卷第十三
 
(193) 萬葉集卷第十三解説
 
この卷は雜歌・相聞・問答・譬喩歌・挽歌の五部に分れてゐる。この分類法は本集諸卷の部門の殆ど全部を含むものを見ることが出來る(卷十一・十二の正述心緒・寄物陳思・覊旅發思などは相聞の小別である)。歌數は百二十七首で、これを細別すると、雜歌二十七首、内長歌十六首・旋頭歌一首・短歌十首。相聞五十七首、内長歌二十九首・短歌二十八首。問答十八首、内長歌七首・短歌十一首。譬喩歌。長歌一首。挽歌二十四首、内長歌十三首・短歌十一首であるが、更にこれを歌躰によつて通算すると。長歌六十六首、旋頭歌一首、短歌六十首である。併しながら、これらの旋頭歌及び短歌は、いづれも長歌の反歌として、附せられたものであるから、この卷は長歌のみを輯録したものといふことが出來るのである。この卷の年代に就いて眞淵は、卷一・卷二につぐものとして、これを第三に置き、「一二は古き大宮|風《ブリ》にして、時代も歌主もしるきをあげ、三には(今の十三)同じ宮|風《ブリ》ながら、とき代も歌ぬしもしられぬ長歌を擧げ」と記し、又別に。古事記に載せた允恭天皇の御子輕太子の御歌のあること、その他古代の作と思はれるもののあることを述べて古代から奈良の宮の初期までの歌が集まつてゐると斷じてゐる。この他、この卷の長歌の中で、反歌を添へざるもの十一首が存すること、五七の歌調が未だ整齊の域に達してゐない時期の作品と思はれるもののあることなどは、この卷の長歌の年代が古いことを語るものである。併し和銅元年五月に卒したらしい三野王を悼んだ歌、養老六年正月に佐渡に配流せられた穗積老の作と註した(194)歌があるから、この卷の中の新らしいものは、和銅・養老まで下ることは明らかである。ともかくこの卷の作品は、卷一・卷二と共に、集中の古いものであることは疑ひない。然しながら、その編纂の時代を卷一・卷二と同時とする見解には從ひ難い。予は寧ろこれを、作者未詳の旋頭歌短歌を集めた、卷十一・卷十二につづいて、作者未詳の長歌を輯めたものではなからうかと思つてゐる。なほこの卷には紀記に載せた歌と似たもののあること、本集の他の卷の歌に似た長歌があること、人麿の作品と修辭上似通つたもののあること、長い歌の一部を切り取つて獨立せしめたのではないかと思はれるもののあることなど、これらの諸點に注意せねばならぬ。この卷の文字使用法は、他の卷に比して戯書の多いことが著しく目につく。例へば一伏三向《コロ》・十六《シシ》・八十一《クク》・喚※[奚+隹]《ツツ》・喚犬追馬《マソ》などが用ゐられてゐる。この現象は卷一・卷二には殆どないことであるのに、それと古さを同じうするこの卷に、かく多くの戯書が用ゐられてゐるのはどういふわけであらう。これも亦研究を要する問題である。
 
(195)萬葉集卷第十三
 
雜歌二十七首
相聞歌五十七首
問答歌十八音
譬喩歌一首
挽歌二十四首
 
(197)雜歌 是中長歌十六首
 
この註は後人の書加へたものである。元磨校本にこの七字が無い。
 
3221 冬ごもり 春さり來れば あしたには 白露置き 夕べには 霞たなびく 風の吹く 木末が下に 鴬鳴くも
 
冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 朝爾波《アシタニハ》 白露置《シラツユオキ》 夕爾波《ユフベニハ》 霞多奈妣久《カスミタナビク》 汗湍能振《カゼノフク》 樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》 (貝+貝)/鳥鳴母《ウグヒスナクモ》
 
(冬木成)春ニナルト、朝ハ白露ガ降リ、夕方ハ霞ガ棚引ク。サウシテ〔四字傍線〕風ノ吹ク梢ノ下デハ、鶯ガ嶋クヨ。春ハ誠ニ面白イ時節ダ〔春ハ〜字傍線〕。
 
○汗湍能振《カゼノフク》――舊訓アメノフルとある。代匠記初稿本のカゼノフクがよいか。考は汗微竝能《カミナミノ》、略解の宣長説は
御諸能夜《ミモロノヤ》、古義は泊湍能夜《ハツセノヤ》かと言つてゐる。○樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》――樹奴禮《コヌレ》は木の末《ウレ》。即ち梢。○(貝+貝)/鳥鳴母《ウグヒスナクモ》――鶯鳴くよの意。
〔評〕 作の時代を明らかにしないが、調子の古朴なる點、及び反歌を添へない點などからして、かなり古いものと推測せられる。併しその内容から見れば、春の景物を叙し、風そよぐ梢の鶯を賞してゐるのは、既に國民の自然觀照の眼が大いに開けた時代なることを語つてゐるもので、いたく古いものとは、考へられない。およそ舒明天皇の御代を遡るあまり遠いものではあるまい。
 
右一首
 
(198)3222 三諸は 人の守る山 本べは 馬醉木花開き 末べは 椿花開く うらぐはし山ぞ 泣く兒守る山
 
三諸者《ミモロハ》 人之守山《ヒトノモルヤマ》 本邊者《モトベハ》 馬醉木花開《アシビハナサキ》 末邊方《スヱベハ》 椿花開《ツバキハナサク》 浦妙山曾《ウラグハシヤマゾ》 泣兒守山《ナクコモルヤマ》
 
三諸山ハ神聖ナ山トシテ〔七字傍線〕、人ガ山番ヲスヱテ〔六字傍線〕番シテヰル山ダ。麓ノ方ニハ馬醉木ノ花ガ咲キ、頂上ノ方ニハ椿ノ花ガ咲イテヰル。美シイ山ダゾ。人ガ絶エズ〔五字傍線〕(泣兒)番シテヰル三諸〔二字傍線〕山ハ〔傍線〕。
 
○三諸者《ミモロハ》――三諸は御室。即ち神のいますところ。飛鳥の神南備、雷山のことであらう。○人之守山《ヒトノモルヤマ》――神聖な山として人を猥りに登らしめぬ山をいふのであらう。代匠記精撰本に「守山は三諸山の一名と知るべし」とあり、略解は「人の守山はもろをもるに轉じて、宜しき山なれば、人の目かれずまもると言ひなせり。まもるは目守也」とある。山番を据ゑて守らしめる意であらう。○本邊者《モトベハ》――山の麓をモトと言つたのである。○末邊方《スヱベハ》――スヱは山の巓。○浦妙《ウラグハシ》――ウラは心、クハシは細妙。心になつかしく思ふこと。ウラグハシキといふべきを、かく續けるのが古格である。○泣兒守山《ナクコモルヤマ》――單に守山《モルヤマ》といふべきを、泣兒《ナクコ》を添へて面白くつづけてゐる。即ち泣兒は短いながら、序詞の如き用をなしてゐる。第二句の人之守山を繰返すかはりに、目先をかへて面白く言つたのである。
〔評〕 前歌と同じやうな古體である。仁徳天皇紀の菟道稚郎子の御歌、智破揶臂等于泥能和多利珥和多利涅珥多底屡阿豆瑳由瀰摩由彌伊枳羅牟苫虚虚呂波望閇耐伊斗羅牟苫虚虚呂破望閇耐望苫弊破枳瀰烏於望臂泥須惠弊破伊暮烏於望比泥伊羅那鷄區曾虚珥於望比伽那志鷄區虚虚珥於望臂伊枳羅儒層區屡阿豆瑳由瀰摩由瀰《チハヤヒトウヂノワタリニワタリゼニタテルアヅサユミマユミイキラムトココロハモヘドイトラムトココロハモヘドモトヘハキミヲオモヒデスヱベハイモヲオモヒデイラナケクソコニオモヒカナシケクココニオモヒイキラズゾクルアヅサユミマユミ》が思ヒ出されるが、内容も異なり、歌風もそれよりは新しい。三諸山の美を賞讃してゐるが、愛する女を三諸山に譬へたものと見られぬこともない。
 
右一首
 
3223 かむとけの 日かをる空の 九月の 時雨の降れば 鴈がねも いまだ來鳴かず 神南備の 清き御田屋の 垣内田の 池の堤の 百足らず 齋槻が枝に 瑞枝さす 秋のもみぢば まき持たる 小鈴もゆらに 手弱女に 我はあれども 引き攀ぢて 枝もとををに うち手折り 我は持ちて行く 君がかざしに
 
(199)霹靂之《カムトケノ》 日香天之《ヒカヲルソラノ》 九月乃《ナガヅキノ》 鍾禮乃落者《シグレノフレバ》 鴈音文《カリガネモ》 未來鳴《イマダキナカズ》 神南備乃《カムナビノ》 清三田屋乃《キヨキミタヤノ》 垣津田乃《カキツダノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 百不足《モモタラズ》 五十槻枝丹《イツキガエダニ》 水枝指《ミヅエサス》 秋赤葉《アキノモミヂバ》 眞割持《マキモタル》 小鈴文由良爾《ヲスズモユラニ》 手弱女爾《タワヤメニ》 吾者有友《ワレハアレドモ》 引攀而《ヒキヨヂテ》 峯文十遠仁《エダモトヲヲニ》 ※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》 吾者持而往《ワレハモチテユク》 公之頭刺荷《キミガカザシニ》
 
(霹靂之)日ガ曇ツテヰル空ノ九月ノ時雨ガ降ルト、鴈モ末ダ來テ鳴カズニヰルガ、飛鳥ノ〔四字傍線〕神南備ノ清淨ナ神〔傍線〕田ノ番ヲスル家ノアル所ノ、垣ノ内ニアル田ノ、用水トシテ堀ツテアル〔用水〜傍線〕池ノ堤ノ上ニ生エテヰル〔七字傍線〕(百不足)神聖ナ欅ノ木ノ枝ニ、勢ヨク繁ツテ枝ヲサシテヰル秋ノ紅葉ハ誠ニ美シクテ一人デ見ルノガ惜シイカラ〔ハ誠〜傍線〕、私ハ手ニ卷キツケテヰル釧トシテヰル小サイ鈴モ、カラカラト音ヲ立テル、カヨワイ女デハアルケレドモ、貴方ノ挿頭ニシヨウト思ツテソノ木ヲ〔シヨ〜傍線〕引キ寄セテ枝ヲタヲタヲト曲ゲテ〔三字傍線〕、私ハ折リ取ツテ持ツテ行ク。
 
○霹靂之《カムトケノ》――天智天皇紀に「霹2靂《カムトケセリ》於藤原内大臣家1」とあり、カムトケは神解で雷の落つることである。又カミトケとも言つてゐる。和名抄に「霹靂加美渡介霹析也。靂、歴也。所v歴皆破析也」とある。舊訓これをカミトケノとよんだのはわるくはないが、古義に從つてカムトケと訓まう。考にナルカミノと改めたのはなほ可ともすべきも、宣長が雨霧合《アマギラヒ》としたのは、甚だしい妄斷である。この句は霹靂の光の意でヒカの枕詞として見るのが、最も穩やかなやうである。○日香天之《ヒカヲルソラノ》――日曇る空の。カヲルは神代紀に「唯有2朝霧1而|薫滿之哉《カヲリミテルカモ》」とあり、曇ることだと言はれてゐる。卷二に鹽氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》(一六二)のカヲルも曇る意と解く學者もある。一體この句は舊訓ヒカルミソラノとあるが、文字を補はねばさうは訓めぬやうだ。宣長は初句を天霧合《アマギラヒ》、この句を渡日香久之《ワタルヒカクシ》と改めたのは從ひがたい。○神南備乃《カムナビノ》――これも雷山であらう。○清三田屋之《キヨキミタヤノ》――清く穢無き御(200)田屋。ミは敬語。田屋は田を守る爲に建てた家。○垣津田乃《カキツダノ》――垣内田。垣の内に作つた田。○池之堤之《イケノツツミ》――垣内田に水を引くために池が堀つてあつたのであらう。その池の堤に生えてゐる齋槻とつづく。○百不足《モモタラズ》――枕詞。五十《イ》とつづく。○五十槻枝丹《イツキガエダニ》――五十槻は齋槻。神木として齋み清まはつてゐる槻。舊本、五を三に誤つてゐる。○水枝指《ミヅエサス》――水枝はみづみづしく榮えてゐる枝。○眞割持《マキモタル》――舊訓マサケモチを代匠記初稿本マサケモツとし、考はマキモタルと訓んでゐる。マサキモツとよんで小鈴《ヲスズ》の枕詞とし、マを接頭語、サキは鈴の口の割けてゐることとし、割けた鈴を手に着ける意とも解釋出來るであらうが、言葉のつづきが、少し無理であるから、寧ろ眞淵に從つて、マキモタルとし、纏持ちたるの意とすべきであらう。○小鈴文由良爾《ヲスズモユラニ》――卷十に足玉母手珠毛由良爾《アシダマモタダマモユラニ》(二〇六五)とあつたやうにモは助詞。ユラは玉の響である。○引攀而《ヒキヨヂテ》――攀は引くこと。登ることではない。一四六一參照。○峯文十遠仁《エダモトヲヲニ》――舊訓ミネモトヲヲニとある。或は木末の意で峯と言つたのかも知れないが、他にその例がない。考によつて延多の二字を峯に誤つたものとしよう。トヲヲはタワワに同じ。○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》――ウチは強めていふのみ。○公之頭刺荷《キミガカザシニ》――頭刺《カザシ》は插頭。冠の飾としてつけるもの。
〔評〕 雜歌の部に入れてあるが相聞の歌である。田舍少女が愛する男の爲に、池の堤の槻紅葉を折取つて行くといふので、歌調も古色を帶び内容も野趣が溢れてゐる。神聖な境地の齋槻、それはいづれ欝蒼とした大木であらうと思はれるが、その枝を女だてらに折取らうといふのはかなり勇敢さが無くてはなるまい。そこに戀の力があるのであらう。内容が長歌としては珍らしい。
 
反歌
 
3224 獨のみ 見れば戀しみ 神名火の 山のもみぢば 手折りけり君
 
獨耳《ヒトリノミ》 見者戀染《ミレバコヒシミ》 神名火乃《カムナビノ》 山黄葉《ヤマノモミヂバ》 手折來君《タヲリケリキミ》
 
私ハ自分〔四字傍線〕一人ダケデ見テハ飽キ足ラズ〔五字傍線〕戀シク思ハレルノデ、神南備山ノ紅葉ヲ、貴方ニ御覽ニ入レヨウト思ツ(201)テ〔貴方〜傍線〕折リマシタヨ。貴方、ドウゾ御覽下サイ。〔八字傍線〕
 
○獨耳見者戀染《ヒトリノミミレバコヒシミ》――一人のみ見ては飽き足らず、君に見せたく思はれるのでの意。新考は戀は不樂の誤でサブシミであらうと言つてゐる。○山黄葉《ヤマノモミヂバ》――長歌に堤とあるから、神名火の山裾の池に近く生えてゐるのを、略して山の黄葉ばと言つたのである。
〔評〕 長歌の意を更に要約、反復したもので、男に對する愛情があふれてゐる。
 
此一首入道殿讀出給
 
これはこの歌の訓點を附けた人のことを書き加へたので、入道殿は即ち御堂關白道長であらう。次點の時に書き入れた註と思はれる。元暦校本・天治本・神田本にこの一行がない。
 
右二首
 
3225 天雲の 影さへ見ゆる 隱口の 長谷の河は 浦無みか 船の寄り來ぬ 磯無みか 海人の釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 磯はなくとも おきつ浪 きほひこぎり來 白水即の釣船
 
天雲之《アマグモノ》 影塞所見《カゲサヘミユル》 隱來※[竹冠/矢]《コモリクノ》 長谷之河者《ハツセノカハハ》 浦無蚊《ウラナミカ》 船之依不來《フネノヨリコヌ》 礒無蚊《イソナミカ》 海部之釣不爲《アマノツリセヌ》 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者無友《ウラハナクトモ》 吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》 礒者無友《イソハナクトモ》 奧津浪《オキツナミ》 諍※[手偏+旁]入來《キホヒコギリコ》 白水郎之釣船《アマノツリブネ》
 
大空ノ雲ノ影モ映ツテ見エル(隱來※[竹冠/矢])長谷ノ川ハヨイ〔二字傍線〕浦ガ無イカラカ船ガ寄ツテハ來ナイ。又、ヨイ〔三字傍線〕磯ガ無イカラカ海人ガ來テ〔二字傍線〕釣モシナイ。ヨシヤヨイ〔二字傍線〕浦ハナクトモ、ヨシヤ佳イ〔二字傍線〕磯ハナクトモ、(奧津浪)先ヲ爭ツテ漕イデ入ツテ來ヨ。海人ノ釣舟ヨ。
 
(202)○影塞所見《カゲサヘミユル》――舊本、寒とあるは誤。元暦校本に塞とあるのがよい。○隱來※[竹冠/矢]《コモリクノ》――枕詞。長谷とつづくのは隱處即ち別の區劃をなして、大和の平原から入り込んだところの意であらう。ここに泊瀬を長谷と記したのも、その地形によったのである。長谷之河は泊瀬地方を流れる河で、大和河の上流。○吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》――前に屡々用ゐられた句。ヨシヤといふに同じ。考は寺を志、古義は子の誤かと言ってゐる。○奧津浪《オキツナミ》――枕詞。沖の浪の競ひ立つのを諍《キホフ》につづけたのである。○諍※[手偏+旁]入來《キホヒコギリコ》――競ひて漕ぎ入り來れの意。舊本、諍を淨に誤つてゐる。西本願寺本・神田本など多く諍に作つてゐる。
〔評〕 森々と湛へた泊瀬川に、浮んだ海人小舟の影の見えないのを、物足りなく思つた歌である。河に浦といふのは、いかにもふさはしく思はれない。天雲の影さへ見える流であるから、かう言ったのであらうが、如何に上代は水量が多かつたにしても、現代人には理解しかねる構想である。或は卷十の海小船泊瀬乃山爾落雪之消長戀師君之音曾爲流《アマヲブネハツセノヤマニフルユキノケナガクコヒシキミガオトゾスル》(二三四七)の海小船泊瀬といふ枕詞などから、聯想して、こんなにつづつたものか。巻二の柿本人麿の石見乃海角乃浦回乎浦無等人社見良目滷無等人社見良目能咲八師浦者無友縱畫屋師滷者無鞆《イハミノミツヌノウラミヲウラナシトヒトコソミラメカタナシトヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシカタハナクトモ》(一三一)とあるのに用語が酷似してゐる。そのいづれが先であるか、今明らかでないが、この二者の間の關係は否み難い。
反歌
 
舊本反を友に作るは誤。天治本その他の古本皆反に作つてゐる。
 
3226 さざれ浪 浮きて流るる 泊瀬河 よるべき磯の 無きがさぶしさ
 
沙邪禮浪《サザレナミ》 浮而流《ウキテナガルル》 長谷河《ハツセガハ》 可依礒之《よるべきいその》 無蚊不怜也《ナキガサブシサ》
 
小波ガ水ノ上ニ〔四字傍線〕浮イテ流レルヤウニ見エル〔六字傍線〕、初瀬川ハ、誠ニヨイ川デアルガ、唯海人ノ釣舟ヲ〔誠ニ〜傍線〕、寄セルヤウナ磯ガナイノガ物足ラナイヨ。
 
(203)○沙邪禮浪《サザレナミ》――小波。漣。○浮而流《ウキテナガルル》――考に浮を湧の誤として、ワキテナガルルと訓み、古義は沸に改めて、タギチナガルルと訓んでゐる。卷三に不知代經浪乃去邊白不母《イサヨフナミノユクヘシラズモ》(一六四)とある如く、波は水面に浮動するものと考へたのであるからウキテがよい。
〔評〕 上句に泊瀬川の風景を述べて、この清流に舟を着ける處のないのは物足らぬと言つたのである。この渓流に對して眞面目にかういふことを考へたらしい氣分が見える。
右二首
 
3227 葦原の 瑞穗の國に 手向すと 天降りましけむ 五百萬 千萬神の 神代より 言ひ續ぎ來る 甘南備の 三諸の山は 春されば 春霞立ち 秋往けば くれなゐ匂ふ 甘南備の 三諸の神の 帶にせる 明日香の河の 水尾速み 生ひため難き 石枕 蘿むすまでに あらた夜の ききく通はむ ことはかり 夢に見せこそ 劍太刀 齋ひまつれる 神にしませば
 
葦原※[竹冠/矢]《アシハラノ》 水穗之國丹《ミヅホノクニニ》 手向爲跡《タムケスト》 天降座兼《アモリマシケム》 五百萬《イホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅカミノ》 神代從《カミヨヨリ》 云績來在《イヒツギキタル》 甘南備乃《カムナビノ》 三諸山者《ミモロノヤマハ》 春去者《ハルサレバ》 春霞立《ハルガスミタチ》 秋徃者《アキユケバ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》 甘甞備乃《カムナビノ》 三諸乃神之《ミモロノカミノ》 帶爲《オビニセル》 明日香之河之《アスカノカハノ》 水尾速《ミヲハヤミ》 生多米難《オヒタメガタキ》 石枕《イハマクラ》 蘿生左右二《コケムスマデニ》 新夜乃《アラタヨノ》 好去通牟《サキクカヨハム》 事計《コトハカリ》 夢爾令見社《イメニミセコソ》 劔刀《ツルギタチ》 齋祭《イハヒマツレル》 神二師座者《カミニシマセバ》
 
葦原ノ水穗ノ國デオ祀リスべキ神トシテ、天降ツテオイデニナツタ、五百萬、千萬ノ澤山ノ〔三字傍線〕神様ノソノ〔二字傍線〕神代ノ時〔二字傍線〕カラ、言ヒ傳へ語リ傳ヘ〔四字傍線〕テ、神聖ナ山トシテ〔七字傍線〕アル神南備ノ三諸山ハ、春ニナルト春霞ガ立チ、秋ガ來ルト紅ニ紅葉ガ〔三字傍線〕美シクナル。サウシテ〔三字傍線〕神南備ノ三諸山ニ祀ラレテヰル〔八字傍線〕神樣ガ、帶トシテ山ノ廻リヲ取リ卷イテ〔山ノ〜傍線〕ヰル飛鳥川ハ、水流ガ早イノデソノ石ニ苔ガ〔六字傍線〕生エ留マルコトモ出來ナイガ、ソノ〔三字傍線〕枕トスル石ニ、苔ガ生エルマデモ、(204)永イ年數ノ間私ハ〔八字傍線〕、毎夜毎夜、變リナク此處ヘ〔三字傍線〕通フ方策ヲコノ神樣ガ私ノ〔七字傍線〕夢ニオ告ゲ下サイ。劔太刀ヲ神體トシテ〔五字傍線〕齋キ祀ツテアル神樣ダカラ、ドウゾ私ノ願ヲカナヘテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○葦原※[竹冠/矢]水穗之國丹《アシハラノミヅホノクニニ》――言ふまでもなく吾が日の本の國のことである。○手向爲跡《タムケスト》タムケを考には「荒背向神を、和して此方へおも向しむるをいふ。手は詔給言《ノリトゴト》に手長の御世てふ如く、發言のみ」とあるが、手向はやはり神を祀ることであらぬばならぬから、葦原の瑞穗の國にて、奉祀するものとして、天降り給へる神々といふのであらう。○云績來在《イヒツギキタル》――宣長は來去《キヌル》の誤といつてゐるが、もとのままでキタルがよい。○甘南備乃三諸山者《カムナビノミモロノヤマハ》――甘南備は神の森、ミモロは神の室で。共に同義で、神南備山とも三諸山ともいつてゐる。これも雷岳のことである、○春霞立《ハルガスミタチ》――舊本、霰とあるはもとより霞の誤である。天治本その他の古本、多く霞に作つてゐる。○帶爲明日香之河之《オビニセルアスカノカハノ》――雷岳の麓を繞つて流れる飛鳥川を山の神の帶にし給へるものと見たので、これはこの下にも神名火山之帶丹爲流明日香之河乃《カムナビヤマノオビニセルアスカノカハノ》(三二六六)とあり、卷七にもボ嘉か緋點出し郡鮮即斷緋觀相《オホキミノミカサノヤマノオビニセルホソタニカハノ》(一一〇二)とある。○水尾速《ミヲハヤミ》――水尾《ミヲ》は水脈。水路。○生多米難《オヒタメガタキ》――古義にムシタメガタキとある。オヒの方が隱やかであらう。生ひ留め難き。苔が水流の早さに、生える暇がないのである。卷一の河上乃湯都盤村二草武左受《カハノヘノユツイハムラニクサムサズ》(二二)と同意である。○石枕《イハマクラ》――河中の石をさしていつてゐることは明らかであるが、枕は解し難い。或は卷十の天漢原石枕卷《アマノカハラニイソマクラマク》(二〇〇三)のやうに河邊に寢ることかとも思はれる。考には枕は根の誤として、イハガネノとよんである。古義はイハガネニとある。○新夜乃《アラタヨノ》――あらたまり行く夜即ち毎夜。新代として解く説はいけない。古義にこの句から次の二句を隔てて夢《イメ》とつづくとしたのは無理である。○好去通牟《サキクカヨハム》――サキクは變らずにの意。○事計《コトハカリ》――事の計畫。方策。卷四の次相見六事計爲與《ツギテアヒミムコトハカリセヨ》(七五六)とある。〇夢爾令見社《イメニミセコソ》――コソは希望。○劔刀齋祭《ツルギダチイハヒマツレル》――劍を以て神體として祀つてあることであらう。劍を納めてと解するのは、少し無理のやうである。
〔評〕 三諸山のほとりに住む女のもとに通ふ男の歌。雜歌の中に收めてあるが、相聞の歌である。考には新夜《アラタヨ》を新京と解して、「然れば此度は藤原宮へ遷幸して始て飛島御神社へ御使立、大幣神寶など奉給ふ時、その御使人(205)のよめる歌なるべし」とあるが、そんないかめしい歌ではない。かういふ歌に神代から説き起してゐるのは不似合だとの考もあらうが、これは神に祈誓するからであらう。
 
反歌
 
3228 神南備の 三諸の山に 齋ふ杉 おもひ過ぎめや 蘿生すまでに
 
神名備能《カミナビノ》 三諸之山丹《ミモロノヤマニ》 隱藏※[木+久]《イハフスギ》 思將過哉《オモヒスギメヤ》 蘿生右左《コケムスマデニ》
 
神南備ノ三諸ノ山ニ祀ツテアル神杉、ソレニ〔三字傍線〕苔ノ生エル永イ後々〔四字傍線〕マデモ、私ハコノ女ヲ〔六字傍線〕忘レヨウヤ。私ハ決シテ忘レズニ通ハウ〔私ハ〜傍線〕。
 
○隱藏※[木+久]《イハフスギ》――イハフは神聖なるものとして祀ること。卷四の僻郵警一秒か群鰯辭瞑ボ配か邦射撃點卿巾《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギテフレシツミカキミニアヒガタキ》(七一二)、卷七の巌か卿昭か酢鋸蹴鄭桁《ミヌサトリカミノハフリガイハフスギハラ》(一四〇三)などに同じ。○思將過哉《オモヒスギメヤ》――決して忘れはせぬの意。
〔評〕 第三句の隱藏※[木+久]《イハフスギ》のスギを繰返して思將過《オモヒスギメヤ》と言たのは、卷九の神南備神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《カムナビノイカミヨリイタニスルスギノオモヒモスギズコヒノシゲキニ》(一七七三)と同一手法で、恰も上句が序詞のやうに見えるが、さうではなく、杉の蘿むすまでに思ひ忘れずの意になつてゐるのは珍らしい。
 
3229 齋串立て みわ据ゑまつる 神ぬしの うずの玉蔭 見れば乏しも
 
五十串立《イグシタテ》 神酒座奉《ミワスヱマツル》 神主部之《カムヌシノ》 雲聚玉蔭《ウズノタマカゲ》 見者乏文《ミレバトモシモ》
 
幣帛、玉ナドヲ挾ンデ立テル〔幣帛〜傍線〕齋串ヲ立テ、御神酒ヲ供ヘテ、神主ドモガ頭ノ飾ニ附外ケテヰル〔頭ノ〜傍線〕髻華《ウズ》トシテカケタ玉鬘ヲ見ルト、實ニ〔二字傍線〕珍ラシイ立派ナモノダ〔六字傍線〕ヨ。
 
○五十串立《イグシタテ》――五十串は齋串。幣・玉などを懸けて、神に捧げる串。神代紀一書に五百箇眞坂樹八十玉籤《イホツマサカキヤソタマクシ》・五百(206)箇野篶八十玉籤《イホツヌスズヤソタマクシ》などある。これによると小竹(篶)をも懸けたものか。○神酒座奉《ミワスヱマツル》――和名抄に、「日本紀私記(ニ)云(ク)神酒、和語云(ク)美和」とあり、神酒をミワといふ。神酒を入れた瓶を据ゑるのをミワスヱといつたのである。○神主部之《カムヌシノ》――考にハフリベガとあるのはよくない。舊訓も八雲御抄もカミヌシノとある。部はトモガラの意で添へて書いたのみ。○雲聚玉蔭《ウズノタマカゲ》――雲聚《ウズ》は推古天皇紀に「十一年十二月戊辰朔壬申、始行2冠位1云々、唯元日(ニハ)著2髻華1髻華此云2于孺1」と見えてゐる。古事記に見えた倭建命の御歌に伊能知能麻多祁牟比登波多多美許《イノチノマタケムヒトハタタミゴモヘグリノヤマノクマカシガハヲウズニサセソノコ》とあつて、木の葉・花などの類を髻につけたのである。卷十九にも島山爾照在橘宇受爾左之仕奉者卿大夫等《シマヤマニテレルタチバナウズニサシツカヘマツルハマヘツキミタチ》(四二七六)とあり、實の生つた橘の枝をつけてゐる。なほ、推古天皇十九年五月五日の條には「是日諸臣云々、各著2髻華1大徳小徳并用v金、大仁小仁用2豹尾1大禮以下用2鳥尾1」とあつて、金銀鳥獣の尾などを用ゐたのである。ここに玉蔭とあるは、玉の緒の影で、即ち玉かづらであらう。宣長が玉を山の誤とし、ヤマカゲと訓んで日蔭の鬘としたのはどうであらう。後世心葉と稱して冠の巾子に立てるのが即ちこの轉じたものである。○見者乏文《ミレバトモシモ》――見ると珍らしやの意。
〔評〕 三諸山の神に奉祀する神主の威儀を正した装を歌つたものである。前の歌と内容的にかけ離れてゐるので、これを反歌でないとも見ることが出來る。
 
右三首但或書此短歌一首無v有v載v之也
 
この註によつて、最後の短歌を、反歌でないとする説もある。新考には有を衍としてゐるが、總べての古本にある。
 
3230 みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穗積に至り 島網張る 坂手を過ぎ 石走る 甘南備山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば 古へおもほゆ
 
帛※[口+立刀]《ミテグラヲ》 楢從出而《ナラヨリイデテ》 水蓼《ミヅタデ》 穗積至《ホヅミニイタリ》 鳥網張《トナミハル》 坂手乎過《サカテヲスギ》 石走《イハハシル》 甘南備山丹《カムナビヤマニ》 朝宮《アサミヤニ》 仕奉而《ツカヘマツリテ》 吉野部登《ヨシヌヘト》 入座見者《イリマスミレバ》 古所念《イニシヘオモホユ》
 
(207)天子樣ガ〔四字傍線〕(帛※[口+立刀])奈良カラオ出カケニナリ(水蓼)穗積ニ行ツテ(鳥網張)坂手ヲ過ギテ(石走)神南備山デ行宮ニオ宿ナサレ、臣下ノモノハ〔行宮〜傍線〕」朝ノ御殿ニ奉仕申シ上ゲテ、ソレカラ離宮ノアル〔九字傍線〕吉野ノ方ヘオ入リニナルノヲ見ルト、昔ノ代々ノ天子樣モカウアツタラウト〔昔ノ〜傍線〕、古ノコトガ思ヒ出サレル。
 
○帛※[口+立刀]《ミテグラヲ》――帛は幣帛の帛でミテグラ、※[口+立刀]は集中に多いヲの字である。宣長が帛は内日を轉倒し、※[口+立刀]は刺の誤、次句の楢は都の誤でウチヒサスミヤコユイヂテであらうと言つたのは妄斷も甚しい。古義は※[口+立刀]を奉の草書から誤つたものとして、ヌサマツリと訓んだのも從ひ難い。ミテグラヲと訓んで代匠記初稿本のやうに「みてくらをもて、ならより出づるといふべきを、古歌にはことくはしからぬ事おほし」と見るのはかなり無理があるので、この訓を退ける説が出るのであるが、次々の句を見ると、これは楢の枕詞たることは否定し難い。多分|幣帛《ミテグラ》を並べる意で、奈良《ナラ》とつづくのであらう。○楢從出而《ナラヨリイデテ》――楢は言フまでもなく、奈良。奈良山あたりに楢ノ樹の木が多かつたのが地名になつたのであらう。あのあたりには、樹名から出た地名が多い。○水蓼《ミヅタデ》――舊訓ミヅタデノとある。考にミヅタデヲに改めたのは上に揃へたのだが、文字通り四言に訓むがよい。穗とつづく枕詞。水蓼は、一にヤナギタデとも稱するもので、莖の高さ二尺許、葉は披針形にして尖り、緑色にして辛味がある。原野並びに河邊に生ずる。○穗積至《ホヅミニイタリ》――穗積は今の山邊郡朝和村大字新泉の附近であらうといふ。丹波市の南方にあたる。第一册附録、大和地圖參照。○鳥網張《トナミハル》――枕詞。山腹の傾斜面に鳥網を張るから、鳥網張る坂とつづく。○坂手乎過《サカテヲスギ》――坂手は磯城郡川東村大字坂手であらう。田原本の東に接してゐる。景行天皇紀に坂手池を造ることが見える。○石走《イハハシル》――枕詞。冠辭考にはイハハシノとよんで、いははしは石を並べたものであるから、イハハシの並《ナヒ》とつづくとしてゐる。新考には「石階アルといふ意とおぼゆればイハバシノとよむべし」とある。この枕詞は舊訓イハバシルとあり、淡海・瀧《タギ》などにつづくを常としてゐるのに、ここに特例として甘南備に連つてゐる。古義はイハハシルと訓んで「石を走り激つ瀬音の雷鳴振《カムナリブル》といふ意に、つづきたるにやあらむ。雷《カミ》の如聞ゆる瀧などよめるを併せ考ふべし」とあるが、無理な説であらう。これは甘南備山の麓を流れる飛鳥川がここで(208)瀧をなしてゐることを述べたので、この山からその情景が見えるから、かく續けたものに違ひない。今もその石走り流れた趾と思はれるものが山麓に殘つてゐる。第二册口繪參照。○甘南備山乃《カムナビヤマニ》――上に述べたやうに、甘南備山は雷岳。○朝宮仕奉而《アサミヤニツカヘマツリテ》――これは天皇がこの甘南備山の離宮に一夜を過し給ひて、供奉のものが、朝の御機嫌を奉伺し、それから出發して吉野へ赴き給ふといふ意で、極めて簡潔に、要領よく述べた言葉である。
〔評〕 天皇が奈良を御出發遊ばされ、飛鳥の神南備の行宮に御假泊、翌日吉野離宮に入り給ふ順路を詠んだものである。内容から見て、既に奈良遷都以後の作なることがわかる。歌詞はかなり古いから、元明天皇の御代のことであらう。
 
反歌
 
3231 月日は かはり行けども 久にふる 三諸の山の とつ宮どころ
 
月日《ツキヒハ》 攝友《カハリユケドモ》 久經流《ヒサニフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤドコロ》
 
月日ハ移リカハツテ行ツテ、ソレカラ永年ニナル〔ツテ〜傍線〕ガ、久シク續イテ、カハラナイ三諸ノ山ノ離宮ヨ。
 
○攝友《カハリユケドモ》――この句は極めて讀み難い。代匠記初稿本は攝を隔の誤とし、ヘタタリヌトモ、同じく精撰本は攝を接の誤かとしてゐるが、攝は代の意に用ゐたものとして、カハリユケドモと訓んだ考によることにした。舊訓カハリユクトモ、西本願寺本などカハリユケドモとあるから、古訓中の多きをも參考としたものである。その他、略解は攝の下に往の字、脱とし、訓は同じく、古義は攝の上、行の字、脱とし、ユキハカハレドモとよんでゐる。新訓に、次句の久までをつづけて、ユケドモヒサニとしたのは、注意すべき一案であらう。○久經流《ヒサニフル》――久しく續いてゐる。新訓は久を上の句に入れて、これをナガラフルとよんでゐる。○礪津宮地《トツミヤドコロ》――外つ宮處。離宮の地。雷岳に古くから、離宮が設けられてゐたのである。卷三の人麿の皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬(209)爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカヅチノウヘニイホリセルカモ》(二三五)は持統天皇がこの離宮に御宿泊の場合の作らしい。
 
〔評〕 二三の句に少しよみにくいところがあるが、右の如く訓めば、上品な調の高い歌である。枕草紙に「月も日もかはりゆけども久にふるみむろの山のといふ古言をゆるるかにうちよみ出し給へるいとをかしとおぼゆるを云々」とあり、袖中抄にも「月も日もあらたまれども久にふるみむろの山のとつみや所」とあるから、古くから人口に膾炙した歌であつたのである。
 
此歌入道殿讀出給
 
次點の際、御堂關白道長が訓を附けたといふ註である。元磨校本・天治本など、この一行無い本が多い。
 
右二首 但或本歌曰 故王都跡津宮地《フルキミヤコノトツミヤドコロ》也
 
これは四五の句の異本である。故王都《フルキミヤコ》は飛鳥の京を指すのであるが、ここの反歌としては、三諸之山の方がよい。
 
3232 斧取りて 丹生の檜山の 木こり來て 筏に作り ま楫貫き 磯榜ぎたみつつ 島傳ひ 見れども飽かず み吉野の 瀧もとどろに 落つる白浪
 
斧取而《ヲノトリテ》 丹生檜山《ニフノヒヤマノ》 木折來而《キコリキテ》 機爾作《イカダニツクリ》 二梶貫《マカヂヌキ》 礒※[手偏+旁]回乍《イソコギタミツツ》 島傳《シマヅタヒ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 三吉野乃《ミヨシヌノ》 瀧動動《タギモトドロニ》 落白浪《オツルシラナミ》
 
斧ヲ持ツテ丹生ノ檜山ノ木ヲ伐ツテ來テ、ソレヲ〔三字傍線〕筏ニ作リ、ソレニ〔三字傍線〕左右ノ楫ヲカケテ、岸ヲ漕ギ回リ、島ヲ漕ギ〔二字傍線〕傳ツテ、遊ンデ〔三字傍線〕見テ廻ツテ〔三字傍線〕モ、吉野ノ瀧ノ音〔二字傍線〕モ※[革+堂]々ト鳴ツテ落チル白浪ノ有樣〔三字傍線〕ハ、面白クテ〔四字傍線〕飽クコトガ無イヨ。
 
○丹生檜山《ニフノヒヤマ》――丹生は吉野川上流の地名。卷三に丹生乃河瀬者不渡而《ニフノカハセハワタラズテ》(一三〇)、卷七に斐太人之眞木流云爾布乃河《ヒダビトノマキナガストフニフノカハ》(210)(一一七三)とある。檜山は檜の生えてゐる山。○機爾作《イカタニツクリ》――舊本、機をフネとよんでゐるが、この文字は元暦校本は※[木+義]、西本願寺本は※[木+茂]、京大本は艤に作つてゐる。ともかく機は誤らしい。イカダと訓むべきであらう。
〔評〕 鮮明な歌である。前の歌と歌風も似てゐるし、内容から見ても、同じ場合の作かと思はれるから、或は同一人の作かも知れない。
 
旋頭歌
 
3233 み吉野の 瀧もとどろに 落つる白浪 とまりにし 妹に見せまく 欲しき白浪
 
三芳野《ミヨシヌノ》 瀧動動《タギモトドロニ》 落白浪《オツルシラナミ》 留西《トマリニシ》 妹見卷《イモニミセマク》 欲白浪《ホシキシラナミ》
 
芳野ノ瀧ノ音モ※[革+堂]々ト、落ツル白浪ノ面白サヨ〔五字傍線〕。家ニ留守居ヲシテヰル妻ニ見セタイト思フコノ〔二字傍線〕白浪ノ景色ヨ。一人デコノ良イ景色ヲ見ルノハ惜シイモノダ〔ノ景〜傍線〕。
 
○瀧動動《タギモトドロニ》――考はこの歌を短歌に改めて、動動と次句の落の三字を省いて、タキノシラナミとしてゐるが、もとより採るに足らぬ。○妹見卷《イモニミセマク》――舊訓、イモヲミマクとあるのは、よくない。見の下、天治本に西の字がある。
〔評〕 前の長歌の反歌として添へた旋頭歌である。古寫本はここに反歌とあるから、それが原形であらう。舊本は特種の歌躰だから旋頭歌と記したのである。併し考に「反歌、今本ここに旋頭歌と有はいふにも足らず、目録にもなければ、ただ近頃のひがわざなり」と斷じたのは從ひ難い。集中、長歌に反歌として、旋頭歌を添へた唯一の例である。長歌で吉野川の勝景を讃へ、反歌では轉じてこれを妻に見せたいと述べたので、明朗な佳調である。
 
右二首
 
3234 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の 聞し食す 御饌つ國 神風の 伊勢の國は 國見ればしも 山見れば 高く貴し 河見れば さやけく清し みなとなす 海も廣し 見渡しの 島の名高し ここをしも まぐはしみかも 掛けまくも あやにかしこき 山の邊の いしの原に うち日さす 大宮仕へ  朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ榮えて 秋山の 色なつかしき 百磯城の 大宮人は 天地 日月と共に 萬代にもが
 
(211)八隅知之《ヤスミシシ》 和期大皇《ワゴオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子之《ヒノミコノ》 聞食《キコシヲス》 御食都國《ミケツクニ》 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃國者《イセノクニハ》 國見者之毛《クニミレバシモ》 山見者《ヤマミレバ》 高貴之《タカクタフトシ》 河見者《カハミレバ》 左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》 水門成《ミナトナス》 海毛廣之《ウミモヒロシ》 見渡《ミワタシノ》 島名高之《シマノナタカシ》 己許乎志毛《ココヲシモ》 間細美香母《マグハシミカモ》 挂卷毛《カケマクモ》 文爾恐《アヤニカシコキ》 山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃原爾《イシノハラニ》 内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤツカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》 目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》 春山之《ハルヤマノ》 四名比盛而《シナヒサカエテ》 秋山之《アキヤマノ》 色名付思吉《イロナツカシキ》 百磯城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 天地《アメツチ》 與日月共《ヒツキトトモニ》 萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》
 
(八隅知之)我ラガオ仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣、(高照日ノ御子デイラセラレル天子樣〔デイ〜傍線〕ガ、召シ上ガル御饌ノ料ヲ調《ミツギ》トシテ上ゲル(神風之ノ)伊勢ノ國ハ、國ヲ見ルト誠ニ佳イ國ダ〔六字傍線〕。山ヲ見ルト高ク貴イ。河ヲ見ルト美シク清イ。河口ノヤウニナツテヰル、入海ノヤウナ〔六字傍線〕海モ廣イ。見渡ス所ニアル〔四字傍線〕島ハ名高イ島ダ。コノ點ガヨイカラカ、口ニ出シテ言フノモ不思議ニ恐レ多イ、山邊ノ五十師ノ原ト云フ所〔四字傍線〕ニ、(内日刺)大宮ヲ御作リ申シテアルガ、朝日ノヤウニ実シイ所ダヨ。夕日ノヤウニ心面白イ所ダ。(春山之)艶ニ美シク榮エテ、(秋判之〔三字傍線〕)色ノナツカシイ着物ヲ着テヰル〔七字傍線〕(百磯城之)大宮ニ仕ヘテヰル〔五字傍線〕人タチハ、天地日月ト共二、萬年ノ後マデモ、榮エナサルヤウニ〔八字傍線〕アリタイモノダ。
 
○八隅知之和期天皇高照日之皇子之《ヤスミシシワゴオホキミタカテラスヒノミコノ》――既出。卷一(五〇)參照。○聞食《キコシヲス》――支配部し給ふ。○御食都國《ミケツクニ》――御饌つ國。天皇の御饌に奉仕し、御膳の料を貢とする國。卷六に御食國志麻乃海部有之《ミケツクニシマノアマナラシ》(一〇三三)とあるが、ここは伊勢國を言つてゐる。○神風之《カムカゼノ》――枕詞。神風の息《イ》とつづくか。神風乃伊勢處女等《カムカゼノイセヲトメドモ》(八一)參照。○國見者之毛《クニミレバシモ》――ここ(212)が破調になつてゐるのは變である。國見者の下に脱字があるのではないかとの想像が浮ぶ。代匠記初稿本に「此下に之毛の上に、かんなにして五もじ落たり」とあり、考は阿夜爾久波《アヤニクハ》の五字脱かとしてゐる。略解はこれによつて、之は乏の誤で、アヤニトモシモかとしてゐるが、古義はこの國見者之毛を衍字としてゐる、遽かに斷じ難いが、寧ろ衍とする方が穩やかである。○水門成《ミナトナス》――湊の如く。水門《ミナト》は河口で、即ち河口の如くなつてゐる、舟を着けるによい灣が多い海と下へつづくのである。○海毛廣之《ウミモヒロシ》――舊訓ウミモユタケシを略解ウミモマヒロシと改めてゐる。マは不必要であらう。○見渡《ミワタシノ》――舊訓ミワタセル、考はミワタス、略解による。○島名高之《シマノナタカシ》――古義は名を毛に改めて、シマモタカシと訓んでゐる。舊訓のままがよい。古義はこの下に曾許乎志毛浦細美香《ソコヲシモウラグハシミカ》の九字を補つてゐる。○己許乎志毛《ココヲシモ》――これをの意。此處ではない。○間細美香母《マグハシミカモ》――マは接頭語。意味はない。クハシは美し。上からつづいて、この句は、この點がよいからかの意である。○山邊乃五十師乃原爾《ヤマノベノイシノハラニ》――卷一に山邊乃御井乎見我?利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》(八一)とあるところで、宣長の玉勝間には伊勢國鈴鹿郡山邊村の今の石藥師驛が、この五十師の原だといつてゐる。山邊は鈴鹿川の北岸で、石藥師村の東南十三町許の地である。今、山邊は河藝郡に、石藥師は鈴鹿郡に屬してゐる。併し予は五十師の原は壹志の原、即ち壹志郡の平野と考へてゐる。委しく評の部に記して置いた。○内日刺《ウチヒサス》――枕詞。大宮にかかる。四六〇參照。○大宮都可倍《オホミヤツカヘ》――略解に「大宮つかへは、大神宮の御事は天皇の大宮とひとしく申せり。是れより下は齋王の神宮に仕奉給ふさまを言ふ」とあるが、神宮から遠く離れてゐる山邊の五十師の原に齋王のおはします理由はない。これは唯、行宮を造り奉る意をかく言つたであらう。○朝日奈須《アサヒナス》――朝日の如く。○春山之《ハルヤマノ》――枕詞。譬喩としてもわるくはない。○四名比盛而《シナヒサカエテ》――シナヒは靡く。花の枝もたわわに咲き誇るを靡《シナ》ひ榮えといつたのである。○秋山之《アキヤマノ》――枕詞。色とつづく。○百磯城之《モモシキノ》――枕詞。大宮とつづく。二九參照。○大宮人者《オホミヤビトハ》――この大宮人は奉仕の女官であらうといはれてゐる。前の譬喩を見るとさう思はれる。○天地與日月共《アメツチヒツキトトモニ》――與の字は下につけて、ヒツキトとなるのであらう。上につけてアメツチトと訓む説はおもしろくない。卷二に天地日月與共《アメツチヒツキトトモニ》(二二〇)、卷十九に天地日月等登聞仁《アメツチヒツキトトモニ》(四二五四)とある。この語例に從ふべく、この用字法に囚はれてはいけない。
(213)〔評〕 この歌は始に伊勢の國の山河海島の形勝を説き、この國の山邊の五十師の原に設けられた行宮を禮讃しそこに奉仕する大宮人をことほいだもので、卷一に出てゐる柿本人麿の幸于吉野宮之時の歌(三六・三七・三八・三九)や同卷の藤原宮御井歌(五二)などと同種のもので、かういふ件が他にも赤人・金村などによつて作られてゐる。山邊の五十師原の所在が、判然しないのでその地形が明らかでなく、從つて、歌の解釋にもそれが影響するのは遺憾である。卷一の山邊乃御井乎見我?利神風乃伊勢處女等相見鶴鴨《ヤマノベノミヰヲミガテリカムカゼノイセヲトメドモアヒミツルカモ》(八一)の山邊の御井と同所らしく思はれるが、それが果して今の石藥師なりや否や、頗る疑はしい。卷六にかげた十二年庚辰冬十月依2太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀v反發1v軍幸2于伊勢國1之時河口行宮内舍人大伴宿禰家持作歌一首(一〇二九)の條に委しく説明したやうに、當時大和から伊勢への通路は伊賀を經て壹志郡へ出て、大神宮に語るので、特別の事情があつて、北方に赴かれるとしても、その通路は右の卷六の説明にあるやうな順序であつたらうと想像せられる。然るにこの歌は伊勢の形勝を讃へる詞のうちに、海に近く島を望むやうな南伊勢の氣分がおのづからあらはれてゐ、又、この宮は離宮のやうな常置のものらしく見える。且反歌によると附近に山がなくてはならぬ。著者もわざわざ實地を踏査して見たが、山邊・石藥師の附(214)近の地形は、宣長が玉勝間に「此山邊村はその野の東のはづれの、俄にくだりたるきはの低き所なる故に、東の方より見れば小山の麓なり。さればかの長歌の反に、おのづからなれる錦をはれる山かもとよめるも、西の方よりはただ平なる地の續なれども、東より見たる樣によりて山とはいへるなりけり」と言つてゐる通りであるが、山といふ感じが薄い。山田孝雄氏は山邊の御井の所在を、御鎭座本紀によつて、壹志郡新家村としてゐるのは注目すべき説である。併しここは、石藥師よりも一層平野の中にあつて、附近に山らしいものがない。眞淵は師を鈴の誤として、五十鈴の原かと言つてゐるが、予はこの五十師の原を一志の原として、一志郡の中心なる一志、(今の豐地村)附近の平地と見たいと思ふ。一志をイシと訓んだことは、三代實録第三參河介壹志宿禰にイシと點を附し、准后親房洞津考に、「天富饒はいしの郡しりきて云々」とあるのは、古訓を遺せるものであらう。さればイキを壹岐と記す如く、イシに壹志の文字を當てたものに違ひない。なほこの地に近く宮古村があり、上代離宮の所在たるを思はしめ、其處に忘井の名が遺つてゐるのは、この御井ではないかと思はれる。舊初瀬街道に添うて、上代の通路に當り、西方數町を距てて小山がある。なほこの歌の時代を宣長は持統天皇の御幸の時と推定してゐる。(215)歌風より推しておよそその頃と判斷してもよい。二一三頁の寫眞は豐地村一志附近の平地。森は豐地神社。著者撮影。二一四頁の寫眞は宮古村忘井。前面の木立あるところが忘井で碑が立つてゐる。著者撮影。
 
反歌
 
3235 山の邊の いしの御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも
 
山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃御井者《イシノミヰハ》 自然《オノヅカラ》 成錦乎《ナレルニシキヲ》 張流山可母《ハレルヤマカモ》
 
山邊村ノ五十師ノ御井ト云フ井ノアタリノ山ハ、佳イ景色ダガ、コレ〔ト云〜傍線〕ハ自然ニ出來タ錦ヲ張リ廻シタ山ダヨ。實ニ美シイモノダ〔八字傍線〕。
 
○自然成錦乎《オノヅカラナレルニシキヲ》――自然に出來た錦を。長歌には何等この作の季節を推定し得べき叙述がない。從つてこの錦は春の花、秋の紅葉のいづれを指すか明らかでない。卷六の錦成花咲乎呼里《ニシキナスハナサキヲヲリ》(一〇五三)によれば、春の花の風景である。
〔評〕 御井の後方に山が聳えてゐるのであらうが、五十師乃御井者《イシノミヰハ》と言つて、山可母《ヤマカモ》と受けたのは少し變である。この二首は卷一の藤原宮御井歌(五二)と何となく似た氣分である。
 
此歌入道殿下令讀出給
 
これは前の三二三一の場合と同じく、藤原道長の訓なる旨を記して置いたのである。この十字は舊本に、歌の下に直ちに續けて記してあるが、元麿校本・天治本などに無いのがよい。
 
右二首
 
3236 空みつ 大和の國 あをによし 奈良山越えて 山城の つづきの原 ちはやぶる 宇治の渡 瀧の屋の 阿後尼の原を 千歳に かくることなく 萬歳に 在り通はむと 石田の森の 皇神に ぬさ取り向けて 我は越え行く 相坂山を
 
(216)空見津《ソラミツ》 倭國《ヤマトノクニ》 青丹吉《アヲニヨシ》 寧山越而《ナラヤマコエテ》 山代之《ヤマシロノ》 管木之原《ツヅキノハラ》 血速舊《チハヤブル》 于遲乃渡《ウヂノワタリ》 瀧屋之《タギノヤノ》 阿後尼之原尾《アゴネノハラヲ》 千歳爾《チトセニ》 闕事無《カクルコトナク》 萬歳爾《ヨロヅヨニ》 有通將得《アリカヨハムト》 山科之《ヤマシナノ》 石田之森之《イハタノモリノ》 須馬神爾《スメガミニ》 奴差取向而《ヌサトリムケテ》 吾者越往《ワレハコエユク》 相坂山遠《アフサカヤマヲ》
 
(空見津)大和ノ國ノ(青丹吉)奈良山ヲ越エテ、山背ノ筒城ノ原ヤ(血速舊)宇治ノ渡ヤ瀧ノ屋ノ阿後尼ノ原ヲ、千年マデモ、缺ケルコトナク、萬年モカウシテ通ハウト、山科ノ石田ノ森ノ神樣ニ、幣ヲ取リ捧ゲテ、御願ヲシテ〔四字傍線〕私ハ相坂山ヲ越エテ行クヨ。
 
○空見津《ツラミツ》――枕詞。大和とつづく。一參照。○青丹吉《アヲニヲン》――枕詞。寧《ナラ》とつづく。一七參照。○寧山越而《ナラヤマコエテ》――寧山は奈良の都の北方に連る丘陵。寧は寧樂の略である。○山代之管木之原《ヤマシロノツヅキノハラ》――管木は仁徳天皇紀に「皇后還2山背1興2宮室於筒城岡南1而居之」とある地方で、和名抄「山城國綴喜郡綴喜郷豆々木」と見えてゐる。今も相樂郡と久世郡との中間に綴喜郡がある。管木之原は筒城宮のあつた綴喜郷の舊地で、今の普賢寺村三山木の邊の平坦地であらうと思はれる。卷九の春草馬咋山《ハルクサヲウマクヒヤマ》(一七〇八)と詠まれたあたりの西方に當つてゐる。舊本、管を菅に誤つてゐる。寫眞の中央の山が、筒城宮の舊址の後方の山で今田畑になってゐる所が、古への管木の原である。著者撮影。○血速舊《チハヤブル》――枕詞。いち速ぶる即ち勇猛な氏とつづく。○瀧屋之阿後尼之原尾《タギノヤノアゴネノハラヲ》――この地名が今、全くわからないが、歌の趣から推せば、宇治の北方、山科までの間かと思はれる。略解に「或人宇治三室村に有り、蜻蛉《カギロフ》野の一名と言へり。考ふべし。」とあるのは、右の推定に一致してゐる。○山科之石田之森之《ヤマシナノイハタノモリノ》――卷九に山品之石田乃小野之母蘇原《ヤマシナノイハタノヲヌノハハソハラ》(一七三〇)・山科之石田社爾《ヤマシナノイハタノモリニ》(一七三一)とあるのと同所で、今、六地藏から醍醐へ行く道の左手にある神社であらう。○須馬神爾《スメガミニ》――スメガミは皇神で、皇祖神を指すが、廣義では、すべての神を(217)いふ。○奴左取向而《ヌサトリムケテ》――幣を手に取り手向けて。○相坂山遠《アフサカヤマヲ》――相坂山は山城から近江へ出る堺の山。一〇一七の寫眞參照。
〔評〕 奈良から近江へ赴く通路が明瞭に詠まれてゐる。極めてはつきりした歌だ。この路を絶えず通ふ人の作であるが、近江朝の頃のものとしては歌風が新し過ぎるから、寧樂に都が遷つてからの作であらう。眞淵は「史生雜色の人など、近江を本屬にて、暇を給て通ひ行時の歌か」と言つてゐる。
 
3237 あをによし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川渡り をとめらに 相坂山に 手向草 絲取り置きて 我妹子に 淡海の海の 沖つ浪 來寄す濱邊を くれぐれと 獨ぞ我が來し 妹が目を欲り
 
或本歌曰
 
緑丹吉《アヲニヨシ》 平山過而《ナラヤマスギテ》 物部之《モノノフノ》 氏川渡《ウヂガハワタリ》 未通女等爾《ヲトメラニ》 相坂山丹《アフサカヤマニ》 手向草《タムケグサ》 絲取置而《イトトリオキテ》 我妹子爾《ワギモコニ》 相海之海之《アフミノウミノ》 奧浪《オキツナミ》 來因濱邊乎《キヨスハマベヲ》 久禮久禮登《クレグレト》 獨曾我來《ヒトリゾワガコシ》 妹之目乎欲《イモガメヲホリ》
 
(緑丹青)奈良山ヲ過ギテ、(物部之)宇治川ヲ渡ツテ、(未通女等爾)相坂山デ、神樣ニ〔三字傍線〕捧ゲル物トシテ絲ヲ取(218)ツテ供ヘテ、神樣オ祭リ〔五字傍線〕町(我妹子爾)近江ノ湖ノ、沖ノ浪ガ打チ寄セテ來ル濱邊ヲ辿ツテ〔三字傍線〕、妻ニ逢ヒタサニ心モ暗クナツテ、一人デ私ガヤツテ來タ。
 
○緑丹吉《アヲニヨシ》――舊本丹を青に誤つてゐる。西本願寺本に從ふ。○物部之《モノノフノ》――枕詞。氏とつづく。○未通女等爾《ヲトメラニ》――枕詞。逢ふの意で相坂につづく。○手向草《タムケグサ》――神に手向けるものとしての意。○絲取置而《イトトリオキテ》――絲は考に幣の誤とし、略解は幣か麻の誤として、いづれもヌサと訓んでゐる、併し原字を尊重して絲を神に捧げるものとしたい。甚《イト》の借字と見てはいけない。○吾妹子爾《ワギモコニ》――枕詞。相海《アフミ》とつづくのは前の未通女等爾相坂《ヲトメラニアフサカ》と連なるのと同樣である。○久禮久禮登《クレグレト》――闇々と。心の暗くなり、悲しむこと。卷五に都禰斯良農道乃長手袁久禮久禮等伊可爾可由迦牟可利弖波奈斯爾《ツネシラヌミチノナガテヲクレグレトイカニカユカムカリテハナシニ》(八八八)とある。○獨曾我來《ヒトリゾワガコシ》――舊訓ヒトリゾワガクルとあるのはよくない。
〔評〕 或本歌曰とあるが、前の長歌の異本とは思はれない。大和から近江へ赴く點が一致してゐるのみである。人麿の長歌に似た格調を持つてゐる。
 
反歌
 
3238 相坂を うち出て見れば 淡海の海 白木綿花に 波立ち渡る
 
相坂乎《アフサカヲ》 打出而見者《ウチデテミレバ》 淡海之海《アフミノウミ》 白木綿花爾《シラユフバナニ》 浪立渡《ナミタチワタル》
 
相坂山ヲ越エテ濱ニ〔五字傍線〕出テ見ルト、近江ノ湖ハ、白木綿デ作ツタ〔四字傍線〕花ノヤウニ、眞白ニ美シイ〔六字傍線〕浪ガ一面ニ立ツテヰる。
 
○相坂乎打出而見者《アフサカヲウチデテミレバ》――相坂山を越えて、湖水のほとりに出て見れば。代匠記初稿本に「ある人のいはく、近江にうち出の濱といふは此哥よりいひならへり」とある。打出の濱は今の、大津市松本石場邊にあたつてゐる。○白木綿花爾《シラユフバナニ》――白木綿花の如く。白木綿花は白い木綿の花。木綿花は木綿で造つた花。一九九・九一二・九〇(219)九・一一〇七・一七三六などにもある。
 
〔評〕 實に雄大な活動的場面が巧に詠まれてゐる。格調亦勁健。實朝の「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ」はこれを學んだか。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右三首
 
古義に三の字を二に改むべしといつてゐる。或本の歌を一緒にして通算するのは例はないが、誤とも言ひ難い。
 
3239 近江の海 泊八十あり 八十島の 島の埼埼 在り立てる 花橘を 末枝に 黐引きかけ 仲つ枝に 斑鳩かけ 下枝に しめを懸け なが母を 捕らくを知らに なが父を 捕らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩としめと
 
近江之海《アフミノウミ》 泊八十有《トマリヤソアリ》 八十島之《ヤソシマノ》 島之埼邪伎《シマノサキザキ》 安利立有《アリタテル》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 未枝爾《ホヅエニ》 毛知引懸《モチヒキカケ》 仲枝爾《ナカツエニ》 伊加流我懸《イカルガカケ》 下枝爾《シヅエニ》 此米乎懸《シメヲカケ》 己之母乎《ナガハハヲ》 取久乎不知《トラクヲシラニ》 己之父乎《ナガチチヲ》 取久乎思良爾《トラクヲシラニ》 伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》 伊加流我等此米登《イカルガトシメト》
 
近江ノ湖ニハ舟ノ泊ル所ガ澤山アル。ソノ舟着場ノ〔六字傍線〕澤山ノ島ノ岬々ニ、古カラ立ツテヰル花橘ノ木ガアルガ、ソノ木ノ〔四字傍線〕上ノ方ノ枝ニハ、黐ヲ引キカケ、中ノ枝ニハ媒鳥トシテ〔五字傍線〕斑鳩ヲカケ、下ノ枝ニハ※[旨+鳥]《シメ》ヲカケテ、私ハ鳥狩ヲスルガ、コノ枝ニカケラレタ媒島ドモハ〔私ハ〜傍線〕、オマヘノ母ヲ捕ルノモ知ラズ、オマヘノ父ヲ捕ルノモ知ラズニ斑鳩ト※[旨+鳥]トフザケテ居ルヨ。
 
○近江之海泊八十有《アフミノウミトマリヤソアリ》――泊は船の泊るところ。港。卷七に近江之海湖者八十《アフミノウミミナトハヤソヂ》(一一六九)、卷十に天漢河門八十有《アマノカハカハトヤソアリ》(二〇(220)八二)とある。○八十島之《ヤソシマノ》――上の八十を受けたので、實際は近江の湖水には、八十島といふ程の多くの島はないやうである。○安利立有《アリタテル》――在通《アリカヨフ》などのアリに同じく、ありありて立てる。生えて立つてゐるの意。○毛知引懸《モチヒキカケ》――黐を引き懸け。引懸けとあるから、黐繩などを引張るのであらう。○伊加流我懸《イカルガカケ》――イカルガは斑鳩、俗に豆マハシといふ鳥。○此米乎懸《シメヲカケ》――此米は今もシメといふ小鳥。元暦校本などの古本は此を比に作つてゐる。この二鳥については卷一の六の左註の解參照。○己之母乎《ナガハハヲ》――舊訓サガハハヲ、略解はシガハハヲとあるが、卷九の劔刀己之心柄《ツルギタチナガココロカラ》(一七四一)に傚つて、ナガと訓むことにしよう。○取久乎不知《トラクヲシラニ》――トラクはトルの延言。舊訓はシラズとある。下に思良爾《シラニ》と記されたるに對比すれば、ここはシラズがよいやうであるが、不知は多くシラニと訓んであるから、さう訓むがよい。○伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》――イソバヒは枕草子に「つねにたもとをみ、人にくらべなど、えもいはず思ひたるを、そばへ〔三字傍点〕たる小舍人童などに引留められて、なきなどするもをかし」とあるそばへ〔三字傍点〕と同語で、ふざけることである。多分イは接頭語であらう。今も方言でソバヘルと言つてゐるところがある。
〔評〕 童謠式内容と格調とを備へてゐて、齊明紀や天智紀の童謠が想ひ浮べられる。古義に「此歌は中山嚴水云こは天武天皇の吉野に入座し後、大友皇子の天武天皇を襲ひ賜はむとて、しのびしのびに軍の設などせさせおはすを見て、天武天皇に志ある臣のよみて、二人の皇子等に諷し奉りたる歌なるべしといへり。信にさもありなむ云々」と述べてゐる。近江の海云々とあるのは近江朝廷に關する童謠なることを思はしめる點はあるが、斑鳩と※[旨+鳥]とを高市皇子・大津皇子に譬へたやうに考へるのは、あまり過ぎてゐよう。面白い作である。
 
右一首
 
3240 大王の 命恐み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 眞木積む 泉の河の 速き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる 宇治の渡の 瀧つ瀬を 見つつ渡りて 近江路の 相坂山に 手向して 吾が越えゆけば さざなみの 志賀の韓埼 幸くあらば また還り見む 道の隈 八十隈毎に 嗟きつつ 吾が過ぎゆけば いや遠に 里離り來ぬ 彌高に 山も越え來ぬ 劍刀 鞘ゆ拔き出でて 伊香胡山 如何にか吾がせむ 行方知らずて
 
王《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 雖見不飽《ミレドアカヌ》 楢山越而《ナラユアマコエテ》 眞木積《マキツム》 泉河乃《イヅミノカハノ》 速瀬《ハヤキセヲ》 竿刺渡《サヲサシワタリ》 (221)千早振《チハヤブル》 氏渡乃《ウヂノワタリノ》 多企都瀬乎《タキツセヲ》 見乍渡而《ミツツワタリテ》 近江道乃《アフミヂノ》 相坂山丹《アフサカヤマニ》 手《タ》 向爲《ムケシタ》 吾越往者《ワガコエユケバ》 樂浪乃《サザナミノ》 志我能韓埼《シガノカラサキ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》 道前《ミチノクマ》 八十阿毎《ヤソクマゴトニ》 嗟乍《ナゲキツツ》 吾過徃者《ワガスギユケバ》 彌遠丹《イヤトホニ》 里離來奴《サトサカリキヌ》 彌高二《イヤタカニ》 山文越來奴《ヤマモコエキヌ》 劔刀《ツルギタチ》 鞘從拔出而《サヤユヌキイデテ》 伊香胡山《イカゴヤマ》 如何吾將爲《イカニカワガセム》 往邊不知而《ユクヘシラズテ》
 
佐渡ヘ島流シニスルゾト云フ〔佐渡〜傍線〕天子樣ノ勅ヲ、恐レ謹ンデ承ツテ、奈良ノ都ヲ離レテ、イクラ見テモ見飽キナイ奈良山ヲ越エテ、檜ノ材木ヲ積シデ置ク泉川ノ流ノ〔二字傍線〕速イ瀬ヲ、船ニ〔二字傍線〕竿サシテ渡ツテ、(千速振)宇治ノ渡場ノ、水ガ泡立ツテ流レル瀬ヲ見ナガラ渡ツテ、近江街道ノ相坂山デ、神樣ニ幣ヲ〔五字傍線〕手向ケテ無事ヲ祈ツテ〔六字傍線〕、私ガ山ヲ〔二字傍線〕越エテ行クト、樂浪《サザナミ》ノ志賀ノ韓埼ニ出ルガコノ韓埼ヲ若シ〔ニ出〜傍線〕無事デヰルナラバ、又再ビ還ツテ來テ見ヨウト〔傍線〕、道ノ曲リ角ノ、多クノ曲リ角毎ニ、歎息シナガラ私ガ通ツテ行クト、益々遠ク故〔傍線〕郷トハ離レテ來タ。益々高ク山モ越エテ來タ。行末ドウナルトモ分ラナイデ、私ハ(劔刀鞘從拔出而伊香胡山)何トシタモノデアラウゾ。アア困ツタモノダ〔八字傍線〕。
 
