卷第八
 
(497)萬葉集卷第八解説
 
この卷は春雜歌・春相聞・夏雜歌・夏相聞・秋雜・秋相聞・冬雜歌・冬相聞の八部に別れてゐる。これは全體を春・夏・秋・冬の四季に分つて更にその各を雜歌と相聞とに類別したものと考へてもよい。この分類法は他卷に比して一歩を進めたものと言ふべきで、萬葉人が漸く四季の景物の鑑賞に眼を開いた結果と見ることが出來る。この四季の雜歌が、やがて古今集以下の勅撰集に、四季の部を立てる基礎をなしたものである、併し後世の歌集の四季の歌は、各季節の風物を、その移りゆく順序に從つて配列してゐるのに、これは、作の年代順に並べてゐるのが、異つた點である。さうして今、この分類の跡を熟視すると、已に後世の俳句の李のやうに、概括的にその季節を決定してゐるものがあるやうに思はれる。例へば紅葉を秋とするが故に、冬十月の作ながらそれを秋雜歌の中に收め、夏六月の萩紅葉を詠じた歌を、秋相聞の中に入れてゐるやうな類である。なほ集中この卷と同一分類法を採つてゐるものに卷十があるが、それは全部作者不明のもののみを輯録してゐるので、配列が年代順になつてゐない。内容からいへば卷十は卷七に似て、卷八は寧ろ卷三・卷四に近いものである。歌數は總計二百四十六首。これを細別すると、長歌六首・旋頭歌四首・短歌二百三十六首となつてゐる。短歌の内一首は、上句を尼が作り、下句を大伴家持が續いだもので、全く後世の連歌の形になつてゐるのは注意すべきである。作者は時代の古いものでは、舒明天皇・鏡王女・額田王・大津皇子・志貴皇子などが見えてゐるが、いづれもその歌數砂尠く、(498)目立つた作もない。比較的時代の新らしいものでは、元正天皇・聖武天皇・厚見王・湯原王など高貴の方々も見えてゐるが、やはりその歌數は尠い。この他、山部赤人・山上憶良・橘奈良麻呂・笠女郎らの作もあるが、歌數の多いものは、大伴氏の人たちの、旅人・坂上郎女・家持・書持・田村大孃・坂上大孃のやうな人々である。就中、家持の作は實に五十三首の多きに達してゐる。さうしてそれはいづれも彼が無官から、内舍人時代のもので、年月の明記せられてゐる最後のものは、天平十五年秋八月十六日である。眞淵はこの卷を卷十五の次、卷四の前に置いて、第十二位としてゐる。ともかく天平の初期、大伴家持が、まだ越中守とならない間の作を中心として輯録したもので、その他、主として、大伴氏一族、及びそれに親密な關係を持つてゐる人たちの作が集められてゐることは、この卷の編者が家持たるを思はしめるものがあるのである。右に述べたやうに、四季の風物を詠じたことはこの卷の一特色であるが、全卷を通じて、四季の變遷にやさしい凝視の目を見はつてゐるやうな作者の姿が偲ばれる。併しまた一面には、その爲に徒らに優雅ならむとして平板に陷り、藝術的燃燒の足りない作品も尠くないのである。文字使用法は戯書としては八十一《クク》・左右《マデ》・喚鷄《ツツ》などがあり、また鷄鵡鴨《ケムカモ》の如く、特更に鳥名を列記したやうな書き方もあるが、大體に於て卷三・卷四・卷六などと同じやうである。
 
(499)〜(511)〔目録省略〕
 
(512)大伴宿禰駿河麻呂歌一首
紀少鹿女郎歌一首
大伴田村大孃與2妹坂上大娘1歌一首
大伴宿禰家持歌一首
 
(513)春雜歌
 
志貴皇子|懽御歌《ヨロコビノミウタ》一首
 
志貴皇子は天智天皇の皇子。光仁天皇の御父。五一參照。
 
1418 石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも
 
石激《イハバシル》 垂見之上乃《タルミノウヘノ》 左和良妣乃《サワラビノ》 毛要出春爾《モエイヅルハルニ》 成來鴨《ナリニケルカモ》
 
(石激)瀧ノ落チテヰル〔七字傍線〕垂水ノ上ノ山ノ〔二字傍線〕早蕨ガ、萠ニ出ス春ニナツタナア。
 
○石激《イハバシル》――枕詞。石の上を走り流れる垂水とつづくのである。舊訓イハソソグとあるが、石流垂水水乎《イハバシルタルミノミヅヲ》(一一四二)のやうに、イハバシルがよい。○垂見之上乃《タルミノウヘノ》――垂見は地名と見るものと、垂れる水、即ち瀧と見るものと兩説に分れてゐる。地名とするのは、代匠記に「たるみは津の國豐島郡に有」とあるやうに、今、豐能郡豐津村字垂水といふ地とするもので、吹田町の西方十町ばかりの地である。卷七の一一四二及び攝津地圖參照。ここの垂水神社の境内に、今も小さい瀧が落ちてゐる。袖中抄にたるみのうへのさわらびとは、攝津と播磨とのさかひに、たるみと云處あり、岸よりえもいはぬ水出る故に、たる水と云なり、垂水の明神と申す神おはす、そのたるみのうへをば、たるみ野といへば、其の野にさわらびはもえ出るなり」とあるのを、古義にそのまま肯定して、これを豐島郡の垂水神社のこととして説明してゐるのは、地理を辨へない大なる誤である。攝津と播磨との境にある垂水は、今、須磨と明石との中間に、鹽屋・垂水と並んでゐる地で、播磨に屬してゐる。和名抄に、「明石郡垂見郷」とあるから、古くから攝津ではなかつたのである。さてこの垂見の地名は、垂水即ち瀧があるので起つたもので、ここは地名と見ても、瀧を考慮に入れねばならぬのである。垂見といふ地の、瀧の上の山の早蕨と解したいと思ふ。この垂見を瀧とのみ見る説も從ひたくない。ウヘをほとりの意とする説も、ここではおのづから成立しなくなる。○左和良妣乃《サワラビノ》――早蕨の。サは意味のない接頭語。早の字を當てるのに拘(514)泥しててはいけない。
〔評〕 何か機會があつて、春淺い頃攝津の垂水に赴かれ、その丘上の眺望を恣にせられて、この歌を作られたものか。題に懽御歌とあるが、春の來たのを喜び給うた作とも、亦、御自分の御運が開けた御喜悦の情を寓せられたものとも二樣の見方がある。志貴皇子は天智天皇の御子にておはしながら、不遇の地位にあらせられたが、慶雲元年に百戸を封ぜられ、和銅七年に二百戸、靈龜元年に一品となつて居られるから、それらの折の御歌ではなからうか、又この地名をよみ給うたのは、封戸が攝津などにあつたのではないかと略解には想像してゐる。かやうに想像を逞しくすれば際限のないことであるから、予はこれを一切考へないで、唯春の來たのを喜び給うた歌として解釋したいと思ふ。まことに明朗な調で、愉悦の情に滿ち滿ちた歌である。この歌は和歌色葉集・袖中抄・和歌童蒙抄などに載せてゐるが、童蒙抄はタルヒノウヘノとしてゐる。新古今集も同樣になつてゐるのは、垂水即ち氷柱に誤つたのである。
 
鏡王女歌
 
鏡王の御女。額田王の御姉、藤原鎌足の正妻。天武天皇の十二年秋七月薨。九一參照。
 
1419 神奈備の 岩瀬の杜の 喚子鳥 いたくな鳴きそ 吾が戀増る
 
神奈備乃《カムナビノ》 伊波瀬乃杜之《イハセノモリノ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 痛莫鳴《イタクナナキソ》 吾戀益《ワガコヒマサル》
 
神奈備ノ石瀬ノ杜ノ呼子鳥ヨ。ヒドク嶋クナヨ。サウヒドク鳴イテハ〔九字傍線〕、私ガ人ヲ戀シク思フ心ガ、増スバカリダカラ。
 
○神奈備乃《カムナビノ》――神奈備は神の森・神を祭るところをいふのであるが、やがて固有名詞として用ゐられてゐる。さうして卷三に神名備山《カムナビヤマ》(三二四)とあつたのは飛鳥の雷山で、卷六に神名火乃淵《カムナビノフチ》(九六九)とあるのは飛鳥川で、卷七に甘南備乃里《カムナビノサト》(一一二五)とあるのは、飛鳥の里である。これらはいづれも飛鳥方面であるが、ここによまれてゐ(515)るのはさうではなく、龍田の神奈備である。ここは龍田村大字神南にあり、生駒川の下流(今、龍田川と呼んでゐるが、本集の龍田川ではない)に臨んでゐる。歌に三室山といふもこの神南の高地である。○伊波瀬乃杜之《イハセノモリノ》――上に述べた三室山の東方、龍田町の南、車瀬と稱する地にある森で、今も小祠があるといふ。○喚子鳥《ヨブコドリ》――カンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥ともいふ。卷一の七〇參照。
〔評〕 喚子鳥はその名の如く人を呼ぶやうな聲で鳴くものである。その聲を聞くと、何となく人なつかしい感情が湧いて來るので、かう詠んだのである。神奈備の岩瀬の森と作者との關係は明らかでない。多分あの邊に旅居してよまれたものであらう。しかし下に、神名火乃磐瀬乃杜之霍公鳥《カムナビノイハセノモリノホトトギス》(一四六六)とあるから、かうした鳥の集まるところでもあつたのであらう。他に類想の歌もあるが、調子にたるみのないはつきりとした作である。
 
駿河釆女歌一首
 
卷四の五〇七に駿河※[女+采]女とあるのも同人で、駿河から召された采女であらう。
 
1420 沫雪か はだれに零ると 見るまでに 流らへ散るは 何の花ぞも
 
沫雪香《アワユキカ》 薄太禮爾零登《ハダレニチルト》 見左右二《ミルマデニ》 流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物花其毛《ナニノハナゾモ》
 
雪ガ薄雪トシテ、降ルノデハナイカト思ハレルヤウニ、流レルヤウニ斜ニ地上〔四字傍線〕ニ散ツテ來ルノハ、何ノ花デアラウゾヨ。アアヨイ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○沫雪香《アハユキカ》――沫雪は沫のやうな雪。雪は沫のやうに白く消え易いからいふので、春の雪に限るわけではない。(516)後世淡雪と記して春の雪のことにしてゐるが、淡はアハで、假名が違ふから、沫雪とは混同してはならない。○薄太禮爾零登《ハダレニフルト》――薄太禮は集中の難語の一である。この語はここのやうに副詞的になつてゐるものと、御食向南淵山之巖者落波太列可削遺有《ミケムカフミナフチヤマノイハホニハフレルハダレカケノコリテアル》(一七〇九)小竹葉爾薄太禮零覆消名羽鴨將忘云者益所念《ササノハニハダレフリオホヒケナバカモワスレムトイヘバマシテオモホユ》(二三三七)・吾開之李花可庭爾落波太禮能未遺有可母《ワガソノノスモモノハナカニハニチルハダレノイマダノコリタルカモ》(四一四〇)などの如く、名詞として用ゐられたものもある。な隠別に天雲之外鴈鳴從聞之薄垂霜零寒此夜者《アマグモノヨソニカリガネキキシヨリハダレシモフリサムシコノヨハ》(二一三二)のやうに霜と熟して、ハダレシモと言つた例もある。またこれと同語と思はれるものに、ハダラがあつて、夜乎寒三朝戸乎開出見者庭毛薄太良爾三雪落有《ヨヲサムミアサトヲヒラキイデミレバニハモハダラニミユキフリタリ》(二三一八)と用ゐられ、又ホドロがあつて、吾背子乎且今且今出見者沫雪零有庭毛保抒呂爾《ワガセコヲイマカイマカトイデミレバアワユキフレリニハモホドロニ》(二三二三)・沫雪保抒呂保抒呂爾零敷者平城京師所念可聞《アワユキノホドロホドロニフリシケバナラノミヤコシオモホユルカモ》(一六三九)など用ゐてある。さてこの語の意味を、代匠記は「まだらなり」と解し、考にも「斑にふるなりとあり、古義には「雪のはなればなれに散て降よしなり」とあり、信濃漫録には、「雪の次第にふり積るべき始にふれる雪をはだれ雪、霜の次第にふり覆ふべき始に置わたしたるを、はだれ霜とはいふなるべし。下の、れはすべてふるものにつけていふ言葉なり。今も北國の方言に雪のはじめてふりつもれるをはだれ雪といへり」とある。鐘の響には「雪はもはら沫のむらがれるさまにして、いともやはらかにはららぎやすき物なれば、其形についてはだれ雪〔四字傍点〕とはいひつづけけるが、體語となりつるからに、ただはだれ〔三字傍点〕とのみもいひし也。(中略)はらら〔三字傍点〕と同音なり。(中略)故、雪のみならず霜にもよめり」とある。右のうちで、荒木田久老の信濃漫録の「雪の次第にふり積るべき始にふれる雪」といふ説は、いかにも受取り難いやうに思はれる。北國の方言に今も行はれてゐるといふが、北國とは何處か。今、北陸に住んでゐる著者はまだそれを聞いたことがない。これを除いた他の三説では、斑説が最も廣く行はれてゐる。これはハダレ・ハダラ・ホドロとマダラと音が相通ずる點があるからである。併し雪は薄雪でも一面に白くなるもので、特別の理由なき限り、斑には降らぬものである。殊に笹の葉に積つた雪を、ハダレフリオホヒといふのも、ふさはしくなく、ほどろ〔三字傍点〕を同語とすると、沫雪ノホドロホドロニフリシケバといふのは、斑では全く解し難いやうに思はれる。古義に、離れ離れに散つて降るやうに見たのも、鐘の響に、積つた状態が、はららぎ易い形をしてゐるからと見たのも、この點の矛盾を避けようとしたのではあるまいか。併し古義のやうに紛々たる飛雪と見ては、庭モハダラニミ雪降リタリ、沫雪降レリ庭モホド(517)ロニには適せぬやうであり、鐘の響のやうに、雪の積つた状態は動的に考ふべきものとは思はれないから、これも從ひ難い。そこでこれを解決する傍證とべきは、夜之穗杼呂《ヨノホトロ》(七五四・七五五)のホドロである。これは宣長説に從へば「曉がた、うすく明くる時をいふ。まだほの暗きうちなり」とあつて、薄いことである。予は今これに傚つて、ハダレ・ハダラ・ホドロを雪の薄く降る状態に解釋しようと思ふ。これを薄雪と見れば、以上の諸例はいづれも無理なく解けるのである。さうしてハダレのレは、ミゾレ・シグレ・サミダレなどのレで、空から降る動作を名詞化する時に添へる語らしく思はれる。なほ、これは強ひて主張するわけではないが、この薄をハの假名に用ゐることは、集中この例に乏しく、予の計算では、僅かに九例に過ぎず、その内、五例が助詞のハ・バに用ゐられ、他の四例はハダレ・ハダラに用ゐられてゐる。ハの音を含んだ語は無數であるに、實辭としては唯このハダレ・ハダラにのみ用ゐられてゐるのは、或はこの薄といふ文字が、ハダレの本質をあらはしてゐる爲であるまいかと想像せられるのである。即ち薄い雪といふ意味ではないかと思ふのである。丁度、川を河波《カハ》、馬を宇馬《ウマ》、鷄《カケ》を可鷄《カケ》と書くのと、同じ考ではあるまいかと思はれるのである。○流倍散波《ナガラヘチルハ》――ナガラヘはナガレに同じ。この句は斜に散るのはの意。
〔評〕 梅の花が雪のやうに散つてゐるのを見て、それと知りつつも、何の花ぞと疑つたやうに言つてゐる。そこに落花を見た刹那的の驚きがあらはれてゐるのである。第三句にミルマデニを置いて譬喩を作つてゐる例は澤山あるが、この歌と内容まで似たものに、卷五の小野氏國堅、伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可毛《イモガヘニユキカモフルトミルマデニココダモマガフウメノハナカモ》(八四四)、この卷の忌部首黒麻呂作の梅花枝爾可散登見左右二風爾亂而雪曾落久類《ウメノハナエダニカチルトミルマテニカゼニミダレテユキゾチリクル》(一六四七)がある。なほこの歌の結句は古今集旋頭歌、「打わたす遠方人に物申すわれそのそこに白く咲けるは何の花ぞも」と同一である。
 
尾張連歌二首 名闕
 
尾張連の傳は明らかでない。名闕の二字は後人の註か。卷一の六二にも三野連名闕とあつた。
 
(518)1421 春山の さきのををりに 若菜つむ 妹が白紐 見らくしよしも
 
春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲黒爾《サキノヲヲリニ》 春菜採《ワカナツム》 妹之白紐《イモガシラヒモ》 見九四與四門《ミラクシヨシモ》
 
春ノ山ノ花ガ〔二字傍線〕枝モタワワニ咲イテヰル時ニ、若菜ヲ摘ンデヰル女ノ着物ノ〔三字傍線〕白紐ヲ見レバ實ニヨイモノダナア。
 
○開乃乎爲黒爾《サキノヲヲリニ》――舊訓サクノヲスクルニとあるのではわからない。考に乎爲黒は乎烏里の誤で、サキノヲヲリであると言つてゐるのに從ふ。卷三に打靡春去奴禮婆山邊爾波花咲乎爲里《ウチナビクハルサリヌレバヤマベニハハナサキヲヲリ》(四七五)とあるこころである。但し爲を烏の誤とするのはよくない。右に引いたやうに、卷三の歌にも爲となつてゐるのである。略解には、手烏里《タヲリ》と改めた宣長説を擧げて、「さきのたをりは山の崎のたわみたる所を言へれば、宣長説に從ふべき也」と言つてゐる。なほ袖中抄に「すぐろのすすき」を「春のやけ野の薄の末黒きなり。ゑ文字を略してすくろといへるなり」と解説し、この歌を「春山のせきのをすくろにわかなつむ妹が白紐見しくともしも」として掲げてその證としてゐる。かくこの歌の誤寫・誤訓からスグロといふ語が出來て、和歌に折々用ゐられ、蕪村の句にも、「曉の雨やすぐろのすすき原」と用ゐられるに至つたのである。○春菜採《ワカナツム》――ハルナツムとよむ説もあるが、舊訓に從つて置きたい。○妹之白紐《イモガシラヒモ》――白紐は衣の上着の紐で、長く結び垂れてゐたのである。
〔評〕 美しく櫻花の咲き滿ちた山を背景として、その山裾ありたりで若菜を摘んでゐる少女を點出してゐる。春風にひらめく白紐が、著しく目立つてゐる。全く繪のやうだ。
 
1422 うち靡く 春來るらし 山のまの 遠き木ぬれの 咲き行く見れば
 
打靡《ウチナビク》 春來良之《ハルキタルラシ》 山際《ヤマノマノ》 遠木末乃《トホキコヌレノ》 開往見者《サキユクミレバ》
 
山際ノ遠クノ梢ニ、花ガダンダンニ咲イテ行クノデ見ルト、(打靡)春ハモウ〔二字傍線〕來タラシイ。
 
○打靡《ウチナビク》――枕詞。春の草木がしなひ靡くから、春とつづける。二六〇參照。○開往見者《サキユクミレバ》――舊訓を考にサキヌルミレバと改めたのに略解も從つてゐるが、もとのままがよい。
〔評〕 遠い山際の木末が段々と日毎に花になつて行くのを詠んだのは面白い。併しこれは卷十の打靡春避來之山際最木末之咲往見者《ウチナビクハルサリクラシヤマノマノトホキコヌレノサキユクミレバ》(一八六五)と酷似してゐて、その燒直しなることは疑ふべくもないのは遺憾である。
 
(519)中納言阿倍廣庭卿歌一首
 
阿倍廣庭の傳は三〇二參照。
 
1423 去年の春 いこじて植ゑし 吾がやどの 若木の梅は 花咲きにけり
 
去年春《コゾノハル》 伊許自而植之《イコジテウヱシ》 吾屋外之《ワガヤドノ》 若樹梅者《ワカキノウメハ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》
 
去年ノ春ニ、根カラ引キ拔イテ來テ植ヱタ私ノ家ノ、若イ梅ノ木ハ今年ハ〔三字傍線〕花ガ咲イタワイ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○伊許自而植之《イコジテウヱシ》――イコジのイは接頭語で意味はない。許自《コジ》は根こじにすること。即ち根のまま拔きとること。古事記に「天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而《ネコジニコジテ》」とある。
〔評〕 簡明な歌である。始めて花を見た、若木の梢に對してゐる、作者の歡喜の情があらはれてゐる。
 
山部宿禰赤人歌四首
 
1424 春の野に 菫つみにと 來し我ぞ 野をなつかしみ 一夜ねにける
 
春野爾《ハルノヌニ》 須美禮採爾等《スミレツミニト》 來師吾曾《コシワレゾ》 野乎奈都可之美《ヌヲナツカシミ》 一夜宿二來《ヒトヨネニケル》
 
春ノ野ニ菫ヲ摘マウト思ツテ來タ私ハ、野ガナツカシイノデ、歸リカネテ〔五字傍線〕一晩寢テシマツタ。
 
○須美禮採爾等《スミレツミニト》――須美禮《スミレ》は菫。景樹が紫雲英《レンゲ》であらうといつたのは誤つてゐる。紫雲英は支那原産の植物で、古くは吾が國にあつたとは思はれない。
〔評〕 自然詩人としての、赤人の心境を遺憾なくあらはしてゐる作として名高い。作者が菫咲く野のなつかしさに、そこを立ち去りかねて、そのまま自然の懷に抱擁せられて、一夜を眠ることを喜んだのである。この直情徑行的のところは、後代人には眞似の出來ない點である。菫を摘みに出かけて野宿をするとは、あまりに大人氣ない行動であるとして、これを女を菫に譬へた譬喩歌と見る人もあるが、この四首はいづれも春の景物を詠(520)じたもので、譬喩とは思はれない。また略解・古義・新考などには、菫を摘むのは衣服を摺る爲だらうと言つてゐるが、菫を衣の染料に用ゐたらしい歌は他に見えないし、そんなに實用的・功利的に見るのは、あまりになさけない。赤人はただ春の野に遊びに出かけたのである。春の象徴ともいふべき、可憐な菫が好きであつたから、かうよんだので、菫を摘んで何の用途に當てるといふやうな考があつたのではない。良寛の「飯乞ふとわが來しかども春の野に董つみつつ時を經にけり」も、これと相通ずる心境である。
 
1425 足引の 山櫻花 日ならべて かく咲きたらば いと戀ひめやも
 
足比奇乃《アシビキノ》山櫻花《ヤマザクラバナ》 日並而《ヒナラベテ》 如是開有者《カクサキタラバ》 甚戀目夜裳《イトコヒメヤモ》
 
(足比奇乃)山ノ櫻ノ花ハ、毎日毎日、幾日モカヤウニ咲イテヰルナラバ、ヒドク私ハ戀ヒ慕ヒハセヌ。一寸咲クバカリダカラ戀シイノダ〔一寸〜傍線〕。
 
○日並而《ヒナラベテ》――日を並べて、毎日毎日。これをケナラベテと訓む人もある。なるほどケナラベテの例も多いけれども、ここは文字通りに訓みたい。卷二十に比奈良倍弖安米波布禮抒母《ヒナラベテアメハフレドモ》(四四四二)とあるから、ヒナラベテも行はれてゐたのである。○甚戀目夜裳《イトコヒメヤモ》――略解にイタモコヒメヤモと訓んでゐるが、舊訓のままがよい。
〔評〕 燦爛と咲き亂れてゐる山櫻に對して、歌ひかけたやうな作である。毎日こんなに咲いてゐるなら、そんなに戀しがりはしないのにと、率直な、うぶな點が赤人らしい。
 
1426 吾が兄子に 見せむと思ひし梅の花 それとも見えず 雪のふれれば
 
吾勢子爾《ワガセコニ》 令見常念之《ミセムトオモヒシ》 梅花《ウメノハナ》 其十方不所見《ソレトモミエズ》 雪乃零有者《ユキノフレレバ》
 
私ノ友ニ見セヨウト思ツテヰタ梅ノ花ガ、雪ガ一體ニ〔三字傍線〕降ツタノデ、梅ノ花トモ分ラナイヤウニナツタ〔六字傍線〕。
 
○吾勢子爾《ワガセコニ》――勢子《セコ》は男を親しんでいふ語。ここは友人をさしてゐる。いつでも女が男に對していふ語とは限つてゐない。
〔評〕 友を前にして詠んだ歌のやうに思はれる。折角咲いた梅の花を見せようと思つてゐたのに、待ち得た友は(521)前にゐるけれども、霏々たる白雪に梅花の姿は埋れて、それとも見分けかねる情景である。古今集冬歌に「梅の花それとも見えず久かたのあまぎる雪のなべてふれれば」をよみ人しらすとして出してゐるが、この赤人の歌の改作であらう。
 
1427 明日よりは 若菜つまむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
 
從明日者《アスヨリハ》 春菜將採跡《ワカナツマムト》 標之野爾《シメシヌニ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 雪波布利管《ユキハフリツツ》
 
明日カラハ若菜ヲ摘マウト思ツテ、私ガ〔二字傍線〕標ヲシテ置イタ野ニ、昨日モ今日モ雪ガ降ツテヰル。毎日雪バカリデ困ツタモノダ〔毎日〜傍線〕。
 
○從明日者《アスヨリハ》――古訓はアスカラハであつたと見えて、袖中抄・新古今ともにさうなつておる。○春菜將採跡《ワカナヅマムト》――春菜を文字通りにハルナと訓む説もあるが、何となく落ちつかぬやうであり、河上爾洗若菜之洗來而《カハカミニアラフワカナノナガレキテ》(二八三六)の例もあるから、春菜は若菜と同訓にしたいと思ふ。春菜の用例は他にも多い。○標之野爾《シメシヌニ》――舊本、標を※[手偏+栗]に誤つてゐる。温故堂本による。シメシヌは占領した野。しるしを立てた野。地名ではない。
〔評〕 雪に妨げられて、春の野遊が出來ない焦燥の念が歌はれてゐるが、結句の雪波布利管《ユキハフリツツ》のツツがまことに、物柔かに歌ひ納めて、歌を上品にしてゐる。若菜を摘む野に標を立てるといふのも、仰山らしいといふ見地から、これを女に逢はうとして逢ひ難い意の、譬喩歌と見る人もある。併し野山に標結ふことをよんだ歌は澤山あるので、それには譬喩歌が多いけれども、實際さうしたことが行はれてゐなければ、そんな譬喩も成立たないのではあるまいかと思はれるから、これを譬喩と見る説には賛成しかねる。
 
草香山歌一首
 
草香山は河内國中河内郡生駒山の一部で、その北方にある。大和から難波への通路に當つてゐた。九九六參照。
 
(522)1428 押照る 難波を過ぎて うち靡く 草香の山を 夕暮に 吾が越え來れば 山もせに 咲ける馬醉木の にくからぬ 君をいつしか 往きてはや見む
 
忍照《オシテル》 難波乎過而《ナニハヲスギテ》 打靡《ウチナビク》 草香乃山乎《クサカノヤマヲ》 暮晩爾《ユフグレニ》 吾越來者《ワガコエクレバ》 山毛世爾《ヤマモセニ》 咲有馬醉木乃《サケルアシビノ》 不惡《ニクカラヌ》 君乎何時《キミヲイツシカ》 往而早將見《ユキテハヤミム》
 
(忍照)難波ヲ通ツテ(打靡)草香ノ山ヲ夕方私ガ越エテ來ルト、山ニ滿チ滿チテ、山モ狹シト馬醉木ノ花ガ咲イテヰルガ〔山ニ〜傍線〕、(山毛世爾咲有馬醉木乃)イトシイト思ツテヰルアナタヲ、私ハ何時ニナツタラ行ツテ、早ク見ラレルダラウカ。早ク逢ヒタイモノダ〔早ク〜傍線〕。
 
○忍照《オシテル》――枕詞。難波に冠する、草香山から見れば、難波の海が輝いてゐるからだと言はれてゐるが、よくわからない。四四三參照。○打靡《ウチナビク》――枕詞。草は柔かに靡くから、草に冠してゐる。○山毛世爾《ヤマモセニ》――山も狹しと。山一面に。○咲有馬醉木乃《サケルアシビノ》――馬醉木は俗にアセミ・アセビ・アセボといふ、鈴蘭のやうな白い花を澤山につける常緑灌木である。一六六參照。○不惡《ニクカラヌ》――童蒙抄にアシカラヌとよんでゐる。古義もさう訓んでゐるが、人を愛してニクカラヌと言つた例は多いけれども、アシカラヌといつた例はない。ここと同巧の歌に卷十、春山之馬醉花之不惡公爾波思惠他所因友好《ハルヤマノアシビノハナノ二クカラヌキミニハシヱヤヨソルトモヨシ》(一九二六)とあつて、これをもアシカラヌと訓んでゐる。蓋し、アシの音を繰返すものと見たので、それもよささうであるけれども、他に用例もないから慎重に考へなければならない。惡の字は、惡有名國《ニクカラナクニ》(二五六二)・神毛惡爲《カミモニクマス》(二六五九)・惡氷木之《アシヒキノ》(二七〇四)・惡木山《アシキヤマ》(三一五五)の如く、ニクムともアシとも訓んである。ニクカラヌは、憎くはないといふやうな、消極的の意味でなくて、愛らしい・なつかしいといふやうな意に用ゐてある。
〔評〕 草香山を越えて大和へ歸らうとしてゐる男が、夕日に映える山の馬醉木の花を見て、それになつかしい妻を思ひよせて、戀ひ慕ひつつ詠んだ歌である。短くよく纏つた整つた作である。この卷の編者は、この作者の卑賤の故を以て、捨て去るに忍びなかつたと見える。
 
右一首依(リテ)2作者微(シキニ)1不v顯2名字(ヲ)1
 
(523)右の一首は作者の身分が賤しいので、その名字は分つてはゐるが、書かないといふのである。この集の編纂に、作者の身分も考慮に入れられたことがこれで明らかにされてゐる。
 
櫻花歌一首并短歌
 
1429 をとめらが 挿頭のために みやびをが かづらのためと 敷きませる 國のはたてに 咲きにける 櫻の花の 匂ひはもあなに
 
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 頭挿乃多米爾《カザシノタメニ》 遊士之《ミヤビヲガ》 ※[草冠/縵]之多米等《カヅラノタメト》 敷座流《シキマセル》 國乃波多弖爾《クニノハタテニ》 開爾鷄類《サキニケル》 櫻花能《サクラノハナノ》 丹穗日波母安奈何《ニホヒハモアナニ》
 
少女等ノ頭ニ挿ス花ノ〔二字傍線〕爲ニ、マタ風流男ガ髪ノ飾ニツケル※[草冠/縵]ノ爲トシテ、天子樣ノ御支配遊バス國ノ果テマデモ、ドコカラドコマデモ〔九字傍線〕咲イテヰル櫻ノ花ノ色ハ、アブ美シイコトダ。
 
○※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》――※[女+感]嬬はヲトメと訓む。集中に用例が多いが、※[女+感]は物に見えない文字である。感の俗字で、下の嬬の字にならつて、女扁を添へたものかと岡本保孝は言つてゐる。○敷座流《シキマセル》――天皇の支配し給へる。代匠記精撰本に、「この句の上には二句許落ちたるか、(中略)試に補て云はば、八隅知之吾大君乃などなるべし」とあるが、必ずしも脱漏とは言はれない。○國乃波多弖爾《クニノハタテニ》――波多弖《ハタテ》は果て、極根の意。古今集戀一に「夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて」とある。雲のはたても同じ。○丹穗日波母安奈何《ニホヒハモアナニ》――丹穗日《ニホヒ》は色。波母《ハモ》は詠嘆の助詞。安奈《アナ》は嗚呼。何《ニ》は妍、美しいこと。書紀に妍哉をアナニヱヤと訓んでゐるのと同じである、宣長は何は荷の誤かといつてゐる。類聚古集・神田本などには爾に作つてゐる。
〔評〕 櫻花禮讃の歌で、國民の總べてが言はうとしてゐるやうなことを、短く纏めた手際は決して凡手ではない。作者のわからぬのは遺憾である。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
(524)反謌
 
1430 去年の春 逢へりし君に 戀ひにてし 櫻の花は 迎へ來らしも
 
去年之春《コゾノハル》 相有之君爾《アヘリシキミニ》 戀爾手師《コヒニテシ》 櫻花者《サクラノハナハ》 迎來良之母《ムカヘクラシモ》
 
昨年ノ春、花ノ咲ク頃アナタニ〔九字傍線〕オ目ニカカツタノデ、櫻ノ花ハ〔六字傍線〕アナタヲ戀シク思ツテヰタガ、今年モ亦春ニナツタノデ、ソノ〔今年〜傍線〕櫻ノ花ハ、アナタヲ〔四字傍線〕オ迎ヘニ來タラシイヨ。櫻モアナタニ逢ヒタサニ咲イタノデセウ〔櫻モ〜傍線〕。
 
○相有之君爾《アヘリシキミニ》――逢つたあなたに。君は宴席などの主人をさすか。又は長歌中の、をとめとみやびをとをさすか。恐らくは前者か。○戀爾手師《コヒニテシ》――戀してゐた。爾《ニ》・手《テ》・師《シ》共に時の助動詞。新解にシを強める助詞として、委しい考説が附いてゐるが、賛同し難い。○迎來良之母《ムカヘクラシモ》――迎へに來るらしいよの意。あなたを待ち迎へる爲に咲くらしいよの意。
〔評〕 この歌の解には、諸説が分れて歸するところを知らない。長歌の内容と、あまりかけ隔つてゐるからである。しかし長歌の反歌としては、右のやうに解くより外はあるまいと思はれる。かなり空想的な※[行人偏+?]徊的な作で、歌品は長歌には及ばない。
 
右二首若宮年魚麻呂誦v之
 
右の二首は若宮年魚麻呂が宴會の席などで、誦つた歌だといふ註である。即ちこの二首は古歌で作者は不明である。若宮年魚麻呂は傳が明らかでない。卷三に柘枝傳説に關した一首の作があり(三八七)、その次に※[覊の馬が奇]旅歌一首並短歌を誦してゐる。或は宴席などで謠ふことを業としてゐたものか。
 
山邊宿禰赤人歌一首
 
(525)1431 百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも
 
百濟野乃《クダラヌノ》 芽古枝爾《ハギノフルエニ》 待春跡《ハルマツト》 居之※[(貝+貝)/鳥]《ヲリシウグヒス》 鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》
 
百濟野ノ、萩ノ古イ枝ニトマツテ、春ノ來ルノヲ待ツテヰタ鶯は、モウ既ニ春ニナツタノダカラ〔モウ〜傍線〕、鳴イタデアラウカナア。ドウタラウ〔五字傍線〕。
 
○百濟野乃《クダラヌノ》――百濟野は大和國北葛城郡百濟村附近の野。曾我川(百濟川)と葛城川とに挾まれた細長い平地である。卷二の言左敝久百濟之原《コトサヘグクダラノハラ》(一九九)も同所。そこに舒明天皇の百濟宮があつた。寫眞はその舊地と稱せられる附近。○待春跡《ハルマツト》――用字が漢文式に倒置してあるのに注意される。○居之※[(貝+貝)/鳥]《ヲリシウグヒス》――舊訓スミシウグヒス。古義は居の上に來を脱としてキヰシウグヒスとしてゐる。それでは意味が少し違つて來るから、もとのままで訓はヲリシウグヒスがよい。○鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》――鳴いたであらうかよ。上に※[(貝+貝)/鳥]とあつて鳴の字が出たので、鶏・鵡・鴨など、鳥の名を列記してゐる。謂はゆる戯書のうちには入つてゐないが、これも戯れた書き方である。
(526)〔評〕 鶯が春を待つて、萩の古枝に冬籠りしてゐるといふ着想は、極めて自然的で、しかも言ふべからざる滋味がある。既に世界が春になつたのにつけて、百濟野を思ひ、鶯の初音を想像したのである。これも赤人らしいすがすがしい歌である。
 
大伴坂上郎女柳歌二首
 
1432 吾が背子が 見らむ佐保道の 青柳を 手折りてだにも 見むよしもがも
 
吾背兒我《ワガセコガ》 見良牟佐保道乃《ミラムサホヂノ》 青柳乎《アヲヤギヲ》 手折而谷裳《タヲリテダニモ》 見綵欲得《ミムヨシモガモ》
 
アナタガ是カラ折ツテ〔六字傍線〕見ルデアラウ所ノ、アノ奈良ノ〔三字傍線〕佐保ノ道ニ生エテヰル青柳ヲ、セメテ私ハ〔五字傍線〕手折ツタノデモ見ルコトガ出來レバヨイガ。コンナ太宰府ニヰテハソレモ出來ナイノハ悲シイ〔コン〜傍線〕。
 
○吾背兒我《ワガセコガ》――背兒《セコ》はここでは夫をさすのではない。この歌は坂上郎女が太宰府での作らしく、その頃太宰府から京へ歸る男を背兒《セコ》といつたのである。○見良牟佐保道乃《ミラムサホヂノ》――大伴氏一族の家は、奈良の佐保地方にあつたから、特に佐保道といつたのである。○見綵欲得《ミムヨシモガモ》――舊訓ミルイロニモカとあるのではわからない。代匠記に綵を縁の誤としたのにより、訓は略解に從つた。
〔評〕 春も酣なる頃、都へ歸りゆく人を送るに際し、先づ思ひ出でられるのは、春風に靡く佐保道の青柳である。その好景に接する人を羨むと共に、西陲にあつて、その手折つた枝をも見ることが出來ないのを悲しんだのである。下句哀切の辭。
 
1433 うち上る 佐保の河原の 青柳は 今は春べと なりにけるかも
 
打上《ウチノボル》 佐保能河原之《サホノカハラノ》 青柳者《アヲヤギハ》 今者春部登《イマハハルベト》 成爾鷄類鴨《ナリニケルカモ》
 
(打上)佐保ノ川原ニ生エテヰル青柳は、モウ春ノ時節トナツテ春ラシク芽ヲ吹イテ〔春ラ〜傍線〕ヰル筈ダヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○打上《ウチノボル》――枕詞。佐保とつづく。舊訓ウチアグルとあるが、類聚古集・神田本などウチノボルとあり、六帖にも(527)同樣になつてゐるから、ウチノボルが却つて古訓である、「佐保道は打上つつ行處ならむからに冠らせしにや」と冠辭考にあるのが當つてゐる。古義に打|揚《アグ》る眞帆又は打|登《ノボ》る眞穗にいひかけたのであらう、と言つたのは從ひ難い。○成爾鷄類鴨《ナリニケルカモ》――新考にケムカモの誤だらうとある。太宰府で想像しての作だから、ケムと言ふべきところであるが、確定的事實であるから、ケルカモとしたので、ここをケムカモとしては調が弱くなつて感情が鈍つて見える。ここに鷄・鴨の字を用ゐてゐるのは、やはり前の一四三一と、ほぼ同樣の戯である。
〔評〕 佐保の河原の青柳も、前の佐保路の青柳も、共に同じものであらう。下句に故郷の春色を偲ぶ情が、強くはつきりと現はれてゐる。
 
大伴宿禰三林梅歌一首
 
大伴三林の傳はわからない。略解に林は依の誤かとある。併しさうなつてゐる異本もなく、目録も三林となつてゐる。三依は五五二・八一九參照。
 
1434 霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに 春日の里に 梅の花見つ
 
霜雪毛《シモユキモ》 未過者《イマダスギネバ》 不思爾《オモハヌニ》 春日里爾《カスガノサトニ》 梅花見都《ウメノハナミツ》
 
春トハ名バカリデマダ寒クテ〔春ト〜傍線〕、霜ヤ雪ノ降ルノ〔四字傍線〕モマダヤマナイノニ、意外ニモ私ハ〔二字傍線〕春日ノ里デ梅ノ花ノ咲イタノ〔五字傍線〕ヲ見タ。珍ラシイナア〔六字傍線〕。
 
○未過者《イマダスギネバ》――未だ過ぎないのにの意、このネバが萬葉集にお多い。
〔評〕 平明な作である。春淺い頃、梅の初花を見出した淡い驚きが、あらはされてゐる。
 
厚見王歌一首
 
厚見王は卷四の六六八參照。
 
1435 かはづ鳴く 甘南備河に かげ見えて 今か咲くらむ 山吹の花
 
(528)河津鳴《カハヅナク》 甘南備河爾《カムナビガハニ》 陰所見《カゲミエテ》 今哉開良武《イマカサクラム》 山振乃花《ヤマブキノハナ》
 
河鹿ガヨイ聲デ〔四字傍線〕鳴ク、甘南備河ニ影ヲ映シテ、今頃ハ、アノ名高イ〔五字傍線〕山吹ノ花ガ咲イテヰルダラウカナア。嘸美シカラウ〔六字傍線〕。
 
○甘南備河爾《カムナビガハニ》――甘南備川は飛鳥川をも龍田川をもいふので、これはいづれともわからない。六人部是香は龍田考に、これを龍田川としてゐるが、予は、卷三の登2神岳1山部宿禰赤人作歌に、夕霧丹河津者驟《ユフギリニカハヅハサワグ》(三二四)とあるによつて、雷山の麓を廻れる飛鳥川としたいと思ふ。○今哉開良武《イマカサクラム》――舊本|今哉《イマヤ》とあるが、類聚古集・神田本その他の古寫本、多くは今香《イマカ》とあるから、それに從ふことにする。○山振乃花《ヤマブキノハナ》――山吹を山振と記すことに就いては、一五八參照。
〔評〕 河鹿の名所であり、山吹の花が美しいので、世に聞えてゐる甘南備河の春景を想像して詠んだもの。實境に臨んでの作ではないが、實に明麗な調子を以て、清流の佳景が詠まれてゐる。氣品の高い作である。中古人に喜ばれたと見えて、六帖や新古今に載せてあり、金葉集の「春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花」古今集の「逢坂の關の清水にかげ見えて今や曳くらむ望月の駒」など、或は内容的に、或は外形的に、これを模倣したものである。
 
大伴宿禰村上梅歌二首
 
大伴宿禰村上は、續紀に、「神護景雲二年七月壬申朔庚辰、日向國献2白龜1。九月辛巳勅、今年七月十一日得2日向國宮崎郡人大伴人益所v献白龜赤眼1、云々。大伴人益授2從八位下1賜2※[糸+施の旁]十匹、綿廿屯、布卅端、正税一千束1、又父子之際、因心天性、恩賞所v被事須2同沐1、人益父村上者恕以2縁黨1宜v放2入京1。」とあり、又「寶龜二年四月壬午、正六位上大伴宿禰村上授2從五位下1、十一月癸未朔辛丑、肥後介。三年四月從五位上大伴宿禰村上爲2阿波守1」と見えてゐる。この白龜を献じた人益の父の(529)大伴村上と、寶龜二年以後續紀に叙位任官のことが見える大伴宿禰村上とは別人である。人益の父の村上は日向の片田舍人で、卷五に見えた大伴君熊凝などと同じく、宿禰姓でない大伴氏である。代匠記や古義にその別を立ててゐないのは誤つてゐる。ここの作者の大伴宿禰村上は家持の一族で、續紀に阿波守になつたと記されてゐる人である。この歌が作られたと思はれる天平の初年頃はまだ無位無官であつたらしい。
 
1436 ふふめりと 言ひし梅が枝 今朝ふりし 沫雪にあひて 咲きぬらむかも
 
含有常《フフメリト》 言之梅我枝《イヒシウメガエ》 今旦零四《ケサフリシ》 沫雪二相而《アワユキニアヒテ》 將開可聞《サキヌラムカモ》
 
昨日マデハ〔五字傍線〕マダ蕾ンデヰルト人ガ〔二字傍線〕言ツタ梅ノ枝ハ、今朝降ツタ春ノ〔二字傍線〕泡雪ニ逢ツテ、咲イタダラウカナア。多分美シク咲イタデアラウ〔多分〜傍線〕。
 
○今旦零四《ケサフリシ》――舊訓ケサフリシとあつたのを、代匠記にケサフリシと訓んだのがよい。
〔評〕 雪中に梅花を待つ心である。雪に催されて蕾を破つたかと想像したのは面白い。
 
1437 霞立つ 春日の里の 梅の花 山のあらしに 散りこすなゆめ
 
霞立《カスミタツ》 春日之里《カスガノサトノ》 梅花《ウメノハナ》 山下風爾《ヤマノアラシニ》 落許須莫湯目《チリコスナユメ》
 
(霞立)春日ノ里ニ咲イタ梅ノ花ヨ。春日山カラ吹ク嵐ノ風デ決シテ散ツテクレルナヨ。イツマデモ美シク咲イテヰテクレヨ〔イツ〜傍線〕。
 
○霞立《カスミタツ》――枕詞。カスの音を繰返して春日へつづく。略解にカスミタチと訓んだのはおもしろくない。○山下風爾《ヤマノアラシニ》――略解・古義にアラシノカゼニとよんでゐるが、山下風之《ヤマノアラシノ》(七五)・山下風波《ヤマノアラシハ》(二三五〇)・下風吹夜者《アラシンフクヨハ》(二六七九)などの例によるべきである。○落許須莫湯目《チリコスナユメ》――散つてくれるなよ、ゆめの意。コスは希望をあらはす動詞。ユメは決して。
(530)〔評〕 山の嵐とは春日山おろしをいふのであらう。當時まだ珍らしい花であつたらしい梅を、賞翫する意は見えてゐるが、歌は平凡である。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
駿河麻呂は大伴道足の子。四〇〇參照。
 
1438 霞立つ 春日の里の 梅の花 はなに問はむと 吾がもはなくに
 
霞立《カスミタツ》 春日里之《カスガノサトノ》 梅花《ウメノハナ》 波奈爾將問常《ハナニトハムト》 吾念奈久爾《ワガモハナクニ》
 
(霞立)春日ノ里ニ咲イテヰル梅ノ花ヲ、アダアダシイ心デ私ハ見ニ來タノデハナイヨ。私ハコノ花ヲ心力ラ愛シテヰルノダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○波奈爾將問常《ハナニトハふト》――波奈爾《ハナニ》は上の梅花《ウメノハナ》を受けて、ハナの音を繰返してゐるが、意は、外面のみで眞實味のないこと。あだにといふも同じである。○吾念奈久爾《ワガモハナクニ》――我は思はぬよの意で、この用例は多い。
〔評〕 上句を序詞と見て、女を梅に譬へた相聞と解する説もあるが、梅を愛するこころを述べたものとして置きたい。ここに春日の梅を詠んだ歌が三首出てゐる。春日の里に梅を多く植ゑてあつたか。
 
中臣朝臣|武良自《ムラジ》歌一首
 
中臣朝臣武良自は傳が明らかでない。
 
1439 時は今は 春になりぬと み雪ふる 遠山のべに 霞棚引く
 
時者今者《トキハイマハ》 春爾成跡《ハルニナリヌト》 三雪零《ミユキフル》 遠山邊爾《トホヤマノベニ》 霞多奈婢久《カスミタナビク》
 
冬ガ過ギテ〔五字傍線〕時節ハ今コソ春ニナツタトバカリニ、アノ雪ノ降ツテヰル、遠イ山ニ霞ガ棚曳イテヰル。アアイヨ(531)イヨ春ラシクナツテ來タ〔アア〜傍線〕。
 
○三雪零《ミユキフル》――三《ミ》は接頭語で意味はない。○遠山邊爾《トホヤマノベニ》――舊訓トホキヤマベニとあるが、トホヤマと熟語にした方がよい。卷十一に遠山霞被《トホヤマニカスミタナビキ》(二四二六)とある。
〔評〕 春を悦ぶうららかな聲である。遠山の雪を包む薄絹のやうな霞のヴエールが春を語つてゐる。氣特のよい歌だ。これを少しく理智的にすると、古今集「春立つといふばかりにや三吉野の山もかすみて今朝は見ゆらむ」となり、更に技巧的に改作すると、新古今集の「み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は來にけり」となるのである。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
 
河邊朝臣東人歌一首
 
續紀に、「神護景雲元年正月己巳正六位上川邊朝臣東人授2從五位下1、寶龜元年十月辛亥爲石見守」とある人で、山上憶良が痾に沈んだ時、藤原八束の使者として見舞に行つた人である。卷六の九七八參照。
 
1440 春雨の しくしくふるに 高圓の 山の櫻は いかにかあるらむ
 
春雨乃《ハルサメノ》 敷布零爾《シクシクフルニ》 高圓《タカマドノ》 山能櫻者《ヤマノサクラハ》 何如有良武《イカニカアルラム》
 
昨日今日春雨ガ頻リニ降ツテヰルガ、アノ〔二字傍線〕高圓山ノ櫻ハドウナツタダラウ。雨雲デ山ノ景色モ見エナイガ、アノ櫻ノ花ハ咲イタデアラウカ〔雨雲〜傍線〕。
 
○敷布零爾《シクシクフルニ》――敷布《シクシク》はシゲクシゲク。頻りに降りつづくこと。○何如有良武《イカニカアルラム》――舊訓イカニアルラムとあるが、イカニカアルラムと訓むべきである。
〔評〕、山の櫻が咲いたであらうかと想像したものと見る説と、既に咲いてゐる山の櫻が、雨の爲に散りはせぬかと案じたものと見る説と兩方に分れてゐるが、恐らく前者であらう。連日の雨に高圓山も雲の底に没して見え(532)ない頃、山の花はこの雨に催されてもはや咲いたであらうかどうであらうと、花を待つ心である。何となく温雅な情趣が決つてゐる作である。
 
大伴宿禰家持※[(貝+貝)/鳥]歌一首
 
1441 うち霧らし 雪はふりつつ しかすがに 吾家の苑に うぐひす鳴くも
 
打霧之《ウチキラシ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》 然爲我二《シカスガニ》 吾宅乃苑爾《ワギヘノソノニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウグヒスナクモ》
 
春ニナツタガマダ〔八字傍線〕ゲ空カキ曇ツテ、雪ガ降ツテヰル。然シナガラ私ノ家ノ園デハ鶯ガ嶋イテヰルヨ。春ハヤハリ春ダナア〔九字傍線〕。
 
○打霧之《ウチキラシ》――打は接頸語。キラシは遮ラシで、空を曇らすこと。○然爲我二《シカスガニ》――然しながら、それでも。この語を用ゐると、その節と後とが對比的になる。
〔評〕 平明にして優麗、家持の初期の作中の佳作であらう。後撰集に「かきくらし雪はふりつつしかすがに吾家のそのに鶯ぞなく」と出てゐる。
 
大藏少輔|丹比屋主眞人《タヂヒノヤヌシノマヒト》歌一首
 
續紀に「神龜元年二月壬子正六位上多治比眞人屋主授2從五位下1。天平十七年正月乙丑從五位下多治比眞人屋主授2從五位上1、十八年九月己巳爲2備前守1。二十年二月二日己未授2正五位下1。天平勝寶元年閏五月甲午朔爲2左大舍人頭1」とある。大藏少輔になつたことは見えないが、この人であらう。卷六の一〇三一參照。
 
1442 灘波べに 人の行ければ おくれゐて 若菜つむ兒を 見るが悲しさ
 
難波邊爾《ナニハベニ》 人之行禮波《ヒトノユケレバ》 後居而《オクレヰテ》 春菜採兒乎《ワカナツムコヲ》 見之悲也《ミルガカナシサ》
 
(533)難波ノ方ヘ夫ガ行ツタノデ、家ニ唯獨リデ〔六字傍線〕殘ツテヰテ、淋シイ心ヲ慰メヨウト思ツテ野邊ヘ出テ〔淋シ〜傍線〕、若菜ヲ摘ンデヰル女ヲ見ルト私ハ、氣ノ毒ニナツ〔八字傍線〕テ、悲シク思フヨ。
 
○人之行禮波《ヒトノユケレバ》――人は女の夫をさす。○春菜採兒乎《ワカナツムコヲ》――若菜を摘む女を。春菜はハルナと訓む説もあるが、ワカナとよむことにする。○見之悲也《ミルガカナシサ》――也を添へて書いてゐる。音乃清也《オトノサヤケサ》(一二〇二)と同例であるが、この他、戀許増益也《コヒコソマサレ》(二二六九)・黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》(一五三六)などいくらもある。
〔評〕 難波へ夫が赴いた留守に、若菜を摘んでゐる女の淋しい姿に同情してゐる。温情の溢れた歌である、或はこの若菜つむ女は、作者の娘などか。さもなくば、難波べに夫が行つてゐることは一寸わかりかねる筈である。次の乙麿もこの人の子であるから、或は親子數人で若菜つみに行つたものかも知れない。
 
丹比眞人乙麻呂歌一首
 
目録には「屋主眞人の第二子」とある。續紀に「天平神護元年正月己亥正六位上多治比眞人乙麿授2從五位下1。十月辛未、行幸紀伊國、以2云々從五位下多治比眞人乙麿1爲2御前次第司次官1」と見える。
 
1443 霞立つ 野の上の方に 行きしかば 鶯鳴きつ 春になるらし
 
霞立《カスミタツ》 野上乃方爾《ヌノヘノカタニ》 行之可波《ユキシカバ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウグヒスナキツ》 春爾成良思《ハルニナルラシ》
 
霞ノタナビイテヰル野原ノ方ヘ行ツタ所ガ、鶯ガ鳴イテヰタ。コレハ私ガ聞イタ初音ダ。アア、モウイヨイヨ〔コレ〜傍線〕春ニナツタラシイ。
 
○野上乃方爾《ヌノヘノカタニ》――野上《ヌノヘ》は野邊。上はほとりなどいふに同じ。舊訓ノカミノカタニとあるのは、地名としたのか。誤つてゐる。○春爾成良思《ハルニナルラシ》――春は來ぬらしといふ意になつてゐる。春の來ることを、現在に言つたのである。
(534)〔評〕 春を告げる霞と鶯とを歌つてゐるが、何等餘情の籠るものがないのは、叙述が散文的なる爲か。稚い歌である。
 
高田女王歌一首 高安之女也
 
高安之女也とある注は高安王の女といふ意か。高田女王は傳が明らかでないが、注の如くならば、高安王即ち後臣下に列した、大原眞人高安の女である。卷四の五三七參照。
 
1444 山吹の 咲きたる野べの つぼ董 この春の雨に 盛なりけり
 
山振撮《ヤマブキノ》 咲有野邊乃《サキタルヌベノ》 都保須美禮《ツボスミレ》 此春之雨爾《コノハルノアメニ》 盛奈里鷄利《サカリナリケリ》
 
山吹ノ咲イテヰル野ノ壺菫ハ、コノ春ノ雨ニ濡レテ盛ニ咲イテヰルヨ。雨ノ中ニ董ノ咲イテヰルノハ、美シイモノダ〔雨ノ〜傍線〕。
 
○都保須美禮《ヅボスミレ》――「菫の花には下の方にまろくて壺の如くなる所あれば、つぼすみれとはいふなり」と代匠記にある。かやうに菫の一種と見ない説も多い。併し今日ツボスミレと稱する菫菜科の植物があるのは、葉が普通よりも短く三角形をなし、花の色は白で青紫色を帶びてゐる一種をいふのである。平安朝でも襲の色目に菫(表紫・裏薄紫)と壺菫(表紫・裏薄青)とを別にしてゐるから、奈良朝でも菫と壺菫とは別種の花の名であつたらうと思はれる。
〔評〕 山吹と壺菫と春雨との取り合せが美しい。可憐な歌である。代匠記には「山吹の咲たる野へとかざりていへるは、をみなへし咲澤におふる花かつみなどよめるたぐひなり」といひ、新考にも、「ヤマブキノサケルは野ノヘの装に飾いへるのみ」とある。もとより菫を主としてはあるが、山吹の花も背景として重要な役割をつとめ(535)てゐるので、これを無用視してはいけない。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1445 風交り 雪はふるとも 實にならぬ 吾家の梅を 花に散らすな
 
風交《カゼマジリ》 雪者雖零《ユキハフルトモ》 實爾不成《ミニナラヌ》 吾宅之梅乎《ワギヘノウメヲ》 花爾令落莫《ハナニチラスナ》
 
風ヲ交ヘテ雪ガ降ツテモ、マダ實ニナラナイ私ノ家ノ梅ヲ、花ノウチニ空シク〔三字傍線〕散ラシテシマフナヨ。
 
○風交《カゼマジリ》――舊訓カゼマゼニとあるのはよくない。卷五にも風雜雨布流欲乃《カゼマジリアメフルヨノ》(八九二)とあつた。○實爾不成《ミニナラヌ》――この句は考へやうによつては意味がわからなくなる。新考に「不を將の誤として、ミニナラムとよむべし」とあるのは尤ものやうに思はれる。併しこれは花が咲いたばかりで、風雪の爲に散つてしまつては、實を結ばずに了ることを恐れたものと見るべきで、さうすれば何等不合理もないやうである。○花爾令落莫《ハナニチラスナ》――あだに空しく散らすなの意。ここは花のままで散らすなと解しても、つまり同じである。
〔評〕 略解は「いまだ逢も見ぬ男のうへを言ひさわぐ事なかれといふ譬喩か。」と如ひ、古義は「初二句は、たとひ世間の人は、とりどりさまざまに、いひたてさわぐとも、と云意をたとへたり。實爾不成《ミニナラヌ》はまだ實《マコト》に夫婦となりえぬをいふ。花爾令落莫《ハナニチラスナ》は唯|風《ホノカ》に言かはしたるのみにて、止ことなかれの意なるべし、云々」とある。かく譬喩歌と見るのも道理はあるが、右のやうに解して、表面的に言葉通りに見るのが、却つて當つてゐるのではないかと思ふ。又若し略解や古義に言ふやうな内容ならば、寧ろ次の春相聞に入るべきではあるまいか。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
大伴宿禰家持養※[矢+鳥]歌一首
 
養※[矢+鳥]は神田本・温故堂本など春※[矢+鳥]に作つてゐるのが正しい。舊本は誤である。なほ卷十に春※[矢+鳥]鳴(536)高圓邊爾《キギシナクタカマドノヘニ》(一八六六)とあるから、二字でキギシと訓ましめるのであらう。
 
1446 春の野に あさるきぎしの 妻戀に おのがあたりを 人に知れつつ
 
春野爾《ハルノヌニ》 安佐留※[矢+鳥]乃《アサルキギシノ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 己我當乎《オノガアタリヲ》 人爾令知管《ヒトニシレツツ》
 
春ノ野デ餌ヲ〔二字傍線〕アサツテヰル雉ガ、妻ヲ戀ヒ慕ツテ鳴クノデ〔四字傍線〕、自分ノ在リ所ヲ人ニ知ラレル。ソノ爲ニ獵人ニ獲ラレルコトニナル。可哀サウニ〔ソノ〜傍線〕。
 
○安佐留※[矢+鳥]乃《アサルキギシノ》――安佐留《アサル》は餌を求め捜すこと。求食爲而《アサリシテ》(三〇九一)の用字例もある。○人爾令知管《ヒトニシレツツ》――人に知られつつの意。人に知られずを人知れずといふのと同じである。令知は使役相をあらはす筈であるから、シレと訓むのはどうかと思ふが、所知に通じたものか。ともかくシレツツと訓むべきもののやうである。ツツは助動詞ツを二つ重ねた形で、輕く言ひをさめて、餘韻を含ませてある。
〔評〕 これも譬喩として略解に、「おのが思ひ餘りて言に出しより、他つ人に知られたるをそへたる譬歌なるべし」とし、古義も大躰同意になつてゐるが、言葉通りに見ても、差支はないからさうして置く。「雉も鳴かずは打たれまい」といふ後世の成句の意味が、ここに既に見えてゐるやうに思はれる。この歌、拾遺集にも載せてゐる。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1447 よのつねに 聞くは苦しき 喚子鳥 聲なつかしき 時にはなりぬ
 
尋常《ヨノツネニ》 聞者苦寸《キクハクルシキ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 音奈都炊《コヱナツカシキ》 時庭成奴《トキニハナリヌ》
 
春デナイ〔四字傍線〕平常ノ時ニ聞クノハ、イヤナ聲デ〔五字傍線〕聞キ苦シイ喚子鳥ノ聲ガ、ナツカシイ春ノ〔二字傍線〕時ニナツタ。コレカラ喚子鳥ノヨイ聲ヲ面白ク聞カウト思フ〔コレ〜傍線〕。
 
○尋常《ヨノツネニ》――平常の時に。春以外の他の時季に。○聞者苦寸《キクハクルシキ》――聞くのは聞き苦しい。聲がわるいからである。
(537)代匠記に「聞はくるしきとは、見くるしきといふごとく、聞かまうきをいへり」とある。○喚子鳥《ヨブコドリ》――カンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥。七〇參照。
〔評〕 喚子鳥は春の鳥として歌などに詠まれてゐるが、これで見るといつでも鳴く鳥で、春になると聲がよくなることが分るのはおもしろい。歌はあまりおもしろくない。
 
右一首、天平四年三月一日佐保宅作
 
佐保の宅は大伴坂上郎女の父の大伴安麿の家で、卷四の五二八によれば、安麿は佐保大納言と稱した。郎女がその家にゐての作であらう。
 
春相聞
 
大伴宿禰家持贈(レル)2坂上家之大孃(ニ)1歌一首
 
坂上家之大孃は大伴宿奈麻呂の女で、田村の大孃の妹、坂上二孃の姉である。
 
1448 吾がやどに 蒔きし瞿麥 いつしかも 花に咲きなむ なぞへつつ見む
 
吾屋外爾《ワガヤドニ》 蒔之瞿麥《マキシナデシコ》 何時毛《イツシカモ》 花爾咲奈武《ハナニサキナム》 名蘇經乍見武《ナゾヘツツミム》
 
私ノ家ノ庭ニ蒔イテ置イタ瞿麥ハ、何時ニナツタラバ花トナツテ咲クデアラウ。花ガ咲イタナラバ、アノ花ヲアナタニ〔花ガ〜傍線〕ナゾラヘテ、アナタト思ツテ〔七字傍線〕見テ思ヒヲ慰メ〔五字傍線〕マセウ。
 
○蒔之瞿麥《マキシナデシコ》――瞿麥は下の夏雜歌に、吾屋前之瞿麥乃花盛有手折而一目令見兒毛我母《ワガヤドノナデシコノハナサカリナウタヲリテヒトメミセムコモガモ》(一四九六)とあり、又卷十九には奈泥之故波秋咲物乎君宅之雪巖爾左家理家流可母《ナデシコハアキサクモノヲキミガイヘノユキノイハホニサケリケルカモ》(四二三一)ともあつて、春又は秋の花としてある。ここに春相聞に入れてあるのは、贈つたのが春なのであらう。花が春咲くのではない。○名蘇經乍見武《ナゾヘツツミム》――なぞら(538)へつつ見むに同じ。貴女になぞらへて見ようといふのである。
〔評〕 優しい歌である。可憐な作である。しかし、相聞としては熱情が足りないやうに思はれる。
 
大伴田村家之大孃與(フル)2妹坂上大孃(ニ)1歌一首
 
之の字、舊本毛に作るのは誤。神田本には毛の字がない。
 
1449 茅花拔く 淺茅が原の つぼ菫 いま盛なり 吾が戀ふらくは
 
茅花拔《ツバナヌク》 淺茅之原乃《アサヂガハラノ》 都保須美禮《ツボスミレ》 今盛有《イマサカリナリ》 吾戀苦波《ワガコフラクハ》
 
私ガアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕フコトハ、(茅花拔淺茅之原乃都保須美禮)今ガ盛デアリマス。戀シクテ戀シクテ仕方ガアリマセヌ〔戀シクテ戀〜傍線〕。
 
○茅花拔《ツバナヌク》――茅花《ツバナ》は茅《チ》の花で、春の頃それを拔き取つて食べたことは、下の一四六〇・一四六二に明らかである。○都保須美禮《ツボスミレ》――一四四四參照。この句までは、今盛有《イマサカリナリ》につづく序詞で、折からの風物を以て巧みに作つてある。○吾戀苦波《ワガコフラクハ》――吾が戀ふるはの延言。
〔評〕 何といふやさしい女らしい歌であらう。淺茅が原に茅花を拔くのは、處女らの遊である。そこには壺菫の花がいつも咲いてゐる。その景色をとり入れて序としてゐるが、曾て姉妹相携へて菫咲く野に、茅花を拔いたことがあつたのを思ひ起したのであり、又相手にそれを想起せしめることにもなるであらう。妹を思ふ眞情が流露してゐる。相聞ながら、姉から妹へ贈つたもので、戀愛歌ではない。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
大伴宿禰坂上郎女歌一首
 
禰の字の下に家持贈の三字を脱したのであらうと考に言つてゐる。恐らくさうであらう。
 
(539)1450 こころぐき 物にぞありける 春霞 たなびく時に 戀の繁きは
 
情具伎《コヽログキ》 物爾曾有鷄類《モノニゾアリケル》 春霞《ハルガスミ》 多奈引時爾《タナビクトキニ》 戀乃繁者《コヒノシゲキハ》
 
春ノ霞ガタ靡イテヰル春ノ〔二字傍線〕頃ニ、人ヲ頻リニ戀シク思フノハ、常ヨリモ格別ニ〔七字傍線〕、心ガ曇ツタヤウデ〔六字傍線〕イラダタシイモノデスヨ。
 
○情具伎《ココログキ》――ココログシといふ形容詞。心のくぐもりて、おぼつかない感を惹さしめること。七三五參照。
〔評〕 春霞の欝陶しい情景と、戀に晴れない心の欝陶しさとの一致を歌つて、面白く出來てゐる。卷四の大伴家持が藤原久須麿に贈つた情八十一所念可聞春霞輕引時二事之通者《ココログクオモホユルカモハルガスミタナビクトキニコトノカヨヘバ》(七八九)と酷似してゐるが、この二歌はいづれが先に出來たものかわからない。年代は略同じ頃のやうに思はれる。この歌の作者を家持とすると、同じ人が兩方へ同じやうな歌を贈つたのである。古今六帖に初句を「心うき」として出てゐる。
 
笠女郎贈(レル)2大伴家持(ニ)1歌一首
 
1451 水鳥の 鴨の羽色の 春山の おぼつかなくも 念ほゆるかも
 
水鳥之《ミヅトリノ》 鴨乃羽色乃《カモノハイロノ》 春山乃《ハルヤマノ》 於保束無毛《オボツカナクモ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
私ハコノ頃胸ノ内ガ〔九字傍線〕(水鳥之鴨乃羽色乃春山乃)晴レナイデ欝陶シク思ハレマスヨ。ホントニ貴方ガ戀シウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○水鳥之《ミヅトリノ》――鴨の枕詞。○鴨乃羽色乃《カモノハイロノ》――カモノハイロノと舊訓にあるのに從ひたい。卷二十に水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハイロノアヲウマヲ》(四四九四)あるが、この歌ではノの假名は皆記してあるのに、ここは羽色とあるから、文字通りによむべきであらう。この一二句は春山の色の青い形容である。○春山乃《ハルヤマノ》――この句までの三句は序詞で於保束無毛《オボツカナクモ》にかかつてゐる。春の山が霞に包まれて、はつきりしない意を以て、心のおぼつかないのにかけてゐる。○於保束無毛《オボツカナクモ》――オボツカナシは心の欝々として晴れないこと。戀故の惱みである。
(540)〔評〕 綺麗に出來た歌である。器用な序詞である。さうして女らしい作である。
 
紀女郎歌一首
 
西本願寺本・細井本たど、ここに「名曰小鹿也」とある。卷四の紀女郎怨恨歌三首(六四三)の題の下に、古葉略類聚鈔には「鹿人大夫之女名曰小鹿也、安貴王之妻也」とある。
 
1452 闇ならば うべも來まさじ 梅の花 咲ける月夜に 出でまさじとや
 
闇夜有者《ヤミナラバ》 宇倍毛不來座《ウベモキマサジ》 梅花《ウメノハナ》 開月夜爾《サケルツクヨニ》 伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》
 
アナタガ〔四字傍線〕闇ノ夜ニオイデニナラナイトイフノハ、尤モデス。シカシ〔三字傍線〕梅ノ花ノ咲イテヰルヨイ月夜ニモ、オイデナサラナイトイフノデスカ。コンナヨイ晩ニハオイデ下サツテモ、ヨササウナモノデスネ〔コン〜傍線〕。
 
○闇夜有者《ヤミナラバ》――新訓にヤミヨナラバと訓んでゐるが、ここは闇夜の二字でヤミとよむべきである。卷十一にも、暮月夜曉闇夜乃朝影爾《ユフツクヨアカトキヤミノアサカゲニ》(二六六四)とあつて、ヤミヨとは訓み得ないところである。○宇倍毛不來座《ウベモキマサジ》――來まさざらむも宜なりの意。○伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》――「而」は耐などの誤れるか」と略解にあり、古義にも「而は耐の省文なるべし」とあるが、而をテの假名に用ゐた例は多く、ここは濁音になつてゐるが、その例も多いのである。耐をデの假名に用ゐた例も無く、從つて誤とも省文とも思はれない。
〔評〕 女らしい優雅な作品で、暗香疎影、月前の梅花に對して人を待つ氣分があはれである。結句の伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》が詰るが如く怨むが如く、洵にあはれに聞える。
 
天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村贈(レル)2入唐使(ニ)1歌一首并短歌
 
續紀に「天平四年八月以2從四位下多治比眞人廣成1爲2遣唐大使1從五位下中臣朝臣名代爲副使」と(541)見えてゐるから、その時の遣唐使であらう。卷五に山上憶良のよんだ好去好來歌(八九四)もこの時のことであるし遣唐使を入唐使とも呼んだので、その例は卷九の一七八四、卷十九の四二四〇・四二四五・四二六三にもある。
 
1453 玉襷 かけぬ時無く いきの緒に 吾が念ふ君は うつせみの みことかしこみ 夕されば 鶴が妻喚ぶ 難波潟 三津の崎より 大船に 眞楫しじ貫き 白浪の 高き荒海を 島傳ひ い別れ行かば 留まれる 我は幣引き 齋ひつつ 君をばやらむ はや還りませ
 
玉手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 氣緒爾《イキノヲニ》 吾念公者《ワガモフキミハ》 虚蝉之《ウツセミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 夕去者《ユフサレバ》 鶴之妻喚《タヅガツマヨブ》 難波方《ナニハガタ》 三津埼從《ミツノサキヨリ》 大舶爾《オホブネニ》 二梶繁貫《マカヂシジヌキ》 白浪乃《シラナミノ》 高荒海乎《タカキアルミヲ》 島傳《シマヅタヒ》 伊別往者《イワカレユカバ》 留有《トドマレル》 吾者幣引《ワレハヌサヒキ》 齊乍《イハヒツツ》 公乎者將往《キミヲバヤラム》 早還萬世《ハヤカヘリマセ》
 
(玉手次)心ニカケナイ時モナク、命ニカケテ私ガ思ツテヰル貴方ハ、天子樣ノ〔四字傍線〕(虚蝉之)命令ガ畏多イノデ、勅ノマニマニ〔六字傍線〕、夕方ニナルト鶴ガ妻ヲ呼ンデ鳴イテヰル難波潟ノ三津ノ埼カラシテ、大船ニ左右ノ楫ヲ澤山ニ貫イテ白浪ノ高ク立チ騷グ荒海ヲ、島々ノ間ヲ傳ツテ漕ギ出シテ〔五字傍線〕、別レテオ出カケナサルト、後ニ遺サレテ〔六字傍線〕留ツテヰル私ハ、幣ヲ手ニ持ツテ神樣ヲ祭リナガラ、アナタヲオ送リシマセウ。ドウゾ御無事デ〔七字傍線〕早クオ歸リナサイマシ。
 
○葺玉手次《タマダスキ》――枕詞。懸につづく。五參照。○氣緒爾吾念公者《イキノヲニワガモフキミハ》――イキノヲニオモフは卷七、氣緒爾念有吾乎《イキノヲニオモヘルワレヲ》(一一六〇)にもあるやうに、命にかけて思ふこと。○虚蝉之《ウツセミノ》――枕詞。命《ミコト》のミにつづいてゐる。現身《ウツセミ》の身といふのである。代匠記精撰本には、「今按空蝉之の下に世人有者大王之《ヨノヒトナレバオホキミノ》と云二句を落せり。其例證は第九に、神龜五年戊辰秋八月歌の中に、死毛生毛君之隨意常念乍有之間爾虚蝉乃代人有者大王之御命恐美《シニモイキモキミガマニマトオモヒツツアリシアヒダニウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》云々。又天平元年己已冬十二月の歌發端に云。虚蝉乃世人有者大王之御命恐彌《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》云々、此に准らへて知べしとあつて、略解・古義などもこれに從つてゐる。○二梶繁貫《マカヂシジヌキ》――マカヂは左右の楫をいふ。○伊別往者《イワカレユカバ》――イは接頭語で意味はない。○吾者弊引《ワレハヌサヒキ》――舊訓ワレハタムケニとあるが、考に引を取の誤として、ヌサトリとよんだのが多く行はれてゐる。し(542)かし契沖が「ヌサヒキとよむべきか」といつたのに從はう。幣引は幣を手向けることであらう。○齊乍《イハヒツツ》――イハフは神を祭る。齊は齋に通じて用ゐたのであらう。○公乎者將往《キミヲバヤラム》――舊訓にかうあるのを代匠記に往を待の誤として、キミヲバマタムとしてゐる。和禮立待速歸坐勢《ワレタチマタムハヤカヘリマセ》(八九五)とあるに傚つたのであらうが、舊のままでよい。
〔評〕 これは入唐使への餞別の歌で、これと内容を等しくしたものが、卷五には雜歌として出てゐる、卷六の藤原宇合卿西海道節度使に遣はされた時、高橋連蟲麿の作つた歌なども、略、似た内容であるが、やはり雜歌となつてゐる。相聞はもとより戀愛には限らないが、ここに收めねばならぬ作とは思はれない。これが春閏三月の作であるのと、友を思ふ情がよくあらはれてゐるので、ここに置いたものか。
 
反歌
 
1454 波の上ゆ 見ゆる兒島の 雲がくり あないきづかし 相別れなば
 
波上從《ナミノウヘユ》 所見兒島之《ミユルコジマノ》 雲隱《クモガクリ》 穴氣衝之《アナイキヅカシ》 相別去者《アヒワカレナバ》
 
アナタト〔四字傍線〕オ別レシタナラバ。アナタノオ船ハ〔七字傍線〕波ノ上カラ見エル小サイ島ノヤウニ、雲ニ隱レテンマツテ、私ハアア嘆息セラレルコトデアラウ〔六字傍線〕。
 
○所見兒島之《ミユルコジマノ》――兒島は小さい島。略解に「兒島は備前也」とあるのは誤であらう。之《ノ》は、の如く。○穴氣衝之《アナイキヅカシ》――嗚呼息吐かしきことよ。氣突之《イキヅカシ》は嘆息せられること。ここは相別去者《アヒワカレナバ》と未來に言ふとすれば、イキヅカシカラムと言ふべきであるが、決定的事實としてかう述べたのであらう。卷十四の阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母埋沼乃安奈伊伎豆加思美受比佐爾指天《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノアナイキヅカシミズヒサニシテ》(三五四七)はその無理がなく出來てゐる。○相別去者《アヒワカレナバ》――略解にアヒワカレイネバ、新考にアヒワカレユケバとあるが從ひ難い。
〔評〕 初二句は卷十一の浪間從所見小島之濱久木《ナミノマユミユルコジマノハマヒサギ》(二七五三)と似てゐる。或はこれに傚つたものか。淋しい心をあらはすにはふさはしい譬喩である。併し三句以下、少しく叙法に無理があるのではないかと思はれる。
 
(543)1455 たまきはる 命に向ひ 戀ひむゆは 君がみ船の 楫からにもが
 
玉切《タマキハル》 命向《ノチニムカヒ》 戀從者《コヒムユハ》 公之三舶乃《キミガミフネノ》 梶柄母我《カヂカラニモガ》
 
私ハアナタニオ別レシテ〔私ハ〜傍線〕(玉切)命ニ代ヘル程モアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思フヨリハ、アナタノ乘ツテオイデナサル〔九字傍線〕船ノ、楫ノ柄ニデモナツテ、始終オ側ヲ離レナイヤウニシ〔テ始〜傍線〕タイモノデス。
 
○玉切《タマキハル》――枕詞。命とつづくのは、魂に極りある命の意。四參照。○梶柄母我《カヂカラニモガ》――梶柄はカヂツカとカヂカラとの兩訓がある。柄は集中の用例を見ると、多くカラとよんであり、稀にエにも用ゐてある。ツカとよんだ例は見あたらぬ。詞として考へると、楫には柄《カラ》といふよりもツカといふ方がよいやうであるが、字鏡に〓保己乃加良とあつて,桙の柄をカラといつてゐるから、ここもカヂカラがよいのである。
〔評〕 熱烈な惜別の情をあらはし得てゐる、御船の楫の柄にもなりたいといつたのは、類例のない寄拔な言ひ方である。
 
藤原朝臣廣嗣櫻花(ヲ)贈(レル)2娘子(ニ)1歌一首
 
廣嗣は式部卿宇合の第一子。卷六の一〇二九參照。
 
1456 この花の 一よのうちに 百くさの 言ぞこもれる おほろかにすな
 
此花乃《コノハナノ》 一與能内爾《ヒトヨノウチニ》 百種乃《モモクサノ》 言曾隱有《コトゾコモレル》 於保呂可爾爲莫《オホロカニスナ》
 
私ガ今貴女ニアゲマス〔私ガ〜傍線〕コノ櫻ノ花ノ一|瓣《ヒラ》ノウチニ、私ガ言ハウト思フ〔八字傍線〕イロイロノ言葉ガ籠ツテヰマスヨ。デスカラコノ花ヲ〔八字傍線〕アダヤオロカニ思ヒナサルナ。
 
○一興能内爾《ヒトヨノウチニ》――一與《ヒトヨ》は花瓣の一片をいふのであらう。他に考へ方がないやうである。
〔評〕 卷二に三芳野乃玉松之枝者波思吉香聞君之御言乎持而加欲波久《ミヨシヌノタママツガエハハシキカモキミカミコトヲモチチカヨハク》(一一三)のやうに、思ひを櫻花に托したのである。ヒトヨに對してモモクサと言つてゐるのも巧で、才氣のあらほれた歌である。
 
(544)娘子和(フル)歌一首
 
1457 この花の 一よのうちは 百くさの 言持ちかねて 折らえけらずや
 
此花乃《コノハナノ》 一與能裏波《ヒトヨノウチハ》 百種乃《モモクサノ》 言持不勝而《コトモチカネテ》 所折家良受也《ヲラエケラズヤ》
 
アナタハコノ花ノ一瓣ノウチニ、イロイロノ言葉ガコモツテヰルトオツシヤリマスガ、ナルホド〔アナ〜傍線〕コノ櫻ノ花ノ瓣ノウチニハ、イロイロノ言葉ヲ、モチキレナイデ、アマリノ〔七字傍線〕重サニ折ラレテシマツタノデハアリマセンカ。
 
○一與能裏波《ヒトヨノウチハ》――一|瓣《ヨ》の内にはの意。○所折家良受也《ヲラエケラズヤ》――舊訓ヲラレケラズヤとあるが、ヲラエと訓む方が古意であらう。折られたではないかの意。
〔評〕 折つて贈つて來た櫻の枝を、相手の歌の意を受けて、一瓣の内に籠つた、その百種の言葉の重さによつて、折れたやうに言ひなしたのは、なかなか隅に置けない娘子である。機智を以てすぐれた歌。
 
厚見王贈(レル)2久米女郎(ニ)1歌一首
 
厚見王は卷四の六六八參腰。久米女郎はよく分らない。古義には久米連若賣のことかとある。若賣は石上乙麿と姦して下總に流された人で、右大臣藤原百川の母である。
 
1458 やどにある 櫻の花は 今もかも 松風はやみ 地に落つらむ
 
屋戸在《ヤドニアル》 櫻花者《サクラノハナハ》 今毛香聞《イマモカモ》 松風疾《マツカゼハヤミ》 地爾落良武《ツチニオツラム》
 
アナタノ〔四字傍線〕家ニ咲イテヰル櫻ノ花ハ、今頃ハ松風ガヒドク吹クノデ、地面ニ散ツテヰルデセウ。イカガデスカ〔六字傍線〕。
 
○屋戸在《ヤドニアル》――次に屋戸爾有《ヤドニアル》とあるによつて、爾の字が脱ちたものと見る説もあり、又このままでヤドナルと四音によまうとするものもある。ここはこの儘でヤドニアルとよむことにする。この屋戸《ヤド》は久米女郎の宿である。○地爾落良武《ツチニオツラム》――舊訓ツチニチルラムとあるのを略解にツチニオツラムと改めたのに從ふ。落の字は梅花開而(545)落去登《ウメノハナサキテチリヌト》(四〇〇)の如き用例もあるが、ここはオツと言つてもよいやうに思はれる。
〔評〕 イマモカモを受けて下にラムと結んだ例は他に數首あつて、形式的には新しいとは言ひ難いが、宿の櫻の松風に散るのを想像したのは、實に優雅な趣の上に立つてゐる。厚見王はいつも上品な歌を作られるお方である。
 
久米女郎報贈(レル)歌一首
 
1459 世のなかも 常にしあらねば やどにある 櫻の花の 散れる頃かも
 
世間毛《ヨノナカモ》 常爾師不有者《ツネニシアラネバ》 屋戸爾有《ヤドニアル》 櫻花乃《サクラノハナノ》 不所比日可聞《チレルコロカモ》
 
仰ル通リ私ノ家ノ櫻ノ花ハ散ツテヰマス〔仰ル〜傍線〕。世間ト云フモノハ、無常ナモノデスカラ、私ノ〔二字傍線〕ノ櫻ノ花モ今日コノ頃、散ツテ居リマスヨ。
 
○不所比日可聞《チレルコロカモ》――代匠紀初稿本に、「不所をちれるとよめるは、もとの所にあらぬは、花にてはちるなれば、義をもてかけるなり」とあり。同精撰本には、「不所は、今按、ちれるもおつるも義訓背かねど、うつると讀て散を云と意得べきにや、神代紀に移の字をちるとよめり」とある。考にはウツロフコロカモとある。不所の二字は少し穩やかでないやうに思はれるが、暫く舊訓に從つて置く。この句は花の散れるこの頃よの意で、即ち今日この頃、花が散つてゐますよの意。
〔評〕 厚見王が松風疾地爾落良武《マツカゼハヤミツチニオツラム》と仰になつたのに對して、世間毛常爾師不有者《ヨノナカモツネニシアラネバ》と理窟を附けて、佛教の無常觀へ持つて行つたのは面白くない。王の御歌に比して劣つてゐる。なほこの歌、古義に、「これにて思へば花も一時、我身も一時にて君に訪れむも今しばらくの間にて、ほどなく見苦しきものになり、老はてむとおもへば、あはれかなしき世間にてあらずやはとの下心なり」と解してゐるのは當つてゐない。こんな寓意などはありさうに思はれない。
 
(546)紀女郎、贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌二首
 
紀女郎は卷四の七六二・七六三‥七七六などにも家持に贈つた歌が出てゐる。古義に、紀女郎の下に、折攀合歡木花并茅花の九字を補つたのは、左註によつて猥りに改めたのである。從ふべきでない。
 
1460 わけがため 吾が手もすまに 春の野に 拔ける茅花ぞ めして肥えませ
 
戯奴《ワケ》【變云和氣】之爲《ガタメ》 吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》 春野爾《ハルノヌニ》 拔流茅花曾《ヌケルツバナゾ》 御食而肥座《メシテコエマセ》
 
コレハ〔三字傍線〕オマヘノ爲ニ私ノ手モ休メズニ春ノ野デ拔イタ茅花デスゾヨ。コレヲ今アゲマスカラ〔コレ〜傍線〕食ベテ肥リナサイ。
 
○戯奴《ワケ》【變云和氣】之爲《ガタメ》率――戯奴《ワケ》は卷四に吾君者和氣乎波死常念可毛《ワガキミハワケヲバシネトオモヘカモ》(五五二)・勤和氣登將譽十方不在《イソシキワケトホメムトモアラズ》(七八〇)の和氣と同じで、もと一人稱代名詞であつたものを、二人稱に用ゐたものらしい。ともかく汝の意で相手を見下げた言葉であるが、ここは戯れて言ふので戯奴と記したものか。新考には「案ずるにワケは奴といふことなるべし。さればこそ人にも自にもいふなれ」といつてゐる。なほ考ふべき語である。變云和氣の四字は筆者の自註で、戯奴 では訓み難いから訓法を記したのである、變は卷五の八九四に反云2大命1、反云2布奈能閇爾1とあるから、反と同じくカヘシテと訓むのであらう。變を反の誤とするのはよくない。變・反の二字相通ずるのである。○吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》――須麻爾《スマニ》は代匠記に「手もひまなくといふ心なり」、考に「吾手も不休《ヤスマズ》にといふ歟」、略解に「宣長は數《シバ》にの意歟と言へり」とある。休まずの古形、休まにのヤを略した形か。ともかく休まず、暇なくなどの意である。下に、手母須麻爾殖之芽子爾也還者雅見不飽情將盡《テモスマニウヱシハギニヤカヘリテハミレドモアカズココロツクサム》(一六三三)ともある。散木集に、「山吹のみきはもすまに咲きぬれば洗ふさ波もいとなかりけり」とあるのは、更に轉じたものか。○御食而肥座《メシテコエマセ》――御食而はヲシテとも訓めさうであるが、武奈伎取食《ムナギトリメセ》賣世《メセ》反也(三八五三)とあるから、メシテとよむべきである。當時茅花を食へば肥えると信ぜられてゐたものと見える。
〔評〕 卷十六の石麻呂爾吾物申夏痩爾吉跡云物曾武奈伎取食《イシマロニワレモノマヲスナツヤセニヨシトイフモノゾムナギトリメセ》(三八五三)は大伴家持が吉田連右麻呂の痩躯を咄つた(547)歌であるが、實は彼自身痩せた男であつたらしく、紀女郎にかうして揶揄せられてゐる。戯奴《ワケ》といふやうな言葉を用ゐてゐるのみならず、歌全躰がまことに輕い調子で、はすば〔三字傍点〕な女らしく詠まれてゐる。この歌袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1461 晝は咲き 夜は戀ひ宿る 合歡木の花 君のみ見めや わけさへに見よ
 
晝者咲《ヒルハサキ》 夜者戀宿《ヨルハコヒヌル》 合歡木花《ネブノハナ》 君耳將見哉《キミノミミメヤ》 和氣佐倍爾見代《ワケサヘニミヨ》
 
晝ノ間ハ花ガ〔二字傍線〕開イテヰタ、夜ニナルト戀ヒ慕ヒナガラ葉ガ〔二字傍線〕眠ル合歡ノ花ヲ、私バカリデ見ルトイフコトハナイ。コレヲオマヘニ贈ルカラ〔コレ〜傍線〕、オマヘモ亦見ナサイ。
 
○合歡木花《ネブノハナ》――合歡木は今ネムノキといふもので、山野に貝生する落葉喬木、葉は二回羽状複葉で、多數の小葉から成り、小葉は夜になると閉合する。ネムノキは即ち眠りの木の意で、葉の閉合することから得た名である、花は紅色で刷毛のやうに見えて可憐である。成夏の頃開く。この上句は、花が晝咲いて夜萎むやうにきこえるが、夜萎むのは葉であるから、晝花が咲いて、葉が夜萎む合歡木の花といふのであらう。咲を開の借字とし、第一句も葉が晝開くものとしても見られぬこともないが、咲の字は他の用例を見ると、必ず花の咲くことか、又は笑ふ義にのみ用ゐてあるから、恐らくさうではあるまい。なほ合歡の花は夕刻以前に開くものである。○君耳將見哉《キミノミミメヤ》――君を吾の誤とする説が多い。これも尤もであるが、ここは相手を戯奴《ワケ》と言つたに對して、戯れて自分を君といつたものと見るべきやうに思はれる。卷四の五五二でも、またこの歌でも、次の歌でも、戯奴に對照して君を用ゐた例が多いのに注意したい。もし新考の解の如く、ワケを奴の意とすれば、なほ更右の見解でよいやうに思はれる。
〔評〕 右に述べたやうに、上句が少し不明瞭なのは缺點であるが、合歡木の葉が夜萎むのを戀宿《コヒヌル》と心ありげに言つたのは面白い。但しこれを作者が家持を戀ふる心を寓したやうに見るのは當るまい。これは唯歌を面白くす(548)る爲の技巧に過ぎない。
 
右折2攀(ヂテ)合歡花并茅花(ヲ)1贈(レル)也
 
折攀の二字は珍らしい熟語である。意は折り引くことで、攀ぢ登るのではない。茅花には攀ぢ登ることは出來ない。攀の字は集中に多く用ゐられてゐるが、いづれも木に攀ぢ上ることとは解せられぬもののみである。攀而手折都見末世吾妹兒《ヨヂテタヲリツミマセワギモコ》(一五〇七)・引攀而折者可落《ヒキヨヂテヲラバチルベミ》(一六四四)・引攀而峯文十遠仁《ヒキヨヂテエダモトヲヲニ》(三三二三)・引登而折毛不折毛《ヒキヨヂテヲリモヲラズモ》(四一八五)・引攀而袖爾古伎禮都《ヒキヨヂテソデニコキレツ》(四一九二)・攀2橘花1(一五〇七)・攀2非時藤花竝芽子黄葉二物1(一六二七)・攀2折堅香子草花1歌一首(四一四三)の例が明らかに示してゐる。一體、攀の字は廣韻に「※[手偏+反]音班挽也、又音攀同※[手偏+反]」とあり攀を※[手偏+反]にも作るのである。國語晋語に「攀輦即利而舍、韋昭注引也」とあり、李白詩に「籍革依流水攀花贈遠人」とあるのも木に登ることではなく、引又は折ると解すべきである。なほ集中假名書きになつてゐる。乎佐刀奈流波奈多知波奈乎比伎余知?《ヲサトナルハナタチバナヲヒキヨヂテ》(三五七四)・妹手取而引與治《イモガテヲトリテヒキヨヂ》(一六八一)・青柳乃保都枝與治等理《アヲヤギノホヅエヨヂトリ》(四二八九)などもいづれも同樣である。これによつて考へると、攀の字もヨヅといふ國語も共に、木に登ることではなく、引くの意で、稀に折ることにもなるのである。なほ、盛夏の候に咲くべき合歡木と、春の茅花とを同時に贈つたのは不思議である。これについて略解には、茅花三月、合歡の花は六月比さくなれば時異なり。是は藥に服せんために拔てたくはへ置たるを贈れるなるべし」とあるが、さらばこれを夏の部に入れなければならない。考には「前の歌は茅花にて春なり。合歡木の花は六月咲ければ夏なり。仍て一時の歌ならねど、同じ人と同じ意をよみかはせるなれば思ひ出る序にかくかかれしならん」とあるが、ここの書きぶりを見ても、歌の風を見ても、別の時の作とは考へられない。右のいづれに從ふべきか、判斷に苦しむところである。ここは略解の説に從ひ、前の歌に、春野爾拔流茅花曾《ハルノヌニヌケルツバナゾ》とあるによつて季を定めて、春相聞に入れたものとしたいと思ふ。
 
大伴家持贈(リ)和(フル)歌二首
 
1462 吾が君に わけは戀ふらし たばりたる 茅花をはめど いや痩せに痩す
 
(549)吾君爾《ワガキミニ》 戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》 給有《タバリタル》 茅花乎雖喫《ツバナヲハメド》 彌痩爾夜須《イヤヤセニヤス》
 
アナタニ私ハ戀シテヰルト見エマス。何故ナレバアナタガ私ガ肥レト言ツテ贈ツテ〔何故〜傍線〕下サツタ、茅花ヲ食ベテモ、イヨイヨ瘠セルバカリデス。
 
○戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》――紀女郎が家持を戯奴《ワケ》と言つたのを、そのまま受けて、家持自から戯奴《ワケ》と稱したのである。○給有《タバリタル》――舊訓タマヒタルとあるが、新訓にタバリタルとしたのがよい。○茅花乎雖喫《ツバナヲハメド》――舊訓ツバナヲクヘドとあるが、代匠記精撰本に傚つてツバナヲハメドとしよう。喫の字は鳥者雖不契《トリハハマネド》(一八五六)・屎鮒喫有《クソブナハメル》(三八二八)・喫烏《ハムカラス》(三八五六)などハムとよんだ例が多い。
〔評〕 殊更に戯れて戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》とか、茅花乎雖喫彌痩爾夜須《ツバナヲハメドイヤヤセニヤス》などと言つてまことに輕い氣分の作である。この歌と前の戯奴之爲《ワケガタメ》(一四六〇)との二首を一括して、卷十六の戯咲歌、石麻呂爾吾物申《イシマロニワレモノマヲス》(三八五三)の歌と並べてもよいやうに思はれる。この歌、袖中抄と和歌童蒙抄とに出てゐる。
 
1463 吾妹子が 形見の合歡木は 花のみに 咲きて蓋しく 實に成らじかも
 
吾妹子之《ワギモコガ》 形見乃合歡木者《カタミノネブハ》 花耳爾《ハナノミニ》 咲而蓋《サキテケダシク》 實爾不成鴨《ミニナラジカモ》
 
アナタガ形見トシテ贈ツテ〔三字傍線〕下サツタ合歡ノ花ハ、多分花バカリ咲イテ實ニナラナイノデハナイデスカ。アナタモ口バカリデ、眞實ノ間柄ニハナラナイノデハアリマセンカ〔アナ〜傍線〕。
 
○形見乃合歡木者《カタミノネブハ》――形見は記念となるもの、又は記念として遺して置いたものをいふ。併し卷十六の三八〇九の左註に、右傳云、時有2所v幸娘子1也【姓名未詳】寵薄之後、還2賜寄物1【俗云可多美】於v是娘子怨恨聊作2斯歌1獻上とあつて、寄物を可多美と註してゐるのは、恰もここの形見と一致してゐる。即ち他からの贈物である
〔評〕 折つて來た合歡の花だから、花のみ咲いて實にならぬのは當然である。作者の言葉はその意味で言つてゐるかどうか明らかでないが、さう考へた方が、歌に滑稽味があつて面白いやうである、併しこの思想はげ波之吉也思吾家乃毛桃本繁花耳開而不成在目八方《ハシキヤシワギヘノケモモモトシゲクハナノミサキテナラザラメヤモ》(一三五八)・欲見戀管待之秋芽子者花耳開而不成可毛將有《ミマクホリコヒツツマチシアキハギハハナノミサキテナラズカモアラム》(一三六四)な(550)どにも見えて、類型的といふことが出來る。
 
大伴家持贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌一首
 
1464 春霞 たなびく山の へなれれば 妹に逢はずて 月ぞ經にける
 
春霞《ハルガスミ》 輕引山乃《タナビクヤマノ》 隔者《ヘナレレバ》 妹爾不相而《イモニアハズテ》 月曾經爾來《ツキゾヘニケル》
 
久邇ノ都ト奈良トハ〔九字傍線〕、春霞ガ棚引イテヰル山ガ、間ニ隔ツテヰルノデ、自由ニ通ヘズ〔六字傍線〕、アナタニ逢ハナイデコノ〔二字傍線〕月モ經ツテシマツタヨ。
 
○隔者《ヘナレレバ》――舊訓ヘダタレバとあるのでもよいが、隔の字ハヘタツともヘナルともよんであるから、卷十一、山隔愛妹隔有鴨《ヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》(二四二〇)・卷十二、青垣山之隔者《アヲガキヤマノヘナリナバ》(三一八七)の例により、又この作者が、同じく坂上大孃を思つて詠んだ、卷四の一隔山重成物乎月夜好見門爾出立妹可將待《ヒトヘヤマヘナレルモノヲツクヨヨミカドニイデタチイモカマツラム》(七六五)に傚つて、ここはヘナレレバとよむことにする。
〔評〕 左註の如く久邇宮から寧樂の宅へ贈つたもの。右に掲げた卷四の一隔山《ヒトヘヤマ》の歌と全く同一氣分で、同じ頃の作であらうと、思はれる。ここの數首は、卷四の卷末に近い部分と、内容が似通つてゐる。
 
右從2久邇京1贈(ル)寧樂宅(ニ)1
 
寧樂から久邇へ遷都せられた、天平十三年春のことであらう。家持は單身久邇へ赴いてゐたのである。
 
(551)夏雜歌
 
藤原夫人歌【明日香清御原宮御宇天皇之夫人也字曰2大原大刀自1即新田部皇子之母也】
 
卷二の一〇三に見えた藤原夫人で、天武天皇の夫人、鎌足の二女五百重娘である。夫人は宣長がキサキと訓んだのに對して、雅澄はオホトジとよむべしと言つてゐる。
 
1465 ほととぎす いたくな鳴きそ 汝が聲を 五月の玉に あへぬくまでに
 
霍公鳥《ホトトギス》 痛莫鳴《イタクナナキソ》 汝音乎《ナガコヱヲ》 五月玉爾《サツキノタマニ》 相貫左右二《アヘヌクマデニ》
 
マダ四月ダカラ郭公モヒドク啼クナヨ。五月ニナツテオマヘノ鳴ク聲ヲ、五月ニ拵ヘル藥〔六字傍線〕玉ニ混ゼテ、糸ニ〔二字傍線〕通サウト思フカラ、ソレ〔六字傍線〕マデハ、ヒドクナクナヨ。今ノウチニ鳴イテシマツテハ惜シイモノダ〔ヒド〜傍線〕。
 
○五月玉爾《サツキノタマニ》――五月の節に飾る玉、即ち藥玉。麝香・沈香・丁子などの藥を錦の袋に入れ、蓬・菖蒲又は造花を結附け、五色の糸を垂れたもの。五月五日これを室内に掛け、又は身に添へて邪氣・惡疫を除き、延命の呪とする。續命縷・長命縷といふ。○相貫左右二《アヘヌクマデニ》――交へ貫く頃まではの意。郭公の聲を藥玉に交へて、糸に貫くのである。卷十七、和我勢故婆多麻爾母我毛奈保等登伎須詐惠爾安倍奴伎手爾麻伎底由加牟《ワガセコハタマニモガモナホトトギスコヱニアヘヌキテニマキテユカム》(四〇〇七)・卷十九、霍公鳥喧始音乎橘珠爾安倍貫《ホトトギスナクハツコヱヲタチバナノタマニアヘヌキ》(四一八九)など類似した例が多い。
〔評〕 四月に早く喧く郭公を惜しんだのであるが、郭公の聲を藥玉と一緒に交へ貫くといふのが、この作の構想の中心となつてゐる。もとより不可能のことであるけれでも、かうした空想的な點が面白いのである。時代が古いから、この種の詩想の前驅をなした作といつてよからう。
 
(552)志貴皇子御歌一首
 
1466 神名火の 磐瀬の杜の ほととぎす ならしの岳に いつか來鳴かむ
 
神名火乃《カムナビノ》 磐瀬乃杜之《イハセノモリノ》 霍公鳥《ホトトギス》 毛無乃岳爾《ナラシノヲカニ》 何時來將鳴《イツカキナカム》
 
神名火ニアル磐瀬ノ森ニヰル郭公ヨ、コノ〔二字傍線〕奈良思ノ岡ニハ、イツ來テ鳴クノダラウ。早ク來レバヨイニ〔八字傍線〕。
 
○神名火乃磐瀬乃杜之《カムナビノイハセノモリノ》――前に、神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥《カムナビノイハセノモリノヨブコドリ》(一四一九)とあつた。龍田町の南方、車瀬にある。○毛無乃岳爾《ナラシノヲカニ》――毛無をナラシと訓むのは、代匠記に「左傳曰、食3土之|毛《クサ》誰非2君臣1、【毛草也】史記鄭世家云、錫《タマフ》2不毛之地1、【何休云、※[土+堯]※[土+角]不生五穀曰不毛也】」の例を引いて毛を草とし、毛無は、人がふみならして草のなき心であるといつてゐる、この毛無乃岳《ナラシノヲカ》は下に、古郷之奈良思之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトトギス》(一五〇六)とあるのと同所か。龍田考には「奈良思岡とよめるは、岩瀬杜のあたりより東南をかけて、弘く南さがりの岡なるを、古くより悉畑にすきかへして、いと弘き畑あり。此あたりを古へよりひろくならしの岡といへりしなるべし」といつてゐる。これは大日本地名辭書に、「奈良志岡。龍田村の南なる小吉田車瀬目安の邊を曰ふ。神南山と龍田川を隔てて其東方なり。磐瀕森は其北に在り」とあるのに一致するやうである。然るに辰己利文氏は大和萬葉地理研究に於て、生駒郡三郷村立野字|坂上《サカネ》に、俗にオヤシキと稱せられる台地があつて、そこが大伴坂上郎女の住んでゐた坂上里らしく、又この坂上から信貴山朝護孫子寺に至る山道のほとりに、俗にケナシと稱する台地があるが、そこが毛無之岳であり、奈良思之岡であらうといふ意味を委しく述べてゐられる。生駒郡三郷村史にも「毛無丘は坂上にあり」とあるといふことである。なほ攻究すべき問題であるが、奈良志は平石《ナラシ》とも記して、天武紀に、「初將軍吹負向2乃樂1至2稗田1之日、有v人曰、自2河内1軍多至、則遣2坂本臣財1……率2三百軍士1距2於龍田1、……是日坂本臣財等次2于平石野1」とあるところであるから、龍田方面なることは明らかである。
〔評〕 素純な平明な作である。志貴皇子の作にはかうした風趣のものが多い。
 
(553)弓削皇子御歌一首
 
弓削皇子は天武天皇の皇子。一一一參照。
 
1467 ほととぎす 無かる國にも 行きてしか その鳴く聲を 聞けば苦しも
 
霍公鳥《ホトトギス》 無流國爾毛《ナカルクニニモ》 去而師香《ユキテシカ》 其鳴音乎《ソノナクコヱヲ》 聞者辛苦母《キケバクルシモ》
 
郭公ノ居ナイ國ニ行キタイモノダナア。私ハ〔二字傍線〕アノ郭公ノ鳴ク聲ヲ聞クト、何ダカ悲シクナツテ〔九字傍線〕胸ガ苦シイワイ。
 
○無流國爾毛《ナカルクニニモ》――無くある國にも。無い國にもといふに同じ。
〔評〕 郭公の聲はめづらしく面白いものとのみよまれてゐるのに、これはその聲によつて憂を増すのを苦しんだので、何か御心に悲しみ給ふことがあらせられたのであらう。悲痛な叫びである。代匠記に「宋人の詩云、客情唯有2夜難1v過、宿處先尋無2杜鵑1。此意相似たり」とある。
 
小治田《ヲハリタノ》廣瀬王霍公鳥歌一首
 
廣瀬王は天武天皇紀に「十年三月丙戍詔2云々廣瀬王云々1令v記2定帝紀及上古諸事1十三年二月庚辰、遣2淨廣肆廣瀬王云云等於畿内1令v看2占應v都之地1、十四年九月甲寅遣云々廣瀬王於京及畿内1各令2v校人夫之兵1。」持統天皇紀に、「六年二月丁酉朔丁未、詔2諸官1曰當以2三月三日1將v幸2伊勢1云々、三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王云々等1爲2留守官1。續紀「文武天皇大寶二年十二月乙卯、以2從五位下廣瀬王1爲2造大殿垣司1、三年十月丁卯任2太上天皇御葬司1云々、廣瀬王云々爲2御装副1、元明天皇和銅元年三月丙午、從四位上廣瀬王爲2大藏卿1元正天皇養老二年正月庚子、正四位下、六年正月庚午、散位正四位下廣湍王卒」と見えてゐる。小治田は推古天皇の小墾田宮のあつたところで、即ち今の高市郡高市村あたりである。ここにこの王が住み給うたのであらう。
 
1468 ほととぎす 聲聞く小野の 秋風に 萩咲きぬれや 聲の乏しき
 
(554)霍公鳥《ホトトギス》 音聞小野乃《コエキクヲヌノ》 秋風《アキカゼニ》 芽開禮也《ハギサキヌレヤ》 聲之乏寸《コヱノトモシキ》
 
郭公ノ鳴く〔二字傍線〕聲ガイツモ〔三字傍線〕聞エル野ニ來テ見ルト、メツキリ、鳴カナクナツタガ、モハヤ〔野ニ〜傍線〕秋風ガ吹イテ、萩ノ花ガ咲イタノデ、コンナニ郭公〔六字傍線〕ノ聲ガ少イノデアラウ。
 
○芽開禮也《ハギサキスレヤ》――萩咲きぬればやの意。○聲之乏寸《コヱノトモシキ》――このトモシは少いこと。羨ましではない。
〔評〕 かなり際味な歌である。夏の郭公の歌に秋風や萩を持つて來たのが異樣の感がある。これは早咲の萩で夏ながら早くも咲いてゐるのを見て、郭公の聲がしないのも道理だと、自からうなづいた歌である。代匠記に「秋風吹きて萩も咲かぬに、など聲のすくなきぞとよまれたるなり」とあるがさうではない。ともかくその野に出てよんだのである。材料の取合が珍らしい爲に、誤解され易いのは遺憾である。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
沙彌霍公鳥謌一首
 
沙彌とのみあるのは如何なる人か、分らない。集中、三方沙彌沙彌女王・沙彌滿誓の名が見えるが、歌に家有妹《イヘナルイモ》とあるから、女王でも滿誓でもあるまい。代匠記には沙彌の上、三方の二字が脱ちたものとしてゐる。三方沙彌は卷二の一二三參照。
 
1469 あしびきの 山ほととぎす 汝が鳴けば 家なる妹し 常に思ほゆ
 
足引之《アシビキノ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 汝鳴者《ナガナケバ》 家有妹《イヘナルイモシ》 常所思《ツネニオモホユ》
 
(足引之)山ノ郭公ヨ、オマヘガ鳴クト、和ハ〔二字傍線〕家ニ置イテ來タ妻ガイツデモ思ヒ出サレル。
〔評〕 旅中などの作であらう。極めて平易で、はつきりしてゐる。調子だけは人麿の、淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバココロモシヌニイニシヘオモホユ》(二六六)に似てゐるが、歌品は遠く及ばない。
 
(555)刀理宣令歌一首
 
卷三の三一三參照。
 
1470 もののふの 石瀬の杜の ほととぎす 今も鳴かぬか 山のと陰に
 
物部乃《モノノフノ》 石瀬之杜乃《イハセノモリノ》 霍公鳥《ホトトギス》 今毛鳴奴《イマモナカヌカ》 山之常影爾《ヤマノトカゲニ》
 
(物部乃)石瀬ノ森ニ住ンデヰル郭公ヨ。コノ〔二字傍線〕山ノ蔭デ今鳴イテクレナイカヨ。私ハ今オマヘノ聲ヲ聞キタイノダカラ〔私ハ〜傍線〕。
 
○物部乃《モノノフノ》――枕詞。石瀬《イハセ》につづくについて、代匠記には「もののふの屯聚《イハム》といふ心にいひかけたるなり。いはむは陣を張居る心なり。(中略)又いはむといふは陣を張心のみにもあらず、みちあふるる心なり」とある。この説が廣く行はれてゐるが、少し物遠い説である。仙覺抄に、武士は弓を射、馬を馳せるから射馳とつづくと言つてゐるのも少し穩やかでない。恐らく物部の八十とつづくのと同意で、武士の五十《イ》とつづくのであらう。○今毛鳴奴《イマモナカヌカ》――奴の下、香が落ちたのだらうと契沖は言つてゐる。今も鳴けよの意。○山之常影爾《ヤマノトカゲニ》――常影《トカゲ》は諸説がある。契沖は常に日のめもみぬ影とし、宣長は、たを陰即ち山のたわんだ所の蔭と解してゐる。契沖説は面白くないやうである。なほ代匠記の精撰本には「ともじは發語の詞などのやうにて、山陰と意得べし」とあるが、むしろこれに從ふべきか。
〔評〕 山のと蔭とあるのは何所か、作者の地位が取らかでないのは遺憾である。さして勝れた點もない歌だ。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
山部赤人歌一首
 
1471 戀しけば 形見にせむと 吾がやどに 植ゑし藤浪 いま咲きにけり
 
戀之家婆《コヒシケバ》 形見爾將爲跡《カタミニセムト》 吾屋戸爾《ワガヤドニ》 殖之藤浪《ウヱシフヂナミ》 今開爾家里《イマサキニケリ》
 
(556)女ガ〔二字傍線〕戀シイ時ニハ、女ノ〔二字傍線〕形見ニシヨウト思ツテ、吾ガ家ニ植ヱテ置イタ、藤ノ花ガ今咲イタナア。ホントニ女ノ形見トナツテ、是ヲ見レバ女ニ逢フヤウナ心地ガスル〔ホン〜傍線〕。
 
○戀之家婆《コヒシケバ》――戀しいならば。戀しい時には。女が戀しくなつた時にはの意。契沖が、「前後皆ほととぎすの哥なれば、此こひしければといふは、ほととぎすをいへり」と言つたのは誤つてゐる。○殖之藤波《ウヱシフヂナミ》――藤浪は藤の花。花房が並んで垂れてゐるからいふのであらう。
〔評〕 紫の色なつかしい、姿のやさしい藤浪を植ゑて、戀しい女を偲ぶよすがとした赤人は、まことに優美な感情の持主である。この歌も亦その藤の花のやうなやさしい姿をなしてゐる。
 
式部大輔石上|竪魚《カツヲ》朝臣歌一首
 
石上堅魚朝臣は、續紀「元正天皇養老三年正月壬寅授2從六位下石上朝臣堅魚從五位下1、聖武天皇神龜三年正月庚子從五位上、天平三年正月丙子正五位下、八年正月正五位上」と見えてゐる。
 
1472 ほととぎす 來鳴きとよもす 卯の花の 共にや來しと 問はましものを
 
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令響《キナキトヨモス》 宇乃花能《ウノハナノ》 共也來之登《トモニヤコシト》 問麻思物乎《トハマシモノヲ》
 
郭公ガココヘ來テ頻リニ鳴キ騷イデヰル。郭公ハ〔三字傍線〕卯ノ花ト一緒ニ、死ンダ人ノ魂ト〔七字傍線〕共ニ、ココヘ來タノカト尋ネタイガ、鳥ダカラ尋ネルワケニモユカヌ。郭公ハ冥途ノ鳥ダト云フカラ死人ノ魂ト共ニ來タノデハナイカ〔鳥ダ〜傍線〕。
 
○宇乃花能《ウノハナノ》――卯の花との意であらう。卯の花は郭公の鳴く頃咲くものであるから、共にとつづけたので、この句は枕詞ではないが、殆どそれに近い用法になつてゐる。○共也來之登《トモニヤコシト》――死人と共に來たかとの意か。この句はあまり明瞭でない。郭公は蜀魂又は不如歸と稱へ、吾が國でも伊勢物語に、しでの田をさと見え、冥途の鳥で死出の山に鳴くやうに考へられてゐる。しでの田長については異説もあるから、遽かにさうとも定め難いが、この場合郭公を聞いて亡くなつた大伴郎女を思ひ出したものとすると、右のやうに釋きたいやうに思ふ。(557)なほ攻究を要する問題である。なほ宣長は來を成の誤としてムタヤナリシと訓んでゐる。
〔評〕 鳴き過ぎる郭公を聞いて、それに言問ふことが出來たならばと嘆じたのである、意味が不明瞭な點があるのは殘念だ。
 
右、神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇(ヒテ)v病(ニ)長逝(セリ)焉、于時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚(ヲ)遣(シ)2太宰府(ニ)1弔(ヒ)v喪(ヲ)并(ニ)贈(ル)v物(ヲ)也、其事既(ニ)畢(リ)驛便及(ビ)府(ノ)諸卿大夫等、共(ニ)登(リ)2記夷城(ニ)1而望遊之日、乃作(ル)2此歌(ヲ)1
 
舊本、贈物色とある色は也の誤。神田本によつて改む。記夷城は卷四に從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》(五七六)とある城山と同じで、筑前筑紫郡と肥前基肆郡との界にある。基肆の郡名(今、三養基郡)もこれに起つてゐるのであらう。天智天皇の四年にここに城を築かれたことが紀に見え、又續紀にも「文武天皇二年五月甲申、今2太宰府1、修2治大野・基肆・鞠智三城1」とある。記夷と記すのは、紀の國を紀伊とするに同じ。
 
太宰帥大伴卿和(フル)歌一首
 
1473 橘の 花散る里の ほととぎす 片戀しつつ 鳴く日しぞ多き
 
橘之《タチバナノ》 花散里乃《ハナチルサトノ》 霍公鳥《ホトトギス》 片戀爲乍《カタコヒシツツ》 鳴日四曾多寸《ナクヒシゾオホキ》
 
橘ノ花ガ散ル里ノ郭公ハ、相手ノ花ガナクナツテシマツタノデ〔相手〜傍線〕、片戀バカリヲシテ鳴ク日ガ多ウゴザイマスヨ。私ハ妻ヲナクシタノデ、片思ヒデ泣イテバカリ居リマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○橘之花散里乃《タチバナノハナチルサトノ》――橘の花の散る里に、妻を失つた自分を寓してゐる。卷十にも橘花落里爾通名者《タチバナノハナチルサトニカヨヒナバ》(一九七八)とある。源氏物語の花數里も、これらの歌を前驅としてゐる。
(558)〔評〕 石上堅魚に答へて、妻を失つた悲愁を述べてゐる。悲しみの歌ながら、例によつて清楚な感じがする。
 
大伴坂上郎女思(フ)2筑紫大城山(ヲ)1歌一首
 
卷六、天平二年のところに、冬十一月大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡名兒山之時作歌(九六三)とあるから、歸京後その翌年夏の歌であらう。大城山は大野山に同じく、太宰府背後の山である。七九九參照。
 
1474 今もかも 大城の山に ほととぎす 鳴きとよむらむ 我無けれども
 
今毛可聞《イマモカモ》 大城乃山爾《オホキノヤマニ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴令響良武《ナキトヨムラム》 吾無禮杼毛《ワレナケレドモ》
 
私ガ太宰府ニキタ頃ハ、アノ大城ノ山ノ郭公ヲヨク聞イタガ、今都ニ歸ツテ〔私ガ〜傍線〕、私ハアチラニハ居ラナイケレドモ、ヤハリ、今頃ハ大城ノ山デ郭公ガ鳴キ騷イデヰルダラウ。アノ聲ガ聞キタイヨ〔九字傍線〕。
 
○今毛可聞《イマモカモ》――モは兩つながら詠嘆の助詞。用例の多い句である。
〔評〕 大城山は太宰府背後の山で、郎女が滯在中その山の郭公の聲を聞きなれてゐた。今都に歸つてその季節が廻り來てその聲を思ふとき、なつかしさがこみあげて來るままに詠んだのがこの歌である。結句吾無禮杼毛《ワレナケレドモ》が、蛇足のやうで、さうではなく、懷舊の情があらはれてゐる。
 
大伴坂上郎女霍公鳥歌一首
 
1475 何しかも ここだく戀ふる ほととぎす 鳴く聲聞けば 戀こそまされ
 
何哥毛《ナニシカモ》 幾許戀流《ココダクコフル》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴音聞者《ナクコヱキケバ》 戀許曾益禮《コヒコソマサレ》
 
ドウシテマア私ハ郭公ヲ〔五字傍線〕コンナニヒドク戀ヒ慕フノデセウ。郭公ノ鳴ク聲ヲ聞クト、人戀シサガ増スバカリデスノニ。我ナガラ不思議デス〔九字傍線〕。
 
(559)○幾許戀《ココダクコフル》――幾彗はココダクとよむ。ココバクとよむのもわるくはない。卷十七、許己太久母之氣伎孤悲可毛《ココダクモシゲキコヒカモ》(四〇一九)とも、許己婆久毛見乃佐夜氣吉加《ココバクモミノサヤケキカ》(三九九一)ともある。甚だしく澤山になどの意。この句の戀は郭公を戀ふるので、末句の戀は人を戀ふるのである。
〔評〕 初二句で切つて、白からあやしみ自から疑つてゐるのが、力強い表現になつてゐる。全體に調子が緊張してゐる。古今集の「郭公鳴く聲きけばあぢきなく主定まらぬ戀せらるはた」に、内容相通ずるところがある。
 
小治田朝臣廣耳歌一首
 
續紀に廣耳の名が見えない。小治太廣千といふ人が見えるが或はその誤か。廣千は天平五年三月外從五位下、後、尾張守・讃岐守などになつた人である。
 
1476 獨居て 物思ふよひに ほととぎす こゆ鳴き渡る 心しあるらし
 
獨居而《ヒトリヰテ》 物念夕爾《モノモフヨヒニ》 霍公鳥《ホトトギス》 從此間鳴渡《コユナキワタル》 心四有良思《ココロシアルラシ》
 
私ガ〔二字傍線〕唯一人デ居テ、人ヲ戀シク〔五字傍線〕思ツテヰル晩方ニ、郭公ガ此處ヲ鳴イテ通ルヨ。多分アレハ〔五字傍線〕心ガアツテ、アンナニスルノデアラウ。私ノ心ニ同情シテ鳴クノダラウ〔私ノ〜傍線〕。
 
○從此間鳴渡《コユナキワタル》――ユはカラの意なるを常とするがさうでなく、ニ又はヲと解すべき場合も少くない。ここはその一例である。
〔評〕 郭公の鳴くのを、自己の胸中に同情して慰め顔に鳴くやうに聞いたのである。これも戀する人の共通心理であらう。
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1477 卯の花も 未だ咲かねば ほととぎす 佐保の山べに 來鳴きとよもす
 
宇能花毛《ウノハナモ》 未開者《イマダサカネバ》 霍公鳥《ホトトギス》 佐保乃山邊《サホノヤマベニ》 來鳴令響《キナキトヨモス》
 
(560)マダ卯ノ花モ咲カナイノニ、郭公ハ佐保山ノアタリヘ來テ鳴キ騷グヨ。隨分早イモノダ。珍ラシイ初音ダ〔隨分〜傍線〕。
 
○未開者《イマダサカネバ》――未だ咲かざるにの意。このネバの例は集中に多い。○佐保乃山邊《サホノヤマベニ》――舊訓ヤマベヲとあるが、古義に從つてヤマベニとした。類聚古集・西本願寺本などの古訓もヤマベニとなつてゐる。
〔評〕 佐保の里に住んでゐた家持が、その里近い佐保山に來鳴く郭公が、卯の花さへまだ咲かぬ初夏に、早くも鳴きしきるのを聞いて詠んだのである。珍らしがり愛する感じがほのかながらあらはれてゐる。
 
大伴家持橘歌一首
 
1478 吾がやどの 花橘の いつしかも 珠にぬくべく その實なりなむ
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘乃《ハナタチバナノ》 何時毛《イツシカモ》 珠貫倍久《タマニヌクベク》 其實成奈武《ソノミナリナム》
 
私ノ家ノ庭ニ今咲イテヰル花橘ハ、何時ニナツタラバ、玉トシテ糸ニ通スホドニ、アノ實ガナルデアラウカ。アア待遠イナア〔七字傍線〕。
 
○珠貫倍久《タマニヌクベク》――珠として糸に貫くべきほどにの意。橘の花が散つて間なき實を、糸に貫き列ねて樂玉とするのである。○其實成奈武《ソノミナリナム》――代匠記精撰本にソノミナラナムとあるが、その實がなるであらうかといふのだから、舊訓の如くナリナムがよい。
〔評〕 内容が可愛らしいといふまでで、よい歌ではない。
 
大伴家持|晩蝉《ヒグラシ》歌一首
 
晩蝉は茅蜩。和名抄に、「爾雅註云、茅蜩一名〓子列反、和名比久良之小青蝉也」とある。今のカナカナ蝉。古今集から、蝉は夏、茅蜩は秋の部に入れてあるが、この集ではその區別がない。
 
(561)1479 こもりのみ 居ればいぶせみ なぐさむと 出で立ち聞けば 來鳴くひぐらし
 
隱耳《コモリノミ》 居者欝悒《ヲレバイブセミ》 奈具左武登《ナグサムト》 出立聞者《イデタチキケバ》 來鳴日晩《キナクヒグラシ》
 
家ニバカリ〔五字傍線〕引キ籠ツテヰテハ氣ガ欝陶シクテ面白クナ〔六字傍線〕イノデ、氣ガ晴レルカト思ツテ、外ニ出テ聞クト、蜩ガ來テ鳴イテヰル。ヤハリ淋シイ〔六字傍線〕。
 
○奈具左武登《ナグサムト》――慰むと。心を慰める爲にと解する説が多いが、自動詞と見るべきであらう。
〔評〕 あはれな、しんみりとした感傷的な歌である。この人の詩人らしい情緒があらはれてゐる。下に、雨隱情欝悒出見者春日山者色付二家利《アマゴモリココロイブセミイデテミレバカスガノヤマハイロヅキニケリ》(一五六八)と詞は似てゐるが、氣分は少し異なつてゐる。この歌、袖中抄にある。
 
大伴|書持《フミモチ》歌二首
 
書特は家持の弟。四六三參照。卷十七によれば天平十八年秋九月初旬に死んだやうである。
 
1480 吾がやどに 月押し照れり ほととぎす 心あらばこよひ 來鳴きとよもせ
 
我屋戸爾《ワガヤドニ》 月押照有《ツキオシテレリ》 霍公鳥《ホトトギス》 心有今夜《ココロアラバコヨヒ》 來鳴令響《キナキトヨモセ》
 
今夜ハ〔三字傍線〕私ノ家ニハ月ガ美シク〔三字傍線〕一タイニ照ツテヰルヨ。郭公ヨ。オマヘニ〔四字傍線〕心ガアルナラバ、コノ景色ノヨイ〔七字傍線〕今夜|此處ヘ〔三字傍線〕來テ聲高ク鳴キナサイヨ。
 
○月押照有《ツキオシテレリ》――押照はおしなべて照る。○心有今夜《ココロアラバコヨヒ》――舊訓ココロアルコヨヒとあるが、考にココロアラバコヨヒとよんだのがよい。その方が意味も自然で、且おもしろく、次の歌の趣にも一致するやうである。
〔評〕 月明に對して郭公を思ふのである。恰も心合つた友も來たり訪うてゐたらしい。すがすがしい感じの歌。
 
1481 吾がやどの 花橘に ほととぎす 今こそ鳴かめ 友に逢へる時
 
我屋前乃《ワガヤドノ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 霍公鳥《ホトトギス》 今社鳴米《イマコソナカメ》 友爾相流時《トモニアヘルトキ》
 
今丁度友達モ來テヰル時ダカラ、吾ガ家ノ庭ノ〔二字傍線〕花橘ニ郭公ヨ。今コソ鳴イテクレヨ。友ヘノ御馳走ニモナルカ(562)ラ、是非鳴イテクレ〔友ヘ〜傍線〕。
 
○我屋前乃《ワガヤドノ》――屋前を攷證にニハとよんでゐる。前の歌に屋戸とあるのと區別して書いたやうでもあるが、恐らくさうではあるまい。この他ヤドには室戸・屋所・屋外・家門などの用字例があるが、その間に別を立て難い。
〔評〕 平凡ではあるが、友を待ち得た喜びは見えてゐる。
 
大伴|清繩《キヨナハ》歌一首
 
清繩の傳は明らかでない。卷十九の四二六五に大伴清繼とあるのは、別人であらう。
 
1482 皆人の 待ちし卯の花 散りぬとも 鳴くほととぎす 我忘れめや
 
皆人之《ミナビトノ》 待師宇能花《マチシウノハナ》 雖落《チリヌトモ》 奈久霍公鳥《ナクホトトギス》 吾將忘哉《ワレワスレメヤ》
 
皆ノ人ガ待ツテヰタ卯ノ花ハ散ツテシマツテ、郭公モ鳴カナイヤウニナツテ〔郭公〜傍線〕モ、私ハ面白イ聲デ鳴ク〔六字傍線〕郭公ダケハ忘レヨウカ、決シテ忘レハシナイ。
 
○皆人之《ミナヒトノ》――古義に人皆之の誤とあるのは妄斷である。○雖落《チリヌトモ》――舊訓チルトイヘドを代匠記にチリヌトモと改めた。併しこれはチリヌレドとも訓み得るので、極めて曖昧である。しばらく代匠記に從ふ。
〔評〕 意味が不明瞭である。卯花と郭公とを連絡せしめたのみで面白いこともない。
 
庵(ノ)君|諸立《モロタツ》歌一首
 
この作者の傳は全くわからない。作も集中この一首のみである。
 
1483 吾がせこが やどのたちばな 花をよみ 鳴くほととぎす 見にぞ吾が來し
 
吾背子之《ワガセコガ》 屋戸乃橘《ヤドノタチバナ》 花乎吉美《ハナヲヨミ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 見曾吾來之《ミニゾワガコシ》
 
貴君ノオ宅ノ橘ノ花ガ美シイノデ、キツト郭公ガ來テ鳴クダラウト思ツテ、ソノ〔キツ〜傍線〕鳴ク郭公ヲ見ニ私ハ來マシタ。
 
(563)○吾背子之《ワガセコガ》――吾が背子とは友を親しんでいふ。
〔評〕 何となく拙いたどたどしい歌である。ことに三四の句がまづい。この人の歌は集中この一首のみである。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1484 ほととぎす いたくな鳴きそ 獨居て いのねらえぬに 聞けば苦しも
 
霍公鳥《ホトトギス》 痛莫鳴《イタクナナキソ》 獨居而《ヒトリヰテ》 寐乃不所宿《イノネラエヌニ》 聞者苦毛《キケバクルシモ》
 
郭公ヨ。ヒドク鳴クナヨ。私ガ獨デ居ツテ淋シクテ〔四字傍線〕寢ラレナイノニ、オマヘノ鳴ク聲ヲ〔八字傍線〕聞クト苦シイヨ。
 
○寐乃不所宿《イノネラエヌニ》――集中に多い句である。イは寐ることで、寐《イ》が寐られないのに、即ち眠《ネム》られないのにの意。
〔評〕 この作者は前に何哥毛幾許戀流霍公鳥鳴音聞者戀許曾益禮《ナニシカモココダクコフルホトトギスナクコエキケバコヒコソマサレ》(一四七五)と言つてゐるが、またかうした嘆聲をも發してゐる。兩々相對比して見ると面白い。
 
大伴家持|唐棣花《ハネズノ》歌一首
 
唐棣花は波禰受《ハネズ》。庭梅のこと。卷四の翼酢色之《ハネズイロノ》(六五七)參照。
 
1485 夏まけて 咲きたる唐棣花 久方の 雨うち降らば うつろひなむか
 
夏儲而《ナツマケテ》 開有波禰受《サキタルハネズ》 久方乃《ヒサカタノ》 雨打零者《アメウチフラバ》 將移香《ウツロヒナムカ》
 
夏ニ近クナツテ咲イタ庭梅ノ花ガ、(久方乃)雨ガ降ツタナラバ、色ガアセテシマフダラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○夏儲而《ナツマケテ》――夏に向つて。夏に近づいての意。唐棣花即ち庭梅は春の末に咲くからである。
〔評〕 可憐な庭梅の花が春から夏に亘つて咲いてゐる。もうその盛りも久しい。一雨來たら一たまりもなくやられさうだ。ああ惜しいものだと嘆じたので、歌としてはさして秀でてゐるといふほどではないが、このやさし(564)い小花を詠んだ珍らしい作として、この作者に敬意を表したい。この歌、袖中抄に載せてある。
 
大伴家持恨(ムル)2霍公鳥|晩《オソク》喧《ナクヲ》1歌二首
 
1486 吾がやどの 花橘を ほととぎす 來鳴かず土に 散らしめむとか
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 霍公鳥《ホトトギス》 來不喧地爾《キナカズツチニ》 令落常香《チラシメムトカ》
 
私ノ家ノ庭ニ吹イタ花橘ヲ、郭公ガマダ來テ鳴カナイウチニ、土ニ散ラシテシマハウト云フノカ。惜シイコトダ。郭公ガ早ク來テ鳴ケバヨイニ〔惜シ〜傍線〕。
 
○令落常香《チラシメムトカ》――舊訓チラシナムトカとあるが、チラシメムトカと訓むべきである。略解にオトシナムトカとよんだのは特に面白くない。
〔評〕 花橘に郭公は好配遇である。折角咲いた花橘に、郭公が來喧かぬのは、この上ない物足りなさを感ずる。その物足りなさを述べてゐるが、結句の詰問的なのが、力強い表現になつてゐる。
 
1487 ほととぎす 思はずありき 木のくれの かくなるまでに などか來鳴かぬ
 
霍公鳥《ホトトギス》 不念有寸《オモハズアリキ》 木晩乃《コノクレノ》 如此成左右爾《カクナルマデニ》 奈何不來喧《ナドカキナカヌ》
 
木ガ繁ツテコンナニ暗クナルマデニ、郭公ハ何故來テ鳴カナイノダラウ。ソンナコトト私ハ〔八字傍線〕思ハナカツタノニ。ドウシテ今年ハコンナニ郭公ガ遲イノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○木晩乃《コノクレノ》――木が茂つて暗くなるのを、コノクレといふ。
〔評〕 夏木立小暗くなるまで、郭公の來喧かぬのに、今更驚きの目を見張つたのである。前の歌と同樣、結句に(565)力がある。
 
大伴家持懽(ブ)2霍公鳥(ヲ)1歌一首
 
1488 いづくには 鳴きもしにけむ ほととぎす わぎへの里に 今日のみぞ鳴く
 
何處者《イヅクニハ》 鳴毛思仁家武《ナキモシニケム》 霍公鳥《ホトトギス》 吾家乃里爾《ワギヘノサトニ》 今日耳曾鳴《ケフノミゾナク》
 
何處カニハ、モウ郭公ハ鳴イタカモシレヌガ、私ノ家ノアル里デハ、今日初メテ鳴イタ。兎モ角モ嬉シイコトダ〔兎モ〜傍線〕。
 
○何處者《イヅクニハ》――舊訓イツコカハとあるのを、略解にイヅクニハと改めたのがよい。何處か他所にはの意。
〔評〕 待つてゐた郭公の初音を聞き得て喜んだ歌である。その初音が果して眞の初音であるかはわからないが、ともかく自分としては今年の初音だと喜んでゐる。誰しも考へさうなことで、しかも巧に言ひ得ないことであらう。
 
大伴家持惜(シム)2橘花(ヲ)1歌一首
 
1489 吾がやどの 花橘は 散り過ぎて 珠にぬくべく 實になりにけり
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 落過而《チリスギテ》 珠爾可貫《タマニヌクベク》 實爾成二家利《ミニナリニケリ》
 
私ノ家ノ庭ニ咲イテヰタ花橘ハモウ散ツテシマツテ、藥玉ニ通シテコシラヘルホドニ實ニナツタワイ。花ガ散ツタノハ惜シイコトダ〔花カガ〜傍線〕。
 
〔評〕この歌は前の同じ作者の、吾屋前之花橘乃何時毛珠貫倍久其實成奈武《ワガヤドノハナタチバナノイツシカモタマニヌクベクソノミナリナム》(一四七八)に對したもので、さう見ると、惜2橘花1といふ題はをかしいくらゐに思はれる。しかしそれはそれとして、ここでは花を惜しむ意を含め(566)て見るべきであらう。
 
大伴家持霍公鳥歌一首
 
1490 ほととぎす 待てど來鳴かず あやめ草 玉に貫く日を 末だ遠みか
 
霍公鳥《ホトトギス》 雖待不來喧《マテドキナカズ》 蒲草《アヤメグサ》 玉爾貫日乎《タマニヌクヒヲ》 未遠美香《イマダトホミカ》
 
郭公ガモウ鳴クカ鳴クカト〔モウ〜傍線〕待ツテ居ルケレドモ、マダ來テ鳴カナイ、コレハ〔三字傍点〕菖蒲ヲ藥玉ニ通シテコシラヘル、五月五日ノ〔五字傍線〕日ガ遠イカラダラウカ。
 
○蒲草《アヤメグサ》――蒲の上に菖の字が脱ちたのだらうと契沖は言つてゐる。他の用例は、すべてさうなつて居る(卷十九に昌を用ゐたところが一つある)から、多分契沖説の通りであらう。
〔評〕 初夏の頃から、郭公を待つ心である。前の霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトトギスイタクナナキソナガコヱヲサツキノタマニアヘヌクマデニ》(一四六五)と反對の場合になつてゐる。
 
大伴家持雨(ノ)日聞(ケル)2霍公鳥(ノ)喧(クヲ)1歌一首
 
1491 卯の花の 過ぎば惜しみか ほととぎす 雨間もおかず こゆ鳴き渡る
 
宇乃花能《ウノハナノ》 過者惜香《スギバヲシミカ》 霍公鳥《ホトトギス》 雨間毛不置《アママモオカズ》 從此間喧渡《コユナキワタル》
 
卯ノ花ガ散ツテシマツテハ惜シイカラカ、アンナニ〔四字傍線〕郭公ハ雨ノ降ル間ニモ休マズニ、此處ニ來テ鳴イテ通ルヨ。
 
○過者惜香《スギバヲシミカ》――古義にこの句を説明して、「散過なば惜しからむとてかの意なり。惜しからむとといふ意の所を惜美《ヲシミ》といふは、一の格なり」と言つて、未然形の下をミで受けた多くの用例を引いてゐる。これは尤もの説であるが、ミと受けるのは決定的で、推量の餘地がないからと考へたいやうに思ふ。○雨間毛不置《アママモオカズ》――雨間には雨(567)の降つてゐる間と雨の晴間との二樣の用例があるから、その場合を考へて解釋しなければならない。ここは前者で、雨の降つてゐる間もかまはずにの意。卷十二の十月雨間毛不置零爾西者《カムナヅキアママモオカズフリニセバ》(三二一四)、卷十の雨間開而國見毛將爲乎《アママアケテクニミモセムヲ》(一九七一)は後者の例である。○從此喧渡《コユナキワタル》――コユは此處を。
〔評〕 雨を厭はず頻りに喧く郭公を聞いて、卯の花の散るのを惜しんで鳴くやうに想像したので、郭公に心があるやうに美化してはゐるが、格別面白いことはない。
 
橘歌一首 遊行女婦
 
遊行女婦は遊女。和名抄に「楊氏漢語抄云、遊行女兒、【和名宇加禮女又云阿曾比】」とある。
 
1492 君が家の 花橘は なりにけり 花なる時に 逢はましものを
 
君家乃《キミガイヘノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 成爾家利《ナリニケリ》 花乃有時爾《ハナナルトキニ》 相益物乎《アハマシモノヲ》
 
アナタノオ宅ノ花橘ハ、花ガ濟ンデ〔五字傍線〕實ニナツテシマヒマシタヨ。花ノウチニオ尋ネシテ、花ノ盛ニ〔オ尋〜傍線〕逢フ筈デシタノニ。惜シイコトヲシマシタ〔十字傍線〕。
 
○成爾家利《ナリニケリ》――實になりにけりの意。成《ナリ》は實のること。○花乃有時爾《ハナナルトキニ》――舊訓ハナノサカリニとあるのは、意を以てよんだのであらうが、面白くない。類聚古集、神田本に乃の字が無いのに從ふべきである。
〔評〕 散文的で詞にうるほひがない。古今集の「かはづなく井手の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」はこれと形式を同じくしてゐる。或はこれに傚つたものかも知れないが、歌品は遙かに高い。
 
大伴村上橘歌一首
 
大伴村上は四三六參照。
 
1493 吾がやどの 花橘を ほととぎす 來鳴きとよめて 本に散らしつ
 
(568)吾屋前乃《ワガヤドノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令動而《キナキトヨメテ》 本爾令散都《モトニチラシツ》
 
私ノ家ノ庭ニ咲イテヰル〔六字傍線〕花橘ヲ、郭公ガ來テ鳴キ騒イデ、木ノ下ニ散シテシマツタ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○本爾令散都《モトニチラシツ》――本は木の下である。古義には本は地《ツチ》の誤であらうといつて.多くの例を引いてゐるが從ひ難い。
〔評〕 これも前の歌と同様.何等餘韻のない作である。
 
大伴家持霍公鳥歌二首
 
1494 夏山の 木ぬれのしげに ほととぎす 鳴きとよむなる 聲のはるけさ
 
夏山之《ナツヤマノ》 木末乃繁爾《コヌレノシゲニ》 霍公烏《ホトトギス》 鳴響奈流《ナキトヨムナル》 聲之遙佐《コヱノハルケサ》
 
夏ノ山ノ梢ノ繁ミニ郭公ガ、鳴キ騒イデヰル聲ガ遠クニ聞エルヨ。アアヨイ聲ダ〔六字傍線〕。
 
○木末乃繁爾《コヌレノシゲニ》――舊訓コスヱノシノニとあつたのを代匠記コヌレノシジニとし、略解・古義など皆これによる。卷三に活道山木立之繁爾《イクヂヤマコタチノシゲニ》(四七八)とあるところに述べたやうに、副詞の時はシジニ、名詞の時はシゲニと訓むことにする。
〔評〕 これは前の歌どもよりは、少しく感情の籠つた作である。第四句が少し滑らかでない。
 
1495 足引の 木の間立ちくく ほととぎす かく聞きそめて 後戀ひむかも
 
足引乃《アシビキノ》 許乃間立八十一《コノマタチクク》 霍公鳥《ホトトギス》 如此開始而《カクキキソメテ》 後將戀可聞《ノチコヒムカモ》
 
山ノ木ノ間ヲ立チクグツテ鳴ク郭公ノ聲〔二字傍線〕ヲ、カヤウニ聞キ初メテハ、面白サガ忘レラレナイデ〔面白〜傍線〕、後ニナツテカラ戀シク思フダラウカヨ。ホントニ佳イ聲ダ〔八字傍線〕。
 
○足引乃《アシビキノ》――山の枕詞であるのを、直ちに山の意に用ゐてゐる。卷三にも足日木能石根許其思美《アシビキノイハネコゴシミ》(四一四)とあつた。
 
(569)○許乃間立八十一《コノマタチクク》――木の間を立ち潜る。八十一をククとよむのは算術の九九から出た戯書である。卷四の情八十一所念可聞《ココロククオモホユルカモ》(七八九)に同じ。ククは潜《クク》るの意であるが、もと漏《ク》くといふ加行四段の動詞で、ここはその連體形である。卷十七に波流乃野能之氣美登妣久久※[(貝+貝)/鳥]音太爾伎加受《ハルノヌノシゲミトビククウグヒスノコヱダニキカズ》(三九六九)とある。
〔評〕 足引乃許乃間立八十一《アシビキノコノマタチクク》といふ句は、多少の新味もあつて、作者の得意なものであつたであらうか。後年越中で作つた歌に、安之比奇能山邊爾乎禮婆保登等藝須木際多知久吉奈可奴日波奈之《アシビキノヤマベニヲレバホトトギスコノマタチクキナカヌヒハナシ》(三九一一)とある。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
大伴家持石竹(ノ)花(ノ)歌一首
 
1496 吾がやどの なでしこの花 盛なり 手折りて一目 見せむ兒もがも
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 瞿麥乃花《ナデシコノハナ》 盛有《サカリナリ》 手折而一目《タヲリテヒトメ》 令見兒毛我母《ミセムコモガモ》
 
私ノ家ノ庭ニハ石竹ガ今ハ丁度〔四字傍線〕盛ダ。コノ花ヲ〔四字傍線〕折ツテ、一目見セタイト思フアノ〔七字傍線〕女ガ、ココニ居レバヨイガ。獨デ見ルノハ惜シイモノダ〔獨デ〜傍線〕。
 
○瞿麥乃花《ナデシコノハナ》――石竹《セキチク》は外來のもので、ナデシコは野生の日本種である。この頃まだセキチクが渡來してゐなかつたのであらう。題に石竹とあるのは瞿麥との區別を立てずに用ゐたのである。○令見兒毛我母《ミセムコモガモ》――見すべき女も此處にあれよといふのだ。かういふ用例は他にも見える。
〔評〕 卷三に家持が天平十一年夏六月妾を亡つて、秋去者見乍思跡妹之殖之屋前之石竹開家流香聞《アキサラバミツツシヌベトイモガウヱシヤドノナデシコサキニケルカモ》(四六四)とよんだ歌が出てゐる。かれとこれとを比較すると相似たところがあり、時代も略同樣らしく思はれる。これには深い悲傷の感は見えないが、或は妾を亡つた頃の作か。この歌、和歌童蒙抄にある。
 
惜(シム)v不(ルヲ)v登(ラ)2筑波山(ニ)1歌一首
 
略解・古義に惜は恨の誤かとあるが、もとのままでよいのであらう。
 
1497 筑波嶺に 吾が行けりせば ほととぎす 山彦とよめ 鳴かましやそれ
 
(570)筑波根爾《ツクバネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》 霍公鳥《ホトトギス》 山妣兒令響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》
 
アノ人ハ筑波山ヘ上ツテ郭公ガ鳴クノヲ聞イタトイフガ〔アノ〜傍線〕、筑波山ニ私ガ行ツタナラバ、郭公ガ聲ヲ山ニ反響サセテソレガ、盛ニ鳴クデアラウカ。トテモ私ノヤウナ運ノ惡イ者ガ行ケバ、ヤハり郭公ハ鳴カナイダラウ〔トテ〜傍線〕。
 
○吾行利世波《ワガユケリセバ》――吾が行けりに過去の助動詞キの未然形セが附いた形。私が行つたならば。○山妣兒令響《ヤマビコトヨメ》――山妣兒《ヤマビコ》は山彦。木魂《コダマ》と同じ。反響。元來、山中に住む男の意で、反響はそれが答へるものと考へたのである。○鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》――鳴かうや、否鳴くまじ、それがの意。其《ソレ》は霍公鳥をさしてゐる。
〔評〕 題と歌とが、しつくり合はぬやうにも思はれる。結句が少し變つた調子である。左註によれば高橋連蟲麻呂の歌らしい。卷九に蟲麻呂が登2筑波嶺1爲2〓歌會1日作歌(一七五九)があるから、ここに不v登2筑波山1とあるのと合はぬやうであるが、それは場合が別なのであらうから、拘泥してはならぬ。
 
右一首高橋連蟲麻呂之歌中出
 
歌の下、集の字が脱ちたものと代匠記に言つてゐる。
 
夏相聞
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1498 いとまなみ 來ざりし君に ほととぎす 吾がかく戀ふと 行きて告げこそ
 
無暇《イトマナミ》 不來之君爾《コザリシキミニ》 霍公鳥《ホトトギス》 吾如此戀常《ワガカクコフト》 往而告社《ユキテツゲコソ》
 
暇ガ無イノデ、オイデナサラナイアナタニ、郭公ヨ、私ガアノオ方ヲ〔五字傍線〕コレホドモ戀ヒ慕ツテヰルト、飛ンデ〔三字傍線〕行(571)ツテ知ラセテクレヨ。
 
○無暇《イトマナミ》――暇がないので。略解に「いとまなしとてとはぬ君に」とあるのは當らねやうである。暇がないと托言したのではあるまい。〇不來之君爾《コザリシキミニ》――この句、新千載集に出て、「來まさぬ君に」となつてゐるので、之の字を坐の誤だらうと略解に述べてゐる。古義にも坐か益かの誤だらうとあるが、不要の訂正である。○往而告社《ユキテツゲコソ》――社《コソ》は希望をあらはす。係詞ではない。
〔評〕 來らぬ戀人を恨んで、折から鳴く郭公に托して、その思ひを傳へようといふのである。戀する人の常ではあるが、あはれな言葉である。次の歌に比べて見ると、これも人を待ちあかした朝の歌らしい。
 
大伴|四繩《ヨツナ》宴吟歌一首
 
卷三の三二九・卷四の五七一の防人佑大伴四綱と同人であらう。卷四の六二九にも大伴四綱宴席歌一首とあつて、ここと題が似てゐる。この人は宿禰と記してないから、家持らの一族ではない。
 
1499 事しげみ 君は來まさず ほととぎす なれだに來鳴け 朝戸開かむ
 
事繁《コトシゲミ》 君者不來益《キミハキマサズ》 霍公鳥《ホトトギス》 汝太爾來鳴《ナレダニキナケ》 朝戸將開《アサドヒラカム》
 
忙シイノデアノオ方ハオイデ下サラナイ。待チボウケヲクヒマシタ。セメテ〔待チ〜傍線〕郭公ヨ、オマヘダケデモ來テ鳴キナサイ。サウシタラ私ハアナタノツモリデ〔サウ〜傍線〕朝戸ヲ開ケヨウ。
 
○事繋《コトシゲミ》――言繁《コトシゲ》みとも解き得るが、前の無暇《イトマナミ》と同樣であらう。○朝戸將開《アサトヒラカム》――朝戸は朝開けた戸。朝、戸を開けることを朝戸開くといふ。但しここは人を待つて夜が明けた頃で、必ずしも明るくなつてゐる朝ではない。曉の頃であらう。
〔評〕 女の氣分がよくあらはれてゐる。宴吟歌とあるから、宴會の席で吟じたもので、四繩の自作ではない。
 
(572)大伴坂上郎女歌一首
 
1500 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ戀は 苦しきものを
 
夏野乃《ナツノヌノ》 繁見丹開有《シゲミニサケル》 姫由理乃《ヒメユリノ》 不所知戀者《シラエヌコヒハ》 苦物乎《クルシキモノヲ》
 
夏ノ野ノ草ノ繁リ生エテヰル中ニ咲イテヰル姫百合ハ、人ニ見ツカラナイモノダガ、丁度ソノ〔ハ人〜傍線〕ヤウニ、イクラ思ツテモ思ツテモ相手ニ〔イク〜傍線〕知ラレナイ片戀ハ、苦シイモノデスヨ。
 
○姫由理乃《ヒメユリノ》――姫百合のやうに、姫百合は、百合の一種で、山野に自生す。高さ二尺ばかり、夏日、莖上に一箇又は數箇の花をつける。花辨は狹くして反卷することはない。花色は赤色、稀に黄色のものもある。この句を序詞と見る説も多いが、譬喩とするのがよいと思ふ。○苦物乎《クルシキモノヲ》――苦しいよの意。苦しいのにの意ではない。
〔評〕 夏の野の、草深い中に隱れて見えない姫百合は、人知れぬ思ひをあらはすに、何といふ適切な、さうして可憐な譬喩であらう。殊にこれが女性によつて用ゐられたものなることを思へば、一層ふさはしい感じがする。
 
小治田朝臣廣耳歌一首
 
小治田廣耳は一四七六參照。
 
1501 ほととぎす 鳴くをの上の 卯の花の うきことあれや 君が來まさぬ
 
霍公鳥《ホトトギス》 鳴峯乃上能《ナクヲノウヘノ》 宇乃花之《ウノハナノ》 ※[厭のがんだれなし]事有哉《ウキコトアレヤ》 君之不來益《キミガキマサヌ》
 
(霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之)何カ私ニ對シテ〔七字傍線〕不快ナコトガアツテカ、アノオ方ハ私ノ所ヘ〔四字傍線〕オイデニナラナイ。ドウシタノデアラウ。心配ナコトダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○霍公鳥鳴峯乃上能宇乃花之《ホトトギスナクヲノウヘノウノハナノ》――厭《ウキ》と言はむ爲の序詞で、同音を繰返して下につづいてゐる。序詞の意は、郭(573)公が鳴く峯の上に咲く卯の花の。○※[厭のがんだれなし]事有哉《ウキコトアレヤ》――厭きことがあればにやの意。厭きことは我に對して心憂しと思ふこと。即ち不愉快なことをいふ。一般的にいふ心配ごとの意ではない。※[厭のがんだれなし]は厭と同字。
〔評〕 卷十に※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之厭事有哉君之不來座《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノウキコトアレヤキミガキマサヌ》(一九八八)と全く同型の作。恐らくこれを本として、※[(貝+貝)/鳥]を郭公に改めたものであらう。さうすれば敬意を表するに當らぬ作である。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1502 五月の 花橘を 君がため 珠にこそぬけ 散らまく惜しみ
 
五月之《サツキノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 爲君《キミガタメ》 珠爾貫《タマニコソヌケ》 零卷惜美《チラマクヲシミ》
 
五月ノ花橘ガ散ルノガ惜シサニ、私ハアナタニアゲヤウト思ツテ、花橘ヲ藥玉ニコシラヘマシタ。
 
○五月之《サツキノ》――之の字、古義に山の誤としてサツキヤマと訓んでゐるのは臆斷に過ぎる。○珠爾貫《タマニコソヌケ》――コソに當る字はないが、京大本に社があるから、もとあつたのが脱ちたのであらう。社《コソ》を補はずにクマニツラヌクとも訓み得るが、貫の字は常にヌクとのみよまれてゐるから、タマニコソヌケとよむのが穩やかである。○零卷惜美《チラマクヲシミ》――略解に舊訓を改めてオチマクヲシミとしてゐる。橘の實であるから、散るといふのはふさはしくないと思つたものか。それも一理あるが、散るでよいのであらう。
〔評〕 可憐な歌ではあるが、相聞の歌としては熱情が足りな過ぎる。
 
紀朝臣豐河歌一首
 
紀朝臣豐河は、續紀に「天平十一年正月丙午、正六位上紀朝臣豐河授2外從五位下1」と見える人である。
 
1503 吾妹子が 家の垣内の さ百合花 ゆりと云へるは いなとふに似る
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 家乃垣内乃《イヘノカキツノ》 佐由理花《サユリバナ》 由利登云者《ユリトイヘルハ》 不謌云二似《イナトフニニル》
 
(574)(吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花)後デ逢ハウ〔三字傍線〕トアナタガ〔四字傍線〕云ツタノハ、逢ハナイト云フノト同ジヤウナモノダ。アナタハソンナコトヲ言ツテ、私ヲ體ヨク斷ルツモリデセウ〔アナ〜傍線〕。
 
○家乃垣内乃《イヘノカキツノ》――垣内は舊訓カキウチとあるが、垣津田《カキツダ》(三二二三)・可伎都楊疑《カキツヤギ》(三四五五)なども、垣内田・垣内柳であるから、ここもカキツと訓むべきである。○佐由理花《サユリバナ》――小百合花。サは接頭語で意味はない、ここまでの三句は、由利《ユリ》と言はんが爲、同音を繰返す序詞である。○由利登云者《ユリトイヘルハ》――由利《ユリ》は後《ノチ》にの意。この句は後で逢はうと言つたのはの意。○不謌云二似《イナトフニニル》――舊訓ウタハヌニニルとあるのでは分らない。謌は恐らく誤字であらう。宣長は許の誤で、不許はイナであらうといつてゐる。集中、不欲・不聽・不許・不言などがイナと訓まれてゐるから、そのうちのいづれかであらうと思はれる。ここは新訓に從ふ。
〔評〕 右のやうに解すると、戀する人の言葉として無理のない、尤もらしい内容になる。序の作り方も優美で、しかも男性らしくよまれてゐる。卷十八に佐由理婆奈由利毛安波牟等《サユリバナユリモアハムト》(四〇八七)の如き例が四首ばかりあるのは、これに傚つたものか。
 
高安歌一首
 
卷一の六七に高安大島とある人かと思はれるが、それでは前後の歌に比して時代が古過ぎるやうである。或は高安王の王の字が脱ちたのかとする説もある。王は天平十一年四月に大原眞人の姓を賜はつてゐて、この歌は前後を見ると家持が内舍人にならない前、即ち天平十三年以前のものらしいから、ここは脱字があるのではなくて、大原高安眞人を略してかう書いたのかも知れない。卷十七の三九五二に大原高安眞人の名が見える。
 
1504 いとま無み 五月をすらに 吾妹子が 花橘を 見ずか過ぎなむ
 
暇無《イトマナミ》 五月乎尚爾《サツキヲスラニ》 吾妹兒我《ワギモコガ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 不見可將過《ミズカスギナム》
 
(575)暇ガナイカラコノ面白イ〔五字傍線〕五月ニサヘモ私ノ妻ノ家ノ〔二字傍線〕、花橘ヲ見ナイデ空シク〔三字傍線〕過スコトカナア。殘念ナコトダ〔六字傍線〕。
〔評〕 五月は節會などがあつて、宮中奉仕の生活は格別多忙なので、こんなことを言つたのであらう。前の坂上郎女の歌に、無暇不來之君爾《イトマナミコザリシキミニ》(一四九八)と並べて見ると、かれはこの歌の答のやうにも見えるが、さうとも斷じ難い。歌は平凡である。
 
大神《オホミワ》女郎贈(レル)2大伴家持(ニ)1歌一首
 
大神女郎はわからない。六一八參照。
 
1505 ほととぎす なきしすなはち 君が家に 行けと追ひしは 至りけむかも
 
霍公鳥《ホトトギス》 鳴之登時《ナキシスナハチ》 君之家爾《キミガイヘニ》 往跡追者《ユケトオヒシハ》 將至鴨《イタリケムカモ》
 
アナタガ郭公ノ鳴クノヲ待ツテオイデナサルダラウト思ツテ〔アナ〜傍線〕、郭公ガ鳴クトスグニ私ハ〔二字傍線〕、アナタノ家ヘ行ケト云ツテ郭公ヲ追ツテヤリマシタガ、アレハ〔三字傍線〕參リマシタデセウカナア。イカガデス〔五字傍線〕。
 
○鳴之登時《ナキシスナハチ》――登時は即時の意でスナハチと訓む。卷六の九六二の左註にも登時《スナハナ》廣成應聲即吟此歌とある。
〔評〕 やさしい、親しい、おもしろい戯の言葉である、これだけでは戀の歌とも思はれないが、卷四に、狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名《サヨナカニトモヨブチドリモノモフトワビヲルトキニナキツツモトナ》(六一八)といふ歌を家持に贈つてゐるから、やはり戀中である。
 
大伴田村大孃與(フル)2妹坂上大孃(ニ)1歌一首
 
卷四の七五六にも大伴田村家之大孃贈2妹坂上大孃1歌四首があり、その左注に記してあるやうに、姉の田村大孃は父に從つて田村の里に居り、妹の坂上大孃は母と共に坂上の里にゐた。この姉から妹に贈つたものであるが、田村の里と坂上の里との所在が必ずしも明確でない。蓋し田村の里は、續紀に、「天平寶字元年四月大納言仲麿招2大炊王1居2於田村第1……五月辛亥天皇移2御田村(576)宮1、爲v改2修大宮1也……六月從四位上山背王複告、橘奈良麻呂備2兵器1、謀v圍2田村宮1」とあるところで、奈良の宮の地内にあつたらしい。これを丹波市附近とする説もあるが誤つてゐる。坂上の里は前の一四六六に見えた毛無乃岳の所在地とすれば、龍田町西方の山手で、奈良からそこへ手紙を贈つたわけである。
 
1506 ふるさとの ならしの岳の ほととぎす 言告げやりし いかに告げきや
 
古郷之《フルサトノ》 奈良思之岳能《ナラシノヲカノ》 霍公鳥《ホトトギス》 言告遣之《コトツゲヤリシ》 何如告寸八《イカニツゲキヤ》
 
アナタノ〔四字傍線〕故郷ノ奈良思之岳ノ郭公ハ、私ガアナタニ〔六字傍線〕傳言ヲタノンダノヲ、ドンナニ傳ヘタデセウカ。私ハアナタノ御返事ヲ待ツテヰマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○古郷之《フルサトノ》――舊本、古を舌に誤る。類聚古集・神田本などによつて改めた。大伴氏の故地であるから、古郷といふのであらう。○奈良思之岳能《ナラシノヲカノ》――奈良思の岳は、前に毛無乃岳(一四六六)とあつたのと同じ。坂上大孃の住んでゐる坂上の里に近い山。○何如告寸八《イカニツゲキヤ》――如何に告げしかに同じであらう。古義に「告しや如何にありしといふ意なり。何如の言.下に置て心得べし。いかやうに告しやといふ意にききては甚わろし。」とあり、新考もこの説を採つてゐるが、どうもさうは思はれない。なるほど文法上からいへば、如何にの下には、カを以て受けるべきで、ヤは用ゐないのであるが、その法則は平安朝に於ても屡々破られてゐるもので、これを以てこの集を律せむとするのは無理である。どんな告げ方をしたのだらうかと、坂上大孃から、久しく來書のないのを催促したのでたちう。
〔評〕 第五句を如何に告げきやと見るのと、告げきや如何にと解するとによつて、少し意を異にするが、いづれにしても郭公に思を托したもので、この歌の興味はその點にあるのである。郭公は本人《モトツヒト》(一九六二)などとも言つて、これを擬人的に用ゐることが多い。
 
大伴家持攀(ヂテ)2橘花(ヲ)1贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌一首并短歌
 
(577) 攀は引き折る意。一四一六参照。
 
1507 いかといかと ある吾がやどに 百枝さし 生ふる橘 玉にぬく 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり 朝にけに 出で見るごとに いきの緒に 吾が念ふ妹に まそ鏡 清き月夜に ただ一目 見せむまでには 散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 吾が守るものを うれたきや しこほととぎす あかときの うら悲しきに 追へど追へど なほも來鳴きて いたづらに つちに散らせば すべを無み 攀ぢて手折りつ 見ませ吾妹子
 
伊加登伊可等《イカトイカト》 有吾屋前爾《アルワガヤドニ》 百枝刺《モモエサシ》 於布流橘《オフルタチバナ》 玉爾貫《タマニヌク》 五月乎近美《サツキヲチカミ》 安要奴我爾《アエヌガニ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》 朝爾食爾《アサニケニ》 出見毎《イデミルゴトニ》 氣緒爾《イキノヲニ》 吾念妹爾《ワガモフイモニ》 銅鏡《マソカガミ》 清月夜爾《キヨキツクヨニ》 直一眼《タダヒトメ》 令覩麻而爾波《ミセムマデニハ》 落許須奈《チリコスナ》 由米登云管《ユメトイヒツツ》 幾許《ココダクモ》 吾守物乎《ワガモルモノヲ》 宇禮多伎也《ウレタキヤ》 志許霍公鳥《シコホトトギス》 曉之《アカトキノ》 裏悲爾《ウラカナシキニ》 雖追雖追《オヘドオヘド》 尚來鳴而《ナホモキナキテ》 徒《イタヅラニ》 地爾令散者《ツチニチラセバ》 爲便乎奈美《スベヲナミ》 攀而手折都《ヨヂテタヲリツ》 見末世吾妹兒《ミマセワギモコ》
 
ドウカドウカト思ツテ、橘ノ咲クノヲ待ツテ〔九字傍線〕ヰル私ノ家ニ、澤山枝ヲサシ交シテヰル橘ハ、藥玉ニ貫イテ拵ヘル五月ガ近イノデ、落チサウナ程モ澤山ニ〔三字傍線〕花ガ咲イタヨ。毎朝毎日外ヘ出テコレヲ〔三字傍線〕見ル度ニ、私ガ命ニカケテ戀ヒ慕ツテヰルアナタニ、(銅鏡)月ノ清ク照ル晩ニ、唯一目デモヨイカラ、コノ花ヲ〔四字傍線〕見セルマデハ、決シテ散ツテクレルナト言ツテ、大事ニシテヨクヨク私ガ番ヲシテヰルノニ、困ツタコトダアノ馬鹿ナ郭公奴ガ、夜明ケ頃ノ悲シイ時ニ來テ、イクラ追ヒ拂ツテモ拂ツテモ、ヤハリ寄ツテ來テ鳴イテ、空シク花橘ヲ地ノ上ニ散ラシテシマフノデ、仕方ガナイカラ引キヨセテ折リマシタ。コレヲ貴女ニ差止ゲルカラ〔コレ〜傍線〕御覽ナサイヨ。貴女ヨ。
 
○伊加登伊可等《イカトイカト》――如何と如何と。如何にと如何にと意。略解に「宣長云、いかといかとは誤字なるべし。或人云.伊追之可等待《イツシカトマツ》の誤歟。追之を加登に誤り、下の伊は衍、待は有に誤れる也。花の咲をいつしかと待也と言へり」とあるが、原文のままでよい。○有吾屋前爾《アルワガヤドニ》――上に述べたやうに宣長は有を待の誤としてゐる。な(578)るほど有は少しおだやかでないが、上につづいて、如何に如何にと思ひてある意とすれば、解せられないこともないから、このままにして置かう。○安要奴我爾《アエヌガニ》――落ちるほどに。アエはアユといふ動詞の連用形。アユは木の實など、あまり大きくない物の落ちることで、今も九州方面では廣く用ゐられてゐる。卷十八に安由流實波多麻爾奴伎都追《アユルミハタマニヌキヅツ》(四一一一)とある。奴《ヌ》は完了の助詞で、語勢を強める爲に用ゐられたのである。ガニは、やうに・ほどにの意となる。ガで上を名詞的とし、それをニで受けてゐる。この句は橘の枝に咲き滿ちてゐるのを形容したのである。卷十にも秋就者水草花乃阿要奴蟹《アキツカバミクサノハナノアエヌガニ》(二二七二)とある。○朝爾食爾《アサニケニ》――食《ケ》は借字、日《カ》に同じ。毎日。○氣緒爾《イキノヲニ》――命に代へて、心からの意を強く言ふに用ゐる。懸命になどいふと同じであらう。○銅鏡《マソカガミ》――白銅鏡の略であらう。卷十二に白銅鏡手二取持而《マソカガミテニトリモチテ》(三一八五)とある。白銅鏡は古代の鏡の最も明澄なもので、書紀の一書には、伊弉諾尊の持ち給うた白銅鏡から、日神月神が出現し給うたことになつてゐる。ここは清きに冠せる枕詞である。○落許須奈《チリコスナ》――散つてくれるな。コスは希望の意の動詞。○宇禮多伎也《ウレタキヤ》――形容詞ウレタシに詠歎の助詞ヤを添へてゐるが、ヤは極めて輕い。ウレタシは歎かはし・厭はしなどの意。神武紀に、「慨裁、此云2于黎多棄伽夜《ウレタキカヤ》1」とある。○志許霍公鳥《シコホトトギス》――志許《シコ》は醜。郭公を罵つて言ふ。鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》(一一七)・鬼乃志許草《シコノシコクサ》(七二七)の類である。○裏悲爾《ウラガナシキニ》――心悲しい時に、ウラは心。○攀而手折都《ヨヂテタヲリツ》――攀は引き折る。木に登ることではない。一四六一の左註參照。
〔評〕 新婚の妻に贈つたものだけに、愛情が溢れてゐる。橘の花を大切にして、その枝に來鳴く郭公を罵つてゐるのが、人の聞きたがる鳥だけに面白く思はれる。
 
反歌
 
1508 もちくだち 清き月夜に 吾妹子に 見せむと念ひし やどの橘
 
望降《モチクダチ》 清月夜爾《キヨキツクヨニ》 吾妹兒爾《ワギモコニ》 令覩常念之《ミセムトオモヒシ》 屋前之橘《ヤドノタチバナ》
 
十五日過ギノ清イ月夜ニ、アナタニ見セヨウト思ツテ、大事ニシテ置イ〔七字傍線〕タ吾ガ庭ノ花橘ハコレデス。ソレマデ待(579)テバ郭公ガ散ラシテシマフカラ今折ツテ差上ゲマス〔ハコ〜傍線〕。
 
○望降《モチクダチ》――望《モチ》は滿《ミチ》の轉であらう。月の十五日をいふ。クダチは降り。過ぎること。特に十五日過ぎと限定したのは、その頃逢ふ約束になつてゐたものか。長歌には、銅鏡清月夜爾《マソカガミキヨキツクヨニ》とのみある。
〔評〕 月明の清夜に、女と共に眺めようと待つてゐた花橘を、待ちかねて手折つて贈る歌である。結句の名詞止が、本集では珍らしい形になつてゐる。
 
1509 妹が見て 後も鳴かなむ ほととぎす 花橘を つちに散らしつ
 
妹之見而《イモガミテ》 後毛將鳴《ノチモナカナム》 霍公鳥《ホトトギス》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 地爾落津《ツチニチラシツ》
 
郭公ハ花橘ヲ〔三字傍線〕アナタガ一目〔二字傍線〕見テ、ソノ後ニデモ鳴イテクレレバヨイ。アマリ早ク來テ鳴イテ〔レバ〜傍線〕、花橘ヲ地ニ散ラシテシマツタ。ホントニヒドイ郭公ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○後毛將鳴《ノチモナカナム》――舊訓を改めて略解にナキナムとしたのはわるい。鳴いてくれと希望するのである。○地爾落津《ツチニチラシツ》――舊訓を略解にオトシツと改めてゐる。長歌に地爾令散者《ツチニチラセバ》とあるから、チラシツと訓むがよからう。
〔評〕 長歌の意を繰返しただけで、平凡な歌である。
 
大伴家持贈(レル)2紀郎女(ニ)1作歌一首
 
郎女は神田本に女郎とあるのがよい。作の字は衍であらう。神田本にない。
 
1510 なでしこは 咲きて散りぬと 人は言へど 吾がしめし野の 花にあらめやも
 
瞿麥者《ナデシコハ》 咲而落去常《サキテチリヌト》 人者雖言《ヒトハイヘド》 吾標之野乃《ワガシメシヌノ》 花爾有目八方《ハナニアラメヤモ》
 
瞿麥ノ花ハ咲イテ散ツタト世間ノ人ハ言フガ、私ガ私ノモノトシテ〔七字傍線〕標ヲシテ置イタ野ノ花デハアリマスマイナア。女ガ心ガハリシタト云フガ、ソレハ私ガ約束シタアナタデハアリマスマイネ〔女ガ〜傍線〕。
 
(580)○花爾有目八方《ハナニアラメヤモ》――花ならむや。花にはあらじの意。
〔評〕 卷三の、大伴宿禰駿河麻呂梅歌。梅花開而落去登人者雖云吾標結之枝將有八方《ウメノハナサキテチリヌトヒトハイヘドワガシメユヒシエダナラメヤモ》(四〇〇)と全く同趣同型で、この二つのうちいづれかが模倣であるに違ひないが、作の年代が明らかでないからいづれとも斷じ難い。或はこの作が後か。
 
秋雜歌
 
崗本天皇御製歌一首
 
崗本天皇は高市の崗本宮に世を知ろしめした天皇、即ち舒明天皇。
 
1511 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿の こよひは鳴かず いねにけらしも
 
暮去者《ユフサレバ》 小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》 鳴鹿之《ナクシカノ》 今夜波不鳴《コヨヒハナカズ》 寢宿家良思母《イネニケラシモ》
 
夕方ニナルトイツデモ〔四字傍線〕小倉山デ鳴ク鹿ガ、今夜ハ鳴カナイ。多分臥タノデアラウヨ。イツモハ妻ヲ慕ツテ鳴クガ、今夜ハ鳴カナイノデ見レバ、妻ニ逢ツテ寢テヰルラシイ〔イツ〜傍線〕。
 
○小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》――この山名は卷九の冒頭に、小椋山《ヲグラヤマ》(一六六四)とあり、同じく同卷の長歌に小鞍嶺《ヲグラノミネ》(一七四七)とある。この歌と卷九卷頭の歌とは全く同一であるから、山名も當然同所であるが、小鞍嶺は龍田山中の巓として歌はれてゐるから、所在は明らかである。併しこの小倉山は(卷九の小椋山も同所)皇居近い山らしく詠ぜられてゐるから、龍田の小鞍嶺とは別と思はれる。もしこの歌を卷九に記載してあるやうに、雄略天皇の御製とするならば、この山はその皇居であつた、初瀬峽谷の入口、朝倉村岩坂の南方の山であらうと推定せられるが、下に記したやうにそれは疑はしいから、舒明天皇の皇居に近い山としたい。而も飛鳥の岡本宮の舊址附近には、小倉山といふ名を聞かない。恐らく今、古名が忘れられてゐるので、やはり岡本宮に近い山であらう。併しこ(581)の宮の舊地を喜多博士のやうに雷岡の麓とするならば、全然それらしい山はないのである。○寐宿家良思母《イネニケラシモ》――寐《イ》は寢ること。名詞、宿《ネ》は動詞|寢《ヌ》るの連用形。ニケラシは過去完了の助動詞ニケリに、推量のラシを添へたもの。モは感歎の助詞。
〔評〕 優雅な純情のあらはれた作である。卷一の天皇登2香具山1望v國之時御製歌(二)と共に立派な御製である。卷九の冒頭に第三句を、臥鹿之《フスシカノ》としては歌品が下るやうに思はれるから、この方がよい。なほこれを雄略天皇の御製としては、歌風が新らしきに過ぎる。實は舒明天皇としても、まだその感があるくらゐである。この兩帝のうちで選ぶならば、もとより舒明天皇とすべきである。
 
