〔四字傍線〕變ラナイデ私ヲ〔二字傍線〕待ツテ居ナサイ。大キイ船ニ楫ヲ澤山ニ貫イテ、モウ一度私ハ此處ヘ〔三字傍線〕來テ見マセウカラ。ホントニコノ白崎トイフ所ハヨイ景色ダ〔カラ〜傍線〕。
○白崎者《シラサキハ》――白崎は紀伊日高郡白崎村の海岸で、湯淺灣の南方、紀伊水道に面して西に突出した岬である。大日本地名辭事に水路志を引いて「石灰石より成り、雪白色を呈す。故に此名あり」と記したやうに、この崎の岩石が白く見えるから、白崎の名を得たものである。○幸在待《サキクアリマテ》――無事でゐて私を待てよの意。サキクは變化せぬこと。
〔評〕 眞白な巖の山が海中に突出して、碧浪に相映じてゐる美景を舟中から眺めて、白崎に對して再遊を約した歌である。殊更大船と言つたり、眞梶しじ貫きと言つたりしたのは、從駕の一行が多數であつた爲か。無心の白崎を心あるもののやうに呼びかけてゐるのは、卷一、柿本人麿の樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津《サザナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》(三〇)に似たところがあつて、純眞な上代人の心情のあらはれである。サキの音を繰返した技巧をも認めねばなるまい。
1669 三名部の浦 潮な滿ちそね 鹿島なる 釣する海人を 見て歸り來む
(13)三名部乃浦《ミナベノウラ》 鹽莫滿《シホナミチソネ》 鹿島在《カシマナル》 釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》 見變來六《ミテカヘリコム》
三名部ノ浦ニ、潮ガ滿チテ來ルナヨ。私ハコノ三名部ノ浦ノ沖近クニ見エル〔私ハ〜傍線〕鹿島ヘ行ツテ、其處デ〔三字傍線〕釣ヲシテヰル海人ノ樣子〔三字傍線〕ヲ見テ還ツテ來ヨウト思フ。
○三名部乃浦《ミナベノウラ》――今、紀伊日高郡南部町の海岸である。第一册の紀伊海岸西南部地圖(一〇)參照。○鹿島在《カシマナル》――鹿島は南部町の沖合八町ばかりにある小島である。この島と海岸との間は、潮干に徒渉出來るほど淺いところではない。萬葉地理研究紀伊篇によれば、今は深い所で十尋もあるさうである。これは作者が見た感じを述べたものであらう。寫眞は著者撮影。
〔評〕 海人が綸を繰つて銀鱗を引きあげる樣は、都人にはこの上ない珍らしいものであつた。大和では見たこともないやうな大小の魚が、見てゐるうちに釣針にかけられて、籠に(14)入れられる。それはこの紀路のうちでも、取分けこの鹿島の海人が有名であつたと見える。極めて平明な調子で、いかにも思ふままを述べたらしい作である。
1670 朝びらき 榜ぎ出でて我は 湯羅の埼 釣する海人を 見て歸り來む
朝開《アサビラキ》 榜出而我者《コギイデテワレハ》 湯羅前《ユラノサキ》 釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》 見變將來《ミテカヘリコム》
朝舟ヲ出シテ沖ヘ〔二字傍線〕漕イデ出テ私ハ、由良ノ崎デ釣シテヰル海人ノ樣子〔三字傍線〕ヲ見テ歸ツテ來ヨウト思フ〔三字傍線〕。
○朝開《アサビラキ》――朝港を舟出すること。○湯羅前《ユラノサキ》――卷七に、爲妹玉乎拾跡木國之湯等乃三崎二此日鞍四通《イモガタメタマヲヒリフトキノクニノユラノミサキニコノヒクラシツ》(一二二〇)とある湯等乃三崎《ユラノミサキ》と同じで、紀伊國日高郡由良港の西に突出した岬。今、神谷崎と呼んでゐる。寫眞は著者撮影。
〔譯〕 前の歌と下句を等しくしてゐるが、これは海中に漕ぎ出でて、海人の釣する樣を見て來ようといふのだから、かなり念入の見物である。ここは鹿島と共に、海人の釣する名所であつたと見える。
1671 湯羅の埼 潮干にけらし 白神の 礒の浦みを あへてこぎとよ
む
湯羅乃前《ユラノサキ》 鹽乾爾祁良志《シホヒニケラシ》 白神之《シラカミノ》 礒浦箕乎《イソノウラミヲ》 敢而榜動《アヘテコギトヨム》
由良ノ崎ハ汐ガ干タラシイ。船ドモガ〔四字傍線〕白神ノ礒ノ岸ヲ競ツテ、騷ギナガラ漕イデヰル。アレハアンナニ急イデ行ツテ由良崎ノ汐干ノ潟デ魚介ノ類ヲ獲ラウトイフノダラウ〔アレ〜傍線〕。
○湯羅乃前《ユラノサキ》――前の歌の湯羅前《ユラノサキ》に同じ。○白神之礒《シラカミノイソ》――有田郡栖川村字栖原にある栖原山を、一に白上山と呼んでゐるが、その山脚が海に入つて灣をなすところを、白神の礒といふのだと言はれてゐる。即ち糸我山の南に當る海岸である。併しそこから由良の埼までは、西南、鷹島・黒島・十九島などを傳つて、白崎を廻つて南へ下るので、海上五里許あるらしいから、潮干の頃に漕ぎつけても、間に合はぬやうに思はれるが、果してどうであらう。大日本地名辭書には水路志を引いて、「按に萬葉集湯羅の前なる白神礒とあるは即白埼なり」とある。○敢而※[手偏+旁]動――アヘテは古義に喘ぎての意としたのはよくない。卷三に、率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師《イザコドモアヘテコギデミニハモシヅケシ》(15)(三八八)とあるアヘテと同じく、敢へて、押し切つて、爭つてなどの意である。
〔評〕 由良の崎をさして、勇ましく漕き行く海人の船を、白神の礒に立つて、眺めてゐる人の歌である。躍動的の場面が活々とうつし出されてゐる。
1672 黒牛潟 潮干の浦を くれなゐの 玉裳裾びき 行くは誰が妻
黒牛方《クロウシガタ》 鹽干乃浦乎《シホヒノウラヲ》 紅《クレナヰノ》 玉裙須蘇延《タマモスソビキ》 往者誰妻《ユクハタガツマ》
黒牛潟ノ汐ノ干タ海岸ヲ、赤イ美シイ裳ノ裙ヲ引張ツテ行クノハ、誰ノ妻デアルカ。美シイ女ダナア〔七字傍線〕。
○黒牛方《クロウシガタ》――黒牛潟。卷七に黒牛乃海《クロウシノウミ》(一二一八)とある海で、黒牛は今の海草郡黒江町である。○玉裙須蘇延《タマモスソビキ》――タマモは玉裳と書くのが普通であるが、ここには玉裾の字を用ゐてある。裾は赤裳裙之《アカモノスソノ》(一〇九〇)朕裳裙爾《ワガモノスソニ》(四二六五)などの如くスソとよむべき字で、ここに裳に通用したのであらう。
〔評〕 略解に「たが妻とは供奉の女房を指せる(16)ならん」とあり。新考に「おそらくは土地の人の妻ならむ」とあつて、いづれとも考へられる。誰が妻を文字通りに見れば新考説がよいが、この句は必ずしも尋ねる意でない場合にも用ゐられてゐる。古事記下卷に、黒日賣が仁徳天皇に對し奉つて、夜麻登幣邇由玖波多賀郡麻許母理豆能志多用波閇都都由久波多賀都麻《ヤマトベニユクハタガツマコモリヅノシタヨハヘツツユクハタガツマ》と謠はれたやうな例もあるのである。新古今集に載せた、天智天皇御製「朝倉や木の丸どのに吾が居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」の誰が子ぞには、問ひ質し給ふ意はあるが、拾遺集の「白がねの目ぬきの太刀をさげはきて奈良の都をぬるは誰が子ぞ」の如きは、その秀麗な風姿をたたへるのが主で、誰が子かを質すのは從である。これらの用例から考へると、これを供奉の女官の容姿を讃へたものとしても差支ないのである。
1673 風なしの 濱の白浪 いたづらに ここに寄り來る 見る人なしに 一云、ここに寄りくも
風莫乃《カゼナシノ》 濱之白浪《ハマノシラナミ》 徒《イタヅラニ》 於斯依久流《ココニヨリクル》 見人無《ミルヒトナシニ》
(17)風莫ノ濱ノ白浪ガ、見ル人モナクテ、空シク濱邊ニ打寄セテ來ルヨ。
○風莫乃濱之白浪《カゼナシノハマノシラナミ》――風莫の濱は何處にあるかわからない。卷七に風早之三穗乃浦廻乎※[手偏+旁]舟之《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノ》(一二二八)とあるから、これも風早の誤であらうとする説が多い。併しかうした濱の名がないとは言はれない。これについて、紀路歌枕抄には、今の西牟婁郡瀬戸鉛山村にある綱不知のこととし、「山陰の入江にて難風の時も、此浦へ漕入ぬれば、船の碇もおろさず綱にも及ばず、此故に名付ともいふ。海深き故の名ともいふとて、此所風なぎたる浦なれば、風莫濱とも云ふ」と記してゐる。これも參考すべき説である。
〔評〕 人もなき荒凉たる濱に、寄せては返す白波に見入つて感慨に沈んだ歌である。必ずしもこれを、家なる妻に見せようといふのでもない。見る人なき好農を惜しんだのでもない。ただ、淋しい濱に、心無く打ちよせては崩れる波にあはれを催してゐるのである。寂寥感の溢れた、よい作である。
一云|於斯依來藻《ココニヨリクモ》
これは第四句の異傳である。モを添へただけ、この方がより詠嘆的になつてゐる。
右一首山上臣憶良類聚歌林(ニ)曰(ク)、長忌寸意吉麻呂應(テ)v詔(ニ)作(ルト)2此歌(ヲ)1
舊本、聚の下、歌の字が無いのは脱ちたのである。藍紙本・神田本などによつて改めた。
1674 吾が背子が 使來むかと いでたちの この松原を 今日か過ぎなむ
我背兒我《ワガセコガ》 使將來歟跡《ツカヒコムカト》 出立之《イデタチノ》 此松原乎《コノマツバラヲ》 今日香過南《ケフカスギナム》
(我背兒我使將來歟跡)出立ノ松原トイフ景色ノヨイ〔十字傍線〕コノ松原ヲ私ハ〔二字傍線〕、今日アトニシテ過ギ行クコトカヨ。モツトヨク見タイノニ〔十字傍線〕。
○我背兒我使將來歟跡《ワガセコガツカヒコムカト》――序詞。吾が夫からの使が來るかと思つて、門に出て立つて待つといふ意味で、出立(18)の松原に冠した畝である。○出立之此松原乎《イデタチノコノマツバラヲ》――出立の松原は略解に「出立のは走出のといふ類也」とあるがさうではなく、紀伊國西牟婁郡田邊町の海岸の松原で、古くかの附近を出立莊といつたといふことである。古義には、出立を「海濱などに自ら出立たる如く見ゆるを云るなり」と説明し、松原を「紀伊に今も松原と云ふところありといへり、それ歟」と言つてゐる。なるほど別に松原といふ地名が田邊の附近にあるが、しかし今も出立といふ地があるのだから、ここは出立の松原といふ地名と見なければならない。卷十三に、紀伊國之室之江邊爾千年爾障事無萬世爾如是將有登大舟之思恃而出立之清瀲爾《キノクニノムロノエノベニチトセニサハルコトナクヨロヅヨニカクモアラムトオホブネノオモヒタノミテイデタチノキヨキナギサニ》(三三〇二)とあるのも同所である。○今日香過南《ケフカスギナム》――今日過ぎ去ることかと、立去りかねる心があらはれてゐる。
〔評〕 旅中には家を思ふ心が先に立つものだ。その氣分を織込んで、巧な序詞が作られてゐる。(と言つてこの歌を女の作とするのではない。ただ氣分だけをあらはしたのである)出立の松原の佳景を後にして、郡へ還らうとする頃の作か。佳景に對する名殘惜しさが、あはれに詠出せられてゐる。
1675 藤白の み坂を越ゆと 白妙の 吾が衣手は ぬれにけるかも
藤白之《フヂシロノ》 三坂乎越跡《ミサカヲコユト》 白栲之《シロタヘノ》 我衣手者《ワガコロモデハ》 所沾香裳《ヌレニケルカモ》
藤白ノ坂ヲ越エルトテ(白栲之)私ノ着物ノ袖ハ、有間皇子ガ此處デ殺サレ給ウタコトヲ思ツテ涙ニ〔有間〜傍線〕濡レタワイ。
○藤白之三坂乎越跡《フヂシロノミサカヲコユト》――藤白は今海草部内海町の大字となつてゐるが、その南方を東西に走つてゐる山を越える坂が即ち藤白の坂である。三坂の三は接頭語で意味はない。さてこの坂で齊明天皇の四年十一月に、有間皇子は絞殺せられ、その徒黨であつた鹽屋連※[魚+制]魚と舍人新田連未麿とは斬られたのである。なほ大日本地名辭書に「有間皇子の薨去せられし藤白坂は日高郡岩代濱にありて、熊野に接近する地にも藤白といふ名ありしに似たり」と記してある。卷二の有間皇子自傷結2松枝1歌(一四一)について考へると、あれは皇子が牟漏温湯へ連れ行かれる時の作であつて、それが再び岩代を通過して、今の藤代坂まで戻つて行かれたと思すれぬ節があるので、かうした説が出たのであらう。併し他にそれらしいところもないから、やはり今の藤白坂とすべきであらう。寫眞の中央の坂が藤白の坂。○白栲之《シロタヘノ》――枕詞。衣手とつづいてゐる。栲の皮を以て衣を製したからである。
(19)〔評〕代匠記精撰本に「藤白を越とて袖のぬるるには、ふたつの心あるべし。先は此みさかをこゆれば、故郷のことにはるかになればなり。又は有間皇子御謀反の事あらはれて、ここにしてくびりころされたまへることも、大寶の比まではまだ近ければ、それを感じて涙のこぼるるにも有べし」とあり、略解・古義もこれに傚つてゐるが、二つの異なつた感情で涙を流すといふのは、不自然である。これはどちらか一つであらぬばならぬ。有間皇子を追懷しての作とするのが、よいのではあるまいか。なほこの歌は、涙で袖をぬらすのであることは言ふまでもないが、涙といふ語を用ゐてないのは、無理といへば無理である。これは藤白といへば、有間皇子を憶ひ起す場所として、世人に普く認められてゐたからかも知れない。
1676 背の山に 黄葉とこしく 神南の 山の黄葉は 今日かちるらむ
勢能山爾《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミヂトコシク》 神岳之《カミヲカノ》 山黄葉者《ヤマノモミヂハ》 今日散濫《ケフカチルラム》
(20)コノ勢ノ山デ紅葉ガ絶エズ頻リニ散ツテヰル。コレデハ私ノ國ノ大和ノ〔コレ〜傍線〕神南備山ノ山ノ紅葉ハ、今日アタリ散ルデアラウカ。ドンナダラウカト思ヒヤラレル〔ドン〜傍線〕。
○勢能山爾《セノヤマニ》――勢能《セノ》山は妹山・背山の背山である。紀の川の沿岸にある。第一冊の三七二頁參照。○黄葉常敷《モミヂトコシク》――トコシクは、とこしへに散り頻る意。即ち絶えず盛に散ること。宣長が常は落か又は散の誤として、チリシクとよんだのに、古義・新考などが從つてゐるが、文字を改める要はない。○神岳之《カミヲカノ》ーー神岳は神南備山、即ち雷岡である。卷二に神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思《カミヲカノヤマノモミヂヲケフモカモトヒタマハマシ》(一五九)とある。
〔評〕 紀路の背の山の紅葉が、紛々と散亂れるのを見て、藤原の都近い、神岡の紅葉を思ひやつた歌である。神岳は卷三の登2神岳1山部宿禰赤人作歌(三二四)にあつたやうに、景色のよい山として大和人に愛せられ、殊にその紅葉は、右に引いた卷二の一五九にあるやうに、都人になつかしがられてゐたのである。かりそめの旅ながら、この山に對する思慕の情が、滑らかな雅びやかな調子で歌はれてゐる。
1677 大和には 聞えもゆくか 大我野の 竹葉かりしき いほりせりとは
山跡庭《ヤマトニハ》 聞往歟《キコエモユクカ》 大我野之《オホガヌノ》 竹葉苅敷《タカバカリシキ》 廬爲有跡者《イホリセリトハ》
大我野ノ竹ノ葉ヲ苅ツテ、地ノ上ニ〔四字傍線〕敷イテ私ガ〔二字傍線〕庵ヲ作ツテ宿ツテヰルトイフコトハ、私ノ故郷ノ〔五字傍線〕大和ノ國ヘハ傳ハツテ行クダラウカ。トテモアチラマデハ傳ハルマイ。家ニ居ルモノドモハ今私ガカウシテヰルコトヲ知ルマイ〔トテ〜傍線〕。
○大我野之《オホガヌノ》――後世、相賀《アフガ》庄と言つたところで、今、伊都郡橋本町大字|東家《トウケ》・市脇あたりの平地である。紀伊名勝圖會には「相賀莊二十六箇村の内、市脇・東家・寺協三ケ村の田地の字に、相賀臺といふ曠野あり、これ右の大我野なるべし。相賀と記せるは音近きを以て、誤れるなるべし」とある 略解に、「和名抄、紀伊名草郡大屋。又大宅郷有。宣長は我は家の誤也といへり。さらばおほやとよむべし」とあるので、古義・新考などがこれに從つてゐるのは、疎漏である。○竹葉苅敷《タカバカリシキ》――略解に「官本竹の上小の字有をよしとす」とあつて、ササバ(21)カリとよんでゐるのに、古義・新考などが從つてゐるけれども、校本にさうした異本をあげてゐない。竹葉としてよむべきである。
〔評〕 旅寢の辛さに、故郷を思ふ歌である。行幸に從ふものでも、かうした辛い旅をつづけたのである、哀調人を動かすものがある。
1678 紀の國の 昔弓雄の 響失もち 鹿獲り靡けし 坂の上にぞある
木國之《キノクニノ》 昔弓雄之《ムカシユミヲノ》 響矢用《ナリヤモチ》 鹿取靡《カトリナビケシ》 坂上爾曾安留《サカノヘニゾアル》
昔紀伊ノ國ノ名高イ上手ノ〔六字傍線〕弓取ガ、鳴リ鏑矢ヲ以テ、鹿ヲ澤山ニ捕ツタ坂ノ上デアルゾヨ、コノ坂ハ〔四字傍線〕。
○昔弓雄之《ムカシユミヲノ》――弓雄は巧に弓射る男。古義には「弓雄、ユミヲと訓たれどもいかがなり。人名ならばさもあるべし。もし後世弓取と云如く、弓を善射る者をいふこととせば甚いかがなり。刀雄《タチヲ》・矛煙《ホコヲ》などやうに云る例、いにしへ無きをも思へ」といつて、弓を幸の誤としてサツヲと訓んでゐるが、改めるには及ばない、なほ新考には、昔弓雄では辭がととのはないとして、弓雄之昔の誤としてゐるが、これも要なき改竄である。ムカシユミヲノでは、言葉のつづきが穩やかでないやうでもあるが、これは、昔、木の國の弓雄のと解すべきであらう。○響失用《ナリヤモチ》――舊訓カブラモテとあるのを、考にナルヤモテ、略解にナリヤモテと訓んでゐる。文字通りナリヤと訓むがよいやうである。和名抄に「鳴箭、漢書音義云、鳴鏑、如2今之鳴箭1也、日本紀私記云、八目鏑、夜豆女加布良」とある。この歌、袖中抄にはナルヤとよみ、和歌童蒙抄にはカブラヤとよんでゐる。用はモチとよむがよい。○鹿取靡《カトリナビケシ》――舊訓シカトリナビクを考にシカトリナメシとしてゐるが、古義にカトリナビケシと訓んだのがよい。鹿を打靡けたこと。略解にトリナメシとよんで、「とりなめしは、あまたとりならべし意なるべし」とあるのは當るまい。
〔評〕 昔紀の國の何處かの坂に、猛惡な鹿がゐて、人を害ふことがあつたのを、或射手が打ちとめたといふ傳説があつたものらしい。今旅の道すがら、その坂の上で、古い武勇譚に胸を踊らせつつ詠んだ歌で、内容にふさ(22)はしい、力強い雄渾な格調を持つてゐる。
1679 紀の國に 止まず通はむ 都麻のもり 妻よし來せね 妻といひながら 一云、つま賜ふにもつまといひながら
城國爾《キノクニニ》 不止將往來《ヤマズカヨハム》 妻社《ツマノモリ》 妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》
私ハ〔二字傍線〕紀伊ノ國ヘ今後モ〔三字傍線〕絶エズ通ハウト思フ。妻ノ社トイフ社ノ神樣〔七字傍線〕ヨ、妻トイフ名ダカラ私ノ思フ女〔四字傍線〕ヲ寄セテ來テ下サレ。
○妻社《ツマノモリ》――神名帳に、紀伊名草郡都麻津比賣神社とあり、和名抄にも名草郡に津麻郷とあるから、そこの社に違ひない。今、海草郡西山東村大字平尾字若林にその遺跡がある。但し紀伊名所圖會には、「妻村にありし森なるべし。妻村は大和街道にて上古御幸道なり」とあるが、妻村は今の橋本町字妻の地で、伊都郡に屬してゐる。萬葉地理研究紀伊篇の著者は、そこをこの妻の社と推定してゐる。なほ同書には、海草郡和佐村字關戸に、妻御前社の舊跡があることを述べてゐる。○妻依來西尼《ツマヨシコセネ》――舊訓ツマヨリコサネとあるが、略解にツマヨシコセネと訓んだのに從ふ。新考に「ツマヨセコサネ又はツマヨシコサネとよむべし。西は省呼にてサともよむぺければなり」とあるが、西の字を假名に用ゐたのは、廬入西留良武《イホリセルラム》(一九一八)・零爾西者《フリニセバ》(三二一四)・與西都奈波倍?《ヨセツナハヘテ》(三四一一)・都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》(三四五四)などセと訓ましめるものが多いから、ここもコセネの方が穩やかである。コセはコスの變化で、希望をあらはす。この句は妻を寄せ給へよの意。西は呉音サイ、漢音セイであるから、これをセの假名に用ゐたとすると、漢音の省略と見ねばならぬ。併し、呉音以前の古音が遺つてゐるのかも知れないから、なほ研究を要する。○妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》――妻といふからにはの意。ナガラは、ママニ。
〔評〕 妻の杜といふ名をなつかしがつて、妻を寄せよと呼びかけたもので、かの業平の「名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」などに似たところもあるが、かれは思ひつめた悲痛の聲であるのに、これはゆつたりとした餘裕のある詠吟である。
一云|嬬賜爾毛嬬云長柄《ツマタマフニモツマトイヒナガラ》
(23)これは四五の句の異傳である。略解に、「按に爾は南の誤にて、つまたまはなもならむか。しからば妻を賜へと神に乞ふ意なるべし。」字音辨證にはこの歌を引いて、「按ふに、爾はもよのままにてナの假字に用ゐたるものとすべし。但し音圖を考ふるに爾は呉原音ナイなり。故に省呼してナに借たるなり。云々」とあるが、略解の説が穩やかであらう。
右一首、或云坂上忌寸人長作
坂上意寸人長の傳はわからない。
後《オクレタル》人(ノ)歌二首
後人はオクレクルヒトと訓む。留守居の人の意。歌の趣では從駕の人の妻であらう。卷五に後人追加(八七二)とある後人とは、意味を異にしてゐる。
1680 麻裳よし 紀へ行く君が 信土山 越ゆらむ今日ぞ 雨なふりそね
朝裳吉《アサモヨシ》 木方往君我《キヘユクキミガ》 信土山《マツチヤマ》 越濫今日曾《コユラムケフゾ》 雨莫零根《アメナフリソネ》
(朝裳吉)紀伊ノ國ノ方ヘ行ク私ノ夫ノ〔四字傍線〕君ガ、信土山ヲ今日ハオ越エナサル頃ダヨ。ダカラ〔三字傍線〕雨ヨ降ルナヨ。雨ノ山道ハオヒドイデアラウカラ〔雨ノ〜傍線〕。
○朝裳吉《アサモヨシ》――枕詞。木《キ》とつづく。五五參照。○木方往君我《キヘユクキミガ》――木方《キヘ》のヘは方向を示す助詞であるから、べと濁るのではない。紀伊邊と解釋してはわるい。○信土山《マツチヤマ》――大和紀伊の國境にある眞土山。五五參原。信はマコトであるから、眞と同じく用ゐるのである。
〔評〕 女性らしい柔い情緒が溢れてゐる。夫を思ふ心があはれである。
1681 後れゐて 吾が戀ひをれば 白雲の 棚引く山を 今日か越ゆらむ
後居而《オクレヰテ》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 白雲《シラクモノ》 棚引山乎《タナビクヤマヲ》 今日香越濫《ケフカコユラム》
(24)後ニ殘ツテ、家ニ止マツテヰテ〔八字傍線〕、私ガ夫ヲ〔二字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルト、夫ハ〔二字傍線〕白雲ノ棚引ク高イ〔二字傍線〕山ヲ今日アタリオ越エナサルコトデアラウカ。サゾ難儀デアラウ〔八字傍線〕。
○吾戀居者《ワガコヒヲレバ》――ヲレバは、居るとの意で輕く用ゐてある。下に因果の關係で連なつてゐるのではない。
〔評〕 これも前と同樣の氣分であるが、その愛慕の情は、更に深いものがあるやうである。遙か西南に連なる山に棚引いた白雲を眺めつつ、涙ぐんでゐる若い妻の俤もしのばれて悲しい。
獻(レル)2忍壁皇子《オサカベノミコニ》1歌一首 詠(メル)2仙人(ノ)形《カタヲ》1。
忍壁皇子は書紀に「天武天皇二年、云々、次宍人臣大麻呂女、〓媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、十年三月庚子朔丙戍、詔2云々忍壁皇子云々1、令v記2定帝紀及上古諸事1十四年正月丁未朔丁卯授2淨大參位1、朱鳥元年八月己巳朔辛己、忍壁皇子加2封百戸1」とあり、續紀に「文武天皇三年甲午勅2淨大參刑部親王云々1、撰2定律令1、大寶元年八月癸卯、三品刑部親王云々、律令始成、三年正月壬午、詔知2太政官事1慶雲元年正月丁酉、益2封二百戸1、二年四月庚申、賜2越前國野一百町1、五月丙戍、三品忍壁親王薨、天武天皇第九皇子也」とある。仙人形は仙人の繪。形はカタと訓むがよい。この歌は作者がわからない。
1682 とこしへに 夏冬行けや 裘 扇放たぬ 山に住む人
常之陪爾《トコシヘニ》 夏冬往哉《ナツフユユケヤ》 裘《カハゴロモ》 扇不放《アフギハナタヌ》 山住人《ヤマニスムヒト》
イツデモ夏ト冬トガ同時ニ經《タ》ツテ行クカラカ、冬ノ着物ノ〔五字傍線〕皮ノ衣ト、夏使フ〔三字傍線〕扇トヲ放サナイデヰル山ニ住ム仙〔傍線〕人デス、コレハ〔五字傍線〕。
○常之陪爾《トコシヘニ》――永久に。いつでも。○夏冬往哉《ナツフユユケヤ》――夏と冬とが、經往けばにやの意。夏と冬とが同時に來り行くからか、即ち同時に夏でもあり冬でもあるからかの意。○裘《カハゴロモ》――皮衣。獣皮で縫つた衣。即ち毛皮の着物である。卷二、毛許呂裳《ケゴロモ》(一九一)と同じ。○扇不放《アフギハナタヌ》――扇《アフギ》はここでは團扇であらう。仙人の持つものとしては、(25)扇子ではふさはしくない。○山住人《ヤマニスムヒト》――山に住む人は仙人。荘子逍遥遊に「藐姑射山有2神人1居焉、肌膚若2氷雪1、綽約若2處子1」とあるやうに、山に住んで霞を食ひ霧を吸つて生きてぬる人である。
〔評〕 これは忍壁皇子の家の屏風か何かに、仙人の繪が書いてあるのを見て詠んだもので、後世の歌の題に「何何のかた」とあるものの濫觴といつてよい。支那から渡來した神仙思想が、廣く盛に行はれてゐたらしいこの時代には、かうした仙人の畫像などもかなり弄ばれてゐたのであらう。裘を着て團扇とを持つた、夏冬兼帶の姿を皮肉つた歌である。古義に「しか寒暖常行《ナツフユトコシナヘニユキ》て、世はなれたる佳境なれば、住人の常住不變なるも、ことわりぞとの意を、もたせたるなるべし」とあるのは、どうであらう。
獻(レル)2舍人皇子(ニ)1歌二首
舍人皇子は天武天皇の皇子。日本書紀の編纂者。一一七參照。これも作者の名が明らかにされてゐない。
1683 妹が手を 取りて引きよぢ うち手折り 吾がかざすべき 花咲けるかも
妹手《イモガテヲ》 取而引與治《トリテヒキヨヂ》 ※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》 吾刺可《ワガカザスベキ》 花開鴨《ハナサケルカモ》
(妹手)取ツテ引張ツテ手折ツテ、私ガ頭ノ飾ニシテ遊ブベキ花ガ咲キマシタヨ。美シイ花デスネ〔七字傍線〕。
○妹手《イモガチヲ》――枕詞。取るにつづく意は明らかである。○取而引與治《トリテヒキヨヂ》――取りて引攀ぢ。攀づは引くことである。一四六一參照。○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ――※[手偏+求]は、土を盛る、又は長い貌で、打つといふ意はない。代匠記精撰本にナガタヲリともよむべしと言つてゐるが、ともかくウチと訓まねばならぬやうである。この卷に※[手偏+求]手折多武山霧《ウチタヲリタムノヤマギリ》(一七〇四)、卷十三に※[手偏+求]手折吾者持而往《ウチタヲリワレハモチテユク》(三二二三)とある。なほこの字義については、考ふべきである。○吾刺可《ワガカザスベキ》――考に吾の下に頭の字が脱ちたものとしてゐる。略解の宣長説には「吾は君の誤にて、きみがさすべきと訓むべし。さすは即かざす事也。しか訓まざれば、皇子に献るといふに當らず」とある。これも一理はあるが、もとのまま(26)でも聞えるから、改めるには及ばない。
〔評〕 春が來て、花の咲いた喜びを歌つたものであらう。皇子に献じた歌としてあるので、寓意があるものと見て、代匠記精撰本に「下句は此皇子の御蔭に隱れ申すべき程に成給へるを悦ぶ意なり」とあるが、考へ過ぎであらう。
1684 春山は 散り過ぎぬれども 三輪山は いまだふふめり 君まちがてに
春山者《ハルヤマハ》 散過去鞆《チリスギヌレドモ》 三和山者《ミワヤマハ》 未含《イマダフフメリ》 君待勝爾《キミマチガテニ》
春ノ山ノ花〔二字傍線〕ハアナタ樣ノオイデヲ待チカネテ、散ツテシマヒマシタガ、三輪山ノ花ダケハマダ蕾ンデヰマス。アナタ樣ノオイデヲ氣長ニオマチシテ居リマス〔アナ〜傍線〕。
○春山者《ハルヤマハ》――新考に「春日山ハ」の誤としたのは從ひ難い。春のすべての山はの意。○散過去鞆《チリスギヌレドモ》――略解にチリスギユケドモとある。いづれでもよいであらう。舊訓チリスグレドモとあるのはよくない。花が散り過ぎたれどもの意。○三和山者《ミワヤマハ》――三和山は三輪山。
〔評〕 三輪山の花ばかりが、他の山々の花と異なつて、未だ開かないでゐるのを見て、親王に報告したのである。或はこの親王の御庄が三輪山近くにあつたものか。代匠記初稿本に「みわ氏の人の舍人皇子の御陰をたのみ居たるがよめるか。さらずばみわ山とはわきていふまじくや。春山は散過れどもは、皆人の榮華の盛の身にあまるまでなるにたとへ、みわ山はいまだつぼめりは、わが身のしづみ居たるによせてよめりときこゆ。さて皇子にうれへ申て、吹擧をあふぐなるべし」とあるのは、やはり考へ過ぎであらう。
泉河邊(ニテ)間人宿禰作(レル)歌二首
泉河は山城相樂・綴喜・久世の諸郡を流れて淀川に注いでゐる。この歌の詠まれた地點は明らかでないが、歌の内容から考へると、恐らく上流であらう。
1685 河の瀬の たぎつを見れば 玉もかも 散り亂れたる 河の常かも
(27)河瀬《カハノセノ》 瀧乎見者《タギツヲミレバ》 玉藻鴨《タマモカモ》 散亂而在《チリミダレタル》 河常鴨《カハノツネカモ》
コノ泉〔三字傍線〕河ノ瀬ガ泡立ツテ流レテ居ルノヲ見ルト、玉デモ散亂シテヰルノカト思ハレルガ、ソレトモ〔十字傍線〕コノ川ハイツデモコンナニキレイニ玉ヲ散ラシタヤウニ流レテヰル〔コン〜傍線〕ノカヨ。實ニキレイナ流ダ〔八字傍線〕。
○瀧乎見者《タギツヲミレバ》――舊訓タギルヲミレバとあるのでもわるくはないが、ここは古義に從ふ。○玉藻鴨《タマモカモ》――藍紙本・壬生本・類聚古集・古葉略類聚鈔に藻の字がないので、この句を新訓にタマヲカモとしてゐる。併しそれらの本も訓はタマモとなつて居り、この歌を拾遺集に載せて、「川の瀬のうづまく見れば玉もかるちり亂れたる川の舟かも」とあり、六帖に「河のせになびくを見れば玉藻かも散亂れたる川のつねかも」とあるから、タマモカモが古訓であつたらしい。藻の字がないとしても、モを入れてよいくらゐのところである。藻は集中、助詞に用ゐられた場合が多い。忘可禰津藻《ワスレカネヅモ》(七二)・鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》(六二八)・事藻不盡我藻將依《コトモツクサジワレモヨリナム》(三七九九)など、なほ多くの例がある。神田本・西本願寺本などに藻の字があるのによりたいと思ふ。○河常鴨《カハノツネカモ》――舊本、河の上に此の字があつて、舊訓コノカハトカモとあるが、この字は藍紙本・神田本以下、古本皆無いから、舊本は誤である。代匠記精撰本に、「此の字衍文歟」とあるのは卓見である。訓は藍紙本などに從つて、カハノツネカモとするがよい。これはこの泉川の常のことかといふのである。
〔評〕 泉河の奔流が、玉と碎けて散つてゐる佳景を見て、今日にかぎつてかやうに面白いのか、それとも何時もかやうなのかと、驚きの目を見張つたのである。躍動的風景がよくあらはれてゐる。叙述が整はないやうにも思はれるが、それは次の歌によつておのづから補はれてゐる。これより以下、旅中の作が集められてゐる。
1686 彦星の かざしの玉の つまごひに 亂れにけらし この河の瀬に
彦星《ヒコホシノ》 頭刺玉之《カザシノタマノ》 嬬戀《ツマゴヒニ》 亂祁良志《ミダレニケラシ》 此河瀬爾《コノカハノセニ》
コノ泉川ノ水ガ玉ノヤウニ見エルノハ〔コノ〜傍線〕、彦星ノ挿頭ノ玉ガ彦星ガ〔三字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ヲ戀ヒ慕ツテ身悶エシタ〔七字傍線〕ノデ、落散ツテ〔四字傍線〕ヲコノ河ノ瀬ニ亂レ飛ンダノデアラウ。
(28)○彦星頸刺玉之《ヒコホシノカザシノタマノ》――挿頭の玉といふと女らしい感じがある。併し男でも玉の挿頭をしなかつたのではない。ことにこれは天上の男であるから美化したのであらう。新考に「彦星はタナバタの誤にあらざるか」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 前の歌に述べた玉を説明したもので、前と連作になつてゐる。空想的な優雅な作品である。これによつて泉河が天上の銀河にも比すべき聖地らしくなつてゐる。古義に「彦星を云るは、此歌よめる時七夕などにやありつらむ」とあるが、そこまで考ふべきものとは思はれない。
鷺坂(ニテ)作(レル)歌一首
鷺坂は下に山代久世乃鷺坂《ヤマシロノクセノサギサカ》(一七〇七)とあつて、山城國久世郡久世にある久世神社を奉祀する丘陵を鷺坂山と稱してゐる。寫眞は今の奈良街道久世神社前面の坂。神社は右方にある。著者撮影。
1687 白鳥の 鷺坂山の 松蔭に 宿りて行かな 夜も更け行くを
白鳥《シラトリノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 松影《マツカゲニ》 宿而往(29)奈《ヤドリテユカナ》 夜毛深往乎《ヨモフケユクヲ》
(白鳥)鷺坂山ノ松ノ木蔭ニ私ハ今夜ハ〔五字傍線〕宿ツテ行カウナア。夜モダンダン更ケテ行クカラ。野宿ハツライケレドモ仕方ガナイ〔野宿〜傍線〕。
○白鳥《シラトリノ》――枕詞。白い鳥の鷺の意で、鷺坂につづいてゐる。
〔評〕 疲れた足を引きずつて夜道を急いでも、里までは遠いからと思ひ切つて、山の松蔭に雨露を凌がうとする、旅人のあきらめが淋しさうによまれたあはれな歌である。
名木河(ニテ)作(レル)歌二首
名木河は今その所在が明らかでない。和名抄に久世郡那紀郷があるのは、今の小倉村伊勢田の邊らしいから、名木河は仁徳・推古の兩朝に開鑿せられた、栗隈溝であらうと、大日本地名辭書に推定してゐる。しかもこの栗隈溝の遺址も亦明らかでない。なほ考ふべきである。二首は一首の誤か。
1688 あぶりほす 人もあれやも ぬれ衣を 家には遣らな 旅のしるしに
※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 沾衣乎《ヌレギヌヲ》 家者夜良奈《イヘニハヤラナ》 ※[羈の馬が奇]印《タビノシルシニ》
コノ沾レタ着物ヲ〔八字傍線〕アブツテ干シテクレル人ガアレバヨイガ、サウイフ人ハナイ。ダカラ〔サウ〜傍線〕コノ沾レタ着物ヲ苦シイ〔三字傍線〕旅ノシルシトシテ家ニ送ツテヤラウナア。
○※[火三つ]干《アブリホス》――※[火三つ]は炎に同じく、ホノホであるが、焙り乾かすことに用ゐてゐる。この文字はここと下の一六九八に用ゐられてゐるのみである。○人母在八方《ヒトモアレヤモ》――人モアラメヤモの意で、人も居ないと強く言ふのである。あれかしと希望するのではない。
〔評〕 旅に出てゐる人が、雨に霑れたわびしさをかこつた歌である。零れた着物の始末に困つて、家なる妻を思ふ情が悲しく詠まれてゐる。
1689 荒磯べに つきてこがさね から人の 濱を過ぐれば こほしくあるなり
(30)在衣邊《アリソベニ》 著而榜尼《ツキテコガサネ》 杏人《カラヒトノ》 濱過者《ハマヲスグレバ》 戀布在奈利《コホシクアルナリ》
荒礒ノホトリニツイテ舟ヲ漕ギナサイ。アナタノ舟ガ〔六字傍線〕、杏人ノ濱ヲ通リ過ギルト見エナクナルノデ〔八字傍線〕、戀シク思フヨ。
○在衣邊《アリソベニ》――荒礒のほとりに。○著而榜尼《ツキテコガサネ》――舊訓はツキテコゲアマとあるが、宣長がコガサネとよんだのがよい。海岸近く舟を漕ぎなさいの意。○杏人《カラヒトノ》――舊訓にかうなつてゐる、杏は和名抄に加良毛毛とよんであつて、カラモモではあるが、カラとのみ訓むのはどうかと思はれる、併し宣長が京の誤として、ここをミヤコビトであらうと言つたのも遽かに從ひ難いから、しばらく舊訓に從ふことにする、但しカラヒトノハマはその所在不明。
〔評〕 これは海岸での作で、旅に上る家人を送る歌である。標題に名木河作歌とあるけれども、全くその趣が見えない。結句が散文的に聞えて珍らしい調になつてゐる。
高島(ニテ)作(レル)歌二首
高島は近江國高島郡、琵琶湖の西方。
1690 高島の 阿渡河波は 騷げども 我は家思ふ やどり悲しみ
高島之《タカシマノ》 阿渡河波者《アトカハナミハ》 驟鞆《サワゲドモ》 吾者家思《ワレハイヘオモフ》 宿加奈之彌《ヤドリカナシミ》
高島ノ安曇河ノ河波ハ鳴リ騷イデヰルガ、ソレニハ氣モトラレナイデ〔ソレ〜傍線〕、私ハ旅ノヤドリノ物悲シサニ、唯〔傍線〕家ノコトバカリヲ思ツテヰル。
○高島之阿渡河波者《タカシマノアトカハナミハ》――高島の安曇川の波。安曇川は一二三八・一二九三參照。
〔評〕 この歌は卷七の竹島乃阿戸白波者動友吾者家五百入〓染《タカシマノアトシラナミハトヨメドモワレハイヘオモフイホリカナシミ》(一二三八)と同歌の異傳であらう。卷二の人麿作、(31)小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《ササノハハミヤマモサヤニサヤゲドモワレハイモオモフワカレキヌレバ》(一三三)とも似てゐる。
1691 旅なれば よなかを指して 照る月の 高島山に 隱らく惜しも
客在者《タビナレバ》 三更刺而《ヨナカヲサシテ》 照月《テルツキノ》 高島山《タカシマヤマニ》 隱惜毛《カクラクヲシモ》
旅ニ出テヰルノデ、月ノ光ハ唯一ノ慰ミダノニ〔月ノ〜傍線〕、夜中ノ頃ニナツテ空ニ〔二字傍線〕照ル月ガ、高島山ニ隱レルノハ惜シイコトダヨ。
○三更刺而《ヨナカヲサシテ》――三更《ヨナカ》は高島郡の地名とする説もあるがよくない。高島郡にその地名はない。古義には卷七の狹夜深而夜中乃方爾《サヨフケテヨナカノカタニ》(一二二五)と共に、夜中の潟といふ地名としてゐる。刺而《サシテ》は夜中の頃になつての意であらう。新考に過而《スギテ》の誤かと言つてゐる。○高島山《タカシマヤマ》――高島郡西界の山で、どの山と指すのではあるまい。今この山名がない。
〔評〕 月を旅寢の友としてゐる人が、月の西山に傾かうとするのを惜しんだので、二の句の叙法がどうかと思はれるが、全體に淋しさがあらはれてゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。六帖には「旅なれば宵に立出でて照る月の高島山に隱るる惜しも」と出てゐる。
紀伊國(ニテ)作(レル)歌二首
1692 吾が戀ふる 妹は逢はさず 玉の浦に 衣片しき 一人かも寐む
吾戀《ワガコフル》 妹相佐受《イモハアハサズ》 玉浦丹《タマノウラニ》 衣片敷《コロモカタシキ》 一鴨將寢《ヒトリカモネム》
私ガ戀ヒ慕ツテヰル妻ハ逢ハナイデ、玉ノ浦デ唯一人デ淋シク〔三字傍線〕着物ヲ片敷イテ、丸寢ヲスルコトカナア。アアツライ〔五字傍線〕。
○妹相佐受《イモハアハサズ》――アハサズは逢ハズの敬相。舊訓イモニアハサズとあるが、略解に從ふ。この妹は家なる妻ではないやうである。○玉浦丹《タマノウラニ》――玉浦は卷七に玉之浦離小島夢石見《タマノウラハナレコジマノイメニシミユル》(一二〇二)とあるところで、紀伊東牟婁部下里(32)町大字粉白の海岸である。
〔評〕 旅やに女をかいまみて、思ひを遂げ得ぬ時の歌か。衣片敷一鴨將寢《コロモカタシキヒトリカモネム》は他に似通つた句もあつて、幾分類型的ではあるが、あはれな言葉である。新古今集に「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寢む」とあるのは、これを踏襲したものと思はれる。
1693 玉くしげ 明けまく惜しき あたら夜を ころも手かれて 一人かもねむ
玉〓《タマクシゲ》 開卷惜《アケマクヲシキ》 〓夜矣《アタラヨヲ》 袖可禮而《コロモテカレテ》 一鴨將寢《ヒトリカモネム》
家ニ居ルナラバ妻ト節緒ニネテ〔家ニ〜傍線〕(玉〓)明ケルノガ惜シィ、アツタラ夜ダノニ、今ハ旅ニ出テヰルノデ妻ノ〔今ハ〜傍線〕袖ト別レテ、一人デ私ハ〔二字傍線〕寢ルコトカナア、アアツライ〔五字傍線〕。
○玉〓《タマクシゲ》――枕詞。玉櫛笥開くとつづく。○開卷惜《アケマクヲシキ》――夜の明けるのが惜しい。○〓夜矣《アタラヨヲ》――〓は※[立心偏+吝]の俗字で、惜しむ意であるから、ここにアタラとよんだのである。アタラは可惜《アツタラ》の意。卷十一に〓無(二六六一)をヲシケクモナシとよんでゐる。類聚古集に惜無に作るによれば、〓と惜と同字か。
〔評〕これは旅中に故郷の妻を思ふ歌である。紀伊國作歌の趣がないのは、前の玉の浦の歌と同時の作か、併し内容からさうは考へられないから、ただ同人が紀伊の旅で詠んだものと見るべきであらう。
鷺坂(ニテ)作(レル)歌一首
1694 細領巾の 鷺坂山の 白つつじ 我ににほはね 妹に示さむ
細比禮乃《タクヒレノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 白管自《シラツツジ》 吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》 妹爾示《イモニシメサム》
(細比禮乃)鶯坂山ノ白躑躅ノ花ハ、私ノ着物〔三字傍線〕ニ染マレヨ。サウシタラソレヲ家ノ〔サウ〜傍線〕妻ニ示サウト思フ。
○細比禮乃《タクヒレノ》――枕詞。栲領巾のやうな白い細い毛を頭につけてゐる鷺の意で、鷺坂山に冠するのであらう。古義・新訓などホソヒレノと訓んでゐるが、細はタヘと訓んだ例が多く、タヘはククと同じであるから、タクヒ(33)レノでよいであらう。曾丹集に「たくひれの鷺坂岡のつつじ原色てるまでに花さきにけり」とあるのは、この歌の古訓が、タクヒレノであつたことを證するものである。これを特にホソヒレといふのは、どうかと思はれる。○鷺坂山《サギサカヤマノ》――一六八七參照。寫眞は著者撮影。○吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》――終の尼の字、舊本に?とあるのは誤。藍紙本・類聚古集など尼に作つてゐる。ニホハネは匂へよの意。ニホフは色の衣服に染むこと。
〔評〕 鷺坂山で美しく咲いてゐる白躑躅を見てこれを旅の記念として、妻に示す方法がないかと言つたので、生憎白躑躅であるから衣服に染まないのを遺憾としたものか。併しワレニニホハネではその心持がはつきりあらはれないやうである。
泉河(ニテ)作(レル)歌一首
1695 妹が門 入り泉河の 常滑に み雪殘れり いまだ冬かも
妹門《イモガカド》 入出見河乃《イリイヅミカハノ》 床奈馬爾《トコナメニ》 三雪遺《ミユキノコレリ》 未冬鴨《イマダフユカモ》
(34)(妹門入)泉川ノ磐ノ滑ラカナ所ニ、雪ガ遺ツテヰルヨ。シテ見ルト〔五字傍線〕、マダ冬カナア。
○妹門入出見河乃《イモガカドイリイヅミガハノ》――妹門入《イモガカドイリ》は出見河《イヅミガハ》の序詞。妹が家の門を入つたり出たりする意にかけてゐる。卷七の妹門出入乃河之《イモガカドイデイリノカハノ》(一一九一)と類似した修辭である。出見河《イヅミガハ》は泉河。○床奈馬爾《トコナメニ》――トコナメは常滑。川の磐のいつも滑らかなこと。三七參照。○三雪遺《ミユキノコレリ》――ミは接頭語。この雪はまことの雪ではなく、岩に激する水の白く泡立つのを雪といつたのである。
〔評〕 泉河の奔流が白波を立ててゐるのを、雪に見立てて三雪遺《ミユキノコレリ》と言切つてしまひ、さうして未冬鴨《イマガフユカモ》と怪しんだものである。雪のやうだといふやうな譬喩を用ゐない、思ひ切った叙法が奇抜で力がある。
名木河(ニテ)作(レル)歌三首
1696 衣手の 名木の河邊を 春雨に 我立ちぬると 家念ふらむか
衣手乃《コロモデノ》 名木之河邊乎《ナギノカハベヲ》 春雨《ハルサメニ》 吾立沾等《ワレタチヌルト》 家念良武可《イヘオモフラムカ》
(衣手乃)名木河ノホトリデ、春雨ニ私ガ着物ノ袖ヲコンナニ濡ラシテヰルト、家デハ思ツテヰルダラウカ。コンナ難儀シテヰルコトハヨモヤ知ルマイ〔コン〜傍線〕。
○衣手乃《コロモデノ》――枕詞。この枕詞については、種々の説があつて一定してゐない。その用法も多岐に分れてゐる。衣手のながきの約、ナギにつづくとする説に從はう。卷一、衣手能田上山之《コロモデノタナガミヤマノ》(五〇)とあるに同じと考へてもよいであらう。又、古義にこれを枕詞としないで、第四句につづくものと見てゐるのは、穩やかでない。○名木之河邊乎《ナギノカハベヲ》――宣長は乎《ヲ》は之《ノ》の誤といつてゐる。なるほど乎《ヲ》では少しおだやかでない點もあるが.わからぬことはないから改めるには及ばない。○家念良武可《イヘオモフラムカ》――家が思ふらむかの意。新考には家知良武可《イヘシルラムカ》の誤にあらざるかといつてゐるが、さうではあるまい。この句は、卷七の吾馬爪衝家思良下《ワガウマツマツクイヘオモフラシモ》(一一九一)・吾馬難蒙戀良下《ワガウマナヅムイヘコフラシモ》(一一九二)と用法を同じくしてゐる。
(35)〔評〕 雨に濡れつつ故郷の家を思ふ歌で、まことに哀愁が深い。前の一六八八によく似てゐる。
1697 家人の 使なるらし 春雨の よくれど我を ぬらす念へば
家人《イヘビトノ》 使在之《ツカヒナルラシ》 春雨乃《ハルサメノ》 與久列杼吾乎《ヨクレドワレヲ》 沾念者《ヌラスオモヘバ》
春雨ヲ私ガ〔五字傍線〕ヨケテモ春雨ガ私ヲ霑ラスコトヲ考ヘルト、コノ春雨ハ〔五字傍線〕.家ノ人ノ使トシテ來タモノラシイ。
○家人《イヘビト》――家に留守居してゐる妻であらう。○沾念者《ヌラスオモヘバ》――舊訓ヌラストオモヘバとあるのはよくない。濡らすことを思へばの意。
〔評〕 小止みもなくしとしとと降つて、衣袂を濡らす春雨を、吾が身にしつこく附纒ふやうに言ったもので、降る雨を家人の使と考へたのは、雁の使などとは違った面白い想像である。
1698 あぶりほす 人もあれやも 家人の 春雨すらを 間使にする
アブリホスヒイ モ 丁レ J モ イへ ヒトリ ヘル サメ ス ラ , マ ツカヒ ニ スル
※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 家人《イヘビトノ》 春雨須良乎《ハルサメスラヲ》 間使爾爲《マヅカヒニスル》
着物ノ濡レタノヲ〔八傍線〕※[火三つ]ツテ干シテクレル人ガアレバヨイガ、サウイフ人ガ無イ。然ルニ〔三字傍線〕家ニ留守居シテヰル妻ガ春雨ヲサヘモ.アチラトコチラト通フ使トシテ、ヨコシテ私ノ着物ヲ濡ラ〔九字傍線〕スヨ。コレデハ着物ヲ乾シテクレル人ガナクテハヤリ切レナイ〔コレ〜傍線〕。
○※[火三つ]《アブリホス》――一六八八參照。○春雨須良乎《ハルサメスラヲ》――春雨までもの意。スラは一つを擧げて他を類推せしめる助詞。○間使爾爲《マヅカヒニスル》――間使は兩方の間を行き通ふ使。九四六參照。
〔評〕 前の歌の意をうけて、それにつづけてゐる。前の一六八八と初句全く同じである。沾衣を家に送らうといつたのよりも、この方が更に哀情が切である。
宇治河(ニテ)作(レル)歌二首
1699 巨椋の 入江響むなり 射部人の 伏見が田ゐに 鴈渡るらし
巨椋乃《オホクラノ》 入江響奈理《イリエトヨムナリ》 射目人乃《イメビトノ》 伏見何田井爾《フシミガタヰニ》 雁渡良之《カリワタルラシ》
(36)巨椋ノ入江ガヒドイ音ヲ立テテヰルヨ。アレハ〔三字傍線〕(射目人乃)伏見ノ田ノ上ニ鴈ガ飛ンデ行ク音ラシイ。エライ音ダ〔五字傍線〕。
○巨椋乃入江響奈理《オホクラノイリエトヨムナリ》――巨椋乃入江は今の巨掠湖。豐臣時代に堤防を築いて、宇治川と分離したが、それまでは宇治川が灣入して湖状をなし、廣く湛へてゐたのである。今は南北四十町、東西五十町に過ぎないが、昔はもつと大きかつたやうである。響奈理を舊訓に、ヒビクナリとあるのは、袖中抄にもさうなつてゐるが、よくない。なほ和歌童蒙抄にナルナリとあるのは、更によくない。○射目人乃《イメビトノ》――枕詞。伏につづくのは代匠記精撰本に、「射目人は上に射目|立《タテ》而とよめるに同じ。其射目人が鹿をねらふとて伏て窺《ウカガヒ》見れば伏見とはつらね云なり。」とある通りであらう。射目立渡《イメタテワタシ》(九二六)參照。○伏見何田井爾《フシミガタヰニ》――伏見の田にの意。伏見は今の伏見町。宇治川を隔てて北方に接してゐる。田井は今の俗語に、タンボといふに同じく、井には殆ど意味はない。卷十九、皇者神爾之座者赤駒之腹婆布田爲乎京帥跡奈之都《オホキミハカミニシマセバアカゴマノハラバフタヰヲミヤコトナシツ》(四二六〇)とあるタヰに同じ。略解に「田井は借字にて田居の(37)意。里離れたる田どころに、秋假廬作りて居る所を云へり。」とあるのは誤つてゐる。この爾《ニ》は田に向つての意と見るべきである。舊本、井を并に作るは誤。藍紙本による。
〔評〕 初に廣い入江のどよめきを述べて、二句切れとしてゐるのが、雄勁な調子をなしてゐる。雁の大群が北を指して、一度に湖上を離れて飛び行く情景を想像したもので、入江が響むといふのは、恐らく群れ尻る雁が飛び立つ羽音であらう。從來の解釋にはそれが明らかに記してない。代匠記精撰本に秋風の響きと解してゐるのは大なる誤である。
1700 秋風に 山吹の瀬の 響むなべ 天雲かける 鴈にあへるかも
金風《アキカゼニ》 山吹瀬乃《ヤマブキノセノ》 響苗《トヨムナベ》 天雲翔《アマグモカケル》 雁相鴨《カリニアヘルカモ》
秋風ガ吹イテ、山吹ノ瀬ノ流レノ音ガ高ク聞エルニツレテ、天ノ雲ヲ飛ビカケル雁ガ鳴イテ通ルヨ。
○金風《アキカゼニ》――舊訓アキカゼノとある。さう訓めば山吹の枕詞となるわけであるが、いけない。秋風を金風と記したのは、五行に配すれば秋は金に當るからである。卷十にも金山《アキヤマノ》(二二三九)とある。○山吹瀬乃《ヤマブキノセノ》――宇治川の名所で、宇治橋の下にあつたといふが、今は明らかでない。○雁相鴨《カリニアヘルカモ》――童蒙抄にカリヲミルカモと訓み、新訓もこれを取つてゐるが、相の字は集中ミルと訓んだ例がないから舊訓に從ふことにする。略解にあげた宣長説では、相は亘の誤としてカリワタルカモと訓んで、古義もこれに從つてゐるが、文字を改める必要はない。
〔評〕 すがすがしい歌である。宇治の清流の空をかすめて、鳴き渡る雁聲が耳に聞えるやうである。地上の清瀬、天上の飛雁、共にさわやかな響を漂はせてゐる。調の高い歌である。卷七の足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシビキノヤマカハノセノナルナベニユヅキガタケニクモタチワタル》(一〇八八)、卷十の葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹鴈鳴渡《アシベナルヲギノハサヤギアキカゼノフキクルナベニカリナキワタル》(二一三四)に似た所がある。
獻(レル)2弓削皇子(ニ)1歌三首
1701 さ夜中と 夜はふけぬらし 鴈が音の 聞ゆる空に 月渡る見ゆ
佐宵中等《サヨナカト》 夜者深去良斯《ヨハフケヌラシ》 雁音《カリガネノ》 所聞空《キコユルソラニ》 月渡見《ツキワタルミユ》
(38)モハヤ〔三字傍線〕夜中頃ト夜ハ更ケタラシイ。鴈ノ鳴ク聲ガ聞エル空ニ、月ガ通ルノガ見エル。
○作宵中等《サヨナカト》――佐は接頭語。夜中頃との意。
〔評〕 雁聲月光、靜寂に歸した天地、いかにも深夜を思はしめる作である。明麗高雅、巧を弄せすしておのづから風韻がそなはつてゐる。萬葉集の歌を載せないと言つてゐる古今集にこれを掲げてゐるのは、どうした理由であらうか。卷十の此夜等者沙夜深去良之鴈鳴乃所聞空從月立度《コノヨラハサヨフケヌラシカリガネノキコユルソラニツキタチワタル》(二二二四)と殆ど同じ歌である。又代匠記に、この歌を寓意があるやうにいつてゐるのは誤つてゐる。
1702 妹があたり 茂き鴈がね 夕霧に 來鳴きて過ぎぬ ともしきまでに
妹當《イモガアタリ》 茂苅音《シゲキカリガネ》 夕霧《ユフギリニ》 來鳴而過去《キナキテスギヌ》 及乏《トモシキマデニ》
妻ガ住ンデヰル里ノ方ヘ、澤山ノ雁ガ夕霧ノ棚引イテヰル中ヲ、飛ンデ來テ飛ビ去ツタ。私ガ〔二字傍線〕羨マシイト思フホドニ。私ハ自由ニ妻ノ方ヘ飛ビ行ク雁ヲ見ルト、羨マシクテ仕方ガナイ〔私ハ〜傍線〕。
○妹當《イモガアタリ》――旅中にあつて、妻の住んでゐる里を思つたのであらう。○茂苅音《シゲキカリガネ》――宣長は茂を衣の誤として、コロモカリガネと詠んでゐる。古義・新考共にこれに從つてゐるが、元のままでよい。シゲキカリガネは多くの雁の意味で、苅は雁の借字である。○及乏《トモシキマデニ》――うらやましい程にの意。妻の家の方に自由に飛び行く雁を羨んだのである。古義に「あの鴈は借《カリ》と云名のとほりに、此《ココ》を過ぎて、妹があたりに飛行て衣を借て、この寒さをしのぐらむ、うらやましきまでに鳴鴈ぞ、と云なるべし。」とあるのは考へ過ぎてゐる。及乏の二字が漢文式の倒置法になつてゐる。
〔評〕 旅にあつて妻に逢へない人が、空行く雁の思ひのままなる飛翔を羨んだのである。何でもないやうだが、夕霧《ユフギリニ》の一句がその情景に趣を添へてゐる。
1703 雲隱り 雁鳴く時は 秋山の 黄葉片待つ 時は過ぎねど
雲隱《クモガクリ》 雁鳴時《カリナクトキハ》 秋山《アキヤマノ》 黄葉片待《モミヂカタマツ》 時者雖過《トキハスギネド》
(39)雲ニ隱レテ雁ガ鳴ク時ニハ、、アダ紅葉ノ〔五字傍線〕時節ガ過ギタノデハナイガ、心ガセカレテ〔六字傍線〕秋ノ山ノ紅葉スルノヲ偏ヘニ待ツテヰル。
○黄葉片待《モミヂカタマツ》――片待はかたよりて待つ。一二〇〇參照。○時者雖過《トキハスギネド》――舊本に訓なし。藍紙本などの古訓スグトモとあり、代匠記精撰本にはスグレドとある。略解に擧げた宣長説に「過の上不の字を脱せり。すぎねどと訓むべし」とある、西本願寺本・細井本などスギネドと訓んでゐるから、宣長説が良いやうである。
〔評〕 雁のなく聲で紅葉するといふ考を詠んだ歌は他にも多く、既に歌ごころとして定まつた型といふべく、格別すぐれた歌ともいはれない。この歌を古義に「下心は、今の身のなり出べき時なれども、いまだなにのさだもなければ設《タト》ひその時は過行とも、御恩澤の下りてなり出むを、偏に待つつ居るぞといふなるべし。」とあるのは從ひ難い。これは秋の歌で、それを皇子に献じたまでである。
獻(レル)2舍人皇子(ニ)1歌二首
舍人皇子は天武天皇の皇子、一一七參照。
1704 うちたをり 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騷げる
※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》 多武山霧《タムノヤマギリ》 茂鴨《シゲミカモ》 細川瀬《ホソカハノセニ》 波驟祁留《ナミノサワゲル》
(※[手偏+求]手折)多武ノ山ニ立籠メタ霧ガ深イノデ、ソレガ雨ノヤウニ降ル〔ノデ〜傍線〕カラカ、細川ノ瀬デハ波ガ音高ク騷イデヰルヨ。キツト霧ガ降ツテ水ガ増シタノダラウ〔キツ〜傍線〕。
○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》――枕詞。たわむと續く。手折ればたわむからである。○多武山霧《タムノヤマギリ》――多武山は今の塔の峯。鎌足を祀つた談山神社のある談山で、談は咸攝のm音尾であるから多武に用ゐるのである。五八九參照。○細川瀬《ホソカハノセニ》――細川は多武山の西南、細川山の南を流れる川。飛鳥川にそそぐ。
〔評〕 卷七の、足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシビキノヤマカハノセノナルナベニユツキガタケニクモタチワタル》(一〇八八)に似て及ばない。これにも古義は寓意を記して(40)ゐるが、蓋し當らない。
1705 冬ごもり 春べを戀ひて 植ゑし木の 實になる時を 片待つ我ぞ
冬木成《フユゴモリ》 春部戀而《ハルベヲコヒテ》 殖木《ウヱシキノ》 實成時《ミニナルトキヲ》 片待吾等叙《カタマツワレゾ》
(冬木成)春ガ來タラ花ヲ咲カセテ眺メヨウト思ツテ、ソレ〔ガ來〜傍線〕ヲ樂シミニシテ植ヱタ木ガ、望ミ通リニ花ガ咲イテ〔十字傍線〕ソレガ實ニナル時ヲ、偏ニ私ハ待ツテヰマスヨ。私ハモツト出世ガシタウゴザイマス〔私ハ〜傍線〕。
○冬木成《フユゴモリ》――枕詞。一六參照。○殖木《ウヱシキノ》――この句の下に、花が咲いての意を補つて見るがよい。
〔評〕 自分の立身出世を期待してゐる意味を述べたものであらう。この歌には寓意を認めねばならぬ。もし寓意がないとすれば、まことにつまらぬ作である。
舍人(ノ)皇子御歌一首
1706 ぬば玉の 夜霧は立ちぬ 衣手を 高屋の上に 棚引くまでに
黒玉《ヌバタマノ》 夜霧立《ヨギリハタチヌ》 衣手《コロモデヲ》 高屋於《タカヤノウヘニ》 霏※[雨/微]麻天爾《タナビクマデニ》
(黒玉)夜霧ガ立ツテヰルヨ、アレアノヤウニ〔七字傍線〕高屋ト云フ岡〔四字傍線〕ノ上ニ棚引ク程ニ、夜霧ガ立ツテヰル。何ダカ欝陶シイ景色ダ〔夜霧〜傍線〕。
○夜霧立《ヨギリハタチヌ》――略解にヨギリゾタテルとあるに從ふ説が多いが、舊訓ヨギリハタチヌとあるのでよい。○衣手《コロモデヲ》――枕詞。この枕詞については既に述べて置いた通り、用法が種々あつて訓法も定まつてゐない。衣手能田上山之《コロモデノタナガミヤマノ》(五〇・衣手乃名木之河邊乎《コロモデノナギノカハベヲ》(一六九六)・衣袖之眞若之浦之《コロモデノマワカノウラノ》(三一六八)のやうにノを添へたもの、衣手乎打廻乃里爾《コロモデヲウチタムノサトニ》(五八九)の如くヲを添へたもの、衣手常陸國《コロモデノヒタチノクニニ》(一七五三)・衣袖大分青馬之《コロモデヲアシゲノウマノ》(三三二八)及びこの歌のやうに假名を添(41)へないものの三種になつてゐる。そこでこの假名を添へてないものは、これをコロモデノとよむかコロモデヲとよむか、或は文字通りコロモデとよむべきかといふ疑問が生ずるわけである。舊訓にはコロモデノとあり、代匠記・古義はこれに從つてゐる。冠辭考にはコロモデヲとよみ、略解・新考・新訓などもさうなつてゐる。又これを四言にコロモデとよまうとする説はないやうである。この歌の高屋《タカヤ》とつづくについて、冠辭考に衣手をたぐる意で、タグリの反ギをカに通はしてタカとつづけるやうに説明してゐるが少し物遠い。寧ろ代匠記に「衣手のたかやとつづくは、衣手の手とつづく心なり」とある如く、テの音を繰返してタとしたものとするのが穩やかと思はれる。但し同音の繰返しとすれば、コロモデノとよむよりは、コロモデヲとする方がよいから、訓は冠辭考によることとした。○高屋於《タカヤノウヘニ》――高屋を高殿の意とする説もあるがよくない。考には古事記に見えた河内國古市郡高屋村としてゐる。略解には「神名帳に大和城上郡高屋安倍神社とある所なるべし」といつてゐる。これは今の磯城郡櫻井町大字谷にある、若櫻神社の境内なる高屋神社がそれであつて、櫻井町の南方に小高い丘をなしてゐる所である。然るに澤瀉久孝氏は奈良文化誌上で、飛鳥の東方高臺に高家《タカイヘ》といふ所があるが、此處を昔は高屋といつたのであらうといふ説を述べ、辰巳利文氏もこれに賛成してゐる。然しこれは愼重なる考究を要する事である。この歌の趣によれば、この高屋は、さほど高くないところが却つて實景に合ふのではないかと思はれる。
〔評〕 面白い叙景である。月のことは述べてゐないが、夜霧がたなびいてゐるのが見えるのであるから、月の明るい夜てあらねばならぬ。岡の上に夜霧が夢のやうにたなびいてゐる景色が、目の前に浮んでくるやうで、縹渺たる味ひがある。
鷺坂(ニテ)作(レル)歌一首
鷺坂は一六九四參照。
1707 山城の 久世の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり
(42)山代《ヤマシロノ》 久世乃鷺坂《クセノサギサカ》 自神代《カミヨヨリ》 春者張乍《ハルハハリツツ》 秋者散來《アキハチリケリ》
山城ノ國ノ久世ノ鷺坂トイフ山〔四字傍線〕ハ、神代ノ昔〔二字傍線〕カラ春ハ木ノ葉ガ芽ヲ〔二字傍線〕ハリ出シ、秋ハソノ木ノ葉ガ〔六字傍線〕散ツテ來〔三字傍線〕マシタヨ。
○春者張乍《ハルハハリツツ》――張は草木の芽が萌え出づること。
〔評〕 特にこの久世の鷺坂について、かくいつたのは、名高い山であつたからでもあらうが、大自然の運行の四季の變繊が、太古のままに變らぬことを述べてゐるのである。考へやうによつては、わかりきつたことをいつた所に面白味があるともいへるであらう。卷六の如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去《カクシツツアソビノミコソクサキスラハルハオヒツツアキハチリユク》(九九五)に下の句は似た所もあるが、全く異なつた氣分の歌である。
泉河(ノ)邊(ニテ)作(レル)歌一首
1708 春草を 馬咋山ゆ 越え來なる 鴈の使は やどり過ぐなり
春草《ハルクサヲ》 馬咋山自《ウマクヒヤマユ》 越來奈流《コエクナル》 雁使者《カリノツカヒハ》 宿過奈利《ヤドリスグナリ》
(春草馬)咋山カラシテ飛ビ越エテ來ル鴈ガ、私ノ〔二字傍線〕旅宿ノ上ヲ飛ンデ行クヨ。雁ハ音信ヲ持ツテ來ルトイフガ、アノ雁ハ故郷カラノ音信ヲ持ツテ來ズニ空シク通リスギタ。アア名殘惜シイ〔雁ハ音〜傍線〕。
○春草馬咋山自《ハルクサヲウマクヒヤマユ》――春草馬は咋山と言はむ爲の序詞。春草を馬が食ふと續くのである。未通女等之袖振山乃《ヲトメラガソデフルヤマノ》(五〇一)・韓衣服楢乃里之《カラコロモキナラノサトノ》(九五二)の類である。咋山は神名帳に綴喜郡咋岡神社とある處。今の山城綴喜郡草内村飯岡で、奈良鐵道の玉水驛と奈良電車の三山木驛との中間、木津川の西方に見える丘。その麓にこの咋岡神社が祀られてゐる。寫眞は著者撮影。 ○鴈使者《カリノツカヒハ》――略解に「鴈の使は蘇武が故事より、いひなれて只雁をいへり。」とあるが、使に意味がある。○宿過奈利《ヤドリスグナリ》――舊訓ヤドスギヌナリとあるが、童蒙抄にヤドリスグナリとあるがよい。ヤドリは宿つてゐる所、ヤドは住居の意に多く用ゐられてゐる。ここは旅宿であるからヤドリといふべ(43)きである。客乃屋取爾梶音所聞《タビノヤドリニカヂノトキコユ》(九三〇)・荒津之濱屋取爲鴨《アラツノハマニヤドリスルカモ》(三二一五)・夜麻爾可禰牟毛夜杼里波奈之爾《ヤマニカネムモヤドリハナシニ》(三四四二)などの例がこれを證してゐる。
〔評〕 冐頭の序詞が面白い。鳴き行く雁を見送つて、嘆聲を發してゐる旅人の哀れな姿を思はしめる。
獻(レル)2弓削皇子(ニ)1歌一首
1709 みけ向ふ 南淵山の 巖には ふれるはだれか 消殘りてある
御食向《ミケムカフ》 南淵山之《ミナブチヤマノ》 巖者《イハホニハ》 落波太列可《フレルハダレカ》 削遺有《ケノコリテアル》
(御食向)南淵山ノ巖石ノ上ニハ冬ノ間〔三字傍線〕降ツタ薄彗ガソノ儘消エ殘ツテヰルノダラウカ。アノ白ク見エルモノハ雪デセウカ〔アノ〜傍線〕。
○御食向《ミケムカフ》――御饌に供へる肉《ミ》とつづく。一九六・九四六參照。○南淵山之《ミナブチヤマノ》――南淵山は大和高市郡東南方の山。今、稻淵山といふ。○落波太列可《フレルハダレカ》――波太列《ハダレ》は薄雪、一四二〇參(44)照。○削遺有《ケノコリテアル》――舊訓ケヅリノコセルとあるは論外である。削を消の誤としでキエノコリタルと訓む説が普通であるが、古本凡て削となつてゐるから、このままで考ふべきであらう。削は弓削などの如く、ケと訓む字であるから、ここはケノコリテアルと訓むがよい。訓義辨證には「古へ削と消と通じ用ゐしならん」と言つてゐる。この句は消え殘つてゐるのかの意。
〔評〕 この歌は、南淵山に早く咲いた花が、白く見えるのを雪と見て詠んだものであらう。古義には例によつて寓意を考へて、「皇子の御恩光にもれしを、訴るやうによみて献れるにや。さてこの作者南淵氏の人などにてありしにや。」とあるが、從ひがたい。この歌は人麿集にあつて、ここに弓削皇子に献ずとあるから、人麿の作であらう。
右柿本朝臣人麻呂之歌集所v出
右とあるのは右の歌の何首を指すかわからないが、恐らく一首のみであらう。新考には「献2忍壁皇子1歌以下二十八首を指せるならむ」とあり、且、順序が亂れてゐると言つてゐるが、その中には舍人皇子の御歌・間人宿禰の作などがあつて、これらは人麿歌集中のものとは思はれないやうである。なほここに人麿歌集所出とあるのは、他に用例がない。他の例では家集出又は家集出也とある。
1710 吾妹子が 赤裳ひづちて 植ゑし田を 苅りて藏めむ 倉無ノ濱
吾妹兒之《ワギモコガ》 赤裳泥塗而《アカモヒヅチテ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》 苅將藏《カリテヲサメム》 倉無之濱《クラナシノハマ》
此處ハ〔三字傍線〕(吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏)倉無ノ濱デス。
○吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏《ワキモコガアカモヒヅチテウヱシタヲカリテヲサメム》――倉につづく序詞。意は明らかであらう。○倉無之濱《クラナシノハマ》――倉無之濱は和爾雅に豐前中津の龍王濱とある。
〔評〕 これは倉無の濱を旅して、その名の面白さに戯れて作つたもので、この作の興味の中心は全く序詞にある。序は巧で、耕人らしい生活が見えて面白い。古義に「此は倉無之濱《クラナシノハマ》を、をかしくつづけなしてよみて、見せよな(45)ど、人のいひたる時の興に、よめるにもあるべし。」とあるのは面白い考であるが、さうとも定め難い。この歌、左註によれば人麿が筑紫に赴いた時の作か。拾遺集に「わぎもこが衣ぬらしてうゑし田をかりてをさめむくらなしの濱」とある。
1711 百傳ふ 八十の島みを こぎ來れど 粟の小島は 見れど飽かぬかも
百傳之《モモヅタフ》 八十之島廻乎《ヤソノシマミヲ》 榜雖來《コギクレド》 粟小島者《アハノコジマハ》 雖見不足可聞《ミレドアカヌカモ》
(百傳之)澤山ノ島ノマハリヲ傳ツテ〔三字傍線〕漕イデ來タガ、粟ノ小島ハイクラ見テモ見飽カナイナア。栗ノ小鳥ハ格別ナヨイ景色ダ〔粟ノ〜傍線〕。
○百傳之《モモヅタフ》――枕詞。百に數へ傳ふる八十の意で下に續いてゐる。卷三に百傳磐余《モモヅタフイハレ》(四一六)とある。卷七(一三九八)にも初二句これと同樣のものがある。藍紙本に、之の字がないのがよい。○榜雖來《コギクレド》――コギキケドと古義にあるのはよくない。こぎ來つれどの意と見てよい。○粟小島者《アハノコジマハ》――者の字、類聚古集に志とある。これによつてアハノコジマシと訓む説もあるが、舊訓のままで(46)よからう。粟小島の所在は明らかでない。粟島と同じであらうか。卷三、粟島矣《アハシマヲ》(三五八)參照。
〔評〕 瀬戸内海の多くの島々の中でも、とりわき景色のよい粟小島を禮讃したものである。平明な歌といふべきであらう。この島の所在が明確でないのは惜しい。
右二首或云柿本朝臣人麻呂作
或云とあつて確かなことではないが、これを人麿の作とすると、彼が瀬戸内海を航行した歌は集中にかなり多いから、これもその時のものと考へることが出來る。又卷三に、柿本朝臣人麿下筑紫時海路作歌二首(三〇三)とあるから、その時の作とも考へられるのである。
登(リテ)2筑波山(ニ)1詠(メル)v月(ヲ)一首
1712 天の原 雲なきよひに ぬば玉の よ渡る月の 入らまく惜しも
天原《アマノハラ》 無雲夕爾《クモナキヨヒニ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 宵度月乃《ヨワタルツキノ》 入卷〓毛《イラマクヲシモ》
コノ筑波山ニ登ツテ見ルト〔コノ〜傍線〕、空ニハ一點ノ〔三字傍線〕雲モ無イ夜デ實ニ良夜テアルノ〔九字傍線〕ニ(鳥玉乃)夜空ヲ通ル月ガ、西ノ方ニ〔四字傍線〕隱レヨウトスルノハ惜シイコトダ。モツト月ガ出テヰレバヨイ〔モツ〜傍線〕。
○烏玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○宵度月乃《ヨワタルツキノ》――夜空を通る月がの意。○入卷〓毛《イラマクヲシモ》――入らむは惜しきことよの意。〓は悋の俗字。悋はをしむ。吝に同じ。
〔評〕 ほがらかな歌。清夜、山上の明月がしのばれる。
幸(セル)2芳野離宮(ニ)1時(ノ)歌二首
いづれの御代の行幸ともわからない。
1713 瀧の上の 三船の山ゆ 秋津べに 來鳴きわたるは 誰喚子鳥
(47)瀧上乃《タギノウヘノ》 三船山從《ミフネノヤマユ》 秋津邊《アキツベニ》 來鳴度者《キナキワタルハ》 誰喚兒鳥《タレヨブコドリ》
瀧ノ上ニ聳エテヰル〔五字傍線〕三船ノ山カラ、秋澤野ノアタリニ、來テ鳴イテ飛ンデ行クノハ、誰ヲ呼ンデ鳴ク喚子鳥デアルカヨ。ホントニ人ヲ呼ブヤウナ聲ダ〔ホン〜傍線〕。
○瀧上乃三船山從《タギノウヘノミフネノヤマユ》――卷三の二四二、及び卷六の九〇七參照。○秋津邊《アキツベニ》――秋津野のほとりに。秋津野は吉野川を隔てて三船山の西方にある平地。○誰喚兒鳥《タレヨブコドリ》――誰を呼ぶ喚兒鳥かの意。かけ言葉になつてゐる。喚兒鳥は吉野の山に多くゐたらしく、卷一、太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌(七〇)によまれてゐる。
〔評〕 かけ言葉を用ゐてあるが、素直な無理のない作である。
1714 落ちたぎち 流るる水の 磐に觸り 淀める淀に 月の影見ゆ
落多藝知《オチタギチ》 流水之《ナガルヽミヅノ》 磐觸《イハニフリ》 與抒賣類與杼爾《ヨドメルヨドニ》 月影所見《ツキノカゲミユ》
落チテ泡立ツテ流レル水ガ、磐ニ觸レテ淀ンデヰル水ノ淀ミニ、月ノ影ガ映ツテヰルノガ見エル。アアヨイ景色ダ〔七字傍線〕。
○磐觸《イハニフリ》――舊訓イハニフレとあるが、考にイハニフリと訓んだのがよい。
〔評〕 奔騰してゐる激流の景が初二句に歌はれ、つづいてそれが岩に激してから、しづまりかへつて碧潭となつて湛へてゐる。その汨々たる深淵に浮んだ月の影は、躍動から靜止への轉換を示して、一種言ふべからざる嚴肅な氣を漂はしてゐる。高朗清雅、叙景の至上境であらう。
右二首作者未v詳
舊本三首とあるが、二首とあるべきである。藍紙本にさうなつてゐる。作者はわからないが、内容と格調とから考へれば、人麿か黒人などであらねばならぬ。
(48)槐本(ノ)歌一首
槐は和名抄に惠爾須とあるから、槐本はヱニスモトと訓むべきであらう。或は柿本の誤かとも思はれる。この下、山上歌・春日歌・高市歌など皆姓を書いてゐるから、これも恐らく柿本人麿の歌であらう。
1715 さざなみの 比良山風の 海吹けば 釣する海人の そでかへる見ゆ
樂波之《サザナミノ》 平山風之《ヒラヤマカゼノ》 海吹者《ウミフケバ》 釣爲海人之《ツリスルアマノ》 袂變所見《ソデカヘルミユ》
樂波ニアル比良山ノ風ガ琵琶湖ノ上ニ吹キ下ロスト、釣スル漁師ノ着物ノ袖ガ飜ルノガ見エル。
○樂波之平山風之《サザナミノヒラヤマカゼノ》――平山《ヒラヤマ》は比良山。この歌によつて樂波の地域が今の滋賀郡全體であることが知られる。なほ佐左浪乃連庫山爾《サザナミノナミクラヤマニ》(一一七〇)參照。
〔評〕 この釣する海人は、船を湖上に浮べてゐるのであらう。實景が目に見えるやうなすつきりとした、爽やかな叙景である。人麿らしい歌品が備つてゐるやうに思はれる。この歌、和歌童蒙抄にも載つてゐる。
山上(ノ)歌一首
(49)山上は山上憶良である。この歌は卷一(三四)に幸于紀伊國時川島皇子御作歌或云山上憶良作とある。
1716 白波の 濱松の木の 手向草 幾代までにか 年は經ぬらむ
白那彌之《シラナミノ》 濱松之木乃《ハママツノキノ》 手酬草《タムケグサ》 幾世左右二箇《イクヨマデニカ》 年薄經濫《トシハヘヌラム》
白浪ガ打寄セル〔四字傍線〕コノ濱ノ松ノ木ニカカツテヰル昔ノ人ガ〔四字傍線〕手向トシタモノハ、今ハ〔二字傍線〕幾年經ツタノデアラウカ。
○濱松之木乃《ハママツノキノ》――考には木は本の誤としてハママツノネノ、略解も同じく誤としてハママツガネノとよんでゐるが、もとのままがよい。古義は、卷一に濱松之枝乃《ハママツガエノ》とあるので、木は枝の旁がおちたのであらうと言つてゐる。
〔評〕 卷一(三四)の歌と同歌であるから評は略す。
右一首或云河島皇子御作歌
これは卷一(三四)の題詞を逆に書いたやうなものである。
春日(ノ)歌一首
春日は春日藏首老であらう。
1717 みつ河の 淵瀬もおちず 小網さすに 衣手ぬれぬ 干す兒はなしに
三河之《ミツカハノ》 淵瀬物不落《フチセモオチズ》 左提刺爾《サデサスニ》 衣手湖《コロモデヌレヌ》 干兒波無爾《ホスコハナシニ》
三ツ河ノ何處ノ瀬モ淵モ洩サズニ※[糸+麗]《サデ》トイフ小網〔五字傍線〕ヲ入レテ魚ヲトルノデ、着物ノ袖ガ沾レ夕。乾シテクレル親切ナ〔三字傍線〕女モヰナイノニ、困ツタモノダ〔六字傍線〕。
○三河之《ミツカハノ》――代匠記精撰本に「三河はひえの山の東坂本にありとかや」とあるが確かでない。或は誤字かと思はれる。新考には「山河の誤ならむ」と言つてゐる。然し前後の歌を見ると、固有名詞らしい。○左提刺爾《サデサスニ》――左堤《サデ》は箕形の小網。卷一に、小網刺渡《サデサシワタシ》(三八)とあつた。○衣手湖《コロモデヌレヌ》――湖は沾・潤・濕などの誤か。類聚古集に潮(50)とある。
〔評〕 これは旅中の興に魚を捕つて、衣の濡れたのによつて故郷の妻を思ひ出したものであらう。旅に衣をぬらして、乾す人もなきことを恨んだ歌は前にもあつた。
高市(ノ)歌一首
高市は高市連黒人であらう。
1718 あともひて こぎ行く船は 高島の 阿渡の港に 泊てにけむかも
足利思代《アトモヒテ》 榜行船薄《コギユクフネハ》 高島之《タカシマノ》 足速之水門爾《アトノミナトニ》 極爾濫鴨《ハテニケムカモ》
他ノ船ヲ〔四字傍線〕伴ナツテ幾艘モ並ンデ〔六字傍線〕榜イデ行ツタアノ〔三字傍線〕舟ハ、高島ノ阿渡川ノ河口ニ到着シタデアラウカナア。ドウデフラウゾ〔七字傍線〕。
○足利思代《アトモヒテ》――あとともなひて、相率ゐての意。卷二、足騰毛比賜《アトモヒタマヒ》(一九九)參照。利は鋭い意でトと訓む。○高島之足速之水門爾《タカシマノアトノミナトニ》――高島之足速之水門《タカシマノアトノミナト》は近江高島郡安曇、今の舟木(51)港、昔の安曇川の河口である。○極爾濫鴨《ハテニケムカモ》――濫は監の誤。類聚古集にはさうなつてゐる。
〔評〕 二句のコギユクを古義にはコギニシと訓んでゐるが、文字を離れて考へれば、それも一理ある説である。この點がどうかと思はれないではないが、湖上を走る舟を陸の上から思ひやつて詠んだ、哀な懷かしい氣分の歌である。
春日藏(ノ)歌一首
これも春日藏首老であらう。藏の文字は前に無いのによれば、これは衍かと思はれるが、ここは左註によれば、古記のままに書いたのだから、原形がかうなのであらう。但し目録にもある。
1719 照る月を 雲な隱しそ 嶋かげに 吾が船泊てむ 泊知らずも
照月遠《テルツキヲ》 雲莫隱《クモナカクシソ》 島陰爾《シマカゲニ》 吾船將極《ワガフネハテム》 留不知毛《トマリシラズモ》
照ル月ヲ雲ヨ隱スナヨ。島ノ陰デ、私ノ船ヲ泊《ト》メヨウト思フガ、何處ガ碇泊所ヤラワカラナイデ困ツテヰルヨ。サア月ノ光ヲタヨリニ碇泊處ヲ見ツケヨウト思フ〔サア〜傍線〕。
〔評〕 この歌は卷七の大葉山《オホバヤマ》(一二二四)及びこの卷の母山《オホバヤマ》(一七三二)の歌と下句よく似てゐる。あはれな作である。
右一首(ハ)或本(ニ)云(フ)小辯(ノ)作也(ト)、或(ハ)記(シ)2姓氏(ヲ)1無(ク)v記(ス)2名字(ヲ)1、或(フ)※[人偏+稱の旁](ヒテ)2名號(ヲ)1不v※[人偏+稱の旁](ハ)2姓氏(ヲ)1、然(ドモ)依(リ)2古記(ニ)1便(チ)以(テ)v次(ヲ)載(ス)、凡(ソ)如(キ)v此(ノ)類下皆效(ヘ)焉、
小辯は高市連黒人近江舊都歌一首(三〇五)の左註に「右謌或本曰小辨作也、未審此小辨者也」とある人であらう。略解に「是は後人のうら書なるべし」とあるが、さうではあるまい。この卷の編者の註らしい。なほこの中に、依古記とあるのは注意すべき點であらう。集中にその名の見えた古い歌集以外の記録であらうと思はれる。
(52)元仁(ノ)歌三首
元仁はどういふ人かわからない。或は僧侶か。
1720 馬竝めて うち群れ越え來 今見つる 芳野の川を いつかへり見む
馬屯而《ウマナメテ》 打集越來《ウチムレコエキ》 今日見鶴《イマミツル》 芳野之川乎《ヨシヌノカハヲ》 何時將顧《イツカヘリミム》
馬ヲ並ベテ友人等ト〔四字傍線〕打チムレテ山ヲ〔二字傍線〕越シテ來テ、今見タ芳野ノ川ノコノヨイ景色〔七字傍線〕ヲ、何時モウ一度來テ見ヨウカ。是非近イ内ニ來テ見タイモノダ〔是非〜傍線〕。
○馬屯而《ウマナメテ》――屯は行之屯爾《ユキノツドヒニ》(三三〇二)とも用ゐてゐる。タムロス・アツマルの意であるから、ここではナメテと訓む外はあるまい。○今日見鶴《イマミツル》――類聚古集などの古本、日の字がない。舊本は誤であらう。
〔評〕 この歌は卷七の馬並而三芳野河乎欲見打越來而曾瀧爾遊鶴《ウマナメテミヨシヌガハヲミマクホリウチコエキテゾタギニアソビツル》(一一〇四)とその場所もその歌形も共に似てゐる。
1721 苦しくも くれぬる日かも 吉野川 清き河原を 見れど飽かなくに
辛苦《クルシクモ》 晩去日鴨《クレヌルヒカモ》 吉野川《ヨシヌガハ》 清河原乎《キヨキカハラヲ》 雖見不飽君《ミレドアカナクニ》
私ハマダ吉野川ノコノ清イ河原ノ景色ヲ見テモ見飽カナイノニ、苦シクモ日ガ晩レテシマツタヨ。惜シイコトダ〔六字傍線〕。
○辛苦《クルシクモ》――略解に「カラクモとよむべし」とあるが、舊訓のままがよい。○晩去日鴨《クレヌルヒカモ》――舊訓クレユクヒカモとあるが、古義に從つた。○雖見不飽君《ミレドアカナクニ》――君は臻攝の音n音尾であるから、クニの假名に用ゐたのである。
〔評〕 とつぷりと暮れた河原の夕闇の中に立ちつくして、眺めに飽かぬ心を悲しみ述べたものである。さしたる歌ではないが、感情が籠つてゐる。
1722 吉野川 河浪高み 瀧のうらを 見ずかなりなむ こほしけまくに
吉野川《ヨシヌガハ》 河浪高見《カハナミタカミ》 多寸能浦乎《タギノウラヲ》 不視歟成甞《ミズカナリナム》 戀布眞國《コホシケマクニ》
(53)吉野川ノ川ノ浪ガ高イノデ、私ハ舟ヲ出スコトガ出來ズ、アノ有名ナ〔私ハ〜傍線〕瀧ノホトリヲ見ナイデシマフコトカナア。後デ〔二字傍線〕戀シク思フダラウノニ、惜シイコトダ〔六字傍線〕。
○多寸能浦乎《タギノウラヲ》――代匠記初稿本に「うらはうらおもてのうらにて、たきのあなたをいふなるべし。」同じく精撰本に多寸能浦《タギノウラ》は瀧の浦なり。瀧の當りの入江のやうなる處なり。字書に浦の字を釋して大川(ノ)旁(ノ)曲渚と云へるにて意得べし。」略解「浦は借字にて裏なり。」古義に「多寸能浦《タギノウラ》は瀧《タギ》の裏《ウラ》なり。大瀧の裏なり」とあるが、下に三重乃河原乃磯裏爾《ミヘノカハラノイソノウラニ》(一七三五)とあるやうに、裏はほとりの意であらう。卷五、麻都良河波多麻斯麻能有良爾《マツラガハタマシマノウラニ》(八六三)に玉島河を玉島の浦といつてゐるのも、玉島河のほとりとも見られるのである。吉野の瀧はその裏を見るやうにはなつてゐない。○戀布眞國《コホシケマクニ》――舊訓コヒシキマクニを、考にコヒシケマクニと改め、古義は更にコホシケマクニと訓んでゐる。集中、コヒシキもコホシキもともに用ゐられてゐるが、卷五、己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》(八三四)・故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》(八七五)にならつて、コホシケマクニと訓まう。戀しくあらむにの意。
〔評〕 吉野の瀧のありどころは、常滑の岩が峨々として聳えてゐる所である。平水の時でも足がふるふ程であるから、水量の多かつた昔は、増水の際などはとても近づけなかつたであらう。この作者は丁度そんな時に出逢はして、それを遺憾に思つたのである。折角尋ねて來たのに、充分この好景を樂しむことが出來ない殘りをしさが詠まれてゐる。
絹(ノ)歌一首
絹は全くわからない。女の名であらう。これは氏ではないやうだ。
1723 河蝦なく 六田の河の 川楊の ねもころ見れど 飽かぬ河かも
河蝦鳴《カハヅナク》 六田乃河之《ムツタノカハノ》 川楊乃《カハヤギノ》 根毛居侶雖見《ネモコロミレド》 不飽河鴨《アカヌカハカモ》
コノ六田川ハ〔六字傍線〕(河蝦鳴六田乃河之川楊乃)懇ロニツクヅク見テモ見飽カナイ河デスヨ。ホントニヨイ景色デスネ〔ホン〜傍線〕。
(54)○河蝦鳴六田乃河乃川楊乃《カハヅナクムツダノカハノカハヤギノ》――序詞。川楊の根とつづく。六田の河は吉野川の六田附近、即ち上市町の下流である。卷七に吉野河六田之與杼乎《ヨシヌガハムツダノヨドヲ》(一一〇五)とある。この歌は六田の河を歌つたのであるから、この序詞は歌意に關係があるものと考へねばならぬ。○根毛居侶雖見 《ネモゴロミレド》――ネモゴロは懇ろ。二〇七參照。○不飽河鴨《アカヌカハカモ》――河の字舊本君となつてゐて、アカヌキミカモと訓んである。然し類聚古集その他河に作る古本が多く、且、前後の歌は總べて吉野川遊覽の作であるから、河とあるのが原形であらう。
〔評〕 集中、菅根乃懃《スガノネノネモゴロ》とよんだ歌が多い。これはそれから轉じて、六田河原に生ひ茂つた川楊の根とつづけてゐる。序詞の中に景を叙して、その見飽かぬ意を述べてゐるのは巧なものである。
島足(ノ)歌一首
島足の傳はわからない。これも名のみを記したのである。
1724 見まくほり 來しくもしるく 吉野川 音のさやけさ 見るにともしき
欲見《ミマクホリ》 來之久毛知久《コシクモシルク》 吉野川《ヨシヌガハ》 音清左《オトノサヤケサ》 見二友敷《ミルニトモシキ》
見タイ見タイト思ツテ來タガ、ソノ豫想通リデ、吉野川ノ川音ハホントニ〔四字傍線〕ヨイ音ダ。景色ヲ〔三字傍線〕見ルトナツカシイヨ。
○來之久毛知久《コシクモシルク》――コシクは來之《コシ》にクを添へた形である。クをそへると上が名詞的になる。一一五三參照。○音清左《オトノサヤケサ》――この句で切れたものとも、又下に續くものとも兩樣に考へられるが、恐らく切れてゐるのであらう。○見二友敷《ミルニトモシキ》――舊訓を改めて代匠記にミルニトモシクとある。元來トモシといふべきを、感嘆の意をふくめてトモシキとしたのである。トモシクと訓む場合は、トモシクアリといふべきを省略した形となる。それでも惡くはないが、感情が足りないやうに思はれる。このトモシは羨ましではなく、なつかしく愛らしいことである。略解に「めづらしく見たらぬなり」とあるのは少し異なつてゐるやうだ。
〔評〕 四句で切るべき歌であらう。吉野川の川音をほめて、更に改めて見るにともしきと附加へてゐる。吉野川(55)の好景をほめる前に、先づ山に轟く岩走る瀧の音をたたへてゐる。大和の平原から來た人が吉野の勝地に近づいて、先づその河音に心を轟かし、次いで清流に見入つて目を樂しましめる順序がよまれてゐるやうに思はれる。岡本保孝が「この歌てにをはととのはず」と評したのは、この點を了解し得なかつたのではなからうか。
麻呂(ノ)歌一首
これも名であるが、どういふ人かわからない。左註によると人麿らしい。
1725 古の さかしき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れどあかぬかも
古之《イニシヘノ》 賢人之《サカシキヒトノ》 遊兼《アソビケム》 吉野川原《ヨシヌノカハラ》 雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》
古ノ賢イ人ガ來テ遊ンダト言傳ヘラレテヰル、コノ吉野ノ川原ノ好イ景色〔五字傍線〕ハ、イクラ見テモ〔六字傍線〕見飽カナイヨ。
○賢人《サカシキヒトノ》――舊訓を改めて管見にカシコキヒトとし、略解もそれに從つてゐるが、カシコシはおそれおほい意であるから、サカシキと訓むべきである。この賢しき人は卷一の天武天皇御製|淑人乃《ヨキヒトノ》(二七)のヨキヒトと同じである。
〔評〕 吉野川の勝景は古くから天下に知られて、早く離宮を置かれたのである。その古い歴史を思つてよんだもので、卷一の天武天皇の御製なども、作者の脳裡にあつたらうと思はれる。この好景に對し、古を思ふ心が淡く現はれてゐる。
右柿本朝臣人麻呂之歌集出
丹比眞人(ノ)歌一首
丹比眞人は集中、名を闕いたものも多いが、名を記したものでは、屋主・笠麿・乙麿・國人などが見える。それらの内か。
1726 難波潟 汐千に出でて 玉藻苅る 海未通女ども 汝が名のらさね
(56)難波方《ナニハガタ》 鹽干爾出而《シホヒニイデテ》 玉藻苅《タマモカル》 海未通等《アマヲトメドモ》 汝名告左禰《ナガナノラサネ》
難波潟ノ鹽干ニ出テ、美シイ藻ヲ苅ツテ居ル漁師ノ少女ラヨ。オマヘノ名ハ何トイフカ、名〔七字傍線〕ヲ名ノリナサイ。サウシテ私ノ妻ニナリナサイ〔サウ〜傍線〕。
○海未通等《アマヲトメドモ》――通の下へ女の字が舊本にないのは、他の例によれば脱ちたものであらう。○汝名告左禰《ナガナノラサネ》――卷一卷頭に此岳爾菜採須兒家吉閑名告沙根《コノヲカニナツマスコイヘキカナノラサネ》とあるのに似てゐる。名をなのるのは男に心を許すことであるから、それを要求してゐるのである。
〔評〕 玉藻苅る海處女に、戯れて歌ひかけたものである。もとより眞面目に妻にしようとするのではなく、旅中の興に過ぎまい。
和(フル)歌一首
古義に和の字の上、某娘子の三字を補つて「某娘子の戯に海女といひかけられたるゆゑ、海女になりて答へたるならむ」とある。
1727 あさりする 人とを見ませ 草枕 旅行く人に 妻とはのらじ
朝入爲流《アサリスル》 人跡乎見座《ヒトトヲミマセ》 草枕《クサマクラ》 客去人爾《タビユクヒトニ》 妻者不敷《ツマトハノラジ》
漁ヲスル漁師ノ少女ダト思ツテ、見過ゴシテオ置キナサイ、(草枕)旅ノオ方ノ妻トナツテ私ノ〔二字傍線〕名ヲ申シ上ゲルヤウナコトハ致シマスマイ。
○客去人爾《タビユクヒトニ》――客を舊本に容に作るは誤。類聚古集・神田本などによつて改む。○妻者不敷《ツマトハノラジ》――舊訓ツマニハシカジとなり、略解は敷は教の誤として、ツマトハノラジと訓んでゐる。教の字は集中他に用例はないが、暫くこれに從ふ。妻の字、類聚古集その他多くの古本に妾とあるによつて、新訓にはワガナハノラジと訓んでゐ(57)るが、少し無理ではあるまいか。
〔評〕 これは海女が答へた歌である。古義に某娘子としたのは却つて實際に違つてゐるであらう。この頃の海女は遊女のやうなことをしたものらしい。然しなかなか隅におけない女である。
石河卿(ノ)歌一首
石河卿はわからない。或は卷十九に見える式部卿石川朝臣年足朝臣か。
1728 慰めて こよひはねなむ 明日よりは 戀ひかも行かむ こゆ別れなば
名草目而《ナグサメテ》 今夜者寐南《コヨヒハネナム》 從明日波《アスヨリハ》 戀鴨行武《コヒカモユカム》 從此間別者《コユワカレナバ》
兎モ角モ〔四字傍線〕今夜ハ心ヲ慰メテ二人〔二字傍線〕デ寢ヨウ。ガ〔傍線〕此處ヲ別レテ出立シテ行ツタナラバ、明日カラハ私ハ〔二字傍線〕オマヘヲ戀ヒ慕ヒツツ行クコトデアラウカ。
○從此間別者《コユワカレナバ》――舊本イマワカレナバ、古義コヨワカレナバとあるが、代匠記による。旅宿を去る意味である。
〔評〕 旅に女を得て別離を悲しむ歌である。遊女のやうなものに對していふのであらう。しんみりとした哀情がこもつてゐる。
宇合卿(ノ)歌三首
宇合卿は藤原宇合。卷一に式部卿藤原宇合(七二)とある。
1729 曉の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す浪の しきてしおもほゆ
曉之《アカツキノ》 夢所見乍《イメニミエツツ》 梶島乃《カヂシマノ》 石越浪乃《イソコスナミノ》 敷弖志所念《シキテシオモホユ》
夜明ケ方ノ夢ニ見エテ、(梶島乃石越浪乃)頻リニ絶間ナク家ニ殘シテ來タ人ノコトガ〔家ニ〜傍線〕思ハレルヨ。アアナツカ(58)シイ〔七五字傍線〕。
○梶島乃石越浪乃《カヂシマノイソコスナミノ》――序詞。敷弖《シキテ》につづく。眼前の風景を以て作つた序詞である。梶島は八雲御抄に丹後とあるが、今その名を聞かない。宇合が丹後に赴いたことは記録にない。彼は西海道節度使として九州に赴いたから、或は筑紫の地名か。筑前神湊の海岸近くに勝島があるから、或はそれかも知れない。○敷弖志所念《シキテシオモホユ》――シキテは絶えず頻りにの意。シクといふ動詞に助詞テがついた形である。
〔評〕 卷七の夢耳繼而所見小竹鳥之越磯波之敷布所念《イメノミニツギテミエツルタカシマノイソコスナミノシクシクオモホユ》(一二三六)と同歌である。或は古歌の地名を變へたものに過ぎないか。
1730 山科の 石田の小野の 柞原 見つつや君が 山ぢ越ゆらむ
山品之《ヤマシナノ》 石田乃小野之《イハタノヲヌノ》 母蘇原《ハハソハラ》 見乍哉公之《ミツツヤキミガ》 山道越良武《ヤマヂコユラム》
山科ノ石田ノ小野ノ景色ノヨイ〔五字傍線〕柞ノ林ヲ見ナガラ、アノオ方ハ山道ヲ越エテ行カレルコトダラウカ。今頃ハアノ邊ヲ歩イテ居ラレルダラウ〔今頃〜傍線〕。
○山品之《ヤマシナノ》――山品は山城宇治郡山科。○石田乃小野之《イハタノヲヌノ》――次に石田の社とあると同處。今、醍醐村に屬し、東は日野、南は木幡に接してゐる高燥の平地である。今はイシダとよんでゐる。なほ別に小野といふ地名もその東北方にあかが、古い地名なるや否やわからない。○母蘇原《ハハソハラ》――ハハソは柞、小楢ともいふ。高さ四五丈の落葉喬木、葉は倒卵形で長さ二三寸鋸齒を有し、上面緑色、下面粉白色を呈してゐる。今ハウソ・ホウサと稱するのはこの木である。
〔評〕 旅行く人を思ひやつた歌で、一六六六・三一九二・三一九三など、かういふ種類の作は乏しくない。
1731 山科の 石田の社に 手向せば けだし吾味に 直に逢はむかも
(59)山科乃《ヤマシナノ》 石田社爾《イハタノモリニ》 布靡越者《タムケセバ》 蓋吾妹爾《ケダシワギモニ》 直相鴨《タダニアハムカモ》
山科ノ石田ノ森ノ神樣ニ手向ヲシテ、ヌサヲ奉ツ〔七字傍線〕タナラバ、多分私ノ戀シイ女ニ直ニ逢フコトガ出來ルダラウカナア。戀シクテ仕樣ガナイカラ、サウデモシテ神樣ニオ願ヒシヨウ〔戀シ〜傍線〕。
○石田社爾《イハタノモリニ》――社は杜の誤かとも思はれる。前の歌と同處。延喜式に「久世郡石田神社」とあるのは、今、綴喜郡都々城村にあるもので、この社とは別である。○布靡越者《タムケセバ》――靡の字は藍紙本などに麻に作つてゐる。布麻を神にたむけるからこの二字をタムケと訓む。越を勢の誤としてタムケセバと訓んだ略解説を採る。古義には幣帛献としてクムケセバと訓む説を擧げてゐる、新訓に布麻越者としてヌサコエバと訓んでゐるのは、意味が通じないやうである。
〔評〕 第三句の訓法が疑はしいのは遺憾であるが、これをの右の樣に訓んで見ると、意味は明らかである。旅人が家なる妻を戀うて、道すがら石田の杜に額づく心であらう。新考にはタムケセバの訓を退けて卷十二の山代石田社心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニココロオソクタムケシタレヤイモニアヒガタキ》(二八五六)によつて「此神は手向すれば却つて男女の相逢ふことを妨げたまふなどいふ傳説ありとおぼゆ」とあるのは、うけ取りがたい説である。卷十三に山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠《ヤマシナノイハタノモリノスメガミニスサトリムケテワレハコヱユクアフサカヤマヲ》(三二三六)とあつて、往來の旅人が祈る神であつたのである。
碁師(ノ)歌二首
碁師は卷四に碁檀越往2伊勢國1時留京作歌一首(五〇〇)とある碁檀越かとも言はれてゐるが、當時圍碁が盛に行はれたことは、正倉院の御物が證據立ててゐるから、ここに碁師とあるのは碁の專門家であらう。
1732 大葉山 霞たなびき さ夜ふけて 吾が船泊てむ 泊知らずも
母山《オホバヤマ》 霞棚引《カスミタナビキ》 左夜深而《サヨフケテ》 吾舟將泊《ワガフネハテム》 等萬里不知母《トマリシラズモ》
(60)祖母山ニハ霞ガ棚引イテ、何トナク淋シグ〔七字傍線〕夜ガ更ケテ私ノ乘ツテヰル舟ガ、トマル泊リ場所ガドコカ分ラナイヨ。アア淋シイ〔五字傍線〕。
○母山《オホバヤマ》――舊訓オモヤマニとあるが、卷七に大葉山《オホバヤマ》(一二二四)とあるによつて、宣長が母の上祖の字がおちたのであらうといつたのに從はう。
〔評〕 卷七の大葉山霞蒙狹夜深而吾船將泊停不知文《オホバヤマカスミタナビキサヨフケテワガフネハテムトマリシラズモ》(一二二四)と全く同歌であるから評は略す。
1733 思ひつつ 來れど來かねて 水尾が崎 眞長の浦を またかへり見つ
思乍《オモヒツツ》 雖來來不勝而《クレドキカネテ》 水尾崎《ミヲガサキ》 眞長乃浦乎《マナガノウラヲ》 又顧津《マタカヘリミツ》
三尾ガ崎ノ眞長ノ浦ノヨイ景色〔五字傍線〕ヲ、心ニ思ヒナガラ過ギテ來タガ、過ギ行クコトガ出來ナイデマタ漕ギ還ツテソノ景色ヲ見タヨ。ホントニ眞長ノ浦ハヨイ所ダ〔ホン〜傍線〕。
○水尾崎眞長乃浦乎《ミヲガサキマナガノウラヲ》――水尾崎は近江滋賀郡と高島郡との境をなして湖中に突出した岬で、比良山脈がここに盡きてゐる。白髭明神が近く祀(61)られてゐるので、俗に明神崎といふ。眞長乃浦はその北側の長汀で風景がよい。
〔評〕 湖上の好景に見とれて、再び眞長の浦に漕ぎもどつたといふのである。上代人ののどかな旅が思はれる。
小辯歌一首
小辯は誰ともわからない。卷三の三〇五の左註參照。略解にコトモヒとよんでゐるが、古義にはスクナキオホトモヒとよんでゐる。これは寧ろ音讀すべきであらう。
1734 高島の 阿渡のみなとを 榜ぎ過ぎて 鹽津菅浦 今かこぐらむ
高島之《タカシマノ》 足利湖乎《アトノミナトヲ》 榜過而《コギスギテ》 鹽津菅浦《シホツスガウラ》 今香將榜《イマカコグラム》
アノ旅ニ出夕人ハ〔八字傍線〕高島ノ阿渡ノ港ヲ漕イデ通ツテ、今頃ハ鹽津ヤ菅浦ヲ漕イデヰルデアラウ。
○高島之足利湖乎《タカシマノアトノミナトヲ》――近江高島郡安曇川の河口。今の舟木港である。一七一八參照。
(62)○鹽津菅浦《シホツスガウラ》――鹽津は今、伊香郡に屬し、湖北の灣入の最奥部にある。ここから上陸して鹽津山を越えて越前に出るのである。卷三、笠朝臣金村鹽津山作歌(三六四)參照。菅浦は伊香郡の湖中に半島をなしてゐる部分の西側にある港である。○今香將榜《イマカコグラム》――舊本香を者に誤つてゐる。藍紙本によつて改む。古義にイマハコガナムと訓んで「みづから船にてよめるなり云々」と云つてゐるのは誤つてゐる。
〔評〕 これは湖上の旅なる人を思つた歌であらう。音に聞いた鹽津菅浦などの勝景を見巡る人を羨んでゐる。上品な作である。
伊保麻呂(ノ)歌一首
伊保麿の傳は全くわからない。
1735 吾が疊 三重の河原の 磯のうらに 斯くしもがもと 鳴く河蝦かも
吾疊《ワガタタミ》 三重乃河原之《ミヘノカハラノ》 礒裏爾《イソノウラニ》 如是鴨跡《カクシモガモト》 鳴河蝦可物《ナクカハヅカモ》
(吾疊)三重ノ河原ノ岸ノ巖ノホトリデ、カ(63)ウシテイツマデモ〔五字傍線〕ヰタイトイツテ河鹿ガ鳴イテヰルヨ。ココハホントニヨイ所ダ〔ココ〜傍線〕。
○吾疊《ワガタタミ》――枕詞。わがは輕く添へてある。三重に冠するのは、重《ヘ》に續けたのである。三はさして重要な語ではない。○三重乃河原之《ミヘノカハラノ》――三重は伊勢三重郡。三重乃河は今|内部川《ウツベガハ》といふ。鎌ケ岳から發して、三重・鈴鹿の郡界に沿うて東流して葦田・采女を過ぎ、四日市の南方鹽濱にて海に入る。寫眞は内部村にて撮影。○礒裏爾《イソノウラニ》――裏を中と解するのはよくない。磯のまはりである。多寸能浦乎《タギノウラヲ》(一七二二)・礒之浦未之《イソノウラミノ》(一七九九)參照。礒は岩石の多い處。○如是鴨跡《カクシモガモト》――舊訓カバカリガモトとあるが、古義の訓に從ふ。かうしていつもゐたいとの意。
〔評〕 河邊の好景に接した人が、そこに鳴いてゐる河鹿の聲までも、その居處を讃嘆するやうに聞きなしたのである。自分の心を河鹿の心にして歌つてゐるのが面白い。
式部|大倭《オホヤマト》芳野(ニテ)作(レル)歌一首
式部大倭は式部省に奉仕する大倭氏の人であらう。よくわからない。
1736 山高み 白木綿花に 落ちたぎつ 夏身の河門 見れどあかぬかも
山高見《ヤマタカミ》 白木綿花爾《シラユフハナニ》 落多藝津《オチタギツ》 夏身之河門《ナツミノカハト》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
山ガ高イノデ、白イ木綿デ作ツタ花ノヤウニ水ガ泡立ツテ流レ落チル、夏見ノ川ノ瀬ハ、イクラ〔三字傍線〕見テモ見飽カナイヨ。實ニヨイ所ダ〔六字傍線〕。
○白木綿花爾《シラユフバナニ》――白木綿花のやうに。九〇九參照。○夏身之河門《ナツミノカハト》――夏身は吉野の瀧の上流、河門は河の渡るべき所をいふ。
〔評〕 この歌は卷六の笠金村の作、山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフバナニオチタギツタギノカフチハミレドアカヌカモ》(九〇九)と全く同歌で、ただ瀧津河内と夏身の河との差異があるのみなのは、どうしたものであらう。式部大倭の人物がわからない爲に、金村との年代の前後を判定し難いのは遺憾である。
(64)兵部川原(ノ)歌一首
兵部川原は兵部省の官人で川原氏の人であらう、
1737 大瀧を 過ぎて夏箕に そひてゐて 清き河瀬を 見るがさやけさ
大瀧乎《オホタギヲ》 過而夏箕爾《スギテナツミニ》 傍爲而《ソヒテヰテ》 淨河瀬《キヨキカハセヲ》 見河明抄《ミルガサヤケサ》
大瀧ヲ通ツテ來テ、夏箕川ノ岸ニツイテ居ツテ、清イ川ノ瀬ヲ見ルト、實ニ清ク面白〔三字傍線〕イヨ。
○大瀧乎《オホタギヲ》――大瀧は謂はゆる宮瀧の急流。瀧津河内の瀧である。○傍爲而《ソヒテヰテ》――舊訓ソヒテヰテとあるのを、略解にソハリヰテとし、宣長は爲を居としてソヒヲリテとしたが、いづれも面白くない。テが重なつてはゐるが、比較的舊訓が良いやうに思はれる。○見河明沙《ミルガサヤケサ》――河の字、藍紙本などの古本に何とあるのがよい。
〔評〕 有りのままの歌ながら、實景に臨んだやうな感がある。余をして吉野川の曾遊を思ひ起さしめる。
詠(メル)2上總(ノ)末珠名娘子(ヲ)1一首并短歌
末は地名、和名抄に上總國周淮郡季とあるところ。この郡は今、望陀・天羽と合して君津郡となつてゐる。鹿野山・小糸・富津の間である。珠名は娘子の名であらう。
1738 しなが鳥 安房につぎたる あづさ弓 すゑの珠名は 胸別の 広きわぎも 腰細の すがるをとめの そのかほの きらきらしきに 花のごと ゑみて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて よばなくに 門に至りぬ さしならぶ 隣の君は あらかじめ おの妻かれて 乞はなくに かぎさへまつる 人皆の かく迷へれば うちしなひ よりてぞ妹は たはれてありける
水長鳥《シナガドリ》 安房爾繼有《アハニツギタル》 梓弓《アヅサユミ》 末乃珠名者《スヱノタマナハ》 胸別之《ムナワケノ》 廣吾妹《ヒロキワギモ》 腰細之《コシボソノ》 須輕娘子之《スガルヲトメノ》 其姿之《ソノカホノ》 端正爾《キラキラシキニ》 如花《ハナノゴト》 咲而立者《ヱミテタテレバ》 玉桙乃《タマボコノ》 道行人者《ミチユクヒトハ》 己行《オノガユク》 道者不去而《ミチハユカズテ》 不召爾《ヨバナクニ》 門至奴《カドニイタリヌ》 指並《サシナラブ》 隣之君者《トナリノキミハ》 預《アラカジメ》 己妻離而《オノヅマカレテ》 不乞爾《コハナクニ》 鎰左倍奉《カギサヘマツル》 人皆乃《ヒトミナノ》 如是迷有者《カクマドヘレバ》 容艶《ウチシナヒ》 縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》 (65)多波禮弖有家留《タハレテアリケル》
(水長鳥)安房ニツヅイテヰル(梓弓)周淮トイフ所〔四字傍線〕ノ珠名トイフ女〔四字傍線〕ハ、胸ノ廣イ美シイ〔三字傍線〕女デ、螺羸《スガル》ノヤウニ腰ノ細イ少女ダガ、ソノ少女〔六字傍線〕ノ姿ガ立派ナノニ、花ノヤウニ笑ツテ立ツテヰルト、(玉桙乃)道ヲ通ル人ハ、自分ノ行クベキ道ハ歩カズニ、コノ女ノ家ノ方ヘ來テ〔十字傍線〕呼ビモシナイノニ女ノ〔二字傍線〕門ノ所ヘヤツテ來夕。又〔傍線〕軒ヲ並ベテヰル隣ニ住ンデヰル人ハ、前以テ自分ノ妻ヲ追ヒ出シテ、コノ女ガ〔四字傍線〕欲シイト言ヒモシナイノニカ大切ナ〔三字傍線〕鍵マデモコノ女ニ〔四字傍線〕ヤツテシマフ。世ノ中ノ〔四字傍線〕人ガ皆コンナニ、美人ダ美人ダト〔七字傍線〕逃ウテ大騷ギヲスル〔七字傍線〕カラ、品エオツクツテ男ニヨリ添ウテコノ女ハ、フザケテヰタヨ。
○水長鳥《シナガトリ》――枕詞。水長鳥は息長鳥。鳩《ニホ》即ちかいつぶりのこと。冠辭考に「こも息長島なれば、人の長嘆息するには聲を引きて嗚呼とい云に譬へて、あの一語に續けしなるべし。云々」とあるに從はう。○安房爾繼有《アハニツギタル》――周淮郡は安房に隣してゐるからいつたのである。嚴密に言へば、その間に馬來田(望陀)を隔ててゐるが、近い處である。○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。弓の先端をスヱといふから、地名の末にかけてゐる。○胸別之廣吾妹《ムナワケノヒロキワギモ》――胸別は胸の隔。昔は女の胸の廣いのを貴んだのである。出雲風土記の國引の段に、童女胸※[金+且]《ヲトメノムナスキ》とあるのは、童女の胸のやうに廣い※[金+且]である。○須輕娘子之《スガルヲトメノ》――須輕は螺羸。似我蜂《ジガバチ》と稱するもので、身長八分ばかり、色黒く腰が極めて細いので、コシボソtもいふ。又カソリ・サソリとも稱す。卷十六に飛翔爲輕如來腰細丹取餝氷《トビカケルスガルノゴトキコシボソニトリカザラヒ》(三七九一)、卷十に春之在者酢輕成野之霍公鳥《ハルサレバスガルナスヌノホトトギス》(一九七九)とある。○其姿之《ソノカホノ》――姿は日本靈異記に、形と註してゐるが景行紀に容姿をカホと訓んでゐるから、ここも舊訓の如くカホと訓むがよい。一般的に容姿をカホといひ、後轉じて顔面のみに用ゐることになつた。○端正爾《キラキラシキニ》――舊訓ウツクシケサニとあるのを、代匠記にキラキラシクニ、童蒙抄にキラキラシキニと改め、考はイツクシケサニとして、略解もこれによつてゐる。靈異記に端正を岐良支良シと註し、景行紀にもキラキラシと振假名してゐるから、それに從ふがよい。新訓にはイツクシケキニとある。○玉桙《タマボコノ》――枕詞。七九參照。○指並《サシナラブ》――サシナミノと訓むのは惡い。一〇二〇參照。○預《アラカジメ》――西本願寺本などに豫とあるから、アラカジメである。頓の誤としてタチマチニと訓む説はよくない。○己妻離而《オノヅマカレテ》――(66)己妻は己妻喚《オノヅマヨバフ》(一一六五)によつて、オノヅマと訓むべきである。○鎰左倍奉《カギサヘマツル》――鎰は和名抄に、「四聲字苑云鑰、音樂字亦作v〓今案俗人印鑰之處用2鎰字1非也」とあつて鑰の俗字である。錠を開閉する具。奉はマツルと訓むがよい。卷十八に萬調麻都流都可佐等《ヨロヅツキマツルツカサト》(四一二二)とある。この句の意は代匠記初稿本に、「かぎは、人の家にむねと大事とするものなり。それをさへ珠名娘子が乞もせぬに、打あたへて、家の内のことをまかせんとするよしなり」とある通りであらう。○人皆乃《ヒトミナノ》――舊本に人乃皆とあるが、類聚古集によつて改む。○容艶《ウチシナヒ》――舊訓カホヨキニとある 略解に擧げた宣長説によつて、ウチシナヒと訓むことにする。○縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》――縁而《ヨリテ》は男に寄り添うての意。○多波禮弖有家留《タハレテアリケル》――多波禮《タハレ》は戯れふざける。浮かれること。
〔評〕 下總の周淮で名高い珠名娘子を詠んだので、その當時傳説的になつてゐた女らしい。美人の形容が面白く出來てゐる。多くの男がこの女の家に集り、隣の主人が豫め妻を離別して、この女を手に入れようとしたなどは、竹取物語に「世界の男あてなるもいやしきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな見てしがなと音にききめで惑ふ」とあるのや、又大納言大伴御行が龍の首の珠を取りに家來をつかはして、豫め妻を離別し、色色の糸で葺かせた家を造つて、待つてゐる話を思ひ出さしめる。然しこの女はかぐや姫のやうに上品ではなく、娼婦のやうな浮氣者であつた。兎も角、集中でも珍らしい風變りな歌である。
反歌
1739 金門にし 人の來立てば 夜中にも 身はたなしらず 出でてぞ逢ひける
金門爾之《カナドニシ》 人乃來立者《ヒトノキタテバ》 夜中母《ヨナカニモ》 身者田菜不知《ミハタナシラズ》 出曾相來《イデテゾアヒケル》
門ノトコロニ人ガ來テ立ツト、珠名娘子ハ〔五字傍線〕夜中デモ自分ノ身モ丸デ忘レテシマツテ、出テ行ツテ男ニ〔二字傍線〕アツタヨ。ホントニ浮氣ナ女ダ〔九字傍線〕。
○金門爾之《カナドニシ》――金門は古事記傳に、「金門とは金物を稠《シゲ》く打て堅くする故に云か。又古へはみながら金を押したるにもあるべし」とあり、略解に「かなどはかねのくぎ貫もて堅むればいふ。守康紀大まへをまへすくねが※[言+可]那杜加礙《カナドカゲ》と云り、門を加杼といふも此略言なり」とある。果して上代の門が、金具を打連ねて堅牢に作られ(67)てゐたか。家屋の構造などから推して、必ずしもさうとは思はれない。なほ研究を要する。兎も角、カナドは門のことである。可奈刀田《カナトダ》(三五六一)・可奈刀低《カナトデ》(三五六九)・小金門《ヲカナト》(七二三)などの例がある。○身者田菜不知《ミハタナシラズ》――田菜不知《タナシラズ》はただ知らずの意。家忘身毛多奈不知《イヘワスレミモタナシラズ》(五〇)參照。
〔評〕 上代のモダンガールの甚だしい嬌體と、享樂生活とが詠まれてゐる。身者田菜不知《ミハタナシラズ》は盲目的の浮氣さがよく現はれてゐる。
詠(メル)2水江浦島子《ミヅノエノウラシマノコヲ》1一首并短歌
水江浦島子はミヅノエノウラシマノコとよむのであらう。丹後風土記に等許余弊爾久母多智和多留美頭能叡能宇良志麻能古賀《トコヨベニクモタチワタルミヅノエノウラシマノコガ》》計等母知多留、なほ後人追和歌に、美頭能叡能宇良志麻能古我多麻久志義阿氣受阿理世波麻多母阿波麻志《ミヅノエノウラシマノコガタマクシゲアケズアリセバマタモアハマシ》などとあるのはその證である。水江浦島子の水江は氏で、浦島は名、子は親しんで添へるのである。書紀雄略天皇の卷には「二十二年秋七月、丹波國餘社郡管川人、水江浦島子、乘v船而釣、遂得2大龜1便化2爲女1、於是浦島子感以爲v婦、相逐入v海到2蓬莱山1歴2覩仙家1語在2別卷1」とあり、丹後風土記には「與射郡日量里、此里有2筒川村1此人夫日下部首等先祖、名云2筒川嶼子1爲v人姿容秀美、風流無v類、斯所v謂水江浦嶼子者也云々」とある。いづれも水江が氏で浦島子が名であるらしい。但し本朝神仙傳には、「浦島子者丹後國水江浦人也、昔釣2于濱1得2大龜1變成2婦人1云々」とあるが、これは、代匠記精撰本に「但神仙傳には水江を地の名とせれど、彼は湯川の玄圓と云僧の後代にかける書なれば、必らずしも證としかたし」とある通り、後世に言ひ出したことであるから信じ難い。なほ代匠記初稿本に水江をスミノエとよむべきやうに述べ、歌中の水江もスミノエと訓してゐるのは無理のやうである。
1740 春の日の 霞める時に 墨の吉の 岸に出でゐて 釣船の とをらふ見れば いにしへの 事ぞ念ほゆる 水の江の 浦島のこが 堅魚釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも來ずて うなさかを 過ぎてこぎ行くに 海若の 神のむすめに たまさかに い漕ぎ向ひ あひとぶらひ こと成りしかば かき結び 常世に至り 海若の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり 二人入りゐて 老いもせず 死にもせずして 永き世に 在りけるものを 世の中の おろか人の 吾妹子に 告りて語らく しましくは 家に歸りて 父母に 事も告らひ 明日の如 我は來なむと 言ひければ 妹がいへらく 常世べに また歸り來て 今のごと 逢はむとならば このくしげ 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 墨の吉に 還り來りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしと そこに念はく 家ゆ出でて 三とせのほどに 墻もなく 家うせめやと この筥を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉くしげ 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世べに 棚引きぬれば 立走り 叫び袖ふり こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心けうせぬ 若かりし はだも皺みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆなゆなは いきさへ絶えて 後つひに 命死にける 水の江の 浦島の子が 家どころ見ゆ
春日之《ハルノヒノ》 霞時爾《カスメルトキニ》 墨吉之《スミノエノ》 岸爾出居而《キシニイデヰテ》 釣船之《ツリブネノ》 得乎良布見者《トヲラフミレバ》 古(68)之《イニシヘノ》 事曾所念《コトゾオモホユル》 水江之《ミヅノエノ》 浦島兒之《ウラシマノコガ》 竪魚釣《カツヲツリ》 鯛釣矜《タヒツリホコリ》 及七日《ナヌカマデ》 家爾毛不來而《イヘニモコズテ》 海界乎《ウナサカヲ》 過而※[手偏+旁]行爾《スギテコギユクニ》 海若《ワタツミノ》 神之女爾《カミノムスメニ》 邂爾《タマサカニ》 伊許藝※[走+多]《イコギムカヒ》 相誂良比《アヒトブラヒ》 言成之賀婆《コトナリシカバ》 加吉結《カキムスビ》 常代爾至《トコヨニイタリ》 海若《ワタツミノ》 神之宮乃《カミノミヤノ》 内隔之《ウチノヘノ》 細有殿爾《タヘナルトノニ》 携《タヅサハリ》 二人入居而《フタリイリヰテ》 老目不爲《オイモセズ》 死不爲而《シニモセズシテ》 永世爾《ナガキヨニ》 有家留物乎《アリケルモノヲ》 世間之《ヨノナカノ》 愚人之《オロカビトノ》 吾妹兒爾《ワギモコニ》 告而語久《ノリテカタラク》 須臾者《シマシクハ》 家歸而《イヘニカヘリテ》 父母爾《チチハハニ》 事毛告良比《コトモノラヒ》 如明日《アスノゴト》 吾者來南登《ワレハキナムト》 言家禮婆《イヒケレバ》 妹之答久《イモガイヘラク》 常世邊爾《トコヨベニ》 復變來而《マタカヘリキテ》 如今《イマノゴト》 將相跡奈良婆《アハムトナラバ》 此篋《コノクシゲ》 開勿勤常《ヒラクナユメト》 曾己良久爾《ソコラクニ》 堅目師事乎《カタメシコトヲ》 墨吉爾《スミノエニ》 還來而《カヘリキタリテ》 家見跡《イヘミレド》 宅毛見金手《イヘモミカネテ》 里見跡《サトミレド》 里毛見金手《サトモミカネテ》 恠常《アヤシト》 所許爾念久《ソコニオモハク》 從家出而《イヘユイデテ》 三歳之間爾《ミトセノホドニ》 墻毛無《カキモナク》 家毛滅目八跡《イヘウセメヤト》 此筥乎《コノハコヲ》 開而見手齒《ヒラキテミテバ》 如本《モトノゴト》 家者將有登《イヘハアラムト》 玉篋《タマクシゲ》 小披爾《スコシヒラクニ》 白雲之《シラクモノ》 自箱出而《ハコヨリイデテ》 常世邊《トコヨベニ》 棚引去者《タナビキヌレバ》 立走《タチハシリ》 叫袖振《サケビソデフリ》 反側《コイマロビ》 足受利四管《アシズリシツツ》 頓《タチマチニ》 情消失奴《ココロケウセヌ》 若有之《ワカカリシ》 皮毛皺奴《ハダモシワミヌ》 黒有之《クロカリシ》 髪毛白班奴《カミモシラケヌ》 由奈由奈波《ユナユナハ》 氣左倍絶而《イキサヘタエテ》 後遂《ノチツヒニ》 壽死祁流《イノチシニケル》 水江之《ミヅノエノ》 浦島子之《ウラシマノコガ》 家地見《イヘドコロミユ》
(69)春ノ太陽ガドンヨリト〔五字傍線〕霞ンデヰル時ニ、澄ノ江ノ岸ニ出テ居テ、釣舟ガ浪ニ〔二字傍線〕漂ツテ居ルノヲ見ルト、昔ノコトガ思ヒ出サレルヨ。水ノ江ノ浦島ノ子トイフ男〔四字傍線〕ガ鰹ヲ釣ツタリ、鯛ヲ釣ツタリシテ得意ニナツテ、七日ニナルマデモ家ニ歸ラナイデ、海ノ果テヲ通リ越シテ漕イデ行クト、海ノ神様ノ神ノオ姫樣ニ偶然ニ漕イデヰルウチニ出逢ツテ、話ヲシテ約束ガ成就シタノデ、相共ニ手ヲ取リ合ツテ蓬莱ヘ行ツテ、海ノ神様ノ宮ノ奧ノ方ノ結構ナ御殴ニ手ヲ携ヘテ二人デ入ツテヰテ、年モトラズ死ニモシナイデ、永年ノ間住ンデヰタノニ、世間デノ馬鹿者ナル浦島〔四字傍線〕ハ、ソノ妻ニ話ヲシテ言フニハ、暫時ノ間ハ家ニ歸ツテ父母ト事ノ次第ヲ話ヲシ、明日ニモ早速私ハ〔四字傍線〕歸ツテ來マセウト言ツタノデ、妻ガ言フニハ、コノ蓬莱ヘマタ還ツテ來テ、今ノヤウニ私ニ蓬ハウト思フナラバ、決シテコノ櫛箱ヲオ開ケナサルナト言ツテ、充分ニ約束シテオイタノニ、浦島ハ〔三字傍線〕澄ノ江ヘ歸ツテ來テ、家ヲ見ルト家モ見エナイシ、村ヲ見ルケレモド村モ見ツカラナ(70)イノデ、不思議ダト、ソコデ思フノニハ、家カラ出テカラ三年ノ間ニ、籬根モナクナリ家モ無クナルトイフコトガアラウカト思ヒ、コノ筥ヲ開イテ見タナラバ、モトノ通リニ家ガアルダラウト思ヒ、ソノ玉手筥ヲ少シ開ケテ見ルト、白雲ガソノ箱カナ出テ、蓬莱ノ方ヘ向ツテ棚引イタ()デ、立チ上ツテ走ツテ叫ビナガラ袖ヲ振ツテ、臥シ轉ガツテ足ズリヲシテ殘念ガリ〔七字傍線〕ナガラ、忽チニ正氣ガ無クナツタ。若カツタ皮膚モ皺ガヨツタ、黒カツタ髪モ白クナツタ。後々ニハ、息サヘモ絶エテ、後デハ到頭命ガナクナツテシマツタ。ソノ〔二字傍線〕水江ノ浦島ノ子ノ家ノアリ場所ガソコニ〔三字傍線〕見エル。
○墨吉之《スミノエノ》――このスミノエは丹後の澄江であらう。新解にはこれを攝津の住吉とし、「一體浦島傳説は、諸國に在つて然るべきで、日本書紀に丹波國餘社郡(今の丹後)とし、丹後風土記にも出てゐるが、必丹後に限ると爲(71)すべきでは無い」とあるのも一の見解であらうが、この歌を、書紀や風土記に委しく記された丹後の浦島傳説に關係ないもので、攝津に行はれた浦島傳説を詠んだものと考へることはどうしても出來ない。なるほど浦島傳説は諸國に在つて然るべきであらうが、他にその存在が語られてゐないから致し方がない。攝津にあつたらうといふことは、根據のない想像説である。なほこの歌の作者と思はれる高橋蟲麿が、丹後に赴いたらしい形跡がないのが、攝津説の出た一因かも知れないが、この人が丹後に行かなかつたといふ證もないから、これを攝津の住吉とするのは無理であらう。丹後の澄江はその所在があまり明瞭ではないが、今、竹野郡網野町の海岸を澄江浦といふから、其處としてよいであらう。又日本地理風俗大系に載せた田中阿歌麿の記事には「澄の江湖沼群の湖沼」と題して、「與謝内海や久美濱湖と同じやうに、昔は丹後の海岸に澄の江といふ溺谷があり、外海に續いてゐたが、福田川、鳥溝川の沖積物と砂丘の成生はこれを埋めて、その東側に小濱湖を、西側に淺茂川湖を殘し、日本海と絶縁した」とあり、ここに澄の江といふ入海があつたことは認めてよいやうに思はれる。○得乎良布見者《トヲラフミレバ》――トヲラフはわからない語である。類聚古集に得を侍に、藍紙本・類聚古集など乎を手に作つてゐるが、それでもわからない。多分トヲラフはタヲルと同語で撓むの意、船が波に動搖してゐることと解すべきであらう。○鯛釣矜《タヒツリホコリ》――衿《ホコリ》は意氣揚々として得意になつてゐること。○海界乎《ウナサカヲ》――ウナサカは古事記に塞海坂而返入《ウナサカヲセキテカヘリイリマシヌ》とある海坂と同じであるが、海坂の坂は借字で、ここの文字の如く海の境界・海の果ての義であらう。場所といふ意のサカヒと見て、海上海中など譯しては當るまい。○海若《ワタツミノ》――文字の通り海の神。山ツミに對して海《ワタ》ツミといふ。○神之女爾《カミノムスメニ》――神之女は神女の意か、又は神の娘の意かによつて訓法が違ふわけである。御伽噺で聞きなれた龍宮の乙姫とすると、神の娘のやうである、浦島子傳に「父母兄弟在2彼仙房1」とあり、續浦島子傳に「父母兄弟在2彼金闕1」とあつて、父母があることになつてゐる。殊にこの傳説の根源と思はれる古事記の山幸海幸の神話を見ると、豐玉姫の父が説話の大きな役割をなしてゐるのであるから、ここの女の字はヲミナではなくてムスメとよむべきであらう。神田本にさう訓んでゐる。舊訓ヲトメとあるのはヲミナよりはよいが、なほムスメがよいやうである。○邂爾《タマサカニ》――偶然に。○伊許藝※[走+多]《イコギムカヒ》――イは接頭語。漕ぎ向(72)ひ。※[走+多]は趨に通ずる字で、ハシルの義であるから、舊訓はこれを次の句の相につづけてイコギワシラヒとしてゐる。併しそれも穩やかでないから、古義にムカヒとよんだのに從つた。この句は漕いでゐるうちに廻り逢つたこと。○相誂良比《アヒトブラヒ》――舊訓は相を前の句に附け、下をカタラヒとよんでゐる。略解にはいどみよる意として、カガラヒと訓んでゐるが、この語例が見當らぬやうである。この下に垣廬成人之誂時《カキホナスヒトノトフトキ》(一八〇九)とあるトフに傚つて、アヒトブラヒとよむのがよいやうに思はれる。誂は字書に相呼誘也とあつて、ここは兩方から話しかけたこと。○言成之賀婆《コトナリシカバ》――言が成つたといふのは、約束が成立したことであらう。古義には「言は借字にて、事の成就したればといふなり」とある。○加吉結《カキムスビ》――カキは接頭語。ムスビは相伴なつて、諸共になどの意。夫婦の契を結ぶと見るのは穩やかでない。○常代爾至《トコヨニイタリ》――常代《トコヨ》は人間界以外の不老不死の世界。仙境。○内隔之《ウチノヘノ》――中央の圍の中の。幾重にも圍つた中の垣の内の意。○細有殿爾《タヘナルトノニ》――タヘは妙、立派なこと。○携《タヅサハリ》――手を取り合つて。○永世爾《ナガキヨニ》――舊訓ナガキヨニとあるのがよい。略解・古義にトコシヘニと改めたのはよくない。○愚人之《オロカビトノ》――舊訓シレタルヒトノとあるが、略解の一訓にウルケキヒトノとあり、古義にはカタクナヒトノとある。しかし文字通りにオロカビトノとよんでもよいわけである。愚の字は集中他に用例がないので、比較は出來ないが、字鏡に闇の字を於呂加奈利と訓んでゐるから、謂はゆる馬鹿者をオロカと言ふことは既にあつたと思はれる。ここはオロカビトと訓むことにする。但し集中の假名書になつてゐるオロカは、卷十八の於呂可爾曾和禮波於母比之《オロカニゾワレハオモヒシ》(四〇四九)のやうに、オロソカの意に用ゐられてゐる。○如明日《アスノゴト》――明日のやうに速かに。明日にも、の意。必ず明日と限定したのではない。○此篋《コノクシゲ》――クシゲは櫛笥。櫛を入れる筥。○曾己良久爾《ソコラクニ》――ソコバクニに伺じ。充分に。許多。○堅目師事乎《カタメシコトヲ》――約束したことであるのに。カタメシは言葉を堅めた意。○家滅目八跡《イヘウセメヤト》――家が無くならうや決してなくなる筈はないと思つて。跡《ト》は裳《モ》の誤だらうと古義にあるが、この儘でよい。このトはト思ヒの意。下の家者將有登《イヘハアヲムト》の登《ト》も同じ。○如本《モトノゴト》――舊本、如來本とあるが、來は衍であらう。藍紙本・類聚古集によつて改めた。○玉篋《タマクシゲ》――玉は美稱のみ。○常世邊《トコヨベニ》――邊《ヘ》は方《ヘ》の借字。ホトリの意ではなく、方角を意味してゐる。○反側《コイマロビ》――臥し轉びに同じ。コイはコユといふ動詞。臥すこと。卷三に展(73)轉《コイマロビ》(四七五)とあつたのと同じである。○足受利四管《アシズリシツツ》――足を地に擦りつけて、殘念がる貌。○情消失奴《ココロケウセヌ》――心消え失せぬ。正氣がなくなり、意識が朦朧となつたこと。舊本、消を清に誤つてゐる。藍紙本によつて改めた。○髪毛白斑妖《カミモシラケヌ》――白斑の二字は、マダラに白くなつたといふのか。シラケはその意でよんだのであらう。異訓もないやうである。舊本、班に作つてゐるのは、斑と混用したので、集中他にも例がある。斑の方が正しい。○由奈由奈波《ユナユナハ》――古義に由李由李波《ユリユリハ》の誤として後々はの意としてゐる。誤字説は遽かに信じ難いが、意味はさうであらう。
〔評〕 冒頭の八句はこの長歌の前置として、作者の地位と時季とを明らかにしてゐる。一體、集中の長歌の叙事的のものは、概括的に叙述したものが多く、作者の立脚地點や季節を明らかにしてゐるものは稀であるが、これは春日之霞時爾《ハルノヒノカスメルトキニ》と述べてゐるのが、他と趣を異にしてゐる。さうして縹渺たる大海に面した岸に立つて、霞の中に夢のやうに浮んだ釣舟を眺めてゐるうちに、作者が瞑想に耽り回顧の思ひを走せる樣が、器用に無理なく述べられてゐる。水之江浦島兒之《ミヅノエノウラシマノコガ》以下、簡單ながら明瞭に傳説の筋を述べて、よく分るやうになつてゐる。後遂壽死祁流《ノチツヒニイノチシニケル》から、すぐに水江浦島子之家地見《ミヅノエノウラシマノコガイヘドコロミユ》と結んだのは、目立つた簡潔な手法である。頓情消失奴《タチマチニココロケウセヌ》から浦島が死去するまでの叙述が、少し長過ぎるやうでもあるが、これは若有之皮毛皺奴黒有之髪毛白斑奴《ワカカリシハダモシワミヌクロカリシカミモシラケヌ》の對句を入れた爲、これに對する必要上長くなつたもので、咎むべきではない。この種の作としては蓋し傑出したものである。
反歌
1741 常世べに 住むべきものを 劍太刀 なが心から おぞやこの君
常世邊《トコヨベニ》 可住物乎《スムベキモノヲ》 劔刀《ツルギタチ》 己之心柄《ナガココロカラ》 於曾也是君《オゾヤコノキミ》
乙姫ノ言葉ニ從ツテサヘ居レバ〔乙姫〜傍線〕常世ノ國デ住ムコトガ出來ル筈ダツタノニ、(劔刀)オマヘノ心カラ駄目ニナツテ(74)シマツタ〔十字傍線〕。馬鹿ダヨ、コノ人ハ。
○常世邊《トコヨベニ》――常世の國で。○劔刀《ツルギタチ》――枕詞。ナとつづく。卷四に劔太刀名惜雲吾者無《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシ》(六一六)とある。ナは刃の意である。劍には叢雲・草薙などの名があるからといふ冠辭考の説はいかが。名のあるものは劍には限らぬであらう。○己之心柄《ナガココロカラ》――この句の訓は頗る面倒である。舊訓はサガココロカラとあるが、藍紙本・壬生本・類聚古集・古葉略類聚鈔など、ワガココロカラと訓んで、しかも心の字を行と思はれる字に作つてゐる。これによつて新訓にオノガワザカラとよんでゐるが、この字は實は行ではなくて、心であらうと思はれるから、ワザと訓むべきではあるまい。又オノガワザカラと訓んでは、上の劍太刀とのつづきが分らなくなるから、己はオノガではないやうである。袖中抄にもワガココロカラとあるから、これが中世一般に行はれた訓であらう。蓋し狛劍《コマツルギ》がワの枕詞であるのに傚つてよんだものか。併しこれも無理であるから、右にあげた卷四の六一六の例にならつて、己をナとよむことにする。己は一人稱であるが、見下げていふ時は一人稱を二人稱に用ゐるから、汝の意としてナと訓むのである。大|己〔傍点〕貴神をオホ|ナ〔傍点〕ムチとよむのも右の理由で、ここの用法と同樣であらう。略解にはシガココロカラとよんでゐるが、シはソレの約と思はれるから、ここには當らない。又上の劍刀《ツルギタチ》をココロにつづく枕詞とする説もある。劍の柄の方にさし入れるナカゴを、ココロといふと契沖は言つてゐるが、果してさうした用語があるかどうか疑はしいから、從ひ難い。この句の下に、駄目になつたといふやうな意を補つて、ここで切つて考ふべきであらう。○於曾也是君《オゾヤコノキミ》――オゾは卷二に於曾能風流士《オゾノミヤビヲ》(一二六)とあつたのと同じく、心の遲鈍なこと。即ち愚かなこと。ヤはヨに同じ。コノキミは浦島をさしてゐる。
〔評〕 これは長歌中に世間之愚人之《ヨノナカノオロカビトノ》とあつたのと同意で、不老不死の歡樂郷にあるべき筈なのに、故郷に歸りたがつて、剰さへ貰つて來た玉手箱を聞いた魯鈍を笑つたものである。長歌は大體記事を主としてゐるが、反歌では浦島の行爲に批評を下してゐる。當時盛であつた神仙思想にかぶれたであらう作者の眼を以てすれば、この批評は當にかくあるべきである。この浦島傳説を詠じたものは、集中この作のみで、上代に於けるこの傳説の姿を知る爲に極めて貴重な資料で(75)ある。この傳説は謂はゆる仙郷淹留説話と稱するもので、種々な形式で、各國に語られてゐるものである。わが國では、かの海幸山幸の話として、古事記・日本書紀に記されてゐる彦火火出見尊の海神國に赴かれたことが、この傳説と全く同一系統に屬するものである。ただ神代のこととなつてゐるから、海神國の世界と時間的の相異がなく、從つて禁制の篋を開いた馬に、忽ち老翁となるやうな話にはなつてゐない。浦島子として物に見えた最初は、日本書紀の雄略天皇の卷で「二十二年秋七月、丹波國餘社郡管川人、水江浦島子、乘v舟而釣、遂得2大龜1便化2爲女1、於是浦島子感以爲v婦、相逐入v海、到2蓬莱國1歴2覩仙家1語在2別卷1」とある。これについで丹後風土記に至つて叙述が精細となり、浦島傳説としでの形が完成した感がある。又群書類從に載つてゐる浦島子傳は、瑰麗な六朝式の漢文を以て綴つたもので、續浦島子傳記はそれを更に委しく且支那的にしたものである。後者は延喜二十年の作であるから、平安朝の初期以來、この話が文人雅客の弄びとなつたことがわかる。なほ古事談や水鏡に淳和天皇の天長二年に浦島が歸郷したやうに記してあるのは滑稽である。その後、和歌や各種の詩文に、浦島の事が幾囘繰返されたか殆ど算へることは出來ない。今ここには省略することにしよう。唯一つ注意して置きたいことは、浦島には龜が附きもので、神女が龜に化したやうになつてゐるのに、この集の歌には龜が出てゐない點である。これはこの集のが浦島傳説の原形で、外國影響の無かつた純日本的のものだと説く學者もあるが、神婚説話では、神女が動物に化してあらはれるのが定型で、古事記の豐玉姫の如きも本身は鰐となつてゐるのであるから、この歌に龜が出て來なくとも、直ちにそれが無いものと判斷するわけには行かない。況んやそれが純日本式のものであると者へるのは早計であらう。
見(ル)2河内(ノ)大橋(ヲ)獨|去《ユク》娘子(ヲ)1歌一首并短歌
河内大橋は河内の國府の橋即ち雄略紀に見える餌香市邊の橋であらう。片足羽河にかかつてゐた大橋である。
1742 しなてる 片足羽河の さ丹塗の 大橋の上ゆ くれなゐの 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣きて ただ獨 い渡らす兒は 若草の つまかあるらむ 橿の實の 獨か寢らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく
級照《シナテル》 片足羽河之《カタシハガハノ》 左丹塗《サニヌリノ》 大橋之上從《オホハシノウヘユ》 紅《クレナヰノ》 赤裳數十引《アカモスソビキ》 山藍用《ヤマアヰモチ》 (76)摺衣服而《スレルキヌキテ》 直獨《タダヒトリ》 伊渡爲兒者《イワタラスコハ》 若草之《ワカクサノ》 夫香有良武《ツマカアルラム》 橿實之《カシノミノ》 獨歟將宿《ヒトリカヌラム》 問卷乃《トハマクノ》 欲我妹之《ホシキワギモガ》 家乃不知久《イヘノシラナク》
(級照)片足羽河ノ赤イ色ニ塗ツタ大橋ノ上ヲ、紅色ノ赤裳ノ裾ヲ引張ツテ、山藍ヲ用ヰテ摺ツテ染メ〔三字傍線〕タ着物ヲ着テ、唯一人デ渡ツテ行ク女ハ、(若草之)夫ガアルノダラウカ。ソレトモマダ獨身デ〔九字傍線〕(橿實之)獨デ寢ルノデアラウカ。ソノコトヲ〔五字傍線〕尋ネタイト思フガ、私ノ愛スルアノ女ノ家ガ、何處カ分ラナイ。何處カ分レバアノ女ノ家ニ尋ネテ行クノダガナア〔何處〜傍線〕。
○級照《シナテル》――枕詞。片《カタ》につづく。推古天皇紀に、斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナテルカタヲカヤマニ》ともある。何故にカタにつづくかについて、代匠記初稿本に「しなはきざはしの等級なり。てるは階をほむる詞なり。……片につづけたるは階はかたたかひにあるものなればなり」とある。冠辭考には「級立《シナタテ》る物は斜に片はへなる意にて、片とはつづくるならむ」「照は借字にて立るてふ辭なるを略きて?流《テル》といふなり」とある。古義に「斯那《シナ》は嫋《シナ》の意、提流《テル》は佐比豆流《サヒヅル》など云|豆流《ツル》と同言にて、然ある形容《サマ》をいふとき、附て言ふなるべし。さて片《カタ》とつづくは肩《カタ》の義にて弱々《ナヨナヨ》と嫋《シナ》やぐ肩といふ意に、いひ係たるなるべし。人の肩は屈伸《ノビカガミ》の縱由《ココロママ》なるもの故、嫋《シナ》やぐよしもて、古語に嫋肩《ヨワカタ》とも云るを、併せ思ふべし」とあるが、諸説いづれも牽強の感あるを遺憾とする。○片足羽河之《カタシハガハノ》――舊訓、カタアスハガハノとあつて、これが古い訓であるが、近頃の學者は多くカタシハとしてゐるから、ここはそれによる。この河は大日本地名辭書には、大和川の別名かとしてゐるが、河内志には石川のこととしてゐる。本居宣長も石川説を採つて、大橋は今國府渡と云ふところにかかつてゐたのだといつた或人説をあげてゐる。石川は源を藏王嶺に發し、葛城金剛の水を併せて北流し、道明寺村で大和川に合する川である。○左丹塗之《サニヌリノ》――サは接頭語で意味(77)なし。卷八に佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモカモ》(一五二〇)とあつた。○大橋之上從《オホハシノウヘユ》――このユはヲの意である。○山藍用《ヤマアヰモチ》――山藍は大戟科山※[青+定]屬の多年生草本、山間の陰地に生じ、高さ一尺餘に達す。葉は對生で長柄を具へ、長※[木+隋]圓形を呈し鋸齒がある。柄本に小托葉がある。古代はこの葉の汁を以て衣を摺つて染めた。○伊渡爲兒者《イワタラスコハ》――イは接頭語。ワタラスはワタルの敬語。○若草乃《ワカクサノ》――枕詞。夫《ツマ》とつづく。一五三參照。○橿實之《カシノミノ》――枕詞。橿の實は栗などと異なり、一|※[手偏+求]《カサ》に一つづつ生るものであるから、ひとりにつづく。
〔評〕 廣重などの浮世繪でも見てゐるやうな感じである。赤裳の裾を引いて青い模樣の山藍摺の着物を着た美人が、ただ一人で丹塗の橋の上を渡つてゐるといふ景である。この娘子はそこの里處女であらうが、前の、末の珠名のやうな傳説中の美人が、現實の世界にぬけ出して來たやうにも思はれる情景である。この集中でもめづらしい場面が詠まれてゐる。
反歌
1743 大橋の つめに家あらば うらがなしく 獨ゆく兒に 宿かさましを
大橋之《オホハシノ》 頭爾家有者《ツメニイヘアラバ》 心悲久《ウラガナシク》 獨去兒爾《ヒトリユクコニ》 屋戸借申尾《ヤドカサマシヲ》
大橋ノタモトニ私ノ〔二字傍線〕家ガアルナラバ、アアシテ〔四字傍線〕獨デ心悲シサウニ、歩イテヰル、アノ女ニ宿ヲ借シテトマラセテ、私ノ思ヒヲアカシテ〔九字傍線〕ヤラウノニ。家ガナイカラ殘念ダ〔九字傍線〕。
○頭爾家有者《ツメニイヘアラバ》――頭をツメと訓むのは、天智紀に「于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》」とあるのを證とすることが出來る。頭はホトリの意であるが、ツメといへば橋のつめ、即ち橋のたもとで、兩者結局同じである。○心悲久《ウラガナシク》――舊訓ココロイタクとあるのはよくない。代匠記精撰本によつた。略解にマガナシクとあるのも賛成し難い。この句は悲しさうにの意。古義の解釋は誤つてゐる。
〔評〕 橋上をただ獨で辿り行く美人が、何となく物思はしげに見えるから、もしここに吾が家があるならば、彼の女を宿めていたはつてやりたいといふので、作者のロマンチツクな性格が現はれてゐる。
(78)見(テ)2武藏小埼沼《ムサシノヲサキノヌマノ》鴨(ヲ)1作(レル)歌一首
1744 埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞはねきる おのが尾に ふり置ける霜を 掃ふとならし
前玉之《サキタマノ》 小埼乃沼爾《ヲサキノヌマニ》 鴨曾翼霧《カモゾハネキル》 己尾爾《オノガヲニ》 零置流霜乎《フリオケルシモヲ》 掃等爾有斯《ハラフトナラシ》
埼玉ノ小埼ノ沼デ鴨ガ羽ヲ振ツテヰル。アレハ〔三字傍線〕自分ノ尾ノ上ニ降リ積ツタ霜ヲ掃フトスルノデアルラシイ。
○前玉之小埼乃沼爾《サキタマノヲサキノヌマニ》――前玉は和名抄「武藏埼玉郡佐伊太末」とあり、埼玉郷がその中心である。ここの埼玉はその埼玉郷、即ち今の熊谷町の東方、羽生町の西方一帶の地で、そこに埼玉の沼、古へ小埼の沼と稱したものがあつたのである。卷十四に佐吉多萬能津《サキタマノツ》(三三八〇)とあるのもその附近であらう。○鴨曾翼霧《カモゾハネキル》――翼霧《ハネキル》は強く羽たたきすること。
〔評〕 旋頭歌である。題詞によれば、實境に臨んで詠んだもので、旋頭歌としては、珍らしい内容である。枕草紙に「鴨は羽の霜うちはらふらむと思ふにをかし」とあるのは、この歌によつてかいたものかと思はれる。
那賀《ナカノ》郡|曝《サラシ》井(ノ)歌一首
那賀郡曝井は、常陸國風土記に「那賀郡、自v郡東北挾2粟河1而置2驛家1、當2其以南1泉出2坂中1水多流尤清、謂2之曝井1、縁v泉所v居村落婦女夏月會集浣v布曝乾」とある處で、今、東茨城郡に屬し、渡里村豪渡の瀧坂に清泉が出てゐるといふことである。水戸市の西北方に當つてゐる。なほ古風土記逸文考證に「この曝井は今茨城郡袴塚村愛宕祠の西なる坂の中段にあり。瀧坂といふ所なり。(中略)そのあたりを曝臺といふ。その裾の田を曝田といひて、今も坂の半に清水の湧出るあり」とある。略解には「小埼沼に次で載たれば武藏の那珂なるべし」とあるが、さうではあるまい。
1745 三栗の 中に向へる 曝井の 絶えず通はむ そこに妻もが
三栗乃《ミツグリノ》 中爾向有《ナカニムカヘル》 曝井之《サラシヰノ》 不絶將通《タエズカヨハム》 彼所爾妻毛我《ソコニツマモガ》
(79)(三栗乃)那珂ノ方ヘ向ツテ流レ〔二字傍線〕ル曝井ノ水ノ〔二字傍線〕ヤウニ、イツモ絶エズニ〔七字傍線〕常ニコノ曝井ノ所ヘ〔七字傍線〕通ツテ來ヨウト思フ〔二字傍線〕。其處ニ愛スル女デモ居レバヨイガ。サウシタラ曝井ヘ來ルツイデニ、何時デモソノ女ニ逢ハウモノヲ〔サウ〜傍線〕。
○三栗乃《ミツグリノ》――枕詞。栗の毬の中に實の三つあるを三つ栗といふ。三つあるものには中があるからかく續けた。○中爾向有《ナカニムカヘル》――略解はムキタルと訓み、古義は宣長が向は回の誤でメグレルならむといつたのに從つてゐる。
〔評〕 上の三句は、不絶といはん爲の序詞として用ゐられてゐるやうにも考へられるが、五の句に彼所《ソコ》とあるのは、曝井を承けてゐるやうであるから、さう見ない方がよからう。これも曝井の清泉を見て作つた歌である。
手綱《タヅナノ》濱(ノ)歌一首
手綱《タヅナノ》濱は歌によれば常陸多賀郡にあるべきである。今、松岡村の一部にその名が殘つてゐる。高戸と手綱とを合せて、松岡村と改めたも(80)ので、高萩の北半里、高戸の北に赤濱があり、この邊が古の手綱の濱である。八雲御抄に曝井を紀伊國とし、この手綱濱をも同じく紀伊の名所とせられたのは誤である。
1746 遠妻し たかにありせば 知らずとも 手綱の濱の 尋ね來なまし
遠妻四《トホヅマシ》 高爾有世婆《タカニアリセバ》 不知十方《シラズトモ》 手綱乃濱能《タヅナノハマノ》 尋來名益《タヅネキナマシ》
遠クニ離レテヰル妻ガ、多賀ニ居タナラバ、道ハ〔二字傍線〕知ラナイニシテモ、私ニ逢フ爲ニ〔六字傍線〕コノ手綱ノ濱ヘ尋ネテ來ヨウモノヲ。多賀ニハアノ女ハヰナイノカシラ〔多賀〜傍線〕。
○高爾有泄婆《タカニアリセバ》――高は常陸國多賀部。和名抄「多珂郡多珂里」とある所で多珂郷は今の松原村に當つてゐる。
〔評〕 手綱乃濱能尋來名盆《タヅナノハマノタヅネキナマシ》とタヅの音を繰り返してゐるのが、この歌の一技巧である。見やうによつては手綱の濱はただ序詞として用ゐられたものとも考へられるが、さうではなく、手綱濱に立つてその名に興じて詠んだものであらう。
春三月諸卿大夫等下(レル)2難波(ニ)1時(ノ)歌二首并短歌
春三月とのみあつて、何年の作ともわからない。諸卿大夫も誰ともわからない。作者高橋蟲麿は藤原宇合と共に常陸にゐたこともあるから、或はこれも宇合らをさしてゐるか。宇合は神龜三年十月知造難波宮事となつてゐる。舊本、并短歌の三字がないのは脱ちたのである。藍紙本によつて補ふ。
1747 白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小鞍の嶺に 咲きををる 櫻の花は 山高み 風し止まねば 春雨の 繼ぎてしふれば ほづ枝は 散り過ぎにけり しづ枝に 殘れる花は しましくは 散りなみだりそ 草枕 旅行く君が かへり來むまで
白雲之《シラクモノ》 龍田山之《タツタノヤマノ》 瀧上之《タギノウヘノ》 小鞍嶺爾《ヲグラノミネニ》 開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花者《サクラノハナハ》 山高《ヤマタカミ》 風之不息者《カゼシヤマネバ》 春雨之《ハルサメノ》 繼而零者《ツギテシフレバ》 最末枝者《ホヅエハ》 落過去祁利《チリスギニケリ》 下枝爾《シヅエニ》 遺有花者《ノコレルハナハ》 須臾者《シマシクハ》 落莫亂《チリナミダリソ》 草枕《クサマクラ》 客去君之《タビユクキミガ》 及還來《カヘリコムマデ》
(81)(白雲之)龍田ノ山ノ瀧ノ落チテヰル上ノ、小鞍ノ嶺ニ枝モ曲ガル程咲イテヰル櫻ノ花ハ、山ガ高イカラ風ガ吹キ止ムコトモナイノデ、春ノ雨ガ續イテ降ルト、上ノ枝ハ花ガ散ヅテシマツタ。下ノ枝ニ殘ツテヰル花ハ、暫時ノ間ハ散亂レルナヨ。(草枕)旅ニ出カケテ行クアナタ方ガ、オ歸リニナルマデハ、散ラナイデ待ツテヰヨ〔十字傍線〕。
○白雪之《シラクモノ》――枕詞。立つとつづく。○瀧上之小鞍嶺爾《タギノウヘノヲグラノミネニ》――今の大和川(昔の龍田川)の龜の瀬岩の附近が、昔は瀧つ瀬をなして落ちてゐた。その上方の龍田山の一峯を小鞍の嶺と稱したのである。九七一の寫眞參照。○開乎爲流《サキヲヲル》――乎爲流《ヲラル》は枝もたわわに撓むこと。○繼而零者《ツギテシフレバ》――代匠記精撰本ツギテフレレバとあるのに略解も從つてゐるが、舊訓のままがよい。○最末枝者《ホヅエハ》――ホヅエは秀つ枝、最上の枝。○及還來《カヘリコムマデ》――略解カヘリクマデニとあるが、古義に從ふ。
〔評〕 龍田山の櫻を主として詠んでゐる。嵐と春雨とで木末の花は散つたが、下枝は君が歸りを待つて散らずにゐよと歌つたのは、まこと優雅な心情で、龍田山の景趣が思ひ浮べられる。作者も諸卿大夫と同行してゐるのであるが、下僚たる自分を表面に現はさずに、諸卿大夫を主として詠んでゐる。
反歌
1748 吾が行は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし
吾去者《ワガユキハ》 七日不過《ナヌカハスギジ》 龍田彦《タツタヒコ》 勤此花乎《ユメコノハナヲ》 風爾莫落《カゼニナチラシ》
私ノ今度ノ〔三字傍線〕旅行ハ七日以上ニナルマイ。スグ還ツテ來ルツモリダ。ダカラ〔スグ〜傍線〕決シテコノ花ヲ風ニ散ラシテシマフナヨ。
○吾去者《ワガユキハ》――ユキは旅行の意。○七日不過《ナヌカハスギジ》――七日は日數の多い概數をいつてゐる。卷十七に知加久安良波伊麻布郡可太未等保久安良婆奈奴可乃宇知波須疑米也母《チカクアラバイマフツカダミトホクアラバナヌカノウチハスギメヤモ》(四〇一一)とある。○龍田彦《タツタヒコ》――今、立野村に祀られてゐる神で、神名帳「大和國平群郎龍田比古龍田比女神社二社」とある龍田比古である。即ち今の官幣大社龍田神社で、風神として古くから信仰があつた。○風爾莫落《カゼニナチラシ》――風に散らすなに同じ。
(82)〔評〕 これは自分をも一行中の一人として詠んでゐる。この山の神であり、風の神である龍田彦に、花を散らさぬやうに祈つてゐる心がやさしくなつかしい。
1749 白雲の 立田の山を 夕暮に うち越え行けば 瀧の上の 櫻の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり 含めるは 咲きつぎぬべし こちごちの 花の盛に 見ずといへど かにかくに 君がみゆきは 今にしあるべし
白雲乃《シラクモノ》 立田山乎《タツタノヤマヲ》 夕晩爾《ユフグレニ》 打越去者《ウチコエユケバ》 瀧上之《タギノウヘノ》 櫻花者《サクラノハナハ》 開有者《サキタルハ》 落過祁里《チリスギニケリ》 含有者《フフメルハ》 可開繼《サキツギヌベシ》 許智期智乃《コチゴチノ》 花之盛爾《ハナノサカリニ》 雖不見《ミズトイヘド》 左右《カニカクニ》 君之三行者《キミガミユキハ》 今西應有《イマニシアルベシ》
(白雲乃)立田山ヲ夕方ニ越エテ行クト、瀧ノ落チテヰル上ノ櫻ノ花ハ、咲イタノハ散ツテシマツタヨ。マダ〔二字傍線〕蕾ンデヰルノハコレカラ咲キツヅクデアラウ。アチラコチラノ花ノ盛リニ一度ニ咲イタ所ヲ〔八字傍線〕見ルコトハ出來ナイガ、兎モ角モ天子樣ノ行幸遊バス時期ハ今デアリマセウ。
○打越去者《ウチコエユケバ》――古義に「馬に鞭を打て、山を行越ばと云なるべし」とあるは誤つてゐる。打つは強くいふのみ。○許智期智乃《コチゴチノ》――アチコチノに同じ。己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》(二一〇)參照。○雖不見左右《ミズトイヘドカニカクニ》――舊訓ミネトマデとある。ここに脱字・落句があるとする説が多い。考によつて略解に、ミズトイヘドカニカクニとしたのに從ふ。新訓は雖不見在とし、右の字、類聚古集・神田本にないのに從つてアラズトモとしてゐる。○君之三行者《キミガミユキハ》――三行は御幸。天皇の行幸を指す。
〔評〕 この長歌も自己を現はさずに、山の花の盛が過ぎないのを喜んで、天皇の行幸を期待してゐる。同じく上品な歌である。
1750 暇あらば なづさひ渡り 向つ峯の 櫻の花も 折らましものを
反歌
暇有者《イトマアラバ》 魚津柴比渡《ナヅサヒワタリ》 向峯之《ムカツヲノ》 櫻花毛《サクラノハナモ》 折末思物緒《ヲラマシモノヲ》
(83)今度ハ御用ノ旅行デ暇モナイガ〔今度〜傍線〕、モシ暇ガアルナラバ山川ヲモ〔四字傍線〕水ヌレテ渡ツテ、向ヒノ山ノ櫻ノ花ヲモ折ラウノニ。暇ガナイカラサウモ出來ヌ〔暇ガ〜傍線〕。
○魚津柴比渡《ナヅサヒワタリ》――魚津柴比《ナヅサヒ》は玉かつまに「或は海川などに浮べること、或は船より渡る事などに云ひ、枕詞にも、引網の、鳥じもの、にほどりの、など云ひて、いづれもいづれも、水に着く事にのみ云へり。水によらぬは一つも無し。云々」とある通り、常に水にひたりつつ行き惱む意に用ゐてある。ここは川を渡り行くこと。○向峯之《ムカツヲノ》――向峯は向ひの山、小鞍の嶺としては地理が合はない。
〔評〕 急ぎの旅でもあり、既に夕暮でもあるから、花を折つて行く暇がないのを惜しんでゐる。いとまあらばとは言つてゐるが、やはり上代らしいのどかな氣分の歌である。これは長歌とは異なり自己を主として述べてゐる。
難波(ニ)經宿(シテ)明日還(リ)來(ル)之時(ノ)歌一首并短歌
經宿は一夜宿すること。歌の中に一夜耳宿有之柄二《ヒトヨノミネタリシカラニ》とあるに一致してゐる。
1751 島山を い行きもとほる 河そひの 丘べの道ゆ 昨日こそ 我が越え來しか 一夜のみ ねたりしからに をの上の 櫻の花は 瀧の瀬ゆ 落ちて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる杜に 風祭せな
島山乎《シマヤマヲ》 射往廻流《イユキモトホル》 河副乃《カハソヒノ》 丘邊道從《ヲカベノミチユ》 昨日己曾《キノフコソ》 吾越來牡鹿《ワガコエコシカ》 一夜耳《ヒトヨノミ》 宿有之柄二《ネタリシカラニ》 岑上之《ヲノウヘノ》 櫻花者《サクラノハナハ》 瀧之瀬從《タギノセユ》 落墮而流《オチテナガル》 君之將見《キミガミム》 其日左右庭《ソノヒマデニハ》 山下之《ヤマオロシノ》 風莫吹登《カゼナフキソト》 打越而《ウチコエテ》 名二負有杜爾《ナニオヘルモリニ》 風祭爲奈《カザマツリセナ》
島山ヲ行キ廻ツテヰル、川ニ添ツタ岡ノホトリノ道カラ、昨日コソ私ガ越エテ難波ヘ〔三字傍線〕行キマシタ。然ルニ今日還リ道ニ通ツテ見ルト〔然ル〜傍線〕、タダ一晩ダケアチラデ〔四字傍線〕寢タノニ、峯ノ上ノ櫻ノ花ハ、瀧ノ瀬カラ流レ落チテヰル。ホントニ散ルノハ早イモノダ。天子樣ガ近イ内ニ此處ヲオ通リニナル筈ダガ〔ホン〜傍線〕、天子樣ガ御覽ニナルソノ日マデニハ、山(84)カラ吹キ下ロス嵐モ吹クナト、コノ立田山ヲ〔六字傍線〕越エテ、私ハ〔二字傍線〕風ノ神ト名ヲ負ウテヰル龍田ノ〔三字傍線〕社ニ風祭ヲシマセウ。
○島山乎《シマヤマヲ》――島山は川をめぐらした山。ここは龍田山を指してゐる。○射往廻流《イユキモトホル》――考・略解にイユキメグレルとあるが、舊訓のままでよからう。この句は次の句の河に續いてゐる。句をへだてて道に續くとする説は當らない。○吾越來牡鹿《ワガコエコシカ》――上にコソとあるからシカと結んだのである。シカは過去助動詞キの已然形。○瀧之瀬從《タギノセユ》――瀧之瀬は大和川の今謂はゆる龜の瀬である。○落墮而流《オチテナガル》――考にタギチテナガルとあるが、文字通りオチテナガルと訓むがよいであらう。○君之將見《キミガミム》――君は天皇を指す。○山下之《ヤマオロシノ》――古義にアラシノと訓み「ヤマオロシとよめるは後めきたり」といつてゐる。然し山下風之《ヤマノアラシノ》(七四)・山下風爾《ヤマノアラシニ》(一四三七)・山下風波《ヤマノアラシハ》(二三五〇)などの用例を見ると、山下ではアラシと訓まないやうに見える。○打越而《ウチコエテ》――この山を越えての意。難波から來れば立田山を越えた立野に、立田神社があるからかう言つてゐる。○名二負有杜爾《ナニオヘルモリニ》――ここの名に負ふは、風の神としてその名をもつてゐるの意である。杜は藍紙本その他の古本に社に作つてゐる。○風祭爲奈《カザマツリセナ》――風祭せむに同じ。ナはムに同じで意が強い。風祭は風の神を祭ること。
〔評〕 前の歌の歸路の作である。一夜難波に宿つたのみなるに、往路とは全く異なつて、落花が急湍に浮び流れてゐるので、どうかして山の花を風に散らすまいと、風神を祭つて祈らうとする作者は、前の長歌と同じく、どこまでも君の行幸を待つ心が主となつて、櫻の花を惜しんでゐる。優しい敬虔な心情がよく現はれてゐる。
反歌
1752 い行きあひの 坂の麓に 咲きををる 櫻の花を 見せむ兒もがも
射行相乃《イユキアヒノ》 坂上之蹈本爾《サカノフモトニ》 開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花乎《サクラノハナヲ》 令見兒毛欲得《ミセムコモガモ》
人ガ登ツテ〔五字傍線〕行キ合フ坂ノ麓ニ、枝モ曲ガルホド咲イテヰル櫻ノ花ヲ、私ノ愛スル女ニ見セタイガ〔私ノ〜傍線〕、見セル女ガ此處ニ〔三字傍線〕居レバヨイガ。
○射行相乃《イユキアヒノ》――イは接頭語、坂の上で旅人が行合ふから、かういふのであるが、坂の枕詞ではない。○坂上之(85)蹈本爾《サカノフモトニ》――上の字は藍紙本などにないのが原形であらう。蹈本の二字は麓の語源を現はしてゐるやうに見える。○令見兒毛欲得《ミセムコモガモ》――兒は女。見すべき女があればよいといふのである。
〔評〕 長歌で行幸を主としてゐるので、これには方面を變へて女を點出して、私情を述べてゐる、長歌と氣分が變つて面白い感じを與へる。
※[手偏+僉]税使大伴卿登(レル)2筑波山(ニ)1時(ノ)歌一首并短歌
※[手偏+僉]税使は臨時の官で、五畿七道に出張して、國司の財政を點檢することを掌る。毎遣、使一人、判官・主典各一人を以て定員としてゐる。績日本紀には、光仁天皇の寶龜七年大伴宿禰潔足・石上朝臣家成らを以て※[手偏+僉]税使としたことが見えて、これが史に記された最初であるが、この歌はそれよりも遙かに以前である。大伴卿は代匠記初稿本に安麿かとし、精撰本には旅人としてゐるが、これは大伴旅人と推定すべきである。何となれば、この下に鹿島郡苅野(ノ)橋別2大伴卿1歌一首并短歌(一七八〇)の左註に、右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出とあり、これは※[手偏+僉]税使の任を終つた大伴卿が常陸國を去つて下總に渡らうとする時、蟲麿が別を惜しんで詠んだものである。當時蟲麿は常陸國の役人として在任したもので、それは藤原宇合が常陸の國守をしてゐた時であつたらしいことは、蟲麿と宇合との間が非常に親密な關係であつたことによつて想像せられる。續日本紀に、「養老三年七月庚子、始置2按察使1令2常陸國守五五位上藤原朝臣宇合1管2安房上總下總三國1神龜元年四月丙申以2式部卿正四位上藤原朝臣宇合1處2二持節大將軍1」とあるから、養老年間のことであつた。安麿は和銅七年五月に薨じてその時は既に亡いから、どうしても旅人であらねばならぬ。旅人は養老三年三月中納言となり、三年九月に山背國攝官となり、四年三月征隼人持節大將軍として西國に赴いてゐるから、これを旅人とすれば、その中納言時代であつたらうと思はれる。なほこの歌は大伴卿の作ではなく、高橋蟲麿の歌に相違ない。
1753 衣手の 常陸の國 二ならぶ 筑波の山を 見まく欲り 君來ませりと 熱けくに 汗かきなげ 木の根取り 嘯きのぼり 岑の上を 君に見すれば 男の神も 許し賜ひ 女の神も ちはひ給ひて 時となく 雲居雨降る 筑波嶺を さやに照らして いぶかりし 國のまほらを つばらかに 示し賜へば うれしみと 紐の緒解きて 家の如 解けてぞ遊ぶ うち靡く 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日のたぬしさ
(86)衣手《コロモデノ》 常陸國《ヒタチノクニ》 二並《フタナラブ》 筑波乃山乎《ツクバノヤマヲ》 欲見《ミマクホリ》 君來座登《キミキマセリト》 熱爾《アツケクニ》 汗可伎奈氣《アセカキナゲ》 木根取《コノネトリ》 嘯鳴登《ウソブキノボリ》 岑上乎《ヲノウヘヲ》 君爾令見者《キミニミスレバ》 男神毛《ヲノカミモ》 許賜《ユルシタマヒ》 女神毛《メノカミモ》 千羽日給而《チハヒタマヒテ》 時登無《トキトナク》 雲居雨零《クモヰアメフル》 筑波嶺乎《ツクバネヲ》 清照《サヤニテラシテ》 言借石《イブカリシ》 國之眞保良乎《クニノマホラヲ》 委曲爾《ツバラカニ》 示賜者《シメシタマヘバ》 歡登《ウレシミト》 紐之緒解而《ヒモノヲトキテ》 家如《イヘノゴト》 解而曾遊《トケテゾアソブ》 打靡《ウチナビク》 春見麻之從者《ハルミマシユハ》 夏草之《ナツクサノ》 茂者雖在《シゲクハアレド》 今日之樂者《ケフノタヌシサ》
(衣手)常陸國ノ男體女體ノ〔五字傍線〕二ツノ峯ガ並ンデヰル筑波山ヲ、見タイト思ツテ大伴卿ガオイデナサツタトイフノデ、私ハ〔六字傍線〕暑イノデ汗ヲカキ拂ヒツツ、木ノ根ニトリスガリナガラ、吐息ヲツイテ御供ヲシテ〔五字傍線〕登ツテ、峯ノ上ノ景色〔三字傍線〕ヲ大伴卿ニ見セルト、ソレヲ男體山ノ〔七字傍線〕男ノ神様モオ許シナサレ、女體山ノ〔四字傍線〕女ノ神様モ、幸ヲ下シナサレテ、イツモハ〔四字傍線〕何時トイフコトナク雲ガカカツテ雨ノ降ル筑波山ヲ、今日ハ日光ガ〔六字傍線〕明ラカニ照ラシテ、今マデハツキリシナカツタ常陸ノ〔三字傍線〕國ノヨイ國原ヲ委シク示シテ下サツタノデ、嬉シイトテ着物ノ〔三字傍線〕紐ノ緒ヲ解イテクツロイデ〔五字傍線〕、家ニヰル時〔四字傍線〕ノヤウニ、打解ケテ遊ブ。(打靡)春來テ見ルヨリハ、今ハ〔二字傍線〕夏草ガ茂ク生エテハヰルガ.今日ノ方ガ樂シイヨ。
○衣手《コロモデノ》――コロモデと四言に訓んでもよいところであるが、コロモデノと訓む方がよい。一六九六參照。枕詞。この續き方について冠辭考には「こは在滿がいへる、ひだとつづけたらんと。今考るに古の袖ははばのせばくてたけの長ければ、手拱《タムタク》にも事をなすにも、袂のくだりをたぐる故に、ひだ多かるべし。依て右の説をよしとす。云々」とある。○二並《フタナラブ》――舊訓フタナミノ、略解もさう訓んでゐるが、古義にフタナラブとあるのがよい。○君來座登《キミキマセリト》――君は大伴卿を指す。○熱爾《アツケクニ》――卷一、山下風之寒久爾《ヤマノアラシノサムケクニ》(七四)に傚つて、アツケクニと訓むがよい。(87)○汗可伎奈氣木根取《アセカキナゲキコノネトリ》――代匠記精撰本に、氣の下、伎を脱とし、アセカキナゲキキノネトリとしてゐる。略解はこれに從ひ、古義は木根をコノネと訓んで、他は同訓であるが、ここは原形を尊重して訓んだ新訓に從フ。汗可伎奈氣《アセカキナゲ》は、汗かき拂ひといふやうな意味であらう。○嘯鳴登《ウソブキノボリ》――ウソブキはため息をつく、息せき切つて登ることである。ウソを吹くは口笛を吹くことで、ここでは呼吸によつて音を發する意である。ウソブキと訓むべきで、ウソムキではよくない。○男神毛《ヲノカミモ》――前に二並《フタナラブ》とあつたやうに、筑波山は男體山・女體山の二峯からなつてゐる。男神は即ち男體山の神、女神は女體山の神である。○千羽日給而《チハヒタマヒテ》――チハヒは幸《サチハ》ひの略である。神が幸を與へ給ふこと。卷十一、靈治波布神毛吾者打棄乞《タマチハフカミモワレヲバウツテコソ》(二六六一)とあるタマチハフも同じ。○時登無《トキトナク》――平生いつでもの意。トキジクに同じ。○雲居雨零《クモヰアメフル》――雲がゐて雨が降るの意。この句は直に下の筑波嶺に續いてゐる。○言借石《イブカリシ》――イブカリシはイブカルに助動詞シを添へたもので、イブカルは不明瞭に思ふことである。イブはイブルのイブであつて、大祓祝詞の五百霧《イホリ》と同一語と考へられる。略解の宣長説に、石を木の誤として、イブカシキと訓んだのはどうであらう。○國之眞保良乎《クニノマホラヲ》――眞保良《マホラ》はよい處。八〇〇參照。○紐之緒解而《ヒモノヲトキテ》――着物の胸に結んである紐を解いて、胸をはだけてくつろいで遊ぶのである。○春見麻之從者《ハルミマシユハ》――春見むよりはの意。
〔評〕 夏の暑い頃、大伴卿を筑波山に案内し、幸に頂上の展望をほしいままにし得たことを喜んだ作で、卷三の神岳に登つて山部赤人が詠んだ長歌(三二四)などのやうに、叙景を主としないで、その時の事情や作者の氣分がよく現はれるやうになつてゐる。また同卷の丹比眞人國人が筑波岳に登つて作つた長歌(三八二)は雪消の山路をなづみつつ辿つたのであるのに、これは暑い夏の盛りに汗を拂ひつつ登つたので、二者を對比すると面白い。年代もほぼ同じ頃らしい。
反歌
1754 今日の日に いかにかしかむ 筑波嶺に 昔の人の 來けむその日も
今日爾《ケフノヒニ》 何如將及《イカニカシカム》 筑波嶺《ツクバネニ》 昔人之《ムカシノヒトノ》 將來其日毛《キケムソノヒモ》
昔ノ人ガコノ筑波ニ來テ面白ク遊ンダガ〔昔ノ〜傍線〕、コノ筑波山ニ昔ノ人ガ來タデアラウソノ日デモ、今日ノコノ日ノ面(88)白サニドウシテ及バウゾ。今日ホド面白イコトハ今マデアルマイ〔今日〜傍線〕。
○何何將及《イカニカシカム》――舊訓イカガオヨバム、古義はイカデシカメヤとあるが、薪考によつてイカニカシカムと訓むことにする。
〔評〕 昔の人とは何か指す所があつていつたのであらう。略解に「昔の人は誰とさす所なし」とあるが、さうではあるまい。今日の嬉しさを強調したに過ぎない歌である。
詠(メル)2霍公鳥(ヲ)1一首并短歌
1755 鶯の かひこの中に ほととぎす ひとり生れて なが父に 似ては鳴かず なが母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野邊ゆ 飛びかけり 來鳴きとよもし 橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし まひはせむ 遠くな行きそ 我が屋戸の 花橘に 住みわたれ鳥
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 生卵乃中爾《カイヒコノナカニ》 霍公鳥《ホトトギス》 獨所生而《ヒトリウマレテ》 己父爾《ナガチチニ》 似而者不鳴《ニテハナカズ》 己母爾《ナガハハニ》 似而者不鳴《ニテハナカズ》 宇能花乃《ウノハナノ》 開有野邊從《サキタルヌベユ》 飛翻《トビカケリ》 來鳴令響《キナキトヨモシ》 橘之《タチバナノ》 花乎居令散《ハナヲヰチラシ》 終日《ヒネモスニ》 雖喧聞吉《ナケドキキヨシ》 幣者將爲《マヒハセム》 遐莫去《トホクナユキソ》 吾屋戸之《ワガヤドノ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 住度鳥《スミワタレトリ》
鶯ノ巣ノ中ノ〔四字傍線〕卵ノ中カラ、郭公ガ獨リ生レ出テ、汝ノ父ニ似テハ鳴カズ、汝ノ母ニモ似テハ鳴カナイデ、卯ノ花ノ咲イテヰル野原カラ、飛ビ翔ツテ來テ鳴キ叫ンデ、橘ノ花ヲ枝ニ〔二字傍線〕トマツテ散ラシ、秋日鳴イテヰルガ、面白イ聲デ〔四字傍線〕聞イテモ飽キナイデ〔五字傍線〕聞キヨイ。オマへニ〔四字傍線〕進物ヲアゲヨウカラ〔二字傍線〕、遠クヘ飛ンデ行クナヨ。私ノ家ノ花橘ニイツモ住ンデ居レヨ、時〔傍線〕鳥ヨ。
○生卵乃中爾《カヒコノナカニ》――カヒコは卵。和名抄に「卵(ハ)鳥胎也加比古」とあるが、雄略紀に「國之危殆、過2於累1v卵」の卵に振仮名してカヒとあり、また拾遺集に「鳥の子はまだ雛ながらたちていぬかひの見ゆるは巣もりなりけり」(89)とあるによると、カヒが卵で、コは添へたのみである。○獨所生而《ヒトリウマレテ》――獨り生れるとは、郭公が鶯の卵の中から自分だけが違つた姿で生れること。○己父爾《ナガチチニ》――己は舊訓サガとあり。略解にシガとある。己之心柄《ナガココロカラ》(一七四一)で説明したやうにナガとよむがよい。ナガチチは汝が父で、鶯の父をいふ。○宇能花乃開有野邊從《ウノハナノサキタルヌベユ》――卯の花の咲いてゐる野邊から。古義には「サキタルヌベヨと訓べし。從《ヨ》は乎《ヲ》と云が如し」とあるが、ここには當るまい。○飛翻《トビカケリ》――舊訓はトビカヘリとある。翻は鳥の飛ぶことで、轉じてひるがへる義に用ゐる。略解にトビカケリと訓んだのがよいやうに思はれる。なほ神田本に翻を飜に作つてゐるが、この二字は同字である。○花乎居令散《ハナヲヰチラシ》――ヰチラシは居て散らす。橘の枝に宿つて花を散らすこと。○幣者將爲《マヒハセム》――幣《マヒ》は賄《マヒ》。贈物。九〇五參照。○住度鳥《スミワタレトリ》――住み渡れよ、時鳥よの意。度は渡に通じて用ゐられたもの。絶えず住むことを、住み渡るといふ。古義に鳥を鳴の誤として、スミワタリナケと改めたのはよくない。次の反歌と共に、鳥で名詞止になつてゐるのである。
〔評〕郭公が鶯の巣に卵を生んで雛を孵化せしめる説話は、當時廣く語られてゐたことで、卷十九にも、欲其母理爾鳴霍公鳥從古可多理都藝都流※[(貝+貝)/鳥]之宇都之眞子可母《ヨゴモリニナクホトトギスイニシヘヨカタリツギツルウグヒスノウツシマコカモ》(四一六六)とある。この事に關し、本朝食鑑・和漢三才圖會・江談抄などに記載があるが、今鏡の第十に「菩提樹院といふ寺に、ある僧房の池のはちすに、鳥の子をうみたりけるをとりて、籠にいれて飼ひけるほどに、うぐひすの籠より入りてものくくめなどしければ、うぐひすの子なりけりと知りにけれど、子はおほきにて親にも似ざりければ、怪しく思ひけるほどに、子のやうやうおとなしくなりで、ほととぎすと鳴きければ、むかしより云ひ傳へたるふるきこと誠なりと思ひて云々」と、載つてゐる。この長歌を少し短く改作して、袖中抄にかかげてゐる。また謠曲の哥占には「うぐひすのかひこの中のほととぎすしやが父に似てしやが父に似ず」といふ歌が引かれてあるが、これもこの歌から出てゐることはいふまでもない。かく後世に影響を與へた點に於て、注意すべき作品である。
反歌
(90)1756 かききらし 雨の降る夜を ほととぎす 鳴きて行くなり あはれその鳥
掻霧之《カキキラシ》 雨零夜乎《アメノフルヨヲ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而去成《ナキテユクナリ》 ※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》
空ガカキ曇ツテ雨ノ降ル晩ニ、郭公ガ面白イ聲デ〔五字傍線〕鳴イテ行クナア。アア面白イ〔三字傍線〕アノ鳥ヨ。
○掻霧 《カキキラシ》――カキは接頭語。キラシはキリに同じ。天霧之《アマキラシ》(一六四三)も同樣である。なほこの語は曇らしめる意と解かれてゐるが、中古文に多い「かきくらす」などの用例を見ても、使役の意はないやうである。○※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》――アハレはああ面白いと歎じた感嘆詞。あはれなるその鳥といふのではない。
〔評〕 長歌には郭公の習性について歌つたが、反歌には五月雨の夜に鳴く郭公を愛でたのである。枕草子に、夜鳴く鳥として郭公を激賞してゐるやうに、郭公が他鳥と異なる美點はここにあると言つてもよい。ことにこれは雨中であるから尚更趣があるわけである。なほこの歌は、卷七の名兒乃海乎朝榜來者海中爾鹿子曾鳴成※[立心偏+可]怜其水手《ナゴノウミヲアサコギクレバワタナカニカコゾヲブナルアハレソノカコ》(一四一七)と形式が似てゐる。
登(ル)2筑波山(ニ)1歌一首并短歌
1757 草枕 旅の憂を なぐさもる 事もあらむと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花ちる しづくの田井に 鴈がねも 寒く來鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長きけに 念ひつみ來し 憂ひはやみぬ
草枕《クサマクラ》 客之憂乎《タビノウレヒヲ》 名草漏《ナグサモル》 事毛有武跡《コトモアラムト》 筑波嶺爾《ツクバネニ》 登而見者《ノボリテミレバ》 尾花落《ヲバナチル》 師付之田井爾《シヅクノタヰニ》 鴈泣毛《カリガネモ》 寒來喧奴《サムクキナキヌ》 新治乃《ニヒバリノ》 鳥羽能淡海毛《トバノアフミモ》 秋風爾《アキカゼニ》 白浪立奴《シラナミタチヌ》 筑波嶺乃《ツクバネノ》 吉久乎見者《ヨケクヲミレバ》 長氣爾《ナガキケニ》 念積來之《オモヒツミコシ》 憂者息沼《ウレヒハヤミヌ》
(草枕)旅中ノツラサヲ少シハ〔三字傍線〕慰メルコトモアルカト思ツテ、筑波山ニ登ツテ見ルト、尾花ノ花ガ散ル雫村ノ田ニ、鴈モ寒イ聲ヲ出シテ來テ鳴イタ。新治ノ鳥羽ノ湖モ秋風ガ吹クノニツレテ、白浪ガ立チ騷イデヰル。コノ(91)筑波山ニ登ツテ〔九字傍線〕、筑波山ノ景色ノヨイノヲ見ルト、長イ日數ノ間、胸ノ中ニ〔四字傍線〕思ツテ積ンデ來タ心配ハスツカリ〔四字傍線〕止ンデシマツタ。ホントニコノ山ハヨイ景色ダ〔ホン〜傍線〕。
○名草漏《ナグサモル》――文字通りナグサモルと訓むがよい。慰むる。○師付之田井爾《シヅクノタヰニ》――師付は今、常陸新治郡志筑村。石岡町の西南一里の地點にある。田井はタンボ。伏見何田井爾《フシミガタヰニ》(一六九九)參照。○新治乃《ニヒバリノ》――新治は常陸風土記に「新治郡、東那賀郡堺大山、南白壁郡、西毛野河、北下野常陸二國之堺即波多岡」とあり。和名抄|爾比波里《ニヒハリ》と註し、十二郷に分つてゐる。即ち葦穗山の西方の地で、今は眞壁郡と西茨城郡とに編入せられてゐる。今、筑波山の東方に新治郡があるのは、文禄年間に猥りに古名を襲うたもので、彼の地は古の茨城郡の地域内に當つてゐる。○鳥羽能淡海毛《トバノアフミモ》――鳥羽能淡海は、大日本地名辭書に、「今高道祖の西北にして、眞壁郡上野村、鳥羽村と同郡黒子村、騰波江村、大寶村との間なる卑濕、蓋是なり。古風土記に筑波郡西十里、在騰波江、長二千九百歩、廣一千五百歩、東筑波郡、南毛野河、西北新治郡、艮白壁郡、と載せしにて明白す。古の筑波・白壁・新治、及び毛野河(此には、高道祖の西なる絹川の舊河道、糸繰《イトクリ》川とも(92)いへるが、新治郡と豐田都の間を東へ流れ、高道祖に至る者を毛野河と云ふ)の中間なる一大澤にして、子飼川之に※[さんずい+匯]し、渺々たる江海を成せる也」といひ、更にこの歌を擧げて「新治郡内の地に、騰波江を求めて大寶沼を以て之に充てしは、甚しき誤なりと」言つてゐるが、地形から考へても、大寶沼説は當らぬやうである。ここに掲げた地圖は、日本地理風俗大系によつたもので、大體當時の模樣を想像することが出來よう。○長氣爾《ナガキケニ》――ながき日に。長い目數を經ての意。
〔評〕 冒頭に旅の愁をなぐさめむとして山に登ることを述べ、次いで東は師付の田に鳴く雁、西は鳥羽の湖上に立つ白浪を歌つて、短い叙述のうちに、晩秋らしい頂上からの展望を讃嘆し、終に、これによつて果して旅の愁を忘れ得たと呼應してゐるのは、まことに用意ある作品である。
反歌
1758 筑波ねの すそみの田井に 秋田苅る 妹がりやらむ 黄葉手折らな
筑波嶺乃《ツクバネノ》 須蘇廻乃田井爾《スソミノタヰニ》 秋田苅《アキタカル》 妹許將遣《イモガリヤラム》 黄葉手折奈《モミヂタヲラナ》。
筑波山ノ麓ノ廻ノ田デ、秋ノ田ノ稻〔二字傍線〕ヲ苅ツテヰル愛ラシイ〔四字傍線〕女ノ所ヘ、土産トシテ〔五字傍線〕持ツテ行ク紅葉ヲ折取ラウナア。
○須蘇廻乃田井爾《スソミノタヰニ》――山裾の田の面で。田井の井に意味はない。
〔評〕 妹とあるのは、山に登らうとして途中に見た稻刈る處女であらう。作者が筑波山麓の農婦を愛人としてゐるわではない。略解に「此山よりふもとを見おろして、田ゐに稻刈妹がもとへやらんために、紅葉を手折らんといふのみ」とあるのは從ひ難い。かくの如く反歌に於て、長歌の内容と全くかけ隔つたことを述べるのが、この作者の一技巧のやうに思はれる。
登(リテ)2筑波嶺(ニ)1爲(ス)2※[女+燿の旁]歌會《カガヒヲ》1日作(レル)歌一首并短歌
(93)※[女+燿の旁]歌は左註に東俗語曰賀我比とあるやうに、カガヒと訓むのである。ここでは※[女+燿の旁]歌會の三字をカガヒと訓んでよからう。※[女+燿の旁]歌は玉篇に「※[女+燿の旁]、往來貌」とあり、蠻人の歌である。常陸風土記香島郡童子女松原の條に「※[女+燿の旁]歌之會俗曰宇太我岐、又曰加我毘也」とあり、カガヒは歌垣の本語と思はれる。歌垣の事は攝津風土記・古事記・書紀などにも見え、書紀には歌場と書いてウタガキと訓ませてある。釋日本紀に歌場は「男女集會詠和歌契交接之所也」とある。カガヒはこの歌の中に、加賀布※[女+燿の旁]歌爾《カガフカカヒニ》とあつて、カガフといふ動詞が名詞となつたものである。その語意について諸説があるが明らかでない。男女相集つて婚するやうな意味で、下の詠2勝鹿眞間娘子1歌(一八〇七)に歸香具禮《ユキカグレ》とあるカグレと同語らしい。
1759 鷲の住む 筑波の山の もはきづの その津の上に あともひて をとめ壯士の ゆき集ひ かがふかがひに ひと妻に 我も交らむ 吾が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
鷲住《ワシノスム》 筑波乃山之《ツクバノヤマノ》 裳羽服津乃《モハキヅノ》 其津乃上爾《ソノツノウヘニ》 率而《アトモヒテ》 未通女壯士之《ヲトメヲトコノ》 往集《ユキツドヒ》 加賀布※[女+燿の旁]歌爾《カガフカガヒニ》 他妻爾《ヒトヅマニ》 吾毛交牟《ワレモマジラム》 吾妻爾《ワガツマニ》 他毛言問《ヒトモコトトヘ》 此山乎《コノヤマヲ》 牛掃神之《ウシハクカミノ》 從來《ムカシヨリ》 不禁行事叙《イサメヌワザゾ》 今日耳者《ケフノミハ》 目串毛勿見《メグシモナミソ》 事毛咎莫《コトモトガムナ》 ※[女+燿の旁]歌者東俗語曰賀我比
鷲ガ住ンデヰル筑波ノ山ノ、裳羽服津ノソノ津ノアタリニ、連レ立ツテ少女ト若イ男トガ行キ集ツテ、互ニ交リ合フ歌垣壇デ、他人ノ妻ト私モ一緒ニ交ラウ。私ノ妻ニ他人モ話ヲシナサイ。コノ筑波〔二字傍線〕山ニ鎭座シテ領シテイラツシヤル神樣ガ、昔カラ禁ジテヰナイコトダゾヨ。今日バカリハソレヲ〔三字傍線〕不快ニ思ツテ見ルナヨ。マタ〔二字傍線〕言葉ニモ咎メルナヨ。
○鷲住《ワシノスム》――筑波山は木の茂つた高山で、鷲が多く棲んでゐたのであらう。筑波禰爾可加奈久和之能《ツクバネニカガナクワシノ》(三三九〇)(94)とある。○裳羽服津乃《モハキヅノ》――裳羽服津《モハキヅ》は筑波山中にあつた地名。津とあるから水邊であらうが今明らかでない。○率而《アトモヒテ》――舊訓イザナヒテとあるよりも、古義にアトモヒテとあるがよい。相率ゐての意。○加賀布※[女+燿の旁]歌爾《カガフカガヒニ》――右の題詞の解を見よ。○吾毛交牟《ワレモマジラム》――マジラムは舊訓カヨハムとある。袖中抄にもさうなつてゐるから、これが古訓であらう。童蒙抄マジラム、考マキナム、古義アハムとある。ここはマジラムが穩やかのやうである。意は右に掲げた繹日本紀の歌場の註の通りであらう。○牛掃神之《ウシハクカミノ》――ウシハクは領する。主佩《ウシハク》。卷五の宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》(八九四)參照。○從來《ムカシヨリ》――略解ハジメヨリ、古義イニシヘヨと訓んでゐるが、舊訓ムカシヨリとあるのがよい。○不禁行事叙《イサメヌワザゾ》――文字の通り禁ぜざる行事ぞの意。○目串毛勿見《メグシモナミソ》――メグシは卷十七に相見婆登許波都波奈爾情具之眼具之毛奈之爾《アヒミレバトコハツハナニココログシメグシモナシニ》(二九七八)とあり、卷四に情具久照月夜爾《ココログクテレルツクヨニ》(七三五)・情八十一所念可聞《ココログクオモホユルカモ》(七八九)などのココログシも同意で、心がくぐもりて不快を覺えることであらう。これを卷五の妻子美禮婆米具斯宇都久志《メコミレバメグシウツクシ》(八〇〇)のメグシと同じく、愛らしい意とする説は當らない。この句は見て不快に思ふなよの意。○事毛咎莫《コトモトガムナ》――事は言。言葉にて咎むるなの意。○※[女+燿の旁]歌者東俗語曰賀我比――これは編者の註である。卷十七に、東風越俗語東風謂之安由乃可是也(四〇一七)とあるに似た書き方である。
〔評〕 京畿地方の歌垣と同じやうで、もつと原始的なものが東國にも行はれ、これをカガヒと言つたことがこの歌によつてうかがひ知られる。上代風俗の研究資料としても得難い貴いものである。かなり思ひ切つた肉感的な文句が用ゐてはあるが、卑猥な感がする程でもない。
反歌
1760 男の神に 雲立ち登り 時雨ふり ぬれ通るとも 我かへらめや
男神爾《ヲノカミニ》 雲立登《クモタチノボリ》 斯具禮零《シグレフリ》 沾通友《ヌレトホルトモ》 吾將反哉《ワレカヘラメヤ》
男體ノ方ノ山〔四字傍線〕ニ雲ガ立チ登ツテ、時雨ガ降ツテ着物ガ〔三字傍線〕濡レ通ルトテモ、私ハコノ※[女+燿の旁]歌ヲヤメテ〔八字傍線〕歸ラウカ。決シテコンナ面白イ※[女+燿の旁]歌ヲヤメテ歸リハセヌ〔決シ〜傍線〕。
(95)○男神爾《ヲノカミニ》――男神は男體山。常陸風土記に「夫筑波岳、高秀2于雲1、最頂西峰〓〓、謂2之雄神1、不v令2登臨1但東峰四方磐石、昇降決屹、其側流泉、冬夏不v絶、自v坂以東諸國男女、春花開時、秋葉黄節相携駢〓、飲食齎賚、騎歩登臨、遊樂栖遲」とあり、この※[女+燿の旁]歌が東峯即ち女體山の頂上で行はれたことがわかる。從つてこの歌の初二句は女體山から男體山を眺める趣である。○斯具禮零《シグレフリ》――シグレは後世では初冬の雨となつてゐるが、この集では秋にも詠んである。ここは秋の※[女+燿の旁]歌と見える。
〔評〕 歡樂の美酒に醉つてゐる若い男女の心をよく表現してゐる。常陸風土記に「俗諺曰、筑波峰之會、不v得2娉財1者兒女不v爲矣」とあるので、この地方の若い男女にとつて、如何に公認の享樂場であつたかがわかる。
右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出
右件とあるは詠上總末珠名娘子一首并短歌以下ここまでの歌を指してゐる。何れも高橋蟲麿の作らしい。
詠(メル)2鳴鹿(ヲ)1歌一首并短歌
1761 三諸の 神奈備山に 立ち向ふ 三垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ あしびきの 山彦響め 呼びたて鳴くも
三諸之《ミムロノ》 神邊山爾《カムナビヤマニ》 立向《タチムカフ》 三垣乃山爾《ミカキノヤマニ》 秋芽子之《アキハギノ》 妻卷六跡《ツマヲマカムト》 朝月夜《アサヅクヨ》 明卷鴦視《アケマクヲシミ》 足日木乃《アシビキノ》 山響令動《ヤマビコトヨメ》 喚立鳴毛《ヨビタテナクモ》
三諸ノ神奈備山ニ相對シテヰル三垣ノ山デ、鹿ガ〔二字傍線〕、秋萩ノ花〔傍線〕妻ヲ得テ共ニ寢ヨウト思ツテ、朝有明ノ〔三字傍線〕月夜ガ明ケルノガ惜シサニ、(足日木乃)山ニ反響ヲ響カセテ、妻ヲ〔二字傍線〕喚ビ立テテ鳴クヨ。
○三諸之神邊山爾《ミムロノカムナビヤマニ》――三諸は御室。神邊山はカムナビヤマ。神邊はカムノベの轉、カムナビと訓むのである、この山は即ち雷山。○立向相《タチムカフ》――相對する意。○三垣乃山爾《ミカキノヤマニ》――三垣乃山の名はこの他に見えない。神南備山の御垣をなす山の意か。位置を以て推すに甘橿の岡か。○秋芽子之妻卷六跡《アキハギノツマヲマカムト》――この二句、異説が多い。契沖(96)は秋萩の如く珍らしき妻を卷き寢むの意とし、宣長は六跡の二字は虚の一字を誤つたものとして、ツママクシカノと訓むべしといひ、古義は「秋芽子之妻とは、鹿は萩原にむつれてよく鳴くものなれば、萩を妻と云り。今は鹿のまことの妻を、なぞらへていへるなり」といつてゐる。その他にも説がある。卷八の吾岳爾棹牡鹿來鳴先芽之花嬬問爾來鳴棹牡鹿《ワガヲカニサヲシカキナクサキハギノハナヅマトヒニキナクサヲシカ》(一五四一)のハナヅマと同じく、萩の花を鹿の花妻といつたのであらう。
〔評〕 全篇の主格たる鹿といふ語が、何處にも現はれてゐない。その爲に誤字説や、脱句接が跋扈してゐる。然しこのままで差支へあるまい。萩の花を妻として枕くのでは、實情にそはぬと思つてか、眞の妻を戀うて呼び立てて鳴くとする説が多いのは尤もであるが、要するに、朝の塵の鳴く聲を、待不逢戀などになぞらへていひなしたもので、言葉の上だけの歌として見るべきであらう。
反歌
1762 明日のよひ 逢はざらめやも あしびきの 山彦とよめ 呼び立て鳴くも
明日之夕《アスノヨヒ》 不相有八方《アハザラメヤモ》 足日木乃《アシビキノ》 山彦令動《ヤマビコトヨメ》 呼立哭毛《ヨビタテナクモ》
鹿ハ今夜妻ニ逢ヘナイトシテモ〔鹿ハ〜傍線〕明晩逢ヘナイトイフコトモアルマイ。ソレダノニ〔五字傍線〕(足日木之)反響ヲ響カセテ、鹿ガ〔二字傍線〕呼ビ立テテ鳴クヨ。アレ程ニ鳴カナイデモヨカラウニ〔アレ〜傍線〕。
○不相有八方《アハザラメヤモ》――逢はざらんや、必ず逢ふであらうの意。
〔評〕 これも主格がないのは、長歌に讓つたのであらう。表現に力がある。この歌の解、古義は誤つてゐる。
右件歌或云柿本朝臣人麻呂作
略解・古義などこれを後人の註としてゐるが、必ずしもさうは言はれない。しかし歌は多分人麿作ではあるまい。
(97)沙彌女王(ノ)歌一首
沙彌女王の傳は全くわからない。
1763 倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出で來る月の 片待ち難き
倉橋之《クラハシノ》 山乎高歟《ヤマヲタカミカ》 夜※[穴/牛]爾《ヨゴモリニ》 出來月之《イデクルツキノ》 片待難《カタマチガタキ》
倉橋山ガ高イ爲カ、山ニ邪魔サレテ〔七字傍線〕、夜更ケテカラ出テ來ル月ガナカナカ出ナイノデ〔九字傍線〕、心力ラ待ツテヰテ待チ遠イヨ。
○好片待難《カタマチガタキ》――心を傾けて待つに待ちかねるの意、○夜※[穴/牛]爾《ヨゴモリニ》――夜遲く。※[穴/牛]は牢の俗字。
〔評〕 この歌は左註にある通り、卷三の椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸《クラハシノヤマヲタカミカヨゴモリニイデクルツキノヒカリトモシキ》(二九〇)と同歌で、末句が異なつてゐるのみ。この歌の方が卷三のよりも合理的である。
右一首(ハ)間人宿禰大浦(ノ)歌中(ニ)既(ニ)見(ユ)、但未一句相換(リ)亦作歌兩主不2敢(テ)正指(セ)1、因(リ)以(テ)累(ネ)載(ス)、
不敢正指は正しく指すことが出來ない、即ち正しい判斷を下すことが出來ないの意。
七夕歌一首并短歌
1764 久方の 天の河原に 上つ瀬に 珠橋渡し 下つ瀬に 舟浮けすゑ 雨ふりて 風吹かずとも 風吹きて 雨ふらずとも 裳ぬらさず やまず來ませと 玉橋わたす
久堅乃《ヒサカタノ》 天漢爾《アマノカハラニ》 上瀬爾《カミツセニ》 珠橋渡之《タマハシワタシ》 下湍爾《シモツセニ》 船浮居《フネウケスヱ》 雨零而《アメフリテ》 風不吹登毛《カゼフカズトモ》 風吹而《カゼフキテ》 雨不落等物《アメフラズトモ》 裳不令濕《モヌラサズ》 不息來益常《ヤマズキマセト》 玉橋渡須《タマハシワタス》
(久堅乃)天ノ川原ニ、上ノ方ノ瀬ニハ美シイ橋ヲ渡シ、下ノ方ノ瀬ニハ船ヲ浮ベ並ベテ、雨ガ降ツテ風ガ吹カ(98)ナイデモ、風ガ吹イテ雨ガ降ラナイデモ、裳ヲ沾サナイデ、絶エズ此處ヘ〔三字傍線〕通ツテオイデナサイトテ、美シイ橋ヲカケル。
○珠橋渡之《タマハシワタシ》――珠橋の珠はほめていふのみ。○船浮居《フネウケスヱ》――舊訓フネウケスヱテとある。古義にフネウケスヱと六言に訓んだのがよい。代匠紀・略解などにはフネヲウケスヱと訓んでゐる。この句で意味が切れてゐるといふので、スウ又はスヱツと訓まうとする説もあるが、意が切れて語勢の切れない例はいくらもある。○風不吹登毛《カゼフカズトモ》――略解に「宣長云或人説、二つの不の字は者の誤にて、かぜはふくともかぜふきて、あめはふるともならんといへり。是然べし」とある。さう改めれば意はよく聞えるが、ここではしばらく舊のままにしておかう。
〔評〕 牽牛星を待つ織女星の心になつて詠んだ歌である。上瀬・下瀬の對句は、既に卷一(三八)・卷二(一九四・一九六)などにも見えて珍らしくはないが、ここは美しく出來てゐる。結句に珠橋のみを用ゐて船をいはないのは、次の反歌に讓つたものか。
反歌
1765 天の川 霧立ち渡る 今日今日と 吾が待つ君が 船出すらしも
天漢《アマノガハ》 霧立渡《キリタチワタル》 且今日且今日《ケフケフト》 吾待君之《ワガマツキミガ》 船出爲等霜《フナデスラシモ》
天ノ川ニハ霧ガ立チ渡ツテヰル。アレヲ見レバ〔六字傍線〕今日カ今日カト風ツテ〔三字傍線〕、私ガ待ツテヰルアノ〔二字傍線〕オ方ガ、船出ヲスルラシイヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○且今日且今日《ケフケフト》――今日か今日かと。この用例は卷二の且今日且今日吾待君者石水貝爾交而有登不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》(二二四)と同樣である。
〔評〕 天の河に立つ霧を見て、牽牛星の船出と思つたのは、卷八に牽牛之迎嬬船己藝出良之漢原爾霧之立波《ヒコホシノツマムカヘブネコギヅラシアマノカハラニキリノタテルハ》(一五二七)とあると同じであらう。略解に「霧の立にて秋の來るを知なり」といつたのは誤つてゐる。またこの歌の下句(99)は、卷八の天河浮津之浪音佐和久奈里吾待君思舟出爲良之母《アマノガハウキツノナミトサワグナリワガマツキミシフナデスラシモ》(一五二九)と同じく、歌意も亦似たところがある。
右件歌(ハ)或(ハ)云(フ)中衛大將藤原北卿(ノ)宅(ニテ)作(レル)也
中衛大將藤原北卿は藤原房前。卷五(八一一)に謹通中衛高明閣下謹空とあるところに精しく説明しておいた。房前が中衛の大將となつたのは、神龜五年八月、中衛が初めて設置せられた時と思はれるから、この註の如くならば、この歌の時代は天平の初頃で、右に擧げた卷八の歌と殆ど同時である。
相聞
振田向《フルノタムケ》宿禰退(ル)2筑紫國(ヲ)1時(ノ)歌一首
振田向宿禰は傳が全くわからない。振は布留で、姓氏録に布留宿禰とあるものであらう。田向は名か。
1766 我妹子は 釧にあらなむ 左手の 吾が奥の手に まきていなましを
吾妹兒者《ワギモコハ》 久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》 左手乃《ヒダリテノ》 吾奥手爾《ワガオクノテニ》 纒而去麻師乎《マキテイナマシヲ》
私ノ妻ハ、腕ニ纒ク〔四字傍線〕釧ノ玉デアツテクレ。サウシタラ〔五字傍線〕私ノ左ノ手デアル奥ノ手ニ纒キツケテ行カウノニ。アア別レルノガ辛イ〔九字傍線〕。
○久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》――久志呂は釧。腕に卷く玉。四一參照。奈武《ナム》は希望の助詞。○左手乃吾奥手爾《ヒダリテノワガオクノテニ》――左手である吾が奥の手にの意。奥手を臂と解するのは當らない。略解に「古事記、迦具土神の左御手の手纒を投棄給ふになれる神の御名は奥疎神、次に奥津那藝佐※[田+比]古神、次に奥津甲斐辨羅神、右の御手の手纒を投棄給ふになれる神のみ名は邊疎神云々といへり。しかればおくの手とは、只左手といふ事のみにて、ここのおくの手にといふは思ふ妹を大切にする意にとれるなり」とある解釋がよい。上代に於ては、左は右より貴ばれたことは、古事記の淤能碁呂嶋《オノコロジマ》八尋殿の條に、天の御柱を男神は左より巡り給ひ、女神は右より巡り給うたこと、また小(100)門檍原の御禊の條に、日神は伊邪那岐命の、左の御目を洗ひ給ひしにより生れ給ひ、月神は右の御目を洗ひ給ひしによつて、生れ給ひしを以て明らかである。その他これを例證すべきことは多々あるが、ここには略す。○纒而去麻師乎《マキテイナマシヲ》――イナマシヲは行かうものをの意。
〔評〕 任地であつた筑紫を離れむとして、愛する女に與へた歌であらう。親愛の情が溢れてゐる。上代の左右の尊卑を明らかにすべき貴重な例である。
拔氣大首《ヌキゲノオホヒト》任(ゼラル)2筑紫(ニ)1時、娶(リテ)2豐前國娘子|紐兒《ヒモノコヲ》1作(レル)歌三首
拔氣は姓で、大首は名か。拔氣の訓がよくわからない。代匠記はヌケかとし、考は拔を和の誤として和氣と訓んでゐる。古義はヌカケかといつてゐる。大首はオホビトと訓むか。この人の傳は全くわからない。
1767 豐国の 香春は吾家 紐の児に いつがり居れば 香春は吾家
豐國乃《トヨクニノ》 加波流波吾宅《カハルハワギヘ》 紐兒爾《ヒモノコニ》 伊都我里座者《イツガリヲレバ》 革流波吾家《カハルハワギヘ》
豐ノ國ノ香春トイフ所〔四字傍線〕ハ私ノ家ダ。可愛イ〔三字傍線〕紐ノ兒ニ繋ツテ一緒ニ〔三字傍線〕居ルト、コノ〔二字傍線〕香春ハ私ノ家ダ。私ハ故郷ヲ離處レテ來テヰルガ、可愛イ女ガヰルノデココヲ家ト思ツテヰル〔私ハ〜傍線〕。
○加波流波吾宅《カハルハワギヘ》――香春の地は吾が家なりの意。香春は豐前國田川郎香春町。和名抄に田河郡香春郷とある。延喜式に見える田河驛も此處である。背後に巍々たる香春岳が聳え、往古はこの地方の中心として、かなり繁盛した處らしい。卷三にあつた鏡山(四一六)も、この町の東北方程遠からぬ所にある。○紐兒爾《ヒモノコニ》―題詞にある通り、紐兒は娘子の名である。これはその地方の遊女の名であらう。○伊都我里座者《イツガリヲレバ》――イは接頭語、ツガリはツガルといふ動詞。和名抄に、※[金+巣]の字を「日本紀私記云、加奈都賀利」とあり、狩谷掖齋はこれを説明して、「按、都賀利、連鎖之謂、萬葉集大伴家持教2喩尾張少咋1歌、比毛能緒能移郡我利安比弖、拔氣大首歌紐兒爾伊(101)都我里座者、是也、舞人摺袴有2都賀利組1、今俗茶入袋有2須加利1、又以v絲造v嚢、亦謂2之須加利1、並譌2都加利1也、都賀利與2都賀布1同語、聯綴之義也」といつてゐる、意はツナガリと同じであらうが、ツナガリはツナグの自動詞であるから、精しく云へば異なつてゐる。
〔評〕 郎子の名の紐兒と、伊都加利《イツガリ》といふ語が縁語として用ゐられたものである。これも集中に極めて珍らしい縁語の一例である。カハルハワギヘを繰り返した爲に、歌調が強くなつて、作者の喜悦の情が力強く現はされてゐる。
1768 石上 布留の早田の 穗には出でず 心のうちに 戀ふるこの頃
石上《イソノカミ》 振乃早田乃《フルノワサダノ》 穗爾波不出《ホニハイデズ》 心中爾《ココロノウチニ》 戀流比日《コフルコノゴロ》
(石上振乃早田乃)外ニハアラハサズニ、心ノ中デコノ頃ハ、私ハ紐ノ兒ヲ〔六字傍線〕戀シク思ツテヰル。
(102)○石上振乃早田乃《イソノカミフルノワサダノ》――序詞。穗とつづく。石上振は石上の布留で、大和山邊郡の地名。○穗爾波不出《ホニハイデズ》――表面には現はさずの意。○戀流此日《コフルコノゴロ》――此の字、元暦校本などに比に作つてゐるのがよい。
〔評〕 序詞が型にはまつた定り文句といつてよい。殊に筑紫の作に、大和の地名をもつて來たのは面白くない。
1769 かくのみし 戀ひし渡れば たまきはる 命も我は 惜しけくもなし
如是耳志《カクノミシ》 戀思度者《コヒシワタレバ》 靈刻《タマキハル》 命毛吾波《イノチモワレハ》 惜雲奈師《ヲシケクモナシ》
コンナニ戀ヒツヅケテバカリ日ヲ送ツテヰルト、(靈刻)命モ私ハ惜シイトハ思ハナイ。コンナ苦シイ思ヒヲシテヰレバ死ヌナラ死ンデモカマハヌト思フ〔コン〜傍線〕。
○靈刻《タマキハル》――枕詞。四參照。
〔評〕 右の三首の中で、最初のものは紐兒を得て喜んでゐるが、後の二首は共に、未だ思ひを遂げない時の作である。この歌は表現に力がこもつてゐるが、靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之惜無《タマチハフカミモワレヲバウツテコソシヱヤイノチノヲシケクモナシ》(二六六一)・君爾不相久成宿玉緒之長命之惜雲無《キミニアハズヒサシクナリヌタマノヲノナガキイノチノヲシケクモナシ》(三〇八二)・和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ワギモコニコフルニアレバタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》(三七四四)などの類歌があつて、既にかうした型が出來てゐたやうに思はれる。
大神《オホミワ》大夫任(ゼラルル)2長門守(ニ)1時、集(ヒテ)2三輪河(ノ)邊(ニ)1宴歌二首
大神大夫は三輪朝臣高市麻呂であらう。續紀に「大寶二年正月乙酉從四位上大神朝臣高市麻呂爲2長門守1」と見えてゐる。懷風藻にも從三位中納言大神朝臣高市麻呂一首(年五十)と出てゐる。三輪河は泊瀬川を三輪附近でかく呼ぶのである。寫眞は著者撮影。
1770 三諸の 神の帶ばせる はつせ川 みをし絶えずば 我忘れめや
三諸乃《ミモロノ》 神能於婆勢流《カミノオバセル》 泊瀬河《ハツセガハ》 水尾之不斷者《ミヲシタエズバ》 吾忘禮米也《ワレワスレメヤ》
(103)三諸山即チ三輪山〔五字傍線〕ノ神ガ、帶ヲ纏ウタヤウニ山ノメグリヲ流レ〔タヤ〜傍線〕テヰル、泊瀬川ノ水ノ流レハ、絶エルコトハナイガ、コノ川ノ水〔ハ絶〜傍線〕ガ絶エサヘシナケレパ、私ハアナタヲ忘レナイヨ。
○三諸乃神能於姿勢流《ミモロノカミノオバセル》――三諸の神は三輪の神を指す。三輪山の麓を廻る泊瀬河を、三輪の神の帶び給へる河としてかくいつたのである。○水尾之不斷者《ミヲシタエズバ》――水尾は水脈。この流の絶えざる限はの意。
〔評〕 三輪川のほとりで清流を眺めつつ、その河に寄せて詠んだ歌である。作者は誰とも記してないが、この語調を以て推すに、旅に出かける大神大夫らしい。しつかりした歌である。
1771 後れゐて 我はや戀ひむ 春霞 たなびく山を 君が越えいなば
於久禮居而《オクレヰテ》 吾波也將戀《ワレハヤコヒム》 春霞《ハルガスミ》 多奈妣久山乎《タナビクヤマヲ》 君之越去者《キミガコエイナバ》
コレカラ旅ニ出テ〔八字傍線〕、春霞ノタナビイテヰル山(104)ヲアナタガ越エテ行カレタナラバ、アトニ殘ツテヰテ私ハ、アナタヲ〔四字傍線〕戀シク思フデアリマセウ。
○吾波也將戀《ワレハヤコヒム》――吾は戀ひむかの意。反語ではない。
〔評〕 これは留る人の送別の歌である。春霞のたなびく西方の山を眺めつつ、別れを惜しむ人の涙を思はしめる悲しい作である。
右二首古集中出
大矢本には古歌集とあるが、一二四六の例によると、舊本のままでよいであらう。
大神大夫任(ケラルル)2筑紫國(ニ)1時、阿倍大夫作(レル)歌一首
大神大夫を高市麻呂とすると、彼が筑紫國に赴いたことは史に見えない。阿倍大夫は廣庭か。
1772 おくれゐて 我はや戀ひむ 印南野の 秋萩見つつ いなむ子故に
於久禮居而《オクレヰテ》 吾者哉將戀《ワレハヤコヒム》 稻見野乃《イナミヌノ》 秋芽子見都津《アキハギミツツ》 去奈武子故爾《イナムコユヱニ》
稻見野ノ美シイ秋萩ノ花ヲ見ナガラ、面白イ旅ヲシテ筑紫ヘ〔面白〜傍線〕アナタガ行クノダノニ、後ニ殘ツテ私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒシタフコトデセウカ。名殘惜シウゴザイマス〔名殘〜傍線〕。
○稻見野乃《イナミヌノ》――稻見野は播磨國印南郡の野。○去奈武子故爾《イナムコユヱニ》――去ぬらむ子なるにの意。名高い印南野の秋萩を見つつ、樂しい旅行する人なるにの意である。子は多く女に用ゐてあり、殊に國司の任にある人を、子といふのはふさはしくないといふ疑問はあるが、これは特に親しんで用ゐたのであらう。
〔評〕 前の歌と初二句全く同一で、ただ季節が春と秋と相異なるのみである。新考に「此歌の題辭に、大神大夫とあるは前の歌の題辭よりまぎれ來れるにて、實は大神大夫ならぬ別人の、筑紫國司に任ぜられし時の餞の歌ならむ」とあるのも、にはかに從ひ難いが、大神大夫の送別に、時を異にして相似た歌が送られたのも奇とい(105)ふべきであらう。なほ考究を要する問題である。三句と5句と(ニ)イナの音を繰返してあるのは偶然か。
獻(レル)2弓削皇子(ニ)1歌一首
1773 神南備の 神依板に する杉の 念ひも過ぎず 戀のしげきに
神南備《カムナビノ》 神依板爾《カミヨリイタニ》 爲杉乃《スルスギノ》 念母不過《オモヒモスギズ》 戀之茂爾《コヒノシゲキニ》
私ハアナタヲ〔六字傍線〕戀フル心ガ盛ナノデ、コノ物思ヲ(神南備神依板爾爲杉乃)ハラスコトガ出來ナイ。
○神南備神依板爾爲杉乃《カムナビノカミヨリイタニスルスギノ》――序詞。スギの音を繰返して下に連なつてゐる。この三句は神依板に作る神南備の杉といふ意であらう。神南備は神の森での意であるが、ここは三輪山を指してゐるやうである。神依板は古義にカミヨセイタと訓んでゐる。神が依り來る板の意として舊訓のままでよい。その板を打つて祈れば神が依り來るのである。これについて略解に擧げた宣長説に「杉を神より板にするといふ事は、琴の板とて、杉の板をたたきて神を請招する事あり。今も伊勢の祭祀には此事有。琴|頭《ガミ》に神の御影の降り給ふなりといへり云云」とある。伴信友は之に對して、正卜考琴占の條に「己がおもふ所は萬葉集に載たる歌のころ、はやくより琴を杉板に代へて神依板と呼てものすべくは思はれず。歌にすぎといふ序に、神依板にする杉と定めてよめるを思へば、古よりかならす杉板をもて造る例ときこゆる、はた思合すべし。然れば神依板はもとより別なる卜事なり。大神宮の琴占に事そぎて板もてものするはおのづから似たるにて、古き神社にて琴の板といふは大神宮にてことそぎてするをまねびたるものなるべし」とある。宣長説のいふが如く神依板と琴板と同一物なりや否やは明らかでないが、神おろしを行ひ、神懸の状態になる爲に、杉の板をたたいたものである。○念母不過《オモヒモスギズ》――念ひも過ぎずとは思ひ忘れることが出來ないの意。
〔評〕 卷三に石上振乃山有杉村乃思過倍吉君爾有名國《イソノカミフルノヤマナルスギムラノオモヒスグベキキミニアラナクニ》(四二二)、卷十三に神名備能三諸之山爾隱藏杉思將過哉蘿生左右《カムナビノミモロノヤマニイハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》(三二二八)とあるに似てゐるが、神依板を材料にしたのはまことに珍らしい。古くから歌人の注意をひいたものか、袖中抄にもこれを載せてゐる。基俊集に「はふり子が神より板にひくまきのくれ行くからにしげき戀哉」(106)はこれを本歌としたものである。なほこの歌から推して考へれば、結句の茂爾《シゲキニ》は杉の縁語であるやうにも思はれる。古義に、この歌を皇子を戀ひし奉る心を述べたものとしてゐるのは當つてゐまい。
獻(レル)2舍人皇子(ニ)1歌二首
1774 垂乳根の 母の命の ことにあれば 年のを長く たのみ過ぎむや
垂乳根乃《タラチネノ》 母之命乃《ハハノミコトノ》 言爾有者《コトニアレバ》 年緒長《トシノヲナガク》 憑過武也《タノミスギムヤ》
私ヲ可愛ガツテ下サル〔私ヲ〜傍線〕(垂乳根乃)母上ノ言葉ダカラ、二人ノ戀ノ許サレル時ヲ〔二人〜傍線〕長年ノ間空シク〔三字傍線〕頼ミニ思ツテ、アテニシテ月日ヲ送ルコトガアラウカ。決シテソンナコトハアルネキ筈ハナイ。母ノ言葉ヲ信用シテ待ツテヰマセウ〔決シ〜傍線〕。
○垂乳根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○母之命乃《ハハノミコトノ》――命は尊稱。○言爾有者《コトニアレバ》――舊訓コトニアラバとあるが、略解にコトナレバと訓んだ意を以て、コトニアレバと訓むことにする。
〔評〕 この歌は意味が少し不明瞭で、古義にはコトニアラバと訓んだ爲に、上が假定となり意味が著しく變つて來た。代匠記精撰本に「此歌は譬ふる意有べし。ふたおやの中に母は殊にうつくしみのまめやかなる物なれば、皇子の憑もしうのたまふ御言を母の言に喩へて、御詞のみを年の緒長く憑て過さむや。今其しるしを見せ給ふべしとよめる歟」とあるが、寓意はないやうに思ふ。
1775 泊瀬川 夕渡り來て 我妹子が 家の金門に 近づきにけり
泊瀬河《ハツセガハ》 夕渡來而《ユフワタリキテ》 我妹兒何《ワギモコガ》 家門《イヘノカナドニ》 近舂二家里《チカヅキニケリ》
泊瀬川ヲ夕方渡ツテ來テ、ナツカシイ〔五字傍線〕私ノ妻ノ家ノ門ニヤツト〔三字傍線〕近付イタヨ。
○家門《イヘノカナドニ》――舊訓イヘノミカドハとあるが、略解の訓に從ふ。カナドは門。一七三九參照。○近舂二家里《チカヅキニケリ》――(107)舂の字、舊本に春とあるは誤。元暦校本などの古本、皆舂になつてゐる。
〔評〕 これも代匠記精撰本に「君が思惠を近く蒙るべき事は、譬へば人の夕去は必らず逢はむと契りたらむに、泊瀬河の早き瀬をからうじて渡り來て其家近く成たるが如しとよめる歟」とあるが、かかる寓意のありさうな歌でない。これらは自己の作品を、何かの機會に皇子に献じたまでであらう。
右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
石河大夫遷(サレテ)v任(ヲ)上(レル)v京(ニ)時、播磨娘子贈(レル歌二首
石河大夫は石河君子である。續紀「靈龜元年五月壬寅從五位下石河朝臣君子爲2播磨守1」とある人である。
1776 たゆらきの 山のを上の 櫻花 咲かむ春べは 君をしぬばむ
絶等寸笶《タユラキノ》 山之岑上乃《ヤマノヲノヘノ》 櫻花《サクラバナ》 將開春部者《サカムハルベハ》 君乎將思《キミヲシヌバム》
絶等寸山ノ峯ノ上ノ櫻ノ花ガ咲ク春ノ頃トナリマシタラ、私ハアナタノコトヲ思ヒ出スデゴザイマセウ。御一緒ニ花ヲナガメタコトヲ思ヒ出シテ、サゾオナツカシウゴザイマセウ。只今オ別レスルノハ悲シウゴザイマス〔御一〜傍線〕。
○絶等寸笶《タユラキノ》――たゆらきの山は、此處の事情で考へると、播磨の國府附近の山らしい。當時の國府は姫路の東方にあつた筈であるが、今それらしい山がない。
〔評〕 感情の迫つた歌でなく、態度に餘裕がある女らしい素直な歌である。
1777 君なくば なぞ身よそはむ くしげなる 黄楊の小櫛も 取らむとももはず
君無者《キミナクバ》 奈何身將装餝《ナゾミヨソハム》 匣有《クシゲナル》 黄楊之小梳毛《ツゲノヲグシモ》 將取跡毛不念《トラムトモモハズ》
アナタガ京ヘオ歸リニナツテ此處ニ〔京ヘ〜傍線〕オイデナサラヌヤウニナツタナラ、私ハ誰ニ見セヨウトテ〔私ハ〜傍線〕何シニ身ノ装《ナリ》ナ(108)ドニ構ヒマセウゾ。櫛箱ノ中ニアル黄楊ノ小櫛モ手ニ〔二字傍線〕取ラウトモ思ヒマセヌ。ホントニオ別レ致シマシテハ私ハ何ノ樂シミモアリマセヌ〔ホン〜傍線〕。
○奈何身將装餝《ナゾミヨソハム》――舊訓ナゾミカザラムとある。何故に身だしなみをしようかの意。○將取跡毛不念《トヲムトモモハズ》――新考に毛《モ》は衍であらうといつてゐるが、さうではあるまい。
〔評〕 哀切の至情、實に至純な貴い歌である。和歌童蒙抄に載せてある。卷五の然之海人者軍布苅鹽燒無暇髪梳乃少櫛取毛不見久爾《シカノアマハメカリシホヤキイトマナミクシゲノヲグシトリモミナクニ》(二七八)は、この歌と少しく類似してゐるが、作者が石川少郎とあつて、その左註によれば、石川君子と少郎子と同人とあるのは、偶然の類似か。注意すべき點であらう。なほ代匠記にこの歌の意に通じてゐるとして、「詩(ノ)衛風云。自2伯之東1首如2飛蓬1。豈無2膏沐1。誰適爲v容。史記豫讓曰。嗟呼士爲2知v己者1死、女爲2説v己者1容。文選劉休玄擬古詩云。臥覺2明燈晦1、坐見2輕※[糸+丸]緇1、涙容不可飾、幽鏡難2復治1」を擧げてゐる。
藤井連遷(サレテ)v任(ヲ)上(ル)v京(ニ)時、娘子贈(レル)歌一首
藤井連は葛井連廣成か。續紀「養老四年五月壬戍改2白猪史氏1賜2葛井連姓1」とある。この人の傳は九六二の左註參照。
1778 明日よりは 我は戀ひむな 名欲山 いはふみならし 君が越えいなば
從明日者《アスヨリハ》 吾波孤悲牟奈《ワレハコヒムナ》 名欲山《ナホリヤマ》 石蹈平之《イハフミナラシ》 君我越去者《キミガコエイナバ》
今日オ別レ致シマシテ〔今日〜傍線〕、アナタガ名欲山ヲ石ヲ踏ミツケテ越エテ行ツタナラバ、明日カラハ私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒシク思フコトデセウヨ。オ別レガツラウゴザイマス〔オ別〜傍線〕。
○吾波孤悲牟奈《ワレハコヒムナ》――ナは呼びかけの助詞。ヨに同じ。戀ひに孤悲《コヒ》の字を用ゐた所が多いが、文字に意味をもたせてあるやうである。○名欲山《ナホリヤマ》――名欲山は豐後の直入山とせられてゐる。直入は豐後の郡名で、當時の國府(109)のあつた今の大分市からは、遙かに西方の山である。今國府を去つて都に上らむとする者が、この山を越える筈がないから、これを他に求むべきである。古義には名次山の誤としてゐるが、これも全く根據のない説である。○石蹈平之《イハフミナラシ》――蹈平之は文字通り踏み平げることであるが、ここのならすは輕く見るがよい。
〔評〕 これも前の絶等寸山《タユラキノヤマ》の歌と同じく、平明な作である。一通りの送別の挨拶のやうにも聞える。
藤井連和(フル)歌一首
1779 命をし まさきくもがも 名欲山 いはふみならし またまたも來む
命乎志《イノチヲシ》 麻勢久可願《マサキクモガモ》 名欲山《ナホリヤマ》 石踐平之《イハフミナラシ》 復亦毛來武《マタマタモコム》
ソンナニ悲シムコトハナイ。私ノ〔ソン〜傍線〕命ガ無事デアリタイモノダ。命サヘ無事ナラバ、私ハ〔命サ〜傍線〕名欲山ノ石ヲ踏ミ付ケテ、モウ一度ココヘ返ツテ來ヨウ。オマヘモ無事デ暮シテヰテクレ〔オマ〜傍線〕。
○麻勢久可願《マサキクモガモ》――考に麻狹伎久母願《マサキクモガモ》、古義は麻幸久母願《マサキクモガモ》としてゐる。その何れがよいとも判じ難いが、訓はさうあるべきであらう。命が無事であれかしといふのである。○復亦毛來武《マタマタモコム》――考に復を後の誤として、ノチマタモコム、古義に亦毛の二字を變の一字としてマタカヘリコムと訓んでゐるが、改めるには及ばない。
〔評〕 相手の歌の三四句を巧に利用してゐる。再會を契る言葉としては、初の二句はまことに心細い感がある。齡の傾きかけた人の胸中には、別離に臨んではかういふ考が先に立つであらう。
鹿島郡|苅野《カルヌノ》橋(ニ)別(ルル)2大伴卿(ニ)1歌一首并短歌
鹿島郡は今の常陸國鹿島郡に同じ。茨城縣の東南隅で海に面してゐる。苅野橋は和名抄に、常陸鹿島部輕野郷がある。今、輕野村と稱し、神池の南方で利根川に面してゐる。この橋の所在はわからないが、神池の水が流海にそそぐ地點に近く架けられてゐたのであらう。この歌は上に、※[手偏+僉]税使大(110)伴卿登筑波山時歌とあるから、大伴旅人が常陸の※[手偏+僉]税を終へて、下總の海上の津をさして行かむとする時、苅野橋まで送つて來た高橋蟲麿が詠んだものであらう。一七五三參照。
1780 ことひうしの 三宅の潟に 指向ふ 鹿島の崎に さ丹塗の を船をまけ 玉まきの 小楫しじぬき 夕汐の みちのとどみに 御船子を あともひ立てて 喚び立てて 御船出でなば 濱もせに 後れなみゐて こいまろび 戀ひかも居らむ 足ずりし ねのみや泣かむ 海上の その津をさして 君が榜ぎ行かば
牡牛乃《コトヒウシノ》 三宅之酒爾《ミヤケノカタニ》 指向《サシムカフ》 鹿島之崎爾《カシマノサキニ》 狹丹塗之《サニヌリノ》 小船儲《ヲブネヲマケ》 玉纒之《タママキノ》 小梶繁貫《ヲカヂシジヌキ》 夕鹽之《ユフシホノ》 滿乃登等美爾《ミチノトドミニ》 三船子呼《ミフナコヲ》 阿騰母比立而《アトモヒタテテ》 喚立而《ヨビタテテ》 三船出者《ミフネイデナバ》 濱毛勢爾《ハマモセニ》 後奈居而《オクレナミヰテ》 反側《コイマロビ》 戀香裳將居《コヒカモヲラム》 足垂之《アシズリシ》 泣耳八將哭《ネノミヤナカム》 海上之《ウナカミノ》 其津於指而《ソノツヲサシテ》 君之己藝歸者《キミガコギユカバ》
(牡牛乃)三宅ノ潟ニ相對シテヰル鹿島ノ崎ニ、赤ク塗ツタ立派〔二字傍線〕ナ小舟ヲ用意シテ、玉ヲ卷キツケタ立派ナ〔三字傍線〕櫂ヲ澤山ニツケテ、夕方ノ汐ガ滿チ湛ヘル時ニ、御船ノ船頭ドモヲ引連レ立テテ喚ビ立テナガラ、御船ガ出テ行ツタナラバ、私ドモハ〔四字傍線〕後ニ殘サレテ濱邊一パイニズラリト並ンデ、轉ビ倒レテアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマセウ。足ズリヲシテ聲ヲ上ゲテ泣イテバカリ居リマセウ。海上ノアノ港へ向ケテ、アナタガ漕イデ去ツテシマヒナサツタナラバ、私ドモハ泣クヨリ外ノコトハアリマセヌ。ホントニオ別レスルノハ悲シウゴザイマス〔私ド〜傍線〕。
○牡牛乃《コトヒウシノ》――枕詞。舊本に牝とあるが、元暦校本による。和名抄「辨色立成云牡牛頭大牛也俗云古度比」とある。卷十六に事負乃牛之倉上之瘡《コトヒノウシノクラノヘノカサ》(三八三八)ともある。三宅と續くのは、冠辭考に寮餌《ミヤカヒ》の意とし、古義には嚴毛《ミカケ》に言ひかけたものとしてゐる。○三宅之酒爾《ミヤケノカタニ》――舊訓ミヤケノサキニとあるのは酒をサキと訓んだものか。代匠記精撰本に、酒を浦《ウラ》の誤とし、考は滷《カタ》、古義は?《ウラ》の誤としてゐる。三宅附近には崎といふ程の地形がなかつたらうと思はれるから、恐らく滷《カタ》の誤であらう。海上潟も同處である。三宅は和名抄「海上郡三宅郷」とあり、今の
(111)海上村に大字三宅がある。これについて大日本地名辭書には「今按、鹿島郡苅野橋は蓋輕野郷の地にして、今日川驛の邊とす、此三宅と北南相去る四里許、而も江流相通じ當時此間江水上下、都て三宅滷と呼ばれ、浪逆海より安是湖まで(即鹿島海上の二郡の交堺)の總名なりし如し。されば萬葉なる大伴卿の經過せられし三宅滷、海上津は三宅郷にはあらで、實は編玉郷小野郷のあたりの流江なりと想察せらる。」とある。○鹿島之崎爾《カシマノサキニ》――鹿島は全體に岬をなしてゐるから、かういつたものか。○小船儲《ヲブネヲマケ》――マケは用意すること。○滿乃登等美爾《ミチノトドミニ》――登等美《トトミ》は、略解に「とどみは汐の滿終なるをいふべし。とどまりの約言か。東國にて今たたへといふなり」とある通りであらう。○濱毛勢爾《ハマモセニ》――濱もせましと。濱一杯に。○後奈居而《オクレナミヰテ》――奈の下、美の字脱とした略解に從ふ。○反側《コイマロビ》――コイはころぶこと。コユといふ動詞の連用形。○足垂之《アシズリシ》――足垂は意を以てかけるか、或は略解の説の如く垂は摩の誤か。○海上之其津於指而《ウナガミノソノツヲサシテ》――海上の津は右の三宅之酒の條に述べたやうに、下總海上郡、今の海上村の地であらう。於の字、元暦校本その外古本多く乎に作つてゐるのがよい。
〔評〕 さ丹塗の小舟、玉纒の小楫は、天の河にでも浮かんでゐさうな立派な船で、顯官の乘物らしく、「御船子をあともひ立てて呼び立てて御船出でなば」の句も、威嚴を具へた貴人を述べるにふさはしい。別れの悲しみを述べて、濱もせにならんでこいまろび足ずりするといつたのは、大げさ過ぎる程ではあるが、大伴卿に對する敬意を充分に現はし得てゐる。
反歌
1781 海つ路の なぎなむ時も わたらなむ かく立つ浪に 船出すべしや
海津路乃《ウミツヂノ》 名木名六時毛《ナギナムトキモ》 渡七六《ワタラナム》 加九多都波二《カクタツナミニ》 船出可爲八《フナデスベシヤ》
海路ノ靜カニ〔三字傍線〕和イダ時ニ、オ渡リナサイマシ。コンナニ波ガ立ツ時〔傍線〕ニ、アナタハ〔四字傍線〕船出ヲナサルトイフコトガアルモノデスカ。モウ暫クユツクリシテオイデナサイ。オ名殘リ惜シウゴサイマス〔モウ〜傍線〕。
(112)○名木名六時毛《ナギナムトキモ》――古義に毛を爾の誤としてゐる。○船出可爲八《フナデスベシヤ》――舊訓フナデカスベシヤとあるが、可はベシであるから、カと訓むべきではない。
〔評〕 この歌は三句切れになつてゐる。結句は力強い言ひ方で、大伴卿を思ふ情が現はれてゐる。なほこの歌の書き方の、六・七・六・二・八などと、數字を殊更に用ゐてゐるのは注意すべきである。
右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出
これも高橋連蟲麻呂の歌であらう。
與(フル)v妻(ニ)歌一首
1782 雪こそは 春日消ゆらめ 心さへ 消え失せたれや ことも通はぬ
雪己曾波《ユキコソハ》 春日消良米《ハルヒキユラメ》 心佐閉《ココロサヘ》 消失多列夜《キエウセタレヤ》 言母不往來《コトモカヨハヌ》
雪コソハ春ノ日光ニ當ツテ〔三字傍線〕消エルデアラウガ、深ク言ヒカハシタ、アナタノ〔ガ深〜傍線〕心マデモヤハリ雪ノヤウニ〔八字傍線〕消エタカラカ、コノ頃ハ少シノ〔七字傍線〕消息モ通ツヲ來ナイ。ホントニ薄情デスネ〔九字傍線〕。
○言母不往來《コトモカヨハヌ》――言葉も通はぬ、即ち音信もないの意。
〔評〕 春日消良米《ハルヒキユラメ》の句は、言葉が足りないといふので、新考には爾《ニ》の字を補つて、ハルヒニキユラメと改めてゐるが、これは歌調の爲にかうしたもので、もとのままでよい。
妻和(フル)歌一首
1783 松かへり しひてあれやは 三栗の 中すぎて來ず 麻呂といふ奴
松反《マツカヘリ》 四臂而有八羽《シヒテアレヤハ》 三栗《ミツグリノ》 中上不來《ナカスギテコズ》 麻呂等言八子《マロトイフヤツコ》
(113)待ツテヰルモノハ歸といふ言葉〔二字傍線〕ハ嘘デナイ。然ルニ〔三字傍線〕(三栗)コノ月ノ〔四字傍線〕中過ギルマデモ、麻呂トイフ奴ハ來ナイ。アナタハドウシテ來ナイデスカ〔アナ〜傍線〕。
○松反《マツカヘリ》――この句は從來枕詞として、松の色の變ずることと解釋し、下には、色の變らぬ松を變るといふのは誣言なりとの意で續くとする説が行はれてゐる。なほこれを卷十七(四〇一四)の歌によつて、鷹の羽毛が拔け代ることをいふのであらうと新解には述べてゐる。然しこれらは何れも面白くないやうである。余は松反の二字は借字で、待つ者は必らす歸るといふ意味の俗諺があつたものと思ふ。さうとすれば、この歌も卷十七の歌も、共に容易に解釋が出來るやうである。○四臂而有八羽《シヒテアレヤハ》――卷十七の歌に之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》とあるによつて、これもシヒニテアレヤハとする説が多い。然しニに當る文字がないから、シヒテアレヤハと訓むべきであらう。シヒテは誣ひて、即ち虚言の意。アレヤハは反語で、待てば歸るといふのは虚言ではないの意。○三栗《ミツグリノ》――枕詞。中に續く。一七四五參照。○中上不來《ナカスギテコズ》――この句も諸説が分れてゐる。考にナカスギテコズと訓んだのに從ふ。ナカとカミとに來ずといふので、即ち月の上旬・中旬に來ないといふのであらう。新解にはナカノボリコズとあり、途中に上つて來ないとあるが、意が通じ難い。○麻呂等言八子《マロトイフヤツコ》――これも訓が樣々に分れてゐる。これは新解の説がよい。麻呂は自分の夫を指したもので、戯れて奴といつたのであらう。この歌、人麿集に出てゐるから、或は人麿といふべきを略して、麻呂といつたのかも知れない。
〔評〕 この歌は萬葉集中の難解歌の一である、右のやうに解いて見ると、さ程無理がないやうである。妻の歌としてはかなり亂暴を言葉である。なほこの歌に關して、新解の考説に、古來の諸説を列擧してゐるから、ここはそれに讓つて簡略に從つた。
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集中出
右に述べたやうに、これは人麻呂夫妻の贈答の歌かも知れない。
(114)贈(レル)2入唐使(ニ)1歌
古義に「入唐使は此末に多治比眞人廣成遣唐使の時の歌あり、此歌も同じ度の歌ならむ」とあるが、左註の通り不明と考ふべきである。
1784 わたつみの いづれの神を いははばか ゆくさも來さも 船の早けむ
海若之《ワタツミノ》 何神乎《イヅレノカミヲ》 齋祈者歟《イハハバカ》 往方毛來方毛《ユクサモクサモ》 舶之早兼《フネノハヤケム》
海ノ中ニ祭ツテアル〔七字傍線〕神樣ノドノ神樣ヲオ祈リシタナラバ、アナタノ乘ツテヰル〔九字傍線〕船ガ、往キニモ返リニモ早ク走ルデセウカ。ドウカ無事デ早ク歸ツテ來テ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
○海岩之何神乎《ワタツミノイヅレノカミヲ》――卷五に宇奈原能邊爾母奥爾母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等《ウナバラノヘニモオキニモカムヅマリウシハキイマスモロモロノオホミカミタチ》(八九四)とあるのと同意で、海路の途中に祀られてゐるどの神をの意である。○往方毛來方毛《ユクサモクサモ》――古義にユクヘモクヘモとあるのは變な訓法である。卷三に往左來左君所見良目《ユクサクサキミコソミラメ》(二八一)とあるによつて、舊訓に從ふべきである。
〔評〕 入唐使の無事を祈る心はよく現はれてゐるが、送る人までが海路の不安におびえて、途方にくれた姿である。當時の航海としては尤もなことであらう。
右一首渡海年紀未v詳
この一行、無い古本もあるのは、脱ちたのであらう。
神龜五年戊辰秋八月(ノ)歌一首并短歌
考に月の下、作の字が脱ちたものかとしてゐる。歌の趣によると、越の國の任などに赴く人へ送つた歌であらう。
1785 人と成る 事は難きを わくらばに 成れる吾が身は 死にも生も 君がまにまと 念ひつつ ありし間に うつせみの 世の人なれば 大きみの みことかしこみ 天さかる 夷治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立行けば 留まりゐて 我は戀ひむな 見ず久ならば
(115)人跡成《ヒトトナル》 事者難乎《コトハカタキヲ》 和久良婆爾《ワクラバニ》 成吾身者《ナレルワガミハ》 死毛生毛《シニモイキモ》 公之隨意常《キミガマニマト》 念乍《オモヒツツ》 有之間爾《アリシアヒダニ》 虚蝉乃《ウツセミノ》 代人有者《ヨノヒトナレバ》 大王之《オホキミノ》 御命恐美《ミコトカシコミ》 天離《アマサカル》 夷治爾登《ヒナヲサメニト》 朝鳥之《アサトリノ》 朝立爲管《アサタチシツツ》 群鳥之《ムラトリノ》 群立行者《ムラタチユケバ》 留居而《トマリヰテ》 吾者將戀奈《ワレハコヒムナ》 不見久有者《ミズヒサナラバ》
人ニ生レテ來ルノハ、ムヅカシイコトダノニ、偶然カウシテ〔四字傍線〕人ニ生レテ來タ私ハ、死ヌノモ生キルノモアナタ次第ト思ツテ、アナタヲタヨリニシテ〔アナ〜傍線〕ヰタノニ、(虚蝉乃)世ノ中ノ人ノナラハシダカラ、天子樣ノ仰ヲ拜承シテ(天離)田舍ヲ治メル爲ニ(朝鳥之)朝オ立チニナツテ、(群鳥之)大勢連レ立ツテ旅ニ出ラレルノデ、後ニ殘ツテ私ハ、アナタニ〔四字傍線〕オ目ニカカラヌコトガ久シクナツタラ、サゾ戀シク思フデセウ。
○人跡成事者難乎和久良婆爾成吾身者《ヒトトナルコトハカタキヲワクラバニナレルワガミハ》――謂はゆる人身受け難しの意味で、卷五に和久良婆爾比等等波安流乎《ワクラバニヒトトハアルヲ》(八九二)とある類である。四十二章經に「佛言(ク)人離(レ)2惡道(ヲ)1得(ルコト)v爲(ヲ)v人(ト)難(シ)」とある。和久良婆《ワクラバ》は偶然にの意。○虚蝉乃《ウツセミノ》――枕詞。代《ヨ》と續く。二四參照。○天離《アマサカル》――枕詞。ヒナと續く。二九參照。○朝鳥之《アサトリノ》――枕詞。朝の鳥が塒を出で立つ意で、朝立につづく。○群鳥之《ムラトリノ》――枕詞。ムラタチユケバと續く。意は明らかであらう。○吾者將戀奈《ワレハコヒムナ》――ナは呼びかけの助詞。ヨに同じ。
〔評〕 極めてはつきりした平易な歌である。死にも生きも君がまにまといつたのは、刎頸の友の門出に際して述べた言葉であらう。愛人との訣別に、涙をしぼつたものとも考へられないことはないが、この歌は女性の作らしくないから、さうではあるまい。
(116)反歌
1786 み越路の 雪ふる山を 越えむ日は とまれる我を かけてしぬばせ
三越道之《ミコシヂノ》 雪零山乎《ユキフルヤマヲ》 將越日者《コエムヒハ》 留有吾乎《トマレルワレヲ》 懸而小竹葉背《カケテシヌバセ》
アナタガ〔四字傍線〕越ノ北陸〔二字傍線〕街道ノ、雪ノ降リ積ル山ヲ越エル日ニハ、都ニ〔二字傍線〕殘ツテ居ル私ヲ、心ニカケテ思ヒ出シテ下サイ。私ハ常ニアナタノ旅ノ苦シミヲ思ヒヤツテヰマスカラ、苦シイ時ニデモセメテ私ノコトヲ思ヒ出シテ下サイ〔私ハ〜傍線〕。
○三越道之雪零山乎《ミコシヂノユキフルヤマヲ》――ミは接頭語。雪零山《ユキフルヤマ》はどの山と指したのではないが、越路へ越える愛發山《アラチヤマ》などの高い峠を想像して詠んだものであらう。○縣而小竹葉背《カケテシヌバセ》――心にかけて思ひ出せの意。用字が懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》(六)に似てゐる。
〔評〕 八月に都を出發した歌としては、雪降る山を越えむといふのは、如何に越路としても早過ぎるやうであるが、越路と言へばすぐに雪を思ひ起すから、かやうに詠んだのである。
天平元年己巳冬十二月歌一首并短歌
考に月の下、作の字脱としてゐる。
1787 うつせみの 世の人なれば 大きみの みことかしこみ しき島の 大和の国の 石上 布留の里に 紐解かず 丸寝をすれば 吾が著たる 衣はなれぬ 見るごとに 戀はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の あかしも得ぬを いも寝ずに 我はぞ戀ふる 妹が直香に
虚蝉乃《ウツセミノ》 世人有者《ヨノヒトナレバ》 大王之《オホキミノ》 御命恐彌《ミコトカシコミ》 礒城島能《シキシマノ》 日本國乃《ヤマトノクニノ》 石上《イソノカミ》 振里爾《フルノサトニ》 紐不解《ヒモトカズ》 丸寐乎爲者《マロネヲスレバ》 吾衣有《ワガキタル》 服者奈禮奴《コロモハナレヌ》 毎見《ミルゴトニ》 戀者雖益《コヒハマサレド》 色二山上復有山者《イロニイデバ》 一可知美《ヒトシリヌベミ》 冬夜之《フユノヨノ》 明毛不得呼《アカシモエヌヲ》 五十母不(117)宿二《イモネズニ》 吾齒曾戀流《ワレハゾコフル》 妹之直香仁《イモガタダカニ》
(虚蝉乃)コノ世ノ人デアルカラ、天子樣ノ仰ヲ拜承シテ(礒城島能)大和ノ國ノ石上ニアル布留ノ里ニ、着物ノ紐モ解カズニ獨デ〔二字傍線〕丸寐ヲスルト、私ガ着テヰル着物ハ皺ダラケニナツテ汚レテシマツタ。コノ汚イ着物ヲ〔七字傍線〕見ル度ニ、家ニ居レバ妻ガツテクレルモノト、妻ノ〔家ニ〜傍線〕戀シサガ益スガ、顔色ニ出シテ言フト、人ガ知ルダラウカラ冬ノ長イ〔二字傍線〕夜ガ明シカネルノニ、眠ルコトモ出來ナイデ、私ハ妻ノ樣子ヲ思ツテ戀ヒ慕ツテヰルヨ。
○礒城島能日本國乃《シキシマノヤマトノクニノ》――礒城島能《シキシマノ》は枕詞。礒城島のある大和國の意で、礒城島は崇神天皇の皇居が、礒城瑞籬宮にあつたことに起るといはれてゐる。後これが獨立して、日本總國の名稱としても用ゐられるやうになつた。日本國《ヤマトノクニ》は畿内の大和。○石上振里爾《イソノカミフルノサトニ》――石上の布留は、山邊郡にある。布留神社の所在地。今の丹波市附近。○丸寐乎爲者《マロネヲスレバ》――マロネは帶を解かず着たままで寢ること。後世のマルネに同じ。○服者奈禮奴《コロモハナレヌ》――ナレは穢・萎・褻などの文字を當てる。着物が着古して萎えたこと。○色二山上復有山者《イロニイデバ》――この句は舊訓イロイロニヤマノヘニマタアルヤマハとあつたが、全く意味をなさない。契沖が山上復有山の五字を、イデと訓んだのでよくわかるやうになつた。代匠記精撰本にこれを説明して「其故は古樂府に、藁砧今何在、山上更(ニ)安(ス)v山(ヲ)云々。此(ノ)山上更(ニ)安v山とは出の字を云へり。正しく山をふたつ重ねてかくにはあらねど、見たる所相似たる故なり。唐の孟遲が、山上(ニ)夕(リ)v山不v得v歸(ルヲ)と作れるも此に依れり。今も此義を意得て、イデと云ふた文字を、山上復有山とはかけるなり。」とある。要するに出といふ文字は、山を二つ重ねた形をしてゐるといふので、集中の戯書として有名なものである。○一可知美《ヒトシリヌベミ》――一は人の借字。○明毛不得呼《アカシモエヌヲ》――略解に「宣長云、明毛不得呼、この句穩かならず。冬の夜之とあれば、明はあかしとは訓みがたし。もしあかしならば、冬の夜乎といはでは調はず。或人の説とて明毛不得呼鷄《アケモカネツツ》かといへり。」とあるのも面白い説であるが、もとのままで通ずるから、改めるには及ばぬ。○妹之直香仁《イモガタダカニ》――タダカは身の上・消息・動靜などの意。ここは妻の動靜を思つての意である。なほこ(118)の語については、卷四の吾聞爾繋莫言刈薦之亂而念君之直香曾《ワガキキニカケテナイヒソカリコモノミタレテオモフキミガタダカゾ》(六九七)の條に精しく述べて置いた。
〔評〕 略解に「此歌斑田使に出立る人の歌ならん。續紀天平元年十一月任2京及幾内斑田司1云々」とある。大王之御命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》とあるから、官命によつて旅行してゐる人らしく、都近い石上布留の里に丸寢をしたといふのは、近畿方面の里邑を視察してゐるらしく思はれ、また色に出でば人知りぬべみといつて、人目を忍んで吐息をついてゐる樣子は、同行の人が多いことを思はしめる。これによると、略解の説は當つてゐるやうである。獨寢せむとして着物の垢附いたのに氣がつき、家なる妻を思ふ情が湧然として起ることを述べたあたりは、まことにあはれな、自然な、無理のない表現である。
反歌
1788 布留山ゆ ただに見渡す 京にぞ いもねず戀ふる 遠からなくに
振山從《フルヤマユ》 直見渡《タダニミワタス》 京二曾《ミヤコニゾ》 (119)寐不宿戀流《イモネズコフル》 遠不有爾《トホカラナクニ》
大和ノ國ノ〔五字傍線〕布留ノ山カラ、スグ目ノ前ニ見エル奈良ノ都ヲ思ツテ、夜モ〔二字傍線〕ネナイデ戀ヒシク思ツテヰルヨ。アマリ〔三字傍線〕遠イ所デモナイノニ。ドウシテコンナニ戀シイノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
○禦振山從《フルヤマユ》――振山は布留山。寫眞は著者撮影。○直見渡《タダニミワタス》――直《タダ》は直接に。すぐ目の前になどの意。○京二曾《ミヤコニゾ》――童蒙抄に、二を乎の誤として、ミヤコヲゾと訓んでゐたが、もとのままでよい。但し意味は都をぞ戀ふると續いてゐる。
〔評〕 目の前に都を眺めながら、會ひ難き妻を思ふ心があはれである。結句、遠不有爾《トホカラナクニ》が蛇足のやうで、さうでない。
1789 吾妹子が ゆひてし紐を 解かめやも 絶えは絶ゆとも 直にあふまでに
吾妹兒之《ワギモコガ》 結手師紐乎《ユヒテシヒモヲ》 將解八方《トカメヤモ》 絶者絶十方《タエハタユトモ》 直二相左右二《タダニアフマデニ》
私ノ妻ガ私ガ旅ニ出ル時、私ノ着物ノ紐ヲ結ンデクレタガ、コノ〔私ガ〜傍線〕結ンデクレタ紐ヲ、私ハ決シテ自分デ〔八字傍線〕解キハシマセヌゾ。タトヒコノ紐ガ〔七字傍線〕切レルナラ切レテモ、妻ト〔二字傍線〕直接逢フマデハ、決シテ妻ノ結ンデクレタ紐ヲ解カナイツモリダ〔決シ〜傍線〕。
○結手師紐乎《ユヒテシヒモヲ》――紐は上衣の紐。二五一參照。○直二相左右二《タダニアフマデニ》――アフマデニはアフマデハに同じ。
〔評〕三句目で切れて、絶者絶十方《タエハタユトモ》といつたのが力ある歌調をなしてゐる。これらの歌は、いづれも凡手でない。左註によるに笠金村の作であらう。
右件五首笠朝臣金村之歌中出
天平五年癸酉遣唐使(ノ)舶發(チテ)2難波(ヲ)1入(ル)v海(ニ)之時親母贈(レル)v子(ニ)歌一首并短歌
(120)續紀、「天平四年八月以2從四位上多治比眞人廣成1爲2遣唐大使1從五位下中臣朝臣名代爲2副使1判官四人録事四人云々。同五年閏三月、授2節刀。夏四月遣唐四船自2難波津1進發」と見えてゐる。その時の人の母の歌であらう。
1790 秋萩を 妻問ふ鹿こそ 一子に 子持たりといへ 鹿兒じもの 吾が獨子の 草枕 旅にし行けば 竹珠を しじに貫き垂り 齋べに 木綿取りしでて 齋ひつつ 吾が思ふ吾子 まさきくありこそ
秋芽子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマトフカコソ》 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモタリトイヘ》 鹿兒自物《カコジモノ》 吾獨子之《ワガヒトリコノ》 草枕《クサマクラ》 客二師往者《タビニシユケバ》 竹珠乎《タカダマヲ》 密貫垂《シジニヌキタリ》 齊戸爾《イハヒベニ》 木綿取四手而《ユフトリシデテ》 忌日管《イハヒツツ》 吾思吾子《ワガオモフアゴ》 眞好去有欲得《マサキクアリコソ》 奴者多本奴去古本
秋萩ノ花〔二字傍線〕ヲ妻トシテ尋ネテ行ク鹿コソハ、獨子ヲ生ムモノダトイフガ、ソノ〔二字傍線〕鹿ノ兒ノヤウナ私ノ獨兒ガ、(草枕)旅ニ出テ行クト、私ハ〔二字傍線〕竹珠ヲ澤山ニ糸ニ貫キ垂ラシテ、神樣ノ心ヲ和ゲル爲ニ〔十字傍線〕酒瓶ニ木綿ヲ飾リ垂ラシテ、神樣ヲ祭ツテ、私ガ無事ヲ〔三字傍線〕祈ツテヰル私ノ子供ヨ、無事デアツテクレヨ。