○眞木積《マキツム》――舊訓マキツメルとあるが、古義の訓がよい。川を運んで來た檜材を泉川の邊に積んであつたのである。卷一に泉乃河爾持越流眞木乃都麻手乎《イヅミノカハニモチコセルマキノツマデヲ》(五〇)とある。○千速振《チハヤブル》――枕詞。氏とつづく。○氏渡乃《ウヂノワタリノ》――宇治川の渡場の。○多企都瀬乎《タギツセヲ》――瀧つ瀬を。考に企は宜の誤とあるが、清音の文字を濁音に用ゐた例は他にもあるから、これも誤とは言はれない。○道前《ミチノクマ》――道の隈。道の曲角。前をクマと訓むのは、檜隈を檜前と記すと同樣である。○八十阿毎《ヤソクマゴトニ》――阿をクマと訓むことに就いては、卷一|八十阿不落《ヤソクマオチズ》(七九)參照。○劔刀鞘從拔出而伊香胡山《ツルギタチサヤユヌキイデテイカゴヤマ》――この三句は如何《イカニ》と言はむ爲の序詞であるが、劔刀鞘從拔出而《ツルギタチサヤユヌキイデテ》は伊香胡の序詞である。イは接頭語(222)で、劍を撃つことをカクといふのである。崇神天皇紀に「八廻撃刀《ヤタビタチカキヌ》」と訓んでゐる。伊香胡山は卷八に伊香山野邊爾開有《イカゴヤマヌベニサキタル》(一五三三)とあり、近江伊香郡、今の賤ケ獄の南嶺。途中通過したところを序詞に用ゐたのである。○如何吾將爲《イカニカワガセム》――イカガと訓みたいところだが、如何はイカニと訓む方がよい。
〔評〕 勅命によつて大和を出で、奈良山を越えて泉川・宇治川を渡つて相坂山を越えて近江に入り、更に伊香胡山を通過して越路に入る者の歌で、反歌の左註に、穗積朝臣老が佐渡に配流せらるる時の作歌とあるのはこの歌をも含むものと見るべきである 歌調も比較的新しく、又、王命恐《オホキミノミコトカシコミ》雖…‥道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマゴトニ》は卷一の從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌(七九)に似、樂浪乃志我能韓埼幸有者《ササナミノシガノカラサキサキクアラバ》は卷一の人麿の樂浪之思賀乃辛碕雖幸有《ササナミノシガノカラサキサキクアレド》(三〇)と同じく、彌遠丹里離來禰高二山文越來奴《イヤトホニサトサカリキヌイヤタカニヤマモコエキヌイヤトホニサトハサカリヌイヤタカニヤマモコエキヌ》は卷二の人麿の彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴《イヤトホニサトハサカリヌイヤタカニヤマモコエキヌ》(一三一)と酷似してゐる。人麿以後の作たることは疑がないから、穗積朝臣老の作としてさしつかへがない。もしさう推定するならば彼が佐渡に配流に逢つた養老六年正月の作である。遠流を悲しむ情はあらはれてゐるが、劍刀鞘從拔出而伊香胡山《ツルギタチサヤユヌキイデテイカゴヤマ》の序詞が、奇拔なだけで、さほど秀でた作ではない。
 
反歌
 
3241 天地を 歎き乞ひのみ 幸くあらば またかへり見む 志賀の韓埼
 
天地乎《アメツチヲ》 歎乞祷《ナゲキコヒノミ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》 思我能韓埼《シガノカラサキ》
 
天ツ神ヤ〔三字傍線〕國ツ神〔二字傍線〕ヲ歎キナガラオ願ヒシテ祈ツテ、若シ願ガ屆イテ〔七字傍線〕、無事デアツタラナラバ、又コノ〔二字傍線〕志賀ノ韓埼ヲ還ツテ來テ見マセウ。ドウゾ無事デ還リタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○天地乎《アメツチヲ》――天神地祇即ち天つ神・國つ神といふべきを略して、かう言つたのである。○歎乞祷《ナゲキコヒノミ》――舊本、歎を難に作りコヒネギカタシと訓んでゐる。古本すべて難とあるが、考の説によつて歎に改むべきである。
(223)〔評〕卷三に穗積朝臣老歌として吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪《ワガイノチシマサキクアラバマタモミムシガノオホツニヨスルシラナミ》(二八八)と載せてあるのと内容も略々等しく、氣分も亦同じであるから、同時の歌と見える。悲しい感情が溢れてゐる。
 
右二首 但此短歌者或書(ニ)云(フ)穗積朝臣老配(セラレシ)2於佐渡1之時作(レル)歌者也
 
短歌のみではなく長歌も、佐渡配流の時の作なることは右に述べた如くである。この人の配流のことは、續日本紀に「養老六年正月癸卯朔壬戌、坐3正E五位上穗横朝臣老指2斥乘輿1處2斬刑1而依2皇太子奏1、降2死一等1配2流於佐渡島1」と見えてゐる。歌の下の者は衍か。
 
3242 ももきね 美濃の國の 高北の くくりの宮に 日向ひに 行きなびかくを ありとききて 吾が通路の 於吉蘇山 美濃の山 靡けと 人は踏めども 斯く依れと 人は衝けども 意無き山の 於吉蘇山 美濃の山
 
百岐年《モモキネ》 三野之國之《ミヌノクニノ》 高北之《タカギタノ》 八十一隣之宮爾《ククリノミヤニ》 日向爾《ヒムカヒニ》 行靡闕矣《ユキナビカクヲ》 有登聞而《アリトキキテ》 吾通道之《ワガカヨヒヂノ》 奧十山《オキソヤマ》 三野之山《ミヌノヤマ》 靡得《ナビケト》 人雖跡《ヒトハフメドモ》 如此依等《カクヨレト》 人雖衝《ヒトハツケドモ》 無意山之《ココロナキヤマノ》 奧礒山《オキソヤマ》 三野之山《ミヌノヤマ》
 
(百岐年)美濃ノ國ノ高北ノ久々利ノ宮ノ西ノ方ニ、姿ノヤサシイ女ガ居ルトイフコトヲ聞イテ、私ハソノ女ノ所ヘ通ツテ行キタイノダガ〔私ハ〜傍線〕私ガ通ツテ行クベキ路ニハ大吉蘇山ダノ美濃山ダノガアツテ、思フヤウニ通フコトモ出來ナイノデ、ソノ〔大吉〜傍線〕大吉蘇山ヤ美濃山ヲ、横ニ〔二字傍線〕靡ケトイツテ人ガ踏ミツケ、カウ側ヘ〔二字傍線〕寄レトイツテ〔三字傍線〕突クケレドモ、無情ナル山ノ大吉蘇山、美濃山ハ少シモ言フコトヲキカズニ、平然トシテヰルヨ〔ハ少〜傍線〕。
 
○百岐年《モモキネ》――舊訓モモクキネとあり、契沖は百岫嶺ある美濃とつづくと解してゐる。下に百小竹之三野王《モモシヌノミヌノオホキミ》(三三二七)とあり、考には百詩年《モモシネ》の誤であらうと言つてゐる。古義は百傳布《モモツタフ》の誤として、「集中に百傳布八十之島廻《モモツタフヤソノシマミ》といひ、古事記に毛々豆多布都奴賀《モモツタフツヌガ》、書紀に百傳度逢縣《モモツタフワタラヒガタ》などあるに同じかるべし」といつてゐる。よい説と思は(224)れるものもないから、文字通に訓んで暫らく後考を待たう。○三野之國之《ミヌノクニノ》――美濃の國の。○高北之八十一隣之宮爾《タカギタノククリノミヤニ》――景行天皇紀に「四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸2美濃1云々居2于泳宮1泳宮此云2區玖利能彌椰1」とあり、今、美濃國可兒郡久久利村にこの宮の舊址と稱するものが遺つてゐる。高北はよく分らないがこの邊の總稱であら。一説に高き區分《キタ》の意で、高原のことであらうとある。八十一《クク》は例の戯書である。○日向爾《ヒムカヒニ》――西の方にの意か。考にヒムカシニと訓み、古義は日月爾の誤でツキニヒニかと言つてゐる。或は日毎爾《ヒゴトニ》の誤ではあるまいか。○行靡闕矣《ユキナビカクヲ》――−考は靡は紫の誤で、イデマシノミヤヲと訓み、古義は行麻死里矣と改めてユカマシサトヲと訓んでゐる。新訓はユキナムミヤとなる、闕は集中の用例はすべてカクとあり、宮闕の意でミヤに用ゐたものがないから、ミヤと訓むことは考ふべきであらう。ナビカクは靡クの延言であらう。行き靡かくとは女のなよなよとして道を行く樣を言ふか。○奧十山《ヲキソヤマ》――木曾は信濃(225)西筑摩郡で信濃の南端になつてゐる。奈良朝の頃は美濃惠那郡に屬してゐた。三代實録に吉蘇・小吉蘇の村があつて南部を吉蘇とし、北部を小吉蘇と言つたのである。奧十《オキソ》は即ち大吉蘇で小吉蘇に對して南部の山々を指したものに違ひない。久は利からすれば東北方に當つてゐる。○三野之山《ミヌノヤマ》――一般的にこのあたりの山を言つたのであらう。武儀郡に美濃の地があるが、久々利の西北方に當つてゐるから、そこには關係はない。○人雖跡《ヒトハフメドモ》――跡を踏に用ゐてある。
〔評〕 高北の久久利地方に行はれた童謠かも知れない。歌詞がかなり古朴であるから、人麿以前であらう。彼が靡此山《ナビケコノヤマ》と詠んだのはこの歌に傚つたものかも知れない。又曰、奧十山を越えて久久利の宮に通ふとすると、信濃方面の人の歌となる。當時極めて人烟稀薄であつた岐蘇地方から、險岨な道を通つて來ることは、(文武天皇の大寶二年十二月に岐蘇山道は始めて開けた)事實としてはをかしいやうである。或は傳説的の作品か。
 
右一首
 
3243 處女らが 麻笥に垂れたる 績麻なす 長門の浦に 朝なぎに 滿ち來る潮の 夕なぎに 寄り來る波の その潮の いや益益に その浪の いやしくしくに 吾妹子に 戀ひつつ來れば 阿胡の海の 荒磯の上に 濱菜つむ 海人處女ども うながせる 領巾もてるがに 手に纏ける 玉もゆららに 白妙の 袖振る見えつ 相思ふらしも
 
處女等之《ヲトメラガ》 麻笥垂有《ヲケニタレタル》 續麻成《ウミヲナス》 長門之浦丹《ナガトノウラニ》 朝奈祇爾《アサナギニ》 滿來鹽之《ミチクルシホノ》 夕奈祇爾《ユフナギニ》 依來波乃《ヨリクルナミノ》 彼鹽乃《ソノシホノ》 伊夜益舛二《イヤマスマスニ》 彼浪乃《ソノナミノ》 伊夜敷布二《イヤシクシクニ》 吾妹子爾《ワギモコニ》 戀乍來者《コヒツツクレバ》 阿胡之海之《アゴノウミノ》 荒磯之於丹《アリソノウヘニ》 濱菜採《ハマナツム》 海部處女等《アマヲトメドモ》 纓有《ウナガセル》 領巾文光蟹《ヒレモテルガニ》 手二卷流《テニマケル》 玉毛湯良羅爾《タマモユララニ》 白栲乃《シロタヘノ》 袖振所見津《ソデフルミエツ》 相思羅霜《アヒモフラシモ》
 
(處女等之麻笥垂有續麻成)長門ノ浦ニ朝ノ風ノ和イダ時ニ、滿チテ來ル汐ノ、夕方風ノ和イダ時ニ、寄セテ來ル(226)波ノ、ソノ朝〔傍線〕汐ノヤウニ彌益シテ、又ソノ夕〔傍線〕波ノヤウニ彌繁ク、私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ニ戀ヒ焦レナガラヤツテ來ルト、阿胡ノ海ノ荒磯ノ上ニ、濱ノ菜ヲ摘ム海人ノ少女等ガ、頸ニカケテ居ル領巾モ輝クホドニ、手ニ纏イテアル玉モカラカラト音ヲ立テテ、(白栲乃)袖ヲ振ルノガ見エタ。アノ女モ私ヲ〔六字傍線〕思フラシイヨ。
 
○處女等之麻笥垂有續麻成《ヲトメラガヲケニタレタルウミヲナス》――長と言はむ爲の序詞。少女等が麻笥に垂れた續いだ麻の如く長い意である。麻笥に垂れるとは麻を麻桶の中に段々につなぎ入れること。卷六に續麻成長柄之宮爾《ウミヲナスナガラノミヤニ》(九二八)とあつた。○長門之浦丹《ナガトノウラニ》――長門の浦は安藝國安藝那倉橋島にあるといふ。卷十五に安藝國長門嶋舶泊2礒邊1作歌として、和我伊能知乎奈我刀能之麻能《ワガイノチヲナガトノシマノ》(三六二一)及び、從2長門浦1舶出之夜仰2觀月光1作歌(三六二二)とある。倉橋島は音戸瀬戸のある島で、江田島のある能美島の東南方に横はつた大きな島である。○彼鹽乃《ソノシホノ》――舊本、波鹽乃とありナミシホノとよんでゐるが、類聚古集に波を彼に作つてゐるに從ふべきである。○阿胡之海之《アゴノウミノ》――阿胡の海は何處にあるかわからない。長門の浦に近いところであらう。代匠記精撰本に「阿胡之海は奈呉海にて攝州なり」「都より安藝の國に下りて住人の、任官の限など滿て歸り上るとて、難波まで來て云々」とあるのは全然誤つてゐる。今、呉軍港の東に阿賀町があるから、その前面の海を上代は阿胡の海と稱したのであるまいか。ここは倉橋島の東方に接したところである。○濱菜採《ハマナツム》――濱菜は濱に生ずる菜。磯菜といふのも同じで、海邊に生ずる草の食ふべきをいふ。○海部處女等《アマヲトメドモ》――舊訓はアマヲトメラガとあるが古義の訓がよい。○纓有《ウナガセル》――舊訓マツヒタルとあるのを、考はウナガセルとしてゐる。古事記に宇那賀世流多麻能美須麻流《ウナガセルタマノミスマル》とあるから、古義の訓がよい。頸に懸けること。○領巾文光蟹《ヒレモテルガニ》――領巾も照り輝くほどに。○玉毛湯良羅爾《タマモユララニ》――玉がからからと鳴るほどに。ユララは玉の鳴る音である。○白栲乃《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。○相思羅霜《アヒモフラシモ》――あの海人少女も我を思ふらしいよとといふのである。略解に「これは吾故郷の妹を戀つつくれば、此海士處女も、吾妹を相思ふやらむ袖をふると言ふ意也」とあるのは、全く見當違ひであらう。
〔評〕 瀬戸内海を東に向つて都へ歸る人の歌であらう。故郷の妻を戀しく思ひつつ漕ぎ行くうちに、濱邊で舟を目(227)がけて領巾を振る海士處女を見て心を慰める歌である。船中の即興、長閑な旅行氣分である。
 
反歌
 
3244 阿胡の海の 荒磯の上の さざれ浪 吾が戀ふらくは 息む時もなし
 
阿胡乃海之《アゴノウミノ》 荒磯之上之《アリソノウヘノ》 小浪《サザレナミ》 吾戀者《ワガコフラクハ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
阿胡ノ海ノ荒磯ノ上ニ打チヨセル〔五字傍線〕漣ノヤウニ、吾ガ妻ヲ〔二字傍線〕戀シク思フコトハ、止ム時モナイ。私ハ絶エズ妻ヲ思ツテヰルヨ〔私ハ〜傍線〕。
 
○小浪《サザレナミ》――舊訓サザナミとあるが、サザレナミがよい。
〔評〕 上の三句は息時毛無《ヤムトキモナシ》につづく序詞とも見られないことはないが、ここは小浪の如くを略したものと見るべきであらう。吾戀者息時毛無《ワガコフラクハヤムトキモナシ》は卷十一の白細布乃《シロタヘノ》(二六一二)、この下の小治田之《ヲハリダノ》(三二六〇)などにある句であり、又卷四の千島嶋《チドリナク》(五二六)の如くこれを轉倒したものもある。この歌は前のものに比して、遙かに時代が新しい。
 
右二首
 
3245 天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月よみの 持たるをち水 い取り來て 君にまつりて をち得しむもの
 
天橋文《アマハシモ》 長雲鴨《ナガクモガモ》 高山文《タカヤマモ》 高雲鴨《タカクモガモ》 月夜見乃《ツクヨミノ》 持有越水《モタルヲチミヅ》 伊取來而《イトリキテ》 公奉而《キミニマツリテ》 越得之早物《ヲチエシムモノ》
 
天ニ道ズル〔五字傍線〕天ノ橋モ長ク天マデ屆イテ〔六字傍線〕アリタイモノダ。高イ山モイヨイヨ〔七字傍線〕高クテ天ヘ登ルノニ都合ヨイヤウニ〔テ天〜傍線〕アリタイモノダ。私ハ高イ山ニ登ツ、天ノ橋ヲ辿ツテ月世界マデモ行ツテ〔私ハ〜傍線〕、オ月樣ガ持ツテ居ラレル若クナ(228)ル水ヲ取ツテ來テ、ソレヲ貴方樣ニ捧ゲテ貴方樣ノ〔ソレ〜傍線〕御年ガ若返ツテイツマデモ若クイラツシヤ〔ツテ〜傍線〕ルヤウニシタイヨ。
 
○天橋文《アマハシモ》――アマハシは天へ昇る階。即ち天の浮橋などと同樣の考である。○月夜見乃《ツクヨミノ》――月を月毒といふことは、月讀之《ツクヨミノ》(六七〇)・月讀之《ツクヨミノ》(六七一)その他、例が多い。○持有越水《モタルヲチミズ》――舊訓にモチコセルミヅとあるのが、行はれて來たが、古義にモタルヲチミヅと訓んだのは、動かし難い名訓である。ヲチミヅは變若水。即ち飲めば若がへる水。○伊取來而《イトリキテ》――イは接頭語。○越得之早物《ヲチエシムモノ》――舊訓コユルトシハヤモでは全くわからないし略解に早を牟の誤として訓んだのがよい。若變らしむものをの意。新解に越得之旱母としてヲチエテシカモと訓んだのも良訓のやうである。
〔評〕 月世界の水を取り來つて、君に捧げ若がへらせてあげたいといふので、變若水の思想は卷六の從古人之言來流老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬《イニシヘユヒトノイヒクルオイビトノヲツトフミヅゾナニオフタギノセ》(一〇三四)とあるやうに、かなり廣まつてゐた思想で、養老改元の事さへあつたほどである。殊にこれは月の世界の水であるから、外國思想に出たことは明瞭であるつ。當時流行した神仙思想の一つのあらはれと言つてよい。
 
反歌
 
3246 天なるや 月日の如く 吾が思へる きみが日にけに 老ゆらく惜しも
 
天有哉《アメナルヤ》 月日如《ツキヒノゴトク》 吾思有《ワガモヘル》 公之日異《キミガヒニケニ》 老落惜毛《オユラクヲシモ》
 
天ニアル月ヤ日ノヤウニ、私ガ大切ニ貴ク〔五字傍線〕思ツテヰル貴方樣ガ、日増シニ年ヲトツテ行カレルノガ、殘念ニ思ハレルヨ。
 
○天有哉《アメナルヤ》――ヤは輕く添へた歎辭のみ。古事記に阿米那流夜淤登多那婆多能《アメナルヤオトタナバタノ》とあるに同じ。古義は天照哉《アマテルヤ》の誤と(229)してゐる。○月日如《ツキヒノゴト》――古義は日月の誤でヒツキノゴトクであらうといつてゐるが、改める要はない。○老落惜毛《オユラクヲシモ》――オユラクは老ゆるの延言。
〔評〕 尊貴の人の老を悲しんだものである。どんな身分の人の作か分らないが、内容から見ると君を日月に譬へてあり、長歌の方には神仙思想が見えてゐるから、當時の智識階級の作たることは疑はれない。
 
右二首
 
3247 渟名河の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも
 
沼名河之《ヌナガハノ》 底奈流玉《ソコナルタマ》 求而《モトメテ》 得之玉可毛《エシタマカモ》 拾而《ヒロヒテ》 得之玉可毛《エシタマカモ》 安多良思吉君之《アタラシキキミガ》 老落惜毛《オユラクヲシモ》
 
沼名河ノ底ニアル玉。ワザワザ〔四字傍線〕捜シテ取ツタ玉デアラウカヨ。ソレトモ〔四字傍線〕拾ツテ得タ玉デアラウカヨ。ソノ玉ノヤウニ〔七字傍線〕アタラ惜シイモノト思ツテ、私ガ大切ニシテヰル〔モノ〜傍線〕貴方樣ガ年ヲトツテ行カレルノハ惜シイモノデスヨ。
 
○渟名河之《ヌナガハノ》――沼名河は何處にある河とも知り難いが、綏靖天皇を神渟名川耳《カムヌナカハミミノ》尊と申すのは大和の地名であらう。大和譯語田の舊名を渟名《ヌナ》と言つたのかも知れない。又攝津風土記によれば「昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出而巡2行天下1、※[不/見]2可v住國1、到2沼名椋之長岡之前1前者今神宮南邊、是其地乃謂斯實可v住之國、遂讃稱之云2眞住吉之國1、乃是定神社、今俗略之、直稱2須美乃叡1、とあるから、攝津にも沼名の地があつたのである。古義に「天安河の中にある渟名井と同じ處を云なるべし」とあるのは從ひ難い。○得之玉可毛《エシタマカモ》――舊訓エテシタマカモとあるが、テを添へない方がよい。○安多良思吉君之《アタラシキキミガ》――アタラシキは、あたら惜しき意。
〔評〕 これも君の老を悲しむ歌である。君を沼名河の玉に譬へて、如何にも貴ささうに詠んでゐる。この歌と前の歌に君とあるのは、親をさすのではないかと思ふ。當時孝を尊んで、孝子を表彰したことが見えてゐる。他(230)人の壽を祈るものとしては、老落惜毛《オユラクヲシモ》がふさはしくない。
 
右一首
 
相聞 此中長歌十九首
 
この註は後人の加へたもの。元暦校本にはない。
 
3248 敷島の やまとの國に 人多に 滿ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひや明かさむ 長きこの夜を
 
式島之《シキシマノ》 山跡之土丹《ヤマトノクニニ》 人多《ヒトサハニ》 滿而雖有《ミチテアレドモ》 藤浪乃《フヂナミノ》 思纏《オモヒマツハリ》 若草乃《ワカクサノ》 思就西《オモヒツキニシ》 君目二《キミガメニ》 戀八將明《コヒヤアカサム》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》
 
(式島之)日本國ニ人ハ澤山ニ滿チ滿チテ居ルケレドモ、私ガ〔二字傍線〕(藤浪乃)思ヒ纏ヒツイテ焦レテ〔三字傍線〕居ル(若草乃)ナツカシク思ヒ、心ヲヨセテヰル貴方ニ逢ヒタサニ、長イコノ夜ヲ戀シク思ツテ明カスコトデアラウカ。
 
○式島之《シキシマノ》――枕詞。磯城島のある大和の國の意。磯城島は崇神天皇の皇居が、磯城瑞籬宮にあつたことに起るといはれてゐる。○山跡之土丹《ヤマトノクニニ》――この山跡は畿内の大和ではなく、日本の總稱である。○滿而雖有《ミチテハアレドモ》――舊訓イハミテアレドとあるのも聞えるが、却つて平凡にミチテハと訓む方がよからう。○藤浪乃《フヂナミノ》――枕詞。纏《マツハリ》にかかる意は明らかである。○若草乃《ワカクサノ》――ー枕詞。なつかしい意で思就《オモヒツキ》の枕詞として用ゐられるのであらう。古義には句を距てて、君につづくとしてゐる。○思就西《オモヒツキニシ》――上の思纏《オモヒマツハリ》に對した語で、戀しいと思ひ、心を寄せたこと。○君目二《キミガメニ》―――舊本に目自に誤つて、キミヨリニと訓んでゐるが、元暦校本に目とあるに從ふべきである。君に逢ふことをの意である。
 
〔評〕 卷四の人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者《ヒトサハニクニニハミチテアヂムラノユキキハユケドワガコフルキミニシアラネバ》(四八五)と相似た内容である。極めて純な素朴(231)な歌であるが、藤浪乃、若草乃の二句は麗はしい感情を添へてゐる。
 
反歌
 
3249 敷島の 日本の國に 人二人 ありとし念はば 何かなげかむ
 
式島乃《シキシマノ》 山跡乃土丹《ヤマトノクニニ》 人二《ヒトフタリ》 有年念者《アリトシモハバ》 難可將嗟《ナニカナゲカム》
 
(式島乃)日本國ノウチニ、戀シイ貴方ト云フ〔八字傍線〕人ガ二人アリト思フナラバ、何シニ私ハ〔二字傍線〕嘆キマセウゾ。貴方ヨリ外ニハ無イカラコンナニ戀シイノデス〔貴方〜傍線〕。
 
○難可將嗟《ナニカナゲカム》――何に難を用ゐたのは音を借りたのである。難は山攝寒韻 n 音尾の字であるから、ナニに用ゐられるのである。この下にも、吾哉難二加《ワレヤナニニカ》(三二六五)とある。
〔評〕 卷十二の打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドワガモフキミハタダヒトリノミ》(二三八二)と相似てゐる。至純至情、愛慕の嗟嘆が、聞く人をして涙せしめずには置かない。
 
右二首
 
3250 蜻蛉島 日本の國は 神からと 言擧せぬ國 然れども 吾は言擧す 天地の 神もはなはだ 吾が念ふ 心知らずや 往く影の 月も經ゆけば 玉かぎる 日もかさなり 念へかも 胸安からぬ 戀ふれかも 心の痛き 末つひに 君に逢はずは 吾が命の 生けらむ極 戀ひつつも 我はわたらむ まそ鏡 正目に君を 相見てばこそ 吾が戀止まめ
 
蜻島《アキツシマ》 倭之國者《ヤマトノクニハ》 神柄跡《カムカラト》 言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》 雖然《シカレドモ》 吾者事上爲《ワレハコトアゲス》 天地之《アメツチノ》 神毛甚《カミモハナハダ》 吾念《ワガオモフ》 心不知哉《ココロシラズヤ》 往影乃《ユクカゲノ》 月文經徃者《ツキモヘユケバ》 玉限《タマカギル》 日文累《ヒモカサナリ》 念戸鴨《オモヘカモ》 ※[匈/月]不安《ムネヤスカラヌ》 戀列鴨《コフレカモ》 心痛《ココロノイタキ》 未遂爾《スヱツヒニ》 君丹不會者《キミニアハズハ》 吾命乃《ワガイノチノ》 生極《イケラムキハミ》 (232)戀乍文《コヒツツモ》 吾者將度《ワレハワタラム》 犬馬鏡《マソカガミ》 正目君乎《マサメニキミヲ》 相見天者社《アヒミテバコソ》 吾戀八鬼目《ワガコヒヤマメ》
 
(蜻島)日本國ハヨイ〔二字傍線〕神樣ダカラ、昔カラ兎ヤ角ト〔七字傍線〕言葉ニ角立テテ言ヒ爭ハ〔五字傍線〕ナイ國ト言ハレテ居ル〔七字傍線〕。併シナガラ私ハ言ハナイデハ居ラレナイ。何故カト云フト〔七字傍線〕、天ノ神モ地ノ神モ、私ガコレ程マデモ深ク〔八字傍線〕念ツテヰル心ノ中ヲ知ラナイノデアラウカ。(往影乃)月モ經テ行クト、(玉限)日モ重ナツテ、永イ間アノ人ヲ心ニ戀シク〔永イ〜傍線〕思フカラカ、胸ガ穩ヤカデナイノダラウ。戀シガツテヰルノデ、心ガ悲シイノデアラウ。コノ樣子デハ〔六字傍線〕末マデモ遂ニ貴方ニ逢ハナイナラバ、私ノ壽命ノアル間ハ、戀ヒ慕ヒナガラ私ハ暮シテヰルコトダラウ。モシ〔二字傍線〕(犬馬鏡)直接ニ貴方ニオ目ニカカツタナラバコソ、私ノ戀モ止ムデアラウ。サモナクバ、トテモコノ戀ノ煩悶ハ止ムコトハアルマイ。困ツタモノダ〔サモ〜傍線〕。
○蜻島《アキツシマ》――枕詞。倭《ヤマト》へつづく。孝安天皇の皇居が大和の室の秋津島の宮であつたからだと言はれてゐる。但しここの倭之國《ヤマトノクニ》は日本の總稱である。○神柄跡《カムカラト》――神からとて。神故に。卷六の三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴將有《ミヨシヌノアキツノミヤハカムカラカタフトカルラム》(九〇七)のカムカラと同じ。カムナガラと同じとする説は當らない。○言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》――言葉に出して言ひ立つるを言擧といふ。言擧せず、人々相和衷協同することを理想として、國家社會が成立つてゐたから、古から言擧せぬ國と言ひならはしたのである。ここにわが國民が如何に平和を愛したかを知ることが出來る。○雖然吾者事上爲《シカレドモワレハコトアゲス》――然れども我は止むを得ずして次の如く言擧するといふのである。○往影乃《ユクカゲノ》――空行く影の月とつづけて、枕詞としたのであらう。下の月は月次の月である。○玉限《タマカギル》――枕詞。日とつづくのは玉の光の如く輝く日の意か。玉限《タマカギル》(四五)玉蜻《タマカギル》(二〇七)參照。○念戸鴨《オモヘカモ》――思へばかもの意。下の戀列鴨《コフレカモ》も戀ふればかもの意。○犬馬鏡《マソカヾミ》――枕詞。句を隔てて見にかかつてゐる。喚犬追馬鏡の略書。○正目君乎《マサメニキミヲ》――正目は、正しく直接に見ること。眞十鏡直目爾不視者《マソカガミタダメニミネバ》(一七九二)・直目爾見兼《タダメニミケム》(一八〇三)などの直目《タダメ》と同意であるが、佛足石歌碑に與伎比止乃麻佐(233)米爾美祁牟《ヨキヒトノマサメニミケム》とあるから、ここはマサメと訓むがよい。○吾戀八鬼目《ワガコヒヤマメ》――鬼をマとよむのは魔の略字であらう。末の三句が七言になつてゐるので、調子が異つて聞える。
〔評〕 吾が國を言擧げせぬ國と言ひならはしてゐる稱呼の神聖さを尊重しつつも、戀故にはこれをも冒涜して、我は言擧げすと言ひ放つたのは、當時に於ては實に驚くべき大膽さで、神聖な傳説への反逆兒の聲である。さうして天地之神毛甚吾念心不知哉《アメツチノカミモハナハダワガオモフココロシラズヤ》と神をも呪つて、唯、戀人を正目に見むことを祈つてゐる。呪※[口+且]と呻吟との交錯した情熱的表現と言つてよい。
 
反歌
 
3251 大舟の 思ひたのめる 君ゆゑに つくす心は 惜しけくもなし
 
大舟能《オホフネノ》 思憑《オモヒタノメル》 君故爾《キミユヱニ》 盡心者《ツクスコヽロハ》 惜雲梨《ヲシケクモナシ》
 
今ハ逢ハナイデモ行末ハト〔今ハ〜傍線〕(大舟能)タノミニ思ツテ、タヨツテヰル貴方ノ爲ニ、戀ニナヤンデ〔六字傍線〕心ヲ盡シテ嘆ク〔三字傍線〕ノハ措シイトモ私ハ〔二字傍線〕思ハナイヨ。
 
○大舟能《オホブネノ》――枕詞。思憑《オモヒタノメル》とつづく。○君故爾《キミユヱニ》――本集では多く君であるのにの意に用ゐてあるが、ここは君だからの意に見なければならぬ。○惜雲梨《ヲシケクモナシ》――舊本、惜を情に誤つてゐる。天治本・西本願寺本などいづれも惜に作つてある。
〔評〕 直觀的に力強い調子で、思ふ儘を述べてゐる。
 
3252 久堅の 都を置きて 草枕 旅行く君を いつとか持たむ
 
久堅之《ヒサカタノ》 王都乎置而《ミヤコヲオキテ》 草枕《クサマクラ》 羈徃君乎《タビユクキミヲ》 何時可將待《イツトカマタム》
 
(234)(久堅之)都ヲ出テ(草枕)旅ニ出テ〔二字傍線〕行カレル貴方ノオ歸リ〔四字傍線〕ヲ、私ハ〔二字傍線〕何時ト思ツテアテニシテ〔五字傍線〕、待ツテ居ラウゾ。アア何時トモ分ラナイノヲ待ツテヰルノハツライ〔アア〜傍線〕。
 
○久堅之《ヒサカタノ》――枕詞。王都《ミヤコ》につづけたのは、尊んで天と同一視したものであらう。
〔評〕 前の長歌の反歌ではなく、旅に出立する人と離別を悲しむ歌である。古今集の「すがる鳴く秋のはぎ原朝立ちて旅行く人をいつとかまたむ」と下句同一であはれな作である。和歌童蒙抄にも載せてある。
 
柿本朝臣人麿歌集歌曰
 
3253 葦原の 水穗の國は 神ながら 言擧せぬ國 然れども 言擧ぞ吾がする 言さきく まさきくませと つつみなく さきくいまさば 荒磯浪 ありても見むと 百重波 千重浪にしき 言擧する吾
 
葦原《アシハラノ》 水穗國者《ミヅホノクニハ》 神在隨《カムナガラ》 事擧不爲國《コトアゲセヌクニ》 雖然《シカレドモ》 辭擧叙吾爲《コトアゲゾワガスル》 言幸《コトサキク》 眞福座跡《マサキクマセト》 恙無《ツツミナク》 福座者《サキクイマサバ》 荒磯浪《アリソナミ》 有毛見登《アリテミミムト》 百重波《モモヘナミ》 千重浪爾敷《チヘナミニシキ》 言上爲吾《コトアゲスルワレ》
 
葦原(ノ)水穗國ト謂ハレル日本國〔八字傍線〕ハ、神ソノママニ、昔カラ〔三字傍線〕言葉ニ出シテトヤカクト〔五字傍線〕言ハナイ國ダ。然シナガラ貴方ガ〔三字傍線〕言葉ノ威徳デ御無事デアルヤウニト、私ハ言葉ニ出シテ貴方ヲ祝福〔七字傍線〕シマス。恙ナク幸幅デ貴方ガ居ラレルナラバ(荒磯浪)カウシテ居ツテ、貴方ヲ〔三字傍線〕相見ルデアラウト、幾度モ幾度モ繁々ト私ハ言葉ニ出シテ言ヒマス。
 
○葦原水穗國者《アシハラノミヅホノクニハ》――この國名は日本の總稱。卷二の葦原乃水穗之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》(一六七)參照。○神在隨事擧不爲國《カムナガラコトアゲセヌクニ》――神在隨《カムナガラ》は神その儘に。事は言の借字である。○言幸《コトサキク》――古義に言は事の借宇とあるが、さうではなく、言葉の威徳によつて幸を得ることであらう。○眞福座跡《マサキクマセト》――マは接頭語。無事でいませとの意。この句で切つて、上(235)の辭擧叙吾爲《コトアゲゾワガスル》に反るのである。○恙無《ツツミナク》――ツツミは慎み、災難病氣などで閉ぢ籠るをいふ。○荒磯浪《アリソナミ》――枕詞。アリの音を繰返して下につづいてゐる。○百重波千重浪爾敷《モモヘナミチヘナミニシキ》――百重浪。千重浪の如く繁くの意。考に敷爾の誤として、シキニと訓んでゐる。卷三に一日爾波千重浪敷爾雖念《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモ》(四〇九)とあるによると、尤もな説であるが、原形を尊重しても意味が通ずる。○言上爲吾《コトアゲスルワレ》――古義は言上叙吾爲の誤として、コトアゲゾアガスルと訓んでゐる。新訓にコトアゲスワレハとあるのもよい。元暦校本にはこの句を反覆してゐる。
〔評〕 柿本朝臣人麿歌集曰とあるのは、例の或本歌曰と記したのと同じく、その或本の名を明示した書き方である。從つて前の歌の異本として掲げられたやうに見える。併し全く異なつた歌を或本歌として載せたのがあるやうに冒頭が似てゐるだけでこれも全く別の歌である。荒磯浪・百重波・千重浪などを用ゐたのは海路の旅に上る人に餞した作らしく、内容に國民的自覺があらはれてゐる點は人麿の歌なることを思はしめるものがある。又この歌と卷五の好去好來歌(八九四)とを比較するとその用語に於いて、かなり近似點がある。多分彼はこれに暗示を得た作品であらう。
 
反歌
 
3254 敷島の 日本の國は 言靈の たすくる國ぞ まさきくありこそ
 
志貴島《シキシマノ》 倭國者《ヤマトノクニハ》 事靈之《コトダマノ》 所佐國叙《タスクルクニゾ》 眞福在與具《マサキクアリコソ》
 
(志貴島)日本國ハ人ノ〔二字傍線〕言語ノ靈妙ナル〔四字傍線〕魂ガ、人ヲ〔二字傍線〕助ケテ〔傍線〕幸ヲ〔傍線〕與ヘ〔傍線〕ル國デアルゾヨ。デ私ガ今貴方ノ爲ニ幸ヲ祈ツテ言擧ゲヲシテヰルガ、貴方ハソレニヨツテ〔デ私〜傍線〕、幸ヲ得ラレルヤウニ願ヒマス。
 
○志貴島倭國者《シキシマノヤマトノクニハ》――三二四八參照。○事靈之所佐國叙《コトダマノタスクルクニゾ》――事は言の借字。言靈の助くる國は言葉の靈が、人を助ける國といふので、前の言靈能佐吉播布國《コトダマノサキハフクニ》(八九四)と同意である。○眞福在與具《マサキクアリコソ》――舊訓マサキクアレヨク(236)とあるが、恐らく具は其の誤であらう。
〔評〕 言靈信仰が明瞭に力強く現はされてゐる。言靈の靈妙と威徳とを信じた人麿の歌が、次いで憶良の好去好來歌を生み、言靈能佐吉播布國《コトダマノサキハフクニ》と歌はしめた。彼が後世、言の葉の道たる和歌の神として崇敬せらてゐることも、この言靈の力のあらはれと言ふべきで、不思議な因縁である。
 
右五首
 
3255 古ゆ 言ひ續ぎ來らく 戀すれば 安からぬものと 玉の緒の つぎては言へど 處女らが 心を知らに そを知らむ よしの無ければ 夏麻引く 命かたまけ 刈鷹の 心もしぬに 人知れず もとなぞ戀ふる 氣の緒にして
 
從古《イニシヘユ》 言續來口《イヒツギクラク》 戀爲者《コヒスレバ》 不安物登《ヤスカラヌモノト》 玉緒之《タマノヲノ》 繼而者雖云《ツギテハイヘド》 處女等之《ヲトメラガ》 心乎胡粉《ココロヲシラニ》 其將知《ソヲシラム》 因之無者《ヨシノナケレバ》 夏麻引《ナツソビク》 命號貯《イノチカタマケ》 借薦之《カリコモノ》 心文小竹荷《ココロモシヌニ》 人不知《ヒトシレズ》 本名曾戀流《モトナゾコフル》 氣之緒丹四天《イキノヲニシテ》
 
古カラ言ヒ傳ヘテ來ル所デハ、戀ヲスルト心ガ安ラカデナイモノトシテアル。私ハ〔六字傍線〕(玉緒之)絶エズ自分ノ思ヲ〔四字傍線〕述ベテ居ルケレドモ、戀人タル〔四字傍線〕女ノ心ガ分ラズ、ソレヲ知ルベキ方法モナイノデ、(夏麻引)命ヲ傾ケテ、命カギリ〔四字傍線〕心モ(刈薦之)シヲシヲト萎レテ、人ニ知ラレズ心ノ中デ〔四字傍線〕一生懸命、徒ラニ戀シク思ツテヰルヨ。
 
○言續來口《イヒツギクラク》――言續ぎ來ることはの意。○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。繼《ツギ》とつづくのは、玉を貫いた緒の長く續いてゐる意である。○心乎胡粉《ココロヲシラニ》――胡粉は即ち白土であるから、借りてシラニと訓ましめるのである。○夏麻引《ナツソヒク》――枕詞。卷七に夏麻引海上滷乃《ナツソヒクウナカミカタノ》(一一七六)とあった。命とつづく意はよくわからない。○命號貯《イノチカタマケ》――舊訓ミコトヲツミテ、代匠記精撰本イノチナヅミテ、考はウナカブシマケ、古義は命を念に改めて、オモヒナヅミ、新考は印號斜の誤として、ウナカタブケと訓み、新訓は元暦校本、號を方に作るによつて命カタマケと訓んでゐる。以上(237)の諸訓の内、いづれをよしとすべきか判斷に苦しむところであるが、夏麻引からのつづきでは、ウナとありさうである。併し命はウナとよむべくもない。考には紀に命令の二字を各ウナガシとよんであるから、ここもウナカブシとよむべしといってゐるが、無理であらう。號は古本に方、號・兮・弓の如き文字に作つてゐるから、多分號ではあるまい。號は集中他に用ゐられてゐない。貯の字も他に用例がないから或は誤字かも知れない。結局假に新訓によつて、イノチカタマケとし、マとムと通音で、命傾けと解さうと思ふ。なほ後考を待つ。○借薦之《カリゴモノ》――枕詞。苅りたる薦の萎れる意で下につづいてゐる。○心文小竹荷《ココロモシヌニ》――心もしをしをと萎れて。二六六・一五五二など他にも用例がある。○本名曾戀流《モトナゾコフル》――徒らに戀ふる。○氣之緒丹四天《イキノヲニテ》――命をかけて。シテは輕く言ひ納めてある。
〔評〕 古ゆ言ひ續ぎ來らくといつて、古代からの言傳を重んじてゐる。前の神在隨事擧不爲國《カムナガラコトアゲセヌクニ》とか、事靈之所佐國《コトタマノタスクルクニ》などのやうに、古い國民的信仰を述べてゐるのがなつかしい。さして古い歌ではないやうだが、心文小竹荷《ココロモシヌニ》・本名曾戀流《モトナゾコフル》・氣之緒丹四天《イキノヲニシテ》など後の歌に採られた句が多い。
 
反歌
 
3256 しくしくに 思はず人は あらめども しましも我は 忘らえぬかも
 
數數丹《シクシクニ》 不思人者《オモハズヒトハ》 雖有《アラメドモ》 暫文吾者《シマシモワレハ》 忘枝沼鴨《ワスラエヌカモ》
 
女ハ私ヲアマリ〔五字傍線〕頻繁ニハ思ハナイデアラウガ、私ハ暫クノ間モ、アノ女ヲ〔四字傍線〕忘レラレナイヨ。
 
○數數丹《シクシクニ》――重々と。頻りに。舊訓カズカズニとあるのを略解にシクシクニと改めたのがよい。但し敷敷丹の誤としたのはよくない。數をシクシクと訓んだ例は巻十一の布浪之數妹《シクナミノシクシクイモヲ》(二七三五)がある。
〔評〕 片戀の苦しみを詠んでゐる。略解に「世間の人の中にはかく重々に物思はで在もあらめども也」とあるの(238)は誤解であらう。
 
3257 直に來ず こゆ巨勢道から 石はし踏み なづみぞ吾が來し 戀ひて術なみ
 
直不來《タダニコズ》 自此巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石椅跡《イハハシフミ》 名積序吾來《ナヅミゾワガコシ》 戀天窮見《コヒテスベナミ》
 
私ハ〔二字傍線〕戀シクテ仕方ガナイノデ、コノアナタノ家ニ、直接ニ來ヨウト思ツタガ、人ノ目ニツクノガイヤサニ、廻リ道ヲシテ〔コノ〜傍線〕、直接ニハ來ナイデ、(自此)巨勢街道カラ、飛石ノ橋ヲ踏ンデ、難儀ヲシナガラ此處ヘ〔三字傍線〕來マシタ。
 
○直不來《タダニコズ》――眞直に來ないで、廻道をして來るといふのである。○自此巨勢道柄《コユコセヂカラ》――コユは此處より來の意で、巨勢路につづく、コユは歌の上に意味がない。○石椅跡《イハハシフミ》――舊訓イシハシトとあるが、跡は踏の誤であらう。椅は考に瀬の誤としてイハセフミとあるが、もとのままで、イハハシフミと訓むべきである。イハハシは石を川中に並べて渡るやうにしたもの。これは能登瀬川の石椅であらう。○名積序吾來《ナヅミゾワガコシ》――ナヅムは泥む。艱難すること。○戀天窮見《コヒテスベナミ》――術無きは即ち窮であるから、窮をスベナとよんだのである。
〔評〕 次に右三首とあつて、これも前の長歌の反歌として取扱はれてゐるが、さうは見られないやうである。なほ左註を見よ。
 
或本以(テ)2此一首(ヲ)1、爲(セリ)2之(ヲ)紀伊國之濱爾縁云鰒珠《キノクニノハマニヨルトウアハビタマ》、拾爾登謂而往之君《ヒリヒニトイヒテユキシキミ》、何時到來《イツキマサムトイフ》哥之反歌(ト)1也、具(ニ)見(エタリ)v下(ニ)也、但依(リテ)2古本(ニ)1亦累(ネテ)載(ス)v茲(ニ)
 
この註は或本にこの直不來《クダニコズ》の歌は、紀の國の濱に寄るとふ鰒珠拾はむといひて、妹の山勢の山越えて行きし君何時來まさむと云々(三三一八)といふ歌の反歌となつて、具に下に見えてゐる、併し古本にあるから、重複するが、古本によつてここに載せて置くといふのである。その反歌として掲げられたものは直不徃此從巨勢(239)道柄石瀬蹈求曾君來戀而爲便奈見《タタニユカスコユコセヂカライハセフミトメゾワガコシコヒテスベナミ》(三三二〇)とあるもので、二者の間に小異があり、又長歌の句にも文字の用法にもかなりの相異があることに注意したい。なほここに或本といひ、古本とあるのは、如何なる關係になつてゐるのか、攻究すべき問題であらう。
 
右三首
 
3258 あらたまの 年は來ゆきて 玉梓の 使の來ねば 霞立つ 長き春日を 天地に 思ひ足らはし たらちねの 母がかふこの まゆごもり いきづきわたり 吾が戀ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば 松が根の 待つこと遠み 天傳ふ 日のくれぬれば 白たへの 吾が衣手も 透りてぬれぬ
 
荒玉之《アラタマノ》 年者來去而《トシハキユキテ》 玉梓之《タマヅサノ》 使之不來者《ツカヒノコネバ》 霞立《カスミタツ》 長春日乎《ナガキハルビヲ》 天地丹《アメツチニ》 思足椅《オモヒタラハシ》 帶乳根笶《タラチネノ》 母之養蚕之《ハハガカフコノ》 眉隱《マユゴモリ》 氣衝渡《イキヅキワタリ》 吾戀《ワガコフル》 心中少《ココロノウチヲ》 人丹言《ヒトニイフ》 物西不有者《モノニシアラネバ》 松根《マツガネノ》 松事遠《マツコトトホミ》 天傳《アマヅタフ》 日之闇者《ヒノクレヌレバ》 白木綿之《シロタヘノ》 吾衣袖裳《ワガコロモデモ》 通手沾沼《トホリテヌレヌ》
 
(荒玉之)年ハ來テハ去り、久シイ間ニナルガ〔八字傍線〕、(玉梓之)使ガ貴方カラ〔四字傍線〕來ナイノデ、私ハ〔二字傍線〕霞ノ立ツ永イ春ノ日ニ天地ニ滿チ亘ルヤウナ烈シイ戀ヲシテ(帶乳根笶)母ガ飼フ蠶ガ繭ニ閉ヂ籠ツテ、鬱陶シガツテ居ルヤウニ〔鬱陶〜傍線〕、始終鬱々トシテ〔五字傍線〕吐息ヲツイテヰテ、私ガ戀シク思フ心中ヲ人ニデモ打開ケラレルモノナラバ憂サ晴ラシモ出來ルダラウガ〔人ニ〜傍線〕、人ニ言フベキ物デモナイノデ、(松根)待チ遠クテ、(天傳)日ガ暮レテ夜ニ〔四字傍線〕ルト、イヨイヨ戀人ヲ思ヒ出シテ〔イヨ〜傍線〕、私ノ着物ノ(白木綿之)袖ハ、涙ニ〔二字傍線〕沾レテ通ツタ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
 
○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。四四三參照。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。二〇七參照。○天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》――天地の間に思ひ滿たしめる。天地の間に充滿するやうな戀をする。思《オモヒ》は動詞である。古今集の「わが戀は空しきそらに滿ちぬらし思(240)ひやれども行く方もなし」の上句もこれと同意である。○帶乳根笶母之養蚕之眉隱《タラチネノハハガカフコノマユゴモリ》――卷十一に足常母養子眉隱隱在妹見依鴨《タラチネノハハガカフコノマユゴモリコモレルイモヲミムヨシモガモ》(二四九五)、卷十二に垂乳根之母我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘蛛荒鹿異母イキヅキワタリ二不相而《タラチネノハハガカフコノマユゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》(二九九一)とあるのと同樣であるが、ここは氣衝渡《イキヅキワタリ》につづいて、欝陶しく心の晴ない譬喩となつてゐる。○氣衝渡《イキヅキワタリ》――いつも吐息をついてゐること。○松根《マツガネノ》――枕詞。同音を繰返して下の松事遠《マツコトトホミ》につづいてゐる。○松事遠《マツコトトホミ》――待ち遠いので。松は待の借字。○天傳《アマヅタフ》――枕詞。空を渡る日とつづく。○白木綿之《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。舊訓シラユフノとあるが、衣につづく語としてはシラユフではわからない。シロタヘとあるべきところである。豐後風土記に「此郷之中栲樹多生常取2栲皮1、以造2木綿1、因曰2柚富郷1」とあるから栲は木綿の原料なることがわかる。ここの用字はそれを證明する好適例である。略解に「もし木綿は幣の字の誤れるにや」とあるのは妄である。
〔評〕 人を待つ女の歌らしい。久しく男からの使も來ず、悲しい思を一人胸につつんでゐると今日も亦日も暮れて、戀慕の涙に袖を濡らしたといふので、實にあはれな情緒が籠つてゐる。併し卷二の柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首の、後の長歌の後半に天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴《アマヅタフイリヒサシヌレマスラヲトオモヘルワレモシキタヘノコロモノソデハトホリテヌレヌ》(一三五)とあるのを、この歌の後半と比較すれば、その類似の大なるに驚かされる。兩者の關係は否み難い。或はこれも人麿の作か。
 
反歌
 
3259 かくのみし 相思はざらば 天雲の よそにぞ君は あるべくありける
 
如是耳師《カクノミシ》 相不思有者《アヒモハザラバ》 天雲之《アマグモノ》 外衣君者《ヨソニゾキミハ》 可有有來《アルベクアリケル》
 
私ノ方カラ思フダケデ〔私ノ〜傍線〕、コンナニ貴方ガ私ヲ〔五字傍線〕思ハナイナラバ、始カラ〔三字傍線〕(天雲之)無關係ノ人トシテ、貴方ハアルベキデアツタヨ。ナマナカ知ツタ人ニナツテ思ガ通ラナイ爲ニ苦勞ヲスルヨ〔ナマ〜傍線〕。
 
(241)○天雲之《アマグモノ》――枕詞。外《ヨソ》とつづくのは、雲が遙かの彼方にあるからである。
評〕 なま中知り合になつて、しかも心の疎通しない戀人を恨んだので、女らしい悔の繰言である。
 
右二首
 
3260 小沼田の あゆちの水を 間無くぞ 人はくむとふ 時じくぞ 人は飲むとふ くむ人の 間なきがごと 飲む人の 時じきが如 吾妹子に 吾が戀ふらくは やむ時もなし
 
小治田之《ヲハリダノ》 年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》 間無曾《ヒマナクゾ》 人者※[手偏+邑]云《ヒトハクムトフ》 時自久曾《トキジクゾ》 人者飲云《ヒトハノムトフ》 ※[手偏+邑]人之《クムヒトノ》 無間之如《ヒマナキガゴト》 飲人之《ノムヒトノ》 不時之如《トキジキガゴト》 吾妹子爾《ワギモコニ》 吾戀良久波《ワガコフラクハ》 已時毛無《ヤムトキモナシ》
 
小治田ノ愛知ト云フ所〔四字傍線〕ノ水ヲ、絶エ〔二字傍線〕間ナク人ハ汲ムト云フコトダ。時ヲ分タズニ、人ハ飲ムト云フコトダ。ソノ水ヲ〔四字傍線〕汲ム人ガ絶エ間ノナイヤウニ、ソノ水ヲ〔四字傍線〕飲ム人ガ何時デモアルヤウニ、私ガ私ノ妻ヲ戀シク思フコトハ、止ム時モナイヨ。
 
○小沼田之《ヲハリダノ》――舊訓ヲヌマタノとあるが、元暦校本・天治本などに、沼を治に作つてゐるから、ヲハリダノであらう。ヲハリダは下に年魚道《アユチ》とあるによれば、尾張田であらぬばならぬ。續紀に「尾張國山田郡小治田連藥師賜2姓尾張宿禰1」とあるによつて、宣長は「尾張を小治田とも云しか」(古事記傳卷二十七)と言つてゐる。大和高市郡にも小治田があり、卷十一に小墾田之板田乃橋之《ヲハリダノイタダノハシノ》(二六四四)とあるが、これはそれとは別であら。新考には「もし尾張ノ愛智といふことならば、ただに小治之年魚道といふべく小治田とはいふべからず。小治田は恐らくは卷十一に小墾田ノ坂田ノ橋ノとあるヲハリ田にて、大和國飛島の事ならむ。姓氏録左京神別上に、小治田宿禰……欽明天皇御代依v墾2小治田(ノ)鮎田1賜2小治田大連1とあり。されば年魚道の道は田とすべし」とある。群書(242)類從本の新撰姓氏録には、「依d墾2開小田1治c點田u賜2小治田大連1」とあつて、新考の記載と異なつて居り、且同書左京皇別、治田連の條には「開化天皇皇子彦坐命之後也。四世孫彦命征2北夷1有2功効1因割2近江國淺井郡地1賜v之爲2墾田地1大海眞持等墾1開彼地1以爲2居地1、大海六世孫之後、熊田宮平等因v行v事賜2治田連姓1也」とあるから、小治田連の小治田は鮎田に關係ある地名とは言ひ難い。○年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》――年魚道《アユチ》は愛智。和名抄に阿伊地とあるが、神代紀に吾湯市《アユチ》村、景行紀に年魚市《アユチ》郡、靈異記に阿育智《アユチ》郡とあるから、アユチが古名である、略々今の愛知郡にあたる。こに清列な泉が湧いてゐたものと見える。○不時之如《トキジキガゴト》――舊訓トキナキガゴトとあるのは當らない。略解にトキジクガゴトとよんだのもよくない。
〔評〕 小治田の年魚道の水に寄せて、戀の心をよんだのであるが、全體の構成は下の三吉野之御金高爾間無序雨者落云不時曾雪者落云《ミヨシヌノミカネノタケニマナクゾアメハフルトフトキジクゾユキハフルトフ》(三二九三)と全く同一で、從つて、卷一の天武天皇御製の歌(二五)・(二六)とも同じである。材料を異にして、同一型に長歌を作り上げたのは、珍らしい例である これらの作の時代の前後は推定しがたいが、眞淵はこの歌について、「調のさま崗本宮はじめつごろにて、反歌なきなるべし」と言つてゐる。
 
反歌
 
3261 思ひやる 術のたづきも 今はなし 君に逢はずて 年の歴ぬれば
 
思遣《オモヒヤル》 爲便乃田付毛《スベノタヅキモ》 今者無《イマハナシ》 於君不相而《キミニアハズテ》 年之歴去者《トシノヘヌレバ》
 
私ハ〔二字傍線〕貴方ニ逢ハナイデ年ガタツタノデ、今ハ胸中ノ思ヲ晴ラス方法モナイ。
 
○思遣《オモヒヤル》――思を晴らす。
 
〔評〕 卷四の劔太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》(六一六)・卷十二の三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモワレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》(二八九九)・虚蝉之宇都思情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者《ウツセミノウツシゴコロモワレハナシイモヲアヒミズテトシノヘヌレバ》(二九六〇)・念八流跡状毛我者今者無妹二不相而年(243)之經行者《オモヒヤルタドキモワハイマハナシイモニアハズテトシノヘユケバ》(二九四一)などいづれも同型の歌である。殊に最後のものは酷似してゐる。
 
今案(ズルニ)此(ノ)反歌謂(ヘル)2之於|君不相《キミニアハズト》1者於v理不v合(ハ)也、宜(キ)v言(フ)2於|妹不相《イモニアハズト》1也
 
これは後人の註である。長歌に妹とあるのに、反歌に君にあはずとあるのは理が合はないから、妹にあはずと言ふべきだと言ふのであるが、女に對して君といふ例はいくらもあるから、古歌に通じない者の拙い註である。
 
或本反歌曰
 
3262 みづ垣の 久しき時ゆ 戀すれば 吾が帶ゆるぶ 朝よひ毎に
 
?垣《ミヅガキノ》 久時從《ヒサシキトキユ》 戀爲者《コヒスレバ》 吾帶緩《ワガオビユルブ》 朝夕毎《アサヨヒゴトニ》
 
(?垣)久シイ時カラ私ガ〔二字傍線〕戀ヲシテヰルト、片戀ニナヤンデ日ニ日ニ瘠セ衰ヘテ行クノデ〔片戀〜傍線〕、朝ニ晩ニ段々〔二字傍線〕私ノ帶ガユルクナツテ行クヨ。
 
○?垣《ミヅガキノ》――枕詞。神の瑞垣の久しき意で、久しきに冠す。卷四の未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》(五〇一)と同例である。但、代匠記は?が卷十二に??越爾麥咋駒乃《マセコシニムギハムコマノ》(三〇九六)とあるによつて、?をマセと訓むべきかと言ひ、新訓もこれによつてゐる。併し?はシモトとよむ字で、若い木のことである。これを馬柵《マセ》にも用ゐるであらうが、若々しくみづみづしい木の垣とすれば、即ち瑞籬であらぬばならぬ。ここをマセガキとよんでは次句へのつづきも分らなくなる。○吾帶緩《ワガオビユルブ》――舊本綾とあるのは緩の誤。古寫本多くは緩に作つてゐる。ユルムと訓むのはわるい。
(244)〔評〕 右の長歌の反歌としては調が新らしきに過ぎる。又卷四の一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクワガミハナリヌ》(七四二)と同趣であるが、更に遊仙窟の「日々衣寛朝々帶緩」の影響がありさうである。この歌、和歌童蒙抄にも載つてゐる。
 
右三首
 
3263 こもくりの 泊瀬の河の 上つ瀬に い杭を打ち 下つ瀬に 眞杭を打ち い杭には 鏡を懸け 眞杭には 眞玉をかけ 眞珠なす 吾が念ふ妹も 鏡なす 吾が念ふ妹も ありと 言はばこそ 國にも 家にも行かめ 誰が故か行かむ
 
己母理久乃《コモリクノ》 泊瀕之河之《ハツセノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 伊杭乎打《イグヒヲウチ》 下瀬爾《シモツセニ》 眞杭乎格《マグヒヲウチ》 伊杭爾波《イグヒニハ》 鏡乎懸《カガミヲカケ》 眞杭爾波《マグヒニハ》 眞玉乎懸《マタマヲカケ》 眞珠奈須《マタマナス》 我念妹毛《アガモフイモモ》 鏡成《カガミナス》 我念妹毛《アガモフイモモ》 有跡謂者社《アリトイハバコソ》 國爾毛《クニニモ》 家爾毛由可米《イヘニモユカメ》 誰故可將行《タガユヱカユカム》
 
(己母理久乃泊瀬之河之上瀬爾伊杭乎打下湍爾眞杭乎格伊杭爾波鏡乎懸眞杭爾波眞玉乎懸)玉ノヤウニ私ガ大切ニ〔三字傍線〕思フ女モ、鏡ノヤウニ私ガ大切ニ〔三字傍線〕思フ女モ居ルト云フナラバ、國ヘモ行カウガ〔四字傍線〕家ヘモ歸ラウガ、私ノ國ニモ家ニモソンナ女ハナイカラ、私ハ〔私ノ〜傍線〕誰ノ爲ニ歸ラウゾ。家ニ歸ル心ハナイヨ〔九字傍線〕。
 
○己母理久乃《コモリクノ》――枕詞。泊瀬につづく。四五參照。○伊杭乎打《イグヒヲウチ》――伊杭は齋杙。神聖な杙。○眞杭乎格《マグヒヲウチ》――マクヒのマは接頭語で意味はない。杙のことである。格は元暦校本その他の古寫本、挌に作るがよい。挌は打。○伊杭爾波鏡乎懸眞杭爾波眞玉乎懸《イグヒニハカガミヲカケマグヒニハマタマヲカケ》――何故に杙に鏡珠を懸けるのか明らかでないが、多分神を祀るのであらう ここまでの十句は次の眞珠奈須《マタマナス》と鏡成《カガミナス》とを言ひ出さむ爲の序詞である。○誰故可將行《タガユヱカユカム》――タレユヱカユカムとよむのはよくない。
〔評〕 これは左註にあるやうに、古事記允恭天皇の條に、木梨之輕太子、その同母妹輕太郎女に通じ給ひしによつて伊余湯に流され給ひ、その後輕大郎女伊余湯に追到り給うた時、太子の詠み給うた歌として掲げてと殆ど同樣で、その歌は許母理久能波都勢能賀波能賀美都勢爾伊久比袁宇知斯毛都勢爾麻久比袁宇知伊久比爾波加賀美袁加氣麻久比爾波麻多麻袁加氣麻多麻那須阿賀母布伊毛加賀美那須阿賀母布都麻阿里登伊波婆許曾爾伊幣爾母由加米久爾袁毛斯怒波米《コモリクノハツセノカハノカミツセニイグヒヲウチシモツセニマグヒヲウチイグヒニハカガミヲカケマグヒニハマタマヲカケマタマナスアガモフイモカガミナスアガモフツマアリトイハバコソニイヘニモユカメクニヲモシヌバメ》とある。かく歌つてお二人共に自害せられた。かういふ歴史を持つてゐる歌であるのに、この卷の編者はただ作者不明の古歌としてここに掲げてゐる。古事記にこの歌の終に「讀歌也」とあつて、古から讀歌といふ名で民間に行はれてゐたのであるから、木梨之輕太子の作とする古事記の記載は必ずしも眞とは言はれないのである。宣長はこの歌は古事記のものよりもいたく劣つてゐると言つてゐる。
 
檢(スルニ)2古事記(ヲ)1曰(ク)、件(ノ)歌者木梨之輕太子(ノ)自(ラ)死(スル)之時、所v作(リシ)者也
 
この註は必ずしも後人の註とも斷じ難い。この卷の編者が、古事記と比較して自から記したものらしく思はれる。卷一・卷二に多い類聚歌林・書紀・古事記と對照した註と同樣らしい。舊本、件を伴に誤る。
 
反歌
 
3264 年わたる までにも人は 有りとふを 何時のまにぞも わが戀ひにける
 
年渡《トシワタル》 麻弖爾毛人者《マデニモヒトハ》 有云乎《アリトフヲ》 何時之間曾母《イツノマニゾモ》 吾戀爾來《ワガコヒニケル》
 
一年タツマデモ人ハ戀人ニ逢フノヲ氣永ニ待ツテ〔戀人〜傍線〕ヰルト云フコトダガ、私ハアノ人ニ逢ツタノハ〔私ハ〜傍線〕何時デアツタゾ、ツヒコノ間ダノニ〔八字傍線〕私ハコンナニ戀シガルノダラウ。
 
○年渡《トシワタル》――年の經過する。一年過ぎる。○何時之間曾母《イツノマニゾモ》――考はイツノヒマソモ、古義はイツノアヒダゾモと(246)あるが、卷四(五二三)の歌と統一して置く。
〔評〕 この歌は右の反歌とは思はれない。古事記のにも反歌はないから、後に添へたものである。卷四の好渡人
者年母有云乎何時間曾毛吾戀爾來《ヨクワタルヒトハトシニニモアリトフヲイツノマニゾモワガコヒニケル》(五二三)はこれを學んだものなることは否み難い。
 
或書反歌曰
 
多く一云、又は或本とあるのに、ここに或書と記したのは珍らしい。温故堂本には曰の字が無い。
 
3265 世の中を 倦しと思ひて 家出せし 我や何にか かへりて成らむ
 
世間乎《ヨノナカヲ》 倦跡思而《ウシトオモヒテ》 家出爲《イヘデセシ》 吾哉難二加《ワレヤナニニカ》 還而將成《カヘリテナラム》
 
世ノ中ヲ厭ニ思ツテ出家ヲシタ私ガ、再ビ〔二字傍線〕還俗シテ何ニナラウゾ。是カラ還俗シテモ何ニモナレナイカラモウ還俗ナドハシナイ〔是カ〜傍線〕。
 
○倦跡思而《ウシトオモヒテ》――憂しと思つて。舊本跡とあるガ、元暦校本・天治本その他の古寫本には多く迹とある。○家出爲《イヘデセシ》――出家して僧となつたことをいふのであらう。古義はイヘデセルと訓んでゐる。○吾哉難二加《ワレヤナニニカ》――ヤは詠嘆辭としてヨの意と見るべきか。又は下のカと同じく疑辭を重ねたものと見るべきか。恐らく後者であらう。難をナニに用ゐることについては難可將嗟《ナニカナゲカム》(三二四九)參照。○還而將成《カヘリテナラム》――俗に還つてから何にならうか。何になるすべもないから、還俗すまいといふのであらう。
〔評〕 世を厭うて出家したものが、還俗を奨められた時に、これを斷る爲に詠んだものか。ともかく前の長歌とは内容から言つても、時代から言つても全くかけ離れたもので、決して反歌ではない。
 
右三首
 
3266 春されば 花咲きををり 秋づけば 丹のほにもみづ 味酒を 神名火山の 帶にせる 明日香の川の 速き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き 心は依りて 朝露の 消なば消ぬべく 戀ふらくも しるくも逢へる こもり妻かも
 
(247) 春去者《ハルサレバ》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》 秋付者《アキヅケバ》 丹之穗爾黄色《ニノホニモミヅ》 味酒乎《ウマサケヲ》 神名火山之《カムナビヤマノ》 帶丹爲留《オビニセル》 明日香之河乃《アスカノカハノ》 速瀬爾《ハヤキセニ》 生玉藻之《オフルタマモノ》 打靡《ウチナビキ》 情者因而《ココロハヨリテ》 朝露之《アサツユノ》 消者可消《ケナバケヌベク》 戀久毛《コフラクモ》 知久毛相《シルクモアヘル》 隱都麻鴨《コモリヅマカモ》
 
(春去者花咲乎呼里秋付者丹之穗爾黄色味酒乎神名火山之帶丹爲留明日香之河乃速瀕爾生玉藻之)靡イテ私ノ〔二字傍線〕心ガアノ女ニ〔四字傍線〕寄ツテ(朝露之)命ガ〔二字傍線〕消エルナラ消エヨトバカリ、戀シテヰルソノ甲斐ガアツテ、逢フコトノ出來タ隱シ妻ヨ。ヤツトノコトデ逢フコトガ出來テウレシイ〔ヤツ〜傍線〕。
 
○花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》――枝もたわわに花咲くこと。○丹之穗爾黄色《ニノホニモミヅ》――ニノホは丹の秀。赤の色美しいこと。○味酒乎《ウマサケヲ》――枕詞。神名火につづくのは釀《カ》ムの意であらう。○神名火山之《カムナビヤマノ》――神名火山は神を祀つた山て所々にあるが、これは雷山のことである。○生玉藻之《オフルタマモノ》――ここまでの十句は打靡《ウチナビキ》と言はむ爲の序詞である。○朝露之《アサツユノ》――枕詞。消につづく。○戀久毛《コフラクモ》――わが戀しく思ふことも。○知久毛相《シルクモアヘル》――著しく甲斐ありて逢へる意。○隱都麻鴫《コモリヅマカモ》――コモリヅマは隱し妻。人目を忍んで隱してある妻。略解・古義には親の守隱してゐる妻と解してゐる。ここのみをさう解するのはどうであらう。
〔評〕 序詞は優麗な感じはあるが、その用法は普通に使ひ慣されたものの連絡で、これと言つて特異の點もない。序詞の長さは前の己母理久之《コモリクノ》(三二六三)と一致し、その手法は人麿の從石見國別妻上來時歌(一三一)に似てゐる。
 
反歌
 
3267 明日香河 瀬瀬の珠藻の うち靡き 心は妹に 依りにけるかも
 
明日香河《アスカガハ》 瀬湍之珠藻之《セゼノタマモノ》 打靡《ウチナビキ》 情者妹爾《ココロハイモニ》 因來鴨《ヨリニケルカモ》
 
(248)(明日香河瀬湍之珠藻之)靡イテ私ノ〔二字傍線〕心ハ戀シイ〔三字傍線〕女ニ寄ツテシマツタヨ。戀シイ女ダナア〔七字傍線〕。
 
○明日香河瀬湍之珠藻之《アスカガハセゼノタマモノ》――打靡とつづく序詞。
〔評〕 長歌の一部を繰返して短歌の形式にしただけで、別に變つた點もない。
 
右二首
 
3268 三諸の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り來ぬ 雨ぎらひ 風さへ吹きぬ 大口の 眞神の原ゆ しぬびつつ かへりにし人 家に到りきや
 
三諸之《ミモロノ》 神奈備山從《カムナビヤマユ》 登能陰《トノグモリ》 雨者落來奴《アメハフリキヌ》 雨霧相《アマギラヒ》 風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》 大口乃《オホクチノ》 眞神之原從《マガミノハラユ》 思管《シヌビツツ》 還爾之人《カヘリニシヒト》 家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》
 
三諸ノ神南備山カラ、雲ガ空ニ棚引イテ曇ツテ、雨ガ降ツテ來タ。雨ガ霧ノヤウニ降ツテ風マデモ吹イテ來タ。此處カラ別レテ〔七字傍線〕(大口乃)眞神ノ原ヲ通ツテ、私ヲ〔二字傍線〕ナツカシク思ヒツツ家ヘ〔二字傍線〕歸ツテ行ツタ人ハ、家ニモウ歸リツイタデアラウカ。心配ナコトダ〔六字傍線〕。
 