大津皇子御歌一首
 
大津皇子は天武天皇の皇子。一〇五の題詞參照。
 
1512 經《たて》もなく 緯《ぬき》も定めず をとめらが 織る黄葉ばに 霜なふりそね
 
經毛無《タテモナク》 緯毛不定《ヌキモサダメズ》 未通女等之《ヲトメラガ》 織黄葉爾《オルモミヂバニ》 霜莫零《シモナフリソネ》
 
縱ノ糸モ無ク、横ノ糸モ定メナイデ、天女等ガ織ツタ錦ノヤウナ〔五字傍線〕紅葉ニ霜ガ降ルナヨ。霜ガ降ルト色ガ變ツテシマフカラ〔霜ガ〜傍線〕。
 
○未通女等之《ヲトメラガ》――この未通女《ヲトメ》は即ち天つ處女であらう。人間の少女としては意味をなさない。諸註それに言及しないのはどうしたわけか。○織黄葉爾《オルモミヂバニ》――織る黄葉の錦にと言はないでは言葉が足りないが、それは咎むべきではない。新訓にはこの句をオレルモミヂニとよんでゐるが、黄葉はモミヂバとよんだ例が多い。
〔評〕 初二句は三芳野之青根我峰之蘿席誰將織經緯無二《ミヨシヌノアヲネガミネノコケムシロタレカオリケムタテヌキナシニ》(一一二〇)に似た點もあり、しかも天つ處女を點出したのは面白い想像である。懷風藻に見える、この皇子の御作、「天紙風筆畫2雲鶴1山機霜杼織葉錦」と略同一の構想であるが、歌と詩といづれが先であるか不明である。ともかく漢詩の影響による作品で、かういふものが前驅(582)をなして、古今集の「霜のたて露のぬきこそよわからし山の錦の織ればかつ散る」「たつ田川錦織りかく神無月時雨の雨をたてぬきにして」などが作られるやうになつたのである。書紀にこの皇子を叙して、「及v長辨有2才學1、尤愛2文筆1詩賦之興自2大津1始也」とあるのは、なるほどとうなづかしめる。この歌、和歌童蒙抄・八雲御抄に見える。
 
穗積皇子御歌二首
 
穗積皇子は天武天皇の皇子。一一四參照。
 
1513 今朝の朝け 雁が音聞きつ 春日山 黄葉にけらし 吾が心いたし
 
今朝之旦開《ケサノアサケ》 雁之鳴聞都《カリガネキキツ》 春日山《カスガヤマ》 黄葉家良思《モミヂニケラシ》 吾情痛之《ワガココロイタシ》
 
今朝ノ夜明ケニ雁ノ鳴ク聲ヲ初メテ〔三字傍線〕聞イタ。雁ガ鳴イタカラニハ〔九字傍線〕、春日山ハ紅葉シタデアラウ。私ノ心モ景色ガ秋深クナルニツレテ〔景色〜傍線〕、悲シイヨ。
 
○雁之鳴聞都《カリガネキキツ》――雁之鳴《カリガネ》は雁の鳴く音。後には雁をカリガネともいふやうになつた。○黄葉家良思《モミヂニケラシ》――黄葉《モミヂ》が動詞として、用ゐられてゐる。
〔評〕 秋は八千草の花を愛で紅葉を惜しんで、面白い季節と考へたのが古代思想である。後世のやうに、秋を悲哀的に見るのは萬葉にはめづらしい。この歌はその心境を極めて感傷的口吻で巧みに詠出せられてゐる。よほど詩人的の性格のお方であつたらしい。
 
1514 秋萩は 咲きぬべからし 吾がやどの 淺茅が花の 散りぬる見れば
 
秋芽子者《アキハギハ》 可咲有良之《サキヌベカラシ》 吾屋戸之《ワガヤドノ》 淺茅之花乃《アサヂガハナノ》 散去見者《チリヌルミレバ》
 
吾ノ家ノ庭ニマバラニ生エテヰル茅ノ花ガ散ツタノデ見ルト、モウソロソロ〔六字傍線〕秋萩ノ花ガ咲クラシイ。
 
○可咲有良之《サキヌベカラシ》――サクベカラシとよんでもよいであらうが、ヌに當る文字がないのを添へてよんだのであ(583)る。咲くであらうの意。
〔評〕 春の頃穗に出たささやかな茅花が、夏になつてもまだ草かげに、ほほけて殘つてゐる。が、それもやがて散つてしまふと夏も終つたのである。ああもう秋も來て萩の花も咲くであらうと、皇子はこんな小さい景物をも見遁さない、敏感な詩人であつたのだ。そこにこの歌の特色も美點もある。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
 
但馬皇女御歌一首 【一書云子部王作】
 
但馬皇女は天武天皇の皇女。前の穗積皇子とは異腹の兄妹であつて、戀に落ちて問題を惹起した。一一四・一一五參照。舊本但馬皇子とあるは誤。西本願寺本によつて改む。子部王は卷十六に兒部《チヒサコベノ》女王(三八二一)とあるお方か。代匠記精撰本に、女の字が脱ちたのであらうと言つてゐる。このお方の傳は明らかでない。
 
1515 事しげき 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを 一云、國に有らずは
 
事繁《コトシゲキ》 里爾不住者《サトニスマズハ》 今朝鳴之《ケサナキシ》 雁爾副而《カリニタグヒテ》 去益物乎《ユカマシモノヲ》
 一云|國爾不有者《クニニアラズハ》
 
コンナ面倒ナ里ニ住マナイデ、寧ロ〔二字傍線〕今朝鳴イタ雁ト一緒ニ、何處カヘ往ツテシマヒタイモノヲ、ホントニイヤナ世ノ中ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○事繁《コトシゲキ》――忙しいといふ意ではない。面倒な、人の口の喧ましいことであらう。○里爾不住者《サトニスマズハ》――里に住まないで、寧ろの意。このズハは前に澤山用例があつた。普通「……よりは」と譯されてゐる。○一云|國爾不有者《クニニアラズハ》――第二句の異傳である。この方が更に面白いやうである。類聚古集・神田本などには小字になつてゐる。
〔評〕 雁と一緒に何處へ行かうといふのであらう。勿論何處といふ當てはない。唯雁があはれな聲で鳴いて行く所、そこはこの世とは違つた穩やかな・口善悪さの無いところのやうに思はれる。この鳥の聲をあはれむ心か(584)ら、ふとかうした考が胸中に湧き出たのである。なほこの歌の解には、穗積皇子との間に浮名が立つてゐたことも、考慮に入れねばならない。古義に「世間の繁務をいとはせ給へるとき、よみ賜へるなるべし」とあるのも、新考に「此御歌は、穗積皇子のケノアサケ雁ガネキキツといふ御歌の和なるべし」とあるのも從ひ難い。
 
山部《ヤマベノ》王惜(シム)2秋葉(ヲ)1歌一首
 
山部王は詳かでない。天武天皇紀に、「時近江命2山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等1率2數萬衆1將v襲2不破1而軍2于犬上川濱1、山部王爲2蘇賀臣果安、巨勢臣比等1見v殺、由2是亂1以2軍不1進乃蘇賀臣果安自2犬上1返刺v頸而死」とある山部王は時代が古過ぎるから、ここの山部王でなく、又桓武天皇が諸王でいらせられた時の御名を、山邊王と申し奉つたが、文字も異なり、年代も新しきに過ぎるから違つてゐる。ここの山部王は前後の作者から考へると、和銅から天平初年までの間であらねばならぬ。必ず別人である。
 
1516 秋山に もみづ木の葉の うつりなば 更にや秋を 見まく欲りせむ
 
秋山爾《アキヤマニ》 黄反木葉乃《モミヅコノハノ》 移去者《ウツリナバ》 更哉秋乎《サラニヤアキヲ》 欲見世武《ミマクホリセム》
 
秋ノ山ニ紅葉シタ美シイ木ノ葉ガ散ツテシマツタナラバ、今更惜シクナツテ〔八字傍線〕、一層秋ノ景色〔三字傍線〕ガ見タクナルデアラウ。
 
○黄反木葉乃《モミヅコノハノ》――黄反を舊訓キバムとよみ、考はニホフとあるが、略解にモミヅとしたのがよい。代匠記精撰本にモミヅルとあるのは上二段活に見たのだが、下の如此曾毛美照《カクゾモミデル》(一六二八)にならつて、四段活をとることにする。黄反は黄變に同じ。下に黄變蝦手《モミヅカヘルデ》(一六二三)とある。○移去者《ウツリナバ》――ウツリはウツロフに同じ。盛の過ぎるをいふので、色の褪せるのにも、散るのにもいふ。ここは紅葉の散る意である。
〔評〕 紅葉を以て秋景の代表と見て、それが散つたのを惜しんで、更に秋に逢はうと思ふであらうと言ふのであ(585)る。古義に「歌意かくれなし」とあるが、下句の意は必ずしも明瞭とは言はれない。
 
長屋王一首
 
高市皇子の御子。七五參照。
 
1517 味酒 三輪のはふりの 山照らす 秋のもみぢば 散らまく惜しも
 
味酒《ウマサケ》 三輪乃祝之《ミワノハフリノ》 山照《ヤマテラス》 秋乃黄葉《アキノモミヂバ》 散莫惜毛《チラマクヲシモ》
 
(味酒)三輪ノ神主ガ神樣ヲ祀ツテヰル〔八字傍線〕三輪山ニ、山ガ輝クホドニ美シク紅葉シテヰル〔ホド〜傍線〕秋ノ黄葉ガ、散ルノハ惜シイコトダ。
 
○味酒《ウマサケ》――枕詞。味酒を掌る三輪の神の意であらう。一七參牌。○三輪乃祝之《ミワノハフリノ》――舊訓ミワノハフリガとある。略解に「宣長云、三輪のいはひのやまひかると訓べし。いはひの山は神を齋まつる山といふ事也と言へり。是然るべきか」とあるが、いはひの山は語をなさぬやうである。祝《ハフリ》は神を祀るもの。神職。その祝が司る山とつづくのであらう。
〔評〕 三輪山の秋色を愛し給ふ御歌である。三四の句は、滿山の紅葉の美觀を思はしめるよい詞である。この歌は和歌童蒙抄に出てゐる。
 
山上臣憶良七夕歌十二首
 
七夕は即ち七月七日の夕で、その夜牽牛・織女の二星相逢ふといふ傳説から、この二星を祭ることが始まつたのである。公事根源、乞巧奠の條にその次第を記して、「天平勝寶七年にはじまる」とあるが、これはその儀式が朝廷に於て行はれるやうになつた起源を述べたもので、七夕傳説はそれよりも遙か以前に吾が國に入つたものであらう。否、曲水宴の如きも書紀によれば、顯宗天皇の(586)二年三月上巳に行はれたと記してあるから、乞巧奠も必ず、天平勝寶七年以前から廣く行はれてゐたらうと思はれる。集中に七夕の歌は二百首に近いのであるが、かかる盛況を來したのは、唯この傳説が廣く語られてゐた爲ばかりでなく、七日の夕の星祭が、かなり古くから一般に行はれてゐたものに相違ない。
 
1518 天の川 相向き立ちて 吾が戀ひし 君來ますなり 紐解きまけな 一云、河に向ひて
 
天漢《アマノガハ》 相向立而《アヒムキタチテ》 吾戀之《ワガコヒシ》 君來益奈利《キミキマスナリ》 紐解設奈《ヒモトキマケナ》
 一云|向河《カハニムカヒテ》
 
天ノ川ヲ間ニシテ〔五字傍線〕、相向ヒアツテ、一年ノ間〔四字傍線〕私ガ戀ヒ慕ツテヰタアノ方ガオイデナサルヨ。着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ解イテオ待チシマセウ。
 
○天漢《アマノガハ》――漢はもと漢水と稱する河の名であるが、轉じて天の川のことに用ゐる。天漢はもとより天の川で、雲漢・星漢・銀漢・霄漢・銀河・漢河などいふに同じ。天の川は元來無數の恒星の集合で、凸レンズのやうな形をなした約二十億の恒星團をその幅の方向から眺めるから、白い帶状をなして見えるのだといふ。○君來益奈利《キミキマスナリ》――第二句の吾は織女みづからいふのであるから、この句の君は牽牛をさしてゐる。○紐解設奈《ヒモトキマケナ》――紐は着物の上着の紐。紐を解くのは、くつろいで寢るのである。マケは文字の如く、(587)設けること。用意すること。○一云|向河《カハニムカヒテ》――これは第二句の異傳である。河といふ語が重つて面白くない。
〔評〕 これは織女星の心になつて詠んだのである。結句が少し感覺的でもあるが、さして咎むべきほどでもない。卷十の天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノカハカハトニタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマタム》(二〇四八)に酷似した歌である。
 
右養老八年七月七日應v令
 
養老八年二月四日、聖武天皇御即位と同時に改元あつて神龜元年となる。次の歌に神龜元年七月七日と記してあるから養老八年は誤である。また應令とある令は、即ち東宮の令旨で、皇太子の仰によつて作つたことであるが、右に述べたやうに、養老八年の二月四日皇太子は即位あらせられ、天平十年まで皇太子はおはしまさなかつたから、この八年は確かに誤である。代匠記精撰本に六の誤とし、考には七の誤としてゐる。そのいづれかであらう。なほ山上憶良は養老五年正月以降、勅によつて退朝の後、東宮に待せしめられたのであるから、この歌を作つたのは、その時から三年間のことに違ひない。
 
1519 久方の 天の川せに 船泛けて こよひか君が わがり來まさむ
 
久方之《ヒサカタノ》 漢瀬爾《アマノカハセニ》 船泛而《フネウケテ》 今夜可君之《コヨヒカキミガ》 我許來益武《ワガリキマサム》
 
(久方之)天ノ川ノ瀬ニ船ヲ泛ベテ、今夜ハアノオ方ガ、私ノ所ヘオイデナサルダラウカ。ウレシイコ卜ダ〔七字傍線〕。
 
○漢瀬爾《アマノカハセニ》――漢は右に述べたやうに、天の川のことであるからかうよんだのである。代匠記精撰本に天の字を脱とし、古義もこれを補つてゐるが、このままでよい。瀬は淺いところで、船を泛べるのに適しないわけである。併し卷七に從此川船可行雖在渡瀬別守人有《コノカハユフネハユクベクアリトイヘドワタリセゴトニモルヒトアルヲ》(一三〇七)などの如き用例もあるから、一概には言はれない。但し神田本・西本願寺本など、瀬の字の無い古寫本が多いから、なほ考ふべきである。
〔評〕 これも織女星の心になつて詠んだもの。あまり感興のない作である。
 
右神龜元年七月七日夜左大臣家
 
左大臣は長屋王である。神龜元年二月甲午、聖武天皇御即位に當つて、長屋王は右大臣から左大臣に昇つ(588)た。家の字は神田本その他、宅に作る本が多い。
 
1520 ひこほしは たなばたつ女と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 河に向き立ち 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 青浪に 望は絶えぬ 白雲に 涙は盡きぬ 斯くのみや いきづきをらむ 斯くのみや 戀ひつつあらむ さ丹塗の 小船もがも 玉まきの 眞かいもがも 一云、小棹もがも 朝なぎに い掻き渡り 夕潮に 一云、夕べにも い榜ぎ渡り ひさかたの 天の河原に 天飛ぶや 領巾片敷き 眞玉手の 玉手さしかへ あまたいも 寐てしがも 一云、いもさねてしが 秋にあらずとも 一云、秋またずとも
 
牽牛者《ヒコホシハ》 織女等《タナバタツメト》 天地之《アメツチノ》 別時由《ワカレシトキユ》 伊奈宇之呂《イナウシロ》 河向立《カハニムキタチ》 意空《オモフソラ》 不安久爾《ヤスカラナクニ》 嘆空《ナゲクソラ》 不安久爾《ヤスカラナクニ》 青浪爾《アヲナミニ》 望者多要奴《ノゾミハタエヌ》 白雲爾《シラクモニ》 ※[さんずい+帝]者盡奴《ナミダハツキヌ》 如是耳也《カクノミヤ》 伊伎都枳乎良武《イキヅキヲラム》 如是耳也《カクノミヤ》 戀都追安良牟《コヒツツアラム》 佐丹塗之《サニヌリノ》 小船毛賀茂《ヲブネモガモ》 玉纏之《タママキノ》 眞可伊毛我母《マカイモガモ》【一云|小棹毛何毛《ヲサヲモガモ》】 朝奈藝爾《アサナギニ》 伊可伎渡《イカキワタリ》 夕鹽爾《ユフシホニ》【一云|夕倍爾毛《ユフベニモ》】 伊許藝渡《イコギワタリ》 久方之《ヒサカタノ》 天河原爾《アマノガハラニ》 天飛也《アマトブヤ》 領布可多思吉《ヒレカタシキ》 眞玉手乃《マタマデノ》 玉手指更《タマデサシカヘ》 餘宿毛《アマタイモ》 寐而師可聞《ネテシガモ》【一云|伊毛左禰而師加《イモサネテシカ》】 秋爾安良受登母《アキニアラズトモ》【一云|秋不待登母《アキマタズトモ》】
 
牽牛星ハ織女星ト、天地ガ初メテ〔三字傍線〕分レタ開闢ノ〔三字傍線〕時カラ(伊奈宇之呂)天ノ〔二字傍線〕河ニ向ヒ合ツテ〔三字傍線〕立ツテヰテ、容易ニ逢フコトガ出來ナイカラ〔容易〜傍線〕、思フ心ハ安ラカデナイノニ、又〔傍線〕、嘆キ悲シム心モ安ラカデナイノニ、遙カニ川ヲ眺メルト〔九字傍線〕、青イ波ガ立チ列ナツテヰルノ〔九字傍線〕デ、遠クテ目モ屆キカネル。又〔傍線〕白雲ガ棚引イテヰルノデ、向ヲ見ルコトガ出來ズ悲シク〔ガ棚〜傍線〕テアマリ泣イテ〔六字傍線〕涙モナクナツテシマツタ。カウシテタメ息バカサヲツイテヰヨウカ。カウシテ戀ヒ慕ツテバカリ居リマセウカ。空シク嘆イテバカリヰテモツマラナイ〔空シ〜傍線〕。赤ク塗ツタ小舟ガアレバヨイ。サウシテ〔四字傍線〕玉ヲ纒イタ櫂ガアレバヨイ。サウシタラソノ小舟ニ乘リ、ソノ櫂ヲ繰ツテ〔サウ〜傍線〕、朝風ノ靜カナ時ニ水ヲ〔二字傍線〕掻イテ渡ツテ、夕方ノサシ汐ニ漕イデ渡ツテ、(久方之)天ノ河原デ、天ヲ飛ブ時二使フ〔四字傍線〕領巾ヲ下ニ敷イテ、玉ノヤウナ美シイ手ヲサシ交シテ、秋デハナクトモ、イツデモ〔四字傍線〕、幾度モ寝タイモノダ。今ノヤウニ秋ノ一夜ノ逢瀬デハ悲シイカラ〔今ノ〜傍線〕。
 
(589)○牽牛者《ヒコホシハ》――牽牛は牽牛星。和名抄に「爾雅註云、牽牛一名河皷、和名比古保之、又以奴加比保之」とあり、ヒコホシは彦星で男星の義である。この名はこの傳説が傳來した時、吾が國人がかく呼び初めたのであらう。紀記には見えない。この星は鷲星座のa星で、altair と呼ぶ一等星である。天の川の西岸に光つてゐる。○織女等《タナバタツメト》――織女は織女星。和名抄に「兼名苑云、織女牽牛疋也、和名太奈八太豆女」とあり、タナバタツメは、棚機つ女即ち棚機を織る女の意である。この織女を古事記神代の卷の高比賣の歌「阿米那流夜淤登多那婆多能宇那賀世流多麻能美須麻流《アメナルヤオトタナバタノウナガセルタマノミスマル》云々」の弟棚機《オトタナバタ》と同一視する説もあるが、妄である。七夕傳説渡來の後、吾が古傳説中の神名を、それに流用したのに過ぎない。支那ではこの星を牽牛星の妻で、天の川のほとりで機を織つてゐる女としてゐる。荊楚歳時記に「天河之東有2織女1天帝之子也、年々織杼勞役、織2成雲錦天衣1、天帝憐2其獨處1許v嫁2河西牽牛1、即嫁後遂廢2織袵1、天帝怒責、令v歸2河東1但使2其一年一度相會1」とある。この星は琴星座のa星で vega と稱し、天の北半球では最大の光度を有し、天の川の東に輝いてゐる。○天地之別時由《アメツチノワカレシトキユ》――天地開闢の時から、この宇宙の創造された時から。○伊奈宇之呂《イナウシロ》――枕詞。宇《ウ》は牟《ム》の誤で、イナムシロであらうと言はれてゐる。或は宇と牟と通ずるのかも知れない。顯宗紀に「伊儺武斯廬※[加/可]簸泝比野儺擬寐豆愈凱麼儺弭企於巳陀智曾能泥播宇世儒《イナムシロカハソヒヤナギミヅユケバナビキオシタチソノネハウセズ》」、本集卷十一に伊奈武思侶敷而毛君乎將見因母鴨《イナムシロシキテモキミヲミムヨシモガモ》(二六四三)とある。寐席《イナムシロ》の意で、皮で作るから、河につづけるのだとも、また稻席で強《コハ》いものであるから、コハの轉カハにつづくともいふ。敷《シキ》につづくのは席を敷く意にかけたのである。○意空《オモフソラ》――思ふ心。○不安久爾《ヤスカラナクニ》――安くあらなくに。安くはないのにの意。新訓にヤスケナクニとある。○青浪爾望者多要奴《アヲナミニノゾミハタエヌ》――古義に「遙々蒼浪を望み見やるに遠くして見屆かねば、目のつきたるをいふならむ」とあるに從はう。青波の彼方に目が屆かぬのである。新考にはノゾミを希望の義として、「眺望の義のノゾミは古書には見えず」とあるが、仁徳紀「登2高臺1以遠2望之1」の望の字にミノゾムニと訓してあるから、必ずしもさうは言はれない。○白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴《シラクモニナミダハツキヌ》――目を遮る白雲を仰ぎ見て逢はれぬ戀を嘆いて、涙が盡きるほど泣いたといふのである。○佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモガモ》――サは接頭語。佐丹塗之小船《サニヌリノヲブネ》は、赤く塗つた小船。赤乃曾保船《アケノソホフネ》(二七〇)・赤曾朋舟《アケノソホフネ》(三三〇〇)・赤羅小船《アカラヲフネ》(三八六八)と同じ。○玉纏之眞可伊毛(590)我母《タママキノマカイモガモ》――玉の緒を卷きつけた櫂もあれかしの意。王を飾として卷くのは古代の風習であるが、丹塗の小船にふさはしく、美的に言つたのであらう。眞《マ》は接頭語であるが、左右揃つたものにいふのである。○伊可伎渡《イカキワタリ》――伊《イ》は接頭語で意味はない。次に伊許藝渡《イコギワタリ》の伊《イ》も同じ。○夕鹽爾《ユフシホニ》――上の朝奈藝爾《アサナギニ》に對したのであるが、河に夕鹽といふのは穩かでない。天の川を廣い海のやうにいつてゐるので、おのづからかういふ句を用ゐたのであらう。一云|夕倍爾毛《ユフベニモ》とあるのは難はないが、朝奈藝爾の對句としては拙い。○天飛地《アマトブヤ》――天を飛ぶ爲のの意であらう。ヤは輕く添へた詠歎の助詞。ここは織女を天女に見たててゐる。略解に「天飛やは、天上の事なれば、冠らせたるのみにて、たゞ領巾を敷寢る也」とあるが、枕詞と見てはわるい。○領巾可多思吉《ヒレカタシキ》――領巾は女の肩からかける細い布。可多思吉《カタシキ》は片敷き。多く片方の袖を敷いて寢ることで、獨寢するにいふが、ここは少し用方が違つてゐる。○眞玉手乃玉手指更《マタマデノタマデサシカヘ》――手と手とを指しかはして。卷五にも、麻多麻提乃多麻提佐斯迦閉《マタマデノタマデサシカヘ》(八〇四)とある。古事記八千矛神の御歌に、麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐《マタマデタマデサシマキ》とあるに似てゐる。○餘宿毛《アマタイモ》――舊訓ヨイモとあるのはよくない。考に從ふ。宣長は、宿の字の上に一句脱たるにて、餘の字は其中の一字なるべしと言つてゐる。古義は餘の下、多の字が脱ちたものとして、次の句へつづけて、アマタタビイモネテシカモとよんでゐる。次に一云|伊毛左禰而師加《イモサネテシカ》とあるによれば、古義の訓も一理はある。
〔評〕 この長歌には、對句を多く用ゐてゐるのが目に立つ。意空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニ》から、夕鹽爾伊許藝渡《ユフシホニイコギワタリ》までの二十句は、二句づつ五對句をなしてゐる。對句は祝詞や、他の長歌にもあるが、かく多數にならべるのは、六朝詩文の影響と言はねばならぬ。ことに青浪爾望者多要奴白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴《アヲナミニノゾミハタエヌシラクモニナミダハツキヌ》の如き、全く漢文直譯式の叙法であり、且この題材と、作者が山上憶良なることを思へば、この歌が全く支那趣味によつて作られてゐることを認めねばなるまい。なほこの長歌は卷十三の見渡爾妹等者立志是方爾吾者立而思虚不安國嘆虚不安國左丹漆之小舟毛鴨玉纒之小楫毛鴨榜渡乍毛相語妻遠《ミワタシニイモラハタタシコノカタニワレハタチテオモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニサニヌリノヲブネモガモタママキノヲカイモガモコギワタリツツモアヒカタラメヲ》(三二九九)を基として、手を入れたものであるのは、憶良のために惜まざるを得ない。またこの歌と卷九の一七八〇とも少し似てゐる。
 
(591)反歌
 
1521 風雲は 二つの岸に 通へども 吾が遠嬬の 一云、はしづまの 言ぞ通はぬ
 
風雲者《カゼクモハ》 二岸爾《フタツノキシニ》 可欲倍杼母《カヨヘドモ》 吾遠嬬之《ワガトホヅマノ》【一云|波之嬬乃《ハシヅマノ》 事曾不通《コトゾカヨハヌ》
 
風ト雲トハコノ天ノ川ノ〔六字傍線〕、アチラノ岸トコチラノ岸トニ往來スルガ、實ノ使デハナイカラ〔九字傍線〕私ノ遠クニヰル妻ノ織女〔二字傍線〕ノ言葉モ傳ヘナイヨ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○風雲者《カゼクモハ》――風と雲とは。これも漢文調らしく聞える。○吾遠嬬之《ワガトホヅマノ》――遠嬬は遠くに在る妻。ここは織女をさす。一云|波之嬬乃《ハシヅマノ》のとあるのは、愛嬬《ハシヅマ》で、愛《ハ》しき妻の略である。○事曾不通《コトゾカヨハヌ》――事は言の借字。
〔評〕 牽牛星の心になつてよんでゐる。冒頭が漢文調になつてゐるのみならず、全體が堅い調子になつてゐる。
 
1522 たぶてにも 投げ越しつべき 天の川 隔てればかも あまた術無き
 
多夫手二毛《タブテニモ》 投越都倍伎《ナゲコシツベキ》 天漢《アマノガハ》 敝太而禮婆可母《ヘダテレバカモ》 安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》
 
礫ヲナゲテデモ、越スコトガ出來サウナ狹イ〔二字傍線〕天ノ川デハアルガ〔五字傍線〕、カケ隔ツテヰテ渡ルコトガ出來ナイ〔九字傍線〕カラカ、コンナニヒドク何トモ仕樣ガナイホド戀シイ〔五字傍線〕ノデアラウカ。
 
○多夫手二毛《タブテニモ》――多夫手《タブテ》はツブテ。礫。手にて擲るやうな小石。手棄《タウテ》の義かといふ。ニモはニテモの意。古義に二を乎《ヲ》の誤としたのは從ひ難い。○安麻多須辨奈吉《アマタスベナキ》――安麻多《アマタ》は數多。甚だしくの意。奧津浪驂乎聞者數悲哭《オキツナミサワグヲキケバアマタカナシモ》(一一八四)・袖不振爲而安萬田悔毛《ソデフラズシテアマタクヤシモ》(三一八四)の類と同じである。
〔評〕 これも牽牛星の心であるが、前の歌と同樣調子が堅い。長歌では海のやうに廣い天の川だつたが、これでは石を投げても越せさうになつてゐる。いづれ空想の作品であるから、この矛盾を咎めてはいけない。また、つぶてでも投げ越せるといふのは、男性らしい言葉でそこに面白味もあるのである。
 
(592)右天平元年七月七日(ノ)夜、憶良、仰2觀(ル)天河(ヲ)1【一云帥家作】
 
天平元年は憶良が筑前守として筑紫にあつた時である。一云帥家作とあるのは多分正しい傳であらう。河の字の下に、作の字があるべきが脱ちたのだらうと代匠記に言つてゐる通りであらう。舊本、帥を師に作るは誤。京大本による。
 
1523 秋風の 吹きにし日より いつしかと 吾が待ち戀ひし 君ぞ來ませる
 
秋風之《アキカゼノ》 吹爾之日從《フキニシヒヨリ》 何時可登《イツシカト》 吾待戀之《ワガマチコヒシ》 君曾來座流《キミゾキマセル》
 
秋風ガ吹キハジメタ日カラ、イツニナツタラ逢へルカ〔四字傍線〕ト、ソノ日ヲ指折り數ヘテ〔十字傍線〕私ガ待ツテ戀ヒ慕ツテヰタオ方ガ、オイデニナリマシタヨ。アア嬉シイ嬉シイ〔八字傍線〕。
 
○君曾來座流《キミゾキマセル》――君は牽牛をさす。
〔評〕 極めて平易な歌で、地上の戀と何ら變らぬやうによんである。織女星の心になつてよんでゐる。
 
1524 天の川 いと河浪は 立たねども さもらひ難し 近きこの瀬を
天漢《アマノガハ》 伊刀河浪者《イトカハナミハ》 多多禰杼母《タタネドモ》 伺候難之《サモラヒガタシ》 近此瀬乎《チカキコノセヲ》
 
天ノ川ニハ、ヒドク川浪ハ立タナイケレドモ、サウシテ〔四字傍線〕近イコノ瀬ダノニ、年ニ一度シカ渡レナイノデ、ソレヲ待ツテ〔年ニ〜傍線〕待チカネテヰル。
 
○伊刀河浪者《イトカハナミハ》――伊刀《イト》は甚だ。この語は第三句の多多禰杼母《タタネドモ》につづいてゐる。○伺候難之《サモラヒガタシ》――伺候《サモラヒ》は大御舟竟而佐守布《オホミフネハテテサモラフ》(一一七一)・大船候水門事有《オホフネノサモラフミナトコトシアラバ》(一三〇八)・妹爾相時候跡《イモニアフトキサモラフト》(二〇七二)など皆、時期を待つことである。ここも待つてゐて、待つに堪へかねる意である。この句の解、略解に「川瀬をうかがひ渡りがたきといふ也」古義に「牽牛のもとにさぶらひ難し」とあるのはいづれも誤つてゐる。
〔評〕 これは二星のいづれの心とも判じがたい。少し表現に曖昧な點がある。
 
(593)1525 袖振らば 見もかはしつぺく 近けども 渡るすべ無し 秋にしあらぬば
 
袖振者《ソデフラバ》 見毛可波之都倍久《ミモカハシツベク》 雖近《チカケドモ》 度爲便無《ワタルスベナシ》 秋西安良禰波《アキニシアラネバ》
 
袖ヲ振レバ、互ニ顔ヲ見合セルコトガ出來ルホドニ近イケレドモ、間ヲ隔テテヰル天ノ川ハ〔間ヲ〜傍線〕、秋デナイカラ今ハ〔二字傍線〕渡ルベキ方法モナイ。
 
○雖近《チカケドモ》――舊訓チカケレドとあるが、代匠記精撰本に「今按、雖遠をトホケドモとよめる古語になずらへば、チカケドモと讀べし」と言つたのに從ふべきである。
〔評〕 これも二星の心である。考には「牽牛になりて云なり」とある。天の川が狹いやうに詠んで、逢瀬のままならぬと對照さしてある。
 
1526 玉かぎる ほのかに見えて 別れなば もとなや戀ひむ 逢ふ時までは
 
玉蜻※[虫+延]《タマカギル》 髣髴所見而《ホノカニミエテ》 別去者《ワカレナバ》 毛等奈也戀牟《モトナヤコヒム》 相時麻而波《アフトキマデハ》
 
私ハアナタト〔六字傍線〕(玉蜻※[虫+延])タダ一寸一夜ダケ〔四字傍線〕オ目ニカカツタバカリデオ別レシタナラバ、又オ目ニカカル時マデハ、徒ラニ戀ヒ慕ツテヰルコトデセウ。
 
○玉蜻※[虫+延]《タマカギル》――枕詞。この句は從來カゲロフノ又はカギロヒノとよまれて來たが、タマカギルとよむべきである。蜻※[虫+延]はカゲロフであるのを、カギロフに通ぜしめ、カギルに用ゐたのである。この枕詞については四五に委しく説いて置いたから、參照せられたい。玉の輝きの光ほのかなる意で、髣髴《ホノカ》につづけるのである。○毛等奈也戀牟《モトナヤコヒム》――毛等奈《モトナ》はここでは、徒らに・猥りになどの意。委しくは二三〇參照。
〔評〕 一夜の逢瀬をホノカニミエテと言つたのが、いかにも物足りなさうに、物はかなさうに聞えて、あはれである。
 
右天平二年七月八日(ノ)夜、帥(ノ)家集會
 
太宰帥大伴旅人の家の集倉で、憶良が作つたもの。この年十月一日を以て旅人は大納言になつて都に歸つ(594)た。
 
1527 彦ほしの 嬬迎へ船 こぎ出らし 天の河原に 霧の立てるは
 
牽牛之《ヒコホシノ》 迎嬬船《ツマムカヘブネ》 己藝出良之《コギヅラシ》 漢原爾《アマノカハラニ》 霧之立波《キリノタテルハ》
 
今天ノ川ヲ見ルト〔八字傍線〕、天ノ川原ノ上ニ霧ガ立チ罩メテヰルガ、アノ霧ハ〔四字傍線〕牽牛星ガ妻ノ織女星〔四字傍線〕ヲ迎ヘル爲ノ舟ガ、天ノ川ヲ漕ギ出ルノデ、水烟ガ立ツテ霧ト見エル〔ノデ〜傍線〕ノデアラウ。
 
○迎嬬船《ツマムカヘブネ》――牽牛が織女を迎へに出る船。普通の傳説では牽年が織女に逢ひに行くので、織女を迎へて來ることはないやうである、かうした傳もあつものと見える。○霧之立波《キリノタテルハ》――舊訓キリノタテレバとあるのを、考にタテルハと改めたのがよい。
〔評〕 これは天の川のほとりに、夕霧のかかつてゐるのを見て、これを天の川を漕ぐ船の櫂の水烟と見たもので、客觀的想像によつたのである。前の歌が、星の心になつてよんだのに比して、情趣が豐かである。
 
1528 霞立つ 天の河原に 君待つと いかよふほどに 裳の裾ぬれぬ
 
霞立《カスミタツ》 天河原爾《アマノカハラニ》 待君登《キミマツト》 伊往還程爾《イカヨフホドニ》 裳襴所沾《モノスソヌレヌ》
 
霞ノ立ツテヰル天ノ川原デアナタノオイデ〔四字傍線〕ヲ待ツトテ、行ツタリ來タリシテヰルウチニ、着物ノ裳ノ裾ガヌレマシタ。
 
○霞立《カスミタツ》――霞は即ち霧である。この時代は秋霧をも霞と言つた。卷二の八八參照。○伊往還程爾《イカヨフホドニ》――イは接頭語で意味はない。往還《カヨフ》は行きつもどりつ往反すること、新訓は類聚古集に、伊往還爾とあるによつて、イユキカヘルニとよんでゐる。
〔評〕 織女になつてよんでゐる。牽牛を待つ焦燥的な氣分も見えて、しかも優雅な作品である。
 
1529 天の河 浮津の浪|音《と》 騷ぐなり 吾が待つ君し 舟出すらしも
 
天河《アマノガハ》 浮津之浪音《ウキツノナミト》 佐和久奈里《サワグナリ》 吾待君思《ワガマツキミシ》 舟出爲良之母《フナデスラシモ》
 
天ノ川ノ浮津ノ浪ノ音ガ騷イデ聞ニルワイ。私ガ待ツテヰルアノオ方ガ、舟出ヲナサルラシイヨ。モウスグオイデナサルダラウ〔モウ〜傍線〕。
 
○浮津之浪音《ウキツノナミト》――考には浮を彌の誤として、ミツノナミオトとよんでゐる。古義には、「岡部氏云、浮洲と云へば、浮津ともいはむか、されどなみとといへるは、おぼつかなし。仍て思ふに、浮は御の誤にてミツノナミノトとよむべく覺ゆ」とあり。新考に渡津《ワタツ》の誤とあるが、誤字としないでこのままで考ふべきであらう。略解に「天上の事故に浮津といふか。神代紀天浮橋なども言へり」とあるのが、むしろ穩かであらう。天上にある川であるから、空想的に浮津といつたので、浮津は浮いた津。津は舟の着くところ。天の川の舟着き場である。
〔評〕 これも織女の心になつてよんでゐる。天の川の浮津の浪音の騷ぎを思ひやつて、織女の喜悦に同情してゐるが、全く空想の歌である。以上の諸作はいづれも典雅な感じのよいもので、風流才子たる作者の俤が偲ばれる。
 
太宰(ノ)諸卿大夫并宮人等宴(スル)2筑前國蘆城驛家(ニ)1歌二首
 
卿は上達部、大夫は五位、官人はそれ以下の卑官である。卷五の梅花の宴(八一五)の條に大貳紀卿とあるから、帥と大貳とが卿で、少貳・筑前守・筑後守が大夫と記してあるから、少貳と國守とが大夫である。官の字舊本宮に作るは誤。神田本・西本願寺本などの古本多くは官に作つてゐる。蘆城驛は太宰府の東南一里許の地にあつた。五四九・五六八參照。
 
1530 をみなへし 秋萩まじる 蘆城の野 今日をはじめて 萬代に見む
 
娘部思《ヲミナヘシ》 秋芽子交《アキハギマジル》 蘆城野《アシキノヌ》 今日乎始而《ケフヲハジメテ》  萬代爾將見《ヨロヅヨニミム》
 
女郎花ニ秋ノ萩ガマジツテ美シク咲イテヰル〔八字傍線〕蘆城ノ野ハ、實ニ美シイ景色ダカラコノ野〔ハ實〜傍線〕ヲ今日ヲ最初トシテ、イツマデモ見ルコトニシマセウ。
 
(596)○蘆城野《アシキノヌ》――蘆城山を背にして展開した野原で、蘆城川がそこを流れてゐる。○今日乎始而《ケフヲハジメテ》――今日を始として、新考に「ケフヲハジメテは今日ヨリ始メテなり。ヨリがヲにかはれるなり」とあるのはどうであらう。
〔評〕 女郎花と萩とが、野を彩つて咲いてゐるその美しさは想像せられるが、下句が型に嵌つたやうで、さして面白いことはない。併し明るい感じの作ではある。
 
1531 珠くしげ 蘆城の河を 今日見てば 萬代までに 忘らえめやも
 
珠〓《タマクシゲ》 葦木乃河乎《アシキノカハヲ》 今日見者《ケフミテハ》 迄萬代《ヨロヅヨマデニ》 將忘八方《ワスラエメヤモ》
 
(珠〓)葦城川ノ面白イ景色〔六字傍線〕ヲ今日見ルト、萬年ノ後モ面白サガ〔四字傍線〕忘レラレヨウカ、決シテ忘レルコトは出來ナイ〔決シ〜傍線〕。
 
○珠〓《タマクシゲ》――枕詞。葦木の川に續くのは、冠辭考にあるやうに、揃笥を開《アク》といひかけたのである。古義に「葦木を淺笥《アサケ》の意にとりてつづけたるなるべし」とあるのは當らない。○葦木乃河乎《アシキノカハヲ》――葦木川は寶滿山及び大根地山の水を集め、葦(597)木山(宮地嶽)の麓に沿うて、南流する川である。寫眞は太宰府大藪氏の好意によつて、特に撮影したもの。○今日見者《ケフミテバ》――舊訓ケフミレバを、古義にケフミテバと改めたのに從ふ。
〔評〕 これも前の歌と同じく、蘆城風景禮讃の歌であり、また宴席でのことほぎ歌である。葦木河の叙景がない爲に、更に感興が湧かない。
 
右二首作者未v詳
 
長官であつた大伴旅人の下僚の誰かが作つて、宴席で歌つたものでもあらうか。さして名ある人の作とは思はれない。
 
笠朝臣金村|伊香《イカゴ》山作歌二首
 
伊香山は近江國伊香郡にある。和名抄に伊香郡伊香郷が見え、そこが郡家であつた。今の古保利村附近である。又、その附近に伊香具村があり、式内社の伊香具社も祀られてゐるから、恐らくそこの山をさしたのであらう。即ち余呉湖の南、賤ケ岳の南嶺である。笠金村は卷三に、鹽津山作歌二首(三六四)があるから、その時の作であらう。
 
1532 草枕 旅行く人も 行き觸らば にほひぬべくも 咲ける萩かも
 
草枕《クサマクラ》 客行人毛《タビユクヒトモ》 往觸者《ユキフラバ》 爾保此奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》 開流芽子香聞《サケルハギカモ》
 
(草枕)旅行シテヰル人デモ、ソレニ〔三字傍線〕觸レルト、着物ガ〔三字傍線〕色ニ染リサウニ美シク咲イテヰル萩ノ花ヨ。ホントニコノ伊香山ノ麓ノ萩ハ美シイ〔ホン〜傍線〕。
 
○往觸者《ユキフラバ》――舊訓ユキフレバとあるが、集中四段活の用例が多いから、フラバとよむことにする。○爾保比奴倍久毛《ニホヒヌベクモ》――ニホフは色に染まること。
〔評〕 野もせに咲いた萩が、枝もたわわに路を蔽うてゐる樣が見える。旅路の憂さもしばしは打忘れて、花に見(598)とれてゐる趣である。平明な作。
 
1533 伊香山 野邊に咲きたる 萩見れば 君が家なる 尾花し念ほゆ
 
伊香山《イカゴヤマ》 野邊爾開有《ヌベニサキタル》 芽子見者《ハギミレバ》 公之家有《キミガイヘナル》 尾花之所念《ヲバナシオモホユ》
 
今コノ伊香山ノ麓ノ野ニ咲イテヰル萩ノ花〔二字傍線〕ヲ見ルト、アナタノ家ノオ庭〔三字傍線〕ノ尾花ガナツカシク〔五字傍線〕思ヒ出サレマス。オ宅ノオ庭ノ尾花モ美シク穗ニ出タデセウ〔オ宅〜傍線〕。
 
○伊香山野邊爾開有《イカゴヤマヌベニサキタル》――伊香山野邊とは伊香山の野邊で、右に述べた伊香山に近い野である。即ち今の伊香具村附近の平地であらう。○公之家有《キミガイヘナル》――公は誰をさしたものか不明。契沖は「公とは故郷の妻なり」といひ、略解に「故郷の友へ、詠みてやれるなるべし」とし、古義は「本郷なる某公の家の庭にある尾花のさまの思ひ出されて云々」と言つてゐる。
〔評〕 この歌は故郷へ贈つた歌と解釋する説が多い。恐らくそれでよいのであらうが、旅の同伴者を公《キミ》とよんで、歌ひかけたものとも見られないことはないのである。さう思つて見ると、前の歌も自己の直感を、旅の友に語つてゐるやうにも見える。要するに題詞が簡單に過ぎて、その點の明瞭を缺いてゐるのは遺憾である。どちらにも(599)考へられるから、殊更に異を立てないで、舊説のままにして置いた。歌は平庸といつてよい。袖中抄に出てゐる。
 
石川朝臣|老夫《オキナ》歌一首
 
石川朝臣老夫の傳は明らかでない。契沖は、續紀に「文武天皇二年秋七月己未、直廣肆石川朝臣小老爲2美濃守1」とあるから、その小老の子であらうといつてゐる。
 
1534 女郎花 秋萩を折れ 玉桙の 道行づとと 乞はむ兒の爲
 
娘部志《ヲミナヘシ》 秋芽子折禮《アキハギヲヲレ》 玉桙乃《タマボコノ》 道去※[果/衣のなべぶたなし]跡《ミチユキヅトト》 爲乞兒《コハムコノタメ》
 
家ニ歸ツタヲ〔六字傍線〕(玉桙乃)道中ノオ土産ヲ下サイト女ガ〔二字傍線〕乞フデアラウガ、ソノ〔三字傍線〕女ノ爲ニ、土産トシテ〔五字傍線〕、女郎花ト秋萩トヲ折ツテ持ツテ行キナサイ。
 
○秋芽子折禮《アキハギヲヲレ》――アキノハギヲレといふ古訓もあるが、舊訓はアキハギタヲレである。併しタに當る文字がない。契沖は、子の下、手の字が脱ちたか、又は子は手の誤かといひ、精撰本には「アキハキヲヲレとも點すべし」といつてゐる。少し調子が惡いが、これに從ふのが穩かであらう。宣長は禮は那の誤でヲラナであらうと言つてゐる。意はそれでよく聞えるが、もとのままにして改めない方がよい。○玉桙乃《タマボコノ》――道の枕詞。七九參照。○道去※[果/衣のなべぶたなし]跡《ミチユキヅトト》――旅から歸つた家苞。旅行のみやげ。※[果/衣のなべぶたなし]《ツト》は藁に包んだもの。轉じて、みやげ。道去《ミチユキ》は道を行くこと。即ち旅行。路行占《ミチユキウラ》(二五〇七)・路行人《ミチユキヒト》(二三七〇)・道去夫利《ミチユキブリ》(二六〇五)などの熟語がある。
〔評〕 旅行中の即興である。家路を急ぐ同行の人たちに呼びかけてゐる、ほがらかな感じの歌。
 
藤原宇合卿歌一首
 
宇合は不比等の三男。式家の祖。七二參照。
 
1535 吾がせこを いつぞ今かと 待つなべに 面やは見えむ 秋の風吹く
 
(600)我背兒乎《ワガセコヲ》 何時曾旦今登《イツゾイマカト》 待苗爾《マツナベニ》 於毛也者將見《オモヤハミエム》 秋風吹《アキノカゼフク》
 
私ノ夫ガ何時來ルダラウ〔五字傍線〕カ、今カ今カ〔二字傍線〕ト思ツテ〔三字傍線〕待ツテヰルト、夫ノ〔二字傍線〕顔ガ見エル時ニナツタノダラウ。秋風ガソヨソヨト〔五字傍線〕吹イテ來タ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○何時曾旦今登《イツゾイマカト》――何時來るぞ、今來るかとの意。旦今はイマとよむのは、卷七に旦今跡香毛《イマトカモ》(一〇七八)とある。舊本、旦とあるは且の誤。○於毛也者將見《オモヤハミエム》――面やは見えむ。面は見えるであらうかと疑ひ、期待するのである。反語ではない。略解に「面也は面輪の意か。卷十八、於毛|夜《ヤ》目都良之みやこがたびとと詠めり云々」とあり、宣長は「於は聲の誤。也は世の誤にて、聲毛世者將見《オトモセバミム》あきかぜのふけなるべし。おとは風の音也」といつてゐる。その他にも文字を改める説があるが、從ひがたい。
〔評〕 これは七夕の歌で、織女の心をよんだのである。そよ吹き初めた秋風に、彦星に逢ふべき時の近づいたのを喜んでゐる。古義に、「思ふ人の來むとする前表には、風のそよそよと吹來ると云ふならはしのありしならむ」といつて卷四の、君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトアガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》(四八八)を引いてゐるのは見當違ひであらう。
 
縁達師《エヌタチシ》謌一首
 
縁達師は舊本に振假名して、ヨリユキノイクサとあるがわからない。契沖は縁達は僧の名で、師は法師の師であらうといつてゐる。縁は古義にエムと假名をつけてゐるが、この字は韻鏡、山攝の音で、n音尾であるから、エヌと振假名すべきである。
 
1536 よひに逢ひて 朝南無み 隱野の 萩は散りにき 黄葉はやつげ
 
暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面羞《アシタオモナミ》 隱野乃《ナバリヌノ》 芽子者散去寸《ハギハチリニキ》 黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》
 
(暮相而朝面羞)名張ノ野ノ萩ノ花〔二字傍線〕ハモウ散ツテシマツタ。今度ハ〔三字傍線〕紅葉ガ早クソノアトニ〔五字傍線〕續イテクレヨ。秋ノ眺メガ淋シクナルカラ〔秋ノ〜傍線〕。
 
○暮相而朝面羞《ヨヒニアヒテアシタオモナミ》――序詞。隱野《ナバリヌ》につづくのは、女が男に逢つた翌朝、男に對して恥かしく思つて、顔を隱す意である。六〇參照。○隱野乃《ナバリヌノ》――隱野《ナバリヌ》は伊賀の名張地方の野。○黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》――代匠記に「黄葉早續とは即芽子の黄葉なり」とあるのは、甚だしい誤である。黄葉は隱野の木々の紅葉をいふ。也は添へて書いたもので、漢文式字用例である、朝露乃如也夕霧乃如也《アサツユノゴトユフツユノゴト》(二一七)參照。
〔評〕 卷一の長皇子の御歌、暮相而朝面無美隱爾加氣長妹之廬利爲里計武《ヨヒニアヒテアシタオモナミナバリニカケナガキイモガイホリセリケム》(六〇)と序詞が全く同じである。長皇子の御歌は、序詞が歌の内容と幾分の關係を有つてゐるが、これは何の所縁もなく、全く旅中の叙景歌である、この二歌はいづれが先か明らかでないが、若しこの卷の作家の順序によつて判斷するならば、この縁達師が後のやうに思はれる。
 
山上臣憶良詠2秋野花1二首
 
目録には花の下に歌の字がある、大矢本・京大本にもあるから、それが原形かも知れない。
 
1537 秋の野に 咲きたる花を および折り かき數ふれば 七種の花
 
秋野爾《アキノヌニ》 咲有花乎《サキタルハナヲ》 指折《オヨビヲリ》 可伎數者《カキカゾフレバ》 七種花《ナナクサノハナ》 其一
 
秋ノ野ニ咲イテヰル花ヲ、指ヲ折ツテ數ヘルト、七種類ノ花ガアル。
 
○指所《オヨビヲリ》――和名抄に、指、手指也、和名由比、俗云於與比とある。指を折るは指を屈すること。○可伎數者《カキカゾフレバ》――カキは強く言ふのみ。○七種花《ナナクサノハナ》――文字の通り、七種類の花である。七草ではない。
〔評〕 短歌の形式になつてゐるといふまでで、全く散文式の凡作である。但しこれは内容を見るべきもので、詩としての價値を論ずべきではあるまい。この歌袖中抄に出てゐる。
 
1538 萩が花 尾花葛花 なでしこの花 女郎花 また藤袴 朝貌の花
 
芽之花《ハギガハナ》 乎花葛花《ヲバナクズバナ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》 姫部志《ヲミナヘシ》 又藤袴《マタフヂバカマ》 朝顔之花《アサガホノハナ》 其二
 
(603)ソノ七種類ノ花ト云フノハ〔ソノ〜傍線〕、萩ノ花、尾花、葛花、撫子ノ花、女郎花及ビ藤袴ト朝顔ノ花トデアル〔四字傍線〕。
 
○芽之花《ハギガハナ》――萩の花。萩は集中、芽又は芽子と記されてゐて、萩の字はない。萩の字はヨモギの義であるのを、秋草の代表といふやうな意で、ハギに用ゐるやうになつたらしい。萬葉集に詠まれた花の中で、最も多數なものである。○乎花葛花《ヲバナクズバナ》――乎花《ヲバナ》は尾花。薄の花の形が尾のやうに見えるから、かく名づけたのであらう。この花の集中に詠まれた數は、七種の花の内では第三に位してゐる。葛花《ケズバナ》は豆に似た紫赤色の花で、かなり美しい。併し花の美しさを歌つたものは、集中この歌の外にない。○瞿麥之花《ナデシコノハナ》――前にも屡々出た花で、牛麥とも石竹とも記してある。集中に詠まれた數は、この七種の中で第二位である。○姫部志《ヲミナヘシ》――女郎花のことである。集中にあらはれた歌數は(603)第四位になつてゐる。○又藤袴《マタフヂバカマ》――又は音數の都合で入れたもの。藤袴は高さ三四尺の多年生草本で、葉は對生し、下部のものは三裂し、上部のものは廣披針形で鋸齒を有してゐる。乾けば佳香を發する。花は稍頭に群り咲いて淡紫色である。さしたる美觀ではないが、今も往々庭園に栽培せられる。藤は花の色を以て名づけたもので、袴は花瓣が筒状をなしてゐるのが、袴に似てゐるからであらう。和名抄「蘭、一名宦A布知波加麻」とあり、蘭又は蘭草と記し、ラニノハナと稱するのもこれである。一説に藤袴を野菊とするのは誤である。藤袴は集中この歌以外には見えない。○朝貌之花《アサガホノハナ》――萬葉集のアサガホについては、古來諸説紛々として 未だ決定しない有樣で、木槿《ムクゲ》説、桔梗説、旋花《ヒルガホ》説、牽牛花説の四がある。(1)木槿説の理由とするところは、(イ)槿は槿花一日榮と言はれ、花の盛が短くて朝顔といふ名にふさはしいと。(ロ)槿花は支那でも日及といつて、朝に開いて暮に落つるものとしてゐること。(ハ)和名抄に文字集略を引いて、「蕣、音舜、和名木波知須、地蓮花、朝生夕落者也」とあり、蕣と槿とは同一物で、蕣は常にアサガホと用ゐられてゐること。(ニ)舜は毛詩に「有v女同v車顔如2舜華1」とあつて、朝顔の名にふさはしいこと。以上の理由で、古來これを主張する學者が多い。次に(2)桔梗説の由るところは、(イ)新撰宇鏡に「桔梗、上居頡反、下柯杏反、加良久波、又云、阿佐加保」とあり、又別に「桔梗、阿佐加保、又云、岡止々支」とあること。(ロ)秋の野に咲く花としては、最も美しいもので、七種を數ふれば、當然そのうちに擧げらるべき花であること。この二つである。(イ)に掲げた新撰宇鏡の所載は、最も有力な論據となるわけであるが、ただ恠しむべきは同書に桔梗の二字が木篇になつてゐることで、その爲同書にも木の部に入れてある。又カラクハといふ名は、唐桑の意であらうが、寧ろ木槿を思はしめるものがないでもない。併し支那でも、桔梗の文字は吾が國のものと同一物をさしてゐるやうであるから、桔梗の古名をアサガホと呼んだことを認めねばなるまい。(ロ)に對しては誰も異論はあるまいと思ふ。次に(3)旋花説は狩谷掖齋が箋注和名類聚抄に述べたところで、同書に、「岡村氏曰、舜楚謂2之〓1者本草所謂旋花也、旋即舜假借也、蘇敬云、此即生2平澤1旋〓是也、旋〓亦即舜〓、舜〓或單呼累呼或並通、救荒本草云、〓子根、幽薊間謂2之燕〓根1者、亦即是、今俗呼2比流加保1」とあり、舜と旋と通じ、旋花は即ちヒルガホであるといふのである。この説には新考なども賛意を表してゐるが、古く旋花をアサガホといつた證は全くなく、却て本草和名にハヤヒト(604)グサ、一名カマとあるのである、一説に、集中に容花《カホバナ》とよんだものは恐らく今のヒルガホのことで、牽牛花をアサガホといふやうになつてから、區別してヒルガホといふことになつたのであらうとも言はれてゐる。ともかくヒルガホは野の花ではあるが、花期は秋ではなくて、酷熱の眞夏であり、朝露おひて咲くといふやうな趣もない。花品も賤しくて後世でも殆ど歌によまれないやうであるから、この説は遽かに賛成出來ないものである。(4)牽牛花説、牽牛花即ち今のアサガホは、古昔は槿の字を用ゐたもので、萬葉の朝貌は槿即ち牽牛花であるといふ説である。つまり槿と牽牛花とを混同したものである。これは古く和漢朗詠集にも、槿、松樹千年終是朽槿花一日自爲榮來而不留薤※[土+龍]有拂晨之露去而不返槿籬無投暮之花とあるに並べて、「おぼつかな誰とか知らむ朝露の絶間に見ゆるあさかほの花、」「朝かほをなにはかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ」とあつて、詩文の句はムクゲであるのに、歌は牽牛花をよんだもので、この「朝がほを」の歌は、今昔物語に道信が牽牛花を見るといふ心をよんだものとして出てゐるのである。牽牛花は古今要覽にも「延喜のむかし呉船舶の載せ來りしが云々」とあつて、平安朝の中葉に、藥品としてその種子を舶來してから、世に行はれるやうになつた。古今集にケニコシとあるのは、牽牛子の音讀で、これが舶來當時の名であつたらうと思はれる。和名抄には「牽牛子和名阿佐加保」とある。右にあげた道信は爲光の子、正暦五年に卒した人であるから、アサガホの名も間もなく行はれたのである。源氏物語に見えるあさがはも牽牛花である。ともかく、この花が古くから吾が國にあつたといふ證はない。況んや野草として見ることは絶對に出來ないのである。この牽牛花説は、四説のうちで最も取るに足らぬものである。右の四説を比較して見ると、結局第一の木槿《ムクゲ》説と第二の桔梗説とが有力で、他の二説は顧るに足らぬやうである。さうして木槿説は古義に力説してゐるところで、廣く信じられてゐるやうだが,この説の缺點は、木槿《ムクゲ》は吾が國の固有の植物でなく、もと支那から舶載したものであることである。これについて白井光太郎氏の植物渡來考には「アルメニヤ、レンコル等にあれども、眞のシリヤには自生なしと云ふ。支那には古代よりあり。爾雅に椴は木槿、※[木+親]は木槿とあり云々」と記して、これを外來植物としてゐる。又この花は漢文にあらはれたものを見ても、多くは籬に植ゑるものとして記されてゐるので、現今吾が國に於ても、籬に植ゑるのを常とし、野生のものは全く見ないのである。して見ると憶良の七種花の朝貌を、木槿と(605)するのは穩當でないやうに思はれる。然らば萬葉のアサガホは何と定むべきかといふに、それはもはや第二説の桔梗とするより外はないのである。この花については前に掲げたやうに、なほ多少の疑點が無いではなく、又特にアサガホと呼ぶ理由を見出し難いやうであるが、アサガホの名が、平安朝初期に行はれてゐたことは、新撰宇鏡によつて認むべきであるから、萬葉のアサガホは桔梗と推定すべきであらうと思はれる。古今集に桔梗をキチカウとよんであるのは、殊更に漢名を用ゐたので、和名が當時なかつたのではない。しかしそれ以來漢名を日本的にしたキキヤウが普通に用ゐられ、はやく源氏物語にも記されて居り、アサガホの名は牽牛花の稱呼となつて了つたのであらう。
〔評〕 旋頭歌の形式に七種の花名を詠み込んだといふまでで、藝術的價値はない。併しこれが後世の藝術に影響したことは頗る大きい。
 
天皇御製歌二首
 
ここに天皇とあるのは、前後の歌から推測すると聖武天皇である。ただ天皇とのみ記し奉つたので、この卷の資料が、この天皇の御代に形作られたことがわかる。
 
1539 秋の田の 穂田をかりが音 闇けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも
 
秋田乃《アキノタノ》 穂田乎鴈之鳴《ホダヲカリガネ》 闇爾《クラケクニ》 夜之穂杼呂爾毛《ヨノホドロニモ》 鳴渡可聞《ナキワタルカモ》
 
(秋田乃穗田乎)鴈ガマダ暗イノニ、夜明ケ方ニ鳴イテ行クヨ。
 
○秋田乃穂田乎鴈之鳴《アキノタノホダヲカリガネ》――秋の田の穂田をは、苅りを雁に言ひかけたので、序詞である。併し時節が既に秋の田を苅るべき頃で、その頃に來鳴く雁なることを思はしめるやうに詠まれてゐる。類聚古集・神田本などの古本も亦、和歌童蒙抄、袖中抄などに引かれたのにも、初句、秋日となつてゐるが、秋田がよいやうである。○闇爾《クラケクニ》――舊訓クラヤミニとあり、略解はクラケキニともヤミナルニともあるが、古義にクラケクニとよんだのが(606)よい。見吉野乃山下風之寒久爾《ミヨシヌノヤマノアラシノサムケクニ》(七四)のサムケクニと同形である。○夜之穗杼呂爾毛《ヨノホドロニモ》――夜之穗杼呂《ヨノホドロ》は夜明け頃のほの暗い時をいふ。七五四參照。
〔評〕 序詞が歌の内容と關係を持つてをり、從つて歌を複雜にしてゐる。全體の調子が莊重で、まことに至尊の品格を備へた御作である。
 
1540 今朝の朝け 雁が音寒く 聞きしなべ 野邊の淺茅ぞ 色づきにける
 
今朝乃旦開《ケサノアサケ》 鴈之鳴寒《カリガネサムク》 聞之奈倍《キキシナベ》 野邊能淺茅曾《ヌベノアサヂゾ》 色付丹來《イロヅキニケル》
 
今朝ノ夜明ケ方、雁ガ寒サウナ聲ヲ出シテ鳴クノヲ聞イタガ、ソノ聲ニ〔五字傍線〕ツレテ、野ノマバラニ生エタ茅原ハ、色ガ赤ク染マツテ來タ。
 
○今朝乃旦開《ケサノアサケ》――舊本且とあるが、西本願寺本など旦に作るがよい。アサケはアサアケ。
〔評〕 夜のほどろに鳴き渡る雁の聲を聞き給うた日、たまたま遙かに野邊の方を眺めやり給うて、霜枯れた淺茅の色に驚き給うたのである。霜まよふ空に翼をしをらかして、飛び來る雁の聲を聞けば、直ちに野山は紅葉に飾られる。今朝之旦開雁之鳴聞都春日山黄葉家良思吾情痛之《ケサノアサケカリガネキキツカスガヤマモミヂニケラシワガココロイタシ》(一五一三)といふやうな詩想が、おのづから型に嵌つたやうに出來て來るわけであるが、この御歌は、直感そのままを何の粉飾もなく、直線的に述べ給うたので、そこに力強さがあり、風物の變化に驚き給うた感情が流露してゐる。
 
太宰帥大伴卿歌二首
 
1541 吾が岳に さを鹿來鳴く 先萩の 萩嬬問ひに 來鳴くさを鹿
 
菩岳爾《ワガヲカニ》 棹牡鹿來鳴《サヲシカキナク》 先芽之《サキハギノ》 花婿問爾《ハナヅマトヒニ》 來鳴棹牡鹿《キナクサヲシカ》
 
私ノ家近イ〔三字傍線〕岡ニ、男鹿ガ來テ鳴クヨ。初咲ノ萩ノ花妻ヲ訪ネニ來テ男ノ鹿ガ鳴クヨ。ホントニ悲シサウナ聲ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○吾岳爾《ワガヲカニ》――吾が家近い岡に。帥の家が岡の上にあつたのではあるまい。○先芽之《サキハギノ》――先芽は早咲きの萩であら(607)う。神樂歌の「さいばりに衣はそめむ雨ふれどうつろひがたし深くそめてば」とある「さいばり」もこのサキハギの音便である。拆榛《サキハリ》として、榛の皮を細かく割いたものと見る説は當らない。新考にこの句を花にかかる枕詞と見たのは從ひ難い。○花嬬問爾《ハナヅマトヒニ》――花嬬は花のやうに美しい妻の意であるが、鹿と萩の花との親しさから、特に萩を鹿の妻に見なしていふ。後世に多く用られる萩の花妻なる語は、濫觴をここに發してゐるのである。
〔評〕 先芽之花嬬《サキハギノハナヅマ》なる語が珍らしくて面白い。第二句に棹牡鹿來鳴《サヲシカキナク》とあるのを、第五句に顛倒して來鳴棹牡鹿《キナクサヲシカ》としたのは、よい工風である。同形の反滅では、この内容としては、あまり調子が輕くなり過ぎるから、かうしたのであらう。
 
1542 吾が岳の 秋萩の花 風をいたみ 散るべくなりぬ 見む人もがも
 
吾岳之《ワガヲカノ》 秋芽花《アキハギノハナ》 風乎痛《カゼヲイタミ》 可落成《チルベクナリヌ》 將見人裳欲得《ミムヒトモガモ》
 
吾ガ家近イ〔三字傍線〕岡ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ風ガヒドイノデ、モウ散リサウニナツタ。惜シイモノダ。散ラナイウチニ〔惜シ〜傍線〕見ニ來〔二字傍線〕ル人ガアレパヨイガナア。
 
〔評〕 平板の評は免かれないが、旅人らしい明るい氣分の歌である。卷五のこの作者の、後追和梅歌四首の内の、和我夜度爾左加里爾散家留牟梅能波奈知留倍久奈里奴美牟必登聞我母《ワガヤドニサカリニサケルムメノハナチルベクナリヌミムヒトモガモ》(八五一)と、梅と萩との相異のみで、全く同じ歌である。いづれも太宰府での作で、その前後を辨へ難い。或はこれは梅の後に作つたか。
 
三原王歌一首
 
三原王は續紀、「元正天皇養老元年正月乙己授2旡位御原王從四位下1、十月戊寅益v封。聖武天皇天平元年三月甲牛從四位下三原王授2從四位上1、九年十二月壬戍、從四位上御原王爲2弾正尹1、十二年九月乙未治部卿從四位上三原王云々、十八年三月戊辰、以2從四位上三原王1、爲2大藏卿1、四年癸卯正(608)四位下、十九年正月丙申正四位上、二十年二月己未從三位。孝謙天皇天平勝寶元年八月辛未從三位三原王爲2中務卿1同十一月丙辰正三位、四年七月甲寅中務卿正三位三原王薨一品贈太政大臣舍人親王之子也」と見えてゐる。なほ續日本後紀に、「承和四年十月丁酉右大臣從二位清原朝臣夏野薨御原王孫正五位下小倉王之第五子也」とある。ここは大伴旅人が太宰帥であつた頃の作と見えるから、三原王は從四位上であつたであらう。
 
1543 秋の露は 移しなりけり 水鳥の 青葉の山の 色づく見れば
 
秋露者《アキノツユハ》 移爾有家里《ウツシナリケリ》 水鳥乃《ミヅトリノ》 青羽乃山能《アヲバノヤマノ》 色付見者《イロヅクミレバ》
 
秋ニナツテ霹ガオクト〔秋ニ〜傍線〕、(水鳥乃)青々ト木ノ葉ノ茂ツタ山ガ赤ク〔二字傍線〕色ガ付クノデ見ルト、秋ノ露ハ着物ナドヲ染メル〔八字傍線〕移紙ノヤウナモノ〔六字傍線〕ダワイ。
 
○移爾有家里《ウツシナリケリ》――移とは木草の花を紙に染めて置いて、これをもつて、布帛の類を染めるに用ゐるもの。ウツシバナともいふ。東鑑に「移花十五枚」とあるから、かなり後世まで用ゐられたものである。月草をウツシクサ又はウツシバナと言ふので見ると、主として月草が用ゐられたのである。但しこの歌では紅に染めるのであるから、月草ではなく、當時月草以外に、紅花・唐藍などの移《ウツシ》があつたのである、秋去者影毛將爲跡手蒔之韓藍之花乎誰採家牟《アキサヲバウツシモセムトワガマキシカラアヰノハナヲタレカツミケム》(一三六三)の影《ウツシ》も同樣であらう。○水鳥乃《ミヅトリノ》――枕詞。青羽の意で青葉につづく。○青羽乃山能《アヲバノヤマノ》――青羽は青葉の借字。青葉の山は木の葉の青々とした山。若狹にあるといふ説もあるが、山の名ではない。ここは、前の水鳥之鴨乃羽色乃春山乃《ミヅトリノカモノハイロノハルヤマノ》(一四五一)・卷二十の水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミヅトリノカモノハイロノアヲウマヲ》(四四九四)と同趣である。
〔評〕 露によつて秋の葉が色づくことは多く詠まれてゐるが、これはそれに理智を加へて、譬喩化してゐる。そこに興味もあり嫌味もあるわけである。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
湯原王七夕歌二首
 
湯原王は志貴皇子の御子。三七五參照。
 
1544 牽牛の 念ひますらむ こころゆも 見る我苦し 夜の更け行けば
 
(609)牽牛之《ヒコホシノ》 念座良武《オモヒマスラム》 從情《ココロユモ》 見吾辛苦《ミルワレクルシ》 夜之更降去者《ヨノフケユケバ》
 
久シ振リデ織女星ニ逢ツタ牽牛星ハ、今夜〔久シ〜傍線〕夜ガ深ケルノニツレテ、別レノ近ヅクノヲ思ツテ、悲シク〔別レ〜傍線〕思ハレルデアラウガ、私ハ空ヲ仰イデ〔八字傍線〕見ルト牽牛星ノ心ヨリモ、私ノ心〔二字傍線〕ガ苦シイヨ。
 
○念座良武《オモヒマスラム》――思ひいますらむで、思ひ増すらむではない。
〔評〕 年に一夜の逢瀬を喜んだのも束の間、夜の更けると共に別れを悲しむ心が深くなつて行く。その牽牛の胸中を推察し同情したので、男の星の心を思ひやつたのは、男性の作者らしく、歌は例によつて品よく出來てゐる。
 
1545 織女の 袖つぐよひの あかときは 河瀬の鶴は 鳴かずともよし
 
織女之《タナバタノ》 袖續三更之《ソデツグヨヒノ》 五更者《アカトキハ》 河瀬之鶴者《カハセノタヅハ》 不鳴友吉《ナカズトモヨシ》
 
織女ト袖ヲサシ交ハシテ牽牛星ガ寢ル〔六字傍線〕夜ノ明ケ方ハ、天ノ川ノ瀬ニ居ル鶴ハ鳴カナイデモヨイ。鶴ガ鳴カズニヰテ曉ヲ知ラセナケレバ、二ツノ星ハイツマデモ寢テヰルダラウカラ〔鶴ガ〜傍線〕。
 
○袖續三更之《ソデツグヨヒノ》――袖續《ソデツグ》は袖を連ぬる意で、代匠記に、「袖續とは、たがひの袖をかはして枕とする心なり」とある通りであらう。古義に續を纒の誤として、ソデマクヨヒノとよんでゐる。○不鳴友吉《ナカズトモヨシ》――鳴かずもあれよといふべきを、鳴かないでもよい。鳴くに及ばぬと婉曲に言つたのである。
〔評〕 地上なら鷄か鴉といふところだが、水邊であり天上であるから鶴を持つて來てゐる。それだけ歌が上品に聞える。三更と五更との文字の使ひ方にも注意すべきである。三更は夜の意に用ゐ、五更は曉に用ゐてある。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に載せてある。
 
市原王七夕歌一首
 
市原王は安貴王の御子。四一二參照。
 
1546 妹がりと 吾が行く道の 河しあれば 人目つつむと 夜ぞくだちける
 
(610)妹許登《イモガリト》 吾去道乃《ワガユクミチノ》 河有者《カハシアレバ》 附目緘結跡《ヒトメツツムト》 夜更降家類《ヨゾクダチケル》
 
妻ノ織女ノ〔三字傍線〕所ヘト私ガ行ク道ニ天ノ川ト云フ〔六字傍線〕川ガアルノデ、ソレヲ渡ル時ニ〔七字傍線〕、人目ニ立タヌヤウニシテヰルウチニ、モウ夜ガ更ケテシマツタ。アチラデハ織女星ガ嘸待ツテヰルデアラウ〔アチ〜傍線〕。
 
○附目緘結跡《ヒトメツツムト》――これは集中の難訓の一である。目の字は。神田本・京大本に固に作つてゐるが、このままではよみ難いやうである。併し附をヒトとよむのは無理ではあるが、これを忍ぶとすれば舊訓のヒトメツツムトで、曲りなりにも訓めるのであるから、暫くこれに從つて置く。代匠記のツクメシメユフではどうも解しかねるやうである。考に附目を脚の誤とし、訓はアユヒムスブトとし、略解に附を脚の誤とし、目を固として、アナユヒツクルトと訓むかと言つてゐる。宣長は緘結跡をナダストと訓むべきかと言つてゐる。雄略紀の歌の阿遙比那陀須暮《アヨヒナダスモ》によつたのであるが、遽かに從ひ難い。なほ研究を要する問題である。
〔評〕 牽牛星の心になつてよんだのであるが、歌の中心になつてゐるらしい肝腎な第四句が、明瞭でないのは遺憾である。
 
藤原朝臣八束歌一首
 
八束は藤原房前の第三子。後、眞楯と名を賜はる。三九八參照。
 
1547 さを鹿の 萩にぬき置ける 露の白珠 あふさわに 誰の人かも 手に纒かむちふ
 
掉四香能《サヲシカノ》 芽二貫置有《ハギニヌキオケル》 露之白珠《ツユノシラタマ》 相佐和仁《アフサワニ》 誰人可毛《タレノヒトカモ》 手爾將卷知布《テニマカムチフ》
 
男鹿ガ萩ノ枝〔二字傍線〕ニ貫イテ置イタ霧ノ白玉。ソノ白玉〔四字傍線〕ヲ何處ノ誰ガガラニモナイ考デ、手ニ纒キツケヨウナドト言ウノカ。コンナ美シイモノヲサウ無暗ニ取ルワケニハユカナイ〔コン〜傍線〕。
(611)○相佐和仁《アフサワニ》――難解の語である。淡騷《アハサワ》で、心なくあはつけくさわぎての意と眞淵は言つてゐる。宣長は「物語ふみにおほざふといふ詞あり。これ此あふさわの訛れるにて、其おほざふといへる詞の意と、あふさわと全同じ」といつてゐる。伴信友は比古婆衣に、身の分に隨つて似合はしい意だと言つてるるが、卷十一の開木代來背若子欲云余相狹丸吾欲云開木代來背《ヤマシロノクセノワクゴガホシトイフワヲアフサワニワヲホシトイフヤマシロノクセ》(二三六二)の相狹丸《アフサワニ》と對照して見ると、代匠記精撰本に、「非分の物を押て領せむとする意をあふさわと云なるべし」、と言つたのがよいやうである。
〔評〕 これは旋頭歌であるから、第三句で切つて見るべきである。萩に宿つた白露を、棹鹿が貫いて置いた白珠と見たのが、歌の主たる構想になつてゐる。萩は謂はゆる鹿の花妻であるから、かういつたのであるが、鹿が萩の枝に露の白玉を貫いたとする想は、類例もなく珍らしいものである。これも上品な作である。
 
大伴坂上郎女(ノ)晩(キ)芽子(ノ)歌一首
 
1548 咲く花も をそろはうとし おくてなる 長き心に なほ如かずけり
 
咲花毛《サクハナモ》 宇都呂波※[厭のがんだれなし]《ヲソロハウトシ》 奧手有《オクテナル》 長意爾《ナガキココロニ》 尚不如家里《ナホシカズケリ》
 
咲ク花モアワテテ早ク咲キ散ル〔五字傍線〕ノハイヤナモノダ。晩ク咲ク花〔四字傍線〕ノ氣ノ長イノニハ、ヤハリ及バナイワイ。氣長ク晩クマデ咲イテヰルノガ一番ヨイ〔氣長〜傍線〕。
 
○宇都呂波※[厭のがんだれなし]《ヲソロハウトシ》――宇都の二字は、類聚古集・神田本などに乎曾となつてゐるのに從つて、ヲソロハウトシと訓むべきである。舊訓ウツロハウキヲとあり、略解に呂の下布の字落として、ウツロフハウシとあるがよくない。ヲソロは嘘よの意と解せられてあるが、新訓に輕率の文字を當ててゐる。ここは輕々しく早く咲くことを言つたものらしい。○奥手有《オクテナル》――今、晩稻をオクテといふと同じで、晩く花咲き又は實を結ぶものを、すべて言ふらしい。○長意爾《ナガキココロニ》――長き心は、氣長に急がぬ心。
〔評〕 花に心があつて、急がずに咲くやうに言つてゐる。そこに面白味を持たしてあるのみで、大した作でない。
 
(612)典鑄正《イモノノカミ》紀朝臣鹿人(ガ)至(リテ)2衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄(ニ)1作歌一首
 
典鑄正は典鑄司の長官。職員令に「典鑄司、正一人掌d造2鑄金銀銅鐵1、塗飾瑠璃、謂火齊珠也玉作及工戸戸口戸籍事u、佑一人、大令史一人、少令史一人、雜工部十人、使部十人、直丁一人、雜工戸、」と記してある。寶龜五年廢止せられた。官位令によれば正は正六位の官である。紀朝臣鹿人は卷六に跡見茂崗之松樹歌一首(九九〇)を載せてゐる。衛門大尉は衛門府の大尉。衛門府は職員令に「督一人、掌2諸門禁衛、出入、禮儀以v時巡檢、及隼人1門籍、門膀事1、佐一人、大尉二人、少尉二人、大志二人、少志二人、醫師一人、門部二百人、物部三十人、使部三十人、直丁四人、衛士」と記してある。大尉は官位令によれば、從六位の官である。大伴宿禰稻公は卷四の五六七の左註に、天平二年六月大伴旅人の脚疾によつて、太宰府へ下つた人で、旅人の庶弟。その當時は右兵庫助であつた。その條參照。跡見圧は今の大和磯城郡外山。櫻井町の東方。
 
1549 射部立てて 跡見の岳べの 瞿麥の花 ふさ手折り 我は持ちいなむ 寧樂人の爲
 
射目立而《イメタテテ》 跡見乃岳邊之《トミノヲカベノ》 瞿麥花《ナデシコノハナ》 總手折《フサタヲリ》 吾者將去《ワレハモチイナム》 寧樂人之爲《ナラビトノタメ》
 
(射目立而)跡見ノ岡ノホトリニ咲イテヰル撫子ノ花。ソノ撫子ヲ〔五字傍線〕フサフサト澤山ニ〔四字傍線〕手折ツテ、私ハ奈良ニヰル人ヘノ土産〔四字傍線〕ノ爲ニ持ツテ行キマセウ。
 
○射目立而《イメタテテ》――枕詞。射目は御山者射目立渡《ミヤマニハイメタテワタシ》(九二六)とあつたやうに射部。弓を射るともがら。射部を野山に立てて、獣の跡を見させるから、跡見《トミ》とつづける。○總手折《フサタヲリ》――總《フサ》は多く、澤山、ふさふさとなどの意。卷十七に和我勢古我布佐多乎里家流乎美奈敝之香物《ワガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》(三九四三)ともある。○吾者將去《ワレハモチイナム》――略解に者の下、持を補つて「一本に依て改む」とあるが、校本萬葉集にはさうした本がない。將はモチと訓む字だからこの儘でよいか。
(613)〔評〕 旋頭歌である。別に特異の點もない平板な作である。
 
湯原王鳴鹿歌一首
 
1550 秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 聲の遙けさ
 
秋芽之《アキハギノ》 落乃亂爾《チリノマガヒニ》 呼立而《ヨビタテテ》 鳴奈流鹿之《ナクナルシカノ》 音遙者《コヱノハルケサ》
 
秋ノ萩ノ花ノ散リマガフノニツレテ、聲ヲ立テテ鳴ク鹿ノ音ガ、遙カニ遠ク聞エルヨ。
 
○落乃亂爾《チリノマガヒニ》――チリノミダリニと新訓にあるが、散之亂爾《チリノマガヒニ》(一三五)と一致せしめて置く。その條參照。○音遙者《コヱノハルケサ》――者はサの假名に用ゐてある、有之苦者《アルガクルシサ》(一〇〇七)・秋香乃吉者《アキノカノヨサ》(二二三三)の類である。
〔評〕 情景を眼前に髣髴せしめ、すがすがしい感觸の歌である。
 
市原王歌一首
 
1551 時待ちて 落つる時雨の ふりふりぬ 明けむあしたか 山のもみぢむ
 
待時而《トキマチテ》 落鐘禮能《オツルシグレノ》 雨令零收《フリフリヌ》 朝香《アケムアシタカ》 山之將黄變《ヤマノモミヂム》
 
秋ノ〔二字傍線〕時節ヲ待ツテ降ル、時雨ノ雨ガ頻リニ降ツタ。明朝ハ山ガ紅葉スルデアラウカ。サゾ美シイダラウ〔八字傍線〕。
 
○落鐘禮能《オツルシグレノ》――鐘は鍾に作つてゐる古本もある。これはどちらでも同じで、鐘・鍾共に韻鏡内轉第二合。通攝の文字。ngの吉尾で、呉音シユであるから、シグとよまれるのである。鐘禮《シグレ》は時雨。○雨令零收《フリフリヌ》――舊訓アメヤミテとあるが無理である。雨と令とは零の一字と見られるから、收を奴と見て、フリフリヌとよむ新訓に從ふ。○朝香《アケムアシタカ》――この句は舊訓、山之までを一句として、アサカノヤマノとあるが、類聚古集・神田本など、收の下に開の字がある本が多いから、それによつてアケムアシタカとよんだ新訓の説に從ふ。朝香山は住吉と陸奥と(614)に名が見えるが、住吉のは山といふほどのものでなく、陸奥のは市原王がその方面に旅し給うたらしい形跡がない。
〔評〕 この歌は古來、種々の訓があつていづれとも定め難い。しばらく解し易きに從つて新訓によつた。まだしつくりと落つかぬところがないでもないから、評は略して置かう。
 
湯原王蟋蟀歌一首
 
蟋蟀はキリギリスとも訓む字であるが、集中の用例を見ると、すべてコホロギとよまないでは調が整はない。略解に、「蟋蟀舊訓きりぎりすと訓みたれど、すべて此字をきりぎりすと訓てはしらべととのひがたければ翁はこほろぎと訓まれし也。和名抄文字集略云、蜻※[虫+列]精列二音、和名古保呂木と有によりて也。春海云、蜻※[虫+列]といふ名は文選晋張孟陽七哀詩に、仰聽2離鴻鳴1俯聽2蜻※[虫+列]吟1と見え、李善が註に、易通卦驗曰、立秋蜻[虫+列]鳴、蔡〓月令章句曰、蟋蟀虫名。俗謂2之蜻※[虫+列]1といひ、又古詩に蟋蟀吟、蜻※[虫+列]吟と通はして常にいへり。かかれば蜻※[虫+列]と蟋蟀とは同物なれば、蜻※[虫+列]に古保呂木と有にて、古より蟋蟀にこほろぎと名有事しるし。且和名抄に兼名苑云、蟋蟀一名蛬、和名木里木里須とみえたれば、きりぎりすの名も古へ言へる名なるべし。」とあつて、平安朝では、コホロギとキリギリスと、二つながら行はれてゐたのである。けれども歌文にあらはれたものを見ると、萬葉集ではコホロギ、平安朝ではキリギリスに限られてゐる。(鴨長明の四季物語に、「なりはうつくしう、玉虫など云ていみじけれど、きりぎりす・はたおり・こほろぎにさへおとりて、聲たてぬもあれど云々」とあるがこれは僞書と考へられるものであり、且時代も下つてゐるから、ここの例にはならぬ)して見ると、萬葉集のコホロギと、平安朝のキリギリスとは、同一物と考へるのが穩當である。さうして平安朝のキリギリスは、その用例から見て、今のコホロギに相違ないから、萬葉集のコホロギは即ち今のコホロギなのである。コホロギは今のキリギリスの古名(615)だといふ説は當らない。
 
1552 夕月夜 心もしぬに 白露の 置くこの庭に こほろぎ鳴くも
 
暮月夜《ユフヅクヨ》 心毛思努爾《ココロモシヌニ》 白露乃《シラツユノ》 置此庭爾《オクコノニハニ》 蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》
 
夕方月ノヨイ頃ニ私ノ〔二字傍線〕心ガシヲシヲト萎レテ、白露ガ置イテヰルコノ庭デ蟋蟀ガ鳴クヨ。何ト云フ悲シイ聲デアラウ。アレヲ聞クト私ノ心ハ萎レテシマフ〔何ト〜傍線〕。
 
○心毛思努爾《ココロモシヌニ》――心も萎れて。卷三の柿本人麿の歌に、情毛思努爾古所念《ココロモシヌニイニシヘオモホユ》(二六六)とある。
〔評〕 玲瓏玉の如き風格。感傷的な情緒が流麗な韻律によつて快く述べられてゐる。佳作だ。袖中抄に載せてあるのも尤もである。
 
衛門大尉大伴宿禰稻公歌一首
 
この作者については、一五四九の題詞の説明を參照せられたい。
 
1553 時雨の雨 間なくしふれば 三笠山 こぬれあまねく 色づきにけり
 
鐘禮能雨《シグレノアメ》 無間零者《マナクシフレバ》 三笠山《ミカサヤマ》 木末歴《コヌレアマネク》 色附爾家里《イロヅキニケリ》
 
時雨ガ絶エ間ナク降ルト、三笠山ハ梢ガ一面ニ色ガ付イタワイ。
 
○鐘禮能雨《シグレノアメ》――鐘禮の用字と訓とについては一五五一參照。
〔評〕 卷十に四具禮能雨無間之零者眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《シグレノアメマナクシフレバマキノハモアラソヒカネテイロヅキニケリ》(二一九)と酷似してゐる。これは古歌を學んだものと言はれても仕方があるまい。
 
大伴家持和(フル)歌一首
 
1554 大君の 三笠の山の もみぢばは 今日の時雨に 散りか過ぎなむ
 
皇之《オホキミノ》 御笠乃山能《ミカサノヤマノ》 黄葉《モミヂバハ》 今日之鐘禮爾《ケフノシグレニ》 散香過奈牟《チリカスギナム》
 
(616)(皇之)三笠山ノ紅葉ハ、今日降ル時雨ニ散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○皇之《オホキミノ》――枕詞。天皇のかざし給ふ御蓋《ミカサ》とつづく。
〔評〕 題詞によると、前の稻公の歌に和へたものである。時雨を中心として、三笠山の紅葉について述べてゐるのみで、淺い感興の歌である。
 
安貴王歌一首
 
安貴王は志貴皇子の御孫、市原王の御父、卷三の三〇六參照。
 
1555 秋立ちて 幾日もあらねば この寢ぬる 朝けの風は 袂寒しも
 
秋立而《アキタチテ》 幾日毛不有者《イクカモアラネバ》 此宿流《コノネヌル》 朝開之風者《アサケノカゼハ》 手本寒母《タモトサムシモ》
 
秋ニナツテカラマダ幾日モ經タナイノニ、寢テ起キタコノ朝明ケノ風ハ、袂ニ寒ク吹クワイ。コレカラハ嘸カシ寒イコトデアラウ〔コレ〜傍線〕。
 
○幾日毛不有者《イクカモアラネバ》――幾日もあらざるにに同じ。このネバは古い語法である。○此宿流《コノネスル》――下の朝開につづいて、寢て起きたこの朝開けの意。何となくなつかしい語感を持つ語である。
(評〕 うるはしい滑らかな感じの歌である。新古今集に「このねぬる夜の間に秋は來にけらし朝けの風の昨日にも似ぬ」はこれを本歌としたもので、金槐集の「このねぬるあさけの風にかをるなり軒端の梅の春の初花」もこれから脱化したのである。
 
忌部首黒麻呂歌一首
 
忌部首黒麻呂は卷六の一〇〇八參照。
 
1556 秋田刈る 假廬もいまだ こぼたねば 雁が音寒し 霜も置きぬがに
 
(617)秋田苅《アキタカル》 借廬毛未《カリホモイマダ》 壞者《コボタネバ》 鴈鳴寒《カリガネサムシ》 霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》
 
秋ノ田ヲ苅ル爲ニ作ツタ〔五字傍線〕假小屋モマダソノ儘デ〔四字傍線〕、毀タズニ置イテアルノニ、霜モ降リサウニ、雁ノ鳴ク聲ガ寒ク聞エルヨ。時候ノカハルノハ早イモノダ〔時候〜傍線〕。
 
○借廬毛未壞者《カリホモイマダコボタネバ》――借廬は借は借字で、假小屋である。コボタネバは壞たざるにの意。舊本壞を壤に作るは誤。○霜毛置奴我二《シモモオキヌガニ》――前に安要奴我爾花咲爾家里《アエスガニハナサキニケリ》(一五〇七)とあつたのと同格で、霜も置きさうにの意。ヌは完了の助動詞であるが、語勢を強めるだけに役立つてゐる。ガニはほどに・ばかりにの意。委しくは一五〇七參照。
〔評〕 時候の變化の迅速なのに驚いたのであるが、明澄透徹の調子で、力強い歌である。この歌、和歌童蒙抄に見える。
 
故郷(ノ)豐浦寺之尼(ノ)私房(ノ)宴歌三首
 
豐浦寺は大和國高市郡飛鳥村|豐浦《トヨラ》にある。飛鳥川の西岸、甘橿の岡の北麓にある。この寺は古の向原寺の舊地で、即ち蘇我稻目の邸宅を寺としたものである。後、ここに推古天皇の豐浦宮が出來、その址が豐浦寺となつたので、吾が國最初の尼寺である。ここに故郷とあるのは、推古天皇の舊郡であつたからであらう。上宮聖徳法王帝説裏書に「庚戌春三月學問尼善信等自2百濟1還住2櫻井寺1、今豐浦寺也 初櫻井寺云後豐浦寺云」とあるから、初は櫻井寺と稱したので、續紀の童謠に、「葛城の寺の前なるや、豐浦の寺の西なるやおしとどとしとど、櫻井に白璧しづくやよき璧しづくや、おしとどとしとど、しかすれば國ぞさかゆるや、吾家らぞさかゆるや、おしとどとしとど」とある豐浦寺である。今もその附近に豐浦寺と稱する小寺がある。
 
1557 明日香河 行きたむ岳の 秋萩は 今日ふる雨に 散りか過ぎなむ
 
明日香河《アスカガハ》 逝回岳之《ユキタムヲカノ》 秋芽子者《アキハギハ》 今日零雨爾《ケフフルアメニ》 落香過奈牟《チリカスギナム》
 
(618)明日香川ガ流レテ曲ツテヰル岡ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ、今日降ル雨デ散リ過ギテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○逝囘岳之《ユキタムヲカノ》――明日香川が流れて曲つてゐる岡、即ち雷岡・神南備山のことである。舊訓にユキキノヲカノとあるのは誤つてゐる。宣長の説に從つてユキタムヲカとよむことにする。しかし宣長が岡の行廻れる所と言つたのはどうであらう。飛鳥川が雷岳の邊で曲つてゐるから、このユキタムヲカは雷岳に違ひない。
〔評〕 豐浦寺にゐて、すぐ飛鳥川の對岸の雷岡の萩の花を思ひやつたのである。尼の私房で雨の日に酒宴を催して、こんな歌を作つた作者の態度は、あまり嚴粛さを缺いてゐる。歌は拙くはない。
 
右一首丹比眞人國人
 
丹比眞人國人は卷三の三八二參照。
 
1558 鶉鳴く 古りにし郷の 秋萩を 思ふ人どち 相見つるかも
 
鶉鳴《ウヅラナク》 古郷之《フリニシサトノ》 秋芽子乎《アキハギヲ》 思人共《オモフヒトドチ》 相見都流可聞《アヒミツルカモ》
 
(619)荒レハテタ〔五字傍線〕(鶉鳴)舊イ都ニ咲イテヰル秋萩ノ花ヲ、心ノ合ツタ友ダチドモト一緒ニ見タヨ。アア樂シカツタ〔七字傍線〕。
 
○鶉鳴《ウヅラナク》――枕詞。鶉は荒れたところにゐるから古郷《フリニシサト》につづく。これを枕詞と見ない説も多いが、卷四に鶉鳴故郷從念友《ウヅラナクフリニシサトユオモヘドモ》(七七五)と同じく、枕詞として置く。○相見都流可聞《アヒミツルカモ》――相共に見たよの意。會ひ見つるかもではない。
〔評〕 前の歌の雷岡の萩を、ふりにし里の秋萩と言つたものか。僧尼の歌らしくない作である。和漢朗詠集に「うづらなくいはれの小野の秋はぎを思ふ人ども見つる今日かな」とあるのは、この歌を少し改めたのみである。
 
1559 秋萩は 盛すぐるを いたづらに かざしにささず かへりなむとや
 
秋芽子者《アキハギハ》 盛過乎《サカリスグルヲ》 徒爾《イタヅラニ》 頭刺不挿《カザシニササズ》 還去牟跡哉《カヘリナムトヤ》
 
コノ秋萩ノ花ハ盛モ將ニ過ギヨサトシテヰルノニ、コレヲ折ツテ〔六字傍線〕挿頭ノ花トモシナイデ、空シク歸ラウトナサルノデスカ。惜シイコトデス〔七字傍線〕。
 
○盛過乎《サカリスグルヲ》――盛過ぎむとするをの意。○頭刺不挿《カザシニササズ》――插の字は舊本、搖に作つてゐる。古本多く種々の書體になつてゐるが、挿の誤なることは明らかであるから改めた。
〔評〕 これは、僧尼が來訪の客を引止めようとする歌である。寺の尼の私房で、よい氣になつて遊んでゐる態度が氣にくはない。歌も格別面白くもない。
 
右二首沙彌尼等
 
沙彌は僧、尼は比丘尼である。この頃僧尼が俗人と一緒に、寺内で宴を催したのは不思議である。佛教の墮落を語るといつてよからう。
 
(620)大伴坂上郎女|跡見田庄《トミノタドコロニテ》作歌二首
 
跡見田庄は卷六の跡見茂岡(九九〇)、この卷の跡見庄(一五四九)と同所で、大伴氏の領地であつたのである。
 
1560 妹が目を 始見の埼の 秋萩は この月頃は 散りこすなゆめ
 
妹目乎《イモガメヲ》 始見之埼乃《ハツミノサキノ》 秋芽子者《アキハギハ》 此月其呂波《コノツキゴロハ》 落許須莫湯目《チリコスナユメ》
 
(妹目乎)始見ノ埼ノアタリニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ、コノ月ノ中ハ決シテ散ラズニヰテクレヨ。マダ見飽カナイカラ〔九字傍線〕。
 
○妹目乎《イモガメヲ》――枕詞。妹に始めて逢ふ意で始見につづけてある。この枕詞は卷十二に妹目乎見卷欲江之《イモガメヲミマクホリエノ》(三〇二四)と用ゐられてゐるのみ。しかも卷十二のは、獨立した枕詞にはなつてゐない。○始見之埼乃《ハツミノサキノ》――舊訓ミソメノサキノとあるのもるろくはないが、その地名が今、明らかでないから、むしろ文字遣りにハツミノサキノとよんだ新訓の説に從ふのがよいやうに思ふ。始は來喧始音《キナクハツコヱ》(四一七一)・始瀬之檜原《ハツセノヒバラ》(一〇九五)などのやうに、ハツの用例が多いからである。考に跡見之丘邊乃《トミノヲカベノ》の誤とし、古義に跡見之埼有《トミノサキナル》と改めてゐるが、いづれも從ひがたい。ハツミノサキは何處とも明らかでないが、跡見田庄から遠からぬところにあつたつたのであらう。○此月其呂波《コノツキゴロハ》――月の字、舊本目に作るは誤。類聚古集・神田本など、古本多くは月に作つてゐる、
〔評〕 跡見の田庄にゐて、その附近の始見の埼といふ山裾の萩を、思ひやつてよんだのである、跡見にゐながら、他所の萩を詠む筈はないといふので、始見を跡見に改める説が多いのであるが、それはよくない。又略解に「此時郎女佐保の坂上に在て、跡見庄のはぎを思ひてよめるを、後人さかしらに、跡見田庄作歌と書るならむか」とあるのも、いはれなき推測であらう。妹目乎《イモガメヲ》の枕詞が、女性の作らしくないのも、却て面白い感を與へる。
 
1561 吉名張の 猪養の山に 伏す鹿の 嬬呼ぶ聲を 聞くがともしさ
 
吉名張乃《ヨナバリノ》 猪養山爾《ヰカヒノヤマニ》 伏鹿之《フスシカノ》 嬬呼音乎《ツマヨブコヱヲ》 聞之登聞思佐《キクガトモシサ》
(621)吉名張ノ猪養山ニカクレテヰル鹿ガ、妻ヲ戀ヒ慕ツテ〔五字傍線〕呼ンデ鳴ク聲ウ聞クノハ面白イヨ。
 
○吉名張乃猪養山爾《ヨナバリノヰカヒノヤマニ》――卷二に吉隱之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》(二〇三)とあるところで、磯城郡初瀬の東方一里の地點にある。その條參照。○聞之登聞思佐《キクガトモシサ》――トモシは珍しく、面白いこと。
〔評〕跡見にゐる郎女が、その東方數里を距てる、吉隱の猪養の山に鳴く鹿の聲を聞くのは、おかしいわけである。歌はまさしく猪養山麓で聞いた趣であるから、或はこの山名が跡見の附近にあるのかとも思はれるが、どうもさうでもないらしい。猪養山の曾遊を思ひ出して、跡見田庄で作つたものか。
 
巫部麻蘇《カムコベノマソ》娘子鴈歌一首
 
卷四の七〇三に見えた作者である。傳はよくわからない。
 
1562 誰聞きつ こゆ鳴き渡る 雁が音の 嬬呼ぶ聲の ともしくもあるか
 
誰聞都《タレキキツ》 從此間鳴渡《コユナキワタル》 鴈鳴乃《カリガネノ》 嬬呼音乃《ツマヨブコヱノ》 之知左寸《トモシクモアルカ》
 
誰ガアレヲ聞イタダラウ。アノ此處ヲ鳴イテ通ツテ行ク雁ガ、妻ヲ呼ンデ鳴ク聲ガ、マコトニ佳イ聲デスヨ。アナタハオ聞キナサイマセンデシタカ〔アナ〜傍線〕。
 
○誰聞都《タレキキツ》――宣長は都は跡の誤と言つてゐるが、このままでよい。○從此間鳴渡《コユナキワタル》――コユは此處をの意。○之知左寸《トモシクモアルカ》――舊訓はユクヲシラサズであるが、和歌童蒙抄、カクシルクソアル、京大本にも、カクシルクサルとある。代匠記精撰本には之の下、方を脱として、ユクヘシラサズかとし、考は之を去の誤とし、下に方を補つてユクヘとよんでゐる。略解にあげた宣長説は乏蜘在可の誤とし、トモシクモアルカとよんでゐる。古義は乏左右爾として、トモシキマデニとよんでゐる。猥りに文字を改むべきではないが、どうもここは誤があるやうである。寸の字もスの假字に用ゐたのは、卷十一に玉垂小簾之寸鶏吉仁《タマダレノヲスノスゲキニ》(二三六四)とあるのみで、他の用例は疑はしいものであるから、ここも果してスとよむべきか否かを知らない。しばらく宣長説を採用して置かう。
(622)〔評〕 これは家持に示した歌である。この作者は卷四でも家持との間に、交渉があつたやうに見えてゐる。結句が不明瞭な爲に、充分な批評が出來ないのは遺憾である。
 
大伴家持和(ヘ)歌一首
 
1563 聞きつやと 妹が問はせる 雁が音は まことも遠く 雪がくるなり
 
聞津哉登《キキツヤト》 妹之問勢流《イモガトハセル》 鴈鳴者《カリガネハ》 眞毛遠《マコトモトホク》 雲隱奈利《クモガクルナリ》
 
聞イタカト云ツテワザワザアナタガ尋ネテオヨコシナサツタ雁ノ聲ハ、ホントニ遠ク空ノ上ニ聞エテ〔七字傍線〕、雲ニ隱レテ鳴イテ行キマシタ。面白ウゴザイマシタ〔九字傍線〕。
 
○妹之問勢流《イモガトハセル》――妹は巫部麻蘇娘子を指す。トハセルは問へるの敬相。
〔評〕 空のあなたに雲がくれて、幽かに聞いた雁の聲をなつかしがつたのである。新考に「逢ふ事の絶えたるを恨みたるなり。ケリといはでナリといへるを見れば、よそふる意あるなり」とあるのは從ひ難い。
 
日置長枝《ヘキノナガエ》娘子歌一首
 
日置長枝娘子の傳は明らかでない。日置は地名として、ヘキともヒオキともよんであるが、古事記中卷に是(ノ)大山守命者、土形君・幣伎《ヘキ》君等之祖也とあるから、ヘキとよんで置かう。
 
1564 秋づけば 尾花が上に 置く露の 消ぬべくも吾は おもほゆるかも
 
秋付者《アキヅケバ》 尾花我上爾《ヲバナガウヘニ》 置露乃《オクツユノ》 應消毛吾者《ケヌベクモアハ》 所念香聞《オモホユルカモ》
 
私ハ戀シサニ苦ンデ〔九字傍線〕、(秋付者、尾花我上爾置露乃)私ハホントニ命モ消エサウニ思ハレマスヨ。アアツライ〔五字傍線〕。
 
○秋付者尾花我上爾置露乃《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノ》――ケヌベクと言はむ爲の序詞。○秋付者《アキヅケバ》――秋になればの意〕。朝附日《アサヅクヒ》、夕附日《ユフヅクヒ》の(623)附《ツク》に同じ。
〔評〕 眼前の景物を採つて作つた序で、女性らしいやさしさが見える。しかしこれを卷十の秋田乃穗上爾置白露之可消吾者所念鴨《アキノタノホノヘニオケルシラツユノケヌベクワレハオモホルカモ》(一二四六)と比較すると、その類似の甚しさが目に立つ。これは必ず卷十の歌を粉本としたものであらう。なほこれは次の歌を見ると、家持の家でよんだのである。
 
大伴家持和(ヘ)歌一首
 
古義は和の字を衍としてゐるのは、臆斷に過ぎる。
 
1565 吾がやどの 一むら萩を 思ふ兒に 見せずほとほと 散らしつるかも
 
吾屋戸乃《ワガヤドノ》 一村芽子乎《ヒトムラハギヲ》 念兒爾《オモフコニ》 不令見殆《ミセズホトホト》 令散都類香聞《チラシツルカモ》
 
私ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕一群茂ツタ〔二字傍線〕萩ノ花ヲ、私ノ〔二字傍線〕愛スルアナタニ見セモシナイデ、モウ少シデ散ラシテシマフトコロデシタヨ。アナタガ今日來ナケレパ花モ散ツテシマフトコロデシタ〔アナ〜傍線〕。
 
○一村芽子乎《ヒトムラハギヲ》――一群に茂つた萩を、一村萩は、古今集に見える一村薄などと同じやうな語である。○不令見殆令散都類香聞《ミセズホトホトチラシツルカモ》――殆《ホトホト》は令散《チラシ》につづいてゐる。危いところで散してしまふことであつたといふのである。ホトホトは三三一及び一四〇三參照。
〔評〕 女を待ち得てよろこんだのである。一村萩の造語も清新の感を與へる。
 
大伴家持秋歌四首
 
1566 ひさかたの 雨間もおかず 雲がくり 鳴きぞ行くなる 早田かりがね
 
久堅之《ヒサカタノ》 雨間毛不置《アママモオカズ》 雲隱《クモガクリ》 鳴曾去奈流《ナキゾユクナル》 早田鴈之哭《ワサダカリガネ》
 
(624)(久堅之)雨ノ降ル間モ休マナイデ、雲ニ隱レツツ(早田)鴈ガ鳴イテ行クワイ。雨ニ霑レテ嘸ツラカラウニ〔雨ニ〜傍線〕。
 
○久堅之《ヒサカタノ》――枕詞。天とつづくのを、雨に通はしたのである。○早田鴈之哭《ワサダカリガネ》――早田《ワサダ》はただ苅りにかけて、雁と言ふために置いたもので、歌の上には意味はない。
〔評〕 この人の歌に、この卷の夏雜歌のなかに、宇乃鳴能過者惜香霍公鳥雨間毛不置從此間喧渡《ウノハナノスギバヲシミカホトトギスアママモオカズコユナキワタル》(一四九一)とあるのと、まづ同型同想の歌である。早田鴈之哭《ワサダカリガネ》の方が、内容が簡素で力がある。
 
1567 雲がくり なくなる雁の ゆきてゐむ 秋田の穗立ち 繁くし念ほゆ
 
雲隱《クモガクリ》 鳴奈流雁乃《ナクナルカリノ》 去而將居《ユキテヰム》 秋田之穩立《アキタノホダチ》 繁之所念《シゲクシオモホユ》
 
私ハアノ人ノコトヲ戀ヒ焦レテ〔私ハ〜傍線〕(雲隱鳴奈流鴈乃去而將居秋田之穗立)頻リニ思ツテヰルヨ。
 
○雲隱鳴奈流雁乃去而將居秋田之穩立《クモガクリナクナルカリノユキテヰムアキタノホダチ》――この四句は繁くと言はむ爲の序詞。雲に隱れて空高く飛んで鳴く雁が、やがて飛んで行つて降りる秋の田の稻の穗立の意で、その數多く繁つてゐることにかけてつづけたのである。穗立は穗の出揃つて立ち並んでゐる状態。
〔評〕 これは雁・秋田・穗立といふやうな秋のものを材料として、序詞を作つたもので、序詞の發達した本集でも、四句に亘るものは珍らしい。内容は相聞であるが、別に誰に贈るともなく作つたので、ここに載せてあるのであらう。要するに技巧の爲に試作したといふやうな感じを免れない。
 
1568 雨ごもり こころいぶせみ 出で見れば 春日の山は 色づきにけり
 
雨隱《アマゴモリ》 情欝悒《ココロイブセミ》 出見者《イデミレバ》 春日山者《カスガノヤマハ》 色付二家里《イロヅキニケリ》
 
雨ニ降リ籠メラレテ、心ガ欝陶シイノデ、外ヘ出テ見ルト、降リツヅク秋ノ雨ニ〔九字傍線〕、春日山ハ紅葉シテ赤ク〔六字傍線〕色ヅイタワィ。
〔評〕 連日の時雨に閉ぢこめられて欝陶しさに、雨中を屋外に出て見て、何時の間にか春日山が紅葉したのに驚いた感じである。奈良の都人らしく、又暇のある大宮人らしい作である。温雅な歌と評してよい。前にこの人(625)の隱耳居者欝悒奈具左武登出立聞者來鳴日晩《コモリノモヲレバイブセミナグサムトイデタチキケバキナクヒグラシ》(一四七九)とあつたのと似通つた點がある。
 
1569 雨晴れて 清く照りたる この月夜 また更にして 雪な棚引き
 
雨晴而《アメハレテ》 清照有《キヨクテリタル》 此月夜《コノツクヨ》 又更而《マタサラニシテ》 雲勿田菜引《クモナタナビキ》
 
雨ガヤツト〔三字傍線〕晴レテ清ク照ツタコノ月夜ニ、又再ビ雲ガ棚引クナヨ。折角晴レタノダカラ〔九字傍線〕。
 
○又更而《マタサラニシテ》――又更めて、再びなどの意。新考に又夜更而《マタヨクダチテ》の夜を脱したのだらうとあるのは從ひ難い。
〔評〕 さしたる佳作ではないが、月夜のやうなすがすがしい感じを持つてゐる。
 
右四首天平八年丙子秋九月作
 
この年、家特の年齡十九歳と推定せられる。
 
藤原朝臣八束歌二首
 
藤原八束は三九八參照。
 
1570 ここに在りて 春日やいづく 雨さはり 出でて行かねば 戀ひつつぞをる
 
此間在而《ココニアリテ》 春日也何處《カスガヤイヅク》 雨障《アマサハリ》 出而不行者《イデテユカネバ》 戀乍曾乎流《コヒツツゾヲル》
 
此處ニ居ツテハ春日山ハ伺處ニアタルダラウ。私ハ〔二字傍線〕雨ニ降リコメラレテ、外ヘ出テ行ツテ見〔三字傍線〕ナイカラ、アノ春日山ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ツテ居ルバカリダ。
 
○雨障《アマサハリ》――雨に邪魔されること。雨乍見《アマツツミ》(五二〇)とあるによつて、これをもさうよまうとする説も多いが、文字の通りアマサハリがよい。
〔評〕 一二句は卷三の、此間爲而家八方何處《ココニシテイヘヤモイヅク》(二八七)。卷四の此間有而筑紫也何處《ココニアリテツクシヤイヅク》(九七四)と似てゐる。秋といへば都人はすぐに、近い春日山の紅葉を思ふ。それほど親しい山であるが、連日ノの降雨に雲深くして、長くその姿を(626)見ないので、その方向をも忘れたやうな氣分である。春日山を親しむ感情がよくあらはれてゐる。
 
1571 春日野に 時雨ふる見ゆ 明日よりは もみぢかざさむ 高圓の山
 
春日野爾《カスガヌニ》 鐘禮零所見《シグレフルミユ》 明日從者《アスヨリハ》 黄葉頭刺牟《モミヂカザサム》 高圓乃山《タカマドノヤマ》
 
春日野ニ時雨ガ降ルノガ見エルヨ。コノ模樣デハ〔六字傍線〕、明日カラハ高圓ノ山ハ紅葉ヲ挿頭スコトダラウ。コノ時雨デ紅葉スルデアラウ〔コノ〜傍線〕。
 
○黄葉頭利牟《モミヂカザサム》――高圓山が紅葉するのを、黄葉かざさむと言つたので、これは卷一の人麻呂の歌に、春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理《ハルベハハナカザシモチアキタテバモミヂカザセリ》(三八)とあるのを學んだものであらう。
〔評]春日野は都から東の方に、ゆるい傾斜をなして展開し、春日山・高圓山につづいてゐる。時雨の白い雨脚が、その廣い野に降り注ぐのが都からはつきり見えるのである。それを眺めながら、いよいよ明日から、この雨で高圓山も紅葉するだらうと想像してゐるので、寧樂の都の舊址に立つて、この歌を口吟む時、その情景がありありと見えてなつかしい。
 
大伴家持白露歌一首
 
1572 吾が屋戸の を花が上の 白露を 消たずて玉に 貫くものにもが
 
吾屋戸乃《ワガヤドノ》 草花上之《ヲバナガウヘノ》 白露乎《シラツユヲ》 不令消而玉爾《ケタズテタマニ》 貫物爾毛我《ヌクモノニモガ》
 
私ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕尾花ノ上ニ宿ツタ白露ハ玉ノヤウデ實ニ美シイガ、アノ露〔ハ玉〜傍線〕ヲ消サナイデ、玉ノヤウニ糸ニ〔二字傍線〕貫クコトガ出來ルモノダトヨイガナア。サウ出來ナイデ消エテシマフノデ殘念ダ〔サウ〜傍線〕。
 
○草花上之《ヲバナガウヘノ》――草花をヲバナとよむのは古い訓である。他にもこの用例がある。古義に「集中に、草の字をカヤと訓り、カヤは薄《ススキ》をいふ。されば、草《カヤ》の花てふ意にて、ヲバナとは訓ことなり。さる意をも得しらずて、岡部氏の草は葛の誤にて、クズバナガウヘノなるべきかといひ、又或人は、草は尾の草書より寫誤れるものなる(627)ベしといへるは大《イミ》じき非《ヒガゴト》なり。」といつてゐる通りであらう。
〔評〕 白露の歌として、尾花の上に宿つた露をよんだのはよいが、歌は平叙凡想である。
 
大伴利上歌一首
 
契沖は利上は村上の誤であらうといつてゐる。前に大伴村上橘歌一首(一四九三)とあり、又大伴宿禰村上梅歌二首(一三四六)ともあつたから、恐らくこれも村上であらう。
 
1573 秋の雨に ぬれつつをれば 賤しけど 吾妹が宿し おもほゆるかも
 
秋之雨爾《アキノアメニ》 所沾乍居者《ヌレツツヲレバ》 雖賤《イヤシケド》 吾妹之屋戸志《ワギモガヤドシ》 所念香聞《オモホユルカモ》
 
旅ニ出テ〔四字傍線〕、秋ノ雨ニ霑レテヰルト、アマリノ辛サニ〔七字傍線〕、ミスボラシイ家デハアルガ、私ノ妻ノ住ンデヰル私ノ〔二字傍線〕家ガ思ヒ出サレテ戀シイヨ。
 
○雖賤《イヤシケド》――いかに自分の妻の家でも、賤しけどといふわけはないから、これは自分が旅にあつて、留守居してゐる妻の家、即ちわが家をかく言つたのである。
〔評〕 秋の雨に濡れて旅する辛さに、郷里の妻の留守居してゐる家をなつかしく思ふのである。眞情はあらはれてゐる。
 
右大臣橘家宴歌七首
 
橘諸兄の家の宴會で作つた歌。諸兄が右大臣であつたのは、天平十年正月から、十五年五月までである。この七首の左註と、卷六の天平十年秋八月二十日宴右大臣橘家歌四首(一〇二四)と一致してゐる。なほこの橘家は都から遠い趣によまれてゐるから、相樂の別業であらう。
 
1574 雲の上に 鳴くなる雁の 遠けども 君に逢はむと たもとほり來つ
 
(628)雲上爾《クモノウヘニ》 鳴奈流鴈之《ナクナルカリノ》 雖遠《トホケドモ》 君將相跡《キミニアハムト》 手回來津《タモトホリキツ》
 
此處ヘ來ルノハ〔七字傍線〕(雲上爾鳴奈流鴈之)遠イケレドモ、私ハ〔二字傍線〕アナタニ逢ハウト思ツテ、道ヲ廻リ曲ツテ辿ツテ來マシタ。可愛サウト思ツテ下サイ〔可愛〜傍線〕。
 
○雲上爾鳴奈流鴈之《クモノウヘニナクナルカリノ》――雖遠《トホケドモ》と言はむ爲の序詞。雲の上に鳴く鴈の遙かに遠いのに譬へたのであるが、この意味は他に影響してゐないから、序詞である。○手回來津《タモトホリキツ》――タモトホルは曲りくねつた道を辿ることで、道は曲つたものであるから、かくいふのである、
〔評〕 いかにも遠路を辛苦したやうに、詠んであるのがおもしろい。卷七の春霞井上從直爾道者雖有君爾將相登他回來毛《ハルガスミヰノヘユタダニミチハアレドキミニアハムトタモトホリクモ》(一二五六)と少しく似てゐる。
 
1575 雲の上に 鳴きつる雁の 寒きなべ 萩の下葉は もみぢつるかも
 
雲上爾《クモノウヘニ》 鳴都流鴈乃《ナキツルカリノ》 寒苗《サムキナベ》 芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》 黄變可毛《モミヂツルカモ》
 
雲ノ上デ鳴イタ雁ノ聲ガ、寒ムサウナノニツレテ、萩ノ下葉ハ紅葉シテキタヨ。
 
○黄變可毛《モミヂツルカモ》――舊訓ウツロハカモとあるのはウツロハムカモの誤であらう。神田本・西本願寺本なども、さうよんでゐる。新訓もこれを採つてゐるが、黄變の二字は他の例を見ても、モミヅとよんであり、且、ここは未來を想像するところではないやうであるから、代匠記初稿本の書入・略解などに從つて、モミヂツルカモとよむことにした。
〔評〕 萩の下葉は秋風が吹くと直ちに紅葉する。吾屋前之芽子乃下葉者秋風毛未吹者如此曾毛美照《ワガヤドノハギノシタバハアキカゼモイマダフカネバカクゾモミデル》(一六二八)・比日之曉露爾吾屋前之芽乃下葉者色付爾家里《コノゴロノアカトキツユニワガヤドノハギノシタバハイロツキニケリ》(二一八二)などのやうに、初秋またはそれ以前から色づくのである。況んや雁の聲の寒い頃になれば、それが著しく目に立つ。庭前の萩の黄葉に對してゐる作者の直感がそのままに歌はれてゐる。蓋し橘家の宴に際し、庭前を屬目した作である。
 
右二首
 
(629)この下に人名が記してあつたのが、脱ちたのであらう。
 
1576 この岳に 小鹿ふみおこし うかねらひ かもかもすらく 君故にこそ
 
此岳爾《コノヲカニ》 小牡鹿履起《ヲシカフミオコシ》 宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》 可聞可開爲良久《カモカモスラク》 君故爾許曾《キミユヱニコソ》
 
(此岳爾小牡鹿履起宇加※[泥/土]良比)兎ヤ角ト、イロイロ工夫ヲ」〔七字傍線〕スルノハミナ〔二字傍線〕貴君故デアリマスヨ。サウ思ツテ憐ンデ下サイ〔サウ〜傍線〕。
 
○此岳爾小牡鹿履起宇加※[泥/土]良比《コノヲカニヲシカフミオコシウカネラヒ》――カモカモスラクの序詞。この岡で隱れてゐる鹿を追ひたてて、伺ひ覗つて、いろいろと工夫して射取る意でつづく。履起は朝獵爾鹿猪踐起暮獵爾鶉雉履立《アサガリニシシフミオコシユフカリニトリフミタテ》(四七八)・朝獵爾十六履起之夕狩爾十里〓立《アサガリニシシフミオコシユフカリニトリフミタテ》(九二六)あるのを見るとフミオコシである。新訓にフミタテとよんだのは誤つてゐる。蓋し、獣は臥してゐるから起しといひ、鳥は宿つてゐるのを追うて空に飛ばしめるから、立てといふのである。宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》はウカミネラヒの略、ウカミは孝徳紀に「蹟塞|斥候《ウカミ》防人」、天武紀に「自2近江京1至2于倭京1處處置v候《ウカミ》」、推古紀に「新羅之|間諜《ウカミヒト》者加摩多到2對馬1」とある。○可聞可開爲良久《カモカモスラク》――舊訓カモカクスラクとあるが、代匠記に開を聞の誤として、カモカモスラクとよんだのがよい。略解に「宣長云、或人の考に萬智乍居良久《マチツツヲラク》なるべし云々」とあるのは臆斷に過ぎる。
〔評〕 序詞はまことに物々しい感じがあり、大袈裟である。そこに面白さもあるのであらう。君は右大臣を指したので、諸兄に敬意を表したものである。これを戀の歌と見ては大なる誤である。この歌、和歌童蒙抄にある。
 
右一首長門守|巨曾倍《コソベノ》朝臣|津島《ツシマ》
 
舊本巨を臣に作るは誤。西本願寺本による。長門守巨曾倍朝臣津島は卷六に、長門守巨曾倍對馬朝臣(一〇二四)とあつた人である。
 
1577 秋の野の をばながうれを おしなべて 來しくもしるく 逢へる君かも
 
秋野之《アキノヌノ》 草花我末乎《ヲバナガウレヲ》 押靡而《オシナベテ》 來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可聞《アヘルキミカモ》
 
(630)秋ノ野ノ尾花ノ末ヲ押シ靡カセテ、辛苦シテ〔四字傍線〕尋ネテ來タ甲斐ガ〔三字傍線〕著シクアツテ、私ハ〔二字傍線〕アナタニオ目ニカカルコトガ出來マシタヨ。嬉シウゴザイマス〔八字傍線〕。
 
○押靡而《オシナベテ》――おし靡かせての意。旗須爲寸四能乎押靡《ハタススキシノヲオシナベ》(四五)のオシナベと同じである。○來之久毛知久《コシクモシルク》――來之久毛《コシクモ》は玉拾之久《タマヒロヒシク》(一一五三)・背向爾宿之久《ソガヒニネシク》(一四一二)などと同じく、過去の助動詞のシを名詞化するものと見える。
〔評〕 恭敬・懇切の情言外に溢れ、右大臣への敬意が充分に表明せられてゐる。
 
1578 今朝鳴きて 行きし雁が音 寒みかも この野の淺茅 色づきにける
 
今朝鳴而《ケサナキテ》 行之鴈鳴《ユキシカリガネ》 寒可聞《サムミカモ》 此野乃淺茅《コノヌノアサヂ》 色付爾家類《イロヅキニケル》
 
今朝鳴イテ行ツタ雁ノ聲ガ寒サウニ聞エタガ、ソ〔五字傍線〕ノ故カ、コノ野ニ生エテヰルマパラナ茅ガ、赤ク色付イタヨ。モウイヨイヨ寒ク秋モ深クナツテ來マシタ〔モウ〜傍線〕。
 
○寒可聞《サムミカモ》――寒く聞えし故か。このカモは結句の家類《ケル》の係詞となつてゐる。
〔評〕 前の雲上爾鳴都流鴈乃寒苗《クモノウヘニナキツルカリノサムキナベ》(一五七五)と全く同じことを言つてゐるのであるが、かれは庭前の庭の下葉の紅葉をよんでゐるのに、これは野の淺茅の色づいたのを歌つてゐる。この諸兄の邸宅は前の歌では野を過ぎて行くところにあるらしく、この歌でも野につづいてゐるやうであるから、彼が晩年に住んだ相樂の井手の別業であることがわかる。平板な歌だ。
 
右二首阿倍朝臣蟲麻呂
 
阿倍朝臣蟲麻呂の傳は六六五參照。續紀によれば天平十年秋閏七月癸卯、爲2中務少輔1とあるから、この宴の時は中務少輔であつたのである。
 
1579 朝戸あけて もの思ふ時に 白露の 置ける秋萩 見えつつもとな
 
朝扉開而《アサトアケテ》 物念時爾《モノオモフトキニ》 白露乃《シラツユノ》 置有秋芽子《オケルアキハギ》 所見喚鷄本名《ミエツツモトナ》
 
朝戸ヲ開ケテ、庭ノ景色ヲ眺メテイロイロ〔庭ノ〜傍線〕物ヲ考ヘテヰル時ニ、アイニク白露ノ置イテヰル秋萩ノ花ガ見エルヨ。ドウモアレヲ見ルトイヨイヨ秋ノアハレヲ感ジテナラヌ〔ドウ〜傍線〕。
 
○所見喚鷄本名《ミエツツモトナ》――喚鷄は鷄を喚ぶ時にツツと言ふので、こんな文字を用ゐたもの。追犬喚犬《ソマ》と同樣な、例の戯書である。本名《モトナ》は猥りに・空しく・よしなくなどの意であるが、ここは生憎と解して當るやうである。
〔評〕 これはここの宴の作としては、内容がふさはしくない。或はこの橘家に宿つた朝の感じを、歌つて見たものか。若人らしい感傷的の作品である。
 
1580 さを鹿の 來立ち鳴く野の 秋萩は 露霜おひて 散りにしものを
 
棹牡鹿之《サヲシカノ》 來立鳴野之《キタチナクヌノ》 秋芽子者《アキハギハ》 露霜負而《ツユジモオヒテ》 落去之物乎《チリニシモノヲ》
 
男鹿ガ來テ立ツテ鳴ク野原ニ咲イテヰタ〔六字傍線〕秋萩ノ花ハ、露ガカカツテ散ツテシマツタヨ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○露霜負而《ツユシモオヒテ》――ツユジモは露のこと。九七一參照。○落去之物乎《チリニシモノヲ》――このモノヲは例の感嘆の意味で輕く添へたものである。略解の説が正しい。古義に「秋芽子は散すぎにしものを、なにをか今よりは愛賞《メデ》にせむといふほどの意なり」とあるのも、新考に「一首の意はサヲ鹿ガ來タチ鳴クガソノ野ノ秋萩ハ云々といへるなり。かく見ざればモノヲといふ辭、をり合はず」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 これは諸兄の別業周圍の風景を詠じたものであらう。すぐれた作ではない。
 
右二首|文忌寸馬養《フミノイミキウマカヒ》
 
馬養は、續紀に「元正天皇靈龜二年四月癸丑、詔、壬申年功臣、贈正四位上文意寸禰麿息正七位下馬養等一拾人賜v田各有v差。「聖武天皇、天平九年九月己亥正六位上文忌寸馬養等授2外從五位下1、十二月丙寅授2外從五位上1、十年閏七月癸卯、爲2主税頭1十七年九月戊午、爲2筑後守1」「孝謙天皇天平寶字元年六月壬辰、爲2鑄錢長官1二年八月庚子授2從五位下1」とある。文民は新撰姓氏録左京諸蕃上に「文宿禰。出v自2漢高皇帝之後鸞王1也。文忌寸。文宿禰同祖、宇爾古首之後也」とあり、又、右京諸蕃上に「文《フン》忌寸。都賀直之後也」(632)とある。さうして右の書紀の文中にある。馬養の父禰麻呂は天武紀に書首根麻呂とあると同人で、首姓を名乘つたのが、天武天皇の御代に忌寸に改められたのである。元來文氏には大和にゐた倭文直《ヤマトノフミノアタヘ》と、河内に住んでゐた河内文首《カハチノフミノオヒト》とあつたので、倭文直即ち東文部は、應神天皇の朝に韓の帶方の民を率ゐて歸化した阿知使主《アチノオミ》その子|都加使主《ツガノオミ》の子孫で、河内文首即ち西文部は、同じく應神の朝に來た百濟の王仁の子孫である。馬養の父禰麻呂は書紀の記載によれば、首姓であるから、馬養は即ち河内文首で王仁の系統の人である。この文の字を略解・古義にアヤと振假名してあるが、これは右に述べたやうに、書首とも記してある氏であるから、アヤではなくフミである。なほこの二氏は東文部が先づ宿禰になつたのを、延暦十年四月左大史正六位上文意寸最弟・播磨少目正八位上武生連眞象等の上表によつて、西文部も宿禰の姓を賜ることになつた。
 
天平十年戊寅秋八月二十日
 
これは右の右大臣橘家で行はれた宴會の日を記したのである。卷六に天平十年秋八月二十日宴2右大臣橘家1歌四首(一〇二四)とあるのと一致してゐる。
 
橘朝臣奈良麻呂結2集宴1歌十一首
 
奈良麻呂は橘諸兄の長子。この人の傳は一〇一〇參照。續紀に「天平勝寶二年橘宿禰諸兄賜2朝臣姓1」とあるから、朝臣となつたのは、遙かに後のことであるが、後にかう改め記したのであらう。結集宴は集宴を結ぶといふのであらう。集中に集宴又は集飲の熟字が見える。古義にはこの三字を、ウタゲスルトキとよんでゐる。新考には「結集シテ宴セシトキノといふ意なり」とある。
 
1581 手折らずて 散りなば惜しと 吾が思ひし 秋のもみぢを かざしつるかも
 
不手折而《タヲラズテ》 落者惜常《チリナバヲシト》 我念之《ワガモヒシ》 秋紅葉乎《アキノモミヂヲ》 挿頭鶴鴨《カザシツルカモ》
 
手折ラナイウチニ、散ツテシマツタナラバ惜シイダラウ、是非トモ手折リタイモノダ〔是非〜傍線〕ト、私ガ思ツテヰタ、秋(633)ノ紅葉ヲ希望通リニ手折ツテコノ宴ノ席デ〔希望〜傍線〕挿頭ニシタヨ。嬉シイ嬉シイ〔六字傍線〕。
 
○落者惜常《チリナバヲシト》――古義にチラバヲシミトとよんでゐる。ナバと假定になつてゐるのを、ヲシと斷定に受けるのはわるいといふ考であらうが、かうした例は他にもあるからこれでよい。
〔評〕 喜びの感情は見えてゐるが、平凡の評は免れ難い。
 
1582 めづらしき 人に見せむと もみぢばを 手折りぞ吾が來し 雨のふらくに
 
布將見《メヅラシキ》 人爾令見跡《ヒトニミセムト》 黄葉乎《モミヂバヲ》 手折曾我來師《タヲリゾワガコシ》 雨零久仁《アメノフラクニ》
 
ナツカシク思フ客〔傍線〕人ニ見セヨウト思ツテ、雨ガ降ツテヰルノモカマハズ〔五字傍線〕ニ、私ハ紅葉ヲ手折ツテ持ツテ參リマシタ。ドウゾコレヲ御覽下サイマシ〔ドウ〜傍線〕。
 
○布將見《メヅラシキ》――舊訓はシキテミムとあるが穩やかでない。宣長は布は希の誤で、メヅラシキと訓むべきだといつてゐる。なるほど春花乃益希見《ハルハナノイヤメヅラシキ》(一八八六)・本人霍公鳥乎八希將見《モトツヒトホトトギスヲヤメヅラシミ》(一九六三)・希將見君乎見常衣《メヅラシキキミヲミムトゾ》(二五七五)・穢者雖爲益希將見裳《ナルトハスレドイヤメヅラシモ》(二六二三)など、いづれもさうなつてゐるから、宣長の説に從ふべきであらう。このメヅラシキは、珍らしきではなくて、愛づらしきである。メヅラシキ人は親愛なる人で、即ちここに集つた客人をさすのである。
〔評〕 橘邸の背後の奈良山から手折つて來た紅葉を前にして、主客が笑ひさざめいてゐる。屋外には時雨が銀絲のやうに降り注いでゐた夜だ。賓客を歡待してゐる主人ぶりが偲ばれる作品である。
 
右二首橘朝臣奈良麻呂
 
1583 もみぢ葉を 散らす時雨に ぬれて來て 君がもみぢを かざしつるかも
 
黄葉乎《モミヂバヲ》 令落鐘禮爾《チラスシグレニ》 所沾而來而《ヌレテキテ》 君之黄葉乎《キミガモミヂヲ》 挿頭鶴鴨《カザシツルカモ》
 
紅葉ノ葉ヲ散ラシテ降ル、今日ノ〔三字傍線〕時雨ノ雨ニ私モ〔二字傍線〕濡レテ來マシテ、アナタガ折ツテイラシツタ〔八字傍線〕紅葉ヲカザシマシタヨ。
 
(634)○君之紅葉乎《キミガモミヂヲ》――前の歌で見ても、亦後の數首を見ても、君が手折り來し紅葉をの意である。略解に「君が園のもみぢをかざし遊ぶといふ也」とあるのは誤つてゐる。古義に「君が家の黄葉と云むが如し」とあるのは、曖昧である。
〔評〕 これは前の歌の返歌とも言ふべきもので、手折曾我來師雨零久仁《タヲリゾワガコシアメノフラクニ》に對して、私もそのもみぢ葉を散らす時雨に濡れつつここへ來て、あなたの辛苦して折られた黄葉を挿頭としたと言はれたので、自分の辛勞を述べて、主人を輕く揶揄したやうな氣分である。主人に對する親睦の情が見えてゐる。
 
右、一首久|米《メノ》女王
 
久米女王は續紀に「聖武天皇天平十七年正月乙丑、無位久米女王授2從五位下1」とある。この頃はまだ若い年輩であらせられたらう。
 
1584 めづらしと 吾が思ふ君は 秋山の 初もみぢ葉に 似てこそありけれ
 
布將見跡《メヅラシト》 吾念君者《ワガモフキミハ》 秋山《アキヤマノ》 始黄葉爾《ハツモミチバニ》 似許曾有家禮《ニテコソアリケレ》
 
私ガナツカシク思フアナタハ、秋ノ山ノ初紅葉ニ似テオイデナサイマスヨ。イクラ見テモ見テモ見飽キマセヌ〔イク〜傍線〕。
 
○布將見跡《メヅラシト》――布は希の誤。一五八二參照。
〔評〕 主人が客人をメヅラシキヒトと言つたに對して、客人なる娘子も亦、主人ヲメヅラシトワガモフキミと稱してゐる。折から紅葉が話題の中心となつてゐるので、それを採つて主人のなつかしさを譬へたので、時にふさはしい、界用な作である。
 
右一首長忌寸娘
 
長忌寸娘は傳未詳。娘とのみ記したのは他に例がない。これは娘子ではなく、ムスメである。集中、長忌寸は奧麻呂の外には見えないが、これはその人の娘とも斷じ難い。恐らく久米女王の侍女であらう。
 
(635)1585 奈良山の 峯のもみぢ葉 取れば散る 時雨の雨し 間なくふるらし
 
平山乃《ナラヤマノ》 峯之黄葉《ミネノモミヂバ》 取者落《トレバチル》 鐘禮能雨師《シグレノアメシ》 無間零良志《マナクフルラシ》
 
奈良山ノ峯ノ紅葉ハ手ニ取ルトハラハラト〔五字傍線〕散ツテシマフ。コレハ多分コノ頃ハ〔九字傍線〕時雨ノ雨ガ絶エ間ナク降ルラシイ。ソレデコンナニメ散ルヤウニナツタノダ〔ソレ〜傍線〕。
 
○平山乃峯之黄葉《ナラヤマノミネノモミヂバ》――下に平山乎令丹黄葉手折來而《ナラヤマヲニホスモミヂバタヲリキテ》(一五八八)とあるから、これは奈良山の風景を詠じたのではなくて、奈良山から手折つて來た紅葉をよんだのである。○取者落《トレバチル》――手に取り持てば、ほろほろと葉が落ちることで、挿頭にしようとして手にするのである。略解に「山のもみぢを折とればもろく散ると也」とあるのは誤。
〔評〕 三句切で、素直な明瞭な歌である。
 
右一首内舍人縣犬養宿禰|吉男《ヨシヲ》
 
吉男は續紀に「孝謙天皇天平寶字二年八月庚子朔正六位上縣犬養宿禰吉男授2從五位下1、五月壬午爲2肥前守1廢帝天平寶字八年十月己丑爲2伊豫介1」とある。犬養宿禰は諸兄の母、即ち橘夫人三千代の實家であるから、吉男は奈良麻呂の親族である。
 
1586 もみぢ葉を 散らまく惜しみ 手折り來て こよひかざしつ 何か念はむ
 
黄葉乎《モミヂバヲ》 落卷惜見《チラマクヲシミ》 手折來而《タヲリキテ》 今夜挿頭津《コヨヒカザシツ》 何物可將念《ナニカオモハム》
 
紅葉ガ散ルノガ惜シイノデ、ソレヲ手折テ來テ、今夜コノ宴席デ〔五字傍線〕挿頭シテ遊ンダ。モウコノ上ハ私ハ〔八字傍線〕何モ心殘リニ〔四字傍線〕思フコトハナイ。
 
○何物可將念《ナニカオモハム》――略解に舊訓を改めて、ナニヲカオモハムとしたのはよくない。
〔評〕 これも平明な歌である。若人らしい率直さが見える。
 
右一首縣犬養宿禰持男
 
(636)持男は傳未詳。吉男の近親であらう。
 
1587 足引の 山のもみぢ葉 今夜もか 浮びいぬらむ 山川の瀬に
 
足引乃《アシビキノ》 山之黄葉《ヤマノモミジバ》 今夜毛加《コヨヒモカ》 浮去良武《ウカビイヌラム》 山河之瀬爾《ヤマガハノセニ》
 
(足引乃)山ノ紅葉ハ今夜アタリハ、散ツテシマツテ〔七字傍線〕、多分山川ノ瀬ニ浮ンデ流レテ行クコトデアラウ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○浮去良武《ウカビイヌラム》――舊訓はウキテイヌラム、古義はウカビユクラムとある。略解札記にウカビイヌラムとよんだのがよい。
〔評〕 散り方になつてゐる奈良山の紅葉を、手折つて來て弄んでゐる人たちには、今朝の雨に、山々の紅葉が散つて、山川の瀬に浮び流れるであらうことが、想像せられるのである。この一群の中では出色の作である。
 
右一首大伴宿禰書持
 
書特は家持の弟。卷三の四六三參照。
 
1588 奈良山を にほすもみぢ葉 手折り來て こよひかざしつ 散らば散るとも
 
平山乎《ナラヤマヲ》 令丹黄葉《ニホスモミヂバ》 手折來而《タヲリキテ》 今夜挿頭都《コヨヒカザシツ》 落者雖落《チラバチルトモ》
 
奈良山ヲ美シク飾ツテヰタ紅葉ヲ手折ツテ來テ、今夜コノ席デ挿頭ニシテ遊ンダ。モウアノ紅葉モ〔七字傍線〕散ルナラ散ツテモ少シモカマハヌ。
 
○令丹黄葉《ニホスモミヂバ》――ニホスを古義にニホフと訓んでゐるが、令の字があるから、ニホハスの意で、ニホスとよむべきである。卷十六|墨江之遠里小野之眞榛持丹穗之爲衣丹《スミノエノトホザトヲヌノマハリモチニホシシキヌニ》(三七九一)とあるのも同じである。○落者雖落《チラバチルトモ》――散らば散るともかまはぬの意。
〔評〕 平明な歌といふまでである。前の持男の歌と三四の句が同樣である。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる、
 
(637)右一首|之手代人名《ミテシロノヒトナ》
 
之手代人名はわからない。之の字、細井本、三に作るによるべきであらう。さうすれば三手代が姓で、人名は名である。續紀「聖武天皇天平二十年七月丙戍從五位下大倭御手代連麻呂女賜2宿禰姓2」とある。その一族であらうか。
 
1589 露霜に あへるもみぢを 手折り來て 妹がかざしつ 後は散るとも
 
露霜爾《ツユジモニ》 逢有黄葉乎《アヘルモミヂヲ》 手折來而《タヲリキテ》 妹挿頭都《イモガカザシツ》 後者落十方《ノチハチルトモ》
 
露ニ逢ツテ色付イタ〔四字傍線〕紅葉ヲ手折ツテ來テ、女ドモガ頭ニ挿シテヰル。誠ニ綺麗ダ〔五字傍線〕。モウ散ルナラ散ツテモカマフコトハナイ〔八字傍線〕。
 
○妹挿頭都《イモガカザシツ》――妹は、この宴席に來てゐる女をさしたのである。久米女王をさすと見るのはあまりに無禮であらう。その他の女である。舊訓トモニカザシツ、古義はイモトカザシツとあるが略解に從ふ。考に妹を今夜とし、略解に、「宣長云、妹の字|今夜《コヨヒ》なりしを、今を落し、夜を妹に誤れるなるべしといへり」とある。
〔評〕 前の人名の作と下句が酷似してゐる。要するに持男・人名・許遍麿・三人の作は形式・内容に於て、著しい近似點を持つてゐる。
 
右一首|秦許遍《ハタノコベ》麻呂
 
秦許遍麻呂の傳は明らかでない。遍の字、京大本に部にも作つてゐる。
 
1590 十月 時雨にあへる もみぢ葉の 吹かば散りなむ 風のまにまに
 
十月《カミナヅキ》 鐘禮爾相有《シグレニアヘル》 黄葉乃《モミヂバノ》 吹者將落《フカバチリナム》 風之隨《カゼノマニマニ》
 
十月ノ時雨ニ逢ツテ脆クナツテヰル〔八字傍線〕紅葉ハ、風ガ吹イタナラバ、風ノ吹クノニツレテ散ツテシマフダラウ。
 
○十月《カミナヅキ》――十月をカミナヅキといふ意は、諸説があつて一定しない。雷無月《カミナツキ》といふ説が比較的よいか。その他、(638)新穀を以て神を祭る意で神之月《カミナヅキ》。酒を釀《か》み成し神に供ふる意で釀成月《カミナシヅキ》などの説がある。八百萬の神、出雲の大社に集つて、國々に神が無い月とするのは、俗説であらう。
〔評〕 これは手折つて來た紅葉を詠んだのではない。結句を代匠記初稿本に、「吹ぱちりなん風のまにまにとは、ともかくも君にしたがはむの心なり。げにも奈良麻呂寶字元年に謀反のやうの事有し時、此哥ぬしも方人はせられける。和哥も詩文も兼たる人とみゆるを惜むべきことなり」とあるのは、あまり考へ過ぎた説である。これはただ紅葉をよんだので、何の寓意もない。
 
右一首大伴宿禰池主
 
池主は卷十七以下に多くの作を殘してゐる人である。漢文にも秀でてゐた。家持が越中守として赴任した時、その國の椽であつたが、後、越前椽に轉じた。續紀によれば、天平寶字元年の奈良麻呂が、皇太子大炊王を廢し、藤原仲麿を殺さうとして事あらはれた際、この人の名がその一味の中に記されてゐるが、如何なる罪に服したかは明らかでない。
 
1591 黄葉の 過ぎまく惜しみ 思ふどち 遊ぶこよひは 明けずもあらぬか
 
黄葉乃《モミヂバノ》 過麻久惜美《スギマクヲシミ》 思共《オモフドチ》 遊今夜者《アソブコヨヒハ》 不開毛有奴香《アケズモアラヌカ》
 
紅葉ガ盛リ過ギテシマフノガ惜シサニ、紅葉ヲカザシテ〔七字傍線〕心ノ合ツタ友ダチガ一緒ニ遊ブ今夜ハ明ケナイデ居レバヨイガナア。ホントニ面白イ〔七字傍線〕。
 
○過麻久惜美《スギマクヲシミ》――散らまく惜しみに同じ。散るのが惜しさに。○不開毛有奴香《アケズモアラヌカ》――明けずもあれかしに同じ。明けずにゐてくれないかよの革。
〔評〕結句は卷十の久方之天河津爾舟泛而君待夜等者不明毛有寢鹿《ヒサカタノアマノカハヅニフネウケテキミマツヨラハアケズモアラヌカ》(二〇七〇)と同じで、全體の調も亦似てゐる。併し模倣とするのは、あまりに酷であらう。
 
右一首内舍人大伴宿禰家持
 
(639)家持が内舍人として記されてゐるのは、卷六の一〇二九に十二年庚辰冬十月云々とあるのを最初とするが、ここは前に天平十年とあり次に十一年とあるから、天平十年の十月のことに違ひない。
 
以前冬十月十七日集(ヒテ)2於右大臣橘卿之舊宅(ニ)1宴飲(セル)也
 
以前はこれより前の意であるから、ここでは以上と同じく、右の十一首をさしたのである。十月十七日は右に述べたやうに、天平十年のことである。十月の歌を秋の部に入れたのは、黄葉を詠んたものであるからであらうが、奇異の感がある。集の字は神田本・京大本にない。卿の字、舊本郷に作るはもとより誤である。類聚古集・西本願寺本など卿となつてゐる。橘卿之舊宅とあるについて、代匠記に「此歌共は天平十三年十四年兩年の間なり。其故は十三年に久邇京に定りて奈良は故郷となれるに,歌に平山《ナラヤマ》とよみ、今橘卿之舊宅と云ひ、又橘卿は十五年五月に左大臣に轉ぜられけるに、今右大臣とあれば、右の兩年の間の事なりとは知れり」とあるが、この舊宅は、前に右大臣橘家宴歌七首(一五七四)とある新築の橘家に對したもので、(恐らく相樂の邸であらう。諸兄はここに住んで井手の左大臣と言はれたのである)、諸兄が新邸に引移つたあと、その長子奈良麻呂が、そこに知己を集めて宴を催したのである。契沖説は全然誤つてゐる。年代順から言つても、ここに十三四年頃の作を入れる筈はない。奈良麻呂の招に應じた人たちは、橘家と親戚の關係か、又は親交ある青年たちであつた。これによつて當時政界の大御所であつた諸兄と、大伴氏との關係を知ることが出來て、後年奈良麻呂の失脚と共に、家持の失意時代が齎される端緒がここに見えてゐる。右の十一首はいづれも若人らしい、單純な簡素な歌のみである。
 
大伴坂上郎女竹田庄作歌二首
 
竹田庄は大和磯城郡耳成村大字東竹田の地であらう。卷四の七六〇參既。
 
1592 然とあらぬ 五百代小田を 苅りみだり 田廬に居れば 都し念ほゆ
 
然不有《シカトアラヌ》 五百代小田乎《イホシロヲダヲ》 苅亂《カリミダリ》 田廬爾居者《タブセニヲレバ》 京師所念《ミヤコシオモホユ》
 
(640)(然不有)五百代モアル廣イ〔五字傍線〕田ヲ苅リ亂ラカシテ、骨折ツテ仕事ヲシテ〔九字傍線〕、田ノ中ノ廬ニ居ルト、都ノコトガナツカシク思ハレマス。
 
○然不有《シカトアラヌ》――舊訓タダナラスとあるのでは分らないが、袖中抄・和歌童蒙抄にもさうなつてゐるから、これが古訓である。宣長が、然は黙の誤でモダアラズだらうと言つたのも、從ひがたいから、契沖がシカトアラヌと訓んだのに從ふ。シカトアラヌは枕詞。然とあらぬ廬の意で、五百代小田《イホシロヲダ》につづけたのである。これを第四句の田廬につづくとした説は無理であらう。志可登阿良農比宜可伎撫而《シカトアラヌヒゲカキナデテ》(八九二)參踊。○五百代小田乎《イホシロヲダヲ》――五百代小田は、廣い田。代は拾芥抄に、「方六尺爲2一歩1云々、積2七十二歩1爲2十代1百四十歩爲2二十代1云々、五十代爲2一段上1と見えてゐる。五百はただ數の多きをいふ。○刈亂《カリミダリ》――苅り亂しに同じ。稻を苅り倒した樣が、亂りがはしいので、かういつたのである。○田廬爾居者《タブセニヲレバ》――田廬は田の中にある伏庵《フセイホ》。低い番小家である。卷十六、可流羽須波田廬乃毛等爾《カルウスハタブセノモトニ》(三一八七)とある註に、田廬者、多夫世反とある。
〔評〕 田舍に來てゐるので、すつかり自分を農民らしく詠んでゐるのが面白い。才女らしいよみぶりである。
 
1593 こもりくの 泊瀬の山は 色づきぬ 時雨の雨は 零りにけらしも
 
隱口乃《コモリクノ》 始爾山者《ハツセノヤマハ》 色附奴《イロヅキヌ》 鐘禮乃雨者《シグレノアメハ》 零爾家良思母《フリニケラシモ》
 
(隱口乃)初瀬ノ山ハ赤ク〔二字傍線〕色ガツイタ。コレデ見ルトモウ山デハ〔コレ〜傍線〕時雨ノ雨ハ降ツタラシイヨ。
 
○隱口乃《コモリクノ》――枕詞。始瀕とつづく。四五參照。
〔評〕 竹田庄から目に見たままを詠んだものであらう。初瀬山は竹田庄の東方、三輪山の後に見える。平明な作。三句切になつてゐる。
 
右天平十一年己卯秋九月作
 
佛前(ノ)唱歌一首
 
1594 時雨の雨 間無くな零りそ くれなゐに にほへる山の 散らまく惜しも
 
(641)思具禮能雨《シグレノアメ》 無間莫零《マナクナフリソ》 紅爾《クレナヰニ》 丹保敝流山之《ニホヘルヤマノ》 落卷惜毛《チラマクヲシモ》
 
時雨ノ雨ヨ。絶エ間ナク降ルナヨ。折角紅葉シテ〔六字傍線〕赤ク色ヅイタ山ノ木ノ葉〔四字傍線〕ガ、散ルノハ惜シイモノダヨ。
 
〔評〕 神無月の時雨に染まつた、四圍の山々の紅葉に對しての直感を歌にしたもので、明瞭な平易な調子のよい作である。謠物としては、こんなものが却つて適應するであらう。併し佛前での唱歌としては、もつとそれらしい内容のものがありさうに思はれる。和讃などの發生してゐない時代ではあるが、かの佛足跡歌の如きものも出來た時代である。
 
右、冬十月、皇后宮之維摩講(ニ)終日供2養(ス)大唐高麗等種種音樂(ヲ)1爾乃《スナハチ》唱(フ)2此謌(ヲ)1、彈琴者市原王、忍坂王【後賜2姓大原眞人赤麻呂1也】歌子《ウタヒト》者田口朝臣|家守《ヤカモリ》、河邊朝臣|東人《アヅマド》、置始連|長谷《ハツセ》等十數人也
 
皇后宮は光明皇后。維摩講は維摩經を講ずる法會で、鎌足が山階寺に於て始めたものである。後これを永く傳へて、十月十日に始まり、鎌足の忌日、同月十六日に至つて講じ了ることになつてゐた。彈琴はコトヒキ、この琴は外來のものか。正倉院御物の琴の寫眞をここに載せる。市原王は四一二參照。忍坂王を續紀に、「天平寶字五年戊子、授2無位忍坂王從五位下1」とある。これで見ると市原王より遙かに後輩である。後に姓を大原眞人赤麻呂と賜ふ(642)とあるのは、續紀に記載がない。歌子は歌ひ手である。田口朝臣家守は傳未詳。河邊朝臣東人は卷六の九七八の左註にその名が見えてゐる。置始連長谷は傳未詳。
 
大伴宿禰像見歌一首
 
像見の傳は卷四の六六四に出てゐる。
 
1595 秋萩の 枝もとををに 降る露の 消なばけぬとも 色に出でめやも
 
秋芽子乃《アキハギノ》 枝毛十尾二《エダモトヲヲニ》 降露乃《フルツユノ》 消者雖消《ケナバケヌトモ》 色出目八方《イロニイデメヤモ》
 
(秋芽子乃枝毛十尾二降露乃)タトヒ私ノ命ハ〔七字傍線〕亡クナルナラ亡クナツテモ、私ハコノ心ニ思ツテヰルコトヲ〔私ハ〜傍線〕顔色ニ出サウカ、決シテ顔色ニ出シハセヌゾ〔決シ〜傍線〕。
 
○秋芽子乃枝毛十尾二降露乃《アキハギノエダモトヲヲニフルツユノ》――序詞。消とつづくこころは明らかであらう。十尾二《トヲヲニ》はクワワニに同じ。降露乃は舊訓オクツユノとあるが、無理であるから、古義によつてフルツユノとよむことにする。○消者雖消《ケナバケヌトモ》――命を亡ふなら亡ふともの意。ケナバケヌガニ・ケナバケヌベクなど集中に多い詞である。
〔評〕 序詞が秋の季になつてゐるのみで、内容は戀である。こんなのは次の秋相聞に入れるべきものと思はれる。下句も言葉は強烈らしいが、お定まりの文句を言つてゐるやうに思はれて、さしたる感激も與へない。
 
大伴宿禰家持到(リテ)2娘子門(ニ)1作(レル)歌一首
 
1596 妹が家の 門田を見むと うち出こし 心もしるく 照る月夜かも
 
妹家之《イモガイヘノ》 門田乎見跡《カドタヲミムト》 打出來之《ウチデコシ》 情毛知久《ココロモシルク》 照月夜鴨《テルツクヨカモ》
 
今夜私ハ〔四字傍線〕女ノ家ノ門ノ前ノ田ノ樣子〔三字傍線〕ヲ見ヨウト思ツテ、ワザワザ〔四字傍線〕出テ來タガソノ〔三字傍線〕心モ甲斐ガ〔三字傍線〕著シクアツテ、ヨ(643)ク照ル月ダヨ。門田ノ景色ハ手ニ取ルヤウニ見エルガ、サテ女ニ逢ヘナイノハ物足リナイ〔門田〜傍線〕。
 
○門田乎見跡《カドタヲミムト》――門田は門前の田。門田を見るのは目的でなく、女に逢ふつもりであるのを、かく言ひ寄せたのである。○打出來之《ウチデコシ》――打は強めて言へるのみ。古義に、馬に鞭打つて出て來たやうに言つてゐるのは誤つてゐる。○情毛知久《ココロモシルク》――心も著《シル》く。著しくその甲斐ありての意。
〔評〕 明皎々たる月夜に、愛人をおとづれて、門外に佇んでゐる若人の面影がしのばれる。一二句の娩曲な叙法がめづらしい。
 
大伴宿禰家持秋歌三首
 
1597 秋の野に 咲ける秋萩 秋風に 靡ける上に 秋の露おけり
 
秋野爾《アキノヌニ》 開流秋芽子《サケルアキハギ》 秋風爾《アキカゼニ》 靡流上爾《ナビケルウヘニ》 秋露置有《アキノツユオケリ》
 
秋ノ野ニ咲イタ秋萩ノ花ガ、秋風ニ靡イテヰル上ニ秋ノ露ガ宿ツテヰル。ヨイ景色ダ〔五字傍線〕。
 
〔評〕 秋の歌とあるだけに、秋の字が一・二・三・五の各句に用ゐてある。これはもとより偶然ではなく、もとめて試みたものである。歌を作ることを技術として考へるやうになつてゐたこの時代に、歌に深い趣味を有つてゐた家持が、かうした試みをしたのは當然である。
 
1598 さを鹿の 朝立つ野べの 秋萩に 玉と見るまで おける白露
 
棹牡鹿之《サヲシカノ》 朝立野邊乃《アサタツヌベノ》 秋芽子爾《アキハギニ》 玉跡見左右《タマトミルマデ》 置有白露《オケルシラツユ》
 
男鹿ガ朝、野原ニ出テ〔五字傍線〕立ツテヰルガソノ〔三字傍線〕野ニ生エテヰル秋萩ノ花ノ〔三字傍線〕上ニ、玉デハナイカト思ハレルホド白露ガ置イテヰル。美シイ野原ノ景色ダ〔九字傍線〕。
 
○朝立野邊乃《アサタツヌベノ》――朝、牡鹿が野原に出で立つてゐること。新考に「朝立ち行くなり。……アサダツとタを濁りて唱ふべし」とあるのは從ひ難い。
(644)〔評〕 秋の花の代表なる萩に、白露の玉を宿らせ、秋の獣の代表といふべき鹿を配したので、枝もたわわに咲いてゐる萩原に、いかめしい角をささげた牡鹿のさまよふ樣も見えるやうだ。これも考へて作つた歌と思はれるが、綺麗に出來てゐる。
 
1599 さを鹿の 胸別にかも 秋萩の 散り過ぎにける 盛かも去ぬる
 
狹尾牡鹿乃《サヲシカノ》 ※[匈/月]別爾可毛《ムナワケニカモ》 秋芽子乃《アキハギノ》 散過鷄類《チリスギニケル》 盛可毛行流《サカリカモイヌル》
 
見ルト大ブン萩ノ花ガ散ツテヰルガ、コレハ〔見ル〜傍線〕男鹿ガ胸デ押シ分ケテ通ツタ爲ニ、コンナニ秋萩ノ花ガ散ツタノカソレトモ已ニ盛リガ過ギタカラダラウカ。
 
○※[匈/月]別爾可毛《ムナワケニカモ》――胸で押し分け行くことを陶別といふ、卷二十にマスラヲノヨビタテシカバサヲシカノムナワ
 
氣由加牟安伎野波疑波良《ケユカムアキノハギハラ》(四三二〇)とあるのも同じ。
〔評〕 同じく秋萩の歌であるが、これは散り過ぎた野の萩の歌である。棹鹿の胸別は蓋し作者得意の用語で、彼は後年になつて、右に掲げた卷二十の歌に再び繰返してゐる。
 
右天平十五年癸未秋八月見(ル)2物色(ヲ)1作
 
物色は景色。
 
内舍人石川朝臣廣成歌二首
 
石川朝臣廣成は卷四の六九六參照。
 
1600 妻戀に 鹿鳴く山べの 秋萩は 露霜寒み 盛すぎ行く
 
妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》 秋芽子者《アキハギハ》 露霜寒《ツユジモサムミ》 盛須凝由君《サカリスギユク》
 
妻ヲ戀ヒ慕ツテ、鹿ガ鳴ク山ノアタリノ秋萩ノ花ハ、露ガ寒ク降ツタノデ、ダンダント〔五字傍線〕盛リガ過ギテユク。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
(645)○鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》――鹿とのみ記したのはカとよむべきで、シカとよんではいけない。卷一の鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》(八四)參照。○露霜寒《ヅユジモサムミ》――露霜は露のこととする宣長説に從ふ。
〔評〕 これは山の秋萩をよんでゐる。妻戀ふ鹿を點出し、散り方になつた花があはれによまれてゐる。
 
1601 めづらしき 君が家なる はな芒 穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも
 
目頬布《メヅラシキ》 君之家有《キミガイヘナル》 波奈須爲寸《ハナススキ》 穂出秋乃《ホニイヅルアキノ》 過良久惜母《スグラクヲシモ》
 
ナツカシイアナタノ家ノ花薄ガ、穗ニ出テ風ニ靡ク面白イ〔七字傍線〕秋ガ過ギルノハ惜シイコトダヨ。
 
○目頼布《メヅラシキ》――愛《メヅ》らしき。前の布將見《メヅラシキ》(一五八二)・布將見跡《メヅラシト》(一五八四)などと同じく、親愛なるといふやうな意。略解にメヅラシクとよんで、花薄へかかると言つてゐるのはよくない。○波奈須爲寸《ハナススキ》――花薄。考に奈は太の誤でハタススキかといつてゐる。神功皇后紀の神託の詞に幡萩穗出吾也《ハタススキホニイヅルワレヤ》とあり、また集中ハナススキとあるのはここのみで、他はすべてハタススキとなつてゐるからである。然し花薄は後世も常用せられる語であり、無理な詞でもないからこのままでよい。
〔評〕 尾花、すなはち花薄は萩についで秋の花として貴ばれたものである。今、親愛なる友人の家にあつて花薄をながめつつ、秋の名殘を惜しんだものか。素純な歌風である。
 
大伴宿禰家持鹿鳴歌二首
 
代匠記精撰本に、鹿の上に聞の字が脱ちたかと言つてゐる。なほ上に湯原王鳴鹿歌とあるから、これも文字が顛倒したのではないかとも思はれるが、このままでシカノネとよむのであらう。
 
1602 山彦の 相とよむまで 妻戀に 鹿鳴く山べに 獨のみして
 
山妣姑乃《ヤマビコノ》 相響左右《アヒトヨムマデ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》 獨耳爲手《ヒトリノミシテ》
 
山彦ガアチコチデ〔五字傍線〕反響シテヨク聞エルホドモ、妻ヲ戀ヒシテ鹿ガ高ク〔二字傍線〕鳴ク山ノアタリニ、私ハ〔二字傍線〕唯一人ノミデ居(646)ル。實ニ琳シイ〔五字傍線〕。
 
○山妣姑乃《ヤマビコノ》――山彦が。山彦は反響。九七一參照。○相響左右《アヒトヨムマデ》――あちこちで響きあふことをアヒトヨムと言つたのである。○獨耳爲手《ヒトリノミシテ》――穩やかに言ひをさめて、餘情を殘してゐる。下を省いたのではない。
〔評〕 棹鹿が頻りに鳴き立てる哀音が、腸を斷つやうである。ヒトリノミシテに餘情を持たしめてゐるのが、雄勁な萬葉ぶりに反して、平安朝の歌風になつてゐる。
 
1603 この頃の 朝けに聞けば あしびきの 山をとよもし さを鹿鳴くも
 
頃者之《コノゴロノ》 朝開爾聞者《アサケニキケバ》 足日木箆《アシビキノ》 山乎令響《ヤマヲトヨモシ》 狹尾牡鹿鳴哭《サヲシカナクモ》
 
コノ頃ノ朝ノ夜明ケ時ニ聞クト、(足日木箆)山ヲ反響サセテ、男鹿ガ大キナ聲デ〔五字傍線〕鳴イテヰルヨ。
 
○狹尾牡鹿鳴哭《サヲシカナクモ》――略解に、「哭は喪の字の誤なるべし」とあるのはよくない。哭をモの假名に用ゐるのである。他にもその例がある。
〔評〕 すがすがしい、何となく調の高い作である。
 
右二首天平十五年癸未八月十六日作
 
大原眞人|今城《イマキ》傷(ミ)2惜(シム)寧樂故郷(ヲ)1歌一首
 
大原眞人今城は、續紀に「孝謙天皇、天平寶字元年五月乙卯、正六位上大原眞人今木授2從五位下1、六月壬辰、爲2治部少輔1、廢帝同七年正月壬子、左少辨、四月丁亥爲2上野守1、八年正月乙巳、從五位上、」とあるが、惠美押勝の誅戮が、その年の九月にあつてそれに連坐して官を奪はれたものか、「光仁天皇、寶龜二年閏三月戊子朔乙卯、無位大原眞人今城、復2本位從五位上1」とあり。つづいて、「七月丁未、爲2兵部少輔1、三年九月庚子、爲2駿河守1」と見えてゐる。なほ卷四に高田女王贈今城王歌六首(五三七)とある今城王はこの人とは別であらう。
 
(647)1604 秋されば 春日の山の 黄葉見る 寧樂の都の 荒るらく惜しも
 
秋去者《アキサレバ》 春日山之《カスガノヤマニ》 黄葉見流《モミヂミル》 寧樂乃京師乃《ナラノミヤコノ》 荒良久惜毛《アルラクヲシモ》
 
秋ニナルト、イツデモ〔四字傍線〕春日山ノ紅葉ヲ見テハ樂シミニシテ〔七字傍線〕ヰルコノ奈良ノ都ガ、今ハ都ガ久邇ヘ遷ツタノデ、段々〔今ハ〜傍線〕荒レルノハ惜シイコトダヨ。
〔評〕 久邇の都が出來て、寧樂の都の荒れ行くのを惜しんだのである。作つた年月は明らかになつてゐないが、春日山の紅葉をよんでゐるので、秋雜歌中にをさめたのであらう。久邇京への遷都は天平十三年であるから、前の天平十五年癸未、八月十六日作とあるのと、ほぼ同じ頃と考へてよいであらう。歌には、傷み惜しむ氣分がさほど濃厚に出てゐない。
 
大伴宿禰家持歌一首
 
1605 高圓の 野べの秋萩 この頃の 曉露に 咲きにけむかも
 
高圓之《タカマドノ》 野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》 比日之《コノゴロノ》 曉露爾《アカトキツユニ》 開兼可聞《サキニケムカモ》
 
高圓ノ野ノ秋萩ノ花ハ、コノ頃ノ夜明方ニ降ル(648)露ニヌレテ咲イタダラウカヨ。高圓ノ野ハ今頃ハサゾ美シイデアラウ〔高圓〜傍線〕。
 
○開兼可聞《サキニケムカモ》――兼の字、舊本葉に作るは誤。類聚古集・神田本など古本多くは兼に作つてゐる。
〔評〕 これも前と同じく、久邇の京にゐて高圓の野を偲んだものらしい。第四句、曉露爾《アカトキツユニ》が優雅な趣を添へ、全體を美化してゐる。
 
秋相聞
 
額田王思(ヒテ)2近江天皇(ヲ)1作(レル)歌一首
 
卷四の四八八の題詞も、全くこれと同樣である。
 
1606 君待つと 吾が戀ひをれば 吾が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く
 
君待跡《キミマツト》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 我屋戸乃《ワガヤドノ》 簾令動《スダレウゴカシ》 秋之風吹《アキノカゼフク》
 
アナタ樣ノオイデニナルノ〔八字傍線〕ヲ待ツテ、私ガ貴方樣ヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマスト、吾ガ家ノ簾ヲ動力シテ秋ノ風ガソヨソヨト〔五字傍線〕吹キマス。タダタダ貴方樣ガオナツカシウゴザイマス〔タダ〜傍線〕。
〔評〕 この歌は卷四に、君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトワガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》(四八八)と出てゐる。用字が少しく異なるのみで、全く同一である。
 
鏡王女作歌一首
 
卷四の四八九の題詞も、全くこれと同樣である。
 
1607 風をだに 戀ふるはともし 風をだに 來むとし待たば 何か嘆かむ
 
風乎谷《カゼヲダニ》 戀者乏《コフルハトモシ》 風乎谷《カゼヲダニ》 將來常思待者《コムトシマタバ》 何如將嘆《ナニカナゲカム》
 
(649)風ノ吹クノヲナツカシガル貴方ハ〔三字傍線〕ウラヤマシイ。貴女ノヤウニ〔六字傍線〕人ガ來ルノヲアテニシテ待ツノデアルナラバ何シニ私ハ嘆キマセウ。來ルアテガナクテ待ツノダカラ、悲シウゴザイマス〔來ル〜傍線〕。
 
〔評〕 この歌も卷四に風乎太爾戀流波乏之風小谷將來登時待者何香將嘆《カゼヲダニコフルハトモシカゼヲダニコムトシマタバナニカナゲカム》(四八九)と出てゐる。用字が少し異なるのみで、全く同一である。何故に卷四と卷八との間に、この重複があるか。大に考究すべき問題である。
 
弓削皇子御歌一首
 
弓削皇子は天武天皇の第六の皇子。御母は大江の皇女。一一一參照。
 
1608 秋萩の 上に置きたる 白露の けかもしなまし 戀ひつつあらずは
 
秋芽子之《アキハギノ》 上爾置有《ウヘニオキタル》 白露乃《シラツユノ》 消可毛思奈萬思《ケカモシナマシ》 戀管不有者《コヒツツアラズハ》
 
私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ヒツツ苦シシデ〔四字傍線〕居ナイデ、寧ロ(秋芽子之上爾置有白露乃)消エテシマハウカト思フ〔三字傍線〕。
 
○秋芽子之上爾置有白露乃《アキハギノウヘニオキタルシラツユノ》――消と言はむ爲の序詞。その意は明らかであらう。○消可毛思奈萬思《ケカモシナマシ》――シナマシは爲なましであつて、死なましではない。消《ケ》かも死なましでは、消と死とが重複する。
〔評〕 序詞がやさしくて、麗はしい歌であるが、卷十の、秋芽子之上爾置有白露之消鴨死猿戀爾不有者《アキハギノウヘニオキタルシラツユノケカモシナマシコヒツツアラズハ》(二二五四)と全く同歌である。恐らく皇子が古歌を誦せられたのであらう。なほこの下句と同じものが、二二五六・二二五八にあり、これと類想の作は他にもあるから、かうした型が出來上つてゐたのである。
 
丹比眞人歌一首 名闕
 
丹比眞人とのみで名を記してゐない。卷二(二二六)にも名闕とあり、卷九(一七二六)にも名を記してないのは、同人であらう。
 
1609 宇陀の野の 秋萩しぬぎ 鳴く鹿も 妻に戀ふらく 我には益さじ
 
(650)宇陀乃野之《ウダノヌノ》 秋芽子師弩藝《アキハギシヌギ》 鳴鹿毛《ナクシカモ》 妻爾戀樂苦《ツマニコフラク》 我者不益《ワレニハマサジ》
 
宇陀ノ野ノ秋萩ヲ押シ靡カセテ鳴ク鹿ハ、妻ヲ戀シガツテ嶋クノダガアノ鹿〔ハ妻〜傍線〕モ、妻ヲ戀ヒ慕フコトハ私ニハマサリハスマイ。
 
○宇陀乃野之《ウダノヌノ》――宇陀の野は今の大和國宇陀郡榛原町附近。卷二に宇陀乃大野《ウダノオホヌ》(一九一)とあつた。○秋芽子師弩藝《アキハギシヌギ》――シヌギは押靡けること。奥山之菅葉凌零雪乃《オクヤマノスガノハシヌギフルユキノ》(二九九)・奥山之眞木葉凌零雪乃《ナクヤマノマキノハシスギフルユキノ》(一〇一〇)の類と同じ。略解に、これらとの間に區別を立てたのはよくない。○鳴鹿毛《ナクシカモ》――鹿の一字でシカとよむ例は極めて稀で、多くはカとよんである。ここはシカであらう。
〔評〕 妻戀ふ鹿を萩に配した歌はかなり多い。卷十の於君戀裏觸居者敷野之秋芽子凌左牡鹿鳴裳《キミニコヒウラブレヲレバシキノヌノアキハギシヌギサヲシカナクモ》(二一四三)などは、この歌の前蹤をなしたものか。
 
丹生《ニフノ》女王贈(レル)2太宰帥大伴卿(ニ)1歌一首
 
丹生女王は、卷四にも。丹生女王贈2太宰帥大伴卿1歌二首(五五三)とある、大伴旅人と親しかつたお方らしい。卷三に石田王卒之時、丹生王作歌(四二〇)とある、丹生王は別人か。
 
1610 高圓の 秋野の上の 瞿麥の花 うらわかみ 人のかざしし 瞿麥の花
 
高圓之《タカマドノ》 秋野上乃《アキヌノウヘノ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》 于壯香見《ウラワカミ》 人之挿頭師《ヒトノカザシシ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》
 
秋ノ高圓ノ野ノ上ニ咲イテヰタ瞿麥ノ花ヨ。アノ花ハ〔四字傍線〕マダ若ク盛リダツタノデ、人ガ愛ラシガツテ手折ツテ〔十字傍線〕頭ニ挿シタ瞿麥ノ花ヨ。今ハ盛リガスギタノデ誰モ折ツテ頭ニサスモノモナイ。私モ若イ時ハ貴君ニ愛セラレタガ今ニナツテハ駄目デゴザイマス〔今ハ〜傍線〕。
 
○秋野上乃《アキヌノウヘノ》――略解にアキノヌノヘノとあるのはよくない。○于壯香見《ウラワカミ》――古くからウラワカミトよんであり、(651)また今もさうよむより外はないやうであるが、用字に疑はしい點がある。于は西本願寺本は丁に、京大本は下に作つてゐる。丁壯の二字をウラワカとよませ、香を送假名のやうに補つたのであらうか。訓義辨證にも丁壯が正しいことを論じてゐる。童蒙抄に、于を卜の誤としたのもおもしろいやうだ。
〔評〕 旋頭歌である。自分を瞿麥に譬へ、大伴卿を人と言つてゐる。旅人が太宰帥であつたのは、懷風藻にその享年を六十七としてゐるのによると、六十四五歳の頃であるが、若かつた頃、親しくしてゐた女王から、往時を追懷してこの歌を贈られたものか。はつきりした、滯りのない調子である。
 
笠縫女王歌一首
 
目録にこの題詞の下に小字で、「六人部親王之女、母曰田形皇女」とある。六人部親王は六人部王の誤で、卷一の六八の左註に、身人部王とあるお方である。田形皇女は天武天皇の皇女。
 
1611 あしびきの 山下とよみ 鳴く鹿の ことともしかも 吾がこころづま
 
足日木乃《アシビキノ》 山下響《ヤマシタトヨミ》 鳴鹿之《ナクシカノ》 事乏可母《コトトモシカモ》 吾情都末《ワガココロヅマ》
 
私ガ心ニ夫《ツマ》ト定メタ人ノ言葉ハ、(足日木乃山下響鳴鹿之)ホントニ〔四字傍線〕ユカシイ聲デスヨ。オナツカシウ存ジマス〔十字傍線〕。
 
○足日木乃山下響鳴鹿之《アシビキノヤマシタトヨミナクシカノ》――序詞で、次の句のコトトモシにつづいてゐる。コトトモシは言乏しで、鳴く鹿の音のなつかしいのを、愛人の言葉のゆかしいのに言ひかけたのである。ここにも鹿をシカとよませてある。○吾情郡末《ワガココロヅマ》――吾が心になつかしく思ふ夫《ツマ》の意。
〔評〕 序詞に鹿を用ゐたのみで、秋らしい感じは薄い。上句は卷十一の惡氷木之山下動逝水之《アシビキノヤマシタトヨミユクミヅノ》(二七〇四)などから思ひついたかも知れないが、よく當てはまつてゐる。
 