○秋芽子乎妻問鹿許曾《アキハギヲツマトフカコソ》――秋萩の花を鹿の妻とする考は、秋芽子之妻卷六跡《アキハギノツマヲマカムト》(一七六一)とあつた通りで、この句は秋萩の花を妻として訪ふ鹿こそはの意。○一子二子持有跡五十戸《ヒトリゴニコモタリトイヘ》――舊訓ヒトツコフタツコモタリトイヘとあるのではわからない。考に、ヒトツコニコモタリトイヘとし、古義は二子を乎の誤として、ヒトリコヲモタリトイヘと改めてゐる。ここは新訓によることにした。五十戸は悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》(六七四)にならつてイヘとよむべきである。上の許曾《コソ》を五十戸《イヘ》で結んでゐるやうな形をなしてゐるが、跡《ト》があるからコソの結びはイヘには及ばぬ筈である。正しくはコモタレトイフといふべきであらうが、それは純理論で、調子の關係上かうした形になつたのであらう。○鹿兒自物《カコジモノ》――鹿の子のやうなもの、即ち鹿の子のやうな。○竹珠乎《タカダマヲ》――竹珠は竹を管玉のやうに切つたもの。これを腕に貫いて垂らすのである。また管玉を竹珠といつたとも考へられる。三七九(121)參照。○齊戸爾《イハヒベニ》――齊戸は齋瓮。神をまつる爲に酒を入れる陶器の壺。○木綿取四手而《ユフトリシデテ》――木綿を齋瓮にとりつけて垂らして。木綿は栲の皮をもつて作つたもので、これを取附けるのは、神を祀る時の作法である。○忌日管《イハヒツツ》――神を祀つて穢のつかぬやうにするをイハフといふ。○眞好去有欲得《マサキクアリコソ》――マは接頭語。コソは希望の助詞。○奴者多本奴去古本――これは元暦校本・藍紙本・神田本などの古本にはない。代匠記初稿本に、奴は好の誤としてゐるが、細井本にはさうなつてゐる。元暦校本・藍紙本・神田本はこの結句の好をぬとし、京大本には左に赭で「奴者イ本」とあるのによると、この八字は多くの本には奴者とあるが、古本に、好去とあるのがよい、といふ意味の註を加へたのが、紛れ込んだのであらう。
〔評〕一人子をはるかに遠い、外國の旅にやる母が、ひたすら神に祈つて無事をこひねがふ樣が、いたいたしく眼に見えるやうである。さすがに女性だけあつて、遣唐使の職責などについては云々せず、ただ吾が子の安泰のみを祈つてゐるのが眞情の歌らしく思はれる。
(122)反歌
1791 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 吾が子羽ぐくめ 天の鶴群
客人之《タビビトノ》 宿將爲野爾《ヤドリセムヌニ》 霜降者《シモフラバ》 吾子羽※[果/衣]《ワガコハグクメ》 天乃鶴群《アメノタヅムラ》
旅人ガ宿ヲトル野ニ霜ガ降ツタナラバ、寒イデアラウカラ〔八字傍線〕空ヲ飛ブ鶴ノ群ヨ、私ノ子ヲ羽ノ下ニ入レテ可愛ガツテクレヨ。
○吾子羽※[果/衣]《ワガコハグクメ》――ハグクムは羽の下にくくむこと。轉じて撫育する意味にもなる。ここはその原意。○天乃鶴群《アメノタヅムラ》――舊訓アマノツルムラとあるが、古義に從ふ。天乃と附けたのは、鶴は空を飛翔つてゐるからである。
〔評〕 母性愛のあらはれた作として、蓋し最上の逸品であらう。霜も雪のやうに、空から降るものと考へて、その霜にかからぬやうに吾が子を翼でつつんでくれと空飛ぶ鶴群に頼んでゐる。卷十に天飛也鴈之翅乃覆羽之何處漏香霜之零異牟《アマトブヤカリノツバサノオホヒバノイヅクモリテカシモノフリケム》(二二三八)とあるのと同想であるが、鶴の方が雁よりも翼が大きく、且、夜の鶴は子を思つて鳴くものとせられ、子を愛する鳥であるから、雁よりも一層適切にここに當て嵌るわけである。
思(ヒテ)2娘子(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
1792 白玉の 人のその名を なかなかに 辭のをしたばへ 逢はぬ日の まねく過ぐれば 戀ふる日の かさなり行けば 思ひやる たどきを知らに 肝向ふ 心摧けて 珠襷 懸けぬ時無く 口息まず 吾が戀ふる兒を 玉釧 手に取持ちて まそ鏡 ただ目に見ねば 下檜山 下ゆく水の 上に出です 吾が念ふこころ 安きそらかも
白玉之《シラタマノ》 人乃其名矣《ヒトノソノナヲ》 中中二《ナカナカニ》 辭緒下延《コトノヲシタバヘ》 不遇日之《アハヌヒノ》 數多過者《マネクスグレバ》 戀日之《コフルヒノ》 累行者《カサナリユケバ》 思遣《オモヒヤル》 田時乎白土《タドキヲシラニ》 肝向《キモムカフ》 心摧而《ココロクダケテ》 珠手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 口不息《クチヤマズ》 吾戀兒矣《ワガコフルコヲ》 玉釧《タマクシロ》 手爾取持而《テニトリモチテ》 眞十鏡《マソカガミ》 直目爾不視者《タダメニミネバ》 下檜山《シタヒヤマ》 下逝水乃《シタユクミヅノ》 上丹不出《ウヘニイデズ》 吾念情《ワガモフココロ》 安虚歟毛《ヤスキソラカモ》
(123)白玉ノヤウニ美シイ私ノ愛スル〔ヤウ〜傍線〕人ノ名ヲ、戀シクハアルガ、人ニ知ラレルノガ恐ロシサニ〔戀シ〜傍線〕、却ツテ言葉ニモ出サズニ、遇ハナイ日ガ澤山ニ過ギタカラ、戀フル日ガ重ナツテ行クト、心中ノ憂ヲ晴ラス方法ガ分ラナイカラ、(肝向)心ガ摧《クジ》ケテ(珠手次)心ニ〔二字傍線〕カケテ思ハナイコトハナク、口ニ出シテ戀シイ戀シイト〔七字傍線〕言ヒツヅケテ戀シテヰル女ヲ、(玉釧)手ニ取卷キツケ、(眞十鏡)直接ニ目ニ見ルコトガ出來ナイカラ、(下檜山)木葉ノ〔三字傍線〕下ヲ流レテ行ク水ガ上ニ出ナイ〔六字傍線〕ヤウニ、表ニアラハサズニ、私ガ心中デ〔三字傍線〕思ツテヰルコトハ苦シイコトダヨ。
○白玉之《シラタマノ》――白玉のやうな。いつくしみ愛するにたとへてある。○辭緒下延《コトノヲシタバヘ》――下延は舊本|不延《ノベズ》とあり、代匠記はハヘズとあるが、元暦校本によつて、下延《シタバヘ》と訓みたい。シタバヘは下に思うて、口にあらはさぬこと、辭緒《コトノヲ》は詞の緒で、この句の意は詞にあらはさぬことである。○思遣田時乎白土《オモヒヤルタドキヲシラニ》――思ひを晴らすべき方法がわからないでの意。思遣鶴寸乎白土《オモヒヤルタヅキヲシラニ》(五)參照。○肝向《キモムカフ》――枕詞。五臓六腑が向ひ集まつて、こりこりする意で、こりこりの轉こころにつづく、と宣長は解してゐる。○ 珠手次《タマダスキ》――枕詞。五參照。○口不息《クチヤマズ》――口をやすめず、絶えずいふ意。卷十四に久知夜麻受安乎思努布良武伊敝乃兒呂波母《クチヤマズアヲシヌブラムイヘノコロハモ》(三五三二)とある。○玉釧《タマクシロ》――枕詞。釧は手に卷くものであるから、手にとりもちてとつづけてゐる。冠辭考に、取を蒔の誤として、マキモチテと改めてゐる。○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。語をへだてて、見につづいてゐる。○下檜山《シタヒヤマ》――シタヒは下樋で、地中に埋めた樋。ここは下逝《シタユク》に冠して枕詞としてゐる。攝津風土記に「昔有2大神1云2天津鰐1化爲v鷲、下止2此山1、十人往者、五人去、五人留、有2久波乎云者1來2此山1、伏2下樋1而屆2於神許1、從2此樋内1通而祷祭、由v是曰2下樋山1」とあり、今の豐能郡西郷村大字大里の西北にある劍尾山がそれだといはれてゐる。○安虚歟毛《ヤスキソラカモ》――意空不安久爾嘆空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニ》(一五二〇)などと同じ意味で、安き心かも、安き心にあらずの意であらう。古義は虚を不在の誤として、ヤスカラヌカモと訓んでゐる。
〔評〕 戀情をのべた長歌は集中に多いが、この歌のやうに何等内容的複雜さを有せず、徹頭徹尾戀の心のみを反覆したものは尠い。歌が新しいやうであるから、左註に田邊福麿之歌集出とあるのに由れば、この人の作品に(124)違ひない。
反歌
1793 垣ほなす 人の横言 繁みかも 逢はぬ日まねく 月の經ぬらむ
垣保成《カキホナス》 人之横辭《ヒトノヨコゴト》 繁香裳《シゲミカモ》 不遭日數多《アハヌヒマネク》 月乃經良武《ツキノヘヌラム》
丁度〔二字傍線〕垣根ガ間ヲ隔テル〔六字傍線〕ヤウニ人ガイロイロト言ヒ騷グ〔九字傍線〕横ザマノ中傷ノ〔三字傍線〕言葉ガ多イカラ、私ハアノ人ニ〔六字傍線〕逢ハナイ日ガ多クテ、月ガ過ギタノデアラウ。ホントニ戀シイヨ〔八字傍線〕。
○垣保成人之横辭《カキホナスヒトノヨコゴト》――卷四に垣穗成人辭聞而《カキホナスヒトゴトキキテ》(七一三)とあるやうに、垣根のやうに人の間をへだてる中傷の詞を聞いての意。横辭《ヨコゴト》はよこしまな詞。讒言。○繁香裳《シゲミカモ》――舊訓シゲキカモとあるが、古義の訓に從ふ。新考に「カキホナスはここにてはシゲミにかかれる枕詞なり」とあるのはどうであらう。
〔評〕 これは卷四の七一三に少しく似た歌である。人の口のさがなさを歎ずる弱い戀である。
1794 立易り 月重なりて 逢はざれど さね忘らえず 面影にして
立易《タチカヘリ》 月重而《ツキカサナリテ》 雖不遇《アハザレド》 核不所忘《サネワスラエズ》 面影思天《オモカゲニシテ》
月ガ立チ易ツテ幾ツモ重ナル間アノ人ニ〔四字傍線〕逢ハナイガ、戀シサガ減ジナイデ、アノ人ノ〔戀シ〜傍線〕姿ガ目ノ前ニチラツイテ、ホントニ忘レラレナイ。
○立易《タチカハリ》――舊訓タチカハルとあるが、タチカハリがよいやうである。○核不所忘《サネワスラヱズ》――サネは眞實に。この句はほんとにわすれられないの意。○面影思天《オモカゲニシテ》――眼のまへにちらついて見えて。
〔評〕 これも久しくあはぬを悲しむ戀で、感情が弱々しい。以上の三首はいづれも福麻呂の作であらう。
右三首田邊福麻呂之歌集出
(125)挽歌
宇治|若郎子宮《ワキイラツコノミヤ》所(ノ)歌一首
宇治若郎子は言ふまでもなく應神天皇の皇子である。この皇子の宮所は、今、久世郡宇治町の離宮址であるといふ。これはその宮所を見て後人が作つた歌である。
1795 妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ つま松の木は ふる人見けむ
妹等許《イモラガリ》 今木乃嶺《イマキノミネニ》 茂立《シゲリタツ》 嬬待木者《ツママツノキハ》 古人見祁牟《フルビトミケム》
(妹等許)今木ノ嶺ニ茂ツテヰル(嬬)松ノ木ハ、昔|此處ニ居ラレタ宇治若郎子ト云フ〔此處〜傍線〕人ガ、御覽ニナツタデアラウ。アノ皇子ハ今ハオイデニナラズニ、松ノ木バカリ昔ノ通リニ茂リ立ツテヰル〔アノ〜傍線〕。
○妹等許《イモラガリ》――枕詞。今來の意で、今木につづけてゐる。○今木乃嶺《イマキノミネニ》――今木乃嶺は大和吉野郡の中、高市・南葛城に隣接した所にあるが、ここのは山城の宇治にあるらしい。姓氏録に「山城皇別|今木《イマキ》ミチ守同祖、建豐羽頬別命之後也。又山城神別今木連、神魂命五世孫阿麻乃西手乃命之後也」とあるから、今木は山城の地名なることは疑なく、また日本書紀通證に「今來嶺、在2宇治彼方町東岸1、今曰2離宮山1(一名朝日山)」とある。新考には、イモラガリイマを枕詞とし、キノミネを地名としてゐる。○嬬待木者《ツママツノキハ》――ツマは待つを松にかけて、つづける爲に置いた枕詞式の語である。○古人見祁牟《フルヒトミケム》――古人は昔の人の意で、宇治若郎子をさしてゐる。古義に古を吉の誤として、ヨキヒトミケムと訓んでゐるのはよくない。
〔評〕 懷古的作品である。挽歌の部に入れる程の悲しい歌ではないが、故人をしのんだのであるから、ここに收めたのであらう。左註によると、これは人麿の作で、彼が宇治川のほとりで網代木にいさよふ波を見て、感傷(126)的の作をなしたのと同時の歌か。
紀伊國(ニテ)作(レル)歌四首
1796 黄葉ばの 過ぎにし子らと たづさはり 遊びし磯を 見れば悲しも
黄葉之《モミチバノ》 過去子等《スギニシコラト》 携《タヅサハリ》 遊礒麻《アソビシイソヲ》 見者悲裳《ミレバカナシモ》
(黄葉之)死ンデシマツタアノ女ト、先年〔二字傍線〕、手ヲ携ヘテ遊ンダ礒ヲ見ルト悲シイヨ。以前ノコトガ思ヒ出サレテ、死ンダ女ガシノバレル〔以前〜傍線〕。
○黄葉之《モミヂバノ》――枕詞。四七參照。○遊礒麻《アソビシイソヲ》――舊訓はアソビシイソマとあるが、古義にアソビシイソヲと訓んだのがよい。
〔評〕 嘗て妻と相携へて紀伊に遊んだが、その妻は今は亡い。獨り舊地に再遊して故人を思つた歌で、平板ながらあはれがこもつてゐる。
1797 しほ氣立つ 荒磯にはあれど 行く水の 過ぎにし妹が 形見とぞ來し
鹽氣立《シホゲタツ》 荒礒丹者雖在《アリソニハアレド》 往水之《ユクミヅノ》 過去妹之《スギニシイモガ》 方見等曾來《カタミトゾコシ》
鹽氣ノ立チ上ル荒凉タル磯デハアルガ、(往水之)死ンダ妻ノ形見ト思ツテ、此處ヘワザワザ〔七字傍線〕ヤツテ來タヨ。昔ココヘ二人デ遊ビニ來タコトヲ思フト悲シイ〔昔コ〜傍線〕。
○鹽氣立《シホゲタツ》――鹽氣《シホゲ》は波のしぶきによつて、海上にかかつた靄の如きもの。卷二に鹽氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》(一六二)とある。
〔評〕 卷一に、眞草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曾來師《マクサカルアラヌニハアレドモミヂバノスギニシキミガカタミトゾコシ》(四七)とある人麿の歌によく似てゐる。これも人麿の作に違ひない。
1798 いにしへに 妹と吾が見し ぬば玉の 黒牛潟を 見ればさぶしも
(127)古家丹《イニシヘニ》 妹等吾見《イモトワガミシ》 黒玉之《ヌバタマノ》 久漏牛方乎《クロウシガタヲ》 見佐府下《ミレバサブシモ》
ムカシ妻ト一緒ニ私ガ見タ(黒玉之)黒牛潟ヲ今一人デ來テ〔六字傍線〕見ルト、死ンダ妻ノコトガ思ヒ出サレテ〔死ン〜傍線〕、悲シイヨ。
○古家丹《イニシヘニ》――家をへの假名に用ゐたのは、去家人乎《イニシヘビトヲ》(二六一四)・去家之《イニシヘノ》(二六二八)などの例がある。舊訓フルイヘニと訓んだのは全く誤つてゐる。○黒玉之《ヌバタマノ》――枕詞。黒とつづく。○久漏牛方乎《クロウシガタヲ》――黒牛潟は、今の黒江地方の海。一六七二參照。
〔評〕 これは感情もさほど深くない、平凡な作である。
1799 玉つ島 磯の浦みの 眞砂にも にほひて行かな 妹がふりけむ
玉津島《タマツシマ》 礒之裏未之《イソノウラミノ》 眞名仁文《マナゴニモ》 爾保比去名《ニホヒテユカナ》 妹觸險《イモガフリケム》
玉津島ノ磯ノ浦ノマワリノ眞砂ニデモ、着物〔二字傍線〕ヲ染メテ行カウヨ。コノ眞砂ニ私ノ死ンダ〔十字傍線〕妻ガ觸レタノデアラウ。サウ思ヘバナツカシイ〔十字傍線〕。
○磯之裏未之《イソノウラミノ》――未は舊本末とあるが、元暦校本による。○眞名仁文《マナゴニモ》――神田本、名の下に子の字があるのがよい。マナゴは眞砂。
〔評〕 これは平明な歌で、愛慕の情がほとばしつてあはれである。磯の砂に涙の跡を印しつつ身悶えして、泣いてゐる作者の姿がしのばれる。
右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出
古義に五は四の誤だといつてゐる。これは宇治若郎子宮所歌をも含んでゐるのであるから、五首でよいのである。
過(ギテ)2足柄坂(ヲ)1見(テ)2死人(ヲ)1作(レル)歌一首
(128)足柄坂は相模足柄郡、矢倉澤から西に登ること一里で、俗に地藏峠といふ。舊本、坂を板に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。
1800 小垣内の 麻を引き干し 妹なねが 作り著せけむ 白たへの 紐をも解かず 一重結ふ 帶を三重結ひ 苦しきに 仕へまつりて 今だにも 國にまかりて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東の國の かしこきや 神の御坂に にぎたまの 衣寒らに ぬば玉の 髪は亂れて 國問へど 國をものらず 家問へど 家をも言はず ますらをの 行の進みに ここに臥せる
小垣内之《ヲカキツノ》 麻矣引干《アサヲヒキホシ》 妹名根之《イモナネガ》 作服異六《ツクリキセケム》 白細乃《シロタヘノ》 紐緒毛不解《ヒモヲモトカズ》 一重結《ヒトヘユフ》 帶矣三重結《ヲビヲミヘユヒ》 苦伎爾《クルシキニ》 仕奉而《ツカヘマツリテ》 今谷裳《イマダニモ》 國爾退而《クニニマカリテ》 父妣毛《チチハハモ》 妻矣毛將見跡《ツマヲモミムト》 思乍《オモヒツツ》 往祁牟君者《ユキケムキミハ》 鳥鳴《トリガナク》 東國能《アヅマノクニノ》 恐耶《カシコキヤ》 神之三坂爾《カミノミサカニ》 和靈乃《ニギタマノ》 服寒等丹《コロモサムラニ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 髪者亂而《カミハミダレテ》 郡問跡《クニトヘド》 國矣毛不告《クニヲモノラズ》 家問跡《イヘトヘド》 家矣毛不云《イヘヲモイハズ》 益荒夫乃《マスラヲノ》 去能進爾《ユキノススミニ》 此間偃有《ココニコヤセル》
垣ノウチニ作ツタ麻ヲ引イテ干シテ、妻ガ作ツテ着セタノダラウト思ハレル(白細乃)衣物ノ〔三字傍線〕紐モ解カナイデ、辛苦シタ爲ニ病氣ニナツテ身モ瘠セ衰ヘテ〔辛苦〜傍線〕、一重ニ結ブ帶ヲ、三重ニモ結ブヤウニ瘠セテ〔四字傍線〕、苦シイノニ奉公シテ、今カラデモ國ニ歸ツテ、父ヤ母ヤ妻ニモ逢ハウト思ワテ、出掛ケタデアラウトコロノアナタハ、(鳥鳴)東ノ國ノ(恐耶)神樣ノイラツシヤル、足柄トイフ〔イラ〜傍線〕坂ニ、(和靈乃)着物モ寒サウニ、(烏玉乃)髪ノ毛ハ亂レテ、國ハドコカトソノ本國〔九字傍線〕ヲ尋ネテモ國ヲモ告ゲズ、家ヲ尋ネテモ家モ答ヘズニ、コノ〔二字傍線〕男ガ國ヘユク〔四字傍線〕途中デ、此處ニ死ンデ〔三字傍線〕臥テヰル。ホントニ可愛サウナコトダ〔ホン〜傍線〕。
○小垣内之《ヲカキツノ》――ヲは接頭語。垣内《カキツ》は文字通り、垣の内部、即ち屋敷の中である。○麻矣引干《アサヲヒキホシ》――ヒキは根からひき拔くこと。引き拔いだ麻をならべて、日に干すのである。○妹名根之《イモナネガ》――イモナネのナは、親しんでいふ語。ネは多く女に對していふ語。卷四に名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》(七二四)とある。○白細乃《シロタヘノ》――枕詞。紐とつづく。紐は上衣の紐(129)で、衣と同じく白い栲で作つたから、枕詞になつたのである。○一重結帶矣三重結《ヒトヘユフヲビヲミヘユヒ》――卷四の一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクワガミハナリヌ》(七四二)、卷十三の二無戀乎思爲者常帶乎三重可結我身者成《フタツナキコヒヲシスレバツネノオビヲミヘムスブベクワガミハナリヌ》(三二三)と同意である。○苦侍伎爾《クルシキニ》――病中苦しい間にの意。○今谷裳《イマダニモ》――歸國の許可を漸く得たので、今からでもの意。○鳥鳴《トリガナク》――枕詞。鷄がなくよ我が夫よと呼び起す意で、つづいてゐる。一九九參照。○恐耶《カシコキヤ》――枕詞。神とつづく。○神之三坂爾《カミノミサカニ》――足柄山は神のいます恐ろしい坂であるから、神之三坂といつたのであるが、足柄の坂にかぎつてかくいふのではない。卷二十に知波夜布留賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知知我多米《チハヤブルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチチガタメ》(四四〇二)とあるのは、木曾の御坂のことである。ミは接頭語。○和靈乃《ニギダマノ》――和靈の衣とつづけては意味をなさない。考には和細布乃《ニギタヘノ》の誤であらうといつてゐる。さうすれば意味はよく通ずる。しかし次に鳥玉乃《ヌバタマノ》とあつて、恰もこれと對句をなしてゐるやうに見えるから、なほ考究を要する。○服寒等丹《コロモサムラニ》――サムラのラは接尾語。寒さうにの意。○烏玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。元來黒の枕詞であるが、髪は黒いからかくつづけたのであらう。○郡問跡《クニトヘド》――舊本、郡とあるが、元暦校本その他の古本、邦に作るものが多い。郡はその意味からも、音からも、クニと訓むべき文字であるから、誤とは斷じがたく、又集中他に邦の字の用例もないから、これはいづれとも決し難い。しばらく舊本の形を存して後の研鑽をまたう。○去能進爾《ユキノススミニ》――行き進みてある中に。途中で。○此間偃有《ココニコヤセル》――ここにこやせるよの意。こやせるは臥すの敬相で、こやすは死して横たはる場合に用ゐた例が多い。
〔評〕 旅中足柄の坂で死人を見て、よんだ歌である。かうした例は、聖徳太子が龍田山の死人を見て悲傷せられた歌(四一五)を初として、人麿が讃岐の狹岑の島の石中死人を見てよんだ歌(二二〇)、同じく香具山で屍を見た歌(四二六)などがある。この歌は狹岑の島の長歌から暗示を得たかとも思はれ、又卷五の山上憶良が大伴君熊凝に擬して作つた歌(八八六)などとも關係があるかも知れない。一重結ふ紐を三重結ひなどの語が巧に用ゐられて、かなりよく出來てゐる。田邊福麿集に出てをり、その用語格調から言つても、福麿の作なることは疑を入れない。かかる後期の長歌に反歌を添へないのも珍らしいことである。
(130)過(グル)2葦屋《アシヤノ》處女墓(ヲ)1時、作(レル)歌一首并短歌
葦屋は和名抄に攝津國菟原郡葦原(原は屋の誤)とあるところで、即ち今の神戸市の東方葦屋附近である。古はアシヤともアシノヤともいつた。この里に名高い葦屋處女といふ處女があつた。葦屋は菟原郡の郷であつたから、彼女は又菟原處女とも言つてゐたのである、この女に戀した男に菟原壯士と血沼壯士とがあつた。菟原壯士はその地方の青年で、血沼壯士は和泉の國血沼の人であつた。又彼を小竹田壯士《シヌタヲトコ》とも言つたのは和泉の信田の郷の人であつたからである。二人はこの處女を得ようとして爭つた。處女は心中では血沼壯士に思ひをよせてゐたらしいが菟原壯士の情も無にしがたく、思ひあまつて遂に自らその玉の緒を絶つた。これを知つた二人の男も相次いで死んだ。そこでこの女の墓が築かれると、それを中にして男の塚が兩側に作られた。この事が言ひつぎ語り傳へられて、この墓を過ぎる人たちは皆これに同情の涙を注いだ。この話は謂はゆる妻爭傳説の一で、眞間手兒奈の話などと同種のものであるが、京畿地方にあつた事件として傳へられ、且墓の所在地が西國への通路に近く、又歌枕として有名な葦屋にあつた爲に非常に有名となつて、後世の文献に屡々繰返され、種々展開して行つた。この墓と稱するものが今もなほ存してゐる。大日本地名辭書には「處女墓三所各周廻は十餘歩、一は住吉村字|御田《ゴテン》(御影町の東)一は東明《トウミヤウ》(今御影町に屬す其西に在り)一は味泥《ミトロ》(今都賀野村に屬す※[さんずい+文]賣神社の東六町)に在り。相距る各十餘町、今御田東明の二塚は現存し、近年味泥塚は削られて民宅と爲る。俗説御田塚を茅渟の信太男墓、東(131)明塚を處女墓、味泥塚を兎原男墓と爲す。皆前方後圓の大馬鬣封なり」とある。東明なる處女塚は今内務省指定の史蹟となつてゐて、その形も大體舊態を存してゐる。寫眞はその北方から寫したもの。歌碑も同所に建つてゐる。御田は普通呉田と記してある。坂神電車の住吉に近いところで、血沼壯士の墓と傳へられてゐるものは、今求塚と稱せられ、財團法人遊喜園といふ幼稚園内にあり、塚としての原形は備へてゐない。味泥にある菟原壯士の墓と傳へられるものも、同じく求塚と稱せられ、今は某氏の別荘内に築山として存してゐる。挿入寫眞は横手貞人氏撮影寄贈。
1801 古の 益荒をのこの 相きほひ 妻問ひしけむ 葦の屋の うなひ處女の 奥つ城を 吾が立ち見れば 永き世の 語りにしつつ 後の人 しぬびにせむと 玉桙の 道のべ近く 磐構へ 作れる塚を 天雲の そくへの限 この道を 行く人毎に 行きよりて い立ち嘆かひ 或人は ねにも泣きつつ 語りつぎ しぬび繼ぎ來し をとめらが 奥つ城どころ 我れさへに 見れば悲しも 古思へば
古之《イニシヘノ》 益荒丁子《マスラヲノコノ》 各競《アヒキホヒ》 妻問爲祁牟《ツマドヒシケム》 葦屋乃《アシノヤノ》 菟名日處女乃《ウナビヲトメノ》 奥城矣《オクツキヲ》 吾立見者《ワガタチミレバ》 永世乃《ナガキヨノ》 語爾爲乍《カタリニシツツ》 後人《ノチノヒト》 偲爾世武等《シヌビニセムト》 玉桙乃《タマボコノ》 道邊近《ミチノベチカク》 磐構《イハカマヘ》 作冢矣《ツクレルツカヲ》 天雲乃《アマグモノ》 退部乃限《ソキヘノカギリ》 此道矣《コノミチヲ》 去人毎《ユクヒトゴトニ》 行因《ユキヨリテ》 射立嘆日《イタチナゲカヒ》 或人者《アルヒトハ》 啼爾毛哭乍《ネニモナキツツ》 語嗣《カタリツギ》 偲繼來《シヌビツギコシ》 處女等賀《ヲトメラガ》 奥城所《オクツキドコロ》 吾并《ワレサヘニ》 見者悲喪《ミレバカナシモ》 古思者《イニシヘオモヘバ》
昔ノ知努男トイフ男ト、宇奈比男トイフ〔知努〜傍線〕男トガ、互ニ競ツテ妻ニシヨウト訪ネテ行ツタ、葦屋ノ菟名日處女トイフ美人ハ遂ニドチラニモ從フコトガ出來ナイデ死ンデシマツタトイフコトダガ、ソノ女〔トイ〜傍線〕ノ基ヲ私ガ今尋ネテ來テ〔六字傍線〕、立ツテ見ルト、永イ後ノ世マデノ語草ニシテ、後ノ世ノ〔二字傍線〕人ガ思ヒ出ス料ニスルデアラウトテ(玉桙乃)道ノホトリニ近ク、岩ヲ構ヘ築イテ作ツタコノ塚ヲ、天ノ雲ノ遠ザカツテヰル果テマデモ、遙カニ遠ク旅行シテ〔九字傍線〕コノ道ヲ通ル人毎ニ、誰デモ〔三字傍線〕通リガカリニ寄ツテ行ツテ、立チ止ツテ嘆キ、或人ハ聲ヲ出シテマデ泣イテ、昔カラ〔三字傍線〕語リ傳ヘ思ヒ出シテ來タ葦屋處女ノ墓所ヲ、私モ亦ヤハリ來テ見ルト、昔ガ思ヒ出サレルカラ悲シイヨ。
(132)○妻問爲祁牟《ツマドヒシケム》――妻とならむことを求めたであらうところの。ツマドフは婚を求めること。○葦屋乃菟名日處女乃《アシノヤノウナヒヲトメノ》――右に述べたやうに、葦屋は菟原郡の内にある郷であるが、この女は葦屋處女といふと共にその廣き地名を負うて菟名日處女ともいつたのである。○語爾爲乍《カタリニシツツ》――語り草にしつつの意。○後人《ノチノヒト》――後世の人がの意。略解、古義はノチビトとよんでゐるが果してさういふ熟語があるか疑はしい。但し大日本國語辭典には熟語としてこの歌を例に引いてゐる。○玉桙乃《タマボコノ》――枕詞。道とつづく。○磐構《イハカマヘ》――磐を構へて、磐を組んで。○作冢矣《ツクレルツカヲ》――冢は舊訓を改めて古義にはハカとよんでゐる。ツカでよいやうである。○天雲之退部乃限《アマグモノソキヘノカギリ》――天雲の退き方の限。空のあなたの遠方までの意。雲が遙かに遠ざかつて見えるから退《ソ》き方《ヘ》といふ。○行因T《ユキヨリテ》――行きつつ立ち寄りての意、通りがかりに寄ること。○射立嘆日《イタチナゲカヒ》――イは接頭語。○或人者《アルヒトハ》――舊本、或を惑に作つてワビヒトハとよんでゐるが、元暦校本・藍紙本など或になつてゐるから、これに從ふべきである。眞淵が※[戚/心]《ワビ》の誤とし、宣長が惑は借字で里人であらうといつたのも當つてゐない。或人者啼爾毛哭乍《アルヒトハネニモナキツツ》は聲を出して泣く者もある意である。○處女等賀《ヲトメラガ》――等《ラ》は複數ではない。
〔評〕 この歌は左註によると田邊福麿作と思はれる。歌が平易で萬葉後期の作品らしい。その上、卷三に見えてゐる過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌(四三一)と比較すると、模倣のあとの甚だしいのに驚く。まづ題詞が同型になつてゐるが、かの長歌の冒頭の古昔有家武人之倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武勝牡鹿乃眞間之手兒名之《イニシヘニアリケムヒトノシヅハタノオビトキカヘテフセヤタテツマドヒシケムカツシカノママノテゴナガ》と、この長歌の初とを比較して見ると、思ひ半に過ぎるものがあらう。同樣な事が反歌についても言へるのである。
反歌
1802 いにしへの 小竹壯士の 妻問ひし 菟原處女の 奥城ぞこれ
古乃《イニシヘノ》 小竹田丁子乃《シヌダヲトコノ》 妻問石《ツマドヒシ》 菟會處女乃《ウナビヲトメノ》 奥城叙此《オクツキゾコレ》
(133)昔ノ小竹田男ガ、妻ニシヨウトテ尋ネテ行ツタ、菟會處女ノ墓ハココダゾ。
○小竹田丁子乃《シヌダヲトコノ》――舊訓ササダヲトコノとあるが、小竹田はシヌダと訓むべきである。シヌダヲトコは即ち血沼壯士で、和泉の茅渟の信太の男であつたのである。小竹は懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》(六)などシヌとよんである。謠曲求塚に小竹田男《ササダヲトコ》と血沼大丈夫《チヌノマスラヲ》との二人にしてゐるのは、歌林良材集によつたもので、大きな誤である。
〔評〕 これも卷三の山部赤人の長歌の反歌、吾毛見都人爾毛將告勝牡鹿之間間能手兒名之奧津城處《ワレモミツヒトニモツゲムカツシカノママノテゴナガオクツキドコロ》(四三二)と比すると、かなりよく似てゐる。
1803 語りつぐ からにもここだ 戀しきを ただ目に見けむ 古壯士
語繼《カタリツグ》 可良仁文幾許《カラニモココダ》 戀布矣《コヒシキヲ》 直目爾見兼《タダメニミケム》 古丁子《イニシヘヲトコ》
葦屋處女ノ話ヲ、今ニ〔九字傍線〕語リ傳ヘタダケ〔三字傍線〕デモ私ハソノ女ガ〔六字傍線〕戀シク思ハレルノニ、直接ニ目ニ見タ昔ノ血沼男・宇奈比男ハドンナニカ戀シカツタデアラウ〔ハド〜傍線〕ヨ。
○可良仁文幾許《カラニモココダ》――故にも、甚だの意。カラは後世では助詞として語尾にのみ用ゐられるが、古代は故《カレ》として語頭によく用ゐられた。これはその過渡期であつたものか。かく句の始に用ゐられた例は、この他|手取之柄二忘跡礒人之曰師《テニトルガカラニワスルトアマノイヒシ》(一一九七)などもある。
〔評〕 句尾にさぞ戀しかつたであらうといふやうな意を含ましめて、餘韻を持たせてある、これは卷三の反歌(四三三)よさ程似てはゐないが、氣分はやはり同一である。どうしてもこの三首は福麿が赤人に傚つて試作したも(134)のである。
哀(シミテ)2弟(ノ)死去(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
これも田邊福麿作らしい。福麿が弟を失つた時期は全くわからない。
1804 父母が なしのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消易きいのち 神のむた 爭ひかねて 葦原の 瑞穗の國に 家無みや また還り來ぬ 遠つ國 よみの界に 蔓ふ葛の おのがむきむき 天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひまどはひ 射ゆししの 心を痛み 葦垣の 思ひ亂れて 春鳥の ねのみなきつつ 味さはふ 夜晝いはず かぎろひの 心燃えつつ 嘆く別を
父母賀《チチハハガ》 成乃任爾《ナシノマニマニ》 箸向《ハシムカフ》 弟乃命者《オトノミコトハ》 朝露乃《アサツユノ》 銷易杵壽《ケヤスキイノチ》 神之共《カミノムタ》 荒競不勝而《アラソヒカネテ》 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國爾《ミヅホノクニニ》 家無哉《イヘナミヤ》 又還不來《マタカヘリコヌ》 遠津國《トホツクニ》 黄泉乃界丹《ヨミノサカヒニ》 蔓都多乃《ハフツタノ》 各各向向《オノガムキムキ》 天雲乃《アマグモノ》 別石往者《ワカレシユケバ》 闇夜成《ヤミヨナス》 思迷匍匐《オモヒマドハヒ》 所射十六乃《イユシシノ》 意矣痛《ココロヲイタミ》 葦垣之《アシガキノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 春鳥能《ハルトリノ》 啼耳鳴乍《ネノミナキツツ》 味澤相《アヂサハフ》 宵晝不知《ヨルヒルイハズ》 蜻蜒火之《カギロヒ》 心所燎管《ココロモエツツ》 悲悽別焉《ナゲクワカレヲ》
父母ガ生ンダママニ愛ラシイモノトシテ私ト〔二字傍線〕向ヒアツテヰル弟ハ、朝露ノヤウニ消エ易イ命ヲ、神樣ノオ心ノママニ爭フコトガ出來ナイデ、死ンデシマツテ〔七字傍線〕、葦原ノ水穗ノ國ニ、家ガ無イカラ再ビ還ツテ來ナイノダラウカ。遠イ國ノ黄泉ノ地ニ、(蔓都多乃)各々勝手ニ(天雲乃)別レテ行ツタノデ、私ハ〔二字傍線〕(闇夜成)心ガ暗クナツテ〔七字傍線〕思ヒ迷ウテ、(所射十六乃)心ガツライノデ(葦垣之)思ヒ亂レテ(春鳥能)聲ヲ出シテ泣イテバカリヰテ、(味澤相)夜晝ノ區別モナク、(蜻蜒火之)心ガ燃エテ別ヲ歎イテヰルヨ。
○成乃任爾《ナシノマニマニ》――生み成したままにの意。○箸向弟乃命者《ハシムカフオトノミコトハ》――ハシムカフは從來枕詞として、愛《ハ》し向ふ、又は箸の相對する如き、或は相雙向ふの意としてゐるが、これを枕詞とする時は語のつづきが極めて惡い。これは父母の(135)成しのまにまに、愛《ハ》しく向ひ合つてゐるの意としなければならぬから、枕詞とは見ないことにする。ミコトは御事、尊んでいふのである。○神之共《カミノムタ》――壽は神の掌り給ふものであるから、神のまにまに爭ひかねるといふのである。○葦原乃水穗之國爾《アシハラノミヅホノクニニ》――日本の國に。一六七參照。○家無哉《イヘナミヤ》――家が無いからか。○蔓都多乃《ハフツタノ》――枕詞。蔓は枝を分ちて彼方此方に向つて延び行くものであるから、オノガムキムキにつづいてゐる。○各各向向《オノガムキムキ》――枕詞。舊訓を改めて、代匠記精撰本「おのおのと讀むべきにや」とあり、古義はオノモオノモとよんでゐるが、これは祝詞大殿祭に己乖乖不令在《オノガムキムキアラシメズ》とあつて、オノガムキムキといふ成語と思はれるから、さう訓むことにする。○天雲乃《アマグモノ》――枕詞。別とつづく。○闇夜成《ヤミヨナス》――枕詞。マドハヒにつづく。○思迷匍匐《オモヒマドハヒ》――マドハヒはマドヒの延言。○所射十六乃《イユシシノ》――枕詞。射られた鹿猪が苦しみなやむ意で下へつづいてゐる。○葦垣之《アシガキノ》――枕詞。亂れにつづく。○春烏能《ハルトリノ》――枕詞。下へつづく意は明らかであらう。○味澤相《アヂサハフ》――枕詞。これはメとつづくのを常とするのに、ここにヨルにつづいてゐるのは珍らしい。恐らく味鳧が多く空を飛び渡つて寄り來る意であらう。卷七に安治村十依海船浮《アヂムラノトヲヨルウミニフネウケテ》(一二九九)とあるのはその證とすべきである。古義がこの下に目辭毛絶而夜干玉乃《メゴトモタエテヌバタマノ》の二句脱ちたものとしたのは賛成し難い。○蜻蜒火之《カギロヒ》――枕詞〕。燎《モエ》につづく。○悲悽別焉《ナゲクワカレヲ》――古義、別焉を我爲の誤とし、ナゲキゾアガスルとし新考は別を我としてカナシブワレゾまたはワレヲとよむべしとある。誤字説は遽かに從ひ難い。舊訓のままでよいであらう。嘆く別ぞの意であらう。
〔評〕 肉親の弟を失つた哀傷感がよくあらはれてゐる。卷十七に大伴家持が長逝した弟を哀傷した長歌が出てゐるが、それと内容的に何ら關係を有たぬけれども、集中この種の作として共によい作である。併しどうも言葉に力強さが缺けてゐるので、人の肺腑を突くやうな點がないやうである。
反歌
1805 別れても またもあふべく 念ほえば 心亂れて 我戀ひめやも 一云、心つくして
別而裳《ワカレテモ》 復毛可遭《マタモアフベク》 所念者《オモホエバ》 心亂《ココロミダレテ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》 (136)一云、意盡而《ココロツクシテ》
今〔傍線〕別レテモ後デ〔二字傍線〕マタ逢ヘルト思フナラバ、コンナニ〔四字傍線〕心ガ亂レテ私ガ弟ヲ〔二字傍線〕戀ヒ慕ハウカ。コンナニハ慕ヒハセヌ。弟ハ死ンデシマツタ、マタ逢フコトガ出來ナイカラ私ハコンナニ歎クノダ〔コン〜傍線〕。
○別而裳《ワカレチモ》――モは強めていふのみ。○吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》――新考にはワガコヒメヤモとよんでゐる。○一云、意盡而《ココロツクシテ》――四の句の異傳である。心の限りの意。
〔評〕 わかり切つたことを述べてゐるやうであるが、あはれに聞える。
1806 あしびきの 荒山中に 送り置きて かへらふ見れば こころ苦しも
蘆檜木笶《アシビキノ》 荒山中爾《アラヤマナカニ》 送置而《オクリオキテ》 還良布見者《カヘラフミレバ》 情苦喪《ココロクルシモ》
(蘆檜木笶)人ノアマリ通ハナイ〔九字傍線〕荒凉タル山ノ中ニ、弟ノ屍ヲ〔四字傍線〕送ツテ置イテ、葬式ニ列した人がココカラ〔葬式〜傍線〕歸ツテ行クノヲ見ルト、私ノ〔二字傍線〕心ハ淋シイヨ。ココマデハ大勢デ來タノダガ、コレカラ僅カナ人デ墓ノ側ニ居ルコトカト思フト淋シイヨ〔ココ〜傍線〕。
○還良布見者《カヘラフミレバ》――略解に「葬送の人の家に歸るを見る也」とある通りであらう。新考に見を思の誤としたのは獨斷に過ぎる。
〔評〕 葬送の時、送つて來た人が歸るのを見て悲しく思つた歌である。卷二人麿の衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマヂヲユケバイケリトモナシ》(二一二)と歌詞も氣分も似てゐるが、かれは自ら山より歸る時の作で、これは葬送の人に別れて山に殘る時の作らしい。あはれに悲しい歌である。
右七首田邊福麻呂之歌集出
(137)詠(メル)2勝鹿眞間《カツシカノママノ》娘子(ヲ)1歌一首并短歌
勝鹿眞間娘子のことは卷三の四三一參照。
1807 鷄が鳴く 吾妻の國に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言ひ來る 葛飾の 眞間の手兒名が 麻ぎぬに 青くびつけ ひたさをを 裳には織り著て 髪だにも 掻きはけづらず 履をだに 穿かず行けども 錦綾の 中につつめる いはひ兒も 妹にしかめや 望月の たれる面わに 花のごと ゑみて立てれば 夏虫の 火に入るがごと みなと入に 船漕ぐ如く 行きかぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 浪のとの 騒ぐ湊の 奥津城に 妹がこやせる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが如も 念ほゆるかも
鷄鳴《トリガナク》 吾妻乃國爾《アヅマノクニニ》 古昔爾《イニシヘニ》 有家留事登《アリケルコトト》 至今《イママデニ》 不絶言來《タヘズイヒクル》 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞間乃手兒奈我《ママノテゴナガ》 麻衣爾《アサギヌニ》 青衿著《アヲクビツケ》 直佐麻乎《ヒタサヲヲ》 裳者織服而《モニハオリキテ》 髪谷母《カミダニモ》 掻者不梳《カキハケヅラズ》 履乎谷《クツヲダニ》 不著雖行《ハカズユケドモ》 錦綾之《ニシキアヤノ》 中丹※[果/衣]有《ナカニツツメル》 齊兒毛《イハヒゴモ》 妹爾將及哉《イモニシカメヤ》 望月之《モチヅキノ》 滿有面輪二《タレルオモワニ》 如花《ハナノゴト》 咲而立有者《ヱミテタテレバ》 夏蟲乃《ナツムシノ》 入火之如《ヒニイルガゴト》 水門入爾《ミナトイリニ》 船己具如久《フネコグゴトク》 歸香具禮《ユキカグレ》 人乃言時《ヒトノイフトキ》 幾時毛《イクバクモ》 不生物呼《イケラジモノヲ》 何爲跡歟《ナニストカ》 身乎田名知而《ミヲタナシリテ》 浪音乃《ナミノトノ》 驟湊之《サワグミナトノ》 奥津城爾《オクツキニ》 妹之臥勢流《イモガコヤセル》 遠代爾《トホキヨニ》 有家類事乎《アリケルコトヲ》 昨日霜《キノフシモ》 將見我其登毛《ミケムガゴトモ》 所念可聞《オモホユルカモ》
(鷄鳴)東國デ昔アツタコトトシテ今マデ絶エズ語リ傳ヘテ來ル、美人ノ譽高イ〔六字傍線〕葛飾ノ眞間ノ手兒奈トイフ女〔四字傍線〕ガ、麻ノ着物ニ青イ襟ヲツケテ、又〔傍線〕麻バカリヲ織ツテ裳ニコシラヘテ着テ、髪スラモ掻キ梳ラズ、履物スラモ穿カズニヒドイ姿ヲシテ道ヲ〔九字傍線〕歩クケレドモ、錦ヤ綾ノ中ニ包ンデヰル、大切ニカシヅク娘デモ、コノ女ニハトテモ〔二字傍線〕及バナイ。(望月之)缺點ノナイ縹緻《キリヨウ》デ、花ノヤウニ笑ツテ立ツテヰルト、夏虫ガ自ラ飛ンデ〔五字傍線〕火ニ入ルヤウニ、又〔傍線〕河口ノ港ニ入ル時ニ舟ガ先ヲ爭ツテ〔五字傍線〕漕イデ來ルヤウニ、夢中ニナツテ行ツテ男ガ婚ヲ申込ンダ時ニ、人ノ命トイフモノハ〔八字傍線〕ドレダケ長ク生キルモノデモアルマイノニ、コノ處女ハ〔五字傍線〕ドウシヨウト身ノ上ヲ考ヘタノカ、浪ノ(138)音ガ騷ガシイ河口ニ、身投ゲヲシテ死ンデシマツテ〔河口〜傍線〕、コノ河口ノ墓ニコノ女ガ永久ニ埋ラレテ〔七字傍線〕寢テヰル、今此處ヘ來テコノ娘子ノ墓ヲ見ルト〔今此〜傍線〕、遠イ昔ニアツタコトヲ、昨日デモ見タコトノヤウニ思ハレテ悲シイ〔四字傍線〕ヨ。
○鷄鳴《トリガナク》――枕詞。吾妻とつづく。一九九參照。○吾妻乃國爾《アヅマノクニニ》――吾妻の國は坂東。書紀には日本武尊が碓日の嶺で橘姫を思うて、吾嬬者耶《アヅマハヤ》と歎じ給うたに起るとあり、古事記には足柄の坂で阿豆麻波夜《アヅマハヤ》と詔らせ給うたとある。いづれにしても後世の關東八州をさすのである。○眞間乃手兒奈我《ママノテゴナガ》――手兒奈は處女といふやうな意と思はれる。卷十四に哭乎曾奈伎那流手兒爾安良奈久爾《ネヲゾナキツルテゴニアラナクニ》(三四八五)・伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰《イシヰノテゴガコトナタエソネ》(三三九八)・左和多里能手兒爾伊由伎安比《サワタリノテゴニイユキアヒ》(三五四〇)など手兒とあるによれば、ナは添へたものである。さうしてこれがいづれも東歌中にあらはれてゐるので見ると、東國の方言なることがわかる。○青衿著《アヲクビツケ》――舊訓アヲフスマキテとあるのは、衿を衾と同字に見たのであらうがよくない。衿の字、元暦校本・神田本にはクビとよみ、代匠記精撰本にも、「あをくびつけてと讀むべし。…毛詩云、青々子衿、傳云、青衿青領也、爾雅云、衿、交領、與v襟同、和名云、釋名云、衿音領古呂毛之久比頸也、所2以擁1v頸也、襟音禁禁也、交2於前1所3以禁2御風寒1也云々」とあつてクビとよんでゐる。略解にはオビとよんで、「和名秒腰帶部に、衿音襟和名比岐於比小帶也、釋名云、衿禁也、禁不v得2開散1也と見ゆ。後世女の裳に引腰とて長く垂て曳もの有。其類ひにて衣をゆひてはしを長くたるるなるべし」とある。代匠紀初稿本にアヲエリツケとあるが、古義にはそれに從つて略解を疑つてゐる。この文字は集中に他の用例なく、これらのいづれを良しとすべき(139)か判斷に苦しむところであるが、訓義辨證に委しい考證をあげて、「毛詩鄭風に青青子衿とありて、傳に青衿青領也といへり。これ育衿をアヲクビと訓むべき明證なり」と言つたのに從はう。天武紀に襟をキヌノクビと訓し、右にあげた和名抄にも古呂毛乃久比とあり、名義抄にも領の字をクビ・キヌノクビと訓んでゐる。※[女+任]も和名抄に於保久比とあるのは大領の意である、これから考へると、エリよりもクビが古語と思はれる。エリの用例が上代の文献に見えないやうである。○直佐麻乎《ヒタサヲヲ》――ひたすらの麻。麻ばかり。サは接頭語で、意味はない。○齊兒毛《イハヒゴモ》――大切にしてかしづいてゐる女兒。富家の箱入娘。○望月之《モチヅキノ》――枕詞。望月は缺けるところがない意を以て滿有《タレル》につづいてゐる。顔が光つてゐる意と解した説はわるい。○滿有面輪二《タレルオモワニ》――滿有は舊訓ミテルとあるが、考・略解などにタレルとあるに從ふ。卷二のに望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタタハシケムト》(一六七)・天地日月與共滿將行神乃御面跡《アメツチヒツキトトモニタリユカムカミノミオモト》(二二〇)などの用例がこれを證してゐる。面輪《ナモワ》は、オモテ・オモに同じであるが、ワに輪廓といふやうな意があるやうである。この四句は前の末珠名娘子を詠んだ長歌に、其姿之端正爾如花咲而立者《ソノカホノキラキラシキニハナノゴトヱミテタテレバ》(一七三八)とあるのに似てゐる。○水門入爾《ミナトイリニ》――船が河口の碇泊所に人らうとしての意。○歸香具禮《ユキカグレ》――考に舊訓を改めて、ヨリカゲレとしてゐるが、もとのままがよい。歸の字は多くユキとよんでゐる。香具禮《カグレ》は珍らしい詞である。宣長は古事記傳に、カガヒと同語で、カガヒはカグレアヒであらうといつて、「かぐれと云言此外に見えざれども、妻をよばふ事を、然云る古言のありしなるべし」と述べてゐる。略解にも「今懸想といふに同じ語也」といつてゐる。古義には「具禮は賀比の誤にてユキカガヒなるべし。カガヒはクナガヒの約れる言にてそのもと婚合を云よりはじまれる古言なり」とあるが、例の獨斷であらう。新解に「香具山、神樂等、神の寄り著く意にカグと用ゐてゐるものがある。そのカグの活用で、誘ひ寄せられる意と思はれる。」とある。ともかく婚を求めて寄り來ることに相違ない。○何爲跡歟身乎田名知而《ナニストカミヲタナシリテ》――どうしようと吾が身を直《タダ》に考へての意。この二句の間に脱句があるものとした新考の説はどうであらう。タナシリは卷一に家忘身毛多奈不知《イヘワスレミモタナシラズ》(五〇)、この卷に身者田菜不知《ミハタナシラズ》(一七三九)とあるのと同じく、直《タダ》知りの意。○驟湊之《サワグミナトノ》――湊は川の海に注ぐところ。河口。この水路は即ち今の江戸川で、上古は利根川がここに落ちてゐたのである。この句の下に手兒奈が身を投じて死んで、そこに葬(140)つて墓を作つた意を含めて解しなければわからない。○奧津城爾妹之臥勢流《オクツキニイモガコヤセル》――墓に手兒奈が葬られてゐるのであらうかの意。手兒奈の墓は卷三に過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌(四三一)にある通りで、當時は所在が明らかであつたが、今は全くその址がないやうである。今、手兒奈明神として祀つてあるところが、その墓所のやうに傳へられてゐるが信じ難い。
〔評〕 妻爭傳説の一として有名な葛飾眞間手兒奈を取扱つた歌は、集中卷三の山部赤人作歌(四三一)とこの歌とであるが、他に東歌中にこれに關したものが二首ある。傳説の筋を委しく述べてゐる點からいへば、この長歌の右に出づるものがなく、歌聖赤人の作よりも内容が豐富で、赤人のは殆ど懷古の情に終始してゐるが、これは手兒奈の美貌を巧に述べて、世人の戀慕の的となつたことを叙し、その美女の突然なる死を恠しみ且悲しんでゐる。赤人作に比して勝るとも劣らない作である。
反歌
1808 葛飾の 眞間の井を見れば 立ちならし 水汲ましけむ 手兒奈し念ほゆ
勝牡鹿之《カツシカノ》 眞間之井見者《ママノヰミレバ》 立平之《タチナラシ》 水※[手偏+邑]家牟《ミヅクマシケム》 手兒名之所念《テゴナシオモホユ》
葛飾ノ眞間ノ井ヲ見ルト、イツモ此處ニ來テ〔八字傍線〕立ツテココヲ〔三字傍線〕履ミ平ラシテ、手兒名ガ〔四字傍線〕水ヲ汲ンダダラウガ、ソ〔二字傍線〕ノ手兒名ノコトガ戀シク〔三字傍線〕思ヒダサレル。
○眞間之井見者《ママノヰミレバ》――眞間之井は眞間にある清水の湧いて湛へたところ。掘井ではない。手兒奈明神の境内に古の眞間井と稱する井戸があるのは、後世の好事家が作つたものである。なほこの眞間の井を、眞野の入江のこととする説も大なる誤である。○立平之《タチナラシ》――ナラシは地を踏み平らかにすること。馴らしでも、鳴らしでもない。手兒奈が絶えず來て、井のほとりを踏んだことを言つたのである。○水※[手偏+邑]家牟《ミヅクマシケム》――クマシのシは敬語。スの變化である。
(141)〔評〕 水を汲むのは少女の業である。眞間の井のほとりに來て、古を思ふ時、先づ胸に浮ぶものは古代の手兒奈の水汲みに來たやさしい姿である。この清い水に麻衣に青衿つけた装をうつし、履をもはかぬ足でこの土を踏み平らしたかと思へば、ただ懷古の情に胸が迫るのを覺える。長歌に歌はなかつた眞間井が詠まれてゐるので、傳説の内容を廣くしてゐる。なほこの眞間の手兒奈の傳説は處女塚傳説のやうには、後世文學にあらはれてゐないが、雨月物語の淺茅が宿はこれから思ひついた作と思はれる。
見(ル)2菟原《ウナヒ》處女(ノ)墓(ヲ)1歌一首并短歌
菟原處女墓は前の葦屋處女墓(一八〇一)と同じ。菟原はその歌に菟名日とあるに同じである。
1809 葦の屋の 菟原處女の 八年兒の 片生の時ゆ をばなりに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の こもりてませば 見てしがと いぶせむ時の 垣ほなす 人のとふ時 血沼をとこ 菟原をとこの 廬屋たき すすし競ひ 相よばひ しける時は 燒太刀の たがみおしねり 白檀弓 靱取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 吾妹子が 母に語らく 倭文手まき 賤しき吾が故 ますらをの 爭ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隱沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 血沼壯士 その夜夢に見 取りつづき 追ひ行きければ 後れたる 菟原壯士い 天仰ぎ 叫びおらび つちに伏し きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸佩の 小だちとり佩き 冬薯蕷葛 とめ行きければ やからどち い行きつどひ 永き代に しるしにせむと 遠き代に 語り繼がむと 處女墓 中に造り置き 壯士墓 此方彼方に 造り置ける 故よし聞きて 知らねども 新喪のごとも ね泣きつるかも
葦屋之《アシノヤノ》 菟名負處女之《ウナヒヲトメノ》 八年兒之《ヤトセゴノ》 片生之時從《カタオヒノトキユ》 小放爾《ヲバナリニ》 髪多久麻庭爾《カミタクマデニ》 並居《ナラビヲル》 家爾毛不所見《イヘニモミエズ》 虚木綿乃《ウツユフノ》 ※[穴/牛]而座在者《コモリテマセバ》 見而師香跡《ミテシガト》 悒憤時之《イブセムトキノ》 垣廬成《カキホナス》 人之誂時《ヒトノトフトキ》 智奴壯士《チヌヲトコ》 宇奈比壯士乃《ウナビヲトコノ》 廬八燎《フセヤタキ》 須酒師競《ススシキホヒ》 相結婚《アヒヨバヒ》 爲家類時者《シケルトキハ》 燒大刀乃《ヤキダチノ》 手預押禰利《タガミオシネリ》 白檀弓《シラマユミ》 靫取負而《ユギトリオヒテ》 入水《ミヅニイリ》 火爾毛將入跡《ヒニモイラムト》 立向《タチムカヒ》 競時爾《キホヒシトキニ》 吾妹子之《ワギモコガ》 母爾語久《ハハニカタラク》 倭文手纒《シヅタマキ》 賎吾之故《イヤシキワガユヱ》 大夫之《マスラヲノ》 荒爭見者《アラソフミレバ》 雖生《イケリトモ》 應合有哉《アフベクアレヤ》 宍串呂《シシクシロ》 黄泉爾將待跡《ヨミニマタムト》 隱沼乃《コモリヌノ》 下延置而《シタバヘオキテ》 打歎《ウチナゲキ》 妹之去者《イモガイヌレバ》 血沼壯士《チヌヲトコ》 其夜夢見《ソノヨイメニミ》 取次寸《トリツヅキ》 追去祁禮婆《オヒユキケラバ》 後有《オクレタル》 菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》 仰天《アメアフギ》 叫(142)於良妣《サケビオラビ》 ※[足+昆]地《ツチニフシ》 牙喫建怒而《キカミタケビテ》 如己男爾《モコロヲニ》 負而者不有跡《マケテハアラジト》 懸佩之《カケハキノ》 小劔取佩《ヲタチトリハキ》 冬※[草がんむり/叙]蕷都良《トコロヅラ》 尋去祁禮婆《トメユキケレバ》 親族共《ヤカラドチ》 射歸集《イユキツドヒ》 永代爾《ナガキヨニ》 標將爲跡《シルシニセムト》 遐代爾《トホキヨニ》 語將繼常《カタリツガムト》 處女墓《ヲトメヅカ》 中爾造置《ナカニツクリオキ》 壯士墓《ヲトコヅカ》 此方彼方二《コナタカナタニ》 造置有《ツクリオケル》 故縁聞而《ユヱヨシキキテ》 雖不知《シラネドモ》 新喪之如毛《ニヒモノゴトモ》 哭泣鶴鴨《ネナキツルカモ》
葦屋ノ菟名負處女ガ、マダ〔二字傍線〕八歳位ノ兒デ、十分成長シナイ時カラ、振分髪ノ髪ヲ束ネ結ブ年頃マデ、並ンデ隣リ合ツテヰル家ノ人〔二字傍線〕ニモ姿ヲ見ラレナイヤウニシテ、(虚木綿乃)、家ニ〔二字傍線〕閉ヂ籠ツテバカリヰルト、ソノ美貌ヲ聞キツケテ、ドウカシテ〔ソノ〜傍線〕見タイモノダト心ガ晴れレナイデヰル時、垣ノヤウニ人ガ取リ圍ンデ〔五字傍線〕尋ネテ來タ時ニ、智奴壯士ト宇奈比壯士トガ、(廬八燎)進ミ競ツテ互ニ女ヲ呼ンダ時ハ、刃ヲ〔二字傍線〕ヨク鍛ヘタ鋭イ太刀ノ柄ヲ押シヒネツテ、白木ノ弓ヲ持チ〔三字傍線〕失筒ヲ脊ニ負ツテ、コノ處女ノ爲ナラバ〔九字傍線〕水ニモ入ラウ火ニモ入ラウト、互ニ立チ合ツテ競ツテヰタ時ニ、コノ處女ガソノ母ニ向ツテ語ルノニハ、(倭文手纏)賤シイ私ノ爲ニ、血氣ノ〔三字傍線〕男タチガ爭フヲ見ルト、タトヘ生キテヰテモ、私ハ男ニ〔四字傍線〕逢フコトハ出來ナイヨ。ダカラ〔三字傍線〕(完串呂)冥土ヘ行ツテ私ノ戀シイ男ヲ〔七字傍線〕待タウト、(隱沼乃)心ノ中ニ隱シテ置イテ、嘆息シナガラ、コノ〔二字傍線〕女ガ自殺ヲシテシマフト、血沼男ハソノ夜ニコノ事ヲ〔四字傍線〕夢ニ見テ、取ワツヅイテ後ヲ追ツテ死ンダノデ、後ニノコサレタ菟原男は、空ヲ〔二字傍線〕仰イデ叫ビ怒鳴リ、殘念ガツテ〔五字傍線〕土ノ上ニ臥シテ身ヲモガキ〔五字傍線〕、齒ギシリヲシテ怒鳴ツテ、同輩ノ男ニ負ケテハ居ルマイト、佩刀ノ小太刀ヲ取リサシテ、(冬※[草がんむり/叙]蕷郡良)タヅネテ冥土ヘ〔三字傍線〕行ツタノデ、親族ノ者ドモハ寄リ集ツテ、永キ後世マデモ標《シルシ》ヲ殘サウト思ヒ、又遠キ代マデモ語リツタヘヨウト思ツテ、處女ノ墓ヲ眞中ニ作ツテ置イテ、男ノ墓ヲアチラ(143)トコチラト兩方〔二字傍線〕ニ作ツテ置イタ、ソノ因縁ヲ聞イテ、私ハ現在見〔五字傍線〕知ツテヰルコトデハナイガ・近頃アツタ〔五字傍線〕新シク人ガ死ンダコトノヤウニ、悲シクテ〔四字傍線〕聲ヲ出シテ泣イタヨ。
○八年兒之《ヤトセゴノ》――八歳ぐらゐの小兒。○片生之時從《カタオヒノトキユ》――略解に舊訓を改めてカタナリと訓んだのはいけない。カタオヒは形の未熟なるをいふ。伊勢集・源氏物語などに用例ある語である。○小放爾《ヲバナリニ》――舊訓ヲハナチニとあるのはよくない。ヲハナリのヲは接頭語。ハナリは即ちウナヰハナリで、ウナヰのことである。卷十六に童女波奈理汐髪上都良武可《ウナヰハナリハカミアゲツラムカ》(三八二二)とあり、卷七にも未通女等之放髪乎木綿山《ヲトメラガハナリノカミヲユフノヤマ》(一二四四)とあつて、髪を結ばない少女の風である。下にカミタクマデニとあるから、爾《ニ》は乃《ノ》の誤であらうと思はれる。○髪多久麻庭爾《カミタクマデニ》――多久《クク》は束ね結ぶこと。多氣婆奴禮《タケバヌレ》(一二三)參照。○虚木綿乃《ウツユフノ》――枕詞。この語の意は明らかでない。神武紀に「妍哉乎國之獲矣、雖2内木綿之眞〓國《ウツユフノマサキクニ》1猶如2蜻蛉之臀※[口+占]1」とあるのと、ここの用例と二つのみである。冠辭考には「まゆふの内の虚なるが如く眞|〓《セバ》き國なれど、其ありさま蜻蛉が尾をかへしてあるに似て、おもしろき國ぞとのた(144)まへるなり。…萬葉の意は…家にふかくこもりてのみ居を、まゆの内に蠶《コ》のこもりてあるに譬て冠らせたり。…右の虚《ウツ》ゆふは野蠶《ヤママユ》をいふ。…蠶を眉生《マユフ》といひつるなり。さて後にはまゆふのまを略きてゆふとも呼なりけり。後に穀《カヂ》の木の皮もて造るをもゆふといへるは、眉生の糸綿に似たればなり。…」とあるが、受取り難い説と思はれる。古義には、「此はいと心得がてなるを、強て考るに、虚木綿の木綿は、苧木綿《ヲユフ》の事にて、そはかの苧多卷《ヲダマキ》といひて、丸く内方《ウチヘ》を虚《ウツ》ろに卷たる、それを虚木綿といふならむか。もしさらば、内のうつろなるが隱《コモ》りかなるよしもて、うつ木綿のこもりとつづくならむ」といつてゐる。しばらくこれに從つて木綿を卷いた内の空虚なものをウツユフといつたとして置いう。○※[穴/牛]而座在者《コモリテマセバ》――※[穴/牛]は牢に同じで、籠に通ずるからコモリと訓む。コモリは人に逢はずに閉ぢ籠つてゐること。○悒憤時之《イブセムトキノ》――いぶせく思ふ時の。いぶせしは心の欝して平かでないこと。○垣廬成《カキホナス》――カキホは垣秀。垣は高いものであるから、秀を添へていふ。○人之誂時《ヒトノトフトキ》――誂は舊訓イトム、考にカガフとよんでゐるが、相誂良比《アヒトブラヒ》(一七四〇)にならつてトフと訓むことにする。その條參照。○智奴壯士《チヌヲトコ》――和泉國茅渟地方の男。○宇奈比壯士乃《ウナヒヲトコノ》――菟原地方の男で、この處女と同じ里の男である。○廬八燎《フセヤタキ》――枕詞。伏屋で火を焚けば、煤が垂れるから、すすとつづくのである。○須酒師競《ススシキホヒ》――ススシはスサブ・ススムなどと同一語で、先を爭つて競ふこと、鼓はキホフとよむのが古語である。舊訓・略解などに、テを添へてゐるのは不要。○相結婚《アヒヨバヒ》――舊訓アヒタハケとあるのを、代匠記にアヒヨバヒと改めたのがよい。ヨバヒは婚を求めて外より呼ばふこと。○燒大刀乃《ヤキダチノ》――火に入れてよく鍛へた太刀。○手預押禰利《タカミオシネリ》――タガミは劍の柄。古事記に「集2御刀之|手上《タガミ》1血」、神武紀に「撫剱撫剱、此云2都盧耆能多伽彌屠利辭魔屡1」とある。預の字はカミと訓むべくもない。類聚古集・西本願寺本など頴に作つてゐるに從ふべきである。これはカヒであるから、通音でカミとよむのであらう。或はタガミともタガヒともいつたものか。オシネリは押しひねり。○白檀弓《シラマユミ》――白木の眞弓。弓の塗つてないもの。○靱取負而《ユギトリオヒテ》――靱は矢を入れて背に負ふもの。○倭文手纒《シヅタマキ》――枕詞。賤しとつづくのは、シヅを賤しき意としたのであらう。六七二及び九〇三參照。○完串呂《シシクシロ》――枕詞。繁釧で、釧の玉の多いのは美《ヨ》いからよみにつづくとも、繁藥《シヽシクシロ》で、藥は酒、シシは芳醇の意ともいふが、管(145)見に、「鹿の肉を串刺にして燒たるもの也。呂は助詞。味のよきによりて、よみとはつづけたり」とあるのがよいであらう。○隱沼乃《コモリヌノ》――枕詞。下とつづく。草に蔽はれ水の見えない沼で、水が草の下になつてゐるからである。○下延置而《シタバヘオキテ》――シタバヘは、下に思ふ、即ち心の中に思ふこと。○菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》――伊は主語の下に附く助詞〕舊訓伊を次につづけて、ウナヒヲトコモイアフギテとしたのはよくない。○叫於良妣《サケビオラビ》――l於良妣《オラビ》は怒號すること。どなること。○※[足+昆]地《ツチニフシ》――※[足+昆]の字は普通の字書にはない。新撰宇鏡に「趾、士里反、上、足後也、跟※[足+昆]也、足乃宇良、又久比須」とある。跟と※[足+昆]と同字で、足のうら、くびすのことである。地の字、舊本、他に作るは誤。元暦校本その他古本に地に作るものが多い。清水濱臣は「地に※[足+昆]つくるはやがて足ずりすることなれば、義もてアシズリシとよむべし」といひ、木村正辭は訓義辨證に「タチヲドリとよむべくや」といつてゐる。しかし誤字説が多く、考は〓に作つてアシブミシ、略解或人説に蹉他の誤としてアシズリシ、古義は〓地の誤としてツチニフシとしてゐる。これらのいづれをよしとすべきか、判斷に苦しむところである。ここで猥りに推測を逞しうするのは、却つて正鵠を失する虞があるから、舊訓ツチニフシ(チツニフシとあるのは誤)とあるを尊重しようと思ふ。上にアメアフギとあるに對すれば、この訓が最も穩當のやうである。○牙契建怒而《キカミタケビテ》――キカミは齒噛みすること。タケビは古事記に男建《ヲタケビ》、書紀に雄誥《ヲタケビ》とあるタケビで、大聲に怒號すること。○知己男爾《モコロヲニ》――モコロは、卷二に玉藻之如許呂《タマモノモコロ》(一九六)とあるやうに、如くの意で、モコロヲは己の如くなる男、自分と同輩。然るに山田孝雄氏は、モコは仇敵の意であつたが、壻の義に轉じた、ここは本義で用ゐられ、男につづけたもので、ロは音を助けたに過ぎない。今の俗語にて言はば、「張り合ひてある男」と解するがよいといふ意見をアラ(146)ラギ第十四卷六號誌上で述べられたが、なほ考究すべき語であらう。○懸佩之《カキハキノ》――カキは接頭語。佩いてゐるところの意を、名詞的にカキハキといつたのである。舊本、文字通りにカケハキノとよんだのはよくない。○冬※[草がんむり/叙]蕷都良《トコロヅラ》――枕詞。トコロ芋の蔓で、その蔓を尋ねて薯を掘るから、尋去祁禮婆《トメユキケレバ》とつづくのである。一一三三參照。トメは尋ねること。○親族共《ヤカラドチ》――共の字、思共《オモフドチ》(一五九一・四二八四)・己之妻共《オノガツマドチ》(三〇九一)に傚つてドチとよむことにする。○射歸集《イユキツドヒ》――舊訓イヨリツドヒテとあるが、歸はユキとよむがよい。○新裳之如毛《ニヒモノゴトモ》――新裳は藍紙本・元暦校本などに喪に作つてゐるのがよい。新に人が死んだやうにの意。
〔評〕 これは前に出てゐた、田邊福麿歌集出の過葦屋處女墓時作歌に比すれば、記載が精細で、事件が委しく記されてゐる點に於て遙かに勝つてゐる。彼はただ懷古的に歌はれてゐるに對し、これは處女や壯士らの心境もよくあらはれてゐる。さうして同一系統でありながら、眞間娘子の方では娘子のみに就いて歌つてゐるのに、これは妻爭傳説の名の如く、二人の壯士が女を得むとして爭つてゐる闘爭的氣分、刃物三昧にも及びさうな猪突的態度がよく歌はれてゐる。この種の作としては蓋し傑出した佳作であらう。高橋蟲麿は、傳説歌人としては他人の追從を許さぬ立派な技倆の持主である。
反歌
1810 葦の屋の 菟原處女の 奥津城を 往き來と見れば ねのみし泣かゆ
葦屋之《アシノヤノ》 宇奈比處女之《ウナヒヲトメノ》 奥槨乎《オクツキヲ》 往來跡見者《ユキクトミレバ》 哭耳之所泣《ネノミシナカユ》
葦屋ノ宇奈比處女ノ基ヲ行キニモ歸リニモ往來ノ度ゴトニ〔七字傍線〕見ルト、私ハ昔ノコトガ思ヒ出サレテ〔私ハ〜傍線〕、聲ヲ出シテ泣イテバカリヰル。
○奥槨乎《オクツキヲ》――奥つ城を。奧つ城は墓。槨の字については四三一參照。○往來跡見者《ユキクトミレバ》――往くとて來るとて見れば。往來の度毎に見れば。○哭耳之所泣《ネノミシナカユ》――自然に聲を出して泣かずには居られない意。
(147)〔評〕 ただ感傷的にお定まりのきまり文句を並べたに過ぎない。さしたる歌ではない。この歌、袖中抄に出てゐる。
1811 墓の上の 木の枝靡けり 聞くがごと 血沼壯士にし 依りにけらしも
墓上之《ツカノウヘノ》 木枝靡有《コノエナビケリ》 如聞《キクガゴト》 陳努壯士爾之《チヌヲトコニシ》 依倍家良信母《ヨリニケラシモ》
今來テ見ルトヨ菟原處女ノ〔今來〜傍線〕墓ノ上ニ植ヱタ〔三字傍線〕木ノ枝ガ、血沼壯士ノ墓ノ方ニ〔九字傍線〕靡イテヰルヨ。シテ見ルト、話ニ〔七字傍線〕聞イタ通リニ、コノ菟原處女ハ〔七字傍線〕血沼壯士ニ身ヲ〔二字傍線〕寄セル筈デアツタラシイナア。
○木枝靡有《コノエナビケリ》――木の枝が血沼壯士の墓の方へ靡いてゐるの意。卷十九の家持作の追和處女墓歌に奧墓乎此間定而後代之聞繼人毛伊也遠爾思努比爾勢餘等黄楊小櫛之賀左志家良之生而靡有《オクツキヲココトサダメテノチノヨノキキツグヒトモイヤトホニシヌビニセヨトツゲヲグシシカサシケラシオヒテナビケリ》(四二一一)・乎等女等之後能表跡黄楊小櫛生更生而靡家良思母《ヲトメラノノチノシルシトツゲヲグシオヒカハリオヒテナビキケラシモ》(四二一二)とあるによれば、この木の枝は黄楊である。○依倍家良信母《ヨリニケラシモ》――舊訓ヨルベケラシモとあり、從來多くこれに從つてゐるが、古義に倍を仁の誤として、ヨリニケラシモとよんでゐる。併し元暦校本・藍紙本その他の古本に、倍の字が無いのに從へば、同じくヨリニケラシモと訓むことが出來るから、さうしようと思ふ。尤も家を漢音でカとよんだとして、ヨルベカラシモとよめないこともない。家をカとよんだと思はれる例が數例あるが、それは我《カ》の誤とも考へられるので、遽かに定め難い。但し、ベケラシモの訓も古く、袖中抄に引いた歌もさうなつてゐる。元暦校本・藍紙本などはヨルベケラムモとある。
〔評〕菟原處女はひそかに血沼壯士に心を寄せてゐたことが、この反歌で明らかになつてゐる。さうして黄楊の枝がその方に靡いてゐるといふ叙景が、やさしい處女の戀を果し得ずして、情にほだされて自ら玉の緒を絶つた胸中を思つて、讀者をして斷腸の思ひあらしめる。卷十九の大伴家持の追和の作(四二一一)はこの歌に和したのであつて、この萬葉集の作品を基として、大和物語中の長篇・謠曲求塚などが出來てゐるが、それは處女塚傳説の後日譚とも言ふべきもので、黄泉の國に於ける二人の男のあさましい闘爭を描いてゐる。これが明治になつて森鴎外の手で一幕物戯曲「生田川」となつてゐる。文擧史上に影響するところ大なる作品である。
(148)右五首高橋連蟲麻呂之歌集中出
萬葉集卷第九終
卷第十
(149)萬葉集卷第十解説
この卷は春雜歌・春相聞・夏雜歌・夏相聞・秋雜歌・秋相聞・冬雜歌・冬相聞の八部に分れてゐる。この分類法は全く卷八と同樣であるが、かれは作者の明らかなものを輯めてゐるのに、これは盡くよみ人知らずの歌である。さうして全部が作者未詳なると、その内容が雜歌は詠物の歌であり、相聞は寄物の歌である點に於て全く卷七と同樣である。なほ稀に問答・譬喩歌・旋頭歌などの題目を設けたのも卷七と一致してゐる。要するにその形式・内容に於て卷七・卷八の兩卷の特色を兼ねてゐるものと言へる。季節の分類法が既に固定してゐたものがあつたことは、寄鹿の歌をその内容に拘はらず、秋の部に掲げてゐるので想像せられる。しかし雜の鳥であるべき鶴を秋に入れてゐるのは、後世の季節觀と幾分の相違があることを思はしめる。歌數は五百三十九首。その分量に於て他の卷よりも遙かに勝れてゐる。これを細別すると長歌三首・旋頭歌四首・短歌五百三十二首である。作者も不分明であり、從つて年代も明らかでないが、秋雜歌の部、七夕の歌の中に「此歌一首庚辰年作之」と註したものがあり、これが柿本朝臣人麿歌集出の歌であるから、庚辰は天武天皇九年と推定することが出來る。この他にも柿本朝臣人麿歌集から採つたものが尠くなく、又古歌集出の歌もあるが、まづこれらを年代の古いものとして、それ以後の作を輯録したものと考へられる。さうしてその内容と歌調との點から推して、天平初期のものが多いと斷定してよいと思ふ、民謠らしい作品も見えるが、百首に垂んとしてゐる七(150)夕の歌の如きは、乞巧奠席上の逸名の作であらうから、その他にさうした題詠の作も尠くないものとせねばならぬ。眞淵は「今の七と十との卷は歌もいささか古く集め、體も他と異にて、この二つの卷は姿等ければ、誰ぞ一人の集めなり」と言ひ、これを七の卷の前に置いて、第七位としてゐるが、卷七と同一人の手になつたものとすることも、亦これを卷七の上位に置くことも遽かに賛成し難いところで、寧ろ編纂の結構の點から見れば、卷八の編纂者と同一人が、卷七に次いで試みたものではないかとも思はれるのである。しかし卷八よりも、大躰に於て古い作が輯まつてゐるやうに見える。この卷の歌風は剛健古朴なものは殆どなく、素純又は優婉なものが多く、かなりに洗練せられてゐる。中世以後の歌集に多く引用せられてゐるのもその爲であらう。用字法は義訓・借訓を用ゐたものが多く、又|大王《テシ》・義之《テシ》・三伏一向《ツキ》・切木四之泣《カリガネ》の如き有名な戯書もある。
(151)萬葉集卷第十
春雜歌
雜歌七首 詠鳥二十四首
詠霞三首 詠柳八首
詠花二十首 詠月三首
詠雨一首 詠川一首
詠煙一首 野遊四首
歎舊二首 懽逢一首
旋頭歌二首 譬喩歌一首
春相聞
相聞七首 寄鳥二首
寄花九首 寄霜一首
寄霞六首 寄雨四首
〔152、153頁略〕
(154)寄草一首 寄花二十三首
寄山一首 寄黄葉三首
寄月三首 寄夜三首
寄衣一首 問答四首
譬喩歌一首 旋頭歌二首
冬雜歌
雜歌四首 詠雪九首
詠花五首 詠露一首
詠黄葉一首 詠月一首
冬相聞
相聞二首 寄露一首
寄霜一首 寄雪十二首
寄花一首 寄夜一首
(155)春雜歌
下の例によれば、ここに題がありさうであるが、これは脱ちたのではない、この七首は柿本人麻呂歌集に出てゐるのをそのまま採つたので、原本に題がなかつたから、ここにも附してないのである。目録に雜歌七首とあるのは、他と統一せしめる爲に後から附け加へたのである。下の秋相聞・冬雜歌・冬相聞の冒頭の數首も、皆これと同樣である。
1812 久方の 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも
久方之《ヒサカタノ》 天芳山《アメノカグヤマ》 此夕《コノユフベ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》 春立下《ハルタツラシモ》
(久方之)天ノ香具山ニコノ夕方、始メテ〔三字傍線〕霞ガ靡クヨ。アアイヨイヨ今日カラ〔十字傍線〕春ニナツタラシイヨ。
○天芳山《アメノカグヤマ》――天はアメと訓むがよい。芳の下、來の字が脱ちたのだと古義にあるが、香具山を香山と書いた例(二五九)(二四四九)にならつて、芳來山《カグヤマ》(二五七)の來を省いたものか。但し香はKangの音であるからカグとよめるが、芳はハウの音で、音の上からカグには用ゐられない。意味の上から用ゐたのである。
〔評〕 藤原京あたりに住む人の歌であらう。日毎に東の方に望まれる香具山であるが、今日は夕霞が薄く山を包んでゐるので、つくづく春の來たことを感じたのである。實に長閑な穩やかな初春らしい感じをあらはし得てゐる。第四句までに情景を述べ終つて、第五句に自己の推定を下したのは、歌を鮮明に力強くしてゐる。新古今に後鳥羽上皇の「ほのぼのと春こそ空に來にけらし天の香具山霞たなびく」とあるのは、これを本歌としたのであるが、殊更に空にと言つたのは春が空にのみ來て、地上には未だ至らぬことをあらはしたので、そこに新古今式技巧があるのであるが、この歌では、天地の區別を立てずに、ただありのままの叙景であり感想である。萬葉と新古今との別は、この二首の上に明らかになつてゐると思はれる。田安宗武の「うちなびく春來れるか久方の天の香具山霞そめたる」はこの歌の外形を學んだに過ぎない。
(156)1813 卷向の 檜原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ來めやも
卷向之《マキムクノ》 檜原丹立流《ヒバラニタテル》 春霞《ハルガスミ》 欝之思者《オホニシモハバ》 名積米八方《ナヅミコメヤモ》
(卷向之檜原丹立流春霞)アダヤオロカニ私ガアナタヲ〔六字傍線〕思ツテヰルナラバ、私ハコンナニ〔六字傍線〕苦シイ思ヒヲシテ尋ネテ〔三字傍線〕來マセウカ。決シテ尋ネテ參リマセヌ。タダアナタヲ心カラ思ヘバコソ、カウシテ參ルノデスゾ。オ察シ下サイ〔決シ〜傍線〕。
○卷向之檜原丹立流《マキムクノヒバラニタテル》――卷向の檜原の山。一〇九二參照。○春霞《ハルガスミ》――この句まではオホといはむ爲の序詞。○欝之思者《オホニシモハバ》――オホは霞のおほほしき意で上につづき、下はおろそかに、よい加減にの意になつてゐる。○名積米八方《ナヅミコメヤモ》――ナヅムは苦しみ惱むこと。古義、米は來の誤とある。
〔評〕 これは寄霞戀の歌である。春相聞に入るべきであるが、人麿歌集の歌であるから、一緒にここに收めたのである。しかし卷向の檜原あたりでの作であらう。
1814 古の 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は來ぬらし
古《イニシヘノ》 人之殖兼《ヒトノウヱケム》 杉枝《スギガエニ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》 春者來良之《ハルハキヌラシ》
古ノ人ガ植ヱタラウト思ハレル、アノ卷向山ノ老木ノ〔ト思〜傍線〕杉ノ枝ニ、霞ガ靡イテヰルヨ。イヨイヨ〔五字傍線〕春ガ來タラシイ。
○古人之殖兼《イニシヘノヒトノウヱケム》――古杉の梢を仰ぎ見て、これを植ゑた古人を想像したのであらう。略解に「古への人の植ゑけむとは只年經たるを言ふのみ」とあるが、この山に杉を植ゑることが、古來行はれたものであらう。
〔評〕 杉枝を杉群の誤とする説もあるが、杉が枝にして初めて、亭亭雲を突く老杉を思はしめる。老杉の枝にたなびいた霞はまるで土佐繪のやうである。この歌、前後の歌から推すと、やはり卷向山の景であらう。赤人集に以上の三首を入れてゐるが、人麿集に載せてあり、又人麿はこの山麓に住んでゐたのであるから、彼の作に相違あるまい。形式は右の卷頭の久方の歌に似てゐる。
1815 子等が手を 卷向山に 春されば 木の葉しぬぎて 霞たなびく
子等我手乎《コラガテヲ》 卷向山丹《マキムクヤマニ》 春去者《ハルサレバ》 木葉凌而《コノハシヌギテ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
(157)(子等我手乎)卷向山ニ春ガ來ルト木ノ葉ヲ押シ靡ケテ、一躰ニ深ク〔五字傍線〕霞ガ靡ウテヰル。ヒドイ霞ダナア〔七字傍線〕。
○子等我手乎《コラガテヲ》――枕詞。卷《マク》とつづくのは枕する意である。○木葉凌而《コノハシヌギテ》――シヌグは奧山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》(一〇一〇)宇陀乃野之秋芽子師弩藝鳴鹿毛《ウタノヌノアキハギシヌギナクシカモ》(一六〇九)とあるやうに、押し靡けること。霞が深く深く立ちこめてゐるので、その爲に木の葉がしなひなびくやうに見たのである。
〔評〕 子等我手乎《コラガテヲ》の枕詞は、卷七に兒等手乎卷向山者《コラガテヲマキムクヤマハ》(一〇九三・一二六八)の二例があつて、いづれも人麿歌集出のものであるから、この人の創作かも知れない。柔かい感じを與へる詞である。木葉凌而《コノハシヌギテ》の一句、深い霞の中に立並んだ山の木の實景を目前に浮ばしめる。
1816 玉かぎる 夕さり來れば さつ人の 弓月が嶽に 霞たなびく
玉蜻《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》 佐豆人之《サツヒトノ》 弓月我高荷《ユヅキガタケニ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
(玉蜻)夕方ニナルト、(佐豆人之)齋槻ケ岳ニ霞ガ棚引クヨ。ホントニナツカシイ眺メダ〔ヨホ〜傍線〕。
○玉蜻《タマカギル》――枕詞。夕とつづく。玉のかがやくやうな夕日の意。四五參照。○佐豆人之《サツヒトノ》――枕詞。サツは山幸、海幸などのサチと同語で、得物・獵のこと。サツヒトは即ち獵師で弓を持つてゐるから弓とつづく。○弓月我高荷《ユヅキガタケニ》――卷七の由槻高仁《ユヅキガタケニ》(一〇八七)參照。
〔評〕 夕方になれば弓月が獄に霞がたなびくといふだけで、内容も單純であるが、二つの枕詞を挿入して流麗な歌に作りあげられてゐる。
1817 今朝行きて 明日は來むといふ しかすがに 朝妻山に 霞たなびく
今朝去而《ケサユキテ》 明日者來牟等云《アスハコムトイフ》 子鹿丹《シカスガニ》 旦妻山丹《アサヅマヤマニ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
(今朝去而明日者來牟等云子鹿丹)朝妻山ニハ霞ガアレアノ通リニ〔七字傍線〕棚引イテヰル。ホントニナツカシイ眺メダ〔ホン〜傍線〕。
○今朝去而明日者來牟等云子鹿丹《ケサユキテアスハコムトイフシカスガニ》――この三句は旦妻といふ爲の序詞と思はれるが、如何に訓むべきか明瞭でない。舊訓ケフユキテアスハコムトイフコカニとあるが、元暦校本はケサユキテアスコムトイフシカスガニと(158)ある。西本願寺本・細井本・温故堂本は舊訓の如く、神田本は元暦校本のやうである。その他、改訓抄はケサイニテ、代匠記精撰本はキナムトイフとし、略解もこれに同じく、古義はアスハコムチフとす、最も困雖なるは第三句で、云子鹿丹と見るか、云を第二句に入れて、子鹿丹の三字を第三句とするかによつて著しい差別を生ずる。古訓のシカスガニならば意は通ずるが、舊訓イフコカニでは全くわからない。古義は愛也子《ハシキヤシ》又は左丹頬歴《サニヅラフ》の誤とし、新考は子鹿を手去の誤とし丹を衍として、アスハキムトイヒテユクと訓んでゐる。又生田耕一氏は藝文第二十二年一號二號誌上に論じて、この歌の原形を寛永本によれば今朝去而明日者來年等云子等鹿名之旦妻山丹霞霏※[雨/微]となり、元暦本によれば、今朝去而明日來年等云子等庶名旦妻山丹霞霏※[雨/微]となり、共にこれを假名交りに書き改めると「今朝ゆきて明日は來ねといふ兒等が名の翻妻山に霞たなびく」となるといつてゐる。從來の諸説よりも丁寧な檢討を經てゐるだけによいところもあるが、必ずしも從ひ難い。一躰この歌は次の歌に對比して考へても、又第二句の歌ひ出しから見ても、第三句までは旦妻といふ爲の序詞でありさうに思はれるのであるが、第三句が不明瞭(159)な爲にさう解説し得ないのを遺憾とする。しばらく古訓によつて第三句をシカシガニとし、意は今朝立別れて去つても、明日は心ず來ようと約束をして來た。併し顧みれば妻の住む里近い旦妻山には霞がたなびいて、物あはれな、別れ難い景色であると、後朝の悲哀を叙したものと解して置かう。○旦妻山丹《アサヅマヤマニ》――旦妻山は大和國南葛城郡葛城村の地域内で、今大字朝妻が存してゐる。金剛山の前山である。姓氏録に弓月君に大倭朝津間腋上地を賜はつた由が見え、又大和諸蕃に朝妻連の名が見えるのはこの地であらう。なほ仁徳紀の御製に、「阿佐豆麼能避箇能鳥瑳箇烏《アサヅマノヒガノヲサカヲ》」とあるところで、天武紀に一九年九月癸酉朔辛巳、幸2于朝嬬1云々」とあるのも同所であらう。後世朝妻船を以て有名な近江坂田郡の朝妻ではない。第一册附録大和地圖參照。寫眞は御所の郊外から著者が撮影したもの。
〔評〕 訓が不明であるので何とも評し難いが、今朝去而明日者來牟等云《ケサユキテアスハコムトイフ》の句と旦妻との關係が、優艶な感を惹起せしめる。又朝妻山にたなびく霞も、その山の名からして、人をして瞑想に耽らしめるものがある。ともかく用語の上に一種の魅力を持つてゐる歌である。
1818 子等が名に かけのよろしき 朝妻の 片山ぎしに 霞たなびく
子等名丹《コラガナニ》 開之宜《カケノヨロシキ》 朝妻之《アサヅマノ》 片山木之爾《カタヤマギシニ》 霞多奈引《カスミタナビク》
(子等名丹開之宜)朝妻ノ片山ノ崖ニアンナニ〔四字傍線〕霞ガ棚引イチヰル。ヨイ景色ダナア〔七字傍線〕。
○子等名丹開之宜《コラガナニカケノヨロシキ》――序詞。朝妻に冠す。女の名にかけていふのもよい、朝妻とつづく。カケは口にかけて唱へること。開の字は元暦校本など關になつてゐるのがよい。○朝妻之《アサヅマノ》――朝妻は前の歌の旦妻山で、上のつづきは朝まで逢ふ妻。○片山木之爾《カタヤマギシニ》――片山は片側の山。平地に面した山。キシは崖。
〔評〕 序詞の用法も面白く、片山崖といふ語も清新な感じを與へ、柔婉味のある歌になつてゐる。
右柿本朝臣人麿歌集出
右の七首は柿本人麿集から取つたといふのである。これだけは題を設けずこの部の始に置いたのである、
(160)詠v鳥
1819 うちなびく 春立ちぬらし 吾が門の 柳のうれに 鶯鳴きつ
打霏《ウチナビク》 春立奴良之《ハルタチヌラシ》 吾門之《ワガカドノ》 柳乃宇禮爾《ヤナギノウレニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウグヒスナキツ》
(打霏)春ニナツタラシイ。何故カナラバ、アノヤウニ〔何故〜傍線〕私ノ家ノ門ノ柳ノ梢ニ鶯ガ鳴イタカラ〔二字傍線〕。
○打霏《ウチナビク》――枕詞。春とつづくのは草木が柔かく靡くからである。舊訓ウチナビキとあるのはいけない。霏は靡の誤と契沖が言つてゐる通りであらう。前の數首にこの字が用ゐられてゐるので誤つたものか。
〔評〕 柳條が緑に染まる頃、張るの使者のやうな鶯がおとづれて來る。今、この二者によつて春を知つたので、末句がツで結ばれてゐるのは少し堅い調子になつてゐるが、長閑な氣分の歌である。冬隱春去來之足比木乃山二文野二文※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《フユゴモリハルサリクラシアシビキノヤマニモヌニモウグヒスナクモ》(一八二四)と同型である。
1820 梅の花 咲ける岡べに 家をれば 乏しくもあらず 鶯の声
梅花《ウメノハナ》 開有崗邊爾《サケルヲカベニ》 家居者《イヘヲレバ》 乏毛不有《トモシクモアラズ》 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
梅(ノ)花ガ咲イテヰル岡ノホトリニ住ンデヰルト、鶯ノナク聲ガ、珍ラシクモナク澤山ニ聞エル。ホントニ此處ハ良イ所ダ〔澤山〜傍線〕。
○家居者《イヘヲレバ》――舊訓のイヘヰセバ、考のイヘシヲレバ、共に面白くない。卷十九に谷可多頭伎?家居有《タニカタツキテイヘヲレル》(四二〇七)とある。○乏毛不有《トモシクモアラズ》――古義にトモシクモアラヌとして下に續けたのはよくない。この乏しは少いこと。この句で切るべきである。
〔評〕 下の戀乍裳稻葉掻別家居者乏不有秋之暮風《コヒツツモイナバカキワケイヘヲレバトモシクモアラズアキノユフカゼ》(二二三〇)と同型の歌である。梅と鷺との關係が明らかに歌はれてゐる。古今集の讀人不知「野べちかく家ゐしをれば鶯の鳴くなるこゑはあさなあさな聞く」はこれから出た作であるまいか。
(161)1821 春霞 流るるなべに 青柳の 枝くひもちて 鶯鳴くも
春霞《ハルガスミ》 流共爾《ナガルルナベニ》 青柳之《アヲヤギノ》 枝喙持而《エダクヒモチテ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ウグヒスナクモ》
春霞ガ流レルヤウニ横ニ動イテ棚曳クト、ソレ〔ヤウ〜傍線〕ニツレテ、鶯ガ青柳ノ枝ヲ喙ヘナガラナクヨ。ホントニ美シイ景色ダナア〔ホン〜傍線〕。
○流共爾《ナガルルナベニ》――霞が靜かに流動してゐる樣がよくあらはれてゐる。共は古來諸訓があるが、略解に從つた。○枝喙持而《エダクヒモチテ》――枝を啣へて持つてといふ意である、これは眞に枝を口に啣へて鳴くのか、或は枝の垂れた中に鳴くのをかく言つたのか兩樣に考へられる。卷十六に池神力士※[人偏+舞]可母白鷺乃桙啄持而飛渡良武《イケガミノリキシマヒカモシラサギノホコクヒモチテトビワタルラム》(三八三一)ともあつて、詞としては鶯が枝を口に啣へて鳴くものと考へねばならない。源氏胡蝶にも「水鳥共のつがひをはなれず遊びつつほそき枝どもをくひてとびちがふ」とある。啄は元暦校本、喙とあるのがよい。
〔評〕 實に艶麗な歌で、さながら一幅の畫のやうである。そこでこれを正倉院御物中の紋樣の、花喰鳥などから思ひついたのであらうとする説も行はれてゐる。また第四句に疑を挾んで、新考には「枝をくはへては鳴かれず。技取持而の誤にて枝ニトマリテの意ならむ」とあるが、それは理窟である、さう考へては全く興味索然である。
1822 吾がせこを な巨勢の山の 喚子鳥 君喚びかへせ 夜のふけぬとに
吾瀬子乎《ワガセコヲ》 莫越山能《ナコセノヤマノ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 君喚變瀬《キミヨビカヘセ》 夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》
吾ガ夫ハ今此處ヲ立ツテ巨勢山ヲ越エテ歸ツテ行カレルガ〔吾ガ〜傍線〕、(吾瀬子乎莫)巨勢山ノ呼子鳥ヨ。ドウゾ巨勢山ヲ越サセナイデ〔ドウ〜傍線〕、私ノ夫ヲ夜ノ更ケナイウチニ呼ビ返ヘシテクレヨ。
○吾瀬子乎莫越山能《ヮガセコヲナコセノヤマノ》――吾瀬子乎莫《ワガセコヲナ》までは越《コセ》といはむ爲の序である。吾が背子よ越すなの意でつづいてゐる。コセ山は大和南葛城郡葛城村古瀬、今の吉野口停車場の邊。五四參照。○喚子鳥《ヨブコドリ》――閑古鳥。七〇・一二四一九參照。○夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》――刀爾《トニ》は集中、古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》(三七四七・三七四八)・左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》(四一六三)などの例もある。契沖は時にの略とし、宣長は古事記傳穴穗宮の條に、この語意を外に〔二字傍点〕と見て、「俗に内にといふは此方を内にし彼方を外にして云言、外にと云は被方を内にし此方を外にして云言にて意は同じ」といつてゐる。なほ刀《ト》は早く(162)といそぐ意だともいつてゐる。これらの内いづれをよしとも判じ難いが、時の意に解するが穩當のやうである。
〔評〕 序詞が歌の趣向全躰に深く關係してゐる。卷七の吾勢子乎乞許世山登《ワガセコヲイデコセヤマト》(一〇九七)と反對の意味になつてゐるのが面白い。莫越《ナコセ》を巨勢山にかけ、又喚子鳥から呼び返せと言ひ連ねたのがこの作の技巧である。
1823 朝ゐでに 來鳴く貌鳥 汝だにも 君に戀ふれや 時終へず鳴く
朝井代爾《アサヰデニ》 來鳴杲鳥《キナクカホドリ》 汝谷文《ナレダニモ》 君丹戀八《キミニコフレヤ》 時不終鳴《トキオヘズナク》
朝、川〔傍線〕ノ井手ニ來チ鳴ク貌鳥ヨ。私ガアノオ方ヲ戀シテヰルヤウニ〔私ガ〜傍線〕、オマヘマデモ、夫ヲ戀シク思フカラカ、オマヘハ〔四字傍線〕絶間モナク鳴イテキル。
○朝井代爾《アサヰデニ》――朝の井手に。ヰデはヰゼキと同じく、川などに水を堰き止めるやうに作つたもの。考には井は戸の誤としてアサトデニと訓んでゐるが、朝井代《アサヰデ》の方が遙かに面白い。○來鳴杲鳥《キナクカホドリ》――杲鳥はよくわからぬ鳥である。卷三(三七二)參照。○君丹戀八《キミニコフレヤ》――君は自分の夫をさし、杲鳥にはその夫をいふのであらう。○時不終鳴《トキオヘズナク》――時を終らずに鳴くといふので、止む時無くといふのであらう。
〔評〕 卷六の湯原爾鳴芦多頭者如吾妹爾戀哉時不定鳴《ユノハラニナクアシタヅハワガゴトクイモニコフレヤトキワカズナク》(九〇一)と似た形であり、又古今集の「あしびきの山ほととぎすわがごとや君にこひつついねがてにする」と意に於て相通ずるところがある。女らしい歌である。
1824 冬ごもり 春さり來らし あし引の 山にも野にも 鶯鳴くも
冬隱《フユゴモリ》 春去來之《ハルサリクラシ》 足比木乃《アシビキノ》 山二文野二文《ヤマニモヌニモ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウグヒスナクモ》
(冬隱)春ガ來タラシイ。(足比木乃)山ニモ野ニモ一タイニ〔四字傍線〕鶯ガ鳴イテヰルヨ。
〔評〕 春の使者としての鶯を取扱つたものとしてよく出來てゐる。山二文野二文《ヤマニモヌニモ》が彼方此方に鳴きしきる鶯の聲を思はしめる。春らしい感じがよく出てゐる。前の打霏《ウチナビク》(一八一九)の歌と似たところがある。
1825 紫の 根ばふ横野の 春野には 君をかけつつ 鶯鳴くも
紫之《ムラサキノ》 根延横野之《ネバフヨコヌノ》 春野庭《ハルヌニハ》 君乎懸管《キミヲカケツツ》 ※[(貝+貝)/鳥]名雲《ウグヒスナクモ》
(163)コノ〔二字傍線〕春ノ頃〔傍線〕、紫草《ムラサキ》ノ根ガ横ニ蔓ビコツテヰル横野トイフ所〔四字傍線〕デハマナタヲ心ニ〔二字傍線〕掛ケテヰルラシイ聲デ〔七字傍線〕、鶯ガ鳴イテヰルヨ。私ガアナタヲ思ツテヰルト、鶯マデモ同ジヤウニアナタヲ思ツテ鳴イテヰル〔私ガ〜傍線〕。
○紫之《ムラサキノ》――紫は紫草。二一參照。○根延横野之《ネバフヨコヌノ》――紫草は根を染料とするので根を主とするから、根延ふと言つたのである。横野は仁徳紀に「十三年冬十月築2横野堤1」とあり、延喜式神名帳に「河内國澁川郡横野神社」とある、今、中河内郡巽村大字|大地《オホチ》にこの神社がある。
〔評〕 横野に來て鶯の聲を聞き、その春景色に對して愛人をしのぶ時、鶯までも君を待つ如く聞きなされるのである。女らしい歌である。
1826 春されば 妻を求むと 鶯の 木ぬれを傳ひ 鳴きつつもとな
春之在者《ハルサレバ》 妻乎求等《ツマヲモトムト》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木末乎傳《コヌレヲツタヒ》 鳴乍本名《ナキツツモトナ》
春ニナルト妻ヲ捜ストテ、鶯ガ梢ヲツタツテ徒ラニ鳴イテヰル。私モ亦アノ聲ヲ聞クト妻ガ戀シクナツテ來ル〔私モ〜傍線〕。
○春之在者《ハルサレバ》――京大本に之の字がなく、舊本、在を去に作つてゐるのは誤であらう。元暦校本・類聚古集などによつて改めた。○鳴乍本名《ナキツツモトナ》――モトナナキツツの意。本名《モトナ》は徒らに、猥りになどの意。二三〇參照。
〔評〕 戀に悶えてゐる若人の歌らしい。この歌、袖中抄に出てゐる。
1827 春日なる 羽易の山ゆ 佐保の内へ 鳴き行くなるは 誰喚子鳥
春日有《カスガナル》 羽買之山從《ハガヒノヤマユ》 猿帆之内敝《サホノウチヘ》 鳴往成者《ナキユクナルハ》 孰喚子鳥《タレヨブコドリ》
春日ニアル羽易ノ山カラ、佐保ノ里ノ〔二字傍線〕内ヘ、鳴キナガラ飛ンデ行クノハ呼子鳥ダガ、アレハ〔五字傍線〕誰ヲアンナニ〔四字傍線〕呼ンデ行クノカ知ラ。
○羽買之山從《ハガヒノヤマユ》――羽買の山は卷二に大鳥羽易乃山爾《オホトリノハガヒノヤマニ》(二一〇)とあり、それは衾道乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》(二一二)とあるに一致するやうであるが、さうすると、ここに春日有羽買之山《カスガナルハガヒノヤマ》とあるのと合はなくなる。しかしここに春日とあるによれば、今の若草山とすべきであるやうである。○猿帆内弊《サホノウチヘ》――猿帆は佐保。猿はサルのルを略したもので、和名(164)抄に下總國猿島郡を佐之萬とよんでゐるの類であらう。内は佐保山のうちと古義にはあるが、佐保の里の内であらう。佐保乃内爾《サホノウチニ》(九四九)・沙穗内之《サホノウチノ》(二二二一)・佐保乃内從《サホノウチユ》(二六六七)・作保能宇知乃《サホノウチノ》(三九五七)など用例が多い。
〔評〕 春日と佐保とは同一とも考へられるやうな(九四九參照)近接したところである。作者はその一地點に立つて喚子鳥の鳴き行くを見聞してよんだものらしい。この歌は卷九の瀧上乃三船山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥《タギノウヘノミフネノヤマユアキヅツベニキナキワクルハタレヨブコドリ》(一七一三)と全く同型である。そのいづれが原歌なるかを知らない。
1828 答へぬに な喚びとよめそ 喚子鳥 佐保の山邊を 上り下りに
不答爾《コタヘヌニ》 勿喚動曾《ナヨビトヨメソ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 佐保乃山邊乎《サホノヤマベヲ》 上下二《ノボリクダリニ》
喚子鳥ヨ。イクラオマヘガ呼ンダトテ誰モ〔イク〜傍線〕答ヘル者モナイノニ、ソンナニ〔四字傍線〕佐保ノ山ノアタリヲ、上ツタリ下ツタリシナガラ喚ビ騷グナヨ。
○上下《ノボリクダリニ》――鳴きながら佐保の山に添うて、高く上り又低く下つて來るのであらう。新考に山ではふさはしくないといふので、山邊を川邊の誤としてゐるのは當らない。
〔評〕 契沖は「同じ作者の、上と二首にて意を云ひ盡せるなるべし」といつてゐるが、必ずしもさうは言ひ難い。佐保のうちへ鳴き行くと、佐保の山邊を上り下りすると、同じ喚子鳥とは思はれない。
1829 梓弓 春山近く 家居らし 繼ぎて聞くらむ 鶯のこゑ
梓弓《アヅサユミ》 春山近《ハルヤマチカク》 家居之《イヘヲラシ》 續而聞良牟《ツギテキクラム》 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
(梓弓)春ノ頃ニ〔二字傍線〕山近クニ來テ〔三字傍線〕住ンデヲラレテ、アナタハ鶯ノ鳴ク聲ヲ絶エズ聞クコトデセウネ。
○家居之《イヘヲラシ》――舊訓イヘヰシテとあり、代匠記もこれを認めて之の下、?又は天の字脱とす。童蒙抄はイヘヰセバ、略解の宣長説は之は者の誤としてイヘヲレバとしてゐる。これは古今集に「野邊近く家居しせれば鶯の鳴くなるこゑはあさなあさな聞く」とあるのと同意の歌とする先入見から出たものと思はれる。(但し赤人集にこの歌を「やどりせば」として出してゐるから、これが古訓らしいが)併し文字通りに古義がイヘヲラシとよんだのが(165)一番正しいであらうから、それに從ふことにする。
〔評〕 從來山近く家居してゐる人の作と解せられてゐたが、第三句をイヘヲラシとすれば、山邊に住む人を思ひやつた作である。四の句、聞良牟《キクラム》とあるから自分自身ではない。新古今に赤人として「梓弓春山ちかく家居してたえずききつるうぐひすの聲」とあるのはこの歌を改めたものである。
1830 うち靡く 春さり來れば しぬのうれに 尾羽うちふりて 鶯鳴くも
打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》 小竹之米丹《シヌノウレニ》 屋羽打觸而《ヲハウチフリテ》 鶯鳴毛《ウグヒスナクモ》
(打靡)春ガ來ルト篠ノ末ニ、尾ダノ羽ダノガ觸レナガラ、鶯ガ鳴イテヰルヨ。
○打靡《ウチナビク》――枕詞。春とつづく。○小竹之米丹《シヌノウレニ》――舊訓シノノメニとあるによれば、夜明けのことであり、代匠記精撰本に米を末の誤とするによれば、ササノウレニ、又はシヌノウレニとよむべきである。元暦校本・類聚古集など末に作つてゐるから、さうして小竹はシヌとよむ例が多いから、シヌノウレニとよむがよい。○尾羽打觸而《ヲハウチフリテ》――尾と羽とが打觸れての意であらう。尾と羽とを打振つての意とするのは當るまい。
〔評〕 小竹之米丹尾羽打觸而《シヌノウレニヲハウチフリテ》がこの歌の重點である。竹の藪で、活々と小踊しながら歌つてゐる、鶯の動作が目に見えるやうである。
1831 朝霧に しぬぬにぬれて 喚子鳥 三船の山ゆ 鳴き渡る見ゆ
朝霧爾《アサギリニ》 之怒怒爾所沾而《シヌヌニヌレテ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 三船山從《ミフネノヤマユ》 喧渡所見《ナキワタルミユ》
朝霧ニシトシトト霑レナガラ、呼子鳥ガ、三輸山カラ鳴イテ飛ンデ行クノガ見エル。
○之怒怒爾所沾而《シヌヌニヌレテ》――しとしとと濡れて。この下に聞津八跡君之問世流霍公鳥小竹野爾所沾而從此鳴綿流《キキツヤトキミガトハセルホトヽギスシヌヌニヌレテコユナキワタル》(一九七七)と同じやうである。怒の字、元暦校本は努、大矢本は奴に作つてゐる。
〔評〕 朝霧爾之怒怒爾所沾而《アサギリニシヌヌユヌレテ》がこの歌の重點である。吉野谿谷の朝霧の深さが思はれて、面白い歌である。
(166)1832 うち靡く 春さり來れば しかすがに 天雲きらひ 雪はふりつつ
打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》 然爲蟹《シカスガニ》 天雲霧相《アマグモキラヒ》 雪者零管《ユキハフリツツ》
(打靡)春ガ來タガ、ソレデモハヤリ、空ノ雲ガ一杯ニ〔三字傍線〕立込メテ雪ガ降ツテヰル。マアドウシタコトダラウ〔マア〜傍線〕。
○春去來者《ハルサリクレバ》――春が來たからでは意が通じない。契沖が「此集に者の字に、今の世とかはれる事有て心得がたし、此哥にては、春去くれどといはざればかなひがたし」といつた通り、春が來たけれどの意であらう。新考に者の字を衍として、ハルサリニケリとしてゐる。他の例によれば、シカスガニの上は切れるのが普通であるから、これも一説であるが、もとのままできこえるから改めるには及ばない。○天雲霧相《アマグモキラヒ》――略解にはアマグモキラフと訓み「天雲きらふは、空の霞むをいひて雪はふりながら、しかすがにかすめるといふ也」とあるのは誤つてゐる。空かき曇つて雪が降るのである。
〔評〕 單純な歌で上代人らしい作である。これ以下雪の歌であるからここに詠雪の題があつたのが、脱ちたであらう。神田本にはさうなつてゐる。和歌童蒙抄に採つてある。
1833 梅の花 ふりおほふ雪を つつみ持ち 君に見せむと 取ればけにつつ
梅花《ウメノハナ》 零覆雪乎《フリオホフユキヲ》 ※[果/衣]持《ツツミモチ》 君令見跡《キミニミセムト》 取者消管《トレバケニツツ》
梅ノ花ヲ覆ヒカブセテ降ル雪ヲ、包ンデ持ツテ行ツテ〔三字傍線〕、アナタニ見セヨウト思ツテ手ニ〔五字傍線〕取ツタラ消エテシマツタ。惜シイコトヲシタ。ドウカシテアナタニ見セテアゲタカツタノニ〔ドウ〜傍線〕。
○取者消管《トレバケニツツ》――舊訓トレバキエツツとあるのを、考にトレバケニツツと改めた。略解・新考などさうなつてゐる。ニにあたる文字はないけれども、ニ・ヌの類は添へてよむことが多く、それが古調である。古義及び新訓はこれをキミニミセムトトレバキエツツとよみながら、卷十一(二六八六)に於て古義は於公令視跡取者消管《キミニミセムトトレバケニツツ》とし、新訓は「君に見しむと取れば消につつ」としたのは、不統一の謗を免れまい。
〔評〕 可憐な作である。卷十一に夜占問吾袖爾置白露乎於公令視跡取者消管《ユフケトフワガソデニオクシラツユヲキミニミセムトトレバケニツツ》(二六八六)とあるので見ると、或はこれを風流化して、梅の雪の歌にしたのかも知れない。
1834 梅の花 咲き散り過ぎぬ しかすがに 白雪庭に ふりしきりつつ
(167)梅花《ウメノハナ》 咲落過奴《サキチリスギヌ》 然爲蟹《シカスガニ》 白雪庭爾《シラユキニハニ》 零重管《フリシキリツツ》
梅(ノ)花ハ咲イテ又散ツテシマツタ。併シナガラ白雪ハ庭ニ降リ頻ツテヰル。ドウシテカウイツマデモ雪ガ降ルノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
○零重管《フリシキリツツ》――これは略解にフリシキニツツとあるよりも、古義にフリシキリツツとよんだのがよいやうである。雪が度重ねて降るといふのである。
〔評〕 春もやや景色整うて、梅は咲いて散つたのに、なほ冴え返つて雪の頻りに降ることを憾んだのである。前の歌と同じくツツで言ひをさめて輕く感情を持たせてゐる。
1835 今更に 雪ふらめやも かぎろひの 燃ゆる春べと なりにしものを
今更《イマサラニ》 雪零目八方《ユキフラメヤモ》 蜻火之《カギロヒノ》 燎留春部常《モユルハルベト》 成西物乎《ナリニシモノヲ》
陽炎ガ立ツ長閑ナ〔三字傍線〕春ニナツタノニ、今更又モ冬ニ立チ戻ツタヤウ〔又モ〜傍線〕ニ、雪ガ降ルトイフコトガアラウカ。ホントニドウシテコンナニ雪ガ降ルノダラウ〔ホン〜傍線〕。
○蜻火之《カギロヒノ》――カギロヒは陽炎。長閑な春の日などに、ちらちらと地上に立上る氣。
〔評〕 この歌、新古今集・和歌童蒙抄に出てゐる。雪の止まぬを怪しむ心がつよく言ひあらはされてゐる。
1836 風交り 雪はふりつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり
風交《カゼマジリ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》 然爲蟹《シカスガニ》 霞田菜引《カスミタナビキ》 春去爾來《ハルサリニケリ》
風ニ交ツテ雪ガ降ツテヰル。マルデ冬ノヤウダ〔八字傍線〕。ダガシカシ、ソレデモ、爭ハレヌモノデ〔七字傍線〕霞ガ棚引イテ春ガヤツテ來タヨ。
○風交《カゼマジリ》――元暦校本・類聚古集・神田本にカゼマゼニとあり、新古今もさうなつてゐるから、これが古訓であらうが、卷五に風雜雨布流欲乃雨雜雪布流欲波《カゼマジリアメフルヨノアメマジリユキフルヨハ》(八九二)、卷八に風交雪者雖零《カゼマジリユキハフルトモ》(一四四五)とあるに從ひたい。
(168)〔評〕 これも新古今に出てゐる。時節の變遷の爭ひがたきをいふのである。
1837 山のまに 鶯鳴きて うちなびく 春と思へど 雪降りしきぬ
山際爾《ヤマノマニ》 ※[(貝+貝)/鳥]喧而《ウグヒスナキテ》 打靡《ウチナビク》 春跡雖念《ハルトオモヘド》 雪落布沼《ユキフリシキヌ》
山ノ中デハ鶯ガ鳴イテ、モハヤ〔三字傍線〕(打靡)春ニナツタ〔四字傍線〕トハ思フガ、ソレデモマダ冬ノヤウデ〔ソレ〜傍線〕、雪ガ降リシキツテヰル。寒イコトダナ〔六字傍線〕 。
○雪落布沼《ユキフリシキヌ》――雪が降つて地に敷くのではなく、雪が頻りに降るの意であらう。
〔評〕 谷の戸を出た鶯が、春を告げてゐるが、まだ雪が頻りに降つてゐるといふので、早春の情景である。結句の調が少し迫つてゐる。
1838 尾の上に ふりおける雪し 風のむた ここに散るらし 春にはあれども
峯上爾《ヲノウヘニ》 零置雪師《フリオケルユキシ》 風之共《カゼノムタ》 此間散良思《ココニチルラシ》 春者雖有《ハルニハアレドモ》
今ハ已ニ〔四字傍線〕春ニナツタノニ、雪ガ降ツテ來ルノハヨモヤ空カラ降ルノデアアルマイ、冬ノ内ニ〔雪ガ〜傍線〕山ノ上ニ降ツテ積ツテヰル雪ガ、風ノ吹クノニツレテ此處マデ飛ンデ〔三字傍線〕散ルモノト見エル。
〔評〕 左註によれば筑波山での作である、從つて峯上爾《ヲノウヘニ》とあるのは筑波山上のことである。作歌の場所を明らかにしたのはこの卷ではこの一首のみである。
右一首筑波山作
1839 君が爲 山田の澤に 惠具つむと 雪げの水に 裳の裾ぬれぬ
爲君《キミガタメ》 山田之澤《ヤマダノサハニ》 惠具採跡《ヱグツムト》 雪消之水爾《ユキゲノミヅニ》 裳裾所沾《モノスソヌレヌ》
私ハアナタニ上ゲヨウト思ツテ、山田ノ邊ノ〔二字傍線〕澤ニ惠具ヲ摘ムトテ、冷イ〔二字傍線〕雪解ケノ澤〔傍線〕水ニ裳ノ裾ヲ沾シマシタ。(169)ドウゾ私ノ親切ヲ汲ンデ下サイマシ〔ドウ〜傍線〕。
○惠具採跡《ヱグツムト》――惠具《ヱグ》は一に烏芋《クロクワヰ》ともいふ、莎草《カヤツリグサ》科の多年生草本。池沼の水中に生ずる。地中に塊莖を生じ、地上垂は高さ二三尺、草生し圓柱状をなしてゐる。無數の節を具へ莖には葉が無い。塊莖は食ふことが出來る。その味がゑぐいのでその名を得たらしい。この歌では芽生を摘んで食ふのであらう。卷十一にも足檜之山澤回具乎採將去日谷毛相爲母者責十方《アシビキノヤマサハヱグヲツミニユカムヒダニモアハセハハハセムトモ》(二七六〇)とある。
〔評〕 山田の澤で、身を切るやうな雪消の水に足を眞赤にして、惠具を採んでゐる里の少女の姿が偲ばれる。俚謠らしい歌。純情があらはれてゐる。卷七の君爲浮沼池菱採我染袖沾在哉《キミガタメウキノヌイケノヒシツムトワガシメシソデヌレニケルカモ》(一二四九)に似て、それよりも勝つてゐる。古今集の「君が爲春の野に出でて若菜つむ吾が衣手に雪はふりつつ」と關係があるか。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
1840 梅が枝に 鳴きてうつろふ 鶯の 羽根白妙に 沫雪ぞ降る
梅枝爾《ウメガエニ》 鳴而移徙《ナキテウツロフ》 鶯之《ウグヒスノ》 翼白妙爾《ハネシロタヘニ》 沫雪曾落《アハユキゾフル》
梅ノ枝デアチコチト〔五字傍線〕鳴イテ渡ツテアルク、鶯ノ翼モ眞白ニナルホド〔四字傍線〕雪ガ降ツテヰル。ホントニ面白イ景色ダ〔十字傍線〕。
○鳴而移徙《ナキテウツロフ》――鳴きながら枝から枝へと渡り行くこと。
〔評〕 丸で繪のやうだ。鶯之翼白妙爾《ウグヒスノハネシロタヘニ》が鮮明にくつきりと、目に浮ぶやうである。内容は違つてゐるが新古今集の「鶯のなけども未だ降る雪に杉の葉白き逢坂の山」が思ひ出される。
1841 山高み 降り來る雪を 梅の花 散りかも來ると おもひつるかも 一云、梅の花咲きかも散ると
山高三《ヤマタカミ》 零來雪乎《フリクルユキヲ》 梅花《ウメノハナ》 落鴨來跡《チリカモクルト》 念鶴鴨《オモヒツルカモ》
一云、梅花開香裳落跡《ウメノハナサキカモチルト》
(170)山ガ高イノデ、春ニナツテモマダ雪ガ降ルガ、私ハソノ〔春ニ〜傍線〕降ツテ來ル雪ヲ、梅ノ花ガ散ツテ來ルノデハナイカト思ツタヨ。
○一云、梅花開香裳落跡《ウメノハサキカモチルト》――これは第四句の異傳である。この方が勝つてゐるか。
〔評〕 早春の山に降る雪を梅の散るのと見誤つたといふので、雪を花と見、花を雪と見る詩想の型に、はめたもののやうである。
1842 雪をおきて 梅をな戀ひそ 足引の 山片つきて 家居せる君
除雪而《ユキヲオキテ》 梅莫戀《ウメヲナコヒソ》 足曳之《アシビキノ》 山片就而《ヤマカタツキテ》 家居爲流君《イヘヰセルキミ》
(足曳之)山ニ片寄ツテ住居ヲシテヰル貴方ヨ。アナタハ雪ヲテ梅ノヤウダトオツシヤルガ、ソノ美シイ〔アナ〜傍線〕雪ノ景色ヲ捨テ置イテ、梅ノ花ヲ戀シガツテハイケマセヌゾ。
○山片就而《ヤマカタツキテ》――山に片よりついて。山に接して意。卷六に不知魚取海片就而《イサナトリウミカタツキテ》(一〇六二)、卷十九に谷可多頭伎?《タニカタツキテ》(四二〇七)とめる。○家居爲流君《イヘヰセルキミ》――古義に流を衍として、イヘヲラスキミとしたのはよくない。
〔評〕 前の歌に對する答で、雪を梅と思つたといふに對し、愛すべき雪をさし置いて、梅を戀ふるなかれと戒めたのである。風流な問答である。
右二首問答
右の二首は二人の問答の體である。
詠v霞
1843 昨日こそ 年ははてしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり
昨日社《キノフコソ》 年者極之賀《トシハハテシカ》 春霞《ハルガスミ》 春日山爾《カスガノヤマニ》 速立爾來《ハヤタチニケリ》
昨日コソ年ガ暮レタバカリダ、ソレダノニ、春トイヘバ爭ハレヌモノデ、今日ハ〔ソレ〜傍線〕春霞ガ春日山ニ早クモ立チ渡(171)ツタヨ。
〔評〕 時節のたつのが速かなのに驚くと共に、春の來たのを歡ぶ氣分が見える。よい作だ。古今集の「咋日こそ早苗とりしかいつのまに稻葉そよぎて秋風の吹く」の前驅であらう。
1844 冬すぎて 春來るらし 朝日さす 春日の山に 霞たなびく
寒過《フユスギテ》 暖來良思《ハルキタルラシ》 朝烏指《アサヒサス》 滓鹿能山爾《カスガノヤマニ》 霞輕引《カスミタナビク》
冬ガ過ギテ春ガ來タラシイ。アレアノ通リ〔六字傍線〕朝日ガサシテヰル春日山ニハ、霞ガ棚引イテヰル。マダ冬ノ心地デヰタノニ早イモノダ〔マダ〜傍線〕。
○寒過《フユスギテ》――冬を寒と記し、次の句に春を暖としてゐるのは義訓である。○朝烏指《アサヒサス》――朝日を朝烏と書いてゐるが、烏は金烏の意である。
〔評〕 この卷頭の歌が天の香具山の霞をよんだのに對して、これは春日山の霞をよんでゐる。彼が藤原の都人の作なるに對して、これは奈良の都人の作であらう。歌は彼よりも劣つてゐる。この歌は寒・暖・朝烏・滓鹿・輕引など文字の用法に特殊性がある。
1845 鶯の 春になるらし 春日山 霞たなびく 夜目に見れども
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 春成良思《ハルニナルラシ》 春日山《カスガヤマ》 霞棚引《カスミタナビク》 夜目見侶《ヨメニミレドモ》
鶯ガ時ヲ得顔ニ鳴キ囀ル〔九字傍線〕春ニナツタラシイ。夜見テスラモヨク分ル程〔五字傍線〕、春日山ニ霞ガ棚引イテヰルヨ。
〔評〕 鶯の囀る春といふべきを略して鶯の春といつたのは思ひ切つた用例である。夜の霞を歌つたのは珍らしい。
詠v柳
1846 霜枯れし 冬の柳は 見る人の かづらにすべく ねばえけるかも
霜干《シモガレシ》 冬柳者《フユノヤナギハ》 見人之《ミルヒトノ》 蘰可爲《カヅラニスベク》 目生來鴨《メバエケルカモ》
(172)今マデ〔三字傍線〕霜枯レシテヰタ冬ノ柳ハ、ソレヲ〔三字傍線〕見ル人タチガ、折リ取ツテ〔五字傍線〕髪飾ニスルノニヨイヤウニ、美シク〔三字傍線〕芽ヲフキ出シタヨ。
○霜干《シモガレシ》――舊本、干を十に誤つてゐる。元暦校本その他の古本多く千に作つてゐる。○見人之《ミルヒトノ》――考に見を良の誤としてヨキヒトノ、古義は見の下、八の字を補つてミヤビトノとしてゐるが、いづれもよくない。見人《ミルヒト》は誰でもその柳を見る人がの意。○目生來鴨《メバエケルカモ》――從來の訓はモエニケルカモであるが、文字通りによんだ、新訓に從ふことにする。
〔評〕 これはしだり柳である。大宮人ののどかな遊びを思はしめる。
1847 淺緑 染めかけたりと 見るまでに 春の楊は 芽ばえけるかも
淺緑《アサミドリ》 染懸有跡《ソメカケタリト》 見左右二《ミルマデニ》 春楊者《ハルノヤナギハ》 目生來鴨《メバエケルカモ》
淺緑ニ糸〔二字傍線〕ヲ染メテ、掛ケ乾シ〔二字傍線〕テヰルノデハナイカト思ハレルホドニ、春ノ楊ガ青々ト〔三字傍線〕芽ヲフイタナア。アア美シイ〔五字傍線〕。
○淺緑染懸有跡《アサミドリソメカケタリト》――淺緑に糸を染めて懸けたりとの意。
〔評〕 ミルマデニを第三句に置いて上を譬喩とし、下に實物を説明してゐる歌はかなり多い。八四四・一一八二・一四二〇など參照。この歌の想を複雜ならしめると、古今集の「淺みどり糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か」となる。
1848 山のまに 雪はふりつつ しかすがに この河楊は 萠えにけるかも
山際爾《ヤマノマニ》 雪者零管《ユキハフリツツ》 然爲我二《シカスガニ》 此河楊波《コノカハヤギハ》 毛延爾家留可聞《モエニケルカモ》
山ノ中ニハ、マダ〔二字傍線〕雪ガ降ツテヰル。シカシソレデモ流石ニ、春ハ春デ〔四字傍線〕コノ河楊ハ芽ヲ出シタナア。
〔評〕 有りのままの叙景であるが、春淺い川邊の猫柳が可愛らしく想像せられる。但しかうした型の歌は外にもある。
(173)1849 山のまの 雪は消ざるを たぎち合ふ 川のやなぎは 芽ばえけるかも
山際之《ヤマノマノ》 雪者不消有乎《ユキハケザルヲ》 水飯合《タギチアフ》 川之副者《カハノヤナギハ》 目生來鴨《メバエケルカモ》
山中ノ雪ハマダ〔二字傍線〕消エナイノニ、水ガ〔二字傍線〕泡立チ流レル川ニ添ウテヰル〔六字傍線〕楊ハ芽ヲフイタナア。
○水飯合《タギチアフ》――飯の字は必ず誤であらう。考に激の誤としてミナギラフとよんでゐるが、古義にその訂正を認めて、タギチアフとよんだのに從はう。激の訓としては、その方がよいやうである。○川之副者《カハノヤナギハ》――この句は種種の訓があるが、古義に副を楊の誤としてカハノヤナギハとよんだのに從ふ。
〔評〕 誤字があるらしいが、これを右のやうに改めると、まことによい歌となる。山はまだ雪を戴いてゐる。併し川には雪消の水が泡立つて流れ、堤の楊は既に芽をふいてゐるといふ風景で、早春の好點描である。
1850 あさなさな 吾が見る柳 鶯の 來ゐて鳴くべく 森に早なれ
朝旦《アサナサナ》 吾見柳《ワガミルヤナギ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 來居而應鳴《キヰテナクベキ》 森爾早奈禮《モリニハヤナレ》
毎朝毎朝私ガ眺メルコノ屋敷〔四字傍線〕ノ柳ヨ。鶯ガ來テ宿ツテ鳴クヤウナ森ニ早ク茂ツテクレロヨ。
〔評〕 早春の頃、柳に對して、それが緑に茂つて鶯の宿りとならむことを希つたのである。森とは木の茂ることで、これを若木の柳と見る説はいけない。冬木のままの春淺い柳である。長閑な氣分のよい歌である。
1851 青柳の 糸のくはしさ 春風に 亂れぬいまに 見せむ子もがも
青柳之《アヲヤギノ》 絲乃細紗《イトノクハシサ》 春風爾《ハルカゼニ》 不亂伊間爾《ミダレヌイマニ》 令視子裳欲得《ミセムコモガモ》
コノ〔二字傍線〕青々トシタ柳ノ糸ノヤウナ枝ガ、細ク〔二字傍線〕美シイヨ。春風ノ爲〔二字傍線〕ニ吹キ〔二字傍線〕亂サレナイ間ニ、見セタイト思フガ〔四字傍線〕、女ガ此處ニ居レバヨイガ。春風ガ吹ケバコノ柳ノ糸モ亂レテシマフ。アア早クコノ情趣ヲ解スルアノ女ニ見セテヤリタイモノダ〔春風〜傍線〕。
○絲乃細紗《イトノクハシサ》――舊訓イトノホサヲとあるが古義の訓による。紗の字は紗眠友《サヌレドモ》(二五二〇)の例もあるから、サとよむべきである。クハシサは精しさの意。クハシは美しいこと。○不亂伊間爾《ミダレヌイマニ》――伊間《イマ》のイは添へていふのみ。(174)亂れない間にの意。卷七に花待伊間爾嘆鶴鴨《ハナマツイマニナゲキツルカモ》(一三五九)とある。
〔評〕 美しい柳の糸が春風に亂れることを思ひやつたのは、實にやさしいなつかしい情趣である。繊細な氣分が詞にも充ち滿ちてゐる。
1852 百敷の 大宮人の かづらける しだり柳は 見れどあかぬかも
百礒城《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 蘰有《カヅラケル》 垂柳者《シダリヤナギハ》 雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》
(百礒城)大宮人タチ〔二字傍線〕ガ、髪ノ飾ノ〔四字傍線〕※[草冠/縵]ニシテヰル垂柳ハ、イクラ〔三字傍線〕見テモ美シクテ見〔五字傍線〕飽キナイナア。
○※[草冠/縵]有《カヅラケル》――※[草冠/縵]にせるの意。カヅラクといふ動詞に助動詞リを添へた形である。カヅラクは菖蒲可都良久麻泥爾《アヤメグサカヅラクマデニ》(四一七五)・青柳乃保都枝與治等理可豆良久波《アヲヤギノホヅエヨヂトリカヅラクハ》(四二八九)などの用例がある。
〔評〕 しだり柳は元來吾が國にはないもので、外來種だといふことである。その渡來の年代は明らかでないが、奈良朝の頃には、かなり廣く植ゑられてゐたと見える。大宮人の優麗な風姿を客觀的に詠んでゐるが、作者も亦同じく宮廷生活中の一人である。
1853 梅の花 取り持ち見れば 吾がやどの 柳の眉し おもほゆるかも
梅花《ウメノハナ》 取持見者《トリモチミレバ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 柳乃眉師《ヤナギノマユシ》 所念可聞《オモホユルカモ》
梅ノ花ヲ旅ニ出テ手ニ〔七字傍線〕取リ持ツテ見ルト、私ノ家ノ柳ガ美シク〔四字傍線〕眉ノヤウニ萠エ出シタノ〔十字傍線〕ガ、遙カニ〔三字傍線〕思ヒヤラレテナツカシイヨ。
○柳乃眉師《ヤナギノマユシ》――柳乃眉は柳の芽である。美人の眉を柳眉といふのとは關係はない。代匠記初稿本に「わがやとの柳の眉は妻のかほよきをおして柳眉といへり」といつたのはよくない。古義にこれを否定しつつも「但し妻の美貌を思ひ出る意は言外にあるべし」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 旅にある人の歌で、梅の花を手折つてその芳香をなつかしむと共に、故郷の春色に思ひを走らせてゐるので、無理のないおだやかな情緒の歌である。
(175)詠v花
1854 鶯の 木伝ふ梅の うつろへば 櫻の花の 時片まけぬ
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木傳梅乃《コヅタフウメノ》 移者《ウツロヘバ》 櫻花之《サクラノハナノ》 時片設奴《トキカタマケヌ》
鶯ガ枝ヲ傳ツテ鳴ク〔二字傍線〕梅ノ花〔二字傍線〕ガ過ギテシマフト、今度ハ〔三字傍線〕櫻ノ花ノ咲ク〔二字傍線〕時節ガヤツテ來タ。櫻ノ花ノ頃トナルノハウレシイ〔櫻ノ〜傍線〕。
○時片設奴《トキカタマケヌ》――片設《カタマケ》は、卷二に春冬片設《ハルフユカタマケテ》(一九一)、卷五に波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》(八三八)などその他なほ數例あるが、片より設けての意として置いた。しかしその方に向ふ、その方に片よるの意とも解かれてゐる。ともかくこの歌では時が近づいた意とすればよい。
[評〕 鶯と梅との心を樂しましめたが、次で爛漫たる櫻花の時季が來る。三春の行樂は倦くことがないと、春の花を禮讃した辭である。
1855 桜ばな 時は過ぎねど 見る人の 戀の盛と 今し散るらむ
櫻花《サクラバナ》 時者雖不過《トキハスギネド》 見人之《ミルヒトノ》 戀盛常《コヒノサカリト》 今之將落《イマシチルラム》
櫻ノ花ハマダ盛ノ〔四字傍線〕時ガ過ギタノデハナイガ、眺メル人ガ戀シガツテ、賞美スル〔四字傍線〕盛ノ時ダ〔三字傍線〕ト思ツテ〔三字傍線〕、今アンナニ〔四字傍線〕散ルノデアラウ。意地ノワルイ花ダ〔八字傍線〕。
○戀盛常《コヒノサカリト》――コフルサカリとよむ説はよくない。
〔評〕 櫻の花が、人に惜しまれようと思つて、殊更に早く散るやうにいつたのである。しかし古今集の「いざ櫻われもちりなむ一盛ありなば人にうき目見えなむ」「なごりなく散るぞめでたき櫻花ありて世の中はてのうければ」のやうに、盛の後を悲觀したのではない。
1856 吾が挿しし 柳の糸を 吹き亂る 風にか妹が 梅の散るらむ
(176)我刺《ワガサシシ》 柳絲乎《ヤナギノイトヲ》 吹亂《フキミダル》 風爾加妹之《カゼニカイモガ》 梅乃散覽《ウメノチルラム》
私ガ庭ニ〔二字傍線〕刺シテ植ヱ〔三字傍線〕タ柳ノ枝ヲソヨ/\ト春風ガ〔八字傍線〕吹イテ亂シテヰルガ、コノ春〔四字傍線〕風デナツカシイアノ〔七字傍線〕女ノ家ノ〔二字傍線〕梅ノ花〔二字傍線〕モ散ルデアラウ。
○我刺《ワガサシシ》――吾が土に挿して植ゑた庭の柳といふのである。舊訓ワガカザスとあり、代匠記に我の下、頭の字が脱ちたのであらうと言つてゐるが、さうではあるまい。挿頭にするの意とする説は一寸面白いやうであるが、冠上の柳條としては、二三の句があまり大袈婆のやうである。
〔評〕 我が庭の刺柳が漸く緑に染めたのを見て、妹が家なる梅を想像したので、まことに優美な作である。
1857 年のはに 梅は咲けども うつせみの 世の人君し 春なかりけり
毎年《トシノハニ》 梅者開友《ウメハサケドモ》 空蝉之《ウツセミノ》 世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》 春無有來《ハルナカリケリ》
毎年毎年梅ハ長閑ニ〔三字傍線〕咲クガ、コノ忙シイ〔五字傍線〕(空蝉之)世ノ中ニ暮ラシテヰル〔八字傍線〕、人間ノアナタハイツモ〔三字傍線〕春ハアリマセンヨ。春デモ少シモ長閑ナ氣分ニナレマセンネ〔春デ〜傍線〕。
○毎年《トシノハニ》――毎年をトシノハニとよむべきは、卷十九に毎年謂2之|等之乃波《トシノハ》1(四一六八)とある。○空蝉之《ウツセミノ》――枕詞。世とつづく、二四參照。○世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》――君は吾の誤字だとする説が多い。然しさうなつてゐる異本もないやうであるから、君としておく。羊蹄をシと訓むのは和名抄に羊蹄葉を之布久佐一云之とあるやうに羊蹄《シ》といふ草の名である。今のギシギシのことだといふ。
〔評〕長閑な天平時代の生活にもこんな一面もあつたのである。百礒城之大宮人者暇有也ウメ乎挿頭而此間集有《モモシキノオホミヤビトハイトマアレヤウメヲカザシテココニツドヘル》(一八八三)に比すると、その對照が面白い。しかしこれを民衆の勞働生活を歌つたものと早合點してはいけない。
1858 うつたへに 鳥ははまねど しめ延へて もらまく欲しき 梅の花かも
打細爾《ウツタヘニ》 鳥者雖不喫《トリハハマネド》 繩延《シメハヘテ》 守卷欲寸《モラマクホシキ》 梅花鴨《ウメノハナカモ》
(177)少シモ鳥ハ來テ梅ノ花ヲ〔六字傍線〕ツイバマナイガ、俺ハドウシテモ氣ニナツテ〔俺ハ〜傍線〕、標繩ヲ引張リ廻シテコノ梅ノ花ノ番ヲシタイト思フヨ。
○打細爾《ウツタヘニ》――卷四に打細丹《ウツタヘニ》(五一七)とあつたのと同じく、ひとへに、全然などの意。
〔評〕 梅花の鳥についばまれるのを惜しむ心である、しかし、これは愛する女を梅に譬へた、寓意の歌らしく思はれる。
1859 おしなべて たかき山邊を 白妙に にほはせたるは 梅の花かも
馬並而《オシナベテ》 高山部乎《タカキヤマベヲ》 白妙丹《シロタヘニ》 令艶色有者《ニホハセタルハ》 梅花鴨《ウメノハナカモ》
一體ニ高イ山ヲ、眞白ニ色ドツタノハ梅ノ花ダラウカナア。多分サウデアラウ〔八字傍線〕。
○馬並而《オシナベテ》――舊訓、文字通りにウマナメテとよみ、代匠記は「馬に騎つれて行人を、かちなる人の見れば高く見ゆる故に、高きと云はむ爲の發句なるべし」とあるが、どうも無理のやうである。略解に「宣長も馬は忍《オシ》の誤ならむと言へり」とあるのに從はう。
〔評〕 梅の花の歌としては受取り難い。梅花は今日でも山を埋めて咲くといふほどにはなつてない。況んや當時外來の花として珍重してゐたのであるから、これは梅ではなく櫻の誤であらう。櫻の歌とすれば實景がよく歌はれてゐるやうに思はれる。
1860 花咲きて 實はならねども 長きけに 念ほゆるかも 山吹の花
花咲而《ハナサキテ》 實者不成登裳《ミハナラネドモ》 長氣《ナガキケニ》 所念鴨《オモホユルカモ》 山振之花《ヤマブキノハナ》
山吹ノ花ハ花ガ咲イテモ實ハナラナイモノダガ、私ハ實ノ成ルノヲ待ツテ〔私ハ〜傍線〕、長イ月日ノ間思ツテヰルヨ。アノ女ト約束バカリ出來テ逢フコトガ出來ナイガ、イツカハ逢ヘルヤウニ長イ間思ツテヰル〔アノ〜傍線〕。
○長氣《ナガキケニ》――長き日《ケ》にの意。代匠記に歎《ナゲキ》の意としたのは誤つてゐる。○山振之花《ヤマブキノハナ》――今の山吹である。已に卷二(178)(一五八)・卷八(一四三五・一四四四)などに出てゐる。
〔評〕 山吹に實がならぬといふ觀念が、已にここにあらはれてゐるのは注意すべきである。この歌、表面的に山吹の歌とのみ見るべきではない。その寓意を認めねばならぬ。
1861 能登川の 水底さへに てるまでに 三笠の山は 咲きにけるかも
能登河之《ノトガハノ》 水底并爾《ミナソコサヘニ》 光及爾《テルマデニ》 三笠乃山者《ミカサノヤマハ》 咲來鴨《サキニケルカモ》
能登川ノ水ノ底マデ光リカガヤクヤウニ、三笠山ニハ櫻ノ花ガ〔四字傍線〕咲イタワイ。三笠山ノ櫻ガ能登川ノ水ニ映ツテサテモ美シイ景色ダ〔三笠〜傍線〕。
○能登河之《ノトガハノ》――能登河は春日山から發して、高圓山と三笠山との間を流れてゐる小川。
〔評〕 三笠の山の櫻はといふべきを略してゐるのは、卷八の春山之開乃乎爲里爾春菜採妹之白紐見九四與四門《ハルヤマノサキノヲヲリニワカナツムイモガシラヒモミラクシヨシモ》(一四二一)と同じであるが、歌の内容・形式からは卷二十の伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆?流麻※[泥/土]爾在家流安之婢乃知良麻久乎思母《イソカゲノミユルイケミヅテルマデニサケルアシビノチラマクラシモ》(四五一三)と同型である。水邊の山の花の美しさ明るさがよく歌はれてゐる。
1862 雪見れば 未だ冬なり しかすがに 春霞立ち 梅は散りつつ
見雪者《ユキミレバ》 未冬有《イマダフユナリ》 然爲蟹《シカスガニ》 春霞立《ハルガスミタチ》 梅者散乍《ウメハチリツツ》
雪ノ降ルノ〔四字傍線〕ヲ見ルトマダ冬ノ景色〔三字傍線〕ダ。シカシナガラ流石ニ爭ハレヌモノデ〔流石〜傍線〕、春霞ガ立ツテ梅ノ花ハ散ツテヰル。
〔評〕 前の梅花咲落過奴然爲蟹白雪庭爾零重管《ウメノハナサキチリスギヌシカスガニシラユキニハニフリシキリツツ》(一八三四)を逆に言つただけで、内容にかはりはない。然しこの歌の雪は何處に降つてゐるのか、明らかにされてゐない。
1863 去年咲きし 久木今咲く 徒らに 土にやおちむ 見る人なしに
去年咲之《コゾサキシ》 久木今開《ヒサキイマサク》 徒《イタヅラニ》 土哉將墮《ツチニヤオチム》 見人名四二《ミルヒトナシニ》
去年咲イタ久木ガ今咲イタ。空シク見ル人モナクテ、土ニ落チテシマフデアラウカ、惜シイコトダ〔六字傍線〕。
(179)○久木今開《ヒサキイマサク》――久木を赤目柏としても、亦一説によつて梓(きささげ)としても、ひさかき〔四字傍点〕としても、いづれも花の美しいものではない。誤字説が多いのは尤もである。考は久を冬の誤かとし、又別に咲の下、之は左の誤、木は樂としてコゾサキシサクライマサクとし、又久を文としてコゾサキシウメハイマサクかとしてゐる。古義は久木を足氷の誤としてコゾサキシアシビイマサクとしてゐる。新考は咲を殖、久を若としコゾウヱシワカキイマサクと改めてゐる。いづれも賛同しがたい。しばらく久木として私意を加へないことにする。なほ久木について研究すべきであらう。
〔評〕 去年咲之《コゾサキシ》といつて見人名四二《ミルヒトナシニ》と受けてゐるのは、去年愛人と共にこの花を眺めた事實があつたのであらう。さして深くはないが、感傷的な氣分が籠つてゐる。
1864 足引の 山の間照らす 櫻花 この春雨に 散りゆかむかも
足日木之《アシビキノ》 山間照《ヤマノマテラス》 櫻花《サクラバナ》 是春雨爾《コノハルサメニ》 散去鴨《チリユカムカモ》
(足日木之)山ノ中ヲ照ラスヤウニ明ルク、盛ニ咲イテヰル〔ヤウ〜傍線〕櫻ノ花ハ、コノ春雨ニ散ツテシマフデアラウカナア。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
○山間照《ヤマノマテラス》――古義にヤマカヒテラスとあるが、舊訓による。山間は山際に同じく、山の中をいふ。○散去鴨《チリユカムカモ》――考はチリニケンカモ、略解は散の上、將を補つてチリヌランカモ、古義は去の下、來の字脱として、チリニケルカモと訓んでゐるが、この文字のままならば、舊訓がよいやうである。
〔評〕 降る春雨に、散り行く山の花を想ひやつたのである。花にも紅葉にも、かうした内容の作はめづらしくはないが、この歌にはあはれが籠つてゐる。
1865 打ちなびく 春さり來らし 山の際の 遠き木ぬれの 咲き行く見れば
打靡《ウチナビク》 春避來之《ハルサリクラシ》 山際《ヤマノマノ》 最木末乃《トホキコヌレノ》 咲往見者《サキユクミレバ》
遠クハナレタ山ノ中ノ櫻ガ、段々ト〔三字傍線〕咲イテユクノヲ見レバ、イヨイヨ〔四字傍線〕(打靡)春ガ來タラシイ。
(180)○最木末乃《トホキコヌレノ》――最をトホキとよむのは、考の訓であるが、少し無理かと思はれる。しかし舊訓ヒサキノスヱノ、代匠記精撰本ホツキノウレノ、改訓抄イトモコズヱノなど、いづれも當れりとは思はれない。しばらく考による。訓義辨證には叢の誤としてシゲキコヌレ、又はシゲキガウレとよむべしといつてゐる。○咲往見者《サキユクミレバ》――考に舊訓を改めて、サキヌルミレバとしたのはよくない。段々と咲き行く意らしい。
〔評〕 これは卷八の打靡春來良之山際遠木末乃開往見者《ウチナビクハルキタルラシヤマノマノトホキコヌレノサキユクミレバ》(一四二二)と同歌と見るべきものである。
1866 きぎしなく 高圓のべに 櫻花 散りて流らふ 見む人もがも
春※[矢+鳥]鳴《キギシナク》 高圓邊丹《タカマドノベニ》 櫻花《サクラバナ》 散流歴《チリテナガラフ》 見人毛我裳《ミムヒトモガモ》
雉ガ鳴ク高圓山〔傍線〕ノアタリニ、櫻ノ花ガ空ヲ〔二字傍線〕流レルヤウニ飛ビ散ツ〔八字傍線〕テヰル。コノ景色チ誰カココヘ來テ〔コノ〜傍線〕見ル人ガアレバヨイガナア。惜シイコトダ〔六字傍線〕。
○高圓邊爾《タカマドノベニ》――高圓の山邊か野邊か明らかでない。野とありさうなところである。○散流歴《チリテナガラフ》――舊訓チリナガラフルとあるが、古義に從ふ。この句で切れてゐるやうである。
〔評〕 雉鳴く野に散り亂れる櫻花を浴びて、立ちつくしてゐる景はまことに長閑な零圍氣である。よい作だ。
1867 阿保山の 櫻の花は 今日もかも 散り亂るらむ 見る人なしに
阿保山之《アホヤマノ》 佐宿木花者《サクラノハナハ》 今日毛鴨《ケフモカモ》 散亂《チリミダルラム》 見人無二《ミルヒトナシニ》
阿保山ノ櫻ノ花ハ今日ハ見ル人モナクテ、散リ亂レルコトデアラウカ。惜シイコトダ〔六字傍線〕。
○阿保山之《アホヤマノ》――阿保山は佐保山の誤だらうと考にある。これは誰しも思ひつくところであるが、阿保といふ地名が山城にも伊賀にもあるから、そこかも知れない。又佐保村の不退寺の丘陵を阿保山といふと大日本地名辭書にある。果して然らばこれに從ふべきである。このあたりの歌は都近くの風景のみである。○位宿木花者《サクラノハナハ》――佐宿木はサクラとよむべき文字らしいが、この儘では無理である。おそらく誤字であらう。卷十三に作樂花とあるから、或は作樂を佐宿木に誤つたのか。その他種々の推測説はあるが、わづらはしいから省く。
(181)〔評〕 前の見人名四二《ミルヒトナシニ》(一八六三)と結句を同じうして、歌品も亦相似てゐるが、この方が寂寥味が多い。
1868 かはづなく 吉野の河の 瀧の上の 馬醉木の花ぞ 土に置くなゆめ
川津鳴《カハヅナク》 吉野河之《ヨシヌノカハノ》 瀧上乃《タギノウヘノ》 馬醉之花曾《アシビノハナゾ》 置末勿勤《ツチニオクユメ》
河鹿ガ面白ク〔三字傍線〕鳴ク、吉野川ノ瀧ノ上ニ咲イテヰル〔五字傍線〕馬醉木ノ花ハ、誠ニ綺麗ダ。イツマデモ〔十五字傍線〕決シテ土ノ上ニ落チ散ルナヨ。
○置末勿勤《ツチニオクナユメ》――舊訓オクニマモナキではわからないので、考は觸手勿勤《テフレソナユメ》、略解は同じくテナフレソユメとしてゐるが、略解に又「或人は末は土の誤にてつちにおくなゆめと訓べしと言へるよし言へり」とあるのがよいやうである。古義もこれと同説の大神眞潮説を可とし、且、四句の曾を者の誤とした宣長説を採つてアシビノハナハとしてゐる。これはゾに對する結がないからであらうが、下が禁止の意なる時は結辭は無くてもよいではあるまいか。新考にはゾをそのままとして「こは吉野川の瀧より折來たるあせみの花ぞゆめ直土《ヒタツチ》に置くな大切にせよといふ意とすべし」とあるが、それでは作者の地位も分明でなく、興趣に乏しい。
〔評〕 吉野の瀧の上に咲き誇つてゐる、馬醉木の花を見てよんだものらしい。結句がはつきりしないのは遺憾である。
1869 春雨に 爭ひかねて 吾がやどの 櫻の花は 咲きそめにけり
春雨爾《ハルサメニ》 相爭不勝而《アラソヒカネテ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 櫻花者《サクラノハナハ》 開始爾家里《サキソメニケリ》
早ク花ガ咲クヤウニト春雨ガ降ルノデ〔早ク〜傍線〕、春雨ニ抵抗出來ナイデ、私ノ屋敷ノ櫻ノ花ハ咲キ始メタヨ。
○相爭不勝而《アラソヒカネテ》――雨が花を咲かせようとしてゐるのに、反抗しかねての意。
〔評〕 暖い春の雨が降りそそぐのは、花をうながすやうだが、花を待つ心で見れば、花が殊更に抵抗して咲かぬやうに思はれるのである。これは花を待つ歌で、相爭不勝而《アラソヒカネテ》が一首の重點をなしてゐる。古義に「雨にはいたみやすければ、いな咲出じとあらそひたれど、春雨にあらそひ勝ことを得ずして櫻花は咲始にけり。いかで雨(182)にいたまずもがなあれかし。心がかりなることぞとなり」とあるのは從ひがたい。
1870 春雨は いたくな降りそ 櫻花 いまだ見なくに 散らまく惜しも
春雨者《ハルサメハ》 甚勿零《イタクナフリソ》 櫻花《サクラバナ》 未見爾《イマダミナクニ》 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
春雨ハヒドク降ルナヨ。私ハ〔二字傍線〕マダ櫻ノ花ヲ見ナイノニ、散ツテシマフノハ惜シイモノダヨ。
〔評〕 これは平語凡想で、さうですか歌の類である。
1871 春されば 散らまく惜しき 櫻花 しましは咲かず ふふみてもがも
春去者《ハルサレバ》 散卷惜《チラマクヲシキ》 櫻花《サクラバナ》 片時者不咲《シマシハサカズ》 含而毛欲得《フフミテモガモ》
春ニナルト咲イテスグ〔五字傍線〕散ツテツマフノガ惜シイ櫻ノ花ヨ、暫時ノ間ハ、咲カナイデ蕾ンデヰテクレヨ。
○櫻花《サクラバナ》――類聚古筆・神田本など古本多く梅に作つてゐる。しかし赤人集にこの歌を載せてサクラバナとあるから、それも古いのであらう。しばらく舊本に從ふ。
〔評〕 花の散るのを惜しむ心が痛烈に述べてある。類の尠い内容といつてよい。
1872 見渡せば 春日の野べに 霞立ち 咲きにほへるは 櫻花かも
見渡者《ミワタセバ》 春日之野邊爾《カスガノヌベニ》 霞立《カスミタチ》 開艶者《サキニホヘルハ》 櫻花鴨《サクラバナカモ》
見渡スト春日野アタリニ霞ガ立チコメテ、ソノ霞ノ中ニ〔六字傍線〕美シク咲イテヰルノハ、櫻ノ花カナア。アア美シイ景色ダ〔八字傍線〕。
〔評〕 意は明瞭である。霞の中の春の野の花がしのばれる長閑な歌である。
1873 いつしかも この夜の明けむ 鶯の 木傳ひ散らす 梅の花見む
何時鴨《イツシカモ》 此夜乃將明《コノヨノアケム》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木傳落《コヅタヒチラス》 梅花將見《ウメノハナミム》
何時ニナツタラコノ夜ガ明ケルダラウカ。待チ遠イナア。私ハ〔八字傍線〕鶯ガ枝ヲ傳ツテ踏ミ〔二字傍線〕散ラス梅ノ花ノヨイ景色〔四字傍線〕(183)ヲナガメヨウト思フ〔三字傍線〕。
〔評〕 梅花を思つて寢て、夜半に目覺めて、散る梅の美觀を眺めようといふのである。鶯の木傳ひ散らすは、前に鶯之木傳梅乃《ウグヒスノコツタフウメノ》(一八五四)とあるが、この歌の方が適切に用ゐられてゐる。
詠v月
1874 春霞 たなびく今日の 夕月夜 清く照るらむ 高松の野に
春霞《ハルガスミ》 田菜引今日之《タナビクケフノ》 暮三伏一向夜《ユフツクヨ》 不穢照良武《キヨクテルラム》 高松之野爾《タカマドノヌニ》
春霞ガ棚引イテヰル今日ノ夕月夜ハ、高圓ノ野デハ嘸カシ〔三字傍線〕面白ク照ルコトデアラウ。
○暮三伏一向夜《ユフツクヨ》――夕月夜で、三伏一向をツクとよんでゐる。この用字法は集中有名な戯書でこれに似たものに、卷十三に菅根之根毛一伏三向凝呂爾《スガノネノネモコロゴロニ》(三二八四)とある。なほ卷十二に梓弓末中一伏三起《アヅサユミスヱノナカゴロ》(二九八八)ともある。(但しこれは舊訓スヱナカタメテとあるが、宣長説に從ふ)。この三伏一向をツク、一伏三向又は一伏三起をコロとよむことについては、古來學者の頭をなやましたところであるが、かの折木四(九四八)・切木四(二一三一)をカリと訓むと同じく、當時行はれた博奕にもとづいてゐる。カリについては九四八に委しく説いて置いたが、四枚の木片を投じその表裏の出やうによつて勝負を決するのである。さてその木片の三筒伏し一箇仰いだのをツク、一箇伏して三箇仰いだのをコロと稱したので、右のやうな用字法が起つたものらしい。これについて狩谷掖齋の箋註倭名類聚抄に「皇國所v爲樗蒲、雖v不v能v得2其詳1、然其采蓋用2四木1、故萬葉集、折木四、切木四、並訓2加利1、借2樗蒲1爲v雁也、又三伏一向訓2都久1、一伏三向訓2古路1、一伏三起訓2多米1當d是所2擲得1之采名u」とある。美夫君志にも「遊仙窟に取2雙六局1來、共2少府公1賭《ウタム》v洒《サカヅクヲ》僕答曰、下官不v能v賭《ウツコト》v酒《サカヅク》共2娘子1賭v宿《ネヅクヲ》十娘問曰、若爲賭v宿《ネヅクヲ》云云とある旁訓のサカヅク、ネヅクのヅクはすべて贏輸《カチマケ》するわざを云ふ言なり。但し此はいと(184)古言にて古事記中卷に(中略)爲2宇禮豆玖《ウレヅク》1云爾とある豆玖《ヅク》是なり。記傳卷三十四に云、宇禮は慨《ウレタキ》の宇禮にて豆玖《ヅク》は今の世にいふ賭豆玖《カケヅク》なり」と述べて「かゝれば加利は梵語、都久《ツク》は皇國の詞、古呂《コロ》は漢語にてともに樗蒲の名なりけり」と言つてゐる。なほ十訓抄に、一伏三仰不來人待書暗雨降戀筒寢と書して「月夜には來ぬ人待たるかきくもり雨もふらなむ戀つつもねむ」と讀んだことが見えてゐる。これは集の例によれば、一伏三仰でなく、三伏一仰とあるべきを思ひ誤つたのであらう。なほ朝日新聞社編の「天平文化」に載せたる高楠順次郎氏の「天平時代を中心として印度と日本との關係」と題した論文中に、次のやうに述べてゐる。重複する點もあるが、參考の爲記して置かう。「次は博奕であるが、これは天平時代には盛んに行はれた。印度は全體博奕の國でマハーバラタの大戰争も元は博奕から起つたのである。國王が自分の財産を賭け、敗れ敗れて遂に王妃まで賭けて、それまで取られんとして、僅かに救はれて隱退し、配所の月を眺めると云ふのが起因である。印度の博奕は大抵「さいころ」で行はれる。この「さいころ」も元は印度である。印度では一點、二點、三點、四點の骰子を用ひる。最も惡い點をカリ、二點がドワーパラ、三點がトレター、四點がクリタと云ふ。時代でいふとクリタの四點が、四足揃つた完全な時代で黄金時代である。ドワーパラは第二で白銀時代、第三がトレターで赤銅時代、第四がカリで黒鐡の時代である。博奕の骰子は昔は天目珠(ルドラアクシヤ又はヴイビータカ)の實を用ひて居つた。博奕を波羅塞戯と名附ける。その塞の字をとつて塞の目といふ。印度の名の略である。骰子に畫を描いたから後には「采」の字をも用ひる。骰子が正しい名であるが、骰子と書き乍ら「さい」と讀むのは、梵名が主であつたことが窺はれるのである。萬葉時代ではカリと名付げた。「折木四」と書いてある。木片四つを骰子として用ひたからである。最惡點のことをカリといふのであるが、同時に總名にも用ひられてから、この博奕の名になつたのであらう。これは日本式になつてなか/\巧みに作られてゐる。二つの采を用ひる場合もある。雙六はそれである。一つの四面に點を現すといふのは餘り無味であるから、それを繪で顯はす。一面に牛兒が書いてある。牛兒は四足であるから、四點を意味する。他の采の一面には雉子が書いてある。雉子は二足であるから、二點を意味する。二點の裏が白いなれば一點を意味する。四點の裏が白いなれば三點を意味する。この二をを投げてその點を爭ふのである。それを萬葉集には「折木四」と書いてある。折つた木の(185)四つで折木四といふ名がついた。それに假名をつけて「カリ」と讀ましめてある。「カリ」は印度名である。それを振る時に「出ろ」といふ掛聲で振る。その代りに「コロ」といふのである。それからして「サイコロ」といふ。その「コロ」といふのはこれも梵語で「クル」「成就せよ」「成れよ」といふことである。「サイコロ」の「サイ」も「コロ」も又總名の「カリ」も皆印度語であります。賭けることを「ヅク」といふ。今でも「賭ヅク」といふことをやる。負けたものは酒を呑む約束を「酒ヅク」といふ。負けたものは打れるのを「打ヅク」といふ。それから「ヨネヅク」といふのは米をかけるのであるといふ解樺もあるが、さうではない。それは又「ネヅク」ともいふ。即ち「寢ヅク」「夜寢ヅク」である。その夜寢ることを賭けることである。この「ヅク」は印度語であるかどうか判らない。それから負けの方を「タメ」といふ。それを今でも「ダメ」だといふ。これは「矯めらる」の義だと解せられて居るが、如何のものにや。」○高松之野爾《クカマドノヌニ》――高松は高圓であらう。タカマトにタカマツの文字を用ゐたのは、卷向を卷目、三室を三諸と書いてあるのと同じであらう。多分その發音が、トともツとも、聞えるやうな、中間音であつたのであらう。
〔評〕 これは霞の棚引いてゐる夕暮に、高圓の野の夕月を思つたのである。新考に「歌よみしは晝の程にて夜の樣を豫想せしなれば、テラムとはいふべくテルラムとはいふべからず。されば良を奈の語としてキヨクテリナムとよむべし」とあるのは誤解であらう。古義に「歌の意は霞の立たなびきたる夕べの月なれば朦朧なるを、打晴れたる高圓の野の高き地は、物にさへらるることなければ、なほかかる夕べも、よく明かに照らむと想ひやれるなるべし」とあるのも、地形を知らぬに基づく誤であり、奈良の京などに住む人が、高圓の野の月夜の佳景を偲んだのにすぎない。不穢《キヨク》は景色のよいことで、必ずしも澄み渡つた月をいふのではない。
1875 春されば 樹の木の暗の 夕月夜 おぼつかなしも 山蔭にして 一云 春されば 木がくれおほき ゆふづく夜
春去者《ハルサレバ》 紀之許能暮之《キノコノクレノ》 夕月夜《ユフヅクヨ》 欝束無裳《オボツカナシモ》 山陰爾指天《ヤマカゲニシテ》
一云、春去者《ハルサレバ》 木陰多《コガクレオホキ》 暮月夜《ユフヅクヨ》
春ニナルト、木ノ茂ツタ木下暗ノ夕方ノ月夜ハ、山陰ノコトダカラ薄暗イヨ。
(186)○紀之許能暮之《キノコノクレノ》――樹の木の暗の。コノクレは木の茂つて暗いこと。○欝束無裳《オボツカナシモ》――オボツカナシは不明瞭なこと。ここは月の光の薄暗いのをいふ。○一云、春去者木陰多暮月夜《ハルサレバコガクレオホキユフヅクヨ》――第二句の異傳であるが、この方が寧ろ穩やかである。
〔評〕 紀之許能暮《キノコノクレ》は、意は通ずるが言葉が穩やかでない。山陰爾指天《ヤマカゲニサシテ》は卷三湯原王の芳野作歌の鴨曾鳴成山影爾之?《カモゾナクナルヤマカゲニシテ》(三七五)と同じで、柔※[車+(而/大)]な歌調をなしてゐる。
1876 朝霞 春日のくれは 木の間より うつろふ月を いつとか待たむ
朝霞《アサガスミ》 春日之晩者《ハルヒノクレハ》 從木間《コノマヨリ》 移歴月乎《ウツロフツキヲ》 何時可將待《イツトカマタム》
朝霞ガ立ツテ〔四字傍線〕春ノ日ノ日影〔三字傍線〕モ暗イ時ニ〔三字傍線〕ハ、コノ霞ノ中ニ照ル月ノ景色ガ、ドンナニカヨカラウト想像セラレテ〔コノ〜傍線〕、木ノ間ヲ移リ傳ツテ行ク月影〔傍線〕ヲ、何時出ル〔二字傍線〕カト晝ノウチカラ〔六字傍線〕待遠ク思ハレル。
○朝霞《アサガスミ》――朝霞は代匠記初稿本に「朝霞のたつ春の日といへるか。春霞のはるるとつづくるこころか」とあり、枕詞と見てゐるやうである。これを枕詞とするのが最も都合がよいが、語のつづきが少し無理のやうである。新考には霞立と改めて枕詞としてゐる。○春日之晩者《ハルヒノクレハ》――この句も異論が多い。代匠記・考・古義・新訓など春日の暮ればとし、略解・新考などは春日の暮はとしてゐる。なほ古義には朝霞を枕詞として、春日をカスガとよむのではないかとも疑つてゐる。これらの諸説のうち、朝霞をこの儘とする時は略解の訓がよく、解は同書に「宣長云一二の句は春日の朝の霞みてくらきを云、くれの詞はこのくれなといふに同じ、さて其朝霞のくらき時分はといふ意也。朝霞のくらき時分より夜までのまち久しきよし也といへり」とあるのに從はう。○從木間移歴月乎《コノマヨリウツロフツキヲ》――木の間を移り動いて行く月をの意。卷二の自雲間渡相月乃《クモマヨリワタラフツキノ》(一三五)と似た叙法である。
〔評〕 少しく意味が明瞭を缺くのは遺憾である。この詠月の歌は、三首とも夕月をよんでゐるのは、注意すべきである。
(187)詠v雨
1877 春の雨に ありけるものを 立ち隱り 妹が家路に この日くらしつ
春之雨爾《ハルノアメニ》 有來物乎《アリケルモノヲ》 立隱《タチカクリ》 妹之家道爾《イモガイヘヂニ》 此日晩都《コノヒクラシツ》
コノ降ル雨ハ〔六字傍線〕春ノ雨デ、降リ出シタラナカナカ止マヌモノデ〔降リ〜傍線〕ルノニ、雨宿リヲシテ、女ノ家ヘ行ク途中デ今日一日暮レテシマツタ。
○立隱《タチカクリ》――途中に雨やどりをしたことをいふ。
〔評〕 春雨の晴れまないことを恨んでゐる。初句が少し意を盡さぬやうである。代匠記には「春の雨に有けるものとは、はかばかしくもふらぬを雨やとりしてくらせしとなり」とあるのはどうであらう。
詠v河
1878 今ゆきて 聞くものにもが 明日香川 春雨ふりて たぎつ瀬の音を
今往而《イマユキテ》 ※[米/耳]聞物爾毛我《キクモノニモガ》 明日香川《アスカガハ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 瀧津湍音乎《タギツセノトヲ》
春雨ガ降ツテ、明日香川ノ水〔二字傍線〕ガ泡立チ流レテヰル瀬ノ音ヲ、今コレカラ〔四字傍線〕行ツテ聞キタイモノダ。サゾ面白イ音デアラウガ、今聞キニ行ク譯ニモ行カナイデ殘念ダ〔サゾ〜傍線〕。
○※[米/耳]物爾毛我《キクモノニモガ》――※[米/耳]は類聚古集・神田本なと聞に作つてゐる。※[米/耳]は聞の異體である。
〔評〕 春雨の頃、故郷の飛鳥川を偲んだので、素純な上品な作である。
詠v煙
(188)1879 春日野に 煙立つ見ゆ をとめらし 春野のうはぎ つみて煮らしも
春日野爾《カスガヌニ》 煙立所見《ケブリタツミユ》 ※[女+感]嬬等四《ヲトメラシ》 春野之菟芽子《ハルヌノウハギ》 採而※[者/火]良思文《ツミテニラシモ》
春日野ニアンナニ〔四字傍線〕煙ガ立ツノガ見エル。少女ラガ春ノ野ノ嫁菜ヲ摘ンデ煮ルラシイヨ。
○春野之菟芽子《ハルヌノウハギ》――は卷二に野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》(二二一)とあるのに同じく、嫁菜のこと。和名抄に薺蒿、七卷食經云、薺蒿菜、一名莪萬於波岐とあるものである。
〔評〕 うららかな日である。奈良の都から眺めると、東の方に廣く小高く展開してゐる春日野に當つて.薄い烟が細く眞直ぐに立ち上つてゐる。少女らが摘んだ嫁菜をすぐ煮て飯事《ママゴト》のやうな晝餉をとつてゐるのであらう。鰻※[(日+句)/れっか]々たる陽光、ただこれ太平和樂の春である。長閑な歌だ。和歌童蒙抄に出てゐる。
野遊
1880 春日野の 淺茅が上に 思ふどち 遊べる今日は 忘らえめやも
春日野之《カスガヌノ》 浅茅之上爾《アサヂガウヘニ》 念共《オモフドチ》 遊今日《アソベルケフハ》 忘目八方《ワスラエメヤモ》
春日野ノマバラニハエタ茅ノ上デ、心ノ合ツタ友達同志ガ、遊ブ今日ノ面白サ〔四字傍線〕ハ忘レルコトガ出來ヨウカ。イツマデモ忘レルコトハ出來マイ〔イツ〜傍線〕。
○遊今日《アソベルケフハ》――舊訓アソブケフヲバ、古義はアソブコノヒノとあるが、略解に從ふ。
〔評〕 春日野で茅花を拔いて遊んだ歌であらう。淺茅といふと荒れた草原を思はしめて、後世の歌に馴れたものには.寧ろ秋らしい感を與へる。ことにこの歌には.他に春の李を示すものがないから一層さう思はれる。
1881 春霞 立つ春日野を ゆきかへり 我は相見む いや年のはに
春霞《ハルガスミ》 立春日野乎《タツカスガヌヲ》 往還《ユキカヘリ》 吾者相見《ワレハアヒミム》 彌年之黄土《イヤトシノハニ》
春霞ノ立ツ春日野ノオモシロイ景色〔八字傍線〕ヲ、往ツタリ來タリシテ私ハ、毎年毎年ツヅケテ友達ト〔三字傍線〕共ニ見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
(189)○往還《ユキカヘリ》――往くとて還るとての意であるが、ここは春日野を往きつ還りつすることであらう。○吾者相見《ワレハアヒミム》――略解に「相見むは友に相見む也」とあり、古義に「相見《アヒミム》は思ふ友人共と共に見むとなり」とある通りであらう。新考には「春日野ヲアヒ見ムといへるなり」といつてゐる。
〔評〕 野遊の意が、三十一文字に述べられてゐるといふまでである。
1882 春の野に 心のべむと 思ふどち 來りし今日は くれずもあらぬか
春野爾《ハルノヌニ》 意將述跡《ココロノベムト》 念共《オモフドチ》 來之今日者《キタリシケフハ》 不晩毛荒粳《クレズモアラヌカ》
春ノ野デ憂サバラシヲシテ遊バウ〔四字傍線〕ト思ツテ〔三字傍線〕、心ノ合ツタ友達同志.遊ビニ〔三字傍線〕來タ今日ハ、日ガ暮レナイデクレレバヨイ。アマリ面白クテ日ノ暮レルノハ惜シイ〔アマ〜傍線〕。
○意將述跡《ココロノベムト》――舊訓ココロヤラムトとあるが、代匠記精撰本にノベムトとしたのがよい。述を遣の誤とする略解説はどうであらう。心のべむとは、心をはらさむとての意。○不晩毛荒糠《クレズモアラヌカ》――暮れずもあれよの意。卷四に人毛無國母有糠《ヒトモナキクニモアラヌカ》(七二八)とある。
〔評〕 長い春の日も、なほ飽くことを知らぬ野邊の遊が歌はれてゐるが、興趣が深くなくて、すぐれた歌とは言ひがたい。
1883 百敷の 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここにつどへる
百礒城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 暇有也《イトマアレヤ》 梅乎挿頭而《ウメヲカザシテ》 此間集有《ココニツドヘル》
(百礒城之)御所ニ仕ヘテヰル人ダチハ、暇ガアルカラカ、梅ヲ冠ニ〔二字傍線〕カザシテ、此處ニ集マツテヰル。
○百礒城之《モモシキノ》――枕詞。大宮につづく。二九參照。○暇有也《イトマアレヤ》――暇あればやの意であらう。即ちこのヤは疑問の助詞で、下のツドヘルの係辭となつてゐるのである。○此間集有《ココニツドヘル》――舊訓ツドヘリとあるが、略解による。
〔評〕 大宮人が梅花を挿頭として、野遊をなしてゐるのを詠じたものである。作者自からもその集團中の一人で(190)あらう。庶民が大宮人を、有閑階級として羨んだものと、早合點してはいけない。そんな階級意識は微塵もない。長閑な作である。新古今にこの歌の下句を「櫻かざして今日もくらしつ」と改め、山部赤人作としてゐるのは、赤人集によつて更に大膽な改作を試みたものである。
歎(ク)v舊(リニシヲ)
1884 冬すぎて 春し來れば 年月は 新なれども 人はふりゆく
寒過《フユスギテ》 暖來者《ハルシキタレバ》 年月者《トシツキハ》 雖新有《アラタナレドモ》 人者舊去《ヒトハフリユク》
冬ガ過ギテ春ガ來ルト、年月ハ新ニナルケレドモ、人ハ年ヲトツテ行ク。年月ハ新ニナルノニ、人バカリハ、古クナツテ行クノハ悲シイコトダ〔年月〜傍線〕。
○雖新有《アラタナレドモ》――舊訓アラタマレドモとあるが、文字通りにアラタナレドモと訓むべきであらう。
〔評〕 古今集の「百千鳥さへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふりゆく」はこれと同意で、第二句が平安朝式に優美になつてゐる。いづれも、老人らしい述懷である。この歌は和歌童蒙抄にある。
1885 物皆は 新しきよし ただ人は ふりぬるのみし よろしかるべし
物皆者《モノミナハ》 新吉《アタラシキヨシ》 唯人者《タダヒトハ》 舊之《フリヌルノミシ》 應宜《ヨロシカルベシ》
物ハ何デモ新シイノガヨロシイ。タダ人ハ年トツタノガヨロシカラウ。
○新吉《アタラシキヨシ》――舊訓アタラシキとあるを、古義にアラタシキと訓むべしといつてゐる。新はアラタで、アタラは可惜の意だからである。なるほど新をアタラシといふのは聲音の顛倒であるが、いつからさうなつたかは、今から知るよしがない。集中假名書式になつてゐるものがなく、唯一つ 春花能佐可里裳安良多之家牟等吉能沙加利曾《ハルハナノサカリモアラタシケムトキノサカリゾ》(四一〇六)とあるが、これは京大本に、左可里裳安良牟等末多之家牟《サカリモアラムトマタシケケム》となつてゐるのが正しいらしから、例にはならない。して見ると、已にこの集の時代にも、アタラシキとなつてゐたとも考へられるのである。よつて余(191)はむしろ舊訓に從ふの無難なるを思ふのである。○舊之《フリヌルノミシ》――文字數が極めて尠いので、いろいろな訓法が出來るわけである。ここは代匠記精撰本によることにする。
〔評〕 若いものに對する老人の負惜しみでもあり、又自己慰安の言葉でもあるが、そこに亦眞理が含まれてゐないとも言はれない。珍らしい歌として注意せらるべきものである。契沖は「尚書盤庚上云、遲任有v言、人惟求v舊、器非v求v舊惟新、此意にてよめるか。又知らずおのづから叶へるか」と言つてゐるが、もとより自然に一致したのであらう。この歌はどこにも春の意はないが、前の歌と連作なので、ここに載せたのであらう。
懽(ブ)v逢(ヘルヲ)
1886 住のえの 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君にあへるかも
住吉之《スミノエノ》 里得之鹿齒《サトユキシカバ》 春花乃《ハルハナノ》 益希見《イヤメヅラシキ》 君相有香聞《キミニアヘルカモ》
住吉ノ里ヲ歩イタ所ガ、(春花乃)ナツカシイアナタニオ目ニカカリマシタヨ。コンナ嬉シイコトハアリマセヌ〔コン〜傍線〕。
○里得之鹿齒《サトユキシカバ》――舊訓文字通りサトヲエシカバとあるが、意が通じ難い。考に得を行の誤として、サトユキシカバとよんだのに從ふべきであらう。○春花乃《ハルハナノ》――枕詞。希見《メヅラシキ》につづくのは愛づらしい意である。卷三に春草
益頬四寸吾於富吉美可聞《ハルクサノイヤメヅラシキワガオホキミカモ》(二三九)とある。
〔評〕 春花乃《ハルハナノ》とあるので春の歌に入れたものであらうが、必ずしも春の作とは思はれない。意外な面會に、狂喜した感がよくあらはれてゐる。
旋頭歌
1887 春日なる 三笠の山に 月も出でぬかも 佐紀山に さける櫻の 花の見ゆべく
春日在《カスガナル》 三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》 月母出奴可母《ツキモイデヌカモ》 佐紀山爾《サキヤマニ》 開有櫻之《サケルサクラノ》 花乃可(192)見《ハナノミルベク》
佐紀山ニ咲イテヰル櫻ノ花ガ見エルヤウニ、春日ニアル三笠山ニ月ガ出ナイカナア。月夜ノ花ノ眺メハ嘸カシ面白イデアラウ〔月夜〜傍線〕。
○月母出奴可母《ツキモ寸デヌカモ》――月も出ないかよ。出てくれよの意。○佐紀山爾《サキヤマニ》――佐紀山は古の奈良の都の正北で、佐保山の西に連なる低い山である。
〔評〕 奈良の都人が、北にある佐紀山の夜の花を眺めようとして、東方三笠山から出る月を待つ歌である。さほど高くない佐紀山の櫻が、右方から月光を受けて、くつきりと浮き出したやうに、匂ふであらう姿が想像せられる。
1888 白雪の とこしく冬は 過ぎにけらしも 春霞 たなびく野べの 鶯鳴きぬ
白雪之《シラユキノ》 常敷冬者《トコシクフユハ》 過去家良霜《スギニケラシモ》 春霞《ハルガスミ》 田菜引野邊之《タナビクヌベノ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴烏《ウグヒスナキヌ》
雪ガイツモ降リシキツテヰル冬ハ、モウ過ギテ終ツタラシイナア。春霞ガ棚引イテヰル野邊ノ鶯モ鳴イタヨ。
○常敷冬者《トコシクフユハ》――古義に常を落の誤として、フリシクと訓んだのは臆斷に過ぎる。新訓にはツネシクとよんでゐるが、卷九、黄葉常敷《モミヂトコシク》(一六七六)と訓んでゐるから、これもそれと統一せしむべきであらう。○※[(貝+貝)/鳥]鳴烏《ウグヒスナキヌ》――烏は神田本・西本願寺本、焉となつてゐる。これは漢文で言ひ切つた後に書き添へた助辭であるから、鳴烏はナキヌとよむべきであらう。
〔評〕 霞の中に、鳴く鶯の聲に春を知つた趣である。別に變つた味もない。古義にこの歌を、前の詠鳥の部の劈頭に入れたのは、つまらない改竄である。
譬喩歌
(193)1889 吾がやどの 毛桃の下に 月夜さし 下心よし うたてこの頃
吾屋前之《ワガヤドノ》 毛桃之下爾《ケモモノシタニ》 月夜指《ツクヨサシ》 下心吉《シラゴコロヨシ》 菟楯項者《ウタテコノゴロ》
私ハ〔二字傍線〕何トナクコノ頃ハ(吾屋前之毛桃之下爾月夜指)心ノ中ガ愉快ダ。
○毛桃之下爾《ケモモノシタニ》――毛桃は桃の一品種で、外果皮に毛茸多く且、大きい。卷七に波之吉也思吾家乃毛桃本繁《ハシキヤシワギヘノケモモモトシゲク》(一三五八)とある。○月夜指《ツクヨサシ》――月かげのさすことをかくいつたのである。以上の三句は、下といはむ爲の序詞で、同時に春の月夜の、庭前の景を捕へたのである。○下心吉《シタゴコロヨシ》――吉を無としてシヅココロナシ、苦としてシタナヤマシモ又はシタニゾナゲク、心苦の二字を悒に改めてシタオホホシモとするなど、文字を改める説が多いが、今採らない。これは文字通り心の中に愉悦を覺える意である。○蒐楯頃者《ウタテコノゴロ》――これは從來の説、殆ど解き得たものがない。ウタテを尋常でなく惡い、又は厭はしいなどの意とするのが、誤解のもとである。これはこの語の原義で、何となく進む意。即ち轉《ウタタ》といふに同じである。四五の句は轉々この頃は下快しといふので、卷十一の若月清不見雲隱見欲宇多手比日《ミカヅキノサヤニモミエズクモカクリミマクゾホシキウタテコノゴロ》(二四六四)の結句も、これと同意である。
〔評〕 序詞が優美でまことに心地がよい。これを受けて下心吉《シタゴコロヨシ》と言つたのは、巧なものである。
春相聞
目録には此所に更に相聞と題してゐる。
1890 春日野に 友鶯の 鳴き別れ 歸ります間も 思ほせ我を
春日野《カスガヌニ》 友※[(貝+貝)/鳥]《トモウグヒスノ》 鳴別《ナキワカレ》 眷益間《カヘリマスマモ》 思御吾《オモホセワレヲ》
春日野デ群レテヰル鶯ガ、鳴キツツ別レテ行ク〔ガ鳴〜傍線〕ヤウニ、私ドモ二人ガ〔六字傍線〕泣イテ別レテ、アナタガ御宅ヘ〔七字傍線〕歸ツテオイデニナル間モ、私ヲ忘レズニ〔四字傍線〕思ツテヰテ下サイ。
(194)○友※[(貝+貝)/鳥]《トモウグヒスノ》――舊本に犬※[(貝+貝)/鳥]とあり、イヌルウゲヒスとよんでゐるが、類聚古集に友※[(貝+貝)/鳥]とあるによるべきである。友※[(貝+貝)/鳥]は友千島などと同じく、群れゐる鶯である。この句までの二句は、群鶯の啼きつつ別れ行くやうに、自分が戀人と泣別することに譬へたのである。○眷益間《カヘリマスマモ》――眷はカヘリと訓む。カヘリミル意だからである。濱眷奴《ハマニカヘリヌ》(二九四)ともある。
〔評〕 初二句の譬喩がまことによく出來てゐる。女の言葉らしい敬語が下の句に用ゐられてゐる。
1891 冬ごもり 春咲く花を 手折り持ち 千度の限 戀ひわたるかも
冬隱《フユゴモリ》 春開花《ハルサクハナヲ》 手折以《タヲリモチ》 千遍限《チタビノカギリ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
(冬隱)春ニナツテ咲イタ花ヲ手折ツテ持ツテ、私ハコノ花ノヤウナ美シイ戀人ヲ連想シテ〔私ハ〜傍線〕、繰リ返シ繰リ返シ何度トナク戀シク思ツテヰルヨ。
○冬隱《フユゴモリ》――枕詞。春とつづく。一六參照。新考にここは枕詞ではないといつてゐる。○千遍限《チタビノカギリ》――千度のはてまでも。即ち千度に及ぶまでの意。
〔評〕 春開く花を手折つて歎くのは、その花に對して女を思つたのである。古義は「咲花を祈持て、或は女に見せたく思ひ、或は共に頭刺《カザ》したく思ひなどして、際しられず戀しく思ひて、月日を送る哉となり」とあるのはどうであらう。この歌、和歌童蒙抄にある。
1892 春山の 霧に惑へる 鶯も 我にまさりて 物思はめや
春山《ハルヤマノ》 霧惑在《キリニマドヘル》 ※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒスモ》 我益《ワレニマサリテ》 物念哉《モノオモハメヤ》
春ノ山ノ立チコメタ〔五字傍線〕霧ニ迷ツテ困ツテ鳴イテ〔六字傍線〕ヰル鶯デモ、私ヨリ以上ニ物ヲ思ツテハヰナイゾヨ。ホントニ私ハ戀ニ苦シンデ泣イテヰル〔ホン〜傍線〕。
○春山霧惑在《ハルヤマノキリニマドヘル》――春山の霧は霞である。古く霞と霧との別がなかつたことが、これによつて明らかにせられる。
(195)〔評〕戀に泣く我を、霞の中に鳴く鶯に比してゐる。春山霧惑在《ハルヤマノキリニマドヘル》は、實に適切巧妙な言葉である。朗詠集に出てゐる咽v霧山鶯啼猶少に似てゐるが、それよりも時代が古い。
1893 出でて見る 向ひの岡に 本繁く 咲きたる花の 成らずは止まじ
出見《イデテミル》 向崗《ムカヒノヲカニ》 本繁《モトシゲク》 開在花《サキタルハナノ》 不成不止《ナラズハヤマジ》
(出見向崗本繋開在花)成功シナイデハ、ワタシハコノ戀ハ〔八字傍線〕止メマイト思ツテヰル〔六字傍線〕。
○開在花《サキタルハナノ》――略解に花を桃の誤とし、サキタルモモノとよんでゐる。濱臣は更に、在は毛の誤でサキタルケモモであらうといひ、古義はそれによつてサケルケモモノとよんでゐるが、これらの説はこの歌を卷七の波之吉也思吾家乃毛桃本繁花耳開而不成在目八方《ハシキヤシワギヘノケモモモトシゲクハナノミサキテナラザラメヤモ》(一三五八)・卷十一の日本之室原乃毛桃本繁言大王物乎不成不止《ヤマトノムロフノケモモモトシゲクイヒテシモノヲナラズハヤマジ》(二八三四)などと結びつけて考へたもので、この歌はそれらと同一構想には違ひないが、このままで意が通ずるのであるから、花を桃に改める要は毫もない。この句までは序詞で、家から出て見る向ひの岡に、幹も繁つて開いてゐる花の意。花は實に成るから、不成《ナヲズハ》とつづけたのである。
〔評〕 上の四句の序詞は實景をその儘捕へたのであらう。かなはぬ戀になやむ人が、この戀遂げではと心に盟ふ時、向ひの岡に咲いてゐる花を見つめて、かく口吟んだのである。右にあげたやうに類型的であるが、力が籠つてゐる。
1894 霞立つ 春の永日を 戀ひ暮し 夜のふけ行きて 妹に逢へるかも
霞發《カスミタツ》 春永日《ハルノナガヒヲ》 戀暮《コヒクラシ》 夜深去《ヨノフケユキテ》 妹相鴨《イモニアヘルカモ》
霞ノ立ツ春ノ永イ日ヲ一日〔二字傍線〕戀ヒシク思ヒ通シテ、夜ガ更ケテカラ、ヤツト〔三字傍線〕女ニ逢フコトガ出來〔五字傍線〕タヨ。ホントニ嬉シイ〔七字傍線〕。
○春永日《ハルノナガヒヲ》――拾穗抄・略解などハルノナガキヒとよんでゐる、しかし舊訓にハルノナガヒヲとある方が歌として調子がよい。ここは人麿集出の歌で、文字數が尠いから、補つてよむ必要がある。卷十三に霞立春長日乎奧(196)香無《カスミタツハルノナガヒヲオクガナク》(三一五〇)とあるに對比して、ハルノナガヒヲがよいやうである。
〔評〕 霞の深い日は、心が欝欝として物思ひに堪へぬものである。初句は無意義に置いたものではない。夜更けるまで戀ひこがれて、漸く女に逢ふことが出來て、如何にも嬉しさうである。
1895 春されば 先づさき草の さきくあらば 後にも逢はむ な戀ひそ吾妹
春去《ハルサレバ》 先三枝《マヅサキクサノ》 幸命在《サキクアラバ》 後相《ノチニモアハム》 莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》
(春去先三枝)無事デサヘ居ルナラ、ワタシトオマヘトハ又〔ワタ〜傍線〕、後ニモ逢フコトガ出來ルダラウ。ダカラ〔三字傍線〕、ワタシノ愛スル女ヨ、サウ戀シク思フナヨ。
○先三枝《マヅサキクサノ》――三枝は古來諸説があつて決し難い。卷五の三枝之《サキクサ/》(九〇四)の條に委しく説明して、檜・山百合・沈丁花・三椏・蒼朮などの諸説をあげ、山百合説に賛成して置いたが、この歌によつて三枝が春咲くもとするならば、以上の諸説中、沈丁花と三椏とが當つてゐることになる。しかし沈丁花は支那原産で、漢名瑞香、一名睡香とも稱し、和名は無いやうであるから、これをサキクサとは認め難い。三椏も沈丁花に似たもので、春早く花をつけるが、これも支那原産で渡來年月は明らかでないが、近世とすれば徳川時代になつてのものであらう(白井光太郎氏、植物渡來考による)。なほ福壽草説もあるが論ずるに足らぬ。この句は春になれば先づ三枝が咲くといふのではなく、サキクと言はむ爲にサキクサを用ゐ、春サレバマヅをサキクサに冠せしめたに過ぎないのではあるまいか。宣長は先は花の一誤だといつてゐる。
〔評〕 春相聞に入れてあるが、初二句は序詞であるから、春の歌とは言れない。後會を契つて女を慰撫する歌である。
1896 春されば しだり柳の とををにも 妹が心に 乘りにけるかも
春去《ハルサレバ》 爲垂柳《シダリヤナギノ》 十緒《トヲヲニモ》 妹心《イモガココロニ》 乘在鴨《ノリニケルカモ》
(春去爲垂柳)タワタワト心ノウチ一杯ニ〔七字傍線〕、女ノコトガワタシノ〔四字傍線〕心ニ浮ンデヰルヨ。ワタシノ心ハ女ノコトバ(197)カリデ充チ滿チテヰル〔ワタ〜傍線〕。
○春去爲垂柳《ハルサレバシダリヤナギノ》――序詞。十緒《トヲヲ》につづいてゐる。古義にシゲルヤナギとよんだのはその意を得ない。○十緒《トヲヲニモ》――トヲヲはタワワに同じく、柳の枝の撓む意でつづいてゐる。この句は結句のノリにかかつて、一杯に、甚だしくなどの意に用ゐられてゐる。○妹心《イモガココロニ》――妹は吾が心にの意。
〔評〕 初二句の序詞は優美に出來てゐる。卷二|東人之荷向〓乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香問《アヅマヒトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》(一〇〇)と同型の作である。他に卷十一是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《ウヂカハノセゼノシクナミシクシクニイモガココロニノリニケルカモ》(二四二七)・大舟爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨《オホフネニアシニカリツミシミミニモイモガココロニノリニケルカモ》(二七四八)・驛路爾引舟渡直乘妹情乘來鴨《ウマヤヂニヒキフネワタシタダノリニイモガココロニノリニケルカモ》(二七四九)などもある。
右柿本朝臣人麿歌集出
恐らく右の下、七首の字が脱したのであらうと、略解に見えてゐる。
寄v鳥
1897 春されば 百舌鳥の草ぐき 見えずとも 我は見やらむ 君があたりをば
春之在者《ハルサレバ》 伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》 雖不所見《ミエズトモ》 吾者見將遣《ワレハミヤラム》 君之當婆《キミガアタリヲバ》
(春之在者伯勞鳥之草具吉)見エナイケレドモ、ワタシハアナタノ家ノ方ヲ眺メヨウト思フ〔三字傍線〕。
○伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》――伯勞鳥《モズ》は百舌鳥、鵙、※[鳥+決の旁]などとも記し、燕雀類の一種で、羽毛は茶褐色、嘴は大きく釣状に尖り、爪も鋭い。人のよく知る鳥である。草具吉《クサグキ》は草潜《クサクグリ》り、古事記に漏の字をクキとよんでゐる。伯勞鳥は秋の頃よく活動するが、春になれば人里近くに飛翔せぬ故、草に隱れるものとして、クサグキといふか。袖中抄に「もずの草ぐきとは、もずの草くぐりを云なり」、無名抄に「もずといふ鳥は郭公の沓手をとりてありけるがえ出さざりける時、時島の來たる程には、もずのはやにへといふことをして、生きたる虫若くは蛙などをと(198)りてさして、時鳥の爲にとて隱つるを、もずの草ぐきとぞいひける」とあり。散木集にも「垣根にはもずのはやにへ立ててけりしでのたをさをしのびかねつつ」と見え、百舌鳥が蛙・虫などを捕へて、木の枝に貫いて置くもずのはやにへといふものを、もずのくさぐきと混同するやうになつたのである。俳句にも鵙の草莖として詠まれてゐる。○君之當婆《キミガアタリヲバ》――當の下、元暦校本に乎の字があるのがよい。
〔評〕 初二句はミエズトモと言はむ爲の序詞であるが、實に珍奇な材料で、集中唯一の例である。これが平安朝中期後になつて、萬葉研究の起ると共に、歌人の間に注意を引くことになり、後にはもずのはやにへと混同して、俳句にもあらはれるやうになつた。後世に大影響を與へた作品である。
1898 容鳥の 間無くしば鳴く 春の野の 草根の繁き 戀もするかも
容鳥之《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》 春野之《ハルノヌノ》 草根乃繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》
(容鳥之間無數鳴春野之草根之)繁ク盛ナ〔二字傍線〕戀ヲワタシハ〔四字傍線〕スルワイ。
○容鳥之《カホドリノ》――容鳥は呼子鳥に同じで、カホはその鳴き聲らしい。三七二參照。○草根之繁《クサネノシゲキ》――この句の草根之までは繁《シゲキ》と言はむ爲の序詞である。
〔評〕 序詞に工夫を集めてた作品である。草根の繁きに戀の深さを示したのみならず、容鳥の間無くしば鳴くにも、作者の煩悶が織り出されてゐるやうに思はれる。蓋し卷三に容鳥能間無數鳴雲居奈須心射左欲比其鳥乃片戀耳爾《カホトリノマナクシバナククモヰナスココロイサヨヒソノトリノカタコヒノミニ》(三七二)とあるによれば、これは類想的のものらしい。
寄v花
1899 春されば 卯の花くたし 吾が越えし 妹が垣間は 荒にけるかも
春去者《ハルサラバ》 宇乃花具多思《ウノハナクタシ》 吾越之《ワガコエシ》 妹我垣間者《イモガカキマハ》 荒來鴨《アレニケルカモ》
曾テ〔二字傍線〕ワタシガ忍ビ忍ビニ〔五字傍線〕越エテ通ツタコトノアル女ノ家ノ垣根ハ、春ニナルト、雨ガツヅイテ〔六字傍線〕卯ノ花ヲ腐ラセ、(199)ヒドク〔三字傍線〕荒レ果テテシマツタヨ。
○字乃花具多思《ウノハナクタシ》――普通には卯の花腐しと解釋せられてゐる。卯の花腐しは梅雨に近く卯の花の咲く頃に降る雨と言はれてゐるが、それは中世以後のことで、ここは卯の花を腐しての意。卷十九に宇能花乎令腐霖雨之《ウノハナヲクタスナガメノ》(四二一七)ともある。卯の花は春にふさはしくないといふので、略解の説に宇の下、米が脱ちたのだらうとし、新訓は童蒙抄によつて、宇毎乃花《ウメノハナ》としてゐるが、みだりに脱字とも決し難く、ことに毎をメに用ゐた例はないから、從ひ難い。卯の花は春の花ではないが、初夏のものであるから、略解にあげた宣長説に「四月ごろまでも大やうに春といふぞ古意なる」とあるによつてもよいかと思ふ。但しこの句を卯の花を腐して吾が越えしと、下につづけてはよくない。ただ散らすことを腐《クタ》すとは言ふまいと思はれる。古義に「三四一二五と句を次第《ヅイデ》てきくべし」とあるのがよいであらう。
〔評〕 春の雨のつづいた頃、妹が垣根のほとりに佇んでよんだものか、材料も氣分も風變りな歌である。
1900 梅の花 咲き散る苑に 我行かむ 君が使を 片待ちがてり
梅花《ウメノハナ》 咲散苑爾《サキチルソノニ》 吾將去《ワレユカム》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 片待香花光《カタマチガテリ》
ワタクシハアナタカラノ使ヲ心カラ待チガテラ、梅ノ花ノ咲イテハ散ル花園ヘ行カウト思フ。
○片待香花光《カタマチガテリ》――カタマチは片寄りて待つ意。片心にて待つとする説はどうであらう。卷七に向舟片待香光《ムカヘブネカタマチガテリ》(一二〇〇)とあるが、それによると花の字は衍であらう。
〔評〕 この歌、卷十八に宇梅能波奈佐伎知流曾能爾和禮由可牟伎美我都可比乎可多麻知我底良《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミガツカヒヲカタマチガテラ》(四〇四一)として出で、田邊史福麿となつてゐるが、彼が古歌を誦したのであらう。
1901 藤浪の 咲ける春野に はふかづら 下よし戀ひば 久しくもあらむ
藤浪《フヂナミノ》 咲春野爾《サケルハルヌニ》 蔓葛《ハフカヅラ》 下夜之戀者《シタヨシコヒバ》 久雲在《ヒサシクモアラム》
(藤浪咲春野爾蔓葛)心ノ〔二字傍線〕下カラバカリヒトヲ〔二字傍線〕戀シテヰタナラバ、逢ヘルヤウニナルノハ〔逢ヘ〜傍線〕、久シイ後ノコト〔四字傍線〕デアラ(200)ウ。イツソ早ク表向キニ戀ヲシヨウカ知ラ〔イツ〜傍線〕。
○藤浪咲春野爾蔓葛《フヂナミノサケルハルヌニハフカヅラ》――序詞。下夜《シタヨ》と言はむ爲である。三句は舊訓ハフクズノとある。葛は集中クズともカヅラとも、亦姓としては葛井などフヂともよんである。ここはカヅラとよんで、藤浪の花咲く葛が下から生ひ上つてゐる意で、シタヨとつづくと見るべきであらう。クズとよんでは藤浪との連絡がなくなり、想の統一が缺けて來る。○下夜之戀者《シタヨシコヒバ》――シタヨは下より。心の内での意。シは強辭。○久雲在《ヒサシクモアラム》――宣長は久は乏の誤で、トモシクモアラムであらうといつてゐるが、改める要はない。
〔評〕 序詞が春の季になつてゐるといふのみで、他に春の相聞らしいところはない。
1902 春の野に 霞たなびき 咲く花の かくなるまでに 逢はぬ君かも
春野爾《ハルノヌニ》 霞棚引《カスミタナビキ》 咲花乃《サクハナノ》 如是成二手爾《カクナルマデニ》 不逢君可母《アハヌキミカモ》
春ノ野ニ霞ガ棚引イテ咲ク花ガ、コンナニ眞盛リニ〔四字傍線〕ナルマデモ、永イ間、ワタシハ〔七字傍線〕アナタニオ目ニカカリマセヌヨ。ホントニ辛ウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
○如是成二手爾《カクナルマデニ》――斯く眞盛りになるまでもの意。略解に「成は實になるを言ふ。上に咲たる花の不v成は不v止といふ成に同じ」とあり。古義もこれを認めてゐるが、代匠記に「此は霞のやうやう立初るより、花の盛りになるまで、久しく相見ぬよしなり」とあるのがよい。
〔評〕 まだ花のない頃から、久しく絶えてゐた人に、花の李になつても逢はれないのを悲しんだので、徒らに經過し去る時季に驚愕した感じがあらはれてゐる。茅子花咲有乎見者君不相眞毛久二成來鴨《ハギノハナサケルヲミレバキミニアハデマコトモヒサニナリニケルカモ》(二二八〇)に似てゐる。女の歌であらう。
1903 吾が背子に 吾が戀ふらくは 奥山の 馬醉木の花の 今盛なり
吾瀬子爾《ワガセコニ》 吾戀良久者《ワガコフラクハ》 奥山之《オクヤマノ》 馬醉花之《アシビノハナノ》 今盛有《イマサカリナリ》
ワタシノ夫ニワクシガ戀シテヰルコトハ、(奥山之馬醉花之)今丁度〔二字傍線〕眞盛デアリマス。今ハ實ニ熱烈ナ戀ヲシテ(201)ヰマス〔今ハ〜傍線〕。
○奥山之馬醉花之《オクヤマノアシビノハナノ》――これは譬喩と見るよりは、序詞とすべきであらう。
〔評〕 殊更に奥山といふ必要はないやうである。卷八の茅花拔淺茅之原乃都保須美禮今盛有吾戀苦波《ツバナヌクアサヂガハラノツボスミレイマサカリナリワガコフラクハ》(一四四九)と少し似てゐる。
1904 梅の花 しだり柳に 折りまじへ 花にそなへば 君に逢はむかも
梅花《ウメノハナ》 四垂柳爾《シダリヤナギニ》 折雜《ヲリマジヘ》 花爾供養者《ハナニソナヘバ》 君爾相可毛《キミニアハムカモ》
梅ノ花ヲ垂柳ニ折リ添ヘテ、佛様ニ〔三字傍線〕手向ケノ花トシタナラバ、佛様ノオ蔭デ〔六字傍線〕アナタニ逢ヘルデアラウカナア。私ハアナタニ逢ヒタクテモ逢ヘナイカラ、佛様ニ梅ト柳トヲ手向ケテ見ヨウ〔私ハ〜傍線〕。
○花爾供養者《ハナニソナヘバ》――供養の二字は全く佛教語である。舊訓ソナヘバとあるのを考にタムケバと改めてゐるが、花を供へるのは佛に對することで、タムケの語は神に用ゐるのが本義であるから、この集の頃は花を供へることをタムケとはいふまいと思はれる。又供養の字は、集中他に用例はないが、ソナヘと訓むべき文字のやうである。なほ略解に花を神の誤としてゐるが、神には花を捧げることはあるまいから、舊のままがよい。ハナニは花としての意。
〔評〕 珍らしくもこれは佛に花を供養して、願をかなへようとするのである、佛教が廣く民衆の間に浸潤した證と見ることが出來る。
1905 をみなへし 佐紀野に生ふる 白躑躅 知らぬこともち 言はれし吾が背
姫部思《ヲミナヘシ》 咲野爾生《サキヌニオフル》 白管自《シラツツジ》 不知事以《シラヌコトモチ》 所言之吾背《イハレシワガセ》
(姉部思咲野爾生白管自)知ラナイコトデ、私ハ人ニトヤカク〔八字傍線〕、言ハレマシタヨ、アナタ。ホントニ人ハ口ノ惡イモノデスネ〔ホン〜傍線〕。
(202)○姉部思咲野爾生白管自《オミナヘシサキヌニオフルシラツツジ》――不知といはむ爲の序詞。シラの音を繰返してゐる。オミナヘシはサキと言はむ爲の枕詞。咲野《サキヌ》は佐紀野。奈良の都の北方、佐紀山の麓の平地。白管自《シラツツジ》は白躑躅。○所言之吾背《イハレシワガセ》――言はれしよ、吾が背よの意。シの連體形になつてゐるのに、拘泥してはいけない。
〔評〕 白躑躅を序詞に用ゐたので、春相聞に入れてゐる。卷四の娘子部四咲澤二生流花勝見都毛不知戀裳摺可聞《オミナヘシサキサハニオフルハナガツミカツテモシラヌコヒモスルカモ》(六七五)と上句の序詞が似てゐる。
1906 梅の花 我は散らさじ あをによし 平城なる人の 來つつ見るがね
梅花《ウメノハナ》 吾者不令落《ワレハチラサジ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平城之人《ナラナルヒトノ》 來管見之根《キツツミルガネ》
(青丹吉)奈良ノ都ノ〔二字傍線〕人ガ來テ見ル爲ニ、ワタシハ梅ノ花ヲ散ラサズニ置カウ。
○平城之人《ナラナルヒトノ》――代匠記に之の下、里の脱としてナラノサトビトと訓み、略解に人の上、在の字脱か、又は之は在の誤であらうといつてゐる。ともかく、ここはナルとあるべきところである。このままでもさうよめないことはあるまい。○來管見之根《キツツミルガネ》――ガネは料に、爲に。
〔評〕 略解に「奈良人の我娘にすむべきよし有て、娘を梅にたとへて其人の來りすむまでは、他し人に逢はせじといふ意なるべし」とあるが、さうではなく、奈良なる人の許へ、梅の咲いたことを知らせて、來訪を待つ心を述べたのである。
1907 かくしあらば 何か植ゑけむ 山吹の 止む時もなく 戀ふらく念へば
如是有者《カクシアラバ》 何如殖兼《ナニカウヱケム》 山振乃《ヤマブキノ》 止時喪哭《ヤムトキモナク》 戀良苦念者《コフラクオモヘバ》
折角見セヨウト思ツテ山吹ヲ植ヱテ置イタノニ、花ハ咲イテモアノ人ハ尋ネテ來ナイ。カウシテ〔折角〜傍線〕止ム時モナク、私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕戀シガツテ居ルコトヲ考ヘルト、コンナコトナラ、何故私ハ山吹ヲ植ヱタノダラウト思フ〔三字傍線〕。
○山振乃《ヤマブキノ》――同音を繰返して下の止《ヤム》につづいてゐるが、山吹を庭に植ゑてその山吹を眺めつつ言つてゐるので(203)あるる。
〔評〕 山吹の花を眺めながら戀人を偲ぶ歌である。山吹が一首の中心となつて巧に取扱はれてゐる。男の歌であらう。卷十九に妹爾似草等見之欲里吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《イモニニルクサトミシヨリワガシメシヌベノヤマブキタレカタヲリシ》(四一九七)ともある。
寄v霜
1908 春されば 水草の上に 置く霜の 消つつも我は 戀ひわたるかも
春去者《ハルサレバ》 水草之上爾《ミクサノウヘニ》 置霜之《オクシモノ》 消乍毛我者《ケツツモワレハ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
(春去者水草之上爾置霜之)心モ〔二字傍線〕消エルヤウニ、私ハ戀シツツ、日ヲ〔二字傍線〕送ツテヰルヨ。
○春去者水草之上爾置霜之《ハルサレバミクサノウヘニオクシモノ》――消《ケ》と言はむ爲の序詞。春になると水草の上に置く霜がの意。水草は代匠記初稿本に「水草と書たれども眞草なり、唯春の草なり」とあり、略解も同説であるが、古義は「水草は字の如く水に生たる草なり」とある。集中の用例を見ると、卷三に池之瀲爾水草生家里《イケノナギサニミクサオヒニケリ》(三七八)、この卷に秋就者水草花乃阿要奴蟹《アキツケバミクサノハナノアエヌガニ》(二二七二)などがある。これを卷一の金野乃美草苅茸屋杼禮里之《アキノヌノミクサカリフキヤドレリシ》(七)によつて、美草即ち尾花とも解し得るが、文字通り水草とするのがよいのではあるまいか。翌年まで枯れ殘つた水草であらう。
〔評〕卷八の秋付者尾花我上爾置露乃應消毛吾者所念香聞《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノケヌベクモアハオモホユルカモ》(一五六四)、この卷の秋田之穗上爾置白露之可消吾者所念鴨《アキノタノホノヘニオケルシラツユノケヌベクワレハオモホユルカモ》(二二四六)と同型の歌である。
寄v霞
1909 春霞 山にたなびき おほほしく 妹を相見て 後戀ひむかも
春霞《ハルガスミ》 山棚引《ヤマニタナビキ》 欝《オホホシク》 妹乎相見《イモヲアヒミテ》 後戀毳《ノチコヒムカモ》
(春霞山棚引)ボンヤリト戀シイ〔三字傍線〕女ヲ見タバカリ〔四字傍線〕デ、後ニナツテサゾ見タク思フデアラウヨ。
(204)○春霞山棚引《ハルガスミヤマニタナビキ》――オホホシクと言はむ爲の序詞。霞のたなびいた山が、朧に見えるのにかけたのである。古義に春山霞棚引《ハルヤマニカスミタナビキ》の誤としてゐるが、もとのままでよい。○欝《オホホシク》――霞める山の不明瞭な意で上につづき、下には女をおぼろげに見た意でつづいてゐる。
〔評〕 上品なよい歌である。初二句は女とのあかぬ別に、霞める山を眺めて序としたものか。
1910 春霞 立ちにし日より 今日までに 吾が戀やまず もとのしげけば 一云、片念にして
春霞《ハルガスミ》 立爾之日從《タチニシヒヨリ》 至今日《ケフマデニ》 吾戀不止《ワガコヒヤマズ》 本之繁家波《モトノシゲケバ 一云、片念爾指天《カタモヒニシテ》
ワタシハ戀ノ心〔七字傍線〕ノ本ガ繋クアルノデ、春霞ノ立ツタ日カラ今日マデノ間、ワタシノ戀フル心ハ一日モ〔三字傍線〕ヤマナイ。
○本之繁家波《モトノシゲケバ》――少し無理な言葉である。略解に「本は木の本也。木の繁きを戀の繁きにたとふるか。しげけばは、ければの禮を略きたる也」とあるに從ふよりほかはあるまい。○一云、片念爾指天《カタモヒニシテ》――第五句の異傳である。この方がよい。
〔評〕 霞に寄する意が薄い。第五句の異傳を記したものは本來旋頭歌であるのを、誤り傳へたのもあるが、これはさうではない。
1911 さにづらふ 妹をおもふと 霞立つ 春日もくれに 戀ひわたるかも
左丹頬經《サニヅラフ》 妹乎念登《イモヲオモフト》 霞立《カスミタツ》 春日毛晩爾《ハルビモクレニ》 戀度可母《コヒワタルカモ》
顔ノ色ガ紅イ美シイ〔三字傍線〕女ヲ思フトテ、霞ノ立ツテヰル長閑〔二字傍線〕ナ春ノ日モ、心ガ〔二字傍線〕暗ク沈ンデ戀ヒツヅケテヰルヨ。
○左丹頬經《サニヅラフ》――サは接頭語。ニヅラフは顔の紅く美しいこと。妹の枕詞とするのは當らない。○春日毛晩爾《ハルビモクレニ》――春の日も心が暗く沈んでの意。新考に春日能晩爾《ハルヒノクレニ》の誤とあるのは從ひ難い。
〔評〕 平明な作である。霞立春日毛挽爾《カスミタツハルヒモクレニ》の句があはれである。この歌、袖中抄に出てゐる。
1912 たまきはる 吾が山の上に 立つ霞 立つともうとも 君がまにまに
(205)靈寸春《タマキハル》 吾山之於爾《ワガヤマノヘニ》 立霞《タツカスミ》 雖立雖座《タツトモウトモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
(靈寸春吾山之於爾立霞)立ツモ坐ルモ、アナタノ御隨意ニワタシハナリマス〔九字傍線〕。
○靈寸春吾山之於爾立霞《タマキハルワガヤマノヘニタツカスミ》――立つと言はむ爲の序詞。靈寸春《タマキハル》は枕詞、吾とつづいてゐる。この枕詞は命にかぎりあるの意で、命・息《イキ》などにつづくから、これは命限りある吾といふ意か。なほ考ふべきである。吾山之於爾《ワガヤマノヘニ》は吾が住む山の上にの意であらう。宣長は吾を春の誤だらうといつてゐる。○雖立雖座《タツトモウトモ》――座をウとよんだのは略解の訓に從つたのだ。崇神紀に急居 此云菟岐于 とあつて、居は古くウと言つたのである。舊訓タチテモヰトモ、代匠記初稿本タテレドヲレド、同精撰本タツトモヰトモとある。
〔評〕 心も身も任せ切つた態度で、女の歌であらう。
1913 見渡せば 春日の野邊に 立つ霞 見まくの欲しき 君がすがたか
見渡者《ミワタセバ》 春日之野邊《カスガノヌベニ》 立霞《タツカスミ》 見卷之欲《ミマクノホシキ》 君之容儀香《キミガスガタカ》
見渡スト春日ノ野ノアタリニ霞ガ〔二字傍線〕立ツテヰルガ、アノ〔六字傍線〕霞ノ立ツタ佳イ景色ヲ見タイヤウニ、ワタシハ〔ノ立〜傍線〕アナタノ姿ヲ見タイト思ヒマスヨ。
○君之容儀香《キミガスガタカ》――君が姿かなの意。
〔評〕 上句は都から見る春日野に霞の立つた景の、見飽かぬ美しさに女を譬へたもので、序詞ではない。これは都人の歌である。女の作であらう。
1914 戀ひつつも 今日は暮らしつ 霞立つ 明日の春日を 如何にくらさむ
戀乍毛《コヒツツモ》 今日者暮都《ケフハクラシツ》 霞立《カスミタツ》 明日之春日乎《アスノハルビヲ》 如何將晩《イカニクラサム》
戀人ヲ〔三字傍線〕戀シク思ヒナガラモ、ヤツト〔三字傍線〕今日ダケハ日ヲ〔二字傍線〕暮シタ。霞ノ立チコメル明日ノ春ノ永〔二字傍線〕日ヲ、サテ〔二字傍線〕何トシテ暮ラシタモノダラウ。サテサテツライコトダ〔十字傍線〕。
(206)〔評〕 霞の立ちこめた、唯さへ人をして物思はしめるやうな長い春日に、煩悶を抱いて悔みぬいてゐる人の、やるせなさ、欝陶しさが歌全體にあふれてゐる。よい作だ。
寄v雨
1915 吾が背子に 戀ひてすべなみ 春雨の ふる別知らに 出でて來しかも
吾背子爾《ワガセコニ》 戀而爲便莫《コヒテスベナミ》 春雨之《ハルサメノ》 零別不知《フルワキシラニ》 出而來可聞《イデテコシカモ》
ワタシハ〔四字傍線〕アノオ方ガ戀シクテ何トモ仕樣ナクテ、春雨ガ降ツテヰルカ居ラヌカモ知ラズニ家ヲ出カケテ來タヨ。氣ガツイテ見レバ雨ガ降ツテヰル。困ツタモノダ〔氣ガ〜傍線〕。
○吾背子爾《ワガセコニ》――略解に「背は妹の字の誤れるならむ。わぎもこにと有べし」とあるが、原形を尊重すべきである。○零別不知《フルワキシラニ》――降つてゐるか降つてゐないかを辨別せずに。即ち降つてゐることを知らずに。
〔評〕 雨をも辨へずに出て來るとは、女の動作としては、烈しすぎるほどであるが、降るともわからぬ春雨であるから、尤もとうなづかれないことはない。強い感情があらはれてゐる。
1916 今更に 君はいゆかじ 春雨の こころを人の 知らざらなくに
今更《イマサラニ》 君者伊不往《キミハイユカジ》 春雨之《ハルサメノ》 情乎人之《ココロヲヒトノ》 不知有名國《シラザラナクニ》
今更アナタハココヲ出テ〔五字傍線〕行カレマスマイ。アナタヲ止メヨウトシテ降ル〔アナ〜傍線〕春雨ノ心ヲアナタハ、御存ジナイノデハナイノデスカラ。コノ雨ニオ出カケトハアマリ無情デス〔コノ〜傍線〕。
○君者伊不往《キミハイユカジ》――君を吾の誤と宣長が言つたのに從ふのはよくない。もとのままで意は明瞭である。○春雨之情乎人之《ハルサメノココロヲヒトノ》――春雨の心は、君をやらじと降る春雨の心である。ヒトは上のキミと同じ。略解に「春雨の降わきをも知らず出では來つれども、今より又いかに甚くふるべきも知られねば、これより歸るべし。今更ゆかじと也」(207)とあるのはいみじき誤解であらう。○不知有名國《シラザラナクニ》――知らずあらなくにの約であるから、知らぬのではない。知つてゐるの意。略解に「知らざらなくには知らざるに也」とあるのは反對である。
〔評〕 この歌を前の歌のつづきとして解く説が多いが、さうではない。全く別箇の歌として見なければならぬ。女らしい愛慕の情が、内容にも調子にもあらはれてゐる。
1917 春雨に 衣はいたく 通らめや 七日しふらば 七夜來じとや
春雨爾《ハルサメニ》 衣甚《コロモハイタク》 將通哉《トホラメヤ》 七日四零者《ナヌカシフラバ》 七夜不來哉《ナナヨコジトヤ》
アナタハ雨ガ降ルカラ來ラレナイトオッシヤルガ、タカノ知レタ〔アナ〜傍線〕春雨ニイクラ濡レタトテ〔八字傍線〕、着物ガヒドク通ルホド濡レル〔五字傍線〕モノデハアリマセヌ。雨ガ降ルカラ來ナイノナラ〔雨ガ〜傍線〕、七日續イテ〔三字傍線〕降ツタラ、七日ノ間來ナイトイフオ考〔五字傍線〕デスカ。ソレハアンマリ薄情デセウ〔ソレ〜傍線〕。○七日四零者七夜不來哉《ナヌカシフラバナナヨコジトヤ》――七日七夜は數の多いことを言つてゐる。卷四の吾戀者千引乃石乎七許《ワガコヒハチビキノイシヲナナバカリ》(七四三)・戀草呼力車二七車《コヒクサヲチカラクルマニナナクルマ》(六九四)・卷十一の妹所云七日越來《イモガリトイヘバナヌカコエコム》(二四三五)などその他例が多い。
〔評〕 これを前の歌と同時と見る説はわるい。これは男の來ぬのを憤つた歌である。四五の句に胸を焦す閨怨の情が見えてゐる。
1918 梅の花 散らす春雨 いたくふる 旅にや君が いほりせるらむ
梅花《ウメノハナ》 令散春雨《チラスハルサメ》 多零《イタクフル》 客爾也君之《タビニヤキミガ》 廬入西留良武《イホリセルラム》
梅ノ花ヲ散ラス春雨ガ頻リニ降ツテヰル。コンナ淋シイ陰氣ナ日ニ〔コン〜傍線〕、旅デワタシノ夫ハ小屋ガケシテ宿ツテヰルデアラウカ。嘸辛イダラウ〔六字傍線〕。
○多零《イタクフル》――舊訓サハニフルとあるのを、童蒙抄にイタクフルと改めてゐる。雨にはイタクと訓むのが最もふさはしい。多をイタクとよむのは變則であらうが、言多毛《コチタクモ》(二三二二)とあるから、よめないこともないわけである。
(208)〔評〕 女らしい感情が、優美に織り出されたよい作である。三句切になつてゐるのは比較的めづらしい。
寄v草
1919 國栖らが 春菜つむらむ 司馬の野の しましま君を 思ふこの頃
國栖等之《クニスラガ》 春菜將採《ワカナツムラム》 司馬乃野之《シマノヌノ》 數君麻《シマシマキミヲ》 思比日《オモフコノコロ》
(國柄等之春菜將採司馬乃野之)頻リニアナタノコトヲ、コノ頃ハ思ツテヰマス。
○國栖等之春菜將採司馬乃野之《クニスラガワカナツムラムシマノヌノ》――序詞。シマの音を繰返して下につづいてゐる。國栖等《クニスラ》は吉野國※[木+巣]人をさすか。今も吉野郡中、宮瀧の上流に國※[木+巣]村がある。これを略解にクズラガ又はクズドモガとよんでゐるが、古事記傳十八に言つてゐるやうに、クズは後世の音便であらうから、文字通りクニスとよむべきである。春菜はハルナとよむ説も多いが、ワカナとよむ説に從ふ。卷八の春菜採《ワカナツム》(一四二一)參照。司馬乃野《シマノヌ》は舊訓シバノノとあるが馬をバとよむのは漢音であるから避けるがよい。集中マの假名に多く用ゐられてゐるし、下へのつづきもその方がよいから、シマノヌとよみたい。吉野の地名であらうが、今はわからない。古義には島之野の意であらうとしてゐる。
〔評〕 異人種としてあつかはれてゐた、國栖人の住んでゐる地方の、司馬の野をとつて序詞としたのは、まことに珍らしい。かの肥人《ヒビト》(二四九六)・早人《ハヤヒト》(二四九七)の歌などと共に、當時に於ける異人趣味といふべきものを、ねらつた作である。
1920 春草の 繁き吾が戀 大海の へにゆく浪の ちへに積りぬ
春草之《ハルクサノ》 繁吾戀《シゲキワガコヒ》 大海《オホウミノ》 方往浪之《ヘニユクナミノ》 千重積《チヘニツモリヌ》
(春草之)繁ク思ヒ焦レル〔五字傍線〕私ノ戀ハ、(大海方往浪之)幾重ニモ幾重ニモ積ツタ。
○春草之《ハルクサノ》――枕詞。繁くとつづく意は明らかである。○大海方往浪之《オホウミノヘニユクナミノ》――千重と言はむ爲の序詞。大海の岸に(209)寄り來る浪の如くの意。方《ヘ》は邊に同じ。考に往を依の誤としてヨルナミノと訓み、略解・古義・新考などそれによつてゐるが、もとのままでよい。
〔評〕 枕詞式に春草を用ゐたのみで、春の戀らしい趣は見えない。枕詞や序詞が巧に用ゐられてゐるといふまでである。
1921 おほほしく 君を相見て 菅の根の 長き春日を 戀ひわたるかも
不明《オホホシク》 公乎相見而《キミヲアヒミテ》 菅根乃《スガノネノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 孤悲渡鴨《コヒワタルキアモ》
カスカニアナタニオ目ニカカツテ、(菅根乃)長イ春ノ日、毎日毎日、アナタヲ〔八字傍線〕思ヒツヅケテヰマス。トツクリト心ノ晴レルホド、十分ニオ目ニカカレタラ、サゾヨカラウニ〔トツ〜傍線〕。
○菅根乃《スガノネノ》――枕詞、長とつづく。○孤悲渡鴨《コヒワタルカモ》――悲の字、舊本、戀に作るは誤。元暦校本による。
〔評〕 はつきりした素直な歌といふまでである。草に寄せる意は薄い。
寄v松
1922 梅の花 咲きて散りなば 吾妹子を 來むか來じかと 吾が松の木ぞ
梅花《ウメノハナ》 咲而落去者《サキテチリナバ》 吾妹乎《ワギモコヲ》 將來香不來香跡《コムカコジカト》 吾待乃木曾《ワガマツノキゾ》
梅ノ花ガ咲イテヰル間ハ、アナタモ來ルカモ知レナイト思フガ、ソレモ〔ヰル〜傍線〕散ツテシマツタナラバ、何モ見ルベキ花モナイカラ〔何モ〜傍線〕、アナタモ來ルダラウカ來ナイダラウカ、ト思ツテ〔三字傍線〕、ワタシハ待ツテヰルヨ。
○吾待乃木曾《ワガマツノキゾ》――上に梅を出したので、下に松の木を出して待つにかけたのである。松の木には意味はない。古義に「梅花の散失たらば、其跡は松木のみにて見に來べき物もなければ云々」とあるのは考へ過ぎであらうが、新考に、これを松の枝につけて贈つた歌としたのにも從ひ難い。
(210)〔評〕待を松にかけた歌は吾松椿不吹有勿勤《ワガマツツバキフカザルナユメ》(七三)など他にも多いが、ここの用法は調子が輕く、俚謠の氣分になつてゐる。
寄v雲
1923 白眞弓 いま春山に 行く雲の 行きや別れむ 戀しきものを
白檀弓《シラマユミ》 今春山爾《イマハルヤマニ》 去雲之《ユククモノ》 逝哉將別《ユキヤワカレム》 戀敷物乎《コヒシキモノヲ》
(白檀弓今春山爾去雲之)ワタシハコレカラアナタト〔ワタ〜傍線〕別レテ他所ヘ〔三字傍線〕行クコトデアラウカ。コンナニ〔四字傍線〕戀シイノニ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
○白檀弓今春山爾去雲之《シラマユミイマハルヤマニユククモノ》――ユクの音を繰返して逝《ユキ》につづけた序詞。白檀弓《シラマユミ》は春にかかる枕詞であらう。張《ハル》の意にかけてゐるのである。射たかけて、今につづけたとも考へられるが、さうではないやうである。
〔評〕 雲に寄せた春の戀の歌としては、まことにおだやかに上品に、しかも感情があらはれてゐる。青青とした春の山に棚引く雲を眺めつつ、別離の涙をしぼる情景がしのばれる。よい歌だ。
贈v※[草冠/縵]
1924 ますらをが 伏しゐ嘆きて 造りたる しだり柳の かづらせ吾妹
大夫之《マスラヲガ》 伏居嘆而《フシヰナゲキテ》 造有《ツクリタル》 四垂柳之《シダリヤナギノ》 蘰爲吾妹《カヅラセワギモ》
コレハ〔三字傍線〕益荒男ノ私〔二字傍線〕ガ、女々シクモ貴女ヲ思ツテ〔女々〜傍線〕伏シテハ嘆キ、坐ツテハ嘆キシテ拵ラヘタ四垂柳ノ※[草冠/縵]デスゾ。ドウゾコレ〔八字傍線〕ヲ頭ノ飾ト〔四字傍線〕シテ※[草冠/縵]ニシテ下サイ吾ガ妻ヨ。
○伏居嘆而《フシヰナゲキテ》――略解に「柳のかづら造りたるいたづきを強く言ふか、又は伏を夜とし、居るを晝として、夜晝(211)妹を思ひなげくと言ふ歟」とあるのは惡い。これは身を悶えて歎くことである。
〔評〕女に贈る爲に作つたしだれ柳の※[草冠/縵]に添へたのである。第二句の伏居嘆而《フシヰナゲキテ》が戀に悶える男の樣をよくあらはしてゐる。
悲v別
1925 朝戸出の 君がすがたを よく見ずて 長き春日を 戀ひや暮らさむ
朝戸出之《アサトデノ》 君之儀乎《キミガスガタヲ》 曲不見而《ヨクミズテ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 戀八九良三《コヒヤクラサム》
今朝此處カ別レテ〔七字傍線〕オイデニナツタ夫ノ姿ヲ、明ケ方ノ暗サニ〔七字傍線〕ヨクモ見ナイノデ、今日ハ〔三字傍線〕長イ春ノ日終日アノオ方ヲ〔七字傍線〕戀シク思ヒツツ暮スデアラウカ。オ立チニナル時ノ御姿ヲヨク見レバ是程戀シクモナカラウノニ〔オ立〜傍線〕。
○朝戸出之《アサトデノ》――女の許から朝別れて歸り行くこと。○曲不見而《ヨクミズテ》――曲は委曲の意で、ヨクと訓むのである。
〔評〕 前の不明《オホホシク》(一九二一)の歌とかなり似てゐる。この方が逢後戀の心が明瞭に出て居る。
問答
1926 春山の 馬醉木の花の にくからぬ 君にはしゑや よそるともよし
春山之《ハルヤマノ》 馬醉花之《アシビノハナノ》 不惡《ニクカラヌ》 公爾波思惠也《キミニハシヱヤ》 所因友好《ヨソルトモヨシ》
(春山之馬醉花之)モトヨリ〔四字傍線〕愛スルアナタノコトダカラ〔九字傍線〕、アナタニハ、エエワタシハ〔四字傍線〕心ヲ寄セテ從ツテモヨイ。
○春山之馬醉花之《ハルヤマノアシビノハナノ》――ニクカラヌと言はむ爲の序詞。○不惡《ニクカラヌ》――改訓抄にアシカラヌとあり、この説を可とする學者も多いが、卷八の山毛世爾咲有馬醉木乃不惡君乎何時往而早將見《ヤマモセニサケルアシビノニクカラヌキミヲイツシカユキテハヤミム》(一四二八)のところに述べたやうに、ここはニクカラヌと訓むべきであらう。○公爾波思惠也《キミニハシヱヤ》――シヱヤは歎息の辭。卷四の四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》(六五九)參照。(212)○所因友好《ヨソルトモヨシ》――舊訓ヨリヌトモヨシ、考はヨスルトモヨシ、略解はヨセヌトモヨシとあり、略解説が多く行はれてゐるが、ここは新訓にヨソルトモヨシとよんだのに從ふ。ヨソルは寄り從ふこと、卷十四に安乎禰呂爾伊佐欲布久母能余曾里都麻波母《アヲネロノイサヨフクモノヨソリヅマハモ》(三五一二)とある。
〔評〕 下句の捨鉢的な口吻がおもしろい。女の歌である。
1927 石上 布留の神杉 神びにし 我やさらさら 戀に逢ひにける
石上《イソノカミ》 振乃神杉《フルノカミスギ》 神備西《カミビニシ》 吾八更更《ワレヤサラサラ》 戀爾相爾家留《コヒニアヒニケル》
(石上振乃神杉)年ヲ取ツタ私ハ、今更戀ニ出逢ツテ、戀ノ爲ニ捕ハレテ、苦シム〔戀ノ〜傍線〕コトニナツタ。モウ老人ニナツテハ戀スルコトモアルマイト思ツタノニ、不思議ナモノダ〔ニナ〜傍線〕。
○石上振乃神杉《イソノカミフルノカミスギ》――石上の布留の社の神杉は、神神しいものとして、古來有名であつた。これを神備《カミビ》の序詞としてゐる。寫眞は著者撮影。○神備西《カミビニシ》――舊本、西を而に作り、カミビテモとよんでゐるのを(213)契沖は神の下左の字脱としてカミサビテとしてゐる。しかし元暦校本に西に作つてゐるに從へば、無理なく訓むことが出來る。カミビは神々しく古びたこと。ここは年老いたこと。卷十七に許太知之氣思物伊久神備曾《コダチシゲシモイクヨカミビソ》(四〇二六)ともある。○吾八更更――ヤは歎辭で、ヨに同じ。サラサラは更にまた。
〔評〕 老後戀である。下句に我ながら意外とする感があらはれてゐる。卷十一の石上振神杉神成戀我更爲鴨《イソノカミフルノカミスギカムサビシコヒヲモワレハサラニスルカモ》(二四一七)と同歌の異傳かもれれない。右の二首は問答になつてゐるわけだが、氣分があまりしつくり合つてゐないやうである。しかしその理由で、これを問答の歌でないとするのはいけない。
右一首不v有(ラ)2春歌(ニ)1而猶以(テ)2和(ノ)故(ヲ)1載(ス)2於茲(ノ)次(ニ)1、
不有春歌とあるのは變な漢文である。神田本に有の字が無いのが原形か。略解に「此註心得がたし。後人の書入也」とあるが、果してかく斷定すべきや否や、疑はしい。
1928 狹野方は 實に成らずとも 花のみに 咲きて見えこそ 戀のなぐさに
狹野方波《サヌカタハ》 實爾雖不成《ミニナラズトモ》 花耳《ハナノミニ》 開而所見社《サキテミエコソ》 戀之名草爾《コヒノナグサニ》
狹野方ノ梅ヤ桃ハ〔四字傍線〕ハ實ニハナラナイデモ、戀ノ慰ニ、セメテ〔三字傍線〕花バカリデモ咲イテ見セテクレヨ。タトヒ眞實ノ戀ハ成就シナイデモ、私ノ戀ノ慰ニ表面ダケデモ親切ラシク見セテクレヨ〔タト〜傍線〕。
○狹野方波《サヌカタハ》――狹野方はこの下に、沙額田乃野邊乃秋芽子《サヌカタノヌヘノアキハギ》(二一〇六)とある。又卷十三に師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅《シナタツツクマサヌカタオキナガノヲチノコスゲ》(三三二三)とあるのと同所とすれば、近江の坂田郡にあるわけであるが、今その所在が明らかでない。或はサは接頭語で額田《ヌカタ》か。然らば大和生駒郡の東南隅にある。ともかく今これを、いづくとも判斷し難い。○實雖不成《ミニナラズトモ》――狹野方を地名とすれば、そこに春咲く梅・桃などの實をさしたのであらう。
〔評〕 遂げ得ぬ戀に倦んじ果てて、せめて表面だけでも、親切らしくしてくれと頼む心はあはれである。諷喩がよく出來てゐる。
(214)1929 狹野方は 實になりにしを 今更に 春雨ふりて 花咲かめやも
狹野方波《サヌカタハ》 實爾成西乎《ミニナリニシヲ》 今更《イマサラニ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 花將咲八方《ハナサカメヤモ》
狭野方ノ野〔二字傍線〕ハ、モウ已ニ實ニナツテシマツタノニ、今更春雨ガ降ツテモ花ガ咲クモノデスカ。アナタハセメテ表面ダケデモ親切ラシクセヨトオツシヤルガ、二人ノ間ハ已ニ眞實ノ關係ニナツタノニ、今更春雨ガ降ツテ咲ク花ノヤウニ、目サキバカリノコトヲスルモノデスカ〔アナ〜傍線〕。
〔評〕 問の歌の語を多く採つて、同じく諷喩で答へてゐる。第三者には少しわかりかねるやうな點がないでもない。
1930 梓弓 引津のべなる なのりその 花咲くまでに 逢はぬ君かも
梓弓《アヅサユミ》 引津邊有《ヒキツノベナル》 莫告藻之《ナノリソノ》 花咲及二《ハナサクマデニ》 不會君毳《アハヌキミカモ》
(梓弓)引津ノ海岸ニ生エテヰル莫告藻ガ、今咲イテヰルガ、アノ〔今咲〜傍線〕花ガ咲クマデモ永イ間〔三字傍線〕アノ人ハ私ニ逢ツテクレナイナア。モ久シクナルノニ、ドウシテアノ人ハ逢ツテクレナイノダラウ。ツレナイ人ダ〔モウ〜傍線〕。
〔評〕 卷七の旋頭歌、梓弓引津邊在莫謂花及採不相有目八方勿謂花《アヅサユミヒキツノベナルナノリソノハナツムマデニアハザラメヤモナノリソノハナ》(一二七九)とよく似てゐるが、意味は少し違つてゐる。
1931 川上の いつ藻の花の いつもいつも 來ませ吾が背子 時じけめやも
川上之《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時何時《イツモイツモ》 來座吾背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》
(川上之伊都藻之花之)何時デモ何時デモ、オイデナサイヨ、アナタ。來テ惡イトイフ時ハアリマセヌヨ。久シク逢ハヌナドトオツシヤルガ、アナタガオイデナサラヌカラデス〔久シ〜傍線〕。
〔評〕 これは卷四(四九一)に吹黄刀自歌として出てゐるのと全く同歌である。古歌を答歌に用ゐたものか.或は吹黄刀自が古歌を口吟んだのか、今、知り難い。
1932 春雨の 止まずふるふる 吾が戀ふる 人の目すらを 相見せなくに
(215)春雨之《ハルサメノ》 不止零零《ヤマズフルフル》 吾戀《ワガコフル》 人之目尚矣《ヒトノメスラヲ》 不令相見《アヒミセナクニ》
春雨ガ絶エズ降ツテ降ツテ、外出ガシニクイノデ〔九字傍線〕、私ノ戀シイ人ニオ目ニモカカレナイノデセウ。ホントニニクイ雨デス〔ホン〜傍線〕。
○不止零零《ヤマズフルフル》――ヤマズフルフル、ヤマズフリツツなどの訓もあるが、舊訓のままが却つてよいやうである。止ます頻りに降ってゐる。○不令相見《アヒミセナクニ》――舊訓アヒミセザラムを古訓に改めたのによる。新考にアヒミシメナクとあるのも、よいかも知れない。
〔評〕 雨を怨んだ歌である.女から男へ贈つたもの。
1933 吾妹子に 戀ひつつをれば 春雨の かれも知る如 止まずふりつつ
吾妹子爾《ワギモコニ》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》 春雨之《ハルサメノ》 彼毛知如《カレモシルゴト》 不止零乍《ヤマズフリツツ》
ワタシハ〔四字傍線〕アナタヲ戀シク思ツテ涙ヲ流シテ〔五字傍線〕ヰルト、春雨ガ、アレモ私ノ心ヲ〔四字傍線〕知ルヤウニ、涙ノ雨ノ如ク〔六字傍線〕絶エズ降ツテヰル。
○彼毛知如《カレモシルゴト》――新考ソレモシルゴト、新訓ソモシルゴトクとあるが、彼は誰彼我莫問《タソカレトワレヲナトヒソ》(二二四〇)にならつて、カレとよむのがよい。カレは春雨をさしてゐる。
〔評〕 これは前の歌と異なつて、春雨が吾に同情するやうに見たのである。あはれな歌だ。
1934 相念はぬ 妹をやもとな 菅の根の 長き春日を 思ひくらさむ
相不念《アヒオモハヌ》 妹哉本名《イモヲヤモトナ》 菅根乃《スガノネノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 念晩牟《オモヒクラサム》
コチラバカリ思ツテ居ツテ〔コチ〜傍線〕、先方デハコチラヲ思フノデモナイ女ダノニ、何ノ甲斐モナク、(菅根之)長イ春ノ日ヲ思ヒ暮スコトデアラウカ。ホントニツマラヌ片思ダ〔ホン〜傍線〕。
(216)○妹哉本名《イモヲヤモトナ》――妹なるを徒らにの意。
〔評〕 卷四の不相念人乎也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳《アヒオモハヌヒトヲヤモトナシロタヘノソデヒヅマデニネノミシナカモ》(六一四)とかなり似てゐる。また下の相念不《アヒオモハズ》(一九三六)の歌もよく似てゐる。これは前の歌の答とは見えない。この歌、袖中抄にのせてある。
1935 春されば 先づ鳴く鳥の 鶯の 言先立ちし 君をし待たむ
春去者《ハルサレバ》 先鳴鳥乃《マヅナクトリノ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 事先立之《コトサキダチシ》 君乎之將待《キミヲシマタム》
(春去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之)先ニ言ヒ出レタアナタカラ、何トカシテ下サルダラウト思ツテ〔カラ〜傍線〕、待ツテ居リマセウ。私ガ冷淡ナノデハアリマセヌ〔私ガ〜傍線〕。
○ハル去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之《ハルサレバマヅナクトリノウグヒスノ》――序詞で事先立之《コトサキダチシ》に冠してゐる。鶯は春になると、第一に鳴く鳥であるからかく言つたのだ。○事先立之《コトサキダチシ》――言葉を先に言ひ出したの意、舊訓はコトサキタテシとあり、古義もこれに從つてゐるが、今は略解による。
〔評〕 卷四の事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手《コトデシハタガコトナルカヲヤマダノナハシロミヅノナカヨドニシテ》(七七六)と意は同じである。女の歌であらう。
1936 相念はず あるらむ兒ゆゑ 玉の緒の 長き春日を おもひ暮さく
相不念《アヒオモハズ》 將有兒故《アルラムコユヱ》 玉緒《タマノヲノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 念晩久《オモヒクラサク》
コチラカラバカリ思ツテモ〔コチ〜傍線〕、アチラデ思フデモナイ女ダノニ、(玉緒)長イ春ノ日秋日戀シク〔五字傍線〕思ヒ暮スコトヨ。バカバカシキイ話ダガ、ドウモ思ヒ切レナイ〔コト〜傍線〕。
○將有兒故《アルラムコユヱ》――兒故《コユヱ》は女なるにの意。
〔評〕 前の相不念《アヒオモハヌ》(一九三四)と、同歌の異傳かと思はれるまでに酷似し、又答の歌らしくない。
(217)夏雜歌
詠v鳥
1937 ますらをの 出で立ち向ふ ふるさとの 神名備山に 明け來れば 柘のさ枝に 夕されば 小松がうれに 里人の 聞き戀ふるまで 山彦の 答ふるむまでに 郭公 妻戀すらし さ夜中に鳴く
大夫之《マスラヲノ》 出立向《イデタチムカフ》 故郷之《フルサトノ》 神名備山爾《カムナビヤマニ》 明來者《アケクレバ》 柘之左枝爾《ツミノサエダニ》 暮去者《ユフサレバ》 小松之若末爾《コマツガウレニ》 里人之《サトビトノ》 聞戀麻田《キキコフルマデ》 山彦乃《ヤマビコノ》 答響萬田《コタフルマデニ》 霍公鳥《ホトトギス》 都麻戀爲良思《ツマコヒスラシ》 左夜中爾鳴《サヨナカニナク》
益荒雄タル私ガ、外ニ〔四字傍線〕出テ立チ向ツテヰル、舊都ノ飛鳥ノ〔三字傍線〕神名備山デ、夜ガ明ケルト、柘ノ木ノ枝ノ上〔二字傍線〕デ、夕方ニナルト小松ノ梢デ、里ノ人タチ〔二字傍線〕ガソノ聲ヲ〔四字傍線〕聞イテナツカシク〔五字傍線〕戀シク思フ程モヤサシク〔四字傍線〕、又山彦ガソノ聲ニ應ジテ〔七字傍線〕反響スルホドノ高い聲デ〔三字傍線〕、郭公ガ妻ヲ戀シク思ツテアンナニ〔四字傍線〕鳴クラシイ。夜中ニ今〔傍線〕鳴イテヰル。
○大夫之《マスラヲノ》――舊本、大夫丹《マスラヲニ》とあるのではわからない。元暦校本によつて改む。○出立向《イデタチムカフ》――出で立つて神名備山に向ふのである。略解に「卷一に大夫のさつ矢手挿立向、卷廿あらしをのいほさ手挾むかひ立云々、これらは的に向也。同卷長歌あづまをのこは出向ひかへり見せずて、又其下にけふよりはかへり見なくて大君のしこの御楯と出立我はなど有を思ふに、ここの大夫丹云々といふも、大夫どち立向ふ勢をおもひてよめるならんと翁は言はれき、或人は大夫丹は走出丹の誤ならんかといへり。いかさまにも大夫丹は誤字と見ゆ、猶考べし。さて出立向は、吾家を出たちて向はるる神なび山なればいふ也。故郷は飛鳥の故郷也、つみは桑の類にて既に出、聞戀ふるは、ほととぎすを今聞て戀したふ也」、古義に「出立は男女にかぎるべからぬが如くなれども、男は日々に外に(218)出、女は内にのみ隱り居て、常に出る事なき故に、取分て大夫乃出立向《マスラヲノイデタチムカフ》といへるにやあらむ」とある。しばらく古義に從はう。○故郷之神名備山爾《フルサトノカムナビヤマニ》――故郷の飛鳥の神名備山、即ち雷岳である。○柘之左枝爾《ツミノサエダニ》――柘は山桑、卷三の此暮柘之枝乃《コノユフベツミノサエダノ》(三八六)參照。○答響萬田《コタフルマデニ》――代匠記精撰本、アヒトヨムマデ、略解にコタヘスルマデとあるが、舊訓に從つて置く。
〔評〕 故郷の飛鳥の里に旅した人が、雷岳の郭公を聞いてよんだのであらう。併し明けくれば、夕さればと一般的叙述の後を受けて、突如としてさ夜中に鳴くと結んでゐるのは、奇異の感がある。
反歌
1938 旅にして 妻戀すらし ほととぎす 神名備山に さ夜ふけて鳴く
客爾爲而《タビニシテ》 妻戀爲良思《ツマコヒスラシ》 霍公鳥《ホトトギス》 神名備山爾《カムナビヤマニ》 左夜深而鳴《サヨフケテナク》
郭公ハ旅ニ出テ、アトニ遺シテ來タ〔八字傍線〕妻ヲ戀シガツテナク〔三字傍線〕ト見エル。アレアノ通リニ〔七字傍線〕、神名備山デ夜ガ更ケテカラ〔二字傍線〕鳴イテヰル。
〔評〕 旅に宿つて妻を戀ふる男が、郭公の鳴く聲を聞いて、吾が身に思ひくらべた、あはれな歌である。
右古歌集中出
1939 ほととぎす 汝が初聲は 我にもが 五月の珠に 交へて貫かむ
霍公鳥《ホトトギス》 汝始音者《ナガハツコヱハ》 於吾欲得《ワレニモガ》 五月之珠爾《サツキノタマニ》 交而將貫《マジヘテヌカム》
霍公鳥ヨ、オマヘノ初音ハソレヲ〔三字傍線〕、私ノモノトシテ取リタイモノダ。サウシタラ、ソノ聲ヲ〔九字傍線〕、五月ノ藥玉ニ交ゼテ、糸ニ通シテ玩ビ物ニ〔六字傍線〕シヨウ。
○於吾欲得《ワレニモガ》――古義に吾を花の誤として、ハナニモガとよんでゐるが、花では却つてわからない。
(219)〔評〕 卷八の霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトトギスイタクナナキソナガコヱヲサツキノタマニアヘヌクマデニ》(一四六五)と同想で、子供らしく詠んだのである。他に卷十七(四〇〇七)、卷十九(四一八九)などに類想が見えてゐる。
1940 朝霞 たなびく野邊に あしびきの 山ほととぎす いつか來鳴かむ
朝霞《アサガスミ》 棚引野邊《タナビクヌベニ》 足檜木乃《アシビキノ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 何時來將鳴《イツカキナカム》
朝靄ガ棚引ク野ノアタリニ、(足檜木乃)山郭公ハ何時ユナツタラ來テ鳴クダラウカ。早ク鳴イテクレ〔七字傍線〕。
○朝霞《アサガスミ》――朝の靄である。後世ならば郭公の頃、霞とは詠まない。
〔評〕 簡明な歌である。下句は古今集「わがやどの池の藤浪さきにけり山ほととぎすいつか來なかむ」と同じである。
1941 朝霞 八重山越えて 呼子鳥 なきや汝が來る 宿もあらなくに
旦霞《アサガスミ》 八重山越而《ヤヘヤマコエテ》 喚孤鳥《ヨブコドリ》 吟八汝來《ナキヤナガクル》 屋戸母不有九二《ヤドモアラナクニ》
(旦霞)八重ニ重ナツタ〔五字傍線〕山ヲ飛ビ越エテ、喚子鳥ハ、此處ニハ〔四字傍線〕オマヘガ宿ルベキ家モナイノニ、何シニ〔三字傍線〕鳴イテ飛デン來ルノダヨ。可愛サウダ〔五字傍線〕。
○且霞《アサガスミ》――枕詞。八重にかかる。○喚孤鳥《ヨブコドリ》――呼子鳥。孤は子の誤かと略解に見えるが、さうではあるまい。カンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥ともいふ。七〇・一四一九など參照。○吟八汝來《ナキヤナガクル》――古義に吟は喚又は呼の誤として、ヨビヤナガクルとよんでゐる。しかしこの字は憂吟《ウレヒサマヨヒ》(八九二)などと用ゐてあつて、サマヨフは泣き叫ぶことであるから、ナキとよんでもよいであらう。
〔評〕 喚子鳥は後世、春の季節としてあるが、卷八の春雜歌に二首、この卷の春雜歌に四首入れてあるから、ここに夏雜歌に收めてあるのは誤といつてよい。山中で旅らしい呼子鳥の聲を聞いて、これに同情したのは、旅人の歌らしい。
(220)1942 ほととぎす 鳴く聲聞くや 卯の花の 咲き散る岳に 葛引くをとめ
霍公鳥《ホトトギス》 鳴音聞哉《ナクコヱキクヤ》 宇能花乃《ウノハナノ》 開落岳爾《サキチルヲカニ》 田草引※[女+感]嬬《クズヒクヲトメ》
卯ノ花ガ咲イテ散ル岡デ、葛ノ蔓〔二字傍線〕ヲ引イテヰル少女ヨ、オマヘハ〔四字傍線〕郭公ノ鳴ク聲ヲ聞クカドウダ。
○田草引※[女+感]嬬《クズヒクヲトメ》――舊訓タクサヒクイモとあるのを、略解に「源康定主説、草は葛の誤也と有ぞよき。集中くずを田葛と書り」といつて、訓をクズヒクヲトメと改めてゐる。卷七の劔後鞘納野葛引吾妹《タチノシリサヤニイリヌニクズヒクワギモ》(一二七二)、眞田葛原何時鴨絡而我衣將服《マクズハライツカモクリテワガキヌニキム》(一三四六)などによれば、誤字説がよいやうである。又この葛は夏衣に縫ふ葛布を織る爲に、蔓を引くのである。今も葛布の料にする葛糸を採取する爲に、葛蔓を苅るのは、五月頃に行ふさうである。葛根を採る爲とするのは當らない。
〔評〕 卯の花は郭公の宿りともいはれる花である。今、卯の花が眞白に咲き滿ちた岡の上で、葛蔓を引いてゐる里の少女に對して、郭公の鳴く聲を聞くかと呼びかけたのは、郭公を待つ人の心であらう。下の問答の歌に宇能花乃咲落岳從霍公鳥鳴而沙渡公者聞津八《ウノハナノサキチルヲカユホトトギスナキテサワタルキミハキキツヤ》(一九七六)あるのは似た歌であるが、その意味味を以でこれを解釋しようとするのはよくない。
1943 月夜よみ 鳴くほととぎす 見まくほり 吾が草取れり 見む人もかも
月夜吉《ツクヨヨミ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 欲見《ミマクホリ》 吾草取有《ワガクサトレリ》 見人毛欲得《ミムヒトモガモ》
月ガヨイ夜ナノデ、鳴ク霍公鳥ヲ見タイト思ツテ、私ハ今木ノ下ニ生エテ居ル〔今木〜傍線〕草ヲ取ツテヰル、一人見ルノハ惜シイカラ、共ニ〔一人〜傍線〕見ル人ガアレバヨイガナア。
○吾草取有《ワガクサトレリ》――舊訓ワガクサトレルとあるが、宣長は吾を今の誤としてイマクサトレリと改めてゐる。その解について略解に、これはほととぎすを見むとて、庭草を掃て待意かともきこゆれど穩ならず。宣長云、吾は今の誤にて、いまくさとれり也、草とるは凡て鳥の木の枝にとまり居る事也、見まくほりは、ほととぎすが月を見まくほりて、今木の枝にゐるを來て見ん人もがな也、卷十九ほととぎすきなきとよまば草とらん、花橘をやど(221)にはうゑずてとよめるも、ほととぎすの來てとまるべき橘をうゑんといふ也といへり。」とあるが、清水濱臣は「兩説ともに非なり、草とるは手とりにすることにて、此歌は霍公鳥を手とらまへにせし事、十九の歌は杜宇の多く來鳴くならば手とりにせむとおもふ故に中々に橘をばうゑじとなり。さるよしは永久四年百首鈴虫、顯仲、鈴むしの聲を鈴かと聞からに草とるたかそおもひしらるる、又、兼昌、みかり野になく鈴虫をはしたかの草とりて行く音かとぞきく、此意にて知るべし。さて草とるは空とるといふ詞の對語にて、空とるは飛鳥の空にてものをとるを言ふなり。是もおなじ百首、野行幸、仲實、あかねさすみかりの小野にたつきぎす空とるたかにあはせつる哉、又、忠房、そらとらぬたかはあらじなみかり野に雲の上人あはすと思へば」といつてゐる。古義も大體宣長説に賛同してゐるが、郭公の鳴くべき月夜に、草を苅りつつ待つてゐるだけの意ではあるまいか。なほ攻究を要する。
〔評〕 意味が明らかでないので、許はむつかしいが、右のやうに解すれば全く田舍人の歌である。
1944 藤浪の 散らまく惜しみ ほととぎす 今城の岳を 鳴きて越ゆなり
藤波之《フヂナミノ》 散卷惜《チラマクヲシミ》 霍公鳥《ホトトギス》 今城(222)岳※[口+立刀]《イマキノヲカヲ》 鳴而越奈利《ナキテコユナリ》
藤ノ花ガ散ルノヲ惜シガツテ、郭公ハ今城ノ岡ヲ鳴キナガラ飛ビ越シテ行クヨ。
○今城岳※[口+立刀]《イマキノヲカヲ》――今城の岳は大和國高市郡、今は吉野郡に編入されてゐる。寫眞は辰己利文氏寄贈。卷九に妹等許今木乃嶺《イモラガリイマキノミネニ》(一七九五)とあるのは異なつてゐる、この地名を今來にかけて、霍公鳥が今來て、今城の岳を鳴いて越えるやうに、略解・古義に解してゐるが、かけ言葉らしい語調になつてゐない。
〔評〕 今城の岡は藤の花の多いところと見えるが、作者がそのほとりにゐて、それを觀賞してゐる時に、霍公鳥の聲を聞いてよんだのであらう。優しい氣分の作である。
1945 朝霧の 八重山越えて ほととぎす 卯の花べから 鳴きて越え來ぬ
旦霧《アサギリノ》 八重山越而《ヤヘヤマコエテ》 霍公鳥《ホトトギス》 宇能花邊柄《ウノハナベカラ》 鳴越來《ナキテコエキヌ》
(旦霧)八重ニ重ル〔三字傍線〕山ヲ飛ビ越シテ、郭公ハ卯ノ花ノ咲イテヰル〔五字傍線〕アタリヲ鳴イテ、飛ビ越シテ來タ。
○旦霧《アサギリノ》――前に旦霞八重山越而《アサガスミヤへヤマコエテ》(一九四一)とあるのと同じく、この旦霧は枕詞である。しかし略解に、霧を霞の誤であらうとあるのはよくない。猥に改むべきでない。○鳴越來《ナキテコエキヌ》――舊訓ナキテコユラシ、代匠記初稿本ナキテコエケリとあるが、又一にナキテコエキヌとしてある。古義に來を成の誤としてナキテコユナリとしたのは獨斷にすぎる。
〔評〕 第四句の宇能花邊柄《ウノハナベカラ》で、歌が全く優美化されてゐる。第二句と第五句とに越《コエ》を用ゐたのは故意か偶然か。重複の嫌がないでもない。
1946 木高くは かつて木植ゑじ ほととぎす 來鳴きとよめて 戀まさらしむ
木高者《コタカクハ》 曾木不殖《カツテキウヱジ》 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令響而《キナキトヨメテ》 戀令益《コヒマサラシム》
丈ノ高イ木ハ決シテ私ハ〔二字傍線〕植ヱマイ。何故ナレバ高イ木ヲ植ヱテ置クト〔何故〜傍線〕、霍公鳥ガ來テ鳴イテ、聲ヲ響カセ人ヲ〔二字傍線〕戀(223)シク思フ心ヲ増サシメルカラ〔二字傍線〕。
○曾木不殖《カツテキウヱジ》――カツテは、すべて、決して、全くなどの意。○戀令益《コヒマサラシム》――我をして人を戀しく思ふ心を、増さらしむといふのである。
〔評〕 戀に惱める人の歌だ。もとより郭公を嫌ふのではない。何哥毛幾許戀流霍公鳥鳴音聞者戀許曾益禮《ナニシカモココダクコフルホトトギスナクコヱキケバコヒコソマサレ》(一四七五)と似たところがある。
1947 逢ひがたき 君にあへる夜 ほととぎす こと時よりは 今こそ鳴かめ
難相《アヒガタキ》 君爾逢有夜《キミニアヘルヨ》 霍公鳥《ホトトギス》 他時從者《コトトキヨリハ》 今社鳴目《イマコソナカメ》
容易ニ逢フコトノ出來ナイアナタニ、今夜久シブリデ〔四字傍線〕逢ツタガ、郭公ヨ、他ノ時ヨリハドウゾ〔三字傍線〕今夜コソナイテクレヨ。二人デオマヘノヨイ聲ヲ聞イテ樂シムカラ〔二人〜傍線〕。
○他時從者《コトトキヨリハ》――童蒙抄アダシトキユハとあり、略解もそれに倣つてゐるが、舊訓に從つて置く。他は集中|他辭《ヒトコト》(五三八)、他妻《ヒトツマ》(一七五九)などヒトとよんだ例は多いが、コト又はアダシの用例は見えない。しかしここはヒトとはよむべくもないから、コトがよいであらう。
〔評〕 卷八の大伴家持の歌、我屋前乃花橘爾霍公鳥今社鳴米友爾相流時《ワガヤドノハナタチバナニホトトギスイマコソナカメトモニアヘルトキ》(一四八一)は、蓋しこれを燒直したものであらう。
1948 木のくれの ゆふやみなるに 一云、なれば ほととぎす 何處を家と 鳴き渡るらむ
木晩之《コノクレノ》 暮闇有爾《ユフヤミナルニ》【一云|有者《ナレバ》】 霍公鳥《ホトトギス》 何處乎家登《イヅクヲイヘト》 鳴渡良哉《ナキワタルラム》
木ガ深ク茂ツテ〔五字傍線〕暗ク、ソノ上〔三字傍線〕夕方ノ闇トナツタノニ、郭公ノ鳴クノガ聞エルガ〔九字傍線〕、ドコニアル自分ノ家ニ歸ラウト思ツテ、鳴イテ飛ンデ〔三字傍線〕行クノダラウ。暗クテ方向モ分ラナイデ嘸困ルデアラウ〔暗ク〜傍線〕。
○暮闇有爾《ユフヤミナルニ》――古義にクラヤミナルニとあるが、暮は多くヨヒ・ユフとよんでゐる。爲暮零禮見《シグレフレミム》(二二三四)の例も(224)あるが、クラとよんだのはないから、舊訓のままにしておく。殊にここは夕暮の景らしく思はれる。○一云有者――これはユフヤミナレバといふ異傳であるが、おもしろくない。○鳴渡良哉《ナキワタルラム》――哉は元暦校本に武とあるのがよい。
〔評〕夕暮の森などで聞く、郭公の聲をあはれんだので、前の旦霞八重山越而《アサガスミヤヘヤマコエテ》(一九四一)と似たところがある。
1949 ほととぎす 今朝の朝けに 鳴きつるは 君聞きけむか 朝いあか寐けむ
霍公鳥《ホトトギス》 今朝之旦明爾《ケサノアサケニ》 鳴都流波《ナキツルハ》 君將聞可《キミキキケムカ》 朝宿疑將寐《アサイカネケム》
郭公ガ今朝ノ夜〔二字傍線〕明ケ方〔傍線〕ニ鳴イタノハ、アナタハアノ聲ヲ〔四字傍線〕聞イタダラウカ、ソレトモ〔四字傍線〕朝寢ヲシテヰマシタカ。ドウデスカ〔五字傍線〕。
○朝宿疑將寐《アサイカネケム》――舊訓アサイカヌラムとあるが、古義の訓に從ふ。上に鳴郡流《ナキツル》とあり、君將聞《キミキキケム》と訓んでゐるのだから、ここもネケムとしなければならない。
〔評〕 おほやうな上代人らしい歌で、多少の滑稽味も感ぜられる。
1950 ほととぎす 花橘の 枝にゐて 鳴きとよもせば 花は散りつつ
霍公鳥《ホトトギス》 花橘之《ハナタチバナノ》 枝爾居而《エダニヰテ》 鳴響者《ナキトヨモセバ》 花波散乍《ハナハチリツツ》
郭公ガ花橘ノ咲イタ〔三字傍線〕枝ニトマツテ、鳴キ聲ヲ響カセテ鳴クト、ソノ聲ノ響デ〔六字傍線〕花ガ散ツタ。
〔評〕 ありのままの歌で、繪のやうな情景である。
1951 うれたきや 醜ほととぎす 今こそは 聲の嗄るがに 來喧きとよまめ