○三諸之神奈備山從《ミモロノカムナビヤマユ》――この神奈備山は雷山。○登能陰《トノグモリ》――たな曇りに同じ。雲のたな曳き曇ること。○雨霧相《アマギラヒ》――雨が霧のやうに降ることであらう。卷六の雨霧合之具禮乎疾《アマギラフシグレヲイタミ》(一〇五三)・天霧相日方吹羅之《アマギラヒヒカタフクラシ》(一二三一)のアマギラヒとは異なつてゐる。○大口乃《オホクチノ》――枕詞。眞神とつづくのは、眞神は狼で、口が大きいからである。○眞神之原《マガミノハラ》――雷山の下から西南檜隈地方に亘つた平地をかく呼んだ。○思管《シヌビツツ》――舊訓オモヒツツとあるよりもシヌビツツがよい。考は思を哭の誤として、ネナキツツと訓んだのはよくない。シヌブはなつかしく思つて、心の萎れること。
〔評〕 男を送り出した女が、折から募る雨風に、男の行く手を心配した歌。景と情と併せ述べて、よく整つたあはれな作である。卷八に大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマガミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》(一六三六)とある。
 
反歌
 
3269 かへりにし 人を念ふと ぬば玉の その夜は我も いもねかねてき
 
還爾之《カヘリニシ》 人乎念等《ヒトヲオモフト》 野干玉之《ヌバタマノ》 彼夜者吾毛《ソノヨハワレモ》 宿毛寢金手寸《イモネカネテキ》
 
此處カラ別レテ〔七字傍線〕歸ツテ行ツタ人ヲ思ツテ、ソノ別レタ〔三字傍線〕(野干玉之)晩ハ、私モ悲シクテ〔三字傍線〕寢ルコトガ出來ナカツタ。
 
○野干玉之《ヌバタマノ》――ソノを距てて夜につつく。○宿毛寢金手寸《イモネカネテキ》――イは寢ること。モは詠嘆の助詞。
〔評〕 女らしい、やさしい感情がよくあらはれてゐる。右の長歌の反歌としてまことにふさはしい。この歌は比較的新らしいやうである。
 
右二首
 
3270 さし燒かむ をやのしき屋に かきうてむ 破薦を敷きて うち折らむ しこのしき手を さし交へて ぬらむ君ゆゑ あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも
 
刺將燒《サシヤカム》 少屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》 掻將棄《カキウテム》 破薦乎敷而《ヤレゴモヲシキテ》 所掻將折《ウチヲラム》 鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》 指易而《サシカヘテ》 將宿君故《ヌラムキミユヱ》 赤根刺《アカネサス》 畫者終爾《ヒルハシミラニ》 野干玉之《ヌバタマノ》 夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》 此床乃《コノトコノ》 比師跡鳴左右《ヒシトナルマデ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
火デモ付ケテ〔六字傍線〕燒イテヤリタイヤウナ小屋ノキタナイ家ニ、捨テテシマツテヤリタイヤウナ破レ蓆ヲ敷イテ、打折ツテヤリタイヤウナ瘠セタ〔六字傍線〕醜イ女ノ〔二字傍線〕手ヲ、サシ交ハシテ寢ルデアラウ貴方故ニ、私ハ(赤根刺)晝ハ終日(野干玉之)夜ハ終夜、コノ寢テヰル〔四字傍線〕床ガギシギシト鳴ルマデモ、嘆息ヲシ夕ヨ。
(250)○刺將燒《サシヤカム》――サシは接頭語。燒き拂つてやりたいやうな。○少屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》――小さい家の醜い家に。これは女の家を罵つたのである。○掻將棄《カキウテム》――棄はスツと訓んでもよいが、棄ツをウツといふのは古語である。古事記に弊都那美曾邇奴棄宇弖《ヘツナミソニヌギウテ》とある。○破薦乎敷而《ヤレゴモヲシキテ》――破薦は女の薦を罵つて言つてゐる。乎《ヲ》は衍字であらうとする説もあるが、このままでよい。○所掻將折《ウチヲラム》――舊訓のカカレヲレラムではわからない。掻は元暦校本に挌とあるによつてウチヲラムとよむのがよからう。挌は打に同じ、所は衍字とすべきか。○鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》――鬼は醜の省畫でシコ。前に鬼乃志許草《シコノシコクサ》(七二七)とあつた。四忌手は醜手。女の手を罵つてゐる。シコテと訓まうとする説はよくない。○將宿君故《ヌラムキミユヱ》――舊訓ネナムキミユヱとあるのよりも、この方がよい。○赤根刺《アカネサス》――枕詞。晝とつづく。二〇參照。○畫者終爾《ヒルハシミラニ》――シミラは、ひまなく連續しての意。即ち終日。下に赤根刺日者之彌良爾《アカネサスヒルハシミラニ》(三二九七)とある。但し卷十七に今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》(三九六九)・卷十九に晝波之賣良爾《ヒルハシメラニ》(四一六六)とあるから、シメラとモ言つたのである。○野干玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》――終夜。スガラはその儘、盡く、終までなどの意。○此床乃《コノトコノ》――吾が寢る床の。○比師跡嶋左右《ヒシトナルマデ》――ヒシは床のギシギシとなる音。輾轉反側して床が鳴るのである。
〔評〕 わが男が他の女と親しんでゐる樣を想像して、日夜煩悶してゐる女の歌。冒頭の數句は女を罵り得て妙。瞋恚の※[火+餡の旁]に胸を焦してゐる賤女の心境が實によく詠まれてゐる。
 
反歌
 
3271 わが心 燒くも我なり はしきやし 君に戀ふるも 我が心から
 
我惰《ワガココロ》 燒毛吾有《ヤクモワレナリ》 愛八師《ハシキヤシ》 君爾戀毛《キミニコフルモ》 我之心柄《ワガココロカラ》
 
私ノ心ヲ燒イテ苦シムノ〔六字傍線〕モ私デス。戀シイ貴方ニ戀慕フノモ私ノ心デス。自分デ戀シテ苦シムノダカラ仕方ガナイ〔自分〜傍線〕。
 
(251)○愛八師《ハシキヤシ》――愛する。ヤシは歎辭として添へてある。
〔評〕 卷一の燒鹽乃念曾所燒吾下情《ヤクシホノオモヒゾヤクルワガシタゴコロ》(五)卷七の冬隱春乃大野乎燒人者燒不足香文吾情燒《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハヤキタラネカモワガココロヤク》(一三三六)など、心を燒くといつた例がある。苦しむのも戀するのも共に吾が心からと、あきらめて言ひ捨てた心ねがいたましい。
 
右二首
 
3272 打はへて 思ひし小野は 遠からぬ その里人の しめゆふと 聞きてし日より 立てらくの たづきも知らに をらまくの おくかも知らに 父母の わが家すらを 草枕 旅ねの如く 思ふそら 安からぬものを なげくそら 過ぐし得ぬものを 天雲の 行きのまくまく 蘆垣の 思ひ亂れて 亂れ麻の 麻笥をなみと わが戀ふる 千重の一重も 人知れず もとなや戀ひむ いきの緒にして
 
打延而《ウチハヘテ》 思之小野者《オモヒシヲヌハ》 不遠《トホカラヌ》 其里人之《ソノサトビトノ》 標結等《シメユフト》 聞手師日從《キキテシヒヨリ》 立良久乃《タテラクノ》 田付毛不知《タヅキモシラニ》 居久乃《ヲラクノ》 於久鴨不知《オクカモシラニ》 親親《チチハハノ》 己之家尚乎《ワガイヘスラヲ》 草枕《クサマクラ》 客宿之如久《タビネノゴトク》 思空《オモフソラ》 不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》 嗟空《ナゲクソラ》 過之不得物乎《スグシエヌモノヲ》 天雲之《アマグモノ》 行莫莫《ユキノマクマク》 蘆垣乃《アシガキノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 亂麻乃《ミダレヲノ》 麻笥乎無登《ヲケヲナミト》 吾戀流《ワガコフル》 千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》 人不令知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》 氣之絹爾爲而《イキノヲニシテ》
 
久シイ以前カラ思ヲカケテ戀シテヰタアノ女ハ、ソノ近所ニヰル〔五字傍線〕里人ガ、自分ノ物トシタト聞イテカラ、私ハ〔二字傍線〕立ツ方法モ知ラズ、坐ル場所モ知ラズ、父母ノ住ンデヰル〔五字傍線〕自分ノ家ヲサヘモ、自分ノ家ノヤウナ落チツイタ氣分ニナラズニ〔自分〜傍線〕、(草枕)旅寢ノヤウニ思ハレテ、コノ事ヲ〔四字傍線〕思フ心モ安クナイノニ、コノ事ヲ〔四字傍線〕嘆ク心ヲ晴ラスコトモ出來ナイノニ、(天雲之)歩クニツレテ思ガ(蘆垣乃)亂レテ、唯サヘ〔三字傍線〕亂レタ麻ヲ麻笥ガ無イノデ、愈々亂ラスヤウニ、心ガ亂レテ〔愈々〜傍線〕、私ガ戀シク思フ、コノ胸ノ中ノ〔六字傍線〕千ノ一モ、アノ〔二字傍線〕人ニ知ラレナイデ、一生懸命デ、徒ラニ戀シク思フコトカヨ。、嗚呼困ツタモノダ〔八字傍線〕。
 
(252)○打延而《ウチハヘテ》――永引いて久しい前から。略解に「遠き所に在て思ふ意とすべし」、古義に「吾が居る處より差《ヤヤ》遠き方に心を打延て、いかで吾が物に領《セ》むと豫思ひし意なり」とあるのは、共に從ひ難い。○思之小野者《オモヒシヲヌハ》――戀した女は。懸想した女を小野に譬へてゐる。○標結等《シメユフト》――他人が女を領して吾が物としたのに譬へてゐる。卷十一に朝茅原小野印《アサヂハラヲヌニシメユフ》(二四六六)とある。○立良久乃《タテラクノ》――舊訓タツラクノとあり、古義は良を麻か萬の誤として、タタマクノとよんでゐるが、タテラクノとよむがよい。立つてゐることの。○田付毛不知《タヅキモシラズ》――方法も知らず。○居久乃《ヲラマクノ》――古義は居の下、麻又は萬の字、脱として、ヲラマクノと訓んでゐるが、もとのままにして訓んで置く。○於久鴨不知《ヲクカモシラニ》――奧處も知らず。奧處は落ちついて居るべきところの意であらう。○親親《チチハハノ》――舊訓オヤオヤノ、代匠記精撰本ムツマシキ、略解はチチハハノと訓し、更に「親々は親之の誤にて、むつばひしと訓まむか。むつばひはむつびを延いふ也。又にきびにしとも訓まむか」とある。元暦校本・天治本などの古本多く親々に作り、類衆古集は親之としてゐる。親々を親之の誤として、略解の如くムツバヒシと訓むのも一説であらうが、シといふ過去の助動詞を用ゐるところではないやうであるから、むしろ親々として、チチハハとよむのがよいのではあるまいか。萬葉用字格には、義訓として、チチハハとよんでゐる。但し親親《チチハハ》の用例は集中、他に見えない。新訓はシタシキとある。さう訓むにはいづれかを衍字とせねばなるまい。○己之家尚乎《ワガイヘスラヲ》――サガイヘスラヲと舊訓にある。父母の住む吾が家をすらにの意であらう。○客旅之如久《タビネノゴトク》――旅宿の如く心の落ちつかぬこと。○思空《オモフソラ》――思ふ心。○過之不得物乎《スグシエヌモノヲ》――心を晴らし得ぬものを。○天雪之《アマグモノ》――枕詞。行莫莫《ユキノマクマク》につづく。○行莫莫《ユキノマクマク》――舊訓ユカマクマクニとあり、略解・古義は行莫行莫《ユクラユクラ》の誤とし、心の動きさわぐこととしてゐるが、卷十八の大王乃麻氣能麻久麻久《オホキミノマケノマクマク》(四〇九八)のマクマクと同じく、ユキノマクマクで、マクマクはマニマニの意であらう。但しユクラユクラとする方が、意は更に明らかなやうであるが、しばらく原字を尊重することにしヨう。○蘆垣乃《アシガキノ》――枕詞。亂れとつづく。○亂麻乃《ミダレヲノ》――上の蘆垣乃《アシガキノ》と同樣に枕詞としても見られるが、それでは下への續きがわからない。○麻司乎無登《ヲケフナミト》――誤字があるか。元暦校本には麻の字なく笥を司に作つてゐる。新訓はこれに從つてゐるが、司は何と訓むべきかわからない。ツカサヲナミトと訓んでも意をなさぬやうである。ヲケヲナ(253)ミトと訓んで、麻笥がないとて、即ち上からつづけて、亂れた麻が、麻笥に入れない爲に一層亂れるが如くの意ではあるまいか。麻笥は麻を績いで入れる圓器。○千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》――千分の一も。○本名也戀牟《モトナヤコヒム》――モトナは徒らに。○氣之緒爾爲而《イキノヲニシテ》――一生懸命で。
〔評〕 吾が思ふ女を他に奪はれて、焦慮煩悶してゐる時の歌である。對句を多く用ゐた整備した作品である。人麿の語調らしいところも見える。吾戀流千重乃一重母《ワガコフルチヘノヒトヘモ》は人麿が妻を失つて泣血哀慟して作つた長歌(二〇七)の中に見える句である。
 
反歌
 
3273 二つなき 戀をしすれば 常の帶を 三重結ぶべく 吾が身はなりぬ
 
二無《フタツナキ》 戀乎思爲者《コヒヲシスレバ》 常帶乎《ツネノオビヲ》 三重可結《ミヘムスブベク》 我身者成《ワガミハナリヌ》
 
世間ニ〔三字傍線〕二ツトナイ戀ヲ私ハ〔二字傍線〕スルト、常ニシテヰル帶ヲ、三重ニ結ブヤウニ私ノ體ハ瘠セ衰ヘ〔四字傍線〕テシマツタ。
 
○二無《フタツナキ》――世に二つとなきの意であらう。
〔評〕卷四の家持作、ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクワガミハナリヌ(七四二)とあるのはこれを學んだものであらう。卷九の田邊福麿歌集出の足柄坂を過ぎて死人を見て作つた長歌(一八〇〇)にも一重結帶矣三重結《ヒトヘユワオビヲミヘユヒ》とある。これらは一重と三重とを對照せしめてゐるが、この歌では初句、二無《フタツナキ》が、下の三重に對して、縁語になつてゐるやうに見えるのは偶然であらうか。この歌、八雲御抄に載せてある。
 
右二首
 
3274 爲むすべの たづきを知らに 石がねの こごしき道を 岩床の 根延へる門を 朝には 出でゐて歎き 夕には 入り居て忍び 白妙の わが衣手を 折り反し 獨し寢れば ぬば玉の 黒髪敷きて 人の寢る 味いはねずて 大舟の ゆくらゆくらに 思ひつつ わがぬる夜らを よみもあへむかも
 
爲須部乃《セムスベノ》 田付呼不知《タヅキヲシラニ》 石根乃《イハガネノ》 興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》 石床笶《イハドコノ》 根延門呼《ネハヘルカドヲ》(254)朝庭丹《アサニハ》 出居而嘆《イデヰテナゲキ》 夕庭《ユフニハ》 入居而思《イリヰテシヌビ》 白栲乃《シロタヘノ》 吾衣袖呼《ワガコロモデヲ》 折反《ヲリカヘシ》 獨之寢者《ヒトリシヌレバ》 野干玉《ヌバタマノ》 里髪布而《クロカミシキテ》 人寢《ヒトノヌル》 味眠不睡而《ウマイハネズテ》 大舟乃《オホフネノ》 往良行羅二《ユクラユクラニ》 思乍《オモヒツツ》 吾睡夜等呼《ワガヌルヨラヲ》 續文將敢鴨《ヨミモアヘムカモ》
 
何ト爲スベキ方法モ知ラズ、岩ノ嶮岨ナ道ヲ、岩ガ廣ガツテヰル門ヲ、朝ニハ出テヰテ嘆キ、夕方ニハ入ツテヰテ嘆キ、(白栲乃)私ノ袖ヲ折リ反シテ二人デ寢ルト、(野干玉)黒髪ヲ長ク〔二字傍線〕敷イテ、世間ノ〔三字傍線〕人ガ寢ルヤウナ心地ヨイ寢方ハシナイデ、(大舟乃)ユラリユラリト心ガ動イテ、定マルコトモナク、戀人ヲ〔心ガ〜傍線〕思ヒナガラ私ガ寢ル夜ノ數〔二字傍線〕ヲ、數ヘキレルデアラウカ。トテモ數ヘラレナイダラウ〔トテ〜傍線〕。
 
○興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》――コゴシは嶮岨。磐金之凝敷山乎《イハガネノコゴシキヤマヲ》(三 一)。・石金之凝敷山爾《イハガネノコゴシキヤマニ》(一三三二)とある。ここは凝をゴの音假字に用ゐてゐる。○石床笶《イハトコノ》――岩の平らに横はつてゐるのを石床といふ。○根延門乎《ネハヘルカドヲ》――廣く延びてゐるのを根延へるといつたのである。○朝庭《アサニハ》丹――下の夕庭《ユフニハ》に對比すると丹は衍であらう。○人寢味眠不睡而《ヒトノヌルウマイハネズテ》――世の人の寢る安眠は寢ずして。この二句は卷十一(二三六九)にもある。○大舟乃《オホフネノ》――枕詞。往良行羅二《ユクラユクラニ》とつづくは、舟が漂ひ動搖する意である。○往良行羅二《ユクラユクラニ》――ゆらゆらと動いて。○續文將敢鴨《ヨミモアヘムカモ》――舊本、續とあつて、ツギモアヘムカモとあるのは、元暦校本に讀とあるに從つて、ヨミモアヘムカモと訓むべきである。ヨムは算へること。
〔評〕 この歌は全く變な歌である。冒頭の入居而思《イリヰテシヌビ》までの十句は下の白雲之棚曳國之《シラクモノタナビククニノ》(三三二九)の長歌の後半分にあるものと殆ど一致し、野干玉《ヌバタマノ》からの九句も亦、その長歌の末尾と同樣で、それを除くと白栲乃吾衣袖呼折反獨之寢者《シロタヘノワガコロモデヲヲリカヘシヒトリシヌレバ》の四句のみが殘つて、一首として、殆ど獨立した存在價値を有せぬやうになる。そこで最初の十句と白栲からの十三句を切斷して二首とし、前半は冒頭を落失したものとする説が多い。突如として爲須部乃《セムスベノ》と言ひ起したのは確かに落句のあることを思はしめるものがあるが、それはこの卷編纂後のものなりや、又落句あるまま(255)に編纂者がここに收めたかは遽かに定め難い。しばらく原形のままに語句に隨つて解釋することにした。
 
反歌
 
3275 獨ぬる 夜を算へむと 思へども 戀の繁きに 心どもなし
 
一眠《ヒトリヌル》 夜算跡《ヨヲカゾヘムト》 雖思《オモヘドモ》 戀茂二《コヒノシゲキニ》 情利文梨《ココロドモナシ》
 
戀シイ人ニ逢ヘナイデ私ガ〔戀シ〜傍線〕獨寢スル夜ノ數〔二字傍線〕ヲ算ヘヨウト思フケレドモ、アマリ〔三字傍線〕戀ノ心ノ〔二字傍線〕烈シサニ、シツカリシタ心モナクテ、トテモソンナコトハ出來〔ナク〜傍線〕ナイ。
 
○夜算跡《ヨヲカゾヘムト》――考にヨヒヲヨマムトとあるが、舊訓に從つておいた。○情利文梨《ココロドモナシ》――情利《ココロド》ハ心所《ココロド》。精神。四五七參照。
〔評〕 長歌の末尾の數句を、纏めて短歌の形式にしたもの、長歌は落句があり、錯簡があるかも知れないが、この反歌は、長歌の後半と切離すことは出來ない。
 
右二首
 
3276 百足らず 山田の道を 浪雲の うつくし妻と 語らはず 別れし來れば 速川の 行くも知らに 衣手の 反るも知らに 馬じもの 立ちてつまづき 爲む術の たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に 念ひたらはし 魂あはば 君來ますやと わがなげく 八尺のなげき 玉桙の 道來る人の 立ちとまり いかにと問はば 答へやる たづきを知らに さ丹づらふ 君が名いはば 色に出て 人知りぬべみ あしびきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 君待つわれを
 
百不足《モモタラズ》 山田道乎《ヤマダノミチヲ》 浪雲乃《ナミクモノ》 愛妻跡《ウツクシヅマト》 不語《カタラハズ》 別之來者《ワカレシクレバ》 速川之《ハヤカハノ》 往文不知《ユクモシラニ》 衣袂笶《コロモデノ》 反裳不知《カヘルモシラニ》 馬自物《ウマジモノ》 立而爪衝《タチテツマヅキ》 爲須部乃《セムスベノ》 田付乎白粉《タヅキヲシラニ》 物部乃《モノノフノ》 八十乃心呼《ヤソノココロヲ》 天地二《アメツチニ》 念足橋《オモヒタラハシ》 玉相者《タマアハバ》 君來益八跡《キミキマスヤト》 (256)吾嗟《ワガナゲク》 八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》 玉桙乃《タマボコノ》 道來人之《ミチクルヒトノ》 立留《タチトマリ》 何當問者《イカニトトハバ》 答遣《コタヘヤル》 田付乎不知《タヅキヲシラニ》 散釣相《サニヅラフ》 君名曰者《キミガナイハバ》 色出《イロニデテ》 人可知《ヒトシリヌベミ》 足日木能《アシビキノ》 山從出《ヤマヨリイヅル》 月待跡《ツキマツト》 人者云而《ヒトニハイヒテ》 君待吾乎《キミマツワレヲ》
 
(百不足)山田ト云フ囲〔四字傍線〕ノ道ヲ(浪雲乃)愛スル私ノ〔二字傍線〕夫ト、語スルコトモ出來ナイデ、空シク〔三字傍線〕別レテ來ルト、(速川之)行クベキ方モ分ラズ、(衣袂笶)歸ル道モ分ラズ、(馬自物)立ツテ躓イテ、何トモ仕方ガ無イノデ、(物部乃)色々ニ物ヲ思ツテ、物思ガ天地ニ充チ滿チルホドニナツテ、二人ノ〔三字傍線〕魂ガ相合スルナラバ、貴方ガオイデニナルカト思ツテ〔三字傍線〕、私ガアナタヲ戀シガリナガラ〔アナ〜傍線〕嘆イテヰル、長イ嘆息ヲ聞イテ〔三字傍線〕、(玉桙乃)道ヲ歩イテヰル人ガ、不思議ニ思ツテ〔七字傍線〕立チ留ツテ、ドウシタノカト尋ネルナラバ、何ト〔二字傍線〕答ヘル方法モナク、美シイ貴方ノ御名ヲ言ツタナラバ、直ニソレガ〔五字傍線〕外ニ表ハレテ、人ガ二人ノ戀ヲ〔五字傍線〕知ルデアラウカラ、私ハ(足日木能)山カラ出ル月ヲ待ツト人ニハ言ツテ、外ニ出テ〔四字傍線〕、貴方ノオイデ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰルヨ。
 
○百不足《モモタラズ》――枕詞。八十とつづくべきであるのに、山田《ヤマダ》と連ねたのは、八十《ヤソ》のヤのみをとつたか。宣長は足日木《アシビキ》とあつたのを誤つたのだとしてゐるが、さうすれば極めて簡單に解釋がつく。新考は百木成《モモキナリ》の誤としてゐる。○山田道乎《ヤマダノミチヲ》――山田は地名であらう。略解には「孝徳紀、山田寺と言ふ有り。或人、高市郡山田村と言へり。又河内にも山田郷有り。いづれにか」とある。所々にある地名であるから、何處とも定め難い。○浪雲乃《ナミクモノ》――枕詞。浪のやうな雲が美しいから、美しとつづくのであらう。冠辭考は靡藻之《ナビクモノ》と解し、古義は浪をシキと訓み、雲を雪の誤としてタヘと訓み、シキタヘノであらうと言つてゐるが、妄斷であらう。○不語《カタラハズ》――愛する女と談話を交へることもせずしての意。コトトハズ、モノイハズなどの訓もある。○速川之《ハヤカハノ》――枕詞。往くとつづく。(257)○往不知《ユクモシラニ》――舊訓ユクヘモシラズとあるのはよくない。考にはユクカモシラズ、略解はユクカモシラニとある。誤字説をとらず、文字通りにユクモシラニと訓むべきである。○衣袂笶《コロモデノ》――枕詞。袖は翻るものだからカヘルにつづいてゐる。○馬自物《ウマジモノ》――枕詞。馬は時々躓くからその意で下につづいてゐる。馬の如きもの。○立而爪衝《タチチツマヅキ》――自分が悲しみに心も暗んで、行くも歸るもわからず途方にくれて躓くのである。○物部乃《モノノフノ》――枕詞。物部は氏が多いから八十とつづける。○八十乃心乎《ヤソノココロヲ》――いろいろに物思ふ心。○天地二念足橋《アメツチニオモヒタラハシ》――三二五八參照。○玉相者《タマアハバ》――二人の魂が一致し親しむならば。○八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》――八尺は長さの長きをいふ。古事記に八尺勾※[王+總の旁]之五百津之美須麻流之珠《ヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマ》とある八尺に同じ。空間の長さにいふのをここは時間に用ゐてある。卷十四に也左可杼利《ヤサカドリ》(三五二七)とあるのも氣息の長い鳥のことである。八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》は長い嘆息。○王桙乃《タマボコノ》――枕詞。七九參照。○答遺《コタヘヤル》――古義はイヒヤラムとよんでゐる。○散釣相《サニヅラフ》――サは接頭語。ニヅラフは紅いこと。顔の美しさを褒めてゐる。散は山攝、翰韻 n 音尾の字であるから、サニの假名に用ゐられてゐる。散頬相《サニヅラフ》(二五二三)とある。○君待吾乎《キミマツワレヲ》――君を待つ我ぞの意。この末尾の五句は卷十二の足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシビキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》(三〇〇二)と同樣で、唯妹と君と異なるのみである。
〔評〕愛妻《ウルクシツマ》・君來益八《キミキマスヤ》・散釣相君《サニヅラフキミ》・君待吾乎《キミマツワレヲ》などの妻及び君の用法で前半は男の詞の如く、後半は女らしくなつてゐる。そこで略解・古義・新考などいづれもこれを前後二つの歌とし、且脱句あるものとしてゐる。併し愛妻《ウツクシツマ》の妻を文字に拘泥せず、卷四の愛夫者《ウツクシツマハ》(五四三)と同じく、夫のこととして解釋するならば、何の故障もなく、全體を女の歌として解くことが出來る。尤もさうなれば始めの部分は女が男のところに通ふやうになつて、不自然だとの考もあらうが、きういふ例もないではなく、又さうしたことが實際あり得ることであるから、それに囚はれてはいけない。さうして脱句がありとしたり、句を置き換へて見るやうな解釋法はなるべく避けたいと思ふ。末句がおのづから一首の短歌になつてゐて、それが卷十二に出てゐるのは面白いことである。考に卷十二の妹とあるを正とし、この卷の君とあるを誤としたのは、その意を得ない。いづれも民謡的のものであらうから、流動性に富んで、場合に應じて謠ひ替へられるのである。
 
(258)反歌
 
3277 いをもねず 吾が思ふ君は いづくべに 今宵誰とか 待てど來まさぬ
 
眠不睡《イヲモネズ》 吾思君者《ワガモフキミハ》 何處邊《イヅクベニ》 今身誰與可《コヨヒタレトカ》 雖待不來《マテドキマサヌ》
 
眠ルコトモ出來ナイデ、私ガ戀シク〔三字傍線〕思ツテヰル貴方ハ、何處デ今夜ハ誰ト樂シンデヰルノ〔七字傍線〕カ。コンナニ私ガ〔六字傍線〕待ツテヰルノニ、オイデニナラナイ。薄情ナ御方ダ〔六字傍線〕。
 
○何處邊今身誰與可《イヅクベニコヨヒタレトカ》――舊訓イツコニゾコノミタレトカとあるが、今身は今夜の誤としなければ到底解釋出來ない。誰與可《タレトカ》の下に寢ラムといふやうな語が省かれてゐる。
〔評〕 男が來ないので、男の心を疑つたのである。長歌の内容とはしつくり合はないやうな感じがないでもない。
 
右二首
 
3278 赤駒の 厩立て 黒駒の 厩立てて そを飼ひ 吾が行くが如 思ひ凄 心に乘りて 高山の 峯のたをりに 射部立てて しし待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね
 
赤駒《アカゴマノ》 厩立《ウマヤタテ》 黒駒《クロゴマノ》 厩立而《ウマヤタテテ》 彼乎飼《ソヲカヒ》 吾徃如《ワガユクガゴト》 思妻《オモヒヅマ》 心乘而《ココロニノリテ》 高山《タカヤマノ》 峯之手折丹《ミネノタヲリニ》 射目立《イメタテテ》 十六待如《シシマツガゴト》 床敷而《トコシキテ》 吾待公《ワガマツキミヲ》 犬莫吠行年《イヌナホエソネ》
 
私ノ〔二字傍線〕心ニ戀シイ夫ガ(赤駒厩立黒駒厩立而彼乎飼吾徃如)ナツカシクテ、高イ山ノ頂ノ、曲ツタ所ニ、射手ヲ立タセテ置イテ、鹿猪ノ來ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツヤウニ、床ヲ敷キノベテ私ガ待ツテ居ル貴方ヲ、犬ヨ吠エルナヨ。人ニ知ラレルト惡イカラ〔人ニ〜傍線〕。
 
(259)○赤駒厩立黒駒厩立而彼乎飼吾徃如《アカゴマノウマヤタテクロゴマノウマヤタテテソヲカヒワガユクガゴト》――乘と言はむ爲に設けられた序詞。赤駒の爲に厩を立て、黒駒の爲に厩を立てて、その駒を飼つて、自分が乘つて行く如くの意。○思妻《オモヒヅマ》――この妻も前の愛妻《ウツクシヅマ》と同様、夫のことと見ねばならぬ。○心乘而《ココロニノリテ》――心に絶えず思ふこと。○峯之手折丹《ミネノタヲリニ》――峯は頂上。手折はタヲルを名詞としたもの。タヲルは撓む、このタヲリは山の曲つてゐるところ。○射目立《イメタテテ》――射目は射部。弓を射て獣を捕る獵人。○十六待如《シシマツガゴト》――十六は鹿猪。例の戯書である。○床敷而《トコシキテ》――寢床を敷いて。舊訓トコシキニとあり宣長は而を爾の誤として、トコシクニと訓んでゐる。文字通りによむべきであらう。○犬莫吠行年《イヌナホエソネ》――舊訓イヌナホエコソとよんでゐる。集中、行年をソネと訓む例は多い。卷三の雨莫零《アメナフリソネ》(二九九)參照。
〔評〕 これも前半を男の歌とし、後半を女の歌とし、その間に脱句があると見る説が多い。併しさうどの歌も同じやうな誤り方をする筈はない。やはりこれも思妻を夫とすれば、さうして吾徃如《ワガユクガゴト》までの六句を序詞とすれば、全體が一貫して女の歌になる。床敷而《トコシキテ》からの結句に、著しく野趣があらはれてゐるやうに、田舍に行はれた民謠であらうから、そのつもりで見なければいけない。序詞の六句は他に類のない材料で、且謠物らしくよく出來てゐる。
 
反歌
 
3279 葦垣の 末かきわけて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ
 
葦垣之《アシガキノ》 末掻別而《スヱカキワケテ》 君越跡《キミコユト》 人丹勿告《ヒトニナツゲソ》 事者棚知《コトハタナシレ》
 
葦デ作ツタ垣根ノ上ヲ掻キ別ケテ、アノ御方ガ越エテ私ノ所ヘ來ラレ〔八字傍線〕タト云フコトヲ、犬ヨ吠エツイテ〔云フ〜傍線〕人ニ告ゲテハナラヌゾ。事情ハ直ニ悟レヨ。
 
○事者棚知《コトハタナシレ》――舊訓コトハタナシリとあるが、古義にタナシレとあるのがよいであらう。事は直知れ。この事(260)はかくありとただ知れといふのである。
〔評〕 長歌の末尾に犬莫吠行年《イヌナホエソネ》とあるのを受けて、犬に向つて言ふ言葉である。葦垣之末掻別而《アシガキノスヱカキワケテ》の叙述も面白く田舍女らしい氣分が生々としてあらはれてゐる。袖中抄・和歌童蒙抄にも載せてゐる。
 
右二首
 
わがせこは 待てど來まさず 天の原 ふりさけみれば ぬば玉の 夜もふけにけり さ夜ふけて 嵐の吹けば 立ちとまり 待つわが袖に ふる雪は こほりわたりぬ 今更に 君來まさめや さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて み袖持ち 床打ち拂ひ うつつには 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天のたり夜に
 
3280 妾背兒者《ワガセコハ》 雖待不來益《マテドキマサズ》 天原《アマノハラ》 振左氣見者《フリサケミレバ》 黒玉之《ヌバタマノ》 夜毛深去來《ヨモフケニケリ》 左夜深而《サヨフケテ》 荒風乃吹者《アラシノフケバ》 立留《タチトマリ》 待吾袖爾《マツワガソデニ》 零雪者《フルユキハ》 凍渡奴《コホリワタリヌ》 今更《イマサラニ》 公來座哉《キミキマサメヤ》 左奈葛《サナカヅラ》 後毛相得《ノチモアハムト》 名草武類《ナグサムル》 心乎持而《ココロヲモチテ》 三袖持《ミソデモチ》 床打拂《トコウチハラヒ》 卯管庭《ウツツニハ》 君爾波不相《キミニハアハズ》 夢谷《イメニダニ》 相跡所見社《アフトミエコソ》 天之足夜于《アマノタリヨニ》
 
私ノ夫ハイクラ〔三字傍線〕待ツテモオイデニナラナイ。空ヲ遙カニ仰イデ見ルト(黒玉之)夜モ更ケテシマツタ。夜ガ更ケテ嵐ガ吹クト、外ニ〔二字傍線〕佇ンデ、夫ヲ〔二字傍線〕待ツテヰル私ノ着物ノ〔三字傍線〕袖ニハ、降ル雪ガ一面ニ凍リツイタ。モウカウ夜更ニナツテカラ〔モウ〜傍線〕、今更夫ガオイデニナラウヤ。トテモオイデニナル見込ハナイ。ダカラ諦メテ〔トテ〜傍線〕(左奈葛)後ニデモ逢ハウト、強ヒテ〔三字傍線〕慰メル心ニナツテ、袖ヲ以テ床ヲ打チ拂ツテ、實際ニハ夫ニ御目ニカカレナイカラ、セメテ〔三字傍線〕コノヨイ夜ノ夢ニデモ、戀シイ夫ニ〔五字傍線〕逢フト見エテクレヨ。
 
○天原振左氣見者《アマノハラフリサケミレバ》――空を遙かに遠く眺めると。○黒玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。○左奈葛《サナカヅラ》――サネカヅラに同じ。後毛相《ノチモアルム》につづくのは、この葛の蔓が分れて、延び行きて後に復合ふからである。○三袖持《ミソデモチ》――ミソデのミ(261)は接頭語。意味はない。○卯管庭《ウツツニハ》――現には。○天之足夜于《アマノタリヨニ》――天の足夜は夜を褒めた言葉であらう。天を添へるのは天の香具山などの天で、足は足國《タルクニ》・足日《タルヒ》などのタルであらう。ここもタルヨとよんでもよいかも知れない。考に全夜・略解に長き夜と解したのは、その意を得ない。于《ニ》は元暦校本に乎《ヲ》とある。どちらでもよい。
〔評〕 寒夜男を待つ女の心。あきらめて夢にでも見ようと床打拂つて寢ようとしてゐる。用語が平易で、しかも優麗。木枯荒び、雪降り積る冬の夜の情景が見るやうに寫し出され、切ない閨怨の情も悲しく描かれてゐる。時代はあまり古い作ではない。
 
或本歌曰
 
3281 吾がせこは 待てど來たらず 鴈が音も とよみて寒し ぬば玉の 夜もふけにけり さ夜深くと 嵐の吹けば 立ち待つに わが衣手に 置く霜も 氷に冴え渡り 降る雪も 凍り渡りぬ 今更に 君來たらめや さなかづら 後も逢はむと 大舟の 思ひたのめど 現には 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天のたり夜に
 
吾背子者《ワガセコハ》 待跡不來《マテドキタラズ》 鴈音文《カリガネモ》 動而寒《トヨミテサムシ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 宵毛深去來《ヨモフケニケリ》 左夜深跡《サヨフクト》 阿下乃吹者《アラシノフケバ》 立待爾《タチマツニ》 吾衣袖爾《ワガコロモデニ》 置霜文《オクシモモ》 氷爾左叡渡《ヒニサエワタリ》 落雪母《フルユキモ》 凍渡奴《コホリワタリヌ》 今更《イマサラニ》 君來目八《キミキタラメヤ》 左奈葛《サナカヅラ》 後文將會常《ノチモアハムト》 大舟乃《オホブネノ》 思憑迹《オモヒタノメド》 現庭《ウツツニハ》 君者不相《キミニハアハズ》 夢谷《イメニダニ》 相所見欲《アフトミエコソ》 天之足夜爾《アメノタリヨニ》
 
私ノ夫ハイクラ〔三字傍線〕待ツテモ來ナイ。雁ノ聲モ空ヲ〔二字傍線〕響カセテ嶋イテ〔三字傍線〕寒イコトダ〔三字傍線〕。(烏玉乃)夜モ更ケテシマツタ。夜ガ更ケルノヲ知ラセ顔ニ嵐ガ吹クト、外ニ〔二字傍線〕佇ンデ夫ヲ〔二字傍線〕待ツテヰルト、私ノ着物ノ袖ニ置ク霜モ氷トナツテ冴エ渡リ、降ル雪モ一面ニ凍ツテシマツタ。モウカウ夜更ニナツテカラ〔モウ〜傍線〕今更夫ガ來ヨウヤ、トテモ來ル見込ハナイ。ダカラアキラメテ〔トテ〜傍線〕(左奈葛)後ニデモ逢ハウト(大舟乃)タヨリニ思ツテヰルガ、實際ニハ夫ニハ逢ハナイ。(262)セメテ〔三字傍線〕コノ良イ夜ノ夢ニデモ戀シイ〔三字傍線〕夫ニ逢フト見エテクレヨ。
 
○左夜深跡《サヨフケト》――略解には原歌に左夜深而《サヨフケテ》とあるにならつて、跡を而の誤だらうといつてゐるが、夜が更けるとて、即ち夜更けを知らせ顔にの意。○阿下乃吹者《アラシノフケバ》――阿下をアラシと訓ませたのは、山下をアラシとよむのと同じで、阿は集中クマとよんであるが、岡の意もある字で、山と同樣に用ゐたのであらう。略解に「山阿出風を略きて山阿と書けるを、又略きて阿と書けり。下は下風とも書くを思へば、山より吹下すよしを以て書きけむ。喚犬追馬を略きて、犬馬とのみ書きまそと訓める類也。」とあるのは、どうであらう。
〔評〕 原歌とあまり異なつてゐないが、かれには敬語になつてゐるところを、これには用ゐてゐない點が違つてゐる。雁音文動而寒《カリガネモトヨミテサムシ》だの置霜文氷丹左叡渡《オクシモモヒニサエワタリ》などの美辭を、これには多く持つてぬる。
 
反歌
 
3282 衣手に あらしの吹きて 寒き夜を 君來たらずは 獨かも寢む
 
衣袖丹《コロモデニ》 山下吹而《アラシノフキテ》 寒夜乎《サムキヨヲ》 君不來者《キミキタラズハ》 獨鴨寢《ヒトリカモネム》
 
着物ノ袖ニ嵐ガ吹イテ寒イ晩ニ、コンナニ待ツテ居テモ〔十字傍線〕、夫ガ來ナイナラバ、私ハ〔二字傍線〕一人デ寢ルコトデアラウカ。アア淋シイ〔五字傍線〕。
 
○山下吹而《アラシノフキテ》――山下をアラシと詠むのは下風《アラシ》(七四)と同じで、山から吹き下す風の義であらう。和名抄に「嵐、山下出v風也」と記してある。
〔評〕 長歌の意を要約したものである。哀情は籠つてゐる。新古今集にこれを人麿として出してゐる。和歌童蒙抄にも載つてゐる。
 
3283 今更に 戀ふとも君に 逢はめやも ぬる夜をおちず 夢に見えこそ
 
(263)今更《イマサラニ》 戀友君爾《コフトモキミニ》 相目八毛《アハメヤモ》 眠夜乎不落《ヌルヨヲオチズ》 夢所見欲《イメニミエコソ》
 
今マデ待ツテ居テモオイデニナラナイノダカラ、モウ〔今マ〜傍線〕今更イクラ〔三字傍線〕戀シガツテモ、私ハ〔二字傍線〕夫ニ逢フコトハ出來ナイ。ダカラセメテ〔六字傍線〕、寢ル晩ハ毎晩、夢ニ夫ガ〔二字傍線〕見エテクダサイヨ。ソレデモ樂シミニシヨウト思フ〔ソレ〜傍線〕。
 
○眠夜乎不落《ヌルヨヲオチズ》――寢る夜の一夜も洩れず。
〔評〕 長歌の終末の部分の意を繰返してゐる。かういふ内容の歌は集中に尠くない。卷十二の從今雖戀妹爾將相哉母床邊不離夢所見乞《イマヨリハコフトモイモニアハメヤモトコノベサラズイメニミエコソ》(二九五七)・イマサラニネメヤワガセコアラタヨノマタヨモオチズイメニミエコソ(三一二〇)など、かなり類似點がある。
 
右四首
 
或本の歌をも併せて數へてゐる。この歌數を後人の書いたものとする説が多いが、或本を通算したからとて、後人の業とは斷じ難い。
 
3284 菅の根の ねもころごろに 吾が念へる 妹によりては 言のいみも 無くありこそと 齋瓮を 齋ひ掘りすゑ 竹珠を 間なく貫き垂り 天地の 神をぞ吾が祈む いたも術なみ
 
菅根之《スガノネノ》 根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロゴロニ》 吾念有《ワガモヘル》 妹爾縁而者《イモニヨリテハ》 言之禁毛《コトノイミモ》 無在乞常《ナクアリコソト》 齊戸乎《イハヒベヲ》 石相穿居《イハヒホリスヱ》 竹珠乎《タカダマヲ》 無間貰垂《マナクヌキタリ》 天地之《アメツチノ》 神祇乎曾吾祈《カミヲゾワガノム》 甚毛爲便無見《イタモスベナミ》
 
(菅根之)心カラ私ガ思ツテヰル女ニツイテハ、言靈ノ災ヲ受ケルコトモナイヤウニト、酒瓶ヲ地ニ掘リ据ヱ付ケテ、神ヲ祭リ〔四字傍線〕、竹ノ玉ヲ澤山ニ糸ニ貫イテ垂ラシテ、利ハ〔二字傍線〕ヒドク戀シクテ〔四字傍線〕シヤウガナイノデ、天地ノ神ヲ祈(264)ツテオ願ヲスルヨ。ドウゾ神樣憐ンデ願ヲカナヘテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○菅根之《スガノネノ》――枕詞。根とつづく。○根毛一伏向凝呂爾《ネモコロゴロニ》――ネモゴロニといふべきを、語呂の關係からコロを重ねたのである。懇ろに。心から。一伏三向をコロと訓むのは、卷十二に一伏三起(二九八八)をコロとよんであるのと同じく、當時の博奕にもとづいてゐる。四箇の木片を用ゐ、その一箇伏し三箇仰いだのを、コロと言つたのである。委しくは卷十の暮三伏一向夜《ユフツクヨ》(一八七四)參照。○妹爾縁而者《イモニヨリテハ》――妹に關しては。妹は君の誤だらうと左註に見える。○言之禁毛《コトノイミモ》――言之禁《コトノイミ》は言葉の障り。言靈から受ける災。禁は集中、サヘとよんだ例が多い。用ゐる言葉によつて災を受ける。言靈の幸ふ國、言靈の助くる國であると同時に、惡い言葉を用ゐれば、その言靈によつて災を蒙るのである。○齊戸乎《イハヒベヲ》――齊戸は齋瓮。酒を盛つて神前に供へるもの。これ以下四句は用例が多い。○甚毛爲便無見《イタモスベナミ》――舊訓イトモとあるが、イタモの方がよい。
〔評〕 反歌によるとこれは女の歌でなければならぬ。さうすると妹爾縁而者《イモニヨリテハ》とあるのは變である。妹は※[女+夫]の誤でセコ又はキミと訓むのであらう。齋瓮を齋ひ掘りすゑ、竹珠を貫きたれて祈るのは、誰でもやつた神拜の形式であらうが、集中の用例を見るに、齋瓮を齋ひ掘り据ゑて祭るのは、卷三の大伴坂上郎女祭神歌に、齊戸乎忌穿居《イハヒベヲイハヒホリスヱ》(三七九)とあるのを始として、帶乳根之母命者齋忌戸乎前坐置而《タラチネノハハノミコトハイハヒベヲマヘニスヱオキテ》(四四三)、卷九に遣唐使の船が難波を發して海に入るとき親母が子に贈つた歌に、齊戸爾木綿取四手而《イハヒベニユフトリシデテ》(一七九〇)、卷二十に伊波比倍乎等許敝爾須惠弖《イハヒベヲトコベニスヱテ》……奈我伎氣遠麻知可母戀牟岐之伎都麻良波《ナガキケヲマチカモコヒムハシキツマラハ》(四三三一)とあるなど、すべて女の業であるから、これも女の歌と見なければならぬ。妹とあるのは誤であらう。但しこの誤は古くからのことで、妹の字をその儘セともよみならはしてゐたことは、源平盛衰記に妹尾《セノヲ》太郎とあるので明らかである。
 
今案(ズルニ)、不v可(ラ)v言(フ)2之(ヲ)因(リテ)v妹(ニ)者《ハト》1、應(ニ)v謂(フ)2之(ヲ)縁(リテハト)1v君(ニ)也、何(トナレバ)則(チ)反歌(ニ)云(ヘリ)2公之隨意《キミガマニマニト》1焉
 
今案とあるからは、後人の註なることは論がない。元暦校本にもあるから次點の時の書入でもあらうか。
 
(265)反歌
 
3285 たらちねの 母にもいはず 包めりし 心はよしゑ きみがまにまに
 
足千根乃《タラチネノ》 母爾毛不謂《ハハニモイハズ》 ※[果/衣]有之《ツツメリシ》 心者縱《ココロハヨシヱ》 公之隨意《キミガマニマニ》
 
(足千根乃)母ニモ言ハナイデ、包ンデ隱シテ〔三字傍線〕置イタ心ハ、ヨロシイ、貴方ノ思フ通リニ任カセテ御意ニ從ヒ〔六字傍線〕マス。
 
○足千根之《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○心者縱《ココロハヨシヱ》――舊訓ココロハユルスとある。代匠記精撰本の訓がよい。
〔評〕 卷十一にタラチネノハハニシラエズワガモタルココロハヨシヱキミガマニマニ(二五三七)と同歌の異傳といつてもよい。
 
或本歌曰
 
3286 玉たすき かけぬ時なく わが念へる 君によりては 倭文幣を 手に取り持ちて 竹珠を しじに貫き垂り 天地の 神をぞわが乞ふ いたも術なみ
 
玉手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 吾念有《ワガモヘル》 君爾依者《キミニヨリテハ》 倭文幣乎《シヅヌサヲ》 手取持而《テニトリモチテ》 竹珠呼《タカダマヲ》 之自二貫垂《シジニヌキタリ》 天地之《アメツチノ》 神呼曾吾乞《カミヲゾワガコフ》 痛毛須部奈見《イタモスベナミ》
 
心ニ〔二字傍線〕(玉手次)懸ケナイコトモナク、何時デモ〔四字傍線〕私ガ思ツテヰル貴方ニツイテハ、倭文布ノ〔二字傍線〕幣ヲ手ニ取リ持ツテ、竹珠ヲ繋ク貰キ垂ラシ、私ハヒドク戀シクテ〔四字傍線〕、シヤウガナイノデ、天地ノ神樣ニオ祈リ致シマス。
 
○玉手次《タマダスキ》――枕詞。懸《カケ》とつづく。○倭文幣《シヅヌサヲ》――神に供へる爲に、倭文布を幣とするのである。倭文布は吾が國固有の縞ある布。○之自二貫垂《シジニヌキタレ》――シジは繁く。
 
(266)〔評〕 原歌とよく似て、同歌の異傳たることは爭はれない。歌としての價値は別段優劣はない。
 
反歌
 
3287 天地の 神を祷りて 吾が戀ふる 公い必ず 逢はざらめやも
 
乾地乃《アメツチノ》 神乎祷而《カミヲイノリテ》 吾戀《ワガコフル》 公以必《キミイカナラズ》 不相在目八方《アハザラメヤモ》
 
天地ノ神々ヲ祷ツテ、私ガ戀シテヰル貴方ガ、必ズ逢ハナイト云フ事ガアルモノデスカ。必ズ私ニ逢フ筈デス〔九字傍線〕。
 
○乾地乃《アメツチノ》――乾坤とありさうなところである。元暦校本・天治本など皆さうなつてゐるから、地は坤の誤であらう。○公以必《キミイカナラズ》――舊訓キミニカナラズとあり、代匠記初稿本、以は似の誤とある。併し新訓にもとのままで、キミイカナラズとよんだのが、よいのではないか。イは主語の下に附く助詞である。志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》(二三七)・菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》(一八〇九)のイと同じであらう。
〔評〕 強い信念のあらはれた、雄勁な歌である。前の原歌の反歌とは全然別なものである。
 
或本歌曰
 
舊本に反歌とあるが、反は衍である。元暦校本その他の古本にない。
 
3288 大船の 思ひたのみて さなかづら いや遠長く わがもへる 君に依りては ことの故も 無くありこそと 木綿襷 肩に取りかけ 齋瓮を 齋ひ掘りすゑ 天地の 神にぞ吾が祈む いたも術なみ
 
大船之《オホフネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 木始已《サナカヅラ》 彌遠長《イヤトホナガク》 我念有《ワガモヘル》 君爾依而者《キミニヨリテハ》 言之故毛《コトノユヱモ》 無有欲得《ナクアリコソト》 木綿手次《ユフタスキ》 肩荷取懸《カタニトリカケ》 忌戸乎《イハヒベヲ》 齊穿居《イハヒホリスヱ》 玄黄之《アメツチノ》 神祇二衣吾祈《カミニソワガノム》 甚毛爲便無見《イタモスベナミ》
 
(267)(大船之)タノミニ思ツテ(木始已)益々遠ク、イツマデモト〔六字傍線〕私ガ思ツテヰル貴方ニツイテハ、言靈ノ事故モナクテクレト、木綿襷ヲ肩ニ取リ懸ケ、齋瓮ヲ神ニ祭ツテ地ヲ掘ツテ据ヱツケテ、私委ハ〔二字傍線〕ヒドク戀シクテ仕方ガナイノデ、天地ノ神樣ニ祈リマス。
 
○大船之《オホブネノ》――枕詞。たよりにする意でつづく。○木始已《サナカヅラ》――枕詞。サネカヅラニ同じ。木始已は舊訓、コシオノレとあるのを代匠記精撰本に始の下、如を補つて、ネモコロニ、考は延絡石の誤として、ハフツタノ、略解は木は本の誤、始は如の誤で、本知已はネモゴロニ、古義は松根之の誤とし、又別に始は防の誤で、木防巳はアヲツヅラであらうといつた大神景井説をあげてゐる。かく諸説があるが、最後に擧げたものが最良く、なほ字鏡に木防已を佐奈葛とあるによつて ここはアヲツヅラよりもサナカヅラと訓むべきであらう。○言之故毛《コトノユヱモ》――言の事故。即ち前の言之禁《コトノイミ》とあつたのと同じく言靈の災。○木綿手次《ユフタスキ》――木綿《ユフ》で作つた襷。挿畫は木綿襷をかけた埴輪土偶である。○玄黄之《アメツチノ》――玄黄と記したのは珍らしい。千字文の天地玄黄で、アメツチとよませたのである。
〔評〕 原歌と大同小異で、とりたてていふべき點もない。これに添へた反歌はない。
 
3289 みはかしを 劍の池の 蓮葉に たまれる水の 行方無み わがせし時に 逢ふべしと あひたる君を な寢そと 母きこせども あが心 清隅の池の 池の底 われは忘れじ ただに逢ふまでに
 
(268)御佩乎《ミハカシヲ》 劔池之《ツルギノイケノ》 蓮葉爾《ハチスバニ》 渟有水之《タマレルミヅノ》 往方無《ユクヘナミ》 我爲時爾《ワガセシトキニ》 應相登《アフベシト》 相有君乎《アヒタルキミヲ》 莫寢等《ナネソト》 母寸巨勢友《ハハキコセドモ》 吾情《ワガココロ》 清隅之池之《キヨスミノイケノ》 池底《イケノソコ》 吾者不忍《ワレハワスレジ》 正相左右二《タダニアフマデニ》
 
戀シクテ〔四字傍線〕(御佩乎劔池之蓮葉爾渟有水之)途方ニクレテ私ガヰタ時ニ、逢ハウト言ツテ私ト〔五字傍線〕逢ツタ貴方ト、共寢ヲシテハナラヌト、母ガオツシヤルケレドモ、私ノ心ハ清クテ〔七字傍線〕直接ニ貴方〔三字傍線〕ニ逢フマデ(吾情)清隅ノ池ノ底ノヤウニ深ク思ツテ〔九字傍線〕、私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕忘レハシナイ。
 
○御佩乎《ミハカシヲ》――枕詞。御佩刀よ。劍とつづく。ミハカシは御佩し。衣を御|着《ケ》し。弓を御執《ミトラ》しといふ類である。ヲは詠嘆的に添へた助詞。○劔池《ツルギノイケノ》――劍池は大和高市郡白橿村大字石川にある。應神天皇紀に「作劍池輕池鹿垣池厩坂池。」舒明天皇紀七年の條に一端蓮生劍池、一莖二花」皇極天皇紀二年の條「劍池蓮中有一莖二萼者、豐浦大臣妄推曰、是蘇我臣將來瑞世、即以金墨書而獻大法興寺、丈六佛、明年蝦夷入鹿並被誅」とある。これを以ても蓮が多かつたごとがわかる。○蓮葉爾渟有水之《ハチスバニタマレルミヅノ》――ここまでは往方無《ユクヘナミ》と言はむ爲の序詞。蓮の葉に宿つた水が、何方へこぼれるとも知れぬ意でつづいてゐる。○往方無我爲時爾《ユクヘナミワガセシトキニ》――行方もわからす私が困つてゐた時に。途方にくれて私が居た時に。○相有君乎《アヒタルキミヲ》――舊訓を改めて、考にウラヘルキミヲとあり、卜占にあらはれた義としてゐる。併しこの短い歌の内に相の字三つあるが、その一のみをウラの意に用ゐることは少し無理のやうであり、又集中ウラとよんだ例がないから、これも同樣にアヒと訓むべきであらう。古義に「アヒタルキミヲとよむ時は吾がよるべなくせし時に、汝に逢べしとて、逢たる君なるをと云意なり」とあるのがよい。○莫寢等《ナネソト》――共寢するなの意。○母寸巨勢友《ハハキコセドモ》――母は宣へどの意。卷十一の不知二五寸許瀬余名告奈《イサトヲキコセワガナノラスナ》(二七 〇)、卷十二の將相跡令聞戀之名種爾《アハムトキコセコヒノナグサニ》(三〇六三)のキコスと同じである。○吾情《ワガココロ》――枕詞。清とつづけてある。○清隅之池之《キヨスミノイケノ》――大和國添上郡に清澄莊がある。今、五箇谷村と改めてゐる。その大字、高樋に清澄池がある。○池底《イケノソコ》(269)――清澄の池の池の底のやうに深く。○吾者不忍《ワレハワスレジ》――忍は元暦校本・天治本など多くは志に作つてゐる。志は忘であらう。
〔評〕 男と約束した女が、母の目を忍んで逢はうとする心が歌はれてゐる。冒頭の序詞と歌中の譬喩に、劍池と清隅池とを用ゐたのは、作者の工夫のあるところであらうが、殊に冒頭の序詞は巧に出來てゐる。
 
反歌
 
3290 古の 神の時より 逢ひけらし 今のこころも 常忘らえず
 
古之《イニシヘノ》 神乃時從《カミノトキヨリ》 會計良思《アヒケラシ》 今心文《イマノココロモ》 常不所念《ツネワスラエズ》
 
古ノ神ノ代カラシテ、私ハ前世デアノ人ト夫婦トシテ〔私ハ〜傍線〕逢ツテヰタモノト見エル。コノ世ニオケル〔七字傍線〕今ノ私ノ〔二字傍線〕心ニモ、常ニ忘レルコトガ出來ナイ。
 
○古之神乃時從《イニシヘノカミノトキヨリ》――神の御代にゐた時から、これは前世を言つたのである。略解に「上は卷一の、神代よりしかなるらし、いにしへも然なれこそ、うつせみもつまをあらそうらしきと、言ふに同じ意也」とあるのは誤解である。○今心文《イマノココロモ》――古義はイマココロニモとよんでゐるが、現世の心でもの意であるから、舊訓の方が正しい。○常不所念《ツネワスラエズ》――所念は忘の誤か。
〔評〕 前世からの宿縁を信じたものらしいが、佛教思想の浸潤の深いことを思はしめる。
 
右二首
 
3291 み芳野の 眞木立つ山に 青く生ふる 山菅の根の ねもごろに わが念ふ君は おほきみの 遣はしのまにま 或本云、大君のみことかしこみ 夷離る 國治めにと 或本云、天さかる夷治めにと 群鳥の 朝立ち行けば 後れたる 我か戀ひむな 旅なれば 君かしぬばむ 言はむ術 せむすべ知らに 或書に、足引の山の木末にの句あり はふ蔦の 歸りし 或本歸りしの句なし 別の數多 惜しきものかも
 
三芳野之《ミヨシヌノ》 眞木立山爾《マキタツヤマニ》 青生《アヲクオフル》 山菅之根乃《ヤマスゲノネノ》 慇懃《ネモゴロニ》 吾念君者《ワガモフキミハ》 天皇(270)之《オホギミノ》 遣之萬萬《ツカハシノマニマ》 【或本云|王命恐《オホキミノミコトカシコミ》 夷離《ヒナサカル》 國治爾登《クニヲサメニト》 【或本云|天疎夷治爾登《アマサカリヒナヲサメニト》】 群鳥之《ムラトリノ》 朝立行者《アサタチユケバ》 後有《オクレタル》 我可將戀奈《ワレカコヒムナ》 客有者《タビナレバ》 君可將思《キミカシヌバム》 言牟爲便《イハムスベ》 將爲須便不知《セムスベシラニ》 【或書有2足日木山之木末爾《アシビキノヤマノコヌレニノ》句1也】 延津田乃《ハフツタノ》 歸之《カヘリシ》 【或本無2歸之《カヘリシノ》句1也】 別之數《ワカレノアマタ》 惜物可聞《ヲシキモノカモ》
 
(三芳野之眞木立山爾青生山菅之根乃)心身ラ私ガ戀シク思ツ〔五字傍線〕テヰル貴方ハ、天子樣ノオ遣ハシナサルノニ從ツテ、遠イ邊鄙ノ國ヲ治メニチテ、(群鳥之)朝立ツテ出カケナサルト、後ニ遺サレタ私ハ、戀シク思フコトデアラウカヨ。又〔傍線〕旅ニ出テヰルノデ、貴方ガ私ヲ戀シク〔三字傍線〕思ヒナサルデアラウカ。何ト言ヒヤウモナク、何ト仕樣モナク、(延津田乃)別ガマコトニ惜シイモノデスヨ。
 
○眞木立山爾《マキタツヤマニ》――檜の生えてゐる山に。○青生《アヲクオフル》――青は重の誤で、シジニオフルであらうと考にあるが、舊本のままでよい。舊訓はアヲミオフルとある。○山菅之根之《ヤマスゲノネノ》――山菅はヤブラン。ここまでの四句はネモゴロとつづく序詞。○遣之萬萬《ツカハシノマニマ》――考にマケノマニマニとよんだのは、卷三の大王之任乃隨意《オホキミノマケノマニマニ》(三六九)にならつたものか。併し遣をマケとよんだ例が集中に無く、又さう訓むべくもないやうである。ヤリの訓もあるが、ここには感じが惡い。萬萬は徃乃萬萬《ユキノマニマニ》(五四三)の如く、マニマニと訓むべきであらうが、あまり音數が多いから、マニマでよいであらう。○夷離《ヒナサカル》――夷に離れてゐる。田舍の遠いところにある。卷十九に夷放國乎治等《ヒナサカルクニヲヲサムト》(四二一四)とある。○群烏之《ムラトリノ》――枕詞。朝立《アサタチ》とつづく。○我可將戀奈《ワレカコヒムナ》――ワレカコヒナムと訓む説はその意を得ない。吾は戀ひるであらうかよ。ナは歎辭として添へてある。卷七に家爾之?吾者將戀名《イヘニシテワレカコヒムナ》(一一七九)とある。○延津田乃《ハフツタノ》――枕詞。別につづく。蔦の蔓が枝をさして別れ行くからである。○歸之《カヘリシ》――この二字は衍字とすべきであらう。○別之數《ワカレノアマタ》――別が甚だしくの意。○惜物可聞《ヲシキモノカモ》――惜しきものよ。
〔評〕 地方官として、赴任せむとする夫との別を惜しむ歌。情緒纏綿。かなりな佳作である。或本又は或書とし(271)て、別傳が記されてゐるものの多い中に、足日木山之木末爾《アシビキノヤマノコヌレニノ》の句はこれを挿入する方が、下の延津田乃《ハフツタノ》に連絡がよい。
 
反歌
 
3292 うつせみの 命を長く ありこそと 留れるわれは 齋ひて待たむ
 
打蝉之《ウツセミノ》 命乎長《イノチヲナガク》 有社等《アリコソト》 留吾者《トマレルワレハ》 五十羽旱將待《イハヒテマタム》
 
貴方ガ旅ニ出ナサツタナラバ、御無事デ〔貴方〜傍線〕(打蝉之)命ガ永ク續クヤウニト、留守ヲシテヰル私ハ、神樣ヲオ祭リシテ待ツテ居リマセウ。
 
○打蝉之《ウツセミノ》――枕詞。命とつづく。○五十羽旱將待《イハヒテマタム》――考はイハヒマチナムとあり、古義は旱を日手の誤としてイハヒテマタムと訓むべしと言つてゐる。旱をヒテと訓むので、日手の誤とする必要はない。受旱宿跡《ウケヒテヌレド》(二五八九)の例もある。イハヒテは神を齋ひて。
〔評〕 長歌に述べなかつたところを補つてゐる。夫を思ふ心は誠實そのものと言つてよい。
 
右二首
 
3293 み吉野の 御金の嶽に 間無くぞ 雨は降るとふ 時じくぞ 雪は降るとふ その雨の 間無きが如 その雪の 時じきがごと 間もおちず 吾はぞ戀ふる 妹が正香に
 
三吉野之《ミヨシヌノ》 御金高爾《ミカネノタケニ》 間無序《マナクゾ》 雨者落云《アメハフルトフ》 不時曾《トキジクゾ》 雪者落云《ユキハフルトフ》 其雨《ソノアメノ》 無間如《マナキガゴト》 彼雪《ソノユキノ》 不時如《トキジキガゴト》 間不落《マモオチズ》 吾者曾戀《ワレハゾコフル》 妹之正香爾《イモガタダカニ》
 
吉野ノ金峯山ニハ、絶〔傍線〕間ナク雨ガ降ツテヰルト云フコトダ。時ヲ分タズニイツデモ〔四字傍線〕雪ガ降ルト云フコトダ。(272)ソノ雨ガ絶間ノナイヤウニ、ソノ雪ガ時ヲ分タズニ降ルヤウニ、絶間ナク私ハ戀シイ〔三字傍線〕女ノ身ノ上ヲ、戀シク思ツテヰル。
 
○御金高爾《ミカネノタケニ》――御金高は吉野の金峯山即ち大峯である。考に金は缶の誤でミミガノタケだといつたのは、卷一の耳我嶺《ミミガノタケ》(二五)とあるに一致せしめようとしたので妄である。○妹之正香爾《イモガタダカニ》――妹が身の上に。考は爾《ニ》を乎《ヲ》の誤としてゐる。正香《タダカ》は君之直香曾《キミガタダカゾ》(六九七)參照。
〔評〕 卷一の天皇御製歌(二五)と殆ど同じで、もとよりいづれかが原歌で、他はそれを少しく語を變へたに過ぎない。内容から推すと、卷一のやうに其山道乎《ソノヤマミチヲ》とあるよりも、妹之正香爾《イモガタダカニ》とある方が自然であるから、この歌の方が原作であるやうに思はれる。
 
反歌
 
3294 み雪ふる 吉野のたけに ゐる雲の よそに見し子に 戀ひわたるかも
 
三雪落《ミユキフル》 吉野之高二《ヨシヌノタケニ》 居雲之《ヰルクモノ》 外丹見子爾《ヨソニミシコニ》 戀度可聞《コヒワタルカモ》
 
(三雪落吉野之高二居雲之)一寸〔二字傍線〕外《ヨソ》目ニ見タバカリノ女ヲ、私ハ〔二字傍線〕戀シク思ヒツヅケテヰルヨ。ドウシタモノダラウ〔九字傍線〕。
 
○三雪落吉野之高二居雲之《ミユキフルヨシヌノタケニヰルクモノ》――外と言はむ爲の序詞。雲は遠いよその方にあるからである。○外丹見子爾《ヨソニミシコニ》――外目《ヨソメ》に見た女に。よそながら見た女に。
〔評〕 吉野を題材とした點は長歌と同じであるが、内容から見ると長歌の反歌としては、しつくり合はぬやうである。天武天皇御製の歌に反歌がないので見ると、この反歌のあるのは或は、原形でなかつたかも知れない。
 
右二首
 
3295 うち日さつ 三宅の原ゆ ひた土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑぞ 通はすも吾子 うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷の腸 か黒き髪に 眞木綿もち あさざ結ひ垂り 大和の つげの小櫛を 抑へ挿す さすたへの子は それぞ吾が妻
 
(273)打久津《ウチヒサツ》 三宅乃原從《ミヤケノハラユ》 當土《ヒタツチニ》 足迹貫《アシフミヌキ》 夏草乎《ナツクサヲ》 腰爾莫積《コシニナヅミ》 如何有哉《イカナルヤ》 人子故曾《ヒトノコユヱゾ》 通簀文吾子《カヨハスモアゴ》 諾諾名《ウベナウベナ》 母者不知《ハハハシラジ》 諾諾名《ウベナウベナ》 父者不知《チチハシラジ》 蜷腸《ミナノワタ》 香黒髪丹《カグロキカミニ》 眞木綿持《マユフモチ》 阿邪左結垂《アサザユヒタリ》 日本之《ヤマトノ》 黄楊乃小櫛乎《ツゲノヲグシヲ》 抑刺《オサヘサス》 刺細子《サスタヘノコハ》 彼曾吾?《ソレゾワガツマ》
 
(打久津)三宅ノ原カラ土ノ上ヲ深ク踏ミナガラ、夏草ノ中〔二字傍線〕ヲ腰マデモ入ツテ苦シンデ歩イテ、ドンナ女ダカラ、吾ガ子ハ通ヒナサルノデスカ。尤モノコトデスヨ。母モ知リマスマイ。尤モノコトデスヨ。父モ知リマスマイ。(蜷腸)黒イ髪ニ木綿ヲ以テ、阿邪佐ヲ結ビ垂ラシテ、大和ノ黄楊ノ小橋ヲ髪ノ〔二字傍線〕抑ヘニサス、美シイ女ハソレガ私ノ妻デスヨ。
 