石川|賀係《カケノ》女郎歌一首
 
賀係女郎は、どういふ人かわからない。
 
1612 神さぶと いなにはあらず 秋草の 結びし紐を 解くは悲しも
 
(652)神佐夫等《カムサブト》 不許者不有《イナニハアラズ》 秋草乃《アキクサノ》 結之紐乎《ムスビシヒモヲ》 解者悲哭《トクハカナシモ》
 
私ハ年ヲトリマシタガ〔十字傍線〕、年ヲトツタカラアナタノ仰ルコト〔八字傍線〕ガイヤナノデハアリマセヌ。(秋草乃)結ンデ置イテ、モウ人ニハユルサヌト心ニ誓ツタ〔テモ〜傍線〕紐ヲ解クノハ悲シウゴザイマス。
 
○神佐夫登不許者不有《カムサブトイナニハアラズ》――卷四の七六二にこれと同じ句がある。老婆になつたから、逢はぬと言ふのではないの意。○秋草乃《アキクサノ》――枕詞。秋草は生ひ結ぼほれてゐるから、結《ムスビ》につづけたのである。略解には「秋草の如く枯方になりて、今更紐とかむは悲しと言へるか。秋草は結ぶといはむ料にて、契りし人あれば、更に紐とかむは悲しといへるならむとおもへどむつかしかるべし」とあるのは、なるほどむつかしい。結ぶは年老いて人に逢はじと、吾が心に誓つたのである。○解者悲哭《トクハカナシモ》――舊訓トケパカナシモとあるのを、代匠記に「トカバカナシモか」とし、略解はこれによつてゐるが、古義にトクハとしたのがよい。これも哭をモの假名に用ゐてゐる。
〔評〕 卷四の紀女郎が大伴家持に贈つた、神左夫跡不欲者不有八也多八如是爲而後二佐夫之家牟可聞《カムサブトイナニハナラズヤヤオホヤカクシテノチニサブシケムカモ》(七六二)と、殆ど内容を等しくしてゐる。世なれた女が、男の變心しないやうに、豫め釘を打つた形である。
 
賀茂女王歌一首【長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也】
 
賀茂女王の傳は右の註以外のことは明らかでない。卷四の五五六に、大伴宿禰三依に贈つた歌がある。
 
1613 秋の野を 朝行く鹿の 跡もなく 念ひし君に 逢へるこよひか
 
秋野乎《アキノヌヲ》 旦往鹿乃《アサユクシカノ》 跡毛奈久《アトモナク》 念之君爾《オモヒシキミニ》 相有今夜香《アヘルコヨヒカ》
 
一度縁ガ切レテ〔七字傍線〕(秋野乎旦往鹿乃)アトカタモナク、全ク絶エタト〔六字傍線〕思ツテヰタアナタニ、今夜思ヒモヨラズマタ〔八字傍線〕逢フコトガ出來マシタヨ。オナツカシウ存ジマス〔十字傍線〕。
(653)○秋野乎旦往鹿乃《アキノヌヲアサユクシカノ》――跡につづく序詞。秋野をわけ行く鹿の足跡が明らかなるについていふ、アトモナクにかかるのではない。○跡毛奈久《アトモナク》――あとかたもなく。何處へ行つたともわからないやうに。○相有今夜香《アヘルコヨヒカ》――カはカナに同じ。
〔評〕 これも秋野の鹿を序詞に用ゐたのみで、これだけでは、秋の季節の作といふことは明瞭でない。女性らしい柔さの見える歌である。
 
右歌或云椋橋部女王、或云笠縫女王作
 
椋橋部女王は卷三に神龜六年己巳左大臣長屋王賜V死之後倉橋部女王作歌一首(四四一)とあるお方であらう。傳は明らかでない。笠縫女王は一六一一參照。
 
遠江守櫻井王奉2 天皇1歌一首
 
櫻井王は皇胤紹選録によれば、天武天皇の曾孫長皇子の御孫、河内王の御子である。續紀に、和銅七年正月甲子無位から從五位下、養老五年正月壬子從五位上、神龜元年二月壬子正五位下、天平元年三月甲午正五位上、三年正月丙子從四位下に叙せられたことが見える。遠江等任官の記載はないが、このお方に相違ない。なほ卷二十に、大原櫻井眞人行2佐保邊1之時作歌(四四七八)があり、續紀、天平十六年二月丙申の條に大藏卿從四位下大原眞人櫻井とあるから、從四位下の時、即ち天平三年から十六年までの間に於て、姓を賜つて臣下に列したものである。從つてこの歌の製作時期も大體推定が出來るわけである。天皇は聖武天皇。
 
1614 九月の その初雁の 使にも 念ふ心は 聞え來ぬかも
 
九月之《ナガツキノ》 其始雁乃《ソノハツカリノ》 使爾毛《ツカヒニモ》 念心者《オモフココロハ》 可聞來奴鴨《キコエコヌカモ》
 
私ハコノ遠江ヘ國守トシテ參ツテ居リマシテ、陛下ガオナツカシクテ忘レラレマセヌガ、常ニハ何トオタヨリ(654)モ下サラズトモ〔私ハ〜傍線〕、九月ニ鳴イテ行クアノ初雁ノ使ニデモ、セメテ陛下ノオ心ヲオツゲ頂キタイノデゴザイマスノニ、コノ初鴈ノ使ニモ〔セメ〜傍線〕、オ心ノホドハ一向〔二字傍線〕聞エテ參リマセヌヨ。何トカオタヨリヲ、イタダキタウ存ジマス〔何ト〜傍線〕。
 
○其始鴈乃使爾毛《ソノハツカリノヅカヒニモ》――始鴈は秋になつて始めて鳴く雁、鴈は晩秋九月になつて來鳴くのである。鴈の使は前漢の蘇武の故事で、匈奴に使して捕はれ、本國に歸るを許されなかつたが、鴈の足に書を結んで放つたのが、漢の天子によつて得られ、その存命を知たといふ傳説によつたのである。雁書・雁信・雁札・雁帛などの熟語がこれから出てゐる。卷九に春草馬咋山自越來奈流鴈使者宿過奈利《ハルクサヲウマクヒヤマヨコエクナルカリノツカヒハヤドリスグナリ》(一七〇八)とある。
〔評〕 蘇武の故事を詠んだのは、當時にあつては、尖端的な新しさとして認められたのであらう。右にあげた卷九の歌といづれが早いかは問題であらうが、ともかく支那文學の影響があらはれた新文藝である。天皇に奉る歌としては、措辭が蕪雜といふ謗は免かれ難い。
 
天皇賜(ヘル)報和(ノ)御歌一首
 
天皇は聖武天皇。賜報和御歌は、賜へる報和《ミコタヘ》の御歌と訓むべきであらう。
 
1615 大の浦の その長濱に 寄する浪 寛けく君を 念ふこの頃
 
大乃浦之《オホノウラノ》 其長濱爾《ソノナガハマニ》 縁流浪《ヨスルナミ》 寛公乎《ユタケクキミヲ》 念比日《オモフコノゴロ》
 
朕ガ消息ヲシナイトテオマヘハ不平ノヤウダガ〔朕ガ〜傍線〕、朕ハ (大乃浦之其長濱爾縁流浪)スバラシク熱心ニ〔三字傍線〕オマヘヲコノ頃ハ思ツテヰルヨ。
 
○大乃浦之其長濱爾《オホノウラノソノナガハマニ》――大の浦は八雲御抄に遠江とあるのは、この歌によつたのであらうから、證とはなし難いが、遠江の地名に違ひない。今、見附町の南方に、於保村がある。即ち和名抄の飫寶《オホ》郷である。(今本、飫を(655)誤つて飯に作つてゐる)昔はこの村の南方に、砂丘を以て海と境した、一大湖があつて、天龍・太田の二川がこれに注いでゐた。これが大の浦である。後世この二川の河道の變更によつて、この湖は干拓せられてしまつた。長濱は長い濱の意で、固有名詞ではあるまい。○縁流浪《ヨスルナミ》――この句まではユタケクと言はむ爲の序詞である。○寛公乎《ユタケクキミヲ》――ユタケクはここでは、勢猛に、盛に、などの意である。源氏物語、若葉上に「藥師佛供養し給ふ。(中略)いとゆたけき御祈なり」、同じく東屋に、「ゆたけき勢をたのみて、父ぬしの后にもなしてむと思ひたる人人」などある。代匠記に「日本紀に、富寛とかきて、とみたゆたひてとよめれば、ゆたけくもたゆたひとおなじ心なり。一旦におもふにはあらで、ゆるゆるとおもふ心なり」とあるのはここには、かなはぬやうである。
〔評〕 櫻井王の任地、遠江の名勝を以て序詞をお作りになつたお手際は立派なものである。全體がゆるやかな、迫らない調をなしてゐるが、御製としては丁寧に過ぎるほどである、新考はこれによつて、歌が前後入れ違つたものとしてゐるのは、一應は尤もであるが、編者が猥りに誤るべきこととも思はれず、また其長濱爾《ソノナガハマニ》と其《ソノ》を添へられたのは、郡で思ひやり給うた御製らしく思はれる。
 
笠女郎贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
 
贈の字舊本に賜とあるのはよくない。神田本によつて改めた。笠女郎の歌は集中卷三に三首、卷四に二十四首、卷八に二首あるが、盡く大伴家持に贈つた戀の歌である。
 
1616 朝ごとに 吾が見るやどの 瞿麥の 花にも君は ありこせぬかも
 
毎朝《アサゴトニ》 吾見屋戸乃《ワガミルヤドノ》 瞿麥之《ナデシコノ》 花爾毛君波《ハナニモキミハ》 有許世奴香裳《アリコセヌカモ》
 
毎朝毎朝、私ガ見ル私ノ家ノ庭ノ、瞿麥ノ花デアナタガイラツシヤレパヨイガ。サウスレバ始終見ルコトガ出來テ嘸ヨイデセウ〔サウ〜傍線〕。
 
(656)○吾見屋戸乃《ワガミルヤドノ》――古義に見吾屋戸乃《ミルワガヤドノ》と改めてゐるが、必ずしも誤とはし難いから舊本に從つて置く。○有許世奴香裳《アリコセヌカモ》――有つてくれないかよの意。コセは希望を意味する動詞コスの變化。
〔評〕 強烈な戀情ではなく、なつかしい思ひを述べた、可憐な歌である。そこに女らしさが見えてよい。
 
山口女王贈(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
 
山口女王の傳未詳。卷四にも家持に贈られた五首が見えてゐる。贈の字舊本賜とあるのを、神田本によつて改めた。
 
1617 秋萩に 置きたる露の 風吹きて 落つる涙は 留みかねつも
 
秋芽子爾《アキハギニ》 置有露乃《オキタルツユノ》 風吹而《カゼフキテ》 落涙者《オツルナミダハ》 留不勝都毛《トドミカネツモ》
 
私ガアナタヲ戀ヒ慕ツテ〔私ガ〜傍線〕(秋芽子爾置有露乃風吹而)落チル涙ハ、ドウシテモ〔五字傍線〕留メカネマスヨ。ホントニシヤウガアリマセヌ〔ホン〜傍線〕。
 
○秋芽子爾置有露乃風吹而《アキハギニオキタルツユノカゼフキテ》――落《オツル》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 序詞から下句へのつづきが、實に滑らかで麗はしい。はらはらと風にこぼれる萩の露は、はふり落つる涙の玉を思はしめるものがある、譬喩の如くして譬喩にあらず、何とも言へない味がある。
 
湯原王贈(レル)2娘子(ニ)1歌一首
 
湯原王は志貴親王の御子。三七五參照。贈の字舊本賜とあるは誤。神田本によつて改めた。
 
1618 玉に貫き 消たず賜らむ 秋萩の 末わわら葉に 置ける白露
 
玉爾貫《タマニヌキ》 不令消賜良牟《ケタズタバラム》 秋芽子乃《アキハギノ》 宇禮和和良葉爾《ウレワワラバニ》 置有白露《オケルシラツユ》
 
秋萩ノ枝ノ末ノワワケ亂レタ葉ニ宿ツタ白露ヲ、玉トシテ糸ニ〔四字傍線〕貫イテ消ヤサナイデ、私ニ下サイ。ホントニ美(657)シイ露デスネ〔ホン〜傍線〕。
 
○宇禮和和良葉爾《ウレワワラバニ》――ウレは末、ワワラバはわわけたる葉で、ワワラは卷五に美留乃其等和和氣佐我禮留《ミルノゴトワワケサガレル》(八九二)のワワケと同語であらう。即ち亂れそそけた葉である。但し略解には「卷二、生乎鳥禮留《ヲヲレル》、其外ををりにををりなどいふも同じ語にて、ここははぎの末にしげく、おき亂れたる露をいふ」とあり、新考には「ワワケとは異なるべく、ウレワワラハニは末タワワニといふことにて、萩の末の打靡ける形容なるべし」とある。
〔評〕 例によつて上な打滋味のある作である。ウレワワラバニが、作者得意の新造語か。娘子に贈つたといふまでで、戀の歌にはなつてゐない。
 
大伴家持至(リテ)2姑(ノ)坂上郎女(ノ)竹田庄(ニ)1作(レル)歌一首
 
姑はヲバである。代匠記に「坂上郎女は家持のをばにして、しうとめなり。姑の字もまた兩方によめば、いづかたにつきてもよむべし」とあつて、下の長歌によれば、この頃家持は坂上大孃を妻としてゐたやうであるから、兩樣に考へられるが、恐らく叔母として用ゐたのであらう。卷四の六四九の左註に「姑姪之族云々」とあつて、ヲパのことに用ゐてある。
 
1619 玉桙の 道は遠けど はしきやし 妹をあひ見に 出でてぞ吾が來し
 
玉桙乃《タマボコノ》 道者雖遠《ミチハトホケド》 愛哉師《ハシキヤシ》 妹乎相見爾《イモヲアヒミニ》 出而曾吾來之《イデテゾワガコシ》
 
(玉桙乃)道ハ隨分〔二字傍線〕遠ク離レテヰルケレドモ、愛ラシイ妻ニ逢フ爲ニ、私ハココマデ〔四字傍線〕出テ參リマシタヨ。
 
○玉桙乃《タマボコノ》――枕詞。道とつづく。七九參照。○愛哉師《ハシキヤシ》――愛《ハ》シキに助詞ヤとシとを添へたもの。枕詞としない方がよい。○妹乎相見爾《イモヲアヒミニ》――妹は坂上郎女を親しんで言つたものと思はれないことはないが、やはりその娘で、家持の妻たる坂上大孃をさしたのであらう。下の長歌によればこの頃已に兩人は婚してゐたのである。ハシキヤシの句もこれを大孃とする方がふさはしい。
 
(658)〔評〕 奈良から竹田庄まで出かけた家持が、玉桙乃道者雖遠《タマボコノミチハトホケド》と言つたのに無理はないが、歌にはさしたる熱がない。
 
大伴坂上郎女和(ヘ)歌一首
 
1620 あら玉の 月立つまでに 來まさねば 夢にし見つつ 思ひぞ吾がせし
 
荒玉之《アラタマノ》 月立左右二《ツキタツマデニ》 來不益者《キマサネバ》 夢西見乍《イメニシミツツ》 思曾吾勢思《オモヒゾワガセシ》
 
(荒玉之)月ガカハルマデモアナタガ〔四字傍線〕オイデニナラナイカラ、私ハアナタノコトガ戀シクテ〔アナ〜傍線〕、夢ニアナタヲ〔四字傍線〕見テハ戀シク思ツテ居リマシタ。
 
○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。年に冠するを常とするが、轉じて月に用ゐてある。四四三參照。○月立左右二《ツキタツマデニ》――月立《ツキタツ》は文字通り月のあらたまり、初まること。古義に「一月の日の立まで、久しく來座ねば」とあるのは當るまい。これで見ると八月の初旬のことらしい。
〔評〕 甥に答ふる言葉としては、少し婀娜ぽ過ぎるやうであるが、この人はかういふことを、いつでも平氣で言ふ女である。この贈答は共に秋の趣が見えない。八月の作であるから、ここに收めたのである。この歌、和歌童蒙抄に見えてゐる。
 
右二首天平十一年己卯秋八月作
 
巫部麻蘇娘子《カムコベノマソヲトメガ》歌一首
 
巫部麻蘇娘子は傳未詳。卷四の七〇三參照。
 
1621 吾がやどの 萩の花咲けり 見に來ませ 今二日ばかり あらば散りなむ
 
吾屋前乃《ワガヤドノ》 芽子花咲有《ハギノハナサケリ》 見來益《ミニキマセ》 今二日許《イマフツカバカリ》 有者將落《アラバチリナム》
 
(659)私ノ家ノ庭ニアル〔四字傍線〕萩ノ花ガ咲キマシタ。見ニオイデナサイ。モウ二日バカリタツタナラ散リマセウ。散ラナイウチニオイデ下サイ〔散ラ〜傍線〕。
 
〔評〕 誰かに贈つた歌であるが、誰ともわからない。卷四にあるこの人の歌と同樣なはしがきになつてゐる。或は家持に贈つたものか。二句と三句とに切目があるのは、この集ではあまり多くない形である。歌は手紙がはりの平語である。
 
大伴田村大孃與(フル)2坂上大孃(ニ)1歌二首
 
1622 吾がやどの 秋の萩咲く 夕かげに 今も見てしが 妹が姿を
 
吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之芽子開《ハギノハナサク》 夕影爾《ユフカゲニ》 今毛見師香《イマモミテシガ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
 
私ノ家ノ秋萩ノ花ガ美シク〔三字傍線〕咲クコノ夕方ノ光デ、ナツカシイ妹ノ姿ヲ今見タイモノデス。ドウゾ逢ヒニ來テ下サイマシ〔ドウ〜傍線〕。
 
○夕影爾《ユフカゲニ》――夕影は夕方の日影。夕日のささない物の蔭をいふこともあるが、ここはさうではなく、夕方の弱い光をいふのである。晩景。○今毛見師香《イマモミテシガ》――モは強めていふのみ。○妹之光儀乎《イモガスガタヲ》――妹はこの場合、實の妹である。
〔評〕 吾が家の萩の花の艶にあえかな姿に對して、美しい妹を思ひ浮べ、この花の咲くところに、妹を迎へて逢つて見たいといふのである。二の句で切つても見られるが、これは三句へ續いてゐるので、さう見なければ歌が全く崩れてしまふ。歌の姿も亦優艶である。
 
1623 吾がやどに もみづかへるで 見るごとに 妹をかけつつ 戀ひぬ日はなし
 
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 黄變蝦手《モミヅカヘルデ》 毎見《ミルゴトニ》 妹乎懸管《イモヲカケツツ》 不戀日者無《コヒヌヒハナシ》
 
私ノ宿ノ庭〔二字傍線〕ニ美シク色ノツイタ楓ノ葉ヲ見ルト、コノ紅葉ノヤウナ美シイ〔コノ〜傍線〕妹ノコトヲ心ニカケテ、戀ヒ慕ハナ(660)イ日ハ一日モ〔三字傍線〕アリマセヌ。ドウゾ逢ヒニ來テ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○黄變蝦手《モミヅカヘルデ》――舊訓モミヅルカヘデとあり、略解もこれによつてゐるが、ここには契沖説に從ふ。古義が黄變をニホフとよんだのは、あまり自由な訓法であらう。楓をカヘデといふは後世の稱呼で、カヘルデの略であるから、この集ではカヘルデとすべきである。卷十四に、兒毛知夜麻和可加敝流?能毛美都麻?《コモチヤマワカカヘルデノモミヅマデ》(三四一四)とあるのは、この句の訓法を示してゐるやうである。なほモミヅの活用については一六二八參照。○妹乎縣管《イモヲカケツツ》――妹を心に懸けての意。
〔評〕 楓の紅葉を見て妹を思ひおこすのは、その可憐な美しさが妹に似てゐるといふのか、又はこの美觀を妹に見せようと思ふのか、二樣に考へられる。しかし前の萩の歌について思ふに、どうも前者らしい。尋ね來よとは言はないで、その意が充分にあらはれてゐる。
 
坂上|大娘《オホイラツメ》秋|稻蘰《イナカヅラヲ》贈(ル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
 
稻蘰は稻の穗で造つた蘰。これも髪の飾として用ゐたものか。京大本、傍に訓してホクミとある。ホクミは穗組で、稻穗を組んで積みおくもの。方丈記に、「すそわの田ゐに至りて、落穗を拾ひてほくみを造る」とあるが、これと同じものではあるまい。
 
1624 吾がなりなる 早田の穗立ち 造りたる かづらぞ見つつ 偲ばせ吾が背
 
吾之蒔有《ワガナリナル》 早田之穗立《ワサダノホダチ》 造有《ツクリタル》 蘰曾見乍《カヅラゾミツツ》 師弩波世吾背《シヌバセワガセ》
 
今コノ差上ゲル稱蘰ハ〔今コ〜傍線〕、私ノ仕業トシテ耕作シテ〔四字傍線〕ヰマス、早稻田ノ稻穗デ自分デ〔三字傍線〕コシラヘタ蘰デスゾヨ。デスカラコレヲ〔七字傍線〕御覽ニナツテ、私ヲ思ヒ出シテ下サイマセ。
 
○吾之蒔有《ワガナリナル》――舊訓ワガワザナルとよんでゐる。蒔の字は類聚古集・神田本などに業に作つてゐるによると、舊訓に蒔をワザとよんだ理由もわかるやうに思ふ。次の歌に業跡造有《ナリトツクレル》とあるから、ここも業としてナリとよむが(661)よい。ナリはナリハヒのナリである。但し和歌童蒙抄にこの歌を引いて、ワガマケルとあるから、蒔の字の異本も古く行はれたのである。○早田之穗立《ワサダノホダチ》――早田は早稻を植ゑた田。穗立は穗に出た稻穗。
〔評〕 竹田庄から贈つた稻蘰であるから、自分が田を耕作してゐるやうに、田舍少女ぶつて詠んだのは、處にふさはしい戯である。第四句がカヅラゾで切れてゐるのは異樣であるが、調の滑かさを失つてゐないのはうれしい。
 
大伴宿禰家持報贈(レル)歌一首
 
1625 吾妹子が なりと造れる 秋の田の 早穗のかづら 見れど飽かぬかも
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 業跡造有《ナリトツクレル》 秋田《アキノタノ》 早穗乃蘰《ワサホノカヅラ》 雖見不飽可聞《ミレドアカヌカモ》
 
アナタガ自分ノ仕事トシテ造ツタ、秋ノ田ノ早稻ノ穗デ作ツタ穗ハ、イクラ見テモ見飽カナイデスヨ。ホントニ有リガタウ〔九字傍線〕。
 
○業跡造有《ナリトツクレル》――業として造れる。舊訓、業をワザとよんだのを、略解にナルとしてゐるが、古義にナリとよんだのがよい。○早穗乃蘰《ワサホノカヅラ》――草稻の穗で造つた蘰、ワサは早芽子《ワサハギ》(二一一三)とも見えて、すべて早く出來るものをいふ。これが轉じてワセとなつてゐるが、稻についてのみいふのではない。
〔評〕 贈られた歌の言葉をそのまま受けて、見れどあかぬかもと結んだだけで、あまり藝がない。平凡なお禮の辭である。
 
又報(ユル)d脱(キテ)2著(ル)v身衣(ヲ)1贈(レルニ)c家持(ニ)u歌一首
 
著身衣は身に著けたる衣。坂上大娘がいつも着てゐる衣。古義にはキナラセルコロモとよんでゐる。
 
1626 秋風の 寒きこの頃 下に著む 妹が形見と かつも偲ばむ
 
(662)秋風之《アキカゼノ》 寒比日《サムキコノゴロ》 下爾將服《シタニキム》 妹之形見跡《イモガカタミト》 可都毛思努播武《カツモシヌバム》
 
秋風ガ寒ク吹クコノ頃、アナタガ下サツタ着物ヲ〔アナ〜傍線〕下ニ着テ寒サヲシノガ〔六字傍線〕ウ。又一ツニハアナタノ形見ト思ツテ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出シマセウ。
 
○可都毛思努播武《カツモシヌバム》――カツは、又一つにはの意。モは添へていふのみ。
〔評〕 三句で切つて、更に五句で同じく韻をそろへてあるのが珍らしい。その爲萬葉調らしくない歌になつてゐる。この頃下着には男女の別が無かつたことは、この歌でも明らかである。
 
右三首天平十一年己卯秋九月往來
 
早穗の蘰を作つたり、秋風が寒く吹いたりして、如何にも九月らしい風物である。往來は書信のやりとり、贈答である。卷十一、十二は古今相聞往來歌類と部立してゐる。この贈答も家持と大孃との結婚を證してゐるやうに思はれる。
 
大伴宿禰家持攀(ヂテ)2非時《トキジキ》藤花并(ビニ)芽子黄葉《ハギノモミヂ》二物(ヲ)1贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌二首
 
攀の字は引き折ること。一四六一參照。非時藤花は時ならぬ、時節はづれの藤の花。返り咲であらう。非時藤はトキジクフヂともよんであるが、トキジキフヂがよいであらう。三八二參照。
 
1627 吾がやどの 時じき藤の めづらしく 今も見てしが 妹がゑまひを
 
吾屋戸之《ワガヤドノ》 非時藤之《トキジキフヂノ》 目頬布《メヅラシク》 今毛見牡鹿《イマモミテシガ》 妹之咲容乎《イモガヱマヒヲ》
 
私ノ宿ノ庭ニ〔二字傍線〕時ハヅレテ咲イタ藤ノ花ハ珍ラシイデスガ、コノ藤ノ花〔ハ珍〜傍線〕ノヤウニ愛ラシク思フ〔二字傍線〕アナタノ笑顔ヲ今見タイモノデスネ。
 
○吾屋戸之《ワガヤドノ》――戸の字、類聚古集神田本など、みな前に作つてゐる。○目頬希《メヅラシク》――上へのつづきは時節はづれ(663)に咲いた藤の如く珍らしくで、下へは愛《メヅ》らしく思ひつつ妹を見る意でつづいてゐる。新考にメヅラシキとよんで、「メヅラシキ妹ガヱマヒヲ今モ見テシガとありしが顛倒せるならむ」とあるのは、思ひ切つた説である。これはメヅラシク見テシガとつづくので、メヅラシク見ルは珍らしく思ひて見るのである。
〔評〕 これは贈つた非時富士花に添へた歌である。前の田村大孃作の吾屋戸乃秋之芽子開夕影爾今毛見師香味之光儀乎《ワガヤドノアキノハギサクユフカゲニイマモミテシガイモガスガタヲ》(一六二二)と著しく似てゐる。
 
1628 吾がやどの 萩の下葉は 秋風も いまだ吹かねば かくぞもみでる
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》 秋風毛《アキカゼモ》 未吹者《イマダフカネバ》 如比曾毛美照《カクゾモミデル》
 
私ノ家ノ〔二字傍線〕庭ノ萩ノ下葉ハ、秋風モマダ吹カナイノニ、コンナニ紅葉シマシタ。珍ラシイモノデスカラ、アナタニ御覽ニ入レマス〔珍ラ〜傍線〕。
 
○未吹者《イマダフカネバ》――だ吹かざるにの意。○如此曾毛美照《カクゾモミデル》――照は濁つてよむがよい。モミデルは四段活の動詞モミヅに、完了の助動詞のリが添うた形である。黄葉《モミヂ》の動詞としての原形がこれで明らかにせられてゐる。
〔評〕 これは左註によれば夏六月の往來であるのに、秋相聞に入れたのは、黄葉が秋のものであるからである。歌の材料となるものの季節が、已にある程度まで定まつてゐることがこれで知られる。
 
右二首天平十二年庚辰夏六月在來
 
大伴宿禰家持贈(レル)2坂上大孃(ニ)1歌一首并短歌
 
1629 ねもごろに 物を思へば 言はむすべ 爲むすべもなし 妹と吾が 手たづさはりて あしたには 庭に出で立ち 夕べには 床うち拂ひ 白妙の 袖さしかへて さ寢し夜や 常にありける あしびきの 山鳥こそは を向ひに 妻問すといへ うつせみの 人なる我や 何すとか 一日一夜も さかりゐて 嘆き戀ふらむ ここ念へば 胸こそ痛め そこ故に 心なぐやと 高圓の 山にも野にも うち行きて 遊びゆけど 花のみ 句ひてあれば 見るごとに まして思ほゆ いかにして 忘れむものぞ 戀とふものを
 
叩々《ネモゴロニ》 物乎念者《モノヲオモヘバ》 將言爲便《イハムスベ》 將爲爲便毛奈之《セムスベモナシ》 妹與吾《イモトワガ》 手携拂而《テタヅサハリテ》 旦者《アシタニハ》 庭爾出立《ニハニイデタチ》 夕者《ユフベニハ》 床打拂《トコウチハラヒ》 白細乃《シロタヘノ》 袖指代而《ソデサシカヘテ》 佐寢之夜也《サネシヨヤ》 (664)常爾有家類《ツネニアリケル》 足日木能《アシビキノ》 山鳥許曾婆《ヤマドリコソハ》 峯向爾《ヲムカヒニ》 嬬問爲云《ツマドヒストイヘ》 打蝉乃《ウツセミノ》 人有我哉《ヒトナルワレヤ》 如何爲跡可《ナニストカ》 一日一夜毛《ヒトヒヒトヨモ》 離居而《サカリヰテ》 嘆戀良武《ナゲキコフラム》 許己念者《ココモヘバ》 胸許曾痛《ムネコソイタメ》 其故爾《ソコユヱニ》 情奈具夜登《ココロナグヤト》 高圓乃《タカマドノ》 山爾毛野爾母《ヤマニモヌニモ》 打行而《ウチユキテ》 遊往杼《アソビユケド》 花耳《ハナノミ》 丹穂日手有者《ニホヒテアレバ》 毎見《ミルゴトニ》 益而所思《マシテオモホユ》 奈何爲而《イカニシテ》 忘物曾《ワスレムモノゾ》 戀云物乎《コヒトフモノヲ》
 
ツクヅクト物ヲ考ヘルト、何トモ言ヒヤウモナク、何トモ仕様モナク悲シイ〔四字傍線〕。妻ト私トガ、手ヲ取リカハシテ、朝ニハ庭ニ出デ立チ、夕方ニハ寢床ノ塵ヲ打チ拂ツテ、(白細乃)袖ヲ二人デ〔三字傍線〕サシ交ハシテ、寢タ晩は絶エズ續イタデアラウカ。イヤソレハ、永クツヅカナカツタ〔イヤ〜傍線〕。(足日木能)山鳥コソ、峯ヲ隔テテ〔五字傍線〕、向ヒノ峯ニヰル妻ヲ、訪ネテ行クト云フコトダガ、(打蝉乃)人ト生レテヰル私ガ、ドウシテ、一日一夜ダケデモ妻ト〔二字傍線〕離レテ居テ、嘆キ戀シガルコトガアラウ。ソンナ筈ハナィ〔七字傍線〕。コレヲ考ヘルト悲シクテ〔四字傍線〕胸ガ痛ムヨ。ソレダカラ、コノ悲シイ〔五字傍線〕心モ慰ム〔二字傍線〕カト思ツテ、高圓ノ山ダノ野ダノニ、出カケテ行ツテ遊ンデ歩クケレドモ、花バカリ美シク咲イテヰルノデ、ソレヲ〔三字傍線〕見ルニツケテモ、妻ノコトガ〔五字傍線〕イヨイヨ思ハレル。サテサテ困ツタモノダ。コノ苦シイ〔サテ〜傍線〕戀ト云フモノヲ、何トシタラ忘レラレルモノダラウカ。ドウカシテ忘レタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○叩々《ネモゴロニ》――舊訓イタミイタミ、代匠記初稿本書入オサヘオサヘ、童蒙抄ツクヅクト、考ウチウチニなど諸訓があるが、略解に「叩は字書に叩問也發也など有れば、必ず誤字なるべし。一本町に作る。是も誤ならむ。叮の誤にて、叮嚀の意もて ねもごろになるべし」とあるのに從ふ。なほ訓義辨證には東雅釋訓・廣雅疏證を引いて、「かかれば叩々懇々と同義にて誠也とあれば、もとよりネモゴロと訓べき文字なりけり。かくて又靈異記(665)中卷【三十九條】に叩《ネモゴロ》求之とあり。板本には此訓は削られたれど、其原本とある高野本の旁訓にかくあり、これらによりて、今も叩叩をネモゴロとよむべきなり」と論じてゐる。○手携拂而《テタヅサハリテ》――神田本・西本願寺本など、拂の字がないのによるべきであらう。この句は卷五の、山上憶良、哀2世間難1v住歌(八〇四)にあつた。○佐寐之夜也常爾有家類《サネシヨヤツネニアリケル》――サは接頭語のみ。この句は同じく哀2世間難1v住歌に余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカヤツネニアリケル》(八〇四)とあるに似てゐる。○山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云《ヤマドリコソハヲムカヒニツマドヒストイヘ》――山鳥こそ向ひの峯に妻を訪ねるといふものだ。山鳥は晝雌雄同じ處にゐるが、夜は峯を距てて別れ住むやうに言ひならはされてゐる。卷十一に足日木之山鳥尾乃一峯越《アシヒキノヤマドリノヲノヒトヲコエ》(二六九四)も、その傳説に關係ありげに思はれる。峯向《ヲムカヒ》は峯の向ひ、即ち向ひの峯。○如何爲跡可《ナニストカ》――どうして。いかでか。○打蝉乃《ウツセミノ》――枕詞。人とつづく。現身のの意である。二四參照。○情奈具夜登《ココロナグヤト》――心和ぐやと。ナグはナゴム、やはらぐこと。つまり慰むことである。○遊往杼《アソビユケド》――舊訓アソビテユケド、考はアソバヒユケド古義はアソビアルケドとしてゐる。往はユクとよむべく、アルクの訓は例がないから、アソビユケドとする。○益而所思《マシテオモホユ》――マシテは一層。古義にオモホユをシヌバユとよんでゐる。卷五の久利波米婆麻斯提斯農波由《クリハメバマシテシヌバユ》(八〇二)に一致させるつもりか。要なきことである。
〔評〕 綿々として絶えざる戀慕の情が、春蠶の糸を吐くやうに、靜かになごやかに述べられてゐる。しかし語句の上に、卷五の山上憶良の作の模倣のあとが、目に立つのは遺憾である。
 
反歌
 
1630 高圓の 野べの容花 おもかげに 見えつつ妹は 忘れかねつも
 
高圓之《タカマドノ》 野邊乃容花《ヌベノカホバナ》 面影爾《オモカゲニ》 所見乍妹者《ミエツツイモハ》 忘不勝裳《ワスレカネツモ》
 
(666)(高圓之野邊乃容花)目ノ前ニ妻ノ〔二字傍線〕姿ガ見エテ、私ハ〔二字傍線〕妻ガ忘レカネルヨ。
 
○高圓之野邊乃容花《タカマドノヌベノカホバナ》――容花といつて、面影につづけたので、高圓の野で容花を見ての作ではあるが、この二句は歌全體に直接の意味内容を與へてゐないから、序詞と見るべきである。容花は集中、難語の一で、その解説が一定してゐない。古く八雲御抄には、ただ美しい花をいふので、花の名ではないとあり、代匠記もそれによつてゐるが、歌林樸※[木+嫩の旁]に杜若とあり、眞淵は澤瀉とし、古義は晝顔としゐる。なほ略解には眞淵の槿花説をあげてゐる。その用例から見ると、卷十に石走間々生有貌花乃《イハハシノママニサキタルカホバノ》(二二八八)・卷十四に宇知比佐都美夜能瀬河泊能可保婆奈能《ウチヒサツミヤノセカハノカホバナノ》(三九七三)など、河中に生えるものとして詠まれてゐる、杜若、澤瀉説はこれから出たのであらうが、ここの歌に高圓の野べの容花とあるによると、水草ではないやうである。カホといふ名からいへば、今の晝顔説が最も穩やかであらう。これは野にも河原などにも咲く花である。なほ雅澄の萬葉集品物解には小野博の説として、備後では今も晝顔をカツボウといふ由を記してゐる。暫らく晝顔説に從はうと思ふ。○面影爾所見乍《オモカゲニミエツツ》――面影に見えるとは、目の前にちらついて見えること。三九六參照。
〔評〕 長歌によれば、高圓の山野に遊びに行くやうによまれてゐるから、この一二句は高圓の野に容花を見て、よんでゐるのである、容花は卷十と卷十四とに出ていづれも民謠らしく、歌人のいまだ用ゐなかつたところである。それを見出して用ゐたのが作者の手柄であらう。
 
大伴宿禰家持贈(レル)2安倍女郎(ニ)1歌一首
 
安倍女郎は卷三の二六九、卷四の五〇五・五一四・五一六などに名が見てゐるが、それは藤原宮の人と思はれるから、ここの安倍女郎とは別人である。
 
1631 今造る 久邇の都に 秋の夜の 長きに獨 ぬるが苦しさ
 
(667)今造《イマツクル》 久邇能京爾《クニノミヤコニ》 秋夜乃《アキノヨノ》 長爾獨《ナガキニヒトリ》 宿之苦左《ヌルガクルシサ》
 
新シク御造營ノ久邇ノ京ニ、秋ノ夜ノ〔四字傍線〕長イノニ、私ガ一人デ寢ルノガ苦シイヨ。アナタニ逢ヒタイモノデス〔アナ〜傍線〕。
 
○今造《イマツクル》――新しく造營の。只今建設中の意ではない。卷六に十五年癸未秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持讃2久邇京1作歌一首があつて、今造久邇乃王都者山河乃清見者宇倍所知良之《イマツクルクニノミヤコハヤマカハノキヨキヲミレバウベシラスラシ》(一〇三七)とあるが、久邇遷都は十三年正月である。
〔評〕 久邇京への遷都は事唐突であつたので、官人は家族を件なふ暇がないものが多かつた。家持もさうであつたらしい。彼をして長い秋の夜に獨寢の淋しさをかこたしめたのは、かうした實情があつたのである。安倍女郎は如何なる女かわからないが、いづれは家持と戀愛關係のあつた女であらう。
 
大伴宿禰家持從2久邇京1贈(レル)d留(レル)2寧樂宅(ニ)1坂上大娘(ニ)u歌一首
 
卷四に在2久邇京1思d留2寧樂宅1坂上大孃u大伴宿禰家持作歌一首(七六五)とあるのと同時であらう。
 
1632 足引の 山べにをりて 秋風の 日にけに吹けば 妹をしぞ思ふ
 
足日木乃《アシビキノ》 山邊爾居而《ヤマベニヲリテ》 秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》 妹乎之曾念《イモヲシゾオモフ》
 
(足日木乃)山ノホトリノコノ久邇ノ京〔七字傍線〕ニ居ツテ、秋風ガ毎日毎日吹クト、淋シクテ、奈良ニ置イテ來タ〔淋シ〜傍線〕、アナタヲ戀シク〔三字傍線〕思ツテヰル。
 
○山邊爾居而《ヤマベニヲリテ》――山は鹿脊山などをさすのであらう。卷六の讃2久邇新宮1歌に山代乃鹿脊山際爾宮柱太敷奉《ヤマシロノカセヤマノマニミヤハシラフトシキタテテ》(一〇五〇)とある。○日異吹者《ヒニケニフケバ》――日に日に吹けばの意。
〔評〕 これも前の歌と同時で、新婚間もない家持には、妻を伴なはないことは淋しいつらいことであつたらう。この歌にはあはれな淋しさが漂つてゐる。
 
(668)或者《アルヒト》贈(レル)v尼(ニ)歌二首
 
1633 手もすまに 植ゑし萩にや かへりては 見れども飽かず 心つくさむ
 
手母須麻爾《テモスマニ》 殖之芽子爾也《ウヱシハギニヤ》 還者《カヘリテハ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 惰將盡《ココロツクサム》
 
花ガ咲クノヲ樂シンデ〔花ガ〜傍線〕手モ休メズ、骨折ツテ〔四字傍線〕植ヱテ置イタ萩ノ爲ニ、花ガカウシテ咲イテ見ルト〔花ガ〜傍線〕、却ツテイクラ見テモ見飽カナイデ、散リハセヌカト〔七字傍線〕氣ヲモムコトデアラウ。私モアナクヲ自分デ育テ上ゲテ置イテ、却ツテ戀ノ心ニ胸ヲイタメルデアラウカ〔私モ〜傍線〕。
 
○手母須麻爾《テモスマニ》――手も休まずの意。前に吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》(一四六〇)とあつた。
〔評〕 人の娘などを育てて、尼にした男の作であらう。何か面白い話がありさうな歌である。この寓意を認めない説はよくない。
 
1634 衣手に みしぶつくまで 植ゑし田を 引板吾が延へ 守れる苦し
 
衣手爾《コロモデニ》 水澁付左右《ミシブツクマデ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》 引板吾波倍《ヒキタワガハヘ》 眞守有栗子《マモレルクルシ》
 
私ノ〔二字傍線〕着物ノ袖ニ、水垢ガ付クホドモ難儀ヲシテ、自分デ〔八字傍線〕植ヱタ田ヲ、獣ナドニアラサレナイヤウニ〔獣ナ〜傍線〕、引板ヲ私ガ引張ツテ、番シテヰルノハ苦シイモノダ。私ガ手鹽ニケケテ育テヤモノヲ、人ニトラレナイヤウニ番ヲスルノハ苦シイモノダ〔私ガ〜傍線〕。
 
○水澁付左右《ミシブツクマデ》――水澁《ミシブ》は文字通り水の澁で、水面に浮ぶ水あかである。澁は字音シフで吾が國音に似てゐるのは注意すべきである。○引板吾波倍《ヒキタサガハヘ》――引板を吾が引き延へて。引板《ヒキタ》はヒキイタの略で、更に略してヒタとも言つてある。田畑の中に懸けて置いて、鳥獣を驚かす爲に、引鳴らす板である。鳴子に同じ。繩を引延へてあるから、波倍《ハヘ》と言つたのである。
(669)〔評〕 農民が初夏の頃早苗を植ゑ、それが秋になつて稔つたのを、田の畔に庵作りして鳴子を引いて番をする。彼らの仕事はまことに辛勞そのものである。早苗を幼女に譬へてそれを育てた骨折を述べ、それが年頃になつたのを、稻の成熟したのに譬へ、人に得られまいと心をくばるのを、引板延へて秋の田を守るによそへてゐる。譬喩が巧妙で、いささかの無理もない。
 
尼作(リ)2頭句(ヲ)1并(ニ)大伴宿禰家持所(テ)v誂《アトラヘ》尼(ニ)續(ギ)2末句(ヲ)1等和《ヒトシクコタフル》歌一首
 
尼は前に出てゐる或者から歌を贈られた尼である。頭句は冒頭の句の意味で、ここでは一・二・三の三句、謂はゆる上句に一致してゐる。併し頭句はいつでも上句と同じだとは言へない。集中、短歌では他に用例がないが、長歌では卷十三の三二九九に、初の六句を頭句といつてゐる。しかし頭句を略して、頭とのみ言つた例は、卷十二の二九五八に、初句と二句とを指したのがあり、卷十八の四〇四三は初句のみを指してゐる。これを以て頭句の意味が明らかであらうと思ふ。なほこれと同じ意で、發句と記したところがある。これは卷三の三五六に、初句と二句とを、この卷の一六五七に、同じく初句と二句とを、卷十二の二八八〇に初句のみを、卷十四の三五三八に初句と二句とをさしてゐる。これも亦、その指す範圍が一定してゐないことを語つてゐる。ついでにここに續2末句1とある末句について述べよう。この末句はここでは四五の兩句で、即ち謂はゆる下句に一致してゐる。しかしこれも、いつでも下句と同じではない。用例を見ると、卷十二の三一七五では五句のみを、卷十四の三三六四では三・四・五の三句を指してゐるのである。またこれと同意のものに尾句がある。卷十二の三〇四四に三・四・五の三句をさして居り、その略で、單に尾とのみ記したものに、卷四の六二六があるが、これは同じく三・四・五の三句を指してゐる。ここで恰も、後世の連歌の形式が始まつてはゐるが、頭句・末句の稱呼は、後世の上句下句と全然一致したものではないことを斷つて置く。所v誂v尼は尼にあとらへられてと讀むがよい。アトラ(670)フはアツラフと同語で、幾分古いやうである。尼に注文せられての意。等和歌とあるのは等しく和ふる歌で尼と家持と二人がかりで、或者に答へた歌といふのである。
 
1635 佐保河の 水をせき上げて 植ゑし田を 苅るわさ飯は 獨なるべし
 
佐保河之《サホカハノ》 水乎塞上而《ミヅヲセキアゲテ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》尼作 苅流早飲者《カルワサイヒハ》 獨奈流倍思《ヒトリナルベシ》家特續
 
佐保川ノ水ヲ塞キトメテ田ヘ〔二字傍線〕上ゲテ、植ヱタ田ガ稔ツテ出來タノ〔八字傍線〕ヲ苅ツテ、ソノ初穗ヲ飯ニシテ食ベル人ハ、定ツタ人〔四字傍線〕一人デアラウ。アナタハ自分デ骨ヲ折ツテ、幼女ヲ育テタト仰ルガ、育テタモノガ自分ノモノニスルト云フワケニハ行キマスマイ〔アナ〜傍線〕。
 
○佐保河之《サホカハノ》――舊本、保佐河とあるのは、もとより誤である。神田本によつて改めた。○水乎塞上而《ミヅヲセキアゲテ》――水の流を塞き留め湛へて、側へ流すこと。かくして田に水を引くのである。○苅早飯者《カルワサイヒハ》――舊訓ワサイヒとあるのを、略解にハツイヒとよんだのはわるい。早の字は早田《ワサタ》(一三五三)・早穗《ワサホ》(一六二五)・早芽子《ワサハギ》(二一一三)など、ワサと訓んだ例が多い。早飯は初穗を飯にしたものであらう。早飯を苅るといふのは言葉が足りないが、上からのつづきでやむを得ないのであらう。○獨奈流倍思《ヒトリナルベシ》――古義に流を武の誤として、獨嘗むべしの意であらうと言つてゐるが、賛同し難い。
〔評〕 初の三句を尼が作つて見たが、どうも思ふやうに後が續かない。そこで家持に、一つ附けて見て下さいと頼んだ。尼はどう答へるつもりであつたか知れないが、家持は委細かまはす、相手を冷かしたやうなことを言つてのけた。例の彼のふざけたがる性質が、かうさせたのである。しかし、彼が下の二句のうちに、これだけのことを纒めるにはかなりの苦心を要した。四の句にも、五の句にも、多少の無理と、きごちなさとが見えてゐる。なほこの歌は、謂はゆる連歌になつてゐるが、始から上下二句を分擔して作る意志があつたのではないやうであるから、その點を考慮に入れて置く必要があるやうに思はれる。
 
(671)冬雜歌
 
舍人娘子雪歌一首
 
舍人娘子は舍人氏の娘子か。卷二の一一八に舍人皇子に和へ奉つた歌がある。傳は明らかでない。
 
1636 大口の 眞神の原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに
 
大口能《オホクチノ》 眞神之原爾《マガミノハラニ》 零雪者《フルユキハ》 甚莫零《イタクナフリソ》 家母不有國《イヘモアラナクニ》
 
(大口能)眞神ノ原デ今降ル雪ハ、サウ〔二字傍線〕ヒドク降ルナヨ。立チ寄ルヤウナ〔七字傍線〕家モナイノダカラ。
 
○大口能《オホクチノ》――枕詞。眞神は狼のことで、狼は口の大きい獣であるから、かく冠らしめてある。○眞神之原爾《マガミノハラニ》――眞神の原は、飛鳥地方から檜隈方面に展開した平地である。卷二に明日香乃眞神之原爾《アスカノマガミノハラニ》(一九九)とある。
〔評〕 大口の眞神の原は、名を聞くだに恐ろしいところである。ここに老狼が住んで人を害したといふ傳説も殘つてゐたらしい。(代匠記による)今降りしきる大雪に、この原を通つてゐる人の心地は、どんなにか淋しく恐ろしいことであらう。さうした寂寥感がよくあらはれてゐる。卷三|苦毛零來雨可神之埼狹野乃渡爾家裳不有國《クルシクモフリクルアメカミワガサキサヌノワタリニイヘモアラナクニ》(二六五)とかなりの類似點がある。
 
太上天皇御製歌一首
 
太上天皇は元正天皇。天武天皇の御孫で、草壁皇子の皇女。御母は元明天皇。文武天皇の御姉に渡らせらる。日本根子高瑞淨足姫天皇と申す。靈龜元年九月二日受禅、神龜元年二月四日位を聖武天皇に護り給ふ。天平二十年四月二十一日崩御。
 
1637 はだ薄 尾花逆葺き 黒木もち 造れる室は 萬代までに
 
(672)波太須珠寸《ハタススキ》 尾花逆葺《ヲバナサカブキ》 黒木用《クロキモチ》 造有室者《ツクレルムロハ》 迄萬代《ヨロヅヨマデニ》
 
旗薄即チ〔二字傍線〕尾花ヲ逆ニシテ葺イテ、皮ノ付イタママノ木デ造ツタコノ家ハ、萬年ノ後マデモ續クデアラウ。結構ナ家ダ〔續ク〜傍線〕。
 
○波太須珠寸《ハダススキ》――太は濁音の文字で、卷三に皮爲酢寸(三〇七)とあるによつてもハダススキらしい。併し卷一の旗須爲寸《ハタススキ》(四三)とあるによれば、ハタススキである。薄の穗に出て靡く樣が、旗に似てゐるので言ふのであるから、ハタススキでよいわけである。旗薄は尾花と同一物なるを重ねて言つたもの。○尾花逆葺《ヲバナサカフキ》――尾花を穗の方を下にして葺くのを逆葺といつた。○黒木用《クロキモチ》――舊訓クロキモテとあるのを、古義にクロキモチと改めたのがよい。黒木は皮を剥がない木。○造有室者《ツクレルムロハ》――室《ムロ》は家のこと。これを代匠記精撰本に室の下、戸の脱ちたものとして、室戸《ヤト》とよんでゐる。
〔評〕 次の歌の左註によれば、聖武天皇と御同列で、長屋王の佐保宅に御幸あらせられての御製である。この御殿の有樣は、簡素そのものといふやうな古風の建築である。如何に上代でも、左大臣の邸宅としてはあまり粗末に過ぎる。ことに恰もこの頃、神龜元年十一月勅を發して、五位已上及び庶人の營むに堪へるものに、瓦を以て葺かしめられた際であるから、太政官の首位にある左大臣が、かかる邸宅にゐる筈がない。なほ長屋王は神龜元年二月に左大臣となり、天平元年二月讒によつて自盡せられたのであるから、この御幸は神龜の五年の間のことである。さうしてこの御歌にも次の御歌にも冬の趣が見えないのに、冬雜歌に入れてあるのは、この逆葺いた尾花がこの季節を語つてゐるのではあるまいか。即ち尾花を苅り葺いて、而陛下入御の便殿を臨時に設け奉つたもので、御幸は初冬のことであつたから、ここに掲げられてゐるのである。萬代までにと仰せになつたのは、左大臣を祝福せられたのでもあるが、またこの新室に萬代も通はうと、御自らことほぎ給うたのでもあらう。なごやかな大御心も拜せられる明るい感じの御製である。この歌、袖中抄と和歌童蒙抄とに出てゐる。
 
(673)天皇御製歌一首
 
天皇は聖武天皇。
 
1638 あをによし 奈良の山なる 黒木もち 造れる室は ませど飽かぬかも
 
青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃山有《ナラノヤマナル》 黒木用《クロキモチ》 造有室者《ツクレルムロハ》 雖居座不飽可聞《マセドアカヌカモ》
 
(青丹吉)奈良山カラ切リ出シテ來タ〔九字傍線〕皮ノツイタママノ木デ、作ツタコノ家ハ、カウシテ〔四字傍線〕ヰテモ一向倦キナイヨ。ホントニ今曰ハ面白イ〔十字傍線〕。
 
○造有室者《ツクレルムロハ》――舊本、室の下に戸の字があつて、ヤドと訓んでゐるが、神田本・西本願寺本その他の古寫本に無いのが多いから、省いた。○雖居座不飽可聞《マセドアカヌカモ》――御製であるから、マセドと自から敬語を用ゐ給うたのである。
〔評〕 これも前の御製と同樣に明るい、しつかりした調子の御作である。
 
右、聞(ク)v之(ヲ)、御2在(シテ)左大臣長屋王佐保宅(ニ)1肆宴《トヨノアカリノ》御製
 
肆宴については卷六の一〇〇九參照。
 
太宰帥大伴卿、冬日見(テ)v雪(ヲ)憶(フ)v京(ヲ)歌一首
 
1639 沫雪の ほどろほどろに ふりしけば 平城の都し 念ほゆるかも
 
沫雪《アワユキノ》 保杼呂保杼呂爾《ホドロホドロニ》 零敷者《フリシケバ》 平城京師《ナラノミヤコシ》 所念可聞《オモホルカモ》
 
雪ガ薄ク降リ頻ルト、都ハ嘸綺麗ダラウト〔九字傍線〕奈良ノ都ガナツカシク〔五字傍線〕思ヒ出サレルヨ。
 
○泡雪《アワユキノ》――アワユキは泡のやうな雪。春の雪ではない。○保抒呂保杼呂爾《ホドロホドロニ》――ホドロはハダレと同樣に斑と解せられてゐる言葉であるが、當らぬやうである。ホドロは薄く不充分な意に統一すべきであらう。七五四參照。(674)古義には「離々にはらはら切離れてふるをいふ言なり」とある。
〔評〕 例によつて旅人らしい、うるほひのある上品な歌である。和歌童蒙抄・袖中抄に出てゐる。
 
太宰帥大伴卿梅(ノ)歌一首
 
1640 吾が岳に 盛に咲ける 梅の花 殘れる雪を まがへつるかも
 
吾岳爾《ワガヲカニ》、盛開有《サカリニサケル》 梅花《ウメノハナ》 遺有雪乎《ノコレルユキヲ》 亂鶴鴨《マガヘツルカモ》
 
吾ガ家ノ岡ニ、盛ニ咲イテヰル梅ノ花ハ、眞白クキレイナノデ〔九字傍線〕、消エ殘ツタ雪デハナイカ〔五字傍線〕ト、見〔傍線〕違ヘタヨ。
 
○吾岳爾《ワガヲカニ》――前にこの人の作に、吾岳爾棹牡鹿來鳴《ワガヲカニサヲシカキナク》(一五四一)・吾岳之秋茅花《ワガヲカノアキハギノハナ》(一五四二)などあるのと同じ、恐らく太宰府背後の大城の山であらう。
〔評〕 これも、この人らしい平明な作である、ノコレルユキといふのが、春の殘雪を思はしめるかも知れないが、これは冬梅の歌で、春ではない。古義に、誤つてここに收めたやうに見てゐるのはいけない。
 
角《ツヌノ》朝臣|廣辨《ヒロベ》雪梅歌一首
 
廣辨の傳はわからない。角朝臣は紀によれば、雄略天皇の朝、角國に留り住んだもので、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜はつてゐる。角國は即ち周防國都濃郡である。
 
1641 沫雪に 降らえて咲ける 梅の花 君がりやらば よそへてむかも
 
沫雪爾《アワユキニ》 所落開有《フラエテサケル》 梅花《ウメノハナ》 君之許遣者《キミガリヤラバ》 與曾倍弖牟可聞《ヨソヘテムカモ》
 
雪ニ降ラレテ咲キ出シタ梅ノ花ガ美シイカラコレ〔八字傍線〕ヲアナタノ所ヘ差上ゲタイガ、コレヲ差上ゲ〔九字傍線〕タナラバ、世間ノ人ハ私トアナタト深イ關係デモアルヤウニ〔世間〜傍線〕、ソレニ托シテ言フデアラウカヨ。
 
(675)○所落開有《フラエテサケル》――雪に降られて梅の花が咲くこと。春雨によつて花が綻ぶやうに、雪によつて梅が咲くとするのである。含有常言之梅我枝今日零四沫雪二相而將開可聞《フフメリトイヒシウメガエケフフリシアワユキニアヒテサキヌラムカモ》(一四三六)ともある。○與曾倍弖牟可聞《ヨソヘテムカモ》――ヨソヘはヨソフの連用形。ヨソフは寄スの延言である。人が言ひ寄すること。即ち關係ありと噂するをいふ。テムは未來完了助動詞。
〔評〕 この歌を略解に「梅の花を君がもとへやらば、我によそへてだに、思ひこしてむやと也」と解してゐるのは當らぬやうであるが、かかる説の起るのは、下句の表現に不充分な點があるからであらう。題辭の簡單に失したのも、誤解を助けるものである。
 
安倍朝原|奥道《オキミチ》雪歌一首
 
奧道は、續紀によれば、淳仁天皇の天平寶字六年正月、正六位上から從五位下を授かり、續いて若狹守となる。七年正月大和介、八年九月正五位上、十月攝津大夫、稱徳天皇天平神護元年正月勲六等、二月左衛士督、二年十一月從四位下、神護景雲元年三月中務大輔、二年十一月左兵衛督となつた。その後、道鏡の事件で官位を奪はれたらしく、光仁天皇の寶龜二年閏三月、無位から本位從四位下に復された。九月内藏頭、三年四月但馬守、五年三月に卒してゐる。これで見ると、この天平の初年頃はまだ弱輩であつたらう。
 
1642 たなぎらひ 雪もふらぬか 梅の花 咲かぬが代に そへてだに見む
 
棚霧合《タナギラヒ》 雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》 梅花《ウメノハナ》 不開之代爾《サカヌガシロニ》 曾倍而谷將見《ソヘテダニミム》
 
雲ガ〔二字傍線〕棚引キ曇ツテ、雪モ降ラナイカヨ。梅ノ花ハマゲ咲カナイガ、咲カンナイデモ、積ツタ雪ヲ梅ノ〔ガ咲〜傍線〕代リニシテ、梅ニ〔二字傍線〕ナゾラヘテ、梅ダト思ツテ〔六字傍線〕眺メヨウ。 
 
○棚霧合《タナギラヒ》――タナギリの延言。タナギルは、た靡き遮ること。タナグモル・トノグモルなども同じである。(676)○雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》――雪も降らないかよ。降れよ。○不開之代爾《サカヌガシロニ》――シロは種々の意義あるが、ここは代り・代用といふやうな意と解せられてゐる。梅の花が咲かない代りとして。○曾倍而谷將見《ソヘテダニミム》――ソヘはヨソヘに同じ、但し前の歌のヨソヘとは異なつてゐる。梅の花になぞらへて見ようといふのである。
〔評〕 雪歌とあるが、雪を待つ心で、しかも梅花になぞらへて見む爲に降れといふのであるから、雪を愛づるこころが薄いやうにも思はれる。しかし作者は、雪が梅花をあざむく美觀を言はうとしたのである。
 
若櫻部《ワカサクラベ》朝臣|君足《キミタリ》雪歌一首
 
君足の傳は未詳。履仲天皇紀に長眞膽連の本姓を改めて、椎櫻部造といふと見えてゐる。
 
1643 天ぎらし 雪もふらぬか いちじろく このいつ芝に ふらまくを見む
 
天霧之《アマギラシ》 雪毛零奴可《ユキモフラヌカ》 灼然《イチジロク》 此五柴爾《コノイツシバニ》 零卷乎將見《フラマクヲミム》
 
空ガ曇ツテ、雪ガ降ラナイカヨ。サウシタラ私ハ、眞白ニ〔サウ〜傍線〕千目ニツクヤウニコノ茂ツタ柴ニ降ツタノヲ見マセウ。嘸カシ綺麗ダラウナア〔十字傍線〕。
 
○天霧之《アマギラシ》――天遮りの延言。空をさへぎりての意。○灼然《イチジロク》――イチジルシクに同じ。はつきりと目に立つこと。イチは接頭語。シロクは著く。○此五柴爾《コノイツシバニ》――五柴《イツシバ》は嚴柴で、茂つた闊葉樹の類。卷四に大原之此市柴乃《オホハラノコノイチシバノ》(五一三)とある市柴と同じである。これを茂つた芝草とする説もあるが、雪の降る冬枯の頃につ茂つた芝草はない筈である。
〔評〕 前の歌と同型で、第二句が全く同じく、四五の句も句尾が揃つてゐる。歌品も亦同位といつてよからう。しかしこの歌は三の句イチジロクを、四の句でイツシバと同音を繰した點が、より技巧的である。蓋し卷四、此市柴乃何時鹿跡《コノイチシバノイツシカト》(五一三)・卷十一、壹師花灼然《イチシノハナノイチジロク》(二四八〇)などを學んだものであらう。
 
(677)三野《ミヌ》連|石守《イソモリ》梅歌一首
 
石守の傳は明らかでない。
 
1644 引きよぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖にこきれつ しまばしむとも
 
引攀而《ヒキヨヂテ》 折者可落《ヲラバチルベミ》 梅花《ウメノハナ》 袖爾古寸入津《ソデニコキレツ》 染者雖染《シマバシムトモ》
 
枝ヲ〔二字傍線〕引キヨセテ折ツタナラバ、花ガ散ルダラウカラ、梅ノ花ヲシゴイテ袖ニ入レタ。花ノ色デ〔四字傍線〕袖ガ染マルナラバ、染マツテモカマフコトハナイ〔八字傍線〕。
 
○引攀而《ヒキヨヂテ》――攀は引くこと。登ることではない。攀については一五〇七參照。○袖爾古寸入津《ソデニコキレツ》――袖に扱き入れつ。コキは扱き取ること。○染者雖染《シマバシムトモ》――舊訓は、ソマバソムトモであるが染の字、益目頬染《イヤメヅラシミ》(一九六)・和備染責跡《ワビシミセムト》(六四一)の如く用ゐられてゐるから、ここはシマ・シムに訓むべきである。
〔評〕 染まば染むともとあるのは紅梅らしい。紅梅の記録に見えた最初は、續日本後紀、仁明天皇、「承和十五年春正月壬午、上御2仁壽殿1内宴如v常、殿前紅梅、便入2詩題1、宴訖賜v禄有v差」とある條であるが、この歌によると已に奈良朝からあつたものか。なほ考究を要する。さて折らば散るであらうことの惜しさに、袖に扱き入れたといふのは、かなり荒つぽい鑑賞法であり、卷二十に家持作、伊氣美豆爾可氣左倍見要底佐伎爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈《イケミヅニカゲサヘミエテサキニホフアシビノハナヲソデニコキレナ》(四五一二)とあるが、それはまだ扱き入れてゐないのである。卷十九、家持作の詠2霍公鳥竝藤花1一首并短歌の長歌(四一九二)の末句が、引攀而袖爾古伎禮都染婆染等母《ヒキヨヂテソデニコキレツアイマバシムトモ》となつてゐるのは、これに傚つたものである。
 
巨勢朝臣宿奈麻呂雪歌一首
 
巨勢宿奈麻呂は卷六に春二月諸大夫等、集2左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣家1宴歌一首(一〇一六)とある人(678)である。傳はその條參照。
 
1645 吾がやどの 冬木の上に ふる雪を 梅の花かと うち見つるかも
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 冬木乃上爾《フユキノウヘニ》 零雪乎《フルユキヲ》 梅花香常《ウメノハナカト》 打見都流香裳《ウチミツルカモ》
 
私ノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕、冬枯ノ木ノ上ニ降リ積ツタ雪ガ、丁度花ノヤウナノデ、ソレ〔ガ丁〜傍線〕ヲ私ハ一寸見テ〔六字傍線〕梅ノ花カト思ツタヨ。
 
○冬木乃上爾《フユキノウヘニ》――冬木は冬枯してゐる木。○打見都流香裳《ウチミツルカモ》――打ちは接頭語として添へてあるが、ふと見ることを打身《ウチミ》といふから、これもその意で解すべきであらう。
〔評〕 これは實景の直觀を述べたものであらう。類型凡想を平語を以て綴つたに過ぎない。
 
小治田《ヲハリダ》朝臣|東《アヅマ》麻呂雪歌一首
 
東麻呂の傳は明らかでない。
 
1646 ぬば玉の こよひの雪に いざぬれな 明けむあしたに けなば惜しけむ
 
夜干玉乃《ヌバタマノ》 今夜之雪爾《コヨヒノユキニ》 率所沾名《イザヌレナ》 將開朝爾《アケムアシタニ》 消者惜家牟《ケナバヲシケム》
 
(夜干玉乃)今夜降ル雪ニ、外ヘ出テ〔四字傍線〕、サア皆デ〔二字傍線〕濡レテ遊バ〔三字傍線〕ウ。翌朝マデ待ツテヰルウチ〔七字傍線〕ニ、消エテシマツタナラバ惜シイデアラウ。
 
○率所沾名《イザヌレナ》――イザは誘ひうながす詞。ナはムに同じくて、意が強い。○消者借家牟《ケナバヲシケム》――略解にキエバヲシケムとあるのはよくない。舊訓による。
〔評〕 雪を愛する心が強烈である。明くるを待たで夜の内に雪に濡れて遊ばうといふのは、純眞な童心でもあらう。この歌三句切になつてゐる。
 
(679)忌部首黒麻呂雪歌一首
 
忌部黒麻呂は卷六の一〇〇八參照。
 
1647 梅の花 枝にか散ると 見るまでに 風に亂れて 雪ぞ降りくる
 
梅花《ウメノハナ》 枝爾可散登《エダニカチルト》 見左右二《ミルマデニ》 風爾亂而《カゼニミダレテ》 雪曾落久類《ユキゾフリクル》
 
梅ノ花ガ、枝ノ上デ散リ飛ブ〔三字傍線〕ノカト思ハレルホドモ、吹ク風ノ爲ニ亂レテ雪ガ散ツテ來ル。アア美シイ景色ダ。マルデ花ガ散ルヤウダ〔アア〜傍線〕。
 
○枝爾可散登《エダニカチルト》――ニはデといふやうな意味で、場所をあらはしてゐる。カラといふに似てはゐるが、少し違つてゐる。
〔評〕 平易な歌である。三句にミルマデニを置いた歌は、集中に六首ばかりあつて、既に型が出來上つてゐるやうである。後世にもその型が繼承せられてゐる。なほこの歌の内容は、古今集の「冬こもり思ひもかけぬ木の間より花と見るまで雪ぞふりける」と同樣で、後世歌人によつて繰返されたものである。六帖にこの歌の二句を、エダニカサクトとして出してゐる。それでは四句が不要になる。
 
紀|少鹿《ヲシカ》女郎梅歌一首
 
卷四の六四三に、紀女郎怨恨歌三首と題してゐるが、古葉略類聚鈔に「鹿人大夫之女名曰小鹿也、安貴王之妻也」と註してゐる。この紀少鹿女郎はその人に違ひない。
 
1648 十二月には 沫雪ふると 知らねかも 梅の花咲く ふふめらずして
 
十二月爾者《シハスニハ》 沫雪零跡《アワユキフルト》 不知可毛《シラネカモ》 梅花開《ウメノハナサク》 含不有而《フフメラズシテ》
 
十二月ニハ、雪ガ降ルモノダト知ラナイカラカ、梅ノ花ガ蕾ンデ居レバヨイノニ〔十字傍線〕、蕾ンデヰナイデ、咲イテヰ(680)ル。雪ノ中ニ咲イテハ花ガカアイサウダ〔雪ノ〜傍線〕。
 
○十二月爾者《シハスニハ》――十二月をシハスといふのは爲果《シハ》つの意で、農民が一年の業を終つて、春を待つこころであらうといふ。年果つの略とも言はれてゐる、魂祭のため法師が忙しく走るより起つたといふのは、師走の文字について立てた説で、古意を辨へぬ妄説である。○不知可毛《シラネカモ》――知らねばかもの意。カは疑の係で、次の句でサクと結んである。舊訓シラヌカモとあるのはいけない。○含不有而《フフメラズシテ》――舊訓ツボメラズシテとあり、和歌童蒙抄にも、さう載せてあるから、それが古訓であらうが、含はフフムとよむのが古い。
〔評〕 冬の雪中梅をよんだものである。雪にほほゑむ雄々しさをたたへないで、雪に降られる苦しさをいとしがつたのである。子供のやうな氣分が嬉しい。
 
大伴宿禰家持雪梅歌一首
 
1649 今日ふりし 雪に競ひて 吾がやどの 冬木の梅は 花咲きにけり
 
今日零之《ケフフリシ》 雪爾競而《ユキニキホヒテ》 我屋前之《ワガヤドノ》 冬木梅者《フユキノウメハ》 花開二家里《ハナサキニケリ》
 
今日降ツタ雪ト競爭シテ、吾ガ宿ノ庭ノ〔二字傍線〕冬梅ノ木は、花ガ咲イタヨ。雪ガ降ツタラ、梅モ負ケナイ氣デ咲キ出シタ〔雪ガ〜傍線〕。
 
○冬木梅者《フユキノウメハ》――この冬木の梅は即ち冬梅で、春の梅ではないことをあらはすものである。
〔評〕前に沫雪爾所落開有梅花《アワユキニフラエテサケルウメノハナ》(一六四一)とあるのと同想であるが、雪爾競而《ユキニキホヒテ》と言つたのが、寒さにめげない梅の本性をあらはし得てゐる。
 
 
御2在《イマシテ》西(ノ)池邊(ニ)1肆宴歌《トヨノアカリキコシメスウタ》一首
 
續紀に、「天平十年秋七月癸酉、天皇御2大藏省1覽2相撲1、晩頭御2西池宮1因指2殿前梅樹1勅2右衛士(681)督下道朝臣眞備及諸才子1曰、人皆有v志、所v好不v同、朕去春欲v翫2此樹1而末v及2賞翫1、花葉遽落、意甚惜焉、宜d各賦2春意1詠c此梅樹u、文人三十人奉v詔賦v之、因賜2五位已上※[糸+施の旁]二十疋、六位已下各六疋1」とある。然しこれは季節も違ふ上に、左註に記された阿倍蟲麻呂はその時豎子ではなかつたやうである。なほ左註の解説を見よ。
 
1650 池のべの 松のうら葉に ふる雪は 五百重ふりしけ 明日さへも見む
 
池邊乃《イケノベノ》 松之末葉爾《マツノウラバニ》 零雪者《フルユキハ》 五百重零敷《イホヘフリシケ》 明日佐倍母將見《アスサヘモミム》
 
池ノホトリノ松ノ梢ノ葉ニ降ツタ雪ハ、ホントニヨイ景色ダガ、コノ上ニ〔ホン〜傍線〕幾重ニモ幾重ニモ降リツモリナサイ。私ハ〔二字傍線〕又明日モコノ景色ヲ見ヨウカラ。
 
○五百重零敷《イホヘフリシケ》――フリシケは降り頻れの意。敷き展べる意ではない。
〔評〕 西の池のほとりの宴會での歌であるから、池邊の松の末葉と詠んだものか、又はその折にふさはしい古歌を誦つたものか。二樣に考へられる。恐らく後者であらう。しつかりした調子の歌である。
 
右一首作者未v詳、但豎子阿倍朝臣蟲麻呂傳2誦之1
 
作者はこの宴席にゐた人ではないやうである。未詳とあるのは、古歌だからである。豎子は和名抄に「内豎三百人、俗云知比佐和良波」とあるから、チヒサワラハと訓む。豎は未だ元服しない少年の宮中に奉仕するもの。阿倍朝臣蟲麻呂の傳は卷四の六六五に略記して置いたが、なほ續紀の記するところによれば、天平九年九月己亥正七位上阿倍朝臣蟲麻呂等授2外從五位下1とあつて、既に立派な殿上人になつてゐるのであるから、これを天平十年秋七月の行幸とするのは當らない。この注は、右の歌の作者は分らないが、その時豎子であつた阿倍朝臣蟲麻呂がこれを、その席で傳誦したといふのである。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1651 沫雪の この頃つぎて かく降れば 梅の初花 散りか過ぎなむ
 
(682)沫雪乃《アワユキノ》 此日續而《コノゴロツギテ》 如此落者《カクフレバ》 梅始花《ウメノハツハナ》 散香過南《チリカスギナム》
 
雪ガコノ頃ハ毎日毎日ツヅイテ降ルガ〔三字傍線〕、コンナニ降ツテハ、梅ノ初咲キノ花モ散リスギテシマヒハセヌカ知ラ。ドウモ心配ダ〔六字傍線〕。
 
○如此落者《カクフレバ》――古義にカクフラバとあるのはよくない。カクフレバといふべきところである。
〔評〕 平庸な歌。何等の感興もない。
 
池田|廣津《ヒロツ》娘子梅歌一首
 
池田廣津娘子は傳未詳。池田は氏、廣津は字か。西本願寺本に他田とある。
 
1652 梅の花 折りも折らずも 見つれども こよひの花に なほしかずけり
 
梅花《ウメノハナ》 折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》 見都禮杼母《ミツレドモ》 今夜能花爾《コヨヒノハナニ》 尚不如家利《ナホシカズケリ》
 
梅ノ花ヲ私ハ今マデ〔五字傍線〕、折ツテ見タコトモアルシ、又木ニ咲イテヰルママデ見タコトモアルガ、今夜見ルコノ梅ノ花ニハヤハリ及バナイヨ。
〔評〕 人の家での宴席に列つての作であらう。主人の歡待に對する感謝の情が、席上の花をかやうにたたへしめてゐる。
 
縣犬養娘子依(セテ)v梅(ニ)發(セル)v思(ヲ)歌一首
 
縣犬養娘子は傳がわからない。依梅發思は卷七に寄物發思、卷十一・十二に寄物陳思とある類であらうが、ここに依の字を用ゐたのが異なつてゐる。
 
(683)1653 今のごと 心を常に 思へらば まづ咲く花の 地に落ちめやも
 
如今《イマノゴト》 心乎常爾《ココロヲツネニ》 念有者《オモヘラバ》 先咲花乃《マヅサクハナノ》 地爾將落八方《ツチニオチメヤモ》
 
今アナタガ私ヲ思ツテ下サル〔アナ〜傍線〕ヤウナ心ヲ、イツモ持ツテヰテ下サルナラバ、早ク咲イタ梅ノ〔二字傍線〕花ガ早ク地ニ落チ散ルヤウニ、スグニ捨テラレテシマフ〔スグ〜傍線〕コトハアルマイニ。ドウカ今ノヤウニイツマデモ、大切ニシテ貰ヘレバヨイガ〔ドウ〜傍線〕。
 
○心乎常爾念有者《ココロヲツネニオモヘラバ》――心を持つことを心を思ふといふのが、この集のならはしである。かの安積山の歌に淺乎吾念莫國心《アサキココロヲワガモハナクニ》(三八〇七)とあるのはその一例である。○先咲花乃《マヅサクハナノ》――第一に咲く花は梅をさしたのである。ここは冬の部に入れてあるが、それは分類の誤で、百花に魁する意でいつてゐるのである。ここのノはガの意と見る説もあるが、下へのつづきからは、どうしてもノ如クの意と解せねばならぬ。○地爾將落八方《ツチニオチメヤモ》――梅花の地に委するに譬へて、吾が身の人に捨てられるのをいつたもの。
〔評〕 題詞が委しくないので、歌意に不明な點がないではない。宣長は新に夫を持つた女の歌だらうと言つてゐる。恐らくさうであらう。下句の措辭に多少の無理がないではない。
 
大伴坂上郎女雪歌一首
 
1654 松蔭の 淺茅が上の 白雪を 消たずて置かむ ことはかも無き
 
松影乃《マツカゲノ》 淺茅之上乃《アサヂガウヘノ》 白雪乎《シラユキヲ》 不令消將置《ケタズテオカム》 言者可聞奈吉《コトハカモナキ》
 
松ノ木蔭ノマバラニ生エタ茅ノ上ニ積ツタ〔三字傍線〕白雪ヲ、消サナイデイツマデモ置クコトハ出來ナイモノデセウカナア。ホントニ面白イ景色デス〔ホン〜傍線〕。
 
○松影乃《マツカゲノ》――影は蔭の借字。○言者可聞奈吉《コトハカモナキ》――言は事の借字で、方法・術などの意であらう。宣長は言は吉の誤で、由の借字であらうといつゐるが、これは遽かに賛同し難い。
(684)〔評〕 旅中の屬目したところをよんだか、それとも庭中の景か。後世の歌には、松蔭の淺茅では庭園の景にはならぬ、下句は目に近い邸内の眺らしい。かく場面を正確に認識することが出來ないのは遺憾であるが、それは作者の罪ではない。ともかく雪の歌として材料が珍らしい。
 
冬相聞
 
三國眞人人足歌一首
 
人足は續紀によれば慶雲二年十二月從六位上から從五位下、靈龜元年四月從五位上、養老四年正月正五位下と見えてゐる。比較的古い時代の人である。
 
1655 高山の 菅の葉しぬぎ ふる雪の 消ぬとか言はも 戀の繁けく
 
高山之《タカヤマノ》 菅葉之努藝《スガノハシヌギ》 零雪之《フルユキノ》 消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》 戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》
 
私ハ戀ノ心ガヒドクテ、何トモシヤウガナイ。トヤカク言フヨリモ、イツソノコト〔何ト〜傍線〕(高山之菅葉之努藝零雪之)死ンデシマフト言ツテヤラウカヨ。
 
○菅葉之努藝《スガノハシヌギ》――菅の葉を押し靡かせて。菅は山菅即ちヤブランである。○零雪之《フルユキノ》――ここまでは消《ケ》と言はむ爲の序詞。○消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》――モはムに同じ。消えぬと言はむかの意。消ゆは死ぬこと。
〔評〕 卷三大納言大伴卿歌に、奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年《オクヤマノスガノハシヌギフルユキノケナバヲシケムアメナフリソネ》(二九九)がある。大納言は旅人だといふ説が多いが、さうではなくて、父の安麿らしく、ここの人足の歌と時代は略々同じであらう。また卷六に橘奈良麻呂の奥山之眞木葉凌零雪乃零者雖益地爾落目八方《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノフリハマストモツチニオチメヤモ》(一〇一〇)もあつて、かうした序詞の類型が出來てゐたやうに見える。これらの中ではこの歌が強烈な戀情を述べてゐるだけに、一番人を感動せしめるやうに思ふ。死を叫ぶもの、果して自から玉の緒を絶ち得るか。見ようによつては一種の強迫であり、また歎願でもある。古今(685)集戀一「おく山の菅の根しのぎふる雪のけぬとかいはむ戀のしげきに」はこの歌の異傳であらう。
 
大伴坂上郎女歌一首
 
1656 酒杯に 梅の花浮べ 念ふどち 飲みての後は 散りぬともよし
 
酒杯爾《サカヅキニ》 梅花浮《ウメノハナウカベ》 念共《オモフドチ》 飲而後者《ノミテノノチハ》 落去登母與之《チリヌトモヨシ》
 
酒盃ノ中ニ梅ノ花ヲ浮バセテ、心ノ合ツタモノ同士ガ、飲ンデ遊ン〔三字傍線〕ダ上デハ、花ハ散ツテモカマフコトハナイ。
 
○酒杯爾梅花浮《サカヅキニウメノハナウカベ》――酒杯の中に梅花をちぎつて浮ばしめるのであらう。卷五にも波流楊那宜可豆良爾乎利志烏梅能波奈多禮可有可倍志佐加豆岐能倍爾《ハルヤナギカヅラニヲリシウメノハナタレカウカベシサカヅキノヘニ》(八四〇)とある。舊訓ウメノハナウケテとあるが、古義に從ふ。○飲而後者《ノミテノノチハ》――古義ノミテノチニハとあるが、八二一に傚つて舊訓に從ふ。
〔評〕 女だてらに酒杯に梅の花を浮べて飲まうとは、思ひ切つたモダン夫人らしい。併し當時の風習を、武家時代の道徳で律するのは無理であるから、あまり蓮葉なあばずれのやうに考へるのはよくない。なほ卷五の梅花歌中の笠沙彌の、阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與斯《アヲヤナギウメトノハナヲヲリカザシノミテノノチハチリヌトモヨシ》(八二一)とあるのと下句全く同じであり、又、卷六、我屋戸之梅咲有跡告遣者來云似有散去十方吉《ワガヤドノウメサキタリトツゲヤラバコチフニニタリチリヌトモヨシ》(一〇一一)に内容的にも形式的にも少しの近似點がある。この卷六の歌は古歌の名曲であつたから、郎女はこれによつて多少教へられるところがあつたであらう。
 
和(フル)歌一首
 
1657 つかさにも 許し給へり こよひのみ 飲まむ酒かも 散りこすなゆめ
 
官爾毛《ツカサニモ》 縱賜有《ユルシタマヘリ》 今夜耳《コヨヒノミ》 將飲酒可毛《ノマムサケカモ》 散許須奈由米《チリコスナユメ》
 
多勢集ツテ酒宴ヲスルノハ官ノ禁制ダガ、親シイモノガ少人數デ酒宴スルコトハ〔多勢〜傍線〕、官デモ許シテオイデナサル。(686)ダカラ今夜バカリ、カウシテ〔四字傍線〕飲ムコノ酒デハナイソ。コノ後モオマヘノ前デ酒モリヲスルノダカラ、梅ノ花ヨ〔コノ〜傍線〕決シテ散ツテシマフナヨ。
 
○官爾毛縱賜有《ツカサニモユルシタマヘリ》――左註にあるやうに、多人數集會して酒を用ゐることは、許されてゐなかつたが、親近者少人數の集りには、許容せられてゐた。ここは親近者少人數の集宴であるから、官でもお咎めがないといふのである。○今夜耳將飲酒可毛《コヨヒノミノマムサケカモ》――今夜のみ飲む酒であらうか。決してさうではないと反語で打消してぬる。○散許須奈由米《チリコスナユメ》――コスは集中に多い語で、希望をあらはす動詞。この句は散つてくれるなよ、ゆめゆめの意。
〔評〕 誰の作ともわからない。いづれその席に列なつてゐた大伴家の一人であらう。梅といふ語を前の郎女の歌にゆづつて、これにはただチリコスナユメとのみ言つてゐる。
 
右酒者、官禁制(シテ)※[人偏+稱の旁](ハク)、京中(ノ)閭里(ハ)不(レ)v得2集宴1、但(シ)親親一二飲樂(ハ)聽許(ストヘリ)者、縁(リテ)v此(ニ)和(フル)人作(レリ)2此發句(ヲ)1焉
 
※[人偏+稱の旁]は稱に同じく、ここは曰はくと訓むべきである。發句はここでは前の歌の初二句を指してゐる。一六三五參照。
 
藤原后奉(レル)2 天皇(ニ)1御歌一首
 
藤原后は光明皇后。太政大臣藤原不比等の女。御母は縣犬養橘宿禰三千代。天平元年八月皇后とならせ給ふ。天平寶字四年六月崩。御年六十。天皇は聖武天皇。
 
1658 吾が背子と 二人見ませば いくばくか この零る雪の うれしからまし
 
吾背兒與《ワガセコト》 二有見麻世波《フタリミマセバ》 幾許香《イクバクカ》 此零雪之《コノフルユキノ》 懽有麻思《ウレシカラマシ》
 
大層美シク雪ガツモリマシタガ私ハ〔大層〜傍線〕夫ノ君ト二人デコノ雪景色ヲ〔六字傍線〕見マシタナラバ、ドンナニコノ降ル雪ガオモ(687)シロウゴザイマセウノニ。一人デスカラ物見リマセヌ〔一人〜傍線〕。
 
○二有見麻世波《フタリミマセバ》――二人で見たらうならばの意。マセはマシカバと同義である。敬語ではない。
〔評〕 何等邊幅を飾らない、眞情その物の歌である。聖武天皇のよき輔佐役として、佛教の興隆、文化の向上に努力活動し給うた、光明皇后の貴い御心があらはれてゐる。皇后は實に日本上代女性精神の代表者でいらせられた。
 
池田廣津娘子歌一首
 
神田本に他田とある。
 
1659 眞木の上に ふり置ける雪の しくしくも 念ほゆるかも さ夜とへ吾が背
 
眞木乃於上《マキノウヘニ》 零置有雪乃《フリオケルユキノ》 敷布毛《シクシクモ》 所念可聞《オモホユルカモ》 佐夜問吾背《サヨトヘワガセ》
 
(眞木乃於上零置有雪乃)頻リニ私ハアナタガ〔六字傍線〕戀シク思ハレマスヨ。ドウゾ〔三字傍線〕今夜ハ私ノ夫ノ君ヨ。私ノ所ヘ〔四字傍線〕オイデ下サイマシ。
 
○眞木乃於上零置有雪乃《マキノウヘニフリオケルユキノ》――シクシクと言はむ爲の序詞。雪は頻りに降りつむからである、眞木は檜の類。
(688)〔評〕 雪をシクシクの序として用ゐたのは、さして珍らしいこともない。しかしもし雪の降る日に男に贈つた歌とすると、實情が織り込まれたわけで、、あはれが深い。末句の佐夜問吾背《サヨトヘワガセ》はサは接頭語で夜に訪ね來よといふのであらうが、言葉が急迫してゐて面白くない。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首
 
駿河麻呂の傳は卷三の四〇〇の題辭の解參照。
 
1660 梅の花 散らす嵐の 音のみに 聞きし吾味を 見らくしよしも
 
梅花《ウメノハナ》 令落冬風《チラスアラシノ》 音耳《オトノミニ》 聞之吾妹乎《キキシワギモヲ》 見良久志吉裳《ミラクシヨシモ》
 
(梅花令落冬風)評判ニバカリ聞イテ戀シク思ツ〔六字傍線〕テヰタ、私ノ愛スル女ヲ、今カウシテ目ノ前ニ見ルノハホントニ〔今カ〜傍線〕嬉シイコトダヨ。漸ク思ヒガカナツテ嬉シイ〔漸ク〜傍線〕。
 
○梅花令落冬風《ウメノハナチラスアラシノ》――音といはむ爲の序詞。冬風をアラシとよましめるのは、おもしろい義訓である。
〔評〕 序詞は音といはむが爲であるが、あまりいたいたしく烈し過ぎて、歌の内容と氣分が一致せぬやうである。戀した女を見た喜びをあらはしてゐる。古義に「今目の前に親しく見ればまことに聞し如くさても愛《ウルハ》しやとなり」とあるのは過ぎた説明で、ヨシモはただ嬉しいといふやうな意である。
 
紀少鹿女郎(ノ)歌一首
 
紀少鹿女郎は一六四八參照。
 
1661 久方の 月夜を清み 梅の花 心開けて 吾が念へる君
 
久方乃《ヒサカタノ》 月夜乎清美《ツクヨヲキヨミ》 梅花《ウメノハナ》 心開而《ココロヒラケテ》 吾念有公《ワガモヘルキミ》
 
(689)(久方乃)月ガヨイ晩ナノデ、アナタガオイデニナリサウナモノダト〔アナ〜傍線〕、心モハレバレト(梅花)開ケテ私ガ思ツテヰルアナタヨ。ソノアナタガ思ヒ通リニオイデニナツテ、アア嬉シイ〔ソノ〜傍線〕。
 
○梅花《ウメノハナ》――開くと言はむ爲に置いた枕詞である。上句全體を序詞とする説はとらない。○心開而《ココロヒラケテ》――心が樂しく愉快なこと。古義にココロニサキテとよんで、「梅の花の開《サキ》たるごとく心(ノ)中に咲《サキ》榮えて思へる君ぞといへるか」とある。
〔評〕 待つた男が訪ねて來たのを喜んだ歌である。折から月も清く梅も咲いてゐたので、それを巧みに取り入れて詠んでゐる。明るい感じの歌ながら、少し意味の不明瞭の感があるのは、解き得ぬ人の罪か。
 
大伴田村大娘與(フル)2妹坂上大娘(ニ)1歌一首
 
1662 沫雪の 消ぬべきものを 今までに ながらへふるは 妹に遇はむとぞ
 
沫雪之《アワユキノ》 可消物乎《ケヌベキモノヲ》 至今《イママデニ》 流經者《ナガラヘフルハ》 妹爾相曾《イモニアハムトゾ》
 
雪ノ消エル〔三字傍線〕ヤウニ、私モ〔二字傍線〕消エテ死ンデシマフ筈デシタガ、今迄カウシテ生キテヰルノハ、戀シイ〔三字傍線〕アナタニ逢フ爲バカリデスヨ。
 
○沫雪之《アワユキノ》――消《ケ》の枕詞のやうであるが、下には流經者《ナガラヘフルハ》と受けてゐるから、枕詞と見ないことにする。○流經者《ナガラヘフルハ》――生き長らへて世を經るはの意であるが、第一句の沫雪の縁語として雪の斜に降る意となつてゐる。
〔評〕 萬葉集には殆ど絶無と言つてもよい縁語が、ここに用ゐられてゐる。姉妹の間の言葉としては、穩やかでないやうな熱情が披瀝せられてゐる。しかしこれは要するに雪を材料として、相聞のこころを述べた言葉の遊戯である。文字通りには受取りにくい。
 
(690)大伴宿禰家持歌一首
 
1663 沫雪の 庭にふりしき 寒き夜を 手枕まかず 一人かも寢む
 
沫雪乃《アワユキノ》 庭爾零敷《ニハニフリシキ》 寒夜乎《サムキヨヲ》 手枕不纒《タマクラマカズ》 一香聞將宿《ヒトリカモネム》
 
雪ガ庭ニ降リ積ツテ寒イ晩ニ、妻ノ〔二字傍線〕手枕モシナイデ、私ハ〔二字傍線〕一人デ寢ルコトカナア。アア辛イコトダ〔七字傍線〕。
 
○手枕不纒《タマクラマカズ》――妹が手枕まかずといふべきを略してある。
〔評〕 平凡といへば平凡である。また類型的ともいへる。併しこれ蓋し彼の實感であり、體驗である。淋しさやるせなさが、あらはれてゐるといつてよからう。
 
萬葉集卷第八
                  ――第二册、終――
 
鴻巣盛廣  萬葉集全釋 第三冊 廣文堂書店 1935.12.5印刷1935.12.10(37.7.1.2p、39.5.25.3p) 690頁、4圓50錢 
             〔2011年7月26日(火)午前10時10分巻8入力終了〕
 
 
 
鴻巣盛廣  萬葉集全釋 第三冊 廣文堂書店 1935.12.10(37.7.1.2p、39.5.25.3p) 650頁、4圓50錢 
 
(1)〜(19)〔目次省略〕
 
卷第九
 
(1)萬葉集卷第九解説
 
卷九は雜歌・相聞・挽歌の三部に分れてゐる。雜歌は長歌十二首・旋頭歌一首・短歌八十九首を含んでゐる。紀伊・吉野などの行幸の歌を始として、旅行の歌が多い。水江浦島子を詠んだものなどもその舊蹟と稱せられる地に臨んでの作らしい。相聞は長歌五首・短歌二十四首で、戀愛の作が多いが、鹿島郡苅野橋で大伴卿に別れる時の高橋蟲麿の作らしい歌(高橋蟲麿歌集に出てゐる)、遣唐使に隨つて行く愛子に贈つた母の歌などもある。さうして、その多くは旅行に關係のある作である。挽歌は長歌五首・短歌十二首である。亡妻亡弟を思つて詠んだものもあるが、葦屋處女や勝鹿眞間娘子のやうな、人口に膾炙した古傳説を詠じたものが目立つてゐる。これも亦旅中に見聞したところによつたものが多い。歌數は全體を通じて、長歌二十二首・旋頭歌一首・短歌百二十五首である。配列は大よそ年代順になつてゐる。その最も古いものは、卷頭の雄略天皇の御製である。これは卷八の秋雜歌の劈頭に、岡本天皇御製歌として掲げられてゐるものと同一で、いづれの御製とすべきかは今日からは明らかでないが、歌詞から考へれば、新しきに從つて舒明天皇とすべきであらう。併しこれらの古い時代の作は極めて少數で、多くは大寶以後天平初期までの作である。年代を明記したものでは、天平五年のものが最も新らしいが、田邊福麻呂歌集出の歌は、卷六の例によれば、天平十六年までを含んでゐるから、この卷のものも大よそその頃までのものがあると考へることが出來る。眞淵はこの卷を卷五と卷十五との(2)間に置いて第十位としてぬるが、卷十五は天平十二年以前のものであるから、この斷定は誤つてゐるであらう。更に右に掲げた、卷頭歌の左註によつて、この卷が卷八の後に成つてゐることも想像せられるから、寧ろ卷八の次位に置くべきものかと思はれる。この卷の作者は多くは明記せられてゐるが、槐本・山上・春日・高市などの如く姓のみを記したものと、絹・島足・麻呂などのやうに名のみを記したものとがあるのは、他の卷と違つた書き方である。なほ泉河・名木河・鷺坂などの歌が、少しの間隔を置いて別個に記されてゐるのは、編纂の際、底本としたものが異なつてゐる爲か。−寸奇異の感がある。又この卷には忍壁皇子・舍人皇子・弓削皇子などの皇族がたに献じた作が多いのも目につく。柿本朝臣人麻呂歌集・高橋連蟲麻呂歌集・田邊福麻呂歌集などから多く採られてゐることも注意せられる。全體としてこの卷の大きな特色と見るべきは、傳説を取扱つた長歌の多いことで、それらの中にはかなりの佳作もあるが、藝術價値の特に勝れた作品と思はれるものはあまり見當らない。用字法には戯書として山上復有山《イデ》が用ゐられてゐる位のもので、格別の特色はない。
 
(3)萬葉集卷第九
雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首
崗本宮御宇天皇幸2紀伊國1時歌二首
大寶元年辛丑冬十月幸2紀伊國1時歌十三首
後人歌二首
獻2忍壁皇子1歌一首 詠2仙人形1
獻2舍人皇子1歌二首
泉河邊間人宿禰作歌二首
鷺坂作歌一首
名木河作歌二首
高島作歌二首
紀伊國作歌二首
(4)〜(8)〔目録省略〕
 
(9)雜歌
 
泊瀬朝倉宮御宇【大泊瀬幼武天皇】天皇御製歌一首
 
泊瀬朝倉宮に天が下知ろしめしし天皇は、雄略天皇。朝倉宮の舊址は大和國磯城郡朝倉村黒崎。
 
1664 夕されば 小椋の山に 臥す鹿の 今宵は鳴かず 寐ねにけらしも
 
暮去者《ユフサレバ》 小椋山爾《ヲグラノヤマニ》 臥鹿之《フスシカノ》 今夜者不鳴《コヨヒハナカズ》 寢家良霜《イネニケラシモ》
 
夕方ニナルトイツモ〔三字傍線〕小椋山デ寢ル鹿ガ、今夜ハ鳴カナイ。戀シイ妻ニ逢ツテ〔八字傍線〕寢タラシイヨ。
 
○小椋山爾《ヲグラノヤマニ》――卷八の歌には小倉乃山《ヲグラノヤマ》(一五一一)と記してある。この御製を雄略天皇とすれば、その皇居のあつた黒崎の南方の山かと推定せられるのであるが、今はつきりと定め難い。一五一一參照。○臥鹿之《フスシカノ》――卷八の歌に鳴鹿之《ナクシカノ》とある方がよい。このままでは落付がわるい。
〔評〕左註にあるやうに舒明天皇御製と傳へられるもので、卷八に暮去者小倉乃山爾鳴鹿之今夜波不鳴寐宿家良思母《ユフサレバヲグラノヤマニナクシカノコヨヒハナカズイネニケラシモ》(一五一一)と出てゐる。どちらが正傳なるかはもとよりわからないが、そこに記して置いたやうに、舒明天皇作とすべきもののやうに思はれる。第三句だけの異傳であるが、卷八のものよりも、歌として劣るやうだ。
 
右或本(ニ)云(フ)崗本天皇御製(ト)、不v審(カニ)2正指(ヲ)1因(リテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)
 
崗本天皇は舒明天皇。不審正指は正しく指すところを審かにせずといふので、いづれがよいかを、正しく指すことが出來ないといふのであらう。下に、亦作歌兩主不敢正指(一七六三の左註)とあるのと同意で(10)あらう。即ちこの文は、右の歌は或本に舒明天皇の御製とあるが、ここに雄略天皇とあるのと、いづれが正しいかを、正しく指定することが出來ないから、卷八に載せたものを、累ねてここに載せるといふのである。これによると。或本は萬葉集の或異本ではなくて、この集を編纂する時、底本とした他の本であることがわかる。累載とあるから、この卷九は卷八の後に出來たことも、證據立てられるわけである。
 
崗本宮御宇天皇幸(セル)2紀伊國(ニ)1時歌二首
 
崗本宮の天皇、即ち舒明天皇が、紀伊に幸せられたことは紀に見えない。或は齋明天皇で、後崗本宮かも知れない。齋明天皇が紀の温湯へ幸したことは、卷一の九に見えてゐる。
 
1665 妹がため 我玉拾ふ 沖べなる 玉よせ持ち來 押つ白浪
 
爲妹《イモガタメ》 吾玉拾《ワレタマヒリフ》 奥邊有《オキベナル》 王縁持來《タマヨセモチコ》 奥津白波《オキツシラナミ》
 
土産ニシヨウト思ツテ〔十字傍線〕私ハ妻ノ爲ニ玉ヲ拾フノダ。ダカラ〔五字傍線〕沖ノ方デ立ツテヰル白波ヨ、沖ノ方ノ玉ヲ濱ヘ持ツテ來テクレヨ。ソレヲ拾ツテ歸ルカラ〔十字傍線〕。
 
○玉縁持來《タマヲセモチコ》――玉は海底の美しい石であらう。鰒玉ではない。
〔評〕 妻の爲に玉を拾ふといふ歌は、卷七、爲妹玉乎拾跡《イモガタメタマヲヒリフト》(一二二〇)など他にもあつて、珍らしい想ではないが、海を珍らしがる大和人が旅中に妻を思ふ心が見えてゐる。
 
1666 朝霧に 沾れにし衣 ほさずして ひとりや君が 山路越ゆらむ
 
朝霧爾《アサギリニ》 沾爾之衣《ヌレニシコロモ》 不干而《ホサズシテ》 一哉君之《ヒトリヤキミガ》 山道將越《ヤマヂコユラム》
 
旅ニオイデナサレタ〔九字傍線〕私ノ夫ハ、朝霧ニ沾レタ着物ヲ干サナイデ、一人デ山路ヲオ越エナサルデアラウ。サゾオツライコトデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
(11)○不干而《ホサズシテ》――略解に舊訓を改めて、カワカズテとしたのは、その意を得ない。
〔評〕 これは從駕の人の妻が、都に留守居して詠んだのである。歌全體に女らしい思ひやりの情が溢れて、あはれな作である。伊勢物語に出てゐる、「風吹けば沖つ白浪立田山夜半にや君が一人こゆらむ」と似た情緒である。この歌、新古今集※[覊の馬が奇]旅歌に出てゐるのは、その典雅温籍な體が、かの時代の人に喜ばれた爲である。
 
右二首作者未v詳
 
右二首は同一人の作ではない。一は男、一は女。しかし夫婦唱和の作でもない。
 
大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸(セル)2紀伊國(ニ)1時(ノ)歌十三首
 
太上天皇は持統天皇、大行天皇は文武天皇を指し奉る。太上天皇はオホキスメラミコトで、大行天皇はサキノスメラミコトである。大行天皇とは、天皇崩じて御謚號いまだ定まらざる間に、申し奉る稱であるが、本集では、先帝と同意に用ゐてゐる。文武天皇は、慶雲四年六月十五日崩去あらせられ、元明天皇は同七月十七日即位あらせられた。卷一に、大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌(五四)とあり、續紀には、「文武天皇、大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊國1冬十月丁未、車駕至2武漏温泉1、戊午、車駕自2紀伊1至」とあつて、この二つの記録は、共にこの歌と同時のことであらう。九月から十月にかけての行幸、御幸であつたのである。略解に「ここの大行二字は全く衍文也」とあ名のは甚だしい妄斷である。
 
1667 妹がため 我玉求む 沖べなる 白玉寄せこ 沖つ白波
 
爲妹《イモガタメ》 我玉求《ワレタマモトム》 於伎邊有《オキベナル》 白玉依來《シラタマヨセコ》 於岐都白浪《オキツシラナミ》
 
土産ニシヨウト思ツテ私ハ〔土産〜傍線〕妻ノ爲ニ玉ヲサガシテヰル。ダカラ〔三字傍線〕沖ニ立ツテヰル白浪ヨ、沖ノ方ノ白玉ヲ濱ヘ〔二字傍線〕打寄セテクレヨ。ソレヲ持ツテ歸ルカラ〔十字傍線〕。
(12)〔評〕 前の一六六五の歌と殆ど同じで、ただ僅かに異なつてゐる。別歌として取扱ふべきものではない。
 
右一首上(ニ)見(エテ)既(ニ)畢(リヌ)、但歌(ノ)辭小(シク)換(リ)年代相違(ヘリ)、因(リテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)
 
上見既畢は少し變な文であるが、上に見えて既に畢りぬとよむことにしよう。代匠記には上既見畢の誤であらうとしてゐる。古義もさう言つてゐるが、このままでわからぬことはあるまい。上見といふ熟字のやうに思はれる。この文は、右の一首は前の一六六五に載せたのだが、歌辭が少し變つて居り、年代も違つてゐるから、累ねてここに載せるといふのである。
 
1668 白崎は 幸く在り待て 大船に 眞揖しじ貫き またかへり見む
 
白崎者《シラサキハ》 幸在待《サキクアリマテ》 大船爾《オホフネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 又將顧《マタカリミム》
 
白崎ハコノ儘デ〔四字傍線〕變ラナイデ私ヲ〔二字傍線〕待ツテ居ナサイ。大キイ船ニ楫ヲ澤山ニ貫イテ、モウ一度私ハ此處ヘ〔三字傍線〕來テ見マセウカラ。ホントニコノ白崎トイフ所ハヨイ景色ダ〔カラ〜傍線〕。
 
○白崎者《シラサキハ》――白崎は紀伊日高郡白崎村の海岸で、湯淺灣の南方、紀伊水道に面して西に突出した岬である。大日本地名辭事に水路志を引いて「石灰石より成り、雪白色を呈す。故に此名あり」と記したやうに、この崎の岩石が白く見えるから、白崎の名を得たものである。○幸在待《サキクアリマテ》――無事でゐて私を待てよの意。サキクは變化せぬこと。
〔評〕 眞白な巖の山が海中に突出して、碧浪に相映じてゐる美景を舟中から眺めて、白崎に對して再遊を約した歌である。殊更大船と言つたり、眞梶しじ貫きと言つたりしたのは、從駕の一行が多數であつた爲か。無心の白崎を心あるもののやうに呼びかけてゐるのは、卷一、柿本人麿の樂浪之思賀乃辛崎雖幸有大宮人之船麻知兼津《サザナミノシガノカラサキサキクアレドオホミヤビトノフネマチカネツ》(三〇)に似たところがあつて、純眞な上代人の心情のあらはれである。サキの音を繰返した技巧をも認めねばなるまい。
 
1669 三名部の浦 潮な滿ちそね 鹿島なる 釣する海人を 見て歸り來む
 
(13)三名部乃浦《ミナベノウラ》 鹽莫滿《シホナミチソネ》 鹿島在《カシマナル》 釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》 見變來六《ミテカヘリコム》
 
三名部ノ浦ニ、潮ガ滿チテ來ルナヨ。私ハコノ三名部ノ浦ノ沖近クニ見エル〔私ハ〜傍線〕鹿島ヘ行ツテ、其處デ〔三字傍線〕釣ヲシテヰル海人ノ樣子〔三字傍線〕ヲ見テ還ツテ來ヨウト思フ。
 
○三名部乃浦《ミナベノウラ》――今、紀伊日高郡南部町の海岸である。第一册の紀伊海岸西南部地圖(一〇)參照。○鹿島在《カシマナル》――鹿島は南部町の沖合八町ばかりにある小島である。この島と海岸との間は、潮干に徒渉出來るほど淺いところではない。萬葉地理研究紀伊篇によれば、今は深い所で十尋もあるさうである。これは作者が見た感じを述べたものであらう。寫眞は著者撮影。
〔評〕 海人が綸を繰つて銀鱗を引きあげる樣は、都人にはこの上ない珍らしいものであつた。大和では見たこともないやうな大小の魚が、見てゐるうちに釣針にかけられて、籠に(14)入れられる。それはこの紀路のうちでも、取分けこの鹿島の海人が有名であつたと見える。極めて平明な調子で、いかにも思ふままを述べたらしい作である。
 
1670 朝びらき 榜ぎ出でて我は 湯羅の埼 釣する海人を 見て歸り來む
 
朝開《アサビラキ》 榜出而我者《コギイデテワレハ》 湯羅前《ユラノサキ》 釣爲海人乎《ツリスルアマヲ》 見變將來《ミテカヘリコム》
 
朝舟ヲ出シテ沖ヘ〔二字傍線〕漕イデ出テ私ハ、由良ノ崎デ釣シテヰル海人ノ樣子〔三字傍線〕ヲ見テ歸ツテ來ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○朝開《アサビラキ》――朝港を舟出すること。○湯羅前《ユラノサキ》――卷七に、爲妹玉乎拾跡木國之湯等乃三崎二此日鞍四通《イモガタメタマヲヒリフトキノクニノユラノミサキニコノヒクラシツ》(一二二〇)とある湯等乃三崎《ユラノミサキ》と同じで、紀伊國日高郡由良港の西に突出した岬。今、神谷崎と呼んでゐる。寫眞は著者撮影。
〔譯〕 前の歌と下句を等しくしてゐるが、これは海中に漕ぎ出でて、海人の釣する樣を見て來ようといふのだから、かなり念入の見物である。ここは鹿島と共に、海人の釣する名所であつたと見える。
 
1671 湯羅の埼 潮干にけらし 白神の 礒の浦みを あへてこぎとよ
 
湯羅乃前《ユラノサキ》 鹽乾爾祁良志《シホヒニケラシ》 白神之《シラカミノ》 礒浦箕乎《イソノウラミヲ》 敢而榜動《アヘテコギトヨム》
 
由良ノ崎ハ汐ガ干タラシイ。船ドモガ〔四字傍線〕白神ノ礒ノ岸ヲ競ツテ、騷ギナガラ漕イデヰル。アレハアンナニ急イデ行ツテ由良崎ノ汐干ノ潟デ魚介ノ類ヲ獲ラウトイフノダラウ〔アレ〜傍線〕。
 
○湯羅乃前《ユラノサキ》――前の歌の湯羅前《ユラノサキ》に同じ。○白神之礒《シラカミノイソ》――有田郡栖川村字栖原にある栖原山を、一に白上山と呼んでゐるが、その山脚が海に入つて灣をなすところを、白神の礒といふのだと言はれてゐる。即ち糸我山の南に當る海岸である。併しそこから由良の埼までは、西南、鷹島・黒島・十九島などを傳つて、白崎を廻つて南へ下るので、海上五里許あるらしいから、潮干の頃に漕ぎつけても、間に合はぬやうに思はれるが、果してどうであらう。大日本地名辭書には水路志を引いて、「按に萬葉集湯羅の前なる白神礒とあるは即白埼なり」とある。○敢而※[手偏+旁]動――アヘテは古義に喘ぎての意としたのはよくない。卷三に、率兒等安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師《イザコドモアヘテコギデミニハモシヅケシ》(15)(三八八)とあるアヘテと同じく、敢へて、押し切つて、爭つてなどの意である。
〔評〕 由良の崎をさして、勇ましく漕き行く海人の船を、白神の礒に立つて、眺めてゐる人の歌である。躍動的の場面が活々とうつし出されてゐる。
 
1672 黒牛潟 潮干の浦を くれなゐの 玉裳裾びき 行くは誰が妻
 
黒牛方《クロウシガタ》 鹽干乃浦乎《シホヒノウラヲ》 紅《クレナヰノ》 玉裙須蘇延《タマモスソビキ》 往者誰妻《ユクハタガツマ》
 
黒牛潟ノ汐ノ干タ海岸ヲ、赤イ美シイ裳ノ裙ヲ引張ツテ行クノハ、誰ノ妻デアルカ。美シイ女ダナア〔七字傍線〕。
 
○黒牛方《クロウシガタ》――黒牛潟。卷七に黒牛乃海《クロウシノウミ》(一二一八)とある海で、黒牛は今の海草郡黒江町である。○玉裙須蘇延《タマモスソビキ》――タマモは玉裳と書くのが普通であるが、ここには玉裾の字を用ゐてある。裾は赤裳裙之《アカモノスソノ》(一〇九〇)朕裳裙爾《ワガモノスソニ》(四二六五)などの如くスソとよむべき字で、ここに裳に通用したのであらう。
〔評〕 略解に「たが妻とは供奉の女房を指せる(16)ならん」とあり。新考に「おそらくは土地の人の妻ならむ」とあつて、いづれとも考へられる。誰が妻を文字通りに見れば新考説がよいが、この句は必ずしも尋ねる意でない場合にも用ゐられてゐる。古事記下卷に、黒日賣が仁徳天皇に對し奉つて、夜麻登幣邇由玖波多賀郡麻許母理豆能志多用波閇都都由久波多賀都麻《ヤマトベニユクハタガツマコモリヅノシタヨハヘツツユクハタガツマ》と謠はれたやうな例もあるのである。新古今集に載せた、天智天皇御製「朝倉や木の丸どのに吾が居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」の誰が子ぞには、問ひ質し給ふ意はあるが、拾遺集の「白がねの目ぬきの太刀をさげはきて奈良の都をぬるは誰が子ぞ」の如きは、その秀麗な風姿をたたへるのが主で、誰が子かを質すのは從である。これらの用例から考へると、これを供奉の女官の容姿を讃へたものとしても差支ないのである。
 
1673 風なしの 濱の白浪 いたづらに ここに寄り來る 見る人なしに 一云、ここに寄りくも
 
風莫乃《カゼナシノ》 濱之白浪《ハマノシラナミ》 徒《イタヅラニ》 於斯依久流《ココニヨリクル》 見人無《ミルヒトナシニ》
 
(17)風莫ノ濱ノ白浪ガ、見ル人モナクテ、空シク濱邊ニ打寄セテ來ルヨ。
 
○風莫乃濱之白浪《カゼナシノハマノシラナミ》――風莫の濱は何處にあるかわからない。卷七に風早之三穗乃浦廻乎※[手偏+旁]舟之《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノ》(一二二八)とあるから、これも風早の誤であらうとする説が多い。併しかうした濱の名がないとは言はれない。これについて、紀路歌枕抄には、今の西牟婁郡瀬戸鉛山村にある綱不知のこととし、「山陰の入江にて難風の時も、此浦へ漕入ぬれば、船の碇もおろさず綱にも及ばず、此故に名付ともいふ。海深き故の名ともいふとて、此所風なぎたる浦なれば、風莫濱とも云ふ」と記してゐる。これも參考すべき説である。
〔評〕 人もなき荒凉たる濱に、寄せては返す白波に見入つて感慨に沈んだ歌である。必ずしもこれを、家なる妻に見せようといふのでもない。見る人なき好農を惜しんだのでもない。ただ、淋しい濱に、心無く打ちよせては崩れる波にあはれを催してゐるのである。寂寥感の溢れた、よい作である。
 
 
一云|於斯依來藻《ココニヨリクモ》
 
これは第四句の異傳である。モを添へただけ、この方がより詠嘆的になつてゐる。
 
右一首山上臣憶良類聚歌林(ニ)曰(ク)、長忌寸意吉麻呂應(テ)v詔(ニ)作(ルト)2此歌(ヲ)1
 
舊本、聚の下、歌の字が無いのは脱ちたのである。藍紙本・神田本などによつて改めた。
 
1674 吾が背子が 使來むかと いでたちの この松原を 今日か過ぎなむ
 
我背兒我《ワガセコガ》 使將來歟跡《ツカヒコムカト》 出立之《イデタチノ》 此松原乎《コノマツバラヲ》 今日香過南《ケフカスギナム》
 
(我背兒我使將來歟跡)出立ノ松原トイフ景色ノヨイ〔十字傍線〕コノ松原ヲ私ハ〔二字傍線〕、今日アトニシテ過ギ行クコトカヨ。モツトヨク見タイノニ〔十字傍線〕。
 
○我背兒我使將來歟跡《ワガセコガツカヒコムカト》――序詞。吾が夫からの使が來るかと思つて、門に出て立つて待つといふ意味で、出立(18)の松原に冠した畝である。○出立之此松原乎《イデタチノコノマツバラヲ》――出立の松原は略解に「出立のは走出のといふ類也」とあるがさうではなく、紀伊國西牟婁郡田邊町の海岸の松原で、古くかの附近を出立莊といつたといふことである。古義には、出立を「海濱などに自ら出立たる如く見ゆるを云るなり」と説明し、松原を「紀伊に今も松原と云ふところありといへり、それ歟」と言つてゐる。なるほど別に松原といふ地名が田邊の附近にあるが、しかし今も出立といふ地があるのだから、ここは出立の松原といふ地名と見なければならない。卷十三に、紀伊國之室之江邊爾千年爾障事無萬世爾如是將有登大舟之思恃而出立之清瀲爾《キノクニノムロノエノベニチトセニサハルコトナクヨロヅヨニカクモアラムトオホブネノオモヒタノミテイデタチノキヨキナギサニ》(三三〇二)とあるのも同所である。○今日香過南《ケフカスギナム》――今日過ぎ去ることかと、立去りかねる心があらはれてゐる。
〔評〕 旅中には家を思ふ心が先に立つものだ。その氣分を織込んで、巧な序詞が作られてゐる。(と言つてこの歌を女の作とするのではない。ただ氣分だけをあらはしたのである)出立の松原の佳景を後にして、郡へ還らうとする頃の作か。佳景に對する名殘惜しさが、あはれに詠出せられてゐる。
 
1675 藤白の み坂を越ゆと 白妙の 吾が衣手は ぬれにけるかも
 
藤白之《フヂシロノ》 三坂乎越跡《ミサカヲコユト》 白栲之《シロタヘノ》 我衣手者《ワガコロモデハ》 所沾香裳《ヌレニケルカモ》
 
藤白ノ坂ヲ越エルトテ(白栲之)私ノ着物ノ袖ハ、有間皇子ガ此處デ殺サレ給ウタコトヲ思ツテ涙ニ〔有間〜傍線〕濡レタワイ。
 
○藤白之三坂乎越跡《フヂシロノミサカヲコユト》――藤白は今海草部内海町の大字となつてゐるが、その南方を東西に走つてゐる山を越える坂が即ち藤白の坂である。三坂の三は接頭語で意味はない。さてこの坂で齊明天皇の四年十一月に、有間皇子は絞殺せられ、その徒黨であつた鹽屋連※[魚+制]魚と舍人新田連未麿とは斬られたのである。なほ大日本地名辭書に「有間皇子の薨去せられし藤白坂は日高郡岩代濱にありて、熊野に接近する地にも藤白といふ名ありしに似たり」と記してある。卷二の有間皇子自傷結2松枝1歌(一四一)について考へると、あれは皇子が牟漏温湯へ連れ行かれる時の作であつて、それが再び岩代を通過して、今の藤代坂まで戻つて行かれたと思すれぬ節があるので、かうした説が出たのであらう。併し他にそれらしいところもないから、やはり今の藤白坂とすべきであらう。寫眞の中央の坂が藤白の坂。○白栲之《シロタヘノ》――枕詞。衣手とつづいてゐる。栲の皮を以て衣を製したからである。
(19)〔評〕代匠記精撰本に「藤白を越とて袖のぬるるには、ふたつの心あるべし。先は此みさかをこゆれば、故郷のことにはるかになればなり。又は有間皇子御謀反の事あらはれて、ここにしてくびりころされたまへることも、大寶の比まではまだ近ければ、それを感じて涙のこぼるるにも有べし」とあり、略解・古義もこれに傚つてゐるが、二つの異なつた感情で涙を流すといふのは、不自然である。これはどちらか一つであらぬばならぬ。有間皇子を追懷しての作とするのが、よいのではあるまいか。なほこの歌は、涙で袖をぬらすのであることは言ふまでもないが、涙といふ語を用ゐてないのは、無理といへば無理である。これは藤白といへば、有間皇子を憶ひ起す場所として、世人に普く認められてゐたからかも知れない。
 
1676 背の山に 黄葉とこしく 神南の 山の黄葉は 今日かちるらむ
 
勢能山爾《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミヂトコシク》 神岳之《カミヲカノ》 山黄葉者《ヤマノモミヂハ》 今日散濫《ケフカチルラム》
 
(20)コノ勢ノ山デ紅葉ガ絶エズ頻リニ散ツテヰル。コレデハ私ノ國ノ大和ノ〔コレ〜傍線〕神南備山ノ山ノ紅葉ハ、今日アタリ散ルデアラウカ。ドンナダラウカト思ヒヤラレル〔ドン〜傍線〕。
 
○勢能山爾《セノヤマニ》――勢能《セノ》山は妹山・背山の背山である。紀の川の沿岸にある。第一冊の三七二頁參照。○黄葉常敷《モミヂトコシク》――トコシクは、とこしへに散り頻る意。即ち絶えず盛に散ること。宣長が常は落か又は散の誤として、チリシクとよんだのに、古義・新考などが從つてゐるが、文字を改める要はない。○神岳之《カミヲカノ》ーー神岳は神南備山、即ち雷岡である。卷二に神岳乃山之黄葉乎今日毛鴨問給麻思《カミヲカノヤマノモミヂヲケフモカモトヒタマハマシ》(一五九)とある。
〔評〕 紀路の背の山の紅葉が、紛々と散亂れるのを見て、藤原の都近い、神岡の紅葉を思ひやつた歌である。神岳は卷三の登2神岳1山部宿禰赤人作歌(三二四)にあつたやうに、景色のよい山として大和人に愛せられ、殊にその紅葉は、右に引いた卷二の一五九にあるやうに、都人になつかしがられてゐたのである。かりそめの旅ながら、この山に對する思慕の情が、滑らかな雅びやかな調子で歌はれてゐる。
 
1677 大和には 聞えもゆくか 大我野の 竹葉かりしき いほりせりとは
 
山跡庭《ヤマトニハ》 聞往歟《キコエモユクカ》 大我野之《オホガヌノ》 竹葉苅敷《タカバカリシキ》 廬爲有跡者《イホリセリトハ》
 
大我野ノ竹ノ葉ヲ苅ツテ、地ノ上ニ〔四字傍線〕敷イテ私ガ〔二字傍線〕庵ヲ作ツテ宿ツテヰルトイフコトハ、私ノ故郷ノ〔五字傍線〕大和ノ國ヘハ傳ハツテ行クダラウカ。トテモアチラマデハ傳ハルマイ。家ニ居ルモノドモハ今私ガカウシテヰルコトヲ知ルマイ〔トテ〜傍線〕。
 
○大我野之《オホガヌノ》――後世、相賀《アフガ》庄と言つたところで、今、伊都郡橋本町大字|東家《トウケ》・市脇あたりの平地である。紀伊名勝圖會には「相賀莊二十六箇村の内、市脇・東家・寺協三ケ村の田地の字に、相賀臺といふ曠野あり、これ右の大我野なるべし。相賀と記せるは音近きを以て、誤れるなるべし」とある 略解に、「和名抄、紀伊名草郡大屋。又大宅郷有。宣長は我は家の誤也といへり。さらばおほやとよむべし」とあるので、古義・新考などがこれに從つてゐるのは、疎漏である。○竹葉苅敷《タカバカリシキ》――略解に「官本竹の上小の字有をよしとす」とあつて、ササバ(21)カリとよんでゐるのに、古義・新考などが從つてゐるけれども、校本にさうした異本をあげてゐない。竹葉としてよむべきである。
〔評〕 旅寢の辛さに、故郷を思ふ歌である。行幸に從ふものでも、かうした辛い旅をつづけたのである、哀調人を動かすものがある。
 
1678 紀の國の 昔弓雄の 響失もち 鹿獲り靡けし 坂の上にぞある
 
木國之《キノクニノ》 昔弓雄之《ムカシユミヲノ》 響矢用《ナリヤモチ》 鹿取靡《カトリナビケシ》 坂上爾曾安留《サカノヘニゾアル》
 
昔紀伊ノ國ノ名高イ上手ノ〔六字傍線〕弓取ガ、鳴リ鏑矢ヲ以テ、鹿ヲ澤山ニ捕ツタ坂ノ上デアルゾヨ、コノ坂ハ〔四字傍線〕。
 
○昔弓雄之《ムカシユミヲノ》――弓雄は巧に弓射る男。古義には「弓雄、ユミヲと訓たれどもいかがなり。人名ならばさもあるべし。もし後世弓取と云如く、弓を善射る者をいふこととせば甚いかがなり。刀雄《タチヲ》・矛煙《ホコヲ》などやうに云る例、いにしへ無きをも思へ」といつて、弓を幸の誤としてサツヲと訓んでゐるが、改めるには及ばない、なほ新考には、昔弓雄では辭がととのはないとして、弓雄之昔の誤としてゐるが、これも要なき改竄である。ムカシユミヲノでは、言葉のつづきが穩やかでないやうでもあるが、これは、昔、木の國の弓雄のと解すべきであらう。○響失用《ナリヤモチ》――舊訓カブラモテとあるのを、考にナルヤモテ、略解にナリヤモテと訓んでゐる。文字通りナリヤと訓むがよいやうである。和名抄に「鳴箭、漢書音義云、鳴鏑、如2今之鳴箭1也、日本紀私記云、八目鏑、夜豆女加布良」とある。この歌、袖中抄にはナルヤとよみ、和歌童蒙抄にはカブラヤとよんでゐる。用はモチとよむがよい。○鹿取靡《カトリナビケシ》――舊訓シカトリナビクを考にシカトリナメシとしてゐるが、古義にカトリナビケシと訓んだのがよい。鹿を打靡けたこと。略解にトリナメシとよんで、「とりなめしは、あまたとりならべし意なるべし」とあるのは當るまい。
〔評〕 昔紀の國の何處かの坂に、猛惡な鹿がゐて、人を害ふことがあつたのを、或射手が打ちとめたといふ傳説があつたものらしい。今旅の道すがら、その坂の上で、古い武勇譚に胸を踊らせつつ詠んだ歌で、内容にふさ(22)はしい、力強い雄渾な格調を持つてゐる。
 
1679 紀の國に 止まず通はむ 都麻のもり 妻よし來せね 妻といひながら 一云、つま賜ふにもつまといひながら
 
城國爾《キノクニニ》 不止將往來《ヤマズカヨハム》 妻社《ツマノモリ》 妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》
 
私ハ〔二字傍線〕紀伊ノ國ヘ今後モ〔三字傍線〕絶エズ通ハウト思フ。妻ノ社トイフ社ノ神樣〔七字傍線〕ヨ、妻トイフ名ダカラ私ノ思フ女〔四字傍線〕ヲ寄セテ來テ下サレ。
 
○妻社《ツマノモリ》――神名帳に、紀伊名草郡都麻津比賣神社とあり、和名抄にも名草郡に津麻郷とあるから、そこの社に違ひない。今、海草郡西山東村大字平尾字若林にその遺跡がある。但し紀伊名所圖會には、「妻村にありし森なるべし。妻村は大和街道にて上古御幸道なり」とあるが、妻村は今の橋本町字妻の地で、伊都郡に屬してゐる。萬葉地理研究紀伊篇の著者は、そこをこの妻の社と推定してゐる。なほ同書には、海草郡和佐村字關戸に、妻御前社の舊跡があることを述べてゐる。○妻依來西尼《ツマヨシコセネ》――舊訓ツマヨリコサネとあるが、略解にツマヨシコセネと訓んだのに從ふ。新考に「ツマヨセコサネ又はツマヨシコサネとよむべし。西は省呼にてサともよむぺければなり」とあるが、西の字を假名に用ゐたのは、廬入西留良武《イホリセルラム》(一九一八)・零爾西者《フリニセバ》(三二一四)・與西都奈波倍?《ヨセツナハヘテ》(三四一一)・都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》(三四五四)などセと訓ましめるものが多いから、ここもコセネの方が穩やかである。コセはコスの變化で、希望をあらはす。この句は妻を寄せ給へよの意。西は呉音サイ、漢音セイであるから、これをセの假名に用ゐたとすると、漢音の省略と見ねばならぬ。併し、呉音以前の古音が遺つてゐるのかも知れないから、なほ研究を要する。○妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》――妻といふからにはの意。ナガラは、ママニ。
〔評〕 妻の杜といふ名をなつかしがつて、妻を寄せよと呼びかけたもので、かの業平の「名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」などに似たところもあるが、かれは思ひつめた悲痛の聲であるのに、これはゆつたりとした餘裕のある詠吟である。
 
一云|嬬賜爾毛嬬云長柄《ツマタマフニモツマトイヒナガラ》
 
(23)これは四五の句の異傳である。略解に、「按に爾は南の誤にて、つまたまはなもならむか。しからば妻を賜へと神に乞ふ意なるべし。」字音辨證にはこの歌を引いて、「按ふに、爾はもよのままにてナの假字に用ゐたるものとすべし。但し音圖を考ふるに爾は呉原音ナイなり。故に省呼してナに借たるなり。云々」とあるが、略解の説が穩やかであらう。
 
右一首、或云坂上忌寸人長作
 
坂上意寸人長の傳はわからない。
 
後《オクレタル》人(ノ)歌二首
 
後人はオクレクルヒトと訓む。留守居の人の意。歌の趣では從駕の人の妻であらう。卷五に後人追加(八七二)とある後人とは、意味を異にしてゐる。
 
1680 麻裳よし 紀へ行く君が 信土山 越ゆらむ今日ぞ 雨なふりそね
 
朝裳吉《アサモヨシ》 木方往君我《キヘユクキミガ》 信土山《マツチヤマ》 越濫今日曾《コユラムケフゾ》 雨莫零根《アメナフリソネ》
 
(朝裳吉)紀伊ノ國ノ方ヘ行ク私ノ夫ノ〔四字傍線〕君ガ、信土山ヲ今日ハオ越エナサル頃ダヨ。ダカラ〔三字傍線〕雨ヨ降ルナヨ。雨ノ山道ハオヒドイデアラウカラ〔雨ノ〜傍線〕。
 
○朝裳吉《アサモヨシ》――枕詞。木《キ》とつづく。五五參照。○木方往君我《キヘユクキミガ》――木方《キヘ》のヘは方向を示す助詞であるから、べと濁るのではない。紀伊邊と解釋してはわるい。○信土山《マツチヤマ》――大和紀伊の國境にある眞土山。五五參原。信はマコトであるから、眞と同じく用ゐるのである。
〔評〕 女性らしい柔い情緒が溢れてゐる。夫を思ふ心があはれである。
 
1681 後れゐて 吾が戀ひをれば 白雲の 棚引く山を 今日か越ゆらむ
 
後居而《オクレヰテ》 吾戀居者《ワガコヒヲレバ》 白雲《シラクモノ》 棚引山乎《タナビクヤマヲ》 今日香越濫《ケフカコユラム》
 
(24)後ニ殘ツテ、家ニ止マツテヰテ〔八字傍線〕、私ガ夫ヲ〔二字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルト、夫ハ〔二字傍線〕白雲ノ棚引ク高イ〔二字傍線〕山ヲ今日アタリオ越エナサルコトデアラウカ。サゾ難儀デアラウ〔八字傍線〕。
 
○吾戀居者《ワガコヒヲレバ》――ヲレバは、居るとの意で輕く用ゐてある。下に因果の關係で連なつてゐるのではない。
〔評〕 これも前と同樣の氣分であるが、その愛慕の情は、更に深いものがあるやうである。遙か西南に連なる山に棚引いた白雲を眺めつつ、涙ぐんでゐる若い妻の俤もしのばれて悲しい。
 
獻(レル)2忍壁皇子《オサカベノミコニ》1歌一首 詠(メル)2仙人(ノ)形《カタヲ》1。
 
忍壁皇子は書紀に「天武天皇二年、云々、次宍人臣大麻呂女、〓媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、十年三月庚子朔丙戍、詔2云々忍壁皇子云々1、令v記2定帝紀及上古諸事1十四年正月丁未朔丁卯授2淨大參位1、朱鳥元年八月己巳朔辛己、忍壁皇子加2封百戸1」とあり、續紀に「文武天皇三年甲午勅2淨大參刑部親王云々1、撰2定律令1、大寶元年八月癸卯、三品刑部親王云々、律令始成、三年正月壬午、詔知2太政官事1慶雲元年正月丁酉、益2封二百戸1、二年四月庚申、賜2越前國野一百町1、五月丙戍、三品忍壁親王薨、天武天皇第九皇子也」とある。仙人形は仙人の繪。形はカタと訓むがよい。この歌は作者がわからない。
 
1682 とこしへに 夏冬行けや 裘 扇放たぬ 山に住む人
 
常之陪爾《トコシヘニ》 夏冬往哉《ナツフユユケヤ》 裘《カハゴロモ》 扇不放《アフギハナタヌ》 山住人《ヤマニスムヒト》
 
イツデモ夏ト冬トガ同時ニ經《タ》ツテ行クカラカ、冬ノ着物ノ〔五字傍線〕皮ノ衣ト、夏使フ〔三字傍線〕扇トヲ放サナイデヰル山ニ住ム仙〔傍線〕人デス、コレハ〔五字傍線〕。
 
○常之陪爾《トコシヘニ》――永久に。いつでも。○夏冬往哉《ナツフユユケヤ》――夏と冬とが、經往けばにやの意。夏と冬とが同時に來り行くからか、即ち同時に夏でもあり冬でもあるからかの意。○裘《カハゴロモ》――皮衣。獣皮で縫つた衣。即ち毛皮の着物である。卷二、毛許呂裳《ケゴロモ》(一九一)と同じ。○扇不放《アフギハナタヌ》――扇《アフギ》はここでは團扇であらう。仙人の持つものとしては、(25)扇子ではふさはしくない。○山住人《ヤマニスムヒト》――山に住む人は仙人。荘子逍遥遊に「藐姑射山有2神人1居焉、肌膚若2氷雪1、綽約若2處子1」とあるやうに、山に住んで霞を食ひ霧を吸つて生きてぬる人である。
〔評〕 これは忍壁皇子の家の屏風か何かに、仙人の繪が書いてあるのを見て詠んだもので、後世の歌の題に「何何のかた」とあるものの濫觴といつてよい。支那から渡來した神仙思想が、廣く盛に行はれてゐたらしいこの時代には、かうした仙人の畫像などもかなり弄ばれてゐたのであらう。裘を着て團扇とを持つた、夏冬兼帶の姿を皮肉つた歌である。古義に「しか寒暖常行《ナツフユトコシナヘニユキ》て、世はなれたる佳境なれば、住人の常住不變なるも、ことわりぞとの意を、もたせたるなるべし」とあるのは、どうであらう。
 
獻(レル)2舍人皇子(ニ)1歌二首
 
舍人皇子は天武天皇の皇子。日本書紀の編纂者。一一七參照。これも作者の名が明らかにされてゐない。
 
1683 妹が手を 取りて引きよぢ うち手折り 吾がかざすべき 花咲けるかも
 
妹手《イモガテヲ》 取而引與治《トリテヒキヨヂ》 ※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》 吾刺可《ワガカザスベキ》 花開鴨《ハナサケルカモ》
 
(妹手)取ツテ引張ツテ手折ツテ、私ガ頭ノ飾ニシテ遊ブベキ花ガ咲キマシタヨ。美シイ花デスネ〔七字傍線〕。
 
○妹手《イモガチヲ》――枕詞。取るにつづく意は明らかである。○取而引與治《トリテヒキヨヂ》――取りて引攀ぢ。攀づは引くことである。一四六一參照。○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ――※[手偏+求]は、土を盛る、又は長い貌で、打つといふ意はない。代匠記精撰本にナガタヲリともよむべしと言つてゐるが、ともかくウチと訓まねばならぬやうである。この卷に※[手偏+求]手折多武山霧《ウチタヲリタムノヤマギリ》(一七〇四)、卷十三に※[手偏+求]手折吾者持而往《ウチタヲリワレハモチテユク》(三二二三)とある。なほこの字義については、考ふべきである。○吾刺可《ワガカザスベキ》――考に吾の下に頭の字が脱ちたものとしてゐる。略解の宣長説には「吾は君の誤にて、きみがさすべきと訓むべし。さすは即かざす事也。しか訓まざれば、皇子に献るといふに當らず」とある。これも一理はあるが、もとのまま(26)でも聞えるから、改めるには及ばない。
〔評〕 春が來て、花の咲いた喜びを歌つたものであらう。皇子に献じた歌としてあるので、寓意があるものと見て、代匠記精撰本に「下句は此皇子の御蔭に隱れ申すべき程に成給へるを悦ぶ意なり」とあるが、考へ過ぎであらう。
 
1684 春山は 散り過ぎぬれども 三輪山は いまだふふめり 君まちがてに
 
春山者《ハルヤマハ》 散過去鞆《チリスギヌレドモ》 三和山者《ミワヤマハ》 未含《イマダフフメリ》 君待勝爾《キミマチガテニ》
 
春ノ山ノ花〔二字傍線〕ハアナタ樣ノオイデヲ待チカネテ、散ツテシマヒマシタガ、三輪山ノ花ダケハマダ蕾ンデヰマス。アナタ樣ノオイデヲ氣長ニオマチシテ居リマス〔アナ〜傍線〕。
 
○春山者《ハルヤマハ》――新考に「春日山ハ」の誤としたのは從ひ難い。春のすべての山はの意。○散過去鞆《チリスギヌレドモ》――略解にチリスギユケドモとある。いづれでもよいであらう。舊訓チリスグレドモとあるのはよくない。花が散り過ぎたれどもの意。○三和山者《ミワヤマハ》――三和山は三輪山。
〔評〕 三輪山の花ばかりが、他の山々の花と異なつて、未だ開かないでゐるのを見て、親王に報告したのである。或はこの親王の御庄が三輪山近くにあつたものか。代匠記初稿本に「みわ氏の人の舍人皇子の御陰をたのみ居たるがよめるか。さらずばみわ山とはわきていふまじくや。春山は散過れどもは、皆人の榮華の盛の身にあまるまでなるにたとへ、みわ山はいまだつぼめりは、わが身のしづみ居たるによせてよめりときこゆ。さて皇子にうれへ申て、吹擧をあふぐなるべし」とあるのは、やはり考へ過ぎであらう。
 
泉河邊(ニテ)間人宿禰作(レル)歌二首
 
泉河は山城相樂・綴喜・久世の諸郡を流れて淀川に注いでゐる。この歌の詠まれた地點は明らかでないが、歌の内容から考へると、恐らく上流であらう。
 
1685 河の瀬の たぎつを見れば 玉もかも 散り亂れたる 河の常かも
 
(27)河瀬《カハノセノ》 瀧乎見者《タギツヲミレバ》 玉藻鴨《タマモカモ》 散亂而在《チリミダレタル》 河常鴨《カハノツネカモ》
 
コノ泉〔三字傍線〕河ノ瀬ガ泡立ツテ流レテ居ルノヲ見ルト、玉デモ散亂シテヰルノカト思ハレルガ、ソレトモ〔十字傍線〕コノ川ハイツデモコンナニキレイニ玉ヲ散ラシタヤウニ流レテヰル〔コン〜傍線〕ノカヨ。實ニキレイナ流ダ〔八字傍線〕。
 
○瀧乎見者《タギツヲミレバ》――舊訓タギルヲミレバとあるのでもわるくはないが、ここは古義に從ふ。○玉藻鴨《タマモカモ》――藍紙本・壬生本・類聚古集・古葉略類聚鈔に藻の字がないので、この句を新訓にタマヲカモとしてゐる。併しそれらの本も訓はタマモとなつて居り、この歌を拾遺集に載せて、「川の瀬のうづまく見れば玉もかるちり亂れたる川の舟かも」とあり、六帖に「河のせになびくを見れば玉藻かも散亂れたる川のつねかも」とあるから、タマモカモが古訓であつたらしい。藻の字がないとしても、モを入れてよいくらゐのところである。藻は集中、助詞に用ゐられた場合が多い。忘可禰津藻《ワスレカネヅモ》(七二)・鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》(六二八)・事藻不盡我藻將依《コトモツクサジワレモヨリナム》(三七九九)など、なほ多くの例がある。神田本・西本願寺本などに藻の字があるのによりたいと思ふ。○河常鴨《カハノツネカモ》――舊本、河の上に此の字があつて、舊訓コノカハトカモとあるが、この字は藍紙本・神田本以下、古本皆無いから、舊本は誤である。代匠記精撰本に、「此の字衍文歟」とあるのは卓見である。訓は藍紙本などに從つて、カハノツネカモとするがよい。これはこの泉川の常のことかといふのである。
〔評〕 泉河の奔流が、玉と碎けて散つてゐる佳景を見て、今日にかぎつてかやうに面白いのか、それとも何時もかやうなのかと、驚きの目を見張つたのである。躍動的風景がよくあらはれてゐる。叙述が整はないやうにも思はれるが、それは次の歌によつておのづから補はれてゐる。これより以下、旅中の作が集められてゐる。
 
1686 彦星の かざしの玉の つまごひに 亂れにけらし この河の瀬に
 
彦星《ヒコホシノ》 頭刺玉之《カザシノタマノ》 嬬戀《ツマゴヒニ》 亂祁良志《ミダレニケラシ》 此河瀬爾《コノカハノセニ》
 
コノ泉川ノ水ガ玉ノヤウニ見エルノハ〔コノ〜傍線〕、彦星ノ挿頭ノ玉ガ彦星ガ〔三字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ヲ戀ヒ慕ツテ身悶エシタ〔七字傍線〕ノデ、落散ツテ〔四字傍線〕ヲコノ河ノ瀬ニ亂レ飛ンダノデアラウ。
 
(28)○彦星頸刺玉之《ヒコホシノカザシノタマノ》――挿頭の玉といふと女らしい感じがある。併し男でも玉の挿頭をしなかつたのではない。ことにこれは天上の男であるから美化したのであらう。新考に「彦星はタナバタの誤にあらざるか」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 前の歌に述べた玉を説明したもので、前と連作になつてゐる。空想的な優雅な作品である。これによつて泉河が天上の銀河にも比すべき聖地らしくなつてゐる。古義に「彦星を云るは、此歌よめる時七夕などにやありつらむ」とあるが、そこまで考ふべきものとは思はれない。
 
鷺坂(ニテ)作(レル)歌一首
 
鷺坂は下に山代久世乃鷺坂《ヤマシロノクセノサギサカ》(一七〇七)とあつて、山城國久世郡久世にある久世神社を奉祀する丘陵を鷺坂山と稱してゐる。寫眞は今の奈良街道久世神社前面の坂。神社は右方にある。著者撮影。
 
1687 白鳥の 鷺坂山の 松蔭に 宿りて行かな 夜も更け行くを
 
白鳥《シラトリノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 松影《マツカゲニ》 宿而往(29)奈《ヤドリテユカナ》 夜毛深往乎《ヨモフケユクヲ》
 
(白鳥)鷺坂山ノ松ノ木蔭ニ私ハ今夜ハ〔五字傍線〕宿ツテ行カウナア。夜モダンダン更ケテ行クカラ。野宿ハツライケレドモ仕方ガナイ〔野宿〜傍線〕。
 
○白鳥《シラトリノ》――枕詞。白い鳥の鷺の意で、鷺坂につづいてゐる。
〔評〕 疲れた足を引きずつて夜道を急いでも、里までは遠いからと思ひ切つて、山の松蔭に雨露を凌がうとする、旅人のあきらめが淋しさうによまれたあはれな歌である。
 
名木河(ニテ)作(レル)歌二首
 
名木河は今その所在が明らかでない。和名抄に久世郡那紀郷があるのは、今の小倉村伊勢田の邊らしいから、名木河は仁徳・推古の兩朝に開鑿せられた、栗隈溝であらうと、大日本地名辭書に推定してゐる。しかもこの栗隈溝の遺址も亦明らかでない。なほ考ふべきである。二首は一首の誤か。
 
1688 あぶりほす 人もあれやも ぬれ衣を 家には遣らな 旅のしるしに
 
※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 沾衣乎《ヌレギヌヲ》 家者夜良奈《イヘニハヤラナ》 ※[羈の馬が奇]印《タビノシルシニ》
 
コノ沾レタ着物ヲ〔八字傍線〕アブツテ干シテクレル人ガアレバヨイガ、サウイフ人ハナイ。ダカラ〔サウ〜傍線〕コノ沾レタ着物ヲ苦シイ〔三字傍線〕旅ノシルシトシテ家ニ送ツテヤラウナア。
 
○※[火三つ]干《アブリホス》――※[火三つ]は炎に同じく、ホノホであるが、焙り乾かすことに用ゐてゐる。この文字はここと下の一六九八に用ゐられてゐるのみである。○人母在八方《ヒトモアレヤモ》――人モアラメヤモの意で、人も居ないと強く言ふのである。あれかしと希望するのではない。
〔評〕 旅に出てゐる人が、雨に霑れたわびしさをかこつた歌である。零れた着物の始末に困つて、家なる妻を思ふ情が悲しく詠まれてゐる。
 
1689 荒磯べに つきてこがさね から人の 濱を過ぐれば こほしくあるなり
 
(30)在衣邊《アリソベニ》 著而榜尼《ツキテコガサネ》 杏人《カラヒトノ》 濱過者《ハマヲスグレバ》 戀布在奈利《コホシクアルナリ》
 
荒礒ノホトリニツイテ舟ヲ漕ギナサイ。アナタノ舟ガ〔六字傍線〕、杏人ノ濱ヲ通リ過ギルト見エナクナルノデ〔八字傍線〕、戀シク思フヨ。
 
○在衣邊《アリソベニ》――荒礒のほとりに。○著而榜尼《ツキテコガサネ》――舊訓はツキテコゲアマとあるが、宣長がコガサネとよんだのがよい。海岸近く舟を漕ぎなさいの意。○杏人《カラヒトノ》――舊訓にかうなつてゐる、杏は和名抄に加良毛毛とよんであつて、カラモモではあるが、カラとのみ訓むのはどうかと思はれる、併し宣長が京の誤として、ここをミヤコビトであらうと言つたのも遽かに從ひ難いから、しばらく舊訓に從ふことにする、但しカラヒトノハマはその所在不明。
〔評〕 これは海岸での作で、旅に上る家人を送る歌である。標題に名木河作歌とあるけれども、全くその趣が見えない。結句が散文的に聞えて珍らしい調になつてゐる。
 
高島(ニテ)作(レル)歌二首
 
高島は近江國高島郡、琵琶湖の西方。
 
1690 高島の 阿渡河波は 騷げども 我は家思ふ やどり悲しみ
 
高島之《タカシマノ》 阿渡河波者《アトカハナミハ》 驟鞆《サワゲドモ》 吾者家思《ワレハイヘオモフ》 宿加奈之彌《ヤドリカナシミ》
 
高島ノ安曇河ノ河波ハ鳴リ騷イデヰルガ、ソレニハ氣モトラレナイデ〔ソレ〜傍線〕、私ハ旅ノヤドリノ物悲シサニ、唯〔傍線〕家ノコトバカリヲ思ツテヰル。
 
○高島之阿渡河波者《タカシマノアトカハナミハ》――高島の安曇川の波。安曇川は一二三八・一二九三參照。
〔評〕 この歌は卷七の竹島乃阿戸白波者動友吾者家五百入〓染《タカシマノアトシラナミハトヨメドモワレハイヘオモフイホリカナシミ》(一二三八)と同歌の異傳であらう。卷二の人麿作、(31)小竹之葉者三山毛清爾亂友吾者妹思別來禮婆《ササノハハミヤマモサヤニサヤゲドモワレハイモオモフワカレキヌレバ》(一三三)とも似てゐる。
 
1691 旅なれば よなかを指して 照る月の 高島山に 隱らく惜しも
 
客在者《タビナレバ》 三更刺而《ヨナカヲサシテ》 照月《テルツキノ》 高島山《タカシマヤマニ》 隱惜毛《カクラクヲシモ》
 
旅ニ出テヰルノデ、月ノ光ハ唯一ノ慰ミダノニ〔月ノ〜傍線〕、夜中ノ頃ニナツテ空ニ〔二字傍線〕照ル月ガ、高島山ニ隱レルノハ惜シイコトダヨ。
 
○三更刺而《ヨナカヲサシテ》――三更《ヨナカ》は高島郡の地名とする説もあるがよくない。高島郡にその地名はない。古義には卷七の狹夜深而夜中乃方爾《サヨフケテヨナカノカタニ》(一二二五)と共に、夜中の潟といふ地名としてゐる。刺而《サシテ》は夜中の頃になつての意であらう。新考に過而《スギテ》の誤かと言つてゐる。○高島山《タカシマヤマ》――高島郡西界の山で、どの山と指すのではあるまい。今この山名がない。
〔評〕 月を旅寢の友としてゐる人が、月の西山に傾かうとするのを惜しんだので、二の句の叙法がどうかと思はれるが、全體に淋しさがあらはれてゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。六帖には「旅なれば宵に立出でて照る月の高島山に隱るる惜しも」と出てゐる。
 
紀伊國(ニテ)作(レル)歌二首
 
1692 吾が戀ふる 妹は逢はさず 玉の浦に 衣片しき 一人かも寐む
 
吾戀《ワガコフル》 妹相佐受《イモハアハサズ》 玉浦丹《タマノウラニ》 衣片敷《コロモカタシキ》 一鴨將寢《ヒトリカモネム》
 
私ガ戀ヒ慕ツテヰル妻ハ逢ハナイデ、玉ノ浦デ唯一人デ淋シク〔三字傍線〕着物ヲ片敷イテ、丸寢ヲスルコトカナア。アアツライ〔五字傍線〕。
 
○妹相佐受《イモハアハサズ》――アハサズは逢ハズの敬相。舊訓イモニアハサズとあるが、略解に從ふ。この妹は家なる妻ではないやうである。○玉浦丹《タマノウラニ》――玉浦は卷七に玉之浦離小島夢石見《タマノウラハナレコジマノイメニシミユル》(一二〇二)とあるところで、紀伊東牟婁部下里(32)町大字粉白の海岸である。
〔評〕 旅やに女をかいまみて、思ひを遂げ得ぬ時の歌か。衣片敷一鴨將寢《コロモカタシキヒトリカモネム》は他に似通つた句もあつて、幾分類型的ではあるが、あはれな言葉である。新古今集に「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寢む」とあるのは、これを踏襲したものと思はれる。
 
1693 玉くしげ 明けまく惜しき あたら夜を ころも手かれて 一人かもねむ
 
玉〓《タマクシゲ》 開卷惜《アケマクヲシキ》 〓夜矣《アタラヨヲ》 袖可禮而《コロモテカレテ》 一鴨將寢《ヒトリカモネム》
 
家ニ居ルナラバ妻ト節緒ニネテ〔家ニ〜傍線〕(玉〓)明ケルノガ惜シィ、アツタラ夜ダノニ、今ハ旅ニ出テヰルノデ妻ノ〔今ハ〜傍線〕袖ト別レテ、一人デ私ハ〔二字傍線〕寢ルコトカナア、アアツライ〔五字傍線〕。
 
○玉〓《タマクシゲ》――枕詞。玉櫛笥開くとつづく。○開卷惜《アケマクヲシキ》――夜の明けるのが惜しい。○〓夜矣《アタラヨヲ》――〓は※[立心偏+吝]の俗字で、惜しむ意であるから、ここにアタラとよんだのである。アタラは可惜《アツタラ》の意。卷十一に〓無(二六六一)をヲシケクモナシとよんでゐる。類聚古集に惜無に作るによれば、〓と惜と同字か。
〔評〕これは旅中に故郷の妻を思ふ歌である。紀伊國作歌の趣がないのは、前の玉の浦の歌と同時の作か、併し内容からさうは考へられないから、ただ同人が紀伊の旅で詠んだものと見るべきであらう。
 
鷺坂(ニテ)作(レル)歌一首
 
1694 細領巾の 鷺坂山の 白つつじ 我ににほはね 妹に示さむ
 
細比禮乃《タクヒレノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 白管自《シラツツジ》 吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》 妹爾示《イモニシメサム》
 
(細比禮乃)鶯坂山ノ白躑躅ノ花ハ、私ノ着物〔三字傍線〕ニ染マレヨ。サウシタラソレヲ家ノ〔サウ〜傍線〕妻ニ示サウト思フ。
 
○細比禮乃《タクヒレノ》――枕詞。栲領巾のやうな白い細い毛を頭につけてゐる鷺の意で、鷺坂山に冠するのであらう。古義・新訓などホソヒレノと訓んでゐるが、細はタヘと訓んだ例が多く、タヘはククと同じであるから、タクヒ(33)レノでよいであらう。曾丹集に「たくひれの鷺坂岡のつつじ原色てるまでに花さきにけり」とあるのは、この歌の古訓が、タクヒレノであつたことを證するものである。これを特にホソヒレといふのは、どうかと思はれる。○鷺坂山《サギサカヤマノ》――一六八七參照。寫眞は著者撮影。○吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》――終の尼の字、舊本に?とあるのは誤。藍紙本・類聚古集など尼に作つてゐる。ニホハネは匂へよの意。ニホフは色の衣服に染むこと。
〔評〕 鷺坂山で美しく咲いてゐる白躑躅を見てこれを旅の記念として、妻に示す方法がないかと言つたので、生憎白躑躅であるから衣服に染まないのを遺憾としたものか。併しワレニニホハネではその心持がはつきりあらはれないやうである。
 
泉河(ニテ)作(レル)歌一首
 
1695 妹が門 入り泉河の 常滑に み雪殘れり いまだ冬かも
 
妹門《イモガカド》 入出見河乃《イリイヅミカハノ》 床奈馬爾《トコナメニ》 三雪遺《ミユキノコレリ》 未冬鴨《イマダフユカモ》
 
(34)(妹門入)泉川ノ磐ノ滑ラカナ所ニ、雪ガ遺ツテヰルヨ。シテ見ルト〔五字傍線〕、マダ冬カナア。
 
○妹門入出見河乃《イモガカドイリイヅミガハノ》――妹門入《イモガカドイリ》は出見河《イヅミガハ》の序詞。妹が家の門を入つたり出たりする意にかけてゐる。卷七の妹門出入乃河之《イモガカドイデイリノカハノ》(一一九一)と類似した修辭である。出見河《イヅミガハ》は泉河。○床奈馬爾《トコナメニ》――トコナメは常滑。川の磐のいつも滑らかなこと。三七參照。○三雪遺《ミユキノコレリ》――ミは接頭語。この雪はまことの雪ではなく、岩に激する水の白く泡立つのを雪といつたのである。
〔評〕 泉河の奔流が白波を立ててゐるのを、雪に見立てて三雪遺《ミユキノコレリ》と言切つてしまひ、さうして未冬鴨《イマガフユカモ》と怪しんだものである。雪のやうだといふやうな譬喩を用ゐない、思ひ切った叙法が奇抜で力がある。
 
名木河(ニテ)作(レル)歌三首
 
1696 衣手の 名木の河邊を 春雨に 我立ちぬると 家念ふらむか
 
衣手乃《コロモデノ》 名木之河邊乎《ナギノカハベヲ》 春雨《ハルサメニ》 吾立沾等《ワレタチヌルト》 家念良武可《イヘオモフラムカ》
 
(衣手乃)名木河ノホトリデ、春雨ニ私ガ着物ノ袖ヲコンナニ濡ラシテヰルト、家デハ思ツテヰルダラウカ。コンナ難儀シテヰルコトハヨモヤ知ルマイ〔コン〜傍線〕。
 
○衣手乃《コロモデノ》――枕詞。この枕詞については、種々の説があつて一定してゐない。その用法も多岐に分れてゐる。衣手のながきの約、ナギにつづくとする説に從はう。卷一、衣手能田上山之《コロモデノタナガミヤマノ》(五〇)とあるに同じと考へてもよいであらう。又、古義にこれを枕詞としないで、第四句につづくものと見てゐるのは、穩やかでない。○名木之河邊乎《ナギノカハベヲ》――宣長は乎《ヲ》は之《ノ》の誤といつてゐる。なるほど乎《ヲ》では少しおだやかでない點もあるが.わからぬことはないから改めるには及ばない。○家念良武可《イヘオモフラムカ》――家が思ふらむかの意。新考には家知良武可《イヘシルラムカ》の誤にあらざるかといつてゐるが、さうではあるまい。この句は、卷七の吾馬爪衝家思良下《ワガウマツマツクイヘオモフラシモ》(一一九一)・吾馬難蒙戀良下《ワガウマナヅムイヘコフラシモ》(一一九二)と用法を同じくしてゐる。
(35)〔評〕 雨に濡れつつ故郷の家を思ふ歌で、まことに哀愁が深い。前の一六八八によく似てゐる。
 
1697 家人の 使なるらし 春雨の よくれど我を ぬらす念へば
 
家人《イヘビトノ》 使在之《ツカヒナルラシ》 春雨乃《ハルサメノ》 與久列杼吾乎《ヨクレドワレヲ》 沾念者《ヌラスオモヘバ》
 
春雨ヲ私ガ〔五字傍線〕ヨケテモ春雨ガ私ヲ霑ラスコトヲ考ヘルト、コノ春雨ハ〔五字傍線〕.家ノ人ノ使トシテ來タモノラシイ。
 
○家人《イヘビト》――家に留守居してゐる妻であらう。○沾念者《ヌラスオモヘバ》――舊訓ヌラストオモヘバとあるのはよくない。濡らすことを思へばの意。
〔評〕 小止みもなくしとしとと降つて、衣袂を濡らす春雨を、吾が身にしつこく附纒ふやうに言ったもので、降る雨を家人の使と考へたのは、雁の使などとは違った面白い想像である。
 
1698 あぶりほす 人もあれやも 家人の 春雨すらを 間使にする
アブリホスヒイ モ 丁レ  J モ    イへ ヒトリ    ヘル サメ  ス ラ ,     マ ツカヒ ニ スル
※[火三つ]干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 家人《イヘビトノ》 春雨須良乎《ハルサメスラヲ》 間使爾爲《マヅカヒニスル》
 
着物ノ濡レタノヲ〔八傍線〕※[火三つ]ツテ干シテクレル人ガアレバヨイガ、サウイフ人ガ無イ。然ルニ〔三字傍線〕家ニ留守居シテヰル妻ガ春雨ヲサヘモ.アチラトコチラト通フ使トシテ、ヨコシテ私ノ着物ヲ濡ラ〔九字傍線〕スヨ。コレデハ着物ヲ乾シテクレル人ガナクテハヤリ切レナイ〔コレ〜傍線〕。
 
○※[火三つ]《アブリホス》――一六八八參照。○春雨須良乎《ハルサメスラヲ》――春雨までもの意。スラは一つを擧げて他を類推せしめる助詞。○間使爾爲《マヅカヒニスル》――間使は兩方の間を行き通ふ使。九四六參照。
〔評〕 前の歌の意をうけて、それにつづけてゐる。前の一六八八と初句全く同じである。沾衣を家に送らうといつたのよりも、この方が更に哀情が切である。
 
宇治河(ニテ)作(レル)歌二首
 
1699 巨椋の 入江響むなり 射部人の 伏見が田ゐに 鴈渡るらし
巨椋乃《オホクラノ》 入江響奈理《イリエトヨムナリ》 射目人乃《イメビトノ》 伏見何田井爾《フシミガタヰニ》 雁渡良之《カリワタルラシ》
 
(36)巨椋ノ入江ガヒドイ音ヲ立テテヰルヨ。アレハ〔三字傍線〕(射目人乃)伏見ノ田ノ上ニ鴈ガ飛ンデ行ク音ラシイ。エライ音ダ〔五字傍線〕。
 
○巨椋乃入江響奈理《オホクラノイリエトヨムナリ》――巨椋乃入江は今の巨掠湖。豐臣時代に堤防を築いて、宇治川と分離したが、それまでは宇治川が灣入して湖状をなし、廣く湛へてゐたのである。今は南北四十町、東西五十町に過ぎないが、昔はもつと大きかつたやうである。響奈理を舊訓に、ヒビクナリとあるのは、袖中抄にもさうなつてゐるが、よくない。なほ和歌童蒙抄にナルナリとあるのは、更によくない。○射目人乃《イメビトノ》――枕詞。伏につづくのは代匠記精撰本に、「射目人は上に射目|立《タテ》而とよめるに同じ。其射目人が鹿をねらふとて伏て窺《ウカガヒ》見れば伏見とはつらね云なり。」とある通りであらう。射目立渡《イメタテワタシ》(九二六)參照。○伏見何田井爾《フシミガタヰニ》――伏見の田にの意。伏見は今の伏見町。宇治川を隔てて北方に接してゐる。田井は今の俗語に、タンボといふに同じく、井には殆ど意味はない。卷十九、皇者神爾之座者赤駒之腹婆布田爲乎京帥跡奈之都《オホキミハカミニシマセバアカゴマノハラバフタヰヲミヤコトナシツ》(四二六〇)とあるタヰに同じ。略解に「田井は借字にて田居の(37)意。里離れたる田どころに、秋假廬作りて居る所を云へり。」とあるのは誤つてゐる。この爾《ニ》は田に向つての意と見るべきである。舊本、井を并に作るは誤。藍紙本による。
〔評〕 初に廣い入江のどよめきを述べて、二句切れとしてゐるのが、雄勁な調子をなしてゐる。雁の大群が北を指して、一度に湖上を離れて飛び行く情景を想像したもので、入江が響むといふのは、恐らく群れ尻る雁が飛び立つ羽音であらう。從來の解釋にはそれが明らかに記してない。代匠記精撰本に秋風の響きと解してゐるのは大なる誤である。
 
1700 秋風に 山吹の瀬の 響むなべ 天雲かける 鴈にあへるかも
 
金風《アキカゼニ》 山吹瀬乃《ヤマブキノセノ》 響苗《トヨムナベ》 天雲翔《アマグモカケル》 雁相鴨《カリニアヘルカモ》
 
秋風ガ吹イテ、山吹ノ瀬ノ流レノ音ガ高ク聞エルニツレテ、天ノ雲ヲ飛ビカケル雁ガ鳴イテ通ルヨ。
 
○金風《アキカゼニ》――舊訓アキカゼノとある。さう訓めば山吹の枕詞となるわけであるが、いけない。秋風を金風と記したのは、五行に配すれば秋は金に當るからである。卷十にも金山《アキヤマノ》(二二三九)とある。○山吹瀬乃《ヤマブキノセノ》――宇治川の名所で、宇治橋の下にあつたといふが、今は明らかでない。○雁相鴨《カリニアヘルカモ》――童蒙抄にカリヲミルカモと訓み、新訓もこれを取つてゐるが、相の字は集中ミルと訓んだ例がないから舊訓に從ふことにする。略解にあげた宣長説では、相は亘の誤としてカリワタルカモと訓んで、古義もこれに從つてゐるが、文字を改める必要はない。
〔評〕 すがすがしい歌である。宇治の清流の空をかすめて、鳴き渡る雁聲が耳に聞えるやうである。地上の清瀬、天上の飛雁、共にさわやかな響を漂はせてゐる。調の高い歌である。卷七の足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシビキノヤマカハノセノナルナベニユヅキガタケニクモタチワタル》(一〇八八)、卷十の葦邊在荻之葉左夜藝秋風之吹來苗丹鴈鳴渡《アシベナルヲギノハサヤギアキカゼノフキクルナベニカリナキワタル》(二一三四)に似た所がある。
 
獻(レル)2弓削皇子(ニ)1歌三首
 
1701 さ夜中と 夜はふけぬらし 鴈が音の 聞ゆる空に 月渡る見ゆ
 
佐宵中等《サヨナカト》 夜者深去良斯《ヨハフケヌラシ》 雁音《カリガネノ》 所聞空《キコユルソラニ》 月渡見《ツキワタルミユ》
 
(38)モハヤ〔三字傍線〕夜中頃ト夜ハ更ケタラシイ。鴈ノ鳴ク聲ガ聞エル空ニ、月ガ通ルノガ見エル。
 
○作宵中等《サヨナカト》――佐は接頭語。夜中頃との意。
〔評〕 雁聲月光、靜寂に歸した天地、いかにも深夜を思はしめる作である。明麗高雅、巧を弄せすしておのづから風韻がそなはつてゐる。萬葉集の歌を載せないと言つてゐる古今集にこれを掲げてゐるのは、どうした理由であらうか。卷十の此夜等者沙夜深去良之鴈鳴乃所聞空從月立度《コノヨラハサヨフケヌラシカリガネノキコユルソラニツキタチワタル》(二二二四)と殆ど同じ歌である。又代匠記に、この歌を寓意があるやうにいつてゐるのは誤つてゐる。
 
1702 妹があたり 茂き鴈がね 夕霧に 來鳴きて過ぎぬ ともしきまでに
 
妹當《イモガアタリ》 茂苅音《シゲキカリガネ》 夕霧《ユフギリニ》 來鳴而過去《キナキテスギヌ》 及乏《トモシキマデニ》
 
妻ガ住ンデヰル里ノ方ヘ、澤山ノ雁ガ夕霧ノ棚引イテヰル中ヲ、飛ンデ來テ飛ビ去ツタ。私ガ〔二字傍線〕羨マシイト思フホドニ。私ハ自由ニ妻ノ方ヘ飛ビ行ク雁ヲ見ルト、羨マシクテ仕方ガナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○妹當《イモガアタリ》――旅中にあつて、妻の住んでゐる里を思つたのであらう。○茂苅音《シゲキカリガネ》――宣長は茂を衣の誤として、コロモカリガネと詠んでゐる。古義・新考共にこれに從つてゐるが、元のままでよい。シゲキカリガネは多くの雁の意味で、苅は雁の借字である。○及乏《トモシキマデニ》――うらやましい程にの意。妻の家の方に自由に飛び行く雁を羨んだのである。古義に「あの鴈は借《カリ》と云名のとほりに、此《ココ》を過ぎて、妹があたりに飛行て衣を借て、この寒さをしのぐらむ、うらやましきまでに鳴鴈ぞ、と云なるべし。」とあるのは考へ過ぎてゐる。及乏の二字が漢文式の倒置法になつてゐる。
〔評〕 旅にあつて妻に逢へない人が、空行く雁の思ひのままなる飛翔を羨んだのである。何でもないやうだが、夕霧《ユフギリニ》の一句がその情景に趣を添へてゐる。
 
1703 雲隱り 雁鳴く時は 秋山の 黄葉片待つ 時は過ぎねど
 
雲隱《クモガクリ》 雁鳴時《カリナクトキハ》 秋山《アキヤマノ》 黄葉片待《モミヂカタマツ》 時者雖過《トキハスギネド》
 
(39)雲ニ隱レテ雁ガ鳴ク時ニハ、、アダ紅葉ノ〔五字傍線〕時節ガ過ギタノデハナイガ、心ガセカレテ〔六字傍線〕秋ノ山ノ紅葉スルノヲ偏ヘニ待ツテヰル。
 
○黄葉片待《モミヂカタマツ》――片待はかたよりて待つ。一二〇〇參照。○時者雖過《トキハスギネド》――舊本に訓なし。藍紙本などの古訓スグトモとあり、代匠記精撰本にはスグレドとある。略解に擧げた宣長説に「過の上不の字を脱せり。すぎねどと訓むべし」とある、西本願寺本・細井本などスギネドと訓んでゐるから、宣長説が良いやうである。
〔評〕 雁のなく聲で紅葉するといふ考を詠んだ歌は他にも多く、既に歌ごころとして定まつた型といふべく、格別すぐれた歌ともいはれない。この歌を古義に「下心は、今の身のなり出べき時なれども、いまだなにのさだもなければ設《タト》ひその時は過行とも、御恩澤の下りてなり出むを、偏に待つつ居るぞといふなるべし。」とあるのは從ひ難い。これは秋の歌で、それを皇子に献じたまでである。
 
獻(レル)2舍人皇子(ニ)1歌二首
 
舍人皇子は天武天皇の皇子、一一七參照。
 
1704 うちたをり 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騷げる
 
※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》 多武山霧《タムノヤマギリ》 茂鴨《シゲミカモ》 細川瀬《ホソカハノセニ》 波驟祁留《ナミノサワゲル》
 
(※[手偏+求]手折)多武ノ山ニ立籠メタ霧ガ深イノデ、ソレガ雨ノヤウニ降ル〔ノデ〜傍線〕カラカ、細川ノ瀬デハ波ガ音高ク騷イデヰルヨ。キツト霧ガ降ツテ水ガ増シタノダラウ〔キツ〜傍線〕。
 
○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》――枕詞。たわむと續く。手折ればたわむからである。○多武山霧《タムノヤマギリ》――多武山は今の塔の峯。鎌足を祀つた談山神社のある談山で、談は咸攝のm音尾であるから多武に用ゐるのである。五八九參照。○細川瀬《ホソカハノセニ》――細川は多武山の西南、細川山の南を流れる川。飛鳥川にそそぐ。
〔評〕 卷七の、足引之山河之瀬之響苗爾弓月高雲立渡《アシビキノヤマカハノセノナルナベニユツキガタケニクモタチワタル》(一〇八八)に似て及ばない。これにも古義は寓意を記して(40)ゐるが、蓋し當らない。
 
1705 冬ごもり 春べを戀ひて 植ゑし木の 實になる時を 片待つ我ぞ
 
冬木成《フユゴモリ》 春部戀而《ハルベヲコヒテ》 殖木《ウヱシキノ》 實成時《ミニナルトキヲ》 片待吾等叙《カタマツワレゾ》
 
(冬木成)春ガ來タラ花ヲ咲カセテ眺メヨウト思ツテ、ソレ〔ガ來〜傍線〕ヲ樂シミニシテ植ヱタ木ガ、望ミ通リニ花ガ咲イテ〔十字傍線〕ソレガ實ニナル時ヲ、偏ニ私ハ待ツテヰマスヨ。私ハモツト出世ガシタウゴザイマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○冬木成《フユゴモリ》――枕詞。一六參照。○殖木《ウヱシキノ》――この句の下に、花が咲いての意を補つて見るがよい。
〔評〕 自分の立身出世を期待してゐる意味を述べたものであらう。この歌には寓意を認めねばならぬ。もし寓意がないとすれば、まことにつまらぬ作である。
 
舍人(ノ)皇子御歌一首
 
1706 ぬば玉の 夜霧は立ちぬ 衣手を 高屋の上に 棚引くまでに
 
黒玉《ヌバタマノ》 夜霧立《ヨギリハタチヌ》 衣手《コロモデヲ》 高屋於《タカヤノウヘニ》 霏※[雨/微]麻天爾《タナビクマデニ》
 
(黒玉)夜霧ガ立ツテヰルヨ、アレアノヤウニ〔七字傍線〕高屋ト云フ岡〔四字傍線〕ノ上ニ棚引ク程ニ、夜霧ガ立ツテヰル。何ダカ欝陶シイ景色ダ〔夜霧〜傍線〕。
 
○夜霧立《ヨギリハタチヌ》――略解にヨギリゾタテルとあるに從ふ説が多いが、舊訓ヨギリハタチヌとあるのでよい。○衣手《コロモデヲ》――枕詞。この枕詞については既に述べて置いた通り、用法が種々あつて訓法も定まつてゐない。衣手能田上山之《コロモデノタナガミヤマノ》(五〇・衣手乃名木之河邊乎《コロモデノナギノカハベヲ》(一六九六)・衣袖之眞若之浦之《コロモデノマワカノウラノ》(三一六八)のやうにノを添へたもの、衣手乎打廻乃里爾《コロモデヲウチタムノサトニ》(五八九)の如くヲを添へたもの、衣手常陸國《コロモデノヒタチノクニニ》(一七五三)・衣袖大分青馬之《コロモデヲアシゲノウマノ》(三三二八)及びこの歌のやうに假名を添(41)へないものの三種になつてゐる。そこでこの假名を添へてないものは、これをコロモデノとよむかコロモデヲとよむか、或は文字通りコロモデとよむべきかといふ疑問が生ずるわけである。舊訓にはコロモデノとあり、代匠記・古義はこれに從つてゐる。冠辭考にはコロモデヲとよみ、略解・新考・新訓などもさうなつてゐる。又これを四言にコロモデとよまうとする説はないやうである。この歌の高屋《タカヤ》とつづくについて、冠辭考に衣手をたぐる意で、タグリの反ギをカに通はしてタカとつづけるやうに説明してゐるが少し物遠い。寧ろ代匠記に「衣手のたかやとつづくは、衣手の手とつづく心なり」とある如く、テの音を繰返してタとしたものとするのが穩やかと思はれる。但し同音の繰返しとすれば、コロモデノとよむよりは、コロモデヲとする方がよいから、訓は冠辭考によることとした。○高屋於《タカヤノウヘニ》――高屋を高殿の意とする説もあるがよくない。考には古事記に見えた河内國古市郡高屋村としてゐる。略解には「神名帳に大和城上郡高屋安倍神社とある所なるべし」といつてゐる。これは今の磯城郡櫻井町大字谷にある、若櫻神社の境内なる高屋神社がそれであつて、櫻井町の南方に小高い丘をなしてゐる所である。然るに澤瀉久孝氏は奈良文化誌上で、飛鳥の東方高臺に高家《タカイヘ》といふ所があるが、此處を昔は高屋といつたのであらうといふ説を述べ、辰巳利文氏もこれに賛成してゐる。然しこれは愼重なる考究を要する事である。この歌の趣によれば、この高屋は、さほど高くないところが却つて實景に合ふのではないかと思はれる。
〔評〕 面白い叙景である。月のことは述べてゐないが、夜霧がたなびいてゐるのが見えるのであるから、月の明るい夜てあらねばならぬ。岡の上に夜霧が夢のやうにたなびいてゐる景色が、目の前に浮んでくるやうで、縹渺たる味ひがある。
 