慨哉《ウレタキヤ》 四去霍公鳥《シコホトトギス》 今社者《イマコソハ》 音之干蟹《コヱノカルガニ》 來喧響目《キナキトヨマメ》
ホントニ〔四字傍線〕腹ガ立ツヨ、ロクデモナ郭公ヨ。ドウシテ鳴カナイノダラウ〔ドウ〜傍線〕、今コソハ鳴クベキ時ダカラ〔八字傍線〕、聲ガ枯レル程モ、此處ヘ〔三字傍線〕來テ鳴ケバヨイニ。
(225)○慨哉《ウレタキヤ》――卷八の宇禮多伎也志許霍公鳥《ウレタキヤシコホトトギス》(一五〇七)と同樣で、歎かはしいよの意であるが、ヤは切宇ではなく下につづいてゐる。○音之干蟹《コヱノカルガニ》――聲の嗄れるほどにの意。
〔評〕 可愛さあまつて憎さ百倍、來鳴かぬ郭公を罵つてゐる。右にあげた卷八のものと、句は同じで心は異なつゐてる。
1952 こよひの おぼつかなきに ほととぎす 鳴くなる聲の おとのはるけさ
今夜乃《コヨヒノ》 於保束無荷《オボツカナキニ》 霍公鳥《ホトトギス》 喧奈流聲之《ナクナルコヱノ》 音乃遙左《オトノハルケサ》
今夜ハ暗クテ〔三字傍線〕何モ見エナイノニ、郭公ノナク聲ガ遙カニ遠ク〔二字傍線〕聞エルヨ。モツト近クデ鳴イタラ、ハツキリ聞エルダラウニ〔モツ〜傍線〕。
○今夜乃《コヨヒノ》――舊訓コノヨラノとあるが、卷一に今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》(一五)とあるから、猥りにラを補はないで、コヨヒノとよむべきであらう。○於保束無荷《オボツカナキニ》――このオボツカナキは、暗くて見分けのつかぬ意。
〔評〕 暗夜遙かに郭公を聞く物足りなさが、よくあらはれてゐる。聲《コヱ》の音《オト》と言つたのは、異樣に聞える。
1953 五月山 卯の花月夜 ほととぎす 聞けども飽かず また鳴かぬかも
五月山《サツキヤマ》 宇能花月夜《ウノハナヅクヨ》 霍公鳥《ホトトギス》 雖聞不飽《キケドモアカズ》 又鳴鴨《マタナカヌカモ》
五月ノ頃ノ〔三字傍線〕山ニ、卯ノ花ガ盛ニ咲イテヰル〔八字傍線〕月夜ニ、霍公鳥ノ鳴ク聲ヲ聞イタガ、アマリヨイ聲ナノデ聞キ〔アマ〜傍線〕飽キナイ。モツト鳴カナイカナア。
○五月山《サツキヤマ》――五月の頃の山。山の名ではない。○宇能花丹夜《ウノハナヅクヨ》――卯の花が咲いてゐるのに月がさしてゐる夜。代匠記に「卯花のさかりなるが、月夜のごとく見ゆるをいへり」とあるのは誤つてゐる。○又鳴鴨《マタナカヌカモ》――又鳴けよの意、ヌにあたる文字はないが、補つて訓むのである。
(226)〔評〕 綺麗な歌だ、卯の花月夜の一句、よく情景をあらはし得てゐる。この歌、新古今集にも載せてある。
1954 ほととぎす 來ゐも鳴かぬか 吾がやどの 花橘の 地に落ちむ見む
霍公鳥《ホトトギス》 來居裳鳴香《キヰモナカヌカ》 吾屋前乃《ワガヤドノ》 花橘乃《ハナタチバナノ》 地二落六見牟《ツチニオチムミム》
郭公ガ今、吾ガ宿ノ花橘ニ〔八字傍線〕來テ宿ツテ鳴ケヨ。アノ〔二字傍線〕吾ガ宿ノ庭ノ〔二字傍線〕花橘ガ、郭公ノ羽風デ散ツテ〔九字傍線〕地ニ落チ散ルデアラウノヲ見ヨウ。
○來居裳鳴香《キヰモナカヌカ》――舊訓キヰテモナクカとあるが、前の歌の結句に倣つて、ナカヌカと訓まねば意が通じない。來居ても鳴けよの意である。これを舊訓に從つた爲に、宣長は結句を地二落左右手《ツチニオツルマデ》と改めてゐるが、もとよりよくない。
〔評〕 郭公の羽風に散る、花橘の美しさを思ひやつたので、優美な歌である。
1955 ほととぎす 厭ふ時なし あやめぐさ ※[草冠/縵]にせむ日 こゆ鳴き渡れ
霍公鳥《ホトトギス》 厭時無《イトフトキナシ》 菖蒲《アヤメグサ》 ※[草冠/縵]將爲日《カヅラニセムヒ》 從此鳴度禮《コユナキワタレ》
郭公ハ何時來テ鳴イテモ〔八字傍線〕イヤト云フ時ハナイ。シカシ同ジ鳴クナラ〔九字傍線〕、菖蒲ヲ頭飾ノ※[草冠/縵]ニスル五月五〔三字傍線〕日ノ頃〔二字傍線〕ニ、此處ヲ鳴イテ通リナサイ。
○厭時無《イトフトキナシ》――郭公の鳴く聲を聞くのを、否と言つて嫌ふ時はないの意。○菖蒲※[草冠/縵]將爲日《アヤメグサカヅラニセムヒ》――五月に菖蒲を※[草冠/縵]としたことは蒲草玉爾貫日乎《アヤメグサタマニヌクヒヲ》(一四九〇)、その他用例が多い。
〔評〕 この歌は卷十八に保等登藝須伊等布登伎奈之安夜賣具佐加豆良爾勢武日許由奈伎和多禮《ホトトギスイトフトキナシアヤメグサカヅラニセムヒコユナキワタレ》(四〇三五)とあり、田邊史福麿とあるのは、彼が古歌を誦したものであらう。
1956 大和には 啼きてか來らむ ほととごす 汝が鳴く毎に なき人おもほゆ
山跡庭《ヤマトニハ》 啼而香將來《ナキテカクラム》 霍公鳥《ホトトギス》 汝鳴毎《ナガナクゴトニ》 無人所念《ナキヒトオモホユ》
(227)大和ノ方ヘハ郭公ガ今〔傍線〕啼イテ行クノダラウ。アチラノ人ハオマヘノ聲ヲ聞イテ、面白ク感ズルダラウガ、ワタシハ〔アチ〜傍線〕オマヘガ鳴ク度ゴトニ、死ンダ人ヲ思ヒ出シテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰル。
○啼而香將來《ナキテカクラム》――鳴きてか行くらむに同じ。この初二句は卷一に倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨブコドリキサノナカヤマヨビゾコユナル》(七〇)とある。
〔評〕 郭公と死人との關係が詠まれてゐるやうである。旅にあつて亡き人を思つた歌か。卷八の大伴旅人の妻が死んだ時、石上竪魚朝臣が詠んだ老公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物手《ホトトギスキナキトヨモスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》(一四七二)を合はせて考ふべきである。
1957 卯の花の 散らまく惜しみ ほととぎす 野に出山に入り 來鳴きとよもす
宇能花乃《ウノハナノ》 散卷惜《チラマクヲシミ》 霍公鳥《ホトトギス》 野出山入《ヌニデヤマニイリ》 來鳴令動《キナキトヨモス》
卯ノ花ガ散ルノヲ惜シンデ、霍公鳥ハ野ニ出タリ山ニ入ツタリシテ、コノ邊ニ〔四字傍線〕來テ聲ヲ響カセテ鳴イテヰル。
○野出山入《ヌニデヤマニイリ》――野山に出入して郭公が、治躍して鳴く有樣である。
〔評〕 卯の花の咲く野山を翔りつつ鳴く郭公の樣が、生生と詠まれてゐる。
1958 橘の 林を植ゑむ ほととぎす 常に冬まで 住みわたるがね
橘之《タチバナノ》 林乎殖《ハヤシヲウヱム》 霍公鳥《ホトトギス》 常爾冬及《ツネニフユマデ》 住度金《スミワタルガネ》
ワタシハ〔四字傍線〕霍公鳥ガ始終冬マデモココニ住ンデヰル爲ニ、橘ノ林ヲワタシノ屋敷ニ〔七字傍線〕植ヱヨウ。
○林乎殖《ハヤシヲウヱム》――略解にハヤシヲウヱツとあるが、舊訓による。○住度金《スミワタルガネ》――ガネは料に、爲に。
〔評〕橘に郭公が宿るものとして、詠んだ歌は他にも多い。卷九の長歌にも吾屋戸之花橘爾住度鳥《ワガヤドノハナタチバナニスミワタレトリ》(一七五五)とあつた。
(228)1959 雨はれし 雲にたぐひて ほととぎす 春日をさして こゆ鳴き渡る
雨※[日頁齊]之《アメハレシ》 雲爾副而《クモニタグヒテ》 霍公鳥《ホトトギス》 指春日而《カスガヲサシテ》 從此鳴度《コユナキワタル》
雨ガ晴レテ春日山ヘ歸ツテ行ク〔テ春〜傍線〕雲ト一緒ニ、霍公鳥ガ春日山ヲ指シテ、飛ビナガラ〔五字傍線〕此處ヲ鳴イテ通ル。
〔評〕 雨晴の西風につれて、雲が東の方、春日山をさして、足速く移動してゐる。それと一緒に郭公も春日山を指して、此處を鳴き過ぐるといふので、梅雨晴らしい、すがすがしい歌である。
1960 物もふと いねぬ朝明に ほととぎす 鳴きてさわたる すべなきまでに
物念登《モノモフト》 不宿旦開爾《イネヌアサケニ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而左度《ナキテサワタル》 爲便無左右二《スベナキマデニ》
物ヲ思ツテ眠ラナカツタ夜明ケ方ニ、霍公鳥ガ、悲シクテ〔四字傍線〕何トモ仕樣ガナイホドニ、ココヲ〔三字傍線〕鳴イテ通ルヨ。
○鳴而左度《ナキテサワタル》――鳴いて通る。サは接頭語。
〔評〕 感傷的な、あはれな歌。
1961 我が衣 君に著せよと ほととぎす 我をうしはき 袖に來ゐつつ
吾衣《ワガコロモ》 於君令服與登《キミニキセヨト》 霍公鳥《ホトトギス》 吾乎領《ワレヲウシハキ》 袖爾來居管《ソデニキヰツツ》
私ノ着物ヲアナタニ着セヨト、霍公島ガワタシヲ指圖シテ、着物ノ袖ニ、來テトマツテヰル。
○吾衣《ワガコロモ》――舊訓ワガキヌヲとある。○吾乎領《ワレヲウシハキ》――舊訓ワレヲシラセテ、考は乎を干に改めてワガホスキヌノ、古義は領を頷としてワレヲウナヅキ、新考はワレヲウナガスと訓んでゐる。領は集中シラスともウシハクとも訓んであるが、新訓に從つてウシハクとよむことにした。改字説は感心しない。殊に頷に改める事は無理であらう。頷は集中に見えない文字である。ウシハキと訓んで、吾を支配し、指圖しての意と解するがよいであらう。
〔評〕 分らぬ歌であるが、言葉通りに解して右の通りにして置いた。契沖が言つたやうに、郭公は袖などに來て鳴くものではないが、近く來て鳴いたのを戯れて、かうよんだのではあるまいか。新考に郭公の形を摺れる衣を、人に贈るとてよんだものとしたのは當るまい。
1962 本つ人 ほととぎすをや めづらしみ 今か汝が來る 戀ひつつをれば
(229)本人《モトツヒト》 霍公鳥乎八《ホトトギスヲヤ》 希將見《メヅラシミ》 今哉汝來《イマヤナガクル》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》
ワタシガ〔四字傍線〕昔馴染ノ友達ノ郭公ヲ珍ラシイノデ戀ヒ慕ツテ居ルト、丁度今オマヘガヤツテ來ル。ホントニナツカシイ鳥ダ〔ホン〜傍線〕。
○本人《モトツヒト》――昔馴染の人の意で、次の句の霍公鳥のことである。卷十七に雁を遠つ人と稱し、登保都比等加里我來鳴牟等伎知可美香物《トホツヒトカリガキナカムトキチカミカモ》(三九四七)とあるのに似てゐる。○霍公鳥乎八《ホトトギスヲヤ》――ヲは結句につづいてゐる。ヤは呼びかけていふのでヨの意である。古義に「乎八《ヲヤ》は八與《ヤヨ》と云むが如し」とあるのは當るまい。
〔評〕 本人《モトツヒト》は卷十二(三〇〇九)・卷二十(四四三七)にも用ゐてあるが、ここのは用法が變つてゐて面白い。
1963 かくばかり 雨のふらくに ほととぎす 卯の花山に なほか鳴くらむ
如是許《カクバカリ》 雨之零爾《アメノフラクニ》 霍公鳥《ホトトギス》 宇之花山爾《ウノハナヤマニ》 猶香將鳴《ナホカナクラム》
コンナニ雨ガ降ルノニ霍公鳥ハ、卯ノ花ノ咲イテヰル山デ、ヤハリ鳴イテヰルノダラウカ。ドウダラウ〔五字傍線〕。
○字之花山爾《ウノハナヤてマ》――卯の花の咲いてゐる山で、山の名ではない。卷十七に宇能波奈夜麻乃保等登藝須《ウノハナヤマノホトトギス》(四〇〇八)とあるのも同じ。
〔評〕 雨中に山の郭公を思ひやつたので、卯の花山が美しい。
詠v蝉
蝉はセミ。古義にヒグラシと訓んだのはよくない。
1964 もだもあらむ 時も鳴かなむ ひぐらしの ものもふ時に 鳴きつつもとな
黙然毛將有《モダモアラム》 時母鳴奈武《トキモナカナム》 日晩乃《ヒグラシノ》 物念時爾《モノモフトキニ》 鳴管本名《ナキツツモトナ》
(230)何モナイ時ニ鳴ケバヨイノニ〔二字傍線〕、茅蜩ハ私ガ〔二字傍線〕物ヲ思ツテ氣ノハレナイデ〔七字傍線〕ヰル時ニ、鳴クノハ困ツタモノダ。
○黙然毛將有《モダモアラム》――モダは黙つてゐること。ここは何もしないでゐること。○日晩乃《ヒグラシノ》――ヒグラシは茅蜩。カナカナ蝉。卷八に大伴家持晩蝉歌(一四七九)とあつた。○鳴管本名《ナキツツモトナ》――鳴くのはよろしくないことだの意。
〔評〕 狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名《サヨナカニトモヨブチドリモノモフトワビヲルトキニなきつつモトナ》(六一八)はこれを學んだものか。
詠v榛
榛はハンノキとする説と、萩とする説とに分れて、學者の間に論爭がつづけられてゐる。ここはどうも萩の花らしい。
1965 思ふ子が 衣摺らむに 匂ひこそ 島のはり原 秋立たずとも
思子之《オモフコガ》 衣將摺爾《コロモスラムニ》 爾保比與《ニホヒコソ》 嶋之榛原《シマノハリハラ》 秋不立友《アキタタズトモ》
秋ニナレバ萩ノ花ハ咲クモノダガ〔秋ニ〜傍線〕、島ノ萩原ハ秋ニナラヌ夏ノ今〔三字傍線〕デモ、私ノ愛スル女ノ着物ヲ染メル爲ニ、咲イテクレヨ。
○爾保比與《ニホヒコソ》――このコソは希望の辭。與をコソと訓ませるのは集中に例が多い。誤字とするのはわるい。卷七の我告與《ワレニツゲコソ》(一二四八)參照。○島之榛原《シマノハリハラ》――島は草壁皇子の島の宮のあつたところか。然らば大和高市郡の島庄である。
〔評〕 三句切になつてゐるのが注意される。秋不立友《アキタタズトモ》とあるのが、榛でなくて萩の歌らしい。
詠v花
1966 風に散る 花橘を 袖に受けて 君がみ跡と しぬびつるかも
風散《カゼニチル》 花橘※[口+立刀]《ハナタチバナヲ》 袖受而《ソデニウケテ》 爲君御跡《キミガミアトト》 思鶴鴨《シヌビツルカモ》
(231)風ニ吹カレテ〔四字傍線〕散ル橘ノ花ヲ袖ニ受ケ入レテ、ソノ花ビラヲ見テ此處ハ〔入レ〜傍線〕アナタガ曾テ〔二字傍線〕オイデナサレタ所ダト思ツテ、アナタヲ〔五字傍線〕ナツカシク思ヒマシタヨ。
○爲君御跡《キミガミアトト》――舊訓キミガミタメトとあり、代匠記精撰に君御爲跡又は御爲君跡の誤としてゐる。略解・古義は君御爲跡説を採つてゐる。新考はもとのままでタテマツラムトとよんでゐるが、ここは新訓に從つておいた。○思鶴鴨《シヌビツルカモ》――これも舊訓オモヒツルカモであるが、古義の訓によつた。
〔評〕 第四句を右のやうに訓むと、或人の舊宅又は縁ある地に赴いて、詠んだことになる。上句になつかしい優雅な感じがあらはれてゐる。
1967 かぐはしき 花橘を 玉に貫き 送らむ妹は みつれてもあるか
香細寸《カグハシキ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 玉貫《タマニヌキ》 將送妹者《オクラムイモハ》 三禮而毛有香《ミツレテモアルカ》
薫ノ良イ橘ノ花ヲ玉トシテ糸ニ〔二字傍線〕通シテ、アノ女カライツモ送ツテヨコスノダガ、今年ハマダ送ツテ來ナイノハ〔アノ〜傍線〕、送ツテヨコスベキアノ女ハ、病氣デモシテヰルノデハナイカ。心紀ナコトダ〔六字傍線〕。
○三禮而毛有香《ミツレテモアルカ》――ミツレは身羸《ミヤツレ》の略であらうといふ。病んでつかれてゐること。卷四に三禮二見津禮片思男責《ミツレニミツレカタモヒヲセム》(七一九)とある。
〔評〕 花橘を玉に貫く頃、妹よりの消息が絶えたのを、病氣かと心配したのである。第四句は此方から妹に送ることと解してはいけない。
1968 ほととぎす 來鳴きとよもす 橘の 花散る庭を 見む人や誰
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴響《キナキトヨモス》 橘之《タチバナノ》 花散庭乎《ハナチルニハヲ》 將見人八孰《ミムヒトヤタレ》
霍公鳥ガ來テハ聲ヲ響カセテ鳴ク、私ノ家ノ〔四字傍線〕橘ノ花ノ散ル庭ヲ見ニ來〔二字傍線〕ル人ハ誰デセウ。アナタコソソノ人ダト思ヒマス。早クオイデ下サイマシ〔アナ〜傍線〕。
(232)○將見人八孰《ミムヒトヤタレ》――見る人は誰かと、訊ねたのではなくて、誰にもあらず、君こそその人なれと言つたのである。
〔評〕 言ひ方が上品で、婉曲である。
1969 吾がやどの 花橘は 散りにけり くやしき時に 逢へる君かも
吾屋前之《アガヤドノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 落爾家里《チリニケリ》 悔時爾《クヤシキトキニ》 相在君鴨《アヘルキミカモ》
私ノ屋敷ノ花橘ハ、今ハモウ〔四字傍線〕散ツテシマヒマシタ。モツト早クオイデ下サレバヨイノニ〔モツ〜傍線〕、アナタハ殘念ナ時ニ、オイデナサツタモノデス。
○悔時爾相在君鴨《クヤシキトキニアヘルキミカモ》――悔しき時に君に逢へるかもと同意で、相在《アヘル》は君に逢つたので、君が悔しい時に逢つたのではない。
〔評〕 花橘が咲いたので、友の來るのを待つてゐたが、その友は花が散つた頃になつて、漸く訪ねて來たのを、遺憾とした歌である。三句切の爽やかな格調の作品である。
1970 見渡せば 向ひの野べの なでしこの 散らまく惜しも 雨なふりそね
見渡者《ミワタセバ》 向野邊乃《ムカヒノヌベノ》 石竹之《ナデシコノ》 落卷惜毛《チラマクヲシモ》 雨莫零行年《アメナフリソネ》
見渡スト向フノ野原ニハ撫子ガ美シク咲イテヰルガ、ア〔ニハ〜傍線〕ノ撫子ガ散ルノハ惜シイコトダヨ。雨ヨ、降ラナイデクレヨ。
○雨莫零行年《アメナフリソネ》――行年をソネとよむことについては、卷三の雨莫零行年《アメナフリソネ》(二九九)參照。
〔評〕 野もせに美しく咲いた、瞿麥の花を惜しんで雨よ降るなと希つたので、やさしい内容と調子とを持つてゐる。卷三の奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年《オクヤマノスガノハシヌフルユキノケナバヲシケムアメナフリソネ》(二九九)と似たところがある。
1971 雨まあけて 國見もせむを ふるさとの 花橘は 散りにけむかも
雨間開而《アママアケテ》 國見毛將爲乎《クニミモセムヲ》 故郷之《フルサトノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 散家武可聞《チリニケムカモ》
(233)雨ガ降リ止ンダラ、舊都ノ景色ヲ見下ロシテ花橘ノ美シイ樣子デモ眺メヨウ〔花橘〜傍線〕ト思ツテヰタノニ、雨バカリ降ツテ居ルウチニ〔雨バ〜傍線〕花橘ハ散ツタダラウナア。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
○雨間開而《アママアケテ》――雨間《アママ》は雨の止んだ間であるが、アママアケテといふのは一寸變つた詞である。意は雨霽れてと同じであらう。考にはアメハレテとよんでゐる。○國見毛將爲乎《クニミモセムヲ》――國見は山の上などの高所から、下の平野を見下ろすこと。○故郷之《フルサトノ》――故郷は舊都、飛鳥京であらう。
〔評〕 國見する岡の上から、花橘の白い花が散り過ぎて、最早見られないかと心配したのである。國見といつても、あのあたりの低い岡(恐らく雷岡)からであるから、里の花橘も見えるのである。新考に「國見アリキモセムヲとなり」として、故郷の中を見ながら歩くことに解いてゐるが、國見にはさういふ用例はあるまい。これも優美な、なつかしい歌である。
1972 野べ見れば なでしこの花 咲きにけり 吾がまつ秋は 近づくらしも
野邊見者《ヌベミレバ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》 咲家里《サキニケリ》 吾待秋者《ワガマツアキハ》 近就良思母《チカヅクラシモ》
野原ヲ見ルト撫子ノ花ガ咲イタヨ。コノ花ガ咲イタカラニハ〔コノ〜傍線〕、ワタシノ樂シミニシテ〔六字傍線〕待ツテヰル秋ハ近クナツテ來タラシイヨ。嬉シイナア〔五字傍線〕。
〔評〕 三句切の、さつぱりした歌である。爽快な秋を愛した上代人の氣分が出てゐる。後撰集に「なでしこの花ちりがたに成りにけりわがまつ秋ぞ近くなるらし」とあるのは、これを少し改めたのであらう。
1973 吾妹子に あふちの花は 散りすぎず 今咲けるごと ありこせぬかも
吾妹子爾《ワギモコニ》 相市乃花波《アフチノハナハ》 落不過《チリスギズ》 今咲有如《イマサケルゴト》 有與奴香聞《アリコセヌカモ》
(吾妹子爾)楝ノ花ハイツマデモ〔五字傍線〕落リ失セナイデ、今咲イテヰルヤウニ、眞盛デ〔三字傍線〕アツテクレナイカナア。
○吾妹子爾《ワギモコニ》――相市《アフチ》につづく枕詞。逢ふにかけてある。○相市乃花波《アフチノハナハ》――アフチは楝、五月の頃、薄紫の可憐(234)な花を開く。卷五(七八九)參照。
〔評〕 初夏の景物として、可憐な楝の花に目を附けたところがよい。かういふ花を愛するのは、支那に倣つたのでなく、眞の國民的趣味に出てゐるやうだ。
1974 春日野の 藤は散りにて 何をかも み狩の人の 折りてかざさむ
春日野之《カスガヌノ》 藤者散去而《フヂハチリニテ》 何物鴨《ナニヲカモ》 御狩人之《ミカリノヒトノ》 折而將挿頭《ヲリテカザサム》
春日野ノ藤ノ花ハモハヤ〔三字傍線〕散ツテシマツテ、コレカラ〔四字傍線〕ハ何ヲマア、御狩ニ來タ人ガ、折ツテ頭ニカザスデアラウカナア。花ノナクナツタ春日野ハ淋シクナツタ〔花ノ〜傍線〕。
○藤者散去而《フヂハチリニテ》――舊訓にチリユキテとあるのは拙い。古義に散去吉《チリユキ》かとあるのも面白くない。什匠記精撰本による。○御狩人之《ミカリノヒトノ》――天皇その他、高貴の方の狩に、扈從してゐる人を、御狩の人といつたのであらう。
〔評〕 大宮人の行樂の樣子がしのばれる。はつきりした歌である。
1975 時ならず 玉をぞ貫ける 卯の花の 五月を待たば 久しかるべみ
不時《トキナラズ》 玉乎曾連有《タマヲゾヌケル》 宇能花乃《ウノハナノ》 五月乎待者《サツキヲマタバ》 可久有《ヒサシカルベミ》
卯ノ花ガ咲ク〔二字傍線〕五月マデ待ツテヰテハ待チ遠イノデ、私ハマダ早過ギタガ〔九字傍線〕、時節ハヅレニ藥玉ヲコシラヘタヨ。
○玉乎曾連有《タマヲゾヌケル》――玉は藥玉であらう。略解には句を轉倒して、「時ならず卯の花の玉をぬけるといふ意也」とある。○宇能花乃《ウノハナノ》――卯の花の吹く五月とつづくのである。卯の花は卯月即ち四月に咲くものだといふ説もあるが、卯月を卯の花の咲く月の意とするのは俗説で、何等根據がない。卯月即ち卯の花月とは考へられない。前に五月山宇能花月夜《サツキヤマウノハナヅクヨ》(一九五三)とあるではないか。
〔評〕 歌の組立は簡單であるが、古來あまりむつかしく解する説が多い。蓋しこの歌が、詠花とある題には、しつくりふさはぬからであらう。
(235)問答
1976 卯の花の 咲き散る丘ゆ ほととぎす 鳴きてさ渡る 君は聞きつや
宇能花乃《ウノハナノ》 咲落岳從《サキチルヲカユ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而沙渡《ナキテサワタル》 公者聞津八《キミハキキツヤ》
卯ノ花ノ咲イテ散ル岡カラ、郭公ガ鳴イテ飛ンデ行クノヲ、アナタハオ聞キナサイマシタカ。
〔評〕霍公鳥鳴音聞哉宇能花乃開落岳爾田草引※[女+感]嬬《ホトトギスナクコヱキクヤウノハナノサキチルヲカニクズヒクヲトメ》(一九四二)とあり、又|鳴而左度爲便無左右二《ナキテサワタルスベナキマデニ》(一九六〇)ともある。
1977 聞きつやと 君が問はせる ほととぎす しぬぬにぬれて こゆ鳴き渡る
聞津八跡《キキツヤト》 君之問世流《キミガトハセル》 霍公鳥《ホトトギス》 小竹野爾所沾而《シヌヌニヌレテ》 從此鳴綿類《コユナキワタル》
聞イタカトアナタガオタヅネニナリマシタ郭公は、五月雨ニ〔四字傍線〕シトシトト濡レテ、此處ヲ鳴イテ通リマス。
○小竹野爾所沾而《シヌヌニヌレテ》――シヌヌは前に朝霧爾之怒怒爾所沾而《アサギリニシヌスニヌレテ》(一八三一)ともあつた。しとしととの意。五月雨に濡れたのである。
〔評〕 この二首は共に平明な作である。
譬喩歌
1978 橘の 花散る里に 通ひなば 山ほととぎす とよもさむかも
橘《タチバナノ》 花落里爾《ハナチルサトニ》 通名者《カヨヒナバ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 將令響鴨《トヨモサムカモ》
楠ノ花ガ散ル里ヘ私ガ〔二字傍線〕通ツテ行ツタナラバ、山郭公ガ聲ヲ響カセテ鳴キ騷グダラウカナア。ワタシガ女ノ所ヘ通ツテ行ツタラ、人ガ妬ンデ喧シク言ヒ騷グダラウカナア〔ワタ〜傍線〕。
○橘花落里爾《タチバナノハナチルサトニ》――他の女に寓してある。卷八に橘之花散里乃霍公鳥片戀爲乍鳴日四曾多寸《タチバナノハナチルサトノホトトギスカタコヒシツツナクヒシゾオホキ》(一四七三)ともあ(236)る。
〔評〕 寓意も明らかで、譬喩歌としては無理がなく、よく出來てゐる。
夏相聞
寄v鳥
1979 春されば すがるなす野の ほととぎす ほとほと妹に 逢はず來にけり
春之在者《ハルサレバ》 酢輕成野之《スガルナスヌノ》 霍公鳥《ホトトギス》 保等穗跡妹爾《ホトホトイモニ》 不相來爾家里《アハズキニケリ》
(春之在者酢輕成野之霍公鳥)殆ドモウ少シデ〔五字傍線〕女ニ逢ハズニシマハウトシタ。辛ウジテ私ハ女ニ逢ツテ來テ、マアヨカツタ〔辛ウ〜傍線〕。
○春之在者酢輕成野之霍公鳥《ハルサレバスガルナスヌノホトトギス》――ホトの音を繰返して、下のホトホトに續いた序詞。酢輕《スガル》は似我蜂。卷九の腰細之須輕娘子之《コシボソノスガルヲトメノ》(一七三八)參照。スガルナスは似我蜂のやうに瘠せてゐる郭公の意であらう。代匠記には舊訓のままに成をナルと訓みながら、意は鳴くと解してゐるのは無理である。さうすれば、野といはむが爲にのみ上は役立つことになる。略解には「春巣を借て生る故にすがると言ふなるべし。ほととぎすも鶯の巣を借て生たてれば、かの春のすがるの如くといふ意にて、すがるなすとは言へるなるべし。」とあるのは奇説である。古義に「成は古語に久羅下那須《クラゲナス》、螢成《ホタルナス》など多く云る成《ナス》にて如の意なるべし。さて春之在者《ハルサレバ》とあるを思ふに、霍公鳥の春のころ巣立て鳴聲はかの〓〓スガル》に似たる故に〓〓如《スガルナス》霍公鳥といふ意につづきたるか」とあるのも從ひたい。スガルは古今集に「すがる鳴く秋の萩原朝立ちて旅行く人をいつとか待たむ」とあるけれども、ここは鳴く音(羽音)ではなく、瘠せて小さいのに譬へたかと思はれる。春の郭公は瘠せて小さいとする言ひならはしがあつたのでは(237)あるまいか。○保等穗跡妹爾《ホトホトイモニ》――ホトホトは殆ど、危くもなどの意。卷七に殆之國手斧所取奴《ホトホトシクニテヲノトラエヌ》(一四〇三)とある。
〔評〕 第二句の解は人によつて異なるであらうが、ともかく序詞が奇拔でおもしろく出來てゐる。珍らしい歌である。
1980 五月山 花橘に ほととぎす 隱らふ時に 逢へる君かも
五月山《サツキヤマ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 霍公鳥《ホトトギス》 隱合時爾《カクラフトキニ》 逢有公鴨《アヘルキミカモ》
五月ノ頃ノ〔三字傍線〕山ニ、咲イタ〔三字傍線〕花橘ニ、霍公鳥ガ姿ヲカクシテ鳴ク〔二字傍線〕頃ニ、アナタニ逢ヒマシタヨ。
○隱合時爾《カクラフトキニ》――隱れてゐる時にの意であるが、木蔭で鳴いてゐること。わざわざ隱れてゐるのではない。
〔評〕 上句は序詞とも見られるが、さうではなく郭公が花橘に來鳴く頃に、人にあつたことを喜んだものであらう。下句には喜びの情が見えるやうである。
1981 ほととぎす 來鳴く五月の 短夜も 獨しぬれば あかしかねつも
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴五月之《キナクサツキノ》 短夜毛《ミジカヨモ》 獨宿者《ヒトリシヌレバ》 明不得毛《アカシカネツモ》
霍公鳥ガ來テ鳴ク五月ノ頃ハ、誠ニ夜ガ明ケルノガ早イモノダガ、ソノ〔頃ハ〜傍線〕短イ夜デモ、一人デ寢レバ夜ガ明ケルノガ待チカネルヨ。
〔評〕 明朗な歌だ。拾遺集に載せたのも尤もである。
寄v蝉
1982 ひぐらしは 時と鳴けども 物戀に 手弱女我は 定まらずなく
日倉足者《ヒグラシハ》 時常雖鳴《トキトナケドモ》 我戀《モノコヒニ》 手弱女我者《タワヤメワレハ》 不定哭《サダマラズナク》
蜩トイフ蝉〔四字傍線〕ハ夏ヲ鳴クベキ〔六字傍線〕時ト定メテ鳴クガ、物ヲ戀シテ居ルカヨワイ女ノ私ハ、何時ト定メズニイツデモ泣(238)イテヰル。
○時常雖鳴《トキトナケドモ》――今こそ鳴く時なりとて鳴くの意。○我戀《モノコヒニ》――舊本、我戀とあるのでは意をなさない。元暦校本に我を於に作り、右に異本に物とある由を記してゐるによつて、物戀《モノコヒニ》とすべきであらう。併し和歌童蒙抄にもワガコフルとあるから、古くから一般に我《ワガ》が行はれてゐたと見える。○不定哭《サダマラズナク》――代匠記精撰本、上に時を補つて、トキワカズナクとよんだのが行はれてゐるが、ここは舊訓のままにして置く。時定まらず泣くの意である。
〔評〕 少し言葉の落ちつかぬ點もあるが、實にあはれな歌である。戀に惱む女性の情が、いたいたしく詠まれてゐる。
寄v草
1983 人言は 夏野の草の 繁くとも 妹と我とし 携はり寝ば
人言者《ヒトゴトハ》 夏野乃草之《ナツヌノクサノ》 繁友《シゲクトモ》 妹與吾師《イモトワレトシ》 携宿者《タヅサハリネバ》
人ノ噂ハ夏ノ野ニ生エタ〔四字傍線〕草ノヤウニ、澤山デモ、女ト私ト一緒ニ寢サヘスレバ、ソレデ何モ思フコトハナイ。人ノ惡ロナドカマフモノカ〔ソレ〜傍線〕。
○夏野乃草之《ナツヌノケサノ》――これは譬喩である。繁《シゲク》の枕詞とするのはよくない。○妹與吾《イモトワレトシ》――元暦校本に吾の下、師の字があるのがよい。
〔評〕 結句嬉しからむといふやうな餘情を含めてゐるのが、珍らしい形になつてゐる。男らしい強い表現である。
1984 この頃の 戀の繁けく 夏草の 苅りはらへども 生ひしくが如
廼者之《コノゴロノ》 戀乃繁久《コヒノシゲケク》 夏草乃《ナツクサノ》 苅掃友《カリハラヘドモ》 生布如《オヒシクガゴト》
コノ頃ノ私ノ〔二字傍線〕戀シク思フ心ノ頻繁ナコトハ、丁度〔二字傍線〕夏草ガ苅リ拂ツテモ苅リ拂ツテモ、後カラ後カラ〔十二字傍線〕頻リニ生エ(239)ルヤウナモノダ。
○廼者之《コノゴロノ》――廼はスナハチ・ソノなどの意であるから、ここは廼者をこの頃の意に用ゐたのである。○生布如《オヒシクガゴト》――舊訓を改めて古義にオヒシクゴトシとよんだのは從ひ難い。卷三の跡無如《アトナキガゴト》(三五一)參照。生布《オヒシク》は生ひ頻く。頻りに生ふること。生ひ及く意ではない。
〔評〕 よく出來た歌だ。譬喩適切。民衆の歌らしい。卷十一の吾背子爾吾戀良久者夏草之苅除十方生及如《ワガセコニワガコフラクハナツクサノカリソクレドモオヒシクガゴト》(二七六九)の異傳であらう。
1985 まくずはふ 夏野の繁く 斯く戀ひば まこと吾が命 常ならめやも
眞田葛延《マクズハフ》 夏野之繁《ナツヌノシゲク》 如是戀者《カクコヒバ》 信吾命《マコトワガイノチ》 常有目八方《ツネナラメヤモ》
(眞田葛延夏野之)頻繁ニコンナニ私ガ人ヲ戀シテヰルナラバ、ホントニ私ノ壽命モ長ク續カウヤ。トテモ駄目ダラウ。モウ戀死スルヨリ外ニ道ハナイ〔トテ〜傍線〕。
○眞田葛延夏野之繁《マクズハフナツヌノシゲク》――マクズハフナツヌノをシゲクの序詞とも見るべく、又マクズハフを夏野の枕詞として、夏野のやうに繁くとも見得べく、或はマクズハフナツヌノを譬喩とも考へ得るのであるが、ここは序詞として置かう。○信吾命《マコトワガイノチ》――舊訓を改めて童蒙抄に、サネワガイノチとあり、略解・古義・新考などそれに從つてゐるが、信有得哉《マコトアリエムヤ》(一三五〇)・信今夜《マコトコヨヒハ》(二八五九)・信吾命《マコトワガイノチ》(二八九一)などと共に、マコトと訓まう。
〔評〕 卷十二の荒玉之年緒長如此戀者信吾命全有目八目《アラタマノトシノヲナガクカクコヒバマコトワガイノチマタカラメヤモ》(二八九一)に似て、これは草に寄せた點が違つてゐるのみで、どちらもかなりな歌である。
1986 我のみや かく戀すらむ 杜若 丹づらふ妹は 如何にかあらむ
吾耳哉《ワレノミヤ》 如是戀爲良武《カクコヒスラム》 垣津旗《カキツバタ》 丹頬合妹者《ニツラフイモハ》 如何將有《イカニカアラム》
ワタシバカリガコンナニアノ女ヲ〔四字傍線〕戀シク思フノダラウカ。ワタシガ戀シテヰル〔九字傍線〕、(垣津旗)顔ノ美シイ女ハ、ヤ(240)ハリコンナニワタシヲ戀シテヰルダラウカ〔ヤ〜傍線〕、ドウデアラウ。
○垣津旗《カキツバタ》――枕詞。ニヅラフにつづく。○丹頬合妹者《ニヅラフイモハ》――奮本、丹類令妹者とあるのは寫し誤つたのである。元暦校本に頬合とあるによつて改めた。ニヅラフは顔の赤く美しいこと。
〔評〕 自分の戀があまりの烈しさに、相手の女の我に對する戀情の程度を、我に比してどうだらうかと思ひやつたので、戀する人の心の常であらう。ここでは杜若が草として取扱はれてゐる。
寄v花
1987 片よりに 糸をぞ吾がよる 吾が背子が 花橘を 貫かむと思ひて
片搓爾《カタヨリニ》 絲※[口+立刀]曾吾搓《イトヲゾワガヨル》 吾背兒之《ワガセコガ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 將貫跡母日手《ヌカムトモヒテ》
私ハ〔二字傍線〕私ノ愛スル〔三字傍線〕男ノ家ノ橘ノ花ヲ糸ニ〔二字傍線〕通サウト思ツテ、片一方ニバカリ糸ヲ搓ツテヰマス。私ハ戀スル男トノ戀ガカナフヤウニト思ツテ、片思ヲシテココロヲナヤマシテヰマス〔私ハ〜傍線〕。
○片搓爾《カタヨリニ》――片搓は片方からばかり縒をかけること。片戀の意を持たせてある。
〔評〕 代匠記精撰本に「寄花歌なれば、花橘は花の時見て、實にならばぬかむと思ふなり」とあるが、花橘とあるからやはり花であらう。しかし橘は花のうちから實の形をなしてゐるので、その實を糸に貫くのであらう。片戀を寄せたものか。かなり工夫の多い歌である。
1988 鶯の 通ふ垣根の 卯の花の うき事あれや 君が來まさぬ
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 徃來垣根乃《カヨフカキネノ》 宇能花之《ウノハナノ》 厭事有哉《ウキコトアレヤ》 君之不來座《キミガキマサヌ》
(※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之)何カ私ニ對シテ〔七字傍線〕イヤダト思フコトガアルト見エテ、アノオ方ハオイデニナリマセヌ。サモナクバオイデニナル筈ダガ〔サモ〜傍線〕。
(241)○※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノ》――厭《ウキ》といはむ爲の序詞。鶯が通つて來る垣根に咲く卯の花の。略解に「鶯はくれども君は我をうしといふ心あればにや君が來ぬと也」とあるのは考へ過ぎではあるまいか。
〔評〕 卷八の霍公烏鳴峯乃上能宇乃花之厭事有哉君之不來益《ホトトギスナクヲノウヘノウノハナノウキコトアレヤキミガキマサヌ》(一五〇一)とよく似てゐるが、鶯の方がウの音を繰返す點に興味が多い。一體この歌は音調に重きを置いてゐるので、上句が皆ノの音で終へてゐるのも注意すべきである。拾遺集には第一句を郭公に改めて載せてある。蓋し春の鳥の鶯を卯の花に配するのを怪しんだのであらう。
1989 卯の花の 咲くとはなしに ある人に 戀ひや渡らむ 片思にして
宇能花之《ウノハナノ》 開登波無二《サクトハナシニ》 有人爾《アルヒトニ》 戀也將渡《コヒヤワタラム》 獨念爾指天《カタモヒニシテ》
私ニ逢ハウト思フ心ガマダ〔私ニ〜傍線〕(宇能花之)開ケナイデヰル人ニ、私ハ片思ヲシテ、戀ヒツヅケテヰルコトカヨ。ホントニバカラシイ〔九字傍線〕。
○宇能花之《ウノハナノ》――開《サク》と言はむ爲に置いた、枕詞式用法であるが、眞の枕詞ではない。○開登波無二《サクトハナシニ》――心の開けるとまでは行かぬこと。我を愛する心がまだ開けてゐないこと。この開といふ語は譬喩的に用ゐてあるのである。
〔評〕 寄卯花戀の歌で、特に卯の花を持つて來たのは、憂《ウ》といふ聯想があるからではあるまいか。
1990 我こそは 憎くくもあらめ 吾がやどの 花橘を 見には來じとや
吾社葉《ワレコソハ》 憎毛有目《ニククモアラメ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 見爾波不來鳥屋《ミニハコジトヤ》
アナタハ〔四字傍線〕私コソハ憎ククモアルダラウガ、私ノ屋敷ニ咲イテヰル花橘ヲ、見ニハイラルシヤラナイトイフノデスカ。私ニハ逢ヒニオイデナサラズトモ、花橘ヲ見ニハオイデナサリサウナモノデス〔私ニ〜傍線〕。
〔評〕 女らしいやさしい、なつかしい歌である。卷八紀女郎の闇夜有者宇倍毛不來座梅花開月夜爾伊而麻左自常(242)屋《ヤミナラバウベモキマサジウメノハナサケルツクヨニイデマサジトヤ》(一四五二)に似て、更に詰問的な強い調子である。拾遺集に「われこそは憎くもあらめわがやどの花見にだにも君が來まさぬ」とある伊勢の作は、これを模倣したものであらう。
1991 ほととぎす 來鳴きとよもす 岡べなる 藤波見には 君は來じとや
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴動《キナキトヨモス》 岡邊有《ヲカベナル》 藤浪見者《フヂナミミニハ》 君者不來登夜《キミハコジトヤ》
霍公鳥ガ來テ聲ヲ響カセテ鳴ク、岡ノホトリニ美シク咲イテヰル〔九字傍線〕藤ノ花ヲ見ニ、アナタハオイデナサラナイノデスカ。オイデナサツテハイカガデス。私ニ用ハナクトモ、藤ノ花ヲ見ニオイデニナリサウナモノデス〔オイ〜傍線〕。
〔評〕 前の歌と同型同想と言つてよい。郭公鳴き、藤の花咲く岡に、家居する人の作で、詰問的の力強い歌になつてゐる。
1992 隱りのみ 戀ふれば苦し なでしこの 花に咲き出よ あさなさな見む
隱耳《コモリノミ》 戀者苦《コフレバクルシ》 瞿麥之《ナデシコノ》 花爾開出與《ハナニサキデヨ》 朝旦將見《アサナサナミム》
心ノ中ニ包ンデバカリ戀シテヰレバ辛イコトデス。イツソノコト〔六字傍線〕瞿麥ガ花ト咲キ出ルヤウニ、外ニアラハシテ表向キニ戀ヲ〔外ニ〜傍線〕シナサイ。サウシタラ人目ナドニカマハズニ〔十字傍線〕、毎朝毎朝逢ヒマセウ。
○隱耳《コモリノミ》――心の中に包み忍んでばかりの意。○花爾開出與《ハナニサキデヨ》――花の如く咲き出でよの意で、即ち表向に戀をあらはせといふのである。
〔評〕 瞿麥の花に寄せた歌。結句|朝旦將見《アサナサナミム》にも寄せる意があらはれてゐる。卷十六の隱耳戀者辛苦山葉從出來月之顯者如何《コモリノミコフレバクルシヤマノハユイデクルツキノアラハサバイカニ》(三八〇三)と似てゐる。
1993 よそのみに 見つつを戀ひむ くれなゐの 末採む花の 色に出でずとも
外耳《ヨソノミニ》 見筒戀牟《ミツツヲコヒム》 紅乃《クレナヰノ》 末採花之《スヱツムハナノ》 色不出友《イロニイデズトモ》
私ハアナタノコトヲ戀シク思ヒマスガ、人ノ口ガヤカマシイカラ〔私ハ〜傍線〕、(紅乃末採花乃)麦ニアラハシテ戀セズト(243)モ、アナタヲ〔四字傍線〕他所《ヨソ》目ニバカリ見テ戀ヲシテ居リマセウ。
○見筒戀卑《ミツツヲコヒム》――舊本筒を箇に誤つてゐる、神田本によつて改めた。○紅乃末採花乃《クレナヰノスヱツムハナノ》――略解に「末は集中宇禮とのみ訓めれば、宣長はうれつむ花と訓まむと言へり」とある。ここは中世以來の訓に從つて置かうと思ふ。紅の末採花は紅花のことで、莖頭に咲く花を採んで染料とするから、末採花といふのである。この二句は色に出づの序詞として用ゐられてゐる。
〔評〕 古今集の「人知れず思へばくるし紅の末つむ花の色に出でなむ」と言葉は似てゐるが、意は反對である。
寄v露
1994 夏草の 露別衣 つけなくに 吾が衣手の ひる時もなき
夏草乃《ナツグサノ》 露別衣《ツユワケゴロモ》 不著爾《ツケナクニ》 我衣手乃《ワガコロモデノ》 千時毛名寸《ヒルトキモナキ》
夏草ノ茂ツタ中ノ露ヲ別ケテ行ケバ、着物ハ濡レルモノダガ、ワタシハ〔夏草〜傍線〕夏草ノ露ノ中ヲ別ケテ通ツタ着物ハ着テモヰナイノニ、ワタシノ着物ノ袖ハ乾ク間モアリマセヌ。コレハ皆ワタシガ、アナタヲ戀シク思ツテ流シタ涙デス〔コレ〜傍線〕。
○露別衣《ツユワケゴロモ》――夏草の露を押し分けて行く衣の意である。新考にツユワケシキヌとよんだのは考によつたものか。從ひ難い。○不著爾《ツケナクニ》――舊訓キモセヌニとあるのは俗調でおもしろくない。略解にキセナクニとよんで「きせなくにのせは、老せぬ、絶せぬなどのせにひとしく古言なり。卷四、吾せこが蓋世流《ケセル》衣など詠めり」と言つてゐる。ケセルのセは敬語のスで四段活用であるから、これとは異なつてゐる。ここは新訓に從つてツケナクニと訓むことにした。
〔評〕 夏草の露分衣は優雅な詞である。これと吾が衣と對比して、おのづから譬喩になつてゐるのがおもしろい。
(244)寄v日
1995 六月の 地さへ割けて 照る日にも 吾が袖ひめや 君に逢はずして
六月之《ミナヅキノ》 地副割而《ツチサヘサケテ》 照日爾毛《テルヒニモ》 吾袖將乾哉《ワガソデヒメヤ》 於君不相四手《キミニアハズシテ》
六月頃ノ日光ハ實ニ強クテ何デモ乾カスガ〔六月〜傍線〕、地サヘ裂ケルヤウナ強イ〔二字傍線〕六月ノ日光ニモ、アナタニオ目干カカラナイデハ、ワタシノ袖ハ乾キハシマセヌ。私ハアナタヲ思ツテ絶エズ泣イテヰルカラ、私ノ袖ハイツデモ乾きマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
〔評〕 力強い歌だ。地さへ裂けて照る日といふ語は、類のない珍らしいもので、雄勁な内容と調子とはこの集でなくては見られないものである。
秋雜歌
七夕
1996 天の川 水底さへに 照らす舟 はてし舟人 妹とみえきや
天漢《アマノガハ》 水左閇而《ミナソコサヘニ》 照舟《テラスフネ》 竟舟人《ハテシフナビト》 妹等所見寸哉《イモトミエキヤ》
天ノ川ノ水ノ底マデモ照ラス程ノ美シイ〔五字傍線〕舟ニ乘ツテ對岸ニ〔七字傍線〕着イタ牽牛星トイフ〔六字傍線〕舟人ハ、妻ノ織女星〔四字傍線〕ト今夜一年ブリデ〔七字傍線〕逢ツタデアラウカ。ドウデアラウ〔六字傍線〕。
○水左閉而《ミナソコサヘニ》――舊本|水左閉而照《ミヅサヘニテル》とあるが、略解に「古本水の下底の字有り。然れば二三四の句みなそこさへに(245)てるふねのはててふなびとと訓べし」とあるに從ふ。但し校本萬葉集に底の字ある本が見えないが、赤人集にこの歌を「あまのかはみなそこまてにてらすふねつひにふなひといもとみえずや」とあるから、底の字のある本もあつたのであらう。新訓に「水|障《サ》へて照る舟競ひ」とあるが、意が明らかでないやうである。ミナソコサヘニテラスフネは舟が美しく色どられてゐるので、水の底までも映ずるのである。而の字も異本はないが、丹などの誤であらうか。○竟舟人《ハテシフナビト》――竟は温故堂本に競に作つてゐるので、新訓には上につづけて、フナギホヒと訓んでゐるが、他本は皆竟とあるのだから、竟としてよむ方がよいやうに思ふ。竟は竟而佐守布《ハテテサモラフ》(一一七一)・年者竟杼《トシハハツレド》(二四一〇)など、ハツとよむべき文字である。ハテシフナビトは對岸へ到着した舟人、即ち牽牛星のことである。
〔評〕 牽牛星の喜びを想像してゐる。懷風藻に見えた七夕の詩「玲瓏映2彩舟1」とあるのと同想である。七夕の歌がここに長歌短歌併せて一百九十八首に及んでゐるのは、如何にこの傳説が廣く行はれてゐたかを示すもので、これも當時流行した神仙思想と、同一傾向によるものと見るべきであらう。
1997 久方の 天の川原に ぬえ鳥の うらなげましつ ともしきまでに
久方之《ヒサカタノ》 天漢原丹《アマノカハラニ》 奴延鳥之《ヌエトリノ》 裏歎座津《ウラナゲマシツ》 乏諸手丹《トモシキマデニ》
(久方之)天ノ川原デ、棚機ハ彦星ノ來ルノヲ待ツテ、コンナニ戀シガルノハ〔棚機〜傍線〕珍ラシク思ハレル程ニ、(奴延鳥之)心デ歎息シテヰル。
○奴延鳥之裏歎座津《ヌエトリノウラナゲマシツ》――卷一に奴要子鳥裏歎居者《ヌエコトリウラナゲヲレバ》(五)とあるのと同じで、奴延鳥之《ヌエドリノ》はウラナゲの枕詞。ウラナゲは心の中に歎くこと。この下にも奴延鳥浦嘆居《ヌエトリノウラナゲヲリト》(二〇三一)とあり、卷十七に奴要鳥能宇艮奈氣之郡追《ヌエドリノウラナゲシツツ》(三九七八)ともある。○乏諸手丹《トモシキマデニ》――トモシは代匠記初稿本に、「かかるこひは、たぐひすくなく、めづらしきまでになり」とある意であらう。古義は羨ましきまでにの意とし、新考は「哀などの誤としてカナシキマデニとよむべし」とある。諸手をマデとよむのは、左右・二手をマデとよむのと同じで、兩手をマデといつたのである。
〔評〕 これは彦星を待ちわぶる、織女の状態を見てゐる、第三者の心を述べたものである。優れた歌ではない。
1998 吾が戀を つまは知れるを 行く船の 過ぎて來べしや 言も告げなむ
(246)吾戀《ワガコヒヲ》 嬬者知遠《ツマハシレルヲ》 往船乃《ユクフネノ》 過而應來哉《スギテクベシヤ》 事毛告火《コトモツゲナム》
私ガ戀フルコトヲ夫ノ彦星〔三字傍線〕ハ知ツテヰルノニ、天ノ河ヲ〔四字傍線〕行ク舟ガ、黙ツテ〔三字傍線〕通リ過ギルトイフコトガアルモノデスカ。何トカ〔三字傍線〕言傳シテモラヒタイモノデス。
○吾戀《ワガコヒヲ》――舊訓を略解にワガコフルと改めたのはよくない。○嬬者知遠《ツマハシレルヲ》――舊訓イモハシレルヲとあるのはよくないであらう。略解に「知一本彌に作るぞよき。つまはいやとほくと訓べし」とあるのは、落ちつかない訓である。○事毛告火《コトモツゲナム》――舊訓コトモツゲラヒとあるのではわからない。童蒙抄や略解に火を哭の誤としてコトモツゲナクとよんでゐるが、火は卷十三に二二火四吾妹《シナムヨワギモ》(三二九八)とあり、火を方角に配すれば南に當るから、火を南に借りてナムと訓ませたのであらう。珍らしい用字法の一例である。
〔評〕 織女星の心になつてよんだものである。一寸難解の點もないではないが、右のやうに訓めば理義明白である。第三句を枕詞とする説はよくない。
1999 あからひく 敷妙の子を しば見れば 人妻ゆゑに 我戀ひぬべし
朱羅引《アカラヒク》 色妙子《シキタヘノコヲ》 數見者《シバミレバ》 人妻故《ヒトヅマユヱニ》 吾可戀奴《ワレコヒヌベシ》
顔色ノ赤イ美シイ女ヲ度重ネテ見ルト、アレハ〔三字傍線〕人ノ妻ダノニ、私ハ思ガ加ハツテ〔六字傍線〕戀シク思フデアラウ。
○朱羅引《アカラヒク》――枕詞。赤ら引く。赤らは赤ら橘などの赤らであらう。ひくは光る、輝くなどの意か。この枕詞は朝・日・月・肌などにもつづいてゐるが、ここに色妙子《シキタヘノコ》につづいたのは、顔の色の赤く輝く意であらう。○色妙子《シキタヘノコヲ》――イロタヘノコヲと訓む説もあるが、卷二に色妙乃枕等卷而《シキタヘノマクラトマキテ》(二二二)とあるによれば、イロタへはよくないやうである。シキタヘは古義に「色《シキ》は重浪《シキナミ》の重《シキ》にて妙《タヘ》は微妙《クハシクタヘ》なる謂ならむ。美女を稱ていふなるべし」とあるのに從はう。○數見者《シバミレバ》――屡々見れば。○人妻故《ヒトヅマユヱニ》――人妻だのに。この故には、ダノニ、ナルモノヲなどの意で、集中に多い。
(247)〔評〕人妻を戀ふる歌である。七夕の歌らしくないが、朱羅引色妙子《アカラヒクシキタヘノコ》を織女に見たのであらう。織女の美に見とれた人の歌として、七夕の歌と見られないことはない。
2000 天の川 安の渡に 船うけて 秋立つ待つと 妹に告げこそ
天漢《アマノガハ》 安渡丹《ヤスノワタリニ》 船浮而《フネウケテ》 秋立待等《アキタツマツト》 妹告與具《イモニツゲコソ》
天ノ川ノ安ノ渡《ワタリ》ニ船ヲ浮ベテ、ワタシハ〔四字傍線〕秋ガ來ルノヲ待ツテヰルト、ワタシノ〔四字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ニ告ゲテクレヨ。
○安渡爾《ヤスノワタリニ》――天の川の渡舟場を安の渡といつたのである。古事記に「是以八百萬神於2天安河之河原1神集集而《ココヲモテナホヨロヅヨノカミアメノヤスノカハラニカムツドヒツドヒテ》」とあり、天上の川を天の安川といつたのを移して七夕傳説に取り入れ、天の川の名としたものである。○秋立待等《アキタツマツト》――秋の來るのを待つてゐるとの意、舊訓にアキタチマツトとあるのはわるい。宣長が秋を我の誤としてワガタチマツトいつたのも從ひがたい。○妹告與具《イモニツゲコソ》――與具は略解に乞其の誤とあるが、與は遊飲與(《アソビニモコソ》(九九五)・相見與《アフトミエコソ》(二八五〇)などのやうに一字でコソと訓む字であるから、それにソを添へたものであらう。さう見れば具は其《ソ》の誤ではあるまいか。卷十三の眞福在與具《マサキクアリコソ》(三二五四)も同樣に考へたい。
〔評〕 牽牛が織女を待ちわびる心を述べたもの。神代卷の高天原の安の河を、銀河に移したのはおもしろい。
2001 大空ゆ 通ふ我すら 汝が故に 天の川路を なづみてぞ來し
從蒼天《オホゾラユ》 往來吾等須良《カヨフワレスラ》 汝故《ナガユヱニ》 天漢道《アマノカハヂヲ》 名積而叙來《ナヅミテゾコシ》
空ヲ飛ンデ〔三字傍線〕通フコトノ出來ル〔六字傍線〕ワタシダガ、ソレデ〔五字傍線〕スラ、今夜ハ空ヲ飛バズニ〔九字傍線〕、アナタ故ニ天ノ川ノ道ヲ、苦シイ思ヒヲシナガラ歩イテ〔三字傍線〕來マシタ。
○從蒼天往來吾等須良《オホゾラユカヨフワレスラ》――大空を飛び通ふことの出來る我すらにの意で、星は空を飛ぶので、牽牛の心になつてかくいつたのである。○名積而叙來《ナヅミテゾコシ》――ナヅムは骨折り苦しむこと。
〔評〕 牽牛が天の川路に行き惱む辛勞を、織女に訴へる趣で、一二の句に興味がある。
2002 八千戈の 神の御世より 乏しづま 人知りにけり 繼ぎてし思へば
(248)八千戈《ヤチホコノ》 神自御世《カミノミヨヨリ》 乏?《トモシヅマ》 人知爾來《ヒトシリニケリ》 告思者《ツギテシオモヘバ》
八千戈ノ神ノ昔ノ〔二字傍線〕御代カラ、ワタシガ〔四字傍線〕絶エズ戀シク思ツテヰルノデ、ワタシノ〔四字傍線〕愛スル妻ヲ、人ガ知ツテシマツタヨ。
○八千戈神自御世《ヤチホコノカミノミヨヨリ》――八千戈神は大國主神の別名、一〇六五參照。○乏?《トモシヅマ》――トモシはここでは、なつかしく愛する意。トモシヅマは織女を指す。○告思者《ツギテシオモヘバ》――告はツゲをツギに轉じ、繼に借り用ゐたのである。
〔評〕 牽牛星の心を述べてゐる。織女が自分の妻なる由が、世人に知れ渡つてゐることを言つたので、一二五三四と句を次第して見るべきであらう。一二の句は卷六にも見えた句だが、支那傳來の説話を日本化してゐるのが作者の工夫である、
ワタシノ戀シク思ツテヰル美シイ〔三字傍線〕紅顔ノ織女〔三字傍線〕ハ、今夜コソハ天ノ川原ニ石ヲ枕ニシテ、一年ブリデワタシト〔九字傍線〕寢ルデアラウカ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○丹穗面《ニノホノオモワ》――ニノホは赤い色の秀でて美しいこと。面はオモワと訓むがよからう。新考にはオモテとある。卷五に爾能保奈酒意母提乃宇倍爾《ニノホナスオモテノウヘニ》(八〇四)あるが、卷十九には御面謂2之美於毛和1(四一六九)と自註があるから、オモワでよい。○石枕卷《イソマクラマク》――石枕は代匠記精撰本・考・新訓などに、イハマクラとよんであるのもわるくはないが、ここは舊訓によらう。この句は上にコヨヒモカとあるから、イソマクラマカムと結ぶべきところであらうが、斷定的にマクとしたのであらう。
〔評〕 第三句の今夕《コヨヒ》は何日のこととも解し得るが、七日の夕のこととして、牽牛の心になつてよんだ歌とすべきであらう。少しく感覺的の傾向がある。
2004 おのが夫 乏しむ子らは 泊てむ津の 荒磯まきて寝む 君待ちがてに
(249)己?《オノガツマ》 乏子等者《トモシムコラハ》 竟津《ハテムツノ》 荒礒卷而寐《アリソマキテネム》 君待難《キミマチガテニ》
自分ノ夫ヲナツカシガル織女トイフ〔五字傍線〕女ハ、夫ノ彦星〔三字傍線〕ヲ待チカネテ、ソノ舟ガ〔四字傍線〕着ク天ノ川ノ〔四字傍線〕船着場ノ荒磯ヲ枕トシテ寢ルデアラウ。
○己?《オノガツマ》――舊訓による。略解にシガツマノとあるのはよくない。?の字を用ゐてあるが、夫の彦星のことである。○乏子等者《トモシムコラハ》――舊訓トモシキコラハとあるが、略解の宣長説による。ともしむはなつかしむこと。子等は織女を指す。○竟津《ハテムツノ》――舊訓アラソヒツとある。代匠記初稿本、竟の上、舟の字脱として、フネハテツとよんでゐる。考には竟を立見の二字として、タチテミツとよんでゐる。略解の宣長説はハツルツノとしてゐるのもよいが、古義にハテムツノとあるのに從はう。○荒礒卷而寐《アリソマキテネム》――略解に從つた。古義にはアリソマキテヌとある。これは宣長説によつたのである。
〔評〕 古來訓法が統一せられないで、意味もいろいろに解せられる。併し、右のやうに訓めばあまり無理もないやうだ。第三者が織女の有樣を想像したものである。
2005 天地と 別れし時ゆ おのがつま しかぞ年にある 秋待つ我は
天地等《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》 自?《オノガツマ》 然叙年而在《シカゾトシニアル》 金待吾者《アキマツワレハ》
天地開闢ノ時カラ、ワタシノ妻トシテ、織女ハ〔六字傍線〕カウシテ手ノ中ノモノトナツテヰル。デ〔傍線〕、ワタシハ妻ニ逢ヘル〔五字傍線〕秋ヲカウシテ〔四字傍線〕待ツテヰル。
○天地等別之時從《アメツチトワカレシトキユ》――卷三の不盡山の歌には天地之分時從《アメツチノワカレシトキユ》(三一七)とあつたが、ここは同意ながら、天と地とが相分離したやうに云つたものである。○然叙手而在《シカゾテニアル》――略解に「四の句誤字あらむ、解しがたし」とあるが、このままで分らぬことはない。織女を妻として手に入れてゐるといふのである。○金待吾者《アキマツワレハ》――金を秋に用ゐたのは五行を四季に配すれは、金が秋に當るからである。
(250)〔評〕 彦星の心を述べたもので、二星の契の古く久しいことがよまれてゐるのは、前の八千戈神自御世《ヤチホコノカミノミヨヨリ》(二〇〇二)、後の乾坤之初時從《アメツチノハジメノトキユ》(二〇八九)などと同樣である。
2006 彦星は 嘆かすつまに 言だにも のりにぞ來つる 見れば苦しみ
孫星《ヒコホシハ》 嘆須?《ナゲカスツマニ》 事谷毛《コトダニモ》 告余叙來鶴《ノリニゾキツル》 見者苦彌《ミレバクルシミ》
彦星ハ自分ヲ思ツテ〔六字傍線〕、嘆イテヰル妻ニ、ソノ樣子ヲ〔五字傍線〕見ルト苦シイノデ、セメテ言葉ダケデモ、言ヒ慰メヨウト思ツテ〔言ヒ〜傍線〕、言ヒニ來マシタ。
○告余叙來鶴《ノリニゾキヅル》――告は集中ノリともツゲともよんであるが、ここはノリとして置かう。余は元暦校本・類聚古集、その他の古本多くは爾に作つてゐるから、その誤に違ひない。
〔評〕 彦星の心を第三者が側から述べたものである。新考に結句を不見者苦彌《ミズバクルシミ》と改めたのは妄であらう。
2007 久方の 天つしるしと 水無河 隔てて置きし 神代し恨めし
久方《ヒサカタノ》 天印等《アマツシルシト》 水無川《ミナシガハ》 隔而置之《ヘダテテオキシ》 神世之恨《カミヨシウラメシ》
(久方)空ノシルシトシテ、水ノ無イ天ノ〔二字傍線〕川ヲ流シテソレデ我等二人ノ間ヲ〔流シ〜傍線〕、隔テテ置イタ神代ガ恨メシイ。
○天印等《アマツシルシト》――天の標として。次の長歌に天地跡別之時從久方乃天驗常定大王天之河原爾《アメツチトワカレシトキユヒサカタノアマツシルシトサダメテシアマノカハラニ》(二〇九二)とあるのも同じ。○水無河《ミナシガハ》――前に引いた長歌に天之河原爾《アマノカハラニ》とある通り、これは天の河を指してゐる。下界から見れば水が見えないので、水無川《ミナシガハ》といふのであらう。舊訓はミナセガハとある。
〔評〕 これは二星の心になつて詠んでゐる。悠久な、しかも逢瀬の尠い戀を悲しんでゐる。
2008 ぬば玉の 夜霧がくりて 遠くとも 妹が傳へは 早く告げこそ
黒玉《ヌバタマノ》 宵霧隱《ヨギリガクリテ》 遠鞆《トホクトモ》 妹傳《イモガツタヘハ》 速告與《ハヤクツゲコソ》
(黒玉)夜ノ霧ガ立チコメテ、ワタシノ居ル所ガソコカラ〔ワタ〜傍線〕遠クトモ、ワタシノ〔四字傍線〕妻ノ織女ノ〔三字傍線〕言傳は、速クワタシニ〔四字傍線〕知(251)ラセテクダサイ。
○黒玉《ヌバタマノ》――夜の枕詞。八九參照。○宵霧隱《ヨギリガクリテ》――舊訓はヨギリコモリテとあるが、下に烏玉之夜霧隱遠妻手乎《ヌバタマノヨギリガクリニトホヅマノテヲ》(二〇三五)とあるから、ガクリとよむべきであらう。○妹傳《イモガツタヘハ》――古義に傳の下、言を補つて、イモガツテゴトをよんでゐる。ここは考による、意はツテゴトに同じ。
〔評〕 彦星が織女からの、使を待ちわぶる心を述べてゐる。七夕の傳説としては少し變つてゐるやうだ。
2009 汝が戀ふる 妹のみことは 飽き足りに 袖振る見えつ 雲隱るまで
汝戀《ナガコフル》 妹命者《イモノミコトハ》 飽足爾《アキタリニ》 袖振所見都《ソデフルミエツ》 及雲隱《クモガクルマデ》
アナタノ戀ヒ慕フ妻ノ織女ノ〔三字傍線〕君ハ、アナタガ〔四字傍線〕遠ク雲隱レテ見エナクナルマデ、飽クマデモ袖ヲ振ツテ居ルノガ見エル。
○飽足爾《アキタリニ》――舊訓アクマデニとあるが、文字通りによんだ童蒙抄説にょる。飽き足るまでにの意。
〔評〕 織女が別れを惜しむ樣を、第三者が彦星に告げる歌である。
2010 ゆふづつも 通ふ天路を いつまでか 仰ぎて待たむ 月人をとこ
夕星毛《ユフヅツモ》 往來天道《カヨフアマヂヲ》 及何時鹿《イツマデカ》 仰而將待《アフギテマタム》 月人壯《ツキヒトヲトコ》
既ニ日モクレテ〔七字傍線〕、宵ノ明星モ、天ヲ通フ頃トナツタノニ、アノ〔天ヲ〜傍線〕天ヲ仰イデ、月ヨ、ワタシハ彦星ノ來ルノヲ〔ワタ〜傍線〕何時マデ待ツノデアラウゾ。
○夕星毛《ユフヅツモ》――夕星《ユフヅツ》は和名抄に長庚由不豆々とあり、即ち太白星のことである。○月人壯《ツキヒトヲトコ》――月をいふ。左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》(九八三)に同じ。代匠記にこれを彦星のこととし、略解もそれに從つてゐるが誤であらう。
〔評〕 織女が彦星の來ることの遲いのを待ちわびて、月に言ひかける言葉であらう。仰而將待《アフギテマタム》の句が天の川を隔ててゐるものを待つとしては、ふさはしくないとの考から、古義には月を待つ歌として「此歌は月を待歌なる(252)がまぎれて七夕の歌の中に入たるならむ」とあるが、七夕の夜に月を詠んだ歌は卷十五に七夕歌一首、於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登※[示+古]《オホフネニマカヂシジヌキウナバラヲコギデテワタルツキヒトヲトコ》(三六一一)とあるから、月を詠ずるのも不思議はないのである。これはここの七夕歌中では佳作であらう。
2011 天の川 いむかひ立ちて 戀ふるとに 言だに告げむ つま問ふまでは
天漢《アマノガハ》 已向立而《イムカヒタチテ》 戀等爾《コフルトニ》 事谷將告《コトダニツゲム》 ?言及者《ツマトフマデハ》
天ノ川ニ向ヒ立ツテ、ワタシハ織女ヲ戀〔八字傍線〕シテ居ル時ニ、セメテ使デモヨコシテ〔七字傍線〕傳言デモシテクダサイ。七夕ノ夜ガ來テ親シク〔十七字傍線〕妻ヲ訪フマデハ、ドウゾ使デモヨコシテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
○已向立而《イムカヒタチテ》――舊訓はコムカヒとあるが、已は音イであるから、イムカヒである。イは添へて言ふのみ。○戀等爾《コフルトニ》――舊訓コフラクニとあるが、代匠記精撰本の説による。戀ふる時にの意。トニは夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》(一八二二)參照。○?言及者《ツマトフマデハ》――この句は諸説があるが、暫く新訓に「?《ツマ》問ふまでは」とあるによつて解かう。即ち言《トフ》を問の借字と見るのである。少し無理のやうであるが、他に良説もない。
〔評〕 彦星の心であらう。織女の心と見られぬこともない。
2012 白玉の 五百つつどひを 解きも見ず あは干しがたぬ 逢はむ日まつに
水良玉《シラタマノ》 五百都集乎《イホツツドヒヲ》 解毛不見《トキモミズ》 吾者干可太奴《アハホシガタヌ》 相日待爾《アハムヒマツニ》
白玉ノ澤山ヲ貫イタ飾ノ紐ヲ〔七字傍線〕解イテ二人デ安ラカニ寢テ〔九字傍線〕モ見ナイデ、ワタシハ妻ト〔二字傍線〕相逢フ日ヲ待ツテ涙ニ袖ヲ〔四字傍線〕干シカネテヰル。
○水良玉《シラタマノ》――水をシの假名に用ゐたのは、珍らしいが、水長鳥《シナガドリ》(一七三八)ともあるから、水はシと訓むべき文字である。○釘五百都集乎《イホツツドヒヲ》――五百箇《イホツ》集を。白玉の五百箇集は即ち首にかける御統《ミスマル》の玉である。○吾者干可太奴《アハホシガタヌ》――我は干すに勝へず、即ち干しかねるの意。袖の涙を干し得ずといふのであらう。ガタヌはガテヌに同じ。
(253)九八參照。
〔評〕 織女が彦星を待つ心である。干可太奴《ホシガタヌ》とのみ言つて、袖の涙を干しかねると解するのは、少し無理のやうでもあるが、他に良解もない。一二の句は天人らしい装である。
2013 天の川 水かげ草の 秋風に 靡かふ見れば 時は來にけり
天漢《あまのがは》 水陰草《ミヅカゲグサノ》 金風《アキカゼニ》 靡見者《ナビカフミレバ》 時來之《トキハキニケリ》
天ノ川ノ水ノホトリノ〔四字傍線〕蔭ニ生エテヰル草ガ、秋風ニ靡クノヲ見ルト、彦星ガ尋ネテ來ル〔八字傍線〕時ガ來タラシイ。
○水陰草《ミヅカゲグサ》――眞淵はミコモリグサとよんで、「祝詞にミクマリともミコモリとも訓如く、みなまたに生たる草をいふ也」といひ、古義はこれに從つてゐる。新考はこの訓に從つて、解は「水中に生ひたる草」としてゐる。この陰の字は、大矢本・京大本は隱に作つてゐる。水隱は水隱爾《ミコモリニ》(一三八四)・(二七〇七)・水隱《ミコモリニ》(二七〇三)などの用例があつて、水中に隱れて見えぬことである。ここをミコモリグサと讀み得ぬことはあるまいが、水中に隱れた草としては下に秋風に靡くとあるのに相應しない。水中に生ひたる草とするのは、コモルの意に合致しない。陰草《カゲグサ》は下にも影草乃生有屋外之暮陰爾《カゲグサノオヒタルヤドノユフカゲニ》(二一五九)とあり、物陰に生ひたる草をいふらしい。で、ここはミヅカゲグサとよんで、水邊の物蔭に生ずる草とするのが穩やかではあるまいか。卷十二の山河水陰生山草《ヤマカハノミヅカゲニオフルヤマスゲノ》(二八六二)の水陰も水邊の物蔭と解すべきであらう。○靡見者《ナビカフミレバ》――舊訓ナビクヲミレバとあるのでもわるくはない。○時來之《トキハキニケリ》――之の字は元磨校本・類聚古集・神田本など々になつてゐるといふので、新訓は、舊訓トキハキヌラシ、考に良を補つてトキキタルラシとよんだのを退けて、トキハキニケリとしてゐる。これに從ふことにした。
〔評〕 七夕近い初秋の天の川邊の風景が、爽やかによまれてゐる。彦星を待つ織女の嬉しい心が、あらはれてゐるものと見るべきあらう。
2014 吾が待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも にほひに行かな 遠方人に
吾等待之《ワガマチシ》 白芽子開奴《アキハギサキヌ》 今谷毛《イマダニモ》 爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》 越方人邇《ヲチカタビトニ》
(254)ワタシガ待ツテヰタ秋萩ノ花モ咲イタ。今マデ永イ間待ツテヰタガ、セメテ〔今マ〜傍線〕今デモ、遠クノ方ニ居ル織女星トイフ〔六字傍線〕人ニ逢ヒニユキマセウ。
○白芽子開奴《アキハギサキヌ》――白をアキとよむのは、白は西方秋の色であるからである。下にも白風《アキカゼニ》(二〇一六)とある。○爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》――わからない語である。略解に「なまめきにゆかむといふ意ならむ」とあり。古義も同樣である。○越方人邇《ヲチカタビトニ》――越方人《ヲチカタビト》は遠方にゐる人、即ち織女をいふ。
〔評〕 萩の咲くによつて、織女に逢ふべき時の來れるを、喜んだ彦星の心である。天上を下界と同じく萩の咲くものとした構想が變つてゐる。
2015 吾がせこに うら戀ひをれば 天の川 夜船こぎとよむ かぢの音聞ゆ
吾世子爾《ワガセコニ》 裏戀居者《ウラコヒヲレバ》 天漢《アマノガハ》 夜船榜動《ヨフネコギトヨム》 梶音所聞《カヂノトキコユ》
ワタシガ〔四字傍線〕ワタシノ夫ノ彦星〔三字傍線〕ヲ心ノ中デ戀シガツテ居ルト、天ノ川デ夜舟ヲ漕ギ騷イデヰル櫂ノ音ガ聞エル。イヨイヨ夫ノ彦星ガ來ルト見エル。アア嬉シイ〔イヨ〜傍線〕。
○裏戀居者《ウラコヒヲレバ》――裏は心。この句は心の中に戀してをればの意。
〔評〕 織女の心をよんだ歌。平明な朗らかな作である。
2016 まけ長く 戀ふる心よ 秋風に 妹が音聞こゆ 紐解きゆかな
眞氣長《マケナガク》 戀心自《コフルココロヨ》 白風《アキカゼニ》 妹音所聽《イモガオトキコユ》 紐解往名《ヒモトキユカナ》
月日長ク今マデ〔三字傍線〕戀ヒ慕ツテヰタ私ノ心カラシテ、秋風ノ吹クノニツレテ、妻ノ織女ノ〔三字傍線〕聲ガ聞エル。サア着物ノ〔五字傍線〕紐ヲ解イテ逢ヒニ〔三字傍線〕行キマセウ。
○眞氣長《マケナガク》――マは接頭語で意味はない。ケナガクは日を重ねて、久しく。○戀心自《コフルココロヨ》――戀しく思ふ心から。(255)○妹音所聽《イモガオトキコユ》――新考に「妹音は梶の音の誤なることしるし」とあるが、さう速斷は出來ない。改めない方がよからう。○紐解往名《ヒモトキユカナ》――宣長は往を待の誤として、マタナとし、古義は枉の誤としてマケナとしてゐるが、これももとのままでよい。
〔評〕 彦星の心である。卷八の天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐解設奈《アマノカハアヒムキタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマケナ》(一五一八)、この卷の天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノガハカハトニタチテワガコヒシキミキタルナリヒモトキマタム》(二〇四八)などに似てゐるが、彼は織女の心であるのに、これは彦星の心を述べてゐるところに差異がある。
2017 戀しくは け長きものを 今だにも 乏しむべしや 逢ふべき夜だに
戀敷者《コヒシクハ》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》 今谷《イマダニモ》 乏牟可哉《トモシムベシヤ》 可相夜谷《アヒベキヨダニ》
戀シイノハ、長イ間デアツタノニ、今ニナツテカラ、不足ナ思ヲサセルトイフコトガアルモノデスカ。カウシテ〔四字傍線〕逢ハウトイフ今夜デモ、セメテ不足ノ感ヲ起サセヌヤウニ速ク逢ハセテ下サイ〔セメ〜傍線〕。
○戀敷者《コヒシクハ》――戀しいことはの意。下に戀爲來食永我《コヒシクノケナガキワレハ》(二三三四)、卷十六に戀之久爾痛苦身曾《コヒシクニイタキワガミゾ》(三八一一)、卷二十に故非之久能於保加流和禮波《コヒシクノオホカルワレハ》(四四七五)ともある。○乏牟可哉《トモシムベシヤ》――乏しがらしむべしやの意。即ち充分に滿足するやうに相見むといふのである。
〔評〕 下に戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎《コフルヒハケナガキモノヲコヨヒダニトモシムベシヤアフベキモノヲ》(二〇七九)とあるのと、よく似てゐる。
2018 天の川 こぞの渡りで うつろへば 河瀬を踏むに 夜ぞふけにける
天漢《アマノガハ》 去歳渡代《コゾノワタリデ》 遷閉者《ウツロヘバ》 河瀬於蹈《カハセヲフムニ》 夜深去來《ヨゾフケニケル》
天ノ川ノ去年渡ツタ所ガ、今年ハ丸デ〔五字傍線〕變ツテシマツタノデ、渡ル所ヲアチコチト捜シテ〔渡ル〜傍線〕、河ノ淺瀬ヲ踏ンデヰルウチニ、夜モ深クナツナシマツタ。
○ぎ去歳渡代《コゾノワタリデ》――舊訓コゾノワタリバとあるが、場をバといふことは古くはないから、古義に伐を代の誤として(256)ワタリデとよんだのがよい。伐は類聚古集・神田本その他の古本多くは代となつてゐる。代はデとよむ文字である、仁徳紀に智破揶臂等于泥能和多利珥和多利涅珥多?屡阿豆瑳由瀰摩由彌《チハヤビトウヂノワタリニワタリデニタテルアヅサユミマユミ》とあり、この歌、古事記には知波夜比登宇遲能和多理邇和多理是邇多弖流阿豆佐由美麻由美《チハヤビトウヂノワタリニワタリゼニタテルアヅサユミマユミ》とあり、即ちワタリデはワタリゼの意なることをあらはしてゐる。(涅を湍の誤とする説はとらない)
〔評〕 天上の川を下界の川と同樣に取扱つて、渡り瀬の變つたことを述べてゐる。織女の許へ通ふ彦星の樣を歌つたものである。
2019 古よ あげてし機も 顧みず 天の河津に 年ぞへにける
自古《イニシヘヨ》 擧而之服《アゲテシハタモ》 不顧《カヘリミズ》 天河津爾《アマノカハヅニ》 年序經去來《トシゾヘニケル》
昔カラ織ラウト思ツテ〔七字傍線〕張ツテ置イタ機《ハタ》ヲモ、彦星ガ戀シサニ〔七字傍線〕捨テ置イテ、天ノ河ノ舟着場デ待ツテヰルウチニ〔八字傍線〕幾年モ過ギテシマツタ。
○擧而之服《アゲテシハタモ》――織らうとて懸けて置いた機をもの意。織りあげたことではない。
〔評〕 織女が彦星を戀ふる心を誇大的に述べるに急で、織女の本性が忘れられてゐる。
2020 天の川 夜船をこぎて 明けぬとも 逢はむと念ふ夜 袖交へずあれや
天漢《アマノガハ》 夜船※[手偏+旁]而《ヨブネヲコギテ》 雖明《アケヌトモ》 將相等念夜《アハムトモフヨ》 袖易受將有《ソデカヘズアレヤ》
天ノ川ニ夜舟ヲ榜イデ、アチコチト廻ツテヰルウチニ〔アチ〜傍線〕、夜ガ明ケタニシテモ、戀シイ織女ニ〔六字傍線〕逢ハウト思ツタ今夜ハ、袖ヲカハシテ二人寢〔四字傍線〕ズニハ置カナイゾヨ。
○袖易受將有《ソデカヘズアレヤ》――舊訓にはかうあるが、將有ではアレヤとは訓めない。契沖は有の下に哉の字脱とし、考はこれによつてアラメヤとよんでゐる。略解はもとのままでアラムとよみ、「夜舟を漕ぐに時移りぬれば、こよひもあはずあらむと言ふ也」といつてゐるが、當らない。契沖説に從つて、アレヤとよみ、意はアラメヤに同じ(257)く、必ず袖をかはして彦星と寢むと言ふのである。
〔評〕 天の川を渡らうとして、夜舟に時を過ごす彦星の、いらいらしい氣分をよんでゐる。前の天漢去歳渡伐《アマノカハコゾノワリデ》(二〇一八)の連作のやうでもあるが、各獨立したものであらう。
2021 遠妻と 手枕かへて 寝たる夜は 鷄が音なとよみ 明けば明くとも
遙※[女+莫]等《トホツマト》 手枕易《タマクラカヘテ》 寐夜《ネタルヨハ》 鷄音莫動《トリガネナトヨミ》 明者雖明《アケバアクトモ》
遠ク隔ツテヰル〔六字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ト、手枕ヲ交ハシテ寢タ晩は、夜ハ明ケルナラ明ケテモ、鷄ハ鳴カズニヰテクレヨ。
○遙※[女+莫]等《トホヅマト》――※[女+莫]嬬と同字として用ゐたか。※[女+莫]は醜の意。黄帝の女に※[女+莫]母といふものがあつて、醜婦だつたので、轉じて後世醜婦の意となつたのであるから、ここにはあてはまらない字である。文字辨證に※[女+英]としてゐる。※[女+英]は玉篇に於英切、女人美稱とある。トホツマは遠くにゐる妻、即ち織女をさしたのである。
〔評〕 無理な注文を言ふところに、強い表現がある。彦星の心になつて述べてゐる。
2022 相見らく 飽き足らねども いなのめの 明け行きにけり 船出せむつま
相見久《アヒミラク》 ※[厭のがんだれなし]雖不足《アキタラネドモ》 稻目《イナノメノ》 明去來理《アケユキニケリ》 舟出爲牟?《フナデセムツマ》
ワタシハアナタト逢ウテ〔ワタ〜傍線〕、相見ルコトハマダ〔二字傍線〕厭キ足ラナイケレドモ、(稻目)夜ガ〔二字傍線〕明ケテシマツタ。ダカラ〔三字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ヨ。舟出ヲシテ歸ラ〔三字傍線〕ウ。
○稻目《イナノメノ》――枕詞。明けにつづく。諸説があるが、冠辭考に寢《イネ》の目、明くとしたのがよいか。古義に、稻之群《イナノメ》の熟《アカ》らむとしたのは物遠いやうだ。小竹之目《シヌノメ》(東雲)に關係ある語らしくも思はれる。
〔評〕 彦星が織女に別を惜しむ歌である。この歌、袖中抄に出てゐる。
2023 さねそめて いくだもあらねば 白妙の 帶乞ふべしや 戀もつきねば
左尼始而《サネソメテ》 何太毛不在者《イクダモアラネバ》 白栲《シロタヘノ》 帶可乞哉《オビコフベシヤ》 戀毛不遏者《コヒモツキネバ》
(258)一年ブリデ今夜逢ツテ〔一年〜傍線〕、相寢テカラ未ダ〔二字傍線〕イクラニモナラナイノニ、サウシテ二人ノ〔七字傍線〕戀シク思フ心〔五字傍線〕モ盡キナイノニ、アナタハ寢ル時ニ解イテ置イタ〔アナ〜傍線〕白イ布ノ帶ヲヨコセトオツシヤルト云フコトガアリマスカ。サウ忙シクオ歸リニナルノハ恨メシク思ヒマス〔サウ〜傍線〕。
○左尼始而《サネソメテ》――サは接頭語。この句は今夜逢ひ初めての意。○何太毛不在者《イクダモアラネバ》――イクダは幾何に同じ。アラネバはアラザルニの意。○白栲《シロタヘノ》――帶の枕詞と見られないこともないが、白い布の意とすべきであらう。○帶可乞哉《オギコフベシヤ》――織女に預けて置いた帶を彦星が返してくれといふのを、オビコフといたのである。○戀毛不遏者《コヒモツキネバ》――戀も盡をざるに。
〔評〕 疾く歸らうとする彦星を恨む織女の心である。前の歌の答歌のやうにも思はれる、叙法が露骨に過ぎる。
2024 萬世に たづさはりゐて 相見とも 思ひ過ぐべき 戀にあらなくに
萬世《ヨロヅヨニ》 携手居而《タヅサハリヰテ》 相見鞆《アヒミトモ》 念可過《オモヒスグベキ》 戀爾有莫國《コヒニアラナクニ》
萬年ノ間手ヲ携ヘテ、同棲シテ〔四字傍線〕相逢ウテ居ツテモ、私等二人ノ戀ハソレデ〔私等〜傍線〕思フ心ノ晴レルヤウナ、淺イ〔二字傍線〕戀デハナイヨ。僅カ一年ニ一晩デ別レナクテハナラヌトハ、ナサケナイコトダ〔僅カ〜傍線〕。
○相見鞆《アヒミトモ》――相見るともに同じ。古い格である。○戀爾有莫國《コヒニアラナクニ》――舊本爾を奈に作るは誤。元暦校本による。
〔評〕卷三の山部赤人の長歌の反歌に明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒニアラナクニ》(三二五)と下句全く同じである。いづれが先とも判斷しかねる。共によい作であるが、どうもこれが後らしく思はれる。
2025 萬世に 照るべき月も 雲がくり 苦しきものぞ 逢はむと念へど
萬世《ヨロヅヨニ》 可照月毛《テルベキツキモ》 雪隱《クモガクリ》 苦物叙《クルシキモノゾ》 將相登雖念《アハムトモヘド》
萬年モカハラズニ〔五字傍線〕照ルベキ月デモ、雲ニ隱レテ見エナイ〔五字傍線〕ノハ、イヤナモノダ。我等二人ノ間モ萬年モカハラズ〔我等〜傍線〕(259)ニ逢ハウト思フガ、カウシテ年ニ一夜ダケデ別レテ行クノハ苦シイモノダ〔カウ〜傍線〕。
○雲隱《クモガクリ》――雲に隱れたるはの意。○將相登雖念《アハムトモヘド》――この句と他句との關係が少し不明瞭である。これは、我も萬世に逢はむと思へども、月の雲隱る如く見えずなるは、心苦しき物ぞの意であらう。
〔評〕 叙述の法が著しく變つてゐる。省略は巧と言つてよからう。
2026 白雲の 五百重隱りて 遠けども よひ去らず見む 妹があたりは
白雲《シラクモノ》 五百遍隱《イホヘガクリテ》 雖遠《トホケドモ》 夜不去將見《ヨヒサラズミム》 妹當者《イモガアタリハ》
今カウシテ別レテハ〔九字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ガ住ンデヰル〔五字傍線〕邊ハ、天ノ川ヲ間ニオイテ〔九字傍線〕白雲ガ幾重ニモ隔ツテ、遠クノ方ニアルケレドモ、一晩モカカサズニ毎晩毎晩〔四字傍線〕眺メテヰヨウ。
○五百遍隱《イホヘガクリテ》――舊訓イホヘガクシテとあり、和歌童蒙抄にはイホヘヘダテテとある。考にガクリテとあるのがよいであらう。○夜不去將見《ヨヒサラズミム》――ヨヒサラズは一夜も缺かさず。卷三の夕不離《ユフサラズ》(三五六)と同じく、下にも初夜不去《ヨヒサラズ》(二〇九六)とある。
〔評〕 別を悲しむ彦星のこころである。天漢已向立而《アマノカハイムカヒタチテ》(二〇一一)などとあつたのとは異なり、二星が遠く離れて住むやうに述べてゐる。
2027 吾がためと 棚機つ女の そのやどに 織る白たへは 織りてけむかも
爲我登《ワガタメト》 織女之《タナバタツメノ》 其屋戸爾《ソノヤドニ》 織白布《オルシロタヘハ》 織弖兼鴨《オリテケムカモ》
ワタシニ着セル〔四字傍線〕爲トテ、織女ガ自分ノ家デ織ル白イ布ハ、織リ上ゲタデアラウカヨ。
○織白布《オルシロタヘハ》――古義はオレルシロタヘとよんでゐる。舊訓に從つた。○織弖兼鴨《オリテケムカモ》――古義、織を縫の誤としてゐるのはよくない。
〔評〕 彦星の心である。四五の句に織の字が用ゐられてゐるのは、技巧の進まない時代の歌らしい。
2028 君にあはず 久しき時ゆ 織るはたの 白たへ衣 垢つくまでに
(260)君不相《キミニアハズ》 久時《ヒサシキトキユ》 織服《オルハタノ》 白栲衣《シロタヘゴロモ》 垢附麻弖爾《アカツクマデニ》
アナタニオ目ニカカラナイノデ、久シイ以前カラ織ツテヰル白イ布ノ着物ガ、垢ガ付クマデニナリマシタ〔五字傍線〕。
○君不相久時《キミニアハズヒサシキトキユ》――舊訓はキミアハデヒサシキトキニとある。略解も古義も初句で切つて、結句から、垢附くまでに君に逢はずと、反して解釋してゐる。代匠記精撰本に「發句を讀切て第二句以下を連ねて、久時とは久しき世よりと意得べきか。又初二句をつづけて、久時とは久しき間にと意得べき歟。好まむに從がふべし」とある。その前説を採つたのであらうが、萬葉集には初句切は極めて少いから、それが一目瞭然たる場合でなければ、さうは斷じ難いのに、これは第二句につづくべき語勢である。この歌を赤人集には「きみにあはで久しくなりぬ」とよんでゐるのは最も自然な歌形であるが、用字の上からこのままではさうは訓み難い。第五句の下に「成りぬ」といふやうな意の省かれたものとして見るべきであらう。
〔評〕 右に逃べたやうに、解釋がいろいろになるのは、歌形が整齊を缺くからであらう。
2029 天の川 かぢの音聞ゆ 彦星と たなばたつめと こよひ逢ふらしも
天漢《アマノガハ》 梶音聞《カヂノトキコユ》 孫星與《ヒコボシト》 織女《タナバタツメト》 今夕相霜《コヨヒアフラシモ》
天ノ川ニ楫ノ音ガ聞エテヰル。アレハ彦星ガ乘ツテヰル舟ニ違ヒナイ〔アレ〜傍線〕。彦星ト織女ト今夜逢フラシイヨ。サゾ嬉シイデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
○孫星《ヒコボシト》――孫をヒコとよむのは、和名抄に「爾雅云子爲v孫無萬古。一云比古」とあるので明らかである。
〔評〕 まことに明朗な作である。ごてついた作よりもこの方が氣持がよい。「梶の音聞ゆ」といつたのは天の河邊に立つ者を想像して、その心になつて言つたものか。下界の人が雁聲などを聞いてよんだものとも考へられないことはないが、雁にはまだ季節が早いやうである。
2030 秋されば 河ぎり立てる 天の川 川に向ひゐて 戀ふる夜ぞ多き
(261)秋去者《アキサレバ》 河霧《カハギリタテル》 天川《アマノガハ》 河向居而《カハニムカヒヰテ》 戀夜多《コフルヨゾオホキ》
秋ニナルト天ノ川ニ〔四字傍線〕河霧ガ立チコメテヰル。ソノ〔二字傍線〕天ノ川ニ向ツテヰテ、段々ニ近ヅイテクル七夕ノ夜ヲ思ツテ、夫ヲ〔段々〜傍線〕戀シク思フ夜ガ多イ。
○河霧《カハギリタテル》――舊訓カハキリタチテとあるよりも、タテルがよいであらう。温故堂本に霧の下、立の字があるのによる。後撰集・赤人集など、この句をカハギリワタルとして出してゐるによれば、渡の字が脱ちたものか。新訓にはカハゾキラヘルとよんでゐるが、少し無理かと思はれる。○戀夜多《コフルヨゾオホキ》――新訓コフルヨオホシとある。
〔評〕 二句の訓が少し明瞭を缺き、從つて句と句との連續が曖昧になつてゐるのは惜しい。織女の彦星を待つこころであらう。
2031 よしゑやし ただならずとも ぬえ鳥の うら嘆居りと 告げむ子もがも
吉哉《ヨシヱヤシ》 雖不直《タダナラズトモ》 奴延鳥《ヌエトリノ》 浦嘆居《ウラナゲヲリト》 告子鴨《ツゲムコモガモ》
タトヒ直接ニ逢フコトハ出來ナイデモ、ワタシガカウシテアナタニ逢ヒタサニ〔ワタ〜傍線〕、(奴延鳥)心ニ嘆イテヰルトイフコトヲ、告ゲニヤルヤウナ使ニ行ク〔四字傍線〕子ガアレバヨイガナア。
○吉哉《ヨシヱヤシ》――縱令《タトヒ》。集中に多い語である。縱畫屋師《ヨシヱヤシ》(一三一)參照。○雖不直《タダナラズトモ》――略解に「直ちに言はずとも」とあるが、古義の解に從ふ。○奴延鳥《ヌエトリノ》――枕詞。奴要子鳥《ヌエコトリ》(五)・宿兄鳥之《ヌエトリノ》(一九六)參照。○浦嘆居《ウラナゲヲリト》――ウラは心。卜歎居者《ウラナゲヲレバ》(五)參照。○告子鴨《ヅゲムコモガモ》――略解に「子もがもは、子にもがもといふ意也。子は妹をさす」とあるが、さうではなく、使の子供などをいふのであらう。
〔評〕 織女の閨怨の情である。
2032 一年に 七日のよのみ 逢ふ人の 戀も過ぎねば 夜はふけゆくも 一云、盡きねば さ夜ぞあけにける
一年邇《ヒトトセニ》 七夕耳《ナヌカノヨノミ》 相人之《アフヒトノ》 戀毛不過者《コヒモスギネバ》 夜深往久毛《ヨハフケユクモ》
(262)一年ノウチデモ七夕ノ夜バカリ逢フ彦星、織女ノ二〔六字傍線〕人ノ、戀シイ心〔三字傍線〕モマダ晴レナイノニ、夜ハ深ケテユクヨ。段々別レル曉ガ近クナツテ來タ〔段々〜傍線〕。
○戀毛不過者《コヒモスギネバ》――過は舊本、遏に作つてゐるが、遏では一云と同樣になるから、ここは元暦校本による。
〔評〕 七夕の天上の模樣を想像したもの。二星の稀な逢瀬に同情してゐる。
一云 不盡者《ツキネバ》 佐宵曾明爾來《サヨゾアケニケル》
四五の句の異傳である。この方が優つてあるやうに思はれる。
2033 天の川 安の川原に 定まりて 神つつどひは 時待たなくに
天漢《アマノガハ》 安川原《ヤスノカハラニ》 定而《サダマリテ》 神競者《カムツツドヒハ》 磨待無《トキマタナクニ》
天ノ川ノ安ノ川原デ開コト〔五字傍線〕ニキメタ諸神ノ會合ハ、何時トイフコトモナイノニ。事サヘアレバイツデモ開カレルノニ私ドモ二星ハ、年ニ一度七夕ノ夜ダケトハツライコトダ〔事サ〜傍線〕。
○安川原《ヤスノカハラニ》――舊本ヤスノカハラノとある。神田本による。○定而《サダマリテ》――略解に「宣長云、或人説に、而は西の字の誤」とあつてサダメニシとよんでゐるが、舊訓による。○神競者《カムツツドヒハ》――儘訓ココロクラベハとあり、和歌童蒙抄にもさうなつてゐる。新訓もそれによつてゐるが、それでは意が通じがたいから、略解の訓による。競は集と同意と見て、ツドヒと訓むのである、多少の無理もあらうが、他説に比すれば穩やかである、略解に宣長云或人説に競を鏡として、カミノカガミハとあるのは奇説であらう。○磨待無《トキマタナクニ》――舊訓はトキマツナクニとあるが、考による。磨を時に通ずるものと見るのである。代匠紀初稿本トキモマタナク、童蒙抄・宗師案ミガキテマタナ、愚案トキモマタナク、略解、宣長云或人説、トグマタナクニ、古義は磨待を禁時の誤としてイムトキナキヲ、新考は度時の誤としてワタルトキナシとす。トキマタナクニハ時を待たず、何時にても行はれると(263)いふのである。
〔評〕 かなり難解の歌である。假に考に從つて譯しておいた。八百萬の神の會合は、何時にても行はれるのに、我らのみ逢ひ難しと、羨んだ二星の心であらう。
此歌一首庚辰年作v之
これを左註によつて人麿作とすれば、庚辰は天武天皇九年である。
右柿本朝臣人麿歌集出
右の三十八首ともに、人麿歌集に出てゐるのであらう。古義には右の下、三十八首の四字を補つてゐる。麿の下、古本多くは之の字がある。
2034 棚機の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰か取り見む
棚機之《タナバタノ》 五百機立而《イホハタタテテ》 織布之《オルヌノノ》 秋去衣《アキサリゴロモ》 熟取見《タレカトリミム》
棚機女ガ澤山ノ機ヲ立テテ布ヲ〔二字傍線〕織ツテヰルガ、アノ〔三字傍線〕布デ作ツタ秋ノ着物ハ、誰ガ手ニ〔二字傍線〕取ツテ見テ着〔二字傍線〕ルコトダラウ。モトヨリ彦星ヨリ外ニハ着ルモノハアルイマイ〔モト〜傍線〕。
○五百機立而《イホハタタテテ》――五百機は機の數の多いのをいふ。○秋去衣《アキサリゴロモ》――秋さりて着る衣。即ち秋の衣である。略解の宣長説には「秋去は和布の字の誤にて、にぎたへごろもならむ」とある。古義はこれによつてゐる ○熟取見《タレカトリミム》――手にするものは彦星の外にはないといふので、トリミルは他の用例では、手にとりて世話する意になつてゐるが、ここはそれにかかはらず右のやうに解くべきである。
〔評〕 棚機が五百機を立てて織るといふのが、優雅で且、珍らしい用例である。
(264)2035 年にありて 今かまくらむ ぬば玉の 夜霧がくりに 遠妻の手を
年有而《トシニアリテ》 今香將卷《イマカマクラム》 烏玉之《ヌバタマノ》 夜霧隱《ヨギリガクリニ》 遠妻手乎《トホヅマノテヲ》
一年ブリデ、(烏玉之)夜ノ霧ノ立チコメタ天ノ川ノホトリ〔七字傍線〕デ、彦星ハ〔三字傍線〕遠ク離レテ住ンデヰル妻ノ織女ノ〔三字傍線〕手ヲ、今コソ枕トシテ寢ルデアラウカ。嘸カシ嬉シイダラウ〔九字傍線〕。
○年有而《トシニアリテ》――一年の間待つてゐて。一年ぶりで。卷十五に等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母《トシニアリテヒトヨイモニアフヒコホシモ》(三六五七)ともある。
〔評〕 天漢を仰いで、彦星の歡喜を想像した歌。
2036 吾が待ちし 秋は來りぬ 妹とわれ 何事あれぞ 紐解かざらむ
吾待之《ワガマチシ》 秋者來沼《アキハキタリヌ》 妹與吾《イモトワレ》 何事在曾《ナニゴトアレゾ》 紐不解在牟《ヒモトカザラム》
ワタシガ待ツテヰタ秋ハ來タ。妻ノ織女〔三字傍線〕ト私トハ、何事ガアツテモ衣ノ〔二字傍線〕紐ヲ解イテ寢〔三字傍線〕ナイトイフコトガアラウゾ。紐ヲトイテ共寢ヲシヨウト思フ〔紐ヲ〜傍線〕。
○妹與吾《イモトワレ》――略解にイモトワトとあるが、舊訓に從ふ。この集の語法では、トを二つ用ゐることを必ずしも要としない。○何事在曾紐不解在牟《ナニゴトアレゾヒモトカザラム》――略解に「あれぞは、ありてぞの意也。何事有てか、紐解て寢ぬ事の有べきといふ也」とある通りである。古義に「何事の障あればにや、紐解て相宿せずあるらむとなり」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 秋の逢瀬を喜ぶ彦星の心。少しく官能的である。
2037 年の戀 こよひ盡して 明日よりは 常の如くや 吾が戀ひ居らむ
年之戀《トシノコヒ》 今夜盡而《コヨヒツクシテ》 明日從者《アスヨリハ》 如常哉《ツネノゴトクヤ》 吾戀居牟《ワガコヒヲラム》
一年ノ間待チ焦レテヰタ〔七字傍線〕戀ノ心〔二字傍線〕ヲ、今夜デ晴ラシテシマツテ、明日カラハ又〔傍線〕今マデノヤウニ、ワタシハアナタヲ〔四字傍線〕(265)戀シク思ツテ暮スコトデセウカナア。
○年之戀《トシノコヒ》――年中戀ひ焦れてゐたこころ。
〔評〕 二星のいづれの心とも考へ得るが、女星の心とすべきであらう。
2038 逢はなくは け長きものを 天の川 隔ててまたや 吾が戀ひ居らむ
不合者《アハナクハ》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》 天漢《アマノカハ》 隔又哉《ヘダテテマタヤ》 吾戀將居《ワガコヒヲラム》
逢ハズニ居タコトハ一年間ノ〔四字傍線〕永イ間デアツタノニ、今夜カウシテ逢ツテ、コレカラハ〔今夜〜傍線〕天ノ川ヲ間ニ置イテ、又モ今マデノヤウニ永イ間〔今マ〜傍線〕、ワタシハアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ツテ居ルコトデセウカ。ソレヲ思ヘバ悲シウゴザイマス〔ソレ〜傍線〕。
○不合者《アハナクハ》――逢はぬことはの意。
〔評〕 はつきりした平易な歌で、前と同じく女皇の心であらう。
2039 戀しけく け長きものを 逢ふべかる よひだに君が 來まさざるらむ
戀家口《コヒシケク》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》 可合有《アフベカル》 夕谷君之《ヨヒダニキミガ》 不來益有良武《キマサザルラム》
戀シク思ツテ暮シタ〔六字傍線〕コトモ、永イ日數デアルノニ、一年ニ一度〔五字傍線〕逢フコトノ出來ル今夜デスラモ、ドウシテ〔四字傍線〕夫ノ彦星ハマダ〔二字傍線〕オイデナサラナイノデセウ。早ク來テ下サレパヨイニ〔早ク〜傍線〕。
○夕谷君之《ヨヒダニキミガ》――この句に、何故にを補つて見るがよい。
〔評〕 織女の心である。前の戀敷者氣長物乎今谷乏牟可哉可相夜谷《コヒシクハケナガキモノヲイマダニモトモシムベシヤアフベキヨダニ》(二〇一七)に似てゐる。
2040 彦星と 棚機つ女と こよひ逢ふ 天の川とに 波立つなゆめ
牽牛與《ヒコボシト》 織女《タナバタツメト》 今夜相《コヨヒアフ》 天漢門爾《アマノカハトニ》 浪立勿謹《ナミタツナユメ》
一年ブリデ〔五字傍線〕牽牛星ト織女星トガ今夜逢フ筈ノ〔二字傍線〕、天ノ川ノ舟渡シ場ニハ、決シテ波ガ立ツナヨ。
(266)○天漢門爾《アマノカハトニ》――カハトは河の渡し場。舟で横切るところをトといふ。○今夜相《コヨヒアフ》――新考は「舊訓の如くコヨヒアハムとよみて、今夕逢ハムニの意と見るべし」とあるがよくない。今夜逢ふところのの意。
〔評〕 波立勿謹《ナミタツナユメ》といふ歌は多い。その慣用語を天の上のことに用ゐたまでである。
2041 秋風の 吹きただよはす 白雲は たなばたつめの 天つ領巾かも
秋風《アキカゼノ》 吹漂蕩《フキタダヨハス》 白雲者《シラクモハ》 織女之《タナバタツメノ》 天津領巾毳《アマツヒレカモ》
空ヲ眺メルト〔六字傍線〕、秋風ガ吹キ漂ハシテヰルヤウニ見エル〔六字傍線〕白雲ガ棚引イテヰルガ、アレ〔ガ棚〜傍線〕ハ、今夜逢ヒニ來ル筈ノ彦星ヲ待ツテヰル〔今夜〜傍線〕、織女星ノ領巾カナア。
○天津領巾毳《アマツヒレカモ》――領巾は女の肩にかける細長い巾。天上にある織女の装へるものであるから、天津《アマツ》と冠したのである。
〔評〕 天を仰いで白雲の秋風に漂蕩するを見て、織女の領巾と見做したもので、内容も格調もすがすがしく、この一聯中の出色の作である。秋風起兮白雲飛の句を取り入れたとも考へられる。又下の天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨《アマノカハキリタチノボルタナバタノクモノコロモノカヘルソデカモ》(二〇六三)とも似たところがある。
2042 しばしばも 相見ぬ君を 天の川 舟出早せよ 夜の深けぬまに
數裳《シバシバモ》 相不見君矣《アヒミヌキミヲ》 天漢《アマノガハ》 舟出速爲《フナデハヤセヨ》 夜不深間《ヨノフケヌマニ》
一年ニ一度ダケデ〔八字傍線〕、度々オ目ニカカルコトノ出來ナイアナタデスノニ、今夜ハ〔三字傍線〕夜ノ更ケナイ内ニ、天ノ川ニ早ク舟出ヲナサツテ、早クオイデ下〔九字傍線〕サイマシ。
○相不見君矣《アヒミヌキミヲ》――新考に「君ヲは君ナルゾとなり」とある。さうも見られるが,なほ君なるものをの意としたい。
〔評〕 織女が彦星を待ちわびる心である。よく出來てゐる。
2043 秋風の きよきゆふべに 天の川 舟こぎ渡る 月人をとこ
(267)秋風之《アキカゼノ》 清夕《キヨキユフベニ》 天漢《アマノガハ》 舟榜度《フネコギワタル》 月人壯子《ツキヒトヲトコ》
秋風ガ心地ヨク吹ク夕方ニ、天ノ川ヲ舟デ月ガ漕ギ渡ルヨ。アア良イ景色ダ〔七字傍線〕。
○清夕《キヨキユフベニ》――考にサヤケキヨヒニ、略解にサヤケキユフベとあるのもよいが、舊訓に從ふ。袖中抄・赤人集など皆さうなつてゐる。○月人壯子《ツキヒトヲトコ》――月のこと。彦星とするのはわるい。
〔評〕 七夕に空を仰ぎ月を眺めて詠んだもの。明朗なよい作だ。
2044 天の川 霧立ち渡り 彦星の かぢの音聞ゆ 夜の深けゆけば
天漢《アマノガハ》 霧立度《キリタチワタル》 牽牛之《ヒコボシノ》 楫音所聞《カヂノオトキコユ》 夜深往《ヨノフケユケバ》
夜ガ更ケテ行クト、彦星ガ舟ニ乘ツテ織女ニ逢ヒニ行クト見エテ〔彦星〜傍線〕、天ノ川ニハ舟漕グ飛沫ガ〔六字傍線〕霧ト棚引イテ、彦星ノ乘ツテヰル舟ノ〔七字傍線〕艫ノ音ガ聞エル。
○霧立度《キリタチワタル》――彦星の船漕ぐ飛沫によつて、霧が立つと見るのである。
〔評〕 これもすつきりとした、よい作だ。
2045 君が舟 今こぎ來らし 天の川 霧立ち渡る この川の瀬に
君舟《キミガフネ》 今榜來良之《イマコギクラシ》 天漢《アマノガハ》 霧立度《キリタチワタル》 此川瀬《コノカハノセニ》
アナタノ乘ツテヰル舟〔五字傍線〕舟ガ、今漕イデ來ルラシイ。天ノ川ニハコノ川ノ渡リ〔二字傍線〕瀬ニ霧ガ立ツテ棚引イテヰル。コノ霧ハ舟ヲ漕グ飛沫ガ霧トナツテ棚引イテヰルノダラウカラ、彦星ハ今舟出ヲシテココヘ來ルニ違ヒナイ〔コノ〜傍線〕。
〔評〕 これも前の歌と同じく、彦星の舟漕ぐ飛沫を霧と見たのであるが、これは織女の心になつてよんでゐる點が異なつてゐる。
2046 秋風に 河浪立ちぬ しましくは 八十の舟津に み舟とどめよ
秋風爾《アキカゼニ》 河浪起《カハナミタチヌ》 暫《シマシクハ》 八十舟津《ヤソノフナツニ》 三舟停《ミフネトドメヨ》
(268)秋風ガ吹クノデ、天ノ川ニハ〔十字傍線〕河浪ガ起ツタ。無理ニコノ波ヲ越シテ行カナイデモ〔無理〜傍線〕、暫クノ間ハコノ川ニアル〔六字傍線〕澤山ノ舟着場ノドコカ〔四字傍線〕ニ、御舟ヲ着ケテ波ノ靜マルノヲオマチ〔テ波〜傍線〕ナサイ。
○八十舟津《ヤソノフナツニ》――八十の舟津は文字通り、澤山の舟着場である。古義に「安之舟津《ヤスノフナツニ》にて安《ヤス》は安河《ヤスカハ》なるべし」とあるのはわるい。
〔評〕 天の川の廣々とした所に、舟着場があるやうに想像したもの。從つて風浪の靜まるのを待つやうに、詠まれてゐるのが珍らしい趣向である。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
2047 天の川 川音さやけし 彦星の はやこぐ船の 浪のさわぎか
天漢《アマノガハ》 河聲清之《カハトサヤケシ》 牽牛之《ヒコボシノ》 秋榜船之《ハヤコグフネノ》 浪※[足+參]香《ナミノサワギカ》
天ノ川ニハ川ノ水〔二字傍線〕音ガサヤカニ聞エテヰル。アレハ多分〔五字傍線〕彦星ガ織女ニ逢ヒニ行クトテ〔織女〜傍線〕、急イデ漕グ舟ガ、水ヲ押シ分ケテ進ム〔九字傍線〕浪ノ騷グ音〔二字傍線〕デアラウカ。
○川聲清之《カハトサヤケシ》――舊訓カハオトキヨシとあるのでもわるくはない。○秋榜船之《ハヤコダフネノ》――舊訓アキコグフネノとあるのは無理のやうであるから、略解に擧げた宣長説に「秋は速の誤か。次下に早榜舟之かいのちるかもと有」とあるのに從はうと思ふ。
〔評〕 織女が彦星の訪れを待つ心のやうでもあるが、さうではなく、天の河邊に立つて二星の逢瀬を見る人のこころらしい歌である。
2048 天の川 川とに立ちて 吾が戀ひし 君來ますなり 紐解き待たむ 一云、天の河河に向き立ち
天漢《アマノガハ》 河門立《カハトニタチテ》 吾戀之《ワガコヒシ》 君來奈里《キミキマスナリ》 紐解待《ヒモトキマタム》 一云 天川《アマノカハ》 河向立《カハニムキタチ》
天ノ川ノ、舟デ渡ル所ニ立ツテ、常ニ出テ待ツテ〔七字傍線〕私ガ戀シク思ツ〔三字傍線〕テヰタアナタガ、今夜〔二字傍線〕オイデナサイマス。デスカラ、私ハ着物ノ〔九字傍線〕紐ヲ解イテ待ツテヰマセウ。
(269)○君來奈里《キミキマスナリ》――文字通りにキミキタルナリともよんであるが、舊訓に從はう。○一云|天川河向立《アマノカハカハニムキタチ》――これは一二の句の異傳である。かうすると殆ど卷八の歌と同樣になる、
〔評〕 これは卷八の天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐解設奈《アマノカハアヒムキタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマケナ》(一五一八)と同歌と言つてよい。山上憶良の作が、他の七夕の歌と共に、ここに収められたものであらう。
2049 天の川 川とにをりて 年月を 戀ひ來し君に こよひ逢へるかも
天漢《アマノガハ》 河門座而《カハトニヲリテ》 年月《トシツキヲ》 戀來君《コヒコシキミニ》 今夜會可母《コヨヒアヘルカモ》
天ノ川ノ、舟デ渡ル所ニヰテ、今マデ〔三字傍線〕年月永ク〔二字傍線〕戀シク思ツテヰタアナタニ、今夜オ目ニカカルコトガ出來マシタヨ。ホントニ嬉シウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
○年月《トシツキヲ》――略解にトシツキニとあるのはよくない。
〔評〕 織女の喜びの情を述べたもの。
2050 明日よりは 吾が玉床を うち拂ひ 君といねずて 獨かも寝む
明日從者《アスヨリハ》 吾玉床乎《ワガタマドコヲ》 打拂《ウチハラヒ》 公常不宿《キミトイネズテ》 孤可母寐《ヒトリカモネム》
今夜ハカウシテ一年ブリデオ目ニカカルコトガ出來マシタガ〔今夜〜傍線〕、明日カラハ又私ハ〔三字傍線〕私ノ立派ナ床ノ塵〔二字傍線〕ヲ拂ツテ、アナタトハ寢ナイデ、唯〔傍線〕一人デ寢ルコトデセウカナア。カナシウ存ジマス〔八字傍線〕。
○吾玉床乎《ワガタマドコヲ》――タマドコは床を褒めて言へるのみ。
〔評〕 織女の別離の悲哀を述べたもの。
2051 天の原 往きてや射ると 白ま弓 ひきて隱せる 月人をとこ
天原《アマノハラ》 往射跡《ユキテヤイルト》 白檀《シラマユミ》 挽而隱在《ヒキテカクセル》 月人壯子《ツキヒトヲトコ》
大空ニ今カラ〔三字傍線〕出カケテ行ツテ射ヨウトテ、白木ノ弓ヲ引イテ月人男ガ隱シテ持ツテ〔三字傍線〕ヰル。
(270)○往射跡《ユキテヤイルト》――考にユクユクイムトとし、古義は往を注の誤として、サシテヤイルトに改め、新考は往を何の誤として、跡の下に香を補ひ、ナニヲイムトカとしてゐる。少しく解しがたい句であるが、舊訓のままにして、月が白眞弓を携へて、廣い大空に出でて射ようとしてかの意と解しよう。○挽而隱在《ヒキテカクセル》――新考は隱を張の誤としてヒキテハリタルとしてゐる。古義に「月人男の白眞弓を引て山端に隱せるならむと云るにや」とあるが、山の端は要がないやうである。
〔評〕 頗るおもしろい歌であるが、不明瞭な點がないでもない。七夕の歌でないとも評されてゐるが、やはり七夕の月を眺めた作である 弦月の頃で中天にあるから、山の端云云の解は當らない。
2052 このゆふべ 降り來る雨は 彦星の 早こぐ船の 櫂のちりかも
此夕《コノユフベ》 零來雨者《フリクルアメハ》 男星之《ヒコボシノ》 早※[手偏+旁]船之《ハヤコグフネノ》 賀伊乃散鴨《カイノチリカモ》
コノ晩七夕ニ〔三字傍線〕降ツテ來ル雨ハ、彦星ガ織女ニ逢ハウト思ツテ、天ノ川ヲ〔織女〜傍線〕急イデ漕イデ行ク船ノ、櫂ノ雫ノ〔二字傍線〕飛沫デアラウカ。
○賀伊乃散鴨《カイノチリカモ》――舊訓カイノチルカモとあるのを、古義にカイノチリカモと改めてよんでゐる。名詞としてチリとする方がよいか。
〔評〕 下界の人の七夕の夜の想像で、實に優美な歌である。古今集・伊勢物語などに、「わがうへに露ぞおくなる天の川とわたる舟のかいのしづくか」とあるのに似てゐる。
2053 天の川 八十瀬きり合ふ 彦星の 時待つ船は 今しこぐらし
天漢《アマノガハ》 八十瀬霧合《ヤソセキリアフ》 男星之《ヒコボシノ》 時待船《トキマツフネハ》 今榜良之《イマシコグラシ》
天ノ川ハ澤山ノ瀬ゴトニ霧ガ立ツテヰル。彦星ガ、織女ニ逢フベキ〔七字傍線〕時ヲ待ツテヰタ船ハ、今コソ漕キダシタラシイ。アノ霧ハ多分舟ヲ漕グ櫂ノ飛沫デアラウ〔アノ〜傍線〕。
(271)○八十瀬霧合《ヤソセキリアフ》――略解ヤソセキラヒヌ、古義ヤソセキラヘリとあるが、舊訓のままでさしつかへはない。八十瀬は多くの瀬。
〔評〕 八十瀬といつたのは、天の川を廣いものと想像したからである。これは第三者の見た心であらう。
2054 風吹きて 河浪立ちぬ 引船に 渡りも來ませ 夜の更けぬ間に
風吹而《カゼフキテ》 河浪起《カハナミタチヌ》 引船丹《ヒキフネニ》 度裳來《ワタリモキマセ》 夜不降間爾《ヨノフケヌマニ》
風ガ吹イテ天ノ川ノ〔四字傍線〕川浪ガ起ツテ來マシタ。コレデハ舟ヲ漕イデ來ラレルノハ大儀デセウカラ〔コレ〜傍線〕、夜ノ更ケナイ内ニ、引船ニ乘ツテ〔三字傍線〕渡ツテオイデナサイマシ。
○引船丹《ヒキフネニ》――綱手を付けて、岸から曳く舟。○夜不降間爾《ヨノフケヌマニ》――舊訓に從ふ。略解にヨクダタヌマニ、古義にヨノフケヌトニとあるが語調がよくない。
〔評〕 織女の心である。引船を用ゐたのは珍らしい。男星の辛勞を思ふ情があはれである。
2055 天の川 遠き渡りは 無けれども 君が舟出は 年にこそまて
天河《アマノガハ》 遠渡者《トホキワタリハ》 無友《ナケレドモ》 公之舟出者《キミガフナデハ》 年爾社候《トシニコソマテ》
天ノ川ノ渡場ハ近イ渡場デ〔天ノ〜傍線〕、天ノ川ニハ遠イ渡場ハ無イノダケレドモ、私ハ〔二字傍線〕アナタガ舟ニ乘ツテオイデ下サルノヲ、一年ノ間モオ待チ申シテ居リマス。遠イ渡場ナラバ、面倒ダカラ年ニ一度トイフコトモアラウガ、コンア近イ渡場デ年ニ一度トイフノハアマリ少ナスギマス〔遠イ〜傍線〕。
○遠度者《トホキワタリハ》――天の川の舟にて渡る場所は遠くはないといふのである。○年爾社候《トシニコソマテ》――一年間も待つといふのだ。
〔評〕 織女の心。これは天の川がさほど廣くないやうによんである。
2056 天の河 打橋渡せ 妹が家ぢ やまず通はむ 時待たずとも
(272)天漢《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタセ》 妹之家道《イモガイヘヂ》 不止通《ヤマズカヨハム》 時不待友《トキマタズトモ》
天ノ川ニハ打橋ヲ渡シテクレヨ。サウシタラバ私ハ妻ノ織女ニ逢フ爲ニ〔サウ〜傍線〕、妻ノ家ヘ行ク道ヲ、妻ト逢フベキ七夕ノ〔九字傍線〕時デナクトモ、始終通ツテ逢〔三字傍線〕ハウト思フ〔三字傍線〕。
○打橋度《ウチハシワタセ》――打橋は取りはづしの出來るやうな板の橋。
〔評〕 彦星のこころ。年に一度の逢瀬を悲しむ心が、あはれによまれてゐる。天の河に打橋を渡すことは、神代紀御國讓の條に、「又於天安河亦造2打橋1」とあるのから、思ひついたのかも知れない。
2057 月かさね 吾が思ふ妹に 逢へる夜は 今し七夜を 續ぎこせぬかも
月累《ツキカサネ》 吾思妹《ワガモフイモニ》 會夜者《アヘルヨハ》 今之七夕《イマシナナヨヲ》 續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》
幾月モ幾月モ長イ間私ガ戀シク思ツテヰタ妻ニ逢ツタ今夜ハ、夜ガ明ケナイデ〔七字傍線〕、モウ七晩モ續イテクレレバヨイナア。一年モ待ツテ唯一晩デ別レルノハツライカラ〔一年〜傍線〕。
○今之七夕《イマシナナヨヲ》――七夕《ナナヨ》といつたのは、ただ幾夜もといふに等しい。七日四零者七夜不來哉《ナヌカシフラバナナヨコジトヤ》(一九一七)の七日・七夜などとおなじ。七夕の文字を用ゐてあるのは、心あつてのことか。
〔評〕 彦星の心。別れがたい情が出てるる。
2058 年によそふ 吾が舟こがむ 天の河 風は吹くとも 浪立つなゆめ
年丹装《トシニヨソフ》 吾舟榜《ワガフネコガム》 天河《アマノガハ》 風者吹友《カゼハフクトモ》 浪立勿忌《ナミタツナユメ》
一年モ待ツテ、ヤツト今〔四字傍線〕舟装ヲシテ私ノ舟ハ榜ギ出ル所ダ。ダカラドウカ〔六字傍線〕天ノ川ニハ風ガ吹イテモ、浪ガ決シテ立ツナヨ。浪ガヒドクテ舟ガ漕ゲナイヤウナコトガアツテハ困ルカラ〔浪ガ〜傍線〕。
○年丹装《トシニヨソフ》――一年目で舟装ひをするの意。
(273)〔評〕この歌では年丹装《トシニヨソフ》といふのが作者の趣向か。四五句の意は他にも類例がある。
2059 天の河 浪は立つとも 吾が舟は いざこぎ出でむ 夜の深けぬ間に
天河《アマノガハ》 浪者立友《ナミハタツトモ》 吾舟者《ワガフネハ》 率※[手偏+旁]出《イザコギイデム》 夜之不深間爾《ヨノフケヌマニ》
天ノ川ニハタトヒ〔三字傍線〕浪ハ立ツテモ、私ノ乘ル〔二字傍線〕舟ハ夜ノフケナイウチニサア早ク漕ギ出サウ。一年ニ一度ノ今夜ダカラ、波ノ荒イ位ハ何デモナイ。早ク逢ヒニ行カウ〔一年〜傍線〕。
〔評〕 明白な平易な作。彦星の心である。
2060 ただ今夜 逢ひたる兒らに 言どひも いまだせずして さ夜ぞ明けにける
直今夜《タダコヨヒ》 相有兒等爾《アヒタルコラニ》 事問母《コトドヒモ》 未爲而《イマダセズシテ》 左夜曾明二來《サヨゾアケニケル》
今夜一寸逢ツタ女ニ、マダ話モヨク〔二字傍線〕シナイウチニ、夜ガ明ケテシマツタヨ。
〔評〕 これも平易である。如何にも物足りない逢瀬らしくよまれてゐる。
2061 天の河 白浪高し 吾が恋ふる 君が舟出は 今しすらしも
天河《アマノガハ》 白浪高《シラナミタカシ》 吾戀《ワガコフル》 公之舟出者《キミガフナデハ》 今爲下《イマシスラシモ》
天ノ川ニハ白浪ガ高ク立チ騷〔四字傍線〕イデヰル。アア〔五字傍線〕私ガ、一年ノ間〔四字傍線〕待チ焦レテ居タ夫ノ彦星ノ〔三字傍線〕舟出ハ、今スルラシイナア。
〔評〕 織女の心である。白浪の騷ぎを、彦星の舟の漕ぐ爲と見たのである。
2062 はたものの ふみ木持ち行きて 天の河 打橋わたす 君が來むため
機《ハタモノノ》 ※[足+榻ノ旁]木持徃而《フミキモチユキテ》 天河《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタス》 公之來爲《キミガコムタメ》
私ハ〔二字傍線〕アナタガオイデニナル爲ニ、私ノ常ニ織ツテヰル〔九字傍線〕機ノ、腰掛ノ板ヲ持ツテ行ツテ、天ノ川ニ打橋ヲ渡シマス。
(274)○機※[足+榻ノ旁]木持徃而《ハタモノノフミキモチユキテ》――ハタモノノフミキは、機織り機械の足を踏まへる板。契沖は「機織る者の尻打懸る板なり」といつてゐる。和名抄に「辨色立成云機※[足+聶]萬禰岐※[足+聶]蹈也」とあるのと同物かといふ説もあるが、マネキは上方にあるものであるから別であらう。
〔評〕 これは趣向が奇拔である。その點に於て出色のものであらう。
2063 天の河 霧立ち上る たなばたの 雲の衣の かへる袖かも
天漢《アマノガハ》 霧立上《キリタチノボル》 棚幡乃《タナバタノ》 雲衣能《クモノコロモノ》 飄袖鴨《カヘルソデカモ》
天ノ川ニハ霧ガ立チ上ツテヰル。シカシ、アレハ霧デハナクテ〔シカ〜傍線〕、棚機女〔傍線〕ノ着テヰル〔四字傍線〕雲ノ衣ノ袖ガ、風ニ翻ルノカナア。
〔評〕 七夕の夜に天上の雲を見てよんだもので、雲衣といふのが天人らしくておもしろい。これも優美な想像である。懷風藻七夕の詩に、「雲衣兩觀v夕、月鏡一逢v秋」とあるから、これも漢詩式の描法である。
2064 いにしへに 織りてしはたを このゆふべ 衣に縫ひて 君待つ我を
古《イニシヘニ》 織義之八多乎《オリテシハタヲ》 此暮《コノユフベ》 衣縫而《コロモニヌヒテ》 君待吾乎《キミマツワレヲ》
以前ニ織ツタ布ヲ、コノ七夕ノ〔三字傍線〕晩ニ着物ニ縫ツテ、私ハアナタノオイデニナルノ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰマスヨ。早クオイデ下サイマシ〔早ク〜傍線〕。
○君待吾乎《キミマツワレヲ》――君待つ我ぞの意。卷十二に足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシビキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》(三〇〇二)の末句と同樣である。
〔評〕 織女の心である。これはさしておもしろい點もない。
2065 足玉も 手玉もゆらに 織るはたを 君がみけしに 縫ひあへむかも
足玉母《アシダマモ》 手珠毛由良爾《タダマモユラニ》 織旗乎《オルハタヲ》 公之御衣爾《キミガミケシニ》 縫將堪可聞《ヌヒアヘムカモ》
(275)足ノ飾ノ〔三字傍線〕玉ヤ、手ノ飾ノ〔三字傍線〕玉ヲカラカラト音ヲサセナガラ、私ガ骨ヲ折ツテ〔七字傍線〕織ツタ布ヲ、アナタノ御召物ニ縫ヒ上ゲルコトガ出來ルダラウカナア。アナタノオイデマデニ是非トモ仕立上ゲタイモノダ〔アナ〜傍線〕。
○手珠毛由良爾《タダマモユラニ》――ユラは神代紀に「手玉玲瓏織袵
之少女是誰之子耶《タダマモユラニハタオルヲトメハタガムスメゾ》」とあり、古事記に「御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而《ミクビタマノタマノヲモユラニトリユラカシテ》」「奴那登母母由良爾振滌天之眞名井而《ヌナトモモユラニアメノマナヰニフリススギテ》」などあり、玲瓏たる玉の響をいふのである。モユラと用ゐるのはマユラの意であるが、ここの手珠毛《タダマモ》のモは上についてゐるやうであるから、ここはユラニとなつてゐるものと見ねばなるまい。○公之御衣爾《キミガミケシニ》――御衣をミケシと訓むのは御着しである。着《キ》をケといふのは古語。シは敬語の動詞スの名詞形である。
〔評〕 織女が彦星の爲に、機織にいそしんでゐる心である。一二句は擾麗な高雅な感じを與へる。
2066 月日擇り 逢ひてしあれば わかれの 惜しかる君は 明日さへもがも
擇月日《ツキヒエリ》 逢義之有者《アヒテシアレバ》 別乃《ワカレノ》 惜有君者《ヲシカルキミハ》 明日副裳欲得《アスサヘモガモ》
七夕ノ晩ニト〔六字傍線〕月日ヲ選ンデ逢フコトニキマツタノデ、猥リニ逢フコトガ出來ナイノダカラ、私ハアナタト〔ノデ〜傍線〕オ別レヲスルノニ、格別〔二字傍線〕惜シイヤウナ心地ガシマスガ〔ヤウ〜傍線〕、アナタハ、ドウゾモウ一日〔七字傍線〕明日マデモオイデ下サイマシ。
○擇月日《ツキヒエリ》――月日を選んで。即ち七月七日と逢ふべき日を選定すること。○逢義之有者《アヒテシアレバ》――義之をテシとよむのは、例の王羲之を手師といつたのに基づく戯書である。○別乃《ワカレノ》――舊訓ワカレチノとあり、赤人集にもさうなつてゐるのは、道又は路の脱落と見たものか。童蒙抄もさう見てゐる。略解は乃を久の誤として、ワカレマクと言つてゐるが、もとのままでワカレノとする代匠記精撰本に從ふ。○明日副裳欲得《アスサヘモガモ》――略解に「明日も又來ませと願ふ也」とあるが、それでは擇月日《ツキヒエリ》とあるに合しない。明日までもいませといふのである。
〔評〕 織女の心。年に一度の逢瀬であるから、せめてもう一日と引きとめる女心がいぢらしい。
(276)2067 天の河 渡瀬深み 船うけて こぎ來る君が 楫の音聞ゆ
天漢《アマノガハ》 渡瀬深彌《ワタリセフカミ》 泛船而《フネウケテ》 棹來君之《コギクルキミガ》 ※[楫+戈]音所聞《カヂノトキコユ》
天ノ川ハ渡ル瀬ガ深イノデ、徒歩渡リモ出來ズ〔八字傍線〕、船ヲ泛ベテ漕イデ來ル夫ノ彦星〔三字傍線〕ノ舟ノ櫂ノ音ガ聞エル。
〔評〕 天の川の渡瀬を深いものとしてよんでゐるが、一二の句が説明的になつてゐて感興がない。
2068 天の原 ふりさけ見れば 天の河 霧立ち渡る 君は來ぬらし
天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》 天漢《アマノガハ》 霧立渡《キリタチワタル》 公者來良志《キミハキヌラシ》
大空ヲ振リ仰イデ見レバ、天ノ川ニハ霧ガ立チコメテヰル。アノ霧ハ舟ヲ漕グ飛沫ダラウカラ〔アノ〜傍線〕、夫ノ君ハ今、川ヲ渡ツテ〔六字傍線〕オイデニナルト見エル。
〔評〕 これも前にあつたやうに、天の川霧を彦星の舟漕ぐ飛沫によつて立つたものと考へたものである。織女星の心である。略解に「下つ國にて思ひやりて詠める也」とあるのは、天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》とあるのによつて、誤解したものだ。天上に於いても、かう言へないことはない。
2069 天の川 瀬ごとに幣を 奉る こころは君を 幸く來ませと
天漢《アマノガハ》 瀬毎幣《セゴトニヌサヲ》 奉《タテマツル》 情者君乎《ココロハキミヲ》 幸來座跡《サキクキマセト》
天ノ川ノ淺〔傍線〕瀬ゴトニ、神樣ニ〔三字傍線〕幣ヲ私ガ〔二字傍線〕上ゲマスガ、ソレハ〔四字傍線〕アナタガ御無事デ、此處ヘ〔三字傍線〕オイデ遊バセトイフ心デアルノデス。
○瀬毎幣奉《セゴトニヌサヲタテマツル》――古義に瀬の上、渡の字、脱として、ワタリセコトニヌサマツルとよんでゐるのは、要なき改竄であらう。
〔評〕 織女の心である。卷三の作保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不離相見染跡衣《サホスギテナラノタムケニオクヌサハイモヲメカレズアヒミシメトゾ》(三〇〇)と似てゐる。
2070 久方の 天の河津に 舟泛けて 君待つ夜らは 明けずもあらぬか
(277)久堅之《ヒサカタノ》 天河津爾《アマノカハツニ》 舟泛而《フネウケテ》 君待夜等者《キミマツヨラハ》 不明毛有寐鹿《アケズモアラヌカ》
(久方之)天ノ川ノ舟ノ着ク所ニ舟ヲ泛ベテ.私ガ〔二字傍線〕アナタノオイデニナルノ〔八字傍線〕ヲ待ツテヰル夜ハ、ドウゾ〔三字傍線〕明ケナイデヰテクレヨ。久シブリデ逢フノダカラ、夜ガアケルノガツライ〔久シ〜傍線〕。
○君待夜等者《キミマツヨラハ》――夜等《ヨラ》のラは添へていふのみ。意味はない。野らといふラと同じである。○不明毛有寐鹿《アケズモアラヌカ》――明けずにゐないかよ。明けずもあれかしの意。
〔評〕 これも織女の心。織女が彦星の迎舟を泛べるといふ構想が珍らしい。
2071 天の河 足ぬれ渡り 君が手も いまだ枕かねば 夜の深けぬらく
天河《アマノガハ》 足沾渡《アシヌレワタリ》 君之手毛《キミガテモ》 未枕者《イマダマカネバ》 夜之深去良久《ヨノフケヌラク》
私ハ〔二字傍線〕天ノ川ヲ足ヲ沾ラシテ、徒歩〔二字傍線〕渡リヲシテ、逢ヒタイト思ツタアナタニ逢ツタバカリデ〔ヲシ〜傍線〕、マダアナタノ手ヲ枕トシテ寢ルマデニハ至ラ〔九字傍線〕ナイノニ、モウ〔二字傍線〕夜モ更ケタ。
○足沾渡《アシヌレワタリ》――代匠記初稿本による。略解にはアヌラシワタリとよんでゐる。○未枕者《イマダマカネバ》――未だ枕せざるに。○夜之深去良久《ヨノフケヌラク》――夜の更けぬるより意。久は之となつてゐる本もある。然らばラシである。
〔評〕 これは彦星の心。末句穩やかに餘情を持たせて言ひをさめてある。
2072 渡守 舟わたせをと 呼ぶ聲の 至らねばかも 楫のとのせぬ
渡守《ワタリモリ》 船度世乎跡《フネワタセヲト》 呼音之《ヨブコヱノ》 不至者疑《イタラネバカモ》 梶聲之不爲《カヂノトノセヌ》
「渡守ヨ、船ヲ渡シテクレヨ」ト私ガ〔二字傍線〕ドナル聲ガアチラニ〔四字傍線〕聞エナイカラカ、舟ヲ漕イデ來ル〔五字傍線〕揖ノ音ガシナイ。渡守ニハ私ノ呼ブ聲ガ聞エナイト見エル。早ク舟ヲ渡シテクレ、織女ニ逢ヒタイノダカラ〔渡守〜傍線〕。
○船度世乎跡《フネワタセヲト》――ヲはヨに同じ。船を渡せよと。○梶之聲不爲《カヂノトノセヌ》――舊訓カヂノオトセヌとあるのでもよいが、(278)之聲を元磨校本・類聚古集、聲之とあるによれば、カヂノトノセヌであらう。
〔評〕 彦星の心であらう。卷七に氏河乎船令渡乎跡雖喚不所聞有之※[楫+戈]音毛不爲《ウヂガハヲフネワタセヲトヨバヘドモキコエザルラシカヂノトモセズ》(一一三八)とあるのと同樣と言つてよい。多分これを天の川のことに作りかへたのであらう。
2073 ま日《け》長く 河に向き立ち 在りし袖 今夜まかむと 念ふがよさ
眞氣長《マケナガク》 河向立《カハニムキタチ》 有之袖《アリシソデ》 今夜卷跡《コヨヒマカムト》 念之吉沙《オモフガヨサ》
日ヲ重ネテ長ラクノ間〔二字傍線〕河ニ向ツテ立ツテ居ツタ織女ノ〔三字傍線〕袖ヲ、今夜コソ一年ブリデ〔五字傍線〕、枕シテ寢ルコトダラウト思フト嬉シイヨ。
○眞氣長《マケナガク》――マは接頭語。日を重ねて、長い間。○有之袖《アリシソデ》――在りし妻の袖の意であらう。○今夜卷跡《コヨヒマカムト》――略解にコヨヒマキナムとあり、古義にコヨヒマカレムとあるが、舊訓による。跡を下に附けて、第五句の冐頭に置いてよむ説はよくない。○念之吉沙《オモフガヨサ》――舊訓オモヘルガヨサとあるのに從ひたいのであるが、内容からも用字上からも、オモヘルとよむの理がないから、文字通りオモフガヨサとする。文字が足りないが仕方がない。或は新訓にオモハクガヨサとあるのがよいか。しかしこれもオモハクと訓むべき用字上の理由がない。
〔評〕 彦星が天の川を渡つて、織女に逢ひに行く道すがらの心であらう。古義に四句をコヨヒマカレムとよんで織女の心のやうに解いてゐるのは誤。
2074 天の川 渡瀬ごとに 思ひつつ 來しくもしるし 逢へらく念へば
天漢《アマノガハ》 渡湍毎《ワタリセゴトニ》 思乍《オモヒツツ》 來之雲知師《コシクモシルシ》 逢有久念者《アヘラクオモヘバ》
天ノ川ノ渡ル瀬毎ニ、織女ヲ戀シイ戀シイト〔十字傍線〕思ヒナガラ、私ガ〔二字傍線〕ヤツテ來タノモ、カウシテ〔四字傍線〕織女ニ逢ツテ見レバ、來タ甲斐ガ著シクアルト思フ〔三字傍線〕。
○來之雲知師《コシクモシルシ》――來たのも甲斐が著しくあるの意。卷八に來之久毛知久相流君可毛《コシクモシルクアヘルキミカモ》(一五七七)・卷九に欲見來之久(279)毛知久《ミマクホリコシクモシルク》(一七二四)とあるに同じ。○逢有久念者《アヘラクオモヘバ》――逢へる思へばの意。卷六の天地之榮時爾相樂念者《アメツチノサカユルトキニアヘラクオモヘバ》(九九六)に同じ。
〔評〕 彦星の心。その戀慕の情が上句によくあらはれてゐる。
2075 人さへや 見つがずあらむ 彦星の つまよばふ舟の 近づき行くを 一云 見つつあるらむ
人左倍也《ヒトサヘヤ》 見不繼將有《ミツガズアラム》 牽牛之《ヒコボシノ》 嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》 近附往乎《チカヅキユクヲ》
一云 見乍有良武《ミツツアルラム》
彦星ガ妻ノ織女〔三字傍線〕ト婚スル爲ニ、漕イデ行クコノ〔九字傍線〕舟ガ、段々ト〔三字傍線〕近ヅイテ行クノヲ、妻ノ織女ハモトヨリ下界ノ〔妻ノ〜傍線〕人マデモ見屆ケズニ居ラウヤ。誰モミナ注目シテヰルデアラウ〔誰モ〜傍線〕。
○見不繼將有《ミヅガズアラム》――見繼かずあらむや。必ず見屆けるであらうの意であらう。○嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》――舊訓ツマヨブフネノとある。代匠記精撰本。ツマヨヒフネノ、考ツマトフフネノとある、これを卷八に牽牛之迎嬬船《ヒコホシノツマムカヘフネ》(一五二七)とあるにならつて、妻の織女を迎へる爲の舟とするに説が一致してゐるが、さうではなく妻《ツマ》婚《ヨバ》ふ舟であらう。喚を婚に借りたので喚をヨバフとよんだ例は、鴨妻喚《カモメヨバヒ》(二五七)とある。○一云|見乍有良武《ミツツアルラム》――これはこの句の異傳で、この方が意がよく聞える。
〔評〕 少し不明瞭な點がないでもない。天上にあるものが彦星の舟を眺めてゐる心であらう。
2076 天の河 瀬をはやみかも ぬば玉の 夜はふけにつつ 逢はぬ彦星
天漢《アマノガハ》 瀬乎早鴨《セヲハヤミカモ》 烏珠之《ヌバタマノ》 夜者闌爾乍《ヨハフケニツツ》 不合牽牛《アハヌヒコボシ》
天ノ川ハ瀬ガ早イカラカ、渡リカネテグヅグヅシテヰル内ニ〔渡リ〜傍線〕(烏珠之)夜ガ更ケテシマツテ、マダ織女ノ所ヘ來テ〔九字傍線〕逢ハナイ彦星ヨ。
○夜者闌爾乍《ヨハフケニツツ》――ニは完了の助動詞ヌの變化である。○不合牽牛《アハスヒコボシ》――逢はぬ彦星よの意で、名詞止になつてゐる。
(280)〔評〕 これも天上にある第三者の心であらう。彦星に同情してゐる。
2077 渡守 舟はや渡せ 一年に 二度通ふ 君にあらなくに
渡守《ワタリモリ》 舟早渡世《フネハヤワタセ》 一年爾《ヒトトセニ》 二遍往來《フタタビカヨフ》 君爾有勿久爾《キミニアラナクニ》
一年ノ内ニ二度トオイデニナル御方デハナイヨ。私ノ夫ノ彦星ヲ〔七字傍線〕渡守ヨ、早ク渡シテクレヨ。
〔評〕上に數裳相不見君矣天漢舟出速爲夜不深間《シバシバモアヒミヌキミヲアマノガハフナデハヤセヨヨノフケヌマニ》(二〇四二)と内容は同じく、形式は古今集の「聲絶えずなけや鶯一年に二度とだに來べき春かは」に似てゐる。
2078 玉葛 絶えぬものから さぬらくは 年の渡に ただ一夜のみ
玉葛《タマカヅラ》 不絶物可良《タエヌモノカラ》 佐宿者《サヌラクハ》 年之度爾《トシノワタリニ》 直一夜耳《タダヒトヨノミ》
私等二人ノ間ノ契ハ〔九字傍線〕(玉葛)絶エルコトハナイケレドモ、共寢ヲスルノハ、一年ニ一度天ノ河ヲ渡ル夜ニ、唯一晩バカリダ。ホントニ物足ラヌコトダ〔ホン〜傍線〕。
○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。不絶《タエヌ》とつづクのは、その延び行く姿態によつたものである。○不絶物可良《タエヌモノカラ》――モノカラはモノナガラ。○佐宿者《サヌラクハ》――サは接頭語。この句は寢ることはの意。○年之度爾《トシノワタリニ》――珍らしい語である。年に一回天の川を渡る時にの意。新考には「一年經過スルウチニといふ事なり」とあるのは、ワタリを經過と見たのであらうが、用例から見ると、天の川について言ふことらしいから、右のやうに解くべきであらう。
〔評〕 古今集「年ごとにあふとはすれどたなばたのぬる夜のかずぞすくなかりける」とあるのと意は同じである。一般的に二屋の契について歌つたものと見るべきであらう。
2079 戀ふる日は 日《け》長きものを 今夜だに 乏しむべしや 逢ふべきものを
戀日者《コフルヒハ》 食長物乎《ケナガキモノヲ》 今夜谷《コヨヒダニ》 令乏應哉《トモシブベシヤ》 可相物乎《アフベキモノヲ》
戀シク思ツテ暮ラス〔五字傍線〕日ハ、隨分永イ日數ダノニ、一年ニ一度ダケ逢ヘル〔一年〜傍線〕今夜ニナツテモ、不足ノ思ヲサセルト(281)イフコトガアルモノデスカ。今夜ハ逢〔三字傍線〕フト定ツテヰルノニ。早ク來テ下サイ〔七字傍線〕。
〔評〕前に戀敷者氣長物乎今谷乏牟可哉可相夜谷《コヒシケバケナガキモノヲイマダニモトモシムベシヤアフベキヨダニ》(二〇一七)とあるのと同歌の異傳に過ぎない。
2080 織女の 今夜逢ひなば 常のごと 明日を隔てて 年は長けむ
織女之《タナバタノ》 今夜相奈婆《コヨヒアヒナバ》 如常《ツネノゴト》 明日乎阻而《アスヲヘダテテ》 年者將長《トシハナガケム》
織女ガ今夜彦星ト〔三字傍線〕逢ツタナラバ、又一年ハ逢ヘナイカラ〔又一〜傍線〕、明日ヲ界トシテ明日カラハ〔五字傍線〕今マデノ通リニ、一年立ツノガ長ク感ゼラレルデアラウ。
○明日乎阻而《アスヲヘダテテ》――明日を隔として。明日を界としての意。新考にこれを不合理として、明日者阻而年乎將度《アスハヘナリテトシヲワタラム》と改め訓んだのは從ひ難い。
〔評〕 これも二星の契を客觀的によんだのであるが、織女を主題としてそれに同情してゐる。
2081 天の川 棚橋わたせ 織女の い渡らさむに 棚橋わたせ
天漢《アマノガハ》 棚橋渡《タナハシワタセ》 織女之《タナバタノ》 伊渡左牟爾《イワタラサムニ》 棚橋渡《タナハシワタセ》
天ノ川ニハ棚ノヤウナ〔四字傍線〕橋ヲ渡シナサイ。織女ガ渡リナサル爲ニ、棚ノヤウナ〔四字傍線〕橋ヲ渡シナサイ。
○棚橋渡《タナハシワタセ》――棚橋は棚のやうに架けた板の假橋。○伊渡左牟爾《イワタラサムニ》――イワタラサムはイワタラスの未來。イは接頭語、スは敬語。
〔評〕 二句と末句とに同語を繰返したため、調子が輕快になつてゐる。これは織女が河を渡つて通るやうに詠んである。
2082 天の河 河門八十あり いづくにか 君がみ船を 吾が待ち居らむ
天漢《アマノガハ》 河門八十有《カハトヤソアリ》 何爾可《イヅクニカ》 君之三船乎《キミガミフネヲ》 吾待將居《ワガマチヲラム》
(282)天ノ川ニハ川ノ渡場所ガ澤山アル。何所デアナタノ御舟ヲ、ワタクシハ待ワテヰマセウゾ。何所トモ見當ガツカナイ〔何所〜傍線〕。
○河門八十有《カハトヤソアリ》――河門は、河の舟で渡るところ。
〔評〕織女が彦星を待つ心である。天の川が廣いやうによんであるのは、前に八十舟津三舟停《ヤソノフナツニミフネトドメヨ》(二〇四六)とあるに似、卷七の近江之海湖者八十何爾加君之舟泊草結兼《アフミノミミナトヤソアリイヅクニカキミガフネハテクサムスビケム》(一一六九)にも似てゐる。
2083 秋風の吹きにし日より 天の河 瀬に出で立ちて 待つと告げこそ
秋風乃《アキカゼノ》 吹西日從《フキニシヒヨリ》 天漢《アマノガハ》 瀬爾出立《セニイデタチテ》 待登告許曾《マツトツゲコソ》
秋風ガ吹キ始メタ日カラシテ、私ガ〔二字傍線〕天ノ川ノ瀬ニ出カケテ彦星ノオイデヲ〔七字傍線〕、待ツテ居リマスト彦星ニ〔三字傍線〕知ラセテ下サイ。
○瀬爾出立《セニイデタチテ》――瀬は渡り瀬である。古義に瀬の上、河を脱とし、カハセニデタチとよんでゐる。新考に瀬を濱としてハマニイデタチとしてゐるが、共に要なき改竄である。
〔評〕 織女の彦星をまつ心。古今集に「秋風の吹きにし日より久方の天の河原に立たぬ日はなし」に似てゐる。
2084 天の河 去年の渡瀬 荒れにけり 君が來まさむ 道の知らなく
天漢《アマノガハ》 去年之渡湍《コゾノワタリセ》 有二家里《アレニケリ》 君之將來《キミガキマサム》 道乃不知久《ミチノシラナク》
天ノ川ノ去年ノ渡リ瀬ハ、今年ハ〔三字傍線〕荒レテ渡レナイヤウニナツテ〔渡レ〜傍線〕シマツタ。ダカラ今年ハ〔六字傍線〕アナタガ何處ヲ渡ツテオイデニナルカ、ソノ〔三字傍線〕道ノ見當ガツキマセヌ。ドコト分レバ其處ヘオ迎ヘニ參ラウノニ〔ドコ〜傍線〕。
○去年之渡湍《コゾノワタリセ》――去年渡つた瀬。前に去歳渡代《コゾノワタリデ》(二〇一八)とあるに同じ。○有二家里《アレニケリ》――考に有を絶に改めてタエニケリとあり、略解・古義共にこれによつてゐるが、有をアレとよめないことはあるまい。新考に有を失に改(283)めてウセニケけとしてゐる。
〔評〕 織女の彦星を待つ心。前に天漢去歳渡代遷閉者河瀬於蹈夜深去來《アマノガハコゾノワタリデウツロヘバカハセヲフムニヨゾフケニケル》(二〇一八)とあつたのは彦星の心で、これと言葉は似てゐるが、意は異なつてゐる。
2085 天の河 瀬々に白浪 高けども ただ渡り來ぬ 待たば苦しみ
天漢《アマノガハ》 湍瀬爾白浪《セゼニシラナミ》 雖高《タカケレド》 直渡來沼《タダワタリキヌ》 待者苦三《マタバクルシミ》
天ノ川ハドノ瀬モ、白波ガ高ク立チ騷イデヰルガ、私ハソノ波ノ鎭マルノヲ〔私ハ〜傍線〕待ツテ居レバ苦シイカラ、ソノママニ川ヲ〔二字傍線〕徒渉リシテ來マシタ。
○待者苦三《マタバクルシミ》――舊訓マテバクルシミとある。ここは古義による。
〔評〕 彦星の心。一寸おもしろい構想である。
2086 牽牛の 妻喚ばふ舟の 引綱の 絶えむと君を 吾が念はなくに
牽牛之《ヒコボシノ》 嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》 引綱乃《ヒキツナノ》 將絶跡君乎《タエムトキミヲ》 吾之念勿國《ワガモハナクニ》
ドンナコトガアツテモアナタト(牽牛之嬬喚舟之引綱乃)切レヤウトハ私ハ思ツテ居リマセヌゾ。アナタモソノオ考デ末永クオ忘レナイヤウニ願ヒマス〔アナ〜傍線〕。
○嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》――妻迎舟の意とするのはよくない。嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》(二〇七五)參照。○引綱乃《ヒキツナノ》――この句までは絶《タエ》と言はむ爲の序詞。引綱は船の綱手繩である。前に引船丹度裳來《ヒクフネニワタリモキマセ》(二〇五四)とあつた。
〔評〕 これは寄七夕戀の歌で、七夕を詠じたものではない。然しここに掲げたのは、七夕の乞巧奠の席上などで同時に詠まれたからであらう。
2087 渡守 舟出し出でむ 今夜のみ 相見て後は 逢はじものかも
渡守《ワタリモリ》 舟出爲將出《フナデシイデム》 今夜耳《コヨヒノミ》 相見而後者《アヒミテノチハ》 不相物可毛《アハジモノカモ》
(284)渡守ヨ、サア舟ヲ出シテ、モウ〔二字傍線〕出カケヨウ。今夜ダケ妻ノ織女ニ〔五字傍線〕逢ツテ、ソノ後ハ逢ハナイトイフ譯デハナイデハナイカ。又來年モ逢ヘルノダカラ、サウ別レヲ惜シンデモシヤウガナイ。サア舟ヲ出セ〔又來〜傍線〕。
○舟出爲將出《フナデシイデム》――終の出は、一本に去とありとて、略解は改めてフナデシイナムとよんでゐる。併し今、古寫本中にさうなつてゐるものを見出し得ない。古義は更にそれを來に改めてフナデシコムと訓んでゐる。
〔評〕 後朝の別に際しての彦星のこころである。あきらめて出かけようといふのが、少し變つた趣向であらう。
2088 吾が隱せる 楫棹無くて 渡守 舟貸さめやも しましはあり待て
吾隱有《ワガカクセル》 ※[楫+戈]棹無而《カヂサヲナクテ》 渡守《ワタリモリ》 舟將借八方《フネカサメヤモ》 須臾者有待《シマシハアリマテ》
私ガ楫モ棹モ〔四字傍線〕隱シテ置イタカラ〔二字傍線〕、楫モ棹モ無イカラ、イクラアナタガ舟ニ乘ラウトナサツテモ〔イク〜傍線〕、渡守ハ舟ヲ貸シテ乘セテハクレマ〔七字傍線〕マセヌヨ。デスカラ〔四字傍線〕暫クノ間ハ、此處〔二字傍線〕ニサウシテイラシツテ待ツテヰテ下サイマシ。サウオ急ギナサルモノデハアリマセヌ〔サウ〜傍線〕。
○舟將借八方《フネカサメヤモ》――舟に乘せてはくれぬよの意。
〔評〕 前の彦星の歌に對する答で、織女の別を惜しむ心である。この方があはれに出來てゐる。殊に一二句がおもしろい。
2089 あめつちの はじめの時ゆ 天の河 い向ひ居りて 一年に 二度逢はぬ 妻戀に 物念ふ人 天の河 安の川原の 在り通ふ 年の渡に そほ船の 艫にも舳にも 船よそひ 眞楫しじぬき ハタ芒 本葉もそよに 秋風の 吹き來るよひに 天の川 白浪しぬぎ 落ち激つ 早瀬わたりて 稚草の 妻が手まかむと 大船の 思ひたのみて 漕ぎ來らむ そのつまの子が あらたまの 年の緒長く 思ひ來し 戀を盡さむ 七月の 七夕のよひは 我も悲しも
乾坤之《アメツチノ》 初時從《ハジメノトキユ》 天漢《アマノガハ》 射向居而《イムカヒヲリテ》 一年丹《ヒトトセニ》 兩遍不遭《フタタビアハヌ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 物念人《モノオモフヒト》 天漢《アマノガハ》 安乃川原乃《ヤスノカハラノ》 有通《アリガヨフ》 出出乃渡丹《トシノワタリニ》 具穗船乃《ソホブネノ》 艫丹裳舳爾裳《トモニモヘニモ》 船装《フナヨソヒ》 眞梶繁拔《マカヂシシヌキ》 旗芒《ハタススキ》 本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》 秋風乃《アキカゼノ》 吹來夕丹《フキクルヨヒニ》 天川《アマノガハ》 白浪凌《シラナミシヌギ》 落沸《オチタギツ》 速湍渉《ハヤセワタリテ》 稚草乃《ワカクサノ》 妻手枕迹《ツマガテマカムト》 大舟乃《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 (285)※[手偏+旁]來等六《コギクラム》 其夫乃子我《ソノツマノコガ》 荒珠乃《アラタマノ》 年緒長《トシノヲナガク》 思來之《オモヒコシ》 戀將盡《コヒヲツクサム》 七月《フミヅキノ》 七日之夕者《ナヌカノヨヒハ》 吾毛悲焉《ワレモカナシモ》
天地ノ分レタ大昔ノ〔三字傍線〕時カラ、天ノ川ニ向ツテ居ツテ、一年ニ二度トハ逢ハレナイ妻ヲ戀ヒ慕ヒ〔二字傍線〕ナガラ、物念ヒヲシテヰル彦星トイフ〔五字傍線〕人ガ、天ノ川ノ安ノ川原ヲアアシテ通ツテ、年ニ一度ノ川渡リニ、朱塗ノ舟ノ艫ニモ舳ニモ舟飾ヲシテ楫ヲ澤山ニ貫キ通シテ、旗薄ノ莖モ葉モソヨソヨト靡カシテ〔四字傍線〕、秋風ガ吹イテ來ル晩ニ、天ノ川ノ白浪ヲ押シ分ケテ、泡立チ流レル速瀬ヲ渡ツテ、(稚草乃)妻ノ織女ノ〔三字傍線〕手ヲ枕トシテ寢ヨウト、(大船乃)思ツテアテニシテ、※[手偏+旁]イデ來ルデアラウ所ノ、アノ夫ノ彦星ガ、(荒珠乃)年ヲツヅケテ長イ間、思ツテ來タ戀慕ノ情〔三字傍線〕ヲ盡スデアラウ七月ノ七日ノ晩ハ 下界デ想像シテヰル私モ〔下界〜傍線〕、感慨胸ニ迫ルコトデアルヨ。
○婁戀爾物念人《ツマゴヒニモノオモフヒト》――これは彦星を指してゐる。ここまではすべてこの句を修飾してゐる。○出出乃渡丹《トシノワタリニ》――舊本、テテノワタリニとあり、童蒙抄は世世《セセ》の誤とし、考は歳《トシ》の誤としてゐる、考によることにした。○具穗船乃《ソホフネノ》――これも具は曾の誤とした考の説がよい。舊訓クホフネとあるのではわからない。ソホブネはマソホを塗つた舟、即ち朱塗の舟。マソホは卷十六の佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)の眞朱《マソホ》である。○旗荒《ハタススキ》――荒を舊訓アラシとあるが、ススキとよむべきところである。考に芒《ススキ》の誤としたのに從つて置く、略解は荻の誤としてススキとよみ、又荒を篶木の二字を一字に誤つたものとしてゐる。古義は次の木と合せて荒木《ススキ》とよんでゐる。○本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》――舊訓モトハモクセニとある。考に具を曾の誤としたのによる。或は略解に言つたやうに其の誤かも知れない。古義には、葉の上に末を脱として、ウラバモソヨニと訓んでゐる。○稚草乃《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづく。一五三參照。○大船乃《オホブネノ》――枕詞。大船に乘つたものはその安全を憑みに思つておるからであらう。○吾毛悲焉《ワレモカナシモ》――舊本烏とあるのは、焉の草體から誤つたのである。元暦校本・類聚古集など古本多くは焉になつてゐる。
(286)〔評〕 彦星を中心にして、七夕の夜の交會を想像して、感傷的氣分に浸つてゐる。卷八(一五二〇)にあつた山上憶良の長歌よりも、平易で、格調が新しいやうに思はれる。新考はこの歌の句調整はないとして、もと三首なりしが、混じて一首になつたものと斷じてゐるが、このままで分らぬこともないから、さうは考へられない。
反歌
2090 高麗錦 紐解き交し 天人の 妻問ふよひぞ 我もしぬばむ
狛錦《コマニシキ》 紐解易之《ヒモトキカハシ》 天人乃《アメビトノ》 妻問夕叙《ツマトフヨヒゾ》 吾裳將偲《ワレモシヌバム》
高麗織ノ錦ノ紐ヲ解キ替ハシテ、天人ガ妻ヲ音ヅレル晩デアルゾヨ。私モ天ノ樂シイ樣子ヲ遙カニ〔天ノ〜傍線〕思ヒヤリマセウ。
○狛錦《コマニシキ》――高麗より舶載の錦。これを枕詞として紐に冠するものと見る説もあるが、これは牽牛の姿の形容で、天上の人らしく、神仙らしい装として、特に高麗錦といつたのであるから、枕詞と見てはわるい。○天人乃《アメビトノ》――天人。彦星のこと。
〔評〕 長歌の意を要約しただけ。長歌の結末と相似てゐる。
2091 彦星の 川瀬を渡る さ小舟の 得行きて泊てむ 河津し念ほゆ
彦星之《ヒコボシノ》 川瀬渡《カハセヲワタル》 左小舟乃《サヲブネノ》 得行而將泊《エユキテハテム》 河津石所念《カハヅシオモホユ》
彦星ガ天ノ川ノ〔四字傍線〕川瀬ヲ渡ル小舟ガ、行キ着クコトガ出來テ泊ル、河ノ舟着キ場ノ樣子ガ遙ニ〔二字傍線〕想像サレル。サゾ嬉シイデアラウ〔九字傍線〕。
○左小舟乃《サヲブネノ》――サは接頭語のみ。○得行而將泊《エユキテハテム》――舊訓トユキテハテム、代匠記精撰本トクユキテ、略解はハテテトマラムとよんでゐるが、ハテテとする翁の説を否としてゐる。新考はイユキテハテム、新訓はユキユキ(287)テハテムとしてゐる。文字のままに訓んで、行き得て泊てむの意に解して置カウ。
〔評〕 彦星の舟が對岸に着いた時の、一年ぶりの二星の抱擁を想像したもの。上品に出來てゐる。
2092 天地と 別れし時ゆ 久方の 天つしるしと 定めてし 天の河原に あらたまの 月を累ねて 妹に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 吾が衣手に 秋風の 吹きかへらへば 立ちてゐる たどきを知らに 村肝の 心おぼえず 解き衣の 思ひ亂れて 何時しかと 吾が待つこよひ その川の 行きの長けく ありこせぬかも
天地跡《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》 久方乃《ヒサカタノ》 天驗常《アマツシルシト》 弖大王《サダメテシ》 天之河原爾《アマノカハラニ》 璞《アラタマノ》 月累而《ツキヲカサネテ》 妹爾相《イモニアフ》 時候跡《トキサモラフト》 立待爾《タチマツニ》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》 秋風之《アキカゼノ》 吹反者《フキカヘラヘバ》 立坐《タチテヰル》 多土伎乎不知《タドキヲシラニ》 村肝《ムラキモノ》 心不欲《ココロオボエズ》 解衣《トキギヌノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 何時跡《イツシカト》 吾待今夜《ワガマツコヨヒ》 此川《コノカハノ》 行長《ユキノナガケク》 有得鴨《アリコセヌカモ》
天ト地トガ別レテ、コノ世界ガ出來〔八字傍線〕タ時カラ、(久方乃)天ノ標《シルシ》トシテ定メテ置イタ天ノ河ノ河原ニ、私ハ〔二字傍線〕月ヲ幾多重ネテ、永イ間〔三字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ニ逢フ時ヲ待ツトテ、立ツテ待ツテヰルト、私ノ着物ノ袖ニ秋風ガ幾度モ幾度モ吹イテ來ルト、戀シクテ戀シクテ〔八字傍線〕、立ツテモ居テモ何トモ爲樣ガナクテ、(村肝)心モ譯ガ分ラヌヤウニナリ、(解衣)考ガ亂レテ、サテモ逢ハレル時ハ〔九字傍線〕何時デアラウカト、私ガ待チ焦レテヰタ今夜ハ、コノ天ノ〔二字傍線〕川ノ流ノヤウニ、長ク續イテクレレバヨイガナア。
○天驗常《アマツシルシト》――上に久方天印等《ヒサカタノアマツシシト》(二〇〇七)とあるに同じ。○弖大王《サダメテシ》――弖は定の誤。元暦校本にさうなつてゐる。大王は王羲之をいふ。手師の意でテシと訓むのである。舊訓は弖を上の句につづけて、アマツシルシトテオホキミノとし、代匠記もそれによつて解してゐるが、意が通じない。○璞《アラタマノ》――枕詞。月とつづく。四四三參照。璞は磨かざる玉のこと。○時候跡《トキサモラフト》――舊訓トキシヲマツトとあるのも意は通ずるが、候の字は卷十一の人目多常如是耳志候者《ヒトメオホミツネカクノミシサモラヘバ》(二六〇六)の例に從つて、サモラフと訓むべきである。○吹反者《フキカヘラヘバ》――舊訓フキシカヘセバ、古義はフキシカヘレバ、新訓はフキカヘサヘバとある。卷一に行幸能山越風乃獨座吾衣手爾朝夕爾還比奴禮(288)婆《イデマシノヤマコスカゼノヒトリヲルワガコロモデニアサヨヒニカヘラヒヌレバ》(五)とあるに傚つて、カヘラヘバとよむことにした。○多土伎乎不知《タドキヲシラニ》――卷二の蔓寸乎白土《タヅキラシラニ》(五)と同じく、方法が分らずの意。○村肝《ムラキモノ》――枕詞。心とつづく。五參照。○心不欲《ココロオボエズ》――略解に「宣長は欲は歡の誤にて、心不歡はこころさぶしくと訓べしと言へり」とある。古義は「不欲は不知欲比とありしが、知比の字を落せる事しるし、さらばイサヨヒと訓べし。(中略)三卷赤人歌に雲居奈須心射左欲比《クモヰナスココロイサヨヒ》とあるに同じく、心の浮れて定らず、散亂《ミダ》れたるをいへり」といつてゐる。これも意は明らかである。新訓にはココロタユタヒと訓んでゐる。これもよいやうであるが、ここはしばらく舊訓に從つて置いた。○解衣《トキギヌノ》――枕詞。解きほぐした衣は亂れてゐるから亂れとつづく。○行長有得鴨《ユキノナガククアリコセヌカモ》――舊訓ユキナカクアルトカモとあり、意が通じないので、この句に關して諸説が紛紛としてゐる。代匠記精撰本は行の下、知の字脱とし、ユクゴトナガクアリエテムカモとし、考は行長は行行良良の誤でユクラユクラニアリガテムカモと訓み、略解は行長は行行の誤、得の上、不を脱としてユクラユクラニアリガテヌカモと訓んでゐる。古義は行の下、瀬を脱とする中山嚴水説を可とし、得の上に欲を脱とし、ユクセノナガクアリコセヌカモとしてゐる。ここは新訓が採用した略解補正の説によることにした。この川のやうに永く續いてあつてくれよの意。
〔評〕 七夕の晩、織女に逢はむとして未だ逢はぬ間の彦星の心である。この長歌の語句は前の七夕の短歌と同一のものもあるが、卷一の幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌(五)とかなり類似點を有してゐる。彼に傚つたものと考へてもよいであらう。
反歌
2093 妹に逢ふ 時片待つと 久方の 天の河原に 月ぞ經にける
妹爾相《イモニアフ》 時片待跡《トキカタマツト》 久方乃《ヒサカタノ》 天之漢原爾《アマノカハラニ》 月叙經來《ツキゾヘニケル》
妻ニ逢フ七夕ノ〔三字傍線〕時ガ來ルノ〔四字傍線〕ヲ、心カラ待ツトテ、私ハ(久方乃)天ノ河原ニ立ツテ居ツテ〔六字傍線〕幾月モ經ツタヨ。
(289)○時片待跡《トキカタマツト》――片待《カタマツ》ハ片よりて待つ。ひたすら待つ意。
〔評〕 これは平明な作である。以上七夕の歌が長歌二首、短歌九十五首ある。その中には柿本人麿歌集出のものもあつて、かなり時代が古いらしいのもあるが、多くは天平に入つてからの作らしい。歌詞の新しいものが多い。これらは七夕祭の席上の詠で、二星に捧げたものと考へられる。乞巧奠は天平勝寶七歳に始まると傳へられてゐるが、それは朝廷に於て公の儀式となつた時のことで、それ以前から廣く盛に行はれてゐたと斷じてもよいと思ふ。
2094 さを鹿の こころ相念ふ 秋萩の 時雨のふるに 散らくし惜しも
竿志鹿之《サヲシカノ》 心相念《ココロアヒオモフ》 秋芽子之《アキハギノ》 鐘禮零丹《シグレノフルニ》 落僧惜毛《チラクシヲシモ》
男鹿ノ心ト相通ウテ、男鹿ノ鳴ク秋ノ頃ニ美シク咲ク〔テ男〜傍線〕秋萩ノ花ガ、コノ〔四字傍線〕時雨ノ降ルノニ、散ルノハ惜シイモノダヨ。
○心相念《ココロアヒオモフ》――心で相互に思ひ合つてゐる。○鐘禮零丹《シグレノフルニ》――鐘禮をシグレとよむことについては、落鐘禮能《オツルシグレノ》(一五五一)參照。○落僧惜毛《チラクシヲシモ》――舊訓チリソフヲシモとあり、考に僧を倶の誤として、チラマクヲシモとある。僧は卷四にも知僧裳無跡《シルシモナシト》(六五八)とあり、シとよんでゐる。字音辨證に僧にシの音ありと言つてゐるが、古義に信の誤としたのがよいのではあるまいか。
〔評〕 萩を鹿の花妻といふ思想が上句にあらはれてゐる。後世ならば萩に注ぐ雨は時雨と言はないのだが、この集では秋の雨をも時雨といつたのである。
2095 夕されば 野邊の秋萩 うら若み 露に枯れつつ 秋待ち難し
夕去《ユフサレバ》 野邊秋芽子《ヌベノアキハギ》 末若《ウラワカミ》 露枯《ツユニカレツツ》 金待難《アキマチガタシ》
夕方ニナルト、野原ニ生エテヰル秋萩ハ、マダ〔二字傍線〕若々シイカヨワイ姿ナ〔六字傍線〕ノデ、ヒドク降ル〔五字傍線〕露ニ葉ガ〔二字傍線〕枯レテ、花咲ク〔三字傍線〕秋ノ來ル〔二字傍線〕ノモ待ツコトガ出來ナイ。イタイタシイコトダ〔イタイ〜傍線〕。
(290)○末若《ウラワカミ》――若くみづみづしいので。ウラには意味はないやうである。○露枯《ツユニカレツツ》――舊訓はツユニシカレテ、代匠記精撰本はツユニカレツツ、考はツユニシヲレテとし、略解の宣長説は枯を沾の誤として、ツユニヌレツツとしてゐるが、代匠記によることにした。露の爲に萩の葉が色づくのを枯れるといつたのである。
〔評〕 夕露が重重しく置いた萩の枝をあはれんだので、如何にもいたいたしくかよわい姿によんである。左註に人麿之謌集出とあるが、人麿らしい感情の優婉さが見える。
右二首柿本朝臣人麿之謌集出
2096 眞葛原 なびく秋風 吹くごとに 阿太の大野の 萩が花散る
眞葛原《マクヅハラ》 名引秋風《ナビクアキカゼ》 毎吹《フクゴトニ》 阿太乃大野之《アダノオホヌノ》 芽子花散《ハギガハナチル》
葛ガ生エテヰル〔六字傍線〕原ガサツト〔三字傍線〕靡イテ、秋風ガ吹ク度毎ニ、阿太ノ廣イ野ニハ萩ノ花ガホロホロト〔五字傍線〕數ルヨ。
○名引秋風《ナビクアキカゼ》――意は眞葛原を吹き靡かす秋風であるが、形は眞葛原が靡く秋風である。○阿太乃大野之《アダノオホヌノ》――阿太乃大野は和名砂に、大和國宇知郡阿陀とあ(291)るところの野。即ち吉野川の北岸、下市町の西方里餘の地に大阿太村がある。その附近の平地が即ち古の阿太の大野で、卷十一の安太人乃八名打度瀬速《アダヒトノヤナウチワタスセヲハヤミ》(二六九九)とあるのもこの地のことである。寫眞は辰巳利文氏寄贈。
〔評〕 葛の茂つたあたりを秋風が吹き渡ると、その白い大きい葉裏が著しく目立つて、さながらに野原に白波でも立つたやうである。と思つてその風の行方を眺めてゐると、それが野原一面に咲き滿ちてゐる萩の花を掠め去つて、可憐な花瓣がほろほろとこぼれるといふ情景である。何といふ婉麗さであらう。さうして場面の廣大と躍動的の風趣がよくあらはれてゐる。
2097 雁がねの 來なかむ日まで 見つつあらむ この萩原に 雨なふりそね
鴈鳴之《カリガネノ》 來喧牟日及《キナカムヒマデ》 見乍將有《ミツツアラム》 此芽子原爾《コノハギハラニ》 雨勿零根《アメナフリソネ》
私ハコノ萩ノ花ノ美シイ景色ヲ〔私ハ〜傍線〕、雁ガ來テ嶋ク頃マデ眺メテヰテ心ヲ慰〔四字傍線〕ヨウト思フガ、ソレマデハ〔五字傍線〕コノ美シイ〔三字傍線〕萩原ニハ、雨ガ降ルナヨ。雨ガ降ツテ花ヲ散ラシテクレルナ〔雨ガ〜傍線〕。
〔評〕 雨によつて萩の花の散るのを惜しんだもの。萩に對して鴈聲を聞かうといふのか。三四の句は續けて見ねばならぬ。秋芽子者於鴈不相常言有者香音乎聞而者花爾散去流《アキハギハカリニアハジトイヘレバカコヱヲキキテハハナニチリヌル》(二一二六)とある。
2098 奥山に 住むとふ鹿の よひ去らず 妻問ふ萩の 散らまく惜しも
奥山爾《オクヤマニ》 住云男鹿之《スムトフシカノ》 初夜不去《ヨヒサラズ》 妻問芽子乃《ツマトフハギノ》 散久惜裳《チラマクヲシモ》
奥山ニ住ムトイハレテヰル鹿ガ、毎晩毎晩宵毎ニ音ヅレテ來ル、ソノ愛スル〔五字傍線〕妻ノ野原ノ〔三字傍線〕萩ノ花ガ〔二字傍線〕、散ツテシマフノハ惜シイモノダヨ。
○初夜不去《ヨヒサヲズ》――毎夜。初夜と書いてあるが、宵と限定したのではなく、夜のことである。○妻問芽子之《ヅマトフハギノ》――萩を妻として訪ふのである。鹿が萩咲くあたりに、その妻の鹿を訪ふのではあるまい。
〔評〕 萩の花咲く位置が明らかでないが、里近き野であらう。奥山から鹿がわざわざ訪ひ來るやうに歌つてゐる。
(292)2099 白露の 置かまく惜しみ 秋萩を 折りのみ折りて 置きや枯らさむ
白露乃《シラツユノ》 置卷惜《オカマクヲシミ》 秋芽子乎《アキハギヲ》 折耳折而《ヲリノミヲリテ》 置哉枯《オキヤカラサム》
白露ガ秋萩ノ上ニ〔五字傍線〕宿ツテ花ヲ痛メ〔六字傍線〕ルノヲ惜シク思ツテ、私ハ〔二字傍線〕秋萩ノ枝〔二字傍線〕ヲスッカリ折リ取ツテシマツテ、置イテ枯ラストシヨウカ。
○折耳折而《ヲリノミヲリテ》――ひたすらに折る意。古義に而は六又は旡の誤として、ヲリノミヲラムと訓んでゐる。○置哉枯《オキヤカラサム》――折り取つて置いて枯らさうといふので、反語ではない。
〔評〕 露によつて枯れるに任せるよりも、折り取つて少しでも眺めて枯れ行くに任せようといふので、花をあはれむ心がよくあらはれてゐる。新考に「露の爲に萩のかるることはなし」とあるが、前に夕去野邊秋芽子末若露枯金待難《ユフサレバヌベノアキハギウラワカミツユニカレツツアキマナガタシ》(二〇九五)とある。
2100 秋田苅る 假廬のやどり にほふまで 咲ける秋萩 見れど飽かぬかも
秋田苅《アキタカル》 借廬之宿《カリホノヤドリ》 爾穗經及《ニホフマデ》 咲有秋芽子《サケルアキハギ》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
秋ノ田ヲ苅ル處ニ〔二字傍線〕假ニ田ノ中ニ〔四字傍線〕作ツタ小屋モ、花ノ色ニ〔四字傍線〕美シク照リ映エルホドモ、美シク〔三字傍線〕咲イタ秋萩ノ花〔二字傍線〕ハイクラ〔三字傍線〕見テモ見飽カナイヨ。
○爾穗經及《ニホフマデ》――匂ふは色の美しく映えることと、色に染まることとの兩義がある。ここは前者であらう。
〔評〕 秋の田の稔る頃、田の畔に假廬を作つて、そこに宿つて番するので、如何なるところにあつても、狹隘・窮屈などを意とせず、折折の風物を樂しむ農民の風流心があらはれて嬉しい。この歌、後撰集にも出てゐる。
2101 吾が衣 摺れるにはあらず 高まどの 野邊行きしかば 萩の摺れるぞ
吾衣《ワガコロモ》 摺有者不在《スレルニハアラズ》 高松之《タカマドノ》 野邊行之者《ヌベユキシカバ》 芽子之摺類曾《ハギノスレルゾ》
私ノコノ〔二字傍線〕着物ハ人工ヲ以テ色ヲ〔七字傍線〕摺ツテ染メ〔三字傍線〕タノデハアリマセヌ。高圓ノ野ヘ行ツタ所ガ、野ニハ澤山ノ萩ガ咲(293)ウテヰタノデ、ソノ花ノ色ガ移ツテ、カウナツタノダ。ツマリ〔野ニ〜傍線〕萩ガ摺ツテ染メテクレ〔六字傍線〕タモノデスゾ。
○吾衣《ワガコロモ》――舊訓ワガキヌヲ、代匠記精撰本ワガキヌハとある。ここは考に從ふ。○高松之《タカマドノ》――松は圓の借字でタカマドであらう。新考にはタカマツと訓むべしといつてゐる。○野邊行之者《ヌベユキシカバ》――代匠記に之の下に、香又は可の字が脱ちたのであらうといつてゐる。
〔評〕 上品な、優美な作で、上代人らしい長閑さがあらはれてゐる。萩の花摺衣の製が、明らかになつてゐるのも嬉しい。
2102 この夕べ 秋風吹きぬ 白露に あらそふ萩の 明日咲かむ見む
此暮《コノユフベ》 秋風吹奴《アキカゼフキヌ》 白露爾《シラツユニ》 荒爭芽子之《アラソフハギノ》 明日將咲見《アスサカムミム》
コノ夕方秋風ガ吹イタ。イヨイヨ秋ノ時節トナツタ〔イヨ〜傍線〕。白露ガ置イテ花ヲ咲カセヨウトスルノ〔ガ置〜傍線〕ニ反抗シテ咲カナイデ〔五字傍線〕ヰル萩ガ、明日咲クデアラウガ〔五字傍線〕、ソレヲ私ハ〔二字傍線〕見ヨウト思フ。
○白露爾荒爭芽子之《シラツユニアラソフハギノ》――白露に爭ふとは、(1)白露が花を咲かせまいとするに反抗して咲かうとするのか、(2)白露が咲かせようとするに、咲くまいと爭ふのか、(3)白露と美を爭つて咲くといふのか、(4)白露の置いた中で、萩が互に美を爭ふといふのか。いろいろに解せられる。しかし前に 春雨爾相爭不勝而吾屋前之櫻花者開始爾家里《ハルサメニアラソヒカネテワガヤドノサクラノハナハサキソメニケリ》(一八六九)によつても、花が咲かじとするのを露が咲かしめようと促す意であることがわかる。この下に白露爾荒爭金手咲芽子散惜兼雨莫零根《シラツユニアラソヒカネテサケルハギチラバヲシケムアメナフリソネ》(二一一六)とあるのも同樣に解すべきである。
〔評〕 萩の花を待つ心から、置く露にさからつて、花が咲かぬやうに考へるので、今夕、秋風の涼しさに、萩の花の吹きいづべきを想像して喜んでゐる、上品な作だ。
2103 秋風は 冷しくなりぬ 馬なめて いざ野に行かな 萩が花見に
秋風《アキカゼハ》 冷成奴《スズシクナリヌ》 馬並而《ウマナメテ》 去來於野行奈《イザヌニユカナ》 芽子花見爾《ハギガハナミニ》
秋風ハ凉シクナツテ來タ。友達ドモヨ〔五字傍線〕、萩ノ花ヲ見ニ、馬ヲ連ネテサア野ヘ出カケヨウ。
(294)〔評〕 はつきりした澄み切つた調子の歌である。白馬に跨つて銀の鞭を上げる貴公子たちの姿を思はしめる。古今集の「駒なめていざ見に行かむふるさとは雪とのみこそ花は散るらめ」のやうな花やかさはないが、飾らぬところに却つて味がある。
2104 朝顔は 朝露おひて 咲くといへど 夕かげにこそ 咲きまさりけれ
朝杲《アサガホハ》 朝露負《アサツユオヒテ》 咲雖云《サクトイヘド》 暮陰社《ユフカゲニコソ》 咲益家禮《サキマサリケレ》
朝顔ノ花ハ、朝露ヲ帶ビテ咲クモノダト、人ハ〔二字傍線〕言フガ、コノ通リ〔四字傍線〕夕方物〔二字傍線〕蔭ニ、コンナニ〔四字傍線〕益々勢ヨク咲イテヰルヨ。評判トハ違ツタ花ダ〔九字傍線〕。
○朝杲《アサガホハ》――朝杲は朝貌即ち桔梗。卷八の朝貌之花《アサガホノハナ》(一五三八)參照。杲をカホと訓むことについて、見杲石山跡《ミガホシヤマト》(三八二)參照。○暮陰社《ユフカゲニコソ》――暮陰は夕方の物陰。夕方の日陰ではない。
〔評〕 何の技巧も、工夫も無いが、感じのよい作だ。この朝顔は桔梗らしくよまれてゐる。
2105 春されば 霞隱りて 見えざりし 秋萩咲けり 折りてかざさむ
春去者《ハルサレバ》 霞隱《カスミガクリテ》 不所見有師《ミエザリシ》 秋芽子咲《アキハギサケリ》 折而將挿頭《ヲリテカザサム》
春ガ來ルト、野原ニ〔三字傍線〕霞ガ立チ込メ萩ハ〔七字傍線〕隱レテ見エナカツタガ、今ハソノ咲ク時節ガ來タノデ〔ガ今〜傍線〕、秋萩ガ美シク〔三字傍線〕咲イタヨ。サア〔二字傍線〕折ツテ髪ノ飾ニシヨウ。
〔評〕 萩が霞にかくれて見えなかつたといふのは、美化した叙法である、野の萩は春の間は丈も短く花もなくて、見わけ難いのをかく言つたのである。
2106 沙額田の 野邊の秋萩 時なれば 今盛なり 折りてかざさむ
沙額田乃《サヌカタノ》 野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》 時有者《トキナレバ》 今盛有《イマサカリナリ》 折而將挿頭《ヲリテカザサム》
沙額田ノ野ノ秋萩ノ花〔二字傍線〕ハ、丁度〔二字傍線〕時節ナノデ、今ガ眞盛ニ咲イテヰル。サア、アレヲ〔五字傍線〕折ツテ髪ニ挿サウ。
(295)○沙額田乃《サヌカタノ》――沙額田は前に狹野方波《サヌカタハ》(一九二八)とあつたところと同じであらう。近江坂田郡か、大和生駒郡の額田か。その條參照。
〔評〕 沙額田の野で、盛の萩を眺めつつよんだもの。何等の特色もない。
2107 こと更に 衣は摺らじ をみなへし 佐紀野の萩に にほひて居らむ
事更爾《コトサラニ》 衣者不揩《コロモハスラジ》 佳人部爲《ヲミナヘシ》 咲野之芽子爾《サキヌノハギニ》 丹穗日而將居《ニホヒテヲラム》
俺ハ〔二字傍線〕特別ニ着物ヲ摺ツテ染メ〔四字傍線〕ルコトハスマイ。ソレヨリモ寧ロ〔七字傍線〕、(佳人部爲)佐紀野ノ萩ノ花ノ咲キ亂レタ中ニ、入ツテソノ花ノ色〔萩ノ〜傍線〕ニ着物ヲ〔三字傍線〕染メテ居ラウ。
○佳人部爲《ヲミナヘシ》――枕詞。咲と言はむ爲のみ。○咲野之芽子爾《サキヌノハギニ》――咲野は佐紀野。奈良舊都北方の平地。
〔評〕 萩を以て衣を摺つたことが、うかがはれるだけの歌である。
2108 秋風は とくとく吹き來 萩が花 散らまく惜しみ 競ひ立つ見む
秋風者《アキカゼハ》 急々吹來《トクトクフキコ》 芽子花《ハギガハナ》 落卷惜三《チラマクヲシミ》 競竟《キホヒタツミム》
秋風ハ速ク吹イテ來ヨ。サウシタラ〔五字傍線〕、萩ノ花ガ散ルノガ惜シサニ、風ニ〔二字傍線〕反抗シテ散ルマイト〔七字傍線〕スル樣ヲ見ヨウト思フ。
○急々吹來《トクトクフキコ》――舊本に急之とあるが、元暦校本・神田本など、之を々に作つてゐるのによる。○競竟《キホヒタツミム》――この句は全くわからない。舊訓オホロオホロニとあり、代匠記初稿本はアラソヒハテツ、考は競立見の誤として、キソヒタツミムとし、略解は競弖見として、アラソヒテミム、古義はキホヒタチミム、新考は立見を覧の誤として、キホヒテゾミムと訓んでゐる。いづれにも多少の無理はあるが、ここは考に從つた新訓によつてよんだ。解は「風に競ひて散らじとするさまを見むといふ心か」と考にあるによる。
〔評〕 少からす難解の歌である。右のやうによんでも、末句が穩やかでない。
(296)2109 我がやどの 萩のうれ長し 秋風の 吹きなむ時に 咲かむと思ひて
我屋前之《ワガヤドノ》 芽子之若末長《ハギノウレナガシ》 秋風之《アキカゼノ》 吹南時爾《フキナムトキニ》 將開跡思手《サカムトモヒテ》
私ノ宿ノ庭ノ〔二字傍線〕萩ノ枝ノ先ガ大サウ〔三字傍線〕長クノビテヰル。アレハ〔三字傍線〕秋風ガ吹イタラソノ時ニ咲カウトイフ考デ、アンナニノビテヰルノダラウ。咲イクラ、サゾ美シカラウ〔アン〜傍線〕。
○芽子之若末長《ハギノウレナガシ》――舊訓ハギノワカタチとあるのは論外である。○將開跡思手《サカムトモヒテ》――舊本に乎とあるは手の誤。類聚古集・神田本などはさうなつてゐる。
〔評〕 第二句に萩の枝の長長しい姿が目に見るやうに描寫されてゐる。三句以下は、うるはしい童心ともいふべきものが、あらはれてゐる。好きな歌だ。代匠記に「秋風の吹む時にさきなむに、うれの痛く長くて、損なはれやしなむとうしろめたくおもひ置なり」とあるのは、誤解の甚だしいものである。
2110 人皆は 萩を秋といふ よし我は 尾花がうれを 秋とは言はむ
人皆者《ヒトミナハ》 芽子乎秋云《ハギヲアキトイフ》 縱吾等者《ヨシワレハ》 乎花之末乎《ヲバナガウレヲ》 秋跡者將言《アキトハイハム》
皆ノ人ハ萩ヲ秋ノ第一ノ者〔五字傍線〕トイフガ、ヨシヤサウデモカマハナイ〔サウ〜傍線〕。私ハ尾花ノ咲イタ〔二字傍線〕穗先ノ美シサ〔二字傍線〕ヲ秋ノ代表ノモノ〔六字傍線〕ト言ハウト思フ〔三字傍線〕。
○乎花之末乎《ヲバナガウレヲ》――尾花の穗先を。薄の穗の美しさをいふのである。
〔評〕 天平の頃、秋の花の王として貴ばれたのは萩の花である。それは萩が集中最も多くよまれてゐるのでも明らかである。又秋野の七種の花の歌に芽之花乎花葛花瞿麥之花姫部志又藤袴朝顔之花《ハギガハナヲバナクズバナナデシコノハナヲミナヘシマタフヂバカマアサガホノハナ》(一五三八)とあるのは、必ずしも愛好の順序で排列せられたものではないが、萩の花が劈頭に置かれ、さうして尾花がその次に置かれてゐる。集中の歌數から言つても秋の花では尾花が萩の次になつてゐるのは、この花に對する上代人の嗜好を示すもので、この歌は更にそれを裏書してゐる感がある。
2111 玉梓の 君が使の 手折りける この秋萩は 見れど飽かぬかも
(297)玉梓《タマヅサノ》 公之使乃《キミガツカヒノ》 手折來有《タヲリケル》 此秋芽子者《コノアキハギハ》 雖見不飽鹿裳《ミレドアカヌカモ》
アナタノ(玉梓)使ガ手折ツテ持ツテ來テクレ〔八字傍線〕タ、コノ萩ノ花〔二字傍線〕ハ美シクテ、イクラ見〔八字傍線〕テモ見飽カナイヨ。アア綺麗ダ〔五字傍線〕。
○玉梓《タマヅサノ》――枕詞。使に冠してゐるのは、上代には使の標として、玉を飾つた梓の枝を持つて行つたものだといふが、果してどうであらう。
〔評〕 秋萩の花を使に持たして、贈つて來た人の好意に對する、感謝の辭である。平明。
2112 吾がやどに 咲ける秋萩 常ならば 吾が待つ人に 見せましものを
吾屋前爾《ワガヤドニ》 開有秋芽子《サケルアキハギ》 常有者《ツネナラバ》 我待人爾《ワガマツヒトニ》 令見※[獣偏+爰]物乎《ミセマシモノヲ》
私ノ家ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ、誠ニ美シイガ、コレガ〔ノ花〜傍線〕常ニアルモノ〔五字傍線〕ナラバ、ワタシガ待ツテヰル人ニ見セヨウノニ。イツモアルモノデハナイカラ、稀ニシカ來ナイ私ノ待人ニ、丁度都合好ク見セル譯ニユカナイ。惜シイモノダ〔イツ〜傍線〕。
○常有者《ツネナラバ》――いつもあるものならばの意。考にはツネニアラバ、古義にはツネシアラバとある。○令見※[獣偏+爰]物乎《ミセマシモノヲ》――※[獣偏+爰]をマシと訓んだのに注意したい。マシラといふ梵語が普通に用ゐられた證である。
〔評〕おとなしい女らしい歌だ。
2113 手もすまに 植ゑしもしるく 出で見れば やどのわさ萩 咲きにけるかも
手寸十名相《テモスマニ》 殖之名知久《ウヱシモシルク》 出見者《イデミレバ》 屋前之早芽子《ヤドノワサハギ》 咲爾家類香聞《サキニケルカモ》
手モ休メズ骨ヲ折ツテ〔五字傍線〕植ヱタ甲斐モ充分見エテ、庭ヘ〔二字傍線〕出テ見ルト、庭前ノ早咲キノ萩ハ、咲イタナア。
○手寸十名相《テモスマニ》――元暦校本・類聚古集・和歌童蒙抄などテモスマニとあつて、これが古點である。仙覺はこれを改(298)めて、タキソナヘとよんで「タキはあぐるなり。あげそなへといふことばなり。草木は植うる時にふかく植ゑたるはあしき也」と言ってゐるが、よくわからない。古義は手文寸麻仁の誤とする南部嚴男説を採用して、テモスマニの古訓に從つてゐる。しばらくこれによることとする。テモスマニは手も休めずの意。吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》(一四六〇)參照。○殖之名知久《ウヱシモシルク》――舊訓、文字通りウヱシナシルクとあるが、これも古點、ウヱシモシルクとあるのがよいであらう。名は毛の誤とする略解説によつて置かう。○屋前之早芽子《ヤドノワサハギ》――早芽子《ワサハギ》は早咲の萩の花。舊訓ハツハギとあるが、早田《ワサダ》(一三五三)早飯《ワサイヒ》(一六三五)・早穂《ワサホ》(一六二五)の例にならつて、ワサハギとよむべきであらう。卷八に先芽《サキハギ》(一五四一)とあるも同じ。
〔評〕 野から引き植ゑた萩が、始めて花を附けたのを喜んだ歌。朗らかな感じの作である。この歌、和歌童蒙抄に見えてゐる。
2114 吾が宿に 植ゑ生したる 秋萩を 誰かしめさす 我に知らえず
吾屋外爾《ワガヤドニ》 殖生有《ウヱオホシタル》 秋芽子乎《アキハギヲ》 誰標刺《タレカシメサス》 吾爾不所知《ワレニシラエズ》
ワタシノ家ニ植ヱテ置イタ秋萩ヲ、ワタシニ秘密ニ、誰ガ自分ノ物ニシテシマツタノダラウ。ワタシノ大事ニシテ置イタ女ヲ、ワタシニ内所デ横取リスルトハヒドイ奴ダ〔ワタシノ〜傍線〕。
○誰標刺《タレカシメサス》――誰が標《シルシ》を立てたか。刺《サス》は立つに同じ。
〔評〕 女を萩に譬へた譬喩歌であるから、ここに收めたのは當らない。代匠記精撰本に「此はいつく娘を守るに密によばふ男あるを聞付てよそへよめる歟」とある通りであらう。略解には「我物にせむとおもひし女を、我に知られぬやうにして人の領じたるにたとへたる譬喩の歌なるを云々」とある。
2115 手に取れば 袖さへ匂ふ 女郎花《をみなへし》 この白露に 散らまく惜しも
手取者《テニトレバ》 袖并丹覆《ソデサヘニホフ》 美人部師《ヲミナヘシ》 此白露爾《コノシラツユニ》 散卷惜《チラマクヲシモ》
手ニ折〔傍線〕取ルト着物ノ〔三字傍線〕袖マデモ色ガ付クヤウナコノ美シイ〔五字傍線〕女郎花ガ、コノヒドク置イタ〔六字傍線〕白露ノ爲ニ〔三字傍線〕花ヲ散ラシテ(299)シマフノハ惜シイモノダヨ。
○袖并丹覆《ソデサヘニホフ》――サヘニ并の文字を記したのは、この助詞の意味をあらはしてゐるやうに見える。ニホフは色に染まること。
〔評〕 露といへばよいのであるが、玉と輝く露の重さうに宿つた實景を見て、白の字を添へたのであらう。
2116 白露に 爭ひかねて 咲ける萩 散らば惜しけむ 雨なふりそね
白露爾《シラツユニ》 荒爭金手《アラソヒカネテ》 咲芽子《サケルハギ》 散惜兼《チラバヲシケム》 雨莫零根《アメナフリソネ》
白露ガ花ニ咲カセヨウトスルノ〔ガ花〜傍線〕ニ反抗シテヰタガ、到頭〔九字傍線〕反抗シカネテ咲イタ萩ノ花ガ〔三字傍線〕、散ツタナラバ殘念デアラウ。雨ヨ、降ルナヨ。雨ガ降ツタラ、スグニ散リサウダカラ降ツテクレルナ〔雨ガ〜傍線〕。
○荒爭金手《アラソヒカネテ》――露に反抗して咲くまいとしたが、遂に爭ひかねて咲くといふので、花を待つ心からさう思ふのである。
〔評〕前の白露爾荒爭芽子之《シラツユニアラソフハギノ》(二二〇二)の歌と同想で、末句は鴈鳴之來喧牟日及《カリガネノキナカムヒマデ》(二〇九七)と同じである。
2117 をとめ等に 行相の早稻を 苅る時に 成りにけらしも 萩が花咲く
※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》 行相乃速稻乎《ユキアヒノワセヲ》 苅時《カルトキニ》 成來下《ナリニケラシモ》 芽子花咲《ハギガハナサク》
夏ト秋トガ〔五字傍線〕(※[女+感]嬬等)行キ合フ初秋ノ〔三字傍線〕頃ニ實ル、早稻ヲ苅ル時ニナツタラシイヨ。アノ通リ〔四字傍線〕萩ノ花ガ咲イタ〔アノ〜傍線〕。
○※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》――舊訓ヲトメラニとあのを改めて、略解はヲトメラガとし、古義はヲトメドモとして、共に第三句の苅《カリ》に續けてゐる。行相《ユキアヒ》の枕詞として、舊訓によるべきである。○行相乃速稻乎《ユキアヒノワセヲ》――行相は夏と秋との行き合ふ時、即ち夏の終秋の初である。袖中抄に行相を立田山に近い地名として、卷九の射行相乃坂上踏本爾《イユキアヒノサカノフモトニ》(一七五二)の歌をあげ、其處の田の早稻だといつてゐる。
〔評〕 ※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》といふ枕詞や行相乃速稻《ユキアヒノワセ》といふ珍らしい言葉が用ゐられてゐる爲に、一寸變つた感じのする歌で、(300)調子が滑らかである。
2118 朝霧の たなびく小野の 萩が花 今や散るらむ いまだ飽かなくに
朝霧之《アサギリノ》 棚引小野之《タナビクヲヌノ》 芽子花《ハギガハナ》 今哉散濫《イマヤチルラム》 未※[厭のがんだれなし]爾《イマダカナクニ》
朝霧ガ靡イテヰル景色ノヨイ〔五字傍線〕野原ノ萩ノ花ハ、マダ私ガ〔二字傍線〕見アカナイノニ、今頃ハモウ〔二字傍線〕散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
〔評〕 特に朝霧の棚引くといつたのは、さうした實景を眺めての作であらう。連日、野の萩に親しんでゐたらしい態が見えてゐる。
2119 戀しくは 形見にせよと 吾が背子が 植ゑし秋萩 花咲きにけり
戀之久者《コヒシクハ》 形見爾爲與登《カタミニセヨト》 吾背子我《ワガセコガ》 殖之秋芽子《ウヱシアキハギ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》
戀シク思フナラバ、コレヲ〔三字傍線〕形見ト思ツテ眺メヨト言ツテ別レル時ニ〔八字傍線〕、私ノ夫ガ植ヱテ置イタ秋萩ノ花ガ咲イタヨ。アアコレヲ見レバ却ツテ別レタ夫ガ戀シイヨ〔アア〜傍線〕。
〔評〕 なつかしい哀情の籠つた作である。卷八に戀之家婆形見爾將爲跡吾屋戸爾殖之藤浪今開爾家里《コヒシケバカタミニセムトワガヤドニウヱシフヂナミイマサキニケリ》(一四七一)とある山部赤人の作に似てゐる。
2120 秋萩に 戀盡さじと 念へども しゑやあたらし また逢はめやも
秋芽子《アキハギニ》 戀不盡跡《コヒツクサジト》 雖念《オモヘドモ》 思惠也安多良思《シヱヤアタラシ》 又將相八方《マタアハメヤモ》
ワタシハ〔四字傍線〕秋萩ノ花〔二字傍線〕ニ、ソンナニ〔四字傍線〕戀シガツテ心ヲナヤマスマイトハ思ツタガ、アア惜シイモノダ。コノ花ガ散ツタナラバ、コノ花ニ〔コノ〜傍線〕マタ逢フコトガ出來ヨウヤ。コノ花ノ盛ニハ一年ノ後デナクテハ逢ハレナイゾ〔コノ〜傍線〕。
○戀不盡跡《コヒツクサジト》――戀の心を惱ますまいとの意。前の年之戀今夜盡而《トシノコヒコヨヒツクシテ》(二〇三七)・年緒長思來之戀將盡《トシノヲナガクオモヒコシコヒヲツクサム》(二〇八九)とあるの(301)とは違つてゐる。○思惠也安多良思《シヱヤアタラシ》――思惠也《シヱヤ》はヱヱと詠嘆する辭。安多良思はあたら惜しいの意。〔評〕、萩の花に對して、さながら戀人に逢ふやうなことを言つてゐるのが、この歌の特色であらう。
2121 秋風は 日にけに吹きぬ 高圓の 野邊の秋萩 散らまく惜しも
秋風者《アキカゼハ》 日異吹奴《ヒニケニフキヌ》 高圓之《タカマドノ》 野邊之秋芽子《ヌヘノアキハギ》 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
秋風ハ日ニ日ニ吹イテヰル。コレデハ萩モ盛ガスギルデアラウガ〔コレ〜傍線〕、高圓ノ野ニ美シク咲イテヰル〔八字傍線〕秋萩ノ花ガ〔三字傍線〕、散ルノハ惜シイモノダヨ。
〔評〕 すがすがしい歌である。秋のやうな澄み渡つた氣分である。
2122 ますらをの 心は無くて 秋萩の 戀にのみやも なづみてありなむ
丈夫之《マスラヲノ》 心者無而《ココロハナクテ》 秋芽子之《アキハギノ》 戀耳八方《コヒニノミヤモ》 奈積而有南《ナヅミテアリナム》
男タルモノガ〔六字傍線〕男ノ心モ無クナツテ、女々シクモ〔五字傍線〕秋萩ノ花ヲ戀シテ、苦シンデ居ルベキデアラウカ。サウデハナイ筈ダ。シカシドウモ秋萩ノ花ガ戀シクテ忘レラレナイ〔サウ〜傍線〕。
○心者無而《ココロハナクテ》――舊訓、ココロハナシニとあり、代匠記・略解・古義もこれによつてゐるが、文字通りにナクテとよむがよい。○奈積而有南《ナヅミテアリナム》――戀にばかり惱んでゐようか。さうあるべきでないの意。ナヅムは拘泥する。惱む。
〔評〕 これも前の秋芽子戀不盡跡《アキハギニコヒツクサジト》(二一二〇)の如く、女に對する戀のやうに大袈裟によんである。
2123 吾が待ちし 秋は來りぬ 然れども 萩が花ぞも 未だ咲かずける
吾待之《ワガマチシ》 秋者來奴《アキハキタリヌ》 雖然《シカレドモ》 芽子之花曾毛《ハギガハナゾモ》 未開家類《イマダサカズケル》
ワタシガ待ツテ居タ秋ハヤツト〔三字傍線〕來マシタ。シカシ萩ノ花ハマダ咲カナイヨ。早ク萩ガ咲イテクレレバ、ヨイノニ〔早ク〜傍線〕。
(302)○芽子之花曾毛《ハギノハナゾモ》――萩の花ぞまあの意で、毛《モ》は詠歎の助詞。
〔評〕 雖然《シカレドモ》が堅苦しくて漢文直譯の風がある。下句は萩の未だ咲かざるを恨んだ氣分がよく出てゐる。
2124 見まく欲り 吾が待ち戀ひし 秋萩は 枝もしみみに 花咲きにけり
欲見《ミマクホリ》 吾待戀之《ワガマチコヒシ》 秋芽子者《アキハギハ》 枝毛思美三荷《エダモシミミニ》 花開二家里《ハナサキニケリ》
ワタシガ見タク思ツテ、待チ焦レテヰタ秋萩ハ.枝ニ繁ク一杯ニ花ガ咲イタヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○枝毛思美三荷《エダモシミミニ》――枝に繁くの意。
〔評〕 平板ではあるが、喜ぶ心はあらはれてゐる。
2125 春日野の 萩し散りなば 朝東風の 風にたぐひて ここに散り來ね
春日野之《カスガヌノ》 芽子落者《ハギシチリナバ》 朝東《アサコチノ》 風爾副而《カゼニタグヒテ》 此間爾落來根《ココニチリコネ》
春日野ニハ美シク〔五字傍線〕萩ガ咲イテヰルガ、モシ〔七字傍線〕散ツタナラバ、他所ヘハ飛ンデ行クナ〔他所〜傍線〕、朝吹ク〔二字傍線〕東風ニツレテ此處ヘ散ツテ來イ。ソレヲ見テセメテ心ヲナグサメヨウ〔ソレ〜傍線〕。
○朝東《アサコチノ》――コチは東風。チは疾風《ハヤテ》・追風《オヒテ》などのテ、飄風《ツムジカゼ》・嵐《アラシ》などのシと同じく、風の意である。
〔評〕 奈良の都に住む人の歌だ。東風が吹くと、都は春日野を渡る風を受けるのである。さう近いところでもあるまいが.此間爾落來根《ココニチリコネ》といつたのが、おもしろいのである。
2126 秋萩は 鴈に逢はじと 言へればか [一云、言へれかも 聲を聞きては 花に散りぬる
秋芽子者《アキハギハ》 於鴈不相常《カリニアハジト》 言有者香《イヘレバカ》 【一云|言有可聞《イヘレカモ》】 音乎聞而者《コヱヲキキテハ》 花爾散去流《ハナニチリヌル》
秋萩ノ花〔二字傍線〕ハ鴈トハ逢フマイト言ツタコトデモアルノカ、鴈ノ鳴ク〔四字傍線〕聲ヲ聞クト、花ガ空シク散ツテシマフ。
○於鴈不相常《カリニアハジト》――鴈には逢ふまいとの意。新解と新釋(澤瀉氏)とは、アハジを夫婦にならじとの意としてゐるが、どうであらう。○言有者香《イヘレバカ》――一云、イヘレカモとあるのと意は全く同じ。○花爾散去流《ハナニチリヌル》――徒《あだ》に散つた。(303)空しく散つたの意。
〔評〕 萩は秋の初に咲き、鴈は秋の半、膚寒い風と共に鳴いて來るものである。この風物の推移に細かい目を見はりつつ、子供らしい表現法をとつてゐるのが珍らしくて面白い。古今集に「春霞立つを見すてて行く鴈は花無き里に住みやならへる」とあるのは、春と秋との時季の相異はあるが、よく似た材料である。しかもこれは童心そのままであり、彼はつまらぬ理窟に落ちてゐるのを比較すると.萬葉集の貴いことがわかるのである。
2127 秋さらば 妹に見せむと 植ゑし萩 露霜負ひて 散りにけるかも
秋去者《アキサラバ》 妹令視跡《イモニミセムト》 殖之芽子《ウヱシハギ》 露霜負而《ツユジモオヒテ》 散來毳《チリニケルカモ》
秋ガ來タナラバ、美シク咲イタ所ヲ〔八字傍線〕妻ニ見セヨウト思ツテ〔三字傍線〕植ヱテ置イ〔三字傍線〕タ萩ガ、露ニ逢ツテ散ツテシマツタヨ。到頭見セナイデ殘念ナコトヲシタ〔到頭〜傍線〕。
○露霜負而《ツユジモオヒテ》――ツユジモは宣長説に從つて.露のことと解しよう。舊本に、霧霜とあるは誤。元暦校本・類聚古集などの古本、皆露に作つてゐる。
〔評〕 下句は卷八の棹牡鹿之來立鳴野之秋芽子者露霜負而落去之物乎《サヲシカノキタチナクヌノアキハギハツユジモオヒテチリニシモノヲ》(一五八〇)と同じやうである。以上詠花の歌三十四首のうち朝顔一首、尾花一首、女郎花一首を除くと.他はすべて萩を詠じてゐるのを見ると、如何に萩の花が愛せられたかを知ることが出來る。
詠v鴈
2128 秋風に 大和へこゆる 鴈がねは いや遠ざかる 雲がくりつつ
秋風爾《アキカゼニ》 山跡部越《ヤマトヘコユル》鴈鳴者《カリガネハ》 射矢遠放《イヤトホザカル》 雲隱筒《クモガクリツツ》
秋風ガ淋シク吹ク空〔七字傍線〕ニ、大和ノ方ヲ指シテ山ヲ〔三字傍線〕飛越シテ行ク鴈ハ、雲ノ中ニ姿ヲ没シナガラ、愈々遠ザカツテ行ク。アア淋シイ聲ダ〔七字傍線〕。
(304)○山跡部越《ヤマトヘコユル》――山跡は大和である。舊訓にヤマトビコユルとあるのは誤つてゐる。字音辨證に部をヒとよむべしといつて、呉原音ビユの省呼であらうとしたのは、韻鏡濫用であらう。
〔評〕故郷の大和を離れて旅にある人の歌である。秋らしい寂寥が漲つてゐる。下に秋風爾山飛越鴈鳴之聲遠離雲隱良思《アキカゼニヤマトビコユルカリガネノコヱトホザカルクモガクルラシ》(二一三六)と著しく似てゐる。
2129 明けぐれの 朝霧隱り 鳴きて行く 鴈は吾が戀 妹に告げこそ
明闇之《アケグレノ》 朝霧隱《アサキリガクリ》 鳴而去《ナキテユク》 鴈者言戀《カリハワガコヒヲ》 於妹告社《》イモニツゲコソ
夜明ケ時ノ薄暗イ時、朝霧ノ立チ込メタ中〔七字傍線〕ニ隱レテ、鴈ガ〔二字傍線〕鳴イテ行クガ、アノ〔三字傍線〕鴈ハ多分ワタシノ戀シイ妻ノ方ヘ飛ンデ行クダラウガ、ワタシノ戀シイ〔多分〜傍線〕妻ニ、ワタシガカウシテ戀ヒ焦レテヰルト云フコトヲ〔ワタ〜傍線〕告ゲテクレヨ。
○明闇之《アケグレノ》――夜明方の暗やみ。グレは濁音である。○鴈者言戀《カリハワガコヒヲ》――略解ワガコフル、古義はワガコフ、新考はワガコフトとあるが、新訓による。言は元暦校本に吾に作つてゐるのに從ふべきである。
〔評〕 曉かけて旅行く人の歌らしい。鴈信の意もあるやうである。
2130 吾が宿に 鳴きし鴈がね 雲の上に こよひ鳴くなり 國へかも行く
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 鳴之鴈哭《ナキシカリガネ》 雲上爾《クモノウヘニ》 今夜喧成《コヨヒナクナリ》 國方可聞遊群《クニヘカモユク》
ワタシノ家ノアタリ〔四字傍線〕デ、コノ間カラ〔五字傍線〕鳴イテヰタ鴈ガ、今夜ハ雲ノ上デ鳴イテヰルヨ。アレハ自分ノ本〔七字傍線〕國ヘデモ歸ツテ行クノダラウカ。
○國方可聞遊群《クニヘカモユク》――遊群の二字を舊本に別行に離して書いてゐるのは誤である。
〔評〕 後世になつては歸る鴈といへば、春のものと定まつてゐるが、これは秋の季節によんでゐる。
2131 さを鹿の 妻とふ時に 月をよみ 鴈が音聞ゆ 今し來らしも
左小牡鹿之《サヲシカノ》 妻問時爾《ツマトフトキニ》 月乎吉三《ツキヲヨミ》 切木四之泣所聞《カリガネキコユ》 今時來等霜《イマシクラシモ》
(305)男鹿ガ妻ヲ訪ネル聲ガスル時ニ、今夜ハ〔九字傍線〕月ガヨイノデ、鴈ノ鳴ク聲モ聞エル。今鴈モ〔二字傍線〕來ルラシイヨ。
○切木四之泣所聞《カリガネキコユ》――切木四之泣については、卷六の折木四哭之《カリガネノ》(九四八)參照。
〔評〕 明月の清夜に、聞える鹿の音と鴈の聲との二重奏であるが、鴈を主としてよんでゐる。
2132 天雲の よそに鴈がね 聞きしより はだれ霜ふり 寒しこの夜は 一云、いやますますに戀こそまされ
天雲之《アマグモノ》 外鴈鳴《ヨソニカリガネ》 從聞之《キキシヨリ》 薄垂霜零《ハダレシモフリ》 寒此夜者《サムシコノヨハ》
空ノ雲ノアナタニ遙ニ〔二字傍線〕鴈ノ鳴ク聲ヲ聞イテカラハ、メツキリ時候ガ寒クナツテ〔メツ〜傍線〕、薄霜ガ降ツテ、今夜ハナカナカ〔四字傍線〕寒イ。
○薄垂霜零《ハダレシモフリ》――これはハダレジモで薄霜のことであらう。ハダレについては卷八の薄太禮爾零登《ハダレニフルト》(一四二〇)參照。
〔評〕 薄垂霜《ハダレジモ》は珍らしい題材で、鴈聲と共に寒さが身に泌み初めた氣分が、よく出てゐる。
一云 彌益益爾《イヤマスマスニ》 戀許曾増焉《コヒコソマサレ》
これは四・五句の異傳として掲げられてゐるが、全く意味も氣分も異なつた歌になつてゐる。
2133 秋の田を 吾が苅りばかの 過ぎぬれば 鴈がね聞ゆ 冬片まけて
秋田《アキノタヲ》 吾苅婆可能《ワガカリバカノ》 過去者《スギヌレバ》 鴈之喧所聞《カリガネキコユ》 冬方設而《フユカタマケテ》
秋ノ田ヲワタシガ苅ル部分ガ、苅リ〔二字傍線〕終ヘテシマツタノデ、近ヅク〔三字傍線〕冬ノ來ルノ〔四字傍線〕ヲヒタスラ待チ受ケテ、鴈ノ鳴ク聲ガ聞エル。
○吾苅婆可能《ワガカリバカノ》――カリバカは、卷四に穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》(五一二)とあつたやうに、苅り取る範圍の意。ここでは吾が苅るべき部分をいひ、これを苅り終つたのを過去者《スギヌレバ》と言つたのである。○冬方設而《フユカタマケテ》――カタマケは片より待つ意
であるから、ここは冬に近くなりての意。
(306)〔評〕 如何にも晩秋らしい情景である。さうして耕人の歌らしい感じがある。よく出來てゐる。
2134 葦邊なる 荻の葉さやぎ 秋風の 吹き來るなべに 鴈鳴き渡る 一云、秋風に 雁が音聞こゆ 今し來らしも
葦邊在《アシベナル》 荻之葉左夜藝《ヲギノハサヤギ》 秋風之《アキカゼノ》 吹來苗丹《フキクルナベニ》 鴈鳴渡《カリナキワタル》
葦ノ生セテヰル〔五字傍線〕ホトリニアル荻ノ葉ニ、サヤサヤト音ヲ立テナガラ秋風ガ吹イテ來ルト、ソレ〔三字傍線〕ニツレテ鴈ノ鳴ク聲ガ聞エル。
〔評〕 葦邊と荻とを一所に點出したのは、後世には無ささうな描寫である。これは水邊の荻を歌つたのであらう。すべて聽覺に訴へた、さうして調子のさわやかな歌である。
一云 秋風爾《アキカゼニ》 鴈音所聞《カリガネキコユ》 今四來霜《イマシクラシモ》
これは三句以下の異傳であるが、前に左小牡鹿之妻問時爾月乎吉三切木四之泣所聞今時來等霜《サヲシカノツマトフトキニツキヲヨミカリガネキコユイマシクラシモ》(二一三一)とあつたのと、下句が同じである。
2135 押照る 難波堀江の 葦邊には 鴈ねたるかも 霜のふらくに
押照《オシテル》 難波穿江之《ナニハホリエノ》 葦邊者《アシベニハ》 鴈宿有疑《カリネタルカモ》 霜乃零爾《シモノフラクニ》
(押照)難波ノ堀江ノ葦ノ生エテヰル〔五字傍線〕所ニハ、コノ〔二字傍線〕霜ノ降ルノニ鴈ガ宿テヰルダラウカ。サゾ寒イデアラウニ〔九字傍線〕。
○押照《オシテル》――枕詞。難波とつづく。押光《オシテル》(四四三)參照。○難波穿江之《ナニハホリエノ》――卷七の穿江《ホリエ》(一一四三)參照。
〔評〕 難波に旅寢した人の歌であらう。身の寒さに霜夜の鴈をあはれんだ、同情感が溢れた作である。
2136 秋風に 山飛び越ゆる 鴈がねの 聲遠ざかる 雲隱るらし
秋風爾《アキカゼニ》 山飛越《ヤマトビコユル》 鴈鳴之《カリガネノ》 聲遠離《コヱトホザカル》 雲隱良思《クモガクルラシ》
秋風ノ吹クノ〔四字傍線〕ニ、山ヲ飛ビ越シテ行ク〔二字傍線〕鴈ノ鳴ク聲ガ、段々〔二字傍線〕遠クナツテ行ク、モハヤアノ雁モ〔七字傍線〕雲ノアナタ〔四字傍線〕ニ隱レ(307)タト見エル。
〔評〕 前の秋風爾山跡部越鴈鳴者射矢遠放雲隱筒《アキカゼニヤマトヘコユルカリガネハイヤトホザカルクモガクリツツ》(二一二八)と同じ歌の異傳と考へてよからう。末句を想像的にしたので、少し歌の氣分が異なつてゐる。
2137 朝に行く 鴈の鳴く音は 吾が如く もの念へかも 聲の悲しき
朝爾往《アサニユク》 鴈之鳴音者《カリノナクネハ》 如吾《ワガゴトク》 物念可毛《モノオモヘカモ》 聲之悲《コヱノカナシキ》
朝早ク〔二字傍線〕ニ空ヲ飛ンデ〔五字傍線〕行ク雁ノ鳴ク聲ガスルガ、アノ雁モ〔七字傍線〕ワタシノヤウニ物ヲ思ツテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰルカラカ、鳴ク〔二字傍線〕聲ガ悲シク聞エルヨ。
○朝爾往《アサニユク》――舊訓ツトニユクとあり、諸訓それに從つてゐる。但し元暦校本・類聚古集などにはケサとあり、神田本にはアサ江とあり、京大本はアサ江本とあるから、ケサが古點で、アサが次點であらう。ここは新訓によつてアサニユクと訓むことにする。
〔評〕 朝早く女と別れて、出かける人の歌であらう。悲しい鴈聲を吾が身に引きくらべたのがあはれである。
2138 鶴がねの 今朝鳴くなべに 鴈がねは いづくさしてか 雲隱るらむ
多頭我鳴乃《タヅガネノ》 今朝鳴奈倍爾《ケサナクナベニ》 鴈鳴者《カリガネハ》 何處指香《イヅクサシテカ》 雲隱良武《クモガクルラム》
鶴ノ鳴ク聲ガ今朝スルガ、ソノ聲ガ聞エル〔八字傍線〕ト、雁ハ何處カヘ飛ンデ行ク。一體〔何處〜傍線〕何處ヲサシテ雲ニ隱レテ飛ンデ〔三字傍線〕行クノダラウ。
○多頭我鳴乃今朝鳴奈倍爾《タヅガネノケサナクナペニ》――次の句に雁をカリガネと言つてゐるやうに見えるのは、後世の用法が既にあらはれたものと考へられるが、茲に鶴をタヅガネといつたのは珍らしい。しかし、これは鶴が音が鳴く、雁が音が鳴くといふやうな言ひ方があつた爲であらう。○雲隱良武《クモガクルラム》――武は元暦校本に哉に作つてゐる。
〔評〕 鶴と雁とが一所に鳴かないで、鶴の聲がすると雁が遠く飛び去つたのを、ありのままに詠んでゐる。前に(308)秋芽子者於鴈不相常言有者香音乎聞而者花爾散去流《アキハギハカリニアハジトイヘレバカコヱヲキキテハハナニチリヌル》(二一二六)とあつたが、かやうに何等の理由も想像も附け加へないのが、上代人らしいところである。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
2139 ぬば玉の 夜渡る雁は おほほしく 幾夜をへてか おのが名を告る
野干玉之《ヌバタマノ》 夜渡鴈者《ヨワタルカリハ》 欝《オホホシク》 幾夜乎歴而鹿《イクオヲヘテカ》 己名乎告《オノガナヲヨブ》
(野干玉之)夜空〔傍線〕ヲ飛ンデ行クアノ〔二字傍線〕雁ハ、アアシテ〔四字傍線〕幾晩ノ間カリカリト〔五字傍線〕自分ノ名前ヲ言ヒナガラ飛ンデ行クノデアラウゾ。ワカラナイナ〔六字傍線〕。
○欝《オホホシク》――舊訓オボツカナとあるが、略解に從ふ。オホホシクは不確かなことで、下に述べてある幾夜乎歴而鹿己名乎告《イクヨヲヘテカオノガナヲノル》か、不明だと言ふのである。○己名乎告《オノガナヲノル》――自分の名を呼び行くかといふのだ。雁の鳴聲がカリカリと聞えるのである。
〔評〕 雁の聲がカリカリと聞えるのを、面白く取扱つた歌である。後撰集に「行きかへりここもかしこも旅なれやくる秋ごとにかりかりとなく」「秋毎にくれど歸ればたのまぬを聲にたてつつかりとのみなく」「ひたすらにわが思はなくにおのれさへかりかりとのみ啼きわたるらむ」とある。
2140 あら玉の 年のへ行けば あともふと 夜渡る我を 問ふ人や誰
璞《アラタマノ》 年之經徃者《トシノヘユケバ》 阿跡念登《アトモフト》 夜渡吾乎《ヨワタルワレヲ》 問人哉誰《トフヒトヤタレ》
(璞)年ガ經ツテ久シクナルノデ、モウ國ヘ歸ラウト友ヲ〔モウ〜傍線〕誘フ爲ニ、カリカリト言ヒナガラ、〔カリカリ〜傍線〕、夜空ヲ飛ンデ歩イテヰルワタシヲ、不思議サウニ〔六字傍線〕尋ネル人ハ一體〔二字傍線〕誰デスカ。
○年之經徃者《トシノヘユケバ》――年がたつので、即ち久しくなるからの意。○阿跡念登《アトモフト》――アトモフは卷二に御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアトモヒタマヒ》(一九九)とあるアトモヒに同じく、後伴ふこと。
〔評〕 國を出でて久しくなるので、最早歸らうと友を誘ひ歩くのだと、雁が人に向つて言ふ言葉である。即ち前(309)の歌の答として作つたもの。
詠2鹿鳴1
2141 この頃の 秋の朝明に 霧がくり 妻呼ぶしかの 聲のさやけさ
比日之《コノゴロノ》 秋朝開爾《アキノアサケニ》 霧隱《キリガクリ》 妻呼雄鹿之《ツマヨブシカノ》 音之亮左《コヱノサヤケサ》
コノ頃ノ秋ノ朝明ケ時〔傍線〕ニ、立チ込メタ〔五字傍線〕霧ニ隱レテ、妻ヲ呼ブ男鹿ノ聲ガヨイコトヨ。アアナツカシイ聲ダ〔アア〜傍線〕。
〔評〕 明瞭な歌だ。澄み渡つたすがすがしい感じがする。
2142 さを鹿の 妻ととのふと 鳴く聲の 至らむ極み 靡け萩原
左男牡鹿之《サヲシカノ》 妻整登《ツマトトノフト》 鳴音之《ナクコヱノ》 將至極《イタラムキハミ》 靡芽子原《ナビケハギハラ》
男鹿ガ妻ヲ呼ビ立テルトテ鳴ク聲ガ聞エルガ、アノ聲ノ〔八字傍線〕屆ク果テマデ、コノ鹿ノ聲ニツレテ〔九字傍線〕靡ケヨ、萩原ヨ。サウシテ鹿ノ聲ヲ遠クマデ響カシメヨ〔サウ〜傍線〕
○妻整登《ツマトトノフト》――トトノフは呼ぶこと。卷二に齊流皷之音者《トトノフルツヅミノヲトハ》(一九九)、卷三に網子調流《アゴトトノフル》(二三八)とある。
〔評〕 まるで繪のやうな美しい歌である。景色も大きい。結句に力ある。
2143 君に戀ひ うらぶれ居れば 敷の野の 秋萩しぬぎ さを鹿鳴くも
於君戀《キミニコヒ》 裏觸居者《ウラブレヲレバ》 敷野之《シキノヌノ》 秋芽子凌《アキハギシヌギ》 左牡鹿鳴裳《サヲシカナクモ》
ワタシガ〔四字傍線〕アナタヲ戀シク思ツテ、意氣銷沈シテヰルト、敷野ノ秋萩ノ花〔二字傍線〕ヲ踏ミ分ケテ、男鹿ガ鳴イテヰルヨ。アレモ妻ヲ尋ネテ鳴クノダラウガ、アノ聲ヲ聞クト、イヨイヨアナタガ戀シクナル〔アレ〜傍線〕。
○裏觸居者《ウラブレヲレバ》――ウラブレは心に傷み悲しむと。○敷野之《シキノヌノ》――敷野は大和國磯城郡の野かといふ。今の磯城郡は(310)明治二十九年、十市・式上・式下の三郡を併せたものであるが、古の磯城の縣は大體この範圍であらうと思はれる。大和盆地の東方の中央部を占めてゐる。宣長が芦城野のアが脱ちたのであらうと言つたのは當つてゐまい。
〔評〕 あはれな感情が籠つてゐる。君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトワガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》(四八八)・(一六〇六)と調子が似てゐる。
2144 鴈は來ぬ 萩は散りぬと さを鹿の 鳴くなるこゑも うらぶれにけり
鴈來《カリハキヌ》 芽子者散跡《ハギハチリヌト》 左小牡鹿之《サヲシカノ》 鳴成音毛《ナクナルコヱモ》 裏觸丹來《ウラブレニケリ》
秋モ更ケテ〔五字傍線〕鴈ガ鳴イテ〔三字傍線〕來タ、サウシテ〔四字傍線〕萩ノ花〔二字傍線〕モ散ツタト男鹿ガ鳴ク聲モ、勢ガナク悲シサウニナツタヨ。
○鴈來《カリハキヌ》――舊訓を略解にカリキタリと改めたのはよくない。ここはどうしてもキヌとよみ切るところである。但し次句にトで受けてゐるから、文がここで切れるのではない。
〔評〕 萩の花妻が散るのを、鹿が悲しむのである。調子のよい歌だ。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。
2145 秋萩の 戀も盡きねば さを鹿の 聲い繼ぎい繼ぎ 戀こそまされ
秋芽子之《アキハギノ》 戀裳不盡者《コヒモツキネバ》 左小鹿之《サヲシカノ》 聲伊續伊繼《コヱイツギイツギ》 戀許増益焉《コヒコソマサレ》
秋萩ノ花ヲ戀シイト思ツテ、散ルノヲ悲シンダ心〔ト思〜傍線〕モマダ盡キナイノニ、男鹿ノ鳴ク聲ガ絶エズ續イテ聞エテ、アノ鹿モ妻ヲ戀ウテ鳴クカト思フト、自分モ、妻ヲ〔聞エ〜傍線〕戀ヒ慕フ心〔四字傍線〕ガ増シテ來ル。
○秋芽子之戀裳不盡者《アキハギノコヒモツキネバ》――秋萩を戀ふる心の盡きざるにの意。○聲伊續伊繼《コヱイツギイツギ》――イは接頭語。聲が後から後からと續き續いて。
〔評〕 戀の字が二個所に出てゐるが、上のは秋萩に對する戀で、下のは自分が妻戀しく思ふ心である。妻戀ふ鹿の音に、我も妻戀ふ思の増すことを述べたのである。
2146 山近く 家や居るべき さを鹿の 聲を聞きつつ いねがてぬかも
山近《ヤマチカク》 家哉可居《イヘヤヲルベキ》 左小牡鹿乃《サヲシカノ》 音乎聞乍《コヱヲキキツツ》 宿不勝鴨《イネガテヌカモ》
(311)山ノ近クニ住居ヲスルモノモノデハナイゾ。ワタシハコンナ山ノ近所ニ住ンデヰルノデ〔ワタ〜傍線〕、男鹿ノ鳴ク聲ヲ聞イテ寢ラレナイヨ。
〔評〕 古今集の「山里は秋こそことにわびしけれ鹿のなく音に目をさましつつ」と似てゐるが、それよりも、線の太い表現になつてゐる。
2147 山の邊に い行く獵夫は 多かれど 山にも野にも さを鹿鳴くも
山邊爾《ヤマノベニ》 射去薩雄者《イユクサツヲハ》 雖大有《オホカレド》 山爾文野爾文《ヤマニモヌニモ》 沙小牡鹿鳴母《サヲシカナクモ》
山ノホトリニ出カケテ行ツテ獵ヲスル〔六字傍線〕獵師ハ澤山アルケレド、ソレヲ知ラズニ〔七字傍線〕、山ニモ野ニモ男鹿ガ鳴クヨ。今ニ獲ラレナケレバヨイガ〔今ニ〜傍線〕。
○射去薩雄者《イユクサツヲハ》――射は接頭語で、意味はない。薩雄《サツヲ》は獵夫。卷三の山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》(二六七)參照。
〔評〕 戀に鳴く鹿がやがて獵夫に射殺されむとするのを悲しんでゐる。己が身に引きくらべて、鹿をあはれんだ同情心のあらはれた歌である。
2148 あしびきの 山より來せば さを鹿の 妻呼ぶ聲を 聞かましものを
足日木笶《アシビキノ》 山從來世波《ヤマヨリキセバ》 左小鹿之《サヲシカノ》 妻呼音《ツマヨブコヱヲ》 聞益物乎《キカマシモノヲ》
(足日木笶)山ヨリ此處ヘ〔三字傍線〕來タナラバ、男鹿ノ妻ヲ呼ンデ鳴ク〔二字傍線〕聲ヲ聞クコトガ出來タダラウノニ、山手ノ道ヲ來ナカツタノデ、鹿ノ鳴クノヲ聞カナカツタ。惜シイコトヲシタ〔山手〜傍線〕。
○足日木笶《アシビキノ》――枕詞。笶は矢竹の箆《ノ》の義であるのを、ここではノの假名に借りてゐる。○山從來世波《ヤマヨリキセバ》――山を通つて來たならばの意。セは助動詞キの未然形といはれてゐるものであらう。
〔評〕 山の鹿の聲を聞かなかつたのを遺憾としたもの。かうした實際の場合に當つてよんだものと見える。
(312)2149 山邊には 獵夫のねらひ かしこけど 牡鹿なくなり 妻の目を欲り
山邊庭《ヤマベニハ》 薩雄乃禰良比《サツヲノネラヒ》 恐跡《カシコケド》 小牡鹿鳴成《ヲシカナクナリ》 妻之眼乎欲焉《ツマノメヲホリ》
山ノアタリデハ、獵師ガ狙ツテヰルノガ恐ロシクハアルガ、妻ニ逢ヒタサニ、獵師ニ狙ハレルノモカマハズニ〔獵師〜傍線〕、牡鹿ガ鳴イテヰルヨ。
〔評〕 前の二一四七の歌と内容は全く同じである。この歌よりも、前の歌の方が、言ひ盡さないだけ、含蓄があるやうだ。
2150 秋萩の 散りぬる見れば おほほしみ 妻戀すらし さを鹿鳴くも
秋芽子之《アキハギノ》 散去見《チリヌルミレバ》 欝三《オホホシミ》 妻戀爲良思《ツマゴヒスラシ》 棹牡鹿鳴母《サホシカナクモ》
秋萩ノ花ガ〔二字傍線〕散ツテシマフノヲ見テ、鹿ハ〔二字傍線〕心ガ欝々トスルノデ、鹿ハ萩ノ花〔五字傍線〕妻ヲ戀シガルラシイ。アレアノ通リシキリニ〔アレ〜傍線〕男鹿ガ鳴イテヰルヨ。
○斷散去見《チリヌルミレバ》――舊訓にチリユクミレバとあるが、古訓はチリユクヲミテとあり、略解もそれに從つてゐる。チリヌルミレバとよむことにする。○欝三《オホホシミ》――舊訓イブカシミとある。考による、ここは心が欝して晴れないのでの意。○妻戀爲良思《ツマゴヒスラシ》――この妻は眞の妻ではなく、萩の花妻を戀するのであらう。古義には己が實の妻と解してゐる。
〔評〕 萩を鹿の花妻として詠んだもの。鹿の音に耳を傾けて、萩の花散る野邊の情景を想像してゐる。
2151 山遠き 都にしあれば さを鹿の 妻よぶ聲は ともしくもあるか
山遠《ヤマトホキ》 京爾之有者《ミヤコニシアレバ》 狹小牡鹿之《サヲシカノ》 妻呼音者《ツマヨブコヱハ》 乏毛有香《トモシクモアルカ》
野山ニ遠イ都ノコトデアルカラ、牡鹿ノ妻ヲ呼ンデ鳴ク〔二字傍線〕聲ハ稀ダヨ。モウト澤山ニ聞キタイモノダノニ〔モツ〜傍線〕。
○京爾之有者《ミヤコニシアレバ》――京は舊訓にサトとあり、古義は略解説によつてミサトとよんでゐる。文字通りミヤコとよむ(313)方が難がない。
〔評〕 奈良の都に鹿の音の聞えぬことを、物足らなく思つたのである。平板。
2152 秋萩の 散り過ぎゆかば さを鹿は わび鳴きせむな 見ずば乏しみ
秋芽子之《アキハギノ》 散過去者《チリスギユカバ》 左小牡鹿者《サヲシカハ》 和備鳴將爲名《ワビナキセムナ》 不見者乏焉《ミズバトモシミ》
秋萩ノ花ガ〔二字傍線〕散リ過ギテシマツタナラバ男鹿ハ、萩ノ花ヲ〔四字傍線〕見ナイト戀シイノデ、苦シガツテ鳴クデアラウナア。
○散過去者《チリスギユカバ》――チリスギユケバと舊訓にあり、考はチリスギヌレバとある。○和備鳴將爲名――ワビは困る。なやむ。○不見者乏焉《ミズバトモシミ》――見ないならば苦しいので、これも舊訓ミネバとあり、四句に關聯してすべて未來に訓むがよいであらう。
〔評〕 これも萩と鹿との關係を述べたもの。歌が談理に陷つて、熱が無い。
2153 秋萩の 咲きたる野邊は さを鹿ぞ 露をわけつつ 妻どひしける
秋芽子之《アキハギノ》 咲有野邊者《サキタルヌベハ》 左小牡鹿曾《サヲシカゾ》 露乎別乍《ツユヲワケツツ》 嬬問四家類《ツマドヒシケル》
秋萩ノ花ノ咲イテヰル野原ニハ、男鹿ガ露ヲ押シ分ケテ、妻ヲ尋ネテ歩イタナア。コレコノ通リ跡ガツイテヰル〔コレ〜傍線〕。
〔評〕 萩原の露を踏みしだいた鹿の跡を見てよんだもの。これも例の萩の花妻であらう。
2154 なぞ鹿の わび鳴きすなる 蓋しくも 秋野の萩や 繁く散るらむ
奈何牡鹿之《ナゾシカノ》 和備鳴爲成《ワビナキスナル》 蓋毛《ケダシクモ》 秋野之芽子也《アキヌノハギヤ》 繁將落《シゲクチルラム》
ドウシテ鹿ガ困ツタヤウナ聲ヲ出シテ鳴イテヰルノダ。多分、秋ノ野ニ咲イテヰル〔五字傍線〕萩ノ花〔二字傍線〕ガ、ヒドク散ルカラデアラウ。
○奈何牡鹿之《ナゾシカノ》――舊訓ナニシカモとあるが、考に從ふ。新考には奈何牡鹿母《ナニシカモ》と改めてナニシカの意としてゐる。(314)シカは鹿のことであるから、さうは解し難い。
〔評〕 上二句に疑問を出し、三句以下はそれに答へてゐる。調子のしつかりした歌。
2155 秋萩の 咲きたる野邊に さを鹿は 散らまく惜しみ 鳴きぬるものを
秋芽子之《アキハギノ》 開有野邊《サキタルヌベニ》 左牡鹿者《サヲシカハ》 落卷惜見《チラマクヲシミ》 鳴去物乎《ナキヌルモノヲ》
秋萩ノ花〔二字傍線〕ノ咲イテヰル野原デ、男鹿ハ花ノ〔二字傍線〕散ルノヲ惜シガツテ鳴イテヰルヨ。
○開有野邊《サキタルヌベニ》――ヌベヲともヌベノとも訓めるが、舊訓による。○鳴去物乎《ナキヌルモノヲ》――舊訓ナキユクモノヲとある。モノヲは詠嘆の辭のみ。
〔評〕 實景をその儘、詠じたものであらう。平明の調。
2156 足引の 山のと陰に 鳴く鹿の 聲聞かすやも 山田守らす兒
足日木乃《アシビキノ》 山之跡陰爾《ヤマノトカゲニ》 鳴鹿之《ナクシカノ》 聲聞爲八方《コヱキカスヤモ》 山田守酢兒《ヤマダモラスコ》
小屋ヲ作ツテ〔六字傍線〕山ノ田ノ番ヲシテヰラレル人ヨ、アナタ〔三字傍線〕ハ(足日木乃)山ノ曲リ込ンダ陰ニ、鳴ク鹿ノ聲ヲ聞キナサルカヨ。ドウデスカ〔五字傍線〕。
○山之跡陰爾《ヤマノトカゲニ》――山之跡陰《ヤマノトカゲ》は山のたを蔭と解せられるが、トは發語と見る説もある。卷八の山之常影爾《ヤマノトカゲニ》(一四七〇)參照。○聲聞爲八方《コヱキカスヤモ》――キカスは聞くの敬語。○山田守※[酉+斗]兒《ヤマダモラスコ》――モラスは守るの敬語。兒《コ》は人といふに同じ。親しみていふのみ。
〔評〕 山田守る人に問ひかけたもの。前の霍公鳥鳴音聞哉宇能花乃開落岳爾田草引※[女+感]嬬《ホトトギネナクコヱキクヤウノハナノサキチルヲカニクズヒクヲトメ》(一九四二)と似てゐる。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
詠v蝉
2157 夕陰に 來鳴くひぐらし ここだくも 日毎に聞けど 飽かぬ聲かも
(315)暮影《ユフカゲニ》 來鳴日晩之《キナクヒグラシ》 幾許《ココダクモ》 毎日聞跡《ヒゴトニキケド》 不足音可聞《アカヌコヱカモ》
夕方ニナツテ來テ鳴ク蝉《ヒグラシ》ハ、澤山ニ毎曰毎日聞イテモ、飽キルコトノナイ佳イ〔二字傍線〕聲ダヨ。
○暮影《ユフカゲニ》――ユフカゲはここでは夕方の日影。晩景。卷八の夕影爾《ユフカゲニ》(一六二二)參照。
〔評〕 語調。清楚。爽凉の響。佳作。和歌童蒙抄に出てゐる。
詠2蟋蟀1
蟋蟀は今のコホロギである。詳しくは卷八の湯原王蟋蟀歌(一五五二)參照。
2158 秋風の 寒く吹くなべ 吾がやどの 淺茅がもとに こほろぎ鳴くも
秋風之《アキカゼノ》 寒吹奈倍《サムクフクナベ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 淺茅之本爾《アサヂガモトニ》 蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》
秋風ガ寒ク吹クノニツレテ、ワタシノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕、マパラニ生エ夕茅ノ下デ、蟋蟀ガ鳴イテヰルヨ。
〔評〕 よい歌だ。卷八の暮月夜心毛思努爾白露乃置此庭爾蟋蟀鳴毛《ユフヅクヨココロモシヌニシラツユノオクコノニハニコホロギナクモ》(一五五二)に似たところがある。
2159 影草の 生ひたるやどの 夕陰に 鳴くこほろぎは 聞けど飽かぬかも
影草乃《カゲクサノ》 生有屋外之《オヒタルヤドノ》 暮陰爾《ユフカゲニ》 鳴蟋蟀者《ナクコホロギハ》 雖聞不足可聞《キケドアカヌカモ》
物〔傍線〕陰ニ生エル〔四字傍線〕草ガ生エテヰルコノ〔二字傍線〕家デ、夕方鳴ク蟋蟀ノ聲ハ、オモシロクテ〔六字傍線〕聞イテモ、聞キ〔二字傍線〕飽カナイナア。
○影草乃《カゲクサノ》――影草は物蔭に生ひたる草。
〔評〕 平明な、すがすがしい佳作。
2160 庭草に 村雨ふりて こほろぎの 鳴く聲聞けば 秋づきにけり
庭草爾《ニハクサニ》 村雨落而《ムラサメフリテ》 蟋蟀之《コホロギノ》 鳴音聞者《ナクコヱキケバ》 秋付爾家里《アキヅキニケリ》
(316)庭ノ草ノ上〔二字傍線〕ニ村雨ガ降リ注イ〔二字傍線〕デ、蟋蟀ノ鳴ク聲ガスルノ〔四字傍線〕ヲ聞クト、スツカリ〔四字傍線〕秋ラシクナツタヨ。
○村雨落而《ムラサメフリテ》――村雨は、和名抄に、暴雨・白雨【旡良左女】とあり、即ち驟雨である。
〔評〕 秋を告げる虫の音に、耳を傾けてゐる作者の樣子が偲ばれる。清肅高朗、眞に得難い歌である。
詠v蝦
蝦は河鹿のこと。河蝦(一七二三)・(二二二二)と記したところもある。
2161 み吉野の いはもと去らず 鳴くかはづ うべも鳴きけり 河をさやけみ
三吉野乃《ミヨシヌノ》 石本不避《イハモトサラズ》 鳴川津《ナクカハヅ》 諾文鳴來《ウベモナキケリ》 河乎淨《カハヲサヤケミ》
吉野川ノ石ノ下ヲ離レズニ、鳴イテヰル河鹿ハ、河ノ流〔二字傍線〕ガ清イノデ、アンナニ〔四字傍線〕鳴クノモ尤モデアルヨ。
○石本不避《イハモトサラズ》――古義はイソモトサラズとよんでゐる。卷九に吾疊三重乃河原之礒裏爾如是鴨跡鳴河蝦可物《ワガタタミミヘノカハラノイソノウラニカクシモカモトナクカハヅカモ》(一七三五)とあり、イソもよいやうであるが、舊訓に從つておかう。卷十一に奥山之石本菅乃《オクヤマノイハモトスゲノ》(二七六一)とある。
〔評〕 前に川津鳴吉野河之瀧上之《カハヅナクヨシヌノカハノタギノヘノ》(一八六八)とあるやうに、吉野川の清流に河鹿が多く棲んでゐるのである。下句は少し説明に過ぎた傾もある。
2162 神名火の 山下とよみ 行く水に かはづなくなり 秋と云はむとや
神名火之《カムナビノ》 山下動《ヤマシタトヨミ》 去水丹《ユクミヅニ》 川津鳴成《カハヅナクナリ》 秋登將云鳥屋《アキトイハムトヤ》
神名火山ノ山ノ麓ニ音ヲ立テテ流レテ〔三字傍線〕行ク水ニ、河鹿ノ鳴ク聲ガスル〔四字傍線〕ヨ。アレハ〔三字傍線〕秋ト云フコトヲ人ニ〔二字傍線〕知ラセル爲デアラウカ。
○神名火之《カムナビノ》――この神名火山は雷山であらう。
〔評〕 河津鳴甘南備河爾陰所見而《カハヅナクカムナビガハニカゲミエテ》(一四三五)とあるやうに、飛鳥川の河鹿をよんだものである。この歌で河鹿が秋の(317)ものとしてあることがわかる。
2163 草枕 旅に物念ひ 我が聞けば 夕かたまけて 鳴くかはづかも
草枕《クサマクラ》 客爾物念《タビニモノモヒ》 吾聞者《ワガキケバ》 夕片設而《ユフカタマケテ》 鳴川津可聞《ナクカハヅカモ》
(草枕)旅ニ出テ家ノコトヲ考ヘテ淋シク〔出テ〜傍線〕物ヲ思ヒナガラ、ワタシガ聞イテヰルト、夕方近クナツテ河鹿ガ頻リニ〔三字傍線〕鳴イテヰルヨ。イヨイヨ淋シサヲ増スバカリダ〔イヨ〜傍線〕。
○夕片設而《ユフカタマケテ》――夕方に近くなりての意。冬片設而《フユカタマケテ》(二一三三)參照。
〔評〕 旅中の河邊に河鹿を聞く歌で、あはれな感じがあふれてゐる。
2164 瀬を速み 落ちたぎちたる 白浪に かはづ鳴くなり 朝よひごとに
瀬呼速見《セヲハヤミ》 落當知足《オチタギチタル》 白浪爾《シラナミニ》 河津鳴奈里《カハヅナクナリ》 朝夕毎《アサヨヒゴトニ》
流レル〔三字傍線〕瀬ガ速イノデ、水ガ〔二字傍線〕落チテ泡立チ流レル白浪ノ中デ、毎朝毎晩河鹿ノ鳴ク聲ガスル〔四字傍線〕ヨ。アア面白イ景ダ〔七字傍線〕。
〔評〕 上句、一寸言葉がくどいやうでもあるが、實景が見えてゐる。
2165 上つ瀬に かはづ妻呼ぶ 夕されば 衣手寒み 妻まかむとか
上瀬爾《カミツセニ》 河津妻呼《カハヅツマヨブ》 暮去者《ユフサレバ》 衣手寒三《コロモデサムミ》 妻將枕跡香《ツママカムトカ》
上ノ方ノ瀬デ、河鹿ガ妻ヲ呼ブ聲ガスル〔四字傍線〕。夕方ニナルト、着物ノ袖モ膚〔傍線〕寒イノデ、妻ト共ニ寢ヨウト思フノデアラウカ。
〔評〕河津を擬人して衣手寒三《コロモデサムミ》といつてゐるのが、奇拔である。
詠v鳥
2166 妹が手を 取石の池の 浪の間ゆ 鳥が音けに鳴く 秋過ぎぬらし
(318)妹手乎《イモガテヲ》 取石池之《トロシノイケノ》 浪間從《ナミノマユ》 鳥音異鳴《トリガネケニナク》 秋過良之《アキスギヌラシ》
(妹手乎)取石池ニ立ツ〔二字傍線〕浪ノ間ニ、水〔傍線〕鳥ノ鳴ク聲ガ今マデトハ〔五字傍線〕異ナツタ鳴キヤウヲスル。アレデ見ルト〔六字傍線〕、秋モ過ギテ寒クナツテ來〔七字傍線〕タラシイ。
○妹手乎《イモガテヲ》――枕詞。取るとつづく意は明らかであらう。○取石池之《トロシノイケノ》――取石の池は代匠記初稿本に「和泉國和泉郡にまかりける道に、池を堤を道にてすき侍る所ありき。其池の名を、人の登呂須《トロス》の池となん申侍りければ、云々」とある。續日本紀に「聖武天皇云々、行還2至和泉國取石頓宮1」とある所である。姓氏録、和泉國諸蕃の下にも、取石造とある。今、南海線葛葉驛の東方に取石村がある。あの邊は今も池の多いところであるから、その内のいづれかであらう。○鳥音異鳴《トリガネケニナク》――鳥の鳴く聲が變つて聞える。
〔評〕 浪の間に聞える水鳥の聲の、今までとはめつきり變つて聞えるので、秋も晩れ方になつたのを知つたのである、作者の鋭敏な感受性の、あらはれである。聽覺によつて大自然の姿を把握し得てゐる。
2167 秋の野の 尾花がうれに 鳴く百舌鳥の 聲聞くらむか 片待つ吾妹
秋野之《アキノヌノ》 草花我末《ヲバナガウレニ》 鳴百舌鳥《ナクモヅノ》 音聞濫香《コヱキクラムカ》 片聞吾妹《カタマツワギモ》
秋ノ野ノ尾花ノ末ニ宿ツテ〔三字傍線〕鳴ク百舌鳥ノ聲ヲ、ワタシヲ〔四字傍線〕ヒタスラ待ツテヰル吾ガ妻ハ聞クデアラウカ。アノ淋シイ聲ヲ一人デ聞イタラサゾ淋シカラウ〔アノ〜傍線〕。
○鳴百舌鳥《ナクモズノ》――舊本に舌百とあるのは百舌の誤である。類聚古集にさうなつてゐる。○片聞吾妹《カタマツワギモ》――片聞ではわからない。宣長が片待の誤かといつたのに從ふべきであらう。
〔評〕 故郷の野の家に我を待つてゐる妻を、旅にあつて百舌鳥の聲を聞いて思ひ出したのである、衣を裂くやうな鋭い百舌鳥の聲が耳に聞えるやうだ。
(319)詠v露
2168 秋萩に おける白露 朝なさな 珠とぞ見ゆる 置ける白露
冷芽子丹《アキハギニ》 置白露《オケルシラツユ》 朝朝《アサナサナ》 珠斗曾見流《タマトゾミユル》 置白露《オケルシラツユ》
秋萩ノ枝ノ上〔四字傍線〕ニ宿ツタ白露ガ、毎朝毎朝珠ト見エルヨ。アノ〔二字傍線〕宿ツタ白露ガ。
〔評〕置白露《オケルシラツユ》の句を反覆して、輕快な調をなしてゐる。
2169 夕立の 雨ふるごとに 一云、うちふれば 春日野の 尾花が上の 白露おもほゆ
暮立之《ユフダチノ》 雨落毎《アメフルゴトニ》 【一云|打零者《ウチフレバ》】 春日野之《カスガヌノ》 尾花之上乃《ヲバナガウヘノ》 白露所念《シラツユオモホユ》
夕立ノ雨ガ降ルト、ソノ〔四字傍線〕度毎ニ、春日野ノ尾花ノ上ニ宿ツタ〔四字傍線〕白露ノ、玉ヲ並ベタヤウナ美シイ景色ガ、サゾヨラウト〔ノ玉ハ〜傍線〕推量セラレル。
○暮立之《ユフダチノ》――これで秋の驟雨をも、夕立といつたことがわかる。
〔評〕 都に居て、春日野の尾花が上に宿つた白露を思ひやつたので、氣持のよい作である。卷十六に小鯛王が 暮立之雨打零者春日野之草花之末乃白露於母保遊《ユフダチノアメウチフレバカスガヌノヲバナガウレノシラツユオモホユ》(三八一九)と琴に合はせて吟じたことが見える。
2170 秋萩の 枝もとををに 露霜おき 寒くも時は なりにけるかも
秋芽子之《アキハギノ》 枝毛十尾丹《エダモトヲヲニ》 露霜置《ツユジモオキ》 寒毛時者《サムクモトキハ》 成爾家類可聞《ナリニケルカモ》
秋萩ノ枝モタワタワニ曲ツテ、澤山ニ〔三字傍線〕露ガ降ツテ、時候ガ寒クナツタナア。
○露霜置《ツユジモオキ》――露霜は宣長説に從つて、露のことと解して置く。露の半ば霜となつたものと解する從來の説でも解けるやうであるが、題が詠露とあり、下に日來之秋風寒芽子之花令散白露置爾來下《コノゴロノアキカゼサムシハギガハナチラスシラツユオキニケラシモ》(二一七五)とあるのも、それを證するやうに見える。
(320)〔評〕 露重げな萩の枝を眺めて、朝寒を感じてゐるやうな歌である。格調の悠揚たる點に於て勝れてある。
2171 白露と 秋の萩とは 戀ひ亂り 別くこと難き 吾がこころかも
白露《シラツユト》 與秋芽子者《アキノハギトハ》 戀亂《コヒミダリ》 別事難《ワクコトカタキ》 吾情可聞《ワガココロカモ》
私ハ〔二字傍線〕白露ト秋萩トハ兩方共ニ好キデ〔七字傍線〕、心ガ亂レテ、ドチラガヨイトモ〔八字傍線〕ワタシノ心ニ、區別スルコトガ困難ダヨ。
○白露與秋芽子者戀亂《シラツユトアキノハギトハコヒミダリ》――白露と萩とが互に戀するやうにも見えるが、さうではあるまい。新考に上句を別事難《ワクコトカタキ》の序と見てゐる。
〔評〕 少し解し難い點もある。露と萩とを愛する心として見るより外はあるまい。
2172 吾がやどの 尾花おしなべ 置く露に 手触れ吾妹子 散らまくも見む
吾屋戸之《ワガヤドノ》 麻花押靡《ヲバナオシナベ》 置露爾《オクツユニ》 手觸吾妹兒《テフレワギモコ》 落卷毛將見《チラマクモミム》
ワタシノ屋敷ノ尾花ヲ押シ靡カシテ宿ツテヰル露ニ、吾ガ愛スル〔三字傍線〕妻ヨ、オマヘノ美シイ〔七字傍線〕手ヲ觸レテ見〔二字傍線〕ヨ。ワタシハ露ノ〔六字傍線〕散ル所ヲ見タイノダカラ〔四字傍線〕。
〔評〕 繪のやうな美しい場面である。美人の手に亂れ散る尾花の露を、眺めようといふのである。これは風雅優美の趣味に遊ぶ氣分が見えてゐる。
2173 白露を 取らばけぬべし いざ子ども 露にきほひて 萩の遊せむ
白露乎《シラツユヲ》 取者可消《トラバケヌベシ》 去來子等《イザコドモ》 露爾爭而《ツユニキホヒテ》 芽子之遊將爲《ハギノアソビセム》
白露ハ美シイモノダガ、手ニ〔ハ美〜傍線〕取レバ消エテシマフダラウ。ダカラ露ハ取ラズニ置イテ〔ダカ〜傍線〕、サア子供等ヨ。アノ〔二字傍線〕露ト爭ツテ露ノ消エナイウチニ、露ノ宿ツタ美シイ〔露ノ〜傍線〕萩ノ花ヲ眺メテ遊バウデハナイカ〔五字傍線〕。
○露爾爭而《ツユニキホヒテ》――露の消えるのと先を爭つて。露の消えないうちにの意。略解に「露も今を時とおけばきほふと(321)はいへり」とあり。新考には「アトカラアトカラオク露ニ負ケズニとなり」とある。○芽子之遊將爲《ハギノアソビセム》――芽子之遊《ハギノアソビ》は萩の花の宴であらう。
〔評〕 大宮人らしい遊樂氣分の歌である。この頃かうした花の宴が行はれたのであらう。
2174 秋田苅る かりほを作り 吾が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける
秋田苅《アキタカル》 借廬乎作《カリホヲツクリ》 吾居者《ワガヲレバ》 衣手寒《コロモデサムク》 露置爾家留《ツユゾオキニケル》
秋ノ田ヲ苅ル爲ニ〔二字傍線〕、假ノ小屋ヲ田ノホトリニ〔六字傍線〕立テテ、田ノ番ヲシテ〔六字傍線〕ワタシガ宿ツテ〔三字傍線〕居ルト、着物ノ袖ガ寒ク露ガ袖ノ上ニ〔四字傍線〕降ツタヨ。アア淋シク寒イコトダ〔アア〜傍線〕。
〔評〕 秋の田を守る農夫の辛苦が歌はれてゐる。調子のしつかりした、はつきりした力づよい歌である。後撰集の、天智天皇御製「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」は、この歌を改作したものであらう。天智天皇御製とするは妄も甚だしい。
2175 この頃の 秋風寒し 萩が花 散らす白露 おきにけらしも
日來之《コノゴロノ》 秋風寒《アキカゼサムシ》 芽子之花《ハギガハナ》 令散白露《チラスシラツユ》 置爾來下《オキニケラシモ》
コノ頃ノ秋風ハ寒イヨ。コレデハモハヤ〔八字傍線〕萩ノ花ヲ散ラス白露モ、降ツタラシイヨ。
〔評〕野原の秋の更けて行くのを想像したものであらう。前の秋芽子之枝毛十尾丹露霜置《アキハギノエダモトヲヲニツユジモオキ》(二一七〇)に似てゐるが、想像と實景との相異がある。
2176 秋田苅る とまでうごくなり 白露は 置く穗田なしと 告げに來ぬらし 一云、告げに來らしも
秋田苅《アキタカル》 ※[草がんむり/店]手搖奈利《トマデウゴクナリ》 白露者《シラツユハ》 置穗田無跡《オクホダナシト》 告爾來良思《ツゲニキヌラシ》
秋ノ田ヲ苅ルトテ、小屋ガケヲシテソノ中ニ宿ツテヰルト、屋根ノ〔トテ〜傍線〕苫ガ動クヨ。アレハ〔三字傍線〕白露ガ、モハヤ何處ノ田モ苅リ盡サレタノデ〔モハ〜傍線〕、降ルベキ穗ノアル田ガナイト告ゲニ來タラシイ。
(322)○※[草がんむり/店]手搖奈利《トマデウゴクナリ》――代匠記精撰本に「※[草がんむり/店]の字未考得。今按苫なるべし。和名集云、爾誰注云、【未廉反和名度萬】編2菅茅1以覆v屋也。かりほを作たる其戸口に苫を垂て風雨を防ぐを苫手と云へる歟」とあるに從つて置かう。略解に「苫手は帆手、綱手などの手に同じく、手は端をいふべし。」とある。宣長は「三の句きこえす衣手淫奈利《ソデヒヂヌナリ》なるべし」と言つてゐるが、猶考ふべきである。
〔評〕 白露を擬人してゐるのがおもしろい。そんなに穩田を苅り盡されては、吾が置くべきところなしと訴へに來たやうに言つたのである。農民の素朴な童心のあらはれとも言へる。
一云 皆爾來良思母《ツゲニクラシモ》
これは五の句の異傳である。ツゲニケラシモの訓もある。
詠v山
2177 春は萠え 夏は緑に くれなゐの まだらに見ゆる 秋の山かも
春者毛要《ハルハモエ》 夏者緑丹《ナツハミドリニ》 紅之《クレナヰノ》 綵色爾所見《マダラニミユル》 秋山可聞《アキノヤマカモ》
春ハ草木ノ葉ガ〔五字傍線〕萠エテ、夏ハソノ葉ガ〔四字傍線〕緑色ニ生ヒ茂リ、秋ニナルト〔九字傍線〕、紅色ノ濃淡ガ混ツテ美シク〔三字傍線〕見エル秋山ダナア。
○綵色爾所見《マダラニミユル》――綵色は舊訓はニシキ、童蒙抄はイロイロ、古義はマダラとよんでゐる。ここは、卷七の君之爲綵色衣將摺跡念而《キミガタメマダラノコロモスラムトオモヒテ》(一二五五)にならつて、マダラとよむことにする。マダラは濃淡相混つてゐること。
〔評〕 山の景色の四季によつて遷り行く、面白さを褒めたのである。最後に秋山可聞《アキノヤマカモ》とあるが、秋の山のみを愛でたのではない。
詠2黄葉1
2178 妻ごもる 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散らまく惜しも
(323)妻隱《ツマゴモル》 矢野神山《ヤヌノカミヤマ》 露霜爾《ツユジモニ》 爾寶比始《ニホヒソメタリ》 散卷惜《チラマクヲシモ》
(妻隱)矢野ト云フ神山ハ露ガ降ツテソノ爲〔七字傍線〕ニ色ガツキ始メタ。誠ニヨイ景色ダガ〔八字傍線〕、散ルノハ惜シイモノダヨ。
○妻隱《ツマゴモル》――枕詞。屋の意で矢野につづけてある。○矢野神山《ヤヌノカミヤマ》――矢野の神山は出雲國神門郡八野・伊豫國喜多郡矢野・備後甲努郡矢野・播磨國赤穗郡八野などが和名抄に見え、その他矢野の地名は所々に多い。左註に、柿本朝臣人麿謌集出とあるから、人麿の旅行範圍と見るべきであらうが、それにしても出雲・備後・播磨など彼の足跡を印したところらしいので、いづれとも判じがたい。大日本地名辭書には、伊勢國度會郡矢野であらうとし、「今矢野の南に大字|山神《ヤマカミ》の名あり」と言つてゐる。
〔評〕 平板な歌で、上品に出來てゐるといふまでである。
2179 朝露に にほひそめたる 秋山に 時雨なふりそ 在り渡るがね
朝露爾《アサツユニ》 染始《ニホヒソメタル》 秋山爾《アキヤマニ》 鐘禮莫零《シグレナフリソ》 在渡金《アリワタルガネ》
朝露ガ降ツ〔三字傍線〕テ色ガツキ始メタ秋ノ山ハ、誠ニヨイ景色ダガ、アノ秋ノ山〔ハ誠〜傍線〕ニハ、何時マデモ紅葉ガ〔八字傍線〕散ラズニアルヤウニ、ドウゾ〔三字傍線〕時雨ガ、降ルナヨ。
○染始《ニホヒソメタル》――舊訓ソメハジメタルとあるのでもわるくはないが、考の訓に從ふ。下に應染毛《ニホヒヌベクモ》(二一九二)とある。
○鐘禮莫零《シグレナフリソ》――鐘禮をシグレとよむことは落鐘禮能《オツルシグレノ》(一五五一)參照。元暦校本に鐘を鍾に作つてゐる。○在渡金《アリワタルガネ》――續いてある爲に。
〔評〕 前の歌と同じく、初紅葉を愛するもので、人麿歌集の歌だけに少しく調子が古いやうである。
右二首柿本朝臣人麿之謌集出
2180 九月の 時雨の雨に ぬれとほり 春日の山は 色づきにけり
九月乃《ナガツキノ》 鐘禮乃雨丹《シグレノアメニ》 沾通《ヌレトホリ》 春日之山者《カスガノヤマハ》 色付丹來《イロヅキニケリ》
(324)九月ニ降ル時雨ノ雨ニ木々ノ梢モ〔五字傍線〕沾レ通ツテ、春日ノ山ハ色ガツイタコ。ホントニ佳イ紅葉ノ景色ダ〔ホン〜傍線〕。
○沾通《ヌレトホリ》――山の木木を下葉まで、一體に枯らしたことを言つたのであらう。
〔評〕 時雨の降りつづいた後で、春日山の紅葉したのを詠んだので、沾通《ヌレトホリ》の句が時雨の烈しさをよくあらはし得てゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
2181 鴈が音の 寒き朝けの 露ならし 春日の山を もみだすものは
鴈鳴之《カリガネノ》 寒朝開之《サムキアサケノ》 露有之《ツユナラシ》 春日山乎《カスガノヤマヲ》 令黄物者《モミダスモノハ》
春日山ヲ紅ノ色美シク染メルモノハ、鴈ノナク聲ノ寒サウニ聞エル曉方ニ降ル露デアラウ。
○令黄物者《モミダスモノハ》――舊訓による。後撰集にもこの句をさうして出してゐる。略解に「もみぢといふも、紅は揉出して染るものなれば、もみ出しの約言也、さればもみだすものはと訓べし、と翁はいはれたれど、猶元暦本の訓によるべし」としてニホハスモノハと訓してゐる。
〔評〕 上句は美しい想像である。三句切の形式も珍らしい。この想像を技巧的に高調すると、古今集の「秋の夜の露をば露とおきながら鴈の涙や野べをそむらむ」となるのである。この歌、後撰集に、春日山を立田山として出てゐる。
2182 この頃の あかとき露に 吾がやどの 萩の下葉は 色づきにけり
比日之《コノゴロノ》 曉露丹《アカトキツユニ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
コノ頃ノ夜明ケ方ニ降ル露デ、ワタシノ家ノ庭ノ、萩ノ下葉ハ色ガ付イテ赤クナツ〔五字傍線〕タヨ。
〔評〕 この下に比者之五更露爾吾屋戸乃秋之芽子原色付爾家里《コノゴロノアカトキツユニワガヤドノアキノハギハヲイロヅキニケリ》(二二一三)と出てゐるものと同歌の異傳であらう。この方が優つてゐる。
2183 かりがねは 今は來鳴きぬ 吾が待ちし もみぢ早つげ 待てば苦しも
鴈鳴者《カリガネハ》 今者來鳴沼《イマハキナキヌ》 吾待之《ワガマチシ》 黄葉早繼《モミヂハヤツゲ》 待者辛苦母《マテバクルシモ》
(325)鴈ハ已ニ來テ鳴イタ。今度ハイヨイヨ紅葉ノ番ダガ〔今度〜傍線〕、ワタシノ待ツテヰタ紅葉ハ、早ク鴈ノ〔二字傍線〕後カラ續イテ紅葉シナサイ。待ツテヰルノハ苦シイモノダヨ。
○黄葉早繼《モミヂハヤツゲ》――黄葉が早く鴈に續けよの意。
〔評〕 二句と四句とに切目があるのは、この卷では少い形である。
2184 秋山を ゆめ人かくな 忘れにし そのもみぢ葉の 思ほゆらくに
秋山乎《アキヤマヲ》 謹人懸勿《ユメヒトカクナ》 忘西《ワスレニシ》 其黄葉乃《ソノモミヂバノ》 所思君《オモホユラクニ》
秋ノ山ノ美シイ話〔五字傍線〕ヲ決シテ、人ヨ、口ニ〔二字傍線〕出シテ言フナヨ。人ノ話ヲ聞クト〔七字傍線〕、忘レテヰタ秋ノ山ノ紅葉ノ面白イ景色ガ思ヒ出サレ、却ツテ心ヲナヤ〔七字傍線〕マスカラ。
○謹人縣勿《ユメヒトカクナ》――人よ、ゆめゆめ口にかけて言ふ勿れ。○所思君《オモホユラクニ》――舊訓オモユルキミとあるが、考に從ふ。
〔評〕 紅葉を愛するあまり、却つて、思ひ出して心を惱ますのを恐れるので、戀人に對するやうな愛情である。
2185 大坂を 吾が越え來れば 二上に もみぢ葉流る 時雨ふりつつ
大坂乎《オホサカヲ》 吾越來者《ワガコエクレバ》 二上爾《フタカミニ》 黄葉流《モミヂバナガル》 志具禮零乍《シグレフリツツ》
大坂ヲワタシガ越エテ來ルト、二上山〔傍線〕デハ時雨ガ降ツテ、紅葉ガ流レルヤウニ斜ニ散ツ〔八字傍線〕テ居ル。
○大坂乎《オホサヲ》――大坂は今、大和國北葛城郡下田村の西に逢坂の地がある。大和から河内へ越える坂で、二上山の北方に接してゐる。今、この道を穴虫越と稱してゐる。○黄葉流《モミヂパナガル》――紅葉が斜に散ること。
〔評〕 住い歌だ。時雨に濡れつつ紅葉の散る坂路を越える情景がしのばれる。
2186 秋されば 置く白露に 吾が門の 淺茅がうらば 色づきにけり
秋去者《アキサレバ》 置白露爾《オクシラツユニ》 吾門乃《ワガカドノ》 淺茅何浦葉《アサヂガウラバ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
秋ニナルト、降ル白露ノタメ〔三字傍線〕ニ、ワタシノ門前ノマバラニ生エタ茅ノ葉ノ末ノ方は、赤ク〔二字傍線〕色ガツイタヨ。
(326)〔評〕 淺茅の紅葉を詠じたもの。ただ叙述的で感興が乏しい。
2187 妹が袖 卷來の山の 朝露に にほふもみぢの 散らまく惜しも
妹之袖《イモガソデ》 卷來乃山之《マキキノヤマノ》 朝露爾《アサツユニ》 仁寶布黄葉之《ニホフモミヂノ》 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
(妹之袖)卷來山ニ降ツタ〔三字傍線〕朝露ニ染ツテ、赤クナツタ紅葉ハ佳イ景色ダガ、アレ〔ハ佳〜傍線〕ガ散ルノハ惜シイモノダヨ。
○妹之袖《イモガソデ》――枕詞。マキとつづくのは枕する意にかけたのである。○卷來乃山之《マキキノヤマノ》――卷來乃山は筑前の城の山かと眞淵は言つてゐるが、さうではあるまい。宣長は來乃を牟久の誤としてマキムクヤマとよんでゐるのは面白いが、さうとも斷じ難い。古義には卷六來《マキムク》の誤かといつてゐる。卷來の山といふ山が何處かにあるのであらう。
〔評〕 結句にチラマクヲシモと置いた歌が、集中に數多い爲か、型に嵌つた感じがある。
2188 もみぢ葉の にほひは繁し 然れども 妻梨の木を 手折りかざさむ
黄葉之《モミヂバノ》 丹穗日者繁《ニホヒハシゲシ》 然鞆《シカレドモ》 妻梨木乎《ツマンシノキヲ》 手折可佐寒《タヲリカザサム》
紅葉ノ色ハ木ニヨツテイロイロアル、然シナガラ、ワタシハ、(妻)梨ノ木ノ紅葉ヲ折ツテ髪ニ挿サウ。梨ノ木ノ紅葉ガ一番美シクテ好キダ〔梨ノ〜傍線〕。
○丹穗日者繁《ニホヒハシゲシ》――紅葉する木の葉の色は種々あるの意。新考に繁は薄の誤と言つてゐるのは變つた説である。○妻梨木乎《ツマンシノキヲ》――妻梨の木は妻無《ツマナシ》の義に懸けていふので、妻には意味がなく、梨の木のことだといはれてゐる。
〔評〕梨の紅葉を賞づる歌。卷十九の十月之具禮能常可吾世古河屋戸乃黄葉可落所見《カミナヅキシグレノツネカワガセコガヤドノモミヂバチリヌベシミユ》(四二五九)の左註に、右一首少納言大伴宿禰家持當時矚梨黄葉作此歌也とある。
2189 露霜の 寒き夕べの 秋風に もみぢにけりも 妻梨の木は
露霜聞《ツユジモノ》 寒夕之《サムキユフベノ》 秋風丹《アキカゼニ》 黄葉爾來毛《モミヂニケリモ》 妻梨之木者《ツマナシノキハ》
(327)露ガ降ツテ〔三字傍線〕寒イ晩方吹ク秋風デ、(妻)梨ノ木ノ葉ハ紅葉シタナア。
○露霜聞《ツユジモノ》――聞は元暦校本その他古寫本、多く乃に作つてゐるから、それに從ふべきである。○黄葉爾來毛《モミヂニケリモ》――モは詠嘆の助詞。
〔評〕 前に朝露に紅葉した歌があつたが、これは露の降る夕べの秋風に紅葉したのである。秋風に紅葉したといふのが珍らしい。