○打久津《ウチヒサツ》――枕詞。三宅につづくは宮の意である。多くウチヒサスとあるが、卷十四に宇知比佐都美夜能瀬河泊能《ウチヒサツミヤノセガハノ》(三五〇五)ともある。内日指《ウツヒサス》(四六〇)參照。○三宅乃原從《ミヤケノハラユ》――和名抄、城下郡に三宅郷がある。今舊名を再興して三宅村といふ。今の磯城郡の西北部で結崎の南方に當つてゐる。○當土《ヒタツチニ》――直接に土の上に。地びたに。直土爾《ヒタツチニ》(八九二)とある。西本願寺本。神田本など當を常に作るのが正しいであらう。○足迹貫《アシフミヌキ》――舊訓、アトヲツラネテ、考はアシフミナヅミ、古義はアシフミツラネとある。フミヌキは足を大地に深く踏み込むことで、あまり烈し過ぎる言葉のやうであるが、やはりさう訓むがよから(274)う。貫をツラネとよむのは無理である。○腰爾莫積《コシニナヅミ》――夏草の中を腰までつかへて歩む。古事記に宇美賀由氣婆許斯那豆牟《ウミガユケバコシナヅム》、本集にも、落雪乎腰爾奈都美?《フルユキヲコシニナヅミテ》(四二三〇)などがある。○如何有哉《イカナルヤ》――ヤは輕く添へた歎辭。如何なる人の子故ぞと下につづいてゐる。○人子故曾《ヒトノコユヱゾ》――人子《ヒトノコ》は女をいふ。○通簀文吾子《カヨハスモアゴ》――通ひなさるよ吾が子の意。吾子は親しんでいふ。ここまでは問になつてゐる。○諾諾名《ウベナウベナ》――尤もだな尤もだなの意。諾《ウベ》はうべなふの語根で、本當・尤もと應諾する詞。○蜷腸《ミナノワタ》――枕詞。蜷といふ貝の腸は黒いから黒につづく。○香黒髪丹《カグロキカミニ》――カは接頭語のみ。○眞木綿持《マユフモチ》――マは接頭語。木綿《ユフ》は栲の皮で作つたもの。○阿邪左結垂《アサザユヒタリ》――阿邪左は婦人の頭髪の装飾であらうが、よくわからない。考は何都良結垂《カツラユヒタリ》の誤とし、宣長は或人説として左を※[尸/工]の誤とし交《アザネ》の意であらうといつてゐる。古義は何邪志《カザシ》の誤とする眞淵説を是認してゐる。しかし猥りに誤字とせずに、原形を保存すべきである。○日本之《ヤマトノ》――畿内の大和をいふ。黄楊の小櫛は大和の名産であつたと見える。○刺細子《サスタヘノコハ》――考に刺を敷に改めて、シキタヘノコハとしてゐる。シキタヘノ子は卷十に朱羅引色妙子《アカラヒクシキタヘノコヲ》(一九九九)とあるが、サスタヘはシキタヘと同義で、シキは重《シキ》、サスは立《タツ》に通じ盛な意であらう。即ちサスタヘは盛に妙なる女であらう。○彼曾吾?《ソレゾワガツマ》――それこそ吾が妻なれと、指して教へる言葉。
〔評〕 通簀文吾子《カヨハスモアゴ》までは親がその子に問ふもので、それ以下が子の答となつてゐる。一首を問答の形式に作るのは旋頭歌に多く、長歌にも山上憶良貧窮問答歌(八九二)のやうなものがあるが、その例は極めて尠い。この形式が憶良によつて學ばれたものではないかとさへ思はれる。なほこの吾子を唯若者を親しんで呼ぶ言葉として、眞の親子の間の問答と見ない説もある。それも必ずしも惡くはないが、やはり吾子は言葉通りに解釋して置かう。形式も内容も共に珍らしく、叙述に劇的なところもあり、出色の作である。
 
反歌
 
3296 父母に 知らせぬ子故 三宅路の 夏野の草を なづみ來るかも
 
父母爾《チチハハニ》 不令知子故《シラセヌコユヱ》 三宅道乃《ミヤケヂノ》 夏野草乎《ナツヌノクサヲ》 菜積來鴨《ナヅミケルカモ》
 
(275)父ニモ母ニモ知ラセナイデ隱レテ通フ女〔六字傍線〕ノ爲ニ、私ハ〔二字傍線〕三宅街道ノ夏草ノ茂ツテヰル野原ヲ、惱ミナガラ通ツテ來ルヨ。
 
○不令知子故《シラセヌコユヱ》――父母にも隱してある女の爲に。ここはダノニの意では解し難い。
〔評〕 長歌中の問答の兩部の語を採つて、巧に答者の心を述べてゐる。
 
右二首
 
3297 玉だすき かけぬ時なく 吾が念ふ 妹にし逢はねば あかねさす 畫はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに いもねずに 妹に戀ふるに 生けるすべなし
 
玉田次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 吾念《ワガオモフ》 妹西不會波《イモニシアハネバ》 赤根刺《アカネサス》 日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》 烏玉之《ヌバタマノ》 夜者酢辛二《ヨルハスガラニ》 眠不睡爾《イモネズニ》 妹戀丹《イモニコフルニ》 生流爲便無《イケルスベナシ》
 
(玉田次)心ニ〔二字傍線〕カケナイ時ハナク、私ガ戀シク〔三字傍線〕思フ女ニ逢ハナイノデ、(赤根刺)畫ハ終日、(烏玉之)夜ハ終夜、眠リモシナイデ、女ヲ戀シガツテヰルノデ、生キテヰル方法ガナイ。コレデハドウシテモ焦死シサウダ〔コレ〜傍線〕。
 
○玉田次《タマダスキ》――枕詞。懸けとつづく。○不懸時無《カケヌトキナク》――心に懸けない時はなく。○赤根刺別《アカネサス》――枕詞。日とつづく。○日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》――晝は終日。三二七〇參照。○烏玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。○夜者酢辛二《ヨルハスガラニ》――夜は終夜。三二七〇參照。○妹戀丹《イモニコフルニ》――舊訓イモヲコフルニとあるが、イモニコフルニがよい。
〔評〕 叙述が形式的で、取り立てていふほどの重點もない、三二七〇に少し似てゐる。
 
反歌
 
3298 よしゑやし 死なむよ吾妹 生けりとも かくのみこそ吾が 戀ひ渡りなめ
 
(276) 縱惠八師《ヨシヱヤシ》 二二火四吾妹《シナムヨワギモ》 生友《イケリトモ》 各鑿社吾《カクノミコソワガ》 戀度七目《コヒワタリナメ》
 
エエモウ〔四字傍線〕ヨロシイ、死ナウヨ、吾ガ妻ヨ。タトヒ〔三字傍線〕生キテ居ツテモ、カウシテ私ハ貴方ニ逢ハレナイデ、貴女ヲ〔貴方〜傍線〕戀シガツテバカリ日ヲ送ルデセウヨ。死ンダ方ガマシデス〔九字傍線〕。
 
○二二火四吾妹《シナムヨワギモ》――二二は四であるからシに用ゐ、火をナムと訓むのは、五行を方角に配すれば、火は南に當るからである。卷十に事毛告火《コトモツゲナム》(一九九八)とある。○戀度七目《コヒワタリナメ》――舊本、日とあるは目の誤。元麿校本・西本願寺本など、古寫本多くさうなつてゐる。
〔評〕 強い熱情的の口調である。卷十二に今者吾者將死與吾妹不相而念渡者安毛無《イマハアハシナムヨワギモアハズシテオモヒワタレバヤスケクモナシ》(二八六九)・今者吾者指南與吾兄戀爲者一夜一日毛安毛無《イマハアハシナムヨワガセコヒスレバヒトヨヒトヒモヤスケクモナシ》(二九三六)とあるに似てゐる。なほ卷四の今者吾波將死與吾背生十方吾二可縁跡言跡云莫苦荷《イマハワハシナムヨワガセイケリトモワレニヨルベシトイフトイハナクニ》(六八四)はこれを粉本としたか。この歌、袖中抄にも載せてある。
 
右二首
 
3299 見渡しに 妹らは立たし この方に 我は立ちて 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに さ丹ぬりの 小舟もがも 玉まきの 小※[楫+戈]もがも 榜ぎ渡りつつも あひ語らめを 或本歌頭句云 こもりくの 泊瀬の河の 遠方に 妹らは立たし この方に 我は立ちて
 
見渡爾《ミワタシニ》 妹等者立志《イモラハタタシ》 是方爾《コノカタニ》 吾者立而《ワレハタチテ》 思虚《オモフソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 嘆虚《ナゲクソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 左丹漆之《サニヌリノ》 小舟毛鴨《ヲブネモガモ》 玉纏之《タママキノ》 小※[楫+戈]毛鴨《ヲカイモガモ》 ※[手偏+旁]渡乍毛《コギワタリツツモ》 相語妻遠《アヒカタラメヲ》
 
遠ク〔二字傍線〕見渡サレルアチラ〔六字傍線〕ニ、妻ハ立チ、コチラノ方ニ私ハ立ツテ、思フ心モ安クナク、嘆ク心モ安カラズニ居ルガ、朱塗ノ小舟モアレバヨイ。玉ヲ卷イタ美シイ〔三字傍線〕小櫂モアレバヨイ。サウシタラソノ舟ニ乘ツテ〔サウ〜傍線〕、漕イデ向ウヘ〔二字傍線〕(277)渡ツテ、話ヲシヨウノニ。
 
○見渡爾《ミワタシニ》――見渡す彼方に。○妹等者立志《イモラハタタシ》――妹等のラは接尾語で、意味はない。複數をあらはすものとは異
なつてゐる。立志《タタシ》のシは敬語。○思虚《オモフソラ》――ソラは心。○左丹漆之小舟毛鴨《サニヌリノヲフネモガモ》――卷八に佐丹塗之小船毛賀茂玉纏之眞可伊毛我母《サニヌリノヲフネモガモタママキノマカイモガモ》(一五二〇)とある。舊本、※[沫の異体字]とあるのは誤。漆の草體を誤まつたものである。○小※[沫の末の横線三本]毛鴨《ヲカイモガモ》――※[楫+戈]は楫と同字で、カヂと訓むを常とするが、ここではカイがよい カヂは漕具の總稱。カイをも含む。○相語妻遠《アヒカタラメヲ》――相語らうのにの意。略解に「妻は益の誤にて、かたらはましを歟」とあるのはよくない。
〔評〕 さ丹塗の小舟、玉まきの小櫂は、卷八の山上憶良の七夕の長歌に出てゐるもので、彼はこれを學んだのであらうが、この長歌も二星相思の情を歌つたもののやうに見える。然し次の或本歌によれば、別に頭句がある本があるので、それと比べて見ると、なるほどあまり唐突の感がある。然し冒頭に脱句あるものとせずに、七夕の歌として置きたいと思ふ。
 
或本歌頭句云
 
己母理久乃《コモリクノ》 波都世乃加波乃《ハツセノカハノ》 乎知可多爾《ヲチカタニ》 伊母良波多多志《イモラハタタシ》 己乃加多爾《コノカタニ》 和禮波多知?《ワレハタチテ》
 
これは前の歌を泊瀬川の歌として頭句を補つたものである。これを原形と斷ずるのは早計であらう。泊瀬川にさ丹塗の小舟、王纏の小櫂は不似合である。この二歌の同一句が、或本の方は全然假名書式になつてゐるのは、記録の時代が新しいことを語るもので、寧ろ七夕の歌を泊瀬川の歌に作りかへたことを思はしめる。
 
右一首
 
3300 押照る 難波の埼に 引きのぼる 赤のそほ舟 そほ舟に 綱取りかけ ひこづらひ ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ 言はれにし吾が身
 
(278)忍照《オシテル》 難波乃埼爾《ナニハノサキニ》 引登《ヒキノボル》 赤曾朋舟《アケノソホフネ》 曾朋舟爾《ソホフネニ》 綱取繋《ツナトリカケ》 引豆良比《ヒコヅラヒ》 有雙雖爲《アリナミスレド》 曰豆良賓《イヒヅラヒ》 有雙雖爲《アリナミスレド》 有雙不得叙《アリナミエズゾ》 所言西我身《イハレニシワガミ》
 
(忍照難波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾綱取繋)人ガカレコレ言フノニ〔十字傍線〕對抗シテ、ツヅケテヰルガ、言張ツテ、ツヅケテヰルガ、サウシテ〔四字傍線〕頑張ツテヰラレナイデ、私ハ到頭私ノ戀ヲ、人ニ言ヒ〔私ハ〜傍線〕騷ガレルコトニナツテシマツタ。
 
○忍照《オシテル》――枕詞。難波とつづく。四四三參照。○赤曾朋舟《アケノソホフネ》――赤いソホ塗の舟。ソホは朱。卷十の具穗船乃《ソホフネノ》(二〇八九)參照。○綱取繋《ツナトリカケ》――この句までは次のヒコヅラヒとつづく序詞である。○引豆良比《ヒコヅラヒ》――引張る。古事記上卷八千矛神の御歌に「ヲトメノナスヤイタトヲオソブラヒワガタタセレバヒコヅラヒワガタタセレバ」とあるヒコヅラヒと同じく、ヅラフは接尾語として加へられたものであるが、ヒキヅラフは單に引くとは異なり、強ひて強く引くことにいふやうである。中世の文に「ひきじろふ」「ひこじろふ」とあるのは、この轉じたものであらう。さて、この句は人が自分の戀人を想像してかれこれ言ふのを、突張つて打消してゐる意である。○有雙雖爲《アリナミスレド》――アリナミは在並びであらう。絶えず繼續してゐること。雙《ナミ》をなびけと見るのも、否《イナ》みと見る説も面白くない。○曰豆良賓《イヒヅラヒ》――無理に言ひ張ること。○所言西我身《イハレニシワガミ》――人に言ひ騷がれたわが身よ。
〔評〕 眞淵はこの歌を評して「此歌は崗本ノ宮より前なるべし、仍て反歌もなきなり。その古への歌の中にしもよくよみしにて、言厚く雅にして面白し。是らの類此卷に多きをとり集めて唱へ見るべし」と言つてゐる。反歌がないからとて、直ちに崗本宮以前とは斷じ難い。古雅な優美な歌ではあるが、技巧的にはかなり進歩してゐるから、舒明天皇より下つたものであらうと思はれる。
 
右一首
 
3301 神風の 伊勢の海の 朝なぎに 來寄る深海松 夕なぎに 來寄るまた海松 深海松の 深めし我を また海松の また往反り つまと言はじとかも 思ほせる君
 
(279) 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃海之《イセノウミノ》 朝奈伎爾《アサナギニ》 來依深海松《キヨルフカミル》 暮奈藝爾《ユフナギニ》 來因俟海松《キヨルマタミル》 深海松乃《フカミルノ》 深目師吾乎《フカメシワレヲ》 俟海松乃《マタミルノ》 復去反《マタユキカヘリ》 都麻等不言登可聞《ツマトイハジトカモ》 思保世流君《オモホセルキミ》
 
(神風之伊勢乃海之朝奈伎爾來依深海松暮奈藝爾來因俟海松深海松乃)心〔傍線〕深ク貴女ヲ〔三字傍線〕思ツテヰルコノ〔二字傍線〕私ダノニ(俟海松乃)復歸ツテ來テ、貴女ヲ〔三字傍線〕妻ト言ハナイダラウトデモ思ツテヰルノデスカ貴女ハ。私ハ今カラ旅ニ出テモ、決シテ貴女ヲ忘レナイデ、歸ツテカラモ亦夫婦トナルカラ、サウ悲シミナサルナ〔私ハ〜傍線〕。
 
○神風之《カムカゼノ》――枕詞。伊勢とつづく。八一參照。○來依深海松《キヨルフカミル》――來り寄せる深海松。深海松は深い海中に生ずる海松。海松は海藻の名。一三五參照。○來因俟海松《キヨルマタミル》――海松は枝をさして股のやうになつてゐるので、俣海松といふ。舊本、俟とあるのは、俣の誤か。俣は國字であらう。字書には見えないが、古事記にも八俣遠呂智《ヤマタノヲロチ》とある。或は俟《マツ》の轉で、俟と俣と同字かも知れない。○深海松乃《フカミルノ》――この句を言はむが爲に前の六句を置いたので、さうしてこの句は又次の深目師《フカメシ》と言はむ爲であるから、ここまでの七句は序詞である。○探目師吾乎《フカメシワレヲ》――探目師《フカメシ》とは心に深く思つてゐる意である。○俟海松乃《マタミルノ》――この句は復《マダ》と言はむ爲に置かれたもので、前の六句の序詞の繼續である。○都麻等不言登可聞思保世流君《ツマトイハジトカモオモホセルキミ》――妻と言ふまいと、思つていらつしやるかよ貴方はの意。君は妻と一致してゐる。
 
〔評〕 冒頭の序詞は、卷一の人麿の長歌に、角障經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曾深海松生流荒礒爾曾玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深目手思騰《ツヌサハフイハミノウミノコトサヘグカラノサキナルイクリニゾフカミルオフルアリソニゾタマモハオフルタマモナスナビキネシコヲフカミルノフカメテモヘド》(一三五)とあるのと、全くその手法を一にしてゐる。この兩者の密接な關係は否み難い。若し反歌がないといふ點で、これを舒明天皇以前とするならば、これは正しく人麿のお手本になつた歌である。否舒明天皇以前とは斷じないでも、人麿以前とすることは不合理でないから、人麿(280)にも彼を大ならしめた粉本があつたもので、彼も亦時代の子といふことが出來るわけである。さうして人麿の作が、角障經石見之海乃《ツノサハフイハミノウミノ》になつてゐるに對して、これは神風之伊勢乃海之《カムカゼノイセノウミノ》になつてゐるのは、伊勢の國で、袂を別つ時の作と考へるのが至當のやうである。又この歌は用語の上からは、作者を男性とも女性とも考へられるが、内容から思ふに男性の作であらう。結末の二句が連續してゐるのは古格としては珍らしい。
 
右一首
 
3302 紀の國の 宝の江の邊に 千年に 障る事なく 萬世に 斯くしあらむと 大舟の 思ひたのみて 出で立ちの 清き渚に 朝なぎに 來寄る深海松 夕なぎに 來寄る繩苔 深海松の 深めし子らを 繩苔の 引けば絶ゆとや 里人の 行きの集ひに 泣く兒なす 行き取りさぐり 梓弓 弓腹振り起し 志之岐羽を 二つ手挾み 離ちけむ 人し悔しも 戀ふらく思へば
 
紀伊國之《キノクニノ》 室之江邊爾《ムロノエノベニ》 千年爾《チトセニ》 障事無《サハルコトナク》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 如是將有登《カクシアラムト》 大舟乃《オホブネノ》 思恃而《オモヒタノミテ》 出立之《イデタチノ》 清瀲爾《キヨキナギサニ》 朝名寸二《アサナギニ》 來依深海松《キヨルフカミル》 夕難伎爾《ユフナギニ》 來依繩法《キヨルナハノリ》 深海松之《フカミルノ》 深目思子等遠《フカメシコラヲ》 繩法之《ハナノリノ》 引者絶登夜《ヒケバタユトヤ》 散度人之《サトビトノ》 行之屯爾《ユキノツドヒニ》 鳴兒成《ナクコナス》 行取左具利《ユキトリサグリ》 梓弓《アヅサユミ》 弓腹振起《ユハラフリオコシ》 志之岐羽矣《シノキハヲ》 二手挾《フタツタバサミ》 離兼《ハナチケム》 人斯悔《ヒトシクヤシモ》 戀思者《コフラクオモヘバ》
 
紀伊ノ國ノ牟婁ノ江ノ邊ニカウシテ〔四字傍線〕千年ノ間〔二字傍線〕モ障ルコトモナク、萬年ノ後マデ〔四字傍線〕モカウシテヰヨウト(大舟乃)タヨリニ思ツテ、(出立之清瀲爾朝名寸二來依深海松夕難伎爾來依繩法深海松之)深ク思ツテヰタ女ダノニ(繩法之引者)女ハ〔二字傍線〕コレ限ニナルトデモ思フノカ、私ヲ見送リニ〔六字傍線〕里人ガ行キ集ツテ來ル中デ、泣ク兒ノヤウニ女ガ側ヘ〔四字傍線〕來テスガリ付イテ、コンナ悲シミヲシテ〔九字傍線〕(梓弓弓腹振起志之岐羽矣二手挾)別レタ女ヲ今ニナツテコンナニ〔九字傍線〕戀シク思フコトヲ考ヘルト、殘念デアルヨ。
 
(281)○室之江邊爾《ムロノエノベニ》――室之江は牟婁郡の江、即ち今の田邊灣であらう。○如是將有登《カクシアラムト》――考に舊訓を改めて、シカモアラムトとしたのは要なき改訓である。古義にはカクシモアラムトとある。○大舟乃《オホブネノ》――枕詞。思恃《オモヒタノミ》とつづく。○出立之《イデタチノ》――イデタチシと訓むのはよくない。出立は地名。今、田邊町の一部になつてゐる。卷九に出立之此松原乎《イデタチノコノマツバラヲ》(一六七四)とある。この句より以下、深海松之《フカミルノ》までの七句は深目思子等遠《フカメシコラヲ》とつづく序詞である。○繩法之《ナハノリノ》――上の來依繩法《キヨルナハノリ》を受けて序詞からつづいて、引者絶登夜《ヒケバタユトヤ》と連なつてぬる。繩法《ナハノリ》は繩のやうな海苔。卷十一の奧津繩乘《オキツナハノリ》(二七七九)參照。○引者絶登夜《ヒケバタユトヤ》――繩海苔は柔かいもので引くと切れるから、かく續けたのであるが引者《ヒケバ》は上につづけて序詞の一部をなすものと見るべきであらう。古義はヒカバと訓んでゐる。○散度人乃《サトビトノ》――度は多く濁音に用ゐてあるが、ここは清音の假名である。○行之屯爾《ユキノツドヒニ》――舊本、長とあるは屯を長の草書と見誤つたのであらう。屯とあるべきところである。天治本にはさうなつてゐる。屯は馬屯而《ウマナメテ》(一七二〇)とあるが、ここはツドヒと訓むべきである。○鳴兒成《ナクコナス》――よ泣く兒の如く、古義に枕詞としたのはよくない。○行取左具利《ユキトリサグリ》――行き取り探り。來つて取りつきすがり。代匠記精撰本に「行は靱に借てかけり。幼兒の泣時に物を弄《テサクリ》て泣く如く、我も靱を取さくりて泣意なり。若は鳴《メイ》は嗚《ヲ》にて男成《ヲノコナス》と云へるにや。梓弓なとつつけるやうは、然も聞ゆるなり」とあるのは從ひ難い。○弓腹振起《ユハラフリオコシ》――弓腹は弓末に同じく、弓の上端。古事記上卷に弓腹振立而《ユハラフリタテテ》とある。○志之岐羽矣《シノキハヲ》――志之岐羽《シノキハ》は代匠記精撰本に「志之岐羽は矢なり。矢は敵を凌ぐ物なる故なり」とあるが、又シシキではないかとも疑つてゐる。考はシノギハと訓んで「鳥の風切羽といふをいへり。ことはいかなる風をもよく凌ぎ行故に、征矢に專らとすれば、此名有べし」とある。古義はシシキハと訓んで「或説にシシキは、しわのある羽の矢なりといへれど、矢羽にしわのあらむこと如何なり。猶考べし」といつてゐる。要するに今はよく知り難いが、シノギバは矢の羽の名であらう。之の字は元暦校本・天治本などの古本多く乃に作つてゐるから、舊本は乃を之に寫しかへたもので、シノギハなることは疑ない。○二手挾《フタツタバサミ》――矢は二本を以て一對となすから、必ず二本を携へるのである。手挾は右手の指で持つこと。梓弓からここまでの四句は句中の序詞である。○離兼人斯悔《ハナチケムヒトシクヤシモ》――離兼人《ハナチケムヒト》は別れた女。上からは矢を放つ意でつづいてゐる。古義に「人は我の誤にはあ(282)らざるか、人にても自らのことなり」とあるのは從ひ難い、○戀思者《コフラクオモヘバ》――かくばかり吾が戀ふるを思へばの意。
〔評〕 伊勢と紀伊と國は異なつてゐるが、用語の上には多少の類似點がある。同類の歌としてここに併記したものか。考にこれを挽歌として、その部に轉置したのは從ひ難い。前の歌を伊勢での作とするならば、これも紀伊の國に於ける作と言はねばなるまい。句中の序詞が多く、意義の紛らはしい點がある。
 
右一首
 
3303 里人の 我に告ぐらく 汝が戀ふる うつくし夫は 黄葉の 散り亂れたる 神名火の この山邊から 或本云、その山邊 ぬば玉の 黒馬に乘りて 河の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫は逢ひきと 人ぞ告げつる
 
里人之《サトビトノ》 吾丹告樂《ワレニツグラク》 汝戀《ナガコフル》 愛妻者《ウツクシツマハ》 黄葉之《モミヂバノ》 散亂有《チリミダレタル》 神名火之《カムナビノ》 此山邊柄《コノヤマベカラ》 【或本云|彼山邊《ソノヤマベ》 烏玉之《ヌバタマノ》 黒馬爾乘而《クロマニノリテ》 河瀬乎《カハノセヲ》 七湍渡而《ナナセワタリテ》 裏觸而《ウラブレテ》 妻者會登《ツマハアヒキト》 人曾告鶴《ヒトゾツゲツル》
 
里人ガ私ニ告ゲルノニハ、オマヘガ戀シク思ツテヰル愛スル夫ハ、紅葉ガ散リ亂レテヰル、神名備ノコノ山ノアタリカラ(鳥玉之)黒イ馬ニ跨ツテ、河ノ瀬ヲイクツモ渡ツテ、悄然タル風デ私ノ〔二字傍線〕夫ニハ行キ逢ツタト里〔傍線〕人ガ告ゲタヨ。何處ヘイラツシヤツタノデアラウ〔何處〜傍線〕。
 
○愛妻者《ウツクシツマハ》――妻とあるのは借字で、夫のことである。○散亂有《チリミダレタル》――舊訓チリマガヒタルとあるが、文字通に訓むがよい。○神名火之此山邊柄《カムナビノコノヤマベカラ》――この神名火は雷山であらう。此は下に或本云|彼山邊《ソノヤマベ》とある。雷山の麓に住む女とすれば此山邊でよい。○烏玉之《ヌバタマノ》――枕詞。黒とつづく。ヌバタマは射干玉。黒い實が生る。○黒馬爾乘而《クロマニノリテ》――黒馬をコマと訓む説はよくない。卷四にも夜干玉之黒馬之來夜者《ヌバタマノクロマノクルヨハ》(五  )とある。○七湍渡而《ナナセワタリテ》――七瀬(283)は多くの瀬。これは飛鳥川の瀬であらう。卷七に明日香川七瀬之不行爾《アスカガハナナセノヨドニ》(一三六六)とある。○裏觸而《ウラブレテ》――悲觀して、萎れてゐること。○妻者會登《ツマハアヒキト》――舊訓ツマハアヒツト、考にツマハアヘリトとある。夫に逢つたといふのである。
〔評〕 女の歌で、その愛する男が、悄然として立去る姿を里人が見て、それをその女に語つたといふのである。雷山近くに住む女で、男はその女の家から歸るところであらう。考はこれを挽歌の部に入れ、卷七の挽歌|秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而人西妹者待不來《アキヤマノモミヂアハレトウラブレテイリニシイモハマテドキマサズ》(一四〇九)を引いて、送葬の作としてゐるが、送葬の歌ではない。
 
反歌
 
3304 聞かずして もだあらましを 何しかも 君が正香を 人の告げつる
 
不聞而《キカズシテ》 黙然有益乎《モダアラマシヲ》 何如文《ナニシカモ》 公之正香乎《キミガタダカヲ》 人之告鶴《ヒトノツゲツル》
 
夫ノコトニツイテハ私ハ何モ〔夫ノ〜傍線〕聞カナイデ、黙ツテヰレバヨイノニ、何シニ夫ノ樣子ヲ人ガ私ニ〔二字傍線〕告ゲタノダラウ。ホントニ餘計ナコトヲシテ私ニ物思ヲサセルヨ〔ホン〜傍線〕。
 
○黙然有益乎《モダアラマシヲ》――舊本、然黙とあるは誤。元暦校本による。中々者黙毛有益呼《ナカナカニモダモアラマシヲ》(六一二)・中中黙然毛揖申尾《ナカナカニモダモアラマシヲ》(二八九九)などにならつて、モダモと訓む説も多いが、ここはモに當る文字がない。○公之正香乎《キミガタダカヲ》――正香は身の上。樣子。
〔評〕 戀しい男の樣子を聞いて、胸を焦がす女の心。強い表現になつてゐる。
 
右二首
 
(284)問答
 
3305 物念はず 道行きなむも 青山を 振放け見れば 躑躅花 にほへるをとめ 櫻花 さかゆるをとめ 汝をぞも 吾に依すとふ 吾をもぞ 汝に依すとふ 荒山も 人し依すれば 依そるとぞいふ 汝が心ゆめ
 
物不念《モノオモハズ》 道行去毛《ミチユキナムモ》 青山乎《アヲヤマヲ》 振放見者《フリサケミレバ》 茵花《ツツジバナ》 香未通女《ニホヘルヲトメ》 櫻花《サクラバナ》 盛未通女《サカユルヲトメ》 汝乎曾母《ナレヲゾモ》 吾丹依云《ワレニヨストフ》 吾※[口+立刀]毛曾《アヲモゾ》 汝丹依云《ナニヨストフ》 荒山毛《アラヤマモ》 人師依者《ヒトシヨスレバ》 余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》 汝心勤《ナガココロユメ》
 
物思モナクテ、道ヲ歩キタイト思フノニ、青イ山ヲ遙カニ仰イデ見ルト、躑躅ノ花ガ咲イテヰルガ、ソノ〔躑躅〜傍線〕躑躅ノ花ノヤウナ美シイ少女、又櫻ノ花ガ咲イテヰルガ、ソノ櫻ノ花〔ガ咲〜傍線〕ノヤウナ今美シイ〔三字傍線〕盛リノ少女ヨ。オマヘヲ世間ノ人ガ〔五字傍線〕私ト関係ガアルヤウニ言フサウダ。又〔傍線〕私ノコトヲオマヘト關係ガアルヤウニ人ガ〔二字傍線〕言フサウダ。世間ノ諺ニ人ノ通ハナイヤウナ〔世間〜傍線〕淋シイ奧山デモ、人ガソノ山ト關係ガアルヤウニ言フト、山モソノ心ニナツテ、コチラニ心ヲ留メルヤウニナルト云フガ、山ノヤウナ無情ナモノデモサウダカラ、況ンヤ人間タル〔ガ山〜傍線〕オマヘノ心モ決シテ間違ナク私ヲ思ツテクレヨ〔間違〜傍線〕。
 
○道行去毛《ミチユキナムモ》――道を行くであらうにの意。毛は乎の誤であらうと古義は言ってゐる。○青山乎《アヲヤマヲ》――古義は五色を四時に配すれば、青は春に當るからハルヤマヲであらうと言ってゐる。○茵花《ツツジバナ》――下のつづきは枕詞式になつてゐるが、上からのつづきでは、山に躑躅が咲いてゐるのに、處女を譬へたものである。茵はシトネといふ字であるが、本集で躑躅と訓ませてある。卷三にも茵花香君之《ツツジバナニホヘルキミガ》(四四三)とある。○香未通女《ニホヘルヲトメ》――舊訓ニホヘルヲトメとあるのを、古義はニホヒヲトメと改めてゐるのも、必ずしもわるくはないが、右の巻三の例によれば舊(285)訓の通りでよささうである。この他ニホフヲトメ、ニホエヲトメとも訓めるわけである。○櫻花《サクラバナ》――これも枕詞式であるが、寛景を捕へて譬喩としてゐる。○盛未通女《サカユルヲトメ》――古義にサカエヲトメとしたのもよい。○汝乎曾母《ナレヲゾモ》――毛は詠嘆の助詞で、添へてある。古義はナヲゾモとよんでゐる。○吾丹依云《ワレニヨストフ》――舊訓はワレニヨルトイフとあるが、よくない。古義のアニヨスチフも面白くない。汝を我と關係ある如く、言ひはやすといふのである。○吾※[口+立刀]毛曾《ワレヲモゾ》――上の例によれば、これもワレヲゾモとありさうであるが、特に語をかへたものかも知れない。誤とするのは當らない。○荒山毛人師依者余所留跡序云《アラヤマモヒトシヨスレバヨソルトゾイフ》――荒涼たる淋しい山も人が言ひはやせば遂には人に寄り從ふものだと世間で言つてゐるの意。こんな俗言があつたのであらう。余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》を舊訓はワカモトニトトムトゾイフとあつたが、略解に見えた宣長の訓がよい。ヨソルは寄從ふこと。卷十に公爾波思惠也所因友好《キミニハシヱヤヨソルトモヨシ》(一九二六)とある。○汝心勤《ナガココロユメ》――汝は決して違はずに、我に心を許せよの意。
〔評〕 發端が多少唐突の感があるのは時代が古いからであらう。對句を巧に用ゐて、長歌としての技巧はかなり進んでゐる。荒山云々の引用も面白く出來てゐる。
 
反歌
 
3306 いかにして 戀止むものぞ 天地の 神をいのれど 吾は思益す
 
何爲而《イカニシテ》 戀止物序《コヒヤムモノゾ》 天地乃《アメツチノ》 神乎祷迹《カミヲイノレド》 吾八思益《ワハオモヒマス》
 
ドウシタナラバ私ハ〔二字傍線〕戀ガ止ムダラウゾ。天神地祇ヲ祈ツテ戀ヲ忘レヨウトス〔ツテ〜傍線〕ルケレドモ、私ハ思ガ増スバカリダ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
〔評〕 絶大の力を持つ神に祈つたけれども、なほ吾が戀は止まない。して見ると他に如何なる方法があらうぞと困惑した心を詠んでゐる。古今集の「戀せじとみたらし川にせしみそぎ神は受けずぞなりにけらしも」に似たところがある。
 
3307 然れこそ 歳の八歳を 切る髪の よちこを過ぎ 橘の ほづ枝を過ぎて この河の 下にも長く 汝が心まて
 
(286)然有社《シカレコソ》 歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》 鑽髪乃《キルカミノ》 吾同子※[口+立刀]過《ヨチコヲスギ》 橘《タチバナノ》 末枝乎過而《ホヅエヲスギテ》 此河能《コノカハノ》 下文長《シタニモナガク》 汝情待《ナガココロマテ》
 
私モ貴女ノヤウニ思ツテヰマス〔私モ〜傍線〕。ソレダカラコソ、コノ八年間私ハ振分髪トシテ〔八六字傍線〕切リ下ゲニシテヰル同年輩ノ者ヨリモ、身ノ丈ガ〔四字傍線〕高クナリ、又、橘ノ上ノ枝ヨリモ、高クナツテ、コノ河ノ水ノ〔二字傍線〕ヤウニ心ノ底深ク、長イ間私ハ〔五字傍線〕汝ノ心ヲ打明ルノヲ〔六字傍線〕待ツテヰマス。
 
○然有社《シカレコソ》――然有ればこそ。長歌の意を受けて言つてゐる。○歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》――永年の間。八歳は年齡ではない。○鑽髪乃《キルカミノ》――髪を切つてゐる振分髪の。○吾同子※[口+立刀]過《ヨチコヲスギ》――吾同子はヨチコとよむのであらう。卷五に余知古良《ヨチコラトテタヅサハリテ》(八〇四)とあり、同年の兒の意に解かれてゐる。○橘末枝乎過而《タチバナノホヅエヲスギテ》――橘の樹の上枝を過ぎるほどに成長したといふのか。○此河能《コノカハノ》――水底の意で、下《シタ》につづいてゐるが、其處を流れる河をさして言つたのである。○汝情待《ナガココロマテ》――汝の心の打明けられるのを待つてゐる。初句のコソを受けて、マテで結んだのである。
〔評〕 難解の歌である。突如として、然有社《シカレコソ》と歌ひ出したのは、前の歌を受けた爲であらうが、鑽髪乃《キルカミノ》・橘《タチバナノ》・此河能《コノカハノ》が枕詞のやうでもあり、吾同子《ヨチコ》や末枝《ホヅエ》がどうも落付きがわるい。脱句説もあるが、それも想像に過ぎない。次の柿本朝臣人麿集の歌には、前の長歌とこれとを一にして、一首としてゐる。
 
反歌
 
3308 天地の 神をも我は いのりてき 戀とふものは 曾て止まずけり
 
天地之《アメツチノ》 髪尾母吾者《カミヲモワレハ》 祷而寸《イノリテキ》 戀云物者《コヒトフモノハ》 都不止來《カツテヤマズケリ》
 
(287)忘レヨウトシテ忘レルコトノ出來ナイ戀ノ苦シサニ〔忘レ〜傍線〕、天神地祇ヲモ私ハ祈リマシタ。シカシ〔三字傍線〕戀ト云フモノハ全然止マナイヨ。困ツタコトダ〔六字傍線〕。
 
○都不止來《カツテヤマズケリ》――都《カツテ》は全然。總べて。ザリケリといふべきをズケリといふのは古語である。卷三に尚不如來《ナホシカズケリ》(三五〇)とあつた。
(評) 右の長歌の反歌としては似合はしくないといふので、この前の何爲而《イカニシテ》(三三〇六)の歌の轉じたもので、別歌ではあるまいと略解・古義に見える。併しこの儘にして考へるより外はあるまい。三句切になつてゐるのは調を新しくしてゐる。
 
柿本朝臣人麿之集歌
 
3309 物念はず 路行きなむも 青山を ふり放け見れば 躑躅花 にほえをとめ 櫻花 さかえをとめ 汝をぞも 吾に依すとふ 吾をぞも 汝に依すとふ 汝はいかに念ふや 念へこそ 歳の八年を 切る髪の よちこを過ぐり 橘の ほづえを過ぐり この川の 下にも長く 汝が心待て
 
物不念《モノモハズ》 路行去裳《ミチユキナムモ》 青山乎《アヲヤマヲ》 振酒見者《フリサケミレバ》 都追慈花《ツツジハナ》 爾太遙越賣《ニホエヲトメ》 作樂花《サクラバナ》 左可遙越賣《サカエヲトメ》 汝乎叙母《ナレヲゾモ》 吾爾依云《アニヨストフ》 吾乎叙物《アヲゾモ》 汝爾依云《ナニヨストフ》 汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》 念社《オモヘコソ》 歳八年乎《トシノヤトセヲ》 斬髪《キルカミノ》 與知子乎過《ヨチコヲスグリ》 橘之《タチバナノ》 末枝乎須具里《ホヅエヲスグリ》 此川之《コノカハノ》 下母長久《シタニモナガク》 汝心待《ナガココロマテ》
 
前の長歌二首を一に繋いだのみで、大同小異である。次に異なる點をあげると、○爾太遙越賣《ニホエヲトメ》――前に香未通女とあるに同じ。太は集中多くはタの假名に用ゐてあるのに、ここと、爾太要盛而《ニホエサカエテ》(四二一一)とには、ホに用ゐてある。これを誤とする説もあるが、さうではなく、オホの略と見るべきか。戀良久乃太寸《コフラクノオホキ》(一三九四)の如き例もある。遙はエの假名に用ゐるのは珍らしい例だ。略解にこれを逕の誤としてゐるが、遙は外轉第二十六開效攝宵(288)韻で、ヤ行の文字であるから、エの假名に用ゐるに不思議はない。書紀にはヨの假名に用ゐてある。○佐可遙越賣《サカエヲトメ》――舊本に在とあるは佐の誤。元暦校本など古寫本多くは佐になつてゐる。○汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》――イカニの下をヤで受けてゐるのに注意したい。○與知子乎過《ヨチコヲスグリ》――舊本、和に作るは知の誤。元暦校本などの古寫本、多くは知に作つてゐる。過は下に須具里《スグリ》とあるによれば、スグリと訓むべきである。スグリはスギの延言。
 
右五首
 
3310 隱口の 泊瀬の國に さよばひに 吾が來れば たなぐもり 雪はふり來ぬ さぐもり 雨は降り來ぬ 野つ鳥 雉とよみ 家つ鳥 鷄も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りて且眠む この戸開かせ
 
隱口乃《コモリクノ》 泊瀬乃國爾《ハツセノクニニ》 左結婚丹《サヨバヒニ》 吾來者《アガクレバ》 棚雲利《タナグモリ》 雪者零來奴《ユキハフリキヌ》 左雲理《サグモリ》 雨者落來《アメハフリキヌ》 野鳥《ヌツドリ》 雉動《キギシトヨミ》 家鳥《イヘツドリ》 可鷄毛鳴《カケモナク》 左夜者明《サヨハアケ》 此夜者旭奴《コノヨハアケヌ》 入而且將眠《イリテカツネム》 此戸開爲《コノトヒラカセ》
 
(隱口乃)初瀬ノ國ニ、女ヲ〔二字傍線〕婚スル爲ニ私ガヤツテ來ルト、空ニ雲ガ〔四字傍線〕棚引イテ曇ツテ、雪ガ降ツテ來タ。空ガ曇ツテ雨ガ降ツテ來夕。サウシテ骨ヲ折ツテ行クウチニ〔サウ〜傍線〕、(野鳥)雉ハヤカマシク鳴イテヰルシ、(家鳥)鷄モ鳴イテヰル。サウシテ〔四字傍線〕夜ガ明ケ、今夜モ明ケテシマツタ。シカシ女ノ家ニ〔七字傍線〕入ツテ私ハ〔二字傍線〕マヅ寢ヨウト思フ。コノ戸ヲオ開ケナサイヨ。
 
○左結婚丹《サヨバヒニ》――サは接頭語。結婚をヨバヒとよむのは、相結婚《アヒヨバヒ》(一八〇九)とあつた。ヨバヒは婚を求めて女を呼ぶ義から轉じて、婚することになつてゐる。○棚雲利《タナグモリ》――雲が棚引き曇つて。○左雲利《グモリ》――サは接頭語のみ。意味はない。○野鳥《ヌツドリ》――枕詞。野の鳥の代表的なものであるから、雉に冠する。家鳥《イヘツドリ》――枕詞。可鷄《カケ》とつづく。可(289)鷄《カケ》ハ鷄。その鳴聲から出てこの鳥の名となつたのである。○入而且將眠《イリテカツネム》――且は舊訓アサとあるが、卷四の安蘇蘇二波且者雖知《アソソニハカツハシレドモ》(五四三)の例にならつて、カツと訓むべきであらう。且先づといふやうな意に、輕く用ゐたのであらう。卷十八には且比等波安良自等《マタヒトハアラジト》(四〇九四)とある。○此戸開爲《コノトヒラカセ》――ヒラカセは命令法の開けの敬語である。
〔評〕 古事記上卷の八千矛の神が沼河比賣の家に到つて、詠じ給うた御歌、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》……佐用婆比爾阿理多多斯用婆比邇阿理加用婆勢多知賀遠母伊麻陀登加受弖淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《サヨバヒニアリタタシヨバヒニアリカヨハセタチガヲモイマダトカズテオヒヲモイマダトカネバ》……佐怒都登理岐藝斯波登與牟爾波都登理迦祁波那久《サヌツトリキギスハトヨムニハツトリカケハナク》……と著しく似て居り、又繼體天皇紀の勾大兄皇子の御歌に、矢自矩矢盧于魔伊禰矢度※[人偏+爾]※[人偏+爾]播都等※[口+利]柯稽播儺倶儺梨奴都等※[口+利]枳蟻失播等余武《シジクシロウマイネシドニニハツトリカケハナクナリヌツトリキギシハトヨム》……とあるのとも似てゐる。なほ卷十二の他國爾結婚爾行而太刀之緒毛未解者左夜曾明家流《ヒトクニニヨバヒニユキテタチガヲモイマダトカネバサヨゾアケニケル》(二九〇六)とも關係ある歌である。古代の民謠でよほど古いものであらう。
 
反歌
 
3311 こもりくの 泊瀬少國に 妻しあれば 石はふめども 猶ぞ來にける
 
隱來乃《コモリクノ》 泊瀬少國爾《ハツセヲクニニ》 妻有者《ツマシアレバ》 石者履友《イシハフメドモ》 猶來來《ナホゾキニケル》
 
(隱來乃」泊瀬ノ國ニ重ガアルノデ、ソノ女ニ逢ヒタイト思ツテ、川ノ瀬ノ〔ソノ〜傍線〕石ヲ踏ム歩キニクイ道ダ〔七字傍線〕ケレドモ、ヤハり難儀ヲシナガラ〔七字傍線〕ヤツテ來タヨ。
 
○泊瀬少國爾《ハツセヲグニニ》――ヲは添へて言ふのみで、意味はない。○石者履友《イシハフメドモ》――女の反歌に川瀬之石逆波《カハノセノイシフミワタリ》とあるから川
 
瀬の石である。卷十一に隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《コモリクノトヨハツセヂハトコナメノカシコキミチゾ》(二五一一)とある。
〔評〕 男が女に向つて遠來の勞苦を述べたもので、長歌と共によく出來た作である。
 
3312 隱口の 長谷小國に よばひせす 吾がすめろぎよ 奧床に 母は睡たり 外床に 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし ぬば玉の 夜は明け行きぬ ここだくも 念ふ如ならぬ こもり夫かも
 
隱口乃《コモリクノ》 長谷小國《ハツセヲグニニ》 夜延爲《ヨバヒセス》 吾大皇寸與《ワガスメロギヨ》 奧床仁《オクトコニ》 母者睡有《ハハハネタリ》 外床(290)丹《トツトコニ》 父者寢有《チチハネタリ》 起立者《オキタタバ》 母可知《ハハシリヌベシ》 出行者《イデユカバ》 父可知《チチシリヌベシ》 野干玉之《ヌバタマノ》 夜者昶去奴《ヨハアケユキヌ》 幾許雲《ココダクモ》 不念如《オモフゴトナラヌ》 隱?香聞《コモリヅマカモ》
 
(隱口乃)泊瀬ノ國ニ私ヲ〔二字傍線〕婚ヒノ爲ニ御イデニナル大君ヨ。私ノ家ノ〔四字傍線〕奧ノ方ノ寢床ニハ母ガ寢テヰマス。入口ノ方ノ寢床ニハ父ガ寢テヰマス。デ、私ガ〔三字傍線〕起キ出シタラ母ガ知ルデセウ。出テ行ツタラ父ガ知ルデセウ。ト思ハレルノデ折角ノ貴方ノオイデニモ逢フコトガ出來ナイデ、グズグズシテヰルウチニ〔ト思〜傍線〕(野干玉之)夜ガ明ケテ行キマシタ。ホントニ思フ通リニナラナイ隱シ夫ヨ。困ツタモノデス〔七字傍線〕。
 
○長谷小國《ハツセヲクニニ》――泊瀬を長谷と書くのは、その峽谷の地形によつてゐる。舊本、小とあるのは、前の例によれば少とあたべきである。類聚古集はさうなつてぬる。○吾大皇寸與《ワガスメロギヨ》――舊本、大とあるが、元暦校本その他多くの古寫本は天とある。この句を考は大は夫、皇は美の誤として、寸を美の上に移して、ワガセノキミヨとし、略解の春海説では大は夫の誤、皇寸は尊の誤として、アガセノミコトヨ、古義は皇を王に作る本によらば、皇寸は寸三とあつたのを顛倒し、三を王に誤つたので、ワガセノキミヨであらうといつてゐる。これらは天皇寸《スメロギ》とあるのを畏いと思つたのであらうが、紀記の神詠や天皇御製から考へても、又、本集卷頭の雄略天皇の御製から想像しても、かういふ答歌が、女によつて詠まれるやうな事實が無かつたとは言はれない。催馬樂の我家に「わいへんはとばり帳をも垂れたるを大君來ませ聟にせむ云々」とある大君は種々な見解もあらうが皇族と解することに差支はなささうである。○奧床仁《オクトコニ》――家の奧まつたところの臥床に。○外床丹《トツトコニ》――舊訓はソトトコニとあり、古義はトトコニとある。入口に近き臥床にの意であらう。○夜者昶去奴《ヨハアケユキヌ》――昶は旭に作る本もある。昶は日の永きこと。暢に同じ。○不念如《オモフゴトナラヌ》――宣長がオモハヌガゴトとよんだのは面白くない。○隱?香聞《コモリツマカモ》――考はシヌビツマカモ、宣長はシヌブツマカモとよんでゐるが舊訓のままでよい。卷十一に情中之隱妻波母《ココロノウチノコモリヅマハモ》(二五六六)とある。コモリツマは隱し夫の意。
(291)〔評〕 前の長歌に對する女の答歌。奧床・外床・母・父・起立者《オキタタバ》・出行者《イデユカバ》などの對句が巧に用ゐられている。天皇とあるのが、不思議のやうであるが、右に述べたやうに、後世の考を以て猥りにこれを律してはいけない。
 
反歌
 
3313 川の瀬の 石ふみわたり ぬば玉の 黒馬の來る夜は 常にあらぬかも
 
川瀬之《カハノセノ》 石迹渡《イシフミワタリ》 野干玉之《ヌバタマノ》 黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》 常二有沼鴨《ツネニアラヌカモ》
 
川ノ淺瀬ノ石ヲ踏ンデ渡ツテ、貴方ガ乘ツテオイデニナル〔貴方〜傍線〕、(野干玉之)黒馬ノ來ル晩ハ、イツデモアリタイモノダ。絶エズ毎晩ノヤウニ私ニ逢ヒニオイデ下サイ〔絶エ〜傍線〕。
 
○石迹渡《イシフミワタリ》――舊訓イハトワタリテとあり、袖中抄・元暦校本などもイハトワタリノとあるから、これが古訓であらうが、解し難い。略解による外はあるまい。迹は足迹貫《アシフミヌキ》(三二九五)とあるやうにフミと訓むべきである。○黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》――黒馬は野干玉之《ヌバタマノ》につづくとすれば、クロマと訓まねばならぬ 舊訓コマとあるのはよくない。○常二有沼鴨《ツネニアラヌカモ》――常にあれよの意。
〔評〕卷四のサホガハノサザレフミワタリヌバタマノクロマノクルヨハトシニアラヌカ(五二五)はこれと酷似してゐる。坂上郎女がこれを學んだものに違ひない。袖中抄に載せてある。
 
右四首
 
3314 つぎねふ 山背路を ひと夫の 馬より行くに おの夫し かちより行けば 見るごとに 哭のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 吾が持たる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひなめ持ちて 馬かへ吾背
 
次嶺經《ツギネフ》 山背道乎《ヤマシロヂヲ》 人都末乃《ヒトヅマノ》 馬從行爾《ウマヨリユクニ》 己夫之《オノヅマシ》 歩從行者《カチヨリユケバ》 毎見《ミルゴトニ》 (292)哭耳之所泣《ネノミシナカユ》 曾許思爾《ソコモフニ》 心之痛之《ココロシイタシ》 垂乳根乃《タラチネノ》 母之形見跡《ハハガカタミト》 吾持有《ワガモタル》 眞十見鏡爾《マソミカガミニ》 蜻蛉巾《アキツヒレ》 負並持而《オヒナメモチテ》 馬替吾背《ウマカヘワガセ》
 
(次嶺經)山背ノ道ヲ、他ノ人ノ夫ハ馬二乘ツテ行クノニ、私ノ夫ガ歩イテ行クト、ソレヲ〔三字傍線〕見ル度ニ私ハ悲シクテ〔六字傍線〕聲ヲ出シテ泣クバカリテス。ソレヲ考ヘルト心ガ痛イ。デ私ハ見ルニ見カネルカラ〔デ私〜傍線〕、(垂乳根乃)母ノ形見トシテ私ガ持ツテヰル、眞澄鏡ニ蜻蛉巾ヲ二ツ一緒ニ背負ウテ持ツテ行ツテ〔三字傍線〕、馬ヲ買ヒナサイヨ。吾夫ヨ。
 
○次嶺經《ツギネフ》――枕詞。山背《ヤマシロ》への續き方は明らかでない。冠辭考にはこの歌の用字の如く、「山外《ヤマト》の國より山背《ヤマシロ》の國へは、あまたつづきたる嶺嶺を經過ていたる故に、此冠辭はあるなり」と言つてゐるが、古義には續木根生《ヅギキネフ》の意で、ツギキはツギに縮まり、ツギは續き連れること。木根は祝詞の磐根木根立《イハネキネタチ》、倭姫命世紀の五十鈴原乃荒《》草木根苅掃比《イスズハラノアラクサキネカリハラヒ》、古今集神樂歌の神の木根かもなどの木根で、ただ木のこと。生は淺茅生・粟生などの生で、原といふに同じ。山代の代は苗代・網代の代で樹林の疆ありて、一構取圍んだのをいふ言であるから、連續《ツヅ》きたる木原の山代といつたのであらうと言つてゐる。いづれも牽強の感がある。古く仁徳天皇紀の兎藝泥布椰莽之呂餓波烏《ツギネフヤマシロガハヲ》、又古事記下卷に都藝[泥布夜麻志呂賣能《ツギネフヤマシロメノ》とあり、又古事記下卷に都藝泥布夜夜麻志呂賀波袁《ツギネフヤヤマシロガハヲ》ともあつて、かなり古くから使ひならはした枕詞だが、意は明瞭でない。○山背道乎《ヤマシロヂヲ》――山背は奈良山背後の地、即ち今の相樂・綴喜の二郡方面、山背川(泉川)の流域で、後に廣い國名となつたのである。ここの山背道は山背を通つてゐる遺。○馬從行爾《ウマヨリユクニ》――馬で行くのに。ヨリはニテの意。次の歩從《カチヨリ》のヨリも同じ。○曾許思爾《ソコモフニ》――それを思ふと。○垂乳根之《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○眞十見鏡爾《マソミカガミニ》――眞鐙の鏡に。ます鏡に同じ。ます鏡は眞澄鏡《マスミカガミ》の略。極めてよく澄んだ明らかな鏡。○蜻蛉巾《アキツヒレ》――蜻蛉の羽のやうな羅《ウスモノ》の領巾。領巾は女の肩からかける細長い巾。秋津羽之袖振妹《アキツハノソデフルイモ》(三七六)・秋都葉爾爾寶敝流衣《アキツハニニホヘルコロモ》(二三〇四)などのアキツも同樣であらう。略解に「之は類聚雜要或は雅亮装束抄に載たる鏡の具の比禮なるべし。鏡に添たる比禮は蜻蛉の羽の形したるものな(293)ればあきつひれと言ふべし」とあるのは從ひ難い。○負並持而《オヒナメモチテ》――身に負ひて二つを並べて持つて。この二品を共に負ひ持ちて。古義には「宮地春樹翁、此ノ負は價のことなるべし。俗におひを出すと云事あるは、譬は直拾匁ほどのものを買ふに、七匁ほどにあたる物を此方より渡して、殘三匁たらざる所を添てわたすを、三匁のおひを出すと云り。此の歌もその意ならば鏡にては、馬のあたひに足ざるゆゑに、その負に、領巾を添て出す意なるべしと云り。此の説に付て、本居氏、今ノ俗に云は、轉々したるものにて、古へ負と云しは唯直の事にても有べし。その時は鏡と領巾とを並べて馬の價に出す意なるべし。價を負と云むこと義よくあたれりと云り」とある。宮地春樹のおひ錢のおひと見る説も面白いが、おひは追加の意で、一度提出し、後更に附加へる時にいふ語ではないかと思はれるから、ここには無理であらう。宜長のやうにおひを直ちに價の義とするのは、根據のない説ではあるまいか。○馬替吾背《ウマカヘワガセ》――馬を交替せよ吾が夫よ。カヘは取替へること。物と物とを交換した上代の經濟状態がわかつて面白い。替《カヘ》はやがて買ふといふ動詞になるのである。
〔評〕無垢な純情と愛慕の至誠とが、惻々として人の胸奧に迫つて、おのづから無名の作者の前にぬかづきたいやうな、敬虔の感を起さしめる。山内一豐の妻そのままの話であるが、民衆の歌だけにこの方がより貴いやうに思はれる。なほ新考には當時の馬の價を論じて「馬の價は孝徳天皇紀に、凡官馬ハ中馬ハ一百戸ニ一疋ヲ輸《イタ》セ若細馬ナラバ二百戸毎ニ一疋ヲ輸セ。ソノ馬ヲ買ハム直《アタヒ》ハ一戸ニ布一丈二尺とあり。されば此天皇の御世には中馬は布三十端、上馬は布六十端にて買はれしなり」とある。
 
反歌
 
3315 泉河 渡瀬深み わが背子が 旅ゆき衣 ひづちなむかも
 
泉河《イヅミガハ》 渡瀬深見《ワタリセフカミ》 吾世古我《ワガセコガ》 旅行衣《タビユキゴロモ》 蒙沾鴨《ヒヅチナムカモ》
 
泉河ハ渡ル瀬ガ深イノデ、私ノ夫ノ旅ニ出カケル着物ハ、濡レルデアラウヨ。
 
(294)○泉河渡瀬深見《イヅミガハワタリセフカミ》――泉河は今の木津川。この河は水がかなり深かつたと見える。延喜式雜式に「凡山城國泉川樺井渡瀬者、官長率2東大寺工等1毎年九月上旬造2假橋1來年三月下旬壞收、其用度以2除帳得度田(ノ)地子稻一百束1充v之」とある。○啓沾鴨《ヒヅチナムカモ》――舊本は訓を附してゐない。代匠記初稿本はヌレニケルカモとある。考は蒙は裳の誤として、スソヌレムカモ、古義はモヌラサムカモとあるが、文字を改めるのはよくない。新訓によることにする。ヒヅチは濡れる。
〔評〕 泉川を徒渉する夫の勞苦を思つて、馬を買ひたく思ふのであらうが、右の長歌の反歌としては、しつくり合はない點があるやうだ。
 
或本反歌曰
 
3316 まそ鏡 持たれど我は しるしなし 君がかちより なづみ行く見れば
 
清鏡《マソカガミ》 雖持吾者《モタレドワレハ》 記無《シルシナシ》 君之歩行《キミガカチヨリ》 名積去見者《ナヅミユクミレバ》
 
貴方ガ徒歩デ苦ンデ行クノヲ見ルト、眞澄鏡ヲ持ツテ居テモ私ハ何ノ甲斐モアリマセヌ。母ノ形見ノ鏡モイリマセヌカラ、コレデ馬ヲオカヒナサイ〔母ノ〜傍線〕。
 
○清鏡《マソカガミ》――澄んだ鏡だから、意を以て清鏡と書いたのである。○記無《シルシナシ》――記は驗の借字。卷三に驗無物乎不念者《シルシナキモノヲオモハズハ》(三三八)とある。○名積去見者《ナヅミユクミレバ》――名積《ナヅミ》は泥む。苦しむ。卷七に吾馬難(《ワガウマナヅム》(一一九二)とある。
〔評〕 これは前の歌よりも、反歌としてよく適應してゐる。
 
3317 馬買はば 妹かちならむ よしゑやし 石は履むとも 吾は二人行かむ
 
馬替者《ウマカヘバ》 妹歩行將有《イモカチナラム》 縱惠八子《ヨシヱヤシ》 石者雖履《イシハフモトモ》 吾二行《ワハフタリユカム》
 
(295)馬ヲ買フナラバ、私ハ馬デ行カレルケレドモ、ヤハリ〔私ハ〜傍線〕オマヘハ、歩イテ行カナケレバナルマイ。ダカラ〔三字傍線〕タトヒ石ヲ踏ンデ難儀シテ歩イ〔六字傍線〕テモヨイカラ、私ハオマヘト〔四字傍線〕二人デ歩イテ行カウ。鏡ハ賣ラズニ置キナサイ〔鏡ハ〜傍線〕。
 
○馬替者《ウマカハバ》――前に馬替吾背《ウマカヘワガセ》とあるに對して言つたもの。ウマカヘバと訓むのはよくない。○縱惠八子《ヨシヱヤシ》――集中に多い言葉だ、ヨシヤに同じ。ここは縱令の意を強く言つてゐる。
〔評〕 男が女の歌に答へたもの。至純醇厚。正にこれ團欒和合の行進曲である。略解にはこの歌の前に和歌とあつたのが脱ちたのであらうとイひ、新考には「此歌の前に長歌ありしがおちたるならむ」と言つてゐる。
 
右四首
 
3318 紀の國の 濱に寄るとふ 鰒珠 拾はむといひて 妹の山 勢の山越えて 行きし君 何時來まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕卜を 吾が問ひしかば 夕卜の 我にのらく 吾妹子や 汝が待つ君は 沖つ浪 來寄る白珠 邊つ浪の 寄する白珠 求むとぞ 君が來まさぬ 拾ふとぞ 君は來まさぬ 久ならば 今七日ばかり 早からば 今二日ばかり あらむとぞ 君は聞しし な戀ひそ吾妹
 
木國之《キノクニノ》 濱因云《ハマニヨルトフ》 鰒珠《アハビタマ》 將拾跡云而《ヒロハムトイヒテ》 妹乃山《イモノヤマ》 男能山越而《セノヤマコエテ》 行之君《ユキシキミ》 何時來座跡《イツキマサムト》 玉桙之《タマボコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 夕卜乎《ユフウラヲ》 吾問之可婆《ワガトヒシカバ》 夕卜之《ユフウラノ》 吾爾告良久《ワレニノラク》 吾味兒哉《ワギモコヤ》 汝待君者《ナガマツキミハ》 奧浪《オキツナミ》 來因白珠《キヨルシラタマ》 邊浪之《ヘツナミノ》 縁流白珠《ヨスルシラタマ》 求跡曾《モトムトゾ》 君之不來益《キミガキマサヌ》 拾登曾《ヒロフトゾ》 公者不來益《キミハキマサヌ》 久有《ヒサナラバ》 今七日許《イマナヌカバカリ》 早有者《ハヤカラバ》 今二日許《イマフツカバカリ》 將有等曾《アラムトゾ》 君者聞之二二《キミハキコシシ》 勿戀吾妹《ナコヒソワギモ》
 
紀伊ノ國ノ濱ニ打寄セルト云フ、鰒ノ珠ヲ拾ハウト言ツテ、妹山ヤ背山ヲ越エテ行ツタ貴方ノ、オ歸ガ待チ遠サニ〔八字傍線〕、何時オ歸リナサルカト(玉桙之)道ニ出テ立ツテ、夕方辻占ヲヤツテ見ルト、辻占ガ私ニ告ゲテ言フノニハ、オマヘヨ、オマヘガ待ツテヰル御方ハ、沖ノ浪デ寄ツテ來ル白珠ヤ、海岸ノ浪ガ打寄セテ來ル白珠ヲ求(296)メル爲ニトアノ御方ハオ歸リニナラナイノダ。ソノ玉ヲ〔四字傍線〕拾ハウトテ、アノ御方ガオイデニナラナイノダ。シカシ〔三字傍線〕長イナラバ七日、早イナラバ二日グラヰノウチニハ歸ルダラウトアノ御方ガ仰セニナツタ。ダカラモウ暫クノ辛抱ダカラ《ダカラモ〜傍線〕、戀シク思フナヨ。オマヘヨ。ト辻占ニ出マシタ〔八字傍線〕。
 
○鰒珠《アハビタマ》――鮑の貝の中の玉。眞珠。九三三參照。○妹乃山勢能山越而《イモノヤマセノヤマコエテ》――妹背山は紀伊伊都郡。背山は紀の川の北岸にあり、笠田村に屬し、妹山は南岸にあり、澁田村に屬すといふ。○夕占乎《ユフウラヲ》――夕占は夕方街頭に立つて道行く人の言葉を以てうらなふ占。ユフケともいふ。○吾妹兒哉《ワギモコヤ》――吾妹子よと呼び懸けるのである。 ○來因白珠《キヨルシラタマ》――古義にキヨスシラタマとある。沖の浪で來り寄せる白珠の意。○君者聞之二二《キミハキコシシ》――君は宣ひし。聞之《キコシ》は言ひの敬相である。二二をシに用ゐたのは例の戯書である。
〔評〕 紀伊の海岸に眞珠採集に出かけた男の歸を待つ女の歌か。こんな男が卷七に見えた照左豆《テルサヅ》(一三二六)かも知れない。對句を巧に用ゐて立派な長歌になつてゐる。吾妹兒哉《ワギモコヤ》以下終まで、夕占の言葉であるが、かういふ長い挿語を入れた歌はめづらしい。
 
反歌
 
3319 杖つきも つかずも我は 行かめども 君が來らむ 道の知らなく
 
杖衝毛《ツヱツキモ》 不衝毛吾者《ツカズモワレハ》 行目友《ユカメドモ》 公之將來《キミガキタラム》 遺之不知苦《ミチノシラナク》
 
夫ヲ捜シニ〔五字傍線〕、私ハ杖ヲツイテデモツカナイデモ、出カケテ行カウト思フケレドモ、夫ガ歸ツテ來ナサル道ハ、ドコカラカ分ラナイカラ行違ヒニナルト困ルノデオ迎ヘニモ行カレナイ〔カラ〜傍線〕。
 
○杖衝毛不衝毛吾者行目友《ツヱツキモツカズモワレハユカメドモ》――杖をついてなりともつかずになりとも、ともかく歩いて行かうがの意。この句
 
(297)は卷三に天地至流左右二杖策毛不衝去而《アメツチノイタレルマデニツエツキモツカズモユキテ》(四二〇)とあるのと同じやうである。○公之將來《キミガキタラメ》――舊訓キミガキマサムとある。敬相に訓みたいが、用字の上からはキタラムと訓むべきであらう。
〔評〕 男を待ちかねて、しかも迎へにも行き得ざる困惑の情をよくあらはしてゐる。
 
3320 ただにゆかず こゆ巨勢路から 石瀬ふみ とめぞ吾が來し 戀ひて術なみ
 
直不徃《タダニユカズ》 此從巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石瀬蹈《イハセフミ》 求曾吾來《トメゾワガコシ》 戀而爲便奈見《コヒテスベナミ》
 
私ハ〔二字傍線〕戀シクテ仕方ガナイノデ、アナタヲ御迎ヘノタメニ出カケタガ〔アナ〜傍線〕、眞直ニハ行カナイテ、アナタノオ通リニナリサウナ道ヲ廻リ道ヲシテ〔アナ〜傍線〕、(此從)巨勢街道カラ石ノ多イ〔三字傍線〕瀬ヲ歩イテ、アナタヲ〔四字傍線〕捜シテ私ハ來マシタ。
 
○直不徃《タダニユカズ》――眞直に行かないで、廻道をして行くといふのである。○此從巨勢道柄《コユコセヂカラ》――此從《コユ》の二字は巨勢と言はむ爲に置いたもの。此處より來るの意でつづいてゐる。○石瀬蹈《イハセフミ》――石瀬は石の多い渡り瀬。この川は能登瀬川である。○求曾吾來《トメゾワガコシ》――考は求曾を名積序《ナヅミゾ》とし、古義はモトメゾと訓んでゐる。モトメ・ミトメ・トメは同語であつて、古くから並び行はれたらしく、卷九に冬※[草冠/叙]蕷都良尋去祁禮婆《トコロヅラトメユキケレバ》(一八〇九)とあるから、ここはトメと訓んで置かう。但し卷十一の緑兒之爲社乳母者求云乳飲哉君之於毛求覽《ミドリコノタメコソオモハモトムトイヘチノメヤキミガオモモトムラム》(二九二五)の例によればモトムである。
〔評〕 この歌は前の直不來自此巨勢道柄石椅跡名積序吾來戀天窮見《タダニコズコユコセヂカライオハバシフミナヅミゾワガコシコヒテスベナミ》(三二五七)と同歌で小異があるのみである。但し前の歌は男の歌であり、これは女の歌になつてゐる。
 
3321 さ夜ふけて 今は明けぬと 戸をあけて 紀へ行きし君を いつとか待たむ
 
左夜深而《サヨフケテ》 今者明奴登《イマハアケヌト》 開戸手《トヲアケテ》 木部行君乎《キヘユキシキミヲ》 何時可將待《イツトカマタム》
 
夜ガ更ケテカラ、モウ夜モ明ケタト言ツテ〔三字傍線〕、戸ヲ開ケテ、紀伊ノ國ヘ旅立チナサツタ夫ノ御歸リ〔四字傍線〕ヲ、何時ト思ツテ待ツテ居ラウゾ。待チ遠シイコトダ〔八字傍線〕。
 
(298)○開戸手《トヲアケテ》――開の字は集中アケ・ヒラキ・サキなどに用ゐられてゐる。略解が舊訓を改めて、トヒラキテと訓んだのもわるくはないが、旦戸開者所見霧可聞《アサドアクレバミユルキリカモ》(三〇三四)に傚ふのがよからう。○木部行君乎《キヘユキシキミヲ》――紀伊の國へ行つた君を。へは濁つてはわるい。舊訓キヘユクキミヲとある。
〔評〕 男との訣別の際を想起してよんだのである。代匠記初稿本に「さよふけてとは夜に入ても歸るやとまちふかして、明けぬればいととはやく戸をあけて又待つ心なり」略解に「右の男しばし有て又紀の路へ行を、女の悲みたる歌か。又は是より二首は別の贈答にも有べし」とあり、古義には「此の歌は右の男の紀伊の國へ出立時に、女の作るなるべし。然れば右の長歌より前にあるべきを、反歌に並載たるは混ひたるなるべし」とある。いづれも當らぬやうである。ここまでは反歌の中と見なければなるまい。
 
3322 門にゐし をとめは内に 至るとも いたくし戀ひば 今還り來む
 
門座《カドニヰシ》 郎子内爾《ヲトメハウチニ》 雖至《イタルトモ》 痛之戀者《イタクシコヒバ》 今還金《イマカヘリコム》
 
門ニ立ツテ私ヲ見送ツテ〔六字傍線〕ヰタ郎女ガ、家ニ引込ンダ後デモ、ヒドク私ヲ〔二字傍線〕戀シク思フナラバ、スグニ私ハ歸ツテ來ヨウ。ソンナニ別ヲ悲シミナサルナ〔ソン〜傍線〕。
 
○門座《カドニヰシ》――舊訓のやうにカドニヲルと訓んでは意が通じない。門に立つて見送つてゐたの意。○郎子内爾《ヲトメハウチニ》――郎子は郎女又は娘子とありさうである。多分娘子の誤であらう。内爾雖至《ウチニイタルトモ》を略解は「門まで送れる女の、わが屋の内へ歸り入程の暫の間なりともと言ふ意か」とあるが、どうも穩やかでないやうである。我を見送りて家に入つた後でも、なほ戀しさに堪へぬならばの意であらう。
〔評〕 前の歌の答として掲げてあるが、贈られた歌と、しつくり合はないやうである。下句は古今集の「立わかれいなばの山の峯に生ふるまつとし聞かば今かへり來む」と似てゐる。
 