鷺坂(ニテ)作(レル)歌一首
 
鷺坂は一六九四參照。
 
1707 山城の 久世の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり
 
(42)山代《ヤマシロノ》 久世乃鷺坂《クセノサギサカ》 自神代《カミヨヨリ》 春者張乍《ハルハハリツツ》 秋者散來《アキハチリケリ》
 
山城ノ國ノ久世ノ鷺坂トイフ山〔四字傍線〕ハ、神代ノ昔〔二字傍線〕カラ春ハ木ノ葉ガ芽ヲ〔二字傍線〕ハリ出シ、秋ハソノ木ノ葉ガ〔六字傍線〕散ツテ來〔三字傍線〕マシタヨ。
 
○春者張乍《ハルハハリツツ》――張は草木の芽が萌え出づること。
〔評〕 特にこの久世の鷺坂について、かくいつたのは、名高い山であつたからでもあらうが、大自然の運行の四季の變繊が、太古のままに變らぬことを述べてゐるのである。考へやうによつては、わかりきつたことをいつた所に面白味があるともいへるであらう。卷六の如是爲乍遊飲與草木尚春者生管秋者落去《カクシツツアソビノミコソクサキスラハルハオヒツツアキハチリユク》(九九五)に下の句は似た所もあるが、全く異なつた氣分の歌である。
 
泉河(ノ)邊(ニテ)作(レル)歌一首
 
1708 春草を 馬咋山ゆ 越え來なる 鴈の使は やどり過ぐなり
 
春草《ハルクサヲ》 馬咋山自《ウマクヒヤマユ》 越來奈流《コエクナル》 雁使者《カリノツカヒハ》 宿過奈利《ヤドリスグナリ》
 
(春草馬)咋山カラシテ飛ビ越エテ來ル鴈ガ、私ノ〔二字傍線〕旅宿ノ上ヲ飛ンデ行クヨ。雁ハ音信ヲ持ツテ來ルトイフガ、アノ雁ハ故郷カラノ音信ヲ持ツテ來ズニ空シク通リスギタ。アア名殘惜シイ〔雁ハ音〜傍線〕。
 
○春草馬咋山自《ハルクサヲウマクヒヤマユ》――春草馬は咋山と言はむ爲の序詞。春草を馬が食ふと續くのである。未通女等之袖振山乃《ヲトメラガソデフルヤマノ》(五〇一)・韓衣服楢乃里之《カラコロモキナラノサトノ》(九五二)の類である。咋山は神名帳に綴喜郡咋岡神社とある處。今の山城綴喜郡草内村飯岡で、奈良鐵道の玉水驛と奈良電車の三山木驛との中間、木津川の西方に見える丘。その麓にこの咋岡神社が祀られてゐる。寫眞は著者撮影。 ○鴈使者《カリノツカヒハ》――略解に「鴈の使は蘇武が故事より、いひなれて只雁をいへり。」とあるが、使に意味がある。○宿過奈利《ヤドリスグナリ》――舊訓ヤドスギヌナリとあるが、童蒙抄にヤドリスグナリとあるがよい。ヤドリは宿つてゐる所、ヤドは住居の意に多く用ゐられてゐる。ここは旅宿であるからヤドリといふべ(43)きである。客乃屋取爾梶音所聞《タビノヤドリニカヂノトキコユ》(九三〇)・荒津之濱屋取爲鴨《アラツノハマニヤドリスルカモ》(三二一五)・夜麻爾可禰牟毛夜杼里波奈之爾《ヤマニカネムモヤドリハナシニ》(三四四二)などの例がこれを證してゐる。
〔評〕 冐頭の序詞が面白い。鳴き行く雁を見送つて、嘆聲を發してゐる旅人の哀れな姿を思はしめる。
 
獻(レル)2弓削皇子(ニ)1歌一首
 
1709 みけ向ふ 南淵山の 巖には ふれるはだれか 消殘りてある
 
御食向《ミケムカフ》 南淵山之《ミナブチヤマノ》 巖者《イハホニハ》 落波太列可《フレルハダレカ》 削遺有《ケノコリテアル》
 
(御食向)南淵山ノ巖石ノ上ニハ冬ノ間〔三字傍線〕降ツタ薄彗ガソノ儘消エ殘ツテヰルノダラウカ。アノ白ク見エルモノハ雪デセウカ〔アノ〜傍線〕。
 
○御食向《ミケムカフ》――御饌に供へる肉《ミ》とつづく。一九六・九四六參照。○南淵山之《ミナブチヤマノ》――南淵山は大和高市郡東南方の山。今、稻淵山といふ。○落波太列可《フレルハダレカ》――波太列《ハダレ》は薄雪、一四二〇參(44)照。○削遺有《ケノコリテアル》――舊訓ケヅリノコセルとあるは論外である。削を消の誤としでキエノコリタルと訓む説が普通であるが、古本凡て削となつてゐるから、このままで考ふべきであらう。削は弓削などの如く、ケと訓む字であるから、ここはケノコリテアルと訓むがよい。訓義辨證には「古へ削と消と通じ用ゐしならん」と言つてゐる。この句は消え殘つてゐるのかの意。
〔評〕 この歌は、南淵山に早く咲いた花が、白く見えるのを雪と見て詠んだものであらう。古義には例によつて寓意を考へて、「皇子の御恩光にもれしを、訴るやうによみて献れるにや。さてこの作者南淵氏の人などにてありしにや。」とあるが、從ひがたい。この歌は人麿集にあつて、ここに弓削皇子に献ずとあるから、人麿の作であらう。
 
右柿本朝臣人麻呂之歌集所v出
 
右とあるのは右の歌の何首を指すかわからないが、恐らく一首のみであらう。新考には「献2忍壁皇子1歌以下二十八首を指せるならむ」とあり、且、順序が亂れてゐると言つてゐるが、その中には舍人皇子の御歌・間人宿禰の作などがあつて、これらは人麿歌集中のものとは思はれないやうである。なほここに人麿歌集所出とあるのは、他に用例がない。他の例では家集出又は家集出也とある。
 
1710 吾妹子が 赤裳ひづちて 植ゑし田を 苅りて藏めむ 倉無ノ濱
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 赤裳泥塗而《アカモヒヅチテ》 殖之田乎《ウヱシタヲ》 苅將藏《カリテヲサメム》 倉無之濱《クラナシノハマ》
 
此處ハ〔三字傍線〕(吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏)倉無ノ濱デス。
 
○吾妹兒之赤裳泥塗而殖之田乎苅將藏《ワキモコガアカモヒヅチテウヱシタヲカリテヲサメム》――倉につづく序詞。意は明らかであらう。○倉無之濱《クラナシノハマ》――倉無之濱は和爾雅に豐前中津の龍王濱とある。
〔評〕 これは倉無の濱を旅して、その名の面白さに戯れて作つたもので、この作の興味の中心は全く序詞にある。序は巧で、耕人らしい生活が見えて面白い。古義に「此は倉無之濱《クラナシノハマ》を、をかしくつづけなしてよみて、見せよな(45)ど、人のいひたる時の興に、よめるにもあるべし。」とあるのは面白い考であるが、さうとも定め難い。この歌、左註によれば人麿が筑紫に赴いた時の作か。拾遺集に「わぎもこが衣ぬらしてうゑし田をかりてをさめむくらなしの濱」とある。
 
1711 百傳ふ 八十の島みを こぎ來れど 粟の小島は 見れど飽かぬかも
 
百傳之《モモヅタフ》 八十之島廻乎《ヤソノシマミヲ》 榜雖來《コギクレド》 粟小島者《アハノコジマハ》 雖見不足可聞《ミレドアカヌカモ》
 
(百傳之)澤山ノ島ノマハリヲ傳ツテ〔三字傍線〕漕イデ來タガ、粟ノ小島ハイクラ見テモ見飽カナイナア。栗ノ小鳥ハ格別ナヨイ景色ダ〔粟ノ〜傍線〕。
 
○百傳之《モモヅタフ》――枕詞。百に數へ傳ふる八十の意で下に續いてゐる。卷三に百傳磐余《モモヅタフイハレ》(四一六)とある。卷七(一三九八)にも初二句これと同樣のものがある。藍紙本に、之の字がないのがよい。○榜雖來《コギクレド》――コギキケドと古義にあるのはよくない。こぎ來つれどの意と見てよい。○粟小島者《アハノコジマハ》――者の字、類聚古集に志とある。これによつてアハノコジマシと訓む説もあるが、舊訓のままで(46)よからう。粟小島の所在は明らかでない。粟島と同じであらうか。卷三、粟島矣《アハシマヲ》(三五八)參照。
〔評〕 瀬戸内海の多くの島々の中でも、とりわき景色のよい粟小島を禮讃したものである。平明な歌といふべきであらう。この島の所在が明確でないのは惜しい。
 
右二首或云柿本朝臣人麻呂作
 
或云とあつて確かなことではないが、これを人麿の作とすると、彼が瀬戸内海を航行した歌は集中にかなり多いから、これもその時のものと考へることが出來る。又卷三に、柿本朝臣人麿下筑紫時海路作歌二首(三〇三)とあるから、その時の作とも考へられるのである。
 
登(リテ)2筑波山(ニ)1詠(メル)v月(ヲ)一首
 
1712 天の原 雲なきよひに ぬば玉の よ渡る月の 入らまく惜しも
 
天原《アマノハラ》 無雲夕爾《クモナキヨヒニ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 宵度月乃《ヨワタルツキノ》 入卷〓毛《イラマクヲシモ》
 
コノ筑波山ニ登ツテ見ルト〔コノ〜傍線〕、空ニハ一點ノ〔三字傍線〕雲モ無イ夜デ實ニ良夜テアルノ〔九字傍線〕ニ(鳥玉乃)夜空ヲ通ル月ガ、西ノ方ニ〔四字傍線〕隱レヨウトスルノハ惜シイコトダ。モツト月ガ出テヰレバヨイ〔モツ〜傍線〕。
 
○烏玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○宵度月乃《ヨワタルツキノ》――夜空を通る月がの意。○入卷〓毛《イラマクヲシモ》――入らむは惜しきことよの意。〓は悋の俗字。悋はをしむ。吝に同じ。
〔評〕 ほがらかな歌。清夜、山上の明月がしのばれる。
 
幸(セル)2芳野離宮(ニ)1時(ノ)歌二首
 
いづれの御代の行幸ともわからない。
 
1713 瀧の上の 三船の山ゆ 秋津べに 來鳴きわたるは 誰喚子鳥
 
(47)瀧上乃《タギノウヘノ》 三船山從《ミフネノヤマユ》 秋津邊《アキツベニ》 來鳴度者《キナキワタルハ》 誰喚兒鳥《タレヨブコドリ》
 
瀧ノ上ニ聳エテヰル〔五字傍線〕三船ノ山カラ、秋澤野ノアタリニ、來テ鳴イテ飛ンデ行クノハ、誰ヲ呼ンデ鳴ク喚子鳥デアルカヨ。ホントニ人ヲ呼ブヤウナ聲ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○瀧上乃三船山從《タギノウヘノミフネノヤマユ》――卷三の二四二、及び卷六の九〇七參照。○秋津邊《アキツベニ》――秋津野のほとりに。秋津野は吉野川を隔てて三船山の西方にある平地。○誰喚兒鳥《タレヨブコドリ》――誰を呼ぶ喚兒鳥かの意。かけ言葉になつてゐる。喚兒鳥は吉野の山に多くゐたらしく、卷一、太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌(七〇)によまれてゐる。
〔評〕 かけ言葉を用ゐてあるが、素直な無理のない作である。
 
1714 落ちたぎち 流るる水の 磐に觸り 淀める淀に 月の影見ゆ
 
落多藝知《オチタギチ》 流水之《ナガルヽミヅノ》 磐觸《イハニフリ》 與抒賣類與杼爾《ヨドメルヨドニ》 月影所見《ツキノカゲミユ》
 
落チテ泡立ツテ流レル水ガ、磐ニ觸レテ淀ンデヰル水ノ淀ミニ、月ノ影ガ映ツテヰルノガ見エル。アアヨイ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○磐觸《イハニフリ》――舊訓イハニフレとあるが、考にイハニフリと訓んだのがよい。
〔評〕 奔騰してゐる激流の景が初二句に歌はれ、つづいてそれが岩に激してから、しづまりかへつて碧潭となつて湛へてゐる。その汨々たる深淵に浮んだ月の影は、躍動から靜止への轉換を示して、一種言ふべからざる嚴肅な氣を漂はしてゐる。高朗清雅、叙景の至上境であらう。
 
右二首作者未v詳
 
舊本三首とあるが、二首とあるべきである。藍紙本にさうなつてゐる。作者はわからないが、内容と格調とから考へれば、人麿か黒人などであらねばならぬ。
 
(48)槐本(ノ)歌一首
 
槐は和名抄に惠爾須とあるから、槐本はヱニスモトと訓むべきであらう。或は柿本の誤かとも思はれる。この下、山上歌・春日歌・高市歌など皆姓を書いてゐるから、これも恐らく柿本人麿の歌であらう。
 
1715 さざなみの 比良山風の 海吹けば 釣する海人の そでかへる見ゆ
 
樂波之《サザナミノ》 平山風之《ヒラヤマカゼノ》 海吹者《ウミフケバ》 釣爲海人之《ツリスルアマノ》 袂變所見《ソデカヘルミユ》
 
樂波ニアル比良山ノ風ガ琵琶湖ノ上ニ吹キ下ロスト、釣スル漁師ノ着物ノ袖ガ飜ルノガ見エル。
 
○樂波之平山風之《サザナミノヒラヤマカゼノ》――平山《ヒラヤマ》は比良山。この歌によつて樂波の地域が今の滋賀郡全體であることが知られる。なほ佐左浪乃連庫山爾《サザナミノナミクラヤマニ》(一一七〇)參照。
〔評〕 この釣する海人は、船を湖上に浮べてゐるのであらう。實景が目に見えるやうなすつきりとした、爽やかな叙景である。人麿らしい歌品が備つてゐるやうに思はれる。この歌、和歌童蒙抄にも載つてゐる。
 
山上(ノ)歌一首
 
(49)山上は山上憶良である。この歌は卷一(三四)に幸于紀伊國時川島皇子御作歌或云山上憶良作とある。
 
1716 白波の 濱松の木の 手向草 幾代までにか 年は經ぬらむ
 
白那彌之《シラナミノ》 濱松之木乃《ハママツノキノ》 手酬草《タムケグサ》 幾世左右二箇《イクヨマデニカ》 年薄經濫《トシハヘヌラム》
 
白浪ガ打寄セル〔四字傍線〕コノ濱ノ松ノ木ニカカツテヰル昔ノ人ガ〔四字傍線〕手向トシタモノハ、今ハ〔二字傍線〕幾年經ツタノデアラウカ。
 
○濱松之木乃《ハママツノキノ》――考には木は本の誤としてハママツノネノ、略解も同じく誤としてハママツガネノとよんでゐるが、もとのままがよい。古義は、卷一に濱松之枝乃《ハママツガエノ》とあるので、木は枝の旁がおちたのであらうと言つてゐる。
〔評〕 卷一(三四)の歌と同歌であるから評は略す。
 
右一首或云河島皇子御作歌
 
これは卷一(三四)の題詞を逆に書いたやうなものである。
 
春日(ノ)歌一首
 
春日は春日藏首老であらう。
 
1717 みつ河の 淵瀬もおちず 小網さすに 衣手ぬれぬ 干す兒はなしに
 
三河之《ミツカハノ》 淵瀬物不落《フチセモオチズ》 左提刺爾《サデサスニ》 衣手湖《コロモデヌレヌ》 干兒波無爾《ホスコハナシニ》
 
三ツ河ノ何處ノ瀬モ淵モ洩サズニ※[糸+麗]《サデ》トイフ小網〔五字傍線〕ヲ入レテ魚ヲトルノデ、着物ノ袖ガ沾レ夕。乾シテクレル親切ナ〔三字傍線〕女モヰナイノニ、困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○三河之《ミツカハノ》――代匠記精撰本に「三河はひえの山の東坂本にありとかや」とあるが確かでない。或は誤字かと思はれる。新考には「山河の誤ならむ」と言つてゐる。然し前後の歌を見ると、固有名詞らしい。○左提刺爾《サデサスニ》――左堤《サデ》は箕形の小網。卷一に、小網刺渡《サデサシワタシ》(三八)とあつた。○衣手湖《コロモデヌレヌ》――湖は沾・潤・濕などの誤か。類聚古集に潮(50)とある。
〔評〕 これは旅中の興に魚を捕つて、衣の濡れたのによつて故郷の妻を思ひ出したものであらう。旅に衣をぬらして、乾す人もなきことを恨んだ歌は前にもあつた。
 
高市(ノ)歌一首
 
高市は高市連黒人であらう。
 
1718 あともひて こぎ行く船は 高島の 阿渡の港に 泊てにけむかも
 
足利思代《アトモヒテ》 榜行船薄《コギユクフネハ》 高島之《タカシマノ》 足速之水門爾《アトノミナトニ》 極爾濫鴨《ハテニケムカモ》
 
他ノ船ヲ〔四字傍線〕伴ナツテ幾艘モ並ンデ〔六字傍線〕榜イデ行ツタアノ〔三字傍線〕舟ハ、高島ノ阿渡川ノ河口ニ到着シタデアラウカナア。ドウデフラウゾ〔七字傍線〕。
 
○足利思代《アトモヒテ》――あとともなひて、相率ゐての意。卷二、足騰毛比賜《アトモヒタマヒ》(一九九)參照。利は鋭い意でトと訓む。○高島之足速之水門爾《タカシマノアトノミナトニ》――高島之足速之水門《タカシマノアトノミナト》は近江高島郡安曇、今の舟木(51)港、昔の安曇川の河口である。○極爾濫鴨《ハテニケムカモ》――濫は監の誤。類聚古集にはさうなつてゐる。
〔評〕 二句のコギユクを古義にはコギニシと訓んでゐるが、文字を離れて考へれば、それも一理ある説である。この點がどうかと思はれないではないが、湖上を走る舟を陸の上から思ひやつて詠んだ、哀な懷かしい氣分の歌である。
 
春日藏(ノ)歌一首
 
これも春日藏首老であらう。藏の文字は前に無いのによれば、これは衍かと思はれるが、ここは左註によれば、古記のままに書いたのだから、原形がかうなのであらう。但し目録にもある。
 
1719 照る月を 雲な隱しそ 嶋かげに 吾が船泊てむ 泊知らずも
 
照月遠《テルツキヲ》 雲莫隱《クモナカクシソ》 島陰爾《シマカゲニ》 吾船將極《ワガフネハテム》 留不知毛《トマリシラズモ》
 
照ル月ヲ雲ヨ隱スナヨ。島ノ陰デ、私ノ船ヲ泊《ト》メヨウト思フガ、何處ガ碇泊所ヤラワカラナイデ困ツテヰルヨ。サア月ノ光ヲタヨリニ碇泊處ヲ見ツケヨウト思フ〔サア〜傍線〕。
〔評〕 この歌は卷七の大葉山《オホバヤマ》(一二二四)及びこの卷の母山《オホバヤマ》(一七三二)の歌と下句よく似てゐる。あはれな作である。
 
右一首(ハ)或本(ニ)云(フ)小辯(ノ)作也(ト)、或(ハ)記(シ)2姓氏(ヲ)1無(ク)v記(ス)2名字(ヲ)1、或(フ)※[人偏+稱の旁](ヒテ)2名號(ヲ)1不v※[人偏+稱の旁](ハ)2姓氏(ヲ)1、然(ドモ)依(リ)2古記(ニ)1便(チ)以(テ)v次(ヲ)載(ス)、凡(ソ)如(キ)v此(ノ)類下皆效(ヘ)焉、
 
小辯は高市連黒人近江舊都歌一首(三〇五)の左註に「右謌或本曰小辨作也、未審此小辨者也」とある人であらう。略解に「是は後人のうら書なるべし」とあるが、さうではあるまい。この卷の編者の註らしい。なほこの中に、依古記とあるのは注意すべき點であらう。集中にその名の見えた古い歌集以外の記録であらうと思はれる。
 
(52)元仁(ノ)歌三首
 
元仁はどういふ人かわからない。或は僧侶か。
 
1720 馬竝めて うち群れ越え來 今見つる 芳野の川を いつかへり見む
 
馬屯而《ウマナメテ》 打集越來《ウチムレコエキ》 今日見鶴《イマミツル》 芳野之川乎《ヨシヌノカハヲ》 何時將顧《イツカヘリミム》
 
馬ヲ並ベテ友人等ト〔四字傍線〕打チムレテ山ヲ〔二字傍線〕越シテ來テ、今見タ芳野ノ川ノコノヨイ景色〔七字傍線〕ヲ、何時モウ一度來テ見ヨウカ。是非近イ内ニ來テ見タイモノダ〔是非〜傍線〕。
 
○馬屯而《ウマナメテ》――屯は行之屯爾《ユキノツドヒニ》(三三〇二)とも用ゐてゐる。タムロス・アツマルの意であるから、ここではナメテと訓む外はあるまい。○今日見鶴《イマミツル》――類聚古集などの古本、日の字がない。舊本は誤であらう。
〔評〕 この歌は卷七の馬並而三芳野河乎欲見打越來而曾瀧爾遊鶴《ウマナメテミヨシヌガハヲミマクホリウチコエキテゾタギニアソビツル》(一一〇四)とその場所もその歌形も共に似てゐる。
 
1721 苦しくも くれぬる日かも 吉野川 清き河原を 見れど飽かなくに
 
辛苦《クルシクモ》 晩去日鴨《クレヌルヒカモ》 吉野川《ヨシヌガハ》 清河原乎《キヨキカハラヲ》 雖見不飽君《ミレドアカナクニ》
 
私ハマダ吉野川ノコノ清イ河原ノ景色ヲ見テモ見飽カナイノニ、苦シクモ日ガ晩レテシマツタヨ。惜シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○辛苦《クルシクモ》――略解に「カラクモとよむべし」とあるが、舊訓のままがよい。○晩去日鴨《クレヌルヒカモ》――舊訓クレユクヒカモとあるが、古義に從つた。○雖見不飽君《ミレドアカナクニ》――君は臻攝の音n音尾であるから、クニの假名に用ゐたのである。
〔評〕 とつぷりと暮れた河原の夕闇の中に立ちつくして、眺めに飽かぬ心を悲しみ述べたものである。さしたる歌ではないが、感情が籠つてゐる。
 
1722 吉野川 河浪高み 瀧のうらを 見ずかなりなむ こほしけまくに
 
吉野川《ヨシヌガハ》 河浪高見《カハナミタカミ》 多寸能浦乎《タギノウラヲ》 不視歟成甞《ミズカナリナム》 戀布眞國《コホシケマクニ》
 
(53)吉野川ノ川ノ浪ガ高イノデ、私ハ舟ヲ出スコトガ出來ズ、アノ有名ナ〔私ハ〜傍線〕瀧ノホトリヲ見ナイデシマフコトカナア。後デ〔二字傍線〕戀シク思フダラウノニ、惜シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○多寸能浦乎《タギノウラヲ》――代匠記初稿本に「うらはうらおもてのうらにて、たきのあなたをいふなるべし。」同じく精撰本に多寸能浦《タギノウラ》は瀧の浦なり。瀧の當りの入江のやうなる處なり。字書に浦の字を釋して大川(ノ)旁(ノ)曲渚と云へるにて意得べし。」略解「浦は借字にて裏なり。」古義に「多寸能浦《タギノウラ》は瀧《タギ》の裏《ウラ》なり。大瀧の裏なり」とあるが、下に三重乃河原乃磯裏爾《ミヘノカハラノイソノウラニ》(一七三五)とあるやうに、裏はほとりの意であらう。卷五、麻都良河波多麻斯麻能有良爾《マツラガハタマシマノウラニ》(八六三)に玉島河を玉島の浦といつてゐるのも、玉島河のほとりとも見られるのである。吉野の瀧はその裏を見るやうにはなつてゐない。○戀布眞國《コホシケマクニ》――舊訓コヒシキマクニを、考にコヒシケマクニと改め、古義は更にコホシケマクニと訓んでゐる。集中、コヒシキもコホシキもともに用ゐられてゐるが、卷五、己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》(八三四)・故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》(八七五)にならつて、コホシケマクニと訓まう。戀しくあらむにの意。
〔評〕 吉野の瀧のありどころは、常滑の岩が峨々として聳えてゐる所である。平水の時でも足がふるふ程であるから、水量の多かつた昔は、増水の際などはとても近づけなかつたであらう。この作者は丁度そんな時に出逢はして、それを遺憾に思つたのである。折角尋ねて來たのに、充分この好景を樂しむことが出來ない殘りをしさが詠まれてゐる。
 
絹(ノ)歌一首
 
絹は全くわからない。女の名であらう。これは氏ではないやうだ。
 
1723 河蝦なく 六田の河の 川楊の ねもころ見れど 飽かぬ河かも
 
河蝦鳴《カハヅナク》 六田乃河之《ムツタノカハノ》 川楊乃《カハヤギノ》 根毛居侶雖見《ネモコロミレド》 不飽河鴨《アカヌカハカモ》
 
コノ六田川ハ〔六字傍線〕(河蝦鳴六田乃河之川楊乃)懇ロニツクヅク見テモ見飽カナイ河デスヨ。ホントニヨイ景色デスネ〔ホン〜傍線〕。
 
(54)○河蝦鳴六田乃河乃川楊乃《カハヅナクムツダノカハノカハヤギノ》――序詞。川楊の根とつづく。六田の河は吉野川の六田附近、即ち上市町の下流である。卷七に吉野河六田之與杼乎《ヨシヌガハムツダノヨドヲ》(一一〇五)とある。この歌は六田の河を歌つたのであるから、この序詞は歌意に關係があるものと考へねばならぬ。○根毛居侶雖見 《ネモゴロミレド》――ネモゴロは懇ろ。二〇七參照。○不飽河鴨《アカヌカハカモ》――河の字舊本君となつてゐて、アカヌキミカモと訓んである。然し類聚古集その他河に作る古本が多く、且、前後の歌は總べて吉野川遊覽の作であるから、河とあるのが原形であらう。
〔評〕 集中、菅根乃懃《スガノネノネモゴロ》とよんだ歌が多い。これはそれから轉じて、六田河原に生ひ茂つた川楊の根とつづけてゐる。序詞の中に景を叙して、その見飽かぬ意を述べてゐるのは巧なものである。
 
島足(ノ)歌一首
 
島足の傳はわからない。これも名のみを記したのである。
 
1724 見まくほり 來しくもしるく 吉野川 音のさやけさ 見るにともしき
 
欲見《ミマクホリ》 來之久毛知久《コシクモシルク》 吉野川《ヨシヌガハ》 音清左《オトノサヤケサ》 見二友敷《ミルニトモシキ》
 
見タイ見タイト思ツテ來タガ、ソノ豫想通リデ、吉野川ノ川音ハホントニ〔四字傍線〕ヨイ音ダ。景色ヲ〔三字傍線〕見ルトナツカシイヨ。
 
○來之久毛知久《コシクモシルク》――コシクは來之《コシ》にクを添へた形である。クをそへると上が名詞的になる。一一五三參照。○音清左《オトノサヤケサ》――この句で切れたものとも、又下に續くものとも兩樣に考へられるが、恐らく切れてゐるのであらう。○見二友敷《ミルニトモシキ》――舊訓を改めて代匠記にミルニトモシクとある。元來トモシといふべきを、感嘆の意をふくめてトモシキとしたのである。トモシクと訓む場合は、トモシクアリといふべきを省略した形となる。それでも惡くはないが、感情が足りないやうに思はれる。このトモシは羨ましではなく、なつかしく愛らしいことである。略解に「めづらしく見たらぬなり」とあるのは少し異なつてゐるやうだ。
〔評〕 四句で切るべき歌であらう。吉野川の川音をほめて、更に改めて見るにともしきと附加へてゐる。吉野川(55)の好景をほめる前に、先づ山に轟く岩走る瀧の音をたたへてゐる。大和の平原から來た人が吉野の勝地に近づいて、先づその河音に心を轟かし、次いで清流に見入つて目を樂しましめる順序がよまれてゐるやうに思はれる。岡本保孝が「この歌てにをはととのはず」と評したのは、この點を了解し得なかつたのではなからうか。
 
麻呂(ノ)歌一首
 
これも名であるが、どういふ人かわからない。左註によると人麿らしい。
 
1725 古の さかしき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れどあかぬかも
 
古之《イニシヘノ》 賢人之《サカシキヒトノ》 遊兼《アソビケム》 吉野川原《ヨシヌノカハラ》 雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》
 
古ノ賢イ人ガ來テ遊ンダト言傳ヘラレテヰル、コノ吉野ノ川原ノ好イ景色〔五字傍線〕ハ、イクラ見テモ〔六字傍線〕見飽カナイヨ。
 
○賢人《サカシキヒトノ》――舊訓を改めて管見にカシコキヒトとし、略解もそれに從つてゐるが、カシコシはおそれおほい意であるから、サカシキと訓むべきである。この賢しき人は卷一の天武天皇御製|淑人乃《ヨキヒトノ》(二七)のヨキヒトと同じである。
〔評〕 吉野川の勝景は古くから天下に知られて、早く離宮を置かれたのである。その古い歴史を思つてよんだもので、卷一の天武天皇の御製なども、作者の脳裡にあつたらうと思はれる。この好景に對し、古を思ふ心が淡く現はれてゐる。
 
右柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
丹比眞人(ノ)歌一首
 
丹比眞人は集中、名を闕いたものも多いが、名を記したものでは、屋主・笠麿・乙麿・國人などが見える。それらの内か。
 
1726 難波潟 汐千に出でて 玉藻苅る 海未通女ども 汝が名のらさね
 
(56)難波方《ナニハガタ》 鹽干爾出而《シホヒニイデテ》 玉藻苅《タマモカル》 海未通等《アマヲトメドモ》 汝名告左禰《ナガナノラサネ》
 
難波潟ノ鹽干ニ出テ、美シイ藻ヲ苅ツテ居ル漁師ノ少女ラヨ。オマヘノ名ハ何トイフカ、名〔七字傍線〕ヲ名ノリナサイ。サウシテ私ノ妻ニナリナサイ〔サウ〜傍線〕。
 
○海未通等《アマヲトメドモ》――通の下へ女の字が舊本にないのは、他の例によれば脱ちたものであらう。○汝名告左禰《ナガナノラサネ》――卷一卷頭に此岳爾菜採須兒家吉閑名告沙根《コノヲカニナツマスコイヘキカナノラサネ》とあるのに似てゐる。名をなのるのは男に心を許すことであるから、それを要求してゐるのである。
〔評〕 玉藻苅る海處女に、戯れて歌ひかけたものである。もとより眞面目に妻にしようとするのではなく、旅中の興に過ぎまい。
 
和(フル)歌一首
 
古義に和の字の上、某娘子の三字を補つて「某娘子の戯に海女といひかけられたるゆゑ、海女になりて答へたるならむ」とある。
 
1727 あさりする 人とを見ませ 草枕 旅行く人に 妻とはのらじ
 
朝入爲流《アサリスル》 人跡乎見座《ヒトトヲミマセ》 草枕《クサマクラ》 客去人爾《タビユクヒトニ》 妻者不敷《ツマトハノラジ》
 
漁ヲスル漁師ノ少女ダト思ツテ、見過ゴシテオ置キナサイ、(草枕)旅ノオ方ノ妻トナツテ私ノ〔二字傍線〕名ヲ申シ上ゲルヤウナコトハ致シマスマイ。
 
○客去人爾《タビユクヒトニ》――客を舊本に容に作るは誤。類聚古集・神田本などによつて改む。○妻者不敷《ツマトハノラジ》――舊訓ツマニハシカジとなり、略解は敷は教の誤として、ツマトハノラジと訓んでゐる。教の字は集中他に用例はないが、暫くこれに從ふ。妻の字、類聚古集その他多くの古本に妾とあるによつて、新訓にはワガナハノラジと訓んでゐ(57)るが、少し無理ではあるまいか。
〔評〕 これは海女が答へた歌である。古義に某娘子としたのは却つて實際に違つてゐるであらう。この頃の海女は遊女のやうなことをしたものらしい。然しなかなか隅におけない女である。
 
石河卿(ノ)歌一首
 
石河卿はわからない。或は卷十九に見える式部卿石川朝臣年足朝臣か。
 
1728 慰めて こよひはねなむ 明日よりは 戀ひかも行かむ こゆ別れなば
 
名草目而《ナグサメテ》 今夜者寐南《コヨヒハネナム》 從明日波《アスヨリハ》 戀鴨行武《コヒカモユカム》 從此間別者《コユワカレナバ》
 
兎モ角モ〔四字傍線〕今夜ハ心ヲ慰メテ二人〔二字傍線〕デ寢ヨウ。ガ〔傍線〕此處ヲ別レテ出立シテ行ツタナラバ、明日カラハ私ハ〔二字傍線〕オマヘヲ戀ヒ慕ヒツツ行クコトデアラウカ。
 
○從此間別者《コユワカレナバ》――舊本イマワカレナバ、古義コヨワカレナバとあるが、代匠記による。旅宿を去る意味である。
〔評〕 旅に女を得て別離を悲しむ歌である。遊女のやうなものに對していふのであらう。しんみりとした哀情がこもつてゐる。
 
宇合卿(ノ)歌三首
 
宇合卿は藤原宇合。卷一に式部卿藤原宇合(七二)とある。
 
1729 曉の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す浪の しきてしおもほゆ
 
曉之《アカツキノ》 夢所見乍《イメニミエツツ》 梶島乃《カヂシマノ》 石越浪乃《イソコスナミノ》 敷弖志所念《シキテシオモホユ》
 
夜明ケ方ノ夢ニ見エテ、(梶島乃石越浪乃)頻リニ絶間ナク家ニ殘シテ來タ人ノコトガ〔家ニ〜傍線〕思ハレルヨ。アアナツカ(58)シイ〔七五字傍線〕。
 
○梶島乃石越浪乃《カヂシマノイソコスナミノ》――序詞。敷弖《シキテ》につづく。眼前の風景を以て作つた序詞である。梶島は八雲御抄に丹後とあるが、今その名を聞かない。宇合が丹後に赴いたことは記録にない。彼は西海道節度使として九州に赴いたから、或は筑紫の地名か。筑前神湊の海岸近くに勝島があるから、或はそれかも知れない。○敷弖志所念《シキテシオモホユ》――シキテは絶えず頻りにの意。シクといふ動詞に助詞テがついた形である。
〔評〕 卷七の夢耳繼而所見小竹鳥之越磯波之敷布所念《イメノミニツギテミエツルタカシマノイソコスナミノシクシクオモホユ》(一二三六)と同歌である。或は古歌の地名を變へたものに過ぎないか。
 
1730 山科の 石田の小野の 柞原 見つつや君が 山ぢ越ゆらむ
 
山品之《ヤマシナノ》 石田乃小野之《イハタノヲヌノ》 母蘇原《ハハソハラ》 見乍哉公之《ミツツヤキミガ》 山道越良武《ヤマヂコユラム》
 
山科ノ石田ノ小野ノ景色ノヨイ〔五字傍線〕柞ノ林ヲ見ナガラ、アノオ方ハ山道ヲ越エテ行カレルコトダラウカ。今頃ハアノ邊ヲ歩イテ居ラレルダラウ〔今頃〜傍線〕。
 
○山品之《ヤマシナノ》――山品は山城宇治郡山科。○石田乃小野之《イハタノヲヌノ》――次に石田の社とあると同處。今、醍醐村に屬し、東は日野、南は木幡に接してゐる高燥の平地である。今はイシダとよんでゐる。なほ別に小野といふ地名もその東北方にあかが、古い地名なるや否やわからない。○母蘇原《ハハソハラ》――ハハソは柞、小楢ともいふ。高さ四五丈の落葉喬木、葉は倒卵形で長さ二三寸鋸齒を有し、上面緑色、下面粉白色を呈してゐる。今ハウソ・ホウサと稱するのはこの木である。
〔評〕 旅行く人を思ひやつた歌で、一六六六・三一九二・三一九三など、かういふ種類の作は乏しくない。
 
1731 山科の 石田の社に 手向せば けだし吾味に 直に逢はむかも
 
(59)山科乃《ヤマシナノ》 石田社爾《イハタノモリニ》 布靡越者《タムケセバ》 蓋吾妹爾《ケダシワギモニ》 直相鴨《タダニアハムカモ》
 
山科ノ石田ノ森ノ神樣ニ手向ヲシテ、ヌサヲ奉ツ〔七字傍線〕タナラバ、多分私ノ戀シイ女ニ直ニ逢フコトガ出來ルダラウカナア。戀シクテ仕樣ガナイカラ、サウデモシテ神樣ニオ願ヒシヨウ〔戀シ〜傍線〕。
 
○石田社爾《イハタノモリニ》――社は杜の誤かとも思はれる。前の歌と同處。延喜式に「久世郡石田神社」とあるのは、今、綴喜郡都々城村にあるもので、この社とは別である。○布靡越者《タムケセバ》――靡の字は藍紙本などに麻に作つてゐる。布麻を神にたむけるからこの二字をタムケと訓む。越を勢の誤としてタムケセバと訓んだ略解説を採る。古義には幣帛献としてクムケセバと訓む説を擧げてゐる、新訓に布麻越者としてヌサコエバと訓んでゐるのは、意味が通じないやうである。
〔評〕 第三句の訓法が疑はしいのは遺憾であるが、これをの右の樣に訓んで見ると、意味は明らかである。旅人が家なる妻を戀うて、道すがら石田の杜に額づく心であらう。新考にはタムケセバの訓を退けて卷十二の山代石田社心鈍手向爲在妹相難《ヤマシロノイハタノモリニココロオソクタムケシタレヤイモニアヒガタキ》(二八五六)によつて「此神は手向すれば却つて男女の相逢ふことを妨げたまふなどいふ傳説ありとおぼゆ」とあるのは、うけ取りがたい説である。卷十三に山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而吾者越往相坂山遠《ヤマシナノイハタノモリノスメガミニスサトリムケテワレハコヱユクアフサカヤマヲ》(三二三六)とあつて、往來の旅人が祈る神であつたのである。
 
碁師(ノ)歌二首
 
碁師は卷四に碁檀越往2伊勢國1時留京作歌一首(五〇〇)とある碁檀越かとも言はれてゐるが、當時圍碁が盛に行はれたことは、正倉院の御物が證據立ててゐるから、ここに碁師とあるのは碁の專門家であらう。
 
1732 大葉山 霞たなびき さ夜ふけて 吾が船泊てむ 泊知らずも
 
母山《オホバヤマ》 霞棚引《カスミタナビキ》 左夜深而《サヨフケテ》 吾舟將泊《ワガフネハテム》 等萬里不知母《トマリシラズモ》
 
(60)祖母山ニハ霞ガ棚引イテ、何トナク淋シグ〔七字傍線〕夜ガ更ケテ私ノ乘ツテヰル舟ガ、トマル泊リ場所ガドコカ分ラナイヨ。アア淋シイ〔五字傍線〕。
 
○母山《オホバヤマ》――舊訓オモヤマニとあるが、卷七に大葉山《オホバヤマ》(一二二四)とあるによつて、宣長が母の上祖の字がおちたのであらうといつたのに從はう。
〔評〕 卷七の大葉山霞蒙狹夜深而吾船將泊停不知文《オホバヤマカスミタナビキサヨフケテワガフネハテムトマリシラズモ》(一二二四)と全く同歌であるから評は略す。
 
1733 思ひつつ 來れど來かねて 水尾が崎 眞長の浦を またかへり見つ
 
思乍《オモヒツツ》 雖來來不勝而《クレドキカネテ》 水尾崎《ミヲガサキ》 眞長乃浦乎《マナガノウラヲ》 又顧津《マタカヘリミツ》
 
三尾ガ崎ノ眞長ノ浦ノヨイ景色〔五字傍線〕ヲ、心ニ思ヒナガラ過ギテ來タガ、過ギ行クコトガ出來ナイデマタ漕ギ還ツテソノ景色ヲ見タヨ。ホントニ眞長ノ浦ハヨイ所ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○水尾崎眞長乃浦乎《ミヲガサキマナガノウラヲ》――水尾崎は近江滋賀郡と高島郡との境をなして湖中に突出した岬で、比良山脈がここに盡きてゐる。白髭明神が近く祀(61)られてゐるので、俗に明神崎といふ。眞長乃浦はその北側の長汀で風景がよい。
 
〔評〕 湖上の好景に見とれて、再び眞長の浦に漕ぎもどつたといふのである。上代人ののどかな旅が思はれる。
 
小辯歌一首
 
小辯は誰ともわからない。卷三の三〇五の左註參照。略解にコトモヒとよんでゐるが、古義にはスクナキオホトモヒとよんでゐる。これは寧ろ音讀すべきであらう。
 
1734 高島の 阿渡のみなとを 榜ぎ過ぎて 鹽津菅浦 今かこぐらむ
 
高島之《タカシマノ》 足利湖乎《アトノミナトヲ》 榜過而《コギスギテ》 鹽津菅浦《シホツスガウラ》 今香將榜《イマカコグラム》
 
アノ旅ニ出夕人ハ〔八字傍線〕高島ノ阿渡ノ港ヲ漕イデ通ツテ、今頃ハ鹽津ヤ菅浦ヲ漕イデヰルデアラウ。
 
○高島之足利湖乎《タカシマノアトノミナトヲ》――近江高島郡安曇川の河口。今の舟木港である。一七一八參照。
(62)○鹽津菅浦《シホツスガウラ》――鹽津は今、伊香郡に屬し、湖北の灣入の最奥部にある。ここから上陸して鹽津山を越えて越前に出るのである。卷三、笠朝臣金村鹽津山作歌(三六四)參照。菅浦は伊香郡の湖中に半島をなしてゐる部分の西側にある港である。○今香將榜《イマカコグラム》――舊本香を者に誤つてゐる。藍紙本によつて改む。古義にイマハコガナムと訓んで「みづから船にてよめるなり云々」と云つてゐるのは誤つてゐる。
〔評〕 これは湖上の旅なる人を思つた歌であらう。音に聞いた鹽津菅浦などの勝景を見巡る人を羨んでゐる。上品な作である。
 
伊保麻呂(ノ)歌一首
 
伊保麿の傳は全くわからない。
 
1735 吾が疊 三重の河原の 磯のうらに 斯くしもがもと 鳴く河蝦かも
 
吾疊《ワガタタミ》 三重乃河原之《ミヘノカハラノ》 礒裏爾《イソノウラニ》 如是鴨跡《カクシモガモト》 鳴河蝦可物《ナクカハヅカモ》
 
(吾疊)三重ノ河原ノ岸ノ巖ノホトリデ、カ(63)ウシテイツマデモ〔五字傍線〕ヰタイトイツテ河鹿ガ鳴イテヰルヨ。ココハホントニヨイ所ダ〔ココ〜傍線〕。
 
○吾疊《ワガタタミ》――枕詞。わがは輕く添へてある。三重に冠するのは、重《ヘ》に續けたのである。三はさして重要な語ではない。○三重乃河原之《ミヘノカハラノ》――三重は伊勢三重郡。三重乃河は今|内部川《ウツベガハ》といふ。鎌ケ岳から發して、三重・鈴鹿の郡界に沿うて東流して葦田・采女を過ぎ、四日市の南方鹽濱にて海に入る。寫眞は内部村にて撮影。○礒裏爾《イソノウラニ》――裏を中と解するのはよくない。磯のまはりである。多寸能浦乎《タギノウラヲ》(一七二二)・礒之浦未之《イソノウラミノ》(一七九九)參照。礒は岩石の多い處。○如是鴨跡《カクシモガモト》――舊訓カバカリガモトとあるが、古義の訓に從ふ。かうしていつもゐたいとの意。
〔評〕 河邊の好景に接した人が、そこに鳴いてゐる河鹿の聲までも、その居處を讃嘆するやうに聞きなしたのである。自分の心を河鹿の心にして歌つてゐるのが面白い。
 
式部|大倭《オホヤマト》芳野(ニテ)作(レル)歌一首
 
式部大倭は式部省に奉仕する大倭氏の人であらう。よくわからない。
 
1736 山高み 白木綿花に 落ちたぎつ 夏身の河門 見れどあかぬかも
 
山高見《ヤマタカミ》 白木綿花爾《シラユフハナニ》 落多藝津《オチタギツ》 夏身之河門《ナツミノカハト》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
山ガ高イノデ、白イ木綿デ作ツタ花ノヤウニ水ガ泡立ツテ流レ落チル、夏見ノ川ノ瀬ハ、イクラ〔三字傍線〕見テモ見飽カナイヨ。實ニヨイ所ダ〔六字傍線〕。
 
○白木綿花爾《シラユフバナニ》――白木綿花のやうに。九〇九參照。○夏身之河門《ナツミノカハト》――夏身は吉野の瀧の上流、河門は河の渡るべき所をいふ。
〔評〕 この歌は卷六の笠金村の作、山高三白木綿花落多藝追瀧之河内者雖見不飽香聞《ヤマタカミシラユフバナニオチタギツタギノカフチハミレドアカヌカモ》(九〇九)と全く同歌で、ただ瀧津河内と夏身の河との差異があるのみなのは、どうしたものであらう。式部大倭の人物がわからない爲に、金村との年代の前後を判定し難いのは遺憾である。
 
(64)兵部川原(ノ)歌一首
 
兵部川原は兵部省の官人で川原氏の人であらう、
 
1737 大瀧を 過ぎて夏箕に そひてゐて 清き河瀬を 見るがさやけさ
 
大瀧乎《オホタギヲ》 過而夏箕爾《スギテナツミニ》 傍爲而《ソヒテヰテ》 淨河瀬《キヨキカハセヲ》 見河明抄《ミルガサヤケサ》
 
大瀧ヲ通ツテ來テ、夏箕川ノ岸ニツイテ居ツテ、清イ川ノ瀬ヲ見ルト、實ニ清ク面白〔三字傍線〕イヨ。
 
○大瀧乎《オホタギヲ》――大瀧は謂はゆる宮瀧の急流。瀧津河内の瀧である。○傍爲而《ソヒテヰテ》――舊訓ソヒテヰテとあるのを、略解にソハリヰテとし、宣長は爲を居としてソヒヲリテとしたが、いづれも面白くない。テが重なつてはゐるが、比較的舊訓が良いやうに思はれる。○見河明沙《ミルガサヤケサ》――河の字、藍紙本などの古本に何とあるのがよい。
〔評〕 有りのままの歌ながら、實景に臨んだやうな感がある。余をして吉野川の曾遊を思ひ起さしめる。
 
詠(メル)2上總(ノ)末珠名娘子(ヲ)1一首并短歌
 
末は地名、和名抄に上總國周淮郡季とあるところ。この郡は今、望陀・天羽と合して君津郡となつてゐる。鹿野山・小糸・富津の間である。珠名は娘子の名であらう。
 
1738 しなが鳥 安房につぎたる あづさ弓 すゑの珠名は 胸別の 広きわぎも 腰細の すがるをとめの そのかほの きらきらしきに 花のごと ゑみて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて よばなくに 門に至りぬ さしならぶ 隣の君は あらかじめ おの妻かれて 乞はなくに かぎさへまつる 人皆の かく迷へれば うちしなひ よりてぞ妹は たはれてありける
 
水長鳥《シナガドリ》 安房爾繼有《アハニツギタル》 梓弓《アヅサユミ》 末乃珠名者《スヱノタマナハ》 胸別之《ムナワケノ》 廣吾妹《ヒロキワギモ》 腰細之《コシボソノ》 須輕娘子之《スガルヲトメノ》 其姿之《ソノカホノ》 端正爾《キラキラシキニ》 如花《ハナノゴト》 咲而立者《ヱミテタテレバ》 玉桙乃《タマボコノ》 道行人者《ミチユクヒトハ》 己行《オノガユク》 道者不去而《ミチハユカズテ》 不召爾《ヨバナクニ》 門至奴《カドニイタリヌ》 指並《サシナラブ》 隣之君者《トナリノキミハ》 預《アラカジメ》 己妻離而《オノヅマカレテ》 不乞爾《コハナクニ》 鎰左倍奉《カギサヘマツル》 人皆乃《ヒトミナノ》 如是迷有者《カクマドヘレバ》 容艶《ウチシナヒ》 縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》 (65)多波禮弖有家留《タハレテアリケル》
 
(水長鳥)安房ニツヅイテヰル(梓弓)周淮トイフ所〔四字傍線〕ノ珠名トイフ女〔四字傍線〕ハ、胸ノ廣イ美シイ〔三字傍線〕女デ、螺羸《スガル》ノヤウニ腰ノ細イ少女ダガ、ソノ少女〔六字傍線〕ノ姿ガ立派ナノニ、花ノヤウニ笑ツテ立ツテヰルト、(玉桙乃)道ヲ通ル人ハ、自分ノ行クベキ道ハ歩カズニ、コノ女ノ家ノ方ヘ來テ〔十字傍線〕呼ビモシナイノニ女ノ〔二字傍線〕門ノ所ヘヤツテ來夕。又〔傍線〕軒ヲ並ベテヰル隣ニ住ンデヰル人ハ、前以テ自分ノ妻ヲ追ヒ出シテ、コノ女ガ〔四字傍線〕欲シイト言ヒモシナイノニカ大切ナ〔三字傍線〕鍵マデモコノ女ニ〔四字傍線〕ヤツテシマフ。世ノ中ノ〔四字傍線〕人ガ皆コンナニ、美人ダ美人ダト〔七字傍線〕逃ウテ大騷ギヲスル〔七字傍線〕カラ、品エオツクツテ男ニヨリ添ウテコノ女ハ、フザケテヰタヨ。
 
○水長鳥《シナガトリ》――枕詞。水長鳥は息長鳥。鳩《ニホ》即ちかいつぶりのこと。冠辭考に「こも息長島なれば、人の長嘆息するには聲を引きて嗚呼とい云に譬へて、あの一語に續けしなるべし。云々」とあるに從はう。○安房爾繼有《アハニツギタル》――周淮郡は安房に隣してゐるからいつたのである。嚴密に言へば、その間に馬來田(望陀)を隔ててゐるが、近い處である。○梓弓《アヅサユミ》――枕詞。弓の先端をスヱといふから、地名の末にかけてゐる。○胸別之廣吾妹《ムナワケノヒロキワギモ》――胸別は胸の隔。昔は女の胸の廣いのを貴んだのである。出雲風土記の國引の段に、童女胸※[金+且]《ヲトメノムナスキ》とあるのは、童女の胸のやうに廣い※[金+且]である。○須輕娘子之《スガルヲトメノ》――須輕は螺羸。似我蜂《ジガバチ》と稱するもので、身長八分ばかり、色黒く腰が極めて細いので、コシボソtもいふ。又カソリ・サソリとも稱す。卷十六に飛翔爲輕如來腰細丹取餝氷《トビカケルスガルノゴトキコシボソニトリカザラヒ》(三七九一)、卷十に春之在者酢輕成野之霍公鳥《ハルサレバスガルナスヌノホトトギス》(一九七九)とある。○其姿之《ソノカホノ》――姿は日本靈異記に、形と註してゐるが景行紀に容姿をカホと訓んでゐるから、ここも舊訓の如くカホと訓むがよい。一般的に容姿をカホといひ、後轉じて顔面のみに用ゐることになつた。○端正爾《キラキラシキニ》――舊訓ウツクシケサニとあるのを、代匠記にキラキラシクニ、童蒙抄にキラキラシキニと改め、考はイツクシケサニとして、略解もこれによつてゐる。靈異記に端正を岐良支良シと註し、景行紀にもキラキラシと振假名してゐるから、それに從ふがよい。新訓にはイツクシケキニとある。○玉桙《タマボコノ》――枕詞。七九參照。○指並《サシナラブ》――サシナミノと訓むのは惡い。一〇二〇參照。○預《アラカジメ》――西本願寺本などに豫とあるから、アラカジメである。頓の誤としてタチマチニと訓む説はよくない。○己妻離而《オノヅマカレテ》――(66)己妻は己妻喚《オノヅマヨバフ》(一一六五)によつて、オノヅマと訓むべきである。○鎰左倍奉《カギサヘマツル》――鎰は和名抄に、「四聲字苑云鑰、音樂字亦作v〓今案俗人印鑰之處用2鎰字1非也」とあつて鑰の俗字である。錠を開閉する具。奉はマツルと訓むがよい。卷十八に萬調麻都流都可佐等《ヨロヅツキマツルツカサト》(四一二二)とある。この句の意は代匠記初稿本に、「かぎは、人の家にむねと大事とするものなり。それをさへ珠名娘子が乞もせぬに、打あたへて、家の内のことをまかせんとするよしなり」とある通りであらう。○人皆乃《ヒトミナノ》――舊本に人乃皆とあるが、類聚古集によつて改む。○容艶《ウチシナヒ》――舊訓カホヨキニとある 略解に擧げた宣長説によつて、ウチシナヒと訓むことにする。○縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》――縁而《ヨリテ》は男に寄り添うての意。○多波禮弖有家留《タハレテアリケル》――多波禮《タハレ》は戯れふざける。浮かれること。
〔評〕 下總の周淮で名高い珠名娘子を詠んだので、その當時傳説的になつてゐた女らしい。美人の形容が面白く出來てゐる。多くの男がこの女の家に集り、隣の主人が豫め妻を離別して、この女を手に入れようとしたなどは、竹取物語に「世界の男あてなるもいやしきも、いかでこのかぐや姫を得てしがな見てしがなと音にききめで惑ふ」とあるのや、又大納言大伴御行が龍の首の珠を取りに家來をつかはして、豫め妻を離別し、色色の糸で葺かせた家を造つて、待つてゐる話を思ひ出さしめる。然しこの女はかぐや姫のやうに上品ではなく、娼婦のやうな浮氣者であつた。兎も角、集中でも珍らしい風變りな歌である。
 
反歌
 
1739 金門にし 人の來立てば 夜中にも 身はたなしらず 出でてぞ逢ひける
 
金門爾之《カナドニシ》 人乃來立者《ヒトノキタテバ》 夜中母《ヨナカニモ》 身者田菜不知《ミハタナシラズ》 出曾相來《イデテゾアヒケル》
 
門ノトコロニ人ガ來テ立ツト、珠名娘子ハ〔五字傍線〕夜中デモ自分ノ身モ丸デ忘レテシマツテ、出テ行ツテ男ニ〔二字傍線〕アツタヨ。ホントニ浮氣ナ女ダ〔九字傍線〕。
 
○金門爾之《カナドニシ》――金門は古事記傳に、「金門とは金物を稠《シゲ》く打て堅くする故に云か。又古へはみながら金を押したるにもあるべし」とあり、略解に「かなどはかねのくぎ貫もて堅むればいふ。守康紀大まへをまへすくねが※[言+可]那杜加礙《カナドカゲ》と云り、門を加杼といふも此略言なり」とある。果して上代の門が、金具を打連ねて堅牢に作られ(67)てゐたか。家屋の構造などから推して、必ずしもさうとは思はれない。なほ研究を要する。兎も角、カナドは門のことである。可奈刀田《カナトダ》(三五六一)・可奈刀低《カナトデ》(三五六九)・小金門《ヲカナト》(七二三)などの例がある。○身者田菜不知《ミハタナシラズ》――田菜不知《タナシラズ》はただ知らずの意。家忘身毛多奈不知《イヘワスレミモタナシラズ》(五〇)參照。
〔評〕 上代のモダンガールの甚だしい嬌體と、享樂生活とが詠まれてゐる。身者田菜不知《ミハタナシラズ》は盲目的の浮氣さがよく現はれてゐる。
 
詠(メル)2水江浦島子《ミヅノエノウラシマノコヲ》1一首并短歌
 
水江浦島子はミヅノエノウラシマノコとよむのであらう。丹後風土記に等許余弊爾久母多智和多留美頭能叡能宇良志麻能古賀《トコヨベニクモタチワタルミヅノエノウラシマノコガ》》計等母知多留、なほ後人追和歌に、美頭能叡能宇良志麻能古我多麻久志義阿氣受阿理世波麻多母阿波麻志《ミヅノエノウラシマノコガタマクシゲアケズアリセバマタモアハマシ》などとあるのはその證である。水江浦島子の水江は氏で、浦島は名、子は親しんで添へるのである。書紀雄略天皇の卷には「二十二年秋七月、丹波國餘社郡管川人、水江浦島子、乘v船而釣、遂得2大龜1便化2爲女1、於是浦島子感以爲v婦、相逐入v海到2蓬莱山1歴2覩仙家1語在2別卷1」とあり、丹後風土記には「與射郡日量里、此里有2筒川村1此人夫日下部首等先祖、名云2筒川嶼子1爲v人姿容秀美、風流無v類、斯所v謂水江浦嶼子者也云々」とある。いづれも水江が氏で浦島子が名であるらしい。但し本朝神仙傳には、「浦島子者丹後國水江浦人也、昔釣2于濱1得2大龜1變成2婦人1云々」とあるが、これは、代匠記精撰本に「但神仙傳には水江を地の名とせれど、彼は湯川の玄圓と云僧の後代にかける書なれば、必らずしも證としかたし」とある通り、後世に言ひ出したことであるから信じ難い。なほ代匠記初稿本に水江をスミノエとよむべきやうに述べ、歌中の水江もスミノエと訓してゐるのは無理のやうである。
 
1740 春の日の 霞める時に 墨の吉の 岸に出でゐて 釣船の とをらふ見れば いにしへの 事ぞ念ほゆる 水の江の 浦島のこが 堅魚釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも來ずて うなさかを 過ぎてこぎ行くに 海若の 神のむすめに たまさかに い漕ぎ向ひ あひとぶらひ こと成りしかば かき結び 常世に至り 海若の 神の宮の 内のへの 妙なる殿に たづさはり 二人入りゐて 老いもせず 死にもせずして 永き世に 在りけるものを 世の中の おろか人の 吾妹子に 告りて語らく しましくは 家に歸りて 父母に 事も告らひ 明日の如 我は來なむと 言ひければ 妹がいへらく 常世べに また歸り來て 今のごと 逢はむとならば このくしげ 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 墨の吉に 還り來りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしと そこに念はく 家ゆ出でて 三とせのほどに 墻もなく 家うせめやと この筥を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉くしげ 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世べに 棚引きぬれば 立走り 叫び袖ふり こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心けうせぬ 若かりし はだも皺みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆなゆなは いきさへ絶えて 後つひに 命死にける 水の江の 浦島の子が 家どころ見ゆ
 
春日之《ハルノヒノ》 霞時爾《カスメルトキニ》 墨吉之《スミノエノ》 岸爾出居而《キシニイデヰテ》 釣船之《ツリブネノ》 得乎良布見者《トヲラフミレバ》 古(68)之《イニシヘノ》 事曾所念《コトゾオモホユル》 水江之《ミヅノエノ》 浦島兒之《ウラシマノコガ》 竪魚釣《カツヲツリ》 鯛釣矜《タヒツリホコリ》 及七日《ナヌカマデ》 家爾毛不來而《イヘニモコズテ》 海界乎《ウナサカヲ》 過而※[手偏+旁]行爾《スギテコギユクニ》 海若《ワタツミノ》 神之女爾《カミノムスメニ》 邂爾《タマサカニ》 伊許藝※[走+多]《イコギムカヒ》 相誂良比《アヒトブラヒ》 言成之賀婆《コトナリシカバ》 加吉結《カキムスビ》 常代爾至《トコヨニイタリ》 海若《ワタツミノ》 神之宮乃《カミノミヤノ》 内隔之《ウチノヘノ》 細有殿爾《タヘナルトノニ》 携《タヅサハリ》 二人入居而《フタリイリヰテ》 老目不爲《オイモセズ》 死不爲而《シニモセズシテ》 永世爾《ナガキヨニ》 有家留物乎《アリケルモノヲ》  世間之《ヨノナカノ》 愚人之《オロカビトノ》 吾妹兒爾《ワギモコニ》 告而語久《ノリテカタラク》 須臾者《シマシクハ》 家歸而《イヘニカヘリテ》 父母爾《チチハハニ》 事毛告良比《コトモノラヒ》 如明日《アスノゴト》 吾者來南登《ワレハキナムト》 言家禮婆《イヒケレバ》 妹之答久《イモガイヘラク》 常世邊爾《トコヨベニ》 復變來而《マタカヘリキテ》 如今《イマノゴト》 將相跡奈良婆《アハムトナラバ》 此篋《コノクシゲ》 開勿勤常《ヒラクナユメト》 曾己良久爾《ソコラクニ》 堅目師事乎《カタメシコトヲ》 墨吉爾《スミノエニ》 還來而《カヘリキタリテ》 家見跡《イヘミレド》 宅毛見金手《イヘモミカネテ》 里見跡《サトミレド》 里毛見金手《サトモミカネテ》 恠常《アヤシト》 所許爾念久《ソコニオモハク》 從家出而《イヘユイデテ》 三歳之間爾《ミトセノホドニ》 墻毛無《カキモナク》 家毛滅目八跡《イヘウセメヤト》 此筥乎《コノハコヲ》 開而見手齒《ヒラキテミテバ》 如本《モトノゴト》 家者將有登《イヘハアラムト》 玉篋《タマクシゲ》 小披爾《スコシヒラクニ》 白雲之《シラクモノ》 自箱出而《ハコヨリイデテ》 常世邊《トコヨベニ》 棚引去者《タナビキヌレバ》 立走《タチハシリ》 叫袖振《サケビソデフリ》 反側《コイマロビ》 足受利四管《アシズリシツツ》 頓《タチマチニ》 情消失奴《ココロケウセヌ》 若有之《ワカカリシ》 皮毛皺奴《ハダモシワミヌ》 黒有之《クロカリシ》 髪毛白班奴《カミモシラケヌ》 由奈由奈波《ユナユナハ》 氣左倍絶而《イキサヘタエテ》 後遂《ノチツヒニ》 壽死祁流《イノチシニケル》 水江之《ミヅノエノ》 浦島子之《ウラシマノコガ》 家地見《イヘドコロミユ》
 
(69)春ノ太陽ガドンヨリト〔五字傍線〕霞ンデヰル時ニ、澄ノ江ノ岸ニ出テ居テ、釣舟ガ浪ニ〔二字傍線〕漂ツテ居ルノヲ見ルト、昔ノコトガ思ヒ出サレルヨ。水ノ江ノ浦島ノ子トイフ男〔四字傍線〕ガ鰹ヲ釣ツタリ、鯛ヲ釣ツタリシテ得意ニナツテ、七日ニナルマデモ家ニ歸ラナイデ、海ノ果テヲ通リ越シテ漕イデ行クト、海ノ神様ノ神ノオ姫樣ニ偶然ニ漕イデヰルウチニ出逢ツテ、話ヲシテ約束ガ成就シタノデ、相共ニ手ヲ取リ合ツテ蓬莱ヘ行ツテ、海ノ神様ノ宮ノ奧ノ方ノ結構ナ御殴ニ手ヲ携ヘテ二人デ入ツテヰテ、年モトラズ死ニモシナイデ、永年ノ間住ンデヰタノニ、世間デノ馬鹿者ナル浦島〔四字傍線〕ハ、ソノ妻ニ話ヲシテ言フニハ、暫時ノ間ハ家ニ歸ツテ父母ト事ノ次第ヲ話ヲシ、明日ニモ早速私ハ〔四字傍線〕歸ツテ來マセウト言ツタノデ、妻ガ言フニハ、コノ蓬莱ヘマタ還ツテ來テ、今ノヤウニ私ニ蓬ハウト思フナラバ、決シテコノ櫛箱ヲオ開ケナサルナト言ツテ、充分ニ約束シテオイタノニ、浦島ハ〔三字傍線〕澄ノ江ヘ歸ツテ來テ、家ヲ見ルト家モ見エナイシ、村ヲ見ルケレモド村モ見ツカラナ(70)イノデ、不思議ダト、ソコデ思フノニハ、家カラ出テカラ三年ノ間ニ、籬根モナクナリ家モ無クナルトイフコトガアラウカト思ヒ、コノ筥ヲ開イテ見タナラバ、モトノ通リニ家ガアルダラウト思ヒ、ソノ玉手筥ヲ少シ開ケテ見ルト、白雲ガソノ箱カナ出テ、蓬莱ノ方ヘ向ツテ棚引イタ()デ、立チ上ツテ走ツテ叫ビナガラ袖ヲ振ツテ、臥シ轉ガツテ足ズリヲシテ殘念ガリ〔七字傍線〕ナガラ、忽チニ正氣ガ無クナツタ。若カツタ皮膚モ皺ガヨツタ、黒カツタ髪モ白クナツタ。後々ニハ、息サヘモ絶エテ、後デハ到頭命ガナクナツテシマツタ。ソノ〔二字傍線〕水江ノ浦島ノ子ノ家ノアリ場所ガソコニ〔三字傍線〕見エル。
 
○墨吉之《スミノエノ》――このスミノエは丹後の澄江であらう。新解にはこれを攝津の住吉とし、「一體浦島傳説は、諸國に在つて然るべきで、日本書紀に丹波國餘社郡(今の丹後)とし、丹後風土記にも出てゐるが、必丹後に限ると爲(71)すべきでは無い」とあるのも一の見解であらうが、この歌を、書紀や風土記に委しく記された丹後の浦島傳説に關係ないもので、攝津に行はれた浦島傳説を詠んだものと考へることはどうしても出來ない。なるほど浦島傳説は諸國に在つて然るべきであらうが、他にその存在が語られてゐないから致し方がない。攝津にあつたらうといふことは、根據のない想像説である。なほこの歌の作者と思はれる高橋蟲麿が、丹後に赴いたらしい形跡がないのが、攝津説の出た一因かも知れないが、この人が丹後に行かなかつたといふ證もないから、これを攝津の住吉とするのは無理であらう。丹後の澄江はその所在があまり明瞭ではないが、今、竹野郡網野町の海岸を澄江浦といふから、其處としてよいであらう。又日本地理風俗大系に載せた田中阿歌麿の記事には「澄の江湖沼群の湖沼」と題して、「與謝内海や久美濱湖と同じやうに、昔は丹後の海岸に澄の江といふ溺谷があり、外海に續いてゐたが、福田川、鳥溝川の沖積物と砂丘の成生はこれを埋めて、その東側に小濱湖を、西側に淺茂川湖を殘し、日本海と絶縁した」とあり、ここに澄の江といふ入海があつたことは認めてよいやうに思はれる。○得乎良布見者《トヲラフミレバ》――トヲラフはわからない語である。類聚古集に得を侍に、藍紙本・類聚古集など乎を手に作つてゐるが、それでもわからない。多分トヲラフはタヲルと同語で撓むの意、船が波に動搖してゐることと解すべきであらう。○鯛釣矜《タヒツリホコリ》――衿《ホコリ》は意氣揚々として得意になつてゐること。○海界乎《ウナサカヲ》――ウナサカは古事記に塞海坂而返入《ウナサカヲセキテカヘリイリマシヌ》とある海坂と同じであるが、海坂の坂は借字で、ここの文字の如く海の境界・海の果ての義であらう。場所といふ意のサカヒと見て、海上海中など譯しては當るまい。○海若《ワタツミノ》――文字の通り海の神。山ツミに對して海《ワタ》ツミといふ。○神之女爾《カミノムスメニ》――神之女は神女の意か、又は神の娘の意かによつて訓法が違ふわけである。御伽噺で聞きなれた龍宮の乙姫とすると、神の娘のやうである、浦島子傳に「父母兄弟在2彼仙房1」とあり、續浦島子傳に「父母兄弟在2彼金闕1」とあつて、父母があることになつてゐる。殊にこの傳説の根源と思はれる古事記の山幸海幸の神話を見ると、豐玉姫の父が説話の大きな役割をなしてゐるのであるから、ここの女の字はヲミナではなくてムスメとよむべきであらう。神田本にさう訓んでゐる。舊訓ヲトメとあるのはヲミナよりはよいが、なほムスメがよいやうである。○邂爾《タマサカニ》――偶然に。○伊許藝※[走+多]《イコギムカヒ》――イは接頭語。漕ぎ向(72)ひ。※[走+多]は趨に通ずる字で、ハシルの義であるから、舊訓はこれを次の句の相につづけてイコギワシラヒとしてゐる。併しそれも穩やかでないから、古義にムカヒとよんだのに從つた。この句は漕いでゐるうちに廻り逢つたこと。○相誂良比《アヒトブラヒ》――舊訓は相を前の句に附け、下をカタラヒとよんでゐる。略解にはいどみよる意として、カガラヒと訓んでゐるが、この語例が見當らぬやうである。この下に垣廬成人之誂時《カキホナスヒトノトフトキ》(一八〇九)とあるトフに傚つて、アヒトブラヒとよむのがよいやうに思はれる。誂は字書に相呼誘也とあつて、ここは兩方から話しかけたこと。○言成之賀婆《コトナリシカバ》――言が成つたといふのは、約束が成立したことであらう。古義には「言は借字にて、事の成就したればといふなり」とある。○加吉結《カキムスビ》――カキは接頭語。ムスビは相伴なつて、諸共になどの意。夫婦の契を結ぶと見るのは穩やかでない。○常代爾至《トコヨニイタリ》――常代《トコヨ》は人間界以外の不老不死の世界。仙境。○内隔之《ウチノヘノ》――中央の圍の中の。幾重にも圍つた中の垣の内の意。○細有殿爾《タヘナルトノニ》――タヘは妙、立派なこと。○携《タヅサハリ》――手を取り合つて。○永世爾《ナガキヨニ》――舊訓ナガキヨニとあるのがよい。略解・古義にトコシヘニと改めたのはよくない。○愚人之《オロカビトノ》――舊訓シレタルヒトノとあるが、略解の一訓にウルケキヒトノとあり、古義にはカタクナヒトノとある。しかし文字通りにオロカビトノとよんでもよいわけである。愚の字は集中他に用例がないので、比較は出來ないが、字鏡に闇の字を於呂加奈利と訓んでゐるから、謂はゆる馬鹿者をオロカと言ふことは既にあつたと思はれる。ここはオロカビトと訓むことにする。但し集中の假名書になつてゐるオロカは、卷十八の於呂可爾曾和禮波於母比之《オロカニゾワレハオモヒシ》(四〇四九)のやうに、オロソカの意に用ゐられてゐる。○如明日《アスノゴト》――明日のやうに速かに。明日にも、の意。必ず明日と限定したのではない。○此篋《コノクシゲ》――クシゲは櫛笥。櫛を入れる筥。○曾己良久爾《ソコラクニ》――ソコバクニに伺じ。充分に。許多。○堅目師事乎《カタメシコトヲ》――約束したことであるのに。カタメシは言葉を堅めた意。○家滅目八跡《イヘウセメヤト》――家が無くならうや決してなくなる筈はないと思つて。跡《ト》は裳《モ》の誤だらうと古義にあるが、この儘でよい。このトはト思ヒの意。下の家者將有登《イヘハアヲムト》の登《ト》も同じ。○如本《モトノゴト》――舊本、如來本とあるが、來は衍であらう。藍紙本・類聚古集によつて改めた。○玉篋《タマクシゲ》――玉は美稱のみ。○常世邊《トコヨベニ》――邊《ヘ》は方《ヘ》の借字。ホトリの意ではなく、方角を意味してゐる。○反側《コイマロビ》――臥し轉びに同じ。コイはコユといふ動詞。臥すこと。卷三に展(73)轉《コイマロビ》(四七五)とあつたのと同じである。○足受利四管《アシズリシツツ》――足を地に擦りつけて、殘念がる貌。○情消失奴《ココロケウセヌ》――心消え失せぬ。正氣がなくなり、意識が朦朧となつたこと。舊本、消を清に誤つてゐる。藍紙本によつて改めた。○髪毛白斑妖《カミモシラケヌ》――白斑の二字は、マダラに白くなつたといふのか。シラケはその意でよんだのであらう。異訓もないやうである。舊本、班に作つてゐるのは、斑と混用したので、集中他にも例がある。斑の方が正しい。○由奈由奈波《ユナユナハ》――古義に由李由李波《ユリユリハ》の誤として後々はの意としてゐる。誤字説は遽かに信じ難いが、意味はさうであらう。
〔評〕 冒頭の八句はこの長歌の前置として、作者の地位と時季とを明らかにしてゐる。一體、集中の長歌の叙事的のものは、概括的に叙述したものが多く、作者の立脚地點や季節を明らかにしてゐるものは稀であるが、これは春日之霞時爾《ハルノヒノカスメルトキニ》と述べてゐるのが、他と趣を異にしてゐる。さうして縹渺たる大海に面した岸に立つて、霞の中に夢のやうに浮んだ釣舟を眺めてゐるうちに、作者が瞑想に耽り回顧の思ひを走せる樣が、器用に無理なく述べられてゐる。水之江浦島兒之《ミヅノエノウラシマノコガ》以下、簡單ながら明瞭に傳説の筋を述べて、よく分るやうになつてゐる。後遂壽死祁流《ノチツヒニイノチシニケル》から、すぐに水江浦島子之家地見《ミヅノエノウラシマノコガイヘドコロミユ》と結んだのは、目立つた簡潔な手法である。頓情消失奴《タチマチニココロケウセヌ》から浦島が死去するまでの叙述が、少し長過ぎるやうでもあるが、これは若有之皮毛皺奴黒有之髪毛白斑奴《ワカカリシハダモシワミヌクロカリシカミモシラケヌ》の對句を入れた爲、これに對する必要上長くなつたもので、咎むべきではない。この種の作としては蓋し傑出したものである。
 
反歌
 
1741 常世べに 住むべきものを 劍太刀 なが心から おぞやこの君
 
常世邊《トコヨベニ》 可住物乎《スムベキモノヲ》 劔刀《ツルギタチ》 己之心柄《ナガココロカラ》 於曾也是君《オゾヤコノキミ》
 
乙姫ノ言葉ニ從ツテサヘ居レバ〔乙姫〜傍線〕常世ノ國デ住ムコトガ出來ル筈ダツタノニ、(劔刀)オマヘノ心カラ駄目ニナツテ(74)シマツタ〔十字傍線〕。馬鹿ダヨ、コノ人ハ。
 
○常世邊《トコヨベニ》――常世の國で。○劔刀《ツルギタチ》――枕詞。ナとつづく。卷四に劔太刀名惜雲吾者無《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシ》(六一六)とある。ナは刃の意である。劍には叢雲・草薙などの名があるからといふ冠辭考の説はいかが。名のあるものは劍には限らぬであらう。○己之心柄《ナガココロカラ》――この句の訓は頗る面倒である。舊訓はサガココロカラとあるが、藍紙本・壬生本・類聚古集・古葉略類聚鈔など、ワガココロカラと訓んで、しかも心の字を行と思はれる字に作つてゐる。これによつて新訓にオノガワザカラとよんでゐるが、この字は實は行ではなくて、心であらうと思はれるから、ワザと訓むべきではあるまい。又オノガワザカラと訓んでは、上の劍太刀とのつづきが分らなくなるから、己はオノガではないやうである。袖中抄にもワガココロカラとあるから、これが中世一般に行はれた訓であらう。蓋し狛劍《コマツルギ》がワの枕詞であるのに傚つてよんだものか。併しこれも無理であるから、右にあげた卷四の六一六の例にならつて、己をナとよむことにする。己は一人稱であるが、見下げていふ時は一人稱を二人稱に用ゐるから、汝の意としてナと訓むのである。大|己〔傍点〕貴神をオホ|ナ〔傍点〕ムチとよむのも右の理由で、ここの用法と同樣であらう。略解にはシガココロカラとよんでゐるが、シはソレの約と思はれるから、ここには當らない。又上の劍刀《ツルギタチ》をココロにつづく枕詞とする説もある。劍の柄の方にさし入れるナカゴを、ココロといふと契沖は言つてゐるが、果してさうした用語があるかどうか疑はしいから、從ひ難い。この句の下に、駄目になつたといふやうな意を補つて、ここで切つて考ふべきであらう。○於曾也是君《オゾヤコノキミ》――オゾは卷二に於曾能風流士《オゾノミヤビヲ》(一二六)とあつたのと同じく、心の遲鈍なこと。即ち愚かなこと。ヤはヨに同じ。コノキミは浦島をさしてゐる。
〔評〕 これは長歌中に世間之愚人之《ヨノナカノオロカビトノ》とあつたのと同意で、不老不死の歡樂郷にあるべき筈なのに、故郷に歸りたがつて、剰さへ貰つて來た玉手箱を聞いた魯鈍を笑つたものである。長歌は大體記事を主としてゐるが、反歌では浦島の行爲に批評を下してゐる。當時盛であつた神仙思想にかぶれたであらう作者の眼を以てすれば、この批評は當にかくあるべきである。この浦島傳説を詠じたものは、集中この作のみで、上代に於けるこの傳説の姿を知る爲に極めて貴重な資料で(75)ある。この傳説は謂はゆる仙郷淹留説話と稱するもので、種々な形式で、各國に語られてゐるものである。わが國では、かの海幸山幸の話として、古事記・日本書紀に記されてゐる彦火火出見尊の海神國に赴かれたことが、この傳説と全く同一系統に屬するものである。ただ神代のこととなつてゐるから、海神國の世界と時間的の相異がなく、從つて禁制の篋を開いた馬に、忽ち老翁となるやうな話にはなつてゐない。浦島子として物に見えた最初は、日本書紀の雄略天皇の卷で「二十二年秋七月、丹波國餘社郡管川人、水江浦島子、乘v舟而釣、遂得2大龜1便化2爲女1、於是浦島子感以爲v婦、相逐入v海、到2蓬莱國1歴2覩仙家1語在2別卷1」とある。これについで丹後風土記に至つて叙述が精細となり、浦島傳説としでの形が完成した感がある。又群書類從に載つてゐる浦島子傳は、瑰麗な六朝式の漢文を以て綴つたもので、續浦島子傳記はそれを更に委しく且支那的にしたものである。後者は延喜二十年の作であるから、平安朝の初期以來、この話が文人雅客の弄びとなつたことがわかる。なほ古事談や水鏡に淳和天皇の天長二年に浦島が歸郷したやうに記してあるのは滑稽である。その後、和歌や各種の詩文に、浦島の事が幾囘繰返されたか殆ど算へることは出來ない。今ここには省略することにしよう。唯一つ注意して置きたいことは、浦島には龜が附きもので、神女が龜に化したやうになつてゐるのに、この集の歌には龜が出てゐない點である。これはこの集のが浦島傳説の原形で、外國影響の無かつた純日本的のものだと説く學者もあるが、神婚説話では、神女が動物に化してあらはれるのが定型で、古事記の豐玉姫の如きも本身は鰐となつてゐるのであるから、この歌に龜が出て來なくとも、直ちにそれが無いものと判斷するわけには行かない。況んやそれが純日本式のものであると者へるのは早計であらう。
 
見(ル)2河内(ノ)大橋(ヲ)獨|去《ユク》娘子(ヲ)1歌一首并短歌
 
河内大橋は河内の國府の橋即ち雄略紀に見える餌香市邊の橋であらう。片足羽河にかかつてゐた大橋である。
 
1742 しなてる 片足羽河の さ丹塗の 大橋の上ゆ くれなゐの 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣きて ただ獨 い渡らす兒は 若草の つまかあるらむ 橿の實の 獨か寢らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく
 
級照《シナテル》 片足羽河之《カタシハガハノ》 左丹塗《サニヌリノ》 大橋之上從《オホハシノウヘユ》 紅《クレナヰノ》 赤裳數十引《アカモスソビキ》 山藍用《ヤマアヰモチ》 (76)摺衣服而《スレルキヌキテ》 直獨《タダヒトリ》 伊渡爲兒者《イワタラスコハ》 若草之《ワカクサノ》 夫香有良武《ツマカアルラム》 橿實之《カシノミノ》 獨歟將宿《ヒトリカヌラム》 問卷乃《トハマクノ》 欲我妹之《ホシキワギモガ》 家乃不知久《イヘノシラナク》
 
(級照)片足羽河ノ赤イ色ニ塗ツタ大橋ノ上ヲ、紅色ノ赤裳ノ裾ヲ引張ツテ、山藍ヲ用ヰテ摺ツテ染メ〔三字傍線〕タ着物ヲ着テ、唯一人デ渡ツテ行ク女ハ、(若草之)夫ガアルノダラウカ。ソレトモマダ獨身デ〔九字傍線〕(橿實之)獨デ寢ルノデアラウカ。ソノコトヲ〔五字傍線〕尋ネタイト思フガ、私ノ愛スルアノ女ノ家ガ、何處カ分ラナイ。何處カ分レバアノ女ノ家ニ尋ネテ行クノダガナア〔何處〜傍線〕。
 
○級照《シナテル》――枕詞。片《カタ》につづく。推古天皇紀に、斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナテルカタヲカヤマニ》ともある。何故にカタにつづくかについて、代匠記初稿本に「しなはきざはしの等級なり。てるは階をほむる詞なり。……片につづけたるは階はかたたかひにあるものなればなり」とある。冠辭考には「級立《シナタテ》る物は斜に片はへなる意にて、片とはつづくるならむ」「照は借字にて立るてふ辭なるを略きて?流《テル》といふなり」とある。古義に「斯那《シナ》は嫋《シナ》の意、提流《テル》は佐比豆流《サヒヅル》など云|豆流《ツル》と同言にて、然ある形容《サマ》をいふとき、附て言ふなるべし。さて片《カタ》とつづくは肩《カタ》の義にて弱々《ナヨナヨ》と嫋《シナ》やぐ肩といふ意に、いひ係たるなるべし。人の肩は屈伸《ノビカガミ》の縱由《ココロママ》なるもの故、嫋《シナ》やぐよしもて、古語に嫋肩《ヨワカタ》とも云るを、併せ思ふべし」とあるが、諸説いづれも牽強の感あるを遺憾とする。○片足羽河之《カタシハガハノ》――舊訓、カタアスハガハノとあつて、これが古い訓であるが、近頃の學者は多くカタシハとしてゐるから、ここはそれによる。この河は大日本地名辭書には、大和川の別名かとしてゐるが、河内志には石川のこととしてゐる。本居宣長も石川説を採つて、大橋は今國府渡と云ふところにかかつてゐたのだといつた或人説をあげてゐる。石川は源を藏王嶺に發し、葛城金剛の水を併せて北流し、道明寺村で大和川に合する川である。○左丹塗之《サニヌリノ》――サは接頭語で意味(77)なし。卷八に佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲブネモカモ》(一五二〇)とあつた。○大橋之上從《オホハシノウヘユ》――このユはヲの意である。○山藍用《ヤマアヰモチ》――山藍は大戟科山※[青+定]屬の多年生草本、山間の陰地に生じ、高さ一尺餘に達す。葉は對生で長柄を具へ、長※[木+隋]圓形を呈し鋸齒がある。柄本に小托葉がある。古代はこの葉の汁を以て衣を摺つて染めた。○伊渡爲兒者《イワタラスコハ》――イは接頭語。ワタラスはワタルの敬語。○若草乃《ワカクサノ》――枕詞。夫《ツマ》とつづく。一五三參照。○橿實之《カシノミノ》――枕詞。橿の實は栗などと異なり、一|※[手偏+求]《カサ》に一つづつ生るものであるから、ひとりにつづく。
〔評〕 廣重などの浮世繪でも見てゐるやうな感じである。赤裳の裾を引いて青い模樣の山藍摺の着物を着た美人が、ただ一人で丹塗の橋の上を渡つてゐるといふ景である。この娘子はそこの里處女であらうが、前の、末の珠名のやうな傳説中の美人が、現實の世界にぬけ出して來たやうにも思はれる情景である。この集中でもめづらしい場面が詠まれてゐる。
 
反歌
 
1743 大橋の つめに家あらば うらがなしく 獨ゆく兒に 宿かさましを
 
大橋之《オホハシノ》 頭爾家有者《ツメニイヘアラバ》 心悲久《ウラガナシク》 獨去兒爾《ヒトリユクコニ》 屋戸借申尾《ヤドカサマシヲ》
 
大橋ノタモトニ私ノ〔二字傍線〕家ガアルナラバ、アアシテ〔四字傍線〕獨デ心悲シサウニ、歩イテヰル、アノ女ニ宿ヲ借シテトマラセテ、私ノ思ヒヲアカシテ〔九字傍線〕ヤラウノニ。家ガナイカラ殘念ダ〔九字傍線〕。
 
○頭爾家有者《ツメニイヘアラバ》――頭をツメと訓むのは、天智紀に「于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》」とあるのを證とすることが出來る。頭はホトリの意であるが、ツメといへば橋のつめ、即ち橋のたもとで、兩者結局同じである。○心悲久《ウラガナシク》――舊訓ココロイタクとあるのはよくない。代匠記精撰本によつた。略解にマガナシクとあるのも賛成し難い。この句は悲しさうにの意。古義の解釋は誤つてゐる。
〔評〕 橋上をただ獨で辿り行く美人が、何となく物思はしげに見えるから、もしここに吾が家があるならば、彼の女を宿めていたはつてやりたいといふので、作者のロマンチツクな性格が現はれてゐる。
 
(78)見(テ)2武藏小埼沼《ムサシノヲサキノヌマノ》鴨(ヲ)1作(レル)歌一首
 
1744 埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞはねきる おのが尾に ふり置ける霜を 掃ふとならし
 
前玉之《サキタマノ》 小埼乃沼爾《ヲサキノヌマニ》 鴨曾翼霧《カモゾハネキル》 己尾爾《オノガヲニ》 零置流霜乎《フリオケルシモヲ》 掃等爾有斯《ハラフトナラシ》
 
埼玉ノ小埼ノ沼デ鴨ガ羽ヲ振ツテヰル。アレハ〔三字傍線〕自分ノ尾ノ上ニ降リ積ツタ霜ヲ掃フトスルノデアルラシイ。
 
○前玉之小埼乃沼爾《サキタマノヲサキノヌマニ》――前玉は和名抄「武藏埼玉郡佐伊太末」とあり、埼玉郷がその中心である。ここの埼玉はその埼玉郷、即ち今の熊谷町の東方、羽生町の西方一帶の地で、そこに埼玉の沼、古へ小埼の沼と稱したものがあつたのである。卷十四に佐吉多萬能津《サキタマノツ》(三三八〇)とあるのもその附近であらう。○鴨曾翼霧《カモゾハネキル》――翼霧《ハネキル》は強く羽たたきすること。
〔評〕 旋頭歌である。題詞によれば、實境に臨んで詠んだもので、旋頭歌としては、珍らしい内容である。枕草紙に「鴨は羽の霜うちはらふらむと思ふにをかし」とあるのは、この歌によつてかいたものかと思はれる。
 
那賀《ナカノ》郡|曝《サラシ》井(ノ)歌一首
 
那賀郡曝井は、常陸國風土記に「那賀郡、自v郡東北挾2粟河1而置2驛家1、當2其以南1泉出2坂中1水多流尤清、謂2之曝井1、縁v泉所v居村落婦女夏月會集浣v布曝乾」とある處で、今、東茨城郡に屬し、渡里村豪渡の瀧坂に清泉が出てゐるといふことである。水戸市の西北方に當つてゐる。なほ古風土記逸文考證に「この曝井は今茨城郡袴塚村愛宕祠の西なる坂の中段にあり。瀧坂といふ所なり。(中略)そのあたりを曝臺といふ。その裾の田を曝田といひて、今も坂の半に清水の湧出るあり」とある。略解には「小埼沼に次で載たれば武藏の那珂なるべし」とあるが、さうではあるまい。
 
1745 三栗の 中に向へる 曝井の 絶えず通はむ そこに妻もが
 
三栗乃《ミツグリノ》 中爾向有《ナカニムカヘル》 曝井之《サラシヰノ》 不絶將通《タエズカヨハム》 彼所爾妻毛我《ソコニツマモガ》
 
(79)(三栗乃)那珂ノ方ヘ向ツテ流レ〔二字傍線〕ル曝井ノ水ノ〔二字傍線〕ヤウニ、イツモ絶エズニ〔七字傍線〕常ニコノ曝井ノ所ヘ〔七字傍線〕通ツテ來ヨウト思フ〔二字傍線〕。其處ニ愛スル女デモ居レバヨイガ。サウシタラ曝井ヘ來ルツイデニ、何時デモソノ女ニ逢ハウモノヲ〔サウ〜傍線〕。
 
○三栗乃《ミツグリノ》――枕詞。栗の毬の中に實の三つあるを三つ栗といふ。三つあるものには中があるからかく續けた。○中爾向有《ナカニムカヘル》――略解はムキタルと訓み、古義は宣長が向は回の誤でメグレルならむといつたのに從つてゐる。
〔評〕 上の三句は、不絶といはん爲の序詞として用ゐられてゐるやうにも考へられるが、五の句に彼所《ソコ》とあるのは、曝井を承けてゐるやうであるから、さう見ない方がよからう。これも曝井の清泉を見て作つた歌である。
 
手綱《タヅナノ》濱(ノ)歌一首
 
手綱《タヅナノ》濱は歌によれば常陸多賀郡にあるべきである。今、松岡村の一部にその名が殘つてゐる。高戸と手綱とを合せて、松岡村と改めたも(80)ので、高萩の北半里、高戸の北に赤濱があり、この邊が古の手綱の濱である。八雲御抄に曝井を紀伊國とし、この手綱濱をも同じく紀伊の名所とせられたのは誤である。
 
1746 遠妻し たかにありせば 知らずとも 手綱の濱の 尋ね來なまし
 
遠妻四《トホヅマシ》 高爾有世婆《タカニアリセバ》 不知十方《シラズトモ》 手綱乃濱能《タヅナノハマノ》 尋來名益《タヅネキナマシ》
 
遠クニ離レテヰル妻ガ、多賀ニ居タナラバ、道ハ〔二字傍線〕知ラナイニシテモ、私ニ逢フ爲ニ〔六字傍線〕コノ手綱ノ濱ヘ尋ネテ來ヨウモノヲ。多賀ニハアノ女ハヰナイノカシラ〔多賀〜傍線〕。
 
○高爾有泄婆《タカニアリセバ》――高は常陸國多賀部。和名抄「多珂郡多珂里」とある所で多珂郷は今の松原村に當つてゐる。
〔評〕 手綱乃濱能尋來名盆《タヅナノハマノタヅネキナマシ》とタヅの音を繰り返してゐるのが、この歌の一技巧である。見やうによつては手綱の濱はただ序詞として用ゐられたものとも考へられるが、さうではなく、手綱濱に立つてその名に興じて詠んだものであらう。
 
春三月諸卿大夫等下(レル)2難波(ニ)1時(ノ)歌二首并短歌
 
春三月とのみあつて、何年の作ともわからない。諸卿大夫も誰ともわからない。作者高橋蟲麿は藤原宇合と共に常陸にゐたこともあるから、或はこれも宇合らをさしてゐるか。宇合は神龜三年十月知造難波宮事となつてゐる。舊本、并短歌の三字がないのは脱ちたのである。藍紙本によつて補ふ。
 
1747 白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小鞍の嶺に 咲きををる 櫻の花は 山高み 風し止まねば 春雨の 繼ぎてしふれば ほづ枝は 散り過ぎにけり しづ枝に 殘れる花は しましくは 散りなみだりそ 草枕 旅行く君が かへり來むまで
 
白雲之《シラクモノ》 龍田山之《タツタノヤマノ》 瀧上之《タギノウヘノ》 小鞍嶺爾《ヲグラノミネニ》 開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花者《サクラノハナハ》 山高《ヤマタカミ》 風之不息者《カゼシヤマネバ》 春雨之《ハルサメノ》 繼而零者《ツギテシフレバ》 最末枝者《ホヅエハ》 落過去祁利《チリスギニケリ》 下枝爾《シヅエニ》 遺有花者《ノコレルハナハ》 須臾者《シマシクハ》 落莫亂《チリナミダリソ》 草枕《クサマクラ》 客去君之《タビユクキミガ》 及還來《カヘリコムマデ》
 
(81)(白雲之)龍田ノ山ノ瀧ノ落チテヰル上ノ、小鞍ノ嶺ニ枝モ曲ガル程咲イテヰル櫻ノ花ハ、山ガ高イカラ風ガ吹キ止ムコトモナイノデ、春ノ雨ガ續イテ降ルト、上ノ枝ハ花ガ散ヅテシマツタ。下ノ枝ニ殘ツテヰル花ハ、暫時ノ間ハ散亂レルナヨ。(草枕)旅ニ出カケテ行クアナタ方ガ、オ歸リニナルマデハ、散ラナイデ待ツテヰヨ〔十字傍線〕。
 
○白雪之《シラクモノ》――枕詞。立つとつづく。○瀧上之小鞍嶺爾《タギノウヘノヲグラノミネニ》――今の大和川(昔の龍田川)の龜の瀬岩の附近が、昔は瀧つ瀬をなして落ちてゐた。その上方の龍田山の一峯を小鞍の嶺と稱したのである。九七一の寫眞參照。○開乎爲流《サキヲヲル》――乎爲流《ヲラル》は枝もたわわに撓むこと。○繼而零者《ツギテシフレバ》――代匠記精撰本ツギテフレレバとあるのに略解も從つてゐるが、舊訓のままがよい。○最末枝者《ホヅエハ》――ホヅエは秀つ枝、最上の枝。○及還來《カヘリコムマデ》――略解カヘリクマデニとあるが、古義に從ふ。
〔評〕 龍田山の櫻を主として詠んでゐる。嵐と春雨とで木末の花は散つたが、下枝は君が歸りを待つて散らずにゐよと歌つたのは、まこと優雅な心情で、龍田山の景趣が思ひ浮べられる。作者も諸卿大夫と同行してゐるのであるが、下僚たる自分を表面に現はさずに、諸卿大夫を主として詠んでゐる。
 
反歌
 
1748 吾が行は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし
 
吾去者《ワガユキハ》 七日不過《ナヌカハスギジ》 龍田彦《タツタヒコ》 勤此花乎《ユメコノハナヲ》 風爾莫落《カゼニナチラシ》
 
私ノ今度ノ〔三字傍線〕旅行ハ七日以上ニナルマイ。スグ還ツテ來ルツモリダ。ダカラ〔スグ〜傍線〕決シテコノ花ヲ風ニ散ラシテシマフナヨ。
 
○吾去者《ワガユキハ》――ユキは旅行の意。○七日不過《ナヌカハスギジ》――七日は日數の多い概數をいつてゐる。卷十七に知加久安良波伊麻布郡可太未等保久安良婆奈奴可乃宇知波須疑米也母《チカクアラバイマフツカダミトホクアラバナヌカノウチハスギメヤモ》(四〇一一)とある。○龍田彦《タツタヒコ》――今、立野村に祀られてゐる神で、神名帳「大和國平群郎龍田比古龍田比女神社二社」とある龍田比古である。即ち今の官幣大社龍田神社で、風神として古くから信仰があつた。○風爾莫落《カゼニナチラシ》――風に散らすなに同じ。
(82)〔評〕 これは自分をも一行中の一人として詠んでゐる。この山の神であり、風の神である龍田彦に、花を散らさぬやうに祈つてゐる心がやさしくなつかしい。
 
1749 白雲の 立田の山を 夕暮に うち越え行けば 瀧の上の 櫻の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり 含めるは 咲きつぎぬべし こちごちの 花の盛に 見ずといへど かにかくに 君がみゆきは 今にしあるべし
 
白雲乃《シラクモノ》 立田山乎《タツタノヤマヲ》 夕晩爾《ユフグレニ》 打越去者《ウチコエユケバ》 瀧上之《タギノウヘノ》 櫻花者《サクラノハナハ》 開有者《サキタルハ》 落過祁里《チリスギニケリ》 含有者《フフメルハ》 可開繼《サキツギヌベシ》 許智期智乃《コチゴチノ》 花之盛爾《ハナノサカリニ》 雖不見《ミズトイヘド》 左右《カニカクニ》 君之三行者《キミガミユキハ》 今西應有《イマニシアルベシ》
 
(白雲乃)立田山ヲ夕方ニ越エテ行クト、瀧ノ落チテヰル上ノ櫻ノ花ハ、咲イタノハ散ツテシマツタヨ。マダ〔二字傍線〕蕾ンデヰルノハコレカラ咲キツヅクデアラウ。アチラコチラノ花ノ盛リニ一度ニ咲イタ所ヲ〔八字傍線〕見ルコトハ出來ナイガ、兎モ角モ天子樣ノ行幸遊バス時期ハ今デアリマセウ。
 
○打越去者《ウチコエユケバ》――古義に「馬に鞭を打て、山を行越ばと云なるべし」とあるは誤つてゐる。打つは強くいふのみ。○許智期智乃《コチゴチノ》――アチコチノに同じ。己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》(二一〇)參照。○雖不見左右《ミズトイヘドカニカクニ》――舊訓ミネトマデとある。ここに脱字・落句があるとする説が多い。考によつて略解に、ミズトイヘドカニカクニとしたのに從ふ。新訓は雖不見在とし、右の字、類聚古集・神田本にないのに從つてアラズトモとしてゐる。○君之三行者《キミガミユキハ》――三行は御幸。天皇の行幸を指す。
〔評〕 この長歌も自己を現はさずに、山の花の盛が過ぎないのを喜んで、天皇の行幸を期待してゐる。同じく上品な歌である。
 
1750 暇あらば なづさひ渡り 向つ峯の 櫻の花も 折らましものを
 
反歌
 
暇有者《イトマアラバ》 魚津柴比渡《ナヅサヒワタリ》 向峯之《ムカツヲノ》 櫻花毛《サクラノハナモ》 折末思物緒《ヲラマシモノヲ》
(83)今度ハ御用ノ旅行デ暇モナイガ〔今度〜傍線〕、モシ暇ガアルナラバ山川ヲモ〔四字傍線〕水ヌレテ渡ツテ、向ヒノ山ノ櫻ノ花ヲモ折ラウノニ。暇ガナイカラサウモ出來ヌ〔暇ガ〜傍線〕。
 
○魚津柴比渡《ナヅサヒワタリ》――魚津柴比《ナヅサヒ》は玉かつまに「或は海川などに浮べること、或は船より渡る事などに云ひ、枕詞にも、引網の、鳥じもの、にほどりの、など云ひて、いづれもいづれも、水に着く事にのみ云へり。水によらぬは一つも無し。云々」とある通り、常に水にひたりつつ行き惱む意に用ゐてある。ここは川を渡り行くこと。○向峯之《ムカツヲノ》――向峯は向ひの山、小鞍の嶺としては地理が合はない。
〔評〕 急ぎの旅でもあり、既に夕暮でもあるから、花を折つて行く暇がないのを惜しんでゐる。いとまあらばとは言つてゐるが、やはり上代らしいのどかな氣分の歌である。これは長歌とは異なり自己を主として述べてゐる。
 
難波(ニ)經宿(シテ)明日還(リ)來(ル)之時(ノ)歌一首并短歌
 
經宿は一夜宿すること。歌の中に一夜耳宿有之柄二《ヒトヨノミネタリシカラニ》とあるに一致してゐる。
 
1751 島山を い行きもとほる 河そひの 丘べの道ゆ 昨日こそ 我が越え來しか 一夜のみ ねたりしからに をの上の 櫻の花は 瀧の瀬ゆ 落ちて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる杜に 風祭せな
 
島山乎《シマヤマヲ》 射往廻流《イユキモトホル》 河副乃《カハソヒノ》 丘邊道從《ヲカベノミチユ》 昨日己曾《キノフコソ》 吾越來牡鹿《ワガコエコシカ》 一夜耳《ヒトヨノミ》 宿有之柄二《ネタリシカラニ》 岑上之《ヲノウヘノ》 櫻花者《サクラノハナハ》 瀧之瀬從《タギノセユ》 落墮而流《オチテナガル》 君之將見《キミガミム》 其日左右庭《ソノヒマデニハ》 山下之《ヤマオロシノ》 風莫吹登《カゼナフキソト》 打越而《ウチコエテ》 名二負有杜爾《ナニオヘルモリニ》 風祭爲奈《カザマツリセナ》
 
島山ヲ行キ廻ツテヰル、川ニ添ツタ岡ノホトリノ道カラ、昨日コソ私ガ越エテ難波ヘ〔三字傍線〕行キマシタ。然ルニ今日還リ道ニ通ツテ見ルト〔然ル〜傍線〕、タダ一晩ダケアチラデ〔四字傍線〕寢タノニ、峯ノ上ノ櫻ノ花ハ、瀧ノ瀬カラ流レ落チテヰル。ホントニ散ルノハ早イモノダ。天子樣ガ近イ内ニ此處ヲオ通リニナル筈ダガ〔ホン〜傍線〕、天子樣ガ御覽ニナルソノ日マデニハ、山(84)カラ吹キ下ロス嵐モ吹クナト、コノ立田山ヲ〔六字傍線〕越エテ、私ハ〔二字傍線〕風ノ神ト名ヲ負ウテヰル龍田ノ〔三字傍線〕社ニ風祭ヲシマセウ。
 
○島山乎《シマヤマヲ》――島山は川をめぐらした山。ここは龍田山を指してゐる。○射往廻流《イユキモトホル》――考・略解にイユキメグレルとあるが、舊訓のままでよからう。この句は次の句の河に續いてゐる。句をへだてて道に續くとする説は當らない。○吾越來牡鹿《ワガコエコシカ》――上にコソとあるからシカと結んだのである。シカは過去助動詞キの已然形。○瀧之瀬從《タギノセユ》――瀧之瀬は大和川の今謂はゆる龜の瀬である。○落墮而流《オチテナガル》――考にタギチテナガルとあるが、文字通りオチテナガルと訓むがよいであらう。○君之將見《キミガミム》――君は天皇を指す。○山下之《ヤマオロシノ》――古義にアラシノと訓み「ヤマオロシとよめるは後めきたり」といつてゐる。然し山下風之《ヤマノアラシノ》(七四)・山下風爾《ヤマノアラシニ》(一四三七)・山下風波《ヤマノアラシハ》(二三五〇)などの用例を見ると、山下ではアラシと訓まないやうに見える。○打越而《ウチコエテ》――この山を越えての意。難波から來れば立田山を越えた立野に、立田神社があるからかう言つてゐる。○名二負有杜爾《ナニオヘルモリニ》――ここの名に負ふは、風の神としてその名をもつてゐるの意である。杜は藍紙本その他の古本に社に作つてゐる。○風祭爲奈《カザマツリセナ》――風祭せむに同じ。ナはムに同じで意が強い。風祭は風の神を祭ること。
〔評〕 前の歌の歸路の作である。一夜難波に宿つたのみなるに、往路とは全く異なつて、落花が急湍に浮び流れてゐるので、どうかして山の花を風に散らすまいと、風神を祭つて祈らうとする作者は、前の長歌と同じく、どこまでも君の行幸を待つ心が主となつて、櫻の花を惜しんでゐる。優しい敬虔な心情がよく現はれてゐる。
 
反歌
 
1752 い行きあひの 坂の麓に 咲きををる 櫻の花を 見せむ兒もがも
 
射行相乃《イユキアヒノ》 坂上之蹈本爾《サカノフモトニ》 開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花乎《サクラノハナヲ》 令見兒毛欲得《ミセムコモガモ》
 
人ガ登ツテ〔五字傍線〕行キ合フ坂ノ麓ニ、枝モ曲ガルホド咲イテヰル櫻ノ花ヲ、私ノ愛スル女ニ見セタイガ〔私ノ〜傍線〕、見セル女ガ此處ニ〔三字傍線〕居レバヨイガ。
 
○射行相乃《イユキアヒノ》――イは接頭語、坂の上で旅人が行合ふから、かういふのであるが、坂の枕詞ではない。○坂上之(85)蹈本爾《サカノフモトニ》――上の字は藍紙本などにないのが原形であらう。蹈本の二字は麓の語源を現はしてゐるやうに見える。○令見兒毛欲得《ミセムコモガモ》――兒は女。見すべき女があればよいといふのである。
〔評〕 長歌で行幸を主としてゐるので、これには方面を變へて女を點出して、私情を述べてゐる、長歌と氣分が變つて面白い感じを與へる。
 
※[手偏+僉]税使大伴卿登(レル)2筑波山(ニ)1時(ノ)歌一首并短歌
 
※[手偏+僉]税使は臨時の官で、五畿七道に出張して、國司の財政を點檢することを掌る。毎遣、使一人、判官・主典各一人を以て定員としてゐる。績日本紀には、光仁天皇の寶龜七年大伴宿禰潔足・石上朝臣家成らを以て※[手偏+僉]税使としたことが見えて、これが史に記された最初であるが、この歌はそれよりも遙かに以前である。大伴卿は代匠記初稿本に安麿かとし、精撰本には旅人としてゐるが、これは大伴旅人と推定すべきである。何となれば、この下に鹿島郡苅野(ノ)橋別2大伴卿1歌一首并短歌(一七八〇)の左註に、右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出とあり、これは※[手偏+僉]税使の任を終つた大伴卿が常陸國を去つて下總に渡らうとする時、蟲麿が別を惜しんで詠んだものである。當時蟲麿は常陸國の役人として在任したもので、それは藤原宇合が常陸の國守をしてゐた時であつたらしいことは、蟲麿と宇合との間が非常に親密な關係であつたことによつて想像せられる。續日本紀に、「養老三年七月庚子、始置2按察使1令2常陸國守五五位上藤原朝臣宇合1管2安房上總下總三國1神龜元年四月丙申以2式部卿正四位上藤原朝臣宇合1處2二持節大將軍1」とあるから、養老年間のことであつた。安麿は和銅七年五月に薨じてその時は既に亡いから、どうしても旅人であらねばならぬ。旅人は養老三年三月中納言となり、三年九月に山背國攝官となり、四年三月征隼人持節大將軍として西國に赴いてゐるから、これを旅人とすれば、その中納言時代であつたらうと思はれる。なほこの歌は大伴卿の作ではなく、高橋蟲麿の歌に相違ない。
 
1753 衣手の 常陸の國 二ならぶ 筑波の山を 見まく欲り 君來ませりと 熱けくに 汗かきなげ 木の根取り 嘯きのぼり 岑の上を 君に見すれば 男の神も 許し賜ひ 女の神も ちはひ給ひて 時となく 雲居雨降る 筑波嶺を さやに照らして いぶかりし 國のまほらを つばらかに 示し賜へば うれしみと 紐の緒解きて 家の如 解けてぞ遊ぶ うち靡く 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日のたぬしさ
 
(86)衣手《コロモデノ》 常陸國《ヒタチノクニ》 二並《フタナラブ》 筑波乃山乎《ツクバノヤマヲ》 欲見《ミマクホリ》 君來座登《キミキマセリト》 熱爾《アツケクニ》 汗可伎奈氣《アセカキナゲ》 木根取《コノネトリ》 嘯鳴登《ウソブキノボリ》 岑上乎《ヲノウヘヲ》 君爾令見者《キミニミスレバ》 男神毛《ヲノカミモ》 許賜《ユルシタマヒ》 女神毛《メノカミモ》 千羽日給而《チハヒタマヒテ》 時登無《トキトナク》 雲居雨零《クモヰアメフル》 筑波嶺乎《ツクバネヲ》 清照《サヤニテラシテ》 言借石《イブカリシ》 國之眞保良乎《クニノマホラヲ》 委曲爾《ツバラカニ》 示賜者《シメシタマヘバ》 歡登《ウレシミト》 紐之緒解而《ヒモノヲトキテ》 家如《イヘノゴト》 解而曾遊《トケテゾアソブ》 打靡《ウチナビク》 春見麻之從者《ハルミマシユハ》 夏草之《ナツクサノ》 茂者雖在《シゲクハアレド》 今日之樂者《ケフノタヌシサ》
 
(衣手)常陸國ノ男體女體ノ〔五字傍線〕二ツノ峯ガ並ンデヰル筑波山ヲ、見タイト思ツテ大伴卿ガオイデナサツタトイフノデ、私ハ〔六字傍線〕暑イノデ汗ヲカキ拂ヒツツ、木ノ根ニトリスガリナガラ、吐息ヲツイテ御供ヲシテ〔五字傍線〕登ツテ、峯ノ上ノ景色〔三字傍線〕ヲ大伴卿ニ見セルト、ソレヲ男體山ノ〔七字傍線〕男ノ神様モオ許シナサレ、女體山ノ〔四字傍線〕女ノ神様モ、幸ヲ下シナサレテ、イツモハ〔四字傍線〕何時トイフコトナク雲ガカカツテ雨ノ降ル筑波山ヲ、今日ハ日光ガ〔六字傍線〕明ラカニ照ラシテ、今マデハツキリシナカツタ常陸ノ〔三字傍線〕國ノヨイ國原ヲ委シク示シテ下サツタノデ、嬉シイトテ着物ノ〔三字傍線〕紐ノ緒ヲ解イテクツロイデ〔五字傍線〕、家ニヰル時〔四字傍線〕ノヤウニ、打解ケテ遊ブ。(打靡)春來テ見ルヨリハ、今ハ〔二字傍線〕夏草ガ茂ク生エテハヰルガ.今日ノ方ガ樂シイヨ。
 
○衣手《コロモデノ》――コロモデと四言に訓んでもよいところであるが、コロモデノと訓む方がよい。一六九六參照。枕詞。この續き方について冠辭考には「こは在滿がいへる、ひだとつづけたらんと。今考るに古の袖ははばのせばくてたけの長ければ、手拱《タムタク》にも事をなすにも、袂のくだりをたぐる故に、ひだ多かるべし。依て右の説をよしとす。云々」とある。○二並《フタナラブ》――舊訓フタナミノ、略解もさう訓んでゐるが、古義にフタナラブとあるのがよい。○君來座登《キミキマセリト》――君は大伴卿を指す。○熱爾《アツケクニ》――卷一、山下風之寒久爾《ヤマノアラシノサムケクニ》(七四)に傚つて、アツケクニと訓むがよい。(87)○汗可伎奈氣木根取《アセカキナゲキコノネトリ》――代匠記精撰本に、氣の下、伎を脱とし、アセカキナゲキキノネトリとしてゐる。略解はこれに從ひ、古義は木根をコノネと訓んで、他は同訓であるが、ここは原形を尊重して訓んだ新訓に從フ。汗可伎奈氣《アセカキナゲ》は、汗かき拂ひといふやうな意味であらう。○嘯鳴登《ウソブキノボリ》――ウソブキはため息をつく、息せき切つて登ることである。ウソを吹くは口笛を吹くことで、ここでは呼吸によつて音を發する意である。ウソブキと訓むべきで、ウソムキではよくない。○男神毛《ヲノカミモ》――前に二並《フタナラブ》とあつたやうに、筑波山は男體山・女體山の二峯からなつてゐる。男神は即ち男體山の神、女神は女體山の神である。○千羽日給而《チハヒタマヒテ》――チハヒは幸《サチハ》ひの略である。神が幸を與へ給ふこと。卷十一、靈治波布神毛吾者打棄乞《タマチハフカミモワレヲバウツテコソ》(二六六一)とあるタマチハフも同じ。○時登無《トキトナク》――平生いつでもの意。トキジクに同じ。○雲居雨零《クモヰアメフル》――雲がゐて雨が降るの意。この句は直に下の筑波嶺に續いてゐる。○言借石《イブカリシ》――イブカリシはイブカルに助動詞シを添へたもので、イブカルは不明瞭に思ふことである。イブはイブルのイブであつて、大祓祝詞の五百霧《イホリ》と同一語と考へられる。略解の宣長説に、石を木の誤として、イブカシキと訓んだのはどうであらう。○國之眞保良乎《クニノマホラヲ》――眞保良《マホラ》はよい處。八〇〇參照。○紐之緒解而《ヒモノヲトキテ》――着物の胸に結んである紐を解いて、胸をはだけてくつろいで遊ぶのである。○春見麻之從者《ハルミマシユハ》――春見むよりはの意。
〔評〕 夏の暑い頃、大伴卿を筑波山に案内し、幸に頂上の展望をほしいままにし得たことを喜んだ作で、卷三の神岳に登つて山部赤人が詠んだ長歌(三二四)などのやうに、叙景を主としないで、その時の事情や作者の氣分がよく現はれるやうになつてゐる。また同卷の丹比眞人國人が筑波岳に登つて作つた長歌(三八二)は雪消の山路をなづみつつ辿つたのであるのに、これは暑い夏の盛りに汗を拂ひつつ登つたので、二者を對比すると面白い。年代もほぼ同じ頃らしい。
 
反歌
 
1754 今日の日に いかにかしかむ 筑波嶺に 昔の人の 來けむその日も
 
今日爾《ケフノヒニ》 何如將及《イカニカシカム》 筑波嶺《ツクバネニ》 昔人之《ムカシノヒトノ》 將來其日毛《キケムソノヒモ》
 
昔ノ人ガコノ筑波ニ來テ面白ク遊ンダガ〔昔ノ〜傍線〕、コノ筑波山ニ昔ノ人ガ來タデアラウソノ日デモ、今日ノコノ日ノ面(88)白サニドウシテ及バウゾ。今日ホド面白イコトハ今マデアルマイ〔今日〜傍線〕。
 
○何何將及《イカニカシカム》――舊訓イカガオヨバム、古義はイカデシカメヤとあるが、薪考によつてイカニカシカムと訓むことにする。
〔評〕 昔の人とは何か指す所があつていつたのであらう。略解に「昔の人は誰とさす所なし」とあるが、さうではあるまい。今日の嬉しさを強調したに過ぎない歌である。
 
詠(メル)2霍公鳥(ヲ)1一首并短歌
 
1755 鶯の かひこの中に ほととぎす ひとり生れて なが父に 似ては鳴かず なが母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野邊ゆ 飛びかけり 來鳴きとよもし 橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし まひはせむ 遠くな行きそ 我が屋戸の 花橘に 住みわたれ鳥
 
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 生卵乃中爾《カイヒコノナカニ》 霍公鳥《ホトトギス》 獨所生而《ヒトリウマレテ》 己父爾《ナガチチニ》 似而者不鳴《ニテハナカズ》 己母爾《ナガハハニ》 似而者不鳴《ニテハナカズ》 宇能花乃《ウノハナノ》 開有野邊從《サキタルヌベユ》 飛翻《トビカケリ》 來鳴令響《キナキトヨモシ》 橘之《タチバナノ》 花乎居令散《ハナヲヰチラシ》 終日《ヒネモスニ》 雖喧聞吉《ナケドキキヨシ》 幣者將爲《マヒハセム》 遐莫去《トホクナユキソ》 吾屋戸之《ワガヤドノ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 住度鳥《スミワタレトリ》
 
鶯ノ巣ノ中ノ〔四字傍線〕卵ノ中カラ、郭公ガ獨リ生レ出テ、汝ノ父ニ似テハ鳴カズ、汝ノ母ニモ似テハ鳴カナイデ、卯ノ花ノ咲イテヰル野原カラ、飛ビ翔ツテ來テ鳴キ叫ンデ、橘ノ花ヲ枝ニ〔二字傍線〕トマツテ散ラシ、秋日鳴イテヰルガ、面白イ聲デ〔四字傍線〕聞イテモ飽キナイデ〔五字傍線〕聞キヨイ。オマへニ〔四字傍線〕進物ヲアゲヨウカラ〔二字傍線〕、遠クヘ飛ンデ行クナヨ。私ノ家ノ花橘ニイツモ住ンデ居レヨ、時〔傍線〕鳥ヨ。
 
○生卵乃中爾《カヒコノナカニ》――カヒコは卵。和名抄に「卵(ハ)鳥胎也加比古」とあるが、雄略紀に「國之危殆、過2於累1v卵」の卵に振仮名してカヒとあり、また拾遺集に「鳥の子はまだ雛ながらたちていぬかひの見ゆるは巣もりなりけり」(89)とあるによると、カヒが卵で、コは添へたのみである。○獨所生而《ヒトリウマレテ》――獨り生れるとは、郭公が鶯の卵の中から自分だけが違つた姿で生れること。○己父爾《ナガチチニ》――己は舊訓サガとあり。略解にシガとある。己之心柄《ナガココロカラ》(一七四一)で説明したやうにナガとよむがよい。ナガチチは汝が父で、鶯の父をいふ。○宇能花乃開有野邊從《ウノハナノサキタルヌベユ》――卯の花の咲いてゐる野邊から。古義には「サキタルヌベヨと訓べし。從《ヨ》は乎《ヲ》と云が如し」とあるが、ここには當るまい。○飛翻《トビカケリ》――舊訓はトビカヘリとある。翻は鳥の飛ぶことで、轉じてひるがへる義に用ゐる。略解にトビカケリと訓んだのがよいやうに思はれる。なほ神田本に翻を飜に作つてゐるが、この二字は同字である。○花乎居令散《ハナヲヰチラシ》――ヰチラシは居て散らす。橘の枝に宿つて花を散らすこと。○幣者將爲《マヒハセム》――幣《マヒ》は賄《マヒ》。贈物。九〇五參照。○住度鳥《スミワタレトリ》――住み渡れよ、時鳥よの意。度は渡に通じて用ゐられたもの。絶えず住むことを、住み渡るといふ。古義に鳥を鳴の誤として、スミワタリナケと改めたのはよくない。次の反歌と共に、鳥で名詞止になつてゐるのである。
〔評〕郭公が鶯の巣に卵を生んで雛を孵化せしめる説話は、當時廣く語られてゐたことで、卷十九にも、欲其母理爾鳴霍公鳥從古可多理都藝都流※[(貝+貝)/鳥]之宇都之眞子可母《ヨゴモリニナクホトトギスイニシヘヨカタリツギツルウグヒスノウツシマコカモ》(四一六六)とある。この事に關し、本朝食鑑・和漢三才圖會・江談抄などに記載があるが、今鏡の第十に「菩提樹院といふ寺に、ある僧房の池のはちすに、鳥の子をうみたりけるをとりて、籠にいれて飼ひけるほどに、うぐひすの籠より入りてものくくめなどしければ、うぐひすの子なりけりと知りにけれど、子はおほきにて親にも似ざりければ、怪しく思ひけるほどに、子のやうやうおとなしくなりで、ほととぎすと鳴きければ、むかしより云ひ傳へたるふるきこと誠なりと思ひて云々」と、載つてゐる。この長歌を少し短く改作して、袖中抄にかかげてゐる。また謠曲の哥占には「うぐひすのかひこの中のほととぎすしやが父に似てしやが父に似ず」といふ歌が引かれてあるが、これもこの歌から出てゐることはいふまでもない。かく後世に影響を與へた點に於て、注意すべき作品である。
 
反歌
 
(90)1756 かききらし 雨の降る夜を ほととぎす 鳴きて行くなり あはれその鳥
 
掻霧之《カキキラシ》 雨零夜乎《アメノフルヨヲ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而去成《ナキテユクナリ》 ※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》
 
空ガカキ曇ツテ雨ノ降ル晩ニ、郭公ガ面白イ聲デ〔五字傍線〕鳴イテ行クナア。アア面白イ〔三字傍線〕アノ鳥ヨ。
 
○掻霧 《カキキラシ》――カキは接頭語。キラシはキリに同じ。天霧之《アマキラシ》(一六四三)も同樣である。なほこの語は曇らしめる意と解かれてゐるが、中古文に多い「かきくらす」などの用例を見ても、使役の意はないやうである。○※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》――アハレはああ面白いと歎じた感嘆詞。あはれなるその鳥といふのではない。
〔評〕 長歌には郭公の習性について歌つたが、反歌には五月雨の夜に鳴く郭公を愛でたのである。枕草子に、夜鳴く鳥として郭公を激賞してゐるやうに、郭公が他鳥と異なる美點はここにあると言つてもよい。ことにこれは雨中であるから尚更趣があるわけである。なほこの歌は、卷七の名兒乃海乎朝榜來者海中爾鹿子曾鳴成※[立心偏+可]怜其水手《ナゴノウミヲアサコギクレバワタナカニカコゾヲブナルアハレソノカコ》(一四一七)と形式が似てゐる。
 
登(ル)2筑波山(ニ)1歌一首并短歌
 
1757 草枕 旅の憂を なぐさもる 事もあらむと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花ちる しづくの田井に 鴈がねも 寒く來鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長きけに 念ひつみ來し 憂ひはやみぬ
 
草枕《クサマクラ》 客之憂乎《タビノウレヒヲ》 名草漏《ナグサモル》 事毛有武跡《コトモアラムト》 筑波嶺爾《ツクバネニ》 登而見者《ノボリテミレバ》 尾花落《ヲバナチル》 師付之田井爾《シヅクノタヰニ》 鴈泣毛《カリガネモ》 寒來喧奴《サムクキナキヌ》 新治乃《ニヒバリノ》 鳥羽能淡海毛《トバノアフミモ》 秋風爾《アキカゼニ》 白浪立奴《シラナミタチヌ》 筑波嶺乃《ツクバネノ》 吉久乎見者《ヨケクヲミレバ》 長氣爾《ナガキケニ》 念積來之《オモヒツミコシ》 憂者息沼《ウレヒハヤミヌ》
 
(草枕)旅中ノツラサヲ少シハ〔三字傍線〕慰メルコトモアルカト思ツテ、筑波山ニ登ツテ見ルト、尾花ノ花ガ散ル雫村ノ田ニ、鴈モ寒イ聲ヲ出シテ來テ鳴イタ。新治ノ鳥羽ノ湖モ秋風ガ吹クノニツレテ、白浪ガ立チ騷イデヰル。コノ(91)筑波山ニ登ツテ〔九字傍線〕、筑波山ノ景色ノヨイノヲ見ルト、長イ日數ノ間、胸ノ中ニ〔四字傍線〕思ツテ積ンデ來タ心配ハスツカリ〔四字傍線〕止ンデシマツタ。ホントニコノ山ハヨイ景色ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○名草漏《ナグサモル》――文字通りナグサモルと訓むがよい。慰むる。○師付之田井爾《シヅクノタヰニ》――師付は今、常陸新治郡志筑村。石岡町の西南一里の地點にある。田井はタンボ。伏見何田井爾《フシミガタヰニ》(一六九九)參照。○新治乃《ニヒバリノ》――新治は常陸風土記に「新治郡、東那賀郡堺大山、南白壁郡、西毛野河、北下野常陸二國之堺即波多岡」とあり。和名抄|爾比波里《ニヒハリ》と註し、十二郷に分つてゐる。即ち葦穗山の西方の地で、今は眞壁郡と西茨城郡とに編入せられてゐる。今、筑波山の東方に新治郡があるのは、文禄年間に猥りに古名を襲うたもので、彼の地は古の茨城郡の地域内に當つてゐる。○鳥羽能淡海毛《トバノアフミモ》――鳥羽能淡海は、大日本地名辭書に、「今高道祖の西北にして、眞壁郡上野村、鳥羽村と同郡黒子村、騰波江村、大寶村との間なる卑濕、蓋是なり。古風土記に筑波郡西十里、在騰波江、長二千九百歩、廣一千五百歩、東筑波郡、南毛野河、西北新治郡、艮白壁郡、と載せしにて明白す。古の筑波・白壁・新治、及び毛野河(此には、高道祖の西なる絹川の舊河道、糸繰《イトクリ》川とも(92)いへるが、新治郡と豐田都の間を東へ流れ、高道祖に至る者を毛野河と云ふ)の中間なる一大澤にして、子飼川之に※[さんずい+匯]し、渺々たる江海を成せる也」といひ、更にこの歌を擧げて「新治郡内の地に、騰波江を求めて大寶沼を以て之に充てしは、甚しき誤なりと」言つてゐるが、地形から考へても、大寶沼説は當らぬやうである。ここに掲げた地圖は、日本地理風俗大系によつたもので、大體當時の模樣を想像することが出來よう。○長氣爾《ナガキケニ》――ながき日に。長い目數を經ての意。
〔評〕 冒頭に旅の愁をなぐさめむとして山に登ることを述べ、次いで東は師付の田に鳴く雁、西は鳥羽の湖上に立つ白浪を歌つて、短い叙述のうちに、晩秋らしい頂上からの展望を讃嘆し、終に、これによつて果して旅の愁を忘れ得たと呼應してゐるのは、まことに用意ある作品である。
 
反歌
 
1758 筑波ねの すそみの田井に 秋田苅る 妹がりやらむ 黄葉手折らな
 
筑波嶺乃《ツクバネノ》 須蘇廻乃田井爾《スソミノタヰニ》 秋田苅《アキタカル》 妹許將遣《イモガリヤラム》 黄葉手折奈《モミヂタヲラナ》。
 
筑波山ノ麓ノ廻ノ田デ、秋ノ田ノ稻〔二字傍線〕ヲ苅ツテヰル愛ラシイ〔四字傍線〕女ノ所ヘ、土産トシテ〔五字傍線〕持ツテ行ク紅葉ヲ折取ラウナア。
 
○須蘇廻乃田井爾《スソミノタヰニ》――山裾の田の面で。田井の井に意味はない。
〔評〕 妹とあるのは、山に登らうとして途中に見た稻刈る處女であらう。作者が筑波山麓の農婦を愛人としてゐるわではない。略解に「此山よりふもとを見おろして、田ゐに稻刈妹がもとへやらんために、紅葉を手折らんといふのみ」とあるのは從ひ難い。かくの如く反歌に於て、長歌の内容と全くかけ隔つたことを述べるのが、この作者の一技巧のやうに思はれる。
 
登(リテ)2筑波嶺(ニ)1爲(ス)2※[女+燿の旁]歌會《カガヒヲ》1日作(レル)歌一首并短歌
 
(93)※[女+燿の旁]歌は左註に東俗語曰賀我比とあるやうに、カガヒと訓むのである。ここでは※[女+燿の旁]歌會の三字をカガヒと訓んでよからう。※[女+燿の旁]歌は玉篇に「※[女+燿の旁]、往來貌」とあり、蠻人の歌である。常陸風土記香島郡童子女松原の條に「※[女+燿の旁]歌之會俗曰宇太我岐、又曰加我毘也」とあり、カガヒは歌垣の本語と思はれる。歌垣の事は攝津風土記・古事記・書紀などにも見え、書紀には歌場と書いてウタガキと訓ませてある。釋日本紀に歌場は「男女集會詠和歌契交接之所也」とある。カガヒはこの歌の中に、加賀布※[女+燿の旁]歌爾《カガフカカヒニ》とあつて、カガフといふ動詞が名詞となつたものである。その語意について諸説があるが明らかでない。男女相集つて婚するやうな意味で、下の詠2勝鹿眞間娘子1歌(一八〇七)に歸香具禮《ユキカグレ》とあるカグレと同語らしい。
 
1759 鷲の住む 筑波の山の もはきづの その津の上に あともひて をとめ壯士の ゆき集ひ かがふかがひに ひと妻に 我も交らむ 吾が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
 
鷲住《ワシノスム》 筑波乃山之《ツクバノヤマノ》 裳羽服津乃《モハキヅノ》 其津乃上爾《ソノツノウヘニ》 率而《アトモヒテ》 未通女壯士之《ヲトメヲトコノ》 往集《ユキツドヒ》 加賀布※[女+燿の旁]歌爾《カガフカガヒニ》 他妻爾《ヒトヅマニ》 吾毛交牟《ワレモマジラム》 吾妻爾《ワガツマニ》 他毛言問《ヒトモコトトヘ》 此山乎《コノヤマヲ》 牛掃神之《ウシハクカミノ》 從來《ムカシヨリ》 不禁行事叙《イサメヌワザゾ》 今日耳者《ケフノミハ》 目串毛勿見《メグシモナミソ》 事毛咎莫《コトモトガムナ》  ※[女+燿の旁]歌者東俗語曰賀我比
 
鷲ガ住ンデヰル筑波ノ山ノ、裳羽服津ノソノ津ノアタリニ、連レ立ツテ少女ト若イ男トガ行キ集ツテ、互ニ交リ合フ歌垣壇デ、他人ノ妻ト私モ一緒ニ交ラウ。私ノ妻ニ他人モ話ヲシナサイ。コノ筑波〔二字傍線〕山ニ鎭座シテ領シテイラツシヤル神樣ガ、昔カラ禁ジテヰナイコトダゾヨ。今日バカリハソレヲ〔三字傍線〕不快ニ思ツテ見ルナヨ。マタ〔二字傍線〕言葉ニモ咎メルナヨ。
 
○鷲住《ワシノスム》――筑波山は木の茂つた高山で、鷲が多く棲んでゐたのであらう。筑波禰爾可加奈久和之能《ツクバネニカガナクワシノ》(三三九〇)(94)とある。○裳羽服津乃《モハキヅノ》――裳羽服津《モハキヅ》は筑波山中にあつた地名。津とあるから水邊であらうが今明らかでない。○率而《アトモヒテ》――舊訓イザナヒテとあるよりも、古義にアトモヒテとあるがよい。相率ゐての意。○加賀布※[女+燿の旁]歌爾《カガフカガヒニ》――右の題詞の解を見よ。○吾毛交牟《ワレモマジラム》――マジラムは舊訓カヨハムとある。袖中抄にもさうなつてゐるから、これが古訓であらう。童蒙抄マジラム、考マキナム、古義アハムとある。ここはマジラムが穩やかのやうである。意は右に掲げた繹日本紀の歌場の註の通りであらう。○牛掃神之《ウシハクカミノ》――ウシハクは領する。主佩《ウシハク》。卷五の宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》(八九四)參照。○從來《ムカシヨリ》――略解ハジメヨリ、古義イニシヘヨと訓んでゐるが、舊訓ムカシヨリとあるのがよい。○不禁行事叙《イサメヌワザゾ》――文字の通り禁ぜざる行事ぞの意。○目串毛勿見《メグシモナミソ》――メグシは卷十七に相見婆登許波都波奈爾情具之眼具之毛奈之爾《アヒミレバトコハツハナニココログシメグシモナシニ》(二九七八)とあり、卷四に情具久照月夜爾《ココログクテレルツクヨニ》(七三五)・情八十一所念可聞《ココログクオモホユルカモ》(七八九)などのココログシも同意で、心がくぐもりて不快を覺えることであらう。これを卷五の妻子美禮婆米具斯宇都久志《メコミレバメグシウツクシ》(八〇〇)のメグシと同じく、愛らしい意とする説は當らない。この句は見て不快に思ふなよの意。○事毛咎莫《コトモトガムナ》――事は言。言葉にて咎むるなの意。○※[女+燿の旁]歌者東俗語曰賀我比――これは編者の註である。卷十七に、東風越俗語東風謂之安由乃可是也(四〇一七)とあるに似た書き方である。
〔評〕 京畿地方の歌垣と同じやうで、もつと原始的なものが東國にも行はれ、これをカガヒと言つたことがこの歌によつてうかがひ知られる。上代風俗の研究資料としても得難い貴いものである。かなり思ひ切つた肉感的な文句が用ゐてはあるが、卑猥な感がする程でもない。
 
反歌
 
1760 男の神に 雲立ち登り 時雨ふり ぬれ通るとも 我かへらめや
 
男神爾《ヲノカミニ》 雲立登《クモタチノボリ》 斯具禮零《シグレフリ》 沾通友《ヌレトホルトモ》 吾將反哉《ワレカヘラメヤ》
 
男體ノ方ノ山〔四字傍線〕ニ雲ガ立チ登ツテ、時雨ガ降ツテ着物ガ〔三字傍線〕濡レ通ルトテモ、私ハコノ※[女+燿の旁]歌ヲヤメテ〔八字傍線〕歸ラウカ。決シテコンナ面白イ※[女+燿の旁]歌ヲヤメテ歸リハセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
(95)○男神爾《ヲノカミニ》――男神は男體山。常陸風土記に「夫筑波岳、高秀2于雲1、最頂西峰〓〓、謂2之雄神1、不v令2登臨1但東峰四方磐石、昇降決屹、其側流泉、冬夏不v絶、自v坂以東諸國男女、春花開時、秋葉黄節相携駢〓、飲食齎賚、騎歩登臨、遊樂栖遲」とあり、この※[女+燿の旁]歌が東峯即ち女體山の頂上で行はれたことがわかる。從つてこの歌の初二句は女體山から男體山を眺める趣である。○斯具禮零《シグレフリ》――シグレは後世では初冬の雨となつてゐるが、この集では秋にも詠んである。ここは秋の※[女+燿の旁]歌と見える。
〔評〕 歡樂の美酒に醉つてゐる若い男女の心をよく表現してゐる。常陸風土記に「俗諺曰、筑波峰之會、不v得2娉財1者兒女不v爲矣」とあるので、この地方の若い男女にとつて、如何に公認の享樂場であつたかがわかる。
 
右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出
 
右件とあるは詠上總末珠名娘子一首并短歌以下ここまでの歌を指してゐる。何れも高橋蟲麿の作らしい。
 
詠(メル)2鳴鹿(ヲ)1歌一首并短歌
 
1761 三諸の 神奈備山に 立ち向ふ 三垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ あしびきの 山彦響め 呼びたて鳴くも
 
三諸之《ミムロノ》 神邊山爾《カムナビヤマニ》 立向《タチムカフ》 三垣乃山爾《ミカキノヤマニ》 秋芽子之《アキハギノ》 妻卷六跡《ツマヲマカムト》 朝月夜《アサヅクヨ》 明卷鴦視《アケマクヲシミ》 足日木乃《アシビキノ》 山響令動《ヤマビコトヨメ》 喚立鳴毛《ヨビタテナクモ》
 
三諸ノ神奈備山ニ相對シテヰル三垣ノ山デ、鹿ガ〔二字傍線〕、秋萩ノ花〔傍線〕妻ヲ得テ共ニ寢ヨウト思ツテ、朝有明ノ〔三字傍線〕月夜ガ明ケルノガ惜シサニ、(足日木乃)山ニ反響ヲ響カセテ、妻ヲ〔二字傍線〕喚ビ立テテ鳴クヨ。
 
○三諸之神邊山爾《ミムロノカムナビヤマニ》――三諸は御室。神邊山はカムナビヤマ。神邊はカムノベの轉、カムナビと訓むのである、この山は即ち雷山。○立向相《タチムカフ》――相對する意。○三垣乃山爾《ミカキノヤマニ》――三垣乃山の名はこの他に見えない。神南備山の御垣をなす山の意か。位置を以て推すに甘橿の岡か。○秋芽子之妻卷六跡《アキハギノツマヲマカムト》――この二句、異説が多い。契沖(96)は秋萩の如く珍らしき妻を卷き寢むの意とし、宣長は六跡の二字は虚の一字を誤つたものとして、ツママクシカノと訓むべしといひ、古義は「秋芽子之妻とは、鹿は萩原にむつれてよく鳴くものなれば、萩を妻と云り。今は鹿のまことの妻を、なぞらへていへるなり」といつてゐる。その他にも説がある。卷八の吾岳爾棹牡鹿來鳴先芽之花嬬問爾來鳴棹牡鹿《ワガヲカニサヲシカキナクサキハギノハナヅマトヒニキナクサヲシカ》(一五四一)のハナヅマと同じく、萩の花を鹿の花妻といつたのであらう。
〔評〕 全篇の主格たる鹿といふ語が、何處にも現はれてゐない。その爲に誤字説や、脱句接が跋扈してゐる。然しこのままで差支へあるまい。萩の花を妻として枕くのでは、實情にそはぬと思つてか、眞の妻を戀うて呼び立てて鳴くとする説が多いのは尤もであるが、要するに、朝の塵の鳴く聲を、待不逢戀などになぞらへていひなしたもので、言葉の上だけの歌として見るべきであらう。
 
反歌
 
1762 明日のよひ 逢はざらめやも あしびきの 山彦とよめ 呼び立て鳴くも
 
明日之夕《アスノヨヒ》 不相有八方《アハザラメヤモ》 足日木乃《アシビキノ》 山彦令動《ヤマビコトヨメ》 呼立哭毛《ヨビタテナクモ》
 
鹿ハ今夜妻ニ逢ヘナイトシテモ〔鹿ハ〜傍線〕明晩逢ヘナイトイフコトモアルマイ。ソレダノニ〔五字傍線〕(足日木之)反響ヲ響カセテ、鹿ガ〔二字傍線〕呼ビ立テテ鳴クヨ。アレ程ニ鳴カナイデモヨカラウニ〔アレ〜傍線〕。
 
○不相有八方《アハザラメヤモ》――逢はざらんや、必ず逢ふであらうの意。
〔評〕 これも主格がないのは、長歌に讓つたのであらう。表現に力がある。この歌の解、古義は誤つてゐる。
 
右件歌或云柿本朝臣人麻呂作
 
略解・古義などこれを後人の註としてゐるが、必ずしもさうは言はれない。しかし歌は多分人麿作ではあるまい。
 
(97)沙彌女王(ノ)歌一首
 
沙彌女王の傳は全くわからない。
 
1763 倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出で來る月の 片待ち難き
 
倉橋之《クラハシノ》 山乎高歟《ヤマヲタカミカ》 夜※[穴/牛]爾《ヨゴモリニ》 出來月之《イデクルツキノ》 片待難《カタマチガタキ》
 
倉橋山ガ高イ爲カ、山ニ邪魔サレテ〔七字傍線〕、夜更ケテカラ出テ來ル月ガナカナカ出ナイノデ〔九字傍線〕、心力ラ待ツテヰテ待チ遠イヨ。
 
○好片待難《カタマチガタキ》――心を傾けて待つに待ちかねるの意、○夜※[穴/牛]爾《ヨゴモリニ》――夜遲く。※[穴/牛]は牢の俗字。
〔評〕 この歌は左註にある通り、卷三の椋橋乃山乎高可夜隱爾出來月乃光乏寸《クラハシノヤマヲタカミカヨゴモリニイデクルツキノヒカリトモシキ》(二九〇)と同歌で、末句が異なつてゐるのみ。この歌の方が卷三のよりも合理的である。
 
右一首(ハ)間人宿禰大浦(ノ)歌中(ニ)既(ニ)見(ユ)、但未一句相換(リ)亦作歌兩主不2敢(テ)正指(セ)1、因(リ)以(テ)累(ネ)載(ス)、
 
不敢正指は正しく指すことが出來ない、即ち正しい判斷を下すことが出來ないの意。
 
七夕歌一首并短歌
 
1764 久方の 天の河原に 上つ瀬に 珠橋渡し 下つ瀬に 舟浮けすゑ 雨ふりて 風吹かずとも 風吹きて 雨ふらずとも 裳ぬらさず やまず來ませと 玉橋わたす
 
久堅乃《ヒサカタノ》 天漢爾《アマノカハラニ》 上瀬爾《カミツセニ》 珠橋渡之《タマハシワタシ》 下湍爾《シモツセニ》 船浮居《フネウケスヱ》 雨零而《アメフリテ》 風不吹登毛《カゼフカズトモ》 風吹而《カゼフキテ》 雨不落等物《アメフラズトモ》 裳不令濕《モヌラサズ》 不息來益常《ヤマズキマセト》 玉橋渡須《タマハシワタス》
 
(久堅乃)天ノ川原ニ、上ノ方ノ瀬ニハ美シイ橋ヲ渡シ、下ノ方ノ瀬ニハ船ヲ浮ベ並ベテ、雨ガ降ツテ風ガ吹カ(98)ナイデモ、風ガ吹イテ雨ガ降ラナイデモ、裳ヲ沾サナイデ、絶エズ此處ヘ〔三字傍線〕通ツテオイデナサイトテ、美シイ橋ヲカケル。
 
○珠橋渡之《タマハシワタシ》――珠橋の珠はほめていふのみ。○船浮居《フネウケスヱ》――舊訓フネウケスヱテとある。古義にフネウケスヱと六言に訓んだのがよい。代匠紀・略解などにはフネヲウケスヱと訓んでゐる。この句で意味が切れてゐるといふので、スウ又はスヱツと訓まうとする説もあるが、意が切れて語勢の切れない例はいくらもある。○風不吹登毛《カゼフカズトモ》――略解に「宣長云或人説、二つの不の字は者の誤にて、かぜはふくともかぜふきて、あめはふるともならんといへり。是然べし」とある。さう改めれば意はよく聞えるが、ここではしばらく舊のままにしておかう。
〔評〕 牽牛星を待つ織女星の心になつて詠んだ歌である。上瀬・下瀬の對句は、既に卷一(三八)・卷二(一九四・一九六)などにも見えて珍らしくはないが、ここは美しく出來てゐる。結句に珠橋のみを用ゐて船をいはないのは、次の反歌に讓つたものか。
 
反歌
 
1765 天の川 霧立ち渡る 今日今日と 吾が待つ君が 船出すらしも
 
天漢《アマノガハ》 霧立渡《キリタチワタル》 且今日且今日《ケフケフト》 吾待君之《ワガマツキミガ》 船出爲等霜《フナデスラシモ》
 
天ノ川ニハ霧ガ立チ渡ツテヰル。アレヲ見レバ〔六字傍線〕今日カ今日カト風ツテ〔三字傍線〕、私ガ待ツテヰルアノ〔二字傍線〕オ方ガ、船出ヲスルラシイヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○且今日且今日《ケフケフト》――今日か今日かと。この用例は卷二の且今日且今日吾待君者石水貝爾交而有登不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》(二二四)と同樣である。
〔評〕 天の河に立つ霧を見て、牽牛星の船出と思つたのは、卷八に牽牛之迎嬬船己藝出良之漢原爾霧之立波《ヒコホシノツマムカヘブネコギヅラシアマノカハラニキリノタテルハ》(一五二七)とあると同じであらう。略解に「霧の立にて秋の來るを知なり」といつたのは誤つてゐる。またこの歌の下句(99)は、卷八の天河浮津之浪音佐和久奈里吾待君思舟出爲良之母《アマノガハウキツノナミトサワグナリワガマツキミシフナデスラシモ》(一五二九)と同じく、歌意も亦似たところがある。
 
右件歌(ハ)或(ハ)云(フ)中衛大將藤原北卿(ノ)宅(ニテ)作(レル)也
 
中衛大將藤原北卿は藤原房前。卷五(八一一)に謹通中衛高明閣下謹空とあるところに精しく説明しておいた。房前が中衛の大將となつたのは、神龜五年八月、中衛が初めて設置せられた時と思はれるから、この註の如くならば、この歌の時代は天平の初頃で、右に擧げた卷八の歌と殆ど同時である。
 
相聞
 
振田向《フルノタムケ》宿禰退(ル)2筑紫國(ヲ)1時(ノ)歌一首
 
振田向宿禰は傳が全くわからない。振は布留で、姓氏録に布留宿禰とあるものであらう。田向は名か。
 
1766 我妹子は 釧にあらなむ 左手の 吾が奥の手に まきていなましを
 
吾妹兒者《ワギモコハ》 久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》 左手乃《ヒダリテノ》 吾奥手爾《ワガオクノテニ》 纒而去麻師乎《マキテイナマシヲ》
 
私ノ妻ハ、腕ニ纒ク〔四字傍線〕釧ノ玉デアツテクレ。サウシタラ〔五字傍線〕私ノ左ノ手デアル奥ノ手ニ纒キツケテ行カウノニ。アア別レルノガ辛イ〔九字傍線〕。
 
○久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》――久志呂は釧。腕に卷く玉。四一參照。奈武《ナム》は希望の助詞。○左手乃吾奥手爾《ヒダリテノワガオクノテニ》――左手である吾が奥の手にの意。奥手を臂と解するのは當らない。略解に「古事記、迦具土神の左御手の手纒を投棄給ふになれる神の御名は奥疎神、次に奥津那藝佐※[田+比]古神、次に奥津甲斐辨羅神、右の御手の手纒を投棄給ふになれる神のみ名は邊疎神云々といへり。しかればおくの手とは、只左手といふ事のみにて、ここのおくの手にといふは思ふ妹を大切にする意にとれるなり」とある解釋がよい。上代に於ては、左は右より貴ばれたことは、古事記の淤能碁呂嶋《オノコロジマ》八尋殿の條に、天の御柱を男神は左より巡り給ひ、女神は右より巡り給うたこと、また小(100)門檍原の御禊の條に、日神は伊邪那岐命の、左の御目を洗ひ給ひしにより生れ給ひ、月神は右の御目を洗ひ給ひしによつて、生れ給ひしを以て明らかである。その他これを例證すべきことは多々あるが、ここには略す。○纒而去麻師乎《マキテイナマシヲ》――イナマシヲは行かうものをの意。
〔評〕 任地であつた筑紫を離れむとして、愛する女に與へた歌であらう。親愛の情が溢れてゐる。上代の左右の尊卑を明らかにすべき貴重な例である。
 
拔氣大首《ヌキゲノオホヒト》任(ゼラル)2筑紫(ニ)1時、娶(リテ)2豐前國娘子|紐兒《ヒモノコヲ》1作(レル)歌三首
 
拔氣は姓で、大首は名か。拔氣の訓がよくわからない。代匠記はヌケかとし、考は拔を和の誤として和氣と訓んでゐる。古義はヌカケかといつてゐる。大首はオホビトと訓むか。この人の傳は全くわからない。
 
1767 豐国の 香春は吾家 紐の児に いつがり居れば 香春は吾家
 
豐國乃《トヨクニノ》 加波流波吾宅《カハルハワギヘ》 紐兒爾《ヒモノコニ》 伊都我里座者《イツガリヲレバ》 革流波吾家《カハルハワギヘ》
 
豐ノ國ノ香春トイフ所〔四字傍線〕ハ私ノ家ダ。可愛イ〔三字傍線〕紐ノ兒ニ繋ツテ一緒ニ〔三字傍線〕居ルト、コノ〔二字傍線〕香春ハ私ノ家ダ。私ハ故郷ヲ離處レテ來テヰルガ、可愛イ女ガヰルノデココヲ家ト思ツテヰル〔私ハ〜傍線〕。
 
○加波流波吾宅《カハルハワギヘ》――香春の地は吾が家なりの意。香春は豐前國田川郎香春町。和名抄に田河郡香春郷とある。延喜式に見える田河驛も此處である。背後に巍々たる香春岳が聳え、往古はこの地方の中心として、かなり繁盛した處らしい。卷三にあつた鏡山(四一六)も、この町の東北方程遠からぬ所にある。○紐兒爾《ヒモノコニ》―題詞にある通り、紐兒は娘子の名である。これはその地方の遊女の名であらう。○伊都我里座者《イツガリヲレバ》――イは接頭語、ツガリはツガルといふ動詞。和名抄に、※[金+巣]の字を「日本紀私記云、加奈都賀利」とあり、狩谷掖齋はこれを説明して、「按、都賀利、連鎖之謂、萬葉集大伴家持教2喩尾張少咋1歌、比毛能緒能移郡我利安比弖、拔氣大首歌紐兒爾伊(101)都我里座者、是也、舞人摺袴有2都賀利組1、今俗茶入袋有2須加利1、又以v絲造v嚢、亦謂2之須加利1、並譌2都加利1也、都賀利與2都賀布1同語、聯綴之義也」といつてゐる、意はツナガリと同じであらうが、ツナガリはツナグの自動詞であるから、精しく云へば異なつてゐる。
〔評〕 郎子の名の紐兒と、伊都加利《イツガリ》といふ語が縁語として用ゐられたものである。これも集中に極めて珍らしい縁語の一例である。カハルハワギヘを繰り返した爲に、歌調が強くなつて、作者の喜悦の情が力強く現はされてゐる。
 
1768 石上 布留の早田の 穗には出でず 心のうちに 戀ふるこの頃
 
石上《イソノカミ》 振乃早田乃《フルノワサダノ》 穗爾波不出《ホニハイデズ》 心中爾《ココロノウチニ》 戀流比日《コフルコノゴロ》
 
(石上振乃早田乃)外ニハアラハサズニ、心ノ中デコノ頃ハ、私ハ紐ノ兒ヲ〔六字傍線〕戀シク思ツテヰル。
 
(102)○石上振乃早田乃《イソノカミフルノワサダノ》――序詞。穗とつづく。石上振は石上の布留で、大和山邊郡の地名。○穗爾波不出《ホニハイデズ》――表面には現はさずの意。○戀流此日《コフルコノゴロ》――此の字、元暦校本などに比に作つてゐるのがよい。
〔評〕 序詞が型にはまつた定り文句といつてよい。殊に筑紫の作に、大和の地名をもつて來たのは面白くない。
 
1769 かくのみし 戀ひし渡れば たまきはる 命も我は 惜しけくもなし
 
如是耳志《カクノミシ》 戀思度者《コヒシワタレバ》 靈刻《タマキハル》 命毛吾波《イノチモワレハ》 惜雲奈師《ヲシケクモナシ》
 
コンナニ戀ヒツヅケテバカリ日ヲ送ツテヰルト、(靈刻)命モ私ハ惜シイトハ思ハナイ。コンナ苦シイ思ヒヲシテヰレバ死ヌナラ死ンデモカマハヌト思フ〔コン〜傍線〕。
 
○靈刻《タマキハル》――枕詞。四參照。
〔評〕 右の三首の中で、最初のものは紐兒を得て喜んでゐるが、後の二首は共に、未だ思ひを遂げない時の作である。この歌は表現に力がこもつてゐるが、靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之惜無《タマチハフカミモワレヲバウツテコソシヱヤイノチノヲシケクモナシ》(二六六一)・君爾不相久成宿玉緒之長命之惜雲無《キミニアハズヒサシクナリヌタマノヲノナガキイノチノヲシケクモナシ》(三〇八二)・和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ワギモコニコフルニアレバタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》(三七四四)などの類歌があつて、既にかうした型が出來てゐたやうに思はれる。
 
大神《オホミワ》大夫任(ゼラルル)2長門守(ニ)1時、集(ヒテ)2三輪河(ノ)邊(ニ)1宴歌二首
 
大神大夫は三輪朝臣高市麻呂であらう。續紀に「大寶二年正月乙酉從四位上大神朝臣高市麻呂爲2長門守1」と見えてゐる。懷風藻にも從三位中納言大神朝臣高市麻呂一首(年五十)と出てゐる。三輪河は泊瀬川を三輪附近でかく呼ぶのである。寫眞は著者撮影。
 
1770 三諸の 神の帶ばせる はつせ川 みをし絶えずば 我忘れめや
 
三諸乃《ミモロノ》 神能於婆勢流《カミノオバセル》 泊瀬河《ハツセガハ》 水尾之不斷者《ミヲシタエズバ》 吾忘禮米也《ワレワスレメヤ》
 
(103)三諸山即チ三輪山〔五字傍線〕ノ神ガ、帶ヲ纏ウタヤウニ山ノメグリヲ流レ〔タヤ〜傍線〕テヰル、泊瀬川ノ水ノ流レハ、絶エルコトハナイガ、コノ川ノ水〔ハ絶〜傍線〕ガ絶エサヘシナケレパ、私ハアナタヲ忘レナイヨ。
 
○三諸乃神能於姿勢流《ミモロノカミノオバセル》――三諸の神は三輪の神を指す。三輪山の麓を廻る泊瀬河を、三輪の神の帶び給へる河としてかくいつたのである。○水尾之不斷者《ミヲシタエズバ》――水尾は水脈。この流の絶えざる限はの意。
〔評〕 三輪川のほとりで清流を眺めつつ、その河に寄せて詠んだ歌である。作者は誰とも記してないが、この語調を以て推すに、旅に出かける大神大夫らしい。しつかりした歌である。
 
1771 後れゐて 我はや戀ひむ 春霞 たなびく山を 君が越えいなば
 
於久禮居而《オクレヰテ》 吾波也將戀《ワレハヤコヒム》 春霞《ハルガスミ》 多奈妣久山乎《タナビクヤマヲ》 君之越去者《キミガコエイナバ》
 
コレカラ旅ニ出テ〔八字傍線〕、春霞ノタナビイテヰル山(104)ヲアナタガ越エテ行カレタナラバ、アトニ殘ツテヰテ私ハ、アナタヲ〔四字傍線〕戀シク思フデアリマセウ。
 
○吾波也將戀《ワレハヤコヒム》――吾は戀ひむかの意。反語ではない。
〔評〕 これは留る人の送別の歌である。春霞のたなびく西方の山を眺めつつ、別れを惜しむ人の涙を思はしめる悲しい作である。
 
右二首古集中出
 
大矢本には古歌集とあるが、一二四六の例によると、舊本のままでよいであらう。
 
大神大夫任(ケラルル)2筑紫國(ニ)1時、阿倍大夫作(レル)歌一首
 
大神大夫を高市麻呂とすると、彼が筑紫國に赴いたことは史に見えない。阿倍大夫は廣庭か。
 
1772 おくれゐて 我はや戀ひむ 印南野の 秋萩見つつ いなむ子故に
 
於久禮居而《オクレヰテ》 吾者哉將戀《ワレハヤコヒム》 稻見野乃《イナミヌノ》 秋芽子見都津《アキハギミツツ》 去奈武子故爾《イナムコユヱニ》
 
稻見野ノ美シイ秋萩ノ花ヲ見ナガラ、面白イ旅ヲシテ筑紫ヘ〔面白〜傍線〕アナタガ行クノダノニ、後ニ殘ツテ私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒシタフコトデセウカ。名殘惜シウゴザイマス〔名殘〜傍線〕。
 
○稻見野乃《イナミヌノ》――稻見野は播磨國印南郡の野。○去奈武子故爾《イナムコユヱニ》――去ぬらむ子なるにの意。名高い印南野の秋萩を見つつ、樂しい旅行する人なるにの意である。子は多く女に用ゐてあり、殊に國司の任にある人を、子といふのはふさはしくないといふ疑問はあるが、これは特に親しんで用ゐたのであらう。
〔評〕 前の歌と初二句全く同一で、ただ季節が春と秋と相異なるのみである。新考に「此歌の題辭に、大神大夫とあるは前の歌の題辭よりまぎれ來れるにて、實は大神大夫ならぬ別人の、筑紫國司に任ぜられし時の餞の歌ならむ」とあるのも、にはかに從ひ難いが、大神大夫の送別に、時を異にして相似た歌が送られたのも奇とい(105)ふべきであらう。なほ考究を要する問題である。三句と5句と(ニ)イナの音を繰返してあるのは偶然か。
 
獻(レル)2弓削皇子(ニ)1歌一首
 
1773 神南備の 神依板に する杉の 念ひも過ぎず 戀のしげきに
 
神南備《カムナビノ》 神依板爾《カミヨリイタニ》 爲杉乃《スルスギノ》 念母不過《オモヒモスギズ》 戀之茂爾《コヒノシゲキニ》
 
私ハアナタヲ〔六字傍線〕戀フル心ガ盛ナノデ、コノ物思ヲ(神南備神依板爾爲杉乃)ハラスコトガ出來ナイ。
 
○神南備神依板爾爲杉乃《カムナビノカミヨリイタニスルスギノ》――序詞。スギの音を繰返して下に連なつてゐる。この三句は神依板に作る神南備の杉といふ意であらう。神南備は神の森での意であるが、ここは三輪山を指してゐるやうである。神依板は古義にカミヨセイタと訓んでゐる。神が依り來る板の意として舊訓のままでよい。その板を打つて祈れば神が依り來るのである。これについて略解に擧げた宣長説に「杉を神より板にするといふ事は、琴の板とて、杉の板をたたきて神を請招する事あり。今も伊勢の祭祀には此事有。琴|頭《ガミ》に神の御影の降り給ふなりといへり云云」とある。伴信友は之に對して、正卜考琴占の條に「己がおもふ所は萬葉集に載たる歌のころ、はやくより琴を杉板に代へて神依板と呼てものすべくは思はれず。歌にすぎといふ序に、神依板にする杉と定めてよめるを思へば、古よりかならす杉板をもて造る例ときこゆる、はた思合すべし。然れば神依板はもとより別なる卜事なり。大神宮の琴占に事そぎて板もてものするはおのづから似たるにて、古き神社にて琴の板といふは大神宮にてことそぎてするをまねびたるものなるべし」とある。宣長説のいふが如く神依板と琴板と同一物なりや否やは明らかでないが、神おろしを行ひ、神懸の状態になる爲に、杉の板をたたいたものである。○念母不過《オモヒモスギズ》――念ひも過ぎずとは思ひ忘れることが出來ないの意。
〔評〕 卷三に石上振乃山有杉村乃思過倍吉君爾有名國《イソノカミフルノヤマナルスギムラノオモヒスグベキキミニアラナクニ》(四二二)、卷十三に神名備能三諸之山爾隱藏杉思將過哉蘿生左右《カムナビノミモロノヤマニイハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》(三二二八)とあるに似てゐるが、神依板を材料にしたのはまことに珍らしい。古くから歌人の注意をひいたものか、袖中抄にもこれを載せてゐる。基俊集に「はふり子が神より板にひくまきのくれ行くからにしげき戀哉」(106)はこれを本歌としたものである。なほこの歌から推して考へれば、結句の茂爾《シゲキニ》は杉の縁語であるやうにも思はれる。古義に、この歌を皇子を戀ひし奉る心を述べたものとしてゐるのは當つてゐまい。
獻(レル)2舍人皇子(ニ)1歌二首
 
1774 垂乳根の 母の命の ことにあれば 年のを長く たのみ過ぎむや
 
垂乳根乃《タラチネノ》 母之命乃《ハハノミコトノ》 言爾有者《コトニアレバ》 年緒長《トシノヲナガク》 憑過武也《タノミスギムヤ》
 
私ヲ可愛ガツテ下サル〔私ヲ〜傍線〕(垂乳根乃)母上ノ言葉ダカラ、二人ノ戀ノ許サレル時ヲ〔二人〜傍線〕長年ノ間空シク〔三字傍線〕頼ミニ思ツテ、アテニシテ月日ヲ送ルコトガアラウカ。決シテソンナコトハアルネキ筈ハナイ。母ノ言葉ヲ信用シテ待ツテヰマセウ〔決シ〜傍線〕。
 
○垂乳根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○母之命乃《ハハノミコトノ》――命は尊稱。○言爾有者《コトニアレバ》――舊訓コトニアラバとあるが、略解にコトナレバと訓んだ意を以て、コトニアレバと訓むことにする。
〔評〕 この歌は意味が少し不明瞭で、古義にはコトニアラバと訓んだ爲に、上が假定となり意味が著しく變つて來た。代匠記精撰本に「此歌は譬ふる意有べし。ふたおやの中に母は殊にうつくしみのまめやかなる物なれば、皇子の憑もしうのたまふ御言を母の言に喩へて、御詞のみを年の緒長く憑て過さむや。今其しるしを見せ給ふべしとよめる歟」とあるが、寓意はないやうに思ふ。
 
1775 泊瀬川 夕渡り來て 我妹子が 家の金門に 近づきにけり
 
泊瀬河《ハツセガハ》 夕渡來而《ユフワタリキテ》 我妹兒何《ワギモコガ》 家門《イヘノカナドニ》 近舂二家里《チカヅキニケリ》
 
泊瀬川ヲ夕方渡ツテ來テ、ナツカシイ〔五字傍線〕私ノ妻ノ家ノ門ニヤツト〔三字傍線〕近付イタヨ。
 
○家門《イヘノカナドニ》――舊訓イヘノミカドハとあるが、略解の訓に從ふ。カナドは門。一七三九參照。○近舂二家里《チカヅキニケリ》――(107)舂の字、舊本に春とあるは誤。元暦校本などの古本、皆舂になつてゐる。
〔評〕 これも代匠記精撰本に「君が思惠を近く蒙るべき事は、譬へば人の夕去は必らず逢はむと契りたらむに、泊瀬河の早き瀬をからうじて渡り來て其家近く成たるが如しとよめる歟」とあるが、かかる寓意のありさうな歌でない。これらは自己の作品を、何かの機會に皇子に献じたまでであらう。
 
右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
石河大夫遷(サレテ)v任(ヲ)上(レル)v京(ニ)時、播磨娘子贈(レル歌二首
 
石河大夫は石河君子である。續紀「靈龜元年五月壬寅從五位下石河朝臣君子爲2播磨守1」とある人である。
 
1776 たゆらきの 山のを上の 櫻花 咲かむ春べは 君をしぬばむ
 
絶等寸笶《タユラキノ》 山之岑上乃《ヤマノヲノヘノ》 櫻花《サクラバナ》 將開春部者《サカムハルベハ》 君乎將思《キミヲシヌバム》
 
絶等寸山ノ峯ノ上ノ櫻ノ花ガ咲ク春ノ頃トナリマシタラ、私ハアナタノコトヲ思ヒ出スデゴザイマセウ。御一緒ニ花ヲナガメタコトヲ思ヒ出シテ、サゾオナツカシウゴザイマセウ。只今オ別レスルノハ悲シウゴザイマス〔御一〜傍線〕。
 
○絶等寸笶《タユラキノ》――たゆらきの山は、此處の事情で考へると、播磨の國府附近の山らしい。當時の國府は姫路の東方にあつた筈であるが、今それらしい山がない。
〔評〕 感情の迫つた歌でなく、態度に餘裕がある女らしい素直な歌である。
 
1777 君なくば なぞ身よそはむ くしげなる 黄楊の小櫛も 取らむとももはず
 
君無者《キミナクバ》 奈何身將装餝《ナゾミヨソハム》 匣有《クシゲナル》 黄楊之小梳毛《ツゲノヲグシモ》 將取跡毛不念《トラムトモモハズ》
 
アナタガ京ヘオ歸リニナツテ此處ニ〔京ヘ〜傍線〕オイデナサラヌヤウニナツタナラ、私ハ誰ニ見セヨウトテ〔私ハ〜傍線〕何シニ身ノ装《ナリ》ナ(108)ドニ構ヒマセウゾ。櫛箱ノ中ニアル黄楊ノ小櫛モ手ニ〔二字傍線〕取ラウトモ思ヒマセヌ。ホントニオ別レ致シマシテハ私ハ何ノ樂シミモアリマセヌ〔ホン〜傍線〕。
 
○奈何身將装餝《ナゾミヨソハム》――舊訓ナゾミカザラムとある。何故に身だしなみをしようかの意。○將取跡毛不念《トヲムトモモハズ》――新考に毛《モ》は衍であらうといつてゐるが、さうではあるまい。
〔評〕 哀切の至情、實に至純な貴い歌である。和歌童蒙抄に載せてある。卷五の然之海人者軍布苅鹽燒無暇髪梳乃少櫛取毛不見久爾《シカノアマハメカリシホヤキイトマナミクシゲノヲグシトリモミナクニ》(二七八)は、この歌と少しく類似してゐるが、作者が石川少郎とあつて、その左註によれば、石川君子と少郎子と同人とあるのは、偶然の類似か。注意すべき點であらう。なほ代匠記にこの歌の意に通じてゐるとして、「詩(ノ)衛風云。自2伯之東1首如2飛蓬1。豈無2膏沐1。誰適爲v容。史記豫讓曰。嗟呼士爲2知v己者1死、女爲2説v己者1容。文選劉休玄擬古詩云。臥覺2明燈晦1、坐見2輕※[糸+丸]緇1、涙容不可飾、幽鏡難2復治1」を擧げてゐる。
 
藤井連遷(サレテ)v任(ヲ)上(ル)v京(ニ)時、娘子贈(レル)歌一首
 
藤井連は葛井連廣成か。續紀「養老四年五月壬戍改2白猪史氏1賜2葛井連姓1」とある。この人の傳は九六二の左註參照。
 
1778 明日よりは 我は戀ひむな 名欲山 いはふみならし 君が越えいなば
 
從明日者《アスヨリハ》 吾波孤悲牟奈《ワレハコヒムナ》 名欲山《ナホリヤマ》 石蹈平之《イハフミナラシ》 君我越去者《キミガコエイナバ》
 
今日オ別レ致シマシテ〔今日〜傍線〕、アナタガ名欲山ヲ石ヲ踏ミツケテ越エテ行ツタナラバ、明日カラハ私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒシク思フコトデセウヨ。オ別レガツラウゴザイマス〔オ別〜傍線〕。
 
○吾波孤悲牟奈《ワレハコヒムナ》――ナは呼びかけの助詞。ヨに同じ。戀ひに孤悲《コヒ》の字を用ゐた所が多いが、文字に意味をもたせてあるやうである。○名欲山《ナホリヤマ》――名欲山は豐後の直入山とせられてゐる。直入は豐後の郡名で、當時の國府(109)のあつた今の大分市からは、遙かに西方の山である。今國府を去つて都に上らむとする者が、この山を越える筈がないから、これを他に求むべきである。古義には名次山の誤としてゐるが、これも全く根據のない説である。○石蹈平之《イハフミナラシ》――蹈平之は文字通り踏み平げることであるが、ここのならすは輕く見るがよい。
〔評〕 これも前の絶等寸山《タユラキノヤマ》の歌と同じく、平明な作である。一通りの送別の挨拶のやうにも聞える。
 
藤井連和(フル)歌一首
 
1779 命をし まさきくもがも 名欲山 いはふみならし またまたも來む
 
命乎志《イノチヲシ》 麻勢久可願《マサキクモガモ》 名欲山《ナホリヤマ》 石踐平之《イハフミナラシ》 復亦毛來武《マタマタモコム》
 
ソンナニ悲シムコトハナイ。私ノ〔ソン〜傍線〕命ガ無事デアリタイモノダ。命サヘ無事ナラバ、私ハ〔命サ〜傍線〕名欲山ノ石ヲ踏ミ付ケテ、モウ一度ココヘ返ツテ來ヨウ。オマヘモ無事デ暮シテヰテクレ〔オマ〜傍線〕。
 
○麻勢久可願《マサキクモガモ》――考に麻狹伎久母願《マサキクモガモ》、古義は麻幸久母願《マサキクモガモ》としてゐる。その何れがよいとも判じ難いが、訓はさうあるべきであらう。命が無事であれかしといふのである。○復亦毛來武《マタマタモコム》――考に復を後の誤として、ノチマタモコム、古義に亦毛の二字を變の一字としてマタカヘリコムと訓んでゐるが、改めるには及ばない。
〔評〕 相手の歌の三四句を巧に利用してゐる。再會を契る言葉としては、初の二句はまことに心細い感がある。齡の傾きかけた人の胸中には、別離に臨んではかういふ考が先に立つであらう。
 
鹿島郡|苅野《カルヌノ》橋(ニ)別(ルル)2大伴卿(ニ)1歌一首并短歌
 
鹿島郡は今の常陸國鹿島郡に同じ。茨城縣の東南隅で海に面してゐる。苅野橋は和名抄に、常陸鹿島部輕野郷がある。今、輕野村と稱し、神池の南方で利根川に面してゐる。この橋の所在はわからないが、神池の水が流海にそそぐ地點に近く架けられてゐたのであらう。この歌は上に、※[手偏+僉]税使大(110)伴卿登筑波山時歌とあるから、大伴旅人が常陸の※[手偏+僉]税を終へて、下總の海上の津をさして行かむとする時、苅野橋まで送つて來た高橋蟲麿が詠んだものであらう。一七五三參照。
 
1780 ことひうしの 三宅の潟に 指向ふ 鹿島の崎に さ丹塗の を船をまけ 玉まきの 小楫しじぬき 夕汐の みちのとどみに 御船子を あともひ立てて 喚び立てて 御船出でなば 濱もせに 後れなみゐて こいまろび 戀ひかも居らむ 足ずりし ねのみや泣かむ 海上の その津をさして 君が榜ぎ行かば
 
牡牛乃《コトヒウシノ》 三宅之酒爾《ミヤケノカタニ》 指向《サシムカフ》 鹿島之崎爾《カシマノサキニ》 狹丹塗之《サニヌリノ》 小船儲《ヲブネヲマケ》 玉纒之《タママキノ》 小梶繁貫《ヲカヂシジヌキ》 夕鹽之《ユフシホノ》 滿乃登等美爾《ミチノトドミニ》 三船子呼《ミフナコヲ》 阿騰母比立而《アトモヒタテテ》 喚立而《ヨビタテテ》 三船出者《ミフネイデナバ》 濱毛勢爾《ハマモセニ》 後奈居而《オクレナミヰテ》 反側《コイマロビ》 戀香裳將居《コヒカモヲラム》 足垂之《アシズリシ》 泣耳八將哭《ネノミヤナカム》 海上之《ウナカミノ》 其津於指而《ソノツヲサシテ》 君之己藝歸者《キミガコギユカバ》
 
(牡牛乃)三宅ノ潟ニ相對シテヰル鹿島ノ崎ニ、赤ク塗ツタ立派〔二字傍線〕ナ小舟ヲ用意シテ、玉ヲ卷キツケタ立派ナ〔三字傍線〕櫂ヲ澤山ニツケテ、夕方ノ汐ガ滿チ湛ヘル時ニ、御船ノ船頭ドモヲ引連レ立テテ喚ビ立テナガラ、御船ガ出テ行ツタナラバ、私ドモハ〔四字傍線〕後ニ殘サレテ濱邊一パイニズラリト並ンデ、轉ビ倒レテアナタヲ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテ居リマセウ。足ズリヲシテ聲ヲ上ゲテ泣イテバカリ居リマセウ。海上ノアノ港へ向ケテ、アナタガ漕イデ去ツテシマヒナサツタナラバ、私ドモハ泣クヨリ外ノコトハアリマセヌ。ホントニオ別レスルノハ悲シウゴザイマス〔私ド〜傍線〕。
 