2190 吾が門の 淺茅色づく 吉隱の 浪柴の野の もみぢ散るらし
吾門之《ワガカドノ》 淺茅色就《アサヂイロヅク》 吉魚張能《ヨナバリノ》 浪柴乃野之《ナミシバノヌノ》 黄葉散良新《モミヂチルラシ》
ワタクシノ門ノアタリノ〔四字傍線〕マバラニ生エタ茅ノ葉〔二字傍線〕ハ、赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタ。コレデハ此處ヨリモ寒イ〔コレ〜傍線〕吉隱ノ浪柴ノ野ノ紅葉ハモウ〔二字傍線〕散ツテヰルラシイ。
○吉魚張能浪柴乃野之《ヨナバリノナミシバノヌノ》――吉魚張《ヨナバリ》は卷二にも吉張之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》(二〇三)・卷八に吉名張乃猪養山爾《ヨナバリノヰカヒノヤマニ》(一五六一)とあつたところで、大和磯城郡今の初潮町の東一里の地點にあり、浪柴乃野は、大和志城上郡の條に「猪飼山在2吉隱村上方1持統紀曰、九年十月、幸2菟田吉隱1、即此今隷2本郡1其野曰2浪芝野1」とある。
〔評〕 家にあつて、吉隱の浪柴の野の紅葉を想像したのである。下の吾屋戸之淺茅色付吉魚張之夏身之上爾四具禮零疑《ワガヤドノアサヂイロヅクヨナバリノナツミノウヘニシグレフルカモ》(二二〇七)に似、また八田乃野之淺茅色付有乳山峯之沫雪寒零良之《ヤタノヌノアサヂイロヅクアラチヤマミネノアワユキサムクフルラシ》(二三三一)とも似てゐる。
2191 鴈が音を 聞きつるなべに 高まどの 野の上の草ぞ 色づきにける
鴈之鳴乎《カリガネヲ》 聞鶴奈倍爾《キキツルナベニ》 高松之《タカマドノ》 野上乃草曾《ヌノヘノクサゾ》 色付爾家留《イロヅキニケル》
鴈ノ鳴ク聲ヲ聞クト同時ニ、高圓ノ野ノアタリノ草ハスツカリ赤ク〔六字傍線〕色ガ付イタヨ。大ブン寒クナツテ來タ〔大ブ〜傍線〕。
○高松之《タカマドノ》――高松は高圓の借字として置かう。
〔評〕 聞いたところ見たところをそのままに述べて、よく感じをあらはしてゐる。
2192 吾背子が 白たへ衣 行き觸らば にほひぬべくも もみづ山かも
(328)吾背兒我《ワガセコガ》 白細衣《シロタヘコロモ》 往觸者《ユキフラバ》 應染毛《ニホヒヌベクモ》 黄變山可聞《モミヅヤマカモ》
ワタシノ夫ガ着テ行ツタ〔五字傍線〕白イ着衣ガ、觸レタナラバ、赤イ色ニ〔四字傍線〕染リサウニモ、山ガ紅葉シテヰルヨ。ホントニ美シク紅葉シタモノダ〔ホン〜傍線〕。
〔評〕 山の紅葉を眺めた女の歌で、旅に出た夫を思つてゐる。紅葉を愛づる歌としては、内容が變つてゐておもしろい。
2193 秋風の 日にけに吹けば 水莖の 岡の木の葉も 色づきにけり
秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》 水莖能《ミヅクキノ》 岡之木葉毛《ヲカノコノハモ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
秋風ガ毎日毎日吹イテヰルト、(水莖能)岡ノ木ノ葉モ赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタヨ。
○水莖能《ミヅクキノ》――枕詞。岡とつづくのは、みづみづしき莖の稚《ワカ》の轉であらうといふ。水莖之《ミヅクキノ》(九六八)参照。宣長はこの岡は大和の飛鳥の岡であらうといつてゐる。
〔評〕 清楚な感じのするよい歌であるが、下の秋風之日異吹者《アキカゼノヒニケニフケバ》(二二〇四)・鴈鳴之寒鳴從《カリガネノサムクナキシユ》(二二〇八)などに酷似してゐる。和歌童蒙抄にも出てゐる。
2194 鴈が音の 來鳴きしなべに から衣 龍田の山は もみぢそめたり
鴈鳴乃《カリガネノ》 來鳴之共《キナキシナベニ》 韓衣《カラコロモ》 裁田之山者《タツタノヤマハ》 黄始有《モミヂソメタリ》
鴈ガ來テ鳴イタノニツレテ、(韓衣)立田山ハ紅葉シ始メタ。
○來鳴之共《キナキシナベニ》――共はムタ・トモ・ナベなどと訓まれる文字であるが、前後にナベニとなつてゐる歌があるから、春霞流共爾《ハルガスミナガルルナベニ》(一八二一)の例に倣つて、これもナベニとよむことにしよう。○韓衣《カラコロモ》――枕詞。衣を裁つ意で、龍田山にかけてゐる。○黄始有《モミチソメタリ》――略解はニホヒソメタリとある。
(329)〔評〕 下の鴈鳴之寒鳴從水莖之岡乃葛葉者色付爾來《カリガネノサムクナキシユミヅクキノヲカノクズハハイロヅキニケリ》(二二〇八)ト似てゐる。
2195 鴈が音の 聲聞くなべに 明日よりは 春日の山は もみぢそめなむ
鴈之鳴《カリガネノ》 聲聞苗荷《コヱキクナベニ》 明日從者《アスヨリハ》 借香能山者《カスガノヤマハ》 黄始南《モミヂソメナム》
鴈ノ鳴ク聲ガスルガ、アノ聲〔七字傍線〕ヲ聞クニツレテ、明日カラハ、春日山ノ木ノ葉〔四字傍線〕ハ紅葉シ始メルデアラウ。
○黄始南《モミヂソメナム》――略解にはニホヒソメナムとある。
〔評〕 前の歌を未來にしただけに過ぎない。
2196 時雨の雨 間なくし零れば 眞木の葉も あらそひかねて 色づきにけり
四具禮能雨《シグレノアメ》 無間之零者《マナクシフレバ》 眞木葉毛《マキノハモ》 爭不勝而《アラソヒカネテ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
時雨ノ雨ガ止ム〔二字傍線〕間モナク降ルト、檜ノヤウナ常磐木ノ〔七字傍線〕葉モ、爭ウテモ〔四字傍線〕爭フコトガ出來ズニ、他ノ木ノヤウニ赤ク〔九字傍線〕色ガ付イタヨ。
〔評〕 晩秋から嚴冬の頃にかけて、檜や杉のやうな木は、かなり赤く色づくものである。その變化に着目したのが珍らしい。爭不勝而《アラソヒカネテ》の句も、ここには適切に用ゐられてゐる。
2197 いちじろく 時雨の雨は ふらなくに 大城の山は 色づきにけり
灼然《イチジロク》 四具禮乃雨者《シグレノアメハ》 零勿國《フラナクニ》 大城山者《オホキノヤマハ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
アマリ目ニ立ツ程モ時雨ノ雨ハ降ラナイノニ、大域ノ山ハ紅葉シタヨ。
○大城山者《オホキノヤマハ》――大城山は大野山と同じく、太宰府背後の山である。大野山(七九九)參照。元暦校本、小字にてこの歌の次に「謂大城者在筑前國御笠郡之大野山頂號曰大城者也」と註が その他の古寫本も多くはこの文があるが、恐らく後人の註であらう。寫眞は著者撮影。
(330)〔評〕 太宰府にての作。かの地の任にあつた官人の作であらう。
2198 風吹けば もみぢ散りつつ しましくも あがの松原 清からなくに
風吹者《カゼフケバ》 黄葉散乍《モミヂチリツツ》 小雲《シマシクモ》 吾松原《アガノマツバラ》 清在莫國《キヨカラナクニ》
風ガ吹クト紅葉ガ散ツテ、暫クハアガノ松原ハ、清淨デハナイヨ。
○小雲《シマシクモ》――舊訓シバラクモとあるのでもよからう。宣長はスクナクニとよむべしと言つてゐる。略解はそれに從つて「心はよそのもみぢを風の吹よせて、そこばく松原の清からぬといふ也」とあるが、さうではないやうである。○吾松原《アガノマツバラ》――吾松原は卷六に吾乃松原《アガノマツバラ》(一〇三〇)とあるところであらう。その左註に在2三重郡1とある。卷十七に和我勢兒乎安我松原欲《ワガセコヲアガマツバラヨ》(三八九〇)とあるのは筑紫での作であり、又地名ではないと認められてゐるから、これと關係はあるまい。宣長は吾を君の誤としてゐる。
〔評〕 吾の松原が散る紅葉の爲に暫くは清くはないといふ意に解して置いたが、他の解釋も出來ないこともない。三四句の爲に諸説が分れてゐるのは遺憾である。
2199 物念ふと こもらひをりて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり
(331)物念《モノモフト》 隱座而《コモラヒヲリテ》 今日見者《ケフミレバ》 春日山者《カスガノヤマハ》 色就爾家里《イロヅキニケリ》
今マデハ〔四字傍線〕物思ヲシテ、家ニ閉ヂ籠ツテ居ツテ、今日久シブリデ外ヲ〔七字傍線〕眺メルト、春日ノ山ハスツカリ〔四字傍線〕紅葉シテシマツタヨ。ホントニ一寸見ナイウチニ變ルモノダ〔ホン〜傍線〕。
○隱座而《コモラヒヲリテ》――舊訓シノビニヲリテ、代匠記精撰本コモリヲリツツ、略解カクロヒヲリテなどとある。コモラヒヲリテとよむべきところである。
〔評〕 物念隱座而《モノモフトコモラヒヲリテ》は、本集では珍らしい感傷的な態度である。古今集の「たれこめて春の行方もしらぬ間に待ちし櫻もうつろひにけり」は、これに似たところがある。
2200 九月の 白露おひて 足日木の 山のもみぢむ 見まくしもよし
九月《ナガツキノ》 白露負而《シラツユオヒテ》 足日木乃《アシビキノ》 山之將黄變《ヤマノミヂム》 見幕下吉《ミマクシモヨシ》
九月ニ降ル白露ヲ受ケテ、(足日木乃)山ノ木ノ葉〔四字傍線〕ガ紅葉スルノヲ見ルノハ、面白イコトデアル。
○見幕下吉《ミマクシモヨシ》――略解・古義にミマクシモヨケムとよんだのは惡い。
〔評〕 四句で切れてゐるのではない。山のもみぢむをの意である。末句は蛇足の感がないではない。
2201 妹がりと 馬に鞍置きて 射駒山 うち越えくれば 紅葉散りつつ
妹許跡《イモガリト》 馬鞍置而《ウマニクラオキテ》 射駒山《イコマヤマ》 撃越來者《ウチコエクレバ》 紅葉散筒《モミヂチリツツ》
妻ノ處ヘ通フトテ、馬ニ鞍ヲ置イテソレニ乘ツテ〔六字傍線〕、生駒山ヲ越エテ來ルト、路傍ノ〔三字傍線〕紅葉ガ、シキリニ〔四字傍線〕散ツテヰル。
○生駒山《イコマヤマ》――生駒山。奈良の都の西方に聳えて、大和・河内の堺をなせる山。代匠記精撰本に初二句を序詞として「妹かもとへ馬に鞍置て騎ていくと、い一もじにつづけたる歟」とあるのは誤つてゐる。○紅葉散筒《モミヂチリツツ》――モミヂは集中、黄葉とのみあるに、ここに紅葉と記したのは唯一の例である。
〔評〕 美しい情緒があふれてゐる。優麗・温雅なリズムで、長閑な上代氣分が歌はれてゐる。
2202 もみぢする 時になるらし 月人の かつらの枝の 色づく見れば
(332)黄葉爲《モミヂスル》 時爾成良之《トキニナルラシ》 月人《ツキヒトノ》 楓枝乃《カツラノエダノ》 色付見者《イロヅクミレバ》
月ノ中ニアル桂ノ枝ガ赤ク〔二字傍線〕色ヅイテ、月ノ光ガ常ヨリモ明ルクナツ〔テ月〜傍線〕タノデ見ルト、コノ下界ノ草木モ亦〔九字傍線〕、紅葉スル時ニナツタラシイ。
○月人《ツキヒトノ》――前に月人壯《ツキヒトヲトコ》(二〇一〇)とあるのに同じく、月のことである。古義に人を内の誤としてツキヌチノとよんだのは從ひ難い。○楓枝乃《カツラノエダノ》――卷四の月内之楓如《ツキノウチノカツラノゴトキ》(六三一)參照。
〔評〕 月中の桂の支那傳説を採つたもので、卷四の湯原王の作(六三二)と同一趣味に立つてゐる。これも民衆の歌ではあるまい。古今集の「久方の月のかつらも秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」は、この歌から學んだものではあるまいか。和歌童蒙抄にも採られてゐる。
2203 里もけに 霜は置くらし 高松の 野山づかさの 色づく見れば
里異《サトモケニ》 霜者置良之《シモハオクラシ》 高松《タカマドノ》 野山司之《ヌヤマヅカサノ》 色付見者《イロヅクミレバ》
高圓ノ野ノ高イ所ヤ、山ノ高イトコロガ赤ク〔二字傍線〕紅葉シタノデ見レバ、里モ格別ニ霜ガ降ルラシイ。
○里異《サトモケニ》――里も格別にの意。仙覺抄によれば、古點はサトゴトニとあつたとある。新訓はそれに還元してゐるが、異はゴトの借字になつてゐるところはないから、なほ考ふべきである。宣長は里を旦の誤として、アサニケニとよんでゐる。○高松《タカマドノ》――舊訓|高松野《タカマドノ》とあり、これに從ふ説が多い。野は集中ヌと訓み、或はヤの假名に用ゐてあるが、安利蘇野米具利《アりソノメグリ》(四〇四九)・須久奈比古奈野《スクナヒコナノ》(四一〇六)の如く、ノの假名に用ゐた特例もないではない。併しここではこれをノの假名に訓まうとするのは無理であらう。故にこれを次句に入れて高松の二字を以てタカマドノとよむことにする。○野山司之《ヌヤマヅカサノ》――野の司も山の司もの意。ツカサは高いところである。卷四に涯之官能《キシノツカサノ》(五三〇)とあつた。
〔評〕 都人が高圓の野山を眺めて、秋の更けたのを知つたのであらう。すぐれた歌とは言はれないが、類想のな(333)い作である。
2204 秋風の 日にけに吹けば 露しげみ 萩の下葉は 色づきにけり
秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》 露重《ツユシゲミ》 芽子之下葉者《ハギノシタバハ》 色付來《イロヅキニケリ》
秋風ガ毎日毎日吹クト、置ク〔二字傍線〕露ガ深イノデ、萩ノ下葉ハ赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタヨ。
○露重《ツユシゲミ》――舊訓ツユオモミとあり、略解ツユヲオモミとあるが、古義にツユシゲミとよんだのがよいであらう。新訓はツユシキリとよんでゐる。
〔評〕初二句は秋風之日異吹者《アキカゼノヒニケニフケバ》(二一九三)に似てゐる。萩の下葉の紅葉をよんだものは、後世の歌には多いが、これらはその先驅をなしたもので、觀察が細いと言はねバならぬ。
2205 秋萩の 下葉もみぢぬ あらたまの 月のへゆけば 風をいたみかも
秋芽子乃《アキハギノ》 下葉赤《シタバモミヂヌ》 荒玉乃《アラタマノ》 月之歴去者《ツキノヘユケバ》 風疾鴨《カゼヲイタミカモ》
秋萩ノ下葉ハ赤ク色ガツイタ。コレハ〔三字傍線〕(荒玉乃)月ガ幾月モタツテ秋ガ深クナツ〔七字傍線〕タノデ、風ガヒドク吹クカラダラウナア。
○裏下葉赤《シタバモミヂヌ》――赤の一字をモミヂヌとよませたのは珍らしい。○月之歴去者《ツキノヘユケバ》――月が幾月も經過したので。必ずしも略解にあるやうに「はぎの生し時より、月を經て秋風いたく吹ころ云云」といふ意ではなく、唯時候が移り行きて、秋が更けたのでといふやうなことである。
〔評〕 前の歌とよく似てゐるが、この方が秋寒い感じを、より強く感ぜしめる。
2206 まそかがみ 南淵山は 今日もかも 白露おきて 黄葉ちるらむ
眞十鏡《マソカガミ》 見名淵山者《ミナブチヤマハ》 今日鴨《ケフモカモ》 白露置而《シラツユオキテ》 黄葉將散《モミヂチルラム》
(眞十鏡)南淵山ハ、今日コノ頃ハ白露ガ降ツテ、紅葉ガ散ルデアラウカナア。
(334)○眞十鏡《マソカヾミ》――枕詞。見とつづく意はおのづから明らかである。○見名淵山者《ミナブチヤマハ》――見名淵山は即ち南淵山。卷九の御食向南淵山之《ミケムカフミナブチヤマノ》(一七〇九)參照。
〔評〕 類歌といふほどではないが、奈呉乃海之朝開之奈凝今日毛鴨礒之浦回爾亂而將有《ナゴノウミノアサケノナゴリケフモカモイソノウラワニミダレテアラム》(一一五五)・阿保山之佐宿木花者今日毛鴨散亂見人無二《アホヤマノサクラノハナハケフモカモチリミダルラムミルヒトナシニ》(一八六七)など、型が定まつてゐるやうである。
2207 吾がやどの 淺茅色づく 吉隱の 夏身の上に 時雨ふるかも
吾屋戸之《ワガヤドノ》 淺茅色付《アサヂイロヅク》 吉魚張之《ヨナバリノ》 夏身之上爾《ナツミノウヘニ》 四具禮零疑《シグレフルカモ》
ワタシノ家ノ庭ノマバラニ生エタ茅ガ、赤ク〔二字傍線〕色付イタ。コレデハモウアノ〔八字傍線〕。吉隱ノ夏身アタリニハ、時雨ガ降ルダラウカナア。
○吉魚張之夏身之上爾《ヨナバリノナツミノウヘニ》――吉魚張は吉隱。前の吉魚張能浪柴乃野之《ヨナバリノナミシバノヌノ》(二一九〇)と同所である。夏身もその附近にあるのであらう。
〔評〕前の吾門之淺茅色就吉魚張能浪柴乃野之黄葉散良新《ワガカドノアサヂイロヅクヨナバリノナミシバノヌモミヂチルラシ》(二一九○)とよく似てゐる。
2208 鴈がねの 寒く鳴きしゆ 水莖の 岡の葛葉は 色づきにけり
(335)鴈鳴之《カリガネノ》 寒鳴從《サムクナキシユ》 水莖之《ミヅクキノ》 岡乃葛葉者《ヲカノクズハハ》 色付爾來《イロヅキニケリ》
鴈ノ聲ガ寒サウニ鳴イテカラ、(水莖之)岡ノ葛ノ葉ハ赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタヨ。
〔評〕 前の秋風之日異吹者水莖能岡之木葉毛色付爾家里《アキカゼノヒニケニフケバミヅクキノヲカノコノハモイロヅキニケリ》(二一九三)によく似てゐる。佳作だ。
2209 秋萩の 下葉のもみぢ 花につぐ 時過ぎ行かば 後戀ひむかも
秋芽子之《アキハギノ》 下葉乃黄葉《シタバノモミヂ》 於花繼《ハナニツグ》 時過去者《トキスギユカバ》 後將戀鴨《ノチコヒムカモ》
今ハ萩ノハナガ美シク咲イテヰルガ、コノ花ガ散ツテコノ〔今ハ〜傍線〕花ニ繼イデ、秋萩ノ下葉ノ紅葉ガ美シイ盛ノ〔五字傍線〕時モ過ギテ行ツタナラバ、後ニナツテ戀シク思ハレルダラウカナア。
○於花繼《ハナニツグ》――花に繼ぐ時と下につづいてゐる。童蒙抄・略解・古義にハナニツギとあるのはおもしろくない。
〔評〕 花を愛し、更にその下葉の紅葉を愛して、萩を賞美した歌で、上代人の萩に對する嗜好が察せられる。
2210 明日香河 もみぢ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るかも
明日香河《アスカガハ》 黄葉流《モミヂバナガル》 葛木《カヅラキノ》 山之木葉者《ヤマノコノハハ》 今之落疑《イマシチルカモ》
飛鳥川ニハ紅葉ガ洗レテヰル。サテハコノ川ノ上流ノ〔サテ〜傍線〕葛城ノ山ノ木ノ葉ハ、今コソ散ルラシイ。
○明日香河《アスカガハ》――この明日香河は、大和の高市郡を流れる飛鳥川ではなく、河内國南河内郡駒谷村なる飛鳥川であらう。ここは履中紀に「天皇到2向内國埴生坂1、急馳自2大阪1向v倭至2于飛鳥山1過2少女於2山口1云々」とあるところで、飛鳥川は二上山の西側より發し、飛鳥を過ぎて石川に合流し、やがて大和川に注いでゐる川である。これを大和の飛鳥川とする古來の説は全く地理を辨へないものである。○葛木山之木葉者《カヅラキノヤマノコノハハ》――この葛城の山は葛城地方の山で、主として二上山を指してゐる。二上山は卷二に移葬大津皇子屍於葛城二上山之時云々(一六五)とあつて、葛城郡の山であるから、かく呼んだのである。
〔評〕 素純な歌である。古今集の「立田川もみぢば流る神なびの三室の山に時雨ふるらし」、後拾遺集の「嵐吹く(336)三室の山の紅葉ばは立田の川の錦なりけり」などはこれから出た歌らしい。新古今集に柿本人麿として「飛鳥川もみぢ葉流るかづらきの山の秋風ふきぞしぬらし」と出してゐるのは、この歌の改作であらう。
2211 妹が紐 とくと結ぶと 立田山 今こそ黄葉 はじめたりけれ
妹之紐《イモガヒモ》 解登結而《トクトムスブト》 立田山《タツタヤマ》 今許曾黄葉《イマコソモミヂ》 始而有家禮《ハジメタリケレ》
(妹之紐解登結而)立田山ハ今コソ紅葉シ始メタヨ。
○妹之紐解登結而《イモガヒモトクトムスブト》――立つと續く序詞。この歌、後撰集に「妹が紐とくと結ぶと立田山今ぞもみぢの錦織りける」とあるによれば、而の字は等などの誤ではないかと言つてゐる略解説に從ふ者が多い。然らば解くとても立ち結ぶとても立つ意である。木村正辭は字音辨證に、而のままでトとよむべきであるとして「而をトに借れるは轉音を用ゐたる也。而にトの音あるは同轉の治にト、姫にコ、忌にゴ、志之にソ、以にヨ、意矣にオの音ある響也」と言つてゐるが、例の韻鏡濫用の弊であらう。ここは暫く略解説に從つて置くが、而のままで、男が妹の紐の解けたのを結んで出立することと、解し得られるであらうと思はれる。
〔評〕 序詞がかなり官能的であるやうに思はれる。併し歌は野卑な感はない。
2212 雁がねの なきにし日より 春日なる 三笠の山は 色づきにけり
鴈鳴之《カリガネノ》 喧之從《ナキニシヒヨリ》 春日有《カスガナル》 三笠山者《ミカサノヤマハ》 色付丹家里《イロヅキニケリ》
鴈ノ鳴ク聲ガ聞エタ日カラ、春日ニアル三笠山ハ、木ノ葉ガ赤ク〔六字傍線〕色付イタヨ。
○喧之從《ナキニシヒヨリ》――喧は集中、不喧有之《ナカザリシ》(一六)・鴈喧渡《カリナキワタル》(一一六一)・鴈之喧喧所聞《カリガネキコユ》(二一三三)などの如く、ナキ又はネと用ゐられてゐるが、それに從つて訓んだのでは音が足りない。舊訓サワギニシヨリとあるのは從ひ難く、新訓ネナキニシヨリとあるのも、あまりにことごとしい。ネナクは聲を上げて泣くことであるから、ここには當嵌らぬかと思はれる。代匠紀精撰本に「若くは來喧之從なりけむを來の字落たるにや」とあるが、略解に「喧之の下、日を脱せし也」とあるに從はう。
(337)〔評〕型に嵌つた歌である。前の鴈鳴乃來鳴之共韓衣裁田之山者黄始有《カリガネノキナキシナベニカラコロモタツタノヤマハモミヂソメタリ》(二一九四)・鴈鳴之寒鳴從水莖之岡乃葛葉者色付爾來《カリガネノサムクナキシユミヅクキノヲカノクズハハイロヅキニケリ》(二二〇八)などその例が多い。
2213 この頃の あかとき露に 吾がやどの 秋の萩原 色づきにけり
比者之《コノゴロノ》 五更露爾《アカトキツユニ》 吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之芽子原《アキノハギハラ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
コノ頃ノ曉ニ降ル〔三字傍線〕露デ、ワタシノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕秋萩ノ澤山生エテヰルトコロハ、赤ク〔二字傍線〕色ガツイタヨ。
〔評〕前の比日之曉露丹吾屋前之芽子乃下葉者色付爾家里《コノゴロノアカトキツユニワガヤドノハギノシタバハイロヅキニケリ》(二一八二)と第四句が少し異なつてゐるのみ。
2214 夕されば 雁が越えゆく 立田山 時雨に競ひ 色づきにけり
夕去者《ユフサレバ》 鴈之越往《カリノコエユク》 龍田山《タツタヤマ》 四具禮爾競《シグレニキホヒ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
夕方ニナルト鴈ガ飛ビ〔二字傍線〕越シテ行ク立田山ハ、時雨ガ降ルノ〔四字傍線〕デ、競爭シテ色ガ付イタヨ。
○四具禮爾競《シグレニキホヒ》――古義に「※[雨/衆]雨のふるに、いな、うつろはじと爭ふに、つひにあらそひ得ずして、龍田山は色付にけりとなり」とあるは、前の爭不勝而色付爾家里《アラソヒカネテイロヅキニケリ》(二一九六)と混同したのである。ここは時雨にぬれて、我こそ負けじと紅葉したといふのである。
〔評〕 初二句は龍田山風景の點描で、それが一首の風趣に、有效に働いてゐる。下に秋去者鴈飛越龍田山《アキサレバカリトビコユルタツタヤマ》(二二九四)ともある。
2215 さ夜ふけて 時雨なふりそ 秋萩の 本葉のもみぢ ちらまく惜しも
左夜深而《サヨフケテ》 四具禮勿零《シグレナフリソ》 秋芽子之《アキハギノ》 本葉之黄葉《モトハノモミヂ》 落卷惜裳《チラマクヲシモ》
夜ガ更ケテカラ〔二字傍線〕時雨ハ降ルナヨ。秋萩ノ下葉ノ紅葉ガ散ルノハ惜シイヨ。折角美シク紅葉シタノニ、時雨ヨ、紅葉ヲ散ラスナヨ〔折角〜傍線〕。
○本葉之黄葉《モトハノモミヂ》――本葉は根もとの葉。下葉。
(338)〔評〕 晝の間は絶えず眺めてみるので、監視が屆くやうに思はれるが、夜になつては見てゐない間に、時雨が紅葉を叩き落しさうに思はれて危んだのである。やさしい心があらはれてゐる。
2216 ふるさとの 初もみぢ葉を 手折り持ち 今日ぞ吾が來し 見ぬ人の爲
古郷之《フルサトノ》 始黄葉乎《ハツモミヂバヲ》 手折以而《タヲリモチ》 今日曾吾來《ケフゾワガコシ》 不見人之爲《ミヌヒトノタメ》
ワタシハ、舊都ノ紅葉ガ美シクテ一人デ見ルノハ惜シイノデ〔ワタ〜傍線〕、見ナイ人ノ爲ト思ツテ〔四字傍線〕、舊都ノ初紅葉ヲ手折ツテ今日參リマシタ。
○古郷之《フルサトノ》――これは舊都で、飛鳥あたりを指すか。○手折以而《タヲリモチ》――而の字、元暦校本・類聚古集に無いのに從ふ。
〔評〕 奈良から舊都の秋を訪れた人が、美しい紅葉を家づとにした歌であらう。結句にやさしい心があらはれてゐる。
2217 君が家の 黄葉ば早く ちりにしは 時雨の雨に ぬれにけらしも
君之家乃《キミガイヘノ》 之黄葉早《モミヂバハヤク》 者落《チリニシハ》 四具禮乃雨爾《シグレノアメニ》 所沾良之母《ヌレニケラシモ》
アナタノオ宅ノ、紅葉ガ早ク散ツテシマツタノハ、時雨ノ雨ニ霑レタカラデセウナア。
○之黄葉早者落《モミヂバハヤクチリニシハ》――この二句は考に黄葉早落之者《モミヂバハヤクチリニシハ》の誤としたのに從ふ。これにても未だ充分ではないが、文字の轉置のみで事足るから、猥りに文字を改めるよりはよいであらう。舊訓モミチハハヤクチリニケリ、新考同上。新訓はハツモミヂバハハヤクフルとある。
〔評〕 友の家の紅葉を詠じたものか。二三の句が不明瞭なのは遺憾である。
2218 一年に ふたたび行かぬ 秋山を こころに飽かず すぐしつるかも
一年《ヒトトセニ》 二遍不行《フタタビユカヌ》 秋山乎《アキヤマヲ》 情爾不飽《ココロニアカズ》 過之鶴鴨《スグシツルカモ》
一年ニ二度トハ來ナイ秋ダノニ、ソノ美シイ秋〔ダノ〜傍線〕山ノ景色〔三字傍線〕ヲ、心ニ飽クホド眺メ〔四字傍線〕モシナイデ、空シク時ヲ〔五字傍線〕過ゴシ(339)タナア。
○一年二遍不行《ヒトトセニフタタビユカヌ》――一年に二度とは來ないの意。秋にのみかかつてゐる。卷四の空蝉乃代也毛二行《ウツセミノヨヤモフタユク》(七三三)・卷七世間者信二代者不往有之《ヨノナカハマコトフタヨハユカザラシ》(一四一〇)などのユクと同じであらう。
〔評〕 一年二遍不行秋《ヒトトセニフタタビユカヌアキ》といふ語のうちに、秋を空しく過ごした憾があらはれてゐる。但し前の七夕の歌、渡守舟早渡世一年爾二遍往來君爾有勿久爾《ワタリモリフネハヤワタセヒトトセニフタタビカヨフキミニアラナクニ》(二〇七七)・一年丹兩遍不遭妻戀爾物念人《ヒトトセニフタタビアハヌツマゴヒニモノオモフヒト》(二〇八九)とあるのと、觀念の上に類似點がないではない。
詠2水田1
舊本は水田をスイテムと訓んでゐる。代匠記初稿本は「和名集云、漢語抄云、水田【古奈太】田填也」と記してゐるが、箋注倭名類聚抄は水田古奈太の下に注して、「水田見2後漢書馬援傳1按2新撰字鏡1、墾字訓2古奈多1、谷川氏曰、日本紀熟訓2古奈須1、蓋粉成之義、然則古奈太、熟田也」とある。コナタと訓むべきであらう。
2219 あしびきの 山田作る子 ひででずとも 繩だに延へよ 守ると知るがね
足曳之《アシビキノ》 山田佃子《ヤマダツクルコ》 不秀友《ヒデズトモ》 繩谷延與《ナハダニハヘヨ》 守登知金《モルトシルガネ》
(足曳之)山ノ田ヲ作ル人ヨ、マダ田ノ〔四字傍線〕穗ガノビナイニシテモ、番シテヰルモノガアルト云フコトガワカルヤウニ、繩ダケテモ張ツテ置ケヨ。
○山田佃子《ヤマダツクルコ》――佃の字は和名抄に「唐韻云、佃、音與v田同、和名豆久利太。作田也」とあるから、これをツクルと訓むのは當つてゐる。集中唯一の用例である。○不秀友《ヒデズトモ》――秀《ヒデ》は穗出《ホデ》に同じ。穗に出ないでも。
〔評〕 詠2水田1とあるから、その意を以て解いて置いたが、譬喩の歌らしく思はれる。卷七の譬喩歌、寄v稲の(340)石上振之早田乎雖不秀繩谷延與守乍將居《イソノカミフルノワサダヲヒデズトモナハダニハヘヨモリツツヲラム》(一三五三)とよく似た歌である。その解を參照せられたい。
2220 さを鹿の 妻よぶ山の 岡べなる わさだは刈らじ 霜は降るとも
左小牡鹿之《サヲシカノ》 妻喚山之《ツマヨブヤマノ》 岳邊在《ヲカベナル》 早田者不苅《ワサダハカラジ》 霜者雖零《シモハフルトモ》
男鹿ガ妻ヲ喚ンデ鳴イテ〔三字傍線〕ヰル山ノ、岡ノホトリニアル早稻ノ田ハ、霜ガ降ツテ實ガ入リ過ギテ〔七字傍線〕モ、ワタシハ〔四字傍線〕、苅ルマイ。アノ妻訪フ鹿ヲ驚カスノハ不愍ダカラ〔アノ〜傍線〕。
〔評〕 棹鹿の妻呼ぶ聲をあはれんだ歌。戀知る若い耕人の、やさしい同情があらはれてゐる。
2221 吾が門に もる田を見れば 佐保の内の 秋萩すすき 念ほゆるかも
我門爾《ワガカドニ》 禁田乎見者《モルタヲミレバ》 沙穗内之《サホノウチノ》 秋芽子爲酢寸《アキハギススキ》 所念鴨《オモホユルカモ》
田ガミノルノト萩ノ薄ガサクノト同ジ頃ナノデ〔田ガ〜傍線〕、ワタシノ家デ門前ノ田ガ熟ツテ、番小屋ナドヲ建テテソノ〔門前〜傍線〕田ヲ番シテヰルノヲ見ルト、ワタシハ〔四字傍線〕佐保ノ内ノ秋萩ノ花〔二字傍線〕ヤ薄ノ花ノオモシロイ景色〔ノ花〜傍線〕ガ思ヒ出サレルヨ。
○禁田乎見者《モルタヲミレバ》――禁をモルと訓む例は鹿猪田禁如《シシタモルゴト》(三〇〇〇)ともある。○沙穗内之《サホノウチノ》――沙穗は佐保。佐保の里の内の意。猿帆之内敝《サホノウチヘ》(一八二七)參照。
〔評〕 佐保を本郷とする人が、別荘などに住んで、都近い佐保の秋を偲んだものであらう。大伴氏は佐保に邸宅を有し、跡見(一五四九・一五六〇)竹田(七六〇)などに庄を持つてゐたから、恐らくその一族の歌であらう。
詠v河
2222 夕さらず かはづ鳴くなる 三輪河の 清き瀬の音を 聞かくしよしも
暮不去《ユフサラズ》 河蝦鳴成《カハヅナクナル》 三和河之《ミワガハノ》 清瀬音乎《キヨキセノトヲ》 聞師吉毛《キカクシヨシモ》
夕方毎ニ、河鹿ガ鳴ク三輪河ノ、サヤカナ瀬ノ水〔傍線〕音ヲ聞クノハヨイモノダヨ。
(341)○三和河之《ミワガハノ》――初瀬川の下流を三輪附近で三輪川といふ。一七七〇の寫眞參照。○聞師吉毛《キカクシヨシモ》――キカクは聞くの延言。
〔評〕 三輪川の清瀬の音と、其處に鳴きしきる河鹿の聲との二重奏に、夕べ毎に耳を澄ます人の歌である。漢詩風に考へると、隱棲閑居の士らしいが、さうではなく、日毎に營營として働き、而も心に自然を樂しむ餘裕を藏する耕人の歌である。すがすがしい感じがする。
詠v月
2223 天の海に 月の船浮け 桂楫 かけて※[手偏+旁]ぐ見ゆ 月人壯士
天海《アメノウミニ》 月船浮《ツキノフネウケ》 桂梶《カツラカヂ》 懸而※[手偏+旁]所見《カケテコグミユ》 月人壯子《ツキヒトヲトコ》
天ノ海ニ月ノ舟ヲ浮ベテ、ソノ舟ニハ〔五字傍線〕桂ノ木デ拵ヘタ〔六字傍線〕楫ヲカケテ、月ノ中ニヰル〔六字傍線〕月人男ガ漕イデヰルノガ見エル。オモシロイ景色ダ〔八字傍線〕。
○桂梶《カツラカヂ》――桂の木で作つた楫。月中に桂の木が生えてゐるといふ思想は、月内之楓如《ツキノウチノカツラノゴトキ》(六三二)・月人楓枝乃《ツキヒトノカツラノエダノ》(二二〇二)などに見える通りである。○月人壯子《ツキヒトヲトコ》――前の仰而將待月人壯《アフギテマタムツキヒトヲトコ》(二〇一〇)參照。
〔評〕天海丹雲之波立月船星之林丹※[手偏+旁]隱所見《アメノウミニクモノナミタチツキノフネホシノハヤシニコギカクルミユ》(一〇六八)と似たところがある。そこでも述べたやうに、漢文學の趣味を基調としたもので、ことに懷風藻の文武天皇御製、月詩「月舟移2霧渚1楓※[楫+戈]泛2霞濱1」と比較すると、その類似の甚だしいのに驚かされる。當時の智識階故の風流士によつて作られたものであらう。この歌、袖中抄に載つてゐる。
2224 この夜らは さ夜ふけぬらし 雁が音の 聞ゆる空ゆ 月立ち渡る
此夜等者《コノヨラハ》 沙夜深去良之《サヨフケヌラシ》 鴈鳴乃《カリガネノ》 所聞空從《キコユルソラユ》 月立度《ツキタチワタル》
(342)今夜ハモウ〔二字傍線〕夜ガ更ケタラシイ、雁ノ聲ガ聞エル空ニ、月ガ出テ通ツテヰル。
〔評〕卷九の佐宵中等夜者深去良斯雁音所聞空月渡見《サヨナカトヨハフケヌラシカリガネノキコユルソラニツキワタルミユ》(一七〇一)に酷似してゐるが、一二句は卷九の方が勝つてゐる。
2225 吾がせこが かざしの萩に おく露を さやかに見よと 月は照るらし
吾背子之《ワガセコガ》 挿頭之芽子爾《カザシノハギニ》 置露乎《オクツユヲ》 清見世跡《サヤカニミヨト》 月者照良思《ツキハテルラシ》
吾ガ友ガ、冠ノ飾ニ〔四字傍線〕カザシトシテサシタ萩ノ花〔二字傍線〕ニ、露ガ宿ツテヰルガ、ソノ〔露ガ〜傍線〕宿ツタ露ヲヨク見ヨトテ、月ハコンナニ明ラカニ〔八字傍線〕照ツテヰルノダラウ。挿頭ノ萩ノ露ニ月ガ輝イテヰルノハ何トモ言ヘナヌヨイ姿ダ〔挿頭〜傍線〕。
○吾背子之《ワガセコガ》――ここ背子《セコ》と言つたのは、夫ではなくて友をさしたらしい。
〔評〕 これは月の宴などに集つた大宮人の風姿を詠じたもので、その宴中の一人の作である。女の作ではない。卷七の春日在三笠乃山二月船出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管《カスガナルミカサノヤマニツキノフネイヅミヤビヲノノムサカヅキニカゲニミエツツ》(一二九五)と同じやうな氣分で、以上の三首はいづれも觀月の宴の作ではないかと思はれる。よい歌だ。
2226 心なき 秋の月夜の もの念ふと いのねらえぬに 照りつつもとな
無心《ココロナキ》 秋月夜之《アキノツクヨノ》 物念跡《モノモフト》 寐不所宿《イノネラエヌニ》 照乍本名《テリツツモトナ》
物ヲ思ツテ眠ラレナイノニ、秋ノ月夜ガ、照ツテヰルノハ、ヨシナイコトダ。イヨイヨ眠ラレナイ〔九字傍線〕。
○照乍本名《テリツツモトナ》――照るのはもとなしの意。もとなは考なし、よしなし、徒らなり、猥なりなどの意。本名言《モトナイヘル》(二三〇)・令見乍本名《ミセツツモトナ》(三〇五)參照。
〔評〕 明皎皎たる秋の夜の月に對し、深い哀愁を湧かした、よい作である。これは果して、吾が國の固有思想であらうか。どうも漢文學の影響がありきうに思はれる。三四一二五と句を次第して見るがよい。
2227 思はぬに 時雨の雨は ふりたれど 天雲はれて 月夜さやけし
(343)不念爾《オモハヌニ》 四具禮乃雨者《シグレノアメハ》 零有跡《フリタレド》 天雲霽而《アマグモハレテ》 月夜清焉《ツクヨサヤケシ》
意外ニモ突然〔二字傍線〕時雨ノ雨ハ降ツタケレドモ、今ハ〔二字傍線〕空ノ雲ガ晴レテ、月ノ光ガ明ラカニ照ツテヰル。ヨイ月ダ〔四字傍線〕。
○月夜清烏《ツクヨサヤケシ》――舊訓ツキヨキヨキヲとあるが、烏は焉の草體から誤つたので、元暦校本・類聚古集など焉になつてゐるから、サヤケシと訓むべきである。
〔評〕 卒然として降り過ぎた時雨の後に、洗ひ清められたやうな、月光の皎皎たるを讃嘆したものである。略解に「おもはぬにと云ふより、あま雲はれてとつづくなり」とあり、古義も同意になつてゐるが、さうではなく、時雨が突如として降つて來たことで、忽ち零り、忽ち止むのが時雨の通性である。
2228 萩が花 咲きのををりを 見よとかも 月夜の清き 戀まさらくに
芽子之花《ハギガハナ》 開乃乎再入緒《サキノヲヲリヲ》 見代跡可聞《ミヨトカモ》 月夜之清《ツクヨノキヨキ》 戀益良國《コヒマサラクニ》
萩ノ花ガ開イテ、枝モタワワニ〔六字傍線〕曲ツテヰル美シイ景色〔五字傍線〕ヲ見ヨト云フノデ、コンナニ今〔五字傍線〕夜ハ月ガヨイノダラウカ。カウシテ萩ヲ眺メレバ、萩ヲ〔カウ〜傍線〕戀フル心〔三字傍線〕ガ増ツテ忘レラレナイ〔七字傍線〕ノニ。
○開乃乎再入緒《サキノヲヲリヲ》――卷八の春山開乃乎爲里爾《ハルヤマノサキノヲヲリニ》(一四二一)とあるのと同樣で、花が枝も撓んで咲いてゐること。乎再入は乎乎入と同じで、再度繰返す意を以て記したのである。この件について、橘守部の鐘の響及び木村正辭の訓義辨證下卷に論じてある。これを考に再を乎の誤とし、略解に烏の誤としたのは共によくない。○戀益良國《コヒマサラクニ》――戀増るに。ラクはルの延言。
〔評〕明夜の清興。前の吾背子之挿頭之芽子爾置露乎清見世跡月者照良思《ワガセコガカザシノハギニオクツユヲサヤカニミヨトツキハテルラシ》(二二二五)と似たところがある。戀益良國《コヒマサラクニ》は萩を戀しく思ふので、女を戀するのではない。
2229 白露を 玉になしたる 九月の ありあけの月夜 見れど飽かぬかも
白露乎《シラツユヲ》 玉作有《タマニナシタル》 九月《ナガツキノ》 在明之月夜《アリアケノツクヨ》 雖見不飽可聞《ミレドアカヌカモ》
(344)白露ノ上ニ月ノ光ガ輝イテ〔〜傍線〕、白露ヲ玉ノヤウニシタ、九月ノ夜明ケ方ノ月ハ、見テモ見テモ見飽カナイナア。實ンイ佳イ景色ダ〔七字傍線〕。
○玉作有《タマニナシタル》――月によつて、玉の如き光輝を添へたこと。
〔評〕 何等斧鑿の痕なくして、渾然たる姿をなしてゐる。傑れた作だ。
詠v風
2230 戀ひつつも 稻葉かきわけ 家居れば 乏しくもあらず 秋の夕風
戀乍裳《コヒツツモ》 稻葉掻別《イナバカキワケ》 家居者《イヘヲレバ》 乏不有《トモシクモアラズ》 秋之暮風《アキノユフカゼ》
マダ殘暑ガ烈シイノデ、風ヲ〔マダ〜傍線〕戀シガリナガラ、稻葉ヲカキワケテ小屋ヲ建テテ、ソノ中ニ〔四字傍線〕居ルト、秋ノ夕風ガ充分ニ吹イテ來テ〔八字傍線〕、乏シイコトハナイ。
○乏不有《トモシクモアラズ》――このトモシは尠いこと。羨ましい意ではない。
〔評〕 農民の生治があらはれてゐる。これで見ると、秋の田の假廬は初秋の頃から作ると見える。秋之暮風と名詞止にしてゐるのが變つた格調をなしてゐる。前の梅花開有崗邊爾家居者乏毛不有※[(貝+貝)/鳥]之音《ウメノハナサケルヲカベニイヘヲレバトモシクモアラズウグヒスノコヱ》(一八二〇)と似てゐる。
2231 萩が花 咲きたる野べに ひぐらしの 鳴くなるなべに 秋の風吹く
芽子花《ハギガハナ》 咲有野邊《サキタルヌベニ》 日晩之乃《ヒグラシノ》 鳴奈流共《ナクナルナベニ》 秋風吹《アキノカゼフク》
萩ノ花ガ咲イテヰル野原ニ、蜩ガナクト、ソレ〔三字傍線〕ニツレテ、秋ノ風ガ吹クヨ。
〔評〕 美しい、而も淋しい、秋の野らしい景である。前の秋風之寒吹奈倍吾屋前之淺茅之本蟋蟀鳴毛《アキカゼノサムクフクナベワガヤドノアサヂガモトニコホロギナクモ》(二一五八)を句を置き換へて、材料を變へると、この歌になりさうだ。
2232 秋山の 木の葉もいまだ もみぢねば けさ吹く風は 霜も置きぬべく
(345)秋山之《アキヤマノ》 木葉文未《コノハモイマダ》 赤者《モミヂネバ》 今旦吹風者《ケサフクカゼハ》 霜毛置應久《シモモオキヌベク》
秋ノ山ノ木ノ葉モマダ紅葉シナイノニ、今朝吹ク風ハ非常ニ寒クテ〔六字傍線〕、霜デモ降リサウダ。
○未赤者《イマダモミヂネバ》――略解はモミデネバとよんでゐるが、モミヂネバがよい。○今旦吹風者《ケサフクカゼハ》――旦の字、舊本に日とあるが、元暦校本に從ふ。○霜毛置應久《シモモオキヌベク》――考は久を之の誤として、シモモオキヌベシとよんでゐるが、ペクと婉曲に言ひ納めるのも、一種の修辭法であらう。
〔評〕 秋もまだ深くもないのに、遽かに襲つて來た寒さに驚いたのである。これもありのままな感じをあらはし得てゐる。
詠v芳
芳は茸の誤で、松茸を詠んだのであらうと宣長は言つてゐる。大矢本・京大本は芳の側にカホリヲと訓を附してあるのは、左の歌の結句の趣に一致してゐる。このままでよいのではあるまいか。
2233 高松の この峯もせに 笠立てて みちさかりたる秋 の香のよさ
高松之《タカマドノ》 此峯迫爾《コノミネモセニ》 笠立而《カサタテテ》 盈盛有《ミチサカリタル》 秋香乃吉者《アキノカノヨサ》
高圓山ノコノ山モ狹イホドモ、山一面ニ〔四字傍線〕笠ヲ立テテ、滿チ滿チテ盛ニ生エテヰル松茸ノ〔三字傍線〕秋ノ香ノヨイコトヨ。
○高松之《タカマドノ》――高圓であらう。○比峯迫爾《コノミネモセニ》――この峯も狹しとの意。セは野モセ、道モセのセである。○笠立而《カサタテテ》――笠を立てて。松茸が笠を立てたやうに並んでゐるのを言つたのである。和名抄に「爾雅註云、菌有2木菌・土菌・石菌1和名皆多介云々、状如2人著1v笠者也」とある。
〔評〕 松茸を詠んだものであらう。代匠記精撰本に「笠立而は紅葉の錦の蓋を立たらむやうなるを云へり」とあるのは誤解である。誠に珍らしい題材で、如何にも上品に詠みこなしてゐる。
(346)詠v雨
2234 一日には 千重しくしくに 吾が戀ふる 妹があたりに 時雨ふれ見む
一日《ヒトヒニハ》 千重敷布《チヘシクシクニ》 我戀《ワガコフル》 妹當《イモガアタリニ》 爲暮零禮見《シグレフレミム》
一日ノウチニハ、千度モ繰リ返シ繰リ返シテ、頻リニ〔三字傍線〕ワタシガ戀シク思ツテヰル女ノ家ノ方ニ、時雨ガ降レヨ。ソレヲ〔三字傍線〕見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
○一日《ヒトヒニハ》――古義に、ヒトヒニモと訓んでゐるが、一日者千遍參入之《ヒトヒニハチタビマヰリシ》(一八六)・一日爾波千重浪敷爾雖念《》ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモ(四〇九)などの例によつても、ヒトヒニハがよいことがわかる。○爲暮零禮見《シグレフレミム》――略解に禮は所の誤で、シグレフルミユであらうといつてゐる。古義・新考共にこれに從つてゐる。さうすればまことに穩やかであるが、このままでも訓み得るのであるから、舊訓を尊重することにした。なほ字音辨證に、禮をルとよむのであるとしたのは、韻鏡に淫した説である。
〔評〕君之當見乍母將居伊駒山雲莫蒙雨者雖零《キミガアタリミツツモアラムイコマヤマクモナタナビキアメハフルトモ》(三〇三二)とあるけれども、これは近い妹の里に降り注ぐ時雨の銀線を見ようといふのである、なつかしい情緒である。
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
2235 秋田かる 旅の廬に 時雨ふり 吾が袖ぬれぬ 干す人なしに
秋田苅《アキタカル》 客乃廬入爾《タビノイホリニ》 四具禮零《シグレフリ》 我袖沾《ワガソデヌレヌ》 干人無二《ホスヒトナシニ》
秋ノ田ヲ苅ルトテ田ノ畔ニ〔四字傍線〕小屋ヲ立テテ旅寢ヲシテヰルト、時雨ガ降ツテ、シカモソレヲ〔六字傍線〕乾カシテクレル妻モ居ラナイノニ、ワタシノ着物ノ袖ハ沾レタ。ホントニツライ〔七字傍線〕。
〔評〕 秋の田の假廬に於ける、農夫の辛苦が歌はれてゐる。前の秋田苅借廬乎作吾居者衣手寒露置爾家留《アキタカルカリホヲツクリワガヲレバコロモデサムクツユゾキニケル》(二一七四)(347)は露のわびしさであつたが、これは時雨の苦しさである。卷四の照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二《テラスヒヲヤミニミナシテナクナミダコロモヌラシツホスヒトナシニ》(六九〇)と下句は同じやうであるが、内容は全然異なつてゐる。
2236 玉だすき かけぬ時なし 吾が戀は 時雨しふらば ぬれつつも行かむ
玉手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナシ》 吾戀《ワガコヒハ》 此具禮志零者《シグレシフラバ》 沾乍毛將行《ヌレツツモユカム》
私ノ戀ハ心ニ〔二字傍線〕(玉手次)カケテ思ハ〔三字傍線〕ナイ時ハナイ。ワタシハ若シ〔六字傍線〕時雨ガ降ツタナラバ、霑レナガラデモ行カウト思フ。時雨ガ降ツテモカマフコトハナイ〔時雨〜傍線〕。
○玉手次《タマダスキ》――枕詞。かけとつづく。○不懸時無吾戀《カケヌトキナシワガコヒハ》――略解はカケヌトキナキワガコヒヲと改めてゐるが、おもしろくない。新考にカケヌトキナクワレハコフルヲと改めて、旋頭歌としたのは、臆斷も甚だしい。
〔評〕 男性的な強い表現になつてゐる。これらは寧ろ相聞の部に入るべきであらう。
2237 もみぢ葉を 散らす時雨の ふるなべに 夜さへぞ寒き 一人し宿れば
黄葉乎《モミヂバヲ》 令落四具禮能《チラスシグレノ》 零苗爾《フルナベニ》 夜副衣寒《ヨサヘゾサムキ》 一之宿者《ヒトリシヌレバ》
紅葉ヲ散ラス時雨ガ降ルノニツレテ、段々時候ガ寒クナツテ〔段々〜傍線〕、一人デ寢テヰレバ、夜モ寒イヨ。
○夜副衣寒《ヨサヘゾサムキ》――元暦校本の一訓や類聚古集などに、フスマモサムシとあるのは、夜副衣を、意を以てフスマと訓んだので、古義もこれによつてゐる。このサヘは一見不要のやうにも見えるので、かうした訓法も出るのであらうが、他に夜副衣をフスマとよんだ例はないから、猥りに從ひ難い。サヘは語氣を強めて言ふ場合があり、卷七の野邊副清照月夜可聞《ヌベサヘキヨクテルツクヨカモ》(一〇七〇)のサヘも、その一例と思はれる。
〔評〕 落葉と共に板屋打つ時雨の音を聞いて、孤衾眠をなさぬ人の歌である。これもしつかりした調子である。
詠v霜
2238 天飛ぶや 雁のつばさの 覆羽の いづく漏りてか 霜のふりけむ
(348)天飛也《アマトブヤ》 鴈之翅乃《カリノツバサノ》 覆羽之《オホヒバノ》 何處漏香《イヅクモリテカ》 霜之零異牟《シモノフリケム》
空ヲ飛ンデ行ク鴈ガ翼ヲ列ベテ天ヲ覆ツテヰテ、何處ニモ隙間モナイ筈ダノニ〔何處〜傍線〕、何處ノ隙間ヲ漏レテ霜ガコンナニ〔四字傍線〕、降ツタノデアラウゾ。
○天飛也《アマトブヤ》――ヤは輕く添へてあるので、謂はゆる切れ字のヤではない。○覆羽之《オホヒバノ》――前の句からつづいて、鴈の翅の空を敝ふ羽根のの意。
〔評〕 これは寒夜に群れ飛ぶ鴈聲を聞いた朝、眞白な地上の霜を見て詠んだのであらう。卷九の客人之宿將爲野爾霜降者吾子羽※[果/衣]天乃鶴群《タビヒトノヤドリセムヌニシモフラバワガコハグクメアメノタヅムラ》(一七九一)と同一思想で、ただ鶴と鴈とが異なつてゐるのみである。奇拔な想像が、後世の追從を許さない。和歌色葉抄・袖中抄・童蒙抄などに出てゐる。
秋相聞
2239 秋山の したひが下に 鳴く鳥の 聲だに聞かば なにか嘆かむ
金山《アキヤマノ》 舌日下《シタヒガシタニ》 鳴鳥《ナクトリノ》 音谷聞《コヱダニキカバ》 何嘆《ナニカナゲカム》
アノ人ノ〔四字傍線〕(金山舌日下鳴鳥)聲ダケデモ開イタナラ、ワタシハ〔四字傍線〕ドウシテ嘆クコトガアラウカ。聲ヲモ聞クコトガ出來ナイノデ悲シイ〔聲ヲ〜傍線〕。
○金山舌日下鳴鳥《アキヤマノシタヒガシタニナクトリノ》――音《コヱ》と言はむ爲の序詞。シタヒは紅葉の照り映えること。卷二の秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》(二一七)のシタブルと同語である。古事記にも秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》とある。
〔評〕 秋の鳥を序詞の材料としてゐるので、秋相聞の部に收めたものであらう。下の朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷(349)聞者吾將戀八方《アサガスミカヒヤガシタニナクカハヅコヱダニキカバワレコヒメヤモ》(二二六五)と少し似てゐる。この歌、袖中抄にでてゐる。
2240 誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露にぬれつつ 君待つ我を
誰彼《タソカレト》 我莫問《ワレヲナトヒソ》 九月《ナガツキノ》 露沾乍《ツユニヌレツツ》 君待吾《キミマツワレヲ》
九月ノ夜〔傍線〕露ニ濡レテ、外ニ出テ戀シイ〔七字傍線〕人ヲ待ツテヰルワタシデスゾ。アレハ誰ダト、ワタシヲ尋ネナサルナ。
○誰彼《タソカレト》――彼は誰ぞとの意。○君待吾《キミマツワレヲ》――君は自分の戀人である。我莫問《ワレヲナトヒソ》と言つてゐる對手ではない。ワレヲは我ぞの意。我なるにの意ではない。前に此碁衣縫而君待吾乎《コノユフベコロモニヌヒテキミマツワレヲ》(二〇六四)とあり、卷十三の人者云而君待吾乎《ヒトニハイヒテキミマツワレヲ》(三二七六)などに同じ。
〔評〕 戀人を待つ女性の心で、民謠風の作品である。
2241 秋の夜の 霧立ちわたり おほほしく 夢にぞ見つる 妹がすがたを
秋夜《アキノヨノ》 霧發渡《キリタチワタリ》 夙夙《オホホシク》 夢見《イメニソミツル》 妹形矣《イモガスガタヲ》
(秋夜霧發渡)ボンヤリトワタシハ〔四字傍線〕、妻ノ姿ヲ夢ニ見タヨ。
○秋夜霧發渡《アキノヨノキリタチワタリ》――オホシクと言はむ爲の序詞。新考はアキノヨニ、新訓はアキノヨハとよんでゐる。○夙夙《オホホシク》――アサナサナ・シクシクニ・ホノボノニなどの訓があるが、考に夙夙を凡凡の誤として、オホホシクとよんだのに從ふ。
〔評〕 初二句を序詞とすれば、時節が不明になるが、やはり秋の夜の即興であらう。
2242 秋の野の 尾花がうれの 生ひ靡き 心は妹に 依りにけるかも
秋野《アキノヌノ》 尾花末《ヲバナガウレノ》 生靡《オヒナビキ》 心妹《ココロハイモニ》 依鴨《ヨリニケルカモ》
(秋野尾花末生)スツカリ〔四字傍線〕靡イテ、私ノ〔二字傍線〕心ハ妻ノ方ニ寄ツテシマツタヨ。唯妻ノコトバカリ戀シク思ツテヰル〔唯妻〜傍線〕。
○生靡《オヒナビキ》――考に生を打の誤として、ウチナビキと訓んでゐるによれば、初二句はウチナビキの序詞であるが、(350)原文を尊重して、オヒナビキと訓めば、オヒまでの十四音を序詞としなければならない。そのつづきの意は明らかである。
〔評〕卷十三の明日香河瀬湍之珠藻之打靡情者妹爾因來鴨《アスカガハセゼノタマモノウチナビキココロハイモニヨリニケルカモ》(三二六七)と似てゐるが、いづれが先であるかわからない。この他にも類似した歌が見える。
2243 秋山に 霜ふり覆ひ 木の葉散り 歳はゆくとも 我忘れめや
秋山《アキヤマニ》 霜零覆《シモフリオホヒ》 木葉落《コノハチリ》 歳雖行《トシハユクトモ》 我忘八《ワレワスレメヤ》
(秋山霜零覆木葉落)年月〔傍線〕ハ經ツテモ、私ハ愛スル人ヲ〔五字傍線〕忘レヨウヤ、決シテ忘レハシナイ〔九字傍線〕。
○歳雖行我忘八《トシハユクトモワレワスレメヤ》――略解にトシハユケドモワレワスルレヤとよんだのは、よくない。
〔評〕 上句は歳雖行《トシハユクトモ》と言はむ爲の序詞と見るがよからう。その年の暮れ行く意につづいてゐるが、歌意はいつまで經つても忘れないといふのである。從來の説、上句を序詞と見なかつた爲に無理があるやうである。
右柿本朝臣人麿之歌集出
以上の五首の書風は、全く人麿歌集の樣式になつてゐる。
寄2水田1
2244 住吉の 岸を田にはり 蒔きし稻の しか苅るまでに 逢はぬ君かも
住吉之《スミノエノ》 岸乎田爾墾《キシヲタニハリ》 蒔稻乃《マキシイネノ》 而及苅《シカカルマデニ》 不相公鴨《アハヌキミカモ》
住吉ノ岸ヲ開墾シテ田ニシテ稻ヲ蒔イタノガ、ソンナニ苅リ取ルマデモ逢ハレナイ貴方ヨ。隨分永クオ目ニカカリマセンナア〔隨分〜傍線〕。
○蒔稻乃而及苅《マキシイネノシカカルマデニ》――略解にあげた宣長説に、乃は秀の誤として、マキシイネヒデテカルマデとよんでゐるが、(351)舊説が乃のままとして、第三句に續けることにしてゐるのに從ふ。シカカルマデニは舊訓にはシカモカルマデとあるが、新訓による。
〔評〕 住吉附近の農民の作か。住吉附近に田が作られてゐたことは、卷七の住吉小田苅爲子賤鴨無《スミノエノヲダヲカラスコヤツコカモナキ》(一二七五)と見えてゐる。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
2245 たちのしり 玉纒き田井に いつまでか 妹を相見ず 家戀ひ居らむ
劔後《タチノシリ》 玉纒田井爾《タママキタヰニ》 及何時可《イツマデカ》 妹乎不相見《イモヲアヒミズ》 家戀將居《イヘコヒヲラム》
(劔後玉)纒ノ田デ日ヲ送ツテ〔五字傍線〕、何時マデカ妻ニ逢ハナイデ、家ヲ戀シク思ヒツツ暮スコトダラウ。ハヤク逢ヒタイモノダ〔ハヤ〜傍線〕。
○劔後玉纒田井爾《タチノシリタママキタヰニ》――劔後《タチノシリ》は玉纒とつづく枕詞である。劔の鞘の尻に玉を飾として卷いたのであらう。タママキタヰについて諸説がある。代匠記にはこれを地名として、タママキノタヰであらうといひ、古義は玉は稻種のことで、稻種を蒔く田といふことであらうとしてゐる。略解には「纒田居といふ地に、玉まくと言ひ下したり。神武紀の頬枕田《ツラマキタ》は磯城郡也。ここを詠めるならば、玉まきたゐと訓べし。また上總望陀郡ももとは馬來田《マクタ》なればここにや」とある。元來ここは水田に寄せた歌で、田井は即ち田のことであるから、地名とするならば、マキタ又はマクタとするのは無理で、マキといふ地名と見ねばならぬであらう。マキといふ地名は和名抄、因幡に罵城《マキ》郷あり、その他諸國に多い。古義の玉を稻種とするのも少しく受取り難く、又新考には「穗田にしげく露のおきたるを玉と看做して玉撤ク田居といへるにあらざるか」とあるが、これも根據のない想像説である。ここでは假にマキといふ地名と見ることにする。
〔評〕 略解に「是は班田使などにて、其田居に月を經て詠めるならむ」とある。二の句を地名とすると、この説に從ひたくなる。一説の如く、田ゐに假廬を作つてゐるものとすると、二の句を地名とするのは穩當を缺くやうである。ともかく二の句が不明瞭なのは、遺憾である。
2246 秋の田の 穗の上に置ける 白露の 消ぬべく我は おもほゆるかも
(352)秋田之《アキノタノ》 穗上置《ホノヘニオケル》 白露之《シラツユノ》 可消吾者《ケヌベクワレハ》 所念鴨《オモホユルカモ》
ツレナイ人ヲ戀シテ、命モ〔ツレ〜傍線〕(秋田之穗上爾置白露之)消エサウニ、ワタシハ思ハレルヨ。アアツライ〔五字傍線〕。
〔評〕上句は序詞で、卷八の秋付者尾花我上爾置露乃應消毛吾者所念香聞《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノケヌベクモアハオモホユルカモ》(一五六四)と、よく似た歌である。
2247 秋の田の 穗向の依れる 片よりに 我は物念ふ つれなきものを
秋田之《アキノタノ》 穗向之所依《ホムキノヨレル》 片縁《カタヨリニ》 吾者物念《ワレハモノモフ》 都禮無物乎《ツレナキモノヲ》
ワタシハアノ人ガ〔四字傍線〕難面クテワタシノ心ニ從ツテクレナ〔クテ〜傍線〕イニモカカハラズ、(秋田之穗向之所依)唯片方ニノミ偏シテ、アノ人バカリ戀シテ〔アノ〜傍線〕物思ニ惱ンデ居ル。
【評】 卷二の秋田之穗向乃所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニキミニヨリナナコチタカリトモ》(一一四)と上句がよく似てゐる。
2248 秋の田を 假廬つくり 廬して あるらむ君を 見むよしもがも
秋田※[口+立刀]《アキノタヲ》 借廬作《カリイホツクリ》 五百入爲而《イホリシテ》 有藍君※[口+立刀]《アルラムキミヲ》 將見依毛欲得《ミムヨシモガモ》
秋ノ田ヲ苅ル爲ニ〔二字傍線〕假ノ小屋ヲ作ツテ、ソノ内ニ〔四字傍線〕宿ツテ番ヲシテ〔四字傍線〕ヰルワタシノ夫ノ〔六字傍線〕君ニ、オ目ニカカリタイモノデスナア。オ別レシテカラ、隨分永クナルカラオ目ニカカリタイ〔オ別〜傍線〕。
○秋田※[口+立刀]《アキノタヲ》――※[口+立刀]は苅の誤と考にあるのはよくない。※[口+立刀]はヲと訓むべき文字ある。○借廬作《カリイホツクリ》――苅る假廬を作りとかけてあるのである。○將見依毛欲得《ミムヨシモガモ》――舊本、將見依毛欲將とあるは誤、元暦校本によつて改めた。
〔評〕 假廬を作つて、山田を守るものの妻の、歌とも考へられないことはないが、有藍君※[口+立刀]《アルラムキミヲ》といふのは「班田使の妻などの詠めるなるべし」とある、略解説を肯定したいやうに思はしめる。
2249 鶴が音の 聞ゆる田井に 廬して 我旅なりと 妹に告げこそ
鶴鳴之《タヅガネノ》 所聞田井爾《キコユルタヰニ》 五百入爲而《イホリシテ》 吾客有跡《ワレタビナリト》 於妹告社《イモニツゲコソ》
(353)ワタシハ今〔傍線〕、鶴ノ鳴ク聲ノ聞エル淋シイ〔三字傍線〕田ノ中ノ小屋ニ宿ツテ、旅寢ヲシテヰルト云フコトヲ〔五字傍線〕、妻ニ知ラセテクレヨ。久シク訪ネナイノハ、カウシテ勞苦シテヰルカラダ。惡ク思ハズニ同情シテクレヨ〔久シ〜傍線〕。
〔評〕 これも班田使などの歌とも解せられないこともないが、さうではなくて、自分が旅に出たことを知らない、隱妻などを思つて、詠んだのであらう。淋しい感じがあらはれてゐる。
2250 春霞 たなびく田居に 廬づきて 秋田苅るまで 思はしむらく
春霞《ハルガスミ》 多奈引田居爾《タナビクタヰニ》 廬付而《イホヅキテ》 秋田苅左右《アキタカルマデ》 令思良久《オモハシムラク》
春霞ガ靡イテヰル田ニ、種ヲ蒔イテ〔五字傍線〕小屋ヲカケテ住マツテ、ソノ〔二字傍線〕田ガ秋ニナツテ苅リトルマデ、ソノ小屋ニ住ンデ、永イ間妻ニモアヘナイカラ、ワタシヲシテ妻ヲ〔ソノ〜傍線〕思ハシメルヨ。アアナツカシイ妻ダ〔九字傍線〕。
○多奈引田居爾《タナビクタヰニ》――田居は田井ともしるされてゐる。田の面などの意。○廬付而《イホヅキテ》――舊訓にイホリシテとあるが、文字のままがよからう。代匠記一説に付を仕《シ》の誤とし、略解は爲《シ》の誤としてゐる。○令思良久《オモハシムラク》――思はしむるに同じ。女を思はしめるよの意。
〔評〕 春の頃から田に廬作りするといふのは、事實として疑ふべきやうにも思はれる。新考が、第三句を種蒔而《タネマキテ》の誤としたのはその爲である。併し原形を尊重して解釋しておいた。
2251 たちばなを 守部の里の 門田早稻 苅る時過ぎぬ 來じとすらしも
橘乎《タチバナヲ》 守部乃五十戸之《モリベノサトノ》 門田早稻《カドタワセ》 苅時過去《カルトキスギヌ》 不來跡爲等霜《コジトスラシモ》
(橘乎)守部ノ里ノ門ノ田ノ早稻ガ實ガ入ツテ〔六字傍線〕、苅ル時節ガ過ギ去ツタ。アノ人ハ稻ヲ苅ル頃ニハ必ズ來テ逢ハウト言ツテ居タノニ、コノ樣子デハ〔アノ〜傍線〕來ナイ考ラシイヨ。
○橘乎《タチバナヲ》――守につづく枕詞と考へられてゐる。橘の實を盗まぬやうに、守部を置いて守らせたものらしい。三代實録五十に「仁和三年五月十四日丁亥、是日始置d守2韓橘1者二人u以2山城國※[人偏+搖の旁]丁1充v之」とあり、姓氏録に、(354)橘守といふ姓があるのは、そのことを掌つたものであらう。○守部乃五十戸之《モリベノサトノ》――給訓モリベノイヘノとあるが、五十戸は、戸令に「凡戸以2五十戸1爲v里」とあるから、サトとよまねばならぬ。守部の里の所在は明らかでない。今大和丹波市附近に守目堂村があるところかといふ説もある。なほ今、攝津・筑後などにも守部と稱する地がある。
〔評〕さしたる歌ではないが、橘守部乃五十戸《タチバナヲモリベノサト》といふ地名を詠み入れたのは、文化史的に面白い資料を提供するものである。
寄v露
2252 秋萩の 咲き散る野べの 夕露に ぬれつつ來ませ 夜はふけぬとも
秋芽子之《アキハギノ》 開散野邊之《サキチルヌベノ》 暮露爾《ユフツユニ》 沾乍來益《ヌレツツキマセ》 夜者深去鞆《ヨハフケヌトモ》
タトヘ〔三字傍線〕夜遲クナツテモ、今夜ハ〔三字傍線〕秋萩ノ花〔二字傍線〕ガ咲イテハ散ル野ノ夕方ノ露ニ、沾レナガラオイデナサイ。オ待チ申シテ居リマス〔十字傍線〕。
〔評〕 優麗な作である。これを男の歌に改めると、古今集の「萩が花散るらむ小野の夕露にぬれてを行かむ小夜はふくとも」となる。
2253 色づかふ 秋の露霜 なふりそね 妹が袂を まかぬこよひは
色付相《イロヅカフ》 秋之露霜《アキノツユジモ》 莫零根《ナフリソネ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 不纒今夜者《マカヌコヨヒハ》
妻ノ袖ヲ枕トシテ寢〔二字傍線〕ナイデ、一人デ寢ルル〔六字傍線〕今夜ハ、草木ノ葉ヲ紅〔六字傍線〕色ニ染メル秋ノ露ハ降ラナイデクレヨ。唯サヘ一人寢ハ寒イノニ、露ニ降ラレテハタマラナイ〔唯サ〜傍線〕。
○色付相《イロヅカフ》――色付くの延言。ここは色を付けるの意。○莫零根《ナフリソネ》――元暦校本、この下に根の字があるのがよい。
(355)〔評〕晩秋の夜、孤衾に嘆く男の歌。色付相といふ句が、要なきが如くにして然らず。歌を複雜ならしめてゐる。
2254 秋萩の 上に置きたる 白露の 消かもしなまし 戀ひつつあらずは
秋芽子之《アキハギノ》 上爾置有《ウヘニオキタル》 白露之《シラツユノ》 消鴨死猿《ケカモシナマシ》 戀爾不有者《コヒツツアラズハ》
ワタシハアノヒトヲ〔八字傍線〕戀シテ苦シンデ〔四字傍線〕ヰナイデ、(秋芽子之上爾置有白露之)消エテ死ンデ〔三字傍線〕シマハウカ。
○消鴨死猿《ケカモシナマシ》――消かも爲なましで、消かも死なましではない。○戀爾不有者《コヒツツアラズハ》――爾は乍・管・筒などの誤であらう。元暦校本には右側に乍と記してある。
〔評〕 卷八の弓削皇子御歌(一六〇八)と全く同歌である。
2255 吾がやどの 秋萩の上に 置く露の いちじろくしも 吾が戀ひめやも
吾屋前《ワガヤドノ》 秋芽子上《アキハギノウヘニ》 置露《オクツユノ》 市白霜《イチジロクシモ》 吾戀目八面《ワガコヒメヤモ》
(吾屋前秋芽子上置露)著シク人ノ目ニ立ツヤウニ〔九字傍線〕、ワタシハアノ人ヲ〔四字傍線〕戀シヨウヤ、決シテソンナコトハナイ。ドンナニツラクテモ包ミ隱シテヰルツモリダ〔決シ〜傍線〕。
○吾屋前秋芽子上置露《ワガヤドノアキハギノウヘニオクツユノ》――序詞。露のきらきらと著しきに譬へて、市白《イチジロク》につづけるのである。
〔評〕 色に出でじと忍ぶ戀の歌である。序詞の取材が珍らしく巧妙である。
2256 秋の穗を しぬにおし靡べ 置く露の 消かもしなまし 戀ひつつあらずは
秋穗乎《アキノホヲ》 之努爾押靡《シヌニオシナベ》 置露《オクツユノ》 消鴨死益《ケカモシナマシ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》
カウシテ人ヲ〔六字傍線〕戀シテ苦シイ思ヒヲ〔八字傍線〕シテヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕(秋穗乎之努爾押靡置露)消エテ死ンデ〔三字傍線〕シマハウデハナイカ。アアツライ〔五字傍線〕。
○秋穗乎《アキノホヲ》――秋の穗は稻穗。○之努爾押靡《シヌニオシナベ》――シヌは、シナフの意。オシナベは押し靡かせて。○置露《オクツユノ》――この句までの三句は消《ケ》と言はむ爲の序詞。
(356)〔評〕 上句の序詞は一寸おもしろいが、下句は全く點型的である。前の秋芽子之《アキハギノ》(二二五四)參照。この歌、袖中抄に出てゐる。
2257 露霜に 衣手ぬれて 今だにも 妹がり行かな 夜は深けぬとも
露霜爾《ツユジモニ》 衣袖所沾而《コロモデヌレテ》 今谷毛《イマダニモ》 妹許行名《イモガリユカナ》 夜者雖深《ヨハフケヌトモ》
モウ大ブン〔五字傍線〕夜ガ更ケタケレドモ、露ニ着物ノ袖ヲ霑ラシツツ、今カラデモ妻ノ所ヘ行カウト思フ。逢ハナイデハ居ラレナイカラ、深夜デモカマハズニ行カウ。アレモ待ツテヰルダラウ〔逢ハ〜傍線〕。
○今谷毛《イマダニモ》――今からでもの意。
〔評〕 前の秋芽子之《アキハギノ》(二二五二)は女性の心で、これは男性の歌である。彼のやうな優艶さはない。
2258 秋萩の 枝もとををに 置く露の 消かもしなまし 戀ひつつあらずは
秋芽子之《アキハギノ》 枝毛十尾爾《エダモトヲヲニ》 置露之《オクツユノ》 消毳死猿《ケカモシナマシ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》
ワタシハ人ヲ〔六字傍線〕戀シテ苦シイ思ヒヲシテ〔八字傍線〕ヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕(秋芽子之枝毛十尾爾置露之)消ニテ死ンデ〔三字傍線〕シマハウカナア。アア苦シイ〔五字傍線〕。
○消毳死猿《ケカモシナマシ》――消かも爲なましの意。毳は氈に同じ。和名カモ。猿はマシラを、マシに借り用ゐたのである。
〔評〕 前の秋芽子之上爾置有《アキハギノウヘニオキタル》(二二五四)に酷似してゐる。同歌の別傳といつてもよいほとである。
2259 秋萩の 上に白露 置くごとに 見つつぞしぬぶ 君が姿を
秋芽子之《アキハギノ》 上爾白露《ウヘニシラツユ》 毎置《オクゴトニ》 見管曾思怒布《ミツツゾシヌブ》 君之光儀乎《キミガスガタヲ》
ワタシハ〔四字傍線〕秋萩ノ枝ノ〔二字傍線〕上ニ白露カ宿ルゴトニ、ソノ美シイ姿ヲ〔七字傍線〕見テ、アナタノ美シイオ〔四字傍線〕姿ヲ思ヒ出シマス。ホントニアナタハ白露ヲ宿シタ萩ノヤウナ美シイオ姿デス〔ホン〜傍線〕。
(357)【評】女のなよやかな姿を、露にしなふ秋萩に譬へてゐ。源氏物語帚木の「御心のままに折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見ゆる玉篠の上の霰などの、艶にあえかなるすきずきしさのみこそ、をかしくおぼさるらめ」といふ名文句が聯想せられる。
寄v風
2260 吾妹子は 衣にあらなむ 秋風の 寒きこの頃 下に著ましを
吾妹子者《ワギモコハ》 衣丹有南《コロモニアラナム》 秋風之《アキカゼノ》 寒比來《サムキコノゴロ》 下著益乎《シタニキマシヲ》
ワタシノ戀シイ〔三字傍線〕妻ハ、着物デアツテクレレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕秋風ノ寒ク吹クコノ節ハ、下着ニ着テ膚身離サズニ居〔八字傍線〕ヨウノニ。離レテパカリ居ルノハ物足ラヌ〔離レ〜傍線〕。
〔評〕 不可能なことを望んだ、愚かな想とも言へば言ひ得よう。しかしそこに溢れるばかりの、愛慕の情があらはれてゐるのである。
2261 泊瀬風 かく吹くよひは 何時までか 衣片敷き わがひとり寝む
泊瀬風《ハツセカゼ》 如是吹三更者《カクフクヨヒハ》 及何時《イツマデカ》 衣片敷《コロモカタシキ》 吾一將宿《ワガヒトリネム》
泊瀬ノ里〔二字傍線〕ノ風ガコンナニ寒ク〔二字傍線〕吹ク夜ハ、イツマデワタシハ着物ヲ片方下ニ敷イテ、丸寢シテ〔四字傍線〕一人デ寢ルコトデアラウ。アア寒クテ堪ヘラレナイ〔アア〜傍線〕。
○泊瀬風《ハツセカゼ》――泊瀬の里を吹く風。飛島風《アスカカゼ》(五一)・佐保風(九七九)・伊香保可是《イカホカゼ》(三四二二)の類である。○如是吹三更者《カクフクヨヒハ》――三更は舊訓ヨハとあるが、袖續三更之《ソデツグヨヒノ》(一五四五)に傚つて、ヨヒとよむがよい。略解に者を乎の誤とし、古義もそれを採用してゐる。文字辨證には煮の略字として、ニとよんでゐる。受取りがたい説である。○衣片敷《コロモカタシキ》――衣の片袖を敷いて寢ること。即ち獨寢をすることにいふ。
(358)〔評〕 初瀬の里に旅寢してゐる男の歌であらう。矢のやうな歸心があらはれてゐる。
寄v雨
2262 秋萩を 散らす長雨の ふる頃は 一人起きゐて 戀ふる夜ぞ多き
秋芽子乎《アキハギヲ》 令落長雨之《チラスナガメノ》 零比者《フルコロハ》 一起居而《ヒトリオキヰテ》 戀夜曾大寸《コフルヨゾオホキ》
秋萩ノ花〔二字傍線〕ヲ散ラス長雨ガ降ル頃ハ、淋シクテ寢ラレズ〔八字傍線〕、一人デ起キテ居テ、戀人ヲ〔三字傍線〕戀ヒテ明カス〔四字傍線〕夜ガ多イヨ。
〔評〕 しんみりとした哀愁と戀情とが、おのづからにじみ出すやうに、あはれによまれてゐる。
2263 九月の 時雨の雨の 山霧の いぶせき吾が胸 誰を見ばやまむ 一云、十月時雨の雨降り
九月《ナガツキノ》 四具禮乃雨之《シグレノアメノ》 山霧《ヤマギリノ》 烟寸吾告※[匈/月]《イブセキワガムネ》 誰乎見者將息《タレヲミバヤマム》
(九月四具禮乃雨之山霧)欝陶シイワタシノコノ胸ハ、誰ニ逢ツタラナホルダラウ。アナタニ逢ハナケレバダメデス〔アナ〜傍線〕。
○九月四具禮乃雨之山霧《ナガツキノシグレノアメノヤマギリノ》――序詞。山霧の深く立ち込めて、鬱陶しいのを煙寸《イブセキ》とつづけてある。○烟寸吾告※[匈/月]《イブセキワガムネ》――煙寸は舊訓ケブキとあるが、童蒙抄にイブセキとよんだのがよい。煙はケブリとのみあるが、ここは燻《イプ》るの意でイブセとよんでよいわけである。告の字、元暦校本・神田本に吉とあるが、これは考に等の誤としたのか、又は略解に衍としたのに從ふべきであらう。後説がよいか。古義に告を合の誤として、霧の下に移し、第三句をヤマキラヒとよんだのは從ひ難い。
〔評〕 序詞が一寸おもしろく出來てゐる。五句が力強い表現になつてゐる。
一云 十月《カミナヅキ》 四具禮乃雨降《シグレノアメフリ》
(359)これは第二句の異傳である。序詞としては、前の方がよい。
寄v蟋
蟀の字脱か。大矢本に蟋蟀とある。目録もさうなつてゐる。
2264 こほろぎの 待ちよろこべる 秋の夜を 寐るしるしなし 枕と吾は
蟋蟀之《コホロギノ》 待歡《マチヨロコベル》 秋夜乎《アキノヨヲ》 寐驗無《ヌルシルシナシ》 枕與吾者《マクラトワレハ》
蟋蟀ハ秋ノ夜ノ來ルノヲ〔八字傍線〕待ツテヰタノガ來タノデ〔八字傍線〕、喜ンデ鳴イテ〔三字傍線〕ヰルガ、コノ〔三字傍線〕秋ノ夜ヲ枕トワタシトハ寐ル甲斐ガナイ。ワタシハ思フ人ト共寢モ出來ズ、枕ト二人デ寢テヰルガ、實ニツマラヌモノダ〔ワタ〜傍線〕。
○待歡《マチヨロコベル》――待つてゐたものが來たのを喜んでゐる。蟋蟀の聲が嬉しさうに聞えるのをかういつたのである。○寐驗無《ヌルシルシナシ》――寢る甲斐がない。一人で寢るつらさを言つてゐる。○枕與吾者《マクラトワレハ》――獨寢することを我は枕と寢るといつたのである。
〔評〕 蟋蟀の喜ばしさうな鳴き聲に對し、自分の獨寢の淋しさをかこつてゐる對照がおもしろく、又|枕與吾者《マクラトワレハ》の句もここに適切に用ゐられてゐる。佳作だ。眞淵の作に「こほろぎの待ちよろこべる長月の清き月夜は更けずもあらなむ」とあるのはこれを基としてゐる。
寄v蝦
2265 朝霞 香火屋が下に 鳴くかはづ 聲だに聞かば 我戀ひめやも
朝霞《アサガスミ》 鹿火屋之下爾《カヒヤガシタニ》 鳴蝦《ナクカハヅ》 聲谷聞者《コヱダニキカバ》 吾將戀八方《ワレコヒメヤモ》
(360)(朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦)聲ダケデモ聞イタラ、ワタシハソレデ滿足シテ、アノ人ヲ〔ソレ〜傍線〕戀ヒ慕ヒハセヌノニ。アノ人ハ姿ヲ見セヌバカリカ、聲ヲモ聞カセナイノデ、ドウシテモ忘レラレナイ〔アノ〜傍線〕。
○朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦《アサガスミカヒヤガシタニナクカハヅ》――聲と言はむ爲の序詞。朝霞は枕詞。鹿火屋につづくのは、冠辭考に、朝霞の加乎留といふ語を省いて、か〔傍点〕の一言にいひかけたのであらうと言つてゐる。古義には、朝霞霧あひといふ意で、きらひ〔三字傍点〕はかひ〔二字傍点〕と約まるから、かうつづけたのだと言つてゐる。この外にも諸説があるが、いづれも從ひ難い。かすみ〔三字傍点〕の音を約めて繰返して、かひ〔二字傍点〕といつたものであらうか。鹿火屋は集中屈指の難語で、その解説が多種多樣である。ここにはそれを一々引證するの煩を避け、その意を要約し類別して掲げると、(一)魚を捕る爲に河若しくは江などに簀を立て廻し、口を一つあけ置き、鳥などの寄り來ぬやうに番人を据ゑおく爲に、その上に作つた家(奧儀抄)、(二)田舍にて養蠶の爲に別屋を作るを飼屋《カヒヤ》といふ。飼屋の棚の下に溝が掘つてあるので、そこにかはづが鳴くのである(袖中抄)。(三)蚊遣火を焚く爲の家(類聚古集に蚊火の部に入れてゐるのはかう見たのであらう)。(四)淺く廣きをば澤といひ、深く狹きをばかひや〔三字傍点〕といふ(常陸風土記にありと、登蓮法師の言として、袖中抄に見えてゐる)。(五)かひ〔二字傍点〕はかは〔二字傍点〕の轉で、や〔傍点〕は添へたものとし、河のことと解するもの(童蒙抄)、(六)岸のはたを云ふとするもの(袖中抄に見えた和語抄説)、(七)猪鹿を追ふ爲に引板をならし、夜もすがらほたを燒いてゐる田の假庵(冠辭考)、_(八)田を守る農民のくゆらす蚊遣火(冠辭考一説、眞淵は自らこれを肯定してゐない)、(九)信濃國では、かべ屋〔三字傍点〕と稱するものが農家にある。片屋根で藁葺になつてゐる。これに蘿匍、蕪菁などを蓄へて置くが、これも鹿火屋の轉訛であらうとする説(古風土記逸文考證に掲げた吉澤氏の説)。この他和歌童蒙抄に「岸なんどのくづれたる所に、しばのねなどさしおほひてゐるなるを、いふなど申すめるはひがごとなめり」とあるから、かういふ古説もあつたのである。以上の如く諸説紛々として、歸するところを知らず、このいづれをよしとすべきかを知らない。今、このカヒを卷十一の足日木之山田守翁置蚊火之下粉枯耳余戀居久《アシビキノヤマダモルヲヂガオクカヒノシタコガレノミワガコヒヲラク》(二六四九)の蚊火《カヒ》と一致せしめて考へるならば、これは蚊遣火のことであらぬばならぬ。即ちカヒヤは蚊遣火を焚いてゐる家と解すべきである。又ここに鹿火屋《カヒヤ》と記し、卷十六に香火屋《カヒヤ》(三八一八)と記したのによつて、契沖が(361)「山田に猪鹿のつく所に小き屋を作て、布のきれ何くれの臭き物に火をくゆらかし、烟をたてて鹿をやらひやるを云と意得べし」と言つた説にも心は引かれるが、鹿を追ふ爲に河鹿の鳴く水邊に屋を作つて、火を焚くといふのも、不自然のやうに思はれる。なほ飼屋として、養蠶の爲に立てた家とするのは、カハヅと蛙とを混同したもので、採るに足らぬ説である。新考には「鹿火屋又は香火屋とあるは鹿半屋(香半屋)などの誤にて、河岸にはあらざるか」とあるが、これも獨斷の臆説である。以上は鹿火屋の屋〔傍点〕を文字通りに家と解釋しての考へ方であるが、別の見地からすると、(四)に掲げた、「淺く廣きをば澤といひ、深く狹きをばかひや〔三字傍点〕といふ」とある常陸風土記の逸文に注意せられる、これに就いて生田耕一氏が藝文第十九年四號に、カヒを峽、ヤを谷《ヤツ》とした説が比較的合理的な見解と思はれる。即ちカヒヤは山間の溪流と解すべきではあるまいか。
〔評〕 上句は珍らしい取材で、序詞として奇拔なものである。下句は前の金山舌日下鳴鳥音谷聞何嘆《アキヤマノシタビガシタニナクトリノコヱダニキカバナニカナゲカム》(二二三九)と似てゐる。一體この兩歌は結構に於て著しく似通つてゐて、唯材料を異にしてゐるのみである。またこの歌は卷十六の朝霞香火屋之下乃鳴川津之努比管有常將告毛欲得《アサガスミカビヤガシタノナクカハヅシヌビツツアリトツゲムコモガモ》(三八一八)と酷似してゐるが、彼はこれを學んだものであらう。芭蕉の奥の細道に、「はひ出でよかひやが下の蟇の聲」とあるのはこの歌から出てゐる。
寄v鴈
2266 出でていなば 天飛ぶ鴈の なきぬべみ 今日今日といふに 年ぞ經にける
出去者《イデテイナバ》 天飛鴈之《アマトブカリノ》 可泣美《ナキヌベミ》 且今日且今日云二《ケフケフトイフニ》 年曾經去家類《トシゾヘニケル》
旅ニ出テ行カナケレバナラナイガ、ワタシガ〔旅ニ〜傍線〕旅ニ出テ行ツタラバ、空ヲ飛ブ鴈ノヤウニ妻ガ〔二字傍線〕泣クダラウカラ、今日コソ今日コソト言ツテ、一日ノバシニシテ〔八字傍線〕ヰウチニ、一年經ツテシマツタ。
○天飛鴈之《アマトブカリノ》――舊本、天を大に作るは誤。類聚古集・神田本などによる。○可泣美《ナキヌベミ》――泣くべき故にの意。
〔評〕妻と別れて旅にでも行かうとしてゐる人の、去りがてに空しく荏苒日を送つたことを詠んだものである。(362)代匠記精撰本に「是は餘り物えむじなどする妻のうるさければ、打捨ていなばやと思へど、天飛鴈の葦邊の友を戀る如く、泣かれぬべき事を思ふに、さすがに悲しくて、今日は今日はと思へども得思ひたたぬ程に年のへたるなり」とあり、古事記に出てゐる、八千矛神が須勢理比賣の嫉妬にわびて、出立せられた時の御歌、「奴婆多麻能久路岐美祁斯遠《ヌバタマノクロキミケシヲ》、云々」と意同じと言つてゐるが、氣分は全く違つてゐるやうに思はれる。
寄v鹿
2267 さを鹿の 朝伏す小野の 草若み 隱ろひかねて 人に知らゆな
左小牡鹿之《サヲシカノ》 朝伏小野之《アサフスヲヌノ》 草若美《クサワカミ》 隱不得而《カクロヒカネテ》 於人所知名《ヒトニシラユナ》
(左小牡鹿之朝伏小野之草若美)隱レカネテ包ミ切レナイデ、二人ノ戀中ヲ〔包ミ〜傍線〕人ニ知ラレルナヨ。用心シナサイ〔六字傍線〕。
○左小牡鹿之朝伏小野之草若美《サヲシカノアサフスヲヌノクサワカミ》――隱不得而《カクロヒカネテ》の序詞。草の丈が低くて、鹿が隱れかねるのである。
〔評〕 序詞は無理がなく優美に、戀する人の、世を憚り人を恐れる氣分があらはれてゐる。但しこれは鹿の季を秋とするのに囚はれて、秋相聞中に入れてあるが、草若美《クサワカミ》とあるから、秋の歌ではなく、晩春又は初夏の野を序詞としたものである。ここにも當時已に歌題の季節の思想がかなり型に嵌つてゐたことがわかる。
2268 さを鹿の 小野の草伏し いちじろく 吾が問はなくに 人の知れらく
左小牡鹿之《サヲシカノ》 小野之草伏《ヲヌノクサフシ》 灼然《イチジロク》 吾不問爾《ワガトハナクニ》 人乃知良久《ヒトノシレラク》
男鹿ガ野ノ草ニ臥テヰテ、ダマツテヰテモ、臥テヰタ所ガ跡ガアルノデ、ハツキリワカルヤウニ〔ダマ〜傍線〕、ワタシモアニ人トノ間ヲ〔七字傍線〕ハツキリト人ニ言ハナイノニ、人ガ知ツタヨ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
○灼然《イチジロク》――五の句へつづけても見られるが、四の句に直ちにつづくものとするがよい。○吾不問爾《ワガトハナクニ》――契沖は吾が言はざるにの意とし、略解に、「我はあらはに妻とひせし事もなきに」と解し、古義は契沖説をとり、新考(363)は略解説に從つてゐるやうである。契沖説がよいであらう。○人乃知良久《ヒトノシレラク》――人が知るよの意。知れらくは知れるに同じであるが、輕い詠歎の意を含むやうである。
〔評〕 小野の草伏の譬喩が巧に出來てゐる。この歌を前の歌の答とする説は誤であらう。
寄v鶴
2269 こよひの あかとき降ち 鳴く鶴の 念ひは過ぎず 戀こそまされ
今夜乃《コヨヒノ》 曉降《アカトキクダチ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》 念不過《オモヒハスギズ》 戀許増益也《コヒコソマサレ》
今夜ノコノ曉方ニ鶴ガ〔二字傍線〕鳴イテ通ルガ゙、私ハアノ〔五字傍線〕鶴ノ如ク心中ノ〔三字傍線〕思ハ晴レナイデ、却ツテ〔三字傍線〕戀ガマサルバカリダ。
○今夜乃《コヨヒノ》――コノヨヒノとよむのもよからう。舊訓コノヨラノとあるのはよくない。○曉降《アカトキクダチ》――曉と夜が更け過ぎた意。○鳴鶴之《ナクタヅノ》――鳴く鶴の如くの意。ここまでを序詞と見る説もある。○念不過《オモヒハスギズ》――思ひが盡きないで。
〔評〕 夜ひと夜、物を思ひ明かして、曉方に鳴く鶴を聞いて詠んだものか。鶴も亦自分と同樣に夜もすがら鳴きあかしたものと考へたのである。鶴は四季を通じた鳥で、この歌には他に季節をあらはすものがないのに、ここに秋の部に掲げたのは、當時鶴を秋の鳥と考へたものであらうか。ここにも歌題の季節感の固定があらはれてゐる。
寄v草
2270 道のべの 尾花がもとの 思草 今さらになぞ 物か念はむ
道邊之《ミチノベノ》 乎花我下之《ヲバナガモトノ》 思草《オモヒグサ》 今更爾何《イマサラニナゾ》 物可將念《モノカオモハム》
私ハ全クアナタニオタヨリシテヰルノダカラ〔私ハ〜傍線〕、今更ドウシテ何モ(道邊之乎花我下之思草)思フコトハアリマ(364)セヌ。安心シテアナタニタヨツテ居リマス〔安心〜傍線〕。
○道邊之乎花我下之思草《ミチノベノヲバナガモトノオモヒグサ》――思草の音を繰返して、五句の將念《オモハム》につづいてゐる。路傍の草の下に生える思草。思草はナンバンキセル(野菰)のことだといふ。この他、女郎花・芒・紫苑・龍膽・鴨頭草・櫻などの異名とする説もある。○今更爾何物可將念《イマサラニナゾモノカオモハム》――舊訓はイマサラナニノモノカオモハムとあるが、ここは仙覺の訓による。略解に「更の字一字脱せしならむ。集中何物の二字をなにと訓る例あり」といつて、イマサラサラニナニカオモハムとよんだのはよくない。
〔評〕 序詞が奇拔だといふまでである。思草をよんだのは本集唯一の例だ。
寄v花
2271 草深み こほろぎさはに 鳴くやどの 萩見に君は いつか來まさむ
草深三《クサフカミ》 蟋多《コホロギサハニ》 鳴屋前《ナクヤドノ》 芽子見公者《ハギミニキミハ》 何時來益牟《イツカキマサム》
草ガ深ク繁ツテヰルノデ、蟋蟀ガ澤山ニ集ツテ〔三字傍線〕鳴イテヰルワタシノ〔四字傍線〕家ノ、庭ニ咲イタ〔五字傍線〕萩ヲ見ニ、アナタハ何時オイデナサルノデセウカ。美シイ花デスカラ、ワタシニ逢フ爲デナクトモ、セメテ花見ニデモオイデサイマシ。オ目ニカカリタウゴザイマス〔美シ〜傍線〕。
○蟋多《コホロギサハニ》――蟋は舊訓キリキリスとあるのはよくない。多は舊訓イタク、古義スダキとあるが、考による。
〔評〕 優婉な歌。庭前の秋景に對して、戀人を待つ女心が哀である。淋しい賤が家らしい情景も見える。
2272 秋づけば 水草の花の あえぬがに 思へど知らじ ただに逢はざれば
秋就者《アキヅケバ》 水草花乃《ミクサノハナノ》 阿要奴蟹《アエヌガニ》 思跡不知《オモヘドシラジ》 直爾不相在者《タダニアハザレバ》
(365)(秋就者水草花乃)身モ〔二字傍線〕亡クナル程ニ思ヒアマツテ、アノ人ヲ〔思ヒ〜傍線〕戀シテヰルガ、直接ニ逢ツテワタシノ心中ヲ言〔ツテ〜傍線〕ハナイカラ、アノ人ハワタシノ心ヲ〔アノ〜傍線〕知ルマイ。片戀ハツライモノダ〔九字傍線〕。
○秋就者《アキヅケバ》――秋になれば。卷八に秋付者尾花我上爾置露乃《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノ》(一五六四)とある。○水草花乃《ミクサノハナノ》――水草《ミクサ》は眞草即ちミを意味のない接頭語とする説、又は尾花とする説、文字通り水草とする説などいろいろあるが、ここは古義の説に從つて水草とする。ここまでの二句は阿要奴蟹《アエヌガニ》の序詞である。○阿要奴蟹《アエヌガニ》――落ちるほどに。ここは水草の花の盛過ぎて落ちむとするのを、吾が身も失するばかりにの意に譬へたのであらう。略解には物の熟する意として、「妹に逢む時なりぬと我は思へど」と解し、古義は、「思の充《ミチ》あまりて、溢れこぼるる意を云なるべし」としてゐる。
〔評〕 序詞の下へのつづをが、少しく曖昧であるが、取材は面白い。
2273 何すとか 君を厭はむ 秋萩の その初花の 嬉しきものを
何爲等加《ナニストカ》 君乎將※[厭のがんだれなし]《キミヲイトハム》 秋芽子乃《アキハギノ》 其始花之《ソノハツハナノ》 歡寸物乎《ウレシキモノヲ》
オ目ニカカツテ見レバ〔オ目〜傍線〕、秋萩ノソノ初花ヲ見ル〔三字傍線〕ヤウニ、嬉シク思ヒマスノニ、ドウシテ私ハアナタヲ厭ト思ヒマセウゾ。決シテ厭デハアリマセヌ〔決シ〜傍線〕。
○歡寸物乎《ウレシキモノヲ》――モノヲは田菜引物緒《タナビクモノヲ》(三二一)などのやうに、詠歎的のものとも考へられるが、ここはさう見ないでおかう。
〔評〕 男を嫌つてゐるといふ噂を立てられた女が、久しぶりでその男にあつて詠んだのであらう。略解に前の歌の答としたのは當らない。
2274 こいまろび 戀ひは死ぬとも いちじろく 色には出でじ 朝貌の花
展轉《コイマロビ》 戀者死友《コヒハシヌトモ》 灼然《イチジロク》 色庭不出《イロニハイデジ》 朝容貌之花《アサガホノハナ》
私ハタトヒ〔五字傍線〕、轉ビ悶エテ戀ヒ死シテモ、朝顔ノ花ガ色アザヤカニ人目ニ立ツ〔色ア〜傍線〕ヤウニ、ハツキリト顔〔傍線〕色ニハ出ス(366)マイ。
○展轉《コイマロビ》――臥しころがり。展轉《コイマロビ》(四七五)參照。○朝容貌之花《アサガホノハナ》――桔梗。朝貌之花《アサガホノハナ》(一五三八)參照。
〔評〕 結句を朝容貌之花《アサガホノハナ》と言ひ切つたのが、珍らしい形になつてゐる。これは宇家良我波奈乃伊呂爾?米也母《ウケラガハナノイロニデメヤモ》(三五〇三)などの如くいふべきを、語調の關係上顛倒したもので、朝容貌之花《アサガホノハナ》は色庭不出《イロニハイデジ》といはむが爲の序のやうになつてゐるが、下にあるから序詞とは言はれない。譬喩と見て然るべきであらう。
2275 言に出でて 言はばゆゆしみ 朝貌の ほには咲き出ぬ 戀もするかも
言出而《コトニイデテ》 云者忌染《イハバユユシミ》 朝貌乃《アサガホノ》 穗庭開不出《ホニハサキデヌ》 戀爲鴨《コヒヲスルカモ》
カウシテ戀ヲシテヰルコトヲ〔カウ〜傍線〕、口ニ出シテ言ヘバ大變ナノデ、心ノ内ニ押シ隱シテヰテ〔心ノ〜傍線〕、(朝貌乃)人目ニ立タヌ戀ヲスルヨ。
○朝貌乃《アサガホノ》――穗と言はむ爲に枕詞式に置いたもの。○穗庭開不出《ホニハサキデヌ》――桔梗の蕾の丸く長きを穗といつたのであらう。
〔評〕卷九の石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流比日《イソノカミフルノワサダノホニハイデズココロノウチニコルルコノゴロ》(一七六八)に似でゐる。
2276 鴈がねの 初聲聞きて 咲き出たる やどの秋萩 見に來吾がせこ
鴈鳴之《カリガネノ》 始音聞而《ハツゴヱキキテ》 開出有《サキデタル》 屋前之秋芽子《ヤドノアキハギ》 見來吾世古《ミニコワガセコ》
鴈ノ鳴ク初音ヲ聞キツケテ、ワタシノ〔四字傍線〕宿ノ秋萩モ〔三字傍線〕咲キダシタガ、ドウゾコノ〔六字傍線〕秋萩ヲ見ニオイデナサイ。私ニ逢ヒタクハナクトモ、萩デモ見ニオイデナサイ〔私ニ〜傍線〕。
〔評〕 やさしい明晰な歌である。前の草深三《クサフカミ》(二二七一)のやうに婉曲さはないが、直截的なところが捨てがたい。
2277 さを鹿の 入野のすすき 初尾花 いづれの時か 妹が手まかむ
左小牡鹿之《サヲシカノ》 入野乃爲酢寸《イリヌノススキ》 初尾花《ハツヲバナ》 何時加《イヅレノトキカ》 妹之將手枕《イモガテマカム》
(367)(左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花)何時ニナツタラ私ハ、戀シイ〔五字傍線〕女ノ手枕ヲ始メテ〔三字傍線〕スルコトガ出來ルノダラウ。待チ遠イコトダ〔七字傍線〕。
○入野乃爲酢寸《イリヌノススキ》――入野は山城國乙訓郡大原村大字上羽に入野神社のある所であらう。卷七に劔後鞘納野邇葛引吾妹《タチノシリサヤニイリヌニクズヒクワギモ》(一二七二)とあるのも同所か。○初尾花《ハツヲバナ》――入野に生えてゐる芒の初尾花をいふのである。ここまでは序詞で、下へのつづきは、代匠記精撰本に、「いつか初尾花の如くなる妹が手枕をせむとなり」とあり、略解には「上は序にて、いうか新手枕をせむといふ意也。初といふ詞にのみかかりて訓めり」とあり、古義に「本句は序にて、初と云にちなみて、いつしか始めて妹が袖を枕になして、相宿せむと云下したるか、又は尾花の秀にあらはれて、いつしか妹と夫婦になりて相宿せむと云意を含めたるにもあるべし」とある。新考には「序のかかりは入野のススキニ初尾花ガイヅとかかれるなり」と解いてゐる。いづれとも分ち難いが、しばらく略解に從つておかう。○何時加妹之將手枕《イヅレノトキカイモガテマカム》――舊訓にイツシカイモガタマクラニセムとあり、袖中抄も新古今集もさうなつてゐるから、これが古點であらうが、これでは解しがたい、ここは代匠記精撰本の一訓に從はう。將手は元暦校本に、手將になつてゐるのがよい。
〔評〕 流麓な詞ではあるがい序詞のつづき方が曖昧である、新古今に人麿作として掲げたのは亂暴である。
2278 戀ふる日の け長くしあれば みそのふの 韓藍の花の 色に出でにけり
戀日之《コフルヒノ》 氣長有者《ケナガクシアレバ》 三苑圃能《ミソノフノ》 辛藍花之《カラアヰノハナノ》 色出爾來《イロニイデニケリ》
私ハ我慢ニ我慢〔右○〕ヲシテヰタガ〔私ハ〜傍線〕、戀ヒ慕フ日ガ永クナツタノデ、到頭耐ヘキレナズ〔七字傍線〕、(三苑圃能辛藍花之)顆色ニ出シテ人ニ覺ラレテ〔六字傍線〕シマツタ。
○氣長有者《ケナガクシアレバ》――氣《ケ》は日に同じ。日が永く幾日も經過したからの意。○三苑圃能《ミソノフノ》――ミは發語で意味はない。元暦校本・神田本など、三を吾に作つてゐる。○辛藍花之《カラアヰノハナノ》――辛監花は鷄頭花。幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》(三八四)參照。
〔評〕 鷄頭花の紅の美しさを色に出づる例にとつたものは、他に卷十一の隱庭戀而死鞆三苑原之鷄冠乃花乃色(368)出目八方《コモリニハコヒテシヌトモミソノフノカラアヰノハナノイロニイデメヤモ》(二七八四)がある。この兩歌は全く同一構想の上に立つてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
2279 吾がさとに 今咲く花の をみなへし 堪へぬこころに なほ戀ひにけり
吾郷爾《ワガサトニ》 今咲花乃《イマサクハナノ》 女郎花《ヲミナヘシ》 不堪情《タヘヌココロニ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
ワタシハ〔四字傍線〕ワタシノ里ニ今新ニ〔二字傍線〕花ガ咲キ出シタ女郎花ガ、アマリ美シイノデ、堪ヘヤウト思ツテモ〔アマ〜傍線〕堪ヘラレナイ熱烈ナ〔三字傍線〕心デヤハリアノ女郎花ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルヨ。近頃年頃ニナツタ吾ガ里ノ若イ女ヲ私ハ堪ヘラレナイ戀ヒ焦レテヰルヨ〔近頃〜傍線〕。
○今咲花乃《イマサクハナノ》――今は新にといふに同じ。○不堪情《タヘヌココロニ》――舊訓にタヘズココロニとあるを、略解はアヘヌココロニとし、古義も同訓であるが、これはタヘヌと訓む方が寧ろ穩やかであらう。
〔評〕 女郎花を年頃になつた女に譬へてゐる。無難な歌であらう。
2280 萩が花 咲けるを見れば 君に逢はず まことも久に なりにけるかも
芽子花《ハギガハナ》 咲有乎見者《サケルヲミレバ》 君不相《キミニアハズ》 眞毛久二《マコトモヒサニ》 成來鴨《ナリニケルカモ》
萩ノ花ガ咲イタノヲ見ルト、アナタニ逢ハナイデ、ホントニ久シクナツタモノデスナア。コノ前逢ツテカラ、モウコンナニ萩ノ咲ク頃ニモナツテシマツタ〔コノ〜傍線〕。
〔評〕 まことに平明な、ありのままの歌で、而も人まつ女らしい氣分がよく出てゐる。略解に「植うる時など人に逢しままにて云々」とあるが、唯萩の花を見て、時日の經過の速かなのに驚いたのであらう。
2281 朝露に 咲きすさびたる 月草の 日たくるなべに 消ぬべく念ほゆ
朝露爾《アサツユニ》 咲酢左乾垂《サキスサビタル》 鴨頭草之《ツキクサノ》 日斜共《ヒタクルナベニ》 可消所念《ケヌベクオモホユ》
朝露ニ得意サウニ咲イテヰル鴨頭草ハ、夕方ニナルト萎ンデシマフガ、ソノ鴨頭草〔ハ夕〜傍線〕ノヤウニ、ワタシモ〔四字傍線〕、日ガ傾イテ夕方ニナルノ〔八字傍線〕ニツレテ、戀ノ心ガ増シテ來テ、命モ〔戀ノ〜傍線〕消エサウニ思ハレル。
(369)○咲酢左乾垂《サキスサビタル》――スサブは進むと同意で、盛に咲いてゐること。○鴨頭草之《ツキクサノ》――つゆ草とも螢草ともいふ。鴨頭の色に似てゐるので、かうも書くのである。○日斜共《ヒタクルナベニ》――舊訓にヒタクルトモニとあるが、略解に從ふ。新訓は契沖に從つて、ヒクダツムタニとしてゐるが、共の字は流共爾《ナガルルナベニ》(一八二一)の如くナベとよんであり、この方が調子がよいやうに思ふ。
〔評〕 朝咲いて夕にしぼむ鴨頭草に、吾が戀の心をたとへたもので、優雅な歌である。
2282 長き夜を 君に戀ひつつ 生けらずは 咲きて散りにし 花ならましを
長夜乎《ナガキヨヲ》 於君戀乍《キミニコヒツツ》 不生者《イケラズハ》 開而落西《サキテチリニシ》 花有益乎《ハナナラマシヲ》
長イ夜通シ〔二字傍線〕、アナタヲ戀ヒ慕ツテ、眠ルコトモ出來ナイで、ツライ思ヒヲシテ〔眠ル〜傍線〕生キテ居ナイデ、寧ロ〔二字傍線〕咲イテ散ツテシマツタ花デアル方ガヨイノニ。アア、ツライコトダ〔八字傍線〕。
○不生者《イケラズハ》――生きてゐないで寧ろ。普通には、生きてゐるよりは寧ろと解してゐる。
〔評〕 この歌は花とのみあつて、季は明らかでないのに、秋の部に入れてある。長夜《ナガキヨ》に秋をあらはしてゐるか。又は卷二の吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾《ワギモコニコヒツツアラスハアキハギノサキテチリヌルハナナラマシヲ》(一二〇)などのやうな作を類推したものか。
2283 吾妹子に 逢坂山の はたすすき 穗には咲き出でず 戀ひわたるかも
吾妹兒爾《ワギモコニ》 相坂山之《アフサカヤマノ》 皮爲酢寸《ハタススキ》 穗庭開不出《ホニハサキイデズ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
(吾妹兒爾相坂山之皮爲酢寸)表ニハ出サナイデ、私ハタダ、心ノ中デ戀人ヲ〔私ハ〜傍線〕慕ヒ通シニシテヰマス。
○吾妹兒爾《ワギモコニ》――枕詞。逢ふの意で相坂山につづけてゐる。○皮爲酢寸《ハタススキ》――旗薄。布のやうに白く穗に出た薄をいふ。ここまでの三句は妹といはむ爲の序詞。
〔評〕 吾妹兒爾相坂山《ワギモコニアフサカヤマ》といふのは、戀する人にはなつかしい地名である。そこのはた薄を以て序詞としてゐる。吾妹兒爾は相坂山の枕詞ではあるが、五の句でそれを受けてゐるのは器用な作だ、袖中抄にも載つてゐる。古今集に「わぎもこにあふ坂山のしのすすき穗にはいでずも戀ひわたるかな」とあるのはこれから出てゐる。
2284 いささめに 今も見がほし 秋萩の しなひにあらむ 妹がすがたを
(370)率爾《イササメニ》 今毛欲見《イマモミガホシ》 秋芽子之《アキハギノ》 四搓二將有《シナヒニアラム》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
秋萩ノヤウニ、シナヤカニシテヰル妻ノ姿ヲ、ワタシハ〔四字傍線〕一寸デヨイカラ〔五字傍線〕、今モ見タイト思フ。
○率爾《イササメニ》――文字通り、一寸、かりそめに、突然などの意。○四瑳二將有《シナヒニアラム》――搓は三相二搓流《ミツアヒニヨレル》(五一六)などのやうに、すべてヨルとよんであるが、ここは意を以てナヒとよむべきである。ヨルもナフも同義である。二を宣長は弖の誤と云つてゐる。
〔評〕 女を萩の花に譬へたのは當を得てゐる。平明な歌。
2285 秋萩の 花野のすすき 穗にはいでず 吾が戀ひわたる こもりづまはも
秋芽子之《アキハギノ》 花野乃爲酢寸《ハナヌノススキ》 穗庭不出《ホニハイデズ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 隱嬬波母《コモリヅマハモ》
(秋芽子之花野乃爲酢寸)外ニハアラハサナイデ、心ノ中バカリデ〔七字傍線〕、ワタシガ、カクシ妻ヲ戀ヒ慕ヒ通シニシテヰルヨ。アア戀シイ、苦シイ〔八字傍線〕。
○秋芽子之花野乃爲酢寸《アキハギノハナヌノススキ》――秋萩の花咲く野の薄といふのである。この句は穗と言はむ爲の序詞。○隱嬬波母《コモリヅマハモ》――コモリヅマは隱し妻。ハモは詠嘆の詞、ハとモとをつづけたもの。
〔評〕 穗といはむが爲に、秋萩の花は要がないやうであるが、これを添へたので歌が美化せられ、やさしい女の姿を思はしめるものがある。
2286 吾がやどに 咲きし秋萩 散り過ぎて 實になるまでに 君に逢はぬかも
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 開秋芽子《サキシアキハギ》 散過而《チリスギテ》 實成及丹《ミニナルマデニ》 於君不相鴨《キミニアハヌカモ》
吾ガ宿ノノ庭〔二字傍線〕ニ咲イタ秋萩ノ花〔二字傍線〕ガ散ツテシマツテ、實ニナルマデモ永イ間〔三字傍線〕、アナタニオ目ニカカリマセンナア。オ目ニカカリタウゴザイマス〔オ目〜傍線〕。
(371)〔評〕萩の實を詠んだ歌は卷七の吾妹子之屋前之秋芽子自花者實成而許曾戀益家禮《ワギモコガヤドノアキハギハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》(一三六五)ともある。なほこの歌は卷十一の吾屋戸之穗蓼古幹採生之實成左右二君乎志將待《ワガヤドノホタデフルカラツミハヤシミニナルマデニキミヲシマタム》(二七五九)と多少の類似がある。
2287 吾がやどの 萩咲きにけり 散らぬ間に 早來て見べし 平城の里人
吾屋前之《ワガヤドノ》 芽子開二家里《ハギサキニケリ》 不落間爾《チラヌマニ》 早來可見《ハヤキテミベシ》 平城里人《ナラノサトビト》
ワタシノ屋敷ノ、庭ノ〔二字傍線〕萩ガ咲キマシタヨ。コノ花〔三字傍線〕ガ散ラナイウチニ、平城ノ里ニ住ム戀シイ〔六字傍線〕人ヨ、早ク來テ御覽ナサイ。
○早來可見《ハヤキテミベシ》――舊訓を改めて、考はハヤキテミマセとし、略解・古義はこれに傚つてゐるが、もとのままがよい。
〔評〕 平板な作である。前の草深三《クサフカミ》(二二七一)のやうな優婉さは無い。
2288 いはばしの 間間に生ひたる 貌花の 花にしありけり 在りつつ見れば
石走《イハバシノ》 間間生有《ママニオヒタル》 貌花乃《カホバナノ》 花西有來《ハナニシアリケリ》 在筒見者《アリツツミレバ》
私ハ妻ノ姿ヲ〔六字傍線〕カウシテヰテヨク見ルト、(石走間間生有貌花乃)アダナモノデアツタヨ。
○石走《インバシノ》――河中に石を並べて渡るやうにしたもの。新訓にはイハハシルとよんでゐる。○貌花乃《カホバナノ》――貌花は晝顔。高圓之野邊乃容花《タカマドノヌベノカホバナ》(一六三〇)參照。上句は花と言はむ爲の序詞。○花西有來《ハナニシアリケリ》――花とは眞實性のない、あだなこと。略解に「いつも花の如珍らしみ思ふといふ意也」とあるのは、代匠記にならつたのであるが、當らぬやうである。上句は序詞。
〔評〕 貌花の用例が珍らしいといふのみで、さしたることはない。
2289 藤原の 古りにし郷の 秋萩は 咲きて散りにき 君待ちかねて
藤原《フヂハラノ》 古郷之《フリニシサトノ》 秋芽子者《アキハギハ》 開而落去寸《サキテチリニキ》 君待不得而《キミマチカネテ》
藤原ノ古イ都ノ秋萩ハ、アナタノオイデ〔四字傍線〕ヲ待チカネテ、咲イテ又〔傍線〕散ツテシマヒマシタ。永クオイデナサラナイ(372)ノデ、オ恨ミ申シマス〔永ク〜傍線〕。
○古郷之《フリニシサトノ》――舊都といふに同じ。
〔評〕まことに素直な純な歌である。萩によそへて自分の心を述べてゐるのがあはれである。前の平城里人《ナラノサトビト》(二二八七)と呼びかけた歌と同人と言つてもよい作だ。ともかく平城遷都後、舊都にゐた人の歌だ。
2290 秋萩を 散り過ぎぬべみ 手折り持ち 見れどもさぶし 君にしあらねば
秋芽子乎《アキハギヲ》 落過沼蛇《チリスギヌベミ》 手折持《タヲリモチ》 雖見不怜《ミレドモサブシ》 君西不有者《キミニシアラネバ》
秋萩ノ花ガ〔五字傍線〕散ツテシマフノデ、空シク散ラスノガ惜シサニ〔空シ〜傍線〕、秋萩ノ花ヲ手折ツテ手ニ〔二字傍線〕持ツテ見ルケレドモ、美シイハ美シイガ、ソノ花ガ〔美シイハ〜傍線〕アナタデハナイカラ、ヤハリ心ガ樂シマナイ。アアドウシテモアナタハ戀シイヨ〔アア〜傍線〕。
○落過沼蛇《チリスギヌベミ》――蛇をヘミと用ゐたのは珍らしい。
〔評〕 結句、君西不有者《キミニシアラネバ》に感情が籠つて悲しい。纏綿たる情緒がよくあらはれてゐる。よい歌だ。
2291 あした咲き 夕べは消ぬる つき草の 消ぬべき戀も 我はするかも
朝開《アシタサキ》 夕者消流《ユフベハケヌル》 鴨頭草《ツキクサノ》 可消戀毛《ケヌベキコヒモ》 吾者爲鴨《ワレハスルカモ》
朝ニナルト花ガ〔六字傍線〕咲キ、夕方ニナルト〔三字傍線〕萎ンデシマフ鴨頭草ノヤウナ、命ノ〔二字傍線〕絶エサウナ戀ヲワタシハシマスヨ。アアツライ〔五字傍線〕。
〔評〕鴨頭草の花に消流《ケヌル》といふのは、をかしいやうでもあるが、前にも鴨頭草之日斜共可消所念《ツキクサノヒタクルナベニケヌベクオモホユ》(二二八一)とあつて、消流《ケヌル》は萎むことをいふのである。少し型に嵌つたやうな歌だ。
2292 秋津野の 尾花苅りそへ 秋萩の 花を葺かさね 君が假廬に
蜒野之《アキツヌノ》 尾花苅副《ヲバナカリソヘ》 秋芽子之《アキハギノ》 花乎葺核《ハナヲフカサネ》 君之借廬《キミガカリホニ》
アナタガ旅ニオ出カケナサツテ、秋津野ヘオトマリナサルトキハ〔アナ〜傍線〕、アナタノ旅ヤドリ〔四字傍線〕ノ假小屋ニハ、秋津野ノ(373)尾花ヲ苅ツテ加ヘテ、秋萩ノ花ヲ以テ屋根ヲ〔五字傍線〕オ葺キニナツテ、旅ノ心ヲナグサメ〔ニナ〜傍線〕ナサイ。
○蜒野之《アキツヌノ》――吉野の宮瀧附近の秋津野であらう。
〔評〕 旅に出でむとする人に贈つたのであらう。卷一の金野乃美草苅葺屋杼禮里之兎道乃宮子能借五百磯所念《アキノヌノミクサカリフキヤドレリシウヂノミヤコノカリイホシオモホユ》(七)と趣が似てゐる。この歌は花に寄せる意がない。
2293 咲きぬとも 知らずしあらば もだもあらむ この秋萩を 見せつつもとな
咲友《サキヌトモ》 不知師有者《シラズシアラバ》 黙然將有《モダモアラム》 此秋芽子乎《コノアキハギヲ》 令視管本名《ミセツツモトナ》
咲イタト云フコトヲモ知ラズニ居ルナラバ、ソノ儘ニヰヨウノニ、コノ秋萩ノ花ヲミダリニオ見セニナツテ、イヨイヨ戀シイ心ガ増スバカリデス。コノ萩ヲ見テ、アナタガ思ヒ出サレテ戀シウゴザイマス〔イヨ〜傍線〕。
○咲友《サキヌトモ》――代匠記精撰本はサケリトモとよんでゐる。○黙然將有《モダモアラム》――ここで切れた三句切の歌であるが、黙もあらむをの意で下につづいてゐる。○令視管本名《ミセツツモトナ》――モトナミセツツといふに同じ。徒らに見せて我を悲しましめるといふのである。
〔評〕 略解に「これは相見て中々に物思ひの増す心を添へたり」とある通りであらう。さう見なければ、これも寄する意がない。
寄v山
2294 秋されば 鴈飛びこゆる 龍田山 立ちてもゐても 君をしぞ思ふ
秋去者《アキサレバ》 鴈飛越《カリトビコユル》 龍田山《タツタヤマ》 立而毛居而毛《タチテモヰテモ》 君乎思曾念《キミヲシゾオモフ》
(秋去者鴈飛越龍田山)立ツテモ居ツテモ、ワタシハ〔四字傍線〕アナタヲ戀シク〔三字傍線〕思ツテ居リマスヨ。
○秋去者鴈飛越龍田山《アキサレバカリトビコユルタツタヤマ》――立つといはむ爲の序詞。
(374)〔評〕 卷十一の春楊葛山發雲立座妹念《ハルヤナギカヅラキヤマニタツクモノタチテモヰテモイモヲシゾオモフ》(二四三五)、卷十二の遠津人獵道之池爾住鳥之立毛居毛君乎之曾念《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノタチテモヰテモキミヲシゾオモフ》(三〇八九)などと同型の歌。
寄2黄葉1
2295 吾が宿の くず葉日にけに 色づきぬ 來まさぬ君は 何心ぞも
我屋戸之《ワガヤドノ》 田葛葉日殊《クズバヒニケニ》 色付奴《イロヅキヌ》 不座君者《キマサヌキミハ》 何情曾毛《ナニゴコロゾモ》
喜ガ家ノ庭ノ〔二字傍線〕葛ノ葉ハ日ニ日ニ赤ク〔二字傍線〕色ガツイテ來タ。コンナニ秋モ更ケルマデモ、此處ヘ〔コン〜傍線〕、オイデニナラナイアナタハ、ドウイフオ考デスカヨ。
○田葛葉日殊《クズバヒニケニ》――クズを田葛と書く理由は明らかでないが、眞田葛原《マクズハラ》(一三四六)・眞田葛延《マクズハフ》(一九八五)など例が多い。ヒニケニは日に日にに同じ。○不座君者《キマサヌキミハ》――元暦校本・神田本などに不の下に來があるのがよい。
〔評〕 力強い表現で思ひのたけをあらはしてゐる。三句切の歌。この頃の人は葛を愛して、宿にも植ゑたか。
2296 足曳の 山さな葛 もみづまで 妹に逢はずや 吾が戀ひをらむ
足引乃《アシビキノ》 山佐奈葛《ヤマサナカヅラ》 黄變及《モミヅマデ》 妹爾不相哉《イモニアハズヤ》 吾戀將居《ワガコヒヲラム》
イツノ間ニカ山佐奈葛ガ紅葉シタガ〔イツ〜傍線〕、(足引乃)山佐奈葛ガ紅葉スルマデモ、コンナニ永イ間〔七字傍線〕、妻ニ逢ハナイデ、ワタシハ戀ヒ慕ツテ〔三字傍線〕居ルノデセウカ。ホントニツライ戀ダ〔九字傍線〕。
○山佐奈葛《ヤマサナカヅラ》――山にある佐奈葛。さなかづらは、さねかづらに同じ。美男かづらともいふ。狹名葛《サナカヅラ》(九四)參照。常緑葉であるが、さすがに秋深くなれば、幾分か紅葉するのである。
〔評〕 さなかづらの紅葉したのを見て、時の經過したのに驚き、吾が戀のならざるを悲しんだのである。
2297 もみぢ葉の 過ぎがてぬ兒を 人妻と 見つつやあらむ 戀しきものを
(375)黄葉之《モミヂバノ》 過不勝兒乎《スギガテヌコヲ》 人妻跡《ヒトヅマト》 見乍哉將有《ミツツヤアラム》 戀敷物乎《コヒシキモノヲ》
(黄葉之)タダ見〔三字傍線〕スゴシテ捨テ置クコトノ出來ナイ女ヲ、コレホド〔四字傍線〕戀シイノニ、他人ノ妻トシテ〔二字傍線〕眺メテ居ルコトダラウカ。ホントニ殘念ダ〔七字傍線〕。
○黄葉之《モミヂバノ》――枕詞。散り易いものであるから、過《スギ》とつづけてゐる。
〔評〕 人妻を戀ふる歌。黄葉は枕詞として用ゐられてゐるばかりで、寄せる意は弱い。
寄v月
2298 君に戀ひ しなえうらぶれ 吾が居れば 秋風吹きて 月かたぶきぬ
於君戀《キミニコヒ》 之奈要浦觸《シナエウラブレ》 吾居者《ワガヲレバ》 秋風吹而《アキカゼフキテ》 月斜烏《ツキカタブキヌ》
アナタヲ戀ヒ慕ツテ〔三字傍線〕、萎エ、シホタレテ、ワタシガ居ルト、又今夜モアナタニ逢ハレズ〔又今〜傍線〕、秋風ガ淋シク〔三字傍線〕吹イテ、月モ西ニ〔二字傍線〕傾イタ。
○之奈要浦觸《シナエウラブレ》――之奈要《シナエ》は萎えに同じ。シは接頭語であらう。卷二の念之奈要而《オモヒシナエテ》(一三一)に同じ。ウラブレは心悲しく思ふこと。○月斜烏《ツキカタブキヌ》――舊本に烏とあるは焉の草體を誤つたもの。
〔評〕 秋夜愛人を憶ふの情景が、實に巧に描き出されてゐる。そよ吹く秋風に心を悲ましめつつ、眺むる月もいつしか西に傾いた。今夜も亦、孤衾淋しく寢るの外はないかと、閨怨の嗟嘆、人の涙を禁ぜしめないものがある。佳作。和歌童蒙抄にも出てゐる。
2299 秋の夜の 月かも君は 雲隱り しましも見ねば ここだ戀しき
秋夜之《アキノヨノ》 月疑意君者《ツキカモキミハ》 雲隱《クモガクリ》 須臾不見者《シマシモミネバ》 幾許戀敷《ココダコヒシキ》
アナタハ秋ノ夜ノ月カ知ラ。丁度秋ノ夜ノ月ガ〔八字傍線〕雲ニ隱レタ時ノヤウニ、姿ヲカクシテ〔タ時〜傍線〕、暫時ノ間デモ見エナイ(376)ト、大層私ハ〔二字傍線〕戀シイヨ。
○月疑意君者《ツキカモキミハ》――疑意をカモと訓ましめるのは、隨意をマニマニに當てたのに同じ。○雲隱《クモガクリ》――月に譬へたので、雲隱りといつたのである。新考には枕辭としてゐるが、普通の枕詞とは異なつてゐる。
〔評〕 民謠風の素純な作である。
2300 九月の 有明の月夜 ありつつも 君が來まさば 我戀ひめやも
九月之《ナガツキノ》 在明能月夜《アリアケノツクヨ》 有乍毛《アリツツモ》 君之來座者《キミガキマサバ》 吾將戀八方《ワレコヒメヤモ》
(九月之在明能月夜)カウシテ引續イテ、アナタガオイデ下サイマスレバ、ワタシハアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ヒハシナイ。丸デオイデナサラナイカラ、コンナニ戀ヒ焦レルノデス。ドウゾオイデ下サイ〔丸デ〜傍線〕。
○九月之在明月夜《ナガツキノアリアケノツクヨ》――有《アリ》といはむ爲に同音を繰返した序詞。○有乍毛《アリツツモ》――引續いての意。モは詠歎の助詞。
〔評〕 在明月を序詞に用ゐてゐる。意味の關係はないのであるが、在明までも人待つ女の氣分をあらはしてゐるやうに思はれる。
寄v夜
2301 よしゑやし 戀ひじとすれど 秋風の 寒く吹く夜は 君をしぞ念ふ
忍咲八師《ヨシヱヤシ》 不戀登爲跡《コヒジトスレド》 金風之《アキカゼノ》 寒吹夜者《サムクフクヨハ》 君乎之曾念《キミヲシゾオモフ》
ドウセ逢ヘナイノダカラ〔ドウ〜傍線〕、ヨロシイ。モウカマハヌ。アナタヲ〔モウ〜傍線〕思フマイトスルケレドモ、秋風ガ寒ク吹ク曉ハ、ヤハリ〔三字傍線〕アナタヲ戀シク〔三字傍線〕思フヨ。
○忍咲八師《ヨシヱヤシ》――ヨシにヱ・ヤ・シなど意味のない詠嘆の助詞を添へたもの。忍はオシとよむ字なるを、通はしめてヨシとよませたものか。略解に吉の誤かといつたのは當るまい。
(377)〔評〕落膽絶望。しかも斷ち難い思慕の情が、膚寒く身に沁みる秋風によつて頭を擡げて來るのを、如何ともすることが出來ない。何等悲痛の聲。佳作。古今集の「秋風の身に寒ければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに」に似て、遙かに勝つてゐる。
2302 里人の あなこころなと 念ふらむ 秋の長夜を 寝ね臥してのみ
惑者之《サトビトノ》 痛情無跡《アナココロナト》 將念《オモフラム》 秋之長夜乎《アキノナガヨヲ》 寐臥耳《イネフシテノミ》
私ガカウシテアナタヲ思ツテ〔私ガ〜傍線〕、秋ノ長イ夜ヲ寐テバカリヰルト、里人ハワタシヲ〔四字傍線〕アア心ナイヤツダト思フダラウ。
○惑者之《サトビトノ》――惑者は舊訓ワビヒトとある。卷九に惑人者(一八〇一)とあるのもワビヒトハとよんであるが、それは元暦校本によれば、或人の誤であるから例にはならない。但しここも元暦校本には或者となつてゐるが、アルヒトでは分らないから、宣長がサトビトと訓んだのに從はう。感はせるを左渡波世流《サドハセル》(四一〇六)とあるからである。○寐師耳《イネフシテノミ》――舊訓にネザメシテノミとあるは、寐を寤の字として訓んだのであらう。代匠記初稿本は寐の下に覺を、師の下に?又は手を脱としてゐる。同精撰本は丸寐師?耳の誤とし、又臥可とある本によらばイネフスベシヤとよむべきかと言つてゐる。考は耳を在の誤として、イネテシアレバ、略解はイネズシアレバ、古義は寐を寒の誤、耳は有の誤として、サムクシアレバとしてゐる。この他なほ多いが、ここは元暦校本に師を臥に作るに從つた新訓による。
〔評〕 右のやうに訓むと、古今集の「かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寢てあかすらむ人さへぞ憂き」に似てゐるが、これには戀に悶えて秋夜の好景を樂しみ得ない意が、よんであるのであらう。
2303 秋の夜を 長しと言へど つもりにし 戀を盡せば 短くありけり
秋夜乎《アキノヨヲ》 長跡雖言《ナガシトイヘド》 積西《ツモリニシ》 戀盡者《コヒヲツクセバ》 短有家里《ミジカクアリケリ》
秋ノ夜ヲ人ハ〔二字傍線〕長イト云フケレドモ、績ツタ戀ノ心〔三字傍線〕ヲ晴ラサウトスレバ、ヤハリ〔三字傍線〕短カツタヨ。話ガ盡キナイデ夜(378)ガ明ケテシマフ〔ヨ話〜傍線〕。
○戀盡者《コヒヲツクセバ》――前に年之戀今夜盡而《トシノコヒコヨヒツクシテ》(二〇三七)とあるやうに、戀を晴らすのである。
〔評〕 古今集の「秋の夜も名のみなりけり逢ふといへばことぞともなく明けぬるものを」に似てゐる。
寄v衣
2304 あきつはに にほへる衣 我は著じ 君にまつらば 夜も著るがね
秋都葉爾《アキツハニ》 爾寶敝流衣《ニホヘルコロモ》 吾者不服《ワレハキジ》 於君奉者《キミニマツラバ》 夜毛著金《ヨルモキルガネ》
蜻蛉ノ羽ノヤウ〔三字傍線〕ニ美シイ色ヲシテヰル着物ヲ私ハ着マイ。コレヲ〔三字傍線〕アナタニ差上ゲタナラバ、私ノ形見トシテ〔七字傍線〕夜モ着ナサル爲ニナルデセウ〔五字傍線〕。
○秋都葉爾《アキツハニ》――卷三にも秋津羽之袖振妹《アキツハノソデフルイモ》(三七六)とあつて、蜻蛉羽の義であるが、ここは秋の部に入れてあるから、秋つ葉即ち紅葉のやうな赤い衣をさすのだらうとする説もある。紅葉を秋津葉《アキツハ》と言つた例は他になく、又蜻蛉《アキツ》は秋の虫であるから蜻蛉の羽のやうなと解すべきではあるまいか。○於君奉者《キミニマツラバ》――舊訓キミニマタセバ、仙覺抄キミニマタサバ、古義キミニマツラバとある。ここは西本願寺本にしるした古點による。文字の通り、君に奉らばの意。○夜毛着金《ヨルモキルガネ》――夜も着る爲にの意。
〔評〕 女らしい情緒の溢れた歌。三句切である。
問答
2305 旅にすら 紐解くものを 事しげみ 丸寝吾がする 長きこの夜を
旅尚《タビニスラ》 襟解物乎《ヒモトクモノヲ》 事繁三《コトシゲミ》 丸宿吾爲《マロネワガスル》 長此夜《ナガキコノヨヲ》
(379)旅ニ出テ〔二字傍線〕スラモ、時トシテハ〔六字傍線〕帶ヲ解イテユツクリト寢ル〔九字傍線〕コトモアルノニ、イロイロ支障ガ多クテ、戀シイアナタト共寢モ出來ズ〔戀シ〜傍線〕、私ハコノ長イ夜ニ獨デ〔二字傍線〕丸寢ヲシテヰル。
○襟解物乎《ヒモトクモノヲ》――襟をヒモに用ゐたのは、上代の衣服は襟に紐を附けて結んだからである。但し訓義辨證には襟は衿の俗字で、ヒモと訓むべき字だといつてゐる。○事繁三《コトシゲミ》――コトは事とも言とも解釋せられる。事とすべきか。
〔評〕 男から女に贈つた歌。末句に秋の長夜の獨寢の氣分を出してゐる。
2306 時雨ふる 曉月夜 紐解かず 戀ふらむ君と 居らましものを
四具禮零《シグレフル》 曉月夜《アカトキツクヨ》 紐不解《ヒモトカズ》 戀君跡《コフラムキミト》 居益物《ヲラマシモノヲ》
コノ〔二字傍線〕時雨ノ降ル夜明ケ方ノ月夜ニ、帶ヲモ解カナイデ、ワタシヲ〔四字傍線〕戀ヒシテ下サルアナタト、二人デ〔三字傍線〕居リマセウノニ。コンナ淋シイ曉ニ二人別レテヰルノハ辛ウゴザイマス〔コン〜傍線〕。
○四具禮零曉月夜《シグレフルアカトキツクヨ》――時雨が降つては月は見えないやうであるが、時雨は折々降つて來て、過ぎて行くから、月はやはり輝いてゐるのである。
〔評〕 女の答である。一二句に淋しい景があらはれてゐる。
2307 もみぢ葉に 置く白露の にほひにも 出でじと念へば ことの繁けく
於黄葉《モミヂバニ》 置白露之《オクシラツユノ》 色葉二毛《ニホヒニモ》 不出跡念者《イデジトオモヘバ》 事之繁家口《コトノシゲケク》
(於黄葉置白露之)顔色ニモ出スマイト思ツテ、戀フル心ヲ包ンデ〔八字傍線〕ヰルト、イツノ間ニカ、ソレガアラハレテ〔イツ〜傍線〕、人ノ口ニ騷ガレルヤウニナツタ。
○於黄葉置白露之《モミヂバニオクシラツユノ》――ニホヒと言はむ爲の序詞。紅葉の上に置く白露が色に染んで見えるからである。○色葉二毛《ニホヒニモ》――舊訓イロハニモとあるが、考による。宣長は色二葉毛《イロニハモ》の誤であらうと言つてゐる。○事之繋家口《コトノシゲケク》――(380)このコトは言である。
〔評〕 忍戀のあらはれたのを恐れてゐる男の歌、序詞は類の無い想であらう。
2308 雨ふれば たぎつ山川 石にふり 君がくだかむ 心は持たじ
雨零者《アメフレバ》 瀧都山川《タギツヤマガハ》 於石觸《イハニフリ》 君之摧《キミガクダカム》 情者不持《ココロハモタジ》
(雨零者瀧都山川於石觸)アナタノ心ヲ〔二字傍線〕碎キ悲シマ〔四字傍線〕セルヤウナ、ソンナ薄情ナ〔六字傍線〕心ヲ私ハ〔二字傍線〕持ツテ居リマセヌ。御安心ナサイマシ〔八字傍線〕。
○雨零者瀧都山川於石觸《アメフレバタギツヤマガハイハニフリ》――摧くと言はむ爲の序詞。雨に増した山川の水が、石に觸れて碎けるのに譬へたのである。○君之摧《キミガクダカム》――摧くは悲しみ煩悶すること。
〔評〕 序詞が雄勁で適切である。下句も亦これに應じて、力強い表現になつてゐる。男の歌の弱いのに比べて、この女の答の方が遙かにたのもしいものである。略解に「右二首は問答にあらず。此二首の間に、別に答と贈と有けむを、脱せしなるべし」とあるが、さうではあるまい。
右一首、不v類(セ)2秋(ノ》謌(ニ)1而(モ)以(テ)v和(ナルヲ)載(ス)v之(ヲ)也
略解に「此註用べからず。後人のしわざなり」とあるが、後人の註とは斷じ難い。
譬喩歌
2309 はふりらが いはふ社の もみぢ葉も しめ繩越えて 散るとふものを
祝部等之《ハフリラガ》 齋經社之《イハフヤシロノ》 黄葉毛《モミヂバモ》 標繩越而《シメナハコエテ》 落云物乎《チルトフモノヲ》
神主ドモガ不淨ヲ忌ンデ七五三繩ヲ張ツテ、大切ニ〔不淨〜傍線〕オ祭リシヰル神社ノ紅葉モ、ソノ〔二字傍線〕七五三繩ヲ越エテ外ヘ〔二字傍線〕散ルト云フコトダノニ。ソンナ神聖ナモノヲモ犯スノダカラ、私ノ戀モ番シテヰルモノガアツテモ、ソレヲ犯シテ(381)逢ハレナイコトハアルマイ。是非逢ヒタイモノダ〔ソン〜傍線〕。
○祝部等之《ハフリラガ》――祝部《ハフリ》は神を齋きまつる人、神職。○標繩越而《シメナハコエテ》――標繩《シメナハ》は神代紀に「端出之繩」と記して「亦云2左繩1、端出之繩、此云2斯梨倶梅儺波1」と註してあるもので、古事記上卷には尻久米繩と記してある。藁の本を斷ち切らずに綯つてあるもの。これを引きわたして、中に入るを禁ずる。
〔評〕 親が番をしてゐる少女などに、逢はうとする心を譬へたもので、巧な諷諭の歌である。
旋頭歌
2310 こほろぎの 吾が床の邊に 鳴きつつもとな 起きゐつつ 君に戀ふるに 寐ねがてなくに
蟋蟀之《コホロギノ》 吾床隔爾《ワガトコノベニ》 鳴乍本名《ナキツツモトナ》 起居管《オキヰツツ》 君爾戀爾《キミニコフルニ》 宿不勝爾《イネガテナクニ》
起キテヰテアナタヲ戀シク思ツテ、ドウシテモ〔五字傍線〕眠ラレナイノニ、蟋蟀ガワタシノ床ノアタリデ淋シイ聲デ〔五字傍線〕ミダリニ鳴イテ、愈、物思ヒヲ増サシメルヨ。〔愈物〜傍線〕。
○鳴乍本名《ナキツツモトナ》――モトナナキツツと言ふも同じである。前のが令視管本無《ミセツツモトナ》(二二九三)參照。○宿不勝爾《イネガテナクニ》――文字の通り寢ることが出來ぬ。寢るに堪へぬといふのである。
〔評〕 上句は毛詩に「十月蟋蟀入2我牀下1」とあるのと一致してゐるが、その影響とも言はれまい。源氏物語夕顔にも「壁の中のきりぎりすさへ云々」とある。優婉な感情が脈々として流れてゐる。
2311 はた薄 穗には咲き出ぬ 戀を吾がする 玉かぎる ただ一目のみ 見し人ゆゑに
皮爲酢寸《ハタススキ》 穗庭開不出《ホニハサキデヌ》 戀乎吾爲《コヒヲワガスル》 玉蜻《タマカギル》 直一目耳《タダヒトメノミ》 視之人故爾《ミシヒトユヱニ》
(玉蜻)唯一目逢ツタバカリノ人ダノニ、(皮爲酢寸)外ニ出シテハ言ハナイデ、心ノ中デ焦レテバカリヰル〔デ心〜傍線〕戀ヲ、私ハシテヰル。
(382)○皮爲酢寸《ハタススキ》――枕詞。穗とつづく意は明らかである。○玉蜻《タマカギル》――枕詞。玉の耀くこと。玉の光は直一目見てもいちじるしき意で、直一目につづくか。○視之人故爾《ミシヒトユヱニ》――見し人だのに意。
〔評〕 一目見て忘れ難い戀を歌つてゐるが、何となく熱が足りない感がある。
冬雜歌
目録には此處にまた更に雜歌と記してある。
2312 吾が袖に 霰たばしる まきかくし 消たずてあらむ 妹が見むため
我袖爾《ワガソデニ》 雹手走《アラレタバシル》 卷隱《マキカクシ》 不消有《ケタズテアラム》 妹爲見《イモガミムタメ》
ワタシノ着物〔三字傍線〕ノ袖ニ、雹ガ飛ビ散ツテ居ル。誠ニ綺麗ナモノダ。一人デ見ルノハ惜シイカラ〔誠ニ〜傍線〕妻ガ見ル爲ニ袖ニ〔二字傍線〕卷キ包ミ〔二字傍線〕隱シテ、消サズニ置カウ。
○卷隱《マキカクシ》――袖を卷いてその中に包み隱すのである。○不消有《ケタズテアラム》――舊訓ケズトモアレヤとあるのは惡い。代匠記精撰本による。
〔評〕 袖にたばしる霞を、愛でいつくしむ心をよんだ歌は、集中にも他に類がないやうである。上代人らしい童心のあらはれであらう。
2313 あし引の 山かも高き 卷向の 岸の子松に み雪降りくる
足曳之《アシビキノ》 山鴨高《ヤマカモタカキ》 卷向之《マキムクノ》 木志乃子松二《キシノコマツニ》 三雪落來《ミユキフリクル》
卷向山ハ〔四字傍線〕(足曳之)山〔傍線〕ガ格別〔二字傍線〕高イノカ知ラ。卷向山ノ下ノ〔二字傍線〕崖ノ上ニ生エタ〔五字傍線〕小松ニ雪ガ降ツテ來ルヨ。アア美シイ景色ダ〔八字傍線〕。
(383)○木志乃子松二《キシノコマツニ》――木志《キシ》は岸で、卷向山中の川の岸であらう。卷七に卷向之山邊響而往水之《マキムクノヤマベトヨミテユクミヅノ》(一二六九)・黒玉之夜去來者卷向之川音高之母荒足鴨疾《ヌバタマノヨルサリクレバマキムクノカハトタカシモアラシカモトキ》(一一〇一)などとある邊であらう。○三雪落來《ミユキフリクル》――舊訓ミユキフリケリとあるのが一般に用ゐられてゐるが、次の歌と同一景らしく思はれるから、元暦校本の訓によることにした。
〔評〕 雪が卷向山頂をかすめて、山麓の小松原に降り來るのを詠んだのである。一二の句と下とのつづきがどうかと思はれないこともないが、右のやうに見ればよいのである。新考に二句を山鴨寒《ヤマカモサムキ》ト改めたのは却つて當らぬであらう。
2314 卷向の 檜原もいまだ 雲ゐねば 子松がうれゆ 沫雪流る
卷向之《マキムクノ》 檜原毛未《ヒバラモイマダ》 雲居者《クモヰネバ》 子松之末由《コマツガウレユ》 沫雪流《アワユキナガル》
卷向ノ檜原ノ山ニ〔三字傍線〕モマダ雲ガカカラナイノニ、麓ノ〔二字傍線〕小松ノ梢ニハ、早〔傍線〕、雪ガ降ツテヰル。丸デ雪ノ降ル模樣モナクテ降ルノハ、何處カラ降ツテ來ルノカ知ラ〔丸デ〜傍線〕。
○卷向之檜原毛未《マキムクノヒバラモイマダ》――卷向の檜原は卷向之檜原之山乎《マキムクノヒバラヤマヲ》(一〇九二)參照。○雲居者《クモヰネバ》――雲がかからぬにの意。○子松之末由《コマツガウレユ》――小松が末にとあるに同じ。このユをヨリと解してはわからない。この小松は前の歌の木志乃子松《キシノコマツ》であらう。
〔評〕 高い檜原の山には雲がかからないのに、何處からとも知れず雪が斜に降つて來る景で、作者の刹那的の淡い驚きを巧に述べてゐる。この歌、新古今集に「卷向の檜原も未だくもらねば小松が原にあわ雪ぞ降る」と改め、大伴家持として出してゐる。
2315 足引の 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降れれば 或云、枝もたわたわ
足引《アシビキノ》 山道不知《ヤマヂモシラズ》 白杜※[木+戈]《シラカシノ》 枝母等乎乎爾《エダモトヲヲニ》 雪落者《ユキノフレレバ》
白樫ノ木ノ枝モタワタワト撓ンデ、雪ガ降ツテ居ルカラ、(足引)山ノ道モ、ドコガドコヤラ一向〔九字傍線〕分ラナイ。エライ雪ダ〔五字傍線〕。
(384)○白杜※[木+戈]《シラカシノ》――シラカシは白橿で、樫の一種、最も普通のものである。葉は鋸齒を有し、裏面は灰白色を呈してゐる。シラカシの名はこれによるのであらう。なほ樹皮が帶緑黒色で、芽も亦黒味を帶びてゐるので、クロカシとも言はれてゐる。杜※[木+戈]は和名抄に「〓〓所2以繋1v舟漢語抄云、加之」とあるから、〓〓の誤であらうと宣長は言つてゐる。〓〓は可志振立而《カシフリタテテ》(一一九〇)參照。○枝母等乎乎爾《エダモトヲヲニ》――等乎乎《トヲヲ》はクワワに同じ。枝の撓むこと。
〔評〕 雪に埋れた山中の情景を眼前に髣髴せしめてゐる。高朗・清雅・靜寂の姿。二句と三句とにシラの音を反覆して和諧暢達。實に叙景の至上境に達してゐるとも言へる。左註によつて、人麿の作品とすべきであらう。枕草子、「木は」の條に「白かしなどいふもの、ましてみ山木の中にもいとけ遠くて、三位二位のうへのきぬ染むるをりばかりぞ葉をだに人の見るめる。めでたきこと、をかしきことに、とりいづべくもあらねど、いつとなく雪のふりたるに見まがへられて、素盞嗚尊の出雲國にをはしける御事を思ひて、人麿がよみたる歌などを見る、いみじうあはれなり」とあるのは、この歌について言つたものらしいが、素盞嗚尊とはどういふ關係があるかわからない。この歌について何か傳説があつたものか。
或云 枝毛多和多和《エダモタワタワ》
これは四の句の異傳である。この八字、元暦校本にない。
右柿本朝臣人麿之歌集出也 但一首或本云三方沙彌作
元暦校本に但の下、件の字があるのがよいであらう。三方沙彌は一二三參照。
詠v雪
2316 奈良山の 峯なほきらふ うべしこそ ま垣がもとの 雪は消ずけれ
奈良山乃《ナラヤマノ》 峯尚霧合《ミネナホキラフ》 宇倍志社《ウベシコソ》 前垣之下乃《マガキガモトノ》 雪者不消家禮《ユキハケズケレ》
(385)奈良山ノ峰ニハマダ雲ガカカツテ雲モヨヒデア〔六字傍線〕ル。コレデハ私ノ家ノ庭ノ〔コレ〜傍線〕垣根ノ下ノ雪ガ、消エナイデヰルノモ尤モデアツタヨ。
○峯尚霧合《ミネナホキラフ》――峰が降る雪に曇つて見えぬこと。○雪者不消家禮《ユキハケズケレ》――消えざりけれに同じ。
〔評〕 奈良の都人の詠。庭の雪と、雪げに曇る奈良山とに對する所感。冬日庭前即事。
2317 こと落らば 袖さへぬれて とほるべく 降りなむ雪の 空に消につつ
殊落者《コトフラバ》 袖副沾而《ソデサヘヌレテ》 可通《トホルベク》 將落雪之《フリナムユキノ》 空爾消二管《ソラニケニツツ》
ドウセ降ルナラバ、人ノ〔二字傍線〕袖モ零レ通ルホドニ、澤山ニ〔三字傍線〕雪ガ降レバ美シクテ〔四字傍線〕ヨイノニ、サウハ澤山降ラズニ〔九字傍線〕、空ノ途中デ〔三字傍線〕デ消エテシマツテ一向積ラナイ。惜シイモノダ〔一向〜傍線〕。
○殊落者《コトフラバ》――どうせ同じこと降るならばの意。殊放者《コトサケバ》(一四〇二)參照。
〔評〕 降るとは見えても、袖にたまらぬ雪を惜しんだので、結句穩やかに言ひをさめて、淡い感嘆のこころを含めてある。
2318 夜を寒み 朝戸を開き 出で見れば 庭もはだらに み雪降りたり 一云 庭もほどろに雪ぞ降りたる
夜乎寒三《ヨヲサムミ》 朝戸乎開《アサトヲヒラキ》 出見者《イデミレバ》 庭毛薄太良爾《ニハモハダラニ》 三雪落有《ミユキフリタリ》
一云 庭裳保杼呂爾《ニハモホドロニ》 雪曾零而有《ユキゾフリタル》
夜ガ寒カツタノデ、朝ニナツテ〔四字傍線〕戸ヲ開ケテ出テ見ルト、庭ノ上ニハ薄ク雪ガ降ツテヰタ。
○庭毛薄太良爾《ニハモハダラニ》――ハダラはマダラと同意と解せられてゐるが、ハダレと同じく、雪の薄く降ることを言ふのであらう。この語につてはなほ深い檢討を要する。薄太禮爾零登《ハダレニフルト》(一四二〇)參照。○一云|庭裳保杼呂爾雪曾零而有《ニハモホドロニユキゾフリタル》――四、五句の異傳である。保杼呂《ホドロ》は薄太良《ハダラ》に同じ。
〔評〕 すつきりとした朗らかな歌。
2319 夕されば 衣手寒し 高松の 山の木毎に 雪ぞふりたる
(386)暮去者《ユフサレバ》 衣袖寒之《コロモデサムシ》 高松之《タカマドノ》 山木毎《ヤマノキゴトニ》 雪曾零有《ユキゾフリケル》
夕方ニナルト着物ノ袖ガ膚〔傍線〕寒イ。見レバ果シテアノヤウニ〔見レ〜傍線〕、高圓山ノ梢毎ニ雪ガ降リ積ツタ。
○衣袖寒之《コロモデサムシ》――宣長は寒の下の之は久の誤で、コロモデサムクであらうといつてゐるが、もとのままがよいのではないか。○高松之《タカマドノ》――高圓と同所であらう。
〔評〕 典雅秀麗、實に感じのよい傑れた作品である。古今集の「夕されば衣手寒し三吉野の吉野の山にみ雪ふるらし」に似てゐる。
2320 吾が袖に ふりつる雪も 流れいにて 妹が袂に い行き觸れぬか
吾袖爾《ワガソデニ》 零鶴雪毛《フリツルユキモ》 流去而《ナガレイニテ》 妹之手本《イモガタモトニ》 伊行觸粳《イユキフレヌカ》
ワタシノ着物ノ袖ニ降リカカツタ雪モ、又ココカラ〔五字傍点〕降テ行ツテ、戀シイ〔三字傍線〕妻ノ袂ニ行ツテ觸レナイカ。コノ雪ニ托シテ私ノ心ヲ、妻ノ所ヘ通ジタイモノダ〔コノ〜傍線〕。
○流去而《ナガレイニテ》――舊訓ナガラへテとあるのは面白くない。代匠記初稿本にはナガレユキテとあるが、五句に行《ユキ》とあるによれば、これはイニテとよむべきであらうか。
〔評〕 代匠記初稿本に「袖にかかりて寒き心ならば、ゆきて妹が袖にふれて寒さをしらせよ。さらばそれにつきて、妹もわが如くおもひ出むの心なるべし。袖にかかれるがおもしろき心ならばそれにしたがひて知べし」とあるが、雪に思ひを托してこれをなつかしんだものである。卷十二の妹戀不寢朝吹風妹經者吾共經《イモニコヒイネヌアシタニフクカゼノイモニシフラバワレサヘニフレ》(二八五八)に似てゐる。
2321 沫雪は 今日はなふりそ 白妙の 袖まき干さむ 人もあらなくに
沫雪者《アワユキハ》 今日者莫零《ケフハナフリソ》 白妙之《シロタヘノ》 袖纒將干《ソデマキホサム》 人毛不有惡《ヒトモアラナクニ》
(白妙之)袖ヲ卷キ上ゲテ〔三字傍線〕乾カシテクレル人モヰナイノニ、袖ヲヌラシテハ〔七字傍線〕困ルカラ〔三字傍線〕、雪ハ今日ハ降ルナヨ。
(387)○白妙之《シロタヘノ》――枕詞。袖に冠す。○袖纒將干《ソデマキホサム》――略解に「妹に逢はずしてあれば、我袖を纒寢あるは將v干《ホサム》よしのなきと也」とあるのはどうであらう。枕して干すと解すべきで、吾が沾れたる袖を相手が枕して寢て乾かすのである。古義・新考に纒を衍字としたのは妄である。○人毛不有惡《ヒトモアラナクニ》――惡の字は元暦校本の君とあるのがよい。考にアラヌヲとよんだのは當らない。
〔評〕 旅などにある男の歌か。源氏物語、末摘花に「袖まきほさむ人もなき身に、いと嬉しき心ざしにこそはとのたまひて云々」とあるのは、これを引いたものである。
2322 甚だも ふらぬ雪ゆゑ こちたくも 天つみ空は くもりあひつつ
甚多毛《ハナハダモ》 不零雪故《フラヌユキユヱ》 言多毛《コチタクモ》 天三空者《アマツミソラハ》 陰相管《クモリアヒツツ》
アマリ〔三字傍線〕ヒドクモ降ラナイ雪ダノニ、大層ニマア空ガ曇リ合ツテヰル。
○言多毛《コチタクモ》――略解に「こちたくは事痛にて、ここにかなはず。言は許のかたはらかけるにてここだくもなるべし」とあり、これに從ふ説もあるが、コチタクは事痛《コトイタク》と見るべきであるから、このままでよい。○陰相管《クモリアヒツツ》――古義はクモラヒニツツと訓んでゐる。舊訓による、舊本陰を隱に作つてゐる。元暦校本による。
〔評〕 雪はさほど降らないが、空はすさまじく曇つてゐるといふ風景で、末句ツツで言ひをさめて、餘情を籠めてゐる。
2323 吾が背子を 今か今かと 出で見れば 沫雪ふれり 庭もほどろに
吾背子乎《ワガセコヲ》 且今且今《イマカイマカト》 出見者《イデミレバ》 沫雪零有《アワユキフレリ》 庭毛保杼呂爾《ニハモホドロニ》
ワタシノ戀シイ夫ノ來ルノ〔四字傍線〕ヲ今カ今カト出テ見ルト、夫ノ姿ハ見エナイデ〔九字傍線〕、庭ニ薄ク雪ガ降ツテヰル。アア淋シイ。待チ遠イ〔九字傍線〕。
○且今且今《イマカイマカト》――この用字については何時曾且今登《イツゾイマカト》(一五三五)參照。○庭毛保杼呂爾《ニハモホドロニ》――前の夜乎寒三《ヨヲサムミ》(二三一八)の一云にもある。
〔評〕 實に可憐な歌。人待つ女の氣持がいたいたしい。調も亦清朗。この歌、袖中抄にも出てゐる。
2324 足引 山に白きは 吾がやどに 昨日の夕べ ふりし雪かも
(388)足引《アシビキノ》 山爾白者《ヤマニシロキハ》 我屋戸爾《ワガヤドニ》 昨日暮《キノフノユフベ》 零之雪疑意《フリシユキカモ》
(足引)山ニ眞白ク降ツテヰル〔六字傍線〕ノハ、アレハコノ〔五字傍線〕吾ガ家ニ、昨日ノ夕方降ツタ雪ガ、積ツテヰルノ〔七字傍線〕ダラウカナア。昨日ハコチラモ雪ガ降ツタガ、今日見ルト山モ眞白ダ〔昨日〜傍線〕。
○山爾白者《ヤマニシロキハ》――新考にヤマノシロキはと改めたのは獨斷に過ぎる。
〔評〕 朝起きて山の雪を眺めて詠んだもの。歌品も亦雪のやうに、すがすがしい。
2325 誰が苑の 梅の花ぞも ひさかたの 清き月夜に ここだ散りくる
誰苑之《タガソノノ》 梅花毛《ウメノハナゾモ》 久堅之《ヒサカタノ》 清月夜爾《キヨキツクヨニ》 幾許散來《ココダチリクル》
清イサヤカナ〔四字傍線〕(久堅之)月夜ニ、此處ヘ〔三字傍線〕大層散ツテ來ルノハ〔二字傍線〕、誰ノ家ノ花〔三字傍線〕園ノ梅ノ花デアルゾヨ。ホントニ美シイ景色ダ〔ホン〜傍線〕。
○梅花毛《ウメノハナゾモ》――略解に「花の下の曾を脱したるか、又は毛は毳の誤にて、かもにても有べし」とある。
〔評〕 何處からともなく散つて來る梅花に對して、誰が苑からかと疑つたのみで、この梅の所在を確めようとするものではない。暗香疎影、春淺い月夜の景、目に浮ぶやうである。歌品高雅。
2326 梅の花 先づ咲く枝を 手折りてバ つとと名づけて よそへてむかも
梅花《ウメノハナ》 先開枝《マヅサクエダヲ》 手折而者《タヲリテバ》 ※[果/衣]常名付而《ツトトナヅケテ》 與副手六香聞《ヨソヘテムカモ》
梅ノ花ノ第一番ニ咲イタ枝ヲ折ツテ、アナタニ贈ツテアゲ〔ツテ〜傍線〕タナラバ、世間ノ人ガソレヲ〔八字傍線〕土産ト名付ケテ、二人ノ間ガオカシイヤウニ、ソレニ〔二人〜傍線〕托シテ言ヒサワグデ〔六字傍線〕アラウカヨ。
○手折而者《タヲリテバ》――バを濁らない説もあが、古義に從つた。○與副手六香聞《ヨソヘテムカモ》――ヨソヘは托すること。古義に「人が見て彼へ※[果/衣のなべぶたなし]物をさへ贈りたりと名付て、彼の人と吾との中に密契《ユヱ》あるごとくよそへて、いひたてさわがむか、(289)嗚呼見せたき梅の初花ぞとなり」とあるのに從ふ。
〔評〕いろいろに解せられて、少し曖昧な歌である。卷八の沫雪爾所落開有梅花君之許遣者與曾倍弖牟可聞《アワユキニフラエテサケルウメノハナキミガリヤラバヨソヘテムカモ》(一六四一)と根本の思想は同じである。
2327 誰が苑の 梅にかありけむ ここだくも さきてあるかも 見がほしきまでに
誰苑之《タガソノノ》 梅爾可有家武《ウメニカアリケム》 幾許毛《ココダクモ》 開有可毛《サキテアルカモ》 見我欲左右手二《ミガホシキマデニ》
誰ノ花園ノ梅デアラウカ。見テモ見テモ〔六字傍線〕尚見タイ程ニ、大層咲イタモノダナア。
○梅爾可有家武《ウメニカアリケム》――アリケムでは下と適合しない。宣長は家は良の誤であらうと言つてゐる。○見我欲左右手二《ミガホシキマデニ》――この訓は代匠記精撰本による。舊訓は四五句をサケルカモミテワガオモフマデニとある。
〔評〕 同じく誰苑之《タガソノノ》の歌であるが、前の二三二五より劣つてゐる。殊に下句が拙い。
2328 來て見べき 人もあらなくに 吾家なる 梅のわさ花 散りぬともよし
來可視《キテミベキ》 人毛不有爾《ヒトモアラナクニ》 吾家有《ワギヘナル》 梅之早花《ウメノワサハナ》 落十方吉《チリヌトモヨシ》
來テ見ル人モ無イノダカラ、吾ガ屋敷ニ咲イテヰル梅ノ早咲ノ〔二字傍線〕花ハ、散ツテシマツテモカマナイ。ホントニ誰モ來テクレナイノハ淋シイ〔ホン〜傍線〕。
○梅之早花《ウメノワサハナ》――早花は諸訓はツハナとあるが、早田《ワサダ》(一三五三)・早穗《ワサホ》(一六二五)・早飯《ワサイヒ(一六三五)・早芽子《ワサハギ》(二一一三)などにならつて、ワサハナとよむべきであらう。
〔評〕 閑居しながら、なほ人を待つ人の、絶望的の叫びである。力強く言ひあらはしてある。
2329 雪寒み 咲きには咲かず 梅の花 よしこの頃は さてもあるがね
雪寒三《ユキサムミ》 咲者不開《サキニハサカズ》 梅花《ウメノハナ》 縱比來者《ヨシコノゴロハ》 然而毛有金《サテモアルガネ》
雪ガ降ツテ〔三字傍線〕寒イノデ、梅ノ花ガマダ咲クマデニハ至ラナイ。シカシ〔三字傍線〕ヨロシイ、咲カナイデモカマハナイ〔咲カ〜傍線〕。コノ(390)頃ハ雪ニ痛メラレルカラ〔九字傍線〕、サウシテソノ儘ニシテヰル爲ニ咲カズニヰル方ガヨイ〔咲カハ〜傍線〕。
○咲者不開《サキニハサカズ》――舊訓サキニハサカデとあるが、古義による。代匠記初稿本はサキハヒラカズ、精撰本はサキハヒラケズとある。○然而毛有金《サテモアルガネ》――さうして無事である爲に。
〔評〕 雪が降つて梅がまだ開かないのを待ちかねながら、雪に痛められないで却つてよいと、自ら慰めてゐる尤もらしい言葉である。
詠v露
2330 妹がため 上枝の梅を 手折るとは 下枝の露に ぬれにけるかも
爲v妹《イモガタメ》 末枝梅乎《ホツエノウメヲ》 手折登波《タヲルトハ》 下枝之露爾《シツエノツユニ》 沾家類可聞《ヌレニケルカモ》
妻ニ贈ル〔三字傍線〕爲ニ、梅ノ上ノ方ノ枝ヲ手折ラウトシテ、下枝ノ露ニ沾レタヨ。妻ハ私ガコンナニ骨折ツタコトハ知ルマイ〔妻ハ〜傍線〕。
〔評〕 冬の梅花の歌に、露を詠んだのは珍らしい。内容がまだ型に嵌まらないからである。
詠2黄葉1
2331 八田の野の 淺茅色づく 有乳山 峰の沫雪 寒くふるらし
八田乃野之《ヤタノヌノ》 淺茅色付《アサヂイロヅク》 有乳山《アラチヤマ》 峯之沫雪《ミネノアワユキ》 寒零良之《サムクフルラシ》
八田ノ野ノ、マバラニ生エタ茅ガ赤ク〔二字傍線〕色ガツイタ。コレデハ夫ガ今旅行シテヰル越ノ國ニ〔コレ〜傍線〕、有乳山ノ頂上ハ雪ガ降ツテ寒イデアラウ。
○八田乃野之《ヤタノヌノ》――八田の野は大和國生駒郡、生駒山東南麓の平地。今、郡山町の西方に矢田村がある。これを(391)名所方角抄に越前として「廣き大野あり。有乳山の北に道口と云宿あり。それより北へ一里計往けば矢田野也」とあるのは誤つてゐる。○有乳山《アラチヤマ》――近江高島郡から越前敦賀郡へ越える國境の山で、古昔ここに愛發關があつた。敦賀郡愛發村大字山中の地域内だといふが、その址は明らかでない。
〔評〕 越路の旅に出た夫を思つて、大和なる妻が詠んだもので、あはれな作である。前の吾屋戸之淺茅色付吉魚張之夏身之上爾四具禮零疑《ワガヤドノアサヂイロヅクヨナバリノナツミノウヘニシグレフルラシ》
(二二〇七)と多少の類似がある。
詠v月
2332 さ夜深けば 出で來む月を 高山の 峯の白雲 隱すらむかも
左夜深者《サヨフケバ》 出來牟月乎《イデコムツキヲ》 高山之《タカヤマノ》 峯白雲《ミネノシラクモ》 將隱鴨《カクスラムカモ》
夜ガ更ケレバ出テ來ベキ筈ノ〔二字傍線〕月ヲ、高山ノ頂ノ白雲ガ隱スト見エルナア。イツマデタツテモ出テ來ナイ。待チ遠イナア〔イツ〜傍線〕。
○峯白雲將隱鴨《ミネノシラクモカクスラムカモ》――新考に峯白雪將水陰鴨《ミネノシラユキミガクラムカモ》とし、峯の白雪磨くらむかもと解したのは、珍奇な説で、且、後世ぶりの思想である。
〔評〕 明瞭な歌。冬の部に入れたのは、寒月を詠んだからか。しかしその趣は見えない。
冬相聞
2333 ふるる雪の 空に消ぬべく 戀ふれども 逢ふよしもなく 月ぞ經にたる
零雪《フルユキノ》 虚空可消《ソラニケヌベク》 雖戀《コフレドモ》 相依無《アフヨシモナク》 月經在《ツキゾヘニケル》
降ル雪ガ空ノ途中デ消エル〔九字傍線〕ヤウニ、ワタシモ命ガ〔六字傍線〕途中デ消エサウニ戀ヒ焦レテヰルガ、戀シイ人ニ〔五字傍線〕逢フベキ方(392)法ガナイノデ、逢ヘナイウチニ〔七字傍線〕幾月モタツテシマツタ。
○虚空可消《ソラニケヌベク》――雪が空で消えるのと、命が中途で絶えるのとにかけてある。○相依無《アフヨシモナク》――舊訓アフヨシヲナミとある。古義の訓に從ふ。
〔評〕 雪に寄せた相聞の歌。平板な作。
2334 沫雪は 千重に零りしけ 戀しくの け長き我は 見つつ偲ばむ
阿和雪《アワユキハ》 千重零敷《チヘニフリシケ》 戀爲來《コヒシクノ》 食永我《ケナガキワレハ》 見偲《ミツツシヌバム》
降ル〔二字傍線〕雪ハ千重ニモ上ニ上ニト〔六字傍線〕降リ頻レヨ。人ヲ〔二字傍線〕戀シク思ツテ永イ間、日ヲ送ツテヰル私ハ、セメテコノ雪デモ〔八字傍線〕見テ心ヲ慰メヨウ。
○千重零敷《チヘニフリシケ》――ー舊本に千里とあり、チサトと訓んでゐるが、元暦校本に重とあるによる。○見偲《ミツツシヌバム》――この偲ぶは、なつかしがつて心を慰めること。
〔評〕卷二十に波都由伎波知敝爾布里之家故非之久能於保加流和禮波美都都之努波牟《ハツユキハチヘニフリシケコヒシクノオホカルワレハミツツシヌバム》(四四七五)と酷似してゐる。かれはこれを歌ひかへたものであらう。
右柿本朝臣人麿之歌集出
寄v露
2335 咲き出照る 梅の下枝に 置く露の 消ぬべく妹に 戀ふるこの頃
咲出照《サキデテル》 梅之下枝爾《ウメノシヅエニ》 置露之《オクツユノ》 可消於妹《ケヌベクイモニ》 戀頃者《コフルコノゴロ》
(咲出照梅之下枝置露之)命モ〔二字傍線〕絶エテシマヒサウニ、ワタシハ〔四字傍線〕コノ頃ハ妻ヲ戀ヒ慕ツテヰル。アアツライ〔五字傍線〕。
○咲出照梅之下枝爾置露之《サキデテルウメノシヅエニオクツユノ》――この三句は消と言はむ爲の序詞。咲出照は咲き出でて、色美しく照り輝く意。(393)舊訓サキデタルとある。考は出を立の誤として、サキタテルとし、略解に掲げた濱臣説は照は烏の誤とし、サキイヅルウメノ云々とよんでゐるが.もとのままでよい。
〔評〕 これも前の詠露(二三三〇)と同じく、冬ながら露に寄せてゐるのは珍らしい感がする。
寄v霜
2336 甚だも 夜ふけてな行き 道のべの ゆざさが上に 霜の降る夜を
甚毛《ハナハダモ》 夜深勿行《ヨフケテナユキ》 道邊之《ミチノベノ》 湯小竹之於爾《ユザサガウヘニ》 霜降夜焉《シモノフルヨヲ》
道バタノ繁ツタ笹ノ上ニ霜ガ降ル晩デスノニ、コンナニ〔四字傍線〕ヒドク夜ガ深ケテカラ、オ出カケナサイマスナ。寒ウゴザイマスカラ、夜ガ明ケテカラモカヘリナサイマシ〔寒ウ〜傍線〕。
○湯小竹之於爾《ユザサガウヘニ》――湯小竹《ユザサ》は繁つた笹。五百小竹《イホササ》の約であらう。
〔評〕 男を歸しかねる女の歌である。情緒纒綿。よい作だ。
寄v雪
2337 小竹の葉に はだれふりおほひ 消なばかも 忘れむといへば まして念ほゆ
小竹葉爾《ササノハニ》 薄太禮零覆《ハダレフリオホヒ》 消名羽鴨《ケナバカモ》 將忘云者《ワスレムトイヘバ》 益所念《マシテオモホユ》
(小竹葉爾薄太禮零覆)死ンデシマツタナラバ、思ヲ〔二字傍線〕忘レルコトガ出來ヨウガ、死ナナイウチハ忘レラレナイ〔ガ死〜傍線〕ト女ガ〔二字傍線〕言フノデ、ワタシハ女ガ不愍ニナツテ〔ワタ〜傍線〕、益々戀シク〔三字傍線〕思ハレル。
○薄太禮零覆《ハダレフリオホヒ》――ハダレは薄太禮爾零登《ハダレニフルト》(一四二〇)参照。この句までは消《ケ》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 消と言はむ爲の序詞としては、初二句が.かなり仰々し過ぎるが、そこがこの歌の面白い點であらう。こ(394)の歌、袖中抄に出てゐる。
2338 霰ふり いたも風吹き 寒き夜や 旗野に今夜 吾が獨寐む
霰落《アラレフリ》 板敢風吹《イタモヘカゼフキ》 寒夜也《サムキヨヤ》 旗野爾今夜《ハタヌニコヨヒ》 吾獨寐牟《ワガヒトリネム》
霰ガ降ツテ、ヒドク風ガ吹イテ寒イ晩ダガ、コンナ晩ニ、コノ〔九字傍線〕旗野デ今夜ワタシハ、一人デ寝ルコトカナア。アアツライ〔五字傍線〕。
○板敢風吹《イタモカゼフキ》――板敢《イタモ》は舊訓イタマとあるが、敢の字はさう訓む理由もなく.これを野宿の歌とすれば、板間では穏やかでない。古義に敢を聞の誤としてイタモと訓んだのもどうかと思はれるが、他に佳い説もないからこれに從ふことにする。○旗野爾今夜《ハタヌニコヨヒ》――旗野は和名抄に大和高市郡波多とあり。神名帳にも波多神社があるから、そこであらう。檜隈の南方の高原である。
〔評〕 この歌の二句と四句との訓は、或は正鵠を得てゐないかも知れないが、今は如何ともしがたい。卷一に見吉野乃山下風之寒久爾爲當也今夜毛我獨宿牟《ミヨシヌノヤマノアラシノサムケクニハタヤコヨヒモワガヒトリネム》(七四)に少し似てゐるが、それとは關係のない歌であらう。
2339 吉隱の 野木にふり蔽ふ 白雪の いちじろくしも 戀ひむ我かも
吉名張乃《ヨナバリノ》 野木爾零覆《ヌキニフリオホフ》 白雪乃《シラユキノ》 市白霜《イチジロクシモ》 將戀吾鴨《コヒムワレカモ》
ドウシテモ心ノ中ニ包ミキレナイカラ、コレカラハ〔ドウ〜傍線〕(吉名張乃野木爾零覆白雪乃)ハツキリト表向キニ、ワタシハ戀ヲシヨウト思ツテヰルヨ。
○吉名張之《ヨナバリノ》――卷二に吉張之《ヨナバリノ》(二〇三)とあつたところ。大和磯城郡初瀬の東方。○野木爾零被《ヌキニフリオホフ》――野木は野の木。吉名張の野の木と上につづいてゐる。白雪乃《シラユキノ》までは市白《イチジロク》と言はむ爲の序詞。吉名張の野に生えてゐる木の上に降り被ふ白雪の如くの意。
〔評〕 序詞はおもしろく出來てゐる。二句の野木爾零被《ヌギニフリオホフ》は、景色が目に浮ぶやうである。吉名張地方の民謠か。
2340 一目見し 人に戀ふらく 天ぎらし 零り來る雪の 消ぬべく念ほゆ
(395) 一眼見之《ヒトメミシ》 人爾戀良久《ヒトニコフラク》 天霧之《アマギラシ》 零來雪之《フリクルユキノ》 可消所念《ケヌベクオモホユ》
一目逢ツタバカリノ人ニ戀ヲシテ、(天霧之零來雪之)命モ〔二字傍線〕消エサウニ思ヒマス。
○天霧之零來雪之《アマギラシフリクルユキノ》――消とつづく序詞。
〔評〕 次の如夢《イメノゴト》(二三四二)の歌と同歌の異傳であらう。
2341 思ひ出づる 時は術なみ 豐国の 木綿山雪の 消ぬべく念ほゆ
思出《オモヒイヅル》 時者爲便無《トキハスベナミ》 豐國之《トヨクニノ》 木綿山雪之《ユフヤマユキノ》 可消所念《ケヌベクオモホユ》
アノ人ヲ〔四字傍線〕思ヒ出シタ時ハ、戀シクテ戀シクテ〔八字傍線〕仕樣ガナイノデ、(豊國之木綿山雪之)命モ〔二字傍線〕消エサウニ思ヒマス。
○豊國之木綿山雪之《トヨクニノユフヤマユキノ》――豊後の由布山。一二四四參照。この二句は消《ケ》の序詞。
〔評〕 地名がよんであるだけで、別に面白い點もない。
2342 夢のごと 君を相見て 天ぎらし 降りくる雪の 消ぬべく念ほゆ
如夢《イメノゴト》 君乎相見而《キミヲアヒミテ》 天霧之《アマギラシ》 落來雪之《フリクルユキノ》 可消所念《ケヌベクオモホユ》
ホントニ丸デ〔六字傍線〕夢ノヤウニ、一寸〔二字傍線〕、アナタニ逢ツタバカリデ、(天霧之落來雪之)命モ〔二字傍線〕消エサウニ思ヒマス。
〔評〕 前の一眼見之《ヒトメミシ》(二三四〇)の歌と、同歌の異傳であらう。以上三首は型に嵌めたやうな作で面白くない。
2343 わが背子が 言うるはしみ 出でて行かば 裳引知らえむ 雪なふりそね
吾背子之《ワガセコガ》 言愛美《コトウルハシミ》 出去者《イデテユカバ》 裳引將知《モヒキシラエム》 雪勿零《ユキナフリソネ》
ワタシノ戀シイ〔三字傍線〕男ガ、私ヲ戀シテヰルト云ツテクレル〔私ヲ〜傍線〕言葉ガ親切ナノデ、今カラ出テ行ツテ逢ハウト思フガ〔今カ〜傍線〕、出テ行ツタナラバ、雪ガ降ツテハ〔六字傍線〕裳ヲ引イテ行ツタ跡ガ、ハツキリト〔イテ〜傍線〕ワカルダラウカラ〔二字傍線〕、雪ヨ、降ラナイデクレ。
(396)○言愛美《コトウルハシミ》――言葉がうるはしさに。ウルハシは耳に快く親切なこと。
〔評〕 雪に寄せた歌は多くその消え易いこと、又は著しく白い意につづけて、序詞として用ゐられてゐるのに、これに雪の上を裳引き行く情景を取り入れたのは、珍らしく且、巧妙と言つてよい。
2344 梅の花 それとも見えず 零る雪の いちじろけむな 間使遣らば 一云、降る雪に間使やらばそれとしらむな
梅花《ウメノハナ》 其跡毛不所見《ソレトモミエズ》 零雪之《フルユキノ》 市白兼名《イチジロケムナ》 間使遣者《マヅカヒヤラバ》
一云 零雪爾《フルユキニ》 間使遣者《マヅカヒヤラバ》 其將知奈《ソレトシラムナ》
アノ人ノ所ヘ使ヲヤラウト思フガ〔アノ〜傍線〕、使ヲ遣ツタナラバ、(梅花其跡毛不所見零雪之)ハツキリト人目ニ立ツテ、人ニ覺ラレル〔七字傍線〕ダラウナア。
○梅花其跡毛不所見零雪之《ウメノハナソレトモミエズフルユキノ》――この三句は市白《イチジロク》につづけた序詞。○間使遣者《マヅカヒヤラバ》――間使は兩者の間を行き通ふ使。○一云|零雪爾間使遣者其將知奈《フルユキニマヅカヒヤラバソレトシラムナ》――三句以下の一本である。これは梅ノ花ガ梅ノ花トモワカラヌ程ニ、カキ曇ツテ降リ亂レル雪ノ中ヲ、使ヲ遣ツタラ、人ガ戀ノ文使ダトスグニ知ルダラウの意である。
〔評〕 序詞は優美に出來てゐる、梅花に降り頻る雪に對して、人を思ふ歌のやうでもある。卷八山部赤人の吾勢子爾令見常念之梅花其十方不所見雪乃零有者《ワガセコニミセムトオモヒシウメノハナソレトモミエズユキノフレレバ》(一四二六)と關係ありさうにも思はれる。
2345 天ぎらひ 零りくる雪の 消なめども 君に逢はむと ながらへ渡る
天霧相《アマギラヒ》 零來雪之《フリクルユキノ》 消友《ケナメドモ》 於君合常《キミニアハムト》 流經度《ナガラヘワタル》
戀ノカナハナイ苦シサニ、イツソノコト〔戀ノ〜傍線〕、空ガカキ曇ツテ降ル雪ノヤウニ、消エテ死ンデ〔三字傍線〕シマフダラウカトハ思フガ、死ニモセズニヤハリ〔九字傍線〕アナタニ逢ハウト思ツテ、生キナガラヘテヰル。
○天霧相零來雪之《アマギラヒフリクルユキノ》――消とつづく序詞。前に天霧之零來雪之《アマギラシフリクルユキノ》(二三四〇)・(二三四二)とあつたのと同じである。○消友《ケナメドモ》(397)――舊訓キユレドモとあつたのを、略解にケナメドモと改めたのによる。この句には種々の訓がある。新訓にキエヌトモとしたのに從へば、意味が大いに變つて來る。
〔評〕流經《ナガラヘ》は命永らふることであるが、上に零來雪之《フリクルユキノ》とあるにつづけて考ふれば、雪の縁語となる。果して然らば、本集には極めて珍らしい縁語の一例である。
2346 うかねらふ 鳥見山雪の いちじろく 戀ひば妹が名 人知らむかも
窺良布《ウカネラフ》 跡見山雪之《トミヤマユキノ》 灼然《イチジロク》 戀者妹名《コヒバイモガナ》 人將知可聞《ヒトシラムカモ》
(窺良布跡見山雪之)ハツキリト目立ツヤウニ〔六字傍線〕戀ヲシタナラバ、戀シイ〔三字傍線〕女ノ名ヲ人ガ知ルダラウカナア。コンナニ心ニ包ンデヰテハ苦シイカラ、イツソ表ニアラハサウカト思フガ、女ノ名ガ人ニ知レテハ困ルカラ、サウモナラヌ。困ツタモノダ〔コン〜傍線〕。
○窺良布《ウカネラフ》――枕詞。窺ひ覗ふ。跡見とつづ(398)く。卷八にも宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》(一五七六)とある。○跡見山雪之《トミヤマユキノ》――跡見山の雪の如くの意で、ここまでの二句は灼然《イチジロク》の序詞。跡見山は大和磯城郡|外山《トミ》山。寫眞は中岡清一氏の好意による。櫻井町郊外より寫す。後は倉橋山、前は跡見山。跡見は狩獵の時に、鳥獣の通つた跡を見て、その行方を尋ねること。跡見居置而《トミスヱオキテ》(九二六)參照。
〔評〕 跡見山附近に住む人の歌か。枕詞に創意があつて面白い。
2347 あま小船 泊瀬の山に 降る雪の け長く戀ひし 君が音ぞする
海小船《アマヲブネ》 泊瀬乃山爾《ハツセノヤマニ》 落雪之《フルユキノ》 消長戀師《ケナガクコヒシ》 君之音曾爲流《キミガオトゾスル》
(海小船泊瀬乃山爾落雪之)日ヲ重ネテ〔三字傍線〕永イ間、戀ヒ慕ツタヰタアナタガ、オイデナサル〔六字傍線〕音ガスルヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○海小船泊瀬乃山爾落雪之《アマヲブネハツセノヤマニフルユキノ》――消につづく序詞。海小船《アマヲブネ》は枕詞。海人の小船が泊《ハ》つとつづく。○消長戀師《ケナガクコヒシ》――消《ケ》は日《ケ》の意にかけてある。○君之音曾爲流《キミガオトゾスル》――代匠記初稿本に「君が音はをとづれなり」とあり、略解も同意になつてゐるが、古義は「君が來るとて、馬車などの音するをいへるならむ」とある。古義の説がよいやうだ。
〔評〕 これも初瀬山近く住む人が、山の雪を眺めてよんたものか。この枕詞も珍らしい。卷十一に馬音之跡杼登毛爲者松蔭爾出曾見鶴若君香跡《ウマノトノトドトモスレバマツカゲニイデテゾミツルケダシキミカト》(二六五三)には及ばないが、これも亦佳作たるを失はぬ。
2348 和射美の 嶺行き過ぎて 零る雪の 厭ひもなしと まをせその兒に
和射美能《ワザミノ》 嶺往過而《ミネユキスギテ》 零雪乃《フルユキノ》 ※[厭のがんだれなし]毛無跡《イトヒモナシト》 白其兒爾《マヲセソノコニ》
私ガアナタノ所ヘ行クノハ、ドンナニ苦シクテモ〔私ガ〜傍線〕、(和射美能嶺往過而零雪乃)厭フコトモナイト云フコトヲ、アノ女ニ告ゲテヤツテクレ。
○和射美能嶺往過而零雪乃《ワザミノミネユキスギテフルユキノ》――※[厭のがんだれなし]《イトヒ》といはむ爲の序詞。和射美能嶺《ワザミノミネ》は和※[斬/足]の嶺。美濃不破郡、關が原南方の山。卷二に眞木立不破山越而狛劔和射見我原乃《マキタツフハヤマコエテコマツルギワザミガハラノ》(一九九)とある不破山も同所であらう。嶺往過而《ミネユキスギテ》は嶺を越え行く時に(399)の意。嶺を過ぎて後にはの意ではない。この上句全體は和※[斬/足]の嶺を越えて行く時に降る雪に苦しむのに譬へて※[厭のがんだれなし]《イトヒ》といつたのである。○※[厭のがんだれなし]毛無跡《イトヒモナシト》――舊訓ウトミモナシト・代匠記精撰本ウケクモナシト、略解所載宣長説は消長戀《ケナガクコフト》、古義は敷手念跡《シキテオモフト》か又は毛は時の誤でアクトキナシトかといつてゐるが、童蒙抄にイトヒモナシトとあるのがよい。
〔評〕 上句を序詞と見ない説があるが、前の詩歌が悉く序詞となつてゐるから、これもさうであらう。第四句の意味に不明瞭な點があり、從つて解釋が種々に分れてゐるのは遺憾である。旅人の作らしい氣分が出てゐる。
寄v花
2349 吾がやどに 咲きたる梅を 月夜よみ よひよひ見せむ 君をこそ待て
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 開有梅乎《サキタルウメヲ》 月夜好美《ツクヨヨミ》 夕夕令見《ヨヒヨヒミセム》 君乎祚待也《キミヲコソマテ》
ワタシノ屋敷ニ咲イタ梅ノ花〔二字傍線〕ヲ、月ガヨイノデ、コノ良イ月夜ニ見タナラバ、サゾヨカラウ、ドウカシテ、アナタニ〔コノ〜傍線〕見セタイモノダト〔四字傍線〕、毎晩毎晩アナタヲ待ツテ居リマスヨ。
○夕夕令見《ヨヒヨヒミセム》――舊訓ヨナヨナミセム、略解ヨルヨルミセムとある。古義に從ふ。ヨヒヨヒ待也《マテ》とつづいてゐる。○君乎祚待也《キミヲコソマテ》――代匠記に祚は社の誤かとあるのがよい。略解は「社今本祚に誤。一本により改めつ」とあるが、校本萬葉集にさういふ異本がない。也は例によつて添へて書いたもの。舊訓キミヲソマツヤとあるのはよくない。
〔評〕 柔か味の溢れた女らしい歌。梅月夜に端居して、人を待つ佳人が偲ばれる。
寄v夜
(400)2350 足引の 山のあらしは 吹かねども 君なきよひは 豫て寒しも
足檜木乃《アシヒキノ》 山下風波《ヤマノアラシハ》 雖不吹《フカネドモ》 君無夕者《キミナキヨヒハ》 預寒毛《カネテサムシモ》
(足檜木乃)山カラ吹ク〔四字傍線〕風ハ吹カナイガ、アナタガヰナイ夜ハ、嵐ノ吹カナイウチカラ〔嵐ノ〜傍線〕、豫メ寒イヨ。
○山下風波《ヤマノアラシハ》――ヤマシタカゼハ又はアラシノカゼハの訓もあるが、山下風之《ヤマノアラシノ》(七四)・山下風爾《ヤマノアラシニ》(一四三七)などの例によつてよむべきである。○預寒毛《カネテサムシモ》――略解に「かねてと言へるは、いまだ冬にも入りたたぬほどの歌にて」とあるのは誤。嵐の吹かぬうちから豫めの意。
〔評〕 これも女らしい、あはれの籠つた、よい作である。
萬葉集卷第十
卷第十一
(401)萬葉集卷第十一解説
この卷は柿本朝臣人麿之歌集及び古歌集から出た部分と、その他の部分との兩部に分れてゐる。前者はこれを旋頭歌・正述心緒・寄物陳思・問答の四部に分ち、後者はこれを正述心緒・寄物陳思・問答・譬喩の四部に分つてゐる。目録には題して古今相聞往來歌類之上とあり、これを旋頭歌・正述心緒歌・寄物陳思歌・問答歌・譬喩歌の五部に一括してその歌數を擧げてゐるが、これは目録の作者が私意を以て試みたもので、この集の原形ではないのである。古今相聞往來歌類之上とあるのは言ふまでもなく、卷第十二に古今相聞往來歌類之下とあるのに對したもので、これによつてこの二卷の内容が同種のものなることがわかる。けれどもこの兩卷はもと同時に編纂せられたものを二分したのでないことは、その部門に小異あること、同じ歌が爾卷に重出してゐる點などからして推斷し得るのである。この卷の内容は目録にある如く、相聞往來の歌即ち戀愛に關した歌ばかりである。歌體は旋頭歌と短歌とのみで、その歌數は旋頭歌十七首、短歌四百七十三首、計四百九十首である。(或本歌の算へ方によつてなほ一二首の増加はあるが)これを小別すれば柿本朝臣人麿歌集出旋頭歌十二首、古歌集中出旋頭歌五首、柿本朝臣人麿歌集出正述心緒四十七首、同寄物陳思九十三首、同問答九首。及び正述心緒一百二首、寄物陳思一百八十九首、問答二十首、譬喩十三首である。目録に寄物陳思歌を合計して、三百二首とあげたのは如何なる計算法を採つたものか。現在の實數よりも二十首の超過になつてゐる。作者の名は左註に「右一首或云石川君子朝臣作之」とあるものが見(402)えるのみで、他は一首も記されてゐない。即ちこの卷は、全部作者不明の歌のみを集めたのである。但し柿本朝臣人麿之歌集出のものの内には、人麿の作も混じてゐることは想像するに難くない。ともかくもこの大部分は民謠的のものと考へて差支ないのである。その年代は卷頭の一團が比較的古く、およそ舒明天皇頃から人麿時代までのもの、後の部分は、その中に人麿時代のものも含んでゐるであらうが、天平初年頃のものが多く集められてゐるのではないかと思はれる。眞淵がこの卷を卷一・卷二・卷十三と「同じ宮ぶりにして代もぬしもしられぬ短歌を擧げ」といつて、第四位に置いてゐるのは、まづ穩當といつてよい。編者については全く知るを得ないが、人麿以後あまり遠からざる時期に於て、何人かが集成したもので、さうしてこの卷の歌が、卷四に出てゐる大伴氏關係の人たちによつて、模倣せられたもののあるのは、既にこの卷が天平初期には今の形に出來上つてゐたことを思はしめる(この點は卷十二も同樣である)。作品の藝術的價値は一般に高いといつてよい。素朴純情、野趣の横溢してゐるのを特色とする。文字使用法は卷頭の柿本朝臣人麿歌集出のものは用字數極めて尠く、從つてその訓法の曖昧なものが多い。その他、借訓・義訓が頗る多く、又|八十一《クク》。二五《トヲ》・義之《テシ》・大王《テシ》・牛鳴《ム》・犬馬《マソ》・少熱《ヌル》の如き、戯書と稱せられるものが多く用ゐられてゐる。
(403)萬葉集卷第十一
古今相聞往來歌類之上
旋頭歌十七首
正述心緒歌百四十九首
寄物陳思歌三百二首
問答歌二十九首
譬喩歌十三首
(405)旋頭歌
2351 新室の 壁草刈りに いました給はね 草の如 依り合ふをとめは 君がまにまに
新室《ニヒムロノ》 壁草苅邇《カベクサカリニ》 御座給根《イマシタマハネ》 草如《クサノゴト》 依逢未通女者《ヨリアフヲトメハ》 公隨《キミガマニマニ》
新築ノ家ノ壁草ヲ苅リニオイデナサイ。ソノ〔二字傍線〕草ノ靡ク〔二字傍線〕ヤウニ寄リ集マル少女ハ、アナタノ御心次〔三字傍線〕第デス。
○新室《ニヒムロノ》――新築の家。卷十四に爾比牟路能《ニヒムロノ》(三五〇六)とある。○壁草苅邇《カベクサカリニ》――壁草は壁として用ゐる草。薄の類を家の周圍に葺き廻らしたものであらう。延喜式七の踐祚大嘗祭式に「所v作八神殿一宇(中略)並以2黒木及草構〓、壁蔀(ニハ)以v草云々」とあるのはその證とするに足る。代匠記に「あたらしく造れる屋は先草をかりて壁をもかこふ心なり」とあり、略解にも「同國鹽竈の藤塚知明がいへるは、彼のあたりにては新室造て壁などいまだぬらざるほどは、草を刈て其屋をかこひおくを壁草とはいふといへり」とあるが、壁を塗るまでの間、雜草を苅つて積み置くといふのは、信じられない説である。略解の説に「壁草とは今すさといふ物ならむ」とあり、新考には「今も竹の乏しき地方にては壁下地のこまひに薄をつかふといへば、ここに壁草といへるも薄にて壁下地のこまひの料ならむ」とあり。新解には「カベクサは、壁土を付ける料に草を結び付けてあるのが、土を塗つた上に現はれてゐるのを苅り取るのを言ふ。つまり新築の家の壁の仕上げを言ふのである」とあるが、いづれも首肯し難い。元來壁といへば直ちに土を以て塗つたものと考へるのが誤で、上代の壁は薄の類を以て葺いただけであつたらしい。祈年祭祝詞に「天能壁立極」とある壁の字を、カベともカキともよまれてゐるが、もとカペもカキも共にカギリ(限)の意を有する同一語で、垣・壁は同じものである。上代の垣が萱・薄・葦・柴のやうなもので作られたやうに、壁も亦さういふもので拵へられてゐたのである。大殿祭祝詞にも土を用ゐて壁を塗るやうなことは見えず、神社の古代形式のものにも、謂はゆる土壁はないやうである。もとより大陸文化の輸入と共に、さうした壁が宮殿・寺院その他の建築にも用ゐられたが、一般民衆の家屋には奈良朝の頃までは、あま(406)り普及してゐなかつたであらうと思はれる。この歌の時代は奈良朝以前のものであり、また民謠的のものであるから、民衆生活に即して解釋せねばならぬ。從來の諸説は一も當を得たものはない。○御座給根《イマシタマハネ》――舊訓ミマシタマハネとあるのを代匠記初稿本にはオハシタマハネとあるが、集中イマスといふ語は多く用ゐられてゐるが、オハスは殆どないから、これも古義の説に從ふ。○依逢未通女者《ヨリアフヲトメハ》――草の靡くやうに澤山に寄り集まる少女はの意。古義には「これは一人の女のうへにて、草のより合ひ靡くごとく、容儀しなやかにしてうるはしきをいふなるべし」とある。
〔評〕 新室を建てむとする時の歌で、今日でいへば上棟式などに當る日の趣であらう。これを落成祝とするのは當らない。下の三句は上代の風習をあらはしてゐる。民謠風の面白い歌である。
2352 新室を 踏みしづむ子が 手玉鳴らすも 玉の如 照りたる君を 内へとまをせ
新室《ニヒムロヲ》 蹈靜子之《フミシヅムコガ》 手玉鳴裳《タダマナラスモ》 玉如《タマノゴト》 所照公乎《テリタルキミヲ》 内等白世《ウチヘトマヲセ》
新ラシク家ヲ建テルノデ地ヲ〔七字傍線〕踏ミ堅メテ、地鎭祭ノ踊ヲシテ〔八字傍線〕ヰル女ガ、手ニ卷キツケタ玉ヲカラカラト〔五字傍線〕鳴ラシテヰルヨ。アノ〔二字傍線〕玉ノヤウニ、輝イテヰル美シイアノ〔五字傍線〕オ方ヲ、家ノ内ヘオハイリナサイト〔八字傍線〕ト申シテ御案内ヲシ〔六字傍線〕ナサイ。
○蹈靜子之《フミシヅムコガ》――舊訓フムシツノコシ、略解フミシヅノコガ、新訓フミシヅメコシとあるが古義の訓がよい。家を建てむとして先づ地鎭祭を行ひ、地を蹈みつけて神を祭るのである。子《コ》とあるのは巫女。略解に「男の名を靜の子と言ひしに蹈靜と言ひかけたる也」とあるのはよくない。家を新築するに當つて地を蹈みつけることは、出雲國神賀詞に「白御馬 能 前足爪後足爪蹈立事 波 大官 能 内外御門柱 乎 上津石根 爾 蹈竪 米 下津石根 爾 蹈凝之《シロミマノマヘアシノツメシソヘアシノツメフミタツルコトハオホミヤノウチトミカドノハシヲヲウハツイハネニフミカタメシタツイハネニフミコラシ》云云」とあり、又續紀に見えた寶龜元年の歌に「乎止賣良爾乎止古多智蘇比布美奈良須爾詩乃美夜古波與呂豆與乃美夜《ヲトメヲニヲトコタチソヒフミナラスニシノミヤコハヨロヅヨノミヤ》」とあるのも同じ場合の歌らしい。○手玉鳴裳《タダマナラスモ》――手玉は手の飾とした玉。卷十に足玉母手珠毛由良爾《アシダマモタダマモユラニ》(二〇六五)とあつた。○所照公乎《テリタルキミヲ》――照り輝いた立派なお方をの意。
(407)【評】上の三句は新築地鎭祭に玉の飾をした巫女の姿を述べ、その玉を譬喩として、來客の歡待の意をあらはしてゐる。前の歌と一對のもので、これも上代の風俗がわかつて面白い。略解に新室蹈までを序として解釋したのは、非常な誤である。
2353 長谷の ゆ槻がもとに 吾が隱せる妻 あかねさし 照れる月夜に 人見てむかも 一云ふ人見つらむか
長谷《ハツセノ》 弓槻下《ユヅキガモトニ》 吾隱在妻《ワガカクセルツマ》 赤根刺《アカネサシ》 所光月夜邇《テレルツクヨニ》 人見點鴨《ヒトミテムカモ》
一云 人見豆良牟可《ヒトミツラムカ》
長谷ノ枝ノ繁ツタ槻ノ木ノ下ニ、ワクシガ隱シテ置イタ妻、ソノ妻〔三字傍線〕ヲ(赤根刺)明ルク〔三字傍線〕輝イテヰルコノ〔二字傍線〕月夜ニ、人ガ見ルダラウカナア。心配ナモノダ〔六字傍線〕。
○長谷《ハツセノ》――長谷は初瀬に同じ。その地形が初瀬川に沿うて長い谷をなしてゐるので、かう記すのだと言はれてゐる。○弓槻下《ユヅキガモトニ》――弓槻《ユヅキ》は代匠記に弓に作る槻の木とし、又古事記、雄略天皇の段に「天皇坐2長谷之百枝槻下1爲2豐樂1之時云云」とある百枝槻と同義であらうといつてゐる。後の學者は多く後説に從つてゐる。卷十に湯小竹之於爾《ユザザノウヘニ》(二三三六)とある湯小竹は、五百小竹の義であるから、これも五百槻で枝の多い大木の槻と考へられるのである。併し、これは弓月が嶽かも知れない。この山は初瀬山のつづきで、初瀬の谷が大和平原に向つて盡きようとしてゐる所にあるから、やはり初瀬の地域内と考へることが出來るのである。○赤根刺《アカネサシ》――枕詞。あかあかといふ意味もあるやうだが、照るとつづく枕詞としておかう。卷四の赤根指照有月夜爾《アカネサシテレルツクヨニ》(五六五)參照。○一云|人見豆艮牟可《ヒトミツヲムカ》――第六句の異傳。ヒトミテムカモと同意である。
〔評〕 弓槻の下に住んでゐる女を隱妻としてゐる男の歌。人に見あらはされるのを恐れたので、月明の夜に詠んだ趣に作つてある。古義に「此歌は所由ありて長谷のあたりの山隱れたる家に、隱妻を率て行てかくしおけるほどよめるなるべし。ただに荒山中の槻の木蔭に放ちおけるを云にはあらず」とあるのは尤もであるが、特に率て行き隱したとするのも、なほ言葉に拘泥してゐるやうに思ふ。上代人らしい長閑な氣分の作である。
2354 ますらをの 念ひ亂れて 隱せるその妻 天地に とほり照るとも あらはれめやも 一云、ますらをの思ひ健びて
(408)健男之《マスラヲノ》 念亂而《オモヒミダレテ》 隱在其妻《カクセルソノツマ》 天地《アメツチニ》 通雖光《トホリテルトモ》 所v顯目八方《アラハレメヤモ》
一云 大夫乃思多鷄備?《マスラヲノオモヒタケビテ》
益荒夫ノアナタ〔四字傍線〕ガ戀ニ〔二字傍線〕心ガ亂レテ隱シタソノ妻。天地ニ月ノ光ガ〔四字傍線〕通リ輝クトモ、ソノ妻ハ〔四字傍線〕見ツカルコトガアルモノデスカ。心配ハアリマセヌ〔八字傍線〕。
○天地通雖光《アメツチニトホリテルトモ》――前の歌の赤根刺所光月夜邇《アカネサシテレルツクヨニ》とあるのを受けたもので、月光が天地を貫いて照らすといふのである。○一云大夫乃思多鷄備?《マスラヲノオモヒタケビテ》――初二句の異傳である。本文の第二句を略解に「或人云、亂は武の誤にて、おもひたけびてならむかと言へり」とあり、古義に「舊本に一云大夫乃思多鷄備?とあるぞ理協へりとおぼゆる」と云つてゐるが、本文の方が穩やかではあるまいか。オモヒタケビは武く思ひ立ちての意。
〔評〕右の歌と同一作者と古義は見てゐるが、さうではなく、女が右に和へたものであらう。天地通雖光《アメツチニトホリテルトモ》の句は神代紀の「於是共生2日神1、號2大日〓貴1、此子光華明彩、照2徹於六合之内1」とあるのを思はしめるものがあり、一體に雄勁な調をなしてゐる。
2355 めぐしと 吾が念ふ妹は 早も死ねや 生けりとも 我に依るべしと 人の言はなくに
惠得《メグシト》 吾念妹者《ワガモフイモハ》 早裳死耶《ハヤモシネヤ》 雖生《イケリトモ》 吾邇應依《ワレニヨルベシト》 人云名國《ヒトノイハナクニ》
可愛イト私ガ思ツテヰルアノ〔二字傍線〕女ハ、早ク死ネバヨイ。イクラ〔三字傍線〕生キテヰテモ、イツマデモ〔五字傍線〕ワタシニ心ヲ寄セテ從フダラウトハ、世間ノ〔三字傍線〕人ハ誰モ〔二字傍線〕言ハナイノダカラ。トテモ見込ガナイ。早ク死ネバヨイ〔トテ〜傍線〕。
○惠得《メグシト》――舊訓メクマムトとあるのを、代匠記初稿本はウツクシトとよむべしと言つてゐる。略解にあげた宜長説には「或人云惠得は息緒の誤にて、いきのをに也と言へり。まことに此歌はうつくしと言ひては下とかけ合わろし。字もいかが也」とある。惠の字は集中、假名としては多く用ゐられてゐるが、訓の用法はこれのみであるから、他と比較は出來ない。惠はメグムとよむ字であるから、卷五の米具斯宇都久志《メグシウツクシ》(八〇〇)に從つて、(409)メグシとよむのがよいであらう。○早裳死耶《ハヤモシネヤ》――舊訓ハヤクモシネヤ。略解ハヤモスギネヤ、古義ハヤモシネヤモとあるが、新考に從つて、文字通りによんで置かう。○人云名國《ヒトノイハナクニ》――人は女とも、その親とも、又世人とも見られる。世人とするのが當つてゐるであらう。
〔評〕 つれない人の死を祈つたもので、まことに恐ろしい歌。實に稀有の例である。謂はゆる可愛さあまつて憎さ百倍か。絶望の聲がいたましい。
2356 高麗錦 紐のかたへぞ 床に落ちにける 明日の夜し 來なむと言はば 取り置き待たむ
狛錦《コマニシキ》 ?片叙《ヒモノカタヘゾ》 床落邇祁留《トコニオチニケル》 明夜志《アスノヨシ》 將來得云者《キナトイハバ》 取置待《トリオキマタム》
昨夜オイデナサツタ夫ノ君ノ〔昨夜〜傍線〕、高麗織ノ錦ノ紐ノ片方ガ、床ノ上ニ落チテヰタ。明日ノ晩ニ、オイデ下サルト言フナラバ、取ツテオイテオイデニナルノヲ〔八字傍線〕オ待チ致シマセウ。
○狛錦《コマニシキ》――高麗から舶來した鏑。○紐片叙《ヒモノカタヘゾ》――高麗錦の紐の片方が、この紐は上着の襟の下の胸の紐で、上前と下前と兩方に附けである、その片方の意。
〔評〕 男の歸つた後に殘された一本の紐を見て、これを質物として取つて置いて、男を待つやうな氣分である。上句はかなり露骨であるが、下品にはなつてゐない。
2357 朝戸出の 君が足結を ぬらす露原 早く起き 出でつつ我も 裳裾ぬらさな
朝戸出《アサトデノ》 公足結乎《キミガアユヒヲ》 閏露原《ヌラスツユハラ》 早起《ハヤクオキ》 出乍吾毛《イデツツワレモ》 裳下閏奈《モスソヌラサナ》
朝オ歸リニナルアナタノ足結ヲ、沾ス露ノ置イタ草〔五字傍線〕原ヨ。早ク起キテ御一緒ニ〔四字傍線〕外ニ出テ、ワタシモ草原ノ露デ〔五字傍線〕裳ノ裾ヲ沾シマセウ。
(410)○朝戸出《アサトデノ》――朝早く家を出て行くこと。卷十に朝戸出之君之儀乎《アサトデノキミガスガタヲ》(一九二五)とある。○公足結乎《キミガアユヒヲ》――足給《アユヒ》は袴をかかげて膝の邊で結ぶ帶のやうなもの。
〔評〕何等可憐なる女心ぞ。その朝露のやうな美しい歌である。卷七の吾妹子之赤裳裙之將染※[泥/土]今日之※[雨/脉]※[雨/沐]吾共所沾名《ワギモコガアカモノスソノシメヒヂムケフノコサメニワレサヘヌレナ》(一〇九〇)は男の歌である。これは女の心であるが、共によく似て、すぐれた作である。
2358 何せむに 命をもとな 永く欲りせむ 生けりとも 吾が念ふ妹に 安く逢はなくに
何爲《ナニセムニ》 命本名《イノチヲモトナ》 永欲爲《ナガクホリセム》 雖生《イケリトモ》 吾念妹《ワガモフイモニ》 安不相《ヤスクアハナクニ》
何シニワタシハ〔四字傍線〕命ヲ猥リニ長クト希ハウカ。タトヒ〔三字傍線〕生キテヰテモ、ワタシノ戀ヒ焦レテヰル女ニ、容易ニ逢フコトハ出來ナイノニ。
○命本名《イノチヲモトナ》――モトナは猥りに・徒らにといふ意に解してよく當つてゐる。
〔評〕 前の惠得《メグシト》(二三五五)の正反對に、弱々しい男の歌である。内容から言へば平安朝式の戀歌になつてゐる。
2359 息の緒に 我は念へど 人目多みこそ 吹く風に あらば屡々 逢ふべきものを
息緒《イキノヲニ》 吾雖念《ワレハオモヘド》 人目多社《ヒトメオホミコソ》 吹風《フクカゼニ》 有數數《アラバシバシバ》 應相物《アフベキモノヲ》
命ガケデワタシハ戀ヲシテヰルケレドモ、人目ガ多イノデ、思フヤウニ逢ハレナイ。モシコノ身體ガ〔思フ〜傍線〕吹ク風デアツタナラバ、何處カラデモ人目ニ立タナイヤウニ入リ込ンデ〔何處〜傍線〕、屡々逢フコトガ出來ルダラウノニ。
○息緒《イキノヲニ》――イキノヲニ思ふとは、命がけに戀するをいふ。
〔評〕 第三句は人目多社《ヒトメオホミコソ》で切れてゐる。コソに對する結びの句は省いてある。自由に空を通ふ風を羨んだのは、珍らしい、さうして適切な考である。
2360 人の親の をとめ兒すゑて 守山邊から 朝なさな 通ひし君が 來ねば哀しも
(411)人祖《ヒトノオヤノ》 未通女兒居《ヲトメゴスヱテ》 守山邊柄《モルヤマベカラ》 朝朝《アサナサナ》 通公《カヨヒシキミガ》 不來哀《コネバカナシモ》
(人祖未通女兒居)守山ノアタリカラ、毎朝毎朝通ツテ此處ヘ來テ下サツ〔九字傍線〕タ貴君ガ、コノ頃一向〔五字傍線〕オイデナサラナイカラ、ドウシタコトカト〔八字傍線〕悲シウゴザイマス。
○人祖未通女兒居《ヒトノオヤノヲトメゴスヱテ》――守るとつづく序詞。親が少女子を持つてゐてその番をするといふ意。○守山邊柄《モルヤマベカラ》――守山は山名であらう。卷十三に三諸者人之守山本邊者馬醉木花開末邊方椿花開浦妙山曾泣兒守山《ミモロハヒトノモルヤマモトベハアシビハナサキスヱベハツバキハナサクウラグハシヤマゾナクコモルヤマ》(三二二二)とあるによれば、飛鳥の三諸山らしい。
〔評〕 男を待つ女の歌。飛鳥の宮の頃の作であらう。民謠らしい作風だ。この旋頭歌は普通の形式を破つて、三句で切れてゐない。本集中における特例である。
2361 天なる 一つ棚橋 いかにか行かむ 若草の 妻が云へらく 足よそひせよ
天在《アメナル》 一棚橋《ヒトツタナハシ》 何將行《イカニカユカム》 穉草《ワカクサノ》 妻所云《ツマガイヘラク》 足壯嚴《アシヨソヒセヨ》
(天在)一枚板ノ棚橋ヲドウシテ渡ツテ〔三字傍線〕行カウカ。(穉草)妻ガ言フニハ、マヅ〔二字傍線〕足ノ支度ヲシテ足結ナドヲツケ〔八字傍線〕ナサイト言ツタ〔四字傍線〕。
○天在《アメナル》――枕詞。天にある日の意でヒトツにつづいてゐる。○一棚橋《ヒトツタナハシ》――棚橋は棚のやうにかけた板の假橋。○穉草《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづくのは、若草のやうに愛らしき意であらう。○足壯嚴《アシヨソヒセヨ》――足の支度せよ、即ち足結など附けよといふのであらう。
〔評〕 この歌は三句以下、訓が種々に分れてゐる。三句は舊訓イカテユクラム、考イカテカモユカム、略解イカデカユカム、古義行を障の誤としてナニカサヤラム。五句は舊訓ツマカリトイフ、童蒙抄ツマカリトイヒテ、六句は舊訓アシヲウツクシ、童蒙抄アシヨソヒセム、考アユヒスラクヲ、略解に掲げた宣長説、莊嚴を結發としてアユヒシタタス、古義は足帶發の誤として、アユヒシタタムかと言つてゐる。その他、新考は二句より文(412)字を改めて甚だしい改訓をなしてゐるが、いづれも穩やかと思はれない。莊嚴の二字の如きは集中に他の用例を見ないもので、誤字かと思はれるが、異本もないから改め難い。ここはしばらく訓は新訓によつて、解釋することにした。
2362 山背の 久世の若子が 欲しといふわれを あふさわに 我を欲しといふ 山城の久世
開木代《ヤマシロノ》 來背若子《クセノワクコガ》 欲云余《ホシトイフワレヲ 相狹丸《アフサワニ》 吾欲云《ワレヲホシトイフ》 開木代來背《ヤマシロノクセ》
山城ノ久世ノ里ノ〔二字傍線〕若イ男ガ、私ヲ妻ニ〔二字傍線〕欲シイト云フ。柄ニモナク、ワタシヲ妻ニ欲シイト言フアノ〔二字傍線〕山城ノ久世ノ若イ男、ワタシハソンナ言葉ニ從フモノデスカ〔ワタ〜傍線〕。
○開木代來背若子《ヤマシロノクセノワクコガ》――山背の久世にゐる若い男。山背の久世は山城久世郡久津川村附近を、昔は久世郷と稱したので、今も同村大字久世がある。○相狹丸《アフサワニ》――柄《ガラ》にもなくの意。淺い心でとも解かれてゐる。卷八の相佐和仁《アフサワニ》(一五四七)參照。○開木代來背《ヤマシロノクセ》――山背の久世の若子といふべきを、字數に限があるので、下を省いたのである。
〔評〕 いづれ山背地方に謠はれた民謠であらう。蓮葉な女らしい口吻である。催馬樂に「也末之呂乃己末乃和太利乃宇利川久利和禮乎保之止伊不伊加爾世牟《ヤマシロノコマノワタリノウリツクリワレヲホシトイフイカニセム》」とあるのも、古今集に、「足引の山田のそほづおのれさへわれをほしてふうれはしをこと」とあるのも、同一系統の民謠らしい。
右十二首柿本朝臣人麿之歌集出
2363 崗ざきの たみたる道を 人な通ひそ ありつつも 君が來まさむ よき道にせむ
崗前《ヲカザキノ》 多未足道乎《タミタルミチヲ》 人莫通《ヒトナカヨヒソ》 在乍毛《アリツツモ》 公之來《キミガキマサム》 曲道爲《ヨキミチニセム》
岡ノ前ノ折レ曲ツタ道ヲ人ハ通ルナ。其處ヲ通ツテソレガ一般ノ人ニ知ラレルヤウニナツテハ困ル〔其處〜傍線〕。サウシテイツデモ、アナタガ此處ヘ〔三字傍線〕オイデニナル時、人目ヲヨケル〔七字傍線〕ヨケ道ニシヨウト思フ〔三字傍線〕。
(413)○崗前《ヲカザキノ》――岡が平地に突き出てゐるその裾をいふ。古義はヲカノサキと訓んでゐる。○多未足道乎《タミタルミチヲ》――タミは廻ること。舊訓ヲミタルミチヲとあるのは分らない。
〔評〕 これも田舍少女の純情が見えてゐる。
2364 玉だれの 小簾のすげきに 入り通ひ來ね たらちねの 母が問はさば 風と申さむ
玉垂《タマダレノ》 小簾之寸鷄吉仁《ヲスノスケキニ》 入通來根《イリカヨヒコネ》 足乳根之《タラチネノ》 母我問者《ハハガトハサバ》 風跡將申《カゼトマヲサム》
他ノ場所カラ入ツテハ音ガスルカラ〔他ノ〜傍線〕、(玉垂)簾ノ隙間カラアナタハ〔四字傍線〕入ツテ通ツテオイデナサイ。ソレデモ音ガシテ、モシモ〔ソレ〜傍線〕(足乳根之)母ガ聞付ケテ何ノ音カト〔九字傍線〕尋ネナサツタナラバ。風デスト答ヘマセウ。
○玉垂《タマダレノ》――枕詞。玉垂の緒《ヲ》の意でつづく。○小簾之寸鷄吉仁《ヲスノスケキニ》――寸鷄吉は隙《スキ》に同じ。寸の字は常にキの假名に用ゐられる。これをスに用ゐた例は、これだけである。
〔評〕 戀故に大膽になつてゐる少女の心、下層階級の素朴な野趣が横溢した、集中でも珍らしい作である。
2365 うち日さす 宮ぢに逢ひし 人妻故に 玉の緒の 念ひ亂れて ぬる夜しぞ多き
内日左須《ウチヒサス》 宮道爾相之《ミヤヂニアヒシ》 人妻?《ヒトヅマユヱニ》 玉緒之《タマノヲノ》 念亂而《オモヒミダレテ》 宿夜四曾多寸《ヌルヨシゾオホキ》
(内日左須)御所ヘ行ク道デ行キ逢ツタ女ハ〔二字傍線〕人ノ妻ダノニ、忘レルコトモ出來ズ〔九字傍線〕、心ガ(玉緒之)亂レテ、寢ル晩ガ多イヨ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
○内日左須《ウチヒサス》――枕詞。宮とづづく。四六〇參照。○宮道爾相之《ミヤヂニアヒシ》――宮道は宮城に通ふ道。○人妻?《ヒトヅマユヱニ》――人妻だのにの意。?は妬と同字か。妬は故と古來通用してゐる。この文字については、略解追加に清水濱臣の委しい辨があり、訓義辨證にも論じてゐる。○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。亂れとつづく。
〔評〕卷七の撃日刺宮路行丹吾裳破玉緒念委家在矣《ウチヒサスミヤヂヲユクニワガモヤレヌタマノヲノオモヒッミダレテイヘニアラマシヲ》(一二八〇)は女の歌であるのに、これは人妻を戀する男の(414)歌であるが、用語が著しく似てゐる。
2366 まそ鏡 見しがと念ふ 妹に逢はぬかも 玉の緒の 絶えたる戀の 繁きこの頃
眞十鏡《マソカガミ》 見之賀登念《ミシガトオモフ》 妹相可聞《イモニアハヌカモ》 玉緒之《タマノヲノ》 絶有戀之《タエタルコヒノ》 繁比者《シゲキコノゴロ》
(玉緒之)中絶シテヰタ戀ヲ思ヒ出シテ〔五字傍線〕、頻リニ戀シク思ツテヰルノコノ頃、(眞十鏡)見タイト思ツテヰル女ニ逢ヘバヨイガナア。
○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。鏡を見るとつづいてゐる。○見之賀登念《ミシガトオモフ》――見たいと思ふ。シガは希望をあらはす。略解にミシガトモヒシと訓んだのは誤つてゐる。○妹相可聞《イモニアハヌカモ》――妹に逢はないかよ、逢へばよいの意。ヌにあたる文字はないが、卷七の青角髪依網原人相鴨《アヲミヅラヨサミノハラニヒトモアハヌカモ》(一二八七)のアハヌカモと同じく、添へてよむのである。その條參照。○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。絶えとつづいてゐる。○繁此者《シゲキコノゴロ》――此は神田本その他、比に作つてゐる本がよい。
〔評〕 暫し中絶えて、戀しさいや増す男の歌である。さして勝れた點もない。
2367 海原の 路に乘れれや 吾が戀ひ居らむ 大船の ゆたにあるらむ 人の兒ゆゑに
海原乃《ウナバラノ》 路尓乘哉《ミチニノレレヤ》 吾戀居《ワガコヒヲラム》 大舟之《オホブネノ》 由多爾將有《ユタニアルラム》 人兒由惠爾《ヒトノコユヱニ》
海路ニ舟デ〔二字傍線〕乘リ出シテヰルノデ、コンナニ〔四字傍線〕私ハ戀シク思ツテヰルノダラウカ。人ノ妻ダノニ、アノ女ニ戀シテ〔七字傍線〕(大舟之)心ガ動搖シテヰルノダラウカ。舟ニ乘ツテ海ニ出テヰルヤウニ、私ノ心ハ動搖シテヰル〔舟ニ〜傍線〕。
○海原乃路爾乘哉《ウナバラノミチニノレレヤ》――海原乃路は海路。ノレレヤは乘りたればにやの意。乘るは海路であるから、かく言つた のである。古事記にも「差暫往《ヤヤシマシイデマセ》、將v有2味御路1《ウマシミチアアラム》、乃乘2其路1往者《スナハチソノミチニノリテイマシナバ》、」とある。舊訓はミチニノリテヤとある。○吾戀居《ワガコヒヲラム》――略解にワガコヒヲリテと訓んだのが廣く行はれてゐるが、旋頭歌はこの句で切るのを通則とするから、ワガコヒヲラムとよんだ舊訓がよいであらう。○大舟之《オホフネノ》――由多《ユタ》につづく爲に枕詞式に用ゐられてゐる。○由多爾將有《ユタニアルラム》――由多《ユタ》は寛かに、ゆつたりとしたことであるが、ここは吾情湯谷絶谷《ワガココロユタニタユタニ》(一三五二)の例の如く動搖す(415)る意である。これを女の心と解して次の句につづける説もあるが、自分の心と解して、ここで切るべきであらう。○人兒由惠爾《ヒトノコユヱニ》――人兒《ヒトノコ》は人妻に同じ。人の娘とするのは當らない。
〔評〕海原乃路だの、大舟だのを用ゐ、面白く工夫してある。卷二の大船之泊登麻里能絶多日二物念痩奴人能兒故爾《オホブネノハツルトマリノタユタヒニモノモヒヤセヌヒトノコユヱニ》(一二二)と似たところがある。
右五首古歌集中出
正(ニ)述(ブ)2心緒(ヲ)1
これは物に寄せないで、直接に心をあらはした歌である。
2368 たらちねの 母が手はなれ かくくばかり すべなき事は いまだせなくに
垂乳根乃《タラチネノ》 母之手放《ハハガテハナレ》 如是許《カクバカリ》 無爲便事者《スベナキコトハ》 未爲國《イマダセナクニ》
(垂乳根乃)母ノ手ヲハナレテ、一人前ニナツテカラハ〔一人〜傍線〕、コンナニ術ナイ思ヒヲ〔二字傍線〕シタコトハマダナイノニ。ホントニ辛イコトデス〔ホン〜傍線〕。
○垂乳根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。タラチはタラシと同じく、滿ち足りてゐることで、讃める意。ネは親しみて添へたるのみ。○母之手放《ハハガテハナレ》――舊訓ハハノテソキテ、略解ハハガテカレテとあるが、卷五に波波何手波奈例《ハハガテハナレ》(八八六)とあるに從つて訓むがよい。母の手を放れ、一人前の女となつてからの意。
〔評〕 直線的な力強い表現である。
2369 人のぬる うまいは寐ずて はしきやし 君が目すらを 欲りし嘆くも 或本歌云、君を思ふに明けにけるかも
(416)人所寐《ヒトノヌル》 味宿不寐《ウマイハネズテ》 早敷八四《ハシキヤシ》 公目尚《ミミガメスラヲ》 欲嘆《ホリシナゲクモ》
心ノ苦シサニ世間ノ〔九字傍線〕人ガ寐ル熟睡トイフコトハ出來ナイデ、ワタシハ〔四字傍線〕カハユイアナタニ、オ目ニカカレルヤウニト、望ンデ嘆キマスヨ。
○人所寐《ヒトノヌル》――略解の宣長説は「所寐はねると訓ては、所の字餘れり。なすとよまむと云り。」とある。ナスは寐スである。古義は所の字を衍としてゐるが、恐らく所をルとよんだのであらうから、舊訓のままがよい。○早敷八四《ハシキヤシ》――ハシキに歎辭ヤシを添へたもの。ハシキは愛しき。○公目尚《キミガメスラヲ》――新考に「スラは主語を強むる辭なり」とあるのが當つてゐるやうだ。○欲嘆《ホリシナゲクモ》――略解にホリテナゲクモとあるが、新訓に從ふ。
〔評〕 初二句は卷十二に人之宿味宿者不寐哉《ヒトノヌルウマイハネズヤ》(二九六三)・卷十三に人寢味眠不睡而《ヒトノヌルウマイハネズテ》(三二七四)など類句がある。
或本歌云 公矣思爾《キミヲオモフニ》 曉來鴨《アケニケルカモ》
四五の句の異本である。或本とは人麿歌集の或本であらう。
2370 戀ひ死なば 戀ひも死ねとや 玉桙の 路行く人の 言も告げなく
戀死《コヒシナバ》 戀死耶《コヒモシネトヤ》 玉鉾《タマボコノ》 路行人《ミチユクヒトノ》 事告兼《コトモツゲナク》
戀ヒ死ヌナラ戀ヒ死ネト云フ考〔三字傍線〕カ、(玉桙)道ヲ通ル人ガ何トモアノ人ノ〔七字傍線〕言傳ヲシテクレナイ。私ハアノ人カラノタヨリモナイノデ戀死シサウダ〔私ハ〜傍線〕。
○路行人《ミチユクヒトノ》――ミチユキビトとも訓めるわけであるが、卷二に玉桙道行人毛《タマホコノミチユクヒトモ》(二〇七)とあるに傚つておかう。○事告兼《コトモツゲナク》――舊訓コトモツゲケムとあるが、兼は嘉暦本に無とあるのに從つて、ナクとよむべきである。
〔評〕 戀人から何の消息もないのを悲しんだ、強烈な言ひ方になつてゐるが、初二句はこの後に卷十一の戀死戀《》(417)
死哉我妹吾家門過行《コヒシナバコヒモシネトヤワギモコガワギヘノカドヲスギテユクラム》(二四〇一)・卷十五の古非之奈婆古非毛之禰等也保等登藝須毛能毛布等伎爾伎奈吉等余牟流《コヒシナバコヒモシネトヤホトトギスモノモフトキニキナキトヨムル》(三七八〇)の如く、型が出來てゐたやうである。薪古今集に「玉ぼこの道行人のことつてもたえてほどふる五月雨の頃」とあるのはこれによつたものか。
2371 心には 千たび念へど 人にいはず 吾が戀ふる妻を 見むよしもがも
心《ココロニハ》千遍雖念《チタビオモヘド》 人不云《ヒトニイハズ》 吾戀?《ワガコグルツマヲ》 見依鴨《ミムヨシモガモ》
心ノ中デハ繰返シ繰返シ思ツテヰルガ、人ニハ打明ケナイデ、ワタシガ心ノ中デ〔四字傍線〕戀シテヰルアノ女ヲ、ドウカシテ〔五字傍線〕見タイモノダ。
○吾戀?《ワガコフルツマヲ》――舊訓ワガコヒツマヲ、略解ワガコフツマヲとあるが。人不云《ヒトニイハズ》とつづいた語法であるから、コフルツマといふべきであらう。コヒヅマと訓めば三句から五句へつづけて見ねばなるまい。
〔評〕 忍戀の歌。さしたる作ではない。
2372 かくばかり 戀ひむものとし 知らませば 遠く見つべく ありけるものを
是量《カクバカリ》 戀物《コヒムモノトシ》 知者《シラマセバ》 遠可見《トホクミツベク》 有物《アリケルモノヲ》
コンナニ戀シクナルモノト分ツテヰタナラバ、アノ人ニ逢ハナイデ〔九字傍線〕、遠クノ方カラ見テヰルベキ筈ダツタノニ。逢ツテ却ツテ思ヒガ増シテ苦シイ目ニアツタ〔逢ツ〜傍線〕。
○遠可見《トホクミツベク》――舊訓ヨソニミルベク、略解トホクミルベクとある。古義に從ふ。
〔評〕 なまじひに親しんで、戀に苦しむ心を悔いたのである。上句は類歌が數首ある。殊に卷十五に中臣朝臣宅守の可久婆可里古非牟等可禰弖之良末世婆伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《カクバカリコヒムトカネテシラマセバイモヲバミズテアルベクアリケル》(三七三九)は、これを學んだものであらう。
2373 何時はしも 戀ひぬ時とは あらねども 夕かたまけて 戀はすべなし
(418) 何時《イツハシモ》 不戀時《コヒヌトキトハ》 雖不有《アラネドモ》 夕方枉《ユフカタマケテ》 戀無乏《コヒハスベナシ》
何時ト言ツテ戀ヲシナイ時ハナイケレドモ、夕方ニナツテハ物淋シク人ナツカシクテ〔物淋〜傍線〕、戀ノ心ガ何トモ仕樣ガナイヤウニ起ツテ來ル。
○夕方枉《ユフカタマケテ》――原意は夕方を片より待ちてであるが、夕方になつての意である。○戀無乏《コヒハスベナシ》――無乏の二字は戀無乏《コヒスベナカリ》(二四一二)・無乏《スベヲナミ》(二四四一)などと訓んでゐる。乏を爲の誤ならむとした略解説はよくない。
〔評〕卷十二に何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハナモコヒズアリトハアラネドモウタテコノゴロコヒノシゲシモ》(二八七七)、卷十三に何時橋物不戀時等者不有友是九月乎《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモコノナガツキヲ》(三三二九)の類例がある。古今集の「いつとても戀しからずはあらねども秋の夕べは怪しかりけり」はこれに似てゐる。
2374 かくシのみ 戀ひや渡らむ たまきはる 命も知らず 歳を經につつ
是耳《カクノミシ》 戀度《コヒヤワタラム》 玉切《タマキハル》 不知命《イノチモシラズ》 歳經管《トシヲヘニツツ》
(玉切)命ノ絶エサウニナルノ〔九字傍線〕モ知ラズニ、幾年モ永イ聞、コンナニワタシハアノ人ヲ〔八字傍線〕戀シテ暮スコトデアラウカ。
○是耳《カクシノミ》――カクノミシとも訓んであるが、舊訓に從ふ。六九三參照。○玉切《タマキハル》――枕詞。命とつづく。四參照。
〔評〕 この初二句も六九三・二五九六など類例が多い。又卷九の如是耳志戀思渡者霊刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタレバタマキハルイノチモワレハヲシケクモナシ》(一七六九)は、これに傚つた作であらう。
2375 我ゆ後 生れむ人は 吾が如く 戀する道に あひこすなゆめ
吾以後《ワレユノチ》 所生人《ウマレムヒトハ》 如我《ワガゴトク》 戀爲道《コヒスルミチニ》 相與勿湯目《アヒコスナユメ》
(419)ワタシヨリ後デ生レル人ハ、ワタシノヤウニ戀ヲスル道ニ決シテ逢ヒナサルナ。戀トイフモノハ苦シイモノデスゾヨ〔戀ト〜傍線〕。
○相與勿湯目《アヒコスナユメ》――決して逢ふなの意。コスは希望をあらはす動詞。ユメは決して。
〔評〕 戀に惱む人の悲痛な言葉である。必ずしも後人を戒めるわけでもない。佳作、
2376 ますらをの 現し心も 我はナし 夜晝といはず 戀しわたれば
健男《マスラヲノ》 現心《ウツシゴコロモ》 吾無《ワレハナシ》 夜晝不云《ヨルヒルトイハズ》 戀度《コヒシワタレバ》
ワタシハ〔四字傍線〕夜トイハズ〔四字傍線〕畫トイハズ、戀ヲシツヅケテヰルカラ、益荒男ノシツカリシタ心モ、私ハアリマセヌ。戀ノ爲ニハボンヤリシテシマヒマシタ〔戀ノ〜傍線〕。
○現心《ウツシココロモ》−現心《ウツシココロ》はうつつの心。正氣。
〔評〕 卷十二の虚蝉之宇都思情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者《ウツセミノウツシゴコロモワレハナシイモヲアヒミズテトシノヘヌレバ》(二九六〇)と同型の歌である。
2377 何せむに 命つぎけむ 吾妹子に 戀ひざるさきに 死なましものを
何爲《ナニセムニ》 命繼《イノチツギケム》 吾妹《ワギモコニ》 不戀前《コヒザルサキニ》 死物《シナマシモノヲ》
何故私ハ〔二字傍線〕命ヲツナイデ生キナガラヘテ〔七字傍線〕キタノダラウ。コンナニ苦シイ思ヲスルヨリモ、ワタシハ〔コン〜傍線〕アノ女ニ戀ヲシナイウチニ死ンデシマフ筈ダツタノニ。
〔評〕 弱い男の歌である。熱誠が溢れてゐる。
2378 よしゑやし 來まさぬ君を 何せむに 厭はず我は 戀ひつつ居らむ
吉惠哉《ヨシヱヤシ》 不來座公《キマサヌキミヲ》 何爲《ナニセムニ》 不厭吾《イトハズワレハ》 戀乍居《コヒツツヲラム》
(420)エエ、モウ〔四字傍線〕ヨロシイ。オイデナサラヌアナタヲ、何ダツテ厭ハズニワタシハ戀ヒ慕ツテ居ラウゾ。モウアキラメテシマハウ〔モウ〜傍線〕。
〔評〕 力強い明晰な歌。失戀女の絶望の聲。
2379 見わたせば 近きわたりを たもとほり 今や來ますと 戀ひつつぞ居る
見度《ミワタセバ》 近渡乎《チカキワタリヲ》 回《タモトホリ》 今哉來座《イマヤキマスト》 戀居《コヒツツゾヲル》
見渡ストスグニ〔三字傍線〕近イコノ〔二字傍線〕邊ダノニ、人目ヲ避ケテ廻〔六字傍線〕リ道ヲシテ、モウオイデナサリサウナモノダト思ツテ、アナタヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテヰマス。
○見度《ミワタセバ》――古義にミワタシノと訓んでゐるが、左に掲げた卷七の例によれば、ミワタセバがよい。○回《タモトホリ》――文字の如く、道を辿り囘ること。
〔評〕 卷七の視渡者近里廻乎田本欲今衣吾來禮巾振之野爾《ミワタセバチカキサトミヲタモトホリイマゾワガコシヒレフリシヌニ》(一二四三)と似た作である。この方が明瞭で簡素に出來てゐる。
2380 はしきやし 誰がさふれかも 玉桙の 路見わすれて 君が來まさぬ
早敷哉《ハシキヤシ》 誰障鴨《タガサフレカモ》 玉桙《タマボコノ》 路見遺《ミチミワスレテ》 公不來座《キミガキマサヌ》
誰ガ邪魔ヲスルカラカ、(玉桙)道ヲ見忘レテ、美シイアノオ方ガ、此處ヘ〔三字傍線〕オイデナサラナイダラウカ。アノオ〔三字傍線〕方ガオイデナサラナイノハ、誰カ邪魔スルモノガ、アルノニ處がうヒナイ〔誰カ〜傍線〕。
○早敷哉《ハシキヤシ》――これは五句の公《キミ》にかかるものと解されてゐる。○誰障鴨《タガサフレカモ》――サフルは障《ササフ》るに同じ。邪魔する。○公不來座《キミガキマサヌ》――略解に「公かのかは清べし。歟の意也」とあるのは誤解である。ガは主語につく助詞。
(421)〔評〕第一句|早敷哉《ハシキヤシ》の用法が少しかはつてゐる。路見遺《ミチミワスレテ》がとぼけたやうな言ひ方で面白い。
2381 君が目を 見まく欲りして この二夜 千歳の如も 吾が戀ふるかも
公目《キミガメヲ》 見欲《ミマクホリシテ》 是二夜《コノフタヨ》 千歳如《チトセノゴトモ》 吾戀哉《ワガコフルカモ》
アナタニオ目ニカカリタクテ、コノ二晩ガ、千年モタツ〔三字傍線〕ヤウナ心地シテ〔四字傍線〕、ワタシハアナタヲ〔四字傍線〕慕ツテ居リマスヨ。
〔評〕 是二夜《コノフタヨ》と特に限つて言つたのは、事實によつたものであらう。これも明晰な歌である。
2382 うち日さす 宮道を人は 滿ち行けど 吾が念ふ君は ただ一人のみ
打日刺《ウチヒサス》 宮道人《ミヤヂヲヒトハ》 雖滿行《ミチユケド》 吾念公《ワガオモフキミハ》 正一人《タダヒトリノミ》
(打日刺)宮ヘ通フ大路ヲ、人ハ滿チ滿チテ澤山〔五字傍線〕通ルガ、ワタシノ思フオ方ハ唯アナタ〔三字傍線〕一人ゲケデス。ソノ多人數ノ中ニモアナタハ見エマセヌ〔ソノ〜傍線〕。
○打日刺宮道人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハ》――打日刺は枕詞。四六〇參照。宮道は二三六五參照。
〔評〕 まことに哀な佳作である。都大路に悄然と立ち盡して、思ひ沈んでゐる女の姿が思はれる。卷四に人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者《ヒトサハニクニニハミチテアヂムラノユキキハユケドワガコフルキミニシアラネバ》(四八五)、卷十三に式島乃山跡乃土丹人二有年念者難可將嗟《シキシマノヤマトノクニニヒトフタリアリトシモハバナニカナゲカム》(三二四九)とあるのに似てゐる。
2383 世の中は 常かくのみと 念へども かたて忘れず 猶戀ひにけり
世中《ヨノナカノ》 常如《ツネカクノミト》 雖念《オモヘドモ》 半手不忘《カタテワスレズ》 猶戀在《ナホコヒニケリ》
世ノ中ハママニナラナイモノデ〔ママ〜傍線〕、イツデモカウシタモノダト諦メテハヰルガ、一方デハ忘レラレライデ、ヤハリアナタヲ〔四字傍線〕戀シテヰマス。
(422)○半手不忘《カタテワスレズ》――舊訓ハテハワスレズ、考は手は多の誤として、ハタワスラレズと訓み、古義は吾者不忘《アレハワスレズ》の誤かとし、新考には哥手《ウタテ》の誤としてゐるが、いづれも穩やかではない。新訓にカタテとよんだのは、一方ではの意と見たものか、二手をマデとよんだのに對して、半手は別に慣用の訓法があるのではないかと思はれるが、しばらくこの訓によつて解いておいた。
〔評〕 戀する人の繰言、なるほどとうなづかれる。
2384 わが背子は 幸くいますと かへりきて 我に告げ來む 人の來ぬかも
我勢古波《ワガセコハ》 幸座《サキクイマスト》 遍來《カヘリキテ》 我告來《ワレニツゲコム》 人來鴨《ヒトノコヌカモ》
旅ニ出タ〔四字傍線〕ワタシノ夫ハ御無事デイラツシヤルトイフコトヲ、旅行先カラ〔イフ〜傍線〕歸ツテ來テ、ワタシニ知ラセ革來ル人ガ來ナイカヨ。ドウシタノダラウ、心配デナラナイ〔ドウ〜傍線〕。
○遍來《カヘリキテ》――考は適喪《タマタマモ》とし、古義は遍多《タビマネク》としてゐるが、文字通りでカヘリキテでよささうである。○人來鴨《ヒトノコヌカモ》――ヌを添へよんでも打消ではない。人が來よかしの意である。古義にはヒトモコヌカモとよんでゐる。
〔評〕 旅なる人を思ふ女の歌。四五の句に來の字が重つてゐるのは、感服出來ない。
2385 あらたまの 五年ふれど 吾が戀ふる 跡無き戀の やまずあやしも
麁玉《アラタマノ》 五年雖經《イツトセフレド》 吾戀《ワガコフル》 跡無戀《アトナキコヒノ》 不止恠《ヤマズアヤシモ》
(麁玉)五年經ツテモ、ワタシノ戀ヒ慕ツ〔二字傍線〕テヰル、ハカナイ戀ガ止マナイノハ不思議ナコトダヨ。カナハヌ戀ニアキレテ、思ヒ切リサウナモノダノニ。我ナガラ不思議ダ〔カナ〜傍線〕。
○禦麁玉《アラタマノ》――枕詞。年とづつく。四四三參照。○跡無戀《アトナキコヒノ》――考にはシルシナキコヒゾとよんでゐる。跡無戀は、はかない戀といふに同じであらう。
(423)〔評〕五年といふ長年月を、甲斐ない戀に惱んで忘れ得ぬ腑申斐なさを、自から怪しんだのである。五年とあるのは、事實によつて作つたものであらう。
2386 いはほすら 行き通るべき ますら男も 戀とふ事は 後悔いにけり
石尚《イハホスラ》 行應通《ユキトホルベキ》 建男《マスラヲモ》 戀云事《コヒトフコトハ》 後悔在《ノチクイニケリ》
石デスラモ踏ミ分ケテ通ルヤウナ、勇マシイ〔四字傍線〕益荒男デモ、戀ト云フモノニハ後デ悔ムモノダヨ。
○行應通《ユキトホルベキ》――巖をも踏み破つて行くべき。男の強さをあらはしてゐる。
〔評〕 戀して後の苦しみには、勇猛な男子も勝ち得ないで歎くといふので、自らをその巖すら行き通るべき益荒夫に擬して、戀の苦を訴へてゐる。佳作。
2387 日暮れなば 人知りぬべみ 今日の日の 千歳の如も 在りこせぬかも
日位《ヒクレナバ》 人可知《ヒトシリヌベミ》 今日《ケフノヒノ》 如千歳《チトセノゴトモ》 有與鴨《アリコセヌカモ》
日ガ暮レテシマウト却ツテ人目ガ多クナツテ〔却ツ〜傍線〕、人ニ見ツカルカラ、夕方ニナルノガイヤデ〔夕方〜傍線〕、今日一日〔二字傍線〕ガ千年ノヤウニ永クアツテクレナイカナアト思フ〔三字傍線〕。
○日位《ヒクレナバ》――舊訓もかうなつてゐるが、位の字は誤であらう。西本願寺本などには促になつてゐる。恐らく低の誤か。新考は日並《ヒナラベバ》の誤としてゐる。
〔評〕 晝間に戀人に逢つてゐる時の作か。一二句の意味に、少し不明な點があるのは遺憾だ。
2388 立ちてゐて たどきも知らに 思へども 妹に告げねば 間使も來ず
立座《タチテヰテ》 態不知《タドキモシラニ》 雖念《オモヘドモ》 妹不告《イモニツゲネバ》 間使不來《マヅカヒモコズ》
立ツタリ坐ツタリシテ、何トシテヨイカ〔七字傍線〕方法モワカラヌ程ニ、ボンヤリシテ妻ヲ〔八字傍線〕思ツテヰルガ、妻ニハソレト〔三字傍線〕(424)告ゲテヤラナイカラ、妻カラハ〔四字傍線〕使モヨコサナイ。
○立座態不知《タチテヰテタドキヲシラニ》――舊訓タチヰスルワザモシラレズとある。態の字は集中、他に用例がないので、比較が出來ないが、卷十に長歌に立座多土伎乎不知《タチテヰテタドキヲシラニ》(二〇九二)とあり、卷十二にも立居田暗毛不知《タチテヰテタドキモシラニ》(二八八七)とあるから、これによるべきである。
〔評〕 上句は既に慣用の成句となつてはゐたやうだが、戀する人の煩悶の状が、よくあらはされてゐる。
2389 ぬば玉の この夜な明けそ 朱らひく 朝行く君を 待たば苦しも
烏玉《ヌバタマノ》 是夜莫明《コノヨナアケソ》 朱引《アカラヒク》 朝行公《アサユクキミヲ》 待苦《マタバクルシモ》
(烏玉)コノ夜ハ明ケルナヨ。(朱引)夜ガ明ケテ〔五字傍線〕朝ニナツテ〔四字傍線〕歸ツテ行カレルアナタガ、又夜ニナツテオイデニナルノ〔ガ又〜傍線〕ヲ待ツテ居ルノハ、苦シイヨ。夜ガ明ケナイデヰテクレ〔夜ガ〜傍線〕。
○烏玉《ヌバタマノ》――枕詞。黒につづくのが、轉じて夜につづいてゐる。○朱引《アカラヒク》――枕詞。朝にかかつてゐる。考は、赤く延くの意とし、古義は、ラを接尾語とし、ひくはひかるの約にて、赤光の意と解してゐる。ともかく、朝の明るさに言ひかけたのである。これを公《キミ》にかけて見る説は當つてゐまい。
〔評〕 烏玉《ヌバタマノ》と朱引《アカラヒク》と、相反對する感じを持つた枕詞を並べ、夜と朝とを對照してあるのは、作者の工夫である。
2390 戀するに 死するものに あらませば 吾が身は千度 死かへらまし
戀爲《コヒスルニ》 死爲物《シニスルモノニ》 有者《アラマセバ》 我身千遍《ワガミハチタビ》 死反《シニカヘラマシ》
戀ヲシテ死ヌモノナラバ、ワタシノヤウニアナタヲ戀シク思ツテヰルモノ〔ノヤ〜傍線〕ハ、千遍モ死ンデハ死ニ、死ンデハ死ニスルダラウ。
○死反《シニカヘラマシ》――幾度も死んでは死に、死んでは死にするであらうの意。
〔評〕 熱烈な表現。佳作。卷四の念西死爲物爾有麻世波千遍曾吾波死變益《オモフニシシニスルモノニアラマセバチタビゾワレハシニカヘラマシ》(六一三)はこれを學んだもの。
2391 玉ゆらに 昨日の夕べ 見しものを 今日の朝に 戀ふべきものか
(425) 玉響《タマユラニ》 昨夕《キノフノユフベ》 見物《ミシモノヲ》 今朝《ケフノアシタニ》 可戀物《コフベキモノカ》
ホンノ〔三字傍線〕暫クノ間ナガラ〔三字傍線〕、昨日ノタ方逢ツタバカリダノニ、今朝ニナツテアノ人ヲ〔四字傍線〕戀スルトイフコトガアルモノカ。コンナニ戀シイノハ我ナガラ不思議デタマラヌ〔コン〜傍線〕。
○玉響《タマユラニ》――久老はタマサカニと訓し、古義は烏玉《ヌバタマノ》の誤としてゐるが、定家の「玉ゆらの露もなみだもとどまらずなき人戀ふるやどの秋風」とあるによれば、タマユラといふ語も古く、さうしてそれは恐らくこの歌によつたものであらう。タマユラは暫しの意とせられてゐる。この歌では暫くとしては、少し穩やかでないやうでもあるが、「漸くのことで、ほんの暫くの間ながら」といふ意に解せば、無理はないやうである。併しタマユラとタマサカとは、同義の語かも知れない。略解には「物に付たる玉の相觸れて鳴る音也。さて其音の幽かなるを以て、すくなく乏き事に取てかくいふ也。後の露の玉ゆらなど言ひて、しばしばかりの事とするも、幽かなる意より轉じたる也」とあるが果してどうであらう。なほ玉響をタマユラと訓むのは、卷十に足玉母手珠毛由良爾織旗乎《アシタマモタタマモユラニオルハタヲ》(二〇六五)とあるところに説明したやうに、玉の響をユラニ又はモユラニといつたのに出たのである。
〔評〕 この下に昨日見而今日社間吾妹兒之幾許繼手見卷欲毛《キノフミテケフコソヘダテメワギモコガココダクツギテミマクシホシモ》(二五五九)とあるのと同意である。
2392 なかなかに 見ざりしよりは 相見ては 戀しき心 まして念ほゆ
中々《ナカナカニ》 不見有從《ミザリシヨリハ》 相見《アヒミテハ》 戀心《コヒシキココロ》 益念《マシテオモホユ》
逢ハナカツタ時ヨリモ、逢ツテカラハ、却ツテ戀シイ心ガ益シタ感ジガスル。
〔評〕 拾遺集の「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」と全く同意である。逢うていやます思が、なるほどとうなづかれるやうに詠んである。
2393 玉ぼこの 道行かずして あらませば ねもごろかかる 戀にはあはじ
玉桙《タマボコノ》 道不行爲《ミチユカズシテ》 有者《アラマセバ》 惻隱此有《ネモゴロカカル》 戀不相《コヒニハアハジ》
(426)(玉桙)道ニ出ナイデ閉ヂ籠ツテサヘ〔七字傍線〕ヰタナラバ、アノ人ニ逢ハナカツタラウカラ〔アノ〜傍線〕、コンナ熱烈ナ戀ニハ逢フマイノニ。外出シタ爲ニアノ人ニ逢ツテ、コンナ苦シイ思ヒヲスル〔外出〜傍線〕。
○惻隱此有《ネモゴロカカル》――惻隱は舊訓シノビニとよんでゐるが、考にネモゴロと訓んだのがよからう。ネモゴロは懇ろに、即ち心を痛めるやうな、熱烈なといふ意であらう。○戀不相《コヒニハアハジ》――舊訓コヒニアハマシヤとある。あまり用字が尠いので、いろいろに訓めるわけである。ここは考に從ふ。新訓にはコヒハアハザラムとある。
〔評〕 道行きぶりに人を見そめた戀の歌。戀の苦惱を主として詠んでゐる。
2394 朝影に 吾が身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて いにし子故に
朝影《アサカゲニ》 吾身成《ワガミハナリヌ》 玉垣入《タマカギル》 風所見《ホノカニミエテ》 去子故《イニシコユヱニ》
(玉垣入)仄カニ見タバカリデ、通リ過ギテ〔五字傍線〕去ツテシマツタ女ダノニ、私ハドウシテモソノ女ガ忘レラレズ〔私ハ〜傍線〕、私ノ體ハ朝日ニ映ル〔四字傍線〕影ノヤウニ〔三字傍線〕ニ、細々ト痩セ衰ヘテ〔八字傍線〕シマツタ。
○朝影《アサカゲニ》――朝日を受けた人影は、細長く映つて見えるから、身の瘠せることを、朝彰になるといふのである。○玉垣入《タマカギル》――枕詞。略解に垣は蜻の誤だといつてゐる。卷十二にこれと同歌があつて、玉蜻と書いてあるから、これも一理はあるが、垣入をカギルに訓ましめたのである。この枕詞の意は玉耀るで、珠の光のほんのりと※[火+幻]くを以て、ホノカニにつづくのである。○風所見《ホノカニミエテ》――入をこの句の頭に置いて訓むのはよくない。風をホノカニとよむのである。
〔評〕 瘠せたことを朝影になつたと歌つたものは集中に多い。殊にこの歌は卷十二の三〇八五に重出してゐる。これは正述心緒で、柿本人麿歌集之出なるに、卷十二のは寄物陳思の部に入れてあるのは、注意すべきである。なほ大日本靈異記に古非波未奈和我戸爾於知奴多萬可岐留波呂可邇美縁弖伊邇師古由惠邇《コヒハミナワガコニオチヌタマカギルハロカニミエテイニシコユヱニ》とあるのも、酷似した歌である。
2395 行けど行けど 逢はぬ妹ゆゑ 久方の 天の露霜に ぬれにけるかも
(427) 行々《ユケドユケド》 不相妹故《アハヌイモユヱ》 久方《ヒサカタノ》 天露霜《アメノツユジモニ》 沾在哉《ヌレニケルカモ》
イクラ行ツテモ逢ハナイ女ダノニ、私ハ懲リズニ出カケテ〔私ハ〜傍線〕、(久方)天カラ降ル〔四字傍線〕露ニ沾レタヨ。
○不相妹故《アハヌイモユヱ》――逢はざる妹なるものをの意。妹が殊更に逢はないのではなくて、逢ふことが出來ないのであらう。○天露霜《アメノツユジモニ》――ツユジモは露。アメノと添へたのは天より零るからである。
〔評〕 流麗至醇、あはれな情趣が溢れてゐる。まことに珠玉の響である。
2396 たまさかに 吾が見し人を いかならむ よしをもちてか 亦一目見む
玉坂《タマサカニ》 吾見人《ワガミシヒトヲ》 何有《イカナラム》依以《ヨシヲモチテカ》 亦一目見《マタヒトメミム》
コノ前ハ丁度〔六字傍線〕偶然ノコトデ、ワタシハ、アノ人ニ〔四字傍線〕逢ツタノダガ、アノ〔五字傍線〕人ヲ、ドウイフ口實ヲ以テ又一目逢フコトガ出來ル〔六字傍線〕ダラウカ。ドウカシテ一目デモヨイカラ逢ヒタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
○玉坂《タマサカニ》――卷九に邂爾《タマサカニ》(一七四〇)とあつたのと同じで、偶然にの意。
〔評〕何有依以《イカナラムヨシヲモチテカ》の二句が、この歌の中心點であらう。戀する人の誰もが考へさうなことである。
2397 しましくも 見ねば戀しき 吾妹子を 日にけに來れば 言の繁けく
暫《シマシクモ》 不見戀《ミネバコヒシキ》 吾妹《ワギモコヲ》 日日來《ヒニヒニクレバ》 事繁《コトノシゲケク》
一寸ノ間デモ見ナイデヰルト、戀シクテタマラナ〔六字傍線〕イ女ダノニ、毎日毎日ワタシガ尋ベテ〔七字傍線〕クルト、人ノ口ガ喧シイ。トイウテ逢ハズニハ居ラレズ、何トシタモノダラウ〔トイ〜傍線〕。
○吾妹《ワギモコヲ》――吾妹子なるものをの意。
〔評〕 情熱的な嘆息が、いたましい。
2398 年きはる 世まで定めて たのめたる 君によりてし 言の繁けく
(428)年切《トシキハル》 及世定《ヨマデサダメテ》 恃《タノメタル》 公依《キミニヨリテシ》 事繁《コトノシゲケク》
命ノ終ル世マデ變ルマイ〔四字傍線〕ト契ツテ、タヨリニシテヰルアナタノ爲ニ、世間ノ人ニ言ヒ騷ガレテ〔世間〜傍線〕評判ガ喧マシイ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
○年切《トシキハル》――略解に舊訓を改めて、年を玉の誤として、タマキハルとしてゐるが、もとのままでよい。年齡の極まること。即ち命の盡きる意。
〔評〕 用字數が僅か十字に過ぎない。字數の尠いのを以て特徴とする人麿集中でも、目立つてゐる。その爲に訓がいろいろに分れてゐる。名の立つのを歎く戀の歌。
2399 あからひく 膚も觸れずて 寢たれども 心をけしく 吾が念はなくに
朱引《アカラヒク》 秦不經《ハダモフレズテ》 雖寐《ネタレドモ》 心異《ココロヲケシク》 我不念《ワガモハナクニ》
私ハ障ガアルノデ、私ノ妻ノ〔私ハ〜傍線〕赤イ美シイ〔三字傍線〕膚ニモ觸レナイデ、近頃ハ獨〔四字傍線〕寢シテヰルガ、變心スルヤウナ薄情ナ心ヲ、私ハ持ツテヰナイヨ。
○朱引《アカラヒク》――枕詞と見る説もあるが、さうではなく、赤い色をしてゐる意であらう。二三八九參照。○秦不經《ハダモフレズテ》――秦《ハダ》は膚《ハダ》に借り用ゐてある。膚も觸れずに寢るとは、獨寢することである。○心異《ココロヲケシク》――古義には異心《ケシキココロ》と置換へて訓んでゐるが、もとのままがよい。
〔評〕 新考に「女の許には行きしかど、故ありて獨宿せしなり」とあるが、女の許へ行つたのではあるまい。さう見ては歌柄がわるくなる。
2400 いで如何に ここだ甚だし 利心の 失するまで念ふ 戀ふらくの故
伊田何《イデイカニ》 極太甚《ココダハナハダシ》 利心《トゴコロノ》 及失念《ウスルマデモフ》 戀故《コフラクノユヱ》
サア、ドウシテ、コンナニ〔四字傍線〕ヒドク甚ダシイノダラウ。私ハ〔二字傍線〕戀ヲシテヰルノデ、シツカリシタ心ガ無クナルホド(429)ニ戀シク〔三字傍線〕思ツテヰル。
○極太甚《ココダハナハダシ》――舊訓キハミハナハダとあるが、考はイトモハナハダ、宣長はネモコロゴロニとよんでゐる、極は極此疑《ココシカモ》(三二二)とあるから、極太《コゴダ》とよむ説がよいやうである。
〔評〕 語調のかはつた歌である。第一句が人に呼びかけて訊ねるやうになつてゐる。初句切と見ねはなるまい。
2401 戀ひ死なば 戀ひも死ねとや 我妹子が 吾家の門を 過ぎて行くらむ
戀死《コヒシナバ》 戀死哉《コヒモシネトヤ》 我妹《ワギモコガ》 吾家門《ワギヘノカドヲ》 過行《スギテユクラム》
焦レ死スルナラ、焦レ死セヨトイフ考デ〔四字傍線〕、ワタシノ愛スル〔三字傍線〕女ハ、家ヘハヨラズニ知ラヌ顔デ〔家ヘ〜傍線〕、ワタシノ家ノ門ヲ素通リニシテ行クノダラウ。薄情ナ女ダ〔五字傍線〕。
〔評〕戀死戀死哉《コヒシナバコヒモシネトヤ》の句は、前の二三七〇と、卷十五の三七八〇とにあつて、已に型が出來てゐたやうであるが、歌としては、それらの中でこれが一番勝れてゐる。
2402 妹があたり 遠く見ゆれば あやしくも 我はぞ戀ふる 逢ふ由をなみ
妹當《イモガアタリ》 遠見者《トホクミユレバ》 恠《アヤシクモ》 吾戀《ワレハゾコフル》 相依無《アフヨシヲナミ》
女ノ家ノ方ガ遙カニ見エルノデ、併シ女ニ〔四字傍線〕逢フベキ方法ガ無イノデ、自分ナガラ〔五字傍線〕不思議ナホド私ハアノ女ヲ〔四字傍線〕戀シク思フヨ。
○遠見者《トホクミユレバ》――略解・古義にトホクシミレバとあるのはよくない。舊訓による。
〔評〕 遙かに女の家を眺めて、逢ふよしなきを悲しんだものであらう。一般の場合を歌つたものとは見えない。
2403 玉久世の 清き河原に みそぎして いはふ命は 妹が爲なり
玉久世《タマクゼノ》 清河原《キヨキカハラニ》 身祓爲《ミソギシテ》 齋命《イハフイノチハ》 妹爲《イモガタメナリ》
玉久世ノ清イ河原デ御祓ヲシテ、ワタシノ〔四字傍線〕壽命ガ永イヤウニト祈ルノモ、コレ皆〔三字傍線〕女ト永ク連添ヒタイ〔八字傍線〕爲ダ。
(430)○玉久世清河原《タマクセノキヨキカハラニ》――玉久世は久世を褒めてかくも稱へたのであらう。久世は今、山城久世郡久津川村大字久世がある。山代久世乃鷺坂《ヤマシロノクセノサギサカ》(一七〇七)參照。宣長が山代久世能河原《ヤマシロノクセノカハラノ》の誤としたのは從ひ難い。古義にも略同樣なことを言つてゐる。但しあの附近に河といふべきはどのものが見えない。或は久世郷に近い山背川を指すか。なほ新考には山田孝雄氏説として、「新撰字鏡に瀧(加波良久世又和太利世又加太)とあるカハラとクセとは二語にて、ここのクセはその證とすべし。……久世は河原と同義にして水石相交る處をいふものと考へられる。その石の清きをたとへて玉クセといひ、やがて又キヨキ河原にと繰返したるものならむ」と掲げてゐる。これによれば極めて明瞭に解くことが出來る。なほ考ふべきである。○身祓爲《ミソギシテ》――身祓は身滌《ミソソギ》の略。○齋命《イハフイノチハ》――齋《イハ》ふは不淨を嫌ひ身を清く保つこと。それによつて無事なるを得るのである。命は吾が命。○妹爲《イモガタメナリ》――考にイモガタメコソと訓んでゐる。卷十二に贖命者妹之爲社《アガフイノチハイモガタメコソ》(三二〇一)とあるが、それに傚ふ必要はあるまい。
〔評〕 上代人の神に對する敬虔さ、何事にも神にすがらうとする態度が見える。和泉式部の「思ふこと皆つきねとて麻の葉を切りに切りてもはらへつるかな」「戀せじとみたらし川にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしな」などと對照して見ると面白い。
2404 思ふより 見るよりものは あるものを 一日のほども 忘れて念へや
思依《オモフヨリ》 見依物《ミルヨリモノハ》 有《アルモノヲ》 一日間《ヒトヒノホドモ》 忘念《ワスレテオモヘヤ》
ワキカラ〔四字傍線〕考ヘルヨリモ、側カラ〔三字傍線〕見ルヨリモ、物ハ實際ノ方ガ〔五字傍線〕ヒドイノデスノニ、表面ハドウ見エテモ〔九字傍線〕、一日ノ間デモ、私ハアナタヲ〔六字傍線〕忘レハシマセヌヨ。
○思依《オモフヨリ》――側より思ふよりもの意か。◇一日間忘念《ヒトヒノホドモワスレテオモヘヤ》――舊訓ヒトヒヘダツルワスルトオモフナとあり、考はヒトヒヘタツヲワスルトオモハムとあるが、代匠記精撰本に、初稿本の訓を改めて訓んだのに從ふことにした。
〔評〕 この歌も用字が曖昧で、訓が多樣に分れるのを遺憾とする。一二句の如きもなほ考ふべき餘地があるやう(431)に思はれる。
2405 垣ほなす 人は言へども 高麓錦 紐解きあけし 君ならなくに
垣廬鳴《カキホナス》 人雖云《ヒトハイヘドモ》 狛錦《コマニシキ》 ?解開《ヒモトキアケシ》 公無《キミナラナクニ》
垣根ノヤウニ繁ク口ヤカマシク〔八字傍線〕、人ハ私トアナタトノ間ヲ〔九字傍線〕噂スルガ、マダ私ハ〔四字傍線〕アナタト高麗錦ノ紐ヲ解キアケテ共寢ヲシ〔五字傍線〕タノデモナイノニ。ホントニイヤナ浮名ダ〔ホン〜傍線〕。
○垣廬鳴《カキホナス》――垣の如く。カキホは垣秀、垣の高きにつきていふ語。垣の繁きが如く、多くの人の言ひ騷ぐをいふ。卷九に垣保成人横辭《カキホナスヒトノヨコゴト》(一七九三)垣廬成人之誂時《カキホナスヒトノトフトキ》(一八〇九)とある。
〔評〕 その實なくて、浮名バかり高いのを恨んでゐる。かなり官能的である。
2406 高麗錦 紐ときあけて 夕べとも 知らざる命 戀ひつつかあら
む
狛錦《コマニシキ》 ?解開《ヒモトキアケテ》 夕戸《ユフベトモ》 不知有命《シラザルイノチ》 戀有《コヒツツカアラム》
私ノ命ハ〔四字傍線〕夕方マデ保ツトモワカラナイ命ダノニ、高麗錦ノ紐ヲ解キ開ケテ、戀人ニ逢フヤウナツモリデ〔戀人〜傍線〕、戀ヲシテヰルトイフコトガアラウカ。實ニハカナイタヨリナイコトダ〔實ニ〜傍線〕。
○夕戸《ユフベトモ》――考に戸は谷の誤として、ユフベダニと訓んだのが、廣く行はれてゐる。略解補正には戸は友の誤としてゐる。或は誤字かも知れないが、ここは舊訓を尊重して置く。
〔評〕 古義に「紐解開《ヒモトキアケテ》は思ふ人にあはむ前兆に、自ら紐の解ることあるを、その前兆にならひて、自設けてするならむ」とあるが、前兆云々の考はなく、ただ人に逢ふ時の氣分となつて紐を解くのである。戀故に命も絶えむばかりになつてゐる態が強調せられてゐる。三四句は佛教の無常觀ではあるまい。
2407 ももさかの 船こぎ入るる やうらさし 母は問ふとも その名はのらじ
(432)百積《モモサカノ》 船潜納《フネコギイルル》 八占刺《ヤウラサシ》 母雖問《ハハハトフトモ》 其名不謂《ソノナハノラジ》
私ト戀人トノ關係ヲ母ガ悟ツテ〔私ト〜傍線〕(百積船潜納)澤山ノ卜占ヲシテ、母ガソノ名ヲ指シテ尋ネテモ、決シテ私ハ〔五字傍線〕戀人ノ名ヲ言ヒマスマイ。
○百積船潜納《モモサカノフネコギイルル》――百積《モモサカ》は百尺、船の長さをいふ。大船のことであらう。積は借字である。古義にモモツミとよんで、「百の物を積載る大きなる船といふ義とせむかた穩なるべし」とあるのはよくない。コギイルルは舊訓カヅキイルルとあるが、船を浦に入れるのに、潜くことはあるまいと思はれるから、古義に潜を漕《コギ》の誤とした説に從つておかう。この二句はウラと言はむ爲の序詞で、浦を占に言ひかけたのである。○八占刺《ヤウラサシ》――八占は多くの占。多くの占にかけて、判斷するのである。
〔評〕 女が男に誓ふ語であらう。序詞が頗るおもしろく出來てゐる。上代人が何事をも占によつて決したことがわかる。
2408 眉根かき はなひ紐とけ 待つらむや 何時かも見むと 念ふ吾が君
眉根削《マヨネカキ》 鼻鳴?解《ハナヒヒモトケ》 待哉《マツラムヤ》 何時見《イツカモミムト》 念吾《オモフワガキミ》
人ニ戀セラレル時ハ、眉ガ痒クナツタリ、嚔ガ出タリ、着物ノ紐ガ解ケタリスルトイフコトダガ、私ガ〔人ニ〜傍線〕何時ニナツタラ逢ヘルカト戀ヒ焦レテ居ルアナタハ、眉ヲ掻イタリ、嚔ヲシタリ、衣服〔二字傍線〕ノ紐ガ解ケタリシナガラ、私ヲ〔二字傍線〕待ツテヰテ下サイマスカ、ドウデスカ〔五字傍線〕。
○眉根削《マヨネカキ》――卷四に無暇人之眉根乎徒令掻乍不相妹可聞《イトマナクヒトノマヨネヲイタヅラニカカシメツツモアハヌイモカモ》(五六二)卷六に月立而直三日月之眉根掻氣長戀之君爾相有鴨《ツキタチテタダミカヅキノマヨネカキケナガクコヒシキミニアヘルカモ》(九九三)とあり。人に戀せられる時、眉おのづから痒しといふ俗説による。○鼻鳴?解《ハナヒヒモトケ》――人に戀せられるれば、嚔《クサメ》出で、衣の紐おのづから解くといふ俗説による。○待哉《マツラムヤ》――舊訓を改めて、略解にマテリヤモとある。
(433)○念吾《オモフワガキミ》――これも略解に舊訓を改めて、オモヘルワギミとある。
〔評〕 吾が誠意が屆いて、君は吾に逢ふべき前兆を見て喜びつつあるらむかと想像したのである。略解には「男の妹許行て、妹に對ひて言へる也」とあるが、さうではあるまい。この下に問答の歌(二八〇八)に重出してゐるが、小異があるから、全然同一のものとして考へる必要はない。
2409 君に戀ひ うらぶれ居れば 悔しくも わが下紐の 結ふ手徒らに
君戀《キミニコヒ》 浦經居《ウラブレヲレバ》 悔《クヤシクモ》 我裏?《ワガシタヒモノ》 結手徒《ユフテイタヅラニ》
アナタヲ戀シク思ヒナガラ、心ニ悲シンデヰルト、私ノ下紐ガ結ンデモ結ンデモ解ケテ、紐〔ガ結〜傍線〕ヲ結ブ手モ空シク徒勞ニ歸シテヰルノハ殘念ダ。コレハアナタニ思ハレテヰルシルシダノニ、逢フコトガ出來ナイ〔コレ〜傍線〕。
○悔《クヤシクモ》――考に悔は怪、古義は恠の誤としてゐるが、原形を尊重しよう。○我裏?《ワガシタヒモノ》――裏?は衣の下の紐。表に見えぬ紐をいふ。○結手徒《ユフテイタヅラニ》――徒は舊訓タダニとあるが意が通じがたい。考は徒は倦の誤として、タユシモとよんでゐる。卷十二に言紐緒乃結手懈毛《ワガヒモノヲノユフテタユシモ》(三一八三)とあるから、これも一理ある説で、また懈の誤とも見ることが出來る。しかしここは原字を尊重して新訓に從ふ。
〔評〕 これも人に戀せられると、紐がおのづから解けるといふ俗説によつたもので、前兆のみあつて逢はれないのを悲しんだのである。閨怨の情がいたましい。
2410 あらたまの 年は果つれど 敷栲の 袖かへし子を 忘れて念へや
璞之《アラタマノ》 年者竟杼《トシハハツレド》 敷白之《シキタヘノ》 袖易子少《ソデカヘシコヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
(璞之)年ハ暮レテ今年モ終リ、アレカラ一年ニナル〔テ今〜傍線〕ガ(敷白之)袖ヲサシ交シテ共寢〔四字傍線〕シタ女ヲ、私ハ〔二字傍線〕忘レヨウヤ、決シテ忘レハセヌゾ〔九字傍線〕。
○璞之《アラタマノ》――枕詞。四四三參照。○敷白之《シキタヘノ》――枕詞。袖とつづく。七二參照。白の下に布が脱ちたのだらうと(434)略解にあるが、栲は白いものだから白をタヘとよませたのだ。卷十三に雪穗(三三二四)をタヘノホに用ゐてゐるのでも明らかである。○袖易子少《ソデカヘシコヲ》――少をヲの假名に用ゐてある。袖を交はして寢た女をの意。○忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》――忘れむや忘れはせじといふに過ぎない。
〔評〕 逢つてから已にかなりの月日が經つて、また今年も空しく終るかと歎いたので、これは風がはりな歳暮の歎である。後撰集の「物思ふと過る月日もしらぬ間に今年も今日にはてぬかと聞く」に似てゐる。
2411 白妙の 袖をはつはつ 見しからに かかる戀をも 我はするかも
白細布《シロタヘノ》 袖小端《ソデヲハツハツ》 見柄《ミシカラニ》 如是有戀《カカルコヒヲモ》 吾爲鴨《ワレハスルカモ》
アノ人ノ〔四字傍線〕(白細布)袖ヲホンノ一寸見タバカリデ、コンナ遣ル瀬ナイ〔四字傍線〕戀ヲ私ハスルコトヨ。碌々話モシナイデコンナ戀ニ陷ルトハ不思議ナコトダ〔碌々〜傍線〕。
○白細布《シロタヘノ》――枕訊。袖とつづく。○袖小端《ツデヲハツハツ》――小端をハツハツと訓むのは小端見《ハツハツニミテ》(一三〇六)・追出月端端《サシイヅルツキノハツハツニ》(二四六一)などの例がある。舊訓ハツカニとあるのはよくない。ハツハツは極めて僅かに、ほんの一寸などの意。○見柄《ミシカラニ》――考は舊訓を改めて、ミテシカラとしてゐる。見た故に。
〔評〕 ほのかに見て戀ふる歌。解し難い戀心を自から歎じてゐる。
2412 吾妹子に 戀すべなかり 夢に見むと 我は念へど 寐ねらえなくに
我妹《ワギモコニ》 戀無乏《コヒスベナカリ》 夢見《イメニミムト》 吾雖念《ワレハオモヘド》 不所寐《イネラエナクニ》
私ハ〔二字傍線〕吾ガ妻ガ戀シクテ仕方ガナイ。セメテ〔三字傍線〕夢ニデモ〔二字傍線〕見ヨウト私ハ思ツテモ、ヤハリ戀シサニ〔七字傍線〕眠ラレナイヨ。嗚呼困ツタコトダ〔八字傍線〕。
○戀無乏《コヒスベナカリ》――舊訓コヒテスベナミとある。卷十二に吾妹兒爾戀爲便名雁《ワギモコニコヒスベナカリ》(三〇三四)・卷十七に和賀勢故爾古非須弊奈賀利《ワガセコニコヒスベナカリ》(三九七五)とあるから略解の訓に從ふ。舊本乏を之に誤つてゐる。嘉暦本その他の古本乏に作つてゐる。戀(435)ひ術なかりは、戀シクテ仕方がないの意。