右五首
 
(299)譬喩歌
 
3323 しな立つ 筑摩さぬかた 息長の 遠智の小菅 編まなくに い苅り持ち來 敷かなくに い苅り持ち來て 置きて 吾を偲ばす 息長の 遠智の小菅
 
師名立《シナタツ》 都久麻左野方《ツクマサヌカタ》 息長之《オキナガノ》 遠智能小菅《ヲチノコスゲ》 不連爾《アマナクニ》 伊苅持來《イカリモチキ》 不敷爾《シカナクニ》 伊苅持來而《イカリモチキテ》 置而《オキテ》 吾乎令偲《ワレヲシヌバス》 息長之《オキナガノ》 遠智能子菅《ヲチノコスゲ》
 
(師名立)筑摩ノ額田ノ息長ノ遠智ト云フ所ニ生エテヰル小サイ菅、ソノ菅ヲ〔四字傍線〕編ミモシナイノニ刈ツテ持ツテ來、敷キモシナイノニ刈ツテ持ツテ來テ、置イテ、如何ニモ使ヒサウニシテ置イテ〔如何〜傍線〕、私ヲ物思ハスル息長ノ遠智ノ小サイ菅ヨ。アノ女ハ私ノ言フ事ヲ聞キサウナ態度ヲシテヰナガラ、逢ハナイデ、私ニ物思ヲサセルヨ〔アノ〜傍線〕。
 
○師名立《シナタツ》――枕詞。級立《シナタツ》の意と解せられるが、都久麻《ツクマ》にかかる理由が明らかでない。舊訓はシナタテルとよんでゐる。考はシナテルと訓み、冠辭考に推古天皇紀の斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナテルカタヲカヤマニ》。卷九の級照片足羽河之《シナテルカタシハガハノ》(一七四二)などと同樣に見てゐるが、無理であらう。○都久麻左野方《ツクマサヌカタ》――筑麻狹額田か。筑摩は近江國坂田郡。今の米原驛の西方にあたる。サヌカタはわからない。卷十に狹野方波實雖不成《サヌカタハミニナラズトモ》(一九二八)・狭野方波實爾成西乎《サヌカタハミニナリニシヲ》(一九二九)沙額田乃野邊乃秋芽子《サヌカタノヌベノアキハギ》(二一〇六)とある狹野方、沙額田と同所か。○息長之《オキナガノ》――息長は同じく坂田郡にあり、今米原驛と醒ケ井驛との中間の北方に息長村がある。○遠智能小菅《ヲチノコスゲ》――遠智は息長の郷内の地名で菅の名所であらう。卷七にも眞珠付越能菅原《マタマツクヲチノスガハラ》(一三四一)とある。○伊苅持來《イカリモチキ》――伊《イ》は接頭語で意味はない。次の伊苅持來而《イカリモチキテ》も同じ。○吾乎令偲《ワレヲシヌバス》――我をなつかしく思はしめる。シヌブはなつかしく慕はしく思ふこと。
〔評〕 女を小菅に譬へてゐる。かういふ譬喩歌は、卷十一の三吉野之水具麻我菅乎不編爾刈耳苅而將亂跡也《ミヨシヌノミグマガスゲヲアマナクニカリノミカリテミダリナムトヤ》(二八三七)などの如く、短歌にはその例が尠くないが、長歌には珍らしい。俚謠風の作品である。古義には、少女の(三〇〇)未だ成長せざるを戀ひて、行末人にとられじと煩ふ意に解してゐるが、さうであるまい。
 
右一首
 
挽歌
 
3324 かけまくも あやにかしこし 藤原の 都しみみに 人はしも 滿ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年のを長く 仕へ來し 君が御門を 天の如 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひたのみて 何時しかも 日足らしまして 望月の たたはしけむと 吾が思ふ 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 國見あそばし 九月の 時雨の秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉だすき かけて偲ばし み雪ふる 冬の朝は 刺楊 根張梓を 御手に 取らしたまひて 遊ばしし 吾が大君を 煙立つ 春の日ぐらし まそ鏡 見れど飽かねば 萬歳に かくしもがもと 大船の たのめる時に およづれに 目かもまどへる 大殿を ふり放け見れば 白妙に 飾りまつりて うち日さす 宮の舍人は 一云、は 栲の穗の 麻衣着るは 夢かも 現かもと 曇り夜の まどへるほどに 麻裳よし 城の上の道ゆ つぬさはふ 石村を見つつ 神葬り 葬りまつれば 往く道の たづきを知らに 思へども しるしを無み 嘆けども おくがを無み 御袖の 行き觸りし松を 言問はぬ 木にはあれども あらたまの 立つ月ごとに 天の原 ふり放け見つつ 玉だすき かけてしぬばな かしこかれども
 
挂纏毛《カケマクモ》 文恐《アヤニカシコシ》 藤原《フヂハラノ》 王都志彌美爾《ミヤコシミミニ》 人下《ヒトハシモ》 滿雖有《ミチテアレドモ》 君下《キミハシモ》 大座常《オホクイマセド》 往向《ユキムカフ》 年緒長《トシノヲナガク》 仕來《ツカヘコシ》 君之御門乎《ミキガミカドヲ》 如天《アメノゴト》 仰而見乍《アフギテミツツ》 雖畏《カシコケド》 思憑而《オモヒタノミテ》 何時可聞《イツシカモ》 日足座而《ヒタラシマシテ》 十五月之《モチヅキノ》 多田波思家武登《タタハシケムト》 吾思《ワガオモフ》 皇子命者《ミコノミコトハ》 春避者《ハルサレバ》 殖槻於之《ウヱツキガウヘノ》 遠人《トホツヒト》 待之下道湯《マツノシタミチユ》 登之而《ノボラシテ》 國見所遊《クニミアソバシ》 九月之《ナガツキノ》 四具禮之秋者《シグレノアキハ》 大殿之《オホトノノ》 砌志美彌爾《ミギリシミミニ》 露負而《ツユオヒテ》 靡芽子乎《ナビケルハギヲ》 珠手次《タマダスキ》 懸而所偲《カケテシヌバシ》 三雪零《ミユキフル》 冬朝者《フユノアシタハ》 刺楊《サシヤナギ》 根張梓矣《ネハリアヅサヲ》 御手二《ミテニ》 所取賜而《トラシタマヒテ》 所遊《アソバシシ》 我王矣《ワガオホキミヲ》 煙立《ケブリタツ》 春日暮《ハルノヒグラシ》 喚犬追馬鏡《マソカガミ》 雖見不飽者《ミレドアカネバ》 萬歳《ヨロヅヨニ》 如是霜欲得常《カクシモガモト》 大船之《オホブネノ》 憑有時爾《タノメルトキニ》 涙言《オヨヅレニ》 目鴨迷《メカモマドヘル》 大殿矣《オホトノヲ》 振放見者《フリサケミレバ》 白細布《シロタヘニ》 飾奉而《カザリマツリテ》 内日刺《ウチヒサス》 宮舍人方《ミヤノトネリハ》【一云者】 雪穗《タヘノホノ》 麻衣服者《アサギヌキルハ》 夢鴨《イメカモ》 現前鴨跡《ウツツカモト》 雲入夜之《クモリヨノ》 迷間《マドヘルホドニ》 朝裳吉《アサモヨシ》 城於道從《キノヘノミチユ》 角障經《ツヌサハフ》 石村乎見乍《イハレヲミツツ》 (301)神葬《カミハフリ》 葬奉者《ハフリマツレバ》 往道之《ユクミチノ》 田付※[口+立刀]不知《タヅキヲシラニ》 雖思《オモヘドモ》 印乎無見《シルシヲナミ》 雖嘆《ナゲケドモ》 奧香乎無見《オクカヲナミ》 御袖《ミソデノ》 往觸之松矣《ユキフリシマツヲ》 言不問《コトトハヌ》 木雖在《キニハアレドモ》 荒玉之《アラタマノ》 立月毎《タツツキゴトニ》 天原《アマノハラ》 振放見管《フリサケミツツ》 珠手次《タマダスキ》 懸而思名《カケテシヌバナ》 雖恐有《カシコカレドモ》
 
口ニ出シテ言フノモ不思議ニ畏イコトダ。藤原ノ都ニ一杯ニ人ハ滿チ滿チテヰルケレドモ、皇子タチハ澤山ニイラツシヤルケレドモ、ソノ内モ〔五字傍線〕、過ギテハ來ル年ノ永イ間御奉公シテ來タ皇子ノ御殿ヲ、天ヲ仰グ〔二字傍線〕ヤウニ抑イデ見テ、畏多イケレドモ、末ヲアテニシテ〔七字傍線〕頼ミニ思ツテ、何時ニナツタラ日ノヤウニオ榮エニナツテ、(十五月之)滿足デイラセラレルデアラウカト、私ガ思ツテヰル皇子樣ハ、春ニナルト殖槻ト云フ所ノアタリニアル、(遠人)松ノ木ノ生エテヰル〔七字傍線〕下ノ道ヲオ登リニナツテ國見ヲナサリ、九月ノ時雨ノ降ル秋ノ頃ハ、御殿ノ庭モ一杯ニ、露ヲ帶ビテ靡イテヰル萩ヲ、(珠手次)御心ニ〔三字傍線〕オカケニナツテナツカシク思召シ、雪ノ降ル冬ノ朝ニハ、(刺楊根)張ツタ梓弓ヲ御手ニオ持チニナツテ、遊獵ヲナサツタ私ノ戴イテヰル〔五字傍線〕皇子ヲ、霞ノ立ツ春ノ日終日、(喚犬追馬鏡)イクラ見テモ見飽カナイノデ、萬歳ノ後マデモ、カウシテヰタイモノダト、(大船之)頼ミニ思ツテヰル時ニ、世間ノ〔三字傍線〕妖言ニ目デモ狂ツタノデアラウカ。皇子ノ〔三字傍線〕御殿ヲ遙カニ仰イデ見ルト、白イ布デオ飾リ申シテ、(内日刺)宮ニ仕ヘテヰル舍人ハ、白イ麻ノ着物ヲ着ルノハ夢デアラウカ、ソレトモ本當ノコトデアラウカト、(雲入夜之)迷ツテヰル時ニ、(朝裳吉)城上ノ道ヲ通ツテ、(角障經)石村ヲ横ニ〔二字傍線〕見ナガラ、神樣トシテ葬リ申シ上ゲルト、私ハ悲シクテ〔六字傍線〕道ヲ行クニモ行ク術モ知ラズ、心ニハ戀シク〔六字傍線〕思ツテモ甲斐ガナイノデ、嘆イテモ際限ガナイノデ、セメテノ心ヤリニ、皇子ノ〔セメ〜傍線〕御袖ヲオ觸レニナツタ松ヲ、物ヲ言ハナイ木デハアルガ、(荒玉(302)之)毎月毎月、空ヲ遙カニ仰イデ見ナガラ、畏イコトデハアルガ、心ニ〔二字傍線〕(珠手次)カケテ皇子ヲ〔三字傍線〕ナツカシク思ヒ出シ奉ラウ。
 
○王都志彌美爾《ミヤコシミミニ》――都に一杯にの意。志彌美《シミミ》は繁く。卷三に内日指京思美彌爾里家者左波爾雖在《ウチヒサスミヤコシミミニサトイヘハサハニアレドモ》(四六〇)とある。○君下《キミハシモ》――君はすべて仰ぎ仕ふべき人をいふ。シモは強めていふのみ。○往向《ユキムカフ》――略解にユキムカヒとして「宣長云外にも君はませども、わきて此君に心寄せて仕奉るよし也と言へり」とあるのは從ひがたい。古義に向を易として、ユキカハル、囘としてユキカヘルとしたのは共によくない。年が去り來る意で下につづいてゐる。○日足座而《ヒタラシマシテ》――舊本、日を曰に作つてゐるが、神田本に日に作るのがよい。古事記垂仁天皇の條、本牟智和氣御子の生れ給ひしところに、又命2詔何爲|日足奉《ヒタシマツラム》1答d白取2御母1定2大湯坐若湯坐1、宜c日足奉《ヒタシマツル》u、」とあり、幼子を育てることであるが、ここは幼皇子ではないやうだから、その意では當てはまらぬ。卷二の御壽者長久天足有《ミイノチハナガクアマタラシタリ》(一四七)の天足《アマタラシ》と同じく、日足《ヒタラシ》は日の如く榮え足りることであらう。○多田波思家武登《タタハシケムト》――たたはしくあらむと。タタハシは滿ちて缺けないこと。卷二に望月乃滿波之計武登《モチツキノタタハシケムト》(一六七)とある。○皇子命者《ミコノミコトハ》――皇子命《ミコノミコト》とは皇太子にかぎりいふ稱呼であるが、ここはさうではないやうであるから、命《ミコト》は尊稱と見ねばなるまい。○殖槻之於之《ウエツキガウヘノ》――殖槻は今昔物語に敷下郡植槻寺とあり、(敷は添の誤か)神樂歌小前張にも「殖槻や田中の杜や」とあつて同所であらう。今、郡山町に植槻八幡宮があり、植槻といふ地名も殘つてゐるから、しばらく地名とする説に從つて置かう。於《ウヘ》は邊《ホトリ》の意であらう。○遠人《トホツヒト》――枕詞。待つにかけて松につづけてゐる。○待之下道湯《マツノシタミチユ》――松の生えてゐる下の道を辿つて。○砌志美彌爾《ミギリシミミニ》――砌は軒下の石だたみ、即ち庭前。○珠手次《タマダスキ》――枕詞。懸けとつづく。○三雪零《ミユキフル》――枕詞とも見られるが、上の九月之四具禮之秋者《ナガツキノシグレノアキハ》に對したものとすると枕詞としない方がよからう。○刺楊《サシヤナギ》――次の根までを連ねて張梓《ハリアヅサ》とつづけてゐる。刺木の柳が根を張りて生ひつくからである。○根張梓矣《ネハリアヅサヅヲ》――根は上につけて見るがよい。張梓は張りたる梓弓。但し、梓の現代名をオホバミネバリとすると、(三參照)このネバリ梓は、ミネバリ梓の弓かも知れない。これは予の臆説に過ぎぬ。○御手二《ミテニ》――オホミテニとあ(303)りさうなところである。代匠記初稿本には御の上に大の字脱ちたものかといつてゐる。○所遊《アソバシシ》――遊獵し給ひし。古事記、雄略天皇の御製に、夜須美斯志和賀意富岐美能阿蘇婆志斯志斯能夜美斯志能《ヤスミシシワガオホキミノアソバシシシシノヤミシシノ》とある。○煙立《ケブリタツ》――煙は霞。霞・霧・煙を混同したことは卷十二の吾妹兒爾戀爲便名鴈※[匈/月]乎熱旦戸開者所見霧可聞《ワギモコニコヒスベナカリムネヲアツミアサトアクレバミユルキリカモ》(三〇三四)に明らかである。○喚犬追馬鏡《マソカガミ》――枕詞。見とつづく。犬を喚ぶ聲はマ、馬を追ふ聲はソであるから、戯れてかう書いた。○大船之《オホブネノ》――枕詞。憑《タノム》とつづく。○涙言《オヨヅレニ》――涙言は妖言の誤で、言の下、一本に可があるといふので、考はマガゴトカと訓んでゐる。併し集中に妖言の熟字はなく、いづれも逆言となつてゐるから、涙は逆の誤と見るべきであらう。校本萬葉集に可の字のある本がない。逆言之《オヨヅレノ》(四二一)とあるから、ここはオヨヅレニと訓むべきである。○白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》――白栲の布を以て、皇子の御殿を飾り奉つて。卷二に吾大王皇子之御門乎神宮爾装束奉而遣使御門之人毛白妙乃麻衣著《ワガオホキミミコノミカドヲカムミヤニヨソヒマツリテツカハシシミカドノヒトモシロタヘノアサゴロモキ》(一九九)とある。○内曰刺《ウチヒサス》――枕詞。宮とつづく。四六〇參照。○宮舍人方《ミヤノトネリハ》――舊訓ミヤノトネリモとある。方は十方《トモ》・八方《ヤモ》・四方《ヨモ》の如き方角についてのみモと訓むので、これを他に及ぼすのは無理である。末邊方《スヱベハ》(三二二二)にならつて訓むべきである。○雪穗《タヘノホノ》――タヘは栲。白いからここは雪の字を用ゐたのである。穗は褒めていふ言葉。卷一に栲乃穗爾《タヘノホニ》(七九)とある。○麻衣服者《アサギヌキルハ》――古義はアサギヌケルハと訓んでゐる。○朝裳吉《アサモヨシ》――枕詞。城《キ》とつづく。五五參照。○城於道從《キノヘノミチユ》――城於《キノヘ》は城上・木※[瓦+缶]などとも書く。北葛城郡馬見村大塚とも、六道山ともいふ。一九六參照。城上の道を通つて。○角障經《ツヌサハフ》――枕詞。蔦多蔓《ツヌサハフ》、石とつづく。一三五參照。○石村乎見乍《イハレヲミツツ》――石村は大和磯城郡、安倍村附近一帶の地。今櫻井町南方の小丘を地方人は石村山と稱してゐる。安倍と櫻井とは少しく距つてゐるが、なほ古名の殘るものがあるかも知れないから次に、櫻井町の石村山の寫眞を載せて置いた。著者撮影。○往道之田付※[口+立刀]不知《ユクミチノタヅキヲシラニ》――吾が行く道の方法を知らず。どうして行くべきかを知らず。○印乎無見《シルシヲナミ》――印《シルシ》は驗《シルシ》。甲斐。○奧香乎無見《オクカヲナミ》――奧香《オクカ》は奧底。果《ハ》て。○御袖《ミソデノ》――略解にはオホミソデと訓んである。○往觸之松矣《ユキフリシマツヲ》――舊訓。往を上に附けてミソテノユキと訓み、古義は持に改めて、ミソテモチと訓んでゐる。往觸之松《ユキフリシマツ》とは道行く時に、皇子の御袖が觸れた松の意。○言不問《コトトハヌ》――物言はぬ。○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。月とつづく。○立月毎《タツツキゴトニ》――毎月。立つは月の改まるをいふ。○天原《アマノハラ》――空(304)を。略解には天知《アメノゴト》の誤であらうとしてゐるが、さうではあるまい。
〔評〕 皇子に對する尊崇の念と、その薨去を悼む哀慕の情とが、典雅諄厚な麗句によつて巧に繰り展げられて行く手際は實に立派なものである。殊に結末の御袖往觸之松葉言不問木雖在《ミソデノユキフリシマツヲコトトハヌキニハアレドモ》云々の數句は、哀切痛恨惻々然として人の腸を斷つものがある。併しながらこれを一讀して誰もが感ずるのは、卷二に見えた柿本人麿作の高市皇子尊城上の殯宮の時の長歌(一九九)との類似であらう。先づ發端の挂纏毛文恐《カケマクモアヤニカシコシ》はかの挂文忌之伎鴨言久母綾爾畏伎《カケマクモユユシキカモイハマクモアヤニカシコキ》を約めたやうな形であり、末句の天原振放見管珠手次懸而思名雖恐有《アマノハラフリサケミツツタマダスキカケテシヌバナカシコカレドモ》は彼の天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文《アメノゴトフリサケミツツタマダスキカケテシヌバムカシコカレドモ》と殆ど同樣である。而してその中間には、かの長歌に似た數句を發見する外に、同じく人麿作の日並皇子尊殯宮時の長歌(一六七)中に見える望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタタハシケムト》のやうな句も含まれ、その他にも人麿らしい用語が散在してゐる。かかる現象はこれを何と解釋すべきものであらうか。この歌と人麿の作との間に、密接な關係があることは否み難いとして、いづれを先とし、いづれを後とすべきであらうか。慎重な考慮を要する。先づ決定すべきはこの皇子は誰にておはすかの問題である。代匠記・古義はこの歌を以て高市皇子尊薨去の時の挽歌としてゐるが、卷二の長歌に類似してゐる事から惹した錯覺で、何時可聞日足座而《イツシカモヒタラシマシテ》以下の叙述は、皇太子として萬機の政を執り給ひ御年四十を越えて、薨去あらせられた皇子の御有樣とは思はれない。又皇子の御墓は城上の岡であるのに、これは石村《イハレ》山で火葬してゐる。これらの點からして、高市皇子薨去の際でないことがわかる。なほ火葬は高市皇子の薨後五年目に當る文武天皇の四年、僧道昭の葬に始まると傳へられてゐるから、さうしてこの歌が藤原宮の作なることは、冒頭の句が示す如くであるから、大寶元年以後元明天皇の和銅三年までの十年間に作られたものとなるのである。この間に崩御あらせられた持統天皇も文武天皇も、飛鳥の岡で荼毘に附し奉つたのであるから、當時火葬の風が一時に盛になつたと見える。併し石村方面で火葬せられた皇族については、更に史に記すところがないので、今日からこれを推斷し難いのは遺憾である。次に然らばこの歌の作者は誰であるかといふ問題であるが、已にこれを文武天皇の大寶以後とすれば、人麿の高市皇子尊殯宮の時の歌が發表せられた後、少くとも五年を經過してゐるのである。さうして人麿の歿年は明らかでないが、その作の年代(305)の明らかなものは、文武天皇の四年四月の明日香皇女殯宮之時のが最後で、その後彼は和銅の初年まで生存してゐたらしく思はれるから、(本集卷二の彼の死に關する歌の記録せられた順序から推定して)この作は人麿がまだ存命中に何人かによつて作られたものであらう。さうすると、かく類似した作を人麿在世中に作るものはあらざるべく、又この歌は凡手がよくなし得るところにあらざることを思へば、これは人麿の作と推定してもよいのではないかと思はれる。さうして作者として彼の名が傳つてゐないのは、これを公表しなかつた爲ではなからうかと想像せられるのである。この歌を人麿とすることの當否は別として、これが高市皇子尊殯宮之時の歌より、後の作なることは爭ひがたいところである。
 
反歌
 
3325 つぬさはふ 石村の山に 白妙に かかれる雲は 吾が大君かも
 
角障經《ツヌサハフ》 石村山丹《イハレノヤマニ》 白栲《シロタヘニ》 懸有雲者《カカレルコモハ》 皇可聞《ワガオホキミカモ》
 
(角障經)石村ノ山ニ白ク懸ツテヰル雲ハ、私ノ戴イテヰタ〔五字傍線〕皇子デイラセラレルデアラウカヨ。アノ雲ハ皇子ノ(306)火葬ノ煙ノ名殘デハナカラウカ〔アノ〜傍線〕。
 
○角障經《ツヌサハフ》――枕詞。前の歌に出づ。○皇可聞《ワガオホキミカモ》――舊訓オホキミカモ、古義は皇の下、呂を脱として、オホキミロカモとよんでゐる。類聚古集その他の古本に皇を星に作り、袖中抄にもシロタヘノカカレルクモハホシニケルカモと訓んでゐるが、これらはいづれも穩やかでない。しばらく皇を吾王の誤とした、考に從ふことにする。
〔評〕 石村山の白雲を火葬の煙と見たのである。長歌に角障經石村乎見乍《ツヌサハフイハレヲミツツ》とあるのに呼應してゐるやうに見える。石村山の麓で火葬し奉つたので、葬送の時、特に其處を注意して眺めたもので、卷三の土形娘子を泊瀬山に火葬した時の人麿の作、隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟《コモリクノハツセノヤマノヤマノマニイサヨフクモハイモニカモアラム》(四二八)とよく似てゐる。この歌を火葬に關係なしと見る説は誤である。この歌の内容も亦、これが人麿作なることを立證するやうに見える。
 
右二首
 
3326 磯城島の 大和の國に いかさまに おもほしめせか つれもなき 城上の宮に 大殿を 仕へ奉りて 殿ごもり こもりいませば あしたには 召して使はし 夕べには 召して使はし つかはしし 舍人の子らは 行く鳥の 群がりて待ち 在り待てど 召し賜はねば 劍だち 磨ぎし心を 天雲に 念ひはふらし こいまろび ひづちなけども 飽き足らぬかも
 
磯城島之《シキシマノ》 日本國爾《ヤマトノクニニ》 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 津禮毛無《ツレモナキ》 城上宮爾《キノヘノミヤニ》 大殿乎《オホトノヲ》 都可倍奉而《ツカヘマツリテ》 殿隱《トノゴモリ》 隱在者《コモリイマセバ》 朝者《アシタニハ》 召而使《メシテツカハシ》 夕者《ユフベニハ》 召而使《メシテツカハシ》 遣之《ツカハシシ》 舍人之子等者《トネリノコラハ》 行鳥之《ユクトリノ》 羣而待《ムラガリテマチ》 有雖待《アリマテド》 不召賜者《メシタマハネバ》 劔刀《ツルギダチ》 磨之心乎《トギシココロヲ》 天雲爾《アマグモニ》 念散之《オモヒハフラシ》 展轉《コイマロビ》 土打哭杼母《ヒヅチナケドモ》 飽不足可聞《アキタラヌカモ》
 
(磯城島之)大和ノ國デ處モアラウニ〔六字傍線〕、何ト思召シテノコトカ、何ノ由縁モナイ城上ノ宮ニ、御墓ノ御殿ヲ造営申シテ、ソノ〔三字傍線〕御殿ニ閉ヂ籠ツテ葬ラレテ〔四字傍線〕オイデニナルト、御在世ノ間ニ〔六字傍線〕、朝ニハ召シ出シテ御使ヒナサレ、(307)夕方ニハ召シ出シテ御使ヒニナリ、カウシテ〔四字傍線〕御使ヒナサツタ舍人ドモハ、(行鳥之)群ツテ居ツテ御用ヲ〔五字傍線〕待ツテ居、サウシテ居テ待ツテヰルガ、モハヤ〔三字傍線〕御召ニナルコトハナイカラ、(劍太刀)磨ギスマシテ君ノ爲ニ緊張シテヰタ眞《キミノ〜》心ヲ、空シク空ノ雲ノアナタニ放チ散ラシテシマヒ、臥シコロガツテ、涙ニ〔二字傍線〕濡レテ泣イテヰルガ、飽キ足ラヌヨ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○磯城島之《シキシマノ》――枕詞。大和とつづく。一七八七參照。○日本國爾《ヤマトノクニニ》――日本國《ヤマトノクニ》は畿内の大和である。大和の國での意。國なるにの意と古義にあるのは當らない。○何方《イカサマニ》――これ以下の四句は卷二の日並皇子尊殯宮之時歌に何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾《イカサマニオモホシメセカツレモナキマユノヲカニ》(一六七)とあるのと一致してゐる、その項參照。○大殿乎都可倍奉而《オホトノヲツカヘマツリテ》――御墓を作つて奉仕して。○殿隱《トノゴモリ》――御墓に葬られ給ふをかく言つたのである。○舍人之子等者《トネリノコラハ》――舍人どもは。子は親しんでいふのみ。○行鳥之《ユクトリノ》――枕詞。群りとつづく。○羣而待《ムラガリテマチ》――略解に待は侍の誤で、ムレテサモラヒであらうとしてゐるが、改めない方がよい。○有雖待《アリマテド》――さうしてありて待てど。○劍刀《ツルギタチ》――枕詞。磨ぎとつづく。○磨之心乎《トギシココロヲ》――鋭く緊張した心。○天雲爾《アマグモニ》――空のあなたに。遙かに遠くなどの意。天雲の如くではない。○念散之《オモヒハフラシ》――ハフラシは散らし失ふこと。ここは緊張した心も摧けて、消え失せる意である。○土打哭杼母《ヒヅチナケドモ》――涙に濡れて泣けどもの意。
〔評〕 これは前歌と異なり、高市皇子尊城上殯宮の時の作である。これにも人麿式用語が少し見える。或は人麿が卷二の長歌と同時に作り試みたものかも知れない。併し反歌も添へてなく、未定稿として當時世に出さなかつたものであらう。
 
右一首
 
3327 百小竹の 三野の王 西の厩 立てて飼ふ駒 東の厩 立てて飼ふ駒 草こそは 取りて飼ふがに 水こそは くみて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いばえ立ちつる
 
百小竹之《モモシヌノ》 三野王《ミヌノオホキミ》 金厩《ニシノウマヤ》 立而飼駒《タテテカフコマ》 角厩《ヒムガシノウマヤ》 立而飼駒《タテテカフコマ》 草社者《クサコソハ》 取(308)而飼旱《トリテカフガニ》 水社者《ミヅコソハ》 ※[手偏+邑]而飼旱《クミテカフガニ》 何然《ナニシカモ》 大分青馬之《アシゲノウマノ》 鳴立鶴《イバエタチツル》
 
(百小竹之)三野王ガ西ノ方ニ厩ヲ立テテ飼ヒナサル駒ヨ。東ノ方ニ厩ヲ立テテ飼ヒナサル駒ヨ。草ヲコソハ苅リ取ツ飼ツテヤルノニ、水ヲコソハ汲ンデ飼ツテヤルノニ、何シニ葦毛ノ馬ガ啼キ立テルノダラウ。アノ馬モ自分ノ主人ノ三野王ノ卒去セラレタノヲ悲シムノダラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○百小竹之《モモシヌノ》――枕詞。三野とつづく。多くの篠の生えてゐる野の意であらう。冠辭考には多くのしなへたる草の蓑《ミヌ》とつづき、小竹は訓を借りたのだと言つてゐるが、むつかしい説明である。前に百岐年三野之國之《モモキネミヌノクニノ》(三二四二)とあつたと同一用法らしい。○三野王《ミヌノオホキミ》――三野王は續紀、孝謙天皇、天平寶宇元年の條に「正月庚戌朔乙卯前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨云々、大臣贈從二位栗隈王之孫、從四位下美弩王之子也」とあるから、橘諸兄の父である。天武天皇紀に屡々その名見えたるを始として、太宰帥、造大幣司長官・左京大夫・攝津大夫・治部卿などに歴任し、和銅元年五月辛酉從四位下を以て卒した人である。○金厩《ニシノウマヤ》――金を西と訓むのは五行を方角に配すれば、金が西に當るからである。○角厩《ヒムガシノウマヤ》――角を東と訓むのは、宮商角徴羽の五音を方角に配すれば、角が東に當るからである。○取而飼旱《トリテカフガニ》――取つて飼ふものをの意。ガで上を名詞的にしニで受けてゐる。舊訓カヘカニとあるのでは意が通じない。旱は山攝旱韻n音尾であるから、カニとなるを濁つてガニに用ゐてゐる。略解の宣長説に旱を甞の誤として、トリテカヒナメと訓んだのは從ひ難い。○※[手偏+邑]而飼旱《クミテカフガニ》――汲みて飼ふものを。※[手偏+邑]は汲んであけるの意。○大分青馬之《アシゲノウマノ》――白毛に青色の差毛あるものを、葦毛といふ。青毛が多いといふ意で、大分青馬と書いたものか。考はマシロノコマノ、略解にヒタヲノコマノと訓んでゐるが從ひ難い。○鳴立鶴《イバエタチツル》――和名抄に、「玉篇云、嘶馬鳴也訓以波由、俗云以奈奈久」とあつて、イバエは馬の鳴くことである。語源はイ吼エでイと吠える意であらう。温故堂本は鶴を鴨に作つてゐる。
〔評〕 三野王の卒去に當つて、葦毛の馬の嘶き立てるのを聞いて、草も水も充分にやつてあるものを、何しにあんなに嘶くのだらうかと不審がつて、裏に王の遺愛の馬も、王の卒去を知つて悲しむのであらうとの意を含め(309)てゐる。短い歌ながら、對句を多く用ゐ、技巧が極めて、洗練せられてゐる。言廻しも亦婉曲で、餘情が籠つてゐる。和銅元年の作である。
 
反歌
 
3328 衣手を 葦毛の馬の いばゆ聲 こころあれかも 常ゆけに鳴く
 
衣袖《コロモデノ》 大分青馬之《アシゲノウマノ》 嘶音《イバユコヱ》 情有鳧《ココロアレカモ》 常從異鳴《ツネユケニナク》
 
(衣袖)葦毛ノ罵ガ嘶ク聲ガ、三野王樣ノ卒去ナサツタノヲ悲シム〔三野〜傍線〕心ガアルカラカ、常ヨリモ異ツテ鳴クヨ
 
○衣袖《コロモデヲ》――枕詞。舊訓コロモデノとある。葦毛とつづく意は明らかでない。代匠記精撰本に「袖は白妙の袖といひ……白きを本とすれば、白妙の袖の色の葦毛とつづくる意なり」とあり、古義に「衣袖を襲著《オソケ》と云なるべし」とあるが、共に無理な説であらう。○嘶音《イバユコエ》――舊訓ナクコヱモ、略解イバユルモ、新考イバエゴヱとある。イバユルコヱを略した古格であらう。○常從異鳴《ツネユケニナク》――常より異なつて鳴く。卷十に島音異鳴秋過去良之《トリガネケニナクアキスギヌラシ》(二一六六)とある。
〔評〕 長歌の意を反覆して明瞭に述べてゐる。王子に對する哀悼の情がよくあらはれてゐる。
 
右二首
 
3329 白雲の たなびく國の 青雲の 向伏す國の 天雲の 下なる人は あのみかも 君に戀ふらむ あのみかも きみに戀ふれば 天地に 言を滿てて 戀ふれかも 胸のやめる 念へかも 心の痛き あが戀ぞ 日にけに益る いつはしも 戀ひぬ時とは あらねども この九月を わがせこが しぬびにせよと 千世にも しぬびわたれと 萬代に 語りつがへと 始めてし 此の九月の 過ぎまくを いたも術なみ あらたまの 月のかはれば せむ術の たどきを知らに 石が根の こごしき道の 石床の 根延へる門に あしたには 出で居て嘆き 夕べには 入りゐ戀ひつつ ぬば玉の 黒髪しきて 人の寢る 味寢は宿ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 吾が寢る夜らは よみもあへぬかも
 
白雲之《シラクモノ》 棚曳國之《タナビククニノ》 青雲之《アヲクモノ》 向伏國乃《ムカブスクニノ》 天雲《アマグモノ》 下有人者《シタナルヒトハ》 妄耳鴨《アノミカモ》 (310)君爾戀濫《キミニコフラム》 吾耳鴨《アノミカモ》 夫君爾戀禮薄《キミニコフレバ》 天地《アメツチニ》 滿言《コトヲミテテ》 戀鴨《コフレカモ》 ※[匈/月]之病有《ムネノヤメル》 念鴨《オモヘカモ》 意之痛《ココロノイタキ》 妾戀叙《アガコヒゾ》 日爾異爾益《ヒニケニマサル》 何時橋物《イツハシモ》 不戀時等者《コヒヌトキトハ》 不有友《アラネドモ》 是九月乎《コノナガツキヲ》 吾背子之《ワガセコガ》 偲丹爲與得《シヌビニセヨト》 千世爾物《チヨニモ》 偲渡登《シヌビワタレト》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 語都我部等《カタリツガヘト》 始而之《ハジメテシ》 此九月之《コノナガツキノ》 過莫乎《スギマクヲ》 伊多母爲使無見《イタモスベナミ》 荒玉之《アラタマノ》 月乃易者《ツキノカハレバ》 將爲須部乃《セムスベノ》 田度伎乎不知《タドキヲシラニ》 石根之《イハガネノ》 許凝敷道之《コゴシキミチノ》 石床之《イハドコノ》 根延門爾《ネハヘルカドニ》 朝庭《アシタニハ》 出居而嘆《イデヰテナゲキ》 夕庭《ユフベニハ》 入座戀乍《イリヰコヒツツ》 烏玉之《ヌバタマノ》 黒髪敷而《クロカミシキテ》 人寢《ヒトノヌル》 味寢者不宿爾《ウマイハネズニ》 大船之《オホブネノ》 行良行良爾《ユクラユクラニ》 思乍《オモヒツツ》 吾寢夜等者《ワガヌルヨラハ》 數物不敢鴨《ヨミモアヘヌカモ》
 
白雲ノ棚引イテヰル國デ、青雲ガ地ノ上ニ〔四字傍線〕向ヒ伏シテヰル國ノ、遠クノ極マデ〔六字傍線〕、天ノ雲ノ下ニヰル人即チ地上ノ人〔六字傍線〕ハ、私バカリガ貴方ニ戀シテヰルノデアラウカ。戀ニ惱ム者ハ私ノミデアラウカ〔戀ニ〜六字傍線〕。私バカリガ貴方ニ戀ヲスルカラカ、私ハ廣イ〔四字傍線〕天地ノ間ニ言葉ガ滿チルホドニ、イロイロト〔五字傍線〕申シテ戀シガルノデ胸ガ痛イノデアラウカ。思フノデ心ガ苦シイノデアラウカ。私ノ戀シサハ日ニ日ニ増ツテ來ルヨ。何時ト言日ツテ戀シク思ハナイ時トテハ無イガ、コノ九月ヲ私ノ夫ガ死ンデカラハ〔六字傍線〕記念ニセヨトテ、千年ノ後マデモナツカシク思ヒ出セトテ、萬年ノ後マデモ語リ續ゲトテ、記念ト〔三字傍線〕シ始メタコノ九月ガ過ギルノヲ、誠ニ惜シクテ〔四字傍線〕仕樣ガナイノデ、(荒玉之)月ガ改マルト、何トキスベキ方法モ知ラズ、岩ノ險岨ナ道ノ、石ヲ壘ンデ造ツタ墓所ノ側ニ居ツテ、朝ニハ外ニ出(311)テ居ツテ嘆キ、夕方ニハ家ノ内ニ入ツテ、(烏玉乃)黒髪ヲ敷イテ、人ノ寢ルヤウナ、快ヨイ熟寢ハ出來ナイデ、(大船之)ユラリユラリト心ガ落チ付カズ、死ンダ夫ヲ〔五字傍線〕思ツテ私(ノ)寢ル夜ノ數〔二字傍線〕ハ幾晩トモ〔四字傍線〕數ヘキレヌ程ダヨ。
 
○白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃《シラクモノタナビククニノアヲグモノムカフスクニノ》――白雲が棚引いてゐる國で、遠く眺めれば青雲が地に向つて伏してゐる國の。即ち天の下、國の極までの意となる。卷三に天雲之向伏國《アマクモノムカフスクニノ》(四四三)・卷五に阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマクモノムカフスキハミ》(八〇〇)とある。青雲は青空。卷二の青雲之《アヲグモノ》(一六一)參照。○滿言《コトヲミテテ》――舊訓コトバヲミテテ、考はイヒタラハシテ、略解に掲げた宣長説は言を足の誤として、ミチタラハシテとしてゐる。新訓にコトヲミテテとしたのが最もよいか。天地の間に言葉を滿して。頻りに絶えず思を述べる意であらう。○何時橋物不戀時等者不有友《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモ》――この三句が長歌の句としては破調になつて、恰も短歌の上句のやうな感じを與へる。卷十一の何時不戀時雖不有夕方枉戀無乏《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモユフカタマケテコヒハスベナシ》(二三七三)・卷十二の何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハナモコヒズアリトハアラネドモウタテコノゴロコヒノシゲキモ》(二八七七)などに似てゐる。○語都我部等《カタリツガヘト》――語り繼げと。○始而之此九月乎《ハジメテシコノナガツキヲ》――九月に死亡したことを、斯く言つたのである。○將爲須部乃田度伎乎不知《セムスベノタドキヲシラニ》――これ以下十九句は總べて前の爲須部乃田付呼不知《セムスベノタヅキヲシラニ》(三二七四)の長歌にあるものである。併し彼は相聞歌であり、これは挽歌であるから、解釋はそれを考慮に入れねばならぬ。○石根之許凝敷道乎《イハガネノコゴシキミチヲ》――岩根の嶮岨な道を。○石床之根延門爾《イハドコノネハヘルカドニ》――岩を築き廣く疊んだ墓に。ここの四句は山中に築いた古墳の構造を述べてゐる。○大船之《オホブネノ》――枕詞。○行良行良爾《ユクラユクラニ》――ゆらゆらと心が動いて。
〔評〕 この歌は後半が前の爲須部乃田付呼不知《セムスベノタヅキヲシラニ》(三二七四)と殆ど全く同樣であるから、錯簡があつて、二首の別歌が混淆したものと考へてゐる學者が多い。考には入座戀乍《イリヰコヒツツ》以下は脱落して、反歌もあつたのが脱ち、烏王之《ヌバタマノ》以下の別歌がここに紛れて連なつたとし、略解もこれに從ひ、古義は最初の十句は相聞で、ここに混入したもの、天地滿言《アメツチニコトヲミテテ》より入座戀乍《イリヰコヒツツ》までの三十四句は挽歌であつたのが、前後の句が落ちて、ここに混入したもので、終の烏玉之《ヌバタマノ》以下九句は冒頭の十句とつづけて、一首とすべきものだといつてゐる。これらの説も一應は尤もであ(312)るが、思ふにこれらの歌は最初事實に即して作られたものが、後に俚謠的になつて他の場合に流用せられることもあらうし、又もと俚謠であつたものが、事實に應用せられるやうな場合もあるであらう。それがその使用せられる場合に應じて、手心を加へ、謠ひ變へられることは當然であつて、長い形式を要するやうな場合は、他の歌の一部を取り來つて、それをその前後に置くやうなこともあらうし、又短きを好都合とする場合には、長い歌の一部分のみを謠ふこともあつたであらう。この卷の編纂者はかういふ歌形を聞くが儘に記し止めて置いたものらしいから、類似歌が並び掲げてあつても、それを以て、重複としたり、錯簡としたりするのは早計であらう。この歌を夫を失つた女の心境を述べた挽歌として見る時、少しも無理なく解けるのである。否、かなりに傑出した逸品とするを憚らぬ。
 
右一首
 
3330 隱口の 長谷の川の 上つ瀬に 鵜を八つかづけ 下つ瀬に 鵜を八つかづけ 上の瀬の 年魚をくはしめ 下つ瀬の 鮎をくはしめ くはし妹に あゆを惜しみ 投ぐるさの 遠ざかりゐて 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 衣こそは それやれぬれば つぎつつも 又も逢ふと言へ 玉こそは 緒の絶えぬれば くくりつつ またも逢ふといへ またも逢はぬものは つまにしあもりけり
 
隱來之《コモリク》 長谷之川之《ハツセノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》 下瀬爾《シモツセニ》 鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》 上瀬之《カミツセノ》 年魚矣令咋《アユヲクハシメ》 下瀬之《シモツセノ》 鮎矣令咋《アユヲクハシメ》 麗妹爾《クハシイモニ》 鮎遠惜《アユヲオシミ》 投左乃《ナグルサノ》 遠離居而《トホザカリヰテ》 思空《オモフソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 嘆空《ナゲクソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 衣社薄《キヌコソハ》 其破者《ソレヤレヌレバ》 縫乍物《ツギツツモ》 又母相登言《マタモアフトイヘ》 玉社者《タマコソハ》 緒之絶薄《ヲノタエヌレバ》 八十一里喚※[奚+隹]《ククリツツ》 又物逢登曰《マタモアフトイヘ》 又毛不相物者《マタモアハヌモノハ》 ?爾志有來《ツマニシアリケリ》
 
(隱來之長谷之川之上瀬爾鵜曰八頭漬下瀬爾鵜曰八頭漬上瀬之年魚矣令咋下瀬之點矣令咋)美シイ妻ニ(點遠惜投左乃)遠ザカツテ居ツテ、思フ心モ安ラカデナク、嘆ク心モ安ラソカデナイ。着物ト云フモノハ、ソレガ破レル(313)ト繼イデ又合フモノダト云フシ、玉コソハ紐ガ切レルト、縛ツテ又合フモノダト云フガ、又逢フコトノ出來ナイモノハ、死ンダ〔三字傍線〕妻デアルヨ。
 
○鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》――鵜を澤山に水に潜らしめて。八頭をヤツと訓ましめたのは、禽獣を數へるのに、頭の字を添へるからである。この句は卷十九にも、※[盧+鳥]八頭可頭氣?河瀬多頭禰牟《ウヤツカヅケテカハセタヅネム》(四一五八)とある。○點矣令咋《アユヲクハシメ》――年魚を喫へて捕へしめる。發端から點矣令咋《アユヲクハシメ》までの十句は、麗妹爾《クハシイモニ》と言はむ爲の序詞。○麗妹爾《クハシイモニ》――美しい妻に。舊訓クハシメニとあるによれば、前句の令咋《クハシメ》の全音を繰返したことになるが、クハシメは美女で、ここは美妻の意でなければならぬから、さうして集中、妹の字は、常にイモとのみ訓んであるから、クハシイモと訓むべきである。○點遠惜《アユヲヲシミ》――舊訓アユヲアタラシとある。考は辭遠借《コトトホザカリ》、古義は副猿緒《タグヒテマシヲ》の誤としてゐる。誤字らしくはあるが、眞淵・雅澄の説は臆斷に過ぎない。代匠記精撰本にアユヲヲシミと訓んである方がよいか。折角鵜飼をして獲た點を、妹に贈るのが惜しさに遠ざかつてゐるといふのであらう。もとより事實ではないが、遠ざかつてゐる理由を、かく諧謔的に述べたものである。從つて、この句は次句と共に序詞と見るがよい。○投左乃《ナグルサノ》――枕詞。遠離《トホザカル》とつづく、舊訓ナゲクサノ、代匠記精撰本ナクサノとあるのはよくない。投左《ナグルサ》は下の、公之佩具之投箭之所思《キミガオバシシナグヤシオモホユ》(三三四五)・卷十九の投矢毛知子尋射和多之《ナグヤモチチヒロイワタシ》(四一六四)などの投箭、投矢と同じものであらう。箭をサといふ例は綏靖天皇紀に「時神渟名川耳尊|掣《ヒキ》2取(テ)其兄(ノ)所v持弓矢1而射2手研耳命1一發《ヒトサニ》中v※[匈/月]、再發《フタサ》中v背、遂殺v之」、天武天皇紀上云「乃擧2高市皇子之命1喚2穗積臣百足於小墾田兵庫1、(中略)時百足下v馬遲之、便取2其襟1以引墮、射中2一箭《ヒトサ》1、因拔v刀斬而殺之」とあり、又本集卷二十の防人歌に、阿良之乎乃伊乎佐太波佐美《アラシヲノイヲサタバサミ》(四四三〇)とあるのも、い小箭であらう。投箭《ナグルサ》は手にて投げる箭とする説もあるが、上代にさういふものがあつたらしい證もなく、やはり弓に番うて射放つものであらう。前に掲げた投失毛知千尋射和多之《ナグヤモチチヒロイワタシ》とあるのも、弓に番つて遠く射放つものなるを思はしめる。○遠離居而《トホザカリヰテ》――幽冥境を異にしたことをかく言つたのである。○思空不安國嘆空不安國《オモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニ》――これは卷八の七夕の長歌(一五二〇)中の句と同樣である。○其破者《ソレヤレヌレバ》――それが破れぬればの意。(314)○縫乍物《ツギツツモ》――縫は元暦校本・温故堂本に繼に作つてゐるのが、正しいやうに思はれる。○八十一里喚鷄《ククリツツ》――八十一をクク、喚鷄ツツと訓むのは例の戯書である。○?爾志有來《ツマニシアリケリ》――舊訓を改めて、考にイモニシアリケリとしてゐる。舊本、山とあるは爾の誤であらう。元暦校本・天治本・西本願寺本その他、爾の草體になつてゐる本が多い。
〔評〕 一見相聞の歌らしく見えるが、妻の死を、遠離居而《トホザカリヰテ》と娩曲なる言ひ方をしたもので、やはり挽歌として見るべきであらう。隱口の泊瀬の川の上つ瀬、下つ瀬を序詞に用ゐたのは、前の三二六三にもあり、又古事記の歌にも見えて、古い型らしく思はれる。ここでは序詞の用法が奇拔で、鮎遠惜《アユヲヲシミ》の一句、極めて諒解に苦しむが、これも序詞の一部と見れば、わかり易くなる。その他全體的には鮮明な歌で、用語も古くないやうである。
 
3331 隱口の 長谷の山 青幡の 忍坂の山は 走出の 宜しき山の 出立の 妙しき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも
 
隱來之《コモリクノ》 長谷之山《ハツセノヤマ》 青幡之《アヲハタノ》 忍坂山者《オサカノヤマハ》 走出之《ハシリデノ》 宜山之《ヨロシキヤマノ》 出立之《イデタチノ》 妙山叙《クハシキヤマゾ》 惜山之《アタラシキヤマノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
(隱來之)長谷ニアル山ツヅキノ〔四字傍線〕(青幡之)忍坂ノ山ハ、此處カラ〔四字傍線〕直グ前ニアル姿ノ〔二字傍線〕ヨイ山デ、此處カラ〔四字傍線〕出カケタ近イ所ニアル姿ノ〔二字傍線〕立派ナ山デアルゾヨ。コノ私ノ大切ナ人ヲ葬ツタ〔コノ〜傍線〕アタラ惜シイ山ガ、荒レルノハ惜シイモノダヨ。
 
○青幡之《アヲハタノ》――枕詞。青布の如く青々とした忍坂山とつづくか。卷四に青※[弓+其]乃葛木山《アヲハタノカヅラキヤマ》(五〇九)とある。その條參照。なほ卷二、青旗乃木旗能上《アヲハタノコハタノウヘ》(一四八)とあるのは、青い旗の小旗の上と解して置いたが、或は木旗は即ち木幡山で青幡乃《アヲハタノ》は枕詞として用ゐられたものかも知れない。その條參照。○忍坂山者《オサカノヤマハ》――忍坂は櫻井町の東南方、忍坂山は其處の山である。長谷山は今の初瀬町後方の山で、忍坂山と初瀬川を距てて對してゐるが、ここは謂はゆる初瀬山ではなく、初瀬にある山の忍坂山といふのではあるまいか。忍坂は泊瀬朝倉宮址につづいてゐる。或(315)は忍坂山の東方、初瀬寄りの山を初瀬山といつたのかも知れない。寫眞は中央の高いのが忍坂山、遠景は初瀬つづきの山。著者撮影。○走出之《ハシリデノ》――卷二に※[走+多]出之堤爾立有《ハシリデノツツミニタテル》(二一〇)とある※[走+多]出と同じで家から走り出た近い所にある意。その條參照。走り出た樣として、山の姿と解するのは當らない。○出立之《イデタチノ》――これも家を出でて立てる所にあるといふ意である。山の出で立ち即ち山の姿とするのは當らない。○妙山叙《クハシキヤマゾ》――考にマクハシキヤマゾとあるが、マを添へる必要はない。クハシは細妙、麗しきこと。○惜山之《アタラシキヤマノ》――あたら惜しい山が。ここは少し破調になつてゐる。古義は山之《ヤマノ》を以て一句とすべしと言つてゐる。
〔評〕 古義に「可惜《アタラ》しき人の死ぬるを譬へて惜めるにて、今此の二山もて云るは、其の人徳の業の一つならず、左《カレ》にも右《コレ》にも、くさぐさ世にめでたくすぐれたりしをいふなるべし」とし、新解には「この歌は山をほめてゐる。さうしてその山に亡くなつた人を喩へてゐるが、集中にも人を山に喩へた歌は數出してゐる。昔の人が山に親みを感じ、是を愛して來た生活が思はれる」とある。かういふ見方も出來るであらうが、譬喩とするよりも、この忍坂山に葬つた人を悲しんだ歌とすべきであらう。即ち荒れるとは山の墓所の荒れ行くことである。さう思つて見ると、隱來之を隱處即ち墓所とする説、青幡之を葬式の旗とするのも、ここには當(316)嵌まるやうに考へられる。雄略天皇紀に見える擧暮利矩能播都制能野磨播伊底※[手偏+施の榜]智熊與慮斯企野麿和斯里底能與盧斯企夜磨能據暮利矩能播都制能夜靡播阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《コモリクノハツセノヤマハイデタチノヨロシキヤマワシリデノヨロシキヤマノコモリクノハツセノヤマハアヤニウラグハシアヤニウラグハシ》と同型の歌で、御製は泊瀬峽谷の風景美を褒め給うたのであるが、これはそれから出て、挽歌として詠まれたものて青幡之忍坂山《アヲハタノオサカノヤマ》が重點であるから、かの御製に似てゐるからとて、直ちにそれに迎合して解釋すべきではない。哀切の情の漾つたよい作である。
 
3332 高山と 海こそは 山ながら かくもうつしく 海ながら しかもただならめ 人は花物ぞ うつせみの世人
 
高山與《タカヤマト》 海社者《ウミコソハ》 山隨《ヤマナガラ》 如此毛現《カクモウツシク》 海隨《ウミナガラ》 然直有目《シカモタダナラメ》 人者充物曾《ヒトハハナモノゾ》 空蝉與人《ウツセミノヨヒト》
 
高イ山ト海トコソハ、山ハ〔二字傍線〕山ノ姿ソノママデ、カウモ目ノ前ニ變ラズニアルシ、海ハ〔二字傍線〕海ソノ儘デ、サウシテ常ノヤウニシテ居ルデアラウ。然ルニコレトハ違ツテ〔然ル〜傍線〕、人ハ壽命ノアテニナラナイ〔壽命〜傍線〕空《アダ》ナモノダゾヨ。生身ヲ持ツタ世ノ人ハ。
 
○山隨《ヤマナガラ》――舊訓ヤマノマニとあるが、宜長がヤマナガラと訓まむと言つたのがよい。次の海隨《ウミナガラ》も同じ。○如此毛現《カクモウツシク》――現《ウツシク》は目の前に存する樣をいふ形容詞である。○然直有目《シカモタダナヲメ》――シカモは上のカクモと封してゐる。直有目《タダナラメ》は直《タダ》にあらめ、直《タダ》は正《タダ》に同じく、正しく確かに、變らずに、などの意になる。ナラメは上のコソを受けたのである。○人者充物曾《ヒトハハナモノゾ》――充は元暦校本その他、多くは花に作つてゐる。花物はあだなる物、たのみにならぬ物の意。卷十二に白香付木綿者花物《シラガツクユフハハナモノ》(二九九六)とある。○空蝉與人《ウツセミノヨヒト》――新訓はウツセミ、ヨヒトハと二句に訓んでゐる。空蝉《ウツセミ》は現身《ウツシミ》の意。
〔評〕 高山や大海は昔ながらに存するが、人の命は無常たのみ難いものなるぞといふので、挽歌ではあるが、ある個人の死を悼んだのではなく、人生のはかなさを歌つたものである。もとより佛教の無常觀から出發した作(317)品だ。これより更に一歩を進めて、海山の無常相をも強調したのが、卷十六の鯨魚取海哉死爲流山哉死爲流死許曾海者潮干而山者枯爲禮《イサナトリウミヤシニスルヤマヤシニスルシヌレコソウミハシホヒテヤマハカレスレ》(三八五二)である。住い歌だ。
 
右三首
 
3333 王の みことかしこみ 秋津島 大和を過ぎて 大伴の 御津の濱べゆ 大舟に 眞楫しじ貫き 朝なぎに かこの聲しつつ 夕なぎに 楫の音しつつ 行きし君 何時來まさむと 夕卜置きて 齋ひ渡るに まがことや 人の言ひつる わが心 筑紫の山の 黄葉ばの 散り過ぎにきと 君がただかを
 
王之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》 秋津島《アキツシマ》 倭雄過而《ヤマトヲスギテ》 大伴之《オホトモノ》 御津之濱邊從《ミツノハマベユ》 大舟爾《オホブネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 旦名伎爾《アサナギニ》 水手之音爲乍《カコノコヱシツツ》 夕名寸爾《ユフナギニ》 梶音爲乍《カヂノトシツツ》 行師君《ユキシキミ》 何時來座登《イツキマサムト》 大夕卜置而《ユフケオキテ》 齋度爾《イハヒワタルニ》 枉言哉《マガゴトヤ》 人之言釣《ヒトノイヒツル》 我心《ワガココロ》 盡之山之《ツクシノヤマノ》 黄葉之《モミヂバノ》 散過去常《チリスギニキト》 公之正香乎《キミガタダカヲ》
 
天子様ノ勅ヲ畏レ謹ンデ、(秋津島)大和ヲ行キ過ギテ(大伴之)御津ノ濱邊カラ、大舟ニ両舷ノ楫ヲ澤山通シテ、朝凪ニ舟人ノ聲ヲ立テ、夕凪ニ揖ノ音ヲ立テナガラ、旅ニ行テ〔四字傍線〕行ツタ夫ハ、何時歸ツテ〔三字傍線〕オイデニナルダラウカト、夕占ヲ置イテ、神様ヲ御祭リシテヰタノニ、間違ツタ言葉ヲ人ガ言ツタノデアラウカ、私ガ心配シテヰル夫ハ旅先ノ〔五字傍線〕筑紫デ、(盡之山之黄葉之)死ンデシマツタト、夫ノ様子ヲ聞イタ。本當トハ信セラレナイ〔聞イ〜傍線〕。
 
○秋津島倭雄過而《アキツシマヤマトヲスギテ》――秋津島は枕詞。二参照。倭は畿内の大和。○大伴之《オホトモノ》――枕詞。御津とつづく。六三参照。○水乎之音爲乍《カコノコヱシツツ》――舊訓カコノオトシツツ、考はカコノトシツツとあるが、音は朝名寸二水乎之音喚《アサナギニカコノヱヨビ》(五〇九)。乏毛不有※[(貝+貝)/鳥]之音《トモシクモアラズウクヒスノコヱ》(一八二〇)に傚つてコヱと訓むがよい。○大夕卜置而《ユフケオキテ》――大夕卜は舊訓オホユフケとあるのを、代匠記精撰本は大は衍でユフケオキテとし、童蒙抄は大夕は大占の誤で、フトマニノウラヲ又はフトマニかとし、(318)考は大夕卜は幣の誤でヌサ、略解は、大夕卜は奴左又は幣の誤とし、古義はこれを幣《ヌサ》又は帛《ヌサ》の誤としてゐる。この他、諸説があるが、新訓は元暦校本に夕の字が無いのによつてゐる。併し大の字の無いのが原形とも言ひ難く、もとのままで舊訓に從ふことも出來るし、又大は添へて書いたとも考へられるから、ユフケオキテがよいのであらう。置くとつづくのが、少しどうかと思はれるが、用ゐぬことはあるまい。○枉言哉《マガゴトヤ》――マガゴトは曲つた言。間違つた言。○我心《ワガココロ》――枕詞。盡《ツクシ》とつづくのは、吾が心を盡し、心配する意である。○盡之山之黄葉之《ツクシノヤマノモミヂバノ》――盡之《ツクシノ》山は筑紫の山。次の黄葉之《モミヂバノ》につづいてゐるが、作者の夫が、筑紫に赴いて、彼の地で歿したことをあらはしてゐる。黄葉之《モミヂバノ》は枕詞。散過《チリスギ》とつづく。○散過去常《チリスギニキト》――死んで逝つたと。○公之正香乎《キミガタダカヲ》――君は夫であらう。正香《タダカ》は樣子。
〔評〕 官命によつて、筑紫に赴いた夫が、彼の地で歿した由の報知に接して、悲傷して詠じた女の作である。整然たる修辭で、しかも我心盡之山之黄葉之《ワガココロツクシノヤマノモミヂバノ》のあたりは懸詞の使用が巧妙で、一見序詞なるが如くして然らず。かなり圓熟した、この卷中では新しいものである。旦名伎爾《アサナギニ》以下の四句は、卷四の丹比眞人笠麻呂下2筑紫國1時作歌(五〇九)に採られてゐる。
 
反歌
 
3334 まがことや 人の言ひつる 玉の緒の 長くと君は 言ひてしものを
 
枉言哉《マガゴトヤ》 人之云鶴《ヒトノイヒツル》 玉緒乃《タマノヲノ》 長登君者《ナガクトキミハ》 言手師物乎《イヒテシモノヲ》
 
間違ツタ言ヲ人ガ言ツタノデアラウカ。(玉緒乃)長ク生キテイツマデモ夫婦デヰヨウ〔生キ〜傍線〕ト、夫ハ言ツタノニ、夫ガ死ンダトノ通知ハ、ドウモ本當トハ思ハレナイ〔夫ガ〜傍線〕。
 
○玉緒乃《タマノヲノ》――枕詞。長《ナガ》とつづくのは、玉を貫いた緒は長いからである。命の意ではない。○長登君者《ナガクトキミハ》――長く(319)生きむと吾が夫はの意。
〔評〕 初二句は長歌中の句を再び用ゐたもの。三句以下に夫婦の誓言を述べてゐる。はつきりした歌である。
 
右二首
 
3335 玉桙の 道行き人は あしびきの 山行き野ゆき ただ渡り 川ゆき渡り いさな取り 海道に出でて かしこきや 神の渡は 吹く風も のどには吹かず 立つ浪も おほには立たず しき浪の 立ちさふ道を 誰が心 いとほしとかも ただ渡りけむ
 
玉桙之《タマホコノ》 道去人者《ミチユキビトハ》 足檜木之《アシビキノ》 山行野往《ヤマユキヌユキ》 直海《タダワタリ》 川往渡《カハユキワタリ》 不知魚取《イサナトリ》 海道荷出而《ウミヂニイデテ》 惶八《カシコキヤ》 神之渡者《カミノワタリハ》 吹風母《フクカゼモ》 和音不吹《ノドニハフカズ》 立浪母《タツナミモ》 踈不立《オホニハタタズ》 跡座浪之《シキナミノ》 立塞道麻《タチサフミチヲ》 誰心《タガココロ》 勞跡鴨《イトホシトカモ》 直渡異六《タダワタリケム》
 
(玉桙之)道ヲ行ク旅〔傍線〕人は(足檜木之)山ヲ通ツタリ、野ヲ通ツタリ、川ヲ直ニ渡ツタリシテ、(不知魚取)海路ヘ出テ行クガ、恐ロシイ神ノ渡ト云フ所ハ〔五字傍線〕、吹ク風モ靜カニハ吹カズ、立ツ浪モ普通ニハ立タズ、繁キ浪ノ立チ塞ガル海〔傍線〕路ヲ、コノ人ハ〔四字傍線〕誰ノ心ヲイトホシイト思ツテ、誰ニ逢ヒタイトテカコノ難所ヲ〔誰ニ〜傍線〕直ニ渡ツタノデアラウ。コノ海邊デ溺死シタ人ノ屍ガアルガ、誠ニ可愛サウナコトダ〔コノ〜傍線〕。
 
○道去人者《ミチユキビトハ》――考にミチユクヒトはとあるのはよくない。旅人はの意。○直海《タダワタリ》――舊本の如くならば、タダウミニと訓むべきであるが、意が通じがたい。海を渉の誤として、タダワタリと訓む略解説による。所をも嫌はずに渉ること。○不知魚取《イサナトリ》――枕詞。海とつづく、一三一參照。○神之渡者《カミノワタリハ》――下の或本歌に、備後國神島濱(三三三九)とあるところの渡リである。その條參照。渡りは船にて渡る海上。ここは海路である。○和音不吹《ノドニハフカズ》――ノドは長閑《ノドカ》。和らかに。○踈不立《オホニハタタズ》――オホはオホヨソ、普通大抵、靜かになどの意。○跡座浪之《シキナミノ》――跡座(320)をシキと訓むのは無理であるが、新訓の如く文字通りトヰと訓んでも意が通じ難いから、致し方がない。頻りに立つ浪として置く。卷二の跡位浪立《シキナミタチ》(二二〇)の條參照。○立塞道麻《タチサフミチヲ》――立ちて塞げる道を。○誰心勞跡鴨直渡異六《タガココロイトホシトカモタダワタリケム》――誰の心をいとしいと思つて、難所をかまはず渡つたのであらうか。誰とは家にあつて待つ人、即ち妻をさしてゐる。待つてゐる妻の心が、いとしさに、急いでこの難所を渡つたのであらうといふのである。元暦校本には直渡異六《タダワタリケム》の句が繰返されてゐる。
〔評〕 神島の渡の海岸に漂着してゐる屍を見て、それを憐み悼んだのである。宣長は「これはただ川に溺れて死たるが、屍の海へ流れ出て磯へ打あげられて有を見て、かく詠める也。實に海を渡たるにはあらじ」と言ひ、古義には「かくてこれは屍の海へ流れ出て、磯際へ打あげられたるを見て、作者のありけむやうを思ひやりて、かくはよめるなり」と言つてゐるが、あまり歸路を急いで、この難路たる神の渡を渡りて、遂に難破したものとして、これに滿腔の同情を捧げたものである。卷三にある、柿本人麿の、讃岐狹岑島視2石中死人1(二二〇)歌と事件も似てゐるし、跡位浪といふやうな特殊語を用ゐた點など、かなり類似してゐる。
 
3336 鳥が音の きこゆる海に 高山を へだてになして 沖つ藻を 枕になして 蛾朋の 衣だに著ずに 鯨魚取り 海の濱べに うらもなく 宿れる人は おも父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言傳てむやと 家問へば 家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず 哭く兒なす 言だにとはず 思へども 悲しきものは 世の中にあり
 
鳥音之《トリガネノ》 所聞海爾《キコユルウミニ》 高山麻《タカヤマヲ》 障所爲而《ヘダテニナシテ》 奧藻麻《オキツモヲ》 枕所爲《マクラニナシテ》 蛾葉之《ヒムシハノ》 衣浴不服爾《キヌダニキズニ》 不知魚取《イサナトリ》 海之濱邊爾《ウミノハマベニ》 浦裳無《ウラモナク》 所宿有人者《ヤドレルヒトハ》 母父爾《オモチチニ》 眞名子爾可有六《マナゴニカアラム》 若芻之《ワカクサノ》 妻香有異六《ツマカアリケム》 思布《オモホシキ》 言傳八跡《コトツテムヤト》 家問者《イヘトヘバ》 家乎母不告《イヘヲモノラズ》 名問跡《ナヲトヘド》 名谷母不告《ナダニモノラズ》 哭兒如《ナクコナス》 言谷不語《コトダニトハズ》 思鞆《オモヘドモ》 悲物者《カナシキモノハ》 世間有《ヨノナカニアリ》
 
鳥ノ鳴ク聲ノミ〔二字傍線〕スル海ニ、高イ山ヲ後ロノ〔三字傍線〕障壁トシテ、奧ノ藻ノ濱ニ打チ上ゲラレタノ〔ノ濱〜傍線〕ヲ枕トシテ、蛾ノ羽ノ(321)ヤウナ見苦シイ短イ〔九字傍線〕短イ着物モ着ナイデ(不知魚取)海ノ濱邊ニ、屍トナツテ〔五字傍線〕何心モナク寢テヰル人ハ、父母ニハ愛子デアラウカ、又(若蒭之)妻モアツタダラウカ。言ヒタイト思フ傳言ヲシテ上ゲヨウカト、家ヲ問フト家ヲモ告ゲズ、名ヲ問フケレドモ名サヘモ告ゲナイ。又(哭兒如)物モ言ハナイ。ツクヅクト〔五字傍線〕考ヘテ見テモ、悲シイモノハ世ノ中デアルヨ。
 
○鳥音之所聞海爾《トリガネノキコユルウミニ》――考は鳥音不聞海爾《トリガネノキコエヌウミニ》に改め、「今本、鳥音之所聞海爾と有はいかほどの遠き處まで、鳥がねは聞ゆるものと思ひけん、人笑へなる事なり」と言つてゐるが、この鳥は水沙兒《ミサゴ》・鴎などの海鳥で、怪しく淋しい聲で鳴いてゐるのであらう。略解・古義・新考などいづれも考に從つてゐるのは早計であらう。○高山麻障所爲而《タカヤマヲヘダテニナシテ》――高山を背面の障として。障《ヘダテ》になすとは、屏風の如く後方に控へることであらう。○蛾葉之衣浴不服爾《ヒムシハノキヌダニキズニ》――舊訓カハノキヌススキテキヌニ、代匠記初稿本、クハノキヌアラヒモキズニ又はススキモキズニとあり、考は蛾は蝦の誤とし、略解は或人のマユノキヌ説をよしとし、春海は葉は糸の誤かといひ、古義は蛾は蜻の誤、浴は谷の誤で、訓はアキツハノキヌダニキズニであらうとしてゐる。蛾の字は陰爾蚊蛾欲布《カゲニカガヨフ》(二六四二)・酢蛾島之《スガシマノ》(二七二七)などの如く、音假名としてのみ用ゐられ、それに傚ふときは、カハノキヌと訓むべきであらうが、下へのつづきが、穩やかでない。新訓には蛾を意字として、ヒムシとよんでゐる、蛾をヒムシと訓むのは古事記に少彦名命が天之|蘿摩船《カガミノフネ》に乘り、蛾皮《ヒムシノカハ》(鵝とあるを誤として)を内剥ぎにして、衣服として寄り來給うたことが記されてゐる。古義が蜻の誤としてアキツハノと訓んだのも面白いが、蜻※[虫+延]羽《アキツハ》は集中の用例によれば、いづれも女子の美しい服であるからここには當らない。カハノを一句として、次をキヌダニキズニと訓まうかとも思ふが、皮衣はここにはふさはしくないから、致し方がない。暫く新訓に傚つて、ヒムシハノと訓むことにしよう。ヒムシは火虫で蛾である。古事記の少彦名神は蛾の皮を以て衣としたのに、これは蛾の羽の衣であるから、あの傳説を聯想して解しない方がよい。仁徳天皇紀に皇后御歌「那菟務始能譬務始能虚呂望赴多幣耆?《ナツムシノヒムシノコロモフタヘキテ》」とあるヒムシノコロモは、蠶の衣、即ち絹布であつて、ここに當らない。ヒムシハノコロモは蛾の羽の如き見苦しい(322)短い衣であらう。浴は類聚古集、谷とあるによつて、ダニと訓むべきである。○浦裳無《ウラモナク》――心無く。ここでは心神亡失したことをいつてゐる。○所宿有人者《ヤドレルヒトハ》――舊訓ネテアルヒトハ、古義はイネタルヒトハとあるが、用字の上からは、ヤドレルヒトハと訓んだ略解がよいやうである。 ○眞名子爾可有六《マナゴニカアラム》――眞名子《マナゴ》は愛子、卷六に父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙《チチキミニワレヘマナゴゾハハトジニワレハマナゴゾ》(一〇二一)とある。○若蒭之《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづく。一五三參照。蒭は苅草・牧草であるからクサに用ゐてある。○妻香有異六《ツマカアリケム》――古義は異は羅の誤で、ツマカアルラムであらうと言つてゐるがよくない。○思布言傳八跡《オモホシキコトツテムヤト》――オモホシキは思《オボ》しき。傳へようと思ふ言葉を傳へようかと。○哭兒如《ナクコナス》――枕詞。子供が泣くのみで、物を言はぬから、かくつづけてある。○恩鞆《オモヘドモ》――つくづく考へて見ても。○世間有《ヨノナカニアリ》――世の中にてあり。舊訓ヨノナカナレヤ、新訓ヨノナカナラシとある。元暦校本にはこの句が反覆せられてゐる。
〔評〕 前歌と同時の作である。死人に對し、その父母を思ひ、妻を思ひ、その家を知らむとし、その名を知らむとし、湧き返る同情感に、身も世もあらざる態度が詠み出されてゐる。思鞆悲物者世間有《オモヘドモカナシキモノハヨノナカニアリ》の末句が投げ出すやうな悲しき調をなしてゐる。
 