○牡牛乃《コトヒウシノ》――枕詞。舊本に牝とあるが、元暦校本による。和名抄「辨色立成云牡牛頭大牛也俗云古度比」とある。卷十六に事負乃牛之倉上之瘡《コトヒノウシノクラノヘノカサ》(三八三八)ともある。三宅と續くのは、冠辭考に寮餌《ミヤカヒ》の意とし、古義には嚴毛《ミカケ》に言ひかけたものとしてゐる。○三宅之酒爾《ミヤケノカタニ》――舊訓ミヤケノサキニとあるのは酒をサキと訓んだものか。代匠記精撰本に、酒を浦《ウラ》の誤とし、考は滷《カタ》、古義は?《ウラ》の誤としてゐる。三宅附近には崎といふ程の地形がなかつたらうと思はれるから、恐らく滷《カタ》の誤であらう。海上潟も同處である。三宅は和名抄「海上郡三宅郷」とあり、今の
(111)海上村に大字三宅がある。これについて大日本地名辭書には「今按、鹿島郡苅野橋は蓋輕野郷の地にして、今日川驛の邊とす、此三宅と北南相去る四里許、而も江流相通じ當時此間江水上下、都て三宅滷と呼ばれ、浪逆海より安是湖まで(即鹿島海上の二郡の交堺)の總名なりし如し。されば萬葉なる大伴卿の經過せられし三宅滷、海上津は三宅郷にはあらで、實は編玉郷小野郷のあたりの流江なりと想察せらる。」とある。○鹿島之崎爾《カシマノサキニ》――鹿島は全體に岬をなしてゐるから、かういつたものか。○小船儲《ヲブネヲマケ》――マケは用意すること。○滿乃登等美爾《ミチノトドミニ》――登等美《トトミ》は、略解に「とどみは汐の滿終なるをいふべし。とどまりの約言か。東國にて今たたへといふなり」とある通りであらう。○濱毛勢爾《ハマモセニ》――濱もせましと。濱一杯に。○後奈居而《オクレナミヰテ》――奈の下、美の字脱とした略解に從ふ。○反側《コイマロビ》――コイはころぶこと。コユといふ動詞の連用形。○足垂之《アシズリシ》――足垂は意を以てかけるか、或は略解の説の如く垂は摩の誤か。○海上之其津於指而《ウナガミノソノツヲサシテ》――海上の津は右の三宅之酒の條に述べたやうに、下總海上郡、今の海上村の地であらう。於の字、元暦校本その外古本多く乎に作つてゐるのがよい。
〔評〕 さ丹塗の小舟、玉纒の小楫は、天の河にでも浮かんでゐさうな立派な船で、顯官の乘物らしく、「御船子をあともひ立てて呼び立てて御船出でなば」の句も、威嚴を具へた貴人を述べるにふさはしい。別れの悲しみを述べて、濱もせにならんでこいまろび足ずりするといつたのは、大げさ過ぎる程ではあるが、大伴卿に對する敬意を充分に現はし得てゐる。
 
反歌
 
1781 海つ路の なぎなむ時も わたらなむ かく立つ浪に 船出すべしや
 
海津路乃《ウミツヂノ》 名木名六時毛《ナギナムトキモ》 渡七六《ワタラナム》 加九多都波二《カクタツナミニ》 船出可爲八《フナデスベシヤ》
 
海路ノ靜カニ〔三字傍線〕和イダ時ニ、オ渡リナサイマシ。コンナニ波ガ立ツ時〔傍線〕ニ、アナタハ〔四字傍線〕船出ヲナサルトイフコトガアルモノデスカ。モウ暫クユツクリシテオイデナサイ。オ名殘リ惜シウゴサイマス〔モウ〜傍線〕。
 
(112)○名木名六時毛《ナギナムトキモ》――古義に毛を爾の誤としてゐる。○船出可爲八《フナデスベシヤ》――舊訓フナデカスベシヤとあるが、可はベシであるから、カと訓むべきではない。
〔評〕 この歌は三句切れになつてゐる。結句は力強い言ひ方で、大伴卿を思ふ情が現はれてゐる。なほこの歌の書き方の、六・七・六・二・八などと、數字を殊更に用ゐてゐるのは注意すべきである。
 
右二首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
これも高橋連蟲麻呂の歌であらう。
 
與(フル)v妻(ニ)歌一首
 
1782 雪こそは 春日消ゆらめ 心さへ 消え失せたれや ことも通はぬ
 
雪己曾波《ユキコソハ》 春日消良米《ハルヒキユラメ》 心佐閉《ココロサヘ》 消失多列夜《キエウセタレヤ》 言母不往來《コトモカヨハヌ》
 
雪コソハ春ノ日光ニ當ツテ〔三字傍線〕消エルデアラウガ、深ク言ヒカハシタ、アナタノ〔ガ深〜傍線〕心マデモヤハリ雪ノヤウニ〔八字傍線〕消エタカラカ、コノ頃ハ少シノ〔七字傍線〕消息モ通ツヲ來ナイ。ホントニ薄情デスネ〔九字傍線〕。
○言母不往來《コトモカヨハヌ》――言葉も通はぬ、即ち音信もないの意。
〔評〕 春日消良米《ハルヒキユラメ》の句は、言葉が足りないといふので、新考には爾《ニ》の字を補つて、ハルヒニキユラメと改めてゐるが、これは歌調の爲にかうしたもので、もとのままでよい。
 
妻和(フル)歌一首
 
1783 松かへり しひてあれやは 三栗の 中すぎて來ず 麻呂といふ奴
 
松反《マツカヘリ》 四臂而有八羽《シヒテアレヤハ》 三栗《ミツグリノ》 中上不來《ナカスギテコズ》 麻呂等言八子《マロトイフヤツコ》
 
(113)待ツテヰルモノハ歸といふ言葉〔二字傍線〕ハ嘘デナイ。然ルニ〔三字傍線〕(三栗)コノ月ノ〔四字傍線〕中過ギルマデモ、麻呂トイフ奴ハ來ナイ。アナタハドウシテ來ナイデスカ〔アナ〜傍線〕。
 
○松反《マツカヘリ》――この句は從來枕詞として、松の色の變ずることと解釋し、下には、色の變らぬ松を變るといふのは誣言なりとの意で續くとする説が行はれてゐる。なほこれを卷十七(四〇一四)の歌によつて、鷹の羽毛が拔け代ることをいふのであらうと新解には述べてゐる。然しこれらは何れも面白くないやうである。余は松反の二字は借字で、待つ者は必らす歸るといふ意味の俗諺があつたものと思ふ。さうとすれば、この歌も卷十七の歌も、共に容易に解釋が出來るやうである。○四臂而有八羽《シヒテアレヤハ》――卷十七の歌に之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》とあるによつて、これもシヒニテアレヤハとする説が多い。然しニに當る文字がないから、シヒテアレヤハと訓むべきであらう。シヒテは誣ひて、即ち虚言の意。アレヤハは反語で、待てば歸るといふのは虚言ではないの意。○三栗《ミツグリノ》――枕詞。中に續く。一七四五參照。○中上不來《ナカスギテコズ》――この句も諸説が分れてゐる。考にナカスギテコズと訓んだのに從ふ。ナカとカミとに來ずといふので、即ち月の上旬・中旬に來ないといふのであらう。新解にはナカノボリコズとあり、途中に上つて來ないとあるが、意が通じ難い。○麻呂等言八子《マロトイフヤツコ》――これも訓が樣々に分れてゐる。これは新解の説がよい。麻呂は自分の夫を指したもので、戯れて奴といつたのであらう。この歌、人麿集に出てゐるから、或は人麿といふべきを略して、麻呂といつたのかも知れない。
〔評〕 この歌は萬葉集中の難解歌の一である、右のやうに解いて見ると、さ程無理がないやうである。妻の歌としてはかなり亂暴を言葉である。なほこの歌に關して、新解の考説に、古來の諸説を列擧してゐるから、ここはそれに讓つて簡略に從つた。
 
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集中出
 
右に述べたやうに、これは人麻呂夫妻の贈答の歌かも知れない。
 
(114)贈(レル)2入唐使(ニ)1歌
 
古義に「入唐使は此末に多治比眞人廣成遣唐使の時の歌あり、此歌も同じ度の歌ならむ」とあるが、左註の通り不明と考ふべきである。
 
1784 わたつみの いづれの神を いははばか ゆくさも來さも 船の早けむ
 
海若之《ワタツミノ》 何神乎《イヅレノカミヲ》 齋祈者歟《イハハバカ》 往方毛來方毛《ユクサモクサモ》 舶之早兼《フネノハヤケム》
 
海ノ中ニ祭ツテアル〔七字傍線〕神樣ノドノ神樣ヲオ祈リシタナラバ、アナタノ乘ツテヰル〔九字傍線〕船ガ、往キニモ返リニモ早ク走ルデセウカ。ドウカ無事デ早ク歸ツテ來テ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○海岩之何神乎《ワタツミノイヅレノカミヲ》――卷五に宇奈原能邊爾母奥爾母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等《ウナバラノヘニモオキニモカムヅマリウシハキイマスモロモロノオホミカミタチ》(八九四)とあるのと同意で、海路の途中に祀られてゐるどの神をの意である。○往方毛來方毛《ユクサモクサモ》――古義にユクヘモクヘモとあるのは變な訓法である。卷三に往左來左君所見良目《ユクサクサキミコソミラメ》(二八一)とあるによつて、舊訓に從ふべきである。
〔評〕 入唐使の無事を祈る心はよく現はれてゐるが、送る人までが海路の不安におびえて、途方にくれた姿である。當時の航海としては尤もなことであらう。
 
右一首渡海年紀未v詳
 
この一行、無い古本もあるのは、脱ちたのであらう。
 
神龜五年戊辰秋八月(ノ)歌一首并短歌
 
考に月の下、作の字が脱ちたものかとしてゐる。歌の趣によると、越の國の任などに赴く人へ送つた歌であらう。
 
1785 人と成る 事は難きを わくらばに 成れる吾が身は 死にも生も 君がまにまと 念ひつつ ありし間に うつせみの 世の人なれば 大きみの みことかしこみ 天さかる 夷治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ 群鳥の 群立行けば 留まりゐて 我は戀ひむな 見ず久ならば 
 
(115)人跡成《ヒトトナル》 事者難乎《コトハカタキヲ》 和久良婆爾《ワクラバニ》 成吾身者《ナレルワガミハ》 死毛生毛《シニモイキモ》 公之隨意常《キミガマニマト》 念乍《オモヒツツ》 有之間爾《アリシアヒダニ》 虚蝉乃《ウツセミノ》 代人有者《ヨノヒトナレバ》 大王之《オホキミノ》 御命恐美《ミコトカシコミ》 天離《アマサカル》 夷治爾登《ヒナヲサメニト》 朝鳥之《アサトリノ》 朝立爲管《アサタチシツツ》 群鳥之《ムラトリノ》 群立行者《ムラタチユケバ》 留居而《トマリヰテ》 吾者將戀奈《ワレハコヒムナ》 不見久有者《ミズヒサナラバ》
 
人ニ生レテ來ルノハ、ムヅカシイコトダノニ、偶然カウシテ〔四字傍線〕人ニ生レテ來タ私ハ、死ヌノモ生キルノモアナタ次第ト思ツテ、アナタヲタヨリニシテ〔アナ〜傍線〕ヰタノニ、(虚蝉乃)世ノ中ノ人ノナラハシダカラ、天子樣ノ仰ヲ拜承シテ(天離)田舍ヲ治メル爲ニ(朝鳥之)朝オ立チニナツテ、(群鳥之)大勢連レ立ツテ旅ニ出ラレルノデ、後ニ殘ツテ私ハ、アナタニ〔四字傍線〕オ目ニカカラヌコトガ久シクナツタラ、サゾ戀シク思フデセウ。
 
○人跡成事者難乎和久良婆爾成吾身者《ヒトトナルコトハカタキヲワクラバニナレルワガミハ》――謂はゆる人身受け難しの意味で、卷五に和久良婆爾比等等波安流乎《ワクラバニヒトトハアルヲ》(八九二)とある類である。四十二章經に「佛言(ク)人離(レ)2惡道(ヲ)1得(ルコト)v爲(ヲ)v人(ト)難(シ)」とある。和久良婆《ワクラバ》は偶然にの意。○虚蝉乃《ウツセミノ》――枕詞。代《ヨ》と續く。二四參照。○天離《アマサカル》――枕詞。ヒナと續く。二九參照。○朝鳥之《アサトリノ》――枕詞。朝の鳥が塒を出で立つ意で、朝立につづく。○群鳥之《ムラトリノ》――枕詞。ムラタチユケバと續く。意は明らかであらう。○吾者將戀奈《ワレハコヒムナ》――ナは呼びかけの助詞。ヨに同じ。
〔評〕 極めてはつきりした平易な歌である。死にも生きも君がまにまといつたのは、刎頸の友の門出に際して述べた言葉であらう。愛人との訣別に、涙をしぼつたものとも考へられないことはないが、この歌は女性の作らしくないから、さうではあるまい。
 
(116)反歌
 
1786 み越路の 雪ふる山を 越えむ日は とまれる我を かけてしぬばせ
 
三越道之《ミコシヂノ》 雪零山乎《ユキフルヤマヲ》 將越日者《コエムヒハ》 留有吾乎《トマレルワレヲ》 懸而小竹葉背《カケテシヌバセ》
 
アナタガ〔四字傍線〕越ノ北陸〔二字傍線〕街道ノ、雪ノ降リ積ル山ヲ越エル日ニハ、都ニ〔二字傍線〕殘ツテ居ル私ヲ、心ニカケテ思ヒ出シテ下サイ。私ハ常ニアナタノ旅ノ苦シミヲ思ヒヤツテヰマスカラ、苦シイ時ニデモセメテ私ノコトヲ思ヒ出シテ下サイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○三越道之雪零山乎《ミコシヂノユキフルヤマヲ》――ミは接頭語。雪零山《ユキフルヤマ》はどの山と指したのではないが、越路へ越える愛發山《アラチヤマ》などの高い峠を想像して詠んだものであらう。○縣而小竹葉背《カケテシヌバセ》――心にかけて思ひ出せの意。用字が懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》(六)に似てゐる。
〔評〕 八月に都を出發した歌としては、雪降る山を越えむといふのは、如何に越路としても早過ぎるやうであるが、越路と言へばすぐに雪を思ひ起すから、かやうに詠んだのである。
 
天平元年己巳冬十二月歌一首并短歌
 
考に月の下、作の字脱としてゐる。
 
1787 うつせみの 世の人なれば 大きみの みことかしこみ しき島の 大和の国の 石上 布留の里に 紐解かず 丸寝をすれば 吾が著たる 衣はなれぬ 見るごとに 戀はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の あかしも得ぬを いも寝ずに 我はぞ戀ふる 妹が直香に
 
虚蝉乃《ウツセミノ》 世人有者《ヨノヒトナレバ》 大王之《オホキミノ》 御命恐彌《ミコトカシコミ》 礒城島能《シキシマノ》 日本國乃《ヤマトノクニノ》 石上《イソノカミ》 振里爾《フルノサトニ》 紐不解《ヒモトカズ》 丸寐乎爲者《マロネヲスレバ》 吾衣有《ワガキタル》 服者奈禮奴《コロモハナレヌ》 毎見《ミルゴトニ》 戀者雖益《コヒハマサレド》 色二山上復有山者《イロニイデバ》 一可知美《ヒトシリヌベミ》 冬夜之《フユノヨノ》 明毛不得呼《アカシモエヌヲ》 五十母不(117)宿二《イモネズニ》 吾齒曾戀流《ワレハゾコフル》 妹之直香仁《イモガタダカニ》
 
(虚蝉乃)コノ世ノ人デアルカラ、天子樣ノ仰ヲ拜承シテ(礒城島能)大和ノ國ノ石上ニアル布留ノ里ニ、着物ノ紐モ解カズニ獨デ〔二字傍線〕丸寐ヲスルト、私ガ着テヰル着物ハ皺ダラケニナツテ汚レテシマツタ。コノ汚イ着物ヲ〔七字傍線〕見ル度ニ、家ニ居レバ妻ガツテクレルモノト、妻ノ〔家ニ〜傍線〕戀シサガ益スガ、顔色ニ出シテ言フト、人ガ知ルダラウカラ冬ノ長イ〔二字傍線〕夜ガ明シカネルノニ、眠ルコトモ出來ナイデ、私ハ妻ノ樣子ヲ思ツテ戀ヒ慕ツテヰルヨ。
 
○礒城島能日本國乃《シキシマノヤマトノクニノ》――礒城島能《シキシマノ》は枕詞。礒城島のある大和國の意で、礒城島は崇神天皇の皇居が、礒城瑞籬宮にあつたことに起るといはれてゐる。後これが獨立して、日本總國の名稱としても用ゐられるやうになつた。日本國《ヤマトノクニ》は畿内の大和。○石上振里爾《イソノカミフルノサトニ》――石上の布留は、山邊郡にある。布留神社の所在地。今の丹波市附近。○丸寐乎爲者《マロネヲスレバ》――マロネは帶を解かず着たままで寢ること。後世のマルネに同じ。○服者奈禮奴《コロモハナレヌ》――ナレは穢・萎・褻などの文字を當てる。着物が着古して萎えたこと。○色二山上復有山者《イロニイデバ》――この句は舊訓イロイロニヤマノヘニマタアルヤマハとあつたが、全く意味をなさない。契沖が山上復有山の五字を、イデと訓んだのでよくわかるやうになつた。代匠記精撰本にこれを説明して「其故は古樂府に、藁砧今何在、山上更(ニ)安(ス)v山(ヲ)云々。此(ノ)山上更(ニ)安v山とは出の字を云へり。正しく山をふたつ重ねてかくにはあらねど、見たる所相似たる故なり。唐の孟遲が、山上(ニ)夕(リ)v山不v得v歸(ルヲ)と作れるも此に依れり。今も此義を意得て、イデと云ふた文字を、山上復有山とはかけるなり。」とある。要するに出といふ文字は、山を二つ重ねた形をしてゐるといふので、集中の戯書として有名なものである。○一可知美《ヒトシリヌベミ》――一は人の借字。○明毛不得呼《アカシモエヌヲ》――略解に「宣長云、明毛不得呼、この句穩かならず。冬の夜之とあれば、明はあかしとは訓みがたし。もしあかしならば、冬の夜乎といはでは調はず。或人の説とて明毛不得呼鷄《アケモカネツツ》かといへり。」とあるのも面白い説であるが、もとのままで通ずるから、改めるには及ばぬ。○妹之直香仁《イモガタダカニ》――タダカは身の上・消息・動靜などの意。ここは妻の動靜を思つての意である。なほこ(118)の語については、卷四の吾聞爾繋莫言刈薦之亂而念君之直香曾《ワガキキニカケテナイヒソカリコモノミタレテオモフキミガタダカゾ》(六九七)の條に精しく述べて置いた。
〔評〕 略解に「此歌斑田使に出立る人の歌ならん。續紀天平元年十一月任2京及幾内斑田司1云々」とある。大王之御命恐彌《オホキミノミコトカシコミ》とあるから、官命によつて旅行してゐる人らしく、都近い石上布留の里に丸寢をしたといふのは、近畿方面の里邑を視察してゐるらしく思はれ、また色に出でば人知りぬべみといつて、人目を忍んで吐息をついてゐる樣子は、同行の人が多いことを思はしめる。これによると、略解の説は當つてゐるやうである。獨寢せむとして着物の垢附いたのに氣がつき、家なる妻を思ふ情が湧然として起ることを述べたあたりは、まことにあはれな、自然な、無理のない表現である。
 
反歌
 
1788 布留山ゆ ただに見渡す 京にぞ いもねず戀ふる 遠からなくに
 
振山從《フルヤマユ》 直見渡《タダニミワタス》 京二曾《ミヤコニゾ》 (119)寐不宿戀流《イモネズコフル》 遠不有爾《トホカラナクニ》
 
大和ノ國ノ〔五字傍線〕布留ノ山カラ、スグ目ノ前ニ見エル奈良ノ都ヲ思ツテ、夜モ〔二字傍線〕ネナイデ戀ヒシク思ツテヰルヨ。アマリ〔三字傍線〕遠イ所デモナイノニ。ドウシテコンナニ戀シイノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○禦振山從《フルヤマユ》――振山は布留山。寫眞は著者撮影。○直見渡《タダニミワタス》――直《タダ》は直接に。すぐ目の前になどの意。○京二曾《ミヤコニゾ》――童蒙抄に、二を乎の誤として、ミヤコヲゾと訓んでゐたが、もとのままでよい。但し意味は都をぞ戀ふると續いてゐる。
〔評〕 目の前に都を眺めながら、會ひ難き妻を思ふ心があはれである。結句、遠不有爾《トホカラナクニ》が蛇足のやうで、さうでない。
 
1789 吾妹子が ゆひてし紐を 解かめやも 絶えは絶ゆとも 直にあふまでに
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 結手師紐乎《ユヒテシヒモヲ》 將解八方《トカメヤモ》 絶者絶十方《タエハタユトモ》 直二相左右二《タダニアフマデニ》
 
私ノ妻ガ私ガ旅ニ出ル時、私ノ着物ノ紐ヲ結ンデクレタガ、コノ〔私ガ〜傍線〕結ンデクレタ紐ヲ、私ハ決シテ自分デ〔八字傍線〕解キハシマセヌゾ。タトヒコノ紐ガ〔七字傍線〕切レルナラ切レテモ、妻ト〔二字傍線〕直接逢フマデハ、決シテ妻ノ結ンデクレタ紐ヲ解カナイツモリダ〔決シ〜傍線〕。
 
○結手師紐乎《ユヒテシヒモヲ》――紐は上衣の紐。二五一參照。○直二相左右二《タダニアフマデニ》――アフマデニはアフマデハに同じ。
〔評〕三句目で切れて、絶者絶十方《タエハタユトモ》といつたのが力ある歌調をなしてゐる。これらの歌は、いづれも凡手でない。左註によるに笠金村の作であらう。
 
右件五首笠朝臣金村之歌中出
 
天平五年癸酉遣唐使(ノ)舶發(チテ)2難波(ヲ)1入(ル)v海(ニ)之時親母贈(レル)v子(ニ)歌一首并短歌
 
(120)續紀、「天平四年八月以2從四位上多治比眞人廣成1爲2遣唐大使1從五位下中臣朝臣名代爲2副使1判官四人録事四人云々。同五年閏三月、授2節刀。夏四月遣唐四船自2難波津1進發」と見えてゐる。その時の人の母の歌であらう。
 
1790 秋萩を 妻問ふ鹿こそ 一子に 子持たりといへ 鹿兒じもの 吾が獨子の 草枕 旅にし行けば 竹珠を しじに貫き垂り 齋べに 木綿取りしでて 齋ひつつ 吾が思ふ吾子 まさきくありこそ
 
秋芽子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマトフカコソ》 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモタリトイヘ》 鹿兒自物《カコジモノ》 吾獨子之《ワガヒトリコノ》 草枕《クサマクラ》 客二師往者《タビニシユケバ》 竹珠乎《タカダマヲ》 密貫垂《シジニヌキタリ》 齊戸爾《イハヒベニ》 木綿取四手而《ユフトリシデテ》 忌日管《イハヒツツ》 吾思吾子《ワガオモフアゴ》 眞好去有欲得《マサキクアリコソ》 奴者多本奴去古本
 
秋萩ノ花〔二字傍線〕ヲ妻トシテ尋ネテ行ク鹿コソハ、獨子ヲ生ムモノダトイフガ、ソノ〔二字傍線〕鹿ノ兒ノヤウナ私ノ獨兒ガ、(草枕)旅ニ出テ行クト、私ハ〔二字傍線〕竹珠ヲ澤山ニ糸ニ貫キ垂ラシテ、神樣ノ心ヲ和ゲル爲ニ〔十字傍線〕酒瓶ニ木綿ヲ飾リ垂ラシテ、神樣ヲ祭ツテ、私ガ無事ヲ〔三字傍線〕祈ツテヰル私ノ子供ヨ、無事デアツテクレヨ。
 
○秋芽子乎妻問鹿許曾《アキハギヲツマトフカコソ》――秋萩の花を鹿の妻とする考は、秋芽子之妻卷六跡《アキハギノツマヲマカムト》(一七六一)とあつた通りで、この句は秋萩の花を妻として訪ふ鹿こそはの意。○一子二子持有跡五十戸《ヒトリゴニコモタリトイヘ》――舊訓ヒトツコフタツコモタリトイヘとあるのではわからない。考に、ヒトツコニコモタリトイヘとし、古義は二子を乎の誤として、ヒトリコヲモタリトイヘと改めてゐる。ここは新訓によることにした。五十戸は悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》(六七四)にならつてイヘとよむべきである。上の許曾《コソ》を五十戸《イヘ》で結んでゐるやうな形をなしてゐるが、跡《ト》があるからコソの結びはイヘには及ばぬ筈である。正しくはコモタレトイフといふべきであらうが、それは純理論で、調子の關係上かうした形になつたのであらう。○鹿兒自物《カコジモノ》――鹿の子のやうなもの、即ち鹿の子のやうな。○竹珠乎《タカダマヲ》――竹珠は竹を管玉のやうに切つたもの。これを腕に貫いて垂らすのである。また管玉を竹珠といつたとも考へられる。三七九(121)參照。○齊戸爾《イハヒベニ》――齊戸は齋瓮。神をまつる爲に酒を入れる陶器の壺。○木綿取四手而《ユフトリシデテ》――木綿を齋瓮にとりつけて垂らして。木綿は栲の皮をもつて作つたもので、これを取附けるのは、神を祀る時の作法である。○忌日管《イハヒツツ》――神を祀つて穢のつかぬやうにするをイハフといふ。○眞好去有欲得《マサキクアリコソ》――マは接頭語。コソは希望の助詞。○奴者多本奴去古本――これは元暦校本・藍紙本・神田本などの古本にはない。代匠記初稿本に、奴は好の誤としてゐるが、細井本にはさうなつてゐる。元暦校本・藍紙本・神田本はこの結句の好をぬとし、京大本には左に赭で「奴者イ本」とあるのによると、この八字は多くの本には奴者とあるが、古本に、好去とあるのがよい、といふ意味の註を加へたのが、紛れ込んだのであらう。
〔評〕一人子をはるかに遠い、外國の旅にやる母が、ひたすら神に祈つて無事をこひねがふ樣が、いたいたしく眼に見えるやうである。さすがに女性だけあつて、遣唐使の職責などについては云々せず、ただ吾が子の安泰のみを祈つてゐるのが眞情の歌らしく思はれる。
 
(122)反歌
 
1791 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 吾が子羽ぐくめ 天の鶴群
 
客人之《タビビトノ》 宿將爲野爾《ヤドリセムヌニ》 霜降者《シモフラバ》 吾子羽※[果/衣]《ワガコハグクメ》 天乃鶴群《アメノタヅムラ》
 
旅人ガ宿ヲトル野ニ霜ガ降ツタナラバ、寒イデアラウカラ〔八字傍線〕空ヲ飛ブ鶴ノ群ヨ、私ノ子ヲ羽ノ下ニ入レテ可愛ガツテクレヨ。
 
○吾子羽※[果/衣]《ワガコハグクメ》――ハグクムは羽の下にくくむこと。轉じて撫育する意味にもなる。ここはその原意。○天乃鶴群《アメノタヅムラ》――舊訓アマノツルムラとあるが、古義に從ふ。天乃と附けたのは、鶴は空を飛翔つてゐるからである。
〔評〕 母性愛のあらはれた作として、蓋し最上の逸品であらう。霜も雪のやうに、空から降るものと考へて、その霜にかからぬやうに吾が子を翼でつつんでくれと空飛ぶ鶴群に頼んでゐる。卷十に天飛也鴈之翅乃覆羽之何處漏香霜之零異牟《アマトブヤカリノツバサノオホヒバノイヅクモリテカシモノフリケム》(二二三八)とあるのと同想であるが、鶴の方が雁よりも翼が大きく、且、夜の鶴は子を思つて鳴くものとせられ、子を愛する鳥であるから、雁よりも一層適切にここに當て嵌るわけである。
 
思(ヒテ)2娘子(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
 
1792 白玉の 人のその名を なかなかに 辭のをしたばへ 逢はぬ日の まねく過ぐれば 戀ふる日の かさなり行けば 思ひやる たどきを知らに 肝向ふ 心摧けて 珠襷 懸けぬ時無く 口息まず 吾が戀ふる兒を 玉釧 手に取持ちて まそ鏡 ただ目に見ねば 下檜山 下ゆく水の 上に出です 吾が念ふこころ 安きそらかも
 
白玉之《シラタマノ》 人乃其名矣《ヒトノソノナヲ》 中中二《ナカナカニ》 辭緒下延《コトノヲシタバヘ》 不遇日之《アハヌヒノ》 數多過者《マネクスグレバ》 戀日之《コフルヒノ》 累行者《カサナリユケバ》 思遣《オモヒヤル》 田時乎白土《タドキヲシラニ》 肝向《キモムカフ》 心摧而《ココロクダケテ》 珠手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 口不息《クチヤマズ》 吾戀兒矣《ワガコフルコヲ》 玉釧《タマクシロ》 手爾取持而《テニトリモチテ》 眞十鏡《マソカガミ》 直目爾不視者《タダメニミネバ》 下檜山《シタヒヤマ》 下逝水乃《シタユクミヅノ》 上丹不出《ウヘニイデズ》 吾念情《ワガモフココロ》 安虚歟毛《ヤスキソラカモ》
 
(123)白玉ノヤウニ美シイ私ノ愛スル〔ヤウ〜傍線〕人ノ名ヲ、戀シクハアルガ、人ニ知ラレルノガ恐ロシサニ〔戀シ〜傍線〕、却ツテ言葉ニモ出サズニ、遇ハナイ日ガ澤山ニ過ギタカラ、戀フル日ガ重ナツテ行クト、心中ノ憂ヲ晴ラス方法ガ分ラナイカラ、(肝向)心ガ摧《クジ》ケテ(珠手次)心ニ〔二字傍線〕カケテ思ハナイコトハナク、口ニ出シテ戀シイ戀シイト〔七字傍線〕言ヒツヅケテ戀シテヰル女ヲ、(玉釧)手ニ取卷キツケ、(眞十鏡)直接ニ目ニ見ルコトガ出來ナイカラ、(下檜山)木葉ノ〔三字傍線〕下ヲ流レテ行ク水ガ上ニ出ナイ〔六字傍線〕ヤウニ、表ニアラハサズニ、私ガ心中デ〔三字傍線〕思ツテヰルコトハ苦シイコトダヨ。
 
○白玉之《シラタマノ》――白玉のやうな。いつくしみ愛するにたとへてある。○辭緒下延《コトノヲシタバヘ》――下延は舊本|不延《ノベズ》とあり、代匠記はハヘズとあるが、元暦校本によつて、下延《シタバヘ》と訓みたい。シタバヘは下に思うて、口にあらはさぬこと、辭緒《コトノヲ》は詞の緒で、この句の意は詞にあらはさぬことである。○思遣田時乎白土《オモヒヤルタドキヲシラニ》――思ひを晴らすべき方法がわからないでの意。思遣鶴寸乎白土《オモヒヤルタヅキヲシラニ》(五)參照。○肝向《キモムカフ》――枕詞。五臓六腑が向ひ集まつて、こりこりする意で、こりこりの轉こころにつづく、と宣長は解してゐる。○ 珠手次《タマダスキ》――枕詞。五參照。○口不息《クチヤマズ》――口をやすめず、絶えずいふ意。卷十四に久知夜麻受安乎思努布良武伊敝乃兒呂波母《クチヤマズアヲシヌブラムイヘノコロハモ》(三五三二)とある。○玉釧《タマクシロ》――枕詞。釧は手に卷くものであるから、手にとりもちてとつづけてゐる。冠辭考に、取を蒔の誤として、マキモチテと改めてゐる。○眞十鏡《マソカガミ》――枕詞。語をへだてて、見につづいてゐる。○下檜山《シタヒヤマ》――シタヒは下樋で、地中に埋めた樋。ここは下逝《シタユク》に冠して枕詞としてゐる。攝津風土記に「昔有2大神1云2天津鰐1化爲v鷲、下止2此山1、十人往者、五人去、五人留、有2久波乎云者1來2此山1、伏2下樋1而屆2於神許1、從2此樋内1通而祷祭、由v是曰2下樋山1」とあり、今の豐能郡西郷村大字大里の西北にある劍尾山がそれだといはれてゐる。○安虚歟毛《ヤスキソラカモ》――意空不安久爾嘆空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニ》(一五二〇)などと同じ意味で、安き心かも、安き心にあらずの意であらう。古義は虚を不在の誤として、ヤスカラヌカモと訓んでゐる。
〔評〕 戀情をのべた長歌は集中に多いが、この歌のやうに何等内容的複雜さを有せず、徹頭徹尾戀の心のみを反覆したものは尠い。歌が新しいやうであるから、左註に田邊福麿之歌集出とあるのに由れば、この人の作品に(124)違ひない。
 
反歌
 
1793 垣ほなす 人の横言 繁みかも 逢はぬ日まねく 月の經ぬらむ
 
垣保成《カキホナス》 人之横辭《ヒトノヨコゴト》 繁香裳《シゲミカモ》 不遭日數多《アハヌヒマネク》 月乃經良武《ツキノヘヌラム》
 
丁度〔二字傍線〕垣根ガ間ヲ隔テル〔六字傍線〕ヤウニ人ガイロイロト言ヒ騷グ〔九字傍線〕横ザマノ中傷ノ〔三字傍線〕言葉ガ多イカラ、私ハアノ人ニ〔六字傍線〕逢ハナイ日ガ多クテ、月ガ過ギタノデアラウ。ホントニ戀シイヨ〔八字傍線〕。
 
○垣保成人之横辭《カキホナスヒトノヨコゴト》――卷四に垣穗成人辭聞而《カキホナスヒトゴトキキテ》(七一三)とあるやうに、垣根のやうに人の間をへだてる中傷の詞を聞いての意。横辭《ヨコゴト》はよこしまな詞。讒言。○繁香裳《シゲミカモ》――舊訓シゲキカモとあるが、古義の訓に從ふ。新考に「カキホナスはここにてはシゲミにかかれる枕詞なり」とあるのはどうであらう。
〔評〕 これは卷四の七一三に少しく似た歌である。人の口のさがなさを歎ずる弱い戀である。
 
1794 立易り 月重なりて 逢はざれど さね忘らえず 面影にして
 
立易《タチカヘリ》 月重而《ツキカサナリテ》 雖不遇《アハザレド》 核不所忘《サネワスラエズ》 面影思天《オモカゲニシテ》
 
月ガ立チ易ツテ幾ツモ重ナル間アノ人ニ〔四字傍線〕逢ハナイガ、戀シサガ減ジナイデ、アノ人ノ〔戀シ〜傍線〕姿ガ目ノ前ニチラツイテ、ホントニ忘レラレナイ。
 
○立易《タチカハリ》――舊訓タチカハルとあるが、タチカハリがよいやうである。○核不所忘《サネワスラヱズ》――サネは眞實に。この句はほんとにわすれられないの意。○面影思天《オモカゲニシテ》――眼のまへにちらついて見えて。
〔評〕 これも久しくあはぬを悲しむ戀で、感情が弱々しい。以上の三首はいづれも福麻呂の作であらう。
 
右三首田邊福麻呂之歌集出
 
(125)挽歌
 
宇治|若郎子宮《ワキイラツコノミヤ》所(ノ)歌一首
 
宇治若郎子は言ふまでもなく應神天皇の皇子である。この皇子の宮所は、今、久世郡宇治町の離宮址であるといふ。これはその宮所を見て後人が作つた歌である。
 
1795 妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ つま松の木は ふる人見けむ
 
妹等許《イモラガリ》 今木乃嶺《イマキノミネニ》 茂立《シゲリタツ》 嬬待木者《ツママツノキハ》 古人見祁牟《フルビトミケム》
 
(妹等許)今木ノ嶺ニ茂ツテヰル(嬬)松ノ木ハ、昔|此處ニ居ラレタ宇治若郎子ト云フ〔此處〜傍線〕人ガ、御覽ニナツタデアラウ。アノ皇子ハ今ハオイデニナラズニ、松ノ木バカリ昔ノ通リニ茂リ立ツテヰル〔アノ〜傍線〕。
 
○妹等許《イモラガリ》――枕詞。今來の意で、今木につづけてゐる。○今木乃嶺《イマキノミネニ》――今木乃嶺は大和吉野郡の中、高市・南葛城に隣接した所にあるが、ここのは山城の宇治にあるらしい。姓氏録に「山城皇別|今木《イマキ》ミチ守同祖、建豐羽頬別命之後也。又山城神別今木連、神魂命五世孫阿麻乃西手乃命之後也」とあるから、今木は山城の地名なることは疑なく、また日本書紀通證に「今來嶺、在2宇治彼方町東岸1、今曰2離宮山1(一名朝日山)」とある。新考には、イモラガリイマを枕詞とし、キノミネを地名としてゐる。○嬬待木者《ツママツノキハ》――ツマは待つを松にかけて、つづける爲に置いた枕詞式の語である。○古人見祁牟《フルヒトミケム》――古人は昔の人の意で、宇治若郎子をさしてゐる。古義に古を吉の誤として、ヨキヒトミケムと訓んでゐるのはよくない。
〔評〕 懷古的作品である。挽歌の部に入れる程の悲しい歌ではないが、故人をしのんだのであるから、ここに收めたのであらう。左註によると、これは人麿の作で、彼が宇治川のほとりで網代木にいさよふ波を見て、感傷(126)的の作をなしたのと同時の歌か。
 
紀伊國(ニテ)作(レル)歌四首
 
1796 黄葉ばの 過ぎにし子らと たづさはり 遊びし磯を 見れば悲しも
 
黄葉之《モミチバノ》 過去子等《スギニシコラト》 携《タヅサハリ》 遊礒麻《アソビシイソヲ》 見者悲裳《ミレバカナシモ》
 
(黄葉之)死ンデシマツタアノ女ト、先年〔二字傍線〕、手ヲ携ヘテ遊ンダ礒ヲ見ルト悲シイヨ。以前ノコトガ思ヒ出サレテ、死ンダ女ガシノバレル〔以前〜傍線〕。
 
○黄葉之《モミヂバノ》――枕詞。四七參照。○遊礒麻《アソビシイソヲ》――舊訓はアソビシイソマとあるが、古義にアソビシイソヲと訓んだのがよい。
〔評〕 嘗て妻と相携へて紀伊に遊んだが、その妻は今は亡い。獨り舊地に再遊して故人を思つた歌で、平板ながらあはれがこもつてゐる。
 
1797 しほ氣立つ 荒磯にはあれど 行く水の 過ぎにし妹が 形見とぞ來し
 
鹽氣立《シホゲタツ》 荒礒丹者雖在《アリソニハアレド》 往水之《ユクミヅノ》 過去妹之《スギニシイモガ》 方見等曾來《カタミトゾコシ》
 
鹽氣ノ立チ上ル荒凉タル磯デハアルガ、(往水之)死ンダ妻ノ形見ト思ツテ、此處ヘワザワザ〔七字傍線〕ヤツテ來タヨ。昔ココヘ二人デ遊ビニ來タコトヲ思フト悲シイ〔昔コ〜傍線〕。
 
○鹽氣立《シホゲタツ》――鹽氣《シホゲ》は波のしぶきによつて、海上にかかつた靄の如きもの。卷二に鹽氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》(一六二)とある。
 
〔評〕 卷一に、眞草苅荒野者雖有葉過去君之形見跡曾來師《マクサカルアラヌニハアレドモミヂバノスギニシキミガカタミトゾコシ》(四七)とある人麿の歌によく似てゐる。これも人麿の作に違ひない。
 
1798 いにしへに 妹と吾が見し ぬば玉の 黒牛潟を 見ればさぶしも
 
(127)古家丹《イニシヘニ》 妹等吾見《イモトワガミシ》 黒玉之《ヌバタマノ》 久漏牛方乎《クロウシガタヲ》 見佐府下《ミレバサブシモ》
 
ムカシ妻ト一緒ニ私ガ見タ(黒玉之)黒牛潟ヲ今一人デ來テ〔六字傍線〕見ルト、死ンダ妻ノコトガ思ヒ出サレテ〔死ン〜傍線〕、悲シイヨ。
 
○古家丹《イニシヘニ》――家をへの假名に用ゐたのは、去家人乎《イニシヘビトヲ》(二六一四)・去家之《イニシヘノ》(二六二八)などの例がある。舊訓フルイヘニと訓んだのは全く誤つてゐる。○黒玉之《ヌバタマノ》――枕詞。黒とつづく。○久漏牛方乎《クロウシガタヲ》――黒牛潟は、今の黒江地方の海。一六七二參照。
〔評〕 これは感情もさほど深くない、平凡な作である。
 
1799 玉つ島 磯の浦みの 眞砂にも にほひて行かな 妹がふりけむ
 
玉津島《タマツシマ》 礒之裏未之《イソノウラミノ》 眞名仁文《マナゴニモ》 爾保比去名《ニホヒテユカナ》 妹觸險《イモガフリケム》
 
玉津島ノ磯ノ浦ノマワリノ眞砂ニデモ、着物〔二字傍線〕ヲ染メテ行カウヨ。コノ眞砂ニ私ノ死ンダ〔十字傍線〕妻ガ觸レタノデアラウ。サウ思ヘバナツカシイ〔十字傍線〕。
 
○磯之裏未之《イソノウラミノ》――未は舊本末とあるが、元暦校本による。○眞名仁文《マナゴニモ》――神田本、名の下に子の字があるのがよい。マナゴは眞砂。
〔評〕 これは平明な歌で、愛慕の情がほとばしつてあはれである。磯の砂に涙の跡を印しつつ身悶えして、泣いてゐる作者の姿がしのばれる。
 
右五首柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
古義に五は四の誤だといつてゐる。これは宇治若郎子宮所歌をも含んでゐるのであるから、五首でよいのである。
 
過(ギテ)2足柄坂(ヲ)1見(テ)2死人(ヲ)1作(レル)歌一首
 
(128)足柄坂は相模足柄郡、矢倉澤から西に登ること一里で、俗に地藏峠といふ。舊本、坂を板に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。
 
1800 小垣内の 麻を引き干し 妹なねが 作り著せけむ 白たへの 紐をも解かず 一重結ふ 帶を三重結ひ 苦しきに 仕へまつりて 今だにも 國にまかりて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東の國の かしこきや 神の御坂に にぎたまの 衣寒らに ぬば玉の 髪は亂れて 國問へど 國をものらず 家問へど 家をも言はず ますらをの 行の進みに ここに臥せる
 
小垣内之《ヲカキツノ》 麻矣引干《アサヲヒキホシ》 妹名根之《イモナネガ》 作服異六《ツクリキセケム》 白細乃《シロタヘノ》 紐緒毛不解《ヒモヲモトカズ》 一重結《ヒトヘユフ》 帶矣三重結《ヲビヲミヘユヒ》 苦伎爾《クルシキニ》 仕奉而《ツカヘマツリテ》 今谷裳《イマダニモ》 國爾退而《クニニマカリテ》 父妣毛《チチハハモ》 妻矣毛將見跡《ツマヲモミムト》 思乍《オモヒツツ》 往祁牟君者《ユキケムキミハ》 鳥鳴《トリガナク》 東國能《アヅマノクニノ》 恐耶《カシコキヤ》 神之三坂爾《カミノミサカニ》 和靈乃《ニギタマノ》 服寒等丹《コロモサムラニ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 髪者亂而《カミハミダレテ》 郡問跡《クニトヘド》 國矣毛不告《クニヲモノラズ》 家問跡《イヘトヘド》 家矣毛不云《イヘヲモイハズ》 益荒夫乃《マスラヲノ》 去能進爾《ユキノススミニ》 此間偃有《ココニコヤセル》
 
垣ノウチニ作ツタ麻ヲ引イテ干シテ、妻ガ作ツテ着セタノダラウト思ハレル(白細乃)衣物ノ〔三字傍線〕紐モ解カナイデ、辛苦シタ爲ニ病氣ニナツテ身モ瘠セ衰ヘテ〔辛苦〜傍線〕、一重ニ結ブ帶ヲ、三重ニモ結ブヤウニ瘠セテ〔四字傍線〕、苦シイノニ奉公シテ、今カラデモ國ニ歸ツテ、父ヤ母ヤ妻ニモ逢ハウト思ワテ、出掛ケタデアラウトコロノアナタハ、(鳥鳴)東ノ國ノ(恐耶)神樣ノイラツシヤル、足柄トイフ〔イラ〜傍線〕坂ニ、(和靈乃)着物モ寒サウニ、(烏玉乃)髪ノ毛ハ亂レテ、國ハドコカトソノ本國〔九字傍線〕ヲ尋ネテモ國ヲモ告ゲズ、家ヲ尋ネテモ家モ答ヘズニ、コノ〔二字傍線〕男ガ國ヘユク〔四字傍線〕途中デ、此處ニ死ンデ〔三字傍線〕臥テヰル。ホントニ可愛サウナコトダ〔ホン〜傍線〕。
 
○小垣内之《ヲカキツノ》――ヲは接頭語。垣内《カキツ》は文字通り、垣の内部、即ち屋敷の中である。○麻矣引干《アサヲヒキホシ》――ヒキは根からひき拔くこと。引き拔いだ麻をならべて、日に干すのである。○妹名根之《イモナネガ》――イモナネのナは、親しんでいふ語。ネは多く女に對していふ語。卷四に名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》(七二四)とある。○白細乃《シロタヘノ》――枕詞。紐とつづく。紐は上衣の紐(129)で、衣と同じく白い栲で作つたから、枕詞になつたのである。○一重結帶矣三重結《ヒトヘユフヲビヲミヘユヒ》――卷四の一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクワガミハナリヌ》(七四二)、卷十三の二無戀乎思爲者常帶乎三重可結我身者成《フタツナキコヒヲシスレバツネノオビヲミヘムスブベクワガミハナリヌ》(三二三)と同意である。○苦侍伎爾《クルシキニ》――病中苦しい間にの意。○今谷裳《イマダニモ》――歸國の許可を漸く得たので、今からでもの意。○鳥鳴《トリガナク》――枕詞。鷄がなくよ我が夫よと呼び起す意で、つづいてゐる。一九九參照。○恐耶《カシコキヤ》――枕詞。神とつづく。○神之三坂爾《カミノミサカニ》――足柄山は神のいます恐ろしい坂であるから、神之三坂といつたのであるが、足柄の坂にかぎつてかくいふのではない。卷二十に知波夜布留賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里伊波負伊能知波意毛知知我多米《チハヤブルカミノミサカニヌサマツリイハフイノチハオモチチガタメ》(四四〇二)とあるのは、木曾の御坂のことである。ミは接頭語。○和靈乃《ニギダマノ》――和靈の衣とつづけては意味をなさない。考には和細布乃《ニギタヘノ》の誤であらうといつてゐる。さうすれば意味はよく通ずる。しかし次に鳥玉乃《ヌバタマノ》とあつて、恰もこれと對句をなしてゐるやうに見えるから、なほ考究を要する。○服寒等丹《コロモサムラニ》――サムラのラは接尾語。寒さうにの意。○烏玉乃《ヌバタマノ》――枕詞。元來黒の枕詞であるが、髪は黒いからかくつづけたのであらう。○郡問跡《クニトヘド》――舊本、郡とあるが、元暦校本その他の古本、邦に作るものが多い。郡はその意味からも、音からも、クニと訓むべき文字であるから、誤とは斷じがたく、又集中他に邦の字の用例もないから、これはいづれとも決し難い。しばらく舊本の形を存して後の研鑽をまたう。○去能進爾《ユキノススミニ》――行き進みてある中に。途中で。○此間偃有《ココニコヤセル》――ここにこやせるよの意。こやせるは臥すの敬相で、こやすは死して横たはる場合に用ゐた例が多い。
〔評〕 旅中足柄の坂で死人を見て、よんだ歌である。かうした例は、聖徳太子が龍田山の死人を見て悲傷せられた歌(四一五)を初として、人麿が讃岐の狹岑の島の石中死人を見てよんだ歌(二二〇)、同じく香具山で屍を見た歌(四二六)などがある。この歌は狹岑の島の長歌から暗示を得たかとも思はれ、又卷五の山上憶良が大伴君熊凝に擬して作つた歌(八八六)などとも關係があるかも知れない。一重結ふ紐を三重結ひなどの語が巧に用ゐられて、かなりよく出來てゐる。田邊福麿集に出てをり、その用語格調から言つても、福麿の作なることは疑を入れない。かかる後期の長歌に反歌を添へないのも珍らしいことである。
 
(130)過(グル)2葦屋《アシヤノ》處女墓(ヲ)1時、作(レル)歌一首并短歌
 
葦屋は和名抄に攝津國菟原郡葦原(原は屋の誤)とあるところで、即ち今の神戸市の東方葦屋附近である。古はアシヤともアシノヤともいつた。この里に名高い葦屋處女といふ處女があつた。葦屋は菟原郡の郷であつたから、彼女は又菟原處女とも言つてゐたのである、この女に戀した男に菟原壯士と血沼壯士とがあつた。菟原壯士はその地方の青年で、血沼壯士は和泉の國血沼の人であつた。又彼を小竹田壯士《シヌタヲトコ》とも言つたのは和泉の信田の郷の人であつたからである。二人はこの處女を得ようとして爭つた。處女は心中では血沼壯士に思ひをよせてゐたらしいが菟原壯士の情も無にしがたく、思ひあまつて遂に自らその玉の緒を絶つた。これを知つた二人の男も相次いで死んだ。そこでこの女の墓が築かれると、それを中にして男の塚が兩側に作られた。この事が言ひつぎ語り傳へられて、この墓を過ぎる人たちは皆これに同情の涙を注いだ。この話は謂はゆる妻爭傳説の一で、眞間手兒奈の話などと同種のものであるが、京畿地方にあつた事件として傳へられ、且墓の所在地が西國への通路に近く、又歌枕として有名な葦屋にあつた爲に非常に有名となつて、後世の文献に屡々繰返され、種々展開して行つた。この墓と稱するものが今もなほ存してゐる。大日本地名辭書には「處女墓三所各周廻は十餘歩、一は住吉村字|御田《ゴテン》(御影町の東)一は東明《トウミヤウ》(今御影町に屬す其西に在り)一は味泥《ミトロ》(今都賀野村に屬す※[さんずい+文]賣神社の東六町)に在り。相距る各十餘町、今御田東明の二塚は現存し、近年味泥塚は削られて民宅と爲る。俗説御田塚を茅渟の信太男墓、東(131)明塚を處女墓、味泥塚を兎原男墓と爲す。皆前方後圓の大馬鬣封なり」とある。東明なる處女塚は今内務省指定の史蹟となつてゐて、その形も大體舊態を存してゐる。寫眞はその北方から寫したもの。歌碑も同所に建つてゐる。御田は普通呉田と記してある。坂神電車の住吉に近いところで、血沼壯士の墓と傳へられてゐるものは、今求塚と稱せられ、財團法人遊喜園といふ幼稚園内にあり、塚としての原形は備へてゐない。味泥にある菟原壯士の墓と傳へられるものも、同じく求塚と稱せられ、今は某氏の別荘内に築山として存してゐる。挿入寫眞は横手貞人氏撮影寄贈。
 
1801 古の 益荒をのこの 相きほひ 妻問ひしけむ 葦の屋の うなひ處女の 奥つ城を 吾が立ち見れば 永き世の 語りにしつつ 後の人 しぬびにせむと 玉桙の 道のべ近く 磐構へ 作れる塚を 天雲の そくへの限 この道を 行く人毎に 行きよりて い立ち嘆かひ 或人は ねにも泣きつつ 語りつぎ しぬび繼ぎ來し をとめらが 奥つ城どころ 我れさへに 見れば悲しも 古思へば
 
古之《イニシヘノ》 益荒丁子《マスラヲノコノ》 各競《アヒキホヒ》 妻問爲祁牟《ツマドヒシケム》 葦屋乃《アシノヤノ》 菟名日處女乃《ウナビヲトメノ》 奥城矣《オクツキヲ》 吾立見者《ワガタチミレバ》 永世乃《ナガキヨノ》 語爾爲乍《カタリニシツツ》 後人《ノチノヒト》 偲爾世武等《シヌビニセムト》 玉桙乃《タマボコノ》 道邊近《ミチノベチカク》 磐構《イハカマヘ》 作冢矣《ツクレルツカヲ》 天雲乃《アマグモノ》 退部乃限《ソキヘノカギリ》 此道矣《コノミチヲ》 去人毎《ユクヒトゴトニ》 行因《ユキヨリテ》 射立嘆日《イタチナゲカヒ》 或人者《アルヒトハ》 啼爾毛哭乍《ネニモナキツツ》 語嗣《カタリツギ》 偲繼來《シヌビツギコシ》 處女等賀《ヲトメラガ》 奥城所《オクツキドコロ》 吾并《ワレサヘニ》 見者悲喪《ミレバカナシモ》 古思者《イニシヘオモヘバ》
 
昔ノ知努男トイフ男ト、宇奈比男トイフ〔知努〜傍線〕男トガ、互ニ競ツテ妻ニシヨウト訪ネテ行ツタ、葦屋ノ菟名日處女トイフ美人ハ遂ニドチラニモ從フコトガ出來ナイデ死ンデシマツタトイフコトダガ、ソノ女〔トイ〜傍線〕ノ基ヲ私ガ今尋ネテ來テ〔六字傍線〕、立ツテ見ルト、永イ後ノ世マデノ語草ニシテ、後ノ世ノ〔二字傍線〕人ガ思ヒ出ス料ニスルデアラウトテ(玉桙乃)道ノホトリニ近ク、岩ヲ構ヘ築イテ作ツタコノ塚ヲ、天ノ雲ノ遠ザカツテヰル果テマデモ、遙カニ遠ク旅行シテ〔九字傍線〕コノ道ヲ通ル人毎ニ、誰デモ〔三字傍線〕通リガカリニ寄ツテ行ツテ、立チ止ツテ嘆キ、或人ハ聲ヲ出シテマデ泣イテ、昔カラ〔三字傍線〕語リ傳ヘ思ヒ出シテ來タ葦屋處女ノ墓所ヲ、私モ亦ヤハリ來テ見ルト、昔ガ思ヒ出サレルカラ悲シイヨ。
 
(132)○妻問爲祁牟《ツマドヒシケム》――妻とならむことを求めたであらうところの。ツマドフは婚を求めること。○葦屋乃菟名日處女乃《アシノヤノウナヒヲトメノ》――右に述べたやうに、葦屋は菟原郡の内にある郷であるが、この女は葦屋處女といふと共にその廣き地名を負うて菟名日處女ともいつたのである。○語爾爲乍《カタリニシツツ》――語り草にしつつの意。○後人《ノチノヒト》――後世の人がの意。略解、古義はノチビトとよんでゐるが果してさういふ熟語があるか疑はしい。但し大日本國語辭典には熟語としてこの歌を例に引いてゐる。○玉桙乃《タマボコノ》――枕詞。道とつづく。○磐構《イハカマヘ》――磐を構へて、磐を組んで。○作冢矣《ツクレルツカヲ》――冢は舊訓を改めて古義にはハカとよんでゐる。ツカでよいやうである。○天雲之退部乃限《アマグモノソキヘノカギリ》――天雲の退き方の限。空のあなたの遠方までの意。雲が遙かに遠ざかつて見えるから退《ソ》き方《ヘ》といふ。○行因T《ユキヨリテ》――行きつつ立ち寄りての意、通りがかりに寄ること。○射立嘆日《イタチナゲカヒ》――イは接頭語。○或人者《アルヒトハ》――舊本、或を惑に作つてワビヒトハとよんでゐるが、元暦校本・藍紙本など或になつてゐるから、これに從ふべきである。眞淵が※[戚/心]《ワビ》の誤とし、宣長が惑は借字で里人であらうといつたのも當つてゐない。或人者啼爾毛哭乍《アルヒトハネニモナキツツ》は聲を出して泣く者もある意である。○處女等賀《ヲトメラガ》――等《ラ》は複數ではない。
〔評〕 この歌は左註によると田邊福麿作と思はれる。歌が平易で萬葉後期の作品らしい。その上、卷三に見えてゐる過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌(四三一)と比較すると、模倣のあとの甚だしいのに驚く。まづ題詞が同型になつてゐるが、かの長歌の冒頭の古昔有家武人之倭文幡乃帶解替而廬屋立妻問爲家武勝牡鹿乃眞間之手兒名之《イニシヘニアリケムヒトノシヅハタノオビトキカヘテフセヤタテツマドヒシケムカツシカノママノテゴナガ》と、この長歌の初とを比較して見ると、思ひ半に過ぎるものがあらう。同樣な事が反歌についても言へるのである。
 
反歌
 
1802 いにしへの 小竹壯士の 妻問ひし 菟原處女の 奥城ぞこれ
 
古乃《イニシヘノ》 小竹田丁子乃《シヌダヲトコノ》 妻問石《ツマドヒシ》 菟會處女乃《ウナビヲトメノ》 奥城叙此《オクツキゾコレ》
 
(133)昔ノ小竹田男ガ、妻ニシヨウトテ尋ネテ行ツタ、菟會處女ノ墓ハココダゾ。
 
○小竹田丁子乃《シヌダヲトコノ》――舊訓ササダヲトコノとあるが、小竹田はシヌダと訓むべきである。シヌダヲトコは即ち血沼壯士で、和泉の茅渟の信太の男であつたのである。小竹は懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》(六)などシヌとよんである。謠曲求塚に小竹田男《ササダヲトコ》と血沼大丈夫《チヌノマスラヲ》との二人にしてゐるのは、歌林良材集によつたもので、大きな誤である。
〔評〕 これも卷三の山部赤人の長歌の反歌、吾毛見都人爾毛將告勝牡鹿之間間能手兒名之奧津城處《ワレモミツヒトニモツゲムカツシカノママノテゴナガオクツキドコロ》(四三二)と比すると、かなりよく似てゐる。
 
1803 語りつぐ からにもここだ 戀しきを ただ目に見けむ 古壯士
 
 語繼《カタリツグ》 可良仁文幾許《カラニモココダ》 戀布矣《コヒシキヲ》 直目爾見兼《タダメニミケム》 古丁子《イニシヘヲトコ》
 
葦屋處女ノ話ヲ、今ニ〔九字傍線〕語リ傳ヘタダケ〔三字傍線〕デモ私ハソノ女ガ〔六字傍線〕戀シク思ハレルノニ、直接ニ目ニ見タ昔ノ血沼男・宇奈比男ハドンナニカ戀シカツタデアラウ〔ハド〜傍線〕ヨ。
 
○可良仁文幾許《カラニモココダ》――故にも、甚だの意。カラは後世では助詞として語尾にのみ用ゐられるが、古代は故《カレ》として語頭によく用ゐられた。これはその過渡期であつたものか。かく句の始に用ゐられた例は、この他|手取之柄二忘跡礒人之曰師《テニトルガカラニワスルトアマノイヒシ》(一一九七)などもある。
〔評〕 句尾にさぞ戀しかつたであらうといふやうな意を含ましめて、餘韻を持たせてある、これは卷三の反歌(四三三)よさ程似てはゐないが、氣分はやはり同一である。どうしてもこの三首は福麿が赤人に傚つて試作したも(134)のである。
 
哀(シミテ)2弟(ノ)死去(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
 
これも田邊福麿作らしい。福麿が弟を失つた時期は全くわからない。
 
1804 父母が なしのまにまに 箸向ふ 弟の命は 朝露の 消易きいのち 神のむた 爭ひかねて 葦原の 瑞穗の國に 家無みや また還り來ぬ 遠つ國 よみの界に 蔓ふ葛の おのがむきむき 天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひまどはひ 射ゆししの 心を痛み 葦垣の 思ひ亂れて 春鳥の ねのみなきつつ 味さはふ 夜晝いはず かぎろひの 心燃えつつ 嘆く別を
 
父母賀《チチハハガ》 成乃任爾《ナシノマニマニ》 箸向《ハシムカフ》 弟乃命者《オトノミコトハ》 朝露乃《アサツユノ》 銷易杵壽《ケヤスキイノチ》 神之共《カミノムタ》 荒競不勝而《アラソヒカネテ》 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國爾《ミヅホノクニニ》 家無哉《イヘナミヤ》 又還不來《マタカヘリコヌ》 遠津國《トホツクニ》 黄泉乃界丹《ヨミノサカヒニ》 蔓都多乃《ハフツタノ》 各各向向《オノガムキムキ》 天雲乃《アマグモノ》 別石往者《ワカレシユケバ》 闇夜成《ヤミヨナス》 思迷匍匐《オモヒマドハヒ》 所射十六乃《イユシシノ》 意矣痛《ココロヲイタミ》 葦垣之《アシガキノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 春鳥能《ハルトリノ》 啼耳鳴乍《ネノミナキツツ》 味澤相《アヂサハフ》 宵晝不知《ヨルヒルイハズ》 蜻蜒火之《カギロヒ》 心所燎管《ココロモエツツ》 悲悽別焉《ナゲクワカレヲ》
 
父母ガ生ンダママニ愛ラシイモノトシテ私ト〔二字傍線〕向ヒアツテヰル弟ハ、朝露ノヤウニ消エ易イ命ヲ、神樣ノオ心ノママニ爭フコトガ出來ナイデ、死ンデシマツテ〔七字傍線〕、葦原ノ水穗ノ國ニ、家ガ無イカラ再ビ還ツテ來ナイノダラウカ。遠イ國ノ黄泉ノ地ニ、(蔓都多乃)各々勝手ニ(天雲乃)別レテ行ツタノデ、私ハ〔二字傍線〕(闇夜成)心ガ暗クナツテ〔七字傍線〕思ヒ迷ウテ、(所射十六乃)心ガツライノデ(葦垣之)思ヒ亂レテ(春鳥能)聲ヲ出シテ泣イテバカリヰテ、(味澤相)夜晝ノ區別モナク、(蜻蜒火之)心ガ燃エテ別ヲ歎イテヰルヨ。
 
○成乃任爾《ナシノマニマニ》――生み成したままにの意。○箸向弟乃命者《ハシムカフオトノミコトハ》――ハシムカフは從來枕詞として、愛《ハ》し向ふ、又は箸の相對する如き、或は相雙向ふの意としてゐるが、これを枕詞とする時は語のつづきが極めて惡い。これは父母の(135)成しのまにまに、愛《ハ》しく向ひ合つてゐるの意としなければならぬから、枕詞とは見ないことにする。ミコトは御事、尊んでいふのである。○神之共《カミノムタ》――壽は神の掌り給ふものであるから、神のまにまに爭ひかねるといふのである。○葦原乃水穗之國爾《アシハラノミヅホノクニニ》――日本の國に。一六七參照。○家無哉《イヘナミヤ》――家が無いからか。○蔓都多乃《ハフツタノ》――枕詞。蔓は枝を分ちて彼方此方に向つて延び行くものであるから、オノガムキムキにつづいてゐる。○各各向向《オノガムキムキ》――枕詞。舊訓を改めて、代匠記精撰本「おのおのと讀むべきにや」とあり、古義はオノモオノモとよんでゐるが、これは祝詞大殿祭に己乖乖不令在《オノガムキムキアラシメズ》とあつて、オノガムキムキといふ成語と思はれるから、さう訓むことにする。○天雲乃《アマグモノ》――枕詞。別とつづく。○闇夜成《ヤミヨナス》――枕詞。マドハヒにつづく。○思迷匍匐《オモヒマドハヒ》――マドハヒはマドヒの延言。○所射十六乃《イユシシノ》――枕詞。射られた鹿猪が苦しみなやむ意で下へつづいてゐる。○葦垣之《アシガキノ》――枕詞。亂れにつづく。○春烏能《ハルトリノ》――枕詞。下へつづく意は明らかであらう。○味澤相《アヂサハフ》――枕詞。これはメとつづくのを常とするのに、ここにヨルにつづいてゐるのは珍らしい。恐らく味鳧が多く空を飛び渡つて寄り來る意であらう。卷七に安治村十依海船浮《アヂムラノトヲヨルウミニフネウケテ》(一二九九)とあるのはその證とすべきである。古義がこの下に目辭毛絶而夜干玉乃《メゴトモタエテヌバタマノ》の二句脱ちたものとしたのは賛成し難い。○蜻蜒火之《カギロヒ》――枕詞〕。燎《モエ》につづく。○悲悽別焉《ナゲクワカレヲ》――古義、別焉を我爲の誤とし、ナゲキゾアガスルとし新考は別を我としてカナシブワレゾまたはワレヲとよむべしとある。誤字説は遽かに從ひ難い。舊訓のままでよいであらう。嘆く別ぞの意であらう。
〔評〕 肉親の弟を失つた哀傷感がよくあらはれてゐる。卷十七に大伴家持が長逝した弟を哀傷した長歌が出てゐるが、それと内容的に何ら關係を有たぬけれども、集中この種の作として共によい作である。併しどうも言葉に力強さが缺けてゐるので、人の肺腑を突くやうな點がないやうである。
 
反歌
 
1805 別れても またもあふべく 念ほえば 心亂れて 我戀ひめやも 一云、心つくして
 
別而裳《ワカレテモ》 復毛可遭《マタモアフベク》 所念者《オモホエバ》 心亂《ココロミダレテ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》 (136)一云、意盡而《ココロツクシテ》
 
今〔傍線〕別レテモ後デ〔二字傍線〕マタ逢ヘルト思フナラバ、コンナニ〔四字傍線〕心ガ亂レテ私ガ弟ヲ〔二字傍線〕戀ヒ慕ハウカ。コンナニハ慕ヒハセヌ。弟ハ死ンデシマツタ、マタ逢フコトガ出來ナイカラ私ハコンナニ歎クノダ〔コン〜傍線〕。
 
○別而裳《ワカレチモ》――モは強めていふのみ。○吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》――新考にはワガコヒメヤモとよんでゐる。○一云、意盡而《ココロツクシテ》――四の句の異傳である。心の限りの意。
〔評〕 わかり切つたことを述べてゐるやうであるが、あはれに聞える。
 
1806 あしびきの 荒山中に 送り置きて かへらふ見れば こころ苦しも
 
蘆檜木笶《アシビキノ》 荒山中爾《アラヤマナカニ》 送置而《オクリオキテ》 還良布見者《カヘラフミレバ》 情苦喪《ココロクルシモ》
 
(蘆檜木笶)人ノアマリ通ハナイ〔九字傍線〕荒凉タル山ノ中ニ、弟ノ屍ヲ〔四字傍線〕送ツテ置イテ、葬式ニ列した人がココカラ〔葬式〜傍線〕歸ツテ行クノヲ見ルト、私ノ〔二字傍線〕心ハ淋シイヨ。ココマデハ大勢デ來タノダガ、コレカラ僅カナ人デ墓ノ側ニ居ルコトカト思フト淋シイヨ〔ココ〜傍線〕。
 
○還良布見者《カヘラフミレバ》――略解に「葬送の人の家に歸るを見る也」とある通りであらう。新考に見を思の誤としたのは獨斷に過ぎる。
〔評〕 葬送の時、送つて來た人が歸るのを見て悲しく思つた歌である。卷二人麿の衾道乎引手乃山爾妹乎置而山徑往者生跡毛無《フスマヂヲヒキテノヤマニイモヲオキテヤマヂヲユケバイケリトモナシ》(二一二)と歌詞も氣分も似てゐるが、かれは自ら山より歸る時の作で、これは葬送の人に別れて山に殘る時の作らしい。あはれに悲しい歌である。
 
右七首田邊福麻呂之歌集出
 
(137)詠(メル)2勝鹿眞間《カツシカノママノ》娘子(ヲ)1歌一首并短歌
 
勝鹿眞間娘子のことは卷三の四三一參照。
 
1807 鷄が鳴く 吾妻の國に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言ひ來る 葛飾の 眞間の手兒名が 麻ぎぬに 青くびつけ ひたさをを 裳には織り著て 髪だにも 掻きはけづらず 履をだに 穿かず行けども 錦綾の 中につつめる いはひ兒も 妹にしかめや 望月の たれる面わに 花のごと ゑみて立てれば 夏虫の 火に入るがごと みなと入に 船漕ぐ如く 行きかぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 浪のとの 騒ぐ湊の 奥津城に 妹がこやせる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが如も 念ほゆるかも
 
鷄鳴《トリガナク》 吾妻乃國爾《アヅマノクニニ》 古昔爾《イニシヘニ》 有家留事登《アリケルコトト》 至今《イママデニ》 不絶言來《タヘズイヒクル》 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞間乃手兒奈我《ママノテゴナガ》 麻衣爾《アサギヌニ》 青衿著《アヲクビツケ》 直佐麻乎《ヒタサヲヲ》 裳者織服而《モニハオリキテ》 髪谷母《カミダニモ》 掻者不梳《カキハケヅラズ》 履乎谷《クツヲダニ》 不著雖行《ハカズユケドモ》 錦綾之《ニシキアヤノ》 中丹※[果/衣]有《ナカニツツメル》 齊兒毛《イハヒゴモ》 妹爾將及哉《イモニシカメヤ》 望月之《モチヅキノ》 滿有面輪二《タレルオモワニ》 如花《ハナノゴト》 咲而立有者《ヱミテタテレバ》 夏蟲乃《ナツムシノ》 入火之如《ヒニイルガゴト》 水門入爾《ミナトイリニ》 船己具如久《フネコグゴトク》 歸香具禮《ユキカグレ》 人乃言時《ヒトノイフトキ》 幾時毛《イクバクモ》 不生物呼《イケラジモノヲ》 何爲跡歟《ナニストカ》 身乎田名知而《ミヲタナシリテ》 浪音乃《ナミノトノ》 驟湊之《サワグミナトノ》 奥津城爾《オクツキニ》 妹之臥勢流《イモガコヤセル》 遠代爾《トホキヨニ》 有家類事乎《アリケルコトヲ》 昨日霜《キノフシモ》 將見我其登毛《ミケムガゴトモ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
(鷄鳴)東國デ昔アツタコトトシテ今マデ絶エズ語リ傳ヘテ來ル、美人ノ譽高イ〔六字傍線〕葛飾ノ眞間ノ手兒奈トイフ女〔四字傍線〕ガ、麻ノ着物ニ青イ襟ヲツケテ、又〔傍線〕麻バカリヲ織ツテ裳ニコシラヘテ着テ、髪スラモ掻キ梳ラズ、履物スラモ穿カズニヒドイ姿ヲシテ道ヲ〔九字傍線〕歩クケレドモ、錦ヤ綾ノ中ニ包ンデヰル、大切ニカシヅク娘デモ、コノ女ニハトテモ〔二字傍線〕及バナイ。(望月之)缺點ノナイ縹緻《キリヨウ》デ、花ノヤウニ笑ツテ立ツテヰルト、夏虫ガ自ラ飛ンデ〔五字傍線〕火ニ入ルヤウニ、又〔傍線〕河口ノ港ニ入ル時ニ舟ガ先ヲ爭ツテ〔五字傍線〕漕イデ來ルヤウニ、夢中ニナツテ行ツテ男ガ婚ヲ申込ンダ時ニ、人ノ命トイフモノハ〔八字傍線〕ドレダケ長ク生キルモノデモアルマイノニ、コノ處女ハ〔五字傍線〕ドウシヨウト身ノ上ヲ考ヘタノカ、浪ノ(138)音ガ騷ガシイ河口ニ、身投ゲヲシテ死ンデシマツテ〔河口〜傍線〕、コノ河口ノ墓ニコノ女ガ永久ニ埋ラレテ〔七字傍線〕寢テヰル、今此處ヘ來テコノ娘子ノ墓ヲ見ルト〔今此〜傍線〕、遠イ昔ニアツタコトヲ、昨日デモ見タコトノヤウニ思ハレテ悲シイ〔四字傍線〕ヨ。
 
○鷄鳴《トリガナク》――枕詞。吾妻とつづく。一九九參照。○吾妻乃國爾《アヅマノクニニ》――吾妻の國は坂東。書紀には日本武尊が碓日の嶺で橘姫を思うて、吾嬬者耶《アヅマハヤ》と歎じ給うたに起るとあり、古事記には足柄の坂で阿豆麻波夜《アヅマハヤ》と詔らせ給うたとある。いづれにしても後世の關東八州をさすのである。○眞間乃手兒奈我《ママノテゴナガ》――手兒奈は處女といふやうな意と思はれる。卷十四に哭乎曾奈伎那流手兒爾安良奈久爾《ネヲゾナキツルテゴニアラナクニ》(三四八五)・伊思井乃手兒我許登奈多延曾禰《イシヰノテゴガコトナタエソネ》(三三九八)・左和多里能手兒爾伊由伎安比《サワタリノテゴニイユキアヒ》(三五四〇)など手兒とあるによれば、ナは添へたものである。さうしてこれがいづれも東歌中にあらはれてゐるので見ると、東國の方言なることがわかる。○青衿著《アヲクビツケ》――舊訓アヲフスマキテとあるのは、衿を衾と同字に見たのであらうがよくない。衿の字、元暦校本・神田本にはクビとよみ、代匠記精撰本にも、「あをくびつけてと讀むべし。…毛詩云、青々子衿、傳云、青衿青領也、爾雅云、衿、交領、與v襟同、和名云、釋名云、衿音領古呂毛之久比頸也、所2以擁1v頸也、襟音禁禁也、交2於前1所3以禁2御風寒1也云々」とあつてクビとよんでゐる。略解にはオビとよんで、「和名秒腰帶部に、衿音襟和名比岐於比小帶也、釋名云、衿禁也、禁不v得2開散1也と見ゆ。後世女の裳に引腰とて長く垂て曳もの有。其類ひにて衣をゆひてはしを長くたるるなるべし」とある。代匠紀初稿本にアヲエリツケとあるが、古義にはそれに從つて略解を疑つてゐる。この文字は集中に他の用例なく、これらのいづれを良しとすべき(139)か判斷に苦しむところであるが、訓義辨證に委しい考證をあげて、「毛詩鄭風に青青子衿とありて、傳に青衿青領也といへり。これ育衿をアヲクビと訓むべき明證なり」と言つたのに從はう。天武紀に襟をキヌノクビと訓し、右にあげた和名抄にも古呂毛乃久比とあり、名義抄にも領の字をクビ・キヌノクビと訓んでゐる。※[女+任]も和名抄に於保久比とあるのは大領の意である、これから考へると、エリよりもクビが古語と思はれる。エリの用例が上代の文献に見えないやうである。○直佐麻乎《ヒタサヲヲ》――ひたすらの麻。麻ばかり。サは接頭語で、意味はない。○齊兒毛《イハヒゴモ》――大切にしてかしづいてゐる女兒。富家の箱入娘。○望月之《モチヅキノ》――枕詞。望月は缺けるところがない意を以て滿有《タレル》につづいてゐる。顔が光つてゐる意と解した説はわるい。○滿有面輪二《タレルオモワニ》――滿有は舊訓ミテルとあるが、考・略解などにタレルとあるに從ふ。卷二のに望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタタハシケムト》(一六七)・天地日月與共滿將行神乃御面跡《アメツチヒツキトトモニタリユカムカミノミオモト》(二二〇)などの用例がこれを證してゐる。面輪《ナモワ》は、オモテ・オモに同じであるが、ワに輪廓といふやうな意があるやうである。この四句は前の末珠名娘子を詠んだ長歌に、其姿之端正爾如花咲而立者《ソノカホノキラキラシキニハナノゴトヱミテタテレバ》(一七三八)とあるのに似てゐる。○水門入爾《ミナトイリニ》――船が河口の碇泊所に人らうとしての意。○歸香具禮《ユキカグレ》――考に舊訓を改めて、ヨリカゲレとしてゐるが、もとのままがよい。歸の字は多くユキとよんでゐる。香具禮《カグレ》は珍らしい詞である。宣長は古事記傳に、カガヒと同語で、カガヒはカグレアヒであらうといつて、「かぐれと云言此外に見えざれども、妻をよばふ事を、然云る古言のありしなるべし」と述べてゐる。略解にも「今懸想といふに同じ語也」といつてゐる。古義には「具禮は賀比の誤にてユキカガヒなるべし。カガヒはクナガヒの約れる言にてそのもと婚合を云よりはじまれる古言なり」とあるが、例の獨斷であらう。新解に「香具山、神樂等、神の寄り著く意にカグと用ゐてゐるものがある。そのカグの活用で、誘ひ寄せられる意と思はれる。」とある。ともかく婚を求めて寄り來ることに相違ない。○何爲跡歟身乎田名知而《ナニストカミヲタナシリテ》――どうしようと吾が身を直《タダ》に考へての意。この二句の間に脱句があるものとした新考の説はどうであらう。タナシリは卷一に家忘身毛多奈不知《イヘワスレミモタナシラズ》(五〇)、この卷に身者田菜不知《ミハタナシラズ》(一七三九)とあるのと同じく、直《タダ》知りの意。○驟湊之《サワグミナトノ》――湊は川の海に注ぐところ。河口。この水路は即ち今の江戸川で、上古は利根川がここに落ちてゐたのである。この句の下に手兒奈が身を投じて死んで、そこに葬(140)つて墓を作つた意を含めて解しなければわからない。○奧津城爾妹之臥勢流《オクツキニイモガコヤセル》――墓に手兒奈が葬られてゐるのであらうかの意。手兒奈の墓は卷三に過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌(四三一)にある通りで、當時は所在が明らかであつたが、今は全くその址がないやうである。今、手兒奈明神として祀つてあるところが、その墓所のやうに傳へられてゐるが信じ難い。
〔評〕 妻爭傳説の一として有名な葛飾眞間手兒奈を取扱つた歌は、集中卷三の山部赤人作歌(四三一)とこの歌とであるが、他に東歌中にこれに關したものが二首ある。傳説の筋を委しく述べてゐる點からいへば、この長歌の右に出づるものがなく、歌聖赤人の作よりも内容が豐富で、赤人のは殆ど懷古の情に終始してゐるが、これは手兒奈の美貌を巧に述べて、世人の戀慕の的となつたことを叙し、その美女の突然なる死を恠しみ且悲しんでゐる。赤人作に比して勝るとも劣らない作である。
 
反歌
 
1808 葛飾の 眞間の井を見れば 立ちならし 水汲ましけむ 手兒奈し念ほゆ
 
勝牡鹿之《カツシカノ》 眞間之井見者《ママノヰミレバ》 立平之《タチナラシ》 水※[手偏+邑]家牟《ミヅクマシケム》 手兒名之所念《テゴナシオモホユ》
 
葛飾ノ眞間ノ井ヲ見ルト、イツモ此處ニ來テ〔八字傍線〕立ツテココヲ〔三字傍線〕履ミ平ラシテ、手兒名ガ〔四字傍線〕水ヲ汲ンダダラウガ、ソ〔二字傍線〕ノ手兒名ノコトガ戀シク〔三字傍線〕思ヒダサレル。
 
○眞間之井見者《ママノヰミレバ》――眞間之井は眞間にある清水の湧いて湛へたところ。掘井ではない。手兒奈明神の境内に古の眞間井と稱する井戸があるのは、後世の好事家が作つたものである。なほこの眞間の井を、眞野の入江のこととする説も大なる誤である。○立平之《タチナラシ》――ナラシは地を踏み平らかにすること。馴らしでも、鳴らしでもない。手兒奈が絶えず來て、井のほとりを踏んだことを言つたのである。○水※[手偏+邑]家牟《ミヅクマシケム》――クマシのシは敬語。スの變化である。
(141)〔評〕 水を汲むのは少女の業である。眞間の井のほとりに來て、古を思ふ時、先づ胸に浮ぶものは古代の手兒奈の水汲みに來たやさしい姿である。この清い水に麻衣に青衿つけた装をうつし、履をもはかぬ足でこの土を踏み平らしたかと思へば、ただ懷古の情に胸が迫るのを覺える。長歌に歌はなかつた眞間井が詠まれてゐるので、傳説の内容を廣くしてゐる。なほこの眞間の手兒奈の傳説は處女塚傳説のやうには、後世文學にあらはれてゐないが、雨月物語の淺茅が宿はこれから思ひついた作と思はれる。
 
見(ル)2菟原《ウナヒ》處女(ノ)墓(ヲ)1歌一首并短歌
 
菟原處女墓は前の葦屋處女墓(一八〇一)と同じ。菟原はその歌に菟名日とあるに同じである。
 
1809 葦の屋の 菟原處女の 八年兒の 片生の時ゆ をばなりに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の こもりてませば 見てしがと いぶせむ時の 垣ほなす 人のとふ時 血沼をとこ 菟原をとこの 廬屋たき すすし競ひ 相よばひ しける時は 燒太刀の たがみおしねり 白檀弓 靱取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 吾妹子が 母に語らく 倭文手まき 賤しき吾が故 ますらをの 爭ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隱沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 血沼壯士 その夜夢に見 取りつづき 追ひ行きければ 後れたる 菟原壯士い 天仰ぎ 叫びおらび つちに伏し きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸佩の 小だちとり佩き 冬薯蕷葛 とめ行きければ やからどち い行きつどひ 永き代に しるしにせむと 遠き代に 語り繼がむと 處女墓 中に造り置き 壯士墓 此方彼方に 造り置ける 故よし聞きて 知らねども 新喪のごとも ね泣きつるかも
 
葦屋之《アシノヤノ》 菟名負處女之《ウナヒヲトメノ》 八年兒之《ヤトセゴノ》 片生之時從《カタオヒノトキユ》 小放爾《ヲバナリニ》 髪多久麻庭爾《カミタクマデニ》 並居《ナラビヲル》 家爾毛不所見《イヘニモミエズ》 虚木綿乃《ウツユフノ》 ※[穴/牛]而座在者《コモリテマセバ》 見而師香跡《ミテシガト》 悒憤時之《イブセムトキノ》 垣廬成《カキホナス》 人之誂時《ヒトノトフトキ》 智奴壯士《チヌヲトコ》 宇奈比壯士乃《ウナビヲトコノ》 廬八燎《フセヤタキ》 須酒師競《ススシキホヒ》 相結婚《アヒヨバヒ》 爲家類時者《シケルトキハ》 燒大刀乃《ヤキダチノ》 手預押禰利《タガミオシネリ》 白檀弓《シラマユミ》 靫取負而《ユギトリオヒテ》 入水《ミヅニイリ》 火爾毛將入跡《ヒニモイラムト》 立向《タチムカヒ》 競時爾《キホヒシトキニ》 吾妹子之《ワギモコガ》 母爾語久《ハハニカタラク》 倭文手纒《シヅタマキ》 賎吾之故《イヤシキワガユヱ》 大夫之《マスラヲノ》 荒爭見者《アラソフミレバ》 雖生《イケリトモ》 應合有哉《アフベクアレヤ》 宍串呂《シシクシロ》 黄泉爾將待跡《ヨミニマタムト》 隱沼乃《コモリヌノ》 下延置而《シタバヘオキテ》 打歎《ウチナゲキ》 妹之去者《イモガイヌレバ》 血沼壯士《チヌヲトコ》 其夜夢見《ソノヨイメニミ》 取次寸《トリツヅキ》 追去祁禮婆《オヒユキケラバ》 後有《オクレタル》 菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》 仰天《アメアフギ》 叫(142)於良妣《サケビオラビ》 ※[足+昆]地《ツチニフシ》 牙喫建怒而《キカミタケビテ》 如己男爾《モコロヲニ》 負而者不有跡《マケテハアラジト》 懸佩之《カケハキノ》 小劔取佩《ヲタチトリハキ》 冬※[草がんむり/叙]蕷都良《トコロヅラ》 尋去祁禮婆《トメユキケレバ》 親族共《ヤカラドチ》 射歸集《イユキツドヒ》 永代爾《ナガキヨニ》 標將爲跡《シルシニセムト》 遐代爾《トホキヨニ》 語將繼常《カタリツガムト》 處女墓《ヲトメヅカ》 中爾造置《ナカニツクリオキ》 壯士墓《ヲトコヅカ》 此方彼方二《コナタカナタニ》 造置有《ツクリオケル》 故縁聞而《ユヱヨシキキテ》 雖不知《シラネドモ》 新喪之如毛《ニヒモノゴトモ》 哭泣鶴鴨《ネナキツルカモ》
 
葦屋ノ菟名負處女ガ、マダ〔二字傍線〕八歳位ノ兒デ、十分成長シナイ時カラ、振分髪ノ髪ヲ束ネ結ブ年頃マデ、並ンデ隣リ合ツテヰル家ノ人〔二字傍線〕ニモ姿ヲ見ラレナイヤウニシテ、(虚木綿乃)、家ニ〔二字傍線〕閉ヂ籠ツテバカリヰルト、ソノ美貌ヲ聞キツケテ、ドウカシテ〔ソノ〜傍線〕見タイモノダト心ガ晴れレナイデヰル時、垣ノヤウニ人ガ取リ圍ンデ〔五字傍線〕尋ネテ來タ時ニ、智奴壯士ト宇奈比壯士トガ、(廬八燎)進ミ競ツテ互ニ女ヲ呼ンダ時ハ、刃ヲ〔二字傍線〕ヨク鍛ヘタ鋭イ太刀ノ柄ヲ押シヒネツテ、白木ノ弓ヲ持チ〔三字傍線〕失筒ヲ脊ニ負ツテ、コノ處女ノ爲ナラバ〔九字傍線〕水ニモ入ラウ火ニモ入ラウト、互ニ立チ合ツテ競ツテヰタ時ニ、コノ處女ガソノ母ニ向ツテ語ルノニハ、(倭文手纏)賤シイ私ノ爲ニ、血氣ノ〔三字傍線〕男タチガ爭フヲ見ルト、タトヘ生キテヰテモ、私ハ男ニ〔四字傍線〕逢フコトハ出來ナイヨ。ダカラ〔三字傍線〕(完串呂)冥土ヘ行ツテ私ノ戀シイ男ヲ〔七字傍線〕待タウト、(隱沼乃)心ノ中ニ隱シテ置イテ、嘆息シナガラ、コノ〔二字傍線〕女ガ自殺ヲシテシマフト、血沼男ハソノ夜ニコノ事ヲ〔四字傍線〕夢ニ見テ、取ワツヅイテ後ヲ追ツテ死ンダノデ、後ニノコサレタ菟原男は、空ヲ〔二字傍線〕仰イデ叫ビ怒鳴リ、殘念ガツテ〔五字傍線〕土ノ上ニ臥シテ身ヲモガキ〔五字傍線〕、齒ギシリヲシテ怒鳴ツテ、同輩ノ男ニ負ケテハ居ルマイト、佩刀ノ小太刀ヲ取リサシテ、(冬※[草がんむり/叙]蕷郡良)タヅネテ冥土ヘ〔三字傍線〕行ツタノデ、親族ノ者ドモハ寄リ集ツテ、永キ後世マデモ標《シルシ》ヲ殘サウト思ヒ、又遠キ代マデモ語リツタヘヨウト思ツテ、處女ノ墓ヲ眞中ニ作ツテ置イテ、男ノ墓ヲアチラ(143)トコチラト兩方〔二字傍線〕ニ作ツテ置イタ、ソノ因縁ヲ聞イテ、私ハ現在見〔五字傍線〕知ツテヰルコトデハナイガ・近頃アツタ〔五字傍線〕新シク人ガ死ンダコトノヤウニ、悲シクテ〔四字傍線〕聲ヲ出シテ泣イタヨ。
 
○八年兒之《ヤトセゴノ》――八歳ぐらゐの小兒。○片生之時從《カタオヒノトキユ》――略解に舊訓を改めてカタナリと訓んだのはいけない。カタオヒは形の未熟なるをいふ。伊勢集・源氏物語などに用例ある語である。○小放爾《ヲバナリニ》――舊訓ヲハナチニとあるのはよくない。ヲハナリのヲは接頭語。ハナリは即ちウナヰハナリで、ウナヰのことである。卷十六に童女波奈理汐髪上都良武可《ウナヰハナリハカミアゲツラムカ》(三八二二)とあり、卷七にも未通女等之放髪乎木綿山《ヲトメラガハナリノカミヲユフノヤマ》(一二四四)とあつて、髪を結ばない少女の風である。下にカミタクマデニとあるから、爾《ニ》は乃《ノ》の誤であらうと思はれる。○髪多久麻庭爾《カミタクマデニ》――多久《クク》は束ね結ぶこと。多氣婆奴禮《タケバヌレ》(一二三)參照。○虚木綿乃《ウツユフノ》――枕詞。この語の意は明らかでない。神武紀に「妍哉乎國之獲矣、雖2内木綿之眞〓國《ウツユフノマサキクニ》1猶如2蜻蛉之臀※[口+占]1」とあるのと、ここの用例と二つのみである。冠辭考には「まゆふの内の虚なるが如く眞|〓《セバ》き國なれど、其ありさま蜻蛉が尾をかへしてあるに似て、おもしろき國ぞとのた(144)まへるなり。…萬葉の意は…家にふかくこもりてのみ居を、まゆの内に蠶《コ》のこもりてあるに譬て冠らせたり。…右の虚《ウツ》ゆふは野蠶《ヤママユ》をいふ。…蠶を眉生《マユフ》といひつるなり。さて後にはまゆふのまを略きてゆふとも呼なりけり。後に穀《カヂ》の木の皮もて造るをもゆふといへるは、眉生の糸綿に似たればなり。…」とあるが、受取り難い説と思はれる。古義には、「此はいと心得がてなるを、強て考るに、虚木綿の木綿は、苧木綿《ヲユフ》の事にて、そはかの苧多卷《ヲダマキ》といひて、丸く内方《ウチヘ》を虚《ウツ》ろに卷たる、それを虚木綿といふならむか。もしさらば、内のうつろなるが隱《コモ》りかなるよしもて、うつ木綿のこもりとつづくならむ」といつてゐる。しばらくこれに從つて木綿を卷いた内の空虚なものをウツユフといつたとして置いう。○※[穴/牛]而座在者《コモリテマセバ》――※[穴/牛]は牢に同じで、籠に通ずるからコモリと訓む。コモリは人に逢はずに閉ぢ籠つてゐること。○悒憤時之《イブセムトキノ》――いぶせく思ふ時の。いぶせしは心の欝して平かでないこと。○垣廬成《カキホナス》――カキホは垣秀。垣は高いものであるから、秀を添へていふ。○人之誂時《ヒトノトフトキ》――誂は舊訓イトム、考にカガフとよんでゐるが、相誂良比《アヒトブラヒ》(一七四〇)にならつてトフと訓むことにする。その條參照。○智奴壯士《チヌヲトコ》――和泉國茅渟地方の男。○宇奈比壯士乃《ウナヒヲトコノ》――菟原地方の男で、この處女と同じ里の男である。○廬八燎《フセヤタキ》――枕詞。伏屋で火を焚けば、煤が垂れるから、すすとつづくのである。○須酒師競《ススシキホヒ》――ススシはスサブ・ススムなどと同一語で、先を爭つて競ふこと、鼓はキホフとよむのが古語である。舊訓・略解などに、テを添へてゐるのは不要。○相結婚《アヒヨバヒ》――舊訓アヒタハケとあるのを、代匠記にアヒヨバヒと改めたのがよい。ヨバヒは婚を求めて外より呼ばふこと。○燒大刀乃《ヤキダチノ》――火に入れてよく鍛へた太刀。○手預押禰利《タカミオシネリ》――タガミは劍の柄。古事記に「集2御刀之|手上《タガミ》1血」、神武紀に「撫剱撫剱、此云2都盧耆能多伽彌屠利辭魔屡1」とある。預の字はカミと訓むべくもない。類聚古集・西本願寺本など頴に作つてゐるに從ふべきである。これはカヒであるから、通音でカミとよむのであらう。或はタガミともタガヒともいつたものか。オシネリは押しひねり。○白檀弓《シラマユミ》――白木の眞弓。弓の塗つてないもの。○靱取負而《ユギトリオヒテ》――靱は矢を入れて背に負ふもの。○倭文手纒《シヅタマキ》――枕詞。賤しとつづくのは、シヅを賤しき意としたのであらう。六七二及び九〇三參照。○完串呂《シシクシロ》――枕詞。繁釧で、釧の玉の多いのは美《ヨ》いからよみにつづくとも、繁藥《シヽシクシロ》で、藥は酒、シシは芳醇の意ともいふが、管(145)見に、「鹿の肉を串刺にして燒たるもの也。呂は助詞。味のよきによりて、よみとはつづけたり」とあるのがよいであらう。○隱沼乃《コモリヌノ》――枕詞。下とつづく。草に蔽はれ水の見えない沼で、水が草の下になつてゐるからである。○下延置而《シタバヘオキテ》――シタバヘは、下に思ふ、即ち心の中に思ふこと。○菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》――伊は主語の下に附く助詞〕舊訓伊を次につづけて、ウナヒヲトコモイアフギテとしたのはよくない。○叫於良妣《サケビオラビ》――l於良妣《オラビ》は怒號すること。どなること。○※[足+昆]地《ツチニフシ》――※[足+昆]の字は普通の字書にはない。新撰宇鏡に「趾、士里反、上、足後也、跟※[足+昆]也、足乃宇良、又久比須」とある。跟と※[足+昆]と同字で、足のうら、くびすのことである。地の字、舊本、他に作るは誤。元暦校本その他古本に地に作るものが多い。清水濱臣は「地に※[足+昆]つくるはやがて足ずりすることなれば、義もてアシズリシとよむべし」といひ、木村正辭は訓義辨證に「タチヲドリとよむべくや」といつてゐる。しかし誤字説が多く、考は〓に作つてアシブミシ、略解或人説に蹉他の誤としてアシズリシ、古義は〓地の誤としてツチニフシとしてゐる。これらのいづれをよしとすべきか、判斷に苦しむところである。ここで猥りに推測を逞しうするのは、却つて正鵠を失する虞があるから、舊訓ツチニフシ(チツニフシとあるのは誤)とあるを尊重しようと思ふ。上にアメアフギとあるに對すれば、この訓が最も穩當のやうである。○牙契建怒而《キカミタケビテ》――キカミは齒噛みすること。タケビは古事記に男建《ヲタケビ》、書紀に雄誥《ヲタケビ》とあるタケビで、大聲に怒號すること。○知己男爾《モコロヲニ》――モコロは、卷二に玉藻之如許呂《タマモノモコロ》(一九六)とあるやうに、如くの意で、モコロヲは己の如くなる男、自分と同輩。然るに山田孝雄氏は、モコは仇敵の意であつたが、壻の義に轉じた、ここは本義で用ゐられ、男につづけたもので、ロは音を助けたに過ぎない。今の俗語にて言はば、「張り合ひてある男」と解するがよいといふ意見をアラ(146)ラギ第十四卷六號誌上で述べられたが、なほ考究すべき語であらう。○懸佩之《カキハキノ》――カキは接頭語。佩いてゐるところの意を、名詞的にカキハキといつたのである。舊本、文字通りにカケハキノとよんだのはよくない。○冬※[草がんむり/叙]蕷都良《トコロヅラ》――枕詞。トコロ芋の蔓で、その蔓を尋ねて薯を掘るから、尋去祁禮婆《トメユキケレバ》とつづくのである。一一三三參照。トメは尋ねること。○親族共《ヤカラドチ》――共の字、思共《オモフドチ》(一五九一・四二八四)・己之妻共《オノガツマドチ》(三〇九一)に傚つてドチとよむことにする。○射歸集《イユキツドヒ》――舊訓イヨリツドヒテとあるが、歸はユキとよむがよい。○新裳之如毛《ニヒモノゴトモ》――新裳は藍紙本・元暦校本などに喪に作つてゐるのがよい。新に人が死んだやうにの意。
〔評〕 これは前に出てゐた、田邊福麿歌集出の過葦屋處女墓時作歌に比すれば、記載が精細で、事件が委しく記されてゐる點に於て遙かに勝つてゐる。彼はただ懷古的に歌はれてゐるに對し、これは處女や壯士らの心境もよくあらはれてゐる。さうして同一系統でありながら、眞間娘子の方では娘子のみに就いて歌つてゐるのに、これは妻爭傳説の名の如く、二人の壯士が女を得むとして爭つてゐる闘爭的氣分、刃物三昧にも及びさうな猪突的態度がよく歌はれてゐる。この種の作としては蓋し傑出した佳作であらう。高橋蟲麿は、傳説歌人としては他人の追從を許さぬ立派な技倆の持主である。
 
反歌
 
1810 葦の屋の 菟原處女の 奥津城を 往き來と見れば ねのみし泣かゆ
 
葦屋之《アシノヤノ》 宇奈比處女之《ウナヒヲトメノ》 奥槨乎《オクツキヲ》 往來跡見者《ユキクトミレバ》 哭耳之所泣《ネノミシナカユ》
 
葦屋ノ宇奈比處女ノ基ヲ行キニモ歸リニモ往來ノ度ゴトニ〔七字傍線〕見ルト、私ハ昔ノコトガ思ヒ出サレテ〔私ハ〜傍線〕、聲ヲ出シテ泣イテバカリヰル。
 
○奥槨乎《オクツキヲ》――奥つ城を。奧つ城は墓。槨の字については四三一參照。○往來跡見者《ユキクトミレバ》――往くとて來るとて見れば。往來の度毎に見れば。○哭耳之所泣《ネノミシナカユ》――自然に聲を出して泣かずには居られない意。
(147)〔評〕 ただ感傷的にお定まりのきまり文句を並べたに過ぎない。さしたる歌ではない。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
1811 墓の上の 木の枝靡けり 聞くがごと 血沼壯士にし 依りにけらしも
 
墓上之《ツカノウヘノ》 木枝靡有《コノエナビケリ》 如聞《キクガゴト》 陳努壯士爾之《チヌヲトコニシ》 依倍家良信母《ヨリニケラシモ》
 
今來テ見ルトヨ菟原處女ノ〔今來〜傍線〕墓ノ上ニ植ヱタ〔三字傍線〕木ノ枝ガ、血沼壯士ノ墓ノ方ニ〔九字傍線〕靡イテヰルヨ。シテ見ルト、話ニ〔七字傍線〕聞イタ通リニ、コノ菟原處女ハ〔七字傍線〕血沼壯士ニ身ヲ〔二字傍線〕寄セル筈デアツタラシイナア。
 
○木枝靡有《コノエナビケリ》――木の枝が血沼壯士の墓の方へ靡いてゐるの意。卷十九の家持作の追和處女墓歌に奧墓乎此間定而後代之聞繼人毛伊也遠爾思努比爾勢餘等黄楊小櫛之賀左志家良之生而靡有《オクツキヲココトサダメテノチノヨノキキツグヒトモイヤトホニシヌビニセヨトツゲヲグシシカサシケラシオヒテナビケリ》(四二一一)・乎等女等之後能表跡黄楊小櫛生更生而靡家良思母《ヲトメラノノチノシルシトツゲヲグシオヒカハリオヒテナビキケラシモ》(四二一二)とあるによれば、この木の枝は黄楊である。○依倍家良信母《ヨリニケラシモ》――舊訓ヨルベケラシモとあり、從來多くこれに從つてゐるが、古義に倍を仁の誤として、ヨリニケラシモとよんでゐる。併し元暦校本・藍紙本その他の古本に、倍の字が無いのに從へば、同じくヨリニケラシモと訓むことが出來るから、さうしようと思ふ。尤も家を漢音でカとよんだとして、ヨルベカラシモとよめないこともない。家をカとよんだと思はれる例が數例あるが、それは我《カ》の誤とも考へられるので、遽かに定め難い。但し、ベケラシモの訓も古く、袖中抄に引いた歌もさうなつてゐる。元暦校本・藍紙本などはヨルベケラムモとある。
〔評〕菟原處女はひそかに血沼壯士に心を寄せてゐたことが、この反歌で明らかになつてゐる。さうして黄楊の枝がその方に靡いてゐるといふ叙景が、やさしい處女の戀を果し得ずして、情にほだされて自ら玉の緒を絶つた胸中を思つて、讀者をして斷腸の思ひあらしめる。卷十九の大伴家持の追和の作(四二一一)はこの歌に和したのであつて、この萬葉集の作品を基として、大和物語中の長篇・謠曲求塚などが出來てゐるが、それは處女塚傳説の後日譚とも言ふべきもので、黄泉の國に於ける二人の男のあさましい闘爭を描いてゐる。これが明治になつて森鴎外の手で一幕物戯曲「生田川」となつてゐる。文擧史上に影響するところ大なる作品である。
 
(148)右五首高橋連蟲麻呂之歌集中出
 
萬葉集卷第九終
 
卷第十
 
(149)萬葉集卷第十解説
 
この卷は春雜歌・春相聞・夏雜歌・夏相聞・秋雜歌・秋相聞・冬雜歌・冬相聞の八部に分れてゐる。この分類法は全く卷八と同樣であるが、かれは作者の明らかなものを輯めてゐるのに、これは盡くよみ人知らずの歌である。さうして全部が作者未詳なると、その内容が雜歌は詠物の歌であり、相聞は寄物の歌である點に於て全く卷七と同樣である。なほ稀に問答・譬喩歌・旋頭歌などの題目を設けたのも卷七と一致してゐる。要するにその形式・内容に於て卷七・卷八の兩卷の特色を兼ねてゐるものと言へる。季節の分類法が既に固定してゐたものがあつたことは、寄鹿の歌をその内容に拘はらず、秋の部に掲げてゐるので想像せられる。しかし雜の鳥であるべき鶴を秋に入れてゐるのは、後世の季節觀と幾分の相違があることを思はしめる。歌數は五百三十九首。その分量に於て他の卷よりも遙かに勝れてゐる。これを細別すると長歌三首・旋頭歌四首・短歌五百三十二首である。作者も不分明であり、從つて年代も明らかでないが、秋雜歌の部、七夕の歌の中に「此歌一首庚辰年作之」と註したものがあり、これが柿本朝臣人麿歌集出の歌であるから、庚辰は天武天皇九年と推定することが出來る。この他にも柿本朝臣人麿歌集から採つたものが尠くなく、又古歌集出の歌もあるが、まづこれらを年代の古いものとして、それ以後の作を輯録したものと考へられる。さうしてその内容と歌調との點から推して、天平初期のものが多いと斷定してよいと思ふ、民謠らしい作品も見えるが、百首に垂んとしてゐる七(150)夕の歌の如きは、乞巧奠席上の逸名の作であらうから、その他にさうした題詠の作も尠くないものとせねばならぬ。眞淵は「今の七と十との卷は歌もいささか古く集め、體も他と異にて、この二つの卷は姿等ければ、誰ぞ一人の集めなり」と言ひ、これを七の卷の前に置いて、第七位としてゐるが、卷七と同一人の手になつたものとすることも、亦これを卷七の上位に置くことも遽かに賛成し難いところで、寧ろ編纂の結構の點から見れば、卷八の編纂者と同一人が、卷七に次いで試みたものではないかとも思はれるのである。しかし卷八よりも、大躰に於て古い作が輯まつてゐるやうに見える。この卷の歌風は剛健古朴なものは殆どなく、素純又は優婉なものが多く、かなりに洗練せられてゐる。中世以後の歌集に多く引用せられてゐるのもその爲であらう。用字法は義訓・借訓を用ゐたものが多く、又|大王《テシ》・義之《テシ》・三伏一向《ツキ》・切木四之泣《カリガネ》の如き有名な戯書もある。
 
(151)萬葉集卷第十
 
春雜歌
 
雜歌七首     詠鳥二十四首
詠霞三首     詠柳八首
詠花二十首    詠月三首
詠雨一首     詠川一首
詠煙一首     野遊四首
歎舊二首     懽逢一首
旋頭歌二首    譬喩歌一首
春相聞
相聞七首     寄鳥二首
寄花九首     寄霜一首
寄霞六首     寄雨四首
〔152、153頁略〕
(154)寄草一首  寄花二十三首
寄山一首   寄黄葉三首
寄月三首   寄夜三首
寄衣一首   問答四首
譬喩歌一首  旋頭歌二首
冬雜歌
雜歌四首   詠雪九首
詠花五首   詠露一首
詠黄葉一首  詠月一首
冬相聞
相聞二首   寄露一首
寄霜一首   寄雪十二首
寄花一首   寄夜一首
 
(155)春雜歌
 
下の例によれば、ここに題がありさうであるが、これは脱ちたのではない、この七首は柿本人麻呂歌集に出てゐるのをそのまま採つたので、原本に題がなかつたから、ここにも附してないのである。目録に雜歌七首とあるのは、他と統一せしめる爲に後から附け加へたのである。下の秋相聞・冬雜歌・冬相聞の冒頭の數首も、皆これと同樣である。
 
1812 久方の 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも
 
久方之《ヒサカタノ》 天芳山《アメノカグヤマ》 此夕《コノユフベ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》 春立下《ハルタツラシモ》
 
(久方之)天ノ香具山ニコノ夕方、始メテ〔三字傍線〕霞ガ靡クヨ。アアイヨイヨ今日カラ〔十字傍線〕春ニナツタラシイヨ。
 
○天芳山《アメノカグヤマ》――天はアメと訓むがよい。芳の下、來の字が脱ちたのだと古義にあるが、香具山を香山と書いた例(二五九)(二四四九)にならつて、芳來山《カグヤマ》(二五七)の來を省いたものか。但し香はKangの音であるからカグとよめるが、芳はハウの音で、音の上からカグには用ゐられない。意味の上から用ゐたのである。
〔評〕 藤原京あたりに住む人の歌であらう。日毎に東の方に望まれる香具山であるが、今日は夕霞が薄く山を包んでゐるので、つくづく春の來たことを感じたのである。實に長閑な穩やかな初春らしい感じをあらはし得てゐる。第四句までに情景を述べ終つて、第五句に自己の推定を下したのは、歌を鮮明に力強くしてゐる。新古今に後鳥羽上皇の「ほのぼのと春こそ空に來にけらし天の香具山霞たなびく」とあるのは、これを本歌としたのであるが、殊更に空にと言つたのは春が空にのみ來て、地上には未だ至らぬことをあらはしたので、そこに新古今式技巧があるのであるが、この歌では、天地の區別を立てずに、ただありのままの叙景であり感想である。萬葉と新古今との別は、この二首の上に明らかになつてゐると思はれる。田安宗武の「うちなびく春來れるか久方の天の香具山霞そめたる」はこの歌の外形を學んだに過ぎない。
 
(156)1813 卷向の 檜原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ來めやも
 
卷向之《マキムクノ》 檜原丹立流《ヒバラニタテル》 春霞《ハルガスミ》 欝之思者《オホニシモハバ》 名積米八方《ナヅミコメヤモ》
 
(卷向之檜原丹立流春霞)アダヤオロカニ私ガアナタヲ〔六字傍線〕思ツテヰルナラバ、私ハコンナニ〔六字傍線〕苦シイ思ヒヲシテ尋ネテ〔三字傍線〕來マセウカ。決シテ尋ネテ參リマセヌ。タダアナタヲ心カラ思ヘバコソ、カウシテ參ルノデスゾ。オ察シ下サイ〔決シ〜傍線〕。
 
○卷向之檜原丹立流《マキムクノヒバラニタテル》――卷向の檜原の山。一〇九二參照。○春霞《ハルガスミ》――この句まではオホといはむ爲の序詞。○欝之思者《オホニシモハバ》――オホは霞のおほほしき意で上につづき、下はおろそかに、よい加減にの意になつてゐる。○名積米八方《ナヅミコメヤモ》――ナヅムは苦しみ惱むこと。古義、米は來の誤とある。
〔評〕 これは寄霞戀の歌である。春相聞に入るべきであるが、人麿歌集の歌であるから、一緒にここに收めたのである。しかし卷向の檜原あたりでの作であらう。
 
1814 古の 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は來ぬらし
 
古《イニシヘノ》 人之殖兼《ヒトノウヱケム》 杉枝《スギガエニ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》 春者來良之《ハルハキヌラシ》
 
古ノ人ガ植ヱタラウト思ハレル、アノ卷向山ノ老木ノ〔ト思〜傍線〕杉ノ枝ニ、霞ガ靡イテヰルヨ。イヨイヨ〔五字傍線〕春ガ來タラシイ。
 
○古人之殖兼《イニシヘノヒトノウヱケム》――古杉の梢を仰ぎ見て、これを植ゑた古人を想像したのであらう。略解に「古への人の植ゑけむとは只年經たるを言ふのみ」とあるが、この山に杉を植ゑることが、古來行はれたものであらう。
〔評〕 杉枝を杉群の誤とする説もあるが、杉が枝にして初めて、亭亭雲を突く老杉を思はしめる。老杉の枝にたなびいた霞はまるで土佐繪のやうである。この歌、前後の歌から推すと、やはり卷向山の景であらう。赤人集に以上の三首を入れてゐるが、人麿集に載せてあり、又人麿はこの山麓に住んでゐたのであるから、彼の作に相違あるまい。形式は右の卷頭の久方の歌に似てゐる。
 
1815 子等が手を 卷向山に 春されば 木の葉しぬぎて 霞たなびく
 
子等我手乎《コラガテヲ》 卷向山丹《マキムクヤマニ》 春去者《ハルサレバ》 木葉凌而《コノハシヌギテ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
 
(157)(子等我手乎)卷向山ニ春ガ來ルト木ノ葉ヲ押シ靡ケテ、一躰ニ深ク〔五字傍線〕霞ガ靡ウテヰル。ヒドイ霞ダナア〔七字傍線〕。
 
○子等我手乎《コラガテヲ》――枕詞。卷《マク》とつづくのは枕する意である。○木葉凌而《コノハシヌギテ》――シヌグは奧山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》(一〇一〇)宇陀乃野之秋芽子師弩藝鳴鹿毛《ウタノヌノアキハギシヌギナクシカモ》(一六〇九)とあるやうに、押し靡けること。霞が深く深く立ちこめてゐるので、その爲に木の葉がしなひなびくやうに見たのである。
〔評〕 子等我手乎《コラガテヲ》の枕詞は、卷七に兒等手乎卷向山者《コラガテヲマキムクヤマハ》(一〇九三・一二六八)の二例があつて、いづれも人麿歌集出のものであるから、この人の創作かも知れない。柔かい感じを與へる詞である。木葉凌而《コノハシヌギテ》の一句、深い霞の中に立並んだ山の木の實景を目前に浮ばしめる。
 
1816 玉かぎる 夕さり來れば さつ人の 弓月が嶽に 霞たなびく
 
玉蜻《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》 佐豆人之《サツヒトノ》 弓月我高荷《ユヅキガタケニ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
 
(玉蜻)夕方ニナルト、(佐豆人之)齋槻ケ岳ニ霞ガ棚引クヨ。ホントニナツカシイ眺メダ〔ヨホ〜傍線〕。
 
○玉蜻《タマカギル》――枕詞。夕とつづく。玉のかがやくやうな夕日の意。四五參照。○佐豆人之《サツヒトノ》――枕詞。サツは山幸、海幸などのサチと同語で、得物・獵のこと。サツヒトは即ち獵師で弓を持つてゐるから弓とつづく。○弓月我高荷《ユヅキガタケニ》――卷七の由槻高仁《ユヅキガタケニ》(一〇八七)參照。
〔評〕 夕方になれば弓月が獄に霞がたなびくといふだけで、内容も單純であるが、二つの枕詞を挿入して流麗な歌に作りあげられてゐる。
 
1817 今朝行きて 明日は來むといふ しかすがに 朝妻山に 霞たなびく
 
今朝去而《ケサユキテ》 明日者來牟等云《アスハコムトイフ》 子鹿丹《シカスガニ》 旦妻山丹《アサヅマヤマニ》 霞霏※[雨/微]《カスミタナビク》
 
(今朝去而明日者來牟等云子鹿丹)朝妻山ニハ霞ガアレアノ通リニ〔七字傍線〕棚引イテヰル。ホントニナツカシイ眺メダ〔ホン〜傍線〕。
 
○今朝去而明日者來牟等云子鹿丹《ケサユキテアスハコムトイフシカスガニ》――この三句は旦妻といふ爲の序詞と思はれるが、如何に訓むべきか明瞭でない。舊訓ケフユキテアスハコムトイフコカニとあるが、元暦校本はケサユキテアスコムトイフシカスガニと(158)ある。西本願寺本・細井本・温故堂本は舊訓の如く、神田本は元暦校本のやうである。その他、改訓抄はケサイニテ、代匠記精撰本はキナムトイフとし、略解もこれに同じく、古義はアスハコムチフとす、最も困雖なるは第三句で、云子鹿丹と見るか、云を第二句に入れて、子鹿丹の三字を第三句とするかによつて著しい差別を生ずる。古訓のシカスガニならば意は通ずるが、舊訓イフコカニでは全くわからない。古義は愛也子《ハシキヤシ》又は左丹頬歴《サニヅラフ》の誤とし、新考は子鹿を手去の誤とし丹を衍として、アスハキムトイヒテユクと訓んでゐる。又生田耕一氏は藝文第二十二年一號二號誌上に論じて、この歌の原形を寛永本によれば今朝去而明日者來年等云子等鹿名之旦妻山丹霞霏※[雨/微]となり、元暦本によれば、今朝去而明日來年等云子等庶名旦妻山丹霞霏※[雨/微]となり、共にこれを假名交りに書き改めると「今朝ゆきて明日は來ねといふ兒等が名の翻妻山に霞たなびく」となるといつてゐる。從來の諸説よりも丁寧な檢討を經てゐるだけによいところもあるが、必ずしも從ひ難い。一躰この歌は次の歌に對比して考へても、又第二句の歌ひ出しから見ても、第三句までは旦妻といふ爲の序詞でありさうに思はれるのであるが、第三句が不明瞭(159)な爲にさう解説し得ないのを遺憾とする。しばらく古訓によつて第三句をシカシガニとし、意は今朝立別れて去つても、明日は心ず來ようと約束をして來た。併し顧みれば妻の住む里近い旦妻山には霞がたなびいて、物あはれな、別れ難い景色であると、後朝の悲哀を叙したものと解して置かう。○旦妻山丹《アサヅマヤマニ》――旦妻山は大和國南葛城郡葛城村の地域内で、今大字朝妻が存してゐる。金剛山の前山である。姓氏録に弓月君に大倭朝津間腋上地を賜はつた由が見え、又大和諸蕃に朝妻連の名が見えるのはこの地であらう。なほ仁徳紀の御製に、「阿佐豆麼能避箇能鳥瑳箇烏《アサヅマノヒガノヲサカヲ》」とあるところで、天武紀に一九年九月癸酉朔辛巳、幸2于朝嬬1云々」とあるのも同所であらう。後世朝妻船を以て有名な近江坂田郡の朝妻ではない。第一册附録大和地圖參照。寫眞は御所の郊外から著者が撮影したもの。
〔評〕 訓が不明であるので何とも評し難いが、今朝去而明日者來牟等云《ケサユキテアスハコムトイフ》の句と旦妻との關係が、優艶な感を惹起せしめる。又朝妻山にたなびく霞も、その山の名からして、人をして瞑想に耽らしめるものがある。ともかく用語の上に一種の魅力を持つてゐる歌である。
 
1818 子等が名に かけのよろしき 朝妻の 片山ぎしに 霞たなびく
 
子等名丹《コラガナニ》 開之宜《カケノヨロシキ》 朝妻之《アサヅマノ》 片山木之爾《カタヤマギシニ》 霞多奈引《カスミタナビク》
 
(子等名丹開之宜)朝妻ノ片山ノ崖ニアンナニ〔四字傍線〕霞ガ棚引イチヰル。ヨイ景色ダナア〔七字傍線〕。
 
○子等名丹開之宜《コラガナニカケノヨロシキ》――序詞。朝妻に冠す。女の名にかけていふのもよい、朝妻とつづく。カケは口にかけて唱へること。開の字は元暦校本など關になつてゐるのがよい。○朝妻之《アサヅマノ》――朝妻は前の歌の旦妻山で、上のつづきは朝まで逢ふ妻。○片山木之爾《カタヤマギシニ》――片山は片側の山。平地に面した山。キシは崖。
〔評〕 序詞の用法も面白く、片山崖といふ語も清新な感じを與へ、柔婉味のある歌になつてゐる。
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
右の七首は柿本人麿集から取つたといふのである。これだけは題を設けずこの部の始に置いたのである、
 
(160)詠v鳥
 
1819 うちなびく 春立ちぬらし 吾が門の 柳のうれに 鶯鳴きつ
 
打霏《ウチナビク》 春立奴良之《ハルタチヌラシ》 吾門之《ワガカドノ》 柳乃宇禮爾《ヤナギノウレニ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都《ウグヒスナキツ》
 
(打霏)春ニナツタラシイ。何故カナラバ、アノヤウニ〔何故〜傍線〕私ノ家ノ門ノ柳ノ梢ニ鶯ガ鳴イタカラ〔二字傍線〕。
 
○打霏《ウチナビク》――枕詞。春とつづくのは草木が柔かく靡くからである。舊訓ウチナビキとあるのはいけない。霏は靡の誤と契沖が言つてゐる通りであらう。前の數首にこの字が用ゐられてゐるので誤つたものか。
〔評〕 柳條が緑に染まる頃、張るの使者のやうな鶯がおとづれて來る。今、この二者によつて春を知つたので、末句がツで結ばれてゐるのは少し堅い調子になつてゐるが、長閑な氣分の歌である。冬隱春去來之足比木乃山二文野二文※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《フユゴモリハルサリクラシアシビキノヤマニモヌニモウグヒスナクモ》(一八二四)と同型である。
 
1820 梅の花 咲ける岡べに 家をれば 乏しくもあらず 鶯の声
 
梅花《ウメノハナ》 開有崗邊爾《サケルヲカベニ》 家居者《イヘヲレバ》 乏毛不有《トモシクモアラズ》 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
 
梅(ノ)花ガ咲イテヰル岡ノホトリニ住ンデヰルト、鶯ノナク聲ガ、珍ラシクモナク澤山ニ聞エル。ホントニ此處ハ良イ所ダ〔澤山〜傍線〕。
 
○家居者《イヘヲレバ》――舊訓のイヘヰセバ、考のイヘシヲレバ、共に面白くない。卷十九に谷可多頭伎?家居有《タニカタツキテイヘヲレル》(四二〇七)とある。○乏毛不有《トモシクモアラズ》――古義にトモシクモアラヌとして下に續けたのはよくない。この乏しは少いこと。この句で切るべきである。
〔評〕 下の戀乍裳稻葉掻別家居者乏不有秋之暮風《コヒツツモイナバカキワケイヘヲレバトモシクモアラズアキノユフカゼ》(二二三〇)と同型の歌である。梅と鷺との關係が明らかに歌はれてゐる。古今集の讀人不知「野べちかく家ゐしをれば鶯の鳴くなるこゑはあさなあさな聞く」はこれから出た作であるまいか。
 
(161)1821 春霞 流るるなべに 青柳の 枝くひもちて 鶯鳴くも
 
春霞《ハルガスミ》 流共爾《ナガルルナベニ》 青柳之《アヲヤギノ》 枝喙持而《エダクヒモチテ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ウグヒスナクモ》
 
春霞ガ流レルヤウニ横ニ動イテ棚曳クト、ソレ〔ヤウ〜傍線〕ニツレテ、鶯ガ青柳ノ枝ヲ喙ヘナガラナクヨ。ホントニ美シイ景色ダナア〔ホン〜傍線〕。
 
○流共爾《ナガルルナベニ》――霞が靜かに流動してゐる樣がよくあらはれてゐる。共は古來諸訓があるが、略解に從つた。○枝喙持而《エダクヒモチテ》――枝を啣へて持つてといふ意である、これは眞に枝を口に啣へて鳴くのか、或は枝の垂れた中に鳴くのをかく言つたのか兩樣に考へられる。卷十六に池神力士※[人偏+舞]可母白鷺乃桙啄持而飛渡良武《イケガミノリキシマヒカモシラサギノホコクヒモチテトビワタルラム》(三八三一)ともあつて、詞としては鶯が枝を口に啣へて鳴くものと考へねばならない。源氏胡蝶にも「水鳥共のつがひをはなれず遊びつつほそき枝どもをくひてとびちがふ」とある。啄は元暦校本、喙とあるのがよい。
〔評〕 實に艶麗な歌で、さながら一幅の畫のやうである。そこでこれを正倉院御物中の紋樣の、花喰鳥などから思ひついたのであらうとする説も行はれてゐる。また第四句に疑を挾んで、新考には「枝をくはへては鳴かれず。技取持而の誤にて枝ニトマリテの意ならむ」とあるが、それは理窟である、さう考へては全く興味索然である。
 
1822 吾がせこを な巨勢の山の 喚子鳥 君喚びかへせ 夜のふけぬとに
 
吾瀬子乎《ワガセコヲ》 莫越山能《ナコセノヤマノ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 君喚變瀬《キミヨビカヘセ》 夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》
 
吾ガ夫ハ今此處ヲ立ツテ巨勢山ヲ越エテ歸ツテ行カレルガ〔吾ガ〜傍線〕、(吾瀬子乎莫)巨勢山ノ呼子鳥ヨ。ドウゾ巨勢山ヲ越サセナイデ〔ドウ〜傍線〕、私ノ夫ヲ夜ノ更ケナイウチニ呼ビ返ヘシテクレヨ。
 
○吾瀬子乎莫越山能《ヮガセコヲナコセノヤマノ》――吾瀬子乎莫《ワガセコヲナ》までは越《コセ》といはむ爲の序である。吾が背子よ越すなの意でつづいてゐる。コセ山は大和南葛城郡葛城村古瀬、今の吉野口停車場の邊。五四參照。○喚子鳥《ヨブコドリ》――閑古鳥。七〇・一二四一九參照。○夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》――刀爾《トニ》は集中、古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》(三七四七・三七四八)・左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》(四一六三)などの例もある。契沖は時にの略とし、宣長は古事記傳穴穗宮の條に、この語意を外に〔二字傍点〕と見て、「俗に内にといふは此方を内にし彼方を外にして云言、外にと云は被方を内にし此方を外にして云言にて意は同じ」といつてゐる。なほ刀《ト》は早く(162)といそぐ意だともいつてゐる。これらの内いづれをよしとも判じ難いが、時の意に解するが穩當のやうである。
〔評〕 序詞が歌の趣向全躰に深く關係してゐる。卷七の吾勢子乎乞許世山登《ワガセコヲイデコセヤマト》(一〇九七)と反對の意味になつてゐるのが面白い。莫越《ナコセ》を巨勢山にかけ、又喚子鳥から呼び返せと言ひ連ねたのがこの作の技巧である。
 
1823 朝ゐでに 來鳴く貌鳥 汝だにも 君に戀ふれや 時終へず鳴く
 
朝井代爾《アサヰデニ》 來鳴杲鳥《キナクカホドリ》 汝谷文《ナレダニモ》 君丹戀八《キミニコフレヤ》 時不終鳴《トキオヘズナク》
 
朝、川〔傍線〕ノ井手ニ來チ鳴ク貌鳥ヨ。私ガアノオ方ヲ戀シテヰルヤウニ〔私ガ〜傍線〕、オマヘマデモ、夫ヲ戀シク思フカラカ、オマヘハ〔四字傍線〕絶間モナク鳴イテキル。
 
○朝井代爾《アサヰデニ》――朝の井手に。ヰデはヰゼキと同じく、川などに水を堰き止めるやうに作つたもの。考には井は戸の誤としてアサトデニと訓んでゐるが、朝井代《アサヰデ》の方が遙かに面白い。○來鳴杲鳥《キナクカホドリ》――杲鳥はよくわからぬ鳥である。卷三(三七二)參照。○君丹戀八《キミニコフレヤ》――君は自分の夫をさし、杲鳥にはその夫をいふのであらう。○時不終鳴《トキオヘズナク》――時を終らずに鳴くといふので、止む時無くといふのであらう。
〔評〕 卷六の湯原爾鳴芦多頭者如吾妹爾戀哉時不定鳴《ユノハラニナクアシタヅハワガゴトクイモニコフレヤトキワカズナク》(九〇一)と似た形であり、又古今集の「あしびきの山ほととぎすわがごとや君にこひつついねがてにする」と意に於て相通ずるところがある。女らしい歌である。
 
1824 冬ごもり 春さり來らし あし引の 山にも野にも 鶯鳴くも
 
冬隱《フユゴモリ》 春去來之《ハルサリクラシ》 足比木乃《アシビキノ》 山二文野二文《ヤマニモヌニモ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《ウグヒスナクモ》
 
(冬隱)春ガ來タラシイ。(足比木乃)山ニモ野ニモ一タイニ〔四字傍線〕鶯ガ鳴イテヰルヨ。
 
〔評〕 春の使者としての鶯を取扱つたものとしてよく出來てゐる。山二文野二文《ヤマニモヌニモ》が彼方此方に鳴きしきる鶯の聲を思はしめる。春らしい感じがよく出てゐる。前の打霏《ウチナビク》(一八一九)の歌と似たところがある。
 
1825 紫の 根ばふ横野の 春野には 君をかけつつ 鶯鳴くも
 
紫之《ムラサキノ》 根延横野之《ネバフヨコヌノ》 春野庭《ハルヌニハ》 君乎懸管《キミヲカケツツ》 ※[(貝+貝)/鳥]名雲《ウグヒスナクモ》
 
(163)コノ〔二字傍線〕春ノ頃〔傍線〕、紫草《ムラサキ》ノ根ガ横ニ蔓ビコツテヰル横野トイフ所〔四字傍線〕デハマナタヲ心ニ〔二字傍線〕掛ケテヰルラシイ聲デ〔七字傍線〕、鶯ガ鳴イテヰルヨ。私ガアナタヲ思ツテヰルト、鶯マデモ同ジヤウニアナタヲ思ツテ鳴イテヰル〔私ガ〜傍線〕。
 
○紫之《ムラサキノ》――紫は紫草。二一參照。○根延横野之《ネバフヨコヌノ》――紫草は根を染料とするので根を主とするから、根延ふと言つたのである。横野は仁徳紀に「十三年冬十月築2横野堤1」とあり、延喜式神名帳に「河内國澁川郡横野神社」とある、今、中河内郡巽村大字|大地《オホチ》にこの神社がある。
〔評〕 横野に來て鶯の聲を聞き、その春景色に對して愛人をしのぶ時、鶯までも君を待つ如く聞きなされるのである。女らしい歌である。
 
1826 春されば 妻を求むと 鶯の 木ぬれを傳ひ 鳴きつつもとな
 
春之在者《ハルサレバ》 妻乎求等《ツマヲモトムト》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木末乎傳《コヌレヲツタヒ》 鳴乍本名《ナキツツモトナ》
 
春ニナルト妻ヲ捜ストテ、鶯ガ梢ヲツタツテ徒ラニ鳴イテヰル。私モ亦アノ聲ヲ聞クト妻ガ戀シクナツテ來ル〔私モ〜傍線〕。
 
○春之在者《ハルサレバ》――京大本に之の字がなく、舊本、在を去に作つてゐるのは誤であらう。元暦校本・類聚古集などによつて改めた。○鳴乍本名《ナキツツモトナ》――モトナナキツツの意。本名《モトナ》は徒らに、猥りになどの意。二三〇參照。
〔評〕 戀に悶えてゐる若人の歌らしい。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
1827 春日なる 羽易の山ゆ 佐保の内へ 鳴き行くなるは 誰喚子鳥
 
春日有《カスガナル》 羽買之山從《ハガヒノヤマユ》 猿帆之内敝《サホノウチヘ》 鳴往成者《ナキユクナルハ》 孰喚子鳥《タレヨブコドリ》
 
春日ニアル羽易ノ山カラ、佐保ノ里ノ〔二字傍線〕内ヘ、鳴キナガラ飛ンデ行クノハ呼子鳥ダガ、アレハ〔五字傍線〕誰ヲアンナニ〔四字傍線〕呼ンデ行クノカ知ラ。
 
○羽買之山從《ハガヒノヤマユ》――羽買の山は卷二に大鳥羽易乃山爾《オホトリノハガヒノヤマニ》(二一〇)とあり、それは衾道乎引手乃山爾《フスマヂヲヒキテノヤマニ》(二一二)とあるに一致するやうであるが、さうすると、ここに春日有羽買之山《カスガナルハガヒノヤマ》とあるのと合はなくなる。しかしここに春日とあるによれば、今の若草山とすべきであるやうである。○猿帆内弊《サホノウチヘ》――猿帆は佐保。猿はサルのルを略したもので、和名(164)抄に下總國猿島郡を佐之萬とよんでゐるの類であらう。内は佐保山のうちと古義にはあるが、佐保の里の内であらう。佐保乃内爾《サホノウチニ》(九四九)・沙穗内之《サホノウチノ》(二二二一)・佐保乃内從《サホノウチユ》(二六六七)・作保能宇知乃《サホノウチノ》(三九五七)など用例が多い。
〔評〕 春日と佐保とは同一とも考へられるやうな(九四九參照)近接したところである。作者はその一地點に立つて喚子鳥の鳴き行くを見聞してよんだものらしい。この歌は卷九の瀧上乃三船山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥《タギノウヘノミフネノヤマユアキヅツベニキナキワクルハタレヨブコドリ》(一七一三)と全く同型である。そのいづれが原歌なるかを知らない。
 
1828 答へぬに な喚びとよめそ 喚子鳥 佐保の山邊を 上り下りに
 
不答爾《コタヘヌニ》 勿喚動曾《ナヨビトヨメソ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 佐保乃山邊乎《サホノヤマベヲ》 上下二《ノボリクダリニ》
 
喚子鳥ヨ。イクラオマヘガ呼ンダトテ誰モ〔イク〜傍線〕答ヘル者モナイノニ、ソンナニ〔四字傍線〕佐保ノ山ノアタリヲ、上ツタリ下ツタリシナガラ喚ビ騷グナヨ。
 
○上下《ノボリクダリニ》――鳴きながら佐保の山に添うて、高く上り又低く下つて來るのであらう。新考に山ではふさはしくないといふので、山邊を川邊の誤としてゐるのは當らない。
〔評〕 契沖は「同じ作者の、上と二首にて意を云ひ盡せるなるべし」といつてゐるが、必ずしもさうは言ひ難い。佐保のうちへ鳴き行くと、佐保の山邊を上り下りすると、同じ喚子鳥とは思はれない。
 
1829 梓弓 春山近く 家居らし 繼ぎて聞くらむ 鶯のこゑ
 
梓弓《アヅサユミ》 春山近《ハルヤマチカク》 家居之《イヘヲラシ》 續而聞良牟《ツギテキクラム》 ※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》
 
(梓弓)春ノ頃ニ〔二字傍線〕山近クニ來テ〔三字傍線〕住ンデヲラレテ、アナタハ鶯ノ鳴ク聲ヲ絶エズ聞クコトデセウネ。
 
○家居之《イヘヲラシ》――舊訓イヘヰシテとあり、代匠記もこれを認めて之の下、?又は天の字脱とす。童蒙抄はイヘヰセバ、略解の宣長説は之は者の誤としてイヘヲレバとしてゐる。これは古今集に「野邊近く家居しせれば鶯の鳴くなるこゑはあさなあさな聞く」とあるのと同意の歌とする先入見から出たものと思はれる。(但し赤人集にこの歌を「やどりせば」として出してゐるから、これが古訓らしいが)併し文字通りに古義がイヘヲラシとよんだのが(165)一番正しいであらうから、それに從ふことにする。
〔評〕 從來山近く家居してゐる人の作と解せられてゐたが、第三句をイヘヲラシとすれば、山邊に住む人を思ひやつた作である。四の句、聞良牟《キクラム》とあるから自分自身ではない。新古今に赤人として「梓弓春山ちかく家居してたえずききつるうぐひすの聲」とあるのはこの歌を改めたものである。
 
1830 うち靡く 春さり來れば しぬのうれに 尾羽うちふりて 鶯鳴くも
 
打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》 小竹之米丹《シヌノウレニ》 屋羽打觸而《ヲハウチフリテ》 鶯鳴毛《ウグヒスナクモ》
 
(打靡)春ガ來ルト篠ノ末ニ、尾ダノ羽ダノガ觸レナガラ、鶯ガ鳴イテヰルヨ。
 
○打靡《ウチナビク》――枕詞。春とつづく。○小竹之米丹《シヌノウレニ》――舊訓シノノメニとあるによれば、夜明けのことであり、代匠記精撰本に米を末の誤とするによれば、ササノウレニ、又はシヌノウレニとよむべきである。元暦校本・類聚古集など末に作つてゐるから、さうして小竹はシヌとよむ例が多いから、シヌノウレニとよむがよい。○尾羽打觸而《ヲハウチフリテ》――尾と羽とが打觸れての意であらう。尾と羽とを打振つての意とするのは當るまい。
〔評〕 小竹之米丹尾羽打觸而《シヌノウレニヲハウチフリテ》がこの歌の重點である。竹の藪で、活々と小踊しながら歌つてゐる、鶯の動作が目に見えるやうである。
 
1831 朝霧に しぬぬにぬれて 喚子鳥 三船の山ゆ 鳴き渡る見ゆ
 
朝霧爾《アサギリニ》 之怒怒爾所沾而《シヌヌニヌレテ》 喚子鳥《ヨブコドリ》 三船山從《ミフネノヤマユ》 喧渡所見《ナキワタルミユ》
 
朝霧ニシトシトト霑レナガラ、呼子鳥ガ、三輸山カラ鳴イテ飛ンデ行クノガ見エル。
 
○之怒怒爾所沾而《シヌヌニヌレテ》――しとしとと濡れて。この下に聞津八跡君之問世流霍公鳥小竹野爾所沾而從此鳴綿流《キキツヤトキミガトハセルホトヽギスシヌヌニヌレテコユナキワタル》(一九七七)と同じやうである。怒の字、元暦校本は努、大矢本は奴に作つてゐる。
〔評〕 朝霧爾之怒怒爾所沾而《アサギリニシヌヌユヌレテ》がこの歌の重點である。吉野谿谷の朝霧の深さが思はれて、面白い歌である。
 
(166)1832 うち靡く 春さり來れば しかすがに 天雲きらひ 雪はふりつつ
 
打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》 然爲蟹《シカスガニ》 天雲霧相《アマグモキラヒ》 雪者零管《ユキハフリツツ》
 
(打靡)春ガ來タガ、ソレデモハヤリ、空ノ雲ガ一杯ニ〔三字傍線〕立込メテ雪ガ降ツテヰル。マアドウシタコトダラウ〔マア〜傍線〕。
 
○春去來者《ハルサリクレバ》――春が來たからでは意が通じない。契沖が「此集に者の字に、今の世とかはれる事有て心得がたし、此哥にては、春去くれどといはざればかなひがたし」といつた通り、春が來たけれどの意であらう。新考に者の字を衍として、ハルサリニケリとしてゐる。他の例によれば、シカスガニの上は切れるのが普通であるから、これも一説であるが、もとのままできこえるから改めるには及ばない。○天雲霧相《アマグモキラヒ》――略解にはアマグモキラフと訓み「天雲きらふは、空の霞むをいひて雪はふりながら、しかすがにかすめるといふ也」とあるのは誤つてゐる。空かき曇つて雪が降るのである。
〔評〕 單純な歌で上代人らしい作である。これ以下雪の歌であるからここに詠雪の題があつたのが、脱ちたであらう。神田本にはさうなつてゐる。和歌童蒙抄に採つてある。
 
1833 梅の花 ふりおほふ雪を つつみ持ち 君に見せむと 取ればけにつつ
 
梅花《ウメノハナ》 零覆雪乎《フリオホフユキヲ》 ※[果/衣]持《ツツミモチ》 君令見跡《キミニミセムト》 取者消管《トレバケニツツ》
 
梅ノ花ヲ覆ヒカブセテ降ル雪ヲ、包ンデ持ツテ行ツテ〔三字傍線〕、アナタニ見セヨウト思ツテ手ニ〔五字傍線〕取ツタラ消エテシマツタ。惜シイコトヲシタ。ドウカシテアナタニ見セテアゲタカツタノニ〔ドウ〜傍線〕。
 
○取者消管《トレバケニツツ》――舊訓トレバキエツツとあるのを、考にトレバケニツツと改めた。略解・新考などさうなつてゐる。ニにあたる文字はないけれども、ニ・ヌの類は添へてよむことが多く、それが古調である。古義及び新訓はこれをキミニミセムトトレバキエツツとよみながら、卷十一(二六八六)に於て古義は於公令視跡取者消管《キミニミセムトトレバケニツツ》とし、新訓は「君に見しむと取れば消につつ」としたのは、不統一の謗を免れまい。
〔評〕 可憐な作である。卷十一に夜占問吾袖爾置白露乎於公令視跡取者消管《ユフケトフワガソデニオクシラツユヲキミニミセムトトレバケニツツ》(二六八六)とあるので見ると、或はこれを風流化して、梅の雪の歌にしたのかも知れない。
 
1834 梅の花 咲き散り過ぎぬ しかすがに 白雪庭に ふりしきりつつ
 
(167)梅花《ウメノハナ》 咲落過奴《サキチリスギヌ》 然爲蟹《シカスガニ》 白雪庭爾《シラユキニハニ》 零重管《フリシキリツツ》
 
梅(ノ)花ハ咲イテ又散ツテシマツタ。併シナガラ白雪ハ庭ニ降リ頻ツテヰル。ドウシテカウイツマデモ雪ガ降ルノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○零重管《フリシキリツツ》――これは略解にフリシキニツツとあるよりも、古義にフリシキリツツとよんだのがよいやうである。雪が度重ねて降るといふのである。
〔評〕 春もやや景色整うて、梅は咲いて散つたのに、なほ冴え返つて雪の頻りに降ることを憾んだのである。前の歌と同じくツツで言ひをさめて輕く感情を持たせてゐる。
 
1835 今更に 雪ふらめやも かぎろひの 燃ゆる春べと なりにしものを
 
今更《イマサラニ》 雪零目八方《ユキフラメヤモ》 蜻火之《カギロヒノ》 燎留春部常《モユルハルベト》 成西物乎《ナリニシモノヲ》
 
陽炎ガ立ツ長閑ナ〔三字傍線〕春ニナツタノニ、今更又モ冬ニ立チ戻ツタヤウ〔又モ〜傍線〕ニ、雪ガ降ルトイフコトガアラウカ。ホントニドウシテコンナニ雪ガ降ルノダラウ〔ホン〜傍線〕。
 
○蜻火之《カギロヒノ》――カギロヒは陽炎。長閑な春の日などに、ちらちらと地上に立上る氣。
〔評〕 この歌、新古今集・和歌童蒙抄に出てゐる。雪の止まぬを怪しむ心がつよく言ひあらはされてゐる。
 
1836 風交り 雪はふりつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり
 
風交《カゼマジリ》 雪者零乍《ユキハフリツツ》 然爲蟹《シカスガニ》 霞田菜引《カスミタナビキ》 春去爾來《ハルサリニケリ》
 
風ニ交ツテ雪ガ降ツテヰル。マルデ冬ノヤウダ〔八字傍線〕。ダガシカシ、ソレデモ、爭ハレヌモノデ〔七字傍線〕霞ガ棚引イテ春ガヤツテ來タヨ。
 
○風交《カゼマジリ》――元暦校本・類聚古集・神田本にカゼマゼニとあり、新古今もさうなつてゐるから、これが古訓であらうが、卷五に風雜雨布流欲乃雨雜雪布流欲波《カゼマジリアメフルヨノアメマジリユキフルヨハ》(八九二)、卷八に風交雪者雖零《カゼマジリユキハフルトモ》(一四四五)とあるに從ひたい。
(168)〔評〕 これも新古今に出てゐる。時節の變遷の爭ひがたきをいふのである。
 
1837 山のまに 鶯鳴きて うちなびく 春と思へど 雪降りしきぬ
 
山際爾《ヤマノマニ》 ※[(貝+貝)/鳥]喧而《ウグヒスナキテ》 打靡《ウチナビク》 春跡雖念《ハルトオモヘド》 雪落布沼《ユキフリシキヌ》
 
山ノ中デハ鶯ガ鳴イテ、モハヤ〔三字傍線〕(打靡)春ニナツタ〔四字傍線〕トハ思フガ、ソレデモマダ冬ノヤウデ〔ソレ〜傍線〕、雪ガ降リシキツテヰル。寒イコトダナ〔六字傍線〕 。
 
○雪落布沼《ユキフリシキヌ》――雪が降つて地に敷くのではなく、雪が頻りに降るの意であらう。
〔評〕 谷の戸を出た鶯が、春を告げてゐるが、まだ雪が頻りに降つてゐるといふので、早春の情景である。結句の調が少し迫つてゐる。
 
1838 尾の上に ふりおける雪し 風のむた ここに散るらし 春にはあれども
 
峯上爾《ヲノウヘニ》 零置雪師《フリオケルユキシ》 風之共《カゼノムタ》 此間散良思《ココニチルラシ》 春者雖有《ハルニハアレドモ》
 
今ハ已ニ〔四字傍線〕春ニナツタノニ、雪ガ降ツテ來ルノハヨモヤ空カラ降ルノデアアルマイ、冬ノ内ニ〔雪ガ〜傍線〕山ノ上ニ降ツテ積ツテヰル雪ガ、風ノ吹クノニツレテ此處マデ飛ンデ〔三字傍線〕散ルモノト見エル。
 
〔評〕 左註によれば筑波山での作である、從つて峯上爾《ヲノウヘニ》とあるのは筑波山上のことである。作歌の場所を明らかにしたのはこの卷ではこの一首のみである。
 
右一首筑波山作
 
1839 君が爲 山田の澤に 惠具つむと 雪げの水に 裳の裾ぬれぬ
 
爲君《キミガタメ》 山田之澤《ヤマダノサハニ》 惠具採跡《ヱグツムト》 雪消之水爾《ユキゲノミヅニ》 裳裾所沾《モノスソヌレヌ》
 
私ハアナタニ上ゲヨウト思ツテ、山田ノ邊ノ〔二字傍線〕澤ニ惠具ヲ摘ムトテ、冷イ〔二字傍線〕雪解ケノ澤〔傍線〕水ニ裳ノ裾ヲ沾シマシタ。(169)ドウゾ私ノ親切ヲ汲ンデ下サイマシ〔ドウ〜傍線〕。
 
○惠具採跡《ヱグツムト》――惠具《ヱグ》は一に烏芋《クロクワヰ》ともいふ、莎草《カヤツリグサ》科の多年生草本。池沼の水中に生ずる。地中に塊莖を生じ、地上垂は高さ二三尺、草生し圓柱状をなしてゐる。無數の節を具へ莖には葉が無い。塊莖は食ふことが出來る。その味がゑぐいのでその名を得たらしい。この歌では芽生を摘んで食ふのであらう。卷十一にも足檜之山澤回具乎採將去日谷毛相爲母者責十方《アシビキノヤマサハヱグヲツミニユカムヒダニモアハセハハハセムトモ》(二七六〇)とある。
〔評〕 山田の澤で、身を切るやうな雪消の水に足を眞赤にして、惠具を採んでゐる里の少女の姿が偲ばれる。俚謠らしい歌。純情があらはれてゐる。卷七の君爲浮沼池菱採我染袖沾在哉《キミガタメウキノヌイケノヒシツムトワガシメシソデヌレニケルカモ》(一二四九)に似て、それよりも勝つてゐる。古今集の「君が爲春の野に出でて若菜つむ吾が衣手に雪はふりつつ」と關係があるか。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
1840 梅が枝に 鳴きてうつろふ 鶯の 羽根白妙に 沫雪ぞ降る
 
梅枝爾《ウメガエニ》 鳴而移徙《ナキテウツロフ》 鶯之《ウグヒスノ》 翼白妙爾《ハネシロタヘニ》 沫雪曾落《アハユキゾフル》
 
梅ノ枝デアチコチト〔五字傍線〕鳴イテ渡ツテアルク、鶯ノ翼モ眞白ニナルホド〔四字傍線〕雪ガ降ツテヰル。ホントニ面白イ景色ダ〔十字傍線〕。
 
○鳴而移徙《ナキテウツロフ》――鳴きながら枝から枝へと渡り行くこと。
〔評〕 丸で繪のやうだ。鶯之翼白妙爾《ウグヒスノハネシロタヘニ》が鮮明にくつきりと、目に浮ぶやうである。内容は違つてゐるが新古今集の「鶯のなけども未だ降る雪に杉の葉白き逢坂の山」が思ひ出される。
 
1841 山高み 降り來る雪を 梅の花 散りかも來ると おもひつるかも 一云、梅の花咲きかも散ると
 
山高三《ヤマタカミ》 零來雪乎《フリクルユキヲ》 梅花《ウメノハナ》 落鴨來跡《チリカモクルト》 念鶴鴨《オモヒツルカモ》
 
一云、梅花開香裳落跡《ウメノハナサキカモチルト》
 
(170)山ガ高イノデ、春ニナツテモマダ雪ガ降ルガ、私ハソノ〔春ニ〜傍線〕降ツテ來ル雪ヲ、梅ノ花ガ散ツテ來ルノデハナイカト思ツタヨ。
 
○一云、梅花開香裳落跡《ウメノハサキカモチルト》――これは第四句の異傳である。この方が勝つてゐるか。
〔評〕 早春の山に降る雪を梅の散るのと見誤つたといふので、雪を花と見、花を雪と見る詩想の型に、はめたもののやうである。
 
1842 雪をおきて 梅をな戀ひそ 足引の 山片つきて 家居せる君
 
除雪而《ユキヲオキテ》 梅莫戀《ウメヲナコヒソ》 足曳之《アシビキノ》 山片就而《ヤマカタツキテ》 家居爲流君《イヘヰセルキミ》
 
(足曳之)山ニ片寄ツテ住居ヲシテヰル貴方ヨ。アナタハ雪ヲテ梅ノヤウダトオツシヤルガ、ソノ美シイ〔アナ〜傍線〕雪ノ景色ヲ捨テ置イテ、梅ノ花ヲ戀シガツテハイケマセヌゾ。
 
○山片就而《ヤマカタツキテ》――山に片よりついて。山に接して意。卷六に不知魚取海片就而《イサナトリウミカタツキテ》(一〇六二)、卷十九に谷可多頭伎?《タニカタツキテ》(四二〇七)とめる。○家居爲流君《イヘヰセルキミ》――古義に流を衍として、イヘヲラスキミとしたのはよくない。
〔評〕 前の歌に對する答で、雪を梅と思つたといふに對し、愛すべき雪をさし置いて、梅を戀ふるなかれと戒めたのである。風流な問答である。
 
右二首問答
 
右の二首は二人の問答の體である。
 
詠v霞
 
1843 昨日こそ 年ははてしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり
 
昨日社《キノフコソ》 年者極之賀《トシハハテシカ》 春霞《ハルガスミ》 春日山爾《カスガノヤマニ》 速立爾來《ハヤタチニケリ》
 
昨日コソ年ガ暮レタバカリダ、ソレダノニ、春トイヘバ爭ハレヌモノデ、今日ハ〔ソレ〜傍線〕春霞ガ春日山ニ早クモ立チ渡(171)ツタヨ。
〔評〕 時節のたつのが速かなのに驚くと共に、春の來たのを歡ぶ氣分が見える。よい作だ。古今集の「咋日こそ早苗とりしかいつのまに稻葉そよぎて秋風の吹く」の前驅であらう。
 
1844 冬すぎて 春來るらし 朝日さす 春日の山に 霞たなびく
 
寒過《フユスギテ》 暖來良思《ハルキタルラシ》 朝烏指《アサヒサス》 滓鹿能山爾《カスガノヤマニ》 霞輕引《カスミタナビク》
 
冬ガ過ギテ春ガ來タラシイ。アレアノ通リ〔六字傍線〕朝日ガサシテヰル春日山ニハ、霞ガ棚引イテヰル。マダ冬ノ心地デヰタノニ早イモノダ〔マダ〜傍線〕。
 
○寒過《フユスギテ》――冬を寒と記し、次の句に春を暖としてゐるのは義訓である。○朝烏指《アサヒサス》――朝日を朝烏と書いてゐるが、烏は金烏の意である。
〔評〕 この卷頭の歌が天の香具山の霞をよんだのに對して、これは春日山の霞をよんでゐる。彼が藤原の都人の作なるに對して、これは奈良の都人の作であらう。歌は彼よりも劣つてゐる。この歌は寒・暖・朝烏・滓鹿・輕引など文字の用法に特殊性がある。
 
1845 鶯の 春になるらし 春日山 霞たなびく 夜目に見れども
 
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 春成良思《ハルニナルラシ》 春日山《カスガヤマ》 霞棚引《カスミタナビク》 夜目見侶《ヨメニミレドモ》
 
鶯ガ時ヲ得顔ニ鳴キ囀ル〔九字傍線〕春ニナツタラシイ。夜見テスラモヨク分ル程〔五字傍線〕、春日山ニ霞ガ棚引イテヰルヨ。
〔評〕 鶯の囀る春といふべきを略して鶯の春といつたのは思ひ切つた用例である。夜の霞を歌つたのは珍らしい。
 
詠v柳
 
1846 霜枯れし 冬の柳は 見る人の かづらにすべく ねばえけるかも
 
霜干《シモガレシ》 冬柳者《フユノヤナギハ》 見人之《ミルヒトノ》 蘰可爲《カヅラニスベク》 目生來鴨《メバエケルカモ》
 
(172)今マデ〔三字傍線〕霜枯レシテヰタ冬ノ柳ハ、ソレヲ〔三字傍線〕見ル人タチガ、折リ取ツテ〔五字傍線〕髪飾ニスルノニヨイヤウニ、美シク〔三字傍線〕芽ヲフキ出シタヨ。
 
○霜干《シモガレシ》――舊本、干を十に誤つてゐる。元暦校本その他の古本多く千に作つてゐる。○見人之《ミルヒトノ》――考に見を良の誤としてヨキヒトノ、古義は見の下、八の字を補つてミヤビトノとしてゐるが、いづれもよくない。見人《ミルヒト》は誰でもその柳を見る人がの意。○目生來鴨《メバエケルカモ》――從來の訓はモエニケルカモであるが、文字通りによんだ、新訓に從ふことにする。
〔評〕 これはしだり柳である。大宮人ののどかな遊びを思はしめる。
 
1847 淺緑 染めかけたりと 見るまでに 春の楊は 芽ばえけるかも
 
淺緑《アサミドリ》 染懸有跡《ソメカケタリト》 見左右二《ミルマデニ》 春楊者《ハルノヤナギハ》 目生來鴨《メバエケルカモ》
 
淺緑ニ糸〔二字傍線〕ヲ染メテ、掛ケ乾シ〔二字傍線〕テヰルノデハナイカト思ハレルホドニ、春ノ楊ガ青々ト〔三字傍線〕芽ヲフイタナア。アア美シイ〔五字傍線〕。
 
○淺緑染懸有跡《アサミドリソメカケタリト》――淺緑に糸を染めて懸けたりとの意。
〔評〕 ミルマデニを第三句に置いて上を譬喩とし、下に實物を説明してゐる歌はかなり多い。八四四・一一八二・一四二〇など參照。この歌の想を複雜ならしめると、古今集の「淺みどり糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か」となる。
 
1848 山のまに 雪はふりつつ しかすがに この河楊は 萠えにけるかも
 
山際爾《ヤマノマニ》 雪者零管《ユキハフリツツ》 然爲我二《シカスガニ》 此河楊波《コノカハヤギハ》 毛延爾家留可聞《モエニケルカモ》
 
山ノ中ニハ、マダ〔二字傍線〕雪ガ降ツテヰル。シカシソレデモ流石ニ、春ハ春デ〔四字傍線〕コノ河楊ハ芽ヲ出シタナア。
 
〔評〕 有りのままの叙景であるが、春淺い川邊の猫柳が可愛らしく想像せられる。但しかうした型の歌は外にもある。
 
(173)1849 山のまの 雪は消ざるを たぎち合ふ 川のやなぎは 芽ばえけるかも
 
山際之《ヤマノマノ》 雪者不消有乎《ユキハケザルヲ》 水飯合《タギチアフ》 川之副者《カハノヤナギハ》 目生來鴨《メバエケルカモ》
 
山中ノ雪ハマダ〔二字傍線〕消エナイノニ、水ガ〔二字傍線〕泡立チ流レル川ニ添ウテヰル〔六字傍線〕楊ハ芽ヲフイタナア。
 
○水飯合《タギチアフ》――飯の字は必ず誤であらう。考に激の誤としてミナギラフとよんでゐるが、古義にその訂正を認めて、タギチアフとよんだのに從はう。激の訓としては、その方がよいやうである。○川之副者《カハノヤナギハ》――この句は種種の訓があるが、古義に副を楊の誤としてカハノヤナギハとよんだのに從ふ。
〔評〕 誤字があるらしいが、これを右のやうに改めると、まことによい歌となる。山はまだ雪を戴いてゐる。併し川には雪消の水が泡立つて流れ、堤の楊は既に芽をふいてゐるといふ風景で、早春の好點描である。
 
1850 あさなさな 吾が見る柳 鶯の 來ゐて鳴くべく 森に早なれ
 
朝旦《アサナサナ》 吾見柳《ワガミルヤナギ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 來居而應鳴《キヰテナクベキ》 森爾早奈禮《モリニハヤナレ》
 
毎朝毎朝私ガ眺メルコノ屋敷〔四字傍線〕ノ柳ヨ。鶯ガ來テ宿ツテ鳴クヤウナ森ニ早ク茂ツテクレロヨ。
 
〔評〕 早春の頃、柳に對して、それが緑に茂つて鶯の宿りとならむことを希つたのである。森とは木の茂ることで、これを若木の柳と見る説はいけない。冬木のままの春淺い柳である。長閑な氣分のよい歌である。
 
1851 青柳の 糸のくはしさ 春風に 亂れぬいまに 見せむ子もがも
 
青柳之《アヲヤギノ》 絲乃細紗《イトノクハシサ》 春風爾《ハルカゼニ》 不亂伊間爾《ミダレヌイマニ》 令視子裳欲得《ミセムコモガモ》
 
コノ〔二字傍線〕青々トシタ柳ノ糸ノヤウナ枝ガ、細ク〔二字傍線〕美シイヨ。春風ノ爲〔二字傍線〕ニ吹キ〔二字傍線〕亂サレナイ間ニ、見セタイト思フガ〔四字傍線〕、女ガ此處ニ居レバヨイガ。春風ガ吹ケバコノ柳ノ糸モ亂レテシマフ。アア早クコノ情趣ヲ解スルアノ女ニ見セテヤリタイモノダ〔春風〜傍線〕。
 
○絲乃細紗《イトノクハシサ》――舊訓イトノホサヲとあるが古義の訓による。紗の字は紗眠友《サヌレドモ》(二五二〇)の例もあるから、サとよむべきである。クハシサは精しさの意。クハシは美しいこと。○不亂伊間爾《ミダレヌイマニ》――伊間《イマ》のイは添へていふのみ。(174)亂れない間にの意。卷七に花待伊間爾嘆鶴鴨《ハナマツイマニナゲキツルカモ》(一三五九)とある。
〔評〕 美しい柳の糸が春風に亂れることを思ひやつたのは、實にやさしいなつかしい情趣である。繊細な氣分が詞にも充ち滿ちてゐる。
 
1852 百敷の 大宮人の かづらける しだり柳は 見れどあかぬかも
 
百礒城《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 蘰有《カヅラケル》 垂柳者《シダリヤナギハ》 雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》
 
(百礒城)大宮人タチ〔二字傍線〕ガ、髪ノ飾ノ〔四字傍線〕※[草冠/縵]ニシテヰル垂柳ハ、イクラ〔三字傍線〕見テモ美シクテ見〔五字傍線〕飽キナイナア。
 
○※[草冠/縵]有《カヅラケル》――※[草冠/縵]にせるの意。カヅラクといふ動詞に助動詞リを添へた形である。カヅラクは菖蒲可都良久麻泥爾《アヤメグサカヅラクマデニ》(四一七五)・青柳乃保都枝與治等理可豆良久波《アヲヤギノホヅエヨヂトリカヅラクハ》(四二八九)などの用例がある。
〔評〕 しだり柳は元來吾が國にはないもので、外來種だといふことである。その渡來の年代は明らかでないが、奈良朝の頃には、かなり廣く植ゑられてゐたと見える。大宮人の優麗な風姿を客觀的に詠んでゐるが、作者も亦同じく宮廷生活中の一人である。
 
1853 梅の花 取り持ち見れば 吾がやどの 柳の眉し おもほゆるかも
 
梅花《ウメノハナ》 取持見者《トリモチミレバ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 柳乃眉師《ヤナギノマユシ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
梅ノ花ヲ旅ニ出テ手ニ〔七字傍線〕取リ持ツテ見ルト、私ノ家ノ柳ガ美シク〔四字傍線〕眉ノヤウニ萠エ出シタノ〔十字傍線〕ガ、遙カニ〔三字傍線〕思ヒヤラレテナツカシイヨ。
 
○柳乃眉師《ヤナギノマユシ》――柳乃眉は柳の芽である。美人の眉を柳眉といふのとは關係はない。代匠記初稿本に「わがやとの柳の眉は妻のかほよきをおして柳眉といへり」といつたのはよくない。古義にこれを否定しつつも「但し妻の美貌を思ひ出る意は言外にあるべし」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 旅にある人の歌で、梅の花を手折つてその芳香をなつかしむと共に、故郷の春色に思ひを走らせてゐるので、無理のないおだやかな情緒の歌である。
 
(175)詠v花
 
 
1854 鶯の 木伝ふ梅の うつろへば 櫻の花の 時片まけぬ
 
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木傳梅乃《コヅタフウメノ》 移者《ウツロヘバ》 櫻花之《サクラノハナノ》 時片設奴《トキカタマケヌ》
 
鶯ガ枝ヲ傳ツテ鳴ク〔二字傍線〕梅ノ花〔二字傍線〕ガ過ギテシマフト、今度ハ〔三字傍線〕櫻ノ花ノ咲ク〔二字傍線〕時節ガヤツテ來タ。櫻ノ花ノ頃トナルノハウレシイ〔櫻ノ〜傍線〕。
 
○時片設奴《トキカタマケヌ》――片設《カタマケ》は、卷二に春冬片設《ハルフユカタマケテ》(一九一)、卷五に波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》(八三八)などその他なほ數例あるが、片より設けての意として置いた。しかしその方に向ふ、その方に片よるの意とも解かれてゐる。ともかくこの歌では時が近づいた意とすればよい。
[評〕 鶯と梅との心を樂しましめたが、次で爛漫たる櫻花の時季が來る。三春の行樂は倦くことがないと、春の花を禮讃した辭である。
 
1855 桜ばな 時は過ぎねど 見る人の 戀の盛と 今し散るらむ
 
櫻花《サクラバナ》 時者雖不過《トキハスギネド》 見人之《ミルヒトノ》 戀盛常《コヒノサカリト》 今之將落《イマシチルラム》
 
櫻ノ花ハマダ盛ノ〔四字傍線〕時ガ過ギタノデハナイガ、眺メル人ガ戀シガツテ、賞美スル〔四字傍線〕盛ノ時ダ〔三字傍線〕ト思ツテ〔三字傍線〕、今アンナニ〔四字傍線〕散ルノデアラウ。意地ノワルイ花ダ〔八字傍線〕。
 
○戀盛常《コヒノサカリト》――コフルサカリとよむ説はよくない。
〔評〕 櫻の花が、人に惜しまれようと思つて、殊更に早く散るやうにいつたのである。しかし古今集の「いざ櫻われもちりなむ一盛ありなば人にうき目見えなむ」「なごりなく散るぞめでたき櫻花ありて世の中はてのうければ」のやうに、盛の後を悲觀したのではない。
 
1856 吾が挿しし 柳の糸を 吹き亂る 風にか妹が 梅の散るらむ
 
(176)我刺《ワガサシシ》 柳絲乎《ヤナギノイトヲ》 吹亂《フキミダル》 風爾加妹之《カゼニカイモガ》 梅乃散覽《ウメノチルラム》
 
私ガ庭ニ〔二字傍線〕刺シテ植ヱ〔三字傍線〕タ柳ノ枝ヲソヨ/\ト春風ガ〔八字傍線〕吹イテ亂シテヰルガ、コノ春〔四字傍線〕風デナツカシイアノ〔七字傍線〕女ノ家ノ〔二字傍線〕梅ノ花〔二字傍線〕モ散ルデアラウ。
 
○我刺《ワガサシシ》――吾が土に挿して植ゑた庭の柳といふのである。舊訓ワガカザスとあり、代匠記に我の下、頭の字が脱ちたのであらうと言つてゐるが、さうではあるまい。挿頭にするの意とする説は一寸面白いやうであるが、冠上の柳條としては、二三の句があまり大袈婆のやうである。
〔評〕 我が庭の刺柳が漸く緑に染めたのを見て、妹が家なる梅を想像したので、まことに優美な作である。
 
1857 年のはに 梅は咲けども うつせみの 世の人君し 春なかりけり
 
毎年《トシノハニ》 梅者開友《ウメハサケドモ》 空蝉之《ウツセミノ》 世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》 春無有來《ハルナカリケリ》
 
毎年毎年梅ハ長閑ニ〔三字傍線〕咲クガ、コノ忙シイ〔五字傍線〕(空蝉之)世ノ中ニ暮ラシテヰル〔八字傍線〕、人間ノアナタハイツモ〔三字傍線〕春ハアリマセンヨ。春デモ少シモ長閑ナ氣分ニナレマセンネ〔春デ〜傍線〕。
 
○毎年《トシノハニ》――毎年をトシノハニとよむべきは、卷十九に毎年謂2之|等之乃波《トシノハ》1(四一六八)とある。○空蝉之《ウツセミノ》――枕詞。世とつづく、二四參照。○世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》――君は吾の誤字だとする説が多い。然しさうなつてゐる異本もないやうであるから、君としておく。羊蹄をシと訓むのは和名抄に羊蹄葉を之布久佐一云之とあるやうに羊蹄《シ》といふ草の名である。今のギシギシのことだといふ。
〔評〕長閑な天平時代の生活にもこんな一面もあつたのである。百礒城之大宮人者暇有也ウメ乎挿頭而此間集有《モモシキノオホミヤビトハイトマアレヤウメヲカザシテココニツドヘル》(一八八三)に比すると、その對照が面白い。しかしこれを民衆の勞働生活を歌つたものと早合點してはいけない。
 
1858 うつたへに 鳥ははまねど しめ延へて もらまく欲しき 梅の花かも
 
打細爾《ウツタヘニ》 鳥者雖不喫《トリハハマネド》 繩延《シメハヘテ》 守卷欲寸《モラマクホシキ》 梅花鴨《ウメノハナカモ》
 
(177)少シモ鳥ハ來テ梅ノ花ヲ〔六字傍線〕ツイバマナイガ、俺ハドウシテモ氣ニナツテ〔俺ハ〜傍線〕、標繩ヲ引張リ廻シテコノ梅ノ花ノ番ヲシタイト思フヨ。
 
○打細爾《ウツタヘニ》――卷四に打細丹《ウツタヘニ》(五一七)とあつたのと同じく、ひとへに、全然などの意。
〔評〕 梅花の鳥についばまれるのを惜しむ心である、しかし、これは愛する女を梅に譬へた、寓意の歌らしく思はれる。
 
1859 おしなべて たかき山邊を 白妙に にほはせたるは 梅の花かも
 
馬並而《オシナベテ》 高山部乎《タカキヤマベヲ》 白妙丹《シロタヘニ》 令艶色有者《ニホハセタルハ》 梅花鴨《ウメノハナカモ》
 
一體ニ高イ山ヲ、眞白ニ色ドツタノハ梅ノ花ダラウカナア。多分サウデアラウ〔八字傍線〕。
 
○馬並而《オシナベテ》――舊訓、文字通りにウマナメテとよみ、代匠記は「馬に騎つれて行人を、かちなる人の見れば高く見ゆる故に、高きと云はむ爲の發句なるべし」とあるが、どうも無理のやうである。略解に「宣長も馬は忍《オシ》の誤ならむと言へり」とあるのに從はう。
〔評〕 梅の花の歌としては受取り難い。梅花は今日でも山を埋めて咲くといふほどにはなつてない。況んや當時外來の花として珍重してゐたのであるから、これは梅ではなく櫻の誤であらう。櫻の歌とすれば實景がよく歌はれてゐるやうに思はれる。
 
1860 花咲きて 實はならねども 長きけに 念ほゆるかも 山吹の花
 
花咲而《ハナサキテ》 實者不成登裳《ミハナラネドモ》 長氣《ナガキケニ》 所念鴨《オモホユルカモ》 山振之花《ヤマブキノハナ》
 
山吹ノ花ハ花ガ咲イテモ實ハナラナイモノダガ、私ハ實ノ成ルノヲ待ツテ〔私ハ〜傍線〕、長イ月日ノ間思ツテヰルヨ。アノ女ト約束バカリ出來テ逢フコトガ出來ナイガ、イツカハ逢ヘルヤウニ長イ間思ツテヰル〔アノ〜傍線〕。
 
○長氣《ナガキケニ》――長き日《ケ》にの意。代匠記に歎《ナゲキ》の意としたのは誤つてゐる。○山振之花《ヤマブキノハナ》――今の山吹である。已に卷二(178)(一五八)・卷八(一四三五・一四四四)などに出てゐる。
〔評〕 山吹に實がならぬといふ觀念が、已にここにあらはれてゐるのは注意すべきである。この歌、表面的に山吹の歌とのみ見るべきではない。その寓意を認めねばならぬ。
 
1861 能登川の 水底さへに てるまでに 三笠の山は 咲きにけるかも
 
能登河之《ノトガハノ》 水底并爾《ミナソコサヘニ》 光及爾《テルマデニ》 三笠乃山者《ミカサノヤマハ》 咲來鴨《サキニケルカモ》
 
能登川ノ水ノ底マデ光リカガヤクヤウニ、三笠山ニハ櫻ノ花ガ〔四字傍線〕咲イタワイ。三笠山ノ櫻ガ能登川ノ水ニ映ツテサテモ美シイ景色ダ〔三笠〜傍線〕。
 
○能登河之《ノトガハノ》――能登河は春日山から發して、高圓山と三笠山との間を流れてゐる小川。
〔評〕 三笠の山の櫻はといふべきを略してゐるのは、卷八の春山之開乃乎爲里爾春菜採妹之白紐見九四與四門《ハルヤマノサキノヲヲリニワカナツムイモガシラヒモミラクシヨシモ》(一四二一)と同じであるが、歌の内容・形式からは卷二十の伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆?流麻※[泥/土]爾在家流安之婢乃知良麻久乎思母《イソカゲノミユルイケミヅテルマデニサケルアシビノチラマクラシモ》(四五一三)と同型である。水邊の山の花の美しさ明るさがよく歌はれてゐる。
 
1862 雪見れば 未だ冬なり しかすがに 春霞立ち 梅は散りつつ
 
見雪者《ユキミレバ》 未冬有《イマダフユナリ》 然爲蟹《シカスガニ》 春霞立《ハルガスミタチ》 梅者散乍《ウメハチリツツ》
 
雪ノ降ルノ〔四字傍線〕ヲ見ルトマダ冬ノ景色〔三字傍線〕ダ。シカシナガラ流石ニ爭ハレヌモノデ〔流石〜傍線〕、春霞ガ立ツテ梅ノ花ハ散ツテヰル。
 
〔評〕 前の梅花咲落過奴然爲蟹白雪庭爾零重管《ウメノハナサキチリスギヌシカスガニシラユキニハニフリシキリツツ》(一八三四)を逆に言つただけで、内容にかはりはない。然しこの歌の雪は何處に降つてゐるのか、明らかにされてゐない。
 
1863 去年咲きし 久木今咲く 徒らに 土にやおちむ 見る人なしに
 
去年咲之《コゾサキシ》 久木今開《ヒサキイマサク》 徒《イタヅラニ》 土哉將墮《ツチニヤオチム》 見人名四二《ミルヒトナシニ》
 
去年咲イタ久木ガ今咲イタ。空シク見ル人モナクテ、土ニ落チテシマフデアラウカ、惜シイコトダ〔六字傍線〕。
 
(179)○久木今開《ヒサキイマサク》――久木を赤目柏としても、亦一説によつて梓(きささげ)としても、ひさかき〔四字傍点〕としても、いづれも花の美しいものではない。誤字説が多いのは尤もである。考は久を冬の誤かとし、又別に咲の下、之は左の誤、木は樂としてコゾサキシサクライマサクとし、又久を文としてコゾサキシウメハイマサクかとしてゐる。古義は久木を足氷の誤としてコゾサキシアシビイマサクとしてゐる。新考は咲を殖、久を若としコゾウヱシワカキイマサクと改めてゐる。いづれも賛同しがたい。しばらく久木として私意を加へないことにする。なほ久木について研究すべきであらう。
〔評〕 去年咲之《コゾサキシ》といつて見人名四二《ミルヒトナシニ》と受けてゐるのは、去年愛人と共にこの花を眺めた事實があつたのであらう。さして深くはないが、感傷的な氣分が籠つてゐる。
 