〔評〕卷五の宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》(八〇七)のやうに祈つて見ても、白氏の謂はゆる「孤燈挑盡未成眠」詩に「悠哉悠哉輾轉反側」とあるやうな状態なのをいふのである。
2413 故もなく 吾が下紐を 解けしめて 人にな知らせ ただに逢ふまで
故無《ユヱモナク》 吾裏?《ワガシタヒモヲ》 令解《トケシメテ》 人莫知《ヒトニナシラセ》 及正逢《タダニアフマデニ》
何ノ理由モナク自然ニ〔三字傍線〕、私ノ下紐ヲ解ケサセルガ、ソレハアナタガ、私ヲ思ツテヰテ下サル爲ト思フ。空シク浮名ガ立ツテハ困ルカラ〔ソレ〜傍線〕、直接ニ逢フマデハ、人ニ知ラセナイヤウニシテクダサイ。
○吾裏?令解《ワガシタヒモヲトケシメテ》――舊訓はワガシタヒモノトケタルヲとあり、古義は令を今として、ワガシタヒモゾイマトクルとしてゐるが、ここは代匠記に從ふ。○人莫知《ヒトニナシラセ》――この句も種々の訓があるが、古義のがよいやうである。
〔評〕 これも上句に、下紐のおのづから解けるのを、人に戀せらるるしるしとする、當時の俗説を取り入れてゐる。第三句で切る訓法が多いが、歌が古いから、なるべく三句切にしない方がよいであらう。
2414 戀ふること こころやりかね 出で行けば 山も川をも 知らず來にけり
戀事《コフルコト》 意追不得《ココロヤリカネ》 出行者《イデユケバ》 山川《ヤマモカハヲモ》 不知來《シラズキニケリ》
戀シイ戀シイ心ノ遣瀬ナサニ、家ヲ〔二字傍線〕出テ行クト、途中ノ〔三字傍線〕山モ川モ目ニ止ラズ〔五字傍線〕無我無中デ、此處マデヤツテ來タヨ。
○意追不得《ココロヤリカネ》――舊訓ナグサメカネテとあるのでも惡くはないが、文字のままによむがよからう。追は遣又は進の誤と考へられてゐる。金澤文庫本に追イ遣歟とあるからこれに從つて、古義の訓を採る。
〔評〕 初二句に多少の生硬さはあるが、戀に苦しむものの感傷と思慕とを嗟嘆的に表現して、縹渺たる神韻がただよつてゐる。
(436)寄(セテ)v物(ニ)陳(ブ)v思(ヲ)
2415 をとめらを 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 念ひけり我は
處女等乎《ヲトメラヲ》 袖振山《ソデフルヤマノ》 水垣乃《ミヅガキノ》 久時由《ヒサシキトキユ》 念來吾等者《オモヒケリワレハ》
(處女等乎袖振山水垣)久シイ以前カラ、私ハアナタヲ〔四字傍線〕思ツテヰマシタ。
○處女等乎《ヲトメラヲ》――考は乎を之《ノ》の誤とし、古義は乎《ヲ》を可としてゐる。○念來吾等者《オモヒケリワレハ》――舊訓オモヒキワレハ、略解モヒコシワレハ、古義オモヒコシアハとある。新訓に從ふ。
〔評〕 これは卷四の柿本朝臣人麿の歌、未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガゾデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》(五〇一)と同歌であるから、そこに讓つて評は繰返さぬことにした。寄神戀。
2416 ちはやぶる 神の持たせる 命をも 誰が爲にかは 長く欲りせむ
千早振《チハヤブル》 神持在《カミノモタセル》 命《イノチヲモ》 誰爲《タガタメニカハ》 長欲爲《ナガクホリセム》
(千早振)神ガ持ツテヰラレルモノデ、長クモ短カクモ出來ヌコノ壽〔モノ〜傍線〕命モ、強ヒテ長命スルイヤウニト〔強ヒ〜傍線〕誰ノ爲ニ長命〔傍線〕ヲ祈ラウゾ、唯アナタニ逢ヒタイ爲バカリダ〔唯ア〜傍線〕。
○神持在《カミノモタセル》――舊訓カミノタモテル、考は持は祷の誤とし、カミニノミタル、宣長はそれに從つて、カミニイノレルと訓んでゐる。ここは新訓による。
〔評〕 命を神の所有とし、神の御心のままに定まつてゐるといふ考は、純日本式のものであらうか。何となく佛教式の宿命觀のやうにも思はれる。寄神戀。
2417 石上 布留の神杉 神さびて 戀をも我は 更にするかも
(437)石上《イソノカミ》 振神杉《フルノカミスギ》 神威《カムサビテ》 戀我《コヒヲモワレハ》 更爲鴨《サラニスルカモ》
(石上振神杉)神サビテ年ヲトツテカラ〔七字傍線〕戀ヲ私ハ更ニスルコトカナア。若イ者ノヤウニ戀スルナドトハ老人ニ似合ハナイコトダガ、ホントニ思案ノ外ノモノダ〔若イ〜傍線〕。
○石上振神杉《イソノカミフルノカミスギ》――序詞。カムサビテとつづく。石上の布留の社の神杉。○神成《カムサビテ》――神の如くなりて。年老いて、神成をカムサビテと訓むのは神と成るの意であらう。
〔評〕これは卷十の石上振乃神杉神備西吾八更更戀爾相爾家流《イソノカミフルノカミスギカムサビテモワレヤサラサラコヒニアヒニケル》(一九二七)と酷似してゐる。同歌の異傳といつてもよい。寄神戀。
2418 如何ならむ 名に負ふ神に 手向せば 吾が思ふ妹を 夢にだに見む
何《イカナラム》 名負神《ナニオフカミニ》 幣嚮奉者《タムケセバ》 吾念妹《ワガオモフイモヲ》 夢谷見《イメニダニミム》
何ト云フ名ノ神ニ幣帛ヲ棒ゲテ祈ツ〔三字傍線〕タナラバ、私ガ戀シイト〔四字傍線〕思フ女ヲ、夢ニデモ見ルコトガ出來ヨウカ。逢ヘナイバカリカ夢ニモ見ラレナイトハ悲シイコトダ〔逢ヘ〜傍線〕。
○何名負神《イカナラムナニオフカミニ》――舊訓はイカナラムカミニとあり、代匠記初稿本ナニノナオフカミニ、考イカバカリナニオフカミニ、宣長は名は在の誤、負は皇の誤として、イカナラムスメガミニ、古義、安並雅景説、イカナラムナオヘルカミニ、新考イカナラムナヲオフカミニとあり、かくの如く多樣の訓に分れ、就中新考のが最もよいやうであるが、ナヲオフといふ用例は見えないやうだから、ナニオフとした。これは童蒙抄に一致してゐる。○幣嚮奉者《タムケセバ》――幣嚮奉の三字は義訓であらう。舊訓にヌサヲモタムケバカ、代匠記精撰本にヌサヲモタムケセバとあるのは、文字に即し過ぎる。
〔評〕 神に祈つてせめて、妹を夢にだに見むといふので、神への祈願の甲斐なさがかこたれてゐる。ここまでの四首は寄神戀の歌である。
2419 天地と いふ名の絶えて あらばこそ いましと我と 逢ふことやまめ
(438) 天地《アメツチト》 言名絶《イフナノタエテ》 有《アラバコソ》 汝吾《イマシトワレト》 相事止《アフコトヤマメ》
天地ト云フ名ガ無クナツテシマフコトガ〔六字傍線〕アルナラバ、私トアナタト逢フコトガ止ミモシヨウ。天地ノアラン限リハ如何ナルコトガアツテモ、二人ノ逢フ瀬ハ絶エマイゾヨ〔天地〜傍線〕。
○天地言名絶《アメツチトイフナノタエテ》――天地といふ名稱がなくなること。即ち天地の滅亡を意味してゐる。
〔評〕天地のあらむ限りといふべきを、天地言名絶有《アメツチトイフナノタエテアラバコソ》といつたのは面白い。天壤無窮といふ宏大悠遠な思想を、戀の表現に用ゐたのは珍らしく、歌品が大きくなつてゐる。寄天地戀。
2420 月見れば 國は同じぞ 山へなり うつくし妹は へなりたるかも
月見《ツキミレバ》 國同《クニハオナジゾ》 山隔《ヤマヘナリ》 愛妹《ウツクシイモハ》 隔有鴨《ヘナリタルカモ》
月ノ照リ輝イテヰル樣子〔ノ照〜傍線〕ヲ見レバ、月ノ影ハ同ジデ妻ノ處ト此處トハ〔月ノ〜傍線〕同ジ國ノ内ダゾ。シカシ〔三字傍線〕山ヲ相隔テテ居ルノデ、愛ラシイ妻トハ隔ツテヰルヨ。逢ヒタイケレドモ容易ニ逢ハレナイナア〔逢ヒ〜傍線〕。
○國同《クニハオナジゾ》――舊訓クニハオナジク、新考クニハオナジヲとあり、略解による。○山隔《ヤマヘナリ》――舊訓・新考はヤマヘダテとある。山が隔つての意。○愛妹《ウツクシイモハ》――略解はウルハシイモガとよんでゐる。
〔評〕月明に對して、愛妻を思ふあはれな歌。卷十八に古人云として、都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾婆伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》(四〇七三)とあるのは、この歌を指したものか。卷十五の安麻射可流比奈爾毛月波弖禮禮杼母伊毛曾等保久波和可禮伎爾家流《アマザカルヒナニモツキハテレレドモイモゾトホクハワカレキニケル》(三六九八)も同意である。寄山戀。
2421 くる路は 石ふむ山の なくもがも 吾が待つ君が 馬つまづくに
※[糸+參]路者《クルミチハ》 石蹈山《イハフムヤマノ》 無鴨《ナクモガモ》 吾待公《ワガマツキミガ》 馬爪盡《ウマツマヅクニ》
アチラカラ〔五字傍線〕來ル遺ニハ、岩ヲ蹈ミ分ケテ通ル〔五字傍線〕山ガ無ケレバヨイガナア。岩山ガアル爲ニ〔七字傍線〕私ガ戀シク思ヒナガラ〔八字傍線〕(439)待ツテヰル貴方ノ、乘ツテヰル〔五字傍線〕馬ガ躓クカラ。サゾ途中御難儀デアリマセウ〔サゾ〜傍線〕。
○※[糸+參]路者《クルミチハ》――※[糸+參]は旌旗の正幅又は旌旗の屬游の義で、ここに用ゐらるべくもない。又これが集中唯一の用字例であるから、恐らく誤であらう。代匠記に繰の誤としたのがよいであろう。古義は參の誤として、マヰリヂハと訓んでゐる。
〔評〕 山を隔てて通ひ來る男を待つ田舍少女の歌。やさしい女心と野趣とが溢れてゐる。寄山戀。
2422 石根ふみ へなれる山は あらねども 逢はぬ日まねみ 戀ひわたるかも
石根蹈《イハネフミ》 重成山《ヘナレルヤマハ》 雖不有《アラネドモ》 不相日數《アハヌヒマネミ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
私トアノ戀シイ人トノ家ノ間ニハ〔私ト〜傍線〕、岩根ヲ蹈ミ分ケテ行〔五字傍線〕、重ナル山ガアルノデハナイガ、逢ハナイ日ガ澤山アルノデ、戀シク思ツテ日ヲ送ルヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
○重成山《ヘナレルヤマハ》――舊訓カサナルヤマハとあるのでもよいが、古義にヘナレルとあるのがよいか。但し左に掲げた伊勢物語の歌によれば、カサナルの訓が古く行はれたのである。
〔評〕 これは前の歌とは全く關係なく、獨立したものである。新考に前の答としたのはよくない。伊勢物語に「いはねふみかさなる山にあらねどもあはぬ日おほく戀ひわたるかな」はこの古訓であらう。拾遺集には「いはねふみ重なる山はなけれども逢はぬ日かずをこひやわたらむ」と改め、坂上郎女の歌とあるは妄である。この歌、和歌童蒙抄にも出てゐる。
2423 路の後 深津島山 しましくも 君が目見ねば 苦しかりけり
路後《ミチノシリ》 深津島山《フカツシマヤマ》 暫《シマシクモ》 君目不見《キミガメミネバ》 苦有《クルシカリケリ》
(路後深津島山)暫クノ間モ、アナタノ御姿ヲ見ナケレバ、私ハ心ガ〔四字傍線〕苦シウゴザイマスヨ。
○路後《ミチノシリ》――道の口、道の中などに對した語で、國の奥の義。ここは吉備の國の後。即ち備後である。○深津島(440)山《フカツシマヤマ》――和名抄に備後國深津郡布加津とあるところで、續紀に「養老五年夏四月丙申、分2備後國安那郡1置2深津郡1。」とある。この郡は明治三十一年廢止し安那郡と合して、深安郡と稱してゐる。この島山は景行紀に、穴海とあるところの中央の島山であらう。その海は淺せて田圃となつてゐる。今の福山市附近の稍隆起したところが、古の島山の跡であらうかと言はれてゐる。ここまでの二句は序詞で、シマの音を繰返して、シマシクにつづいてゐる。
〔評〕 平易な歌である。備後地方の俚謠か。
2424 紐鏡 能登香の山は 誰ゆゑぞ 君來ませるに 紐あけず寢む
?鏡《ヒモカガミ》 能登香山《ノトカノヤマハ》 誰故《タレユヱカ》 君來座在《キミキマセルニ》 ?不開寐《ヒモアケズネム》
(紐鏡)能登香山ハ紐ヲ解クナト云フ名ノ山ダガ〔紐ヲ〜傍線〕、誰ノ爲ニコンナ名ヲ付ケタノ〔ニコ〜傍線〕カ、アナタガオイデナサツタノニ、紐ヲ開ケナイデ寢ルト云フコトガ出來ルモノデスカ。
(441)○紐鏡《ヒモカガミ》――枕詞。「な解か」を能登香に轉じてつづけてある。紐の附いた鏡で、その紐は解くことのないものであるから、かく連ねたのである。○能登香山《ノトカノヤマハ》――能登香の山は大日本地名辭書に引いた美作名所栞に「吉野粟井村、在國之東隅、連山四合、層巒疊※[山+章]、蜿蜒起伏、中有一山、清秀奇※[山+肖]、聳拔於衆山之表者、爲二子山、兩峯双峙、松樹蔽其嶺、葱欝相對、恰似〓生者、山有二祠、其在西北者、曰能等香神、能降膏雨、其在東南者、曰早風神、能鎭暴風、村民尊崇」とあり、津山町から見える二子山のことである。
〔評〕 美作地方の俚謠であらう。田舍少女の氣分だけに、かなり官能的である。能登香といふ山の名を巧に詠み込んである。
2425 山科の 木幡の山を 馬はあれど かちゆ吾が來し 汝を念ひかね
山科《ヤマシナノ》 強田山《コハタノヤマヲ》 馬雖在《ウマハアレド》 歩吾來《カチユワガコシ》 汝念不得《ナヲオモヒカネ》
私ハ馬ヲ持ツテハ居ルノダガ、馬ノ支度ヲサセル間モ待チ遠シクテ〔馬ノ〜傍線〕、アナタノコトガ戀シク遣瀬ナサニ、山科ノ木幡山ノ嶮岨ノ道〔五字傍線〕ヲモ、徒歩デヤツテ來マシタ。
○山科強田山《ヤマシナノコハタノヤマヲ》――山城の山科の木幡山。今の桃山丘陵の東側。舊訓ヤマニとあるが、考による。但しこの歌、拾遺集に、「こはたの里に」とあり、源氏物語浮舟に、「こはたの里に馬はあれど云々」とあり、謠曲通小町にも同樣に引かれてゐるから、或はもと里であつたかもしれない。さうならばニとある方が勝つてゐる。○歩吾來《カチユワガコシ》――舊訓カチヨリワレクとある。徒歩にての意。
〔評〕 汝念不得《ナヲオモヒカネ》と、徒歩で行くとの關係が少し曖昧である。馬で行かぬは人目を忍ぶ爲か、古來名高い歌である。寄山戀。
2426 遠山に 霞たなびき いや遠に 妹が目見ずて 吾が戀ふらくも
遠山《トホヤマニ》 霞被《カスミタナビキ》 益遐《イヤトホニ》 妹目不見《イモガメミズテ》 吾戀《ワガコフルカモ》
(遠山霞被)大サウ永イ間、愛スル〔三字傍線〕女ノ姿ヲ見ナイノデ、私ハ戀シク思ツテヰルヨ。
(442)○遠山霞被《トホヤマニカスミタナビキ》――序詞。さらぬだに遠き山に、霞がかかつて彌遠く見えるといふのである。新訓はトホヤマノカスミカカフリと訓んでゐる。○益遐《イヤトホニ》――上には距離の遠き意で、下には時間の長く經過したことに用ゐてある。
〔評〕 上品に出來た歌。序詞の用法が巧妙である。寄山戀。
2427 うぢ川の 瀬々のしき浪 しくしくに 妹が心に 乘りにけるかも
是川《ウヂカハノ》 瀬瀬敷浪《セゼノシキナミ》 布布《シクシクニ》 妹心《イモガココロニ》 乘在鴨《ノリニケルカモ》
(是川瀬漱敷浪)頻リニ妻ノ姿〔二字傍線〕ガ、ワタシノ〔四字傍線〕心ニ乘ツテ居ツテ、忘レル間ナク戀シク思ハレ〔ツテ〜傍線〕ルヨ。
○是川《ウヂカハノ》――舊訓コノカハノとあるが、ウヂカハと訓むべきである。和訓栞に是と氏と通する由を論じ、訓義辨證に、「これを舊訓にコノカハとよめるは、非なり、ウヂカハと訓べし、しかるを略解に、後世歌を設てよむには、上などに其地名なくて、此川此山などはよまず、はた次に宇治渡《ウヂノワタリ》ともあれば、かの氏上を是上ともかけるによりて、是川は則うぢ川と訓ならむと東滿翁の説もあれど、いにしへかゝる所、多くは其地に向ひてよめるからは、後の題詠とは違へり、しかればいづこにもあれ、さすよしありて、この川といへるなるべし、といへるは、今本の誤訓にまどはれたるものにて、ひがことなり、是と氏とはもとより通用の文字なれば、今も通じかけるものとして、ウヂカハとよむべき也。其通用の證は、儀禮士昏禮に、惟是〔右○〕三族之不虞とあるを白虎通宗族に、惟氏〔右○〕三族之不虞と作《カキ》、韓非子難三に、※[がんだれ/龍]※[米+間]氏〔右○〕之子とあるを、論衡非韓に、※[がんだれ/龍]※[米+間]是〔右○〕と作《カキ》、儀禮覲禮に、大史是右とある注に、古文是爲v氏也といひ、またこれを周禮射人の注に、大史是右と作《カケ》り、又漢書地理志下の注云、古字氏是〔二字右○〕同、後漢書李雲傳の注云、是與v氏古字通といへり、これらにて是氏〔二字右○〕通用を曉るべし、」とある。○瀬瀬敷浪《セゼノシキナミ》――瀬々に頻りに立つ浪。ここまでの二句は序詞で布布《シクシク》とつづいてゐる。
〔評〕卷二の東人之荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃荷之結爾毛妹情爾乘爾家留香問《アヅマビトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》(一〇〇)と下句が同じである。明晰な歌。寄河戀。
2428 ちはや人 宇治の渡の はやき瀬に 逢はずありとも 後は吾が妻
(443)千早人《チハヤヒト》 宇治度《ウヂノワタリノ》 速瀬《ハヤキセニ》 不相有《アハズアリトモ》 後我?《ノチハワガツマ》
(千早人宇治度)早イ時ニ逢ハナイデモ、後ニハ屹度〔二字傍線〕ワタシノ妻デスゾ〔三字傍線〕。
○千早人《チハヤヒト》――枕詞。いちはやく、即ち勇猛な人の義で、氏につづく。○宇治度《ウヂノワタリノ》――この句までは序詞で、ハヤキセニと言はむが爲のみ。○速瀬《ハヤキセニ》――速瀬は速き時。代匠記初稿本に「下にかも川の後瀬しづけみ後もあはむとよめる如く、人ことのしげきをはやせにたとへ、後瀬は次の瀬にてぬるければ人ことのやむにたとへて、今こそさはり有て、えあはずとも、後にもわが妻にせんといふ心なり」とあり、古義もこれに從つてゐる。人言のやかましき時の意もあらうが、早き時即ち今の内にといふ意が主であらうと思はれる。
〔評〕 枕詞ではあるが、千早人《チハヤビト》といつて、速瀬《ハヤキセニ》とつづけたのは、如何にも速さうな感じを與へてゐる。結句の名詞止が詠歎的で面白い。寄河戀。
2429 はしきやし 逢はぬ子ゆゑに いたづらに うぢ川の瀬に 裳裾ぬらしつ
早敷哉《ハシキヤシ》 不相子故《アハヌコユヱニ》 徒《イタヅラニ》 是川瀬《ウヂガハノセニ》 裳襴潤《モスソヌラシツ》
私ニハ〔三字傍線〕逢ハナイ私ノ〔二字傍線〕愛スル女ダノニ、是非逢ハウト思ツテ〔是非〜傍線〕空シク、宇治川ノ瀬ヲ渡ツテ〔四字傍線〕裳ノ裾ヲヌラシタ。
○早敷哉《ハシキヤシ》――愛する意。子にかかつてゐる。○裳襴潤《モスソヌラシツ》――略解・古義などにモノスソヌレヌとあるが、袖中抄にモスソヌラシツとあり、又下にも愛八師不相君故徒爾此川瀬爾玉裳沾津《ハシキヤシアハヌキミユヱイタヅラニコノカハノセニタマモヌラシツ》(二七〇五)とあるから、それに傚ふがよい。
〔評〕 つれない女に通ふあぢきなさを歌つてゐる。前の行行不相妹故久方天露霜沾在哉《ユケドユケドアハヌイモユヱヒサカタノアメノツユジモニヌレニケルカモ》(二三九五)に氣分が似てゐる。なほこの歌は右に掲げた二七〇五の異傳であらう。寄河戀。
2430 うぢ川の 水泡逆卷き 行く水の ことかへさずぞ 思ひそめてし
是川《ウヂカハノ》 水阿和逆纒《ミナワサカマキ》 行水《ユクミヅノ》 事不反《コトカヘサズゾ》 思始爲《オモヒソメテシ》
私ハアナタヲ〔六字傍線〕思ヒ始メテ、戀シク思ヒマスト口ニ出シ〔戀シ〜傍線〕タ上ハ、宇治川ノ水ノ泡ガ逆卷イテ流レテ再ビ返ラ〔五字傍線〕ナイ(444)ヤウニ、決シテ〔六字傍線〕言葉ヲ引込メテ止メルヤサナコトハナイ。必ズ希望ヲ貫キマス〔九字傍線〕。
○水阿和逆纒《ミナワサカマキ》――水泡逆卷き。激流の樣子である。○行水《ユクミヅノ》――流れ行く水の如くの意。ここまでを序詞とも見られるが、譬喩とするのがよからう。○事不反《コトカヘサズゾ》――事は言の借字、口に出しては後へは引かぬといふのだ。古義に「思案をめぐらさず二念なくと云意なり」とあるのは、少し違つてゐる。考がコトハカヘサジモヒソメタレバとよんだのは、おもしろくない。
〔評〕 上句の譬喩が適切で、句々に力がある。寄河戀。
2431 鴨川の 後瀬靜けく 後も逢はむ 妹には我は 今ならずとも
鴨川《カモガハノ》 後瀬靜《ノチセシヅケク》 後相《ノチモアハム》 妹者我《イモニハワレハ》 雖不今《イマナラズトモ》
今デナクトモ(鴨川後瀬)後ニナツテカラ、靜カニ私ハ女ニ逢ハウト思フ。
○鴨川後瀬靜《カモガハノノチセシヅケク》――鴨川は今の京都市を流れる賀茂川であらう。後瀬は下流の瀬。後の時期の意もある。第二句をも序詞と見る説が多いが、ノチセまでを序詞とすべきであらう。ノチセからシヅケクを間に置いてノチモにつづくのである。第一句は古義にカモガハハとよんでゐる。第二句は舊訓ノチセシヅケミ、考ノチセシヅカニ、古義ノチセシヅケシとある。ここは略解の訓による。
〔評〕山城地方の俚謠であらう。卷四の一瀬二波千遍障良比逝水之後毛將相今爾不有十方《ヒトセニハチタビサハラヒユクミヅノノチニモアハナムイマナラズトモ》(六九九)に少しく似てゐる。寄河戀。
2432 言に出でて 云はばゆゆしみ 山川の たぎつ心を せかへたりけ
言出《コトニイデテ》 云忌忌《イハバユユシミ》 山川之《ヤマガハノ》 當都心《タギツココロヲ》 塞耐在《セカヘタリケリ》
私ハ心ニ戀シク思ツテヰルガ〔私ハ〜傍線〕、口ニ出シテ言ツテハ憚ガアルノデ、山川ノヤウニ沸キ立ツ心ヲ、塞キトメテ耐ヘテ居タ。
(445)○云忌忌《イハバユユシミ》――ユユシはここでは忌みつつしむべき意。○塞耐在《セカヘタリケリ》――舊訓セキゾカネタルを始めとして、種々の訓があるが古義による。
〔評〕 卷七の名毛伎世婆人可知見山川之瀧情乎塞敢而有鴨《ナゲキセバヒトシリヌベミヤマガハノタギツココロヲセカヘタルカモ》(一三八三)とよく似てゐる。古今集の「足引の山下水のこがくれてたぎつ心をせきぞかねつる」は意は少し異なるが、取材が似てゐる。寄河戀。
2433 水の上に 數書く如き 吾が命 妹に逢はむと うけひつるかも
水上《ミヅノウヘニ》 如數書《カズカクゴトキ》 吾命《ワガイノチ》 妹相《イモニアハムト》 受日鶴鴨《ウケヒツルカモ》
水ノ上ニ數ヲ書クヤウナ、ハカナイ、タヨリニナラナイ〔ハカ〜傍線〕私ノ命ダノニ、ドウカシテ〔八字傍線〕女ニ逢ヒタイト思ツテ、ソレマデ命ノアルヤウニト〔ソレ〜傍線〕、神二誓ヲ立テテ祈ツタヨ。
○水上如數書《ミヅノウヘニカズカグゴトキ》――これは代匠記に、涅槃經の「是身無常念念不v住、猶如2電光暴水幻炎1亦如2畫v水随畫隨合1」の句を引いてゐるやうに、この經文などから出た譬喩である。○受日鶴鴨《ウケヒツルカモ》――ウケヒは受魂。神に祈つてその魂を受けて事を行ふこと。得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》(七六七)參照。
〔評〕 經文の句を巧にとり入れて、戀の歌ながら人の無常観をそそるものがある。古今集「行く水に數かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」はこれに傚つたものか。寄水戀。
2434 ありそ越え ほかゆく波の ほか心 我は思はじ 戀ひて死ぬとも
荒礒越《アリソコエ》 外往波乃《ホカユクナミノ》 外心《ホカゴコロ》 吾者不思《ワレハオモハジ》 戀而死鞆《コヒテシヌトモ》
私ハタトヘアナタヲ〔九字傍線〕戀シテ死ヌトテそ、(荒磯越外往波乃)他ノ人ニ心ヲ通ハスヤウナ〔他ノ〜傍線〕他《アダシ》心ハ、私ハ決シテ持チマセヌ。
○荒礒越外往波乃《アリソコエホカユクナミノ》――序詞。ホカとつづいてゐる。○外心《ホカゴコロ》――外に氣を移す誠なき心。下のオモハジにつづいて、外心を持たじの意。
(446)〔評〕 序詞は奔放な浮氣心を思はせるやうに、巧に出來てゐる。全體に情熱的氣分がただよつてゐる。寄海戀。
2435 淡海の海 奧つ白浪、知らねども 妹がりといはば 七日越え來む
淡海海《アフミノウミ》 奧白浪《オキツシラナミ》 雖不知《シラネドモ》 妹所云《イモガリトイハバ》 七日越來《ナヌカコエコム》
(淡海海奧白浪)妻モ家ノ場所刃〔七字傍線〕知ラナイケレドモ、妻ノ所ヘ行カレルト云フナラバ、七日モカカル海山ノ道モ〔八字傍線〕越エテ行カウト思フ。
○淡海海奧白浪《アフミノウミオキツシラナミ》――同意を繰返して、シラにつづく序詞。○雖不知《シラネドモ》――シラズトモの訓もある。○妹所云七日越來《イモガリトイハバナヌカコエコム》――宣長は或人説として、七日は直の誤でイモガリトイヘバタダニコエキヌと訓み、古義は之に從つてゐる。新訓にはイモガイヘラクナヌカコエコヨと訓んでゐるのは創意であらうが、遽かに採用し難い。七日は日數の多いこと。
〔評〕 訓法が種々に分れ、從つて解もいろいろあるが、右のやうに解くのが最も穩やかであらう。旅などで親しんだ女の故郷が、近江だと聞いて、男が詠んだものか。寄海戀。
2436 大船の 香取の海に 碇おろし 如何なる人か 物念はざらむ
大船《オホブネノ》 香取海《カトリノウミニ》 慍下《イカリオロシ》 何有人《イカナルヒトカ》 物不念有《モノオモハザラム》
(大船香取海慍下)ドンナ人ガ心ノドカニ〔五字傍線〕物思モセズニ暮シテ〔三字傍線〕ヰルデアラウカ。私ガカウシテ物思バカリシテ暮シテヰルイノニ〔私ガ〜傍線〕。
○大船《オホブネノ》――枕詞。大船の楫取《カトリ》の意でつづいてゐる。併しイカリオロシの主語にもなつてゐるやうに見える。○香取海《カトリノウミニ》――香取の海は下總の香取ではなくて、前後近江の歌であるから、卷七に何處可舟乘爲家牟高島之香取乃浦從己藝出來船《イヅグニカフナノリシケムタカシマノカトリノウラユコギデクルフネ》(一一七二)とある香取浦《カトリノウラ》と同所であらう。○慍下《イカリオロシ》――慍は碇の借字。集中に重石とかいたところもある。
(447)〔評〕これも序詞が極めて巧妙である。但し下の近江海奧滂船重下《アフミノウミオキコグフネニイカリオロシ》(二四四〇)、大船乃絶多經海爾重石下《オホフネノタユタフウミニイカリオロシ》(二七三八)など同一技巧である。殊に後者とは酷似した歌である。寄海戀。
2437 沖つ藻を かくさふ浪の 五百重浪 千重しくしくに 戀ひわたるかも
奥藻《オキツモヲ》 隱障浪《カクサフナミノ》 五百重浪《イホヘナミ》 千重敷敷《チヘシクシクニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
(奧藻隱障浪五百重浪)干重ニモ繁ク繁ク、私ハアノ人ヲ思ツテ〔九字傍線〕戀シツヅケテヰルヨ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
○奧藻隱障浪五百重波《オキツモヲカクサフナミノイホヘナミ》――序詞。五百重、千重とつづけてゐる。沖の藻を隱す浪の、五百重に立つ浪の意。カクサフは隱すの延言。
〔評〕 上句の序詞に、人目を忍ぶ戀の心をこめてゐるやうに見える。これも寄海戀。
2438 人言は しましぞ吾妹 綱手引く 海ゆ益りて 深くしぞ念ふ
人事《ヒトゴトハ》 暫吾妹《シマシゾワギモ》 繩手引《ツナデヒク》 從海益《ウミユマサリテ》 深念《フカクシゾオモフ》
人ガ喧マシク言フノハ暫時ノ間ダゾヨ。私ノ女ヨ。綱手ヲ引イテ舟ヲ漕〔五字傍線〕グ海ヨリモ以上ニ、私ハ深クアナタヲ〔四字傍線〕思ツテ居リマス。人ノ云フコトナドヲ心配セズニ、私ヲ信ジテヰテ下サイ〔人ノ〜傍線〕。
○人事暫吾妹《ヒトゴトハシマシゾワギモ》――人の口のやかましいのは暫らくの間なるぞの意。事は言の借字。宣長は暫は繁の誤として、ヒトコトノシケケキワギモ又はシケキワギモコと訓むべしといつてゐる。○繩手引《ツナデヒク》――綱手を引いて舟を漕ぎ行くの意。繩手《ツナデ》は綱手繩ともいふ。船の舳に附けて曳く綱。この句は、海と言はむ爲で、さして必要ではないが、枕詞と見ることは出來ない。○深念《フカクシゾオモフ》――考にフカクシオモホユ、新訓フカクシオモフヲとあり。舊訓が却つて穩やかだ。
〔評〕 我等の戀はやがて世に夫婦として認められるであらう。人の噂も暫らくだから辛抱せよと、女を勵ます男の歌。寄海戀。
2439 淡海の海 沖つ島山 奧まけて 吾が念ふ妹に 言の繁けく
(448) 淡海《アフミノウミ》 奧島山《オキツシマヤマ》
奧儲《オクマケテ》 吾念妹《ワガモフイモニ》 事繁《コトノシゲケク》
(淡海奧島山)奧深ク心ニ秘シテ〔五字傍線〕私ガ思ツテヰル女ノコトヲ、人ガ〔二字傍線〕口喧マシク騷グヨ。サテサテ困ツタコトダ〔サテサテ〜傍線〕。
○淡海奧島山《アフミノウミオキツシマヤマ》――淡海の湖水にある沖つ島山。奧島《オキツシマ》は延喜式神名帳に近江蒲生郡奧津島神社とあるところで、今の沖の島である。この二句は同音を繰返して、オクマケテにつづいてゐる。○奧儲《オクマケテ》――奥深く、心からの義。○事繁《コトノシゲケグ》――事は言の借字。世の人の口が喧しいの意。
〔評〕下に淡海之海奥津島山奥間經而我念妹之言繁苦《アフミノウミオキツシマヤマオクマヘテワガモフイモガコトノシゲケク》(二七二八)とあるのと同歌の異傳である。寄時戀。
2440 近江の海 沖こぐ船に 碇おろし をさめて君が 言まつ我ぞ
近江海《アフミノウミ》 奧滂船《オキコグフネニ》 重下《イカリオロシ》 藏公之《ヲサメテキミガ》 事待吾序《コトマツワレゾ》
(近江海奧滂船重下)落チツイテアナタカラ〔二字傍線〕ノ、色ヨイ〔三字傍線〕言葉ヲ私ハ待ツテヰマスヨ。
○近江海奧滂船重下《アフミノウミオキコグフネニイカリオロシ》――藏《ヲサメ》と言はむ爲の序詞。近江の湖の沖を漕ぐ舟に碇を下して、舟を動かぬやうにする意でつづくのであらう。イカリを重とのみ記したのは、下に重石下《イカリオロシ》(二七三八)とあるによれば、石の字脱ちたか、古葉略類聚鈔には石の字がある。○藏公之《ヲサメテキミガ》――舊訓カクレテキミガとあるが、藏の字はカクレとよんだ例はないから、玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》(三六〇)・苅將藏《カリテヲサメム》(一七一〇)・藏而師《ヲサメテシ》(三八一六)の例によつて、ヲサメとよむがよい。ヲサメテは心ををさめて、落ちついての意であらう。○事待吾序《コトマツワレゾ》――事は言の借字。君が言葉を待つ我なるぞの意。
〔評〕 上句は二四三六と二七三八とに似てゐる。集中に珍らしい序詞の取材で、民謠らしい氣分である。以上七首、寄海戀。
2441 こもり沼の 下ゆ戀ふれば すべを無なみ 妹が名告りつ 忌むべきものを
隱沼《コモリヌノ》 從裏戀者《シタユコフレバ》 無乏《スベヲナミ》 妹名告《イモガナノリツ》 忌物矣《イムベキモノヲ》
(隱沼)心ノ〔二字傍線〕下ニ籠メテ思ツテヰテハ苦シクテ〔四字傍線〕仕方ガナイノデ、憚ルベキコトトハ知リナガラ、女ノ名ヲ口ニ出(449)シテ言ツテシマツタ。人ニ悟ラレタラウ。困ツタコトヲシタ〔人ニ〜傍線〕。
〇隱沼《コモリヌノ》――枕詞。下《シタ》とつづく。隱沼は草にかくれて水の見えぬ沼。○從裏戀者《シタユコフレバ》――從裏《シタユ》は下《シタ》ニに同じ。○無乏《スベヲナミ》――戀無乏《コヒハスベナシ》(二三七三)參照。
〔評〕 この下の隱沼乃下爾戀者飽不足人爾語都可忌物乎《コモリヌノシタニコフレバアキタラズヒトニカタリツイムベキモノヲ》(二七一九)と同歌と言つてもよい。なほ卷十二の念西餘西鹿齒爲便乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》(二九四七)とも少し似てゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。寄沼戀。
2442 大土も とらば盡きめど 世の中に 盡きせぬものは 戀にしありけり
大土《オホツチモ》 採雖盡《トラバツキメド》 世中《ヨノナカニ》 盡不得物《ツキセヌモノハ》 戀在《コヒニシアリケリ》
大地デモ採ルト何時カハ〔四字傍線〕盡キルデアラウガ、世ノ中デ盡キナイ物ハ人戀シク思フ心〔五字傍線〕デアルヨ。私ノ戀ハドウシテモ盡キルコトハナイ〔私ノ〜傍線〕。
○大土《オホツチモ》――大土は大地といふに同じ。○採雖盡《トラバツキメド》――舊訓トレバツクレドとあるが、古義の訓による。
〔評〕思想壯大。格調亦雄偉。内容は似てゐるが、古今集の「わが戀はよむともつきじありそ海の濱の眞砂はよみ盡すとも」よりも力強い表現になつてゐる。この歌、和歌童蒙抄に見える。寄土戀。
2443 こもりづの 澤泉なる 石根をも 通してぞ念ふ 吾が戀ふらくは
隱處《コモリヅノ》 澤泉在《サハイヅミナル》 石根《イハネヲモ》 通念《トホシテゾオモフ》 吾戀者《ワガコフラクハ》
草ニ隱レテ見エナイ水ノ、澤ノ泉ガ、其處〔五字傍線〕ニアル岩根ヲモ通シテ溢レ流レルヤウニ〔八字傍線〕、私ハ勢烈シクアナタヲ〔八字傍線〕戀シテヰマス。
○隱處《コモリヅノ》――隱り水のの略。これについて古事記傳卷二十五に「隱處の處の字はもしは泉を誤れるにあらざるか。其故は處はドとこそよむべけれ、ヅとはよみがたし。ヅに此字をかくべきに非す。又ミヅを省きてはミとこそいへ。ヅといへる例を知らず。されば泉の字にてヅと訓てイヅミの省きならむか」とあるが、ミヅをミといふ(450)のは常のことであるが、略してヅといふこともないとは言ひ難い。コモリドといふ例は他にないのに、コモリヅは古事記には、許母理豆能志多用波閇都都《コモリヅノシタヨハヘツツ》」とあり、この下にも隱津之《コモリヅノ》(二七九四)とあるから、寧ろコモリヅとよむのが穩やかである。○澤泉在《サハイヅミナル》――澤泉は地名ではない。澤となりて流れる泉であらう。それが草などにかくれてゐるので、隱水のにつづけたあである。
〔評〕石をも通す水の力に、自分の戀を譬へたのは力強い。この歌下に隱津之澤立見爾有石根從毛達而念君爾相卷者《コモリヅノサハタヅミナルイハネユモトホシテオモフキミニアハマクハ》(二七九四)とあるのと、同歌の異傳であらう。寄石戀。
2444 白眞弓 石邊の山の ときはなる 命なれやも 戀ひつつをらむ
白檀《シラマユミ》 石邊山《イソベノヤマノ》 常石有《トキハナル》 命哉《イノチナレヤモ》 戀乍居《コヒツツヲラム》
(白檀石邊山)永久ニカハラナイ命デアラウカ、決シテサウデハナイ。ダカラ、徒ラニノンキナ〔決シ〜傍線〕戀ヲシテバカリ日ヲ〔二字傍線〕暮サウカ。サウ呑気ニバカリ待ツテハ居ラレナイ〔サウ〜傍線〕。
○白檀《シラマユミ》――枕詞。射の意で石邊山《イソベノヤマノにつづいてゐる。○石邊山《イソベノヤマノ》――石邊の山は、地名らしく思はれる。代匠記精撰本には「石邊山は近江の神崎郡にある由、彼國の者申しき。前後に近江をよめる歌多ければ、然るべきにや」といつてゐる。又初稿本には「今、石邊伊之敝といふ所にや」とも記してゐる。石に寄せた歌だから石の多いやうな山名を用ゐたのである。ここまでは常石《トキハ》といはむ爲の序詞。○命哉《イノチナレヤモ》――舊訓イノチナラバヤとあるが、略解に從ふ。新考にイノチニモガモとよんでゐるのに從ふ時は、意味が全然違つた歌になる。
〔評〕 石邊山の常石《トキハ》と、石を連らねたのが作者の工夫であらう。寄石戀としては巧に出來てゐる。
2445 淡海の海 しづく白玉 知らずして 戀せしよりは 今ぞまされる
淡海海《アフミノウミ》 沈白玉《シヅクシラタマ》 不知《シラズシテ》 從戀者《コヒセシヨリハ》 今益《イマゾマサレル》
(淡海海沈白玉)知ラナイデ戀ヲシテヰタ時ヨリモ、女ニ逢ツタ後ノ〔六字傍線〕今ノ方ガ戀ノ心ガ〔四字傍線〕増ツテヰルヨ。
○淡海海沈白玉《アフミノウミシヅクシラタマ》――序詞。シラの意を繰返して下につづいてゐる。代匠記初稿本に「白玉は浪の主なり」とあ(451)るのはよくない。やはり眞玉白玉などいふ白玉である。なほ代匠記精撰本に「沈白玉は第七に多くよめる親の深窓にこめて養なへる齋子《イハヒコ》の譬なり」とあるが、同音を繰返してゐるのみで白玉は譬喩にはなつてゐない。
〔評〕 音に聞いて戀したよりも、逢ひ見て更に戀が増さつたといふのである。拾遺集「逢ひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」の類である。寄玉戀。
2446 白玉を まきてぞ持たる 今よりは 吾が玉にせむ 知れる時だに
白玉《シラタマヲ》 纒持《マキテゾモテル》 從今《イマヨリハ》 吾玉爲《ワガタマニセム》 知時谷《シレルトキダニ》
私ハ今〔三字傍線〕、白玉ノヤウナ女〔五字傍線〕ヲ手ニ入レテ持ツテヰマス。後ハ兎モ角モ〔六字傍線〕知リ合ヒトナツタ時デモ、早速〔二字傍線〕、今カラハ私ノ掌中ノ〔三字傍線〕玉トシテ鍾愛〔四字傍線〕シヨウ。
○從今《イマヨリハ》――舊本、今を令に誤つてゐる。嘉暦本などの古本、多くは今に作つてゐるに從ふ。○知時谷《シレルトキダニ》――かく知り合ひとなつた時だにの意。
〔評〕 前歌と連作のやうでもあるが、さうではあるまい。これは女を白玉に譬へた諷喩の歌である。寄玉戀。
2447 白玉を 手にまきしより 忘れじと 念ひしことは いつか畢らむ
白玉《シラタマヲ》 從手纒《テニマキシヨリ》 不忘《ワスレジト》 念《オモヒシコトハ》 何畢《イツカヲハラム》
白玉ノ如キ女〔四字傍線〕ヲ手ニ入レテ、ソノ時〔三字傍線〕カラ、コノ女ヲ〔四字傍線〕忘レハスマイト心ニ〔二字傍線〕思ツタコトハ、何時ニナツテ止ムコトゾ。決シテヤムマイト思フ〔決シ〜傍線〕。
○何畢《イツカヲハヲム》――舊訓イツカヤムベキとあり。宣長は畢は異の誤として、イツカカハラムとよんでゐる。畢の字、集中の歌に他の用例がないが、文中などではヲハルと訓むを常とするから、ここは代匠記初稿本の書入に從ふ。
〔評〕 これも前の歌と同じく、女を白玉に譬へた歌である。前の連作のやうに見える、寄玉戀。
2448 ぬば玉の 間開けつつ 貫ける緒も くくりよすれば 後逢ふものを
烏玉《ヌバタマノ》 間開乍《アヒダアケツツ》 貫緒《ヌケルヲモ》 縛依《ククリヨスレバ》 後相物《ノチモアフモノヲ》
(452)黒玉ノ、間ヲ離シテ貫イタ糸モ、結ビヨセルト、後デハ一緒ニナルノニ、今ハ我等モ離レテヰルガ、後デ逢ヘナイモノデモアルマイ〔今ハ〜傍線〕。
○烏玉《ヌバタマノ》――舊訓この歌の上句を、ヌハタマノヒマシラミツツヒモノヲノとよみ、代匠記初稿本に烏玉を夜のことに解してゐるのは當らない。この語は枕詞として用ゐるのが常であるが、ここは射干玉即ち檜扇草の玉のことであらう。あの草の實も玉として、弄ばれたものと見える。考に烏を白の誤とし、これに從ふ説が多いのは遺憾である。○間開乍《アヒダアケツツ》――間をあけるとは、間隔を置いての意か。その他に管玉などを混へて貫いた玉の緒であらう。○縛依後相物《ククリヨスレバノチアフモノヲ》――四句は考に、五句は代匠記精撰本の訓による。舊訓はムスヒテシヨリノチアフモノカとあり、袖中抄も同樣になつてゐる。
〔評〕 これも諷喩の歌で、今こそ逢へないが、後には必ず逢はうと期待するのである。寄玉戀。
2449 香具山に 雲居たなびき おほほしく 相見し子らを 後戀ひむかも
香山爾《カグヤマニ》 雲位桁曳《クモヰタナビキ》 於保保思久《オホホシク》 相見子等乎《アヒミシコラヲ》 後戀牟鴨《ノチコヒムカモ》
(香山爾雲位桁曳)ボンヤリトカスカニ、相逢ウタ女ヲ、私ハ〔二字傍線〕後デ戀シイト思フデアラウカナア。アア名殘惜シイ〔七字傍線〕。
○香山爾雲位桁曳《カグヤマニクモヰタナビキ》――序詞。オホホシクとつづいてゐる。雲位《クモヰ》は雲に同じ。桁は棚と同義に用ゐてゐる。
〔評〕 大和の平原に住む人の歌であらう。のんびりした穩やかな、平明な作。寄雲戀。
2450 雲間より さ渡る月の おほほしく 相見し子らを 見むよしもがも
雲間從《クモマヨリ》 狹徑月乃《サワタルツキノ》 於保保思久《オホホシク》 相見子等乎《アヒミシコラヲ》 見因鴨《ミムヨシモガモ》
(雲間從狹徑月乃)ボンヤリト一寸、逢ウタ女ヲ、再ビ〔二字傍線〕見ル方法ハナイカナア。ドウモ一寸見タバカリダガ戀シクテ仕方ガナイ〔ドウ〜傍線〕。
(453)○雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》――序詞。オホホシクとつづく意は明らかである。
〔評〕 これも穩やかな平明な歌。愛慕の情が急迫してゐない。寄雲戀。
2451 天雲の 依り合ひ遠み あはずとも こと手枕を 我はまかめや
天雲《アマグモノ》 依相遠《ヨリアヒトホミ》 雖不相《アハズトモ》 異手枕《コトタマクラヲ》 吾纏哉《ワレハマカメヤ》
此處トアノ人ノ處トハ〔此處〜傍線〕、天ノ雲ガ地ト接スル所ノヤウニ、遠ク隔テテ二人ハ〔六字傍線〕相逢ハヌニシテモ、私ハ他ノ女ノ〔二字傍線〕手枕ヲシテ寢〔二字傍線〕ヨウヤ、決シテソンナコトハシナイ〔決シ〜傍線〕。
○天雲依相遠《アマグモノヨリアヒトホミ》――天の雲が地に依り合ふところは遠き大地の極《ハテ》で、そのやうに遠くの意であらう。諸説に天の雲が隔つて、寄り合ひ難き意としてゐるのは誤つてゐる。古義に「天の雲と國土とはるかに離れ隔りて、依合ふ事の遠きよしのつづけなるべし」とあるのは、なほ少し異なつてゐる。これを序詞と見るのはよくない。○異手枕《コトタマクラヲ》――舊訓アタシタマクラとあるのも惡くはないが、異の字アダシの用例が見當らないから、コトとよんだ新訓に從ふ。
〔評〕 上句は祝詞に見える「青雲のたなびく極白雲のおりゐむか伏す限」といふやうな語句と同一氣分で、雄大な感がある。格調も亦勁健。寄雲戀。
2452 雲だにも しるくしたたば こころやり 見つつも居てむ ただに逢ふまでに
雲谷《クモダニモ》 灼發《シルクシタタバ》 意追《ココロヤリ》 見乍爲《ミツツモヰテム》 及直相《タダニアフマデニ》
人戀シイ心ヲ慰メル方法モナイガ〔人戀〜傍線〕、雲デモソチラニ〔四字傍線〕著シク立ツタナラバ、ソレヲ〔三字傍線〕直接ニ女ト〔二字傍線〕粁逢フマデ、心ナグサメニ見テ居リマセウ。
○意追《ココロヤリ》――舊訓ナグサメニとあるが、意追不得《ココロヤリカネ》(二四一四)の例によつて、ココロヤリと訓むべきである。
〔評〕 せめてそなたの雲を眺めて、戀しい人を偲ばうといふので、まことにやさしい情緒があらはれてゐる。齊明(454)紀の、皇孫建王が薨じ給うた時、天皇の詠ませ給へる伊麻紀那屡乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屡倶之多多婆那爾柯那皚柯武《イマキナルヲムレガウヘニクモダニモシルクシタタバナニカナゲカム》と似たところがある。寄雲戀。
2453 春楊 葛城山に たつ雲の 立ちてもゐても 妹をしぞ念ふ
春楊《ハルヤナギ》 葛山《カヅラキヤマニ》 發雲《タツクモノ》 立座《タチテモヰテモ》 妹念《イモヲシゾオモフ》
(春楊葛山發雲)立ツテモ座ツテモ、タダ愛スル〔五字傍線〕女ノコトヲ私ハ〔二字傍線〕思ツテ居リマス。
○春楊《ハルヤナギ》――枕詞。葛《カヅラ》につづく。春の柳の細い枝を、※[草冠/縵]として頭を飾つたからである。卷五に波流楊那宜可豆良爾乎利志《ハルヤナギカヅラニヲリシ》(八四〇)とある。ここはカヅラキまでにかかるとも見られるが、卷五の例と同樣に見るべきであらう。○春山發雲《カヅラキヤヤニタツクモノ》――葛の下、城を略したのであらう。ここまでの三句は序詞。タツの音を繰返してゐる。
〔評〕 卷十の秋去者鴈飛越龍田山立而毛居而毛君乎思曾念《アキサレバカリトビコユルタツタヤマタチテモヰテモキミヲシゾオモフ》(二二九四)・卷十二の遠津人獵道之池爾住鳥之立毛居毛君乎之曾念《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノタチテモヰテモキミヲシゾオモフ》(三〇八九)と同型の歌。寄雲戀。
2454 春日山 雲居がくりて 遠けども 家は思はず 君をしぞ念ふ
春日山《カスガヤマ》 雲座隱《クモヰガクリテ》 雖遠《トホケドモ》 家不念《イヘハオモハズ》 公念《キミヲシゾオモフ》
私ノ故郷ノ〔五字傍線〕春日山ハ雲ニ隱レテ遠ク離レテヰルガ、私ハソノ遠イ〔六字傍線〕家ノコトハ思ハナイデ、タダ目ノ前ノ〔四字傍線〕アナタバカリヲ思ツテヰマス。
○雲座隱《クモヰガクリテ》――雲座《クモヰ》は雲。
〔評〕 旅にある奈良人が、女を得て詠んだのであらう。この歌、拾遺集に「春日山雲ゐがくれて遠けれど家は思はず君をこそ思へ」人麿として出てゐる。寄雲戀。
2455 吾が故に 云はれし妹は 高山の 峯の朝霧 過ぎにけむかも
我故《ワガユヱニ》 所云妹《イハレシイモハ》 高山《タカヤマノ》 岑朝霧《ミネノアサギリ》 過兼鴨《スギニケムカモ》
(455)ワタシノ爲ニ、人ニ噂ヲサレタ女ハ、ソレヲ苦ニシテ〔七字傍線〕高山ノ峯ノ朝霧ノ消エル〔三字傍線〕ヤウニ、死ンデシマツタダラウカナア。ドウデアラウ、心配ナコトダ〔ドウ〜傍線〕。
○高山之《タカヤマノ》――卷一の高山波《カグヤマハ》(一三)の例によれば、カグヤマノとよむべきやうにも思はれるが、しばらく從來の説に從つて置かう。○過兼鴨《スギニケムカモ》――過《スギ》は死ぬこと。代匠記精撰本に「高山の朝霧の晴過る如く我を思ふ心を過しやりても忘けむかの意なり」とあり、舊説多くこれに從つてゐるが、卷一の黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》(二〇七)とあるやうに、ここでは死と見るべきである。
〔評〕 舊説のやうに解すれば、まことに生ぬるい歌であるが、右の如く見れば悲しい戀に泣き濡れた男の、涙の聲である。内容もあまり類がない。寄霧戀。
2456 ぬばたまの 黒髪山の 山草に 小雨零りしき しくしく思ほゆ
烏玉《ヌバタマノ》 黒髪山《クロカミヤマノ》 山草《ヤマスゲニ》 小雨零敷《コサメフリシキ》 益益所念《シクシクオモホユ》
(烏玉黒髪山山草小雨零敷)彌繁ク物思ガ増シマス。
○烏玉《ヌバタマノ》――枕詞。黒とつづく。八九參照。○黒髪山《クロカミヤマノ》――奈艮市の北方、佐保山の一部。黒玉之玄髪山乎《ヌバタマノクロカミヤマヲ》(一二四一)參照。○山草《ヤマスゲニ》――草をスゲとよむべき理由がないやうでもあるが、クサとよんではふさはしくないやうだから、舊訓を尊重しよう。古義は草は菅の誤としてゐる。○小雨零敷《コサメフリシキ》――この句までは序詞で、シキの音を繰返して、シクシクとつづけてゐる。○益益所思《シクシクオモホユ》――シクシクは重く重く、頻りにの意。
〔評〕 歌意はただ最後の一句のみである。併し名もなつかしい黒髪山、それは若い女を思はしめる。その山に生えてゐるなよなよした山菅の葉に、しとしとと小雨が降り注ぐ。それだけを聞いても人の心はしんみりとしてしまふ。この物靜かな柔らかな景色を思ひ浮べさせて置いて、シクシクオモホユと言つたのは、實に繊細な巧緻な作品である。蓋し序詞の用を極點まで效果あらしめたもので、戀になやむ人の姿が目に浮んで來るやうに詠まれてゐる。傑作。寄雨戀。
2457 大野に 小雨ふりしく 木のもとに 時時よりこ 吾が念ふ人
(456) 大野《オホヌニ》 小雨被敷《コサメフリシク》 木本《コノモトニ》 時依來《トキドヨリコ》 我念人《ワガオモフヒト》
時々私ノ所ヘ(大野小雨被敷木本)依ツテ來ナサイヨ、私ノ思フ人ヨ。
○大野《オホヌニ》――舊訓オホノラノ、代匠記精撰本オホノラニとある。○木下《コノモトニ》――木の下に。ここまでの三句は序詞。次の句のヨリコにつづいてゐる。○時依來《トキドキヨリコ》――舊訓トキトヨリコヨとあるのも惡くはないが。略解に從ふ。時々は依つておいでなさいの意。
〔評〕 序詞は廣い野で雨に遭つた人が、大樹の下に寄り來る情景を思はしめる。柔らかい感じの歌。寄雨戀。
2458 朝霜の けなばけぬべく 念ひつつ いかでこの夜を 明しなむかも
朝霜《アサシモノ》 消消《ケナバケヌベク》 念乍《オモヒツツ》 何此夜《イカデコノヨヲ》 明鴨《アカシナムカモ》
(朝霜)消エルナラ命モ〔二字傍線〕消エヨト思ヒナガラ、私ハ〔二字傍線〕ドウシテコノ夜ヲ明サウカヨ。トテモコノ夜ヲ明シカネル。アア困ツタ〔トテ〜傍線〕。
○朝霜《アサシモノ》――枕詞。消《ケ》とつづく。○消消《ケナバケヌベク》――舊訓ケナバケナマクとあるが、略解に從ふ。○何此夜《イカデコノヨヲ》――宣長は何は待の誤で、マツニコノヨヲであらうと言つてゐる。
〔評〕 極端な語句を用ゐて、獨寢の淋しさをあらはしてゐる。寄霜戀。
2459 吾が背子が 濱行く風の いやはやに はや事なさば いや逢はざらむ
吾背兒我《ワガセコガ》 濱行風《ハマユクカゼノ》 弥急《イヤハヤニ》 急事《ハヤコトナサバ》 益不相有《イヤアハザラム》
私ノ夫ガ(濱行風)愈々急ニ急イデ事ヲヤツタラ、イヨイヨ逢フコトガ出來ナカラウ。吾夫ヨ急ガズニユクリシテ、時節ヲ待ツテオイデナサイ〔吾夫〜傍線〕。
○濱行風《ハマユクカゼノ》――彌急《イヤハヤ》と言はむ爲の序詞。○急事益不相有《ハヤコトナサバイヤアハザラム》――舊訓ハヤコトマシテアハズヤアラムとあるが、意(457)が通じ難い。古義は事の下、成の字脱トシテ補つてゐる。急いで逢はうとしては、却つて益々逢はれぬであらうの意。
〔評〕 女らしい、つつましやかな戀の態度である。三句以下にヤの音を繰返してゐるのは偶然か。寄風戀。
2460 遠づまの 振さけ見つつ しぬぶらむ この月の面に 雲なたなびき
遠妹《トホヅマノ》 振仰見《フリサケミツツ》 偲《シヌブラム》 是月面《コノツキノオモニ》 雲勿棚引《クモナタナビキ》
遠ク離レテヰル〔六字傍線〕妻ガ、仰イデ見テハ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シテ、ナツカシガツテヰルデアラウコノ月ノ上ニ、雲ヨ、棚引クナヨ。
〔評〕 明噺な歌。下の吾背子之振放見乍將嘆清月夜雲莫田名引《ワガセコガフリサケミツツナゲクラムキヨキツクヨニクモナタナビキ》(二六六九)と同歌の異傳である。寄月戀。
2461 山の端に さし出づる月の はつはつに 妹をぞ見つる 戀しきまでに
山葉《ヤマノハニ》 追出月《サシイヅルツキノ》 端端《ハツハツニ》 妹見鶴《イモヲゾミツル》 及戀《コホシキマデニ》
ワタシハ折角女ニ逢ツタガ、ヤハリ〔ワタ〜傍線〕戀シイト思フホドニ、(山葉追出月)ホンノ一寸、女ニ逢ヒマシタヨ。
○山葉追出月《ヤマノハニサシイヅルツキノ》――端端《ハツハツ》と言はむ爲の序詞。考に追は進の誤としてゐる。金澤文庫本は進に作つてゐる。宣長は照の誤として、テリイヅルツキノであらうといつてゐる。追は意追不得《ココロヤリカネ》(二四一四)などヤリに用ゐてあるから、サシとよんでも無理ではあるまい。○端端《ハツハツニ》――一寸、ほんの少しばかり、小端見「《ハツハツニミテ》(一三〇六)の如く、小端ともしるしてある。○及戀《コヒシキマデニ》――宣長は及を後の誤として、ノチコヒムカモと訓んでゐる。もとのままで、折角逢ひながら、短い會見であつたので、なほ戀しさのかはらぬことを言つたものと見るべきであらう。
〔評〕 逢うてなほ飽き足らぬ戀。山の端にさし出づる月は、巧に用ゐられてゐる。寄月戀。
2462 吾妹子し 我を念はば まそ鏡 照り出づる月の 影に見え來ね
我妹《ワギモコシ》 吾矣念者《ワレヲオモハバ》 眞鏡《マソカガミ》照出月《テリイヅルツキノ》 影所見來《カゲニミエコネ》
(458)私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ガ私ヲ思フナラバ、(眞鏡照出月)幻トナツテ目ノ前ニチラツイテ〔九字傍線〕見エヨ。
○眞鏡《マソカガミ》――枕詞。照りとつづいてゐる。○照出月《テリイヅルツキノ》――新考にテルミカヅキノと訓んだのはその意を得ぬ。月の影とつづく。この二句は序詞である。○影所見來《カゲニミエコネ》――考に「面影にあらず。右のはつはつにといふ如くほのかにだにも見え來よといふ也」とあるが、やはり面影の意に見るべきである。
〔評〕 女の言葉の通り、果して我を念ふならば、その姿が幻となつてあらはれよ。それで女の誠意を知り、又自から慰めようと言ふのである。ここの月は寄せる意が極めて薄い。寄月戀。
2463 久方の 天てる月の 隱りなば 何になぞへて 妹をしぬばむ
久方《ヒサカタノ》 天光月《アマテルツキノ》 隱去《カクリナバ》 何名副《ナニニナゾヘテ》 妹偲《イモヲシヌバム》
今迄ハ月ヲ、愛スル女ト思ツテ眺メテヰタガ〔今迄〜傍線〕(久方)空ヲ照ス月モ隱レタナラバ、コレカラハ、何ニナゾラヘテ女ヲ思ヒ出サウ。何モナゾラヘルモノガナイ〔何モ〜傍線〕。
○隱去《カクレナバ》――舊訓を改めて、略解カクレイヌ、古義カクロヒヌとあるのは却てよくない。三句で切る必要はないところである。
〔評〕 何といふあはれな歌であらう。月に對して離れた女を思ふ夜、ふとその月の傾きかかつたのに驚いて、ああこの月が没したならばと嗟嘆したもの。古義に「てる月の光を見愛つつ居ると人には云へ、實は妹が戀しく思はるるに堪かねて、外に出て居しにやうやうその月も西の山の端に隱れはてぬれば、今は何を見つつ賞愛して内へもいらずに居ると人に、なぞらへことよせていはむぞとなり」とあるのは、卷十二に足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシビキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》(三〇〇二)とあるに傚つたものか。ここには當てはまらない。格調亦優婉、明澄。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。寄月戀。
2464 三日月の さやにも見えず 雲隱り 見まくぞ欲しき うたてこの頃
若月《ミカヅキノ》 清不見《サヤニモミエズ》 雪隱《クモガクリ》 見欲《ミマクゾホシキ》 宇多手比日《ウタテコノゴロ》
(459)三日月ガ雲ニ隱レテハツキリ見エナイヤウニ、私ハ逢ヒタイト思ツテヰル女ニ逢フコトガ出來ナイノデ〔ヤウ〜傍線〕、コノ頃ハ更ニ一層見タイト思ハレル。
○宇多手比日《ウタテコノゴロ》――卷十の菟楯頃者《ウタテコノゴロ》(一八八九)に同じく、更に一層などの意。
〔評〕 三日月の雲に隱れて見えないのを、女に逢はれない譬喩としてゐる。寄月戀。
2465 吾がせこに 吾が戀ひをれば 吾がやどの 草さへ思ひ うら枯にけり
我背兒爾《ワガセコニ》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 吾屋戸之《ワガヤドノ》 草佐倍思《クササヘオモヒ》 浦乾來《ウラガレニケリ》
私ノ夫ヲ私ガ戀シガツテ居ルト、私ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕草サヘモ、思ニ惱ンデ葉ガ〔六字傍線〕枯レテシマツタヨ。
○浦乾來《ウラガレニケリ》――浦は末の借字。ウラガレは梢・末葉などの枯れること。
〔評〕 秋たけて、草がうらがれたのを眺めて、自分の物思に草さへも枯れたと驚いたので、永い秋の間を戀の煩悶に暮らし、身心憔悴困憊した状態があらはれてゐる。上三句にワガを繰返して、頭韻をふみ、直線的な奔流の如き格調をなしてゐる。得がたい傑作である。寄草戀。
2466 淺茅原 小野に標結ふ むな言を いかなりといひて 君をば待たむ
朝茅原《アサヂハラ》 小野印《ヲヌニシメユフ》 空事《ムナゴトヲ》 何在云《イカナリトイヒテ》 公待《キミヲバマタム》
(朝茅原小野印)虚言ヲ何ト云ツテ、アナタヲ待タウカ。何トカナタヲ待ツノニウマイ虚言ガアリサウナモノダ〔何ト〜傍線〕。
○朝茅原小野印《アサヂハラヲヌニシメユフ》――序詞。淺茅原の野に標を結うても、甲斐なく空しきことであるから、空事《ムナゴト》とつづけてゐる。略解に舊訓を改めて、アサヂフノと訓んだのはよくない。○空事《ムナゴトヲ》――舊訓ソラゴトヲとあるが、卷二十に牟奈許等母於夜乃名多都奈《ムナゴトモオヤノナタツナ》(四四六五)とあるから、ムナゴトがよい。意は空言である。
〔評〕人に悟られぬやうに、戀人を待つ口實を考へるのである。卷十二に足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹(460)待吾手《アシビキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》(三〇〇二)と同一構想である。淺茅によせた歌。寄草戀。
2467 路のべの 草深百合の ゆりにとふ 妹がいのちを 我知らめやも
路邊《ミチノベノ》 草深白合之《クサフカユリノ》 後云《ユリニトフ》 妹命《イモガイノチヲ》 我知《ワレシラメヤモ》
(路邊草深百合之)後デ逢ハウ、ソレマデ待テ〔六字傍線〕ト言フ女ノ命モ、何時マデト確カナコトヲ〔何時〜傍線〕私ハ知ラウヤ。ソレハ分ラナイカラ、一刻モ早ク私ニ逢ツテ思ヲカナヘテ下サイ〔ソレ〜傍線〕。
○路邊草深百合之《ミチノベノクサフカユリノ》――同音を繰返して、ユリとつづく序詞。路傍の草深きところに咲く百合。○後云《ユリニトフ》――後に逢はむと言ふの意。後はユリと訓まねぼならぬ。ユリは左に掲げた卷八(一五〇三)の歌にあるやうに後の意である。
〔評〕同音を繰返したのみながら、序詞が美しい。卷八の吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花由利登云者不欲云二似《ワギモコガイヘノカキツノサユリバナユリトイヘルハイナトイフニニル》(一五〇)はこれを本としたものか。寄草戀。
2468 みなと葦に 交れる草の しり草の 人みな知りぬ わが下思ひ
潮葦《ミナトアシニ》 交在草《マジレルクサノ》 知草《シリクサノ》 人皆知《ヒトミナシリヌ》 吾裏念《ワガシタオモヒ》
(潮葦交在草知草)人ハ皆、私ノ心中ノ物思ヲ、知ツテ居リマス。
○潮葦交在草知草《ミナトアシニマジレルクサノシリクサノ》――序詞。シリの音を繰返して、下につづいてゐる。河口の葦の中に交つてゐる知草。知草は蘭のことであらうと言はれてゐる。和名抄に「玉篇云、藺似v莞而細堅、宜v爲v席、和名爲、辨色立成云、鷺尻刺」とある。併し知草は文字通り、知ると云ふ動詞から出たもので、忘草・思草などと同類の稱呼かも知れない。
〔評〕 調子が輕快である。内容は簡素。知草の唯一の用例である。寄草戀。
2469 山ちさの 白露おもみ うらぶるる 心を深み 吾が戀止まず
(461) 山萵苣《ヤマチサノ》 白露重《シラツユオモミ》 浦經《ウラブルル》 心深《ココロヲフカミ》 吾戀不止《ワガコヒヤマズ》
(山萵苣白露重)普通ノ戀ナラバヤミモシヨウガ私ハ〔普通〜傍線〕、シヲレ悲シム心ガ深イノデ、私ノ戀ハ止ム時ハナイ。
○山萵苣《ヤマチサノ》――萵苣は蔬菜のチシヤであるが、山萵苣《ヤマチサ》は今いふエゴノ木であらう。卷七の山治左能《ヤマチサノ》(一三六〇)參照。○白露重《シヲツユオモミ》――ここまでは序詞。この花は萼の莖長く、うなだれてゐるから、うらぶれた姿にかけたのである。○浦經《ウラブルル》――ウラは心。心にわぶる。心に悲しむこと。
〔評〕 治左の木の花の形をよく捕へて、序詞を作つてゐるやうに見える。然るにこの前後の歌いづれも草に寄せてゐるから、これも文字通り草の萵苣であらうかとも思はれるが、蔬菜のチシヤが山にある筈はない。恐らく名が同じなので、誤つて草の部に入れたのであらう。
2470 みなとに さね延ふ小菅 しぬびずて 君に戀ひつつ 在りがてぬかも
湖《ミナトニ》 核延子菅《サネハフコスゲ》 不竊隱《シヌビズテ》 公戀乍《キミニコヒツツ》 有不勝鴨《アリガテヌカモ》
(潮核延子菅)忍ビ隱サウト思ツラモ隱シ切レナイデ、アナタヲ慕ツテ居ルノデ、苦シクテ〔四字傍線〕我慢ガ出來ナイヨ。
○潮核延小菅《ミナトニサネハフコスゲ》――河口に根を張つてゐる小さい菅。サは接頭語意味はない。ここまではシヌと言はむ爲の序詞。○不竊隱《シヌビズテ》――忍び隱し得ないで。菅の葉のしなえ靡く意でシヌに言ひかけたのであらう。シヌは、しなふ意となる。宣長は核は根の誤。菅の下の不は之の誤で、ネハフコスゲノネモコロニであらうと言つてゐる。古義・新考などこれに從つてゐる。
〔評〕 序詞に菅を用ゐたのみで、寄せるこころは薄い。寄草戀。
2471 山城の 泉の小菅 おしなみに 妹が心を 吾が念はなくに
山代《ヤマシロノ》 泉小菅《イヅミノコスゲ》 凡浪《オシナミニ》 妹心《イモガココロヲ》 吾不念《ワガオモハナクニ》
(山代泉小菅)並大抵ニ、私ハ女ノ心ヲ思ツテハ居リマセンヨ。親切ハ深ク感謝シテヰマス〔親切〜傍線〕。
(462)○山代泉小菅《ヤマシロノイヅミノコスゲ》――オシナミとつづく序詞。山背の泉の郷に生えてゐる小菅。泉は泉川のほとりで、この川名はこの里によつて起つてゐる。和名抄に「山域國相樂郡水泉 以豆美」とある。○凡浪《オシナミニ》――菅の葉が靡いてゐる意で上につづき、下へは平凡・普通などの意に用ゐてある。○妹心《イモガココロヲ》――古義のやうにイモヲココロニとも訓めるが、舊訓に從つて置く。古義に從へば解釋が非常に變つて來る。
〔評〕 序詞の下への績きは、菅の靡いた姿に思ひ寄せたもので、面白く出來てゐる。寄草戀。
2472 見渡しの 三室の山の 石穗菅 ねもごろ我は 片思ぞする 一云、三諸の山の石小菅
見渡《ミワタシノ》 三室山《ミムロノヤマノ》 石穗菅《イハホスゲ》 惻隱吾《ネモゴロワレハ》 片念爲《カタモヒゾスル》
(見渡三室山石穗菅)眞底カラ私ハ、カナハナイ〔五字傍線〕片思ヲシテ居リマスヨ。實ニツマラナイコトデス。苦シイコトデス〔實ニ〜傍線〕。
○見渡三室山石穗菅《ミワタシノミムロノヤマノイハホスゲ》――菅の根と下へつづく序詞。見渡《ミワタシノ》は向ひに見渡される。略解には美酒《ウマサケ》の誤かといつてゐる。三室山は御室山即ち神を祀れる山。三輪山をさすか。石穗菅は巖に生えた菅。
〔評〕 序詞も型にはまつてゐて、平凡な作。石穗菅は磐本管《ハモトスゲ》(三九七)と同じきか。唯一の用例である。寄草戀。
一云 三諸山之《ミモロノヤマノ》 石小菅《イハコスゲ》
これは第三句の異本を記したのである。前の二首共に小菅に寄せてあるから、この傳も退け難い。
2473 菅の根の ねもごろ君が 結びてし 吾が紐の緒は 解く人あらじ
菅根《スガノネノ》 惻隱君《ネモゴロキミガ》 結爲《ムスビテシ》
我?緒《ワガヒモノヲハ》 解人不有《トクヒトアラジ》
(菅根)懇ロニ丁寧ニアナタガ、結ンデクレ〔三字傍線〕タ私ノ衣服ノ〔三字傍線〕紐ハ、ソレヲ可〔三字傍線〕解ク人ハアナタヨリ外ニハ〔八字傍線〕アリマスマイ。私ハ決シテ他シ心ハ持ツテ居リマセヌゾ〔私ハ〜傍線〕。
○菅根《スガノネノ》――根とつづく枕詞。
(463)【評】別れに臨んで男の詠んだものか。菅を枕詞に用ゐたのみ。寄草戀。
2474 山菅の 亂れ戀のみ せしめつつ 逢はぬ妹かも 年は經につつ
山菅《ヤマスゲノ》 亂戀耳《ミダレコヒノミ》 令爲乍《セシメツツ》 不相妹鴨《アハヌイモカモ》 年經乍《トシハヘニツツ》
(山菅)心ノ〔二字傍線〕亂レル戀バカリヲサセテ、私ノ思ヲ亂シナガラ〔九字傍線〕、永イ間アノ女ハ私〔傍線〕ニ逢ハナイナア。ホントニヒドイ女ダ〔九字傍線〕。
○山菅《ヤマスゲノ》――亂の枕詞。その葉の姿に譬へたのである。
〔評〕 これも山菅を枕詞に用ゐたのみ。怨情はよく表現せられてゐる。寄草戀。
2475 わがやどの 軒のしだ草 生ふれども 戀忘草 見るに未だ生ひず
我屋戸《ワガヤドノ》 甍子太草《ノキノシダグサ》 雖生《オフレドモ》 戀忘草《コヒワスレグサ》 見未生《ミルニイマダオヒズ》
私ノ家ノ軒ニハ、齒朶草ガ生エタガ、戀ヲ忘レルト云フ〔六字傍線〕忘草は、イクラ捜シテ〔六字傍線〕見テモマダ生エナイ。苦シイ戀ヲ忘レヨウト思フガ、ドウシテモ忘レラレナイ〔苦シ〜傍線〕。
○甍子太草《ノキノシダグサ》――屋根に生ズる齒朶草。シダは謂はゆる裏白であるが、ここのは裏白に似た草の、藁屋根などに生ずるものを言ふのであらう。下草とする説はよくない。○戀忘草《コヒワスレグサ》――戀を忘れるといふ名の忘草。忘草は萱草《ワスレグサ》(三三四)參照。
〔評〕 軒端は古くなつて、子太草が生えてゐるが、忘草は生えないといつて、人を忘れ難い意を述べてゐる。草の名を對立させてゐるのは巧であるが、それだけ、餘裕のある、熱情に乏しい歌となつてゐる。この歌、袖中抄にも出てゐる。寄草戀。
2476 打つ田に 稗は數多に ありといへど 擇えし我ぞ 夜ひとりぬる
打田《ウツタニ》 稗數多《ヒエハアマタニ》 雖有《アリトイヘド》 擇爲我《エラエシワレゾ》 夜一人宿《ヨルヒトリヌル》
(464)打チ返シテ耕〔三字傍線〕稻〔傍線〕田ニハ、稻ニ混ツテアノ邪魔物ノ〔稻ニ〜傍線〕稗ガ澤山アルガ、ソノ儘擇リ捨テラレモセズアルノニ〔ソノ〜傍線〕、擇ビ出サレテ捨テラレ〔五字傍線〕タ私ハ、夜一人デ淋シク〔三字傍線〕寢ルヨ。私ハ稻田ノ稗ヨリモヒドク扱ハレテ、實ニツマラナイ〔私ハ〜傍線〕。
○打出《ウツタニ》――打ちかへし耕す田に。○稗數多《ヒエハアマタニ》――稗は禾本科稜屬の植物で、稲に似てゐる。種子は飯として食するが、ここは稲に混つて生じて、稲の害をなす意を述べてある。
〔評〕 面白い歌である。いかにも耕人の歌らしい。卷十二の水乎多上爾種蒔比要乎多擇擢之業曾吾獨宿《ミヅヲオホミアゲニタネマキヒエヲオホミエラエシワザゾワガヒトリヌル》(二九九九)と似てゐる。寄草戀。
2477 足引の 名におふ山菅 おしふせて 君し結ばば 逢はざらめやも
足引《アシビキノ》 名負山菅《ナニオフヤマスゲ》 押伏《オシフセテ》 公結《キミシムスババ》 不相有哉《アハザラメヤモ》
(足引名負山菅)無理ニアナタガ逢ハウト〔四字傍線〕約束ヲスルナラバ、逢ヘナイコトガアラウカ。必ズ逢ヘル筈ダ〔七字傍線〕。
○足引名負山菅《アシビキノナニオフヤマスゲ》――足引は山の枕詞であるから、山の名をもつてゐる山菅の意で、かく言つたものであらう。ここまでは押伏といはむ爲の序詞。山菅はヤブラン。五六四參照。○押伏《オシフセテ》――無理に、強制的にの意であらう。宣長は押は根の誤で、ネモコロニであらうといつてゐるが、よくない。○公結《キミシムスババ》――契約することを草を結ぶに譬へたのであるが、當時は草を結んで、神に祈る習慣があつたのである。
〔評〕 序詞の用法も珍らしく、三句以下奇拔で、強い調子をなしてゐる。多少肉感的でもある。寄草戀。
2478 秋柏 うるわ川べの しぬのめの 人にしぬべば 君にたへなく
秋柏《アキガシハ》 潤和川邊《ウルワカハベノ》 細竹目《シヌノメノ》 人不顏面《ヒトニシヌベバ》 公無勝《キミニタヘナク》
(秋柏潤和川邊細竹目)人ニ忍ピカクレテ戀シテ〔三字傍線〕ヰルト、アナタニ逢ヘナイノデ〔アナ〜傍線〕、アナタヲ戀シク思フ心ノヤル(465)セナサ〔ヲ戀〜傍線〕ニ我慢ガシキレナイ。イツソ打出シテ、表向キニ戀シヨウカ知ラ〔イツ〜傍線〕。
○秋柏《アキガシハ》――枕詞。下へつづく意は明らかでない。契沖は下に朝柏潤八河邊之《アサガシハウルヤカハベノ》(二七五四)とあるによつて、これをもアサガシハと訓むべきであらうとし、朝の柏が夜霧朝露にぬれる意かといつてゐる。冠辭考は商ひ物の柏といふ意から、うるにかけたものとし、雅澄は明柏《アカリカシハ》即ち清淨なる柏の葉が、光り潤つてゐる意でつづくと言つてゐる。いづれも受け難い説である。○潤和川邊《ウルワカハベノ》――潤和川は河の名らしいが、何處かよくわからない。大日本地名辭書は駿河富士郡|潤《ウルヒ》川の條にこの歌をあげてゐるが、それは古義に潤和を潤比の誤とし、頭註に「寶永年間梓行ありし東海道驛路鈴と云ふものに、駿河國吉原驛より蒲原驛までの間に、うるひ河歩渡、此水大宮淺間の御手洗より涌出るとしるせり、これ宇留比川ならむか、更に委尋ぬべし」とあるのによつたもので、根據のない説である。不明のものは猥りに推定しないがよい。○細竹目《シヌノメノ》――舊訓シノノメニとあるが考の訓による。シヌノメは篠の群《ムレ》。ここまでは序詞で、下にシヌとつづいてゐる。○人不顔面《ヒトニシヌベバ》――この句、舊訓ヒトモアヒミシとあり、代匠記ヒトニハアハジ、童蒙抄シノビテノミゾ、口譯ヒトニハアハヌ、新考ヒトニシヌベド、新訓ヒトニハアハジ等各々その説を異にしてゐる。これ等を比較檢討して見たが、遂に滿足すべきものがないので、ここは考が、下の二七五四の歌に傚つて、よんだのにしばらく從ふことにした。○公無勝《キミニタヘナク》――君を戀しく思ふ心に堪へずといふのである。
〔評〕 袖中抄にも出てゐて、古來人に知られた歌であるが、訓法に定説がない。潤和川地方の民謠か。草に寄する歌に次いでゐるのは、篠を草と同一視したものか。寄篠戀。
2479 さね葛 のちも逢はむと 夢のみに うけひわたりて 年は經につつ
核葛《サネカヅラ》 後相《ノチモアハムト》 夢耳《イメノミニ》 受日度《ウケヒワタリテ》 年經乍《トシハヘニツツ》
今ハ逢ヘナクトモ〔八字傍線〕、(核葛)後デ逢ハウトアテニシテ、今ハセメテ夢ニデモ逢ハウト〔アテ〜傍線〕、夢ニ見ルコトバカリヲ神ニ祈リツツ、實際ニハ逢ヘナイデ〔九字傍線〕、永イ年月ヲ送ツテシマツタ。嗚呼果シテ末ニ逢ハレルデアラウカ〔嗚呼〜傍線〕。
(466)○核葛《サネカヅラ》――枕詞。卷二の狹根葛後毛將相等《サネカヅラノチモアハムト》(二〇七)と何樣の用法である。○受日度《ウケヒワタリテ》――受日《ウケヒ》は神に祈り誓ふこと。
〔評〕 第三句が少し曖昧である。薪考に裏耳《シタノミニ》と改めたのは從ひがたいが、理由はあることである。夢の逢瀬を神に祈りつつ、空しく年を過した心はあはれである。これも核葛《サネカヅラ》を草と同一視したのだらう。この歌、袖中抄に載せてゐる。寄葛戀。
2480 路のべの いちしの花の いちじろく 人皆知りぬ 吾が戀妻は 或本歌云、いちじろく人知りにけりつぎてし念へば
路邊《ミチノベノ》 壹師花《イチシノハナノ》 灼然《イチシロク》 人皆知《ヒトミナシリヌ》 我戀?《ワガコヒツマハ》
私ガアノ女ヲ戀シテヰルコトハ、(路邊壹師花)明ラカニ世間ノ人ガ皆知ツテ居リマス。
○路邊壹師花《ミチノベノイチシノハナノ》――序詞。同音を重ねてイチジロクに續いてゐる。壹師花《イチシノハナ》は羊蹄《ギシギシ》。蓼科羊蹄屬の草本。莖の長さ二三尺、葉は長※[木+隋]圓形又は廣披針形。花は淡緑で穗状花序に排列し、各節に十數花を密生し四五月頃開く。雜草中に至る所生育してゐる。これをエゴノ木とする説もあるが、ここは草に寄する歌の中であるから、當つてゐない。
〔評〕 同音を繰返した序詞が巧に出來てゐる。壹師の花の取材も珍らしい。寄草戀。
或本歌云 灼然《イチジロク》 人知爾家里《ヒトシリニケリ》 繼而之念者《ツギテシオモヘバ》
これは四五の句の異本である。この方が多少勝つてゐるか。
2481 大野に たどきも知らに しめ結ひて 在りもかねつつ 吾がかへり見し
大野《オホヌニ》 跡状不知《タドキモシラニ》 印結《シメユヒテ》 有不得《アリモカネツツ》 吾眷《ワガカヘリミシ》
(467)大野ノ原中〔三字傍線〕ニトリトメモナク標繩ヲ張ツタヤウナ、甲斐ナイ約束ヲシタノデ〔ヤウ〜傍線〕、不安心デジツトシテ〔九字傍線〕居レナイノデ、私ハ又女ノトコロヘ〔六字傍線〕行ツテ見タ。
○跡状不知《タドキモシラニ》――跡状を舊訓アトカタと訓んだのは拙い。跡状毛我者《タドキモワレハ》(二九四一)の如くタドキとよむべきである。○有不得吾眷《アリモカネツツワガカヘリミシ》――この二句の訓、古來區々である。宣長は眷を戀に改め、アリゾカネツルワガコフラクハとよんでゐるが、眷の字は集中、他の用例では、カヘルと訓まれてゐるから、ここはカヘリミルと訓むべきである。
〔評〕 下句の訓が明瞭でないのは遺憾であるが、かりそめに女を手に入れて人に得られじと心配してゐる譬喩歌である。寄野戀。
2482 水底に 生ふる玉藻の うち靡き 心を依せて 戀ふるこの頃
水底《ミナゾコニ》 生玉藻《オフルタマモノ》 打靡《ウチナビキ》 心依《ココロヲヨセテ》 戀比日《コフルコノゴロ》
(水底生玉藻)人ニハ忍ビカクレテ戀人ノ方ヘ〔人ニ〜傍線〕打靡イテ心ヲ寄セテ、私ハ〔二字傍線〕コノ頃戀シテ居リマス。
○心依《ココロヲヨセテ》――新考ココロユヨリテ、新訓ココロハヨリテとある。○水底生玉藻《ミナソコユオフルタマモノ》――打靡の序詞。
〔評〕 玉藻はかうした材料に使はれる例が多い。適當な取材であらう。寄玉藻戀。
2483 敷栲の 衣手かれて 玉藻なす 靡きかぬらむ 吾を持ちがてに
敷栲之《シキタヘノ》 衣手離而《コロモデカレテ》 玉藻成《タマモナス》 靡可宿濫《ナビキカヌラム》 和乎待難爾《ワヲマチガテニ》
私ノ妻ハ〔四字傍線〕私ノ(敷栲之)着物ノ袖ニ暫ク〔二字傍線〕離レテヰルノデ、私ヲ待ツテモソノ甲斐ナク、打シヲレテ水中ノ〔八字傍線〕美シイ藻ノヤウニ靡イテ、獨デ〔二字傍線〕寢テヰルコトデアラウ。不憫ナコトダ〔六字傍線〕。
○敷栲之《シキタヘノ》――枕詞。衣手とつづくのは、片敷いて寢る意である。
〔評〕 玉藻に寄せてはあるが、玉藻成の句は、靡くといふ爲の枕詞としてもよいほど、輕く用ゐられてゐる。玉藻(468)成依宿之妹乎《タマモナスヨリネシイモヲ》(一三一)などと同想である。ここまでは、草又はそれに類似の植物に寄せてある。寄玉藻戀。
2484 君來ずは 形見にせむと 吾が二人 植ゑし松の木 君を待ち出でむ
君不來者《キミコズハ》 形見爲等《カタミニセムト》 我二人《ワガフタリ》 殖松木《ウヱシマツノキ》 君乎待出牟《キミヲマチイデム》
アナタガ來ナイ時ニハ、アナタノ〔四字傍線〕御姿ト思ツテ眺メヨウトテ、私ラ二人デ植ヱテ置イタ庭ノ〔二字傍線〕松ノ木ヨ。私ハ今アナタガオイデニナラナイノヲ、淋シク悲シク思ツテヰルガ、オマヘガ、マツトイフ名ナラバ、〔私ハ〜傍線〕、アナタヲ待ツテ待チツケルデアラウ。ワタシハソレヲアテニシテヰル〔ワタ〜傍線〕。
○君乎持出牟《キミヲマチイデム》――考に牟を奈に作つて、キミヲマチテナとして、略解の宣長説は牟を年と改めて、キミヲマチデネとよんでゐるが、もとのままでも差支はない。
〔評〕 卷三に與妹爲而二作之吾山齋者木高繁成家留鴨《イモトシテフタリツクリシワガシマハゴダカクシグクナリニケルカモ》(四五三)とあるのを思はしめるものがある。やさしいあはれな女心であらう。寄木戀。
2485 袖振るが 見ゆべきかぎり 我はあれど その松が枝に 隱りたりけり
袖振《ソデフルガ》 可見限《ミユベキカギリ》 吾雖有《ワレハアレド》 其松枝《ソノマツガエニ》 隱在《カクリタリケリ》
妻ガ〔二字傍線〕袖ヲ振ルノガ見エル筈ノ所マデ來テ、私は止ツテ後ヲ振返ツテ見テ〔止マ〜傍線〕ヰルノダガ、アノ松ノ枝ニ隱レテ見エナイヨ。邪魔ナ松ノ枝ダナア〔九字傍線〕。
○可見限《ミユベキカギリ》――袖を振るのが見える筈の道程まで、ここまでは見える筈といふ限點まで。
〔評〕 別を惜しむ男の歌であらう。無情な松の枝を惡む心が、いたましい。寄木戀。
2486 血沼の海の 濱べの小松 根深めて 吾が戀ひわたる 人の子ゆゑに 或本歌云、血沼の海の潮干の小松ねもころに戀ひやわたらむ人の兒故に
珍海《チヌノウミノ》 濱邊小松《ハマベノコマツ》 根深《ネフカメテ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 人子?《ヒトノコユヱニ》
アノ女ハ〔四字傍線〕人ノ妻ダノニ、(珍海濱邊小松根)深ク心ノ底カラ〔五字傍線〕、私ハ戀ヒ續ケテヰル。何ノ甲斐モナイコトニ心ヲ(469)惱マスノハ、愚ナコトトハ思フガ、アキラメラレヌ〔何ノ〜傍線〕。
○珍海《チヌノウミノ》――珍海は茅渟の海。今の大阪以南、堺市地方の海。○根深《ネフカメテ》――上の二句が序詞であるから、そのつづきで、根を添へて、ネフカメテと言つてある。根までを序詞と見なければならない。心深くの意。
〔評〕人妻を戀する歌。序詞が巧に適切に出來てゐる。寄木戀。
或本歌云、血沼之海之《チヌノウミノ》 鹽干能小松《シホヒノコマツ》 根母己呂爾《ネモコロニ》 戀屋度《コヒヤワタラム》 人兒故爾《ヒトノコユヱニ》
人妻に戀ひ渡るといふことがあるものかと、自から強く詰つてゐる。鹽が干ると、松の根が特にあらはれて見えるので、それを序詞としてゐるのは面白い。
2487 奈良山の 小松が末の うれむぞは 吾が思ふ妹に 逢はずやみなむ
有廉敍波《ウレムゾハ》 我思妹《ワガオモフイモニ》 不相止者《アハズヤミナム》
(平山子松末)ドウシテ私ハ、私ノ思フ女ニ逢ハズニ置カウカ。戀シイアノ女ニ逢ハズニハ置カヌツモリダ〔戀シ〜傍線〕。
○平山子松末《ナラヤマノコマツガウレノ》――ウレの音を繰返して、有廉敍《ウレムゾ》につづいてゐる。○有廉敍波《ウレムゾハ》――卷三に宇禮牟曾此之將死還生《ウレムゾコレガヨミガヘリナム》(三二七)とあらたやうに、如何ぞ、焉んぞの意。集中唯二のみの珍らしい用例である。廉は咸攝鹽の韻でm音尾であるから、レムに用ゐられてゐる。
〔評〕 奈良人の作か。奈良山の小松は卷四の君爾戀痛毛爲便無見楢山之小松下爾立嘆鴨《キミニコヒイタモスベナミナラヤマノコマツガモトニタチナゲクカモ》(五九三)などのやうに、奈良人によつて戀を述べる材料にせられてゐる。以上四首は松に寄せてある。寄木戀。
2488 礒の上に 立てるむろの木 心いたく 何に深めて 思ひそめけむ
礒上《イソノウヘニ》 立回香瀧《タテルムロノキ》 心哀《ココロイタク》 何深目《ナニニフカメテ》 念始《オモヒソメケム》
私ハドウシテアノ人ヲ〔私ハ〜傍線〕(礒上立回香瀧)心ヲ痛メテ、何故深ク思ヒ初メタノデアラウ。苦シイ戀ニ心ヲナヤマ(470)スバカリデ、思ヒハカナハズ、コンナツライコトハナイ〔苦シ〜傍線〕。
○礒上立回香瀧《イソノウヘニタテルムロノキ》――立回香瀧は舊訓タチマフタキノとある。代匠記初稿本は瀧を※[木+龍]とし、立囘香※[木+龍]《タテルワカマツ》と訓じ、考は瀧は樹の誤として、タテルムロノキとよんでゐる。卷三に吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者《ワギモコガミシトモノウラノムロノキハ》(四四六)とあり、天木香樹と記してゐるから、瀧を樹の誤とすれば、回香樹と天木香樹とは近い文字となつて、同一物をさしてゐるやうに推定せられる。眞淵に從ふことにしよう。ここは總べて木に寄せる歌のみが聚めてあるから、タチマフタキではあり得ない。ここまでは序詞。○心哀《ココロイタク》――磯の上に危げに立つてゐる室の木は、見るからに心を痛ましめるので、かくつづけたものか。古義はネモゴロニとよんでゐる。
〔評〕 右のやうに解くと、序詞がかなり奇拔である。寄木戀。
2489 橘の もとに我立ち しづ枝とり 成らむや君と 問ひし子らはも
橘《タチバナノ》 本我立《モトニワレタチ》 下枝取《シヅエトリ》 成哉君《ナラムヤキミト》 問子等《トヒシコラハモ》
橘ノ木ノ〔二字傍線〕下ニアノ女ガ〔四字傍線〕自分デ立ツテ、下枝ヲ折リ〔二字傍線〕取ツテ、コノ橘ノヤウニ、私等ノ戀モ〔コノ〜傍線〕成就シマセウカト言ツタアノ女ヨ。ホントニ可愛イ女ダ〔九字傍線〕。
○橘本我立《タチバナノモトニワレタチ》――橘の木の下に自分が立つて。我とは下の子等《コラ》、即ち女をいふ。○成哉君《ナヲムヤキミト》――舊訓ナリヌヤキミトとあり、これに從ふ説も多いが、ナラムヤとよむのがよいやうである。
〔評〕 當時街路樹として植ゑられてゐた橘の木の下で、二人が逢つた時に、あの女はその樹の下枝を取つて、この木に實がなるやうに、二人の戀は成るでせうかと言つたが、あああのいとしい女よ、思へば戀しい女だとなつかしがつたもので、二人の交歡の場面が繪のやうに描き出されてゐる。上句を序詞と見てはもの足りない。以上六首寄木戀。
2490 天雲に はね打ちつけて 飛ぶ鶴の たづたづしかも 君いまさねば
天雲爾《アマグモニ》 翼打附而《ハネウチツケテ》 飛鶴乃《トブタヅノ》 多頭多頭思鴨《タヅタヅシカモ》 君不座者《キミイマサネバ》
(471)私ハ〔二字傍線〕アナタガオ留守ナノデ、(天雲爾翼打附而飛鶴乃)タドタドシイ落付カナイ心持デ居リマス〔落付〜傍線〕ヨ。
○天雲爾翼打附而飛鶴乃《アマグモニハネウチツケテトブタヅノ》――序詞。タヅの音を繰返して、下につづいてゐる。○多頭多頭思鴨《タヅタヅシカモ》――たどたどしいよ。タヅタヅシは心の晴れぬこと。卷四の草香江之入江二求食葦鶴乃痛多豆多頭思友無二指天《クサカエノイリエニアサルアシタヅノアナタヅタヅシトモナシニテ》(五七五)參照。
〔評〕 上句は鶴が高く天に飛翔する景を巧に述べて、まことに氣持のよい作である。古今集の「白雲に羽根打かはし飛ぶ雁のかげさへ見ゆる秋の夜の月」はこれに傚つたものか。右に載せた卷四の大伴旅人の作も、これから出てゐるかも知れない。寄鳥戀。
2491 妹に戀ひ いねぬ朝明に 鴛鴦の ここゆわたるは 妹が使か
妹戀《イモニコヒ》 不寐朝明《イネヌアサケニ》 男爲鳥《ヲシドリノ》 從是此度《ココユワタルハ》 妹使《イモガツカヒカ》
私ガ〔二字傍線〕女ヲ戀シク思ツテ一晩〔二字傍線〕眠ラズニ通シタ〔三字傍線〕明方ニ、空ヲ眺メルト〔六字傍線〕鴛鴦ガ此處ヲ飛ンデ行クガ、アレハ私ト同ジ思ニ夜ヲ明シタ、戀シイアノ〔ガア〜傍線〕女ノ心ヲ告ゲル〔五字傍線〕使デアラウカ。
○男爲鳥《ヲシドリノ》――男爲鳥は鴛鴦であらう。卷三に鴦與高部共《ヲシトタカベト》(二五八)とある。○從是此度《ココユワタルハ》――考に此を飛の誤として、ココニトビワタルとし、略解はコユトビワタルとあるが、原形を尊重してココユワタルハとよむがよい。
〔評〕鴛鴦は古來、雌雄睦まじい鳥としてある。書紀に耶麻餓播爾烏志賦?都威底陀虞※[田+比]預倶陀虞陛屡伊慕乎多例珂威爾鷄武《ヤマカハニヲシフタツヰテタグヒヨクタグヘルイモヲタレカヰニケム》とあり、鳥を使とするのは、古事記に阿麻登夫登理母都加比曾多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥《アマトブトリモツカヒゾタヅガネノキコエムトキハワガナトハサネ》、又本集卷十五に安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都礙夜良武《アマトブヤカリヲツカヒニエテシカモナラノミヤコニコトツゲヤラム》(三六七八)とある。まことにやさしい優麗な作である。寄鳥戀。
2492 念ふにし 餘りにしかば 鳩鳥の 足沾れ來しを 人見けむかも
念《オモフニシ》 餘者《アマリニシカバ》 丹穗鳥《ニホドリノ》 足沾來《アシヌレコシヲ》 人見鴨《ヒトミケムカモ》
私ハ戀シイ人ニ逢ヒタク〔私ハ〜傍線〕思ヒ餘ツタノデ、道傍ノ草ノ露ニ〔七字傍線〕(丹穗鳥)足ヲ沾ラシテ尋ネテ〔三字傍線〕來タガ、ソノ私ノ姿〔六字傍線〕(472)ヲ人ガ見タデアラウカナア。見付ケラレテハ困ル〔九字傍線〕。
○丹穂鳥《ニホドリノ》――枕詞。鳩鳥は水鳥で足がぬれてゐるからである。○足沾來《アシヌレコシヲ》――舊訓にアシヌレクルヲ、考にアヌラシコシヨ、略解にアヌラシコシヲとあるが、宣長は沾を惱の誤として、アナヤミコシヲならむといつてゐるが、文字を改める要は更にない。新訓のアシヌレコシヲがよいやうである。
〔評〕卷十二に念西餘西鹿齒爲使乎無美吾者五十日手寸應忌鬼尾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミワレハイヒテキイムベキモノヲ》(二九四七)の左に、柿本朝臣人麿歌集云|爾保鳥之奈津柴比來乎人見鴨《ニホドリノナヅサヒコシヲヒトミケムカモ》トある歌と、第四句に小異があるのみである。或はこれも第四句をナヅヒコサシヲと訓むのかも知れない。人目を忍ぶ戀心がよくあらはれてゐる。寄鳥戀。
2493 高山の 岑ゆくししの 友を多み 袖ふらず來つ 忘ると念ふな
高山《タカヤマノ》 峯行宍《ミネユクシシノ》 友衆《トモヲオホミ》 袖不振來《ソデフラズキツ》 忘念勿《ワスルトオモフナ》
私ハアナタト別レヲ惜シンデ袖ヲ振ラウト思ヒマシタガ〔私ハ〜傍線〕、(高山岑行完)連ノ人ガ澤山ナノデ、見咎メラレルノヲ恐レテ〔見咎〜傍線〕、袖ヲ振ラナイデ來マシタ。アナタ〔三字傍線〕ヲ忘レテヰルトハ思ヒナサルナ。
○高山岑行完《タカヤマノミネユクシシノ》――序詞。友衆《トモヲオホミ》とつづく。高山の峯を行く鹿猪が、群をなして行くをいふ。完は宍に通用してゐる。宍は肉であるが、鹿猪の類に借り用ゐたのである。宣長が完は雁であらうと言つたのはよくない。
〔評〕序詞が奇拔である。狩獵をこととしてゐる、山間の民の間に行はれたものか。寄獣戀。
2494 大船に 眞楫しじぬき こぐほども ここだく戀し 年にあらばいかに
大船《オホブネニ》 眞※[楫+戈]繁拔《マカヂシジヌキ》 ※[手偏+旁]間《コグホドモ》 極太戀《ココダクコヒシ》 年在如何《トシニアラバイカニ》
私ハ旅ニ出テヰルガ〔九字傍線〕、大船ニ※[楫+戈]時ヲ澤山ニツケテ漕グ間デスラモ、眞カラアノ人ガ〔四字傍線〕戀シイ。一年モ逢ハズニ居タラバ、ソノ戀シサハ〔六字傍線〕ドンナデアラウカ。
○※[手偏+旁]間《コグホドモ》――舊訓にコグホドヲ、古義にコグマダニとある。略解に從ふ。○極太戀《ココダクコヒシ》――伊田何極太甚《イデイカニココダハナハハダシ》(二四〇〇)に(473)傚つて訓むことにした。○年在如何《トシニアラバイカニ》――一年間も逢はずに居たらば如何にといふのである。卷十の年有而《トシニアリテ》(二〇三五五)參照。
〔評〕 海路の旅での作か。七夕の夜の星の思のやうでもあるが、さうではあるまい。寄船戀。
2495 垂乳根の 母がかふこの まゆごもり こもれる妹を 見むよしもがも
足常《タラチネノ》 母養子《ハハガカフコノ》 眉隱《マユゴモリ》
隱在妹《コモレルイモヲ》 見依鴨《ミムヨシモガモ》
(足常母養子眉隱)閉ヂ籠ツテ家ノ外ヘ出ナイデ〔八字傍線〕ヰルアノ〔二字傍線〕女ヲ、見ル方法ガアレバヨイガ。逢ヒタイモノダ〔七字傍線〕。
○足常母養子眉隱《タラチネノハハガカフコノマユゴモリ》――足常《タラチネノ》は枕詞。常をチネに用ゐたのは通音であらう。母とつづく。母が飼ふ蠶が繭の中に籠つてゐる意で、隱《コモ》るにつづけてゐる。
〔評〕卷十二に垂乳根之母我養蚕乃眉隱馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿異母二不相而《タラチネノハハガカフコノマユゴモリイブセクモアルカイモノアハズテ》(二九九一)とあり、よく似た歌である。當時養蠶業が民間に流行した有樣がしのばれる。卷十三の長歌(三二五八)中にもこの上句と同樣の句が用ゐてある。寄蠶戀。
2496 肥人の 額髪結へる 染木綿の しめにしこころ 我忘れめや 一云、忘らえめやも
肥人《ヒビトノ》 額髪結在《ヌカガミユヘル》 染木綿《シメユフノ》 染心《シメニシココロ》 我忘哉《ワレワスレメヤ》
(肥人額髪結在染木綿)深ク〔二字傍線〕染ミ込ンダアナタヲ戀シイト思〔九字傍線〕フ心ハ、私ハドウシテ〔四字傍線〕忘レヨウヤ。決シテ忘レルコトハ〔九字傍線〕出來ナイ。
○肥人《ヒビトノ》――肥人の訓は多樣に分れてゐる。(一)舊訓にコマヒトとあるのは高麗人の意か。朝鮮人は肥えてゐるので、かう書くのかと契沖は言つてゐる。眞淵は考に肥を狛の誤として、この訓を肯定してゐる。(二)細井本などの古寫本にコエビトと文字通りによんだのもあるが、これは取るに足らぬ。(三)拾穗本にウマヒトとあり、代匠記にも「今按ウマヒトと義訓すべきか。鳥獣の肉も肥たるはうまき理なり」とある。ウマヒトは即ち貴人であるが、貴人が染木綿で額髪を結つたかどうか、疑はしいつ(四)大日本地名辭書襲の國の條に、これをクマビトとよ(474)んで「クマビトは熊人にて、求磨の國人の謂のみ」と言つてゐる。喜田貞吉氏は「歴史地理」第二十三卷第三號に肥人は隼人が華夏に雜居したもので、玖磨郡の山間は彼等の根據地として、比較的後代まで住んでゐたところであらう(要約)と言つてゐる。(五)平田篤胤はヒノヒトとよんでゐる。肥の國の人の意である。(六)新解には岩橋小彌太氏説に從つて、ヒヒトとよんでゐる。右のうち(一)(二)(三)の三訓はいづれも學術的根據が乏しく採るに足らぬ。(四)の肥をクマとよまうとするのは、舊訓コマとあるに、引ずられたもので、もしコマの訓がなかつたならば、肥をクマとよむ筈はなかつたらうと思はれるから、これも拾つべきではあるまいか。(五)のノを添へてよむのは拙いから、ヒヒトと訓む(六)がよいやうに思はれる。肥人は大寶令集解に肥人を夷人雜類の一とし、本朝書籍目録に肥人雎・薩人書と並べ掲げてあるから、九州南部にゐた異人種であらう、なほ春日政治氏は奈良文化第六號において、大矢透氏の「假名遣及假名字體沿革史料」に沃壤をウルヒコマダテラム、壤をコマヤギ、肥濃をコマダチとよんでゐるのから、土地の肥えてゐる義に、コマダツ若しくはコマヤグといふ動詞のあつたことを推定し、肥濃とある肥はコマカニ又はコマヤカニと訓んだものであるから、肥人をコマビトと訓じ得ることは更に言ふを用ゐない一種の借訓であるといつてゐる。これは頗る傾聽に値する説である。さうして氏はこのコマビトは高麗人ではなく、日本の土に住んだ一種族で、やはり南九州地方の住民かといふ意味を述べてゐる。參考の爲に紹介しておく。○額髪結在《ヌカガミユヘル》――舊訓ヒタヒガミユヘルとあるのも惡くはないが、古義に「ヌカカミと訓べし。其證は和名抄に唐※[韵の旁]云、〓額前髪也、俗云奴加加美と見えたり。」と言つてゐるのに從はう。○染木綿《シメユフノ》――舊訓はソメユフノとある。染木綿は色に染めた木綿。代匠記精撰本に「第十三に蜷腸香黒髪丹眞木綿持阿邪左結垂云々、古今集にも、濃紫我もとゆひにとよめり。」と言つてゐる。如何なる色かは明瞭でないが、と(475)もかく色の布帛を以て額髪を結んだのである。この句までは序詞。挿入の圖は黒川眞頼博士の日本風俗説に、木綿鬘として掲げられたもので、これ即ち額髪結へる染木綿であらう。但し今、伊勢神宮で行はれる木綿鬘は、頭周を一周せしめて後方に結ぶさうであるから、この染木綿も鉢卷式に結んだものかも知れない。○染心《シメニシココロ》――舊訓ソメシココロヲ、略解ソメシココロハとあるが古義による。心に深く思ひ込んだ心。
〔評〕 吾が文化史上に於ける貴重なる材料である。肥人の異樣な風俗の、都人の目にあやしく映じたのが、そのまま序詞として用ゐられてゐる。當時の人を感歎せしめた歌であらう。寄木綿戀。
一云 忘所目八方《ワスラエメヤモ》
五句の異傳である。どちらでもさしたる差異はない。
2497 はや人の 名に負ふ夜聲 いちじろく 吾が名はのりつ 妻とたのませ
早人《ハヤヒトノ》 名負夜音《ナニオフヨゴヱ》 灼然《イチジロク》 吾名謂《ワガナハノリツ》 ?恃《ツマトタノマセ》
(早人名負夜音)著シクハツキリ〔四字傍線〕ト私ノ名ヲ申シマシタ。デスカラ〔四字傍線〕私ヲ妻トシテ、オタヨリナサイマシ。
○早人名負夜音《ハヤヒトノナニオフヨゴヱ》――灼然《イチジロク》と言はむ爲の序詞。隼人が夜宮門を守る爲の吠聲が、明瞭に聞えるから、かく續けるのである。神代紀下、海宮の條に「是以火酸芹命苗裔諸隼人等、至v今不v離2天皇宮牆之傍1、代2吠狗1而奉事者也」とあり、隼人は宮殿の傍にあつて、犬の吠聲を發したのである。大嘗會式にも「十一月卯日平明云々、隼人司率2隼人1分立2左右1朝集堂前待v開v門乃發v聲」とある。なほ喜田貞吉氏の隼人考には、唐書倭國傳に「又有邪古・波邪・多尼三小王」とあり、書紀の夜句人・隼人・多禰人に當つてゐるから、波邪は九州南部の地名で、隼人は波邪の人であるが、波邪の名義は未詳だといつてゐる。挿入の圖は伴信友の比古婆衣所載のもので、奈保山なる元明天皇の御陵の附近から發掘した、俗に狗石と呼ぶものに彫刻せられた像である。信友はこれを隼人が宮門を衛つた姿であらうといつてゐる。○吾名謂《ワガナハノリツ》――名を宣るのは婚を諾するものである。宣長が吾を君の誤としてゐるのは從ひ難い。
(476)〔評〕 これも前の歌と同じく、文化史的に價値の高い作である。これによつて隼人が宮門を守つてゐたことが證明せられる。當時隼人は都地方にもかなり來てゐたが、なほ南九州地方に勢力があつて、時に叛亂し、大伴旅人は養老四年十二月、征隼人持節大將軍に任ぜられて征討に赴き、翌年七月漸く平定したほどであつた。彼等の寄異な風習が、當時都人の興味を引いたもので、謂はゆる異國情調の作である。寄隼人戀。
2498 劍だち もろ刃の利きに 足踏みて 死にも死なむ 君によりては
釼刀《ツルギタチ》 諸刃利《モロハノトキニ》 足蹈《アシフミテ》 死死《シニニモシナム》 公依《キミニヨリテハ》
私ハ〔二字傍線〕アナタノ爲ナラバ、劔ノ太刀ノ兩刃ノ鋭イ上〔傍線〕ニ、足ヲ蹈ンデ、死ンデ死ンデ死ニマセウ。
○諸刃利《モロハノトキニ》――兩刃の鋭き刃の上に。劍の太刀は古事記に謂はゆる都牟刈乃太刀《ツムガリノタチ》で、鋭利な太刀の義とせられてゐる。この歌に從へばツルギは兩刃のもののやうであるが、武家名目抄には、必ずしもさうはいはれない由を述べてゐる。○死死《シニニモシナム》――死なむといふを強調(477)して、死ににも死なむといふのである。
〔評〕 何といふ強烈な表現であらう。一句として緊張してゐない所はない。四句で切つて、五句に公依《キミニヨリテハ》と言つたのが、殊に力強さを加へてゐる。平安朝の歌には見られない風格を備へてゐる。この歌、下に劔刀諸刃之於荷去觸而所殺鴨將死戀管不有者《ルギダチモロハノウヘニユキフリテシニカモシナムコヒツツアラズハ》(二六三六)とあるのは同歌の異傳である。寄劍戀。
2499 吾妹子に 戀ひし渡れば 劍太刀 名のをしけくも 思ひかねつも
我妹《ワギモコニ》 戀度《コヒシワタレバ》 劍刃《ツルギタチ》 名惜《ナノヲシケクモ》 念不得《オモヒカネツモ》
私ハ〔二字傍線〕私ノ女ヲ戀シク思ヒ續ケテヰルト、苦シクテ我慢ガ出來ナイノデ、モハヤ〔苦シ〜傍線〕(劍刃)評判ノ立ツコトナドハ、イヤト〔三字傍線〕思ツテハ居ラレナイヨ。
○劔刃《ツルギダチ》――枕詞。名とつづくのは、刃をナといふからである。
〔評〕 これは前の歌と同じく、劔を材料としてゐるが、唯、枕詞となつてゐるのみである。卷四の劔太刀名惜苦も吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギダチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》(六一六)・卷十二の劔大刀名之惜毛吾者無比來之間戀之繁爾《ツルギダチナノヲシケクモワレハナシコノゴロノマノコヒノシゲキニ》(二九八四)など、内容が似てゐる。寄劍戀。
2500 朝づく日 向ふ黄楊櫛 ふりぬれど 何しか君が 見るに飽かざらむ
朝月日《アサヅクヒ》 向黄楊櫛《ムカフツゲグシ》 雖舊《フリヌレド》 何然公《ナニシカキミガ》 見不v飽《ミルニアカザラム》
私トアナタトノ戀中ハ〔私ト〜傍線〕、(朝月日向黄楊櫛)古イ間柄ダ〔三字傍線〕ケレドモ、ドウシテ私ニハ〔三字傍線〕、アナタガ見テモ見飽カナイノデアラウゾ。我ナガラ不思議ダ〔八字傍線〕。
○朝月日《アサヅクヒ》――枕詞。朝になつて出る日。月は借字で、附の意か。夕附日《ユフヅクヒ》(三八二〇)の附と同じく、秋付者《アキヅケバ》の付とも同じであらう。但し朝月夜、夕月夜などは月夜であるから混同してはならない。朝日に向ふ意で枕詞となつてゐる。黄楊櫛《ツゲグシ》までにかかつてゐるのではない。○向黄楊櫛《ムカフツゲグシ》――向ふは櫛匣などに向ふことであらう。即ち櫛を手にす(478)る意であらう、古義に「すべて櫛の齒は、わが頭髪の方へ向へさすものなればいふなるべし」とあるのは無理ではあるまいか。ここまでは舊りといはむ爲の序詞。
〔評〕 毎朝手にする黄楊櫛を材料として、面白くよんである。古義に初二句を譬喩としてあるが、序詞とする方が穩やかである。すつきりとして素純な作である。寄櫛戀。
2501 里遠み うらぶれにけり まそ鏡 床のへ去らず 夢に見えこそ
里遠《サトトホミ》 眷浦經《ウラブレニケリ》 眞鏡《マソカガミ》 床重不去《トコノヘサラズ》 夢所見與《イメニミエコソ》
戀シイ人ノ住ム〔七字傍線〕里ハ、此處カラ〔四字傍線〕遠イノデ、自由ニ逢フコトモ出來ズ、私ハ戀シクテ〔自由〜傍線〕心モ屈シテヰル。ドウカアノ人ノ姿ガ〔九字傍線〕(眞鏡)床ノアタリヲハナレズ、夢ニ見エテクレ。
○眷浦經《ウラブレニケリ》――眷を考に我、略解に吾とし、ワレウラブレヌとよみ、古義はもとのままでコヒウラブレヌとよんでゐる。眷はカヘリ・カヘリミなどと訓まれてゐるが、ここは衍字か。又はミと訓んで上句に添ふべきであらう。類聚古集に美と記し墨で消してあるのも參考とすべきである。○眞鏡《マソカガミ》――枕詞。常に床のほとりに置くものだから、床重不去《トコノヘサラズ》につづけてゐる。○夢所見與《イメニミエコソ》――與《コソ》は希望をあらはす。
〔評〕 上代では、鏡を床邊に置いて、大切にした樣が知られる。これは女の歌らしい。下に里遠戀和備爾家里眞十鏡面影不去夢所見社《サトトホミコヒワビニケリマソカガミオモカゲサラズイメニミエコソ》(二六三四)とあるのと同歌の異傳である。寄鏡戀。
2502 まそ鏡 手に取り持ちて あさなさな 見れども君は 飽くこともなし
眞鏡《マソカガミ》 手取以《テニトリモチテ》 朝朝《アサナサナ》 雖見君《ミレドモキミハ》 飽事無《アクコトモナシ》
(眞鏡手取以)毎朝毎朝、私ハアナタヲ見ルケレドモ、アナタヲ私〔二字傍線〕ハ見飽クコトハアリマセヌ。
○眞鏡手取以《マソカガミテニトリモチテ》――朝な朝な見る意で、序詞として用ゐられてゐる。
〔評〕 これも女の歌らしい。下に眞十鏡手取持手朝旦將見時禁屋戀之將繁《マソカガミテニトリモチテアサナサナミムトキサヘヤコヒノシゲケム》(二六三三)とあるのと異曲同巧である。寄(479)鏡戀。
2503 夕されば 床のへ去らぬ 黄楊枕 いつしかなれが ぬし待ち難き
夕去《ユフサレバ》 床重不去《トコノヘサラヌ》 黄楊枕《ツゲマクラ》 射然汝《イツシカナレガ》 主待固《ヌシマチガタキ》
夕方ニナルト床ノアタリヲ離サズ、置イテアル〔五字傍線〕黄楊ノ枕ヨ、ドウシテオマヘハ、オマヘノ〔四字傍線〕主人ヲオ待チ受ケスルコトガ出來ナイノダ。何故コノ黄楊枕ヲナサルベキアノ人ハ、オイデナサラナイノダラウカ〔何故〜傍線〕。
○黄楊枕《ツゲマクラ》――黄楊の木で作つた枕。長方形の小箱のやうなものであらう。○射然汝《イツシカナレガ》――何時しかとの意かも知れないが、ナニシカとありさうなところである。考には射は何の誤としてゐる。汝は黄楊枕を指す。○主待固《ヌシマチガタキ》――固の字、嘉暦本その他の古本、因に作つてゐるのがよいか。これによつて新訓はイツシカ汝主《キミ》ヲマテバクルシモと訓んでゐる。
〔評〕 黄楊枕に呼びかけたのが、戀する人の懊惱を物語つてゐる。これは確かに女の歌である。寄枕戀。
2504 解衣の 戀ひ亂れつつ 浮まなご 浮きても我は こひわたるかも
解衣《トキギヌノ》 戀亂乍《コヒミダレツツ》 浮沙《ウキマナゴ》 生吾《ウキテモワレハ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
私ハ〔二字傍線〕戀ニ心モ(解衣)亂レテ、(浮沙)ウカウカト心モ空ニナツテ〔七字傍線〕、私ハ戀シク思ヒ續ケテヰルヨ。
○解衣《トキギヌノ》――枕詞。亂《ミダレ》とつづく。解衣は解きほどきたる衣。○浮沙生吾《ウキマナゴウキテモワレハ》――この二句は誤字がありさうである。舊訓はウキテノミマナゴナスワガとある。契沖は「水のわきかへる所に、繊抄のうきてめぐるにたとへたり」と言つてゐる。眞沙が浮くといふのはどうかと思はれるが、水沫爾浮細砂裳《ミナワニウカブマナゴモ》(二七三四)とあるから、文字通りに訓むことにする。古義には浮草浮の誤寫としてゐる。六帖にこの歌を、「ときぎぬの思ひ亂れてうき草のうきたる戀もわれはするかな」とあるから、この訓も猥りに退け難い。○戀度鴨《コヒワタルカモ》――戀の字、嘉暦本に有に作り、考は在の誤として、アリワタルカモと訓んでゐる。ここは舊本を尊重して置かう。
(480)〔評〕 前後の歌によると、浮沙に寄せたのではなく、解衣に寄せてある。寄衣戀。
2505 梓弓 引きてゆるさず あらませば かかる戀には あはざらましを
梓弓《アヅサユミ》 引不許《ヒキテユルサズ》 有者《アラマセバ》 此有戀《カカルコヒニハ》 不v相鴨《アハザラマシヲ》
私ハアノ人ニ戀セラレタ時ニ〔私ハ〜傍線〕、(梓弓引)許サナイデ拒絶シテ〔四字傍線〕ヰタナラバ、コンナ悲シイ〔三字傍線〕戀ニハ逢ハナカツタダラウノニ。ウツカリアノ薄情男ノ口車ニ乘ツテ、今ニナツ後悔シテヰル〔ウツ〜傍線〕。
○梓弓引不許《アヅサユミヒキテユルサズ》――梓弓は引いてゆるべないものであるから、かく言つたので、梓弓引《アヅサユミヒキ》は不許《ユルサズ》の序詞として用ゐられてゐる。
〔評〕 女の歌で、男に戀を許して捨てられたのを恨んだものである。序詞が巧に出來てゐる。但し、卷十二に梓弓引而不縱大夫哉戀云物乎忍不得牟《アヅサユミヒキテユルサヌマスラヲヤコヒトフモノヲシヌビカネテム》牟(二九八七)とあるによると、男の歌とも考へられないことはない。寄弓戀。
2506 こと靈の 八十のちまたに 夕占問ふ 占正にのる 妹にあはむよし
事靈《コトダマノ》 八十衢《ヤソノチマタニ》 夕占問《ユフケトフ》 占正謂《ウラマサニノル》 妹相依《イモニアハムヨシ》
道ノ〔二字傍線〕イクツモニ別レテヰル辻デ言葉ノ靈デ判斷スル、夕方ノ辻〔三字傍線〕占ヲ私ハ〔二字傍線〕ヤツタガ、ソノ辻〔傍線〕占ハ女ニ逢ヘルト、確カニ告ゲタヨ。嬉シイコトダ〔六字傍線〕。
○事靈《コトダマノ》――事は言の借字。言靈は言葉の魂で、我らの使ふ言葉には靈魂が宿つて居て、それが人に吉凶禍福を與へるといふ信念が、上代人にあつた。卷五に言靈能佐吉播布國等《コトダマノサキハフクニト》(八九四)卷十三に志貴島倭國者事靈之所佐國敍眞福在與其《シキシマノヤマトノクニハコトダマノタスクルクニゾマサキクアリコソ》(三二五四)などの言靈も同じである。この句から句を隔てて、夕占につづいてゐる。古義はコトダマヲ、新考はコトダマニとよんでゐル。○八十衢《ヤソノチマタニ》――チマタは道股即ち辻。八十といつたのは方方へ分れる辻の意である。○夕占問《ユフケトフ》――夕占は夕方辻に立つて、道行く人の言葉によつて吉凶を判斷するもの、即ち今の辻占の原始的のものである。卷三に夕衢占問《ユフケトヒ》(四二〇)、卷四に夕占問《コフケトヒ》(七三六)などがある。次の歌に路往占とあるの(481)も同じであらう。○占正謂妹相依《ウラマサニノルイモニアハムヨシ》――舊訓ウラマサニイヘイモニアヒヨラムとあるのを、考はウラマサニイヘイモニアハムヨシとしてゐる。考の訓でも意は聞えるが、この歌は次の歌と同意と思はれるから、右のやうに訓んだ。依の字は見依鴨《ミムヨシモガモ》(一三〇〇)の例によつてよんだ。
〔評〕 言靈思想や、夕占などの樣子が歌はれてゐて、文化史的に興味のある歌である。寄占戀。
2507 玉ぼこの 路ゆきうらに うらなへば 妹に逢はむと 我に告りつる
玉桙《タマボコノ》 路往占《ミチユキウラニ》 々相《ウラナヘバ》 妹逢《イモハハムト》 我謂《ワレニノリツル》
私ハ〔二字傍線〕(玉桙)道行ク人ノ言葉デ判斷スル辻〔人ノ〜傍線〕占デ占ツテ見ルト、戀シイ〔三字傍線〕女ニ逢ヘルト辻占ガ〔三字傍線〕私ニ言ツタ。願ガ叶フト見エル。嬉シイコトダ〔ガ叶〜傍線〕。
○玉桙《タマボコノ》――枕詞。路とつづく。○路往占《ミチユキウラニ》――路往く人の言葉によつて、判斷する占、即ち辻占。
〔評〕 前歌と同意で、女に逢へると辻占に出たのを喜んでゐる。前の歌よりも一層平明な歌である。寄占戀。
問答
2508 すめろぎの 神の御門を かしこみと さもらふ時に 逢へる君かも
皇祖乃《スメロギノ》 神御門乎《カミノミカドヲ》 懼見等《カシコミト》 侍從時爾《サモラフトキニ》 相流公鴨《アヘルキミカモ》
天子樣ノ御所ニ畏レ謹ミナガラ仕ヘテヰル時ニ、私ハ〔二字傍線〕アナタニオ目ニカカリマシタヨ。所モアラウノニ、アンナ所デハ話モ出來マセンデシタ〔所モ〜傍線〕。
○皇祖乃神御門乎《スメロギノカミノミカドヲ》――スメロギは皇祖と記してあるが、スメラギと同じく、天皇のことである。スメロギといふ神の御門。ミカドは文字通り御門のことと、御殿のこととある。ここは御殿であらう。○懼見等《カシコミト》――畏しとての意。畏みてに同じ。
(482)〔評〕 これは女の歌であらう。この女は内侍などで、宮中に奉仕してゐた時、兼ねて知りあひの男に遭つたのであらう。略解に「戀ふる男の朝廷に侍ふ時に、故有て女の見し也」とあるが、サモラフの主語は女であらうと思はれる。
2509 まそ鏡 見とも言はめや 玉かぎる 岩垣淵の こもりたる妻
眞祖鏡《マソカガミ》 雖見言哉《ミトモイハメヤ》 玉限《タマカギル》 石垣淵乃《イハガキフチノ》 隱而在?《コモリタルツマ》
(玉限石垣淵乃)隱シテアツテ、世間デハ二人ノ中ヲ知ラナイ〔世間〜傍線〕妻ヨ。私ハオカヘヲ〔六字傍線〕(眞祖鏡)見タナドト人ニ〔二字傍線〕言フモノデスカ、決シテ言ハナイカラ安心ナサイ〔決シ〜傍線〕。
○眞祖鏡《マソカガミ》――枕詞。見とつづく。○玉限《タマカギル》――枕詞。玉の耀く淵とつづくのであらう。○石垣淵《イハガキフチノ》――岩に圍まれた淵。三四の句は隱《コモリ》が序詞となつてゐる。○隱而在?《コモリタルツマ》――略解にカクレタルイモとあるのはよくない。人目を忍ぶ妻。
〔評〕 これは男の歌である。人には口外せぬ故安心せよと、女を慰めてゐる。この歌、袖中抄に出てゐる。右二首で問答になつてゐる。
右二首
2510 赤駒の 足掻速けば 雲居にも 隱り往かむぞ 袖卷け吾妹
赤駒之《アカゴマノ》 足我枳速者《アガキハヤケバ》 雲居爾毛《クモヰニモ》 隱往序《カクリユカムゾ》 袖卷吾妹《ソデマケワギモ》
私ガ乘ル〔四字傍線〕赤馬ノ足ノ運ビガ早イカラ、今旅立スレバスグニ〔今旅〜傍線〕、空ノアナタニ遙カ〔七字傍線〕ニ隱レテ見エナクナツテ〔七字傍線〕行クゾ。吾ガ妻ヨ。ワタシノ〔四字傍線〕袖ヲ枕トシテ寢テ、シバシノ別ヲ惜シミ〔テ寢〜傍線〕ナサイ。
○足我枳速者《アガキハヤケバ》――足掻が早ければ。○袖卷吾妹《ソデマケワギモ》――宣長は卷は擧の誤だらうとし、ソデフレワギモと訓んでゐる。古事記に羽擧をハフリとよんだ例があると言つてゐるが、集中、袖擧の熟字もなく、擧をフルと訓んだ例(483)もないから、もとのままでマケとよむがよい。卷十に白妙之袖纏將干《シロタヘノソデマキホサム》(二三二一)とあるやうに、卷は枕することである。
〔評〕 五句に異論があるが、右のやうに見て解せられぬことはない。少し露骨な文句である。これは人麿歌集の歌で、卷三の青駒之足掻乎速雲居曾妹之當乎過而來計類《アヲゴマノアガキヲハヤミクモヰニゾイモガアタリヲスギテキニケル》(一三六)が人麿の作なることに注意したい。
2511 こもりくの 豐泊瀬道は 常滑の 恐き遺ぞ 戀ふらくはゆめ
隱口乃《コモリクノ》 豐泊瀬道者《トヨハツセヂハ》 常滑乃《トコナメノ》 恐道曾《カシコキミチゾ》 戀由眼《コフラクハユメ》
(隱口乃豐)初瀬ノ道ハ川瀬ノ石ガ〔四字傍線〕イツモ滑ラカデ、滑リ易ク〔四字傍線〕恐ロシイ道デスヨ。デスカラアナタハ私ヲ〔デス〜傍線〕思ツテ下サルナラ、決シテ、オ渡リナサイマスナ〔九字傍線〕。
○隱口乃《コモリクノ》――枕詞。泊瀬《ハツセ》とつづく。四五參照。○豐泊瀬道者《トヨハツセヂハ》――豐は美稱。○常滑乃《トコナメノ》――卷一に雖見飽奴吉野乃河之常滑乃《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノ》(三七)とあるやうに、川邊の岩石の常に滑らかなるをいふのである。舊本、滑を濟に誤つてゐる。嘉暦本による。○戀由眼《コフラクハユメ》――考に戀を曉の誤として、アカシテヲユケとし、古義は戀を爾心の二字として、ナガココロユメと訓み、新考は勿怠由眼《オコタルナユメ》に改めてゐる。原文のままでは少し穩やかではないが、「我を戀ふとならばゆめ渡る事なかれと云るにや」と略解にあるのに從はう。
〔評〕 男を送る女の歌。前の答であらう。道中を氣遣ふ女心があはれである。
2512 味酒の 三諸の山に 立つ月の 見が欲し君が 馬の足音ぞする
味酒之《ウマサケノ》 三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》 立月之《タツツキノ》 見我欲君我《ミガホシキミガ》 馬之足音曾爲《ウマノアトゾスル》
(味酒之三毛侶乃山爾立月之)見タイ逢ヒタイ〔四字傍線〕ト戀シク〔三字傍線〕思ツテヰタアナタノ、馬ノ足音ガ聞エテ來夕。久シブリデ、オ目ニカカレルト思フト、嬉シウゴザイマス〔久シ〜傍線〕。
○《ウマサケノ》――枕詞。味酒三輪山《ウマサケノミワノヤマ》(一七)とあるやうに、三輪につづくのを常とするところから三輪山の別名なる(484)三毛侶乃山《ミモロノヤマ》にも冠したものであらう。考には之を乎の誤として、ウマサケヲとよんでゐる。卷十三に味酒《ウマサケヲ》(三二六六)とあるが、それに一致せしめる要はない。○三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》――御室の山即ち神のしづまります山の意。ここは三輪山。一〇九四參照。○立月之《タツツキノ》――立は月の上ること。考に立は光の誤かとあるのはよくない。ここまでの三句は見我欲《ミガホシ》と言はむ爲の序詞。○馬之足音曾爲《ウマノアトゾスル》――嘉暦本のみは足の字が無い。新訓はこれに從つて、ウマノオトゾスルとよんでゐる。
〔評〕女らしい、やさしい佳い歌である。この歌は前の答でもなく、赤駒之の歌にも關係がないやうだ。問答の部に入れたのはどうしたのだらう。
右三首
問答の歌に三首とあるのは變であり、又問答らしくない歌が含まれてゐる。後人がさかしらに三首と改めたのではあるまいか。古義は二首の誤として、改めてゐる。
2513 雷神の しばしとよみて さし曇り 雨の零らばや 君が留らむ
雷神《ナルカミノ》 小動《シバシトヨミテ》 刺雲《サシクモリ》 雨零耶《アメノフラバヤ》 君將留《キミガトマラム》
雷ガシバラク鳴リ轟イテ、空ガ〔二字傍線〕カキ曇リ、兩ガ降ツタナラバ、戀シイ〔三字傍線〕アナタガオ留リナサルデセウ。オ別ガ辛ウゴザイマス〔オ別〜傍線〕。
○小動《シバシトヨミテ》――宣長は小は光の誤として、ヒカリトヨミテと訓んでゐるが、ここは暫くの意が肝要なのであるから、光と改めることは出來ない。○刺雲《サシクモリ》――サシは接頭語のみ。○雨零耶《アメノフラバヤ》――略解アメモフレヤモと訓み「ふれやもはふれかしの意也」とあるが、ここの文字を見ると、希望ではあるまいと思はれる。舊訓による。
〔評〕 戀しい人を留めむ爲に、恐ろしい嫌な雷も鳴れかしと言ふのである。何といふやさしい女心であらう。
2514 雷神の しばしとよみて ふらずとも 吾は留らむ 妹し留めば
(485)雷神《ナルカミノ》 小動《シバシトヨミテ》 雖不零《フラズトモ》 吾將留《ワレハトマラム》 妹留者《イモシトドメバ》
ナニサウ言ヒナサルナ〔ナニ〜傍線〕。アナタガ留メサヘスレバ、雷ガ暫ク鳴ツテ雨ガ〔二字傍線〕降ラナイデモ、ワタシハ留リマスヨ。
〔評〕 女の歌の言葉を繰返して、巧に答へてゐる。愛情の溢れた至純な歌。
右二首
2515 しきたへの 枕動きて 夜もねず 思ふ人には 後も逢はむもの
布細布《シキタヘノ》 枕動《マクラウゴキテ》 夜不寐《ヨルモネズ》 思人《オモフヒトニハ》 後相物《ノチモアハムモノ》
私ハ〔二字傍線〕(布細布)枕ガ動イテ夜モ寢ルコトガ出來〔六字傍線〕ナイデ、戀シイ戀シイトアナタヲ思ツテ居マスガ、カウシテ思ツ〔戀シイ戀〜傍線〕テヰル人ニハ、又〔傍線〕後デ逢フコトガ出來ルモノデス。イツカ私ハアナタニ逢ヘルト思ツテアテニシテヰマス〔イツ〜傍線〕。
○布細布《シキタヘノ》――枚詞。枕とつづく。七二參照。○枕動夜不寐《マクラウゴキテヨルモネズ》――寢られないで、輾轉反側するのを、枕が動くやうに言つたのである。ヨルモネズで切れないで、次の句につづいてゐる。○思人《オモフヒトニハ》――吾が思ふ人には。我を思ふ人ではない。○後相物《ノチモアハムモノ》――舊訓ノチモアハムモとあるのも惡くはない。考に復相疑の誤として、マタモアハムカモとよんだのはよくない。
〔評〕抑へようとして抑へ難い愛慕の情を胸に抱いて、夜もすがら右に左に寢返りするのを、枕が動いて寢られぬと言つたのは、面白い叙法であるが、下の敷細枕動而宿不所寢物念此夕急明鴨《シキタヘノマクラウゴキテイネラエズモノオモフコヨヒハヤモアケヌカモ》(二五九三)と同想である。二者の關係は否まれない。
2516 しきたへの 枕せし人 言問へや その枕には 苔生ひにたり
敷細布《シキタヘノ》 枕人《マクラセシヒト》 事問哉《コトトヘヤ》 其枕《ソノマクラニハ》 苔生負爲《コケオヒニタリ》
ソノ〔二字傍線〕(敷細布)枕ヲシテ寢〔二字傍線〕タアナタハ、少シハ〔三字傍線〕訪ネテ來テ下サイ。アナタガ永ラクオ使ヒナサラナイノデ〔アナ〜傍線〕、ソ(486)ノ枕ニハ苔ガ生エテシマヒマシタ。私ヲ思ツテ寢ラレナイ程ナラ、コチラヘオイデ下サルダラウノニ、オイデガナイノデ見レバ、信用ガ出來ナイ御言葉デス〔私ヲ〜傍線〕。
○枕人《マクラセシヒト》――略解に舊訓を改めて、マクラニヒトハと訓み、古義モ同樣であるが、奇に過ぎる。○事問哉《コトトヘヤ》――言訪へよの意。この句で切れてゐる。
〔評〕 枕に苔が生えたといふのは奇拔であるが、これも下の結紐解日遠敷細吾木枕蘿生來《ユヘルヒモトカムヒトホミシキタヘノワガコマクラニコケムシニケリ》(二六三〇)と同想である。
右二首
以前一百四十九首、柿本朝臣人麿之歌集出
柿本人麿歌集からかくも多數を採録したのは、他の卷にはないことである。この歌集の特色として、用宇數が尠く、訓み難いものが多い。
正(ニ)述(ブ)2心緒(ヲ)1
2517 たらちねの 母に障らば いたづらに いましも我も 事成るべしや
足千根乃《タラチネノ》 母尓障良婆《ハハニサハラバ》 無用《イタヅラニ》 伊麻思毛吾毛《イマシモワレモ》 事應成《コトナルベシヤ》
(足千根乃)母ヲ憚ツテグズグズシテ〔六字傍線〕居タナラバ、空シク、アナタモワタシモ思ヲ遂ゲルコトガ出來ナイデセウヨ。イツソ何モカマハズニ逢ヒマセウ〔イツ〜傍線〕。
(487)○足千根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○母尓障良婆《ハハニサハラバ》――母を憚らばの意。○事應成《コトナルベシヤ》――古義に從ふ。舊訓コトヤナルベキ、略解コトナスベシヤとある。事がならむや。到底戀は成就せぬといふのである。
〔評〕 語氣の力強い歌である。男が女をそそのかして、決心をうながすものらしい。下に 垂乳根乃母白者公毛余毛相鳥羽梨丹年可經《タラチネノハハニマヲサバキミモワレモアフトハナシニトシゾヘヌベキ》(二五五七)と内容を等しくしてゐるが、この方が遙かに穩やかである。
2518 吾妹子が 我を送ると 白妙の 袖ひづまでに なきし念ほゆ
吾妹子之《ワギモコガ》 吾呼送跡《ワレヲオクルト》 白細布乃《シロタヘノ》 袂漬左右二《ソデヒヅマデニ》 哭四所念《ナキシオモホユ》
ワタシノ妻ガ、ワタシトノ別ヲ悲シンデ〔ワタ〜傍線〕ワタシヲ送リ出ス時ニ、(白細布乃)袂ガ濡レル程モ泣イタコトヲ、今デモ私ハ〔五字傍線〕思ヒ出シテハ悲シクナリ〔九字傍線〕マス。
〔評〕 女との訣別を思ひ起して、悲しみに沈む歌である。ありのままに心緒を述べて、言ふべからざる哀感が溢れ漂つてゐる。
2519 奥山の 眞木の板戸を おし開き しゑや出で來ね 後は何せむ
奥山之《オクヤマノ》 眞木乃板戸乎《マキノイタドヲ》 押開《オシヒラキ》 思惠也出來根《シヱヤイデコネ》 後者何將爲《ノチハナニセム》
(奥山之)檜ノ板ノ戸ヲ押シ開ケテ、エエモウ、出テオイデナサイ。後デハ何ニモナリマセンヨ。今丁度都合ガヨイ時デスカラ、早クオイデナサイ〔今丁〜傍線〕。
○奥山之《オクヤマノ》――枕詞。奥山に生ずる眞木の意。○思惠也出來根《シヱヤイデコネ》――シヱヤは歎息の語。卷四に四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》(六五九)參照。○後者何將爲《ノチハナニセム》――ナニセムは何にならうぞ、何にもならぬの意。卷四の孤悲死牟後者何爲牟《コヒシナムノチハナニセム》(五六〇)參照。
〔評〕 これは男が女をうながし立てる歌で、男らしい思ひ切つた語氣である。民謠らしい。
2520 刈こもの 一重を敷きて さ眠れども 君としぬれば 寒けくもなし
苅薦能《カリコモノ》 一重※[口+立刀]敷而《ヒトヘヲシキテ》 紗眠友《サヌレドモ》 君共宿者《キミトシヌレバ》 冷雲梨《サムケクモナシ》
(488)薦ノ〔二字傍線〕席ヲ一枚敷イテ寢テモ、アナタト一緒ニ〔三字傍線〕寢レバ寒クモ何トモ〔三字傍線〕ナイ。
○苅薦能《カリコモノ》――下に一重とつづいてゐるから、刈薦で織つた蓆であらう。○君共宿者《キミトシヌレバ》――共はムタ・トモニ・ドチ・トなどの諸訓がある。ここはトとよんで、シを添へるがよいであらう。
〔評〕 實感そのままの直線的表現である。優美さがなく、ややもすれば野鄙に墮せむとしてゐる。
2521 杜若 丹づらふ君を いささめに 思ひ出でつつ 嘆きつるかも
垣幡《カキツバタ》 丹頬經君※[口+立刀]《ニヅラフキミヲ》 率爾《イササメニ》 思出乍《オモヒイデツツ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
(垣幡)顔色ノ赤々トシタ美シイ〔三字傍線〕アナタヲ、不圖思ヒ出シテ、私ハ〔二字傍線〕歎息シマシタヨ。
○垣幡《カキツバタ》――枕詞。花の美しきを以て、ニヅラフとつづけてゐる。○丹頬經君※[口+立刀]《ニヅラフキミヲ》――舊訓にニホヘルとあるのはよくない。ニヅラフは顔の紅く美しいこと。○率爾《イササメニ》――かりそめに。率爾に。伊友佐目丹《イササメニ》(一三五五)參照。
〔評〕 何か他の仕事をしながら、不圖戀しい女を思ひ出して嘆息し、人に氣どられはせぬかと周圍を見廻してゐる、男の姿が見えるやうである。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
2522 恨みむと 思ひて背なは ありしかば よそのみぞ見し 心は念へど
恨登《ウラミムト》 思狹名盤《オモヒテセナハ》 在之者《アリシカバ》 外耳見之《ヨソノミゾミシ》 心者雖念《ココロハオモヘド》
私ハアナタヲ忘レテ逢ハナカツタノデハアリマセヌ。何カ考ヘ違ヒヲシテ〔私ハ〜傍線〕、私ノ夫ガ私ニ恨言ヲ言ハウトシテ居ラレルト聞キ〔四字傍線〕マシタカラ、心ノ中デハ逢ツテオ話ガシタイト〔逢ツ〜傍線〕思ツテヰマシタガ、何タカ氣ガヒケテオ目ニカカリナガラ〔何タ〜傍線〕、ヨソバカリヲ見テヰマシタ。御許シ下サイ〔六字傍線〕。
○思狹名盤《オモヒテセナハ》――舊訓にオモフカセナハとあり、古義は思名積而に改めて、オモヒナヅミテと訓してゐるが、代匠記初稿本による。或は誤字あるか。
〔評〕 解釋がいろいろあるやうであるが、右のやうに釋いて意は明瞭である。心のやさしい控目な女の氣分がよ(489)く出てゐル。珍しい内容の歌であらう。
2523 さ丹づらふ 色には出でず 少くも 心のうちに 吾が念はなくに
散頬相《サニヅラフ》 色者不出《イロニハイデズ》 小文《スクナクモ》 心中《ココロノウチニ》 吾念名君《ワガモハナクニ》
私ハ心ノ中デハ、アナタヲ〔四字傍線〕思フコトハ少々ノコトデハナイガ、(散頬相)顔〔傍線〕色ニハ出サズニ隱シテヰマス〔七字傍線〕。
○散頬相《サニヅラフ》――枕詞。色とつづく意は明らかである。
〔評〕 平明な作。下に言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘバミミニタヤスシスクナクモココロノウチニワガモハナクニ》(二五八一)、卷十二に人目多見眼社忍禮小毛心中爾吾念莫國《ヒトメオホミメコソシヌブレスクナクモココロノウチニワガモハナクニ》(二九一一)と下三句が全く同じである。この歌、袖中抄に出てゐる。
2524 わが背子に ただに逢はばこそ 名は立ため ことのかよひに 何かそこ故
吾背子爾《ワガセコニ》 直相者社《タダニハアハバコソ》 名者立米《ナハタタメ》 事之通爾《コトノカヨヒニ》 何其故《ナニカソコユヱ》
ワタシノ戀シイ〔三字傍線〕男ニ、直接ニ逢ツタラバコソ浮名〔二字傍線〕モ立タウガ、タダカウシ〔五字傍線〕テ言葉ダケヲ通ハシテヰルノニ、唯ソレダケノコトダノニ、評判ガ立ツタノハ〔八字傍線〕ドウシタワケグラウ。人ノ口ハ恐ロシイモノダ〔人ノ〜傍線〕。
○事之通爾《コトノカヨヒニ》――考は舊訓を改めて、コトノカヨフニとしてゐるが、名詞として訓む方がよいか。事は言の借字。言葉を通はすのみなるにの意。○何其故《ナニカソコユヱ》――どうしてそれ故にの意。
〔評〕 人の口の喧しいのを嘆じたもの。技巧のないありのままの歌。下句に不思議がる心持がよく出てゐる。
2525 ねもごろに 片思すれか この頃の 吾が心どの 生けりともなき
懃《ネモゴロニ》 片念爲歟《カタモヒスレカ》 比者之《コノゴロノ》 吾情利乃《ワガココロドノ》 生戸裳名寸《イケリトモナキ》
私ハ〔二字傍線〕眞底カラ、カナハヌ戀ノ〔六字傍線〕片思ヲシテ居ルカラカ、コノ頃ノ私ノ魂ガ丸デ〔三字傍線〕死ンデシマツタヤウゲ。
○片念爲歟《カタモヒスレカ》――片戀すればかの意。○吾情利乃《ワガココロドノ》――情利《ココロド》は心・魂などの意。語源は心所か。利心《トゴコロ》と同一視してはいけない。四五七參照。○生戸裳名寸《イケリトモナキ》――イケリと訓むがよい。卷十九に伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》(四一七〇)とあるが、(490)それは寧ろ特例であらう。
〔評〕 これも素直な、鮮明な作である。多少型に嵌つたやうな傾向がある、
2526 待つらむに 到らば妹が うれしみと ゑまむ姿を 往きて早見む
將待爾《マツラムニ》 到者妹之《イタラバイモガ》 懽跡《ウレシミト》 咲儀乎《ヱマムスガタヲ》 徃而早見《ユキテハヤミム》
今頃ハ女ガワタシノ來ルノヲ〔今頃〜傍線〕待ツテ居ルデアラウガ、侍ツテヰル〔六字傍線〕所ヘ、行ツタラバ、女ガ嬉シイト、ニコニコ笑ツテ迎ヘルダラウガ、ソノ女ノ〔ツテ〜傍線〕姿ヲ行ツテ早ク見ヨウ、サア急ガウ〔五字傍線〕。
○懽跡《ウレシミト》――ミは添へて言ふのみ。
〔評〕 純眞その物のやうな作である。後世の戀歌にはこんな、さつぱりした、純情の儘の歌は見えないやうである。下に不念丹到者妹之歡三跡咲牟眉曳所思鴨《オモハヌニイタラバイモガウレシミトヱマムマヨビキオモホユルカモ》(二五四六)と似てゐる。
2527 誰ぞこの 吾がやどに來よぶ たらちねの 母にころばえ 物思ふ我を
誰此乃《タレゾコノ》 吾屋戸來喚《ワガヤドニキヨブ》 足千根乃《タラチネノ》 母爾所嘖《ハハニコロバエ》 物思吾呼《モノモフワレヲ》
私ガ〔二字傍線〕(足千根)母ニ叱ラレテ、心配シテヰルノニ〔二字傍線〕、私ヲ、私ノ家ヘ來テ喚ブ人ハドナタデスカ。アナタ故コソ母ニモ叱ラレタノニ。困ツタ人デス〔アナ〜傍線〕。
○母爾所嘖《ハハニコロバエ》――神代紀に「發2稜威之嘖讓1云々、嘖讓此云2擧廬毘《コロビ》1」とアリ、叱ることをコロブといふのである。コロバエは叱られ。卷十四に禰奈敝古由惠爾波伴爾許呂波要《ネナヘコユヱニハハニコロバエ》(三五二九)・奈我波伴爾己良例安波由久《ナガハハノコラレアハユク》(三五一九)ともある、
〔評〕 全く民謠風の作。初二句に誰ぞと問ひかける趣など、野趣に富んだ面白い歌である。
2528 さねぬ夜は 千夜もありとも 吾背子が 思ひ悔ゆべき 心は持たじ
左不宿夜者《サネヌヨハ》 千夜毛有十方《チヨモアリトモ》 我背子之《ワガセコガ》 思可悔《オモヒクユベキ》 心者不持《ココロハモタジ》
(491)ワタシノ夫ト〔六字傍線〕寢ナイ夜ハタトヒ〔三字傍線〕千晩アツテモ。私ハ決シテ心變リナドハシマセヌ〔私ハ〜傍線〕。私ノ夫ガ後デ〔二字傍線〕殘念ガルヤウナ、薄情ナ〔三字傍線〕心ハ持ツテ居リマセヌ。
○左不宿夜者《サネヌヨハ》――サは接頭語のみ。ここは共寢せぬ夜はの意。
〔評〕 卷三に妹毛吾毛清之河乃河岸之妹我可悔心者不持《イモモワレモキヨミノカハノカハギシノイモガクユベキココロハモタジ》(四三七)・卷十四に可麻久艮乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《カマクラノミコシノサキノイハクエノキキミガクユベキココロハモタジ》(三三六五)などに似た點がある。
2529 家人は 路もしみみに 通へども 吾が待つ妹が 使來ぬかも
家人者《イヘビトハ》 路毛四美三荷《ミチモシミミニ》 雖往來《カヨヘドモ》 吾待妹之《ワガマツイモガ》 使不來鴨《ツカヒコヌカモ》
私ノ〔二字傍線〕家ノ人ドモハ、此邊ノ〔三字傍線〕道ヲ頻繁ニ往來シテヰルガ、ワタシガ侍ツテヰル女カラノ使ハ、一向ヤツテ〔五字傍線〕來ナイヨ。ドウシタノカ知ラ、待遠イコトダ〔ドウ〜傍線〕。
○路毛四美三荷《ミチモシミミミニ》――道も繁く。頻繁に。○雖往來《カヨヘドモ》――舊本、往の字がないのは脱ちたのである。嘉暦本・神田本によつて補ふ。
〔評〕 新考に「家人は里人の誤ならむ」とあるが、なるほどこのままでは少し落ちつきがよくない。或は誤字があるか。
2530 あらたまの きへが竹垣 編目ゆも 妹し見えなば 我戀ひめやも
璞之《アラタマノ》 寸戸我竹垣《キヘガタケガキ》 編目從毛《アミメユモ》 妹志所見者《イモシミエナバ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》
(璞之寸戸我)竹垣ノ編目カラデモ、戀シイ〔三字傍線〕女ノ姿〔二字傍線〕ガ見エタナラバ、私ハ戀シク思ハウヤ。ソレデ滿足シテ居ルノニ、丸デ姿ガ見エナイカラ悲シイノダ〔ソレ〜傍線〕。
○璞之寸戸我竹垣《アラタマノキヘガタケガキ》――アラタマは遠江國麁玉郡、和名抄に「遠江國麁玉郡阿良多末、今稱2有玉1」とあり、この郡名は今は廢せられて、引佐郡・濱名郡・磐田郡に編入せられてゐるが、續紀に「寶龜元年五月、遠江地震山崩(492)壅2麁玉河1水爲v之不v流云々」「天平寶字五年五月辛丑、遠江國荒玉河堤決三百餘丈、役2單功三十萬三千七百餘人1宛v粮修築」と見える荒王河の流域である。この河も後世流域が變じ、その名も改められて、馬込川となつてゐる。寸戸《キヘ》は卷十四の遠江國歌に阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多?天由吉可都麻思自移乎佐伎太多尼《アラタマノキヘノハヤシニナヲタテテユキカツマシジイオヲサキダタネ》(三三五三)・伐倍比等乃萬太良夫頂麻爾和多佐波太伊利奈麻之母乃伊毛我乎杼許爾《キヘビトノマダラフスマニワタサハダイリナマシモノイモガヲドコニ》(三三五四)とあつて、蝦夷を防ぐ爲にこの地方に設けられた柵《キ》に附屬した民戸である。孝徳紀に「大化三年造2渟足柵1置2柵戸1四年治2磐舟柵1以備2蝦夷1、遂選d越與2信濃1之民u、始置2柵戸1」とあり、又續紀の廿卷の詔にも「出羽國小勝村乃柵戸爾移賜久止宣《デハノクニヲカチムラノキヘニウツリタマハクトノル》」とあつて、東北地方に柵戸《キヘ》と稱するものを設置せられたことがわかる。和名抄に「山香郡岐階郷」とあるのは岐陛郷の誤であらうかと言はれ、又今、遠江國濱名郡豐西村に大字貴平があるが、これらを以て、この歌の寸戸を地名と斷ずるわけには行かぬ。柵戸の所在地がキヘといふ地名になつたものと見ねばならぬ。さてこの柵戸は城塞を守る民家であるから、城壁の中に柵を廻らして住居してゐたので、ここに柵戸が竹垣と詠まれたので、アラタマノキヘガは竹垣と言はむ爲に置かれた序詞と見るべきであらう。竹垣の編目からなりとも、と下にはつづいてゐる。
〔評〕 荒玉の柵戸の竹垣は都人の問にも有名であつた。それを材料として序詞を作つたもので、前の「肥人の額髪結へる染木綿」や、「早人の名に負ふ夜聲」のやうに、邊土情緒のあらはれであらう。これを遠江地方での作とするのは當るまい。
2531 わが背子が その名告らじと たまきはる 命は棄てつ 忘れたまふな
吾背子我《ワガセコガ》 其名不謂跡《ソノナノラジト》 玉切《タマキハル》 命者棄《イノチハステツ》 忘賜名《ワスレタマフナ》
私ハ〔二字傍線〕私ノ戀シイ〔三字傍点〕アナタノソノ御名ハ、決シテ人ニ〔五字傍線〕言フマイト決心シテ〔四字傍線〕、(玉切)命ヲモ棄テテシマヒマス。コレホド深ク思ツテヰルノデスカラ、ドウゾ私ヲ〔コレ〜傍線〕オ忘レナサイマスナ。
○玉切《タマキハル》――枕詞。命とつづく。四參照。○命者棄《イノチハステツ》――代匠記に「たとひ命を失なふ程の事ありとも夫の名をば(493)いはじと思ひ定たるを命は棄つと云へり」とあるのが、一般に採られてゐるが、ステツとあるからは、死せむとして詠んだ歌であらう。
〔評〕 何といふ強烈な、さうして犠牲的精神のあふれた歌でからう。戀の爲に命を失ふことを詠じたものは後世の歌にも尠くはないが、こんな没利己の作はあるまい。その雄々しさは江戸時代の武家の女性も及ばぬほどである。その意味において傑出した作である。
2532 おほならば 誰が見むとかも ぬば玉の 吾が黒髪を 靡けてをらむ
凡者《オホナラバ》 誰將見鴨《タガミムトカモ》 黒玉乃《ヌバタマノ》 我玄髪乎《ワガクロカミヲ》 靡而將居《ナビケテヲラム》
並大抵ニ思ツテヰル〔六字傍線〕ナラバ、誰ニ見セヨウトテ私ノ(黒玉乃)黒髪ヲ靡カシテ居ラウゾ。私ハアナタヲ眞底カラ思ツテヰルカラ、髪ヲ束ネズニ靡カシテ、コノ髪ノ長イ姿ヲアナタニ見セヨウト思フノデス〔私ハ〜傍線〕。
○凡者《オホナラバ》――おほよそに思ふならばの意。舊訓はオホヨソハ、古義はオホカタハ、新訓は、者を誤字として、オホロカニとよんでゐるが、考の訓がよい。○靡而將居《ナビケテヲラム》――宣長はヌラシテヲラムと訓まうと言つてゐる。卷二の多氣婆奴禮《タケバヌレ》(一二三)に傚つたのであらうが、文字通りナビケテでよからう。
〔評〕「誰に見せよと紅鐡漿《ベニカネ》つけて」といふやうな氣分であらう。卷九に君無者奈何身將装餝匣有黄楊之小梳毛將取跡毛不念《キミナクバナゾミヨソハムクシゲナルツゲノヲグシモトラムトモモハズ》(一七七七)と同樣である。これも民謠風である。
2533 面忘れ 如何なる人の 爲るものぞ 我はしかねつ 繼ぎてし念へば
面忘《オモワスレ》 何有人之《イカナルヒトノ》 爲物焉《スルモノゾ》 言者爲金津《ワレハシカネツ》 繼手志念者《ツギテシモヘバ》
戀シイ人ノ〔五字傍線〕顔ヲドンナ人ガ忘レルノカ。私ハ絶エズ〔三字傍線〕續イテ思ツテヰルカラ、忘レルコトハ出來ナイ。
○言者爲金津《ワレハシカネツ》――言はワレと訓む。卷十にも鴈言戀於妹告社《カリハワガコヒイモニツゲコソ》(二一二九)とあつたが、あれは元暦校本に吾に作つてゐるのに從つて置いた。併し集中この他、言戀將居《ワガコヒヲラム》(二五三四)・言故《ワレユヱニ》(二五三五)・言下紐之《ワガシタヒモノ》(二九七三)・言氣築之《ワガイキヅキシ》(三一一五)・言紐(494)緒乃《ワガヒモノヲノ》(三一八三)・涙言目鴨迷《ナクワレガメカモマドヘル》(三三二四)などの例があるから、これを誤とするわけにはゆかぬ。これについて訓義辨證には「爾雅釋詁また玉篇に、言(ハ)我也と註し、毛詩(ノ)葛※[譚の旁]また※[丹+彡]弓の傳にも言(ハ)我也とあり、箋には猶いと多く見えたり、さて又欽明紀七左に、至2于今日1言《ワレ》念d先祖與2舊旱岐1和親之詞u、靈異記下卷二右訓釋に、言和禮、類聚名義抄に、言禾レ、以呂波字類抄人倫に、言ワレなどあるをや、云々」と述べてゐる。
〔評〕 纒綿たる愛情、斷ち難い戀の羈が、力強い格調を以てあらはされてゐる、三句切の歌。
2534 相思はぬ 人の故にか あらたまの 年の緒長く 吾が戀ひ居らむ
不相思《アヒオモハヌ》 人之故可《ヒトノユヱニカ》 璞之《アラタマノ》 年緒長《トシノヲナガク》 言戀將居《ワガコヒヲラム》
コチラガ思ツテモ、一向〔十字傍線〕コチラヲ思ツテクレナイ人ダノニ、(璞之)永年ノ間、私ハアノ人ヲ〔四字傍線〕戀シテ居ルコトカナア。ドウモ殘念ダ〔六字傍線〕。
○人之故可《ヒトノユヱニカ》――ユヱはダノニの意。カは疑問の助詞。吾が戀ひ居らむかと、五句の下に移して見るがよい。
〔評〕 卷十の相不念妹哉本名菅根之長春日乎念晩牟《アヒオモハヌイモヲヤモトナスガノネノナガキハルヒヲオモヒクラサム》(一九三四)に少し似てゐる。かなはぬ戀の嘆聲が悲しい。
2535 おほよその わざとは念はず 我故に 人にこちたく 云はれしものを
凡乃《オホヨソノ》 行者不念《ワザハオモハズ》 言故《ワレユヱニ》 人爾事痛《ヒトニコチタク》 所云物乎《イハレシモノヲ》
アナタハ〔四字傍線〕私ノ爲ニ評判ヲ立テラレテ〔八字傍線〕、人ニ喧シク言ハレタノダカラ、私トアナタトノ間柄ハ〔十字傍線〕、並大抵ノコトトハ思ヒマセン。
○凡乃行者不念《オホヨソノワザハオモハズ》――舊訓オホヨソノワザハオモハズとあり、代匠記精撰本に「大かたの人のつらきわざをば思ひもとがめず。我故に世のことごとしく云ひさわがれし勞ある物をとなり」とあるが、どうも受取り難い解である。
〔評〕 初二句の意が明瞭を缺く憾がある。右のやうに解すると、我故に世に言ひ騷がれた男に同情して、女が詠(495)んだ歌である。
2536 いきの緒に 妹をし思へば 年月の 往くらむわきも 念ほえぬかも
氣緒爾《イキノヲニ》 妹乎思念者《イモヲシオモヘバ》 年月之《トシツキノ》 往覽別毛《ユクラムワキモ》 不所念鳧《オモホエヌカモ》
命ヲカケテ私ハ戀シイ〔五字傍線〕女ヲ思ツテヰルト、年月ノタツテ行クコトモ分リマセンヨ。
○氣緒爾《イキノヲニ》――息の緒は玉の緒に同じ。命。息の緒に念ふとは命をかけて戀すること。○年月之往覽別毛《トシツキノユクラムワキモ》――ワキは區別。この句は年月の經過して行ぐ區別もの意。卷十に春雨之零別不知《ハルサメノフルワキシラニ》(一九一五)とある。
〔評〕卷十二の中中二死者安六出日之入別不知吾四九流四毛《ナカナカニシナバヤスケムイヅルヒノイルワキシラニワレシクルシモ》(二九四〇)、卷一長歌の霞立長春日乃晩家流和豆肝之良受《カスミタツナガキハルヒノクレニケルワヅキモシラズ》(五)と同樣に、物思の爲に精神の朦朧たる有樣が詠まれたあはれな歌。
2537 たらちねの 母に知らえず 吾が持たる 心はよしゑ 君がまにまに
足千根乃《タラチネノ》 母爾不所知《ハハニシラエズ》 吾持留《ワガモタル》 心者吉惠《ココロハヨシヱ》 君之隨意《キミガマニマニ》
(足千根乃)母ニモ知ラレズニ、私ガ持ツテヰル心ノ秘密〔三字傍線〕ハ、アナタヲ思フコトダガ〔十字傍線〕、エエモウカマハヌ、コノ私ハ〔四字傍線〕ドウトモアナタノ思フ通リニナリマセウ〔五字傍線〕。
○心者吉惠《ココロハヨシヱ》――吉惠《ヨシヱ》はヨシヤに同じ。ここは、ええもうよろしの意。
〔評〕全身的な少女の戀である。卷十三に足千根乃母爾毛不謂※[果/衣]有之心者縱公之隨意《タラチネノハハニモノラズツツメリシココロハヨシヱキミガマニマニ》(三二八五)とあるのと同歌であらウ。
2538 獨寢と こも朽ちめやも 綾席 緒に成るまでに 君をし待たむ
獨寝等《ヒトリヌト》 ※[草がんむり/交]朽目八方《コモクチメヤモ》 綾席《アヤムシロ》 緒爾成及《ヲニナルマデニ》 君乎之將待《キミヲシマタム》
私ガ〔二字傍線〕獨デ寢テモ敷イテネル席ノ中身ニ入レテアル〔敷イ〜傍線〕菰マデハ腐ルマイ。表ノ〔二字傍線〕綾織ニナツテヰル〔七字傍線〕席ガ磨リ切レテ〔五字傍線〕、編糸バカリ〔三字傍線〕ニナルマデモ、私ハアナタト一緒ニ寢タ席ノ上ニ、コレヲ取リカヘナイデ獨淋シク寢テ〔私ハ〜傍線〕アナタノオ(496)イデヲマチマセウ。
○獨寢等《ヒトリヌト》――獨で寢るとても。○※[草がんむり/交]朽目八方《コモクチメヤモ》――※[草がんむり/交]は菰・蒋と同樣で、ここは薦に用ゐたのである。和名抄に「辨色立成云※[草がんむり/交]草 ※[草がんむり/交]音穀肴反、一云菰蒋草」とある。古は今の蒲團の綿のやうに、菰を席の中身として入れたものである。
〔評〕 全く民謠風の歌である。無情な男を恨みつつも、いつまでも待つてゐようとする心が悲しい。野趣横溢。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
2539 相見ては 千歳や去ぬる 否をかも 我やしか念ふ 君待ちがてに
相見者《アヒミテハ》 千歳八去流《チトセヤイヌル》 否乎鴨《イナヲカモ》 我哉然念《ワレヤシカオモフ》 待公難爾《キミマチガテニ》
私ハアナタニ〔六字傍線〕逢ツテカラ、千年モタツタノカ知ラ、ドウモソンナ氣ガスルガ〔ドウ〜傍線〕サウデハナイノカ知ラ、アナタノオイデヲ待チカネテ、私ガサウ思フノカ知ラ。
○否乎鴨《イナヲカモ》――ヲは嘆辭として挿入したのみ。
〔評〕卷四此者千歳八徃裳過與吾哉然念欲見鴨《コノゴロハチトセヤユキモスキギルトワレヤシカオモフミマクホレカモ》(六八六)とあるのはこれを學んだものであらう。卷十四の安比見?波千等世夜伊奴流伊奈乎加母安禮也思加毛布伎美末知我?爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモアレヤシカモフキミマチガテニ》(三四七〇)は全く同歌である。その左註に柿本朝臣人麿歌集出也とある。これらの歌の調子が、如何にも疑惑を抱く人の言葉のやうに詠まれてゐる。
2540 振分の 髪を短み 若草を 髪にたくらむ 妹をしぞ思ふ
振別之《フリワケノ》 髪乎短彌《カミヲミジカミ》 青草乎《ワカクサヲ》 髪爾多久濫《カミニタクラム》 妹乎師曾於母布《イモヲシゾオモフ》
稚イ少女ハ振別髪ト云ツテ、髪ノ先ヲ肩ノアタリマデデ切リ揃ヘテヰルガ、ソノ〔稚イ〜傍線〕振分髪ガ短イノデ、ソレヲ束ネテ一人前ノ女ラシクシヨウトテ、春ノ〔ソレ〜傍線〕若草ヲ髪ニ混ゼ〔二字傍線〕束ネテヰルアノ〔二字傍線〕女ハ、ドウシテヰルダラウト戀シク〔ハド〜傍線〕思フヨ。
(497)○振別之髪乎短彌《フリワケノカミヲミジカミ》――古は八歳ぐらゐまでは髪の末を肩に比べて切つて、頂から兩方へ分けて垂れてゐた。これを振分髪といふ。○青草乎《ワカクサヲ》――温故堂本に青を春に作るに從つて、ハルクサと詠むのもよからうが、舊訓のままでもさしつかへない。○髪爾多久濫《カミニタクラム》――タクは卷二に多氣婆奴禮《タケバヌレ》(一二三)のタケと同じく、髪を束ね上げること。少女の髪が短いので、青草を添へて髪を束ねようとする樣を想像して、いとしんだのである。
〔評〕 溢るる野趣と至醇な情緒と、渾然として珠玉の光彩を放つてゐる。上代の風俗の一斷片を窺ひ知り得ることも嬉しい。袖中抄に載せてある。
2541 たもとほり ゆきみの里に 妹を置きて 心空なり 土は踏めども
徊徘《タモトホリ》 往箕之里爾《ユキミノサトニ》 妹乎置而《イモヲオキテ》 心空在《ココロソラナリ》 土者蹈鞆《ツチハフメドモ》
(徊徘)往箕ノ里ニ戀シイ〔三字傍線〕女ヲ殘シテ〔三字傍線〕置イテ、別レテ來ルト、戀シサ、ナツカシサニ、足ハ〔別レ〜傍線〕土ヲ踏ンデヰルガ、心ハ空ニナツテ女ノ方ヘ行ツテ〔七字傍線〕ヰル。
○徊徘《タモトホリ》――枕詞。舊本にかうあるのは文字が轉倒してゐるか。タモトホリはあちこちと歩き廻ること。行きとつづく。○往箕之里爾《ユキミノサトニ》――ユキミノサトは地名であらうが、所在がわからない。
〔評〕四五の句は面白い表現であるが、卷十二に吾妹子之夜戸出乃光儀見而之從情空有地者雖踐《ワギモコガヨトデノスガタミテシヨリココロソラナリツチハフメドモ》(二九五〇)・立居田時毛不知吾意天津空有土者踐鞆《タチテヰテタドキモシラニアガココロアマツワラナリツチハフメドモ》(二八八七)など、型が出來てゐたやうだ。
2542 若草の 新手枕を まきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに
若草乃《ワカクサノ》 新手枕乎《ニヒタマクラヲ》 卷始而《マキソメテ》 夜哉將間《ヨヲヤヘダテム》 二八十一不在國《ニククアラナクニ》
(若草乃)始メテアノ女ニ逢ツテ〔七字傍線〕共寢ヲシテカラ、アノ女ガ〔四字傍線〕憎ククモナク戀シイ〔三字傍線〕ノニ、幾晩モ隔テテ逢ハナイ〔五字傍線〕ト云フコトガアラウカ。
○若草乃《ワカクサノ》――枕詞。新《ニヒ》とつづく。○夜哉將間《ヨヲヤヘダテム》――夜をや隔てむ、隔てはせじと心に誓ふのである。○二八十一(498)不在國《ニククアラナクニ》――いとしく思ふにの意。八十一《クク》の用字に注意したい。
〔評〕 かなり露骨な言ひ方である。これも俚謠らしい。
2543 吾が戀ひし 事も語らひ 慰めむ 君が使を 待ちやかねてむ
吾戀之《ワガコヒシ》 事毛語《コトモカタラヒ》 名草目六《ナグサメム》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 待八金手六《マチヤカネテム》
戀シイアナタニハ逢フコトガ出來ズトモ、セメテ、アナタノ使ノ者ニデモ〔戀シ〜傍線〕、私ガカウシテ〔四字傍線〕戀シク思ツテヰタコトヲ話シテ、心ヲ〔二字傍線〕慰メヨウト思フガ〔四字傍線〕、アナタカラ〔二字傍線〕ノ使ノ者モ來ナイデ〔七字傍線〕、待ツテヰテモ駄目ナノデアラウカ。
○名草目六《ナグサメム》――この句で切れないで、次の君之使《キミガツカヒ》につづいてゐる。
〔評〕 せめても戀人からの使を待つ心である。女の歌であらう。卷四の長歌に手小童之哭耳泣管俳※[人偏+回]君之使乎待八兼手六《タワラハノネノミナキツツタモトホリキミガツカヒヲマチヤカネテム》(六一九)とあるはこれを學べるか。
2544 うつつには 逢ふよしもなし 夢にだに 間なく見え君 戀に死ぬべし
寤者《ウツツニハ》 相縁毛無《アフヨシモナシ》 夢谷《イメニダニ》 間無見《マナクミエキミ》 戀爾可死《コヒニシヌベシ》
實際ニハ逢フコトハ出來ナイ。ダカラセメテ〔六字傍線〕アナタヨ、夢ニデモ絶エズ見エテクレヨ。サウシナイト私ハ〔八字傍線〕戀ノ爲ニ焦レ死スルダラウ。
○間無見君《マナクミエキミ》――間なく見えよ君の意。舊訓マナクミムキミとあるのもわるくはないが。古義に從ふ。宣長は君を誤字として、マナクミエコソであらうと言つてゐる。
〔評〕 せめて夢にでも見ようと願ふのは、逢はれぬ戀を嘆く人の常であらう。卷五に宇豆都仁波安布余志勿奈子奴波多麻能用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ウツツニハアフヨシモナシヌバタマノヨルノイメニヲツギテミエコソ》(八〇七)とある。
2545 誰そ彼と 問はば答へむ すべをなみ 君が使を かへしつるかも
誰彼登《タソカレト》 問者將答《トハバコタヘム》 爲便乎無《スベヲナミ》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 還鶴鴨《カヘシツルカモ》
(499)アナタカラノオ使ヲ暫ク止メ置イテ、御樣子デモ伺ツテ、セメテ慰メヨウト思ヒマシタガ、人ガ〔アナ〜傍線〕アレハ誰カト尋ネタ時ニ、何ト答ヘテヨイカ〔八字傍線〕答ヘヤウガ分ラナイノデ、名殘惜シイ思ヲシテ〔九字傍線〕、アナタカラ〔二字傍線〕ノ御使ヲ還シマシタヨ。殘念デゴザイマシタ〔九字傍線〕
〔評〕 戀人から來た使を、人目を恐れて、早速返した申譯である、つつましい女の歌としては、ふさはしい。
2546 念はぬに 到らば妹が うれしみと 咲まむ眉曳 思ほゆるかも
不念丹《オモハヌニ》 到者妹之《イタラバイモガ》 歡三跡《ウレシミト》 咲牟眉曳《ヱマムマヨビキ》 所思鴨《オモホユルカモ》
思ヒモヨラズ突然、女ノ所ヘ〔六字傍線〕行ツタナラバ、女ハ嬉シイトテ、ニコニコト〔五字傍線〕笑フデアラウガ、ソノ時ノ〔九字傍線〕眉ノ可愛ラシイ樣子〔八字傍線〕ガ想像サレルヨ。早ク行ツテ逢ハウ〔八字傍線〕。
○歡三跡《ウレシミト》――ミは添へて言ふのみ。○咲牟眉曳《ヱマムマヨビキ》――眉は横に長く曳いてあるので、肩曳といふ。ここは要するに眼付のことである。
〔評〕 實に和樂愉悦の歌である。かうした題材は、どうかすると鄙猥に墮しようとするものであるが、さうしたことがなく、穩雅に出來てゐるのが嬉しい。前の將待爾《マツラムニ》(二五二六)と内容は似てゐる。
2547 かくばかり 戀ひむものぞと 念はねば 妹が袂を まかぬ夜もありき
如是許《カクバカリ》 將戀物衣常《コヒムモノゾト》 不念者《オモハネバ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 不纏夜裳有寸《マカヌヨモアリキ》
女ニ別レテ〔五字傍線〕コレ程ニ戀シク思フモノダト思ハナカツタカラ、女ノ袖ヲ枕ニシテ女ト共寢ヲシ〔七字傍線〕ナカツタ晩モアツタ。逢ヘナクテコレホド戀シク思フト知ツタラ、逢ヘル時ニ充分ニ逢ツテ置ク筈ダツタノニ、殘念ナコトヲシタ〔逢ヘナ〜傍線〕。
〔評〕別れて後、女を念ふ意の烈しきに、自ら驚いた歌である。卷十二に世間爾戀將繁跡不念者君之手本乎不枕(500)夜毛有寸《ヨノナカニコヒシゲケムトオモハネバキミガタモトヲマカヌヨモアリキ》(二九二四)とよく似てゐる。
2548 斯くだにも 我は戀ひなむ 玉梓の 君が使を 待ちやかねてむ
如是谷裳《カクダニモ》 吾者戀南《ワレハコヒナム》 玉梓之《タマヅサノ》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 待也金手武《マチヤカネテム》
コレホドマデニ私ガ戀シク思ツテ、逢ヒタイト〔八字傍線〕祈ツテヰルアナタカラ〔二字傍線〕ノ(玉梓之)使ヲ、待ツ甲斐モナイデアラウカナア。悲シイコトダ〔六字傍線〕。
○吾者戀南《ワレハコヒナム》――このナムは未來完了の助動詞ではない。祈るといふ意の動詞である。代匠記にノムと同じといつてゐる。卷三の吾波乞甞君爾不相鴨《ワレハコヒナムキミニアハジカモ》(三八〇)のナムと同じであらう。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。二〇七參照。新訓は嘉暦本によつて、「玉桙の」とよんでゐるのはどうであらう。○待也金手武《マチヤカネテム》――略解に「宣長云、或人説初句は結句へかけて言へり。かくだにも待やかねてむと言也」とあるが、なほ攻究を要する説である。
〔評〕 前の吾戀之事毛語《ワガコヒシコトモカタラヒ》(二五四三)の歌と下の句、全く同樣である。
2549 妹に戀ひ わが泣く涕 しきたへの 木枕通りて 袖さへぬれぬ
妹戀《イモニコヒ》 吾哭涕《ワガナクナミダ》 敷妙《シキタヘノ》 木枕通而《コマクラトホリ》 袖副所沾《ソデサヘヌレヌ》 或本歌云 枕通りてまけば寒しも
女ヲ戀シク思ツ〔三字傍線〕テ私ガ泣ク涙ハ、木ノ(敷妙之)枕ヲ通シテ袖マデモ沾シタ。
○敷妙《シキタヘノ》――枕詞。枕とつづく。考には下の木の字を之の誤として、この句に入れてゐる。○木枕通而《コマクヲトホリテ》――舊訓マクラトホリテとあるが、木枕は妹木枕《イモガコマクラ》(二一六)・吾木枕《ワガコマクラ》(二一六)などの用例にならひ、コマクラと訓むべきであらう。なほ草枕《クサマクラ》・石枕《イハマクラ》(二〇〇三)・手枕(タマクラ(二一七)などの用字例も參考すべきであらう。嘉暦本のみは而の字がない。
〔評〕 男の歌としては女々しく、又大袈裟過ぎる。併しまだ古今集の「涙川枕流るるうき寢には夢もさだかに見えずぞありける」・「しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめは生ひずぞありける」のやうな程度には達してはゐない。
(501)或本歌云、枕通而《マクラトホリテ》 卷者寒母《マケバサムシモ》
これは四五の句の異傳である。涙は枕を通して、枕すれば冷やかであるよといふのである。この方が原歌よりも一層いたましい。
2550 立ちておもひ ゐてもぞ念ふ くれなゐの 赤裳裾引き 去にし姿を
立念《タチテオモヒ》 居毛曾念《ヰテモゾオモフ》 紅之《クレナヰノ》 赤裳下引《アカモスソヒキ》 去之儀乎《イニシスガタヲ》
私ハアノ女ガ〔六字傍線〕紅ノ赤イ裳ノ裾ヲ引イテ、歩イテ〔三字傍線〕行ツタ美シイナツカシイ〔七字傍線〕姿ヲ、立ツテモ思ヒ、坐ツテヰテモ考ヘル。ドウシテモ忘レラレナイ〔ドウ〜傍線〕。
○立念居毛曾念《タチテオモヒヰテモゾオモフ》――立つたり坐つたりして、絶えず念ひ續けること。集中に立而居而念曾吾爲流《タチテヰテオモヒゾワガスル》(三七二)のやうな例が多いが、それと同樣である。○赤裳下引《アカモスソヒキ》――下はスソと訓むのである。源氏物語眞木柱に「赤裳たれ引きいにし姿をと、憎げなる古言なれど、御言くさになりてなむながめさせ給ひける」とあるのは、當時この歌をタレヒキと訓んだ證である。
〔評〕 少女を戀ふる歌。無垢な純情そのままの作である。
2551 念ふにし 餘りにしかば 術をなみ 出でてぞ行きし その門を見に
念之《オモフニシ》 餘者《アマリニシカバ》 爲便無三《スベヲナミ》 出曾行之《イデテゾユキシ》 其門乎見爾《ソノカドヲミニ》
戀シイ〔三字傍線〕思ニ餘ツテ堪ヘカネ〔五字傍線〕タカラ、何トモ仕方ガナクナツテ、セメテ心ヲ慰メヨウトテ、戀シイ女ノ住ム家ノ〔セメ〜傍線〕門ヲ見ニ出カケテ行キマシタ。
〔評〕 これも卒直な純情の歌である。下句がやるせない情熱をあらはしてゐる。民謠らしい作風だ。
2552 心には 千重しくしくに 念へども 使をやらむ 術の知らなく
情者《ココロニハ》 千遍敷及《チヘシクシクニ》 雖念《オモヘドモ》 使乎將遣《ツカヒヲヤラム》 爲便之不知久《スベノシラナク》
(502)心ノ中〔二字傍線〕デハアノ人ヲ〔四字傍線〕頻繁ニ思ツテヰルノダガ、心中ノ思ヲ先方ニ傳ヘル爲ニ、アノ人ノ所ヘ、人ニ知レナイヤウニドウシテ使ヲヤツタモノカ〔心中〜傍線〕、使ヲ遣ル方法ガワカラナイヨ。
○千遍敷及《チヘシクシクニ》――舊訓チヘニシクシクとあるのもわるくはないが、古義の訓がよい。略解チタビシクシクとあるのは拙い。
〔評〕 平明な、思つたままの歌。
2553 夢のみに 見てすらここだ 戀ふる吾は うつつに見ては まして如何にあらむ
夢耳《イメノミニ》 見尚幾許《ミテスラココダ》 戀吾者《コフルワハ》 寤見者《ウツツニミテハ》 益而如何有《マシテイカニアラム》
アノ人ヲ〔四字傍線〕夢デバカリ見テスラモ、コレ程〔三字傍線〕ヒドク戀シク思フ私ハ、實際ニアノ人ニ〔四字傍線〕逢ツタラマシテ、ドンナニ戀シク思フ〔五字傍線〕デアラウ。
〔評〕 これも平明な歌である。戀する我を自から凝視して、その情熱に驚いてゐる。
2554 相見ては 面隱さるる ものからに 繼ぎて見まくの 欲しき君かも
對面者《アヒミテハ》 面隱流《オモカクサルル》 物柄爾《モノカラニ》 繼而見卷能《ツギテミマクノ》 欲公毳《ホシキキミカモ》
實際ニ〔三字傍線〕顔ヲアハセルト、恥シクテ〔四字傍線〕顔ヲカクシタクナリマスガ、ソレデモ〔四字傍線〕引キツヅイテ、絶エズ〔三字傍線〕アナタニオ目ニカカリタウ存ジマス。
○對面者《アヒミテハ》――舊訓ムカヘレバ、考アヒミレバとある。古義による。○物柄爾《モノカラニ》――物ながらにの意。
〔評〕 女らしい控目な戀である。まだ堅く結ばれた戀ではない。
2555 朝戸を 早くな開けそ あぢさはふ 目がほる君が 今よひ來ませる
旦戸遣乎《アサドヲ》 速莫開《ハヤクナアケソ》 味澤相《アヂサハフ》 目之乏流君《メガホルキミガ》 今夜來座有《コヨヒキマセル》
(503)朝ノ戸ヲ早ク開ケルナヨ。(味澤相)珍ラシイ御方ガ今夜ハ來テイラツシヤルカラ、ユツクリト御止メシテ置カウ〔カラ〜傍線〕。
○旦戸遣乎《アサドヲ》――舊訓アサドヤリヲとあるが、遣は嘉暦本に無いのが原形らしいから、これを衍として訓むことにする。○味澤相《アヂサハフ》――枕詞。メとつづく。味鴨が多く群れて飛び行く意で、ムレの約メにつづくと言はれてゐる。古義・新訓はウマサハフと訓んでゐる。○目之乏流君《メガホルキミガ》――舊訓メノホルキミガとある。宣長は流は視の誤として、メヅラシキキミとよみ、古義はメヅラシキミガとしてゐる。集中|見欲將有《ミガホシカラム》(九〇七)・兒我保之君乎《ミガホシキミヲ》(四一七〇)などの例が多いから、これも目は見の誤かも知れないが、しばらく原形に從つて、メガホルと訓んでおかう。メガホルは見たいと思ふ。
〔評〕 久しぶりで來た男を、少しでも長く止め置かうとする女の歌である。これにも民謠風の情緒が見える。
2556 玉垂の 小簀の垂簾を もちかかげ いはなさずとも 君は通はせ
玉垂之《タマダレノ》 小簀之垂簾乎《ヲスノタレスヲ》 徃褐《モチカカゲ》 寐者不眠友《イハナサズトモ》 君者通速爲《キミハカヨハセ》
イロイロ故障ガアツテ二人デ〔イロ〜傍線〕共寢スルコトハ出來ナイデモ、セメテ御目ニハカカリタイカラ〔セメ〜傍線〕、(玉垂之)簾ノ垂レタ簾ヲ持チアゲテ、アナタハカヨツテオイデナサイ。
○玉垂之《タマダレノ》――枕詞。玉垂の緒《ヲ》とつづく。○徃褐《モチカカゲ》――舊訓ユキカチニとあるが、意が明らかでない。考は持掲《モチカカゲ》の誤とし、宣長は原形のままでユキカテテとし、古義は引掲《ヒキアゲテ》と改めてゐる。ここは考の説に從ふことにする。但し褐は桃花褐《アラソメノ》(二九七〇)の如き用例はあるが、掲は全く用ゐられてゐないからなほ研究を要する。○寐者不眠友《イハナサズトモ》――不眠をナサズと訓むのは、寢るをナスといふからである。夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》(八〇二)參照。
〔評〕 これも民謠である。女の心持がよまれてゐる。
2557 たらちねの 母に白さば 君も我も 逢ふとはなしに 年ぞ經ぬべき
垂乳根乃《タラチネノ》 母白者《ハハニマヲサバ》 公毛余毛《キミモアレモ》 相鳥羽梨丹《アフトハナシニ》 年可經《トシゾヘヌベキ》
(504)(垂乳根乃)母ニ二人ノ間ヲ、打アケテ〔九字傍線〕話スナラバ、母ガ不承知デ〔六字傍線〕、アナタモ私モ逢フコトハ出來ナイデ、空シク〔三字傍線〕年ヲ過スデアラウ。ダカラ母ニハ黙ツテヰナケレバイケマセヌ〔ダカ〜傍線〕。
〔評〕 女の歌である。母の反對を恐れて、打明けかねる戀である。前に足千根乃母爾障良婆《タラチネノハハニサハラバ》(二五一七)とあるに似てゐる。
2558 うつくしと 思へりけらし な忘れと 結びし紐の 解くらく念へば
愛等《ウツクシト》 思篇來師《オモヘリケラシ》 莫忘登《ナワスレト》 結之?乃《ムスビシヒモノ》 解樂念者《トクラクモヘバ》
別レル時ニ妻ガ、決シテ私ヲ〔別レ〜傍線〕オ忘レナサルナト言ツテ〔三字傍線〕、結ンデクレタコノ着物ノ〔四字傍線〕紐ガ、自然ニ〔三字傍線〕解ケルノヲ考ヘテ見ルト、世間ノ言ヒ習ハシニ、紐ガ解ケルノハ人ニ思ハレテヰルシルシダト言ツテアルカラ、屹度妻ガ今頃ハ私ヲ〔世間〜傍線〕、戀シイト思ツテヰルノダラウ。
○思篇來之《オモヘリケラシ》――舊訓オモヒニケラシとあつたのを、契沖がオモヘリケラシとよむべしと言ったのがよい。篇は山攝n音尾であるから、平群《ヘグリ》(三八四三)の群、八信井《ハシリヰ》(一一一三)の信の如く、リにかへて訓んだのである。
〔評〕 紐のおのづから解けるのは、人に戀せられるしるしといふ、俗言そのままを詠んだ作。かういふことは、その頃の人は、眞面目に信じてゐたのであるから、よい加減の口先だけの歌と考へてはいけない。
2559 昨日見て 今日こそ隔て 吾妹子が ここだく繼ぎて 見まくし欲しも
昨日見而《キノフミテ》 今日社間《ケフコソヘダテ》 吾妹兒之《ワギモコガ》 幾許繼手《ココダクツギテ》 見卷欲毛《ミマクシホシモ》
昨日逢ツテマダ〔二字傍線〕今日ダケシカ隔テテヰナイ。ソレダノニ私ハ〔七字傍線〕私ノ妻ヲ頻リニ引ツヅイテ見タイト思フヨ。ドウシタモノダラウ〔九字傍線〕。
○今日社間《ケフコソヘダテ》――舊訓ケフコソアヒダとあるが、間は|目間心間哉《メハヘダヅレドココロヘダテメヤ》(一三一〇)とあるに傚つて、ヘダテと訓むべき(505)である。○見卷欲毛《ミマクシホシモ》――舊訓ミマクホシカモ、代匠記初稿水ミマクホシキモとある。ここは古義の訓による。
〔評〕 これは男の心をよんだ俚謠であらう。和歌童蒙抄に出てゐる。
2560 人も無き 古りにし郷に ある人を めぐくや君が 戀に死なする
人毛無《ヒトモナキ》 古郷爾《フリニシサトニ》 有人乎《アルヒトヲ》 愍久也君之《メグクヤキミガ》 戀爾令死《コヒニシナスル》
人モ住マナイ古イ都ニ獨淋シク〔四字傍線〕暮シテヰル人ヲ、ムゴタラシクモアナタガ、戀死サセルト云フコトガアルモノデスカ。アナタガ御出デニナラナイモノダカラ、私ハ焦レ死シサウデアリマス〔アナ〜傍線〕。
○愍久世君之《メグクヤキミガ》――このメグクは卷九に目串毛勿見《メグシモナミソ》(一七五九)のメグシと同じく、心に不快を惹さしめること。ここはむごたらしくの意。
〔評〕 舊都となった飛鳥あたりに住む女の作か。下句はかなり強い言ひ方である。
2561 人ごとの しげき間もりて 逢へりとも やへ吾が上に 言の繋けむ
人事之《ヒトゴトノ》 繁間守而《シゲキマモリテ》 相十方《アヘリトモ》 八反吾上爾《ヤヘワガウヘニ》 事之將繁《コトノシゲケム》
人ノ評判ノヤカマシイ隙ヲ窺ツテ、戀シイ人ニ〔五字傍線〕逢ツタニシテモ、ヤハリ人ニ見遁サレルコトハナク〔ヤハ〜傍線〕、一層私ノ身ノ〔二字傍線〕上ニツイテ〔三字傍線〕評判ガ高クナルデセウ。困ツタモノデス〔七字傍線〕。
○八反吾上爾《ヤヘワガウヘニ》――古義に舊訓を改めて、反を多の誤として、ハタとよんでゐる。新訓は原形のままでハタとよませてゐるやうである。しかし反はハン・ホン・ヘンの音はあるが、タンとよませるのは、吾が國の特訓で、段の草躰を誤つたものだらうと言はれてゐるから、このままではハタとは訓みがたい。寧ろ原形のままヤヘとするが穏やかであらう。ヤヘは八重。更に幾重にもの意。
〔評〕 人の口を恐れる戀。逢はむと迫る男をなだめる女の言葉とも聞える。
2562 里人の 言よせ妻を 荒垣の よそにや吾が見む にくからなくに
(506) 里人之《サトビトノ》 言縁妻乎《コトヨセヅマヲ》 荒垣之《アラガキノ》 外也吾將見《ヨソニヤワガミム》 惡有名國《ニクカラナクニ》
村ノ人タチガ評判シテ、私トノ間ニ浮名ヲ立テテ〔私ト〜傍線〕ヰル妻ヲ、(荒垣之)人ノ噂ニ恐レテ〔七字傍線〕、私ハ戀シク思ツテヰルノニ、逢ハズニヰルコトカナア。ソレハ殘念ダ〔六字傍線〕。
○言縁妻乎《コトヨセヅマヲ》――言葉をよせてゐる妻、即ち私との關係を世人が噂してゐる、その女。○荒垣之《アラガキノ》――枕詞。目の荒い垣であらう。垣は内外を仕切るから、ヨソとつづくのである。○惡有名國《ニクカラナクニ》――可愛く思ふにの意。
〔評〕 人に言ひ騷がれるのを恐れて、逢はない淋しさを歌つてある。これも民謠らしい。
2563 ひと眼守る 君がまにまに 我さへに はやく起きつつ 裳の裾ぬれぬ
他眼守《ヒトメモル》 君之隨爾《キミガマニマニ》 余共爾《ワレサヘニ》 夙興乍《ハヤクオキツツ》 裳裾所沾《モノスソヌレヌ》
人目ヲ悼ツテ、朝早ク歸ツテ行ク〔八字傍線〕アナタト一緒ニ、私マデモ早ク起キテ、アナタヲ送リ出シテ、外ノ草原ノ露デ〔アナ〜傍線〕着物ノ裾ヲ濡ラシマシタ。
○他眼守《ヒトメモル》――人目を覗ひ、隙をねらふこと。
〔評〕 これも民謠らしい情緒である。前の朝戸出公足結乎閏露原早起出乍吾毛裳下閏奈《アサトデノキミガアユヒヲヌラスツユハラハヤクオキイデツツワレモモスソヌラサナ》(二三五七)と似た氣分である。
2564 ぬばたまの 妹が黒髪 今夜もか 吾が無き床に 靡けてぬらむ
夜干玉之《ヌバタマノ》 妹之黒髪《イモガクロカミ》 今夜毛加《コヨヒモカ》 吾無床爾《ワガナキトコニ》 靡而宿良武《ナビケテヌラム》
今夜ハ私ハ故障ガアツテ妻ノ所ヘ行カレナイガ〔今夜〜傍線〕、妻ハ今夜ハ(夜干玉之)黒髪ヲ私ガ居ナイ獨寢ノ〔三字傍線〕床ノ上ニ、靡カセテ寢テヰルデアラウカ。アアナツカシイ戀シイ女ヨ〔アア〜傍線〕。
○夜干玉之《ヌバタマノ》――枕詞。妹之《イモガ》を隔てて黒とつづいてゐる。八九參照。○今夜毛加《コヨヒモカ》――モは詠歎の助詞。
(507)〔評〕 實感的叙法。情緒纒綿。やるせない哀愁。
2565 花ぐはし 葦垣越しに ただ一目 相見し兒ゆゑ 千度嘆きつ
花細《ハナグハシ》 葦垣越爾《アシガキゴシニ》 直一目《タダヒトメ》 相視之兒故《アヒミシコユヱ》 千遍嘆津《チタビナゲキツ》
(花細)葦ノ垣根越シニ唯一目見タバカリノ女ダノニ、私ハ戀ニ沈ンデ〔七字傍線〕千度モタメ息ヲツイテ悲シミマシ〔六字傍線〕タ。
○花細《ハナグハシ》――枕詞。花の美しい意で葦とつづいてゐる。古義に第四句の兒にかかつて、女の美しい貌を褒めたものかといつたのは當らない。○相視之兒故《アヒミシコユヱ》――このユヱも、ダノニの意。
〔評〕 葦垣越しに女をかいま見た戀で、田舍人の生活があらはれてゐる。これも民謠であらう。
2566 色に出でて 戀ひば人見て 知りぬべみ 心のうちの こもり妻はも
色出而《イロニイデテ》 戀者人見而《コヒバヒトミテ》 應知《シリヌベミ》 情中之《ココロノウチノ》 隱妻波母《コモリヅマハモ》
自分ガ〔三字傍線〕戀シク思ツテヰルコトヲ、顔色ニ出シタナラバ、人ガ見テ直グ〔二字傍線〕悟ルカラ、顔色ニハ少シモ出サズニ〔顔色〜傍線〕、心ノ中ニ包ミ隱シテヰル私〔ニ包〜傍線〕ノ隱シ妻ヨ。カクシテ戀スルノハツライモノダ。アノ妻ハドウシテヰルダラウ〔カク〜傍線〕。
○應知《シリヌベミ》――舊訓シリヌベシとあるのはよくない。○隱妻波母《コモリヅマハモ》――舊訓を改めて、略解補正はシヌビツマハモとし、新訓はそれによつてゐる。隱は稀にシヌブとよんだ例もあるが、熟語として、コモリヅマが普通であるから、ここもさう訓まうと思ふ。心の中に隱してゐる妻の意。
〔評〕 人目を包む戀。内容が一般的である。これも民謠らしい。
2567 相見ては 戀慰むと 人は言へど 見て後にぞも 戀まさりける
相見而者《アヒミテハ》 戀名草六跡《コヒナグサムト》 人者雖云《ヒトハイヘド》 見後爾曾毛《ミテノチニゾモ》 戀益家類《コヒマサリケル》
逢ヘバ戀シイ心〔三字傍線〕ガ慰ムト世間ノ人ハ言フガ、私ハソレト反對デ、戀人ニ〔私ハ〜傍線〕逢ツタ後ニ却ツテ戀ガ増ツタヨ。
○見後爾曾毛《ミテノチニゾモ》――略解に毛曾《モゾ》とあるべきを曾毛《ゾモ》に誤つたものとしてゐるが、さうではあるまい。
(508)〔評〕逢うて彌益ス戀。前の中中不見有從相見戀心益念《ナカナカニミザリシヨリハアヒミテハコヒシキココロマシテオモホユ》(二三九二)と同一内容である。
2568 おほろかに 我し念はば かくばかり 難き御門を まかり出めやも
凡《オホロカニ》 吾之念者《ワレシオモハバ》 如是許《カクバカリ》 難御門乎《カタキミカドヲ》 追出米也母《マカリデメヤモ》
ナミ大抵二私ガアナタヲ〔四字傍線〕思ツテヰルナラ、コレホドモ嚴重ナ御所ノ〔三字傍線〕御門ヲ、拔ケ出テ、アナタニ逢ヒニ〔七字傍線〕來マセウヤ。眞カラ思ツテヰルカラコソ、禁中ノ宿直モ拔ケ出シテ、嚴重ナ番ノツイテヰル門カラ、コツソリト出テ來タノデス〔眞カ〜傍線〕。
○難御門乎《カタキミカドヲ》――出入の嚴重な御門を。
〔評〕 宿直の官人が、御所の門を拔け出して、女に逢つた時の歌か。こんなことも、もとよりあつたには違ひないが、平氣で歌ふにはあまり畏いやうである。これは民謠ではあるまい。
2569 念ふらむ その人なれや ぬば玉の 夜毎に君が 夢にし見ゆる 或本歌云、夜晝と云はず吾が戀ひ渡る
將念《オモフラム》 其人有哉《ソノヒトナレヤ》 烏玉之《ヌバタマノ》 毎夜君之《ヨゴトニキミガ》 夢西所見《イメニシミユル》
コチラカラ思ツテモ、アチラカラハ〔コチ〜傍線〕思ツテクレナイ人ダノニ、(烏玉之)毎夜毎夜私ノ夢ニ、アノ人ガ見エルノハ不思議ダ。先方ノ人ガ思フ心ガ通ジテ、コチラノ夢ニアラハレルモノダトシテアルノニ、先方デハ思ハナイノニ夢ニ見エルノハ不思議ダ〔ノハ不思議ダ先〜傍線〕。
○其人有哉《ソノヒトナレヤ》――その人ならむや、その人にはあらじといふのである。新考に「其人とあるは第三者なり。相手の男にあらず」とあるが、やはり相手の男を其人と言つたのであらう。次の或本も同樣になつてゐる。
〔評〕 人に思はれると、その人が夢に見えるといふ俗間信仰によつたのである。女が思ふ人を夢に見て、かなはぬ戀を嘆く歌である。
(509)或本歌云 夜畫不云《ヨルヒルトイハズ》 吾戀渡《ワガコヒワタル》
これは四五の句の異本である。この方が一層平易になつてゐる。
2570 かくしのみ 戀ひば死ぬべみ たらちねの 母にも告げつ 止まず通はせ
如是耳《カクシノミ》 戀者可死《コヒバシヌベミ》 足乳根之《タラチネノ》 母毛告都《ハハニモツゲツ》 不止通爲《ヤマズカヨハセ》
コンナニ戀シテヰテハ、遂ニハ焦レ〔五字傍線〕死シヨウカラ、忍耐シキレナイデ〔八字傍線〕(足乳根之)母ニモアナタトノ事ヲ〔七字傍線〕告ゲマシタ。モウコレカラハ公然ト〔十字傍線〕、絶エズ通ツテオイデナサイ。
○如是耳《カクシノミ》――カクノミシと訓む説もあるが、舊訓による。如此耳《カクシノミ》(六九三)參照。○足乳根乃《タラチネノ》――枕詞。四四三參照。
〔評〕 事實をそのまま訓んだのではなく、民謠として謠はれたものらしい感じがする。田舍人らしい野趣がある。
2571 ますらをは 友の騒に 慰もる 心もあらむ 我ぞ苦しき
大夫波《マスラヲハ》 友之驂爾《トモノサワギニ》 名草溢《ナグサフル》 心毛將有《ココロモアラム》 我衣苦寸《ワレゾクルシキ》
縱令物思ガアツテモ〔九字傍線〕、男ハ友達ト交際シテヰルウチニ、心ヲ慰メルコトモ出來ルデセウ。併シ女ハ唯獨デ家ノ中ニ居テ氣ガマギレナイノデ〔併シ〜傍線〕、私ハ苦シウゴザイマスヨ。
○友之驂爾《トモノサワギニ》――舊訓トモノソメキニとあり、袖中抄にも同樣になつてゐる。契沖はこれについて、「驂。倉含切。驂馬也。そめきとよむべきやういまだかんがへず。驟をあやまれる歟。驟(ハ)奔也。もし騷歟。騷(ハ)動也」と言つてゐる。サワギと訓むべきであらう。卷七にも驂乎聞者《サワグヲキケバ》(一一八四)とあつた。浪※[足+參]香《ナミノサワギカ》(二〇四七)の※[足+參]と通用したものらしい。
〔評〕 如何にも女らしい歌だ。一般の女の言はうとするところを、代つて言つてゐるやうにも見える。やはり古代の女も、後世の女と同じく、男のやうに自由ではなかつた社會相があらはれてゐる。佳作だ。
2572 僞も 似つきてぞする いつよりか 見ぬ人戀ふに 人の死にせし
(510)僞毛《イツハリモ》 似付曾爲《ニツキテゾスル》 何時從鹿《イツヨリカ》 不見人戀爾《ミヌヒトコフニ》 人之死爲《ヒトノシニセシ》
アナタハ私ヲ戀シテ戀死シサウダトオツシヤルガ、嘘モ本當ニ〔アナ〜傍線〕似寄ツタ嘘ヲオツシヤルモノデスヨ。何時ノ時代カラ、見タコトモナイ人ニ戀ヲシテ、人ガ死ンダコトガアリマシタカ。アナタハ私ト一度モ逢ツタコトガナクテ、戀死シサウダナドトオツシヤルノハ、信用ハ出來マセヌ〔アナ〜傍線〕。
○似付曾爲《ニツキテゾスル》――似寄つた嘘、多少でも琴實らしい嘘を言ふものだといふのである。
〔評〕 口ばかりうまいことを言ふ男を、たしなめた歌である。見ぬ人を戀して焦死することは、何時から始まつたのですと、ひどくきめつけたのは、大した權幕である。女の歌としては隨分思ひ切つたものだ。佳作。卷四の僞毛似付而曾爲流打布裳眞吾妹兒吾爾戀目八《イツハリモニツキテゾスルウツシクモマコトワギモコワレニコヒメヤ》(七七一)はこれを學んだものであらうが、これよりも遙かに劣つてゐる。
2576 心さへ まつれる君に 何をかも 言はず言ひしと 吾がぬすまはむ
情左倍《ココロサヘ》 奉有君爾《マツレルキミニ》 何物乎鴨《ナニヲカモ》 不云言此跡《イハズイヒシト》 吾將竊食《ワガヌスマハム》
コノ身體バカリカ〔八字傍線〕、心マデモ差上ゲタアナタニ、何ヲマア、言ヒモシナイノニ言ツタナドト、心ニモナイ〔五字傍線〕僞ヲ私ガ言フモノデスカ。
○奉有君爾《マツレルキミニ》――舊訓マタセルキミニとある。代匠記の一訓による。古義に「マタセルと古くよりよみ來れども、すべてマタスと云こと、古書にたしかなる假字書あることなければ、おぼつかなし。ここなどはマツレルとよむかた、たしかなり」とある。○何物乎鴨《ナニヲカモ》――乎は之の誤で、ナニシカモであらうと宣長はいつた。もとのままでも解けないことはない。○不云言此跡《イハズイヒシト》――略解にイハズテイヒシとある。舊訓がよい。意は言はずして言ひしである。○吾將竊食《ワガヌスマハム》――ヌスマハムは盗まむの延言。ぬすむはここでは、ごまかすこと。僞ること。
〔評〕 全身的の愛を捧げた女の態度である。下句の男に誓ふ言葉が珍らしく、旦あはれである。
2574 面忘れ だにも得すやと 手握りて 打てどもこりず 戀の奴は
(511)面忘《オモワスレ》 太爾毛得爲也登《ダニモエスヤト》 手握而《タニギリテ》 雖打不寒《ウテドモコリズ》 戀云奴《コヒノヤツコハ》
戀シクテ堪ヘガタイノデ、アノ人ノ〔戀シ〜傍線〕姿ヲ忘レルコトガ出來ルカト、コブシヲ固メテ吾ガ心中ノ戀ヲ打ツテ見タガ、イクラ〔吾ガ〜傍線〕打ツテモ戀ト云フ奴ハ平氣ナモノダ。
○太爾毛得爲也登《ダニモエスヤト》――エスヤは、なし得るかの意。○手握而《タニギリテ》――手を把つて。即ち把り拳をこしらへて。○雖打不寒《ウテドモコリズ》――寒は西本願寺本など塞に作つてゐる。代匠記は塞に作れる本によつて、サヤラズと訓むべきかといつてゐる。寒は寒中に水が氷る意を以て、コリとよませたものとすべきであらう。コリズは懲りず。○戀之奴《コヒノヤツコハ》――新訓は嘉暦本に戀云奴とあるによつて、コヒトイフヤツコとよんでゐる。戀之奴爾《コヒノヤツコニ》(二九〇七)・戀乃奴之《コヒノヤツコノ》(三八一六)などの例があるから、やはり從來の諸訓の通りでよいのではあるまいか。
〔評〕 戀の苦しさに、これを忘れようと悶えてゐる樣子を述べてゐる。當時奴隷が侮蔑的待遇を受け、何かといふと拳骨を見舞はれた樣子が、この戀の奴といふ語にもあらはれてゐる。奇拔で、且滑稽味を帶びた作品である。
2575 めづらしき 君を見むとぞ 左手の 弓執る方の 眉根かきつれ
希將見《メヅラシキ》 君乎見常衣《キミヲミムトゾ》 左手之《ヒダリテノ》 執弓方之《ユミトルカタノ》 眉根掻禮《マヨネカキツレ》
珍ラシイアナタニオ目ニカカル前兆ニ、私ハ〔二字傍線〕左手ノ弓ヲ持ツ方ノ、左ノ〔二字傍線〕眉ガ痒クテ〔四字傍線〕掻キマシタ。左ノ眉ガ痒イ時ニハ、思フ人ニ逢フモノダト世間デ言ヒナラハシテアリマスガ。今日私ハ左ノ眉ガ痒イト思ツテ掻キマシ、タガ、滅多ニオ目ニカカラナイアナタニオ逢ヒスル前兆デシタネ〔ノ眉ガ痒イ時〜傍線〕。
○君乎見常衣《キミヲミムトゾ》――代匠記精撰本は常の下、己を脱として、キミヲミムトコソかといひ、古義は衣は社の誤で、キミヲミムトコソとしてゐる。結句がツレで終つてゐるので、係結の關係を揃へようといふのであるが、必ずしも中世の文法を以て律すべきではないから、このままにして置かう。○眉根掻禮《マヨネカキツレ》――略解は禮は類の誤かとし、(512)新考は鶴の誤としてゐる。上述の理由で原形を保存することにしたい。
〔評〕 眉が痒いのは人に會ふ前兆とする俗信によつたもの。前に眉根削鼻鳴紐解《マヨネカキハナヒヒモトケ》(二四〇八)とあつた。なほこの下にもある。
2576 人間守り 葦垣越しに 吾妹子を 相見しからに 言ぞさだ多き
人間守《ヒトマモリ》 蘆垣越爾《アシガキゴシニ》 吾妹子乎《ワギモコヲ》 相見之柄二《アヒミシカラニ》 事曾左太多寸《コトゾサダオホキ》
人ノ見テヰナイ〔五字傍線〕間ヲ見ハカラツテ、葦ノ垣根ゴシニ垣根ノ外カラ、私ハ〔八字傍線〕私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ト逢ツタノニ、人ノ〔二字傍線〕噂ガ喧マシイヨ。ホントニ人ノロハウルサイモノダ〔ホン〜傍線〕。
○人間守《ヒトマモリ》――人目の隙を覗つて。前に他眼守《ヒトメモル》(二五六三)とあるに同じ。○事曾左太多寸《コトゾサダオホキ》――言ぞ沙汰多き。サダは世の人の定め・評判などの意。
〔評〕 僅かにかい間見しのみで、浮名の立つたのに驚いた歌。これも田舍人の戀らしい。前の花細葦垣越爾直一目相視之兒故千遍嘆津《ハナグハシアシガキゴシニタダヒトメアヒミシコユヱチタビナゲキツ》(二五六五)と少し似てゐる。
2577 今だにも 目なともしめそ 相見ずて 戀ひむ年月 久しけまくに
今谷毛《イマダニモ》 目莫令乏《メナトモシメソ》 不相見而《アヒミズテ》 將戀年月《コヒムトシツキ》 久家眞國《ヒサシケマクニ》
私ハ間モナク旅ニ出カケルガ、コレカラハ〔私ハ〜傍線〕逢ハナイデ、戀シク思フ年月モ長イコトダカラ、セメテ〔三字傍線〕今ノウチデモ、充分ニ逢ツテ下サイ。
○目莫令乏《メナトモシメソ》――目な乏しめそ。相見ること乏しからしめるな。即ち充分に逢つてくれよの意。○久家莫國《ヒサシケマクニ》――久しからむにの意。舊本、莫とあるを、嘉暦本その他の古本、多くは眞に作つてゐる。
〔評〕 旅などに出でむとする男に、別れむとしてよんだ女の歌であらう。哀情の籠つた歌である。
2578 朝宿髪 我は梳らじ うつくしき 君が手枕 觸りてしものを
(513)朝宿髪《アサネガミ》 吾者不梳《ワレハケヅラジ》 愛《ウツクシキ》 君之手枕《キミガタマクラ》 觸義之鬼尾《フレテシモノヲ》
昨夜ノ嬉シイ逢瀬ニ〔九字傍線〕戀シイアナタノ手枕ガサハツタノダカラ、私ハ朝ノ寢亂レ〔二字傍線〕髪ヲ梳ルマイト思ヒマス〔五字傍線〕。
○觸義之鬼尾《フリテシモノヲ》――舊訓フレテシとあるのはよくない。義之は王羲之を手師《テシ》として貴んだから、かく訓ましめるのである。
〔評〕 愴惶として戀人と別れた後朝の少女の悲しみ、ただ君なつかしさの情に胸が張り裂けるやうである。何を見ても※[立心偏+周]悵として君を懷ふのみである。そのやるせなさが悲しい韻律となつて、人の肺腑を突かうとする。正に戀歌の至上境に達してゐる。民謠として謠はれたものであらう。
2579 早行きて いつしか君を 相見むと 念ひし心 今ぞなぎぬる
早去而《ハヤユキテ》 何時君乎《イツシカキミヲ》 相見等《アヒミムト》 念之情《オモヒシココロ》 令曾水葱少熱《イマゾナギヌル》
何時ニナツタラアナタト逢ヘルカ知ラ、早ク行ツテ逢ハウト思ツテ急イデ來タ私ノ〔七字傍線〕心モ、今オ目ニカカツテ、ヤツト落付キマシタ。
○今曾水葱少熟《イマゾナギヌル》――舊本、令とあるは今の誤。嘉暦本その他、今に作つてゐる。水葱は和ぎの借字。少熱は助動詞ヌルに當ててある。戯書といつてもよい用法である。
〔評」 第二句の君を考に妹の誤かとあるが、女を君といふ例はいくらもあるから改めるには及ばぬ。ともかく女に會つて喜んだ男の歌である。ありのままの素直な作。
2580 面がたの 忘るとならば あぢき無く 男じものや 戀ひつつをらむ
面形之《オモガタノ》 忘戸在者《ワスルトナラバ》 小豆鳴《アヂキナク》 男士物屋《ヲノコジモノヤ》 戀乍將居《コヒツツヲラム》
女ノ〔二字傍線〕顔形ガ忘レラレルナラ、男兒タルコノ私ガ〔四字傍線〕、甲斐ナクモ無益ナ〔三字傍線〕戀ヲシヰテルモノデスカ。女ノ姿ガ忘レラレナイカラコソ、カウシテ戀シガツテヰルノデス〔女ノ〜傍線〕。
(514)○面形之《オモガタノ》――オモガタは文字通り顔の形、容貌デある。○忘戸在者《ワスルトナラバ》――忘れられるといふならばの息。宣長に戸を弖の誤とし、ワスレテアラバであらうとし、古義もそれに從つてゐる。舊訓のままがよい。○小豆鳴《アヂキナク》――小豆《アヅキ》をアヂキと訓ましめたのは、通音であらう。詮ない、無益ななどの意。○男士物屋《ヲノコジモノヤ》――常のジモノは、の如き物の意であるが、これは男といふ者がの意で、つまり男だのにの意となる。鳥穗自物《ヲトコジモノ》(二一〇)參照。
〔評〕 男が女に向つて、誓ふ言葉であらう。語氣に力がある。
2581 言にいへば 耳にたやすし 少くも 心のうちに 吾が念はなくに
言云者《コトニイヘバ》 三三二田八酢四《ミミニタヤスシ》 小九毛《スクナクモ》 心中二《ココロノウチニ》 我念羽奈九二《ワガモハナクニ》
私ノ心ノ中デアナタヲ〔四字傍線〕思ツテヰルノハ、少シノコトデハナイガ、戀シテヰルコトヲ〔八字傍線〕口ニ出シテ言ヘバ中々言ヒ盡シキレナイカラ、聞ク人ノ〔中々〜傍線〕耳ニハ何デモナイコトニ聞エル〔六字傍線〕。
○三三二田八酢四《ミミニタヤスシ》――耳に容易く聞える。何でもないことのやうに聞える。○少九毛心中二我念羽奈九二《スクナクモココロノウチニワガモハナクニ》――心の中に少くも我は思はざるにの意。心中に深く思へるにといふに同じ。
〔評〕 思ふだけは口に言ひ表はされぬといふことを、言云者三三二田八酢四《コトニイヘバミミニタヤスシ》といつたのは、まことに巧な言葉である。この歌の書き方に、澤山の數字を列記してゐるのは、やはり一種の戯書的のもので、このあたりには、かういふ遊戯的の用字例が散見してゐる。
2582 あぢきなく 何の枉言 いま更に わらは言する 老人にして
小豆奈九《アヂキナク》 何枉言《ナニノタハゴト》 今更《イマサラニ》 小童言爲流《ワラハゴトスル》 老人二四手《オイビトニシテ》
ツマラナクモ、何ト云フ馬鹿ナ言葉ヲ言フノ〔四字傍線〕デス。老人ノクセニ、戀ヱ思ヲ焦シテ〔七字傍線〕、今更子供ノヤウナ若々シイ戀ノ〔六字傍線〕言葉ヲ言フノデスカ。我ナガラ見下ゲタモノデス〔我ナ〜傍線〕。
○何枉言《ナニノタハゴト》――何のたは言をするぞの意。ここで切れてゐる。○小童言爲流《ワラハゴトスル》――子供の言ふやうな、若々しい戀(515)の言葉をいふよの意。
〔評〕 年に似あはぬ戀をして、若返つた氣分で、女に戀の言葉でも送つた後に、自から反省して、自分を罵る歌である。二句と四句とに言ひ切つたのが、如何にも自分を詰るやうに聞える。老人の戀を辱しめた歌とするのは當るまい。
2583 相見て いくばく久も あらなくに 年月の如 思ほゆるかも
相見而《アヒミテ》 幾久毛《イクバクヒサモ》 不有爾《アラナクニ》 如年月《トシツキノゴト》 所思可聞《オモホユルカモ》
コノ前〔三字傍線〕逢ツテカラ、イクラノ長イ間デモナイノニ、年月ガタツタヤウニ思ハレルヨ。
○相見而《アヒミテ》――代匠記精撰本、相の上に不の字脱として、アヒミデハかと言つてゐる。古義はこれに從つてゐる。或は而の下に者《ハ》の字脱かとも思はれるが、もとのままにして、訓は新訓に從はう。
〔評〕 一夜の隔てが千夜のやうに思はれるのは、戀する人の常である。その感情をそのままに素直に述べてある。卷四に相見而者幾日毛不經乎幾許久毛久流比爾久流必所念鴨《アヒミテハイクカモヘヌヲココダクモクルヒニクルヒオモホユルカモ》(七五一)・奉見而未時太爾不更者如年月所念君《ミマツリテイマダトキダニカハラネバトシツキノゴトオモホユルキミ》(五七九)などの粉本となつた作であらう。
2584 ますらをと 念へる我を かくばかり 戀せしむるは うべにはありけり
大夫登《マスラヲト》 念有吾乎《オモヘルワレヲ》 如是許《カクバカリ》 令戀波《コヒセシムルハ》 小可者在來《ウベニハアリケリ》
自分デ男ノ中ノ〔七字傍線〕大丈夫ヨト思ツテヰルコノ〔二字傍線〕私ヲ、コレホドマデモアノ美シイ女ガ〔七字傍線〕戀ヲサセルト云フノハ、尤モナコトダヨ。
○小可者在來《ウベニハアリケリ》――小可をウベとよむのは、少し無理のやうでもあるが、從來の訓皆さうなつてゐる。考は小可を苛の誤として、カラクハアリケリとよみ、古義は不可曾在來《カラクゾアリケル》の誤としてゐる。苛の字は集中に用例がないから從ひがたい。舊訓のままにして置く。
〔評〕 結句が少し無理のやうでもあるが、美人をかい間見てよんだものとすれば、分らぬことはない。無暗に益(516)荒雄を振り廻さうとするところに、上代の時代相も見えてゐる。
2585 かくしつつ 吾が待つしるし あらぬかも 世の人皆の 常ならなくに
如是爲乍《カクシツツ》 吾待印《ワガマツシルシ》 有鴨《アラヌカモ》 世人皆乃《ヨノヒトミナノ》 常不在國《ツネナラナクニ》
世ノ中ノ人ノ命ト云フモノ〔七字傍線〕ハ、誰デモ何時トモ分ラナイモノダノニ、カウシテ私ガアノ人ニ逢フノヲ〔八字傍線〕待ツテヰル甲斐ガアツテ、二人トモ無事デ又逢フコトガ出來〔ツテ〜傍線〕レバヨイガナア。
○有鴨《アラヌカモ》――舊訓アラムカモを、略解にアラヌカモと改めたのはよい。アラヌカモはアレカシといふに同じ。かういふところにヌを添へてよむ場合は他にも例が多い。○常不在國《ツネナラナクニ》――無常であるからの意。
〔評〕 戀人に逢ひ難くて、永く待つ場合の歌か。佛教の無常觀が茲にもあらはれてゐる。一一般社會への佛教の影響の大なるを知ることが出來る。
2586 人言を 繁みと君に 玉梓の 使もやらず 忘ると思ふな
人事《ヒトゴトヲ》 茂君《シゲミトキミニ》 玉梓之《タマヅサノ》 使不遣《ツカヒモヤラズ》 忘跡思名《ワスルトオモフナ》
二人ノ間ニツイテ〔八字傍線〕人ノ噂ガウルサイノデ、アナタニ私ハ〔二字傍線〕(玉梓之)使モ差シアゲマセヌ。コレハ唯人ノ口ガヤカマシイカラ、シバラク控ヘテヰルノデス、私ガアナタヲ〔コレ〜傍線〕忘レタトハ思ヒナサルナ。
○人事茂君《ヒトゴトヲシゲミトキミニ》――略解にヒトゴトノシゲケキキミニとあるよりも、古義の訓がよい。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。二〇七參照。
〔評〕 男の歌か女の歌か明瞭ではないが、穩やかな態度で相手をさとしてゐる。多分男の作であらう。相手を僞るやうな氣分ではない。
2587 大原の 古りにし郷に 妹をおきて 我寐ねかねつ 夢に見えこそ
大原《オホハラノ》 古郷《フリニシサトニ》 妹置《イモヲオキテ》
吾稻金津《イネカネツ》 夢所見乞《イメニミエコソ》
(517)大原ノ淋シイ里ニ妻ヲ殘シテ〔三字傍線〕置イテ、別レテ來タノデ〔七字傍線〕、私ハ夜モ〔二字傍線〕眠ルコトガ出來マセヌ。セメテ〔三字傍線〕夢ニデモ見エテクレヨ。
○大原古郷《オホハラノフリニシサトニ》――卷二に吾里爾大雪落有大原之古爾之里爾落卷者後《ワガサトニオホユキフレリオホハラノフリニシサトニフラマクハノチ》(一〇三)とあつた、大和高市郡飛鳥村小原の地であらう。ここのフリニシサトは古々しく淋れた郷をいふのであらう。
〔評〕 これは事實に伴つたもので、しばらく女に別れてゐる男の作である。素直な無技巧の歌である。
2588 夕されば 君來まさむと 待ちし夜の なごりぞ今も 寢ねがてにする
夕去者《ユフサレバ》 公來座跡《キミキマサムト》 待夜之《マチシヨノ》 名凝衣今《ナゴリゾイマモ》 宿不勝爲《イネガテニスル》
二人ノ間ガ親シクテ以前ハ〔二人〜傍線〕、夕方ニナルトアナタガ、オイデニナル筈ダト思ツテ〔三字傍線〕待ツテヰタノガ、近頃ハアナタハ一向來テ下サラナイケレドモ、前ノ頃ノ〔ノガ〜傍線〕夜ノ名殘デ、今モヤハリアナタヲ待ツヤウナ心地デ〔ヤハ〜傍線〕、眠リカネテヰル。
○名凝衣今宿不勝爲《ナゴリゾイマモイネガテニスル》――名殘《ナゴリ》にてぞ今も寢ね難にするといふのであらう。新考には「今もいねがてにするは夕されば君來まさむと待ちし夜のなごりぞと句をおきかへて心得べし」とある。これも一の見方であらうが、多分さうではあるまい。
〔評〕男を待つ女の歌。民謠らしい作品。卷十二の玉梓之君之使乎待之夜乃名凝其今毛不宿夜乃大寸《タマヅサノキミガツカヒヲマチシヨノナゴリゾイマモイネヌヨノオホキ》(二九四五)と、内容は全く同一である。
2589 相思はず 君はあるらし ぬば玉の 夢にも見えず うけひて寢れど
不相思《アヒオモハズ》 公者在良思《キミハアルラシ》 黒玉《ヌバタマノ》 夢不見《イメニモミエズ》 受旱宿跡《ウケヒテヌレド》
カウシテ私ハアナタヲ夢ニデモ見ヨウト思ツテ〔カウ〜傍線〕、神樣ニ祈ツテ寢タケレドモ、(黒玉)夢ニモ見ナイ。コレデハ〔四字傍線〕アナタハ私ノコトヲ〔五字傍線〕思ハナイモノト見エル。
(518)○受旱宿跡《ウケヒテヌレド》――ウケヒは神に誓ひ、神の魂を受けて事を行ふこと。七六七參照。
〔評〕 女の歌であらう。精神の交感を信じた上代人の思想が見える。卷四に都路乎遠哉妹之比來者得飼飯而雖宿夢爾不所見來《ミヤコヂヲトホミヤイモガコノゴロハウケヒテヌレドイメニミエコヌ》(七六七)の粉本か。この歌、袖中抄に出てゐる。
2590 石根踏み 夜道は行かじと 念へれど 妹によりては しぬびかねつも
石根蹈《イハネフミ》 夜道不行《ヨミチハユカジト》 念跡《オモヘレド》 妹依者《イモニヨリテハ》 忍金津毛《シヌビカネツモ》
岩根ヲ蹈ンデ山路ヲ〔三字傍線〕夜道ハスマイト思フケレド、愛スル〔三字傍線〕女ノ爲ニハ、我慢ガ出來ナイデ出カケテ行クヨ〔八字傍線〕。
○忍金津毛《シヌビカネヅモ》――このシヌブは忍耐の意である。
〔評〕 山路を辿りつつ、女のもとへ通ふ人の心持を歌つたものである。これも民謠かもしれない。
2591 人言の 繋き間守ると 逢はずあらば 終にや子らが 面忘れなむ
人事《ヒトゴトノ》 茂間守跡《シゲキマモルト》 不相在《アハズアラバ》 終八子等《ツヒニヤコラガ》 面忘南《オモワスレナム》
人ノ噂ガヤカマシイカラ、人ノ目ニツカナイ〔十字傍線〕間ヲ窺フトテ、二人ガ〔三字傍線〕逢ハズニヰタナラバ、シマヒニハ女ガ私ノ〔二字傍線〕顔ヲ忘レテシマフデアラウ。心配ダ〔三字傍線〕。
○終八子等《ツヒニヤコラガ》――終にあの女がの意。新訓・新解に「終に奴ら」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 人目を恐れて會はぬ間に、あの女は吾が顔を忘れてしまうであらうと恐れたのは、極端な言ひ方だが、そこに逢はれぬ男の焦燥感があらはれてゐる。
2592 戀ひ死なむ 後は何せむ 吾が命 生ける日にこそ 見まく欲りすれ
戀死《コヒシナム》 後何爲《ノチハナニセム》 吾命《ワガイノチ》 生日社《イケルヒニコソ》 見幕欲爲禮《ミマクホリスレ》
私ガアノ人ニ〔六字傍線〕戀死ヲシタ後デ、アノ人ガ可愛サウナコトヲシタト思ツテ下サツテモ〔アノ〜傍線〕、何ニモナラナイ。私ノ命ノアルウチニコソアノ人ニ〔四字傍線〕逢ヒタイト思ヒマス。
(519)○吾命《ワガイノチ》――古義はワガイノチノと訓んでゐル。意は正しくさうである。
〔評〕 卒直なよい歌である。卷四の孤悲死牟後者何爲牟生日之爲社妹乎欲見爲禮《コヒシナムノチハナニセムイケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》(五六〇)は、これを學んだものである。
2593 しきたへの 枕動きて いねらえず 物念ふこよひ 早も明けぬかも
敷細《シキタヘノ》 枕動而《マクラウゴキテ》 宿不所寢《イネラエズ》 物念此夕《モノオモフコヨヒ》 急明鴨《ハヤモアケヌカモ》
戀ニ心ヲ惱マシテ居ルト〔戀ニ〜傍線〕、(敷細)枕ガグラグラ〔四字傍線〕動イテ眠ルコトガ出來ナイ。ドウシテモ眠ラレナイカラ〔ドウ〜傍線〕、物思ヲシテヰル今夜ハ、早ク明ケナイカナア。アア吉シイ〔五字傍線〕。
○敷細枕動而《シキタヘノマクラウゴキテ》――二五一五參照。
〔評〕 輾轉反側眠り能はぬ人の氣分が、遺憾なくあらはされてゐる。前の人麿歌集の布細布枕動夜不寐思人後相物《シキタヘノマクラウゴキテヨルモネズオモフヒトニハノチモアハムモノ》(二五一五)に比して、劣らない作である。これも民謠らしい。
2594 往かぬ吾を 來むとか夜も 門閉さず あはれ吾妹子 待ちつつあらむ
不徃吾《ユカヌワレ》 來跡可夜《コムトカヨルモ》 門不閉《カドササザ》 ※[立心偏+可]怜吾妹子《アハレワギモコ》 待筒在《マチツツアラム》
今夜ハ障リガアツテ〔九字傍線〕行カナイノニ〔二字傍線〕私ヲ、來ルカト思ツテ夜モ門ヲシメズニ、アア、吾ガ妻ハ私ヲ〔二字傍線〕待ツテヰルデアラウ。氣ノ毒ナコトダ。行キタイナア〔氣ノ〜傍線〕。
○不徃吾來跡可夜門不閉《ユカヌワヲコムトカヨルモカドササズ》――舊訓ユカヌワレクトカヨカドモササズシテとあり、その他種々の訓があるが、ここは略解による。
〔評〕 行かむと契りて行き得ぬ男が、いらいらしながら嘆息してゐる言葉である。呻吟と吐息とが、惻々として人を動かすものがある。
2595 夢にだに 何かも見えぬ 見ゆれども 我かも迷ふ 戀の繁きに
(520)夢谷《イメニダニ》 何鴨不所見《ナニカモミエヌ》 雖所見《ミユレドモ》 吾鴨迷《ワレカモマドフ》 戀茂爾《コヒノシゲキニ》
ドウシテ私ノ戀人ガ私ノ〔七字傍線〕夢ニスラモ見エナイノデアラウカ。ソレトモ夢ニ〔六字傍線〕見エルノダガ、私ノ〔二字傍線〕戀ノ心〔二字傍線〕ガ頻リナ爲ニ、私ノ心ガ〔三字傍線〕迷ウテ居テ、分ラナイ〔七字傍線〕ノカ知ラ、ドウシタノダラウ〔八字傍線〕。
〔評〕 戀しい人に逢ひ難いのみか、夢にも見えないのを悲しんで、どうしたものかと惑ひ疑ふ態度が、それにふさはしい韻律と格調とを以て、巧に表現せられてゐる。
2596 慰もる 心はなしに かくしのみ 戀ひや渡らむ 月に日にけに 或本歌云、沖つ浪しきてのみやも戀渡りなむ
名草漏《ナグサモル》 心莫二《ココロハナシニ》 如是耳《カクシノミ》 戀也度《コヒヤワタラム》 月日殊《ツキニヒニケニ》
戀ノ心ノ遣瀬ナサヲ〔九字傍線〕慰メルコトハ出來ナイデ、コンナニ幾月幾日ト云フ長イ間〔六字傍線〕、戀シイ思バカリシテ、暮スコトデアラウカ。アア辛イ〔四字傍線〕。
○名草漏心莫二《ナグサモルココロハナシニ》――心を慰めることは出來ないでの意。八九八・三九六九にこの用例がある。○月日殊《ツキニヒニケニ》――卷四の月日異《ツキニヒニケニ》(五九八)參照。
〔評〕 これは普通の言葉を列ねて綴つたのみで、さしたる歌ではない。
或本歌云 奧津浪《オキツナミ》 敷而耳八方《シキテノミヤモ》 戀度奈牟《コヒワタリナム》
三四五句の異本である。他の例によると、別歌としてもよいほどである。奧津浪は敷きてと言はむ爲の枕詞。敷きては繁く打續きての意。
2597 いかにして 忘るるものぞ 吾妹子に 戀は益れど 忘らえなくに
何爲而《イカニシテ》 忘物《ワスルルモノゾ》 吾妹子丹《ワギモコニ》 戀益跡《コヒハマサレド》 所忘莫苦二《ワスラエナクニ》
ドウシタラコノ〔二字傍線〕心ノ〔傍線〕中ノ〔傍線〕戀ヲ〔傍線〕忘レラレルモノダラウカ。私ハ〔二字傍線〕私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ニ戀スル心ハ増サツテハ行クガ、忘(521)レラレナイノニ。嗚呼困ツタモノダ〔八字傍線〕。
○所忘莫苦二《ワスラエナクニ》――忘れられないのにといふのであるが、淡い詠嘆の意味が含まつてゐる。
〔評〕 戀の煩悶に心を痛め、身を苦しめてゐる男の歌。痛切な哀慕の叫である。
2598 遠くあれど 君にぞ戀ふる 玉桙の 里人皆に 我戀ひめやも
遠有跡《トホクアレド》 公衣戀流《キミニゾコフル》 玉桙乃《タマボコノ》 里人皆爾《サトビトミナニ》 吾戀八方《ワレコヒメヤモ》
アナタノ家マデハ〔八字傍線〕遠ク隔ツテヰル〔六字傍線〕ケレドモ、私ハ唯〔三字傍線〕アナタヲ戀シク思ツテヰル。(玉桙乃)里ノ人ノ誰ニデモ、私ガ戀シテヰルノデハアリマセヌ。タダ、アナタダケヲ思ツテヰルノデス〔タダ〜傍線〕。
○公衣戀流《キミニゾコフル》――舊訓キミヲゾコフルとある。古義に從ふ。○玉桙乃《タマボコノ》――枕詞。道につづくのを常とするが、ここは轉じて、里につづいたものらしい。代匠記精撰本「玉桙乃里人とは成務紀云、五年秋九月令2諸國1以國郡律2造長1縣邑置2稻置1、並賜2楯矛1以爲v表。邑に稻置を置て彼に矛を賜て表としける故に、玉桙の里とは云にや。……定家卿は道の程をば一里二里など云へば、玉桙の里とつづけたるも其意歟とのたまへり」とあるのは、全く誤つてゐる。これを枕詞とせず、道の意とした、略解・古義などの説も共によくない。
〔評〕 遠く隔つて逢ひ難い戀人に贈つたのである。前の打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドワガオモフヒトハタダヒトリノミ》(二三八二)と似て及ばない。
2599 しるしなき 戀をもするか 夕されば 人の手まきて 寢らむ兒ゆゑに
驗無《シルシナキ》 戀毛爲鹿《コヒヲモスルカ》 暮去者《ユフサレバ》 人之手枕而《ヒトノテマキテ》 將寐兒故爾《ネナムコユヱニ》
夕方ニナルト人ノ手ヲ枕トシテ寐ルベキ女ダノニ、主アル女ニ思ヲカケテ私ハ、何ノ〔主ア〜傍線〕甲斐モナイ戀ヲシテヰルヨ。ツマラナイ戀ダガ、ドウシテモ思ヒ切レナイ〔ツマ〜傍線〕。
○戀毛爲鹿《コヒヲモスルカ》――戀をもするかなの意。○人之手枕而《ヒトノテマキテ》――人の手を枕として、人は他の男である。
(522)〔評〕 人妻に戀して煩悶する歌。これも民謠らしい。
2600 百世しも 千代しも生きて あらめやも 吾が念ふ妹を 置きて嘆かむ
百世下《モモヨシモ》 千代下生《チヨシモイキテ》 有目八方《アラメヤモ》 吾念妹乎《ワガオモフイモヲ》 置嘆《オキテナゲカム》
人間ノ壽命ト云フモノハ〔人間〜傍線〕、百年モ千年モ生キルモノデアラウカ、決シテサウデハナイ。ダカラ私ハ〔決シ〜傍線〕、私ノ思フ女ヲ逢ハズニ〔四字傍線〕置イテ唯〔傍線〕嘆イテヰヨウヤ、是非トモ逢ハナケレバ承知ガ出來ナイ〔是非〜傍線〕。
○有目八方《アラメヤモ》――この句で切れてゐる。古義に「吾念といふ上へ、いかでと云詞を、かりにくはへて心得べし」とあるのに從つて、解くべきであらう。
〔評〕 三句で切れてゐるが、四五の句との續きが少し穩やかでない。言葉が足らぬのであらう。
2601 現にも 夢にも我は 思はざりき ふりたる君に 此處に會はむとは
現毛《ウツツニモ》 夢毛吾者《イメニモワレハ》 不思寸《モハザリキ》 振有公爾《フリタルキミニ》 此間將會十羽《ココニアハムトハ》
此處デ昔馴染ノアナタニオ目ニカカルトハ、起キテヰル時デモ又夢ノ中ニデモ、私ハ思ツタコトハアリマセンデシタ。思ヒガケナク御逢ヒ申シテ嬉シウ存ジマス〔思ヒ〜傍線〕。
○現毛夢毛吾者不思寸《ウツツニモイメニモワレハモハザリキ》――現《ウツツ》は目寐めてゐる時。古義に不思寸をオモハズキと訓んでゐる。この上句は寤めてゐる時は勿論、夢にも思はなかつたといふのである。○振有公爾《フリタルキミニ》――古りたる君に。古馴染の君に。
〔評〕 古馴染の男との意外な面會に驚喜した女の歌。大和物語の芦刈の話のやうな場面が想はれる。
2602 黒髪の 白髪までと 結びてし 心一つを 今とかめやも
黒髪《クロカミノ》 白髪左右跡《シロカミマデト》 結大王《ムスビテシ》 心一乎《ココロヒトツヲ》 今解目八方《イマトカメヤモ》
黒髪ガ白髪ニナル〔三字傍線〕マデ、決シテカハラジ〔七字傍線〕ト約束シタ、コノ〔二字傍線〕心一ツニ堅ク結ンダコト〔八字傍線〕ヲ、今私ガ〔二字傍線〕變ヘルヤウナコトガアルモノデスカ。疑ハズニ安心シテオイデナサイ〔疑ハ〜傍線〕。
(523)○白髪左右跡《シロカミマデト》――舊訓シラカミを、古義は卷十七に布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマデニ》(三九二二)とあるによつて、シロカミと訓んだのがよい。○結天王《ムスビテシ》――大王をテシと訓むことについては一三二一參照。○今解目八方《イマトカメヤモ》――舊本今を令に誤つてゐる。嘉暦本による。
〔評〕 下句の心を解くといふのが、少し穩やかでないやうでもあるが、上に結ぶとあるのに對して、かう用ゐたのである。友白髪の思想がここにあらはれてゐる。
2603 心をし 君にまつると 念へれば よしこの頃は 戀ひつつをあらむ
心乎之《ココロヲシ》 君爾奉跡《キミニマツルト》 念有者《オモヘレバ》 縱比來者《ヨシコノゴロハ》 戀乍乎將有《コヒツツヲアラム》
私ハ私ノ〔四字傍線〕心マデモアナタニ差上ゲタツモリデ居リマスカラ、ヨロシイ、コノ頃アナタガオイデニナラナイガ、ソレデモ私ハアナタヲ恨マズニ、唯〔アナ〜傍線〕戀シク思ツテバカリ居リマセウ。心ヲアナタニアゲタノデスカラ、恨ム權利モアリマセヌ〔心ヲ〜傍線〕。
○君爾奉跡《キミニマツルト》――奉はマツルと訓むがよい。二五七三參照。○縱比來者《ヨシコノゴロハ》――ヨシはヨロシイ。エエモウカマハナイなどの意。
〔評〕 身も心も捧げて男を戀ふる歌。男の薄情をも怨まないで、あきらめてゐるやうな態度は、男の心を動かすものがあらう。
2604 念ひ出でて ねには泣くとも いちじろく 人の知るべく 嘆かすなゆめ
念出而《オモヒイデテ》 哭者雖泣《ネニハナクトモ》 灼然《イチジロク》 人之可知《ヒトノシルベク》 嘆爲勿謹《ナゲカスナユメ》
アナタハ私ヲ〔六字傍線〕思ヒ出シテ、聲ヲ出シテ泣イテモ、ハツキリト人ニワカルヤウナ、嘆息ノ聲ヲ出シ〔七字傍線〕ナサルナ。二人ノ間ハ、人ニサトラレナイヤウニシナケレバナラナイ〔二人〜傍線〕。
○嘆爲勿謹《ナゲカスナユメ》――舊訓ナゲキスナユメとあるが、古義の訓がよい。
(524)〔評〕 聲を出して泣くのも、嘆息するのも、人に知られる危險率は同じやうでもあるが、作者の意は要するに、人に知られるやうなことをするなと、恐れ戒めてゐるのだ。男の歌である。
2605 玉桙の 道行きぶりに 思はぬに 妹を相見て 戀ふるころかも
玉桙之《タマボコノ》 道去夫利爾《ミチユキブリニ》 不思《オモハヌニ》 妹乎相見而《イモヲアヒミテ》 戀比鴨《コフルコロカモ》
(玉桙之)途中デ思ヒモヨラズ、女ニ出逢ツテ、コノ頃ハ戀シク思ツテヰルヨ。
○道去夫利爾《ミチユキブリニ》――ミチユキブリは道行觸り。途中で人に出合ふこと。
〔評〕 途中で女をかいま見て戀ふる歌。 玉桙道不行爲有者惻隱此有戀不相《タマボコノミチユカズシテアラマセバネモゴロカカルコヒニアハザラム》(二三九三)と同一内容である。
2606 人目多み 常かくのみし さもらはば いづれの時か 吾が戀ひざらむ
人目多《ヒトメオホミ》 常如是耳志《ツネカクノミシ》 侯者《サモラハバ》 何時《イヅレノトキカ》 吾不戀將有《ワガコヒザラム》
澤山ノ人ガ見テヰルノデ、イツデモカウシテ隙ヲ窺ツテバカリヰタナラバ、イツマデモ逢フコトガ出來ズニ〔イツ〜傍線〕、何時ニナツタラ、私ガ人戀シク思ハナイ日ガ來ル〔四字傍線〕デアラウカ。イツマデモ戀シク思ツテヰルダラウ。ダカラ、モウ人ノ見テヰルノモカマハズニ逢ツテヤラウ〔イツ〜傍線〕。
○侯者《サモラハバ》――サモラフは待つこと。卷三の待從爾《サモラフニ》(三八八)參照。侯は候とあるべきであらう。○何時吾不戀將有《イヅレノトキカワガコヒザラム》――何時でも常に戀せぬ時はないといふのではなくて、何時になつたら戀せぬ日が來るだらうかといふのである。
〔評〕 最早人目の關も憚らずに、表面にあらはして戀しようといふ、強い決心をほのめかしてゐる。
2607 敷妙の 衣手かれて 我を待つと あるらむ子らは 面影に見ゆ
敷細之《シキタヘノ》 衣手可禮天《コロモデカレテ》 吾乎待登《アヲマツト》 在濫子等者《アルラムコラハ》 面影爾見《オモカゲニミユ》
二人ガ〔三字傍線〕(敷細之)袂ヲ分ツテカラ、私ヲ待ツテ居ルデアラウト思ハレルアノ〔七字傍線〕女ノ姿〔二字傍線〕ハ、私ノ〔二字傍線〕目ノ前ニチラツイ(525)テ見エル。
○敷細之《シキタヘノ》――枕詞。衣とつづく。○衣手可禮天《コロモデカレテ》――衣手は袖。カレテは離れて。即ち袂を判つてからの意。○面影爾見《オモカゲニミユ》――面影となりて見ゆの意。目の前にちらついて見える。
〔評〕 離れてゐる女を思ふ歌。女の至誠が通じて、その爲に面影としてあらはれるといふ意らしい。純情の歌である。
2608 妹が袖 別れし日より 白妙の 衣片しき 戀ひつつぞ寐る
妹之袖《イモガソデ》 別之日從《ワカレシヒヨリ》 白細乃《シロタヘノ》 衣片敷《コロモカタシキ》 戀管曾寐留《コヒツツゾヌル》
女ト袂ヲ別ツタ日カラ私ハ〔二字傍線〕、(白細乃)着物ヲ片敷イテ丸眞ヲシテ、女ヲ〔七字傍線〕戀シク思ヒナガラ獨デ〔二字傍線〕寢ルヨ。
○白細乃《シロタヘノ》――枕詞。衣とつづく。昔は多く白衣を着た。○衣片敷《コロモカタシキ》――衣片敷一鴨寐《コロモカタシキヒトリカモネム》(一六九二)參照。
〔評〕 平板のやうであるが、獨寢の淋しさが、よくあらはれてゐる。
2609 白妙の 袖はまゆひぬ 吾妹子が 家のあたりを 止まず振りしに
白細之《シロタヘノ》 袖者間結奴《ソデハマユヒヌ》 我妹子我《ワギモコガ》 家當乎《イヘノアタリヲ》 不止振四二《ヤマズフリシニ》
私ガ私ノ戀シイ女ニ知ラレルヤウニ〔私ガ〜傍線〕、女ノ家ノ方ヘ向イテ、斷エズ袖ヲ〔二字傍線〕振ツテヰタガ、(白細之)袖ノ糸〔二字傍線〕ガスレテ、ヨレヨレニナツテ終ツタ。
○袖者間結奴《ソデハマユヒヌ》――ユヒは卷七に麻衣屑乃間亂者誰取見《アサゴロモカタノマヨヒハタレカトワミム》(一二六五)とあるやうに織物の糸のよれよれになつて破れること。その條參照。ここは文字通りマユヒと訓むべきであらう。○家當乎《イヘノアタリヲ》――卷七に妹之當吾袖將振《イモガアタリワガソデフラム》(一〇八五)とあるが、ここにヲとあるのは妹があたりに向けての意と見るべきであらう。
〔評〕 かの人麿の石見乃也高角山之木際從我振袖乎妹見都良武香《イハミノヤタカツヌヤマノコノマヨリワガフルソデヲイモミツラムカ》(一三一)などを始めとして、男が袖を振る歌が集中に多いが、これほど熱狂的に振つた例は見當らない。痛快な歌である。
2610 ぬば玉の 吾が黒髪を 引きぬらし 亂れてさらに 戀ひわたるかも
(526)夜干玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪乎《ワガクロカミヲ》 引奴良思《ヒキヌラシ》 亂而反《ミダレテサラニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
(夜干玉之)黒髪ヲ私ハ引キ靡カセテ、心モ〔二字傍線〕亂レテ、一層人ヲ〔二字傍線〕戀シク思ヒツヅケテヰルヨ。
○引奴良之《ヒキヌラシ》――ヌラシは靡かしの意。卷二の多氣婆奴禮《タケバヌレ》(一二三)參照。○亂而反《ミダレテサラニ》――反は集中カヘリとよんであつて、他の訓はない。しかし舊訓のミダレテカヘリでは穩やかでなく、さりとて、略解の反を已として、ミダレテノミモとする春海説、而反を留及として、ミダルルマデニとする宣長説、古義の反を吾の誤として、ミダレテアレハと訓む説など、いづれもよいと思はれないから、しばらく新訓に從つて置く。
〔評〕 空閨孤衾に輾轉反側する佳人の姿を、眼前に髣髴せしめるものがある。第四句の亂而《ミダレテ》は、第二句の黒髪の縁語になつてゐるやうにも見える。
2611 今更に 君が手枕 まき寢めや 吾が紐の緒の 解けつつもとな
今更《イマサラニ》 君之手枕《キミガタマクラ》 卷宿米也《マキネメヤ》 吾?緒乃《ワガヒモノヲノ》 解都追本名《トケツツモトナ》
着物ノ紐ガ自然ニ解ケルノハ、人ニ逢フシルシダト言ツテアルガ、私ハアノ人トハ逢へナイ筈ニナツタノデ〔着物〜傍線〕、今更アノ人ノ手枕ヲシテ寢ルコトハナイノダ。ソレダノニ〔五字傍線〕私ノ着物ノ紐ガ猥リニ解ケテ、私ノ氣ヲモマセル〔八字傍線〕。
○解都追本名《トケツツモトナ》――モトナトケツツといふに同じ。モトナは猥りに・空しくなどの意。二三〇參照。
〔評〕 二人の關係が絶えて、又逢はぬと思ひつつも、なほ未練は充分にある女の心である。着物の紐が解けるのは人に會ふべき前兆とする俗信が、悲しくも否定的に用ゐられてゐる。三句切の歌。
2612 しろたへの 袖をふれてよ 吾が背子に 吾が戀ふらくは 止む時もなし
白細布乃《シロタヘノ》 袖觸而夜《ソデヲフレテヨ》 吾背子爾《ワガセコニ》 吾戀落波《ワガコフラクハ》 止時裳無《ヤムトキモナシ》
(白細布乃)袖ヲ相觸レテ一寸出逢ツテ〔六字傍線〕カラ、私ノ夫ニ私ガ戀シク思フコトハ止ム時ハアリマセン。
○袖觸而夜《ソデヲフレテヨ》――舊訓ソデヲフレテヤとあるが、ヤといふ疑問助詞を置くべきところではない。考は夜を從の誤(527)として、、ソデヲフレテユとし、略解はそれに從つてソデフレテヨリとよんでゐる。併しここは略解補正に從つて、ソデヲフレテヨと訓むことにする。夜の字は假名に用ゐる場合は阿乎夜奈義《アヲヤナギ》(八二一)の如くヤが常であるが、稀に射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》(三九三)のやうに、ヨもないではない。ここはさう考へて差支へはあるまい。但し夜《ヨル》を通音でヨリに用ゐたものかとも考へられるが、多分さうではあるまい。
〔評〕 袖を觸れたばかりの、かりそめの行合ひが因をなして、人戀しい思が募つたのである。あはれな女心だ。
2613 夕卜にも 占にものれる 今よひだに 來まさぬ君を いつとか待たむ
夕卜爾毛《ユフケニモ》 占爾毛告有《ウラニモノレル》 今夜谷《コヨヒダニ》 不來君乎《キマサヌキミヲ》 何時將待《イツトカマタム》
夕方ノ辻占ニモ、ソノ他ノ〔四字傍線〕ウラナヒニモ、アナダガオイデニナルト〔アナ〜傍線〕出タ今夜デスラモ、オイデニナラナイアナタヲ、コンナコトデハ〔七字傍線〕何時オイデニナルモノト思ツテ、待チマセウゾ。待ツアテガアリマセヌ〔待ツ〜傍線〕。
○夕卜爾毛《ユフケニモ》――夕方辻に立つて、人の言葉を聞いて判斷する占を夕卜《ユフケ》といふ。四二〇參照。○占爾毛告有《ウラニモノレル》――略解に「ただ占と言ふは、鹿の骨を燒占也」とあるが、さうは限らない。その他一般的の占を言つたもので、どの占と指すものはない。告は嘉暦本のみは吉に作つてゐる。この歌、拾遺集に「夕けとふ卜にもよくあり今宵だにこざらむ君をいつか待つべき」と載つてゐるによれば、或はこれが原形かとも思はれるが、卷二の大船之津守之占爾將告登波《オホフネノツモリノウラニノラムトハ》(一〇九)・卷十一の占正謂妹相依《ウラマサニノルイモニアハムヨシ》(二五〇六)などの如く、占にはノルとつづくのが常であり、この場合もヨクアルよりも、ノレルの方が穩やかのやうであるから、舊本に從ふことにする。
〔評〕 神の御心を卜占に聞いて、今宵の逢瀬を樂しんでゐたのに、期待は空しく裏切られて、途方にくれた女心の悲しさが、さこそとうなづかれる。
2614 眉根かき 下いぶかしみ 思へるに いにしへ人を 相見つるかも 或本歌曰、眉根かき誰をか見むと思ひつつ日長く戀ひし妹に逢へるかも
一書歌曰、眉根かき下いぶかしみ念へりし妹がすがたを今日見つるかも
眉根掻《マヨネカキ》 下言借見《シタイフカシミ》 思有爾《オモヘルニ》 去家人乎《イニシヘヒトヲ》 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
眉ガ痒イ時ハ人ニ逢ハレルシルシダト言ツテアルガ、私ハ眉ガ痒イノデ〔眉ガ痒イ時〜傍線〕掻キナガラ、ドウモ變ダト〔六字傍線〕心ノ中デ不(528)思議ニ思ツテヰタノニ、世ノ言ヒナラハシノ通リ〔世ノ〜傍線〕、昔馴染ノ人ニ出逢ツタヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○下言借見思有爾《シタイブカシミオモヘルニ》――心の中でいぶかしく思つてゐたに。言借《イブカシ》の用字が面白い。○去家人乎《イニシヘビトヲ》――去家人の用字も異風である。卷十二に去家而《タビニシテ》(三一三三)とあるによれば、タビナルヒトとも訓めるが、下に、去家之《イニシヘノ》(二六二八)とあるから、なほイニシヘビトであらう。昔馴染の人。前の振有公《フリタルキミ》(二〇六一)と同じ。
〔評〕 眉が掻いのは人に逢ふ前兆とする俗信によつて、久しく逢はなかつた古馴染に、遇然逢つた嬉しさが歌はれてゐる。女の歌らしい感があるが、次の或本・一書の歌によれば、これも男の作か。
或本歌曰 眉根掻《マヨネカキ》 誰乎香將見跡《タレヲカミムト》 思乍《オモヒツツ》 氣長戀之《ケナガクコヒシ》 妹爾相鴨《イモニアヘルカモ》
これは第一句が同じいのみで、別歌と見るべきであらう。
一書歌曰 眉根掻《マヨネカキ》 下伊布可之美《シタイブカシミ》 念有之《オモヘリシ》 妹之容儀乎《イモガスガタヲ》 今日見都流香裳《ケフミツルカモ》
これは前の歌よりも原歌に近い。同歌の異傳とも言へよう。
2615 敷妙の 枕をまきて 妹と我と 寢る夜はなくて 年ぞ經にける
敷栲乃《シキタヘノ》 枕卷而《マクラヲマキテ》 妹與吾《イモトワレト》 寐夜者無而《ヌルヨハナクテ》 年曾經來《トシゾヘニケル》
(敷栲乃)枕ヲシテ 妻ト私トカ寢ル夜ハ少シモ〔三字傍線〕ナクテ、幾年モ經ツタヨ。ツライコトダ〔六字傍線〕。
○妹與吾《イモトワレト》――舊訓イモトワレとあるが、下にトを添へて言ふべきところである。
〔評〕 平凡な歌だ。古義に枕の上に手を補つて、手枕卷而《タマクラヲマキテ》としたのは、この平凡さを幾分なりとも減じようとしたものか。
2616 奥山の 眞木の板戸を 音はやみ 妹があたりの 霜の上にねぬ
(529)奥山之《オクヤマノ 眞木乃板戸乎《マキノイタドヲ》 音速見《オトハヤミ》 妹之當乃《イモガアタリノ》 霜上爾宿奴《シモノウヘニネヌ》
私ハ女ニ逢フ爲ニワザワザヤツテ來タガ、女ノ家ノ〔私ハ〜傍線〕(奥山之)檜ノ板戸ヲ叩ケバ〔四字傍線〕音ガヒドイノデ、人ニ知ラレテトガメラレハシナイカト心配シテ叩クノヲ中止シテ〔人ニ〜傍線〕、女ノ家ノ〔二字傍線〕近所デ霜ノ降ル〔二字傍線〕上ニ寢タ。
○奧山之《オクヤマノ》――枕詞。眞木にかかる。○音速見《オトハヤミ》――音が烈しさに、ハヤはえい・暴い・烈しいなどの意。新考に「オシガタミとありしを誤れるならむ」とあるのは奇説である。
〔評〕 折角訪ねて來ながら、戸を開ける音の烈しさにおびえて、女の家に入りかねて、寒夜の霜の上に臥したといふので、その情景を想へば、まことに悲しい歌である。この内容と野趣とから見ると、多分、これは俚謠として、民間に謠はれたものであらう。
2617 足引の 山櫻戸を 開け置きて 吾が待つ君を 誰か留むる
足日木能《アシビキノ》 山櫻戸乎《ヤマサクラドヲ》 開置而《アケオキテ》 吾待君乎《ワガマツキミヲ》 誰留流《タレカトドムル》
私ハ私ノ家ノ〔六字傍線〕(足日木能)山櫻ノ板デ造ツタ〔六字傍線〕戸ヲ開ケテ置イテ、私ガ待ツテヰルアナタヲ、誰ガ留メテ此處ヘ來サセナイノ〔十字傍線〕デアラウカ。
○山櫻戸乎《ヤマサクラドヲ》――古義には「櫻戸といはむとて、足日木能山《アシビキノヤマ》といへるなり」とあるが、山櫻戸として見るべきであらう。山櫻の板戸である。
〔評〕 前のが男の歌なるに對して、これは女の歌である。ここに眞木の板戸と山櫻戸との歌を並べてある。どちらも山樵の間に俚謠として、謠はれたものか。
2618 月夜よみ 妹に逢はむと ただ道から 我は來つれど 夜ぞふけにける
月夜好三《ツクヨヨミ》 妹二相跡《イモニアハムト》 直道柄《タダヂカラ》 吾者雖來《ワレハキツレド》 夜其深去來《ヨゾフケニケル》
今夜ハ〔三字傍線〕月ガヨイノデ、女ニ逢ハウト思ツテ、近道カラ私ハヤツテ來タガ、夜ガ更ケテシマツタ。
(530)○直道柄《タダチカラ》――直通《タダチ》は廻り道でない眞直な路。即ち近路。カラはヨリに同じ。卷十七に之乎路可良多太古要久禮婆《シヲヂカラタダコエクレバ》(四〇二五)ともある。
〔評〕 月明の夜、女に逢ひたさに、月光をたよりに近路を辿つて、急いで來た男の心。これも同じく俚謠である。明朗な、感じのよい歌。
寄(セテ)v物(ニ)陳(ブ)v思(ヲ)
2619 朝影に 吾が身は成りぬ 韓衣 裾の合はずて 久しくなれば
朝影爾《アサカゲニ》 吾身者成《ワガミハナリヌ》 辛衣《カラコロモ》 襴之不相而《スソノアハズテ》 久成者《ヒサシクナレバ》
私ハ戀人ト〔五字傍線〕(辛衣襴之)逢ハナイコトガ長クナツタカラ、朝日ノサス時ニウツル人〔日ノ〜傍線〕影ノヤウ〔三字傍線〕ニ、細ク瘠セテ〔五字傍線〕シマツタ。
○朝影爾《アサカゲニ》――朝影は朝日に照らされて、地上に印した人影。瘠せ細つた譬喩。前に朝影吾身成《アサカゲニワガミハナリヌ》(二三九四)とある。○辛衣襴之不相而《カラコロモスソノアハズテ》――不相《アハズ》と言はむ爲に、辛衣襴之《カラコロモスソノ》を序詞として置いてゐる。辛衣は唐衣で支那風の衣である。その襴が合はない制になつてゐた。卷十四にも可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛《カラコロモスソノウチカヘアハネドモ》(三四八二)とある。
〔評〕 他に類歌がないでもないが、唐衣の制法に寄せて、句中に序詞を作つたのが、この歌の巧妙な點であらう。寄衣戀。
2620 解衣の 思ひ亂れて 戀ふれども なぞ汝が故と 問ふ人もなき
解衣之《トキギヌノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 雖戀《コフレドモ》 何如汝之故跡《ナゾナガユヱト》 問人毛無《トフヒトモナキ》
(解衣之)思ヒ亂レテ、私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ツテヰルガ、アナタ故ニ苦シンデヰルカト〔八字傍線〕、ドウシテ訊ネテクレ(531)ル人モナイノデアラウ。
○解衣之《トキギヌノ》――枕詞。亂とつづく。卷十に解衣思亂而《トキギヌノオモヒミダレテ》(二〇九二)・卷十一に解衣戀亂乍《トキギヌノコヒミダレヅツ》(二五〇四)などがある。解衣は仕立直す爲に解いた衣。○何如汝之故跡《ナゾナガユヱト》――考に汝は俗の誤として、ナニソノユヱトと訓んでゐる。新考は汝を衍字として、ナニシノユヱトとしてゐるが、もとのままで、「汝が故と、なぞ問ふ人もなき」の意に見る。
〔評〕 卷十二の解衣念亂而雖戀何之故其跡問人毛無《トキギヌノオモヒミダレテコフレドモナニノユヱゾトトフヒトモナシ》(二九六九)と同歌で、これは四句が少し曖昧なだけ、歌として劣つてゐる。寄衣戀。
2621 摺衣 著りと夢見つ うつつには 誰しの人の 言か繁けむ
摺衣《スリゴロモ》 著有跡夢見津《ケリトイメミツ》 寤者《ウツツニハ》 孰人之《タレシノヒトノ》 言可將繁《コトカシゲケム》
摺衣ヲ着ルノヲ夢ニ見ルト、人ニ言ヒ騷ガレルシルシダト世間デイフガ、私ハ〔摺衣〜傍線〕摺衣ヲ着タト夢ニ見タ。シテ見ルト〔五字傍線〕實際ニハ誰ガヒドク評判ヲシテヰルノダラウ。
○摺衣《スリゴロモ》――山藍・榛・黄土などで摺つて染めた衣。○著有跡夢見津《ケリトイメミツ》――著有は舊訓キルとあるが、宣長がケリとよんだのがよいであらう。著タリの意。○寤者《ウツツニハ》――寤を舊本寐に作るは誤。類聚古集による。夢に對して現《ウツツ》と言つたのである。○孰人之《タレシノヒトノ》――舊訓イヅレノヒトノとあるが、孰は集中|執不戀有米《タレコヒザラメ》(三九三)・孰喚子鳥《タレヨブコトリ》(一八二七)などの如く總べてタレとよんである上に、下の二六二八の一書の歌に誰之能人毛《タレシノヒトモ》とあるから、ここもタレシノヒトノに違ひない。シは強めて言ふ助詞。○言可將繋《コトカシゲケム》――誰の口が喧ましいであらうか。誰に言ひ總がレるであらうかの意。新解に「言ひ寄る言の繁くあらむかの意。人の噂についてでは無い」とあるが、集中「言繁し」とあるは、すべて人の噂の甚だしい意であるから、これもさう見ねばならぬ。
〔評〕 摺衣を着ると夢見るのは、人に浮名を立てられる兆とする俗信があつたものか。さうした夢を見て、さらばその噂を立てる人は、誰であらうと推測するのである。寄衣戀。
2622 志賀の白水郎の 鹽燒衣 なれぬれど 戀とふものは 忘れかねつも
(532)志賀乃白水郎之《シカノアマノ》 鹽燒衣《シホヤキゴロモ》 雖穢《ナレヌレド》 戀云物者《コヒトフモノハ》 忘金津毛《ワスレカネツモ》
私ハ戀シイ人ト〔七字傍線〕(志賀乃白水郎乃鹽燒衣)馴レ親ンデヰルガ、ソレデモ〔四字傍線〕戀ト云フモノハ、以前充分二逢ヘナカツタ時ト、少シモカハラズ〔以前〜傍線〕、忘レラレナイヨ。
○志賀乃白水郎之鹽燒衣《シカノアマノシホヤキゴロモ》――ナレと言はむ爲の序詞。志賀は筑前博多灣内の志賀島である。○雖穢《ナレヌレド》――衣を着古した意のナルに、馴れ親しむをかけてある。
〔評〕 卷三の須麻乃海人之鹽燒衣乃藤服《スマノアマノシホヤキギヌノフヂゴロモ》(四一三)、卷六の爲間乃海人之塩燒衣乃奈禮名者香一日母君乎忘而將念《スマノアマノシホヤキギヌノナレナバカ》(九四七)などの前驅をなしたもので、又卷十二の大王之鹽燒海部乃藤衣穢者雖爲彌希將見毛《オホギミノシホヤクアマノフヂゴロモナルトハスレドイヤメヅラシモ》(二九七一)に似てゐる。寄衣戀。
2623 くれなゐの 八鹽の衣 朝なさな なるとはすれど いやめづらしも
呉藍之《クレナヰノ》 八鹽乃衣《ヤシホノコロモ》 朝旦《アサナサナ》 穢者雖爲《ナレハスレド》 益希將見裳《イヤメヅラシモ》
私ハ私ノ戀シイ人ニ〔九字傍線〕毎朝毎朝(呉藍之八鹽乃衣)馴レテハ行クガ、飽キナイデ〔五字傍線〕、益々可愛クナルバカリダヨ。
クレナヰノヤシホノコロモナルクレナヰ
○呉藍之八鹽乃衣《クレナヰノヤシホノコロモ》――序詞。句を隔てて穢《ナル》につづく。呉藍《クレナヰ》は紅。ベニバナデ染めたもの。八鹽《ヤシホ》は八鹽入《ヤシホイリ》の略で、幾囘も染めた、色の濃いことである。○朝旦《アサナサナ》――毎朝毎朝、即ち毎日毎日の意。この句までを序とする説もあるが無理のやうである。
〔評〕 朝旦《アサナサナ》の句が、少し落ちつきが惡いやうである。殊更に紅のやしほの衣を用ゐたのは、美しさを女に譬へたのか。下句は前の歌の評に掲げた、卷十二の大王之《オホキミノ》(二九七一)と同一である。寄衣戀。
2624 くれなゐの 濃染の衣 色深く しめにしかばか 忘れかねつる
紅之《クレナヰノ》 深染衣《コゾメノコロモ》 色深《イロフカク》 染西鹿齒蚊《シメニシカバカ》 遺不得鶴《ワスレカネツル》
(紅之深染衣色)深クアノ人ヲ思ヒ〔六字傍線〕染メタカラカ、ドウシテモ〔五字傍線〕忘レカネタヨ。
○紅之深染衣《クレナヰノコゾメノコロモ》――下の色深《イロフカク》につづけた序詞である。色までを序詞と見てよいであらう。前の呉藍之八鹽乃衣《クレナヰノヤシホノコロモ》と(533)全く同じものである。〔評〕 これは深染の衣の色の深さによそへてある。戀を忘れ得ない心を、自から客觀的態度で眺めてゐる。卷六の紅爾深染西情可母《クレナヰニフカクシミニシココロカモ》(一〇四四)もこれに似てゐる。寄衣戀。
2625 逢はなくに 夕占を問ふと 幣に置くに 吾が衣手は 又ぞつぐべき
不相爾《アハナクニ》 夕卜乎問常《ユフケヲトフト》 幣爾置爾《ヌサニオクニ》 吾衣手者《ワガコロモデハ》 又曾可續《マタゾツゲベキ》
イクラドウシテモ〔八字傍線〕逢ヘナイノデ、夕方スル辻占ニタヅネテ見ヨウトテ、私ノ着物ノ袖ヲ神樣ニ供ヘル〔私ノ〜傍線〕幣トシテ置クガ、ヤハリ逢ハレナイノデ〔ヤハ〜傍線〕、私ノ着物ノ袖ヲ供ヘルコト〔六字傍線〕ハ、又續クデセウ。
○幣爾置爾《ヌサニオクニ》――幣として供へるので。夕卜を問ふとて、神に供へる爲に幣として置くのである。○又曾可續《マタゾヅグベキ》――袖を神に捧げたので、それを再び續ぐべきものだといふか、又は、やはり逢へないので、再び袖を神に供へるであらうといふのか、明瞭でない。ここは後説による。
〔評〕 袖を手向とするのは、古今集に「手向にはつづりの袖も切るべきに紅葉にあける神やかへさむ」とあつて、神を祭る爲に幣帛の代りに、臨時にやつたことと見える。夕卜の樣も想像せられて、上代風俗研究の好資料である。寄衣戀。
2626 古衣 打棄て人は 秋風の 立ち來る時に もの念ふものぞ
古衣《フルゴロモ》 打棄人者《ウチステビトハ》 秋風之《アキカゼノ》 立來時爾《タチクルトキニ》 物念物其《モノオモフモノゾ》
古衣ヲ打棄テタ人ハ、秋風ガ吹キ出シテ寒クナツ〔五字傍線〕タ時ニ、心配スルモノデスゾ。古妻ヲ打棄テタ人ハ秋風ガ吹イテ淋シクナツタ時ニ、物思ヲスルモノデスゾ。アナタハ私ヲオ棄テナサルト後悔スル時ガアリマスゾ〔古妻〜傍線〕。
○古衣打棄人者《フルゴロモウチステビトハ》――古き衣を打ち棄てた人。古妻即ち自分を棄てた薄情男に譬へてある。從來の諸説、フルゴロモを枕詞としたのは誤つてゐる。又ウツテシヒトハとよんで、人に打ち捨てられた吾が身と解したのも誤つ(534)てゐる。
〔評〕薄情男に警告する歌だけに、結句、物念物其《モノモフモノゾ》が、投げ出したやうな語氣になつてゐる。膚に寒い秋風を點出したのが、自然でよく出來てゐる。寄衣戀。
2627 はねかづら 今する妹が うら若み 咲みみいかりみ 著けし紐解く
波禰※[草冠/縵]《ハネカヅラ》 今爲妹之《イマスルイモガ》 浦若見《ウラワカミ》 咲見慍見《ヱミミイカリミ》 著四?解《ツケシヒモトク》
波禰※[草冠/縵]ヲ今シタバカリノワタシノ〔四字傍線〕妻ガ、マダ若イノデ、笑ツタリ怒ツタリシテ、着物ノ紐ヲ解クヨ。可愛イ奴ダ〔四字傍線〕。
る。○咲見慍見《ヱミミイカリミ》――新考には「作者がするなり。妹がするにあらず。從前の説は誤れり。さてその意は嚇シタリ賺シタリとなり」とあるが、これは處女の態度を言つたもので、やはり從來の説がよい。
〔評〕 珍らしい矯態。殆どクライマツクスに達してゐる。露骨な描寫を平氣でやつた上代歌謠中にも、こんなのはあまりない。卷七に波彌※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三去來率去河之音之清左《ハネカヅライマスルイモヲウラワカミイザイザカハノオトノサヤケサ》(一一一二)と上句全く同じである。寄紐戀。
2628 いにしへの 倭文機帶を 結び垂れ 誰とふ人も 君にはまさじ
去家之《イニシヘノ》 倭文旗帶乎《シヅハタオビヲ》 結垂《ムスビタレ》 孰云人毛《タレトフヒトモ》 君者不益《キミニハマサジ》
(去家之倭文旗帶乎結垂)誰デモアナタニ増サルナツカシイ〔五字傍線〕人ハアリマセヌ。
○去家之倭文旗帶乎結垂《イニシヘノシヅハタオビヲムスビタレ》――序詞。タレの音を繰返して、下につづいてゐる。イニシヘは古風な。倭文旗帶は倭文布《シヅヌノ》の帶。倭文布は縞になつてゐる布である。卷三の倭文幡乃帶解替而《シヅハタノオビトキカヘチ》(四三一)參照。
〔評〕 上句の序詞だけに興味を持たせた作である。しかしそれも、武烈天皇紀に於〓枳瀰能瀰於寐能之都波※[木+它]夢
(535)須寐陀黎陀黎耶始比登謀阿避於謀婆儺倶※[人偏+爾]《オホキミノミオビノシヅハタヒオモハナクニ》・繼體天皇紀に野須美矢矢倭我於朋枳美能於魔細屡裟佐羅能美於寐能武須彌陀例駄例夜矢比等母紆陪※[人偏+爾]泥堤那皚矩《ヤスミシシワガオホキミノオバセルササラノミオビノムスビタレタレヤシヒトモウヘニデテナゲク》トアルノニ、傚つたことは爭はれない。
一書歌、古の狹織の帶を結び垂れ誰しの人も君にはまさじ
一書歌|古之《イニシヘノ》 狹織之帶乎《サオリノオビヲ》 結垂《ムスビタレ》 誰之能人毛《タレシノヒトモ》 君爾波不益《キミニハマサジ》
右の歌と同歌の異傳である。狹織の帶は狹く織つた倭文布で、今さなだと言ふ細紐は狹之機《サナハタ》の意であらうと眞淵は言つてゐる。嘉暦本は歌を曰に作つてゐる。西本願寺本は歌の下、云の字がある。
2629 逢はずとも 我は怨みじ この枕 我と思ひて まきてさねませ
不相友《アハズトモ》 吾波不怨《ワレハウラミジ》 此枕《コノマクラ》 吾等念而《ワレトオモヒテ》 枕手左宿座《マキテサネマセ》
アナタハ少シモオイデ下サラナイガ〔アナ〜傍線〕、私ハアナタニ〔四字傍線〕逢ハナイデモ怨ミハスマイ。唯今私ノ枕ヲアナタニオ送リ致シマスガ〔唯今〜傍線〕、コノ枕ヲ私ト思ツテ、枕ニシテ寢テ下サイマシ。ソレデ私ハ滿足イタシマス〔ソレ〜傍線〕。
〔評〕 女から男へ枕を贈つた時、添へた歌であらう。平明な格調の上に、やさしい女らしい情緒が漂つてゐる。代匠記に「遊仙窟云、遂喚2奴曲琴1取2相思枕1留2與十娘1以爲2記念1、因詠曰、南國傳2椰子1東家賦2石榴1、聊將代2左腕1長夜枕2渠頭1」と引いてゐる。寄枕戀。
2630 結へる紐 解かむ日遠み 敷栲の 吾が木枕は こけむしにけり
結?《ユヘルヒモ》 解日遠《トカムヒトホミ》 敷細《シキタヘノ》 吾木枕《ワガコマクラハ》 蘿生來《コケムシニケリ》
妻ト別レタ時ニ、妻ガ〔九字傍線〕結ンデクレ〔三字傍線〕タ私ノ着物ノ〔五字傍線〕紐ヲ、再ビ妻ガ〔四字傍線〕解イテクレル日ガ遠イノデ、私ノコノ〔二字傍線〕木ノ(敷細)枕ニハ苔ガ生エタヨ。
○解日遠《トカムヒトホミ》――略解・古義・新考などトキシヒトホミとあるが、舊訓のままがよいやうである。妻が紐を結んでくれてから、再會してその紐を解くべき日が遠いのでの意。○敷細《シキタヘノ》――語を隔てて枕につづく。
〔評〕下句は、敷細布枕人事問哉其枕苔生負爲《シキタヘノマクラセシヒトコトトヘヤソノマクラニハコケムシニタリ》(二五一六)と殆ど同じ。誇張的叙述に興味がある。寄枕戀。