反歌
 
3337 おも父も 妻も子どもも 高高に 來むと待ちけむ 人の悲しさ
 
母父毛《オモチチモ》 妻毛子等毛《ツマモコドモモ》 高高二《タカダカニ》 來跡待異六《コムトマチケム》 人之悲沙《ヒトノカナシサ》
 
母モ父モ妻モ子供モ首ヲ長クシテ、歸ツテ〔三字傍線〕來ルダラウト待ツテヰタラウノニ、コノ〔四字傍線〕人ハ、カウシテ途中デ死ンデシマツタノハ〔カウ〜傍線〕悲シイコトダ。
 
○高高二《タカダカニ》――下の待《マチ》にかかる副詞で、心から待ち望むやうな時にいふ言葉である。集中、用例が尠くない。七(323)五八參照。
 
〔評〕 これにも同情が漲つてゐる。内容は長歌を要約したのみである。
 
3338 あし引の 山道は行かむ 風吹けば 浪のささふる 海道は行かじ
 
蘆檜木乃《アシビキノ》 山道者將行《ヤマヂハユカム》 風吹者《カゼフケバ》 浪之塞《ナミノササフル》 海道者不行《ウミヂハユカジ》
 
(蘆檜木乃)山道ヲ行カウヨ。風ガ吹クト浪ガ立ツテ、路ヲ〔五字傍線〕通レナイヤウニスル海路ハ、恐ロシイカラ〔六字傍線〕行クマイト思フ。コノ人ノヤウニ海路ヲ通ルコトハコレカラ止メヨウ〔ト思〜傍線〕。
 
○山道者將行《ヤマヂハユカム》――古義に者《ハ》は乎《ヲ》を誤つたのではないかと言つてゐる。○浪之塞《ナミノササフル》――ナミノフサケルと舊訓にある。考は之は立でナミノタチソフだとしてゐる。略解もナミノサヘヌルと訓みながら、考の説によつて、ナミタチサフル、ナミノタチサフとか訓むべしと言つてゐる。ナミノササフルと訓むべきであらう。
〔評〕 略解に「是は溺死人の事を聞きて、おくれたるもの、恐こみ詠める也」とあるのは考へ違ひである。やはり死屍を見た時の作で、内容から見ると、前の玉桙之道去人者《タマボコノミチユキビトハ》(三三三五)の長歌の反歌とするのが、適當のやうでもあるが、必ずしも原形がさうなつてゐたとは斷じ難い。
 
或本歌
 
備後國神島濱|調使首《ツキノオヒト》見(テ)v屍(ヲ)作(レル)歌一首并短歌
 
神島濱は卷十五に、月余美能比可里乎伎欲美神島乃伊素未乃宇良由船出須和禮波《ツクヨミノヒカリヲキヨミカミシマノイソミノウラユフナデスワレハ》(三五九九)とある所で、ここに傭後國とあるが、神名帳に「備中國小田郡神島神社」。續拾遺集賀に「建久九年大嘗會(324)主基方御屏風に、備中國神島有2神祠1所を、前中納言資實」として「神島の浪の白木綿懸まくも畏き御代のためしとぞ見る」と載せてゐる。備後は備中の誤か。小田郡は備中の西部で、備後に接してゐるから、この島は或は古く備後に屬してゐたかも知れない。笠岡港の南方に横はる島で長四十町横十二町許ある。前の長歌に神之渡とあるのは、この島と陸地との海峽をさしたのであらう。調使首は誰だかわからない。卷一(五五)に調首淡海といふ人が、見えてゐる。或はその人か。然らばここに使とあるのは衍である。和銅・養老まで生存した人らしい。
 
3339 玉桙の 道に出で立ち あし引の 野行き山行き みなぎらふ 川ゆきわたり 鯨魚取り 海路に出でて 吹く風も おほには吹かず 立つ浪も のどには立たず かしこきや 神の渡の しき浪の 寄する濱べに 高山を へだてに置きて うらふちを 枕にまきて うらもなく こやせる君は おも父の 愛子にもあらむ わか草の 妻もあらむと 家問へど 家道もいはず 名を問へど 名だにも告らず 誰が言を いとほしみかも たか浪の かしこき海を ただわたりけむ
 
玉桙之《タマボコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 葦引乃《アシビキノ》 野行山行《ヌユキヤマユキ》 潦《ミナギラフ》 川往渉《カハユキワタリ》 鯨名取《イサナトリ》 海路丹出而《ウミヂニイデテ》 吹風裳《フクカゼモ》 母穗丹者不吹《オホニハフカズ》 立浪裳《タツナミモ》 箆跡丹者不起《ノドニハタタズ》 恐耶《カシコキヤ》 神之渡乃《カミノワタリノ》 敷浪乃《シキナミノ》 寄濱邊丹《ヨスルハマベニ》 高山矣《タカヤマヲ》 部立丹置而《ヘダテニオキテ》 ※[サンズイ+内]潭矣《ウラブチヲ》 枕丹卷而《マクラニマキテ》 占裳無《ウラモナク》 偃爲公者《コヤセルキミハ》 母父之《オモチチノ》 愛子丹裳在將《マナゴニモアラム》 稚草之《ワカクサノ》 妻裳將有等《ツマモアラムト》 家問跡《イヘトヘド》 家道裳不云《イヘヂモイハズ》 名矣問跡《ナヲトヘド》 名谷裳不告《ナダニモノラズ》 誰之言矣《タガコトヲ》 勞鴨《イトホシミカモ》 腫浪能《タカナミノ》 恐海矣《カシコキウミヲ》 直渉異將《タダワタリケム》
 
○前の長歌と酷似してゐるから、口語譯を省いて、語釋のみを添へることにする。○潦《ミナギラフ》――舊訓は原歌を直海川《ヒタス ハ》と訓んだのに傚つて、この字を同樣に訓んでゐるが、意が通じない。考に水激の誤としたのに從つて、ミナギラフと訓むことにする。○母穗丹者不吹《オホニハフカズ》――舊訓に母は於の誤としてオホニハフカズとある。元暦校本に母穗を箆跡に作つてゐるに從へば、ノドニハフカズである。○※[サンズイ+内]潭矣《ウラブチヲ》――舊訓イルフチヲ、童蒙抄イリフチヲとあるのもよイであらうが、※[サンズイ+内]は集中、浦に用ゐてある。潭は淵である。○偃爲公者《コヤセルキミハ》――コヤスは臥す。○腫(325)浪能《タカナミノ》――舊訓ユフナミノを、代匠記初稿本には腫は身體のふくれはれる意の字であるから、タカとよんでよからうと言つてゐる。鍾と同音だから鍾禮《シグレ》と書く類で、シキナミであらうとする宣長論は從ひ難い。
〔評〕 この或本の歌と前の長歌二首との關係は、今から明らかには斷じ難い。眞淵は前の二首が亂れて、一首となつたとしてゐるが、反對にこれを基として、前の二首が出來たとも考へ得るのである。全躰が整然としてゐるので見ると、後の考へ方が正しいのではあるまいか。
 
反歌
 
3340 おも父も 妻も子どもも 高高に 來むと待つらむ 人の悲しさ
 
母父裳《オモチチモ》 妻裳子等裳《ツマモコドモモ》 高高丹《タカダカニ》 來將跡待《コムトマツラム》 人乃悲《ヒトノカナシサ》
 
この歌は前の三三三七と全く同歌であるから解は省くことにする。但し第四句、來將跡《コムト》は變な書き方である。將の字、古葉略類聚鈔・西本願寺本などに無いのを正しとすべきか。或は古義のやうに來跡將待《コムトマツラム》に轉置すべきであらう。
 
3341 家人の 待つらむものを つれもなき 荒磯をまきて ふせる君かも
 
家人乃《イヘヒトノ》 將待物矣《マツラムモノヲ》 津煎裳無《ツレモナキ》 荒磯矣卷而《アリソヲマキテ》 偃有公鴨《フセルキミカモ》
 
家ノ人ガ貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテヰルダラウノニ、コンナ〔三字傍線〕縁故モナイ、淋シイ磯ヲ枕シテ、死ンデ〔三字傍線〕横タハツテヰル貴方ヨ。嗚呼可愛サウダ〔七字傍線〕。
 
○津煎裳無《ツレモナキ》――煎は烈《レ》の誤であらう。舊訓、文字通りにツニモナキとあるが意が通じない。ツレモナキは關係もない縁故もない。
〔評〕 この歌は卷二の柿本人麿の奧波來依荒礒乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》(二二二)と似てゐるが、作の前後は(326)今から判斷し難い。
 
3342 うらふちに こやせる君を 今日今日と 來むとまつらむ 妻し悲しも
 
?潭《ウラフチニ》 偃爲公矣《コヤセルキミヲ》 今日今日跡《ケフケフト》 將來跡將待《コムトマツラム》 妻之可奈思母《ツマシカナシモ》
 
コノ〔二字傍線〕浦ノ淵ニ死ンデ〔三字傍線〕横ハツテヰルコノ人ヲ、家ノ妻ハ知ラナイデ〔九字傍線〕、今日カ今日カト歸リヲ待ツテヰルデアラウガ、ソノ〔三字傍線〕妻ハ可愛サウナモノダヨ。
 
〔評〕 卷二に人麿が死んだ時、妻の依羅娘子の作つた歌に、旦今日且今日吾待君者石水貝爾交而有登不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》(二二四)とあるのは、多少の類似點がないではない。卷五には山上憶良作の出弖由伎斯日乎可俗閉都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波浪良波母《イデテユキシヒヲカゾヘツツケフケフトアヲマタスラムチチハハラハモ》(八九〇)とある。その結句、一云、波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》とあるによれば、更に似てゐる。
 
3343 うら浪の 來寄する濱に つれもなく ふしたる君が 家道知らずも
 
?浪《ウラナミノ》 來依濱丹《キヨスルハマニ》 津煎裳無《ツレモナク》 偃有公賀《フシタルキミガ》 家道不知裳《イヘヂシラズモ》
 
浦ノ浪ガ打チ寄セテ來ル濱ニ、何ノ〔傍線〕縁故モナクテ、一人サビシク死屍トナツテ〔一人〜傍線〕横ハツテヰルコノ人ノ家ハ何處デアラウゾ。家サヘ分レバ知ラセルノニ、可愛サウナコトダ〔家サ〜傍線〕。
 
○津煎裳無《ツレモナキ》――前と同じく、煎は烈の誤とする外はない。○偃有公賀《フシタルキミガ》――偃有の二字は略解にコヤセルとよんでゐるが、元暦校本その他、多くの古本、有を爲に作るによれば、フシタルがよいやうである。
〔評〕 家人に告げむ爲に家路が知りたいの意を含めてある。この反歌四首はいづれも末句に詠歎的の辭を用ゐて感情をあらはしてゐる。
 
右九首
 
3344 この月は 君來たらむと 大舟の 思ひたのみて いつしかと 吾が待ちをれば 黄葉ばの 過ぎて行きぬと 玉梓の 使の云へば 螢なす ほのかに聞きて 大地を 炎と蹈み 立ちてゐて 行方も知らに 朝霧の 思ひまどひて 杖足らず 八尺の嘆 嘆けども しるしを無みと 何所にか 君がまさむと 天雲の 行きのまにまに 射ゆししの 行きも死なむと 思へども 道し知らねば 獨ゐて 君に戀ふるに ねのみし泣かゆ
 
(327)此月者《コノツキハ》 君將來跡《キミキタラムト》 大舟之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 何時可登《イツシカト》 吾待居者《ワガマチヲレバ》 黄葉之《モミヂバノ》 過行跡《スギテユキヌト》 玉梓之《タマヅサノ》 使之云者《ツカヒノイヘバ》 螢成《ホタルナス》 髣髴聞而《ホノカニキキテ》 大士乎《オホツチヲ》 太穗跡《ホノホトフミ》 立而居而《タチテヰテ》 去方毛不知《ユクヘモシラニ》 朝霧乃《アサギリノ》 思惑而《オモヒマドヒテ》 杖不足《ツヱタラズ》 八尺乃嘆《ヤサカノナゲキ》 嘆友《ナゲケドモ》 記乎無見跡《シルシヲナミト》 何所鹿《イヅクニカ》 君之將座跡《キミガマサムト》 天雲乃《アマグモノ》 行之隨爾《ユキノマニマニ》 所射完乃《イユシシノ》 行文將死跡《ユキモシナムト》 思友《オモヘドモ》 道之不知者《ミチシシラネバ》 獨居而《ヒトリヰテ》 君爾戀爾《キミニコフルニ》 哭耳思所泣《ネノミシナカユ》
 
コノ月ハ貴方ガ歸ツテ〔三字傍線〕オイデニナルダラウト(大舟之)思ツテアテニシテ何時カ何時カト私ガ待ツテヰルト、(黄葉之)死ンデシマハレタト(玉梓之)使ノモノガ來テ〔二字傍線〕言フノデ、ソノ言葉ヲ〔五字傍線〕(螢成)ホノカニ聞イテ、大地ヲ炎ノヤウニ蹈ミツケテ、立ツテモ居テモ、行ク先ノコトモ分ラズ途方ニクレテ〔六字傍線〕(朝霧乃)心モ惑ツテ(杖不足)長大息ヲシテ、嘆クケレドモ、何ノ〔二字傍線〕効モナイカラ、何所ニアナタハ死ンデ〔三字傍線〕行カレタデアラウト、天ノ雲ノ動クママニ足ノ〔五字傍線〕行クノニ從ツテ(所射完乃〕歩イテ死ナウカト思フケレドモ、貴方ノヰル所ヘ行ク〔九字傍線〕道ヲ知ラナイカラ、一人デ居ツテ貴方ヲ戀シク思ツテヰルト、唯聲ヲ出シテ泣クバカリデアル。
 
○黄葉之《モミヂバノ》――枕詞。過《スギ》とつづく。○過行跡《スギテユキヌト》――死んで行つたとの意。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。二〇七參照。○螢成《ホタルナス》――枕詞。螢火の如く幽かなる意で、髣髴《ホノカ》につづく。○大士乎太穗跡《オホツチヲホノホトフミ》――この二句、舊訓マスラヲヲハタトトノフトとあり、これに對して、誤字とする説多く、考は士は土の誤。大穗跡は足踏駈の誤として、オホツチヲアシフミカケリとし、古義の谷眞潮説は天土乎乞祷呼《アメツチヲコヒノミヨバヒ》の誤とあり、雅澄は呼は歎の草書から誤つたので、コヒノミナゲキであらうといつてゐる。併し太を火とする元麿枠校に從へば、士を土に改めれば、オホツチヲホノホトフミと訓むことが出來る。新訓はさうなつてゐるから、それを採用することにしよう。但(328)しかう訓んでは、あまり語氣が強烈で、ここに適しない感がないではない。なほ研究を要する。○朝霧乃《アサギリノ》――枕詞。惑《マドフ》につづく。○杖不足《ツヱタラズ》――枕詞。杖は丈で八尺は一丈に足らぬから、かくつづけるのである。○八尺乃嘆《ヤサカノナゲキ》――長い嘆息。前に吾嗟八尺之嗟《ワガナゲクヤサカノナゲキ》(三二七六)とあつた。○記乎無見跡《シルシヲナミト》――記《シルシ》は驗《シルシ》。甲斐。○天雲乃《アマクモノ》――枕詞と見る説もある。○所射完乃《イユシシノ》――枕詞。射られた鹿が、遁げ行くうちに疲れて死ぬ意でつづけてある。新考には次の句の將死を將爲の借字としてゐる。
〔評〕 旅に出た夫が死亡した通知を受け取つた妻の嘆の歌である。黄葉之過行跡玉梓之使之云者《モミヂバノスギテユキヌトタマヅサノツカヒノイヘバ》の四句は、卷二の、人麿が妻の死んだ後で作つた長歌(二〇七)の句と一致し、枕詞を多く連ねてゐるのも、中期以前の歌風なるを思はしめる。無名婦人の作つた長歌としては、注目に價する。
 
反歌
 
3345 葦邊ゆく 鴈の翅を 見るごとに 君がおばしし なぐ箭し思ほゆ
 
葦邊徃《アシベユク》 鴈之翅乎《カリノツバサヲ》 見別《ミルゴトニ》 公之佩具之《キミガオバシシ》 投箭之所思《ナグヤシオモホユ》
 
葦ノ生エテヰルアタリヲ、飛ンデ行ク鴈ノ翼ヲ見ル度毎ニ、旅ニ出テ死ナレタ夫モ、アンナ羽ノ矢ヲ身ニツケテ居ラレタヨト〔旅ニ〜傍線〕、夫ノ背ニ負ウテ〔五字傍線〕帶ビテ居ラレタ矢ノコトガ思ヒ出サレルヨ。
 
○葦邊徃《アシベユク》――葦の生えてゐるあたりを飛んで行く。○公之佩具之《キミガオバシシ》――君が身につけてゐられた。具は思の誤。○投箭之所思《ナグヤシオモホユ》――投箭は弓の箭であらう。投左乃《ナグルサノ》(三三三〇)參照。
〔評〕 飛んでゐる鴈の翅を見て、死んだ夫の帶びてゐた箭を思ひ出して、なつかしがるとは、實に珍らしい聯想である。左註に防人の妻の作とあるのは、直ちに信ずべきや否やを知らないが、ともかくもののふの妻の作らしい。この歌と卷一のアシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》(六四)と、初句と結句とが同型になつてゐるのは偶然か。
 
(329)右二首 但或(ハ)云(フ)此(ノ)短歌者防人(ノ)妻所v作(リシ)也(ト)然(ラバ)則(チ)應(ニ)v知(ル)2長歌(モ)亦此同(ジク)作(リシヲ)1焉
 
3346 見が欲れば 雲井に見ゆる うつくしき 十羽の松原 少子ども いざわ出で見む ことさけば 國に放けなむ ことさけば 家に放けなむ あめつちの 神しうらめし 草枕 この旅のけに 妻避くべしや
 
欲見者《ミガホレバ》 雲井所見《クモヰニミユル》 愛《ウツクシキ》 十羽能松原《トバノマツバラ》 少子等《ワクゴドモ》 率和出將見《イザワイデミム》 琴酒者《コトサケバ》 國丹放甞《クニニサケナム》 別避者《コトサケバ》 宅仁離南《イヘニサケナム》 乾坤之《アメツチノ》 神志恨之《カミシウラメシ》 草枕《クサマクラ》 此羈之氣爾《コノタビノケニ》 妻應離哉《ツマサクベシヤ》
 
眺メヤウトスルト、空ノアナタ〔四字傍線〕ニ遠ク〔二字傍線〕見エルナツカシイ十羽ノ松原ヲ、小供等ヨ、サア出テ見ヨウ。ドウセ同ジコト妻ト〔二字傍線〕死別ヲシヨウトナラバ、國ニ居ル時〔四字傍線〕ニ死別シタイモノダ。ドウセ同ジコト妻ト〔二字傍線〕死別ヲシヨウト云フナラバ、家ニ居ル時ニ〔四字傍線〕死別ヲシタイモノダ。ホントニ〔四字傍線〕天ノ神モ地ノ神モ、恨メシイモノダ。カウシテ(草枕)旅ニ出テ居ル時ニ、妻ヲ死別サセルト云フコトガアルモノデスカ。嗚呼何トシタラヨイデアラウゾ〔嗚呼〜傍線〕。
 
○欲見者《ミガホレバ》――見ようと思へば。宣長は欲は放の誤でミサクレバとあるべきだといつてゐる。○雲井所見《クモヰニミユル》――雲井は空。略解。古義に雲のこととしてゐる。○愛《ウツクシキ》――愛らしき。ハシキヤシの訓はよくない。○十羽能松原《トバノマツバラ》――十羽の松原は何處か不明。この地名は所々にあるが、集中に見えた卷四の白鳥能飛羽山松之《シラトリノトバヤママツノ》(五八八)の鳥羽山《トバヤマ》は大和らしく、卷九の新治乃鳥羽能淡海毛《ニヒバリノトバノアフミモ》(一七五七)の鳥羽能淡海《トバノアフミ》は常陸である。○率和出將見《イザワイデミム》――イザワは誘ひうながす辭で、イザヤに同じ。神武天皇紀に、「烏到2其營1而鳴之曰、天神(ノ)子召v汝(ヲ)、怡弉過怡弉過《イザワイザワ》」とある。○琴酒者《コトサケバ》――どうせ同じ事別れるならば。琴酒は借字である。○國丹放甞《クニニサケナム》――故郷で別れたいものだ。○乾坤之《アメツチノ》――天地の代りに乾坤の二字を用ゐてある。○此羈之氣爾《コノタビノケニ》――此の旅の日に。
〔評〕 地方官の任などにあつて、妻を失つた人の歌であらう。十羽の松原は、妻を葬つたところか。いとしい妻の忘形見の子供を呼びかけて、遙かに十羽の松原を眺め、この旅中にあつて、配偶者と別れた哀傷を歌つて、神を(330)恨んでゐる。悲切惶惑の状、全面に溢れて、人に迫るの慨がある。傑作だ。考に妻《ツマ》を夫の借字としてゐるが、文字通りに見るのが穩やかのやうである。
 
反歌
 
3347 草枕 この旅のけに 妻さかり 家道思ふに 生ける術なし 或本歌曰 旅の日にして
 
草枕《クサマクラ》 此羈之氣爾《コノタビノケニ》 妻放《ツマサカリ》 家道思《イヘヂオモフニ》 生爲便無《イケルスベナシ》
 
カウシテ(草枕)旅ニ出テ居ル先デ、妻ガ死ンデ、コレカラ〔四字傍線〕故郷ヘノ道中ヲ考ヘルト、悲シクテ〔四字傍線〕生キテヰル方法ガナイ。
 
○家道思イヘヂオモフニ》――舊訓イヘヂオモヘバとあるが、古義の訓がよい。この家道は家へ行く道。即ち故郷への歸路である。故郷と見るのは當らない。○生爲便無《イケルスベナシ》――古義にイカムスベナシと訓んだのは窮窟である。上に生流爲便無《イケルスベナシ》(三二九七)とある。
〔評〕 十羽の松原を鳥羽の淡海と同所とすれば、常陸から家に歸らむとして、詠んだもので、妻を亡つた官人が多くの兒らを伴つて、任國を去らうとしてゐる時の、悲傷の念と途中のたよりなさとが、實によく詠まれてゐる。あはれな作だ。
 
或本歌曰 羈乃氣二爲而《タビノケニシテ》
 
これは二の句の異本である。どちらでも大差はない。
 
右二首
 
萬葉集卷第十三
          〔2009年5月23日(土)午後6時12分、巻十三入力終了〕
 
 
卷第十四
 
(331) 萬葉集卷第十四解説
 
この卷は東歌を輯録したもので、萬葉集中特殊の色彩を有してゐる。卷頭に東歌と標記し、全躰を國の分明せる歌と未勘國の歌との二部に別ち、前者は更に雜歌・相聞・譬喩歌に分類し、遠江・駿河・伊豆・相模・武藏・上總・下總・常陸・信濃・上野・下野・陸奧等十二國の歌九十首を集めてゐる。東歌と記した次に、雜歌とあるべきが脱落してゐるやうである。後者は雜歌・相聞・防人歌。譬喩歌・挽歌に分類し、その數併せて百四十首である。以上累計二百三十首、歌躰はすべて短歌の形式になつてゐる。作者の名は一も記してない。東歌の意義については東國の歌枕を詠んだ歌・東國防人の作つた歌・東國方言を用ゐた歌・東國人の作つた歌など種々の説が行はれてゐる。併し予の見解では、東歌は東國に行はれた歌といふ意で、東語を用ゐた歌は勿論、上品な京語を以て綴つた作も、いづれも東國に行はれてゐた歌である。大和・伊勢・越などの地名が詠まれたものも、東國に於て傳誦せられてゐたから、これらを一括して東歌と題したものであらう。國名の明らかなものは、遠江以東の十二國に國分してあるが、未勘國の歌も亦同一範圍内に行はれたものを集めたのである。卷二十の防人歌が同じく遠江以東の十國(甲斐・伊豆・陸奧を缺く)であるのが、それを證明してゐる。遠江以東の國々は當時に於ける邊陬の特殊地域とせれらた爲に、其處に行はれた歌がかく別卷に輯められたものである。「常陸なる奈佐可の海」「信濃なる千曲の川」などは、その地方人又は地方に來り住んでゐる人の言葉ではないと言ふ説は尤もであるが、それかと言つて、これを東國外の作とは言ひ難い。(332)同じ東國内にあつて、他から常陸・信濃などの名所をよんだと見ることも出來る。前半の國名の明らかな歌は、國名を冠したものと、誰でも知つてゐるやうな東國の地名を詠んだ歌とを、適宜その所屬の國々に分けたもので、もとより都にゐてやつた机上の分類に過ぎない。だから同じ安蘇の地が一方では上野歌に列し、他方では下野歌に出てをり、下總の海上潟らしい歌を、上總國歌にしてゐるやうなことが起つてゐる。次にこの歌の蒐集者を高橋蟲麿とする學者もあるが、蟲麿らしい根據はなく、彼の任地であつた常陸方面よりも、他の地方に關する歌の多いことを考へなければなるまい。或は防人部領使などに依頼して、大伴家持などが蒐集して置いたものではあるまいかと考へられる。卷二十に昔年防人の歌八首が、主典刑部少録正七位磐余伊美吉諸君によつて抄寫せられて、大伴家持に贈られてゐるなども參考とすべきであらう。又この卷の時代について、眞淵はこれを卷十一・卷十二の古き宮ぶりに對して、古き國ぶりを集めたものとして、第六位に置いてゐるが、山田孝雄氏は相聞往來の國分の順序が、武藏を東海道に入れ相模の次に列してあるので、この卷の編纂は光仁天皇の寶龜二年十月以後であらぬばならぬといふ説を學界に提供せられ、異常の衝動を與へた。この卷は原本を今の如き一字一音式に書き改めたものだといふ説があり、それが成立てば、今本の排列は故事の際に直したものともいへるので、山田氏説も權威を失ふことになる。併し改書説の理由とするところが薄弱であるから、この間題は今後の慎重な考覈に俟たねばならぬ。用字法は大躰字音を用ゐた假名書式であるが、稀に訓を用ゐたのは、多くは正訓になつてゐる。
 
(333)萬葉葉卷弟十四
 
東歌
 
上總國雜歌一首
下總國雜散一首
常陸國雜歌二首
信濃國雜歌一首
遠江國相聞往來歌二首
駿河國相聞往來歌五首
伊豆國相聞往來歌一首
相模國相聞往來歌十二首
武藏國相聞往來歌九首
上總國相聞往來歌二首
下總國相聞往來歌四首
(334)常陸國相聞往來歌十首
信濃國相聞往來歌四首
上野國相聞往來歌二十二首
下野國相聞往來歌二首
陸奥國相聞往來歌三首
遠江國譬喩歌一首
駿河國譬喩歌一首
相模國譬喩歌三首
上野國譬喩歌三首
陸奥國譬喩歌一首
未勘國雜歌十七首
未勘國相聞往來歌百十二首
未勘國防人歌五首
未勘國譬喩歌五首
未勘國挽歌一首
 
(335)東歌
 
ここに雜歌とあつたのが脱ちたものとして、古義には補つてゐる。考には次の相聞・譬喩以下の分類は後人の仕業として、認めて居ない。脱落説に從ふべきもののやうに思はれる。
 
3348 なつそひく 海上潟の 沖つ渚に 船はとどめむ さ夜更けにけり
 
奈都素妣久《ナツソヒク》 宇奈加美我多能《ウナカミガタノ》 於伎都渚爾《オキツスニ》 布禰波等杼米牟《フネハトドメム》 佐欲布氣爾家里《サヨフケニケリ》
 
モウ夜ガ更ケタヨ。ダカラ此〔四字傍線〕(奈都素妣久)海上潟ノ沖ノ洲ニ、船ヲ止メテ、今夜ハ碇泊シ〔七字傍線〕ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○奈都素妣久《ナツソヒク》――枕詞。卷七の夏麻引海上滷乃《ナツソヒクウナカミガタノ》(一一七六)參照。○于奈加美我多能《ウナカミガタノ》――ウナカミガタは海上滷。海上は上總と下總との二國にあり、これを上總とすれば、東京湾内の市原郡の海岸であり、下總とすれば、海上郡の流海の沿岸である。さうして卷九に海上之其津於指而《ウナカミノソノツヲサシテ》(一七八〇)とあるのが、下總の海上《ウナカミ》なるを思へば、これも亦下總と推斷し得るのである。然るにここに上總國歌の部に入れてあるのは、どう考へてよいか。これは海上の地が、上總として都人によつて知られてゐたからのことで、東歌の國別は現地で行はれたものでなく、都人の机上の仕事であつたことを語るものである。なほこの地名については 卷七の一一七六を參照せよ。
〔評〕 卷七の夏麻引海上滷乃奥津洲爾鳥者簀竹跡君者音文不爲《ナツソヒクウナカミガタノオキツスニトリハスダケドキミハオトモセズ》(一一七六)と比べて見ると、上句が全く一致し、唯彼が相聞(雜歌に入れてあるが)なるに、これが羈旅歌なるの相異があるのみである。その格調も全く相同じで、これを卷七に收めることも出來るし、卷七のものを此處に入れても、差支ないわけである。それだけこの歌は東歌らしい特色がない。これに就いて略解は「こゝに載たる五首の中、初二首と末一首は東ぶりならず。既に(336)久しく仕奉りて、歸りをる人の、東にての歌故に是に入たるか。或ひは、京人の東の國の司などにて下りたるが、詠めるを、それも其國に傳はりたるは、其國の歌とて有なるべし。古今集の東歌にも、此類あり」といひこれに對して、古義は「略解にこゝに載たる五首の中、初二首と末一首は、東風ならず、京人の東國の司などにて下りたるがよめるなるべしと云るは、甚偏なる論なり。いかにとなれば、凡て古に、東人の歌よみけむことは、たとへば今の世に、琉球人などの、歌よむごとくにぞ有けむ。そは琉球人の、皇朝學に未熟《イマダシキ》が、彼の國の語にてよみとゝのへたるは、むげにつたなくて、聞えがたきふしいと多かるを、そが中に、皇朝の學にやゝ長たるがよめるは、皇朝人の歌に、をさ/\おとらぬも多きが如し、されば古の東人も、雅言をよく學び得たる人は、猶京人の作にも、立おくれざりしなり、かゝればこゝの初二首末一首のみならず凡て東歌の中に、京人のと異なることなきが多かるは、さる故にこそありけれ。(中略)かく正しく生《ハエ》ぬけの京人にをさ/\おとらざるうたよみの有しにて、凡て京にも、勝たる劣たるありて、必ず東語ならすとて、東歌にあらずと思ふはいと/\かたくななりけり。猶たとへて云ば、後の世に古風の歌よむもしかり。なべて世の古風を學ぶ人の作を見るに、多くは後の世語のまじりなど、いとつたなきを、又それが中に、古を熟學び得たる人の、多くよみたる中には、又まれまれ此の萬葉などにも入べきほどの歌もあるが如し」と論じてゐる。古義の論は實に堂々たるものであるが、幕末頃の琉球人の作歌や擬古的の和歌と、この東歌とを一緒にするのは、無理であらうと思はれる。卷二十の防人歌を見ると、指導者があつて作り、又それを選擇し、或は添削したのではないかとの想像もせられるが、それでも、彼等がその方言を用ゐて、三十一文字の形式にあてて作ることは、さしたる難事ではなかつたので、さういふことが、東國地方でかなり行はれてゐたらうと思はれる。又方言を以て詠まれた短歌形式の俚謠がかなり行はれてゐたであらう。さればかくの如き都風の作品は東人の作品と見るべきではなく、都人の東國にての作とすべきであらう。古義よりも、略解の論ずるところが當つてゐるのではないかと思はれる、この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首上總國歌
 
3349 葛飾の 眞間の浦みを こぐ船の 船人騷ぐ 浪立つらしも
(337)可豆思加乃麻萬能宇良末乎許具布禰能布奈妣等佐和久奈美多都良思母《カツシカノママノウラミヲコグフネノフナビトサワグナミタツラシモ》
 
葛飾ノ眞間ノ浦ノ岸ヲ漕ゲ舟ノ、船頭ガ騷イデヰル。アノ樣子デハ〔六字傍線〕、浪ガ荒ク〔二字傍線〕立ツテヰルラシイヨ。
 
○可豆思加乃麻萬能宇良末乎《カツシカノママノウラミヲ》――葛飾の眞間の浦囘を。舊本、宇艮末《ウラマ》とあるは宇艮未《ウラミ》の誤であらう。
〔評〕卷七に、風早之三穂乃浦廻乎榜舟之船人動浪立良下《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノフナビトサワグナミタツラシモ》(一二二八)とあるのと同形の歌である。これも葛飾の眞間といふ下總の地名があるのみで、東歌らしい風姿がない。明朗な、よい作だ。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首下總國歌
 
3350 筑波嶺の 新桑繭の きぬはあれど 君がみけしし あやに著欲しも  或本歌云、たらちねの  又云、數多著欲しも
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 爾比具波麻欲能《ニヒグハマヨノ》 伎奴波安禮杼《キヌハアレド》 伎美我美家思志《キミガミケシシ》 安夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》
 
筑波山デトレル新ラシイ桑繭デ織ツタ着物ハアルケレドモ、ソレハ着タクモナイ〔九字傍線〕、貴方ノ御召物ガ、不思議ニモ着タイヨ。
 
○筑波禰乃《ツクバネノ》――筑波嶺の。筑波山に生ずる。○爾比具波麻欲能《ニヒグハマヨノ》――新桑繭の。桑繭《クハマヨ》とは野蠶《クハゴ》の異名で、和名抄に、「桑繭。唐韻云、〓【久波萬由】桑上繭【即桑蠶也】」とあり、桑樹に野生する蠶である。その形、家蠶に同じく、暗褐色で尾角が黄褐色を呈してゐる。恐らくこれが家蠶の原種であらうと言はれてゐる。繭は七八月頃作り、灰褐色又は黄帶色である。これから粗惡な絹糸を得る。從來この句を春蠶とする説と、桑の春の若葉を以て飼つた蠶とする説との、二に分れてゐるやうであるが、家蠶としては初句の筑波禰乃《ツクバネノ》が理解されないから、筑波山に野(338)生する桑蠶と解すべきである。なほ卷十二に桑子爾毛成益物乎《クハコニモナラマシモノヲ》(三〇八六)とある桑子は、家蠶のことで、ここの桑繭又、野蠶《クハゴ》とは異なつてゐるから、混同してはいけない。○伎奴波安禮杼《キヌハアレド》――伎奴《キヌ》は絹と解する學者もあるが、下の美家思《ミケシ》と並べてあるから、衣の意であらう。卷七の買師絹之商自許里鴨《カヘリシキヌノアキジコリカモ》(一二六四)は文字通り絹らしいが、他は衣と解すべきもののやうである。○伎美我美家思志《キミガミケシシ》――美家志《ミケシシ》は御衣。ミは接頭語で敬語 ケは着《キ》の古語。シは敬語の動詞スの名詞形。○安夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》――アヤニは奇しく不思議なほどにの意。
〔評〕 東少女の歌で、自分には筑波山の新桑繭で作つたよい着物があるが、戀しい人の着物を身に着けてゐたいといふのである。略解に「宣長云、之は京より下り居る官人などの衣服の美きを見て詠めるなるべし。上句のさましか聞ゆと云り。これも然るべし」とあるが、この歌には女が男に對する戀慕の情が溢れてゐるのが、看取せられる。ことに末句の安夜爾《アヤニ》の一語にそれがあらはれてゐる。京人の衣服の美を愛でたとするのは、これを雜歌とするのに拘泥した説である。古昔は男女衣を取りかはしたことは、卷一の旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾《タビニシテコロモカスベキイモモアラナクニ》(七五)・卷十二の吾味兒爾衣借香之宜寸河《ワギモコニコロモカスガノヨシキカハ》(三〇一一)などの如くその例が多い。私は自慢の着物があるのだが、それも着たくない。唯無暗に着たいのは貴方の着物だと、男に戀しさを打あける田舍少女の言葉に、あはれさと魅力とが籠つてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
或本歌曰 多良知禰能《タラチネノ》 又云 安麻多伎保思母《アマタキホシモ》
 
これは初句と五句との異本である。多良知禰能《タラチネノ》は母の枕詞であるが、ここは母の意に用ゐたものとしなければならぬ。もしこの句の如くならば、恐らく常陸國歌の中には入れられなかつたであらう。末句は安麻多《アマタ》よりも、原歌の如く、安夜爾《アヤニ》の方がよい。この又云の句を第六句とすれば佛足跡歌の形式になる。下の三三五九についても同樣なことが言へる。
 
3351 筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも かなしき兒ろが にぬ乾さるかも
 
(339)筑波禰爾《ツクバネニ》 由伎可母布良留《ユキカモフラル》 伊奈乎可母《イナヲカモ》 加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》 爾努保佐流可母《ニヌホサルカモ》
 
筑波山ニハ雪ガ降ツテ屈ルノダラウカ。イヤサウデハナイノダラウカ。私ノ〔二字傍線〕愛スル戀シイ女ガ、布ヲ干シテヰルノダラウカナア。
 
○由伎可母布良留《ユキカモフラル》――雪かも降れるの東語。○伊奈乎可母《イナヲカモ》――否をかも。ヲは嘆辭のみ、卷十一に否乎鴨《イナヲカモ》(二五三九)とあるに同じ。古義に「香歟諾歟《イナカヲカ》と云が如し」とあるのは、その意を得ない。○加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》――加奈思吉《カナシキ》は愛する。いとしいなどの意。兒呂《コロ》は子らに同じ。東語にロといふ接尾語が多く用ゐられてみる。○爾努保佐流可母《ニヌホサルカモ》――爾努《ニヌ》は布。この下に、爾努具母能《ニヌグモノ》(三七一三)とあるは布雲である。類聚古集に、爾を企に作るに從へば、衣《キヌ》である。保佐流可母《ホサルカモ》は乾せるかもの東語。
〔評〕 筑波山頂に降つた雪を見て、愛する女が織りあげた布を乾したのではないかと、ふと思つたのである。筑波山麓に住む若い衆の謠つた歌であらう。織布にいそしんでゐた常陸少女の樣も偲ばれるし、又夢寐にもその少女を忘れ得ぬ男の氣分も出てゐる。卷一の衣乾有天之香來山《コロモホシタリアメノカグヤマ》(二八)の御製と共に、上代曝布の風俗を證する作である。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
右二首常陸國歌
 
3352 信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く聲きけば 時すぎにけり
 
信濃奈流《シナヌナル》 須我能安良能爾《スガノアラノニ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈久許惠伎氣婆《ナクコヱキケバ》 登伎須凝爾家里《トキスギニケリ》
 
(340) 信濃ノ國ノ菅野ト云フ淋シイ野デ、郭公ノ鳴ク聲ガ聞エルガ、モハヤ都ヘ歸ルベキ春ノ〔モハ〜傍線〕時期モ過ギテ、夏ニナツタヨ〔七字傍線〕。
 
○須我能安良能爾《スガノアラノニ》――須我能安良能《スガノアラノ》は和名抄に信濃筑摩郡|苧賀《ソガ》郷【曾加】とあるあたりで大日本地名辭書には「今、波多村・新村・和田村・山形村より今井・神麻・笹賀までわたるごとし。梓川と楢井川との間なる曠野とす。古昔此を須我の荒野とも云ふ。」と記してある。併しこれはソガとスガと音が似てゐるところから、略解に此處と推定したのによつたもので、この他、行嚢抄には「河中島にて菅平といふ山を望み、是荒野なりと」とあり、又信濃地名考に伊那郡下條に菅野と云ふ地名あるところとする説を記してゐるが、いづれも確たる根據が無い。安良能《アラノ》は荒野の意であらうが、野はヌといふべきであるのに、ここに野をノと言つたのはどうかと思はれる。野をノの假名に用ゐて、多流比賣野宇良乎《タルヒメノウラヲ》(四〇四七)奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》(四〇四八)安利蘇野米具利《アリソノメグリ》(四〇四九)・伊都波多野佐加爾《イツハタノサカニ》(四〇五六)須久奈比古奈野《スクナヒコナノ》(四一〇六)の如きがあり、野を能と記した夏能能之《ナツノノノ》(四一一三)波奈能爾波《ハナノニハ》(四四五三)などの例が、いづれも特異のものである。これも特例の一に數ふべきであらうか。○登伎須疑爾家里《トキスギニケリ》――考には「旅に在てとく歸らんことを思ふに、ほととぎすの鳴まで猶在をうれへたる歌」とし、古義は、「春の末かぎりに逢むと人に約り置しを得逢はずして、夏來りて霍公鳥の音に驚きて彼が鳴を聞ば、契りし時はや過にけりと云ふなり」とし、新考は「夫の歸り來べき時なるべし」と言つてゐる。この作者を地方人とするか、京人とするか、雜歌とするか、相聞歌とするか、男とするか、女とするかなどによつて、時の解が變つて來るわけである。京人の歌として、歸るべき時期の遲れたのに驚いたものとしよう。
〔評〕 右に述べたやうに、種々に見解が分れる歌である、併しこの歌調が雅麗で、毫も東歌らしい香がないこと、地方人が自ら信濃なるすがの荒野といふ筈のないこと(信濃なるは他郷人にして初めて言ふべきである)などから、これを右のやうに解した。ともかく信濃の地名を詠込んだといふまでで、全く東歌らしくないものである。賀茂眞淵の名歌「信濃なるすがの荒野を飛ぶ鷲のつばさもたわに吹く嵐かな」はこの歌によつて作つたものである。
 
(341)右一首信濃國歌
 
相聞
 
この分類は後人の業だと考には見えてゐる。
 
3353 あらたまの きへの林に なを立てて 行きかつましじ 寐を先立たね
 
阿良多麻能《アラタマノ》 伎倍乃波也之爾《キヘノハヤシニ》 奈乎多?天《ナヲタテテ》 由吉可都麻思自《ユキガツマシジ》 移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》
 
オマヘハワタシガ來ルダラウト思ツテ〔オマ〜傍線〕、麁玉ノ柵戸ノ林ニ立ツテ待ツテヰルダラウガ〔立ツ〜傍線〕、オマヘヲ其處ニ〔三字傍線〕立タセテオイテモ私ハ都合ガ惡クテ、今夜ハ〔モ私〜傍線〕行クコトハ出來マイ。待タナイデ〔五字傍線〕早ク寢テヰナサイ。
 
○阿良多麻能伎倍乃波也之爾《アラタマノキヘノハヤシニ》――阿良多麻能伎倍《アラタマノキヘ》は卷十一に璞之寸戸我竹垣《アラタマノキヘガタケガキ》(二五三〇)とあつたところで、遠江國麁玉郡の柵戸《キヘ》。蝦夷を防ぐ爲に東國地方に設けられた城塞を守る民家で、その所在地をキヘと稱したのである。伎倍乃波也之《キヘノハヤシ》は柵戸附近の林であらう。○奈乎多?天《ナヲタテテ》――汝を立てて。○由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》――行くに堪へまじの意。マシジはマジの原形であらう。卷二の有勝麻之自《アリガツマシジ》(九四)參照。自を目の誤として、ユキカツマシモと訓んだ考の説は誤つてゐる。○移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》――略解に稻掛大平説として、移乎は移毛の誤とするをあげ、これを穩やかなりとしてゐるが、妹では、上に「汝を」とあるのに對して、穩やかでない。やはり寐《イ》ヲと見るべきであらう。新考には移邪《イザ》に改めたのは、更によくない。尼は舊訓ニとあるが、吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》(一六九四)・柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》(一二七四)都久波尼乎《ツクバネヲ》(四三六七)などの如くネと訓むべきである。
(342)〔評〕 宣長は男が旅に出立する時、妻が伎倍の林まで見送つて來たのに、男が別れる時の歌だとしてゐるが、それでは五の句の落付がわるい。考に女が男にいふ歌としたのは四の句を「雪が積ましも」と見たので、もとより見當はづれである。次の歌と並べて考へると、右のやうに解くべきである。純朴な歌。
 
3354 きべ人の 斑衾に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床に
 
伎倍比等乃《キベビトノ》 萬太良夫須麻爾《マダラフスマニ》 和多佐波太《ワタサハダ》 伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》 伊毛我乎杼許爾《イモガヲドコニ》
 
私ハ戀シイ〔五字傍線〕女ノ臥床ニ(伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太)入リタイモノダヨ。
 
○伎倍比等乃《キベビトノ》――前の歌にある麁玉の柵戸地方の人の。○萬太良夫須麻爾《マダラフスマニ》――斑衾に。斑衾は班に摺つて染めた夜具である。○和多佐波太《ワタサハダ》――和多《ワタ》は綿。サハダは多く。下に安比太欲波佐波太奈利努乎《アヒタヨハサハダナリヌヲ》(三三九五)とあるサハダも同じ。考に太を爾の誤としたのはよくない。ここまでの三句は伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》といはむ爲の序詞。柵戸人の著る斑衾には、綿を多く入れる習俗があつたのである。柵戸人は官から特別の給與があつて、富裕な生活をしてゐたのであらう。○伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》――入らうものを。○伊毛我乎杼許爾《イモガヲドコニ》――乎杼許《ヲドコ》のヲは接頭語のみ。
〔評〕 柵戸附近に住む男の歌。佐波太《サハダ》といふ東語が見えるだけで、全體的には、平易な歌であるが、野趣が溢れてゐて面白い。俚謠らしい氣分である。
 
右二首遠江國歌
 
3355 天の原 富士の柴山 木のくれの 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ
 
安麻乃波良《アマノハラ》 不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》 己能久禮能《コノクレノ》 等伎由都利奈波《トキユツリナバ》 阿波受可母安良牟《アハズカモアラム》
 
(343)(安麻乃波良不自能之婆夜麻)今夜、時ガ遲クナツタナラバ、折角行ツテモ女ニ〔八字傍線〕逢ハナイデアラウカ。
 
○安麻乃波良――天の原。天の原に聳ゆる意であらう。○不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》――富士山は裾野の草原を登れば、やがて森林地帶となる。柴山といふのは、この地帶について言つたのであらう。その上は熔岩と火山灰の堆積である。ここまでの二句は己能久禮《コノクレ》と言はむ爲の序詞である。○己能久禮能《コノクレノ》――木の暗の。木の下の小暗きをいひ、此の暮の意にかけてゐる。○等伎由都利奈波《トキユツリナバ》――ユツリは移《ウツ》りと同語。移ると讓ると同意である。
〔評〕 富士山麓の男の歌であらう。木の暗と此の暮との、かけ詞は巧である。略解に一二句を序詞とせず、富士山麓の柴のこぐらき夜道をたどり行く男が、妹に逢はれないのを心配して、時おくれじと急ぐ意に解いてゐるが、それでは三四の句のつづきがどうかと思はれる。古義に「富士の柴山の繁く生なびきて、木暗き折しも、わが隱妻を率て、立隱るべきなれば、此の時節を過しては、さることも叶ひがたければ、逢ずなりなむか、さてもくちをしやとなり」とあるのも感心しない。富士山麓に行はれた民謠であらう。
 
3356 不盡の嶺の いや遠長き 山路をも 妹がりとへば けによばず來ぬ
 
不盡能禰乃《フジノネノ》 伊夜等保奈我伎《イヤトホナガキ》 夜麻治乎毛《ヤマヂヲモ》 伊母我理登倍婆《イモガリトヘバ》 氣爾餘婆受吉奴《ケニヨバズキヌ》
 
不盡山ノ麓ノ實ニ遠ク長イ山道ヲモ、妻ノ所ヘ通フノダト思ヘバ、一日カカラズニ、早ク到着シタヨ。
 
○氣爾餘婆受吉奴《ケニヨバズキヌ》――代匠記初稿本はケを霧とし、ヨバズを迷はずと解し、「霧にも迷はずして來ぬるとなり」としてゐる。、又別にケは異、ヨバズは不及とし、異義にも及ばず、異なる思案をめぐらすに及ばずして來ぬるの意としてゐる。精撰本には更に食《ケ》の義と解し「食の義ならば、〓蒼を行ものは、兼て糧を舂《ツク》習ひなるを、それまでもなくて來ぬとなり」と述べてゐる。考は「氣《ケ》は息《イキ》なり、爾餘婆受《ニヨバズ》は不2呻吟1なり。山路につかれては、息つきうめく物なるを、妹がもとへ行と思へば、やすく來りつといへり」とある。略解にあげた宣長説は「けは、(344)け長きのけにて、來經《キヘ》也。さればこは時刻を移さず、いそぎて來ぬと云也。よばずは、不v及也」とある。以上のうちで、契沖のケを霧と見たのと、眞淵の息《イキ》と見たのは、相似た點があるが、共にわるい。氣を息とするは字義に釣られたもので、しかもケが字音なるを忘れた説である。ケを異とすることは假名遣奥の山路に從ふとすれば、氣《ケ》と異《ケ》とは、別類の音であるから、これは同一視しない方がよい。食《ケ》と日《ケ》とは氣と同類であるが、食に及ばずと見るのは頗る穩やかでない。すると、日《ケ》に及ばずして來た。即ち一日かからずして到着した意と見るのが、最も穩當であらう。
〔評〕 富士の峯の彌遠長き山路といふのは、富士山麓を辿る遠長い山路をいふのであらう。その山路を妹がりに通つて行く男の、急ぎ足の姿が目に見えるやうだ。これもあの邊の民謡であらうか。
 
3357 霞ゐる 富士の山びに わが來なば いづち向きてか 妹が嘆かむ
 
可須美爲流《カスミヰル》 布時能夜麻備爾《フジノヤマビニ》 和我伎奈婆《ワガキナバ》 伊豆知武吉?加《イヅチムキテカ》 伊毛我奈氣可牟《イモガナゲカム》
 
私ガ旅ニ出テ〔六字傍線〕霞ノカカツテ居ル富士ノアタリニ、私ガ來タナラバ、私ノアリカモワカラナイデ〔私ノ〜傍線〕、何處ノ方ヲ向イテ妻ガ私ヲ慕ツテ〔五字傍線〕嘆クデアラウカ。
 
○布時能液麻備爾《フジノヤマビニ》――ヤマビは山邊。
〔評〕 やがて妻と別れて旅立たむとする男が、わが行く手に聳える、霞の棚引いた富士山を眺めて詠んだ歌である。妻の嘆きを想像した、情愛の溢れた佳作である。歌品も典雅である。和歌童蒙抄に初句をミサゴヰルとして出てゐるのは滑稽だ。
 
3358 さぬらくは 玉の緒ばかり 戀ふらくは 富士の高嶺の 鳴澤の如
 
佐奴良久波《サヌラクハ》 多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》 古布良久波《コフラクハ》 布自能多可禰乃《フジノタカネノ》 奈流(345)佐波能其登《ナルサハノゴト》
 
私ハアナタト共寢スルコトハ、玉ヲ通シタ緒ノヤウニ、短イガ、私ガ貴女ヲ〔八字傍線〕戀シク思フコトハ、富士ノ高嶺ニアル鳴澤ノヤウニ、鳴リ響イテ大評判デス〔十字傍線〕。
 
○佐奴良久波《サヌラクハ》――サは接頭語のみ。共に寢ることは。○多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》――多麻乃緒《タマノヲ》は玉の緒。短いものの譬喩に取つて、相寢ることの短きを言つてゐる。○奈流佐波能其登《ナルサハノゴト》――奈流佐波《ナルサハ》は鳴澤。富士山中にある音を立てて流れる溪流であらう。代匠記には「此山のいただきに大なる澤あり。山のもゆる火の氣と、其澤の水と相剋して、常にわきかへりなりひびくゆゑになるさはといふ」とあるが、頂上に澤があるといふのは信じ難い。次に「伊豆の高嶺の鳴澤」とあるから、噴火には關係のない溪流であらう。今富士山の北方、河口湖の南方に鳴澤と稱する村落があるのは、古名を襲うたものであらう。この句は鳴澤の如く音が高いといふのである。
〔評〕 富士の高嶺の鳴澤といふ珍らしいものを譬喩に用ゐたのが、この歌の異色の點である。卷七の見良久少戀良久乃太寸《ミラクスクナクコフラクノオホキ》(一三九四)の意を強調したやうな作で、調子に素朴な點もあるが、東歌以外の部に置くことも出來ないことはない作品である。古今集の「あふことは玉の緒ばかり名の立つは吉野の川のたきつせのごと」は、これから出た歌に違ひない。袖中抄・和歌童蒙抄に載せてある。
 
或本歌曰 まかなしみ 寢らくはしけらく さならくは 伊豆の高嶺の 鳴澤なすよ
 
或本哥曰 麻可奇思美《マカナシミ》 奴良久波思家良久《ヌラクハシケラク》 住奈良久波《サナラクハ》 伊豆能多可禰能《イヅノタカネノ》 奈流左波奈須與《ナルサハナスヨ》
 
可愛イノデ一緒ニ寢ルガ〔六字傍線〕、寢ルノハシバラクデ、評判ノ〔三字傍線〕鳴リ響クノハ、伊豆ノ高嶺ノ鳴澤ノヤウダヨ。
 
○奴良久波思家良久《ヌラクヘシケラク》――細井本と無訓本は波の字が無い。シケラクをシマラクと見るより外に解しやうが(346)ないやうである。○佐奈良久波《サナラクハ》――舊本、奈良久波とあるのではわからない。類聚古集・西本願寺本その他、佐の字がある本が多いから、サナラクハに違ひない。サナラクはサヌラクと同語らしいが、前にヌラクハとあるから、又ここにサヌラクはを繰返す筈がない。しばらくサ鳴ラクハと解して、後考を俟つことにしよう。○伊豆能多可禰能《イヅノタカネノ》――伊豆の高嶺は指すところが明瞭でないが、一説に伊豆山即ち今の日金山であらうといふ。鳴澤は謂はゆる伊豆山の走湯か。但し今伊豆に鳴澤と呼ぶ溪流が別にあるさうである。
〔評〕 誤字がありさうだ。併し前の歌よりも、東歌としての色彩は濃いやうだ。これも袖中抄に出てゐる。
 
一本歌曰 逢へらくは 玉の緒しけや 戀ふらくは 富士の高嶺に 降る雪なすよ
 
一本歌曰 阿敝良久波《アヘラクハ》 多麻能乎思家也《タマノヲシケヤ》 古布良久波《コフラクハ》 布自乃多可禰爾《フジノタカネニ》 布流由伎奈須毛《フルユキナスモ》
 
逢ツタコトハ玉ノ緒ノヤウニ短ク〔二字傍線〕アルヨ。サウシテ〔四字傍線〕戀シク思フコトハ、富士ノ高嶺ニ降ル雪ノヤウニ止ム時ハナイヨ〔八字傍線〕。
 
○多麻能乎思家也《タマノヲシケヤ》――シケはシキで、玉の緒らしいよの意か。
〔評〕 戀の繁きを富士の高嶺の雪に譬へたのはおもしろい。調も素朴である。袖中抄に載せてある。
 
3359 駿河の海 おしべに生にる 濱つづら いましを憑み 母にたがひぬ 一云、親に違ひぬ
 
駿河能宇美《スルガノウミ》 於思敝爾於布流《オシベニオフル》 波麻都豆良《ハマツヅラ》 伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》 波播爾多我比双《ハハニタガヒヌ》 一云 於夜爾多我此奴《オヤニタガヒヌ》
 
駿河ノ海ノ磯邊ニ生エテヰル濱葛ノヤウニ、私ハ〔六字傍線〕貴方ノ絶エナイ御心〔七字傍線〕ヲ頼ミニ思ツテ、母ノ心〔二字傍線〕ニモ背イテ、他人(347)ニハ嫁ガズニ〔八字傍線〕ヰルヨ。
 
○於思敝爾於布流《オシベニオフル》――オシベは磯邊の東語である。下の麻末乃於須比爾奈美毛登杼呂爾《ママノオスヒニナミモトドロニ》(三三八五)のオスヒも同じであらう。○波麻都豆良《ハマツヅラ》――濱に生える蔓草。濱つづらの如く長く絶えずにの意であらう。舊本、夜とあるは良の誤。類聚古集・西本願寺本など皆さうなつてゐる。○波播爾多我比奴《ハハニタガヒヌ》――母の心に背いたといふのである。○一云|於夜爾多我比奴《オヤニタガヒヌ》――五句の異傳として、一云として記してあるが、これを第六句として、佛足跡歌體と見ることも出來る。
〔評〕 初三句が序詞の如く、譬喩の如く、しかも常の用法と異なつてゐる。少女の歌。オシベといふ方言があるのみで、全體的にはやさしく出來てゐる。
 
右五首駿河國歌
 
3360 伊豆の海に 立つ白波の 在りつつも つぎなむものを 亂れしめめや
 或本歌云、白雲の絶えつつも繼がむともへや亂れそめけむ
 
伊豆乃宇美爾《イヅノウミニ》 多都思良奈美能《タツシラナミノ》 安里都追毛《アリツツモ》 都藝奈牟毛能乎《ツギナムモノヲ》 美太禮志米梅楊《ミダレシメメヤ》
 
私ハ〔二字傍線〕カウシテヰテ(伊豆乃宇美爾多都思良奈美能)續イテ戀人ニ〔三字傍線〕逢ハウカラ、ソレデ戀ニ心ヲ〔七字傍線〕、亂スコトハスマイヨ。
 
○伊豆乃宇美爾多都思良奈美能《イヅノウミニタツシラナミノ》――序詞。都藝奈牟《ツギナム》とつづく。白浪が絶えず續いて立つ意を以てつづけてゐる。○安里都追毛《アリツツモ》――かうしてゐて。ありありて。○美太禮志米梅楊《ミダレシメメヤ》――亂れ始めめや。亂れ始めむや、亂れはすまいの意。
(348)〔評〕 立つ波を以て序詞として、不斷の戀を語つてゐる。伊豆地方の俚謠であらう。
 
或本歌曰 之良久毛能《シラクモノ》 多延都追母《タエツツモ》 都我牟等母倍也《ツガムトモヘヤ》 美太禮曾米家武《ミダレソメケム》
 
これは二の句以下の異本である。一二の句は序詞で、絶えながらも、再び繼がむと思へばこそ、心が戀に亂れ初めたのであらうの意。
 
右一首伊豆國歌
 
3361 足柄の をてもこのもに さすわなの かなる間しづみ 兒ろ我紐解く
 
安思我良能《アシガラノ》 乎?毛許乃母爾《ヲテモコノモニ》 佐須和奈乃《サスワナノ》 可奈流麻之豆美《カナルマシヅミ》 許呂安禮比毛等久《コロアレヒモトク》
 
(安思我良能乎?毛許乃母爾佐須和奈乃)人ノ〔二字傍線〕騷々シイ音ノ鎭マルノヲ待ツテカラ、女ト私トハ紐ヲ解イテ心靜カニ共寢ヲスルヨ〔イテ〜傍線〕。
 
○安思我良能《アシガラノ》――アシガラは相模の足柄山。○乎?毛許乃母爾《ヲテモコノモニ》――此面彼面にの意。この下に筑波禰乃乎?毛許能母爾《ツクバネノヲテモコノモニ》(三三九三)・卷十七に安之比奇能乎底母許乃毛爾《アシビキノヲテモコノモニ》(四〇一一)・二上能乎底母許能母爾《フタガミノヲテモコノモニ》(四〇一三)とあるが、卷十七のは家持が東語を學んだものか。○佐須和奈乃《サスワナ/》――サスは※[横目/絹]を張るをいふ。※[横目/絹]は張り置きて鳥獣を捕へる具。○可奈流麻之豆美《カナルマシヅミ》――代匠記には鹿鳴間沈《カナルマシヅミ》とし、鹿を捕へむと係蹄を刺して守り居る者が、鹿が鳴いて依り來る程屏息しで靜まつて待如くの意としてゐるが、鹿鳴間《カナルマ》の解は無理であらう。考は「わな小機《コハゼ》のはづるる間をかな(349)くる間といふを略きてかなる間といへり」と解いて、「いと暫のひまを竊むなり」と言つてゐる。古義は「可奈流は囂く鳴響をいふべし」と述べて、囂しき音をしづめてと解してゐる。卷二十に阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知可奈流麻之都美伊※[泥/土]弖登阿我久流《アラシヲノイヲサタバサミムカヒタチカナルマシヅミイテテトアガクル》(四四三〇)とあり、卷四に珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《タマキヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ(五〇三)・この下に安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美伊敝能伊母爾毛乃伊波受伎爾?於毛比具流之母《アリキヌノサヱザヱシヅミイヘノイモニモノイハズキニテオモヒグルシモ》(三四八一)とあるのと比較すると、かまびすしく鳴る音を鎭めてと解釋すべきもののやうである。即ち人の立ち騷ぐのが鎭まるのを俟つての意であらう。○許呂安禮比毛等久《コロアレヒモトク》――子らと我とが紐を解くといふ意。
〔評〕 足柄山は、獣類が多いので、罠をかけてこれを獲へたものと見える。それを序詞として巧に用ゐてゐる。あの地方の民謠であらうが、末句は隨分露骨な叙法である。
 
3362 相模峯の 小峯見そぐし 忘れ來る 妹が名呼びて 吾を哭し泣くな
 
相模禰乃《サガムネノ》 乎美禰見所久思《ヲミネミソグシ》 和須禮久流《ワスレクル》 伊毛我名欲妣?《イモガナヨビテ》 吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》
 
相模嶺ノ嶺ヲ見ナガラ過ギテ來テ、モウ見エナクナツタノデ、家ニ殘シテ來タ妻ヲ漸ク私ハ〔モウ〜傍線〕忘レテ來タガ、今道連レトナツテヰル人ヨ〔今道〜傍線〕、妻ノ名ヲ呼ンデ、又思ヒ出シテ〔六字傍線〕私ヲ泣カセナサルナ。
 
○相模禰乃《サガムネノ》――相模は古事記に相武國と書いてあるから、古くはサガムと稱したのである。相模禰《サガムネ》は相模嶺で相模の國の中央なる雨降山、即ち大山のことであらう。○乎美禰見所久思《ヲミネミソグシ》――ヲは小。接頭語で意味はない。ヲミネは嶺。相模嶺の小嶺は重複するやうだが、古語に用例が多い。見所久思《ミソグシ》は見過ぐし。經過して來た意である。○和須禮久流《ワスレクル》――忘れ來る。吾が忘れ來る妹が名と下へつづいてゐる。○吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》――我を音に泣かしむる勿れの意。古義にナを「戀むナけらしナなどいふナに同じくて、ナアと歎きすてたる辭なり」とあ(350)るは當らない。このナクは下に奈勢能古夜等里乃乎加耻志奈可太乎禮安乎禰思奈久與伊久豆君麻氏爾《ナセノコヤトリノヲカヂシナカダヲレナヲネシナクヨイクヅクマデニ》(三四五八)・思麻良久波禰都追母安良牟乎伊米能未爾母登奈見要都追安乎禰思奈久流《シマラクハンルツtモアラムヲイメノミニモトナミエツツアヲネシナクル》(三四七一)とあるが、卷二十の先太上天皇御製にも、富等登藝須奈保毛奈賀那牟母等都比等可氣都都母等奈安乎禰之奈久母《ホトトギスナホモナカナムモトツヒトカケツツモトナアヲネシナクモ》(四四三七)とあつて、東語ではないと見える。
〔評〕 末句は東語式の表現でないかも知れないが、二句は全くさうである。その他全體の叙法が、稚拙で東歌らしい。
 
或本欲曰 武藏峯の 小峯見かくし 忘れ行く 君が名かけて 吾を哭し泣くる
 
或本歌曰 武藏禰能《ムザシネノ》 乎美禰見可久思《ヲミネミカクシ》 和須禮遊久《ワスレユク》 伎美我名可氣?《キミガナカケテ》 安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》
 
武藏嶺ノ嶺ガカクレテ見エナクナルトコロマデ來テ漸クアナタヲ〔四字傍線〕忘レテ歩イテヰルノニ、ソノ〔四字傍線〕アナタノ名ヲ言ヒ出シテ、私ヲ泣カセルナヨ。
 
○武藏禰能《ムザシネノ》――武藏禰《ムザシネ》は武藏嶺。秩父山のことだら(351)といふが確なことはわからない。○乎美禰見可久思《ヲミネミカクシ》――小嶺見隱し。武藏嶺の見えなくなるところまで來たことを、かく他動的にいつたのである。○伎美我名可氣?《キミガナカケテ》――君が名を口にかけて言つての意。○安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》――我を音に泣かしむる。
〔評〕 前の相模國の歌が、武藏國で謠はれた爲にかう變つたのである。君とあるから女の歌にしたのかも知れない。いかにも東歌らしい作品だ。
 
3363 吾が背子を 大和へ遣りて まつしだす 足柄山の 杉の木の間か
 
和我世古乎《ワガセコヲ》 夜麻登敝夜利?《ヤマトヘヤリテ》 麻都之太須《マツシダス》 安思我良夜麻乃《アシガラヤマノ》 須疑乃木能末可《スギノコノマカ》
 
私ノ夫ヲ都ヘ旅立タセテ、ソノ歸リヲ〔五字傍線〕待ツ時ハ、足柄山ノ杉ノ木ノ間デ立チ暮スコト〔七字傍線〕カヨ。
 
○麻都之太須《マツシダズ》――わからない語である。代匠記は翳《マブシ》立つで、鳥獣を射る者が翳を立てて、うかがふやうに、今や歸ると足柄山の杉の木の間より見てゐることとし、別に、「まつしたすは持《マチ》し立《タツ》歟。それは文字弱く聞ゆ」(精撰本)と言つてゐる。考は、松し如《ナ》すで、松を待つにかけてゐるといつてゐる。古義は令《ス》2待慕《マチシタハ》1と見て、「足柄山の木ノ際より待慕ひ望ましめつつある、杉の木哉と云へるにや」と解いてゐる。新訓は、松し立すの字を當ててゐるが、太は集中の用例を見るに、落波太列可《フレルハダレカ》(一七〇九)・多太爾安布麻弖爾《タダニアフマデニ》(三五八四)などの如くダに用ゐられるを常としてゐるから、ここもマツシダスであらう。さうすると「待つ時《シタ》し」の訛音と見られないであらうか。○安思我良夜麻乃須疑乃木能末可《アシガラヤマノスギノコノマカ》――表面は足柄山の杉の木の間かなの意で、夫の歸る間を足柄山の杉の間に待ち暮すといふのであらう。
〔評〕 第三句を除けば極めて明瞭な語のみであるが、麻都之太須《マツシダス》が分らない爲に、明解を得ないのは遺憾である。女らしい氣分が出てゐるやうである。
 
3364 足柄の 箱根の山に 粟蒔きて 實とはなれるを 逢はなくもあやし 或本歌未句云、はふ葛の引かば依り來ね下なほなほに
 
(352)安思我良能《アシガラノ》 波姑禰乃夜麻爾《ハコネノヤマニ》 安波麻吉?《アハマキテ》 實登波奈禮留乎《ミトハナレルヲ》 阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》
 
足柄ノ箱根ノ山二粟ヲ蒔イテ、ソレガ既ニ〔五字傍線〕實トナツタノニ、粟ガ無イトイフノハ不思議ナコトダ。私ハ戀人ト約束モ出來テ思ガカナツタノニ、アノ人ニ逢ヘナイトイフノハ不思議ナコトダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○安思我良能波姑禰乃夜麻爾《アシガラノハコネノヤマニ》――足柄は相模の西部、酒勾川西方一帶の地域を稱しなので、おのづから、箱根もその内に含まれてゐたのである。○安波麻吉?《アハマキテ》――粟蒔きて。女を手に入れたことに譬へてある。○實登波奈禮留乎《ミトハナレルヲ》――女と契つたことを粟の稔れるに譬へてゐる。○阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》――粟無くと逢はなくとをかけてゐる。
〔評〕 面白い譬喩の歌である。阿波奈久《アハナク》のかけ詞が振つてゐる。民謠的色彩が濃厚だ。
 