1864 足引の 山の間照らす 櫻花 この春雨に 散りゆかむかも
 
足日木之《アシビキノ》 山間照《ヤマノマテラス》 櫻花《サクラバナ》 是春雨爾《コノハルサメニ》 散去鴨《チリユカムカモ》
 
(足日木之)山ノ中ヲ照ラスヤウニ明ルク、盛ニ咲イテヰル〔ヤウ〜傍線〕櫻ノ花ハ、コノ春雨ニ散ツテシマフデアラウカナア。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○山間照《ヤマノマテラス》――古義にヤマカヒテラスとあるが、舊訓による。山間は山際に同じく、山の中をいふ。○散去鴨《チリユカムカモ》――考はチリニケンカモ、略解は散の上、將を補つてチリヌランカモ、古義は去の下、來の字脱として、チリニケルカモと訓んでゐるが、この文字のままならば、舊訓がよいやうである。
〔評〕 降る春雨に、散り行く山の花を想ひやつたのである。花にも紅葉にも、かうした内容の作はめづらしくはないが、この歌にはあはれが籠つてゐる。
 
1865 打ちなびく 春さり來らし 山の際の 遠き木ぬれの 咲き行く見れば
打靡《ウチナビク》 春避來之《ハルサリクラシ》 山際《ヤマノマノ》 最木末乃《トホキコヌレノ》 咲往見者《サキユクミレバ》
 
遠クハナレタ山ノ中ノ櫻ガ、段々ト〔三字傍線〕咲イテユクノヲ見レバ、イヨイヨ〔四字傍線〕(打靡)春ガ來タラシイ。
 
(180)○最木末乃《トホキコヌレノ》――最をトホキとよむのは、考の訓であるが、少し無理かと思はれる。しかし舊訓ヒサキノスヱノ、代匠記精撰本ホツキノウレノ、改訓抄イトモコズヱノなど、いづれも當れりとは思はれない。しばらく考による。訓義辨證には叢の誤としてシゲキコヌレ、又はシゲキガウレとよむべしといつてゐる。○咲往見者《サキユクミレバ》――考に舊訓を改めて、サキヌルミレバとしたのはよくない。段々と咲き行く意らしい。
〔評〕 これは卷八の打靡春來良之山際遠木末乃開往見者《ウチナビクハルキタルラシヤマノマノトホキコヌレノサキユクミレバ》(一四二二)と同歌と見るべきものである。
 
1866 きぎしなく 高圓のべに 櫻花 散りて流らふ 見む人もがも
 
春※[矢+鳥]鳴《キギシナク》 高圓邊丹《タカマドノベニ》 櫻花《サクラバナ》 散流歴《チリテナガラフ》 見人毛我裳《ミムヒトモガモ》
 
雉ガ鳴ク高圓山〔傍線〕ノアタリニ、櫻ノ花ガ空ヲ〔二字傍線〕流レルヤウニ飛ビ散ツ〔八字傍線〕テヰル。コノ景色チ誰カココヘ來テ〔コノ〜傍線〕見ル人ガアレバヨイガナア。惜シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○高圓邊爾《タカマドノベニ》――高圓の山邊か野邊か明らかでない。野とありさうなところである。○散流歴《チリテナガラフ》――舊訓チリナガラフルとあるが、古義に從ふ。この句で切れてゐるやうである。
〔評〕 雉鳴く野に散り亂れる櫻花を浴びて、立ちつくしてゐる景はまことに長閑な零圍氣である。よい作だ。
 
1867 阿保山の 櫻の花は 今日もかも 散り亂るらむ 見る人なしに
 
阿保山之《アホヤマノ》 佐宿木花者《サクラノハナハ》 今日毛鴨《ケフモカモ》 散亂《チリミダルラム》 見人無二《ミルヒトナシニ》
 
阿保山ノ櫻ノ花ハ今日ハ見ル人モナクテ、散リ亂レルコトデアラウカ。惜シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○阿保山之《アホヤマノ》――阿保山は佐保山の誤だらうと考にある。これは誰しも思ひつくところであるが、阿保といふ地名が山城にも伊賀にもあるから、そこかも知れない。又佐保村の不退寺の丘陵を阿保山といふと大日本地名辭書にある。果して然らばこれに從ふべきである。このあたりの歌は都近くの風景のみである。○位宿木花者《サクラノハナハ》――佐宿木はサクラとよむべき文字らしいが、この儘では無理である。おそらく誤字であらう。卷十三に作樂花とあるから、或は作樂を佐宿木に誤つたのか。その他種々の推測説はあるが、わづらはしいから省く。
(181)〔評〕 前の見人名四二《ミルヒトナシニ》(一八六三)と結句を同じうして、歌品も亦相似てゐるが、この方が寂寥味が多い。
 
1868 かはづなく 吉野の河の 瀧の上の 馬醉木の花ぞ 土に置くなゆめ
 
川津鳴《カハヅナク》 吉野河之《ヨシヌノカハノ》 瀧上乃《タギノウヘノ》 馬醉之花曾《アシビノハナゾ》 置末勿勤《ツチニオクユメ》
 
河鹿ガ面白ク〔三字傍線〕鳴ク、吉野川ノ瀧ノ上ニ咲イテヰル〔五字傍線〕馬醉木ノ花ハ、誠ニ綺麗ダ。イツマデモ〔十五字傍線〕決シテ土ノ上ニ落チ散ルナヨ。
 
○置末勿勤《ツチニオクナユメ》――舊訓オクニマモナキではわからないので、考は觸手勿勤《テフレソナユメ》、略解は同じくテナフレソユメとしてゐるが、略解に又「或人は末は土の誤にてつちにおくなゆめと訓べしと言へるよし言へり」とあるのがよいやうである。古義もこれと同説の大神眞潮説を可とし、且、四句の曾を者の誤とした宣長説を採つてアシビノハナハとしてゐる。これはゾに對する結がないからであらうが、下が禁止の意なる時は結辭は無くてもよいではあるまいか。新考にはゾをそのままとして「こは吉野川の瀧より折來たるあせみの花ぞゆめ直土《ヒタツチ》に置くな大切にせよといふ意とすべし」とあるが、それでは作者の地位も分明でなく、興趣に乏しい。
〔評〕 吉野の瀧の上に咲き誇つてゐる、馬醉木の花を見てよんだものらしい。結句がはつきりしないのは遺憾である。
 
1869 春雨に 爭ひかねて 吾がやどの 櫻の花は 咲きそめにけり
 
春雨爾《ハルサメニ》 相爭不勝而《アラソヒカネテ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 櫻花者《サクラノハナハ》 開始爾家里《サキソメニケリ》
 
早ク花ガ咲クヤウニト春雨ガ降ルノデ〔早ク〜傍線〕、春雨ニ抵抗出來ナイデ、私ノ屋敷ノ櫻ノ花ハ咲キ始メタヨ。
 
○相爭不勝而《アラソヒカネテ》――雨が花を咲かせようとしてゐるのに、反抗しかねての意。
〔評〕 暖い春の雨が降りそそぐのは、花をうながすやうだが、花を待つ心で見れば、花が殊更に抵抗して咲かぬやうに思はれるのである。これは花を待つ歌で、相爭不勝而《アラソヒカネテ》が一首の重點をなしてゐる。古義に「雨にはいたみやすければ、いな咲出じとあらそひたれど、春雨にあらそひ勝ことを得ずして櫻花は咲始にけり。いかで雨(182)にいたまずもがなあれかし。心がかりなることぞとなり」とあるのは從ひがたい。
 
1870 春雨は いたくな降りそ 櫻花 いまだ見なくに 散らまく惜しも
 
春雨者《ハルサメハ》 甚勿零《イタクナフリソ》 櫻花《サクラバナ》 未見爾《イマダミナクニ》 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
春雨ハヒドク降ルナヨ。私ハ〔二字傍線〕マダ櫻ノ花ヲ見ナイノニ、散ツテシマフノハ惜シイモノダヨ。
 
〔評〕 これは平語凡想で、さうですか歌の類である。
 
1871 春されば 散らまく惜しき 櫻花 しましは咲かず ふふみてもがも
 
春去者《ハルサレバ》 散卷惜《チラマクヲシキ》 櫻花《サクラバナ》 片時者不咲《シマシハサカズ》 含而毛欲得《フフミテモガモ》
 
春ニナルト咲イテスグ〔五字傍線〕散ツテツマフノガ惜シイ櫻ノ花ヨ、暫時ノ間ハ、咲カナイデ蕾ンデヰテクレヨ。
 
○櫻花《サクラバナ》――類聚古筆・神田本など古本多く梅に作つてゐる。しかし赤人集にこの歌を載せてサクラバナとあるから、それも古いのであらう。しばらく舊本に從ふ。
〔評〕 花の散るのを惜しむ心が痛烈に述べてある。類の尠い内容といつてよい。
 
1872 見渡せば 春日の野べに 霞立ち 咲きにほへるは 櫻花かも
 
見渡者《ミワタセバ》 春日之野邊爾《カスガノヌベニ》 霞立《カスミタチ》 開艶者《サキニホヘルハ》 櫻花鴨《サクラバナカモ》
 
見渡スト春日野アタリニ霞ガ立チコメテ、ソノ霞ノ中ニ〔六字傍線〕美シク咲イテヰルノハ、櫻ノ花カナア。アア美シイ景色ダ〔八字傍線〕。
 
〔評〕 意は明瞭である。霞の中の春の野の花がしのばれる長閑な歌である。
 
1873 いつしかも この夜の明けむ 鶯の 木傳ひ散らす 梅の花見む
 
何時鴨《イツシカモ》 此夜乃將明《コノヨノアケム》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 木傳落《コヅタヒチラス》 梅花將見《ウメノハナミム》
 
何時ニナツタラコノ夜ガ明ケルダラウカ。待チ遠イナア。私ハ〔八字傍線〕鶯ガ枝ヲ傳ツテ踏ミ〔二字傍線〕散ラス梅ノ花ノヨイ景色〔四字傍線〕(183)ヲナガメヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
〔評〕 梅花を思つて寢て、夜半に目覺めて、散る梅の美觀を眺めようといふのである。鶯の木傳ひ散らすは、前に鶯之木傳梅乃《ウグヒスノコツタフウメノ》(一八五四)とあるが、この歌の方が適切に用ゐられてゐる。
 
詠v月
 
1874 春霞 たなびく今日の 夕月夜 清く照るらむ 高松の野に
 
春霞《ハルガスミ》 田菜引今日之《タナビクケフノ》 暮三伏一向夜《ユフツクヨ》 不穢照良武《キヨクテルラム》 高松之野爾《タカマドノヌニ》
 
春霞ガ棚引イテヰル今日ノ夕月夜ハ、高圓ノ野デハ嘸カシ〔三字傍線〕面白ク照ルコトデアラウ。
 
○暮三伏一向夜《ユフツクヨ》――夕月夜で、三伏一向をツクとよんでゐる。この用字法は集中有名な戯書でこれに似たものに、卷十三に菅根之根毛一伏三向凝呂爾《スガノネノネモコロゴロニ》(三二八四)とある。なほ卷十二に梓弓末中一伏三起《アヅサユミスヱノナカゴロ》(二九八八)ともある。(但しこれは舊訓スヱナカタメテとあるが、宣長説に從ふ)。この三伏一向をツク、一伏三向又は一伏三起をコロとよむことについては、古來學者の頭をなやましたところであるが、かの折木四(九四八)・切木四(二一三一)をカリと訓むと同じく、當時行はれた博奕にもとづいてゐる。カリについては九四八に委しく説いて置いたが、四枚の木片を投じその表裏の出やうによつて勝負を決するのである。さてその木片の三筒伏し一箇仰いだのをツク、一箇伏して三箇仰いだのをコロと稱したので、右のやうな用字法が起つたものらしい。これについて狩谷掖齋の箋註倭名類聚抄に「皇國所v爲樗蒲、雖v不v能v得2其詳1、然其采蓋用2四木1、故萬葉集、折木四、切木四、並訓2加利1、借2樗蒲1爲v雁也、又三伏一向訓2都久1、一伏三向訓2古路1、一伏三起訓2多米1當d是所2擲得1之采名u」とある。美夫君志にも「遊仙窟に取2雙六局1來、共2少府公1賭《ウタム》v洒《サカヅクヲ》僕答曰、下官不v能v賭《ウツコト》v酒《サカヅク》共2娘子1賭v宿《ネヅクヲ》十娘問曰、若爲賭v宿《ネヅクヲ》云云とある旁訓のサカヅク、ネヅクのヅクはすべて贏輸《カチマケ》するわざを云ふ言なり。但し此はいと(184)古言にて古事記中卷に(中略)爲2宇禮豆玖《ウレヅク》1云爾とある豆玖《ヅク》是なり。記傳卷三十四に云、宇禮は慨《ウレタキ》の宇禮にて豆玖《ヅク》は今の世にいふ賭豆玖《カケヅク》なり」と述べて「かゝれば加利は梵語、都久《ツク》は皇國の詞、古呂《コロ》は漢語にてともに樗蒲の名なりけり」と言つてゐる。なほ十訓抄に、一伏三仰不來人待書暗雨降戀筒寢と書して「月夜には來ぬ人待たるかきくもり雨もふらなむ戀つつもねむ」と讀んだことが見えてゐる。これは集の例によれば、一伏三仰でなく、三伏一仰とあるべきを思ひ誤つたのであらう。なほ朝日新聞社編の「天平文化」に載せたる高楠順次郎氏の「天平時代を中心として印度と日本との關係」と題した論文中に、次のやうに述べてゐる。重複する點もあるが、參考の爲記して置かう。「次は博奕であるが、これは天平時代には盛んに行はれた。印度は全體博奕の國でマハーバラタの大戰争も元は博奕から起つたのである。國王が自分の財産を賭け、敗れ敗れて遂に王妃まで賭けて、それまで取られんとして、僅かに救はれて隱退し、配所の月を眺めると云ふのが起因である。印度の博奕は大抵「さいころ」で行はれる。この「さいころ」も元は印度である。印度では一點、二點、三點、四點の骰子を用ひる。最も惡い點をカリ、二點がドワーパラ、三點がトレター、四點がクリタと云ふ。時代でいふとクリタの四點が、四足揃つた完全な時代で黄金時代である。ドワーパラは第二で白銀時代、第三がトレターで赤銅時代、第四がカリで黒鐡の時代である。博奕の骰子は昔は天目珠(ルドラアクシヤ又はヴイビータカ)の實を用ひて居つた。博奕を波羅塞戯と名附ける。その塞の字をとつて塞の目といふ。印度の名の略である。骰子に畫を描いたから後には「采」の字をも用ひる。骰子が正しい名であるが、骰子と書き乍ら「さい」と讀むのは、梵名が主であつたことが窺はれるのである。萬葉時代ではカリと名付げた。「折木四」と書いてある。木片四つを骰子として用ひたからである。最惡點のことをカリといふのであるが、同時に總名にも用ひられてから、この博奕の名になつたのであらう。これは日本式になつてなか/\巧みに作られてゐる。二つの采を用ひる場合もある。雙六はそれである。一つの四面に點を現すといふのは餘り無味であるから、それを繪で顯はす。一面に牛兒が書いてある。牛兒は四足であるから、四點を意味する。他の采の一面には雉子が書いてある。雉子は二足であるから、二點を意味する。二點の裏が白いなれば一點を意味する。四點の裏が白いなれば三點を意味する。この二をを投げてその點を爭ふのである。それを萬葉集には「折木四」と書いてある。折つた木の(185)四つで折木四といふ名がついた。それに假名をつけて「カリ」と讀ましめてある。「カリ」は印度名である。それを振る時に「出ろ」といふ掛聲で振る。その代りに「コロ」といふのである。それからして「サイコロ」といふ。その「コロ」といふのはこれも梵語で「クル」「成就せよ」「成れよ」といふことである。「サイコロ」の「サイ」も「コロ」も又總名の「カリ」も皆印度語であります。賭けることを「ヅク」といふ。今でも「賭ヅク」といふことをやる。負けたものは酒を呑む約束を「酒ヅク」といふ。負けたものは打れるのを「打ヅク」といふ。それから「ヨネヅク」といふのは米をかけるのであるといふ解樺もあるが、さうではない。それは又「ネヅク」ともいふ。即ち「寢ヅク」「夜寢ヅク」である。その夜寢ることを賭けることである。この「ヅク」は印度語であるかどうか判らない。それから負けの方を「タメ」といふ。それを今でも「ダメ」だといふ。これは「矯めらる」の義だと解せられて居るが、如何のものにや。」○高松之野爾《クカマドノヌニ》――高松は高圓であらう。タカマトにタカマツの文字を用ゐたのは、卷向を卷目、三室を三諸と書いてあるのと同じであらう。多分その發音が、トともツとも、聞えるやうな、中間音であつたのであらう。
〔評〕 これは霞の棚引いてゐる夕暮に、高圓の野の夕月を思つたのである。新考に「歌よみしは晝の程にて夜の樣を豫想せしなれば、テラムとはいふべくテルラムとはいふべからず。されば良を奈の語としてキヨクテリナムとよむべし」とあるのは誤解であらう。古義に「歌の意は霞の立たなびきたる夕べの月なれば朦朧なるを、打晴れたる高圓の野の高き地は、物にさへらるることなければ、なほかかる夕べも、よく明かに照らむと想ひやれるなるべし」とあるのも、地形を知らぬに基づく誤であり、奈良の京などに住む人が、高圓の野の月夜の佳景を偲んだのにすぎない。不穢《キヨク》は景色のよいことで、必ずしも澄み渡つた月をいふのではない。
 
1875 春されば 樹の木の暗の 夕月夜 おぼつかなしも 山蔭にして 一云 春されば 木がくれおほき ゆふづく夜
 
春去者《ハルサレバ》 紀之許能暮之《キノコノクレノ》 夕月夜《ユフヅクヨ》 欝束無裳《オボツカナシモ》 山陰爾指天《ヤマカゲニシテ》
 
一云、春去者《ハルサレバ》 木陰多《コガクレオホキ》 暮月夜《ユフヅクヨ》
 
春ニナルト、木ノ茂ツタ木下暗ノ夕方ノ月夜ハ、山陰ノコトダカラ薄暗イヨ。
 
(186)○紀之許能暮之《キノコノクレノ》――樹の木の暗の。コノクレは木の茂つて暗いこと。○欝束無裳《オボツカナシモ》――オボツカナシは不明瞭なこと。ここは月の光の薄暗いのをいふ。○一云、春去者木陰多暮月夜《ハルサレバコガクレオホキユフヅクヨ》――第二句の異傳であるが、この方が寧ろ穩やかである。
〔評〕 紀之許能暮《キノコノクレ》は、意は通ずるが言葉が穩やかでない。山陰爾指天《ヤマカゲニサシテ》は卷三湯原王の芳野作歌の鴨曾鳴成山影爾之?《カモゾナクナルヤマカゲニシテ》(三七五)と同じで、柔※[車+(而/大)]な歌調をなしてゐる。
 
1876 朝霞 春日のくれは 木の間より うつろふ月を いつとか待たむ
 
朝霞《アサガスミ》 春日之晩者《ハルヒノクレハ》 從木間《コノマヨリ》 移歴月乎《ウツロフツキヲ》 何時可將待《イツトカマタム》
 
朝霞ガ立ツテ〔四字傍線〕春ノ日ノ日影〔三字傍線〕モ暗イ時ニ〔三字傍線〕ハ、コノ霞ノ中ニ照ル月ノ景色ガ、ドンナニカヨカラウト想像セラレテ〔コノ〜傍線〕、木ノ間ヲ移リ傳ツテ行ク月影〔傍線〕ヲ、何時出ル〔二字傍線〕カト晝ノウチカラ〔六字傍線〕待遠ク思ハレル。
 
○朝霞《アサガスミ》――朝霞は代匠記初稿本に「朝霞のたつ春の日といへるか。春霞のはるるとつづくるこころか」とあり、枕詞と見てゐるやうである。これを枕詞とするのが最も都合がよいが、語のつづきが少し無理のやうである。新考には霞立と改めて枕詞としてゐる。○春日之晩者《ハルヒノクレハ》――この句も異論が多い。代匠記・考・古義・新訓など春日の暮ればとし、略解・新考などは春日の暮はとしてゐる。なほ古義には朝霞を枕詞として、春日をカスガとよむのではないかとも疑つてゐる。これらの諸説のうち、朝霞をこの儘とする時は略解の訓がよく、解は同書に「宣長云一二の句は春日の朝の霞みてくらきを云、くれの詞はこのくれなといふに同じ、さて其朝霞のくらき時分はといふ意也。朝霞のくらき時分より夜までのまち久しきよし也といへり」とあるのに從はう。○從木間移歴月乎《コノマヨリウツロフツキヲ》――木の間を移り動いて行く月をの意。卷二の自雲間渡相月乃《クモマヨリワタラフツキノ》(一三五)と似た叙法である。
〔評〕 少しく意味が明瞭を缺くのは遺憾である。この詠月の歌は、三首とも夕月をよんでゐるのは、注意すべきである。
 
(187)詠v雨
 
1877 春の雨に ありけるものを 立ち隱り 妹が家路に この日くらしつ
 
春之雨爾《ハルノアメニ》 有來物乎《アリケルモノヲ》 立隱《タチカクリ》 妹之家道爾《イモガイヘヂニ》 此日晩都《コノヒクラシツ》
 
コノ降ル雨ハ〔六字傍線〕春ノ雨デ、降リ出シタラナカナカ止マヌモノデ〔降リ〜傍線〕ルノニ、雨宿リヲシテ、女ノ家ヘ行ク途中デ今日一日暮レテシマツタ。
 
○立隱《タチカクリ》――途中に雨やどりをしたことをいふ。
〔評〕 春雨の晴れまないことを恨んでゐる。初句が少し意を盡さぬやうである。代匠記には「春の雨に有けるものとは、はかばかしくもふらぬを雨やとりしてくらせしとなり」とあるのはどうであらう。
 
詠v河
 
1878 今ゆきて 聞くものにもが 明日香川 春雨ふりて たぎつ瀬の音を
 
今往而《イマユキテ》 ※[米/耳]聞物爾毛我《キクモノニモガ》 明日香川《アスカガハ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 瀧津湍音乎《タギツセノトヲ》
 
春雨ガ降ツテ、明日香川ノ水〔二字傍線〕ガ泡立チ流レテヰル瀬ノ音ヲ、今コレカラ〔四字傍線〕行ツテ聞キタイモノダ。サゾ面白イ音デアラウガ、今聞キニ行ク譯ニモ行カナイデ殘念ダ〔サゾ〜傍線〕。
 
○※[米/耳]物爾毛我《キクモノニモガ》――※[米/耳]は類聚古集・神田本なと聞に作つてゐる。※[米/耳]は聞の異體である。
〔評〕 春雨の頃、故郷の飛鳥川を偲んだので、素純な上品な作である。
 
詠v煙
 
(188)1879 春日野に 煙立つ見ゆ をとめらし 春野のうはぎ つみて煮らしも
 
春日野爾《カスガヌニ》 煙立所見《ケブリタツミユ》 ※[女+感]嬬等四《ヲトメラシ》 春野之菟芽子《ハルヌノウハギ》 採而※[者/火]良思文《ツミテニラシモ》
 
春日野ニアンナニ〔四字傍線〕煙ガ立ツノガ見エル。少女ラガ春ノ野ノ嫁菜ヲ摘ンデ煮ルラシイヨ。
 
○春野之菟芽子《ハルヌノウハギ》――は卷二に野上乃宇波疑《ヌノヘノウハギ》(二二一)とあるのに同じく、嫁菜のこと。和名抄に薺蒿、七卷食經云、薺蒿菜、一名莪萬於波岐とあるものである。
〔評〕 うららかな日である。奈良の都から眺めると、東の方に廣く小高く展開してゐる春日野に當つて.薄い烟が細く眞直ぐに立ち上つてゐる。少女らが摘んだ嫁菜をすぐ煮て飯事《ママゴト》のやうな晝餉をとつてゐるのであらう。鰻※[(日+句)/れっか]々たる陽光、ただこれ太平和樂の春である。長閑な歌だ。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
野遊
 
1880 春日野の 淺茅が上に 思ふどち 遊べる今日は 忘らえめやも
 
春日野之《カスガヌノ》 浅茅之上爾《アサヂガウヘニ》 念共《オモフドチ》 遊今日《アソベルケフハ》 忘目八方《ワスラエメヤモ》
 
春日野ノマバラニハエタ茅ノ上デ、心ノ合ツタ友達同志ガ、遊ブ今日ノ面白サ〔四字傍線〕ハ忘レルコトガ出來ヨウカ。イツマデモ忘レルコトハ出來マイ〔イツ〜傍線〕。
 
○遊今日《アソベルケフハ》――舊訓アソブケフヲバ、古義はアソブコノヒノとあるが、略解に從ふ。
〔評〕 春日野で茅花を拔いて遊んだ歌であらう。淺茅といふと荒れた草原を思はしめて、後世の歌に馴れたものには.寧ろ秋らしい感を與へる。ことにこの歌には.他に春の李を示すものがないから一層さう思はれる。
 
1881 春霞 立つ春日野を ゆきかへり 我は相見む いや年のはに
 
春霞《ハルガスミ》 立春日野乎《タツカスガヌヲ》 往還《ユキカヘリ》 吾者相見《ワレハアヒミム》 彌年之黄土《イヤトシノハニ》
 
春霞ノ立ツ春日野ノオモシロイ景色〔八字傍線〕ヲ、往ツタリ來タリシテ私ハ、毎年毎年ツヅケテ友達ト〔三字傍線〕共ニ見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
(189)○往還《ユキカヘリ》――往くとて還るとての意であるが、ここは春日野を往きつ還りつすることであらう。○吾者相見《ワレハアヒミム》――略解に「相見むは友に相見む也」とあり、古義に「相見《アヒミム》は思ふ友人共と共に見むとなり」とある通りであらう。新考には「春日野ヲアヒ見ムといへるなり」といつてゐる。
〔評〕 野遊の意が、三十一文字に述べられてゐるといふまでである。
 
1882 春の野に 心のべむと 思ふどち 來りし今日は くれずもあらぬか
 
春野爾《ハルノヌニ》 意將述跡《ココロノベムト》 念共《オモフドチ》 來之今日者《キタリシケフハ》 不晩毛荒粳《クレズモアラヌカ》
 
春ノ野デ憂サバラシヲシテ遊バウ〔四字傍線〕ト思ツテ〔三字傍線〕、心ノ合ツタ友達同志.遊ビニ〔三字傍線〕來タ今日ハ、日ガ暮レナイデクレレバヨイ。アマリ面白クテ日ノ暮レルノハ惜シイ〔アマ〜傍線〕。
 
○意將述跡《ココロノベムト》――舊訓ココロヤラムトとあるが、代匠記精撰本にノベムトとしたのがよい。述を遣の誤とする略解説はどうであらう。心のべむとは、心をはらさむとての意。○不晩毛荒糠《クレズモアラヌカ》――暮れずもあれよの意。卷四に人毛無國母有糠《ヒトモナキクニモアラヌカ》(七二八)とある。
〔評〕 長い春の日も、なほ飽くことを知らぬ野邊の遊が歌はれてゐるが、興趣が深くなくて、すぐれた歌とは言ひがたい。
 
1883 百敷の 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここにつどへる
 
百礒城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 暇有也《イトマアレヤ》 梅乎挿頭而《ウメヲカザシテ》 此間集有《ココニツドヘル》
 
(百礒城之)御所ニ仕ヘテヰル人ダチハ、暇ガアルカラカ、梅ヲ冠ニ〔二字傍線〕カザシテ、此處ニ集マツテヰル。
 
○百礒城之《モモシキノ》――枕詞。大宮につづく。二九參照。○暇有也《イトマアレヤ》――暇あればやの意であらう。即ちこのヤは疑問の助詞で、下のツドヘルの係辭となつてゐるのである。○此間集有《ココニツドヘル》――舊訓ツドヘリとあるが、略解による。
〔評〕 大宮人が梅花を挿頭として、野遊をなしてゐるのを詠じたものである。作者自からもその集團中の一人で(190)あらう。庶民が大宮人を、有閑階級として羨んだものと、早合點してはいけない。そんな階級意識は微塵もない。長閑な作である。新古今にこの歌の下句を「櫻かざして今日もくらしつ」と改め、山部赤人作としてゐるのは、赤人集によつて更に大膽な改作を試みたものである。
 
歎(ク)v舊(リニシヲ)
 
1884 冬すぎて 春し來れば 年月は 新なれども 人はふりゆく
 
寒過《フユスギテ》 暖來者《ハルシキタレバ》 年月者《トシツキハ》 雖新有《アラタナレドモ》 人者舊去《ヒトハフリユク》
 
冬ガ過ギテ春ガ來ルト、年月ハ新ニナルケレドモ、人ハ年ヲトツテ行ク。年月ハ新ニナルノニ、人バカリハ、古クナツテ行クノハ悲シイコトダ〔年月〜傍線〕。
 
○雖新有《アラタナレドモ》――舊訓アラタマレドモとあるが、文字通りにアラタナレドモと訓むべきであらう。
〔評〕 古今集の「百千鳥さへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふりゆく」はこれと同意で、第二句が平安朝式に優美になつてゐる。いづれも、老人らしい述懷である。この歌は和歌童蒙抄にある。
 
1885 物皆は 新しきよし ただ人は ふりぬるのみし よろしかるべし
 
物皆者《モノミナハ》 新吉《アタラシキヨシ》 唯人者《タダヒトハ》 舊之《フリヌルノミシ》 應宜《ヨロシカルベシ》
 
物ハ何デモ新シイノガヨロシイ。タダ人ハ年トツタノガヨロシカラウ。
 
○新吉《アタラシキヨシ》――舊訓アタラシキとあるを、古義にアラタシキと訓むべしといつてゐる。新はアラタで、アタラは可惜の意だからである。なるほど新をアタラシといふのは聲音の顛倒であるが、いつからさうなつたかは、今から知るよしがない。集中假名書式になつてゐるものがなく、唯一つ 春花能佐可里裳安良多之家牟等吉能沙加利曾《ハルハナノサカリモアラタシケムトキノサカリゾ》(四一〇六)とあるが、これは京大本に、左可里裳安良牟等末多之家牟《サカリモアラムトマタシケケム》となつてゐるのが正しいらしから、例にはならない。して見ると、已にこの集の時代にも、アタラシキとなつてゐたとも考へられるのである。よつて余(191)はむしろ舊訓に從ふの無難なるを思ふのである。○舊之《フリヌルノミシ》――文字數が極めて尠いので、いろいろな訓法が出來るわけである。ここは代匠記精撰本によることにする。
〔評〕 若いものに對する老人の負惜しみでもあり、又自己慰安の言葉でもあるが、そこに亦眞理が含まれてゐないとも言はれない。珍らしい歌として注意せらるべきものである。契沖は「尚書盤庚上云、遲任有v言、人惟求v舊、器非v求v舊惟新、此意にてよめるか。又知らずおのづから叶へるか」と言つてゐるが、もとより自然に一致したのであらう。この歌はどこにも春の意はないが、前の歌と連作なので、ここに載せたのであらう。
 
懽(ブ)v逢(ヘルヲ)
 
1886 住のえの 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君にあへるかも
 
住吉之《スミノエノ》 里得之鹿齒《サトユキシカバ》 春花乃《ハルハナノ》 益希見《イヤメヅラシキ》 君相有香聞《キミニアヘルカモ》
 
住吉ノ里ヲ歩イタ所ガ、(春花乃)ナツカシイアナタニオ目ニカカリマシタヨ。コンナ嬉シイコトハアリマセヌ〔コン〜傍線〕。
 
○里得之鹿齒《サトユキシカバ》――舊訓文字通りサトヲエシカバとあるが、意が通じ難い。考に得を行の誤として、サトユキシカバとよんだのに從ふべきであらう。○春花乃《ハルハナノ》――枕詞。希見《メヅラシキ》につづくのは愛づらしい意である。卷三に春草
益頬四寸吾於富吉美可聞《ハルクサノイヤメヅラシキワガオホキミカモ》(二三九)とある。
〔評〕 春花乃《ハルハナノ》とあるので春の歌に入れたものであらうが、必ずしも春の作とは思はれない。意外な面會に、狂喜した感がよくあらはれてゐる。
 
旋頭歌
 
1887 春日なる 三笠の山に 月も出でぬかも 佐紀山に さける櫻の 花の見ゆべく
 
春日在《カスガナル》 三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》 月母出奴可母《ツキモイデヌカモ》 佐紀山爾《サキヤマニ》 開有櫻之《サケルサクラノ》 花乃可(192)見《ハナノミルベク》
 
佐紀山ニ咲イテヰル櫻ノ花ガ見エルヤウニ、春日ニアル三笠山ニ月ガ出ナイカナア。月夜ノ花ノ眺メハ嘸カシ面白イデアラウ〔月夜〜傍線〕。
 
○月母出奴可母《ツキモ寸デヌカモ》――月も出ないかよ。出てくれよの意。○佐紀山爾《サキヤマニ》――佐紀山は古の奈良の都の正北で、佐保山の西に連なる低い山である。
〔評〕 奈良の都人が、北にある佐紀山の夜の花を眺めようとして、東方三笠山から出る月を待つ歌である。さほど高くない佐紀山の櫻が、右方から月光を受けて、くつきりと浮き出したやうに、匂ふであらう姿が想像せられる。
 
1888 白雪の とこしく冬は 過ぎにけらしも 春霞 たなびく野べの 鶯鳴きぬ
 
白雪之《シラユキノ》 常敷冬者《トコシクフユハ》 過去家良霜《スギニケラシモ》 春霞《ハルガスミ》 田菜引野邊之《タナビクヌベノ》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴烏《ウグヒスナキヌ》
 
雪ガイツモ降リシキツテヰル冬ハ、モウ過ギテ終ツタラシイナア。春霞ガ棚引イテヰル野邊ノ鶯モ鳴イタヨ。
 
○常敷冬者《トコシクフユハ》――古義に常を落の誤として、フリシクと訓んだのは臆斷に過ぎる。新訓にはツネシクとよんでゐるが、卷九、黄葉常敷《モミヂトコシク》(一六七六)と訓んでゐるから、これもそれと統一せしむべきであらう。○※[(貝+貝)/鳥]鳴烏《ウグヒスナキヌ》――烏は神田本・西本願寺本、焉となつてゐる。これは漢文で言ひ切つた後に書き添へた助辭であるから、鳴烏はナキヌとよむべきであらう。
〔評〕 霞の中に、鳴く鶯の聲に春を知つた趣である。別に變つた味もない。古義にこの歌を、前の詠鳥の部の劈頭に入れたのは、つまらない改竄である。
 
譬喩歌
 
(193)1889 吾がやどの 毛桃の下に 月夜さし 下心よし うたてこの頃
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 毛桃之下爾《ケモモノシタニ》 月夜指《ツクヨサシ》 下心吉《シラゴコロヨシ》 菟楯項者《ウタテコノゴロ》
 
私ハ〔二字傍線〕何トナクコノ頃ハ(吾屋前之毛桃之下爾月夜指)心ノ中ガ愉快ダ。
 
○毛桃之下爾《ケモモノシタニ》――毛桃は桃の一品種で、外果皮に毛茸多く且、大きい。卷七に波之吉也思吾家乃毛桃本繁《ハシキヤシワギヘノケモモモトシゲク》(一三五八)とある。○月夜指《ツクヨサシ》――月かげのさすことをかくいつたのである。以上の三句は、下といはむ爲の序詞で、同時に春の月夜の、庭前の景を捕へたのである。○下心吉《シタゴコロヨシ》――吉を無としてシヅココロナシ、苦としてシタナヤマシモ又はシタニゾナゲク、心苦の二字を悒に改めてシタオホホシモとするなど、文字を改める説が多いが、今採らない。これは文字通り心の中に愉悦を覺える意である。○蒐楯頃者《ウタテコノゴロ》――これは從來の説、殆ど解き得たものがない。ウタテを尋常でなく惡い、又は厭はしいなどの意とするのが、誤解のもとである。これはこの語の原義で、何となく進む意。即ち轉《ウタタ》といふに同じである。四五の句は轉々この頃は下快しといふので、卷十一の若月清不見雲隱見欲宇多手比日《ミカヅキノサヤニモミエズクモカクリミマクゾホシキウタテコノゴロ》(二四六四)の結句も、これと同意である。
〔評〕 序詞が優美でまことに心地がよい。これを受けて下心吉《シタゴコロヨシ》と言つたのは、巧なものである。
 
春相聞
 
目録には此所に更に相聞と題してゐる。
 
1890 春日野に 友鶯の 鳴き別れ 歸ります間も 思ほせ我を
 
春日野《カスガヌニ》 友※[(貝+貝)/鳥]《トモウグヒスノ》 鳴別《ナキワカレ》 眷益間《カヘリマスマモ》 思御吾《オモホセワレヲ》
 
春日野デ群レテヰル鶯ガ、鳴キツツ別レテ行ク〔ガ鳴〜傍線〕ヤウニ、私ドモ二人ガ〔六字傍線〕泣イテ別レテ、アナタガ御宅ヘ〔七字傍線〕歸ツテオイデニナル間モ、私ヲ忘レズニ〔四字傍線〕思ツテヰテ下サイ。
 
(194)○友※[(貝+貝)/鳥]《トモウグヒスノ》――舊本に犬※[(貝+貝)/鳥]とあり、イヌルウゲヒスとよんでゐるが、類聚古集に友※[(貝+貝)/鳥]とあるによるべきである。友※[(貝+貝)/鳥]は友千島などと同じく、群れゐる鶯である。この句までの二句は、群鶯の啼きつつ別れ行くやうに、自分が戀人と泣別することに譬へたのである。○眷益間《カヘリマスマモ》――眷はカヘリと訓む。カヘリミル意だからである。濱眷奴《ハマニカヘリヌ》(二九四)ともある。
〔評〕 初二句の譬喩がまことによく出來てゐる。女の言葉らしい敬語が下の句に用ゐられてゐる。
 
1891 冬ごもり 春咲く花を 手折り持ち 千度の限 戀ひわたるかも
 
冬隱《フユゴモリ》 春開花《ハルサクハナヲ》 手折以《タヲリモチ》 千遍限《チタビノカギリ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
(冬隱)春ニナツテ咲イタ花ヲ手折ツテ持ツテ、私ハコノ花ノヤウナ美シイ戀人ヲ連想シテ〔私ハ〜傍線〕、繰リ返シ繰リ返シ何度トナク戀シク思ツテヰルヨ。
 
○冬隱《フユゴモリ》――枕詞。春とつづく。一六參照。新考にここは枕詞ではないといつてゐる。○千遍限《チタビノカギリ》――千度のはてまでも。即ち千度に及ぶまでの意。
〔評〕 春開く花を手折つて歎くのは、その花に對して女を思つたのである。古義は「咲花を祈持て、或は女に見せたく思ひ、或は共に頭刺《カザ》したく思ひなどして、際しられず戀しく思ひて、月日を送る哉となり」とあるのはどうであらう。この歌、和歌童蒙抄にある。
 
1892 春山の 霧に惑へる 鶯も 我にまさりて 物思はめや
 
春山《ハルヤマノ》 霧惑在《キリニマドヘル》 ※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒスモ》 我益《ワレニマサリテ》 物念哉《モノオモハメヤ》
 
春ノ山ノ立チコメタ〔五字傍線〕霧ニ迷ツテ困ツテ鳴イテ〔六字傍線〕ヰル鶯デモ、私ヨリ以上ニ物ヲ思ツテハヰナイゾヨ。ホントニ私ハ戀ニ苦シンデ泣イテヰル〔ホン〜傍線〕。
 
○春山霧惑在《ハルヤマノキリニマドヘル》――春山の霧は霞である。古く霞と霧との別がなかつたことが、これによつて明らかにせられる。
(195)〔評〕戀に泣く我を、霞の中に鳴く鶯に比してゐる。春山霧惑在《ハルヤマノキリニマドヘル》は、實に適切巧妙な言葉である。朗詠集に出てゐる咽v霧山鶯啼猶少に似てゐるが、それよりも時代が古い。
 
1893 出でて見る 向ひの岡に 本繁く 咲きたる花の 成らずは止まじ
 
出見《イデテミル》 向崗《ムカヒノヲカニ》 本繁《モトシゲク》 開在花《サキタルハナノ》 不成不止《ナラズハヤマジ》
 
(出見向崗本繋開在花)成功シナイデハ、ワタシハコノ戀ハ〔八字傍線〕止メマイト思ツテヰル〔六字傍線〕。
 
○開在花《サキタルハナノ》――略解に花を桃の誤とし、サキタルモモノとよんでゐる。濱臣は更に、在は毛の誤でサキタルケモモであらうといひ、古義はそれによつてサケルケモモノとよんでゐるが、これらの説はこの歌を卷七の波之吉也思吾家乃毛桃本繁花耳開而不成在目八方《ハシキヤシワギヘノケモモモトシゲクハナノミサキテナラザラメヤモ》(一三五八)・卷十一の日本之室原乃毛桃本繁言大王物乎不成不止《ヤマトノムロフノケモモモトシゲクイヒテシモノヲナラズハヤマジ》(二八三四)などと結びつけて考へたもので、この歌はそれらと同一構想には違ひないが、このままで意が通ずるのであるから、花を桃に改める要は毫もない。この句までは序詞で、家から出て見る向ひの岡に、幹も繁つて開いてゐる花の意。花は實に成るから、不成《ナヲズハ》とつづけたのである。
〔評〕 上の四句の序詞は實景をその儘捕へたのであらう。かなはぬ戀になやむ人が、この戀遂げではと心に盟ふ時、向ひの岡に咲いてゐる花を見つめて、かく口吟んだのである。右にあげたやうに類型的であるが、力が籠つてゐる。
 
1894 霞立つ 春の永日を 戀ひ暮し 夜のふけ行きて 妹に逢へるかも
 
霞發《カスミタツ》 春永日《ハルノナガヒヲ》 戀暮《コヒクラシ》 夜深去《ヨノフケユキテ》 妹相鴨《イモニアヘルカモ》
 
霞ノ立ツ春ノ永イ日ヲ一日〔二字傍線〕戀ヒシク思ヒ通シテ、夜ガ更ケテカラ、ヤツト〔三字傍線〕女ニ逢フコトガ出來〔五字傍線〕タヨ。ホントニ嬉シイ〔七字傍線〕。
 
○春永日《ハルノナガヒヲ》――拾穗抄・略解などハルノナガキヒとよんでゐる、しかし舊訓にハルノナガヒヲとある方が歌として調子がよい。ここは人麿集出の歌で、文字數が尠いから、補つてよむ必要がある。卷十三に霞立春長日乎奧(196)香無《カスミタツハルノナガヒヲオクガナク》(三一五〇)とあるに對比して、ハルノナガヒヲがよいやうである。
〔評〕 霞の深い日は、心が欝欝として物思ひに堪へぬものである。初句は無意義に置いたものではない。夜更けるまで戀ひこがれて、漸く女に逢ふことが出來て、如何にも嬉しさうである。
 
1895 春されば 先づさき草の さきくあらば 後にも逢はむ な戀ひそ吾妹
 
春去《ハルサレバ》 先三枝《マヅサキクサノ》 幸命在《サキクアラバ》 後相《ノチニモアハム》 莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》
 
(春去先三枝)無事デサヘ居ルナラ、ワタシトオマヘトハ又〔ワタ〜傍線〕、後ニモ逢フコトガ出來ルダラウ。ダカラ〔三字傍線〕、ワタシノ愛スル女ヨ、サウ戀シク思フナヨ。
 
○先三枝《マヅサキクサノ》――三枝は古來諸説があつて決し難い。卷五の三枝之《サキクサ/》(九〇四)の條に委しく説明して、檜・山百合・沈丁花・三椏・蒼朮などの諸説をあげ、山百合説に賛成して置いたが、この歌によつて三枝が春咲くもとするならば、以上の諸説中、沈丁花と三椏とが當つてゐることになる。しかし沈丁花は支那原産で、漢名瑞香、一名睡香とも稱し、和名は無いやうであるから、これをサキクサとは認め難い。三椏も沈丁花に似たもので、春早く花をつけるが、これも支那原産で渡來年月は明らかでないが、近世とすれば徳川時代になつてのものであらう(白井光太郎氏、植物渡來考による)。なほ福壽草説もあるが論ずるに足らぬ。この句は春になれば先づ三枝が咲くといふのではなく、サキクと言はむ爲にサキクサを用ゐ、春サレバマヅをサキクサに冠せしめたに過ぎないのではあるまいか。宣長は先は花の一誤だといつてゐる。
〔評〕 春相聞に入れてあるが、初二句は序詞であるから、春の歌とは言れない。後會を契つて女を慰撫する歌である。
 
1896 春されば しだり柳の とををにも 妹が心に 乘りにけるかも
 
春去《ハルサレバ》 爲垂柳《シダリヤナギノ》 十緒《トヲヲニモ》 妹心《イモガココロニ》 乘在鴨《ノリニケルカモ》
 
(春去爲垂柳)タワタワト心ノウチ一杯ニ〔七字傍線〕、女ノコトガワタシノ〔四字傍線〕心ニ浮ンデヰルヨ。ワタシノ心ハ女ノコトバ(197)カリデ充チ滿チテヰル〔ワタ〜傍線〕。
 
○春去爲垂柳《ハルサレバシダリヤナギノ》――序詞。十緒《トヲヲ》につづいてゐる。古義にシゲルヤナギとよんだのはその意を得ない。○十緒《トヲヲニモ》――トヲヲはタワワに同じく、柳の枝の撓む意でつづいてゐる。この句は結句のノリにかかつて、一杯に、甚だしくなどの意に用ゐられてゐる。○妹心《イモガココロニ》――妹は吾が心にの意。
〔評〕 初二句の序詞は優美に出來てゐる。卷二|東人之荷向〓乃荷之緒爾毛妹情爾乘爾家留香問《アヅマヒトノノザキノハコノニノヲニモイモガココロニノリニケルカモ》(一〇〇)と同型の作である。他に卷十一是川瀬瀬敷浪布布妹心乘在鴨《ウヂカハノセゼノシクナミシクシクニイモガココロニノリニケルカモ》(二四二七)・大舟爾葦荷刈積四美見似裳妹心爾乘來鴨《オホフネニアシニカリツミシミミニモイモガココロニノリニケルカモ》(二七四八)・驛路爾引舟渡直乘妹情乘來鴨《ウマヤヂニヒキフネワタシタダノリニイモガココロニノリニケルカモ》(二七四九)などもある。
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
恐らく右の下、七首の字が脱したのであらうと、略解に見えてゐる。
 
寄v鳥
 
1897 春されば 百舌鳥の草ぐき 見えずとも 我は見やらむ 君があたりをば
 
春之在者《ハルサレバ》 伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》 雖不所見《ミエズトモ》 吾者見將遣《ワレハミヤラム》 君之當婆《キミガアタリヲバ》
 
(春之在者伯勞鳥之草具吉)見エナイケレドモ、ワタシハアナタノ家ノ方ヲ眺メヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》――伯勞鳥《モズ》は百舌鳥、鵙、※[鳥+決の旁]などとも記し、燕雀類の一種で、羽毛は茶褐色、嘴は大きく釣状に尖り、爪も鋭い。人のよく知る鳥である。草具吉《クサグキ》は草潜《クサクグリ》り、古事記に漏の字をクキとよんでゐる。伯勞鳥は秋の頃よく活動するが、春になれば人里近くに飛翔せぬ故、草に隱れるものとして、クサグキといふか。袖中抄に「もずの草ぐきとは、もずの草くぐりを云なり」、無名抄に「もずといふ鳥は郭公の沓手をとりてありけるがえ出さざりける時、時島の來たる程には、もずのはやにへといふことをして、生きたる虫若くは蛙などをと(198)りてさして、時鳥の爲にとて隱つるを、もずの草ぐきとぞいひける」とあり。散木集にも「垣根にはもずのはやにへ立ててけりしでのたをさをしのびかねつつ」と見え、百舌鳥が蛙・虫などを捕へて、木の枝に貫いて置くもずのはやにへといふものを、もずのくさぐきと混同するやうになつたのである。俳句にも鵙の草莖として詠まれてゐる。○君之當婆《キミガアタリヲバ》――當の下、元暦校本に乎の字があるのがよい。
〔評〕 初二句はミエズトモと言はむ爲の序詞であるが、實に珍奇な材料で、集中唯一の例である。これが平安朝中期後になつて、萬葉研究の起ると共に、歌人の間に注意を引くことになり、後にはもずのはやにへと混同して、俳句にもあらはれるやうになつた。後世に大影響を與へた作品である。
 
1898 容鳥の 間無くしば鳴く 春の野の 草根の繁き 戀もするかも
 
容鳥之《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》 春野之《ハルノヌノ》 草根乃繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》
 
(容鳥之間無數鳴春野之草根之)繁ク盛ナ〔二字傍線〕戀ヲワタシハ〔四字傍線〕スルワイ。
 
○容鳥之《カホドリノ》――容鳥は呼子鳥に同じで、カホはその鳴き聲らしい。三七二參照。○草根之繁《クサネノシゲキ》――この句の草根之までは繁《シゲキ》と言はむ爲の序詞である。
〔評〕 序詞に工夫を集めてた作品である。草根の繁きに戀の深さを示したのみならず、容鳥の間無くしば鳴くにも、作者の煩悶が織り出されてゐるやうに思はれる。蓋し卷三に容鳥能間無數鳴雲居奈須心射左欲比其鳥乃片戀耳爾《カホトリノマナクシバナククモヰナスココロイサヨヒソノトリノカタコヒノミニ》(三七二)とあるによれば、これは類想的のものらしい。
 
寄v花
 
1899 春されば 卯の花くたし 吾が越えし 妹が垣間は 荒にけるかも
 
春去者《ハルサラバ》 宇乃花具多思《ウノハナクタシ》 吾越之《ワガコエシ》 妹我垣間者《イモガカキマハ》 荒來鴨《アレニケルカモ》
 
曾テ〔二字傍線〕ワタシガ忍ビ忍ビニ〔五字傍線〕越エテ通ツタコトノアル女ノ家ノ垣根ハ、春ニナルト、雨ガツヅイテ〔六字傍線〕卯ノ花ヲ腐ラセ、(199)ヒドク〔三字傍線〕荒レ果テテシマツタヨ。
 
○字乃花具多思《ウノハナクタシ》――普通には卯の花腐しと解釋せられてゐる。卯の花腐しは梅雨に近く卯の花の咲く頃に降る雨と言はれてゐるが、それは中世以後のことで、ここは卯の花を腐しての意。卷十九に宇能花乎令腐霖雨之《ウノハナヲクタスナガメノ》(四二一七)ともある。卯の花は春にふさはしくないといふので、略解の説に宇の下、米が脱ちたのだらうとし、新訓は童蒙抄によつて、宇毎乃花《ウメノハナ》としてゐるが、みだりに脱字とも決し難く、ことに毎をメに用ゐた例はないから、從ひ難い。卯の花は春の花ではないが、初夏のものであるから、略解にあげた宣長説に「四月ごろまでも大やうに春といふぞ古意なる」とあるによつてもよいかと思ふ。但しこの句を卯の花を腐して吾が越えしと、下につづけてはよくない。ただ散らすことを腐《クタ》すとは言ふまいと思はれる。古義に「三四一二五と句を次第《ヅイデ》てきくべし」とあるのがよいであらう。
〔評〕 春の雨のつづいた頃、妹が垣根のほとりに佇んでよんだものか、材料も氣分も風變りな歌である。
 
1900 梅の花 咲き散る苑に 我行かむ 君が使を 片待ちがてり
 
梅花《ウメノハナ》 咲散苑爾《サキチルソノニ》 吾將去《ワレユカム》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 片待香花光《カタマチガテリ》
 
ワタクシハアナタカラノ使ヲ心カラ待チガテラ、梅ノ花ノ咲イテハ散ル花園ヘ行カウト思フ。
 
○片待香花光《カタマチガテリ》――カタマチは片寄りて待つ意。片心にて待つとする説はどうであらう。卷七に向舟片待香光《ムカヘブネカタマチガテリ》(一二〇〇)とあるが、それによると花の字は衍であらう。
〔評〕 この歌、卷十八に宇梅能波奈佐伎知流曾能爾和禮由可牟伎美我都可比乎可多麻知我底良《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミガツカヒヲカタマチガテラ》(四〇四一)として出で、田邊史福麿となつてゐるが、彼が古歌を誦したのであらう。
 
1901 藤浪の 咲ける春野に はふかづら 下よし戀ひば 久しくもあらむ
 
藤浪《フヂナミノ》 咲春野爾《サケルハルヌニ》 蔓葛《ハフカヅラ》 下夜之戀者《シタヨシコヒバ》 久雲在《ヒサシクモアラム》
 
(藤浪咲春野爾蔓葛)心ノ〔二字傍線〕下カラバカリヒトヲ〔二字傍線〕戀シテヰタナラバ、逢ヘルヤウニナルノハ〔逢ヘ〜傍線〕、久シイ後ノコト〔四字傍線〕デアラ(200)ウ。イツソ早ク表向キニ戀ヲシヨウカ知ラ〔イツ〜傍線〕。
 
○藤浪咲春野爾蔓葛《フヂナミノサケルハルヌニハフカヅラ》――序詞。下夜《シタヨ》と言はむ爲である。三句は舊訓ハフクズノとある。葛は集中クズともカヅラとも、亦姓としては葛井などフヂともよんである。ここはカヅラとよんで、藤浪の花咲く葛が下から生ひ上つてゐる意で、シタヨとつづくと見るべきであらう。クズとよんでは藤浪との連絡がなくなり、想の統一が缺けて來る。○下夜之戀者《シタヨシコヒバ》――シタヨは下より。心の内での意。シは強辭。○久雲在《ヒサシクモアラム》――宣長は久は乏の誤で、トモシクモアラムであらうといつてゐるが、改める要はない。
〔評〕 序詞が春の季になつてゐるといふのみで、他に春の相聞らしいところはない。
 
1902 春の野に 霞たなびき 咲く花の かくなるまでに 逢はぬ君かも
 
春野爾《ハルノヌニ》 霞棚引《カスミタナビキ》 咲花乃《サクハナノ》 如是成二手爾《カクナルマデニ》 不逢君可母《アハヌキミカモ》
 
春ノ野ニ霞ガ棚引イテ咲ク花ガ、コンナニ眞盛リニ〔四字傍線〕ナルマデモ、永イ間、ワタシハ〔七字傍線〕アナタニオ目ニカカリマセヌヨ。ホントニ辛ウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○如是成二手爾《カクナルマデニ》――斯く眞盛りになるまでもの意。略解に「成は實になるを言ふ。上に咲たる花の不v成は不v止といふ成に同じ」とあり。古義もこれを認めてゐるが、代匠記に「此は霞のやうやう立初るより、花の盛りになるまで、久しく相見ぬよしなり」とあるのがよい。
〔評〕 まだ花のない頃から、久しく絶えてゐた人に、花の李になつても逢はれないのを悲しんだので、徒らに經過し去る時季に驚愕した感じがあらはれてゐる。茅子花咲有乎見者君不相眞毛久二成來鴨《ハギノハナサケルヲミレバキミニアハデマコトモヒサニナリニケルカモ》(二二八〇)に似てゐる。女の歌であらう。
 
1903 吾が背子に 吾が戀ふらくは 奥山の 馬醉木の花の 今盛なり
 
吾瀬子爾《ワガセコニ》 吾戀良久者《ワガコフラクハ》 奥山之《オクヤマノ》 馬醉花之《アシビノハナノ》 今盛有《イマサカリナリ》
 
ワタシノ夫ニワクシガ戀シテヰルコトハ、(奥山之馬醉花之)今丁度〔二字傍線〕眞盛デアリマス。今ハ實ニ熱烈ナ戀ヲシテ(201)ヰマス〔今ハ〜傍線〕。
 
○奥山之馬醉花之《オクヤマノアシビノハナノ》――これは譬喩と見るよりは、序詞とすべきであらう。
〔評〕 殊更に奥山といふ必要はないやうである。卷八の茅花拔淺茅之原乃都保須美禮今盛有吾戀苦波《ツバナヌクアサヂガハラノツボスミレイマサカリナリワガコフラクハ》(一四四九)と少し似てゐる。
 
1904 梅の花 しだり柳に 折りまじへ 花にそなへば 君に逢はむかも
 
梅花《ウメノハナ》 四垂柳爾《シダリヤナギニ》 折雜《ヲリマジヘ》 花爾供養者《ハナニソナヘバ》 君爾相可毛《キミニアハムカモ》
 
梅ノ花ヲ垂柳ニ折リ添ヘテ、佛様ニ〔三字傍線〕手向ケノ花トシタナラバ、佛様ノオ蔭デ〔六字傍線〕アナタニ逢ヘルデアラウカナア。私ハアナタニ逢ヒタクテモ逢ヘナイカラ、佛様ニ梅ト柳トヲ手向ケテ見ヨウ〔私ハ〜傍線〕。
 
○花爾供養者《ハナニソナヘバ》――供養の二字は全く佛教語である。舊訓ソナヘバとあるのを考にタムケバと改めてゐるが、花を供へるのは佛に對することで、タムケの語は神に用ゐるのが本義であるから、この集の頃は花を供へることをタムケとはいふまいと思はれる。又供養の字は、集中他に用例はないが、ソナヘと訓むべき文字のやうである。なほ略解に花を神の誤としてゐるが、神には花を捧げることはあるまいから、舊のままがよい。ハナニは花としての意。
〔評〕 珍らしくもこれは佛に花を供養して、願をかなへようとするのである、佛教が廣く民衆の間に浸潤した證と見ることが出來る。
 
1905 をみなへし 佐紀野に生ふる 白躑躅 知らぬこともち 言はれし吾が背
姫部思《ヲミナヘシ》 咲野爾生《サキヌニオフル》 白管自《シラツツジ》 不知事以《シラヌコトモチ》 所言之吾背《イハレシワガセ》
 
(姉部思咲野爾生白管自)知ラナイコトデ、私ハ人ニトヤカク〔八字傍線〕、言ハレマシタヨ、アナタ。ホントニ人ハ口ノ惡イモノデスネ〔ホン〜傍線〕。
 
(202)○姉部思咲野爾生白管自《オミナヘシサキヌニオフルシラツツジ》――不知といはむ爲の序詞。シラの音を繰返してゐる。オミナヘシはサキと言はむ爲の枕詞。咲野《サキヌ》は佐紀野。奈良の都の北方、佐紀山の麓の平地。白管自《シラツツジ》は白躑躅。○所言之吾背《イハレシワガセ》――言はれしよ、吾が背よの意。シの連體形になつてゐるのに、拘泥してはいけない。
〔評〕 白躑躅を序詞に用ゐたので、春相聞に入れてゐる。卷四の娘子部四咲澤二生流花勝見都毛不知戀裳摺可聞《オミナヘシサキサハニオフルハナガツミカツテモシラヌコヒモスルカモ》(六七五)と上句の序詞が似てゐる。
 
1906 梅の花 我は散らさじ あをによし 平城なる人の 來つつ見るがね
 
梅花《ウメノハナ》 吾者不令落《ワレハチラサジ》 青丹吉《アヲニヨシ》 平城之人《ナラナルヒトノ》 來管見之根《キツツミルガネ》
 
(青丹吉)奈良ノ都ノ〔二字傍線〕人ガ來テ見ル爲ニ、ワタシハ梅ノ花ヲ散ラサズニ置カウ。
 
○平城之人《ナラナルヒトノ》――代匠記に之の下、里の脱としてナラノサトビトと訓み、略解に人の上、在の字脱か、又は之は在の誤であらうといつてゐる。ともかく、ここはナルとあるべきところである。このままでもさうよめないことはあるまい。○來管見之根《キツツミルガネ》――ガネは料に、爲に。
〔評〕 略解に「奈良人の我娘にすむべきよし有て、娘を梅にたとへて其人の來りすむまでは、他し人に逢はせじといふ意なるべし」とあるが、さうではなく、奈良なる人の許へ、梅の咲いたことを知らせて、來訪を待つ心を述べたのである。
 
1907 かくしあらば 何か植ゑけむ 山吹の 止む時もなく 戀ふらく念へば
 
如是有者《カクシアラバ》 何如殖兼《ナニカウヱケム》 山振乃《ヤマブキノ》 止時喪哭《ヤムトキモナク》 戀良苦念者《コフラクオモヘバ》
 
折角見セヨウト思ツテ山吹ヲ植ヱテ置イタノニ、花ハ咲イテモアノ人ハ尋ネテ來ナイ。カウシテ〔折角〜傍線〕止ム時モナク、私ハアノ人ヲ〔六字傍線〕戀シガツテ居ルコトヲ考ヘルト、コンナコトナラ、何故私ハ山吹ヲ植ヱタノダラウト思フ〔三字傍線〕。
 
○山振乃《ヤマブキノ》――同音を繰返して下の止《ヤム》につづいてゐるが、山吹を庭に植ゑてその山吹を眺めつつ言つてゐるので(203)あるる。
〔評〕 山吹の花を眺めながら戀人を偲ぶ歌である。山吹が一首の中心となつて巧に取扱はれてゐる。男の歌であらう。卷十九に妹爾似草等見之欲里吾標之野邊之山吹誰可手乎里之《イモニニルクサトミシヨリワガシメシヌベノヤマブキタレカタヲリシ》(四一九七)ともある。
 
寄v霜
 
1908 春されば 水草の上に 置く霜の 消つつも我は 戀ひわたるかも
 
春去者《ハルサレバ》 水草之上爾《ミクサノウヘニ》 置霜之《オクシモノ》 消乍毛我者《ケツツモワレハ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
 
(春去者水草之上爾置霜之)心モ〔二字傍線〕消エルヤウニ、私ハ戀シツツ、日ヲ〔二字傍線〕送ツテヰルヨ。
 
○春去者水草之上爾置霜之《ハルサレバミクサノウヘニオクシモノ》――消《ケ》と言はむ爲の序詞。春になると水草の上に置く霜がの意。水草は代匠記初稿本に「水草と書たれども眞草なり、唯春の草なり」とあり、略解も同説であるが、古義は「水草は字の如く水に生たる草なり」とある。集中の用例を見ると、卷三に池之瀲爾水草生家里《イケノナギサニミクサオヒニケリ》(三七八)、この卷に秋就者水草花乃阿要奴蟹《アキツケバミクサノハナノアエヌガニ》(二二七二)などがある。これを卷一の金野乃美草苅茸屋杼禮里之《アキノヌノミクサカリフキヤドレリシ》(七)によつて、美草即ち尾花とも解し得るが、文字通り水草とするのがよいのではあるまいか。翌年まで枯れ殘つた水草であらう。
〔評〕卷八の秋付者尾花我上爾置露乃應消毛吾者所念香聞《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノケヌベクモアハオモホユルカモ》(一五六四)、この卷の秋田之穗上爾置白露之可消吾者所念鴨《アキノタノホノヘニオケルシラツユノケヌベクワレハオモホユルカモ》(二二四六)と同型の歌である。
 
寄v霞
 
1909 春霞 山にたなびき おほほしく 妹を相見て 後戀ひむかも
 
春霞《ハルガスミ》 山棚引《ヤマニタナビキ》 欝《オホホシク》 妹乎相見《イモヲアヒミテ》 後戀毳《ノチコヒムカモ》
 
(春霞山棚引)ボンヤリト戀シイ〔三字傍線〕女ヲ見タバカリ〔四字傍線〕デ、後ニナツテサゾ見タク思フデアラウヨ。
 
(204)○春霞山棚引《ハルガスミヤマニタナビキ》――オホホシクと言はむ爲の序詞。霞のたなびいた山が、朧に見えるのにかけたのである。古義に春山霞棚引《ハルヤマニカスミタナビキ》の誤としてゐるが、もとのままでよい。○欝《オホホシク》――霞める山の不明瞭な意で上につづき、下には女をおぼろげに見た意でつづいてゐる。
〔評〕 上品なよい歌である。初二句は女とのあかぬ別に、霞める山を眺めて序としたものか。
 
1910 春霞 立ちにし日より 今日までに 吾が戀やまず もとのしげけば 一云、片念にして
 
春霞《ハルガスミ》 立爾之日從《タチニシヒヨリ》 至今日《ケフマデニ》 吾戀不止《ワガコヒヤマズ》 本之繁家波《モトノシゲケバ 一云、片念爾指天《カタモヒニシテ》
 
ワタシハ戀ノ心〔七字傍線〕ノ本ガ繋クアルノデ、春霞ノ立ツタ日カラ今日マデノ間、ワタシノ戀フル心ハ一日モ〔三字傍線〕ヤマナイ。
 
○本之繁家波《モトノシゲケバ》――少し無理な言葉である。略解に「本は木の本也。木の繁きを戀の繁きにたとふるか。しげけばは、ければの禮を略きたる也」とあるに從ふよりほかはあるまい。○一云、片念爾指天《カタモヒニシテ》――第五句の異傳である。この方がよい。
〔評〕 霞に寄する意が薄い。第五句の異傳を記したものは本來旋頭歌であるのを、誤り傳へたのもあるが、これはさうではない。
 
1911 さにづらふ 妹をおもふと 霞立つ 春日もくれに 戀ひわたるかも
 
左丹頬經《サニヅラフ》 妹乎念登《イモヲオモフト》 霞立《カスミタツ》 春日毛晩爾《ハルビモクレニ》 戀度可母《コヒワタルカモ》
 
顔ノ色ガ紅イ美シイ〔三字傍線〕女ヲ思フトテ、霞ノ立ツテヰル長閑〔二字傍線〕ナ春ノ日モ、心ガ〔二字傍線〕暗ク沈ンデ戀ヒツヅケテヰルヨ。
 
○左丹頬經《サニヅラフ》――サは接頭語。ニヅラフは顔の紅く美しいこと。妹の枕詞とするのは當らない。○春日毛晩爾《ハルビモクレニ》――春の日も心が暗く沈んでの意。新考に春日能晩爾《ハルヒノクレニ》の誤とあるのは從ひ難い。
〔評〕 平明な作である。霞立春日毛挽爾《カスミタツハルヒモクレニ》の句があはれである。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
1912 たまきはる 吾が山の上に 立つ霞 立つともうとも 君がまにまに
 
(205)靈寸春《タマキハル》 吾山之於爾《ワガヤマノヘニ》 立霞《タツカスミ》 雖立雖座《タツトモウトモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
(靈寸春吾山之於爾立霞)立ツモ坐ルモ、アナタノ御隨意ニワタシハナリマス〔九字傍線〕。
 
○靈寸春吾山之於爾立霞《タマキハルワガヤマノヘニタツカスミ》――立つと言はむ爲の序詞。靈寸春《タマキハル》は枕詞、吾とつづいてゐる。この枕詞は命にかぎりあるの意で、命・息《イキ》などにつづくから、これは命限りある吾といふ意か。なほ考ふべきである。吾山之於爾《ワガヤマノヘニ》は吾が住む山の上にの意であらう。宣長は吾を春の誤だらうといつてゐる。○雖立雖座《タツトモウトモ》――座をウとよんだのは略解の訓に從つたのだ。崇神紀に急居 此云菟岐于 とあつて、居は古くウと言つたのである。舊訓タチテモヰトモ、代匠記初稿本タテレドヲレド、同精撰本タツトモヰトモとある。
〔評〕 心も身も任せ切つた態度で、女の歌であらう。
 
1913 見渡せば 春日の野邊に 立つ霞 見まくの欲しき 君がすがたか
 
見渡者《ミワタセバ》 春日之野邊《カスガノヌベニ》 立霞《タツカスミ》 見卷之欲《ミマクノホシキ》 君之容儀香《キミガスガタカ》
 
見渡スト春日ノ野ノアタリニ霞ガ〔二字傍線〕立ツテヰルガ、アノ〔六字傍線〕霞ノ立ツタ佳イ景色ヲ見タイヤウニ、ワタシハ〔ノ立〜傍線〕アナタノ姿ヲ見タイト思ヒマスヨ。
 
○君之容儀香《キミガスガタカ》――君が姿かなの意。
〔評〕 上句は都から見る春日野に霞の立つた景の、見飽かぬ美しさに女を譬へたもので、序詞ではない。これは都人の歌である。女の作であらう。
 
1914 戀ひつつも 今日は暮らしつ 霞立つ 明日の春日を 如何にくらさむ
 
戀乍毛《コヒツツモ》 今日者暮都《ケフハクラシツ》 霞立《カスミタツ》 明日之春日乎《アスノハルビヲ》 如何將晩《イカニクラサム》
 
戀人ヲ〔三字傍線〕戀シク思ヒナガラモ、ヤツト〔三字傍線〕今日ダケハ日ヲ〔二字傍線〕暮シタ。霞ノ立チコメル明日ノ春ノ永〔二字傍線〕日ヲ、サテ〔二字傍線〕何トシテ暮ラシタモノダラウ。サテサテツライコトダ〔十字傍線〕。
 
(206)〔評〕 霞の立ちこめた、唯さへ人をして物思はしめるやうな長い春日に、煩悶を抱いて悔みぬいてゐる人の、やるせなさ、欝陶しさが歌全體にあふれてゐる。よい作だ。
 
寄v雨
 
1915 吾が背子に 戀ひてすべなみ 春雨の ふる別知らに 出でて來しかも
 
吾背子爾《ワガセコニ》 戀而爲便莫《コヒテスベナミ》 春雨之《ハルサメノ》 零別不知《フルワキシラニ》 出而來可聞《イデテコシカモ》
 
ワタシハ〔四字傍線〕アノオ方ガ戀シクテ何トモ仕樣ナクテ、春雨ガ降ツテヰルカ居ラヌカモ知ラズニ家ヲ出カケテ來タヨ。氣ガツイテ見レバ雨ガ降ツテヰル。困ツタモノダ〔氣ガ〜傍線〕。
 
○吾背子爾《ワガセコニ》――略解に「背は妹の字の誤れるならむ。わぎもこにと有べし」とあるが、原形を尊重すべきである。○零別不知《フルワキシラニ》――降つてゐるか降つてゐないかを辨別せずに。即ち降つてゐることを知らずに。
〔評〕 雨をも辨へずに出て來るとは、女の動作としては、烈しすぎるほどであるが、降るともわからぬ春雨であるから、尤もとうなづかれないことはない。強い感情があらはれてゐる。
 
1916 今更に 君はいゆかじ 春雨の こころを人の 知らざらなくに
 
今更《イマサラニ》 君者伊不往《キミハイユカジ》 春雨之《ハルサメノ》 情乎人之《ココロヲヒトノ》 不知有名國《シラザラナクニ》
 
今更アナタハココヲ出テ〔五字傍線〕行カレマスマイ。アナタヲ止メヨウトシテ降ル〔アナ〜傍線〕春雨ノ心ヲアナタハ、御存ジナイノデハナイノデスカラ。コノ雨ニオ出カケトハアマリ無情デス〔コノ〜傍線〕。
 
○君者伊不往《キミハイユカジ》――君を吾の誤と宣長が言つたのに從ふのはよくない。もとのままで意は明瞭である。○春雨之情乎人之《ハルサメノココロヲヒトノ》――春雨の心は、君をやらじと降る春雨の心である。ヒトは上のキミと同じ。略解に「春雨の降わきをも知らず出では來つれども、今より又いかに甚くふるべきも知られねば、これより歸るべし。今更ゆかじと也」(207)とあるのはいみじき誤解であらう。○不知有名國《シラザラナクニ》――知らずあらなくにの約であるから、知らぬのではない。知つてゐるの意。略解に「知らざらなくには知らざるに也」とあるのは反對である。
〔評〕 この歌を前の歌のつづきとして解く説が多いが、さうではない。全く別箇の歌として見なければならぬ。女らしい愛慕の情が、内容にも調子にもあらはれてゐる。
 
1917 春雨に 衣はいたく 通らめや 七日しふらば 七夜來じとや
 
春雨爾《ハルサメニ》 衣甚《コロモハイタク》 將通哉《トホラメヤ》 七日四零者《ナヌカシフラバ》 七夜不來哉《ナナヨコジトヤ》
 
アナタハ雨ガ降ルカラ來ラレナイトオッシヤルガ、タカノ知レタ〔アナ〜傍線〕春雨ニイクラ濡レタトテ〔八字傍線〕、着物ガヒドク通ルホド濡レル〔五字傍線〕モノデハアリマセヌ。雨ガ降ルカラ來ナイノナラ〔雨ガ〜傍線〕、七日續イテ〔三字傍線〕降ツタラ、七日ノ間來ナイトイフオ考〔五字傍線〕デスカ。ソレハアンマリ薄情デセウ〔ソレ〜傍線〕。○七日四零者七夜不來哉《ナヌカシフラバナナヨコジトヤ》――七日七夜は數の多いことを言つてゐる。卷四の吾戀者千引乃石乎七許《ワガコヒハチビキノイシヲナナバカリ》(七四三)・戀草呼力車二七車《コヒクサヲチカラクルマニナナクルマ》(六九四)・卷十一の妹所云七日越來《イモガリトイヘバナヌカコエコム》(二四三五)などその他例が多い。
〔評〕 これを前の歌と同時と見る説はわるい。これは男の來ぬのを憤つた歌である。四五の句に胸を焦す閨怨の情が見えてゐる。
 
1918 梅の花 散らす春雨 いたくふる 旅にや君が いほりせるらむ
 
梅花《ウメノハナ》 令散春雨《チラスハルサメ》 多零《イタクフル》 客爾也君之《タビニヤキミガ》 廬入西留良武《イホリセルラム》
 
梅ノ花ヲ散ラス春雨ガ頻リニ降ツテヰル。コンナ淋シイ陰氣ナ日ニ〔コン〜傍線〕、旅デワタシノ夫ハ小屋ガケシテ宿ツテヰルデアラウカ。嘸辛イダラウ〔六字傍線〕。
 
○多零《イタクフル》――舊訓サハニフルとあるのを、童蒙抄にイタクフルと改めてゐる。雨にはイタクと訓むのが最もふさはしい。多をイタクとよむのは變則であらうが、言多毛《コチタクモ》(二三二二)とあるから、よめないこともないわけである。
(208)〔評〕 女らしい感情が、優美に織り出されたよい作である。三句切になつてゐるのは比較的めづらしい。
 
寄v草
 
1919 國栖らが 春菜つむらむ 司馬の野の しましま君を 思ふこの頃
 
國栖等之《クニスラガ》 春菜將採《ワカナツムラム》 司馬乃野之《シマノヌノ》 數君麻《シマシマキミヲ》 思比日《オモフコノコロ》
 
(國柄等之春菜將採司馬乃野之)頻リニアナタノコトヲ、コノ頃ハ思ツテヰマス。
 
○國栖等之春菜將採司馬乃野之《クニスラガワカナツムラムシマノヌノ》――序詞。シマの音を繰返して下につづいてゐる。國栖等《クニスラ》は吉野國※[木+巣]人をさすか。今も吉野郡中、宮瀧の上流に國※[木+巣]村がある。これを略解にクズラガ又はクズドモガとよんでゐるが、古事記傳十八に言つてゐるやうに、クズは後世の音便であらうから、文字通りクニスとよむべきである。春菜はハルナとよむ説も多いが、ワカナとよむ説に從ふ。卷八の春菜採《ワカナツム》(一四二一)參照。司馬乃野《シマノヌ》は舊訓シバノノとあるが馬をバとよむのは漢音であるから避けるがよい。集中マの假名に多く用ゐられてゐるし、下へのつづきもその方がよいから、シマノヌとよみたい。吉野の地名であらうが、今はわからない。古義には島之野の意であらうとしてゐる。
〔評〕 異人種としてあつかはれてゐた、國栖人の住んでゐる地方の、司馬の野をとつて序詞としたのは、まことに珍らしい。かの肥人《ヒビト》(二四九六)・早人《ハヤヒト》(二四九七)の歌などと共に、當時に於ける異人趣味といふべきものを、ねらつた作である。
 
1920 春草の 繁き吾が戀 大海の へにゆく浪の ちへに積りぬ
春草之《ハルクサノ》 繁吾戀《シゲキワガコヒ》 大海《オホウミノ》 方往浪之《ヘニユクナミノ》 千重積《チヘニツモリヌ》
 
(春草之)繁ク思ヒ焦レル〔五字傍線〕私ノ戀ハ、(大海方往浪之)幾重ニモ幾重ニモ積ツタ。
 
○春草之《ハルクサノ》――枕詞。繁くとつづく意は明らかである。○大海方往浪之《オホウミノヘニユクナミノ》――千重と言はむ爲の序詞。大海の岸に(209)寄り來る浪の如くの意。方《ヘ》は邊に同じ。考に往を依の誤としてヨルナミノと訓み、略解・古義・新考などそれによつてゐるが、もとのままでよい。
〔評〕 枕詞式に春草を用ゐたのみで、春の戀らしい趣は見えない。枕詞や序詞が巧に用ゐられてゐるといふまでである。
 
1921 おほほしく 君を相見て 菅の根の 長き春日を 戀ひわたるかも
 
不明《オホホシク》 公乎相見而《キミヲアヒミテ》 菅根乃《スガノネノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 孤悲渡鴨《コヒワタルキアモ》
 
カスカニアナタニオ目ニカカツテ、(菅根乃)長イ春ノ日、毎日毎日、アナタヲ〔八字傍線〕思ヒツヅケテヰマス。トツクリト心ノ晴レルホド、十分ニオ目ニカカレタラ、サゾヨカラウニ〔トツ〜傍線〕。
 
○菅根乃《スガノネノ》――枕詞、長とつづく。○孤悲渡鴨《コヒワタルカモ》――悲の字、舊本、戀に作るは誤。元暦校本による。
〔評〕 はつきりした素直な歌といふまでである。草に寄せる意は薄い。
 
寄v松
 
1922 梅の花 咲きて散りなば 吾妹子を 來むか來じかと 吾が松の木ぞ
 
梅花《ウメノハナ》 咲而落去者《サキテチリナバ》 吾妹乎《ワギモコヲ》 將來香不來香跡《コムカコジカト》 吾待乃木曾《ワガマツノキゾ》
 
梅ノ花ガ咲イテヰル間ハ、アナタモ來ルカモ知レナイト思フガ、ソレモ〔ヰル〜傍線〕散ツテシマツタナラバ、何モ見ルベキ花モナイカラ〔何モ〜傍線〕、アナタモ來ルダラウカ來ナイダラウカ、ト思ツテ〔三字傍線〕、ワタシハ待ツテヰルヨ。
 
○吾待乃木曾《ワガマツノキゾ》――上に梅を出したので、下に松の木を出して待つにかけたのである。松の木には意味はない。古義に「梅花の散失たらば、其跡は松木のみにて見に來べき物もなければ云々」とあるのは考へ過ぎであらうが、新考に、これを松の枝につけて贈つた歌としたのにも從ひ難い。
(210)〔評〕待を松にかけた歌は吾松椿不吹有勿勤《ワガマツツバキフカザルナユメ》(七三)など他にも多いが、ここの用法は調子が輕く、俚謠の氣分になつてゐる。
 
寄v雲
 
1923 白眞弓 いま春山に 行く雲の 行きや別れむ 戀しきものを
 
白檀弓《シラマユミ》 今春山爾《イマハルヤマニ》 去雲之《ユククモノ》 逝哉將別《ユキヤワカレム》 戀敷物乎《コヒシキモノヲ》
 
(白檀弓今春山爾去雲之)ワタシハコレカラアナタト〔ワタ〜傍線〕別レテ他所ヘ〔三字傍線〕行クコトデアラウカ。コンナニ〔四字傍線〕戀シイノニ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○白檀弓今春山爾去雲之《シラマユミイマハルヤマニユククモノ》――ユクの音を繰返して逝《ユキ》につづけた序詞。白檀弓《シラマユミ》は春にかかる枕詞であらう。張《ハル》の意にかけてゐるのである。射たかけて、今につづけたとも考へられるが、さうではないやうである。
〔評〕 雲に寄せた春の戀の歌としては、まことにおだやかに上品に、しかも感情があらはれてゐる。青青とした春の山に棚引く雲を眺めつつ、別離の涙をしぼる情景がしのばれる。よい歌だ。
 
贈v※[草冠/縵]
 
1924 ますらをが 伏しゐ嘆きて 造りたる しだり柳の かづらせ吾妹
 
大夫之《マスラヲガ》 伏居嘆而《フシヰナゲキテ》 造有《ツクリタル》 四垂柳之《シダリヤナギノ》 蘰爲吾妹《カヅラセワギモ》
 
コレハ〔三字傍線〕益荒男ノ私〔二字傍線〕ガ、女々シクモ貴女ヲ思ツテ〔女々〜傍線〕伏シテハ嘆キ、坐ツテハ嘆キシテ拵ラヘタ四垂柳ノ※[草冠/縵]デスゾ。ドウゾコレ〔八字傍線〕ヲ頭ノ飾ト〔四字傍線〕シテ※[草冠/縵]ニシテ下サイ吾ガ妻ヨ。
 
○伏居嘆而《フシヰナゲキテ》――略解に「柳のかづら造りたるいたづきを強く言ふか、又は伏を夜とし、居るを晝として、夜晝(211)妹を思ひなげくと言ふ歟」とあるのは惡い。これは身を悶えて歎くことである。
〔評〕女に贈る爲に作つたしだれ柳の※[草冠/縵]に添へたのである。第二句の伏居嘆而《フシヰナゲキテ》が戀に悶える男の樣をよくあらはしてゐる。
 
悲v別
 
1925 朝戸出の 君がすがたを よく見ずて 長き春日を 戀ひや暮らさむ
 
朝戸出之《アサトデノ》 君之儀乎《キミガスガタヲ》 曲不見而《ヨクミズテ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 戀八九良三《コヒヤクラサム》
 
今朝此處カ別レテ〔七字傍線〕オイデニナツタ夫ノ姿ヲ、明ケ方ノ暗サニ〔七字傍線〕ヨクモ見ナイノデ、今日ハ〔三字傍線〕長イ春ノ日終日アノオ方ヲ〔七字傍線〕戀シク思ヒツツ暮スデアラウカ。オ立チニナル時ノ御姿ヲヨク見レバ是程戀シクモナカラウノニ〔オ立〜傍線〕。
 
○朝戸出之《アサトデノ》――女の許から朝別れて歸り行くこと。○曲不見而《ヨクミズテ》――曲は委曲の意で、ヨクと訓むのである。
〔評〕 前の不明《オホホシク》(一九二一)の歌とかなり似てゐる。この方が逢後戀の心が明瞭に出て居る。
 
問答
 
1926 春山の 馬醉木の花の にくからぬ 君にはしゑや よそるともよし
 
春山之《ハルヤマノ》 馬醉花之《アシビノハナノ》 不惡《ニクカラヌ》 公爾波思惠也《キミニハシヱヤ》 所因友好《ヨソルトモヨシ》
 
(春山之馬醉花之)モトヨリ〔四字傍線〕愛スルアナタノコトダカラ〔九字傍線〕、アナタニハ、エエワタシハ〔四字傍線〕心ヲ寄セテ從ツテモヨイ。
 
○春山之馬醉花之《ハルヤマノアシビノハナノ》――ニクカラヌと言はむ爲の序詞。○不惡《ニクカラヌ》――改訓抄にアシカラヌとあり、この説を可とする學者も多いが、卷八の山毛世爾咲有馬醉木乃不惡君乎何時往而早將見《ヤマモセニサケルアシビノニクカラヌキミヲイツシカユキテハヤミム》(一四二八)のところに述べたやうに、ここはニクカラヌと訓むべきであらう。○公爾波思惠也《キミニハシヱヤ》――シヱヤは歎息の辭。卷四の四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》(六五九)參照。(212)○所因友好《ヨソルトモヨシ》――舊訓ヨリヌトモヨシ、考はヨスルトモヨシ、略解はヨセヌトモヨシとあり、略解説が多く行はれてゐるが、ここは新訓にヨソルトモヨシとよんだのに從ふ。ヨソルは寄り從ふこと、卷十四に安乎禰呂爾伊佐欲布久母能余曾里都麻波母《アヲネロノイサヨフクモノヨソリヅマハモ》(三五一二)とある。
〔評〕 下句の捨鉢的な口吻がおもしろい。女の歌である。
 
1927 石上 布留の神杉 神びにし 我やさらさら 戀に逢ひにける
 
石上《イソノカミ》 振乃神杉《フルノカミスギ》 神備西《カミビニシ》 吾八更更《ワレヤサラサラ》 戀爾相爾家留《コヒニアヒニケル》
 
(石上振乃神杉)年ヲ取ツタ私ハ、今更戀ニ出逢ツテ、戀ノ爲ニ捕ハレテ、苦シム〔戀ノ〜傍線〕コトニナツタ。モウ老人ニナツテハ戀スルコトモアルマイト思ツタノニ、不思議ナモノダ〔ニナ〜傍線〕。
 
○石上振乃神杉《イソノカミフルノカミスギ》――石上の布留の社の神杉は、神神しいものとして、古來有名であつた。これを神備《カミビ》の序詞としてゐる。寫眞は著者撮影。○神備西《カミビニシ》――舊本、西を而に作り、カミビテモとよんでゐるのを(213)契沖は神の下左の字脱としてカミサビテとしてゐる。しかし元暦校本に西に作つてゐるに從へば、無理なく訓むことが出來る。カミビは神々しく古びたこと。ここは年老いたこと。卷十七に許太知之氣思物伊久神備曾《コダチシゲシモイクヨカミビソ》(四〇二六)ともある。○吾八更更――ヤは歎辭で、ヨに同じ。サラサラは更にまた。
〔評〕 老後戀である。下句に我ながら意外とする感があらはれてゐる。卷十一の石上振神杉神成戀我更爲鴨《イソノカミフルノカミスギカムサビシコヒヲモワレハサラニスルカモ》(二四一七)と同歌の異傳かもれれない。右の二首は問答になつてゐるわけだが、氣分があまりしつくり合つてゐないやうである。しかしその理由で、これを問答の歌でないとするのはいけない。
 
右一首不v有(ラ)2春歌(ニ)1而猶以(テ)2和(ノ)故(ヲ)1載(ス)2於茲(ノ)次(ニ)1、
 
不有春歌とあるのは變な漢文である。神田本に有の字が無いのが原形か。略解に「此註心得がたし。後人の書入也」とあるが、果してかく斷定すべきや否や、疑はしい。
 
1928 狹野方は 實に成らずとも 花のみに 咲きて見えこそ 戀のなぐさに
 
狹野方波《サヌカタハ》 實爾雖不成《ミニナラズトモ》 花耳《ハナノミニ》 開而所見社《サキテミエコソ》 戀之名草爾《コヒノナグサニ》
 
狹野方ノ梅ヤ桃ハ〔四字傍線〕ハ實ニハナラナイデモ、戀ノ慰ニ、セメテ〔三字傍線〕花バカリデモ咲イテ見セテクレヨ。タトヒ眞實ノ戀ハ成就シナイデモ、私ノ戀ノ慰ニ表面ダケデモ親切ラシク見セテクレヨ〔タト〜傍線〕。
 
○狹野方波《サヌカタハ》――狹野方はこの下に、沙額田乃野邊乃秋芽子《サヌカタノヌヘノアキハギ》(二一〇六)とある。又卷十三に師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅《シナタツツクマサヌカタオキナガノヲチノコスゲ》(三三二三)とあるのと同所とすれば、近江の坂田郡にあるわけであるが、今その所在が明らかでない。或はサは接頭語で額田《ヌカタ》か。然らば大和生駒郡の東南隅にある。ともかく今これを、いづくとも判斷し難い。○實雖不成《ミニナラズトモ》――狹野方を地名とすれば、そこに春咲く梅・桃などの實をさしたのであらう。
〔評〕 遂げ得ぬ戀に倦んじ果てて、せめて表面だけでも、親切らしくしてくれと頼む心はあはれである。諷喩がよく出來てゐる。
 
(214)1929 狹野方は 實になりにしを 今更に 春雨ふりて 花咲かめやも
 
狹野方波《サヌカタハ》 實爾成西乎《ミニナリニシヲ》 今更《イマサラニ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 花將咲八方《ハナサカメヤモ》
 
狭野方ノ野〔二字傍線〕ハ、モウ已ニ實ニナツテシマツタノニ、今更春雨ガ降ツテモ花ガ咲クモノデスカ。アナタハセメテ表面ダケデモ親切ラシクセヨトオツシヤルガ、二人ノ間ハ已ニ眞實ノ關係ニナツタノニ、今更春雨ガ降ツテ咲ク花ノヤウニ、目サキバカリノコトヲスルモノデスカ〔アナ〜傍線〕。
〔評〕 問の歌の語を多く採つて、同じく諷喩で答へてゐる。第三者には少しわかりかねるやうな點がないでもない。
 
1930 梓弓 引津のべなる なのりその 花咲くまでに 逢はぬ君かも
 
梓弓《アヅサユミ》 引津邊有《ヒキツノベナル》 莫告藻之《ナノリソノ》 花咲及二《ハナサクマデニ》 不會君毳《アハヌキミカモ》
 
(梓弓)引津ノ海岸ニ生エテヰル莫告藻ガ、今咲イテヰルガ、アノ〔今咲〜傍線〕花ガ咲クマデモ永イ間〔三字傍線〕アノ人ハ私ニ逢ツテクレナイナア。モ久シクナルノニ、ドウシテアノ人ハ逢ツテクレナイノダラウ。ツレナイ人ダ〔モウ〜傍線〕。
 
〔評〕 卷七の旋頭歌、梓弓引津邊在莫謂花及採不相有目八方勿謂花《アヅサユミヒキツノベナルナノリソノハナツムマデニアハザラメヤモナノリソノハナ》(一二七九)とよく似てゐるが、意味は少し違つてゐる。
 
1931 川上の いつ藻の花の いつもいつも 來ませ吾が背子 時じけめやも
 
川上之《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時何時《イツモイツモ》 來座吾背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》
 
(川上之伊都藻之花之)何時デモ何時デモ、オイデナサイヨ、アナタ。來テ惡イトイフ時ハアリマセヌヨ。久シク逢ハヌナドトオツシヤルガ、アナタガオイデナサラヌカラデス〔久シ〜傍線〕。
 
〔評〕 これは卷四(四九一)に吹黄刀自歌として出てゐるのと全く同歌である。古歌を答歌に用ゐたものか.或は吹黄刀自が古歌を口吟んだのか、今、知り難い。
 
1932 春雨の 止まずふるふる 吾が戀ふる 人の目すらを 相見せなくに
 
(215)春雨之《ハルサメノ》 不止零零《ヤマズフルフル》 吾戀《ワガコフル》 人之目尚矣《ヒトノメスラヲ》 不令相見《アヒミセナクニ》
 
春雨ガ絶エズ降ツテ降ツテ、外出ガシニクイノデ〔九字傍線〕、私ノ戀シイ人ニオ目ニモカカレナイノデセウ。ホントニニクイ雨デス〔ホン〜傍線〕。
 
○不止零零《ヤマズフルフル》――ヤマズフルフル、ヤマズフリツツなどの訓もあるが、舊訓のままが却つてよいやうである。止ます頻りに降ってゐる。○不令相見《アヒミセナクニ》――舊訓アヒミセザラムを古訓に改めたのによる。新考にアヒミシメナクとあるのも、よいかも知れない。
〔評〕 雨を怨んだ歌である.女から男へ贈つたもの。
 
1933 吾妹子に 戀ひつつをれば 春雨の かれも知る如 止まずふりつつ
 
吾妹子爾《ワギモコニ》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》 春雨之《ハルサメノ》 彼毛知如《カレモシルゴト》 不止零乍《ヤマズフリツツ》
 
ワタシハ〔四字傍線〕アナタヲ戀シク思ツテ涙ヲ流シテ〔五字傍線〕ヰルト、春雨ガ、アレモ私ノ心ヲ〔四字傍線〕知ルヤウニ、涙ノ雨ノ如ク〔六字傍線〕絶エズ降ツテヰル。
 
○彼毛知如《カレモシルゴト》――新考ソレモシルゴト、新訓ソモシルゴトクとあるが、彼は誰彼我莫問《タソカレトワレヲナトヒソ》(二二四〇)にならつて、カレとよむのがよい。カレは春雨をさしてゐる。
〔評〕 これは前の歌と異なつて、春雨が吾に同情するやうに見たのである。あはれな歌だ。
 
1934 相念はぬ 妹をやもとな 菅の根の 長き春日を 思ひくらさむ
 
相不念《アヒオモハヌ》 妹哉本名《イモヲヤモトナ》 菅根乃《スガノネノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 念晩牟《オモヒクラサム》
 
コチラバカリ思ツテ居ツテ〔コチ〜傍線〕、先方デハコチラヲ思フノデモナイ女ダノニ、何ノ甲斐モナク、(菅根之)長イ春ノ日ヲ思ヒ暮スコトデアラウカ。ホントニツマラヌ片思ダ〔ホン〜傍線〕。
 
(216)○妹哉本名《イモヲヤモトナ》――妹なるを徒らにの意。
〔評〕 卷四の不相念人乎也本名白細之袖漬左右二哭耳四泣裳《アヒオモハヌヒトヲヤモトナシロタヘノソデヒヅマデニネノミシナカモ》(六一四)とかなり似てゐる。また下の相念不《アヒオモハズ》(一九三六)の歌もよく似てゐる。これは前の歌の答とは見えない。この歌、袖中抄にのせてある。
 
1935 春されば 先づ鳴く鳥の 鶯の 言先立ちし 君をし待たむ
 
春去者《ハルサレバ》 先鳴鳥乃《マヅナクトリノ》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 事先立之《コトサキダチシ》 君乎之將待《キミヲシマタム》
 
(春去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之)先ニ言ヒ出レタアナタカラ、何トカシテ下サルダラウト思ツテ〔カラ〜傍線〕、待ツテ居リマセウ。私ガ冷淡ナノデハアリマセヌ〔私ガ〜傍線〕。
 
○ハル去者先鳴鳥乃※[(貝+貝)/鳥]之《ハルサレバマヅナクトリノウグヒスノ》――序詞で事先立之《コトサキダチシ》に冠してゐる。鶯は春になると、第一に鳴く鳥であるからかく言つたのだ。○事先立之《コトサキダチシ》――言葉を先に言ひ出したの意、舊訓はコトサキタテシとあり、古義もこれに從つてゐるが、今は略解による。
〔評〕 卷四の事出之者誰言爾有鹿小山田之苗代水乃中與杼爾四手《コトデシハタガコトナルカヲヤマダノナハシロミヅノナカヨドニシテ》(七七六)と意は同じである。女の歌であらう。
 
1936 相念はず あるらむ兒ゆゑ 玉の緒の 長き春日を おもひ暮さく
 
相不念《アヒオモハズ》 將有兒故《アルラムコユヱ》 玉緒《タマノヲノ》 長春日乎《ナガキハルヒヲ》 念晩久《オモヒクラサク》
 
コチラカラバカリ思ツテモ〔コチ〜傍線〕、アチラデ思フデモナイ女ダノニ、(玉緒)長イ春ノ日秋日戀シク〔五字傍線〕思ヒ暮スコトヨ。バカバカシキイ話ダガ、ドウモ思ヒ切レナイ〔コト〜傍線〕。
 
○將有兒故《アルラムコユヱ》――兒故《コユヱ》は女なるにの意。
〔評〕 前の相不念《アヒオモハヌ》(一九三四)と、同歌の異傳かと思はれるまでに酷似し、又答の歌らしくない。
 
(217)夏雜歌
 
詠v鳥
 
1937 ますらをの 出で立ち向ふ ふるさとの 神名備山に 明け來れば 柘のさ枝に 夕されば 小松がうれに 里人の 聞き戀ふるまで 山彦の 答ふるむまでに 郭公 妻戀すらし さ夜中に鳴く
 
大夫之《マスラヲノ》 出立向《イデタチムカフ》 故郷之《フルサトノ》 神名備山爾《カムナビヤマニ》 明來者《アケクレバ》 柘之左枝爾《ツミノサエダニ》 暮去者《ユフサレバ》 小松之若末爾《コマツガウレニ》 里人之《サトビトノ》 聞戀麻田《キキコフルマデ》 山彦乃《ヤマビコノ》 答響萬田《コタフルマデニ》 霍公鳥《ホトトギス》 都麻戀爲良思《ツマコヒスラシ》 左夜中爾鳴《サヨナカニナク》
 
益荒雄タル私ガ、外ニ〔四字傍線〕出テ立チ向ツテヰル、舊都ノ飛鳥ノ〔三字傍線〕神名備山デ、夜ガ明ケルト、柘ノ木ノ枝ノ上〔二字傍線〕デ、夕方ニナルト小松ノ梢デ、里ノ人タチ〔二字傍線〕ガソノ聲ヲ〔四字傍線〕聞イテナツカシク〔五字傍線〕戀シク思フ程モヤサシク〔四字傍線〕、又山彦ガソノ聲ニ應ジテ〔七字傍線〕反響スルホドノ高い聲デ〔三字傍線〕、郭公ガ妻ヲ戀シク思ツテアンナニ〔四字傍線〕鳴クラシイ。夜中ニ今〔傍線〕鳴イテヰル。
 
○大夫之《マスラヲノ》――舊本、大夫丹《マスラヲニ》とあるのではわからない。元暦校本によつて改む。○出立向《イデタチムカフ》――出で立つて神名備山に向ふのである。略解に「卷一に大夫のさつ矢手挿立向、卷廿あらしをのいほさ手挾むかひ立云々、これらは的に向也。同卷長歌あづまをのこは出向ひかへり見せずて、又其下にけふよりはかへり見なくて大君のしこの御楯と出立我はなど有を思ふに、ここの大夫丹云々といふも、大夫どち立向ふ勢をおもひてよめるならんと翁は言はれき、或人は大夫丹は走出丹の誤ならんかといへり。いかさまにも大夫丹は誤字と見ゆ、猶考べし。さて出立向は、吾家を出たちて向はるる神なび山なればいふ也。故郷は飛鳥の故郷也、つみは桑の類にて既に出、聞戀ふるは、ほととぎすを今聞て戀したふ也」、古義に「出立は男女にかぎるべからぬが如くなれども、男は日々に外に(218)出、女は内にのみ隱り居て、常に出る事なき故に、取分て大夫乃出立向《マスラヲノイデタチムカフ》といへるにやあらむ」とある。しばらく古義に從はう。○故郷之神名備山爾《フルサトノカムナビヤマニ》――故郷の飛鳥の神名備山、即ち雷岳である。○柘之左枝爾《ツミノサエダニ》――柘は山桑、卷三の此暮柘之枝乃《コノユフベツミノサエダノ》(三八六)參照。○答響萬田《コタフルマデニ》――代匠記精撰本、アヒトヨムマデ、略解にコタヘスルマデとあるが、舊訓に從つて置く。
〔評〕 故郷の飛鳥の里に旅した人が、雷岳の郭公を聞いてよんだのであらう。併し明けくれば、夕さればと一般的叙述の後を受けて、突如としてさ夜中に鳴くと結んでゐるのは、奇異の感がある。
 
反歌
 
1938 旅にして 妻戀すらし ほととぎす 神名備山に さ夜ふけて鳴く
 
客爾爲而《タビニシテ》 妻戀爲良思《ツマコヒスラシ》 霍公鳥《ホトトギス》 神名備山爾《カムナビヤマニ》 左夜深而鳴《サヨフケテナク》
 
 
郭公ハ旅ニ出テ、アトニ遺シテ來タ〔八字傍線〕妻ヲ戀シガツテナク〔三字傍線〕ト見エル。アレアノ通リニ〔七字傍線〕、神名備山デ夜ガ更ケテカラ〔二字傍線〕鳴イテヰル。
 
〔評〕 旅に宿つて妻を戀ふる男が、郭公の鳴く聲を聞いて、吾が身に思ひくらべた、あはれな歌である。
 
右古歌集中出
 
1939 ほととぎす 汝が初聲は 我にもが 五月の珠に 交へて貫かむ
 
霍公鳥《ホトトギス》 汝始音者《ナガハツコヱハ》 於吾欲得《ワレニモガ》 五月之珠爾《サツキノタマニ》 交而將貫《マジヘテヌカム》
 
霍公鳥ヨ、オマヘノ初音ハソレヲ〔三字傍線〕、私ノモノトシテ取リタイモノダ。サウシタラ、ソノ聲ヲ〔九字傍線〕、五月ノ藥玉ニ交ゼテ、糸ニ通シテ玩ビ物ニ〔六字傍線〕シヨウ。
 
○於吾欲得《ワレニモガ》――古義に吾を花の誤として、ハナニモガとよんでゐるが、花では却つてわからない。
(219)〔評〕 卷八の霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトトギスイタクナナキソナガコヱヲサツキノタマニアヘヌクマデニ》(一四六五)と同想で、子供らしく詠んだのである。他に卷十七(四〇〇七)、卷十九(四一八九)などに類想が見えてゐる。
 
1940 朝霞 たなびく野邊に あしびきの 山ほととぎす いつか來鳴かむ
 
朝霞《アサガスミ》 棚引野邊《タナビクヌベニ》 足檜木乃《アシビキノ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 何時來將鳴《イツカキナカム》
 
朝靄ガ棚引ク野ノアタリニ、(足檜木乃)山郭公ハ何時ユナツタラ來テ鳴クダラウカ。早ク鳴イテクレ〔七字傍線〕。
 
○朝霞《アサガスミ》――朝の靄である。後世ならば郭公の頃、霞とは詠まない。
〔評〕 簡明な歌である。下句は古今集「わがやどの池の藤浪さきにけり山ほととぎすいつか來なかむ」と同じである。
 
1941 朝霞 八重山越えて 呼子鳥 なきや汝が來る 宿もあらなくに
 
旦霞《アサガスミ》 八重山越而《ヤヘヤマコエテ》 喚孤鳥《ヨブコドリ》 吟八汝來《ナキヤナガクル》 屋戸母不有九二《ヤドモアラナクニ》
 
(旦霞)八重ニ重ナツタ〔五字傍線〕山ヲ飛ビ越エテ、喚子鳥ハ、此處ニハ〔四字傍線〕オマヘガ宿ルベキ家モナイノニ、何シニ〔三字傍線〕鳴イテ飛デン來ルノダヨ。可愛サウダ〔五字傍線〕。
 
○且霞《アサガスミ》――枕詞。八重にかかる。○喚孤鳥《ヨブコドリ》――呼子鳥。孤は子の誤かと略解に見えるが、さうではあるまい。カンコ鳥・ツツ鳥・カツコウ鳥ともいふ。七〇・一四一九など參照。○吟八汝來《ナキヤナガクル》――古義に吟は喚又は呼の誤として、ヨビヤナガクルとよんでゐる。しかしこの字は憂吟《ウレヒサマヨヒ》(八九二)などと用ゐてあつて、サマヨフは泣き叫ぶことであるから、ナキとよんでもよいであらう。
〔評〕 喚子鳥は後世、春の季節としてあるが、卷八の春雜歌に二首、この卷の春雜歌に四首入れてあるから、ここに夏雜歌に收めてあるのは誤といつてよい。山中で旅らしい呼子鳥の聲を聞いて、これに同情したのは、旅人の歌らしい。
 
(220)1942 ほととぎす 鳴く聲聞くや 卯の花の 咲き散る岳に 葛引くをとめ
 
霍公鳥《ホトトギス》 鳴音聞哉《ナクコヱキクヤ》 宇能花乃《ウノハナノ》 開落岳爾《サキチルヲカニ》 田草引※[女+感]嬬《クズヒクヲトメ》
 
卯ノ花ガ咲イテ散ル岡デ、葛ノ蔓〔二字傍線〕ヲ引イテヰル少女ヨ、オマヘハ〔四字傍線〕郭公ノ鳴ク聲ヲ聞クカドウダ。
 
○田草引※[女+感]嬬《クズヒクヲトメ》――舊訓タクサヒクイモとあるのを、略解に「源康定主説、草は葛の誤也と有ぞよき。集中くずを田葛と書り」といつて、訓をクズヒクヲトメと改めてゐる。卷七の劔後鞘納野葛引吾妹《タチノシリサヤニイリヌニクズヒクワギモ》(一二七二)、眞田葛原何時鴨絡而我衣將服《マクズハライツカモクリテワガキヌニキム》(一三四六)などによれば、誤字説がよいやうである。又この葛は夏衣に縫ふ葛布を織る爲に、蔓を引くのである。今も葛布の料にする葛糸を採取する爲に、葛蔓を苅るのは、五月頃に行ふさうである。葛根を採る爲とするのは當らない。
〔評〕 卯の花は郭公の宿りともいはれる花である。今、卯の花が眞白に咲き滿ちた岡の上で、葛蔓を引いてゐる里の少女に對して、郭公の鳴く聲を聞くかと呼びかけたのは、郭公を待つ人の心であらう。下の問答の歌に宇能花乃咲落岳從霍公鳥鳴而沙渡公者聞津八《ウノハナノサキチルヲカユホトトギスナキテサワタルキミハキキツヤ》(一九七六)あるのは似た歌であるが、その意味味を以でこれを解釋しようとするのはよくない。
 
1943 月夜よみ 鳴くほととぎす 見まくほり 吾が草取れり 見む人もかも
 
月夜吉《ツクヨヨミ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 欲見《ミマクホリ》 吾草取有《ワガクサトレリ》 見人毛欲得《ミムヒトモガモ》
 
月ガヨイ夜ナノデ、鳴ク霍公鳥ヲ見タイト思ツテ、私ハ今木ノ下ニ生エテ居ル〔今木〜傍線〕草ヲ取ツテヰル、一人見ルノハ惜シイカラ、共ニ〔一人〜傍線〕見ル人ガアレバヨイガナア。
 
○吾草取有《ワガクサトレリ》――舊訓ワガクサトレルとあるが、宣長は吾を今の誤としてイマクサトレリと改めてゐる。その解について略解に、これはほととぎすを見むとて、庭草を掃て待意かともきこゆれど穩ならず。宣長云、吾は今の誤にて、いまくさとれり也、草とるは凡て鳥の木の枝にとまり居る事也、見まくほりは、ほととぎすが月を見まくほりて、今木の枝にゐるを來て見ん人もがな也、卷十九ほととぎすきなきとよまば草とらん、花橘をやど(221)にはうゑずてとよめるも、ほととぎすの來てとまるべき橘をうゑんといふ也といへり。」とあるが、清水濱臣は「兩説ともに非なり、草とるは手とりにすることにて、此歌は霍公鳥を手とらまへにせし事、十九の歌は杜宇の多く來鳴くならば手とりにせむとおもふ故に中々に橘をばうゑじとなり。さるよしは永久四年百首鈴虫、顯仲、鈴むしの聲を鈴かと聞からに草とるたかそおもひしらるる、又、兼昌、みかり野になく鈴虫をはしたかの草とりて行く音かとぞきく、此意にて知るべし。さて草とるは空とるといふ詞の對語にて、空とるは飛鳥の空にてものをとるを言ふなり。是もおなじ百首、野行幸、仲實、あかねさすみかりの小野にたつきぎす空とるたかにあはせつる哉、又、忠房、そらとらぬたかはあらじなみかり野に雲の上人あはすと思へば」といつてゐる。古義も大體宣長説に賛同してゐるが、郭公の鳴くべき月夜に、草を苅りつつ待つてゐるだけの意ではあるまいか。なほ攻究を要する。
〔評〕 意味が明らかでないので、許はむつかしいが、右のやうに解すれば全く田舍人の歌である。
 
1944 藤浪の 散らまく惜しみ ほととぎす 今城の岳を 鳴きて越ゆなり
 
藤波之《フヂナミノ》 散卷惜《チラマクヲシミ》 霍公鳥《ホトトギス》 今城(222)岳※[口+立刀]《イマキノヲカヲ》 鳴而越奈利《ナキテコユナリ》
 
藤ノ花ガ散ルノヲ惜シガツテ、郭公ハ今城ノ岡ヲ鳴キナガラ飛ビ越シテ行クヨ。
 
○今城岳※[口+立刀]《イマキノヲカヲ》――今城の岳は大和國高市郡、今は吉野郡に編入されてゐる。寫眞は辰己利文氏寄贈。卷九に妹等許今木乃嶺《イモラガリイマキノミネニ》(一七九五)とあるのは異なつてゐる、この地名を今來にかけて、霍公鳥が今來て、今城の岳を鳴いて越えるやうに、略解・古義に解してゐるが、かけ言葉らしい語調になつてゐない。
〔評〕 今城の岡は藤の花の多いところと見えるが、作者がそのほとりにゐて、それを觀賞してゐる時に、霍公鳥の聲を聞いてよんだのであらう。優しい氣分の作である。
 
1945 朝霧の 八重山越えて ほととぎす 卯の花べから 鳴きて越え來ぬ
 
旦霧《アサギリノ》 八重山越而《ヤヘヤマコエテ》 霍公鳥《ホトトギス》 宇能花邊柄《ウノハナベカラ》 鳴越來《ナキテコエキヌ》 
 
(旦霧)八重ニ重ル〔三字傍線〕山ヲ飛ビ越シテ、郭公ハ卯ノ花ノ咲イテヰル〔五字傍線〕アタリヲ鳴イテ、飛ビ越シテ來タ。
 
○旦霧《アサギリノ》――前に旦霞八重山越而《アサガスミヤへヤマコエテ》(一九四一)とあるのと同じく、この旦霧は枕詞である。しかし略解に、霧を霞の誤であらうとあるのはよくない。猥に改むべきでない。○鳴越來《ナキテコエキヌ》――舊訓ナキテコユラシ、代匠記初稿本ナキテコエケリとあるが、又一にナキテコエキヌとしてある。古義に來を成の誤としてナキテコユナリとしたのは獨斷にすぎる。
〔評〕 第四句の宇能花邊柄《ウノハナベカラ》で、歌が全く優美化されてゐる。第二句と第五句とに越《コエ》を用ゐたのは故意か偶然か。重複の嫌がないでもない。
 
1946 木高くは かつて木植ゑじ ほととぎす 來鳴きとよめて 戀まさらしむ
 
木高者《コタカクハ》 曾木不殖《カツテキウヱジ》 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴令響而《キナキトヨメテ》 戀令益《コヒマサラシム》
 
丈ノ高イ木ハ決シテ私ハ〔二字傍線〕植ヱマイ。何故ナレバ高イ木ヲ植ヱテ置クト〔何故〜傍線〕、霍公鳥ガ來テ鳴イテ、聲ヲ響カセ人ヲ〔二字傍線〕戀(223)シク思フ心ヲ増サシメルカラ〔二字傍線〕。
 
○曾木不殖《カツテキウヱジ》――カツテは、すべて、決して、全くなどの意。○戀令益《コヒマサラシム》――我をして人を戀しく思ふ心を、増さらしむといふのである。
〔評〕 戀に惱める人の歌だ。もとより郭公を嫌ふのではない。何哥毛幾許戀流霍公鳥鳴音聞者戀許曾益禮《ナニシカモココダクコフルホトトギスナクコヱキケバコヒコソマサレ》(一四七五)と似たところがある。
 
1947 逢ひがたき 君にあへる夜 ほととぎす こと時よりは 今こそ鳴かめ
 
難相《アヒガタキ》 君爾逢有夜《キミニアヘルヨ》 霍公鳥《ホトトギス》 他時從者《コトトキヨリハ》 今社鳴目《イマコソナカメ》
 
容易ニ逢フコトノ出來ナイアナタニ、今夜久シブリデ〔四字傍線〕逢ツタガ、郭公ヨ、他ノ時ヨリハドウゾ〔三字傍線〕今夜コソナイテクレヨ。二人デオマヘノヨイ聲ヲ聞イテ樂シムカラ〔二人〜傍線〕。
 
○他時從者《コトトキヨリハ》――童蒙抄アダシトキユハとあり、略解もそれに倣つてゐるが、舊訓に從つて置く。他は集中|他辭《ヒトコト》(五三八)、他妻《ヒトツマ》(一七五九)などヒトとよんだ例は多いが、コト又はアダシの用例は見えない。しかしここはヒトとはよむべくもないから、コトがよいであらう。
〔評〕 卷八の大伴家持の歌、我屋前乃花橘爾霍公鳥今社鳴米友爾相流時《ワガヤドノハナタチバナニホトトギスイマコソナカメトモニアヘルトキ》(一四八一)は、蓋しこれを燒直したものであらう。
 
1948 木のくれの ゆふやみなるに 一云、なれば ほととぎす 何處を家と 鳴き渡るらむ
 
木晩之《コノクレノ》 暮闇有爾《ユフヤミナルニ》【一云|有者《ナレバ》】 霍公鳥《ホトトギス》 何處乎家登《イヅクヲイヘト》 鳴渡良哉《ナキワタルラム》
 
木ガ深ク茂ツテ〔五字傍線〕暗ク、ソノ上〔三字傍線〕夕方ノ闇トナツタノニ、郭公ノ鳴クノガ聞エルガ〔九字傍線〕、ドコニアル自分ノ家ニ歸ラウト思ツテ、鳴イテ飛ンデ〔三字傍線〕行クノダラウ。暗クテ方向モ分ラナイデ嘸困ルデアラウ〔暗ク〜傍線〕。
 
○暮闇有爾《ユフヤミナルニ》――古義にクラヤミナルニとあるが、暮は多くヨヒ・ユフとよんでゐる。爲暮零禮見《シグレフレミム》(二二三四)の例も(224)あるが、クラとよんだのはないから、舊訓のままにしておく。殊にここは夕暮の景らしく思はれる。○一云有者――これはユフヤミナレバといふ異傳であるが、おもしろくない。○鳴渡良哉《ナキワタルラム》――哉は元暦校本に武とあるのがよい。
〔評〕夕暮の森などで聞く、郭公の聲をあはれんだので、前の旦霞八重山越而《アサガスミヤヘヤマコエテ》(一九四一)と似たところがある。
 
1949 ほととぎす 今朝の朝けに 鳴きつるは 君聞きけむか 朝いあか寐けむ
 
霍公鳥《ホトトギス》 今朝之旦明爾《ケサノアサケニ》 鳴都流波《ナキツルハ》 君將聞可《キミキキケムカ》 朝宿疑將寐《アサイカネケム》
 
郭公ガ今朝ノ夜〔二字傍線〕明ケ方〔傍線〕ニ鳴イタノハ、アナタハアノ聲ヲ〔四字傍線〕聞イタダラウカ、ソレトモ〔四字傍線〕朝寢ヲシテヰマシタカ。ドウデスカ〔五字傍線〕。
 
○朝宿疑將寐《アサイカネケム》――舊訓アサイカヌラムとあるが、古義の訓に從ふ。上に鳴郡流《ナキツル》とあり、君將聞《キミキキケム》と訓んでゐるのだから、ここもネケムとしなければならない。
〔評〕 おほやうな上代人らしい歌で、多少の滑稽味も感ぜられる。
 
1950 ほととぎす 花橘の 枝にゐて 鳴きとよもせば 花は散りつつ
 
霍公鳥《ホトトギス》 花橘之《ハナタチバナノ》 枝爾居而《エダニヰテ》 鳴響者《ナキトヨモセバ》 花波散乍《ハナハチリツツ》
 
郭公ガ花橘ノ咲イタ〔三字傍線〕枝ニトマツテ、鳴キ聲ヲ響カセテ鳴クト、ソノ聲ノ響デ〔六字傍線〕花ガ散ツタ。
〔評〕 ありのままの歌で、繪のやうな情景である。
 
1951 うれたきや 醜ほととぎす 今こそは 聲の嗄るがに 來喧きとよまめ
 
慨哉《ウレタキヤ》 四去霍公鳥《シコホトトギス》 今社者《イマコソハ》 音之干蟹《コヱノカルガニ》 來喧響目《キナキトヨマメ》
 
ホントニ〔四字傍線〕腹ガ立ツヨ、ロクデモナ郭公ヨ。ドウシテ鳴カナイノダラウ〔ドウ〜傍線〕、今コソハ鳴クベキ時ダカラ〔八字傍線〕、聲ガ枯レル程モ、此處ヘ〔三字傍線〕來テ鳴ケバヨイニ。
 
(225)○慨哉《ウレタキヤ》――卷八の宇禮多伎也志許霍公鳥《ウレタキヤシコホトトギス》(一五〇七)と同樣で、歎かはしいよの意であるが、ヤは切宇ではなく下につづいてゐる。○音之干蟹《コヱノカルガニ》――聲の嗄れるほどにの意。
〔評〕 可愛さあまつて憎さ百倍、來鳴かぬ郭公を罵つてゐる。右にあげた卷八のものと、句は同じで心は異なつゐてる。
 
1952 こよひの おぼつかなきに ほととぎす 鳴くなる聲の おとのはるけさ
 
今夜乃《コヨヒノ》 於保束無荷《オボツカナキニ》 霍公鳥《ホトトギス》 喧奈流聲之《ナクナルコヱノ》 音乃遙左《オトノハルケサ》
 
今夜ハ暗クテ〔三字傍線〕何モ見エナイノニ、郭公ノナク聲ガ遙カニ遠ク〔二字傍線〕聞エルヨ。モツト近クデ鳴イタラ、ハツキリ聞エルダラウニ〔モツ〜傍線〕。
 
○今夜乃《コヨヒノ》――舊訓コノヨラノとあるが、卷一に今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》(一五)とあるから、猥りにラを補はないで、コヨヒノとよむべきであらう。○於保束無荷《オボツカナキニ》――このオボツカナキは、暗くて見分けのつかぬ意。
〔評〕 暗夜遙かに郭公を聞く物足りなさが、よくあらはれてゐる。聲《コヱ》の音《オト》と言つたのは、異樣に聞える。
 
1953 五月山 卯の花月夜 ほととぎす 聞けども飽かず また鳴かぬかも
 
五月山《サツキヤマ》 宇能花月夜《ウノハナヅクヨ》 霍公鳥《ホトトギス》 雖聞不飽《キケドモアカズ》 又鳴鴨《マタナカヌカモ》
 
五月ノ頃ノ〔三字傍線〕山ニ、卯ノ花ガ盛ニ咲イテヰル〔八字傍線〕月夜ニ、霍公鳥ノ鳴ク聲ヲ聞イタガ、アマリヨイ聲ナノデ聞キ〔アマ〜傍線〕飽キナイ。モツト鳴カナイカナア。
 
○五月山《サツキヤマ》――五月の頃の山。山の名ではない。○宇能花丹夜《ウノハナヅクヨ》――卯の花が咲いてゐるのに月がさしてゐる夜。代匠記に「卯花のさかりなるが、月夜のごとく見ゆるをいへり」とあるのは誤つてゐる。○又鳴鴨《マタナカヌカモ》――又鳴けよの意、ヌにあたる文字はないが、補つて訓むのである。
(226)〔評〕 綺麗な歌だ、卯の花月夜の一句、よく情景をあらはし得てゐる。この歌、新古今集にも載せてある。
 
1954 ほととぎす 來ゐも鳴かぬか 吾がやどの 花橘の 地に落ちむ見む
 
霍公鳥《ホトトギス》 來居裳鳴香《キヰモナカヌカ》 吾屋前乃《ワガヤドノ》 花橘乃《ハナタチバナノ》 地二落六見牟《ツチニオチムミム》
 
郭公ガ今、吾ガ宿ノ花橘ニ〔八字傍線〕來テ宿ツテ鳴ケヨ。アノ〔二字傍線〕吾ガ宿ノ庭ノ〔二字傍線〕花橘ガ、郭公ノ羽風デ散ツテ〔九字傍線〕地ニ落チ散ルデアラウノヲ見ヨウ。
 
○來居裳鳴香《キヰモナカヌカ》――舊訓キヰテモナクカとあるが、前の歌の結句に倣つて、ナカヌカと訓まねば意が通じない。來居ても鳴けよの意である。これを舊訓に從つた爲に、宣長は結句を地二落左右手《ツチニオツルマデ》と改めてゐるが、もとよりよくない。
〔評〕 郭公の羽風に散る、花橘の美しさを思ひやつたので、優美な歌である。
 
1955 ほととぎす 厭ふ時なし あやめぐさ ※[草冠/縵]にせむ日 こゆ鳴き渡れ
 
霍公鳥《ホトトギス》 厭時無《イトフトキナシ》 菖蒲《アヤメグサ》 ※[草冠/縵]將爲日《カヅラニセムヒ》 從此鳴度禮《コユナキワタレ》
 
郭公ハ何時來テ鳴イテモ〔八字傍線〕イヤト云フ時ハナイ。シカシ同ジ鳴クナラ〔九字傍線〕、菖蒲ヲ頭飾ノ※[草冠/縵]ニスル五月五〔三字傍線〕日ノ頃〔二字傍線〕ニ、此處ヲ鳴イテ通リナサイ。
 
○厭時無《イトフトキナシ》――郭公の鳴く聲を聞くのを、否と言つて嫌ふ時はないの意。○菖蒲※[草冠/縵]將爲日《アヤメグサカヅラニセムヒ》――五月に菖蒲を※[草冠/縵]としたことは蒲草玉爾貫日乎《アヤメグサタマニヌクヒヲ》(一四九〇)、その他用例が多い。
〔評〕 この歌は卷十八に保等登藝須伊等布登伎奈之安夜賣具佐加豆良爾勢武日許由奈伎和多禮《ホトトギスイトフトキナシアヤメグサカヅラニセムヒコユナキワタレ》(四〇三五)とあり、田邊史福麿とあるのは、彼が古歌を誦したものであらう。
 
1956 大和には 啼きてか來らむ ほととごす 汝が鳴く毎に なき人おもほゆ
 
山跡庭《ヤマトニハ》 啼而香將來《ナキテカクラム》 霍公鳥《ホトトギス》 汝鳴毎《ナガナクゴトニ》 無人所念《ナキヒトオモホユ》
 
(227)大和ノ方ヘハ郭公ガ今〔傍線〕啼イテ行クノダラウ。アチラノ人ハオマヘノ聲ヲ聞イテ、面白ク感ズルダラウガ、ワタシハ〔アチ〜傍線〕オマヘガ鳴ク度ゴトニ、死ンダ人ヲ思ヒ出シテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰル。
 
○啼而香將來《ナキテカクラム》――鳴きてか行くらむに同じ。この初二句は卷一に倭爾者鳴而歟來良武呼兒鳥象乃中山呼曾越奈流《ヤマトニハナキテカクラムヨブコドリキサノナカヤマヨビゾコユナル》(七〇)とある。
〔評〕 郭公と死人との關係が詠まれてゐるやうである。旅にあつて亡き人を思つた歌か。卷八の大伴旅人の妻が死んだ時、石上竪魚朝臣が詠んだ老公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問麻思物手《ホトトギスキナキトヨモスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》(一四七二)を合はせて考ふべきである。
 
1957 卯の花の 散らまく惜しみ ほととぎす 野に出山に入り 來鳴きとよもす
 
宇能花乃《ウノハナノ》 散卷惜《チラマクヲシミ》 霍公鳥《ホトトギス》 野出山入《ヌニデヤマニイリ》 來鳴令動《キナキトヨモス》
 
卯ノ花ガ散ルノヲ惜シンデ、霍公鳥ハ野ニ出タリ山ニ入ツタリシテ、コノ邊ニ〔四字傍線〕來テ聲ヲ響カセテ鳴イテヰル。
 
○野出山入《ヌニデヤマニイリ》――野山に出入して郭公が、治躍して鳴く有樣である。
〔評〕 卯の花の咲く野山を翔りつつ鳴く郭公の樣が、生生と詠まれてゐる。
 
1958 橘の 林を植ゑむ ほととぎす 常に冬まで 住みわたるがね
 
橘之《タチバナノ》 林乎殖《ハヤシヲウヱム》 霍公鳥《ホトトギス》 常爾冬及《ツネニフユマデ》 住度金《スミワタルガネ》
 
ワタシハ〔四字傍線〕霍公鳥ガ始終冬マデモココニ住ンデヰル爲ニ、橘ノ林ヲワタシノ屋敷ニ〔七字傍線〕植ヱヨウ。
 
○林乎殖《ハヤシヲウヱム》――略解にハヤシヲウヱツとあるが、舊訓による。○住度金《スミワタルガネ》――ガネは料に、爲に。
〔評〕橘に郭公が宿るものとして、詠んだ歌は他にも多い。卷九の長歌にも吾屋戸之花橘爾住度鳥《ワガヤドノハナタチバナニスミワタレトリ》(一七五五)とあつた。
 
(228)1959 雨はれし 雲にたぐひて ほととぎす 春日をさして こゆ鳴き渡る
 
雨※[日頁齊]之《アメハレシ》 雲爾副而《クモニタグヒテ》 霍公鳥《ホトトギス》 指春日而《カスガヲサシテ》 從此鳴度《コユナキワタル》
 
雨ガ晴レテ春日山ヘ歸ツテ行ク〔テ春〜傍線〕雲ト一緒ニ、霍公鳥ガ春日山ヲ指シテ、飛ビナガラ〔五字傍線〕此處ヲ鳴イテ通ル。
 
〔評〕 雨晴の西風につれて、雲が東の方、春日山をさして、足速く移動してゐる。それと一緒に郭公も春日山を指して、此處を鳴き過ぐるといふので、梅雨晴らしい、すがすがしい歌である。
 
1960 物もふと いねぬ朝明に ほととぎす 鳴きてさわたる すべなきまでに
 
物念登《モノモフト》 不宿旦開爾《イネヌアサケニ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而左度《ナキテサワタル》 爲便無左右二《スベナキマデニ》
 
物ヲ思ツテ眠ラナカツタ夜明ケ方ニ、霍公鳥ガ、悲シクテ〔四字傍線〕何トモ仕樣ガナイホドニ、ココヲ〔三字傍線〕鳴イテ通ルヨ。
 
○鳴而左度《ナキテサワタル》――鳴いて通る。サは接頭語。
〔評〕 感傷的な、あはれな歌。
 
1961 我が衣 君に著せよと ほととぎす 我をうしはき 袖に來ゐつつ
 
吾衣《ワガコロモ》 於君令服與登《キミニキセヨト》 霍公鳥《ホトトギス》 吾乎領《ワレヲウシハキ》 袖爾來居管《ソデニキヰツツ》
 
私ノ着物ヲアナタニ着セヨト、霍公島ガワタシヲ指圖シテ、着物ノ袖ニ、來テトマツテヰル。
 
○吾衣《ワガコロモ》――舊訓ワガキヌヲとある。○吾乎領《ワレヲウシハキ》――舊訓ワレヲシラセテ、考は乎を干に改めてワガホスキヌノ、古義は領を頷としてワレヲウナヅキ、新考はワレヲウナガスと訓んでゐる。領は集中シラスともウシハクとも訓んであるが、新訓に從つてウシハクとよむことにした。改字説は感心しない。殊に頷に改める事は無理であらう。頷は集中に見えない文字である。ウシハキと訓んで、吾を支配し、指圖しての意と解するがよいであらう。
〔評〕 分らぬ歌であるが、言葉通りに解して右の通りにして置いた。契沖が言つたやうに、郭公は袖などに來て鳴くものではないが、近く來て鳴いたのを戯れて、かうよんだのではあるまいか。新考に郭公の形を摺れる衣を、人に贈るとてよんだものとしたのは當るまい。
 
1962 本つ人 ほととぎすをや めづらしみ 今か汝が來る 戀ひつつをれば
 
(229)本人《モトツヒト》 霍公鳥乎八《ホトトギスヲヤ》 希將見《メヅラシミ》 今哉汝來《イマヤナガクル》 戀乍居者《コヒツツヲレバ》
 
ワタシガ〔四字傍線〕昔馴染ノ友達ノ郭公ヲ珍ラシイノデ戀ヒ慕ツテ居ルト、丁度今オマヘガヤツテ來ル。ホントニナツカシイ鳥ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○本人《モトツヒト》――昔馴染の人の意で、次の句の霍公鳥のことである。卷十七に雁を遠つ人と稱し、登保都比等加里我來鳴牟等伎知可美香物《トホツヒトカリガキナカムトキチカミカモ》(三九四七)とあるのに似てゐる。○霍公鳥乎八《ホトトギスヲヤ》――ヲは結句につづいてゐる。ヤは呼びかけていふのでヨの意である。古義に「乎八《ヲヤ》は八與《ヤヨ》と云むが如し」とあるのは當るまい。
〔評〕 本人《モトツヒト》は卷十二(三〇〇九)・卷二十(四四三七)にも用ゐてあるが、ここのは用法が變つてゐて面白い。
 
1963 かくばかり 雨のふらくに ほととぎす 卯の花山に なほか鳴くらむ
 
如是許《カクバカリ》 雨之零爾《アメノフラクニ》 霍公鳥《ホトトギス》 宇之花山爾《ウノハナヤマニ》 猶香將鳴《ナホカナクラム》
 
コンナニ雨ガ降ルノニ霍公鳥ハ、卯ノ花ノ咲イテヰル山デ、ヤハリ鳴イテヰルノダラウカ。ドウダラウ〔五字傍線〕。
 
○字之花山爾《ウノハナヤてマ》――卯の花の咲いてゐる山で、山の名ではない。卷十七に宇能波奈夜麻乃保等登藝須《ウノハナヤマノホトトギス》(四〇〇八)とあるのも同じ。
〔評〕 雨中に山の郭公を思ひやつたので、卯の花山が美しい。
 
詠v蝉
 
蝉はセミ。古義にヒグラシと訓んだのはよくない。
 
1964 もだもあらむ 時も鳴かなむ ひぐらしの ものもふ時に 鳴きつつもとな
 
黙然毛將有《モダモアラム》 時母鳴奈武《トキモナカナム》 日晩乃《ヒグラシノ》 物念時爾《モノモフトキニ》 鳴管本名《ナキツツモトナ》
 
(230)何モナイ時ニ鳴ケバヨイノニ〔二字傍線〕、茅蜩ハ私ガ〔二字傍線〕物ヲ思ツテ氣ノハレナイデ〔七字傍線〕ヰル時ニ、鳴クノハ困ツタモノダ。
 
○黙然毛將有《モダモアラム》――モダは黙つてゐること。ここは何もしないでゐること。○日晩乃《ヒグラシノ》――ヒグラシは茅蜩。カナカナ蝉。卷八に大伴家持晩蝉歌(一四七九)とあつた。○鳴管本名《ナキツツモトナ》――鳴くのはよろしくないことだの意。
〔評〕 狹夜中爾友喚千鳥物念跡和備居時二鳴乍本名《サヨナカニトモヨブチドリモノモフトワビヲルトキニなきつつモトナ》(六一八)はこれを學んだものか。
 
詠v榛
 
榛はハンノキとする説と、萩とする説とに分れて、學者の間に論爭がつづけられてゐる。ここはどうも萩の花らしい。
 
1965 思ふ子が 衣摺らむに 匂ひこそ 島のはり原 秋立たずとも
 
思子之《オモフコガ》 衣將摺爾《コロモスラムニ》 爾保比與《ニホヒコソ》 嶋之榛原《シマノハリハラ》 秋不立友《アキタタズトモ》
 
秋ニナレバ萩ノ花ハ咲クモノダガ〔秋ニ〜傍線〕、島ノ萩原ハ秋ニナラヌ夏ノ今〔三字傍線〕デモ、私ノ愛スル女ノ着物ヲ染メル爲ニ、咲イテクレヨ。
 
○爾保比與《ニホヒコソ》――このコソは希望の辭。與をコソと訓ませるのは集中に例が多い。誤字とするのはわるい。卷七の我告與《ワレニツゲコソ》(一二四八)參照。○島之榛原《シマノハリハラ》――島は草壁皇子の島の宮のあつたところか。然らば大和高市郡の島庄である。
〔評〕 三句切になつてゐるのが注意される。秋不立友《アキタタズトモ》とあるのが、榛でなくて萩の歌らしい。
 
詠v花
 
1966 風に散る 花橘を 袖に受けて 君がみ跡と しぬびつるかも
 
風散《カゼニチル》 花橘※[口+立刀]《ハナタチバナヲ》 袖受而《ソデニウケテ》 爲君御跡《キミガミアトト》 思鶴鴨《シヌビツルカモ》
 
(231)風ニ吹カレテ〔四字傍線〕散ル橘ノ花ヲ袖ニ受ケ入レテ、ソノ花ビラヲ見テ此處ハ〔入レ〜傍線〕アナタガ曾テ〔二字傍線〕オイデナサレタ所ダト思ツテ、アナタヲ〔五字傍線〕ナツカシク思ヒマシタヨ。
 
○爲君御跡《キミガミアトト》――舊訓キミガミタメトとあり、代匠記精撰に君御爲跡又は御爲君跡の誤としてゐる。略解・古義は君御爲跡説を採つてゐる。新考はもとのままでタテマツラムトとよんでゐるが、ここは新訓に從つておいた。○思鶴鴨《シヌビツルカモ》――これも舊訓オモヒツルカモであるが、古義の訓によつた。
〔評〕 第四句を右のやうに訓むと、或人の舊宅又は縁ある地に赴いて、詠んだことになる。上句になつかしい優雅な感じがあらはれてゐる。
 
1967 かぐはしき 花橘を 玉に貫き 送らむ妹は みつれてもあるか
 
香細寸《カグハシキ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 玉貫《タマニヌキ》 將送妹者《オクラムイモハ》 三禮而毛有香《ミツレテモアルカ》
 
薫ノ良イ橘ノ花ヲ玉トシテ糸ニ〔二字傍線〕通シテ、アノ女カライツモ送ツテヨコスノダガ、今年ハマダ送ツテ來ナイノハ〔アノ〜傍線〕、送ツテヨコスベキアノ女ハ、病氣デモシテヰルノデハナイカ。心紀ナコトダ〔六字傍線〕。
 
○三禮而毛有香《ミツレテモアルカ》――ミツレは身羸《ミヤツレ》の略であらうといふ。病んでつかれてゐること。卷四に三禮二見津禮片思男責《ミツレニミツレカタモヒヲセム》(七一九)とある。
〔評〕 花橘を玉に貫く頃、妹よりの消息が絶えたのを、病氣かと心配したのである。第四句は此方から妹に送ることと解してはいけない。
 
1968 ほととぎす 來鳴きとよもす 橘の 花散る庭を 見む人や誰
 
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴響《キナキトヨモス》 橘之《タチバナノ》 花散庭乎《ハナチルニハヲ》 將見人八孰《ミムヒトヤタレ》
 
霍公鳥ガ來テハ聲ヲ響カセテ鳴ク、私ノ家ノ〔四字傍線〕橘ノ花ノ散ル庭ヲ見ニ來〔二字傍線〕ル人ハ誰デセウ。アナタコソソノ人ダト思ヒマス。早クオイデ下サイマシ〔アナ〜傍線〕。
     
(232)○將見人八孰《ミムヒトヤタレ》――見る人は誰かと、訊ねたのではなくて、誰にもあらず、君こそその人なれと言つたのである。
〔評〕 言ひ方が上品で、婉曲である。
 
1969 吾がやどの 花橘は 散りにけり くやしき時に 逢へる君かも
 
吾屋前之《アガヤドノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 落爾家里《チリニケリ》 悔時爾《クヤシキトキニ》 相在君鴨《アヘルキミカモ》
 
私ノ屋敷ノ花橘ハ、今ハモウ〔四字傍線〕散ツテシマヒマシタ。モツト早クオイデ下サレバヨイノニ〔モツ〜傍線〕、アナタハ殘念ナ時ニ、オイデナサツタモノデス。
 
○悔時爾相在君鴨《クヤシキトキニアヘルキミカモ》――悔しき時に君に逢へるかもと同意で、相在《アヘル》は君に逢つたので、君が悔しい時に逢つたのではない。
〔評〕 花橘が咲いたので、友の來るのを待つてゐたが、その友は花が散つた頃になつて、漸く訪ねて來たのを、遺憾とした歌である。三句切の爽やかな格調の作品である。
 
1970 見渡せば 向ひの野べの なでしこの 散らまく惜しも 雨なふりそね
 
見渡者《ミワタセバ》 向野邊乃《ムカヒノヌベノ》 石竹之《ナデシコノ》 落卷惜毛《チラマクヲシモ》 雨莫零行年《アメナフリソネ》
 
見渡スト向フノ野原ニハ撫子ガ美シク咲イテヰルガ、ア〔ニハ〜傍線〕ノ撫子ガ散ルノハ惜シイコトダヨ。雨ヨ、降ラナイデクレヨ。
 
○雨莫零行年《アメナフリソネ》――行年をソネとよむことについては、卷三の雨莫零行年《アメナフリソネ》(二九九)參照。
〔評〕 野もせに美しく咲いた、瞿麥の花を惜しんで雨よ降るなと希つたので、やさしい内容と調子とを持つてゐる。卷三の奥山之菅葉凌零雪乃消者將惜雨莫零行年《オクヤマノスガノハシヌフルユキノケナバヲシケムアメナフリソネ》(二九九)と似たところがある。
 
1971 雨まあけて 國見もせむを ふるさとの 花橘は 散りにけむかも
 
雨間開而《アママアケテ》 國見毛將爲乎《クニミモセムヲ》 故郷之《フルサトノ》 花橘者《ハナタチバナハ》 散家武可聞《チリニケムカモ》
 
(233)雨ガ降リ止ンダラ、舊都ノ景色ヲ見下ロシテ花橘ノ美シイ樣子デモ眺メヨウ〔花橘〜傍線〕ト思ツテヰタノニ、雨バカリ降ツテ居ルウチニ〔雨バ〜傍線〕花橘ハ散ツタダラウナア。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○雨間開而《アママアケテ》――雨間《アママ》は雨の止んだ間であるが、アママアケテといふのは一寸變つた詞である。意は雨霽れてと同じであらう。考にはアメハレテとよんでゐる。○國見毛將爲乎《クニミモセムヲ》――國見は山の上などの高所から、下の平野を見下ろすこと。○故郷之《フルサトノ》――故郷は舊都、飛鳥京であらう。
〔評〕 國見する岡の上から、花橘の白い花が散り過ぎて、最早見られないかと心配したのである。國見といつても、あのあたりの低い岡(恐らく雷岡)からであるから、里の花橘も見えるのである。新考に「國見アリキモセムヲとなり」として、故郷の中を見ながら歩くことに解いてゐるが、國見にはさういふ用例はあるまい。これも優美な、なつかしい歌である。
 
1972 野べ見れば なでしこの花 咲きにけり 吾がまつ秋は 近づくらしも
 
野邊見者《ヌベミレバ》 瞿麥之花《ナデシコノハナ》 咲家里《サキニケリ》 吾待秋者《ワガマツアキハ》 近就良思母《チカヅクラシモ》
 
野原ヲ見ルト撫子ノ花ガ咲イタヨ。コノ花ガ咲イタカラニハ〔コノ〜傍線〕、ワタシノ樂シミニシテ〔六字傍線〕待ツテヰル秋ハ近クナツテ來タラシイヨ。嬉シイナア〔五字傍線〕。
 
〔評〕 三句切の、さつぱりした歌である。爽快な秋を愛した上代人の氣分が出てゐる。後撰集に「なでしこの花ちりがたに成りにけりわがまつ秋ぞ近くなるらし」とあるのは、これを少し改めたのであらう。
 
1973 吾妹子に あふちの花は 散りすぎず 今咲けるごと ありこせぬかも
 
吾妹子爾《ワギモコニ》 相市乃花波《アフチノハナハ》 落不過《チリスギズ》 今咲有如《イマサケルゴト》 有與奴香聞《アリコセヌカモ》
 
(吾妹子爾)楝ノ花ハイツマデモ〔五字傍線〕落リ失セナイデ、今咲イテヰルヤウニ、眞盛デ〔三字傍線〕アツテクレナイカナア。
 
○吾妹子爾《ワギモコニ》――相市《アフチ》につづく枕詞。逢ふにかけてある。○相市乃花波《アフチノハナハ》――アフチは楝、五月の頃、薄紫の可憐(234)な花を開く。卷五(七八九)參照。
〔評〕 初夏の景物として、可憐な楝の花に目を附けたところがよい。かういふ花を愛するのは、支那に倣つたのでなく、眞の國民的趣味に出てゐるやうだ。
 
1974 春日野の 藤は散りにて 何をかも み狩の人の 折りてかざさむ
 
春日野之《カスガヌノ》 藤者散去而《フヂハチリニテ》 何物鴨《ナニヲカモ》 御狩人之《ミカリノヒトノ》 折而將挿頭《ヲリテカザサム》
 
春日野ノ藤ノ花ハモハヤ〔三字傍線〕散ツテシマツテ、コレカラ〔四字傍線〕ハ何ヲマア、御狩ニ來タ人ガ、折ツテ頭ニカザスデアラウカナア。花ノナクナツタ春日野ハ淋シクナツタ〔花ノ〜傍線〕。
 
○藤者散去而《フヂハチリニテ》――舊訓にチリユキテとあるのは拙い。古義に散去吉《チリユキ》かとあるのも面白くない。什匠記精撰本による。○御狩人之《ミカリノヒトノ》――天皇その他、高貴の方の狩に、扈從してゐる人を、御狩の人といつたのであらう。
〔評〕 大宮人の行樂の樣子がしのばれる。はつきりした歌である。
 
1975 時ならず 玉をぞ貫ける 卯の花の 五月を待たば 久しかるべみ
 
不時《トキナラズ》 玉乎曾連有《タマヲゾヌケル》 宇能花乃《ウノハナノ》 五月乎待者《サツキヲマタバ》 可久有《ヒサシカルベミ》
 
卯ノ花ガ咲ク〔二字傍線〕五月マデ待ツテヰテハ待チ遠イノデ、私ハマダ早過ギタガ〔九字傍線〕、時節ハヅレニ藥玉ヲコシラヘタヨ。
 
○玉乎曾連有《タマヲゾヌケル》――玉は藥玉であらう。略解には句を轉倒して、「時ならず卯の花の玉をぬけるといふ意也」とある。○宇能花乃《ウノハナノ》――卯の花の吹く五月とつづくのである。卯の花は卯月即ち四月に咲くものだといふ説もあるが、卯月を卯の花の咲く月の意とするのは俗説で、何等根據がない。卯月即ち卯の花月とは考へられない。前に五月山宇能花月夜《サツキヤマウノハナヅクヨ》(一九五三)とあるではないか。
〔評〕 歌の組立は簡單であるが、古來あまりむつかしく解する説が多い。蓋しこの歌が、詠花とある題には、しつくりふさはぬからであらう。
 
(235)問答
 
1976 卯の花の 咲き散る丘ゆ ほととぎす 鳴きてさ渡る 君は聞きつや
 
宇能花乃《ウノハナノ》 咲落岳從《サキチルヲカユ》 霍公鳥《ホトトギス》 鳴而沙渡《ナキテサワタル》 公者聞津八《キミハキキツヤ》
 
卯ノ花ノ咲イテ散ル岡カラ、郭公ガ鳴イテ飛ンデ行クノヲ、アナタハオ聞キナサイマシタカ。
 
〔評〕霍公鳥鳴音聞哉宇能花乃開落岳爾田草引※[女+感]嬬《ホトトギスナクコヱキクヤウノハナノサキチルヲカニクズヒクヲトメ》(一九四二)とあり、又|鳴而左度爲便無左右二《ナキテサワタルスベナキマデニ》(一九六〇)ともある。
 
1977 聞きつやと 君が問はせる ほととぎす しぬぬにぬれて こゆ鳴き渡る
 
聞津八跡《キキツヤト》 君之問世流《キミガトハセル》 霍公鳥《ホトトギス》 小竹野爾所沾而《シヌヌニヌレテ》 從此鳴綿類《コユナキワタル》
 
聞イタカトアナタガオタヅネニナリマシタ郭公は、五月雨ニ〔四字傍線〕シトシトト濡レテ、此處ヲ鳴イテ通リマス。
 
○小竹野爾所沾而《シヌヌニヌレテ》――シヌヌは前に朝霧爾之怒怒爾所沾而《アサギリニシヌスニヌレテ》(一八三一)ともあつた。しとしととの意。五月雨に濡れたのである。
〔評〕 この二首は共に平明な作である。
 
譬喩歌
 
1978 橘の 花散る里に 通ひなば 山ほととぎす とよもさむかも
 
橘《タチバナノ》 花落里爾《ハナチルサトニ》 通名者《カヨヒナバ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 將令響鴨《トヨモサムカモ》
 
楠ノ花ガ散ル里ヘ私ガ〔二字傍線〕通ツテ行ツタナラバ、山郭公ガ聲ヲ響カセテ鳴キ騷グダラウカナア。ワタシガ女ノ所ヘ通ツテ行ツタラ、人ガ妬ンデ喧シク言ヒ騷グダラウカナア〔ワタ〜傍線〕。
 
○橘花落里爾《タチバナノハナチルサトニ》――他の女に寓してある。卷八に橘之花散里乃霍公鳥片戀爲乍鳴日四曾多寸《タチバナノハナチルサトノホトトギスカタコヒシツツナクヒシゾオホキ》(一四七三)ともあ(236)る。
〔評〕 寓意も明らかで、譬喩歌としては無理がなく、よく出來てゐる。
 
夏相聞
 
寄v鳥
 
1979 春されば すがるなす野の ほととぎす ほとほと妹に 逢はず來にけり
 
春之在者《ハルサレバ》 酢輕成野之《スガルナスヌノ》 霍公鳥《ホトトギス》 保等穗跡妹爾《ホトホトイモニ》 不相來爾家里《アハズキニケリ》
 
(春之在者酢輕成野之霍公鳥)殆ドモウ少シデ〔五字傍線〕女ニ逢ハズニシマハウトシタ。辛ウジテ私ハ女ニ逢ツテ來テ、マアヨカツタ〔辛ウ〜傍線〕。
 
○春之在者酢輕成野之霍公鳥《ハルサレバスガルナスヌノホトトギス》――ホトの音を繰返して、下のホトホトに續いた序詞。酢輕《スガル》は似我蜂。卷九の腰細之須輕娘子之《コシボソノスガルヲトメノ》(一七三八)參照。スガルナスは似我蜂のやうに瘠せてゐる郭公の意であらう。代匠記には舊訓のままに成をナルと訓みながら、意は鳴くと解してゐるのは無理である。さうすれば、野といはむが爲にのみ上は役立つことになる。略解には「春巣を借て生る故にすがると言ふなるべし。ほととぎすも鶯の巣を借て生たてれば、かの春のすがるの如くといふ意にて、すがるなすとは言へるなるべし。」とあるのは奇説である。古義に「成は古語に久羅下那須《クラゲナス》、螢成《ホタルナス》など多く云る成《ナス》にて如の意なるべし。さて春之在者《ハルサレバ》とあるを思ふに、霍公鳥の春のころ巣立て鳴聲はかの〓〓スガル》に似たる故に〓〓如《スガルナス》霍公鳥といふ意につづきたるか」とあるのも從ひたい。スガルは古今集に「すがる鳴く秋の萩原朝立ちて旅行く人をいつとか待たむ」とあるけれども、ここは鳴く音(羽音)ではなく、瘠せて小さいのに譬へたかと思はれる。春の郭公は瘠せて小さいとする言ひならはしがあつたのでは(237)あるまいか。○保等穗跡妹爾《ホトホトイモニ》――ホトホトは殆ど、危くもなどの意。卷七に殆之國手斧所取奴《ホトホトシクニテヲノトラエヌ》(一四〇三)とある。
〔評〕 第二句の解は人によつて異なるであらうが、ともかく序詞が奇拔でおもしろく出來てゐる。珍らしい歌である。
 
1980 五月山 花橘に ほととぎす 隱らふ時に 逢へる君かも
 
五月山《サツキヤマ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 霍公鳥《ホトトギス》 隱合時爾《カクラフトキニ》 逢有公鴨《アヘルキミカモ》
 
五月ノ頃ノ〔三字傍線〕山ニ、咲イタ〔三字傍線〕花橘ニ、霍公鳥ガ姿ヲカクシテ鳴ク〔二字傍線〕頃ニ、アナタニ逢ヒマシタヨ。
 
○隱合時爾《カクラフトキニ》――隱れてゐる時にの意であるが、木蔭で鳴いてゐること。わざわざ隱れてゐるのではない。
〔評〕 上句は序詞とも見られるが、さうではなく郭公が花橘に來鳴く頃に、人にあつたことを喜んだものであらう。下句には喜びの情が見えるやうである。
 
1981 ほととぎす 來鳴く五月の 短夜も 獨しぬれば あかしかねつも
 
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴五月之《キナクサツキノ》 短夜毛《ミジカヨモ》 獨宿者《ヒトリシヌレバ》 明不得毛《アカシカネツモ》
 
霍公鳥ガ來テ鳴ク五月ノ頃ハ、誠ニ夜ガ明ケルノガ早イモノダガ、ソノ〔頃ハ〜傍線〕短イ夜デモ、一人デ寢レバ夜ガ明ケルノガ待チカネルヨ。
〔評〕 明朗な歌だ。拾遺集に載せたのも尤もである。
 
寄v蝉
 
1982 ひぐらしは 時と鳴けども 物戀に 手弱女我は 定まらずなく
 
日倉足者《ヒグラシハ》 時常雖鳴《トキトナケドモ》 我戀《モノコヒニ》 手弱女我者《タワヤメワレハ》 不定哭《サダマラズナク》
 
蜩トイフ蝉〔四字傍線〕ハ夏ヲ鳴クベキ〔六字傍線〕時ト定メテ鳴クガ、物ヲ戀シテ居ルカヨワイ女ノ私ハ、何時ト定メズニイツデモ泣(238)イテヰル。
 
○時常雖鳴《トキトナケドモ》――今こそ鳴く時なりとて鳴くの意。○我戀《モノコヒニ》――舊本、我戀とあるのでは意をなさない。元暦校本に我を於に作り、右に異本に物とある由を記してゐるによつて、物戀《モノコヒニ》とすべきであらう。併し和歌童蒙抄にもワガコフルとあるから、古くから一般に我《ワガ》が行はれてゐたと見える。○不定哭《サダマラズナク》――代匠記精撰本、上に時を補つて、トキワカズナクとよんだのが行はれてゐるが、ここは舊訓のままにして置く。時定まらず泣くの意である。
〔評〕 少し言葉の落ちつかぬ點もあるが、實にあはれな歌である。戀に惱む女性の情が、いたいたしく詠まれてゐる。
 
寄v草
 
1983 人言は 夏野の草の 繁くとも 妹と我とし 携はり寝ば
 
人言者《ヒトゴトハ》 夏野乃草之《ナツヌノクサノ》 繁友《シゲクトモ》 妹與吾師《イモトワレトシ》 携宿者《タヅサハリネバ》
 
人ノ噂ハ夏ノ野ニ生エタ〔四字傍線〕草ノヤウニ、澤山デモ、女ト私ト一緒ニ寢サヘスレバ、ソレデ何モ思フコトハナイ。人ノ惡ロナドカマフモノカ〔ソレ〜傍線〕。
 
○夏野乃草之《ナツヌノケサノ》――これは譬喩である。繁《シゲク》の枕詞とするのはよくない。○妹與吾《イモトワレトシ》――元暦校本に吾の下、師の字があるのがよい。
〔評〕 結句嬉しからむといふやうな餘情を含めてゐるのが、珍らしい形になつてゐる。男らしい強い表現である。
 
1984 この頃の 戀の繁けく 夏草の 苅りはらへども 生ひしくが如
 
廼者之《コノゴロノ》 戀乃繁久《コヒノシゲケク》 夏草乃《ナツクサノ》 苅掃友《カリハラヘドモ》 生布如《オヒシクガゴト》
 
コノ頃ノ私ノ〔二字傍線〕戀シク思フ心ノ頻繁ナコトハ、丁度〔二字傍線〕夏草ガ苅リ拂ツテモ苅リ拂ツテモ、後カラ後カラ〔十二字傍線〕頻リニ生エ(239)ルヤウナモノダ。
 
○廼者之《コノゴロノ》――廼はスナハチ・ソノなどの意であるから、ここは廼者をこの頃の意に用ゐたのである。○生布如《オヒシクガゴト》――舊訓を改めて古義にオヒシクゴトシとよんだのは從ひ難い。卷三の跡無如《アトナキガゴト》(三五一)參照。生布《オヒシク》は生ひ頻く。頻りに生ふること。生ひ及く意ではない。
〔評〕 よく出來た歌だ。譬喩適切。民衆の歌らしい。卷十一の吾背子爾吾戀良久者夏草之苅除十方生及如《ワガセコニワガコフラクハナツクサノカリソクレドモオヒシクガゴト》(二七六九)の異傳であらう。
 
1985 まくずはふ 夏野の繁く 斯く戀ひば まこと吾が命 常ならめやも
 
眞田葛延《マクズハフ》 夏野之繁《ナツヌノシゲク》 如是戀者《カクコヒバ》 信吾命《マコトワガイノチ》 常有目八方《ツネナラメヤモ》
 
(眞田葛延夏野之)頻繁ニコンナニ私ガ人ヲ戀シテヰルナラバ、ホントニ私ノ壽命モ長ク續カウヤ。トテモ駄目ダラウ。モウ戀死スルヨリ外ニ道ハナイ〔トテ〜傍線〕。
 
○眞田葛延夏野之繁《マクズハフナツヌノシゲク》――マクズハフナツヌノをシゲクの序詞とも見るべく、又マクズハフを夏野の枕詞として、夏野のやうに繁くとも見得べく、或はマクズハフナツヌノを譬喩とも考へ得るのであるが、ここは序詞として置かう。○信吾命《マコトワガイノチ》――舊訓を改めて童蒙抄に、サネワガイノチとあり、略解・古義・新考などそれに從つてゐるが、信有得哉《マコトアリエムヤ》(一三五〇)・信今夜《マコトコヨヒハ》(二八五九)・信吾命《マコトワガイノチ》(二八九一)などと共に、マコトと訓まう。
〔評〕 卷十二の荒玉之年緒長如此戀者信吾命全有目八目《アラタマノトシノヲナガクカクコヒバマコトワガイノチマタカラメヤモ》(二八九一)に似て、これは草に寄せた點が違つてゐるのみで、どちらもかなりな歌である。
 
1986 我のみや かく戀すらむ 杜若 丹づらふ妹は 如何にかあらむ
 
吾耳哉《ワレノミヤ》 如是戀爲良武《カクコヒスラム》 垣津旗《カキツバタ》 丹頬合妹者《ニツラフイモハ》 如何將有《イカニカアラム》
 
ワタシバカリガコンナニアノ女ヲ〔四字傍線〕戀シク思フノダラウカ。ワタシガ戀シテヰル〔九字傍線〕、(垣津旗)顔ノ美シイ女ハ、ヤ(240)ハリコンナニワタシヲ戀シテヰルダラウカ〔ヤ〜傍線〕、ドウデアラウ。
 
○垣津旗《カキツバタ》――枕詞。ニヅラフにつづく。○丹頬合妹者《ニヅラフイモハ》――奮本、丹類令妹者とあるのは寫し誤つたのである。元暦校本に頬合とあるによつて改めた。ニヅラフは顔の赤く美しいこと。
〔評〕 自分の戀があまりの烈しさに、相手の女の我に對する戀情の程度を、我に比してどうだらうかと思ひやつたので、戀する人の心の常であらう。ここでは杜若が草として取扱はれてゐる。
 
寄v花
 
1987 片よりに 糸をぞ吾がよる 吾が背子が 花橘を 貫かむと思ひて
 
片搓爾《カタヨリニ》 絲※[口+立刀]曾吾搓《イトヲゾワガヨル》 吾背兒之《ワガセコガ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 將貫跡母日手《ヌカムトモヒテ》
 
私ハ〔二字傍線〕私ノ愛スル〔三字傍線〕男ノ家ノ橘ノ花ヲ糸ニ〔二字傍線〕通サウト思ツテ、片一方ニバカリ糸ヲ搓ツテヰマス。私ハ戀スル男トノ戀ガカナフヤウニト思ツテ、片思ヲシテココロヲナヤマシテヰマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○片搓爾《カタヨリニ》――片搓は片方からばかり縒をかけること。片戀の意を持たせてある。
〔評〕 代匠記精撰本に「寄花歌なれば、花橘は花の時見て、實にならばぬかむと思ふなり」とあるが、花橘とあるからやはり花であらう。しかし橘は花のうちから實の形をなしてゐるので、その實を糸に貫くのであらう。片戀を寄せたものか。かなり工夫の多い歌である。
 
1988 鶯の 通ふ垣根の 卯の花の うき事あれや 君が來まさぬ
 
※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 徃來垣根乃《カヨフカキネノ》 宇能花之《ウノハナノ》 厭事有哉《ウキコトアレヤ》 君之不來座《キミガキマサヌ》
 
(※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之)何カ私ニ對シテ〔七字傍線〕イヤダト思フコトガアルト見エテ、アノオ方ハオイデニナリマセヌ。サモナクバオイデニナル筈ダガ〔サモ〜傍線〕。
 
(241)○※[(貝+貝)/鳥]之往來垣根乃宇能花之《ウグヒスノカヨフカキネノウノハナノ》――厭《ウキ》といはむ爲の序詞。鶯が通つて來る垣根に咲く卯の花の。略解に「鶯はくれども君は我をうしといふ心あればにや君が來ぬと也」とあるのは考へ過ぎではあるまいか。
〔評〕 卷八の霍公烏鳴峯乃上能宇乃花之厭事有哉君之不來益《ホトトギスナクヲノウヘノウノハナノウキコトアレヤキミガキマサヌ》(一五〇一)とよく似てゐるが、鶯の方がウの音を繰返す點に興味が多い。一體この歌は音調に重きを置いてゐるので、上句が皆ノの音で終へてゐるのも注意すべきである。拾遺集には第一句を郭公に改めて載せてある。蓋し春の鳥の鶯を卯の花に配するのを怪しんだのであらう。
 
1989 卯の花の 咲くとはなしに ある人に 戀ひや渡らむ 片思にして
 
宇能花之《ウノハナノ》 開登波無二《サクトハナシニ》 有人爾《アルヒトニ》 戀也將渡《コヒヤワタラム》 獨念爾指天《カタモヒニシテ》
 
私ニ逢ハウト思フ心ガマダ〔私ニ〜傍線〕(宇能花之)開ケナイデヰル人ニ、私ハ片思ヲシテ、戀ヒツヅケテヰルコトカヨ。ホントニバカラシイ〔九字傍線〕。
 
○宇能花之《ウノハナノ》――開《サク》と言はむ爲に置いた、枕詞式用法であるが、眞の枕詞ではない。○開登波無二《サクトハナシニ》――心の開けるとまでは行かぬこと。我を愛する心がまだ開けてゐないこと。この開といふ語は譬喩的に用ゐてあるのである。
〔評〕 寄卯花戀の歌で、特に卯の花を持つて來たのは、憂《ウ》といふ聯想があるからではあるまいか。
 
1990 我こそは 憎くくもあらめ 吾がやどの 花橘を 見には來じとや
 
吾社葉《ワレコソハ》 憎毛有目《ニククモアラメ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 見爾波不來鳥屋《ミニハコジトヤ》
 
アナタハ〔四字傍線〕私コソハ憎ククモアルダラウガ、私ノ屋敷ニ咲イテヰル花橘ヲ、見ニハイラルシヤラナイトイフノデスカ。私ニハ逢ヒニオイデナサラズトモ、花橘ヲ見ニハオイデナサリサウナモノデス〔私ニ〜傍線〕。
 
〔評〕 女らしいやさしい、なつかしい歌である。卷八紀女郎の闇夜有者宇倍毛不來座梅花開月夜爾伊而麻左自常(242)屋《ヤミナラバウベモキマサジウメノハナサケルツクヨニイデマサジトヤ》(一四五二)に似て、更に詰問的な強い調子である。拾遺集に「われこそは憎くもあらめわがやどの花見にだにも君が來まさぬ」とある伊勢の作は、これを模倣したものであらう。
 
1991 ほととぎす 來鳴きとよもす 岡べなる 藤波見には 君は來じとや
 
霍公鳥《ホトトギス》 來鳴動《キナキトヨモス》 岡邊有《ヲカベナル》 藤浪見者《フヂナミミニハ》 君者不來登夜《キミハコジトヤ》
 
霍公鳥ガ來テ聲ヲ響カセテ鳴ク、岡ノホトリニ美シク咲イテヰル〔九字傍線〕藤ノ花ヲ見ニ、アナタハオイデナサラナイノデスカ。オイデナサツテハイカガデス。私ニ用ハナクトモ、藤ノ花ヲ見ニオイデニナリサウナモノデス〔オイ〜傍線〕。
 
〔評〕 前の歌と同型同想と言つてよい。郭公鳴き、藤の花咲く岡に、家居する人の作で、詰問的の力強い歌になつてゐる。
 
1992 隱りのみ 戀ふれば苦し なでしこの 花に咲き出よ あさなさな見む
 
隱耳《コモリノミ》 戀者苦《コフレバクルシ》 瞿麥之《ナデシコノ》 花爾開出與《ハナニサキデヨ》 朝旦將見《アサナサナミム》
 
心ノ中ニ包ンデバカリ戀シテヰレバ辛イコトデス。イツソノコト〔六字傍線〕瞿麥ガ花ト咲キ出ルヤウニ、外ニアラハシテ表向キニ戀ヲ〔外ニ〜傍線〕シナサイ。サウシタラ人目ナドニカマハズニ〔十字傍線〕、毎朝毎朝逢ヒマセウ。
 
○隱耳《コモリノミ》――心の中に包み忍んでばかりの意。○花爾開出與《ハナニサキデヨ》――花の如く咲き出でよの意で、即ち表向に戀をあらはせといふのである。
〔評〕 瞿麥の花に寄せた歌。結句|朝旦將見《アサナサナミム》にも寄せる意があらはれてゐる。卷十六の隱耳戀者辛苦山葉從出來月之顯者如何《コモリノミコフレバクルシヤマノハユイデクルツキノアラハサバイカニ》(三八〇三)と似てゐる。
 
1993 よそのみに 見つつを戀ひむ くれなゐの 末採む花の 色に出でずとも
 
外耳《ヨソノミニ》 見筒戀牟《ミツツヲコヒム》 紅乃《クレナヰノ》 末採花之《スヱツムハナノ》 色不出友《イロニイデズトモ》
 
私ハアナタノコトヲ戀シク思ヒマスガ、人ノ口ガヤカマシイカラ〔私ハ〜傍線〕、(紅乃末採花乃)麦ニアラハシテ戀セズト(243)モ、アナタヲ〔四字傍線〕他所《ヨソ》目ニバカリ見テ戀ヲシテ居リマセウ。
 
○見筒戀卑《ミツツヲコヒム》――舊本筒を箇に誤つてゐる、神田本によつて改めた。○紅乃末採花乃《クレナヰノスヱツムハナノ》――略解に「末は集中宇禮とのみ訓めれば、宣長はうれつむ花と訓まむと言へり」とある。ここは中世以來の訓に從つて置かうと思ふ。紅の末採花は紅花のことで、莖頭に咲く花を採んで染料とするから、末採花といふのである。この二句は色に出づの序詞として用ゐられてゐる。
〔評〕 古今集の「人知れず思へばくるし紅の末つむ花の色に出でなむ」と言葉は似てゐるが、意は反對である。
 
寄v露
 
1994 夏草の 露別衣 つけなくに 吾が衣手の ひる時もなき
 
夏草乃《ナツグサノ》 露別衣《ツユワケゴロモ》 不著爾《ツケナクニ》 我衣手乃《ワガコロモデノ》 千時毛名寸《ヒルトキモナキ》
 
夏草ノ茂ツタ中ノ露ヲ別ケテ行ケバ、着物ハ濡レルモノダガ、ワタシハ〔夏草〜傍線〕夏草ノ露ノ中ヲ別ケテ通ツタ着物ハ着テモヰナイノニ、ワタシノ着物ノ袖ハ乾ク間モアリマセヌ。コレハ皆ワタシガ、アナタヲ戀シク思ツテ流シタ涙デス〔コレ〜傍線〕。
 
○露別衣《ツユワケゴロモ》――夏草の露を押し分けて行く衣の意である。新考にツユワケシキヌとよんだのは考によつたものか。從ひ難い。○不著爾《ツケナクニ》――舊訓キモセヌニとあるのは俗調でおもしろくない。略解にキセナクニとよんで「きせなくにのせは、老せぬ、絶せぬなどのせにひとしく古言なり。卷四、吾せこが蓋世流《ケセル》衣など詠めり」と言つてゐる。ケセルのセは敬語のスで四段活用であるから、これとは異なつてゐる。ここは新訓に從つてツケナクニと訓むことにした。
〔評〕 夏草の露分衣は優雅な詞である。これと吾が衣と對比して、おのづから譬喩になつてゐるのがおもしろい。
 
(244)寄v日
 
1995 六月の 地さへ割けて 照る日にも 吾が袖ひめや 君に逢はずして
 
六月之《ミナヅキノ》 地副割而《ツチサヘサケテ》 照日爾毛《テルヒニモ》 吾袖將乾哉《ワガソデヒメヤ》 於君不相四手《キミニアハズシテ》
 
六月頃ノ日光ハ實ニ強クテ何デモ乾カスガ〔六月〜傍線〕、地サヘ裂ケルヤウナ強イ〔二字傍線〕六月ノ日光ニモ、アナタニオ目干カカラナイデハ、ワタシノ袖ハ乾キハシマセヌ。私ハアナタヲ思ツテ絶エズ泣イテヰルカラ、私ノ袖ハイツデモ乾きマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
〔評〕 力強い歌だ。地さへ裂けて照る日といふ語は、類のない珍らしいもので、雄勁な内容と調子とはこの集でなくては見られないものである。
 
秋雜歌
 
七夕
 
1996 天の川 水底さへに 照らす舟 はてし舟人 妹とみえきや
 
天漢《アマノガハ》 水左閇而《ミナソコサヘニ》 照舟《テラスフネ》 竟舟人《ハテシフナビト》 妹等所見寸哉《イモトミエキヤ》
 
天ノ川ノ水ノ底マデモ照ラス程ノ美シイ〔五字傍線〕舟ニ乘ツテ對岸ニ〔七字傍線〕着イタ牽牛星トイフ〔六字傍線〕舟人ハ、妻ノ織女星〔四字傍線〕ト今夜一年ブリデ〔七字傍線〕逢ツタデアラウカ。ドウデアラウ〔六字傍線〕。
 
○水左閉而《ミナソコサヘニ》――舊本|水左閉而照《ミヅサヘニテル》とあるが、略解に「古本水の下底の字有り。然れば二三四の句みなそこさへに(245)てるふねのはててふなびとと訓べし」とあるに從ふ。但し校本萬葉集に底の字ある本が見えないが、赤人集にこの歌を「あまのかはみなそこまてにてらすふねつひにふなひといもとみえずや」とあるから、底の字のある本もあつたのであらう。新訓に「水|障《サ》へて照る舟競ひ」とあるが、意が明らかでないやうである。ミナソコサヘニテラスフネは舟が美しく色どられてゐるので、水の底までも映ずるのである。而の字も異本はないが、丹などの誤であらうか。○竟舟人《ハテシフナビト》――竟は温故堂本に競に作つてゐるので、新訓には上につづけて、フナギホヒと訓んでゐるが、他本は皆竟とあるのだから、竟としてよむ方がよいやうに思ふ。竟は竟而佐守布《ハテテサモラフ》(一一七一)・年者竟杼《トシハハツレド》(二四一〇)など、ハツとよむべき文字である。ハテシフナビトは對岸へ到着した舟人、即ち牽牛星のことである。
〔評〕 牽牛星の喜びを想像してゐる。懷風藻に見えた七夕の詩「玲瓏映2彩舟1」とあるのと同想である。七夕の歌がここに長歌短歌併せて一百九十八首に及んでゐるのは、如何にこの傳説が廣く行はれてゐたかを示すもので、これも當時流行した神仙思想と、同一傾向によるものと見るべきであらう。
 
1997 久方の 天の川原に ぬえ鳥の うらなげましつ ともしきまでに
 
久方之《ヒサカタノ》 天漢原丹《アマノカハラニ》 奴延鳥之《ヌエトリノ》 裏歎座津《ウラナゲマシツ》 乏諸手丹《トモシキマデニ》
 
(久方之)天ノ川原デ、棚機ハ彦星ノ來ルノヲ待ツテ、コンナニ戀シガルノハ〔棚機〜傍線〕珍ラシク思ハレル程ニ、(奴延鳥之)心デ歎息シテヰル。
 
○奴延鳥之裏歎座津《ヌエトリノウラナゲマシツ》――卷一に奴要子鳥裏歎居者《ヌエコトリウラナゲヲレバ》(五)とあるのと同じで、奴延鳥之《ヌエドリノ》はウラナゲの枕詞。ウラナゲは心の中に歎くこと。この下にも奴延鳥浦嘆居《ヌエトリノウラナゲヲリト》(二〇三一)とあり、卷十七に奴要鳥能宇艮奈氣之郡追《ヌエドリノウラナゲシツツ》(三九七八)ともある。○乏諸手丹《トモシキマデニ》――トモシは代匠記初稿本に、「かかるこひは、たぐひすくなく、めづらしきまでになり」とある意であらう。古義は羨ましきまでにの意とし、新考は「哀などの誤としてカナシキマデニとよむべし」とある。諸手をマデとよむのは、左右・二手をマデとよむのと同じで、兩手をマデといつたのである。
〔評〕 これは彦星を待ちわぶる、織女の状態を見てゐる、第三者の心を述べたものである。優れた歌ではない。
 