2631 ぬばたまの 黒髪しきて 長き夜を 手枕の上に 妹待つらむか
(536)夜干玉之《ヌバタマノ》 黒髪色天《クロカミシキテ》 長夜※[口+立刀]《ナガキヨヲ》 手枕之上爾《タマクラノウヘニ》 妹待覽蚊《イモマツラムカ》
(夜干玉之)黒髪ヲ敷イテ、コノ〔二字傍線〕長イ夜ニ私ノ〔二字傍線〕妻ハ、手枕ノ上ニ頭ヲノセテ私ノ來ルノヲ〔頭ヲ〜傍線〕待ツテヰルデアラウカ。空シク待タセルノハ可愛想ダ〔空シ〜傍線〕。
○手枕之上爾《タマクラノウヘニ》――自分の手枕の上に頭を載せて寢て、即ち手枕をしての意であらう。略解・古義・新考など四一二三五と句を次第して解いてゐる。しかし第四句を歌頭に廻らすのも無理であり、手枕の上に黒髪をしくといふのも穩やかでない。
〔評〕戀しい女の獨寢の状態を思ひやつて、なつかしがつてゐる。前の敷細之衣手可禮天吾乎待登在濫子等者面影爾見《シキタヘノコロモデカレテワヲマツトアルラムコラハオモカゲニミユ》(二六〇七)などに比すれば、遙かに優つてゐる。この歌、袖中抄に載せてゐる。寄枕戀。
2632 まそ鏡 ただにし妹を 相見ずは 吾が戀止まじ 年は經ぬとも
眞素鏡《マソカガミ》 直二四妹乎《タダニシイモヲ》 不相見者《アヒミズハ》 我戀不止《ワガコヒヤマジ》 年者雖經《トシハヘヌトモ》
(眞素鏡)直接ニ女ニ逢ハナイナラバ、何年タツテモ私ノ戀ノ心ハ止ムマイ。ドウシテモ逢ヒタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
○眞素鏡《マソカガミ》――句を隔てて、見にかかつてゐる。
〔評〕 平明な力強い歌。寄鏡戀。
2633 まそ鏡 手に取り持ちて 朝なさな 見む時さへや 戀の繁けむ
眞十鏡《マソカガミ》 手取持手《テニトリモチテ》 朝旦《アサナサナ》 將見時禁屋《ミムトキサヘヤ》 戀之將繁《コヒノシゲケム》
私ハアナタニカウシテ〔私ハ〜傍線〕(眞十鏡手取持手)毎日毎日逢フコトガ出來テモ、コンナニ〔四字傍線〕戀シク思フ心ガヒドイノハ、ドウシタモノデ〔ノハ〜傍線〕アラウ。
○眞十鏡手取持手《マソカガミテニトリモチテ》――序詞。朝な朝な見むとつづいてゐる。○將見時禁屋《ミムトキサヘヤ》――舊本、人とあるは誤。嘉暦本そ(537)の他の古本に將とあるのがよい。禁をサヘに用ゐたのは、支・障・塞などの意に通ずるからで、副《サヘ》に借りたのである。
〔評〕 毎日逢つても戀しいのはどうしたものであらうと、自らあやしんだのである。古義に「かやうの思ひの切なるからは、毎日毎日相見む時にてさへも、なほ戀情の息ずて、思ひのしげからむと云るにや」とあるのはどうであらう。この歌、前の眞鏡手取以朝朝雖見君飽事無《マソカガミテニトリモチテアサナサナミレドモキミハアクコトモナシ》(二五〇二)と酷似してゐる。寄鏡戀。
2634 里遠み 戀ひわびにけり まそ鏡 面影去らず 夢に見えこそ
里遠《サトトホミ》 戀和備爾家里《コヒワビニケリ》 眞十鏡《マソカガミ》 面影不去《オモカゲサラズ》 夢所見社《イメニミエコソ》
里遠ク相隔テテヰル〔七字傍線〕ノデ、逢フコトモ出來ズ、私ハ〔十字傍線〕戀ヒ惱ンデヰルヨ。アナタノオ姿ガ〔七字傍線〕(眞十鏡)目ノ前ニチラツイテ、夢ニモ見ニテクレヨ。
○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。面影とつづく。
〔評〕前の里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與《サトトホミウラブレニケリマソカガミトコノヘサラズイメニハミコソ》(二五〇一)と同歌の異傳である。寄鏡戀。
右一首(ハ)上(ニ)見(ユ)2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1也。但以(テ)2句句相換(レルヲ)1、故(ニ)載(ス)2於茲(ニ)1
これは右に掲げた二五〇一の歌を指してゐる。この註は當初からのものである。
2635 劔太刀 身に佩きそふる ますらをや 戀とふものを 忍びかねてむ
劔刀《ツルギタチ》 身爾佩副流《ミニハキソフル》 大夫也《マスラヲヤ》 戀云物乎《コヒトフモノヲ》 忍金手武《シノビカネテム》
劔太刀ヲ身ニ佩キ添ヘル勇マシイ〔四字傍線〕男タルモノ〔四字傍線〕ガ、戀ト云フモノヲ耐ヘキレナイト云フコトガアルモノカ。ト思フガドウモ耐ヘキレナイノハドウシタモノダラウ〔ト思〜傍線〕。
〔評〕 劔太刀を身に佩き添ふる釜荒雄といへば、如何にも男らしさうに聞えるが、その益荒男にして、つまらぬ(538)戀に悔むとは何と腑甲斐ないことよと、白からあはれんでゐる。語勢に力があるだけ、この男の歎息も大きく聞える。寄劍戀。
2636 劍太刀 諸刃の上に 行き觸りて しにかもしなむ 戀ひつつあらずは
劔刀《ツルギタチ》 諸刃之於荷《モロハノウヘニ》 去觸而《ユキフリテ》 所殺鴨將死《シニカモシナム》 戀管不有者《コヒツツアラズハ》
カウシテ私ハ空シク〔九字傍線〕戀ニ苦ンデヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕劔ノ太刀ノ兩刃ノ鋭イ上ニブツカツテ死ンデシマハウカ。エイ苦シイ〔五字傍線〕。
○諸刃之於荷《モロハノウヘニ》――劍は多く兩刃になつてゐるので、モロハといつてゐるのである。○去觸而《ユキフリテ》――進んで行つて觸れて。○所殺鴨將死《シニカモシナム》――死にかも死なむ。死なむを強く言つたものである。考にキラレカモシナムとあるのも、略解にシセカモシナムとあるのも穩やかでない。○戀管不有者《コヒツツアラズハ》――集中に多い語法である。戀ひつつあらずして、寧ろの意。
〔評〕 前の人麿集の釼刀諸刃利足蹈死死公依《ツルギタチモロハノトキニアシフミテシニニモシナムキミニヨリテバ》(二四二九)と似た歌で、同歌の異傳といつてもよいほどである。寄劍戀。
2637 うちはなひ 鼻をぞひつる 劍だち 身に副ふ妹が 思ひけらしも
※[口+酉]《ウチハナヒ》 鼻乎曾嚔鶴《ハナヲゾヒツル》 劔刀《ツルギダチ》 身副妹之《ミニソフイモガ》 思來下《オモヒケラシモ》
人ニ思ハレルト嚔ヲスルト云フコトダガ、私ハ今〔人ニ〜傍線〕、嚔ヲシタ。シテ見ルト、私ニ心ヲ許シテ〔シテ〜傍線〕、私カラ(劔刀)離レナイ女ガ、今シバラク別レテヰルガ、私ヲ〔今シ〜傍線〕思ツタラシイヨ。
○※[口+酉]《ウチハナヒ》――舊本※[口+酉]とあり、ウチナゲキとよんでゐるが、古葉略類聚妙に〓とあるのに從ふ。略解に「※[口+酉]、字義補 木由切平聲苦※[口+酉]、漢賊名云々と有のみにて、かく訓べき據なし。※[口+酉]は哂の誤也。哂は字書に、微笑一曰大笑とあればうれしくもと訓べしと翁いはれき。宣長云、※[口+酉]は〓の誤也。〓は咽と同字にて、むせぶと訓り。卷五之可(539)【一本波】夫可比鼻※[田+比]之々々爾とあれば、ここもしかぶかひとよまむといへり。猶考ふべし」とある。その他諸説があるが、訓義辨證に「※[口+酉]は舊刻本には哂と作、今本に※[口+酉]と作るは、覆刻のをりに彫り譌りたるなり。……温故堂本には※[口+酉]と作り是も誤也。古葉略類聚抄【釼部】に〓と作るを正とすべし。……〓は龍龕手鑑に〓、經音義作v〓、丁計反、鼻噴也、在2普曜經第五卷1、又俗音血とあり、普曜經は玄應一切經音義卷十三に收て、其處に〓丁計反、蒼頡篇云、噴鼻也、經文作v〓非也とある即是なり。……かくて眞本新撰字鏡【口部】に〓【丁計第二反鼻噴也鼻打】噴【普寸反〓也、波奈打】又【連字部】に噴〓【丁計反波奈比】などあるによりて、〓をウチハナヒと訓べきなり。……」とあるによつて、ウチハナヒと訓むことにする。次句との連絡にどうかと思はれる點がないではないが、他の訓よりはこれが勝つてゐるやうである。ハナヒはくさめすること。○鼻乎曾嚔鶴《ハナヲゾヒツル》――鼻をぞ放《ヒ》つる。嚔はハナヒルといふ字。○劔刀《ツルギダチ》――枕詞。身に副ふとつづく。
〔評〕 これもくさめするのは、人に思はれてゐる兆とする俗信によつたもの。新考はここに註して、「さて此歌は毛詩終風に痛メテ言《ワレ》寐ラレズ言《ワレ》ヲ願《オモ》ヘバ則嚔ルとあるに據れるなり」とあるによれば、この俗信も漢土渡來のものとなる。しかし終風の原文「終風且〓、不v日有〓、寤言不v寐、願言則嚔」は果して右の如く訓むべきか。又右の如く訓みたりとも、これを以てこの歌の出典とすべきか頗る疑はしい。なほ攻究すべき點である。この歌、袖中抄に載せてある。寄劍戀。
2638 梓弓 末の腹野に 鳥獵する 君が弓弦の 絶えむと念へや
梓弓《アヅサユミ》 末之腹野爾《スヱノハラヌニ》 鷹田爲《トガリスル》 君之弓食之《キミガユヅルノ》 將絶跡念甕屋《タエムトオモヘヤ》
私トアナタトノ間ハ〔九字傍線〕(梓弓末之腹野爾鷹田爲君之弓食之)絶エルコトハアリマセヌゾ。必ズ何時マデモ續キマす〔必ズ〜傍線〕。
○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。卷九に梓弓末乃珠名者《アヅサユミスヱノタマナハ》(一七三八)とあつた。○末之腹野爾《スヱノハラヌニ》――末は地名で其處の原野であらう。末は略解は大和國添上郡|陶《スヱ》であらうとし、古義は崇神天皇紀に「即於2茅渟縣陶邑1得2大田々根子1而貢之」と(540)ある地名ならば和泉國であり、又日本後紀に「延暦十六年冬十月戊寅、遊2獵于陶野1十八年九月巳亥、遊2獵於陶野1」とある地ならば、山城宇治郡山科であると言つてゐる。しかし正倉院文書に寶龜六年三月二日蒲生|周惠《スヱ》庄解あり、近江蒲生郡である。卷一に蒲生野に遊獵(二〇)のことがあるから、末の原野は蒲生野かも知れない。契沖はこれを地名としないで「弓の末を腹と云故に、梓弓腹野とつづくべきを文字の足らねば末の腹野といへる歟、いそのかみ袖振川の類なるべし」といつてゐる。宣長もこれに賛成して、腹野が地名であらうといひ、古義は「もし腹野を地の名とするときは、其の地は何處ならむ詳ならず。和名抄に遠江國佐野郡|幡羅《ハラ》と見えたる、其の地とは定めがたけれど、此の歌なるも腹と云ふが地の名にて、其の野をいへるにもあらむ」と言つてゐる。○鷹田爲《トガリスル》――トガリは鳥狩。鷹田と書いたのは鷹狩の意で、田は狩の總名。説文に狩を犬田と註してある。○君之弓食之《キミガユヅルノ》――食は誤字であらう。考は弦の誤とし、宣長は葛の誤としてゐる。なほ古義に「一説に食は人良の二字を誤れるなるべし。人はツの假字なりといへり。東人をアヅマヅ、藏人をクラウヅなど云しことも物に見え、新撰萬葉に五十人禮《イヅレ》と書れたり。但集中の頃、人をツと云しことありしかおぼつかなし」とあるのは注意すべき説である。舊訓ユヅルとあるが、古義にユヅラと訓んでゐる。集中ツルをツラと言つた例もあるが、古事記中卷に設弦に註して、「一名、云2宇佐由豆留1」とあるから、ツルも亦古言である。この句までは將絶《タエム》と言はむ爲の序詞である。○將絶跡念甕屋《タエムトオモヘヤ》――絶えむと思はむや、絶えはせじと言ふのである。
〔評〕 長い序詞が巧に出來てゐる。梓弓は枕詞として用ゐられながら、下に鷹田《トガリ》・弓弦など、縁のある語をならべてゐる。寄弓戀。
2639 葛城の 襲津彦眞弓 荒木にも たのめや君が 吾が名告りけむ
葛木之《カヅラキノ》 其津彦眞弓《ソツヒコマユミ》 荒木爾毛《アラキニモ》 憑也君之《タノメヤキミガ》 吾之名告兼《ワガナノリケム》
葛城ノ襲津彦ノ弓ノ新弓ハ強クテタノモシイモノダガ、ソ〔ハ強〜傍線〕ノヤウニ、タノモシイモノトシテ私ヲ〔タノ〜傍線〕タヨリニ思ツテヰルノデ、アノ人ハ〔四字傍線〕私ノ名ヲ人に〔二字傍線〕告ゲタノデアラウ。アノ女ハ一生私ノ妻トシテ連添フツモリデアラウ〔アノ〜傍線〕。
(541)○葛木之其津彦眞弓《カヅラキノソツヒコマユミ》――葛木之其津彦は仁徳天皇の皇后、磐之媛の父で、武内宿禰の男である。神功皇后紀に「五年春二月云々、因以副2葛城襲津彦1而遺之、云々、六十二年、新羅不v朝、即年遣2襲津彦1撃2新羅1云々」・應神天皇紀に「十四年云々、是年弓月君自2百濟1來歸、因以奏之曰、臣領2己國之人夫百二十縣1而歸化、然因2新羅人之拒1、皆留2加羅國1、爰遣2葛城襲津彦1、而召2弓月之人夫於加羅1、然經2三年1、而襲津彦不v來焉、十六年八月、遣2平群木菟《ヅク》宿禰・的戸田《イクハノトダ》宿禰於加羅1、仍授2精兵1詔之曰、襲津彦久之不v還、必由2新羅人拒1而滯之、汝等急往而、撃2新羅1披2其道路1、於v是木菟宿禰等進2精兵1莅2于新羅之境1、新羅王愕之服2其罪1、乃〓2弓月之人夫1、與2襲津彦1共來焉、」とある。古代の武將としてその名の轟いた人であるから弓勢も強く、從つて、強弓を襲津彦眞弓と言ひならはしたのであらう。新考に「襲津彦の執りし弓とて當時に傳はりて人の普く知れるものありしならむ」とあるが、それでは次の荒木爾毛につづかない。○荒木爾毛《アラキニモ》――荒木は即ち新木で、今も新弓をアラキノユミといふのである。○憑也君之《タノメヤキミガ》――略解はヨルトヤキミガとよんでゐる。舊訓が勝つてゐる。強弓の襲津彦眞弓の新弓は格別強く、たのもしいものであるから、かく用ゐたのである。
〔評〕 弓勢を誇つた歌は一六七八にも見えたが、葛城襲津彦といふ歴史上の人物が詠まれてゐるのは珍らしい。ここにも武勇を尊んだ上代國民性があらはれてゐる。三句と四句との連絡に少し穩やかでない點が見える。或は誤字あるか。この歌、袖中抄にも見えてゐる。寄弓戀。
2640 梓弓 引きみゆるべみ 來ずば來ず 來ばこそをなぞ 來ずば來ばそを
梓弓《アヅサユミ》 引見弛見《ヒキミユルベミ》 不來者不來《コズバコズ》 來者其其乎奈何《コバコソヲナゾ》 不來者來者其乎《コズバコバソヲ》
アナタハ〔四字傍線〕來ナイナラバ來ナイ。來ルナラバ來ルベキデス。ソレヲドウデスカ。來ナイナラ來ナイ〔三字傍線〕、來ルナラ來ル〔二字傍線〕。ソレヲドウデスカ〔五字傍線〕、梓弓ヲ引イテ見タリ、弛ベテ見タリスルヤウナ態度ヲナサルノハイケマセヌ〔スル〜傍線〕。
○梓弓《アヅサユミ》――枕詞と見ない方がよからう。○引見弛見《ヒキミユルベミ》――私の氣を引いて見たり、弛べて見たりして、じらしなさるよの意。この句で意は切れてゐる。下を言はむ爲の譬喩である。謂はゆる序詞とは異つてゐる。弛は舊本絶とあるは誤。代匠記の説によつて改む。○不來者不來《コズバコズ》――來ないなら來ないでよい。○來者其其乎奈何《コバコソヲナゾ》――(542)舊訓もかうなつてゐるが、其をコと訓むべきいはれがない。代匠記精撰本ソに改め、略解もこれに從つてゐる。古葉略類聚鈔に來に作るに、從ふべきであらう。來るなら來よ、それを何ぞの意。○不來者來者其乎《コズバコバソヲ》――前の二句を短くつづめて、一句として繰返したのである。
〔評〕 同音を繰返した遊戯的の歌。コといふ堅い音が反覆されてゐる爲に、全體が堅苦しい感じになり、且發音が困難である。そこにこの作の興味もあるのである。卷四の將來云毛不來時有乎不來云乎將來常者不待不來云物乎《コムトイフモコヌトキアルヲコジトイフヲコムトハマタジコジトイフモノヲ》(五二七)の前驅をなした作であらう。寄弓戀。
2641 時守の 打なす皷 よみ見れば 時にはなりぬ 逢はなくもあやし
時守之《トキモリノ》 打鳴皷《ウチナスツヅミ》 數見者《ヨミミレバ》 辰爾波成《トキニハナリヌ》 不相毛恠《アハナクモアヤシ》
時守ガ打チ鳴ラス皷ノ音ヲ數ヘテ見ルト、丁度約束シテ置イタ〔九字傍線〕時刻ニナツタ。サウダノニ、アノ人ニ〔九字傍線〕逢ハナイノハ不思議ナコトダ。ドウシタノデアラウ〔九字傍線〕。
○時守之《トキモリノ》――時守は時を報ずるもの。守辰丁。守辰丁は職員令に「漏剋博士二人掌d率2守辰丁1伺c漏剋之節u、守辰丁廿人掌d伺2漏剋之節1以v時撃c鐘鼓u、」とある。齊明天皇紀に「又皇太子初造2漏刻1使2民知1v時、」・天智天皇紀に「十年夏四月丁卯朔辛卯、置2漏剋於新臺1始打2候時1動2鐘鼓1始用2漏剋1、此漏剋者、天皇爲2皇太子1時、始親所2製造1也」と見えてゐる。○打鳴皷《ウチナスツヅミ》――鳴をナスとよむのは、卷二の吹響流小角乃音毛《フキナセルクダノオトモ》(一九九)・卷五の遠等※[口+羊]良何佐那周伊多斗乎《ヲトメラガサナスイタトヲ》(八〇四)の例に同じ。鼓は時を報ずる太鼓である。卷二の皷之音者《ツヅミノオトハ》(一九九)參照。○數見者《ヨミミレバ》――舊訓カゾフレバ、代匠記カゾヘミレバ、カズミレバ、考カガミレバなど皆よくない。略解に從ふ。○辰爾波成《トキニハナリヌ》――辰は時に同じ。六帖にタツニハナリヌとあるのは滑稽である。約束の時刻になつたといふのである。○不相毛恠《アハナクモアヤシ》――モは詠歎の助詞で、逢はなく恠しもと同じである。
〔評〕 これは當時の漏刻のことが詠まれてゐて、文化史上の參考となる作である。民謠風のものであるが、歌品も優雅に出來てぬる。寄鼓戀。
2642 ともしびの かげにかがよふ うつせみの 妹がゑまひし おもかげに見ゆ
(543)燈之《トモシビノ》 陰爾蚊峨欲布《カゲニカガヨフ》 虚蝉之《ウツセミノ》 妹峨咲状思《イモガヱマヒシ》 面影爾所見《オモカゲニミユ》
今カウシテ妻ト別レテヰルト、妻ト逢ツタ時〔今カ〜傍線〕、燈火ノ影ニ照ラサレテ輝イテ見エ〔三字傍線〕タ、美シイ實在ノ妻ノニコニコシタ〔六字傍線〕笑ツタ姿ガ、目ノ前ニチラツイテ見エル。
○陰爾蚊蛾欲布《カゲニカガヨフ》――カガヨフは耀くに同じ。○虚蝉之《ウツセミノ》――現身の。本物の。枕詞ではない。○面影爾所見《オモカゲニミユ》――面影として見える。目の前にちらついて見える。
〔評〕 先頃の夜の逢瀬に、かがやかしい燈火に照らされてゐた、女の美しい姿を思ひ起して、なつかしがつてゐる。幻として目に見える面影に對して、現身《ウツセミ》のと對照させてゐるのは、作者の工夫であらう。珍らしい歌といつてよい。寄燈戀。
2643 玉桙の 道行き疲れ 稻むしろ しきても君を 見むよしもがも
玉戈之《タマボコノ》 通行疲《ミチユキツカレ》 伊奈武思侶《イナムシロ》 敷而毛君乎《シキテモキミヲ》 將見因母鴨《ミムヨシモガモ》
(玉戈之道行疲伊奈武思侶)頻繁ニアナタニ、逢フ方法ガアレバヨイガナア。
○玉戈之《タマボコノ》――枕詞。道とつづく。七九參照。○伊奈武思侶《イナムシロ》――枕詞。敷《シ》きにつづく。イナムシロは寐蓆《イナムシロ》とも、稻蓆とも言はれてゐる。敷いて寐るものだからである。卷八に伊奈宇之呂《イナウシロ》(一五二〇)とあつた。上の三句はシキと言はむ爲の序詞で、旅に疲れた旅人が、稻蓆を敷いて寢るといふ意である。○敷而毛君乎《シキテモキミヲ》――シキテは重《シ》きて。頻りに。幾度も繰返しなどの意。
〔評〕 伊奈武思侶《イナムシロ》といふ枕詞を用ゐむが爲に、旅人の疲れを思はしめるやうな語を上に冠して、序詞としたのは巧なものである。當時、清新な氣分の作として、讃められたものであらう。和歌色葉集・袖中抄などに載せてある。寄蓆戀。
2644 小墾田の 板田の橋の こぼれなば 桁より行かむ な戀ひそ吾妹
(544)小墾田之《ヲハリダノ》 板田乃橋之《イタダノハシノ》 壞者《コボレナバ》 從桁將去《ケタヨリユカム》 莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》
私ガ常ニ渡ツテアナタノ所ヘ通ツテヰル〔私ガ〜傍線〕、小墾田ニアル板田ノ橋ノ板ガ朽ツテ〔五字傍線〕壞レタナラバ、ソノ橋ノ〔四字傍線〕桁ヲツタツテ行キマセウ。吾ガ妻ヨ、私ヲ〔二字傍線〕戀シク思ヒナサルナ。必ズ逢ヒニ行クカラ〔九字傍線〕。
○小墾田之《ヲハリダノ》――大和高市郡飛鳥地方の地名。推古天皇十一年十月、豐浦宮から、小墾田宮へ遷都せられた。○板田乃橋之《イタダノハシノ》――板は坂の誤で、サカタであらうと考に見える。推古天皇紀に「十四年五月、勅2鞍作鳥1曰、云々、又造2佛像1既訖不v得v入v堂、諸工人以將v破2堂戸1然汝不v破v戸而得v入、此皆汝之功也、即賜2大仁位1因以賜2近江坂田郡水田二十町1焉、鳥以2此田1爲2天皇1作2金剛寺1、是今謂2南淵坂田尼寺1、」とあるによれば、この橋は坂田尼寺附近の川に架したもので、考の説がよいやうであるが、古寫本皆板に作り、旦、狹衣物語に「たかきもいやしきもたづねよりつつ、いただの橋はくつれどいとはかなきほどにこそあらね」と書いてあり、又この歌を和歌童蒙抄に「小はたたのいたたの橋のこぼれなば」として出してゐるから、イタダの訓も古いので、誤とも斷じ難い。○壞者《コボレナバ》――略解にはクヅレナバと改めてゐるが、舊訓のままでよい。
〔評〕 これも珍らしい歌である。橋の板が朽つたら、橋桁傳ひにでも行かうといふので、小墾田地方にかなりな橋が架けてあつたことがわかる。考には「舒明天皇二年十月に飛鳥岡本宮へ遷ませしより、小墾田は故郷と成て、そこの橋の板の朽たるほどなれば、孝徳天皇の御代の頃の歌ならん」とあるが、已に橋板が朽ちてゐるものとは定め難いから、時代は不明である。しかし比較的古い歌であらう。寄橋戀。
2645 宮材引く 泉の杣に 立つ民の やむ時もなく 戀ひわたるかも
宮材引《ミヤギヒク》 泉之追爲喚犬二《イヅミノソマニ》 立民乃《タツタミノ》 息時無《ヤムトキモナク》 戀渡可聞《コヒワタルカモ》
御殿ヲ立テル爲ノ材木ヲ曳キ出ス爲〔四字傍線〕ニ、泉ノ杣山〔傍線〕ニ人夫トシテ〔五字傍線〕出テヰル民ガ、休ム間ガナイ〔六字傍線〕ヤウニ、私ハアノ人ニ少シノ〔九字傍線〕体ム間モナク戀シツヅケテヰルヨ。
(545)○宮材引《ミヤギヒク》――宮材は宮殿を建てる爲の用材。ヒクは山より切り出すこと。○泉之追馬喚犬二《イヅミノソマニ》――泉の杣に。泉は山背相絡郡の地名。ソマは杣山。材木を伐り出す山。卷三に和豆香蘇麻山《ワヅカツヤヤマ》(四七六)とある。追馬喚犬をソマと訓ましめたのは馬を追ふ聲がソで、犬を喚ぶ聲がマであつたからである。集中の有名な戯書である。○立民乃《タツタミノ》――タツは人夫として役に服すること。○息時無《ヤムトキモナク》――新訓はイコフトキナクとあるが、息は集中ヤムの用例が多いから、息時毛無《ヤムトキモナシ》(一七七)に傚つて訓むことにしよう。
〔評〕 これも珍らしい材料を用ゐてある。人夫を役して宮殿の建築事業に從はしめたことは、かの藤原宮之役民作歌(五〇)にも明らかであつて、當時の文化史研究に一資料を提供するものである。上句は序詞と見るよりは、譬喩とすべきものであらう。寄杣戀。
2646 住吉の 津守網引の うけの緒の 浮かれか行かむ 戀ひつつあらずは
住吉乃《スミノエノ》 津守網引之《ツモリアビキノ》 浮笶緒乃《ウケノヲノ》 得干蚊將去《ウカレカユカム》 戀管不有者《コヒツツアラズハ》
只カウシテ〔五字傍線〕戀シク思ツテ居ルヨリハ、何所ヘカ〔四字傍線〕(住吉乃津守網引之浮笶緒乃)浮力レテ行カウカ。
○津守網引之《ツモリアビキノ》――津守は住吉の津を守るもの。津の番人。和名抄に西成郡に津守郷があり、姓氏録に津守氏が見える。アビキは網を引いて魚を獲ること。○浮笶緒乃《ウケノヲノ》――浮《ウケ》は網につけたウキである。ウケのみでよいのであるが、語調の上から浮の緒とつづけたのである。ここまではウカレと言はむ爲の序詞。○得干蚊將去《ウカレカユカム》――浮かれ行かむか。浮かれは家にゐないで、ふらふらと心定まらず出かけること。
〔評〕 これも亦序詞が珍らしい材料である。浮の緒の譬喩はまことに巧に出來てゐる上に、同音が繰返されてゐるので、快い調子をなしてゐる。これも文化史の好參考であらう。寄網戀。
2647 横雲の 空ゆ延き越し 遠みこそ 目ごとかるらめ 絶ゆと隔つや
東細布《ヨコグモノ》 從空延越《ソラユヒキコシ》 遠見社《トホミコソ》 目言踈良米《メゴトカルラメ》 絶跡間也《タユトヘダツヤ》
私ト彼ノ人ノ居ル所トノ間ガ〔私ト〜傍線〕(東細布從空述越)遠イカラコソ會フコトモ出來ズ、話ヲスルコトモ出來ナイノ(546)デアラウ。ソレトモ〔四字傍線〕切レヤウト思ツテ、アノ人ガ私ヲ〔九字傍線〕疎遠ニスルノデセウカ。
○東細布《ヨコグモノ》――曉の横雲は東の空に細い布のやうに棚引くので、東細布と書いてヨコグモと訓ましめるのであらう。○從空延越《ソラユヒキコシ》――山を越えて空に棚引く意か。ヒキコシが少し穩やかでない。ここまでは遠と言はむ爲の序詞。○目言疎良米《メゴトカルラメ》――目にも言葉にも疎くなるであらう。相見ることも、語ることも遠ざかるのであらうの意。○絶跡間也《タユトヘダツヤ》――絶えようとて隔てるのではないかと、疑ふのであらう。この句少し曖昧である。新考はタユトヘダテヤと訓み、絶エムトテ隔タルナラムヤハの意とすべきか」と言つてゐる。新訓は類聚古集によつて、間を問に改め、タユトトハスヤと訓んでゐる。なほ考ふべきであらう。
〔評〕 少し難解の歌である。遠ざかる戀人を疑つた歌らしい。寄雲戀。
2648 かにかくに 物は念はず 飛騨人の 打つ墨繩の ただ一道に
云云《カニカクニ》 物者不念《モノハオモハズ》 斐太人乃《ヒダビトノ》 打墨繩之《ウツスミナハノ》 直一道二《タダヒトミチニ》
私ハ兎ヤ角ト物ヲ思ヒマセヌ。只〔傍線〕飛騨ノ匠ガ打ツ墨繩ノヤウニ、一スヂニアナタバカリヲ思ツテ居リマス〔アナ〜傍線〕。
○云云《カニカクニ》――兎や角と。あれこれと種々に。○斐太人乃《ヒダビトノ》――飛驛國から出た工匠。卷七の斐太人之《ヒダビトノ》(一一七三)參照。○打墨繩之《ウツスミナハノ》――墨繩は今も大工が用ゐる道具である。卷五に、墨繩袁播倍多留期等久《スミナハヲハヘタルゴトク》(八九四)とあり、雄略天皇紀には、婀?羅斯枳偉儺謎能陀倶彌柯該志須彌儺※[白+番]《アタラシキイナメノタクミカケシスミナハ》とあり、ハヘともカケとも言つてあるが、ここはウツとある。いづれも意は同じである。○直一道二《タダヒトミチニ》――舊訓タダヒトスヂニとあるが、文字通り、ヒトミチでよいであらう。
〔評〕 斐太人の墨繩を譬喩として用ゐるのは、靈異記にも「路廣平直如2墨繩1」とあつて、古くから使ひならはしたものであらうが、適切な喩である。この歌も亦墨繩のやうな、直線的叙法になつてゐる。寄匠戀。
2649 あしびきの 山田守るをぢが 置く蚊火の 下焦れのみ 吾が戀ひ居らく
足日木之《アシヒキノ》 山田守翁《ヤマダモルヲヂガ》 置蚊火之《オクカビノ》 下粉枯耳《シタコガレノミ》 余戀居久《ワガコヒヲラク》
(547)(足日木之山田守翁置蚊火之)人ニ知レナイヤウニ〔九字傍線〕胸ノ内デ戀シク思ツテ〔六字傍線〕、焦レテバカリ居テ、私ハアノ人ヲ〔四字傍線〕戀シテ居ルヨ。誠ニ苦シイコトダ〔八字傍線〕。
○山田守翁《ヤマダモルヲヂガ》――翁をヲヂとよむのは、神代紀に「老翁此云2烏膩1」とあり、皇極天皇紀に「歌麻之之能野烏膩《カマシシノヲヂ》」とある。卷十七に佐夜麻太乃乎治我其日爾母等米安波受家牟《サヤマダノヲヂガソノヒニモトメアハズケム》(四〇一四)ともある。○置蚊火之《オクカビノ》――蚊火は蚊遣火であらう。鹿を追ふ火、鹿火とする説もある。ここまでの三句は下焦れの序詞である。○下粉枯耳《シタコガレノミ》――下に焦れてばかり、人に知られぬやうに、胸の内ばかりで思ふこと。○余戀居久《ワガコヒヲラク》――居久《ヲラク》は居るの延言。
〔評〕 農民の生活を素材とした一寸風變りの作で、忍戀の歌である。薪古今集に「足引の山田もる庵におくかびの下焦れつつ吾が戀ふらくは」人麿として出てゐる。寄火戀。
2650 そき板もち 葺ける板目の あはせずは 如何にせむとか 吾が寢そめけむ
十寸板持《ソキイタモチ》 蓋流板目乃《フケルイタメノ》 不令相者《アハセズハ》 如何爲跡可《イカニセムトカ》 吾宿始兼《ワガネソメケム》
私ハアノ人ト竪イ約束ヲシタガ、若シ今後、親ナドガアノ人ニ〔私ハ〜傍線〕、(十寸板持盖流板目乃)會ハセナイナラバ、ドウネルツモリデ私ハ、アノ人ト〔四字傍線〕共寢ヲシ初メタノデアラウカ。心ハ許シタモノノ心配ナコトダ〔心ハ〜傍線〕。
○十寸板持《ソキイタモチ》――十寸板《ソキイタ》は薄くそいで作つた板。屋根を葺くコケラの板である。古義はソギタと訓んでゐる。○盖流板目乃《フケルイタメノ》――板目は板の葺合せ目。初二句は序詞。合ふとつづく。そぎ板の葺き合せ目を、重なり合せるからである。○不令相者《アハセズハ》――舊訓アハザラバとあるが、令の字があるから、アハセといふべきである上に、上からのつづきも合はせといふ方がよい。親などが合はせないならばの意。
〔評〕 逢うて後、親などの監守をおそれる歌である。板屋根の民衆家屋がここに詠まれてゐる。これも文化史上の好資料だ。古今集に「名取川せぜのうもれ木あらはればいかにせむとかあひ見そめけむ」と少し似てゐる。寄板戀。
2651 難波人 葦火焚く屋の すしてあれど 己が妻こそ 常めづらしき
(548)難波人《ナニハビト》 葦火燎屋之《アシビタクヤノ》 酢四手雖有《スシテアレド》 己妻許増《オノガツマコソ》 常目頬次吉《トコメヅラシキ》
私ノ妻ハ〔四字傍線〕難波ノ人ガ、葦火ヲ燎ク家ガ煤ケテ居ルヤウニ、古々シクナツテシマツタガ、私ノ妻ハ何時デモ見アキナイデ〔六字傍線〕珍ラシイヨ。
○葦火燎屋之《アシビタクヤノ》――葦火は葦を燃料として焚く火。難波附近は葦が繁茂してゐたので、あの地方の人は葦を燃料として用ゐたのである。○酢四手雖有《スシテアレド》――舊訓ススタレドは文字に當らぬやうであるから、代匠記精撰本に從つた。煤けることを、煤《ス》すといふ動詞があつたのであらう。○常目頬次吉《トコメヅラシキ》――上にコソとあつて下にメヅラシキと結んだのは古格である。
〔評〕 葦火を焚くので名高い難波人の家が、煤けてゐるのを譬喩として、自分の妻の古々しくなつたことを述べたのは、奇想天外より落つる底のもので、當時の人をあつと言はせたものであらう。下句はまことに家庭和樂天下泰平のおめでたさである。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。寄火戀。
2652 妹が髪 あげ竹葉野の 放ち駒 荒れ去きけらし 逢はなく思へば
妹之髪《イモガカミ》 上小竹葉野之《アゲタカハヌノ》 放駒《ハナチゴマ》 蕩去家良思《アレユキケラシ》 不合思者《アハナクオモヘバ》
アノ人ガコノ頃マルデ疎クナツテ〔アノ〜傍線〕、逢ハナイコトヲ考ヘテ見ルト、アノ人ノ心ハ〔六字傍線〕(妹之髪上小竹葉野之放駒)荒クナリ變ツテシマ〔六字傍線〕ツタノデアラウ。
○妹之髪《イモガカミ》――下の上《アゲ》までは竹葉野《タカハヌ》に冠した序詞。妹の髪を上げてたかぬ〔三字傍点〕とつづくのである。○上小竹葉野之《アゲタカハヌノ》――小を衍として竹葉野《タカハヌ》と訓む古義説に從ふ。タカハ又はタカバと稱する地名は諸所にあるから、いづことも定め難い。或は卷五、筑前國司守山上憶良敬和爲熊凝述其志歌(八八六)の序に、安藝國佐伯郡|高庭《タカバ》驛家とあるところか。○放駒《ハナチゴマ》――舊訓ハナレコマとある。放鳥《ハナチドリ》(一七〇)の例にならつて、ハナチゴマがよい。ここまでの三句は序詞でアレユキにつづいてゐる。○蕩去家良之《アレユキケラシ》――舊訓による。略解はアラビニケラシとある。アレユキは放(549)駒の荒れ廻るのに、戀人の心の荒れて、自分に疎くなつたことをかけてゐる。○不合思者《アハナクオモヘバ》――これは舊訓アハヌオモヘバとあるのでも惡くはないが、古義に從つた。
〔評〕 上句の序詞が巧である。序詞中に更に妹之髪上といふ序詞を設けてゐる。妹之髪とあるから、男子の歌であらう。寄馬戀。
2653 馬の音の とどともすれば 松蔭に 出でてぞ見つる 蓋し君かと
馬音之《ウマノトノ》 跡杼登毛爲者《トドトモスレバ》 松陰爾《マツカゲニ》 出曾見鶴《イデテゾミツル》 若君香跡《ケダシキミカト》
馬ノ足音ガドドドドトスルト、私ハ〔二字傍線〕ヒヨツトシタラ貴方ガ馬ニ乘ツテオ出ニナツタノ〔ガ馬〜傍線〕カト思ツテ、家ノ前ノ〔七字傍線〕、松ノ樹ノ〔三字傍線〕蔭ニ出テ見マシタ。サウシタラ貴方デハナカツタノデ、落膽シマシタ〔サウ〜傍線〕。
○跡杼登毛爲者《トドトモスレバ》》――トドは轟く音の形容。○若君香跡《ケダシキミカト》――舊訓モシハキミカトとあり、考はモシモと改めてゐる。若雲《ケダシクモ》(二九二九)の例によるとケダシとよむがよい。
〔評〕 男を待つ女の歌。しんみりした、物あはれな情緒。敦厚純眞。さわやかな歌調である。略解に「松に待を兼たるにも有べし」とあるのは考へ過ぎてゐる。寄馬戀。
2654 君に戀ひ いねぬ朝明に 誰が乘れる 馬の足音《あのと》ぞ 我に聞かする
君戀《キミニコヒ》 寢不宿朝明《イネヌアサケニ》 誰乘流《タガノレル》 馬足音《ウマノアノトゾ》 吾聞爲《ワレニキカスル》
貴方ヲ戀シク思ツテ寢ラレナイデ、夜ヲ明カシタ〔七字傍線〕朝ノ明ケ方ニ、誰ガ乘ツテ居ル馬ノ足音ダラウカ、私ニ聞カセルノハ。アノ人ハ多分女ノ處カラノ歸リ途デアラウ。腹タダシイ〔アノ〜傍線〕。
〔評〕 これも男を待つ女の歌である。前の歌が素直な處女心をあらはしてゐるに對し、これは淡い怨恨と他人への羨望とが見える。寄馬戀。
2655 紅の 裾引く道を 中に置きて われや通はむ 君や來まきむ 一云、裾漬く河を 又曰、待ちにか待たむ
(550)紅之《クレナヰノ》 襴引道乎《スソヒクミチヲ》 中置而《ナカニオキテ》 妾哉將通《ワレヤカヨハム》 公哉將來座《キミヤキマサム》
私ト貴方トノ家ハ、女ガ着物ノ〔私ト〜傍線〕紅イ裾ヲ引イテ歩〔三字傍線〕ク道ヲ間ニシテ隔ツテ居ルガ〔六字傍線〕、私ガ通ツテ行ツテ會〔六字傍線〕ヒマセウカ。ソレトモ〔四字傍線〕貴方ガ來テ下サルデセウカ。
○紅之襴引道乎《クレナヰノスソヒクミチヲ》――紅の襴を曳いて行き通ひする道をの意。自分が女であるからかう言つたので、ただ二人の住居が隔つてゐることをあらはしたのである。
〔評〕 初二句は女性の歌らしくよまれてゐる。下句は古今集の「君や來む我や行かむのいさよひに槙の板戸もささず寢にけり」、の上句に似てゐる。寄道戀。
一云 須蘇衝河乎《スソツクカハヲ》。又曰、待香將待《マチニカマタム》
一云は第二句の異傳で、又曰は結句の異傳である。須蘇衝河《スソツクカハ》とは着物の襴をぬらす河の意、ツクは漬《ツ》くである。この方が却つて面白いやうである。
2656 天飛ぶや 輕の社の 齋槻 幾世まであらむ こもりづまぞも
天飛也《アマトブヤ》 輕乃社之《カルノヤシロノ》 齋槻《イハヒツキ》 幾世及將有《イクヨマデアラム》 隱嬬其毛《コモリヅマゾモ》
私ハ人目ヲ忍ンデ妻ヲ待ツテ居ルガ〔私ハ〜傍線〕、(天飛也輕乃社之齋槻)何時マデカウシテ〔四字傍線〕隱シ妻トシテ、人目ヲツツンデ〔七字傍線〕置クコトダラウカ。早ク公ノ妻トシタイモノダ〔早ク〜傍線〕。
○天飛也《アマトブヤ》――枕詞。空を飛ぶ雁《カリ》をカルに轉じてつづけてゐる。ヤは輕く添へた歎辭。○輕乃社之《カルノヤシロノ》――輕は大和高市郡。今、白橿村の大字に大輕の字がある。輕路者《カルノミチハ》(二〇七)參照。輕の社は延喜式に、大和國高市郡輕樹村坐神社二座とあるところか。この社は、白橿村大字池尻に在る。○齋槻《イハヒツキ》――神木として祀つてある槻。ここまでの三句は幾世及將有《イクヨマデアラム》につづく序詞。槻の神木の年久しかるべきにかけたのである。
(551)〔評〕愛する女を何時までも、隱し妻と古して置くに堪へかねる待ち遠さを歌つてぬる。神聖な神木に寄せたのは寄拔な構想である。この歌、和歌童蒙抄にも出てゐる。寄神戀。
2657 神南備に ひもろぎ立てて いはへども 人の心は 守りあへぬもの
神名火爾《カムナビニ》 ?呂寸立而《ヒモロギタテテ》 雖忌《イハヘドモ》 人心者《ヒトノココロハ》 間守不敢物《マモリアヘヌモノ》
神ノ森ニ神籬ヲ立テテ神樣ヲオ祭リシテ、ドウカアノ人ノ心ノ變ラヌ樣ニトオ祈リシテ〔どう〜傍線〕モ、變リ易イアノ〔六字傍線〕人ノ心ハ、神樣でも〔四字傍線〕守リ留メルコトハ出來ナイモノダヨ。到頭アノ人ハ心變リシテシマツタ〔到頭〜傍線〕。
○神名火爾《カムナビニ》――カミナビは神の森。神を齋く森。地名ではない。○?呂寸立而《ヒモロギタテテ》――ヒモロギは神籬。神を祀る爲に常盤木を立てて神座としたもの。和名抄に「日本紀私記云、神籬、俗云比保路岐」とある。○雖忌《イハヘドモ》――神を祀れどもの意。新考に人の心をいはへどもの意としたのは解し難い。○人心者《ヒトノココロハ》――吾が戀する人の心は。○間守不敢物《マモリアヘヌモノ》――舊訓マモリアヘヌカモとある。考はカモと訓む爲に、物は疑の誤としてゐるが、もとのままでモノとよむがよい。
〔評〕 神南備といつても、神社としての建築物がなくて、臨時に神籬を立てて祀る太古の風が、この頃なほ遺つてゐたことを證する作品である。寄神戀。
2658 天雲の 八重雲がくり 鳴る神の 音のみにやも 聞き渡りなむ
天雲之《アマグモノ》 八重雲隱《ヤヘグモガクリ》 鳴神之《ナルカミノ》 音爾耳八方《オトニノミヤモ》 聞度南《キキワタリナム》
私ハ彼ノ人ヲ〔六字傍線〕(天雲之八重雲隱鳴神之)噂ニバカリ聞イテ、逢フコトモ出來ズ、空シク〔逢フ〜傍線〕月日ヲ送ルデアラウカヨ。殘念ナコトダ〔六字傍線〕。
○天雲之八重雲隱鳴神之《アマグモノヤヘグモガクリナルカミノ》――序詞。天の雲の八重に重なる雲の中で、姿は見えず鳴る雷の音とつづく。○音爾耳八方聞度南《オトニノミヤモキキワタリナム》――噂にばかり聞いてゐることかよの意。ヤモは反語ではない。嘉暦本は耳爾《ノミニ》とある。
(552)〔評〕 序詞が奇拔である。古今集の「逢ふことは雲居遙かに鳴神の音に聞きつつ戀ひわたるかな」はこれに傚つたものか。雷は鳴る神であるから、寄神戀の歌としてここに掲げたものである。この歌、和歌童蒙抄にある。
2659 爭へば 神も惡ます よしゑやし よそふる君が にくからなくに
爭者《アラソヘバ》 神毛惡爲《カミモニクマス》 縱咲八師《ヨシヱヤシ》 世副流君之《ヨソフルキミガ》 惡有莫君爾《ニクカラナクニ》
私ト貴方トノ中ヲ、人ガ浮名ヲ立テルガ、ソンナコトハナイト言ヒ爭ヒタイケレドモ〔私ト〜傍線〕、爭フト神樣モオニクミナサル。エエモウカマハヌ。世ノ人ガ私ト〔四字傍線〕關係ノアルヤウニ言フ貴方ガ、私ハ〔二字傍線〕カハユイノダカラ、爭ハズニ置カウ〔七字傍線〕。
○縱咲八師《ヨシヱヤシ》――ヨシヤに同じ。よしやそれでもかまはぬの意。○世副流君之《ヨソフルキミガ》――よそふは寄すの延言で、我と關係があるやうに世の人が言ひ寄せること。○惡有莫國《ニクカラナクニ》――にくからなくは、愛らしいといふに同じである。にくくはないと譯しては當らない。
〔評〕 爭者神毛惡爲《アラソヘバカミモニクマス》といふのは、當時の民間の信念であつた。神ながら言擧げぬ國・浦安國などと言つた、平和と協調とを喜んだ、上代人の思想のあらはれた貴い資料である。歌も亦面白い。この歌、袖中抄に載つてゐる。寄神戀。
2660 夜ならべて 君を來ませと ちはやぶる 神の社を のまぬ日はなし
夜竝而《ヨナラベテ》 君乎來座跡《キミヲキマセト》 千石破《チハヤブル》 神社乎《カミノヤシロヲ》 不祈日者無《ノマヌヒハナシ》
私は〔二字傍線〕毎晩毎晩、貴方ガイラツシヤルヤウニト、(千石破)神ノ社ヲ祈ラナイ日ハアリマセヌ。
○夜並而《ヨナラベテ》――毎夜毎夜。この句は次句の來座《キマセ》につづいてゐる。○君乎來座跡《キミヲキマセト》――ヲは強めていふのみ。
〔評〕 女の歌であらう。次の吾妹兒《ワギモコニ》(二六六二)の歌に酷似してゐる。寄神戀。
2661 靈ちはふ 神も我をば うつてこそ しゑや命の 惜しけくもなし
(553)靈治波布《タマチハフ》 神毛吾者《カミモワレヲバ》 打棄乞《ウツテコソ》 四惠也壽之《シヱヤイノチノ》 〓無《ヲシケクモナシ》
私ハ戀ニ破レテシマツタ〔私ハ〜傍線〕。(靈治波布)神樣モ私ヲオ棄テニナツテ下サイ。エエモウ私ハ〔二字傍線〕命ガ惜シクモアリマセヌ。
○靈治波布《タマチハフ》――枕詞。神とつづく。靈幸ふ。人の靈を幸ならしめ助ける意。○打棄乞《ウツテコソ》――打ち棄てて下さいの意。卷五に佐和久兒等遠宇都弖弖波死波不知《サワグコドモヲウツテテハシニハシラズ》(八九七)とあり、打ち棄てをつづめて、ウツテといふのである。コソは希望をあらはす。○四惠也壽之《シヱヤイノチノ》――シヱヤは歎息の辭。
〔評〕 戀に破れて、命もいらぬといふ捨鉢の叫びである。物狂はしい感情が、鋭い呪ひの聲となつてゐる。三句切の歌。袖中抄・和歌童蒙抄などに出てゐる。寄神戀。
2662 吾妹子に またも逢はむと ちはやぶる 神の社を のまぬ日はなし
吾妹兒《ワギモコニ》 又毛相等《マタモアハムト》 千羽八振《チハヤブル》 神社乎《カミノヤシロヲ》 不祷日者無《ノマヌヒハナシ》
私ハ〔二字傍線〕私ノ愛スル〔三字傍線〕女ニマタ會ハウト思ツテ〔三字傍線〕、(千羽八振)神ノ社ニオ祈リヲシナイ日ハアリマセヌ。
〔評〕 前の夜並而《ヨナラベテ》(二六六〇)の歌と殆ど同じであるが、これは男の歌になつてゐる。寄神戀。
2663 ちはやぶる 神の齋垣も 越えぬべし 今はわが名の 惜しけくもなし
千葉破《チハヤブル》 神之伊垣毛《カミノイガキモ》 可越《コエヌベシ》 今者吾名之《イマハワガナノ》 惜無《ヲシケクモナシ》
私ハ戀シサガ最早押ヘキレナイ。モウカウナツテハ、場合ニ依ツテハ〔私ハ〜傍線〕(千葉破)神樣ノ齋垣デモ越エヨウト思フ。ソノ崇リナドハ恐ロシクハナイ〔ソノ〜傍線〕。モウ今トナツテハ私ノ名ヲケガスコトナド〔八字傍線〕ハ、惜シイトモ思ハナイ。
○神之伊垣毛《カミノイガキモ》――伊垣は齋垣《イムカキ》、神聖な垣。
(554)〔評〕 神の齋垣をも越えようといふのは、如何なる禁制をも犯して、その報を恐れぬといふ例として擧げたので、神社の中で戀人に會はうといふのではない。かやうに何物をも恐れないから、今はわが名の立つなどは何とも思はないといふのである。何事にも神意を仰ぎ恐れてゐた當時の歌としては、實に思ひ切つたものであらう。三句切になつてゐる。卷七の木綿懸而齋此神社可超所念可毛戀之繁爾《ユフカケテイハフコノモリモコエヌベクオモホユルカモコヒノシゲキニ》(一三七八)に似てゐる。寄神戀。
2664 夕月夜 あかとき闇の 朝影に 吾が身はなりぬ 汝を念ひかねに
暮月夜《ユフヅクヨ》 曉闇夜乃《アカトキヤミノ》 朝影爾《アサカゲニ》 吾身者成奴《ワガミハナリヌ》 汝乎念金丹《ナヲオモヒカネニ》
私ハ〔三字傍線〕貴方ヲ戀シク〔三字傍線〕思フ心ニ〔二字傍線〕堪ヘカネテ、私ノ躰ハ(暮月夜曉闇夜乃)朝日ニウツル〔五字傍線〕カゲノヤウ〔三字傍線〕ニ、力ナイ瘠セタ姿ニ〔八字傍線〕ナリマシタ。
○暮月夜曉闇夜乃《ユフヅクヨアカトキヤミノ》――夕月夜の頃は曉には闇となつてゐるから、かういつたので、曉から朝とつづけたのである。即ちこの二句は朝と言はむ序詞に過ぎない。○朝影爾《アサカゲニ》――朝日にうつし出された人影の如く瘠せ細つたこと、前に朝影爾吾身者成《アサカゲニワガミハナリヌ》(二六一九)とあつた。○汝乎念金丹《ナヲオモヒカネニ》――汝ヲ思ヒカネに、ニシテの意のニを添へたものであらう。汝を思ふに堪へかねての意。舊訓ナレヲオモフカニは無理であらう。宣長は丹を衍文として、ナヲオモヒカネであらうと言つてゐる。古義は丹を手の誤としてナヲオモヒカネテと訓んでゐる。
〔評〕 初二句の序詞は天然現象の細かいところに目を注けたもので、珍らしい例であらう。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。寄月戀。
2665 月しあれば 明くらむ別も 知らずして 寢て吾が來しを 人見けむかも
月之有者《ツキシアレバ》 明覽別裳《アクラムワキモ》 不知而《シラズシテ》 寐吾來乎《ネテワガコシヲ》 人見兼鴨《ヒトミケムカモ》
月ガ出テ居ルノデ、夜ガ明ケタカ明ケナイカノ〔七字傍線〕區別モ知ラナイデ、何時マデモ貴方ト〔八字傍線〕、寢テ居ツテ、明ルクナツテカラ〔八字傍線〕私ガ歸ツテ來タノヲ、人ガ見トガメハシナカツタラウカ。ウツカリシテ飛ンダコトヲシタ〔ウツ〜傍線〕。
(556)○明覽別裳《アクラムワキモ》――明くらむ別とは、明けたか明けないかの區別といふやうな意で、卷十に春雨之零別不知《ハルサメノフルワキシラニ》(一九一五)・この卷の年月之往覽別毛《トシツキノユクラムワキモ》(二五三六)・卷十二の出日之入別不知《イヅルヒノイルワキシラニ》(二九四〇)などのワキは皆同樣である。卷一に晩家流和豆肝之良受《クレニケルワヅキモシラズ》(五)のワヅキも亦同じであらう。
〔評〕 月の明るい夜に逢つて、夜が明けたのも知らずに寢てゐたといふので、代匠記は詩の齊風の、「東方明矣、朝既昌矣、匪2東方則明1、月出之光」を引いてゐるが、意は少し異なつてゐる。寄月戀。
2666 妹が目の 見まくほしけく 夕闇の 木の葉隱れる 月待つがごと
妹目之《イモガメノ》 見卷欲家口《ミマクホシケク》 夕闇之《ユフヤミノ》 木葉隱有《コノハゴモレル》 月待如《ツキマツガゴト》
女ニ逢ヒタイコトハ、丁度夕方ノ闇ノ頃ニ〔二字傍線〕、木ノ葉ニ隱レタ月ガ出テ來ルノ〔六字傍線〕ヲ待ツテ居ルヤウナモノダ。待遠シクテクマラナイ〔十字傍線〕。
○木葉隱有《コノハゴモレル》――古義はコノハガクレルと訓んでゐる。四段活の動詞カクルに助動詞リを添へたものと見れば、古義の訓も惡くはない。ここは舊訓による。木の葉に隱れて見えないの意。○月待如《ツキマツガゴト》――古義はツキマツゴトシと訓んでゐるが、舊訓による。跡無如《アトナキガゴト》(三五一)參照。
〔評〕 女に逢ひたさを、夕闇に木蔭にかくれた月の出るのを待つのに譬へたのは、優雅に過ぎるやうにも思はれるが、これは旅などに、夕ぐれの道を辿りつつある際の、感じに譬へたものであらう。さう見ればこの譬喩も切實になつて來る。寄月戀。
2667 眞袖もち 床うちはらひ 君待つと をりし間に 月かたぶきぬ
眞袖持《マソデモチ》 打拂《トコウチハラヒ》 君待跡《キミマツト》 居之間爾《ヲリシアヒダニ》 月傾《ツキカタブキヌ》
私ガ〔二字傍線〕袖ヲ以テ床ヲ打チ拂ツテ、貴方ノオ出デ〔四字傍線〕ヲ待ツテ起キテ〔三字傍線〕居リマシタ間ニ、月ガ西ニ〔二字傍線〕傾イテ夜明ニナリ〔五字傍線〕マシタ。殘念デシタ〔五字傍線〕。
(556)○眞袖持《マソデモチ》――眞袖は兩袖。○居之間爾《ヲリシアヒダニ》――起きてゐた間に。
〔評〕 素絢のやうな至純の風格。人待つ女の有樣が見えるやうに詠まれてゐる。民謠らしい作。寄月戀。
2668 二上に 隱ろふ月の 惜しけども 妹が袂を かるるこの頃
二上爾《フタガミニ》 隱經月之《カクロフツキノ》 雖惜《ヲシケドモ》 妹之田本乎《イモガタモトヲ》 加流類比來《カルルコノゴロ》
(二上爾隱經月之)殘リ惜シイケレドモ、私ハ〔二字傍線〕コノ頃ハ戀シイ〔三字傍線〕妻ノ袂ヲ離レテ、暫ク逢ハナイデ〔七字傍線〕居ルヨ。懷シイコトダ〔六字傍線〕。
○二上爾《フタガミニ》――二上山は大和北葛城郡の西方。一六四・一〇九八參照。この初二句は序詞である。○加流類比來《カルルコノゴロ》――離れてゐるこの頃よの意。袂を離《カ》るるとは逢はないことである。
〔評〕 大和の平原に住んでゐる人の歌。初二句は譬喩とも見られるが、序詞とするのが妥當であらう。これを譬喩としては、感情が弱くなる。これも民謠らしい。寄月戀。
2669 吾背子が ふりさけ見つつ 嘆くらむ 清き月夜に 雲な棚引き
吾背子之《ワガセコガ》 振放見乍《フリサケミツツ》 將嘆《ナゲクラム》 清月夜爾《キヨキツクヨニ》 雲莫田名引《クモナタナビキ》
私ハコノ清イ月ヲ見テ、私ノ夫ヲ思ヒ遣ツテ嘆イテ居ルガ〔私ハ〜傍線〕、私ノ夫モコノ月ヲ〔四字傍線〕遙カニ眺メナガラ、私ヲ戀シク思ツテ〔八字傍線〕嘆イテ居ルデアラウガ、今夜ノ〔四字傍線〕清イ月ニ、雲ガカカラナイデクレヨ。
〔評〕 前の、遠妹振仰見偲是月面雲勿棚引《トホヅマノフリサケミツツシヌブラムコノツキノオモニクモナタナビキ》(二四六〇)と同歌の異傳である。女らしい戀情が溢れてゐる。寄月戀。
2670 まそ鏡 清き月夜の ゆづりなば 念ひは止まず 戀こそ益さめ
眞素鏡《マソカガミ》 清月夜之《キヨキツクヨノ》 湯徙去者《ユヅリナバ》 念者不止《オモヒハヤマズ》 戀社益《コヒコソマサメ》
私ハ戀シイ人ノ來ルノヲ待ツテ居ルガ〔私ハ〜傍線〕、(眞素鏡)清イ今〔傍線〕夜ノ月ガ西ノ山ニ〔四字傍線〕入ツタナラバ、モウ諦メサウニ思フ(557)カモ知レナイガ、サウデハナク〔モウ〜傍線〕、戀シイ思ハ止マナイデ、却ツテ逢ハレナカツタ殘念サニ〔却ツ〜傍線〕戀シサガ増スデアラウ。
○眞素鏡《マソカガミ》――枕詞。清《キヨキ》とつづく。○湯徙去者《ユツリナバ》――湯徙《ユヅリ》は卷四に月者由移去《ツキハユヅリヌ》(六二三)とあり、月の傾くこと。舊訓ユツロヘバ、代匠記精撰本、ユヅリユケバとある。○念者不止《オモヒハヤマジ》――略解・古義ともにオモヒハヤマジとあるが、念ひは止まずしてと下につづいてゐるから、舊訓のままにしてヤマズとあるべきところである。
〔評〕 月に對して戀人を思ふ女の歌であらう。逢はれぬを歎く情が悲しくあはれである。寄月戀。
2671 こよひの 在明月夜 ありつつも 君をおきては 待つ人もなし
今夜之《コヨヒノ》 在開月夜《アリアケヅクヨ》 在乍文《アリツツモ》 公乎置者《キミヲオキテハ》 待人無《マツヒトモナシ》
私ハカウシテ貴方ノオ出ヲ待チワピテ居ルガ〔私ハ〜傍線〕、(今夜之在開月夜)カウシテヰテモ外ニ心ハ移サナイカラ〔外ニ〜傍線〕、貴方以外ニハ待ツ人ハアリマセヌ。
○今夜之《コヨヒノ》――舊訓コノヨラノとあり、考はコノヨヒノとあるが、五四八・一九五二・二二六九にあるによればコヨヒノであらう。○在開月夜《アリアケヅクヨ》――ここまでは序詞で、同音を繰返して、在《アリ》につづいてゐる。○在乍文《アリツツモ》――かうしてゐて。モは詠歎的に添へたもの。新考にこの下に「君ヲバ待タム」が略されてゐるとあるのは、どうであらう。
〔評〕 初二句は序詞であるから、月に寄せる意は薄い。女心の誠實さをあらはした作品である。上品に出來てゐる、寄月戀。
2672 この山の 嶺に近しと 吾が見つる 月の空なる 戀もするかも
此山之《コノヤマノ》 嶺爾近跡《ミネニチカシト》 吾見鶴《ワガミツル》 月之空有《ツキノソラナル》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》
私ハ〔二字傍線〕(此山之嶺爾近跡吾見鶴月之)上《ウハ》ノ空ニナツテ心ガウカサウカトシテ居〔ツテ〜傍線〕ル、戀ヲスルヨ。
(558)○此山之嶺爾近跡吾見鶴《コノヤマノミネニチカシトワガミツル》――この山の嶺の上に近く出てゐると、私が見た月とつづく。山を出たばかりの月である。○月之空有《ツキノソラナル》――空有《ソラナル》と言はむが爲に月之《ツキノ》が冠してあるのだから、初句から月之《ツキノ》までは空有《ソラナル》の序詞である。空有《ソラナル》は上《ウハ》の空なる。うかうかと心も落ち付かないこと。
〔評〕 序詞が巧である。東の山に昇つたばかりと見えた月が、忽ち中空に澄み上るのに譬へてあるが、月は歌意には關係はない。古今集「五月山梢を高みほととぎす鳴く音そらなる戀もするかな」と下句同じである。寄月戀。
2673 ぬば玉の 夜渡る月の ゆつりなば 更にや妹に 吾が戀ひ居らむ
烏玉乃《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》 湯移去者《ユヅリナバ》 更哉妹爾《サラニヤイモニ》 吾戀將居《ワガコヒヲラム》
私ハ戀シイ女ヲ戀ヒ焦レテ考ヘコンデヰルウチニ〔私ハ〜傍線〕、(烏玉乃)今〔傍線〕夜ノ空行ク月ガ西ノ山ニ〔四字傍線〕隱レテシマツタナラバ、愈心淋シクテ〔六字傍線〕一層女ヲ戀シク思フコトデアラウ。
〔評〕 右の眞素鏡《マソカガミ》(二六七〇)の歌と意は同じであるが、これは明らかに男の歌で、月に對して女を思つてゐるのである。新考にはこれを眞素鏡の歌の答であらうといつてゐるが、さうではあるまい。寄月戀。
2674 朽網山 夕ゐる雲の 薄れゆかば 我は戀ひむな 君が目を欲り
朽網山《クタミヤマ》 夕居雲《ユフヰルクモノ》 薄往者《ウスレユカバ》 余者將戀名《ワレハコヒムナ》 公之目乎欲《キミガメヲホリ》
貴方ガ〔三字傍線〕(朽網山夕居雲)薄情ニナツテ、私ヲオ捨テニナツ〔テ私〜傍線〕タナラバ、私ハ貴方ニオ目ニ掛リタクテ、戀シク思フコトデセウ。
○朽網山《クタミヤマ》――豐後直入郡久住山の古名といふ、又九重山に作る。豐後の最高峰で、火山である、豐後風土記に「大分川此川之源出2直入郡朽網之峰1指v東下流」「救覃峰《クタミ》、此峰頂、火恒燎v之、基有2數川1、名曰2神河1、亦有2二湯河1流會2神河1」とある。景行天皇紀に、「留2于來田見邑1、權與2宮室1居v之」とある。來田見《クタミ》邑に近い山であ(559)る。○夕居雲《ユフヰルクモノ》――この句までは序詞。夕べの山の雲が、漸次その影の見分け難くなる意で、薄往者《ウスレユカバ》とつづけたのである。○薄往者《ウスレユカバ》――舊訓ウスラガバとある。代匠記初稿本書入による。考は薄を轉として、ユツリナバ、古義は薄を發として、タチテイナバと訓んでゐる。ウスレユカバは、愛情が薄れ行かばの意であらう。
〔評〕 三の句に多少の疑點もあるが、誤とも言ひ難い。豐後地方の俚謠か。和歌童蒙抄に載せてある。寄雲戀。
2675 君が著る 三笠の山に ゐる雲の たてば繼がるる 戀もするかも
君之服《キミガキル》 三笠之山爾《ミカサノヤマニ》 居雲乃《ヰルクモノ》 立者繼流《タテバツガルル》 戀爲鴨《コヒモスルカモ》
(君之服三笠之山爾居雲乃立者)アトカラアトカラト〔九字傍線〕續イテ絶エ間ノナイ〔七字傍線〕戀ヲスルヨ。少シモ戀シイ心ノ止ム暇ハナイ〔少シ〜傍線〕。
○君之服《キミガキル》――枕詞。三笠とつづいてゐる。古義にキミガケルとある。○立者繼流《タテバツガルル》――立者《タテバ》までは繼流《ツガルル》とつづく序詞。雲が立つと又そのあとから、續いて立つ意である。略解・古義などに譬喩としてゐるが、序詞とするのが當つてゐる。
〔評〕 卷三の山部赤人が、春日野に上つて作つた長歌の反歌、高※[木+安]之三笠之山爾鳴鳥之止者繼流戀哭爲鴨《タカクラノミカサノヤマニナクトリノヤメバツガルルコヒモスルカモ》(三七三)と類想同型である。時代がかなり古いやうであるから、赤人がこれを學んだのかも知れない。寄雲戀。
2676 久方の 天飛ぶ雲に ありてしが 君を相見む おつる日なしに
久堅之《ヒサカタノ》 天飛雲爾《アマトブクモニ》 在而然《アリテシガ》 君相見《キミヲアヒミム》 落日莫死《オツルヒナシニ》
(久堅之)空ヲ飛ブ雲デアリタイモノダ。サウシテ自由ニ空ヲ飛ンデ行ツテ〔サウ〜傍線〕、毎月毎日貴方トオ目ニ掛リタイ。
○在而然《アリテシガ》――考に在は成の誤として、ナリテシカとよんでゐる。これに從ふ説が多いが、改めるには及ばない。雲でありたいといふのである。○落日莫死《オツルヒナシニ》――一日も脱つる日なしにの意。莫死《ナシニ》の用字が少し異樣である。
〔評〕 何の囚はれることもなく、自由に空を飛ぶ雲を羨んだのである。古義には「飛といへること何とやらむ、(560)雲に似つかはしからぬやうなり。若は天飛鴈《アマトブカリ》ともとありけむを、はやくより誤り吟へて、此|次《ナミ》に收れたるにはあらざる歟」とあるが、天飛雲《アマトプクモ》の方が雁よりも自由に飛ぶやうに聞えて、面白いのである。寄雲戀。
2677 佐保の内ゆ 嵐の風の 吹きぬれば 還りは知らに 嘆く夜ぞ多き
佐保乃内從《サホノウチユ》 下風之《アラシノカゼノ》 吹禮波《フキヌレバ》 還者胡粉《カヘリハシラニ》 歎夜衣大寸《ナゲクヨゾオホキ》
戀人ヲオトヅレタ夜〔九字傍線〕、佐保ノ里ノ内デ嵐ノ風ガヒドク〔三字傍線〕吹クト、私ハ寒サ淋シサニ〔八字傍線〕、歸ルコトモ思ハズ、嘆息スル夜ガ多イヨ。
○佐保乃内從《サホノウチユ》――佐保の里の内での意。ユはニの意である。○下風之吹禮波《アラシノカゼノフキヌレバ》――舊訓アラシフケレバとよんで一句としてゐる。下風は他の例によればアラシとあるから、この點では舊訓が正しいやうだが、第四句の舊訓を正す爲に、これを右の如く改訓するの要があるのである。○還者胡粉《カヘリハシラニ》――舊訓、カヘルサハクダケテナゲキとあるのは全く解し難い。代匠記・考・宣長・古義など皆脱字ありと認めて、それぞれ補つてゐる。その中では考の胡の上、爲便の二字を補つて、カヘサニハセムスベシラニとしたのがよいやうである。古本にこの二字があるとあるが、今その本がないから、これを採用するに躊躇せられる ここはしばらく新訓に從ふことにした。歸りは知らには歸ることを思はずの意。胡粉をシラニと訓むのは田時乎白土《タドキヲシラニ》(一七八二)の白土と同じで、當時胡粉を白土《シラニ》と言つたからである。○歎夜衣大寸《ナゲクヨゾオホキ》――衣の字、嘉暦本にはない。
〔評〕 佐保の里に住む女に通ふ男の歌である、寒夜の別れ難さがしのばれるやうによまれてゐる。寄風戀。
2678 はしきやし 吹かぬ風ゆゑ 玉くしげ あけてさねにし 我ぞ悔しき
級子八師《ハシキヤシ》 不吹風故《フカヌカゼユヱ》 玉※[しんにょう+更]《タマクシゲ》 開而左宿之《アケテサネニシ》 吾其悔寸《ワレゾクヤシキ》
涼シクテ〔四字傍線〕心持ノヨイ風ガ吹キ込ミモシナイノニ、戸ヲ〔二字傍線〕(玉※[しんにょう+更])開ケテ寢タノヲ、私ハ殘念ニ思フヨ。戀人ガ來モシナイノニ、戸ヲ開ケテ待ツテ居テ、ツマラナイコトヲシタ〔戀人〜傍線〕。
(561)○級子八師《ハシキヤシ》――舊訓ヨシヱヤシとあるが、さう訓むべき詞がない。考に子を寸の誤として、ハシキヤシとよんだのがよい。級は階に同じくハシと訓む字である。○不吹風故《フカヌカゼユヱ》――吹かない風だのに。故の意味に注意したい。○玉※[しんにょう+更]《タマクシゲ》――枕詞。アケとつづく。○開而左宿之《アケテサネニシ》――舊訓による。代匠記精撰本ヒラキテサネシとあるのもわるくはない。サは接頭語。
〔評〕 戀人を涼しい風に譬へたもの。男を待つ女のこころが巧妙にあらはされてゐる。寄風戀。
2679 窓越しに 月おし照りて 足引の 嵐吹く夜は 君をしぞ念ふ
窓超爾《マドゴシニ》 月臨照而《ツキオシテリテ》 足檜乃《アシビキノ》 下風吹夜者《アラシフクヨハ》 公乎之其念《キミヲシゾオモフ》
窓ノ中ニ月ガズツト照リ込ンデ、山ノ嵐ガ吹ク夜ハ、何トナク心淋シク身ニ沁ミテ〔何ト〜傍線〕、貴方ヲ戀シク思フヨ。
○月臨照而《ツキオシテリテ》――月が一面にさしこんで。オシは強く言ふのである。卷八に月押照有《ツキオシテレリ》(一四八〇)とある。○檜乃《アシビキノ》――山の枕詞を、直ちに山の意に用ゐてゐる。卷三に足日木能石根許其思美《アシビキノイハネゴゴシミ》(四二四)・卷八に足引乃許乃間立八十一《アシビキノコノマタチクク》(一四九七)とあつた。
〔評〕 優艶温雅。遣瀬ない戀情。縷々たる哀調。自然に迸つた嗟嘆の聲が、琅※[王+干]の響をなしてゐる。寄風戀。
2680 河千鳥 住む澤の上に 立つ霧の いちじろけむな 相言ひそめてば
河千鳥《カハチドリ》 住澤上爾《スムサハノヘニ》 立霧之《タツキリノ》 市白兼名《イチジロケムナ》 相言始而言《アヒイヒソメテバ》
私ト貴方ト約束ヲシテ〔十字傍線〕、言ヒカハシ始メタナラバ、二人ノ關係ハ直グニ世間ニ〔二人〜傍線〕(河千鳥住澤上爾立霧之)著シク顯ハレテシマフダラウナ。包ンデモ包ミ切レナイノハ戀ノ道。困ツタモノダ〔包ン〜傍線〕。
○河千鳥住澤上爾立霧之《カハチドリスムサハノヘニタツキリノ》――市白《イチジロ》と言はむ爲の序詞。河千鳥が住んでゐる、澤の上に立つ霧のやうに、はつきりとの意。代匠記に住澤《スミサハ》といふ地名かと疑つてゐるが、さうではあるまい。新考に住を泣に改めて、香山附近の泣澤の地としたのも從ひ難い。
〔評〕 雪・雲・浪・花などを序詞として、イチジロクとつづけた作は多い。ここに霧を用ゐたのも同想で、格別珍ら(562)しい工夫ではないが、千鳥・澤・霧の配合がよい感じを與へる。寄霧戀。
2681 吾背子が 使を待つと 笠も著ず 出でつつぞ見し 雨の降らくに
吾背子之《ワガセコガ》 使乎待跡《ツカヒヲマツト》 笠毛不著《カサモキズ》 出乎其見之《イデツツゾミシ》 両落久爾《アメノフラクニ》
私ノ夫カラ使ガ來ルノヲ待ツテ、私ハ〔二字傍線〕雨ガ降ルノニ笠モカブラナイデ、戸外ニ出テ見テ居タ。
〔評〕 人待つ女の歌。純朴そのものといつてよい。民謠に違ひない。卷十二(三一二一)に、問答の歌として重出してゐる。寄雨戀。
2682 韓衣 君にうち著せ 見まく欲り 戀ひぞくらしし 雨の零る日を
辛衣《カラコロモ》 君爾内著《キミニウチキセ》 欲見《ミマクホリ》 戀其晩師之《コヒゾクラシシ》 雨零日乎《アメノフルヒヲ》
唐衣ヲ仕立テ上ゲタノデ〔八字傍線〕、貴方ニ着セテ見タイト思ツテ、雨ノ降ル日ニ、終日貴方ヲ待チ焦レテ暮シマシタ。到頭貴方ハオ出ニナラナイデ、殘念ナコトヲシマシタ〔到頭〜傍線〕。
○辛衣《カラコロモ》――考に文《アヤ》あるきぬと解してゐるが、文《アヤ》の有無は論ずる要はあるまい。やはり唐風に仕立てた着物であらう 新考に新衣の誤としたのは從ひがたい。○君爾内著《キミニウチキセ》――内《ウチ》は打《ウチ》。接頭語のみ。
〔評〕 着物を仕立あげて、夫の來るのを待つてゐた女の歌。いかにも女らしい情緒が溢れてゐる。雨零日乎《アメノフルヒヲ》は別に要がないやうでもあるが、これは實情の歌であらうから、作者としてはかう言ふ必要があつたのである。又この一句で、しめやかな感情が出てゐるやうに思はれる。寄雨戀。
2683 をちかたの はにふの小屋に こさめふり 床さへぬれぬ 身に副へ我妹
彼方之《ヲチカタノ》 赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》 ※[雨/脉]霖零《コサメフリ》 床共所沾《トコサヘヌレヌ》 於身副我妹《ミニソヘワギモ》
私ノ家カラ距ツタ〔八字傍線〕、彼方ニアル土ノ上ニ蓆ナドヲ敷イテ寢ル、汚イ〔上ニ〜傍線〕小屋ニ、女ヲ連レテ來テ宿ルト〔十字傍線〕、小雨ガ降リ込ンデ寢床マデモヌレタ。困ツタモノダ。私ニ能ク〔十字傍線〕寄リ添ヘヨ。女ヨ。
(563)○彼方之《ヲチカタノ》――彼方はあちらの方。即ち吾が家より遠く隔つてゐるところ。○赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》――ハニフは前にも多く出た詞で、文字通り赤土。少屋は後世コヤとも言つてゐるが、古事記神武天皇の御製に阿斯波良能志祁去岐袁夜爾《アシハラノシケコキヲヤニ》とあるから、ヲヤがよい。契沖は「はに土にて塗たる小屋」と解し、眞淵は土の上にわら莚などとり敷て住ふ、片山里のまづしき庵をいふなり」と言つてゐる。新考には「埴生ニアル小屋即埴取場ノ小屋にて人の住む家にあらず」とある。新考説も面白いやうだが、さういふ小屋は物に見えてゐない。後世の用法も唯、賤しい家の意にのみ用ゐてあるから、眞淵説がよいであらう。○※[雨/脉]霖零《コサメフリ》――卷二、霈霖爾落者《ヒサメニフレバ》(二三〇)とあるに同じとすれば、ヒサメで大雨のことであるが、卷七の今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《ケフノコサメニ》(一〇九〇)に傚つてコサメとして置かう。
〔評〕 女を連れ出して、里離れた小屋に寢た男の歌。野趣横溢。しかも言ふべからざる哀感と、痛切な戀情とがあらはれてゐる。この種の作としては、蓋し傑出したものであらう。袖中抄に載つてゐる。寄雨戀。
2684 笠なみと 人には言ひて 雨づつみ とまりし君が すがたし念ほゆ
笠無登《カサナミト》 人爾者言手《ヒトニハイヒテ》 雨乍見《アマヅツミ》 留之君我《トマリシキミガ》 容儀志所念《スガタシオモホユ》
笠ガ無イカラ歸レナイ〔四字傍線〕ト人ニハ言ツテ、ソレヲカコ付ケニ〔八字傍線〕雨籠リヲシテ、私ノ家ニ〔四字傍線〕宿ツテユカレタ彼ノ御方ノ懷シイ〔三字傍線〕姿ガ戀シク〔三字傍線〕思ハレル。
○笠無登《カサナミト》――舊訓カサナシトとあるのも、わるくはないが、古義に從つた。○雨乍見《アマヅツミ》――雨の爲に屋内に籠つてゐること。
〔評〕 曾つて、雨の降つた或る夜、男が歸らうとして、傘がないのに托して、歸らずにゐてくれた、その親切を想ひ起して、その風采を偲んで、なつかしがつてゐる女の歌である。纒綿たる愛情。寄雨戀。
2685 妹が門 行き過ぎかねつ ひさかたの 雨もふらぬか そをよしにせむ
妹門《イモガカド》 行過不勝都《ユキスギカネツ》 久方乃《ヒサカタノ》 雨毛零奴可《アメモフラヌカ》 其乎因將爲《ソヲヨシニセム》
私ハ〔二字傍線〕女ノ門前ヲ通ツテ、戀シクテ素〔八字傍線〕通リスルコトガ出來ナイ。(久方乃)雨モ降ラナイカナア。サウシタラ〔五字傍線〕、ソ(564)レヲカコ付ケニシヨウ。雨宿リスル振デコノ家ニ立チ寄ラウ〔雨宿〜傍線〕。
○雨毛零奴可《アメモフラヌカ》――雨も降らないかよ。雨も降れかしの意。
〔評〕 女の門を行き過ぎかねる男の歌である。三四の句は卷四の久堅乃雨毛落糠雨乍見於君副而此日令晩《ヒサカタノアメモフラヌカアマヅツミキミニタグヒテコノヒクラサム》(五二〇)の初二句と同じ。いかにも民謠らしい内容である。袖中抄にも載せてある。代匠記精撰本に、「第三句以下を六帖にひちかさの雨もふらなむあまかくれせむとあるに依り、又催馬樂妹門歌にも、妹が門せなが門、行過かねてや、我ゆかばひぢかさの雨もふらなむ、しでのたをさ、あまやどり笠やどり、やどりて罷らむ、しでのたをさ、とある故に、源氏物語須磨にも、風いみじく吹出て空かきくれぬ。御祓もしはてず立さわぎたり。ひぢかさ雨とか降ていとあはただしければ、皆歸り給ひなむとするに、笠も取あへずなど書たれど、此集にては沙汰にも及ぶべからず。云々」とある。寄雨戀。
2686 ゆふけとふ 吾が袖に置く 白露を 君に見せむと 取れば消につつ
夜占問《ユフケトフ》 吾袖爾置《ワガソデニオク》 白露乎《シラツユヲ》 於公令視跡《キミニミセムト》 取者消管《トレバケニツツ》
私ハ貴方ニ逢ヒタサニ堪ヘ兼ネテ、セメテノ心遣リニ逢ヘルカ逢ヘナイカヲ〔私ハ〜傍線〕、夜ノ辻占デ占ツテ見ヨウト、夜戸外ニ立ツテ〔見ヨ〜傍線〕居タ私ノ袖ニ宿ツタ白露ヲ、私ガ難儀ヲシナガラ貴方ニ逢ヒタガツテ居タコトノ證トシテ〔私ガ〜傍線〕、貴方ニ見セヨウト思ツテ、手ニ取ツテ見タラバ消エテシマツタ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
○夜占問《ユフケトフ》――ユフケは夕卜《ユフケ》(二六一三)・夕占《ユフケ》(七三六)・夕衢占《ユフケ》(四二〇)など記されてゐるが、ここに夜占とあるは特例である。
〔評〕 やさしい女心のあらはれた歌。卷十に梅花零覆雪乎※[果/衣のなべぶたなし]持君爾令見跡取者消管《ウメノハナフリオホフユキヲツツミモチキミミニミセムトトレバケニツツ》(一八三三)と下句を全く同じく、同型の歌である。多分卷十のはこれを本として、改作したのであらう。寄露戀。
2687 櫻麻の をふの下草 露しあれば 明かしてい行け 母は知るとも
櫻麻乃《サクラアサノ》 苧原之下草《ヲフノシタクサ》 露有者《ツユシアレバ》 令明而射去《アカシテイユケ》 母者雖知《ハハハシルトモ》
(565)(櫻麻乃)麻畑ノ中ノ草ニ露ガ降リテ居ルノデ、コノ曉ニオ歸リニナルノハ難儀デスカラ〔コノ〜傍線〕、夜ガ明ケテカラオ歸リナサイ。母ニ見付カツテモカマヒマセヌ〔六字傍線〕。
○櫻麻乃《サクラアサノ》――眞淵はサクラヲノとよんで、ヲの音を繰返して下につづく枕詞とし、さくらといふ地から出る麻だといつてゐる、併しサクラを地名とするのは從ひ難い。契沖が櫻麻は「櫻のさく頃蒔く物なる故にいふ」としたのも、「枝のやう葉のやうもやや櫻に似たればいふにや」といつたのも信じ難い説である。大麻又は雄麻の異名とする説もあるが、ともかく櫻麻といふ麻の一種に違ひない。○苧原之下草《ヲフノシタクサ》――苧原は苧畑即ち麻畑のこと。下草はその麻畑の路傍の草である。○令明而射去《アカシテイユケ》――夜を明して歸れの意。古事記傳に宣長が道を明けての意として、「夜は明ても朝のほどは露は干るものにあらず」とあるのは、理窟に走つた説で、とるに足らぬ。
〔評〕 田舍少女の歌。野趣が溢れ、耕人らしい環境があらはれてゐる。佳作。卷十二にも櫻麻之麻原乃下草早生者妹之下紐不解有申尾《サクラアサノヲフノシタクサハヤオヒバイモガシタヒモトカザラマシヲ》(三〇四九)とある。なほこの歌、袖中抄・和歌童蒙抄にも出てゐる。寄露戀。
2688 待ちかねて 内へは入らじ 白たへの 吾が衣手に 露は置きぬとも
待不得而《マチカネテ》 内者不入《ウチヘハイラジ》 白細布之《シロタヘノ》 吾袖爾《ワガコロモデニ》 露者置奴鞆《ツユハオキヌトモ》
私ハ貴方ヲ戸外ニ出テ待ツテ居テ〔私ハ〜傍線〕、私ノ(白細布之)袖ニ露ガ降ツテモ、待チ切レナイデ内ヘハ入ルマイ。何時マデモ戸外ニ待ツテヰヨウ〔何時〜傍線〕。
〔評〕男を待つ女の歌。卷十二の 待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニシヲレバウチナビクワガクロカミニシモゾオキニケル》(三〇四四)・古今集の「君來ずば閨へも入らじ濃紫わがもとゆひに霜はおくとも」と少し似てゐる。寄露戀。
2689 朝露の け易き吾身 老いぬとも また若がへり 君をし待たむ
朝露之《アサツユノ》 消安吾身《ケヤスキワガミ》 雖老《オイヌトモ》 又若反《マタワカガヘリ》 君乎思將待《キミヲシマタム》
朝ノ露ノヤウニ消エ易イ命ヲ持ツタ私ハ、貴方ニ逢ヘナイ内ニ〔九字傍線〕老人ニナツテモ、ソノ儘死ナズニ〔七字傍線〕又若反ツテ、(566)貴方ニ逢フノ〔四字傍線〕ヲ待タウト思ヒマス。逢ハナイ内ハ決シテ思ヒ切ラナイ〔逢ハ〜傍線〕。
○朝露之《アサツユノ》――朝露の如き。枕詞と見ないがよい。○又若反《マタワカガヘリ》――古義に若の上に變を補つて、マタヲチカヘリとよんでゐる。舊訓のままでよいであらう。
〔評〕 女の歌である。初二句に佛おの無常觀が見えてゐる。民衆の歌にもかういふ思想が盛られてゐるので見ると、その流布の廣いことが分る。卷十二に初句|露霜乃《ツユジモノ》とあつて、下全く図じ歌(三〇四三)がある。寄露戀。
2690 白たへの 吾が衣手に 露は置き 妹は逢はさず たゆたひにして
白細布乃《シロタヘノ》 吾袖爾《ワガコロモデニ》 露者置《ツユハオキ》 妹者不相《イモハアハサズ》 猶豫四手《タユタヒニシテ》
女ニ逢ハウト思ツテソノ家マデ行ツタケレドモ、見咎メラレルノヲ恐レテ外ニ立ツテヰル内ニ〔女ニ〜傍線〕、私ノ(白細布乃)着物ノ袖ニ露ガ宿ツタガ、ソレデモ猶〔五字傍線〕グズグズシテ、女ハ私ニ〔二字傍線〕逢ツテクレナイ。
○露者置《ツユハオキ》――舊訓ツユハオキテとある。古義は置の下に跡などの字、脱としてツユハオケドとしてゐる。必ずしも補ふの要はあるまい。○妹者不相《イモハアハサズ》――舊訓イモニハアハズとあるが、新訓に從ふことにした。○猶豫四手《タユタヒニシテ》――諸註皆、自分が、還らむか留らむかと躊躇する意に解してゐる。しかしここには、女が母などに知られるのをおそれて、ためらつて逢はないことに解釋した。
〔評〕 女を尋ねて來て、外に立ちつくしてゐる男の心である。寄露戀。
2691 かにかくに 物はおもはじ 朝露の 吾が身一つは 君がまにまに
云云《カニカクニ》 物者不念《モノハオモハジ》 朝露之《アサツユノ》 吾身一者《ワガミヒトツハ》 君之隨意《キミガマニマニ》
兎ヤ角ト色々物ハ思ヒマスマイ。朝露ノヤウナハカナイ〔四字傍線〕私ノ一身ハ、貴方ノ思フ通リニドウデモナサイマシ。私ハ貴方ニオタヨリシテヰルカラ、何モ心配ハアリマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
○朝露之《アサツユノ》――朝露の如き。これも前の朝露之《アサツユノ》(二六八九)の歌と同じ無常觀である。
(567)〔評〕身も心も男に捧げて、只管に戀する女の歌。純情その物ともいふべき上代人らしい歌。前の 云云物者不念斐太人乃打墨繩之直一道二《カニカクニモノハオモハジヒダビトノウツスミナハノタダヒトミチニ》(二六四八)と初二句同樣である。寄露戀。
2692 夕ごりの 霜置きにけり 朝戸出に 甚だ踏みて 人に知らゆな
夕凝《ユフゴリノ》 霜置來《シモオキニケリ》 朝戸出爾《アサトデニ》 甚踐而《ハナハダフミテ》 人尓所知名《ヒトニシラユナ》
夕方凝リ固ツタ霜ガ、眞白ニ〔三字傍線〕降ツタヨ。貴方ガ私ノ家カラ〔八字傍線〕朝オ出カケニナル時ニ、霜ノ上ニ〔四字傍線〕ヒドク足跡ヲ付ケテ、今夜ノコトヲ〔六字傍線〕人ニ知ラレナサルナ。御用心ナサイマシ〔八字傍線〕。
○夕凝《ユフゴリノ》――夕方に凝り結ぶ。○甚踐而《ハナハダフミテ》――舊訓アトフミツケテとあり、考はイトアトツケテ、略解は甚は足の誤として、アトフミツケテ、宣長は甚は其上の誤で、ソノウヘフミテ、古義は踐の下、附を脱として、アトフミツケテと改めてゐるが、原形を尊重して、ハナハダフミテとよんだ代匠記説に從ふ。
〔評〕 戀人を歸す女の苦心が歌はれてゐる。霜柱の立つた曉起の姿も想像せられる、この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。寄霜戀。
2693 かくばかり 戀ひつつあらずは 朝に日に 妹がふむらむ 地ならましを
如是許《カクバカリ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 朝爾日爾《アサニヒニ》 妹之將履《イモガフムラム》 地爾有申尾《ツチナラマシヲ》
カウシテ逢ハレナイデ〔六字傍線〕戀シガツテ居ナイデ、寧ロ〔二字傍線〕毎朝毎日、アノ女ガ踏ミ付ケル土デ有リタイモノダノニ。人間デモ何モナラヌ〔九字傍線〕。
〔評〕 下句は戀する人の熱情が見える。土に親しんでゐる耕人の作らしい。しかし、かういふ型の歌は他にいくらもある。寄土戀。
2694 あし引の 山鳥の尾の 一を越え 一目見し兒に 戀ふべきものか
足日木之《アシビキノ》 山鳥尾乃《ヤマドリノヲノ》 一峰越《ヒトヲコエ》 一目見之兒爾《ヒトメミシコニ》 應戀鬼香《コフベキモノカ》
(568)(足日木之山鳥尾乃)一山ヲヘダテタ彼方ノ里デ〔六字傍線〕、一目一寸〔二字傍線〕見タダケノ女ニ、コンナニ〔四字傍線〕戀シガルト云フコトガアルベキ筈カ。我ナガラ不思議ニ思フホドダ〔我ナ〜傍線〕。
○足日木之山鳥尾乃《アシビキノヤマドリノヲノ》――峯とつづく序詞。ヲの音を繰返してゐるが、山鳥は雌雄谷を隔てて棲むといふ傳説にも關係があるやうである。尾は要のない詞で、添へただけである。○一峯越《ヒトヲコエ》――峯を隔てた彼方にの意か。契沖はこの句をも序詞に入れてゐる。ヒトの音を繰返して一目につづくと見たので、これも良いやうであるが、しばらく眞淵説に從つておく。○應戀鬼香《コフベキモノカ》――戀ふべきものか。戀ふべきではないのに、かく戀ふるとは我ながら不思議だといふのである。
〔評〕 上句に山鳥の傳説を用ゐてある。卷八に足日木能山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云《アシビキノヤマドリコソハヲムカヒニツマドヒストイヘ》(一六二九)と同じであるが、序詞の限界が曖昧なのは遺憾である。ともかく山鳥傳説に關係あるものとして有名な作だ。寄山戀。
2695 吾妹子に 逢ふよしをなみ 駿河なる 不盡の高ねの 燃えつつかあらむ
吾妹子爾《ワギモコニ》 相縁乎無《アフヨシヲナミ》 駿河有《スルガナル》 不盡乃高嶺之《フジノタカネノ》 燒管香將有《モエツツカアラム》
私ハ〔二字傍線〕私ノ戀シイ女ニ逢フ方法ガナイノデ、丁度〔二字傍線〕駿河ノ國ニアル富士ノ高嶺ノヤウニ、イツデモ心ヲ〔六字傍線〕燃ヤシテヰルコトカナア。ドウモ困ツタモノダ〔九字傍線〕。
○駿河有不盡乃高嶺之《スルガナルフジノタカネノ》――駿河にある富士の高根の如く。燒の序詞と見るのはよくない。
〔評〕 歌としては別に特色のあるものではない。併し東國の作でもないらしいこの歌に、富士の高嶺を、譬喩に用ゐたのは、この山が如何に噴火を以て有名であつたかを示すものである。寄山戀。
2696 荒熊の 住むとふ山の 師齒迫山 せめて問ふとも 汝が名は告らじ
荒熊之《アラクマノ》 住云山之《スムトフヤマノ》 師齒迫山《シハセヤマ》 責而雖問《セメテトフトモ》 汝名者不告《ナガナハノラジ》
(荒熊之住云山之師齒迫山)頻リニ責メ立テテ人ガ問ウテモ、私ハ貴方ノ名ヲ打チ明ケルコトハスマイ。(569)御安心ナサイ〔六字傍線〕。
○荒熊之住云山之師齒迫山《アラクマノスムトフヤマノシハセヤマ》――恐ろしい熊の住むといふ山の師齒迫山。シハセは頻りに責むる意があつて、責而《セメテ》につづいてゐる。師齒迫山は所在不明。大日本地名辭書に駿河富士郡の部にありとしたのは、ここに富士の山に並べてあるので、駿河と推斷したものであらう。
〔評〕 序詞が如何にも恐ろしさうな感を與へるやうに出來てゐる。責而《セメテ》へのつづき方も力強く、強迫されるやうな語感がある、この歌、和歌童蒙抄に載せてゐる。寄山戀。
2697 妹が名も 吾が名も立たば 惜しみこそ ふじの高嶺の 燃えつつ渡れ
或歌曰、君が名もわが名も立たば惜しみこそ不盡の高ねのもえつつも居れ
妹之名毛《イモガナモ》 吾名毛立者《ワガナモタタバ》 惜社《ヲシミコソ》 布仕能高嶺之《フジノタカネノ》 燒乍渡《モエツツワタレ》
女ノ名モ私ノ名モ、世間ニ言ヒ〔五字傍線〕立テラレテハ困ルカラコソ、私ハ成ル可ク人目ニ立タヌヤウニ包ミカクシ〔私ハ〜傍線〕テ、タダ心ノ中デ〔六字傍線〕、富士ノ高嶺ノヤウニ燒エテ居ルノダ。
○吾名毛立者《ワガナモタタバ》――古義はワガナモタバとよんで、結句に呼應せしめてゐる。
〔評〕 深く心に包む戀である。戀に熱するのを燒《モエ》と言つてゐるが、平安朝以後の歌に見える、おもひに燃えるといふやうな言ひ方は、まだ始まつてゐない。寄山戀。
或歌曰 君名毛《キミガナモ》 吾名毛立者《ワガナモタタバ》 惜己曾《ヲシミコソ》 不盡乃高山之《フジノタカネノ》 煉乍毛居《モエツツモヲレ》
これは同歌の異傳で、女が謠ふやうに改作したものである。
2698 ゆきて見て 來れば戀しき 淺香潟 山越しに置きて いねがてぬがも
往而見而《ユキテミテ》 來戀敷《クレバコヒシキ》 朝香方《アサカガタ》 山越置代《ヤマゴシニオキテ》 宿不勝鴨《イネガテヌカモ》
ナツカシイ人ノヰル〔九字傍線〕(往而見而來戀敷)朝香方ヲ此處カラハ〔五字傍線〕山ヲ隔テタ處ニ置イテ來テ、女ニ逢フコトモ出來(570)ズ、戀シサニ夜ハ〔來テ〜傍線〕寢ラレナイヨ。
○往而見而來戀敷《ユキテミテクレバコヒシキ》――往つて女に逢つて、あとに殘して來ると戀しい朝とつづくので、朝の序詞となってゐる。○朝香方《アサカガタ》――所在不明。卷二に住吉乃淺香乃浦爾玉藻苅手名《スミノエノアサカノウラニタマモカリテナ》(一二一)とあるところならば、攝津住吉の南方であるが、山越置代《ヤマゴシニオキテ》とあるのに地形が合致せぬやうである。併しその附近に山は無くとも、遙かに山を越えて來て詠んだものとすれば、さう考へられないこともないか。卷十六に安積香山影副所見山井之《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノ》(三八〇七)とあるのは岩代であるが、ここは潟のあるべきところでない。この他卷十四の東歌中に康齊可我多《アセカガタ》(三五〇三)が見え、これをアサカガタと訓む説もある。又伊勢壹志部に阿射加と稱する地あり、海岸として古事記にも見えてゐる。これらのうちかも知れないが、今、推断し難い。
〔評〕 旅に出て家なる妻を思ふ歌か。序詞が巧である。寄山戀。
2699 安太人の やな打渡す 瀬をはやみ 心はもへど 直に逢はぬかも
安太人乃《アダヒトノ》 八名打度《ヤナウチワタス》 瀬速《セヲハヤミ》 意者雖念《ココロハモヘド》 直不相鴨《タダニアハヌカモ》
(安太人乃八名打度瀬)ヒドク心ニハ思ツテ居ルケレド、私ハ彼ノ人ニ〔六字傍線〕直接ニ逢ハレナイヨ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
○安太人乃《アダヒトノ》――安太は大和宇智部吉野河畔の地。卷十に阿太乃大野《アダノオホヌ》(二〇九六)とあるところ。○八名打度《ヤナウチワタス》――八名《ヤナ》は魚梁。この地の人は吉野川に魚梁をかけて、魚を捕ふることを業としてゐたのである。古事記に「到2吉野河之河尻1時、作v筌有2取v魚人1……名謂2贄持子《ニヘモツノコ》1 此者阿陀之鵜養祖」とある。打度《ウチワタス》は杭を打つてかけ渡す意。なほヤナについては梁者不打而《ヤナハウタズテ》(三八六)参照。○瀬速《セヲハヤミ》――瀬《セヲ》までは上につづいて速《ハヤミ》の序詞となつてゐる。ハヤミはここは速くに同じで、烈しく、心の切なる意である。
〔評〕 古傳説にも名高い吉野の安太人が、速瀬に架ける魚梁を材として、自分の戀の心の烈しさを述べたのは巧である。これ以下二十三首、瀬・淵・川など水に關した作を並べてある。寄水戀。
2700 玉かぎる 石垣淵の こもりには 伏して死ぬとも 汝が名は告らじ
(571)玉蜻《タマカギル》 石垣淵之《イハガキフチノ》 隱庭《コモリニハ》 伏以死《フシテシヌトモ》 汝名羽不謂《ナガナハノラジ》
私ハ〔二字傍線〕(玉蜻石垣淵之)隱レ忍ンデ戀ワヅラヒニ〔五字傍線〕臥シテ死ナウトモ、決シテ〔三字傍線〕貴方ノ名ヲ人ニ打チ明ケルコトハスマイ。御安心ナサイ〔六字傍線〕。
○玉蜻石垣淵之《タマカギルイハガキフチノ》――隱《コモリ》の序詞。岩に圍まれた淵の水が隱れてゐるからである。玉蜻《タマカギル》は枕詞。卷二に玉蜻磐垣淵之隱耳《タマカギルガキフチノコモリノミ》(二〇七)とある。○隱庭《コモリニハ》――竊かに。ハは添へて言ふのみ。○伏以死《フシテシヌトモ》――舊訓による。以の字は嘉暦本にはない。代匠記初稿本書入にフシモテシナムとあり、新訓もフシモチシナムと訓んでゐる.考は以は雖の誤とし、フシテシヌトモ、古義はコヒテシヌトモとあるべきところだといつてゐる。伏は病臥の意に用ゐてある。
〔評〕 前の荒熊之《アラクマノ》(二六九六)の歌とその内容が近似して、しかも決意は一艘強烈である。しかし歌品は少し劣るやうである。和歌童蒙抄に載ってゐる。寄水戀。
2701 明日香川 明日も渡らむ 石走の 遠き心は 思ほえぬかも
明日香川《アスカガハ》 明日文將渡《アスモワタラム》 石走《イハバシノ》 遠心者《トホキココロハ》 不思鴨《オモホエヌカモ》
明日香川ヲ明日モ亦渡ツテアナタノ所ヘ行キ〔ツテ〜傍線〕マセウ。(石走)遠ク間ヲ置イテ、私ハ貴方ニ逢ハウト思フ〔ク間〜傍線〕心ハ、持チマセヌヨ。
○明日香川明日文將渡《アスカガハアスモワタラム》――明日香川を渡つて、明日も亦通つて行かうといふのである。この二句は頭韻をそろへてゐる。明日香川を明日の枕詞と見るのはよくない。○石走《イハバシノ》――枕詞。卷四に石走間近君爾戀渡可聞《イハバシノマヂカキキミニコヒワタルカモ》(五九七)とあつて、間近の枕詞となつてゐるから、ここも遠心者不思鴨《トホキココロハオモホエヌカモ》の全躰にかかつてゐるのであらう。イハバシは河中に並べた飛石。飛鳥川にイハバシのあつたことは、卷七の年月毛未經爾明日香河湍瀬由渡之石走無《トシツキモイマダヘナクニアスカガハセゼユワタシシイハバシモナシ》
(一一二六)に明らかである。○遠心者《トホキココロハ》――間を遠く置いて會はうとする心はの意。
〔評〕 飛鳥川を隔てて通ふ男の心である。初二句に頭韻を押したこと、自から渡つて通ふ石走《イハバシノ》を枕詞に用ゐてゐ(572)る點などが、この歌の技巧である。寄水戀。
2702 飛鳥川 水ゆきまさり いや日けに 戀のまさらば ありがつましじ
飛鳥川《アスカガハ》 水往増《ミヅユキマサリ》 弥日異《イヤヒケニ》 戀乃増者《コヒノマサラバ》 在勝申目《アリガツマシジ》
私ハカウシテ〔六字傍線〕、一日増シニ戀シイ心ガ、(飛鳥川水往増)増サツテ行ツタナラバ、終ニハ〔三字傍線〕生キテ居ルコトハ出來マイヨ。コレデハ焦レ死ヌカモ知レナイ〔コレ〜傍線〕。
○飛鳥川水往増《アスカガハミヅユキマサリ》――第四句のマサラバへ續く序詞。飛鳥川の水の流れが増して行くこと。○在勝申目《アリガツマシジ》――舊訓アリカテムカモとあり、代匠記アリガテマシモとよんでゐるが、目を自の誤としてアリガツマシジと詠むべきは、卷二の有勝麻之自《アリガツマシジ》(九四)に述べて置いた。有るに堪へじの意。
〔評〕 これも飛鳥川附近の人の歌であらう。飛鳥川の水量の日に日に増して行く霖雨の頃などを思はしめる。寄水戀。
2703 眞薦刈る 大野川原の 水隱りに 戀ひ來し妹が 紐解く我は
眞薦苅《マコモカル》 大野川原之《オホヌカハラノ》 水隱《ミゴモリニ》 戀來之妹之《コヒコシイモガ》 紐解吾者《ヒモトクワレハ》
(眞薦刈大野川原之水)隱レ忍ンデ戀ヒ慕ツテ居タ女ノ着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ解イテ、私ハ今夜〔四字傍線〕初メテ共寢ヲスルヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
○眞薦苅《マコモカル》――眞薦の眞《マ》は接頭語。薦は薦枕・薦蓆・薦疊などを作る料に刈り取るのである。○大野川原之《オホヌカハラノ》――大野川は大和法隆寺の東方を流るる富の雄川の下流、大和川に注いでゐる。○水隱《ミゴモリニ》――人目を忍んでの意であるから、水《ミ》は要はないが、上からの續きで添へたのである。即ち初二句から水《ミ》まではコモリと言はむ爲の序詞に過ぎない。○紐解吾者《ヒモトクワレハ》――我は紐解くといふべきを、歌詞の上から倒置したのである。
〔評〕 戀の成つた歡喜の情が滿ち滿ちてゐる。かなり官能的である。寄水戀。
2704 足引の 山下とよみ 逝く水の 時ともなくも 戀ひわたるかも
(573)惡氷木乃《アシビキノ》 山下動《ヤマシタトヨミ》 逝水之《ユクミヅノ》 時友無雲《トキトモナクモ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
私ハ〔二字傍線〕(惡氷木之)山ノ麓ヲ響カセテ流レテ行ク山川ノ水ノヤウニ、時ノ區別ナク、絶エズアノ人ヲ〔七字傍線〕戀シク思ヒツヅケテヰルヨ。
○時友無雲《トキトモナクモ》――いつをその時とも無く。何時といふ時の區別なくの意。
〔評〕 上句は略解に序詞としてゐるが、譬喩として解すべきであらう。上句に戀の心の烈しさも、おのづからあらはれてゐるやうに見える。寄水戀。
2705 はしきやし 逢はぬ君ゆゑ 徒らに この川の瀬に 玉裳ぬらしつ
愛八師《ハシキヤシ》 不相君故《アハヌキミユヱ》 徒爾《イタヅラニ》 此川瀬爾《コノカハノセニ》 玉裳沾津《タマモヌラシツ》
私ハ〔七字傍線〕イトシイ貴方ニ逢ハウト思ツテ、コノ川ノ瀬ヲ渡ツテ行ツタガ、貴方ニハ〔逢ハ〜傍線〕逢ヘナイノニ、空シクコノ川ノ瀬デ、裳ヲ沾シタバカリデアツタ。
○愛八師《ハシキヤシ》――愛らしい。君につづいてゐる。○不相君故《アハヌキミユヱ》――逢はぬ君だのにの意。○玉裳沾津《タマモヌラシツ》――玉裳は裳を褒めて言つただけ。
〔評〕 前に早敷哉不相子故徒是川瀬裳襴潤《ハシキヤシアハヌコユヱニイタヅニウヂカハノセニモスソヌラシツ》(二四二九)とあるのと同歌の異傳である。これは女の歌となつてゐる。内容から言へば男の歌とすべきものらしい。寄水戀。
2706 泊瀬川 はやみ早瀬を 掬び上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも
泊湍川《ハツセガハ》 速見早湍乎《ハヤミハヤセヲ》 結上而《ムスビアゲテ》 不飽八妹登《アカズヤイモト》 問師公羽裳《トヒシキミハモ》
(泊湍川速見早湍乎結上而)イクラ親シクシテモ〔九字傍線〕飽キ足リナイヨ、オ前ト、私ニ親切ニ〔三字傍線〕言ツテ下サレタアノ御方ヨ。ソノ後打ツテ變ツテ、少シモオ出下サラナイガ、今ハドウシテイラツシヤルダラウ〔ソノ〜傍線〕。
(574)○速見早湍乎《ハヤミハヤセヲ》――早き早瀬をの意で、このハヤミは早き故にとは解し難い。前の安太人乃八名打度瀬速《アダヒトノヤナウチワタスセヲハヤミ》(二六五九)のハヤミと同樣である。ミには特種の用法があるから注意しなければならぬ。○ 結上而《ムスビアゲテ》――ムスブは掬ふこと。ここまでの三句は初瀬の清流を掬ひ上げて飲んで、飽くことがない意を以て、下につづけた序詞である。○不飽八妹登《アカズヤイモト》――アカズヤを飽きぬかどうかと解しては當らない。このヤはヨの意で、飽きないよ吾が妹よと、女に親しく呼びかけた男の聲である。○問師公羽裳《トヒシキミハモ》――問師は言問ひしの意で、言ひかけたこと。質問したのではない。
〔評〕 男の心變りを悲しんだ女の歌。泊瀬川附近の人の作であらう。新考には「作者と男と共に泊瀬川に遊びし事あるなり。其時男が早瀬の水を掬ひ上げて飲みもし、飲ませもすとて、此水ノ如ク我ニ飽カズヤイカニと問ひし事ありしが、後に其男の通はずなりしかば、トヒシ君ハモといへるなり」とあるのは從ひ難い。これは序詞の技巧が主となつてゐる歌である。結句は古事記の橘姫の歌、佐泥佐斯佐賀牟能袁怒邇毛由流肥能本那迦邇多知弖斗比斯岐美波母《サネサシサガムノヲヌニモユルヒノホナカニタチテトヒシキミハモ》を思はしめるものがある。等しく詠嘆の句であるが、これは怨恨、かれは感謝の聲である。寄水戀。
2707 青山の 石垣沼の 水こもりに 戀ひや渡らむ 逢ふよしをなみ
青山之《アヲヤマノ》 石垣沼間乃《イハガキヌマノ》 水隱爾《ミコモリニ》 戀哉將度《コヒヤワタラム》 相縁乎無《アフヨシヲナミ》
私ハ戀シイ人ニ〔七字傍線〕逢フ方法ガナイノデ、(青山之石垣沼間乃水)隱レ忍ンデ、心ノ内デ戀〔四字傍線〕シク思ツテ日ヲ送ルコトデアラウカ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
○青山之石垣沼間乃《アヲヤマノイハガキヌマノ》――青々と木の繁つた山にある、岩に圍まれた沼の意。この歌、和歌色葉集・和歌童蒙抄に載せて、オクヤマノとあるによれば、或は青は奥の誤かとも思はれるが、現存の古寫本には、さうなつてゐる異本がない。舊本、石垣沼問とある問は問の誤。嘉暦本にはさうなつてゐる。○水隱爾《ミコモリニ》――ミは上からのつづきで、添へたのみ。
(575)〔評〕序詞の結構が前の眞薦苅大野川原之水隱《マコモカルオホヌカハラノミコモリニ》(二七〇三)の歌とよく似てゐる。併しかれよりも、おとなしい上品な作である。寄水戀。
2708 しなが鳥 猪名山とよに 行く水の 名にのみよせし こもり妻はも 一云、名のみしよせて戀ひつつやあらむ
四長鳥《シナガドリ》 居名山響爾《ヰナヤマトヨニ》 行水乃《ユクミヅノ》 名耳所縁之《ナニノミヨセシ》 内妻波母《コモリヅマハモ》
(四長鳥)居名山ニ音ヲ立テテ流レル水ノヤウニ、評判バカリ高クナツテ、二人ノ關係ヲ世間デ〔高ク〜傍線〕言ヒハヤシタガ、實ハ女ハ父母ガヤカマシク監督シテ〔ガ實〜傍線〕、家ニトヂコメラレテ逢フコトノ出來ナイ彼ノ〔逢フ〜傍線〕女ハ、ソノ後ドウナツタデアラウ〔ハソ〜傍線〕ヨ。心配ナコトダヨ〔七字傍線〕。
○四長鳥《シナガドリ》――枕詞。鳰の別名。水上に居並ぶから居名《ヰナ》とつづく。七二五・一一四〇參照。○居名山響爾《ヰナヤマトヨニ》――居名山はこの歌の趣によれば、猪名川の上流の山である。即ち池田町の北方の山を指してゐるのであらう。略解に爾を彌の誤として、トヨミとあるべきだといつてゐるが、さうではあるまい。○行水之《ユクミヅノ》――行く水の如く。ここまでは吾が浮名の高いことを述べむ爲に、猪名川の高い水聲を、譬喩としたものである。○名耳所縁之《ナニノミヨセシ》――世の人が女と關係ありげに我を言ひ騷いだの意。名耳《ナニノミ》とあるから、噂のみで實際の關係はないのである。○内妻波母《コモリヅマハモ》――コモリヅマは忍び隱してある妻であるが、これは父母の守る女を言つたのであらう。ハモは詠嘆の助詞。
〔評〕 攝津の猪名地方に行はれた民謠であらう。上句の譬喩が、浮名の高いことをあらはし得て妙である。寄水戀。
一云 名耳之所縁而《ナノミシヨセテ》 戀管哉將在《コヒツツヤアラム》
これは下句の異傳で、浮名ばかり立つて、逢はれないで、徒らに戀ひつつあることかよの意である。
2709 吾妹子に 吾が戀ふらくは 水ならば しがらみ越えて 行くべくぞ思ふ 或本歌句云、相思はぬ人を思はく
(576) 吾妹子《ワギモコニ》 吾戀樂者《ワガコフラクハ》
水有者《ミヅナラバ》
之賀良三超而《シガラミコエテ》 應v逝衣思《ユクベクゾオモフ》
私ノ愛スル女ニ、私ガ戀シテ居ルコトハ、實ニ非常ナモノデ、若シ私ガ〔實ニ〜傍線〕水デアツタナラバ、川ノ〔二字傍線〕柵ヲモ乘リ超エテ、流レテ行キサウニ思ヒマス。人目モカマハナイ位ニ心ノ中デハ思ツテヰマス〔人目〜傍線〕。
○之賀良三超而《シガラミコエテ》――之賀良三《シガラミ》は川中に杙を打つて、横に竹木などを絡み付け、水を塞き止めるもの。柵。※[竹/冊]。
〔評〕 譬喩頗る巧妙。奔流のやうに塞き止め難い、戀慕の情が描き出されてゐる。寄水戀。
或本歌句云 相不思人乎念久《アヒオモハヌヒトヲオモハク》
嘉暦本その他、多くの古寫本に、歌の下、發の字があるのがよい。初二句を發句と稱したのである。前の歌の初二句にこれの句を置き換へると、少し落付きがよくない。
2710 犬上の 鳥籠の山なる いさや河 いさとを聞せ 吾が名告らすな
狗上之《イヌガミノ》 鳥籠山爾有《トコノヤマナル》 不知也河《イサヤガハ》 (577)不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》 余名告奈《ワガナノラスナ》
人ガ若シ私ノ名ヲ尋ネタナラバ〔人ガ〜傍線〕(狗上之鳥籠山爾有不知也河)知ラナイトオツシヤイマセ。私ノ名ヲオツシヤイマスナ。
○狗上之鳥籠山爾有不知也河《イヌガミノトコノヤマナルイサヤガハ》――狗上は近江犬上郡。今の彦根附近。鳥籠山は坂田郡鳥居本村の南、大字原の上方なる正法寺山。この附近を不知也河が流れてゐる。この川は大堀川とも芹川ともいふ。この上三句はイサの音を繰返して、次の句につづく序詞である。寫眞は著者撮影。○不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》――イサはいさ知らすと打消す言葉。ヲは強めていふのみ。二五をトヲに用ゐたのは戯書であり。キコセは仰せよの意。舊本、瀬を須に誤つてゐる。嘉暦本によつて改む。
〔評〕 近江地方の民謠か。女の心を歌つてゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。古今集の墨滅歌に「犬山のとこの山なるなとり川いさと答へよ吾が名もらすな」とあり、なとり川の傍に「いさやイ」と記してゐる。もとより「なとり川」は誤である。なほこの左に註して、「この歌ある人あめの帝の近江(578)の采女にたまへる」とある。寄水戀。
2711 奧山の 木の葉隱りて 行く水の 音聞きしより 常忘らえず
奧山之《オクヤマノ》 木葉隱而《コノハガクリテ》 行水乃《ユクミヅノ》 音聞從《オトキキシヨリ》 常不所忘《ツネワスラエズ》
私ハアノ人ノ事ヲ〔八字傍線〕、(奥山之木葉隱而行水乃)評判ニ聞イテカラ、戀シクテ〔四字傍線〕常ニ忘レラレナイ。
○奧山之木葉隱而行水乃《オクヤマノコノハガクリテユクミヅノ》――序詞。音とつづく。○音聞從《オトキキシヨリ》――略解にオトニキキシユとあるのも、わるくはないが、舊訓による。
〔評〕 名を聞いて慕ふ戀である。平明な作。序詞に、名のみ聞いて逢はれぬ意があらはれてゐる。寄水戀。
2712 言とくば 中はよどませ 水無河 絶ゆとふことを ありこすなゆめ
言急者《コトトクバ》 中波余騰益《ナカハヨドマセ》 水無河《ミナシガハ》 絶跡云事乎《タユトイフコトヲ》 有超名湯目《アリコスナユメ》
人ノ口ガヤカマシイナラバ、暫クソレヲ避ケル爲ニ、貴方ハ私ノ所ヘオ通ヒニナルノヲ〔暫ク〜傍線〕、一時オ止メナサイ。然シ二人ノ間ガ〔七字傍線〕(水無河)切レルコトハ決シテナイヤウニシテ下サイ。
○言急者《コトトクバ》――人の言葉が喧しいならば。○中波余騰益《ナカハヨドマセ》――舊訓ナカハヨドマシとあるが、略解にヨドマセとしたのがよい。途中で、暫く淀み給へ、即ち通ふことを一時中絶し給への意。卷四の小山田之苗代水乃中與杼爾四手《ヲヤマダノナハシロミヅノナカヨドニシテ》(七七六)のナカヨドに同じ。○水無河《ミナシガハ》――枕詞。絶ゆとつづく。水の流れない川。舊訓ミナセガハとある。水瀬河《ミナセガハ》(五九八)・水無瀬川《ミナセガハ》(二八一七)はミナセガハであらうが、水無川《ミナシガハ》(二〇〇七)の例もあるから、文字通りミナシガハとよまう。○有超名湯目《アリコスナユメ》
――あつてくれるなよ、ゆめゆめの意。
〔評〕 人言を憚つて、一時關係を中絶せむとし、しかも忘れざらむことを盟つてゐる弱々しい戀である。水無河の縁で淀むといふ語を用ゐてゐるのは、集中に珍らしい縁語の一例であらう。寄水戀。
2713 明日香河 行く瀬を早み はやけむと 待つらむ妹を この日暮しつ
(579)明日香河《アスカガハ》 逝湍乎早見《ユクセヲハヤミ》 將速登《ハヤケムト》 待良武妹乎《マツラムイモヲ》 此日晩津《コノヒクラシツ》
私ヲ〔二字傍線〕(明日香河逝湍乎早見)早ク來ル〔三字傍線〕ダラウト思ツテ、アノ〔五字傍線〕女ハ待ツテ居ルダラウニ、私ハ差シツカヘガアツテ行カレナイデ〔私ハ〜傍線〕、今日一日空シク〔五字傍線〕暮シテ終ツタ。嘸待ツテ居タラウノニ可愛サウナコトヲシタ〔嘸待〜傍線〕。
○明日香河逝湍乎早見《アスカガハユクセヲハヤミ》――ハヤと言はむ爲の序詞。明日香川の流れる河瀬が早いのでの意。○將速登《ハヤケムト》――舊訓ハヤミムトとしたのは、早見むとの意として、序詞との連絡を一艘緊密にしたのであるが、見の字がないからハヤケムトと訓むべきである。早く來らむとの意。
〔評〕 飛鳥川を渡つて通ふ男の歌らしく想像せられる。ともかく飛鳥川附近の人の歌である。結句|此日晩津《コノヒクラシツ》とあるに對して、新考は「女の評には夜こそ行くべければ、日暮れぬとて嘆くべきにあらず。されば晩津は晩糠《クレヌカ》の誤とすべし」とあるが、三句に將速登《ハヤケムト》とあるやうに、寸時も早く男の來らむことを女は待つてゐるので、男は晝中でも行かうと思つてゐたのである。その焦燥氣分があらはれてゐる。寄水戀。
2714 もののふの 八十宇治川の 早き瀬に 立ち得ぬ戀も 我はするかも 一云、立ちても君は忘れかねつも
物部乃《モノノフノ》 八十氏川之《ヤソウヂカハノ》 急瀬《ハヤキセニ》 立不得戀毛《タチエヌコヒモ》 吾爲鴨《ワレハスルカモ》
(物部乃八十氏川之急瀬)立ツテモ居ラレナイヤウナ、苦シイ〔六字傍線〕戀ヲ私ハシマスヨ。
○物部乃八十氏川之急瀬《モノノフノヤソウヂカハノハヤキセニ》――立不得《タチエヌ》につづく序詞。物部乃八十《モノノフノヤソ》は氏とつづく序詞。物部には多くの氏があるからである。○立不得戀毛《タチエヌコヒモ》――宇治川の急流に佇立し難ねる意をもつて、上からつづいてゐる。立不得《タチエヌ》とは苦しくて立つては居られぬ意。如何ともし難いこと。代匠記精撰本は「宇治川の早瀬には押流されて立がたし、其如く戀しき事を念じてしのばむとするに、しのび得がたきなり」とあるが、忍び難いばかりではないやうだ。古義に、「在不得《アリエヌ》といふに似て、立つにも居るにも得あられぬと云ほどの意なり」とあるのも、少し當らぬやうである。
(580)〔評〕 序詞が妥當適切である。寄水戀。
一云 立而毛君者《タチテモキミハ》 忘金津藻《ワスレカネツモ》
これは下の句の異傳である、立ちてもとは宇治の急流を徒渉するやうな場合でもの意か。それともこれは譬喩で、事の火急な場合にもの意か。或は後者かも知れない。原歌の方がよいやうに思はれる。
2715 神名火の 打ちたむ埼の 石淵の こもりてのみや 吾が戀ひ居らむ
神名火《カムナビノ》 打廻前乃《ウチタムサキノ》 石淵《イハブチノ》 隱而耳八《コモリテノミヤ》 吾戀居《ワガコヒヲラム》
(神名火打廻前乃石淵)人ニ〔二字傍線〕隱レテバカリ私ハアノ男ヲ〔四字傍線〕戀シテ居ラウカ。是デハ何時迄モ思ヲ遂ゲルコトハ出來ナイカラ、一層ノコト公然ト戀ヲシヨウ〔是デ〜傍線〕。
○神名火打廻前乃《カムナビノウチタムサキノ》――神名火打廻前《カムナビノウチタムサキ》は卷八に明日香河逝回岳《アスカガハユキタムヲカ》(一五五七)とあるやうに、飛鳥川の囘つてゐる雷岳の突出したところ。○石淵《イハブチノ》――飛鳥川は雷岳の麓で急に左に折れ、その邊が岩床になつて淵をなしてゐる。第二冊卷頭「雷岳とその麓を流れる飛島川」の寫眞參照。ここまでの三句は隱《コモリ》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 石垣淵の隱《コモ》りとつづいた例は、二〇七・二五〇九・二七〇〇などにあり、石垣沼の水隱《ミコモ》りといつたのも二七〇七にあるから、この序詞は類型的のものである。飛鳥附近の人の歌であらう。寄水戀。
2716 高山よ 出で來る水の 岩に觸り 破れてぞ念ふ 妹に逢はぬ夜は
自高山《タカヤマヨ》 出來水《イデクルミヅノ》 石觸《イハニフリ》 破衣念《ワレテゾオモフ》 妹不相夕者《イモニアハヌヨハ》
私ハ〔二字傍線〕戀シイ女ニ逢ハレナイ晩ハ、(自高山出來水石觸)色々ニ物ヲ思ツテ悲シム〔四字傍線〕ヨ。
○日高山出來水石觸《タカヤマヨイデクルミヅノイハニフリ》――破《ワレテ》と言はむ爲の序詞。意は明らかである。高山をカグヤマと訓む説はわるい。○破衣念《ワレテゾオモフ》――ワレテは摧けて。いろいろに心を摧くこと、この語は伊勢物語「男われて〔三字傍点〕逢はむといふ。女もはた逢は(581)じとも思へらず」などの用例は、強ひて、無理になどの意であるが、ここはその意はないやうである。
〔評〕 卷十に雨零者瀧都山川於石觸君之摧情者不持《アメフレバタギツヤマカハイハニフリキミガクダカムココロハモタジ》(二三〇八)と類想であるが、自高山出來《タカヤマヨイデクル》が激流を思はしめて、まことによく出來てゐる。詞花集の「瀬を早み岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ」は或はこれに傚つた作か。破れてもを強ひての意に用ゐ、且、逢はむの縁語としてあるのは、平安朝式技巧である。寄水戀。
2717 朝東風に 井堤越す浪の せてふにも 逢はぬものゆゑ 瀧もとどろに
朝東風爾《アサコチニ》 井堤超浪之《ヰデコスナミノ》 世蝶似裳《セテフニモ》 不相鬼故《アハヌモノユヱ》 瀧毛響動二《タギモトドロニ》
私ハアノ女ニ〔六字傍線〕(朝東風爾井提越浪之)逢フト云フホドモ逢ハナイノニ、丁度〔二字傍線〕瀧ノ水〔二字傍線〕ガドウドウト〔五字傍線〕音スルヤウニ、ヤカマシク人ニ評判ヲ立テラレルヨ。困ツタモノダ〔ヤカ〜傍線〕。
○朝東風爾井堤超浪之《アサコチニヰデコスナミノ》――朝吹く東風の爲に波が起つて井堰を越す意で瀬につづいてゐる。○世蝶似裳《セテフニモ》――舊訓はセテフニモとあるが意が通じない。和歌童蒙抄・類聚古集・古葉略類聚鈔などタヤスニモとあるのは、これが古點であつたのである。世蝶を童蒙抄は田螺の誤として、タツヒニモ、考は蝶を越の誤でセコシニモか又は染の誤でヨソメニモかといひ、宣長は且蛾津裳の誤でカツカツモかといひ、古義は左也蚊似裳として、サヤカニモと訓み、略解補正は正蝦に改めて、マサカニモかと言つてゐる、新考は齒束に改めて、ハツカニモの誤であらうとし、新訓は補正に從つて、マサカニモとよんでゐる、いづれも諾なひ難いもので、しかも予に會心の訓を得ないのは遺憾である。蝶の字は集中、他に用例がないから多分誤字であらう。古葉略類聚妙は※[土+渫の旁]のやうな字になつてゐる。これは(垣)であるが、ここには當はまらぬやうであり、又他の用例もない。これに類似した文字では、※[牀の木が蝶の旁]が木綿※[牀の木が蝶の旁]《ユフダタミ》(三一五一)と用ゐてある。これは札《フダ》といふ字でここには當らぬやうだ。止むなく舊訓に從ふことにし、瀬といふほどにもの意とする、逢瀬があつたといふほどにもと譯しても同じである 但しトイフを約めてテフといふのは平安朝からで、本集ではチフ又はトフといふのが常であるが、他によい訓がないから、しばらくかうして置く。なほ攻究すべきである。○不相鬼故《アハヌモノユヱ》――逢はぬものなるにの意。宣長は鬼を兒の誤として(582)アハヌコユヱニかといつてゐる。○瀧毛響動二《タギモトドロニ》――瀧の響くやうに人が言ひ騷ぐといふのを略したのである。
〔評〕 卷十朝井代《アサヰデ》(一八二三)ともあるが、序詞は何となく爽やかな語感を持つてゐる。結句の瀧毛響動二《タギモトドロニ》は井提越浪《ヰデコスナミ》に對して、縁語的に用ゐられ、又巧な省略法でもある。かなり技巧的に進歩した作と言はねばならぬ。寄水戀。
2718 高山の 石本たぎち 逝く水の 音には立てじ 戀ひて死ぬとも
高山之《タカヤマノ》 石本瀧千《イハモトタギチ》 逝水之《ユクミヅノ》 音爾者不立《オトニハタテジ》 戀而雖死《コヒテシヌトモ》
私ハ〔二字傍線〕焦レ死シヨウトモ、(高山之石本瀧千逝水之)口ニ出シテアノ人ノ〔四字傍線〕名ヲ顯ハスマイ。
○高山之石本瀧千逝水之《タカヤマノイハモトタギチユクミヅノ》――音と言はむ爲の序詞。
〔評〕 どこまでも隱さうとする戀で、女の歌らしい。序詞はいかにも烈しさうな音らしく作られてゐる。古今集「吉野川岩切り通し行く水の音にはたてじ戀ひは死ぬとも」・「山高みしたゆく水のしたにのみ流れてこひむ戀ひは死ぬとも」などはこれに似てゐる。寄水戀。
2719 隱沼の 下に戀ふれば 飽き足らず 人に語りつ いむべきものを
隱沼乃《コモリヌノ》 下爾戀者《シタニコフレバ》 飽不足《アキタラズ》 人爾語都《ヒトニカタリツ》 可忌物乎《イムベキモノヲ》
(隱沼乃)心ノ内デ人目ヲ忍ンデ〔六字傍線〕戀シテ居ルノデハ、飽キ足ラナイノデ、慎マネバナラヌコトダノニ、人ニ私ノ戀ヲ〔四字傍線〕語ツテシマツタ。トンダコトヲシタ〔八字傍線〕。
○隱沼乃《コモリヌノ》――枕詞。下につづく。隱沼の水が草に蔽はれて、表にあらはれず下に流れるからである。隱沼乃《コモリヌノ》(二〇一)參照。
〔評〕 うかうかと戀を人に語つた悔の歌である。前の隱沼從裏戀者無乏妹名告忌物矣《コモリヌノシタユコフレバスベヲナミイモガナノリツユユシキモノヲ》(二四四一)と酷似してゐる。寄水戀。
2720 水鳥の 鴨の住む池の 下樋なみ いぶせき君を 今日見つるかも
(583) 水鳥乃《ミヅトリノ》 鴨之住池之《カモノスムイケノ》 下樋無《シタヒナミ》 鬱悒君《イブセキキミヲ》 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
私ガ逢ヒタサニ心モ〔九字傍線〕(水鳥乃鴨之住池之下樋無)鬱々トシテ戀シテ〔三字傍線〕ヰタ貴方ニ今日逢ツタヨ。嬉シイコトダ〔六字傍線〕。
○水鳥乃鴨之住池之下樋無《ミヅトリノカモノスムイケノシタヒナミ》――欝悒《イブセキ》につづく序詞。水鳥乃は鴨の枕詞。下樋は地中に設けた樋。ここは池の水を引く爲に土中に埋めた樋である。下樋なき池水は、流れ出る方がないので、イブセキにつづけたのである。舊本、樋を桶に誤つてゐる。類聚古本その他の古寫本、樋に作るによつた。○欝悒君《イブセキキミヲ》――逢はうと思つても逢はれないで、心の晴れない、戀しい君をの意。○今日見鶴鴨《ケフミツルヵモ》――舊本、今を令に誤る。類聚古集によつて改む。
〔評〕 久しい煩悶を重ねて、漸く逢ひ得た歡喜の聲である。序詞は巧に出來てゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。寄水戀。
2721 玉藻刈る 井提のしがらみ 薄みかも 戀の淀める 吾がこころかも
玉藻苅《タマモカル》 井提乃四賀良美《ヰデノシガラミ》 薄可毛《ウスミカモ》 戀乃余杼女留《コヒノヨドメル》 吾情可聞《ワガココロカモ》
私ノ戀ガ顯ハレテ世間ノ人ニ知ラレテシマツタガ、ソレハ〔私ノ〜傍線〕(玉藻刈井提乃四賀良美)塞留メル忍耐心ガ〔八字傍線〕薄イ爲ニ洩レタ〔五字傍線〕ノカ、ソレトモ〔四字傍線〕私ノ心ノ戀シサガ滿チ滿チテ、自然ト洩レ〔六字傍線〕タノデアラウカヨ。アア困ツタコトダ〔八字傍線〕。
○玉藻苅井提乃四賀良美《タマモカルヰデノシガラミ》――序詞。薄《ウスミ》につづいてゐるが、この序詞は玉藻を刈る井堰の※[竹/冊]のやうに、塞き留める心がの意であるから、譬喩の意もあるのである。○薄可毛《ウスミカモ》――この句で切つて、この下に、洩れたのであらうかといふ意が含まれてゐる。○戀乃余杼女留《コヒノヨドメル》――言急中波余騰益《コトトクバナカハヨドマセ》(二七一二)の如く、途中で中絶することであるが、ここは戀の心が湛へて溢れる意に用ゐてゐるやうだ。
〔評〕 少し分りにくい歌である。三句切か四句切かによつて解釋も變つて來る。ここは三句切、四五とつづくと見た宣長説に從つた。初二句の序詞が四句にも響いて、ヨドメルといふ語が用ゐられてゐる。寄水戀。これで水に關するものに寄せた歌は終つてゐる。
2722 吾妹子が 笠のかりての 和※[斬/足]野に 我は入りぬと 妹に告げこそ
(584) 吾妹子之《ワギモコガ》 笠乃借手乃《カサノカリテノ》 和射見野爾《ワザミヌニ》 吾者入跡《ワレハイリヌト》 妹爾告乞《イモニツゲコソ》
(吾妹子之笠乃借手乃)和射見野ニ私ガ來タト云フコトヲ、豪ニ留守居シテ居ル〔云フ〜傍線〕妻ニ告ゲテクレヨ。
○吾妹子之笠乃借手乃《ワギモコガカサノカリテノ》――吾が妹が冠る笠の借手の輪とつづいて、和射見《ワザミ》の序詞となつてゐる。借手《カリテ》は笠の内側の頭に當たる部分に付けた輪。○和射見野爾《ワザミヌニ》――和射見野は和※[斬/足]野。今の美濃關が原。和射見我原《ワザミガハラ》(一九九)・和射美能嶺《ワザミノミネ》(二三四八)ともある。
〔評〕 旅中の作である。考には「旅立し時か歸を時か何れにても有べし」とあるが、旅立した時のらしく思はれる。他の歌のやうに戀情を直接に表現してないが、初二句の序詞に、家なる妻を思ふ情が悲しくあらはれてゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる、寄野戀。
2723 數多あらぬ 名をしも惜しみ 埋木の 下ゆぞ戀ふる 行方知らずて
數多不有《アマタアラヌ》 名乎霜惜三《ナヲシモヲシミ》 埋木之《ウモレギノ》 下從其戀《シタユゾコフル》 去方不知而《ユクヘシラズテ》
行末ドウナルト〔五字傍線〕モ分ラズニ、途方ニクレナガラ〔八字傍線〕、一ツシカナイ名ヲ汚スノヲ〔四字傍線〕惜シク思ツテ、(埋木之)人目ヲ忍ンデ〔六字傍線〕心ノ内デ戀ヒ慕ツテ居ル。
○數多不有《アマタアラヌ》――數多あらぬ名とは、略解に「吾身一つに二つなき名なるをもてあまたあらぬ名と言へり」とある通りであらう。自分の身に對する世評は、一度汚す時は又取返すことは出來ない意である。○埋木之《ウモレギノ》――枕詞。土の下に埋れたものであるから、下に冠してある。○去方不知而《ユクヘシラズテ》――行くべき方を知らずしての意ではなく、行く末が分らないといふのである。
〔評〕 戀の歌に名を惜しむと詠んだのは尠くはないが、これには上代人が名聲を重んじた風習が特にはつきりと出てゐるやうである。宣長が三句から五句へつづくやうに見たのは當らない。さうした調子になつてゐない。和歌童蒙抄にのせてゐる。寄埋木戀。
2724 秋風の 千江の浦みの 木づみなす 心はよりぬ 後は知らねど
(585)冷風之《アキカゼノ》 千江之浦廻乃《チエノウラミノ》 木積成《コヅミナス》 心者依《ココロハヨリヌ》 後者雖不知《ノチハシラネド》
秋風ノ吹ク〔二字傍線〕千江ノ浦ノ海岸ノ、風ノ爲ニ吹キ寄セラレタ〔風ノ〜傍線〕木屑ノヤウニ、私ハアナタニ〔六字傍線〕心ガ寄リマシタ。行末ハドウナルカ分ラナイケレドモ、カマハナイデ只管貴方ヲ思ツテヰマス〔カマ〜傍線〕。
○冷風之《アキカゼノ》――從來枕詞と考へられて來たが、下へのつづきが分らない。續冠辭考にはアキカゼヲと改めて、秋風を待得といふを千江にかけたと言つてゐる。なほ千は風の名で、秋風を千と受けたのだらうとする一説をあげ、「風をはじめより知といひ出る例なし」といつて、これを否定してゐる。寧ろ秋風の吹く意とすべきであらう。○千江之浦回乃《チエノウラミノ》――千江の浦の所在不明。八雲御抄には石見とある。略解には江は沼の誤で和泉の茅渟の浦だらうとしてゐる。○木積成《コヅミナス》――木積の如く。木積《コヅミ》は木の屑、塵芥。
〔評〕 上句の譬喩が巧である。西吹く風に後から後からと、濱邊に打ち上げられて來る木屑は、戀しい人に引きよせられて行く、自分の心の姿のやうに思はれるのである。寄木積戀。
2725 白まなご 三津のはにふの 色に出でて 云はなくのみぞ わが戀ふらくは
白細砂《シラマナゴ》 三津之黄土《ミツノハニフノ》 色出而《イロニイデテ》 不云耳衣《イハナクノミゾ》 我戀樂者《ワガコフラクハ》
私ガ戀シテ居ルコトハ、(白細砂三津之黄土)顔色ニ出シテ言ハナイダケノコトダ。心ノ中デハ非常ニ焦レテ居ルノダ〔心ノ〜傍線〕。
○白細砂《シヲマナゴ》――枕詞。代匠記精撰本「白き細砂の滿と云意に三津とはつづけたる歟」とあるのがよいか。略解には砂は紗か布の誤でシロタヘノであらう。さうしてミはマ、ツはツチの略で白栲の眞土と言ひかけたものとしようかと言つた眞淵の説を擧げてゐる。古寫本中、砂を「妙イ」と記したものが多く、和歌童蒙抄も、この歌を掲げてシロタヘノとしてゐる。○三津之黄土《ミツノハニフノ》――三津は住吉の三津の濱であらう。岸の黄土《ハニフ》で有名である。 ここまでの二句は色出而《イロニイデテ》と言はむ爲の序詞。
(586)〔評〕 かういふ内容の歌は他にも尠くない。しかし四五の句の言ひ方に力が籠つてゐる。寄黄土戀。
2726 風吹かぬ 浦に浪立つ 無き名をも 我は負へるか 逢ふとはなしに 一云、女と思ひて
風不吹《カゼフカヌ》 浦爾浪立《ウラニナミタツ》 無名乎《ナキナヲモ》 吾者負香《ワレハオヘルカ》 逢者無二《アフトハナシニ》
風ノ吹カナイノニ〔二字傍線〕海岸ニモ波ガ立ツガ、ソノヤウニ〔六字傍線〕、私ハ戀人ニ〔三字傍線〕逢ヒモシナイノニ、無實ノ浮〔三字傍線〕名ヲ負ハセラレタヨ。殘念ナコトダ〔六字傍線〕。
○風不吹浦爾浪立《カゼフカヌウラニナミタツ》――風の吹かない海岸に浪が立つ、そのやうにの意である。ナミタチと訓む説は採らない。○無名乎《ナキナヲモ》――モに當る文字はないが、舊訓に從ふ。考は毛を補つて、「毛は一本による」とあるが、校本萬葉集にはさうした本について記してゐない。○吾者負香《ワレハオヘルカ》――カはカナの意。
〔評〕 人に逢はずして浮名の立つのを、風吹かずして浪が立つのに譬へたのは實に巧妙である。さうして初二句は、譬喩のやうな形式を採らずして、譬喩になつてゐるのもよい。古今集の「かねてより風にさきたつ浪なれやあふことなきにまだき立つらむ」はこれと同想である。寄海戀。
一云 女跡念而《ヲミナトモヒテ》
是は第五句の異傳か。訓はヲトメトオモヒテと古本にあるが、代匠記初稿本は上に脱字あるかとし、或はこのままで、ナンヂトオモヒテかと言つてゐる。略解は逢の字をそのままとして、下にこれを補ひ「アハメトオモヒテと有しにや」と言つてゐる。文字通りヲミナトモヒテと訓むべきであらう。或は佛足石歌躰の第六句かとも思はれるが、それでも落着が惡いやうである。
2727 菅島の 夏身の浦に 寄する浪 間も置きて 吾が念はなくに
酢蛾島之《スガシマノ》 夏身乃浦爾《ナツミノウラニ》 依浪《ヨスルナミ》 間文置《アヒダモオキテ》 吾不念君《ワガオモハナクニ》
(酢蛾島之夏身乃浦爾依浪)聞ヲ置イテ私ハアノ人ヲ〔四字傍線〕思ヒハシナイヨ。始終絶エ間ナク思ヒツヅケテ居ル〔始終〜傍線〕。
(587)○酢蛾島之夏身乃浦爾依浪《スガシマノナツミノウラニヨスルナミ》――序詞で、下には間も置かずといふ意でつづいてゐる。酢蛾島《スガシマ》は所在不明。鳥羽港の前面、鳥羽灣の南側に菅島がある。或はそこか。略解には「或人は今阿波と紀伊の間にすが島といふ有とも言へり」と記してゐるが疑はしい。夏身乃浦《ナツミノウラ》もわからない。
〔評〕 地名さへ改めれば、何處へでも當嵌るやうな歌で、感興が薄い。寄海戀。
2728 淡海の海 沖つ島山 おくまへて 吾が念ふ妹が 言の繁けく
淡海之海《アフミノミ》 奧津島山《オキツシマヤマ》 奧間經而《オクマヘテ》 我念妹之《ワガモフイモガ》 言繁苦《コトノシゲケク》
(淡海之海奧津島山)心深ク私ガ戀シテ居ル女ヲ、人ガ〔二字傍線〕兎ヤ角ト言ヒ騷グ。ドウモ困ツタモノダ〔九字傍線〕。
○奧間經而《オクマヘテ》――奥深くの意。マヘはメの延言。○言繁苦《コトノシゲケク》――舊本、苦の字がない。嘉暦本による。
〔評〕前の淡海奥島山奥儲吾念妹事繁《アフミノミオキツシマヤマオクマケテワガモフイモガコトノシゲケク》(二四三九)と殆ど同歌であり、卷六に長門有奥津借島奥眞經而吾念君者千歳爾母我毛《ナガトナルオキツカリシマオクマヘテワガモフキミハチトセニモガモ》(一〇二四)とも同型である。寄海戀。
2729 霰降り 遠つ大浦に 寄する浪 よしも寄すとも 憎からなくに
霰零《アラレフリ》 遠津大浦爾《トホツオホウラニ》 緑浪《ヨスルナミ》 縱毛依十方《ヨシモヨストモ》 憎不有君《ニクカラナクニ》
私ハ浮名ヲ立テラレルノハイヤダガ〔私ハ〜傍線〕、憎カラヌ貴方故〔三字傍線〕ダカラ(霰零遠津大浦爾緑浪)タトヒ人ガ〔二字傍線〕言ヒ騷イデモカマハナイ〔五字傍線〕。
○霰零《アラレフリ》――枕詞。霰の降る音がとほとほ〔四字傍点〕と聞えるので、遠津に冠するのであらう。丸雪降遠江《アラレフリトホツアフミノ》(一二九三)參照。○遠津大浦爾《トホツオホウラニ》――遠つ淡海にある大浦にの意であらう。遠津《トホツ》を紀伊の地名とするのは當るまい。大浦は近江伊香郡で、菅浦の奥にあるところである。○緑浪《ヨスルナミ》――ここまでの三句は、ヨスと言はむ爲の序詞。○縱毛依十方《ヨシモヨストモ》――ヨシは縱令《タトヒ》の意。モは強めて言ふのみ。ヨストモは人が私とあの人とを關係ありと言ひ騷ぐともの意。この下に、厭はぬといふやうな意を補つて、この句で切つて見るべきであらう。古義に毛を惠《ヱ》の誤かと言つてゐ(588)る。
〔評〕 これも上句の地名はどうでも替へられるが、下句は投げ棄てたやうな態度が、力の籠つた表現になつてゐる、寄海戀。
2730 紀の海の 名高の浦に 寄する浪 音高きかも 逢はぬ子故に
木海之《キノウミノ》 名高之浦爾《ナタカノウラニ》 依浪《ヨスルナミ》 音高鳧《オトタカキカモ》 不相子故爾《アハヌコユヱニ》
未ダ一度モ〔五字傍線〕逢ツタコトモ無イ女ダノニ、アノ女ノ爲ニ〔六字傍線〕(木海之名高之浦爾依浪)評判高ク言ヒ騷ガレルヨ。バカラシイ〔五字傍線〕。
○木海之名高之浦爾依浪《キノウミノナタカノウラニヨスルナミ》――紀の海の名高の浦に寄する浪。音とつづいて序詞となつてゐる、名高之浦は紀伊海草郡内海町附近の海。紫之名高浦之《ムラサキノナタカノウラノ》(一三九二)參照。
〔評〕 序詞から音高と受けてゐるのも、名高といふ地名も、如何にも浮名が高さうに思はれるやうに用ゐられてゐる。寄海戀。
2731 牛窓の 浪の潮さゐ 島響み よせてし君に 逢はずかもあらむ
牛窓之《ウシマドノ》 浪乃鹽左猪《ナミノシホサヰ》 島響《シマトヨミ》 所(589)依之君《ヨセテシキミニ》 不相鴨將有《アハズカモアラム》
牛窓ト云フ所〔四字傍線〕ノ浪ノ潮ノ騷ガ、ドウドウト〔五字傍線〕島ヲ響カセルヤウニ、音高ク人ガ私トノ〔八字傍線〕關係ヲ言ヒ騷イダ貴方ニ、私ハ〔二字傍線〕逢ハズニ置カウカ。アンナ評判ヲ立テラレタ上ハ、是非トモ逢ハズニハ置カヌ〔アン〜傍線〕。
○牛窓之《ウシマドノ》――備前邑久郡にある港。○浪乃鹽左猪《ナミノシホサヰ》――鹽左猪《シホサヰ》は汐の騷ぎ鳴ること。四二・三八八などもある。○島響《シマトヨミ》――島が汐さゐに鳴り響くばかりに、甚だしく音高くの意。牛窓の前方には前島・黒鳥・黄島などの島がある。○所依之君《ヨセテシキミニ》――文字のままに舊訓のやうにヨラレシとでも訓みたいが、それでは語をなさないから、代匠記精撰本に從つて置く。新訓にはヨソリシとあるが、よそるは寄る又は靡く意であるから、當嵌るまい。
〔評〕 牛窓の浦の實景が目に見えるやうに描かれて、珍らしい譬喩である。この地方の民謠か。寄海戀。
2732 沖つ波 邊浪の來よる 左太の浦の このさだ過ぎて 後戀ひむかも
奥波《オキツナミ》 邊浪之來縁《ヘナミノキヨル》 左太能浦之《サダノウラノ》 此左太過而《コノサダスギテ》 後將戀可聞《ノチコヒムカモ》
(奧波邊浪之來縁左太能浦之)コノ今ノ〔二字傍線〕時ヲ過ギテ、コノ機ヲ逸シテ、人ニ逢ヘナイデ私ハ〔コノ〜傍線〕後デ人ヲ戀シク思フデアラウヨ。
○左太能浦之《サダノウラノ》――左太の浦は和泉にも出雲にもあるといふが、よくわからない。伊豫の佐田岬・土佐の蹉※[足+它]岬なども擧げられてゐるが、それらしくもない。卷十二にも貞能?《サダノウラ》(三〇二九)・貞浦《サダノウラ》(三一六〇)と出てゐるから、名高いところであらう。ここまでの上三句は序詞で、次の左太《サダ》につづいてゐる。○此左太過而《コノサダスギテ》――サダは時の古言。この今の時を過ぎて、女に逢つたこの時を逸しての意。宣長はさだすぎてとは、人の齡の盛過ぎたことだと言つて、此をカクと訓んでゐるが、無理のやうである。
〔評〕 好機を得ながら女に逢ひかねてゐる、いらだたしさを詠んだもの。卷十二に奥浪邊浪之來依貞浦乃此左太過而後將戀鴨《オキツナミヘナミノキヨルサダノウラノコノサダスギテノチコヒムカモ》(三一六〇)は同歌である。寄海戀。
2733 白浪の 來寄する島の 荒礒にも あらましものを 戀ひつつあらずは
(590) 白浪之《シラナミノ》 來縁島乃《キヨスルシマノ》 荒礒爾毛《アリソニモ》 有申物尾《アラマシモノヲ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》
戀シク思ツテ苦シンデ〔四字傍線〕居ナイデ、寧ロ私ハ〔四字傍線〕白波ガ打寄セテ來ル島ノ、荒礒デモアリタイモノダ。アンナ心ノ無イ荒礒デアツタナラバ、何ノ心配モナクテ嘸ヨカラウ〔アン〜傍線〕。
○荒礒爾毛有申物尾《アリソニモアラマシモノヲ》――荒礒でもありたいものを。口譯に「波の寄せて來る島の荒い岩濱にでも、行つて居た方がましである。」と解してゐるのは珍らしい説だ。言葉としてはさうも解き得るが、それは他の例に合はぬやうである。
〔評〕 何故に荒礒たらむと望むのか、わからない。略解には「おそろしくなつかしげなき荒礒と成てもあらむものをと言ふ也」とあるが當らぬやうである。古義に從つておいた。想は天外より落つる底のものであるが、形式は類型的である。寄海戀。
2734 潮滿てば 水沫に浮ぶ まなごにも 我は生けるか 戀ひは死なずて
鹽滿者《シホミテバ》 水沫爾浮《ミナワニウカブ》 細砂裳《マナゴニモ》 吾者生鹿《ワレハイケルカ》 戀者不死而《コヒハシナズテ》
鹽ガ滿チテ來ルト、沫ト一緒〔三字傍線〕ニ浮ビ上ル砂ノヤウニ、私ハ戀シイナガラモ〔七字傍線〕焦レ死モシナイデ、漂ヒナガラ〔五字傍線〕生キテ居ルコトヨ。シカシ、ヤガテハ焦レ死スルデアラウヨ〔シカ〜傍線〕。
○水沫爾浮《ミナワニウカブ》――水沫と共に浮ぶ。○細砂裳《マナゴニモ》――細砂の如くにも。○吾者生鹿《ワレハイケルカ》――舊訓ワレハナリシカ、代匠記精撰本にワレハナレルカとあるが、略解に從つた。カはカナの意。
〔評〕 汐がさして來ると、水沫と一緒に細砂が水面に浮んで見える。しかしそれは暫くの間で、やがて水中に没し去るであらう。そのやうに私の命もはかないものだ。やがては戀の爲に死ぬのではあるまいかといふので、實に嶄新な、さうして適切な譬喩である。寄海戀。
2735 住吉の 岸の浦みに しく浪の しくしく妹を 見むよしもがも
(591)住吉之《スミノエノ》 城師乃浦箕爾《キシノウラミニ》 布浪之《シクナミノ》 數妹乎《シクシクイモヲ》 見因欲得《ミムヨシモガモ》
私ハ〔二字傍線〕(住吉之城師乃浦箕爾布浪之)何度モ繁々ト、戀シイ〔三字傍線〕女ヲ見ルコトガ出來レバヨイガナア。逢ハレナイノハツライ〔逢ハ〜傍線〕。
○城師乃浦箕爾《キシノウラミニ》――住吉の岸はあの地方の名所。集中に屡々よまれてゐる。浦箕《ウラミ》は浦囘。これでウラワ・ウラマよりもウラミの訓が正しいことがわかる。○布浪之《シクナミノ》――頻る浪のに同じ。ここまでは數《シクシク》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 これに似た序詞も内容も、集中に多く見える。就中卷十二|霍公鳥飛幡之浦爾敷浪之屡君乎將見因毛鴨《ホトトギストバタノウラニシクナミノシバシバキミヲミムヨシモガモ》(三一六五)は最も酷似してゐる。寄海戀。
2736 風をいたみ いたぶる浪の 間無く 吾が念ふ君は 相念ふらむか
風緒痛《カゼヲイタミ》 甚振浪能《イタブルナミノ》 間無《アヒダナク》 吾念君者《ワガオモフキミハ》 相念濫香《アヒオモフラムカ》
(風緒痛甚振浪能)絶エ間ナク始終〔二字傍線〕私ガ思ヒ焦レテ居ル貴方ハ、私ガ貴方ヲ思フヤウニ、私ヲ〔私ガ〜傍線〕思ツテ居ルダラウカ。ドウデアラウ〔六字傍線〕。
○風緒痛甚振浪《カゼヲイタミイタブルナミノ》――甚振《イタブル》は文字通り、甚《イタ》く振るで、波の烈しく立つことである。卷十四に奈美乃保能伊多夫良思毛與伎曾比登里宿而《ナミノホノイタブラシモヨキゾヒトリネテ》(三五五〇)とある。この二句は序詞で、間無《アヒダナク》とつづいてゐる。
〔評〕 絶え間なく思ふこころを、浪に譬へた歌は多いが、これは洵に巧に且、新味を帶びて用ゐられてゐる。寄海戀。
2737 大伴の 三津の白浪 間無く 吾が戀ふらくを 人の知らなく
大伴之《オホトモノ》 三津乃白浪《ミツノシラナミ》 間無《アヒダナク》 我戀良苦乎《ワガコフラクヲ》 人之不知久《シラナク》
(大伴之三津乃白浪)絶間ナク始終〔二字傍線〕私ガ戀シテ居ルコトヲ、アノ〔二字傍線〕人ガ知ラナイ。是程ニ思ツテ居ルノガ、先方ニ(592)通ジナイトハナサケ無イ〔是程〜傍線〕。
○大伴之三津乃白浪《オホトモノミツノシラナミ》――間無《アヒダナク》の序詞。大伴の三津は難波の津。大伴乃御津濱松《オホトモノミツノハママツ》(六三)參照。
〔評〕 前の歌と同想同型である。難波は當時普く人の知る海であるから、序詞として用ゐられたものであらう。序詞としては前の者に劣つてゐる。寄海戀。
2738 大船の たゆたふ海に 碇おろし 如何にせばかも 吾が戀ひやまむ
大船乃《オホフネノ》 絶多經海爾《タユタフウミニ》 重石下《イカリオロシ》 何如爲鴨《イカニセバカモ》 吾戀將止《ワガコヒヤマム》
(大船乃絶多經海爾重石下)ドウシタナラバ、私ノコノ〔二字傍線〕戀ガ止ムデアラウカ。コンナニ戀シテ居テハ苦シクテタマラナイ〔コン〜傍線〕。
○大船乃絶多經海爾重石下《オホフネノタユタフウミニイカリオロシ》――大船が浪に搖られ漂ふ海中に碇を下しての意でイカの音を繰返して、何如爲鴨《イカニセバカモ》につづいた序詞。
〔評〕 前に大船香取海慍下何有人物不念有《オホフネノカトリノウミニイカリオロシイカナルヒトカモノオモハザラム》(二四三六)とあるのと同型である。この歌、和歌童蒙抄に載せてある、寄海戀。
2739 みさご居る 沖の荒礒に よする浪 行方も知らず 吾が戀ふらくは
水沙兒居《ミサゴヰル》 奧麁礒爾《オキノアリソニ》 縁浪《ヨスルナミ》 往方毛不知《ユクヘモシラズ》 吾戀久波《ワガコフラクハ》
私ガ戀ヲシテ居ルコノ戀〔三字傍線〕ハ(水沙兒居奧麁磯爾縁浪)行末ドウナルトモ分ラナイ戀ダ〔二字傍線〕。
○水沙兒居奧麁礒爾縁波《ミサゴヰルオキノアリソニヨスルナミ》――水沙兒《ミサゴ》は雎鳩。荒礒に棲む鳥。三六二參照。この三句は序詞。往方毛不知《ユクヘモシラズ》につづく。○往方毛不知《ユクヘモシラズ》――浪について用ゐた例は、不知代經浪乃去邊白不母《イサヨフナミノユクヘシラズモ》(二六四)・因來浪之逝方不知毛《ヨリクルナミノユクヘシラズモ》(一一五一)などがある。ここは今後どうなるとも分らぬといふので、どうなるか途方にくれてゐるといふ意である。
〔評〕 第三句にヨスルナミを置いて序詞を作つた歌は、二七二七・二七二九・三七三〇などにあつて、いづれも同(593)一構想に過ぎない。それらの中ではこの歌が材料に於て多少趣をことにしてゐる。下句は前の下從其戀去方不知而《シタユゾコフルユクヘシラズテ》(二七二三)にも少しく似てゐるが、新古今集「由良の戸を渡る舟人かぢを絶え行く方もしらぬ戀のみちかな」は、これに傚つたものらしく思はれる。寄海戀。
2740 大船の 舳にも艫にも 寄する浪 よすとも我は 君がまにまに
大船之《オホフネノ》 舳毛艫毛《ヘニモトモニモ》 依浪《ヨスルナミ》 依友吾者《ヨストモワレハ》 君之任意《キミガマニマニ》
世間ノ人ガ私ヲアナタニ關係ガアルヤウニ言ヒ〔世間〜傍線〕(大船之舳毛艫毛依浪)寄セテモ、私ハカマハナイ。タダ〔七字傍線〕アナタノオ心ニ任セテ、アナタニオスガリシテヰ〔テア〜傍線〕マセウ。
○大船之舳毛艫毛依浪《オホフネノヘニモトモニモヨスルナミ》――同音を繰返して、依《ヨス》とつづく序詞。○依友吾者《ヨストモワレハ》――人が君を我に言ひ寄するとも我はの意。古義に「船の舳にも艫にも、波のよする如く、此方《ココ》よりも彼方《ソコ》よりもさまざまに、いひよせらるれども、よしやさばれ、あだし心をわれはもたず、君が意に任せ侍らむ、となり」とあるのは全然誤つてゐる。
〔評〕 舳にも艫にも寄する浪といつたのは、如何にも大きい船らしくて、巧妙な序詞である。これも前の歌と同一型であるが、面白く出來てゐる。寄海戀。
2741 大海に 立つらむ浪は 間あらむ 君に戀ふらく 止む時もなし
大海二《オホウミニ》 立良武浪者《タツラムナミハ》 間將有《アヒダアラム》 公二戀等九《キミニコフラク》 止時毛梨《ヤムトキモナシ》
大海ニ立ツ波ハ何時デモ止マナイモノダガ、ソレデモ時ニハ立タナイ〔何時〜傍線〕間ガアルデアラウ。私ガ貴方ニ戀シテ居ルノハ決シテ〔三字傍線〕止ム時ハサイ。
〔評〕 これは序詞でもなく、枕詞でもなく、亦譬喩でもなく、間なく立つ波と對照せしめて、吾が戀の心の止まぬをあらはしてゐる。寄物の歌にも稀にかうしたものがある。三句切の歌。寄海戀。
2742 志珂の海人の 烟たき立てて やく鹽の 辛らき戀をも 我はするかも
(594)壯鹿海部乃《シカノアマノ》 火氣燒立而《ケブリタキタテテ》 燎鹽乃《ヤクシホノ》 辛戀毛《カラキコヒヲモ》 吾爲鴨《ワレハスルカモ》
(牡鹿海部乃火氣燒立而燎鹽乃)辛《カラ》イ戀ヲ私ハスルコトカナア。
○牡鹿海部乃火氣燒立而燎鹽乃《シカノアマノケブリタキタテテヤクシホノ》――辛《カラキ》と言はむ爲の序詞。牡鹿は筑前の志珂島。この島の海人は前の志賀乃白水郎之鹽燒衣《シカノアマノシホヤキゴロモ》(二六二二)・卷十二の思香乃白水郎乃釣爲燭有《シカノアマノツリストモセル》(三一七〇)など集中に例が多い。○辛戀毛《カラキコヒヲモ》――辛きは苦しくつらきをいふ。
〔評〕 戀の心のつらさを燒く鹽に譬へたのは古今ともに多い。集中では、卷十五の之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能可良伎孤悲乎母安禮波須流香母《シカノアマノヒトヒモオチズヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》(三六五二)・卷十七の須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安禮波須流香物《スマビトノウミベツネサラズヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》(三八三二)は最も類似したもので、多分これを本歌として、模倣したものであらう。古今集の「おしてるや難波の三津に燒く鹽のからくも我は老いにけるかな」も多少の類似點がある。寄海戀。
右一首或云石川君子朝臣作(ル)v之(ヲ)
石川君子朝臣は卷三に石川少郎歌一首と題して、然之海人者軍布苅塩燒無暇髪梳乃少櫛取毛不見久爾《シカノアマハメカリシホヤキイトマナミクシゲノヲグシトリモミナクニ》(二七八)といふ歌を掲げ、その左註に右今案石川朝臣君子號曰2少郎子1也とある人であらう。卷九にも石河大夫遷任上京時播磨娘子贈歌(一七七六)として名が出てゐる。ここに或云と記したのは必ずしも信じ難いが、右に掲げた卷三の歌に、然之海人者《シカノアマハ》とあるのは、ここの歌と似てゐるから、全く根據のない註とも斷じ難い。この卷十一の中で、作者の名を記したものは唯この一首のみである。
2743 なかなかに 君に戀ひずは 比良の浦の あまならましを 玉藻刈りつつ
中中二《ナカナカニ》 君二不戀者《キミニコヒズハ》 枚浦乃《ヒラノウラノ》 白水郎有申尾《アマナラマシヲ》 玉藻刈管《タマモカリツツ》
カウシテ〔四字傍線〕貴方ニ戀ヲシテ、辛イ思ヒ〔六字傍線〕ヲシナイデ寧ロ〔二字傍線〕、却ツテ比良ノ浦ノ海人ニ生レタ方〔五字傍線〕ガヨカツタ。サウシタ(595)ラ〔五字傍線〕藻ヲ刈ツテ、何ノ物思モナクテ暮スコトガ出來タラウノニ〔何ノ〜傍線〕。
○中中二《ナカナカニ》――却つて。これは句を隔てて三四の句につづいてゐる。○枚浦之《ヒラノウラノ》――舊本、牧とあるのは枚の誤。類聚古集などにさうなつてゐる。枚浦《ヒラノウラ》は近江の比良の浦であらう。
〔評〕 卷十二の後居而戀乍不有者田籠之浦乃海部有申尾珠藻苅苅《オクレヰテコヒツツアラズハタゴノウラノアマナラマシヲタマモカルカル》(三二〇五)と似てゐる。寄海戀。
或本歌曰 中中に君に戀ひずはあみの浦の海人ならましを玉藻刈る刈る
或本歌曰 中中爾《ナカナカニ》 君爾不戀波《キミニコヒズハ》 留牛馬浦之《アミウラノ》 海部爾有益男《アマナラマシヲ》 珠藻刈刈《タマモカルカル》
右の歌の異傳である。第二句の枚《ヒラ》浦が留鳥《アミ》浦に、第五句の玉藻刈管《タマモカリツツ》が珠藻刈刈《タマモカルカル》になつてゐる。留鳥《アミ》浦は卷一に網能浦《アミノウラ》(五)とあるところであらう。然らば讃岐である。古義に留鳥を田兒《タゴ》の誤として、卷十二(三二〇五)の歌に一致せしめてゐるのは妄斷である。珠藻|刈刈《カルカル》は玖藻刈りて刈りてであるから、珠藻|刈管《カリツツ》とかはりは無い。
2744 鱸取る 海人のともし火 よそにだに 見ぬ人ゆゑに 戀ふるこの頃
鈴寸取《スズキトル》 海部之燭火《アマノトモシビ》 外谷《ヨソニダニ》 不見人故《ミヌヒトユヱニ》 戀比日《コフルコノゴロ》
未ダ私ハ〔四字傍線〕(鈴寸取海部之燭火)外目《ヨソメ》ニモ一度モ〔三字傍線〕見タコトノナイ人ダノニ、コノ頃戀ヲシテ惱ンデ〔三字傍線〕居ル。見ヌ戀ニアコガレルトハドウシタノダラウ〔見ヌ〜傍線〕。
○鈴寸取海部之燭火《スズキトルアマノトモシビ》――外《ヨソ》に見るとつづく序詞。漁火は遙かの海上に見えるからである。鈴寸は鱸。○外谷《ヨソニダニ》――よそながらでもの意。○不見人故《ミヌヒトユヱニ》――見ぬ人だのにの意。
〔評〕 序詞に、清新さがあり、下へのつづきも適切である。和歌童蒙抄に載つてゐる。寄海戀。
2745 湊入りの 葦わけ小舟 さはり多み 吾が念ふ君に 逢はぬ頃かも
(596)湊入之《ミナトイリノ》 葦別小舟《アシワケヲブネ》 障多見《サハリオホミ》 吾念公爾《ワガモフキミニ》 不相頃者鴨《アハヌコロカモ》
(湊入之葦別小舟)故障ガ多クテ、私ガ戀シイ人ニ、コノ頃ハ逢ハレナイヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
○湊入之葦別小舟《ミナトイリノアシワケヲブネ》――河口に入る小舟が、葦の叢生した中を掻き分けて進むのは、葦に障ることが多いから、その意を以て下に續いた序詞。
〔評〕 湊入之葦別小舟は實に優雅な感を與へる熟語である。障多見《サハリオホミ》へのつづきも少しも無理がない。卷十二にも 湊入之葦別小船障多今來吾乎不通跡念莫《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミイマコムワレヲヨドムトオモフナ》(二九九八)とある。寄船戀。
2746 には淨み 沖へ榜ぎ出る 海士舟の 楫とる間無き 戀もするかも
庭淨《ニハキヨミ》 奥方榜出《オキヘコギヅル》 海舟乃《アマブネノ》 執梶問無《カヂトルマナキ》 戀爲鴨《コヒモスルカモ》
(庭淨奧方※[手偏+旁]出海舟乃執梶)絶エ〔二字傍線〕間ノナイ戀ヲ私ハスルヨ。始終戀人ヲ思ヒツヅケテ居ル〔始終〜傍線〕。
○庭淨《ニハキヨミ》――庭は海面。卷三に飼飯海乃庭好有之《ケヒノウミノニハヨクアラシ》(二五六)とある。略解は淨を靜の誤で、ニハヲヨミかといつたのは.あの歌に傚つたのであらうが、もとのままがよい。淨《キヨミ》は波立たぬ故にの意。海上平穩で白波などの見えないのをキヨシといったのである。○執梶間無《カヂトルマナキ》――上からのつづきは海上穩やかなので、沖の方へ漕いで出る漁舟の櫂を繰る手の絶え間もない意であるが、執梶《カヂトル》までは間無《マナキ》と言はむ爲の序詞に過ぎない。○戀爲鴨《コヒモスルカモ》――舊訓を改めて、古義にはコヒヲスルカモと訓んでゐる。集中コヒモスルカモといふ句が多く、中にはモに當る文字のないのもあるが、總べてコヒモスルカモと訓むべきやうに思はれる。中世以後の歌にもコヒモスルカナと詠んだのは非常に多いが、コヒヲスルカナとなつてゐるのは見當らぬやうである。これは語調の上から當然かうなるのであらう。
〔評〕 序詞だけの歌と言つてもよい。卷十七に家持の香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久京師之於母保由《カシマヨリクマキヲサシテコグフネノカヂトルマナクミヤコシオモホユ》(四〇二七)はこれに傚つたものか。寄船戀。
2747 味鎌の 鹽津を指して 榜ぐ船の 名は告りてしを 逢はざらめやも
(597)味鎌之《アヂカマノ》 鹽津乎射而《シホツヲサシテ》 水手船之《コグフネノ》 名者謂手師乎《ナハノリテシヲ》 不相將有八方《アハザラメヤモ》
女ハ容易ニ人ニ名ヲ告ゲナイモノダノニ、アノ女ハ私ニ〔女ハ〜傍線〕(味鎌之鹽津乎射而水手船之)名ヲ告ゲタノニ、私ニ〔二字傍線〕逢ハナイト云フコトガアルモノカ。必ズ逢フニ違ヒナイ〔九字傍線〕。
○味鎌之鹽津乎射而水手船之《アヂカマノシホツヲサシテコグフネノ》――味鎌は所在不明。略解には「讃岐寒川郡に庵治《アヂ》の浦、鎌の浦といふ所有と其國人言へりとあるが、卷十四の東歌に、阿遲可麻能可多爾左久奈美《アヂカマノカタニサクナミ》(三五五一)・安治可麻能可家能水奈刀《アヂカマノカケノミナトニ》(三五五三)とあるによれば、その左註に以前歌詞、未v得v勘2知國土山川名1也とはあるけれども、東國にあるのであらう。鹽津は集中に出たのは總べて近江である。この三句は序詞で、名とつづいてゐる。舟にはそれぞれ名を付けてあつたからである。卷十六にも奧鳥鴨云船之還來者《オキツトリカモトフフネノカヘリコバ》(三八八六)とある。應神紀にも、枯野《カラヌ》といふ船名が見える。
〔評〕 男の歌である。女がその名を我に打明けたからには、必ず逢ふであらうと期待をかけてゐる歌.卷十二に 住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソノナハノリテシヲアハナクモアヤシ》(三〇七六)・然海部之礒爾苅干名告藻之名者告手師乎如何相難寸《シカノアマノイソニカリホスナノリソノナハノリテシヲイカニアヒガタキ》(三一七七)とあるほどに焦慮してはゐないが.古義に「逢ずあらめやは。嗚呼下ゑましや」とあるのはどうであらう。それほど樂觀してはゐないやうである。序詞のつづけ方が、他に類例の無い珍らしいものである。寄船戀。
2748 大舟に 葦荷刈り積み しみみにも 妹が心に 乘りにけるかも
大舟爾《オホフネニ》 葦荷苅積《アシニカリツミ》 四美見似裳《シミミニモ》 妹心爾《イモガココロニ》 乘來鴨《ノリニケルカモ》
(大舟爾葦荷刈積)繁々ト女ノコトガ私ノ〔二字傍線〕心ニ浮ンデ戀シク思ハレルヨ。
○大舟爾葦荷刈積《オホフネニアシニカリツミ》――四美見《シミミ》と言はむ爲の序詞。大舟に葦を刈つた荷を積みあげたのが澤山あるからである。新考には「葦荷といふ語あるべしとはおぼえず。又葦荷ヲ苅ルとは云ふべからず。荷は苧などの誤にてテニヲハならむ」とあるのは、珍らしい説だ。○四美見似裳《シミミニモ》――シミミニは繁くに同じ。
〔評〕 大舟に葦を刈つて.山と積み上げた風景を思はしめる巧を序詞で、上代の湊が目に浮ぶやうである。下句は(598)卷二の東人之荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃荷之結爾毛妹情爾乘爾家留香問《アヅマヒトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》(一〇〇)及び前の是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《ウヂカハノセゼノシキナミシクシクニイモガココロニノリニケルカモ》(二四二七)と同樣、結句の乘《ノリ》が大舟の縁語になつてゐるやうに見える。寄船戀。
2749 驛路に 引舟渡し ただ乘りに 妹がこころに 乘りにけるかも
驛路爾《ハユマヂニ》 引舟渡《ヒキフネワタシ》 直乘爾《タダノリニ》 妹情爾《イモガココロニ》 乘來鴨《ノリニケルカモ》
(驛路爾引舟渡)只管ニ女ノコトガ、私ノ心ニ浮力ンデ戀シイヨ。
○驛路爾引舟渡《ハユマヂニヒキフネワタシ》――直乘《タダノリ》と言はむ爲の序詞。驛路は驛を設置した官道。引舟は曳綱を附けて陸から引くやうにした舟。これは水驛に用意してある舟である。驛の制は孝徳天皇の大化二年に畿内の諸國に驛馬傳馬を置かれたのに始まるやうであるが、大寶令には、これを諸國に置いて、大中小路の諸道三十里毎に一驛を置いた。厩牧令に「凡諸道須v置v驛者、毎2卅里1置2一驛1、若地勢阻險、及無2水草1處、隨v便安置、不v限2里數1、其乘具及簑笠等各准2所v置馬數1備v之」・「凡水驛不v配v馬處、量2閑繁1驛別置2船四隻以下二隻以上1、隨v船配v丁驛長准2陸路1置」とあるから、ここは即ち水驛である。古義にあげた中山嚴水説にはウマヤヂニとよむべきかとある。新考はこれを採つてゐる。○直乘爾《タダノリニ》――タダはヒタに同じ。ひたすらに乘ること。タダノリニノリニケルカモとつづいてゐる。
〔評〕 これも珍らしい序詞である、當時の驛傳の制が材料になつてゐるのは面白い。下句は前と同じ。これも乘《ノリ》が舟の縁語となつてゐるやうだ。寄船戀。
2750 吾妹子に 逢はず久しも うましもの 阿倍橘の 蘿生すまでに
吾妹子《ワギモコニ》 不相久《アハズヒサシモ》 馬下乃《ウマシモノ》 阿倍橘乃《アベタチバナノ》 蘿生左右《コケムスマデニ》
私ノ女ニ逢ハナイコトガ久シクナツタヨ。アレアノ通リ〔六字傍線〕(馬下乃)阿倍橘ノ木ガ、何時ノ間ニカ〔八字傍線〕蘿ガ生エルマデニナツタ〔三字傍線〕。
(599)○馬下乃《ウマシモノ》――枕詞。美味《ウマ》い物の阿倍橘とつづいてゐる。○阿倍橘乃《アベタチバナノ》――和名抄に「橙 安倍太知波奈 似v柚而小者也」とあり。橙の一種で、柚子に似て小なるものである。今も蜜柑の一種に柚柑《ユカウ》と稱するものがあるのは、これか。なほアベの語義について、眞淵は甘《アベ》タチバナだといひ、井上文雄は饗《アヘ》タチバナとしてゐる。或は駿河の安倍地方の名産であつたのではあるまいか。安倍は卷三に駿河奈流阿部乃市道爾《スルガナルアベノイチヂニ》(二八四)とあるところである。已に武藏に橘樹郡があつたのは、この木が東國地方に植ゑられてゐた證であらう。乃を爾《ニ》の誤とする説はわるい。主格をあらはすノである。○蘿生左右《コケムスマデニ》――老木となつた形容に蘿|生《ム》すといつたのである。
〔評〕 三句以下は奇拔であり、多少の滑稽味もあるかと思はれる。但し、美味し物といふ枕詞の使ひ方が、滑稽を感ぜしめるので、新考に橘の實に黴が生えたと解したやうな意味でいふのではない。これは卷二に橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》(一二五)とあるやうに、街路樹として植ゑられた木が、老木となるまで逢はぬのを悲しんだので、卷三の東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍戀爾家利《ヒムガシノイチノウヱキノコダルマデアハズヒサシミウベコヒニケリ》(三一〇)と同じ趣である。寄木戀。
2751 あぢの住む 渚沙の入江の 荒礒松 我を待つ兒らは ただ一人のみ
味乃住《アヂノスム》 渚沙乃入江之《スサノイリエノ》 荒礒松《アリソマツ》 我乎待兒等波《アヲマツコラハ》 但一耳《タダヒトリノミ》
(味乃住渚沙乃入江之荒礒松)私ヲ待ツテ居ル女ハ只一人ダケダ。私ハ、只管一人ノ女ヲ愛シテ外ニハ心ヲ移サナイ〔私ハ〜傍線〕。
○味乃住渚沙乃入江之荒礒松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》――我乎待《アヲマツ》と言はむ爲の序詞。味鳧の住む渚沙の入江に生えてゐる荒礒の松。マツの音を繰返して、下につづいてゐる。渚沙の入江は、どことも分らない。延喜式神名帳に紀伊國在田郡須左神社とあるので、その神社の所在地、紀伊有田郡保田村高田地方とする説もあるが、卷十四の東歌の中に、阿遲乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃安奈伊伎豆加思美受比佐尓指天《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキヅカシミズヒサニシテ》(三五四七)とあり、未勘知國土山川阿之名也とあるる歌の部に入つてゐるから、東國方面にある地かと思はれる。舊本、住を往に誤つてゐる、嘉麿本によつて改む。
(600)〔評〕只管一人に傾ける愛を歌つてゐる。打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドワガオモフキミハタダヒトリノミ》(二三八二)と似た氣分である。寄木戀。
2752 吾妹子を 聞き都賀野邊の しなひ合歡木 吾はしぬび得ず 間無く念へば
吾妹兒乎《ワギモコヲ》 聞都賀野邊能《キキツガヌベノ》 靡合歡木《シナヒネブ》 吾者隱不得《アハシヌビエズ》 間無念者《マナクシモヘバ》
戀シイ人ヲ〔五字傍線〕絶エ間ナク思ツテ居ルカラ、人ニ忍ビ隱シテ置カウト思フガ〔人ニ〜傍線〕ガ、私ハ(吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歡木)隱スユトハ出來ナイ。モウ堪ヘ切レナイヤウニナツタ。困ツタモノダ〔モウ〜傍線〕。
○吾妹兒乎聞都賀野邊能靡合歡木《ワギモコヲキキツガヌベノシナヒネブ》――シナヒの類似音シヌビを繰返して、下につづく序詞。吾妹兒乎聞《ワギモゴヲキキ》は聞き繼ぐの意で、都賀野の序詞となつてゐる。都賀野は神功皇后紀・仁徳天皇紀に菟餓野《トガノ》とあるところか。然らば攝津。今の大坂、天滿川南北の地。但し若し前の歌の渚抄の入江を東國とすれば、これも下野の都賀郡地方の野かも知れない。靡合歡木《シナヒネブ》は合歡木の枝が靡きしなつてゐるから、かういふのである。○吾者隱不得《アハシヌビエズ》――舊訓ワレハシノヒエズ・略解ワレハシヌバズとあるが、古義に從ふ。
〔評〕 序詞に技巧を傾注した歌で、序詞中に更に序詞がある。その材料が珍奇である。寄木戀。
2753 浪の間ゆ 見ゆる小島の 濱久木 久しくなりぬ 君に逢はずして
浪間從《ナミノマユ》 所見小島之《ミユルコジマノ》 濱久木《ハマヒサギ》 久成奴《ヒサシクナリヌ》 君爾不相四手《キミニアハズシテ》
私ハ貴方ニ逢ハナイデ(波間從所見小島之濱久木)久シクナツタ。逢ヒタイモノダナア〔九字傍線〕。
○波間從所見小島之濱久木《ナミノマユミユルコジマノハマヒサギ》――ヒサの音を繰返して、下につづく序詞。浪間から遙かの彼方に見える小島に生えてゐる濱久木。濱久木は、久木の濱に生えてゐるものであらう。古義には「楸は潮風に堪べきものにあらざれば、濱・島などに、生べくもあらぬものなり。」とあるが、楸即ち赤目柏は海岸にも生えてゐるから、やはり、それであらう。中山嚴水はイツサキのことであらうと言ひ、類聚名物考には久木を久しく世を經たる木、即ち(601)老樹であらうといつてゐる。
〔評〕 戀人に久しく逢はぬを歎じたもの。代匠記精撰本に「旅に在夫君を戀て故郷に留れる妻のよめるなるべし」とあるのは從ひ難い。上句は爽やかな、しかも淋しい感じがある。この歌、伊勢物語に「はまひさし」として出てゐる。拾遺集にも哉つてゐる。な性金槐集の「夕されば汐風寒し浪間より見ゆる小島に雪はふりつつ」とあるのも、これを本歌としたのだらう。寄木戀。
2754 朝柏 閏八河邊の しぬのめの しぬびて宿れば 夢に見えけり
朝柏《アサガシハ》 閏八河邊之《ウルヤカハベノ》 小竹之眼笶《シヌノメノ》 思而宿者《シヌビテヌレバ》 夢所見來《イメニミエケリ》
私ハ戀シイ人ヲ〔七字傍線〕(朝柏閏八河邊之小竹之眼笶)心ニ〔二字傍線〕思ヒ慕〔二字傍線〕ツテ寢タノデ、夢ニ戀シイ人ガ〔五字傍線〕見エタ。
○朝柏閏八河邊之小竹之眼笶《アサガシハウルヤカハベノシヌノメノ》――シヌの音を繰返して、思而《シヌビテ》につづく序詞。朝柏閏八河邊《アサガシハウルヤカハベ》は分らない。前に秋柏潤和川邊細竹目《アキガシハウルワカハベノシスノメニ》(二四七八)とあつたのと同所で、それが、兩樣に傳へられたものと見える。委しくは二四七八參照。
〔評〕 前の二四七八の歌と似た歌であるが、それよりも明瞭な、平易な歌である。この歌、袖中抄に載せてある。寄小竹戀。
2755 浅茅原 假しめさして むな言も よせてし君が ことをし待たむ
淺茅原《アサヂハラ》 苅標刺而《カリシメサシテ》 空事文《ムナゴトモ》 所縁之君之《ヨセテシキミガ》 辭鴛鴦將待《コトヲシマタム》
(淺茅原刈標刺而)根ノナイ〔四字傍線〕嘘ニデモ、世間ノ人カ〔五字傍線〕ラ言ヒ騷ガレテ浮名ヲ立テラレ〔八字傍線〕タ貴方ダカラ、モウドウセ仕方ガナイト貴方〔ダカ〜傍線〕ガアキラメテ、私ニ逢ハウト言フ〔アキ〜傍線〕言葉ヲ、私ハ當テニシテ〔七字傍線〕待ツテ居ラウ。アノ人モ浮名ヲ立テラレタカラニハ、何時カハアキラメテ私ニ心ヲ許スデアラウ〔アノ〜傍線〕。
○淺茅原苅標刺而《アサヂハラカリシメサシテ》――淺茅原に假に標を立てての意で、空事《ムナゴト》の序詞としてゐる。廣い淺茅原に標を立てても、(602)甲斐なく空しい事であるからであらう。○空事文《ムナゴトモ》――舊訓ソラゴトモとあるが、童蒙抄にムナゴトモとよんだのがよい。空事《ムナゴト》にもの意。嘘にも。○所縁之君之《ヨセテシキミガ》――ヨラレシキミガ・ヨセニシセコガ・ヨソリシキミガなどの訓もある。人に言ひ寄せられし意で、ヨセラレシと言ふべきやうであるが、穩やかでないから、舊訓に從つて置く。
〔評〕前の朝茅原小野印空事何在云公待《アサヂハラヲヌニシメユフムナゴトヲイカナリトイヒテキミヲシマタム》(二四六六)とよく似た歌である。さうして他に類のない珍らしい用語である。寄草戀。
2756 月草の 假なる命 なる人を いかに知りてか 後も逢はむとふ
月草之《ツキクサノ》 借有命《カリナルイノチ》 在人乎《ナルヒトヲ》 何知而鹿《イカニシリテカ》 後毛將相云《ノチモアハムトフ》
人間ノ壽命ト言フモノハ、ハカナイモノデ〔人間〜傍線〕、(月草之)假ノ列アブナイ〔四字傍線〕命ヲ持ツテ居ル人間〔傍線〕ダノニ、何時マデ生キル〔三字傍線〕ト思ツテ、アノ人ハ〔四字傍線〕、後デ私ニ〔二字傍線〕逢ハウト言フノダラウカ。今直グニ逢ツテクレタラバヨサウナモノダノニ〔今直〜傍線〕。
○月草之《ツキクサノ》――月草は鴨頭草。この草は露草とも稱し、朝に咲いて夕べに萎むから、はかない例に採つたのであらう。○借有命在人乎《カリナルイノチナルトヲ》――人は人間のこと。人の命は假のもので無常なものだのにの意。
〔評〕月草之借有命在人《ツキクサノカリナルイノチナルヒト》は佛教思想である。卷五の山上憶良敬和爲熊凝述其志歌(八八六)の序に、傳聞假合之身易v滅とあるに似てゐる。二三の句の連續が、碎けた調子で面白くない。寄草戀。
2757 おほきみの 御笠に縫へる 有間菅 ありつつ見れど 事なし吾妹
王之《オホキミノ》 御笠爾縫有《ミカサニヌヘル》 在間菅《アリマスゲ》 有管雖看《アリツツミレド》 事無吾妹《コトナシワギモ》
私ハ〔二字傍線〕(王之御笠爾縫有在間菅)始終|顔ヲ合シテ〔五字傍線〕見テ居ルケレドモ、私ノ妻ハ別ニ是ト言フ〔六字傍線〕非難ノ打所〔三字傍線〕モナイヨ。
○王之御笠爾縫有在間菅《オホキミノミカサニヌヘルアリマスゲ》――アリの音を繰返して、有管《アリヅツ》につづく序詞。天皇の御笠として縫へる有馬の管の(603)意で、御笠は踐祚大嘗祭式に「宸儀始出、主殿官人、執v觸奉v迎、車持朝臣一人、執2菅蓋1子部宿禰一人、笠取直一人、並執2蓋綱1膝行各供2其職1」とある類の蓋であらう。管を縫ひ綴つて作るものである。在間菅は攝津の有馬に産する菅。○事無吾妹《コトナシワギモ》――舊訓コトナキワギモとあるよりも、古義に、コトナシワギモとよんだのがよい。事は非難すべき點。
〔評〕 古義には「在々て年月を經て看れども、何の障ることなし。いでいで吾妹よ、今は打あらはして、夫妻とならむとなり」とあるが、さうではなく古妻を愛する意であらう。前の難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許増常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドトオノガツマコソトコメヅラシキ》(二六五一)と同想である。和歌童蒙抄に出てゐる。寄草戀。
2758 菅の根の ねもごろ妹に 戀ふるにし ますらを心 念ほえぬかも
菅根之《スガノネノ》 懃妹爾《ネモゴロイモニ》 戀西《コフルニシ》 益卜思而心《マスラヲゴコロ》 不所念鳧《オモホエヌカモ》
私ハ〔二字傍線〕(菅根之)アノ女ヲ心カラ〔三字傍線〕懇ニ戀スルノデ、大丈夫タル雄々シイ〔六字傍線〕心ガナイヤウニナツタヨ。
○菅根之《スガノネノ》――枕詞。ネとつづく。○戀西益卜思而心《コフルニシマスラヲゴコロ》――舊訓コヒセマシウラオモフココロとあるが、意が通じない。これに對して諸説があるが、宣長が思而を男の誤とし、戀西をコフルニシ、益卜男心をマスラヲゴコロと訓んだのが當つてゐる。
〔評〕 菅に寄せてあるが、菅の根のといふ枕詞を用ゐたのみで、寄せる心は殆どないと言つてもよい。寄草戀。
2759 吾がやどの 穗蓼古から 採みはやし 實になるまでに 君をし待たむ
吾屋戸之《ワガヤドノ》 穗蓼古幹《ホタデフルカラ》 採生之《ツミハヤシ》 實成左右二《ミニナルマデニ》 君乎志將待《キミヲシマタム》
(吾家戸之穗蓼古幹採生之)ホントノ夫婦〔三字傍線〕ニナレルマデ、私ハ氣永ニ〔五字傍線〕アナタヲ待ツテヰマセウ。
○穗蓼古幹《ホタデフルカラ》――穗に出る蓼の古い枯れた去年の幹。幹は和名抄に「大枝曰v幹 加良」とあるによればカラであり、字鏡集に幹をモトとよませてゐるによればモトがよいやうだ。併し古事記に伊那賀良《イナガラ》(稻幹)・字鏡に稈 阿波(604)加良《アハカラ》(粟幹)などあるによれば、カラは草類についていひ、モトは萩・竹又は木類について言ふのであるから、蓼についてはカラがよいのではあるまいか。但し幹の字、嘉暦本その他の古寫本は〓に作つてゐる。〓は人名などにモトと訓ませてあるが、幹と同字であるからカラと訓めないことはない。○採生之《ツミハヤシ》――考はツミオフシとよんでゐる。舊訓のままでよからう。蓼の古い莖の穗を摘んで、これを蒔いて生やすのである、古幹を採《ツム》のではなくて、その穗を摘むのである。新考に咲花之《サクハナノ》と改めたのはその意を得ない。この句まではミニナルと言はむ爲の序詞と見るべきであらう。○實成左右二《ミニナルマデニ》――ミニナルとは、實際に夫婦として逢ふことをいふ。卷七の自花者實成而許曾戀益家禮《ハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》(一三六五)などこの例が多い。
〔評〕 上句を、吾が宿の穗蓼古幹の實を摘んで蒔いて、それが實となる時までも、君を待たうとも解釋せられぬこともないが、蓼の實のる時までと時期を限定する理由がないから、序詞と見ねばならぬ。なほこれは卷九の冬木成春部戀而殖木實成時斤待吾等叙《フユゴモリハルベヲコヒテウヱシキノミニナルトキヲカタマツワレゾ》(一七〇五)と同型で、或はこれを本歌としてゐるかとも思はれるが、かれは寓意があつて詠んだのだから、一律には取扱ひ難い。和歌童蒙抄に載つてゐる。寄草戀。
2760 足引の 山澤ゑぐを 採みに行かむ 日だにも逢はむ 母は責むとも
足檜之《アシビキノ》 山澤回具乎《ヤマサハヱグヲ》 採將去《ツミニユカム》 日谷毛相爲《ヒダニモアハム》 母者責十方《ハハハセメトモ》
私ハ貴方ニ逢ハウト思フケレドモ、ソノ方法ガナイノデ〔私ハ〜傍線〕、(足檜之)山ノ澤ニ生ニテヰル〔六字傍線〕回具ヲ私ガ〔二字傍線〕摘ミニ行ク日ニデモ、都合シテ〔四字傍線〕逢ハウト思フ。ソレガ見ツカツテ〔八字傍線〕母ニ叱ラレテモ、ソレハシカタガナイ〔九字傍線〕。
○山澤回具乎《ヤマサハヱグヲ》――山澤に生えてゐる烏芋《クロクワヰ》を。回具《エグ》は卷十|山田之澤惠具採跡《ヤマダノサハニヱグツムト》(一八三九)とある。その項參照。○日谷毛相爲《ヒダニモアハム》――新考・新訓は嘉暦本に將を爲に作るによつて、ヒダニモアハセとよんでゐる。これもよいが舊訓に從つた。○母者責十方《ハハハセムトモ》――考に、ハハハコロブトモとあるのは奇に失する。
〔評〕 母の監守が喧ましくて、男に逢ひ難い女が、男に言ひ送つた歌である。戀には強い田舍女の意志が見えて(605)ゐる、袖中抄に載せてある、寄草戀。
2761 奧山の 石もと菅の 根深くも 思ほゆるかも 吾が念妻は
奥山之《オクヤマノ》 石本菅乃《イハモトスゲノ》 根深毛《ネフカクモ》 所思鴨《オモホユルカモ》 吾念妻者《ワガオモヒヅマハ》
私ガ戀シク〔三字傍線〕思フ女ハ、(奧山之石本菅乃)心カラ深クナツカシク〔五字傍線〕思ハレルヨ。
○奥山之石本菅乃《オクヤマノイハモトスゲノ》――管の根とつづいて根深毛《ネフカクモ》の序詞となつてゐる。石本管は岩根に生えてゐる菅。山菅であらう。○根深毛《ネフカクモ》――根を上につづけて、序詞の一部とし、フカクモだけとしても解せられるが、根に心からといふやうな意味があるものとしたいと思ふ。
〔評〕 男が女を心深く愛してゐる意を述べたもの。これを女の作に改作したのが、卷三の笠女郎が大伴家持に贈つた奥山之磐本管乎根深目手結之情忘不得裳《オクヤマノイハモトスゲヲネフカメテムスビシココロワスレカネツモ》(三九七)である。寄草戀。
2762 蘆垣の 中の似兒草 にこよかに 我とゑまして 人に知らゆな
蘆垣之《アシガキノ》 中之似兒草《ナカノニコグサ》 爾故余漢《ニコヨカニ》 我共咲爲而《ワレトヱマシテ》 人爾所知名《ヒトニシラユナ》
アナタハ〔四字傍線〕(蘆垣之中之似兒草)ニコニコト私ト顔ヲ見合セテ〔六字傍線〕オ笑ヒニナツテ、二人ノ關係ヲ〔六字傍線〕人ニ知ラレナイヤウニシナサイ。
○蘆垣之中之似兒草《アシガキノナカノニコグサ》――ニコの音を繰返して、下につづく序詞。似兒草はどんな事かよくわからない。古義には「藻鹽草に爾兒草《ニコグサ》は萬葉には和草《ニコグサ》とかけり、花も葉もこまかなり、あを根とも古歌によめりといへり。……貝原篤信、爾故《ニコ》草は、是俗に云箱根草なるべし。箱根草はしのぶに似て小なり。葉細なり。莖紫色光あり。莖竪し、又黒色なるものあり。相模箱根山に多し。他州にも岩上古墻石壁などに生、といへり。此集にも箱根によみ合せ、又蘆垣の中に生るよし見えたればきはめてこれなるべし」とあつて、箱根草説が多い。然し、箱根(606)草(石長生)は水龍骨《ノキシノブ》科の植物で、箱根|齒朶《シダ》とも稱し、山地に自生するもので、芦垣の中に生ずるものとは思はれない。ことに卷十六に所※[身+矢]鹿乎認河邊和草《イユシシヲツナグカハベノニコグサ》(三八七四)・卷二十の秋風爾奈妣久可波備能爾故具佐能《アキカゼニナビクカハビノニコグサノ》(四三〇九)の用例によれば河邊に生じてゐるもので、齒朶のやうな草とは思はれない。これは多分柔らかな感じのする草といふまでで、草の名ではないのであらう。箱根草と推定せられる理由は、卷十四に安思我里乃波故禰能禰呂乃爾古具佐能《アシガリノハコネノネロノニコグサノ》(三三七〇)とあるによるのであるが、これも柔らかい草と見ても少しも差支へないのである。略解に「和名抄に〓〓 惠美久佐といへるこれか。今われとゑましてと言ひ、天智紀の歌に、むかつをにたてるせらが※[人偏+爾]古擧曾《ニコニコソ》と言ふも同じ意なれば、爾古草惠美草同じ物ともすべし」とあるが、更に根據がない。ヱミクサはアマドコロのことで、百合科の植物である。○爾故余漢《ニコヨカニ》――にこやかに。にこにこと。漢は、山攝の喉音で、n音尾であるから、カニの仮名に用ゐてある。集中唯一の用例である。○我共咲爲而《ワレトヱマシテ》――私と顔見合せてお笑ひになって。○人爾所知名《ヒトニシラユナ》――人に知らるな。
〔評〕卷四の青山乎横〓雲之灼然吾共咲爲而人二所知名《アヲヤマヲヨコギルクモノイチジロクワレトヱマシテヒトニシラユナ》(六八八)の粉本となつたものであらう。芦垣を結ひ廻らした田舍家に住む人の歌らしい。寄草戀。
2763 くれなゐの 淺葉の野らに 苅るかやの 束の間も わを忘らすな
紅之《クレナヰノ》 淺葉乃野良爾《アサハノヌラニ》 苅草乃《カルカヤノ》 束之間毛《ツカノアヒダモ》 吾忘渚菜《ワヲワスラスナ》
(紅之淺葉乃野良爾苅草乃)一寸ノ間モ貴方ハ〔三字傍線〕、私ヲオ忘レナサイマスナ。
○紅之淺葉乃野良爾苅草乃《クレナヰノアサハノヌラニカルカヤノ》――束につづく序詞。草を束ねたものを束といふ。紅之《クレナヰノ》は枕詞。紅色の淺い意で、淺葉に冠してある。淺葉は和名抄に「武蔵國入間郡麻羽 呵佐波」とある。今の八王寺附近の坂戸町にあたる。又遠江國磐田郡にも淺羽庄がある。(略解に佐野《サヤ》郡に麻葉の庄有りとあるは誤か)袋井町の南に當り、卷八によまれた大乃浦《オホノウラ》(一六一五)に近いところであるから、或はそこかも知れない。野良《ヌラ》のラは添へて言ふのみ。カルカヤノはカルクサノと和歌童蒙抄にあり、拾穗抄・新考・新訓などもさうなってゐるが、この前後皆草の名を擧げ(607)てゐるからカヤとよむがよからう。○束之間毛《ツカノアヒダモ》――束は一握の長さ、轉じて短い時間をいふ。○吾忘渚菜《ワヲワスラスナ》――ワスラスは、忘ルに敬語のスを附したもの。
〔評〕 卷二の大名兒彼方野邊爾苅草乃束間毛吾忌目八《オホナゴヲヲチカタヌベニカルカヤノツカノアヒダモワレワスレメヤ》(一一〇)は、この歌を模倣したものであらう。民謠らしい。寄草戀。
2764 妹が爲 いのち遺せり 苅薦の 思ひ亂れて 死ぬべきものを
爲妹《イモガタメ》 壽遺在《イノチノコセリ》 苅薦之《カリゴモノ》 念亂而《オモヒミダレテ》 應死物乎《シヌベキモノヲ》
私ハ戀シサニ〔六字傍線〕(苅薦之)心ガ亂レテ狂ヒ死ニ〔四字傍線〕死ヌベキ筈ダノニ、ソレデモ〔四字傍線〕戀シイ女ニ逢ハンガ〔四字傍線〕爲ニノミ〔二字傍線〕壽命ヲツナイデ居ツタノダ。ドウゾアハレト思ツテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
○苅薦之《カリゴモノ》――枕詞。亂《ミダレ》につづく。
〔評〕 苅薦之といふ枕詞が用ゐられてゐるのみで、寄物の歌としては適應してゐない。戀に悶える男の心が強くあらはされてゐる。寄草戀。
2765 吾妹子に 戀ひつつあらずは 刈薦の 思ひみだれて 死ぬべきものを
吾妹子爾《ワギモコニ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 苅薦之《カリゴモノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 可死鬼乎《シヌベキモノヲ》
私ハ〔二字傍線〕私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ニ戀シツツ、苦シンデ生キテ〔七字傍線〕ヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕(苅薦之)思ヒニ心ガ狂ツテ死ンデシマツタ方ガヨイノニ。嗚呼苦心イ〔五字傍線〕。
〔評〕 これは三句以下、前の歌と全く同様で、しかも、初二句が類型的なるだけ、この方が劣つてゐる。寄草戀。
2766 三島江の 入江の薦を かりにこそ 我をば君は おもひたりけれ
三島江之《ミシマエノ》 入江之薦乎《イリエノコモヲ》 苅爾社《カリニコソ》 吾平婆公者《ワレヲバキミハ》 念有來《オモヒタリケレ》
(608)(三島江之入江之薦乎)假ニ貴方ハ私ヲ思ツテイラシツタノデスナア。私ヲ本當ニ思ツテ居ルヤウニオツシヤツタノハ、皆嘘デシタナア〔私ヲ〜傍線〕。
○三島江之入江之薦乎《ミシマエノイリエノコモヲ》――序詞。薦を刈るとつづく。三島江は攝津三島郡三筒牧村。淀川の西岸。入江は淀川が灣入したやうになつてゐたのである。ここは薦の名所。卷七に三島江之玉江之薦乎從標寄《ミシマエノタマエノコモヲシメシヨリ》(一三四八)とある。○苅爾社《カリニコソ》――上には苅の意でつづいてゐるが、これを假《カリ》にかけてゐる。
〔評〕 相手の薄情を怨む歌。多分女の歌であらう。序詞のつづけかたが巧である。寄草戀。
2767 足引の 山橘の 色に出でて 吾は戀ひなむを 人目かたみすな
足引乃《アシビキノ》 山橘之《ヤマタチバナノ》 色出而《イロニイデテ》 吾戀南雄《ワハコヒナムヲ》 八目難爲名《ヒトメカタミスナ》
今マデハ人目ヲ忍ンデ、戀ヲシテ居ツタガ、是カラハ〔今マ〜傍線〕(足引乃山橘之)顔〔傍線〕色ニ顯ハシテ、表向キニ〔四字傍線〕私ハ戀ヲシヨウト思フカラ、貴方モ今マデノヤウニ〔貴方〜傍線〕、人目ヲ避ケルコトヲナサイマスナ。
○足引乃山橘之《アシビキノヤマタチバナノ》――色出而《イロニイデテ》と言はむ爲の序詞。山橘即ち藪柑子は、實が赤く美しいからである。○八日難爲名《ヒトメカタミスナ》――舊訓ヤメカタクスナとあるが、八を人の誤として、ヒトメカタミスナと訓んだ考の説による。宣長は、ヒトメイマスナと訓んでゐる。カタミスは難しとする。人に見られるのを憚る。
〔評〕 包むにあまる戀故に、あらはれて戀しようとするのである。山橘は草ではないが、極めて倭小なものであるから、草の部に入れたのである。卷四に足引之山橘乃色丹出而語言繼而相事毛將有《アシビキノヤヤタチバナノイロニイデヨカタラヒツギテアフコトモアラム》(六六九)はこれを學んだものか。寄山橘戀。
2768 葦たづの 騷ぐ入江の 白菅の 知られむ爲と こちたかるかも
葦多頭乃《アシタヅノ》 颯入江乃《サワグイリエノ》 白菅乃《シラスゲノ》 知爲等《シラレムタメト》 乞痛鴨《コチタカルカモ》
(609)私ノ思ツテヰル心ノ中ヲ先方ニ〔私ノ〜傍線〕(葦多頭乃颯入江乃白菅乃)知ラレヨウトテ、世間ノ人ニトヤカク〔九字傍線〕喧シク言ハレルノカヨ。カウヤカマシクテハ人ニ知ラレサウダ〔カウ〜傍線〕。
○葦多頭乃颯入江乃白菅乃《アシタヅノサワグイリエノシラスゲノ》――シラの音を繰返して、下につづく序詞。颯は奧名豆颯《オキニナヅサフ》(四三〇)に於て、サフに用れたのは、その音によつたのであるが、ここは義を以てサワグとよんだのか。颯は風の音である。シラスゲは白菅。菅の一種。卷三に白菅乃《シラスゲノ》(二八〇)とあつた。○知爲等《シラレムタメト》――考は知の上、將を脱としてゐる。新考にシリヌルタメトとよむべしとあるが、シラとあるべきであるから、舊訓に從ふ。或は脱字あるか。○乞痛鴨《コチタカルカモ》――人が言ひ騷ぐのかの意、コチタは言痛《コトイタ》の約。
〔評〕 序詞は同音を繰返したのみであるが、それでも葦鶴の鳴き騷ぐ入江の風景は、人口の喧すしさを思はしめるに充分である。古今集の「あし鴨のさわぐ入江のしらなみのしらずや人をかく戀ひむとは」は、これと類似形である。寄草戀。
2769 吾背子に 吾が戀ふらくは 夏草の 苅りそくれども 生ひしくが如
吾背子爾《ワガセコニ》 吾戀良久者《ワガコフラクハ》 夏草之《ナツクサノ》 苅除十方《カリソクレドモ》 生及如《オヒシクガゴト》
私ノ夫ニ私ガ戀シテヰルコトハ、丁度〔二字傍線〕夏草ガ、苅リ除イテモ後カラ後カラ〔六字傍線〕續イテ生エテ來ルヤウナモノデ、忘レヨウトシテモ、後カラ後カラ思ヒ出シテ、何トモ仕樣ガナイ〔忘レ〜傍線〕。
○苅除十方《カリソクレドモ》――拾穗抄にカリハラヘドモとあり、略解も、これに從つてゐるが、よくない。舊訓を尊重すべきである。ソクは除くに同じ。○生及如《オヒシクガゴト》――古義にオヒシクゴトシとあり、新考・新訓もさうなつてゐるが、舊訓による。跡無知《アトナキガゴト》(三五一)參照。シクは及ぶ。オヒシクは生ひつくこと。
〔評〕 譬喩適切巧妙。卷十に廼者之戀乃繁久夏草乃苅掃友生布如《コノゴロノコヒノシゲケクナツクサノカリハラヘドモオヒシクガゴト》(一九八四)と下三句は殆ど同じ。同歌の異傳であらう。和歌童蒙抄に載つてゐる。寄草戀。
2770 道のべの いつしば原の いつもいつも 人の許さむ ことをし待たむ
(610)道邊乃《ミチノベノ》 五柴原能《イツシバハラノ》 何時毛何時毛《イツモイツモ》 人之將縱《ヒトノユルサム》 言乎思將待《コトヲシマタム》
私ハ〔二字傍線〕(道邊乃五柴原能)何時デモヨイカラ、アノ〔二字傍線〕人ガ承知シテクレル言葉ヲ待ツテ居ヨウ。氣長ニ何時マデモ、ソレヲ待ツツモリダ〔氣長〜傍線〕。
○道邊乃五柴原能《ミチノベノイツシバハラノ》――イツの音を反覆して、下につづく序詞。五柴《イツシバ》は卷八に此五柴爾《コノイツシバニ》(一六四三)とあり、卷四に市柴《イチシバ》(五一三)とあるのも同じ。茂つた柴である、古義にはここは前後皆草の歌であるから。草の芝であらうといつてゐる。しかし、前の市柴・五柴は木の柴と思はれる。なほ考ふべきである。○何時毛何時毛《イツモイツモ》――何時でも何時でも、何時であらうとも。
〔評〕 女に戀を求める男の歌か。卷四に河上乃伊都藻之花乃何時何時《カハカミノイツモノハナノイツモイツモ》(四九一)と序詞が似てゐる。その點は類型的と言つてよい。袖中抄に見える。寄草戀。
2771 吾妹子が 袖をたのみて 眞野の浦の 小菅の笠を 著ずて來にけり
吾妹子之《ワギモコガ》 袖乎憑而《ソデヲタノミテ》 眞野浦之《マヌノウラノ》 小菅乃笠乎《コスゲノカサヲ》 不著而來二來有《キズテキニケリ》
若シ歸リニ雨ガ降ツタナラバ、妻ノ着物ノ袖ヲカザシテ歸ラウト〔若シ〜傍線〕、私ノ妻ノ袖ヲタヨリニ思ツテ、眞野ノ浦ノ小菅デ作ツタ笠モ著ナイデヤツテ來タ。
○袖乎憑而《ゾデヲタノミテ》――袖をかざして雨を防がうと憑にして。○眞野浦之《マヌノウラノ》――眞野の浦は神戸市の西部。卷四の眞野浦乃與騰乃繼橋《マヌノウラノヨドノツギハシ》(四九〇)參照。ここは菅の名所であつた。
〔評〕 男が妻に戯れた言葉か。親愛の情があらはれた歌である。和歌童蒙抄に出てゐる。寄草戀。
2772 眞野の池の 小菅を笠に 縫はずして 人の遠名を 立つべきものか
眞野池之《マヌノイケノ》 小菅乎笠爾《コスゲヲカサニ》 不縫爲而《ヌハズシテ》 人之遠名乎《ヒトノトホナヲ》 可立物可《タツベキモノカ》
(611)眞野ノ池ノ小菅ヲ苅取ツテツレ〔七字傍線〕ヲ笠ニ縫ハナイデ、丁度ソレト同ジヤウニ、二人ハ本當ノ夫婦トナラナイデ〔丁度〜傍線〕、私ノ遠ク廣ガル浮〔五字傍線〕名ヲ立テルト云フコトガアルモノデスカ。世間ノ口ノ喧シイノハ困ツタモノダ〔世間〜傍線〕。
○眞野池之《マヌノイケノ》――前にあつた眞野で、後世尻池村といふのはその名殘であらうが、今はその跡を失つた。古義に「本居氏池は?の誤なるべしといへり。これは次上の歌の答と見ゆれば、いかさまにも?なるべくおぼえたり」とあるが、もとのままがよい。○小菅乎笠爾不縫爲而《コスゲヲカサニヌハズシテ》――小菅を苅りとつても、笠に作つて始めて用をなすものであるから、未だ女と夫婦の契を結ばずしての意に譬へたものらしい。○人之遠名乎《ヒトノトホナヲ》――遠名は代匠記精撰本に「遠名とは虚名なり。第十二に三空去名《ミソラユクナ》とよみ、古今集にも確ならぬ名の空に立らむなど讀て、空に立意なり」とあるが、世に廣く立つ名と解した眞淵説に從はう。新考は著名《キルナ》の誤としてゐる。
〔評〕 前の歌の答として解釋する説が多いが、さうではあるまい。上句だけを暗喩のやうにしたのは、少し意味の明瞭を缺くが、多くかうした慣用語があつたのであらう。寄草戀。
2773 さす竹の 葉隱りてあれ 吾背子が 吾がりし來ずは わが戀ひめやも
刺竹《サスタケノ》 齒隱有《ハゴモリテアレ》 吾背子之《ワガセコガ》 吾許不來者《ワガリシコズハ》 吾將戀八方《ワガコヒメヤモ》
貴方ハ家ニ〔五字傍線〕(刺竹齒)引〔傍線〕籠ツテイラツシヤイ。貴方ガ私ノ處ヘオ出ニナラナイナラバ、私ハ貴方ヲコンナニ〔七字傍線〕戀シク思フモノデスカ。逢ヘバ思ガ増シテ苦シイカラ、寧ロ逢ハナイ方ガ増シデス〔逢ヘ〜傍線〕。
○刺竹《サスタケノ》――枕詞。立つ竹の葉の茂き意で、齒隱《ハゴモリ》につづく。○齒隱有《ハゴモリテアレ》――コモリテアレといふべきを刺竹とつづける爲に、はを添へたのである。即ち刺竹齒《サスタケノハ》は序詞となつてゐる、ゴモリテアレは家に引籠りてあれよの意。○吾許不來者《ワガリシコズハ》――舊訓による。略解はワレガリコズハ・古義アガリキセズハとある。
〔評〕 逢うていや益す思を恐れて、逢ふまいとする戀。口ばかりであらうが珍らしい戀である。竹に寄せてある。寄草戀の中に混つてゐるので、古義には刺竹を黍としてゐるが、やはり竹であらう。前に草の中に山橘を入れ(612)てゐるやうなもので、竹も亦葦の類に似てゐるから、草類に列したのである。なほ、この歌に吾を三つ重ねてあるのは、語調を強める爲の手段であらう。寄竹戀。
2774 神南備の 淺小竹原の うるはしみ わが思ふ君が 聲のしるけく
神南備能《カムナビノ》 淺小竹原乃《アサジヌハラノ》 美《ウルハシミ》 妾思公之《ワガオモフキミガ》 聲之知家口《コヱノシルケク》
(神南備能淺小竹原乃)ナツカシイト私ガ思ツテヰル、アナタノオ聲ガ、多クノ人ノ中デモ〔八字傍線〕ハツキリト聞エル。アアナツカシイ〔七字傍線〕。
○神南備能淺小竹原乃《カムナビノアサジヌハラノ》――神南備にあるまばらに生えた篠原は、美はしいから、美《ウルハシミ》と言はむ爲の序詞としたのである。神南備は神を祭れる杜をいふのだが、これは神南備山で、多分雷岳のことであらう。淺小竹原《アサジヌハラ》は古事記中卷に、阿佐士怒波良許斯那豆牟蘇艮波由賀受阿斯用由久那《アサジヌハラコシナヅムソラハユカズアシヨユクナ》とある。舊訓アサササハラとあるのはよくない。○美《ウルハシミ》――舊訓美妾とつづけて、ヲミナヘシとよんでゐるが、ヲミナヘシは集中、娘子部四・姫押・娘部思・姫部志・姫部思・佳人部爲・美人部師・女郎花なとと記してあるによれば、美妾はヲミナとよんでもよいかも知れないが、ヘシに當る文字がないから新訓によることにした。次句の思ふにつづいてゐる。ウルハシミオモフはなつかしく思ふこと。○妾思公之《ワガオモフキミガ》――妾をワガとよんで、この句に置いた宣長説がよい。
〔評〕 神南備の淺小竹原は、神域として尊ばれてゐたのであらう。それを用ゐて序詞としてゐる。女がなつかしい男の聲を聞きつけて喜んでゐる歌。これも小竹を草の部に入れてゐる。寄小竹戀。
2775 山高み 谷べにはへる 玉葛 絶ゆる時なく 見むよしもがも
山高《ヤマタカミ》 谷邊蔓在《タニベニハヘル》 玉葛《タマカヅラ》 絶時無《タユルトキナク》 見因毛欲得《ミムヨシモガモ》
(山高谷邊蔓在玉葛)絶エ間ナク何時マデモ、アノ人ヲ逢ヒ〔何時〜傍線〕見ル方法ガアレバヨイナア。
○山高谷邊蔓在玉葛《ヤマタカミタニベニハヘルタマカヅラ》――絶時無《タユルトキナク》の序詞。序詞の意は明らかであらう。玉葛は蔓になつてゐる草木の總稱。
(613)〔評〕これは全く類型的である。卷十二に谷迫峯邊延有玉葛令蔓之有者年二不來友《タニセバミミネベニハヘルタマカヅラハヘテシアラバトシニコズトモ》(三〇六七)・卷十四に多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能已許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》(三五〇七)とある。この歌、袖中抄に載つてゐる。歌の順序から見れば、葛を草の部に入れてゐるやうだ。寄葛戀。
2776 道のべの 草を冬野に ふみ枯らし 我立ち待つと 妹に告げこそ
道邊《ミチノベノ》 草冬野丹《クサヲフユヌニ》 履干《フミカラシ》 吾立待跡《ワレタチマツト》 妹告乞《イモニツゲコソ》
道端ニ生エテ居ル草ヲ、丁度〔二字傍線〕冬ノ枯〔二字傍線〕野ノヤウ〔三字傍線〕ニ履ミ付ケテ〔三字傍線〕枯ラシテ、永イ間〔三字傍線〕私ガ女ノ家ノ外ニ來テ〔八字傍線〕立ツテ待ツテ居ルト、女ニ告ゲテクレヨ。私ハソンナニ骨ヲ折ツテ待ツテ居ルノダヨ〔私ハ〜傍線〕。
○草冬野丹《クサヲフユヌニ》――多野の草の枯れたやうにの意。○履干《フミカラシ》――履みつけて干らして。永い間、立つて待つてゐるので、草が冬野のやうに枯れてしまふのである。
〔評〕 上句の譬喩に獨創的なところがある。結句をイモニツゲコソで終つてゐる歌は集中に多く、いづれも多少の類似點があるが、これと比較的似てゐるのは、卷十の天漢安渡丹舩浮而秋立待等妹告乞其《アマノガハヤスノワタリニフネウケテアキタチマツトイモニツゲコソ》(二〇〇〇)である。寄草戀。
2777 畳薦 隔てあむ數 通はさば 道の柴草 生ひざらましを
疊薦《タタミコモ》 隔編數《ヘダテアムカズ》 通者《カヨハサバ》 道之柴草《ミチノシバクサ》 不生有申尾《オヒザラマシヲ》
疊ニスル〔三字傍線〕薦ヲ一筋ゴトニ苧ヲ〔七字傍線〕隔テテ編ム、數ホドモ、何度モ何度モ貴方ガ私ノ家ヘ〔ホド〜傍線〕、通ツテオ出ニナツタナラバ、道端ノ芝草モ生エナイデセウノニ、稀ニオ出ニナルカラ、草ガ長ク生エタノデス〔稀ニ〜傍線〕。
○疊薦《タタミコモ》――疊にする薦。かうして織り上げたのが薦疊である。○隔編數《ヘダテアムカズ》――疊を編むには、薦の一筋ごとに苧を隔てるからかくいふのか。數は編む時、往還する薦槌の數であらうと言はれてゐる。○通者《カヨハサバ》――舊訓カヨヒセバとあるが略解の訓がよい。○道之柴草《ミチノシバクサ》――路傍の芝。卷六の立易古京跡成者道之志婆草長生爾異梨《タチカハリフルキミヤコトナリヌレバミチノシバクサナガクオヒニケリ》(一〇四八)(614)はこの句を用ゐたか。
〔評〕 上句の譬喩は頗る奇拔である。農民の女の作らしい氣分も出てゐる。寄草戀。
2778 水底に 生ふる玉藻の 生ひ出でず よしこの頃は かくて通はむ
水底爾《ミナソコニ》 生玉藻之《オフルタマモノ》 生不出《オヒイデズ》 縱比者《ヨシコノゴロハ》 如是而將通《カクテカヨハム》
水ノ底ニ生エテ居ル藻ガ、表面ニ〔三字傍線〕生エ出サナイデ人ニ目立タヌヤウニ〔九字傍線〕、ヨロシイ私モ〔二字傍線〕暫クノ間ハ、人目ヲ忍ンデ不自由勝チナ戀ヲシテ〔人目〜傍線〕、カウシテ女ノ許ニ通ツテ〔七字傍線〕行カウ。ソレデ我慢ヲシテ居ラウ。ソノ中ニマタヨイ日ガ來ルダラウ〔ソレ〜傍線〕。
○水底爾生玉藻之生不出《ミナソコニオフルタマモノオヒイデズ》――水中に生える玉藻が、水面に生えて出ないやうに、表面にあらはれずにの意。○縱比者《ヨシコノゴロ》――ヨシはエエヨロシイといふやうな意。
〔評〕 人の噂を恐れて表面にあらはさず、忍んで女との關係を繼續し、やがてよい日を待たうとする男の歌である、初二句は前に水底生玉藻打靡《ミナソコニオフルタマモノウチナビキ》(二四八二)とあつたのと同じ。寄玉藻戀。
2779 海原の 沖つ繩のり うち靡き 心もしぬに おもほゆるかも
海原之《ウナバラノ》 奥津繩乘《オキツナハノリ》 打靡《ウチナビキ》 心裳四怒爾《ココロモシヌニ》 所念鴨《オモホユルカモ》
私ハ(海原之奧津繩乘)身モ力ナク〔五字傍線〕ナヨナヨトシテ、心モシヲシヲトシヲレテ、戀ヲシテ居ルヨ。
○海原之奧津繩乘《ウナバラノオキツナハノリ》――打靡と言はむ爲の序詞。海原の沖の方に生える繩乘。繩乘は繩のやうな海苔。つるも〔三字傍点〕などの類であらう。波のまにまに靡くから打靡《ウチナビキ》とつづく。○打靡《ウチナビキ》――躰が力なくなよなよとしてゐること。○心裳四怒爾《ココロモシヌニ》――心もしをしをとしをれて。二六六・一五五二など參照。
〔評〕 藻の類を以て、打靡の形容としたものは集中に多く、又、四五句も類似がある。特色ある歌とは言はれない。寄藻戀。
2780 紫草の 名高の浦の 靡き藻の 心は妹に 依りにしものを
(615)紫之《ムラサキノ》 名高乃浦之《ナダカノウラノ》 靡藻之《ナビキモノ》 情者妹爾《ココロハイモニ》 因西鬼乎《ヨリニシモノヲ》
私ノ〔二字傍線〕心ハ、アノ女ニ(紫之名高乃浦之靡藻之)寄ツテシマ〔四字傍線〕ツタノニ。モウ何モ兎ヤ角思フコトハナイ〔モウ〜傍線〕。
○紫之名高乃浦之靡藻之《ムラサキノナダカノウラノナビキモノ》――紫之《ムラサキノ》は名高の枕詞。柴は名高いよい色だからである。地名説は採らぬ。名高の浦は紀伊海草郡内海町の海岸、靡藻之《ナビキモノ》までは因《ヨリ》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 水のまにまに靡く藻の、柔順らしい姿を寄るに言ひかけた歌は、集中に數が多い。初二句は、卷七に紫之名高之浦愛子地《ムラサキノナダカノウラノマナゴヂニ》(一三九二)・紫之名高浦乃名告藻之《ムラサキノナダカノウラノナノリソノ》(一三九六)の二首と同樣である。どれが前驅か分らないが、卷として全體的に考へれば、こちらが古いわけである。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。寄藻戀。
2781 わたの底 沖を深めて 生ふる藻の もとも今こそ 戀はすべなき
海底《ワタノソコ》 奥乎深目手《オキヲフカメテ》 生藻之《オフルモノ》 最今社《モトモイマコソ》 戀者爲便無寸《コヒハスベナキ》
私ハ〔二字傍線〕今コソ(海底奥乎深目手生藻之)實ニ戀シサニ何トモシヤウノナイ時デアル。困ツタモノダ〔時デ〜傍線〕。
○海底奥乎深目手生藻之《ワタノソコオキヲフカメテオフルモノ》――モの音を繰返して、最《モトモ》につづいてゐる。海底の沖深く生ずる藻の。○最今社《モトモイマコソ》――最を舊訓イトキ、考はモハラとあるが略解に從ふ。今の字、舊本令に作るは誤。嘉暦本によつて改む。○戀者爲便無寸《コヒハスベナキ》――上にコソの係があつて、ナキと結んであるのは古格である。
〔評〕 序詞は卷四|海底奧乎深目手吾念有《ワタノソコオキヲフカメテワガモヘル》(六七六)に似てゐる。蓋し彼はこれを學んだものであらう。この深目手《フカメテ》といふ詞が、序中にありながら歌意に影響して、戀の深さを思はしめてゐるやうに見える。寄藻戀。
2782 さねかねば 誰ともぬめど 沖つ藻の 靡きし君が 言待つ我を
左寐蟹齒《サネカネバ》 孰共毛宿常《タレトモネメド》 奥藻之《オキツモノ》 名延之君之《ナビキシキミガ》 言待吾乎《コトマツワレヲ》
アナタハ私ト〔六字傍線〕寢ルコトガ出來ナイナラバ、私ハ〔二字傍線〕誰トデモ寢ルノダガ、初メ私ニ〔四字傍線〕(奧藻之)靡キ寄ツタ貴方ノ、ホ(616)ントニ妻ニナルトノ〔ホン〜傍線〕言葉ヲ、私ハ待ツテ居マスヨ。
○左寐蟹齒《サネカネバ》――略解はサヌガニハと訓んで「宣長が、さねむとならば、と言ふほどの言也と言へるが穩か也」とし、古義はこれに反對して、ガニにかくの如き用法が無いことを力説し、ガネとの別を論じ、サネカネバと訓むべしといつて、「蟹をカネとよむは集中に足乳根《タラチネ》を足常《タラチネ》、迷《マヨフ》を間結《マヨフ》、あぢきなくを小豆無《アヂキナク》など書る類の借字とも云べけれど、書紀允恭天皇卷、衣通王歌に、ささ蟹を佐々餓泥《ササガネ》とよまれたれば、もとより上ツ代には、蟹をカネとも云しことうつなければ、カネの借字とせること論なし」と述べてゐる。この意を思ふに「あなたが私と寢ることを得ずば」であるらしいから、古義の説に從つて置かう。○奧藻之《オキツモノ》――枕詞。靡くとつづいてゐる。○名延之君之《ナビキシキミガ》――君は女を指してゐる。○言待吾乎《コトマツワレヲ》――コトは消息。ヲはヨに同じ。
〔評〕 名延之君《ナビキシキミ》の解釋次第で、男の歌とも女の歌とも兩樣に考へられる。他の多くの例から推すと、我に靡きし君といふ意らしいから、男の歌とした。枕詞として奧藻之《オキツモノ》が用ゐてあるのみで、寄せる意は薄い。寄藻戀。以上の五首は海草に寄せてある。
2783 吾妹子が いかにとも吾を 思はねば ふふめる花の 穗に咲きぬべし
吾妹子之《ワギモコガ》 奈何跡裳吾《イカニトモアヲ》 不思者《オモハネバ》 含花之《フフメルハナノ》 穗應咲《ホニサキヌベシ》
私ノ戀シテヰル〔五字傍線〕女ガ、私ヲ何トモ思ツテヰナイノデ、私ハ今マデ心ノ内デ辛抱シテ、忍ビ包ミナガラ戀ヲシテ來タガ、モハヤ我慢ガシキレナイデ〔私ハ〜傍線〕、蕾ンダ花ガ咲キ出ス〔五字傍線〕ヤウニ、表向キニ顯ハシテ戀ヲスルデアラウ。モウ堪ヘラレナイ〔八字傍線〕。
○穗應咲《ホニサキヌベシ》――穗とは目立つものをいふ。ここは穗に出でぬべしといふべきを、上に含花《フフメルハナ》とあるから、咲きぬべしとしたのである。卷十に言出而云忌染朝貌乃穗庭開不出戀爲鴨《コトニオデテイハバユユシミアサガホノホニハサキデヌコヒヲスルカモ》(二二七五)とあるに似てゐる。
〔評〕 つれない女の態度に氣をいらだてて、最早表にあらはして、戀をしようといふのである。含める花の穗に(617)咲くが如、顯に戀すべしといふべきを、つづめて簡略にしてあるが、意は却つて明瞭である。寄花戀。
2784 こもりには 戀ひて死ぬとも みそのふの からあゐの花の 色に出でめやも
隱庭《コモリニハ》 戀而死鞆《コヒテシヌトモ》 三苑原之《ミソノフノ》 鷄冠草花乃《カラアヰノハナノ》 色二出目八方《イロニイデメヤモ》【類聚古集云、鴨頭草又作2鷄冠草1云云依2此義1者可v和2月草1歟】
心ノ内デ忍ビ忍ンデ、遂ニ〔二字傍線〕焦レ死シヨウトモ、私ハ〔二字傍線〕(三苑原之鷄冠草花乃)顔〔傍線〕色ニ出シテ、公然ト〔六字傍線〕戀スルモノデスカ。イツマデモ忍耐シテ顔色ニハ出サナイツモリダ〔イツ〜傍線〕。
○隱庭《コモリニハ》――舊訓シヌビニハとあるが古義に從ふ。隱の字は集中、隱口《コモリク》(四五)・隱沼《コモリヌ》(二〇一)・隱江《コモリエ》(二四九)・隱嬬《コモリヅマ》(二二八五)などコモリと訓んだ例が多い。○三苑原之鷄冠草花乃《ミソノフノカラアヰノハナノ》――色に出づと言はむ爲の序詞。カラアヰは幹藍(三八四)・韓藍(一三六二)・辛藍(二二七八)などと記してあるのに、ここに鷄冠草と書いたのは、花の形によつたもので、今の鷄頭花と同一物なることが、これで明らかである。○類聚古集云――これは類聚古集には鴨頭草は又鷄頭草とも書いてあるから、それによると、この鷄冠草は月草とすべきかといふのであらう。和の字は温故堂本には知になつてゐる。類聚古集は藤原敦隆の著で、彼は鳥羽天皇の保安元年に卒した人であるから、この註は次點以後に附せられたものであらねばならぬ。多分仙覺の新點に際して附せられたものか。ともかく不要のものである。嘉暦本・細井本・神田本・無訓本などにないのによつて除くべきである。
〔評〕 三句以下は卷十の戀日之氣長有者三苑圃能辛藍花之色出爾來《コフルヒノケナガクアレバミソノフノカラアヰノハナノイロニイデニケリ》(二二七八)と同じである。寄花戀。
2785 咲く花は 過ぐる時あれど 吾が戀ふる 心の中は 止む時もなし
開花者《サクハナハ》 雖過時有《スグルトキアレド》 我戀流《ワガコフル》 心中者《ココロノウチハ》 止時毛梨《ヤムトキモナシ》
咲ク花ハ散ル時ガアルガ、私ノ戀シイ心ノ中ハ止ム時ハナイ。イツデモ思ヒツヅケテヰル〔イツハ〜傍線〕。
○雖過時有《スグルトキアレド》――古義はスグトキアレドと訓んでゐる。散る時あれどの意。
(618)〔評〕 明瞭な平易な作。戀の止む時なきを浪に譬へた歌は多いが、花と對照したのは珍らしく且、優雅である。寄花戀。
2786 山吹の にほへる妹が 唐棣花色の 赤裳の姿 夢に見えつつ
山振之《ヤマブキノ》 爾保敝流妹之《ニホヘルイモガ》 翼酢色乃《ハネズイロノ》 赤裳之爲形《アカモノスガタ》 夢所見管《イメニミエツツ》
(山振之)美シイ女ガ着テヰル〔四字傍線〕、唐棣花色ノ赤イ裳ノ姿ガ、夢ニ見エテ。アアナツカシイ〔七字傍線〕。
○山振之《ヤマブキノ》――枕詞。山吹の花の美しい意を以てニホヘルイモにつづいてゐる。垣津旗丹頬合妹《カキツバタニヅラフイモ》(一九八六)・垣幡丹頼經君乎《カキツバタニヅラフキミヲ》(二五二一)・茵花香君之《ツツジバナニホヘルキミガ》(四四三)・茵花香未通女《ツツジバナニホヒオトメ》(三三〇五)などに同じ。○翼酢色乃《ハネズイロノ》――翼酢《ハネズ》は唐棣花。庭梅。六五七參照。
〔評〕 山吹と唐棣花と二つの花を並べたのは、美しい感じを與へる。夢にし見ゆるなどあるべきを、夢に見えつつと穩やかに餘情を籠めて結んであるのが、歌を柔らかにしてゐる。この形式は集中には稀であるが、後世著しく發達した。この歌、袖中抄に載せてある。寄花戀。
2787 天地の 依り合ひの極 玉の緒の 絶えじと思ふ 妹があたり見つ
天地之《アメツチノ》 依相極《ヨリアヒノキハミ》 玉緒之《タマノヲノ》 不絶常念《タエジトオモフ》 妹之當見津《イモガアタリミツ》
天地ノ有ラム限リハ何時マデモ〔五字傍線〕、(玉緒之)絶エズ中ヨクシテ居ヨウ〔八字傍線〕ト私ガ思ツテ居ル女ノ家ノアタリヲ、私ハ〔二字傍線〕眺メテナツカシク思ツ〔八字傍線〕タ。
○天地之依相極《アメツチノヨリアヒノキハミ》――天と地とが合して一つになる最後の時まで、天と地とはもと一つであつたが分離したのだから、又何時か合體する時があるといふ考で、その極限の時まで。天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》(一六七)・天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノカギリ》(一〇四七)の例もある。○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。不絶《タエジ》とつづく。玉緒は玉を貫き通した緒。命のことではない。
〔評〕 天地之依相極《アメツチノヨリアヒノキハミ》は他の用例によると、天壤無窮といふやうな意をあらはさうとするところに用ゐる語であ(619)る。それを戀の歌に使つてゐるのが大袈裟で面白い。結句、妹之當見津《イモガアタリミツ》は龍頭蛇尾の感がある。これより以下、器物に寄せてある。寄玉戀。
2788 生の緒に 念ふは苦し 玉の緒の 絶えて亂れな 知らば知るとも
生緒爾《イキノヲニ》 念者苦《オモフハクルシ》 玉緒乃《タマノヲノ》 絶天亂名《タエテミダレナ》 知者知友《シラバシルトモ》
命ニカケテ心ノ中デ〔四字傍線〕思ツテ居ルノハ苦シイモノダ。カウ苦シイ思ヒヲスルヨリモ、寧ロ人目ナドハカマハズ〔カウ〜傍線〕(玉緒乃絶天)亂暴ニ戀ヲシヨウ。人ガ〔二字傍線〕知ルナラバ知ツテモカマフコトデハナイ〔九字傍線〕。
○生緒爾《イキノヲニ》――命にかけて思ふことを、イキノヲニオモフといふ。氣乃緒爾念師君乎《イキノヲニオモヒシキミヲ》(六四四)その他用例が多い。○玉緒乃絶天亂名《タマノヲノタエテミダレナ》――玉の緒の絶えては亂れと言はむ爲の序詞。玉を貫いた緒が絶えれば、玉が亂れるからである。亂れなは亂れむに同じく、語氣が強い。
〔評〕 戀に忍びかねて、人知らば知れ、表にあらはれて、戀しようといふのである。語調に勢があつて、その氣分をあらはし得てゐる。イキノヲ・タマノヲを並べたのは殊更に巧んだのではあるまい。古今集中に「下にのみこふれば苦し玉の緒のたえて亂れむ人なとがめそ」は、これに傚つたものである。寄玉戀。
2789 玉の緒の 絶えたる戀の 亂れには 死なまくのみぞ 又も逢はずして
玉緒之《タマノヲノ》 絶而有戀之《タエタルコヒノ》 亂者《ミダレニハ》 死卷耳其《シナマクノミゾ》 又毛不相爲而《マタモアハズシテ》
(玉緒之)中絶シテシマツタ戀故ニ心ガ〔四字傍線〕亂レタノデ私ハ〔二字傍線〕モウ又アノ人〔三字傍線〕ニ逢ハウトハ思ハナイデ、唯〔傍線〕死ナウト思フバカリダ。
○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。絶えに冠してある。○亂者《ミダレニハ》――戀の亂れは戀の心の亂れ。戀ゆゑに心が狂亂したこと。失戀の狂亂である、新考に苦者《クルシキハ》と改めたのは、その意を得ない。
〔評〕 全體に力強い詞で、熱情が溢れてゐる。失戀によつて死を決し、もはや再び戀人に逢はうとは思はずと、(620)只管死を急ぐ心は、いたましい。寄玉戀。
2790 玉の緒の くくり寄せつつ 末つひに ゆきは分れず 同じ緒にあらむ
玉緒之《タマノヲノ》 久栗縁乍《ククリヨセツツ》 末終《スヱツヒニ》 去者不別《ユキハワカレズ》 同緒將有《オナジヲニアラム》
玉ヲ貫キ通シタ緒ハ、兩端ヲ〔三字傍線〕ククリ寄セテ、シマヒニハ、ソノ玉ガ一緒ニナルガ、私共モ今ハ色々故障ガアツテ別々ニナツテ居ルケレドモ、遂ニハ〔ソノ〜傍線〕別々ニナラナイデ、同ジ所ニ住ンデ夫婦トナリ〔七字傍線〕マセウ。
○玉緒之《タマノヲノ》――新考に、タマノヲヲと改めてゐるが、玉の緒を文の主格として提示したのだからこの儘でよい。○久栗縁乍《ククリヨセツツ》――玉の緒の兩端を括り合せて。○去者不別《ユキハワカレズ》――別々に遠く離れず。○同緒將有《オナジヲニアラム》――もとより同一の緒に貫かれてゐるのであるが、ここは緒の兩端が結合せられ、玉と玉とが一つに並ぶことを斯く言つたのである。
〔評〕 玉の緒の兩端を、自分と相手とに見立ててよんだもの。多分女の作であらう。歌全體が譬喩になつてゐる。前の烏玉間開乍貫緒縛依後相物《ヌバタマノアヒダアケツツヌケルヲモククリヨスレバノチモアフモノヲ》(二四四八)と少しく似てゐる。又古今集の「下の帶の道はかたかたわかるとも行きめぐりてもあはむとぞ思ふ」と同意である。寄玉戀。
2791 片糸もち 貫きたる玉の 緒を弱み 亂れやしなむ 人の知るべく
片絲用《カタイトモチ》 貫有玉之《ヌキタルタマノ》 緒乎弱《ヲヲヨワミ》 亂哉爲南《ミダレヤシナム》 人之可知《ヒトノシルベク》
私ノ心ハ〔四字傍線〕人ノ目ニ付クヤウニ、戀ノ爲ニ〔四字傍線〕(片絲用貫有玉之緒乎弱)亂レルデアラウカ。堪ヘラレナイデ、心ガ亂レルコトガ無ケレバヨイガ〔堪ヘ〜傍線〕。
○片絲用貫有玉之緒乎弱《カタイトモチヌキタルタマノヲヲヨワミ》――亂れとつづく序詞。縒り合せてない絲を以て貫いた玉の緒は緒が弱いので、切れて亂れるからである、片絲は卷七に河内女之手染之絲乎絡反片絲爾雖有將絶跡念也《カフチメノテゾメノイトヲクリカヘシカタイトニアレドタエムトオモヘヤ》(一三一六)とある。
〔評〕 忍ぶにあまる戀のつらさを述べてゐる。序詞は巧妙に出來てゐる。寄玉戀。
2792 玉の緒の うつし心や 年月の 行き易るまで 妹に逢はざらむ
(621)玉緒之《タマノヲノ》 島意哉《ウツシココロヤ》 年月乃《トシツキノ》 行易及《ユキカハルマデ》 妹爾不逢將有《イモニアハザラム》
(玉緒之)シツカリシタ〔六字傍線〕正氣デ居ナガラ、長イ〔二字傍線〕年月ガ立ツマデ、戀シイ〔三字傍線〕女ニ逢ハナイデ居ルノダラウカ。心ガ狂ヒデモシタラバ兎ニ角、確カナ心ヲ持ツテ居ツテハ、サウ何時マデモ逢ハナイデ居ラレルモノデハナイ〔心ガ〜傍線〕。
○玉緒之島意哉《タマノヲノウツシココロヤ》――舊訓タマノヲノシマココロニヤとよんでゐる。代匠記精撰本には「玉緒は括《ククル》時しむれば島とつづく」「島心は引しむる心を云歟。思ひ亂れむとする心を引しめて忍ぶなり」「島意とは染《シム》心を云にや、人に染《シミ》付て戀る意にや」などと言つてゐるが、隱當を缺くやうである、眞淵が島を長の誤として、ナガキココロヤと訓んだのは頗る面白いが、なほ卷七に紅之寫心哉於妹不相將有《クレナヰノウツシゴコロヤイモニアハザラム》(一三四三)・卷十二に玉緒乃徙心哉八十梶懸水手出牟船爾後而將居《タマノヲノウツシゴコロヤヤソカカケコギデムフネニオクレテヲラム》(三二一一)とあるによると、ここもウツシゴコロとありさうなところである。宣長が島を寫の誤としたのは、文字も似てゐるから、當つてゐるのではないかと思はれる。即ち玉緒之《タマノヲノ》はウツシの枕詞として用ゐられたもので、古義に「玉緒之寫《タマノヲノウツシ》とかかれるは、間置て貫たる玉の緒を、くくりよするにつれて、玉の彼《カシコ》へ此《ココ》へ轉《ウツ》るをもて、轉《ウツ》しとつづきたるなるべし」とあるに從はう。同書にある大神景井の靈之緒即ち命とし、靈の緒の現《ウツ》しとつづくとした説は從はない。ウツシゴコロは現し心。即ち正氣。○妹爾不逢將有《イモニアハザラム》――第二句を受けて妹に會はざらむや。必ず逢ふべきであるの意となつてゐる。
〔評〕 第二句に疑問があるのは遺憾であるが、もし古義の大神景井説の如く、玉緒之を靈の緒即ち命と解すれば、玉に寄せた歌ではなくなる。玉と靈と音が同樣であるから、並べ記したとも言へないことはないが、それはここでは無理であらう。ともかく玉の緒は枕詞として用ゐられたのみで。寄せる意は殆ど無い。しかし寄物の歌に枕詞のみに用ゐられたものも多く、又枕詞とするも序詞とするのも、もと長短の差のみであるから、それは咎めることは出來ない。この歌、袖中抄に載せてある。寄玉戀。
2793 玉の緒の 間も置かず 見まく欲り 吾が思ふ妹は 家遠くありて
玉緒之《タマノヲノ》 間毛不置《アヒダモオカズ》 欲見《ミマクホリ》 吾思妹者《ワガモフイモハ》 家遠在而《イヘトホクアリテ》
(622)(玉緒之)間モ置カズ始終〔二字傍線〕見タイト思ツテ居ル私ノ戀シイ女ハ、家ガ遠クテ始終逢フコトガ出來ナイノハ殘念ダ〔始終〜傍線〕。
○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。間毛不置《アヒダモオカズ》とつづいてゐる。緒に通した玉は、すき間もなく並んでゐるからである。○欲見《ミマクホリ》――見まくほり吾が思ふと、直ちにつづけて見ねばならぬ。
〔評〕 結句の家遠在而《イヘトホクアリテ》の結びが、餘情を持たせて穩やかに言ひをさめてある。以上の七首は、すべて玉の緒によせた歌である。寄玉戀。
2794 こもりづの 澤たつみなる 岩根ゆも 通しておもふ 君に逢はまくは
隱津之《コモリヅノ》 澤立見爾有《サハタヅミナル》 石根從毛《イハネユモ》 達而念《トホシテオモフ》 君爾相卷者《キミニアハマクハ》
外カラ見エナイヤウニ湧ク水ガ、澤ノ泉トシテ湧イテ石根ヲモ通スバカリニ、私ハ〔二字傍線〕貴方ニ逢ヒタイト思ツテ居ル。
○隱津之《コモリヅノ》――前の歌(二四四三)によると、隱津は隱處と伺じで、隱水《コモリミヅ》の略。草木に隱れて、その下を流れる水。○澤立見爾有《サハタヅミナル》――舊訓サハタチミナルとあり、童蒙抄に立を出の誤として、サハイヅミナルとよみ、略解古義も同訓であるが、これは二四四三の歌に強ひて一致せしめたもので、やはり原事のままでサハタヅミナルと訓みたい。サハタヅミといふ語は他に見えないが、庭多泉《ニハタヅミ》(一七八)・庭立水《ニハタヅミ》(一三七〇)・爾波多豆美《ニハタヅミ》(四一六〇)・庭多豆水《ニハタヅミ》(四二一四)など用ゐられた行潦《ニハタヅミ》があるからには、澤立見《サハタヅミ》もありさうである、澤に漾ひ流れる水である。この句は澤たづみなる水がの意。○遠而念《トホシテオモフ》――遠の字、嘉暦本その他の古本、多く達に作つてゐるのがよいであらう。岩根をも通すばかりに烈しく思ふところのの意である。
〔評〕 少し語句の連接にどうかと思はれる點もあるが、材料が珍らしく、又三四の句には、岩をも透すやうな熱烈な戀があらはれてゐる。前の 隱處澤泉在石根通念吾戀者《コモリヅノサハイヅミナルイハネユモトホシテゾオモフワガコフラクハ》(二四四三)に酷似してゐる。寄石戀。
2795 紀の國の 蝕等の濱の 忘貝 我は忘れず 年は經れども
木國之《キノクニノ》 飽等濱之《アクラノハマノ》 忘貝《ワスレガヒ》 我者不忘《ワレハワスレズ》 年者雖歴《トシハフレドモ》
(623)アレカラズヰブン〔八字傍線〕年ガタツタケレド、私ハ戀人ヲ〔三字傍線〕(木國之飽等濱之忘貝)忘レハシナイ。
○木國之飽等濱之忘貝《キノクニノアクラノハマノワスレガヒ》――ワスレの音を繰返して、次の句につづく序詞。紀伊の國の飽等の濱にゐる忘貝。飽等の濱は紀伊海草都田倉埼だと言はれてゐる。卷七に飽浦清荒磯《アクウラノキヨキアリソ》(一一八七)とあるのと同じであらう。忘貝は六八參照。○我者不忘年者雖歴《ワレハワスレズトシハフレドモ》――略解は舊訓を改めて、ワレハワスレジトシハヘヌトモと訓み、古義もさう訓んでゐるが、この歌は未來をいふのではなくて、過去を追憶した言葉とすべきであらうから、舊訓のままがよい。
〔評〕 忘貝を以て戀を忘れることを述べたものは集中に多い。卷一の大伴乃美津能濱爾有忘貝家爾有妹乎忘而念哉《オホトモノミツノハマナルワスレガヒイヘナルイモヲワスレテオモヘヤ》(六八)はこの歌に最も似てゐる。寄貝戀。
2796 水くくる 玉にまじれる 礒貝の 片戀のみに 年は經につつ
水泳《ミヅククル》 玉爾接有《タマニマジレル》 礒貝之《イソガヒノ》 獨戀耳《カタコヒノミニ》 年者經管《トシハヘニツツ》
私ハ〔二字傍線〕(水泳玉爾接有礒貝之)片戀バカリヲシテ、思ガ先方ニ通ジナイデ〔思ガ〜傍線〕永年タツテシマツタ。ツマラナイコトヲシタ〔ツマ〜傍線〕。
○水泳玉爾接有礒貝之《ミヅクグルタマニマジレルイソカヒノ》――序詞。水底に没してゐる玉と共に居る磯貝の如く、片とつづく。初句は舊訓にミナソコノとあるが、泳は崇神天皇紀に「山河之水|泳《ククリ》御魂」景行天皇紀に「泳宮此云2區玖利能彌椰1」とあるから、ミヅククルとよむべきである。ククルは潜る。卷四に敷細乃枕從久久流涙二曾《シキタヘノマクラユククルナミダニゾ》(五〇七)・卷十四に伊波具久留水都爾母我毛與《イハククルミヅニモガモヨ》(三五五四)などがある。漏《ク》くを語源とする動詞である。玉は海中の美しい小石である。礒貝は礒に附著してゐる貝、即ち鰒の類であらう。
〔評〕 歌意は謂はゆる「鰒の貝の片思ひ」といふ成語に一致してゐるもので、序詞に作者の工夫が傾注せられてゐる。寄貝戀。
2797 住の吉の 濱によるとふ うつせがひ 實なき言もち 我戀ひめやも
住吉之《スミノエノ》 濱爾縁云《ハマニヨルトフ》 打背貝《ウツセガヒ》 實無言以《ミナキコトモチ》 余將戀八方《ワレコヒメヤモ》
(624) (住吉之濱爾縁云打背貝)眞實ノナイ言葉デ、私ハ人ヲ〔二字傍線〕戀シヨウヤ、私ノ言フコトハ心カラノ眞實デス〔私ノ〜傍線〕。
○住吉之濱爾縁云打背貝《スミノエノハマニヨルトフウツセガヒ》――實無《ミナキ》とつづく序詞。住吉の濱に打ち寄せられる打背貝。打背貝は代匠記精撰本に「からになりたる貝なり」とある通りで、謂はゆる介殻である。考・略解・古義など石花《セ》貝の空になつたものとしてゐるが、石花貝(龜の手)のやうな目立たぬ貝をいふ筈はないから、空の意味の空《ウツ》しといふ語が既に用ゐられてゐて、ウツセに轉じたものてあらう。○實無言以《ミナキコトモチ》――打背貝は肉《ミ》が無いから實無《ミナキ》とつづけて、下へは眞實のない言葉を以ての意でつづいてゐる。
〔評〕 打背貝は集中唯一の例である。序詞としての用法はその巧妙さに、人を讃嘆せしめたものであらう。寄貝戀。
2798 伊勢の白水郎の 朝魚夕菜に かづくとふ 鰒の貝の かたもひにして
伊勢乃白水郎之《イセノアマノ》 朝魚夕菜爾《アサナユフナニ》 潜云《カヅクトフ》 鰒貝之《アハビノカヒノ》 獨念荷指天《カタモヒニシテ》
(伊勢乃白水郎之朝魚夕菜爾潜云鰒貝之)片思ヒバカリデ、實ニ私ハツマラナイ〔九字傍線〕。
○朝魚夕菜爾《アサナユフナニ》――略解に「朝な夕なのなは、よなよなとも言ふに同じく助辭也」とあるが、ここに魚・菜の字を用ゐたのは假名ではなく、このナは副食物として添へる肴である。この句は朝の菜、夕の菜としての意。○鰒貝之《アハビノカヒノ》――鰒の貝は貝が片一方のみであるから、獨念《カタモヒ》といふ爲に置かれてゐる、即ちここまでの四句はすべて序詞である。
〔評〕 序詞ばかりの歌である。結句、ニシテで止めたのが、餘韻を持たせてゐる。「鰒の貝の片思ひ」といふ俗語は、多分これから出たのであらう。その源流の遠いのに驚かされる。古今集に「いせの海人のあさな夕なにかづくてふみるめに人をあくよしもがな」とあるのはこれを作りかへたものであらう。寄海戀。
2799 人言を 繁みと君を 鶉鳴く 人の古家に 語らひて遣りつ
人事乎《ヒトゴトヲ》 繁跡君乎《シゲミトキミヲ》 鶉鳴《ウヅラナク》 人之古家爾《ヒトノフルヘニ》 相語而遣都《カタラヒテヤリツ》
(625)世間ノ〔三字傍線〕人ノ噂ガヤカマシイノデ、アナタヲ自分ノ家ニハ連レテ來ナイデ〔自分〜傍線〕、他人ノ(鶉鳴)古イ空〔二字傍線〕家デ、種々〔二字傍線〕話ヲシテ後デ〔二字傍線〕歸シタ。
○人事乎《ヒトゴトヲ》――事は言の借字。○鶉鳴《ウヅラナク》――枕詞。鶉は淋しい草原などに鳴くものであるから、古家の枕詞としたのである。○人之古家爾《ヒトノフルヘニ》――他人の持つてゐる古いあき家にの意。
〔評〕 前にあつた彼方之赤土少屋爾※[雨/脉]霖零床共所沾於身副我妹《ヲチカタノハニフノヲヤニコサメフリトコサヘヌレヌミニソヘワギモ》(二六八三)を少し婉曲に言つたやうな作で、田舍人の戀である。寄する意は薄い。寄鳥戀。
2800 あかときと かけはなくなり よしゑやし 獨ぬる夜は 明けば明けぬとも
旭時等《アカトキト》 鷄鳴成《カケハナクナリ》 縱惠也思《ヨシヱヤシ》 獨宿夜者《ヒトリヌルヨハ》 開者雖明《アケハアケヌトモ》
モウ〔二字傍線〕夜明ケ方ダト鷄ガ鳴クヨ。エエヨロシイ。獨デ寢ル晩ハ、明ケルナラバ明ケタツテ、惜シクモ何トモナイ〔九字傍線〕。
○鷄鳴成《カケハナクナリ》――舊訓鷄をトリとよんだのを考にカケと改めた。この鳥に寄せた一團の歌はいづれも鳥の名が詠まれてゐるから、これもカケと詠む方がよからう。○開者雖明《アケハアケヌトモ》――卷十五に安氣婆安氣奴等母《アケハアケヌトモ》(三六六二)とあるに傚つてよむべきであらう。
〔評〕 獨寢の嘆聲が、噛んで吐き出すやうに述べられてゐる。素樸にして眞情流露。卷十五の旋頭歌、安麻能波良布里佐氣見禮婆欲曾布氣爾家流與之惠也之比等里奴流欲波安氣婆安氣奴等母《アマノハラフリサケミレバヨゾフケニケルヨシヱヤシヒトリヌルヨハアケバアケヌトモ》(三六六二)はこれに傚つたものである。寄鳥戀。
2801 大海の 荒礒の渚鳥 朝なさな 見まく欲しきを 見えぬ君かも
大海之《オホウミノ》 荒礒之渚鳥《アリソノスドリ》 朝名旦名《アサナサナ》 見卷欲乎《ミマクホシキヲ》 不所見公可聞《ミエヌキミカモ》
(大海之荒礒之渚鳥)毎朝毎朝見タイト思フノニ、貴方ハ一向〔二字傍線〕オ見エニナラナイヨ。
(626)○大海之荒礒之渚鳥《オホウミノナギサノスドリ》――序詞であることは明らかであるが、如何なる意味でつづくかは明瞭でない。代匠記初稿本には「長流が抄に、洲に居る鳥のあさるといふ心に、朝な朝なとはいひかけたりといへり」といひ、これを疑つて、「あさるといふ心にはつづけずして、朝な朝なは日に日にその鳥のみまくほしきによせて、みまくほしきをみえぬ君かもとよめるにやとぞおぼゆる」と言つてゐる。後説に從ふものが多い。しばらくこれに從つて、見卷欲《ミマクホシ》につづくものとして置かう。渚鳥は洲にゐる鳥。古説にみさご〔三字傍点〕とするは當らない。○朝名旦名《アサナサナ》――毎朝を毎日と同意に用ゐたのであらう。○不所見公可問《ミエヌキミカモ》――問は嘉暦本その他多くの古本聞に作るがよい。
〔評〕 序詞は雄大な語感を有してゐるが、下へのつづきが不明瞭なのは遺憾である。寄鳥戀。
2802 念へども 念ひもかねつ 足引の 山鳥の尾の 永きこの夜を 或本歌曰、あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き永夜をひとりかも宿む
念友《オモヘドモ》 念毛金津《オモヒモカネツ》 足檜之《アシビキノ》 山鳥尾之《ヤマドリノヲノ》 永此夜乎《ナガキコノヨヲ》
ツマラヌコトハ思フマイト〔ツマ〜傍線〕思案スルケレドモ、ヤハリソノ〔五字傍線〕思案ガ出來ナイ。(見檜之山鳥尾之)永イコノ夜ヲ夜通シ戀ヒ明カシテヰル〔夜通〜傍線〕。
○念友《オモヘドモ》――思案するがの意。○ 念毛金津《オモヒモカネツ》――思案が出來ないの意。つまらぬことは考へまいと思案するが、それが出來ないといふのである。古義・新考にこのオモフを念ズルと譯してゐるが、忍耐スルの意にオモフを用ゐることがあるか、頗る疑はしい。○足檜之山鳥尾之《アシビキノヤマドリノヲノ》――永《ナガキ》と言はむ爲の序詞。代匠記特撰本に「山鳥尾は唯永きとつづくるのみならず、獨寢る心をそへたり」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 初二句、反省によつて塞き止められない、哀慕の情がいたましい。山鳥の尾の序詞も適切である。寄鳥戀。
或本歌曰 足日木乃《アシビキノ》 山鳥之尾乃《ヤマドリノヲノ》 四垂尾乃《シダリヲノ》 長永夜乎《ナガキナガヨヲ》 一鴨將v宿《ヒトリカモネム》
(足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃)長イ永イ晩ヲ私ハ〔二字傍線〕一人デ寢ルコトカナア。アア淋シイ〔五字傍線〕。
(627)○足日木乃山鳥之尾乃四垂尾乃《アシビキノヤマドリノヲノシダリヲノ》――長《ナガキ》と言はむ爲の序詞。足日木乃《アシビキノ》は枕詞。山鳥の尾は長くしだれてゐるから四垂尾《シダリヲ》と言ふのである。四垂尾《シダリヲ》は四垂柳《シダリヤナキ》(一九〇四)・(一九二四)のシダリに同じく下に垂れた尾。○長永夜乎《ナガキナガヨヲ》――舊訓ナガナガシヨヲとあり、紀友則集に「誰きけと聲高砂にさを鹿のながながし夜をひとり鳴くらむ」新古今集に「櫻さく遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな」とあつて、中世の慣用である。古來の學者中これを語法上に誤謬ありとしてゐるものもあるが、文法的誤謬はない。しかし語調が弱いから、ナガキナガヨとよむ方がよい。永夜といふ熟語の上に、長きといふ形容詞を置いた形である。略解が永を此の誤として、ナガキコノヨヲとよんだのは臆斷に過ぎる、
〔評〕 この歌は或本歌曰とあるが、實は前のものとは全く別の歌である。序詞は如何にも長い夜らしく出來てゐて、孤閨に泣く人のやるせない心情をあらはすに適した巧妙なものである。柿本人麿作として小倉百人一首に載せられて、普く人口に膾炙してゐるが、それは拾遺集に出てゐるのを、そのまま採つたのである。寄鳥戀。
2803 里中に 鳴くなる鷄の 喚び立てて いたくは鳴かぬ こもり妻はも 一云、里とよみ鳴くなる鷄
里中爾《サトナカニ》 鳴奈流鷄之《ナクナルカケノ》 喚立而《ヨビタテテ》 甚者不鳴《イタクハナカヌ》 隱妻羽毛《コモリヅマハモ》
里ノ中デ聲ヲ上ゲテ〔五字傍線〕鳴キ立テル鷄ノヤウニ、私ヲ戀シク思ツテモ人目ヲ包ンデ居ル戀ダカラ、人ニ知ラレルヤウナ〔私ヲ〜傍線〕大聲ヲ上ゲテ、ヒドクハ泣カナイ私ノ〔二字傍線〕隱妻ヨ。ドウシタデアラウカ〔九字傍線〕。
○里中爾《サトナカニ》――古義にはサトヌチニとあるが、舊訓のままでよい。○鳴奈流鷄之《ナクナルカケノ》――契沖はナクナルトリノとよんでゐる。○隱妻羽母《コモリヅマハモ》――考に「心の内のこもりづまはもとよみしも同じく、心に忍びとふつまをいふべし。ここは母が許にこもり、或は隱して置たるなどをいふにあらず」とあり。略解・古義もこれに從つてゐるが、やはり隱し置いた妻であらう、
〔評〕 上三句を序詞と見る説もあるが、譬喩とした方がよいやうである。人目を忍んでゐる女の、戀しさを忍ん(628)で、聲を立てては鳴かぬ樣をいとしく思つた歌である。眞淵のやうに解しては、甚者不鳴《イタクハナカヌ》が作者自身のことになつて、非常に變つて來る。寄鳥戀。
一云 里動《サトトヨミ》 鳴成鷄《ナクナルカケ》
これは初二句の異傳である、里トヨミの方が表現が強く、三句への連絡も面白味が加はる。
2804 高山に 高部さわたり 高高に 吾が待つ君を 待ち出でむかも
高山爾《タカヤマニ》 高部左渡《タカベサワタリ》 高高爾《タカダカニ》 余待公乎《ワガマツキミヲ》 待將出可聞《マチイデムカモ》
(高山爾高部左渡)望ミヲカケテ、私ガ待ツテ居ル貴方ヲ、ウマク〔三字傍線〕待ツテヰテ逢フコトガ出來ルダラウカ。待チ遠シイ〔二字傍線〕。
○高山爾高部左渡《タカヤマニタカベサワタリ》――タカの音を繰返して、下につづく序詞。高い山の上を高部が飛んで行く意。高部は小鴨。卷三に鴦與高部共《ヲシトタカベト》(二五八)參照。○高高爾《タカダカニ》――仰ぎ望んでの意。卷四|高高二《タカダカニ》(七五八)參照。○待將出可聞《マチイデムカモ》――考にはマチデナムカモとあり、略解・古義も同樣であるが、舊訓に從つた。マチイヅは待つてゐてその物が出て來ること。
〔評〕 上三句にタカの音を揃へ、下二句にマツを繰返し、集中でも珍らしい語調をなしてゐる。第三句にタカダカニを置いた、これと同型の歌は集中に多いが、その中ではこれが傑れてゐる。寄鳥戀。
2805 伊勢の海ゆ 鳴き來る鶴の 音どろも 君が聞かさば 我戀ひめやも
伊勢能海從《イセノウミユ》 鳴來鶴乃《ナキクルタヅノ》 音杼侶毛《オトドロモ》 君之所聞者《キミガキカサバ》 吾將戀八方《ワレコヒメヤモ》
私カラノ〔四字傍線〕(伊勢能海從鳴來鶴乃)音信デモセメテ〔三字傍線〕貴方ガオ聞キニナラバ、私ハコンナニ貴方ヲ〔七字傍線〕戀シク思ヒハシナイ。實際ニ逢ハナイノミカ、音信ノシヨウモナイカラコンナニ戀シイノデス〔實際〜傍線〕。
(629)○伊勢能海從鳴來鶴乃《イセノウミユナキクルタヅノ》――音とつづく序詞。○音杼侶毛《オトドロモ》――音杼侶は珍らしい語である。集中、他に用例がない。考には音柁※[人偏+爾]毛《オトダニモ》の誤としてゐるが、根據がない。古義に「音杼侶毛《オトドロモ》は音信《オトヅレ》だにもと云むが如し。音驚《オトオドロ》と云なるべし。」と言つてゐる、字音辨證にはオトヅレモとよんで「舊訓オトドロモとあるは非也。杼をヅと呼ぶは、同轉の※[草がんむり/遽](ノ)字居(ノ)字にクの音あるひびきなり。云々」と言つてゐるが、例の韻鏡を濫用したものである。多分オトドロはオトヅレの轉で、全く同語であらう。新考にオトヅレの方言だらうと言つてゐるのも一説である。○君之所聞者《キミガキカサバ》――舊訓キミガキコエバとあるが、所聞の二字は卷三に人事乎吉跡所聞而《ヒトゴトヲヨシトキカシテ》(四六〇)とあるによれば、キカスとよむべきである、君が聞き給はばの意であらう。從來の訓によつて、「君が音信だにも聞え來ば」と解くのは無理であらう。
〔評〕 旅に出た夫を思つて女が詠んだものであらう。伊勢の海から鳴いて來る鶴を序詞に用ゐたのは、夫がその方面に行つたのかも知れない。寄鳥戀。
2806 吾妹子に 戀ふれにかあらむ 沖に住む 鴨の浮宿の 安けくもなし
吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀爾可有牟《コフレニカアラム》 奥爾住《オキニスム》 鴨之浮宿之《カモノウキネノ》 安雲無《ヤスケクモナシ》
私ハコノ頃ア〔五字傍線〕ノ女ヲ戀シク思ツテ居ルカラデアラウカ。沖ニ住ンデ居ル鴨ガ水ノ上〔三字傍線〕ニ浮ンデ寢テ、波ノマニマニ搖ラレテ安ラカニ寢ラレナイ〔テ波〜傍線〕ヤウニ、私モコノ頃ハ〔六字傍線〕安ラカニオチオチト〔五字傍線〕眠ルコトガ出來ナイ。
○戀爾可有牟《コフレニカアラム》――戀ふればにかあらむに同じ。○奧爾住鴨之浮宿之《オキニスムカモノウキネノ》――沖に住んでゐる鴨が浪の上に浮んで寢てゐるやうに。これは安雲無《ヤスケクモナシ》の序詞と見ることも出來るが、譬喩とする方がよいやうだ。○安雲無《ヤスケクモナシ》――上を序詞とすれば、心が安くもない、即ち心の落ちつかぬことを言つたのであるが、上を譬喩とすれば、安眠出來ぬ意とならう。代匠記精撰本に「第四に枕をくくる涙にそ浮宿をしけるとよめるに准らへば、奧に住鴨とよせたるに涙を含みて、浮宿は我浮宿にや」とあるが、これは考へ過ぎである。ヤスケクモナキと訓む説は採らない。
〔評〕 初二句に我ながら吾が戀を心付かぬやうに言つてゐる。これも歌の一つの技巧である、寄鳥戀。
2807 明けぬべく 千鳥しば鳴く 白たへの 君が手枕 いまだ厭かなくに
(630)可旭《アケヌベク》 千鳥數鳴《チドリシバナク》 白細乃《シロタヘノ》 君之手枕《キミガタマクラ》 未厭君《イマダアカナクニ》
私ハ久シ振リデ貴方ニ逢ツテ〔私ハ〜傍線〕、未ダ貴方(ノ(白細乃)手枕ヲシ飽キナイノニ、モウ夜ガ〔四字傍線〕明ケルノヲ知ラセ顔ニ、種々ノ鳥ガ頻リニ鳴イテ屈ル。アア別ハイヤダ〔七字傍線〕。
○千鳥數鳴《チドリシバナク》――千鳥が頻りに鳴く。千鳥は「多くの鳥をいふ」と代匠記にあり、諸註すべてこれに從つてゐる。水邊の千鳥はいつでも鳴くもので、卷六の烏王之夜乃深去者久木生留清河原爾知鳥數鳴《ヌバタマノヨノフケヌレバヒサキオフルキヨキカハラニチドリシバナク》(九二五)のやうに小夜更けても鳴くのだから、曉近くなつて特に鳴くとは言はれぬやうである。卷十六|吾門爾千鳥數鳴起余起余我一夜妻人爾所知名《ワガカドニチドリシバナクオキヨオキヨワガヒトヨヅマヒトニシラルナ》(三八七三)の如く、多くの鳥とする見解が當つてゐるであらう。○白細乃《シロタヘノ》――枕とつづく枕詞。考には白を色の誤として、シキタヘノと詠んでゐる。シキタヘノは枕の枕詞として多く用ゐられてゐる。
〔評〕 女のもとに通うた男が、恨めしい鳥の聲を聞いて、別を悲しむ歌。平明な佳い作である。寄鳥戀。
問答
2808 眉根掻き はなひ紐解け 待てりやも いつかも見むと 戀ひ來し我を
眉根掻《マヨネカキ》 鼻火?解《ハナヒヒモトケ》 待八方《マテリヤモ》 何時毛將見跡《イツカモミムト》 戀來吾乎《コヒコシワレヲ》
私ハ貴方ヲ〔五字傍線〕何時ニナツタラ見ルコトガ出來ルデアラウカト、戀ヒ焦レツツ漸ク今日尋ネテ來タガ、貴方モ亦〔漸ク〜傍線〕眉ヲ掻イタリ嚔ヲシタリ、着物ノ〔三字傍線〕紐ガ解ケタリ、人ガ尋ネテ來ル前兆ガアツ〔人ガ〜傍線〕テ、私ノ來ルノヲ待ツテ居マシタカ。久シ振リデ逢ツテオ互ニ嬉シイコトデス〔久シ〜傍線〕。
○待八方《マテリヤモ》――舊訓マタメヤモとあるのはわるい。略解に從ふ。
(631)〔評〕左註にある如く前の柿本朝臣人麿の歌中にある歌である。但しそれは 眉根削鼻鳴紐解待哉何時見念吾君《マヨネカキハナヒヒモトケマツラムヤイツカモミムトオモフルワガキミ》(二四〇八)とあつて、三句と五句とに小異があり、これは男が尋ねて來て、女に問ふ言葉になつてゐる、
右、上(ニ)見(ユ)2柿本朝臣人麿之歌中(ニ)1、但(シ)以(テ)2問答故(ヲ)1、累(ネテノ載(ス)2於茲(ニ)1也
右の歌は已に上に載せた柿本朝臣人麿之歌の中に見えてゐるが、問答であるから、累ねてここに載せるといふのである。但し右に記したやうに兩者の間に小異がある。
2809 今日なれば はなひはなひし 眉かゆみ 思ひしことは 君にしありけり
今日有者《ケフナレバ》 鼻之鼻之火《ハナヒハナヒシ》 眉可由見《マユカユミ》 思之言者《オモヒシコトハ》 君西在來《キミニシアリケリ》
今日ハ久シ振リデ貴方ニオ目ニカカツテ嬉シク思ヒマスガ、コノ嬉シイ〔今日〜傍線〕今日ガアルノデ、先ホドカラ嚔ヲシタリ、眉ガ痒カツタリシテ、何ダカオカシイト〔八字傍線〕思ツテ居タコトハ、貴方ガオイデニナル前兆〔九字傍線〕デアリマシタヨ。
○今日有者《ケフナレバ》――考ケフサレバ・古義ケフシアレバ・新考ケフトイヘバとある。舊訓に從ふ。今日があるからの意。○鼻之鼻之火《ハナヒハナヒシ》――舊訓は文字通りにハナシハナシヒとあるが、意が通じ難い。代匠記精撰本はハナヒハナシヒ、古義はハナビシハナビとあるが、略解補正に鼻之は鼻火の誤。鼻之火は鼻火之の誤かとしたのがよい。○思之言者《オモヒシコトハ》――言は事の借字。
〔評〕 男の來たことを狂喜した女の歌。現代人には滑稽味が多く感ぜられるであらうが、上代人は眞面目に言つてゐたものらしい。
右二首
2810 音のみを 聞きてや戀ひむ まそ鏡 目にただにあひて 戀ひまくも多く
音耳乎《オトノミヲ》 聞而哉戀《キキテヤコヒム》 犬馬鏡《マソカガミ》 日直相而《メニタダニアヒテ》 戀卷裳太口《コヒマクモオホク》
(632)評判バカリヲ聞イテ人ヲ〔二字傍線〕戀シク思フモノデハナイ。ソレダノニ私ハコンナニ戀シク思フカラ〔ソレ〜傍線〕、(犬馬鏡)直接ニアナタニ〔四字傍線〕逢ツタナラバ、サゾ戀シク思フデアリマセウ。
○犬馬鏡《マソカガミ》――枕詞。ミとつづくべきを、目とつづけたのであらう。犬馬をマソと訓むのは喚犬追馬の略。犬を喚ぶ聲がマで、馬を追ふ聲がソであつたのである。卷十三の喚犬追馬鏡《マソカガミ》(三三二四)參照。○目直相而《メニタダニアヒテ》――舊訓メニタダニミテとあるが相の字、訓讀したものは、殆どすべてアフに用ゐられ、ミと訓むべきものは他にないやうであるから、これもアヒである。○戀卷裳太口《コヒマクモオホク》ーー戀しく思ふことが多からうといふ意。代匠記精撰本に太は大の誤であらうとある。
〔評〕 男から女に贈つた歌であらうが、少し言葉が足らぬ爲か、曖昧な點がある。
2811 この言を 聞かむとならし まそ鏡 照れる月夜も 闇にのみ見つ
此言乎《コノコトヲ》 聞跡平《キカムトナラシ》 眞十鏡《マソカガミ》 照月夜裳《テレルツクヨモ》 闇耳見《ヤミニノミミツ》
コノヤサシイ貴方ノ〔七字傍線〕御言葉ヲ聞カウトテデアリマセウ。私モ貴方ヲ戀シク思ツテ〔私モ〜傍線〕(眞十鏡)明ラカナ〔四字傍線〕照リ渡ツタ月夜ヲモ、涙ノ爲ニ〔四字傍線〕闇ノヤウニ曇ラセテ〔四字傍線〕見テ居マシタ。誠ニ貴方ノ御親切ハ有難ウ存ジマス〔誠ニ〜傍線〕。
○聞跡乎《キカムトナヲシ》――舊訓キクトニヤアラムとあり、代匠記初稿本、跡の下、有の字脱として、キカムトナレヤとし、又乎は手の誤、手の下、鴨鳧などの字脱とし、キカムトテカモとし、考は哉とあるべきを乎に誤つたものとし、キキナムトカモとよみ、古義は聞跡有之の誤として、キカムトナラシとよんでゐるが、乎を平の誤として、キカムトナラシとよむがよい。○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。ここはテレルにつづいてゐる。○闇耳見《ヤミニノミミツ》――舊訓ヤミニノミミユ・考ヤミニノミミシ・古義ヤミノミニミツとあるが、今略解に從ふ。
〔評〕 男からの消息に對し、感謝の音を表した女の歌。初二句とそれ以下との關係が、しつくりと來ないやうでもある。特に眞十鏡の句を用ゐて、男の歌に和したものであらう。この一對の歌はなほ研究を要する。
(633)右二首
2812 吾妹子に 戀ひて術なみ 白たへの 袖かへししは 夢に見えきや
吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀而爲便無三《コヒテスベナミ》 白細布之《シロタヘノ》 袖反之者《ソデカヘシシハ》 夢所見也《イメニミエキヤ》