或本歌未句云 波布久受能《ハフクズノ》 比可波與利己禰《ヒカバヨリコネ》 思多奈保那保爾《シタナホナホニ》
 
これは前の歌とは、初二句同じきのみで、全然別歌である。これを解釋すれば、
 
私ガアナタヲ〔六字傍線〕(安思我良能波姑禰乃夜麻爾波布久受能)引イタナラバ、アナタハ〔四字傍線〕心素直ニ私ノ所ヘ〔四字傍線〕寄ツテオイデナサイヨ。
 
○比可波與利己禰《ヒカバヨリコネ》――舊本|比可利《ヒカリ》とあるが、利は元麿校本その他の古本に波に作つてゐるがよい。引かば寄り來ねである。○思多奈保那保爾《シタナホナホニ》――下は心。ナホナホニは素直に穩やかに。
(353)〔評〕男が女を誘ふ詞である。素直に吾が意に從へと、物靜かに説いてゐる。何となく、一種の魅力があるやうだ。
 
3365 鎌倉の みこしの埼の 岩くえの 君が悔ゆべき 心は持たじ
 
可麻久良乃《カマクラノ》 美胡之能佐吉能《ミコシノサキノ》 伊波久叡乃《イハクエノ》 伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》 己許呂波母多自《ココロハモタジ》
 
私ハ〔二字傍線〕アナタガ私ト約束ヲナサツタ後デ、アンナ薄情ナ男ト契ラナケレバヨカツタト〔私ト〜傍線〕、(可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃)後悔ナサルヤウナ薄情ナ〔三字傍線〕心ハ持ツテハ居リマセヌ。安心シテ約束ヲナサイ〔十字傍線〕。
 
○可麻久良之美胡之能佐吉能《カマクラノミコシノサキノ》――鎌倉の見越崎の。見越崎は今の稻村が崎の古名だらうといふ。新篇鎌倉志に「大佛の東の山を御輿が嶽と云ふ」とあるが、相模風土記の逸文に、「鎌倉郡見越崎、毎有速崩石、人名號伊曾布利、謂振石也」とあるは、稻村が崎らしい。○伊波久叡乃《イハクエノ》――岩崩の。ここまでの三句は久由《クユ》と言はむ爲の序詞に過ぎない。○伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》――あなたが後悔するやうな薄情なの意。
〔評〕 鎌倉の見越の崎の岩は質が軟かで、潮水に冒され、崩れ易いのであらう。これを以て序詞を作つたものであるが、東歌らしい氣分は尠い歌である。卷三の妹毛吾毛清之河之河岸之妹我可悔心者不持《イモモワレモキヨミノカハノカハギシノイモガクユベキココロハモタジ》(四三七)と酷似してゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3366 まかなしみ さ寢に吾は行く 鎌倉の みなの瀬河に 潮滿つなむか
 
麻可奈思美《マカナシミ》 佐禰爾和波由久《サネニワハユク》 可麻久良能《カマクラノ》 美奈能瀬河泊爾《ミナノセガハニ》 思保美都奈武賀《シホミツナムカ》
 
(354)私ハ女ガ〔二字傍線〕戀シサニ、女ノ處ヘ〔四字傍線〕寢ニ行ク。ガ、途中ニアル〔六字傍線〕鎌倉ノ水無ノ瀬川ニハ已ニ潮ガ滿チテヰテ渡ルコトガ出來ナクナツタ〔テヰ〜傍線〕ノデハナカラウカ。心配ダ〔三字傍線〕。
 
○麻可奈思美《マカナシミ》――眞|愛《カナ》しみ。、マは接頭語。いとしいので。○佐禰爾和波由久《サネニワハユク》――サは接頭語。相寢る爲に我は行く。○美奈能瀬河波爾《ミナノセガハニ》――美奈能瀬河波《ミナノセガハ》は今の稻瀬川で「深澤の奥に發し、大佛の東傍を過ぎ、長谷の巷市を貫き、屈曲して坂之下の東に於て海へ入る。長二十町許の小溪なり」と大日本地名辭書に記してある。稻瀬は水無瀬を訛つたのであらう。舊本|余《ヨ》とあるが、元暦校本その他の古本すべて爾《ニ》とあるから、誤である。○思保美都奈武賀《シホミツナムカ》――ナムはラムの東語である。考にはツナの約タで、潮みたんかとし、略解にはミツナムはミチナムの東語だと言つてゐる。
〔評〕 東歌らしい歌で、その内容から考へても、鎌倉附近の俚謠であらう。
 
3367 百つ島 足柄小舟 あるき多み 目こそかるらめ 心は思へど
 
母毛豆思麻《モモツシマ》 安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》 安流古於保美《アルキオホミ》 目許曾可流良米《メコソカルラメ》 己許呂波毛倍杼《ココロハモヘド》
 
私ハコレ程アノ男ヲ〔九字傍線〕戀シク思ツテヰルケレドモ、男ハ所々ノ女ニ心ヲ移シテ〔男ハ〜傍線〕(母毛豆思麻安之我良乎夫禰)歩キ訪ネル所〔五字傍線〕ガ多イノデ、コチラヘ〔四字傍線〕ハ來ナイノデアラウ。
 
○母毛豆思麻《モモツシマ》――百つ島。或は百千島の東語か。豆《ツ》は濁音の文字だが、清音に用ゐられることもある。多くの島を過る足輕《アシカル》小舟とつづくのであらう。即ち足柄の枕詞である。大日本地名辭書にモモツシマを大島としたのは從ひ難い。○安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》――足柄山の材を以て作つた小舟。この舟は卷三にも鳥總立足柄山爾船木伐《トブサタテアシガラヤマニフナキキリ》(三九一)とあつて、當時松浦船・熊野船などと共に、有名であつた。ここまでの二句は足柄の舟が島々を歩き過る意(355)を以て、下につづけてゐる。○安流古於保美《アルキオホミ》――歩行《アルキ》多み。男は行くべき所が多いのでの意であらう。○目許曾可流良米《メコソカルラメ》――目枯れるであらう。目枯るとは逢はぬこと。男の尋ねて來ぬをいふ。○己許呂波毛倍杼《ココロハモヘド》――我は心には思へどの意。
〔評〕 女が男の薄情を恨んだ歌。しかし微温的の表現になつてゐるのは、男の放縱を許容する上代の風習のしからしめるところか。袖中抄に載つてゐる。
 
3368 あしがりの 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 兒ろが言はなくに
 
阿之我利能《アシガリノ》 刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》 伊豆流湯能《イヅルユノ》 余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》 故呂何伊波奈久爾《コロガイハナクニ》
 
(阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能)ホントニ浮氣ポイ〔四字傍線〕浮キ浮キシタコトヲ女ハ言ハナイノニ、私ハ女ノ誠意ヲ信ジテヰレバヨイノニ、ソレガ出來ナイデ、女ノ心ヲ疑ツテヰルノハ、我(356)ナガラ腑甲斐ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○阿之我利能《アシガリノ》――アシガリはアシガラに同じ。集中アシガリの用例も多い。○刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》――土肥の河内に。土肥は伊豆國境に近い今の土肥・吉濱・眞名鶴方面の總稱である。河内は即ち河に圍まれたところで、今の湯河原温泉をさしたものに違ひない。○伊豆流湯能《イヅルユノ》――ここまでは序詞。温泉が漫々と湛へて、波打つてゐる意で、タヨラにつづいてゐる。○余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》――ヨニモは、實に、本當に、タヨラはタユラ・タユタに同じ。上へは湯の多く漫々たる意でつづき、下は心の漂つて定まらぬ意になつてゐる。○故呂何伊波奈久爾《コロガイハナクニ》――兒らが言はなくに。兒ろは兒らと同じく、愛する女をいふ。ロは接尾語のみ。
〔評〕 この下に筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆代爾毛多由良爾和家於毛波奈久爾《ツクバネノイハモトドロニオツルミヅヨニモタユラニワガオモハナクニ》(三三九二)と同型で、同じ歌が場所をかへて歌はれたものであらう。温泉を詠んだ歌は珍らしい。
 
3369 あしがりの 麻萬の小菅の 菅枕 あぜか纒かさむ 兒ろせ手枕
 
阿之我利乃《アシガリノ》 麻萬能古須氣乃《ママノコスゲノ》 須我麻久良《スガマクラ》 安是加麻可左武《アゼカマカサム》 許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》
 
足柄ノ麻萬ニ生エテヰル菅ヲ編ンデ作ツタ〔六字傍線〕菅ノ枕ヲ、何シニアナタハ〔四字傍線〕ナサラウゾ。女等ヨ、私ノ〔二字傍線〕手枕ヲシテ寢〔二字傍線〕ナサイヨ。
 
○阿之我利乃麻萬能古須氣乃《アシガリノママノコスゲノ》――阿之我利乃麻萬《アシガリノママ》は足柄の麻萬。麻萬は、もと斷崖といふやうな意で、それが地名となつたものであらう。今、福澤村の内に※[土+盡]下《ママシタ》の地があるのは其處だと言はれてゐる。酒匂川の右岸に當つてゐる。コスゲは小菅。○須我麻久良《スガマクラ》――菅を編んで作つた枕。○安是可麻可佐武《アゼカマカサム》――アゼは何故《ナゼ》に同じ。この句は何故枕き給はむやの意。○許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》――兒らよ吾が手枕をせょ。略解に「兒等《コラ》と夫《セ》は共に手枕(357)を交《カハ》すからは、菅枕は何ぞやまかむと言ふ也」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 男が女に、そんな菅枕をするのをやめて、吾が手枕をせよと言ひ寄る言葉である。かなり官能的である。袖中抄と和歌童蒙抄とに載せてある。
 
3370 あしがりの 箱根の嶺ろの 和草の はなつつまなれや 紐解かず寢む
 
安思我里乃《アシガリノ》 波故禰能禰呂乃《ハコネノネロノ》 爾古具佐能《ニコグサノ》 波奈都豆麻奈禮也《ハナツツマナレヤ》 比母登可受禰牟《ヒモトカズネム》
 
アナタハ〔四字傍線〕(安思我里乃波故禰能禰呂乃爾古具佐能〉、實ノナイアダナ妻デモナイノニ、何シニ〔三字傍線〕紐ヲ解カナイデ寢ルト云フコトガアルモノデスカ。紐ヲ解イテ共寢シマセウ〔紐ヲ〜傍線〕。
 
○波故禰能禰呂乃《ハコネノネロノ》――箱根の嶺ろの。ロは添へていふのみ。○爾古具佐能《ニコグサノ》――爾古具佐《ニコグサ》はどんな草かわからない。にこやかな柔い草といふのであらう。代匠記はニコグサを萩ではないかと言つてゐる。下の花妻から思ひついたのである。最も廣く行はれてゐるのは貝原篤信の箱根草説であるが、この歌によつて推定した想像説に過ぎない。略解に惠美《ヱミ》草としたのも、信じ難い。下に花とつづいてゐるから、花のある草であらう。卷十一の蘆垣之中之似兒草《アシガキノナカノニコグサ》(二七六二)を參照せよ。以上の三句は花と言はむ爲の序詞。○波奈都豆麻奈禮也《ハナツツマナレヤ》――花つ妻なれやであらう。代匠記初稿本は都豆の中、いづれかを衍とし、略解は豆を衍としてゐる。花つ妻は花の妻。實のないあだな妻ならむや、さうではないからの意。古義は波奈都豆麻《ハナツツマ》を新婚の妻と解してゐる。
〔評〕 如何にも野趣の多い俚謠式の作だ。四の句、少し不明瞭なのは遺憾である。袖中抄に出てゐる。
 
3371 足柄の み坂かしこみ くもり夜の 吾が下延を こちでつるかも
 
安思我良乃《アシガラノ》 美佐可加思古美《ミサカカシコミ》 久毛利欲能《クモリヨノ》 阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》 許知(358)?都流可毛《コチデツルカモ》
 
私ハ辿ツテ行ク〔七字傍線〕足柄ノ山ノ〔二字傍線〕坂路ノ恐シサニ(久毛利欲能)心ニ包ンデ人ニ隱シテ居ル女ノコトガ、戀シク思ハレテソノ女ノ〔女ノコ〜傍線〕コトヲ口ニ出シテ言ツタヨ。
 
○安思我良乃美佐可加思古美《アシガラノミサカカシコミ》――足柄のみ坂は謂はゆる足柄山で、卷九に過2足柄坂1見2死人1作歌一首(一八〇〇)とあるところに説明して置いた。これは恐ろしい坂だから美佐可加思古美《ミサカカシコミ》といつたので、その歌に鳥鳴東國能恐耶神之三坂爾《トリガナクアヅマノクニノカシコキヤカミノミサカニ》とある。○久毛利欲能《クモリヨノ》――曇夜の。枕詞。曇つた夜は、物が明らかに見えないから、下に隱れて見えない意の、下延《シタバヘ》に冠してゐる。○阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》――私が、心の下に、即ち胸の中に思つてゐることを。志多婆倍《シタバヘ》は心に隱してゐること。○許知?都流可毛《コチデツルカモ》――言出つるかも。許知?《コチデ》は言出《コトイデ》の略であらう。
〔評〕 足柄の坂が恐ろしさに、隱して置いた女のことを口に出してしまつたといふのは、坂の神の神威に恐れたのか。卷十五に加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣爾多知弖伊毛我名能里都《カシコミトノラズアリシヲミコシヂノタムケニタチテイモガナノリツ》(三七三〇)とあるのも、少し似てゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3372 相模路の 淘綾の濱の 眞なごなす 兒等はかなしく 思はるるかも
 
相模治乃《サガムヂノ》 余呂伎能波麻乃《ヨロギノハマノ》 麻奈胡奈須《マナゴナス》 兒良波可奈之久《コラハカナシク》 於毛波流留可毛《オモハルルカモ》
 
相模ノ街道ノ餘綾ノ濱ノ眞砂ハ、美シクテ愛ラシイガ、丁度ソ〔ハ美〜傍線〕ノヤウニ、私ハ〔二字傍線〕女ノコトガイトシク思ハレルヨ。
 
○相模治乃余呂伎能波麻乃《サガムヂノヨロギノハマノ》――相模路の淘綾の濱の。余呂伐は和名抄に、餘綾郡餘綾 與呂木とあり、延喜式には淘綾《ユルキ》と記してゐる。又ユルギともいふ。東は小磯大磯から西は國府津あたりの海岸である。古今集に「玉たれ(359)のこかめやいづらこゆるきの磯の波わけ沖に出にけり」、「こゆるきの磯立ちならし磯菜つむめざしぬらすな沖に居れ波」とあるのもこの地である。○麻奈胡奈須《マナゴナス》――マナゴは眞砂。餘綾の濱の美しい眞砂に譬へたのであるが、マナゴに愛子の聯想がありさうである。○兒良波可奈之久《コラハカナシク》――コラは女を指す。舊本兒良久とあるが、久は元暦校本その他波に作る本が多いから、これによるべきである。カナシクはいとしく。○於毛波流留可毛《オモハルルカモ》――オモホユルといふべきを、東語でオモハルルといつたのであらうが、これが後世の語と、一致してゐるのはおもしろい。
〔評〕 整然たる歌。この餘綾の濱を旅しつつある京人が、家なる妻を思ふ歌かも知れない。和歌童蒙抄に載せてある。
 
右十二首相模國歌
 
3373 多麻河に さらす手作 さらさらに 何ぞこの兒の ここだかなしき
 
多麻河泊爾《タマガハニ》 左良須?豆久利《サラステヅクリ》 佐良左良爾《サラサラニ》 奈仁曾許能兒乃《ナニゾコノコノ》 己許太可奈之伎《ココダカナシキ》
 
(多麻河泊爾左良須?豆久利)更ニ更ニ、ドウシテアノ女ガコンナニ〔四字傍線〕ヒドクナツカシイノデアラウカ。カウ戀シイトハ不思議ダ〔カウ〜傍線〕。
 
○多麻河泊爾《タマガハニ》――多麻河は西多摩郡雲取山の奧(360)雁坂峠の東南に發し、上流を市の瀬川・丹波川と稱し、武藏平野の南邊を流れ羽田に至りて海に注ぐ。下流を六郷川といふ。多摩川の名は武藏の國府、今の府中に近い多摩の地を中心としての名稱であらう。寫眞は稻田にある樂翁公筆の歌碑。○左良須?豆久利《サラステヅクリ》――晒す手作。手作は手織の布。和名抄に「白絲布今按俗用2手作布三字1云2天都久利乃沼乃1是乎」とあり、字鏡に「紵繍?豆久利、」靈異記に「〓?都九里」、名義抄「紵布テツクリノヌノ」とある。本集卷十六にも日暴之朝手作尾《ヒサラシノアサテツクリヲ》(三七九一)とある。織り上げた布を多摩の川原で晒すのである。今かの地方に調布・砧などの地名が存するのはこれに基くものである。ここまでの二句は序詞。布を晒らす音のサラサラと聞える音で佐良左良爾《サラサラニ》とつづいてゐる。○佐良左良爾《サラサラニ》――更に更に。改めて。○奈仁曾許能兒乃《ナニゾコノコノ》――どうしてこの女が。○己許太可奈之伎《ココダカナシキ》――己許太《ココダ》は許多。澤山。可奈之伎《カナシキ》は愛しき。こんなに甚だしく戀しいのか。
〔評〕 佐良左良爾《サラサラニ》のかけ詞が一首の中心をなして、極めて巧に、快く出來てゐる。東歌中の佳作の一である。武藏の多摩地方の民謠であらう。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3374 武藏野に 占へ肩燒き まさでにも 告らぬ君が名 うらに出にけり
 
武藏野爾《ムサシヌニ》 宇良敝可多也伎《ウラヘカタヤキ》 麻左?爾毛《マサデニモ》 乃良奴伎美我名《ノラヌキミガナ》 宇良爾低爾家里《ウラニデニケリ》
 
私ハ戀シイ貴方ノ名ヲ〔十字傍線〕、ハツキリト人ニ〔二字傍線〕告ゲタコトモナイノニ〔二字傍線〕、貴方ノ名ガ、武藏野ノ鹿ノ肩骨ヲ燒イテ占ヲシタラ〔五字傍線〕、占ニ顯ハレテシマツタヨ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○武藏野爾《ムザシヌニ》――武藏はこの下に牟射志《ムザシ》と記してあつて、ムザシと訓むべきである。古事記に牟邪志、國造本紀に旡邪志・胸刺の文字が用ゐてある。國郡の制が定まつて以來、武藏の二字をムザシに用ゐることになつた。○宇良敝可多也伎《ウラヘカタヤキ》――ウラヘは占合《ウラアヘ》の略で、占をすることである。古義にウラヘを名詞としてゐるが、占へて肩燒をしたといふので、つまり肩燒の占をしたことである。可多也伎《カタヤキ》は鹿の屑骨を燒く太占《フトマニ》である。古事記に召(361)2天兒屋命布刀玉命1而内2拔天香山之眞男鹿之肩1拔而取2天香之天波波迦1而令2占合麻迦那波1而《アメノコヤネノミコトフトダマノミコトヲヨビテアメノカグヤマノマヲシカノカタヲウツヌキニヌキテアメノカグヤマノアメノハハカヲトリテウラヘマカサハシメテ》云々」とある。○麻左?爾毛《マサデニモ》――眞定《マサダ》にも。確かに、はつきりと。マは接頭語。古義は眞實《マサネ》にもの訛としてゐる。○乃良奴伎美我名《ノラヌキミガナ》――私が人に言はなかつた君の名が。○宇良爾低爾家利《ウラニデニケリ》――占にあらはれたよ。
〔評〕 ウラヘカタヤキについては異説もあるが、肩燒の占が東國の民間に行はれてゐたことを證據立つる歌である。四足獣の肩胛骨を燒いて占ふのは、蒙古人種の風習だといふことであるから、大陸的のものである。文化史的に注意すべき歌である。袖中抄・八雲御抄に出てゐる。
 
3375 武藏野の をぐきが雉 立ち別れ 往にし宵より せろに逢はなふよ
 
武藏野乃《ムザシヌノ》 乎具奇我吉藝志《ヲグキガキギシ》 多知和可禮《タチワカレ》 伊爾之與比欲利《イニシヨヒヨリ》 世呂爾安波奈布與《セロニアハナフヨ》
 
(武藏野乃乎具奇我吉藝志)立別レテ、夫ガ〔二字傍線〕去ツタ晩カラ今日マデ、私ハ戀シイ〔九字傍線〕夫ニ逢ハナイヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○武藏野乃乎具奇我吉藝志《ムザシヌノヲグキガキギシ》――武藏野の小岫が雉。小岫のヲは接頭語。岫は和名抄に「陸詞曰、岫似祐反、和名久岐山穴似v袖也」とあり、山の洞穴あるところをいふ。代匠記精撰本に「乎具奇は顯宗紀云、或本云、弘計天皇之宮有2二所1焉、一(ニハ)宮2於|少郊《ヲグキ》1二(ニハ)宮2於池野1、此|少郊《ヲグキ》は所の名なれど、所の名も其義を以て名つくへければ、今の乎具奇も此歟」とあるが、少郊をヲグキと訓することは確證なく、流布本は、ヲノと訓んでゐる。ここの乎具奇《ヲグキ》は山ふところのことであらう。キギシは雉。これまではタチと言はむ爲の序詞。雉が飛立つにかけたのである。○世呂爾安波奈布與《セロニアハナフヨ》――世呂《セロ》は夫ろ。ロは接尾語。安波奈布與《アハナフヨ》は逢はぬよの意。
〔評〕 別れた夫を戀ふる女の歌。何となく哀な感情が籠つた作である。序詞は足檜木乃片山雉立往牟君爾後而打四鷄目八方《アシビキノカタヤマキギシタチユカムキミニオクレテウツシケメヤモ》(三二一〇)と同一技巧である。
 
3376 戀しけば 袖も振らむを 武藏野の うけらが花の 色にづなゆめ
 
(362)古非思家波《コヒシケバ》 素?毛布良武乎《ソデモフラムヲ》 牟射志野乃《ムザシヌノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾豆奈由米《イロニヅナユメ》
 
貴方ガ〔三字傍線〕戀シク思フナラバ、私ハ〔二字傍線〕袖デモ振ツテ見セテ合圖ヲシテ〔八字傍線〕アゲヨウノニ。戀シク思フコトヲ〔八字傍線〕決シテ(牟射志野乃宇家良我波奈乃)顔色ニ出スナヨ。
 
○古非思家波《コヒシケバ》――戀しくばに同じ。○素?毛布良武乎《ソデモフラムヲ》――我は袖を振つて、貴女に合圖しようのにの意。○宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》――宇家良《ウケラ》は一にヲケラともいふ。菊科蒼朮屬の宿根草本で、山野に自生する薊に似た植物である。莖の高さは二三尺に達する。葉は多くは三裂、時に五裂ともなり、又複葉ともなつて、葉柄を以て莖に互生する。夏秋の頃、枝梢に白色又は淡紅色の頭状花を附け、魚骨状の葉に圍まれる。若苗も根も食用に供し、根の乾したものは蒼朮と稱して藥用にする。これを晒して白色になつたものを白朮といふといふことである。一説に花色白色なるを蒼朮といひ、紅紫色を帶ぶるものを白朮といふとある。然るに小野博は「白朮は蒼朮よりも苗も葉も大なり、三葉或は一葉にして、花は白色なり」と言ひ、契沖は「或書云蒼朮一名赤朮、白朮一名抱薊とあるをあはせて按ふるに、花の紅なるが蒼朮にてや、赤朮とも紅朮と申侍るならむ」と言ひ、蒼朮、白朮の別は明らかでない。和名抄は朮を乎介良と訓し、字鏡には白朮を乎介良と訓んでゐる。宇家良《ウケラ》といつてあるのは東歌のみである。ここまでの二句は色に出《ヅ》と言はむ爲の序詞であつて、宇家良の花の紅色を帶びたものについて言つたのである。白色のものが普通であるが、武藏野の宇家良は紅色なのが多かつたのかも知れない。○伊呂爾豆奈由米《イロニヅナユメ》――顔色に顯はすなかれゆめゆめの意。ユメは決して。イヅをヅといふのは田舍(363)言葉らしい。
〔評〕 忍戀の歌で、男から女の方へ、秘密を守つて人に看破されぬやうに注意したものである。地方色があらはれてゐる。加藤千蔭の歌集「うけらが花」はこの歌によつたもので、彼が武藏の歌人たることを示してゐる。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
或本歌曰 如何にして 戀ひばか妹に 武藏野の うけらが花の 色に出ずあらむ
 
或本歌曰 伊可爾思?《イカニシテ》 古非波可伊毛爾《コヒバカイモニ》 武藏野乃《ムザシヌノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾低受安良牟《イロニデズアラム》
 
ドウ云フ風ニ私ハ〔二字傍線〕女ヲ戀シタナラバ、(武藏野乃宇家良我波奈乃)顔色ニ出サズニ居ルコトガ出來ルデアラウカ。コンナニ戀シクテハ、トテモ心ノ中デ包ンデバカリ居ラレナイ〔コン〜傍線〕。
 
○伊可爾思?古非波可伊毛爾《イカニシテコヒバカイモニ》――どうやつて妹に戀したならば。
〔評〕 或本歌とあるが、前の歌とは全く別である。忍ぶに堪へかねて、外にあらはれない戀の仕方を知らうとしてゐるので、男としては、弱い戀であるが、又あはれな戀である。
 
3377 武藏野の 草葉諸向 かもかくも 君がまにまに 吾はよりにしを
 
武藏野乃《ムサシヌノ》 久佐波母呂武吉《クサハモロムキ》 可毛可久母《カモカクモ》 伎美我麻爾未爾《キミガマニマニ》 吾者余利爾思乎《ワハヨリニシヲ》
 
(武藏野乃久佐波母呂武吉)ドウニデモカウニデモ、貴方ノ御心次弟ニ、私ハ私ノ身ヲ委セテ貴方ヲ〔私ノ〜傍線〕タヨツタノニ。私ヲオ棄テニナルトハヒドイ御方デス〔私ヲ〜傍線〕。
 
(364)○久佐波母呂武吉《クサハモロムキ》――草の葉がどちらへでも諸方に向ふ意。草は諸向と見る説もある。ここまでの二句は可毛可久母《カモカクモ》と言はむ爲の序詞。○可毛可久毛《カモカクモ》――どうにでも、かうにでも、どちらにでも。
〔評〕 女が男の變心を恨んだ歌。古義に「今更何の疑しく異しき意かあらむとなり」とあるが、怨言らしい語勢である。
 
3378 入間道の 大家が原の いはゐづら 引かばぬるぬる わにな絶えそね
 
伊利麻治能《イリマヂノ》 於保屋我波良能《オホヤガハラノ》 伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》 和爾奈多要曾禰《ワニナタエソネ》
 
(伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良)私ガ〔二字傍線〕引イタラ、オトナシク〔五字傍線〕滑ラカニ私ニ靡キ寄ツテ、貴方ハ〔私ニ〜傍線〕私ト縁ヲ切ラナイヤウニシテ下サイ。
 
○伊利麻治能於保屋我波良能《イリマヂノオホヤガハラノ》――伊利麻治《イリマヂ》は入間道で、入間は入間郡、於保屋《オホヤ》は和名抄に「武藏國入間郡大家於保也介」とある地であらう。川越より東南二里を距つる地に大井村があり、其處であらうと大日本地名辭書は記してゐる。今、川越の西方、二里餘の地に大家村があるのは新村名であり、又古代の入間郡の範圍でない。なほ於保屋我波良《オホヤガハラ》を大家河原と見る説はよくない。大家が原である。○伊波爲都良《イハヰヅラ》――いはゐ蔓で、蔓草らしいが、どんな草かわからない。下に可美都氣努可保夜我奴麻能伊波爲都良比可波奴禮都追安乎奈多要曾禰《カミツケヌカホヤガヌマノイハヰヅラヒカバヌレツツアヲナタエソネ》(三四一六)とあつて、水邊の草らしい。白井博士は小野蘭山の本草綱目啓蒙に馬齒※[草がんむり/見]《スベリヒユ》の伯州方言にイハヰヅラとあるのを引いてこの物を指すに似たりといつて居られるが、遽かに從ひ難い。以上は引かばと言はむ爲の序詞。○比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》――引かばぬらぬらとして。奴流奴流《ヌルヌル》はヌラヌラに同じく、滑らかに靡いての意。○和爾奈多要曾禰《ワニナタエソネ》――我に絶えることなかれ。我との關係を絶つことなかれの意。
〔評〕 下に安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴留安乎許等奈多延《アハヲロノヲロタニオハルタハミヅラヒカバヌルヌルアヲコトナタエ》(三五〇一)とあるに似てゐる。東歌(365)らしい言ひ廻しである。
 
3379 吾が背子を あどかも言はむ 武藏野の うけらが花の 時なきものを
 
和我世故乎《ワガセコヲ》 安杼可母伊波武《アドカモイハム》 牟射志野乃《ムザシヌノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 登吉奈伎母能乎《トキナキモノヲ》
 
私ガ〔二字傍線〕私ノ夫ヲ戀シク思フ心ハ〔七字傍線〕(牟射志野乃宇家良我波奈乃)何時ト云フ〔五字傍線〕時ノ區別モナク戀シイノニ、コノ心ヲ〔ク戀〜傍線〕ドウ言ツタラバヨイデアラウゾ。何トモ言ヒヤウガナイ〔何ト〜傍線〕。
 
○和我世故乎《ワガセコヲ》――略解にヲはヨの意だとあるのは從ひ難い。○安杼可母伊波武《アドカモイハム》――何とかも言はむ。毛は詠嘆の助詞である。○登吉奈伎母能乎《トキナキモノヲ》――何時といふ時はなく、いつでも戀しいのに。宇家良の花の時とつづく。時は花の咲くべき季節をいふ。
〔評〕 女が男を戀ふる心を述べてゐる。武藏野の朮が花を序詞として用ゐたところに地方色があるが、初二句が少し拙く曖昧な點がある。
 
3380 埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
 
佐吉多萬能《サキタマノ》 津爾乎流布禰乃《ツニヲルフネノ》 可是乎伊多美《カゼヲイタミ》 都奈波多由登毛《ツナハタユトモ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》
 
埼玉ノ津ニ繋イデアル舟ガ、風ガヒドイノデ、舫ヒノ〔三字傍線〕綱ガ切レテモ、私ト貴方ハ行末長ク縁ガ續イテ〔私ト〜傍線〕、音信ガ絶エナイヤウニシタイモノダ。
 
○佐吉多萬能津爾乎流布禰乃《サキタマノツニヲルフネノ》――サキタマは和名抄に「武藏埼玉郡佐伊太末」とあり、埼玉郷がその中心で、(366)今の熊谷町の東方、羽生町西方一帶の地。埼玉の津はその附近の利根川の舟着場であらう。○許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》――言は絶えるな。音信は絶やさないで下さいといふ意。
〔評〕 譬喩巧妙。この譬喩の興味を中心として構成せられた歌だ。用語も雅麗で、埼玉の津を他の地名に換へると東歌らしくなくなる。
 
3381 なつそひく うなひを指して 飛ぶ鳥の いたらむとぞよ 吾が下延へし
 
奈都蘇妣久《ナツソヒク》 宇奈比乎左之?《ウナビヲサシテ》 等夫登利乃《トブトリノ》 伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》 阿我之多波倍思《ワガシタバヘシ》
 
(奈都蘇妣久宇奈比乎左之?等夫登利乃)貴方ノ所ニ〔五字傍線〕行ツテ逢ハウト思ツテ、私ハ戀シサヲ〔四字傍線〕心ノ内ニ包ンデ外ニ出サズニ〔六字傍線〕ヰタノデアルヨ。
 
○奈都蘇妣久《ナツソヒク》――枕詞。前に海上に冠してあつた。一一七六參照。○宇奈比乎左之?《ウナヒヲサシテ》――宇奈比《ウナヒ》は地名らしいが、何とも分らない。併しこれも東歌から除いて考へれば、海邊とも考へられるし、又攝津の菟名日とも言ひ得るのである。○等夫登利乃《トブトリノ》――ここまでの三句は到らむと言はむ爲の序詞、鳥は何處にも飛び到るからである。○伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》――貴方の所へ行かうと思つて。ヨは詠嘆の助詞として添へてある。○阿我之多波倍思《アガシタバヘシ》――之多波倍思《シタバヘシ》は、心に思うて口に出さぬをいふ。中々二辭緒下延《ナカナカニコトノヲシタバヘ》(一七九二)・隱沼乃下延置而《コモリヌノシタバヘオキテ》(一八〇九)などの用例がある。
〔評〕 宇奈比を地名とすると、何故に其處を指して鳥が飛び行くか不思議である。伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》と戀を心の内に忍んだ理由を述べてゐるが、一體に語勢に強烈な情熱が見えてゐる。
 
右九首武藏國歌
 
3382 馬來田の 嶺ろの篠葉の 露霜の 濡れて吾來なば 汝は戀ふばぞも
 
(367)宇麻具多能《ウマグタノ》 禰呂能佐左葉能《ネロノササバノ》 都由思母能《ツユシモノ》 奴禮?和伎奈婆《ヌレテワキナバ》 汝者故布婆曾母《ナハコフバゾモ》
 
馬來田ノ峯ノ笹ノ葉ガ、露ニ濡レテヰルヤウニ、私ガ涙ニ〔二字傍線〕濡レテ貴方ト別レテ〔二字傍線〕來タナラバ、貴方モ私ヲ〔二字傍線〕戀シク思フコトデアラウゾヨ。
 
○宇麻具多能禰呂乃佐左葉能《ウマグタノネロノササバノ》――字麻具多《ウマグタ》は和名抄に「上總國望陀末宇太」とある所で、古くはウマグタと言ひ、馬來田と記したのである。望陀又は望多と書いても、ウマグタと訓んだことは、天武天皇紀に大伴連馬來田とも大伴連望多とも二樣に記されてゐるので明らかである。望陀郡は今の上總君津郡の一部で 小櫃川の流域である。其處に今、馬來田村がある。宇麻具多能禰呂《ウマグタノネロ》は馬來田の嶺で、ロは接尾語として添へたもの。馬來田の嶺は、何處の嶺を指すか明らかでない。大日本地名辭書は「今根形村の岡巒にや、神納より飯富、岩井を經て泉村の方まで連互す」と言つてゐる。一説に久留里の愛宕山かともあるが明らかでない。寫眞は根形村の全形である。○都由思母能《ツユシモノ》――露霜の降つたやうに。露霜は露であらう。○奴禮?和伎奈婆《ヌレテワキナバ》――濡れて吾が來たらば。○汝者故布婆曾母《ナハコフバゾモ》――汝は戀ふであらうぞよといふのであらう。代匠記精撰本に「汝は戀むそとなるべし、落句は其比吾妻の俗語なる故に慥に意得かたし」とある。
〔評〕 男が旅に出る時、女に贈つた歌であらう。馬來田の嶺に濡れた、笹(368)葉のやうに袖を濡らして、出かけようとしてゐる男の、女をいたはる心があらはれてゐる。東歌らしい、語調に特色のある歌だ。
 
3383 馬來田の 嶺ろにかくりゐ かくだにも 國の遠かば 汝が目欲りせむ
 
宇麻具多能《ウマグタノ》 禰呂爾可久里爲《ネロニカクリヰ》 可久太爾毛《カクダニモ》 久爾乃登保可婆《クニノトホカバ》 奈我目保里勢牟《ナガメホリセム》
 
私ハ旅ニ出カケテ〔八字傍線〕、今馬來田ノ嶺ニ家ノ方ガ〔四字傍線〕隱レテ見エナイガ〔五字傍線〕、コレダケデスラモコンナニ戀シイノニ〔九字傍線〕、國遠ク離レテ行ツタナラバ、ドンナニ〔四字傍線〕貴方ニ逢ヒタク思フデアラウ。
 
○可久太爾毛《カクダニモ》――かくてさへも。これだけの事ですらも。この下に戀しく思はるるにの意を、補つて見ねばならぬ。○久爾乃登保可婆《クニノトホカバ》――國の遠くあらば。國を遠く離れたならば。○奈我目保里勢牟《ナガメホリセム》――汝が目欲りせむ。奈我目《ナガメ》は眺めではない。
〔評〕 旅に出かけた男が、馬來田の嶺を越えむとして詠んだのである。二三句が少し曖昧で、言葉を補はないでは解き難いやうである。新考に可久里爲《カクリヰ》を下の筑波禰乃禰呂爾可須美爲《ツクバネノネロニカスミヰ》(三三八八)に傚つて、可須美爲《カスミヰ》の誤としてゐるが、ここには無理であらう。
 
右二首上總國歌
 
3384 葛飾の 眞間の手兒奈を まことかも 我によすとふ 眞間の手兒奈を
 
可都思加能《カツシカノ》 麻末能手兒奈乎《ママノテゴナヲ》 麻許登可聞《マコトカモ》 和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》 麻末乃?胡奈乎《ママノテゴナヲ》
 
(369)葛飾ノ眞間ノ手兒奈ヲ、私ト關係ノアルヤウニ人ガ言ヒ騷グト云フノハ眞デアラウカ。アノ有名ナ〔五字傍線〕眞間ノ手兒奈ヲ。ソレハ嬉シイコトダ〔九字傍線〕。
 
○可都思加能麻末能手兒奈乎《カツシカノママノテゴナヲ》――葛飾の眞間の手兒奈をこの處女のことは、卷三の過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌(四三一)、卷九の詠2勝鹿眞間娘子1歌(一八〇七)に委しく出てゐる。○和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》――我に關係ありとするといふことだの意。ヨスは言ひ寄せること、即ち二人の間に關係ありとすること。卷十三に汝乎曾母吾丹依云吾※[口+立刀]毛曾汝丹依云《ナヲゾモアニヨストフアヲモゾナニヨストフ》(三三〇五)とある。宣長が「古への眞間の手ごなを、吾によそへて似たりと人の言ふと云はまことかと悦べる女の歌也。されば此手ごなの在世の歌にはあらずと言へり」とあるのは、誤つてゐる。
〔評〕 眞間の手兒奈は傳説上の人物で、その生存時代などは攻究してもわかる筈はない。眞淵は考に「卷十四(今の三)なるは山部赤人の長歌なれば、奈良朝に至て天平の始め頃までの歌なるに、其歌に、古へありけん事といひしからは此少女は飛鳥岡本の宮の頃に在し成べし。ここの歌の樣も其頃の歌と聞ゆ」とあるのは、傳説と事實との別を知らないものである。ともかくこの歌は、手兒奈在世の時に詠まれたものとして傳はつてゐるのだ。美人の譽の高い手兒奈と、親しい關係があるやうに、人に言ひ騷がれるよと喜ぶ男の歌である。麻許登可聞和禮爾余須等布《マコトカモワレニヨストフ》と言つて、ママノテゴナヲと繰返した所に、歡喜の情が躍動してゐる。
 
3385 葛飾の 眞間の手兒奈が ありしかば 眞間のおすひに 波もとどろに
 
可豆思賀能《カヅシカノ》 麻萬能手兒奈家《ママノテゴナガ》 安里之可婆《アリシカバ》 麻末乃於須比爾《ママノオスヒニ》 奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》
 
葛飾ノ眞間ノ手兒奈トイフ美人〔五字傍線〕ガ昔アツタノデ、眞間ノ磯邊ニ打依セル〔四字傍線〕浪ガトドロトドロト響キ渡ルヤウニ、人ガ大騷ヲシテ集ツテ來タ。エライ評判ノ女デアツタ〔ヤウ〜傍線〕。
 
(370)○麻萬能手兒奈家《ママノテゴナガ》――舊本家とあるは我の誤か。元暦校本以下、我に作る本が多い。但しこの卷には、和家於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》(三三九三)・和家世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》(二四六〇)・兒呂家可奈門欲《コロガカナトヨ》(三五  )など家をガに用ゐたところが多い。これをすべて、我の誤とすべきか、攻究を要する問題である。○安里之可婆《アリシカバ》――昔、手兒奈が居たのでの意とも 又|磯邊《オスヒ》にありしかばの意とも解せられる。前者として見るべきであらう。○麻末乃於須比爾《マヽノオスヒニ》――於須比《オスヒ》は磯邊の東語で、前にオシベとあつた(三三五九)と同樣であらうといふ。○奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》――この終の二句は、人の言ひ騷ぐ譬喩と見たい。
〔評〕 考には「是は既に身まかりし後にいへるなり」とある。もとより過去の事實として、傳説を詠んだものである。宣長は下句を「手ごなが磯べに在しかば浪さへめでて、さわぎしと言ふ意ならむ」と言つたが、さうではあるまい。これを譬喩と見ると、かなり詩味の豐かな作品である。
 
3386 鳩鳥の 葛飾早稻を にへすとも そのかなしきを とに立てめやも
 
爾保杼里能《ニホドリノ》 可豆思加和世乎《カヅシカワセヲ》 爾倍須登毛《ニヘストモ》 曾能可奈之伎乎《ソノカナシキヲ》 刀爾多?米也母《トニタテメヤモ》
 
新嘗ノ祭ヲスル時ハ神聖ナモノデ、決シテ人ヲ近ヅケナイガ、私ハタトヒ〔新嘗〜傍線〕(爾保杼里能)葛飾ノ早稻ヲ以テ新嘗ノ祭ヲスルトモ、アノ愛スル人ヲ家ノ外ニ立タセテ置カウヤ。スグニ内ニ入レテアゲヨウ〔スグ〜傍線〕。
 
○爾保杼里能《ニホドリノ》――枕詞。鳰鳥(カイツブリ)が水中に潜《カヅ》く意で、可豆思加《カヅシカ》につづけてゐる。○可豆思加和世乎《カヅシカワセヲ》――葛飾地方の早稻。○爾倍須登毛《ニヘストモ》――爾倍《ニヘ》は新饗《ニヒアヘ》の約で、新穀を神に供へて祭るをいふ。この句は新嘗の祭をするとも。○曾能可奈之伎乎《ソノカナシキヲ》――その愛《イト》しと思ふ人を。○刀爾多?米也母《トニタテメヤモ》――外に立て置かうや、家の内に案内するであらうの意。
〔評〕 稔の秋に新穀を神に供へ、自からもこれを食し、神に對し報賽の誠を致すことは、二月に行つた祈年祭に(371)對する行事である。極めて神聖なものであるから、不淨を忌んで他人を近づけず、恐れ慎んでお祭をするのである。これは上は朝廷から、下々の民戸に於いても行つた。この神聖な祭に際しても、わが戀しい人が來たらば、屋外には立てず、内へ請じ入れようといふので、戀に狂つて、神を忘れた若い女の心である。神に對し、絶對の信仰を有してゐた、上代人の歌としては、實に常軌を逸した熱情的なものである。新嘗祭のことは下に多麗曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和家世乎夜里?伊波布許能戸乎《タレゾコノヤノトオソブルニフナミニワガセヲヤリテテイハフコノトヲ》(三四六〇)ともあるから、それをも併せ考ふべきである。眞淵の「鳰鳥のかつしか早稻の新しぼり汲みつつをれば月かたぶきぬ」といふ名歌は、この二句を巧に使用したものである。
 
3387 足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 眞間の繼橋 やまず通はむ
 
安能於登世受《アノオトセズ》 由可牟古馬母我《ユカムコマモガ》 可都思加乃《カツシカノ》 麻末乃都藝波思《ママノツギハシ》 夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》
 
足音ヲ立テズニ歩ク駒ガアレパヨイガ、サウシタラ私ハ、ソノ駒ニ乘ツテ〔サウ〜傍線〕、葛飾ノ眞間ノ繼橋ヲ渡ツテ〔三字傍線〕、絶エズアノ女ノ所ヘ忍ンデ通ハウト思フ〔アノ〜傍線〕。
 
○安能於登世受《アノオトセズ》――安能於登《アノオト》は足の音。○麻末乃都藝波思《ママノツギハシ》――眞間の繼橋。古昔眞間の入江に架けてあつた橋。繼橋は河の廣いところに設けるもので、柱を河中に相對して打立て、これに横木を結び、その上に板又は丸太を並べて架け渡し、中途で繼いだやうになつてゐるから、かく呼ぶのである。今、國府臺に眞間の繼橋と稱する名所があるのは後人の附會である。
〔評〕 駒に打乘つて妹がりへ通ふ歌は他にもあるが、地方の官吏又は豪族の仕業らしく、一般民衆の歌としてはどうかと思はれないこともない。さう思つて見ると、この歌は言葉が洗練されて、野趣に乏しいやうである。なほこの歌は、やはり手兒奈の傳説と結びつけて詠まれたものではあるまいか。
 
(372)右四首下總國歌
 
3388 筑波嶺の 嶺ろに霞ゐ 過ぎがてに 息づく君を ゐ寢てやらさね
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 禰呂爾可須美爲《ネロニカスミヰ》 須宜可提爾《スギガテニ》 伊伎豆久伎美乎《イキヅクキミヲ》 爲禰?夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》
 
戀シイ女ノ家ノ前ヲ〔九字傍線〕(筑波禰乃禰呂爾可須美爲)通リ適ギカネテ、吐息ヲツイテヰルアノ御方ヲ、サア家ヘ〔四字傍線〕連レテ來テ、一緒ニ〔三字傍線〕寢テ行カセナサイ。アマリ可愛サウダカラ〔アマ〜傍線〕。
 
○筑波禰乃禰呂爾可須美爲《ツクバネノネロニカスミヰ》――筑波嶺の頂上に霞がかかつて、晴れ難い意を以て、須宜可提爾《スギガテニ》とつづく序詞。○須宜可提爾《スギガテニ》――上の序詞を受けてゐるが、本意は女の家の前を行き過ぎかねて。○伊伎豆久伎美乎《イキヅクキミヲ》――吐息をつく男を。○爲禰?夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》――率て共に寢て行かしめよの意。ヤラサネは遣ラセに同じく、命令である。第三者が言ふ言葉である。
〔評〕 序詞は高山らしく、地方色をあらはしてゐる。結句を第三者の言にしたのが、俚謠らしい氣分になつてゐる。略解に「ゐねてやれと他より令《オホ》する樣に言ひて、實は自願ふこと也」とあるのは考の説を受けついだものであるが、誤つてゐる。島木赤彦氏は今の人が獨語的に「やつてやれ」「爲方がない書いてやれ」といふのと同じだといつてゐるのも、結局、略解と同説である。
 
3389 妹が門 いや遠そきぬ 筑波山 かくれぬ程に 袖はふりてな
 
伊毛我可度《イモガカド》 伊夜等保曾吉奴《イヤトホソキヌ》 都久波夜麻《ツクバヤママ》 可久禮奴保刀爾《カクレヌホドニ》 蘇提婆布利?奈《ソデハフリテナ》
 
(373)別レテ出テ來タ〔七字傍線〕女ノ家ハ、愈々遠ク離レテシマツタ。アノ家ガ〔四字傍線〕筑波山ノ〔二字傍線〕蔭ニ隱レナイウチニ、袖ヲ振ラウ。サウシテ女トノ別ヲ惜シマウ〔サウ〜傍線〕。
 
○伊夜等保曾吉奴《イヤトホソキヌ》――彌々遠く離れた。ソクは退く。放《サカ》る。○蘇提婆布利?奈《ソデハフリテナ》――布利氏?《フリテナ》は振りてむに似てその意が強く、且古格である、自己についてのみいふのが常である。これを相手の女の動作に對する希望のやうに見るのは誤つてゐる。
〔評〕 女との別を悲しむ歌。筑波山麓に住む人の作だ。「防人に立行く道にてよめるか」と考にあつて、諸註それを受けついでゐるが、さうとも定め難い。
 
3390 筑波嶺に かか鳴く鷲の 音のみをか 鳴き渡りなむ 逢ふとはなしに
 
筑波禰爾《ツクバネニ》 可加奈久和之能《カカナクワシノ》 禰乃未乎可《ネノミヲカ》 奈岐和多里南牟《ナキワタリナム》 安布登波奈思爾《アフトハナシニ》
 
私ハ戀シイ人ニ〔七字傍線〕逢ハレナイデ、(筑波禰爾可加奈久和之能)聲ヲ出シテ泣イテバカリ日ヲ送ルコトデアラウカ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○可加奈久和之能《カカナクワシノ》――カカナクはカカと鳴くで、カカは鷲の鳴く聲であらう。考に「景行天皇紀に、相模海にて覺賀《カガ》鳥の聲せしてふ事有、其覺賀はここを以て假字とし、ここは覺賀の字を以て濁るべきなり」とあるが、カガと濁る説は遽かに從ひ難い。和名抄に、「文選蕪城賦云、寒鴟嚇v雛嚇讀加加奈久」とある。大祓祝詞に、「速開都比呼云神|持可可呑《モチカカノミ》?牟」とある可可《カカ》も呑む音で、これと同意であらう。
〔評〕 序詞に地方色が らはれてゐるだけで、用語はみやびやかである。一體に上品な作である。袖中抄に載せてある。
 
3391 筑波嶺に 背向に見ゆる 葦穗山 あしかるとがも さね見えなくに
 
(374)筑波禰爾《ツクバネニ》 曾我比爾美由流《ソガヒニミユル》 安之保夜麻《アシホヤマ》 安志可流登我毛《アシカルトガモ》 左禰見延奈久爾《サネミエナクニ》
 
アノ人ハ別ニ是ゾト云ツテ〔アノ〜傍線〕(筑波禰爾曾我比爾美由流)惡イ缺點モホントニ見エナイヨ。ナツカシイ御方ダ〔八字傍線〕。
 
○曾我比爾美由流安之保夜麻《ソガヒニミユルアシホヤマ》――曾我比《ソガヒ》は背向。筑波山の後方に見える葦穗山といふのである 葦穗山は筑波山の北方に連なり、その北は加波山である。大日本地名辭書に「古人のいへるは、今の加波山をも汎く呼びて、佛頂山に至るまでの一脉。五六里に亘れる横嶺の惣名とせり」とある。今、足尾山と記す。略解に「あしほ山は下野國にて、筑波よりは北、二荒山の山つづき也」とあるのは、考も同意になつてゐるが、大なる誤である。以上の三句は序詞で、アシの音を繰返して下につづいてゐる。○安志可流登我毛《アシカルトガモ》――惡しかる咎も。登我《トガ》は缺點。○左禰見延奈久爾《サネミエナクニ》――左禰《サネ》は實。實に。ホントニ。
〔評〕 女が男を讃美した歌であらう。序詞のみが長くて、主意を言ひ盡してゐないやうでもある。古義は、女の容儀に一點の難點もないが、我につれないのだけが缺點だと、男が嘆じた歌として解してゐる、和歌童蒙抄に載せてある。
 
3392 筑波嶺の いはもとどろに 落つる水 世にもたゆらに 吾が思はなくに
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 伊波毛等杼呂爾《イハモトドロニ》 於都流美豆《オツルミヅ》 代爾毛多由良爾《ヨニモタユラニ》 和家於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》
 
(筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆)決シテ、グラツクヤウナ心デ、私ハアナタヲ〔四字傍線〕思ツテハ居マセヌヨ。
 
○筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆《ツクバネノイハモトドロニオツルミヅ》――序詞で、下の多由良爾《タユラニ》につづいてゐる。筑波嶺の岩もとどろに落つ(375)る水とは男女《ミナノ》川を指すか。常陸風土記に「筑波岳東峰四方盤石昇降決屹、其側流泉冬夏不絶」とあるものであらう。○代爾毛多由良爾《ヨニモタユラニ》――代爾毛《ヨニモ》は決して。多由良爾《タユラニ》は水の寛けく多い意から、轉じて動搖することにかけてゐる。我は動搖するやうな心は持たず、ひたすら君を念へるよの意。○和家於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》――家は我の誤であらう。古本多くはさうなつてゐる、元暦校本のみは於の字が無い。下の二句は上の阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能余爾母多欲良爾故呂何伊波奈久爾《アシガリノトヒノカフチニイヅルユノヨニモタヨラニコロガイハナクニ》(二三六八)と酷似してゐる」
〔評〕 筑波嶺を序詞にとり入れたのみで、地方色はあまり濃厚でない。この序詞を阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能《アシガリノトヒノカフチニイヅルユノ》に變へることも出來る。否その方が一層面白いやうである。
 
3393 筑波嶺の をてもこのもに 守部すゑ 母い守れども 魂ぞ逢ひにける
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 乎?毛許能母爾《ヲテモコノモニ》 毛利敝須惠《モリベスヱ》 波播已毛禮杼母《ハハイモレドモ》 多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》
 
母ハ(筑波禰乃乎?毛許能母爾毛利敝須惠)番ヲシテ二人ヲ逢爪セヌヤウニ〔シテ〜傍線〕スルケレドモ、二人ノ〔三字傍線〕魂ハ行通ツテ〔四字傍線〕逢ツテヰルヨ。二人ハ段々親シクナツテ行クノミダ〔二人〜傍線〕。
 
○乎?毛許能母爾《ヲテモコノモニ》――彼面此面に。前の安思我良能乎?毛許乃母爾佐須和奈乃《アシガラノヲテモコノモニサスワナノ》(三三六一)と同樣である。○毛利敝須惠《モリベスヱ》――毛利敝《モリベ》は守部。番をする人たち。山にゐる守部は即ち山守である、須惠《スヱ》は置きに同じ。以上の三句は毛禮杼母《モレドモ》につづく序詞。○波播已毛禮杼母《ハハイモレドモ》――舊訓ハハコモレドモとあるが、已はイの音假名に違ひない。考に可の誤として、ハハガモレドモ、宣長が巴の誤としてハハハモレドモとしたのも皆よくない。イは主語の下に添へて用ゐる助詞で、意味はない。○多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》――二人の魂が逢つたといふのは、二人の交情が益々濃やかになつて行くをいふ。卷十三に玉相者君來釜八跡《タマアハバキミキマスヤト》(三二七六)とある。
〔評〕 卷十二に靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳《タマアハバアヒネムモノヲヲヤマダノシシタモルゴトハハシモラスモ》(三〇〇〇)とあるのに似てゐる。この歌は乎?毛許能(376)母《ヲテモコノモ》といふ東語らしいものを除くと、全體的には優雅な作品で、結句にあらはれた情緒は涙ぐましいばかりの哀が籠つてゐる。しかし女の心を謠つた民謠式のものであるから、やはり東國人の作であらう。古今集の東歌に「筑波嶺のこの面かの面にかげはあれど君が御蔭にます蔭はなし」などの言ひ方は、この歌から出たものであらう。
 
3394 さ衣の 小筑波嶺ろの 山のさき 忘らえ來ばこそ 汝を懸けなはめ
 
左其呂毛能《サゴロモノ》 乎豆久波禰呂能《ヲツクバネロノ》 夜麻乃佐吉《ヤマノサキ》 和須良延許波古曾《ワスラエバコソ》 那乎可家奈波賣《ナヲカケナハメ》
 
私ハ女ニ別レテ、今筑波山ノ下ヲ通ルガ〔私ハ〜傍線〕、(左其呂毛能)筑波嶺ノ山ノ鼻ヲ通ル時ニ、殘シテ出テ來タオマヘヲ〔ヲ通〜傍線〕忘レテ行カレルナラバコソ、オマヘ〔二字傍線〕ノ名ヲ口ニ懸ケテ言ハナイデアラウガ、ドウシテモ忘レラレナイカラ、カウシテ言ツテヰルノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○左其呂毛能《サゴロモノ》――枕詞。狹衣の緒とつづくのであらう。○乎豆久波彌呂能《ヲツクバネロノ》――小筑波嶺ろの。ヲは添へて言ふのみ。○夜麻乃佐吉《ヤマノサキ》――山の岬。山の鼻を通りつつの意。○和須良延許波古曾《ワスラエコバコソ》――忘られて來らばこそ。來《コ》は行くに同じ。新訓は元暦校本に延の字がないのによつてワスラコバコソと訓んでゐる。○那乎可家奈波賣《ナヲカケナハメ》――汝を懸けざるならめの意。可家《カケ》は口に懸けて言ふこと。ナハはナフの變化で、ヌに同じく打消である。
〔評〕 用語が全く東語で綴られて、いかにも東歌らしい作である。女に別れて來た男の心が詠んである。必ずしも旅に出る時の作とはし難い。
 
3395 小筑波の 嶺ろに月立し 逢ひた夜は さはだなりぬを また寢てむかも
 
乎豆久波乃《ヲツクバノ》 禰呂爾都久多思《ネロニツクタシ》 安比太欲波《アヒタヨハ》 佐波太奈利努乎《サハダナリヌヲ》 萬多(377)禰天武可聞《マタネテムカモ》
 
筑波山ノ峯カラ月ガ毎夜毎夜〔四字傍線〕立チ上ツテ、私ガアノ人ト〔六字傍線〕逢ツタ夜カラ〔二字傍線〕ハ、澤山日數ガ經ツタガ、又二人デ共〔四字傍線〕寢シタイモノダヨ。ソノ時ガ待チ遠イヨ〔九字傍線〕。
 
○禰呂爾都久多思《ネロニツクタシ》――嶺ろに月立ちの意であらう。○安比太欲波《アヒタヨハ》――逢ひたる夜は。今の口語と同じく、タリの意のタが用ゐられてゐるのが面白い。略解に間夜《アヒダヨ》と解し、古義に太を之に改めて、アヒシヨとしたのは、共によくない。太は多く濁音に用ゐられてゐるが、ここはタリの意らしい。○佐波太奈利努乎《サハダナリヌヲ》――サハダは澤山前に和多佐波太伊利奈麻之母乃《ワタサワダイリナマシモノ》(三三五四)とあつた。類聚古集に太の下に爾《ニ》の字がある。意は、さはだに成りぬるをであらう。○萬多禰天武可聞《マタネテムカモ》――再び相逢うて相寢むかよの意。
〔評〕 前の歌よりも更に一層東歌らしい作だ。筑波山の頂から出る月を見て、日數の經つたことを知るのは、暦のない上代僻陬の生活を思はしめるものがあり、萬多禰天武可聞《マタネテムカモ》の一句は實に天眞爛漫だ。
 
3396 小筑波の 繁き木の間よ 立つ鳥の 目ゆか汝を見む さ寢ざらなくに
 
乎都久波乃《ヲツクバノ》 之氣吉許能麻欲《シゲキコノマヨ》 多都登利能《タツトリノ》 目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》 左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》
 
私ハ貴方ト〔五字傍線〕共寢ヲシタコトガナイデモナイノニ、コンナ戀シク思ツテ〔コン〜傍線〕(乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能)目デアナタヲ見ルバカリデ過ゴスコトカヨ。
 
○乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能《ヲツクバノシゲキコノマヨタツトリノ》――序詞。目とつづくのは群《ムレ》の意にかけたのである。○目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》――目ゆか汝を見む。目でのみ汝を見ることであらうかの意。○左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》――さ寢ずあらなくに。共(378)寢しないのではないのに。略解・古義など寢ざるにの意としてゐる、
〔評〕 序詞は、樹木の欝蒼たる筑波山と、それから一齊に飛び立つ鳥の群との風景を思はしめるものがある。古今集の「筑波ねのこの面かの面にかげはあれど」も、新古今集の「筑波山は山しげ山しげけれど」も、いづれもこのあたりを根源としてゐるのである。常陸國十首の内で、以上の九首はすべて筑波山に關したものであるのは、如何にこの山が人口に膾炙してゐたかを示すものである。
 
3397 常陸なる 浪逆の海の 玉藻こそ 引けば絶えすれ あどか絶えせむ
 
比多知奈流《ヒタチナル》 奈左可能宇美乃《ナサカノウミノ》 多麻毛許曾《タマモコソ》 比氣波多延須禮《ヒケバタエスレ》 阿杼可多延世武《アドカタエセム》
 
常陸ノ國ノ浪逆ノ海ノ玉藻コソハ、引ケバ切レルモノダガ、私ハ〔二字傍線〕ドウシテ貴方ト〔三字傍線〕切レヨウカ、決シテ切レハシナイ〔九字傍線〕。
 
○奈左可能宇美乃《ナサカノウミノ》――浪逆の海は又浪逆の浦ともいふ。今は北浦の南方、利根の廣く江灣をなす部分を呼んでゐるが、古昔は利根川はここに注がず、鬼怒川ここに來つて、海をなしてゐた。この邊は河口に近く潮滿れば浪が逆流したので、かく呼んだのであらう。卷九の一七五七に掲げた上代の筑波附近想定圖參照。○阿杼可多延世武《アドカタエセム》――何故か絶えせむ。二人の關係は決して絶えることはないの意。
〔評〕 浪逆の海の玉藻に寄せて、二人の關係の絶えないことを詠んでゐる。常陸風土記に流海と記されてゐるが、水流の極めて緩やであつたこの海に、玉藻が多く繁つてゐたらうことは、想像するに難くない。結句が東語式になつてゐるだけの歌だ。
 
右十首常陸國歌
 
3398人皆の 言は絶ゆとも 埴科の 石井の手兒が 言な絶えそね
 
(379)比等未奈乃《ヒトミナノ》 許等波多由登毛《コトハタユトモ》 波爾思奈能《ハニシナノ》 伊思井乃手兒我《イシヰノテコガ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》
 
他ノ人タチトノ音信ハ凡テ〔二字傍線〕絶エテシマツテモ、格別可愛イ〔五字傍線〕埴科ノ石井ノ娘子トノ音信ダケハ、絶エナイデクレ。
 
○波爾思奈能伊思井乃手兒我《ハニシナノイシヰノテコガ》――埴科の石井の手兒が。埴科は信濃の郡名。河中島の南方、筑摩川の東方の小郡である。石井は地名であらうが、今その所在を知り難い。手兒は、處女《ヲトメ》といふに同じ。眞間の手兒奈の奈《ナ》を添へないだけである。○許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》――言は絶えるなかれ。コトは消息、音信。
〔評〕 埴科の石井の手兒は葛飾の眞間の手兒奈と同じく、その地方での代表的美人であつたのであらう。これも傳説上の人物であらうが、その時代の人になつて詠んだのである。明瞭鮮明な作だ。
 
3399 信濃道は 今のはり道 刈ばねに 足踏ましなむ 履はけ吾が夫
 
信濃道者《シナヌヂハ》 伊麻能波里美知《イマノハリミチ》 可里婆禰爾《カリバネニ》 安思布麻之奈牟《アシフマシナム》 久都波氣和我世《クツハケワガセ》
 
信濃街道ハマダ開拓シタバカリノ新道デス。竹ヤ木ノ切株ガ所々ニアリマスガ〔竹ヤ〜傍線〕、切株ニ足ヲ踏ミ付ケナサルデセウ。ソノ用心ニ〔五字傍線〕沓ヲ穿イテイラツシヤイヨ、我ガ夫ヨ。
 
○伊麻能波里美知《イマノハリミテ》――今の墾道。今は新しき意。今所知久邇乃京爾《イマシラスクニノミヤコニ》(七六八)・今造久爾乃王都者《イマツクルクニノミヤコハ》(一〇三七)とある。ハリは開墾すること。この句は卷十二の新治今作路《ニヒバリノイマツクルミチ》(一八五五)と同意である。○可里婆禰爾《カリバネニ》――苅株に。原義はよくわからないが、苅骨かも知れない。新考には苅生根《カリフネ》の轉としてゐる。但し同書に「今株をカブといふはカリ(380)ブの略か」とあるのは當らない。カブは頭《クブ》の轉である。○安思布麻之奈牟《アシフマシナム》――足踏み給ふであらう。シは敬語。舊本、安思布麻之牟奈《アシフマシムナ》とあり、シムは敬語で、足踏み給ふ勿れと解されてゐるが、宣長が玉勝間に述べたやうに、シムを敬語に用ゐることは、上代には無いから、ここは元暦校本に從つて、安思布麻之奈牟《アシフマシナム》とすべきであらう。○久都波氣和我世《クツハケワガセ》――履穿けよ吾が夫よ。
〔評〕 ここに信濃路とあるは、即ち木曾街道のことで、續紀によれば文武天皇の「大寶二年十二月壬寅、始開2美濃國岐蘇山道1」とあり、又元明天皇の「和銅六年七月戊辰、美濃信濃二國之堺、徑道險阻、往還艱難、仍通2吉蘇路1」とあり、その翌、「和銅七年閏二月戊午朔賜2美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戸田六町1云々以v通2吉蘇路1也」とあつて、大寶二年に起工、十二年の歳月を費して、和銅六年に至つて完成し、その翌年美濃國守笠朝臣麻呂以下に論功行賞があつたのである。この歌はこの新道が開拓せらるた當時のことで、斷崖の密林を開いて作つたのであるから、至る所に木の切株などが露出してゐたであらう。これが木曾街道開拓の傍證となるわけである。又この歌はあの地方の女の作で、新道を行く夫の身を案ずる愛情があらはれた佳作である、なほ當時地方民の多くは履をも穿かないのを常としたことは、卷九の眞間娘子を詠んだ歌に、履乎谷不著雖行《クツヲダニハカズユケドモ》(一八〇七)とあるのを併せ考ふれば明らかである。
 
3400 信濃なる 千曲の川の さされしも 君しふみてば 玉と拾はむ
 
信濃奈流《シナヌナル》 知具麻能河泊能《チクマノカハノ》 左射禮思母《サザレシモ》 伎彌之布美?婆《キミシフミテバ》 多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》
 
信濃ノ國ノ筑摩川ノ小石モ、貴方ガオ踏ミニナツタナラバ、ソレヲ〔三字傍線〕玉ト思ツテ〔三字傍線〕拾ツテ大切ニシテ〔五字傍線〕置キマセウ。ツマラナイ小石デモ愛スル貴方ニ踏マレタノダト思ヘバ、ナツカシク貴クナリマス、ソレホド私ハ貴方ヲ思ツテ居リマス〔ツマ〜傍線〕。
 
(381)○知具麻能河泊能《チクマノカハノ》――知具麻能河泊《チクマノカハ》は千曲川。筑摩川とも記す。佐久郡川上村の甲武信嶽・國師嶽・金峰等の溪谷に發し海之口・野澤・小諸・上田を經て川中島に至り、犀川と合し、東北に流れて越後に入り信濃川といふ。○左射禮思母《サザレシモ》――サザレシはさざれ石。○伎彌之布美?婆《キミシフミテバ》――シは強めていふのみ。フミテバは踏みたらば。○多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》――玉として拾はむ。
〔評〕 優雅な歌である。それだけ東歌らしい感が乏しい。信濃奈流知具麻能河泊能《シナヌナルチクマノカハノ》と言つたのは地方人の言葉らしくないが、歌の内容は、やはり千曲川での作なるを肯定せねばならぬ。
 
3401 なかまなに 浮きをる船の 漕ぎ出なば 逢ふこと難し 今日にしあらずは
 
中麻奈爾《ナカマナニ》 宇伎乎流布禰能《ウキタルフネノ》 許藝?奈婆《コギデナバ》 安布許等可多思《アフコトカタシ》 家布爾思安良受波《ケフニシアラネバ》
 
私ガ乘ツテ旅ニ出ル筈ノアノ〔私ガ〜傍線〕中麻奈ニ浮イテ居ル船ガ、漕ギ出シタナラバ、私ハ貴方ニ〔五字傍線〕今日デナクテハ、モウ〔二字傍線〕逢フコトハムツカシイ。今日ノ内ニヨクヨク逢ツテ置カウ〔今日〜傍線〕。
 
(382)○中麻奈爾《ナカマナニ》――中麻奈は地名である、少くともこの卷の編者はこれを信濃の地名と考へたのである。併しその所在は明らかでない。荒木田久老の信濃漫録には「彼國人小泉好平がいひけるは、こは水内郡に中俣といふ村あり、そこなるぺしといへり。その地は千隈川へ犀川とすすばな河の流れ落る河股なり。今も上古船をつなぎし木ぞとて、大樹の株の殘れる、村の内にありといへり」とあるのは比較的よいやうであるが、遽かに從ひ難い。略解に中麻奈《ナガヲナ》と訓んで地名としたのも、古義は中志麻の誤として今の川中島としてゐるのも共によくない。○安布許等可多思《アフコトカタシ》――逢ふ事難からむといふべきを、確定的に言つたのである。
〔評〕 中麻奈がよくわからないが、これを除けば明瞭な歌で、東歌らしい氣分が薄い。船に乘つて旅に出る人が別を惜しんだ言葉であらうが(古義は留れる妻の歌としてゐる)、信濃の地形から考へると、かうした歌を詠むべき場所は殆ど無いやうである。或は中麻奈は、眞淵が言つたやうに地名ではなく、眞《マ》な中《ナカ》即ち中流の意なのを、この卷の編者が信濃の地名と勘違へして、ここに收めたのではあるまいか。
 