1998 吾が戀を つまは知れるを 行く船の 過ぎて來べしや 言も告げなむ
 
(246)吾戀《ワガコヒヲ》 嬬者知遠《ツマハシレルヲ》 往船乃《ユクフネノ》 過而應來哉《スギテクベシヤ》 事毛告火《コトモツゲナム》
 
私ガ戀フルコトヲ夫ノ彦星〔三字傍線〕ハ知ツテヰルノニ、天ノ河ヲ〔四字傍線〕行ク舟ガ、黙ツテ〔三字傍線〕通リ過ギルトイフコトガアルモノデスカ。何トカ〔三字傍線〕言傳シテモラヒタイモノデス。
 
○吾戀《ワガコヒヲ》――舊訓を略解にワガコフルと改めたのはよくない。○嬬者知遠《ツマハシレルヲ》――舊訓イモハシレルヲとあるのはよくないであらう。略解に「知一本彌に作るぞよき。つまはいやとほくと訓べし」とあるのは、落ちつかない訓である。○事毛告火《コトモツゲナム》――舊訓コトモツゲラヒとあるのではわからない。童蒙抄や略解に火を哭の誤としてコトモツゲナクとよんでゐるが、火は卷十三に二二火四吾妹《シナムヨワギモ》(三二九八)とあり、火を方角に配すれば南に當るから、火を南に借りてナムと訓ませたのであらう。珍らしい用字法の一例である。
〔評〕 織女星の心になつてよんだものである。一寸難解の點もないではないが、右のやうに訓めば理義明白である。第三句を枕詞とする説はよくない。
 
1999 あからひく 敷妙の子を しば見れば 人妻ゆゑに 我戀ひぬべし
 
朱羅引《アカラヒク》 色妙子《シキタヘノコヲ》 數見者《シバミレバ》 人妻故《ヒトヅマユヱニ》 吾可戀奴《ワレコヒヌベシ》
 
顔色ノ赤イ美シイ女ヲ度重ネテ見ルト、アレハ〔三字傍線〕人ノ妻ダノニ、私ハ思ガ加ハツテ〔六字傍線〕戀シク思フデアラウ。
 
○朱羅引《アカラヒク》――枕詞。赤ら引く。赤らは赤ら橘などの赤らであらう。ひくは光る、輝くなどの意か。この枕詞は朝・日・月・肌などにもつづいてゐるが、ここに色妙子《シキタヘノコ》につづいたのは、顔の色の赤く輝く意であらう。○色妙子《シキタヘノコヲ》――イロタヘノコヲと訓む説もあるが、卷二に色妙乃枕等卷而《シキタヘノマクラトマキテ》(二二二)とあるによれば、イロタへはよくないやうである。シキタヘは古義に「色《シキ》は重浪《シキナミ》の重《シキ》にて妙《タヘ》は微妙《クハシクタヘ》なる謂ならむ。美女を稱ていふなるべし」とあるのに從はう。○數見者《シバミレバ》――屡々見れば。○人妻故《ヒトヅマユヱニ》――人妻だのに。この故には、ダノニ、ナルモノヲなどの意で、集中に多い。
(247)〔評〕人妻を戀ふる歌である。七夕の歌らしくないが、朱羅引色妙子《アカラヒクシキタヘノコ》を織女に見たのであらう。織女の美に見とれた人の歌として、七夕の歌と見られないことはない。
 
2000 天の川 安の渡に 船うけて 秋立つ待つと 妹に告げこそ
 
天漢《アマノガハ》 安渡丹《ヤスノワタリニ》 船浮而《フネウケテ》 秋立待等《アキタツマツト》 妹告與具《イモニツゲコソ》
 
天ノ川ノ安ノ渡《ワタリ》ニ船ヲ浮ベテ、ワタシハ〔四字傍線〕秋ガ來ルノヲ待ツテヰルト、ワタシノ〔四字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ニ告ゲテクレヨ。
 
○安渡爾《ヤスノワタリニ》――天の川の渡舟場を安の渡といつたのである。古事記に「是以八百萬神於2天安河之河原1神集集而《ココヲモテナホヨロヅヨノカミアメノヤスノカハラニカムツドヒツドヒテ》」とあり、天上の川を天の安川といつたのを移して七夕傳説に取り入れ、天の川の名としたものである。○秋立待等《アキタツマツト》――秋の來るのを待つてゐるとの意、舊訓にアキタチマツトとあるのはわるい。宣長が秋を我の誤としてワガタチマツトいつたのも從ひがたい。○妹告與具《イモニツゲコソ》――與具は略解に乞其の誤とあるが、與は遊飲與(《アソビニモコソ》(九九五)・相見與《アフトミエコソ》(二八五〇)などのやうに一字でコソと訓む字であるから、それにソを添へたものであらう。さう見れば具は其《ソ》の誤ではあるまいか。卷十三の眞福在與具《マサキクアリコソ》(三二五四)も同樣に考へたい。
〔評〕 牽牛が織女を待ちわびる心を述べたもの。神代卷の高天原の安の河を、銀河に移したのはおもしろい。
 
2001 大空ゆ 通ふ我すら 汝が故に 天の川路を なづみてぞ來し
 
從蒼天《オホゾラユ》 往來吾等須良《カヨフワレスラ》 汝故《ナガユヱニ》 天漢道《アマノカハヂヲ》 名積而叙來《ナヅミテゾコシ》
 
空ヲ飛ンデ〔三字傍線〕通フコトノ出來ル〔六字傍線〕ワタシダガ、ソレデ〔五字傍線〕スラ、今夜ハ空ヲ飛バズニ〔九字傍線〕、アナタ故ニ天ノ川ノ道ヲ、苦シイ思ヒヲシナガラ歩イテ〔三字傍線〕來マシタ。
 
○從蒼天往來吾等須良《オホゾラユカヨフワレスラ》――大空を飛び通ふことの出來る我すらにの意で、星は空を飛ぶので、牽牛の心になつてかくいつたのである。○名積而叙來《ナヅミテゾコシ》――ナヅムは骨折り苦しむこと。
〔評〕 牽牛が天の川路に行き惱む辛勞を、織女に訴へる趣で、一二の句に興味がある。
 
2002 八千戈の 神の御世より 乏しづま 人知りにけり 繼ぎてし思へば
 
(248)八千戈《ヤチホコノ》 神自御世《カミノミヨヨリ》 乏?《トモシヅマ》 人知爾來《ヒトシリニケリ》 告思者《ツギテシオモヘバ》
 
八千戈ノ神ノ昔ノ〔二字傍線〕御代カラ、ワタシガ〔四字傍線〕絶エズ戀シク思ツテヰルノデ、ワタシノ〔四字傍線〕愛スル妻ヲ、人ガ知ツテシマツタヨ。
 
○八千戈神自御世《ヤチホコノカミノミヨヨリ》――八千戈神は大國主神の別名、一〇六五參照。○乏?《トモシヅマ》――トモシはここでは、なつかしく愛する意。トモシヅマは織女を指す。○告思者《ツギテシオモヘバ》――告はツゲをツギに轉じ、繼に借り用ゐたのである。
〔評〕 牽牛星の心を述べてゐる。織女が自分の妻なる由が、世人に知れ渡つてゐることを言つたので、一二五三四と句を次第して見るべきであらう。一二の句は卷六にも見えた句だが、支那傳來の説話を日本化してゐるのが作者の工夫である、
 
 
ワタシノ戀シク思ツテヰル美シイ〔三字傍線〕紅顔ノ織女〔三字傍線〕ハ、今夜コソハ天ノ川原ニ石ヲ枕ニシテ、一年ブリデワタシト〔九字傍線〕寢ルデアラウカ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○丹穗面《ニノホノオモワ》――ニノホは赤い色の秀でて美しいこと。面はオモワと訓むがよからう。新考にはオモテとある。卷五に爾能保奈酒意母提乃宇倍爾《ニノホナスオモテノウヘニ》(八〇四)あるが、卷十九には御面謂2之美於毛和1(四一六九)と自註があるから、オモワでよい。○石枕卷《イソマクラマク》――石枕は代匠記精撰本・考・新訓などに、イハマクラとよんであるのもわるくはないが、ここは舊訓によらう。この句は上にコヨヒモカとあるから、イソマクラマカムと結ぶべきところであらうが、斷定的にマクとしたのであらう。
〔評〕 第三句の今夕《コヨヒ》は何日のこととも解し得るが、七日の夕のこととして、牽牛の心になつてよんだ歌とすべきであらう。少しく感覺的の傾向がある。
 
2004 おのが夫 乏しむ子らは 泊てむ津の 荒磯まきて寝む 君待ちがてに
 
(249)己?《オノガツマ》 乏子等者《トモシムコラハ》 竟津《ハテムツノ》 荒礒卷而寐《アリソマキテネム》 君待難《キミマチガテニ》
 
自分ノ夫ヲナツカシガル織女トイフ〔五字傍線〕女ハ、夫ノ彦星〔三字傍線〕ヲ待チカネテ、ソノ舟ガ〔四字傍線〕着ク天ノ川ノ〔四字傍線〕船着場ノ荒磯ヲ枕トシテ寢ルデアラウ。
 
○己?《オノガツマ》――舊訓による。略解にシガツマノとあるのはよくない。?の字を用ゐてあるが、夫の彦星のことである。○乏子等者《トモシムコラハ》――舊訓トモシキコラハとあるが、略解の宣長説による。ともしむはなつかしむこと。子等は織女を指す。○竟津《ハテムツノ》――舊訓アラソヒツとある。代匠記初稿本、竟の上、舟の字脱として、フネハテツとよんでゐる。考には竟を立見の二字として、タチテミツとよんでゐる。略解の宣長説はハツルツノとしてゐるのもよいが、古義にハテムツノとあるのに從はう。○荒礒卷而寐《アリソマキテネム》――略解に從つた。古義にはアリソマキテヌとある。これは宣長説によつたのである。
〔評〕 古來訓法が統一せられないで、意味もいろいろに解せられる。併し、右のやうに訓めばあまり無理もないやうだ。第三者が織女の有樣を想像したものである。
 
2005 天地と 別れし時ゆ おのがつま しかぞ年にある 秋待つ我は
 
天地等《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》 自?《オノガツマ》 然叙年而在《シカゾトシニアル》 金待吾者《アキマツワレハ》
 
天地開闢ノ時カラ、ワタシノ妻トシテ、織女ハ〔六字傍線〕カウシテ手ノ中ノモノトナツテヰル。デ〔傍線〕、ワタシハ妻ニ逢ヘル〔五字傍線〕秋ヲカウシテ〔四字傍線〕待ツテヰル。
 
○天地等別之時從《アメツチトワカレシトキユ》――卷三の不盡山の歌には天地之分時從《アメツチノワカレシトキユ》(三一七)とあつたが、ここは同意ながら、天と地とが相分離したやうに云つたものである。○然叙手而在《シカゾテニアル》――略解に「四の句誤字あらむ、解しがたし」とあるが、このままで分らぬことはない。織女を妻として手に入れてゐるといふのである。○金待吾者《アキマツワレハ》――金を秋に用ゐたのは五行を四季に配すれは、金が秋に當るからである。
(250)〔評〕 彦星の心を述べたもので、二星の契の古く久しいことがよまれてゐるのは、前の八千戈神自御世《ヤチホコノカミノミヨヨリ》(二〇〇二)、後の乾坤之初時從《アメツチノハジメノトキユ》(二〇八九)などと同樣である。
 
2006 彦星は 嘆かすつまに 言だにも のりにぞ來つる 見れば苦しみ
 
孫星《ヒコホシハ》 嘆須?《ナゲカスツマニ》 事谷毛《コトダニモ》 告余叙來鶴《ノリニゾキツル》 見者苦彌《ミレバクルシミ》
 
彦星ハ自分ヲ思ツテ〔六字傍線〕、嘆イテヰル妻ニ、ソノ樣子ヲ〔五字傍線〕見ルト苦シイノデ、セメテ言葉ダケデモ、言ヒ慰メヨウト思ツテ〔言ヒ〜傍線〕、言ヒニ來マシタ。
 
○告余叙來鶴《ノリニゾキヅル》――告は集中ノリともツゲともよんであるが、ここはノリとして置かう。余は元暦校本・類聚古集、その他の古本多くは爾に作つてゐるから、その誤に違ひない。
〔評〕 彦星の心を第三者が側から述べたものである。新考に結句を不見者苦彌《ミズバクルシミ》と改めたのは妄であらう。
 
2007 久方の 天つしるしと 水無河 隔てて置きし 神代し恨めし
 
久方《ヒサカタノ》 天印等《アマツシルシト》 水無川《ミナシガハ》 隔而置之《ヘダテテオキシ》 神世之恨《カミヨシウラメシ》
 
(久方)空ノシルシトシテ、水ノ無イ天ノ〔二字傍線〕川ヲ流シテソレデ我等二人ノ間ヲ〔流シ〜傍線〕、隔テテ置イタ神代ガ恨メシイ。
 
○天印等《アマツシルシト》――天の標として。次の長歌に天地跡別之時從久方乃天驗常定大王天之河原爾《アメツチトワカレシトキユヒサカタノアマツシルシトサダメテシアマノカハラニ》(二〇九二)とあるのも同じ。○水無河《ミナシガハ》――前に引いた長歌に天之河原爾《アマノカハラニ》とある通り、これは天の河を指してゐる。下界から見れば水が見えないので、水無川《ミナシガハ》といふのであらう。舊訓はミナセガハとある。
〔評〕 これは二星の心になつて詠んでゐる。悠久な、しかも逢瀬の尠い戀を悲しんでゐる。
 
2008 ぬば玉の 夜霧がくりて 遠くとも 妹が傳へは 早く告げこそ
 
黒玉《ヌバタマノ》 宵霧隱《ヨギリガクリテ》 遠鞆《トホクトモ》 妹傳《イモガツタヘハ》 速告與《ハヤクツゲコソ》
 
(黒玉)夜ノ霧ガ立チコメテ、ワタシノ居ル所ガソコカラ〔ワタ〜傍線〕遠クトモ、ワタシノ〔四字傍線〕妻ノ織女ノ〔三字傍線〕言傳は、速クワタシニ〔四字傍線〕知(251)ラセテクダサイ。
 
○黒玉《ヌバタマノ》――夜の枕詞。八九參照。○宵霧隱《ヨギリガクリテ》――舊訓はヨギリコモリテとあるが、下に烏玉之夜霧隱遠妻手乎《ヌバタマノヨギリガクリニトホヅマノテヲ》(二〇三五)とあるから、ガクリとよむべきであらう。○妹傳《イモガツタヘハ》――古義に傳の下、言を補つて、イモガツテゴトをよんでゐる。ここは考による、意はツテゴトに同じ。
〔評〕 彦星が織女からの、使を待ちわぶる心を述べてゐる。七夕の傳説としては少し變つてゐるやうだ。
 
2009 汝が戀ふる 妹のみことは 飽き足りに 袖振る見えつ 雲隱るまで
 
汝戀《ナガコフル》 妹命者《イモノミコトハ》 飽足爾《アキタリニ》 袖振所見都《ソデフルミエツ》 及雲隱《クモガクルマデ》
 
アナタノ戀ヒ慕フ妻ノ織女ノ〔三字傍線〕君ハ、アナタガ〔四字傍線〕遠ク雲隱レテ見エナクナルマデ、飽クマデモ袖ヲ振ツテ居ルノガ見エル。
 
○飽足爾《アキタリニ》――舊訓アクマデニとあるが、文字通りによんだ童蒙抄説にょる。飽き足るまでにの意。
〔評〕 織女が別れを惜しむ樣を、第三者が彦星に告げる歌である。
 
2010 ゆふづつも 通ふ天路を いつまでか 仰ぎて待たむ 月人をとこ
 
夕星毛《ユフヅツモ》 往來天道《カヨフアマヂヲ》 及何時鹿《イツマデカ》 仰而將待《アフギテマタム》 月人壯《ツキヒトヲトコ》
 
既ニ日モクレテ〔七字傍線〕、宵ノ明星モ、天ヲ通フ頃トナツタノニ、アノ〔天ヲ〜傍線〕天ヲ仰イデ、月ヨ、ワタシハ彦星ノ來ルノヲ〔ワタ〜傍線〕何時マデ待ツノデアラウゾ。
 
○夕星毛《ユフヅツモ》――夕星《ユフヅツ》は和名抄に長庚由不豆々とあり、即ち太白星のことである。○月人壯《ツキヒトヲトコ》――月をいふ。左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》(九八三)に同じ。代匠記にこれを彦星のこととし、略解もそれに從つてゐるが誤であらう。
〔評〕 織女が彦星の來ることの遲いのを待ちわびて、月に言ひかける言葉であらう。仰而將待《アフギテマタム》の句が天の川を隔ててゐるものを待つとしては、ふさはしくないとの考から、古義には月を待つ歌として「此歌は月を待歌なる(252)がまぎれて七夕の歌の中に入たるならむ」とあるが、七夕の夜に月を詠んだ歌は卷十五に七夕歌一首、於保夫禰爾麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登※[示+古]《オホフネニマカヂシジヌキウナバラヲコギデテワタルツキヒトヲトコ》(三六一一)とあるから、月を詠ずるのも不思議はないのである。これはここの七夕歌中では佳作であらう。
 
2011 天の川 いむかひ立ちて 戀ふるとに 言だに告げむ つま問ふまでは
 
天漢《アマノガハ》 已向立而《イムカヒタチテ》 戀等爾《コフルトニ》 事谷將告《コトダニツゲム》 ?言及者《ツマトフマデハ》
 
天ノ川ニ向ヒ立ツテ、ワタシハ織女ヲ戀〔八字傍線〕シテ居ル時ニ、セメテ使デモヨコシテ〔七字傍線〕傳言デモシテクダサイ。七夕ノ夜ガ來テ親シク〔十七字傍線〕妻ヲ訪フマデハ、ドウゾ使デモヨコシテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○已向立而《イムカヒタチテ》――舊訓はコムカヒとあるが、已は音イであるから、イムカヒである。イは添へて言ふのみ。○戀等爾《コフルトニ》――舊訓コフラクニとあるが、代匠記精撰本の説による。戀ふる時にの意。トニは夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》(一八二二)參照。○?言及者《ツマトフマデハ》――この句は諸説があるが、暫く新訓に「?《ツマ》問ふまでは」とあるによつて解かう。即ち言《トフ》を問の借字と見るのである。少し無理のやうであるが、他に良説もない。
〔評〕 彦星の心であらう。織女の心と見られぬこともない。
 
2012 白玉の 五百つつどひを 解きも見ず あは干しがたぬ 逢はむ日まつに
 
水良玉《シラタマノ》 五百都集乎《イホツツドヒヲ》 解毛不見《トキモミズ》 吾者干可太奴《アハホシガタヌ》 相日待爾《アハムヒマツニ》
 
白玉ノ澤山ヲ貫イタ飾ノ紐ヲ〔七字傍線〕解イテ二人デ安ラカニ寢テ〔九字傍線〕モ見ナイデ、ワタシハ妻ト〔二字傍線〕相逢フ日ヲ待ツテ涙ニ袖ヲ〔四字傍線〕干シカネテヰル。
 
○水良玉《シラタマノ》――水をシの假名に用ゐたのは、珍らしいが、水長鳥《シナガドリ》(一七三八)ともあるから、水はシと訓むべき文字である。○釘五百都集乎《イホツツドヒヲ》――五百箇《イホツ》集を。白玉の五百箇集は即ち首にかける御統《ミスマル》の玉である。○吾者干可太奴《アハホシガタヌ》――我は干すに勝へず、即ち干しかねるの意。袖の涙を干し得ずといふのであらう。ガタヌはガテヌに同じ。
(253)九八參照。
〔評〕 織女が彦星を待つ心である。干可太奴《ホシガタヌ》とのみ言つて、袖の涙を干しかねると解するのは、少し無理のやうでもあるが、他に良解もない。一二の句は天人らしい装である。
 
2013 天の川 水かげ草の 秋風に 靡かふ見れば 時は來にけり
 
天漢《あまのがは》 水陰草《ミヅカゲグサノ》 金風《アキカゼニ》 靡見者《ナビカフミレバ》 時來之《トキハキニケリ》
 
天ノ川ノ水ノホトリノ〔四字傍線〕蔭ニ生エテヰル草ガ、秋風ニ靡クノヲ見ルト、彦星ガ尋ネテ來ル〔八字傍線〕時ガ來タラシイ。
 
○水陰草《ミヅカゲグサ》――眞淵はミコモリグサとよんで、「祝詞にミクマリともミコモリとも訓如く、みなまたに生たる草をいふ也」といひ、古義はこれに從つてゐる。新考はこの訓に從つて、解は「水中に生ひたる草」としてゐる。この陰の字は、大矢本・京大本は隱に作つてゐる。水隱は水隱爾《ミコモリニ》(一三八四)・(二七〇七)・水隱《ミコモリニ》(二七〇三)などの用例があつて、水中に隱れて見えぬことである。ここをミコモリグサと讀み得ぬことはあるまいが、水中に隱れた草としては下に秋風に靡くとあるのに相應しない。水中に生ひたる草とするのは、コモルの意に合致しない。陰草《カゲグサ》は下にも影草乃生有屋外之暮陰爾《カゲグサノオヒタルヤドノユフカゲニ》(二一五九)とあり、物陰に生ひたる草をいふらしい。で、ここはミヅカゲグサとよんで、水邊の物蔭に生ずる草とするのが穩やかではあるまいか。卷十二の山河水陰生山草《ヤマカハノミヅカゲニオフルヤマスゲノ》(二八六二)の水陰も水邊の物蔭と解すべきであらう。○靡見者《ナビカフミレバ》――舊訓ナビクヲミレバとあるのでもわるくはない。○時來之《トキハキニケリ》――之の字は元磨校本・類聚古集・神田本など々になつてゐるといふので、新訓は、舊訓トキハキヌラシ、考に良を補つてトキキタルラシとよんだのを退けて、トキハキニケリとしてゐる。これに從ふことにした。
〔評〕 七夕近い初秋の天の川邊の風景が、爽やかによまれてゐる。彦星を待つ織女の嬉しい心が、あらはれてゐるものと見るべきあらう。
 
2014 吾が待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも にほひに行かな 遠方人に
 
吾等待之《ワガマチシ》 白芽子開奴《アキハギサキヌ》 今谷毛《イマダニモ》 爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》 越方人邇《ヲチカタビトニ》
 
(254)ワタシガ待ツテヰタ秋萩ノ花モ咲イタ。今マデ永イ間待ツテヰタガ、セメテ〔今マ〜傍線〕今デモ、遠クノ方ニ居ル織女星トイフ〔六字傍線〕人ニ逢ヒニユキマセウ。
 
○白芽子開奴《アキハギサキヌ》――白をアキとよむのは、白は西方秋の色であるからである。下にも白風《アキカゼニ》(二〇一六)とある。○爾寶比爾往奈《ニホヒニユカナ》――わからない語である。略解に「なまめきにゆかむといふ意ならむ」とあり。古義も同樣である。○越方人邇《ヲチカタビトニ》――越方人《ヲチカタビト》は遠方にゐる人、即ち織女をいふ。
〔評〕 萩の咲くによつて、織女に逢ふべき時の來れるを、喜んだ彦星の心である。天上を下界と同じく萩の咲くものとした構想が變つてゐる。
 
2015 吾がせこに うら戀ひをれば 天の川 夜船こぎとよむ かぢの音聞ゆ
 
吾世子爾《ワガセコニ》 裏戀居者《ウラコヒヲレバ》 天漢《アマノガハ》 夜船榜動《ヨフネコギトヨム》 梶音所聞《カヂノトキコユ》
 
ワタシガ〔四字傍線〕ワタシノ夫ノ彦星〔三字傍線〕ヲ心ノ中デ戀シガツテ居ルト、天ノ川デ夜舟ヲ漕ギ騷イデヰル櫂ノ音ガ聞エル。イヨイヨ夫ノ彦星ガ來ルト見エル。アア嬉シイ〔イヨ〜傍線〕。
 
○裏戀居者《ウラコヒヲレバ》――裏は心。この句は心の中に戀してをればの意。
〔評〕 織女の心をよんだ歌。平明な朗らかな作である。
 
2016 まけ長く 戀ふる心よ 秋風に 妹が音聞こゆ 紐解きゆかな
 
眞氣長《マケナガク》 戀心自《コフルココロヨ》 白風《アキカゼニ》 妹音所聽《イモガオトキコユ》 紐解往名《ヒモトキユカナ》
 
月日長ク今マデ〔三字傍線〕戀ヒ慕ツテヰタ私ノ心カラシテ、秋風ノ吹クノニツレテ、妻ノ織女ノ〔三字傍線〕聲ガ聞エル。サア着物ノ〔五字傍線〕紐ヲ解イテ逢ヒニ〔三字傍線〕行キマセウ。
 
○眞氣長《マケナガク》――マは接頭語で意味はない。ケナガクは日を重ねて、久しく。○戀心自《コフルココロヨ》――戀しく思ふ心から。(255)○妹音所聽《イモガオトキコユ》――新考に「妹音は梶の音の誤なることしるし」とあるが、さう速斷は出來ない。改めない方がよからう。○紐解往名《ヒモトキユカナ》――宣長は往を待の誤として、マタナとし、古義は枉の誤としてマケナとしてゐるが、これももとのままでよい。
 
〔評〕 彦星の心である。卷八の天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐解設奈《アマノカハアヒムキタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマケナ》(一五一八)、この卷の天漢川門立吾戀之君來奈里紐解待《アマノガハカハトニタチテワガコヒシキミキタルナリヒモトキマタム》(二〇四八)などに似てゐるが、彼は織女の心であるのに、これは彦星の心を述べてゐるところに差異がある。
 
2017 戀しくは け長きものを 今だにも 乏しむべしや 逢ふべき夜だに
 
戀敷者《コヒシクハ》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》 今谷《イマダニモ》 乏牟可哉《トモシムベシヤ》 可相夜谷《アヒベキヨダニ》
 
戀シイノハ、長イ間デアツタノニ、今ニナツテカラ、不足ナ思ヲサセルトイフコトガアルモノデスカ。カウシテ〔四字傍線〕逢ハウトイフ今夜デモ、セメテ不足ノ感ヲ起サセヌヤウニ速ク逢ハセテ下サイ〔セメ〜傍線〕。
 
○戀敷者《コヒシクハ》――戀しいことはの意。下に戀爲來食永我《コヒシクノケナガキワレハ》(二三三四)、卷十六に戀之久爾痛苦身曾《コヒシクニイタキワガミゾ》(三八一一)、卷二十に故非之久能於保加流和禮波《コヒシクノオホカルワレハ》(四四七五)ともある。○乏牟可哉《トモシムベシヤ》――乏しがらしむべしやの意。即ち充分に滿足するやうに相見むといふのである。
 〔評〕 下に戀日者氣長物乎今夜谷令乏應哉可相物乎《コフルヒハケナガキモノヲコヨヒダニトモシムベシヤアフベキモノヲ》(二〇七九)とあるのと、よく似てゐる。
 
2018 天の川 こぞの渡りで うつろへば 河瀬を踏むに 夜ぞふけにける
 
天漢《アマノガハ》 去歳渡代《コゾノワタリデ》 遷閉者《ウツロヘバ》 河瀬於蹈《カハセヲフムニ》 夜深去來《ヨゾフケニケル》
 
天ノ川ノ去年渡ツタ所ガ、今年ハ丸デ〔五字傍線〕變ツテシマツタノデ、渡ル所ヲアチコチト捜シテ〔渡ル〜傍線〕、河ノ淺瀬ヲ踏ンデヰルウチニ、夜モ深クナツナシマツタ。
 
○ぎ去歳渡代《コゾノワタリデ》――舊訓コゾノワタリバとあるが、場をバといふことは古くはないから、古義に伐を代の誤として(256)ワタリデとよんだのがよい。伐は類聚古集・神田本その他の古本多くは代となつてゐる。代はデとよむ文字である、仁徳紀に智破揶臂等于泥能和多利珥和多利涅珥多?屡阿豆瑳由瀰摩由彌《チハヤビトウヂノワタリニワタリデニタテルアヅサユミマユミ》とあり、この歌、古事記には知波夜比登宇遲能和多理邇和多理是邇多弖流阿豆佐由美麻由美《チハヤビトウヂノワタリニワタリゼニタテルアヅサユミマユミ》とあり、即ちワタリデはワタリゼの意なることをあらはしてゐる。(涅を湍の誤とする説はとらない)
〔評〕 天上の川を下界の川と同樣に取扱つて、渡り瀬の變つたことを述べてゐる。織女の許へ通ふ彦星の樣を歌つたものである。
 
2019 古よ あげてし機も 顧みず 天の河津に 年ぞへにける
 
自古《イニシヘヨ》 擧而之服《アゲテシハタモ》 不顧《カヘリミズ》 天河津爾《アマノカハヅニ》 年序經去來《トシゾヘニケル》
 
昔カラ織ラウト思ツテ〔七字傍線〕張ツテ置イタ機《ハタ》ヲモ、彦星ガ戀シサニ〔七字傍線〕捨テ置イテ、天ノ河ノ舟着場デ待ツテヰルウチニ〔八字傍線〕幾年モ過ギテシマツタ。
 
○擧而之服《アゲテシハタモ》――織らうとて懸けて置いた機をもの意。織りあげたことではない。
〔評〕 織女が彦星を戀ふる心を誇大的に述べるに急で、織女の本性が忘れられてゐる。
 
2020 天の川 夜船をこぎて 明けぬとも 逢はむと念ふ夜 袖交へずあれや
 
天漢《アマノガハ》 夜船※[手偏+旁]而《ヨブネヲコギテ》 雖明《アケヌトモ》 將相等念夜《アハムトモフヨ》 袖易受將有《ソデカヘズアレヤ》
 
天ノ川ニ夜舟ヲ榜イデ、アチコチト廻ツテヰルウチニ〔アチ〜傍線〕、夜ガ明ケタニシテモ、戀シイ織女ニ〔六字傍線〕逢ハウト思ツタ今夜ハ、袖ヲカハシテ二人寢〔四字傍線〕ズニハ置カナイゾヨ。
 
○袖易受將有《ソデカヘズアレヤ》――舊訓にはかうあるが、將有ではアレヤとは訓めない。契沖は有の下に哉の字脱とし、考はこれによつてアラメヤとよんでゐる。略解はもとのままでアラムとよみ、「夜舟を漕ぐに時移りぬれば、こよひもあはずあらむと言ふ也」といつてゐるが、當らない。契沖説に從つて、アレヤとよみ、意はアラメヤに同じ(257)く、必ず袖をかはして彦星と寢むと言ふのである。
〔評〕 天の川を渡らうとして、夜舟に時を過ごす彦星の、いらいらしい氣分をよんでゐる。前の天漢去歳渡伐《アマノカハコゾノワリデ》(二〇一八)の連作のやうでもあるが、各獨立したものであらう。
 
2021 遠妻と 手枕かへて 寝たる夜は 鷄が音なとよみ 明けば明くとも
 
遙※[女+莫]等《トホツマト》 手枕易《タマクラカヘテ》 寐夜《ネタルヨハ》 鷄音莫動《トリガネナトヨミ》 明者雖明《アケバアクトモ》
 
遠ク隔ツテヰル〔六字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ト、手枕ヲ交ハシテ寢タ晩は、夜ハ明ケルナラ明ケテモ、鷄ハ鳴カズニヰテクレヨ。
 
○遙※[女+莫]等《トホヅマト》――※[女+莫]嬬と同字として用ゐたか。※[女+莫]は醜の意。黄帝の女に※[女+莫]母といふものがあつて、醜婦だつたので、轉じて後世醜婦の意となつたのであるから、ここにはあてはまらない字である。文字辨證に※[女+英]としてゐる。※[女+英]は玉篇に於英切、女人美稱とある。トホツマは遠くにゐる妻、即ち織女をさしたのである。
〔評〕 無理な注文を言ふところに、強い表現がある。彦星の心になつて述べてゐる。
 
2022 相見らく 飽き足らねども いなのめの 明け行きにけり 船出せむつま
 
相見久《アヒミラク》 ※[厭のがんだれなし]雖不足《アキタラネドモ》 稻目《イナノメノ》 明去來理《アケユキニケリ》 舟出爲牟?《フナデセムツマ》
 
ワタシハアナタト逢ウテ〔ワタ〜傍線〕、相見ルコトハマダ〔二字傍線〕厭キ足ラナイケレドモ、(稻目)夜ガ〔二字傍線〕明ケテシマツタ。ダカラ〔三字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ヨ。舟出ヲシテ歸ラ〔三字傍線〕ウ。
 
○稻目《イナノメノ》――枕詞。明けにつづく。諸説があるが、冠辭考に寢《イネ》の目、明くとしたのがよいか。古義に、稻之群《イナノメ》の熟《アカ》らむとしたのは物遠いやうだ。小竹之目《シヌノメ》(東雲)に關係ある語らしくも思はれる。
〔評〕 彦星が織女に別を惜しむ歌である。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
2023 さねそめて いくだもあらねば 白妙の 帶乞ふべしや 戀もつきねば
 
左尼始而《サネソメテ》 何太毛不在者《イクダモアラネバ》 白栲《シロタヘノ》 帶可乞哉《オビコフベシヤ》 戀毛不遏者《コヒモツキネバ》
 
(258)一年ブリデ今夜逢ツテ〔一年〜傍線〕、相寢テカラ未ダ〔二字傍線〕イクラニモナラナイノニ、サウシテ二人ノ〔七字傍線〕戀シク思フ心〔五字傍線〕モ盡キナイノニ、アナタハ寢ル時ニ解イテ置イタ〔アナ〜傍線〕白イ布ノ帶ヲヨコセトオツシヤルト云フコトガアリマスカ。サウ忙シクオ歸リニナルノハ恨メシク思ヒマス〔サウ〜傍線〕。
 
○左尼始而《サネソメテ》――サは接頭語。この句は今夜逢ひ初めての意。○何太毛不在者《イクダモアラネバ》――イクダは幾何に同じ。アラネバはアラザルニの意。○白栲《シロタヘノ》――帶の枕詞と見られないこともないが、白い布の意とすべきであらう。○帶可乞哉《オギコフベシヤ》――織女に預けて置いた帶を彦星が返してくれといふのを、オビコフといたのである。○戀毛不遏者《コヒモツキネバ》――戀も盡をざるに。
〔評〕 疾く歸らうとする彦星を恨む織女の心である。前の歌の答歌のやうにも思はれる、叙法が露骨に過ぎる。
 
2024 萬世に たづさはりゐて 相見とも 思ひ過ぐべき 戀にあらなくに
 
萬世《ヨロヅヨニ》 携手居而《タヅサハリヰテ》 相見鞆《アヒミトモ》 念可過《オモヒスグベキ》 戀爾有莫國《コヒニアラナクニ》
 
萬年ノ間手ヲ携ヘテ、同棲シテ〔四字傍線〕相逢ウテ居ツテモ、私等二人ノ戀ハソレデ〔私等〜傍線〕思フ心ノ晴レルヤウナ、淺イ〔二字傍線〕戀デハナイヨ。僅カ一年ニ一晩デ別レナクテハナラヌトハ、ナサケナイコトダ〔僅カ〜傍線〕。
 
○相見鞆《アヒミトモ》――相見るともに同じ。古い格である。○戀爾有莫國《コヒニアラナクニ》――舊本爾を奈に作るは誤。元暦校本による。
〔評〕卷三の山部赤人の長歌の反歌に明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒニアラナクニ》(三二五)と下句全く同じである。いづれが先とも判斷しかねる。共によい作であるが、どうもこれが後らしく思はれる。
 
2025 萬世に 照るべき月も 雲がくり 苦しきものぞ 逢はむと念へど
 
萬世《ヨロヅヨニ》 可照月毛《テルベキツキモ》 雪隱《クモガクリ》 苦物叙《クルシキモノゾ》 將相登雖念《アハムトモヘド》
 
萬年モカハラズニ〔五字傍線〕照ルベキ月デモ、雲ニ隱レテ見エナイ〔五字傍線〕ノハ、イヤナモノダ。我等二人ノ間モ萬年モカハラズ〔我等〜傍線〕(259)ニ逢ハウト思フガ、カウシテ年ニ一夜ダケデ別レテ行クノハ苦シイモノダ〔カウ〜傍線〕。
 
○雲隱《クモガクリ》――雲に隱れたるはの意。○將相登雖念《アハムトモヘド》――この句と他句との關係が少し不明瞭である。これは、我も萬世に逢はむと思へども、月の雲隱る如く見えずなるは、心苦しき物ぞの意であらう。
〔評〕 叙述の法が著しく變つてゐる。省略は巧と言つてよからう。
 
2026 白雲の 五百重隱りて 遠けども よひ去らず見む 妹があたりは
 
白雲《シラクモノ》 五百遍隱《イホヘガクリテ》 雖遠《トホケドモ》 夜不去將見《ヨヒサラズミム》 妹當者《イモガアタリハ》
 
今カウシテ別レテハ〔九字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ガ住ンデヰル〔五字傍線〕邊ハ、天ノ川ヲ間ニオイテ〔九字傍線〕白雲ガ幾重ニモ隔ツテ、遠クノ方ニアルケレドモ、一晩モカカサズニ毎晩毎晩〔四字傍線〕眺メテヰヨウ。
 
○五百遍隱《イホヘガクリテ》――舊訓イホヘガクシテとあり、和歌童蒙抄にはイホヘヘダテテとある。考にガクリテとあるのがよいであらう。○夜不去將見《ヨヒサラズミム》――ヨヒサラズは一夜も缺かさず。卷三の夕不離《ユフサラズ》(三五六)と同じく、下にも初夜不去《ヨヒサラズ》(二〇九六)とある。
〔評〕 別を悲しむ彦星のこころである。天漢已向立而《アマノカハイムカヒタチテ》(二〇一一)などとあつたのとは異なり、二星が遠く離れて住むやうに述べてゐる。
 
2027 吾がためと 棚機つ女の そのやどに 織る白たへは 織りてけむかも
 
爲我登《ワガタメト》 織女之《タナバタツメノ》 其屋戸爾《ソノヤドニ》 織白布《オルシロタヘハ》 織弖兼鴨《オリテケムカモ》
 
ワタシニ着セル〔四字傍線〕爲トテ、織女ガ自分ノ家デ織ル白イ布ハ、織リ上ゲタデアラウカヨ。
 
○織白布《オルシロタヘハ》――古義はオレルシロタヘとよんでゐる。舊訓に從つた。○織弖兼鴨《オリテケムカモ》――古義、織を縫の誤としてゐるのはよくない。
〔評〕 彦星の心である。四五の句に織の字が用ゐられてゐるのは、技巧の進まない時代の歌らしい。
 
2028 君にあはず 久しき時ゆ 織るはたの 白たへ衣 垢つくまでに
 
(260)君不相《キミニアハズ》 久時《ヒサシキトキユ》 織服《オルハタノ》 白栲衣《シロタヘゴロモ》 垢附麻弖爾《アカツクマデニ》
 
アナタニオ目ニカカラナイノデ、久シイ以前カラ織ツテヰル白イ布ノ着物ガ、垢ガ付クマデニナリマシタ〔五字傍線〕。
 
○君不相久時《キミニアハズヒサシキトキユ》――舊訓はキミアハデヒサシキトキニとある。略解も古義も初句で切つて、結句から、垢附くまでに君に逢はずと、反して解釋してゐる。代匠記精撰本に「發句を讀切て第二句以下を連ねて、久時とは久しき世よりと意得べきか。又初二句をつづけて、久時とは久しき間にと意得べき歟。好まむに從がふべし」とある。その前説を採つたのであらうが、萬葉集には初句切は極めて少いから、それが一目瞭然たる場合でなければ、さうは斷じ難いのに、これは第二句につづくべき語勢である。この歌を赤人集には「きみにあはで久しくなりぬ」とよんでゐるのは最も自然な歌形であるが、用字の上からこのままではさうは訓み難い。第五句の下に「成りぬ」といふやうな意の省かれたものとして見るべきであらう。
〔評〕 右に逃べたやうに、解釋がいろいろになるのは、歌形が整齊を缺くからであらう。
 
2029 天の川 かぢの音聞ゆ 彦星と たなばたつめと こよひ逢ふらしも
 
天漢《アマノガハ》 梶音聞《カヂノトキコユ》 孫星與《ヒコボシト》 織女《タナバタツメト》 今夕相霜《コヨヒアフラシモ》
 
天ノ川ニ楫ノ音ガ聞エテヰル。アレハ彦星ガ乘ツテヰル舟ニ違ヒナイ〔アレ〜傍線〕。彦星ト織女ト今夜逢フラシイヨ。サゾ嬉シイデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
○孫星《ヒコボシト》――孫をヒコとよむのは、和名抄に「爾雅云子爲v孫無萬古。一云比古」とあるので明らかである。
〔評〕 まことに明朗な作である。ごてついた作よりもこの方が氣持がよい。「梶の音聞ゆ」といつたのは天の河邊に立つ者を想像して、その心になつて言つたものか。下界の人が雁聲などを聞いてよんだものとも考へられないことはないが、雁にはまだ季節が早いやうである。
 
2030 秋されば 河ぎり立てる 天の川 川に向ひゐて 戀ふる夜ぞ多き
 
(261)秋去者《アキサレバ》 河霧《カハギリタテル》 天川《アマノガハ》 河向居而《カハニムカヒヰテ》 戀夜多《コフルヨゾオホキ》
 
秋ニナルト天ノ川ニ〔四字傍線〕河霧ガ立チコメテヰル。ソノ〔二字傍線〕天ノ川ニ向ツテヰテ、段々ニ近ヅイテクル七夕ノ夜ヲ思ツテ、夫ヲ〔段々〜傍線〕戀シク思フ夜ガ多イ。
 
○河霧《カハギリタテル》――舊訓カハキリタチテとあるよりも、タテルがよいであらう。温故堂本に霧の下、立の字があるのによる。後撰集・赤人集など、この句をカハギリワタルとして出してゐるによれば、渡の字が脱ちたものか。新訓にはカハゾキラヘルとよんでゐるが、少し無理かと思はれる。○戀夜多《コフルヨゾオホキ》――新訓コフルヨオホシとある。
〔評〕 二句の訓が少し明瞭を缺き、從つて句と句との連續が曖昧になつてゐるのは惜しい。織女の彦星を待つこころであらう。
 
2031 よしゑやし ただならずとも ぬえ鳥の うら嘆居りと 告げむ子もがも
 
吉哉《ヨシヱヤシ》 雖不直《タダナラズトモ》 奴延鳥《ヌエトリノ》 浦嘆居《ウラナゲヲリト》 告子鴨《ツゲムコモガモ》
 
タトヒ直接ニ逢フコトハ出來ナイデモ、ワタシガカウシテアナタニ逢ヒタサニ〔ワタ〜傍線〕、(奴延鳥)心ニ嘆イテヰルトイフコトヲ、告ゲニヤルヤウナ使ニ行ク〔四字傍線〕子ガアレバヨイガナア。
 
○吉哉《ヨシヱヤシ》――縱令《タトヒ》。集中に多い語である。縱畫屋師《ヨシヱヤシ》(一三一)參照。○雖不直《タダナラズトモ》――略解に「直ちに言はずとも」とあるが、古義の解に從ふ。○奴延鳥《ヌエトリノ》――枕詞。奴要子鳥《ヌエコトリ》(五)・宿兄鳥之《ヌエトリノ》(一九六)參照。○浦嘆居《ウラナゲヲリト》――ウラは心。卜歎居者《ウラナゲヲレバ》(五)參照。○告子鴨《ヅゲムコモガモ》――略解に「子もがもは、子にもがもといふ意也。子は妹をさす」とあるが、さうではなく、使の子供などをいふのであらう。
〔評〕 織女の閨怨の情である。
 
2032 一年に 七日のよのみ 逢ふ人の 戀も過ぎねば 夜はふけゆくも 一云、盡きねば さ夜ぞあけにける
 
一年邇《ヒトトセニ》 七夕耳《ナヌカノヨノミ》 相人之《アフヒトノ》 戀毛不過者《コヒモスギネバ》 夜深往久毛《ヨハフケユクモ》
 
(262)一年ノウチデモ七夕ノ夜バカリ逢フ彦星、織女ノ二〔六字傍線〕人ノ、戀シイ心〔三字傍線〕モマダ晴レナイノニ、夜ハ深ケテユクヨ。段々別レル曉ガ近クナツテ來タ〔段々〜傍線〕。
 
○戀毛不過者《コヒモスギネバ》――過は舊本、遏に作つてゐるが、遏では一云と同樣になるから、ここは元暦校本による。
〔評〕 七夕の天上の模樣を想像したもの。二星の稀な逢瀬に同情してゐる。
 
一云 不盡者《ツキネバ》 佐宵曾明爾來《サヨゾアケニケル》
 
四五の句の異傳である。この方が優つてあるやうに思はれる。
 
2033 天の川 安の川原に 定まりて 神つつどひは 時待たなくに
 
天漢《アマノガハ》 安川原《ヤスノカハラニ》 定而《サダマリテ》 神競者《カムツツドヒハ》 磨待無《トキマタナクニ》
 
天ノ川ノ安ノ川原デ開コト〔五字傍線〕ニキメタ諸神ノ會合ハ、何時トイフコトモナイノニ。事サヘアレバイツデモ開カレルノニ私ドモ二星ハ、年ニ一度七夕ノ夜ダケトハツライコトダ〔事サ〜傍線〕。
 
○安川原《ヤスノカハラニ》――舊本ヤスノカハラノとある。神田本による。○定而《サダマリテ》――略解に「宣長云、或人説に、而は西の字の誤」とあつてサダメニシとよんでゐるが、舊訓による。○神競者《カムツツドヒハ》――儘訓ココロクラベハとあり、和歌童蒙抄にもさうなつてゐる。新訓もそれによつてゐるが、それでは意が通じがたいから、略解の訓による。競は集と同意と見て、ツドヒと訓むのである、多少の無理もあらうが、他説に比すれば穩やかである、略解に宣長云或人説に競を鏡として、カミノカガミハとあるのは奇説であらう。○磨待無《トキマタナクニ》――舊訓はトキマツナクニとあるが、考による。磨を時に通ずるものと見るのである。代匠紀初稿本トキモマタナク、童蒙抄・宗師案ミガキテマタナ、愚案トキモマタナク、略解、宣長云或人説、トグマタナクニ、古義は磨待を禁時の誤としてイムトキナキヲ、新考は度時の誤としてワタルトキナシとす。トキマタナクニハ時を待たず、何時にても行はれると(263)いふのである。
〔評〕 かなり難解の歌である。假に考に從つて譯しておいた。八百萬の神の會合は、何時にても行はれるのに、我らのみ逢ひ難しと、羨んだ二星の心であらう。
 
此歌一首庚辰年作v之
 
これを左註によつて人麿作とすれば、庚辰は天武天皇九年である。
 
右柿本朝臣人麿歌集出
 
右の三十八首ともに、人麿歌集に出てゐるのであらう。古義には右の下、三十八首の四字を補つてゐる。麿の下、古本多くは之の字がある。
 
2034 棚機の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰か取り見む
 
棚機之《タナバタノ》 五百機立而《イホハタタテテ》 織布之《オルヌノノ》 秋去衣《アキサリゴロモ》 熟取見《タレカトリミム》
 
棚機女ガ澤山ノ機ヲ立テテ布ヲ〔二字傍線〕織ツテヰルガ、アノ〔三字傍線〕布デ作ツタ秋ノ着物ハ、誰ガ手ニ〔二字傍線〕取ツテ見テ着〔二字傍線〕ルコトダラウ。モトヨリ彦星ヨリ外ニハ着ルモノハアルイマイ〔モト〜傍線〕。
 
○五百機立而《イホハタタテテ》――五百機は機の數の多いのをいふ。○秋去衣《アキサリゴロモ》――秋さりて着る衣。即ち秋の衣である。略解の宣長説には「秋去は和布の字の誤にて、にぎたへごろもならむ」とある。古義はこれによつてゐる ○熟取見《タレカトリミム》――手にするものは彦星の外にはないといふので、トリミルは他の用例では、手にとりて世話する意になつてゐるが、ここはそれにかかはらず右のやうに解くべきである。
〔評〕 棚機が五百機を立てて織るといふのが、優雅で且、珍らしい用例である。
 
(264)2035 年にありて 今かまくらむ ぬば玉の 夜霧がくりに 遠妻の手を
 
年有而《トシニアリテ》 今香將卷《イマカマクラム》 烏玉之《ヌバタマノ》 夜霧隱《ヨギリガクリニ》 遠妻手乎《トホヅマノテヲ》
 
一年ブリデ、(烏玉之)夜ノ霧ノ立チコメタ天ノ川ノホトリ〔七字傍線〕デ、彦星ハ〔三字傍線〕遠ク離レテ住ンデヰル妻ノ織女ノ〔三字傍線〕手ヲ、今コソ枕トシテ寢ルデアラウカ。嘸カシ嬉シイダラウ〔九字傍線〕。
 
○年有而《トシニアリテ》――一年の間待つてゐて。一年ぶりで。卷十五に等之爾安里弖比等欲伊母爾安布比故保思母《トシニアリテヒトヨイモニアフヒコホシモ》(三六五七)ともある。
〔評〕 天漢を仰いで、彦星の歡喜を想像した歌。
 
2036 吾が待ちし 秋は來りぬ 妹とわれ 何事あれぞ 紐解かざらむ
 
吾待之《ワガマチシ》 秋者來沼《アキハキタリヌ》 妹與吾《イモトワレ》 何事在曾《ナニゴトアレゾ》 紐不解在牟《ヒモトカザラム》
 
ワタシガ待ツテヰタ秋ハ來タ。妻ノ織女〔三字傍線〕ト私トハ、何事ガアツテモ衣ノ〔二字傍線〕紐ヲ解イテ寢〔三字傍線〕ナイトイフコトガアラウゾ。紐ヲトイテ共寢ヲシヨウト思フ〔紐ヲ〜傍線〕。
 
○妹與吾《イモトワレ》――略解にイモトワトとあるが、舊訓に從ふ。この集の語法では、トを二つ用ゐることを必ずしも要としない。○何事在曾紐不解在牟《ナニゴトアレゾヒモトカザラム》――略解に「あれぞは、ありてぞの意也。何事有てか、紐解て寢ぬ事の有べきといふ也」とある通りである。古義に「何事の障あればにや、紐解て相宿せずあるらむとなり」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 秋の逢瀬を喜ぶ彦星の心。少しく官能的である。
 
2037 年の戀 こよひ盡して 明日よりは 常の如くや 吾が戀ひ居らむ
 
年之戀《トシノコヒ》 今夜盡而《コヨヒツクシテ》 明日從者《アスヨリハ》 如常哉《ツネノゴトクヤ》 吾戀居牟《ワガコヒヲラム》
 
一年ノ間待チ焦レテヰタ〔七字傍線〕戀ノ心〔二字傍線〕ヲ、今夜デ晴ラシテシマツテ、明日カラハ又〔傍線〕今マデノヤウニ、ワタシハアナタヲ〔四字傍線〕(265)戀シク思ツテ暮スコトデセウカナア。
 
○年之戀《トシノコヒ》――年中戀ひ焦れてゐたこころ。
〔評〕 二星のいづれの心とも考へ得るが、女星の心とすべきであらう。
 
2038 逢はなくは け長きものを 天の川 隔ててまたや 吾が戀ひ居らむ
 
不合者《アハナクハ》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》 天漢《アマノカハ》 隔又哉《ヘダテテマタヤ》 吾戀將居《ワガコヒヲラム》
 
逢ハズニ居タコトハ一年間ノ〔四字傍線〕永イ間デアツタノニ、今夜カウシテ逢ツテ、コレカラハ〔今夜〜傍線〕天ノ川ヲ間ニ置イテ、又モ今マデノヤウニ永イ間〔今マ〜傍線〕、ワタシハアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ツテ居ルコトデセウカ。ソレヲ思ヘバ悲シウゴザイマス〔ソレ〜傍線〕。
 
○不合者《アハナクハ》――逢はぬことはの意。
〔評〕 はつきりした平易な歌で、前と同じく女皇の心であらう。
 
2039 戀しけく け長きものを 逢ふべかる よひだに君が 來まさざるらむ
 
戀家口《コヒシケク》 氣長物乎《ケナガキモノヲ》 可合有《アフベカル》 夕谷君之《ヨヒダニキミガ》 不來益有良武《キマサザルラム》
 
戀シク思ツテ暮シタ〔六字傍線〕コトモ、永イ日數デアルノニ、一年ニ一度〔五字傍線〕逢フコトノ出來ル今夜デスラモ、ドウシテ〔四字傍線〕夫ノ彦星ハマダ〔二字傍線〕オイデナサラナイノデセウ。早ク來テ下サレパヨイニ〔早ク〜傍線〕。
 
○夕谷君之《ヨヒダニキミガ》――この句に、何故にを補つて見るがよい。
〔評〕 織女の心である。前の戀敷者氣長物乎今谷乏牟可哉可相夜谷《コヒシクハケナガキモノヲイマダニモトモシムベシヤアフベキヨダニ》(二〇一七)に似てゐる。
 
2040 彦星と 棚機つ女と こよひ逢ふ 天の川とに 波立つなゆめ
 
牽牛與《ヒコボシト》 織女《タナバタツメト》 今夜相《コヨヒアフ》 天漢門爾《アマノカハトニ》 浪立勿謹《ナミタツナユメ》
 
一年ブリデ〔五字傍線〕牽牛星ト織女星トガ今夜逢フ筈ノ〔二字傍線〕、天ノ川ノ舟渡シ場ニハ、決シテ波ガ立ツナヨ。
 
(266)○天漢門爾《アマノカハトニ》――カハトは河の渡し場。舟で横切るところをトといふ。○今夜相《コヨヒアフ》――新考は「舊訓の如くコヨヒアハムとよみて、今夕逢ハムニの意と見るべし」とあるがよくない。今夜逢ふところのの意。
〔評〕 波立勿謹《ナミタツナユメ》といふ歌は多い。その慣用語を天の上のことに用ゐたまでである。
 
2041 秋風の 吹きただよはす 白雲は たなばたつめの 天つ領巾かも
 
秋風《アキカゼノ》 吹漂蕩《フキタダヨハス》 白雲者《シラクモハ》 織女之《タナバタツメノ》 天津領巾毳《アマツヒレカモ》
 
空ヲ眺メルト〔六字傍線〕、秋風ガ吹キ漂ハシテヰルヤウニ見エル〔六字傍線〕白雲ガ棚引イテヰルガ、アレ〔ガ棚〜傍線〕ハ、今夜逢ヒニ來ル筈ノ彦星ヲ待ツテヰル〔今夜〜傍線〕、織女星ノ領巾カナア。
 
○天津領巾毳《アマツヒレカモ》――領巾は女の肩にかける細長い巾。天上にある織女の装へるものであるから、天津《アマツ》と冠したのである。
〔評〕 天を仰いで白雲の秋風に漂蕩するを見て、織女の領巾と見做したもので、内容も格調もすがすがしく、この一聯中の出色の作である。秋風起兮白雲飛の句を取り入れたとも考へられる。又下の天漢霧立上棚幡乃雲衣能飄袖鴨《アマノカハキリタチノボルタナバタノクモノコロモノカヘルソデカモ》(二〇六三)とも似たところがある。
 
2042 しばしばも 相見ぬ君を 天の川 舟出早せよ 夜の深けぬまに
 
數裳《シバシバモ》 相不見君矣《アヒミヌキミヲ》 天漢《アマノガハ》 舟出速爲《フナデハヤセヨ》 夜不深間《ヨノフケヌマニ》
 
一年ニ一度ダケデ〔八字傍線〕、度々オ目ニカカルコトノ出來ナイアナタデスノニ、今夜ハ〔三字傍線〕夜ノ更ケナイ内ニ、天ノ川ニ早ク舟出ヲナサツテ、早クオイデ下〔九字傍線〕サイマシ。
 
○相不見君矣《アヒミヌキミヲ》――新考に「君ヲは君ナルゾとなり」とある。さうも見られるが,なほ君なるものをの意としたい。
〔評〕 織女が彦星を待ちわびる心である。よく出來てゐる。
 
2043 秋風の きよきゆふべに 天の川 舟こぎ渡る 月人をとこ
 
(267)秋風之《アキカゼノ》 清夕《キヨキユフベニ》 天漢《アマノガハ》 舟榜度《フネコギワタル》 月人壯子《ツキヒトヲトコ》
 
秋風ガ心地ヨク吹ク夕方ニ、天ノ川ヲ舟デ月ガ漕ギ渡ルヨ。アア良イ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○清夕《キヨキユフベニ》――考にサヤケキヨヒニ、略解にサヤケキユフベとあるのもよいが、舊訓に從ふ。袖中抄・赤人集など皆さうなつてゐる。○月人壯子《ツキヒトヲトコ》――月のこと。彦星とするのはわるい。
〔評〕 七夕に空を仰ぎ月を眺めて詠んだもの。明朗なよい作だ。
 
2044 天の川 霧立ち渡り 彦星の かぢの音聞ゆ 夜の深けゆけば
 
天漢《アマノガハ》 霧立度《キリタチワタル》 牽牛之《ヒコボシノ》 楫音所聞《カヂノオトキコユ》 夜深往《ヨノフケユケバ》
 
夜ガ更ケテ行クト、彦星ガ舟ニ乘ツテ織女ニ逢ヒニ行クト見エテ〔彦星〜傍線〕、天ノ川ニハ舟漕グ飛沫ガ〔六字傍線〕霧ト棚引イテ、彦星ノ乘ツテヰル舟ノ〔七字傍線〕艫ノ音ガ聞エル。
 
○霧立度《キリタチワタル》――彦星の船漕ぐ飛沫によつて、霧が立つと見るのである。
〔評〕 これもすつきりとした、よい作だ。
 
2045 君が舟 今こぎ來らし 天の川 霧立ち渡る この川の瀬に
 
君舟《キミガフネ》 今榜來良之《イマコギクラシ》 天漢《アマノガハ》 霧立度《キリタチワタル》 此川瀬《コノカハノセニ》
 
アナタノ乘ツテヰル舟〔五字傍線〕舟ガ、今漕イデ來ルラシイ。天ノ川ニハコノ川ノ渡リ〔二字傍線〕瀬ニ霧ガ立ツテ棚引イテヰル。コノ霧ハ舟ヲ漕グ飛沫ガ霧トナツテ棚引イテヰルノダラウカラ、彦星ハ今舟出ヲシテココヘ來ルニ違ヒナイ〔コノ〜傍線〕。
 
〔評〕 これも前の歌と同じく、彦星の舟漕ぐ飛沫を霧と見たのであるが、これは織女の心になつてよんでゐる點が異なつてゐる。
 
2046 秋風に 河浪立ちぬ しましくは 八十の舟津に み舟とどめよ
 
秋風爾《アキカゼニ》 河浪起《カハナミタチヌ》 暫《シマシクハ》 八十舟津《ヤソノフナツニ》 三舟停《ミフネトドメヨ》
 
(268)秋風ガ吹クノデ、天ノ川ニハ〔十字傍線〕河浪ガ起ツタ。無理ニコノ波ヲ越シテ行カナイデモ〔無理〜傍線〕、暫クノ間ハコノ川ニアル〔六字傍線〕澤山ノ舟着場ノドコカ〔四字傍線〕ニ、御舟ヲ着ケテ波ノ靜マルノヲオマチ〔テ波〜傍線〕ナサイ。
 
○八十舟津《ヤソノフナツニ》――八十の舟津は文字通り、澤山の舟着場である。古義に「安之舟津《ヤスノフナツニ》にて安《ヤス》は安河《ヤスカハ》なるべし」とあるのはわるい。
〔評〕 天の川の廣々とした所に、舟着場があるやうに想像したもの。從つて風浪の靜まるのを待つやうに、詠まれてゐるのが珍らしい趣向である。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
2047 天の川 川音さやけし 彦星の はやこぐ船の 浪のさわぎか
 
天漢《アマノガハ》 河聲清之《カハトサヤケシ》 牽牛之《ヒコボシノ》 秋榜船之《ハヤコグフネノ》 浪※[足+參]香《ナミノサワギカ》
 
天ノ川ニハ川ノ水〔二字傍線〕音ガサヤカニ聞エテヰル。アレハ多分〔五字傍線〕彦星ガ織女ニ逢ヒニ行クトテ〔織女〜傍線〕、急イデ漕グ舟ガ、水ヲ押シ分ケテ進ム〔九字傍線〕浪ノ騷グ音〔二字傍線〕デアラウカ。
 
○川聲清之《カハトサヤケシ》――舊訓カハオトキヨシとあるのでもわるくはない。○秋榜船之《ハヤコダフネノ》――舊訓アキコグフネノとあるのは無理のやうであるから、略解に擧げた宣長説に「秋は速の誤か。次下に早榜舟之かいのちるかもと有」とあるのに從はうと思ふ。
〔評〕 織女が彦星の訪れを待つ心のやうでもあるが、さうではなく、天の河邊に立つて二星の逢瀬を見る人のこころらしい歌である。
 
2048 天の川 川とに立ちて 吾が戀ひし 君來ますなり 紐解き待たむ 一云、天の河河に向き立ち
 
天漢《アマノガハ》 河門立《カハトニタチテ》 吾戀之《ワガコヒシ》 君來奈里《キミキマスナリ》 紐解待《ヒモトキマタム》 一云 天川《アマノカハ》 河向立《カハニムキタチ》
 
天ノ川ノ、舟デ渡ル所ニ立ツテ、常ニ出テ待ツテ〔七字傍線〕私ガ戀シク思ツ〔三字傍線〕テヰタアナタガ、今夜〔二字傍線〕オイデナサイマス。デスカラ、私ハ着物ノ〔九字傍線〕紐ヲ解イテ待ツテヰマセウ。
 
(269)○君來奈里《キミキマスナリ》――文字通りにキミキタルナリともよんであるが、舊訓に從はう。○一云|天川河向立《アマノカハカハニムキタチ》――これは一二の句の異傳である。かうすると殆ど卷八の歌と同樣になる、
〔評〕 これは卷八の天漢相向立而吾戀之君來益奈利紐解設奈《アマノカハアヒムキタチテワガコヒシキミキマスナリヒモトキマケナ》(一五一八)と同歌と言つてよい。山上憶良の作が、他の七夕の歌と共に、ここに収められたものであらう。
 
2049 天の川 川とにをりて 年月を 戀ひ來し君に こよひ逢へるかも
 
天漢《アマノガハ》 河門座而《カハトニヲリテ》 年月《トシツキヲ》 戀來君《コヒコシキミニ》 今夜會可母《コヨヒアヘルカモ》
 
天ノ川ノ、舟デ渡ル所ニヰテ、今マデ〔三字傍線〕年月永ク〔二字傍線〕戀シク思ツテヰタアナタニ、今夜オ目ニカカルコトガ出來マシタヨ。ホントニ嬉シウゴザイマス〔ホン〜傍線〕。
 
○年月《トシツキヲ》――略解にトシツキニとあるのはよくない。
〔評〕 織女の喜びの情を述べたもの。
 
2050 明日よりは 吾が玉床を うち拂ひ 君といねずて 獨かも寝む
 
明日從者《アスヨリハ》 吾玉床乎《ワガタマドコヲ》 打拂《ウチハラヒ》 公常不宿《キミトイネズテ》 孤可母寐《ヒトリカモネム》
 
今夜ハカウシテ一年ブリデオ目ニカカルコトガ出來マシタガ〔今夜〜傍線〕、明日カラハ又私ハ〔三字傍線〕私ノ立派ナ床ノ塵〔二字傍線〕ヲ拂ツテ、アナタトハ寢ナイデ、唯〔傍線〕一人デ寢ルコトデセウカナア。カナシウ存ジマス〔八字傍線〕。
 
○吾玉床乎《ワガタマドコヲ》――タマドコは床を褒めて言へるのみ。
〔評〕 織女の別離の悲哀を述べたもの。
 
2051 天の原 往きてや射ると 白ま弓 ひきて隱せる 月人をとこ
 
天原《アマノハラ》 往射跡《ユキテヤイルト》 白檀《シラマユミ》 挽而隱在《ヒキテカクセル》 月人壯子《ツキヒトヲトコ》
 
大空ニ今カラ〔三字傍線〕出カケテ行ツテ射ヨウトテ、白木ノ弓ヲ引イテ月人男ガ隱シテ持ツテ〔三字傍線〕ヰル。
 
(270)○往射跡《ユキテヤイルト》――考にユクユクイムトとし、古義は往を注の誤として、サシテヤイルトに改め、新考は往を何の誤として、跡の下に香を補ひ、ナニヲイムトカとしてゐる。少しく解しがたい句であるが、舊訓のままにして、月が白眞弓を携へて、廣い大空に出でて射ようとしてかの意と解しよう。○挽而隱在《ヒキテカクセル》――新考は隱を張の誤としてヒキテハリタルとしてゐる。古義に「月人男の白眞弓を引て山端に隱せるならむと云るにや」とあるが、山の端は要がないやうである。
〔評〕 頗るおもしろい歌であるが、不明瞭な點がないでもない。七夕の歌でないとも評されてゐるが、やはり七夕の月を眺めた作である 弦月の頃で中天にあるから、山の端云云の解は當らない。
 
2052 このゆふべ 降り來る雨は 彦星の 早こぐ船の 櫂のちりかも
 
此夕《コノユフベ》 零來雨者《フリクルアメハ》 男星之《ヒコボシノ》 早※[手偏+旁]船之《ハヤコグフネノ》 賀伊乃散鴨《カイノチリカモ》
 
コノ晩七夕ニ〔三字傍線〕降ツテ來ル雨ハ、彦星ガ織女ニ逢ハウト思ツテ、天ノ川ヲ〔織女〜傍線〕急イデ漕イデ行ク船ノ、櫂ノ雫ノ〔二字傍線〕飛沫デアラウカ。
 
○賀伊乃散鴨《カイノチリカモ》――舊訓カイノチルカモとあるのを、古義にカイノチリカモと改めてよんでゐる。名詞としてチリとする方がよいか。
〔評〕 下界の人の七夕の夜の想像で、實に優美な歌である。古今集・伊勢物語などに、「わがうへに露ぞおくなる天の川とわたる舟のかいのしづくか」とあるのに似てゐる。
 
2053 天の川 八十瀬きり合ふ 彦星の 時待つ船は 今しこぐらし
 
天漢《アマノガハ》 八十瀬霧合《ヤソセキリアフ》 男星之《ヒコボシノ》 時待船《トキマツフネハ》 今榜良之《イマシコグラシ》
 
天ノ川ハ澤山ノ瀬ゴトニ霧ガ立ツテヰル。彦星ガ、織女ニ逢フベキ〔七字傍線〕時ヲ待ツテヰタ船ハ、今コソ漕キダシタラシイ。アノ霧ハ多分舟ヲ漕グ櫂ノ飛沫デアラウ〔アノ〜傍線〕。
 
(271)○八十瀬霧合《ヤソセキリアフ》――略解ヤソセキラヒヌ、古義ヤソセキラヘリとあるが、舊訓のままでさしつかへはない。八十瀬は多くの瀬。
〔評〕 八十瀬といつたのは、天の川を廣いものと想像したからである。これは第三者の見た心であらう。
 
2054 風吹きて 河浪立ちぬ 引船に 渡りも來ませ 夜の更けぬ間に
 
風吹而《カゼフキテ》 河浪起《カハナミタチヌ》 引船丹《ヒキフネニ》 度裳來《ワタリモキマセ》 夜不降間爾《ヨノフケヌマニ》
 
風ガ吹イテ天ノ川ノ〔四字傍線〕川浪ガ起ツテ來マシタ。コレデハ舟ヲ漕イデ來ラレルノハ大儀デセウカラ〔コレ〜傍線〕、夜ノ更ケナイ内ニ、引船ニ乘ツテ〔三字傍線〕渡ツテオイデナサイマシ。
 
○引船丹《ヒキフネニ》――綱手を付けて、岸から曳く舟。○夜不降間爾《ヨノフケヌマニ》――舊訓に從ふ。略解にヨクダタヌマニ、古義にヨノフケヌトニとあるが語調がよくない。
〔評〕 織女の心である。引船を用ゐたのは珍らしい。男星の辛勞を思ふ情があはれである。
 
2055 天の川 遠き渡りは 無けれども 君が舟出は 年にこそまて
 
天河《アマノガハ》 遠渡者《トホキワタリハ》 無友《ナケレドモ》 公之舟出者《キミガフナデハ》 年爾社候《トシニコソマテ》
 
天ノ川ノ渡場ハ近イ渡場デ〔天ノ〜傍線〕、天ノ川ニハ遠イ渡場ハ無イノダケレドモ、私ハ〔二字傍線〕アナタガ舟ニ乘ツテオイデ下サルノヲ、一年ノ間モオ待チ申シテ居リマス。遠イ渡場ナラバ、面倒ダカラ年ニ一度トイフコトモアラウガ、コンア近イ渡場デ年ニ一度トイフノハアマリ少ナスギマス〔遠イ〜傍線〕。
 
○遠度者《トホキワタリハ》――天の川の舟にて渡る場所は遠くはないといふのである。○年爾社候《トシニコソマテ》――一年間も待つといふのだ。
〔評〕 織女の心。これは天の川がさほど廣くないやうによんである。
 
2056 天の河 打橋渡せ 妹が家ぢ やまず通はむ 時待たずとも
 
(272)天漢《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタセ》 妹之家道《イモガイヘヂ》 不止通《ヤマズカヨハム》 時不待友《トキマタズトモ》
 
天ノ川ニハ打橋ヲ渡シテクレヨ。サウシタラバ私ハ妻ノ織女ニ逢フ爲ニ〔サウ〜傍線〕、妻ノ家ヘ行ク道ヲ、妻ト逢フベキ七夕ノ〔九字傍線〕時デナクトモ、始終通ツテ逢〔三字傍線〕ハウト思フ〔三字傍線〕。
 
○打橋度《ウチハシワタセ》――打橋は取りはづしの出來るやうな板の橋。
〔評〕 彦星のこころ。年に一度の逢瀬を悲しむ心が、あはれによまれてゐる。天の河に打橋を渡すことは、神代紀御國讓の條に、「又於天安河亦造2打橋1」とあるのから、思ひついたのかも知れない。
 
2057 月かさね 吾が思ふ妹に 逢へる夜は 今し七夜を 續ぎこせぬかも
 
月累《ツキカサネ》 吾思妹《ワガモフイモニ》 會夜者《アヘルヨハ》 今之七夕《イマシナナヨヲ》 續巨勢奴鴨《ツギコセヌカモ》
 
幾月モ幾月モ長イ間私ガ戀シク思ツテヰタ妻ニ逢ツタ今夜ハ、夜ガ明ケナイデ〔七字傍線〕、モウ七晩モ續イテクレレバヨイナア。一年モ待ツテ唯一晩デ別レルノハツライカラ〔一年〜傍線〕。
 
○今之七夕《イマシナナヨヲ》――七夕《ナナヨ》といつたのは、ただ幾夜もといふに等しい。七日四零者七夜不來哉《ナヌカシフラバナナヨコジトヤ》(一九一七)の七日・七夜などとおなじ。七夕の文字を用ゐてあるのは、心あつてのことか。
〔評〕 彦星の心。別れがたい情が出てるる。
 
2058 年によそふ 吾が舟こがむ 天の河 風は吹くとも 浪立つなゆめ
 
年丹装《トシニヨソフ》 吾舟榜《ワガフネコガム》 天河《アマノガハ》 風者吹友《カゼハフクトモ》 浪立勿忌《ナミタツナユメ》
 
一年モ待ツテ、ヤツト今〔四字傍線〕舟装ヲシテ私ノ舟ハ榜ギ出ル所ダ。ダカラドウカ〔六字傍線〕天ノ川ニハ風ガ吹イテモ、浪ガ決シテ立ツナヨ。浪ガヒドクテ舟ガ漕ゲナイヤウナコトガアツテハ困ルカラ〔浪ガ〜傍線〕。
 
○年丹装《トシニヨソフ》――一年目で舟装ひをするの意。
(273)〔評〕この歌では年丹装《トシニヨソフ》といふのが作者の趣向か。四五句の意は他にも類例がある。
 
2059 天の河 浪は立つとも 吾が舟は いざこぎ出でむ 夜の深けぬ間に
 
天河《アマノガハ》 浪者立友《ナミハタツトモ》 吾舟者《ワガフネハ》 率※[手偏+旁]出《イザコギイデム》 夜之不深間爾《ヨノフケヌマニ》
 
天ノ川ニハタトヒ〔三字傍線〕浪ハ立ツテモ、私ノ乘ル〔二字傍線〕舟ハ夜ノフケナイウチニサア早ク漕ギ出サウ。一年ニ一度ノ今夜ダカラ、波ノ荒イ位ハ何デモナイ。早ク逢ヒニ行カウ〔一年〜傍線〕。
 
〔評〕 明白な平易な作。彦星の心である。
 
2060 ただ今夜 逢ひたる兒らに 言どひも いまだせずして さ夜ぞ明けにける
 
直今夜《タダコヨヒ》 相有兒等爾《アヒタルコラニ》 事問母《コトドヒモ》 未爲而《イマダセズシテ》 左夜曾明二來《サヨゾアケニケル》
 
今夜一寸逢ツタ女ニ、マダ話モヨク〔二字傍線〕シナイウチニ、夜ガ明ケテシマツタヨ。
 
〔評〕 これも平易である。如何にも物足りない逢瀬らしくよまれてゐる。
 
2061 天の河 白浪高し 吾が恋ふる 君が舟出は 今しすらしも
 
天河《アマノガハ》 白浪高《シラナミタカシ》 吾戀《ワガコフル》 公之舟出者《キミガフナデハ》 今爲下《イマシスラシモ》
 
天ノ川ニハ白浪ガ高ク立チ騷〔四字傍線〕イデヰル。アア〔五字傍線〕私ガ、一年ノ間〔四字傍線〕待チ焦レテ居タ夫ノ彦星ノ〔三字傍線〕舟出ハ、今スルラシイナア。
 
〔評〕 織女の心である。白浪の騷ぎを、彦星の舟の漕ぐ爲と見たのである。
 
2062 はたものの ふみ木持ち行きて 天の河 打橋わたす 君が來むため
 
機《ハタモノノ》 ※[足+榻ノ旁]木持徃而《フミキモチユキテ》 天河《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタス》 公之來爲《キミガコムタメ》
 
私ハ〔二字傍線〕アナタガオイデニナル爲ニ、私ノ常ニ織ツテヰル〔九字傍線〕機ノ、腰掛ノ板ヲ持ツテ行ツテ、天ノ川ニ打橋ヲ渡シマス。
 
(274)○機※[足+榻ノ旁]木持徃而《ハタモノノフミキモチユキテ》――ハタモノノフミキは、機織り機械の足を踏まへる板。契沖は「機織る者の尻打懸る板なり」といつてゐる。和名抄に「辨色立成云機※[足+聶]萬禰岐※[足+聶]蹈也」とあるのと同物かといふ説もあるが、マネキは上方にあるものであるから別であらう。
〔評〕 これは趣向が奇拔である。その點に於て出色のものであらう。
 
2063 天の河 霧立ち上る たなばたの 雲の衣の かへる袖かも
 
天漢《アマノガハ》 霧立上《キリタチノボル》 棚幡乃《タナバタノ》 雲衣能《クモノコロモノ》 飄袖鴨《カヘルソデカモ》
 
天ノ川ニハ霧ガ立チ上ツテヰル。シカシ、アレハ霧デハナクテ〔シカ〜傍線〕、棚機女〔傍線〕ノ着テヰル〔四字傍線〕雲ノ衣ノ袖ガ、風ニ翻ルノカナア。
 
〔評〕 七夕の夜に天上の雲を見てよんだもので、雲衣といふのが天人らしくておもしろい。これも優美な想像である。懷風藻七夕の詩に、「雲衣兩觀v夕、月鏡一逢v秋」とあるから、これも漢詩式の描法である。
 
2064 いにしへに 織りてしはたを このゆふべ 衣に縫ひて 君待つ我を
 
古《イニシヘニ》 織義之八多乎《オリテシハタヲ》 此暮《コノユフベ》 衣縫而《コロモニヌヒテ》 君待吾乎《キミマツワレヲ》
 
以前ニ織ツタ布ヲ、コノ七夕ノ〔三字傍線〕晩ニ着物ニ縫ツテ、私ハアナタノオイデニナルノ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰマスヨ。早クオイデ下サイマシ〔早ク〜傍線〕。
 
 
○君待吾乎《キミマツワレヲ》――君待つ我ぞの意。卷十二に足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシビキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》(三〇〇二)の末句と同樣である。
〔評〕 織女の心である。これはさしておもしろい點もない。
 
2065 足玉も 手玉もゆらに 織るはたを 君がみけしに 縫ひあへむかも
 
足玉母《アシダマモ》 手珠毛由良爾《タダマモユラニ》 織旗乎《オルハタヲ》 公之御衣爾《キミガミケシニ》 縫將堪可聞《ヌヒアヘムカモ》
 
(275)足ノ飾ノ〔三字傍線〕玉ヤ、手ノ飾ノ〔三字傍線〕玉ヲカラカラト音ヲサセナガラ、私ガ骨ヲ折ツテ〔七字傍線〕織ツタ布ヲ、アナタノ御召物ニ縫ヒ上ゲルコトガ出來ルダラウカナア。アナタノオイデマデニ是非トモ仕立上ゲタイモノダ〔アナ〜傍線〕。
 
○手珠毛由良爾《タダマモユラニ》――ユラは神代紀に「手玉玲瓏織袵
之少女是誰之子耶《タダマモユラニハタオルヲトメハタガムスメゾ》」とあり、古事記に「御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而《ミクビタマノタマノヲモユラニトリユラカシテ》」「奴那登母母由良爾振滌天之眞名井而《ヌナトモモユラニアメノマナヰニフリススギテ》」などあり、玲瓏たる玉の響をいふのである。モユラと用ゐるのはマユラの意であるが、ここの手珠毛《タダマモ》のモは上についてゐるやうであるから、ここはユラニとなつてゐるものと見ねばなるまい。○公之御衣爾《キミガミケシニ》――御衣をミケシと訓むのは御着しである。着《キ》をケといふのは古語。シは敬語の動詞スの名詞形である。
〔評〕 織女が彦星の爲に、機織にいそしんでゐる心である。一二句は擾麗な高雅な感じを與へる。
 
2066 月日擇り 逢ひてしあれば わかれの 惜しかる君は 明日さへもがも
 
擇月日《ツキヒエリ》 逢義之有者《アヒテシアレバ》 別乃《ワカレノ》 惜有君者《ヲシカルキミハ》 明日副裳欲得《アスサヘモガモ》
 
七夕ノ晩ニト〔六字傍線〕月日ヲ選ンデ逢フコトニキマツタノデ、猥リニ逢フコトガ出來ナイノダカラ、私ハアナタト〔ノデ〜傍線〕オ別レヲスルノニ、格別〔二字傍線〕惜シイヤウナ心地ガシマスガ〔ヤウ〜傍線〕、アナタハ、ドウゾモウ一日〔七字傍線〕明日マデモオイデ下サイマシ。
 
○擇月日《ツキヒエリ》――月日を選んで。即ち七月七日と逢ふべき日を選定すること。○逢義之有者《アヒテシアレバ》――義之をテシとよむのは、例の王羲之を手師といつたのに基づく戯書である。○別乃《ワカレノ》――舊訓ワカレチノとあり、赤人集にもさうなつてゐるのは、道又は路の脱落と見たものか。童蒙抄もさう見てゐる。略解は乃を久の誤として、ワカレマクと言つてゐるが、もとのままでワカレノとする代匠記精撰本に從ふ。○明日副裳欲得《アスサヘモガモ》――略解に「明日も又來ませと願ふ也」とあるが、それでは擇月日《ツキヒエリ》とあるに合しない。明日までもいませといふのである。
〔評〕 織女の心。年に一度の逢瀬であるから、せめてもう一日と引きとめる女心がいぢらしい。
 
(276)2067 天の河 渡瀬深み 船うけて こぎ來る君が 楫の音聞ゆ
 
天漢《アマノガハ》 渡瀬深彌《ワタリセフカミ》 泛船而《フネウケテ》 棹來君之《コギクルキミガ》 ※[楫+戈]音所聞《カヂノトキコユ》
 
天ノ川ハ渡ル瀬ガ深イノデ、徒歩渡リモ出來ズ〔八字傍線〕、船ヲ泛ベテ漕イデ來ル夫ノ彦星〔三字傍線〕ノ舟ノ櫂ノ音ガ聞エル。
 
〔評〕 天の川の渡瀬を深いものとしてよんでゐるが、一二の句が説明的になつてゐて感興がない。
 
2068 天の原 ふりさけ見れば 天の河 霧立ち渡る 君は來ぬらし
 
天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》 天漢《アマノガハ》 霧立渡《キリタチワタル》 公者來良志《キミハキヌラシ》
 
大空ヲ振リ仰イデ見レバ、天ノ川ニハ霧ガ立チコメテヰル。アノ霧ハ舟ヲ漕グ飛沫ダラウカラ〔アノ〜傍線〕、夫ノ君ハ今、川ヲ渡ツテ〔六字傍線〕オイデニナルト見エル。
 
〔評〕 これも前にあつたやうに、天の川霧を彦星の舟漕ぐ飛沫によつて立つたものと考へたものである。織女星の心である。略解に「下つ國にて思ひやりて詠める也」とあるのは、天原振放見者《アマノハラフリサケミレバ》とあるのによつて、誤解したものだ。天上に於いても、かう言へないことはない。
 
2069 天の川 瀬ごとに幣を 奉る こころは君を 幸く來ませと
 
天漢《アマノガハ》 瀬毎幣《セゴトニヌサヲ》 奉《タテマツル》 情者君乎《ココロハキミヲ》 幸來座跡《サキクキマセト》
 
天ノ川ノ淺〔傍線〕瀬ゴトニ、神樣ニ〔三字傍線〕幣ヲ私ガ〔二字傍線〕上ゲマスガ、ソレハ〔四字傍線〕アナタガ御無事デ、此處ヘ〔三字傍線〕オイデ遊バセトイフ心デアルノデス。
 
○瀬毎幣奉《セゴトニヌサヲタテマツル》――古義に瀬の上、渡の字、脱として、ワタリセコトニヌサマツルとよんでゐるのは、要なき改竄であらう。
〔評〕 織女の心である。卷三の作保過而寧樂乃手祭爾置幣者妹乎目不離相見染跡衣《サホスギテナラノタムケニオクヌサハイモヲメカレズアヒミシメトゾ》(三〇〇)と似てゐる。
 
2070 久方の 天の河津に 舟泛けて 君待つ夜らは 明けずもあらぬか
 
(277)久堅之《ヒサカタノ》 天河津爾《アマノカハツニ》 舟泛而《フネウケテ》 君待夜等者《キミマツヨラハ》 不明毛有寐鹿《アケズモアラヌカ》
 
(久方之)天ノ川ノ舟ノ着ク所ニ舟ヲ泛ベテ.私ガ〔二字傍線〕アナタノオイデニナルノ〔八字傍線〕ヲ待ツテヰル夜ハ、ドウゾ〔三字傍線〕明ケナイデヰテクレヨ。久シブリデ逢フノダカラ、夜ガアケルノガツライ〔久シ〜傍線〕。
 
○君待夜等者《キミマツヨラハ》――夜等《ヨラ》のラは添へていふのみ。意味はない。野らといふラと同じである。○不明毛有寐鹿《アケズモアラヌカ》――明けずにゐないかよ。明けずもあれかしの意。
〔評〕 これも織女の心。織女が彦星の迎舟を泛べるといふ構想が珍らしい。
 
2071 天の河 足ぬれ渡り 君が手も いまだ枕かねば 夜の深けぬらく
 
天河《アマノガハ》 足沾渡《アシヌレワタリ》 君之手毛《キミガテモ》 未枕者《イマダマカネバ》 夜之深去良久《ヨノフケヌラク》
 
私ハ〔二字傍線〕天ノ川ヲ足ヲ沾ラシテ、徒歩〔二字傍線〕渡リヲシテ、逢ヒタイト思ツタアナタニ逢ツタバカリデ〔ヲシ〜傍線〕、マダアナタノ手ヲ枕トシテ寢ルマデニハ至ラ〔九字傍線〕ナイノニ、モウ〔二字傍線〕夜モ更ケタ。
 
○足沾渡《アシヌレワタリ》――代匠記初稿本による。略解にはアヌラシワタリとよんでゐる。○未枕者《イマダマカネバ》――未だ枕せざるに。○夜之深去良久《ヨノフケヌラク》――夜の更けぬるより意。久は之となつてゐる本もある。然らばラシである。
〔評〕 これは彦星の心。末句穩やかに餘情を持たせて言ひをさめてある。
 
2072 渡守 舟わたせをと 呼ぶ聲の 至らねばかも 楫のとのせぬ
 
渡守《ワタリモリ》 船度世乎跡《フネワタセヲト》 呼音之《ヨブコヱノ》 不至者疑《イタラネバカモ》 梶聲之不爲《カヂノトノセヌ》
 
「渡守ヨ、船ヲ渡シテクレヨ」ト私ガ〔二字傍線〕ドナル聲ガアチラニ〔四字傍線〕聞エナイカラカ、舟ヲ漕イデ來ル〔五字傍線〕揖ノ音ガシナイ。渡守ニハ私ノ呼ブ聲ガ聞エナイト見エル。早ク舟ヲ渡シテクレ、織女ニ逢ヒタイノダカラ〔渡守〜傍線〕。
 
○船度世乎跡《フネワタセヲト》――ヲはヨに同じ。船を渡せよと。○梶之聲不爲《カヂノトノセヌ》――舊訓カヂノオトセヌとあるのでもよいが、(278)之聲を元磨校本・類聚古集、聲之とあるによれば、カヂノトノセヌであらう。
〔評〕 彦星の心であらう。卷七に氏河乎船令渡乎跡雖喚不所聞有之※[楫+戈]音毛不爲《ウヂガハヲフネワタセヲトヨバヘドモキコエザルラシカヂノトモセズ》(一一三八)とあるのと同樣と言つてよい。多分これを天の川のことに作りかへたのであらう。
 
2073 ま日《け》長く 河に向き立ち 在りし袖 今夜まかむと 念ふがよさ
 
眞氣長《マケナガク》 河向立《カハニムキタチ》 有之袖《アリシソデ》 今夜卷跡《コヨヒマカムト》 念之吉沙《オモフガヨサ》
 
日ヲ重ネテ長ラクノ間〔二字傍線〕河ニ向ツテ立ツテ居ツタ織女ノ〔三字傍線〕袖ヲ、今夜コソ一年ブリデ〔五字傍線〕、枕シテ寢ルコトダラウト思フト嬉シイヨ。
 
○眞氣長《マケナガク》――マは接頭語。日を重ねて、長い間。○有之袖《アリシソデ》――在りし妻の袖の意であらう。○今夜卷跡《コヨヒマカムト》――略解にコヨヒマキナムとあり、古義にコヨヒマカレムとあるが、舊訓による。跡を下に附けて、第五句の冐頭に置いてよむ説はよくない。○念之吉沙《オモフガヨサ》――舊訓オモヘルガヨサとあるのに從ひたいのであるが、内容からも用字上からも、オモヘルとよむの理がないから、文字通りオモフガヨサとする。文字が足りないが仕方がない。或は新訓にオモハクガヨサとあるのがよいか。しかしこれもオモハクと訓むべき用字上の理由がない。
〔評〕 彦星が天の川を渡つて、織女に逢ひに行く道すがらの心であらう。古義に四句をコヨヒマカレムとよんで織女の心のやうに解いてゐるのは誤。
 
2074 天の川 渡瀬ごとに 思ひつつ 來しくもしるし 逢へらく念へば
 
天漢《アマノガハ》 渡湍毎《ワタリセゴトニ》 思乍《オモヒツツ》 來之雲知師《コシクモシルシ》 逢有久念者《アヘラクオモヘバ》
 
天ノ川ノ渡ル瀬毎ニ、織女ヲ戀シイ戀シイト〔十字傍線〕思ヒナガラ、私ガ〔二字傍線〕ヤツテ來タノモ、カウシテ〔四字傍線〕織女ニ逢ツテ見レバ、來タ甲斐ガ著シクアルト思フ〔三字傍線〕。
 
○來之雲知師《コシクモシルシ》――來たのも甲斐が著しくあるの意。卷八に來之久毛知久相流君可毛《コシクモシルクアヘルキミカモ》(一五七七)・卷九に欲見來之久(279)毛知久《ミマクホリコシクモシルク》(一七二四)とあるに同じ。○逢有久念者《アヘラクオモヘバ》――逢へる思へばの意。卷六の天地之榮時爾相樂念者《アメツチノサカユルトキニアヘラクオモヘバ》(九九六)に同じ。
〔評〕 彦星の心。その戀慕の情が上句によくあらはれてゐる。
 
2075 人さへや 見つがずあらむ 彦星の つまよばふ舟の 近づき行くを 一云 見つつあるらむ
 
人左倍也《ヒトサヘヤ》 見不繼將有《ミツガズアラム》 牽牛之《ヒコボシノ》 嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》 近附往乎《チカヅキユクヲ》
 一云 見乍有良武《ミツツアルラム》
 
彦星ガ妻ノ織女〔三字傍線〕ト婚スル爲ニ、漕イデ行クコノ〔九字傍線〕舟ガ、段々ト〔三字傍線〕近ヅイテ行クノヲ、妻ノ織女ハモトヨリ下界ノ〔妻ノ〜傍線〕人マデモ見屆ケズニ居ラウヤ。誰モミナ注目シテヰルデアラウ〔誰モ〜傍線〕。
 
○見不繼將有《ミヅガズアラム》――見繼かずあらむや。必ず見屆けるであらうの意であらう。○嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》――舊訓ツマヨブフネノとある。代匠記精撰本。ツマヨヒフネノ、考ツマトフフネノとある、これを卷八に牽牛之迎嬬船《ヒコホシノツマムカヘフネ》(一五二七)とあるにならつて、妻の織女を迎へる爲の舟とするに説が一致してゐるが、さうではなく妻《ツマ》婚《ヨバ》ふ舟であらう。喚を婚に借りたので喚をヨバフとよんだ例は、鴨妻喚《カモメヨバヒ》(二五七)とある。○一云|見乍有良武《ミツツアルラム》――これはこの句の異傳で、この方が意がよく聞える。
〔評〕 少し不明瞭な點がないでもない。天上にあるものが彦星の舟を眺めてゐる心であらう。
 
2076 天の河 瀬をはやみかも ぬば玉の 夜はふけにつつ 逢はぬ彦星
 
天漢《アマノガハ》 瀬乎早鴨《セヲハヤミカモ》 烏珠之《ヌバタマノ》 夜者闌爾乍《ヨハフケニツツ》 不合牽牛《アハヌヒコボシ》
 
天ノ川ハ瀬ガ早イカラカ、渡リカネテグヅグヅシテヰル内ニ〔渡リ〜傍線〕(烏珠之)夜ガ更ケテシマツテ、マダ織女ノ所ヘ來テ〔九字傍線〕逢ハナイ彦星ヨ。
 
○夜者闌爾乍《ヨハフケニツツ》――ニは完了の助動詞ヌの變化である。○不合牽牛《アハスヒコボシ》――逢はぬ彦星よの意で、名詞止になつてゐる。
(280)〔評〕 これも天上にある第三者の心であらう。彦星に同情してゐる。
 
2077 渡守 舟はや渡せ 一年に 二度通ふ 君にあらなくに
 
渡守《ワタリモリ》 舟早渡世《フネハヤワタセ》 一年爾《ヒトトセニ》 二遍往來《フタタビカヨフ》 君爾有勿久爾《キミニアラナクニ》
 
一年ノ内ニ二度トオイデニナル御方デハナイヨ。私ノ夫ノ彦星ヲ〔七字傍線〕渡守ヨ、早ク渡シテクレヨ。
 
〔評〕上に數裳相不見君矣天漢舟出速爲夜不深間《シバシバモアヒミヌキミヲアマノガハフナデハヤセヨヨノフケヌマニ》(二〇四二)と内容は同じく、形式は古今集の「聲絶えずなけや鶯一年に二度とだに來べき春かは」に似てゐる。
 
2078 玉葛 絶えぬものから さぬらくは 年の渡に ただ一夜のみ
 
玉葛《タマカヅラ》 不絶物可良《タエヌモノカラ》 佐宿者《サヌラクハ》 年之度爾《トシノワタリニ》 直一夜耳《タダヒトヨノミ》
 
私等二人ノ間ノ契ハ〔九字傍線〕(玉葛)絶エルコトハナイケレドモ、共寢ヲスルノハ、一年ニ一度天ノ河ヲ渡ル夜ニ、唯一晩バカリダ。ホントニ物足ラヌコトダ〔ホン〜傍線〕。
 
○玉葛《タマカヅラ》――枕詞。不絶《タエヌ》とつづクのは、その延び行く姿態によつたものである。○不絶物可良《タエヌモノカラ》――モノカラはモノナガラ。○佐宿者《サヌラクハ》――サは接頭語。この句は寢ることはの意。○年之度爾《トシノワタリニ》――珍らしい語である。年に一回天の川を渡る時にの意。新考には「一年經過スルウチニといふ事なり」とあるのは、ワタリを經過と見たのであらうが、用例から見ると、天の川について言ふことらしいから、右のやうに解くべきであらう。
〔評〕 古今集「年ごとにあふとはすれどたなばたのぬる夜のかずぞすくなかりける」とあるのと意は同じである。一般的に二屋の契について歌つたものと見るべきであらう。
 
2079 戀ふる日は 日《け》長きものを 今夜だに 乏しむべしや 逢ふべきものを
 
戀日者《コフルヒハ》 食長物乎《ケナガキモノヲ》 今夜谷《コヨヒダニ》 令乏應哉《トモシブベシヤ》 可相物乎《アフベキモノヲ》
 
戀シク思ツテ暮ラス〔五字傍線〕日ハ、隨分永イ日數ダノニ、一年ニ一度ダケ逢ヘル〔一年〜傍線〕今夜ニナツテモ、不足ノ思ヲサセルト(281)イフコトガアルモノデスカ。今夜ハ逢〔三字傍線〕フト定ツテヰルノニ。早ク來テ下サイ〔七字傍線〕。
 
〔評〕前に戀敷者氣長物乎今谷乏牟可哉可相夜谷《コヒシケバケナガキモノヲイマダニモトモシムベシヤアフベキヨダニ》(二〇一七)とあるのと同歌の異傳に過ぎない。
 
2080 織女の 今夜逢ひなば 常のごと 明日を隔てて 年は長けむ
 
織女之《タナバタノ》 今夜相奈婆《コヨヒアヒナバ》 如常《ツネノゴト》 明日乎阻而《アスヲヘダテテ》 年者將長《トシハナガケム》
 
織女ガ今夜彦星ト〔三字傍線〕逢ツタナラバ、又一年ハ逢ヘナイカラ〔又一〜傍線〕、明日ヲ界トシテ明日カラハ〔五字傍線〕今マデノ通リニ、一年立ツノガ長ク感ゼラレルデアラウ。
 
○明日乎阻而《アスヲヘダテテ》――明日を隔として。明日を界としての意。新考にこれを不合理として、明日者阻而年乎將度《アスハヘナリテトシヲワタラム》と改め訓んだのは從ひ難い。
〔評〕 これも二星の契を客觀的によんだのであるが、織女を主題としてそれに同情してゐる。
 
2081 天の川 棚橋わたせ 織女の い渡らさむに 棚橋わたせ
 
天漢《アマノガハ》 棚橋渡《タナハシワタセ》 織女之《タナバタノ》 伊渡左牟爾《イワタラサムニ》 棚橋渡《タナハシワタセ》
 
天ノ川ニハ棚ノヤウナ〔四字傍線〕橋ヲ渡シナサイ。織女ガ渡リナサル爲ニ、棚ノヤウナ〔四字傍線〕橋ヲ渡シナサイ。
 
○棚橋渡《タナハシワタセ》――棚橋は棚のやうに架けた板の假橋。○伊渡左牟爾《イワタラサムニ》――イワタラサムはイワタラスの未來。イは接頭語、スは敬語。
〔評〕 二句と末句とに同語を繰返したため、調子が輕快になつてゐる。これは織女が河を渡つて通るやうに詠んである。
 
2082 天の河 河門八十あり いづくにか 君がみ船を 吾が待ち居らむ
 
天漢《アマノガハ》 河門八十有《カハトヤソアリ》 何爾可《イヅクニカ》 君之三船乎《キミガミフネヲ》 吾待將居《ワガマチヲラム》
 
(282)天ノ川ニハ川ノ渡場所ガ澤山アル。何所デアナタノ御舟ヲ、ワタクシハ待ワテヰマセウゾ。何所トモ見當ガツカナイ〔何所〜傍線〕。
 
○河門八十有《カハトヤソアリ》――河門は、河の舟で渡るところ。
〔評〕織女が彦星を待つ心である。天の川が廣いやうによんであるのは、前に八十舟津三舟停《ヤソノフナツニミフネトドメヨ》(二〇四六)とあるに似、卷七の近江之海湖者八十何爾加君之舟泊草結兼《アフミノミミナトヤソアリイヅクニカキミガフネハテクサムスビケム》(一一六九)にも似てゐる。
 
2083 秋風の吹きにし日より 天の河 瀬に出で立ちて 待つと告げこそ
 
秋風乃《アキカゼノ》 吹西日從《フキニシヒヨリ》 天漢《アマノガハ》 瀬爾出立《セニイデタチテ》 待登告許曾《マツトツゲコソ》
 
秋風ガ吹キ始メタ日カラシテ、私ガ〔二字傍線〕天ノ川ノ瀬ニ出カケテ彦星ノオイデヲ〔七字傍線〕、待ツテ居リマスト彦星ニ〔三字傍線〕知ラセテ下サイ。
 
○瀬爾出立《セニイデタチテ》――瀬は渡り瀬である。古義に瀬の上、河を脱とし、カハセニデタチとよんでゐる。新考に瀬を濱としてハマニイデタチとしてゐるが、共に要なき改竄である。
〔評〕 織女の彦星をまつ心。古今集に「秋風の吹きにし日より久方の天の河原に立たぬ日はなし」に似てゐる。
 
2084 天の河 去年の渡瀬 荒れにけり 君が來まさむ 道の知らなく
 
天漢《アマノガハ》 去年之渡湍《コゾノワタリセ》 有二家里《アレニケリ》 君之將來《キミガキマサム》 道乃不知久《ミチノシラナク》
 
天ノ川ノ去年ノ渡リ瀬ハ、今年ハ〔三字傍線〕荒レテ渡レナイヤウニナツテ〔渡レ〜傍線〕シマツタ。ダカラ今年ハ〔六字傍線〕アナタガ何處ヲ渡ツテオイデニナルカ、ソノ〔三字傍線〕道ノ見當ガツキマセヌ。ドコト分レバ其處ヘオ迎ヘニ參ラウノニ〔ドコ〜傍線〕。
 
○去年之渡湍《コゾノワタリセ》――去年渡つた瀬。前に去歳渡代《コゾノワタリデ》(二〇一八)とあるに同じ。○有二家里《アレニケリ》――考に有を絶に改めてタエニケリとあり、略解・古義共にこれによつてゐるが、有をアレとよめないことはあるまい。新考に有を失に改(283)めてウセニケけとしてゐる。
〔評〕 織女の彦星を待つ心。前に天漢去歳渡代遷閉者河瀬於蹈夜深去來《アマノガハコゾノワタリデウツロヘバカハセヲフムニヨゾフケニケル》(二〇一八)とあつたのは彦星の心で、これと言葉は似てゐるが、意は異なつてゐる。
 
2085 天の河 瀬々に白浪 高けども ただ渡り來ぬ 待たば苦しみ
 
天漢《アマノガハ》 湍瀬爾白浪《セゼニシラナミ》 雖高《タカケレド》 直渡來沼《タダワタリキヌ》 待者苦三《マタバクルシミ》
 
天ノ川ハドノ瀬モ、白波ガ高ク立チ騷イデヰルガ、私ハソノ波ノ鎭マルノヲ〔私ハ〜傍線〕待ツテ居レバ苦シイカラ、ソノママニ川ヲ〔二字傍線〕徒渉リシテ來マシタ。
 
○待者苦三《マタバクルシミ》――舊訓マテバクルシミとある。ここは古義による。
〔評〕 彦星の心。一寸おもしろい構想である。
 
2086 牽牛の 妻喚ばふ舟の 引綱の 絶えむと君を 吾が念はなくに
 
牽牛之《ヒコボシノ》 嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》 引綱乃《ヒキツナノ》 將絶跡君乎《タエムトキミヲ》 吾之念勿國《ワガモハナクニ》
 
ドンナコトガアツテモアナタト(牽牛之嬬喚舟之引綱乃)切レヤウトハ私ハ思ツテ居リマセヌゾ。アナタモソノオ考デ末永クオ忘レナイヤウニ願ヒマス〔アナ〜傍線〕。
 
○嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》――妻迎舟の意とするのはよくない。嬬喚舟之《ツマヨバフフネノ》(二〇七五)參照。○引綱乃《ヒキツナノ》――この句までは絶《タエ》と言はむ爲の序詞。引綱は船の綱手繩である。前に引船丹度裳來《ヒクフネニワタリモキマセ》(二〇五四)とあつた。
〔評〕 これは寄七夕戀の歌で、七夕を詠じたものではない。然しここに掲げたのは、七夕の乞巧奠の席上などで同時に詠まれたからであらう。
 
2087 渡守 舟出し出でむ 今夜のみ 相見て後は 逢はじものかも
 
渡守《ワタリモリ》 舟出爲將出《フナデシイデム》 今夜耳《コヨヒノミ》 相見而後者《アヒミテノチハ》 不相物可毛《アハジモノカモ》
 
(284)渡守ヨ、サア舟ヲ出シテ、モウ〔二字傍線〕出カケヨウ。今夜ダケ妻ノ織女ニ〔五字傍線〕逢ツテ、ソノ後ハ逢ハナイトイフ譯デハナイデハナイカ。又來年モ逢ヘルノダカラ、サウ別レヲ惜シンデモシヤウガナイ。サア舟ヲ出セ〔又來〜傍線〕。
 
○舟出爲將出《フナデシイデム》――終の出は、一本に去とありとて、略解は改めてフナデシイナムとよんでゐる。併し今、古寫本中にさうなつてゐるものを見出し得ない。古義は更にそれを來に改めてフナデシコムと訓んでゐる。
〔評〕 後朝の別に際しての彦星のこころである。あきらめて出かけようといふのが、少し變つた趣向であらう。
 
2088 吾が隱せる 楫棹無くて 渡守 舟貸さめやも しましはあり待て
 
吾隱有《ワガカクセル》 ※[楫+戈]棹無而《カヂサヲナクテ》 渡守《ワタリモリ》 舟將借八方《フネカサメヤモ》 須臾者有待《シマシハアリマテ》
 
私ガ楫モ棹モ〔四字傍線〕隱シテ置イタカラ〔二字傍線〕、楫モ棹モ無イカラ、イクラアナタガ舟ニ乘ラウトナサツテモ〔イク〜傍線〕、渡守ハ舟ヲ貸シテ乘セテハクレマ〔七字傍線〕マセヌヨ。デスカラ〔四字傍線〕暫クノ間ハ、此處〔二字傍線〕ニサウシテイラシツテ待ツテヰテ下サイマシ。サウオ急ギナサルモノデハアリマセヌ〔サウ〜傍線〕。
 
○舟將借八方《フネカサメヤモ》――舟に乘せてはくれぬよの意。
〔評〕 前の彦星の歌に對する答で、織女の別を惜しむ心である。この方があはれに出來てゐる。殊に一二句がおもしろい。
 
2089 あめつちの はじめの時ゆ 天の河 い向ひ居りて 一年に 二度逢はぬ 妻戀に 物念ふ人 天の河 安の川原の 在り通ふ 年の渡に そほ船の 艫にも舳にも 船よそひ 眞楫しじぬき ハタ芒 本葉もそよに 秋風の 吹き來るよひに 天の川 白浪しぬぎ 落ち激つ 早瀬わたりて 稚草の 妻が手まかむと 大船の 思ひたのみて 漕ぎ來らむ そのつまの子が あらたまの 年の緒長く 思ひ來し 戀を盡さむ 七月の 七夕のよひは 我も悲しも
 
乾坤之《アメツチノ》 初時從《ハジメノトキユ》 天漢《アマノガハ》 射向居而《イムカヒヲリテ》 一年丹《ヒトトセニ》 兩遍不遭《フタタビアハヌ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 物念人《モノオモフヒト》 天漢《アマノガハ》 安乃川原乃《ヤスノカハラノ》 有通《アリガヨフ》 出出乃渡丹《トシノワタリニ》 具穗船乃《ソホブネノ》 艫丹裳舳爾裳《トモニモヘニモ》 船装《フナヨソヒ》 眞梶繁拔《マカヂシシヌキ》 旗芒《ハタススキ》 本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》 秋風乃《アキカゼノ》 吹來夕丹《フキクルヨヒニ》 天川《アマノガハ》 白浪凌《シラナミシヌギ》 落沸《オチタギツ》 速湍渉《ハヤセワタリテ》 稚草乃《ワカクサノ》 妻手枕迹《ツマガテマカムト》 大舟乃《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 (285)※[手偏+旁]來等六《コギクラム》 其夫乃子我《ソノツマノコガ》 荒珠乃《アラタマノ》 年緒長《トシノヲナガク》 思來之《オモヒコシ》 戀將盡《コヒヲツクサム》 七月《フミヅキノ》 七日之夕者《ナヌカノヨヒハ》 吾毛悲焉《ワレモカナシモ》
 
天地ノ分レタ大昔ノ〔三字傍線〕時カラ、天ノ川ニ向ツテ居ツテ、一年ニ二度トハ逢ハレナイ妻ヲ戀ヒ慕ヒ〔二字傍線〕ナガラ、物念ヒヲシテヰル彦星トイフ〔五字傍線〕人ガ、天ノ川ノ安ノ川原ヲアアシテ通ツテ、年ニ一度ノ川渡リニ、朱塗ノ舟ノ艫ニモ舳ニモ舟飾ヲシテ楫ヲ澤山ニ貫キ通シテ、旗薄ノ莖モ葉モソヨソヨト靡カシテ〔四字傍線〕、秋風ガ吹イテ來ル晩ニ、天ノ川ノ白浪ヲ押シ分ケテ、泡立チ流レル速瀬ヲ渡ツテ、(稚草乃)妻ノ織女ノ〔三字傍線〕手ヲ枕トシテ寢ヨウト、(大船乃)思ツテアテニシテ、※[手偏+旁]イデ來ルデアラウ所ノ、アノ夫ノ彦星ガ、(荒珠乃)年ヲツヅケテ長イ間、思ツテ來タ戀慕ノ情〔三字傍線〕ヲ盡スデアラウ七月ノ七日ノ晩ハ   下界デ想像シテヰル私モ〔下界〜傍線〕、感慨胸ニ迫ルコトデアルヨ。
 
○婁戀爾物念人《ツマゴヒニモノオモフヒト》――これは彦星を指してゐる。ここまではすべてこの句を修飾してゐる。○出出乃渡丹《トシノワタリニ》――舊本、テテノワタリニとあり、童蒙抄は世世《セセ》の誤とし、考は歳《トシ》の誤としてゐる、考によることにした。○具穗船乃《ソホフネノ》――これも具は曾の誤とした考の説がよい。舊訓クホフネとあるのではわからない。ソホブネはマソホを塗つた舟、即ち朱塗の舟。マソホは卷十六の佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)の眞朱《マソホ》である。○旗荒《ハタススキ》――荒を舊訓アラシとあるが、ススキとよむべきところである。考に芒《ススキ》の誤としたのに從つて置く、略解は荻の誤としてススキとよみ、又荒を篶木の二字を一字に誤つたものとしてゐる。古義は次の木と合せて荒木《ススキ》とよんでゐる。○本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》――舊訓モトハモクセニとある。考に具を曾の誤としたのによる。或は略解に言つたやうに其の誤かも知れない。古義には、葉の上に末を脱として、ウラバモソヨニと訓んでゐる。○稚草乃《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづく。一五三參照。○大船乃《オホブネノ》――枕詞。大船に乘つたものはその安全を憑みに思つておるからであらう。○吾毛悲焉《ワレモカナシモ》――舊本烏とあるのは、焉の草體から誤つたのである。元暦校本・類聚古集など古本多くは焉になつてゐる。
 
(286)〔評〕 彦星を中心にして、七夕の夜の交會を想像して、感傷的氣分に浸つてゐる。卷八(一五二〇)にあつた山上憶良の長歌よりも、平易で、格調が新しいやうに思はれる。新考はこの歌の句調整はないとして、もと三首なりしが、混じて一首になつたものと斷じてゐるが、このままで分らぬこともないから、さうは考へられない。
 
反歌
 
2090 高麗錦 紐解き交し 天人の 妻問ふよひぞ 我もしぬばむ
 
狛錦《コマニシキ》 紐解易之《ヒモトキカハシ》 天人乃《アメビトノ》 妻問夕叙《ツマトフヨヒゾ》 吾裳將偲《ワレモシヌバム》
 
高麗織ノ錦ノ紐ヲ解キ替ハシテ、天人ガ妻ヲ音ヅレル晩デアルゾヨ。私モ天ノ樂シイ樣子ヲ遙カニ〔天ノ〜傍線〕思ヒヤリマセウ。
 
○狛錦《コマニシキ》――高麗より舶載の錦。これを枕詞として紐に冠するものと見る説もあるが、これは牽牛の姿の形容で、天上の人らしく、神仙らしい装として、特に高麗錦といつたのであるから、枕詞と見てはわるい。○天人乃《アメビトノ》――天人。彦星のこと。
〔評〕 長歌の意を要約しただけ。長歌の結末と相似てゐる。
 
2091 彦星の 川瀬を渡る さ小舟の 得行きて泊てむ 河津し念ほゆ
 
彦星之《ヒコボシノ》 川瀬渡《カハセヲワタル》 左小舟乃《サヲブネノ》 得行而將泊《エユキテハテム》 河津石所念《カハヅシオモホユ》
 
彦星ガ天ノ川ノ〔四字傍線〕川瀬ヲ渡ル小舟ガ、行キ着クコトガ出來テ泊ル、河ノ舟着キ場ノ樣子ガ遙ニ〔二字傍線〕想像サレル。サゾ嬉シイデアラウ〔九字傍線〕。
 
○左小舟乃《サヲブネノ》――サは接頭語のみ。○得行而將泊《エユキテハテム》――舊訓トユキテハテム、代匠記精撰本トクユキテ、略解はハテテトマラムとよんでゐるが、ハテテとする翁の説を否としてゐる。新考はイユキテハテム、新訓はユキユキ(287)テハテムとしてゐる。文字のままに訓んで、行き得て泊てむの意に解して置カウ。
〔評〕 彦星の舟が對岸に着いた時の、一年ぶりの二星の抱擁を想像したもの。上品に出來てゐる。
 
2092 天地と 別れし時ゆ 久方の 天つしるしと 定めてし 天の河原に あらたまの 月を累ねて 妹に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 吾が衣手に 秋風の 吹きかへらへば 立ちてゐる たどきを知らに 村肝の 心おぼえず 解き衣の 思ひ亂れて 何時しかと 吾が待つこよひ その川の 行きの長けく ありこせぬかも
 
天地跡《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》 久方乃《ヒサカタノ》 天驗常《アマツシルシト》 弖大王《サダメテシ》 天之河原爾《アマノカハラニ》 璞《アラタマノ》 月累而《ツキヲカサネテ》 妹爾相《イモニアフ》 時候跡《トキサモラフト》 立待爾《タチマツニ》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》 秋風之《アキカゼノ》 吹反者《フキカヘラヘバ》 立坐《タチテヰル》 多土伎乎不知《タドキヲシラニ》 村肝《ムラキモノ》 心不欲《ココロオボエズ》 解衣《トキギヌノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 何時跡《イツシカト》 吾待今夜《ワガマツコヨヒ》 此川《コノカハノ》 行長《ユキノナガケク》 有得鴨《アリコセヌカモ》
 
天ト地トガ別レテ、コノ世界ガ出來〔八字傍線〕タ時カラ、(久方乃)天ノ標《シルシ》トシテ定メテ置イタ天ノ河ノ河原ニ、私ハ〔二字傍線〕月ヲ幾多重ネテ、永イ間〔三字傍線〕妻ノ織女〔三字傍線〕ニ逢フ時ヲ待ツトテ、立ツテ待ツテヰルト、私ノ着物ノ袖ニ秋風ガ幾度モ幾度モ吹イテ來ルト、戀シクテ戀シクテ〔八字傍線〕、立ツテモ居テモ何トモ爲樣ガナクテ、(村肝)心モ譯ガ分ラヌヤウニナリ、(解衣)考ガ亂レテ、サテモ逢ハレル時ハ〔九字傍線〕何時デアラウカト、私ガ待チ焦レテヰタ今夜ハ、コノ天ノ〔二字傍線〕川ノ流ノヤウニ、長ク續イテクレレバヨイガナア。
 
○天驗常《アマツシルシト》――上に久方天印等《ヒサカタノアマツシシト》(二〇〇七)とあるに同じ。○弖大王《サダメテシ》――弖は定の誤。元暦校本にさうなつてゐる。大王は王羲之をいふ。手師の意でテシと訓むのである。舊訓は弖を上の句につづけて、アマツシルシトテオホキミノとし、代匠記もそれによつて解してゐるが、意が通じない。○璞《アラタマノ》――枕詞。月とつづく。四四三參照。璞は磨かざる玉のこと。○時候跡《トキサモラフト》――舊訓トキシヲマツトとあるのも意は通ずるが、候の字は卷十一の人目多常如是耳志候者《ヒトメオホミツネカクノミシサモラヘバ》(二六〇六)の例に從つて、サモラフと訓むべきである。○吹反者《フキカヘラヘバ》――舊訓フキシカヘセバ、古義はフキシカヘレバ、新訓はフキカヘサヘバとある。卷一に行幸能山越風乃獨座吾衣手爾朝夕爾還比奴禮(288)婆《イデマシノヤマコスカゼノヒトリヲルワガコロモデニアサヨヒニカヘラヒヌレバ》(五)とあるに傚つて、カヘラヘバとよむことにした。○多土伎乎不知《タドキヲシラニ》――卷二の蔓寸乎白土《タヅキラシラニ》(五)と同じく、方法が分らずの意。○村肝《ムラキモノ》――枕詞。心とつづく。五參照。○心不欲《ココロオボエズ》――略解に「宣長は欲は歡の誤にて、心不歡はこころさぶしくと訓べしと言へり」とある。古義は「不欲は不知欲比とありしが、知比の字を落せる事しるし、さらばイサヨヒと訓べし。(中略)三卷赤人歌に雲居奈須心射左欲比《クモヰナスココロイサヨヒ》とあるに同じく、心の浮れて定らず、散亂《ミダ》れたるをいへり」といつてゐる。これも意は明らかである。新訓にはココロタユタヒと訓んでゐる。これもよいやうであるが、ここはしばらく舊訓に從つて置いた。○解衣《トキギヌノ》――枕詞。解きほぐした衣は亂れてゐるから亂れとつづく。○行長有得鴨《ユキノナガククアリコセヌカモ》――舊訓ユキナカクアルトカモとあり、意が通じないので、この句に關して諸説が紛紛としてゐる。代匠記精撰本は行の下、知の字脱とし、ユクゴトナガクアリエテムカモとし、考は行長は行行良良の誤でユクラユクラニアリガテムカモと訓み、略解は行長は行行の誤、得の上、不を脱としてユクラユクラニアリガテヌカモと訓んでゐる。古義は行の下、瀬を脱とする中山嚴水説を可とし、得の上に欲を脱とし、ユクセノナガクアリコセヌカモとしてゐる。ここは新訓が採用した略解補正の説によることにした。この川のやうに永く續いてあつてくれよの意。
〔評〕 七夕の晩、織女に逢はむとして未だ逢はぬ間の彦星の心である。この長歌の語句は前の七夕の短歌と同一のものもあるが、卷一の幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌(五)とかなり類似點を有してゐる。彼に傚つたものと考へてもよいであらう。
 
反歌
 
2093 妹に逢ふ 時片待つと 久方の 天の河原に 月ぞ經にける
 
妹爾相《イモニアフ》 時片待跡《トキカタマツト》 久方乃《ヒサカタノ》 天之漢原爾《アマノカハラニ》 月叙經來《ツキゾヘニケル》
 
妻ニ逢フ七夕ノ〔三字傍線〕時ガ來ルノ〔四字傍線〕ヲ、心カラ待ツトテ、私ハ(久方乃)天ノ河原ニ立ツテ居ツテ〔六字傍線〕幾月モ經ツタヨ。
(289)○時片待跡《トキカタマツト》――片待《カタマツ》ハ片よりて待つ。ひたすら待つ意。
〔評〕 これは平明な作である。以上七夕の歌が長歌二首、短歌九十五首ある。その中には柿本人麿歌集出のものもあつて、かなり時代が古いらしいのもあるが、多くは天平に入つてからの作らしい。歌詞の新しいものが多い。これらは七夕祭の席上の詠で、二星に捧げたものと考へられる。乞巧奠は天平勝寶七歳に始まると傳へられてゐるが、それは朝廷に於て公の儀式となつた時のことで、それ以前から廣く盛に行はれてゐたと斷じてもよいと思ふ。
 
2094 さを鹿の こころ相念ふ 秋萩の 時雨のふるに 散らくし惜しも
 
竿志鹿之《サヲシカノ》 心相念《ココロアヒオモフ》 秋芽子之《アキハギノ》 鐘禮零丹《シグレノフルニ》 落僧惜毛《チラクシヲシモ》
 
男鹿ノ心ト相通ウテ、男鹿ノ鳴ク秋ノ頃ニ美シク咲ク〔テ男〜傍線〕秋萩ノ花ガ、コノ〔四字傍線〕時雨ノ降ルノニ、散ルノハ惜シイモノダヨ。
 
○心相念《ココロアヒオモフ》――心で相互に思ひ合つてゐる。○鐘禮零丹《シグレノフルニ》――鐘禮をシグレとよむことについては、落鐘禮能《オツルシグレノ》(一五五一)參照。○落僧惜毛《チラクシヲシモ》――舊訓チリソフヲシモとあり、考に僧を倶の誤として、チラマクヲシモとある。僧は卷四にも知僧裳無跡《シルシモナシト》(六五八)とあり、シとよんでゐる。字音辨證に僧にシの音ありと言つてゐるが、古義に信の誤としたのがよいのではあるまいか。
〔評〕 萩を鹿の花妻といふ思想が上句にあらはれてゐる。後世ならば萩に注ぐ雨は時雨と言はないのだが、この集では秋の雨をも時雨といつたのである。
 
2095 夕されば 野邊の秋萩 うら若み 露に枯れつつ 秋待ち難し
 
夕去《ユフサレバ》 野邊秋芽子《ヌベノアキハギ》 末若《ウラワカミ》 露枯《ツユニカレツツ》 金待難《アキマチガタシ》
 
夕方ニナルト、野原ニ生エテヰル秋萩ハ、マダ〔二字傍線〕若々シイカヨワイ姿ナ〔六字傍線〕ノデ、ヒドク降ル〔五字傍線〕露ニ葉ガ〔二字傍線〕枯レテ、花咲ク〔三字傍線〕秋ノ來ル〔二字傍線〕ノモ待ツコトガ出來ナイ。イタイタシイコトダ〔イタイ〜傍線〕。
 
(290)○末若《ウラワカミ》――若くみづみづしいので。ウラには意味はないやうである。○露枯《ツユニカレツツ》――舊訓はツユニシカレテ、代匠記精撰本はツユニカレツツ、考はツユニシヲレテとし、略解の宣長説は枯を沾の誤として、ツユニヌレツツとしてゐるが、代匠記によることにした。露の爲に萩の葉が色づくのを枯れるといつたのである。
〔評〕 夕露が重重しく置いた萩の枝をあはれんだので、如何にもいたいたしくかよわい姿によんである。左註に人麿之謌集出とあるが、人麿らしい感情の優婉さが見える。
 
右二首柿本朝臣人麿之謌集出
 
2096 眞葛原 なびく秋風 吹くごとに 阿太の大野の 萩が花散る
 
眞葛原《マクヅハラ》 名引秋風《ナビクアキカゼ》 毎吹《フクゴトニ》 阿太乃大野之《アダノオホヌノ》 芽子花散《ハギガハナチル》
 
葛ガ生エテヰル〔六字傍線〕原ガサツト〔三字傍線〕靡イテ、秋風ガ吹ク度毎ニ、阿太ノ廣イ野ニハ萩ノ花ガホロホロト〔五字傍線〕數ルヨ。
 
○名引秋風《ナビクアキカゼ》――意は眞葛原を吹き靡かす秋風であるが、形は眞葛原が靡く秋風である。○阿太乃大野之《アダノオホヌノ》――阿太乃大野は和名砂に、大和國宇知郡阿陀とあ(291)るところの野。即ち吉野川の北岸、下市町の西方里餘の地に大阿太村がある。その附近の平地が即ち古の阿太の大野で、卷十一の安太人乃八名打度瀬速《アダヒトノヤナウチワタスセヲハヤミ》(二六九九)とあるのもこの地のことである。寫眞は辰巳利文氏寄贈。
〔評〕 葛の茂つたあたりを秋風が吹き渡ると、その白い大きい葉裏が著しく目立つて、さながらに野原に白波でも立つたやうである。と思つてその風の行方を眺めてゐると、それが野原一面に咲き滿ちてゐる萩の花を掠め去つて、可憐な花瓣がほろほろとこぼれるといふ情景である。何といふ婉麗さであらう。さうして場面の廣大と躍動的の風趣がよくあらはれてゐる。
 
2097 雁がねの 來なかむ日まで 見つつあらむ この萩原に 雨なふりそね
 
鴈鳴之《カリガネノ》 來喧牟日及《キナカムヒマデ》 見乍將有《ミツツアラム》 此芽子原爾《コノハギハラニ》 雨勿零根《アメナフリソネ》
 
私ハコノ萩ノ花ノ美シイ景色ヲ〔私ハ〜傍線〕、雁ガ來テ嶋ク頃マデ眺メテヰテ心ヲ慰〔四字傍線〕ヨウト思フガ、ソレマデハ〔五字傍線〕コノ美シイ〔三字傍線〕萩原ニハ、雨ガ降ルナヨ。雨ガ降ツテ花ヲ散ラシテクレルナ〔雨ガ〜傍線〕。
〔評〕 雨によつて萩の花の散るのを惜しんだもの。萩に對して鴈聲を聞かうといふのか。三四の句は續けて見ねばならぬ。秋芽子者於鴈不相常言有者香音乎聞而者花爾散去流《アキハギハカリニアハジトイヘレバカコヱヲキキテハハナニチリヌル》(二一二六)とある。
 
2098 奥山に 住むとふ鹿の よひ去らず 妻問ふ萩の 散らまく惜しも
 
奥山爾《オクヤマニ》 住云男鹿之《スムトフシカノ》 初夜不去《ヨヒサラズ》 妻問芽子乃《ツマトフハギノ》 散久惜裳《チラマクヲシモ》
 
奥山ニ住ムトイハレテヰル鹿ガ、毎晩毎晩宵毎ニ音ヅレテ來ル、ソノ愛スル〔五字傍線〕妻ノ野原ノ〔三字傍線〕萩ノ花ガ〔二字傍線〕、散ツテシマフノハ惜シイモノダヨ。
 
○初夜不去《ヨヒサヲズ》――毎夜。初夜と書いてあるが、宵と限定したのではなく、夜のことである。○妻問芽子之《ヅマトフハギノ》――萩を妻として訪ふのである。鹿が萩咲くあたりに、その妻の鹿を訪ふのではあるまい。
〔評〕 萩の花咲く位置が明らかでないが、里近き野であらう。奥山から鹿がわざわざ訪ひ來るやうに歌つてゐる。
 
(292)2099 白露の 置かまく惜しみ 秋萩を 折りのみ折りて 置きや枯らさむ
 
白露乃《シラツユノ》 置卷惜《オカマクヲシミ》 秋芽子乎《アキハギヲ》 折耳折而《ヲリノミヲリテ》 置哉枯《オキヤカラサム》
 
白露ガ秋萩ノ上ニ〔五字傍線〕宿ツテ花ヲ痛メ〔六字傍線〕ルノヲ惜シク思ツテ、私ハ〔二字傍線〕秋萩ノ枝〔二字傍線〕ヲスッカリ折リ取ツテシマツテ、置イテ枯ラストシヨウカ。
 
○折耳折而《ヲリノミヲリテ》――ひたすらに折る意。古義に而は六又は旡の誤として、ヲリノミヲラムと訓んでゐる。○置哉枯《オキヤカラサム》――折り取つて置いて枯らさうといふので、反語ではない。
〔評〕 露によつて枯れるに任せるよりも、折り取つて少しでも眺めて枯れ行くに任せようといふので、花をあはれむ心がよくあらはれてゐる。新考に「露の爲に萩のかるることはなし」とあるが、前に夕去野邊秋芽子末若露枯金待難《ユフサレバヌベノアキハギウラワカミツユニカレツツアキマナガタシ》(二〇九五)とある。
 
2100 秋田苅る 假廬のやどり にほふまで 咲ける秋萩 見れど飽かぬかも
 
秋田苅《アキタカル》 借廬之宿《カリホノヤドリ》 爾穗經及《ニホフマデ》 咲有秋芽子《サケルアキハギ》 雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
秋ノ田ヲ苅ル處ニ〔二字傍線〕假ニ田ノ中ニ〔四字傍線〕作ツタ小屋モ、花ノ色ニ〔四字傍線〕美シク照リ映エルホドモ、美シク〔三字傍線〕咲イタ秋萩ノ花〔二字傍線〕ハイクラ〔三字傍線〕見テモ見飽カナイヨ。
 
○爾穗經及《ニホフマデ》――匂ふは色の美しく映えることと、色に染まることとの兩義がある。ここは前者であらう。
〔評〕 秋の田の稔る頃、田の畔に假廬を作つて、そこに宿つて番するので、如何なるところにあつても、狹隘・窮屈などを意とせず、折折の風物を樂しむ農民の風流心があらはれて嬉しい。この歌、後撰集にも出てゐる。
 
2101 吾が衣 摺れるにはあらず 高まどの 野邊行きしかば 萩の摺れるぞ
 
吾衣《ワガコロモ》 摺有者不在《スレルニハアラズ》 高松之《タカマドノ》 野邊行之者《ヌベユキシカバ》 芽子之摺類曾《ハギノスレルゾ》
 
私ノコノ〔二字傍線〕着物ハ人工ヲ以テ色ヲ〔七字傍線〕摺ツテ染メ〔三字傍線〕タノデハアリマセヌ。高圓ノ野ヘ行ツタ所ガ、野ニハ澤山ノ萩ガ咲(293)ウテヰタノデ、ソノ花ノ色ガ移ツテ、カウナツタノダ。ツマリ〔野ニ〜傍線〕萩ガ摺ツテ染メテクレ〔六字傍線〕タモノデスゾ。
 
○吾衣《ワガコロモ》――舊訓ワガキヌヲ、代匠記精撰本ワガキヌハとある。ここは考に從ふ。○高松之《タカマドノ》――松は圓の借字でタカマドであらう。新考にはタカマツと訓むべしといつてゐる。○野邊行之者《ヌベユキシカバ》――代匠記に之の下に、香又は可の字が脱ちたのであらうといつてゐる。
〔評〕 上品な、優美な作で、上代人らしい長閑さがあらはれてゐる。萩の花摺衣の製が、明らかになつてゐるのも嬉しい。
 
2102 この夕べ 秋風吹きぬ 白露に あらそふ萩の 明日咲かむ見む
 
此暮《コノユフベ》 秋風吹奴《アキカゼフキヌ》 白露爾《シラツユニ》 荒爭芽子之《アラソフハギノ》 明日將咲見《アスサカムミム》
 
コノ夕方秋風ガ吹イタ。イヨイヨ秋ノ時節トナツタ〔イヨ〜傍線〕。白露ガ置イテ花ヲ咲カセヨウトスルノ〔ガ置〜傍線〕ニ反抗シテ咲カナイデ〔五字傍線〕ヰル萩ガ、明日咲クデアラウガ〔五字傍線〕、ソレヲ私ハ〔二字傍線〕見ヨウト思フ。
 
○白露爾荒爭芽子之《シラツユニアラソフハギノ》――白露に爭ふとは、(1)白露が花を咲かせまいとするに反抗して咲かうとするのか、(2)白露が咲かせようとするに、咲くまいと爭ふのか、(3)白露と美を爭つて咲くといふのか、(4)白露の置いた中で、萩が互に美を爭ふといふのか。いろいろに解せられる。しかし前に 春雨爾相爭不勝而吾屋前之櫻花者開始爾家里《ハルサメニアラソヒカネテワガヤドノサクラノハナハサキソメニケリ》(一八六九)によつても、花が咲かじとするのを露が咲かしめようと促す意であることがわかる。この下に白露爾荒爭金手咲芽子散惜兼雨莫零根《シラツユニアラソヒカネテサケルハギチラバヲシケムアメナフリソネ》(二一一六)とあるのも同樣に解すべきである。
〔評〕 萩の花を待つ心から、置く露にさからつて、花が咲かぬやうに考へるので、今夕、秋風の涼しさに、萩の花の吹きいづべきを想像して喜んでゐる、上品な作だ。
 
2103 秋風は 冷しくなりぬ 馬なめて いざ野に行かな 萩が花見に
 
秋風《アキカゼハ》 冷成奴《スズシクナリヌ》 馬並而《ウマナメテ》 去來於野行奈《イザヌニユカナ》 芽子花見爾《ハギガハナミニ》
 
秋風ハ凉シクナツテ來タ。友達ドモヨ〔五字傍線〕、萩ノ花ヲ見ニ、馬ヲ連ネテサア野ヘ出カケヨウ。
 
(294)〔評〕 はつきりした澄み切つた調子の歌である。白馬に跨つて銀の鞭を上げる貴公子たちの姿を思はしめる。古今集の「駒なめていざ見に行かむふるさとは雪とのみこそ花は散るらめ」のやうな花やかさはないが、飾らぬところに却つて味がある。
 
2104 朝顔は 朝露おひて 咲くといへど 夕かげにこそ 咲きまさりけれ
 
朝杲《アサガホハ》 朝露負《アサツユオヒテ》 咲雖云《サクトイヘド》 暮陰社《ユフカゲニコソ》 咲益家禮《サキマサリケレ》
 
朝顔ノ花ハ、朝露ヲ帶ビテ咲クモノダト、人ハ〔二字傍線〕言フガ、コノ通リ〔四字傍線〕夕方物〔二字傍線〕蔭ニ、コンナニ〔四字傍線〕益々勢ヨク咲イテヰルヨ。評判トハ違ツタ花ダ〔九字傍線〕。
 
○朝杲《アサガホハ》――朝杲は朝貌即ち桔梗。卷八の朝貌之花《アサガホノハナ》(一五三八)參照。杲をカホと訓むことについて、見杲石山跡《ミガホシヤマト》(三八二)參照。○暮陰社《ユフカゲニコソ》――暮陰は夕方の物陰。夕方の日陰ではない。
〔評〕 何の技巧も、工夫も無いが、感じのよい作だ。この朝顔は桔梗らしくよまれてゐる。
 
2105 春されば 霞隱りて 見えざりし 秋萩咲けり 折りてかざさむ
 
春去者《ハルサレバ》 霞隱《カスミガクリテ》 不所見有師《ミエザリシ》 秋芽子咲《アキハギサケリ》 折而將挿頭《ヲリテカザサム》
 
春ガ來ルト、野原ニ〔三字傍線〕霞ガ立チ込メ萩ハ〔七字傍線〕隱レテ見エナカツタガ、今ハソノ咲ク時節ガ來タノデ〔ガ今〜傍線〕、秋萩ガ美シク〔三字傍線〕咲イタヨ。サア〔二字傍線〕折ツテ髪ノ飾ニシヨウ。
 
〔評〕 萩が霞にかくれて見えなかつたといふのは、美化した叙法である、野の萩は春の間は丈も短く花もなくて、見わけ難いのをかく言つたのである。
 
2106 沙額田の 野邊の秋萩 時なれば 今盛なり 折りてかざさむ
 
沙額田乃《サヌカタノ》 野邊乃秋芽子《ヌベノアキハギ》 時有者《トキナレバ》 今盛有《イマサカリナリ》 折而將挿頭《ヲリテカザサム》
 
沙額田ノ野ノ秋萩ノ花〔二字傍線〕ハ、丁度〔二字傍線〕時節ナノデ、今ガ眞盛ニ咲イテヰル。サア、アレヲ〔五字傍線〕折ツテ髪ニ挿サウ。
 
(295)○沙額田乃《サヌカタノ》――沙額田は前に狹野方波《サヌカタハ》(一九二八)とあつたところと同じであらう。近江坂田郡か、大和生駒郡の額田か。その條參照。
〔評〕 沙額田の野で、盛の萩を眺めつつよんだもの。何等の特色もない。
 
2107 こと更に 衣は摺らじ をみなへし 佐紀野の萩に にほひて居らむ
 
事更爾《コトサラニ》 衣者不揩《コロモハスラジ》 佳人部爲《ヲミナヘシ》 咲野之芽子爾《サキヌノハギニ》 丹穗日而將居《ニホヒテヲラム》
 
俺ハ〔二字傍線〕特別ニ着物ヲ摺ツテ染メ〔四字傍線〕ルコトハスマイ。ソレヨリモ寧ロ〔七字傍線〕、(佳人部爲)佐紀野ノ萩ノ花ノ咲キ亂レタ中ニ、入ツテソノ花ノ色〔萩ノ〜傍線〕ニ着物ヲ〔三字傍線〕染メテ居ラウ。
 
○佳人部爲《ヲミナヘシ》――枕詞。咲と言はむ爲のみ。○咲野之芽子爾《サキヌノハギニ》――咲野は佐紀野。奈良舊都北方の平地。
〔評〕 萩を以て衣を摺つたことが、うかがはれるだけの歌である。
 
2108 秋風は とくとく吹き來 萩が花 散らまく惜しみ 競ひ立つ見む
 
秋風者《アキカゼハ》 急々吹來《トクトクフキコ》 芽子花《ハギガハナ》 落卷惜三《チラマクヲシミ》 競竟《キホヒタツミム》
 
秋風ハ速ク吹イテ來ヨ。サウシタラ〔五字傍線〕、萩ノ花ガ散ルノガ惜シサニ、風ニ〔二字傍線〕反抗シテ散ルマイト〔七字傍線〕スル樣ヲ見ヨウト思フ。
 
○急々吹來《トクトクフキコ》――舊本に急之とあるが、元暦校本・神田本など、之を々に作つてゐるのによる。○競竟《キホヒタツミム》――この句は全くわからない。舊訓オホロオホロニとあり、代匠記初稿本はアラソヒハテツ、考は競立見の誤として、キソヒタツミムとし、略解は競弖見として、アラソヒテミム、古義はキホヒタチミム、新考は立見を覧の誤として、キホヒテゾミムと訓んでゐる。いづれにも多少の無理はあるが、ここは考に從つた新訓によつてよんだ。解は「風に競ひて散らじとするさまを見むといふ心か」と考にあるによる。
〔評〕 少からす難解の歌である。右のやうによんでも、末句が穩やかでない。
 
(296)2109 我がやどの 萩のうれ長し 秋風の 吹きなむ時に 咲かむと思ひて
 
我屋前之《ワガヤドノ》 芽子之若末長《ハギノウレナガシ》 秋風之《アキカゼノ》 吹南時爾《フキナムトキニ》 將開跡思手《サカムトモヒテ》
 
私ノ宿ノ庭ノ〔二字傍線〕萩ノ枝ノ先ガ大サウ〔三字傍線〕長クノビテヰル。アレハ〔三字傍線〕秋風ガ吹イタラソノ時ニ咲カウトイフ考デ、アンナニノビテヰルノダラウ。咲イクラ、サゾ美シカラウ〔アン〜傍線〕。
 
○芽子之若末長《ハギノウレナガシ》――舊訓ハギノワカタチとあるのは論外である。○將開跡思手《サカムトモヒテ》――舊本に乎とあるは手の誤。類聚古集・神田本などはさうなつてゐる。
〔評〕 第二句に萩の枝の長長しい姿が目に見るやうに描寫されてゐる。三句以下は、うるはしい童心ともいふべきものが、あらはれてゐる。好きな歌だ。代匠記に「秋風の吹む時にさきなむに、うれの痛く長くて、損なはれやしなむとうしろめたくおもひ置なり」とあるのは、誤解の甚だしいものである。
 
2110 人皆は 萩を秋といふ よし我は 尾花がうれを 秋とは言はむ
 
人皆者《ヒトミナハ》 芽子乎秋云《ハギヲアキトイフ》 縱吾等者《ヨシワレハ》 乎花之末乎《ヲバナガウレヲ》 秋跡者將言《アキトハイハム》
 
皆ノ人ハ萩ヲ秋ノ第一ノ者〔五字傍線〕トイフガ、ヨシヤサウデモカマハナイ〔サウ〜傍線〕。私ハ尾花ノ咲イタ〔二字傍線〕穗先ノ美シサ〔二字傍線〕ヲ秋ノ代表ノモノ〔六字傍線〕ト言ハウト思フ〔三字傍線〕。
 
○乎花之末乎《ヲバナガウレヲ》――尾花の穗先を。薄の穗の美しさをいふのである。
〔評〕 天平の頃、秋の花の王として貴ばれたのは萩の花である。それは萩が集中最も多くよまれてゐるのでも明らかである。又秋野の七種の花の歌に芽之花乎花葛花瞿麥之花姫部志又藤袴朝顔之花《ハギガハナヲバナクズバナナデシコノハナヲミナヘシマタフヂバカマアサガホノハナ》(一五三八)とあるのは、必ずしも愛好の順序で排列せられたものではないが、萩の花が劈頭に置かれ、さうして尾花がその次に置かれてゐる。集中の歌數から言つても秋の花では尾花が萩の次になつてゐるのは、この花に對する上代人の嗜好を示すもので、この歌は更にそれを裏書してゐる感がある。
 
2111 玉梓の 君が使の 手折りける この秋萩は 見れど飽かぬかも
 
(297)玉梓《タマヅサノ》 公之使乃《キミガツカヒノ》 手折來有《タヲリケル》 此秋芽子者《コノアキハギハ》 雖見不飽鹿裳《ミレドアカヌカモ》
 
アナタノ(玉梓)使ガ手折ツテ持ツテ來テクレ〔八字傍線〕タ、コノ萩ノ花〔二字傍線〕ハ美シクテ、イクラ見〔八字傍線〕テモ見飽カナイヨ。アア綺麗ダ〔五字傍線〕。
 
○玉梓《タマヅサノ》――枕詞。使に冠してゐるのは、上代には使の標として、玉を飾つた梓の枝を持つて行つたものだといふが、果してどうであらう。
〔評〕 秋萩の花を使に持たして、贈つて來た人の好意に對する、感謝の辭である。平明。
 
2112 吾がやどに 咲ける秋萩 常ならば 吾が待つ人に 見せましものを
 
吾屋前爾《ワガヤドニ》 開有秋芽子《サケルアキハギ》 常有者《ツネナラバ》 我待人爾《ワガマツヒトニ》 令見※[獣偏+爰]物乎《ミセマシモノヲ》
 
私ノ家ニ咲イテヰル秋萩ノ花ハ、誠ニ美シイガ、コレガ〔ノ花〜傍線〕常ニアルモノ〔五字傍線〕ナラバ、ワタシガ待ツテヰル人ニ見セヨウノニ。イツモアルモノデハナイカラ、稀ニシカ來ナイ私ノ待人ニ、丁度都合好ク見セル譯ニユカナイ。惜シイモノダ〔イツ〜傍線〕。
 
○常有者《ツネナラバ》――いつもあるものならばの意。考にはツネニアラバ、古義にはツネシアラバとある。○令見※[獣偏+爰]物乎《ミセマシモノヲ》――※[獣偏+爰]をマシと訓んだのに注意したい。マシラといふ梵語が普通に用ゐられた證である。
〔評〕おとなしい女らしい歌だ。
 
2113 手もすまに 植ゑしもしるく 出で見れば やどのわさ萩 咲きにけるかも
 
手寸十名相《テモスマニ》 殖之名知久《ウヱシモシルク》 出見者《イデミレバ》 屋前之早芽子《ヤドノワサハギ》 咲爾家類香聞《サキニケルカモ》
 
手モ休メズ骨ヲ折ツテ〔五字傍線〕植ヱタ甲斐モ充分見エテ、庭ヘ〔二字傍線〕出テ見ルト、庭前ノ早咲キノ萩ハ、咲イタナア。
 
○手寸十名相《テモスマニ》――元暦校本・類聚古集・和歌童蒙抄などテモスマニとあつて、これが古點である。仙覺はこれを改(298)めて、タキソナヘとよんで「タキはあぐるなり。あげそなへといふことばなり。草木は植うる時にふかく植ゑたるはあしき也」と言ってゐるが、よくわからない。古義は手文寸麻仁の誤とする南部嚴男説を採用して、テモスマニの古訓に從つてゐる。しばらくこれによることとする。テモスマニは手も休めずの意。吾手母須麻爾《ワガテモスマニ》(一四六〇)參照。○殖之名知久《ウヱシモシルク》――舊訓、文字通りウヱシナシルクとあるが、これも古點、ウヱシモシルクとあるのがよいであらう。名は毛の誤とする略解説によつて置かう。○屋前之早芽子《ヤドノワサハギ》――早芽子《ワサハギ》は早咲の萩の花。舊訓ハツハギとあるが、早田《ワサダ》(一三五三)早飯《ワサイヒ》(一六三五)・早穂《ワサホ》(一六二五)の例にならつて、ワサハギとよむべきであらう。卷八に先芽《サキハギ》(一五四一)とあるも同じ。
〔評〕 野から引き植ゑた萩が、始めて花を附けたのを喜んだ歌。朗らかな感じの作である。この歌、和歌童蒙抄に見えてゐる。
 
2114 吾が宿に 植ゑ生したる 秋萩を 誰かしめさす 我に知らえず
 
吾屋外爾《ワガヤドニ》 殖生有《ウヱオホシタル》 秋芽子乎《アキハギヲ》 誰標刺《タレカシメサス》 吾爾不所知《ワレニシラエズ》
 
ワタシノ家ニ植ヱテ置イタ秋萩ヲ、ワタシニ秘密ニ、誰ガ自分ノ物ニシテシマツタノダラウ。ワタシノ大事ニシテ置イタ女ヲ、ワタシニ内所デ横取リスルトハヒドイ奴ダ〔ワタシノ〜傍線〕。
 
○誰標刺《タレカシメサス》――誰が標《シルシ》を立てたか。刺《サス》は立つに同じ。
〔評〕 女を萩に譬へた譬喩歌であるから、ここに收めたのは當らない。代匠記精撰本に「此はいつく娘を守るに密によばふ男あるを聞付てよそへよめる歟」とある通りであらう。略解には「我物にせむとおもひし女を、我に知られぬやうにして人の領じたるにたとへたる譬喩の歌なるを云々」とある。
 
2115 手に取れば 袖さへ匂ふ 女郎花《をみなへし》 この白露に 散らまく惜しも
 
手取者《テニトレバ》 袖并丹覆《ソデサヘニホフ》 美人部師《ヲミナヘシ》 此白露爾《コノシラツユニ》 散卷惜《チラマクヲシモ》
 
手ニ折〔傍線〕取ルト着物ノ〔三字傍線〕袖マデモ色ガ付クヤウナコノ美シイ〔五字傍線〕女郎花ガ、コノヒドク置イタ〔六字傍線〕白露ノ爲ニ〔三字傍線〕花ヲ散ラシテ(299)シマフノハ惜シイモノダヨ。
 
○袖并丹覆《ソデサヘニホフ》――サヘニ并の文字を記したのは、この助詞の意味をあらはしてゐるやうに見える。ニホフは色に染まること。
〔評〕 露といへばよいのであるが、玉と輝く露の重さうに宿つた實景を見て、白の字を添へたのであらう。
 
2116 白露に 爭ひかねて 咲ける萩 散らば惜しけむ 雨なふりそね
 
白露爾《シラツユニ》 荒爭金手《アラソヒカネテ》 咲芽子《サケルハギ》 散惜兼《チラバヲシケム》 雨莫零根《アメナフリソネ》
 
白露ガ花ニ咲カセヨウトスルノ〔ガ花〜傍線〕ニ反抗シテヰタガ、到頭〔九字傍線〕反抗シカネテ咲イタ萩ノ花ガ〔三字傍線〕、散ツタナラバ殘念デアラウ。雨ヨ、降ルナヨ。雨ガ降ツタラ、スグニ散リサウダカラ降ツテクレルナ〔雨ガ〜傍線〕。
 
○荒爭金手《アラソヒカネテ》――露に反抗して咲くまいとしたが、遂に爭ひかねて咲くといふので、花を待つ心からさう思ふのである。
〔評〕前の白露爾荒爭芽子之《シラツユニアラソフハギノ》(二二〇二)の歌と同想で、末句は鴈鳴之來喧牟日及《カリガネノキナカムヒマデ》(二〇九七)と同じである。
 
2117 をとめ等に 行相の早稻を 苅る時に 成りにけらしも 萩が花咲く
 
※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》 行相乃速稻乎《ユキアヒノワセヲ》 苅時《カルトキニ》 成來下《ナリニケラシモ》 芽子花咲《ハギガハナサク》
 
夏ト秋トガ〔五字傍線〕(※[女+感]嬬等)行キ合フ初秋ノ〔三字傍線〕頃ニ實ル、早稻ヲ苅ル時ニナツタラシイヨ。アノ通リ〔四字傍線〕萩ノ花ガ咲イタ〔アノ〜傍線〕。
 
○※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》――舊訓ヲトメラニとあのを改めて、略解はヲトメラガとし、古義はヲトメドモとして、共に第三句の苅《カリ》に續けてゐる。行相《ユキアヒ》の枕詞として、舊訓によるべきである。○行相乃速稻乎《ユキアヒノワセヲ》――行相は夏と秋との行き合ふ時、即ち夏の終秋の初である。袖中抄に行相を立田山に近い地名として、卷九の射行相乃坂上踏本爾《イユキアヒノサカノフモトニ》(一七五二)の歌をあげ、其處の田の早稻だといつてゐる。
〔評〕 ※[女+感]嬬等《ヲトメラニ》といふ枕詞や行相乃速稻《ユキアヒノワセ》といふ珍らしい言葉が用ゐられてゐる爲に、一寸變つた感じのする歌で、(300)調子が滑らかである。
 
2118 朝霧の たなびく小野の 萩が花 今や散るらむ いまだ飽かなくに
 
朝霧之《アサギリノ》 棚引小野之《タナビクヲヌノ》 芽子花《ハギガハナ》 今哉散濫《イマヤチルラム》 未※[厭のがんだれなし]爾《イマダカナクニ》
 
朝霧ガ靡イテヰル景色ノヨイ〔五字傍線〕野原ノ萩ノ花ハ、マダ私ガ〔二字傍線〕見アカナイノニ、今頃ハモウ〔二字傍線〕散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
〔評〕 特に朝霧の棚引くといつたのは、さうした實景を眺めての作であらう。連日、野の萩に親しんでゐたらしい態が見えてゐる。
 
2119 戀しくは 形見にせよと 吾が背子が 植ゑし秋萩 花咲きにけり
 
戀之久者《コヒシクハ》 形見爾爲與登《カタミニセヨト》 吾背子我《ワガセコガ》 殖之秋芽子《ウヱシアキハギ》 花咲爾家里《ハナサキニケリ》
 
戀シク思フナラバ、コレヲ〔三字傍線〕形見ト思ツテ眺メヨト言ツテ別レル時ニ〔八字傍線〕、私ノ夫ガ植ヱテ置イタ秋萩ノ花ガ咲イタヨ。アアコレヲ見レバ却ツテ別レタ夫ガ戀シイヨ〔アア〜傍線〕。
 
〔評〕 なつかしい哀情の籠つた作である。卷八に戀之家婆形見爾將爲跡吾屋戸爾殖之藤浪今開爾家里《コヒシケバカタミニセムトワガヤドニウヱシフヂナミイマサキニケリ》(一四七一)とある山部赤人の作に似てゐる。
 
2120 秋萩に 戀盡さじと 念へども しゑやあたらし また逢はめやも
 
秋芽子《アキハギニ》 戀不盡跡《コヒツクサジト》 雖念《オモヘドモ》 思惠也安多良思《シヱヤアタラシ》 又將相八方《マタアハメヤモ》
 
ワタシハ〔四字傍線〕秋萩ノ花〔二字傍線〕ニ、ソンナニ〔四字傍線〕戀シガツテ心ヲナヤマスマイトハ思ツタガ、アア惜シイモノダ。コノ花ガ散ツタナラバ、コノ花ニ〔コノ〜傍線〕マタ逢フコトガ出來ヨウヤ。コノ花ノ盛ニハ一年ノ後デナクテハ逢ハレナイゾ〔コノ〜傍線〕。
 
○戀不盡跡《コヒツクサジト》――戀の心を惱ますまいとの意。前の年之戀今夜盡而《トシノコヒコヨヒツクシテ》(二〇三七)・年緒長思來之戀將盡《トシノヲナガクオモヒコシコヒヲツクサム》(二〇八九)とあるの(301)とは違つてゐる。○思惠也安多良思《シヱヤアタラシ》――思惠也《シヱヤ》はヱヱと詠嘆する辭。安多良思はあたら惜しいの意。〔評〕、萩の花に對して、さながら戀人に逢ふやうなことを言つてゐるのが、この歌の特色であらう。
 
2121 秋風は 日にけに吹きぬ 高圓の 野邊の秋萩 散らまく惜しも
 
秋風者《アキカゼハ》 日異吹奴《ヒニケニフキヌ》 高圓之《タカマドノ》 野邊之秋芽子《ヌヘノアキハギ》 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
秋風ハ日ニ日ニ吹イテヰル。コレデハ萩モ盛ガスギルデアラウガ〔コレ〜傍線〕、高圓ノ野ニ美シク咲イテヰル〔八字傍線〕秋萩ノ花ガ〔三字傍線〕、散ルノハ惜シイモノダヨ。
 
〔評〕 すがすがしい歌である。秋のやうな澄み渡つた氣分である。
 
2122 ますらをの 心は無くて 秋萩の 戀にのみやも なづみてありなむ
 
丈夫之《マスラヲノ》 心者無而《ココロハナクテ》 秋芽子之《アキハギノ》 戀耳八方《コヒニノミヤモ》 奈積而有南《ナヅミテアリナム》
 
男タルモノガ〔六字傍線〕男ノ心モ無クナツテ、女々シクモ〔五字傍線〕秋萩ノ花ヲ戀シテ、苦シンデ居ルベキデアラウカ。サウデハナイ筈ダ。シカシドウモ秋萩ノ花ガ戀シクテ忘レラレナイ〔サウ〜傍線〕。
 
○心者無而《ココロハナクテ》――舊訓、ココロハナシニとあり、代匠記・略解・古義もこれによつてゐるが、文字通りにナクテとよむがよい。○奈積而有南《ナヅミテアリナム》――戀にばかり惱んでゐようか。さうあるべきでないの意。ナヅムは拘泥する。惱む。
〔評〕 これも前の秋芽子戀不盡跡《アキハギニコヒツクサジト》(二一二〇)の如く、女に對する戀のやうに大袈裟によんである。
 
2123 吾が待ちし 秋は來りぬ 然れども 萩が花ぞも 未だ咲かずける
 
吾待之《ワガマチシ》 秋者來奴《アキハキタリヌ》 雖然《シカレドモ》 芽子之花曾毛《ハギガハナゾモ》 未開家類《イマダサカズケル》
 
ワタシガ待ツテ居タ秋ハヤツト〔三字傍線〕來マシタ。シカシ萩ノ花ハマダ咲カナイヨ。早ク萩ガ咲イテクレレバ、ヨイノニ〔早ク〜傍線〕。
 
(302)○芽子之花曾毛《ハギノハナゾモ》――萩の花ぞまあの意で、毛《モ》は詠歎の助詞。
〔評〕 雖然《シカレドモ》が堅苦しくて漢文直譯の風がある。下句は萩の未だ咲かざるを恨んだ氣分がよく出てゐる。
 
2124 見まく欲り 吾が待ち戀ひし 秋萩は 枝もしみみに 花咲きにけり
 
欲見《ミマクホリ》 吾待戀之《ワガマチコヒシ》 秋芽子者《アキハギハ》 枝毛思美三荷《エダモシミミニ》 花開二家里《ハナサキニケリ》
 
ワタシガ見タク思ツテ、待チ焦レテヰタ秋萩ハ.枝ニ繁ク一杯ニ花ガ咲イタヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○枝毛思美三荷《エダモシミミニ》――枝に繁くの意。
〔評〕 平板ではあるが、喜ぶ心はあらはれてゐる。
 
2125 春日野の 萩し散りなば 朝東風の 風にたぐひて ここに散り來ね
 
春日野之《カスガヌノ》 芽子落者《ハギシチリナバ》 朝東《アサコチノ》 風爾副而《カゼニタグヒテ》 此間爾落來根《ココニチリコネ》
 
春日野ニハ美シク〔五字傍線〕萩ガ咲イテヰルガ、モシ〔七字傍線〕散ツタナラバ、他所ヘハ飛ンデ行クナ〔他所〜傍線〕、朝吹ク〔二字傍線〕東風ニツレテ此處ヘ散ツテ來イ。ソレヲ見テセメテ心ヲナグサメヨウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○朝東《アサコチノ》――コチは東風。チは疾風《ハヤテ》・追風《オヒテ》などのテ、飄風《ツムジカゼ》・嵐《アラシ》などのシと同じく、風の意である。
〔評〕 奈良の都に住む人の歌だ。東風が吹くと、都は春日野を渡る風を受けるのである。さう近いところでもあるまいが.此間爾落來根《ココニチリコネ》といつたのが、おもしろいのである。
 
2126 秋萩は 鴈に逢はじと 言へればか [一云、言へれかも 聲を聞きては 花に散りぬる
 
秋芽子者《アキハギハ》 於鴈不相常《カリニアハジト》 言有者香《イヘレバカ》 【一云|言有可聞《イヘレカモ》】 音乎聞而者《コヱヲキキテハ》 花爾散去流《ハナニチリヌル》
 
秋萩ノ花〔二字傍線〕ハ鴈トハ逢フマイト言ツタコトデモアルノカ、鴈ノ鳴ク〔四字傍線〕聲ヲ聞クト、花ガ空シク散ツテシマフ。
 
○於鴈不相常《カリニアハジト》――鴈には逢ふまいとの意。新解と新釋(澤瀉氏)とは、アハジを夫婦にならじとの意としてゐるが、どうであらう。○言有者香《イヘレバカ》――一云、イヘレカモとあるのと意は全く同じ。○花爾散去流《ハナニチリヌル》――徒《あだ》に散つた。(303)空しく散つたの意。
〔評〕 萩は秋の初に咲き、鴈は秋の半、膚寒い風と共に鳴いて來るものである。この風物の推移に細かい目を見はりつつ、子供らしい表現法をとつてゐるのが珍らしくて面白い。古今集に「春霞立つを見すてて行く鴈は花無き里に住みやならへる」とあるのは、春と秋との時季の相異はあるが、よく似た材料である。しかもこれは童心そのままであり、彼はつまらぬ理窟に落ちてゐるのを比較すると.萬葉集の貴いことがわかるのである。
 
2127 秋さらば 妹に見せむと 植ゑし萩 露霜負ひて 散りにけるかも
 
秋去者《アキサラバ》 妹令視跡《イモニミセムト》 殖之芽子《ウヱシハギ》 露霜負而《ツユジモオヒテ》 散來毳《チリニケルカモ》
 
秋ガ來タナラバ、美シク咲イタ所ヲ〔八字傍線〕妻ニ見セヨウト思ツテ〔三字傍線〕植ヱテ置イ〔三字傍線〕タ萩ガ、露ニ逢ツテ散ツテシマツタヨ。到頭見セナイデ殘念ナコトヲシタ〔到頭〜傍線〕。
 
○露霜負而《ツユジモオヒテ》――ツユジモは宣長説に從つて.露のことと解しよう。舊本に、霧霜とあるは誤。元暦校本・類聚古集などの古本、皆露に作つてゐる。
〔評〕 下句は卷八の棹牡鹿之來立鳴野之秋芽子者露霜負而落去之物乎《サヲシカノキタチナクヌノアキハギハツユジモオヒテチリニシモノヲ》(一五八〇)と同じやうである。以上詠花の歌三十四首のうち朝顔一首、尾花一首、女郎花一首を除くと.他はすべて萩を詠じてゐるのを見ると、如何に萩の花が愛せられたかを知ることが出來る。
 
詠v鴈
 
2128 秋風に 大和へこゆる 鴈がねは いや遠ざかる 雲がくりつつ
 
秋風爾《アキカゼニ》 山跡部越《ヤマトヘコユル》鴈鳴者《カリガネハ》 射矢遠放《イヤトホザカル》 雲隱筒《クモガクリツツ》
 
秋風ガ淋シク吹ク空〔七字傍線〕ニ、大和ノ方ヲ指シテ山ヲ〔三字傍線〕飛越シテ行ク鴈ハ、雲ノ中ニ姿ヲ没シナガラ、愈々遠ザカツテ行ク。アア淋シイ聲ダ〔七字傍線〕。
 
(304)○山跡部越《ヤマトヘコユル》――山跡は大和である。舊訓にヤマトビコユルとあるのは誤つてゐる。字音辨證に部をヒとよむべしといつて、呉原音ビユの省呼であらうとしたのは、韻鏡濫用であらう。
〔評〕故郷の大和を離れて旅にある人の歌である。秋らしい寂寥が漲つてゐる。下に秋風爾山飛越鴈鳴之聲遠離雲隱良思《アキカゼニヤマトビコユルカリガネノコヱトホザカルクモガクルラシ》(二一三六)と著しく似てゐる。
 
2129 明けぐれの 朝霧隱り 鳴きて行く 鴈は吾が戀 妹に告げこそ
 
明闇之《アケグレノ》 朝霧隱《アサキリガクリ》 鳴而去《ナキテユク》 鴈者言戀《カリハワガコヒヲ》 於妹告社《》イモニツゲコソ
 
夜明ケ時ノ薄暗イ時、朝霧ノ立チ込メタ中〔七字傍線〕ニ隱レテ、鴈ガ〔二字傍線〕鳴イテ行クガ、アノ〔三字傍線〕鴈ハ多分ワタシノ戀シイ妻ノ方ヘ飛ンデ行クダラウガ、ワタシノ戀シイ〔多分〜傍線〕妻ニ、ワタシガカウシテ戀ヒ焦レテヰルト云フコトヲ〔ワタ〜傍線〕告ゲテクレヨ。
 
○明闇之《アケグレノ》――夜明方の暗やみ。グレは濁音である。○鴈者言戀《カリハワガコヒヲ》――略解ワガコフル、古義はワガコフ、新考はワガコフトとあるが、新訓による。言は元暦校本に吾に作つてゐるのに從ふべきである。
〔評〕 曉かけて旅行く人の歌らしい。鴈信の意もあるやうである。
 
2130 吾が宿に 鳴きし鴈がね 雲の上に こよひ鳴くなり 國へかも行く
 
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 鳴之鴈哭《ナキシカリガネ》 雲上爾《クモノウヘニ》 今夜喧成《コヨヒナクナリ》 國方可聞遊群《クニヘカモユク》
 
ワタシノ家ノアタリ〔四字傍線〕デ、コノ間カラ〔五字傍線〕鳴イテヰタ鴈ガ、今夜ハ雲ノ上デ鳴イテヰルヨ。アレハ自分ノ本〔七字傍線〕國ヘデモ歸ツテ行クノダラウカ。
 
○國方可聞遊群《クニヘカモユク》――遊群の二字を舊本に別行に離して書いてゐるのは誤である。
〔評〕 後世になつては歸る鴈といへば、春のものと定まつてゐるが、これは秋の季節によんでゐる。
 
2131 さを鹿の 妻とふ時に 月をよみ 鴈が音聞ゆ 今し來らしも
 
左小牡鹿之《サヲシカノ》 妻問時爾《ツマトフトキニ》 月乎吉三《ツキヲヨミ》 切木四之泣所聞《カリガネキコユ》 今時來等霜《イマシクラシモ》
 
(305)男鹿ガ妻ヲ訪ネル聲ガスル時ニ、今夜ハ〔九字傍線〕月ガヨイノデ、鴈ノ鳴ク聲モ聞エル。今鴈モ〔二字傍線〕來ルラシイヨ。
 
○切木四之泣所聞《カリガネキコユ》――切木四之泣については、卷六の折木四哭之《カリガネノ》(九四八)參照。
〔評〕 明月の清夜に、聞える鹿の音と鴈の聲との二重奏であるが、鴈を主としてよんでゐる。
 
2132 天雲の よそに鴈がね 聞きしより はだれ霜ふり 寒しこの夜は 一云、いやますますに戀こそまされ
 
天雲之《アマグモノ》 外鴈鳴《ヨソニカリガネ》 從聞之《キキシヨリ》 薄垂霜零《ハダレシモフリ》 寒此夜者《サムシコノヨハ》
 
空ノ雲ノアナタニ遙ニ〔二字傍線〕鴈ノ鳴ク聲ヲ聞イテカラハ、メツキリ時候ガ寒クナツテ〔メツ〜傍線〕、薄霜ガ降ツテ、今夜ハナカナカ〔四字傍線〕寒イ。
 
○薄垂霜零《ハダレシモフリ》――これはハダレジモで薄霜のことであらう。ハダレについては卷八の薄太禮爾零登《ハダレニフルト》(一四二〇)參照。
〔評〕 薄垂霜《ハダレジモ》は珍らしい題材で、鴈聲と共に寒さが身に泌み初めた氣分が、よく出てゐる。
 
一云 彌益益爾《イヤマスマスニ》 戀許曾増焉《コヒコソマサレ》
 
これは四・五句の異傳として掲げられてゐるが、全く意味も氣分も異なつた歌になつてゐる。
 
2133 秋の田を 吾が苅りばかの 過ぎぬれば 鴈がね聞ゆ 冬片まけて
 
秋田《アキノタヲ》 吾苅婆可能《ワガカリバカノ》 過去者《スギヌレバ》 鴈之喧所聞《カリガネキコユ》 冬方設而《フユカタマケテ》
 
秋ノ田ヲワタシガ苅ル部分ガ、苅リ〔二字傍線〕終ヘテシマツタノデ、近ヅク〔三字傍線〕冬ノ來ルノ〔四字傍線〕ヲヒタスラ待チ受ケテ、鴈ノ鳴ク聲ガ聞エル。
 
○吾苅婆可能《ワガカリバカノ》――カリバカは、卷四に穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》(五一二)とあつたやうに、苅り取る範圍の意。ここでは吾が苅るべき部分をいひ、これを苅り終つたのを過去者《スギヌレバ》と言つたのである。○冬方設而《フユカタマケテ》――カタマケは片より待つ意
 であるから、ここは冬に近くなりての意。
(306)〔評〕 如何にも晩秋らしい情景である。さうして耕人の歌らしい感じがある。よく出來てゐる。
 
2134 葦邊なる 荻の葉さやぎ 秋風の 吹き來るなべに 鴈鳴き渡る 一云、秋風に 雁が音聞こゆ 今し來らしも
 
葦邊在《アシベナル》 荻之葉左夜藝《ヲギノハサヤギ》 秋風之《アキカゼノ》 吹來苗丹《フキクルナベニ》 鴈鳴渡《カリナキワタル》
 
葦ノ生セテヰル〔五字傍線〕ホトリニアル荻ノ葉ニ、サヤサヤト音ヲ立テナガラ秋風ガ吹イテ來ルト、ソレ〔三字傍線〕ニツレテ鴈ノ鳴ク聲ガ聞エル。
 
〔評〕 葦邊と荻とを一所に點出したのは、後世には無ささうな描寫である。これは水邊の荻を歌つたのであらう。すべて聽覺に訴へた、さうして調子のさわやかな歌である。
 
一云 秋風爾《アキカゼニ》 鴈音所聞《カリガネキコユ》 今四來霜《イマシクラシモ》
 
これは三句以下の異傳であるが、前に左小牡鹿之妻問時爾月乎吉三切木四之泣所聞今時來等霜《サヲシカノツマトフトキニツキヲヨミカリガネキコユイマシクラシモ》(二一三一)とあつたのと、下句が同じである。
 
2135 押照る 難波堀江の 葦邊には 鴈ねたるかも 霜のふらくに
 
押照《オシテル》 難波穿江之《ナニハホリエノ》 葦邊者《アシベニハ》 鴈宿有疑《カリネタルカモ》 霜乃零爾《シモノフラクニ》
 
(押照)難波ノ堀江ノ葦ノ生エテヰル〔五字傍線〕所ニハ、コノ〔二字傍線〕霜ノ降ルノニ鴈ガ宿テヰルダラウカ。サゾ寒イデアラウニ〔九字傍線〕。
 
○押照《オシテル》――枕詞。難波とつづく。押光《オシテル》(四四三)參照。○難波穿江之《ナニハホリエノ》――卷七の穿江《ホリエ》(一一四三)參照。
〔評〕 難波に旅寢した人の歌であらう。身の寒さに霜夜の鴈をあはれんだ、同情感が溢れた作である。
 
2136 秋風に 山飛び越ゆる 鴈がねの 聲遠ざかる 雲隱るらし
 
秋風爾《アキカゼニ》 山飛越《ヤマトビコユル》 鴈鳴之《カリガネノ》 聲遠離《コヱトホザカル》 雲隱良思《クモガクルラシ》
 
秋風ノ吹クノ〔四字傍線〕ニ、山ヲ飛ビ越シテ行ク〔二字傍線〕鴈ノ鳴ク聲ガ、段々〔二字傍線〕遠クナツテ行ク、モハヤアノ雁モ〔七字傍線〕雲ノアナタ〔四字傍線〕ニ隱レ(307)タト見エル。
〔評〕 前の秋風爾山跡部越鴈鳴者射矢遠放雲隱筒《アキカゼニヤマトヘコユルカリガネハイヤトホザカルクモガクリツツ》(二一二八)と同じ歌の異傳と考へてよからう。末句を想像的にしたので、少し歌の氣分が異なつてゐる。
 
2137 朝に行く 鴈の鳴く音は 吾が如く もの念へかも 聲の悲しき
 
朝爾往《アサニユク》 鴈之鳴音者《カリノナクネハ》 如吾《ワガゴトク》 物念可毛《モノオモヘカモ》 聲之悲《コヱノカナシキ》
 
朝早ク〔二字傍線〕ニ空ヲ飛ンデ〔五字傍線〕行ク雁ノ鳴ク聲ガスルガ、アノ雁モ〔七字傍線〕ワタシノヤウニ物ヲ思ツテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰルカラカ、鳴ク〔二字傍線〕聲ガ悲シク聞エルヨ。
 
○朝爾往《アサニユク》――舊訓ツトニユクとあり、諸訓それに從つてゐる。但し元暦校本・類聚古集などにはケサとあり、神田本にはアサ江とあり、京大本はアサ江本とあるから、ケサが古點で、アサが次點であらう。ここは新訓によつてアサニユクと訓むことにする。
〔評〕 朝早く女と別れて、出かける人の歌であらう。悲しい鴈聲を吾が身に引きくらべたのがあはれである。
 
2138 鶴がねの 今朝鳴くなべに 鴈がねは いづくさしてか 雲隱るらむ
 
多頭我鳴乃《タヅガネノ》 今朝鳴奈倍爾《ケサナクナベニ》 鴈鳴者《カリガネハ》 何處指香《イヅクサシテカ》 雲隱良武《クモガクルラム》
 
鶴ノ鳴ク聲ガ今朝スルガ、ソノ聲ガ聞エル〔八字傍線〕ト、雁ハ何處カヘ飛ンデ行ク。一體〔何處〜傍線〕何處ヲサシテ雲ニ隱レテ飛ンデ〔三字傍線〕行クノダラウ。
 
○多頭我鳴乃今朝鳴奈倍爾《タヅガネノケサナクナペニ》――次の句に雁をカリガネと言つてゐるやうに見えるのは、後世の用法が既にあらはれたものと考へられるが、茲に鶴をタヅガネといつたのは珍らしい。しかし、これは鶴が音が鳴く、雁が音が鳴くといふやうな言ひ方があつた爲であらう。○雲隱良武《クモガクルラム》――武は元暦校本に哉に作つてゐる。
〔評〕 鶴と雁とが一所に鳴かないで、鶴の聲がすると雁が遠く飛び去つたのを、ありのままに詠んでゐる。前に(308)秋芽子者於鴈不相常言有者香音乎聞而者花爾散去流《アキハギハカリニアハジトイヘレバカコヱヲキキテハハナニチリヌル》(二一二六)とあつたが、かやうに何等の理由も想像も附け加へないのが、上代人らしいところである。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
2139 ぬば玉の 夜渡る雁は おほほしく 幾夜をへてか おのが名を告る
 