着物ノ袖ヲ反シテ寢ルト、思フ人ヲ夢ニ見ルト言フカラ、私ハ〔着物〜傍線〕アナタガ戀シクテ仕方ガナイノデ、寢衣ノ〔三字傍線〕(白細布之)袖ヲ反シテ寢テ、貴方ヲ夢ニ見ヨウトシマシ〔テ寢〜傍線〕タノハ、貴方ノ〔三字傍線〕夢ニハ見エマセンデシタカ。イカガデシタカ〔七字傍線〕。
○白細布之《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。○袖反之者《ソデカヘシシハ》――袖を反すのは思ふ人を夢に見る爲で、さうした俗信があつた。しかし袖を反すとはどうするのであらう。代匠記初稿本に「此集にはおもふ人をゆめにみんとては、衣をかへすとも、袖をかへすともよめり。衣をかへさざれば、袖もかへらざれは、袖をかへすは、やがて衣をかへすなり。ゆぴは手につきたる物なれど、ゆぴを折を、手ををるといふに准すべし」とある。かう考へるより外はないやうである。
〔評〕 まことに透明な歌だ。情熱的な力ある作品。古今集の「いとせめてこひしき時はぬば玉のよるの衣をかへしてぞぬる」の前驅であらう。
2813 吾背子が 袖反す夜の 夢ならし まことも君に 逢へりしが如
吾背子之《ワガセコガ》 袖反夜之《ソデカヘスヨノ》 夢有之《イメナラシ》 眞毛君爾《マコトモキミニ》 如相有《アヘリシガゴト》
貴方ガ寢衣ノ〔三字傍線〕袖ヲ反シテ寢タト仰シヤイマスガ、今カラ考ヘテ見レバ、キツトソノ〔タト〜傍線〕晩ノ夢デシタラウ。本當ニ貴方ニ逢ツタヤウデシタ。ヤハリオ互ニ心ガ通ジタモノト見エマスネ〔ヤハ〜傍線〕。
○如相有《アヘリシガゴト》――古義はアヘリシゴトシと訓んでゐる。舊訓のままでよい。卷三の跡無如《アトナキガゴト》(三五一)參照。
(634)〔評〕 贈られた歌と同樣の氣分で、兩者がしつくりと合致してゐる。和氣靄々。三句切の歌。
右二首
2814 吾が戀は 慰めかねつ まけ長く 夢に見えずて 年の經ぬれば
吾戀者《ワガコヒハ》 名草目金津《ナグサメカネツ》 眞氣長《マケナガク》 夢不所見而《イメニミエズテ》 年之經去禮者《トシノヘヌレバ》
私ハセメテ貴方ヲ夢ニデモ見テ慰メヨウト思フケレドモ、モウ〔私ハ〜傍線〕永イ間貴方ヲ夢ニモ見ナイデ、年ガタチマシタカラ、私ハ戀シイ心ヲ慰メカネテ居ル。
○眞氣長《マケナガク》――眞は接頭語。氣長《ケナガク》は日長く。永い日數を。
〔評〕 戀人に逢はぬのみか、夢にも見ぬ悲しさを訴へた男の歌である。伊勢物語の「駿河なるうつの山邊のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」と同意で、それほどの技巧がない。
2815 まけ長く 夢にも見えず 絶ゆれども 吾が片戀は 止む時もあらず
眞氣永《マケナガク》 夢毛不所見《イメニモミエズ》 雖絶《タユレドモ》 吾之片戀者《ワガカタコヒハ》 止時毛不有《ヤムトキモアラズ》
貴方ハ私ヲ〔五字傍線〕長イ間夢ニモ御覽ニナラナイト仰シヤイマスガ、ソレハ貴方ガ薄情ノ爲デ、二人ノ間ガ〔ト仰〜傍線〕切レマシタガ、私ガ貴方ヲ思フ〔五字傍線〕片戀ハ何時デモ〔四字傍線〕止ム時ハアリマセヌ。
○雖絶《タユレドモ》――代匠記精撰本に「今按雖絶をタエヌトモとよみ、不有をアラジとも讀べし」とあり。略解・古義も同訓であるが、舊訓のままがよい。新考にはタエタレドとあり、新考・新訓はこれに從つてゐる。
〔評〕 初二句に男の言葉をそのまま受けてゐる。贈られた歌に慰めかねつとあるよりも、吾が片戀はやむときもあらずと言つた方が強くなつてゐる。
右二首
2816 うらぶれて 物な念ほし 天雲の たゆたふ心 吾が念はなくに
(635) 浦觸而《ウラブレテ》 物莫念《モノナオモホシ》 天雲之《アマグモノ》 絶多不心《タユタフココロ》 吾念莫國《ワガモハナクニ》
ソンナニ〔四字傍線〕悲シガツテ物ヲ心配ナサルナ。私ハ(天雲之)動搖スルヤウナ薄情ナ〔六字傍線〕心ハ、持ツテ居リマセヌカラ御安心ナサイ〔八字傍線〕。
○浦觸而《ウラブレテ》――心に悲しく思つて、ウラは心、ブルはサブルであらう。○物魚念《モノナオモホシ》――從來の諸訓モノナオモヒソとあるのでもわるくはないが、かう改める方が古格である。○天雲之《アマグモノ》――枕詞。雲は大空を漂ひ歩くから、かくつづくのである。○絶多不心吾念莫國《タユタフココロワガモハナクニ》――絶多不《タユタフ》は動搖する。心を念はぬといふのは、集中に多い言ひ方である。
〔評〕 男から自分の忠實を、女に對して誓つた歌。愛隣の至情があらはれてゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。
2817 うらぶれて 物は念はじ 水無瀬川 在りても水は 逝くとふものを
浦觸而《ウラブレテ》 物者不念《モノハオモハジ》 水無瀬川《ミナセガハ》 有而毛水者《アリテモミヅハ》 逝云物乎《ユクトイフモノヲ》
私ハ〔二字傍線〕悲シガツテ物ヲ心配シマスマイ。水ノ無イ川ハ、水ガ無イヤウデ〔七字傍線〕アツテモ、ヤハリ〔三字傍線〕水ガ下ヲ流レテ〔五字傍線〕行クト云フコトデスノニ。私ハ人目ヲ憚ツテ表面ハ打チ絶エタ間柄トハ見エテモ、心ノ中デハオ互ニ思ヲ通ハシテ居ルノデスカラ、何モ心配ハアリマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
○物者不念《モノハオモハジ》――略解にモノハオモハズとよんだのはよくない。○水無瀬川《ミナセガハ》――水の無い川。○有而毛水者《アリテモミヅハ》――有而毛《アリテモ》はさありてもの意。水がないやうに見えても。新考には「水ハアリテモなり。ミナセ川トイヒテモナホイササカナル水ハアリテ逝クガ如ク云々」とあるが、少し違ふやうである。
〔評〕 贈られた初二句を反覆し、水無瀬川に寄せて譬喩を以て答へてゐる。素純な作である。古今集「みなせ川ありて行く水なくばこそつひに吾が身をたえぬとおもはめ」はこれに傚つたものか。
(636)右二首
2818 杜若 佐紀沼の菅を 笠に縫ひ 著む日を待つに 年ぞ經にける
垣津旗《カキツバタ》 開沼之菅乎《サキヌノスゲヲ》 笠爾縫《カサニヌヒ》 將著日乎待爾《キムヒヲマツニ》 年曾經去來《トシゾヘニケル》
(垣津旗)佐紀沼ニ生エテヰル菅ヲトツテ〔三字傍線〕縫ツテ笠ニ拵ヘテ。扨ソレヲ〔四字傍線〕著ル時ヲ待ツテヰル中ニ、空シク〔三字傍線〕年ガタツテシマツタ、私ハアナタト心ガ互ニ通ジテ約束ハ出來タガ、公然夫婦トナル時期ノ來ルノヲ待ツテヰルウチニ、數年タツテシマツタ〔私ハ〜傍線〕。
○垣津旗《カキツバタ》――枕詞。咲《サ》きを佐紀にかけてつづけたもの。卷十二に垣津旗開澤生菅根之《カキツバタサキサハニオフルスガノネヲ》(三〇五二)ともある。○開沼之菅乎《サキヌノスゲヲ》――開沼は佐紀沼、佐紀山《サキヤマ》(一八八七)・咲澤《サキサハ》(六七五)・咲野《サキヌ》(一九〇五)などとある佐紀地方の沼で、奈良の都の北方。今、都跡《ミアト》村に大字佐紀がある。
〔評〕 約束ばかりで、婚し難い待遠さを、男から女に言つてやつたもの。笠によそへた諷喩の歌。平明な作。
2819 押照る 難波菅笠 置き古し 後は誰が著む 笠ならなくに
臨照《オシテル》 難波菅笠《ナニハスガガサ》 置古之《オキフルシ》 後者誰將著《ノチハタガキム》 笠有莫國《カサナラナクニ》
(臨照)難波ノ菅デ作ツタ〔四字傍線〕笠ヲ拵ヘタママデ〔六字傍線〕置キ古シテ、コノ〔二字傍線〕笠ヲ後デ誰ガ著ルモノデスカ。ヤハリアナタガ著ルノデス。アナタハ約束バカリデ夫婦ニハマダナツテ下サラナイガ、何時マデモコノ儘ニシテ置イテ、私ガ老婆ニナツテカラデモ、私ハヤハリアナタノ妻ニナルノデスカラ、ソノオツモリニ願ヒマス〔ヤハリアナタガ〜傍線〕。
○臨照《オシテル》――枕詞。難波とつづく理由については諸説がある。四四三參照。○置古之《オキフルシ》――そのままにして置いて、用ゐないで古くして。この句で調は切れないが、意は切れてゐる。
〔評〕 自分を笠に譬へて、君と夫婦とならずには置かぬとの決心を述べたもの。これも諷喩の歌である。佐紀沼(637)の菅の笠をよんだのに對して、難波の菅笠を以て答へたのはどういふわけか。兩者の地理關係によるものか。この歌、袖中抄と和歌童蒙抄とに出てゐる。
右二首
2820 かくだにも 妹を待ちなむ さ夜ふけて 出で來こし月の 傾くまでに
如是谷裳《カクダニモ》 妹乎待南《イモヲマチナム》 左夜深而《サヨフケテ》 出來月之《イデコシツキノ》 傾二手荷《カタブクマデニ》
東カラ〔三字傍線〕出テ來タ月ガ夜ガ更ケテ西ニ〔二字傍線〕傾イテシマフマデモ、コンナニ遲ク〔二字傍線〕デモ、アナタガ家ヲ出テ來ルノヲ氣長ニ〔ガ家〜傍線〕待ツテヰヨウト思フ。
○如是谷裳《カクダニモ》――こんなに遲くでもの意。モは詠嘆的に添へてある。○妹乎待南《イモヲマチナム》――妹を待つであらう。待つてゐようとの意。○左夜深而《サヨフケテ》――この句は次の出來月之《イデコシツキノ》の下に移して見るがよい。
〔評〕 女の家に逢ひに行つて、門外に立つて女の出て來るのを待つ歌であらう。考に妹を君の誤とし、「さ夜ふけて妹が來ん物ともなく、又更行月にながめして待ん男のわざにもあらず、故に君乎とて、妹が歌とすべし」とあるが、男の歌として、見るべきであらう。
2821 木の間より うつろふ月の 影を惜しみ たちもとほるに さ夜ふけにけり
木間從《コノマヨリ》 移歴月之《ウツロフツキノ》 影惜《カゲヲヲシミ》 徘徊爾《タチモトホルニ》 左夜深去家里《サヨフケニケリ》
私ハ早ク家出テ貴方ニ逢ハウト思ヒマシタガ〔私ハ〜傍線〕、木ノ間ヲ移リ動イテ行ク月ノ光ガ惜シサニ、ブラブラシナガラ眺メテ〔六字傍線〕ヰルウチニ、夜ガ更ケテシマヒマシタ。
○木間從移歴月之《コノマヨリウツロフツキノ》――木の間を移り動いて行く月の意。○徘徊爾《タチモトホルニ》――タチモトホルは文字通り、あちこち廻り歩くこと。
〔評〕 上句を途中の情景と見るのはよくない。女の邸内である。もとよりこれは女が男に對する申譯で、實は親(638)が守つてゐるといふやうな事情があつたのである。女が遠路を通うて行くものとしては不自然である。しかしこの歌は、右の歌の答とせずに獨立させた方がよい歌となる。或は元來別々の歌なのを後に組合せたのかも知れない。問答の歌にどうもさういふのがあるやうだ。
右二首
2822 栲領巾の 白濱浪の 寄りもあへず 荒ぶる妹に 戀ひつつぞをる 一云、戀ふる頃かも
栲領布乃《タクヒレノ》 白濱浪乃《シラハマナミノ》 不肯縁《ヨリモアヘズ》 荒振妹爾《アラブルイモニ》 戀乍曾居《コヒツツゾヲル》
(析領巾乃白濱浪乃)寄リツカレナイ程ニ、私ヲ疎ンズルアナタニ、私ハ〔二字傍線〕唯思ヲ焦シテヰルバカリダ。ホントニナナタハヒドイ人ダ〔ホン〜傍線〕。
○栲領巾乃《タクヒレノ》――枕詞。白とつづく。栲を以て織つた領巾が白いからである。○白濱波乃《シラハマナミノ》――白濱に打ち寄せる浪の。ここまでの二句はヨリとつづく序詞。白濱は代匠記初稿本には地名ではないと言つてゐるが、精撰本には、和名抄に安房國平郡白濱 之良波萬とあるのをあげて、「今枕詞を置てよめるは若は是にやと思へど、いと遠ければそれをしも讀べからねば、初云が如くなるべし」と危んでゐる。地名としても解き得ないこともないが、やはり普通名詞とするのがよいのであらう。さてこの句は白い濱即ち砂の白い濱に立つ浪の意であらうと思ふが、新解には濱邊の白浪と解してゐる。卷六に御覽母知師清白濱《ミマスモシルシキヨキシヲハマ》(九三八)とあるのも、白い砂濱のやうであり、その他所々に白濱といふ地名があるのはすべて砂の白い濱であるから、これもさう見るべきであらう。○不肯縁《ヨリモアヘズ》――浪の寄るのを、女に寄りつくことが出來ないのに譬へてゐる。○荒振妹爾《アラブルイモニ》――アラブルは疎んずること。亂暴なといふほどの意ではない。卷四の筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左《ツクシブネイマダモコネバアラカジメアラブルキミヲミルガカナシサ》(五五六)その他にも例がある。
〔評〕 情の剛い女に贈つた歌。浪を序詞に仕組んで、ヨリとつづけた歌は多いが、この初二句はまことに珍らしい例である。
(539)一云 戀流己呂可母《コフルコロカモ》
これは五の句の異傳である。戀ふるこの頃よといふので、原歌と大差はない。
2823 かへらまに 君こそ我に 拷領巾の 白濱浪の 寄る時もなき
加敝良末爾《カヘラマニ》 君社吾爾《キミコソワレニ》 栲領巾之《タクヒレノ》 白濱浪乃《シラハマナミノ》 縁時毛無《ヨルトキモナキ》
アナタハ私ヲ無情なやうにオツシヤルガ〔アナ〜傍線〕、却ツテアナタコソ、私ニ〔二字傍線〕(栲領巾之白濱浪乃)親シクシテ下サル時モアリマセヌ。
○加倣良末爾《カヘラマニ》――代匠記初稿本に「かへらまは却《カヘツテ》なり。ま〔傍点〕はあはずま〔傍点〕こりずま〔傍点〕などのたぐひにそへたる字なり」とある如く、却つての意である。舊本未とあるは末の誤。古本多くさうなつてゐる。○縁時毛無《ヲルトキモナキ》――コソと係つてナキと結ぶのは古い語法である。
〔評〕 贈られた歌の序詞を採つて、巧に相手の男に竹箆返しをしてゐる。なるほど荒振妹らしい。
右二首
2824 思ふ人 來むと知りせば 八重葎 おほへる庭に 珠敷かましを
念人《オモフヒト》 將來跡知者《コムトシリセバ》 八重六倉《ヤヘムグラ》 覆庭爾《オホヘルニハニ》 珠布益乎《タマシカマシヲ》
私ノ〔二字傍線〕戀シイアナタガオイデ下サルト豫メ〔二字傍線〕分カツテ居リマシタナラバ、コノ〔二字傍線〕葎ガ澤山生ヒカブサツタ庭ニモ、玉ヲ敷キナラベテ、アナタヲオ待チシ〔九字傍線〕マセウノニ。突然ノ御光來アリガタウ存ジマス〔突然〜傍線〕。
○八重六倉《ヤヘムグラ》――八重に茂つた葎。葎は卷四に牟具艮布能稜屋戸爾《ムグラフノイヤシキヤドニ》(七五九)とある。今、八重葎と稱する楓のやうな葉の蔓草があるが、それではない。
〔評〕 八重葎の茂つた庭といへば、賤しい荒れはてた庭と定まつてゐる。さうして人を歡迎する意には、玉敷か(640)ましをがいつでも繰返される。さうした歌の中の古いものであらう。卷六に豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎《アラカジメキミキマサムトシラマセバカドニヤドニモタマシカマシヲ》(一〇一三)・卷十九に牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之座牟等知者玉之可麻思乎《ムグラハフイヤシキヤドモオホキミノマサムトシラバタマシカマシヲ》(四二七〇)とある。なほ、これは女から言ひかけた歌である、和歌童蒙抄に載せてある。
2825 玉しける 家も何せむ 八重葎 おほへる小屋も 妹と居りてば
玉敷有《タマシケル》 家毛何將爲《イヘモナニセム》 八重六倉《ヤヘムグラ》 覆小屋毛《オホヘルヲヤモ》 妹與居者《イモトヲリテバ》
玉ヲ敷イタ家デモ、私ニトツテハ〔六字傍線〕何ニナラウゾ。ソンナ形式的歡迎ハイリマセヌ〔ソン〜傍線〕。葎ガ澤山生ヒ茂ツタコノ〔二字傍線〕家デモ、妻ト一緒ニ居サヘスレバ何モ不足ハナイ〔七字傍線〕。
○玉敷有家毛何將爲《タマシケルイヘモナニセム》――玉を敷いた家も何にならうぞ何にもならぬ。卷五に銀母金母玉母奈爾世武爾《シロガネモクガネモタマモナニセムニ》(八〇三)とある。○覆小屋毛《オホヘルヲヤモ》――舊訓ハヒタルコヤモとあるのはわるい。小屋は古事記に阿斯波良能志祁去岐袁夜邇《アシハラノシエコキヲヤニ》とあるからヲヤとよむがよい。卷十三にも刺將燒少屋之四忌屋爾《サシヤカムヲヤノシキヤニ》(三二七〇)とある。
〔評〕 妹與居者《イモトヲリテバ》と餘情を含めてある。男の答はしほらしく、やさしい。つづいて來る二人の熱い抱擁が思はれる。
右二首
2826 かくしつつ 在り慰めて 玉の緒の 絶えて別れば 術なかるべし
如是爲乍《カクシツツ》 有名草目手《アリナグサメテ》 玉緒之《タマノヲノ》 絶而別者《タエテワカレバ》 爲便可無《スベナカルベシ》
カウシテ今マデ共ニ〔二字傍線〕住ンデ慰メ合ツ〔二字傍線〕テ、夫婦トシテ暮シテ來タノニ、今アナタハ旅ニオ出カケニナツテ、コレデ〔夫婦〜傍線〕(玉緒之)打〔傍線〕絶エテオ別レ致シタナラバ、戀シク悲シクテ〔七字傍線〕仕方ガアリマスマイ。
○有名草目手《アリナグサメテ》――かうしてゐて慰めて。○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。絶而《タエテ》とつづく。○絶而別者《タエテワカレバ》――新考には玉緒之絶(641)而《タマノヲノタエテ》を別《ワカレ》の枕詞としてゐるが、絶而《タエテ》にも意味があるやうだ。
〔評〕 答によつて見ると、旅に出ようとしてゐる夫に對して、妻が別を惜しんだ歌である。こまやかな夫婦の情合が見える。
2827 紅の 花にしあらば 衣手に 染めつけ持ちて 行くべく念ほゆ
紅《クレナヰノ》 花西有者《ハナニシアラバ》 衣袖爾《コロモデニ》 染著持而《シメツケモチテ》 可行所念《ユクベクオモホユ》
アナタハホントニ紅花ノヤウニ美シイガ、アナタガモシ〔アナタハ〜傍線〕紅花デアツタナラバ、旅〔傍線〕衣ノ袖ニ染メ附ケテ着テ行キタイト思ヒマス。アナタハ紅花デナイカラソレモ出來ナイ。アア別ガツライ〔アナ〜傍線〕。
○紅《クレナヰノ》――紅の花は末摘花。ベニバナ。六八三參照。○染著持而《シメツケモチテ》――モチテは輕く見るがよい。身に附けてゐること。
〔評〕 男の答は更にやさしい愛情が溢れてゐる。美しい女が、雨に濡れた紅花のやうに泣き崩れたであらう姿が偲ばれる。
右二首
譬喩
2828 くれなゐの 濃染の衣を 下に著ば 人の見らくに にほひ出でむかも
紅之《クレナヰノ》 深染乃衣乎《コゾメノキヌヲ》 下著者《シタニキバ》 人之見久爾《ヒトノミラクニ》 仁寶比將出鴨《ニホヒイデムカモ》
紅色ノ濃ク染メタ衣ヲ下ニ着タナラバ、人ガ見ルノニ、スグ〔二字傍線〕表ニ色ガ表ハレテ目ニ付ク〔五字傍線〕デアラウカナア。美シイアナタト契ツタナラバ、包ミ隱シテ居テモイツカハアラハレテ、人目ニ立ツデアラウ〔美シ〜傍線〕。
(642)○人者見久爾《ヒトノミラクニ》――人の見るに。人目に。者の字、嘉暦本その他の古本多くは之に作つてゐるから、之の誤である。○仁寶比將出鴨《ニホヒイデムカモ》――色が表にあらはれるのを匂ひ出づるといつたのであるが、上衣を透つて見えるのか、又は袖口などのこぼれ出づるをいふか明らかでない。併し上代の男子の服装から推すと恐らく前者であらう。
〔評〕 隱妻を紅の深染の衣に譬へて、そのあらはれるのを恐れたもの。女の人目に立つ美しさも譬へてあるやうだ。卷七の紅之深染之衣下著而上取著者事將成鴨《クレナヰノコゾメノコロモシタニキテウヘニトリキバコトナサムカモ》(一三一三)と似てゐる。
2829 衣しも 多くあらなむ 取り易へて 著なばや君が 面忘れたらむ
衣霜《コロモシモ》 多在南《オホクアラナム》 取易而《トリカヘテ》 著者也君之《キナバヤキミガ》 面忘而有《オモワスレタラム》
着物ヲ着カヘルト人ハヨク見違ヘルモノダガ、私ノ〔着物〜傍線〕着物ガ澤山アレバヨイ。着物ヲ〔三字傍線〕取リ換ヘテ着タナラバ、アナタハ私ノ〔二字傍線〕顔ヲ見忘レテイラツシヤルカモシレナイ。アナタノヤウナオ心デハ、私ノ顔ヲヨク覺エテイラツシヤラナイデセウ〔アナ〜傍線〕。
○多在南《オホクアラナム》――多くあれよの意。多の字、代匠記精撰本にはサハニとよんである。○著者也君之《キナバヤキミガ》――著ナバにヤを添へてある。ヤは疑問助詞で結句に係つてゐる。考にキセバヤとよんだのは誤解である。
〔評〕 男に衣を着換へさせて見たならば、面忘れして戀の苦を遁れることが出來るだらうの意に解する説は誤つてゐる。これは相手の薄情を皮肉つてゐるのである。初二句に衣服を持たない階級の状態が見えてゐる。この歌は前のやうに全體的譬喩にはなつてゐない。
右二首寄(セテ)v衣(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
2830 梓弓 弓束卷きかへ 中見わき 更に引くとも 君がまにまに
梓弓《アヅサユミ》 弓束卷易《ユヅカマキカヘ》 中見判《ナカミワキ》 更雖引《サラニヒクトモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
梓弓ノ古クナツタ〔五字傍線〕握革ヲ新シイモノニ〔六字傍線〕卷キ更ヘテ、中ヲ調ベテ、再ビオ引キニナツテモ、ソレハアナタノオ心(643)次第デス。古妻ヲ離縁ナサレテ、私ノ心ヲヨク御覽ニナツテ、私ヲ妻トナサツテモ、ソレハアナタノオ心次第デ、私ニハ異存ハアリマセヌ〔古妻〜傍線〕。
○弓束卷易《ユヅカマキカヘ》――弓束は弓の握り。革をここに卷いてある。使ひ古して損ずれば、革を新しきものと交換する。これを卷易《マキカヘ》と言ふのである。古い妻を離縁して新しい妻を迎へることに譬へたのであらう。○中見判《ナカミワキ》――舊訓アテミテハとあり、童蒙抄ナカタエテ、考ナカミテハ、古義の山田清賢説ナカミワリとあるが、いづれも穩やかでない。判の字は集中全く他の用例がない上に、假名として用ゐるべきではないやうである。誤字とするのもどうかと思ふから、このままでワキと訓みたい。ナカミワキは中を見て調べるのである。弓束を卷き易へたついでに、握帶の下をよく調べるのは、ここが力の加はる個所で損傷し易く、又傷んでゐても見えないから、この機會に確めて置くのである。これは女の心が誠實か否かを確めることに譬へたらしい。○更雖引《サラニヒクトモ》――弓を更めて再び引くとも。新しい女を、妻と定めることに譬へたのであらう。
〔評〕 第三句が一寸曖昧でもあるが、さうでなくとも寓意はいろいろに考へられさうな歌である。妻ある男に戀した女が、古妻のかはりに自分を娶れと、請求するものとして、解するのが穩やかであらう。全體的諷論の歌である。
右一首寄(セテ)v弓(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
2831 みさごゐる 渚にゐる船の 夕潮を 待つらむよりは 我こそまされ
水沙兒居《ミサゴヰル》 渚座船之《スニヰルフネノ》 夕鹽乎《ユフシホヲ》 將待從者《マツラムヨリハ》 吾社益《ワレコソマサレ》
水沙兒ガ居ル洲ノ上ニ擱座シテヰル舟ガ、夕方ノ潮ガサシテクルノヲ待ツテヰルノハ隨分待チ遠イモノダラウガ、ソレ〔ノハ〜傍線〕ヨリモ、私ガアナタノオイデヲ待ツテヰル方ガモツト、待遠サガ〔アナ〜傍線〕勝ツテ居マス。
○水沙兒居《ミサゴヰル》――水沙兒は雎鳩。三六二參照。舊本水を氷に誤つてゐる。嘉暦本その他水に作つてある。○渚座(644)船之《スニヰルフネノ》――ヰルは舟が擱座すること。和名砂船事類に「〓 子紅反、俗云爲流 船著v沙不v行也」とある。舊訓ヲルとあるのはよくない。
〔評〕 譬喩適切。明晰な歌である、夕鹽を待つは、男の來る夕暮を待つ心に譬へたのであらう。
右一首寄(セテ)v船(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
2832 山河に 筌を伏せ置きて もりあへず 年の八歳を 吾がぬすまひし
山河爾《ヤマガハニ》 筌乎伏而《ウヘヲフセオキテ》 不肯盛《モリアヘズ》 年之八歳乎《トシノヤトセヲ》 吾竊舞師《ワガヌスマヒシ》
山河ニ魚ヲ取ル爲メニ〔七字傍線〕筌ヲ伏セテ置イテ、魚ガ取レテモ〔六字傍線〕番ガ充分ニ出來ナイデ、長年ノ間私ハソノ魚ヲ〔四字傍線〕盗ンデ取ツテヰタ。私ハ父母ガ番ヲシテ居女ヲ隙ヲウカガツテ永年通ツテ居タ〔私ハ〜傍線〕。
○筌乎伏而《ウヘヲフセオキテ》――筌は和名抄に「筌 且沿反、宇倍 捕v魚竹筍也。筍 古厚反 取v魚竹器也」とある。竹を編んで作つたもの。今訛つてウケといふ。代匠記精撰本に「山川に石をたたみよせて水の早く落る所にまろく簀を編て、簀の尻をひとつにくくりて魚の出ぬやうにして、其水落にあて置て、人にも取られじ、鳥獣にも取られじとて、人は傍に居て守るなり」とある。伏の下、置の字が脱ちたか。契沖がフセツツとよんだのは從ひ難い。○不肯盛《モリアヘズ》――盛は守の借字。番が出來ないこと。○年之八歳乎《トシノヤトセヲ》――數多の歳をといふに同じ。○吾竊舞師《ワガヌスマヒシ》――古義はアヲヌスマヒシと訓んでゐる。
〔評〕 女を筌に譬へ、それを監守してゐる親などが、充分な見張が出來ない隙を盗んで、長い間女の許へ通つてゐたといふので、全體が譬喩になつてゐる。古義には上句を序詞とし結句をアヲヌスマヒシと改め、「われに心よせがほにいひなして、この數年の年ごろをたのませつつ、つひに打とくるともなくて、われを欺きしが口をしく、恨めしきこと、といふなり」とあるが從ひ難い。材料も用語も奇拔で、野趣がある。和歌童蒙抄に出てゐる。
右一首寄(セテ)v魚爾喩(フ)v思(ヲ)
2833 葦鴨の すだく池水 はふるとも まけ溝のへに 我越えめやも
(645) 葦鴨之《アシガモノ》 多集池水《スダクイケミヅ》 雖溢《ハフルトモ》 儲溝方爾《マケミゾノヘニ》 吾將越八方《ワレコエメヤモ》
葦鴨ガ集ツテ居ル池ノ水ハ、溢レルトソノ用意ニ〔五字傍線〕、カネテ水ヲ流ス爲ニ〔六字傍線〕掘ツテアル溝ヘ流レ込ムモノダガ〔八字傍線〕、私ハ戀シイ人ニ逢フコトガ出來ナイデ思ヒ余ツテモ〔戀シ〜傍線〕、他ヘ心ハ決シテ移シマセヌ。
○多集池水《スダクイケミヅ》――スダクは文字の通り多く集ること。○雖溢《ハフルトモ》――溢はハフルとよむ。舊訓マサルとあるのはわるい。○儲溝方爾《マケミゾノヘニ》――水の溢れた時、外へ流れ出すやうに豫め作つてある溝。
〔評〕 儲溝の上に水が越えるやうに、私は他へは越えぬといふべきを、混淆して結句で受けてゐる。しかし意がよく通ずるやうになつてゐるのは作者の手柄である。前の荒礒越外往波乃外心吾者不思戀而死鞆《アリソコエホカユクナミノホカゴコロアレハオモハジコヒテシヌトモ》(二四三四)と意は同じであるが、この方が材料が珍らしい。これも耕人の作であらう。和歌童蒙抄に出てゐる。
右一首寄(セテ)v水(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
2834 大和の 室原の毛桃 本繁く 言ひてしものを 成らずは止まじ
日本之《ヤマトノ》 室原乃毛桃《ムロフノケモモ》 本繁《モトシゲク》 言大王物乎《イヒテシモノヲ》 不成不止《ナラズハヤマジ》
(日本之室原乃毛桃本)幾度モ堅ク言ヒ交ハシテ、行末ハ夫婦ト〔六字傍線〕約束ヲシタノダカラ、ソレガ〔三字傍線〕成功シナイデは止メナイツモリダ。
○日本之室原乃毛桃《ヤマトノムロフノケモモ》――日本《ヤマト》は大和の借字。室原は大和國宇陀郡室生村。有名な室生寺のあるところ。毛桃は果皮に毛茸を多く生ずる桃の木。次の句の本までを含めて序詞と見るがよい。○本繁《モトシゲク》――本は幹。繁くと言はむ爲に上からのつづきで、本《モト》と置いたのであある。繁く言ひてしものをは幾度も繰返して約束したものをの意。○言大王物乎《イヒテシモノヲ》――大王をテシの假名に用ゐたのは戯書。
〔評〕 卷七の波之吉也思吾家乃毛挑本繁花耳開而不成在目八方《ハシキヤシワギヘノケモモモトシゲクハナノミサキテナラザラメヤモ》(一三五八)と同型であるが、これは室原といふ地名を(646)入れて地方的にしてある。毛桃は序詞中に用ゐられてゐるが、結句にナラズハヤマジと言つたのはその縁である。和歌童蒙抄に出てゐる。
右一首寄(セテ)v菓(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
2835 眞葛延ふ 小野の淺茅を 心ゆも 人引かめやも 我無けなくに
眞葛延《マクズハフ》 小野之淺茅乎《ヲヌノアサヂヲ》 自心毛《ココロユモ》 人引目八面《ヒトヒカメヤモ》 吾莫名國《ワレナケナクニ》
(眞葛延)野原ニマバラニ生エタ茅ヲ、私ガ居ルカラハ勝手ニ人ガ引キ取ルコトガ出來ヨウヤ。アノ可愛ラシイ女ヲ勝手ニ吾ガ物ニスルコトガ出來ルモノカ〔アノ〜傍線〕。
○眞葛延《マクズハフ》――枕詞。小野に冠す。○小野之淺茅乎《ヲヌノアサヂヲ》――淺茅を女に譬へてゐる。○自心毛《ココロユモ》――心からも。吾が心のままに。○人引目八毛《ヒトヒカメヤモ》――略解に引は刈の誤で、ヒトカラメヤモだらうと言つてゐる。古義は卷七に於君似草登見從我標之野山之淺茅人莫苅根《キミニニルクサトミシヨリアガシメシヌヤマノアサヂヒトナカリソネ》(一三四七)とあるのをあげて、「實にさもあるべし。淺茅を引くとては、似つかはしからず、必ず苅るなるべければなり」と言つてゐる。苅とあらば更に穩やかである。○吾莫名國《ワレナケナクニ》――我がなきにあらぬに。舊訓ワレナラナクニとある。
〔評〕 愛する女を淺茅に譬へてゐる。人には許すまいと堅く守る態度が、四五句にあらはれてゐる。
2836 三島菅 いまだ苗なり 時待たば 著ずやなりなむ 三島菅笠
三島菅《ミシマスゲ》 未苗在《イマダナヘナリ》 時待者《トキマタバ》 不著也將成《キズヤナリナム》 三島菅笠《ミシマスガガサ》
三島ノ菅ハ未ダ小サイ苗ダ。然シアレガ成長スル〔九字傍線〕時ヲ待ツテ笠ニコシラヘテ着ヨウト思ツ〔テ笠〜傍線〕タラバ、人ニ取ラレテ〔六字傍線〕著ナイデシマフカモ知レナイ。アノ〔二字傍線〕三島ノ菅笠ヲ。アノ女ハ未ダ子供ダガ、成長シテカラ、妻ニシヨウト思ツテ待ツテ眉ルナラバ、人ニ横取リセラレルカモ知レナイ。心配ナモノダ〔アノ〜傍線〕。
(647)○三島菅《ミシマスゲ》――攝津の三島に生える菅。三島は三島江。淀川に沿うた水郷。一三四八參照。○三島菅笠《ミシマスガガサ》
――三島は菅笠を作る名所であつたと見える。熟語の場合、古くは多くスガと言つたやうであるから、これもスガガサがよい。但し次に引いた古事記の歌に須宜波良《スゲハラ》とあるやうな特例がないでもない。
〔評〕 女を菅に譬へたのは、古事記仁徳天皇の御製に、夜多能比登母登須宜波古母多受多知迦阿禮那牟阿多良須賀波良許登袁許曾須宜波良登伊波米阿多良須賀志賣《ヤタノヒトモトスゲハコモタズタチカアレナムアタラスガハラコトヲコソスゲハラトイハメアタラスガシメ》とあり、この柔らかい形態と清《スガ》々しさうな名稱とが、美女を思はしめるものがある。集中に類例が多いが、この歌では若い女を苗に、妻とすることを笠を著るに譬へて、よぐ行屆いてゐる。歌調も亦整つてゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。
2837 み吉野の 水隈が菅を あまなくに 刈りのみ刈りて 亂りなむとや
三吉野《ミヨシヌノ》 水具麻我菅乎《ミグマガスゲヲ》 不編爾《アマナクニ》 苅耳苅而《カリノミカリテ》 將亂跡也《ミダリナムトヤ》
吉野ノ川ノ曲ツタ所ニ生エテ居ル菅ヲ、蓆ニ〔二字傍線〕編ミモシナイノニ、刈リ取ツタバカリデ、亂レタ儘ニシテ置カウト云フノデスカ。實際夫婦ニナリモシナイノニ、夫婦ノ約束ヲシテ、私ニ氣ヲモマセヨウト云フノデスカ。早ク夫婦ニナツテ安心シタイ〔實際〜傍線〕。
○水具麻我菅乎《ミグマガスゲヲ》――ミグマは水隈。水の曲つたところ。河隈。○不編爾《アマナクニ》――蓆にも編まなくにの意。夫婦とならぬに譬へてある。○刈耳刈而《カリノミカリテ》――苅るばかり苅りて。薦に編みもせぬに、猥りに苅り取りての意。夫婦の約束のみしたのに譬へてゐる。○將亂跡也《ミダリナムトヤ》――苅つた菅は亂れてゐるからかく言つたので、謂はゆる苅薦の亂れである。これは吾が心を亂さむといふのかの意に譬へてある。
〔評〕 女の歌である。考に「ここはたださまざまと心をつくして、終にわが物ともならず、あらけはてなんやとおぼつかなむなり」とあり。これに從つた註が多いが、誤つてゐる。全體的の譬喩で、よく出來てゐる。
2838 河上に 洗ふ若菜の 流れ來て 妹があたりの 瀬にこそ寄らめ
河上爾《カハカミニ》 洗若菜之《アラフワカナノ》 流來而《ナガレキテ》 妹之當乃《イモガアタリノ》 瀬社因目《セニコソヨラメ》
(648)河ノ上流デ洗フ若菜ガ流レテ來テ、洗物ナドヲシテヰル女ノ附近ニ寄ルヤウニ、私モ〔洗物〜傍線〕戀シイ女ノ附近ノ處ユ寄リ附キタイモノダ。
○河上爾《カハカミニ》――河の上流で。河のほとりと見る説もあるがよくないやうだ。○瀬社因目《セニコソヨラメ》――灘は上からのつづきは逢瀬の意であるが、場所の意にかけて用ゐられてゐる。古義に「瀬はここはより處といふ處なるを、河の縁にいへるなり。後の歌に逢瀬と云、西行法師が、ここを瀬にせむとよみたる瀬と同意の言なるべし」とある。
〔評〕 河で少女が洗ひ物をしてゐる。上流から流れて來た青菜のやうなものが、その少女の手元へ流れかかるといふ情景は、田舍などでは常に目撃するところだ。さういふ場面を頭に置いて、自分もあの若菜のやうに、女の所近くへ寄つて行きたいと詠んだ歌である、よい歌だ。千載集「妹があたり流るる川のせによらば沫となりても消えむとぞ思ふ」はこれに傚つたものか。
右四首寄(セテ)v草(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
2839 かくしてや なほやなりなむ 大荒木の 浮田の杜の しめならなくに
如是爲哉《カクシテヤ》 猶八成牛鳴《ナホヤナリナム》 大荒木之《オホアラキノ》 浮田之杜之《ウキタノモリノ》 標爾不有爾《シメナラナクニ》
標繩ハカケタママデ古クナルモノダガ、私ハ〔標繩〜傍線〕大荒木ノ浮田ノ杜ノ標繩デハナイガ、戀ガカナハナイデ〔八字傍線〕、コノママデヤハリ年老イテシマフデアラウ。
○猶八成牛鳴《ナホヤナリナム》――舊訓ナホヤヤミナムとあるのは、その訓の理由がわからない。契沖は八の下に止の字が脱ちたものかとも言つてゐるが、ナリナムとよんでゐる。牛鳴は玉篇に「牟亡侯切牛鳴」とあつてムとよむべきは論がないが、成の字について論が分れてゐる。童蒙抄は成は戍の誤として、ナホヤモリナムとよみ、神田本に戍に作るによつて、新訓はナホヤマモラムとよんでゐる。その他、考はナホヤナリナモ、宣長は成は朽《クチ》の誤かといつてゐる。併し予は舊本のまま成の字として、ナリナムとよみたい。神田本のみは戍に作つてゐるが、戍(ジユツ)(649)とすれば草木老成、秋に至つて熟する義であるから、ナリともよめるのである。ナホヤナリナムは猶このままで老いてしまふであらうかの意。一體この歌は卷七|如是爲而也尚哉將老三雪零大荒木野之小竹爾不有九二《カクシテヤナホヤオイナムミユキフルオホアラキヌノシヌニアラナクニ》(一三四九)と同歌と見るべきもので、成は老の誤字かとも考へられるのである。猶を徒らにと解して、徒らになりなむの意とする説は誤つてゐる。○大荒木之浮田之杜之《オホアラキノウキタノモリノ》――大和國宇智郡荒木神社。宇智村大字今井にある。杜の字、類聚古集・嘉暦本に社に作る。
〔評〕 右に述べたやうに、卷七の一三四九と同型同想で、戀を遂げ得ずして空しく老いて行くのを嘆いた女の歌。標と小竹《シヌ》とどちらが原形であるか分らないが、杜の標繩が徒らに古びて行くのに、自己の姿を譬へたのも適切である。かういふ歌からして、古今集の「大あらきの森の下草老いぬれば駒もすさめず苅る人もなし」といふやうな歌になるのである。
右一首寄(テ)v標(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
2840 いくばくも 零らぬ雨ゆゑ 吾背子が み名のここだく 瀧もとどろに
幾多毛《イクバクモ》 不零雨故《フラヌアメユヱ》 吾背子之《ワガセコガ》 三名乃幾許《ミナノココダク》 瀧毛動響二《タギモトドロニ》
(650)澤山ニ雨ガ降ルバ瀧ノ水ガ音高ク響クモノダガ〔澤山〜傍線〕、イクラモ降ラナイ雨ノヤウニ私モ私ノ夫トイクラモ逢ハナイ〔ノヤ〜傍線〕ノニ、アノオ方ノオ名前ガ世間ニ浮名ヲ立テラレテ〔世間〜傍線〕、瀧ノ音ノハゲシイヤウニ、ヒドク評判サレルノハドウシタモノダラウ〔ヒド〜傍線〕。
○幾多毛《イクバクモ》――新考は幾を甚に改めて、ハナハダモと訓み、新訓はこのままでココダクモとよんでゐる。この他は舊訓のままにイクバクモとよんである。幾の字のみでイクバクとよむのを例とし、多を添へた例は他に見當らぬやうであるが、ここはいくばくの多さもの意で、特に多の字を添へたものとして、やはりイクバクモとよむのではあるまいか。○不零雨故《フラヌアメユヱ》――降らない雨だのに。○三名乃幾許《ミナノココダク》――幾許を新訓にイクバクとよんでゐるのは、初句をココダクモとした爲であらうが、集中に澤山ある幾許の例は、神柄加數許貴寸《カムカラカココダタフトキ》(二二〇)・奈何幾許吾戀渡《イカニコヽダクワガコヒワタル》(六五八)・幾許久毛久流比爾久流必《ココダクモクルヒニクルヒ》(七五一)のやうにココダ又はココダクとよんであるから、舊訓のままでよいであらう。
〔評〕 殆ど全體的の諷諭になつてゐる。多くの場合吾が名の立つのを恐れるのに、男の名が立つたことを悲しんだのは、つつましやかな女の態度である。或はこの戀は身分の賤しい女と、貴人との關係かも知れない。佳作といつてよい。
右一首寄(セテ)v瀧(ニ)喩(フ)v思(ヲ)
萬葉集卷第十一
萬葉集全釋 第四册、鴻巣盛廣、廣文堂書店、1935.12.10(37.7.1.2p)(39.5.25.3p)四円五〇銭、662頁(2660頁)
卷第十二
(1) 萬葉集卷第十二解説
この卷は、目録に題して古今相聞往來歌類之下とあり、卷十一の續篇として取扱はれてゐる。分類法は、目録には正述心緒歌・寄物陳思歌・問答歌・羈旅發思歌・悲別歌の五部となつてをり、これを卷十一のそれと比較すれば、彼に旋頭歌・譬喩歌があつてこれに無く、これに羈旅發思・悲別歌があつて彼には無いといふ相異はあるが、大躰に於いて同一方針と見られるやうな體裁になつてゐるのである。併しながら、目録は卷中の重複した部門を統一して記したもので、實は卷頭に柿本朝臣人麿歌集出のもの二十三首あり、これを正述心緒・寄物陳思に分ち、次いで人麿歌集出にあらざるものを、更に、正述心緒・寄物陳思・間答に類別し、それ以下は分類法を異にして、羈旅發思・悲別歌・問答歌とし、羈旅發思の冒頭には柿本朝臣人麿歌集出のもの四首を置いてゐる。羈旅發思以下の三部は、いづれも旅行に關係ある作品を輯めたもので、問答歌の如きは前のものと名は同じでも、その内容は羈旅の問答に限られてゐるのである。なほこの羈旅發思以下には、序詞を使用したものが頗る多く、それらの内には必ずしも旅中實況に臨んでの作ではないやうに思はれるものがあり、これらは普通の分類に從へば、當然寄物陳思或は譬喩歌の中に收めらるべきである。かやうに觀察し來る時は、この卷は編纂法を異にした二部から成つてゐるといふことが出來る。さうして前半は卷十一と同一方針によつたもので、後半は集中の他の如何なる卷にも類例のない、特殊の方針を採つたものなることがわかる。目録の作者がその點に頓着せず、全體的に統一したのは妄宴と言はねばならぬ。歌體は短歌のみで、歌數は三百八十首、これを小別すれば、柿本朝臣人麿歌集出の正(2)述心緒十首、寄物陳思十三首、その他の正述心緒百首、寄物陳思百三十七首、問答歌二十六首、羈旅發思五十三首、(内、柿本朝臣人麿歌集出四首)、悲別歌三十一首、問答歌十首となつてゐる。作者は左註に「右一首平羣文屋朝臣益人傳云昔聞紀皇女竊嫁高安王被責之時御作此歌但高安王左降任之伊與國守也」とあるのが一首あるのみで、他は總べて記されてゐない。即ち作者不明の歌を集めたもので、中には民謠として謠ほれてゐたもののあつたことは言ふまでもない。天智紀の童謠や催馬樂と同一の歌が含まれてゐるのも、それを證するものであらう。その年代は岡本飛鳥の宮の頃から天平の初年に亘つてゐるやうに思はれる。眞淵はこの卷を卷十一に次ぐものとして、第五位に置いてゐる。人麿歌集出のものが尠いだけ、卷十一に比して、古い時代の歌が尠いと言ひ得るであらう。編者は卷十一と同一人なりや否やは、遽かに斷定し難いところであるが、卷十一と重複の歌があつたり、分類法を異にしたりしてゐる點から、別人と見てよいであらう。さうしてこの卷の歌が、卷四などに見えた大伴家の人々の作の、粉本となつてゐるのがかなりあることは、天平の初年頃には夙に一卷として纏められてゐたことを語るものである。(この點は卷十一についても同樣のことが言へる)作品の藝術的價値はかなり高いが、卷十一に少し劣るやうである。文字使用法は、今夕|彈《ダニ》・湯鞍|干《カニ》のやうな、字音を借りた珍奇な用例があり、左右《マデ》・犬馬《ソマ》・義之《テシ》・青頭鷄《カモ》・毛人髪《コチタ》・一伏三起《コロ》・馬聲《イ》・蜂音《ブ》の如き戯書が多く用ゐられてゐる。
(3)古今相聞往來歌類之下
正述心緒歌一百十首
寄物陳思歌一百五十首
問答歌三十六首
羈旅發思歌五十三首
悲別歌三十一首
(5)正(ニ)述(ブ)2心緒(ヲ)1
2841 わが背子が 朝けのすがた よく見ずて 今日の間を 戀ひ暮らすかも
我背子之《ワガセコガ》 朝明形《アサケノスガタ》 吉不見《ヨクミズテ》 今日間《ケフノアヒダヲ》 戀暮鴨《コヒクラスカモ》
私ノ方ニ昨夜オイデニナツタ〔私ノ〜傍線〕私ノ夫ノ今朝早クオ歸リニナル時ノオ〔オ歸〜傍線〕姿ヲヨク見ナカツタノデ、何トナク殘惜シクテ〔何ト〜傍線〕今日一日戀シク思ヒ暮スヨ。
○朝明形《アサケノスガタ》――舊訓はアサアケノスカタとあり、契沖はアサケと訓むべき由を述べてゐる。朝明の姿。拂曉にまぎれて歸り行く姿。
〔評〕 卷十、朝戸出之君之儀乎曲不見而長春日乎戀八九良三《アサトデノキミガスガタヲヨクミズテナガキハルヒヲコヒヤクラサム》(一九二五)とよく似通つた歌である。長き春日よりも、今日の間の方が痛切であり、戀ひや暮さむよりも戀ひ暮すかもの方が感情が迫つてゐる。
2842 わが心と 望みし念へば 新夜の 一夜もおちず 夢にし見ゆる
我心等《ワガココロト》 望使念《ノゾミシオモヘバ》 新夜《アラタヨノ》 一夜不落《ヒトヨモオチズ》 夢見與《イメニシミユル》
私ガ〔二字傍線〕、私ノ心カラ、アナタニ會ヒタイト〔アナ〜傍線〕望ンデ思ツヲヰルノデ、經過シテ行ク夜ノ一晩モ洩レナク、アナタガ〔四字傍線〕夢ニ見エル。
○望使念《ノゾミシオモヘバ》――舊訓ノゾミオモヘバを、代匠記精撰本にノゾミシオモヘバとよむべきかと言つてゐる。しばらくそれに從ふことにする。併し集中、使をシの假名に用ゐた例は他に見當らないから、誤字或は衍とすべきではあるまいか。考は望使を無便の誤とし、スベナクモヘバとし、略解の或人説には使は美の誤とし、等をこの(6)句の上に置いて、トキシミモヘバとしてゐる。古義は第二句の文字を置き換へて、我等心《アガココロ》とし、望使は氣附の誤で、イキツキモヘバと訓むべきかと言つてゐる。なほ研究を要する點である。○新夜《アラタヨノ》――舊訓アタラヨノとあるが、新はアラタであるから、アラタヨとよまねばならぬ。アラタヨは文字通り、新しき夜、即ちあらたまり經過して行く夜、毎夜の意となる。アラタヨは可惜夜で卷九に玉匣開卷惜〓夜矣《タマクシゲアケマクヲシキアラタヨヲ》(一六九三)とあつたが、これと混同してはいけない。○夢見《イメニシミユル》――舊訓はユメニミエケリとあるが、考に從ふ。新訓は元暦校本に夢見與とあるによつて、イメニミエコソとよんでゐるが、ここは上からの續きを見ると、希望を述ぶべきではないやうだ。元暦校本は次の歌とこれとを續け記してゐるのである。
〔評〕 單純な歌だ。卷十五の於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》(三七三八)・古今集の「君をのみ思ひ寢にせし夢なれば吾が心から見つるなりけり」はこれに似てゐる。
2843 うつくしと わが念ふ妹を 人みなの 行くごと見めや 手にまかずして
與愛《ウツクシト》 我念妹《ワガオモフイモヲ》 人皆《ヒトミナノ》 如去見耶《ユクゴトミメヤ》 手不纏爲《テニマカズシテ》
私ノ戀シイ女ガ今遺ヲ歩イテヰルノガ見エルガ、アノ〔私ノ〜傍線〕戀シイト私ガ思ツテヲル女ヲ、手ニモ取ラナイデ、世間ノ私ト無關係ナ普通ノ〔私ト〜傍線〕人ガ通ルノヲ見ルノト同ジヤウニ、唯ヨソナガラ〔六字傍線〕見テ居ラウカ。ドウモソレデハ物足リナイガ、人目ガアルノデ致シ方ガナイ〔ドウ〜傍線〕。
○與愛《ウツクシト》――略解は、舊訓を改めて、ウルハシトとよんでゐるが、もとのままがよい。新訓は與を前の歌の終に附けたので、ここを愛の一字として、ウツクシミとよんでゐる。與を漢文風に記せばかうもなるであらうが、それはト共ニの意の場合であつて、ここはさうではないから少し變である。或は代匠記精撰本のやうに愛與の誤か。しばらく與を借字として、舊訓に從つて置く。○如去見耶《ユクゴトミメヤ》――舊訓イマユキミルヤ、代匠精撰本は「如は今按、モシとよむべきか」と言つてゐるが、落付がよくない。略解に從つた。○手不纏爲《テニマカズシテ》――手に纒くとは(7)玉などに譬へて言つてゐるのである。〔評〕 戀しい女が道を行くのを見て詠んたものである。結句が譬喩のやうでなくて、譬喩になつてゐるのが、一寸珍らしい。
2844 この頃の いの寢らえぬは 敷たへの 手枕まきて 寢まくほれこそ
比日《コノゴロノ》 寐之不寐《イノネラエヌハ》 敷細布《シキタヘノ》 手枕纏《タマクラマキテ》 寐欲《ネマクホレコソ》
コノ頃夜〔傍線〕眠ラレナイノハ、戀シイ女ノ〔五字傍線〕(敷細布)手枕ヲシテ寢タイカラデアルヨ。アア何トカシテ共寢ガシタイモノダ〔アア〜傍線〕。
○敷細布《シキタヘノ》――枕詞。枕にかかつてゐる。七二參照。○寢欲《ネマクホレコソ》――寢むと欲すればこそなれの意。古義にはネマクホリコソとよんでゐるが、ホレバコソの略であるから略解の訓に從つて置く。
〔評〕 これも單純な歌だ。上代人らしい素朴さも見えるが、又民謠らしい氣分でもある。
2845 忘るやと 物語りして 意やり 過ぐせど過ぎず 猶戀ひにけり
忘哉《ワスルヤト》 語《モノガタリシテ》 意遣《ココロヤリ》 雖過不過《スグセドスギズ》 猶戀《ナホコヒニケリ》
戀シイ人ヲ〔五字傍線〕忘レルカト思ツテ、友ダチナドト〔九字傍線〕話ヲシテ氣ヲマギラサウトスルケレドモ、ヤハリマギラスコトガ出來ズ、相變ラズ戀シイヨ。何トシタモノデアラウ〔何ト〜傍線〕。
○忘哉《ワスルヤト》――舊訓ワスレメヤとあるのは、全く後世の調である。代匠記初稿本による。○意遺《ココロヤリ》――略解に遣を追の誤として、ナグサメテと訓まむかと言つてゐるのは、卷十一に意追不得(二四一四)・意追(二四五二)とあるに傚つたのであるが、これらもココロヤリとよむべきであるから、例にはならない。○猶戀《ナホコヒニケリ》――舊訓ナホコヒシクテとあるのを、代匠紀精撰本にナホコヒニケリとよんだのがよい。童蒙抄説のナホゾコヒシキの訓が廣く行はれ(8)てゐるが、ゾの係辭を用ゐるの理由なく、又コヒニケリと詠歎的に言ふ方が、よりよいやうに思はれる。
〔評〕 二三句の語意遣《モノガタリシテココロヤリ》は、友人などと世間噺をして、氣をまぎらすといふので、如何にもさうありさうなことである。この眞實性が、なるほどと人をうなづかしめる。
2846 夜も寢ず 安くもあらず 白たへの 衣も脱がじ 直に逢ふまでは
夜不寐《ヨルモネズ》 安不有《ヤスクモアラズ》 白細布《シロタヘノ》 衣不脱《コロモモヌガジ》 及直相《タダニアフマデ》
私ハ戀ノ爲ニ〔六字傍線〕、夜モ寢ナイ。心モ〔二字傍線〕安ラカデナィ。直接戀人〔二字傍線〕ニ逢フマデハ、(白細布)衣モ脱イデ安ラカニ寢〔七字傍線〕マイト思ツテヰル〔六字傍線〕。
○夜不寢《ヨルモネズ》――舊訓を改めて、考にヨルモネジとある。從はない。○安不有《ヤスクモアラズ》――これも考にヤスクモアラジとある。從はない。
〔評〕 眞淵の言つたやうに、初二句をジで終るとすれば、第四句とも同調となつて、好都合であるが、意味から考へるとさうではないやうだ。併し、ズもジも同行であるから、やはり一二四の三句に同音を繰返したわけである。さうして、その三句がいづれもモの助詞を有し、且、切目になつてゐて、漸層的に感情の高まりを示してゐるのである。古義に「直に相見るまでは、安むずる事のあるべきならねば、夜寢ることのあらぬからは晝の衣服をも脱ぎ替ずして、其のままあらむぞとなり」と解してゐるが、これでは全く歌の氣分が出てゐない。この格調の特異な點に注意したい。秀でた作である。
2847 後も逢はむ 我にな戀ひと 妹は言へど 戀ふる間に 年は經につつ
後相《ノチモアハム》 吾莫戀《ワレニナコヒト》 妹雖云《イモハイヘド》 戀間《コフルアヒダニ》 年經乍《トシハヘニツツ》
今ハ逢ハレナイデモ〔九字傍線〕、後デ逢ハウカラ〔二字傍線〕、私ヲサウ〔二字傍線〕戀シク思フナト女ガ言フケレドモ、ヤハリ私ハ戀シクテ、女ノコトヲ〔ヤハ〜傍線〕思ヒ焦レテ、逢フ時ヲ待ツテ〔七字傍線〕居ル内ニ、空シク〔三字傍線〕年ガ經ツテシマツタ。
(9)○後相《ノチモアハム》――舊訓ノチニアハムとある。代匠記精撰本による。○吾莫戀《ワレニナコヒト》――舊訓ワレヲコフナト、略解ワヲナコヒソト、新考ワニナコヒソトとある。新訓による。
〔評〕 女のやさしい慰撫の言葉によつて、後會を期しつつ堪へ忍んでゐたが、早くも年月を經たといふので、第二句の我莫戀《ワレニナコヒト》に對して戀間《コフルアヒダニ》と言つてゐるのが、女の言葉にもかかはらず、なほ戀する男の止み難い心があらはれてあはれである。卷二の勿念跡君君雖言相時何時跡知而加吾不戀有牟《ナオモヒトキミハイヘドモアハムトキイツトシリテカワガコヒザラム》(一四〇)の上句はこれに似てゐる。
2848 直に逢はず あるはうべなり 夢にだに 何しか人の 言の繁けむ 或本歌曰、現にはうべもあはなく夢にさへ
直不相《タダニアハズ》 有諾《アルハウベナリ》 夢谷《イメニダニ》 何人《ナニシカヒトノ》 事繁《コトノシゲケム》
直接ニ戀人ニ〔三字傍線〕逢ハレナイノハ、浮世ノナラハシデ〔八字傍線〕仕方モナイ。然シ夢ノ中デハ何ノ障リモナク逢ヘサウナモノダノニ夢ニモ逢ハレナイノハ、夢ノ中デモ人ノ口ガヤカマシイモノト見エル〔然シ〜傍線〕。夢ノ中デモ、ドウシテ人ノ口ガヤカマシイノダラウ。夢ニモ逢ヘヌトハ、苦シイコトダ〔夢ニ〜傍線〕。
○有諾《アルハウベナリ》――舊訓アルハコトワリとある。元暦校本も同樣であるが、代匠記初稿本による。○何人《ナニシカヒトノ》――舊訓イカナルヒ()とあるのを、代匠記初稿本に改めたのに從ふ。
〔評〕 夢にも逢はれないのは、夢の中でも人の口が喧しいのかと疑ひ怪しんでゐる。それがわざとらしく聞えないのが、この歌のよい點であらう。これを技巧的に改作すると、古今集の「住の江の岸による波よるさへや夢の通路人めよくらむ」となるのである。
或本歌曰 寢者《ウツツニハ》 諾毛不相《ウベモアハナク》 夢左倍《イメニサヘ》
上三句の異本である。意味にかはりはないであらう。寢は寤の誤。元暦校本は寐に作つてゐる。
2849 ぬば玉の その夢にだに 見え繼げや 袖乾す日なく 我は戀ふるを
(10)鳥玉《ヌバタマノ》 彼夢《ソノイメニダニ》 見繼哉《ミエツゲヤ》 袖乾日無《ソデホスヒナク》 吾戀矣《ワレハフルヲ》
戀シイアナタノ〔七字傍線〕ソノ(烏玉)夢ニデモ絶エズ私ガ〔五字傍線〕續ケテ見エテクレヨ。袖ヲ乾カス日モナク、私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀シテヰルヨ。
○鳥玉《ヌバタマノ》――枕詞。夢とつづく。夜につづくのから轉じたのである。○彼夢見繼哉《ソノイメニダニミエツゲヤ》――舊訓はソノヨノユメニミツギキヤとある。代匠記精撰本の訓による。古義は宣長が彼を夜の誤として、ヨルノイメニヲと訓むべしと言つたのに傚ひ、ヨルノイメニヲミエツクヤとよんでゐる。ミエツゲヤは見え續けよの意。○吾戀矣《ワレハコフルヲ》――我は戀ふるよの意。このヲは目的をあらはすものでなく、戀ふるなりと言ひ切つたのである。古義にアレハコフルヲと訓んだのはよいが、「歌意は、われは袖ほす間もなく、晝夜戀しく思ふを、そなたの夜の夢には繼て見えたまふにや、如何といふなるべし」と解したのは當らない。
〔評〕 戀ふる心が相手に通じて、夢に見えるといふ信念から出てゐる。三句切で、五句も詠歎的に切つてある。
2850 現には 直に逢はなく 夢にだに 逢ふと見えこそ わが戀ふらくに
現《ウツツニハ》 直不相《タダニアハナク》 夢谷《イメニダニ》 相見與《アフトミエコソ》 我戀國《ワガコフラクニ》
私ハ、コレ程〔三字傍線〕戀慕ツテ居ルガ、現實ニハ直接戀人ト〔三字傍線〕逢フコトガ出來ナイ。セメテ〔三字傍線〕、夢ニデモ逢フト見エテクレヨ。
○直不相《タダニアハナク》――舊訓タダニモアハズとあるのもわるくはないが、文字について見ると、略解補正にタダニアハナクとあるのがよい。○相見與《アフトミエコソ》――コソは希望。舊訓アフトハミエヨとあるのは誤つてゐる。
〔評〕 前の歌と似てゐる。二句と四句とに切目がある。以上の諸歌はいづれも技巧の尠い、純情の作である。
(11)寄(セテ)v物(ニ)陳(ブ)v思(ヲ)
2851 人に見ゆる うへを結びて 人の見ぬ した紐あけて 戀ふる日ぞ多き
人所見《ヒトニミユル》 表結《ウヘヲムスビテ》 人不見《ヒトノミヌ》 裏紐開《シタヒモアケテ》 戀日太《コフルヒゾオホキ》
人ニ見エル、上着ノ紐ヲ結ンデ居ルガ、人ガ見ナイ下着ノ紐ヲ解キ開ケテ、戀人ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツ〔三字傍線〕テ居ル日ガ多イヨ。下着ノ紐ガ解ケルノハ、戀シイ人ニ逢ヘル前兆ダト言フカラ、自然ニ紐ガ解ケタツモリニシテ、自分デ下着ノ紐ヲ解イテ、ヒヨツト戀人ニ逢ヘルカト空ダノミヲシナガラ、貴方ヲ戀シテ居リマス〔下着ノ紐ガ〜傍線〕。
○人所見《ヒトニミユル》――舊訓ヒトメニハとあるのを考にヒトミレバと改めたのが廣く行はれてゐる。併し所見の二字は伊目爾之所見《イメニシミユル》(四九〇)・夢西所見《イメニシミユル》(五九一)の例によればミユルと訓むべきであるから、ここは新訓に從つた。新考にヒトノミルとあるのも舊訓よりは勝つてゐるが、なほ充分でない。○表結《ウヘヲムスビテ》――舊訓はウヘモムスビテ、新考はウヘハムスビテとあるが、ムスブは他動詞であるから、ウヘヲといふべきである。表《ウヘ》は上衣の紐の略である。○人不見《ヒトノミヌ》――舊訓シノビニハとあるのは當らない。考のヒトミネバも廣く行はれてゐるが、さうよむべきでない。下紐は、衣より見えないものであるから、ヒトミネバといふ理由がない。○裏紐開《シタヒモアケテ》――裏紐《シタヒモ》は下着の紐。崇神天皇紀に衣紐の二字をシタヒモと訓んでゐる。下裳・下褌の紐をいふこともあるやうだが、これらはさうではあるまい。下紐を開けるのは、人に戀せられた時、おのづから下紐が解けるといふ俗信にならつて、人に逢へるやうに、みづから下紐を解いて待ち受ける意味である。
〔評〕 下紐のおのづから解けるのは、人に戀せられる兆とする意を詠んだ歌は、集中に多い。これも、その俗信によつたものであるが、自から解いて置いて、人に逢はうとするのは.まことに稚氣愛すべしとも評すべき(12)か。その純情がいたましい。寄衣紐戀。
2852 人言の 繁けき時に 吾妹子し 衣にありせば 下に著ましを
人言《ヒトゴトノ》 繁時《シゲケキトキニ》 吾妹《ワギモコシ》 衣有《キヌニアリセバ》 裏服矣《シタニキマシヲ》
人ノ口がヤカマシクテ、思フヤウニ逢ハレナ〔クテ〜傍線〕イ時ニハ、私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ガ、若シ〔二字傍線〕着物デアツタナラバ、ソレヲ着物ノ〔六字傍線〕下ニ着ヨウモノヲ。サウスレバ目ニ意タヌヤウニスルコトガ出來ルノダガ、着物デハナイカラ、サウシテ人目ヲ避ケルコトモ出來ナイ。困ツタモノダ〔サウス〜傍線〕。
○繁時《シゲケキトキニ》――新考に「シゲケキといふ辭は無ければ、シゲカルトキヲとよむべし」とある。併し、事之繋家《コトノシゲケク》(二三〇七)などシゲケクと訓むべきものが多いから、シゲケキもあるわけである。○吾妹《ワギモコシ》――舊訓ワギモコガとあるよりも、古義にワギモコシとあるのがよいであらう。
〔評〕 女に對する親愛の情が溢れてゐる。さうして人目を忍ぶ戀の心もあらはれてゐる。卷二の長歌に衣有者脱脱時毛無吾戀君曾伎賊乃夜夢所見鶴《キヌナラバヌグトキモナクワガコヒムキミゾキゾノヨイメニミエツル》(一五〇)とも似てゐるが、この下に如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミシアリケルキミヲキヌナラバシタニモキムトワガモヘリケル》(二九六四)とは、更に類似してゐる。
2853 眞珠つく 遠をしかねて おもふにぞ 一重衣を 一人著て寢る
眞珠眼《マタマツク》 遠兼《ヲチヲシカネテ》 念《オモフニゾ》 一重衣《ヒトヘコロモヲ》 一人服寐《ヒトリキテヌル》
私ハ戀人ニ逢ヒタイノハ山々ダケレド、ズツト〔私ハ〜傍線〕(眞珠眼)先ノ先マデ考ヘテ見ルカラ、無理ナコトヲシテ逢ハナイデ、薄イ〔無理〜傍線〕一重ノ着物ヲ一人デ着テ淋シク一人〔五字傍線〕寢ヲスルヨ。
○眞珠眼《マタマツク》――舊訓眼を次句に置いて、シラタマモとあるが、眼は古葉略類聚鈔に服に作つてゐるのによつて、マタマツクと訓むべきか。考は眼を附の誤として、マタマツクと訓んでゐる。眞珠を附くる緒の意で遠《ヲチ》に續い(13)てゐる枕詞であらう。○遠兼《ヲチヲシカネテ》――考の訓による。シは強辭。遠くの行末をかけての意。宣長は遠の下、近の字、脱として、ヲチコチカネテと訓んでゐる。卷四に、眞玉付彼此兼手《マタマツクヲチコチカネテ》(六七四)とあるから、これも參考すべき説である。
〔評〕 戀の將來の完成を希つて、世人の邪魔が入らないやうに、戀しい人に逢はずにゐる女の歌。特に一重衣といつたのが、獨寢の寒さ、わびしさをあらはしてゐる。寄衣戀。
2854 白たへの 吾が紐の緒の 絶えぬ間に 戀結びせむ 逢はむ日までに
白細布《シロタヘノ》 我?緒《ワガヒモノヲノ》 不絶間《タエヌマニ》 戀結爲《コヒムスビセム》 及相日《アハムヒマデニ》
着物ノ紐ガ絶エルノハ、戀人ト縁ヲ切ルヤウニナル前兆ダト云フガ〔着物〜傍線〕、私ノ(白細布)紐ノ緒ガ、切レナイウチニ、戀結ビノマジナヒ〔五字傍線〕ヲシヨウ。再ビ〔二字傍線〕逢フ時マデ變リノナイヤウニシヨウ〔變リ〜傍線〕。
○白細布《シロタヘノ》――枕詞。紐とつづく。○戀結爲《コヒムスビセム》――戀の變らぬやうに神に祈つて、物を結ぶことを戀結《コヒムスビ》といつたものであらう。紐の結び方の名ではあるまい。上代には、紐、草木などを結ぶ禁呪《マジナヒ》が行はれたのである。
〔評〕 紐の絶えるのは、戀の破綻の前兆とする俗信があつたので、吾が紐の絶えない内に、戀結びをして置かうといふのである。五句の連絡が少し、しつくりとしない點もあるが、意は明らかである。上代の生活に盛であつた、禁呪的習俗が主體となつた作である。寄紐戀。
2855 新ばりの 今作る路 さやかにも 聞きにけるかも 妹が上のことを
新治《ニヒバリノ》 今作路《イマツクルミチ》 清《サヤカニモ》 聞鴨《キキニケルカモ》 妹於事矣《イモガウヘノコトヲ》
私ハ私ノ戀シイ〔七字傍線〕女ガドウシテヰルカト云フ〔ドウ〜傍線〕コトヲ(新治今作路)ハツキリト慥カニ聞イタヨ。マアソレデ安心シタ〔マア〜傍線〕。
○新治今作路《ニヒバリノイマツクルミチ》――サヤカと言はむ爲の序詞。新らしく開墾して、作つた新道路は塵芥などもなくて、清いか(14)ら清《サヤカ》とつづくのである。新治の治《ハリ》は墾に同じ。卷十四に信濃道者伊麻能波里美知《シナヌヂハイマノハリミチ》(三三九九)とある。今作路の今は今來《イマキ》の今《イマ》で、新にの意。考・略解はイマツクルミチノとあるが、舊訓による。○清《サヤカニモ》――鮮明にの意。舊訓はサヤケクモとあるが、管見による。○聞鴨《キキニケルカモ》――舊訓キコエケルカモ、考キキテケルカモとあるが、略解による。
〔評〕 元明天皇の和銅年間に岐蘇街道が開けたので見ると、その前後所々に新道路開拓の事業が起されたやうに見える。ここに新治今作路《ニヒバリノイマツクルミチ》とあるのは、時代はわからないが、人麿歌集に出てゐるのと、歌詞の上とから、大よそ藤原朝あたりの作かと想像せられる。さうした文化史上のことが、この歌によって推斷せられるのは興味あることである。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。寄路戀。
2856 山城の 石田のもりに 心おぞく 手向したれや 妹に逢ひ難き
山代《ヤマシロノ》 石田杜《イハタノモリニ》 心鈍《ココロオゾク》 手向爲在《タムケシタレヤ》 妹相難《イモニアヒガタキ》
私ハ〔二字傍線〕山背ノ石田ノ森ノ神樣〔三字傍線〕ニ御供ヘヲシテ戀シイ女ニ逢フヤウニト祈ツタガ〔御供〜傍線〕、熱心ガ足ラズニ手向ケヲシタカラ、戀シイ〔三字傍線〕女ニ逢ヘナイノデアラウカ。サウデナケレバ必ズ逢ヘル筈ダ。マダ私ノ熱心ガ、足リナカツタデアラウカ〔サウ〜傍線〕。
○山代石田杜《ヤマシロノイハタノモリニ》――山代石田杜は卷九に山科乃石田社爾《ヤマシナノイハタノモリニ》(一七三一)・卷十三に山科之石田之森之《ヤマシナノイハタノモリノ》(三二三六)とあるのと同處か。然らば今は宇治郡醍醐村に属してゐる。延喜式に.「久世郡石田神社」とあるのは、今、綴喜郡都々城村にある神社で、別である。○心鈍《ココロオゾク》――オゾクは文字の通り鈍く、疎かなこと、即ちこの句は、不熱心にの意である。
〔評〕 石田の杜の神は、あらたかな神として尊崇があつたことがわかる。吾が思が叶はないでも、神を怨まずに自分の祈願の至誠が足りなかつたと反省してゐるのは、如何にも上代人らしい敬虔さである。寄神戀。
2857 菅の根の ねもころごろに 照る日にも 乾めや吾が袖 妹に逢はずして
(15)菅根之《スガノネノ》 惻隱惻隱《ネモコロゴロニ》 照日《テルヒニモ》 乾哉吾袖《ヒメヤワガソデ》 於妹不相爲《イモニアハズシテ》
私ノ着物ノ〔三字傍線〕袖ハ女ニ逢ハレナイ悲シミノ爲ニ涙ニ濡レテヰルガ、コノ袖ハ〔女ニ〜傍線〕女ニ逢ハナイデハ、イクラ〔三字傍線〕(菅根之)ヨク照ル日ニ當ツテ〔三字傍線〕モ乾クコトハナイデアラウ。
○菅根之《スガノネノ》――枕詞。根とつづく。○惻隱惻隱《ネモコロゴロニ》――舊訓シノヒシノヒニとあるが、考の訓がよい。ネモコロを重ねたのである。ネモコロは懇ろ。丁寧に。ここはよくよくなどの意。
〔評〕 卷十の六月之地副割而照日爾毛吾袖將乾哉於君不相四手《ミナヅキノツチサヘサケテルヒニモワガソデヒメヤキミニアハズシテ》(一九九五)に似て少し及ばない。寄日戀。
2858 妹に戀ひ いねぬあしたに 吹く風の 妹にし觸らば 吾さへに触れ
妹戀《イモニコヒ》 不寐朝《イネヌアシタニ》 吹風《フクカゼノ》 妹經者《イモニシフラバ》 吾與經《ワレサヘニフレ》
女ヲ戀シク思ヒアカシテ〔四字傍線〕眠ラナイ朝、ソヨソヨト〔五字傍線〕吹ク風ガアノ女ニ觸ツテ吹イテ來〔五字傍線〕タノナラバ、私ニモ亦女ト同ジヤウ〔六字傍線〕ニ觸ツ吹イテ行ツ〔六字傍線〕テクレヨ。セメテモソノ風ニデモ吹カレテ、悲シサヲ慰メヨウ〔セメ〜傍線〕。
○吹風《フクカゼノ》――略解に、フクカゼシとあるのは採らない。○妹經者《イモニシフラバ》――舊訓イモニフレナバとあるが古義による。經は觸の借字。○吾共經《ワレサヘニフレ》――舊訓ワレトフレナム、略解ワガムタニフレネ、古義アガムタニフレとある。共はト・トモ・ムタなどの訓が多いが、吾共所沾名《ワレサヘヌレナ》(一〇九〇)に傚つて、サヘと訓むことにした。
〔評〕 女に逢へぬ悲しさに、せめて同じ風にでも吹かれようと、そよ吹く朝風をなつかしがつてゐる、弱い男の戀であるが、人の同情の涙をさそふものがある。古義に「妹を思ひ、寐ずあかせし朝開のそゞろ寒くおぼゆることなるに、妹も吾と同じさまに獨宿しつらむとおもへば、いかにわびしかるらむと思ふに、もし吹風の妹が身に行て觸るならば、妹のみわづらはすべきにあらねば.我が身にも共々に同じさまに觸よと、一すぢに希へるさまなり」とあるのは考へすぎてゐる。寄風戀。
2859 飛鳥河 高河|避《よ》かし 越え來しを まことこよひは 明けず行かめや
(16)飛鳥河《アスカガハ》 高河避紫《タカガハヨカシ》 越來《コエコシヲ》 信今夜《マコトコヨヒハ》 不明行哉《アケズユカメヤ》
水ノ出タ飛鳥川ヲ避ケテ、廻リ道ヲシテ、私ハ此處迄〔廻リ〜傍線〕來タノデスカラ、本當ニ今夜〔二字傍線〕ハ夜ガ明ケナイウチニ、歸ルワケニハユキマセヌ。夜道ハ危イカラ明ケテカラ歸リマス〔夜道〜傍線〕。
○高河避紫《タカガハヨカシ》――舊訓タカカハトホシとあるが考による。高河は水の高く出た河。ヨカシは避《ヨ》くに敬語の動詞スの連つたものであらう。避《ヨ》くは、よけること。飛鳥川の水量が増して渡りかねるから、それを避けて、道を變へて來ること。○越來《コエコシヲ》――舊訓コエテクル、代匠記精撰本コエクレバ、考コエテコシ、略解コエテキツなど、種々に訓まれてゐるが、古義にコエコシヲとあるのがよい。越は山などを行過ぎることに用ゐるのが常であるが、ここは過るといふ意であらう。河を渡ることではない。○信今夜《マコトコヨヒハ》――舊訓に信をツカヒと訓み、代匠記も使の意で解してゐるのは誤つてゐる。
〔評〕 女の許に通つて來た男の言葉である。古義は、結句をアケズヤラメヤとして、女の歌にしてゐるのは當らない。高河は珍らしい用例で、適切な語であた。自己の熱情を巧に言ひあらはし得てゐる。寄河戀。
2860 八鈎河 水底たえず 行く水の つぎてぞ戀ふる この年頃を 或本歌曰、水尾も絶えせず
八鈎河《ヤツリガハ》 水底不絶《ミナソコタエズ》 行水《ユクミヅノ》 續戀《ツギテゾコフル》 是比歳《コノトシゴロヲ》
(八鈎河水底不絶行水)絶エズ續ケテ、私ハアノ人ヲ〔四字傍線〕コノ數年來戀シテヰルヨ。
○八鈎河水底不絶行水《ヤツリガハミナソコタエズユクミヅノ》――續《ツギテ》とつづく序詞。八鈎川の水の絶えないのに譬へたのである。八鈎河は、飛鳥の東方。矢釣山《ヤツリヤマ》(二六二)の附近を流れる河である。
〔評〕 内容はありふれたものである。寄河戀。
或本歌曰 水尾母不絶《ミヲモタエセズ》
(17)二の句の異本である。水底よりも水尾の方がよいやうだ。水尾は水脈。
2861 礒の上に 生ふる小松の 名を惜しみ 人にしらえず 戀ひわたるかも 或本歌曰、巖の上に立てる小松の名を惜しみ人には云はず戀ひわたるかも
礒上《イソノウヘニ》 生小松《オフルコマツノ》 名惜《ナヲヲシミ》 人不知《ヒトニシラエズ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
(礒上生小松)浮〔傍線〕名ノ立ツノガ惜シサニ、人ニハ胸ノ思ヲ〔四字傍線〕知ラセズニ、私ハコノ頃戀〔五字傍線〕ヒツヅケテヰルヨ。
○礒上生小松《イソノウヘニオフルコマツノ》――名とつづく序詞であるが、そのつづく意味が明瞭でない。代匠記初稿本には「いその上は岩の上なり。松は石上に生たてるものなれば、立名のをしきといへる名なり」。同精撰本には「小松は子松ともかける所あれば、子等がために名を惜むと云意にかくはつゞけたり」とあり。古義は、石の上に生たる小松の根といふべきを、ネとナと音が通ふから、名とつづけたのだらうと言つた中山嚴水説が掲げて、これによるべきかと言つてゐる。新考には「巖の上に松の生ひたるはめづらしければ、その物に附けたる名のありしによりて名の序とせるならむ」とある。いづれも首肯し難いものであるが、比較的古義説がよいか。
〔評〕 序詞のつづきが不明瞭な歌である。女を松に譬へたものとすると、序詞ではなくなるが、さうとも思はれない。忍戀の歌だ。寄松戀。
或本歌曰 巖上爾《イハノウヘニ》 立小松《タテルコマツノ》 名惜《ナヲヲシミ》 人爾者不云《ヒトニハイハズ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
この或本の歌は、原歌と毫も意が異ならないから、解釋の要はあるまい。
2862 山河の 水蔭に生ふる 山すげの 止まずも妹が 思ほゆるかも
山河《ヤマガハノ》 水陰生《ミヅカゲニオフル》 山草《ヤマスゲノ》 不止妹《ヤマズモイモガ》 所念鴨《オモホユルカモ》
(山河水陰生山草)絶エル間モナク、私ハ〔二字傍線〕女ノコトガ戀シク〔三字傍線〕思ハレルヨ。
○山河水陰生山草《ヤマガハノミヅカゲニオフルヤマスゲノ》――ヤマの音を繰返して、山草《ヤマスゲ》につづく序詞。山の中の河の物陰に生えてゐる山菅。水(18)陰は古義はミコモリと訓んでゐる。ミヅカゲとよんで、水邊の物陰と解すべきである。山草は古くからヤマスゲとよんでゐる。かう書く慣用があつたのであらう。古義には草は菅の誤とある。
〔評〕 平易ではつきりした歌だ。民謠らしい作品である。寄草戀。この歌、袖中抄に出てゐる。
2863 淺葉野に 立つる神占の 菅の根の ねもごろ誰ゆゑ 吾が戀ひざらむ 或本歌云、誰葉野に立ちしなひたる
淺葉野《アサハヌニ》 立神古《タツルカムウラノ》 菅根《スガノネノ》 惻隱誰故《ネモゴロタレユヱ》 吾不戀《アガコヒザラム》
(淺葉野立神古菅根)心カラカウシテ〔四字傍線〕誰ノ爲ニ私ガ戀ヲシナイデヰラレヨウカ。アナタノ爲ニ戀ヲシテヰマス〔アナ〜傍線〕。
○淺葉野立神古菅根《アサハヌニタツルカムウラノスガノネノ》――ネの音を繰返して、下につづいてゐる。舊訓は次の惻隱を三句に置いて、アサハノニタツミワコスケネカクレテとあるが無理である。考は神古を紳有に改めて、タチシナヒタルとし、古義は神の下、左の字、脱として、タチカムサブルとあるが、代匠記精撰本に古を占の誤としたのに從ふことにした。淺葉野で神占を立てる爲めに用ゐる菅とつづくのである。淺葉野は卷十一に紅之淺葉乃野良爾《クレナヰノアサハノヌラニ》(二七六三)とあるところであらう。○吾不戀《アガコヒザラム》――考はアガコハナクニとあり、略解もこれに從ひ、古義はコヒナクニとある。舊訓によつて、解いて置いた。
〔評〕 上代に山菅占といふものがあつたと、正卜考に記してあるのに當るやうである。和歌童蒙抄に出てゐる。寄草戀。
或本歌云 誰葉野尓《タガハヌニ》 立志奈比垂《タチシナヒタル》
誰葉野は分らない。淺葉野の訛音か。古義には「和名抄に豐前國田河郡、延喜式に同國田河驛とある。この田河の野をいへるにや云々」とある。立志奈比垂《タチシナヒタル》は立靡ひたる。
右二十三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
(19)正(ニ)述(ブ)2心緒(ヲ)
2864 吾背子を 今か今かと 待ちをるに 夜のふけぬれば、嘆きつるかも
吾背子乎《ワガセコヲ》 且今且今跡《イマカイマカト》》 待居爾《マチヲルニ》 夜更深去者《ヨノフケヌレバ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
私ノ夫ガ來ルノ〔四字傍線〕ヲ、今カ今カト思ツテ〔三字傍線〕待ツテ層ルノニ中々來ナイデ〔六字傍線〕、夜ガ更ケテシマツタノデ、私ハ〔二字傍線〕タメ息ヲツイテ悲シン〔四字傍線〕ダヨ。
〔評〕 平板ながら感情は溢れてゐる。
2865 玉くしろ まきぬる妹も あらばこそ 夜の長きも うれしかるべき
玉釼《タマクシロ》 卷宿妹母《キヌルイモモ》 有者許増《アラバコソ》 夜之長毛《ヨルノナガキモ》 歡有倍吉《ウレシカルベキ》
(玉釼)手枕ヲシテ寢ル女ガアルナラバコソ、夜ノ長イノモ嬉シイデアラウ。私ハ一人デ寢テ居ルノダカラ夜ノ長イノガツラクテ、明ケルノガ待チ遠シイ〔私ハ〜傍線〕。
○玉釼《タマクシロ》――舊訓タマツルギとあるが、釼は釧に通じて用ゐたのであるから、クシロである。古義は釼を釵に改めてゐる。釧は腕に卷くものであるから、卷《マキ》の枕詞としたのである。釧は卷一(四一)參照。○夜之長毛《ヨルノナガキモ》――舊訓はヨノナカケキモ、考はヨヒノナガキモ、古義はヨノナガケクモとあるが、夜は夜光玉《ヨルヒカルタマ》(三四六)の例によつて、ヨルとよむことにする。○歡有倍吉《ウレシカルベキ》――コソの結辭がベキになつてゐるのに注意したい。
〔評〕 意は長永夜乎一鴨將宿《ナガキナガヨヲヒトリカモネム》(二八〇二の或本)と同じであるが、叙述の形式を異にして、談理的になつてゐる。しかし理窟臭くはなつてゐない。
(20)2866 人妻に 言ふは誰が言 さ衣の この紐解けと 言ふは誰が言
人妻爾《ヒトヅマニ》 言者誰事《イフハタガコト》 酢衣乃《サゴロモノ》 此?解跡《コノヒモトケト》 言者孰言《イフハタガコト》
人ノ妻タル私〔三字傍線〕ニ、ソンナ失禮ナコトヲ〔ソン〜傍線〕言フノハ誰ノ言葉デスカ。着物〔二字傍線〕ノコノ紐ヲ解ケト云フノハ、誰ノ言葉デスカ。私ハ人ノ妻デスカラソンナ言葉ニハ應ジマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
○酢衣乃《サゴロモノ》――サは接頭語のみ。この句、類聚古集・古葉略類聚鈔・西本願寺本・和歌童蒙抄など、スゴロモノと訓んでゐる。酢の字の集中に於ける用字例を見ると、皮爲酢寸《ハタススキ》(三〇七)・翼酢色之《ハネズイロノ》(六五七)・前垣乃酢堅《マガキノスガタ》(七七八)・酢輕成野之《スガルナスヌノ》(一九七九)・醤酢爾《ヒシホスニ》(三八二九)などの類、皆スに用ゐられてゐる。この場合もこれに傚つて考ふれば、スとよむべきであるが、スゴロモといふ語はないから、サゴロモであらねばならぬ。略解に酢は作又は佐の誤であらうとしてゐる。併しながら、酢の音はソ又はサクであるから、サの音に轉用出來ぬことはないのである。更に進んで考へれば、酢を國語でスといふのは、もとこの字の音に出てゐるかも知れないのである。なほ考究すべき問題である。
〔評〕 言者誰事《イフハタガコト》の句を結句に反復したので、詰問的語氣が強くなつてゐる。上代婦人の貞操觀も見えてゐるやうだ。
2867 かくばかり 戀ひむものぞと 知らませば その夜はゆたに あらましものを
如是許《カクバカリ》 將戀物其跡《コヒムモノゾト》 知者《シラマセバ》 其夜者由多爾《ソノヨハユタニ》 有益物乎《アラマシモノヲ》
コレホド戀シク思フコトト知ツタナラバ、久振リデ逢ツタ〔七字傍線〕アノ晩ハ、モツト〔三字傍線〕ユツクリシテ居ル筈ダノニ、惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
○其夜者由多爾《ソノヨハユタニ》――ユタニは、寛《ユツタ》リト・ユツクリトなどの意。卷七の湯谷絶谷《ユタニタユタニ》(一三五二)、卷十一の大舟之由多爾將有《オホフネノユタニアルラム》(二三六七)などのユタニとは異なつてゐるやうである。
(21)〔評〕 戀人に逢うた夜、匆々として別れて來た後の淋しさ、胸に滿つるは唯、悔の心である。卷十一の如是許將戀物衣常不念者妹之手本乎不纒夜裳有寸《カクバカリコヒムモノゾトオモハネバイモガタモトヲマカヌヨモアリキ》(二五四七)に似てゐる。
2868 戀ひつつも 後に逢はむと 思へこそ おのが命を 長くほりすれ
戀乍毛《コヒツツモ》 後將相跡《ノチモアハムト》 思許増《オモヘコソ》 己命乎《オノガイノチヲ》 長欲爲禮《ナガクホリスレ》
私ハ戀人ニ逢ハレナイノデ、悲シク辛イ思ヲシテ居ルガ、カウシテ〔私ハ〜傍線〕戀ヒ焦レ〔二字傍線〕ナガラモ、後デ又〔傍線〕逢フ時節ガアル〔五字傍線〕ト思ヘバコソ、自分ノ生キ甲斐ノナイコノ〔九字傍線〕命ガ、永ク續クヤウニト思フノダ。
○思許増《オモヘコソ》――思へばこその意。
〔評〕 苦しい戀に悶えつつも、その戀にのみ生きる人の言葉である。強い力が歌語つてゐる。
2869 今は吾は 死なむよ吾妹 逢はずして 念ひわたれば 安けくもなし
今者吾者《イマハアハ》 將死與吾妹《シナムヨワギモ》 不相而《アハズシテ》 念渡者《オモヒワタレバ》 安毛無《ヤスケクモナシ》
今ハモウ〔二字傍線〕、私ハ死ニマセウヨ、貴女。貴女ニ〔三字傍線〕逢ハナイデ、戀シク〔三字傍線〕思ヒ續ケテ居ルト、心ノ〔二字傍線〕安マルコトハアリマセヌ。一層死ンダ方ガ増シデス〔一層〜傍線〕。
〔評〕 逢ふこと難き苦痛に、寧ろ死を欲する強列な戀。これを女の歌にすると、今者吾者指南與我兄戀爲者一夜一日毛安毛無《イマハアハシナムヨワガセコヒスレバヒトヨヒトヒモヤスケクモナシ》(二九三六)となる。この他に類似の歌が見えるから、多少常套語となつた傾向がある。
2870 わが背子が 來むと語りし 夜は過ぎぬ しゑやさらさら しこり來めやも
我背子之《ワガセコガ》 將來跡語之《コムトカタリシ》 夜者過去《ヨハスギヌ》 思咲八更更《シヱヤサラサラ》 思許理來目八面《シコリコメヤモ》
私ノ夫ガ來ヨウト言ツテ約束ヲシ〔五字傍線〕タ夜モ空シク〔三字傍線〕過ギテシマツタ。約束シテサヘカウダカラ、トテモコレカラハ〔約束〜傍線〕、エエモウ決シテ決シテ、間違ツテモ來ルコトハアルマイ。
(22)○將來跡語之《コムトカタリシ》――考にコムトイヒニシ、略解キナムトイヒシとあるが、却つて舊訓がよい。○思咲八更更《シヱヤサラサラ》――シヱヤは歎息の辭。サラサラは決して決して。○思許理來目八面《シコリコメヤモ》――シコリを眞淵は如是在《シカアリ》の義とし、略解は頻《シキリ》と同意としてゐるが、古義に「失計《シソコナヒ》といはむが如し」とあるのに從はう。即ち、爲そこなつても、間違にもの意である。卷七の買師絹之商目許里鴨《カヘリシキヌノアキジコリカモ》(一二六四)のシコリと同語であらう。
〔評〕 約束を間違へられた憤懣に、諦めの語を吐息と共に吐き出してゐる。三句で切つて、四五の句を鋭く言ひ放つてゐる。この歌、袖中抄に載つてゐる。
2871 人言の よこすを聞きて 玉桙の 道にも逢はじと 云へりし吾妹
人言之《ヒトゴトノ》 讒乎聞而《ヨコスヲキキテ》 玉桙之《タマボコノ》 道毛不相常《ミチニモアハジト》 云吾味《イヘリシワギモ》
世間ノ人ノ惡口スルノヲ聞イテ、モウコレカラハ貴方トハ〔モウ〜傍線〕(玉桙之)途中ニデモ逢ヒマスマイト言ツタアノ女ヨ。ドウモ人ノ口ハヤカマシクテ戀ノ邪魔ヲスルモノダ〔ドウ〜傍線〕。
○讒乎聞而《ヨコスヲキキテ》――讒をヨコスと訓むのは、應神天皇紀に「讒2言《ヨコシママヲサク》于天皇1」・齊明天皇紀に「※[手偏+王]|讒《ヨコス》2我客1」・催馬樂韋垣に「誰かこの事を親にまうよこし申し」など用ゐられ、字鏡にも「讒毀也。與己須。又不久也久」とあり、ヨコスといふ四段活の動詞が古く用ゐられてゐたのである。○玉桙之《タマボコノ》――枕詞。道とつづく。○道毛不相常云吾味《ミチニモアハジトイヘリシワギモ》――舊訓ミチニモアハズツネイフワキモとあるのを、代匠記初稿本に、ミチニモアハシトイヘリワキモコとし、略解はミチニモアハジトイヘルワギモコとよみ、なほ宣長が常云を絶去の誤として、ミチニモアハズタエニシワギモとよんだ説をあげ、古義はこれに從つてゐる。ここは新訓によつて解した。
〔評〕 二人の間を割かうとする世人の言葉を信じて、變心した女を悲しんでゐる。結句を名詞止にして、詠嘆の心をあらはしてゐる。
2872 逢はなくも うしと念へば いや益しに 人言繁く 聞え來るかも
不相毛《アハナクモ》 懈常念者《ウシトオモヘバ》 彌益二《イヤマシニ》 人言繁《ヒトゴトシゲク》 所聞來可聞《キコエクルカモ》
(23)私ハ戀人ニ〔五字傍線〕逢ハレナイノヲ辛イト思ツテヰルト、ソノ上ニ益々世間ノ人ガ自分ノ戀ニツイテ〔八字傍線〕、ヤカマシク言ヒ立テルノガ聞エテ來ルヨ。コレデハトテモ逢ハレサウニモナイ〔コレ〜傍線〕。
○懈常念者《ウシトオモヘバ》――懈は越懈乃子難懈乃《コシノウミノコガタノウミノ》(三一六六)・結手懈毛《ユフテタユシモ》(三一八三)などと用ゐてある。懈は心の解けゆるむ意の文字であるから、ここにウシに用ゐたのは、少し異なつてゐるが、全く當らぬことはあるまい。
〔評〕 人口益々繁くなり行くに、あきれた姿である。直線的な緊張した句調になつてゐる。
2873 里人も かたりつぐがね よしゑやし 戀ひても死なむ 誰が名ならめや
里人毛《サトビトモ》 謂告我禰《カタリツグガネ》 縱咲也思《ヨシヱヤシ》 戀而毛將死《コヒテモシナム》 誰名將有哉《タガナナラメヤ》
私ハ叶ハヌ戀ニ悶エテ居ルガ〔私ハ〜傍線〕、里人ガ語リ傳ヘル爲ニ、エエモウカマハヌ。焦死デモシヨウカ。私ガ焦死ヲシタナラバ、ソノ爲ニ評判ヲ立テラレルノハ〔私ガ〜傍線〕、誰デモナイ、只貴方ノ浮名ガ立ツバカリデス。薄情ノ返報ニハサウシテアゲマセウ。モシソレガ嫌ナラバ私ノ心ヲ汲ンデ下サイ〔薄情〜傍線〕。
○謂告我禰《カタリツグガネ》――舊訓イヒツクカネニとあり、謂はイヒ又はノルと訓むのを常として、カタリの例はないが、ニを補ふのはどうかと思はれるから、代匠記精撰本にカタリとよんだのに從はう。我禰は料。
〔評〕 自分の戀死によつて、相手の名の立つのを強調して相手を脅してゐる。古今集の「戀ひ死なば誰が名は立たじ世の中の常なきものと言ひはなすとも」と似てゐる。
2874 たしかなる 使をなみと こころをぞ 使にやりし 夢に見えきや
※[立心偏+送]《タシカナル》 使乎無跡《ツカヒヲナミト》 情乎曾《ココロヲゾ》 使爾遣之《ツカヒニヤリシ》 夢所見哉《イメニミエキヤ》
私ハ貴方ニアゲルノニ〔私ハ〜傍線〕、シツカリシク使ガアリマセヌカラ、私ノ〔二字傍線〕心ヲ使トシテ責方ニ〔三字傍線〕上ゲテ置キマシタ、ソレ(24)ハ貴方ノ〔六字傍線〕夢ニ見エマシタカ。
○※[立心偏+送]《タシカナル》――※[立心偏+送]は珍らしい文字である。代匠記初稿本に「慥、玉篇云、七到切、言行相應貌、今の本※[立心偏+送]に作れるは改むべし」とある如くであらう。
〔評〕 適當な使者を得ないといふのは、人目を忍ぶ戀なのであらう。心が通ずれば、夢に見るといふ信仰は集中に他の例もあるが、心の使は珍らしい。靈の感應を信じた上古人の歌らしい。
2875 天地に 少し至らぬ ますらをと 思ひし我や 雄心もなき
天地爾《アメツチニ》 小不至《スコシイタラヌ》 大夫跡《マスラヲト》 思之吾耶《オモヒシワレヤ》 雄心毛無寸《ヲゴコロモナキ》
天ノ高ク〔三字傍線〕地ノ廣キ〔三字傍線〕ニ、只〔傍線〕僅カニ達シテヰナイ程ノエライ強イ〔七字傍線〕大丈夫ト思ツテヰタ私ガ、戀ニナヤンデ、コンナニ〔戀ニ〜傍線〕勇マシイ心モ無イノカ。我ナガラ不思議ダ〔八字傍線〕。
○天地爾小不至大夫跡《アメツチニスコシイタラヌマスラヲト》――代匠記に「兵の心つかひの高く廣きは、天地にも大かたは至るべきと思ふにより、少至らぬと云へるなり」とあるやうな意であらう。不至《イタラヌ》は達せざる、及ぱざるといつても同じであらう。心の高大なること、天地に殆ど等しきほどの大丈夫をいふのである。○雄心毛無寸《ヲゴコロモナキ》――雄心は男性の心。しつかりした勇猛心。
〔評〕 この頃の人は、マスラヲといふ語の内にも、男としての誇と責務とを感じたのである。天地爾小不至大夫《アメツチニスコシイタラヌマスラヲ》の句は、これを更に強調したもので、實に氣魂雄大な、集中にも珍らしいものである。さうしてこの集でなくては見られない言葉である。ここに天地の間に磅※[石+薄]する氣宇宏壯な、上代日本の精神に接することが出來るのは喜ばしい。
2876 里近く 家やをるべき この吾が目の 人目をしつつ 戀の繁けく
里近《サトチカク》 家哉應居《イヘヤヲルベキ》 此吾目之《コノワガメノ》 人目乎爲乍《ヒトメヲシツツ》 戀繁口《コヒノシゲケク》
(25)里ニ近ク住ンデ居ルベキデハナイ。里ニ近ク居ルト〔七字傍線〕私ノ目ハ人ノ見ルノヲ憚ツテ、却ツテ思フヤウニ戀人ニ逢ハレナイカラ〔却ツ〜傍線〕、戀シサガイヤ増スバカリダ。イツソ遠イ所ニ住居シタラバ、人目ヲ憚ル恐モナクテ、思フヤウニ逢ヘルダラウ〔イツ〜傍線〕。
○里近家哉應居《サトチカクイヘヤヲルベキ》――卷十に山近家哉可居《ヤマチカクイヘヤヲルベキ》(二一四六)とあつたのと同じ言ひ方である。山にでも住まうといふのであらう。○此吾目之《コノワガメノ》――元暦校本に之の字がない。○人目乎爲乍《ヒトメヲシツツ》――人目をするとは、人目を憚ることであらう。考は乎爲は毛里の誤として、ヒトメモリツツ、略解は避止の誤として、ヒトメヲヨグトとしてゐる。新考には人目乎|候止《モルト》の誤ならむとある。ここは古義に從つて、原形を改めずに置いた。
〔評〕 周圍の人を恐れて、靜かな地點に住まはうといふのであるが、少しく曖昧な點がないではない。
2877 何時はなも 戀ひずありとは あらねども うたてこの頃 戀の繁しも
何時奈毛《イツハナモ》 不戀有登者《コヒズアリトハ》 雖不有《アラネドモ》 得田直比來《ウタテコノゴロ》 戀之繁母《コヒシシゲシモ》
何時ト云ツテ戀ヲシナイ時ハナイガ、ドウシタノカ〔六字傍線〕コノ頃ハ益々戀ノ心ガ頻リニナツテ來タヨ。
○何時奈毛《イツハナモ》――舊訓イツトナモとあるが、代匠記精撰本の説による。ナモはナムと同じで、強めて言ふ助詞である。古義には奈を志の誤として、イツハシモと改めてゐる。○得田直比來《ウタテコノゴロ》――ウタテは物のうつり進んで甚だしくなる意。直は値の省畫で代價をテといふから、テの假名に用ゐたのである。
〔評〕 卷十一の何時不戀時雖不有夕方枉戀無乏《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモユフカタマケテコヒハスベナシ》(二三七三)とよく似てゐる。卷十三にも何時橋物不戀時等者不有友是九月乎《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモコノナガツキヲ》(三三二九)とある。
2878 ぬば玉の いねてしよひの 物もひに さけにし胸は やむ時もなし
黒玉之《ヌバタマノ》 宿而之晩乃《イネテシヨヒノ》 物念爾《モノモヒニ》 割西※[匈/月]者《サケニシムネハ》 息時裳無《ヤムトキモナシ》
(26)先夜寢テカラ色々ト戀人ヲ思ツテ胸モ割レルヤウダツタガ、アノ〔私ハ〜傍線〕寐テ物思ヲシ〔五字傍線〕タ(黒玉之)夜ノ物思ノ爲ニ、割レタヤウニナツタ〔六字傍線〕胸ハ、何時マデモナホラズニ相變ラズ苦シンデヰル〔相變〜傍線〕。
○黒玉之《ヌバタマノ》――語を距てて晩《ヨヒ》につづく。○割西※[匈/月]者《サケニシムネハ》――古義はワレニシムネハとよんでゐる。舊訓による。
〔評〕 この下の從聞物乎念者我胸者破而摧而鋒心無《キキシヨリモノヲオモヘバワガムネハワレテクダケテトゴコロモナシ》(二八九四)と似てゐる。
2879 み空行く 名の惜しけくも 我はなし 逢はぬ日まねく 年の經ぬれば
三空去《ミソラユク》 名之惜毛《ナノヲシケクモ》 吾者無《ワレハナシ》 不相日數多《アハヌヒマネク》 年之經者《トシノヘヌレバ》
空ニモ上ルヤウナ世間ニ廣ガル私ノ浮〔九字傍線〕名モ、今ハ〔二字傍線〕惜シイトモ私ハ〔二字傍線〕思ハナイ。戀人ニ〔三字傍線〕逢ハナイ日ガ多クテ數年ニナルカラ、サウ慎ンデバカリハ居ラレヌ。モウ浮名ガ立ツテモカマハナイ〔サウ〜傍線〕。
○三空去《ミソラユク》――雲などが空に擴がるやうに、浮名が忽ちに擴がるから、み空行く名とつづけたのであらう。古今集に「知るといへば枕だにせでねしものを塵ならぬ名の空に立つらむ」とある下句はこれに似てゐる。○不相日數多《アハヒマネク》――逢はぬ日が多く。全く逢はないのではない。
〔評〕卷四の劔太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》(六一六)は、これに似てゐる。
2880 うつつにも 今も見てしか 夢のみに 袂まきぬと 見れば苦しも 或本歌發句云、吾妹兒を
得管二毛《ウツツニモ》 今毛見牡鹿《イマモミテシカ》 夢耳《イメノミニ》 手本纏宿登《タモトマキヌト》 見者辛苦毛《ミレバクルシモ》
實際ニ今モ逢ヒタイモノダ。私ハ戀人ヲ〔五字傍線〕夢デバカリ、ソノ〔二字傍線〕袂ヲ枕シテ寢タト見ルト苦シイヨ。
○今見牡鹿《イマモミテシカ》――モは強くいふのみ。○見者辛苦毛《ミレバクルシモ》――考にはミルハクルシモと訓んでゐる。
〔評〕 現《ウツツ》と夢とを對照して、夢のはかなさを歎じてゐる。
(27)或本歌發句云、吾妹兒乎《ワギモコヲ》
第一句の異本で、現との對照が無くなつて、一層無技巧になつてゐる。發の字、舊本に登に作るは誤。元暦校本による。
2881 立ちてゐて 術のたどきも 今はなし 妹に逢はずて 月のへゆけば 或本歌云、君が目見ずて月のへゆけば
立而居《タチテヰル》 爲便乃田時毛《スベノタドキモ》 今者無《イマハナシ》 妹爾不相而《イモニアハズテ》 月之經去者《ツキノヘユケバ》
私ハ戀シイ〔五字傍線〕女ニ逢ハナイデ、幾月モタツタカラ、戀ニ心ガトラハレテ〔九字傍線〕、今ハ立ツテモ坐ツテモ、何トモ仕樣ガ無イ。
○立而居《タチテヰテ》――舊訓タチテヰルとあるが、古義に從ふ。立ちても居てもの意。○爲便乃田時毛《スベノタドキモ》――タドキはタヅキに同じ。手の著け方といふやうな意であらう。○月之經去者《ヅキノヘユケバ》――舊訓を改めて、へヌレバと訓む説が多いが、年之經行者《トシノヘユケバ》(二九四一)と同一に考ふべきであらう。
〔評〕 下の思遣爲便乃田時毛吾者無不相數多月之經去者《オモヒヤルスベノタドキモワレハナシアハズテマネクツキノヘユケバ》(二八九二)と同歌の異傳であらう。
或本歌云 君之目不見而《キミガメミズテ》 月之經去者《ツキノヘユケバ》
第四句の異本である。かうすれば女の歌となるであらう。
2882 逢はずして 戀ひ渡るとも 忘れめや いや日にけには 思益すとも
不相而《アハズシテ》 戀度等母《コヒワタルトモ》 忘哉《ワスレメヤ》彌弥日異者《イヤヒニケニハ》 思益等母《オモヒマストモ》
戀人ニ〔三字傍線〕逢ハナイデ戀シク思ヒ續ケテヰテモ、私ハ〔二字傍線〕愈々益々毎日毎日思ハ増シテ行クコトハアツテモ、忘レルコトハ決シテナイ。
(28)〔評〕 卷四の笠女郎の歌、吾命之將全牟限忘目八彌日異者念益十方《ワガイノチノマタケムカギリワスレメヤイヤヒニケニハオモヒマストモ》(五九五)は、この上句を少し改作したものであらう。
2883 よそめにも 君がすがたを 見てばこそ 吾が戀止まめ 命死なずは 一云、壽に向ふわが戀止まめ
外目毛《ヨソメニモ》 君之光儀乎《キミガスガタヲ》 見而者社《ミテバコソ》 吾戀山目《ワガコヒヤマメ》 命不死者《イノチシナズハ》
外ナガラモ貴方ノオ姿ヲ見ルコトガ出來クラバコソ、私ノ戀モ心ガ慰ンデ思ヒ〔七字傍線〕止ムデセウ。今ノヤウニ外ナガラサヘモ見ルコトガ出來ナクテハ〔今ノ〜傍線〕、命ノ絶エナイ以上ハトテモ思ガ止ム時ハアリマセヌ〔トテ〜傍線〕。
○命不死者《イノチシナズハ》――この句は、上へのつづきが曖昧である。今の如くならば、命のある間は思が止まぬといふのである。
〔評〕 結句が穩やかでない。或は誤字あるか。
一云 壽向《イノチニムカフ》 吾戀止目《ワガコヒヤマメ》
四五の句の異傳である。かうすれば下の眞十鏡《マソカガミ》(二九七九)及び卷四の直相而《タダニアヒテ》(六七八)と酷似して來る。
2884 戀ひつつも 今日はあらめど 玉くしげ 明けなむ明日を いかに暮さむ
戀管母《コヒツツモ》 今日者在目杼《ケフハアラメド》 玉〓《タマクシゲ》 將開明日《アケナムアスヲ》 如何將暮《イカニクラサム》
戀シイト見ヒ〔四字傍線〕ナカラモ、今日ハカウシテ〔四字傍線〕暮シテハ居ルモノノ、コンナニ辛クテハ〔八字傍線〕(玉〓)明ケテ明日ニナツタラドウシテ暮サウゾ。
○玉〓《タマクシゲ》――枕詞。開《ア》くとつづく。○將開明日《アケナムアスヲ》――舊訓を改めて、略解にアケムアシタヲとあるが、明日はアスとよむべきである。宣長は日は旦の誤であらうと言つてゐる。○如何將暮《イカニクラサム》――舊訓のイカデクラサムでは意味が曖昧であるから、何如裳勢武《イカニモセム》(一三三四)にならつて、如何をイカニとよむことにした。
(29)〔評〕逢ひ難き戀に悶えて、明日の苦を思ひ煩ふ人の、いたましい歎息である。せつぱつまつたやるせなさが哀によまれてゐる。
2885 さ夜ふけて 妹を思ひ出 敷栲の 枕もそよに 嘆きつるかも
左夜深而《サヨフケテ》 妹乎念出《イモヲオモヒデ》 布妙之《シキタヘノ》 枕毛衣世二《マクラモソヨニ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
一人デ寢テ〔五字傍線〕夜ガ吏ケテカラ、女ヲ思ヒ出シテ、私ハ〔二字傍線〕(布妙之)枕ガ動イテ〔三字傍線〕音ヲ立テルホド、強イ〔二字傍線〕嘆息ヲシタヨ。
○布妙之《シキタヘノ》――枕詞。枕とつづく。○枕毛衣世二《マクラモソヨニ》――ソヨニはそよと鳴るまで。ソヨは風の音などに用ゐるのが常であるが、さうとは限らない。ここは身悶えして泣く爲に、枕が鳴るのである。卷二十に波呂波呂爾伊弊乎於毛比※[泥/土]於比曾箭乃 曾與等奈流麻※[泥/土]奈氣吉都流香母《ハロハロニイヘヲオモヒデオヒソヤノソヨトナルマデナゲキツルカモ》(四三九八)とあるのも、その趣が似てゐる。
〔評〕 人の寢靜まつた深夜、枕を搖がしつつ、すすり泣く男の聲も聞えるやうである。
2886 ひと言は まこと言痛く なりぬとも そこにさはらむ 我にあらなくに
他言者《ヒトゴトハ》 眞言痛《マコトコチタク》 成友《ナリヌトモ》 彼所將障《ソコニサハラム》 吾爾不有國《ワレニアラナクニ》
人ノ評判ハ本當ニヒドクナツテモ、ソノ評判ヲ恐レテ〔八字傍線〕、ソレニ邪魔サレルヤウナ私デハアリマセンヨ。私ノ戀ハモツト熱烈ナモノデス〔私ノ〜傍線〕。
○彼所將障《ソコニサハラム》――それに邪魔せられむの意。
〔評〕 明快な緊張した調子である。まことにたのもしい歌である。
2887 立ちてゐて たどきも知らに 吾が意 天つ空なり 土はふめども
立居《タチテヰテ》 田時毛不知《タドキモシラニ》 吾意《ワガココロ》 天津空有《アマツソラナリ》 土者踐鞆《ツチハフメドモ》
私ノ體ハ〔四字傍線〕土ヲ踐ンデヰルケレドモ、立ツテモ居テモ、ドウシテヨイカ方法ガワカラズ、私ノ心ハ戀ノ爲ニ〔四字傍線〕上ノ(30)空ニナツテ居ル。
○天津空有《アマツソラナリ》――心が天に飛び上つてゐるやうだ。即ち落ち付かないことをいふ。
〔評〕 初二句は前の二八八一に似てゐるが、四五の句は、天と地とを對照せしめて頗る面白い。但し卷十一の徘徊《タモトホリ》(二五四一)、この卷の吾妹子之《ワギモコガ》(二九五〇)共に同樣になつてゐるのは、どれが先かわからないが、ともかくこの名文句を入れて、歌ひ改めたものであらう。
2888 世のなかの 人の辭と 思ほすな まことぞ戀ひし 逢はぬ日を多み
世間之《ヨノナカノ》 人辭常《ヒトノコトバト》 所念莫《オモホスナ》 眞曾戀之《マコトゾコヒシ》 不相日乎多美《アハヌヒヲオホミ》
私ガ戀シイト言フ言葉ヲ〔私ガ〜傍線〕世間ノ人ノ普通ノ〔三字傍線〕言葉ト思ヒナサルナ。私ガ言フコトハ、ソンナ通リ一遍ノ言葉デハアリマセヌ。私ハ貴方ニ〔私ガ〜傍線〕逢ハナイ日ガ多イノデ、本當ニ戀シイノデス。
○世間之人辭常《ヨノナカノヒトノコトバト》――代匠記初稿本は「世の中の人のことは。俗にいふくちくせの心なり」といひ、同精撰本は「世の中の人言とは僞又は言のなぐさなり」とある。兩者共に言ひ過ぎてゐるやうだ。世人の言ふ普通の通り一遍の語といふやうな意であらう。新考に「世ノナカノ人ノコトバ即世辭ナリ」とある。謂はゆる阿諛の意味のお世辭ならば當つてゐない。○眞曾戀之《マコトゾコヒシ》――戀之《コヒシ》は戀しといふ形容詞とも、又動詞戀ふに過去の助動詞シの連なつたものとも考へられる。上にゾの係辭があるから、シを助動詞と見るのが當然で、從來その説が多い。併し係結の關係は、本集では必ずしも平安朝とは一致しないから、或は形容詞と見るべきものかも知れない。新考には「之を支の誤として、サネゾコヒシキとよむべし」と言つてゐる。
〔評〕 眞劔な戀のささやきであらう。後撰集の「あはれてふことこそ憂けれうつせみの世の人ことの言はぬなければ」と内容は同一である。
2889 いでいかに 吾がここだ戀ふる 吾妹子が 逢はじと言へる こともあらなくに
(31)乞如何《イデイカニ》 吾幾許戀流《ワガココダコフル》 吾妹子之《ワギモコガ》 不相跡言流《アハジトイヘル》 事毛有莫國《コトモアラナクニ》
私ノ戀シイ〔二字傍線〕女ガ、私ニモウ〔四字傍線〕逢ハナイト言ツタコトモ無イノニ、サアドウシテ、私ハコンナニ〔四字傍線〕ヒドクアノ女ヲ〔四字傍線〕戀シク思フノダラウ。
○乞如何《イデイカニ》――イデは、サアと促す意の感動詞である。
〔評〕 戀の心の烈しさを、自から反省して、その理由なきに驚いてゐる言葉。初二句は卷十一の伊田何極太甚利心及失念戀故《イデイカニココダハナハダシ》トゴコロノウスルマデモフコフラクノユヱ》(二四〇〇)に似てゐる。
2890 ぬば玉の 夜を長みかも 吾が背子が 夢に夢にし 見えかへるらむ
夜干玉之《ヌバタマノ》 夜乎長鴨《ヨヲナガミカモ》 吾背子之《ワガセコガ》 夢爾夢西《イメニイメニシ》 所見還良武《ミエカヘルラム》
(夜干玉之)夜ガ長イ爲二、私ノ夫ガ夢ニ見エテハ見エ、幾度モ見エルノデアラウカ。私ハ夫ヲ思フ心ガ切ナノデ、夜ノ長イ時ハ幾度モ夫ヲ夢ニ見ルヨ〔私ハ〜傍線〕。
○夜干玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○夢爾夢西《イメニイメニシ》――夢にといふべきを繰返して、頻りに夢見ることをあらはしてゐる。シは強めて添へたもの。○所見還良武《ミエカヘルラム》――幾度も見えることを、ミエカヘルといつたのである。
〔評〕 夜もすがら、幾度か夢に戀人を見て、愈々戀しく思ふ心。冬の夜長などに、獨寐の女の歌である。下句があはれに出來てゐる。
2891 あらたまの 年の緒長く かく戀ひば まこと吾が命 またからめやも
荒玉之《アラタマノ》 年緒長《トシノヲナガク》 如此戀者《カクコヒバ》 信吾命《マコトワガイノチ》 全有目八面《マタカラメヤモ》
(荒玉之)何年モ續ケテ、コンナニ戀シク思フナラバ、ホントニ私ノ命ハ無事デヰルコトガ出來ヨウヤ。トテモ(32)駄目ダラウ〔八字傍線〕。
○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。年とつづく。荒玉を砥ぐ意であらう。四四三參照。○年緒長《トシノヲナガク》――年は幾年も永くつづくから、年の緒といふのである。○信吾命《マコトワガイノチ》――信をサネとよむ説もある。
〔評〕 相手に贈つたものか、それとも獨語か。いづれとも解せられるが、人の同情を引く、あはれさが籠つてゐる。
2892 思ひやる すべのたどきも 我はなし 逢はずてまねく 月の經ゆけば
思遣《オモヒヤル》 爲便之田時毛《スベノタドキモ》 吾者無《ワレハナシ》 不相數多《アハズテマネク》 月之經去者《ツキノヘユケバ》
戀シイ人ニ〔五字傍線〕逢ハナイデ、幾月モタツタカラ、私ハ戀シイ〔三字傍線〕思ヲハラス方法モナイ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
○不相數多《アハズテマネク》――略解による。宣長は相の下、日の字、脱として、アハヌヒマネクとよんでゐる。新訓にはアハナクマネクとある。
〔評〕 前にあつた立居店爲便乃田時毛今者無妹爾不相而月之經去者《タチテヰテスベノタドキモイマハナシイモニアハズテツキノヘユケバ》(二八八一)の異傳であらう。他にも類歌が多い。
2493 あした去きて 夕べは來ます 君ゆゑに ゆゆしくも吾は 歎きつるかも
朝去而《アシタユキテ》 暮者來座《ユフベハキマス》 君故爾《キミユヱニ》 忌忌久毛吾者《ユユシクモワハ》 歎鶴鴨《ナゲキツルカモ》
朝ハオ歸リニナツテモ、夕方復〔傍線〕オイデナサル貴方ダノニ、私ハ我ナガラ〔六字傍線〕イマイマシク思フホドニ、ヒドク〔八字傍線〕歎イタモノダヨ。ソンナニ歎カナイデモヨサウナモノダ〔ソン〜傍線〕。
○朝去而《アシタユキテ》――舊訓アサユキテとあるが、考に從ふ。略解はアシタイニテとある。○忌忌久毛吾者《ユユシクモワハ》――ユユシクハここでは、我ながら忌はしく思はれる程にの意。
〔評〕 ほんの晝の間だけの別離であるのに、再び逢はぬもののやうに、大袈裟な歎きやうむしたことを、自分で(33)恠しんである。哀切の辭。
2894 聞きしより 物を念へば 吾が胸は われて摧けて 利心もなし
從聞《キキシヨリ》 物乎念者《モノヲオモヘバ》 我胸者《ワガムネハ》 破而摧而《ワレテクダケテ》 鋒心無《トゴコロモナシ》
女ノコトヲ〔五字傍線〕聞イテカラハ忘レラレナイデ〔七字傍線〕、物思ヲスルノデ、私ノ胸ハ破レテ催ケテ、シツカリシタ心ハナイ。聞イタバカリデコレ程戀シイトハ、我ナガラ不思議ダ〔聞イ〜傍線〕。
○從聞《キキシヨリ》――女のことを人傳に聞いてからの意。○鋒心無《トゴコロモナシ》――トトゴコロは、多く利心と書いてあるのに、ここに鋒心とあるのは、集中唯一の例である。鋒はホコ又はホコサキの義であるから、利の代りに用ゐられたものであらう。
〔評〕 聞戀の歌である。新解に「何か人の身の上に就いて、噂でも聞いたのであらう。當事者同志では、あの事とわかつてゐたのであらう」とあるのは、從ひがたい。破而催而《ワレテクダケテ》は面白い言葉だ。實朝の名歌「大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも」は或はこれに暗示を得たか。
2895 人言を 繁みこちたみ 我妹子に いにし月より いまだ逢はぬかも
人言乎《ヒトゴトヲ》 繁三言痛三《シゲミコチタミ》 我妹子二《ワギモコニ》 去月從《イニシツキヨリ》 未相可母《イマダアハヌカモ》
人ノ口ガ喧マシイノデ、ヒドイノデ、私ハ〔二字傍線〕私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ト、先月カラマダ一度モ逢ハナイヨ。戀シイナア〔五字傍線〕。
〔評〕 平凡な報告的の歌である。かういふ事情にあつた人が、そのまま述べただけである。次の人言乎繁三毛人 髪三我兄子乎目者雖見相因毛無《ヒトゴトヲシゲミコチタミワガセコヲメニハミレドモアフヨシモナシ》(二九三八)と似てゐる。
2896 うたがたも 言ひつつもあるか 我ならば 土には落ちじ 空に消なまし
歌方毛《ウタガタモ》 曰管毛有鹿《イヒツツモアルカ》 吾有者《ワレナラバ》 地庭不落《ツチニハオチジ》 空消生《ソラニケナマシ》
(34)我等ノ戀ガ行末〔七字傍線〕アブナイヤウナコトヲ貴方ハ〔三字傍線〕言ツテ居ルヨ。シカシ安心シナサイ。他人ハトモカク〔シカ〜傍線〕私ナラバ決シテコノ戀ノ末ヲ遂ゲナイデ、空シク〔決シ〜傍線〕失敗スルコトハアルマイ。若シサウナルクラヰナラ〔若ハ〜傍線〕、途中デ死ンデシマヒマセウ。
○歌方毛《ウタガタモ》――この句の意味は解し難い。この語について古來の解釋を見ると、袖中抄はウタタといふ心かと見ゆといひ、定家は寧ろといふに通ふと言つてゐる(以上代匠記精撰本にょる)。仙覺は「うたかたと云はわすれずといふ事也といへり」といふ古説をあげて、ここには適せぬといつてゐる(註釋)。契沖は決定せぬ詞として、「蓋しと云ひたらむやうに聞ゆ」といひ(代匠記精撰本)、眞淵は定めがたき意なりとし(考)、千蔭は「はかなくあやふく定め難き事にたとふ」とし(略解)、雅澄もこれに傚ひ、通泰はウツナク決シテ、キツトの義としてゐる(新考)、この他、言海には暫シモ、スコシノマモとし、國語辭典も、暫シモ、スコシノ間モ、ドウシテマアと解してゐる。(なほ中世からこの語の解釋に苦しんだと見えて、袖中抄には自説の他に、能因歌枕・喜撰式・綺語抄・奥義抄などの古説を引いてゐる。)かくの如く諸説が紛々としてゐるが、普通の用法ではウタカタは水の沫のことで、和名抄に「沫雨。雨2潦上1沫起、若2覆盆1宇太加太」とある。併しこれは名詞の場合で、ここのやうな用例には當嵌らない。集中この他に、卷十五に波奈禮蘇爾多?流牟漏能木宇多我多毛比左之伎時乎須疑爾家流香母《ハナレソニタテルムロノキウタガタモヒサシキトキヲスギニケルカモ》(三六〇〇)・卷十七に安麻射加流比奈爾安流和禮乎宇多我多毛比母登吉佐氣底於毛保須良米也《アマサカルヒナニアルワレヲウタガタモヒモトキサケテオモホスラメヤ》(三九四九)、宇具比須能 伎奈久夜麻夫伎宇多賀多母伎美我手敷禮受波奈知良米夜母《ウグヒスノキナクヤマブキウタガタモキミガテフレズハナチラメヤモ》(三九六八)があつて、いづれも副詞的用法になつてゐる。なほ卷十七の歌乞和我世(三八九八)の乞を方の誤として、ウタカタワガセト訓む説が多いが、文字を改めるのであるから、ここの例にはなし難い。この他、遊仙窟に著時未必相2著死1《ヨリツカムトキウタガタモシニアハムトハオモハザリキ》」とあり、未必をウタガタモと訓み、後撰集に「思ひ川絶えず流るる水のあわのうたがた人にあはで消えめや」とあるなどが比較的古いものであらう。これによつて推斷するに、水の沫をウタガタといふのは第二義的のもので、この副詞的用法から轉じたのではあるまいかと思はれる。水の沫をアワと言つた例は古事記に屡々見えてゐるが、本集では美(35)都煩《ミツホ》(四四七〇)ト言つてゐるのである。であるからこのウタカタを泡沫の意を以て解かうとするのは無理であらう。併し上に列擧した諸説中、契沖説の決定せぬ詞としたのはこの語の原意で、これからして不定なこと、消え易いこと、危げなことなどにも用ゐられ、ウタカタといふ名詞も出來たのであらうと思はれる。この歌の場合は危げにと解するのが、最も妥當であらう。○吾有者《ワレナラバ》――考はワレシアレバ・略解・古義もそれに從つてゐる。他人はともかく我はの意。○地庭不落《ツチニハオチジ》――物の失敗に歸することを地に落つるといふのである。ここは戀の末遂げぬに譬へたのであらう。卷六に奥山之直木葉凌零雪之零者雖益地爾落目八方《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノフリハマストモツチニオチメヤモ》(一〇一〇)とある。○空消生《ソラニケナマシ》――考には生を共の誤として、ソラニケヌトモと訓んでゐる。新考には乍の誤として、ソラニキエツツとある。今、とらない。途中で死んでしまはうの意か。
〔評〕 意味の明瞭を缺く憾がある。下二句が譬喩になつてゐるやうなのも、正述心緒の歌としてはふさはしくないやうに思はれる。なほ攻究を要する歌であらう。
2897 いかならむも 日の時にかも 吾妹子が 裳引のすがた 朝にけに見む
何《イカナラム》 日之時可毛《ヒノトキニカモ》 吾妹子之《ワギモコガ》 裳引之容儀《モヒキノスガタ》 朝爾食爾將見《アサニケニミム》
今ハカウシテ逢ハレナイノデ惱ンデヰルガ、私ハ〔今ハ〜傍線〕イツノ日ノイツノ〔三字傍線〕時ニナツタラ、私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ノ裳ヲ引キズツテ着テヰルヤサシイ〔四字傍線〕姿ヲ、毎朝毎日見ルコトガ出來ルダラウカ。得遠イコトダ〔六字傍線〕。
○何《イカナラム》――古義は卷五の伊可爾安良武日能等伎爾可母《イカニアラムヒノトキニカモ》(八一〇)にならつて、イカニアラムとよんでゐる。
〔評〕 纒綿たる思慕の情。しかも悠揚温籍。上品な作風。右に掲げた卷五(八一〇)の歌の粉本をなしてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
2898 獨ゐて 戀ふれば苦し 玉襷 かけず忘れむ 事はかりもが
獨居而《ヒトリヰテ》 戀者辛苦《コフルハクルシ》 玉手次《タマダスキ》 不懸將忘《カケズワスレム》 言量欲《コトハカリモガ》
一人デ居ツテ、戀シク思ツテヰルノハ、苦シイモノダ。ダカラ、ドウカシテコノ苦シミヲ心ニ〔ダカ〜傍線〕(玉手次)懸ケナ(36)イデ忘レル、方策ガアレバヨイガナア。
○玉手次《タマダスキ》――枕詞。カケとつづく。○言量欲《コトハカリモガ》――コトハカリは事計。事の計畫。方策。
〔評〕 戀の苦惱に堪へかねて、戀を忘れようとする、思ひつめたらしい感情が見える。卷四の外居而戀者苦吾妹子乎次相見六事計爲與《ヨソニヰテコフレハクルシワギモコヲツギテアヒミムコトハカリセヨ》(七五六)は必ずこれを模倣したものであらう。なほ下の常如是《ツネカクシ》(二九〇八)も、これと同型の歌である。
2899 なかなかに もだもあらましを 味氣なく 相見そめても 我は戀ふるか
中中《ナカナカニ》 黙然毛有申尾《モダモアラマシヲ》 小豆無《アヅキナク》 相見始而毛《アヒミソメテモ》 吾者戀香《ワレハコフルカ》
却ツテ恋人ニ逢ハウトハシナイデ〔戀人〜傍線〕黙ツテヰルノガヨカツタノニ、クダラナイコトヲシテ、戀人ト〔三字傍線〕逢ヒ初メテ、私ハコンナニ〔四字傍線〕戀シク思ツテ居ルヨ。ツマラナイコトヲシタモノダ〔ツマ〜傍線〕。
○黙然毛有申尾《モダモアラマシヲ》――黙つてゐようのに。黙つてゐるとは、戀人に意志表示をせぬことをいふ。舊本、黙を點に誤つてゐる。西本願寺本による。○吾者戀香《ワレハコフルカ》――カはカナの意。
〔評〕 逢うていや増す戀。かうした内容は集中に乏しくない。
2900 吾妹子が 咲まひ眉引き 面影に 懸りてもとな おもほゆるかも
吾妹子之《ワギモコガ》 咲眉引《ヱマヒマヨビキ》 面影《オモカゲニ》 懸而本名《カカリテモトナ》 所念可毛《オモホユルカモ》
私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ノ笑顔ト眉ノ形ガ、私ノ〔二字傍線〕目ノ前ニ徒ラニチラツイテ、戀シク〔三字傍線〕思ハレルヨ。困ツタコトダ〔六字傍線〕。
○咲眉引《ヱマヒマヨビキ》――代匠記に舊訓を改めて、ヱメルマヨビキとしてゐる。笑顔とその眉引の容姿の意であらうから、舊訓に從つておかう。○面影懸而本名《オモカゲニカカリテモトナ》――面影にかかるは目の前にちらつく。モトナは徒らに、猥りに。
〔評〕 平庸な作。殆ど特徴がない。袖中抄に出てゐる。
2901 赤根さす 日のくれぬれば すべをなみ 千度なげきて 戀ひつつぞをる
(37)赤根指《アカネサス》 日之暮去者《ヒノクレヌレバ》 爲便乎無三《スベヲナミ》 千遍嘆而《チタビナゲキテ》 戀乍曾居《コヒツツゾヲル》
晝ノ内サヘモ悲シクテ仕方ガナイガ〔晝ノ〜傍線〕(赤根指)日ガ碁レテシマフト、イヨイヨ物淋シクテ〔九字傍線〕、何トモ仕方ガ無イノデ千遍モ繰返シテ〔四字傍線〕嘆息シナガラ、戀人ヲ思〔三字傍線〕ツテヰルヨ。
○赤根指《アカネサス》――枕詞。日とつづく。○日之暮去者《ヒノクレヌレバ》――舊訓ヒノクレユケバとある。去はヌルともユクともよんであるがここは移伊去者《ウツリイヌレバ》(四五九)に傚ふことにする。
〔評〕 夕暮はいよいよ物を思はしめるものである。集中にその意を詠じたものは豐國乃《トヨクニノ》(三二一九)・多麻波夜須《タマハヤス》(三八九五)など他にも多い。それらの中ではこの歌は佳い作である。
2902 吾が戀は 夜晝わかず 百重なす 心しもへば いたもすべなし
吾戀者《ワガコヒハ》 夜晝不別《ヨルヒルワカズ》 百重成《モモヘナス》 情之念者《ココロシモヘバ》 甚爲便無《イタモスベナシ》
私ノ戀ハ夜畫ノ區別モナク、百重ニモ絶エズ繰返シ〔六字傍線〕心ニ思ツテヰルノデ、苦シクテ〔四字傍線〕實ニ何トモ仕方ガアリマセヌ。
○夜晝不別《ヨルヒルワカズ》――卷四に夜晝云別不知吾戀《ヨルヒルトイフワキシラニワガコフル》(七一六)とあるに似てゐる。○百重成《モモヘナス》――舊訓モモヘナルとあるのはもとよりよくない。○甚爲便爲《イタモスベナシ》――卷十五の伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》(三七八五)に傚つて訓むことにする。
〔評〕 右に掲げた七一六の歌と、同じく卷四の三熊野之浦之濱木綿百重成心者雖念直不相鴨《ミクマヌノウラノハマユフモモヘナスココロハモヘドタダニアハヌカモ》(四九六)との兩方に少しづつ似通つた歌である。七一六よりも古くはあるが、四九六との前後は判定し難い。
2903 いとのきて 薄き眉根を いたづらに かかしめにつつ あはぬ人かも
五十殿寸太《イトノキテ》 薄寸眉根乎《ウスキマヨネヲ》 徒《イタヅラニ》 令掻管《カカシメニツツ》 不相人可母《アハヌヒトカモ》
眉ガ痒イ時二ハ人ニ逢ヘル前兆ダト云フガ、唯サヘ〔眉ガ〜傍線〕非常ニ薄イ私ノ〔二字傍線〕眉ヲ、空シク掻カシメテ、イヨイヨ薄クス(38)ルバカリデ、一向〔イヨ〜傍線〕貴方ハ逢ツテ下サラナイヨ。ドウシタノデスカ。コンナニ私ガ待ツテヰルノニ〔ドウ〜傍線〕。
○五十殿寸太《イトノキヲ》――甚除きて、非常に飛び拔けてといふやうな意。太は代匠記初稿本書入に天の誤とし、考は?の誤としてゐる。太は音假名としてはダに用ゐられるのを常としてゐるから、恐らく誤であらう。併し同行相通じて、テに用ゐられないとも言ひ難い。この句の用字法が、他と少し異なつてゐる。○令掻管《カカシメニツツ》――舊訓のカカシメツツモでも惡くはないがモに當る文字がないから、考の説によつて訓むことにしたし
〔評〕 眉の痒いのは人に思はれてゐる兆とする、俗信によつたものであるが、初二句には幾分の滑稽味さへ加はつてゐて、面白い歌である。
2904 戀ひ戀ひて 後も逢はむと なぐさもる 心しなくば 生きてあらめやも
戀戀而《コヒコヒテ》 後裳將相常《ノチモアハムト》 名草漏《ナグサモル》 心四無者《ココロシナクバ》 五十寸手有目八面《イキテアラメヤモ》
戀シク思ヒナカラモ 後デハ逢フコトモ出來ル〔六字傍線〕ダラウト、ソレヲ當テニ〔六字傍線〕、心ヲ慰メルコトガナイナラバ、私ハ〔二字傍線〕生キテ居ルコトガ出來マセウヤ。トテモ出來ナイ。私ハ唯後デ二人ガ逢フノヲ樂シミニシテ生キテヰルノデス。憐ンデ下サイ。〔トテ〜傍線〕。
○名草漏《ナグサモル》――慰むる。文字通りナグサモルとすべきか、又は常の語例に從つて、ナグサムルとすべきか、議論の存するところである。文字通りによむことにする。
〔評〕 後の逢瀬を慰めとして、忍ぶ戀の歌である。かなり烈しい表現になつてゐる。
2905 いくばくも 生けらじ命を 戀ひつつぞ 我はいきづく 人に知らえず
幾《イクバクモ》 不生有命乎《イケラジイノチヲ》 戀管曾《コヒツツゾ》 吾者氣衝《ワレハイキヅク》 人邇不所知《ヒトニシラエズ》
人ノ壽命ト云フモ)ハ、長イモノデハナイ〔八字傍線〕、イクラモ生キルモノデモアルマイノニ、私ハ人ニ知ラレズニ、心ノ中デ戀ヲシテハ〔九字傍線〕嘆息シテヰマス。コノ短カイ生涯ニ戀ノ爲ニ苦シムトハツマラナイコトダガ仕方ガナイ〔コノ〜傍線〕。
(39)○不生有命乎《イケラジイノチヲ》――直譯すれば、生きてはゐるまい命なるに。○吾者氣衝《ワレハイキヅク》――氣衝《イキヅク》は吐をつく。心中に戀ひて歎息する樣である。
〔評〕 初二句には佛教の無常觀が見えてゐるやうである。卷九の幾時毛不生物乎何爲跡歟身乎田名知而《イクバクモイケラジモノヲナニストカミヲタナシリテ》(一八〇七)はこの歌の句を用ゐたか。
2906 ひと國に よばひに行きて 太刀が緒も 未だ解かねば さ夜ぞ明けにける
他國爾《ヒトグニニ》 結婚爾行而《ヨバヒニユキテ》 太刀之緒毛《タチガヲモ》 未解者《イマダトカネバ》 左夜曾明家流《サヨゾアケニケル》
他國ニ住ム女ノ所ニ〔六字傍線〕逢ヒニ行ツテ、私ハ佩シテヰル〔六字傍線〕太刀ノ緒モ未ダ解カナイノニ、夜ガ明ケテシマツタ。遠イ所マデ遙々出カケテ行ツタノニ、共寢モシナイウチニ夜ガ明ケテシマツタノハ、殘念ナコトヲシタ〔遠イ〜傍線〕。
○他國爾結婚爾行而《ヒトグニニヨバヒニユキテ》――女と婚せむと欲して、遠隔の地まで出かけて行くことが、古代にはあつたのである。但し國といふのは後世の行政區劃の國ではなくて、もと小さい地方を指してゐる。ヨバヒは文字通り、結婚をいふ外から女の名を男が呼ぶので、呼バフといふ動詞から出た名詞である。卷三|夜延爲《ヨバヒセス》(三三一二)とある文字は義を以て書いたのではないから、誤解してはいけない。○太刀之緒毛《タチガヲモ》――大刀を吊り下げる爲の緒も。○未解者《イマダトカネバ》――未だ解かざるに。
〔評〕 古事記上卷の八千矛神が高志の沼河比賣と婚せむとして、そノ家に到つて詠み給うた、夜知富許能迦微能美許登波夜斯麻久爾都麻麻岐迦泥弖登富登富斯故志能久邇邇佐賀意賣遠阿理登岐加志弖久波志賣遠阿里登伎許志弖佐用婆比爾阿里多多斯用婆比邇阿里加用婆勢多知賀遠母伊麻陀登加受弖淤須比遠母伊麻陀登加泥婆遠登賣能那須夜伊多斗遠淤曾夫良比和何多多勢禮婆比許豆艮比和何多多勢禮婆阿遠夜麻邇奴延波那伎佐怒都登里岐藝斯波登與牟爾波都登理迦祁波那久宇禮多久母那久那留登里加許能登理母宇知夜米許世泥伊斯多布夜阿麻波勢豆加比評登能加多里其登母許遠婆《ヤチホコノカミノミコトハヤシマクニツママギカネテトホトホシコシノクニニサカシメヲアリトキカシテクハシメヲアリトキコシテサヨバヒニアリタタシヨバヒニアリカヨハセタチガヲモイマダトカズテオスヒヲモイマダトカネバヲトメノナスヤイタトヲオソブラヒワガタタセレバヒコヅラヒワガタタセレバアヲヤマニヌエハナキサヌツトリトキギシハトヨムニハツトリカケハナクウレタクモナクナルトカコノトリモウチヤメコセネイシタフヤアマハセヅカヒコトノカタリゴトモコヲバ》を三十一文字の形式に要約したやうな歌である。恐らく八千矛神の傳説を詠じた(40)もので、當時の實際生活をよんだものではあるまい。上代の歌詩には、かうした作品が往々あることを承知してかからねばならぬ。
2907 ますらをの さとき心も 今はなし 戀の奴に 我は死ぬべし
大夫之《マスラヲノ》 聡神毛《サトキココロモ》 今者無《イマハナシ》 戀之奴爾《コヒノヤツコニ》 吾者可死《ワレハシヌベシ》
大丈夫ノシツカリシタ鋭イ心モ、今ハ私ニハ〔三字傍線〕アリマセヌ、コンナ風デハ〔六字傍線〕戀ト云フ奴ノ爲ニ、私ハ命ヲ失フデアラウ。ツマラヌコトダ〔七字傍線〕。
○聡神毛《サトキココロモ》――聰明な心。聡は聰の略字。古義にはサを接頭語として、トキ心即ち利心と同じと言つてゐるがどうであらう。○戀之奴爾《コヒノヤツコニ》――戀といふ奴の爲にの意。戀の奴としての意ではない。
〔評〕 我は大丈夫たる、しつかりした心を失つた爲に、戀といふ賤しい奴隷にも打ち負けて、死ぬであらうといふのである。當時奴隷賣買が行はれ、彼等は世間の侮蔑の的であつた。大丈夫とその賤しい奴隷とを對照して、身の腑甲斐なさを歎じたのが、奇拔でもあり、面白くもあるのである。三句切になつてゐる。
2908 常かくし 戀ふれば苦し 暫しくも 心安めむ 事はかりせよ
常如是《ツネカクシ》 戀者辛苦《コフレバクルシ》 暫毛《シマシクモ》 心安目六《ココロヤスメム》 事計爲與《コトハカリセヨ》
イツデモ絶エズ、コンナニ〔四字傍線〕戀シテヰルノハ苦シイモノダ。コレデハヤリキレナイカラ〔コレ〜傍線〕、暫クノ間デモヨイカラ私ノ〔二字傍線〕心ヲ安メル方法ヲ講ジテクレヨ。
○戀者辛苦《コフレバクルシ》――略解にコフルハクルシとあるが、舊訓のままがよい。○事許爲與《コトハカリセヨ》――略解に「自ら下知するやうに言ひなしたる也」とあるが、人に救援を求めるやうな言ひ方になつてゐる。さう見なければ面白くない。
〔評〕 前の獨居而《ヒトリヰテ》(二八九八)と同型で、内容も殆ど同じである。
2909 おほろかに 我しおもはば 人妻に ありといふ妹に 戀ひつ つあらめや。
(41)凡爾《オホロカニ》 吾之念者《ワレシオモハバ》 人妻爾《ヒトヅマニ》 有云妹爾《アリトイフイモニ》 戀管有米也《コヒツツアラメヤ》
ナミ大抵ニ私ガ戀シイト〔四字傍線〕思フナラバ、人ノ妻ダト云フアノ女〔七字傍線〕ニ、戀ヲシテ居ルモノカ。人ノ妻ニ思ヲカケルハ餘程ノコトダト思ツテ下サイ〔人ノ〜傍線〕。
○凡爾《オホロカニ》――舊訓オホヨソニとあるが、代匠記精撰本にオホロカニとよんだのがよいやうである。
〔評〕 ずゐぶん熱烈な歌だ。卷一の紫草能爾保敝類妹乎爾苦久有者人嬬故爾吾戀目八方《ムラサキノニホヘルイモヲニククアラバヒトヅマユヱニワレコヒメヤモ》(二一)と内容を等しくしてゐる。
2910 心には 千重に百重に 思へれど 人目をおほみ 妹にあはぬかも
心者《ココロニハ》 千重百重《チヘニモモヘニ》 思有杼《オモヘレド》 人目乎多見《ヒトメヲオホミ》 妹爾不相可母《イモニアハヌカモ》
心ノ中デハ千重ニモ百重ニモ繰返シ〔三字傍線〕思ツテヰルノダガ、私ハ〔二字傍線〕人ノ目ニツクコトガ〔五字傍線〕ガ多イノデ、思フ心ヲ無理ニ抑ヘテ、戀シイ〔思フ〜傍線〕女ニ逢ハズニヰルヨ。
○千重百重《チヘニモモヘニ》――物の續いて起るのを千重又は百重といつた例は、集中枚擧に遑がない。これはその二つを重ねて程度の甚だしさを示してゐる。
〔評〕 平易で明瞭で、これといふ特色もない。
2911 人目多み 眼こそしぬぶれ すくなくも 心の中に 吾がもはなくに
人目多見《ヒトメオホミ》 眼社忍禮《メコソシヌブレ》 小毛《スクナクモ》 心中爾《ココロノウチニ》 吾念莫國《ワガオモハナクニ》
人目ニツクノ〔四字傍線〕ガ多イノデ、人ノ〔二字傍線〕目ヲ避ケ逢ハナイヤウニシ〔八字傍線〕テヰルノデス。私ノ〔二字傍線〕心ノ中デハアナタヲ思ツテヰルコトガ少イノデハアリマセヌ。私ヲ薄情トハ思ヒナサルナ〔私ヲ〜傍線〕。
○眼社忍禮《メコソシヌブレ》――この句は今も、人目を忍ぶといふのと同じであらう。この句で切れてゐる。
(42)〔評〕卷四の家持作、人眼多見不相耳曾情左倍妹乎忘而吾念莫國《ヒトメオホミアハナクノミゾココロサヘイモヲワスレテワガモハナクニ》(七七〇)はこれを學んだもあである。三句以下は卷十一の散頬相色者不出小文心中吾念名君《サニヅラフイロニハイデズスクナクモココロノウチニワガモハナクニ》(二五二三)・言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘバミミニタヤスシスクナクモココロノウチニワガモハナクニ》(二五八一)と同樣で、この點から類型的と言はねばならぬ。
2912 人の見て 言咎めせぬ 夢にわれ こよひ至らむ 宿さすなゆめ
人見而《ヒトノミテ》 事害目不爲《コトトガメセヌ》 夢爾吾《イメニワレ》 今夜將至《コヨヒイタラム》 屋戸閇勿勤《ヤドサスナユメ》
實際ニ逢フト兎角人ガ喧マシク言フガ〔實際〜傍線〕、人ノ目ニツイテ人ガ〔二字傍線〕咎メ立テヲスル恐レノナイ夢デ今宵ハ私ガ、アナタノ所ニアラハレテ〔アナ〜傍線〕行カウト思ヒマス。ダカラ〔三字傍線〕御宅ノ戸ヲ決シテ閉サズニ置イテ下サイ。
○夢爾吾《イメニワレ》――舊訓に從ふ。略解にはイメニワガとある。○屋戸閇勿勤《ヤドサスナユメ》――屋戸《ヤド》は文字通り家の戸である。宿ではない。
〔評〕 遊仙窟ニ「今宵莫v閉v戸、夢裏向2渠邊1」とあるのと全く同意で、この飜譯といふことが出來る。卷四の家持作、暮去者屋戸開設而吾將待夢爾相見二將來云比登乎《ユフサラバヤドアケマケテワレマタムイメニアヒミニコムトイフヒトヲ》(七四四)は、この影響を受けたものである。
2913 いつまでに 生かむ命ぞ おほよそは 戀ひつつあらずは 死なむまされり
何時左右二《イツマデニ》 將生命曾《イカムイノチゾ》 凡者《オホヨソハ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 死上有《シナムマサレリ》
コノ壽命ガ何時マデ生キルモノカ〔コノ〜傍線〕、イツマデノ壽命デモナイゾ。大體ハ戀ニ苦シンデ〔四字傍線〕ヰナイデ、寧ロ死ンダ方ガマサツテヰル。
○凡者《オホヨソハ》――略解・古義はオホカタハと訓んでゐる。大低の場合はといふやうな意。○死上有《シナムマサレリ》――舊訓シヌルマサレリとある。古義に從ふ。
〔評〕 初二句は前の幾不生有命乎《イクバクモイケラジイノチヲ》(二九〇五)と同意で、やはり佛教思想のあらはれである。下句は強烈な表現。
2914 うつくしと 念ふ吾妹を 夢に見て 起きて探るに 無きがさぶしさ
(43)愛等《ウツクシト》 念吾妹乎《オモフワギモヲ》 夢見而《イメニミテ》 起而探爾《オキテサグルニ》 無之不怜《ナキガサブシサ》
ナツカシイト思フ吾ガ女ヲ夢ニ見テ、實際ニ女ニ逢ツタヤウナ氣ガシテ〔實際〜傍線〕、起キテカラ暗闇ヲ手探リニ〔七字傍線〕探ツテ見ルケレドモ、居ナイノハ淋シイヨ。
○愛等《ウツクシト》――略解はウルハシトとあるが、舊訓の如く、ウツクシトと訓む方がよい。○念吾妹乎《オモフワギモヲ》――古義は吾念妹乎《アガモフイモヲ》の誤としてゐる。改める必要はない。
〔評〕 遊仙窟に「少時坐睡則夢見2十娘1驚覺撹v之忽然空v手心中悵怏復何可v論」とあるに據つたものであらう。卷四の家持の夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者《イメノアヒハクルシカリケリオドロキテカキサグレドモテニモフレネバ》(七四一)はこれを學んだのである。
2915 妹といふは なめし畏し しかすがに かけまく欲しき ことにあるかも
妹登曰者《イモトイフハ》 無禮恐《ナメシカシコシ》 然爲蟹《シカスガニ》 懸卷欲《カケマクホシキ》 言爾有鴨《コトニアルカモ》
賤シイ身分ノ私ガ尊イ身分ノアノ女ヲ〔賤シ〜傍線〕、妹《イモ》ト云フノハ無禮ダ。恐レ多イ。シカシナガラ妹《イモ》ト言フノハ〔七字傍線〕ドウシテモ口ニ出シテ言ヒタイ言葉ダナア。
○妹登曰者《イモトイフハ》――代匠記精撰本、イモトイハバ、略解、イモトイヘバとある。舊訓による。
〔評〕 貴女を戀ふる歌であらう。切實な實感。至醇な表現。低い階級人の嗟嘆の聲でもある。
2916 玉かつま 逢はむといふは 誰なるか 逢へる時さへ 面がくしする
玉勝間《タマカツマ》 相登云者《アハムトイフハ》 誰有香《タレナルカ》 相有時左倍《アヘルトキサヘ》 面隱爲《オモガクシスル》
(玉勝間)逢ハウト最初〔二字傍線〕言ヒ出シタノハ誰デスカ。貴女デハアリマセヌカ。ソレダノニカウシテ〔貴女〜傍線〕、逢ツタ時サヘモ、(44)顔ヲ隱シナサルノハドウイフワケデスカ。何モ恥カシイコトハナイデハアリマセヌカ。打チトケテ話デモシマセウ〔ノハ〜傍線〕。
○玉勝間《タマカヅマ》――枕詞。玉は美稱。カツマはカタマ・カタミに同じ。籠・筐・蓋と身と合ふから、相《アハム》につづくのである。
〔評〕 逢うてなほ親しまぬ女を、たしなめた言葉である。俚謠らしい情緒が見える。内容もめづらしく、調も力がある。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
2917 うつつにか 妹が來ませる 夢にかも 我かまどへる 戀のしげきに
寤香《ウツツニカ》 妹之來座有《イモガキマセル》 夢可毛《イメニカモ》 吾香惑流《ワレカマドヘル》 戀之繁爾《コヒノシゲキニ》
實際ニ女ガ來タノカ知ラ、ソレトモ私ノ心ガ〔四字傍線〕戀シク思フコトノ烈シサニ、夢ノウチデ私ガ女ガ來タト〔五字傍線〕思ヒ違ヲシタノデアラウカ。ドウモ夢カ現カノ區別モツカヌ。心ノ迷デ實際デハアルマイ〔ドウ〜傍線〕。
○寤香《ウツツニカ》――寤は目覺めてゐること。現に同じ。○吾香惑流《ワレカマドヘル》――細井本に香の字が無い。無くともよいところであるが、多くの本にあるから、もとのままでよからう。
〔評〕 夢現の辨へもなく、戀してゐる心境が、誇張的によく詠まれてゐる。卷十一ノ夢谷何鴨不所見雖所見吾鴨迷戀茂爾《イメニダニナニカモミエヌミユレドモワレカモマドフコヒノシゲキニ》(二五九五)と少し似てゐる。
2918 大方は 何かも戀ひむ ことあげせず 妹により寢む 年は近きを
大方者《オホカタハ》 何鴨將戀《ナニカモコヒム》 言擧不爲《コトアゲセズ》 妹爾依宿牟《イモニヨリネム》 年者近侵《トシハチカキヲ》
何ノ物議モ無ク、父母ノ許シモ得テ、私ハアノ〔父母〜傍線〕女ヲ妻トシテ、共寢ヲスル年ガ段々〔二字傍線〕近ヅイテ來タノニ、大體カライヘバ、何モ戀シク思フコトハナイ。ソレデ安心シテ居ル筈ダガ、普通ノ戀デハ無イカラ私ハヤハリアノ人ガ(45) 〔ソレ〜傍線〕
○大方者《オホカタハ》――大低は、大體からいへば。○言擧不爲《コトアゲセズ》――兎や角と、面倒なことを言はずに、言擧は卷六の言擧不爲《コトアゲセズ》(九七二)參照。○年者近侵《トシハチカキヲ》――侵は元暦校本その他の古本、綬に作るものが多い。侵はオカスといふ字で、ここには當てはまらぬやうであるから、綬の方がよいのであらう。綬はクミヒモでヲの假名に用ゐられさうである。但し集中他にこの字の用例がない。
〔評〕 父母の許しを得て、公に婚することも近いのに、なほ戀しく思ふに堪へないこころである。戀歌としては珍らしい内容である。
2919 二人して 結びし紐を 一人して 我は解き見じ 直に逢ふまでは
二爲而《フタリシテ》 結之?乎《ムスビシヒモヲ》 一爲而《ヒトリシテ》 吾者解不見《ワレハトキミジ》 直相及者《タダニアフマデハ》
私トアノ人トガ別レル時ニ〔私ト〜傍線〕二人デ結ンデ置イタコノ着物ノ〔五字傍線〕紐ヲ又二人ガ〔四字傍線〕直接ニ逢フマデハ、私ハ一人デハ〔四字傍線〕解イテ見ヨウトハスマイ。コレハ戀シイ人ノ記念ダカラ〔コレ〜傍線〕。
○吾者解不見《ワレハトキミジ》――私は解いては見まい。見は試みの意であるが、輕く用ゐてある。
〔評〕 伊勢物語に男から贈られたに對して、色好みなりける女の答へた歌として、「二人してむすびし紐をひとりしてあひ見るまではとかじとぞ思ふ」と出てゐる。後にかういふ傳説が出來たのであらうが、この歌を見ると男の歌らしい感がある。
2920 死なむ命 ここは念はず ただにしも 妹に逢はざる ことをしぞ念ふ
終命《シナムイノチ》 此者不念《ココハオモハズ》 唯毛《タダニシモ》 妹爾不相《イモニアハザル》 言乎之曾念《コトヲシゾオモフ》
私ハ逢ハレヌ戀ニ苦シンデ命モ絶エサウダガ〔私ハ〜傍線〕、死ヌ命、ソレハ何トモ〔三字傍線〕思ハナイ。唯々女ニ逢ハナイコトバカリヲ悲シ〔二字傍線〕ク思ツテヰル。
(46)○終命《シナムイノチ》――すべての訓がかうなつてゐる。併し他の例によるとヲヘムイノチとよんでもよささうである。天地與共將終登《アメツチトトモニヲヘムト》(一七六)とある。○此者不念《ココハオモハズ》――代匠記精撰本に「これはともよむべし」とあるのもよい。ココハはこの事はの意。
〔評〕 死を恐れない強烈な戀情。これを死に臨んでの作とすると、面白い傳説が構成せられさうである。佳作といつてよい。
2921 をとめごは 同じこころに しましくも 止む時もなく 見なむとぞ念ふ
幼婦者《ヲトメゴハ》 同情《オナジココロニ》 須臾《シマシクモ》 止時毛無久《ヤムトキモナク》 將見等曾念《ミナムトゾオモフ》
少女子ノ私〔二字傍線〕ハアナタト〔四字傍線〕同ジ心デ、暫クモ止ム時ナク、アナタ〔三字傍線〕ニ逢ヒタイト思ツテヰマス。
○幼婦者《ヲトメゴハ》――幼婦といふ熟字は集中他に見ない例であるが、舊訓にヲトメゴとあるのがよいであらう。略解に載せた宣長説に「或人説、幼婦者は紐緒之の誤なるべし、古今集に、「いれひものおなじこころにいざむすびてむと有に同じ」とあり、古義はこれに從つてゐるが、誤字としてはあまり類似點がなさ過ぎる。新考には者を與の誤としてゐる。この句は少女が自ら言ふ言葉と見ればもとのままでよく解けるのである。
〔評〕 この歌の解、種々あるがいづれも要領を得ない。女の歌として右のやうに解くべきである。前の歌に對する答かも知れない。
2922 夕さらば 君に逢はむと 念へこそ 日の暮るらくも 嬉しかりけれ
夕去者《ユフサラバ》 於君將相跡《キミニアハムト》 念許憎《オモヘコソ》 日之晩毛《ヒノクルラクモ》 〓有家禮《ウレシカリケレ》
夕方ニナツタナラバ戀シイ〔三字傍線〕貴方ニ逢ハウト思ヘバコソ、私ハ〔二字傍線〕日ノ暮レルノモ嬉シカツタヨ。
○夕去者《ユフサラバ》――舊訓ユフサレバとある。略解にユフサラバとあるのがよいであらう。○念許憎《オモヘコソ》――思へばこそ。憎は元麿校本その他の古寫本、多く増に作つてゐる。
〔評〕 平板。女の心。俚謠風の作。
2923 ただ今日も 君には逢はめど 人言を 繁み逢はずて 戀ひわたるかも
(47) 直今日毛《タダケフモ》 君爾波相目跡《キミニハアハメド》 人言乎《ヒトゴトヲ》 繁不相而《シゲミアハズテ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
今スグニ今日デモ貴方二逢フベキ筈ダガ、人ノ口ガ喧マシイノデ、逢ハナイデ、アナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ヒツヅケテヰルヨ。
○直今日毛《タダケフモ》――直ちに、今日でも。直《タダ》は今|直《スグ》に。モは詠嘆の助詞。
〔評〕 これも平板な作であるが、四句の繁不相而《シゲミアハズテ》が無理に詰めこんだやうな窮屈な調子になつてゐる。
2924 世の中に 戀繁けむと 思はねば 君が袂を まかぬ夜もありき
世間爾《ヨノナカニ》 戀將繁跡《コヒシゲケムト》 不念者《オモハネバ》 君之手本乎《キミガタモトヲ》 不枕夜毛有寸《マカヌヨモアリキ》
私ハコノ〔四字傍線〕世ニ生キテヰテコンナニモ〔生キ〜傍線〕戀ガヒドカラウトハ思ハナカツタノデ、アナタノ袂ヲ枕ニシナイデ、獨デ寢タ〔五字傍線〕夜モアツタ。コンナニ戀シイナラバ、何トカシテ毎晩逢フ筈ダツタノニ〔コン〜傍線〕。
○世間爾《ヨノナカニ》――間は集中、マ・ヒマ・ナカ・ホド・アヒダなどとよまれてゐるが、世間の二字はヨノナカとよむのが常である。宣長がこれをヨノホドニと訓まうと言つたのは從ひ難い。新考は世を比に改めて、コノゴロとよんでゐる。ヨノナカニはこの世に於いて。この生涯の内に。
〔評〕 初句が少し難解のやうであるが、これでわからぬことはない。男の歌である。
2925 緑兒の 爲こそおもは 求むといへ 乳飲めや君が 乳母求むらむ
緑兒之《ミドリコノ》 爲社乳母者《タメコソオモハ》 求云《モトムトイヘ》 乳飲哉君之《チノメヤキミガ》 於毛求覽《オモモトムラム》
アナタハ乳母ヲ捜シテイラツシヤルト云フコトデスガ〔アナ〜傍線〕、赤兒ノ爲ニコソ、乳母ヲ捜スモノダト世間〔二字傍線〕デイヒマス。貴方ハ乳デモオ呑ミニナルノデ、乳母ヲオ捜シニナルノデスカ。アナタニ乳母ハ御入用ハナイ筈デスガ。アナタハ私ノヤウナ年ノ多イ女ヲ戀シテオイデノヤウデスガ、乳母ニデモナサルノデスカ〔アナタニ〜傍線〕。
(48)○爲社乳母者《タメコソオモハ》――乳母を、舊訓メノトとよんだのはよくない。これを繰返して、結句に於毛《オモ》とあるから、ここもオモと訓まねばならぬ。一體オモは母のことで、乳母は神代紀にチオモと訓し、和名抄にも「※[女+爾]母 知於毛 乳v人」とあるからチオモとよむべきであるが、略してオ竜とも言つたのである、社の字を舊本、杜に作るは誤、元暦校本その他の古寫本に社に作るものが多い。
〔評〕 年上の女が年下の男に答へた言葉で、輕い氣分で、相手を子供あつかひにしてゐる。この歌の解、略解に「此歌はもと逢し女はかれて、男の今乳母とことばして、他女《アダシ》をよばふこと有時、前の女の聞て戯て贈れるなるべし」とあるが、さうではあるまい。
2926 悔しくも 老いにけるかも 我背子が 求むる乳母に 行かましものを
悔毛《クヤシクモ》 老爾來鴨《オイニケルカモ》 我背子之《ワガセコガ》 求流乳母爾《モトムルオモニ》 行益物乎《ユカマシモノヲ》
アナタハ乳母ヲ捜シテイラツシヤルト云フコトデスガ〔アナ〜傍線〕、私ハ殘念ニモ年ヲトツテシマヒマシタ。若シ若カツタナラバ〔若シ〜傍線〕、アナタガ御求メニナル乳母ニ私ガ〔二字傍線〕參リマスノニ。
〔評〕 前の歌と連作である。自分は最早年老いて、乳母にもなり得ないと言つて、男の戀を拒けたのである。落付いた態度が如何にも年増女らしい。和歌童蒙抄に載つてゐる。
2927 うらぶれて 離《か》れにし袖を またまかば 過ぎにし戀や 亂れ來むかも
浦觸而《ウラブレテ》 可例西袖※[口+立刀]《カレニシソデヲ》 又卷者《マタマカバ》 過西戀也《スギニシコヒヤ》 亂今可聞《ミダレコムカモ》
色々面倒ナコトガアツテ〔色々〜傍線〕、心配シテソノ揚句〔四字傍線〕絶エ果テテ終ツタ、貴女トノ關係ヲ吏ニ又ツナイデ、アナタノ〔貴女〜傍線〕袖ヲ枕トシテ共寢ヲシ〔五字傍線〕タナラバ、過ギタ昔ノ〔二字傍線〕戀ガ又復活シテ〔五字傍線〕亂レ狂ツテヤツ〔五字傍線〕テ來ルダラウカヨ。二人ノ關係ガモトノ通リニナツテソノ爲ニ戀ガ私ヲ苦シメルコトデアラウ〔二人〜傍線〕。
○浦觸而《ウラブレテ》――心憂く思つて。心配して。○可例西袖※[口+立刀]《カレニシソデヲ》――離れにし袖とは袂を別つたことをいふ。○過西戀也《スギニシコヒヤ》(49)――新考に也は之の誤としてゐるが、也は今の係辭になつてゐるから、これでよい。
〔評〕 戀を擬人して、過去つた戀が、再び亂れて歸り來るであらうといつたのは面白い。
2928 おのがじし 人死にすらし 妹に戀ひ 日にけに痩せぬ 人に知らえず
各寺師《オノガジシ》 人死爲良思《ヒトシニスラシ》 妹爾戀《イモニコヒ》 日異羸沼《ヒニケニヤセヌ》 人丹不所知《ヒトニシラエズ》
人ハ各自自分ノ心力ラシテ〔八字傍線〕、命ヲ失フモノラシイ。私ハ自分ノ戀ヲ相手ノ〔私ハ〜傍線〕人ニ知ラレルコトガ出來ナイデ、女ヲ戀シテヰル爲ニ、日増シニ瘠セテ行クヨ。コレデハ、ヤガテ死ヌデアラウ。コレモ自分ノ心カラダカラ何トモシヤウガナイ〔コレデ〜傍線〕。
○各寺師《オノガジシ》――各自。自分ながら。○人死爲良思《ヒトシニスラシ》――人が死ぬであらうの意。死ぬを死にするといふのは念西死爲物爾有麻世波《オモフニシシニスルモノニアラマセバ》(六〇三)・鯨魚取海哉死爲流山哉死爲流《イサナトリウミヤシニスルヤマヤシニスル》(三八五二)その他なほ多い。略解・古義などシナスラシとよんだのは、よくない。
〔評〕 忍ぶ戀の片思が、あはれつぽく詠まれてゐる。なるほど戀死といふものが、あるものだと悟つたやうに言つてゐる。弱い男の戀である。
2929 夕べ夕べ 吾が立ち待つに けだしくも 君來まさずは 苦しかるべし
夕夕《ユフベユフベ》 吾立待爾《ワガタチマツニ》 若雲《ケダシクモ》 君不來益者《キミキマサズバ》 應辛苦《クルシカルベシ》
毎晩毎晩私ガ門ニ〔二字傍線〕立ツテ、貴方ヲ〔三字傍線〕待ツテ居ルノニ、若シモ今夜モ亦〔四字傍線〕貴方ガオイデナサラナイナラバ、私ハドンナニ〔六字傍線〕苦シイデアラウカ。
○夕夕《ユフベユフベ》――舊訓ヨヒヨヒニとあるのはよくない。○若雲《ケダシクモ》――舊訓ソコハクモ、代匠記精撰本モシクモとある。若は若君香跡《ケダシキミカト》(二六五三)に傚つて、ケダシとよむべきである。意はモシモに同じ。
〔評〕 女の歌。あはれな場面が想像せられる。併し表現は微温的で、力が弱い。
2930 生ける代に 戀とふものを 相見ねば 戀の中にも わがぞ苦しき
(50)生代爾《イケルヨニ》 戀云物乎《コヒトフモノヲ》 相不見者《アヒミネバ》 戀中爾毛《コヒノナカニモ》 吾曾苦寸《ワガゾクルシキ》
私ハ今マデ〔五字傍線〕一生涯ノ中デ、戀ト云フモノニ出合ツタコトガナイカラ、今度ノ私ノ戀ハ、世間ノ人ノスル〔今度〜傍線〕戀ト云フ内デモ、私ノガ一番〔二字傍線〕苦シイノダ。
○生代爾《イケルヨニ》――私のこの一生涯の内での意。○相不見者《アヒミネバ》――逢見ねば。まだ戀に出逢つたことがないから、相は添辭ではない。○戀中爾毛《コヒノナカニモ》――古義にはコフルウチニモとよんでゐる。戀は名詞とすべきであらう。○吾曾苦寸《ワガゾクルシキ》――戀を名詞とすれば、吾はワガとせねばならぬ。吾が戀ぞの意である。
〔評〕、初戀の苦しさを歌つてゐる。これも戀を擬人的に取扱つて、面白く出來てゐる。
2931 念ひつつ をれば苦しも ぬば玉の 夜になりなば 我こそ行かめ
念管《オモヒツツ》 座者苦毛《ヲレバクルシモ》 夜干玉之《ヌバタマノ》 夜爾至者《ヨルニナリナバ》 吾社湯龜《ワレコソユカメ》
貴方ガオイデニナルノヲ待ツテ、貴方ヲ戀シク〔貴方〜傍線〕思ヒナガラ居ルノハ苦シイヨ。ダカラ〔三字傍線〕私ハ(夜干玉之)夜ニナツタラ、コチラカラ〔五字傍線〕出掛ケテ行キマセウ。
○夜干玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。舊本、于とあるは千の誤。○夜爾至者《ヨルニナリナバ》――舊訓ヨルニシナラバとあり、代匠記精撰本ヨルニイタラバとよんでゐる。至の字は集中、イタリ・ナル・マデの三訓がある。ここは暮爾至者《ユフベニナラバ》(一九九)に傚ふことにする。
〔評〕 人待ちかねる女の歌。焦燥氣分がよくあらはれてゐる。
2932 こころには 燃えておもへど うつせみの 人目を繁み 妹に逢はぬかも
情庭《ココロニハ》 燎而念杼《モエテオモヘド》 虚蝉之《ウツセミノ》 人目乎繁《ヒトメヲシゲミ》 妹爾不相鴨《イモニアハヌカモ》
心ノ中デハ燃エルヤウニアノ人ヲ〔四字傍線〕思ツテヰルケレドモ、(虚蝉之)人ニ見ラレルノガ多イノヲ憚ツテ、女ニ逢ハナ(51)
○虚蝉之《ウツセミノ》――枕詞。人とつづく。現身《ウツシミ》の人の意である。
〔評〕 人目にせかれる戀を悲しんだ男の歌。平庸で特異點もない。
2933 相思はず 君はまさめど 片戀に 我はぞ戀ふる 君がすがたを
不相念《アヒオモハズ》 公者雖座《キミハマサメド》 肩戀丹《カタコヒニ》 吾者衣戀《ワレハゾコフル》 君之光儀《キミガスガタヲ》
私ガ思ツテモ〔六字傍線〕貴方ハ私ヲ思ハナイデ居ルデセウガ、私ハ貴方ノ姿ヲ戀シク思ツテ〔六字傍線〕片戀ヲシテ居リマス。
○公者雖座《キミハマサメド》――雖座の二字は種々に訓める。舊訓マセドモ、童蒙抄・新考イマセドとある。略解の訓がよい。○肩戀丹《カタコヒニ》――肩は片の借字である。元暦校本は自に作つてゐる。
〔評〕 これも前と同じく平庸な歌である。女の歌か。
2934 あぢさはふ 目には飽けども たづさはり こととはなくも 苦しかりけり
味澤相《アヂサハフ》 目者非不飽《メニハアケドモ》 携《タヅサハリ》 不問事毛《コトトハナクモ》 苦勞有來《クルシカリケリ》
私ハ戀人ノ姿ヲ〔七字傍線〕(味澤相)目デハ飽クホド見テヰル〔六字傍線〕ケレドモ、馴レ馴レシク〔六字傍線〕手ヲ取ツテ、話ヲスルマデニ至ラナイノハ、苦シイモノダヨ。
○味澤相《アヂサハフ》――枕詞。メとつづく。味鴨が多く群れて行く意で、ムレの約メにつづくと言ほれてゐる。ウマサハフとよむ説もある。○目者非不飽《メニハアケドモ》――非不飽は飽かざるにあらずで、飽くこととなる。この句は充分に相見ることを得れどもの意。○携《タヅサハリ》――手を取りあつて。○不問事毛《コトトハナクモ》――舊訓トハレヌコトモとある。考・略解・古義などに、コトトハナクモとあるに從ふ。卷十四に安我伎乎波夜美許等登波受伎奴《アガキヲハヤミコトトハズキヌ》(三五四〇)とある。
〔評〕 見不逢戀。眼前に常に見る人ながら、親しく言葉をかはすことが出來ないのを悲しんでゐる。男の歌であらう。
2935 あらたまの 年のを永く いつまでか 吾が戀ひをらむ いのち知らずて
(52)璞之《アラタマノ》 年緒永《トシノヲナガク》 何時左右鹿《イツマデカ》 我戀將居《ワガコヒヲラム》 壽不知而《イノチシラズテ》
私ハ自分ノ〔三字傍線〕命ノナクナルコトヲ〔七字傍線〕忘レテシマツテ、(璞之)年久シク何時マデ戀ヲシテヰルコトダラサカ。我ナガラ呆レタモノダ〔我ナ〜傍線〕。
○璞之《アラタマノ》――枕詞。年とつづく。四四三參照。○壽不知而《イノチシラズテ》――自分の生命のことも忘れて。命のなくなることも忘れて。
〔評〕 戀になやんで衰へ行く命の、やがて絶えなむことも忘れて、思ひつづけてゐる人の歌。卷十一の是耳戀土玉切不知命歳經管《カクシノミコヒヤワタラムタマキハルイノチモシラズトシハヘニツツ》(二三七四)と同想である。
2936 今はあは 死なむよ吾が背 戀すれば、一夜一日も 安けくもなし
今者吾者《イマハアハ》 指南與我兄《シナムヨワガセ》 戀爲者《コヒスレバ》 一夜一日毛《ヒトヨヒトヒモ》 安毛無《ヤスケクモナシ》
私ハ今ハモウ死ニマセウヨ。私ノ夫ヨ。戀ヲシテ居ルト、一夜一日モ心ノ〔二字傍線〕安ラカナコトハアリマセヌ。コンナニ苦シイ思ヲスルヨリハ死ヌ方ガ増シデス〔コン〜傍線〕。
〔評〕前の今者吾者將死與吾妹不相而念渡者安毛無《イマハアハシナムヨワギモアハズシテオモヒワタレバヤスケクモナシ》(二八六九)を女か歌にしただけである。卷四の今者吾波將死與吾背生十方吾二可縁跡言跡云莫苦荷《イマハアハシナムヨワガセイケリトモワレニヨルベシトイフトイハナクニ》(六八四)はこれに傚つたものだ。
2937 白たへの 袖折り反し 戀ふればか 妹がすがたの 夢にし見ゆる
白細布之《シロタヘノ》 袖折反《ソデヲリカヘシ》 戀者香《コフレバカ》 妹之容儀乃《イモガスガタノ》 夢二四三湯流《イメニシミユル》
着物ノ袖ヲ反シテ寢ルト、思フ人ヲ夢ニ見ル云フガ、私ハ〔着物〜傍線〕(白細布之)袖ヲ祈反シテ、戀シク思ヒナガラ寢〔七字傍線〕タ爲カ、戀シイ〔三字傍線〕女ノ姿ガ夢ニ見エルヨ。
○白細布之《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。上古は白栲の衣を着てゐたからである。
(53)
も同じく思ふ人を見む爲に、袖を反して寢る、習俗によつたものである。
2938 人言を 繁みこちたみ わがせこを 目には見れども 逢ふよしもなし
人言乎《ヒトゴトヲ》 繁三毛人髪三《シゲミコチタミ》 我兄子乎《ワガセコヲ》 目者雖見《メニハミレドモ》 相因毛無《アフヨシモナシ》
人ノ口ガヤカマシイノデ、ヒドイノデ、私ハ〔二字傍線〕私ノ戀シイ〔三字傍線〕男ヲ目ニハ見ルケレドモ、逢フ方法ガナイ。
○繁三毛人髪三《シゲミコチタミ》――毛人髪三をコチタミと訓むのは、代匠記精撰本に「毛人髪三とかけるは、毛人は蝦夷《エミシ》なり。蝦夷は身にだに、獣の如く毛の生れば其髪はさこそ蓬の如く亂れたるべければ、かくは義訓せるなるべし。山海經云。毛人國爲v人(ト)身生(ズ)v毛(ヲ)。在2玄(ノ)股(ノ)北(ニ)1。敏達紀云。十年春潤二月、蝦夷數千寇2於邊境1、由(テ)v是召(テ)2魁師綾糟《ヒトコノカミアヤカス》等1【魁師者大|毛人《エヒシ》也】詔(テ)曰云々」とある通り、一種の戯書である。コチタは物の仰々しきをいふ。
〔評〕 前にあつた人言乎繁三言痛三我妹子二去月從未相可母《ヒトコトヲシゲミコチタミワギモコヲイニシツキヨリイマダアハヌカモ》(二八九五)と似てゐる。卷二の人事乎繁美許知痛美巳母世爾未渡朝川渡《ヒトゴトヲシゲミコチタミオノガヨニイマダワタラヌアサカハワタル渡(一一六)とも初二句同じである。
2939 戀といへば 薄きことなり 然れども 我忘れじ 戀ひは死ぬとも
戀云者《コヒトイヘバ》 薄事有《ウスキコトナリ》 雖然《シカレドモ》 我者不忘《ワレハワスレジ》 戀者死十方《コヒハシヌトモ》
戀ト一口ニ〔三字傍線〕云フト、何ダカ〔三字傍線〕薄イ何デモナイ〔五字傍線〕コトノヤウダ。然シナガラ私ノ戀ハ世間普通ノ戀トハ違ツテ、タトヒ〔私ノ〜傍線〕焦死シヨウトモ私ハ忘レルコトハナイヨ。
○戀云者薄事有《コヒトイヘバウスキコトナリ》――戀と言ふと、たやすく何でもないことに聞える。二句を考に、アサキコトアリとよんでゐるが穩やかでない。
〔評〕 初二句は卷十一の言云者三三二田八酢四《コトニイヘバミミニタヤスシ》(二五八一)・卷十五の多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎《タビトイヘバコトニゾヤスキ》(三七四三)などと同樣の言ひ方である。
2940 なかなかに 死なば安けむ 出づる日の 入るわき知らぬ 我し苦しも
(54) 中中二《ナカナカニ》 死者安六《シナバヤスケム》 出日之《イヅルヒノ》 入別不知《イルワキシラヌ》 吾四九流四毛《ワレシクルシモ》
却ツテ死ンダナラバ何ノ心配モナクテ〔八字傍線〕呑氣デアラウ。東カラ〔三字傍線〕出ル日ガ夕方ニナツテ〔六字傍線〕入ルカ入ラナイカノ區別モ分ラズ、晝カ晩カモ分ラヌヤウニナツテ、戀ヲシテヰル〔晝カ〜傍線〕私ハ苦シイヨ。寧ロ死ンダ方ガ増シダ〔寧ロ〜傍線〕。
○死者安六《シナバヤスケム》――略解にシニハヤスケムと訓んだのはよくない。○出日之《イヅルヒノ》――出日《イヅルヒ》は昇る日。朝東から上る太陽。○入別不知《イルワキシラヌ》――入るか入らぬかの區別も分らず。即ち夕方になつたか否かの別も知らず、物思に茫然としてゐること。
〔評〕 初二句、卷十七に奈加奈可爾之奈婆夜須家牟伎美我目乎美受比佐奈良婆須敝奈可流倍思《ナカナカニシナバヤスケムキミガメヲミズヒサナラバスベナカルベシ》(三九三四)とあるのは、これに傚つたか。三四句は卷一の霞立長春日乃晩家洗和豆肝之良受《カスミタツナガキハルヒノクレニケルワヅキモシラズ》(五)・卷十一の年月之往覽別毛不所念鳧《トシツキノスクラムワキモオモホエヌカモ》(二五三六)と同意である。甚だしい誇張と知りつつも、同情感を惹さしめるものがあるのは、巧手といふべきである。
2941 念ひやる たどきも我は 今はなし 妹に逢はずて 年の經行けば
念八流《オモヒヤル》 跡状毛我者《タドキモワレハ》 今者無《イマハナシ》 妹二不相而《イモニアハズテ》 年之經行者《トシノヘユケバ》
戀シイ〔三字傍線〕女ニ逢ハナイデ、數年立ツタカラ、思ヲ晴ラス方法モ私ハ今ハナイ。何時ニナツタラ逢ハレルト云フ見込モナイノデ、失望シテシマツタ〔何時〜傍線〕。
○跡状毛我者《タドキモワレハ》――舊訓カタチモワレハとあるが、跡状は跡状不知《タドキモシラニ》(二四八一)の如く、タドキと訓まねばならぬ、タドキはタヅキに同じ。方法。卷九に思遺田時乎白土《オモヒヤルタドキヲシラニ》(一七九二)とある。
〔評〕 前の立居店爲便乃田時毛今者無妹爾不相而月之經去者《タチテヰテスベノタドキモイマハナシイモニアハズテツキノヘユケバ》(二八八一)・思遣爲便乃田時毛吾者無不相數多月之經去者《オモヒヤルスベノタドキモワレハナシアハナクマネクツキノヘユケバ》(二八九二)とよく似てゐる。
2942 吾が背子に 戀ふとにしあらし みどりこの 夜泣をしつつ いねがてなくは
吾兄子爾《ワガセコニ》 戀跡二四有四《コフトニシアラシ》 小兒之《ミドリコノ》 夜哭乎爲乍《ヨナキヲシツツ》 宿不勝苦者《イネガテナクハ》
(55)私ガ〔二字傍線〕子供ノヤウニ夜泣ヲシテ寢ラレナイデ居ルノハ、〔私ハ〜傍線〕つぃノ夫ヲ戀シガツテノコトデアラウ。カウ夜ニナルト泣カレルノハ、夫ガ戀シイカラデアラウ〔カウ〜傍線〕。
○小兒之《ミドリコノ》――小兒の如くの意。○夜哭乎爲乍《ヨナキヲシツツ》――夜哭は小兒が夜眠らないで泣くこと。
〔評〕 この歌は小兒も吾が背子を戀うて、夜泣をするのであらうと解釋せられてゐる。さうすると二人の間に出來た子供があつて、その子が夜泣をするのを聞いて、彼も父を戀ひて泣くのであらうと想像したことになる。併しこれは尋ねて來ぬ男を戀うて、夜毎に自分がなくのを、子供のやうに夜泣をするといつて、餘所事のやうに吾が背子に戀ふとにしあらしとしたのが面白いのである。かう見ると滑稽味があつて佳い歌である。
2943 わが命の 長くほしけく いつはりを よくする人を とらふばかりを
我命之《ワガイノチノ》 長欲家口《ナガクホシケク》 僞乎《イツハリヲ》 好爲人乎《ヨクスルヒトヲ》 執許乎《トラフバカリヲ》
私ノ壽命ガ永イヤウニト望ムノは、別ニ仔細ノアル譯ハナイ。逢ハウトオツシヤツテモ、決シテ逢ツテ下サラナイ〔別ニ〜傍線〕嘘ノ上手ナ貴方ヲ、ツカマヘテ責メテ上ゲ〔六字傍線〕ヨウト、イフダケノコトデスヨ。
○我命之《ワガイノチノ》――考に「今本之と有はかなはず、古本に依て乎とす。」とあるが、校本萬葉集にはさうなつてゐる本がない。新訓は之をシとよんでゐるが、舊訓のままでよからう。○長欲家口《ナガクホシケク》――長くと欲することはの意。○執許乎《トラフバカリヲ》――捕ふるだけのことなるぞよの意。乎はヨの意である。略解に「或人云、執は報の誤にて、むくゆばかりをならむと言へり。さも有べし」とあるが從ひ難い。
〔評〕 前の歌と同じく、滑稽味を基調とした戀歌である。女の歌であらう。
2944 人ごとを 繁みと妹に あはずして 心のうちに 戀ふるこの頃
人言《ヒトゴトヲ》 繁跡妹《シゲミトイモニ》 不相《アハズシテ》 情裏《ココロノウチニ》 戀比日《コフルコノゴロ》
人ノ口ガヤカマシイノデ、戀シイ〔三字傍線〕女ニ逢ハナイデ、心ノ内デコノ頃ハ戀シク思ツテ居ル。
(56)〔評〕卷九の石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流比日《イソノカミフルノワサタノホニハイデズココロノウチニコフルコノゴロ》(一七六八)と下句同じである。この歌の書風は、柿本朝臣人麿歌集の體になってゐる。併しその理由で古義に此處から除いて、上の人麿歌集中の部に收めたのは亂暴である。
2945 玉梓の 君が使を 待ちし夜の 名殘ぞ今も いねぬ夜の多き
玉梓之《タマヅサノ》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 待之夜乃《マチシヨノ》 名凝其今毛《ナゴリゾイマモ》 不宿夜乃大寸《イネヌヨノオホキ》
私ハ貴方ニ捨テラレテ、モウ貴方ノオイデヲ待タウトハ思ヒマセヌガ、先頃マデ〔私ハ〜傍線〕夜ニナルト貴方ノ御便リノ〔四字傍線〕(玉梓之)使ガ來ルノヲ待ツテヰマシタソノ名殘リデ、今デモ寐ナイ晩ガ多ウゴザイマス。
○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。語を距てて使につづいてゐる。二〇七參照。
〔評〕 卷十一に夕去者公來座跡待夜之名凝衣令宿不勝爲《ユフサレバキミマサムトマチシヨノナゴリゾイマモイネガテニスル》(二五八八)の異傳であらう。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
2946 玉桙の 道に行合ひて よそ目にも 見ればよき子を 何時とか待たむ
玉桙之《タマボコノ》 道爾行相而《ミチニユキアヒテ》 外目耳毛《ヨソメニモ》 見者吉子乎《ミレバヨキコヲ》 何時鹿將待《イツトカマタム》
(玉桙之)途中デ出逢ツテ、一寸〔二字傍線〕外《ヨソ》目ニデモ見レバ、可愛イ女ヲ、手ニ入レルノヲ〔七字傍線〕、何時ト思ツテ當ニシテ〔八字傍線〕待ツテ居ラウゾ。待チ遠シイ〔五字傍線〕。
○外目耳毛見者吉子乎《ヨソメニモミレバヨキコヲ》――外目に見てもかはゆい女を。吉子《ヨキコ》は美女の意ではなく、いとしい、可愛いと思ふ女である。考はミルハと改訓してゐる。
〔評〕 道行く美女を見て戀ふる歌。
2947 念ふにし あまりにしかば すべをなみ 我は言ひてき 忌むべきものを 或本歌曰、門に出でてわがこいふすを人見けむかも 一云、術を無み出でてぞ行きし家のあたり見に 柿本朝臣人麿歌集云、鳰鳥のなづさひ來しを人見けむかも
念西《オモフニシ》 餘西鹿齒《アマリニシカバ》 爲便乎無美《スベヲナミ》 吾者五十日手寸《ワレハイヒテキ》 應忌鬼尾《イムベキモノヲ》
(57)心ノ内ニ〔四字傍線〕思ヒ餘ツタノデ、何トモ仕樣ガナクテ、私ハツヒ、ウツカリ女ノ名前ヲ〔ツヒ〜傍線〕言ツテシマツタ。慎マナケレバナラナイノニ。トンダコトヲシタ。後デ何カ事ガ起ラナケレバヨイガ。心配ダ〔トン〜傍線〕。
○吾者五十日手寸《ワレハイヒテキ》――我は相手の名を言ひてきの略である。
〔評〕 念之餘者爲便無三出曾行之其門乎見爾《オモフニシアマリニシカバスベヲナミイデヽゾユキシソノカドヲミニ》(二五五一)と隱沼從裏戀者無乏妹名告忌物矣《コモリヌノシタユコフレバスベヲナミイモガナノリツイムベキモノヲ》(二四四一)の二首を一緒にしたやうな作である。
或本歌曰 門出而《カドニイデテ》 吾反側乎《ワガコイフスヲ》 人見監可毛《ヒトミケムカモ》
三四五の句の異本である。殆ど別歌の觀をなしてゐる。反側《コイフス》は轉《コロ》び伏すの意。
一云 無乏《スベヲナミ》 出行《イデテゾユキシ》 家當見《イヘノアタリミニ》
これは又他の異傳である。舊本可云とあるは誤。元暦校本に一云とある。
柿本朝臣人麿歌集云 爾保鳥之《ニホトリノ》 奈津柴比來乎《ナヅサヒコシヲ》 人見鴨《ヒトミケムカモ》
この歌は卷十一、人麿集に、念餘者丹穗鳥足沾來人見鴨《オモフニシアマリニシカバニホトリノアヌラシコシヲヒトミケムカモ》(二四九二)とあるのと重複してゐる。
2948 明日の日は その門行かむ 出でて見よ 戀ひたるすがた あまたしるけむ
明日者《アスノヒハ》 其門將去《ソノカドユカム》 出而見與《イデテミヨ》 戀有容儀《コヒタルスガタ》 數知兼《アマタシルケム》
明日ハ私ガ〔二字傍線〕貴女ノ門ノ前ヲ通リマセウ。出テ御覽ナサイ。私ガ貴女ヲ〔五字傍線〕戀シク思ツテヤツレ〔四字傍線〕タ姿ガ、殊ニ著シク目立ツデセウ。
○明日者《アスノヒハ》――舊訓アケムヒハ、考はアスナラバとあるが、古義の訓がよい。○數知兼《アマタシルケム》――アマタは甚だといふ(58)に同じく用ゐてある。
〔評〕 男が吾が戀の僞ならざることを、女に言ひ贈つたもので、滑稽味が含まれてゐる。出而見與《イデテミヨ》と女を誘ひ出すやうでもあるが、さう見るのは考へ過ぎであらう。三句切になつてゐる。一寸異色の歌である。
2949 うたてけに 心おほほし 事はかり よくせ吾が背子 逢へる時だに
得田價異《ウタテケニ》 心欝悒《ココロホホシ》 事計《コトハカリ》 吉爲吾兄子《ヨクセワガセコ》 相有時谷《アヘルトキダニ》
ソンナニ打解ケテ下サラナイデハ、私ハ〔ソン〜傍線〕益々ヒドク、心ガ晴レマセヌ。カウシテタマニ〔七字傍線〕逢ツタ時ニデモ、ヨクコトヲ考ヘテ、取計ツテ下サイヨ。打解ケテ下サイ〔八字傍線〕。
○得田價異《ウタテケニ》――舊訓ウタカヘルとあり、代匠記初稿本は、異を累の誤、考は婁としてゐるが古義に、ウタテケニと訓んで、うたて殊更にの意としたのがよい。益々甚だしくなど譯すべきであらう。○心欝悒《ココロオホホシ》――舊訓ココロイブカシ、略解はココロイブセシとあるが、欝悒の二字は、一七五・二二〇・六一一などオホホシとよんであるから、ここもさう訓むべきである。○事計《コトハカリ》――事の計畫。卷四に次相見六事計爲與《ツギテアヒミムコトハカリセヨ》(七五六)とある。
〔評〕 久しぶりで逢つた男に對して、打ち解けた態度を要求する言葉。まことに女らしい純な歌である。
2950 吾妹子が 夜戸出のすがた 見てしより 心空なり つちは蹈めども
吾妹子之《ワギモコガ》 夜戸出乃光儀《ヨトデノスガタ》 見而之從《ミテシヨリ》 情空有《ココロソラナリ》 地者雖踐《ツチハフメドモ》
二人ガ逢ツタ夜ニ〔八字傍線〕、私ノ愛スル〔三字傍線〕女ガ、未ダ〔二字傍線〕夜ノ内ニ別レテ〔六字傍線〕出テ行ク姿ヲ見テカラ、私ハ足ハ〔四字傍線〕土ヲ踐ンデヰルケレドモ、心ハ上ノ空ニナツテ居ル。
○夜戸出乃光儀《ヨトデノスガタ》――夜、戸外に出て行く姿、卷十の朝戸出之君之儀乎《アサトデノキミガスガタヲ》(一九二五)・卷十一の朝戸出公足結乎《アサトデノキミガアユヒヲ》(二三九七)などの朝戸出に對する語である。
〔評〕 女に別れた男の歌。むしろ初句を改めて、女の歌とした方が、自然的と思はれる歌である。下の句は前に(59)吾意天津空有土者踐鞆《ワガココロアマツソラナリツチハフメドモ》(二八八七)とあつた。この歌袖中抄に載つてゐる。
2951 海石榴市の 八十の衢に 立ちならし 結びし紐を 解かまく惜しも
海石榴市之《ツバイチノ》 八十衢爾《ヤソノチマタニ》 立平之《タチナラシ》 結紐乎《ムスビシヒモヲ》 解卷惜毛《トカマクヲシモ》
海石榴市ノ道ノイクツニモ分レタ辻ノ廣場〔二字傍線〕デ、歌垣ヲシテソコヲ〔八字傍線〕踏ミツケテ踊ツテ、アル男ト親シンデ、ソノ男ガ〔踊ツ〜傍線〕結ンデクレタコノ私ノ着物ノ〔七字傍線〕紐ヲ今他ノ男ニ昏嬰ヲ求メラレテ〔今他〜傍線〕、解クノハ惜シイコトダヨ。アノオ方ハドコニドウシテ居ラレルデアラウ〔アノ〜傍線〕。
○海石榴市之《ツバイチノ》――海石榴市は今の大和磯城郡三輪村大字金屋にあたる。そこに椿市觀音。つば市地藏などがある。武烈天皇紀に「於是太子思欲v聘2物部麁鹿火大連女影媛1、遣2媒人1向2影媛宅1期會、影媛曾※[(女/女)+干]2眞鳥臣男鮪1【鮪此云2茲寐1】恐v違2太子所期1報曰、妾望奉v待2海柘榴市〓1」とあり、その他用明天皇紀及び敏達天皇紀に海石榴市亭といふこと見え、當時離宮などもあり、繁華の地であつたと(60)見える。その市に椿が植ゑてあつたので、この名を負うたものであらう。平安朝では長谷觀音參詣者の通路に當つて、有名な市であつた。枕草子に「市は、つば市は云々」と見えてゐる。海石榴は椿。椿の字は集中に見えるが、一種の靈木でこれをツバキに用ゐるのは吾が國の特訓である。○八十衢爾《ヤソノチマタニ》――澤山に道の別れた辻。この市場を中心として、多くの道路が周圍から集つてゐたのである。この二句は下に、紫者灰指物曾海石榴市之八十街爾相兒哉誰《ムラサキハハヒサスモノゾツバイチノヤソノチマタニアヒシコヤタレ》(三一〇一)とある。この市で歌垣が行はれ、多くの男女の集合場であつたのである。○立平之《タチナラシ》――歌垣の場を踏み平らして。タチは出て立つことであるが、輕く用ゐてある。ナラスを馴れる意に解するのはとらない。卷十七に芽子花爾保敝流屋戸乎安佐爾波爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受《ハギノハナニホヘルヤドヲアサニハニイデタチナラシユフニハニフミタヒラケズ》(三九五七)とある。○結?乎《ムスビシヒモヲ》――男が結んでくれた紐を。
〔評〕 上代の歌垣の風がしのばれる歌である。歌垣の場で、ある男(それは多分名をだに知らぬ男であつたらう)と契つた時、その男が結んでくれた紐を、今他の男の爲に解くのは惜しいといふので、夢のやうな會合への追懷が、新たな求婚者によつて蘇つて、名殘惜しく思ほれるのである。自由な性の關係が想像せられる。
2952 吾が齡し 衰へぬれば 白たへの 袖のなれにし 君をしぞ念ふ
吾齒之《ワガヨハヒシ》 衰去者《オトロヘヌレバ》 白細布之《シロタヘノ》 袖乃狎爾思《ソデノナレニシ》 君乎《キミヲ》母|准其念《シゾオモフ》
私ノ年齢ガ段々〔二字傍線〕老衰シテ行クト、(白細布之袖乃)馴レ親シンダ貴方ヲ、唯々〔二字傍線〕ナツカシク思ヒマス。年ヲトルト他ニ心ヲ遷サズニ、永年親シンデヰル貴方ガ、愈々戀シクナルバカリデス〔年ヲ〜傍線〕。
○吾齡之《ワガヨハヒシ》――舊訓ワガヨハヒとよんだのは、之の訓を脱したのであらう、考はワガヨハヒノとよんでゐる。○袖乃狎爾思《ソデノナレニシ》――袖乃は白組布之につづいて、ナレと言はむ爲の序詞。衣の古びたのを褻れといふ。○君乎《キミヲ》母|准其念《シゾオモフ》――代匠記精撰本は准を衍として、キミヲモソオモフとし、考は母准の二字を羅の一字とし、キミヲラゾモフと訓み、古義は母を衍とし、准を進として、キミヲシゾモフと訓んでゐる。准は集中、假名として、他の用例はなく、漢音シユン・呉音ジユンで、臻攝準韻の文字である。これをシの假名に用ゐるのは、少し無理であら(61)うとも思はれるが、同じく臻攝、軫韻の文字で漢音シン、呉音ジンたる盡が、不盡能高嶺(三一九)のやうにジの假名に用ゐられてゐるから、准もシに用ゐられぬこともあるまい。(康煕字典では准は盡と同じく軫韻になつてゐる。)准を衍とするのも一説であるが、キミヲモゾモフといふのは他に類が無いやうであるから、母を衍とすることにする。なほ字音辨證には「准は準となるを、集韻【上聲上五旨】に準(ハ)數軌切、音水、平也と見えたり。かかれば準にシの音あるなり、同音の水(ノ)字シ〔右○〕の假字に用ゐたる事上にいふが如し。准にシの音ある事おして知(ル)べし。正韻にも準式軌切、音水とあるなり、又説文に水(ハ)準也と見え、釋名にも水(ハ)準也、準、平v物也、云々」とある。
〔評〕 老人戀。年老いて、茶呑み友達が欲しくなつたといふのではなく、糟糠の妻が愈々戀しいといふのである。戀歌としては珍らしいものであらう。眞情が流露してゐる。
2953 君に戀ひ 吾が哭く涙 白たへの 袖さへぬれて せむ術もなし
戀君《キミニコヒ》 吾哭涕《ワガナクナミダ》 白妙《シロタヘノ》 袖兼所漬《ソデサヘヌレテ》 爲便母奈之《セムスベモナシ》
貴方ヲ戀シク思ツ〔三字傍線〕テ、私ガ泣ク涙ハ顔ハモトヨリ〔六字傍線〕(白妙)袖マデモ霑レテ何トモシヤウガナイ。コンナニ涙ガ出テ、ドウシタモノデアラウ〔コン〜傍線〕。
○袖兼所漬《ソデサヘヌレテ》――舊訓ソデサヘヒチテ、古義ソデサヘヌレヌとある。考による。
〔評〕 さしたる作ではないが、結句があはれである。
2954 今よりは 逢はじとすれや 白たへの 吾が衣手の 干る時もなき
從今者《イマヨリハ》 不相跡爲也《アハジトスレヤ》 白妙之《シロタヘノ》 我衣袖之《ワガコロモデノ》 干時毛奈吉《ヒルトキモナキ》
今カラハ、貴方ガ私ニ〔五字傍線〕逢フマイトナサルカラデセウカ、私ノ(白妙之)着物ノ袖ハ涙デ〔二字傍線〕乾クヒマモアリマセヌ。コンナニ涙ガ出ルノハ、貴方ガ私ヲ捨テヨウトナサル前兆デセウ〔コン〜傍線〕。
○不相跡爲也《アハジトスレヤ》――君が我に逢ふまじとすればにやの意。○白妙之《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。
(62)〔評〕 吾が涙のかく落つるは、君が逢はじとする前兆かと疑つたもので、かういふ俗信が行はれてゐたものか、とも思はれるが、あまりに止めどなく落つる涙に不吉の豫感を惹したまでであらう。女の歌であらう。
2955 夢かと 心まどひぬ 月まねく かれにし君が 言の通へば
夢可登《イメカト》 情班《ココロマドヒヌ》 月數多《ツキマネク》 干西君之《カレニシキミガ》 事之通者《コトノカヨヘバ》
幾月モ打チ絶エテ逢ハナカツ〔六字傍線〕タ貴方カラ、音信ガ來ルノハ、餘リ不思議ナノデ〔八字傍線〕、夢デハナイカト、私ハ〔二字傍線〕心ニ迷ヒマシタ。
○情班《ココロマドヒヌ》――奮訓オモヒワカメヤとある。情はココロと訓むべきは論がないが、班の字は疑問である。考は恠の誤として、ココロアヤシモと訓み、古義は「此(ノ)下に、虚蝉之《ウツセミノ》云々 心〓焉《ココロマドヒヌ》、四(ノ)卷に、直一夜《タダヒトヨ》云々 心〓《ココロマドヒヌ》などあればこゝも情〓《ココロマドヒヌ》とありしを誤れるならむかともおもへども、なほ字形遠ければ、いかがあらむ。かかればなほ班は斑にてもあるべきか、斑は字彙に、周禮王制(ニ)雜色(ヲ)曰v斑(ト)と見えたれば、ここは斑雜《マギレ》て、夢現ともわきがたき意をめぐらして、斑(ノ)字にて、マドヒヌと訓せたるにもあらむか」とある。後説從ふべきか。○月數多《ツキマネク》――舊本、多の下に二の字があるが、元暦校本にないのがよいであらう。
〔評〕 久しく打絶えた人からの音信に、夢かと驚喜してゐる。あはれな歌である。女の心であらう。
2956 あらたまの 年月かねて ぬば玉の 夢にぞ見ゆる 君がすがたは
未玉之《アラタマノ》 年月兼而《トシツキカネテ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 夢爾所見《イメニゾミユル》 君之容儀者《キミガスガタハ》
貴方ノナツカシイ〔五字傍線〕御姿ハ、(未玉之)年月ヲ重ネテ長イ間、私ノ〔五字傍線〕(烏玉乃)夢ニ見エルヨ。
○未玉之《アラタマノ》――枕詞。年とつづく。未玉と書いたのは、未だ理めざる玉の義であらう。○年月兼而《トシツキカネテ》――年月を渡つて。○烏玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。黒につづくより轉じて夜に、更に轉じて夢につづく。○夢爾所見《イメニゾミユル》――考にユメニミエツルとあるのはよくないやうだ。新考にイメニヅミエシとあるのは第二句に對して、過去にするのがよいと見(63)
あるのであるから、尚更である。
〔評〕 第一句に未玉之《アラタマノ》、第三句に烏玉乃《ヌバタマノ》を用ゐたのは作者の工夫であらう。
2957 今よりは 戀ふとも妹に 逢はめやも 床のべさらず 夢に見えこそ
從今者《イマヨリハ》 雖戀妹爾《コフトモイモニ》 將相哉母《アハメヤモ》 床邊不離《トコノベサラズ》 夢爾所見乞《イメニミエコソ》
私ハ今カラ女ニ長ク別レテヰナケレバナラナイガ〔私ハ〜傍線〕、今カラハイクラ〔三字傍線〕戀シク思ツテモ女ニ逢フコトガ出來ヨウヤ。トテモ出來ナイ。ダカラ女ノ姿ガ私ノ〔トテ〜傍線〕床ノアタリヲ離レズニ、夢ニ見エテクレヨ。
〔評〕 女に別れて、旅立つ時の歌であらう。卷十一の里遠眷浦經眞鏡床重不去夢所見與《サトトホミウラブレニケリマソカガミユカノヘサラズユメニミエコソ》(二五〇一)と下句同じである。
2958 人の見て 言とがめせぬ 夢にだに 止まず見えこそ わが戀やまむ 或本歌頭云、人目多み直にはあはず
人見而《ヒトノミテ》 言害目不爲《コトトガメセヌ》 夢谷《イメニダニ》 不止見與《ヤマズミエコソ》 我戀將息《ワガコヒヤマム》
人ノ口ガヤカマシクテ私ハ貴方ニ實際ニ逢フコトハ出來ナイガ〔人ノ〜傍線〕、人ガ見テヤカマシク言ハナイ夢ニデモ、貴方ノ姿ガ〔五字傍線〕、絶エズ見エテクレヨ。サウシタラ〔五字傍線〕私ノ戀モ、滿足シテ〔四字傍線〕止ムデアラウ。
○不止見與《ヤマズミエコソ》――考に不止をツネニと訓み、與を乞の誤としたのはよくない。
〔評〕 人見而事害目不爲夢爾吾今夜將至屋戸閉勿勤《ヒトノミテコトゝガメセヌイメニワレコヨヒイタラムヤドサスナユメ》(二九一二)と似てゐる。
或本歌頭云 人目多《ヒトメオホミ》 直者不相《タダニハアハズ》
一二の句の異本である。これは本歌よりも劣るやうである。
2959 うつつには 言絶えにたり 夢にだに つぎて見えこそ 直に逢ふまでに
(64)現者《ウツツニハ》 言絶有《コトタエニタリ》 夢谷《イメニダニ》 嗣而所見而《ツギテミエコソ》 直相左右二《タダニアフマデニ
實際ニハ言葉ヲカハスコト〔六字傍線〕モ絶エ果テテシマツタ。モウトテモ逢ハレナイガ、再ビ、又〔モウ〜傍線〕、直接ニ貴方ニオ目ニカカルマデハ、セメテモノ心慰メニ〔九字傍線〕夢ニデモ續イテ見エテクレヨ。
○言絶有《コトタエニタリ》――舊訓コトタエタレヤ、代匠記精撰本コトタエタルヲ、古義コトタエニケリとあるが、ここは略解に從ふ。○嗣而所見而《ツギテミエコソ》――見の下の而は元暦校本、その他によれば、與の誤である。
〔評〕 明瞭な歌だ。ここまでの五首は夢の歌が集めてある。正述心緒の歌にも、寄物陳思の歌と同じく、類別の方針を以て編纂せられてゐることがわかる。
2960 うつせみの うつし心も 我はなし 妹を相見ずて 年の經ぬれば
虚蝉之《ウツセミノ》 宇都思情毛《ウツシゴコロモ》 吾者無《ワレハナシ》 妹乎不相見而《イモヲアヒミズテ》 年之經去者《トシノヘヌレバ》
私ハ戀シイ〔三字傍線〕女ニ逢ハナイデ、數年經ツタカラ、今デハソノ爲ニ煩悶シテ〔今デ〜傍線〕、人間トシテノ正氣モナクナツテシマツタ。
○虚蝉之《ウツセミノ》――枕詞として用ゐられる語であるが、ここは現身即ち現の身を持つた人間の意であらう。
〔評〕 ウツセミノから同音を繰返して、ウツシとつづけたのが、この歌の技巧であらう。卷四の釼太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ(六一六)・卷十一の健男現心吾無夜晝不云戀度《マスラヲノウツシココロモワレハナシヨルヒルトイハズコヒシワタレバ》(二三七六)・この卷の三空行名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモワレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》(二八七九)・念八流跡状毛我者今者無妹二不相而年之經行者《オモヒヤルタドキモワレハイマハナシイモニアハズテトシノヘユケバ》(二九四一)など、いづれも同型の歌である。
2961 うつせみの 常のことばと おもへども つぎてし聞けば 心まどひぬ
虚蝉之《ウツセミノ》 常辭登《ツネノコトバト》 雖念《オモヘドモ》 繼而之聞者《ツギテシキケバ》 心遮焉《ココハマドヒヌ》
(65)貴方ノオツシヤルコトハ〔貴方〜傍線〕世間ノ人ノ普通ノ御世辭トハ思フケレドモ、續イテ何度モ〔三字傍線〕聞クト、若シヤ本當デハ無イカト思ツテ〔若シ〜傍線〕、心ガ迷ヒマス。
○虚蝉之《ウツセミノ》――これも前と同じく。枕詞ではない。世の人のといふやうな意である。○心遮焉《ココロマドヒヌ》――舊訓ココロハナギヌとあるが、卷四に月歟經去跡心遮(《ツキカヘヌルトココロハマドフ》(六三八)とあるやうに、遮はマドフと訓むべきで、ここはココロマドヒヌとよまねばならぬ。考に遮は慰の誤としたのもよくない。
〔評〕 相手の甘い言葉を信じないながらもいつしかそれに引ずられて行く、戀する人の弱い心がよくあらはされてゐる。相手を皮肉るやうな輕い氣分も見える。
2962 白たへの 袖なめずてぬる ぬば玉の こよひははやも 明けば明けなむ
白細之《シロタヘノ》 袖不數而宿《ソデナメズテヌル》 烏玉之《ヌバタマノ》 今夜者早毛《コヨヒハハヤモ》 明者將開《アケバアケナム》
戀シイ女ト着物ノ〔八字傍線〕(白細之)袖ヲ並ベナイデ、一人デ私ガ〔五字傍線〕寢ル(烏玉之)今夜ハ、早ク明ケルナラバ明ケテシマヘ。夜ガ明ケテモ少シモ惜シイコトハナイ〔夜ガ〜傍線〕。
○袖不數而宿《ソデナメズテヌル》――舊訓ソデカヘズシテヌルとあるのは意は通ずるが、文字に適應しないやうである。考は數を卷の誤とし、ソデマカデヌルとしてゐる。新考は數を更の誤として、ソデカヘテネヌとし、新訓は敷の誤として、ソデシカズテヌルとしてゐる。誤字説としては新訓が最も穩やかであらう。併し數は集中シバシバと訓むところが多いから、重の意で敷《シク》に借り用ゐたのかも知れない。けれども獨寢は袖を片敷くといふのであつて、袖不敷といつてはその意にはならぬやうに思はれるから卷一に馬數而《ウマナメテ》(四)とあるに傚つて、ソデナメズテヌルとよむのが最も無難であらう。
〔評〕 獨寢のつまらなさを嘆じてゐる。獨宿夜者開者雖明《ヒトリヌルヨハアケバケヌトモ》(二八〇〇)といふやうな歌は他にもあつて、想としては珍らしくはないが、初二句に獨寢と言はずして、それをあらはしてゐるのが工夫であらう。
2963 白たへの 袂ゆたけく 人のぬる 味寐はねずや 戀ひわたりなむ
(66)白細之《シロタヘノ》 手本寛久《タモトユタケク》 人之宿《ヒトノヌル》 味宿者不寐哉《ウマイハネズヤ》 戀將渡《コヒワタリナム》
(白細之)袂ヲユツクリトシテ、他人ガ寢ル、快イ寢方ハ寢ナイデ、思フ人ヲ〔四字傍線〕戀ヒ續ケテ、苦シンデ〔四字傍線〕ヰルコトダラウカヨ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
○手本寛久《タモトユタケク》――袂を片敷かず、ゆつくりくつろいで寢ることであらう。新考は白細之手本《シロタヘノタモト》を寛久《ユタケク》の序詞としてゐる。
〔評〕 戀に悶えて、安眠出來ない人の嗟嘆の聲である。この二首はいづれも、白細之《シロタヘノ》といふ枕詞を用ゐたのを並記してゐる。
寄(セテ)v物(ニ)陳(ブ)v思(ヲ)
2964 かくのみに ありける君を 衣ならば 下にも著むと 吾が念へりける
如是耳《カクノミニ》 在家流君乎《アリケルキミヲ》 衣爾有者《キヌナラバ》 下毛將著跡《シタニモキムト》 吾念有家留《ワガモヘリケル》
コレ程ニ薄情ナ御方デ〔六字傍線〕アツタノニ、サウトハ知ラズ、私ハ貴方ヲ若シ〔サウ〜傍線〕貴方ガ着物デアツタナラバ、人ノ目立タヌヤウニ、着物ノ〔人ノ〜傍線〕下ニ着テ、肌身ヲ放ナサズニ居〔テ肌〜傍線〕ヨウト、私ガ思ツテヰタヨ。バカナコトヲシタ〔八字傍線〕。
○如是耳《カクノミニ》――カクシノミとよむ説もあるが、如是耳《カクノミニ》(四五五)と共に、かう訓むことにした。その條參照。○吾念有家留《ワガモヘリケル》――ケルは連體形になつてゐるのは、ケルヨの意で、詠嘆的に用ゐられたのである。
〔評〕 人言繁時吾味衣有裏服矣《ヒトゴトノシゲケキトキニウギモコシキヌニアリセバシタニキマシヲ》(二八五二)の意と、肌身につけてゐようとする、熱愛の感と兩方が見えてゐる。十六の如是耳爾有家流物乎猪名川之奧乎深目而吾念有來《カクノミニアリケルモノヲヰナガハノオキヲフカメテワガモヘリケル》(三八〇四)と同型の歌である。寄衣戀。
2965 橡の 袷衣の 裏にせば われ強ひめやも 君が來まさぬ
(67) 橡之《ツルバミノ》 袷衣《アハセゴロモノ》 裏爾爲者《ウラニセバ》 吾將強八方《ワレシヒメヤモ》 君之不來座《キミガキマサヌ》
私ガ貴方ヲ〔五字傍線〕(橡之袷衣)裏ニシテ輕ク思フ〔四字傍線〕ナラバ、私ハ貴方ニ是非トモ私ノ宅ヘオイデナサイト〔私ハ〜傍線〕、無撃ニ言フモノデスカ。ソレダノニ〔五字傍線〕貴方ガオイデ下サラナイトハドウイウワケデスカ〔トハ〜傍線〕。
○橡之《ツルバミノ》――橡は卷七の橡衣人皆事無跡《ツルバミノキヌハヒトミナコトナシト》(一三一一)とあるところに説明したやうに、今のどんぐりの古名で、隅染の原料にしたのである。賤者の服色。○袷衣《アハセゴロモノ》――この句までは裏と言はむ爲の序詞であらう。○裏爾爲者《ウラニセバ》――裏にするとは表面に立てぬこと。即ち重要視せぬことであらう。略解は爲を有と改めて、ウラニアラバ、古義は爾を志の誤として、ウラシアラバと改めてゐるのはよくない。
〔評〕 賤者の衣たる橡の袷を序詞に用ゐたのは、これも賤者階級の謠物か。男を待つ女のわびしさが歌はれてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。寄衣戀。
2966 くれなゐの 薄染衣 淺らかに 相見し人に 戀ふる頃かも
紅《クレナヰノ》 薄染衣《ウスゾメゴロモ》 淺爾《アサラカニ》 相見之人爾《アヒミシヒトニ》 戀比日《コフルコロカモ》
初メノウチ〔五字傍線〕(紅薄染衣)深ク心ニモ留メナイデ、逢ツテヰタアナタヲ、コノ頃ハ心カ〔三字傍線〕ラ戀シク思ツテヰルヨ。ドウシタノデアラウ〔九字傍線〕。
○薄染衣《ウスゾメゴロモ》――考は次にある桃色褐《アラゾメノ》の例にならつて、アラゾメゴロモと訓むべしとし、新考は「アララカニの序なれば、アサゾメとよむべし」と言つてゐる。文字通りウスと訓む方が無難であらう。この初二句は序詞で淺爾《アサラカニ》につづてゐる。
〔評〕 始はさして心にかけなかつた人に對して、段々と戀の心の深まつて行くのに、我ながら驚いた氣分が出てゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。寄衣戀。
2967 年のへば 見つつしぬべと 妹が言ひし 衣の縫目 見れば哀しも
(68)年之經者《トシノヘバ》 見管偲登《ミツツシヌベト》 妹之言思《イモガイヒシ》 衣乃縫目《コロモノヌヒメ》 見者哀裳《ミレバカナシモ》
旅ニ出カケル時ニ、別レテ〔旅ニ〜傍線〕、年ガタツタナラバ、コレヲ〔三字傍線〕見テ思ヒ出シテ下サイト、アノ〔二字傍線〕女ガ言ツテ縫ツテクレ〔七字傍線〕タ着物ノ縫目ガ、今ハ綻ビカカツテヰルノデ、ソレヲ〔ガ今〜傍線〕見ルニツケテモ、種々思ヒ出スコトガアツテ〔種々〜傍線〕悲シイヨ。
○衣乃縫目《コロモノヌヒメ》――衣の縫目の綻びをの意である。
〔評〕 旅に出て、衣の縫目の綻びを見つつ、故郷の妻を思ひ出した歌。實にかなしい、あはれさの籠つた歌である、寄衣戀。
2968 橡の 一重衣の うらもなく あるらむ兒ゆゑ 戀ひ渡るかも
橡之《ツルバミノ》 一重衣《ヒトヘゴロモノ》 裏毛無《ウラモナク》 將有兒故《アルラムコユヱ》 戀渡可聞《コヒワタルカモ》
(橡之一重衣)何心モナク、私ニワケ隔テモナクテ〔私ニ〜傍線〕ヰル女ダノニ、ソレデモ氣ニカカツテ、私ハアノ女ヲ〔ソレ〜傍線〕、戀シク思ツテ日ヲ送ツテヰルヨ。
○橡之一重衣《ツルバミノヒトヘゴロモノ》――序詞。裏毛無《ウラモナク》とつづく意は明らかである。○裏毛無《ウラモナク》――何心もなく。ここは分け隔てもなくの意であらう。古義に表裏無《ウラウヘナク》と譯したのは少し當らない。○將有兒故《アルラムコユヱ》――あるらむ女なるにの意。
〔評〕 無邪氣な純な女に戀をしてゐるが、なほ心安んぜずして、女を常に戀してゐるといふのである。これが戀する人の常の心境であらう。寄衣戀。
2969 解衣の おもひ亂れて 戀ふれども 何の故ぞと 問ふ人もなし
解衣之《トキギヌノ》 念亂而《オモヒミダレテ》 雖戀《コフレドモ》 何之故其跡《ナニノユヱゾト》 問人毛無《トフヒトモナシ》
煩悶ニ煩悶シテ〔七字傍線〕、(解衣之)心亂レナガラアノ人ヲ私ハ〔六字傍線〕戀シテヰルガ、コノ樣子ハ外ニアラハレテ、人ニ分リサウ(69)ナモノダノニ〔コノ〜傍線〕、何故ソンナニ煩悶スルノ〔九字傍線〕カト尋ネル人モナイ。アノ人ノ目ニモ付ク筈ダガ、知ラヌ振ヲシテヰルトハ薄情ナ人ダ〔アノ〜傍線〕。
○解衣之《トキギヌノ》――枕詞。亂《ミダレ》とつづく。解衣思亂而《トキギヌノオモヒミダレテ》(二〇九二)參照。
〔評〕解衣之思亂而雖戀何如汝之故跡問人毛無《トキギヌノオモヒミダレテコフレドモナゾナガユヱトトフヒトモナシ》(二六二〇)と同歌の異傳であらう。寄衣戀。
2970 ももぞめの あさらの衣 淺らかに 思ひて妹に 逢はむものかも
桃花褐《モモゾメノ》 淺等乃衣《アサラノコロモ》 淺爾《アサラカニ》 念而妹爾《オモヒテイモニ》 將相物香裳《アハムモノカモ》
(桃花褐淺等乃衣)淺イ心デ思ツテ、私ハ〔二字傍線〕女ニ逢フモノデスカ。私ハ深ク熱心ニ女ヲ思ツテ契ツタノデス〔私ハ〜傍線〕。
○桃花褐《モモゾメノ》――舊訓アラソメノとあるが、代匠記精撰本はモモカチノ、古義はモモソメノかといつてゐる。桃花は染色の名。褐は毛布又は粗布の義であるが、ここは後者であらう。カチと訓んで濃い紺色にあてるのは後世のことである。桃色の布として、アラソメともモモソメとも兩樣に訓み得る。モモソメの物に見えたのは、天智天皇紀に「桃染布(ノ)五十八端」、衣服令に「衛士皀縵|頭巾《カウフリ》桃染(ノ)衫《ヒトヘキヌ》」、延喜式衛門府式に「衛士(ハ)桃染(ノ)布衫」左右京式に「凡兵士(ハ)以(テ)2淺|桃染《モモソメヲ》爲2當色(ト)1、不(レ)得d與2衛士1雜亂(スルコト)u」などがあり、アラソメは、彈正式に「凡(テ)紵《ツクリノ》布衣者雖v染2退紅《アラソメ》1自(ハ)v非(サルハ)2輕細(ニ)1不v在(ラ)2制(ノ)限(ニ)1」、縫殿寮式に「退紅帛一疋紅花小八兩酢一合藁半圍薪三十斤」、江次第第二大臣家大饗次第に、「仕丁二人著2荒染1」などがある。縫殿寮式に退紅のみあつて、桃染のことがないから、これらによるとモモソメとアラソメとは同一物で、古くはモモソメと稱し、後にアラソメと言つたのではあるまいかと思はれる。○淺等乃衣《アサラノコロモ》――色の淺い衣。ラは清ら、明ら、うまらなどのラである。○將相物香裳《アハムモノカモ》――この歌の解、略解に「逢へるを悦びて詠める也」とあるのは、どう解したのかよくわからないが、古義にはこの句を「あはるるものかは」と解してゐるが、逢はむや逢はせじといふ意で、私は妹を深く思つて、かうして逢つたのである。我をたのみに思へといふのであらう。
(70)〔評〕 序詞が美しい。桃色の衣を着るやうな女を戀した歌でもあらう。下句の解が種々に分れてゐるのは遺憾である。
2971 おほきみの 鹽燒く海人の 藤衣 なれはすれども いやめづらしも
大王之《オホキミノ》 鹽燒海部乃《シホヤクアマノ》 藤衣《フヂゴロモ》 穢者雖爲《ナレハスレドモ》 彌希將見毛《イヤメヅラシモ》
私ハアノ女ニ〔六字傍線〕(大王之鹽燒海部乃藤衣)馴レ親ンデ來タガ、ソレデモ飽キナイデ〔九字傍線〕、愈珍ラシク愛ラシク〔四字傍線〕思フバカリダ。
○大王之鹽燒海部乃藤衣《オホキミノシホヤクアマノフヂゴロモ》――穢につづく序詞。衣服の着古したのを褻るといふからである。天皇の御料の鹽を燒く海人の着る藤衣。オホキミノシホヤクアマは代匠記精撰本に「大王の鹽燒とは越前敦賀海のあまなり。武烈紀云。於v是大伴大連率v兵(ヲ)、自將《ミイクサノキミトシテ》圍(ミ)2大臣宅(ヲ)縱《ハナツテ》v火燔v之、所v※[手偏+爲]雲(ノゴトクニ)靡、眞鳥大臣恨(ミ)2事(ノ)不(ルコトヲ)1v濟(ラ)、知(リ)2身(ノ)難(キヲ)1v兔(レ)、計窮(マリ)望絶(エ)、廣(ク)指(テ)v鹽(ヲ)詛《トコフ》、遂(ニ)被(ヌ)2殺戮《コロサ》1、及(ヒ)其子弟(サヘニ)詛(ツ)、唯忘(テ)2角鹿(ノ)鹽(ヲ)1不2以爲1v詛、由(テ)v是(ニ)角鹿之鹽(ハ)爲(ニ)2天皇(ノ)1所v食《メサ》、餘《アタシ》海(ノ)鹽爲(ニ)2天皇(ノ)1、所v忌。此(レ)事の本なり」とある。恐らく、この通り敦賀の海人を指したのであらう。藤衣は葛布で仕立てた衣。賤者の服。○穢者雖爲《ナレハスレドモ》――馴れて親しくはなつたが。古義はナルトハスレドと訓んでゐる。
〔評〕 かういふ戀歌にまで、大君の鹽燒く海人を持ち出したのは、當時の尊王思想の盛なことを物語つてゐる。卷三の須麻乃海人之鹽燒衣乃藤服《スマノアマノシホヤキキヌノフヂゴロモ》(四一三)と卷十一の呉藍之八鹽乃衣朝旦穢者雖爲益希將見裳《クレナヰノヤシホノコロモアサナサナナレハスレドモイヤメヅラシモ》(二六二三)とを一緒にしたやうな歌である。寄衣戀。
2972 赤ぎぬのの ひつらの衣 ながくほり 吾が念ふ君が 見えぬ頃かも
赤帛之《アカギヌノ》 純裏衣《ヒツラノコロモ》 長欲《ナガクホリ》 我念君之《ワガモフキミガ》 不所見比者鴨《ミエヌコロカモ》
(赤帛之純裏衣)長クイツマデモ〔五字傍線〕親シクシヨウト、私ガ思ツテヰル貴方ガ、コノ頃ハ少シモ〔三字傍線〕オ見エニナリマセヌヨ。ドウナサツタノデスカ〔ドウ〜傍線〕。
(71)○赤帛之《アカギヌノ》――赤く染めた帛の。○純裏衣《ヒツラノコロモ》――舊訓スミウラコロモ。略解ヒタウラコロモとあるが、卷十六の結經方衣氷津裡丹縫服《ユフカタキヌヒツラニヌヒキ》(三七九一)とあるから、ヒツラと訓よむがよい。ヒツラはヒタウラの略で、表も裏も一つ色になつてゐるのをいふのである。ここまでの二句は長くと言はむ爲の序詞。赤色染の純裏の衣は、美しくて長いからである。古義には長欲《ナガクホリ》につづくとしてゐるが、欲《ホリ》にはかからぬやうである。○長欲《ナガクホリ》――長く二人の關係がつづくやうに欲し望む意。考は長を著に改めて、キマホシミ、略解は同じくキマクホリと訓んでゐるが、もとのままがよい。
〔評〕 男を待つ女の歌。通ひ始めた男と、永久の關係を希望してゐるのに、それが裏切られさうなのを悲しんでゐる。これも序詞が面白い。寄衣戀。
2973 眞玉つく 遠近かねて 結びつる 吾が下紐の 解くる日あらめや
眞玉就《マタマツク》 越乞兼而《ヲチコチカネテ》 結鶴《ムスビツル》 言下?之《ワガシタヒモノ》 所解日有米也《トクルヒアラメヤ》
コレカラ先イツマデモト〔コレ〜傍線〕(眞玉就)行末ヲカケテ約束ヲシテ〔五字傍線〕結ンダ、私ノ着物ノ〔三字傍線〕下紐ハ、又二人デ相逢フマデハ〔又二〜傍線〕解ケル日ガアリマセウヤ。決シテ解ケルコトハアリマセヌ〔決テ〜傍線〕。
○眞玉就《マタマツク》――枕詞。眞玉を付ける緒とつづく。○越乞兼而《ヲチコチカネテ》――ヲチは未來、コチは現在、カネテは、かけてに同じ。未來現在に渡つて、行末永くの意。
〔評〕 卷四の眞玉付彼此兼手言齒五十戸常相而後社悔二破有跡五十戸《マタマツクヲチコテカネテコトハイヘドアヒテノチコソクイニハアリトイヘ》(六七四)はこの初二句を學んだものであらう。貞操の誓約の風習であり、戀の永續の祈願でもある。寄紐戀。
2974 紫の 帶の結も 解きも見ず もとなや妹に 戀ひわたりなむ
紫《ムラサキノ》 帶之結毛《オビノムスビモ》 解毛不見《トキモミズ》 本名也妹爾《モトナヤイモニ》 戀度南《コヒワタリナム》
私ハ戀シイ女ニ逢ヘナイノデ、自分ノ着物ノ〔私ハ〜傍線〕紫ノ帶ノ結目ヲ解イタコトガナクテ、空シクアノ女ヲ戀シテ日ヲ(72)暮スコトカナア。
○紫帶之結毛《ムラサキノオビノムスビモ》――紫の帶は、下に紫我下?乃《ムラサキノワガシタヒモノ》(二九七六)とあるから、紫色に染めた下紐である。○解毛不見《トキモミズ》――解かないで。見《ミ》は試みるの意ではなく、極めて輕く用ゐてある。○本名也妹爾《モトナヤイモニ》――モトナは空しく、徒らになどの意。
〔評〕 前後いづれも紐の歌であり、これも帶とはあるが、右に述べたやうに下紐のことに違ひない。帶と紐と混同して稱へる場合も多かつたと見える。紫の帶をした相當身分ある男の歌であらう。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。寄帶戀。
2975 高麗錦 紐の結も 解きさけず 齋ひてまてど しるしなきかも
高麗錦《コマニシキ》 ?之結毛《ヒモノムスビモ》 解不放《トキサケズ》 齋而待杼《イハヒテマテド》 驗無《シルシナキカモ》
行末變ラジト二人デ結ンダ着物ノ〔行末〜傍線〕高麗錦ノ紐ノ結目モ解カナイデ、獨寢ヲシテ〔五字傍線〕神樣ヲオ祭リシテ、アナタト又逢フ時節ノ來ルノヲ〔アナ〜傍線〕待ツテヰルケレドモ、少シモ〔三字傍線〕効能ガナイヨ。神樣モ私ヲ哀ンデ下サリサウナモノダノニ〔神樣〜傍線〕。
○高麗錦《コマニシキ》――高麗から舶來の錦。これを枕詞と見る説が多いが、さうしない方がよい。二〇九〇參照。○齋而待杼《イハヒテマテド》――神を祝ひて人に逢ふ時を待てどの意。イハフは神を祀り齋くこと。
〔評〕 新考に「結べる紐を解かざれば戀ふる人に逢ふなどいふ俗信ありて、それによりてよめるなり」とあるが、曾て逢へる時二人して結んだ紐を解きもせずにといふので、そんな俗信によつたものとは思はれない。これも高麗錦の紐を用ゐてゐた身分ある人の歌であらう。寄紐戀。
2976 紫の 吾が下紐の 色に出でず 戀ひかも痩せむ 逢ふよしをなみ
紫《ムラサキノ》 我下?乃《ワガシタヒモノ》 色尓不出《イロニイデズ》 戀可毛將痩《コヒカモヤセム》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》
人ノ目ニツカヌヤウニ〔人ノ〜傍線〕(紫我下?乃)顔色ニハ出サズ、唯心ノ内デ戀シテヰテ、戀シイ人ニ〔唯心〜傍線〕逢フ方法ガナイノデ、(73)私ハ〔二字傍線〕戀ノ爲ニ痩セテシマヒハシナイダラウカ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
○紫我下?乃《ムラサキノワガシタヒモノ》――序詞。色に出づとつづいてゐる。紫の色は美しいからである。○色爾不出《イロニイデズ》――顔色にあらはさずに。
〔評〕 忍ぶ戀の歌。戀の煩悶に身の痩せ行くことを恐れてゐるが、穩やかな表現になつてゐる。寄紐戀。
2977 何故か 思はずあらむ 紐の緒の 心に入りて 戀しきものを
何故可《ナニユヱカ》 不思將有《オモハズアラム》 ?緒之《ヒモノヲノ》 心爾入而《ココロニイリテ》 戀布物乎《コヒシキモノヲ》
私ハアナタノコトガ〔九字傍線〕、心ニシミジミ〔四字傍線〕ト(?緒之)入リ込ンデ戀シイノニ、ドウシテ貴方ヲ〔三字傍線〕思ハヌト云フコトガアルモノデスカ。私ハ心カラ貴方ヲ思ツテヰルノデス〔私ハ〜傍線〕。
○?緒之心爾入而《ヒモノヲノココロニイリテ》――紐を結ぶのに一つを輪にして、他をその中に入れるのを、心に入るといふらしい。それでかう用ゐるのである。古今集の「よそにして戀ふれば苦し入紐のおなじ心にいざむすびてむ」とあるのと同意だと契沖は言つてゐる。ココロニイルは深く心にかけて、身に沁みて。
〔評〕 相手が自分の誠意を疑ふやうなことを言つたのに對した歌。強い語調になつてゐる。寄紐戀。
2978 まそ鏡 見ませ 吾背子 わが形見 持たらむ時に 逢はざらめやも
眞十鏡《マソカガミ》 見座吾背子《ミマセワガセコ》 吾形見《ワガカタミ》 將持辰爾《モタラムトキニ》 將不相哉《アハザラメヤモ》
貴方ハ今カラ旅ニオ出カケナサルナラバ、コノ〔貴方〜傍線〕鏡ヲ持テオイデニナツテ、私ノ記念ト思ツテ〔持ツ〜傍線〕御覽ナサイ。私ノ形見ヲ持ツテイラツシヤルカラハ、何時カ又私ガ廻リ〔八字傍線〕逢ハナイト云フコトガアルモノデスカ。コレヲ持ツテイラツシヤレバ御無事デ御歸リニナツテ、又私ハオ目ニカカレルト思ヒマス〔コレ〜傍線〕。
○將持辰爾《モタラムトキニ》――時を辰に用ゐてある。鏡を持ちてあらむその間にの意。略解に「もたらむ時に云々は、手に持(74)て向はむ時に逢はむ也と翁いはれき」とあるが、さうではあるまい。鏡さへ持つてゐたならば、何時か逢へるといふのである。辰を宣長は君の誤として、モタラムキミニであらうと言つてゐる。辰を時に用ゐたのは、辰爾波成《トキニハナリヌ》(二六四一)とあるから、誤とは斷じ難い。
〔評〕 鏡が人の形見として、最も好適な重要なものであつたことを物語る作品である。三種神器中に鏡が重な役目をなしてゐる理由も、これで明らかにせられる。その意味で見逃すべからざる作品である。寄鏡戀。
2979 まそ鏡 ただ目に君を 見てばこそ 命にむかふ 吾が戀やまめ
眞十鏡《マソカガミ》 直目爾君乎《タダメニキミヲ》 見者許増《ミテバコソ》 命對《イノチニムカフ》 吾戀止目《ワガコヒヤマメ》
戀シイ〔三字傍線〕アナタヲ直接ニ(眞十鏡)見タナラバコソ、命ガケノ私ノ戀モヤスマルデアラウ。サモナクバ、遂ニハ焦死スルカモシレナイ〔サモ〜傍線〕。
○眞十鏡《マソカガミ》――ここでは句を隔てて見につづいて、枕詞となつてゐる。○見者許曾《ミテバコツ》――見たならばこそ。○命對《イノチニムカフ》――命がけの。
〔評〕 前の外目毛君之光儀乎見而者社壽向吾戀止目《ヨソメニモキミガスガタヲミテバコソイノチニムカフワガコヒヤマメ》(二八八三の一云)と似てゐるが、これは鏡に寄せて、且|外目《ヨソメ》が直目《タダメ》になつてゐる點を異にしてゐる。内容からいへば、卷四の直相而見而見而者耳社靈剋春命向吾戀止眼《タダニアヒテミテバノミコソタマキハルイノチニムカフワガコヒヤマメ》が更に近い。多分かれはこれを摸したのであらう。寄鏡戀。
2980 まそ鏡 見飽かぬ妹に 逢はずして 月の經ぬれば 生けりともなし
犬馬鏡《マソカガミ》 見不飽妹爾《ミアカヌイモニ》 不相而《アハズシテ》 月之經去者《ツキノヘヌレバ》 生友名師《イケリトモナシ》
イクラ見テモ〔六字傍線〕(犬馬鏡)見飽カナイ戀シイ〔三字傍線〕女ニ久シク〔三字傍線〕逢ハナイデ、幾月モタツタカラ、私ハ戀シクテ〔六字傍線〕生キテヰルヤウナ氣ハシマセヌ。
(75)○犬馬鏡《マソカガミ》――枕詞。犬馬をマソと訓むのは喚犬、追馬の略で、卷十三に喚犬追馬鏡( )とある。○生友名師《イケリトモナシ》――代匠記精撰本にイケルトモナシとよんであるので、これに從ふ説も多いが、やはり舊訓のままがよい。卷十九に伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》(四一七〇)とあるのは特例である。
〔評〕 結句をイケリトモナシで終つたのは、力強い表現のやうであるが、集中にその例が乏しくない。内容も別に變つた點もない。寄鏡戀。
2981 はふり等が 齋ふ御室の まそ鏡 懸けてぞしぬぶ 逢ふ人ごとに
祝部等之《ハフリラガ》 齋三諸乃《イハフミムロノ》 犬馬鏡《マソカガミ》 懸而偲《カケテゾシヌブ》 相人毎《アフヒトゴトニ》
私ハ途中デ〔五字傍線〕逢フ人ゴトニ、自分ノ戀人ハコノ人ニ似テヰルトカ、似テヰナイトカト考ヘテ〔自分〜傍線〕、(祝部等之齋三諸乃犬馬鏡)心ニ〔二字傍線〕カケテ戀人ヲ〔三字傍線〕思ヒ出スヨ。
○祝部等之《ハフリラガ》――ハフリは神に仕へ祭祀に從ふ人。神職。卷十にも祝部等之《ハフリラガ》(二三〇九)とある。○齋三諸乃《イハフミムロノ》――イハフは祀る。三諸は御室。神をいくところ。○犬馬鏡《マソカガミ》――この句までの上三句は懸けてと言はむ爲の序詞。神社には神前に鏡を懸けるからである。○懸而偲《カケテゾシヌブ》――舊訓を改めて、代匠記精撰本はカケテシノビツとし、考は而を所の誤として、カケテシヌバユとしてゐるが、舊訓のままがよい。この句は心に懸けて戀人をなつかしく思ひ起すといふのである。
〔評〕 前の二歌は犬馬鏡を枕詞として用ゐてゐるのに、これは序詞としてゐるだけ、殘りの部分が窮窟になつて意味の明瞭を缺くやうな傾がある。寄鏡戀。
2982 針はあれど 妹しなければ つけめやと 我をなやまし 絶ゆる紐の緒
針者有杼《ハリハアレド》 妹之無者《イモシナケレバ》 將著哉跡《ツケメヤト》 吾乎令煩《ワレヲナヤマシ》 絶?之緒《タユルヒモノヲ》
私ハ旅ニ出テヰルガ〔九字傍線〕、針ハアツナモ女ガヰナイカラ、ツケルコトハ出來マイト云フヤウニ〔五字傍線〕、私ヲ困ラセテ、着物ノ〔三字傍線〕紐ガ切レルヨ。意地ノ惡イ紐ダ〔七字傍線〕。
(76)○妹之無者《イモシナケレバ》――古義にイモガナケレバとあるのはよくない。○絶?之緒《タユルヒモノヲ》――舊本、緒を結に作るは誤。元暦校本による。
〔評〕 旅行中に紐の絶えたのに惱んで詠んだもの。純な童心のあらはれとも言へよう。卷二十に久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂許禮乃波流母志《クサマクラタビタビノマルネノヒモタエバアガテトツケロコレノハルモシ》(四四二〇)といふのは、防人に贈つた歌で、これとは關係はないが、恰もこの歌を贈られた人の言葉のやうである。寄針戀。
2983 高麗劔 わがこころから よそのみに 見つつや君を 戀ひわたりなむ
高麗劔《コマツルギ》 己之景迹柄《ワガココロカラ》 外耳《ヨソノミニ》 見乍哉君乎《ミツツヤキミヲ》 戀渡奈牟《コヒワタリナム》
色々ト都合ガ惡クテ、逢ヒタイト思ヒナガラモ〔色々〜傍線〕(高麗劔)私ノ心カラシテ、アノ人ヲ外處ニ見テ、戀ヒ續ケテヰルコトデアラウカ。自分ノ都合デ逢ハレナイノダカラ、誰ヲ恨ミヤウモナイ〔自分〜傍線〕。
○高麗劔《コマツルギ》――枕詞。ワとつづく。高麗劔は柄頭が環状をなしてゐるからである。一九九參照。○己之景迹故《ワガココロカラ》――卷九に釼刀已之心柄於曾也是君《ツルギタチナガココロカラオゾヤコノキミ》(一七四一)とあるに似てゐる。景迹をココロとよむについて代匠記初稿本に「天武紀云、十一年八月壬戍、朔甲戍、詔曰。几(ソ)諸(ノ)應2考選1者、能(ク)※[手偏+僉]《カウカヘテ》2其(ノ)族《ウカラ》姓《カハネ》及(ヒ)景迹《ココロハセヲ》1、方(ニ)後(ニ)考(セヨ)之、若雖2景迹《ココロハセ》行能《シハサ》灼然《イヤチコナリト》1、其族姓不v定(マラ)者、不v在2考選之|色《シナニ》1。こゝろはせは、こゝろなり、かくはかけり」とある通りである。考課令に、「凡官人景迹功遇應v附v考者、皆頌2實録1」とあり、義解に、「景迹者、景(ハ)像也、猶言2状迹1也」とあり、行跡といふに似てゐるが、上代ではココロバセと訓したので、ココロの意に用ゐたのである。
〔評〕 女が障ることありて、男に逢はれぬのを嘆いた歌であらう。これも我ゆゑで、誰を恨みむやうもないといふのである。女らしい消極的な戀である。寄劔戀。
2984 劔太刀 名のをしけくも 我はなし この頃の間の 戀の繁きに
劔太刀《ツルギタチ》 名之惜毛《ナノヲシケクモ》 吾者無《ワレハナシ》 比來之間《コノゴロノマノ》 戀之繁爾《コヒノシゲキニ》
私ハコノ頃ハ戀ノ心〔二字傍線〕ガ盛ナノデ、戀ノ爲ニ惡イ〔六字傍線〕(劔太刀)評判ノ立ツノモ、イヤトハ思ハナイ。
(77)○劔太刀《ツルギタチ》――枕詞。ナとつづくのは、劔の刃をナといふからである。
〔評〕 卷十一の我妹戀度劔刀名惜念不得《ワガモコニコヒシワタレバツルギタチナノヲシケクモオモヒカネツモ》(二四九九)。この卷の三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモワレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》(二八七九)に似てゐる。この歌の上句をそのまま採つたのが、卷四の釼太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》(六一六)である。寄劔戀。
2985 梓弓 末はし知らず 然れども まさかは君に よりにしものを 一本歌云、梓弓末のたづきは知らねども心は君によりにしものを
梓弓《アヅサユミ》 末者師不知《スヱハシシラズ》 雖然《シカレドモ》 眞坂者君爾《マサカハキミニ》 縁西物乎《ヨリニシモノヲ》
私ハ貴方トノ戀ニ就テハ〔私ハ〜傍線〕(梓弓)先ハドウナルカ知リマセヌ。然シナガラ、只今ハ貴方ニ心ヲ寄セテシマヒマシタヨ。私ハ末ノ末マデ約束ガシタイノデスガ、ソレデハ口バカリノヤウデスカラ、ソンナ約束ハシマセヌ。然シ今私ガ貴方ヲ思ツテ居ル心ヲ御汲取下サイ〔私ハ〜傍線〕。
○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。末につづくのは、弓の上端を末《スヱ》といふからである。○末者師不知《スヱハシシラズ》――將來は分らぬが。シは強めて言ふのみ。○眞坂者君爾《マサカハキミニ》――マサカは目前、まのあたりといふやうな意。○縁西物乎《ヨリニシモノヲ》――心を寄せてしまつたよの意。
〔評〕 現在の燃えるやうな情熱を述べたのである。初二句に未來を誓はないのは、薄情のやうでもあるが、さうではなく、現在を主として述べたのである。寄弓戀。
一本歌云 梓弓《アヅサユミ》 末乃多頭吉波《スヱノタヅキハ》 雖不知《シラネドモ》 心者君爾《ココロハキミニ》 因之物乎《ヨリニシモノヲ》
(梓弓)將來ノ身ノフリ方ハ、ドウナルカワカラナイガ、私ハ〔二字傍線〕心ハアナタニヨツテシマヒマシタヨ。ドウゾ可愛サウト思ツテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
〔評〕 前の歌とは少し意が異なつてゐる。別歌と考ふべきである。行末の生活などは念頭になく、今は唯々君をた(78)よりとして生きてゐるといふので、この方がより情熱的であらう。
2986 梓弓 引きみゆるべみ 思ひ見て すでに心は よりにしものを
梓弓《アヅサユミ》 引見縱見《ヒキミユルシミ》 思見而《オモヒミテ》 既心齒《スデニココロハ》 因爾思物乎《ヨリニシモノヲ》
(梓弓)色々ト態度ヲカヘテ考ヘテ見テ、私ノ〔二字傍線〕心ハ疾クニ貴方ニ〔三字傍線〕寄ツテシマヒマシタヨ。私ハ決シテ他心ハ持チマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
○梓弓《アヅサユミ》――枕詞であるが、引《ヒキ》、縱《ユルベ》、因《ヨリ》などにかかつてゐる。○引見縱見《ヒキミユルシミ》――引いて見たり、ゆるべて見たり。いろいろと態度をかへることをいふ。
〔評〕 枕詞の梓弓を中心として、縁語で固めてゐるのが、一寸變つた技巧である。いろいろ考慮の末決心した戀だから決して、變らぬといふのである。卷十一の梓弓引見絶見不來者不來來者來其乎奈何不來者來者其乎《アヅサユミヒキミユルベミコズバコズコバコソヲナゾコズバコバソヲ(二六四〇)と、初二句、同じてある。寄弓戀。
2987 梓弓 引きてゆるべぬ ますらをや 戀とふものを しぬびかねてむ
梓弓《アヅサユミ》 引而不緩《ヒキテユルベヌ》 大夫哉《マスラヲヤ》 戀云物乎《コヒトフモノヲ》 忍不得牟《シノビカネテム》
弓ヲ引張ツテ弛メナイデヰルヤウナ、張リツメタ強イ心ノ〔九字傍線〕男デアリナガラ、戀ト云フツマラヌ〔四字傍線〕物ヲ、コラヘカネルコトガアラウカ。ソンナコトハナイ筈ダ。我ナガラ自分ノ腑甲斐ナサニハ呆レテシマフ〔ソン〜傍線〕。
○梓弓《アヅサユミ》――この梓弓は枕詞ではなく、譬喩に用ゐてある。○引而不縦《ヒキテユルベヌ》――弓は引きしぼつて、弛べずして放つものであるから、かういつてある。心の強さを譬へてゐる。ユルサヌとよんではよくない。古義に「常に張置て弛まぬ弓の如く心を強くもつ大丈夫にして」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 力強く、張つた弓のやうな緊張した調子になつてゐる。卷十一に劔刀身爾佩副流丈夫也戀云物乎忍金手武《ツルギタチミニハキソフルマスラヲヤコヒテフモノヲシヌビカネテム》(二六三五)とあり、同歌の改作であらう。寄弓戀。
2988 梓弓 末の中ごろ よどめりし 君には逢ひぬ 嘆きは息めむ
(79)梓弓《アヅサユミ》 末中一伏三起《スヱノナカゴロ》 不通有之《ヨドメリシ》 君者會奴《キミニハアヒヌ》 嗟羽將息《ナゲキハヤメム》
(梓弓)末ノ中頃ニ、打チ絶エテ、通ツテオイデナサラナカツタ貴方ニ、久シ振リデ今日〔七字傍線〕逢ツタ。グカラ私ハモウ〔七字傍線〕悲シミマスマイ。嬉シイコトデス〔七字傍線〕。
○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。スヱとつづく。○末中一伏三起不通有之《スヱノナカゴロヨドメリシ》――末の中頃盛に通つてゐた後、しばらく途絶えたのをかく言つたのである。舊訓スヱナカタメテとあつたのを宣長が改訓したのがよい。一伏三起とあるのは、古代の博奕の名で、四枚の木片を投じて、一箇伏して三箇仰いだのを、コロと稱したのである。卷十の暮三伏一向夜《ユフツクヨ》(一八七四)の條に委しく述べて置いた。
〔評〕 しばらく逢はなかつた男に、逢ひ得た歡喜を述べた女の歌。結句、古義にナゲキハヤマムとあるが、さうよんでは面白くない。寄弓戀。
2989 今更に 何しか思はむ 梓弓 引きみ弛べみ よりにしものを
今更《イマサラニ》 何牡鹿將念《ナニシカオモハム》 梓弓《アヅサユミ》 引見弛見《ヒキミユルベミ》 縁西鬼乎《ヨリニシモノヲ》
私ハアノ人ニ〔六字傍線〕(梓弓)色々ト考ヘテ心ヲ寄セタノデスカラ、今更ドウシテクヨクヨ〔四字傍線〕物ヲ思ヒマセウヤ。決シテ何モ考ヘマセヌ〔十字傍線〕。
○縁西鬼乎《ヨリニシモノヲ》――これは下から上へ反るやうな形になつてゐる。
〔評〕 前の梓弓引見縱見《アヅサユミヒキミユルベミ》(二九八六)の歌と同歌の異傳といつてもよいほどに似てゐる。卷四の今更何乎可將念打靡情者君爾緑爾之物乎《イマサラニナニヲカオモハムウチナビキココロハキミニヨリニシモノヲ》(五〇五)はこれに傚つたものである。寄弓戀。
2990 をとめらが 績麻のたたり 打麻かけ うむ時なしに 戀ひわたるかも
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 續麻之多田有《ウミヲノタタリ》 打麻懸《ウチソカケ》 續時無二《ウムトキナシニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
私ハ貴女ヲ〔五字傍線〕(※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸)倦クコトモナク、始終思ヒ續ケテ居ルヨ。
(80)○※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸《ヲトメラガウミヲノタタリウチソカケ》――續《ウム》と言はむ爲の序詞。少女等が麻を續む爲のタタリに打麻を懸けて、糸を續むとつづくのである。多田有《タタリ》は和名抄に「絡〓、楊氏漢語抄云多多理」とあり、又「〓」とも記してある。令義解に「凡天皇即位※[手偏+總の旁]祭2天神地祇1、散齋一月致齋三日、其大幣者、三月之内令2修理1訖(レ)。謂大幣者、供神幣物、各有2色目1。金(ノ)水桶金(ノ)線柱《タタリ》奉2伊勢神宮1楯戈奉2住吉神1之類是也。」とあり。龍田風神祭の祝詞にも「金能|麻笥《ヲケ》、金能|〓《タタリ》、金能|〓《カセヒ》」とある。〓糸をこれにかけて、糸を繰り取る爲の具で、臺木の上に柱を立てたものである。大神宮式に「金銅多多利二基 高各一尺一寸六分土居徑三寸六分 銀銅多多利 高一尺一寸六分、土居徑二寸五分」とあるので、その構造を知ることが出來る。挿畫は十帖源氏所載。中央の燈臺の如きものがタタリである。打麻は打ち和げた麻。糸にする前によく叩いて置くのである。全麻《ウツソ》として、美しき麻と解する説はとらない。
(81)〔評〕面白い序詞である。當時の婦女子の手業も想像せられ、文化的にも貴い資料である。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。寄麻戀。
2991 たらちねの 母が養ふ蠶の 繭ごもり いぶせくもあるか 妹に逢はずて
垂乳根之《タラチネノ》 母我養蚕乃《ハハガカフコノ》 眉隱《マユゴモリ》 馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イブセクモアルカ》 異母二不相而《イモニアハズテ》
私ハ戀シイ〔五字傍線〕女ニ逢フコトガ出來ナイデ(垂乳根之母我養蠶乃眉隱)心ガハレナイヨ。
○垂乳根之母我養蠶乃眉隱《タラチネノハハガカフコノマユゴモリ》――序詞。イブセクとつづいてゐるのは、繭の中に籠つた蠶の窮窟さに譬へたのである。垂乳根之《タラチネノ》は母の枕詞。その意は四四三參照。眉は繭の借字。○馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イブセクモアルカ》――イブセクは欝悒の意。心の晴れないこと。馬の聲はイと聞え(今も馬の聲をイナナクといふのはイと啼くといふことである)蜂の音はブと聞えるから、戯れて馬聲蜂音《イブ》と記したのである。石花をセとよむことは石花海跡《セノウミト》(三一九)の條に委しく記したやうに、石花貝《セ》といふ貝の名から出てゐる。
〔評〕上句は足常母養子眉隱隱在妹見依鴨《タラチネノハハガカフコノマユゴモリコモレルイモヲミムヨシモガモ》(二四九五)卷十三の長歌に乳根笶母之養蚕之眉隱氣衝渡《タラチネノハハガカフコノマユゴモリイキヅキワタリ》(三二五八)とあるのに同じ。しかもイブセクにつづけたのは巧である。和歌童蒙抄に出てゐる。寄蠶戀。
2992 玉だすき 懸けねば苦し 懸けたれば つぎて見まくの 欲しき君かも
玉手次《タマダスキ》 不懸者辛苦《カケネバクルシ》 懸垂者《カケタレバ》 續手見卷之《ツギテミマクノ》 欲寸君可毛《ホシキキミカモ》
(玉手次)心ニ戀人ヲ〔三字傍線〕思ハナイト苦シイシ、思ヘバ又〔傍線〕絶エズ見タイ貴方ダヨ。私ハアナタヲ思ハズニハヰラレナイシ、逢ハズニモヰラレナイ〔私ハ〜傍線〕。
○玉手次《タマダスキ》――枕詞。懸《カケ》とつづくのは、襷は身にかけるからである。○不懸者辛苦《カケネバクルシ》――代匠記精撰本に「不懸者とは相見ぬさきの喩なり」とあり、考・略解・古義などこれに傚つて、襷をかくるを思ふ人にあふにたとへたも(82)のとしてゐる。しかしここの玉襷は、枕詞たるは論なく、人に逢ふことを懸くといつた例は見當らない。懸くは何時も心に懸け又は口に懸けることであるから、その意を以て解すべきである。即ち心に戀しく思ふことと見て差支へないのである。
〔評〕 思ふまいと努力するのは苦しいし、思へば又逢ひたくなるのは困つたものだといふので、戀する人の心がよく歌はれてゐる。寄襷戀。
2993 紫の まだらの※[草冠/縵] はなやかに 今日見し人に 後戀ひむかも
紫《ムラサキノ》 綵色之※[草冠/縵]《マダラノカヅラ》 花八香爾《ハナヤカニ》 今日見人爾《ケフミシヒトニ》 後將戀鴨《ノチコヒムカモ》
私ガ〔二字傍線〕今日此處デ〔三字傍線〕出逢ツタ(紫綵色之※[草冠/縵])花ヤカナ美シイ人ヲ、後デ又〔傍線〕戀シク思フコトデアラウカ。コノ美シイ姿ハ忘レラレサウニモナイカラ、イヅレ思ノ種ニナルデアラウ〔コノ〜傍線〕。
○紫綵色之※[草冠/縵]《ムラサキノマダラノカヅラ》――綵色は卷七に綵色衣《マダラノコロモ》(一二五五)とあり、ここも、マダラと訓むべきである。舊訓ムラサキノイロノカツラノ、代匠記精撰本ムラサキノニシキノカツラ、考ムラサキノコソメノカツラ、略解ムラサキニソメテシカツラとあるのは、いづれも面白くない。紫色に斑に染めた※[草冠/縵]。この※[草冠/縵]は謂はゆる木綿※[草冠/縵]で、色美しく染めた布帛を頭部に纒うたのである。○花八香爾《ハナヤカニ》――古義に「花は花物の花にて、さてその花は實の對《ウラ》にて、實ならず、阿陀阿陀しきを言ふなるべし」とあるが、さうではあるまい。花やかに見るは、花やかなる人として見たこと。即ち美しいことであらう。○今日見人爾《ケフミシヒトニ》――舊訓ケフミルヒトニとあるよりも、ミシと訓む方がよからう。兎も角も意は今日相見た美しい人にの意。
〔評〕 初二句は序詞であるが、紫色の染木綿を頭に卷いた美人を、戀した歌かも知れない。上代風俗の研究資料となるべき歌である。略解に「此かづらは玉かづら也。玉かづらは玉を貫垂て頭に懸るかづら也云々」とあるのは違つてゐる。寄※[草冠/縵]戀。
2994 玉かづら 懸けぬ時なく 戀ふれども いかにか妹に 逢ふ時も無き
玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》 不懸時無《カケヌトキナシ》 戀友《コフレドモ》 何如妹爾《イカニカイモニ》 相時毛名寸《アフトキモナキ》
(83)私ハアノ女ヲ心〔八字傍線〕(玉※[草冠/縵])思ヒ〔二字傍線〕懸ケヌ時モ無ク、始終〔二字傍線〕思ツテ居ルケレドモ、ドウシテアノ女ニ逢フ機會ガナイノデアラウカ。
○王※[草冠/縵]《タマカヅラ》――枕詞。玉を緒に貫いて、頭髪を飾るもの、懸とつづくのは、玉※[草冠/縵]は懸けるものであるからである。
○不縣時無《カケヌトキナク》――心に懸けぬ時なく。○何如妹爾《イカニカイモニ》――何如はイカニとよむべき文字である。イカニゾイモニ、イカデカイモニとも訓めるが、イカニカイモニがよいやうである。
〔評〕 思へども逢ひ難きを歎じたもの。かういふ内容の歌はいくらもある。袖中抄に出てゐる。寄※[草冠/縵]戀。
2995 逢ふよしの 出で來むまでは 疊薦 重ね編む數 夢にし見てむ
相因之《アフヨシノ》 出來左右者《イデコムマデハ》 疊薦《タタミゴモ》 重編數《カサネアムカズ》 夢西將見《イメニシミエム》
私ハ私ノ戀シイ人ニ〔九字傍線〕、逢フ方法ガ出來ルマデハ、アノ人ヲ忘レルコトガ出來ナイデ〔アノ〜傍線〕、疊薦ヲ段々ニ重ネ〔五字傍線〕重ネテ編ム數ノヤウニ、何度トナク繰返シ〔八字傍線〕夢ニ見ヨウト思フ。サウシテ心ヲ慰メヨウ〔サウ〜傍線〕。
○疊薦重編數《タタミゴモカサネアムカズ》――疊薦は疊に編む薦。重の字を略解にヘダテと訓んだのは無理である。疊を編む爲に薦を幾條となく重ねるのを、數の多い譬としたのである。
〔評〕 三四の句は卷十一の疊薦隔編數通者道之柴草不生有申尾《タタミゴモヘダテアムカズカヨハサバミチノシバクサオヒザラマシヲ》(二七七七)の初二句と略同樣である。農民の戀歌らしい。寄疊戀。
2996 しらがつく 木綿は花物 言こそは 何時のさえだも 常忘らえね
(84)白香付《シラガツク》 木綿者花物《ユフハハナモノ》 事社者《コトコソハ》 何時之眞枝毛《イツノサエダモ》 常不v所v忘《ツネワスラエネ》
白苧ヲツケル木綿ト云フモノ〔五字傍線〕ハ美シイ花ヤカナモノダガ、本當ノ花デハナイ。ソレト同ジヤウニ、貴方ノオツシヤル〔ガ本〜傍線〕言葉サケハ、、誠ニ親切デ〔五字傍線〕何時ノ一寸モ忘レルコトハ出來ナイ。然シ一向本當デハナイヤウデス〔然シ〜傍線〕。
○白香付《シラガツク》――枕詞ではない。白香は白苧。白紙とする説はとらない。白苧を付けた木綿と下へつづく。三七九參照。○木綿者花物《ユフハハナモノ》――木綿はあだな物だとの意。舊訓ハナカモとあるのはよくない。○事社者《コトコソハ》――事は言である。○何時之眞枝毛《イツノサエダモ》――舊訓イツノサネキモとあるのは無理であるが、考に枝を坂に改めて、マサカと訓んだのも從ひがたい。文字通りにサエダと訓んで、小枝即ち一寸の意に解したい。或はサエダに時の意あるか。卷十四、於曾波也母伎美乎思麻多武牟可都乎能思比乃佐要太能登吉波須具登母《オソハヤモキミヲシマタムムカツヲノシヒノサエダノトキハスグトモ》(三四九三の或本)とある。なほ攻究を要す。
〔評〕 難解な歌である。或は誤字があるかも知れない。寄木綿戀。
2997 石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜ぞふけにける
石上《イソノカミ》 振之高橋《フルノタカハシ》 高高爾《タカダカニ》 妹之將待《イモガマツラム》 夜曾深去家留《ヨゾフケニケル》
(石上振之高橋)熱心ニ女ガ私ノ來ルノヲ〔六字傍線〕今夜ハ待ツテ居ルデアラウガ〔傍線〕、モウ大分遲クナツタ。
○石上振之高橋《イソノカミフルノタカハシ》――序詞。同音を繰返して、下の高高につづいてゐる。石上の布留にある高橋。布留川に架けてあつた高い橋であらう。武烈天皇紀に、伊須能箇瀰賦屡嗚須擬底擧慕摩矩羅?箇播志須擬《イスノカミフルヲスギテコモマクラタカハシスギ》云々とあるから、やがて地名ともなつてゐたらしい。今その舊地と稱するものが丹波市町にある。○高高爾《タカダカニ》――待つにつづく語で、心から待つ意に用ゐるやうである。七五八參照。
〔評〕 高高に待つと詠んだ歌は集中に多いが、當時有名であつた石上の高橋を採つて、序詞を作つてゐるのが、時人の興味を引いたのであらうと思はれる。俚謠らしい作だ。寄橋戀。
2998 湊入の 葦別小船 さはり多み いま來む我を よどむと思ふな 或本謌曰、湊入に葦別小船 障多み君に逢はずて年ぞへにける。
(85)湊入之《ミナトイリノ》 葦別小船《アシワケヲブネ》 障多《サハリオホミ》 今來吾乎《イマコムワレヲ》 不通跡念莫《ヨドムトモフナ》
(湊入之葦別小船)故障ガ多イノデ、直グニ來ルコトガ出來ナイガ、イヅレ後デ〔直グ〜傍線〕ソノ内ニ私ハ行ク筈ダカラ、私ガ薄情デ〔五字傍線〕來ナイトハ思ヒナサルナ。
○湊入之葦別小船《ミナトイリノアシワケヲブネ》――葦を押しわけつつ河口に漕ぎ入る小舟。障多みにつづく序詞。○今來吾乎《イマコムワレヲ》――今來むはその内、やがて、行かむの意。古今集「今來むと言ひしばかりに」・「まつとし聞かば今かへり來む」などの今に同じ。只今直ちになどの意ではない。○不通跡念莫《ヨドムトモフナ》――ヨドムは淀む。文字通り停滯して通はぬこと。
〔評〕 卷十一の湊入之葦別小舟障多見吾念公爾不相頃者鴨《ミナトイリノアシワケヲブネサハリオホミワガモフキミニアハヌコロカモ》(二七四五)と上句全く同じ。上品な序詞である。寄船母。
或本謌曰 湊入尓《ミナトイリニ》 葦別小船《アシワケヲブネ》 障多《サハリオホミ》 君爾不相而《キミニアハズテ》 年曾經來《トシゾヘニケル》
四五の句の異本であるが、寧ろ卷十一(二七四五)の歌に多く似てゐる。
2999 水を多み あげに種蒔き 稗を多み えらえし業ぞ 吾が獨ぬる
水乎多《ミヅヲオホミ》 上爾種蒔《アゲニタネマキ》 比要乎多《ヒエヲオホミ》 擇擢之業曾《エラエシワザゾ》 吾獨宿《ワガヒトリヌル》
下田《クボタ》ニハ〔四字傍線〕水ガ多イノデ高田《アゲタ》ニ種ヲ蒔イテ、サウシテソノ生エタ中ニ〔サウ〜傍線〕、稗ガ澤山交ツテヰルノデ、ソレヲ擇ミ出シテ捨テルヤウニ、私モアノ人ニ〔ソレ〜傍線〕擇ビ出サレタコトダ。カウシテ〔四字傍線〕私ハ一人デ寢テヰルヨ。アアツマラナイ〔七字傍線〕。
○上爾種蒔《アゲニタネマキ》――上《アゲ》は古事記の海若宮《ワタツミノミヤ》の條に「然而其兄作2高田1者汝命營2下田1其兄作2下田1者汝命營2高田1《シカシテソノイロセアゲタヲツクラバナガミコトハクボタヲツクリクマヘソノイロセクボタヲツクラバナガミコトハアゲタヲツクリタマヘ》」とあつて、高所にある田のことである。水の多過ぎるところは、高所に田を作るのである。○比要乎多《ヒエヲオホミ》――比要は稗。○擇擢之業曾《エラエシワザゾ》――擇び出されしことぞの意。稗は稻にまじりて生じ、妨害となるからこれを拔き取るのである。それを自分のみが捨てられたことに譬へてある。
(86)〔評〕譬喩が頗る巧妙と言はねばならぬ。農民の歌であらう。卷十一の打田稗數多雖有擇爲我夜一人宿《ウツタニヒエハアマタニアリトイヘドエラエシワレゾヨルヒトリヌル》(二四七六)と似てゐる。寄田戀。
3000 靈合はば 相宿むものを 小山田の しし田もる如 母し守らすも 一云、母が守らしし
靈合者《タマアハバ》 相宿物乎《アヒネムモノヲ》 小山田之《ヲヤマダノ》 鹿猪田禁如《シシタモルゴト》 母之守爲裳《ハハシモラスモ》
二人ノ〔三字傍線〕心ガ合ツタナラバ、二人デ一所ニ寢ルノハ當リ前ノ〔六字傍線〕コトダノニ、山田ニ出テ來テ作物ヲ荒ス〔ニ出〜傍線〕鹿猪ヲ番デモスルヤウニ母ハ私ノ〔二字傍線〕番ヲシテ戀人ニ逢ハセナイヨ。辛イコトダ〔テ戀〜傍線〕。
○靈合者《タマアハバ》――魂が睦び合はば。二人が仲よく親しくならばの意。舊訓タマアヘバとあり、古義タマシアヘバとあるが、よくない。○鹿猪田禁如《シシタモルゴト》――シシタは鹿猪の来て荒す田。
〔評〕 いかにも田舎少女の歌らしい。靈合者相宿物乎《タマアハバアヒネムモノヲ》は上代人らしい思ひ切つた言葉である。寄田戀。
一云 母之守之師《ハハガモラシシ》
これは五の句の異傳である。かうすれば過去のことを悔む歌となる。
3001 春日野に 照れる夕日の よそのみに 君を相見て 今ぞ悔しき
春日野爾《カスガヌニ》 照有暮日之《テレルユフヒノ》 外耳《ヨソノミニ》 君乎相見而《キミヲアヒミテ》 今曾悔寸《イマゾクヤシキ》
私ハ〔二字傍線〕(春日野爾照有暮日之)他處ナガラ離レテ〔三字傍線〕貴方ヲ見タバカリデ、カウシテ戀ニ心ヲ焦シテヰルガ、モツト近付イテ、思フ心ヲ打チ明ケデモスレバヨカツタノニ〔カウ〜傍線〕、今ニナツテカラ残念ニ思フヨ。
○春日野爾照有暮日之《カスガヌニテレルユフヒノ》――序詞。夕日の照れる樣を、よそながら眺める意である。
〔評〕 都から小高く見える春日野に、夕日が斜に指す景色は、都人がいつも遙かに眺めるところである。これを序詞としたのは巧妙適切である。寄夕日戀。
3002 足引の 山より出づる 月待つと 人には言ひて 妹待つ我を
(87)足日木乃《アシビキノ》 從山出流《ヤマヨリイヅル》 月待登《ツキマツト》 人爾波言而《ヒトニハイヒテ》 妹待吾乎《イモマツワレヲ》
私ハ(足日木乃)山カラ出ル月ヲ待ツテヰルノダ〔五字傍線〕ト、人ニハ言ツテ、實ハ〔二字傍線〕女ノ來ルノヲ待ツテヰルヨ。
○妹待吾乎《イモマツワレヲ》――ヲはヨに同じ。妹待つ我なるよの意。古義にモノヲの意としたのは當るまい。
〔評〕 卒直な民謠風の作である。卷十三の百不足山田道乎《モモタラズヤマタノミチヲ》(三二七六)の長歌の末尾に、足日木能山從出月待跡人者云而君待吾乎《アシビキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテキミマツワレヲ》とあるのと殆ど同じである。その時代の前後はわからないが、民間に謠はれてゐる間に、かうした長短二種の歌が出來たのである。寄月戀。
3003 夕月夜 あかとき闇の おほほしく 見し人ゆゑに 戀ひわたるかも
夕月夜《ユフヅクヨ》 五更闇之《アカトキヤミノ》 不明《オホホシク》 見之人故《ミシヒトユヱニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
(夕月夜五更闇之)ボンヤリ下見タ人ダノニ、私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕戀シク思ヒ續ケテヰルヨ。ヨク顔モ見ナイノニ、コンナニ戀シイノハ、ドウシタノダラウ〔ヨク〜傍線〕。
○夕月夜五更闇之《ユフヅクヨアカトキヤミノ》――オホホシクとつづく序詞。上旬から月の中頃までの夕月夜の頃は、曉には月が無くて暗いから、不明《オホホシク》の序にしたのである。
〔評〕 ほのかに見て戀ふる歌。序詞が面白い。併し卷十一にも暮月夜曉闇夜乃朝影爾吾身者成奴汝乎念金丹《ユフヅクヨアカトキヤミノアサカゲニワガミハナリヌナヲモヒカネニ》(二六六四)と同樣である。寄月戀。
3004 久方の 天つみ空に 照れる日の 失せなむ日こそ 吾が戀止まめ
久堅之《ヒサカタノ》 天水虚爾《アマツミソラニ》 照月之《テレルヒノ》 將失日社《ウセナムヒコソ》 吾戀止目《ワガコヒヤマメ》
(久堅之)天ノ大空ニ照ツテヰル太陽ガ、無クナルデアラウ日コソ、私ノ戀モ止ムデアラウ。サモナクバ決シテテ私ノ戀ハ止マナイ〔サモ〜傍線〕。
○久堅之《ヒサカタノ》――枕詞。天につづいてゐる。八二參照。○天水虚爾《アマツミソラニ》――水虚《ミソラ》はみ空。水は借字。
(88)〔評〕 まことに豪壯な、線の太い戀歌である。元暦校本・類聚古集など日を月に作つてゐるが、照る月では少しその氣分が弱くなるやうである。併し前後いづれも月の歌であるから、原作は月であつたかも知れない。寄日戀。
3005 望の日に 出でにし月の高高に 君をいませて 何をか思はむ
十五日《モチノヒニ》 出之月乃《イデニシツキノ》 高高爾《タカダカニ》 君乎座而《キミヲイマセテ》 何物乎加將念《ナニヲカモハム》