野干玉之《ヌバタマノ》 夜渡鴈者《ヨワタルカリハ》 欝《オホホシク》 幾夜乎歴而鹿《イクオヲヘテカ》 己名乎告《オノガナヲヨブ》
 
(野干玉之)夜空〔傍線〕ヲ飛ンデ行クアノ〔二字傍線〕雁ハ、アアシテ〔四字傍線〕幾晩ノ間カリカリト〔五字傍線〕自分ノ名前ヲ言ヒナガラ飛ンデ行クノデアラウゾ。ワカラナイナ〔六字傍線〕。
 
○欝《オホホシク》――舊訓オボツカナとあるが、略解に從ふ。オホホシクは不確かなことで、下に述べてある幾夜乎歴而鹿己名乎告《イクヨヲヘテカオノガナヲノル》か、不明だと言ふのである。○己名乎告《オノガナヲノル》――自分の名を呼び行くかといふのだ。雁の鳴聲がカリカリと聞えるのである。
〔評〕 雁の聲がカリカリと聞えるのを、面白く取扱つた歌である。後撰集に「行きかへりここもかしこも旅なれやくる秋ごとにかりかりとなく」「秋毎にくれど歸ればたのまぬを聲にたてつつかりとのみなく」「ひたすらにわが思はなくにおのれさへかりかりとのみ啼きわたるらむ」とある。
 
2140 あら玉の 年のへ行けば あともふと 夜渡る我を 問ふ人や誰
 
璞《アラタマノ》 年之經徃者《トシノヘユケバ》 阿跡念登《アトモフト》 夜渡吾乎《ヨワタルワレヲ》 問人哉誰《トフヒトヤタレ》
 
(璞)年ガ經ツテ久シクナルノデ、モウ國ヘ歸ラウト友ヲ〔モウ〜傍線〕誘フ爲ニ、カリカリト言ヒナガラ、〔カリカリ〜傍線〕、夜空ヲ飛ンデ歩イテヰルワタシヲ、不思議サウニ〔六字傍線〕尋ネル人ハ一體〔二字傍線〕誰デスカ。
 
○年之經徃者《トシノヘユケバ》――年がたつので、即ち久しくなるからの意。○阿跡念登《アトモフト》――アトモフは卷二に御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアトモヒタマヒ》(一九九)とあるアトモヒに同じく、後伴ふこと。
〔評〕 國を出でて久しくなるので、最早歸らうと友を誘ひ歩くのだと、雁が人に向つて言ふ言葉である。即ち前(309)の歌の答として作つたもの。
 
 
詠2鹿鳴1
 
2141 この頃の 秋の朝明に 霧がくり 妻呼ぶしかの 聲のさやけさ
 
比日之《コノゴロノ》 秋朝開爾《アキノアサケニ》 霧隱《キリガクリ》 妻呼雄鹿之《ツマヨブシカノ》 音之亮左《コヱノサヤケサ》
 
コノ頃ノ秋ノ朝明ケ時〔傍線〕ニ、立チ込メタ〔五字傍線〕霧ニ隱レテ、妻ヲ呼ブ男鹿ノ聲ガヨイコトヨ。アアナツカシイ聲ダ〔アア〜傍線〕。
 
〔評〕 明瞭な歌だ。澄み渡つたすがすがしい感じがする。
 
2142 さを鹿の 妻ととのふと 鳴く聲の 至らむ極み 靡け萩原
 
左男牡鹿之《サヲシカノ》 妻整登《ツマトトノフト》 鳴音之《ナクコヱノ》 將至極《イタラムキハミ》 靡芽子原《ナビケハギハラ》
 
男鹿ガ妻ヲ呼ビ立テルトテ鳴ク聲ガ聞エルガ、アノ聲ノ〔八字傍線〕屆ク果テマデ、コノ鹿ノ聲ニツレテ〔九字傍線〕靡ケヨ、萩原ヨ。サウシテ鹿ノ聲ヲ遠クマデ響カシメヨ〔サウ〜傍線〕
 
○妻整登《ツマトトノフト》――トトノフは呼ぶこと。卷二に齊流皷之音者《トトノフルツヅミノヲトハ》(一九九)、卷三に網子調流《アゴトトノフル》(二三八)とある。
〔評〕 まるで繪のやうな美しい歌である。景色も大きい。結句に力ある。
 
2143 君に戀ひ うらぶれ居れば 敷の野の 秋萩しぬぎ さを鹿鳴くも
 
於君戀《キミニコヒ》 裏觸居者《ウラブレヲレバ》 敷野之《シキノヌノ》 秋芽子凌《アキハギシヌギ》 左牡鹿鳴裳《サヲシカナクモ》
 
ワタシガ〔四字傍線〕アナタヲ戀シク思ツテ、意氣銷沈シテヰルト、敷野ノ秋萩ノ花〔二字傍線〕ヲ踏ミ分ケテ、男鹿ガ鳴イテヰルヨ。アレモ妻ヲ尋ネテ鳴クノダラウガ、アノ聲ヲ聞クト、イヨイヨアナタガ戀シクナル〔アレ〜傍線〕。
 
○裏觸居者《ウラブレヲレバ》――ウラブレは心に傷み悲しむと。○敷野之《シキノヌノ》――敷野は大和國磯城郡の野かといふ。今の磯城郡は(310)明治二十九年、十市・式上・式下の三郡を併せたものであるが、古の磯城の縣は大體この範圍であらうと思はれる。大和盆地の東方の中央部を占めてゐる。宣長が芦城野のアが脱ちたのであらうと言つたのは當つてゐまい。
〔評〕 あはれな感情が籠つてゐる。君待登吾戀居者我屋戸之簾動之秋風吹《キミマツトワガコヒヲレバワガヤドノスダレウゴカシアキノカゼフク》(四八八)・(一六〇六)と調子が似てゐる。
 
2144 鴈は來ぬ 萩は散りぬと さを鹿の 鳴くなるこゑも うらぶれにけり
 
鴈來《カリハキヌ》 芽子者散跡《ハギハチリヌト》 左小牡鹿之《サヲシカノ》 鳴成音毛《ナクナルコヱモ》 裏觸丹來《ウラブレニケリ》
 
秋モ更ケテ〔五字傍線〕鴈ガ鳴イテ〔三字傍線〕來タ、サウシテ〔四字傍線〕萩ノ花〔二字傍線〕モ散ツタト男鹿ガ鳴ク聲モ、勢ガナク悲シサウニナツタヨ。
 
○鴈來《カリハキヌ》――舊訓を略解にカリキタリと改めたのはよくない。ここはどうしてもキヌとよみ切るところである。但し次句にトで受けてゐるから、文がここで切れるのではない。
〔評〕 萩の花妻が散るのを、鹿が悲しむのである。調子のよい歌だ。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。
 
2145 秋萩の 戀も盡きねば さを鹿の 聲い繼ぎい繼ぎ 戀こそまされ
 
秋芽子之《アキハギノ》 戀裳不盡者《コヒモツキネバ》 左小鹿之《サヲシカノ》 聲伊續伊繼《コヱイツギイツギ》 戀許増益焉《コヒコソマサレ》
 
秋萩ノ花ヲ戀シイト思ツテ、散ルノヲ悲シンダ心〔ト思〜傍線〕モマダ盡キナイノニ、男鹿ノ鳴ク聲ガ絶エズ續イテ聞エテ、アノ鹿モ妻ヲ戀ウテ鳴クカト思フト、自分モ、妻ヲ〔聞エ〜傍線〕戀ヒ慕フ心〔四字傍線〕ガ増シテ來ル。
 
○秋芽子之戀裳不盡者《アキハギノコヒモツキネバ》――秋萩を戀ふる心の盡きざるにの意。○聲伊續伊繼《コヱイツギイツギ》――イは接頭語。聲が後から後からと續き續いて。
〔評〕 戀の字が二個所に出てゐるが、上のは秋萩に對する戀で、下のは自分が妻戀しく思ふ心である。妻戀ふ鹿の音に、我も妻戀ふ思の増すことを述べたのである。
 
2146 山近く 家や居るべき さを鹿の 聲を聞きつつ いねがてぬかも
 
山近《ヤマチカク》 家哉可居《イヘヤヲルベキ》 左小牡鹿乃《サヲシカノ》 音乎聞乍《コヱヲキキツツ》 宿不勝鴨《イネガテヌカモ》
 
(311)山ノ近クニ住居ヲスルモノモノデハナイゾ。ワタシハコンナ山ノ近所ニ住ンデヰルノデ〔ワタ〜傍線〕、男鹿ノ鳴ク聲ヲ聞イテ寢ラレナイヨ。
〔評〕 古今集の「山里は秋こそことにわびしけれ鹿のなく音に目をさましつつ」と似てゐるが、それよりも、線の太い表現になつてゐる。
 
2147 山の邊に い行く獵夫は 多かれど 山にも野にも さを鹿鳴くも
 
山邊爾《ヤマノベニ》 射去薩雄者《イユクサツヲハ》 雖大有《オホカレド》 山爾文野爾文《ヤマニモヌニモ》 沙小牡鹿鳴母《サヲシカナクモ》
 
山ノホトリニ出カケテ行ツテ獵ヲスル〔六字傍線〕獵師ハ澤山アルケレド、ソレヲ知ラズニ〔七字傍線〕、山ニモ野ニモ男鹿ガ鳴クヨ。今ニ獲ラレナケレバヨイガ〔今ニ〜傍線〕。
 
○射去薩雄者《イユクサツヲハ》――射は接頭語で、意味はない。薩雄《サツヲ》は獵夫。卷三の山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》(二六七)參照。
〔評〕 戀に鳴く鹿がやがて獵夫に射殺されむとするのを悲しんでゐる。己が身に引きくらべて、鹿をあはれんだ同情心のあらはれた歌である。
 
2148 あしびきの 山より來せば さを鹿の 妻呼ぶ聲を 聞かましものを
 
足日木笶《アシビキノ》 山從來世波《ヤマヨリキセバ》 左小鹿之《サヲシカノ》 妻呼音《ツマヨブコヱヲ》 聞益物乎《キカマシモノヲ》
 
(足日木笶)山ヨリ此處ヘ〔三字傍線〕來タナラバ、男鹿ノ妻ヲ呼ンデ鳴ク〔二字傍線〕聲ヲ聞クコトガ出來タダラウノニ、山手ノ道ヲ來ナカツタノデ、鹿ノ鳴クノヲ聞カナカツタ。惜シイコトヲシタ〔山手〜傍線〕。
 
○足日木笶《アシビキノ》――枕詞。笶は矢竹の箆《ノ》の義であるのを、ここではノの假名に借りてゐる。○山從來世波《ヤマヨリキセバ》――山を通つて來たならばの意。セは助動詞キの未然形といはれてゐるものであらう。
〔評〕 山の鹿の聲を聞かなかつたのを遺憾としたもの。かうした實際の場合に當つてよんだものと見える。
 
(312)2149 山邊には 獵夫のねらひ かしこけど 牡鹿なくなり 妻の目を欲り
 
山邊庭《ヤマベニハ》 薩雄乃禰良比《サツヲノネラヒ》 恐跡《カシコケド》 小牡鹿鳴成《ヲシカナクナリ》 妻之眼乎欲焉《ツマノメヲホリ》
 
山ノアタリデハ、獵師ガ狙ツテヰルノガ恐ロシクハアルガ、妻ニ逢ヒタサニ、獵師ニ狙ハレルノモカマハズニ〔獵師〜傍線〕、牡鹿ガ鳴イテヰルヨ。
 
〔評〕 前の二一四七の歌と内容は全く同じである。この歌よりも、前の歌の方が、言ひ盡さないだけ、含蓄があるやうだ。
 
2150 秋萩の 散りぬる見れば おほほしみ 妻戀すらし さを鹿鳴くも
 
秋芽子之《アキハギノ》 散去見《チリヌルミレバ》 欝三《オホホシミ》 妻戀爲良思《ツマゴヒスラシ》 棹牡鹿鳴母《サホシカナクモ》
 
秋萩ノ花ガ〔二字傍線〕散ツテシマフノヲ見テ、鹿ハ〔二字傍線〕心ガ欝々トスルノデ、鹿ハ萩ノ花〔五字傍線〕妻ヲ戀シガルラシイ。アレアノ通リシキリニ〔アレ〜傍線〕男鹿ガ鳴イテヰルヨ。
 
○斷散去見《チリヌルミレバ》――舊訓にチリユクミレバとあるが、古訓はチリユクヲミテとあり、略解もそれに從つてゐる。チリヌルミレバとよむことにする。○欝三《オホホシミ》――舊訓イブカシミとある。考による、ここは心が欝して晴れないのでの意。○妻戀爲良思《ツマゴヒスラシ》――この妻は眞の妻ではなく、萩の花妻を戀するのであらう。古義には己が實の妻と解してゐる。
〔評〕 萩を鹿の花妻として詠んだもの。鹿の音に耳を傾けて、萩の花散る野邊の情景を想像してゐる。
 
2151 山遠き 都にしあれば さを鹿の 妻よぶ聲は ともしくもあるか
 
山遠《ヤマトホキ》 京爾之有者《ミヤコニシアレバ》 狹小牡鹿之《サヲシカノ》 妻呼音者《ツマヨブコヱハ》 乏毛有香《トモシクモアルカ》
 
野山ニ遠イ都ノコトデアルカラ、牡鹿ノ妻ヲ呼ンデ鳴ク〔二字傍線〕聲ハ稀ダヨ。モウト澤山ニ聞キタイモノダノニ〔モツ〜傍線〕。
 
○京爾之有者《ミヤコニシアレバ》――京は舊訓にサトとあり、古義は略解説によつてミサトとよんでゐる。文字通りミヤコとよむ(313)方が難がない。
〔評〕 奈良の都に鹿の音の聞えぬことを、物足らなく思つたのである。平板。
 
2152 秋萩の 散り過ぎゆかば さを鹿は わび鳴きせむな 見ずば乏しみ
 
秋芽子之《アキハギノ》 散過去者《チリスギユカバ》 左小牡鹿者《サヲシカハ》 和備鳴將爲名《ワビナキセムナ》 不見者乏焉《ミズバトモシミ》
 
秋萩ノ花ガ〔二字傍線〕散リ過ギテシマツタナラバ男鹿ハ、萩ノ花ヲ〔四字傍線〕見ナイト戀シイノデ、苦シガツテ鳴クデアラウナア。
 
○散過去者《チリスギユカバ》――チリスギユケバと舊訓にあり、考はチリスギヌレバとある。○和備鳴將爲名――ワビは困る。なやむ。○不見者乏焉《ミズバトモシミ》――見ないならば苦しいので、これも舊訓ミネバとあり、四句に關聯してすべて未來に訓むがよいであらう。
〔評〕 これも萩と鹿との關係を述べたもの。歌が談理に陷つて、熱が無い。
 
2153 秋萩の 咲きたる野邊は さを鹿ぞ 露をわけつつ 妻どひしける
 
秋芽子之《アキハギノ》 咲有野邊者《サキタルヌベハ》 左小牡鹿曾《サヲシカゾ》 露乎別乍《ツユヲワケツツ》 嬬問四家類《ツマドヒシケル》
 
秋萩ノ花ノ咲イテヰル野原ニハ、男鹿ガ露ヲ押シ分ケテ、妻ヲ尋ネテ歩イタナア。コレコノ通リ跡ガツイテヰル〔コレ〜傍線〕。
 
〔評〕 萩原の露を踏みしだいた鹿の跡を見てよんだもの。これも例の萩の花妻であらう。
 
2154 なぞ鹿の わび鳴きすなる 蓋しくも 秋野の萩や 繁く散るらむ
 
奈何牡鹿之《ナゾシカノ》 和備鳴爲成《ワビナキスナル》 蓋毛《ケダシクモ》 秋野之芽子也《アキヌノハギヤ》 繁將落《シゲクチルラム》
 
ドウシテ鹿ガ困ツタヤウナ聲ヲ出シテ鳴イテヰルノダ。多分、秋ノ野ニ咲イテヰル〔五字傍線〕萩ノ花〔二字傍線〕ガ、ヒドク散ルカラデアラウ。
 
○奈何牡鹿之《ナゾシカノ》――舊訓ナニシカモとあるが、考に從ふ。新考には奈何牡鹿母《ナニシカモ》と改めてナニシカの意としてゐる。(314)シカは鹿のことであるから、さうは解し難い。
〔評〕 上二句に疑問を出し、三句以下はそれに答へてゐる。調子のしつかりした歌。
 
2155 秋萩の 咲きたる野邊に さを鹿は 散らまく惜しみ 鳴きぬるものを
 
秋芽子之《アキハギノ》 開有野邊《サキタルヌベニ》 左牡鹿者《サヲシカハ》 落卷惜見《チラマクヲシミ》 鳴去物乎《ナキヌルモノヲ》
 
秋萩ノ花〔二字傍線〕ノ咲イテヰル野原デ、男鹿ハ花ノ〔二字傍線〕散ルノヲ惜シガツテ鳴イテヰルヨ。
 
○開有野邊《サキタルヌベニ》――ヌベヲともヌベノとも訓めるが、舊訓による。○鳴去物乎《ナキヌルモノヲ》――舊訓ナキユクモノヲとある。モノヲは詠嘆の辭のみ。
〔評〕 實景をその儘、詠じたものであらう。平明の調。
 
2156 足引の 山のと陰に 鳴く鹿の 聲聞かすやも 山田守らす兒
 
足日木乃《アシビキノ》 山之跡陰爾《ヤマノトカゲニ》 鳴鹿之《ナクシカノ》 聲聞爲八方《コヱキカスヤモ》 山田守酢兒《ヤマダモラスコ》
 
小屋ヲ作ツテ〔六字傍線〕山ノ田ノ番ヲシテヰラレル人ヨ、アナタ〔三字傍線〕ハ(足日木乃)山ノ曲リ込ンダ陰ニ、鳴ク鹿ノ聲ヲ聞キナサルカヨ。ドウデスカ〔五字傍線〕。
 
○山之跡陰爾《ヤマノトカゲニ》――山之跡陰《ヤマノトカゲ》は山のたを蔭と解せられるが、トは發語と見る説もある。卷八の山之常影爾《ヤマノトカゲニ》(一四七〇)參照。○聲聞爲八方《コヱキカスヤモ》――キカスは聞くの敬語。○山田守※[酉+斗]兒《ヤマダモラスコ》――モラスは守るの敬語。兒《コ》は人といふに同じ。親しみていふのみ。
〔評〕 山田守る人に問ひかけたもの。前の霍公鳥鳴音聞哉宇能花乃開落岳爾田草引※[女+感]嬬《ホトトギネナクコヱキクヤウノハナノサキチルヲカニクズヒクヲトメ》(一九四二)と似てゐる。この歌、袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
詠v蝉
 
2157 夕陰に 來鳴くひぐらし ここだくも 日毎に聞けど 飽かぬ聲かも
 
(315)暮影《ユフカゲニ》 來鳴日晩之《キナクヒグラシ》 幾許《ココダクモ》 毎日聞跡《ヒゴトニキケド》 不足音可聞《アカヌコヱカモ》
 
夕方ニナツテ來テ鳴ク蝉《ヒグラシ》ハ、澤山ニ毎曰毎日聞イテモ、飽キルコトノナイ佳イ〔二字傍線〕聲ダヨ。
 
○暮影《ユフカゲニ》――ユフカゲはここでは夕方の日影。晩景。卷八の夕影爾《ユフカゲニ》(一六二二)參照。
〔評〕 語調。清楚。爽凉の響。佳作。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
詠2蟋蟀1
 
蟋蟀は今のコホロギである。詳しくは卷八の湯原王蟋蟀歌(一五五二)參照。
 
2158 秋風の 寒く吹くなべ 吾がやどの 淺茅がもとに こほろぎ鳴くも
 
秋風之《アキカゼノ》 寒吹奈倍《サムクフクナベ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 淺茅之本爾《アサヂガモトニ》 蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》
 
秋風ガ寒ク吹クノニツレテ、ワタシノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕、マパラニ生エ夕茅ノ下デ、蟋蟀ガ鳴イテヰルヨ。
 
〔評〕 よい歌だ。卷八の暮月夜心毛思努爾白露乃置此庭爾蟋蟀鳴毛《ユフヅクヨココロモシヌニシラツユノオクコノニハニコホロギナクモ》(一五五二)に似たところがある。
 
2159 影草の 生ひたるやどの 夕陰に 鳴くこほろぎは 聞けど飽かぬかも
 
影草乃《カゲクサノ》 生有屋外之《オヒタルヤドノ》 暮陰爾《ユフカゲニ》 鳴蟋蟀者《ナクコホロギハ》 雖聞不足可聞《キケドアカヌカモ》
 
物〔傍線〕陰ニ生エル〔四字傍線〕草ガ生エテヰルコノ〔二字傍線〕家デ、夕方鳴ク蟋蟀ノ聲ハ、オモシロクテ〔六字傍線〕聞イテモ、聞キ〔二字傍線〕飽カナイナア。
 
○影草乃《カゲクサノ》――影草は物蔭に生ひたる草。
〔評〕 平明な、すがすがしい佳作。
 
2160 庭草に 村雨ふりて こほろぎの 鳴く聲聞けば 秋づきにけり
 
庭草爾《ニハクサニ》 村雨落而《ムラサメフリテ》 蟋蟀之《コホロギノ》 鳴音聞者《ナクコヱキケバ》 秋付爾家里《アキヅキニケリ》
 
(316)庭ノ草ノ上〔二字傍線〕ニ村雨ガ降リ注イ〔二字傍線〕デ、蟋蟀ノ鳴ク聲ガスルノ〔四字傍線〕ヲ聞クト、スツカリ〔四字傍線〕秋ラシクナツタヨ。
 
○村雨落而《ムラサメフリテ》――村雨は、和名抄に、暴雨・白雨【旡良左女】とあり、即ち驟雨である。
〔評〕 秋を告げる虫の音に、耳を傾けてゐる作者の樣子が偲ばれる。清肅高朗、眞に得難い歌である。
 
詠v蝦
 
蝦は河鹿のこと。河蝦(一七二三)・(二二二二)と記したところもある。
 
2161 み吉野の いはもと去らず 鳴くかはづ うべも鳴きけり 河をさやけみ
 
三吉野乃《ミヨシヌノ》 石本不避《イハモトサラズ》 鳴川津《ナクカハヅ》 諾文鳴來《ウベモナキケリ》 河乎淨《カハヲサヤケミ》
 
吉野川ノ石ノ下ヲ離レズニ、鳴イテヰル河鹿ハ、河ノ流〔二字傍線〕ガ清イノデ、アンナニ〔四字傍線〕鳴クノモ尤モデアルヨ。
 
○石本不避《イハモトサラズ》――古義はイソモトサラズとよんでゐる。卷九に吾疊三重乃河原之礒裏爾如是鴨跡鳴河蝦可物《ワガタタミミヘノカハラノイソノウラニカクシモカモトナクカハヅカモ》(一七三五)とあり、イソもよいやうであるが、舊訓に從つておかう。卷十一に奥山之石本菅乃《オクヤマノイハモトスゲノ》(二七六一)とある。
〔評〕 前に川津鳴吉野河之瀧上之《カハヅナクヨシヌノカハノタギノヘノ》(一八六八)とあるやうに、吉野川の清流に河鹿が多く棲んでゐるのである。下句は少し説明に過ぎた傾もある。
 
2162 神名火の 山下とよみ 行く水に かはづなくなり 秋と云はむとや
 
神名火之《カムナビノ》 山下動《ヤマシタトヨミ》 去水丹《ユクミヅニ》 川津鳴成《カハヅナクナリ》 秋登將云鳥屋《アキトイハムトヤ》
 
神名火山ノ山ノ麓ニ音ヲ立テテ流レテ〔三字傍線〕行ク水ニ、河鹿ノ鳴ク聲ガスル〔四字傍線〕ヨ。アレハ〔三字傍線〕秋ト云フコトヲ人ニ〔二字傍線〕知ラセル爲デアラウカ。
 
○神名火之《カムナビノ》――この神名火山は雷山であらう。
〔評〕 河津鳴甘南備河爾陰所見而《カハヅナクカムナビガハニカゲミエテ》(一四三五)とあるやうに、飛鳥川の河鹿をよんだものである。この歌で河鹿が秋の(317)ものとしてあることがわかる。
 
2163 草枕 旅に物念ひ 我が聞けば 夕かたまけて 鳴くかはづかも
 
草枕《クサマクラ》 客爾物念《タビニモノモヒ》 吾聞者《ワガキケバ》 夕片設而《ユフカタマケテ》 鳴川津可聞《ナクカハヅカモ》
 
(草枕)旅ニ出テ家ノコトヲ考ヘテ淋シク〔出テ〜傍線〕物ヲ思ヒナガラ、ワタシガ聞イテヰルト、夕方近クナツテ河鹿ガ頻リニ〔三字傍線〕鳴イテヰルヨ。イヨイヨ淋シサヲ増スバカリダ〔イヨ〜傍線〕。
 
○夕片設而《ユフカタマケテ》――夕方に近くなりての意。冬片設而《フユカタマケテ》(二一三三)參照。
〔評〕 旅中の河邊に河鹿を聞く歌で、あはれな感じがあふれてゐる。
 
2164 瀬を速み 落ちたぎちたる 白浪に かはづ鳴くなり 朝よひごとに
 
瀬呼速見《セヲハヤミ》 落當知足《オチタギチタル》 白浪爾《シラナミニ》 河津鳴奈里《カハヅナクナリ》 朝夕毎《アサヨヒゴトニ》
 
流レル〔三字傍線〕瀬ガ速イノデ、水ガ〔二字傍線〕落チテ泡立チ流レル白浪ノ中デ、毎朝毎晩河鹿ノ鳴ク聲ガスル〔四字傍線〕ヨ。アア面白イ景ダ〔七字傍線〕。
 
〔評〕 上句、一寸言葉がくどいやうでもあるが、實景が見えてゐる。
 
2165 上つ瀬に かはづ妻呼ぶ 夕されば 衣手寒み 妻まかむとか
 
上瀬爾《カミツセニ》 河津妻呼《カハヅツマヨブ》 暮去者《ユフサレバ》 衣手寒三《コロモデサムミ》 妻將枕跡香《ツママカムトカ》
 
上ノ方ノ瀬デ、河鹿ガ妻ヲ呼ブ聲ガスル〔四字傍線〕。夕方ニナルト、着物ノ袖モ膚〔傍線〕寒イノデ、妻ト共ニ寢ヨウト思フノデアラウカ。
〔評〕河津を擬人して衣手寒三《コロモデサムミ》といつてゐるのが、奇拔である。
 
詠v鳥
 
2166 妹が手を 取石の池の 浪の間ゆ 鳥が音けに鳴く 秋過ぎぬらし
 
(318)妹手乎《イモガテヲ》 取石池之《トロシノイケノ》 浪間從《ナミノマユ》 鳥音異鳴《トリガネケニナク》 秋過良之《アキスギヌラシ》
 
(妹手乎)取石池ニ立ツ〔二字傍線〕浪ノ間ニ、水〔傍線〕鳥ノ鳴ク聲ガ今マデトハ〔五字傍線〕異ナツタ鳴キヤウヲスル。アレデ見ルト〔六字傍線〕、秋モ過ギテ寒クナツテ來〔七字傍線〕タラシイ。
 
○妹手乎《イモガテヲ》――枕詞。取るとつづく意は明らかであらう。○取石池之《トロシノイケノ》――取石の池は代匠記初稿本に「和泉國和泉郡にまかりける道に、池を堤を道にてすき侍る所ありき。其池の名を、人の登呂須《トロス》の池となん申侍りければ、云々」とある。續日本紀に「聖武天皇云々、行還2至和泉國取石頓宮1」とある所である。姓氏録、和泉國諸蕃の下にも、取石造とある。今、南海線葛葉驛の東方に取石村がある。あの邊は今も池の多いところであるから、その内のいづれかであらう。○鳥音異鳴《トリガネケニナク》――鳥の鳴く聲が變つて聞える。
〔評〕 浪の間に聞える水鳥の聲の、今までとはめつきり變つて聞えるので、秋も晩れ方になつたのを知つたのである、作者の鋭敏な感受性の、あらはれである。聽覺によつて大自然の姿を把握し得てゐる。
 
2167 秋の野の 尾花がうれに 鳴く百舌鳥の 聲聞くらむか 片待つ吾妹
 
秋野之《アキノヌノ》 草花我末《ヲバナガウレニ》 鳴百舌鳥《ナクモヅノ》 音聞濫香《コヱキクラムカ》 片聞吾妹《カタマツワギモ》
 
秋ノ野ノ尾花ノ末ニ宿ツテ〔三字傍線〕鳴ク百舌鳥ノ聲ヲ、ワタシヲ〔四字傍線〕ヒタスラ待ツテヰル吾ガ妻ハ聞クデアラウカ。アノ淋シイ聲ヲ一人デ聞イタラサゾ淋シカラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○鳴百舌鳥《ナクモズノ》――舊本に舌百とあるのは百舌の誤である。類聚古集にさうなつてゐる。○片聞吾妹《カタマツワギモ》――片聞ではわからない。宣長が片待の誤かといつたのに從ふべきであらう。
〔評〕 故郷の野の家に我を待つてゐる妻を、旅にあつて百舌鳥の聲を聞いて思ひ出したのである、衣を裂くやうな鋭い百舌鳥の聲が耳に聞えるやうだ。
 
(319)詠v露
 
2168 秋萩に おける白露 朝なさな 珠とぞ見ゆる 置ける白露
 
冷芽子丹《アキハギニ》 置白露《オケルシラツユ》 朝朝《アサナサナ》 珠斗曾見流《タマトゾミユル》 置白露《オケルシラツユ》
 
秋萩ノ枝ノ上〔四字傍線〕ニ宿ツタ白露ガ、毎朝毎朝珠ト見エルヨ。アノ〔二字傍線〕宿ツタ白露ガ。
 
〔評〕置白露《オケルシラツユ》の句を反覆して、輕快な調をなしてゐる。
 
2169 夕立の 雨ふるごとに 一云、うちふれば 春日野の 尾花が上の 白露おもほゆ
 
暮立之《ユフダチノ》 雨落毎《アメフルゴトニ》 【一云|打零者《ウチフレバ》】 春日野之《カスガヌノ》 尾花之上乃《ヲバナガウヘノ》 白露所念《シラツユオモホユ》
 
夕立ノ雨ガ降ルト、ソノ〔四字傍線〕度毎ニ、春日野ノ尾花ノ上ニ宿ツタ〔四字傍線〕白露ノ、玉ヲ並ベタヤウナ美シイ景色ガ、サゾヨラウト〔ノ玉ハ〜傍線〕推量セラレル。
 
○暮立之《ユフダチノ》――これで秋の驟雨をも、夕立といつたことがわかる。
〔評〕 都に居て、春日野の尾花が上に宿つた白露を思ひやつたので、氣持のよい作である。卷十六に小鯛王が 暮立之雨打零者春日野之草花之末乃白露於母保遊《ユフダチノアメウチフレバカスガヌノヲバナガウレノシラツユオモホユ》(三八一九)と琴に合はせて吟じたことが見える。
 
2170 秋萩の 枝もとををに 露霜おき 寒くも時は なりにけるかも
 
秋芽子之《アキハギノ》 枝毛十尾丹《エダモトヲヲニ》 露霜置《ツユジモオキ》 寒毛時者《サムクモトキハ》 成爾家類可聞《ナリニケルカモ》
 
秋萩ノ枝モタワタワニ曲ツテ、澤山ニ〔三字傍線〕露ガ降ツテ、時候ガ寒クナツタナア。
 
○露霜置《ツユジモオキ》――露霜は宣長説に從つて、露のことと解して置く。露の半ば霜となつたものと解する從來の説でも解けるやうであるが、題が詠露とあり、下に日來之秋風寒芽子之花令散白露置爾來下《コノゴロノアキカゼサムシハギガハナチラスシラツユオキニケラシモ》(二一七五)とあるのも、それを證するやうに見える。
(320)〔評〕 露重げな萩の枝を眺めて、朝寒を感じてゐるやうな歌である。格調の悠揚たる點に於て勝れてある。
 
2171 白露と 秋の萩とは 戀ひ亂り 別くこと難き 吾がこころかも
 
白露《シラツユト》 與秋芽子者《アキノハギトハ》 戀亂《コヒミダリ》 別事難《ワクコトカタキ》 吾情可聞《ワガココロカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕白露ト秋萩トハ兩方共ニ好キデ〔七字傍線〕、心ガ亂レテ、ドチラガヨイトモ〔八字傍線〕ワタシノ心ニ、區別スルコトガ困難ダヨ。
 
○白露與秋芽子者戀亂《シラツユトアキノハギトハコヒミダリ》――白露と萩とが互に戀するやうにも見えるが、さうではあるまい。新考に上句を別事難《ワクコトカタキ》の序と見てゐる。
〔評〕 少し解し難い點もある。露と萩とを愛する心として見るより外はあるまい。
 
2172 吾がやどの 尾花おしなべ 置く露に 手触れ吾妹子 散らまくも見む
 
吾屋戸之《ワガヤドノ》 麻花押靡《ヲバナオシナベ》 置露爾《オクツユニ》 手觸吾妹兒《テフレワギモコ》 落卷毛將見《チラマクモミム》
 
ワタシノ屋敷ノ尾花ヲ押シ靡カシテ宿ツテヰル露ニ、吾ガ愛スル〔三字傍線〕妻ヨ、オマヘノ美シイ〔七字傍線〕手ヲ觸レテ見〔二字傍線〕ヨ。ワタシハ露ノ〔六字傍線〕散ル所ヲ見タイノダカラ〔四字傍線〕。
 
〔評〕 繪のやうな美しい場面である。美人の手に亂れ散る尾花の露を、眺めようといふのである。これは風雅優美の趣味に遊ぶ氣分が見えてゐる。
 
2173 白露を 取らばけぬべし いざ子ども 露にきほひて 萩の遊せむ
 
白露乎《シラツユヲ》 取者可消《トラバケヌベシ》 去來子等《イザコドモ》 露爾爭而《ツユニキホヒテ》 芽子之遊將爲《ハギノアソビセム》
 
白露ハ美シイモノダガ、手ニ〔ハ美〜傍線〕取レバ消エテシマフダラウ。ダカラ露ハ取ラズニ置イテ〔ダカ〜傍線〕、サア子供等ヨ。アノ〔二字傍線〕露ト爭ツテ露ノ消エナイウチニ、露ノ宿ツタ美シイ〔露ノ〜傍線〕萩ノ花ヲ眺メテ遊バウデハナイカ〔五字傍線〕。
 
○露爾爭而《ツユニキホヒテ》――露の消えるのと先を爭つて。露の消えないうちにの意。略解に「露も今を時とおけばきほふと(321)はいへり」とあり。新考には「アトカラアトカラオク露ニ負ケズニとなり」とある。○芽子之遊將爲《ハギノアソビセム》――芽子之遊《ハギノアソビ》は萩の花の宴であらう。
〔評〕 大宮人らしい遊樂氣分の歌である。この頃かうした花の宴が行はれたのであらう。
 
2174 秋田苅る かりほを作り 吾が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける
 
秋田苅《アキタカル》 借廬乎作《カリホヲツクリ》 吾居者《ワガヲレバ》 衣手寒《コロモデサムク》 露置爾家留《ツユゾオキニケル》
 
秋ノ田ヲ苅ル爲ニ〔二字傍線〕、假ノ小屋ヲ田ノホトリニ〔六字傍線〕立テテ、田ノ番ヲシテ〔六字傍線〕ワタシガ宿ツテ〔三字傍線〕居ルト、着物ノ袖ガ寒ク露ガ袖ノ上ニ〔四字傍線〕降ツタヨ。アア淋シク寒イコトダ〔アア〜傍線〕。
 
〔評〕 秋の田を守る農夫の辛苦が歌はれてゐる。調子のしつかりした、はつきりした力づよい歌である。後撰集の、天智天皇御製「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」は、この歌を改作したものであらう。天智天皇御製とするは妄も甚だしい。
 
2175 この頃の 秋風寒し 萩が花 散らす白露 おきにけらしも
 
日來之《コノゴロノ》 秋風寒《アキカゼサムシ》 芽子之花《ハギガハナ》 令散白露《チラスシラツユ》 置爾來下《オキニケラシモ》
 
コノ頃ノ秋風ハ寒イヨ。コレデハモハヤ〔八字傍線〕萩ノ花ヲ散ラス白露モ、降ツタラシイヨ。
 
〔評〕野原の秋の更けて行くのを想像したものであらう。前の秋芽子之枝毛十尾丹露霜置《アキハギノエダモトヲヲニツユジモオキ》(二一七〇)に似てゐるが、想像と實景との相異がある。
 
2176 秋田苅る とまでうごくなり 白露は 置く穗田なしと 告げに來ぬらし 一云、告げに來らしも
 
秋田苅《アキタカル》 ※[草がんむり/店]手搖奈利《トマデウゴクナリ》 白露者《シラツユハ》 置穗田無跡《オクホダナシト》 告爾來良思《ツゲニキヌラシ》
 
秋ノ田ヲ苅ルトテ、小屋ガケヲシテソノ中ニ宿ツテヰルト、屋根ノ〔トテ〜傍線〕苫ガ動クヨ。アレハ〔三字傍線〕白露ガ、モハヤ何處ノ田モ苅リ盡サレタノデ〔モハ〜傍線〕、降ルベキ穗ノアル田ガナイト告ゲニ來タラシイ。
 
(322)○※[草がんむり/店]手搖奈利《トマデウゴクナリ》――代匠記精撰本に「※[草がんむり/店]の字未考得。今按苫なるべし。和名集云、爾誰注云、【未廉反和名度萬】編2菅茅1以覆v屋也。かりほを作たる其戸口に苫を垂て風雨を防ぐを苫手と云へる歟」とあるに從つて置かう。略解に「苫手は帆手、綱手などの手に同じく、手は端をいふべし。」とある。宣長は「三の句きこえす衣手淫奈利《ソデヒヂヌナリ》なるべし」と言つてゐるが、猶考ふべきである。
〔評〕 白露を擬人してゐるのがおもしろい。そんなに穩田を苅り盡されては、吾が置くべきところなしと訴へに來たやうに言つたのである。農民の素朴な童心のあらはれとも言へる。
 
一云 皆爾來良思母《ツゲニクラシモ》
 
これは五の句の異傳である。ツゲニケラシモの訓もある。
 
詠v山
 
2177 春は萠え 夏は緑に くれなゐの まだらに見ゆる 秋の山かも
 
春者毛要《ハルハモエ》 夏者緑丹《ナツハミドリニ》 紅之《クレナヰノ》 綵色爾所見《マダラニミユル》 秋山可聞《アキノヤマカモ》
 
春ハ草木ノ葉ガ〔五字傍線〕萠エテ、夏ハソノ葉ガ〔四字傍線〕緑色ニ生ヒ茂リ、秋ニナルト〔九字傍線〕、紅色ノ濃淡ガ混ツテ美シク〔三字傍線〕見エル秋山ダナア。
 
○綵色爾所見《マダラニミユル》――綵色は舊訓はニシキ、童蒙抄はイロイロ、古義はマダラとよんでゐる。ここは、卷七の君之爲綵色衣將摺跡念而《キミガタメマダラノコロモスラムトオモヒテ》(一二五五)にならつて、マダラとよむことにする。マダラは濃淡相混つてゐること。
〔評〕 山の景色の四季によつて遷り行く、面白さを褒めたのである。最後に秋山可聞《アキノヤマカモ》とあるが、秋の山のみを愛でたのではない。
 
詠2黄葉1
 
2178 妻ごもる 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散らまく惜しも
 
(323)妻隱《ツマゴモル》 矢野神山《ヤヌノカミヤマ》 露霜爾《ツユジモニ》 爾寶比始《ニホヒソメタリ》 散卷惜《チラマクヲシモ》
 
(妻隱)矢野ト云フ神山ハ露ガ降ツテソノ爲〔七字傍線〕ニ色ガツキ始メタ。誠ニヨイ景色ダガ〔八字傍線〕、散ルノハ惜シイモノダヨ。
 
○妻隱《ツマゴモル》――枕詞。屋の意で矢野につづけてある。○矢野神山《ヤヌノカミヤマ》――矢野の神山は出雲國神門郡八野・伊豫國喜多郡矢野・備後甲努郡矢野・播磨國赤穗郡八野などが和名抄に見え、その他矢野の地名は所々に多い。左註に、柿本朝臣人麿謌集出とあるから、人麿の旅行範圍と見るべきであらうが、それにしても出雲・備後・播磨など彼の足跡を印したところらしいので、いづれとも判じがたい。大日本地名辭書には、伊勢國度會郡矢野であらうとし、「今矢野の南に大字|山神《ヤマカミ》の名あり」と言つてゐる。
〔評〕 平板な歌で、上品に出來てゐるといふまでである。
 
2179 朝露に にほひそめたる 秋山に 時雨なふりそ 在り渡るがね
 
朝露爾《アサツユニ》 染始《ニホヒソメタル》 秋山爾《アキヤマニ》 鐘禮莫零《シグレナフリソ》 在渡金《アリワタルガネ》
 
朝露ガ降ツ〔三字傍線〕テ色ガツキ始メタ秋ノ山ハ、誠ニヨイ景色ダガ、アノ秋ノ山〔ハ誠〜傍線〕ニハ、何時マデモ紅葉ガ〔八字傍線〕散ラズニアルヤウニ、ドウゾ〔三字傍線〕時雨ガ、降ルナヨ。
 
○染始《ニホヒソメタル》――舊訓ソメハジメタルとあるのでもわるくはないが、考の訓に從ふ。下に應染毛《ニホヒヌベクモ》(二一九二)とある。
 
○鐘禮莫零《シグレナフリソ》――鐘禮をシグレとよむことは落鐘禮能《オツルシグレノ》(一五五一)參照。元暦校本に鐘を鍾に作つてゐる。○在渡金《アリワタルガネ》――續いてある爲に。
〔評〕 前の歌と同じく、初紅葉を愛するもので、人麿歌集の歌だけに少しく調子が古いやうである。
 
右二首柿本朝臣人麿之謌集出
 
2180 九月の 時雨の雨に ぬれとほり 春日の山は 色づきにけり
 
九月乃《ナガツキノ》 鐘禮乃雨丹《シグレノアメニ》 沾通《ヌレトホリ》 春日之山者《カスガノヤマハ》 色付丹來《イロヅキニケリ》
 
(324)九月ニ降ル時雨ノ雨ニ木々ノ梢モ〔五字傍線〕沾レ通ツテ、春日ノ山ハ色ガツイタコ。ホントニ佳イ紅葉ノ景色ダ〔ホン〜傍線〕。
 
○沾通《ヌレトホリ》――山の木木を下葉まで、一體に枯らしたことを言つたのであらう。
〔評〕 時雨の降りつづいた後で、春日山の紅葉したのを詠んだので、沾通《ヌレトホリ》の句が時雨の烈しさをよくあらはし得てゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
2181 鴈が音の 寒き朝けの 露ならし 春日の山を もみだすものは
 
鴈鳴之《カリガネノ》 寒朝開之《サムキアサケノ》 露有之《ツユナラシ》 春日山乎《カスガノヤマヲ》 令黄物者《モミダスモノハ》
 
春日山ヲ紅ノ色美シク染メルモノハ、鴈ノナク聲ノ寒サウニ聞エル曉方ニ降ル露デアラウ。
 
○令黄物者《モミダスモノハ》――舊訓による。後撰集にもこの句をさうして出してゐる。略解に「もみぢといふも、紅は揉出して染るものなれば、もみ出しの約言也、さればもみだすものはと訓べし、と翁はいはれたれど、猶元暦本の訓によるべし」としてニホハスモノハと訓してゐる。
〔評〕 上句は美しい想像である。三句切の形式も珍らしい。この想像を技巧的に高調すると、古今集の「秋の夜の露をば露とおきながら鴈の涙や野べをそむらむ」となるのである。この歌、後撰集に、春日山を立田山として出てゐる。
 
2182 この頃の あかとき露に 吾がやどの 萩の下葉は 色づきにけり
 
比日之《コノゴロノ》 曉露丹《アカトキツユニ》 吾屋前之《ワガヤドノ》 芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
 
コノ頃ノ夜明ケ方ニ降ル露デ、ワタシノ家ノ庭ノ、萩ノ下葉ハ色ガ付イテ赤クナツ〔五字傍線〕タヨ。
 
〔評〕 この下に比者之五更露爾吾屋戸乃秋之芽子原色付爾家里《コノゴロノアカトキツユニワガヤドノアキノハギハヲイロヅキニケリ》(二二一三)と出てゐるものと同歌の異傳であらう。この方が優つてゐる。
 
 
2183 かりがねは 今は來鳴きぬ 吾が待ちし もみぢ早つげ 待てば苦しも
 
鴈鳴者《カリガネハ》 今者來鳴沼《イマハキナキヌ》 吾待之《ワガマチシ》 黄葉早繼《モミヂハヤツゲ》 待者辛苦母《マテバクルシモ》
 
(325)鴈ハ已ニ來テ鳴イタ。今度ハイヨイヨ紅葉ノ番ダガ〔今度〜傍線〕、ワタシノ待ツテヰタ紅葉ハ、早ク鴈ノ〔二字傍線〕後カラ續イテ紅葉シナサイ。待ツテヰルノハ苦シイモノダヨ。
 
○黄葉早繼《モミヂハヤツゲ》――黄葉が早く鴈に續けよの意。
〔評〕 二句と四句とに切目があるのは、この卷では少い形である。
 
2184 秋山を ゆめ人かくな 忘れにし そのもみぢ葉の 思ほゆらくに
 
秋山乎《アキヤマヲ》 謹人懸勿《ユメヒトカクナ》 忘西《ワスレニシ》 其黄葉乃《ソノモミヂバノ》 所思君《オモホユラクニ》
 
秋ノ山ノ美シイ話〔五字傍線〕ヲ決シテ、人ヨ、口ニ〔二字傍線〕出シテ言フナヨ。人ノ話ヲ聞クト〔七字傍線〕、忘レテヰタ秋ノ山ノ紅葉ノ面白イ景色ガ思ヒ出サレ、却ツテ心ヲナヤ〔七字傍線〕マスカラ。
 
○謹人縣勿《ユメヒトカクナ》――人よ、ゆめゆめ口にかけて言ふ勿れ。○所思君《オモホユラクニ》――舊訓オモユルキミとあるが、考に從ふ。
〔評〕 紅葉を愛するあまり、却つて、思ひ出して心を惱ますのを恐れるので、戀人に對するやうな愛情である。
 
 
 
2185 大坂を 吾が越え來れば 二上に もみぢ葉流る 時雨ふりつつ
 
大坂乎《オホサカヲ》 吾越來者《ワガコエクレバ》 二上爾《フタカミニ》 黄葉流《モミヂバナガル》 志具禮零乍《シグレフリツツ》
 
大坂ヲワタシガ越エテ來ルト、二上山〔傍線〕デハ時雨ガ降ツテ、紅葉ガ流レルヤウニ斜ニ散ツ〔八字傍線〕テ居ル。
 
○大坂乎《オホサヲ》――大坂は今、大和國北葛城郡下田村の西に逢坂の地がある。大和から河内へ越える坂で、二上山の北方に接してゐる。今、この道を穴虫越と稱してゐる。○黄葉流《モミヂパナガル》――紅葉が斜に散ること。
〔評〕 住い歌だ。時雨に濡れつつ紅葉の散る坂路を越える情景がしのばれる。
 
 
2186 秋されば 置く白露に 吾が門の 淺茅がうらば 色づきにけり
 
秋去者《アキサレバ》 置白露爾《オクシラツユニ》 吾門乃《ワガカドノ》 淺茅何浦葉《アサヂガウラバ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
 
秋ニナルト、降ル白露ノタメ〔三字傍線〕ニ、ワタシノ門前ノマバラニ生エタ茅ノ葉ノ末ノ方は、赤ク〔二字傍線〕色ガツイタヨ。
 
(326)〔評〕 淺茅の紅葉を詠じたもの。ただ叙述的で感興が乏しい。
 
2187 妹が袖 卷來の山の 朝露に にほふもみぢの 散らまく惜しも
 
妹之袖《イモガソデ》 卷來乃山之《マキキノヤマノ》 朝露爾《アサツユニ》 仁寶布黄葉之《ニホフモミヂノ》 散卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
(妹之袖)卷來山ニ降ツタ〔三字傍線〕朝露ニ染ツテ、赤クナツタ紅葉ハ佳イ景色ダガ、アレ〔ハ佳〜傍線〕ガ散ルノハ惜シイモノダヨ。
 
○妹之袖《イモガソデ》――枕詞。マキとつづくのは枕する意にかけたのである。○卷來乃山之《マキキノヤマノ》――卷來乃山は筑前の城の山かと眞淵は言つてゐるが、さうではあるまい。宣長は來乃を牟久の誤としてマキムクヤマとよんでゐるのは面白いが、さうとも斷じ難い。古義には卷六來《マキムク》の誤かといつてゐる。卷來の山といふ山が何處かにあるのであらう。
〔評〕 結句にチラマクヲシモと置いた歌が、集中に數多い爲か、型に嵌つた感じがある。
 
2188 もみぢ葉の にほひは繁し 然れども 妻梨の木を 手折りかざさむ
 
黄葉之《モミヂバノ》 丹穗日者繁《ニホヒハシゲシ》 然鞆《シカレドモ》 妻梨木乎《ツマンシノキヲ》 手折可佐寒《タヲリカザサム》
 
紅葉ノ色ハ木ニヨツテイロイロアル、然シナガラ、ワタシハ、(妻)梨ノ木ノ紅葉ヲ折ツテ髪ニ挿サウ。梨ノ木ノ紅葉ガ一番美シクテ好キダ〔梨ノ〜傍線〕。
 
○丹穗日者繁《ニホヒハシゲシ》――紅葉する木の葉の色は種々あるの意。新考に繁は薄の誤と言つてゐるのは變つた説である。○妻梨木乎《ツマンシノキヲ》――妻梨の木は妻無《ツマナシ》の義に懸けていふので、妻には意味がなく、梨の木のことだといはれてゐる。
〔評〕梨の紅葉を賞づる歌。卷十九の十月之具禮能常可吾世古河屋戸乃黄葉可落所見《カミナヅキシグレノツネカワガセコガヤドノモミヂバチリヌベシミユ》(四二五九)の左註に、右一首少納言大伴宿禰家持當時矚梨黄葉作此歌也とある。
 
2189 露霜の 寒き夕べの 秋風に もみぢにけりも 妻梨の木は
 
露霜聞《ツユジモノ》 寒夕之《サムキユフベノ》 秋風丹《アキカゼニ》 黄葉爾來毛《モミヂニケリモ》 妻梨之木者《ツマナシノキハ》
 
(327)露ガ降ツテ〔三字傍線〕寒イ晩方吹ク秋風デ、(妻)梨ノ木ノ葉ハ紅葉シタナア。
○露霜聞《ツユジモノ》――聞は元暦校本その他古寫本、多く乃に作つてゐるから、それに從ふべきである。○黄葉爾來毛《モミヂニケリモ》――モは詠嘆の助詞。
〔評〕 前に朝露に紅葉した歌があつたが、これは露の降る夕べの秋風に紅葉したのである。秋風に紅葉したといふのが珍らしい。
 
2190 吾が門の 淺茅色づく 吉隱の 浪柴の野の もみぢ散るらし
 
吾門之《ワガカドノ》 淺茅色就《アサヂイロヅク》 吉魚張能《ヨナバリノ》 浪柴乃野之《ナミシバノヌノ》 黄葉散良新《モミヂチルラシ》
 
ワタクシノ門ノアタリノ〔四字傍線〕マバラニ生エタ茅ノ葉〔二字傍線〕ハ、赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタ。コレデハ此處ヨリモ寒イ〔コレ〜傍線〕吉隱ノ浪柴ノ野ノ紅葉ハモウ〔二字傍線〕散ツテヰルラシイ。
 
○吉魚張能浪柴乃野之《ヨナバリノナミシバノヌノ》――吉魚張《ヨナバリ》は卷二にも吉張之猪養乃岡之《ヨナバリノヰカヒノヲカノ》(二〇三)・卷八に吉名張乃猪養山爾《ヨナバリノヰカヒノヤマニ》(一五六一)とあつたところで、大和磯城郡今の初潮町の東一里の地點にあり、浪柴乃野は、大和志城上郡の條に「猪飼山在2吉隱村上方1持統紀曰、九年十月、幸2菟田吉隱1、即此今隷2本郡1其野曰2浪芝野1」とある。
〔評〕 家にあつて、吉隱の浪柴の野の紅葉を想像したのである。下の吾屋戸之淺茅色付吉魚張之夏身之上爾四具禮零疑《ワガヤドノアサヂイロヅクヨナバリノナツミノウヘニシグレフルカモ》(二二〇七)に似、また八田乃野之淺茅色付有乳山峯之沫雪寒零良之《ヤタノヌノアサヂイロヅクアラチヤマミネノアワユキサムクフルラシ》(二三三一)とも似てゐる。
 
2191 鴈が音を 聞きつるなべに 高まどの 野の上の草ぞ 色づきにける
 
鴈之鳴乎《カリガネヲ》 聞鶴奈倍爾《キキツルナベニ》 高松之《タカマドノ》 野上乃草曾《ヌノヘノクサゾ》 色付爾家留《イロヅキニケル》
 
鴈ノ鳴ク聲ヲ聞クト同時ニ、高圓ノ野ノアタリノ草ハスツカリ赤ク〔六字傍線〕色ガ付イタヨ。大ブン寒クナツテ來タ〔大ブ〜傍線〕。
 
○高松之《タカマドノ》――高松は高圓の借字として置かう。
 
〔評〕 聞いたところ見たところをそのままに述べて、よく感じをあらはしてゐる。
 
2192 吾背子が 白たへ衣 行き觸らば にほひぬべくも もみづ山かも
 
(328)吾背兒我《ワガセコガ》 白細衣《シロタヘコロモ》 往觸者《ユキフラバ》 應染毛《ニホヒヌベクモ》 黄變山可聞《モミヅヤマカモ》
 
ワタシノ夫ガ着テ行ツタ〔五字傍線〕白イ着衣ガ、觸レタナラバ、赤イ色ニ〔四字傍線〕染リサウニモ、山ガ紅葉シテヰルヨ。ホントニ美シク紅葉シタモノダ〔ホン〜傍線〕。
 
〔評〕 山の紅葉を眺めた女の歌で、旅に出た夫を思つてゐる。紅葉を愛づる歌としては、内容が變つてゐておもしろい。
 
 
2193 秋風の 日にけに吹けば 水莖の 岡の木の葉も 色づきにけり
 
秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》 水莖能《ミヅクキノ》 岡之木葉毛《ヲカノコノハモ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
 
秋風ガ毎日毎日吹イテヰルト、(水莖能)岡ノ木ノ葉モ赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタヨ。
 
○水莖能《ミヅクキノ》――枕詞。岡とつづくのは、みづみづしき莖の稚《ワカ》の轉であらうといふ。水莖之《ミヅクキノ》(九六八)参照。宣長はこの岡は大和の飛鳥の岡であらうといつてゐる。
〔評〕 清楚な感じのするよい歌であるが、下の秋風之日異吹者《アキカゼノヒニケニフケバ》(二二〇四)・鴈鳴之寒鳴從《カリガネノサムクナキシユ》(二二〇八)などに酷似してゐる。和歌童蒙抄にも出てゐる。
 
2194 鴈が音の 來鳴きしなべに から衣 龍田の山は もみぢそめたり
 
鴈鳴乃《カリガネノ》 來鳴之共《キナキシナベニ》 韓衣《カラコロモ》 裁田之山者《タツタノヤマハ》 黄始有《モミヂソメタリ》
 
鴈ガ來テ鳴イタノニツレテ、(韓衣)立田山ハ紅葉シ始メタ。
 
○來鳴之共《キナキシナベニ》――共はムタ・トモ・ナベなどと訓まれる文字であるが、前後にナベニとなつてゐる歌があるから、春霞流共爾《ハルガスミナガルルナベニ》(一八二一)の例に倣つて、これもナベニとよむことにしよう。○韓衣《カラコロモ》――枕詞。衣を裁つ意で、龍田山にかけてゐる。○黄始有《モミチソメタリ》――略解はニホヒソメタリとある。
(329)〔評〕 下の鴈鳴之寒鳴從水莖之岡乃葛葉者色付爾來《カリガネノサムクナキシユミヅクキノヲカノクズハハイロヅキニケリ》(二二〇八)ト似てゐる。
 
2195 鴈が音の 聲聞くなべに 明日よりは 春日の山は もみぢそめなむ
 
鴈之鳴《カリガネノ》 聲聞苗荷《コヱキクナベニ》 明日從者《アスヨリハ》 借香能山者《カスガノヤマハ》 黄始南《モミヂソメナム》
 
鴈ノ鳴ク聲ガスルガ、アノ聲〔七字傍線〕ヲ聞クニツレテ、明日カラハ、春日山ノ木ノ葉〔四字傍線〕ハ紅葉シ始メルデアラウ。
 
○黄始南《モミヂソメナム》――略解にはニホヒソメナムとある。
〔評〕 前の歌を未來にしただけに過ぎない。
 
2196 時雨の雨 間なくし零れば 眞木の葉も あらそひかねて 色づきにけり
 
四具禮能雨《シグレノアメ》 無間之零者《マナクシフレバ》 眞木葉毛《マキノハモ》 爭不勝而《アラソヒカネテ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
 
時雨ノ雨ガ止ム〔二字傍線〕間モナク降ルト、檜ノヤウナ常磐木ノ〔七字傍線〕葉モ、爭ウテモ〔四字傍線〕爭フコトガ出來ズニ、他ノ木ノヤウニ赤ク〔九字傍線〕色ガ付イタヨ。
 
〔評〕 晩秋から嚴冬の頃にかけて、檜や杉のやうな木は、かなり赤く色づくものである。その變化に着目したのが珍らしい。爭不勝而《アラソヒカネテ》の句も、ここには適切に用ゐられてゐる。
 
2197 いちじろく 時雨の雨は ふらなくに 大城の山は 色づきにけり
 
灼然《イチジロク》 四具禮乃雨者《シグレノアメハ》 零勿國《フラナクニ》 大城山者《オホキノヤマハ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
 
アマリ目ニ立ツ程モ時雨ノ雨ハ降ラナイノニ、大域ノ山ハ紅葉シタヨ。
 
○大城山者《オホキノヤマハ》――大城山は大野山と同じく、太宰府背後の山である。大野山(七九九)參照。元暦校本、小字にてこの歌の次に「謂大城者在筑前國御笠郡之大野山頂號曰大城者也」と註が  その他の古寫本も多くはこの文があるが、恐らく後人の註であらう。寫眞は著者撮影。
(330)〔評〕 太宰府にての作。かの地の任にあつた官人の作であらう。
 
2198 風吹けば もみぢ散りつつ しましくも あがの松原 清からなくに
 
風吹者《カゼフケバ》 黄葉散乍《モミヂチリツツ》 小雲《シマシクモ》 吾松原《アガノマツバラ》 清在莫國《キヨカラナクニ》
 
風ガ吹クト紅葉ガ散ツテ、暫クハアガノ松原ハ、清淨デハナイヨ。
 
○小雲《シマシクモ》――舊訓シバラクモとあるのでもよからう。宣長はスクナクニとよむべしと言つてゐる。略解はそれに從つて「心はよそのもみぢを風の吹よせて、そこばく松原の清からぬといふ也」とあるが、さうではないやうである。○吾松原《アガノマツバラ》――吾松原は卷六に吾乃松原《アガノマツバラ》(一〇三〇)とあるところであらう。その左註に在2三重郡1とある。卷十七に和我勢兒乎安我松原欲《ワガセコヲアガマツバラヨ》(三八九〇)とあるのは筑紫での作であり、又地名ではないと認められてゐるから、これと關係はあるまい。宣長は吾を君の誤としてゐる。
〔評〕 吾の松原が散る紅葉の爲に暫くは清くはないといふ意に解して置いたが、他の解釋も出來ないこともない。三四句の爲に諸説が分れてゐるのは遺憾である。
 
2199 物念ふと こもらひをりて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり
 
(331)物念《モノモフト》 隱座而《コモラヒヲリテ》 今日見者《ケフミレバ》 春日山者《カスガノヤマハ》 色就爾家里《イロヅキニケリ》
 
今マデハ〔四字傍線〕物思ヲシテ、家ニ閉ヂ籠ツテ居ツテ、今日久シブリデ外ヲ〔七字傍線〕眺メルト、春日ノ山ハスツカリ〔四字傍線〕紅葉シテシマツタヨ。ホントニ一寸見ナイウチニ變ルモノダ〔ホン〜傍線〕。
 
○隱座而《コモラヒヲリテ》――舊訓シノビニヲリテ、代匠記精撰本コモリヲリツツ、略解カクロヒヲリテなどとある。コモラヒヲリテとよむべきところである。
〔評〕 物念隱座而《モノモフトコモラヒヲリテ》は、本集では珍らしい感傷的な態度である。古今集の「たれこめて春の行方もしらぬ間に待ちし櫻もうつろひにけり」は、これに似たところがある。
 
2200 九月の 白露おひて 足日木の 山のもみぢむ 見まくしもよし
 
九月《ナガツキノ》 白露負而《シラツユオヒテ》 足日木乃《アシビキノ》 山之將黄變《ヤマノミヂム》 見幕下吉《ミマクシモヨシ》
 
九月ニ降ル白露ヲ受ケテ、(足日木乃)山ノ木ノ葉〔四字傍線〕ガ紅葉スルノヲ見ルノハ、面白イコトデアル。
 
○見幕下吉《ミマクシモヨシ》――略解・古義にミマクシモヨケムとよんだのは惡い。
〔評〕 四句で切れてゐるのではない。山のもみぢむをの意である。末句は蛇足の感がないではない。
 
2201 妹がりと 馬に鞍置きて 射駒山 うち越えくれば 紅葉散りつつ
 
妹許跡《イモガリト》 馬鞍置而《ウマニクラオキテ》 射駒山《イコマヤマ》 撃越來者《ウチコエクレバ》 紅葉散筒《モミヂチリツツ》
 
妻ノ處ヘ通フトテ、馬ニ鞍ヲ置イテソレニ乘ツテ〔六字傍線〕、生駒山ヲ越エテ來ルト、路傍ノ〔三字傍線〕紅葉ガ、シキリニ〔四字傍線〕散ツテヰル。
 
○生駒山《イコマヤマ》――生駒山。奈良の都の西方に聳えて、大和・河内の堺をなせる山。代匠記精撰本に初二句を序詞として「妹かもとへ馬に鞍置て騎ていくと、い一もじにつづけたる歟」とあるのは誤つてゐる。○紅葉散筒《モミヂチリツツ》――モミヂは集中、黄葉とのみあるに、ここに紅葉と記したのは唯一の例である。
〔評〕 美しい情緒があふれてゐる。優麗・温雅なリズムで、長閑な上代氣分が歌はれてゐる。
 
2202 もみぢする 時になるらし 月人の かつらの枝の 色づく見れば
 
(332)黄葉爲《モミヂスル》 時爾成良之《トキニナルラシ》 月人《ツキヒトノ》 楓枝乃《カツラノエダノ》 色付見者《イロヅクミレバ》
 
月ノ中ニアル桂ノ枝ガ赤ク〔二字傍線〕色ヅイテ、月ノ光ガ常ヨリモ明ルクナツ〔テ月〜傍線〕タノデ見ルト、コノ下界ノ草木モ亦〔九字傍線〕、紅葉スル時ニナツタラシイ。
 
○月人《ツキヒトノ》――前に月人壯《ツキヒトヲトコ》(二〇一〇)とあるのに同じく、月のことである。古義に人を内の誤としてツキヌチノとよんだのは從ひ難い。○楓枝乃《カツラノエダノ》――卷四の月内之楓如《ツキノウチノカツラノゴトキ》(六三一)參照。
〔評〕 月中の桂の支那傳説を採つたもので、卷四の湯原王の作(六三二)と同一趣味に立つてゐる。これも民衆の歌ではあるまい。古今集の「久方の月のかつらも秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ」は、この歌から學んだものではあるまいか。和歌童蒙抄にも採られてゐる。
 
2203 里もけに 霜は置くらし 高松の 野山づかさの 色づく見れば
 
里異《サトモケニ》 霜者置良之《シモハオクラシ》 高松《タカマドノ》 野山司之《ヌヤマヅカサノ》 色付見者《イロヅクミレバ》
 
高圓ノ野ノ高イ所ヤ、山ノ高イトコロガ赤ク〔二字傍線〕紅葉シタノデ見レバ、里モ格別ニ霜ガ降ルラシイ。
 
○里異《サトモケニ》――里も格別にの意。仙覺抄によれば、古點はサトゴトニとあつたとある。新訓はそれに還元してゐるが、異はゴトの借字になつてゐるところはないから、なほ考ふべきである。宣長は里を旦の誤として、アサニケニとよんでゐる。○高松《タカマドノ》――舊訓|高松野《タカマドノ》とあり、これに從ふ説が多い。野は集中ヌと訓み、或はヤの假名に用ゐてあるが、安利蘇野米具利《アりソノメグリ》(四〇四九)・須久奈比古奈野《スクナヒコナノ》(四一〇六)の如く、ノの假名に用ゐた特例もないではない。併しここではこれをノの假名に訓まうとするのは無理であらう。故にこれを次句に入れて高松の二字を以てタカマドノとよむことにする。○野山司之《ヌヤマヅカサノ》――野の司も山の司もの意。ツカサは高いところである。卷四に涯之官能《キシノツカサノ》(五三〇)とあつた。
〔評〕 都人が高圓の野山を眺めて、秋の更けたのを知つたのであらう。すぐれた歌とは言はれないが、類想のな(333)い作である。
 
2204 秋風の 日にけに吹けば 露しげみ 萩の下葉は 色づきにけり
 
秋風之《アキカゼノ》 日異吹者《ヒニケニフケバ》 露重《ツユシゲミ》 芽子之下葉者《ハギノシタバハ》 色付來《イロヅキニケリ》
 
秋風ガ毎日毎日吹クト、置ク〔二字傍線〕露ガ深イノデ、萩ノ下葉ハ赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタヨ。
 
○露重《ツユシゲミ》――舊訓ツユオモミとあり、略解ツユヲオモミとあるが、古義にツユシゲミとよんだのがよいであらう。新訓はツユシキリとよんでゐる。
〔評〕初二句は秋風之日異吹者《アキカゼノヒニケニフケバ》(二一九三)に似てゐる。萩の下葉の紅葉をよんだものは、後世の歌には多いが、これらはその先驅をなしたもので、觀察が細いと言はねバならぬ。
 
2205 秋萩の 下葉もみぢぬ あらたまの 月のへゆけば 風をいたみかも
 
秋芽子乃《アキハギノ》 下葉赤《シタバモミヂヌ》 荒玉乃《アラタマノ》 月之歴去者《ツキノヘユケバ》 風疾鴨《カゼヲイタミカモ》
 
秋萩ノ下葉ハ赤ク色ガツイタ。コレハ〔三字傍線〕(荒玉乃)月ガ幾月モタツテ秋ガ深クナツ〔七字傍線〕タノデ、風ガヒドク吹クカラダラウナア。
○裏下葉赤《シタバモミヂヌ》――赤の一字をモミヂヌとよませたのは珍らしい。○月之歴去者《ツキノヘユケバ》――月が幾月も經過したので。必ずしも略解にあるやうに「はぎの生し時より、月を經て秋風いたく吹ころ云云」といふ意ではなく、唯時候が移り行きて、秋が更けたのでといふやうなことである。
〔評〕 前の歌とよく似てゐるが、この方が秋寒い感じを、より強く感ぜしめる。
 
2206 まそかがみ 南淵山は 今日もかも 白露おきて 黄葉ちるらむ
 
眞十鏡《マソカガミ》 見名淵山者《ミナブチヤマハ》 今日鴨《ケフモカモ》 白露置而《シラツユオキテ》 黄葉將散《モミヂチルラム》
 
(眞十鏡)南淵山ハ、今日コノ頃ハ白露ガ降ツテ、紅葉ガ散ルデアラウカナア。
 
(334)○眞十鏡《マソカヾミ》――枕詞。見とつづく意はおのづから明らかである。○見名淵山者《ミナブチヤマハ》――見名淵山は即ち南淵山。卷九の御食向南淵山之《ミケムカフミナブチヤマノ》(一七〇九)參照。
〔評〕 類歌といふほどではないが、奈呉乃海之朝開之奈凝今日毛鴨礒之浦回爾亂而將有《ナゴノウミノアサケノナゴリケフモカモイソノウラワニミダレテアラム》(一一五五)・阿保山之佐宿木花者今日毛鴨散亂見人無二《アホヤマノサクラノハナハケフモカモチリミダルラムミルヒトナシニ》(一八六七)など、型が定まつてゐるやうである。
 
2207 吾がやどの 淺茅色づく 吉隱の 夏身の上に 時雨ふるかも
 
吾屋戸之《ワガヤドノ》 淺茅色付《アサヂイロヅク》 吉魚張之《ヨナバリノ》 夏身之上爾《ナツミノウヘニ》 四具禮零疑《シグレフルカモ》
 
ワタシノ家ノ庭ノマバラニ生エタ茅ガ、赤ク〔二字傍線〕色付イタ。コレデハモウアノ〔八字傍線〕。吉隱ノ夏身アタリニハ、時雨ガ降ルダラウカナア。
 
○吉魚張之夏身之上爾《ヨナバリノナツミノウヘニ》――吉魚張は吉隱。前の吉魚張能浪柴乃野之《ヨナバリノナミシバノヌノ》(二一九〇)と同所である。夏身もその附近にあるのであらう。
〔評〕前の吾門之淺茅色就吉魚張能浪柴乃野之黄葉散良新《ワガカドノアサヂイロヅクヨナバリノナミシバノヌモミヂチルラシ》(二一九○)とよく似てゐる。
 
2208 鴈がねの 寒く鳴きしゆ 水莖の 岡の葛葉は 色づきにけり
 
(335)鴈鳴之《カリガネノ》 寒鳴從《サムクナキシユ》 水莖之《ミヅクキノ》 岡乃葛葉者《ヲカノクズハハ》 色付爾來《イロヅキニケリ》
 
鴈ノ聲ガ寒サウニ鳴イテカラ、(水莖之)岡ノ葛ノ葉ハ赤ク〔二字傍線〕色ガ付イタヨ。
 
〔評〕 前の秋風之日異吹者水莖能岡之木葉毛色付爾家里《アキカゼノヒニケニフケバミヅクキノヲカノコノハモイロヅキニケリ》(二一九三)によく似てゐる。佳作だ。
 
2209 秋萩の 下葉のもみぢ 花につぐ 時過ぎ行かば 後戀ひむかも
 
秋芽子之《アキハギノ》 下葉乃黄葉《シタバノモミヂ》 於花繼《ハナニツグ》 時過去者《トキスギユカバ》 後將戀鴨《ノチコヒムカモ》
 
今ハ萩ノハナガ美シク咲イテヰルガ、コノ花ガ散ツテコノ〔今ハ〜傍線〕花ニ繼イデ、秋萩ノ下葉ノ紅葉ガ美シイ盛ノ〔五字傍線〕時モ過ギテ行ツタナラバ、後ニナツテ戀シク思ハレルダラウカナア。
 
○於花繼《ハナニツグ》――花に繼ぐ時と下につづいてゐる。童蒙抄・略解・古義にハナニツギとあるのはおもしろくない。
〔評〕 花を愛し、更にその下葉の紅葉を愛して、萩を賞美した歌で、上代人の萩に對する嗜好が察せられる。
 
2210 明日香河 もみぢ葉流る 葛城の 山の木の葉は 今し散るかも
 
明日香河《アスカガハ》 黄葉流《モミヂバナガル》 葛木《カヅラキノ》 山之木葉者《ヤマノコノハハ》 今之落疑《イマシチルカモ》
 
飛鳥川ニハ紅葉ガ洗レテヰル。サテハコノ川ノ上流ノ〔サテ〜傍線〕葛城ノ山ノ木ノ葉ハ、今コソ散ルラシイ。
 
○明日香河《アスカガハ》――この明日香河は、大和の高市郡を流れる飛鳥川ではなく、河内國南河内郡駒谷村なる飛鳥川であらう。ここは履中紀に「天皇到2向内國埴生坂1、急馳自2大阪1向v倭至2于飛鳥山1過2少女於2山口1云々」とあるところで、飛鳥川は二上山の西側より發し、飛鳥を過ぎて石川に合流し、やがて大和川に注いでゐる川である。これを大和の飛鳥川とする古來の説は全く地理を辨へないものである。○葛木山之木葉者《カヅラキノヤマノコノハハ》――この葛城の山は葛城地方の山で、主として二上山を指してゐる。二上山は卷二に移葬大津皇子屍於葛城二上山之時云々(一六五)とあつて、葛城郡の山であるから、かく呼んだのである。
〔評〕 素純な歌である。古今集の「立田川もみぢば流る神なびの三室の山に時雨ふるらし」、後拾遺集の「嵐吹く(336)三室の山の紅葉ばは立田の川の錦なりけり」などはこれから出た歌らしい。新古今集に柿本人麿として「飛鳥川もみぢ葉流るかづらきの山の秋風ふきぞしぬらし」と出してゐるのは、この歌の改作であらう。
 
2211 妹が紐 とくと結ぶと 立田山 今こそ黄葉 はじめたりけれ
 
妹之紐《イモガヒモ》 解登結而《トクトムスブト》 立田山《タツタヤマ》 今許曾黄葉《イマコソモミヂ》 始而有家禮《ハジメタリケレ》
 
(妹之紐解登結而)立田山ハ今コソ紅葉シ始メタヨ。
 
○妹之紐解登結而《イモガヒモトクトムスブト》――立つと續く序詞。この歌、後撰集に「妹が紐とくと結ぶと立田山今ぞもみぢの錦織りける」とあるによれば、而の字は等などの誤ではないかと言つてゐる略解説に從ふ者が多い。然らば解くとても立ち結ぶとても立つ意である。木村正辭は字音辨證に、而のままでトとよむべきであるとして「而をトに借れるは轉音を用ゐたる也。而にトの音あるは同轉の治にト、姫にコ、忌にゴ、志之にソ、以にヨ、意矣にオの音ある響也」と言つてゐるが、例の韻鏡濫用の弊であらう。ここは暫く略解説に從つて置くが、而のままで、男が妹の紐の解けたのを結んで出立することと、解し得られるであらうと思はれる。
〔評〕 序詞がかなり官能的であるやうに思はれる。併し歌は野卑な感はない。
 
2212 雁がねの なきにし日より 春日なる 三笠の山は 色づきにけり
 
鴈鳴之《カリガネノ》 喧之從《ナキニシヒヨリ》 春日有《カスガナル》 三笠山者《ミカサノヤマハ》 色付丹家里《イロヅキニケリ》
 
鴈ノ鳴ク聲ガ聞エタ日カラ、春日ニアル三笠山ハ、木ノ葉ガ赤ク〔六字傍線〕色付イタヨ。
 
○喧之從《ナキニシヒヨリ》――喧は集中、不喧有之《ナカザリシ》(一六)・鴈喧渡《カリナキワタル》(一一六一)・鴈之喧喧所聞《カリガネキコユ》(二一三三)などの如く、ナキ又はネと用ゐられてゐるが、それに從つて訓んだのでは音が足りない。舊訓サワギニシヨリとあるのは從ひ難く、新訓ネナキニシヨリとあるのも、あまりにことごとしい。ネナクは聲を上げて泣くことであるから、ここには當嵌らぬかと思はれる。代匠紀精撰本に「若くは來喧之從なりけむを來の字落たるにや」とあるが、略解に「喧之の下、日を脱せし也」とあるに從はう。
(337)〔評〕型に嵌つた歌である。前の鴈鳴乃來鳴之共韓衣裁田之山者黄始有《カリガネノキナキシナベニカラコロモタツタノヤマハモミヂソメタリ》(二一九四)・鴈鳴之寒鳴從水莖之岡乃葛葉者色付爾來《カリガネノサムクナキシユミヅクキノヲカノクズハハイロヅキニケリ》(二二〇八)などその例が多い。
 
2213 この頃の あかとき露に 吾がやどの 秋の萩原 色づきにけり
 
比者之《コノゴロノ》 五更露爾《アカトキツユニ》 吾屋戸乃《ワガヤドノ》 秋之芽子原《アキノハギハラ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
 
コノ頃ノ曉ニ降ル〔三字傍線〕露デ、ワタシノ家ノ庭ノ〔二字傍線〕秋萩ノ澤山生エテヰルトコロハ、赤ク〔二字傍線〕色ガツイタヨ。
 
〔評〕前の比日之曉露丹吾屋前之芽子乃下葉者色付爾家里《コノゴロノアカトキツユニワガヤドノハギノシタバハイロヅキニケリ》(二一八二)と第四句が少し異なつてゐるのみ。
 
2214 夕されば 雁が越えゆく 立田山 時雨に競ひ 色づきにけり
 
夕去者《ユフサレバ》 鴈之越往《カリノコエユク》 龍田山《タツタヤマ》 四具禮爾競《シグレニキホヒ》 色付爾家里《イロヅキニケリ》
 
夕方ニナルト鴈ガ飛ビ〔二字傍線〕越シテ行ク立田山ハ、時雨ガ降ルノ〔四字傍線〕デ、競爭シテ色ガ付イタヨ。
 
○四具禮爾競《シグレニキホヒ》――古義に「※[雨/衆]雨のふるに、いな、うつろはじと爭ふに、つひにあらそひ得ずして、龍田山は色付にけりとなり」とあるは、前の爭不勝而色付爾家里《アラソヒカネテイロヅキニケリ》(二一九六)と混同したのである。ここは時雨にぬれて、我こそ負けじと紅葉したといふのである。
〔評〕 初二句は龍田山風景の點描で、それが一首の風趣に、有效に働いてゐる。下に秋去者鴈飛越龍田山《アキサレバカリトビコユルタツタヤマ》(二二九四)ともある。
 
2215 さ夜ふけて 時雨なふりそ 秋萩の 本葉のもみぢ ちらまく惜しも
 
左夜深而《サヨフケテ》 四具禮勿零《シグレナフリソ》 秋芽子之《アキハギノ》 本葉之黄葉《モトハノモミヂ》 落卷惜裳《チラマクヲシモ》
 
夜ガ更ケテカラ〔二字傍線〕時雨ハ降ルナヨ。秋萩ノ下葉ノ紅葉ガ散ルノハ惜シイヨ。折角美シク紅葉シタノニ、時雨ヨ、紅葉ヲ散ラスナヨ〔折角〜傍線〕。
 
○本葉之黄葉《モトハノモミヂ》――本葉は根もとの葉。下葉。
(338)〔評〕 晝の間は絶えず眺めてみるので、監視が屆くやうに思はれるが、夜になつては見てゐない間に、時雨が紅葉を叩き落しさうに思はれて危んだのである。やさしい心があらはれてゐる。
 
2216 ふるさとの 初もみぢ葉を 手折り持ち 今日ぞ吾が來し 見ぬ人の爲
 
古郷之《フルサトノ》 始黄葉乎《ハツモミヂバヲ》 手折以而《タヲリモチ》 今日曾吾來《ケフゾワガコシ》 不見人之爲《ミヌヒトノタメ》
 
ワタシハ、舊都ノ紅葉ガ美シクテ一人デ見ルノハ惜シイノデ〔ワタ〜傍線〕、見ナイ人ノ爲ト思ツテ〔四字傍線〕、舊都ノ初紅葉ヲ手折ツテ今日參リマシタ。
 
○古郷之《フルサトノ》――これは舊都で、飛鳥あたりを指すか。○手折以而《タヲリモチ》――而の字、元暦校本・類聚古集に無いのに從ふ。
〔評〕 奈良から舊都の秋を訪れた人が、美しい紅葉を家づとにした歌であらう。結句にやさしい心があらはれてゐる。
 
2217 君が家の 黄葉ば早く ちりにしは 時雨の雨に ぬれにけらしも
 
君之家乃《キミガイヘノ》 之黄葉早《モミヂバハヤク》 者落《チリニシハ》 四具禮乃雨爾《シグレノアメニ》 所沾良之母《ヌレニケラシモ》
 
アナタノオ宅ノ、紅葉ガ早ク散ツテシマツタノハ、時雨ノ雨ニ霑レタカラデセウナア。
 
○之黄葉早者落《モミヂバハヤクチリニシハ》――この二句は考に黄葉早落之者《モミヂバハヤクチリニシハ》の誤としたのに從ふ。これにても未だ充分ではないが、文字の轉置のみで事足るから、猥りに文字を改めるよりはよいであらう。舊訓モミチハハヤクチリニケリ、新考同上。新訓はハツモミヂバハハヤクフルとある。
〔評〕 友の家の紅葉を詠じたものか。二三の句が不明瞭なのは遺憾である。
 
2218 一年に ふたたび行かぬ 秋山を こころに飽かず すぐしつるかも
 
一年《ヒトトセニ》 二遍不行《フタタビユカヌ》 秋山乎《アキヤマヲ》 情爾不飽《ココロニアカズ》 過之鶴鴨《スグシツルカモ》
 
一年ニ二度トハ來ナイ秋ダノニ、ソノ美シイ秋〔ダノ〜傍線〕山ノ景色〔三字傍線〕ヲ、心ニ飽クホド眺メ〔四字傍線〕モシナイデ、空シク時ヲ〔五字傍線〕過ゴシ(339)タナア。
 
○一年二遍不行《ヒトトセニフタタビユカヌ》――一年に二度とは來ないの意。秋にのみかかつてゐる。卷四の空蝉乃代也毛二行《ウツセミノヨヤモフタユク》(七三三)・卷七世間者信二代者不往有之《ヨノナカハマコトフタヨハユカザラシ》(一四一〇)などのユクと同じであらう。
〔評〕 一年二遍不行秋《ヒトトセニフタタビユカヌアキ》といふ語のうちに、秋を空しく過ごした憾があらはれてゐる。但し前の七夕の歌、渡守舟早渡世一年爾二遍往來君爾有勿久爾《ワタリモリフネハヤワタセヒトトセニフタタビカヨフキミニアラナクニ》(二〇七七)・一年丹兩遍不遭妻戀爾物念人《ヒトトセニフタタビアハヌツマゴヒニモノオモフヒト》(二〇八九)とあるのと、觀念の上に類似點がないではない。
 
詠2水田1
 
舊本は水田をスイテムと訓んでゐる。代匠記初稿本は「和名集云、漢語抄云、水田【古奈太】田填也」と記してゐるが、箋注倭名類聚抄は水田古奈太の下に注して、「水田見2後漢書馬援傳1按2新撰字鏡1、墾字訓2古奈多1、谷川氏曰、日本紀熟訓2古奈須1、蓋粉成之義、然則古奈太、熟田也」とある。コナタと訓むべきであらう。
 
2219 あしびきの 山田作る子 ひででずとも 繩だに延へよ 守ると知るがね
 
足曳之《アシビキノ》 山田佃子《ヤマダツクルコ》 不秀友《ヒデズトモ》 繩谷延與《ナハダニハヘヨ》 守登知金《モルトシルガネ》
 
(足曳之)山ノ田ヲ作ル人ヨ、マダ田ノ〔四字傍線〕穗ガノビナイニシテモ、番シテヰルモノガアルト云フコトガワカルヤウニ、繩ダケテモ張ツテ置ケヨ。
 
○山田佃子《ヤマダツクルコ》――佃の字は和名抄に「唐韻云、佃、音與v田同、和名豆久利太。作田也」とあるから、これをツクルと訓むのは當つてゐる。集中唯一の用例である。○不秀友《ヒデズトモ》――秀《ヒデ》は穗出《ホデ》に同じ。穗に出ないでも。
〔評〕 詠2水田1とあるから、その意を以て解いて置いたが、譬喩の歌らしく思はれる。卷七の譬喩歌、寄v稲の(340)石上振之早田乎雖不秀繩谷延與守乍將居《イソノカミフルノワサダヲヒデズトモナハダニハヘヨモリツツヲラム》(一三五三)とよく似た歌である。その解を參照せられたい。
 
2220 さを鹿の 妻よぶ山の 岡べなる わさだは刈らじ 霜は降るとも
 
左小牡鹿之《サヲシカノ》 妻喚山之《ツマヨブヤマノ》 岳邊在《ヲカベナル》 早田者不苅《ワサダハカラジ》 霜者雖零《シモハフルトモ》
 
男鹿ガ妻ヲ喚ンデ鳴イテ〔三字傍線〕ヰル山ノ、岡ノホトリニアル早稻ノ田ハ、霜ガ降ツテ實ガ入リ過ギテ〔七字傍線〕モ、ワタシハ〔四字傍線〕、苅ルマイ。アノ妻訪フ鹿ヲ驚カスノハ不愍ダカラ〔アノ〜傍線〕。
 
〔評〕 棹鹿の妻呼ぶ聲をあはれんだ歌。戀知る若い耕人の、やさしい同情があらはれてゐる。
 
2221 吾が門に もる田を見れば 佐保の内の 秋萩すすき 念ほゆるかも
 
我門爾《ワガカドニ》 禁田乎見者《モルタヲミレバ》 沙穗内之《サホノウチノ》 秋芽子爲酢寸《アキハギススキ》 所念鴨《オモホユルカモ》
 
田ガミノルノト萩ノ薄ガサクノト同ジ頃ナノデ〔田ガ〜傍線〕、ワタシノ家デ門前ノ田ガ熟ツテ、番小屋ナドヲ建テテソノ〔門前〜傍線〕田ヲ番シテヰルノヲ見ルト、ワタシハ〔四字傍線〕佐保ノ内ノ秋萩ノ花〔二字傍線〕ヤ薄ノ花ノオモシロイ景色〔ノ花〜傍線〕ガ思ヒ出サレルヨ。
 
○禁田乎見者《モルタヲミレバ》――禁をモルと訓む例は鹿猪田禁如《シシタモルゴト》(三〇〇〇)ともある。○沙穗内之《サホノウチノ》――沙穗は佐保。佐保の里の内の意。猿帆之内敝《サホノウチヘ》(一八二七)參照。
〔評〕 佐保を本郷とする人が、別荘などに住んで、都近い佐保の秋を偲んだものであらう。大伴氏は佐保に邸宅を有し、跡見(一五四九・一五六〇)竹田(七六〇)などに庄を持つてゐたから、恐らくその一族の歌であらう。
 
詠v河
 
2222 夕さらず かはづ鳴くなる 三輪河の 清き瀬の音を 聞かくしよしも
 
暮不去《ユフサラズ》 河蝦鳴成《カハヅナクナル》 三和河之《ミワガハノ》 清瀬音乎《キヨキセノトヲ》 聞師吉毛《キカクシヨシモ》
 
夕方毎ニ、河鹿ガ鳴ク三輪河ノ、サヤカナ瀬ノ水〔傍線〕音ヲ聞クノハヨイモノダヨ。
 
(341)○三和河之《ミワガハノ》――初瀬川の下流を三輪附近で三輪川といふ。一七七〇の寫眞參照。○聞師吉毛《キカクシヨシモ》――キカクは聞くの延言。
〔評〕 三輪川の清瀬の音と、其處に鳴きしきる河鹿の聲との二重奏に、夕べ毎に耳を澄ます人の歌である。漢詩風に考へると、隱棲閑居の士らしいが、さうではなく、日毎に營營として働き、而も心に自然を樂しむ餘裕を藏する耕人の歌である。すがすがしい感じがする。
 
詠v月
 
2223 天の海に 月の船浮け 桂楫 かけて※[手偏+旁]ぐ見ゆ 月人壯士
 
天海《アメノウミニ》 月船浮《ツキノフネウケ》 桂梶《カツラカヂ》 懸而※[手偏+旁]所見《カケテコグミユ》 月人壯子《ツキヒトヲトコ》
 
天ノ海ニ月ノ舟ヲ浮ベテ、ソノ舟ニハ〔五字傍線〕桂ノ木デ拵ヘタ〔六字傍線〕楫ヲカケテ、月ノ中ニヰル〔六字傍線〕月人男ガ漕イデヰルノガ見エル。オモシロイ景色ダ〔八字傍線〕。
 
○桂梶《カツラカヂ》――桂の木で作つた楫。月中に桂の木が生えてゐるといふ思想は、月内之楓如《ツキノウチノカツラノゴトキ》(六三二)・月人楓枝乃《ツキヒトノカツラノエダノ》(二二〇二)などに見える通りである。○月人壯子《ツキヒトヲトコ》――前の仰而將待月人壯《アフギテマタムツキヒトヲトコ》(二〇一〇)參照。
〔評〕天海丹雲之波立月船星之林丹※[手偏+旁]隱所見《アメノウミニクモノナミタチツキノフネホシノハヤシニコギカクルミユ》(一〇六八)と似たところがある。そこでも述べたやうに、漢文學の趣味を基調としたもので、ことに懷風藻の文武天皇御製、月詩「月舟移2霧渚1楓※[楫+戈]泛2霞濱1」と比較すると、その類似の甚だしいのに驚かされる。當時の智識階故の風流士によつて作られたものであらう。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
2224 この夜らは さ夜ふけぬらし 雁が音の 聞ゆる空ゆ 月立ち渡る
 
此夜等者《コノヨラハ》 沙夜深去良之《サヨフケヌラシ》 鴈鳴乃《カリガネノ》 所聞空從《キコユルソラユ》 月立度《ツキタチワタル》
 
(342)今夜ハモウ〔二字傍線〕夜ガ更ケタラシイ、雁ノ聲ガ聞エル空ニ、月ガ出テ通ツテヰル。
 
〔評〕卷九の佐宵中等夜者深去良斯雁音所聞空月渡見《サヨナカトヨハフケヌラシカリガネノキコユルソラニツキワタルミユ》(一七〇一)に酷似してゐるが、一二句は卷九の方が勝つてゐる。
 
2225 吾がせこが かざしの萩に おく露を さやかに見よと 月は照るらし
 
吾背子之《ワガセコガ》 挿頭之芽子爾《カザシノハギニ》 置露乎《オクツユヲ》 清見世跡《サヤカニミヨト》 月者照良思《ツキハテルラシ》
 
吾ガ友ガ、冠ノ飾ニ〔四字傍線〕カザシトシテサシタ萩ノ花〔二字傍線〕ニ、露ガ宿ツテヰルガ、ソノ〔露ガ〜傍線〕宿ツタ露ヲヨク見ヨトテ、月ハコンナニ明ラカニ〔八字傍線〕照ツテヰルノダラウ。挿頭ノ萩ノ露ニ月ガ輝イテヰルノハ何トモ言ヘナヌヨイ姿ダ〔挿頭〜傍線〕。
 
○吾背子之《ワガセコガ》――ここ背子《セコ》と言つたのは、夫ではなくて友をさしたらしい。
〔評〕 これは月の宴などに集つた大宮人の風姿を詠じたもので、その宴中の一人の作である。女の作ではない。卷七の春日在三笠乃山二月船出遊士之飲酒杯爾陰爾所見管《カスガナルミカサノヤマニツキノフネイヅミヤビヲノノムサカヅキニカゲニミエツツ》(一二九五)と同じやうな氣分で、以上の三首はいづれも觀月の宴の作ではないかと思はれる。よい歌だ。
 
2226 心なき 秋の月夜の もの念ふと いのねらえぬに 照りつつもとな
 
無心《ココロナキ》 秋月夜之《アキノツクヨノ》 物念跡《モノモフト》 寐不所宿《イノネラエヌニ》 照乍本名《テリツツモトナ》
 
物ヲ思ツテ眠ラレナイノニ、秋ノ月夜ガ、照ツテヰルノハ、ヨシナイコトダ。イヨイヨ眠ラレナイ〔九字傍線〕。
 
○照乍本名《テリツツモトナ》――照るのはもとなしの意。もとなは考なし、よしなし、徒らなり、猥なりなどの意。本名言《モトナイヘル》(二三〇)・令見乍本名《ミセツツモトナ》(三〇五)參照。
〔評〕 明皎皎たる秋の夜の月に對し、深い哀愁を湧かした、よい作である。これは果して、吾が國の固有思想であらうか。どうも漢文學の影響がありきうに思はれる。三四一二五と句を次第して見るがよい。
 
2227 思はぬに 時雨の雨は ふりたれど 天雲はれて 月夜さやけし
 
(343)不念爾《オモハヌニ》 四具禮乃雨者《シグレノアメハ》 零有跡《フリタレド》 天雲霽而《アマグモハレテ》 月夜清焉《ツクヨサヤケシ》
 
意外ニモ突然〔二字傍線〕時雨ノ雨ハ降ツタケレドモ、今ハ〔二字傍線〕空ノ雲ガ晴レテ、月ノ光ガ明ラカニ照ツテヰル。ヨイ月ダ〔四字傍線〕。
 
○月夜清烏《ツクヨサヤケシ》――舊訓ツキヨキヨキヲとあるが、烏は焉の草體から誤つたので、元暦校本・類聚古集など焉になつてゐるから、サヤケシと訓むべきである。
〔評〕 卒然として降り過ぎた時雨の後に、洗ひ清められたやうな、月光の皎皎たるを讃嘆したものである。略解に「おもはぬにと云ふより、あま雲はれてとつづくなり」とあり、古義も同意になつてゐるが、さうではなく、時雨が突如として降つて來たことで、忽ち零り、忽ち止むのが時雨の通性である。
 
2228 萩が花 咲きのををりを 見よとかも 月夜の清き 戀まさらくに
 
芽子之花《ハギガハナ》 開乃乎再入緒《サキノヲヲリヲ》 見代跡可聞《ミヨトカモ》 月夜之清《ツクヨノキヨキ》 戀益良國《コヒマサラクニ》
 
萩ノ花ガ開イテ、枝モタワワニ〔六字傍線〕曲ツテヰル美シイ景色〔五字傍線〕ヲ見ヨト云フノデ、コンナニ今〔五字傍線〕夜ハ月ガヨイノダラウカ。カウシテ萩ヲ眺メレバ、萩ヲ〔カウ〜傍線〕戀フル心〔三字傍線〕ガ増ツテ忘レラレナイ〔七字傍線〕ノニ。
 
○開乃乎再入緒《サキノヲヲリヲ》――卷八の春山開乃乎爲里爾《ハルヤマノサキノヲヲリニ》(一四二一)とあるのと同樣で、花が枝も撓んで咲いてゐること。乎再入は乎乎入と同じで、再度繰返す意を以て記したのである。この件について、橘守部の鐘の響及び木村正辭の訓義辨證下卷に論じてある。これを考に再を乎の誤とし、略解に烏の誤としたのは共によくない。○戀益良國《コヒマサラクニ》――戀増るに。ラクはルの延言。
〔評〕明夜の清興。前の吾背子之挿頭之芽子爾置露乎清見世跡月者照良思《ワガセコガカザシノハギニオクツユヲサヤカニミヨトツキハテルラシ》(二二二五)と似たところがある。戀益良國《コヒマサラクニ》は萩を戀しく思ふので、女を戀するのではない。
 
2229 白露を 玉になしたる 九月の ありあけの月夜 見れど飽かぬかも
 
白露乎《シラツユヲ》 玉作有《タマニナシタル》 九月《ナガツキノ》 在明之月夜《アリアケノツクヨ》 雖見不飽可聞《ミレドアカヌカモ》
 
(344)白露ノ上ニ月ノ光ガ輝イテ〔〜傍線〕、白露ヲ玉ノヤウニシタ、九月ノ夜明ケ方ノ月ハ、見テモ見テモ見飽カナイナア。實ンイ佳イ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○玉作有《タマニナシタル》――月によつて、玉の如き光輝を添へたこと。
〔評〕 何等斧鑿の痕なくして、渾然たる姿をなしてゐる。傑れた作だ。
 
詠v風
 
2230 戀ひつつも 稻葉かきわけ 家居れば 乏しくもあらず 秋の夕風
 
戀乍裳《コヒツツモ》 稻葉掻別《イナバカキワケ》 家居者《イヘヲレバ》 乏不有《トモシクモアラズ》 秋之暮風《アキノユフカゼ》
 
マダ殘暑ガ烈シイノデ、風ヲ〔マダ〜傍線〕戀シガリナガラ、稻葉ヲカキワケテ小屋ヲ建テテ、ソノ中ニ〔四字傍線〕居ルト、秋ノ夕風ガ充分ニ吹イテ來テ〔八字傍線〕、乏シイコトハナイ。
 
○乏不有《トモシクモアラズ》――このトモシは尠いこと。羨ましい意ではない。
〔評〕 農民の生治があらはれてゐる。これで見ると、秋の田の假廬は初秋の頃から作ると見える。秋之暮風と名詞止にしてゐるのが變つた格調をなしてゐる。前の梅花開有崗邊爾家居者乏毛不有※[(貝+貝)/鳥]之音《ウメノハナサケルヲカベニイヘヲレバトモシクモアラズウグヒスノコヱ》(一八二〇)と似てゐる。
 
2231 萩が花 咲きたる野べに ひぐらしの 鳴くなるなべに 秋の風吹く
 
芽子花《ハギガハナ》 咲有野邊《サキタルヌベニ》 日晩之乃《ヒグラシノ》 鳴奈流共《ナクナルナベニ》 秋風吹《アキノカゼフク》
 
萩ノ花ガ咲イテヰル野原ニ、蜩ガナクト、ソレ〔三字傍線〕ニツレテ、秋ノ風ガ吹クヨ。
〔評〕 美しい、而も淋しい、秋の野らしい景である。前の秋風之寒吹奈倍吾屋前之淺茅之本蟋蟀鳴毛《アキカゼノサムクフクナベワガヤドノアサヂガモトニコホロギナクモ》(二一五八)を句を置き換へて、材料を變へると、この歌になりさうだ。
 
2232 秋山の 木の葉もいまだ もみぢねば けさ吹く風は 霜も置きぬべく
 
(345)秋山之《アキヤマノ》 木葉文未《コノハモイマダ》 赤者《モミヂネバ》 今旦吹風者《ケサフクカゼハ》 霜毛置應久《シモモオキヌベク》
 
秋ノ山ノ木ノ葉モマダ紅葉シナイノニ、今朝吹ク風ハ非常ニ寒クテ〔六字傍線〕、霜デモ降リサウダ。
 
○未赤者《イマダモミヂネバ》――略解はモミデネバとよんでゐるが、モミヂネバがよい。○今旦吹風者《ケサフクカゼハ》――旦の字、舊本に日とあるが、元暦校本に從ふ。○霜毛置應久《シモモオキヌベク》――考は久を之の誤として、シモモオキヌベシとよんでゐるが、ペクと婉曲に言ひ納めるのも、一種の修辭法であらう。
〔評〕 秋もまだ深くもないのに、遽かに襲つて來た寒さに驚いたのである。これもありのままな感じをあらはし得てゐる。
 
詠v芳
 
芳は茸の誤で、松茸を詠んだのであらうと宣長は言つてゐる。大矢本・京大本は芳の側にカホリヲと訓を附してあるのは、左の歌の結句の趣に一致してゐる。このままでよいのではあるまいか。
 
2233 高松の この峯もせに 笠立てて みちさかりたる秋 の香のよさ
 
高松之《タカマドノ》 此峯迫爾《コノミネモセニ》 笠立而《カサタテテ》 盈盛有《ミチサカリタル》 秋香乃吉者《アキノカノヨサ》
 
高圓山ノコノ山モ狹イホドモ、山一面ニ〔四字傍線〕笠ヲ立テテ、滿チ滿チテ盛ニ生エテヰル松茸ノ〔三字傍線〕秋ノ香ノヨイコトヨ。
 
○高松之《タカマドノ》――高圓であらう。○比峯迫爾《コノミネモセニ》――この峯も狹しとの意。セは野モセ、道モセのセである。○笠立而《カサタテテ》――笠を立てて。松茸が笠を立てたやうに並んでゐるのを言つたのである。和名抄に「爾雅註云、菌有2木菌・土菌・石菌1和名皆多介云々、状如2人著1v笠者也」とある。
〔評〕 松茸を詠んだものであらう。代匠記精撰本に「笠立而は紅葉の錦の蓋を立たらむやうなるを云へり」とあるのは誤解である。誠に珍らしい題材で、如何にも上品に詠みこなしてゐる。
 
(346)詠v雨
 
2234 一日には 千重しくしくに 吾が戀ふる 妹があたりに 時雨ふれ見む
 
一日《ヒトヒニハ》 千重敷布《チヘシクシクニ》 我戀《ワガコフル》 妹當《イモガアタリニ》 爲暮零禮見《シグレフレミム》
 
一日ノウチニハ、千度モ繰リ返シ繰リ返シテ、頻リニ〔三字傍線〕ワタシガ戀シク思ツテヰル女ノ家ノ方ニ、時雨ガ降レヨ。ソレヲ〔三字傍線〕見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○一日《ヒトヒニハ》――古義に、ヒトヒニモと訓んでゐるが、一日者千遍參入之《ヒトヒニハチタビマヰリシ》(一八六)・一日爾波千重浪敷爾雖念《》ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモ(四〇九)などの例によつても、ヒトヒニハがよいことがわかる。○爲暮零禮見《シグレフレミム》――略解に禮は所の誤で、シグレフルミユであらうといつてゐる。古義・新考共にこれに從つてゐる。さうすればまことに穩やかであるが、このままでも訓み得るのであるから、舊訓を尊重することにした。なほ字音辨證に、禮をルとよむのであるとしたのは、韻鏡に淫した説である。
〔評〕君之當見乍母將居伊駒山雲莫蒙雨者雖零《キミガアタリミツツモアラムイコマヤマクモナタナビキアメハフルトモ》(三〇三二)とあるけれども、これは近い妹の里に降り注ぐ時雨の銀線を見ようといふのである、なつかしい情緒である。
 
右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
2235 秋田かる 旅の廬に 時雨ふり 吾が袖ぬれぬ 干す人なしに
 
秋田苅《アキタカル》 客乃廬入爾《タビノイホリニ》 四具禮零《シグレフリ》 我袖沾《ワガソデヌレヌ》 干人無二《ホスヒトナシニ》
 
秋ノ田ヲ苅ルトテ田ノ畔ニ〔四字傍線〕小屋ヲ立テテ旅寢ヲシテヰルト、時雨ガ降ツテ、シカモソレヲ〔六字傍線〕乾カシテクレル妻モ居ラナイノニ、ワタシノ着物ノ袖ハ沾レタ。ホントニツライ〔七字傍線〕。
 
〔評〕 秋の田の假廬に於ける、農夫の辛苦が歌はれてゐる。前の秋田苅借廬乎作吾居者衣手寒露置爾家留《アキタカルカリホヲツクリワガヲレバコロモデサムクツユゾキニケル》(二一七四)(347)は露のわびしさであつたが、これは時雨の苦しさである。卷四の照日乎闇爾見成而哭涙衣沾津干人無二《テラスヒヲヤミニミナシテナクナミダコロモヌラシツホスヒトナシニ》(六九〇)と下句は同じやうであるが、内容は全然異なつてゐる。
 
2236 玉だすき かけぬ時なし 吾が戀は 時雨しふらば ぬれつつも行かむ
 
玉手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナシ》 吾戀《ワガコヒハ》 此具禮志零者《シグレシフラバ》 沾乍毛將行《ヌレツツモユカム》
 
私ノ戀ハ心ニ〔二字傍線〕(玉手次)カケテ思ハ〔三字傍線〕ナイ時ハナイ。ワタシハ若シ〔六字傍線〕時雨ガ降ツタナラバ、霑レナガラデモ行カウト思フ。時雨ガ降ツテモカマフコトハナイ〔時雨〜傍線〕。
 
○玉手次《タマダスキ》――枕詞。かけとつづく。○不懸時無吾戀《カケヌトキナシワガコヒハ》――略解はカケヌトキナキワガコヒヲと改めてゐるが、おもしろくない。新考にカケヌトキナクワレハコフルヲと改めて、旋頭歌としたのは、臆斷も甚だしい。
〔評〕 男性的な強い表現になつてゐる。これらは寧ろ相聞の部に入るべきであらう。
 
2237 もみぢ葉を 散らす時雨の ふるなべに 夜さへぞ寒き 一人し宿れば
 
黄葉乎《モミヂバヲ》 令落四具禮能《チラスシグレノ》 零苗爾《フルナベニ》 夜副衣寒《ヨサヘゾサムキ》 一之宿者《ヒトリシヌレバ》
 
紅葉ヲ散ラス時雨ガ降ルノニツレテ、段々時候ガ寒クナツテ〔段々〜傍線〕、一人デ寢テヰレバ、夜モ寒イヨ。
 
○夜副衣寒《ヨサヘゾサムキ》――元暦校本の一訓や類聚古集などに、フスマモサムシとあるのは、夜副衣を、意を以てフスマと訓んだので、古義もこれによつてゐる。このサヘは一見不要のやうにも見えるので、かうした訓法も出るのであらうが、他に夜副衣をフスマとよんだ例はないから、猥りに從ひ難い。サヘは語氣を強めて言ふ場合があり、卷七の野邊副清照月夜可聞《ヌベサヘキヨクテルツクヨカモ》(一〇七〇)のサヘも、その一例と思はれる。
〔評〕 落葉と共に板屋打つ時雨の音を聞いて、孤衾眠をなさぬ人の歌である。これもしつかりした調子である。
 
詠v霜
 
2238 天飛ぶや 雁のつばさの 覆羽の いづく漏りてか 霜のふりけむ
 
(348)天飛也《アマトブヤ》 鴈之翅乃《カリノツバサノ》 覆羽之《オホヒバノ》 何處漏香《イヅクモリテカ》 霜之零異牟《シモノフリケム》
 
空ヲ飛ンデ行ク鴈ガ翼ヲ列ベテ天ヲ覆ツテヰテ、何處ニモ隙間モナイ筈ダノニ〔何處〜傍線〕、何處ノ隙間ヲ漏レテ霜ガコンナニ〔四字傍線〕、降ツタノデアラウゾ。
 
○天飛也《アマトブヤ》――ヤは輕く添へてあるので、謂はゆる切れ字のヤではない。○覆羽之《オホヒバノ》――前の句からつづいて、鴈の翅の空を敝ふ羽根のの意。
〔評〕 これは寒夜に群れ飛ぶ鴈聲を聞いた朝、眞白な地上の霜を見て詠んだのであらう。卷九の客人之宿將爲野爾霜降者吾子羽※[果/衣]天乃鶴群《タビヒトノヤドリセムヌニシモフラバワガコハグクメアメノタヅムラ》(一七九一)と同一思想で、ただ鶴と鴈とが異なつてゐるのみである。奇拔な想像が、後世の追從を許さない。和歌色葉抄・袖中抄・童蒙抄などに出てゐる。
 
秋相聞
 
2239 秋山の したひが下に 鳴く鳥の 聲だに聞かば なにか嘆かむ
 
金山《アキヤマノ》 舌日下《シタヒガシタニ》 鳴鳥《ナクトリノ》 音谷聞《コヱダニキカバ》 何嘆《ナニカナゲカム》
 
アノ人ノ〔四字傍線〕(金山舌日下鳴鳥)聲ダケデモ開イタナラ、ワタシハ〔四字傍線〕ドウシテ嘆クコトガアラウカ。聲ヲモ聞クコトガ出來ナイノデ悲シイ〔聲ヲ〜傍線〕。
 
○金山舌日下鳴鳥《アキヤマノシタヒガシタニナクトリノ》――音《コヱ》と言はむ爲の序詞。シタヒは紅葉の照り映えること。卷二の秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》(二一七)のシタブルと同語である。古事記にも秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》とある。
〔評〕 秋の鳥を序詞の材料としてゐるので、秋相聞の部に收めたものであらう。下の朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷(349)聞者吾將戀八方《アサガスミカヒヤガシタニナクカハヅコヱダニキカバワレコヒメヤモ》(二二六五)と少し似てゐる。この歌、袖中抄にでてゐる。
 
2240 誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露にぬれつつ 君待つ我を
 
誰彼《タソカレト》 我莫問《ワレヲナトヒソ》 九月《ナガツキノ》 露沾乍《ツユニヌレツツ》 君待吾《キミマツワレヲ》
 
九月ノ夜〔傍線〕露ニ濡レテ、外ニ出テ戀シイ〔七字傍線〕人ヲ待ツテヰルワタシデスゾ。アレハ誰ダト、ワタシヲ尋ネナサルナ。
 
○誰彼《タソカレト》――彼は誰ぞとの意。○君待吾《キミマツワレヲ》――君は自分の戀人である。我莫問《ワレヲナトヒソ》と言つてゐる對手ではない。ワレヲは我ぞの意。我なるにの意ではない。前に此碁衣縫而君待吾乎《コノユフベコロモニヌヒテキミマツワレヲ》(二〇六四)とあり、卷十三の人者云而君待吾乎《ヒトニハイヒテキミマツワレヲ》(三二七六)などに同じ。
〔評〕 戀人を待つ女性の心で、民謠風の作品である。
 
2241 秋の夜の 霧立ちわたり おほほしく 夢にぞ見つる 妹がすがたを
 
秋夜《アキノヨノ》 霧發渡《キリタチワタリ》 夙夙《オホホシク》 夢見《イメニソミツル》 妹形矣《イモガスガタヲ》
 
(秋夜霧發渡)ボンヤリトワタシハ〔四字傍線〕、妻ノ姿ヲ夢ニ見タヨ。
 
○秋夜霧發渡《アキノヨノキリタチワタリ》――オホシクと言はむ爲の序詞。新考はアキノヨニ、新訓はアキノヨハとよんでゐる。○夙夙《オホホシク》――アサナサナ・シクシクニ・ホノボノニなどの訓があるが、考に夙夙を凡凡の誤として、オホホシクとよんだのに從ふ。
〔評〕 初二句を序詞とすれば、時節が不明になるが、やはり秋の夜の即興であらう。
 
2242 秋の野の 尾花がうれの 生ひ靡き 心は妹に 依りにけるかも
 
秋野《アキノヌノ》 尾花末《ヲバナガウレノ》 生靡《オヒナビキ》 心妹《ココロハイモニ》 依鴨《ヨリニケルカモ》
 
(秋野尾花末生)スツカリ〔四字傍線〕靡イテ、私ノ〔二字傍線〕心ハ妻ノ方ニ寄ツテシマツタヨ。唯妻ノコトバカリ戀シク思ツテヰル〔唯妻〜傍線〕。
 
○生靡《オヒナビキ》――考に生を打の誤として、ウチナビキと訓んでゐるによれば、初二句はウチナビキの序詞であるが、(350)原文を尊重して、オヒナビキと訓めば、オヒまでの十四音を序詞としなければならない。そのつづきの意は明らかである。
〔評〕卷十三の明日香河瀬湍之珠藻之打靡情者妹爾因來鴨《アスカガハセゼノタマモノウチナビキココロハイモニヨリニケルカモ》(三二六七)と似てゐるが、いづれが先であるかわからない。この他にも類似した歌が見える。
 
2243 秋山に 霜ふり覆ひ 木の葉散り 歳はゆくとも 我忘れめや
 
秋山《アキヤマニ》 霜零覆《シモフリオホヒ》 木葉落《コノハチリ》 歳雖行《トシハユクトモ》 我忘八《ワレワスレメヤ》
 
(秋山霜零覆木葉落)年月〔傍線〕ハ經ツテモ、私ハ愛スル人ヲ〔五字傍線〕忘レヨウヤ、決シテ忘レハシナイ〔九字傍線〕。
 
○歳雖行我忘八《トシハユクトモワレワスレメヤ》――略解にトシハユケドモワレワスルレヤとよんだのは、よくない。
〔評〕 上句は歳雖行《トシハユクトモ》と言はむ爲の序詞と見るがよからう。その年の暮れ行く意につづいてゐるが、歌意はいつまで經つても忘れないといふのである。從來の説、上句を序詞と見なかつた爲に無理があるやうである。
 
右柿本朝臣人麿之歌集出
 
以上の五首の書風は、全く人麿歌集の樣式になつてゐる。
 
寄2水田1
 
2244 住吉の 岸を田にはり 蒔きし稻の しか苅るまでに 逢はぬ君かも
 
住吉之《スミノエノ》 岸乎田爾墾《キシヲタニハリ》 蒔稻乃《マキシイネノ》 而及苅《シカカルマデニ》 不相公鴨《アハヌキミカモ》
 
住吉ノ岸ヲ開墾シテ田ニシテ稻ヲ蒔イタノガ、ソンナニ苅リ取ルマデモ逢ハレナイ貴方ヨ。隨分永クオ目ニカカリマセンナア〔隨分〜傍線〕。
 
○蒔稻乃而及苅《マキシイネノシカカルマデニ》――略解にあげた宣長説に、乃は秀の誤として、マキシイネヒデテカルマデとよんでゐるが、(351)舊説が乃のままとして、第三句に續けることにしてゐるのに從ふ。シカカルマデニは舊訓にはシカモカルマデとあるが、新訓による。
〔評〕 住吉附近の農民の作か。住吉附近に田が作られてゐたことは、卷七の住吉小田苅爲子賤鴨無《スミノエノヲダヲカラスコヤツコカモナキ》(一二七五)と見えてゐる。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
2245 たちのしり 玉纒き田井に いつまでか 妹を相見ず 家戀ひ居らむ
 
劔後《タチノシリ》 玉纒田井爾《タママキタヰニ》 及何時可《イツマデカ》 妹乎不相見《イモヲアヒミズ》 家戀將居《イヘコヒヲラム》
 
(劔後玉)纒ノ田デ日ヲ送ツテ〔五字傍線〕、何時マデカ妻ニ逢ハナイデ、家ヲ戀シク思ヒツツ暮スコトダラウ。ハヤク逢ヒタイモノダ〔ハヤ〜傍線〕。
 
○劔後玉纒田井爾《タチノシリタママキタヰニ》――劔後《タチノシリ》は玉纒とつづく枕詞である。劔の鞘の尻に玉を飾として卷いたのであらう。タママキタヰについて諸説がある。代匠記にはこれを地名として、タママキノタヰであらうといひ、古義は玉は稻種のことで、稻種を蒔く田といふことであらうとしてゐる。略解には「纒田居といふ地に、玉まくと言ひ下したり。神武紀の頬枕田《ツラマキタ》は磯城郡也。ここを詠めるならば、玉まきたゐと訓べし。また上總望陀郡ももとは馬來田《マクタ》なればここにや」とある。元來ここは水田に寄せた歌で、田井は即ち田のことであるから、地名とするならば、マキタ又はマクタとするのは無理で、マキといふ地名と見ねばならぬであらう。マキといふ地名は和名抄、因幡に罵城《マキ》郷あり、その他諸國に多い。古義の玉を稻種とするのも少しく受取り難く、又新考には「穗田にしげく露のおきたるを玉と看做して玉撤ク田居といへるにあらざるか」とあるが、これも根據のない想像説である。ここでは假にマキといふ地名と見ることにする。
〔評〕 略解に「是は班田使などにて、其田居に月を經て詠めるならむ」とある。二の句を地名とすると、この説に從ひたくなる。一説の如く、田ゐに假廬を作つてゐるものとすると、二の句を地名とするのは穩當を缺くやうである。ともかく二の句が不明瞭なのは、遺憾である。
 
2246 秋の田の 穗の上に置ける 白露の 消ぬべく我は おもほゆるかも
 
(352)秋田之《アキノタノ》 穗上置《ホノヘニオケル》 白露之《シラツユノ》 可消吾者《ケヌベクワレハ》 所念鴨《オモホユルカモ》
 
ツレナイ人ヲ戀シテ、命モ〔ツレ〜傍線〕(秋田之穗上爾置白露之)消エサウニ、ワタシハ思ハレルヨ。アアツライ〔五字傍線〕。
 
〔評〕上句は序詞で、卷八の秋付者尾花我上爾置露乃應消毛吾者所念香聞《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノケヌベクモアハオモホユルカモ》(一五六四)と、よく似た歌である。
 
2247 秋の田の 穗向の依れる 片よりに 我は物念ふ つれなきものを
 
秋田之《アキノタノ》 穗向之所依《ホムキノヨレル》 片縁《カタヨリニ》 吾者物念《ワレハモノモフ》 都禮無物乎《ツレナキモノヲ》
 
ワタシハアノ人ガ〔四字傍線〕難面クテワタシノ心ニ從ツテクレナ〔クテ〜傍線〕イニモカカハラズ、(秋田之穗向之所依)唯片方ニノミ偏シテ、アノ人バカリ戀シテ〔アノ〜傍線〕物思ニ惱ンデ居ル。
 
【評】 卷二の秋田之穗向乃所縁異所縁君爾因奈名事痛有登母《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニキミニヨリナナコチタカリトモ》(一一四)と上句がよく似てゐる。
 
2248 秋の田を 假廬つくり 廬して あるらむ君を 見むよしもがも
 
秋田※[口+立刀]《アキノタヲ》  借廬作《カリイホツクリ》 五百入爲而《イホリシテ》 有藍君※[口+立刀]《アルラムキミヲ》 將見依毛欲得《ミムヨシモガモ》
 
秋ノ田ヲ苅ル爲ニ〔二字傍線〕假ノ小屋ヲ作ツテ、ソノ内ニ〔四字傍線〕宿ツテ番ヲシテ〔四字傍線〕ヰルワタシノ夫ノ〔六字傍線〕君ニ、オ目ニカカリタイモノデスナア。オ別レシテカラ、隨分永クナルカラオ目ニカカリタイ〔オ別〜傍線〕。
 
○秋田※[口+立刀]《アキノタヲ》――※[口+立刀]は苅の誤と考にあるのはよくない。※[口+立刀]はヲと訓むべき文字ある。○借廬作《カリイホツクリ》――苅る假廬を作りとかけてあるのである。○將見依毛欲得《ミムヨシモガモ》――舊本、將見依毛欲將とあるは誤、元暦校本によつて改めた。
〔評〕 假廬を作つて、山田を守るものの妻の、歌とも考へられないことはないが、有藍君※[口+立刀]《アルラムキミヲ》といふのは「班田使の妻などの詠めるなるべし」とある、略解説を肯定したいやうに思はしめる。
 
2249 鶴が音の 聞ゆる田井に 廬して 我旅なりと 妹に告げこそ
 
鶴鳴之《タヅガネノ》 所聞田井爾《キコユルタヰニ》 五百入爲而《イホリシテ》 吾客有跡《ワレタビナリト》 於妹告社《イモニツゲコソ》
 
(353)ワタシハ今〔傍線〕、鶴ノ鳴ク聲ノ聞エル淋シイ〔三字傍線〕田ノ中ノ小屋ニ宿ツテ、旅寢ヲシテヰルト云フコトヲ〔五字傍線〕、妻ニ知ラセテクレヨ。久シク訪ネナイノハ、カウシテ勞苦シテヰルカラダ。惡ク思ハズニ同情シテクレヨ〔久シ〜傍線〕。
 
〔評〕 これも班田使などの歌とも解せられないこともないが、さうではなくて、自分が旅に出たことを知らない、隱妻などを思つて、詠んだのであらう。淋しい感じがあらはれてゐる。
 
2250 春霞 たなびく田居に 廬づきて 秋田苅るまで 思はしむらく
 
春霞《ハルガスミ》 多奈引田居爾《タナビクタヰニ》 廬付而《イホヅキテ》 秋田苅左右《アキタカルマデ》 令思良久《オモハシムラク》
 
春霞ガ靡イテヰル田ニ、種ヲ蒔イテ〔五字傍線〕小屋ヲカケテ住マツテ、ソノ〔二字傍線〕田ガ秋ニナツテ苅リトルマデ、ソノ小屋ニ住ンデ、永イ間妻ニモアヘナイカラ、ワタシヲシテ妻ヲ〔ソノ〜傍線〕思ハシメルヨ。アアナツカシイ妻ダ〔九字傍線〕。
 
○多奈引田居爾《タナビクタヰニ》――田居は田井ともしるされてゐる。田の面などの意。○廬付而《イホヅキテ》――舊訓にイホリシテとあるが、文字のままがよからう。代匠記一説に付を仕《シ》の誤とし、略解は爲《シ》の誤としてゐる。○令思良久《オモハシムラク》――思はしむるに同じ。女を思はしめるよの意。
 
〔評〕 春の頃から田に廬作りするといふのは、事實として疑ふべきやうにも思はれる。新考が、第三句を種蒔而《タネマキテ》の誤としたのはその爲である。併し原形を尊重して解釋しておいた。
 
2251 たちばなを 守部の里の 門田早稻 苅る時過ぎぬ 來じとすらしも
 
橘乎《タチバナヲ》 守部乃五十戸之《モリベノサトノ》 門田早稻《カドタワセ》 苅時過去《カルトキスギヌ》 不來跡爲等霜《コジトスラシモ》
 
(橘乎)守部ノ里ノ門ノ田ノ早稻ガ實ガ入ツテ〔六字傍線〕、苅ル時節ガ過ギ去ツタ。アノ人ハ稻ヲ苅ル頃ニハ必ズ來テ逢ハウト言ツテ居タノニ、コノ樣子デハ〔アノ〜傍線〕來ナイ考ラシイヨ。
 
○橘乎《タチバナヲ》――守につづく枕詞と考へられてゐる。橘の實を盗まぬやうに、守部を置いて守らせたものらしい。三代實録五十に「仁和三年五月十四日丁亥、是日始置d守2韓橘1者二人u以2山城國※[人偏+搖の旁]丁1充v之」とあり、姓氏録に、(354)橘守といふ姓があるのは、そのことを掌つたものであらう。○守部乃五十戸之《モリベノサトノ》――給訓モリベノイヘノとあるが、五十戸は、戸令に「凡戸以2五十戸1爲v里」とあるから、サトとよまねばならぬ。守部の里の所在は明らかでない。今大和丹波市附近に守目堂村があるところかといふ説もある。なほ今、攝津・筑後などにも守部と稱する地がある。
〔評〕さしたる歌ではないが、橘守部乃五十戸《タチバナヲモリベノサト》といふ地名を詠み入れたのは、文化史的に面白い資料を提供するものである。
 
寄v露
 
2252 秋萩の 咲き散る野べの 夕露に ぬれつつ來ませ 夜はふけぬとも
 
秋芽子之《アキハギノ》 開散野邊之《サキチルヌベノ》 暮露爾《ユフツユニ》 沾乍來益《ヌレツツキマセ》 夜者深去鞆《ヨハフケヌトモ》
 
タトヘ〔三字傍線〕夜遲クナツテモ、今夜ハ〔三字傍線〕秋萩ノ花〔二字傍線〕ガ咲イテハ散ル野ノ夕方ノ露ニ、沾レナガラオイデナサイ。オ待チ申シテ居リマス〔十字傍線〕。
 
〔評〕 優麗な作である。これを男の歌に改めると、古今集の「萩が花散るらむ小野の夕露にぬれてを行かむ小夜はふくとも」となる。
 
2253 色づかふ 秋の露霜 なふりそね 妹が袂を まかぬこよひは
 
色付相《イロヅカフ》 秋之露霜《アキノツユジモ》 莫零根《ナフリソネ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》 不纒今夜者《マカヌコヨヒハ》
 
妻ノ袖ヲ枕トシテ寢〔二字傍線〕ナイデ、一人デ寢ルル〔六字傍線〕今夜ハ、草木ノ葉ヲ紅〔六字傍線〕色ニ染メル秋ノ露ハ降ラナイデクレヨ。唯サヘ一人寢ハ寒イノニ、露ニ降ラレテハタマラナイ〔唯サ〜傍線〕。
 
○色付相《イロヅカフ》――色付くの延言。ここは色を付けるの意。○莫零根《ナフリソネ》――元暦校本、この下に根の字があるのがよい。
(355)〔評〕晩秋の夜、孤衾に嘆く男の歌。色付相といふ句が、要なきが如くにして然らず。歌を複雜ならしめてゐる。
 
2254 秋萩の 上に置きたる 白露の 消かもしなまし 戀ひつつあらずは
 
秋芽子之《アキハギノ》 上爾置有《ウヘニオキタル》 白露之《シラツユノ》 消鴨死猿《ケカモシナマシ》 戀爾不有者《コヒツツアラズハ》
 
ワタシハアノヒトヲ〔八字傍線〕戀シテ苦シンデ〔四字傍線〕ヰナイデ、(秋芽子之上爾置有白露之)消エテ死ンデ〔三字傍線〕シマハウカ。
 
○消鴨死猿《ケカモシナマシ》――消かも爲なましで、消かも死なましではない。○戀爾不有者《コヒツツアラズハ》――爾は乍・管・筒などの誤であらう。元暦校本には右側に乍と記してある。
〔評〕 卷八の弓削皇子御歌(一六〇八)と全く同歌である。
 
2255 吾がやどの 秋萩の上に 置く露の いちじろくしも 吾が戀ひめやも
 
吾屋前《ワガヤドノ》 秋芽子上《アキハギノウヘニ》 置露《オクツユノ》 市白霜《イチジロクシモ》 吾戀目八面《ワガコヒメヤモ》
 
(吾屋前秋芽子上置露)著シク人ノ目ニ立ツヤウニ〔九字傍線〕、ワタシハアノ人ヲ〔四字傍線〕戀シヨウヤ、決シテソンナコトハナイ。ドンナニツラクテモ包ミ隱シテヰルツモリダ〔決シ〜傍線〕。
 
○吾屋前秋芽子上置露《ワガヤドノアキハギノウヘニオクツユノ》――序詞。露のきらきらと著しきに譬へて、市白《イチジロク》につづけるのである。
〔評〕 色に出でじと忍ぶ戀の歌である。序詞の取材が珍らしく巧妙である。
 
2256 秋の穗を しぬにおし靡べ 置く露の 消かもしなまし 戀ひつつあらずは
 
秋穗乎《アキノホヲ》 之努爾押靡《シヌニオシナベ》 置露《オクツユノ》 消鴨死益《ケカモシナマシ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》
 
カウシテ人ヲ〔六字傍線〕戀シテ苦シイ思ヒヲ〔八字傍線〕シテヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕(秋穗乎之努爾押靡置露)消エテ死ンデ〔三字傍線〕シマハウデハナイカ。アアツライ〔五字傍線〕。
 
○秋穗乎《アキノホヲ》――秋の穗は稻穗。○之努爾押靡《シヌニオシナベ》――シヌは、シナフの意。オシナベは押し靡かせて。○置露《オクツユノ》――この句までの三句は消《ケ》と言はむ爲の序詞。
(356)〔評〕 上句の序詞は一寸おもしろいが、下句は全く點型的である。前の秋芽子之《アキハギノ》(二二五四)參照。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
2257 露霜に 衣手ぬれて 今だにも 妹がり行かな 夜は深けぬとも
 
露霜爾《ツユジモニ》 衣袖所沾而《コロモデヌレテ》 今谷毛《イマダニモ》 妹許行名《イモガリユカナ》 夜者雖深《ヨハフケヌトモ》
 
モウ大ブン〔五字傍線〕夜ガ更ケタケレドモ、露ニ着物ノ袖ヲ霑ラシツツ、今カラデモ妻ノ所ヘ行カウト思フ。逢ハナイデハ居ラレナイカラ、深夜デモカマハズニ行カウ。アレモ待ツテヰルダラウ〔逢ハ〜傍線〕。
 
○今谷毛《イマダニモ》――今からでもの意。
〔評〕 前の秋芽子之《アキハギノ》(二二五二)は女性の心で、これは男性の歌である。彼のやうな優艶さはない。
 
2258 秋萩の 枝もとををに 置く露の 消かもしなまし 戀ひつつあらずは
 
秋芽子之《アキハギノ》 枝毛十尾爾《エダモトヲヲニ》 置露之《オクツユノ》 消毳死猿《ケカモシナマシ》 戀乍不有者《コヒツツアラズハ》
 
ワタシハ人ヲ〔六字傍線〕戀シテ苦シイ思ヒヲシテ〔八字傍線〕ヰナイデ、寧ロ〔二字傍線〕(秋芽子之枝毛十尾爾置露之)消ニテ死ンデ〔三字傍線〕シマハウカナア。アア苦シイ〔五字傍線〕。
 
○消毳死猿《ケカモシナマシ》――消かも爲なましの意。毳は氈に同じ。和名カモ。猿はマシラを、マシに借り用ゐたのである。
〔評〕 前の秋芽子之上爾置有《アキハギノウヘニオキタル》(二二五四)に酷似してゐる。同歌の別傳といつてもよいほとである。
 
2259 秋萩の 上に白露 置くごとに 見つつぞしぬぶ 君が姿を
 
秋芽子之《アキハギノ》 上爾白露《ウヘニシラツユ》 毎置《オクゴトニ》 見管曾思怒布《ミツツゾシヌブ》 君之光儀乎《キミガスガタヲ》
 
ワタシハ〔四字傍線〕秋萩ノ枝ノ〔二字傍線〕上ニ白露カ宿ルゴトニ、ソノ美シイ姿ヲ〔七字傍線〕見テ、アナタノ美シイオ〔四字傍線〕姿ヲ思ヒ出シマス。ホントニアナタハ白露ヲ宿シタ萩ノヤウナ美シイオ姿デス〔ホン〜傍線〕。
 
(357)【評】女のなよやかな姿を、露にしなふ秋萩に譬へてゐ。源氏物語帚木の「御心のままに折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見ゆる玉篠の上の霰などの、艶にあえかなるすきずきしさのみこそ、をかしくおぼさるらめ」といふ名文句が聯想せられる。
 
寄v風
 
2260 吾妹子は 衣にあらなむ 秋風の 寒きこの頃 下に著ましを
 
吾妹子者《ワギモコハ》 衣丹有南《コロモニアラナム》 秋風之《アキカゼノ》 寒比來《サムキコノゴロ》 下著益乎《シタニキマシヲ》
 
ワタシノ戀シイ〔三字傍線〕妻ハ、着物デアツテクレレバヨイ。サウシタラ〔五字傍線〕秋風ノ寒ク吹クコノ節ハ、下着ニ着テ膚身離サズニ居〔八字傍線〕ヨウノニ。離レテパカリ居ルノハ物足ラヌ〔離レ〜傍線〕。
 
〔評〕 不可能なことを望んだ、愚かな想とも言へば言ひ得よう。しかしそこに溢れるばかりの、愛慕の情があらはれてゐるのである。
 
2261 泊瀬風 かく吹くよひは 何時までか 衣片敷き わがひとり寝む
 
泊瀬風《ハツセカゼ》 如是吹三更者《カクフクヨヒハ》 及何時《イツマデカ》 衣片敷《コロモカタシキ》 吾一將宿《ワガヒトリネム》
 
泊瀬ノ里〔二字傍線〕ノ風ガコンナニ寒ク〔二字傍線〕吹ク夜ハ、イツマデワタシハ着物ヲ片方下ニ敷イテ、丸寢シテ〔四字傍線〕一人デ寢ルコトデアラウ。アア寒クテ堪ヘラレナイ〔アア〜傍線〕。
 
○泊瀬風《ハツセカゼ》――泊瀬の里を吹く風。飛島風《アスカカゼ》(五一)・佐保風(九七九)・伊香保可是《イカホカゼ》(三四二二)の類である。○如是吹三更者《カクフクヨヒハ》――三更は舊訓ヨハとあるが、袖續三更之《ソデツグヨヒノ》(一五四五)に傚つて、ヨヒとよむがよい。略解に者を乎の誤とし、古義もそれを採用してゐる。文字辨證には煮の略字として、ニとよんでゐる。受取りがたい説である。○衣片敷《コロモカタシキ》――衣の片袖を敷いて寢ること。即ち獨寢をすることにいふ。
(358)〔評〕 初瀬の里に旅寢してゐる男の歌であらう。矢のやうな歸心があらはれてゐる。
 
寄v雨
 
2262 秋萩を 散らす長雨の ふる頃は 一人起きゐて 戀ふる夜ぞ多き
 
秋芽子乎《アキハギヲ》 令落長雨之《チラスナガメノ》 零比者《フルコロハ》 一起居而《ヒトリオキヰテ》 戀夜曾大寸《コフルヨゾオホキ》
 
秋萩ノ花〔二字傍線〕ヲ散ラス長雨ガ降ル頃ハ、淋シクテ寢ラレズ〔八字傍線〕、一人デ起キテ居テ、戀人ヲ〔三字傍線〕戀ヒテ明カス〔四字傍線〕夜ガ多イヨ。
 
〔評〕 しんみりとした哀愁と戀情とが、おのづからにじみ出すやうに、あはれによまれてゐる。
 
2263 九月の 時雨の雨の 山霧の いぶせき吾が胸 誰を見ばやまむ 一云、十月時雨の雨降り
 
九月《ナガツキノ》 四具禮乃雨之《シグレノアメノ》 山霧《ヤマギリノ》 烟寸吾告※[匈/月]《イブセキワガムネ》 誰乎見者將息《タレヲミバヤマム》
 
(九月四具禮乃雨之山霧)欝陶シイワタシノコノ胸ハ、誰ニ逢ツタラナホルダラウ。アナタニ逢ハナケレバダメデス〔アナ〜傍線〕。
 
○九月四具禮乃雨之山霧《ナガツキノシグレノアメノヤマギリノ》――序詞。山霧の深く立ち込めて、鬱陶しいのを煙寸《イブセキ》とつづけてある。○烟寸吾告※[匈/月]《イブセキワガムネ》――煙寸は舊訓ケブキとあるが、童蒙抄にイブセキとよんだのがよい。煙はケブリとのみあるが、ここは燻《イプ》るの意でイブセとよんでよいわけである。告の字、元暦校本・神田本に吉とあるが、これは考に等の誤としたのか、又は略解に衍としたのに從ふべきであらう。後説がよいか。古義に告を合の誤として、霧の下に移し、第三句をヤマキラヒとよんだのは從ひ難い。
〔評〕 序詞が一寸おもしろく出來てゐる。五句が力強い表現になつてゐる。
 
一云 十月《カミナヅキ》 四具禮乃雨降《シグレノアメフリ》
 
(359)これは第二句の異傳である。序詞としては、前の方がよい。
 
寄v蟋
 
蟀の字脱か。大矢本に蟋蟀とある。目録もさうなつてゐる。
 
2264 こほろぎの 待ちよろこべる 秋の夜を 寐るしるしなし 枕と吾は
 
蟋蟀之《コホロギノ》 待歡《マチヨロコベル》 秋夜乎《アキノヨヲ》 寐驗無《ヌルシルシナシ》 枕與吾者《マクラトワレハ》
 
蟋蟀ハ秋ノ夜ノ來ルノヲ〔八字傍線〕待ツテヰタノガ來タノデ〔八字傍線〕、喜ンデ鳴イテ〔三字傍線〕ヰルガ、コノ〔三字傍線〕秋ノ夜ヲ枕トワタシトハ寐ル甲斐ガナイ。ワタシハ思フ人ト共寢モ出來ズ、枕ト二人デ寢テヰルガ、實ニツマラヌモノダ〔ワタ〜傍線〕。
 
○待歡《マチヨロコベル》――待つてゐたものが來たのを喜んでゐる。蟋蟀の聲が嬉しさうに聞えるのをかういつたのである。○寐驗無《ヌルシルシナシ》――寢る甲斐がない。一人で寢るつらさを言つてゐる。○枕與吾者《マクラトワレハ》――獨寢することを我は枕と寢るといつたのである。
〔評〕 蟋蟀の喜ばしさうな鳴き聲に對し、自分の獨寢の淋しさをかこつてゐる對照がおもしろく、又|枕與吾者《マクラトワレハ》の句もここに適切に用ゐられてゐる。佳作だ。眞淵の作に「こほろぎの待ちよろこべる長月の清き月夜は更けずもあらなむ」とあるのはこれを基としてゐる。
 
寄v蝦
 
2265 朝霞 香火屋が下に 鳴くかはづ 聲だに聞かば 我戀ひめやも
 
朝霞《アサガスミ》 鹿火屋之下爾《カヒヤガシタニ》 鳴蝦《ナクカハヅ》 聲谷聞者《コヱダニキカバ》 吾將戀八方《ワレコヒメヤモ》
 
(360)(朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦)聲ダケデモ聞イタラ、ワタシハソレデ滿足シテ、アノ人ヲ〔ソレ〜傍線〕戀ヒ慕ヒハセヌノニ。アノ人ハ姿ヲ見セヌバカリカ、聲ヲモ聞カセナイノデ、ドウシテモ忘レラレナイ〔アノ〜傍線〕。
 
○朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦《アサガスミカヒヤガシタニナクカハヅ》――聲と言はむ爲の序詞。朝霞は枕詞。鹿火屋につづくのは、冠辭考に、朝霞の加乎留といふ語を省いて、か〔傍点〕の一言にいひかけたのであらうと言つてゐる。古義には、朝霞霧あひといふ意で、きらひ〔三字傍点〕はかひ〔二字傍点〕と約まるから、かうつづけたのだと言つてゐる。この外にも諸説があるが、いづれも從ひ難い。かすみ〔三字傍点〕の音を約めて繰返して、かひ〔二字傍点〕といつたものであらうか。鹿火屋は集中屈指の難語で、その解説が多種多樣である。ここにはそれを一々引證するの煩を避け、その意を要約し類別して掲げると、(一)魚を捕る爲に河若しくは江などに簀を立て廻し、口を一つあけ置き、鳥などの寄り來ぬやうに番人を据ゑおく爲に、その上に作つた家(奧儀抄)、(二)田舍にて養蠶の爲に別屋を作るを飼屋《カヒヤ》といふ。飼屋の棚の下に溝が掘つてあるので、そこにかはづが鳴くのである(袖中抄)。(三)蚊遣火を焚く爲の家(類聚古集に蚊火の部に入れてゐるのはかう見たのであらう)。(四)淺く廣きをば澤といひ、深く狹きをばかひや〔三字傍点〕といふ(常陸風土記にありと、登蓮法師の言として、袖中抄に見えてゐる)。(五)かひ〔二字傍点〕はかは〔二字傍点〕の轉で、や〔傍点〕は添へたものとし、河のことと解するもの(童蒙抄)、(六)岸のはたを云ふとするもの(袖中抄に見えた和語抄説)、(七)猪鹿を追ふ爲に引板をならし、夜もすがらほたを燒いてゐる田の假庵(冠辭考)、_(八)田を守る農民のくゆらす蚊遣火(冠辭考一説、眞淵は自らこれを肯定してゐない)、(九)信濃國では、かべ屋〔三字傍点〕と稱するものが農家にある。片屋根で藁葺になつてゐる。これに蘿匍、蕪菁などを蓄へて置くが、これも鹿火屋の轉訛であらうとする説(古風土記逸文考證に掲げた吉澤氏の説)。この他和歌童蒙抄に「岸なんどのくづれたる所に、しばのねなどさしおほひてゐるなるを、いふなど申すめるはひがごとなめり」とあるから、かういふ古説もあつたのである。以上の如く諸説紛々として、歸するところを知らず、このいづれをよしとすべきかを知らない。今、このカヒを卷十一の足日木之山田守翁置蚊火之下粉枯耳余戀居久《アシビキノヤマダモルヲヂガオクカヒノシタコガレノミワガコヒヲラク》(二六四九)の蚊火《カヒ》と一致せしめて考へるならば、これは蚊遣火のことであらぬばならぬ。即ちカヒヤは蚊遣火を焚いてゐる家と解すべきである。又ここに鹿火屋《カヒヤ》と記し、卷十六に香火屋《カヒヤ》(三八一八)と記したのによつて、契沖が(361)「山田に猪鹿のつく所に小き屋を作て、布のきれ何くれの臭き物に火をくゆらかし、烟をたてて鹿をやらひやるを云と意得べし」と言つた説にも心は引かれるが、鹿を追ふ爲に河鹿の鳴く水邊に屋を作つて、火を焚くといふのも、不自然のやうに思はれる。なほ飼屋として、養蠶の爲に立てた家とするのは、カハヅと蛙とを混同したもので、採るに足らぬ説である。新考には「鹿火屋又は香火屋とあるは鹿半屋(香半屋)などの誤にて、河岸にはあらざるか」とあるが、これも獨斷の臆説である。以上は鹿火屋の屋〔傍点〕を文字通りに家と解釋しての考へ方であるが、別の見地からすると、(四)に掲げた、「淺く廣きをば澤といひ、深く狹きをばかひや〔三字傍点〕といふ」とある常陸風土記の逸文に注意せられる、これに就いて生田耕一氏が藝文第十九年四號に、カヒを峽、ヤを谷《ヤツ》とした説が比較的合理的な見解と思はれる。即ちカヒヤは山間の溪流と解すべきではあるまいか。
〔評〕 上句は珍らしい取材で、序詞として奇拔なものである。下句は前の金山舌日下鳴鳥音谷聞何嘆《アキヤマノシタビガシタニナクトリノコヱダニキカバナニカナゲカム》(二二三九)と似てゐる。一體この兩歌は結構に於て著しく似通つてゐて、唯材料を異にしてゐるのみである。またこの歌は卷十六の朝霞香火屋之下乃鳴川津之努比管有常將告毛欲得《アサガスミカビヤガシタノナクカハヅシヌビツツアリトツゲムコモガモ》(三八一八)と酷似してゐるが、彼はこれを學んだものであらう。芭蕉の奥の細道に、「はひ出でよかひやが下の蟇の聲」とあるのはこの歌から出てゐる。
 
寄v鴈
 
2266 出でていなば 天飛ぶ鴈の なきぬべみ 今日今日といふに 年ぞ經にける
 
出去者《イデテイナバ》 天飛鴈之《アマトブカリノ》 可泣美《ナキヌベミ》 且今日且今日云二《ケフケフトイフニ》 年曾經去家類《トシゾヘニケル》
 
旅ニ出テ行カナケレバナラナイガ、ワタシガ〔旅ニ〜傍線〕旅ニ出テ行ツタラバ、空ヲ飛ブ鴈ノヤウニ妻ガ〔二字傍線〕泣クダラウカラ、今日コソ今日コソト言ツテ、一日ノバシニシテ〔八字傍線〕ヰウチニ、一年經ツテシマツタ。
 
○天飛鴈之《アマトブカリノ》――舊本、天を大に作るは誤。類聚古集・神田本などによる。○可泣美《ナキヌベミ》――泣くべき故にの意。
〔評〕妻と別れて旅にでも行かうとしてゐる人の、去りがてに空しく荏苒日を送つたことを詠んだものである。(362)代匠記精撰本に「是は餘り物えむじなどする妻のうるさければ、打捨ていなばやと思へど、天飛鴈の葦邊の友を戀る如く、泣かれぬべき事を思ふに、さすがに悲しくて、今日は今日はと思へども得思ひたたぬ程に年のへたるなり」とあり、古事記に出てゐる、八千矛神が須勢理比賣の嫉妬にわびて、出立せられた時の御歌、「奴婆多麻能久路岐美祁斯遠《ヌバタマノクロキミケシヲ》、云々」と意同じと言つてゐるが、氣分は全く違つてゐるやうに思はれる。
 
寄v鹿
 
2267 さを鹿の 朝伏す小野の 草若み 隱ろひかねて 人に知らゆな
 
左小牡鹿之《サヲシカノ》 朝伏小野之《アサフスヲヌノ》 草若美《クサワカミ》 隱不得而《カクロヒカネテ》 於人所知名《ヒトニシラユナ》
 
(左小牡鹿之朝伏小野之草若美)隱レカネテ包ミ切レナイデ、二人ノ戀中ヲ〔包ミ〜傍線〕人ニ知ラレルナヨ。用心シナサイ〔六字傍線〕。
 
○左小牡鹿之朝伏小野之草若美《サヲシカノアサフスヲヌノクサワカミ》――隱不得而《カクロヒカネテ》の序詞。草の丈が低くて、鹿が隱れかねるのである。
〔評〕 序詞は無理がなく優美に、戀する人の、世を憚り人を恐れる氣分があらはれてゐる。但しこれは鹿の季を秋とするのに囚はれて、秋相聞中に入れてあるが、草若美《クサワカミ》とあるから、秋の歌ではなく、晩春又は初夏の野を序詞としたものである。ここにも當時已に歌題の季節の思想がかなり型に嵌つてゐたことがわかる。
 
2268 さを鹿の 小野の草伏し いちじろく 吾が問はなくに 人の知れらく
 
左小牡鹿之《サヲシカノ》 小野之草伏《ヲヌノクサフシ》 灼然《イチジロク》 吾不問爾《ワガトハナクニ》 人乃知良久《ヒトノシレラク》
 
男鹿ガ野ノ草ニ臥テヰテ、ダマツテヰテモ、臥テヰタ所ガ跡ガアルノデ、ハツキリワカルヤウニ〔ダマ〜傍線〕、ワタシモアニ人トノ間ヲ〔七字傍線〕ハツキリト人ニ言ハナイノニ、人ガ知ツタヨ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○灼然《イチジロク》――五の句へつづけても見られるが、四の句に直ちにつづくものとするがよい。○吾不問爾《ワガトハナクニ》――契沖は吾が言はざるにの意とし、略解に、「我はあらはに妻とひせし事もなきに」と解し、古義は契沖説をとり、新考(363)は略解説に從つてゐるやうである。契沖説がよいであらう。○人乃知良久《ヒトノシレラク》――人が知るよの意。知れらくは知れるに同じであるが、輕い詠歎の意を含むやうである。
〔評〕 小野の草伏の譬喩が巧に出來てゐる。この歌を前の歌の答とする説は誤であらう。
 
寄v鶴
 
2269 こよひの あかとき降ち 鳴く鶴の 念ひは過ぎず 戀こそまされ
 
今夜乃《コヨヒノ》 曉降《アカトキクダチ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》 念不過《オモヒハスギズ》 戀許増益也《コヒコソマサレ》
 
今夜ノコノ曉方ニ鶴ガ〔二字傍線〕鳴イテ通ルガ゙、私ハアノ〔五字傍線〕鶴ノ如ク心中ノ〔三字傍線〕思ハ晴レナイデ、却ツテ〔三字傍線〕戀ガマサルバカリダ。
 
○今夜乃《コヨヒノ》――コノヨヒノとよむのもよからう。舊訓コノヨラノとあるのはよくない。○曉降《アカトキクダチ》――曉と夜が更け過ぎた意。○鳴鶴之《ナクタヅノ》――鳴く鶴の如くの意。ここまでを序詞と見る説もある。○念不過《オモヒハスギズ》――思ひが盡きないで。
〔評〕 夜ひと夜、物を思ひ明かして、曉方に鳴く鶴を聞いて詠んだものか。鶴も亦自分と同樣に夜もすがら鳴きあかしたものと考へたのである。鶴は四季を通じた鳥で、この歌には他に季節をあらはすものがないのに、ここに秋の部に掲げたのは、當時鶴を秋の鳥と考へたものであらうか。ここにも歌題の季節感の固定があらはれてゐる。
 
寄v草
 
2270 道のべの 尾花がもとの 思草 今さらになぞ 物か念はむ
 
道邊之《ミチノベノ》 乎花我下之《ヲバナガモトノ》 思草《オモヒグサ》 今更爾何《イマサラニナゾ》 物可將念《モノカオモハム》
 
私ハ全クアナタニオタヨリシテヰルノダカラ〔私ハ〜傍線〕、今更ドウシテ何モ(道邊之乎花我下之思草)思フコトハアリマ(364)セヌ。安心シテアナタニタヨツテ居リマス〔安心〜傍線〕。
 
○道邊之乎花我下之思草《ミチノベノヲバナガモトノオモヒグサ》――思草の音を繰返して、五句の將念《オモハム》につづいてゐる。路傍の草の下に生える思草。思草はナンバンキセル(野菰)のことだといふ。この他、女郎花・芒・紫苑・龍膽・鴨頭草・櫻などの異名とする説もある。○今更爾何物可將念《イマサラニナゾモノカオモハム》――舊訓はイマサラナニノモノカオモハムとあるが、ここは仙覺の訓による。略解に「更の字一字脱せしならむ。集中何物の二字をなにと訓る例あり」といつて、イマサラサラニナニカオモハムとよんだのはよくない。
〔評〕 序詞が奇拔だといふまでである。思草をよんだのは本集唯一の例だ。
 
寄v花
 
2271 草深み こほろぎさはに 鳴くやどの 萩見に君は いつか來まさむ
 
草深三《クサフカミ》 蟋多《コホロギサハニ》 鳴屋前《ナクヤドノ》 芽子見公者《ハギミニキミハ》 何時來益牟《イツカキマサム》
 
草ガ深ク繁ツテヰルノデ、蟋蟀ガ澤山ニ集ツテ〔三字傍線〕鳴イテヰルワタシノ〔四字傍線〕家ノ、庭ニ咲イタ〔五字傍線〕萩ヲ見ニ、アナタハ何時オイデナサルノデセウカ。美シイ花デスカラ、ワタシニ逢フ爲デナクトモ、セメテ花見ニデモオイデサイマシ。オ目ニカカリタウゴザイマス〔美シ〜傍線〕。
 
○蟋多《コホロギサハニ》――蟋は舊訓キリキリスとあるのはよくない。多は舊訓イタク、古義スダキとあるが、考による。
〔評〕 優婉な歌。庭前の秋景に對して、戀人を待つ女心が哀である。淋しい賤が家らしい情景も見える。
 
2272 秋づけば 水草の花の あえぬがに 思へど知らじ ただに逢はざれば
 
秋就者《アキヅケバ》 水草花乃《ミクサノハナノ》 阿要奴蟹《アエヌガニ》 思跡不知《オモヘドシラジ》 直爾不相在者《タダニアハザレバ》
 
(365)(秋就者水草花乃)身モ〔二字傍線〕亡クナル程ニ思ヒアマツテ、アノ人ヲ〔思ヒ〜傍線〕戀シテヰルガ、直接ニ逢ツテワタシノ心中ヲ言〔ツテ〜傍線〕ハナイカラ、アノ人ハワタシノ心ヲ〔アノ〜傍線〕知ルマイ。片戀ハツライモノダ〔九字傍線〕。
 
○秋就者《アキヅケバ》――秋になれば。卷八に秋付者尾花我上爾置露乃《アキヅケバヲバナガウヘニオクツユノ》(一五六四)とある。○水草花乃《ミクサノハナノ》――水草《ミクサ》は眞草即ちミを意味のない接頭語とする説、又は尾花とする説、文字通り水草とする説などいろいろあるが、ここは古義の説に從つて水草とする。ここまでの二句は阿要奴蟹《アエヌガニ》の序詞である。○阿要奴蟹《アエヌガニ》――落ちるほどに。ここは水草の花の盛過ぎて落ちむとするのを、吾が身も失するばかりにの意に譬へたのであらう。略解には物の熟する意として、「妹に逢む時なりぬと我は思へど」と解し、古義は、「思の充《ミチ》あまりて、溢れこぼるる意を云なるべし」としてゐる。
〔評〕 序詞の下へのつづをが、少しく曖昧であるが、取材は面白い。
 
2273 何すとか 君を厭はむ 秋萩の その初花の 嬉しきものを
 
何爲等加《ナニストカ》 君乎將※[厭のがんだれなし]《キミヲイトハム》 秋芽子乃《アキハギノ》 其始花之《ソノハツハナノ》 歡寸物乎《ウレシキモノヲ》
 
オ目ニカカツテ見レバ〔オ目〜傍線〕、秋萩ノソノ初花ヲ見ル〔三字傍線〕ヤウニ、嬉シク思ヒマスノニ、ドウシテ私ハアナタヲ厭ト思ヒマセウゾ。決シテ厭デハアリマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○歡寸物乎《ウレシキモノヲ》――モノヲは田菜引物緒《タナビクモノヲ》(三二一)などのやうに、詠歎的のものとも考へられるが、ここはさう見ないでおかう。
〔評〕 男を嫌つてゐるといふ噂を立てられた女が、久しぶりでその男にあつて詠んだのであらう。略解に前の歌の答としたのは當らない。
 
2274 こいまろび 戀ひは死ぬとも いちじろく 色には出でじ 朝貌の花
 
展轉《コイマロビ》 戀者死友《コヒハシヌトモ》 灼然《イチジロク》 色庭不出《イロニハイデジ》 朝容貌之花《アサガホノハナ》
 
私ハタトヒ〔五字傍線〕、轉ビ悶エテ戀ヒ死シテモ、朝顔ノ花ガ色アザヤカニ人目ニ立ツ〔色ア〜傍線〕ヤウニ、ハツキリト顔〔傍線〕色ニハ出ス(366)マイ。
○展轉《コイマロビ》――臥しころがり。展轉《コイマロビ》(四七五)參照。○朝容貌之花《アサガホノハナ》――桔梗。朝貌之花《アサガホノハナ》(一五三八)參照。
〔評〕 結句を朝容貌之花《アサガホノハナ》と言ひ切つたのが、珍らしい形になつてゐる。これは宇家良我波奈乃伊呂爾?米也母《ウケラガハナノイロニデメヤモ》(三五〇三)などの如くいふべきを、語調の關係上顛倒したもので、朝容貌之花《アサガホノハナ》は色庭不出《イロニハイデジ》といはむが爲の序のやうになつてゐるが、下にあるから序詞とは言はれない。譬喩と見て然るべきであらう。
 
2275 言に出でて 言はばゆゆしみ 朝貌の ほには咲き出ぬ 戀もするかも
 
言出而《コトニイデテ》 云者忌染《イハバユユシミ》 朝貌乃《アサガホノ》 穗庭開不出《ホニハサキデヌ》 戀爲鴨《コヒヲスルカモ》
 
カウシテ戀ヲシテヰルコトヲ〔カウ〜傍線〕、口ニ出シテ言ヘバ大變ナノデ、心ノ内ニ押シ隱シテヰテ〔心ノ〜傍線〕、(朝貌乃)人目ニ立タヌ戀ヲスルヨ。
 
○朝貌乃《アサガホノ》――穗と言はむ爲に枕詞式に置いたもの。○穗庭開不出《ホニハサキデヌ》――桔梗の蕾の丸く長きを穗といつたのであらう。
〔評〕卷九の石上振乃早田乃穗爾波不出心中爾戀流比日《イソノカミフルノワサダノホニハイデズココロノウチニコルルコノゴロ》(一七六八)に似でゐる。
 
2276 鴈がねの 初聲聞きて 咲き出たる やどの秋萩 見に來吾がせこ
 
鴈鳴之《カリガネノ》 始音聞而《ハツゴヱキキテ》 開出有《サキデタル》 屋前之秋芽子《ヤドノアキハギ》 見來吾世古《ミニコワガセコ》
 
鴈ノ鳴ク初音ヲ聞キツケテ、ワタシノ〔四字傍線〕宿ノ秋萩モ〔三字傍線〕咲キダシタガ、ドウゾコノ〔六字傍線〕秋萩ヲ見ニオイデナサイ。私ニ逢ヒタクハナクトモ、萩デモ見ニオイデナサイ〔私ニ〜傍線〕。
 
〔評〕 やさしい明晰な歌である。前の草深三《クサフカミ》(二二七一)のやうに婉曲さはないが、直截的なところが捨てがたい。
 
2277 さを鹿の 入野のすすき 初尾花 いづれの時か 妹が手まかむ
 
左小牡鹿之《サヲシカノ》 入野乃爲酢寸《イリヌノススキ》 初尾花《ハツヲバナ》 何時加《イヅレノトキカ》 妹之將手枕《イモガテマカム》
 
(367)(左小牡鹿之入野乃爲酢寸初尾花)何時ニナツタラ私ハ、戀シイ〔五字傍線〕女ノ手枕ヲ始メテ〔三字傍線〕スルコトガ出來ルノダラウ。待チ遠イコトダ〔七字傍線〕。
 
○入野乃爲酢寸《イリヌノススキ》――入野は山城國乙訓郡大原村大字上羽に入野神社のある所であらう。卷七に劔後鞘納野邇葛引吾妹《タチノシリサヤニイリヌニクズヒクワギモ》(一二七二)とあるのも同所か。○初尾花《ハツヲバナ》――入野に生えてゐる芒の初尾花をいふのである。ここまでは序詞で、下へのつづきは、代匠記精撰本に、「いつか初尾花の如くなる妹が手枕をせむとなり」とあり、略解には「上は序にて、いうか新手枕をせむといふ意也。初といふ詞にのみかかりて訓めり」とあり、古義に「本句は序にて、初と云にちなみて、いつしか始めて妹が袖を枕になして、相宿せむと云下したるか、又は尾花の秀にあらはれて、いつしか妹と夫婦になりて相宿せむと云意を含めたるにもあるべし」とある。新考には「序のかかりは入野のススキニ初尾花ガイヅとかかれるなり」と解いてゐる。いづれとも分ち難いが、しばらく略解に從つておかう。○何時加妹之將手枕《イヅレノトキカイモガテマカム》――舊訓にイツシカイモガタマクラニセムとあり、袖中抄も新古今集もさうなつてゐるから、これが古點であらうが、これでは解しがたい、ここは代匠記精撰本の一訓に從はう。將手は元暦校本に、手將になつてゐるのがよい。
〔評〕 流麓な詞ではあるがい序詞のつづき方が曖昧である、新古今に人麿作として掲げたのは亂暴である。
 
2278 戀ふる日の け長くしあれば みそのふの 韓藍の花の 色に出でにけり
 
戀日之《コフルヒノ》 氣長有者《ケナガクシアレバ》 三苑圃能《ミソノフノ》 辛藍花之《カラアヰノハナノ》 色出爾來《イロニイデニケリ》
 
私ハ我慢ニ我慢〔右○〕ヲシテヰタガ〔私ハ〜傍線〕、戀ヒ慕フ日ガ永クナツタノデ、到頭耐ヘキレナズ〔七字傍線〕、(三苑圃能辛藍花之)顆色ニ出シテ人ニ覺ラレテ〔六字傍線〕シマツタ。
 
○氣長有者《ケナガクシアレバ》――氣《ケ》は日に同じ。日が永く幾日も經過したからの意。○三苑圃能《ミソノフノ》――ミは發語で意味はない。元暦校本・神田本など、三を吾に作つてゐる。○辛藍花之《カラアヰノハナノ》――辛監花は鷄頭花。幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》(三八四)參照。
〔評〕 鷄頭花の紅の美しさを色に出づる例にとつたものは、他に卷十一の隱庭戀而死鞆三苑原之鷄冠乃花乃色(368)出目八方《コモリニハコヒテシヌトモミソノフノカラアヰノハナノイロニイデメヤモ》(二七八四)がある。この兩歌は全く同一構想の上に立つてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
2279 吾がさとに 今咲く花の をみなへし 堪へぬこころに なほ戀ひにけり
 
吾郷爾《ワガサトニ》 今咲花乃《イマサクハナノ》 女郎花《ヲミナヘシ》 不堪情《タヘヌココロニ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
ワタシハ〔四字傍線〕ワタシノ里ニ今新ニ〔二字傍線〕花ガ咲キ出シタ女郎花ガ、アマリ美シイノデ、堪ヘヤウト思ツテモ〔アマ〜傍線〕堪ヘラレナイ熱烈ナ〔三字傍線〕心デヤハリアノ女郎花ヲ〔六字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルヨ。近頃年頃ニナツタ吾ガ里ノ若イ女ヲ私ハ堪ヘラレナイ戀ヒ焦レテヰルヨ〔近頃〜傍線〕。
 
○今咲花乃《イマサクハナノ》――今は新にといふに同じ。○不堪情《タヘヌココロニ》――舊訓にタヘズココロニとあるを、略解はアヘヌココロニとし、古義も同訓であるが、これはタヘヌと訓む方が寧ろ穩やかであらう。
〔評〕 女郎花を年頃になつた女に譬へてゐる。無難な歌であらう。
 
2280 萩が花 咲けるを見れば 君に逢はず まことも久に なりにけるかも
 
芽子花《ハギガハナ》 咲有乎見者《サケルヲミレバ》 君不相《キミニアハズ》 眞毛久二《マコトモヒサニ》 成來鴨《ナリニケルカモ》
 
萩ノ花ガ咲イタノヲ見ルト、アナタニ逢ハナイデ、ホントニ久シクナツタモノデスナア。コノ前逢ツテカラ、モウコンナニ萩ノ咲ク頃ニモナツテシマツタ〔コノ〜傍線〕。
 
〔評〕 まことに平明な、ありのままの歌で、而も人まつ女らしい氣分がよく出てゐる。略解に「植うる時など人に逢しままにて云々」とあるが、唯萩の花を見て、時日の經過の速かなのに驚いたのであらう。
 
2281 朝露に 咲きすさびたる 月草の 日たくるなべに 消ぬべく念ほゆ
 
朝露爾《アサツユニ》 咲酢左乾垂《サキスサビタル》 鴨頭草之《ツキクサノ》 日斜共《ヒタクルナベニ》 可消所念《ケヌベクオモホユ》
 
朝露ニ得意サウニ咲イテヰル鴨頭草ハ、夕方ニナルト萎ンデシマフガ、ソノ鴨頭草〔ハ夕〜傍線〕ノヤウニ、ワタシモ〔四字傍線〕、日ガ傾イテ夕方ニナルノ〔八字傍線〕ニツレテ、戀ノ心ガ増シテ來テ、命モ〔戀ノ〜傍線〕消エサウニ思ハレル。
(369)○咲酢左乾垂《サキスサビタル》――スサブは進むと同意で、盛に咲いてゐること。○鴨頭草之《ツキクサノ》――つゆ草とも螢草ともいふ。鴨頭の色に似てゐるので、かうも書くのである。○日斜共《ヒタクルナベニ》――舊訓にヒタクルトモニとあるが、略解に從ふ。新訓は契沖に從つて、ヒクダツムタニとしてゐるが、共の字は流共爾《ナガルルナベニ》(一八二一)の如くナベとよんであり、この方が調子がよいやうに思ふ。
〔評〕 朝咲いて夕にしぼむ鴨頭草に、吾が戀の心をたとへたもので、優雅な歌である。
 
2282 長き夜を 君に戀ひつつ 生けらずは 咲きて散りにし 花ならましを
 
長夜乎《ナガキヨヲ》 於君戀乍《キミニコヒツツ》 不生者《イケラズハ》 開而落西《サキテチリニシ》 花有益乎《ハナナラマシヲ》
 
長イ夜通シ〔二字傍線〕、アナタヲ戀ヒ慕ツテ、眠ルコトモ出來ナイで、ツライ思ヒヲシテ〔眠ル〜傍線〕生キテ居ナイデ、寧ロ〔二字傍線〕咲イテ散ツテシマツタ花デアル方ガヨイノニ。アア、ツライコトダ〔八字傍線〕。
 
○不生者《イケラズハ》――生きてゐないで寧ろ。普通には、生きてゐるよりは寧ろと解してゐる。
〔評〕 この歌は花とのみあつて、季は明らかでないのに、秋の部に入れてある。長夜《ナガキヨ》に秋をあらはしてゐるか。又は卷二の吾妹兒爾戀乍不有者秋芽之咲而散去流花爾有猿尾《ワギモコニコヒツツアラスハアキハギノサキテチリヌルハナナラマシヲ》(一二〇)などのやうな作を類推したものか。
 
2283 吾妹子に 逢坂山の はたすすき 穗には咲き出でず 戀ひわたるかも
 
吾妹兒爾《ワギモコニ》 相坂山之《アフサカヤマノ》 皮爲酢寸《ハタススキ》 穗庭開不出《ホニハサキイデズ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》
 
(吾妹兒爾相坂山之皮爲酢寸)表ニハ出サナイデ、私ハタダ、心ノ中デ戀人ヲ〔私ハ〜傍線〕慕ヒ通シニシテヰマス。
 
○吾妹兒爾《ワギモコニ》――枕詞。逢ふの意で相坂山につづけてゐる。○皮爲酢寸《ハタススキ》――旗薄。布のやうに白く穗に出た薄をいふ。ここまでの三句は妹といはむ爲の序詞。
〔評〕 吾妹兒爾相坂山《ワギモコニアフサカヤマ》といふのは、戀する人にはなつかしい地名である。そこのはた薄を以て序詞としてゐる。吾妹兒爾は相坂山の枕詞ではあるが、五の句でそれを受けてゐるのは器用な作だ、袖中抄にも載つてゐる。古今集に「わぎもこにあふ坂山のしのすすき穗にはいでずも戀ひわたるかな」とあるのはこれから出てゐる。
 
2284 いささめに 今も見がほし 秋萩の しなひにあらむ 妹がすがたを
 
(370)率爾《イササメニ》 今毛欲見《イマモミガホシ》 秋芽子之《アキハギノ》 四搓二將有《シナヒニアラム》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
 
秋萩ノヤウニ、シナヤカニシテヰル妻ノ姿ヲ、ワタシハ〔四字傍線〕一寸デヨイカラ〔五字傍線〕、今モ見タイト思フ。
 
○率爾《イササメニ》――文字通り、一寸、かりそめに、突然などの意。○四瑳二將有《シナヒニアラム》――搓は三相二搓流《ミツアヒニヨレル》(五一六)などのやうに、すべてヨルとよんであるが、ここは意を以てナヒとよむべきである。ヨルもナフも同義である。二を宣長は弖の誤と云つてゐる。
〔評〕 女を萩の花に譬へたのは當を得てゐる。平明な歌。
 
2285 秋萩の 花野のすすき 穗にはいでず 吾が戀ひわたる こもりづまはも
 
秋芽子之《アキハギノ》 花野乃爲酢寸《ハナヌノススキ》 穗庭不出《ホニハイデズ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 隱嬬波母《コモリヅマハモ》
 
(秋芽子之花野乃爲酢寸)外ニハアラハサナイデ、心ノ中バカリデ〔七字傍線〕、ワタシガ、カクシ妻ヲ戀ヒ慕ヒ通シニシテヰルヨ。アア戀シイ、苦シイ〔八字傍線〕。
 
○秋芽子之花野乃爲酢寸《アキハギノハナヌノススキ》――秋萩の花咲く野の薄といふのである。この句は穗と言はむ爲の序詞。○隱嬬波母《コモリヅマハモ》――コモリヅマは隱し妻。ハモは詠嘆の詞、ハとモとをつづけたもの。
〔評〕 穗といはむが爲に、秋萩の花は要がないやうであるが、これを添へたので歌が美化せられ、やさしい女の姿を思はしめるものがある。
 
2286 吾がやどに 咲きし秋萩 散り過ぎて 實になるまでに 君に逢はぬかも
 
吾屋戸爾《ワガヤドニ》 開秋芽子《サキシアキハギ》 散過而《チリスギテ》 實成及丹《ミニナルマデニ》 於君不相鴨《キミニアハヌカモ》
 
吾ガ宿ノノ庭〔二字傍線〕ニ咲イタ秋萩ノ花〔二字傍線〕ガ散ツテシマツテ、實ニナルマデモ永イ間〔三字傍線〕、アナタニオ目ニカカリマセンナア。オ目ニカカリタウゴザイマス〔オ目〜傍線〕。
 
(371)〔評〕萩の實を詠んだ歌は卷七の吾妹子之屋前之秋芽子自花者實成而許曾戀益家禮《ワギモコガヤドノアキハギハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》(一三六五)ともある。なほこの歌は卷十一の吾屋戸之穗蓼古幹採生之實成左右二君乎志將待《ワガヤドノホタデフルカラツミハヤシミニナルマデニキミヲシマタム》(二七五九)と多少の類似がある。
 
2287 吾がやどの 萩咲きにけり 散らぬ間に 早來て見べし 平城の里人
 
吾屋前之《ワガヤドノ》 芽子開二家里《ハギサキニケリ》 不落間爾《チラヌマニ》 早來可見《ハヤキテミベシ》 平城里人《ナラノサトビト》
 
ワタシノ屋敷ノ、庭ノ〔二字傍線〕萩ガ咲キマシタヨ。コノ花〔三字傍線〕ガ散ラナイウチニ、平城ノ里ニ住ム戀シイ〔六字傍線〕人ヨ、早ク來テ御覽ナサイ。
 
○早來可見《ハヤキテミベシ》――舊訓を改めて、考はハヤキテミマセとし、略解・古義はこれに傚つてゐるが、もとのままがよい。
〔評〕 平板な作である。前の草深三《クサフカミ》(二二七一)のやうな優婉さは無い。
 
2288 いはばしの 間間に生ひたる 貌花の 花にしありけり 在りつつ見れば
 
石走《イハバシノ》 間間生有《ママニオヒタル》 貌花乃《カホバナノ》 花西有來《ハナニシアリケリ》 在筒見者《アリツツミレバ》
 
私ハ妻ノ姿ヲ〔六字傍線〕カウシテヰテヨク見ルト、(石走間間生有貌花乃)アダナモノデアツタヨ。
 
○石走《インバシノ》――河中に石を並べて渡るやうにしたもの。新訓にはイハハシルとよんでゐる。○貌花乃《カホバナノ》――貌花は晝顔。高圓之野邊乃容花《タカマドノヌベノカホバナ》(一六三〇)參照。上句は花と言はむ爲の序詞。○花西有來《ハナニシアリケリ》――花とは眞實性のない、あだなこと。略解に「いつも花の如珍らしみ思ふといふ意也」とあるのは、代匠記にならつたのであるが、當らぬやうである。上句は序詞。
〔評〕 貌花の用例が珍らしいといふのみで、さしたることは