(十五日出之月乃)熱心ニ待ツテヰタ〔五字傍線〕貴方ガ、此處ヘ今夜ハ〔六字傍線〕オイデニナリマシタカラ、何ヲ私ハクヨクヨ〔六字傍線〕思ヒマセウカ。モウ何モ思フコトハアリマセヌ。誠ニ嬉シク存ジマス〔モウ〜傍線〕。
○十五日出之月之《モチノヒニイデニシツキノ》――高々と言はむ爲の序詞。十五日の夜に出た月が高く上る意でつづいてゐる。○高高爾《タカダカニ》――前の石上振之高橋《イソノカミフルノタカハシ》(二九九七)の歌で述べたやうに、この語は心から待つ意があるやうである。○君乎座而《キミヲイマセテ》――君を此處にまさしめての意。
〔評〕 滿足愉悦の歌。歌調も爽やかに朗らかである。寄月戀。
3006 月夜よみ 門に出で立ち 足占して ゆく時さへや 妹に逢はざらむ
月夜好《ツクヨヨミ》 門爾出立《カドニイデタチ》 足占爲而《アウラシテ》 往時禁八《ユクトキサヘヤ》 妹不相有《イモニアハザラム》
月ガヨイノデ、門ノ前〔二字傍線〕ニ出テ、足ノ占ヲシテ、願ガ叶フト云フ占ガ出タノデ、ソレデハ大丈夫卜思ツテ、出カケテ〔願ガ〜傍線〕行ツタ時デサヘモ、女ニ逢ハレヌノハ、ドウシタモノ〔八字傍線〕ダラウカ。
○足占爲而《アウラシテ》――足占は先づ標を定めて置いて、吉凶吉凶と言ひながら、踏み止つた足にあたる言葉で、判斷する占であらう。卷四の足卜乎曾爲之《アウラヲゾセシ》(七三六)參照。
〔評〕 上代人に深い信頼を置かれた卜占も、時には的中しないで、その信頼を裏切るやうな感を抱かせた。さういふ時に素朴な心は、如何に途方にくれたことであらう。その氣分がよく出てゐる。卷四の月夜爾波《ツクヨニハ》(七三六)の歌はこれに傚つたか。寄月戀。
3007 烏玉の 夜渡る月の さやけくは よく見てましを 君がすがたを
(89)野干玉《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》 清者《サヤケクハ》 吉見而申尾《ヨクミテマシヲ》 君之光儀乎《キミガスガタヲ》
私ハコノ間貴方ニオ目ニカカツタ時ハ、闇夜デヨク御姿ヲ見ルコトガ出來ナカツタ〔私ハ〜傍線〕。(野干玉)アノ〔二字傍線〕晩ノ空ヲ行ク月ガ、清イ明ラカナ月〔二字傍線〕デアツタナラバ、貴方ノ御姿ヲヨク見ル筈デアツタノニ殘念ナコトヲシタ〔八字傍線〕。
○野干玉《ヌバタマノ》――枕詞。夜につづく。射干玉(檜扇)の實が黒いから、黒につづけるのを轉用したのである。
〔評〕 暗夜に戀人に逢うて、物足りなさを感じた歌。古今集の「ぬば玉の暗のうつつはさだかなる夢にいくらもかはらざりけり」のやうに技巧的になつてゐないのが却つてよい。この歌、袖中抄に出てゐる。寄月戀。
3008 足引の 山を木高み 夕月を いつかと君を 待つが苦しさ
足引之《アシビキノ》 山呼木高三《ヤマヲコダカミ》 暮月乎《ユフヅキヲ》 何時君乎《イツカトキミヲ》 待之苦沙《マツガクルシサ》
(足引之)山ノ木ガ高イノデ、夕月ノ出ルノガ遲イノ〔八字傍線〕ヲ、何時カ何時カト待ツヤウニ〔何時〜傍線〕貴方ガオイデニナルノ〔八字傍線〕ヲ、何時カ何時カト待ツノハ苦シイモノデスヨ。
○暮月乎《ユフヅキヲ》――暮月を待つが如くの意である。序詞に似た形になつてゐるが、譬喩と見てよいであらう。
〔評〕 やさしい女らしい歌。上句の譬喩がよぐ出來てゐる。
3009 橡の 衣解き洗ひ 眞土山 本つ人には なほ如かずけり
橡之 古人爾者《モトツヒトニハ》 猶不如家利《ナホシカズケリ》
イクラ戀人ヲ取更ヘテモ〔イク〜傍線〕(橡之衣解洗又打山)初メノ古馴染ノ人ニハ、ヤハリ及バナイヨ。
○橡之衣解洗又打山《ツルバミノキヌトキアラヒマツチヤマ》――序詞。マツチとモトツト音が通ずるところから、かうつづけたのである。橡染の衣を解いて洗つて、それを砧にかけて、又擣つて仕上げる意。橡はドングリで、黒色染に用ゐる。卷七の橡衣人皆《《ツルバミノキヌハヒトミナ》(一三一一)參照。又打山は眞土山。大和から紀伊へ越える山。五五參照。又打の用字は、卷六の古衣又打山從《フルゴロモマツチノヤマユ》(90)(一〇一九)參照。○古人爾者《モトツヒトニハ》――古人はフルキヒトの訓もあるが、上への連絡上、モトツヒトであらねばならぬ。モトツヒトは古馴染の人。必ずしも戀愛的關係には限らないが、ここは古妻を指してゐる。
〔評〕 賤民の歌か。人間戀愛の本情が歌はれてゐるやうに見える。卷十八の大伴家持の久禮奈爲波宇都呂布母能曾都流波美能奈禮爾之伎奴爾奈保之可米夜母《クレナヰハウツロフモノゾツルバミノナレニシキヌニナホシカメヤモ》(四一〇九)はこれに暗示を得たか。衣に寄せてあるやうに見えるが、前後の關係からすると山に寄せたものとして、ここに收めてある。寄山戀。
3010 佐保河の 川浪立たず 靜けくも 君にたぐひて 明日さへもがも
佐保川之《サホガハノ》 川浪不立《カハナミタタズ》 靜雲《シヅケクモ》 君二副而《キミニタグヒテ》 明日兼欲得《アスサヘモガモ》
(佐保河之河浪不立)カウシテ〔四字傍線〕靜カニ貴方ト並ンデ、明日モヰタイモノデスヨ。
○佐保河之河浪不立《サホガハノカハナミタタズ》――序詞。佐保川 の流は穩やかであるから、シヅケクモにつづけてゐる。○君二副而《キミニタグヒテ》――君と並んで。○明日兼欲得《アスサヘモガモ》――明日も亦君にたぐひて居たいの意。
〔評〕 靜かな佐保川近くに住む、都人の歌であらう。戀の喜びに浸つてゐる、しんみりとした情緒があらはれてゐる。寄河戀。
3011 吾妹子に 衣春日の 宜寸川 よしもあらぬか 妹が目を見む
(91)吾妹兒爾《ワギモコニ》 衣借香之《コロモカスガノ》 宜寸川《ヨシキガハ》 因毛有額《ヨシモアラヌカ》 妹之目乎將見《イモガメヲミム》
女ニ逢フベキ(吾妹兒爾衣借香之宜寸河)方法ハナイカナア。逢ヒタイモノダ〔七字傍線〕。
○吾妹兒爾衣借香之宜寸河《ワギモコニコロモカスガノヨシキガハ》――序詞。ヨシの音を繰返して下につづいてゐる。吾妹兒爾衣《ワギモコニコロモ》は春日と言はむ爲ニ借《か》すに懸けた序詞。宜寸河は春日山の北方から流れ出づる小流で、今の奈良市の北部法蓮を流れ、女子高等師範の北側に沿うて佐保川に注いでゐる。春日山の水屋峯から出るので水屋川ともいふとぞ。○因毛有額《ヨシモアラヌカ》――方法がないかよの意。この句は次の句に續くべきを、序詞を使用する爲に、倒置したのである。
〔評〕 序詞中に序詞を置きまことに面白く出來てゐる、これも奈良人の歌であらう。寄河戀。
3012 とのぐもり 雨ふる河の さざれ浪 間無くも君は おもほゆるかも
登能雲入《トノグモリ》 雨零川之《アメフルカハノ》 左射禮浪《サザレナミ》 間無毛君者《マナクモキミハ》 所念鴨《オモホユルカモ》
(登能雲入雨零河之左射禮浪)少シノ〔三字傍線〕間モナク、貴方ハナツカシク〔五字傍線〕思ハレマスヨ。
○登能雲入雨零河之左射禮浪《トノグモリアメフルカハノサザレナミ》――序詞。細波の絶えず立つのを以て、間無を言ひ起す言葉としてゐる。登能雲入《トノグモリ》はたな曇りに同じ。雲のたな引きて曇ること。次の句の雨までつづいて、零河を言ひ出す序詞となつてゐる。零河《フルカハ》は布留河石上の布留河。左射禮浪《サザレナミ》のサザレはサザレ石のサザレに同じ。小浪。
〔評〕 これも序詞中に序詞があつて、面白く出來てゐる。下に左射禮浪《サザレナミ》につづけるものとしては、未通女等之袖振《ヲトメラガソデフル》などあるよりも、ふきはしいであらう。寄河戀。
3013 吾妹子や あを忘らすな 石上 袖布留河の 絶えむと念へや
吾妹兒哉《ワギモコヤ》 安乎忘爲莫《アヲワスラスナ》 石上《イソノカミ》 袖振川之《ソデフルカハノ》 將絶跡念倍也《タエムトモヘヤ》
私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ヨ。私ヲ忘レナサルナ。私ハ貴女ト〔五字傍線〕(石上袖振河之)切レヨウトハ思ハウカ、決シテ絶エハシナイ〔九字傍線〕。
○吾妹兒哉《ワギモコヤ》――このヤはヨと同じく、呼びかけの助詞。○安乎忘爲莫《アヲワスラスナ》――我を忘れ給ふなの意。○石上袖振河(92)之《イソノカミソデフルカハノ》――將絶跡念倍也《タエムトモヘヤ》の全意につづいてゐる序詞。石上にある布留河のといふ意を、袖を間に挿んで、振につづけてゐる。袖は枕詞式に句中に入れたものである。卷五の吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》(八八三)・卷九の嬬待木者《ツママツノキハ》(一七九五)のツマの如き類である。○將絶跡念倍也《タエムトモヘヤ》――直譯すれば絶えむと思はむや、思ひはせじであるが、意は絶えはせじに同じ。
〔評〕 布留河の水の絶えざるを以て、二人の關係の絶えないことを言ふ序詞としてゐる。譬喩といつてもよいほどになつてゐる。寄河戀。
3014 神山の 山下とよみ 行く水の みをし絶えずは 後も吾が妻
神山之《カミヤマノ》 山下響《ヤマシタトヨミ》 逝水之《ユクミヅノ》 水尾不絶者《ミヲノタエズハ》 後毛吾妻《ノチモワガツマ》
二人ノ間ガ何時マデモ〔二人〜傍線〕(神山之山下響逝水之水尾)絶エナイナラバ、貴方ハ〔三字傍線〕後々マデモ私ノ妻ダ。
○神山之山下響逝水之水尾《カミヤマノヤマシタトヨミユクミヅノミヲノ》――これだけは不絶《タエズ》につづく序詞。神山は神岳、神南備山などと集中に詠まれてゐる、飛鳥の雷岳であらう。次の歌の如神《カミノゴト》によれば、この神は雷のこととも見られる。これを雷岳とすると、その山下を響かせて流れる水は飛鳥川である。水尾は水脈。ミヲシと舊訓にあるが、それでは序詞らしくなくなる。
〔評〕 序詞が長いので歌意は單純になつてゐる。中絶さへせねば、いつまでも吾が妻よと女を勵まし愛撫する歌である。寄水戀。
3015 雷の如 聞ゆる瀧の 白浪の 面知る君が 見えぬこの頃
如神《カミノゴト》 所聞瀧之《キコユルタギノ》 白浪乃《シラナミノ》 面知君之《オモシルキミガ》 不所見比日《ミエヌコノゴロ》
私ガ〔二字傍線〕顔ヲ見(如神所聞瀧之白浪乃)知リ合ツテヰルアノ御方ガ、コノ頃ハ見エナイヨ。逢ヒタイモノダ〔七字傍線〕。
○如神所聞瀧之白浪乃《カミノゴトキコユルタギノシラナミノ》――序詞。面知《オモシル》につづく。神は雷。○面知君之《オモシルキミガ》――上からのつづきは、シラナミノから白
(93)
宣長は「面知はただ面を知といふ意のみにあらず、しるはいちじろき意にて、他の人にはまがはず著るく見ゆる君と言ふこと也云々」と云つてゐる。守部の鐘のひびきにはアヒミシとよんで義訓としてゐる。
〔評〕 序詞は豪壯な氣分である。下二句は下の水莖之岡乃田葛葉緒吹變面知兒等之不見比鴨《ミヅクキノヲカノクズハヲフキカヘシオモシルコラガミエヌコロカモ》(三〇六八)と全く同じである。寄水戀。
3016 山河の 瀧にまされる 戀すとぞ 人知りにける 間無く念へば
山川之《ヤマガハノ》 瀧爾益流《タギニマサレル》 戀爲登曾《コヒストゾ》 人知爾來《ヒトシリニケル》 無間念者《マナクオモヘバ》
私ハ絶エ〔四字傍線〕間無ク人ヲ〔二字傍線〕戀シテ居ルノデ、山河ノ瀧ノ水ガ湧キ反ツテヰル〔ノ水〜傍線〕ヨリモ、モツト益サツテ、胸ノ内ガ湧キ反ル〔八字傍線〕戀ヲシテヰルト云フコトヲ人ガ知ツテシマツタ。包ンデヰタノニ却ツテアラハレタ〔包ン〜傍線〕。
○瀧爾益流《タギニマサレル》――山河の瀧よりも増さつた戀といふのは、瀧の水の湧きかへるよりも、更に増さつたわが胸の湧きかへる戀といふのであらう。
〔評〕 このあたりの歌、多くは序歌であるのに、これは瀧に戀を比較してゐる。寄物歌としては類の少ない方法である。寄水戀。
3017 足引の 山河水の 音に出でず 人の子ゆゑに 戀ひわたるかも
足檜之《アシビキノ》 山川水之《ヤマカハミヅノ》 音不出《オトニイデズ》 人之子?《ヒトノコユヱニ》 戀渡青頭鷄《コヒワタルカモ》
アノ女ハ〔四字傍線〕人ノ妻ダノニ、私ハアキラメ切レナイデ〔私ハ〜傍線〕(足檜木之山河水之)口ニハ出サナイデ、思ヒ續ケテ居ルヨ。
○足檜木之山河水之《アシビキノヤマカハミヅノ》――序詞。音とつづいてゐる。足檜木之《アシビキノ》は山の枕詞。○人之子?《ヒトノコユヱニ》――人の女なるにの意。○戀渡青頭鷄《コヒワタルカモ》――青頭鷄をカモと訓んだのは鴨を面白く書いたのである。
〔評〕 人妻を竊かに戀ふる歌。平板な作である。寄水戀。
3018 巨勢なる 能登瀬の河の 後も逢はむ 妹には我は 今ならずとも
(94)高湍爾有《コセナル》 能登瀬乃川之《ノトセノカハノ》 後將合《ノチモアハム》 妹者吾者《イモニハワレハ》 今爾不有十方《イマナラズトモ》
今ハ色々故障ガアツテ逢ハレナイガ、アノ〔今ハ〜傍線〕女ニ私ハ今デ無クテモ、(高湍爾有能登瀬乃河之)後デユツクリ〔四字傍線〕逢ハウト思フ〔三字傍線〕。
○高湍爾有能登瀬乃河之《コセナルノトセノカハノ》――序詞。下へのつづきはノトとノチと音が相通ずるからである。高湍は巨勢。大和高市郡古瀬。そこに能登瀬河がある。卷三に小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾《サザレナミイソコセヂナルノトセガハオトノサヤケサタギツセゴトニ》(三一四)とある。
〔評〕 卷十一の鴨川後瀬靜後相妹者我雖不今《カモガハノノチセシヅケクノチモアハムイモニハワレハイマナラズトモ》(二四三一)と下三句同樣である。これらは同一俚謠がその行はれる地方によつて、序詞を代へたものか。寄水戀。
3019 あらひ衣 取替河の 河淀の よどまむ心、思ひかねつも
浣衣《アラヒギヌ》 取替河之《トリカヒガハノ》 河余杼能《カハヨドノ》 不通牟心《ヨドマムココロ》 思兼都母《オモヒカネツモ》
私ハドンナコトガアツテモ戀人ノトコロヘ通フコトヲ〔私ハ〜傍線〕(浣衣取替河之河余杼能)中絶スルヤウナ心ハ、持ツテヰマセヌヨ。
○浣衣取替河之河余杼能《アラヒギヌトリカヒガハノカハヨドノ》――ヨドの音を繰返して下につづいてゐる。浣衣《アラヒギヌ》は枕詞。取替河に冠してゐる。汚れた着物を、洗ひ濯いだものと取替へて着るからである。舊本、衣を不に誤つてゐる。類聚古集によつて改む。取替河は何處ともわからない。和名抄に大和添下郡鳥貝郷止利加比が見えてゐるが、これを貝は見を誤つたもので、鳥見であると大日本地名辭書に記してあるのは、當つてゐないやうに思はれる。今あのあたりに鳥貝といふ地名がない。しかし若し和名抄の記載に誤がないとするならば、取替川は鳥貝川で、今の生駒郡内にあるわけである。前後の歌から推すと、大和の内らしい。大和物語に見える大江玉淵が歌を詠んだといふ鳥飼は、攝津三島郡で淀川に沿うてゐる。或はこの邊で淀川を取替川と言つたものとも、考へられないことはないが、少し無理であらう。○不通牟心思兼都母《ヨドマムココロオモヒカネツモ》――ヨドムは不通と書いてある通り、戀人のところへ通ふことの途絶えるをい(95)フ。心を思はぬは、心を持たぬといふに同じ。
〔評〕 序詞が頗る奇拔である。さうして下層階級の歌らしい感がある。寄水戀。
3020 斑鳩の 因可の池の 宜しくも 君を言はねば 念ひぞ吾がする
斑鳩之《イカルガノ》 因可乃池之《ヨルカノイケノ》 宜毛《ヨロシクモ》 君乎不言者《キミヲイハネバ》 念衣吾爲流《オモヒゾワガスル》
世間ノ人ハ〔五字傍線〕貴方ヲ(斑鳩之因可乃池之)ヨイヤウニ言ハナイケレドモ、私ハ貴方ヲ〔五字傍線〕思ツテ居ルヨ。
○斑鳩之因可乃池之《イカルガノヨルカノイケノ》――序詞。ヨルとヨロと音が近いので、つづけてある。斑鳩は聖徳太子の斑鳩宮のあつたところ。因可の池は、法隆寺附近にあつた池であらうが、今いづれとも明らかでない。○君乎不言者《キミヲイハネバ》――イハネバは言はざるにの意であらう。古義は乎を之の誤として、キミガイハネバと改め、「君がわれをうけひき相應《アヒカナ》ふけしきの見えず、いつも苦々《ニガニガ》しくのみいへば、物思をぞわれはするとなり」と解してゐる。
〔評〕 序詞の下へのつづきは、同音を繰返して作つてゐるが、比較的縁が薄いやうである。男に信頼してゐる女の歌であらう。寄池戀。
3021 隱沼の 下ゆは戀ひむ いちじろく 人の知るべく 歎せめやも
絶沼之《コモリヌノ》 下從者將戀《シタユハコヒム》 市白久《イチジロク》 人之可知《ヒトノシルベク》 歎爲米也母《ナゲキセメヤモ》
私ハドンナニ戀シクトモ〔私ハ〜傍線〕(絶沼之})心ノ下デ戀シク思ツテヰマセウ。ハツキリト人ノ目ニ立ツヤウナ、歎息ヲシヨウヤ。歎息ナドヲシテ人ノ目ニ附クヤウナコトハスマイ〔歎息〜傍線〕。
○絶沼之《コモリヌノ》――枕詞。下とつづく。絶沼は草に隱れて、水の見えない沼。略解は絶は隱の誤としてゐる。○下從者將戀《シタユハコヒム》――このユはニと同じ。カラと解してはいけない。
〔評〕 忍戀の歌。かうした内容のものは隨分澤山ある。寄沼戀。
3022 行方なみ こもれる小沼の 下思ひに 我ぞもの思ふ この頃の間
(96)去方無三《ユクヘナミ》 隱有小沼乃《コモレルヲヌノ》 下思爾《シタモヒニ》 吾曾物念《ワレゾモノオモフ》 頃者之間《コノゴロノアヒダ》
コノ頃ハ(去方無三隱有小沼乃)心ノ中デ、私ハ物思ヲシテヰルヨ。
○去方無三隱有小沼乃《ユクヘナミコモレルヲヌノ》――序詞。去方無三《ユクヘナミ》は水の流れ行く方もなくての意。隱有小沼《コモレルヲヌ》は即ち隱沼《コモリヌ》である。下《シタ》につづくことは前の歌と同じ。○頃者之間《コノゴロノアヒダ》――ー舊訓コノコロノマハとあるのも、必ずしもわるくはないが、古義に從ふ。
〔評〕 これも忍戀の歌。さして秀でた點もない。寄沼戀。
3023 こもり沼の 下ゆ戀ひ餘り 白浪の いちじろく出でぬ 人の知るべく
隱沼乃《コモリヌノ》 下從戀餘《シタユコヒアマリ》 白浪之《シラナミノ》 灼然出《イチジロクイデヌ》 人之可知《ヒトノシルベク》
私〔傍線〕ハ(隱沼乃)心ノ中デ戀シサヲ包ンデヰタガ、ソレガ〔九字傍線〕包ミ切レナイデ、到頭〔二字傍線〕人ガ知ルヤウニ(白浪之)著シク顔色ニ〔三字傍線〕アラハレテシマツタ。困ツタコトヲシタ〔八字傍線〕。
○隱沼乃《コモリヌノ》――枕詞。○白浪之《シラナミノ》――枕詞。シラの音を繰返してイチジロクにつづいてゐる。
〔評〕 忍ぶに堪へかねて、現はれた戀の歌。隱沼と白浪との間に意味の上の關係はあるまい。袖中抄に載せてある。寄沼戀。
3024 妹が目を 見まくほり江の さざれ浪 重きて戀ひつつ ありと告げこそ
妹目乎《イモガメヲ》 見卷欲江之《ミマクホリエノ》 小浪《サザレナミ》 敷而戀乍《シキテコヒツツ》 有跡告乞《アリトツゲコソ》
私ハ女こ逢ヒタサニ〔九字傍線〕(妹目乎見卷欲江之小浪)頻リニ戀シガツテヰルト、女ニ〔二字傍線〕知ラセテクレヨ。
○妹目乎見卷欲江之小浪《イモガメヲミマクホリエノサザレナミ》――敷而《シキテ》とつづく序詞。妹目乎見卷《イモガメヲミマク》は欲《ホリ》とつづく序詞。欲《ホリ》と堀《ホリ》とをかけてゐるじ欲江は堀江。難波の堀江である。小浪は舊訓サザラナミとあるが、志賀左射禮浪《シガサザレナミ》(二〇六)などに傚つて、サザレナミと(97)訓むがよい。○敷而戀乍《シキテコヒツツ》――シキテは頻りに、重ねての意。
【釋】 序詞中に序詞があるのは、少くはないが、これは誠に巧に出來てゐる。妹目乎見卷欲《イモガメヲミマクホリ》は序詞ではあるが、全體の歌意におのづから、その言葉が響いてゐる。寄江戀。
3025 石走る 垂水の水の 愛しきやし 君に戀ふらく 吾が心から
石走《イハバシル》 垂水之水能《タルミノミヅノ》 早敷八師《ハシキヤシ》 君爾戀良久《キミニコフラク》 吾情柄《ワガココロカラ》
(石走垂水之水能)愛ラシイ、貴方ヲ私ガ〔二字傍線〕戀シク思ツテ苦シンデ〔四字傍線〕ヰル。コレモ〔三字傍線〕私ノ心カラノコトデス〔五字傍線〕。
○石走垂水之水能《イハバシルタルミノミヅノ》――早敷八師《ハシキヤシ》につづく序詞。垂水は瀧で、瀧の水が落ちる樣は、すがすがしく心地よいものだからである。石走《イハバシル》は枕詞。垂水につづくのは岩の上を走り流れ落ちるからである。○早敷八師《ハシキヤシ》――愛らしき。ヤとシとは詠歎の辭として漆へてある。○君爾戀良久吾情柄《キミニコフラクワガココロカラ》――君に戀ふらくで切つて、吾が心からと附加へてある。吾が心の奥底からの意ではない。卷四の積而戀良苦吾心柄《ツミテコフラクワガココロカラ》(六九四)參照。
〔評〕 當時有名であつた攝津豐能郡豐津村の垂水の飛泉に寄せて、愛人を褒めたものである。地名と見ない説もあるが、卷七(一二四二)・卷八(一四一八)など、いづれも地名と思はれるから、これも同樣であらう。寄水戀。
3026 君は來ず 我は故なみ 立つ浪の しくしくわびし 斯くて來じとや
君者不來《キミハコズ》 吾者故無《ワレハユヱナミ》 立浪之《タツナミノ》 數和備思《シクシクワビシ》 如此而不來跡也《カクテコジトヤ》
貴方ハ私ノ處ヘ〔四字傍線〕來ナイシ、私ハ女ダカラ貴方ノ方ヘ行ク〔女ダ〜傍線〕理由ガナイノデ、(立浪之)頻リニ辛イ。コンナニ私ガ苦シン〔六字傍線〕デヰテモ、アナタハ私ノ處ヘ〔八字傍線〕來テハ下サラナイノデスカ。ツレナイオ方デス〔八字傍線〕。
○吾者故無《ワレハユヱナミ》――我は女であるから君の方へ行くべき理由がないからの意であらう。新考に故無《コトナミ》と訓んだのは、新案であるが、從ひ難い。○立浪之《タツナミノ》――枕詞。數《シクシク》に冠してゐる。○數和備思《シクシクワビシ》――舊訓シバシバワビシとある。シクシクがよいやうである。
(98)〔評〕 女が男の來ないのを怨んだ歌。第二句、吾者故無《ワレハユヱナミ》が多少省略に過ぎた感がないでもないが、全體に戀慕の情が悲しくあらはれてゐる。寄浪戀。
3027 淡海の海 へたは人知る 沖つ浪 君をおきては 知る人もなし
淡海之海《アフミノミ》 邊多波人知《ヘタハヒトシル》 奥浪《オキツナミ》 君乎置者《キミヲオキテハ》 知人毛無《シルヒトモナシ》
私ハ〔二字傍線〕貴方ヲ(淡海之海邊多波人知奥浪)除イテハ知ツテヰル人ハアリマセヌ。唯貴方バカリヲ戀シテ居リマス〔唯貴〜傍線〕。
○淡海之海邊多波人知奧浪《アフミノミヘタハヒトシルオキツナミ》――オキの音を繰返して、次の句に連なる序詞。淡海の海の岸近い景色は人が知つてゐると言つて、結句の知人毛無《シルヒトモナシ》に對せしめてゐる。さて邊多《ヘタ》と言つたのに對して、奧浪《オキツナミ》を置いて、次句を誘ひ出したので、一種特別の形を持つた序詞である。邊多《ヘタ》は岸。○知人毛無《シルヒトモナシ》――知人は知己といふやうな淺い關係ではなく、逢へる人即ち戀人といふに同じ。
〔評〕 右に述べたやうに、序詞が無用の如くして、大に用をなしてゐるのが巧妙と言つてよい。君より外に心を許した戀人はないのだから、君も我を愛し給へと、盟ひ、且願ふ女の言葉であらう。技巧的に傑れた作である。袖中抄に出てゐる。寄海戀。
3028 大海の 底を深めて 結びてし 妹が心は 疑もなし
大海之《オホウミノ》 底乎深目而《ソコヲフカメテ》 結義之《ムスビテシ》 妹心者《イモガココロハ》 疑毛無《ウタガヒモナシ》
(大海之底乎)深ク深ク互ニ〔二字傍線〕約束ヲシタ女ノ心ハ、疑モナィ。行末變ルコトハアルマイ〔行末〜傍線〕。
○大海之底乎深目而《オホウミノソコヲフカメテ》――大海之底乎《オホウミノソコヲ》は深目而《フカメテ》と言はむ爲の序詞である。深目而《フカメテ》は深くして即ち心深くの意。○結義之《ムスビテシ》――義之をテシと訓ましめたのは、王羲之を手師と崇めたからである。
〔評〕 女に滿腔の信頼を置いた男の歌。卷四の聖武天皇の御製、赤駒之越馬柵乃緘結師妹情者疑毛奈思《アカゴマノコユルウマセノシメユヒシイモガココロハウタガヒモナシ》(五三〇)はこの歌の下句を學ばれたものか。寄海戀。
3029 さだの浦に 寄する白浪 間なく 思ふをいかに 妹に逢ひ難き
(99)貞能納爾《サダノウラニ》 依流白浪《ヨスルシラナミ》 無間《アヒダナク》 思乎如何《オモフヲイカニ》 妹爾難相《イモニアヒガタキ》
私ガコレ程〔五字傍線〕(貞能納爾依流白浪)絶間ナクアノ女ヲ〔四字傍線〕思ツテヰルノニ、ドウシテアノ〔二字傍線〕女ニ逢ハレナイノデアラウカ。逢ハレサウナモノダノニ〔逢ハ〜傍線〕。
○良能納爾依白波《サダノウラニヨスルシラナミ》――無間《アヒダナク》につづく序詞。貞能納は和泉・出雲などにあるといふが、よくわからない。卷十一の左太能浦之《サダノウラノ》(二七三二)參照。舊本、納とあるは誤。西本願寺本に?となつてゐるのがよい。
〔評〕 この熱誠がどうして通じないかと、悲しむ男の聲がいたましい。寄海戀。
3030 思ひ出でて 術なき時は 天雲の おくがも知らに 戀ひつつぞ居る
念出而《オモヒイデテ》 爲便無時者《スベナキトキハ》 天雲之《アマグモノ》 奧香裳不知《オクガモシラニ》 戀乍曾居《コヒツツゾヲル》
戀人ヲ思ヒ出シテ、何トモ〔三字傍線〕仕樣ノナイ時ハ(天雲之)底モ知レヌヤウニ、深いク〔二字傍線〕戀ヒ焦レテ居ルヨ。
○天雲之《アマグモノ》――枕詞。次句の全體にかかつてゐる。○奧香裳不知《オクガモシラニ》――奧香《オクガ》は奥處。極まりたる限り、果て、底などの意。
〔評〕 かなり強い表現になつて、調子も緊張してゐる。天雲之奧香裳不知《アマグモノオクガモシラニ》が茫然として、己を忘れたやうになつて、戀してゐる人の姿を思はしめる。寄雲戀。
3031 天雲の たゆたひやすき 心あらば 吾をなたのめ 待てば苦しも
天雲乃《アマグモノ》 絶多比安《タユタヒヤスキ》 心有者《ココロアラバ》 吾乎莫憑《アレヲナタノメソ》 待者苦毛《マテバクルシモ》
貴方ガ若シ〔五字傍線〕(天雲乃)グヅグヅト〔五字傍線〕、極リノナイ心ガアルナラバ、私ヲ當テニサセルヤウナ約束ヲ〔七字傍線〕ナサルナ。待ツテヰルノハ苦シイモノデスヨ。
○天雲乃《アマグモノ》――枕詞。雲は漂ひ定まらぬものだから、絶多比《タユタヒ》につづく。○絶多比安《タユタヒヤスキ》――絶多比は漂ひ、躊躇する(100)こと。○吾乎莫憑《アヲナタノメソ》――我を當てにせしめるなの意。
〔評〕 相手が訪ねて來ることの、念を押したものであるが、どこまでも自分を主としてゐるのが面白い。女の歌らしい。寄雲戀。
3032 君があたり 見つつもをらむ 伊駒山 雲なたなびき 雨は零るとも
君之當《キミガアタリ》 見乍母將居《ミツツモヲラム》 伊駒山《イコマヤマ》 雲莫蒙《クモナタナビキ》 雨者雖零《アメハフルトモ》
貴方ノ家ノ〔二字傍線〕邊ヲ眺メテ居リマセウ。ダカラ貴方ノ家ノ方ニアル〔ダカ〜傍線〕生駒山ニハ、タトヘ〔三字傍線〕雨ガ降ツテモ、雲ガ棚引クナヨ。
○伊駒山《イコマヤマ》――生駒山。大和平原の西北部に聳え、奈良の都の正面に當つてゐる。○雲莫蒙《クモナタナビキ》――舊訓クモナカクシソ、新訓はクモナカカフリとある。
〔評〕 女らしい情緒が滿ち溢れてゐる。雨は降つても、雲が棚引かぬやうにといふのは、隨分無理な註文であるが、そこに戀する人の至情が見えてゐるのである。哀切純情。伊勢物語に、河内國高安都の女が、大和の方を見やつて詠んだ歌として出てゐる。併し生駒山近くに住んでゐた人を戀した、大和人の歌らしい感がする。寄山戀。
3033 なかなかに 如何に知りけむ 吾が山に 燃ゆる烟の よそに見ましを
中中二《ナカナカニ》 如何知兼《イカニシリケム》 吾山爾《ワガヤマニ》 燒流火氣能《モユルケブリノ》 外見申尾《ヨソニミマシヲ》
私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕、(吾山爾燒流火氣能)他所ニ置イテ無關係ナ人トシテ〔置イ〜傍線〕見テヰル筈ダツタノニ、ドウシテアノ人ト〔四字傍線〕、ナマナカ親シクナツタデアラウカ。近頃ハアノ人ノコトバカリ思ツテ煩悶シテ居ル。アンナ人ト親シクナラナケレバヨカツタノニ〔近頃〜傍線〕。
○中中二《ナカナカニ》――却つてと譯するのを常とするが、ここはナマナカと言つた方が、よく當りさうである。○吾山爾(101)燒流火氣能《ワガヤマニモユルケブリノ》――吾は春の誤であらうと略解に言つてゐる。春山とあらば更に穩やかであるが、吾山でも分らぬことはない。吾山に燒ゆる烟は春の頃、山を燒く野火の烟である。この二句は序詞として、外見《ヨソメ》につづいてゐる。山の烟をよそながら遠く見るからである。
〔評〕 相知りそめて、いや増す戀に苦しんだ嘆きの聲である。野火の烟を用ゐたのは珍らしい。寄烟戀。
3034 吾妹兒に 戀術なかり 胸をあつみ 朝戸あくれば 見ゆる霧かも
吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀爲便名鴈《コヒスベナカリ》 ※[匈/月]乎熱《ムネヲアツミ》 旦戸開者《アサドアクレバ》 所見霧可聞《ミユルキリカモ》
私ハ〔二字傍線〕、私ノ女ガ戀シクテ仕方ガナイ。一晩思ヒ明カシテ寢ラレナイデ〔一晩〜傍線〕、胸ガ焦レルヤウデ熱イカラ、朝起キテ〔三字傍線〕戸ヲ明ケルト、口カラ〔三字傍線〕、煙ガ見エルヨ。ヒドイ胸ノ火ダ〔七字傍線〕。
○戀爲便名鴈《コヒスベナカリ》――戀術無くありの略。
ワギモコニコヒスベナカリワガセコニコヒスベナカリ
卷十一に我妹戀無乏《》、卷十七に和賀勢故爾古非須弊奈賀利《》(三九七五)とある。○旦戸開者《アサドアクレバ》――朝明くる戸を朝戸といふのである。朝、戸開くればではない。○所見霧可聞《ミユルキリカモ》――霧は咽のこと。口から出る呼氣を胸の火の烟と見たのである。この頃、烟と霧とを混じて言ふことも行はれたのが、これでわかる。
〔評〕 何といふ奇警な作であらう。情熱的であるが、又同時に滑稽味も含まれてゐる。奇霧戀。
3035 あかときの 朝霧隱り かへりしに 如何にか戀の 色に出でにける
曉之《アカトキノ》 朝霧隱《アサギリゴモリ》 反羽二《カヘリシニ》 如何戀乃《イカニカコヒノ》 色丹出爾家留《イロニイデニケル》
私ハ女ノ所カラ〔七字傍線〕夜明ケノ朝霧ニ隱レテ、人ノ目ニ付カヌヤウニシテ〔人ノ〜傍線〕歸ツテ來タノニ、ドウシテ二人ノ〔三字傍線〕戀ガ外ニ顯ハレタノデアラウカ。不思議ナコトダ〔七字傍線〕。
○朝霧隱《アサギリゴモリ》――考、隱をカクリとよんでゐるが、卷十五に安可等吉能安左宜理其問理可里我禰曾奈久《アカトキノアサギリゴモリカリガネゾナク》(三六六五)とあ(102)るから、それに傚ふがよい。○反羽二《カヘリシニ》――舊訓カヘルサニとあるのは、少し穩やかでない。考は羽を詞の誤とし、古義は爲に改めて、共にカヘリシニと訓んでゐる。誤字あるものとして、古義に從ふことにしよう。
〔評〕 戀の秘密の顯はれたのを怪しんでゐる。色丹出爾家留《イロニイデニケル》の使ひ方が、他の場合と少し違ふやうである。新考に「戀を人に擬して、我ハ人目ヲシノビテ朝霧ニカクレテ歸リシヲ、ソノ心ヅカヒヲモ思ハデ、ナド戀ノ色ニ出デテ知ラレシゾといへるなり」とあるやうに、見るべきものかも知れない。寄霧戀。
3036 思ひ出づる 時は術なみ 佐保山に 立つ雨露の 消ぬべく念ほゆ
思出《オモヒイヅル》 時者爲便無《トキハスベナミ》 佐保山爾《サホヤマニ》 立雨霧乃《タツアマギリノ》 應消所念《ケヌベクオモホユ》
戀人ヲ〔三字傍線〕思ヒ出シタ時ハ、何トモ戀シクテ〔七字傍線〕仕樣ガナクテ(佐保山爾立雨露乃)命モ〔二字傍線〕消エサウニ思ハレル。
○佐保山爾立雨霧乃《サホヤマニタツアマギリノ》――應消《ケヌベク》の序詞に用ゐられてゐる。佐保山は奈良の北方の山、雨霧は雨が降る時の靄であらう。略解に「霧の深きは小雨の如くなるものなれば、雨霧ともいふべし」とあるのはどうであらう。
〔評〕 奈良の都人の歌か。歌の内容はありふれたことだが、雨霧といつた例は、集中、他に見えないやうである。寄霧戀。
3037 切目山 往きかへる道の 朝霞 ほのかにだにや、妹に逢はざらむ
殺目山《キリメヤマ》 往反道之《ユキカヘルミチノ》 朝霞《アサガスミ》 髣髴谷八《ホノカニダニヤ》 妹爾不相牟《イモニアハザラム》
(103)(殺目山往反道之朝霞)ボンヤリトデモ戀シイ〔三字傍線〕女ニ逢ヘナイト云フコトガアラウカ。一寸デモ逢ヒタイモノダ〔一寸〜傍線〕。
○殺目山往反道之朝霞《キリメヤマユキカヘルミチノアサガスミ》――髣髴《ホノカ》と言はむ爲の序詞。殺目山を往反する道に立つ朝霞の意。殺目山は紀伊國日高都切目村の山。有名な切目王子社のある山で、熊野街道に當つてゐる。寫眞はその遠景。著者撮影。
〔評〕 紀伊切目地方の人の作か。この山を越えて、妹があたりを訪ね、空しく歸る人の歌であらう。無意義に置いた序詞とは見えない。寄霞戀。
3038 かく戀ひむ ものと知りせば 夕べ置きて あしたは消ゆる 露ならましを
如此將戀《カクコヒム》 物等知者《モノトシリセバ》 夕置而《ユフベオキテ》 旦者消流《アシタハキユル》 露有申尾《ツユナラマシヲ》
コレ程アノ人ヲ〔四字傍線〕戀シテ、コンナ辛イ思ヲ〔九字傍線〕スルモノト、豫メ〔二字傍線〕知ツテヰタナラバ、私ハ〔二字傍線〕夕方ニ降ツテ朝ハ消エル、露デアリタカツタノニ。ソノ露ノヤウニ早ク死ンダ方ガ増デアツタ〔ソノ〜傍線〕。
○夕置而《ユフベオキテ》――略解にヨヒニオキテとあるは、要なき改訓であらう。○旦者消流《アシタハケヌル》――考にキユルをケヌルと訓んでゐるが、もとの儘がよい。
〔評〕 戀のつらさに死を希つてゐる。平明。寄露戀。
3039 ゆふべ置きて あしたは消ゆる 白露の 消ぬべき戀も 我はするかも
暮置而《ユフベオキテ》 旦者消流《アシタハキユル》 白露之《シラツユノ》 可消戀毛《ケヌベキコヒモ》 吾者爲鴨《ワレハスルカモ》
私ハ命ノ〔二字傍線〕(暮置而旦者消流白露之)消エサウナ戀ヲスルヨ。私ノ戀ハ命懸ガケノ戀デス〔私ノ〜傍線〕。
○暮置而旦者消流白露之《ユフベオキテアシタハキユルシラツユノ》 ――消《ケヌ》と言はむ爲の序詞。意は明らかである。○可消戀毛《ケヌベキコヒモ》――消ぬべき戀とは、命の(104)消え失すべき戀。思の切なる爲に、命も絶えさうになるのである。〔評〕卷十の朝開夕者消流鴨頭草可消戀毛吾者爲鴨《アシタサキユフベハケヌルツキクサノケヌベキコヒモワレハスルカモ》(二二九一)とよく似てゐる。この他にも多少似通つた例はある。寄露戀。
3040 後つひに 妹は逢はむと 朝露の 命は生けり 戀は繁けど
後遂爾《ノチツヒニ》 妹將相跡《イモニアハムト》 旦露之《アサツユノ》 命者生有《イノチハイケリ》 戀者雖繁《コヒハシゲケド》
私ハ〔二字傍線〕戀ノ心〔二字傍線〕ハ烈シクテ、トテモ生キテヰラレサウニモナ〔クテ〜傍線〕イガ、後デ遂ニハ、女ニ逢フコトガ出來ル〔六字傍線〕ダラウト思ツテ、ソレヲタノミトシテ〔思ツ〜傍線〕、朝ノ露ノヤウナ消エサウナコノ〔ヤウ〜傍線〕命ヲツナイデヰル。
○戀者雖繁《コヒハシゲケド》――戀は繁けれどもの意。
〔評〕 朝露の命といふ語には、佛教的厭世觀が盛られてゐる。寄露戀。
3041 朝なさな 草の上白く 置く露の けなば共にと 言ひし君はも
朝旦《アサナサナ》 草上白《クサノウヘシロク》 置露乃《オクツユノ》 消者共跡《ケナバトモニト》 云師君者毛《イヒシキミハモ》
(朝旦草上白置露乃)死ヌナラバ一所ニ、死ナウ〔三字傍線〕ト言ツテ堅ク約束ヲシ〔七字傍線〕貴方ヨ。コノ頃ハドウシテイラツシヤルダラウカ〔コノ〜傍線〕ナア。ソノ後打チ絶エテオ目ニニカカラナイガ、慕ハシイ人ダ〔ソノ〜傍線〕。
○朝旦草上白置露乃《アサナサナクサノウヘシロクオクツユノ》――消者《ケナバ》と言はむ爲の序詞。○消者共跡《ケナバトモニト》――死なば諸共にと。○云師君者毛《イヒシキミハモ》――ハモは強い詠歎の助詞。
〔評〕 上品な、感じのよい序詞である。結句、愛慕の情が漲つてゐる。寄露戀。
3042 朝日さす 春日の小野に 置く露の 消ぬべき吾が身 惜しけくもなし
朝日指《アサヒサス》 春日能小野爾《カスガノヲヌニ》 置露乃《オクツユノ》 可消吾身《ケヌベキワガミ》 惜雲無《ヲシケクモナシ》
(105)私ハ叶ハヌ戀ニ命モ無クナリサウダガ〔私ハ〜傍線〕、(朝日指春日能小野爾置露乃)死ニサウナ私ノ體モ、今ハ何ノ望モナイカラ〔今ハ〜傍線〕、惜シイトハ思ハナイ。
○朝日指春日能小野爾置露乃《アサヒサスカスガノヲヌニオクツユノ》――消と言はむ爲の序詞。
〔評〕 捨鉢的な自暴自棄の聲。奈良の都人の歌であらう。寄露戀。
3043 露霜の けやすき吾が身 老いぬとも また若がへり 君をし待たむ
露霜乃《ツユシモノ》 消安我身《ケヤスキワガミ》 雖老《オイヌトモ》 又若反《マタワカガヘリ》 君乎思將待《キミヲシマタム》
(露霜乃)戀ノタメニ命ノ〔七字傍線〕無クナリサウナ私ノ體ハ、コノ儘デ思ヲ遂ゲズニ〔コノ〜傍線〕年ヲトツテシマツテモ、又若返ツテ來テ、貴方ニ逢フノ〔四字傍線〕ヲ待チマセウ。
○露霜乃《ツユシモノ》――枕詞。消《ケ》とつづく。露霜は露のこと。○又若反《マタワカガヘリ》――古義はマタヲチカヘリとよんでゐるが、舊訓のままがよい。
〔評〕卷十一の朝露之消安吾身雖老又若反君乎思將待《アサツユノケヤスキワガミオイヌトモマタワカガヘリキミヲシマタム》(二六八九)と、初句が異なつてゐるのみ。同歌の異傳であらう。寄露戀。
3044 君待つと 庭にし居れば 打なびく 吾が黒髪に 霜ぞ置きにける 或本歌、尾句云、白妙の吾が衣手に露ぞ置きにける
待君常《キミマツト》 庭耳居者《ニハニシヲレバ》 打靡《ウチナビク》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 霜曾置爾家類《シモゾオキニケル》
貴方ガオイデニナルノ〔九字傍線〕ヲ待ツトテ、庭ニ立ツテヰルト、長ク靡ク私ノ黒髪ノ上〔二字傍線〕ニ、霜ガ降ツタヨ。
○庭耳居者《ニハニシヲレバ》――舊訓を改めて、代匠記精撰本にニハノミヲレハとしてゐる。古義は耳の下、之の字、脱か又は耳は西の誤で、ニハニシヲレバといつてゐる。
〔評〕 黒髪長きくはし女が、霜寒い夜に戸外に立ちつくしてゐる、可憐な姿がしのばれる。あはれな歌である。(106)卷二の居明而君乎者將待奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文《ヰアカシテキミヲバマタムヌバタマノワガクロカミニシモハフルトモ》(八九)に多少似通つた點がある。寄霜戀。
或本歌尾句云 白細之《シロタヘノ》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》 露曾置爾家留《ツユゾオキニケル》
これは三句以下の異本である。白細之《シロタヘノ》は衣手の枕詞。かうすれは寄露戀の歌だ。
3045 朝霜の けぬべくのみや 時なしに 思ひわたらむ いきの緒にして
朝霜乃《アサシモノ》 可消耳也《ケヌベクノミヤ》 時無二《トキナシニ》 思將度《オモヒワタラム》 氣之緒爾爲而《イキノヲニシテ》
私ハ〔二字傍線〕何時ト云フコトモナク、始終〔二字傍線〕命懸ケニ(朝霜乃)命モ〔二字傍線〕消エサウニ、思ヒツヅケテヰルト云フコトガアラウカ。我ナガラ腑甲斐ナイコトダ〔我ナ〜傍線〕。
○朝霜乃《アサシモノ》――枕詞。消とつづく。○時無二《トキナシニ》――定まつた時もなく、いつでも。○氣之緒爾爲而《イキノヲニシテ》――命がけで。卷四に如此許氣緒爾四而吾將戀八方《カクバカリイキノヲニシテワガコヒメヤモ》(六八一)とある。
〔評〕 古義にあるやうに、三五一二四と、句を置き換へて見るべきであらう。弱々しい戀である。寄霜戀。
3046 さざなみの 波越すあぜに 降る小雨 間も置きて 吾が念はなくに
左佐浪之《サザナミノ》 波越安暫仁《ナミコスアゼニ》 落小雨《フルコサメ》 間文置而《アヒダモオキテ》 吾不念國《ワガモハナクニ》
私ハ戀人ヲ絶エズ思ツテ居ルノデ〔私ハ〜傍線〕(左佐浪之波越安暫仁落小雨)間ヲ置イテ思ツテヰルノデハ無イヨ。
○左佐浪之波越安暫仁落小雨《サザナミノナミコスアゼニフルコサメ》――序詞。降る小雨の隙なき意を以て下につづいてゐる。左佐浪は小浪であらう。小浪は左射禮浪《サザレナミ》(二〇六)といふのが常であるが、ササナミとも言つたのであらう。波越安暫はよくわからない。暫は集中、これを音假名に用ゐた例がないが、呉音ザンであるから、ザの假名に用ゐられさうである。併し安暫《アゼ》と訓んでは解しにくいやうだ。舊訓アサとあり、契沖が「あさはあさきなり、遠淺をいへり」と言つてゐるのは從ひ難い。考はアゼと訓んで田の畦のことに解してゐる。他に良い私案もないから、暫はザをゼに轉用したも(107)のとして假に考の説に從つて、この上三句を、小波が越す田の畦に降り注ぐ小雨の隙なき意に解して置かう。宣長は安暫仁は必ず誤字であらうと言つてゐる。
〔評〕 序詞が少し明瞭を缺くが、珍らしい材料を用ゐたものである。寄雨戀。
3047 神さびて 巖に生ふる 松が根の 君が心は 忘れかねつも
神左備而《カムサビテ》 巖爾生《イハホニオフル》 松根之《マツガネノ》 君心者《キミガココロハ》 忘不得毛《ワスレカネツモ》
神々シク古ビテ、巖ノ上〔二字傍線〕ニ生エテヰル松ノ根ノヤウニ、久シク變ハラナイ〔八字傍線〕貴方ノ親切ナ御〔四字傍線〕心ハ、私ハ〔二字傍線〕忘レカネマスヨ。私ハ始終貴方ノオ心ヲ感謝シテ居リマス〔私ハ〜傍線〕。
○神左備而巖爾生松根之《カムサビテイハホニオフルマツガネノ》――神々しく古びて、巖上に生えてゐる松の根のやうに、久しく變らぬの意であらう。序詞と見たいのであるが、序詞としては下へのつづきが少し無理である。古義は序詞として、「巖に生たる松の根のからみつきて、凝々《コリコリ》しきよしにて、心といふに係れるなるべし」とある。
〔評〕 久しく睦び來つた夫婦の問に、かはされた感謝の辭であらう。寄木戀。
3048 御獵する かりばの小野の なら柴の 馴れはまさらず 戀こそまされ
御獵爲《ミカリスル》 鴈羽之小野之《カリバノヲヌノ》 櫟柴之《ナラシバノ》 奈禮波不益《ナレハマサラズ》 戀社益《コヒコソマサレ》
私ハアノ人ニ〔六字傍線〕(御獵爲鴈羽之小野之櫟柴之)親シイ關係ニハナツテ行カナイデ、戀シサハ段々ト〔三字傍線〕増シテ行クヨ。
○御獵爲鴈羽之小野之櫟柴之《ミカリスルカリバノヲヌノナラシバノ》――序詞。同音を繰返して、奈禮《ナレ》につづいてゐる。御獵は天皇の獵であらう。鴈羽之小野は地名らしいが、何處にあるか明らかでない。越後に刈羽の地があるが、あまり遠隔の地で、御獵爲《ミカリスル》とあるにふさはしくない。獵場《カリバ》と見て地名としない説もあるが、古義にあるやうに、上代には場をバと訓むことはなく、獵場はカリニハといつたのであるから、それは成立しないやうである。併し卷三に弱薦乎獵路乃小野爾《ワカゴモヲカリヂノヲヌニ》(二三九)とあるによつて、古義に獵路の小野の誤としたのは從はれない。櫟柴《ナラシバ》は楢の木。櫟はイチヒと訓む字(108)であるが、イチヒカシは楢と同種で似てゐるから、櫟をナラに用ゐたのである。柴は楢・椎などの如き雜木をいつたやうである。○奈禮波不益《ナレハマサラズ》――馴れ親しむ心は増さずにの意。
〔評〕 序詞を主とした歌ながら、明麗な調で、まことに感じのよい作品である。袖中抄にも出てゐる。新古今集には人麿として載せてある。寄木戀。
3049 櫻麻の 麻原の下草 早く生ひば 妹が下紐 解かざらましを
櫻麻乃《サクラアサノ》 麻原之下草《ヲフノシタクサ》 早生者《ハヤクオヒバ》 妹之下?《イモガシタヒモ》 不解有申尾《トカザラマシヲ》
(櫻麻之麻原乃下草)早ク成長シテ、コノ女ガ一人前ニナツテ〔コノ〜傍線〕ヰタナラバ、コンナニコノ〔六字傍線〕女ガ下紐ヲ解イテ私ニ逢フコトニハナラ〔イテ〜傍線〕ナイダラウノニ。丁度コノ女ヲ妻ニ出來タノハ嬉シイ〔丁度〜傍線〕。
○櫻麻之麻原乃下草《サクヲアサノヲフノシタクサ》――序詞。早生者《ハヤクオヒバ》につづく。櫻麻といふ麻の畑に生えてゐる草。いつの間にか早くも生えてゐるので、かうつづくのである。○早生者《ハヤクオヒバ》――この句は種々の訓がある。舊訓ハヤクオキハとあるのは、誤字あるか。考はハヤナサバ、略解はハヤオヒバ、新考は誤字として訓を附してゐない。袖中抄にこの歌をあげて、ハヤクオヒバとあるのは古訓であらう。これが穩當でないかと思はれる。序詞へのつづき方は明らかであるが、四五の句との關係が明瞭でない。しばらく女が早く成長して大人であつたならばの意として置かう。代匠記は「我を思ふ心の早く草の如くしげからば」とし、略解は性急にせき立てたならばの意に解して、「ゆるらかにはかりし故に、遂にかく妹が紐解時にも至りぬと悦ぶ也」と言ひ、古義は「我よりさきに妹にいひよする人の有しならば」と解してゐる。
〔評〕 序詞は卷十一の櫻麻乃苧原之下草《サクラアサノヲフノシタクサ》(二六八七)と同樣で、集中の珍らしい用例である。袖中抄などにも引かれ、中世歌人の注意を引いたらしく、新古今・新勅撰・續後撰・玉葉・續千載・新千載などにこの語が用ゐられてゐる。第三句の意が明確を缺く爲に、解釋が種々に分れてゐるのは遺憾である。寄草戀。
3050 春日野に 淺茅標結ひ 斷えめやと 吾が念ふ人は いや遠長に
春日野爾《カスガヌニ》 淺茅標結《アサヂシメユヒ》 斷米也登《タエメヤト》 吾念人者《ワガモフヒトハ》 弥遠長爾《イヤトホナガニ》
(109)女ヲ自分ノモノトシテ手ニ入レテ、二人ノ間ハ〔女ヲ〜傍線〕(春日野爾淺茅標結)絶エハシナイト約束ヲシテ〔五字傍線〕、私ガ思ツテヰルアノ女ハ、何時マデモ絶エルコトハアルマイ〔何時〜傍線〕。愈々遠ク長ク、二人ノ間ハ續デアラウ〔二人〜傍線〕。
○春日野爾淺茅標結《カスガヌニアサヂシメユヒ》――斷米也《タエメヤ》につづく序詞。春日野の淺茅に標を張つて、その標繩の斷えざることを望む意である。しかし卷七の於君似草登見從吾標之野山之淺茅人莫苅根《キミニニルクサトミシヨリワガシメシヌヤマノアサヂヒトナカリソネ》(一三四七)・山高夕日隱奴淺茅原後見多米爾標結申尾《ヤマタカミユフヒカクリヌアサヂハラノチミムタメニシメユハマシヲ》(一三四二)などによると、淺茅を標結ふは、女を吾が物とする意があるのであるから、ここの序詞は全く無意味のものではない。
〔評〕 女を得た男が、二人の關係の永續を希望する歌。略解に「まだをさなきを今よりしめ結て、成らむ末の待遠なるを言へり」とあるのは從ひ難い。彌遠長爾《イヤトホナガニ》の結句が、少し變つた調になつてゐる。寄草戀。
3051 足引の 山菅の根の ねもごろに 我はぞ戀ふる 君がすがたは 或本歌曰 吾が思ふ人を見むよしもがも
足檜之《アシビキノ》 山菅根乃《ヤマスガノネノ》 懃《ネモゴロニ》 吾波曾戀流《ワレハゾコフル》 君之光儀乎《キミガスガタヲ》
(足檜之山菅根乃)心力ラシテ、私ハ貴方ノ姿ヲ、ナツカシク思ツテ〔八字傍線〕戀シテヰルヨ。
○足檜之山菅根乃《アシビキノヤマスガノネノ》――ネの音を繰返してつづく序詞。足檜の下に、木の字が無いのは略して書いたのか。西本願寺本のみは木の字がある。
〔評〕 歌意は平明である。序詞の用法も類例が多く平凡である。寄草戀。
或本歌曰 吾念人乎《ワガモフヒトヲ》 將見因毛我母《ミムヨシモガモ》
四五の句の異本である。内容からいふと別の歌としてもよい。
3052 杜若 佐紀澤に生ふる 菅の根の 絶ゆとや君が 見えぬこの頃
垣津旗《カキツバタ》 開澤生《サキサハニオフル》 菅根之《スガノネノ》 絶跡也君之《タユトヤキミガ》 不所見頃者《ミエヌコノゴロ》
私トノ關係ヲ〔六字傍線〕(垣津旗開澤生菅根之)絶タウト云フ考デ〔四字傍線〕、貴方ハコノ頃私ノ所ヘ〔四字傍線〕來ナイノデスカ。ヒドイオ方デ(110)スネ〔八字傍線〕。
○垣津旗開澤生菅根之《カキツバタサキサハニオフルスガノネノ》――序詞。菅の根の絶ゆとつづく。垣津旗ハ杜若。開《サキ》は咲くの意で、佐紀といふ地名にかけて枕詞として用ゐてある。開澤は奈良の北方、佐紀の澤。今も都跡村に大字佐紀がある。あのあたり佐紀山の南麓一體は、沼澤地であつたのである。
〔評〕 これも平易な歌である。佐紀附近に住む女の歌であらう。菅に寄せてある。寄草戀。
3053 足引の 山菅の根の ねもごろに 止まず思はば 妹に逢はむかも
足檜木之《アシビキノ》 山菅根之《ヤマスガノネノ》 懃《ネモゴロニ》 不止念者《ヤマズオモハバ》 於妹將相可聞《イモニアハムカモ》
(足檜木之山菅根之)心カラシテ絶エズ思ツタナラバ、念力ガ屆イテ戀シイ〔九字傍線〕女ニ逢フコトガ出來ルダラウカヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
〔評〕 前の三〇五一及び、その或本歌と上句全く同じで、内容も似てゐる。寄草戀。
3054 相思はず あるものをかも 菅の根の ねもころごろに 吾が思へるらむ
相不念《アヒオモハズ》 有物乎鴨《アルモノヲカモ》 菅根乃《スガノネノ》 懃懇《ネモコロゴロニ》 吾念有良武《ワガモヘルラム》
コチラデ思ツテモ、アノ人ハ私ノコトヲ〔九字傍線〕思ツテクレナイダラウノニ、ドウシテ〔四字傍線〕(菅根乃)心カラ熱心ニ、私ガアノ人ヲ〔四字傍線〕思ツテヰルノダラウ。ツマラナイ話ダ。我ナガラ不思議ニ思ハレル〔ツマ〜傍線〕。
○有物乎鴨《アルモノヲカモ》――あるものを、どうしてかと疑つて、結句、良武《ラム》で受けてゐる。○菅根之《スガノネノ》――枕詞。ネモコロにつづく。○懃《ネモコロゴロニ》――ネモゴロといふべきを、更に強くいふ時に用ゐる。卷十三に根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロゴロニ》(三二八四)とあるに傚つて訓むべきである。
〔評〕 片戀の悲しみを述べ、自から反省して怪しんでゐる形である。寄草戀。
3055 山菅の 止まずて君を おもへかも 吾が心どの この頃は無き
(111)山菅之《ヤマスゲノ》 不止而公乎《ヤマズテキミヲ》 念可母《オモヘカモ》 吾心神之《ワガココロドノ》 頃者名寸《コノゴロハナキ》
(山菅之)止マズニ絶エズ〔三字傍線〕貴方ヲ思ツテヰル爲カ、私ノ魂ハコノ頃ハナクナツテシマツタヤウニ思ハレルヨ〔八字傍線〕。
○山菅之《ヤマスゲノ》――枕詞。不止《ヤマズ》と同音を繰返してつづいてゐる。○吾心神之《ワガココロドノ》――ココロドは魂。四五七參照。
〔評〕 平凡な作。寄草戀。
3056 妹が門 去き過ぎかねて 草結ぶ 風吹き解くな 又顧みむ 一云ただにあふまでに
妹門《イモガカド》 去過不得而《ユキスギカネテ》 草結《クサムスブ》 風吹解勿《カゼフキトクナ》 又將顧《マタカヘリミム》
私ハ旅ニ出ヨウトシテ、戀シイ〔私ハ〜傍線〕女ノ家ノ〔二字傍線〕門ヲ通ツタガ、空シク〔七字傍線〕打過ギルコトモ出來ナイデ、門ノ前ノ〔四字傍線〕草ヲ結ンデ又無事デ逢ヘルヤウニト願ツテ〔又無〜傍線〕置イタ。コノ草ヲ〔四字傍線〕風ヨ吹キ解クナ。又來テ私ハコノ結ンダ草ヲ〔九字傍線〕見ヨウト思フカラ〔五字傍線〕。
○草結《クサムスブ》――草を結んだといふので、この句で切れてゐる。草を結ぶのは、無事を祈り、思ふことの叶ふやうに祈るまじなひの古俗である。卷一の磐代乃岡之草根乎去來結手名《イハシロノヲカノクサネヲイザムスビテナ》(一〇)・卷七の何爾加君之舟泊草結兼《イヅクニカキミガフネハテクサムスビケム》(一一六九)などもさうである。
〔評〕 旅に出ようとする男の歌か。上代呪咀の風俗を知るべき好資料である。風吹解勿《カゼフキトクナ》に哀な情緒が見える。寄草戀。
一云 直相麻?爾《タダニアフマデニ》
第五句の異傳である。
3057 淺茅原 茅生に足蹈み 心ぐみ 吾が念ふ兒らが 家のあたり見つ 一云、妹が家のあたり見つ
淺茅原《アサヂハラ》 茅生丹足蹈《チフニアシフミ》 意具美《ココログミ》 吾念兒等之《ワガモフコラガ》 家當見津《イヘノアタリミツ》
(112)私ハ女ガ戀シサニ〔八字傍線〕心ガ鬱陶シクテ堪ヘラレナイデ、茅ガマバラニ生エテヰル茅原ニ足ヲ蹈ミ込ンデ、困難ヲシナガラ、セメテ逢ヘイナイマデモト思ツテ〔込ン〜傍線〕、私ノ戀シイ女ノ家ノ邊ヲ見タ。
○(淺茅原茅生丹足踏《アサヂハラチフニアシフミ》――淺茅原茅生は淺茅原なる茅生で、淺茅原と茅生とは同一である。○意具美《ココログミ》――卷四の情具久《ココログク》(七三五)・情八十一《ココログク》(七八九)・卷八の情具伎《ココログキ》(一四五〇)などのココログシにミを添へた形であらう。心が晴れないので。この句から直ちに第四句へつづかズ。これを第一句の上に廻して見るべきであらう。
〔評〕 初二句が意具美《ココログミ》の序詞でもありさうな語調になつてゐるが、しばらく舊説に從つて置く。右のやうに見ると大ぶん内容の變つた歌である。寄草戀。
一云 妹之《イモガ》 家當見津《イヘノアタリミツ》
第四句の異傳である。
3058 うち日さす 宮にはあれど 鴨頭草の 移ろふ心 吾が思はなくに
内日刺《ウチヒサス》 宮庭有跡《ミヤニハアレド》 鴨頭草乃《ツキクサノ》 移情《ウツロフココロ》 吾思名國《ワガモハナクニ》
私ハ〔二字傍線〕(内日刺)宮中ニ居ツテ美シイ人ヲ見テ〔十字傍線〕ヰルケレドモ、(鴨頭草乃)外ヘ心ヲ遷スヤウナ薄情ナ心ヲ、私ハ持ツテハ居リマセヌヨ。
○内日刺《ウチヒサス》――宮とつづく。卷三の内日指《ウチヒサス》(四六〇)參照。○鴨頭草乃《ツキクサノ》――枕詞。鴨頭草は月草。ボウシバナ。花の色が鴨の頭のやうであるから、かうかくのである。○移情《ウツロフココロ》――月草の花を以て染めた縹色は、褪め易いからかくつづけたのである。從來これをウツシココロと訓んで來たが、ウツシココロは現し心で、移り易い心の意とはならず、ここは強ひて解けば現心でもわからぬことはないが、次の歌は現し心では到底解釋し難いから、この二首共にウツロフココロと訓んで、移り易い心と解すべきである。
(113)〔評〕 宮廷奉仕の女の歌で、男に誓ふ言葉である。宮中の生活は、誘惑が多かつたことを語つてゐる。寄草戀。
3059 百に千に 人は言ふとも つき草の 移ろふ心 吾が持ためやも
百爾千爾《モモニチニ》 人者雖言《ヒトハイフトモ》 月草之《ツキクサノ》 移情《ウツロフココロ》 吾將持八方《ワガモタメヤモ》
色々ト人ガ言ヒ立テテモ、(月草之)薄情ナ心ヲ私ガ持タウヤ。決シテ私ハ心ヲ外ニ移スコトハシナイ〔決シ〜傍線〕。
○百爾千爾《モモニチニ》――種々樣々に。○月草之《ツキクサノ》――枕詞。月草の花の色の變り易き意で、移ろふとつづく。
〔評〕 かういふ場合は結句をワガモハナクニといふのが常であるのに、吾將持八方《ワガモタメヤモ》とあるのは珍らしい。平明な作である。寄草戀。
3060 わすれ草 吾が紐につく 時となく 思ひわたれば 生けりともなし
萱草《ワスレグサ》 吾紐爾著《ワガヒモニツク》 時常無《トキトナク》 念度者《オモヒワタレバ》 生跡文奈思《イケリトモナシ》
私ハ何〔三字傍線〕時ト云フ區別モ〔五字傍線〕ナク、絶エズ戀人ヲ〔六字傍線〕思ヒ續ケテヰルト、苦シクテ〔四字傍線〕生キテヰルヤウナ心地ハシナイ。ダカラドウカシテ忘レヨウト思ツテ〔ダカ〜傍線〕、萱草ヲ私ノ着物ノ〔三字傍線〕紐ニ付ケテ置イタ。
○萱草《ワスレグサ》――今、クワンザウと稱する草。卷三の三三四參照。○時常無《トキトナク》――何時といふ定まりたる時とてなくの意。
〔評〕 第二句で言ひ切つて、萱草を紐につける理由を説明してゐる。卷三の萱草吾?二付香具山乃故去之里乎不忘之爲《ワスレグサワガヒモニツクカグヤマノフリニシサトヲワスレヌガタメ》(三三四)と同型と言つてよい。力強い言ひ方になつてゐる。この風俗に關する歌は前に澤山あつた。さうしてこれが漢土に學んだものなることに注意したい。袖中抄に載せてゐる。寄草戀。
3061 あかときの 目ざまし草と これをだに 見つついまして 我としぬばせ
五更之《アカトキノ》 目不醉草跡《メザマシグサト》 此乎谷《コレヲダニ》 見乍座而《ミツツイマシテ》 吾止偲爲《ワレトシノバセ》
只今コノ品物ヲ貴方ニ差上ゲマスガ〔只今〜傍線〕、夜明ケ方ノ目醒シノ品トシテ、コレデモ御覽ナサツテ、私ト思ツテ私ヲ〔二字傍線〕思ヒヤツテ下サイ。
(114)○五更之《アカトキノ》――夜を初更、二更、三更、四皿、五更に分つと、五更は曉である。○目不醉草《メザマシグサ》――目醉しの品の意で草の名ではない。○吾止偲爲《ワレトシヌバセ》――ワレトは我と思ひて、シヌバセは偲び給へ。
〔評〕 何か品物を贈つたのに添へた歌であらう。これを草の部に入れたのは隨分無茶である。編者の杜撰な態度があらはれてゐる、寄草戀。
3062 わすれ草 垣もしみみに 植ゑたれど 醜の醜草 なほ戀ひにけり
萱草《ワスレグサ》 垣毛繁森《カキモシミミニ》 雖殖有《ウエタレド》 鬼之志許草《シコノシコグサ》 猶戀爾家利《ナホコヒニケリ》
私ハ私ノ恋ヲ忘レヨウト思ツテ〔私ハ〜傍線〕、萱草ヲ垣根ニ澤山ニ植ヱタケレドモ、ツマラナイ忘レ草ノ奴ダ。何ノ効能モナク〔ノ奴〜傍線〕ヤハリ私ハ〔二字傍線〕戀シク思ツテヰルヨ。
○垣毛繋森《カキモシミミニ》――繋森の二字は共に茂き意であるから、シミミと訓んだのである、シミミニは茂く。○鬼之志許草《シコノシコグサ》――醜い醜い草。萱草を指してゐる。
〔評〕 奇拔なよい歌である。卷四の萱草吾下紐爾著有跡鬼乃志許草事二思安利家理《ワスレグサワガシタヒモニツケタレドシコノシコグサコトニシアリケリ》(七二七)はこれを學んだやうに思はれる。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。寄草戀。
3063 淺茅原 小野に標結ふ むな言も 逢はむと聞こせ 戀のなぐさに 或本歌曰、來むと知らしし君をし待たむ
淺茅原《アサヂハラ》 小野爾標結《ヲヌニシメユフ》 空言毛《ムナゴトモ》 將相跡令聞《アハムトキコセ》 戀之名種爾《コヒノナグサニ》
貴方ハ私ニ本當ニ逢ツテ下サラナイデモ、セメテ〔貴方〜傍線〕戀ノ慰ニ、(淺茅原小野爾標結)嘘ニデモ逢ハウトオツシヤイマシ。私ハソレヲ聞イテデモ、心ヲ慰メマセウ〔私ハ〜傍線〕。
○淺茅原小野爾標結《アサヂハラヲヌニシメユフ》――序詞。空言《ムナゴト》とつづく、淺茅原の野に標を結うても、甲斐なく空しきことであるからである。○空言毛《ムナゴトモ》――嘘にも。舊訓ソラゴトモとある。○將相跡令聞《アハムトキコセ》――逢はむとのたまへ、仰せよの意。卷十一に不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》(二七一〇)とあつた。舊訓アハムトキカセとあるのはよくない。
(115)〔評〕 上句は卷十一朝茅原小野印空事何在云公待《アサヂハラヲヌニシメユフムナゴトヲイカナリトイヒテキミヲバマタム》(二四六六)ト同樣である。また淺茅原苅標刺而空事文所縁之君之辭鴛鴦將待《アサヂハラカリシメサシテムナゴトモヨセテシキミガコトヲシマタム》(二七五五)とも似てゐる。他に用例は見えないやうであるが、かういふ慣用句が出來てゐたものか。寄草戀。
或本歌曰 將來知志《コムトシラシシ》 君矣志將待《キミヲシマタム》 又見(ユ)2柿本朝臣人麻呂歌集(ニ)1 然(レドモ)落句小(シク)異(レル)耳
下句の異本である。宣長は「知志の知は言の誤か。言ひてしならではきこえず」と言つてゐるが、行かうと通知して來た君を待たうといふのであらうから、この儘でも通ずるわけである。又見以下の丈は、柿本朝臣人麿歌集に見えてゐるが、落句が少し異なつてゐるのみだといふので、右にかかげた何在云公待《イカナリトイヒテキミヲバマタム》(二四六六)の歌を指してゐる、落句は漢詩の用語で、結句に同じ。律詩の最後の二句をいふのが常である。作文大概第四に「凡句者不v論2五言七言1其首一韻謂2之發句1、其次一韻謂2之胸句1、共次一韻謂2之腰句1、其尾一韻謂2之落句1」とある。
3064 人皆の 笠に縫ふとふ 有間菅 在りて後にも 逢はむとぞ思ふ
人皆之《ヒトミナノ》 笠爾縫云《カサニヌフトフ》 有間菅《アリマスゲ》 在所後爾毛《アリテノチニモ》 相等曾念《アハムトゾオモフ》
私ハ戀人ニ〔五字傍線〕(皆人之笠爾縫云有問菅)カウシテ居ツテ、年刊月ガ經ツタ〔六字傍線〕後デモ又〔傍線〕逢ハウト思フ。
○皆人之笠爾縫云有問菅《ヒトミナノカサニヌフトフアリマスゲ》――在《アリ》とつづく序詞。有間菅は攝津の有馬に産する菅。舊本、皆人とあるのは元暦校本に人皆とあるのがよい。
〔評〕 卷十一の王之御笠爾縫有在間菅有管雖看事無吾妹《オホキミノミカサニヌヘルアリマスゲアリツツミレドコトナシワギモ》(二七五七)とよく似てゐる。序詞は彼よりも民衆的に作られてゐる。寄草戀。
3065 み吉野の 蜻蛉の小野に 刈るかやの 思ひ亂れて ぬる夜しぞ多き
(116)三吉野之《ミヨシヌノ》 蜻乃小野爾《アキツノヲヌニ》 苅草之《カルカヤノ》 念亂而《オモヒミダレテ》 宿夜四曾多《ヌルヨシゾオホキ》
私ハ戀人ヲ思ツテ〔八字傍線〕(三吉野之蜻乃小野爾刈草之)心ガ亂レテ寢ル晩ガ多イヨ。アア辛イ〔四字傍線〕。
○三吉野之蜻乃小野爾刈草之《ミヨシヌノアキツノヲヌニカルカヤノ》――亂《ミダレ》とつづく序詞。草は茅、萱のこと。屋根を葺く料にする草をカヤといふ。古事記に「天津日高日子波限建鵜葺草茸不合命訓2波限1云2那藝佐1訓2葺草1云2加夜1」とある。蜻の小野は吉野の秋津野。吉野宮の附近。
〔評〕 卷十一の内日左須宮道爾相之人妻?玉緒之念亂字宿夜四曾多寸《ウチヒサスミヤヂニアヒシヒトヅマユヱニタマノヲノオモヒミダレテヌルヨシゾオホキ》(二三六五)と下句全く同じである。この歌、袖中抄に出てゐる。和歌童蒙抄にはカゲロフノヲノニとして出してゐる。寄草戀。
3066 妹まつと 三笠の山の 山菅の 止まずや戀ひむ 命死なずは
妹待跡《イモマツト》 三笠乃山之《ミカサノヤマノ》 山菅之《ヤマスゲノ》 不止八將戀《ヤマズヤコヒム》 命不死者《イノチシナズハ》
私ハ戀シイ〔五字傍線〕女ニ逢フノ〔五字傍線〕ヲ待ツテヰテ、命ノ死ナナイ限ハ(三笠乃山之山菅之)絶エズ戀シク思フデアラウカ。
○妹待跡《イモマツト》――考に待跡を所v服の誤として、イモガキルと訓み、古義は我服などの誤で、イモガケルであらうと言つてゐるが、さう改める必要はない。この句から四句へつづいてゐる。○三笠乃山之山管之《ミカサノヤマノヤマスゲノ》――同音を繰返して不止《ヤマズ》につついてゐる。
〔評〕 死に至るまでの戀の煩悶を思うて、自から戰慄を禁じ難い男の言葉である。寄草戀。
3067 谷狹み 峯べに延へる 玉葛 蔓へてしあらば 年に來ずとも 一云、石葛の蔓へてしあらば
谷迫《タニセバミ》 峯邊延有《ミネベニハヘル》 玉葛《タマカヅラ》 令蔓之有者《ハヘテシアラバ》 年二不來友《トシニコズトモ》
(谷迫峯邊延有玉葛)絶エズニ二人ノ關係ガ〔六字傍線〕續イテヰルナラバ、縱令〔二字傍線〕一年ノ間貴方ガ〔三字傍線〕來ナイデモ、私ハ心配ハシマセヌ〔九字傍線〕。
(117)○谷迫峯邊延有玉葛《タニセバミミネベニハヘルタマカヅラ》――ハヘテとつづく序詞。峯邊は舊訓を改めて、古義に峯迄《ミネマデ》としてゐる。伊勢物語の「谷せばみ峯まではへる玉かづら、たえむと人に我思はなくに」とあるに傚つたのであるが、もとの儘でよいであらう。峯邊《ミネベ》といふ語は少し穩やかでないやうだが、それは後世の用例がないといふまでで、卷十一の山高谷邊蔓在玉葛《ヤマタカミタニベニハヘルタマカヅラ》(二七七五)に對して、峯邊でも何等不合理な點はない。○令蔓之有者《ハヘテシアラバ》――ハヘは延びつづくこと。長くつづきさへするならばの意。
〔評〕 卷十四の多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能已許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》(三五〇七)に似て、前掲の卷十一(二七七五)と序詞の内容が反對になつてゐる。玉葛は蔓になつてゐる草木の總稱であるが、草類としてここに收めてある。寄葛戀。
一云 石葛《イハヅナノ》 令蔓之有者《ハヘテシアラバ》
第三句の異傳である。石葛は石に這つた葛で、元來、ツタとツナとは同語である。
3068 水莖の 岡の葛葉を 吹きかへし 面知る兒らが 見えぬ頃かも
水莖之《ミヅクキノ》 岡乃田葛葉緒《ヲカノクズバヲ》 吹變《フキカヘシ》 面知兒等之《オモシルコラガ》 不見比鴨《ミエヌコロカモ》
私ガ〔二字傍線〕(水草之崗乃田葛葉緒吹變)顔ヲ知ツテヰルアノ〔二字傍線〕女ガ、コノ頃ハ見エナイヨ。
○水草之崗乃田葛葉緒吹變《ミヅクキノヲカノクズバヲフキカヘシ》――序詞。葛の葉の風に翻るのは著しく目に立つから面知るとつづく。水莖之は崗の枕詞。九六八參照。○面知兒等之《オモシルコヲガ》――面を知つてゐる見知り合ひの女がの意であらう。
〔評〕 前の如神所聞瀧之白浪乃面知君之不所見比日《カミノゴトキコユルタギノシラナミノオモシルキミガミエヌコノゴロ》(三〇一五)と下句、殆ど同じで、唯これは男性の歌になつてゐるだけである。寄草戀。
3069 赤駒の い行き憚る まくず原 何の傳言 ただにしえけむ
赤駒之《アカゴマノ》 射去羽許《イユキハバカル》 眞田葛原《マクズハラ》 何傳言《ナニノツテゴト》 直將吉《タダニシエケム》
(118)赤駒ガ歩ミカネテヰル葛ノ原、ソノ葛ノ原ノヤウニ、ココヘ歩イテ來カネテ、アノ人ハ〔ソノ〜傍線〕、ドウシテ人ニ〔二字傍線〕傳言ナドヲタノムノダラウカ。直接ニ言ヘバ〔三字傍線〕ヨイノニ。
○赤駒之射去羽許眞田葛原《アカゴマノイユキハバカルマクズハラ》――これは下を言ひ起す爲に用ゐたのであるが、譬喩が主となつてゐるから、序詞とは見ない方がよい。赤駒の赤は別に理由があつて添へたのではない。射《イ》は接頭語で意味はない。駒の脚に葛の蔓がまとひ附いて、進みかねるものと解かれてゐる。拾遺集雜戀に「みかりするこまのつまづくまくず原君こそまろがほだしなりけれ」とあるによれば、さう見るのがよいやうである、併し馬は葛の葉を好むこと甚だしいものであるから、元來、葛の葉を食はうとして進みかねる意であつたかも知れない。許の字は、元暦校本・西本願寺本に計となつてゐるのがよい。○何傳言《ナニノツテゴト》――何の傳言なるぞの意。
〔評〕 この歌は天智天皇紀に「十年十二月癸亥、朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉殯2新宮1、于時童謠曰、云々|阿箇悟馬能以喩企波々箇屡麻矩儒播羅奈爾能都底擧騰多?尼之曳鷄武《アカゴマノイユキハバカルマクズハラナニノツテゴトタダニシエケム》」とあつて、當時の童謠として傳へられてゐる。歌風は古朴で、且、上三句が寓意でもありさうで、いかにも童謠らしい感がある。併しもと戀愛の歌であつたのが、童謠として解せられたものであらう。始めから童謠の作として、その寓意を考へるのはよくない。寄草戀。
3070 木綿疊 田上山の さなかづら 在り去りてしも 今ならずとも
木綿疊《ユフタタミ》 田上山之《タナガミヤマノ》 狹名葛《サナカヅラ》 在去之毛《アリサリテシモ》 不令有十方《イマナラズトモ》
今デナクテモ(木綿疊田上山之狹名葛)カウシテ居ツテ、後デ私ハ貴方ニ逢ハウト思フ〔後デ〜傍線〕。
○木綿疊田上山之狹名葛《ユフタタミタナガミヤマノサナカヅラ》――序詞。狹名葛は蔓が永く續いてゐるもので、在去《アリサリ》と連ねてある。木綿疊は神に捧げる爲に木綿を疊み重ねたもの。ここは枕詞として、田上山につづいてゐる、この續き方について、冠辭考には、手を取り持ちて手向ける意で、手の上《カミ》とつづけたのであらうと言つてゐるが、古義に、木綿帖疊《ユフタタミタタナハ》るといふ意だとした方が、よいやうに思ふ。田上山は近江の南部、栗田郡にある山。狹名葛はサネカヅラに同じく、美(119)男葛のこと。○在去之毛《アリサリテシモ》――在在テしもに同じく、かうしてゐて後にもの意。シモは強く言ふのみ。下に逢はうが略されてゐる。○不令有十方《イマナラズトモ》――舊訓アラシメストモとあるのは、令は今の誤なることが氣がつかなかつたのである。
〔評〕 省略法の用ゐ方が、本集としては一寸珍らしい。袖中抄に載つてゐる、寄葛戀。
3071 丹波ぢの 大江の山の さねかづら 絶えむの心 吾が思はなくに
丹波道之《タニハヂノ》 大江乃山之《オホエノヤマノ》 眞玉葛《サネカヅラ》 絶牟乃心《タエムノココロ》 我不思《ワガモハナクニ》
私ハアノ人ト〔六字傍線〕(丹波道之大江乃山之眞珠葛)絶エヨウト思フ心ハ持ツテヰナイヨ。
○丹波道之大江乃山之眞珠葛《タニハヂノオホエノヤマノサネカヅラ》――絶牟《タエム》とつづく序詞。丹波路の大江山に生えてゐるさねかづら。大江山は山城國乙訓郡大枝村にあり、丹波國篠村に越える道に當つて、畿内から山陰に入る要衝である。天武天皇紀に「八年十一月、初置2關於龍田山大江山1」とあるのも此處で、早く關を置かれたところである。酒呑童子の傳説のある丹後の大江山ではない。眞玉葛は舊訓サナカツラとあるのを、古義は田中道麻呂説に從つて、マタマヅラと訓んでゐる。文字のままに訓めば、まことにその通りであるが、さういふ語例がないから眞をサネと訓み、玉を不要のものとして、サネカヅラと訓むのが無難であらう。○絶牟乃心《タエムノココロ》――絶えむと思ふ心。
〔評〕 丹波道の大江の山を詠んだ、集中唯一の例であるが、歌の内容はありふれたものである。寄葛戀。
3072 大崎の ありその渡り 延ふくずの 行方もなくや 戀ひわたりなむ
大埼之《オホサキノ》 有礒乃渡《アリソノワタリ》 延久受乃《ハフクズノ》 徃方無哉《ユクヘモナクヤ》 戀度南《コヒワタリナム》
私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕(大埼之有礒乃渡延久受乃)先ハドウナルトモ分ラズ、戀シク思ツテ日ヲ送ルコトデアラウカ。
○大埼之有礒乃渡延久受乃《オホサキノアリソノワタリハフクズノ》――序詞。徃方無哉《ユクヘモナクヤ》とつづくのは、荒礒に這ふ葛が、何處にでも延び廻つて行方を定めないからであらう。古義には「田葛の蔓は東西《トザマカクザマ》己がまま蔓《ハヒ》わたる物なるに、礒邊にはへるは、岸際を(120)かぎりて蔓ゆくことかなはぬよしにて、徃方無とつづけたるなるべし(中略)と弘蔭いへり」とあるが、さうではあるまい。大埼は卷六に大埼乃神之小濱者《オホサキノカミノヲハマハ》(一〇二三)とあつたところ。紀伊國海草郡の南部にある小港。渡《ワタリ》は船で渡る處で、この歌では附近の意に解するのがよいやうであるが、本集ではその用例がないやうだ、新考には渡を瀲《ナギサ》の誤とし、宣長は、第三句が「必漕ぐ舟のと有べき歌也」と言つてゐる。併し宜長のやうに改めてはここに收めてある筈がないから、やはり原形の儘にして大埼の荒凉たる磯の渡場に這つてゐる葛と見るべきである。
〔評〕 第二句に誤字があるかも知れないが、多分紀伊の海岸つたひに船路の旅をつづけてゐる人が、大埼の濱で詠んだのであらう。渡とあるのは、此處から四國へ渡つて行くからかも知れない。心細さうな歌である、寄草戀。
3073 木綿※[果/衣] 一云、疊 白月山の さな葛 後もかならず 逢はむとぞ念ふ 或本歌曰、絶えむと妹をわが念はなくに
木綿裹《ユフタタミ》【一云疊】 白月山之《シラツキヤマノ》 佐奈葛《サナカヅラ》 後毛必《ノチモカナラズ》 將相等曾念《アハムトゾモフ》
(121)私ハ戀人ニ〔五字傍線〕(木綿※[果/衣]白月山之佐奈葛)後デモ、キツト逢ハウト思フヨ。
○木綿※[果/衣]白月山之佐奈葛《ユフタタミシラツキヤマノサナカヅラ》――後も必ず逢ふといふ意にかかる序詞。さなかづらは枝が分れて延び行きて、又逢ふからである、木綿※[果/衣]は枕詞。木綿を疊んだのが白いからである。舊訓はユフツツミとあるが、※[果/衣]も疊も共にタタミとよむのであらう。白月は考に田上の誤とし、略解・古義・新考などこれに從つてゐるのは、前の三〇七〇に傚つたもので、無理であらウ。袖中抄にもこれをシラツキヤマとして出してゐる。白月山の所在は不明であるが、直ちに誤とは斷じ難い。代匠記に「白月山は近江といへり」とある。
〔評〕 前の數歌と共に、大躰型にはまつたやうな作である。寄葛戀。
或本謌曰、將絶跡妹乎《タエムトイモヲ》 吾念莫久爾《ワガモハナクニ》
これは四五の句の異本である。かうすると前の丹波道之大江乃山之《タニハヂノオホエノヤマオ》(三〇七一)の歌と似通つて來る。
3074 唐棣花色の 移ろひ易き 心あれば 年をぞ來經る 言は絶えずて
唐棣花色之《ハネズイロノ》 移安《ウツロヒヤスキ》 情有者《ココロアレバ》 年乎曾寸經《トシヲゾキフル》 事者不絶而《コトハタエズテ》
貴方ハ〔三字傍線〕(唐棣花色之)他ニ心ヲ〔四字傍線〕移シヤスイ薄情ナ〔三字傍線〕心ガアルノデ、言葉ダケハ絶エズ通ハシテヰルケレドモ、實際ニハ逢ツテクレナイデ〔實際〜傍線〕、幾年モ經ツテシマツタ。
○唐棣花色之《ハネズイロノ》――枕詞。今の小米櫻。薄紅の色で褪め易いから、かうつづけてある。○年乎曾寸經《トシヲゾキフル》――キフルは來經る。年を經たといふのである。○事者不絶而《コトハタエズテ》――事は言。消息。
〔評〕 この邊の歌は長い序詞を冠したものが多いのに、これは枕詞を周ゐただけである。前後、草に寄せる歌であるが、唐棣花は小灌木であるから、ここに入れたか。袖中抄に出てゐる。寄唐棣花戀。
3075 かくしてぞ 人の死ぬとふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに
如此爲而曾《カクシテゾ》 人之死云《ヒトノシヌトフ》 藤浪乃《フヂナミノ》 直一目耳《タダヒトメノミ》 見之人故爾《ミシヒトユヱニ》
(122)(藤波乃)只一目見タバカリノ人ダノニ、カウシテ私ノヤウニ〔五字傍線〕人ハ死ヌモノダト言ヒマス。私ハ只一目見タアノ人ノ爲ニ命モ危イ位ニ焦レテ居リマス〔私ハ〜傍線〕。
○藤波乃《フヂナミノ》――枕詞として用ゐられてゐるやうだが、下へのつづきがわからない。代匠記には「藤浪は色よきにたとへていへり」とある。さうすれば人へつづくことになる。紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》(二一)などの類として考ふべきかとも思はれるが、少し無理であらう。略解には藤浪は蜻?などの草體から誤まつたものであらうと言つてゐるが、それではここに收むべき歌ではなくなる。
〔評〕 唯ちらつと見たばかりの人に、命をかけて戀する歌、藤の花に寄せた歌としてここにあげてあるが、その寄する意が明瞭でない。藤は葛の類であるから、前の玉葛、さねかづらと同一視して、ここに收めたものである。寄藤戀。
3076 住吉の 敷津の浦の なのりその 名は告りてしを 逢はなくも恠し
住吉之《スミノエノ》 敷津之浦乃《シキツノウラノ》 名告藻之《ナノリソノ》 名者告而之乎《ナハノリテシヲ》 不相毛恠《アハナクモアヤシ》
女ハ容易ニ男ニ名ヲ告ゲルモノデハナイガ、アノ女ハ私ニ自分ノ〔女ハ〜傍線〕(住吉之敷津之浦乃名告藻之)名ヲ明カシタノニ、逢ハナイノハ不思議ダ。
○住吉之敷津之浦乃名告藻之《スミノエノシキツノウラノナノリソノ》――序詞、同音を繰返して下へつづいてゐる。住吉の敷津の浦は今、住吉神社の西方にその地名が遺つてゐる。この邊は新らしく陸地が出來て昔と趣を異にしてゐるが、新古今集にも「敷津の浦にまかりてあそびけるに、船にとまりてよみ侍りける。藤原實方朝臣。船ながら今夜ばかりは旅宿せむ敷津の浪に夢はさむとも」と出てゐるから、古い地名がそのまま傳はつてゐるのであらう。名告藻《ナノリソ》はホンダワラ。
〔評〕 この下に然海部之礒爾苅干名告藻之名者告手師乎如何相難寸《シカノアマノイソニカリホスナノリソノナハノリテシヲイカニアヒガタキ》(三一七七)と同型の作といつてよい。この他にも類似した歌が多い。和歌童蒙抄に載つてゐる。これから下、藻に寄せてある。寄藻戀。
3077 みさごゐる 荒礒に生ふる なのりその よし名は告らじ おやは知るとも
(123)三佐呉集《ミサゴヰル》 荒礒爾生流《アリソニオフル》 勿謂藻乃《ナノリソノ》 吉名者不告《ヨシナハノラジ》 父母者知鞆《オヤハシルトモ》
二人ノ關係ヲ〔六字傍線〕父母ガ知ツテモ、私ハ〔二字傍線〕ヨロシイ、大丈夫デス、アナタノ〔九字傍線〕(三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃)名ハ申シマスマイ。安心シテオイデナサイ〔安心〜傍線〕。
○三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノ》――序詞。同音を繰返して下につづいてゐる。三佐呉《ミサゴ》は雎鳩。荒礒にゐる猛禽類。○吉名者不告《ヨシナハノラジ》――ヨシはヨロシイと應諾した言葉であらう。諸註皆、ヨシヤ親は知るともとつづけてゐるのは誤である。考はこの句を名者令告と改め、ナハノラシテヨとし、略解は不は令の誤でヨシナハノラセであつたかと言つてゐる、いづれも從ひ難い。
〔評〕 卷三の山部赤人作、美沙居荒礒爾生名乘藻乃告名者告世父母者知友《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノナノリハノラセオヤハシルトモ》(三六三)の異傳か。あまりに似た作である。寄藻戀。
3078 浪のむた なびく玉藻の 片思に 吾が思ふ人の 言の繋けく
浪之共《ナミノムタ》 靡玉藻乃《ナビクタマモノ》 片念爾《カタモヒニ》 吾念人之《ワガモフヒトノ》 言乃繋家口《コトノシゲケク》
(浪之共靡玉藻乃)片思デ、私ガ思ツテ居ル人ノコトニツイテ世間ガ〔九字傍線〕、口ヤカマシク言フヨ。コチラカライクラ思ツテモ、先方デハ思ツテクレナイノニ、コンナニ浮名ヲ立テラレテハ私ハヤリ切レナイ〔コチ〜傍線〕。
○浪之共靡玉藻乃《ナミノムタナビクタマモノ》――藻は片方によつて靡くから片念の序詞としてゐる。
〔評〕 かなはぬ戀に徒らに、浮名のみが立つのを悲しんでゐる。ありふれた歌である。寄藻戀。
3079 わたつみの 沖つ玉藻の 靡き寢む 早來ませ君 待てば苦しも
海若之《ワタツミノ》 奧津玉藻之《オキツタマモノ》 靡將寐《ナビキネム》 早來座君《ハヤキマセキミ》 待者苦毛《マタバクルシモ》
二人デ(海若之奥津玉藻之)長々ト並ンデ寢マセウ。早クオイデナサイヨ、貴方。侍ツノハ苦シイモノデスヨ。
○海若之奥津玉藻之《ワタツミノオキツタマモノ》――序詞。ナビキとつづいてゐる。海若《ワタツミ》の本義は海の神で、ここの文字もさうしるしてあ(124)るが、海の意に用ゐてある。
〔評〕 三句で切つて、また四句で切れてゐる。女の歌であらうが、かなり露骨である。俚謠であらう。寄藻戀。
3080 わたつみの 沖にひたる 繩のりの 名は曾て告らじ 戀ひは死ぬとも
海若之《ワタツミノ》 奧爾生有《オキニオヒタル》 繩乘乃《ナハノリノ》 名者曾不告《ナハカツテノラジ》 戀者雖死《コヒハシヌトモ》
私ハタトヒ〔五字傍線〕焦死ヲシテモ、私ノ戀人ノ〔五字傍線〕(海若之奧爾生有繩乘乃)名ハ決シテ明カスマイト思フ〔三字傍線〕。
○海若之奧爾生有繩乘乃《ワタツミノオキニオヒタルナハノリノ》――序詞。同音を繰返して下につづいてゐる。繩乘は繩のやうな細長い海苔。ツルモ〔三字傍点〕などの類か。○名者曾不告《ナハカツテノラジ》――上をナハの音で受けてゐるが、ノラも亦上のノリを受けたのである。曾《カツテ》は決して、少しも、全くなどの意。
〔評〕 類想の作が多い。寄藻戀。
3081 玉の緒を 片緒によりて 緒を弱み 亂るる時に 戀ひずあらめやも
玉緒乎《タマノヲヲ》 片緒爾搓而《カタヲニヨリテ》 緒乎弱彌《ヲヲヨワミ》 亂時爾《ミダルルトキニ》 不戀有目八方《コヒズアラメヤモ》
二人ノ間ガコンナニ〔九字傍線〕(玉緒乎片緒爾搓而緒乎弱彌)亂レテ二人ガ別レ別レトナ〔テ二〜傍線〕ル時ニ私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕戀シク思ハナイデヰラレヨウヤ。トテモソンナコトハ出來ナイ〔トテ〜傍線〕。
○玉緒乎片緒爾搓而緒乎弱彌《タマノヲヲカタヲニヨリテヲヲヨワミ》――序詞。亂るとつづいてゐる。玉を貫く紐を片糸によつて紐が弱いので、切れて玉が亂れるといふのである。片緒は縒り合せない緒。片絲(一三一六)(二七九一)に同じ。○亂時爾《ミダルルトキニ》――二人が別れ別れになる時にの意であらう。新考は時は許の誤であらうといつてゐる。
〔評〕 序詞が巧妙である。然し、卷十一の片絲用貫有玉之緒乎弱亂哉爲南人之可知《カタイトモチヌキタルタマノヲヲヨワミミダレヤシナムヒトノシルベク》(二七九一)と同一技巧である。寄玉戀。
3082 君に逢はず 久しくなりぬ 玉の緒の 長き命の 惜しけくもなし
(125)君爾不相《キミニアハズ》 久成宿《ヒサシクナリヌ》 玉緒之《タマノヲノ》 長命之《ナガキイノチノ》 惜雲無《ヲシケクモナシ》
貴方ニ逢ハナイデ長クナリマシタ。コンナニ苦シクテハ私ノ〔コン〜傍線〕(玉緒之)長イ命モ、今ハ〔二字傍線〕惜シクモアリマセヌ。生キテヰテモ何ノ甲斐モアリマセヌ〔生キ〜傍線〕。
○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。長といづいてゐる。卷十三に玉緒乃長登君孝吉手師物乎《タマノヲノナガクトキミハイヒチシモノヲ》(三三三四)とある。玉緒之から、命につづくのではない。
〔評〕 玉の緒は次の中中二《ナカナカニ》(三〇八六)の歌や、卷十四の佐奴良久波多麻乃緒婆可里《サヌラクハタマノヲバカリ》(三三九八)のやうに、短いことに用ゐるが、又長い例にも使つてある。卷十五の和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ワギモコニコフルニアレハタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》(三七四四)と結局同意になつてゐるのも、おもしろい。寄玉戀。
3083 戀ふること まされる今は 玉の緒の 絶えて亂れて 死ぬべく念ほゆ
戀事《コフルコト》 益今者《マサレルイマハ》 玉緒之《タマノヲノ》 絶而亂而《タエテミダレテ》 可死所念《シヌベクオモホユ》
私ハ〔二字傍線〕戀シク思フコトガ増シテ來タノデ、今デハ心ガ〔二字傍線〕(玉緒之絶而)亂レテ死ニサウニ思ハレル。ドウシタラヨカラウ〔九字傍線〕。
○益今者《マサレルイマハ》――舊訓マサレバイマハとあるが、少し落付がよくない。古義にマサレルイマハとしたのがよいであらう。略解に初句を事は布又は敷の誤で、コヒシクノであらうと言つた或人説を擧げてゐるのは、この點を考慮したものであらう。新考はイマユマサラバと訓んでゐる。○玉緒之絶而亂而《タマノヲノタエテミダレテ》――タマノヲノタエテは亂れと言はむ爲の序詞。
〔評〕 強い言葉が並べられてゐるが、さして熱烈な感じはない。寄玉戀。
3084 海處女 潜き取るといふ 忘貝 世にも忘れじ 妹がすがたは
海處女《アマヲトメ》 潜取云《カヅキトルトイフ》 忘貝《ワスレガヒ》 代二毛不忘《ヨニモワスレジ》 妹之光儀者《イモガスガタハ》
(126)戀シイ〔三字傍線〕女ノ美シイ〔三字傍線〕姿ハ如何ナルコトガアツテモ〔如何〜傍線〕(海處女潜取云忘貝)決シテ私ハ〔二字傍線〕忘レハスマイ。
○海處女潜取云忘貝《アマヲトメカヅキトルトイフワスレガヒ》――序詞で、ワスレと言はむ爲に用ゐてある。忘貝は一種の小貝。六八參照。○代二毛不忘《ヨニモワスレジ》――ヨニモは決して。現代語のヨモヤに同じ。下に打消を伴つてゐる。
〔評〕 忘貝を用ゐて、忘れじと誓つた歌は他にも例があつて、この頃の慣用になつてゐたのである。さしたる歌ではない。寄貝戀。
3085 朝影に 吾が身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて いにし兒ゆゑに
朝影爾《アサカゲニ》 吾身者成奴《ワガミハナリヌ》 玉蜻《タマカギル》 髣髴所見而《ホノカニミエテ》 往之兒故爾《イニシコユヱニ》
(玉蜻)ホノカニ見タバカリデ行キ過ギタ女ダノニ、私ハ朝日ニウツル〔五字傍線〕影ノヤウ〔三字傍線〕ニ、瘠セタ體ニ〔五字傍線〕ナツタ。
○朝影爾《アサカゲニ》――朝日に映じた人影のやうに、細い瘠せた姿を朝彰といつてゐる。○玉蜻《タマカギル》――枕詞。ホノカとつづいてゐる。玉の輝きのほんのりとほのかなる意でつづけてある。蛉はカゲロフで、これをカギルとよんだのであらう、舊訓カゲロフノとあり、略解はカギロヒノとよんでゐるが、古義にタマカギルとしたのがよい。
〔評〕卷十一の朝影吾身成玉垣入風所見去子故《アサカゲニワガミハナリヌタマカギルホノカニミエテイニシコユヱニ》(二三九四)と全然同歌である。唯、かれは正述心緒で柿本人麿歌集之出であるのに、これは寄物陳思に入れてある、多分編纂の際の材料の出所が違ふのであらう。前が寄忘貝で、次が寄蠶であるのに、これは玉蜻では何に寄せたかわからない、蜻の字からして、カゲロフと訓んで虫に寄する歌と見たものか。これも編纂の杜撰を語る一例である。なほ日本靈異記上、狐爲v妻令v生v子縁第二に「古非皮米奈和我戸爾於知奴多萬可妓留皮呂可爾美縁弖伊邇師古由惠邇《コヒハメナワガヘニオチヌタマカギルハロカニミエテイニシコユヱニ》也」とあるのは、これと關係がありさうな歌である。
3086 なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり
中中二《ナカナカニ》 人跡不在者《ヒトトアラズハ》 桑子爾毛《クハコニモ》 成益物乎《ナラマシモノヲ》 玉之緒許《タマノヲバカリ》
却ツテ人間デナクテ寧ロ〔二字傍線〕、一寸デヨイカラ、蠶ニデモナリタイモノダヨ。戀ニ惱ンデヰルヨリハ、アノ物思ノナ(127)ササウナ蠶ニデモナツタ方ガヨイ〔戀ニ〜傍線〕。
○桑子爾毛《クハコニモ》――桑子は蠶。野蠶をクハコといふのとは別である。○玉之緒許《タマノヲバカリ》――玉の緒を短い例に取つて、短い時でもの意としてゐる。
〔評〕 初二句は用例の多い句である。蠶を飼つてゐる女が、靜かに桑を食んでゐる蠶の物思なげなのを見て詠んだもの。古義に「蠶は命短かけれども雌雄むつましく、ちぎりふかきものなるゆゑに、うらやみていへるなり」とあるのはよくない。伊勢物語に「中中にこひにしなずはくは子にぞなるべかりける玉のをばかり」とあるのはこれを作りかへたものであらう。寄蠶戀。
3087 眞菅よし 宗我の河原に 鳴く千鳥 間無し吾背子 吾が戀ふらくは
眞菅吉《マスガヨシ》 宗我乃河原爾《ソガノカハラニ》 鳴千鳥《ナクチドリ》 問無吾背子《マナシワガセコ》 吾戀者《ワガコフラクハ》
私ノ夫ヨ。私ガ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思フコトハ、少シモ〔三字傍線〕(眞菅吉宗我乃河原爾鳴千鳥)絶〔傍線〕間ガアリマセヌ。
○眞菅吉宗我乃河原爾鳴千鳥《マスガヨシソガノカハラニナクチドリ》――序。千鳥の(128)鳴く音が絶え間ないから間無《マナシ》とつづけてゐる。眞菅吉は枕詞。同音を繰返して、宗我につづく。眞菅は菅。ヨシは添へた歎辭で意味はない。舊訓にマスゲヨシとあるのはよくない。宗我乃河は大和高市郡。檜隈川の下流である。寫眞は曾我村で撮影した。
〔評〕 女が男に呼びかけるやうな形になつてゐる。第四句の句中の切目が、さわやかな感を與へる。寄鳥戀。
3088 戀衣 著奈良の山に 鳴く鳥の 間無く時無し 吾が戀ふらくは
戀衣《コヒゴロモ》 著楢乃山爾《キナラノヤマニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 間無時無《マナクトキナシ》 吾戀良苦者《ワガコフラクハ》
私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテ居ルコトハ(戀衣著楢乃山爾鳴鳥之)絶〔傍線〕間モナク、何〔傍線〕時ト云フキマリ〔六字傍線〕モナイ。
○戀衣著楢乃山爾鳴鳥之《コヒゴロモキナラノヤマニナクトリノ》――序詞。つづき方は前の歌に同じ。コヒゴロモキは楢とつづく序詞。衣を著褻《キナラ》とつづくのである。戀衣はどんな着物か分らないが、後世の用法では戀する人の着る衣の意である。これもさう見てさしつかへあるまい。考は戀は舊の誤で、フルコロモとし、古義は辛の誤として、カラコロモとよんでゐる、
〔評〕 下句は卷四(七六〇)及びこの下(三一六八)にも同じものがある。全體的に卷三の山部赤人作、高?之三笠乃山爾鳴鳥之止者繼流戀哭爲鴨《タカクラノミカサノヤマニナクトリノヤメバツガルルコヒモスルカモ》(三七三)と似てゐる。寄島戀。
3089 遠つ人 獵道の池に 住む鳥の 立ちてもゐても 君をしぞ念ふ
遠津人《トホツヒト》 獵道之池爾《カリヂノイケニ》 住鳥之《スムトリノ》 立毛居毛《タチテモヰテモ》 君乎之曾念《キミヲシゾオモフ》
私ハ〔二字傍線〕(遠津人獵道之池爾住鳥之)立ツテモ、坐ツテモ始終貴方ヲ思ツテヰルヨ。
○遠津人獵道之池爾住鳥之《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノ》――序詞。立つにつづいてゐる遠津人は枕詞。雁の意ヲ獵にかけてゐる。雁は遠國より飛來するから遠つ人といふ。郭公を本人《モトツヒト》(一九六二)と言ふに似てゐる。卷十七にも氣佐能安佐氣秋風左牟之登保都比等加里我來鳴牟等伎知可美香物《ケサノアサケアキカゼサムシトホツヒトカリガキナカムトキチカミカモ》(三九四七)とある 獵道の池は卷三に長皇子遊2獵路池1之時柿本朝臣人麿作歌一首并短歌(二三九)とあるところである。大和磯城郡鹿路か。
〔評〕 卷十の秋去者鴈飛越龍田山立而毛居而毛君乎思曾念《アキサレバカリトビコユルタツタヤマタチテモヰテモキミヲシゾオモフ》(二二九四)、卷十一の春楊葛山發雲立座妹念《ハルヤナギカヅラキヤマニタツクモノタチテモヰテモイモヲシゾオモフ》(129)(二四五三)と同型の歌。寄鳥戀。
3090 葦べゆく 鴨の羽音の おとのみに 聞きつつもとな 戀ひわたるかも
葦邊徃《アシベユク》 鴨之羽音之《カモノハオトノ》 聲耳《オトノミニ》 聞管本名《キキツツモトナ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
私ハアノ人ノコトヲ〔九字傍線〕(葦邊徃鴨之羽音之)評判ニバカリ聞イテ、徒ラニ戀シク思ヒ〔三字傍線〕ツヅケテ居ルヨ。
○葦邊徃鴨之羽音之《アシベユクカモノハオトノ》――同音を繰返して、聲《オト》とつづいてゐる。
〔評〕 名のみを聞いて、空しく戀する歌。序詞は一寸變つてゐる。寄鳥戀。
3091 鴨すらも おのが妻どち あさりして おくるる程に 戀ふとふものを
鴨尚毛《カモスラモ》 己之妻共《オノガツマドチ》 求食爲而《アサリシテ》 所遺間爾《オクルルホドニ》 戀云物乎《コフトフモノヲ》
鴨デサヘモ雌ト雄トガ互ニ一所ニ餌ヲ捜シ歩イテ、少シデモ〔四字傍線〕後レル時ニハ、戀シガツテ鳴ク〔四字傍線〕ト云フノニ。況ンヤ人間タル私ガ、妻ニ別レテ戀ヒ慕ハナイデヰラレヨウヤ。ヰラレナイ筈ダ〔況ン〜傍線〕。
○己之妻共《オノガツマドチ》――自分の妻と共に、ツマは夫妻共に言ふ。○所遺間爾《オクルルホドニ》――後れる時には。古義に「雄にまれ雌にまれ先立ち飛て後らさしむるを謂り」とあるが、一緒に餌をあさつてゐる時のことで、飛立たなくともよい。
〔評〕 これはまことの寄物陳思である。この前にあつた大部分が序詞中に用ゐてゐるのと異なつてゐる。卷三の輕池之?廻徃轉留鴨尚爾玉藻乃於丹獨宿名久二《カルノイケノウラミユキメグルカモスラニタマモノウヘニヒトリネナクニ》(三九〇)と少し似てゐる。寄鳥戀。
3092 白まゆみ 斐太の細江の 菅鳥の 妹に戀ふれや いをねかねつる
白檀《シラマユミ》 斐太乃細江之《ヒダノホソエノ》 菅鳥乃《スガトリノ》 妹爾戀哉《イモニコフレヤ》 寐宿金鶴《イヲネカネツル》
(白檀)斐太ノ細江ニ住ンデヰル〔五字傍線〕菅鳥ノヤウニ、私ハ戀シイ〔八字傍線〕女ヲ思ツテヰルノデ、コンナニ〔四字傍線〕眠リカネルノダラウカ。
○白檀《シラマユミ》――枕詞。斐太につづくのは引くにかけたのか。引くをつづめて引板《ヒタ》の如くヒといふこともある。古義には「弓を引撓《ヒキタム》るといふ意にかかれり」とある。○斐太乃細江《ヒダノホソエ》――斐太は大和高市郡の飛騨であらう。丁度藤(130)原京の區域内で、今、鴨公村に屬してゐる。飛騨國吉城郡古川の西北方に細江村があり、宮川の右岸に位し、古昔はここに小流があつて、これが斐太の細江だと地方人は言つてゐるが、多分この歌によつて設けたものであらう。○菅鳥乃《スガトリノ》――菅鳥のやうに。菅鳥はどんな鳥かわからない。水邊の叢中に鳴く鳥であらう。山崎美成の海録にヨシキリのこととしてゐるが、この歌では夜の鳥らしいから、ヨシキリではあるまい。眞淵が菅は管の誤でツツトリかと言つたのは、夜の鳥といふ點では當つてゐるが、さうとも斷じ難い。○寢宿金鶴《イヲネカネツル》――寢は元暦校本その他の古本多く寐に作つてゐる。
〔評〕 孤衾眠をなさず、遙かに菅鳥の聲を聞いて、口吟んだものか。菅鳥乃を菅鳥がと解し、菅鳥も吾が如く妹に戀ふれやと見て、菅鳥を詠んだ歌とも考へられるが、それでは寄物陳思の意が稀薄になるから、さうではあるまい。寄鳥戀。
3093 小竹の上に 來ゐて鳴く鳥 目を安み 人妻ゆゑに 我戀ひにけり
小竹之上尓《シヌノウヘニ》 來居而鳴鳥《キヰテナクトリ》 目乎安見《メヲヤスミ》 人妻※[女+后]爾《ヒトヅマユヱニ》 吾戀二來《ワレコヒニケリ》
(小竹之上爾來居而鳴鳥)見ヨイ美シイ女ダ〔五字傍線〕カラ、人ノ妻ダケレドモ、私ハ戀シク思ツタヨ。
○小竹之上爾來居而鳴鳥《シヌノウヘニキヰテナクトリ》――序詞。群《ムレ》の約メの意で目につづいてゐる。○目乎安見《メヲヤスミ》――見るに快いから。即ち美しく愛らしいからの意。○人妻※[女+后]爾《ヒトヅマユヱニ》――人妻なるものを。※[女+后]をユヱと訓むことは人妻※[女+后](《ヒトヅマユヱニ》(二三六五)に述べた。
〔評〕 美しい人妻を戀ふる歌。寄鳥戀。
3094 物念ふと いねず起きたる 朝けには わびて鳴くなり 庭つ鳥さへ
物念常《モノオモフト》 不宿起有《イネズオキタル》 旦開者《アサケニハ》 和備?鳴成《ワビテナクナリ》 鷄左倍《ニハツトリサヘ》
戀人ヲ思ツテ、夜通シ〔三字傍線〕寢ナイデ起キタ朝ニハ、私バカリデナク〔七字傍線〕、鷄サヘモ悲シサウニ鳴イテ居ルヨ。
○和備?鳴成《ワビテナクナリ》――ワビテは困つて。悲しげにといふに同じ。○鷄左倍《ニハツトリサヘ》――庭つ鳥は鷄《カケ》の枕詞であるのを、やがて鷄のことに用ゐるやうになつたが、その由來の古いことが、この歌で明らかにされる。
(131)〔評〕 吾が心から、鷄までも困惑して鳴くやうに聞くのである。卷十一の我背兒爾吾戀居者吾屋戸之草佐倍思浦乾來《ワガセコニワガコヒヲレバワガヤドノクササヘオモヒウラガレニケリ》(二四六五)と同一心境である。和歌童蒙抄に載つてゐる。寄鳥戀。
3095 朝烏 早くな鳴きそ 吾背子が 朝けの姿 見ればかなしも
朝烏《アサガラス》 早勿鳴《ハヤクナナキソ》 吾背子之《ワガセコガ》 旦開之容儀《アサケノスガタ》 見者悲毛《ミレバカナシモ》
朝烏ガ鳴クト吾ガ夫ガ歸ツテ行クカラ〔朝烏〜傍線〕朝烏ヨ、早ク鳴クナヨ。私ノ夫ガ、明ケ方ニ私〔二字傍線〕ノ處カラ別レテ歸ツテ行ク〔處カ〜傍線〕姿ヲ見ルト悲シイヨ。
〔評〕 明瞭な歌で、感情の籠つたよい作である。和歌童蒙抄に出てゐる。寄鳥戀。
3096 馬柵越しに 麥喰む駒の のらゆれど 猶し戀しく しぬびがてなく
??越爾《マセゴシニ》 麥咋駒乃《ムギハムコマノ》 雖詈《ノラユレド》 猶戀久《ナホシコホシク》 思不勝焉《シヌビカテナク》
私ハアノ人ヲ戀シテヰルタメニ、親ニ〔私ハ〜傍線〕(??越爾麥咋駒乃)叱ラレルケレドモ、ヤハリ戀シクテ、コラヘラレナイヨ。
○??越爾麥咋駒乃《ウマセゴシニムギハムコマノ》――序詞。馬柵越しに麥を喰ふ馬は叱られるから、詈《ノ》らゆにかけてゐる。??は舊訓マセとあるが、卷十四に、宇麻勢胡之《ウマセゴシ》(三五三七の或本)・卷四に越馬柵乃《コユルウマセノ》(五三〇)と同じく、ウマセと訓むべきで、馬塞《ウマセキ》の意である。馬を飼ふ周圍に結つた柵。?は木の名、説文には柳とあり、又欅と同字ともいふ。?は?榴で、紅林檎又は柘榴のことであるが、吾が國では若木の合字として用ゐたらしい。卷十三に?垣《ミヅガキ》(三二六二)と訓んであるが、延喜式にはシモトとよんでゐる。馬柵は欅の枝を以て結つてある意を以て、かう書いたのであらう。古義に「?は拒を誤れるか、拒は禁ぐ義なれば、?《シモト》をもて、拒《フセグ》よしにて書るか、と云説あり。さることもあらむ」とあるは從ひ難い。馬柵の周圍の麥畑を首を伸ばして食ふのである、略解・古義共に刈つて干した麥と解してゐる。○雖詈《ノラユレド》――ノルは叱られること。戀の爲に親に叱られるがの意。○猶戀久《ナホシコホシク》――舊訓ナホモコヒシク、考ナ(132)ホコヒシケク、略解ナホシコフラクとある。○思不勝烏《シヌビカテナク》――舊本、烏とあるは、例の焉の草體を誤つたもので集中に例が多い。略解・古義にシヌビカネツモとあるのもよいが、ここは新訓に從ふことにしよう。戀しくて堪へられないといふのである、。勝《ガテ》は堪ふの意。
〔評〕 如何にも農民の女の歌らしい。初二句は卷十四の宇麻勢胡之牟伎波武古麻能波都波都爾《ウマセゴシムギハムコマノハツハツニ》(三五三七の或本)と同じ。寄獣戀。
3097 さ檜の隈 檜の隈川に 馬とどめ 馬に水かへ 我よそに見む
左檜隈《サヒノクマ》 檜隈河爾《ヒノクマガハニ》 駐馬《ウマトドメ》 馬爾水令飲《ウマニミヅカヘ》 吾外將見《ワレヨソニミム》
貴方ハ〔三字傍線〕檜隈ノ檜隈川デ、貴方ノ乘ツテヰル〔八字傍線〕馬ヲ留メテ、馬ニ水ヲ飲マセナサイ。私ハ飽キ足ラズ別レタナツカシイ貴方ノオ姿ヲ〔飽キ〜傍線〕他處ナガラデモ見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
○左檜隈檜隈河爾《サヒノクマヒノクマガハニ》――左檜隈の左は接頭語。檜隈の檜隈川。檜隈川は大和高市郡の南部高取山に發し、檜前《ヒノクマ》方面を流れ、この下流は曾我川となる。○駐馬《ウマトドメ》――舊訓はウマトメテとある。考にコマトメテとしたのは古訓に傚つたのである。古義の訓がよい。
〔評〕 男と逢つた女が、別に臨んで詠んだものとも、又は逢はうとしても監視が嚴重で逢ひ難いのを悲しんで、せめてよそながら君の御姿を見ようと希ふ女の歌とも考へられる。馬に乘つて男が女の許に通つて來たやうに思はれるから、恐らく前者であらう。古今集大歌所の歌に「ひるめの歌」として、「ささのくま檜の隈川に駒とめて、しばし水かへ影をだに見む」とあるのは、民謠として謠はれてゐる間に、おのづから歌ひ更へられたものである。袖中抄に「萬葉には左檜隈檜隈河にこまととめしばし水かへわれよそにみむ」とあるのは、どつち附かずになつてゐる。寄獣戀。
3098 おのれゆゑ のらえてをれば あをうまの 面高ぶたに 乘りて來べしや
於能禮故《オノレユヱ》 所詈而居者《ノラエテヲレバ》 ※[馬+総の旁]馬之《アヲウマノ》 面高夫駄爾《オモタカブタニ》 乘而應來哉《ノリテクベシヤ》
(133)私ハアナタト親シクナツテ〔私ハ〜傍線〕、私ノ仕業〔三字傍線〕故ニ、叱ラレテヰルノデ、青駒ノ勇マシク〔四字傍線〕首ヲ上ゲテ歩ク驛馬ニ乘ツテアナタノトコロヘ〔八字傍線〕行クワケニハマヰリマセヌ。
○※[馬+総の旁]馬之《アヲウマノ》――※[馬+総の旁]は和名抄に「説文云、※[馬+総の旁]青白雜毛馬也、漢語抄云、※[馬+總の旁]青馬也、黄※[馬+總ノ旁]馬葦花毛馬也」とあるから、アヲウマとよむがよい。舊訓はアシゲウマとある。○面高夫駄爾《オモタカブタニ》――面高夫駄はわからない。面高は馬が首を上げて勇ましく歩む樣をいふのであらう。夫駄は代匠記には「物を負する下品の馬」とし、古義には駁《フチ》即ち斑の馬とし、新考には肥馬《フトウマ》の約としてゐる。夫駄の文字について考へれば、人夫と駄馬といふことになり、代匠記説がよいやうだが、かかる字音の語が行はれてゐたか、どうか疑はしい。しかし他に良按もないから、これを驛馬とした宣長説によることにする。○乘而應來哉《ノリテクベシヤ》――右のやうに解くと、來を行くの意に見るより他はない。
〔評〕 よくわからない歌である。親に監視せられ、叱責せられてゐる女が、通つて來る男に送つた歌と見れば、比較的穩やかのやうである。民謠が歴史と結びついた爲に、却つて分りにくくなつてゐるのではないかと思はれる。寄獣戀。
右一首、平羣文屋朝臣益人傳(ヘ)云(フ)、昔聞(ク)紀皇女竊(ニ)嫁(ギ)2高安王(ニ)1被(ルル)v責(メ)之時、御2作此歌(ヲ)1、但桓高安王左降(シテ)任(ラル)2之伊與國守(ニ)1也、
この註は平羣文屋朝巨益人から編者が聞いたことを、參考として書いて置いたのであらう。必ずしもこの文意によつて、右の歌を解説しなければならぬことはない。しかしこの卷は作者不明のもののみを輯めてゐるのに、ここに紀皇女の御作とする傳が記されてゐるのは、注意すべきである。平羣文屋朝臣益人の傳は全くわからない。代匠記初稿本に「紀皇女は天武天皇の皇女、高安王は和銅六年正月に、初て從五位下に叙せらる。二三世の間にや。養老元年正月に從五位上に昇進せられて、紀皇女に事ありしは(134)其年のことなるべし。元正紀に養老三年七月令3伊豫國守從五位上高安王管2阿波讃岐土佐三國1。云々」とある。左降は左遷に同じ。
3099 紫草を 草と別く別く 伏す鹿の 野は異にして 心は同じ
紫草乎《ムラサキヲ》 草跡別別《クサトワクワク》 伏鹿之《フスシカノ》 野者殊異爲而《ヌハコトニシテ》 心者同《ココロハオナジ》
紫ト云フ草ハナツカシイヨイ草ダカラ、ソノ〔ト云〜傍線〕草ヲ他ノ〔二字傍線〕草ト擇分ケテ、ソノ上ニ〔四字傍線〕寢ル鹿ガ、ソノ寢ル〔四字傍線〕野原ハ牝ト牡ト〔四字傍線〕違ツテヰテモ、心ヲ通ハシテ愛スルノ〔ヲ通〜傍線〕ハ同ジダ。ソノ通リ貴方ト私ト住ム所ハ別々ダガ、互ニ戀シク思フ心ハ同ジダ〔ソノ〜傍線〕。
○紫草乎《ムラサキヲ》――紫草は紫の染料を採る草。二一參照。○草跡別別《クサトワクワク》――他の雜草と區別して。舊訓ワケワケとあるのはよくない。古義の中山嚴水説に、紫草を柴草の誤として、柔かい芝草の上を選んで、鹿が臥すこととしてゐるが信じ難い。紫草はなつかしい草としてあつたので、鹿もそれを擇んで寢るといふ俗信があつたのであらう。○伏鹿之《フスシカノ》――臥す鹿の如く。
〔評〕 鹿と紫草との關係がどうなのか、一寸内容に解し難い點がないでもないが、全體的譬喩になつて、巧に組立てられてゐる。寄獣戀。
3100 思はぬを 想ふといはば 眞鳥住む 卯名手のもりの 神し知らさむ
不想乎《オモハヌヲ》 想常云者《オモフトイハバ》 眞鳥住《マトリスム》 卯名手乃社之《ウナテノモリノ》 神思將御知《カミシシラサム》
思ツテモヰナイデ思ツナヰルヤウナ嘘ヲ〔二字傍線〕言ツタナラバ(眞島住)卯名手ノ社ノ神樣ガオ知リナサツテ、必ズ罰ヲオ當テ〔七字傍線〕ナサルダラウ。
○眞鳥住卯名手乃社之《マトリスムウナテノモリノ》――卷七に眞鳥住卯名手之神社之《マトリスムウナテノモリノ》(一三四四)あり。大和高市分|雲梯《ウナテ》にある舊社。
〔評〕 卷四に不念乎思當云者大野有三笠杜之神思知三《オモハヌヲオモフトイハバオホヌナルミカサノモリノカミシシエアサム》(五六一)とあるのは、これ學んだのであらう。なほ不念乎(135)思常云者天地之神祇毛知寒邑禮左變《オモハヌヲオモフトイハバアメツチノカミモシラサムウタガフナカレ》(六五五)ともある。袖中抄に載せてある。寄神社戀。
問答歌
3101 紫は 灰指すものぞ 海石榴市の 八十の衢に 逢ひし兒や誰
紫者《ムラサキハ》 灰指物曾《ハヒサスモノゾ》 海石榴市之《ツバイチノ》 八十街爾《ヤソノチマタニ》 相兒哉誰《アヒシコヤタレ》
(紫者灰指物曾)海石榴市ノ辻デ、歌垣ノ時ニ〔五字傍線〕契ツタ女ハ誰デアツタカ。名ガ知リタイモノダ〔九字傍線〕。
○紫者灰指物曾《ムラサキハハヒサスモノゾ》――序詞。紫草の根を搾り、その液汁に灰を加へると紫色となるのであるが、その灰は椿の木を燒いて作つたものを適品として用ゐる。現代でも古代紫と稱する色を染めるには、この方法がそのまま行はれてゐるさうである。海石榴市につづくのはこの染法によつたのだ。○海石榴市之《ツバイチノ》――海石榴市は大和、三輪村大字金屋附近。海石榴市之八十衢爾立平之《ツバイチノヤソノチマタニタチナラシ》(二九五一)參照。
〔評〕 海石榴市の歌垣の場で、誰とも知らぬ女と契つたのを、後からなつかしがつて、その女の名を知らうとするのである。歌垣に於ける男女關係が伺がはれる。
3102 たらちねの 母がよぶ名を 申さめど 路行き人を 誰と知りてか
足千根乃《タラチネノ》 母之召名乎《ハハガヨブナヲ》 雖白《マヲサメド》 路行人乎《ミチユキビトヲ》 孰跡知而可《タレトシリテカ》
(足千根乃)母ガ私ヲ〔三字傍線〕呼ブ名ヲ貴方ニ〔三字傍線〕申シタイノデスガ、只〔傍線〕通リスガリノ人ヲ、誰ト知ツテ貴方ニ名ヲ申シマセウ〔貴方〜傍線〕ヤ。貴方ノ御名ガ分ラナクテハ私モ名ヲ申上ゲラレマセヌ〔貴方〜傍線〕。
○足千根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。帶乳根乃《タラチネノ》(四四三)參照。○母之召名乎《ハハガヨブナヲ》――舊訓ハハノメスナヲ、新訓ハハガメスナヲとある。召はメスともよんであるが、舟召音《フネヨバフコヱ》(一一三五)・犬召越《イヌヨビコシテ》(一二八九)・不召爾《ヨバナクニ》(一七三八)などによつて、ここ(136)はヨブと訓むべきである。○路行人乎《ミチユキビトヲ》――通りすがりの人を。道に逢つただけの人を。古義はミチユクヒトヲと訓んである。○孰跡知而可《タレトシリテカ》――この下に名を明かさむといふやうな意が含まれてゐる。
〔評〕 考に「此贈歌の序の、いひなしの風流《ミヤビ》ておもしろく、和歌《コタヘ》の有ふる事のままにいひてあはれに、且二首ともに詞のうるはしさなど、飛鳥岡本宮の始の頃の歌なり。歌はかくこそ有べきなれ」とある。まことに民衆の歌らしい作である。或は歌垣などで歌はれたものかも知れない。
右二首
3103 逢はなくは 然もありなむ 玉梓の 使をだにも 待ちやかねてむ
不相《アハナクハ》 然將有《シカモアリナム》 玉梓之《タマヅサノ》 使乎谷毛《ツカヒヲダニモ》 待八金手六《マチヤカネテム》
貴方ガ私ノ處ヘオイデニナラナイデ〔貴方〜傍線〕、逢ハナイノハ、譯ノアルコトナラバ〔九字傍線〕ソレモ仕方ガアリマセヌ。ソレナラバ使ダケハ御遣ハシニナリサウナモノダノニ〔ソレ〜傍線〕、(玉梓之)使サヘモ待ツテヰテモ來ナイノハドウシタ〔六字傍線〕ノダラウ。ヒドイオ方ダ〔六字傍線〕。
○然將有《シカモアリナム》――さうもあらう。仕方がないであらうの意。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。
〔評〕 使をも送らぬ人を恨んで詰め寄せた形である。男の歌。
3104 逢はむとは 千度おもへど 在り通ふ 人目を多み 戀ひつつぞ居る
將相者《アハムトハ》 千遍雖念《チタビオモヘド》 蟻通《アリガヨフ》 人眼乎多《ヒトメヲオホミ》 戀乍衣居《コヒツツゾヲル》
私ハ使ヲ遣ルドコロデハナク、自分デ貴女ニ〔私ハ〜傍線〕逢ハウト何度モ思フケレド、道ヲ〔二字傍線〕行通フ人ガ多クテ、目ニ付キ易〔七字傍線〕イノデ、行クコトモ出來ズ貴女ヲ〔行ク〜傍線〕戀シク思ツテヰルヨ。サウ恨ミナサルナ〔八字傍線〕。
○蟻通《アリガヨフ》――ありありて通ふ。常に往來すること。
(137)〔評〕 右に答へた女の歌。はつきりした作。
右二首
3105 人目多み 直に逢はずて 蓋しくも 吾が戀ひ死なば 誰が名ならむも
人目太《ヒトメオホミ》 多直不相而《タダニアハズテ》 蓋雲《ケダシクモ》 吾戀死者《ワガコヒシナバ》 誰名將有裳《タガナナラムモ》
人目ガ多イノデ直接ニ貴女ニ〔三字傍線〕逢ハナイデ、萬一私ガ焦死シタナラバ、ソノ爲ニ〔四字傍線〕誰ノ浮〔傍線〕名ガ立ツダラウカ。言フマデモナク貴女ノ名ガ立チマスゾ〔言フ〜傍線〕。
○誰名將有裳《タガナナラムモ》――立つは誰が名ならむよの意。略解はタガナニカアラモと訓んでゐるがよくない。
〔評〕 結句が皮肉な言ひ方になつてゐる。浮名を恐れる女に對して、多少嚇すやうな口ぶりでもある。
3106 相見まく 欲しけくすれば 君よりも 我ぞまさりて いぶかしみする
相見《アヒミマク》 欲爲者《ホシケクスレバ》 從君毛《キミヨリモ》 吾曾益而《ワレゾマサリテ》 伊布可思美爲也《イブカシミスル》
私ハ貴方ニ〔五字傍線〕オ目ニ掛リタク思ツテヰルカラ、貴方ヨリモ私ノ方ガ却ツテ〔三字傍線〕増サツテ、心ガ〔二字傍線〕欝々トシテ居リマス。ダカラ貴方ヨリモ私ノ方ガ却ツテ早ク焦死ヲスルデセウ〔ダカ〜傍線〕。
○欲爲者《ホシケクスレバ》――宣長は爲の下、事の字、脱とし、ホリスルコトハとし、古義は爲は有の誤とし、ホシケクアレバとよんでゐる。考の訓がよい。○伊布可思美爲也《イブカシミスル》――いぶかしき思するの意。即ち心が欝々として晴れないといふのである。
〔評〕 男のおどかしを退けて、私こそ君より以上に、心が晴れないから、早く焦死するであらうと言つてゐるのは、なかなか隅に置けない女である。
右二首
3107 うつせみの 人目を繁み 逢はずして 年の經ぬれば 生けりともなし
(138)空蝉之《ウツセミノ》 人目乎繁《ヒトメヲシゲミ》 不相而《アハズシテ》 年之經者《トシノヘヌレバ》 生跡毛奈思《イケリトモナシ》
私ハ〔二字傍線〕(空蝉之)人目ガ多イノデ、貴方ニ〔三字傍線〕逢ハナイデ、幾年ニモナツタカラ、生キテヰルヤウナ氣ハシマセヌ。
○空蝉之《ウツセミノ》――枕詞。現し身の人とつづく。○生跡毛奈思《イケリトモナシ》――イケルトモナシと訓む説は從ひ難い。
〔評〕 平明な歌。結句は用例が多い。和歌色葉集に出てゐる。
3108 うつせみの 人目繁くは ぬば玉の 夜の夢にを つぎて見えこそ
空蝉之《ウツセミノ》 人目繁者《ヒトメシゲケバ》 夜干玉之《ヌバタマノ》 夜夢乎《ヨルノイメニヲ》 次而所見欲《ツギテミエコソ》
(空蝉之)人目ガ多クテ逢フコトガ出來ナ〔クテ〜傍線〕イナラ、セメテ人ノ目ニツカナイ〔セメ〜傍線〕(夜干玉之)夜ノ私ノ〔二字傍線〕夢ニデモ、毎晩〔二字傍線〕續ケテ見エテ下サイ。
○夜夢乎《ヨルノイメニヲ》――ヲは添へた感歎の助詞。
〔評〕 やさしい女の答である。あはれな歌。
右二首
3109 ねもごろに 思ふ吾妹を 人言の 繁きによりて よどむ頃かも
慇懃《ネモゴロニ》 憶吾妹乎《オモフワギモヲ》 人言之《ヒトゴトノ》 繁爾因而《シゲキニヨリテ》 不通比日可聞《ヨドムコロカモ》
心カラ深ク私ガ〔二字傍線〕思ツテヰル女ダガ、コノ頃ハ人ノ口ガヤカマシイノデ、逢ハナイデヰルヨ。アアツライ〔五字傍線〕。
○憶吾妹《オモフワギモヲ》――古義にアガモフイモヲとあるべきところだとして、多くの例證を擧げてゐるが、この儘でよい。
〔評〕 男から女へ贈つた御無沙汰の申譯だが、一向熱のない言葉だ。
3110 人言の 繁くしあらば 君も我も 絶えむといひて 逢ひしものかも
(139)人言之《ヒトゴトノ》 繁思有者《シゲクシアレバ》 君毛吾毛《キミモワレモ》 將絶常云而《タエムトイヒテ》 相之物鴨《アヒシモノカモ》
アナタモ私モ、人ノ口ガヤカマシイナラバ、關係ヲ〔三字傍線〕絶タウト言ツテ、逢ヒ初メタノデセウカ。決シテサウデハナイ。今更人ノ口ヲ恐レテ逢ハナイノハ卑怯デハアリマセヌカ〔決シ〜傍線〕。
○君毛吾毛《キミモワレモ》――この句を初句の上に置きかへて見るがよい。
〔評〕 男の申譯を撃退した、女の言葉はまことに力があつて鋭い。
右二首
3111 すべもなき 片戀をすと この頃に 吾が死ぬべきは 夢に見えきや
爲便毛無《スベモナキ》 片戀乎爲登《カタコヒヲスト》 比日爾《コノゴロニ》 吾可死者《ワガシヌベキハ》 夢所見哉《イメニミエキヤ》
何トモ仕樣ノナイ、苦シイ〔三字傍線〕片思ヲシテ、近イ内ニ、私ガ焦死シサウニナツテヰルノハ、貴方ノ〔三字傍線〕夢ニオ見エニナリマシタカ。
○片戀乎爲登《カタコヒヲスト》――片戀をするとて、片戀をしてゐるので。
〔評〕 女から男に贈つた歌。自分の報いられない戀情を、大袈裟に述べてゐる。
3112 夢に見て 衣を取り著 よそふ間《ま》に 妹が使ぞ 先立ちにける
夢見而《イメニミテ》 衣乎取服《コロモヲトリキ》 装束間爾《ヨソフマニ》 妹之使曾《イモガツカヒゾ》 先爾來《サキダチニケル》
私ハ貴女ガ戀ニヤツレテイラツシヤルノヲ〔私ハ〜傍線〕夢ニ見テ、驚キアワテテ貴女ノ所ヘ行カウト思ツテ〔驚キ〜傍線〕、着物ヲ着テ、仕度ヲシテヰルウチニ、貴女ノ使ガ、先ニヤツテ來テ、コノオ歌ヲ頂キマシ〔十字傍線〕タ。
〔評〕 男の答、女の歌にしつくり合せて詠んでゐる。機智の溢れた作。
(140)右二首
3113 在り在りて 後も逢はむと 言のみを 堅く言ひつつ 逢ふとはなしに
在有而《アリアリテ》 後毛將相登《ノチモアハムト》 言耳乎《コトノミヲ》 堅要管《カタクイヒツツ》 相者無爾《アフトハナシニ》
カウシテ居ツテ後デ逢ハウト、貴女ハ私ニ〔五字傍線〕堅イ口約束バカリナサツテ、何時マデモ〔五字傍線〕逢ツテハ下サラナイ。ヒドイオ方ダ〔六字傍線〕。
○在有而《アリアリテ》――かうして居て。古義は木綿疊田上山之狹名葛在去之毛今不有十方《ユフタタミタナガミヤマノサナカヅラアリサリテシモイマナラズトモ》(三〇七〇)をあげて、アリサリテと訓むべしと言つてゐるが、さう一律に定めようとしてはいけない。○堅要管《カタクイヒツツ》――要は約束する意で、イヒに用ゐてある。下にも不相登要之《アハジトイヒシ》(三一一六)とある。新訓にカタクチギリツツとあるのは、どうであらう。
〔評〕 女の怨言である。結句アハヌキミカモなどあるのが普通であるが、これは穩やかに柔らかに言ひをさめてある。
3114 極めて 我も逢はむと 思へども 人の言こそ 繁く君にあれ
極而《キハメテ》 吾毛相登《ワレモアハムト》 思友《オモヘドモ》 人之言社《ヒトノコトコソ》 繁君爾有《シゲキキミニアレ》
私モ必ズ貴女ニ〔三字傍線〕逢ハウト思フケレドモ、人ノ噂ノヤカマシイ貴女ダカラ、思フヤウニ逢ハレナイ〔カラ〜傍線〕ヨ。
○極而《キハメテ》――必ずの意。新考に在去而の誤ならむとあるのは、その意を得ない。
〔評〕 女の怨言に對する男の申譯。極而《キハメテ》と強い言葉を用ゐて自己辯解をやつてゐる。
右二首
3115 いきの緒に 吾がいきづきし 妹すらを 人妻なりと 聞けば悲しも
氣緒爾《イキノヲニ》 言氣築之《ワガイキヅキシ》 妹尚乎《イモスラヲ》 人妻有跡《ヒトヅマナリト》 聞者悲毛《キケバカナシモ》
(141)私ガ命ヲカケテ戀シク思ツテ〔六字傍線〕、嘆息シテ慕ツテヰタ貴女サヘモ、近頃聞クト、既ニ〔七字傍線〕人ノ妻ダト聞クノハ、私ハ〔二字傍線〕悲シイヨ。アア落膽シタ〔六字傍線〕。
○氣緒爾《イキノヲニ》――命をかけて。○言氣築之《ワガイキヅキシ》――吾が溜息を吐いて慕つた。言は吾に通じて用ゐてある。○聞者悲毛《キケバカナシモ》――略解にキクハカナシモとあるが、舊訓のままがよい。
〔評〕 人妻と知らないで戀したのではなく、わが戀人の人妻となつたのを悲しんだのであらう。併し答の歌によれば、一寸探りを入れて見たものらしい。
3116 吾が故に いたくなわびそ 後遂に 逢はじといひし こともあらなくに
我故爾《ワガユヱニ》 痛勿和備曾《イタクナワビソ》 後遂《ノチツヒニ》 不相登要之《アハジトイヒシ》 言毛不有爾《コトモアラナクニ》
私故ニ、ソンナニヒドクオ嘆キナサルナ。私ハ貴方ニ〔五字傍線〕後々マデモ逢ハナイト言ツタコトハナイノデスカラ。サウオ嘆キナサルナ。イヅレ後デ私ハ貴方ニ逢フ機會ガアルデセウ〔サウ〜傍線〕。
○不相登要之《アハジトイヒシ》――要は右の三一一三に述べたやうに、イフとよむべきである。代匠記初稿本書入にはアハシトチキリシとある。○言毛不有爾《コトモアラナクニ》――前に不相跡言流事毛有莫國《アハジトイヘルコトモアラナクニ》(二八八九)とあるによると、ここの言は事の借字である。
〔評〕 人妻になつたといふのは、人の噂に過ぎないといふのか、それとも人妻ながら逢はぬとは限らぬといふのか、兩方に考へられるが、恐らく前者であらウ。
右二首
3117 門たてて 戸も閉したるを いづくゆか 妹が入り來て 夢に見えつる
門立而《カドタテテ》 戸毛閉而有乎《トモサシタルヲ》 何處從鹿《イヅクユカ》 妹之入來而《イモガイリキテ》 夢所見鶴《イメニミエツル》
門ヲ閉メテ、戸モ閉ザシテ置イタノニ、何處カラ貴方ガ入ツテ來テ、私ノ〔二字傍線〕夢ニ現ハレタノデセウカ。不思議ナ(142)コトダ〔七字傍線〕。
○戸宅閉而有乎《トモサシタルヲ》――閉はトヂともサシとも訓んであるが、門不閉《カドササズ》(二五九四)・屋戸閉勿勤《ヤドサスナユメ》(二九一二)によつてサシと訓むことにする。
〔評〕 女を夢に見て戯れて贈つた歌。
3118 門たてて 戸はさしたれど 盗人の ほれる穴より 入りて見えけむ
門立而《カドタテテ》 戸者雖闔《トハサシタレド》 盗人之《ヌスビトノ》 穿穴從《ホレルアナヨリ》 入而所見牟《イリテミエケム》
仰ノ通リ貴方ノ御宅ハ〔仰ノ〜傍線〕、門モ閉メテアルシ、戸ヲ閉ザシテアツタケレドモ、盗人ガ開ケテ置イタ穴カラ私ガ中ヘ〔傍線〕入ツテ、貴方ノ夢ニ〔五字傍線〕見エタノデセウ。
○戸者雖闔《トハサシタレド》――闔は字鏡に、「闔合也、閉也、門乃止比良」とあるから、閉と同じく、サシと訓んでよい。○穿穴從《ホレルアナヨリ》――舊訓ヱレルアナヨリとあるが、穿は、忌穿居《イハヒホリスヱ》(三六九)・穿之井之《ホリシヰノ》(一一二八)・穿江水手鳴《ホリエコグナリ》(一一四三)・難波穿江之《ナニハホリエノ》(二一三五)・石相穿居《イハヒホリスヱ》(三二八四)鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》(三八四一)(三八四三)・眞朱穿岳《マソホホルヲカ》(三八四三)など皆ホルとあるから、これもホルと訓むべきである。ヱルは主に彫刻することに用ゐるやうである。○入而所見牟《イリテミエケム》――古義は牟を乎の誤として、イリテミエシヲであらうと言つてゐる。
〔評〕 女の答へた歌。自から入つてゐながらミエケムと言ふのは、をかしいといふので、古義はミエシヲとしたのであらうが、これは魂が入つたことで、自己の身體が入つたのではないから、想像して、ケムと言つたのである。盗人之穿穴從《ヌスビトノホレルアナヨリ》と言つたのは、わざと滑稽味を持たせたのである。
右二首
3119 明日よりは 戀ひつつあらむ 今夕だに 速くよひより 紐解け我妹
從明日者《アスヨリハ》 戀乍將在《コヒツツアラム》 今夕彈《コヨヒダニ》 速初夜從《ハヤクヨヒヨリ》 緩解我妹《ヒモトケワギモ》
(143)私ハ明日カラ旅行ニ出ルガ、二人ハ〔私ハ〜傍線〕、明日カラハ互ニ〔二字傍線〕戀シク思ツテヰルデアラウ。吾ガ妻ヨ。セメテ今夜ハ、早クカラ着物ノ紐ヲ解キナサイ。ユツクリト共寢ヲシテ語リマセウ〔ユツ〜傍線〕。
○今夕彈《コヨヒダニ》――彈は韻鏡外轉第二十三開、山攝のn音尾の音であるからダニに用ゐたのである。○速初夜從《ハヤクヨヒヨリ》――初夜をヨヒと訓むのは義訓。○緩解我妹《ヒモトケワギモ》――緩はユルブであるから、代匠記初稿本に綏、同じく精撰本に、綬の誤かとある。元暦校本・西本願寺本など綏に作つてゐるから、綏がよいであらう。綏は車中の把り綱で、ヒモと訓めないことはない。但し集中、他に用例がない。古寫本中、綬に作るものはなく、また他にこの字の用例はないが、年者近侵《トシハチカキヲ》(二九一八)の侵を元暦校本に綬に作つてゐるのに從へば、ここを綬と見ることも出來ないことはない。綬はクミヒモである。
〔評〕 旅にでも出ようとしてゐる男が、せめて一夜の名殘を惜しまうとする歌。結句は少し露骨である。
3120 今更に 寢めや、わが背子 あらたよの また夜もおちず 夢に見えこそ
今更《イマサラニ》 將寐哉我背子《ネメヤワガセコ》 荒田麻之《アラタヨノ》 全夜毛不落《マタヨモオチズ》 夢所見欲《イメニミエコソ》
モウ今夜ダケト云フ時ニナツテ〔モウ〜傍線〕、今更早〔傍線〕寢ヲシ〔二字傍線〕テモ仕方ガアリマセヌヨ、貴方、別レテカラハ〔六字傍線〕過ギテ行ク夜ノ一晩モモラサズニ、毎晩私ノ〔四字傍線〕夢ニ現ハレテ下サイヨ。私ハソレデ心ヲ慰メマセウ〔私ハ〜傍線〕。
○荒田麻之《アラタヨノ》――舊訓アラタマノとあるが、これでは意が通じない。元暦校本に麻を夜に作るによつて、アラタヨノと訓むべきである。アラタヨは新夜。改まり行く夜。過ぎ行く夜。前に新夜一夜不落夢見與《アラタヨノヒトヨモオチズイメニミエコソ》(二八四二)とある。○全夜毛不落《マタヨモオチズ》――舊訓は全夜をマタヨとよんでゐるが、右に掲げた二八四二にヒトヨとあるので、これをもさう訓まうとする説が多い。それもよいやうだが、マタヨは全《マタ》き夜で、古語と思はれるから、これによることにしよう。
〔評〕 今宵一夜の交歡よりも、今後の夜毎の夢を頼みとする、まことに女らしい感情である。
(144)右二首
3121 わが背子が 使を待つと 笠も著ず 出でつつぞ見し 雨のふらくに
吾勢子之《ワガセコガ》 使乎待跡《ツカヒヲマツト》 笠不著《カサモキズ》 出乍曾見之《イデツツゾミシ》 雨零爾《アメノフラクニ》
私ハ〔二字傍線〕貴方カラ使ガ來サウナモノト思ツテ、ソレ〔ガ來〜傍線〕ヲ待ツトテ、雨ノ降ルノニ、笠モカブラナイデ、戸外ニ〔三字傍線〕出テ見マシタヨ。
〔評〕 卷十一の吾背子之使乎待跡笠毛不著出乍其見之雨落久爾《ワカセコガツカヒヲマツトカサモキズイデツツゾミシアメノフラクニ》(二六八一)と全く同歌である。唯異なるは、彼は寄物陳思なるに、これは問答に入れてあるだけだ。
3122 心なき 雨にもあるか 人目守り 乏しき妹に 今日だに逢はむを
無心《ココロナキ》 雨爾毛有鹿《アメニモアルカ》 人目守《ヒトメモリ》 乏妹爾《トモシキイモニ》 今日谷相乎《ケフダニアハムヲ》
私ハ〔二字傍線〕人目ニカカラナイ隙ヲ窺ツテ、稀ニノミ逢フ愛スル〔三字傍線〕女ニ、セメテ〔三字傍線〕今日デモ逢ハウト思フノニ、生憎ニ雨ガ降リダシタ〔十字傍線〕。心ノ無イ雨ダナア。
○雨爾毛有鹿《アメニモアルカ》――カはカナに同じ。○人目守《ヒトメモリ》――人目守りての意。人の見ぬ問を窺つて。○乏妹爾《トモシキイモニ》――相見ることの乏しき女。稀に相逢ふ女。○今日谷相牟 《ケフダニアハムヲ》――牟は元暦校本などに乎とあるのがよい。
〔評〕 右の男の歌に對する答としては、しつくり合はぬやうだ。問答でないものを、誤傳によつて組合せたからかも知れない。問答の歌として掲げたものに、時々さういふのがある。
右二首
3123 ただ獨 ぬれど寢かねて 白妙の 袖を笠に著 濡れつつぞ來し
直獨《タダヒトリ》 宿杼宿不得而《ヌレドネカネテ》 白細《シロタヘノ》 袖乎笠爾著《ソデヲカサニキ》 沾乍曾來《ヌレツツゾコシ》
(145)私ハ〔二字傍線〕唯一人デ寢タナレドモ、眠ルコトガ出來ナイノデ、(白細)袖ヲ笠ニ着テ、雨ノ降ツテ居ル中ヲ〔九字傍線〕、沾レナガラヤツテ來マシタ。
○白細《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。
〔評〕 強い戀情が、はつきりと表現せられ、いかにも男の歌らしい。
3124 雨も零り 夜もふけにけり 今更に 君いなめやも 紐解きまけな
雨毛零《アメモフリ》 夜毛更深利《ヨモフケニケリ》 今更《イマサラニ》 君將行哉《キミイナメヤモ》 ※[糸+刃]解設名《ヒモトキマケナ》
今夜ハ〔三字傍線〕雨モ降リ、夜モ更ケマシタヨ。デスカラ〔四字傍線〕、今更貴方ガ御歸リニナルコトハアリマスマイ。コレカラ着物ノ〔七字傍線〕紐ヲ解イテ、寢ル〔二字傍線〕仕度ヲシマセウ。
○夜毛更深利《ヨモフケニケリ》――代匠記精撰本に、深の下、計・氣などの脱かとし、これに從ふ説が多い。○君將行哉《キミイナメヤモ》――舊訓キミハユカメヤとあるが、古義に「キミイナメヤモと訓べし。下に將行乃河《イナミノカハ》とあるも、將v行を印南《イナミ》に借たるを、思ひ合すべし」とあるに從はう。○※[糸+刃]解設名《ヒモトキマケナ》――紐解きて、寢る準備をしようといふのである。卷八にも君來益奈利※[糸+刃]解設奈《キミキマスナリヒモトキマケナ》(一五一八)とある。
〔評〕 兩方が雨の歌といふまでで、問答が、しつくりと合致してゐない。
右二首
3125 久方の 雨のふる日を 吾が門に 蓑笠着ずて 來たる人や誰
久堅乃《ヒサカタノ》 雨零日乎《アメノフルヒヲ》 我門爾《ワガカドニ》 蓑笠不蒙而《ミノカサキズテ》 來有人哉誰《キタルヒトヤタレ》
(久堅乃)雨ノ降ル日ニ、私ノ家ノ〔二字傍線〕門ニ、蓑笠ヲ着ナイデ來タ人ハ誰デスカ、
○久堅乃《ヒサカタノ》――枕詞。雨につづく。天につづくのから轉じて、種々の天象に用ゐられる。○蓑笠不豪而《ミノカサキズテ》――古義(146)は字鏡に蓑 爾乃とあるから、ニノが古言であらう言つてゐる。和名抄には「蓑 美能 雨衣也」とある。○來有人哉誰《キタルヒトヤタレ》――舊訓クルヒトヤタレとあるのは、有の字があるからよくあるまい。キタルがよいであらう。宣長はケルヒトヤタレと訓むべし。ケルはキタルの古語だと言つてゐる。
〔評〕 明瞭な歌だ。女が男の來訪を迎へた時の言葉であらう。
3126 纒向の 痛足の山に 雲居つつ 雨はふれども 濡れつつぞ來し
纒向之《マキムクノ》 病足乃山爾《アナシノヤマニ》 雲居乍《クモヰツツ》 雨者雖零《アメハフレドモ》 所沾乍烏來《ヌレツツゾコシ》
纒向ノ痛足山ニ雲ガカツテ、雨ハ降ツテ居マスケレド、私ハ貴方ニ逢ヒタサニ大急ギデ笠モキズニ〔私ハ〜傍線〕、沾レナガラ來マシタ。
○纒向之病足乃山爾《マキムクノアナシノヤマニ》――卷七は卷向之病足之川由往水之《マキムクノアナシノカハユユクミヅノ》(一一〇〇)とあつて、痛足は纒向の地域内であつた。
〔評〕 痛足の里あたりに住んでゐた女の許に通つた男の歌。これも問の歌に幾分合はぬやうである。
右二首
羈旅(ニ)發(ス)v思(ヲ)
旅行中に思を發《オコ》して詠んだ歌。多くは戀の歌である。
3127 度會の 大川の邊の 若久木 吾が久ならば 妹戀ひむかも
度會《ワタラヒノ》 大河邊《オホカハノベノ》 若歴木《ワカヒサギ》 吾久在者《ワガヒサナラバ》 妹戀鴨《イモコヒムカモ》
(度會大河邊若歴木)私ガ旅ニ出テカラ〔六字傍線〕長クナルナラ、家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ハ私ヲ〔二字傍線〕戀シク思フデアラウヨ。早ク歸(147)リタイモノダ〔九字傍線〕。
○度會大河邊若歴木《ワタラヒノ《オホカハノベノワカヒサギ》――ワカヒサの音を繰返して、下につづく序詞。度會は伊勢の度會郡。大河は五十鈴川であらう。若歴木は舊訓ワカクヌギとあるが、考の一訓にワカヒサギとあるのがよいか。クヌギと訓む時は、ワカの音を繰返したものと見るべく、ヒサギならば、ワカヒサを反覆したことになる。和名抄に歴木 久奴木とあるが、歴は年を歴て久しき意とすれば、ヒサギと訓んでもよいわけである。ヒサギは卷六に久木生留清河原爾知鳥數鳴《ヒサギオフルキヨキカハラニチドリシバナク》(九二五)ともあつて、河邊に生ずる木である。○吾久在者妹戀鴨《ワガヒサナラバイモコヒムカモ》――略解にはワガヒサニアレバイモコフルカモとあるが、旅中に家なる妹を戀ふる歌であるから、きう詠む筈はない。
〔評〕 伊勢度會の大河のほとりを旅してゐる男が、家なる妹を思ひ出した歌である。左註によれば柿本朝臣人麿歌集の歌とあるが、人麿が伊勢の行幸に扈從しないで、京に留つたことが卷一に見えてゐるから、その時の從駕の人の作を得て載録したものかも知れない。但しそれだからといつて、これを人麿の作ではないとするのではなイ。
3128 吾妹子を 夢に見え來と 大和路の 渡り瀬ごとに 手向吾がする
吾妹子《ワギモコヲ》 夢見來《イメニミエコト》 倭路《ヤマトヂノ》 度瀬別《ワタリセゴトニ》 手向吾爲《タムケワガスル》
私ハ旅ニ出テヰルガ、家ニ殘シテ來タ〔私ハ〜傍線〕私ノ妻ガ、夢ニ見エルヤウニト、大和ヘ行ク路ノ、川ノ〔二字傍線〕渡ル瀬ゴトニ、道ノ〔二字傍線〕神樣ニ幣ヲ手向ケテ、通ツテ〔三字傍線〕行クヨ。
○吾妹子《ワギモコヲ》――ヲは詠嘆的に添へて言ふのみ。吾妹子がの意。○倭路《ヤマトヂノ》――大和路は、大和の國内の路ではなくて大和へ赴く路であらう。山跡道之島乃浦廻爾縁浪《ヤマトヂノシマノウラミニヨスルナミ》(五五一)・倭道者雲隱有《ヤマトヂハクモガクリタリ》(九六六)・日本道乃吉備乃兒島乎《ヤマトヂノキビノコジマヲ》(九六七)などいづれもさうである。○度瀬別《ワタリセゴトニ》――渡瀬は河の渡るところ。
〔評〕 家なる妹を戀ひつつ、大和へノ旅を急ぐ人の歌。旅中到るところで、神を祀つた古代の風俗がわかる。
3129 櫻花 咲きかも散ると 見るまでに 誰かもここに 見えて散り行く
(148)櫻花《サクラバナ》 開哉散《サキカモチルト》 及見《ミルマデニ》 誰此《タレカモココニ》 所見散行《ミエテチリユク》
美シイ櫻ノ花ガ咲イテハ散ルノハ殘リ惜シイモノダガ、ソノ〔美シ〜傍線〕櫻ノ花ガ、咲イテハ散ルノデハナイカト思ハレル程ニ、此處ニ見エタカト思フト別レテ行クノハ誰デアラウカ。
○開哉散《サキカモチルト》――咲いては散ると。古義に「ただ散ることを、集中に開(キ)散(ル)と云ること多ければ、櫻花の散かと、と云意となれり」とあるのは、ここには當らぬやうである。○誰此所見散行《タレカモココニミエテチリユク》――此所にちらりと見えて過ぎ行くのは誰かの意。見るは櫻の咲くに當り、別るといふべきを櫻の縁で散るといつてゐる。
〔評〕 實にすばらしい歌だ。旅人が旅中に集散離合するのを、櫻花の咲くと見る間に忽ち散つてしまふはかなさに譬へてゐる。旅中に見た美人を櫻に譬へたと見てもよい。誰かもと問ふのは形だけで、その人を誰と知らうとするのではない。婉麗優雅。多分人麿の作であらう。
3130 豐國の 企玖の濱松 こころいたく 何しか妹に 相言ひ始めけむ
豐洲《トヨクニノ》 聞濱松《キクノハママツ》 心喪《ココロイタク》 何妹《ナニシカイモニ》 相云始《アヒイヒソメケム》
何故私ハ〔二字傍線〕(豐州聞濱松)心ヲ痛メテ、アノ〔二字傍線〕女ニ逢ヒ初メタノデアラウ。アノ女ト親シイ關係ニナラナケレバ、旅デコンナ苦シイ思ハシナイダラウノニ〔アノ〜傍線〕。
○豐州聞濱松《トヨクニノキクノハママツ》――序詞。濱松の潮風に吹かれて、曲りくねつて立つてゐるのは、見るから心を痛ましめるものであるから、ココロイタクにつづけてゐる。豐州の聞の濱は豐前の企玖郡の濱。卷七に豐國之間之濱邊之愛子地《トヨクニノキクノハマベノマナゴヂノ》(一三九三)とある。○心喪《ココロイタク》――舊訓ココロニモとある。宣長はネモゴロニとしてゐる。○相之始《アヒイヒソメケム》――舊訓アヒシソメケムとあるのでは通じ難い。元暦校本に之を云に作るによつてアヒイヒソメケムと訓むべきである。新考・新訓共にアヒイヒソメシとあるが、感十一の礒上立回香瀧心哀何深目念始《イソノウヘニタテルムロノキココロイタクナニニフカメテオモヒソメケム》(二四八八)とあるによれば、(149)ソメケムがよいやうである。
〔評〕 右に掲げた卷十一の歌とまづ同型と言つてよい。筑紫の豐の國の旅で、女と親しんで煩悶する歌。人麿は筑紫へも赴いたから、やはり彼の作か。
右四首柿本朝臣人麿歌集出
3131 月かへて 君をば見むと 念へかも 日もかへずして 戀の繋けむ
月易而《ツキカヘテ》 君乎婆見登《キミヲバミムト》 念鴨《オモヘカモ》 日毛不易爲而《ヒモカヘズシテ》 戀之重《コヒノシゲケム》
貴方ハ旅ニ出テ來月ニナツテカラ歸ルトオツシヤツタノデ、私ハ〔貴方〜傍線〕月ガカハラナケレバ、貴方ニオ目ニカカルコトハ出來ナイト思ツタノデ、今オ立チニナルト云フ〔十字傍線〕今日ノ内カラ、コンナニ〔四字傍線〕戀シサガヒドイノダラウ。
○月易而《ツキカヘテ》――月を改めて、來月になつて。○日毛不易爲而《ヒモカヘズシテ》――日をも改めないで。即ち今日の内から。○戀之重《コヒノシゲケム》――舊訓シゲケキとあり、略解もさうなつてゐるが、上のカモに對しては古義のやうに、シゲケムと訓むべきである。
〔評〕 月と日を對照せしめてゐるのは、この集では珍らしい技巧で、わざとらしい感がある。
3132 な去きそと かへりも來やと かへりみに 行けども歸かず 道の長てを
莫去跡《ナユキソト》 變毛來哉常《カヘリモクヤト》 顧爾《カヘリミニ》 雖往不歸《ユケドカヘラズ》 道之長手矣《ミチノナガテヲ》
私ノ出立ヲ送ツテ來タ人ガ、別ヲ告ゲテ歸ツタ後デ、又モウ〔私ノ〜傍線〕行クノハオ止メナサイト云ツテ、立歸ツテ來テ〔傍線〕、私ヲ引キ留メ〔七字傍線〕ルカト思ツテ〔三字傍線〕、振リ返リナガラ行クケレドモ、アノ人ハ〔四字傍線〕歸ツテハ來ナイデ、私ハ〔二字傍線〕道ノ長イ道ヲ既ニ來テシマツタ〔八字傍線〕。何トナク未練ガ殘ルヨ〔既ニ〜傍線〕。
○莫去跡《ナユキソト》――行くなと言つて。○雖往不歸《ユケドカヘラズ》――古義にユケドユカレズと訓んでゐるのは意はよく聞える。且集(150)中、歸の字はカヘルと訓んだ他に、朝不離將歸人乃《アササラズユキケムヒトノ》(四二三)・君之己藝歸者《キミガコギユカバ》(一七八〇)・歸香具禮《ユキカグレ》(一八〇七)などの如くユキとよんだ例も多いから、これも一理あるが、ユカレズとレを添へてよむことはどうであらうかと思はれる。新訓には元暦校本に滿とあるによつて、ユケドモミタズとしてゐる。これによると如何に解すべきであらう。○道之長手矣《ミチノナガテヲ》――よく用ゐられる句である。長手のテはチの轉。即ち道の意である。
〔評〕 後髪を引かれるやうな心地で、旅に出かける人の歌であらう。別を惜しむ情はよくあらはれてゐる。
3133 旅にして 妹を思ひ出 いちじろく 人の知るべく 歎せむかも
去家而《タビニシテ》 妹乎念出《イモヲオモヒデ》 灼然《イチジロク》 人之應知《ヒトノシルベク》 歎將爲鴨《ナゲキセムカモ》
私ハ〔二字傍線〕旅ニ出テヰテ、家ニ殘シテ置イテ來タ〔十字傍線〕妻ヲ思ヒ出シテ、著シク人ノ目ニ立ツヤウニ歎息ヲスルノデアラウカヨ。コンナニ戀シクテハ、キツトサウスルニ違ヒナイ〔コン〜傍線〕。
○去家而《タビニシテ》――略解にイヘサリテとも訓んでゐる。去家の二字をタビと訓んだ例もなく、イヘサリとよんだ例もない。併し歌として考ふる時は、タビニシテの訓が最も穩やかであるから、舊訓のままにして置かう。
〔評〕 旅行に出でむとして、旅中の戀の歎息を想像し、人に悟られるのを恐れてゐる。旅中の作ではない。カモは反語として用ゐられてゐるのではないことに注意したい。平板な叙法である。
3134 里さかり 遠からなくに 草枕 旅とし思へば なほ戀ひにけり
里離《サトサカリ》 遠有莫國《トホカラナクニ》 草枕《クサマクラ》 旅登之思者《タビトシモヘバ》 尚戀來《ナホコヒニケリ》
自分ノ家ノアル〔七字傍線〕里ヲ離レテカラ、此處ハソンナニ〔七字傍線〕遠クハナイノニ(草枕)旅ト思フトヤハリ家ガ〔二字傍線〕戀シイヨ。
○里離《サトサカリ》――里は吾が住む里。○草枕《クサマクラ》――枕詞。旅とつづく。
〔評〕 遠からぬ旅ながら、なほ家の戀しき情の止み難きを述べてゐる。卷九の振山從直見渡京二曾寐不宿戀流遠不有爾《フルヤマニタダニミワタスミヤコニゾイヲネズコフルトホカラナクニ》(一七八八)と内容は似てゐる。
3135 近くあれば 名のみも聞きて 慰めつ こよひゆ戀の いや益りなむ
(151)近有者《チカクアレバ》 名耳毛聞而《ナノミモキキテ》 名種目津《ナグサメツ》 今夜從戀乃《コヨヒユコヒノ》 益益南《イヤマサリナム》
今マデハ女ト直接逢ハナイニシテモ、女ノ所トハ〔今マ〜傍線〕近イノデ、女ノ〔二字傍線〕噂バカリヲ聞イテ、心ヲ〔二字傍線〕慰メテ居ツタ。シカシ今日カラハ、他郷ヘ旅ニ出カケルカラ〔シカ〜傍線〕、今夜カラハ女ノ噂モ聞クコトガ出來ナイノデ〔女ノ〜傍線〕、戀シサガ愈々益シテ來ルデアラウ。アア困ツタモノダ〔八字傍線〕。
○名耳毛聞而《ナノミモキキテ》――人の語る妹の名のみを聞きて。名はここでは噂といふやうな意であらう。
〔評〕 近き旅に出てゐたものが、更に遠くへ行かうとして詠んだ歌とも考へられるが、さうではなく、旅に出でむとして、常に別れ住む女を思ひ出して詠んだのであらう。平板で何の變つた點もない。
3136 旅にありて 戀ふれば苦し いつしかも 京に行きて 君が目を見む
客在而《タビニアリテ》 戀者辛苦《コフレバクルシ》 何時毛《イツシカモ》 京行而《ミヤコニユキテ》 君之目乎將見《キミガメヲミム》
旅中ニアツテ都ニ殘シテ來タ人ヲ〔九字傍線〕戀シク思フノハ苦シイモノダ。早ク家ニ歸リタイガ〔九字傍線〕、何時ニナツタラ、都ニ歸ツテアナタニ逢フコトガ出來ルデアラウ。アア待チ遠イ〔六字傍線〕。
○君之目乎將見《キミガメヲミム》――君は女をさしていつてゐるやうである。
〔評〕 地方官などの任で赴いた人が、都に殘した女を思つて詠んだもの。これも平明な作である。
3137 遠くあれば 姿は見えず 常の如 妹がゑまひは 面影にして
遠有者《トホクアレバ》 光儀者不所見《スガタハミエズ》 如常《ツネノゴト》 妹之咲者《イモガヱマヒハ》 面影爲而《オモカゲニシテ》
イツモノ通リニ、戀シイ〔三字傍線〕女ノ笑顔ハ、目ノ前ニチラツイテ見エテヰルガ、今ハ旅行中ダカラ女ノ居ル所ト〔ヰル〜傍線〕ハ遠ク離レテ居ルノデ、戀シイ女ノ〔五字傍線〕姿ハ見ルコトガ出來ナイ。逢ヒタイモノダナア〔九字傍線〕。
(152)○面影爲而《オモカゲニシテ》――目の前にちらついて見えて。
〔評〕 穩やかに餘情を含めて、面影爲而《オモカゲニシテ》と言ひをさめてある。
3138 年も經ず 歸り來なむと 朝影に 待つらむ妹が 面影に見ゆ
年毛不歴《トシモヘズ》 反來甞跡《カヘリコナムト》 朝影爾《アサカゲニ》 將待妹之《マツラムイモガ》 面影所見《オモカゲニミユ》
私ハ今旅ニ出テヰルガ〔十字傍線〕、年ノ經《タ》タナイウチニ歸ツテ來ルダラウト、朝日ニ映ル人影ノヤウニ、痩セ衰ヘテ、私ヲ〔七字傍線〕待ツテヰル妻ノ姿〔二字傍線〕ガ目ノ前ニチラツイテ見エル。
○反來甞跡《カヘリコナムト》――舊訓カヘリキナメドとあるが、略解の訓がよい。○朝影爾《アサカゲニ》――考に影を異の誤として、アサニケニとよんだのは、要なき改竄である。
〔評〕 旅中、家なる妻を思ふ歌。思慕の情が強くあらはれてゐる。
3139 玉桙の 道に出で立ち 別れ來し 日より思ふに 忘る時なし
玉桙之《タマボコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 別來之《ワカレコシ》 日從于念《ヒヨリオモフニ》 忘時無《ワスルルトキナシ》
旅ノ〔二字傍線〕(玉桙之)道ニ私ガ〔二字傍線〕出カケテ、女ト〔二字傍線〕別レテ來タ日カラ、今マデアノ女ヲ」〔七字傍線〕思ツテ忘レタコトハナイ。
○玉桙之《タマボコノ》――枕詞。道とつづく、七九參照。○忘時無《ワスルトキナシ》――ワスルルトキナシといふのが普通の語法であるが、衣手乃別今夜從《コロモデノワカルコヨヒユ》・射水河流水沫能《イミヅガハナガルミナハノ》(四一〇六)などの類で、これが古格である。〔評〕 旅中の戀。平庸。
3140 はしきやし 然る戀にも ありしかも 君におくれて 戀しき念へば
波之寸八師《ハシキヤシ》 志賀在戀爾毛《シカルコヒニモ》 有之鴨《アリシカモ》 君所遺而《キミニオクレテ》 戀敷念者《コヒシキオモヘバ》
私ハ〔二字傍線〕戀シイ愛スル貴方ニトリ殘サレテ、貴方ガ旅ニ出タ後デ貴方ヲ〔貴方ガ〜傍線〕戀シク思ツテヰルコトヲ、考ヘテ見ルト、前カラ〔三字傍線〕サウ云フ因縁ノ〔三字傍線〕戀デアツタノダ。
(153)○波之寸八師《ハシキヤシ》――愛しきに詠歎の辭ヤシが附いてゐる。この句は第四句の君につづいてゐる。
〔評〕 男を旅に送り出した留守居の女の作であるから、覊旅發思とイフ部門には少し適しないわけである。志亭賀在戀爾毛有之鴨《シカルコヒニモアリシカモ》と宿命觀的な叫びを上げてゐるのは、この頃の作には珍らしい。
3141 草枕 旅の悲しく あるなべに 妹を相見て 後戀ひむかも
草枕《クサマクラ》 客之悲《タビノカナシク》 有苗爾《アルナベニ》 妹乎相見而《イモヲアヒミテ》 後將戀可聞《ノチコヒムカモ》
(草枕)旅ガ悲シイノニ、ソレ〔四字傍線〕ト共ニ、コノ〔二字傍線〕女ニ逢ツテ、ソレガ忘レラレナイデ〔十字傍線〕、後デ戀シク思フノデハアルマイカ。
○有苗爾《アルナベニ》――あると共に。
〔評〕 旅中、遊女などにあつて、別を悲しんだのであらう。二重の悲しみを歌つてゐるのは一寸おもしろい。
3142 國遠み 直には逢はず 夢にだに 我に見えこそ 逢はむ日までに
國遠《クニトホミ》 直不相《タダニアハサズ》 夢谷《イメニダニ》 吾爾所見社《ワレニミエコソ》 相日左右二《アハムヒマデニ》
私ハ今旅ニ出テ居ルガ私ノ〔私ハ〜傍線〕國ハ遠イノデ、妻ト〔二字傍線〕直接ニ逢フコトハ出來ナイ。ダカラ國ニ歸ツテ又〔九字傍線〕逢フ日マデハ、夢ニデモ私ニ妻ノ姿ガ〔四字傍線〕見エテクレヨ。
○相日左右二《アハムヒマデニ》――逢はむ日まではに同じ、
〔評〕 旅中、妻を戀うて、夢にも見むと願ふ歌。二句と初句とで切れてゐる。さしたる點もない。
3143 かく戀ひむ ものと知りせば 吾妹子に 言問はましを 今し悔しも
如是將戀《カクコヒム》 物跡知者《モノトシリセバ》 吾妹兒爾《ワギモコニ》 言問麻思乎《コトトハマシヲ》 今之悔毛《イマシクヤシモ》
私ハ旅ニ出テ居テ〔八字傍線〕、コンナニ妻ガ〔二字傍線〕戀シイト知ツテヰタナラバ、吾ガ妻ニ、ヨク〔二字傍線〕話ヲシテ別レテ來〔七字傍線〕ル筈ダツタノ(154)ニ。サウシナカツタノデ〔九字傍線〕、今更殘念ダヨ。
○言問麻志乎《コトトハマシヲ》――言問ふは物言ふに同じ。
〔評〕 卷十四の安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美伊敞能伊母爾毛乃乃伊波受伎爾?於毛比具流之母《アリキヌノサヱサヱシヅミイヘノイモニモノノイハズキニテオモヒクルシモ》(三四八一)と内容が似てゐる。あはれが籠つてゐる。
3144 旅の夜の 久しくなれば さ丹づらふ 紐ときさけず 戀ふるこの頃
客夜之《タビノヨノ》 久成者《ヒサシクナレバ》 左丹頬合《サニヅラフ》 ※[糸+刃]開不離《ヒモトキサケズ》 戀流比日《コフルコノゴロ》
旅デ寢ル〔三字傍線〕夜ガ重ルト、私ハ〔二字傍線〕赤イ紐ヲ解イテユツクリ寢ル〔八字傍線〕コトモナクテ、妻ヲ〔二字傍線〕コノ頃ハ戀シク思ツテヰルヨ。
○客夜之《タビノヨノ》――舊本、客を容に作るは誤。元暦校本その他皆客となつてゐる。○左丹頬合《サニヅラフ》――サは接頭語。ニヅラフは赤いこと。○※[糸+刃]開不離《ヒモトキサケズ》――古義はヒモアケサケズと訓んでゐる。
〔評〕 左丹頬合《サニヅラフ》とあるのが、女の着物の紐らしく見えるところから、略解に「初は夫の旅の事を言ひて、末は妹がまろねして戀ふるさまをみづから言へり」とあるがさうではあるまい。三句以下も男の旅中の状態を述べてゐるので、左丹頬合《サニヅラフ》は色の赤いことであるが、枕詞と言つてもよいくらゐに、輕く用ゐられてある。
3145 吾妹子し 吾を偲ぶらし 草枕 旅の丸寢に 下紐解けぬ
吾味兒之《ワギモコシ》 阿乎偲良志《アヲシヌブラシ》 草枕《クサマクラ》 旅之丸寢爾《タビノマロネニ》 下※[糸+刃]解《シタヒモトケヌ》
私ハ今旅ニ出テヰルガ〔十字傍線〕、(草枕)旅デ一人デ着物モ解カズニ〔十一字傍線〕丸寐ヲシテヰルト、自然ニ着物ノ〔六字傍線〕下紐ガ解ケタ。世間デ、人ニ戀セラレルト、下紐ガ解ケルト言フカラ、家ニ殘シテ來タ〔世間〜傍線〕》私ノ妻ガ、私ヲ思ツテ居ルノデアラウ。
○下※[糸+刃]解《シタヒモトケヌ》――トクルともトケツともよんであるのも、よいやうであるが、舊訓の如くトケヌとある方が寧ろ穩やかであらう。
〔評〕 至誠感應の信念が歌はれてゐる。かういふ種類のものは、集中に澤山あるが、當時の人は眞面目に言つて(155)ゐたのである。
3146 草枕 旅の衣の 紐解けて 思ほせるかも この年頃は
草枕《クサマクラ》 旅之衣《タビノコロモノ》 ※[糸+刃]解《ヒモトケヌ》 所念鴨《オモホユルカモ》 此年比者《コノトシゴロハ》
(草枕)旅行中ニ着テヰル私〔七字傍線〕ノ着物ノ紐ガ解ケタ。コノ頃ハ家ノ妻ガ私ヲ〔六字傍線〕思ツテヰルト見エルヨ。
○所念鴨《オモホセルカモ》――妻ながら丁寧にオモホセルと言つてゐる。新考にオモハユルカモイモニコノゴロと改めたのは大膽な説である。
〔評〕 三句切。女に對して、丁寧な言葉を用ゐてゐる點に、武家時代と異なつた時代相が見える。
3147 草まくら 旅の紐解く 家の妹し 吾を待ちかねて 嘆かすらしも
草枕《クサマクラ》 客之※[糸+刃]解《タビノヒモトク》 家之妹志《イヘノイモシ》 吾乎待不得而《アヲマチカネテ》 歎良霜《ナゲカスラシモ》
(草枕)旅ノ衣ノ〔二字傍線〕紐ガ解ケタ。コレハ〔三字傍線〕家ニ殘シテ來タ〔六字傍線〕妻ガ、私ノ歸リ〔三字傍線〕ヲ待チカネテ、歎イテヰルラシイヨ。
○客之※[糸+刃]解《タビノヒモトク》――紐がおのづから解ける意。ヒモトクルのルを省いたやうに見る説は誤つてゐる。○吾乎待不得而《アヲマチカネテ》――舊本、之は乎の誤。元暦校本その他乎に作つてゐる。○歎良霜《ナゲカスラシモ》――嘆は元暦校本その他の古寫本いづれも歎に作つてゐる。ここもナゲカスと敬語が用ゐてある。
〔評〕 前の二歌と同樣の俗間信仰によつた歌。
3148 玉くしろ 纒き寢し妹を 月も經ず 置きてや越えむ この山のさき
玉釼《タマクシロ》 卷寢志妹乎《マキネシイモヲ》 月毛不經《ツキモヘズ》 置而八將越《オキテヤコエム》 此山岫《コノヤマノサキ》
マダ結婚シテ〔六字傍線〕(玉釼)共寢シタバカリノ〔四字傍線〕妻ヲ、一月モ經《タ》タナイウチニ、後ニ殘シテ置イテ、コノ山ノ鼻ヲ越エテ旅ニ出〔四字傍線〕ルト云フコトガアルモノカ。アア思フヤウニナラナイ世ノ中ダ。サテモ戀シイ妻ヨ〔アア〜傍線〕。
(156)○玉釼《タマクシロ》――枕詞。釧は手に纒くものであるから、卷《マキ》とつづけてゐる。舊訓タマツルギとあるのは誤つてゐる。○此山岫《コノヤマノサキ》――舊本、岫とあるが、岫は山の穴で、ここにふさはしくない。卷五の智可能岫欲利《チカノサキヨリ》(八九四)とあるのは、岬の誤なることは疑ないから、これも同樣に見るべきであらう。山の岬は山の突端。
〔評〕 四句の置而八將越《オキテヤコエム》に、哀怨の情が籠つてゐる。あはれな歌。
3149 梓弓 末は知らねど うつくしみ 君にたぐひて 山路越え來ぬ
梓弓《アヅサユミ》 末者不知杼《スヱハシラネド》 愛美《ウツクシミ》 君爾副而《キミニタグヒテ》 山道越來奴《ヤマヂコエキヌ》
私ノ〔二字傍線〕(梓弓)行〔傍線〕末ハドウナルトモ分ラナイガ、私ハ貴方ガ〔五字傍線〕ナツカシサニ、貴方ノオ伴ヲシテ、山道ヲ越エテヤツテ來マシタ。
○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。弓の上端を末といふから、末につづけてゐる。○末者不知杼《スヱハシラネド》――代匠記初稿本に、「男女のなからひの行末と、旅の行末とをかぬべし」とあるが、身の行末と言つた方が當るであらう。○愛美《ウツクシミ》――愛しき故に。戀しさに。
〔評〕 地方の任に下る男に、添うて行く女の歌であらうと言はれてゐる。江戸時代ならば、まさに道行心中物であるが、さう見ることは時代相が許さない。可憐な作だ。
3150 霞立つ 春の長日を おくがなく 知らぬ山路を 戀ひつつか來む
霞立《カスミタツ》 春長日乎《ハルノナガビヲ》 奧香無《オクガナク》 不知山道乎《シラヌヤマヂヲ》 戀乍可將來《コヒツツカコム》
霞ガ立チ込メル春ノ長イ日ニ、極限《ハテ》モナク、道モ〔二字傍線〕知ラナイ山道ヲ、人〔傍線〕戀シク思ヒナガラ、行クコトデアラウカ。戀人ニ別レテ旅ニ出ルノハツライ〔戀人〜傍線〕。
○春長日乎《ハルノナガビヲ》――卷一に霞立長春日乃《カスミタツナガキハルヒノ》(五)とあるのでこれも長春日の誤だらうと考に見えるが、さう改める要はない。○奧香無《オクガナク》――オクガは奧處。即ち極限《ハテ》の意。この句は極限もなく。○戀乍可將來《コヒツツカコム》――將來《コム》は行かむに(157)同じ。
〔評〕 一人で地方へ下つて行く人の歌。二句と四句とに乎を置いたのは、多少調が整はぬやうでもあるが、誤ではあるまい。
3151 よそのみに 君を相見て 木綿疊 手向の山を 明日か越え去なむ
外耳《ヨソノミニ》 君乎相見而《キミヲアヒミテ》 木綿牒《ユフダタミ》 手向乃山乎《タムケノヤマヲ》 明日香越將去《アスカコエイナム》
コレカラ私ハ、旅ニ出カケルガ、貴方ト直接ニ逢ツテ別ノ言葉ヲ述ベルコトモナク〔コレ〜傍線〕、外ニバカリ貴方ヲ見テ、此處ヲ去ツテ〔六字傍線〕、(木綿牒)手向ノ山ヲ明日アタリ越エテ行クデアラウカ。悲シイコトダ〔六字傍線〕。
○外耳君乎相見而《ヨソノミニキミヲアヒミテ》――戀人をよそながら見て。別に臨んで親しく言葉をかはさずにの意。今までよそに見て、戀のかなはなかつた人に別れての意としてはよくない。○木綿牒《ユフダタミ》――枕詞。木綿を疊んだものを、神に手向けるからである。○手向乃山乎《タムケノヤマヲ》――手向の山は、奈良山の峠をいふ。
〔評〕 都人が地方に赴かうとしてよんだもの。眞淵が奈良の京の女が、父の任に從つて、地方へ行かうとして、男との別を悲しんでよんだものとしたのが、當つてゐる。
3152 玉かつま 安倍島山の 夕露に 旅宿えせめや 長きこの夜を
玉勝間《タマカツマ》 安倍島山之《アベシマヤマノ》 暮露爾《ユフツユニ》 旅宿得爲也《タビネエセメヤ》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》
コノ〔二字傍線〕(玉勝間)安倍島山デ、夕方ノ露ノ降ツタ中デ、私ハ〔二字傍線〕長イコノ夜ニ、旅寢ガ出來ヨウヤ。トテモ出來サウニハ思ハレナイ〔トテ〜傍線〕。
○玉勝間《タマカツマ》――枕詞。この下にも、玉勝間島熊山之《タマカツマシマクマヤマノ》(三一九三)とあるので見ると、これもアベを間に置いて、シマにつづくものと見るべきであらう。シマは締りで、玉籠《タマカツマ》の目が堅く締つてゐる意でツヅクか。○安倍島山之《アベシマヤマノ》――卷三に阿倍乃島宇乃住石爾《アベノシマウノスムイソニ》(三六九)とあるところであらう。然らば攝津か。○旅宿得爲也《タビネエセメヤ》――舊訓タヒネハエスヤとあるが、旅中の歌であらうから、古義にあるやうにエセメヤとよまねばなるまい。
(158)〔評〕 あはれな歌。旅情があらはれてゐる。
3153 み雪ふる 越の大山 行き過ぎて いづれの日にか わが里を見む
三雪零《ミユキフル》 越乃大山《コシノオホヤマ》 行過而《ユキスギテ》 何日可《イヅレノヒニカ》 我里乎將見《ワガサトヲミム》
私ハ〔二字傍線〕(三雪零)コノ〔二字傍線〕越ノ國ノ大山ヲ通リ過ギテ、イヨイヨ越ノ國ヘ入ルガ〔イヨイヨ〜傍線〕、何時ノ日ニ私ノ故郷ヘ歸ルコトガ出來ルダラウ。
○三雪零《ミユキフル》――三雪零は卷十七の美雪落越登名爾於弊流《ミユキフルコシトナニオヘル》(四〇一二)・卷十八の美由伎布流古之爾久太利來《ミユキフルコシニクダリキ》(四一一三)などのやうに、越の枕詞のやうに用ゐられる。ここも今、現在雪が降つてゐるのではあるまい。ミは接頭語。意味はない。○越乃大山《コシノオホヤマ》――代匠記に和名抄に「越中國婦負郡大山於保也萬」とあるのを擧げてゐるが、この歌にはよしないやうである。これを加賀の白山と見る人もあるが、これも當らない。白山は街道からは遙かに距つてゐる。恐らくこれは近江から越前へ越える愛發山であらう。これを越えれば越の國である。卷十の八田乃野之淺茅色付有乳山峯乃沫雪寒零良之《ヤタノヌノアサヂイロヅクアラチヤマミネノアワユキサムクフルラシ》(二三三一)とある歌にも、これと同一の氣分が出てゐるやうである。○行過而《ユキスギテ》――通過して。越え行きて。よそながら見るのではない。
〔評〕 この歌を今までの諸註に、越の任にあつた人が、任果てて都に歸る時の歌と解してゐるのは誤である。始めて越の國へ入つて、愛發山の關を越え、荒凉たる越路の風物の眼前に展開せられてゐるのを見て、歸京の時期の何時とも知らぬのを嘆いたのである。この歌に籠つてゐる無限の哀愁は、決して歸京の時の作とは思はれない。今日でも柳が瀬の隊道を界として、表日本と裏日本との著しい氣分の差は、誰しも感ずるところである。すぐれた作と言つてよい。
3154 いで吾が駒 早く行きこそ 眞土山 待つらむ妹を 行きて早見む
乞吾駒《イデワガコマ》 早去欲《ハヤクユキコソ》 亦打山《マツチヤマ》 將待妹乎《マツラムイモヲ》 去而速見牟《ユキテハヤミム》
サア私ノ乘ツテヰル〔五字傍線〕馬ヨ。早ク歩イテコノ眞土山ヲ越エテ〔九字傍線〕クレヨ。家デ〔二字傍線〕(亦打山)待ツテヰル妻ヲ、早ク〔二字傍線〕行ツテ(159)早ク見ヨウ。早ク急ゲ急ゲ〔六字傍線〕。
○乞吾駒《イデワガコマ》――乞《イデ》はサアと誘ひそそのかす言葉。○亦打山《マツチヤマ》――紀伊と大和の界。五五參照。これは次のマツを言ひおこさむ爲の枕詞として用ゐてあるが、この山を越えつつ詠んだのである。
〔評〕 催馬樂の中でも代表作と言はれる名高い作品で、これが民謠として、如何に廣く謠はれたかがわかる。紀伊からの歸路、眞土山を越えて、いよいよ故郷の大和へ入らうとする旅人が、馬に鞭打ちつつ謠つてゐる姿が思はれる。悠揚たる諧調。得難い作品である。
3155 惡木山 木末ことごと 明日よりは 靡きたりこそ 妹があたり見む
惡木山《アシキヤマ》 木末悉《コヌレコトゴト》 明日從者《アスヨリハ》 靡有社《ナビキタリコソ》 妹之當將見《イモガアタリミム》
私ハ今日カラ惡木山ノ向フヘ行クノデ、アノ山ノ蔭ニナツテ戀シイ妻ノ里モ見エナイデアラウガ〔私ハ〜傍線〕、惡木山ノ木ノ梢ハ總ベテ、明日カラハ靡イテ低クナツテ〔五字傍線〕クレ。私ハ〔二字傍線〕妻ノヰル〔二字傍線〕方ヲ見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
○惡木山《アシキヤマ》――筑前の蘆城山であらう。太宰府の東南方にある。一五三一參照。○靡有社《ナビキタリコソ》――このコソは希望をあらはしてゐる。靡いてあれよといふのである。
〔評〕 惡木山を越えて、旅に出て行く人の歌。卷二の柿本人麿作、妹之門將見靡此山《イモガカドミムナビケコノヤマ》(一三一)・卷十三の靡得人雖跡如此依等人雖衝無意山之奧礒山三野之山《ナビケトヒトハフメドモカクヨレトヒトハツケドモココロナキヤマノオキソヤマミヌノヤマ》(三二四二)に似てゐる。以上八首は山の旅の歌である。
3156 鈴鹿河 八十瀬渡りて 誰故か 夜越に越えむ 妻もあらなくに
鈴鹿河《スズカガハ》 八十瀬渡而《ヤソセワタリテ》 誰故加《タレユエカ》 夜越爾將越《ヨゴエニコエム》 妻毛不在君《ツマモアラナクニ》
私ハ言えニ待ツテヰル〔九字傍線〕妻モナイノニ、コレカラ〔四字傍線〕l鈴鹿河ノ澤山ノ瀬ヲ彼方此方ト幾度モ〔八字傍線〕渡ツテ、誰ノ爲ニ夜ノ山道ヲ越エテ行カウゾ。ソンナ辛苦ヲシテ歸ツテモ待ツ妻ノ無イノハ悲シイ〔ソン〜傍線〕。
○鈴鹿河《スズカガハ》――伊勢國鈴鹿郡の鈴鹿山附近に發し、關龜山附近を經て東流して海に入る。寫眞は神戸附近から撮(160)影。遙かに見えるのは鈴鹿山である。○八十瀬渡而《ヤソセワタリテ》――八十瀬は多くの瀬。この河に添うてゐる道が、幾度か河を横ぎりて徒渉するやうになつてゐたのであらう。○夜越爾將越《ヨゴエニコエム》――夜山路を越え行くを、夜越といつたのである。
〔評〕 考には「男の旅なるほどに、我妻の身まかりし後に歸るとてよめるか」とある。夜の山路の辛さに、山のあなたに待つ妻でもあらばともかく、さもない私はまことにつまらないと嘆息したので、妻が身まかつたといふ想像は寧ろ過ぎてはゐまいか。催馬樂に「鈴鹿河八十瀬の瀧をみな人のめぐるもしるく時にあへるかも」源氏物語賢木に「鈴鹿河八十瀬の浪にぬれぬれて伊勢まで誰か思ひおこせむ」などある鈴鹿河の八十瀬は、この歌を基とするか。
3157 吾妹子に またも近江の 野洲の河 安いも宿ずに 戀ひ渡るかも
吾妹兒爾《ワギモコニ》 又毛相海之《マタモアフミノ》 安河《ヤスノカハ》 安寐毛不宿爾《ヤスイモネズニ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
私ハ今旅ニアツテ〔八字傍線〕(吾妹兒爾又毛相海之安河)安眠モ出來ナイデ、妻ヲ〔二字傍線〕戀シク思ヒ暮シテヰルヨ。
(161)○吾妹兒爾又毛相海之安河《ワギモコニマタモアフミノヤスノカハ》――序詞。ヤスの音を繰返して下につづいてゐる。吾妹兒爾又毛《ワギモコニマタモ》は淡海に冠した序詞。逢ふにかけてある。安河《ヤスノカハ》は野洲の河。伊勢との國境に發し野洲・守山兩驛の間を流れ、湖水に注いでゐる。寫眞は著者撮影。前面に見えるのは三上山である。○安寢毛不宿爾《ヤスイモネズニ》――安眠を宿ずに。卷五に夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》(八〇二)とあつたのと同じ言ひ方である。
〔評〕 近江の野洲地方を旅行してゐる人が、故郷の妻を思つて詠んだのであらう。初句、吾妹兒爾《ワギモコニ》が序詞でありながら、下の歌意に響いて巧に用ゐられてゐる。なほ結句、渡るは河の縁語であるまいか。右の二首は川の旅の歌である。
3158 旅にありて 物をぞ思ふ 白浪の 邊にも沖にも よるとはなしに
客爾有而《タビニアリテ》 物乎曾念《モノヲソオモフ》 白浪乃《シラナミノ》 邊毛奧毛《ヘニモオキニモ》 依者無爾《ヨルトハナシニ》
私ハ今〔三字傍線〕旅行中デ戀ノ爲ニ〔四字傍線〕物思ヲシテヰル。ソレハ丁度〔五字傍線〕白浪ガ岸ニモ沖ニモヨルデモナク、途中ニ漂ツテヰルヤウナ有樣デ、思ガ屆クトモ屆カナイトモ分ラナイノデ、心ガ落チツカズニ物思ヲシテヰル〔途中〜傍線〕。
○白浪乃《シラナミノ》――白浪がの意。枕詞とするのは誤つてゐる。○依者無爾《ヨルトハナシニ》――邊にも寄らず沖にも寄らずの意で、自分の思が屆くとも屆かぬとも定まらぬ状態を叙べたのであらう。
〔評〕 旅中に女を戀した歌か。白浪のいづれに寄するともなく定まらぬの(162)を、自分の思の達すとも達せぬとも定まらぬに譬へてゐる。四五句の寄せた意味が少し不明瞭である。
3159 みなとみに 滿ち來る潮の いやましに 戀はまされど 忘らえぬかも
湖轉爾《ミナトミニ》 滿來鹽能《ミチクルシホノ》 彌益二《イヤマシニ》 戀者雖剰《コヒハマサレド》 不所忘鴨《ワスラエヌカモ》
私ハ家ニ殘シテ來タ妻ヲ思ツテ〔私ハ〜傍線〕、(湖轉爾滿來鹽能)彌々益々戀ハ増シテ來ルケレドモ、少シモ妻ヲ〔五字傍線〕忘レルコトハ出來ナイヨ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
○湖轉爾滿來鹽能《ミナトミニミチクルシホノ》――序詞。彌益《イヤマシ》とつづく。湖轉は舊訓ミナトワとあるが、古義の訓がよい。湖は枚乃湖《ヒラノミナト》(二七四)・湖風《ミナトカゼ》(三五二)などの如くミナトに用ゐられた例が多い。ミナトは河口。
〔評〕 この歌は旅中の意が稀薄で、寄物陳思の部に收めても、よいやうに思はれる。
3160 沖つ浪 邊浪の來寄る 左太の浦の このさだ過ぎて 後戀ひむかも
奧浪《オキツナミ》 邊浪之來依《ヘナミノキヨル》 貞浦乃《サダノウラノ》 此左太過而《コノサダスギテ》 後將戀鴨《ノチコヒムカモ》
私ハ今、貞ノ浦ヲ通ツテヰルガ〔私ハ〜傍線〕、(奧浪邊浪之來依貞浦乃)コノ今ノ〔二字傍線〕時ヲ過ゴシテ、後ニナツテカラ、ココデ逢ツタ人ヲ〔八字傍線〕、戀シク思フデアラウヨ。
○奧浪邊浪來依貞浦乃《オキツナミヘナミノキヨルサダノウラノ》――序詞。サダの音を繰返して下へつづく。○此左太過而《コノサダスギテ》――サダは時の古言。
〔評〕 この歌は卷十一の奥波邊浪之來縁左太能浦之此左太過而後將戀可聞《オキツナミヘナミノキヨルサダノウラノコノサダスギテノチコヒムカモ》(二七三二)と全く同歌である。彼は寄物陳思に收めてあるのに、これを覊旅發思に入れてあるのは、或る旅人が貞の浦を經て詠んだものと見たのであらう。
3161 ありち潟 在り慰めて 行かめども 家なる妹い おほほしみせむ
在千潟《アリチガタ》 在名草目而《アリナグサメテ》 行目友《ユカメドモ》 家有妹伊《イヘナルイモイ》 將鬱悒《オホホシミセム》
コノ〔二字傍線〕在千潟ノ面白イ景色ヲ眺メナガラ〔ノ面〜傍線〕、カウシテヰテ心ヲ〔二字傍線〕慰メツツ行カウト思フ〔三字傍線〕ガ、家ニ留守シテ〔四字傍線〕ヰル妻ガ、(163)心淋シク悲〔二字傍線〕シミナガラ私ヲ待ツテ〔五字傍線〕居ルデアラウ。ダカラ私ハコノ佳イ景色モヨク見弟イデ急イデ通ルノダ〔ダカ〜傍線〕。
○在千方《アリチガタ》――下の在《アリ》に冠して枕詞式になつてゐるが、旅中の風景を愛づる意もある。在千方はアリチの潟であらうが、所在がわからない。或は年魚市方《アユチガタ》(二七一)(一一六三)と同所か。○在名草目而《アリナグサメテ》――在は、さうして居て、の意。○家有妹伊《イヘナルイモイ》――イは主語の下に附く助詞。○將欝悒《オホホシミセム》――舊訓イブカシミセムとあるが、欝悒はオホホシと訓む場合が多いから、ここもさう訓まう。二九四九參照。
〔評〕 在千方の地名を詠み込んで、枕詞式に用ゐてゐるのはおもしろい。はつきりした歌。
3162 澪標 こころ盡して 思へかも ここにももとな 夢にし見ゆる
水咫衝石《ミヲツクシ》 心盡而《ココロツクシテ》 念鴨《オモヘカモ》 此間毛本名《ココニモモトナ》 夢西所見《イメニシミユル》
家ニ殘シテ來タ妻ガ〔九字傍線〕(水咫衝石)心ヲ盡シテ私ヲ〔二字傍線〕思ツテヰルカラカ、旅ニ出テヰル〔六字傍線〕此處ノ私〔二字傍線〕ニモ、徒ラニ妻ノコトガ〔五字傍線〕夢ニ見エルヨ。
○水咫衝石《ミヲツクシ》――枕詞。ツクシの音を繰返して盡《ツクシ》に冠してある。水咫衝石は水脈つ串。水路の標。澪標。咫は越又は尾の誤とする説がある。咫は内轉第四開止攝の音。掌氏切シで、音としてはヲと訓む理由がない。意味の上から考へても尺度の名、約八寸、アタであつて、ヲとは關係がないから、恐らく誤字であらう。
〔評〕 澪標を枕詞として用ゐたのみで、旅行中らしい趣もない。前後の歌が、海岸に關係があるから、これも難波潟などの澪標を見て詠んだものとして、ここに入れたのであらう。この歌、袖中抄にも出てゐる。
3163 吾妹子に 觸るとはなしに 荒磯みに 吾が衣手は ぬれにけるかも
吾妹兒爾《ワギモコニ》 觸者無二《フルトハナシニ》 荒礒回爾《アリソミニ》 吾衣手者《ワガコロモデハ》 所沾可母《ヌレニケルカモ》
私ハ旅ニ出テヰルノデ〔十字傍線〕、吾ガ妻ニハ觸レルコトモナクテ、海岸ヲ歩イテ〔六字傍線〕、荒磯ノ波ニ、私ノ着物ノ袖ガ濡レタヨ。 ツライコトダ〔六字傍線〕。
(164)○觸者無二《フルトハナシニ》――妻に觸れることはなくて。觸るは寄り添ふこと。四句の吾が衣手を觸るの主語と考へてはいけない。
〔評〕 旅にあつて妻に逢ふこともなく、海岸を辿りつつ波に袖を濡らすといふので、孤獨の悲しさを歌つてゐるが、袖が涙に濡れるのではない。これも海邊旅の歌である。
3164 室の浦の せとの埼なる 鳴島の 磯越す浪に ぬれにけるかも
室之浦之《ムロノウラノ》 湍門之埼有《セトノサキナル》 鳴島之《ナルシマノ》 礒越浪爾《イソコスナミニ》 所沾可聞《ヌレニケルカモ》
私ハ〔二字傍線〕室ノ浦ノ瀬戸ノ崎ニアル鳴島ノ、磯ヲ越ス波ニ者物ガ〔三字傍線〕濡レタヨ。ツライ旅ダ〔五字傍線〕。
○室之浦之《ムロノウラノ》――室の浦は播磨揖保郡の室の津か。しかしこの港頭に湍門といふ程のものなく、又鳴島の名も今存しない。この港外にあるのが辛荷島である。九四二の寫眞參照。○鳴島之《ナルシマノ》――鳴島は所在不明。
〔評〕 室の浦の海峽のやうになつてゐるところに、突出した鳴島の地があり、そこを通過しようとして、浪に袖を濡らしたといふのである。所在が明瞭でないのは遺憾である。これから以下地名が詠まれてゐる。
3165 ほととぎす 飛幡の浦に しく浪の しばしば君を 見むよしもがも
霍公鳥《ホトトギス》 飛幡之浦尓《トバタノウラニ》 敷浪乃《シクナミノ》 屡君乎《シクシクキミヲ》 將見因毛鴨《ミムヨシモガモ》
(霍公鳥飛幡之浦爾敷浪之)屡々貴方ニ逢フ方法ガアレバヨイガナア。
○霍公鳥飛幡之浦爾敷浪之《ホトゝギストバタノウラニシクナミノ》――序詞。頻りに立つ浪の屡々とつづいてゐる。霍公鳥《ホトトギス》は飛ぶにかけて、飛幡の枕詞になつてゐる。飛幡之浦は筑前國遠賀郡戸畑。筑前風土記に「鳥旗澳、名曰|岫門《クキト》、鳥旗堪v容2小船1焉。鳥旗鳥波多也岬門久岐等也云々」とある。今の八幡市の北方にあり、若松と相對して洞海《クキノウミ》の灣口を扼してゐる。敷浪《シクナミ》は頻りに寄する浪。
〔評〕 飛幡の浦を辿りつつ、戀人を思つて詠んだ歌であらう。歌意は極めて明瞭である。古義に「君とは旅宿のあ(165)たりにて、思ひかけたる人を云るか」とあるが、さうとも思はれない。
3166 吾妹子を よそのみや見む 越の海の 子難の海の 島ならなくに
吾妹兒乎《ワギモコヲ》 外耳哉將見《ヨソノミヤミム》 越懈乃《コシノウミノ》 子難懈乃《コカタノウミノ》 島楢名君《シマナラナクニ》
私ハアノ向フニ見エル〔私ハ〜傍線〕越ノ海ノ粉滷ノ海ノ島デハナイノニ、島ヲ外ナガラ見テ通ルヤウニ〔島ヲ〜傍線〕私ノ戀シイ〔三字傍線〕女ヲ外ニバカリ見テ居ルト云フコトガアルモノカ。アノ女ヲ是非手ニ入レタイモノダ〔アノ〜傍線〕。
○越懈乃子難懈乃《コシノウミノコカタノウミノ》――越懈は越の海。懈は倦の意であるから、海に借りたのである。越はもとより北陸道であるが、子難の海の名が今いづこにも殘つてゐない。卷十六に紫乃粉滷乃海爾潜鳥珠潜出者吾玉爾將爲《ムラサキノコカタノウミニカヅクトリタマカヅキイデバワガタマニセム》(三八七〇)とある粉滷乃海も同所であらう。越の海を越後の古志郡附近の海と限定することも出來ようが、あの邊に島といふ程のものもないやうである。且、越の海は集中、越海之角鹿乃濱《コシノウミノツヌガノハマ》(三六六)・越海乃手結之浦《コシノウミノタユヒノウラ》(三六七)の如く越前の海に用ゐたものと、古之能宇美乃安里蘇乃奈美母見世麻之物能乎《コシノウミノアリソノナミモミセマシモノヲ》(三九五九)・故之能宇美能信濃乃波麻《コシノウミノシナヌノハマ(四〇二〇)の如く越中の海に用ゐたものがあるだけで、越後の古志をさしたものはない。コカタの地名が今明らかでないのは遺憾であるが、強ひて求めようとするならば、最も島の多い越前或は能登方面に求むべきであらう。
〔評〕 旅の歌として見れば、子難の海の島を、遙かに眺めつつ、女を思つて、詠んだ作とならうが、初二句は女を手に入れむとして努力する趣である。強ひて言へば、旅中に女を垣間見た男の作とすべきであらうが、地名がよんであるだけで、旅の歌ではないかも知れない。
3167 浪の間ゆ 雲居に見ゆる 粟島の 逢はねものゆゑ わによする兒等
浪間從《ナミノマユ》 雲位爾所見《クモヰニミユル》 粟島之《アハシマノ》 不相物故《アハヌモノユヱ》 吾爾所依兒等《ワニヨスルコラ》
私ハアノ女ニ〔六字傍線〕(浪間從雲位爾見粟島之)逢ヒモシナイノニ、世間ノ人ガ〔五字傍線〕私ニアノ女ト關係ガアルヤウニ〔アノ〜傍線〕言ヒ騷グヨ。困ツタコトダ〔六字傍線〕。
(166)○浪間從雲位爾見粟島之《ナミノマユクモヰニミユルアハシマノ》――アハの音を繰返して、下へつづく序詞。浪間から空のあなたに遠く見える粟島。粟島は卷三の武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣背爾見乍乏小舟《ムコノウラヲコギタムヲフネアハシマヲソガヒニミツツトモシキヲブネ》(三五八)とある粟島か。○不相物故《アハヌモノユヱ》――故はダノニの意。○吾爾所依兒等《ワニヨスルコラ》――我に言ひ依せる女よ。女を世の人が我と關係あるやうに言ひ寄せるといふのである。
〔評〕 旅の作とすれば遙かなる海上に粟島を望んで、詠んだことになるが、これも四五の句の内容から考へると旅中の作らしくない。
3168 衣手の 眞若の浦の まなごぢの 間無く時なし 吾が戀ふらくは
衣袖之《コロモデノ》 眞若之浦之《マワカノウラノ》 愛子地《マナゴヂノ》 間無時無《マナクトキナシ》 吾戀钁《ワガコフラクハ》
私ガ戀人ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテ居ルコトハ(衣袖之眞若之浦之愛子地)絶エ〔二字傍線〕間モナク何時ト云フコトモナイ。
○衣袖之眞若之浦之愛子地《コロモデノマワカノウラノマナゴヂノ》――マナの音を繰返して下につづく序詞。衣袖之《コロモデノ》は枕詞で、眞《マ》とづいてゐるのであらう。兩袖をマソデといふ。古義には眞若《マワカ》とつづくと見て、衣袖の眞別《マワカレ》といふ意に言ひかけたのだとしてゐる。眞若之浦のマは添へたので、紀州の和歌の浦である。○吾戀钁《ワガコフラクハ》――钁は和名抄に「兼名苑云、※[秋/金]、七遙反、字亦作v※[金+操ノ旁]久波一名※[金+華]音華説文云、钁補各反、楊氏漢語抄云、和名同上、大鋤也」とあつて、クハといふ字であるから、クハに借り用ゐたのである。
〔評〕 これも旅中の作でないかも知れない。前の戀衣著楢乃山爾鳴鳥之間無時無吾戀良苦者《コヒゴロモキナラノヤマニナクトリノマナクトキナシアガコフラクハ》(三〇八八)と序詞を異にしてゐるのみであり、卷七の豐國之聞之濱邊之愛子地眞直之有者何如將嘆《トヨクニノキクノハマベ)マナゴヂノマナホニシアラバナニカナゲカム》(一三九三)が寄浦沙と題してあるのを見ても、寄物陳思とすべきもののやうに思はれる。
3169 能登の海に 釣する海人の 漁火の 光にい往く 月待ちがてり
能登海爾《ノトノウミニ》 釣爲海部之《ツリスルアマノ》 射去火之《イサリビノ》 光爾伊往《ヒカリニイユク》 月待香光《ツキマチガテリ》
私ハ〔二字傍線〕月ガ出ルノヲ〔四字傍線〕ヲ待チガテラニ、能登ノ海デ釣ヲシテヰル海人ノ漁火ノ光デ、道ヲ辿ツテ歩イテ〔八字傍線〕行ク。
○能登海爾《ノトノウミニ》――能登の海は能登國能登郡の海であらう。挿入の寫眞は七尾港附近から、前に能登島を望む風景で(167)ある。○光爾伊往《ヒカリニイユク》――舊訓ヒカリニイマセとあり、古義もそれによつてゐるが、イユクがよいやうである。イは接頭語で意味はない。
〔評〕 これは眞の旅の歌である。覊旅發思の部ではあるが、別に感情といふほどのものが見えないやうである。古義には、四句をヒカリニイマセと訓んで「此歌は同じ湊に泊たる舟の中に、思ふ人のありけるが、夜中にこぎわかれて、舟出する間にいひやれるなるべし」とあるが賛同し難い。
3170 志珂の白水郎の 釣にともせる 漁火の ほのかに妹を 見むよしもがも
思香乃白水郎乃《シカノアマノ》 釣爲燭有《ツリニトモセル》 射去火之《イサリビノ》 髣髴妹乎《ホノカニイモヲ》 將見因毛欲得《ミムヨシモガモ》
(思香乃白水郎乃釣爲燭有射去火之)カスカニデモヨイカラ、家ニ殘シテ來タ〔デモ〜傍線〕妻ヲ見ル方法ガアレバヨイガナア。
○思香白水郎乃釣爲燭有射去火之《シカノアマノツリニトモセルイサリビノ》――序詞。漁火が幽かに見える意で髣髴《ホノカ》につづいてゐる。思香《シカ》は筑前の志珂島。博多灣頭にある。釣爲燭有は舊訓(168)ツリニトモセルとあり、爲を爾の誤とする説が多い。古寫本中、爲を爾に作つてゐるものはないが、誤とするのが穩當のやうである、代匠記初稿本の書入にはツリストトモセルとあり、新訓もさうなつてゐるが、あまり語調がわるいやうである。
〔評〕 志珂の海人の漁火を見て詠んだものと考へれば、旅の歌になるが、これも漁火に寄せたものとするのが寧ろ穩當である。
3171 難波潟 こぎ出し船の はろばろに 別れ來ぬれど、忘れかねつも
難波方《ナニハガタ》 水手出船之《コギデシフネノ》 遙遙《ハロバロニ》 別來禮杼《ワカレキヌレド》 忘金津毛《ワスレカネツモ》
難彼潟ヲ漕ギ出タ舟ガ、遙カニ遠クナリ、私モ妻ト遙カニ遠ク〔遠クナ〜傍線〕別レテ來タガ、未ダ妻ヲ〔四字傍線〕忘レルコトガ出來ナイヨ。
○遙遙《ハロバロニ》――舊訓ハルバルニとあるが、波漏婆漏爾《ハロバロニ》(八六六)・波呂波呂爾《ハロバロニ》(三五八八)(四三九八)(四四〇八)とあるから、これもさう訓むべきであらう。
〔評〕 難波潟を舟出した人が、遙かに隔つた妻との別を悲しんだ歌とも、或は舟出した人を見送つてよんだものとも兩樣に解せられる。更に又初二句を遙遙《ハロバロニ》の序詞として、歌意に關係ないものと考へることも出來るのである。ここはしばらく舟中の人の作として置くが、實は唯、旅中の戀を歌つたに過ぎないかも知れない。
3172 浦みこぐ 熊野舟つき めづらしく かけておもはぬ 月も日もなし
浦回※[手偏+旁]《ウラミコグ》 能野舟附《クマヌフネツキ》 目頬志久《メヅラシク》 懸不思《カケテオモハヌ》 月毛日毛無《ツキモヒモナシ》
私ハ家ニ殘シテ來タ妻ヲ〔私ハ〜傍線〕(浦回※[手偏+旁]能野舟附)愛ラシイト心ニ〔二字傍線〕懸ケテ思ハナイ時モ日モナイ。
○浦回※[手偏+旁]能野舟附《ウラミコグクマヌフネツキ》――目頬志久《メヅラシク》と言はむ爲の序詞。舊本及びすべての古本能野舟とあるが、能は熊の誤であらう。熊野舟は美しく愛らしく思はれたのでかくつづけたのであらう、熊野舟は卷六に眞熊野之船《マクマヌノフネ》(九四四)・眞熊野(169)之小船爾乘而《マクマヌノヲブネニノリテ》(一〇三三)とあり、紀伊熊野地方特有の船型であつた。附は考に泊とし「古本に泊《ハテ》と有をよしとす」とあるが、今さういふ古本がない。もとのままにして置くべきであらう。
〔評〕 熊野舟入港の情景を見て詠んだものかも知れないが、熊野舟を序詞に用ゐただけで、旅の歌らしい氣分が薄い。
3173 松浦舟 さわぐ堀江の みをはやみ 楫取る間なく 念ほゆるかも
松浦舟《マツラブネ》 亂穿江之《サワクホリエノ》 水尾早《ミヲハヤミ》 ※[楫+戈]取間無《カヂトルマナク》 所念鴨《オモホユルカモ》
私ハ家ニ殘シテ來タ妻ヲ〔私ハ〜傍線〕(松浦舟亂穿江之水尾早※[楫+戈]取)間無ク絶エズ〔三字傍線〕思ツテ居ルヨ。
○松浦舟《マツラブネ》――肥前松浦の舟。卷七の松浦船《マツラブネ》(一一四三)と同樣である ○亂穿江之《サワグホリエノ》――亂は舊訓ミタレとあるが、考にサワグとあルのがよいであらう。卷二に三山毛清爾亂友《ミヤマモサヤニサヤゲドモ》(一三三)とある。ここを代匠記初稿本、古義などミダルとあり、卷三の苅薦乃亂出所見海人釣船《カリコモノミダレイヅミユアマノツリフネ》(二五六)を例としてゐるが、かれは舟の海上に算を亂して浮び出づる景を述べたので、これは堀江内を水夫が掛聲勇ましく漕ぎ行く物音を歌つたのであるから、サワグが當つてゐる。狹い堀江の水面では飼飯の海上のやうに、亂るといふ語は用ゐられぬ筈である。卷七の作夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨《サヨフケテホリエコグナルマツラブネカヂノトタカシミヲハヤミカモ》(一一四三)とこれとを比較して見ると、その趣が了解せられるやうに思ふ。穿江は難波の堀江。○水尾早《ミヲハヤミ》――水路の流が早いので。○※[楫+戈]取間無《カヂトルマナク》――水夫が楫を手に取つて漕ぐのに隙無くの意であるが、歌意から見れば、※[楫+戈]取《カヂトル》までは、間無《マナク》と言はむ爲の序詞として用ゐられタに過ぎない。
〔評〕 難波の堀江の邊に立つてゐる旅人が、故郷の妻を思つて詠んだ作とすべきであらう。但し右に掲げた卷七(一一四三)の歌によつて、居ながらにして序詞を造つたものと考へることも出來る、卷十七の香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久京師之於母保由《カシマヨリクマキヲサシテゴグフネノカヂトルマナクミヤコシオモホユ》(四〇二七)はこれに暗示を得てゐるか。和歌童蒙抄に出てゐる。
3174 漁する 海人の楫音 ゆくらかに 妹が心に 乘りにけるかも
射去爲《イサリスル》 海部之※[楫+戈]音《アマノカヂオト》 湯鞍干《ユクラカニ》 妹心《イモガココロニ》 乘來鴨《ノリニケルカモ》
(170)戀シイ〔三字傍線〕女ノコトガ私ノ心〔三字傍線〕ニ(射去爲海部之※[楫+戈]音)ユラリユラリト私ノ心ヲ動搖サセテ、イツモ〔私ノ〜傍線〕乘ツテヰルヨ。私ノ心ヲ動カシテ戀シク思ハセルヨ〔私ノ〜傍線〕。
○射去爲海部之※[楫+戈]音《イサリスルアマノカヂオト》――湯鞍干《ユクラカニ》とつづく序詞。海人の楫音のゆるやかに、聞える意でつづいてゐる。○湯鞍干《ユクラカニ》――ユクラカはゆらりゆらりと靜かに動搖する意で、ユクラユクラニと同樣である。ユクラユクラニは集中に四例があるが、卷十三の大舟乃往良行羅二《オホフネノユクラユクラニ》(三二七四)の如くいづれも大舟の下につづいてゐるのでも、その意が明らかである。干は山攝塞韻n音尾であるから、カニに用ゐたのである。○妹心乘來鴨《イモガココロニノリニケルカモ》――女のことが吾が心から常に離れないよ、
〔評〕 これは序詞の意によつて、ここに收めたのみで、旅中の作とは思はれない。四五の句は、一〇〇・一八九六・二四二七・二七四八・二七四九などに見えて、全く類型的である。
3175 若の浦に 袖さへぬれて 忘貝 拾へど妹は 忘らえなくに 或本歌末句云、忘れかねつも
若浦爾《ワカノウラニ》 袖左倍沾而《ソデサヘヌレテ》 忘貝《ワスレガヒ》 拾跡妹者《ヒロヘドイモハ》 不所忘爾《ワスラエナクニ》
私ハ〔二字傍線〕和歌ノ浦デ、袖マデモ沾レテ、忘貝ヲ拾ツタケレドモ、家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ハ忘レラレナイヨ。忘貝トハ名バカリデ何ニモナラナイ〔忘ハ〜傍線〕。
○若乃浦爾《ワカノウラニ》――若の浦は紀伊の和歌の浦。
〔評〕忘貝を拾つて戀を忘れようとする歌は、卷七の暇有者拾爾將徃住吉之岸因云戀忘貝《イトマアラバヒロヒニユカムスミノエノキシニヨルトフコヒワスレガヒ》(一一四七)など集中に多い。一・三・五の三句にワの頭韻を押したやうになつてゐるのは、偶然かも知れないが、注意せられる。
或本歌末句云 忘可禰都母《ワスレカネツモ》
これは第五句の異本である。意はかはらない。
3176 くさまくら 旅にしをれば 刈薦の 亂れて妹に 戀ひぬ日はなし
(171)草枕《クサマクラ》 羈西居者《タビニシヲレバ》 苅薦之《カリゴモノ》 擾妹爾《ミダレテイモニ》 不戀日者無《コヒヌヒハナシ》
(草枕)旅ニ出テヰルト(苅薦之)心ガ〔二字傍線〕亂レテ、私ハ家ニ殘シテ來タ〔九字傍線〕妻ヲ戀シク思ハヌ日ハナイ。
○草枕《クサマクラ》――枕詞。羈《タビ》とつづく。○苅薦之《カリゴモノ》――枕詞。攘《ミダレ》とつづいてゐる。
〔評〕 平明な歌。次の歌まですべて海邊の作であるのに、これだけがさうでないのはどうしたのか。
3177 志珂の海人の 磯に刈り干す なのりその 名は告りてしを いかに逢ひ難き
然海部《シカノアマノ》 礒爾苅干《イソニカリホス》 名告藻之《ナノリソノ》 名者告手師乎《ナハノリテシヲ》 如何相難寸《イカニアヒガタキ》
アノ女ハ私ニ自分ノ〔九字傍線〕(然海部之礒爾苅干名告藻之)名ヲ打チ明ケタカラハ、私ニ心ヲ許シタノデ、私ト逢フ筈デアル〔カラ〜傍線〕ノニ、ドウシテ私ハアノ女ニ〔六字傍線〕逢ヘナイノダラウカ。
○然海部之礒爾苅干名告藻之《シカノアマノイソニカリホスナノリソノ》――同音を繰返して、ナハノリとつづく序詞。志珂の海人が礒に苅つて干す名告藻《ナノリソ》。名告藻はホンダワラの古名。ナハノリに繩海苔の連想があらう。
〔評〕 いくらもある序詞の型で、言ひふるした類想である。前に住吉之敷津之浦乃名告藻之名者告而之乎不相毛恠《スミノエノシキツノウラノナノリソノナハノリテシヲアハナクモアヤシ》(三〇七六)とあるのは特に似通つてゐる。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
3178 國遠み 念ひなわびそ 風のむた 雲の行くごと 言は通はむ
國遠見《クニトホミ》 念勿和備曾《オモヒナワビソ》 風之共《カゼノムタ》 雲之行如《クモノユクゴト》 言者將通《コトハカヨハム》
私ハコレカラ旅ニ出カケルガ〔私ハ〜傍線〕、國ガ遠ク離レテヰルカラトテ悲シミナサルナ。私ガ彼地ヘ行ツタナラバ〔私ガ〜傍線〕、風ノマニマニ、雲ガ飛ブヤウニ音信ヲ通ハセヨウ。逢ヘナイデモ心ハ通フカラサウ悲シミナサルナ〔逢ヘ〜傍線〕。
○國遠見《クニトホミ》――この國は行先の國である。故郷の意ではない。
(172)〔評〕 旅に出ようとして詠んだのであらう。別れて來た後、旅先から送つた歌と見る説もあるが、覊旅發思の名に囚はれたのである。
3179 留りにし 人を念ふに 蜻蛉野に ゐる白雲の 止む時もなし
留西《トマリニシ》 人乎念爾《ヒトヲオモフニ》 ※[虫+延]野《アキツヌニ》 居白雲《ヰルシラクモノ》 止時無《ヤムトキモナシ》
家ニ〔二字傍線〕殘シテ來タ妻ヲ戀シク思フコトハ(※[虫+延]野居白雲)止ム時モナイ。
○人乎念爾《ヒトヲオモフニ》――妻を念ふことはの意である。新考に念久《オモハク》の誤かとある。○※[虫+廷]野居白雲《アキツヌニヰルシラクモノ》――ヤムトキモナシと言はむ爲の序詞。※[虫+廷]野は吉野。
〔評〕 吉野に旅した人が、秋津野の雲を見て詠んだものか。これも平明な作である。
悲別歌
旅に赴く人に別れる悲しみを歌つたものが集められてゐる。
3180 うらもなく 去にし君ゆゑ 朝なさな もとなぞ戀ふる 逢ふとはなけど
浦毛無《ウラモナク》 去之君故《イニシキミユヱ》 朝旦《アサナサナ》 本名烏戀《モトナゾコフル》 相跡者無杼《アフトハナケド》
何ノ心モナク冷カナ態度デ、別レテ旅ニ出〔十一字傍線〕出カケタ貴方ダノニ、私ハ再ビ貴方ニ〔七字傍線〕逢ハレナイケレドモ、毎朝毎朝空シク貴方ヲ〔三字傍線〕思ツテヰルヨ。
○浦毛無《ウラモナク》――心無く。別を悲しむ情もなく。○去之君故《イニシキミユヱ》――去りし君なるに。別れ去つた君だのに。○本名烏戀《モトナゾコフル》――徒らに戀ふるよの意。烏は焉の草體であらう。考には曾の誤とある。○相跡者無杼《アフトハナケド》――別れて再び逢ふことはなけれどもの意。宣長は杼は荷の誤でアフトハナシニであらうと言ひ、古義・新考などはこれに從つてゐ(173)る。かう改めればよく聞えるが、もとの儘でもよい。
〔評〕 冷かに別れ去つた人に、再び逢ふことはないが、戀しさは忘れかねるといふので、別れた後の戀を歌つてゐる。女らしい感情が出てゐる。
3181 白妙の 君が下紐 我さへに 今日結びてな 逢はむ日のため
白細之《シロタヘノ》 君之下紐《キミガシタヒモ》 吾左倍爾《ワレサヘニ》 今日結而名《ケフムスビテナ》 將相日之爲《アハムヒノタメ》
今旅立ヲナサル〔七字傍線〕貴方ノ(白細之)下紐ヲ、又後デ〔三字傍線〕逢フ日ノ爲ニ、私モアナタト御一緒ニ〔八字傍線〕今日結ンデ置キマセウヨ。御無事デオ歸リニナツテ、私ガマタコレヲ解キマセウ〔御無〜傍線〕。
○白細之《シロタヘノ》――枕詞。語を隔てて※[糸+刃]につづく。○吾左倍爾《ワレサヘニ》――我も共に。我も手を添へて。
〔評〕 この歌は代匠記に「吾左倍爾は我共になり。二人して結ばむとなり、又我下紐さへと意得とも叶ふべし」とあるやうに、二樣に解釋せられる、略解・古義は後説によつてゐるが、君之下※[糸+刃]《キミガシタヒモ》とのみ言つて、結ぶといふ語を省くべきではないから、前説がよい。四句の結而名《ムスビテナ》は君之下※[糸+刃]《キミガシタヒモ》にかかつてゐるのである。前に二爲而結之紐乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテムスヒシヒモヲヒトリシテワレハトキミジタダニアフマデハ》(二九一九)とあるやうに、旅立つ際に二人で紐を結んだのである。かく二樣に解釋せられてゐるが、これを表現の曖昧に歸するわけには行かない。
3182 白妙の 袖の別は 惜しけども 思ひ亂れて ゆるしつるかも
白妙之《シロタヘノ》 袖之別者《ソデノワカレハ》 雖惜《ヲシケドモ》 思亂而《オモヒミダレテ》 赦鶴鴨《ユルシツルカモ》
二人ノ(白妙之)袖ガ別レルノハ惜シイケレドモ、私ハ別ノ悲シサニ〔八字傍線〕心ガ亂レタノデ、ツヒ袖ヲ〔四字傍線〕離シテシマツテ、貴方ヲ留メルコトガ出來マセンデシ〔テ貴〜傍線〕タ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
○袖之別者《ソデノワカレハ》――ソデノワカレは袂を分つこと。○赦鶴鴨《ユルシツルカモ》――赦《ユルシ》は離すこと。袖を執つてゐた手を離したのである。
(174)〔評〕 旅立たうとする人との別れ難さが、よくあらはれてゐる.女の歌であらう。
3183 都べに 君は去にしを 誰解けか 吾が※[糸+刃]の緒の 結ふ手たゆきも
京師邊《ミヤコベニ》 君者去之乎《キミハイニシヲ》 孰解可《タレトケカ》 言※[糸+刃]緒乃《ワガヒモノヲノ》 結手懈毛《ユフテタユキモ》
都ノ方ヘ私ノ夫ハ旅立ツテ行カレテ、逢ハレナイ〔六字傍線〕ノニ、誰ガ解クノデコンナニ〔四字傍線〕私ノ着物ノ〔三字傍線〕紐ノ緒ガ、結ブ手モ疲レルヤウニ頻リニ解ケルノデアラウカヨ。紐ノ解ケルノハ人ニ思ハレテヰルシルシデアルガ、多分夫ガ私ヲ思ツテヰルノデアラウ〔頻リ〜傍線〕。
○京師邊《ミヤコベニ》――略解にミヤコベヘとよんでゐる。ベニの方がよいやうに思はれる。邊はヘンの字音をヘニに假りたのではなく、ニを添へてよんだのである。邊は山攝先韻n音尾ではあるが、字音を用ゐたのではない。○言※[糸+刃]緒乃《ワガヒモノヲノ》――言はワガと訓む。誤字ではない。○結手懈毛《ユフテタユキモ》――舊訓ムスビテトケモとあるのではわからない。代匠記初稿本にユフテタユシモとしたのがよいが、古義に上のカの結としてユフテタユキモと改めたのが更によいであらう。タユキは口語のダルイに當る。
〔評〕 田舍女が思ふ人を都に旅立たせて、獨り戀しがつてゐる歌。民謠として謠はれたものであらう。空閨に夫を思ふ情があはれに詠まれてゐる。卷十一の君戀浦經居悔我裏※[糸+刃]結手徒《キミニコヒウラブレヲレバクヤシクモワガシタヒモノユフテイタヅラニ》(二四〇九)と内容は似てゐる。
3184 草枕 旅行く君を 人目多み 袖振らずして あまたくやしも
草枕《クサマクラ》 客去君乎《タビユクキミヲ》 人目多《ヒトメオホミ》 袖不振爲而《ソデフラズシテ》 安萬田悔毛《アマタクヤシモ》
(草枕)旅ニ出力ケル貴方ダノニ、別レル時ニ袖ヲフツテ別ヲ惜シムノデアツタガ〔別レ〜傍線〕、人目ガ多イノデ、袖ヲ振ラナカツタノデ、ホントニ殘念ニ思フヨ。
○客去君乎《タビユクキミヲ》――旅行く君なるをの意。○安萬田悔毛《アマタクヤシモ》――安萬田《アマタ》は数多。甚しく。
〔評〕 卷六の娘子が太宰帥大伴卿との別に作つた凡有者左毛右毛將爲乎恐跡振痛袖乎忍而有香聞《オホナラバカモカモセムヲカシコミトフリタキソデヲシヌビテアルカモ》(九六五)と内容が(175)似てゐる。あはれな作だ。
3185 まそ鏡 手に取り持ちて 見れど飽かぬ 君におくれて 生けりともなし
白銅鏡《マソカガミ》 手二取持而《テニトリモチテ》 見常不足《ミレドアカヌ》 君爾所贈而《キミニオクレテ》 生跡文無《イケリトモナシ》
(白銅鏡手二取持而)見テモ見飽キナイ貴方ト別レテ、貴方ガ旅ニオ出ニナツタカラ私ハ、後〔ト別〜傍線〕ニ取殘サレテ悲シクテ〔四字傍線〕生キテヰルヤウナ氣ハシナイ。
○白銅鏡手二取持而《マソカガミテニトリモチテ》――見といはむ爲の序詞。マソカガミを白銅鏡と記したのは、その製によるので、白銅鏡の名は書紀に多く出てゐる。○君爾所贈而《キミニオクレテ》――遲れてを所贈而と記したのは借字である。
〔評〕 女の歌。結句が型に嵌つてゐる。
3186 くもり夜の たどきも知らぬ 山越えて います君をば いつとか待たむ
陰夜之《クモリヨノ》 田時毛不知《タドキモシラニ》 山越而《ヤマコエテ》 徃座君乎者《イマスキミヲバ》 何時將待《イツトカマタム》
(陰夜之)ドチラヘ行ツタラヨイカモ分ラナイ山路ヲ越シテ、今カラ旅ニ〔五字傍線〕出カケナサル貴方ノオ歸リ〔四字傍線〕ヲ、何時ト思ツテ〔三字傍線〕待ツテヰヨウカ。待チ遠イコトダ〔七字傍線〕。
○陰夜之《クモリヨノ》――枕詞。曇つた夜は物を明らかに認め難く、なすべき術も知らないから、田時毛不知《タドキモシラヌ》に冠してゐる。○田時毛不知《タドキモシラヌ》――次句の山に續くものとして訓むがよからう。舊訓・古義にシラズとあり、新訓はシラニと訓んでゐる。この句の意は方便も知らぬ。どちらへどう行ってよいか分らぬをいふ。
〔評〕 旅行く夫の山路の困苦を思ひやつた妻の心は、まことに淋しげにあはれに詠まれてゐる。
3187 たたなづく 青垣山の へなりなば しばしば君を 言とはじかも
田立名付《タタナヅク》 青垣山之《アヲガキヤマノ》 隔者《ヘナリナバ》 數君乎《シバシバキミヲ》 言不問可聞《コトトハジカモ》
畳ミ重ツテヰル青々トシタ垣根ノヤウナ山ヲ越エテ、今カラ貴方ガ彼地ヘオイデニナリ、二人ノ間ヲ山〔ヲ越〜傍線〕ガ隔テタ(176)ナラ、私ハ〔二字傍線〕貴方ニ何度モ音信スルコトハ出來マスマイヨ。別ガ辛ウゴザイマス〔九字傍線〕。
○田立名付《タタナヅク》――疊《タタナ》はり付くの意。疊み重つてゐること。枕詞と見ることも出來る。○隔者《ヘナリナバ》――ヘダツレバ・ヘダタラバなどの訓もあるが古義による。
〔評〕 遠く別れて、消息をもたやすく通はし難いことを悲しむ留守居の妻の歌。これもあはれである。
3188 朝霞 たなびく山を 越えていなば 我は戀ひむな 逢はむ日までに
朝霞《アサガスミ》 蒙山乎《タナビクヤマヲ》 越而去者《コエテイナバ》 吾波將戀奈《ワレハコヒムナ》 至于相日《アハムヒマデニ》
朝霞ガ棚引イテヰルアノ〔二字傍線〕山ヲ越シテ、アナタガ旅ニ〔六字傍線〕オ出カケニナツタナラバ、又貴方ニ〔四字傍線〕逢フ日マデハ、私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテヰルコトデセウナア。
○豪山乎《タナビクヤマヲ》――新訓はカカフルヤマヲとよんでゐる。これも一理あるが、今從はない。○吾波將戀奈《ワレハコヒムナ》――コヒムナは戀ヒムに詠歎の助詞ナを添へたのである。○至于相日《アハムヒマデ》――至于の用法が漢文式になつてゐる。
〔評〕 朝出立する男を送る女の歌。卷四の大船之念憑師君之去者吾者將戀名直相左右二《オホフネノオモヒタノミシキミガイナバワレハコヒムナタダアフマデニ》(五五〇)はこれを模したのであらう。
3189 あしびきの 山は百重に 隱すとも 妹は忘れじ 直に逢ふまでに 一云、隱せども 君を思はく 止む時もなし
足檜乃《アシビキノ》 山者百重《ヤマハモモヘニ》 雖隱《カクストモ》 妹者不忘《イモハワスレジ》 直相左右二《タダニアフマデニ》
(足檜乃)山ハ幾重ニモ家ノ方ヲ〔五字傍線〕隱シテモ、私ハ再ビ又妻ニ〔七字傍線〕直接ニ逢フマデハ、決シテ〔三字傍線〕妻ヲ忘レハスマイ。今別レテモ決シテオ前ヲ忘レルコトハナイヨ〔今別〜傍線〕。
○妹者不忘《イモハワスレジ》――妹をば忘れじの意。古義はイモハワスラジと訓んでゐる。忘るといふ動詞は古く四段に活用したやうであり、神代紀に伊茂播和素邏珥《イモハワスラジ》、卷二十にも和須良牟砥努由伎夜麻由伎和例久禮等和我知知波波波和須例勢努加毛《ワスラムトヌユキヤマユキワレクレドワガチチハハハワスレセヌカモ》(四三四四)とあるが、卷七の吾者不忘牝鹿之須賣神《ワレハワスレジシカノスメガミ》(一二三〇)などワスレジとも訓んでゐるから、改めるに(177)は及ばない。
〔評〕 この部類に屬するものは、すべて留守居の人がよまれてゐるのに、これは旅立つ男の歌になつてゐる その意味に於て、次の一云が、ここに適してゐる。
一云 雖隱《カクセドモ》 君乎思苦《キミヲオモハク》 止時毛無《ヤムトキモナシ》
これは三句以下の異傳である。この部類の他の歌と同樣に、留守居の女の作になつてゐる。
3190 雲ゐなる 海山越えて いゆきなば 我は戀ひむな 後は逢ひぬとも
雲居有《クモヰナル》 海山超而《ウミヤマコエテ》 伊徃名者《イユキナバ》 吾者將戀名《ワレハコヒムナ》 後者相宿友《ノチハアヒヌトモ》
今オ別レシテ〔六字傍線〕後デハ又逢フデアラウケレドモ、貴方ガ〔三字傍線〕空ノ彼方ナル、海山ヲ越エテ遠ク旅ニ〔四字傍線〕出カケナサツタナラバ、私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思フデセウヨ。
○伊徃名者《イユキナバ》――舊訓を改めて、略解・古義にイマシナバとしてゐる。前に射去火之光爾伊往《イサリビノヒカリニイユク》(三一六九)とあるから、イユキナバでなければならぬ。○後者相宿友《ノチハアヒヌトモ》――宿は借字で助詞である。共寢してもの意に解してはいけない。
〔評〕 遠い旅に出る人を送る、心細い感がよく出てゐる。
3191 よしゑやし 戀ひじとすれど 木綿間山 越えにし君が 思ほゆらくに
不欲惠八跡《ヨシヱヤシ》 不戀登爲杼《コヒジトスレド》 木綿間山《ユフマヤマ》 越去之公之《コエニシキミガ》 所念良國《オモホユラクニ》
エエモウヨロシイ。慕フマイト思フケレドモ、私ハ〔二字傍線〕木綿間山ヲ越エテ、旅ニ出カケ〔六字傍線〕ナサツタ貴方ガ、戀シク思ハレルヨ。
○不欲惠八跡《ヨシヱヤシ》――よしやといふに同じ。ヱ・ヤ・シはすべて詠歎の辭。ヨシは縱の字を用ゐたところが多く、よ(178)ろしいと許す意である。不欲の二字を用ゐたのは、欲せざることを、強ひてよろしいと許す意か。舊本、跡とあるは趾の誤か。元暦校本・神田本は師となつてゐる。○木綿間山《ユフマヤマ》――何處にあるかわからない。卷十四の東歌未勘國の相聞の部に、古非都追母乎良牟等須禮杼遊布麻夜萬可久禮之伎美乎於母比可禰都母《コヒツヽモヲラムトスレドユフマヤマカクレシキミヲオモヒカネツモ》(三四七五)とある。
〔評〕 留守居の女の歌。忘れむとして忘れ得ない悲しさがあはれである。右に掲げた東歌とかなり似た歌である。袖中抄に出てゐる。
3192 草陰の 荒藺の埼の 笠島を 見つつか君が 山路越ゆらむ 一云、み坂越ゆらむ
草陰之《クサカゲノ》 荒藺之崎乃《アラヰノサキノ》 笠島乎《カサシマヲ》 見乍可君之《ミツツカキミガ》 山道超良無《ヤマヂコユラム》
(草陰之)荒藺ノ崎ニアル笠島ヲ、見ナガラ貴方ハ、山道ヲ越エテヰナサルデアラウ。
○草陰之《クサカゲノ》――枕詞。アにつづくと思はれるが、この接續の理由が明瞭でない。卷十四に久佐可氣乃安弩奈由可武等波里之美智阿弩波由加受※[氏/一]阿良久住太知奴《クサカゲノアヌナユカムトハリシミチアヌハユカズテアラクサタチヌ》(三四四七)とあり、倭姫世記に「汝國名何問給、答白 久 草陰阿野國 止 白 弖」とある。○荒藺之崎乃笠島乎《アラヰノサキノカサシマヲ》――荒藺の崎は所々にあつて、何所とも明瞭でない。八雲御抄には武藏とあるが、根據のあることかどうかわからない 江戸砂子には、あらゐの崎は荒井宿の木原山であらうといつてゐる。もしさうとすれば、今の大森の山手で、その附近に笠島もあつたのである。延喜式によれば、大井の驛があり、即ち今の品川の西方に驛があつたのであるから大森の高地が街道になつてゐたのである。
〔評〕 別に臨んで、夫の旅程を思ひやつて詠んだもの。卷九の山品之石田乃小野之母蘇原見乍哉公之山道越良武《ヤマシナノイハタノヲヌノハハソハラミツツヤキミガヤマヂコユラム》(一七三〇)と下句が似てゐる。
一云 三坂越良牟《ミサカコユラム》
第五句の異傳である ミは接頭語で意味はない。
3193 玉勝間 島熊山の 夕ぐれに ひとりか君が 山路越ゆらむ 一云、夕霧に長戀しつついねがてぬかも
(179)玉勝間《タマカツマ》 島熊山之《シマクマヤマノ》 夕晩《ユフグレニ》 獨可君之《ヒトリカキミガ》 山道將越《ヤマヂコユラム》
旅ニ出テ〔四字傍線〕貴方ハ一人デ淋シイ〔三字傍線〕夕方ニ、(玉勝間)島熊山ノ山道ヲ越エナサルデアラウ。サゾ淋シカラウ〔七字傍線〕。
○玉勝間《タマカツマ》――枕詞。玉|籠《カツマ》は目が細く、締つてゐるから、島とつづくのだと言はれてゐる。○島熊山《シマクマヤマ》――所在不明。
〔評〕 前の草陰之の歌と同じやうな氣分で、調子も亦似てゐる。これは寧ろ伊勢物語の「風ふけばおきつ白浪立田山夜半にや君がひとり越ゆらむ」の先驅とも言ひ得る。袖中抄に載せてある。
一云 暮霧尓《ユフギリニ》 長戀爲乍《ナガコヒシツツ》 寐不勝可母《イネガテヌカモ》
三四五句の異傳である。旅中の人が家を思ふ心を歌つてゐる、長戀は長く戀すること。卷五にも於久禮爲天那我古飛世殊波《オクレヰチナガコヒセズハ》(八六四)とある。
3194 いきのをに 吾が思ふ君は とりが鳴く あづまの坂を 今日か越ゆらむ
氣緒爾《イキノヲニ》 吾念君者《ワガモフキミハ》 鷄鳴《トリガナク》 東方重坂乎《アヅマノサカヲ》 今日可越覽《ケフカコユラム》
命ガケデ私ガ思ツテヰル夫ハ、(鷄鳴)關東ノ山坂ヲ今日アタリ越エテ居ラレルデアラウ。
○鷄鳴《トリガナク》――枕詞。吾妻《アヅマ》につづく。一九九參照。○東方坂乎《アヅマノサカヲ》――東方《アヅマ》の坂といふのは關東地方の坂の義か。或は日本武尊のアツマハヤと宣うた坂を指すか兩樣に見られるが、歌の趣から考へると、後説のやうに考へねばならぬ。併しこれも古事記によれば足柄、書紀によれば碓氷であつて、今からはいづれとも定め難い。
〔評〕 留守居の妻の詠んだ歌。これも前の二歌と似た氣分である。卷一の吾勢枯波何所行良武巳津物隱乃山乎今日香越等六《ワガセコハイヅクユクラムオキツモノナバリノヤマヲケフカコユヲム》(四三)と似てゐる。
3195 磐城山 直越え來ませ 磯埼の こぬみの濱に 我立ち待たむ
(180)磐城山《イハキヤマ》 直越來益《タダコエキマセ》 礒埼《イソサキノ》 許奴美乃濱爾《コヌミノハマニ》 吾立將待《ワレタチマタム》
貴方ハオ歸リノ時ハ〔九字傍線〕磐城山ヲ眞直グニ越エテオイデナサイ。私ハ礒崎ノ許奴美ノ濱ニ出テ〔二字傍線〕立ツテ、貴方ヲ〔三字傍線〕待ツテヰマセウ。
○磐城山《イハキヤマ》――駿河。今の薩陲峠の古名だといふ。○礒崎許奴美乃濱爾《イソサキノコヌミノハマニ》――今、薩陲峠の海に接するところを岫崎《クキサキ》といひ又磯崎ともいふさうである、その海岸が即ち許奴美の濱である。
〔評〕 別に臨んで、旅立つ夫に、歸る時のことを約束してゐる女の歌である。然るに續歌林良材卷上に「するがの國の風土記に云、廬原郡不來見の濱に妻をおきてかよふ神あり、其神つねに岩木の山より越て來るに、かの山にあらぶる神の、道さまたぐる神ありて、さへぎりて不通、件の神あらざる間をうかがひてかよふ。かるがゆゑに、來ることかたし 女神は男神を待とて岩木の山の此方にいたりて、夜夜待つに、まち得ることなければ男神の名よぴてさけぶ。よりてそこを名付て、てこの呼坂とすと云云。てこは東俗の詞に、女をてこといふ。田子の浦も手子の浦なり。東路のてこのよび坂こえかねて山にかねむもやどりはなしに、東路のてこのよびさか越ていなばあれは戀むな後は相ぬとも。上(ノ)二首は、かの男神の歌といへり。女神の歌にいはく、岩木山ただ越きませいはさきのこねしの濱に我たちまたむ、此歌も萬葉集に入られ侍り。いほ崎は、いほ原の崎也、こぬし濱は男神の來ぬよりいへると云云」とあつて(以上古風土記逸文考證による)この歌が女神の作になつて、 てこの呼び坂の傳説と結びついてゐるのもおもしろい。
3196 春日野の 淺茅が原に おくれゐて 時ぞともなし 吾が戀ふらくは
春日野之《カスガヌノ》 澤茅之原尓《アサヂガハラニ》 後居而《オクレヰテ》 時其友無《トキゾトモナシ》 吾戀良苦者《ワガコフラクハ》
私ハ貴方ガ旅ニ出タ後デ〔私ハ〜傍線〕、春日野ノ茅ガマバラニ生エテヰル原ノ中ニ取殘サレテ、其所ニ淋シク暮ラシテ〔十字傍線〕、私ガ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思フコトハ、何時ト云フコトモアリマセヌ。何時デモ戀シク思ツテ居リマス〔何時〜傍線〕。
(181)○春日野之淺茅原爾《カスガヌノアサヂガハラニ》――春日野の茅のまばらに生えてゐる原といつて、女の住む所の淋しさを述べてゐる。今、春日神社の西南、參道の南方平地を淺茅が原と稱してゐるのは、この歌によつて後人が附けた名で、ここは固有名詞ではない。
〔評〕 旅立つた夫を戀ふる妻の歌。上句が如何にも淋しさうである。
3197 住吉の 岸にむかへる 淡路島 あはれと君を 言はぬ日はなし
住吉乃《スミノエノ》 崖爾向有《キシニムカヘル》 淡路島《アハヂシマ》 阿怜登君乎《アハレトキミヲ》 不言日者無《イハヌヒハナシ》
(住吉乃崖爾向有淡路島)嗚呼戀シイ貴方ヨ〔三字傍線〕ト、旅ニ出タ〔四字傍線〕貴方ヲ戀シガツテ私ガ〔七字傍線〕言ハナイ日ハ一日モ〔三字傍線〕ナイ。
○住吉乃崖爾向有淡路島《スミノエノキシニムカヘルアハヂシマ》――アハの音を繰返して阿怜《アハレ》とつづいてゐる。住吉の崖は住吉の地名。○阿怜登君乎《アハレトキミヲ》――舊本、阿とあるは※[立心偏+可]の誤。類聚古集その他※[立心偏+可]に作る本が多い。※[立心偏+可]怜《アハレ》は嗚呼に同じ。ああ戀しいといふのである。
〔評〕 住吉あたりにゐた女の作か。寧ろあのあたりの民謠と見たいやうに思ふ。男と別れた後の心として、ここに載せたのであらう。
3198 明日よりは 印南の河の 出でいなば とまれる我は 戀ひつつやあらむ
明日從者《アスヨリハ》 將行乃河之《イナミノカハノ》 出去者《イデイナバ》 留吾者《トマレルワレハ》 戀乍也將有《コヒツツヤアラム》
貴方ガ〔三字傍線〕旅ニ(將行乃河之)出タナラバ、後ニ〔二字傍線〕殘ツタ私ハ、明日カラハ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテ暮スコトデアラウ。
○將行乃河之《イナミノカハノ》――次句のイナパにつづく序詞。印南の河は播磨。今の加古川か。將行はイナムであるから、イナミに轉じて借りたのである。
〔評〕 別に臨んで作つた留守居の妻の歌。播磨地方の歌であらう。
3199 海の底 沖はかしこし 磯みより 榜ぎたみ往かせ 月は經ぬとも
海之底《ワタノソコ》 奧者恐《オキハカシコシ》 礒廻從《イソミヨリ》 水手運往爲《コギタミユカセ》 月者雖經過《ツキハヘヌトモ》
(182)貴方ハ舟デ旅行ナサルナラバ〔貴方〜傍線〕(海之底)沖ノ方ハ恐ロシイカラ、タトヒ〔三字傍線〕幾月カカツテモ、安全ナ〔三字傍線〕海岸ヲ傳ツテ〔三字傍線〕漕イデオイデナサイ。
○海之底《ワタノソコ》――枕詞。奥《オキ》とつづく。海の底は奥深いからである。海底の遠く深きをも、水上の遙かなる處をも、共にオキといふ。
〔評〕 舟で出發しようとする夫を送る歌。女の眞情があらはれて、やさしい作である。
3200 飼飯の浦に よする白波 しくしくに 妹が姿は 念ほゆるかも
飼飯乃浦爾《ケヒノウラニ》 依流白浪《ヨスルシラナミ》 敷布二《シクシクニ》 妹之容儀者《イモガスガタハ》 所念香毛《オモホユルカモ》
(飼飯乃浦爾依流白浪)頻リニ、家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ノ姿ガ思ヒ出サレルヨ。
○飼飯乃浦爾依流白浪《ケヒノウラニヨスルシラナミ》――序詞。敷布二《シクシクニ》とつづく。飼飯の浦は越前敦賀の海であらう。卷三に柿本人麿の飼飯海乃庭好有之《ケヒノウミノニハヨクアラシ》(二五六)とあつたのは淡路の西岸である。○敷布二《シクシクニ》――重々《シクシク》に。頻りに。
〔評〕 これは旅立つた人が、家なる妻を思つて詠んだので、寧ろ羈旅發思の部に收むべきものである。越前の任などにあつてよんだものか。
3201 時つ風 吹飯の濱に 出ゐつつ 贖ふ命は 妹が爲こそ
時風《トキツカゼ》 吹飯乃濱爾《フケヒノハマニ》 出居乍《イデヰツツ》 贖命者《アガフイノチハ》 妹之爲社《イモガタメコソ》
私ガ〔二字傍線〕(時風)吹飯ノ濱ニ出テ、オ祓ヲシテ自分ノ罪ヲ遁レル爲ニ身ノ代リノモノヲ神樣ニ上ゲテ、私ノ命ノ無事ヲ〔七字傍線〕祈ルノハ是皆戀シイ〔五字傍線〕女ノ爲デアルゾ。
○時風《トキツカゼ》――枕詞。吹くとつづく。潮のさし來る時に吹き起る風。○吹飯乃濱爾《フケヒノハマニ》――和泉國日根郡深日の濱であらう。續紀に「天平神護元年十月甲申到2和泉國日根郡深日行宮1」とある。○出居乍《イデヰツツ》――濱に出るのは、祓をする爲である。○鄭贖命者《アガフイノチハ》――アガフはアガナフに同じ。神に物を供へて、身の無事を祈るのである。
(183)〔評〕卷十一に玉久世清河原身※[禾+祓の旁]爲齋命妹爲《タマクセノキヨキカハラニミソギシテイハフイノチハイモガタメナリ》(二四〇三)とあるのと内容が同樣で、唯、禊場所が海と河と違ふのみである。卷十七の 奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍安賀布伊能知毛多我多米尓奈禮《ナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘアガフイノチモタガタメニナレ》(四〇三一)も少し似てゐる。これも羈旅發思である。
3202 柔田津に 舟乘りせむと 聞きしなへ 何ぞも君が 見え來ざるらむ
柔田津爾《ニギタヅニ》 船乘將爲跡《フナノリセムト》 聞之苗《キキシナヘ》 如何毛君之《ナニゾモキミガ》 所見不來將有《ミエコザルラム》
柔田津カラ船ニ乘ツテ歸路ニ貴方ガツキ〔ツテ〜傍線〕ナサル筈ト聞イテカラ、毎日待ツテヰルノニ〔九字傍線〕、ドウシテ貴方ハ今日マデ〔四字傍線〕オ見エニナラナイノダラウ。途中デ何カ變事デモアツタノデハナカラウカ〔途中〜傍線〕。
○柔田津爾《ニギタヅニ》――柔田津は伊豫道後温泉附近にあつた要津。○聞之苗《キキシナヘ》――聞きしと共に。報告があつたから。この下に、私が待つてゐるのにの意が含まれてゐる。
〔評〕 伊豫に旅行した夫の歸りを待つ歌。乘船に先立つてよこした通信があつたのであらう。初二句は卷一の※[就/火]田津爾舩乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜《ニギタヅニフナノリセムトツキマテバシホモカナヒヌイマハコキイデナ》(八)と同樣になつてゐる。
3203 みさごゐる 渚にゐる舟の 榜ぎ出なば うら戀しけむ 後は逢ひぬとも
三沙呉居《ミサゴヰル》 渚爾居舟之《スニヰルフネノ》 榜出去者《コギデナバ》 裏戀監《ウラコヒシケム》 後者會宿友《ノチハアヒヌトモ》
今私ノ夫ハ船ニ乘ツテ旅ニ出カケルガ〔今私〜傍線〕三沙呉ガヰル洲ノ上〔二字傍線〕ニ上ツテ汐ノ來ルノヲ待ツテ〔上ツ〜傍線〕ヰル夫ノ〔二字傍線〕船ガ、漕ギ出シタナラバ、私ハサゾ〔四字傍線〕心デ戀シク思フコトデアラウ。後デ又歸ツテ來テ〔六字傍線〕逢フデハアラウケレドモ、ヤハリ戀シイデアラウ〔ヤハ〜傍線〕。
○裏戀監《ウラコヒシケム》――裏《ウラ》は心。心の中に悲しからむの意。
〔評〕別れ行かむとする夫を悲しむ歌。初二句は卷十一の水沙兒居渚座船之夕鹽乎將待從者吾社益《ミサゴヰルスニヰルフネノユフシホヲマツラムヨリハワレコソマサレ》(二八三一)と同樣で、洲に擱座してゐる舟では、この歌にふさはしくないやうに思はれル。このままならば、已に乘船して、洲に(184)ゐて潮を待つてゐるものと見るべきか。四五の句は前の雲居有海山超而伊徃名者吾者將戀名後者相宿友《クモヰナルウミヤマコエテイユキナバワレハコヒムナノチハアヒヌトモ》(三一九〇)と似てゐる。
3204 玉かづら たえず行かさね 山菅の 思ひ亂れて 戀ひつつ待たむ
玉葛《タマカヅラ》 無怠行核《タエズユカサネ》 山菅乃《ヤマスゲノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 戀乍將待《コヒツツマタム》
貴方ハ〔三字傍線〕(玉葛)怠ラズニ速ク路ヲ〔四字傍線〕オ歩キナサイ。私ハ留守居ヲシテ〔八字傍線〕(山菅乃)思ヒ亂レテ、貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ヒツツ待ツテ居リマセウ。早クオ歸リナサイ〔八字傍線〕。
○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。無怠《タエズ》とつづく、この枕詞が絶えぬ意につづいた例は集中に多い。○無怠行核《タエズユカサネ》――無怠は意を以てタエズと訓むべきであらう。元暦校本は恙に作つてゐるので、新訓はそれによつて、サキクと訓んでゐるがそれでは、玉葛への連絡がよくないやうである。なほ元暦校本の訓もハヤクとあるのに注意したい。ユカサネは行くの敬相行カスにヨを添へたのである。○山菅之《ヤマスゲノ》――枕詞。亂れとつづく。
〔評〕 夫の出發を送る女の歌。玉葛と山菅と同じやうな山の物を用ゐて枕詞としてあるのもおもしろい。
3205 おくれゐて 戀ひつつあらずは 田子の浦の 海人ならましを 珠藻刈る刈る
後居而《オクレヰテ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》 田籠之浦乃《タゴノウラノ》 海部有申尾《アマナラマシヲ》 珠藻苅苅《タマモカルカル》
後ニ取殘サレテ、貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテヰナイデ、寧ロ貴方ガオイデニナル〔寧ロ〜傍線〕田子ノ浦ノ海人デアリタイモノデス。サウシタラ貴方ノオ側デ〔サウ〜傍線〕、藻ヲ苅リナガラクラスコトガ出來ルデセウ〔クラ〜傍線〕。
○後居而《オクレヰテ》――後に殘つて。○田籠之浦乃《タゴノウラノ》――駿河の田子の浦であらう。
〔評〕 この場合、駿河に旅立つ夫に別れる妻の詠んだものと見るべきであらう。類型的な歌である。卷十一の中中二君二不戀者牧浦乃白水郎有申尾玉藻苅管《ナカナカニキミニコヒズバヒラノウラノアマナラマシヲタマモカリツツ》(二七四三)と同型で、初二句は卷五の於久禮爲天那我古飛世殊波彌曾能不乃于梅能波奈爾母奈良麻之母能乎《オクレヰテナガコヒセズハミソノフノウメノハナニモナラマシモノヲ》(八六四)に似てゐる。
3206 筑紫道の 荒磯の玉藻 苅るとかも 君は久しく 待つに來まさぬ
(185)筑紫道之《ツクシヂノ》 荒礒乃玉藻《アリソノタマモ》 苅鴨《カルトカモ》 君久《キミハヒサシク》 待不來《マツニキマサヌ》
筑紫街道ノ荒礒ニ生エテヰル藻ヲ、苅リ取〔二字傍線〕ツテ遊ンデ〔三字傍線〕イラツシヤルノカ、私ガコンナニ〔六字傍線〕待ツテヰルノニ、貴方ハ永ラク歸ツテオイデニナラナイ。アア待チ遠イ〔六字傍線〕。
○筑紫道之《ツクシヂノ》――筑紫街道の。筑紫往還の道の。ここは歸路である。○苅鴨《カルトカモ》―――舊訓カリニカモ、古義はカレバカモとある。
〔評〕 留守居の妻が、筑紫へ赴いた夫の歸りを待つ心。珠藻を刈るのも、都人の慰みであつたのである。
3207 あら玉の 年のをながく 照る月の あかざる君や 明日別れなむ
荒玉乃《アラタマノ》 年緒永《トシノヲナガク》 照月《テルツキノ》 不厭君八《アカザルキミヤ》 明日別南《アスワカレナム》
(荒玉乃)年ノ永イ間、親シクシテ〔五字傍線〕、(照月)飽クコトナク戀シ〔三字傍線〕イト思フ〔三字傍線〕貴方ニ、明日別レルコトデアラウカ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
○荒玉乃《アラタマノ》――枕詞。年とつづく。四四三參照。○年緒永《トシノヲナガク》――年は相續いて永く經過するから、年の緒といふのである。古義にはこの句から結句、明日別南《アスワカレナム》へつづいてゐるとしてゐるが、年の緒永く契りて飽かぬ君とつづくやうである。○照月《テルツキノ》――枕詞。不厭《アカザル》とつづくこころは明らかであらう。○不厭君八《アカサルキミヤ》――舊訓アカレヌキミヤとあるのはよくない。略解・古義にアカヌキミニヤとあるのよりも、新考の訓がよいやうである。
〔評〕 長く連れ添つた夫の出立の前夜、別を惜しんだ妻の言葉。
3208 久にあらむ 君を思ふに 久方の 清き月夜も 闇にのみ見ゆ
久將在《ヒサニアラム》 君念爾《キミヲオモフニ》 久堅乃《ヒサカタノ》 清月夜毛《キヨキツクヨモ》 闇夜耳見《ヤミノミニミユ》
久シク旅ニ〔二字傍線〕出テヰル筈ノ貴方ノコトヲ考ヘルト、今カラ別ガ悲シクテ〔今カ〜傍線〕、清イ(久堅乃)月夜モ涙ノ爲ニ曇ツテ〔七字傍線〕、闇(186)ノ夜ノヤウニバカリ見エル。
○久將在《ヒサニアラム》――久しく旅にあるだらうところの。○久堅乃《ヒサカタノ》――枕詞。月とつづく。○闇夜耳見《ヤミニノミミユ》――古義はヤミノミニミユとある。
〔評〕 長い旅に出ようとする夫との、別を惜しむ月夜の景が悲しく想像せられる。卷十一の此言乎聞跡乎眞十鏡照月夜裳闇耳見《コノコトヲキカムトナラシマソガガミテレルツクヨモヤミニノミミツ》(二八一一)と下句が似てゐる。
3209 春日なる 三笠の山に ゐる雲を 出で見るごとに 君をしぞ念ふ
春日在《カスガナル》 三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》 居雲乎《ヰルクモヲ》 出見毎《イデミルゴトニ》 君乎之曾念《キミヲシゾオモフ》
春日ニ在ル三笠ノ山ニカカツテヰル雲ヲ、出テ見ル度毎ニ、私ハ旅ニ出テヰル〔八字傍線〕貴方ヲ思ヒ出スヨ。
〔評〕 代匠記精撰本に「雲は居るかと見れば立、此處に有かと見れば彼處に行て旅人のさまに似たれば、それに付ても思ひ出しなり」略解に「遠き旅に行し夫をおもひて、雲のみを形見と見る也」古義に「今按ふに、三笠の山に雲の起居する風景を見るごとに、あはれ共に見ましをと思へど、遠く別れたれば、すべなくて、一すぢに君を戀しくのみぞ思ふ、といへるにもあるべし」とある。いづれがよいであらうか、寧ろ新考に「何故に雲を見て夫を思ふにか、作者の意は知るべからず」とあるやうに、何の忖度をも加へない方が、却つて當つてゐるのではあるまいか。
3210 あしびきの 片山雉 立ちゆかむ 君におくれて うつしけめやも
足檜木乃《アシビキノ》 片山雉《カタヤマキギシ》 立往牟《タチユカム》 君爾後而《キミニオクレテ》 打四鷄目八方《ウツシケメヤモ》
旅ニ〔二字傍線〕(足檜木乃片山雉)立ツテ行ク貴方ニ、私ハ〔二字傍線〕後ニ殘サ〔三字傍線〕レテ、シツカリシタ心デアラウヤ。悲シサノ爲ニ心ガ亂レテ死ンダヤウニナルダラウ〔悲シ〜傍線〕。
○足檜木乃片山雉《アシビキノカタヤマキギシ》――序詞。立《タチ》とつづくのは、雉が飛立つことにかけたのである。足檜木乃《アシビキノ》は片を間に隔てて(187)山につづく序詞。片山雉は片山に棲む雉。片山は平地に面した山。○打四鷄目八方《ウツシケメヤモ》――ウツシは現し。この句は顯しくあらめやも、即ち正氣でゐられようか。決して正氣ではゐられないといふのである。
〔評〕 留守居せむとする妻の歌。序詞は材料も珍らしく、感じのよい言葉である。
問答歌
悲別の問答の歌である。前の問答とは種類を異にしてゐる。目録にこれを合せて算へたのは誤つてゐる。
3211 玉のをの うつし心や 八十かかけ 榜ぎ出む船に おくれてをらむ
玉緒乃《タマノヲノ》 徙心哉《ウツシゴコロヤ》 八十梶懸《ヤソカカケ》 水手出牟船爾《コギデムフネニ》 後而將居《オクレテヲラム》
貴方ハ船ニ乘ツテ行カレルガ、私ハ〔貴方〜傍線〕澤山ニ楫ヲ懸ケテ漕イデ出テ行ク貴方ノ〔三字傍線〕船ニ取殘サレテ、家デ留守居ヲシテ〔八字傍線〕(玉緒乃)確カナ心デヰルコトガ出來マセウカ。悲クシテトテモ出來ナイ〔悲ク〜傍線〕。
○玉緒乃《タマノヲノ》――枕詞。卷十一の玉緒之島意哉《タマノヲノウツシココロヤ》(二七九二)參照。○徙心哉《ウツシゴコロヤ》――現し心。正氣。ヤは結句ヲラムに係つてゐる。○八十梶懸《ヤソカカケ》――多くの楫を舷側に懸けて。男の乘る船の状態を言つてゐる。
〔評〕 船路の旅に出でむとしてゐる男に、別の悲しみを訴ふる歌。かなり情熱的である。
3212 やそかかけ 島がくりなば 吾妹子が とまれと振らむ 袖見えじかも
八十梶懸《ヤソカカケ》 島隱去者《シマガクリナバ》 吾妹兒之《ワギモコガ》 留登將振《トマレトフラム》 袖不所見可聞《ソデミエジカモ》
私ノ乘ツテヰル船ガ〔九字傍線〕澤山ニ※[楫+戈]ヲカケテ早ク漕イデ〔五字傍線〕行ツテ、島ノ蔭〔二字傍線〕ニカクレテ見エナイヤウナツ〔テ見〜傍線〕タナラバ、後ニ殘ツタ〔五字傍線〕私ノ妻ガ、私ニ〔二字傍線〕留レト言ツテ袖ヲ〔二字傍線〕振ルダラウガ、ソノ袖〔三字傍線〕モ見エナイダラウカヨ。名殘ガ惜シイ〔六字傍線〕。
(188)○島隱去者《シマガクリナバ》――シマガクレナバと訓むのはよくない。○留登將振《トマレトフラム》――古義にトドムトフラムとあるのは面白くない。
〔評〕 男の答へた歌。女の歌にも劣らぬ情愛が籠つてゐる。
右二首
3213 かみなづき 時雨の雨に ぬれつつや 君が行くらむ 宿か借るらむ
十月《カミナヅキ》 鍾禮乃雨丹《シグレノアメニ》 沾乍哉《ヌレツツヤ》 君之行疑《キミガユクラム》 宿可借疑《ヤドカカルラム》
コノ〔二字傍線〕十月ニ降ル〔三字傍線〕時雨ノ雨ニ沾レナガラ、辛イ思ヲシテ〔六字傍線〕貴方ハ旅ノ路ヲ辿リナサルデアラウカ。ソレトモ〔四字傍線〕宿ヲ借りテ休ミナサルデアラウカ。
○鍾禮乃雨丹《シグレノアメニ》――鍾は鐘に作つてゐる本もある。共に韻鏡内轉第二合。通攝の文字。ngの音尾で、呉音シユであるから、シグとよまれるのである。
〔評〕 男の出立に際して、折から時雨の時候であるので、その勞苦を思ひやつたのである。出立した後に贈つたのではない。
3214 かみなづき 雨間もおかず 零りにせば 誰が里の間に 宿か借らまし
十月《カミナヅキ》 雨之間毛不置《アママモオカズ》 零爾西者《フリニセバ》 誰里之間《タガサトノマニ》 宿可借益《ヤドカカラマシ》
十月ノ時雨ガ〔四字傍線〕雨ノ絶間モナク降ツタナラバ、是非トモ何處カニ宿ヲトラナケレバナラナイガ、私ハ〔是非〜傍線〕誰ノ里ニ宿ヲ借リタモノデアラウゾ。ドコト云フアテモナイ。困ツタモノダ〔ドコ〜傍線〕。
○雨之間毛不置《アママモオカズ》――元暦校本などの古寫本に、之の字がないのがよい。雨間は雨の止んでゐる間。卷八の霍公鳥雨間毛不置從此間喧渡《ホトトギスアママモオカズコユナキワタル》(一四九一)は雨の降る間の意であるから、混同してはいけない。○誰里之間《タガサトノマニ》――誰の里のほどに。間《マ》は意味が輕い。
(189)〔評〕 男の歌。時雨に降られては、宿るべき里もないと困惑してゐる。上代旅行のつらさを思はしめるものがある。
右二首
3215 白妙の 袖の別を かたみして 荒津の濱に やどりするかも
白妙乃《シロタヘノ》 袖之別乎《ソデノワカレヲ》 難見爲而《カタミシテ》 荒津之濱《アラツノハマニ》 屋取爲鴨《ヤドリスルカモ》
私ハ私ヲ送ツテ來テクレタ戀シイ女ト〔私ハ〜傍線〕(白妙乃)袂ヲ分ツコトガ難イノデ、船出ヲシナイデ〔七字傍線〕、荒津ノ濱ニ宿ルヨ。
○白妙乃袖之別《シロタヘノソデノワカレ》――三一八二參照。○難見爲而《カタミシテ》――難しとして。後世難んじてといふのは、この音便である。○荒津之濱《アラツノハマニ》――荒津の濱は筑前。今の福岡市西公園東側の海岸。福岡港の附近である、西公園の丘陵を今、荒戸山と稱してゐるのは即ち古名荒津山の轉じたもので、その下に荒戸町・湊町などがあり、昔の船着場であつた名殘をとどめてゐる。三代實録貞觀十一年十二月十四日伊勢大神宮奉幣の告文中に「去六月以來、太宰府度々言(190)上須良久新羅賊舟二艘筑前國那珂郡乃荒津爾到來天豐前國乃貢調船乃絹綿乎掠奪天逃退多利云々と見え、同月二十九日の石清水奉幣の告文中にも同樣の言葉がある。なほ同書貞觀十八年八月三日の條に「太宰府言、去月十四日大唐商人、楊清等三十一人、駕2一隻船1著2荒津岸1、勅、宣d准2歸化例1安置供給u」と載せてある。
〔評〕 太宰府を出發して、都に歸らうとて、荒津の濱まで來た官人などの歌であらう。送つて來た女との別離を悲しんで、ここに一夜を寢て、更に名殘を惜しんだのである。
3216 草枕 旅行く君を 荒津まで 送りぞ來つる 飽足らねこそ
草枕《クサマクラ》 羈行君乎《タビユクキミヲ》 荒津左右《アラツマデ》 送來《オクリゾキツル》 飽不足社《アキタラネコソ》
(草枕)旅ニオ出ニナル貴方ヲ私ハ〔二字傍線〕荒津マデオ送リシテ參リマシタ。名殘ガ惜シクテ〔七字傍線〕、飽キ足ラナイカラデス。
○送來飽不足社《オクリゾキツルアキタラネコソ》――舊訓オクリクルトモアキタラスコソとある。代匠記精撰本は送の上、雖の字、脱としてオクリクレドモとす。略解・古義はオクリキヌレドとあるが、新訓が最もよいやうである。
〔評〕 太宰府あたりの遊女の作か。卷六(九六五)に大伴旅人を水城まで送つて來た、遊行女婦兒島の歌があつた。
右二首
3217 荒津の海 我幣まつり いはひてむ 早かへりませ おもかはりせず
荒津海《アラツノウミ》 吾幣奉《ワレヌサマツリ》 將齋《イハヒテム》 早還座《ハヤカヘリマセ》 面變不爲《オモカハリセズ》
私ハ貴方ガ旅ニオ出ニナツタラ〔私ハ〜傍線〕、荒津ノ海ノ神樣ニ〔三字傍線〕ニ幣帛ヲ奉ツテ、神樣ヲ〔三字傍線〕オ祭リシマセウ。ダカラ年ハタツテモ、御無事デ〔ダカ〜傍線〕オ顔モ變ラズニ、早ク歸ツテイラツシヤイ。
○吾幣奉《ワレヌサマツリ》――考にワガヌサマツリとあり、略解・古義もさうなつてゐるが、舊訓のやうにワレと訓むべきである。舊本、弊とあるは誤。元麿校本その他、幣に作る古本が多い。○面變不爲《オモガハリセズ》――容貌が變らず。年をとらず。卷十八に鏡奈須可久之都禰見牟於毛我波利世須《カガミナスカクシツネミムオモガハリセス》(四一一六)・卷二十に麻氣波之良寶米弖豆久禮留等乃能其等已麻勢波(191)波刀自於米加波利勢受《マケバシラホメテツクレルトノノゴトイマセハハトジメカハリセズ》(四三四二)とある。
〔評〕 遠く旅立つ人を送る女の歌。三句切になつてゐる。
3218 あさなさな 筑紫の方を 出で見つつ ねのみぞ吾が泣く いたも術なみ
早早《アサナサナ》 筑紫乃方乎《ツクシノカタヲ》 出見乍《イデミツツ》 哭耳吾泣《ネノミゾワガナク》 痛毛爲便無三《イタモスベナミ》
私ハ貴方ガ戀シクテ〔七字傍線〕仕方ガナイノデ、毎朝毎朝、故郷ノ〔三字傍線〕筑紫ノ方ヲ見テハ、聲ヲ出シテ泣イテヰル。
○痛毛爲便無三《イタモスベナミ》――甚く術無き故に。
〔評〕 旅に出てしばらくしてから、妻を思ひやつて詠んだのである。直ちに前の歌に答へたものとしては、しつくり合つてゐない。問答の部にも編者が當時の言傳へにより、又は自己の考で、組合せたものがないとは言はれないから、この一對も果して眞の問答であるか、どうかわからない。強ひてこれを問答とするならば、前の歌を贈られて旅に出た男が、相當の月日を措いてこの歌を答へたものと見ねばならぬ。
右二首
3219 豐國の 企救の長濱 行きくらし 日のくれぬれば 妹をしぞ念ふ
豐國乃《トヨクニノ》 聞之長濱《キクノナガハマ》 去晩《ユキクラシ》 日之昏去者《ヒノクレヌレバ》 妹食序念《イモヲシゾオモフ》
豐前ノ國ノ企救ノ長濱ヲ、終日歩イテ、日ガ暮レテシマツタノデ、心細クテ家ニ殘シテ來タ〔心細〜傍線〕妻ヲ思ヒ出シ、悲シクナツタ〔六字傍線〕。
○豐國乃聞之長濱《トヨクニノキクノナガハマ》――卷七の豐國之聞之濱邊之愛子地《トヨクニノキクノハマベノマナゴヂノ》(一三九三)に述べたやうに、豐前小倉の東につづいた長い濱。
〔評〕 長汀曲浦の單調な旅に、日が暮れた淋しい氣分がよく出てゐる。
3220 とよ國の きくの高濱 高高に 君待つ夜らは さ夜更けにけり
(192)豐國能《トヨクニノ》 聞乃高濱《キクノタカハマ》 高高二《タカダカニ》 君待夜等者《キミマツヨラハ》 左夜深來《サヨフケニケリ》
私ハ〔二字傍線〕貴方ガオイデニナルノヲ〔八字傍線〕(豐國能聞乃高濱)心カラ待ツテヰルガ、今〔二字傍線〕夜モ既ニ夜ガ更ケテシマツタ。
○豐國能聞乃高濱《トヨクニノキクノタカハマ》――序詞。同音を繰して、高高二に續いてゐる。高濱は砂の高く盛り上つてゐる濱であらう。○高高二《タカタカニ》――集中に屡々見える語である。望をかけて、心からの意。○左夜深來《サヨフケニケリ》――舊本、左を在に誤つてゐる。元暦校本その他の古寫本多く左に作つてゐる。
〔評〕 これは前の答とは考へられない。地名が同じなので、組合せたのに過ぎない。
右二首
萬葉集卷第十二