右四首信濃國歌
 
3402 日の暮に 碓氷の山を 越ゆる日は せなのが袖も さやに振らしつ
 
比能具禮爾《ヒノクレニ》 宇須比乃夜麻乎《ウスヒノヤマヲ》 古由流日波《コユルヒハ》 勢奈能我素低母《セナノガソデモ》 佐夜爾布良思都《サヤニフラシツ》
 
碓氷ノ山ヲ夕暮ニ越エテ別レテ行カレ〔七字傍線〕ル日ニハ、名殘ヲ惜シンデ私ガ袖ヲ振ルバカリデナク〔名殘〜傍線〕、夫モ袖ヲ目立ツテ烈シク〔三字傍線〕オ振リニナルヨ。
 
○比能具禮爾《ヒノグレニ》――日の暮に。冠辭考に枕詞として、日の暮に薄き日影の意としたのはよくない。○宇須比乃夜麻乎《ウスヒノヤマヲ》――碓氷の山は、上野國碓氷郡碓氷峠である。寫眞は著者撮影。○古由流日波《コユルヒハ》――越える日は。新考に(383)日を太陽としたのは、その意を得ない。○勢奈能我素低母《セナノガソデモ》 勢奈《セナ》は夫。恨登思狹名盤在之者《ウラミムトオモヒテセナハアリシカバ》(二五二二)のセナに同じ。ノは強流志斐能我《シフルシヒノガ》(二三六)のノと同じく、間に挾んだ助詞である。但し勢奈能《セナノ》を卷九の妹名根《イモナネ》(一八〇〇)と同一に見る説もある。○佐夜爾布良思都《サヤニフラシツ》――さやかに振り給ひつの意。上野歌解には神武天皇の御製に須賀多多美伊夜佐夜斯岐弖《スガタタミイヤサヤシキテ》とあるのを引いてサヤは許多の意としてゐる。
〔評〕 旅に出づる男を見送る女の歌。略解・古義など別れ行く女が袖を振りつつよんだやうに見てゐるのは誤である。特に比能具禮爾《ヒノクレニ》とある理由がよくわからないが、或は何か傳説を持つてゐる歌ではあるまいか。日本武尊の碓氷峠を越え給ふ時のことを想像したものとも、考へられないことはないが、やはり比能具禮《ヒノクレ》が穩やかでない。
 
3403 吾が戀は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも
 
安我古非波《ワガコヒハ》 麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》 於久母可奈思母《オクモカナシモ》
 
私ノ母ハ今モシミジミ〔四字傍線〕人ヲナツカシク思ツテヰル〔五字傍線〕。
 
(384)(久佐麻久良多胡能伊利野乃)今後モヤはり〔三字傍線〕ナツカシク思フヨ。私ハイツマデモ貴方ヲ思フ戀ハ止マナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》――麻左香《マサカ》は今。卷十二に眞坂者君爾縁西物乎《マサカハキミニヨリニシモノヲ》(二九八五)とある。可奈思《カナシ》は、いとしい。○久佐麻久良《クサマクラ》――枕詞で旅とつづくことに定つてゐるのに、ここは多胡につづいてゐる。これについて古義は「若しは薦枕《コモマクラ》多可《タカ》とつづくと同じく、枕を多久《タク》といふ意にてもあらむか」といつてゐる。併し代匠記の説のやうに草枕旅とつづく心で多《夕》の一字に連ねたのかも知れない。ともかく接續の意味がよく分らない。略解に「此草枕は、枕詞ならず、旅のさまをいふ」とあるのは從ひ難い。○多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》――多胡《タコ》は上野國多胡郡で、この郡を設置したことは續記に「和銅四年辛亥割2上野國甘樂郡、織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡、武美・片岡郡、山等六郷1別置2多故郡1」とあり、その時建てられた碑を多故の碑と稱し、今も池村にあるといふことだ。この郡は今、緑野郡と合して、多野郡と稱してゐる、上野の西南隅で、山地であるが、その平地と境するところ、即ち藤岡町の西方、吉井町に近く大字池・多胡村等がある。伊利野《イリヌ》は山の間に入り込んだ野であらう。今、吉井町の東方に入野村があるのは、この歌によつて名づけたものではないかと思はれるが、場所は大よそあの邊であらう。この句は奥《オク》と言はむ爲の序詞である。○於久母可奈思母《オクモカナシモ》――舊本、於父母《オフモ》とあるが、父は久の誤字なることを認めねばならぬ。於久《オク》は後、行末の意。
〔評〕 略解・古義に、夫が旅行の時、家に留つた妻の詠んだ歌とあるが、更に根據がない。唯、ある女性がその戀の變らぬことを述べたのである。可奈思《カナシ》を悲しと解した爲に、かく誤つたのである。女らしい一筋な戀心が詠まれた、よい歌である。
 
3404 上つ毛野 安蘇のまそむら かきむだき 寢れど飽かぬを あどかあがせむ
 
可美都氣努《カミツケヌ》 安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》 可伎武太伎《カキムダキ》 奴禮杼安加奴乎《ヌレドアカヌヲ》 安杼加安我世牟《アドカアガセム》
 
(385)(可美都氣努安蘇能麻素武良)掻キ抱イテ女ト〔二字傍線〕寢ルケレドモ、マダ飽キ足ラナク戀シク思フ〔五字傍線〕ガ、コノ上ハ〔四字傍線〕何ト私ハシタモノデアラウ。
 
○可美都氣努《カミツケヌ》――上つ毛野國即ち上野。上野歌解に努を、てにはの能《ノ》也とあるのは誤つてゐる。○安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》――安蘇は、上野歌解に、「今甘樂郡に宇田村と云在、其村に小山あり、今峰山と云。其山を往古《ムカシ》より安蘇岡《アソヲカ》山と云ひ來れるを、今朝岡と書くと鈴木千本云り。云云」と言つてゐるが、附會の説である。この安蘇は今、下野の西端なる安蘇郡であらう。この郡は地形上、上野に屬すべきもので、上代はさうも考へられてゐたのであらう。下に志母都家努安素乃河泊良欲《シモツケヌアソノカハラヨ》(三四二五)とあるのは、それを證するやうに思はれる。麻素武良《マソムラ》は眞苧群。畑に植ゑた麻の密生したもの。ここまでの二句は可伎武太伎《カキムダキ》と言はむ爲の序詞である。畑の麻を苅り取り、これを束としたものを抱き運ぶから、かくつづける。○可伎武太伎《カキムダキ》――かき抱き。可伎《カキ》は接頭語。武太伎《ムダキ》はウダク・イダクと同語。女を抱くこと。○安杼加安我世牟《アドカアガセム》――安杼加《アドカ》はナドカに同じ。安我《アガ》は吾が。
〔評〕 隨分思ひ切つた官能的な歌であるが、戀にいらだつてゐる若い男の氣分はよく出てゐる。あの地方は今日でも麻の産地であるが、その麻を苅り取る時の所作を詠みこんで、巧に地方色をあらはしてゐる。但し安蘇をここに上つ毛野としてゐるのに、下に下つ毛野に入れた歌があるのは、眞にその地方で作つたものではないことを示すやうに思はれる。
 
3405 上つ毛の をどのたどりが 川路にも 兒らは逢はなも 一人のみして
 
可美都氣乃《カミツケノ》 乎度能多杼里我《ヲドノタドリガ》 可波治爾毛《カハヂニモ》 兒良波安波奈毛《コラハアハナモ》 比等理能未思?《ヒトリノミシテ》
 
上野ノ乎度ト云フ所ノ多杼里ノ川ノホトリノ路ヲ、私ハ今一人デ行クガ、コンナ淋シイ〔路ヲ〜傍線〕路ニデモ、私ハ〔二字傍線〕唯一人デ來ル〔二字傍線〕アノ女ト逢ヒタイモノダヨ。人目ニツカナイデ逢フコトガ出來タラサゾヨカラウ〔人目〜傍線〕。
 
(386)○可美都氣乃《カミツケノ》――元暦校本・類聚古集その他、乃を努に作つてゐるのに從ふべきであらう。○乎杼能多杼里我《ヲドノタドリガ》――乎杼《ヲド》の多杼里《タドリ》は地名らしい。乎杼《ヲド》は次の或本歌に乎野《ヲヌ》とあり、略解に、小野郷は和名抄に甘樂・緑野・群馬の三郡にあるから、その中であらうと言つてゐるが、どこか分らない。多杼里《タドリ》は古義に川の名であらうとあるが、これも明らかでない。○可波治爾毛《カハヂニモ》――川路にも。淋しい川添の路ででもの意。○兒良波安波奈毛《コラハハナモ》――兒良《コラ》は女をいふ。安波奈毛《アハナモ》は逢はなむに同じ。
〔評〕 人目を忍んで女を慕つてゐる男の歌で、第二句が鮮明を缺くが、三句以下はまことに可憐な情緒である。
 
或本歌曰 かみつけの を野のたどりが あは路にも せなは逢はなも 見る人なしに
 
或本歌曰 可美都氣乃《カミツケノ》 乎野乃多杼里我《ヲヌノタドリガ》 安波治爾母《アハヂニモ》 世奈波安波奈母《セナハアハナモ》 美流比登奈思爾《ミルヒトナシニ》
 
第一句は前歌と同樣であるが、これには乃を努とした異本がない。第二句|乎度《ヲド》がこれでは乎野《ヲヌ》になつてゐる。第三句|安波治《アハヂ》は前歌の如く可波治《カハヂ》とあるべきであらう。第四句|世奈《セナ》は前歌に兒良《コラ》とあるのと異なり、女性の歌になつてゐる。第五句|美流比登奈思爾《ミルヒトトシニ》は前歌の比等理能未思?《ヒトリノミシテ》と同意である。
 
3406 上つ毛野 佐野のくくたち 折りはやし あれは待たむゑ 今年來ずとも
 
可美都氣野《カミツケヌ》 左野乃九久多知《サヌノククタチ》 乎里波夜志《ヲリハヤシ》 安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》 許登之許受登母《コトシコズトモ》
 
私ハ貴方ノオイデヲ待ツテ居マスガ、萬一〔私ハ〜傍線〕今年オイデガナイニシテモ、貴方ノオ好キナ〔七字傍線〕上野ノ佐野ニ出來ル莖立菜ヲ里人ト共ニ賑ヤカニ折ツテ、私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕オ待チシマセウヨ。ソレニシテモ、モウオイデナサリサウナモノ(387)ダノニ、ドウシタノデアラウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○左野乃九久多知《サヌノククタチ》――左野《サヌ》は上野國群馬郡佐野。下に佐野田《サヌダ》(三四一八)・佐野乃布奈波之《サヌノフナバシ》(三四二〇)などあるところと同所であらう。高崎市の南方約半里、烏川に添うた地である。九久多知《ククタチ》は莖立。和名抄に、「〓久々太知、俗用2莖立二字1蔓菁苗也」とある。蔓菁は卷十六に食薦敷蔓菁※[者/火]將來※[木+梁]爾縢懸而息此公《スゴモシキアヲナニモチコウツバリニムカバキカケテヤスムコノキミ》(三八二五)とあつて、アヲナと訓んであるから、ククタチはアヲナの苗といふことになる。併し又別に和名抄には「蘇敬本クサ註云蕪菁北人名2之蔓菁1阿乎奈、楊雄方言云、陳宋之間蔓菁曰v※[草がんむり/封]毛詩云、采v※[草がんむり/封]采v韮無v以2下體1加布良、下體、根莖也、此菜者、蔓菁與v〓之類也、方言云、趙魏之間謂2蕪菁1爲2大芥1小者謂2之辛芥1太加奈」とあり、蔓菁はアヲナの外に蕪《カブラ》又はタカナにも用ゐられてゐる。けれども右の卷十六の歌はアヲナであることは間違ひがない。持統天皇紀には蕪菁をアヲナと訓し、古事記仁徳天皇の條には、於是爲v煮2大御羮1採2其地之菘菜1時天皇到2坐其孃子之採v菘處歌曰、として夜麻賀多迩麻祁流阿袁那母岐備比登登等母迩斯都米婆多怒斯久母阿流迦《ヤマガタニマケルアヲナモキビヒトトトモニシツメバタヌシクモアルカ》と見えてゐる。これによると菘菜・菘をアヲナに用ゐたのである。これから考へると古義にアヲナを加夫良菜《カブラナ》としたのは穩かでなく、狩谷掖齋の箋注倭名類聚抄に、ナは菜蔬の總名でアヲナはその一種、是は專ら葉を食べるから、アヲナといふ、と説いたのがよい。つまり上代に於ける最も流布された、蔬菜の種類であらうと思ふ。白井光太郎氏の植物渡來考には、「アヲナ漢名菘一名白菜以上訂正植物彙和名シラクキナ草木圖説原産地未詳、支那にては名醫別録に始めて記載す。日本にては古事記に、仁徳天皇が吉備の國に行幸ありし時、黒日賣命が其地の菘菜を探りて、羮を作りて天皇に進め奉りし記事あり。當時已に舶來ありしなり」と述べて、アヲナを白菜としてゐるが、これはアヲナといふ稱呼からしても、肯定することは出來ない。(388)アヲナは今のタカナに似て小さく、辛味のない種頬であらうと思ふ。さてクキタチは右に引いた和名抄の文によつても、アヲナの苗だといふことだが、この名稱が今北陸地方に廣く行はれてゐるのは頗るおもしろいことである。地方人の内には、フキタチと稱へる者もあるが、それがクキタチの訛音なることは言ふまでもない。植物和漢辭林には、クキタチ・ククタチはアブラナ(※[草がんむり/雲]薹)の別名としてあつて、菜種の苗と見てゐるやうである。筆者が目下住んでゐる金澤地方では、油菜の未だ薹に立たぬものを、クキタチと稱する者もあるやうだが、特に蔬菜として食用に供する爲に作るのが、本當のクキタチである。その形態は右に述べたやうに、タカナに似て小さく、色の青いもので、その味は如何にも原始的な野生種に近い感じがするのである。クキタチといふ名は春早く雪のある内から、早くも薹に立つて花をつけるからで、その點も亦タカナに似てゐる。上代のアヲナ・ククタチは必ず同一物で、アヲナをその薹に立つ頃から、クキタチ・ククタチと言つたものであらうと思はれる。○乎里波夜志《ヲリハヤシ》――折り映やし。賑やかに折り取ること。里人と共に野に出て、莖立を折り摘むのであらう。この波夜志《ハヤシ》の解は種々に分れてゐる。「今年の莖立を人を待つ設に折て、又來年の莖立をはやすなり」(代匠記精撰本)「はやしは物を榮あらする事にて卷十六に、吾角は御笠のはやし、吾宍は御膾はやしなどいへるにひとし」(考)(略解・上野歌解も同じ)「凡て波夜須《ハヤス》といふ言は、榮《ハエ》あらしむ意なれば、一つの物を切り折りて、二つにも三つにも爲《ナス》をいふなり」(古義)「ヲリハヤシのハヤシは調製することにて、ここにては鹽漬にすることならむ」(新考)などで、中には隨分突飛なものもある。○安禮波麻多率惠《アレハマタムヱ》――惠《ヱ》はヨに同じ。我は君を待たうよの意。
〔評〕 旅に出た夫の遲い歸りを待ちわびて、春淺い頃、里の少女等と野に生ふる莖立を摘みながら、戀人を思つてゐるやるせない妻の心が、調つた韻律に盛られてゐる。
 
3407 上つ毛野 まぐはしまとに 朝日さし まぎらはしもな 在りつつ見れば
 
可美都氣努《カミツケヌ》 麻具波思麻度爾《マグハシマトニ》 安佐日左指《アサヒサシ》 麻伎良波之母奈《マギラハシモナ》 安利都退見禮婆《アサリツツミレバ》
 
(389)私ハ戀シイ御方ヲカウシテ〔私ハ〜傍線〕、對ヒアツテ見テヰルト(可美都氣努麻具波思麻度爾安佐日左指)マバユイヤウナ氣ガスルヨ。逢ヘナイ時ハ逢ヒタイト思フガ、御目ニカカレバ何トナク恥カシイヤウナ心地ガスルヨ〔逢ヘ〜傍線〕。
 
○麻具波思麻度爾《マグハシマトニ》――麻具波思麻度《マグハシマト》はよく分らない。仙覺・契冲は美しい窓の意に解いてゐるが、地名と見るべきもののやうである。考に眞桑島といふ島の渡瀬と見たのがよいか。上野歌解には目妙島門《マクハシシマド》とし、目妙は其處を譽めた詞だといつてゐる。眞桑といふ地名は今は聞えないが、利根川の沿岸にあつたのであらう。○安佐日左指《アサヒサシ》――朝日指し。ここまでの三句は眞桑島といふ利根川沿岸の地に、朝日が指し、水面に映じて、目映《マバユ》い意で下につづく序詞であらう。○麻伎良波之母奈《マギラハシモナ》――麻伎良波之《マギラハシ》は目がきらきらと目映ゆいこと。モナはいづれも詠嘆の辭である。○安利都追見禮婆《アリツツミレバ》――かうして居て見れば。二人向ひ合つてゐて見ればの意。
〔評〕 戀人と相對して面はゆく恥かしい氣分である。女らしい、しとやかさが見える。
 
3408 新田山 嶺にはつかなな わによそり はしなる兒らし あやにかなしも
 
爾比多夜麻《ニヒタヤマ》 禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》 和爾余曾利《ワニヨソリ》 波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》 安夜爾可奈思(390)母《アヤニカナシモモ》
 
新田山ガ他ノ〔二字傍線〕嶺ニハツカナイデ、孤立シテヰルヤウニ〔九字傍線〕、私ニ世ノ人ガ関係アルヤウニ〔世ノ〜傍線〕言ヒ寄セテヰルガ、實ハ未ダサウハナツテヰナイデ〔實ハ〜傍線〕、中ブラノ態度ヲ取ツテ居ル〔八字傍線〕女ガ、不思議ニ可愛イヨ。
 
○爾比多夜麻《ニヒタヤマ》――新田山。和名抄に新田郡新田郷がある、新田は其處の山で即ち今の大田町の背後なる金山である。その頂上に新田義貞を祀つた新田神社がある。寫眞は著者撮影。〇禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》――嶺には着かないで。嶺に着かずとは、この山が他の高嶺に連絡せず孤立してゐること。古義が地理を知らずして、この説をなしたのは卓見である この山は上野平野の北部中央に、孤島の如く、離れて立つてゐる。ツカナナは着かなくに同じ。ナナは東語で無しの活用である 下の宿奈美那里爾思於久乎可奴加奴《ネナナナリニシオクヲカヌカヌ》(三四八七)・和須禮婆勢奈那伊夜母比麻須爾《ワスハヘセナナイヤモヒマスニ》(三五五七)・卷二十の於妣波等可奈奈阿也爾加母禰毛《オビハトカナナアヤニカモネモ》(四四二二)などの例がある。初二句は孤立してゐる譬喩で、第四句の波之奈流兒良《ハシナルコラ》につづいてゐる。これを新田山の嶺に雲の着かぬ如くと代匠記に解し、これに從ふ説が多いが、雲といふ語はないから、さう見るべきでない。○和爾余曾利《ワニヨソリ》――人が我に言ひ寄せてゐるの意であらう。古義は「心は我に依ながら」と解してゐる。○波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》――間《ハシ》なる兒等し。間はどつち附かず、中ぶらの状態にあるをいふ。さう見なければ初二句へつづかない。
〔評〕 一寸難解な歌であるが、それだけ東歌らしい要素を多分に備へてゐる。袖中抄にも載せてある。
 
3409 伊香保ろに 天雲いつぎ かぬまづく 人とおたばふ いざ寢しめとら
 
伊香保呂爾《イカホロニ》 安麻久母伊都藝《アマクモイツギ》 可奴麻豆久《カヌマヅク》 比等登於多波布《ヒトトオタバフ》 伊射禰誌米刀羅《イザネシメトラ》
 
アノ通リ〔四字傍線〕伊香保ノ嶺ニ、天雲ガ頻リニ後カラ後カラ〔九字傍線〕立チツヅイテ、上ノ沼ニ降リテ〔三字傍線〕着イテヰル。丁度アノ雲ノ(391)ヤウニ私ト貴方トハ心ガ一ツダト〔丁度〜傍線〕人ガ評判シ〔三字傍線〕騷グヨ。コンナニ人ニ言ハレル以上ハ〔コン〜傍線〕、サア一緒ニ〔三字傍線〕寢マセウヨ。女ヨ。
 
○伊香保呂爾《イカホロニ》――伊香保に。ロは添へて言ふのみ。伊香保は今の伊香保温泉から榛名方面に亘つた廣い地方をさしたらしい。○安麻久母伊都藝《アマクモイツギ》――天雲い繼ぎ。イは接頭語で意味はない。○可奴麻豆久《カヌマヅク》――わからない句である。代匠記に彼眞附《カノマツク》と解してゐるが、やはりわからない。略解にカヌマを地名としてゐるのは、下野鹿沼をさすか。この地は伊香保と並べ考ふべき地形ではなく、且、拒離が遠過ぎる。伊香保から鹿沼は見えず、鹿沼からも伊香保は見えない。下にも伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久《イハノヘニイカカルクモノカヌマヅク》(三五一八)とあり、地名らしくも思はれる。或は上野歌解にあるやうに、伊香保の沼をさしたものかも知れない。きうすれば神沼《カムヌマ》又は上沼《カミヌマ》の略と見るべきであらう。伊香保山の雲が伊香保の沼に降りて來て着く、そのやうに人が自分とおまへとの間を言ひ騷ぐと見ることが出來る。なほ、兩毛國境、鬼怒川の水源地に鬼怒沼山があつて、標高二一四〇米である。鬼怒は即ち毛野で、毛野國の名がこれから出てゐるのであるから、この山も上代人の注目したもので、カヌマはこのケヌヌマの轉ではあるまいか。ここに私案を書き添へて置く。○比等登於多波布《ヒトトオタバフ》――下に比等曾於多波布《ヒトゾオタバフ》(三五一八)とあるによれば、登は曾の誤か。又はこの儘でゾと同意と見るべきか。オタバフは略解に、おらぶに同じく言騷がれることとしたのに從はう。その他種々の説があるが、いづれも無理が多い。○伊射禰誌米刀羅《イザネシメトラ》――イザはサアと誘ふ語。ネシメは寢さしめよといふことか。トラは助詞と見る説もあるが、刀は己《コ》の誤とする説に暫く從つて置かう。コラは女ら。
〔評〕 難解な東歌中でも、最も難解を以て聞えた歌である。下に伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久比等曾於多波布伊射禰之賣刀良《イハノヘニイカクルコムノカヌマヅクヒトゾオタバフイザネシメトラ》(三五一八)とあつて、同歌の轉じたものなることは明らかであるが、これと對比して見ると誤字があることも想像せられる。
 
3410 伊香保ろの そひのはり原 ねもころに 奥をなかねそ まさかしよかば
 
(392)伊香保呂能《イカホロノ》 蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》 禰毛己呂爾《ネモコロニ》 於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》 麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》
 
今サヘ二人ガ樂シクカウシテ逢フコトガ出來テ、都合ガ〔二人〜傍線〕ヨイナラバ、カレコレト〔五字傍線〕(伊香保呂能蘇比乃波里波良)深ク行末ヲ心配シテ〔四字傍線〕心ニカケナサルナ。先ハ先トシテ、今ノ逢瀬ヲ樂シマウデハアリマセンカ〔先ハ〜傍線〕。
 
○蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》――ソヒは代匠記初稿本に「そひは傍なり。川そひ柳などいふごとし。山《ヤマ》の岨《ソハ》といふも山にそひてかたはらを、行やうの所をいへば、もとはおなじことばなるべし」とある。添と岨《ソハ》とを、同語源とするのは從ひ難いが、山の崖のやうなところをソヒといふのであらう。下に伊波保呂乃蘇比能和可麻都《イハホロノソヒノワカマツ》(三四九五)とある。波里波良《ハリハラ》は榛原とも萩原とも解せられるが、下に伊可保呂乃蘇比乃波里波良和我吉奴爾都伎與良之母與比多敝登於毛敝婆《イカホロノソヒノハリハラワガキヌニツキヨラシモヨヒタヘトオモヘバ》(三四三五)とあるから、萩原であらう。但し萬葉のハリが榛か萩かについては、なほ今後の攻究に俟つべき點が多い。以上の二句は根とつづく序詞。この句に續けずに奧につづくものとする説も多い。 ○禰毛己呂爾《ネモコロニ》――懇ろに。はり原の根とつづいてゐる。○於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》――於久《オク》は奥で、行末の意。この句は行末を心配するなといふのである。○麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》――麻左可《マサカ》は今。現在。ヨカバは良からば。
〔評〕 眼前の戀の陶醉に行末を忘れた人の歌。男性の作か、女性の作かは分らない。やはり民謠であらう。よく整つた難のない作である。
 
3411 多胡の嶺に よせ綱はへて 寄すれども あに來やしづし そのかほよきに
 
多胡能禰爾《タコノネニ》 與西都奈波倍?《ヨセツナハヘテ》 與須禮騰毛《ヨスレドモ》 阿爾久夜斯豆志《アニクヤシヅシ》 曾能可把與吉爾《ソノカホヨキニ》
 
(393)多胡ノ峯ニ引綱ヲ引張ツテ引寄セルケレドモ、アノ山ハ〔四字傍線〕顔付ダケハ穩ヤカニ良〔五字傍線〕ササウニシテヰルガ、ドウシテコチラヘ寄ツテ來ヨウヤ。泰然トシテ少シモ動カナイヨ。アノ女ハ人ノ言ニ從ヒサウデ、少シモ從ハナ情ナ女ダ〔泰然〜傍線〕。
 
○多胡能禰爾《タコノネニ》――多胡の嶺に。多胡は前に多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》(三四〇三)とあつた地方の山。上野歌解に、三株・八束・牛伏などの山をすべていふのであらうと言つてゐる。○與西都奈波倍?《ヨセツナハヘテ》――與西都奈《ヨセツナ》は引き寄せる爲の綱で、波倍?《ハヘテ》は引き延へて。綱をかけての意。○阿南久夜斯豆之《アナクヤシヅシ》――豈來や靜しの意で、豈來らむや、平氣な顔をして靜かにしてゐるといふのであらう。舊訓アニクヤシツノとあるに從つて、代匠記は豈來や鹿の其の皮良きにと釋いてゐるのは苦しい説明である。元暦校本、之を久に作つてゐるが、考は之を久に改めて、アニクヤシツクとし「敢惡《アヘニク》く鎭りゐてよらぬなり」と解してゐる。略解はこれに從ひ、古義は豈來耶沈石《アニクヤシヅシ》と解してゐる。いづれも當らないが、古義のは殊にむづかしい。○曾能可把與吉爾《ソノカホヨキニ》――その女の顔のみ穩やかに、人の言葉に從ひさうな態度ながらの意。考に把は抱の誤とある。
〔評〕 多胡の嶺に綱をかけて引き寄せるといふのは、面白い譬喩である。出雲風土記の意宇郡國引の條や、祈年祭祝詞のトホキクニハヤソツナウチカカテヒキヨスルコトノゴトクの句が思ひ出される。從ひさうで強情な女を恨んだ歌。第四句は少し難解である。
 
3412 上つ毛野 くろほの嶺ろの くずはがた かなしけ兒らに いやさかり來も
 
賀美都氣野《カミツケヌ》 久路保乃禰呂乃《クロホノネロノ》 久受葉我多《クズハガタ》 可奈師家兒良爾《カナシケコラニ》 伊夜射可里久母《イヤサカリクモ》
 
後ニ殘シテ別レテ出テ來夕〔後ニ〜傍線〕(賀美都氣野久路保乃禰呂乃久受葉我多)可愛イ女ト益々遠ク離レテ來タヨ。アア心細ク戀シイ〔八字傍線〕。
 
(394)○久路保乃禰呂乃《クロホノネロノ》――赤城山塊の最高峯を今、黒檜嶽《クロヒダケ》といふ、これが即ち久路保乃禰呂《クロホノネロ》であらう。その東南麓に黒保根村がある、寫眞は赤城山。右端の高處が久郎保乃禰呂《クロホノネロ》であらう。○久受葉我多《クズハガタ》――地名と見る説もあるが、今かういふ地名がない。下野安蘇郡に葛生町があるけれども、勢多郡なる赤城山とは足利郡を隔てて、遠く離れてゐる。略解に「豆良の約多なればくずはがたは、葛葉かづら也」とある。葛葉かづらは、語として葉が不要のやうであるから、葛葉如《クズハゴト》の東語かも知れない。ここまでの三句は可奈師家《カナシケ》の譬喩として置いた序詞である。○可奈師家兒良爾《カナシケコラニ》――愛する女に。○伊夜射可里久母《イヤサカリクモ》――彌遠放り來るよ。女の家より益々遠く離れ行くよといふのである。
〔評〕 旅に行く男が、妻の家を顧みつつ行く場合の心であらう。上句の序詞が少し落つかぬやうであるが、下句はあはれに詠まれてゐる。
 
3413 利根川の 川瀬も知らず ただわたり 浪に逢ふのす 逢へる君かも
 
刀禰河泊乃《トネガハノ》 可波世毛思良受《カハセモシラズ》 多多和多里《タダワタリ》 奈美爾安布能須《ナミニアフノス》 安敝流伎美可母《アヘルキミカモ》
 
利根川ノ淺瀬ハ何處ニカルト〔七字傍線〕モ知ラナイデ、無暗ニ渡ツテ高〔傍線〕波ニ出逢ツテ危カツ〔四字傍線〕タヤウニ、危イ所デ〔四字傍線〕貴方ニ逢ツタモノデスヨ。モウ少シデ人目ニ觸レテ大變デアツタノニ、マヅヨカツタ〔モウ〜傍線〕。
 
○刀禰河泊乃《トネガハノ》――刀禰河沼《トネガハ》は利根川。この川は上野國利根郡から出て、(395)片品川・吾妻川などを合せて、赤城・榛名兩山の間を流れ、東に轉じて、武藏・上野の國境を下り、常陸・下總の界をなし、遠く太平洋に注いでゐるが、ここは今の前橋市附近までの上流であらう。なほこの河名を、アイヌ語とし、大河の意なりとするものがあるが、元來、上野北部山地なる利根から起つてゐるので、下流の状熊を以て河名としたのではないから、大河の意とするのは當らない。○可波世毛思良受多多和多里《カハセモシラズタダワタリ》――河瀬の深淺の樣子も知らずに、直渉りに渉つて。元暦校本は、多大和多里とある。○奈美爾安布能須《ナミユアフノス》――波に逢ふ如《ナス》の東語。ナスは如くに同じ。語源は似すであらうといはれてゐる。
〔評〕 利根河のやうな急流を横切らうとするのに、渡り瀬をも知らずに徒渉するのは、無謀も甚だしいもので、危險の極である。それにも比すべき間髪を入れない危さのうちに、人目にも付かないで、戀人に逢ひ得たことを喜んだもので、猪突的猛進的の戀である。譬喩巧妙。
 
3414 伊香保ろの やさかのゐでに 立つぬじの あらはろまでも さ寢をさ寢てば
 
伊香保呂能《イカホロノ》 夜左可能爲提爾《ヤサカノヰデニ》 多都弩自能《タツヌジノ》 安良波路萬代母《アラハロマデモ》 佐禰乎佐禰?婆《サネヲサネテバ》
 
(伊香保呂能夜左可能爲提爾多都弩自能)顯ハレテ人二知ラレ〔六字傍線〕ルホドニナツテモ、私ハ貴方ト〔五字傍線〕充分ニ共寢シタ上ノコトナラバ、カマフコトデハナイ。浮名ガ立ツテモヨイカラ打チ解ケテ寢タイモノダ〔カマ〜傍線〕。
 
○夜左可能爲提爾《ヤサカノヰデニ》――夜左可《ヤサカ》は地名であらう。上野歌解に「今水澤てふ邊りに八坂の塘《ヰテ》の跡あり、又井出野・井出野入てふ名も殘れりといへば其處《ソコ》成べし」とある。水澤は伊香保温泉の東南にある。爲提《ヰデ》は堰。河水を湛へたところ。なほ和名抄群馬郡の郷名に井出といふのがあるが、それは高崎から一里ばかり北であるから、伊香保の地域内ではないといふことである。○多都弩自能《タツヌジノ》――弩自《ヌジ》はニジの東語。ここまでの三句は、安良波路《アラハロ》と言はむ爲の序詞。虹は鮮やかに顯はれるからである。○安良波路萬代母《アラハロマデモ》――顯はるまでもの東語。○佐禰乎(396)佐禰?婆《サネヲサネテバ》――サは接頭語で意味はない。ヲは強めていふのみ。古事記に宇流波斯登佐泥斯佐泥弖波加里許母能美陀禮婆美陀禮佐泥斯佐泥弓波《ウルハシトサネシサネテバカリゴモノミダレバミダレサネシサネテバ》とあるによつて、新考は乎を斯の誤としてゐるが、さう一に律するわけには行かない。
〔評〕 上句の序詞が珍らしい。伊香保の山を背景とした水面に、くつきりと立つた鮮明な虹の七色の橋が眼前に髣髴たるを覺える。伊香保の山地は水分が多く虹の立つことも頻繁なのであらうが、この自然現象を巧に捉へた東人の炯眼に感服せざるを得ない。ことにこれが萬葉集唯一の虹の歌なることを思へば全く大和人も顔色がないと言つてよい。
 
3415 上つ毛野 伊香保の沼に うゑ子水葱 かく戀ひむとや 種求めけむ
 
可美都氣努《カミツケヌ》 伊可保乃奴麻爾《イカホノヌマニ》 宇惠古奈宜《ウヱコナギ》 可久古非牟等夜《カクコヒムトヤ》 多禰物得米家武《タネモトメケム》
 
上野ノ伊香保ノ沼ニ生エテヰル水葱ヲ、私ハ種ニ取ツテ植ヱテ置イテ、ソノ美シサニ心ヲナヤマシテヰ(397)ルガ〔私ハ〜傍線〕、コンナニ戀シク心ヲイタメヨウトテ、種ヲ求メタデアラウカ。決シテサウデハナカツタノニ、ドウシタモノデアラウ。私ハコンナ戀シイ思ヲシヨウトテ、アノ女ト知己ニナツタノデハナイノニ、ドウシタコトデアラウ〔決シテ〜傍線〕。
 
○伊可保乃奴麻爾《イカホノヌマニ》――伊可保乃奴麻《イカホノヌマ》は伊香保の沼で、今の榛名湖である。上野歌解に「伊香保沼は山の絶頂にあり。廣き所一里ばかり、水清く底深くして、魚あまたをり。岸遠淺にして花あやめ杜若のたぐひ多く、いとよき望《ナガメ》也」とある。新考は爾をノと訓むべしと言ってゐるのは無理な注文であらう。○宇惠古奈宜《ウヱコナギ》――殖小水葱。生えてゐる小水葱。水葱は水田小川などに生ずる草で、水葵《【ミヅアフヒ》ともいふ。卷三に春霞春日里之殖子水葱(四〇七)とある。その條參照。この子水葱を戀しい女に譬へたのである。
〔評〕 伊香保の沼に多く生えてゐる水葱を以て、女を譬へてゐるが、この事は、食用となる外に、下に奈波之呂乃古奈伎我波奈乎伎奴爾須里奈流留麻爾未仁阿是可加奈思家《ナハシロノコナギガハナヲキヌニスリナルルマニマニアゼカカナシケ》(三五七六)とあるやうに、衣服の染料にも用ゐられたので、花の色は紫で美しい。その可憐な點で、女を聯想したのであらう.用語はみやびやかである。
 
3416 上つ毛野 かほやが沼の いはゐづら 引かばぬれつつ あをな絶えそね
 
可美都氣努《カミツケヌ》 可保夜我奴麻能《カホヤガヌマノ》 伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可波奴禮都追《ヒカバヌレツツ》 安乎奈多要曾禰《アヲナタエソネ》
 
貴女ハ私ガアナタヲ〔九字傍線〕(可美都気努可保夜哉奴麻能伊波爲都良)引イタナラバ、ナヨナヨト靡キ寄ツテ、イツマデモ〔五字傍線〕私ヲ疎ンジテ下サルナヨ。
 
○可保夜我奴麻能《カホヤガヌマノ》――可保夜が沼は所在不明。上野歌解に「山吹日記云、群馬郡甲波宿禰神社の境内に在しを天明三年淺間燒、吾妻川泥おしの時流失せりとあれど、さる沼の在し所のさまにもあらず。或はいふ邑樂郡に大沼(398)四つあり。此内にやなどもいへど慥ならず、思ふに伊香保とよく詞かよひたれば、若し是もいかほの沼の事にはあらざるか。」とある。○伊波爲都良《イハヰヅラ》――伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良《イリマヂノオホヤガハラノイハヰヅラ》(三三一八)參照。上野歌解は蓴菜《ジユンサイ》のこととしてゐる。以上の三句は引かばとつづく序詞。○比可婆奴禮都追《ヒカバヌレツツ》――引き寄せれば靡いて。○安乎奈多要曾禰《アヲナタエソネ》――我に絶ゆることなかれの意。
 
〔評〕 この歌は前の武藏國の歌、伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《イリマヂノオホヤガハラノイハヰヅラヒカバヌルヌルワニナタエソネ》(三三七八)と同型同意で、唯、地名を異にするのみである。また阿波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴留阿乎許等奈多延《アハヲロノヲロタニオハルタハミヅラヒカバヌルヌルアヲコトナタエ》(三五〇一)とも似てゐる。
 
3417 上つ毛野 いならの沼の 大藺草 よそに見しよは 今こそまされ
 
可美都氣奴《カミツケヌ》 伊奈良能奴麻能《イナラノヌマノ》 於保爲具左《オホヰグサ》 與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》 伊麻許曾麻左禮《イマコソマサレ》【柿本朝臣人麿歌集出也】
 
(可美都氣奴伊奈良能奴麻能於保爲具左)遠クテ見タヨリモ、カウシテ近ク今相對シテ見ルト〔カウ〜傍線〕、一層立マサツテ貴方ハ見エ〔五字傍線〕マスヨ。
 
○伊奈良能叔麻能《イナラノヌマノ》――伊奈良の沼も所在不明。上野歌解に「或曰邑樂郡板倉の沼ならんかと云るはさも有べし。さばかりなる大沼の四つまでは此ほとりにありといへば、昔はことに廣かりけんを、いひもらすべきいはれあらねばなり」とある。板倉沼は邑樂郡は東方にある沼。その沼の西邊が板倉村であつたのを、岩田・籾谷などを合せて伊奈良《イナラ》村と改めたのは、右に記したやうな説によつたもので、古名が殘つてゐるのではないから、證據にはならない。○於保爲具佐《オホヰグサ》――大藺草。和名抄に「莞(399)唐韵云、莞漢語抄云、於保井可2以爲1v席者也」とあり、フトヰに同じく、席を織る藺草の太きものである。ここまでは序詞で、伊奈良沼に生えてゐる太藺が、遠くから見るよりも、苅り取つて見れば立派だといふに譬へたのである、譬へる意は薄いから、序詞と見ねばならぬ。古義に於保《オホ》に凡《オホヨソ》の意をもたせたのであらうと言つたのは從ひ難い。○與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》――他所ながら見しよりはの意。
〔評〕 東國の地名が詠んであるといふだけで、東歌らしい感じが稀薄である。註して柿本朝臣人麿歌集出也とあるのは、愈々その感を深くせしめるものがある。
 
3418 上つ毛野 佐野田の苗の むら苗に 事は定めつ 今はいかにせも
 
可美都氣努《カミツケヌ》 佐野田能奈倍能《サヌダノナヘノ》 武良奈倍爾《ムラナヘニ》 許登波佐太米都《コトハサダメツ》 伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》
 
(可美都氣努佐野田能奈倍能)占ヲシテ私ノ身ヲ寄セル筈ノ〔九字傍線〕人ヲ定メテシマヒマシタ。貴方ノ御言葉ハ有リ難イケレドモ〔貴方〜傍線〕、今トナツテハモウ何トモ致シ方ガアリマセヌ。
 
○佐野田能奈倍能《サヌタノナヘノ》――佐野田は高崎市南方なる群馬郡の佐野の田であらう。但し、これをサヤダと訓んで和名抄に「那波郡鞘田佐也田」とある地とする説もある。那波郡は佐位郡と合して今は佐波郡と改稱せられてゐる。鞘田郷は、今の玉村と群馬郡瀧川村とにあたり、この兩村に齋田、下齋田の地があるのは、莢田の名が殘つてゐるのである。散木集に「秋かへすさやたにたてる稻くきのねごとに身をもうらみつるかな」「ながれつるせこのみわもりかずそひてさや田のさなへとりもやられず」などあるは、古くこれをサヤダと訓んだ證である。然し、左野乃九多知《サヌノククタチ》(三四〇六)・佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》(三四二〇)など皆野をヌと訓むべきやうであるから、これも同樣にサヌダとするのが無難ではあるまいか。ここまでは群苗とつづく序詞。○武良奈倍爾《ムラナヘニ》――群苗に。群苗は群がり生(400)じたる苗、これをウラナヘ(卜占)の意に言ひかけたので、東語では、ウラナヒをムラナへと言つたのだらうと見るのである。併し又この歌から、群苗を以てうらなふ方法があつたものとも考へることが出來る。その方法は苗代から一束の苗を採つて、その數を調べ、その丁半によつて吉凶を判斷するといふやうなものであつたかと想像せられる。○許登波佐太米都《コトハサダメツ》――事は定めつ。○伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》――今は如何にせむ。もはや何とも致し方なしの意。セモはセムに同じ。
〔評〕 武良奈倍《ムラナヘ》の解に異説もあるが、卜占の一種と見るのが當つてゐるであらう。下句を略解は「我戀の成むやと占とへば、成まじきと占に定まりぬ。しかれば、今はいかにしてましと歎く也」と解してゐるが、言ひ寄つて來た男に對して、女が自分は既に卜占によつて、神意をたづね、他に約した男があると述べて、斷つた言葉と見るべきであらう。神慮を信じ恐れた上代人の心が見えてゐる。男を謝絶する方便と見てはいけない。
 
3419 伊香保夫よ 汝が泣かししも 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも
 
伊香保世欲《イカホセヨ》 奈可中次下《ナガナカシシモ》 於毛比度路《オモヒドロ》 久麻許曾之都等《クマコソシツト》 和須禮西奈布母《ワスレセナフモ》
 
伊香保ノ男ヨ。アナタガ私ヲ慕ツテ〔五字傍線〕泣キナサツタ親切サ〔三字傍線〕モ私ハ〔二字傍線〕思ツテヰルガ、アナタガ私ニ〔六字傍線〕隱シゴトヲシタト云フコトヲ〔五字傍線〕、忘レナイヨ。私ノ外ニ心ヲウツシタノヲ遺憾ニ思ヒマス〔私ノ〜傍線〕。
 
○伊加保世欲《イカホセヨ》――伊香保夫よの意であらう、新訓は伊可保加世に改めて、欲を次句に入れてゐる。○奈可中次下《ナガナカシシモ》――汝が泣かししもであらう。この句は舊訓ナカナカシケニと訓み、新訓は欲奈可吹下《ヨナカフキオロシ》に改めてゐる。次の字、元暦校本、吹に作るに從つたのであるが、中の字を省いたのはどうかと思はれる。○於毛比度路《オモヒドロ》――思へどもの東語であらう。○久麻許曾之都等《クマコソシツト》――久麻は隈で隱《コモリ》の約であらうから、吾が目を忍ぶ隱事をしたとの意で、クマコソシツレトと言ふに同じであらう。○和須禮西奈布母《ワスレセナフモ》――忘れせなくも、即ち忘れないよの意。ナフは(401)ナク、ヌに同じである。
〔評〕 この歌は全く解し難い。第二句に誤字あるものとして、種々の説が立てられてゐるが、出來るだけ原本を尊重して、右の如く解いて置いた。これで充分といふのではないが、從來の説よりは幾分よいであらう。なほ慎重な研究を要する。
 
3420 上つ毛野 佐野の舟橋 取り放し 親はさくれど わはさかるがへ
 
可美都氣努《カミツケヌ》 佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》 登利波奈之《トリハナシ》 於也波左久禮騰《オヤハサクレド》 和波左可禮賀倍《ワハサカルガヘ》
 
二人ノ間ヲ(可美都氣努佐野乃布奈波之)引キ離シテ親ハ裂クケレドモ、私ハ離レヨウヤ、決シテ離レハシナイヨ〔決シ〜傍線〕。
 
○佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》――佐野の舟橋。群馬郡の佐野で、古昔烏川に架けた橋。舟を並べ板を渡して橋としたものである。あの附近河幅一町を越え、かなりの水勢であるから、舟橋を架けたといふ傳説も、強ち否定出來ない。ここまでの二句を、取放しの序詞とする説が多い。舟橋は出水などの場合、取り放つからである。寫眞は著者撮影。○登利波奈之《トリハナシ》――取放ちに同じ。繋いだ舟を取り放つて舟橋を解體するのである。男女二(402)人の間を引き放つことを言つてゐる。○於也波左久禮騰《オヤハサクレド》――親は二人の間を裂くけれども。○和波左可禮賀倍《ワハサカルガヘ》――我は裂かれむや、裂れはせじといふのである。ガヘはカヨに同じく、反語である。下に等思佐倍己其登和波佐可流我倍《トシサヘココトワハサカルガヘ》(三五〇二)・卷二十に宇麻夜奈流奈波多都古麻乃於久流我辨《ウマヤナルナハタツコマノオクルガヘ》(四四二九)とあり、又元暦校本以下の古本多く禮を流に作つてゐるから、それに從つてサカルガヘとするがよい。
〔評〕 初二句は序詞と見ないで、女の許に通ふ男が、縱令舟橋を取りはづして通はれないやうにして、二人の間を裂かうとしてもの意に解することも出來る。しかし地方で有名な佐野の舟橋を序詞として取り入れた作品と見れば、それでもよいから、右のやうに解くことにした。この歌を本にして、謠曲「舟橋」は作られてゐるが、その中に「佐野の船橋取り放し又鳥は無しと二流に讀まれたるは、何と申したる謂にて候ぞ」とあるのは滑稽である。なほ鷄を板に乘せて川に放つたので「とりはなし」と詠んだのだといふ俗説もある。東歌の中では古くから人口に膾炙したものである。枕草子 橋はの條に佐野の舟ばしとあり、詞花集の「夕霧に佐野の舟橋音すなりたなれの駒のかへり來るかも」はこの歌から出たもので、清新な佳作だ。
 
3421 伊香保嶺に 雷な鳴りそね 吾が上には 故はなけども 兒らに因りてぞ
 
伊香保禰爾《イカホネニ》 可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》 和我倍爾波《ワガヘニハ》 由惠波奈家杼母《ユヱハナケドモ》 兒良爾與里?曾《コラニヨリテゾ》
 
伊香保ノ峯ニ雷ハ鳴ルナヨ。私ニトツテハ雷ガ鳴ツタトテ、別ニ恐ロシイコトモナイカラ〔雷ガ〜傍線〕、何ノコトモナイガ、アノ女ガ恐ロシガルカラ鳴ルナト云フノ〔七字傍線〕ダゾ。
 
○可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》――雷は鳴るなよの意。○和我倍爾波《ワガヘニハ》――吾が身にとりては。ヘはウヘの略。吾が家とするのは當らない。下に巨麻爾思吉比毛登伎佐氣?奴流我倍爾《コマニシキヒモトキサケテヌルカヘニ》(三四六五)とあるヘに同じ。○由惠波奈家杼母《ユヱハナケドモ》――故は無けれども。○兒良爾與里?曾《コラニヨリテゾ》――兒らに依りてぞ、女が恐しがるからだの意。
(403)〔評〕 けたたましく轟く雷鳴を聞いて、この音に如何ばかり愛する女がおびえてゐるだらうと想像して、雷鳴の鎭まることを祈つた歌で、眞情の溢れたよい作である。古義に男女伴つて伊香保邊を行く時の歌としてゐるが、さうも限るまい。二人別れてゐる時の男の心と見る方が却つてよいであらう。
 
3422 伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど あが戀のみし 時なかりけり
 
伊香保可是《イカホカゼ》 布久日布加奴日《フクヒフカヌヒ》 安里登伊倍杼《アリトイヘド》 安我古非能未思《アガコヒノミシ》 等伎奈可里家利《トキナカリケリ》
 
伊香保ノ風ハ、吹ク日モ吹カナイ日モアルケレドモ、私ノ戀ダケハ、何時トイフ區別モナク、始終止ムコトハナイヨ〔ナク〜傍線〕。
 
○伊香保可是《イカホカゼ》――伊香保風。伊香保を吹く風。佐保風・飛鳥風・泊潮風・白山風などの類である。○等伎奈可里家家利《トキナカリケリ》――何時といふ定まつた時はない、何時でも斷えず吹いてゐるよの意。ケリは詠嘆の辭として添へられてゐる。
〔評〕 伊香保地方の歌とも見られぬことはないが、伊香保風は唯對照的に出したものかも知れない。東歌としては言葉がみやびてゐる。
 
3423 上つ毛野 伊香保の嶺ろに 降ろ雪の 行き過ぎがてぬ 妹が家のあたり
 
可美都氣努《カミツケヌ》 伊可抱乃禰呂爾《イカホノネロニ》 布路與伎能《フロユキノ》 遊吉須宜可提奴《ユキスギガテヌ》 伊毛賀伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》
 
戀シイ〔三字傍線〕女ノ家ノ邊ハ(可美都氣努伊可諾乃禰呂爾布路與伎能)通リ過ギ難イモノダ。
 
(404)○布路與伎能《フロヨキノ》――降る雪の。ヨキは雪の東語。今も越後の方言で、雪をヨキと言つてゐる。ここまでの三句は序詞で、ヨキをユキと繰返してゐる。○遊吉須宜可提奴《ユキスギガテヌ》――行過ぎ勝《ガ》てぬ。行き過ぐるに堪へずの意。
〔評〕 地名を入れて序詞としただけで、内容は頗る簡單である。第三句に東歌としての特色が見えてゐる。
 
右二十二首上野國歌
 
東歌中、數の多いこと上野國に及ぶものはない。
 
3424 下つ毛野 みかもの山の 小楢のす まぐはし兒ろは 誰が笥か持たむ
 
之母都家野《シモツケヌ》 美可母乃夜麻能《ミカモノヤマノ》 詐奈良能須《コナラノス》 麻具波思兒呂波《マグハシコロハ》 多賀家可母多牟《タガケカモタム》
 
下野ノ三鴨ノ山ノ小楢ノ木ノヤウニ、美シイアノ女ハ、誰ノ妻トナツテ御飯ノ〔八字傍線〕器ナドヲ持ツデアラウ。誰ノ妻ニナツテ御飯ノ世話ナドヲスルデアラウ〔誰ノ〜傍線〕。
 
○美可母乃夜麻能《ミカモノヤマノ》――三鴨の山の。三鴨山は今、下都賀郡の西部、岩舟山の西南にある小丘である。省線岩舟驛に近い。延喜式に三鴨驛とあるのは今の岩舟・小野寺・靜和等の諸村に當り、和名抄に三島郷とあるのは三鴨郷の誤であらうと言はれてゐる。寫眞は著者撮影。○許奈良能須《コナラノス》――小楢なす。小楢の木のやうに。小楢(405)は即ち柞《ハハソ》である。一七三〇參照。略解に「若葉さす夏は陰好ましきものなれば、妹をほむる譬とせしならむ」とある。或はこの木の紅葉に譬へたものか。今も櫪の種類が滿山を埋めてゐる。宣長は「こならのすは高くの序也。こならは、本楢也」と言つてゐる。古義は楢の若木と解してゐる。○麻具波思兒呂波《マグハシコロハ》――愛らしき女らは。○多賀家可母多牟《タガケカモタム》――わからない句である。契沖が「高くか待たむなり。われを遠く高々に待らんとおもひやるなり」と言つたのに從ふ説が多いが、少し無理であらう。古義に誰笥歟將持《タガケカモタム》と見て、笥を持つとは、即ち妻となることであるから、誰が妻となるだらうかといふ意に見た大神眞潮説を肯定してゐる。暫らくそれに從ふことにする。或は家《ケ》は子の轉で、誰の妻となり、誰の子を持つであらうかと言つたものかとも考へられるが、子をケと言つた東語がなく、又ここに、コナラ・マグハシコロなどとコを用ゐてゐるから、ケを子と解するのは無理であらう。
〔評〕 上句の譬喩が田舍人らしく、しかもまことになつかしい感じを與へる。結句を充分に解き得ないのは遺憾である。
 
3425 下つ毛野 安蘇の河原よ 石踏まず 空ゆと來ぬよ 汝が心告れ
 
志母都家努《シモツケヌ》 安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》 伊之布麻受《イシフマズ》 蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》 奈我巳許呂能禮《ナガココロノレ》
 
(406)私ハ〔二字傍線〕下野ノ安蘇ノ河原ヲ通ツテ、來タケレドモ心ハ空ニナツテ、河原ノ〔來タ〜傍線〕石モ踏マナイデ空ヲ飛ンデ來タヨ。コレ程モ思ツテヰル私ニ對シテ〔コレ〜傍線〕、アナタノ心ヲ打アケナサイ。
 
○志母都氣努《シモツケヌ》――前に可美都氣努安蘇能麻素武良《カミツケヌアソノマソムラ》(三四〇四)とあるのと同所であらう。今は下野に屬してゐる。○安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》――安蘇の河原は今の安蘇郡佐野町を流れる秋山川である。寫眞は著者撮影。ヨはヨリ。ここではヲに同じ。○蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》――空よと來ぬよ。空からと思つて飛んで來たよ。足が地に着かず空飛ぶ思で來たよといふのであらう。○奈我巳許呂能禮《ナガココロノレ》――汝が心告れ。汝の心を明らかに言ひなさい。
〔評〕 男が女の評へ尋ねて來て、自分の心が上の空になり、足も地につかぬ思ひでやつて來たのだから、おまへの心を打明けよと強要する言葉である。言葉も調子も力強い表現になつてゐる。
 
右二首下野國歌
 
3426 會津嶺の 國をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね
 
安比豆禰能《アヒヅネノ》 久爾乎佐杼抱美《クニヲサドホミ》 安波奈波婆《アハナハバ》 斯努比爾勢毛等《シヌビニセモト》 比毛牟須婆佐禰《ヒモムスバサネ》
 
私ハ今カラ旅ニ出テ行クガ、旅ニアツテ〔私ハ〜傍線〕、會津嶺ノ聳エテヰルコノ〔七字傍線〕國ガ遠イノデ、アナタニ〔四字傍線〕逢ハナイナラバ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出ス種トシヨウトテ、私ノ着物ノ〔五字傍線〕紐ヲ結ンデ置イテ下サイヨ。ソレヲ見テ心ヲ慰メヨウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○安比豆禰能《アヒヅネノ》――會津嶺の。會津嶺のある國と下へつづいてゐる。古義に第三句|安波奈波婆《アハナハバ》の上につづけて、枕詞としたのは誤。宣長も、二一三と次第して見べし。あひづねのあはなはば、Lからざれば初句いたづら也」と言つてゐるがよくない。會津嶺は岩代會津地方の山。磐梯山の舊名といはれてゐる。その地方を、耶麻郡と(407)稱し、この山がその郡名の基をなしてゐるといふ見地からかく推定するのである。○久爾乎佐杼抱美《クニヲサドホミ》――國をさ遠み。サは接頭語のみ。○安波奈波婆《アハナハバ》――逢はないならば。○斯努比爾勢毛等《シヌビニセモト》――偲びにせもと。舊本牟に作り、モと點してあるが、元暦校本その他、毛に作つてゐるから、牟は誤である。セモはセムに同じ。○比毛牟須婆左禰《ヒモムスバサネ》――紐結ばさね。吾が衣の紐を結び給への意。
〔評〕 會津を出立して旅に上る男の歌であらう。旅立に際して妻が男の紐を結ぶ風習のあつたことは妹之結紐吹返《イモガムスビシヒモフキカヘス》(二五一)その他で明らかである。
 
3427 筑紫なる にほふ兒ゆゑに 陸奥の かとり處女の 結ひし紐解く
 
筑紫奈留《ツクシナル》 爾抱布兒由惠爾《ニホフコユヱニ》 美知能久乃《ミチノクノ》 可刀利乎登女乃《カトリヲトメノ》 由比思比毛等久《ユヒシヒモトク》
 
筑紫ノ國ノ〔二字傍線〕美シイ女ノ爲ニ、私ノ故郷ノ〔五字傍線〕陸奥ノ可刀利ノ少女ガ私ノ爲ニ〔四字傍線〕結ンデクレタ紐ヲ解イテシマツタ。ツヒ目ノ前ノ美女ニ親シンダガ、故郷ノ女ニハスマナ(408)イコトヲシタ〔ツヒ〜傍線〕。
 
○爾抱布兒由惠爾《ニホフコユヱニ》――匂ふ兒故に。美しい女故に。ダノニの意のユヱニとは違つてゐる。○可刀利乎登女乃《カトリヲトメノ》――可刀利乎登女《カトリヲトメ》を契沖は※[糸+兼]《カトリ》を織る處女と見てゐるが、カトリは地名らしい。併し陸奥にその地名がないやうだから、或は下總の香取ではあるまいか。下總でも東海道の極の意で、道の奧と言つてさしつかへはあるまい。茲に陸奧國歌に入れてあるからとて、それに拘泥することはいらない。檜垣嫗集には大隅・薩摩をおく〔二字傍点〕といつてゐる。
〔評〕 香取の里人が筑紫で作つた歌である。防人として筑紫に赴いた人の作と解せられてゐるのは當つてゐる。併し集中陸奥國には防人の歌が一首もないから、陸奥からは防人を徴發しなかつたものと見ねばならぬ。さうすればこの歌の美智能久乃可刀利《ミチノクノカトリ》は右の語釋に記したやうに、陸奥ではなく、下總の香取であらねばならぬ。純眞な男の僞はらざる告白である。
 
3428 安太多良の 嶺に伏すししの 在りつつも あれは到らむ ねどな去りそね
 
安太多良乃《アダタラノ》 禰爾布須思之能《ネニフスシシノ》 安里郡都毛《アリツツモ》 安禮波伊多良牟《アレハイタラム》 禰度奈佐利曾禰《ネドナサリソネ》
 
安太多良ノ峯ニ伏ス鹿猪ガ、イツデモ寢處ヲカヘナイデ寢ルヤウニ〔イツ〜傍線〕、何時デモ變ラズニ私ハ、アナタノ所ヘ〔六字傍線〕行カウト思フ。ダカラ、アナタモ〔十字傍線〕寢處ヲ外ヘ〔二字傍線〕變ヘナイデ下サイ。
 
○安太多良乃禰爾布須思之能《アタタラノネニフスシシノ》――安太多良の嶺は卷七に陸奥之吾田多良眞弓《ミチノクノアタタラマユミ》(一三二九)とある岩代安達郡の山で、即ち今の安達太良山である。寫眞は二本松城山よりの遠望。禰爾布須思之《ネニフスシシ》は嶺に伏す鹿猪の類をいふ。○安里都都母《アリツツモ》――かうしていつまでも變らず。○安禮波伊多良牟《アレハイタラム》――我は到らむ。○禰度奈佐利曾禰《ネドナサリソネ》――寢處な去り(409)そね。汝の寢處を去るなの意。
〔評〕 鹿猪の類が、寢所を忘れず、必ずそこへ歸つて來る習性を譬喩に用ゐたのは、狩獵に親しんでゐる山人の歌であらう。一・三・四の三句にアの頭韻を揃へたのは偶然であらうが、謠物として、ふさはしいやうに思はれる。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
右三首陸奥國歌
 
譬喩歌
 
3429 遠江 引佐細江の みをつくし あれをたのめて あさましものを
 
等保都安布美《トホツアフミ》 伊奈佐保曾江乃《イナサホソエノ》 水乎都久思《ミヲツクシ》 安禮乎多能米?《アレヲタノメテ》 安佐麻之物能乎《アサマシモノヲ》
 
遠江ノ引佐細江ノ澪標ハ、深イ所ニ立テテアルモノダガ、貴方モサモ心深サウニ〔深イ〜傍線〕私ヲ思ハセテ置キナガラ、實ハ〔二字傍線〕淺イ心デアルノニ。ツヒダマサレタ〔七字傍線〕。
 
○等保都安布美《トホツアフミ》――遠つ淡海。遠江。卷二十防人歌に等倍多保美志留波乃伊宗等《トヘタホミシルハノイソト》(四三二四)とあり、方言でトヘタホミとも言つたのである。和名抄に止保太阿不三とあるが、宣長は阿は衍字だといつてゐる。○伊奈佐保曾江乃《イナサホソエノ》――引佐細江の。引佐細江は濱名湖の東北へ灣入した部分で、井伊谷川がこれに注いでゐる。(410)北に引佐峠が聳えてゐる。但し東海道圖會には「幻阿遠江記曰、官山寺は湖山の中へつと指出たる山崎にて奥の方の山を引佐峠といふ。其麓を流るる水の江に入るを、引佐細江といふ。然るに光廣卿の東の記には、舞坂と濱松の間、左に窪やかなる田のあるを細江の跡と人の告げたる由見ゆ、いぶかし」とあるから、その所在に關し異説もあるのである。眞淵は萬葉集遠江歌考に「いなさ細江は和名集に當國に引佐郡侍りて、今も其山をいなさ山といひ、村にもいなさといふあり、山あひをふかくいりまがりたる入江にて細江といふべく、えもいはずよきけしきの所なり。後の人は大道ならでは、よき人歌よむ人も、行かはじとおもふより、濱松舞澤のあひだ蓮ある池などをいふとて、後世僞作せる風土記などにもさと書しなり云々」と記してゐる。これによると濱名湖の一部ではなくて、山間へ入り込んだ小い江のやうであるが、著者が踏査したところによると、氣賀町から十町ばかりの下流の湖畔で、河中には今も澪標やうのものを立てて、船の通行に便にしてある。口繪寫眞參照。○水乎都久思《ミヲツクシ》――澪標。水脈つ串。舟の通ふべき深所を示す木標。○安禮乎多能米?《アレヲタノメテ》――我を頼みに思はせて、我をあてにさせて。○安佐麻之物能乎《アサマシモノヲ》――安佐麻之《アサマシ》は淺まし。淺ましは淺しに同じく、マは添へたもの。中世以來のものに「あさま」といふ副詞が用ゐられてゐる。この句は淺きものをといふに同じ。
〔評〕 水の深きところを指示する澪標を譬喩として、表面だけ深い心を持つてゐるやうな顔をしてゐる人をなじつたのである。女の歌であらう。上品な作である。この歌、袖中抄に載せてある。
 
右一首遠江國歌
 
3430 志太の浦を 朝漕ぐ船は よし無しに 漕ぐらめかもよ よしこざるらめ
 
斯太能于良乎《シダノウラヲ》 阿佐許求布禰波《アサコグフネハ》 與志奈之爾《ヨシナシニ》 許求良米可母與《コグラメカモヨ》 余志許佐流良米《ヨシコザルラメ》
 
(411)志太ノ浦ヲ朝漕イデ行〔三字傍線〕ク舟ハ、何ノ理由モナクテ漕イデヰルノデアラウカ。決シテサウデハナイ。必ズ何處ヘカ舟ヲツケル目的ガアツテ漕イデヰルノデアル。何故私ノ夫ハコチラヘハ〔決シ〜傍線〕ヨツテ來ナイノダラウ。
 
○斯太能宇良乎《シダノウラヲ》――斯太能宇良《シダノウラ》は志太の浦。駿河國の南端が志太郡で、その地方の海邊を指すのであらう。即ち大井川の河口附近である。○與志奈之爾《ヨシナシニ》――理由なしに。○許求良米可母與《コグラメカモヨ》――漕ぐのであらうかよ、さうではないよの意。○余志許佐流良米《ヨシコザルラメ》――舊本、奈とあるが元暦校本に余に作るのに從ふべきであらう。どうして寄つて來ないのであらうの意。ラメはラムに同じ。コソの係辭がなくとも、かやうに用ゐた例がある。舊本のままならばナシは何故の意で、何故に來ないのであらうの意となる。
〔評〕 男の來るのを待つ女の歌。志太の浦漕ぐ舟もいつかは港に泊てるやうに、道行く人も必ず目的の家に寄り來るものなるに、何故あの人は寄つて來ないのであらうかと、怪しんだのである。志太の浦を朝漕ぐ舟を眺めつつ、一夜を待ち明かした悲しみをそれに托してゐるやうに見える、淋しい氣分が漂つてゐる。
 
右一首駿河國歌
 
3431 足がりの あきなの山に 引こ船の しり引かしもよ ここば來難に
 
阿之我里乃《アシガリノ》 安伎奈乃夜麻爾《アキナノヤマニ》 比古布禰乃《ヒコフネノ》 斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》 許己波故賀多爾《ココバコガタニ》
 
足柄ノ安伎奈ノ山デ作ツタ〔三字傍線〕舟ヲ、下ニ〔二字傍線〕引キ下ス時ニハ、艫ノ方ニ綱ヲツケテ尻カラ引クガ、ソノ〔時ニ〜傍線〕ヤウニ、アナタハ〔四字傍線〕アトスザリヲナサルヨ。サウシテ私ノ所ヘ〔八字傍線〕大サウ來難イヤウナ風ヲ〔五字傍線〕ナサル。
 
○阿之我里乃《アシガリノ》――足柄の。○安伎奈乃夜麻爾《アキナノヤマニ》――安伎奈乃夜麻《アキナノヤマ》は何處か分らない。いづれ海に近い方面の山(412)であらう。○比古布禰乃《ヒコフネノ》――引く舟の。山で作つた舟を海に引きおろすのである。山で舟を作るのは、おかしいやうであるが、昔は大木を切つて、これを削つて舟とするのだから、切つた舟木を谷間などに轉ばし、ここで舟の形に作りあげ、それを徐々海へ下したのである、日本靈異記に、「諾樂宮御大八洲國之帝姫、阿倍天皇御代、紀伊國牟婁郡熊野村、有2永興禅師1云々、熊野村人、至2于熊野河(ノ)之上(ノ)山1伐v樹作v船云々。後經2半年1引v船入v山云々」と見えてゐる。○斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》――後《シリ》引くを延べて、後引かしと言つたので、引カシは引カスの東語である。それに詠嘆の助詞モとヨとを添へてゐる。古義に「山より船を下すには、舳《ヘ》のかたへ綱を着て引に波の上とは異にて、艫《トモ》のかたより引留るやうに覺えて、甚く寄難なるに、たとへていふなり」とあるが、艫から後すさりに引くのである。○許己波故賀多爾《ココバコガタニ》――許多《ココバ》來難にであらう。略解は此處はと解釋してゐる。ココバは、大に、甚だしくの意。甚だしく來難くするといふのである。
〔評〕 作り上げた船を山から下す時に、艫の方を先にして引く樣に譬へて、男が逡巡して女を訪はないことを罵つてゐる。東語が全面的に用ゐられて、如何にも東歌らしい。この歌、袖中抄に引いてある。
 
3432 足がりの 吾をかけ山の かづの木の わをかづさねも かづさかずとも
 
阿之賀利乃《アシガリノ》 和乎可※[奚+隹]夜麻能《ワヲカケヤマノ》 可頭乃木能《カヅノキノ》 和乎可豆佐禰母《ワヲカヅサネモ》 可豆佐可受等母《カヅサカズトモ》
 
アナタハ私ヲ思ツテ下サルナラバ〔アナ〜傍線〕(阿志賀利乃和乎可※[奚+隹]夜麻能可頭乃木能)私ヲ何處ヘカ連レ出シテ下サイヨ。縱令〔二字傍線〕連レ出シニククテモ、是非サウシテ下サイ〔九字傍線〕。
 
○和乎可鷄夜麻能《ワヲカケヤマノ》――かけ山といふ山名を、我を懸けと、かけ詞にしたので、我《ワ》をには意味はない。布留山・布留川を、袖振山《ソデフルヤマ》(五〇一)・袖振河《ゾデフルカハ》(三〇一三)などといふ類である。かけ山は仙覺抄には、彼が久しくこの山について疑問を抱いてゐたが、建長三年霜月、駿河に赴かうとして關本の宿で、老翁から、わをかけ山はかくらの獄のこ(413)とだと教へられた由を記してゐる。かくらの嶽は矢倉嶽のことであらう。山北驛の西南、金時山の東北に聳えてゐる。然るに箱根七湯志には、小田原の國學著吉岡信之(千葉葛野門)の説によつて、小田原からただ向ひに見える聖《ヒジリ》が嶽であらうと斷じ、このあたりには鞍掛山・石垣山・笠掛山などカケと呼んでゐる山があると言つてゐる。なほ「八雲御抄に、とひのかふちはわをかけ山の邊とあり。土肥は此山の南の麓なり。云々」と述べて、仙覺説と全く違つてゐる。今はその何れがよいか分らない。○可頭乃木能《カヅノキノ》――カヅの木は穀《カヂ》の木であらうと契沖は言つてゐるが、伴信友の比古婆衣、間宮永好の犬鷄隨筆、箱根七湯志などに、相模地方でカヅノ木といふはヌルデのこととしてゐるから、これに從ふべきであらう。植物和漢異名辭林にもカヅの木はヌルデとしてゐる、ヌルデは漆料の植物で、山野に自生する落葉小喬木、葉は羽状複葉にして長さ一尺許。この葉に生ずる五倍子即ちフシを藥用染料に供する。ふしのきのと稱するはこの爲である。ここまでの三句は同音を繰返して、次句の可豆佐禰母《カヅサネモ》へつづく序詞。○和乎可豆佐禰母《ワヲカヅサネモ》――わからない句である、考に我をかどはかせよの意とし、「かどはすとのみ今はいふを、卷十八に、可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於保世母天故事部爾夜良婆比登|加多波《カタバ》牟可母、後撰集に、香をだにぬすめてふ同じ心をとて、春風の花の香かどふふもとにはともよめれば、ぬすむことをかだす・かづす・かどすなどいひしなり。」とあるに從ふことにしよう。○可豆佐可受等母《カヅサカズトモ》――これも考に、かどはかし難くともの意に解し、「かづさかずとも、かどしかぬともは音通へり」と言つてゐるのに從つて置かう。
〔評〕 上句は同音を繰返して作つた序詞であるが、巧に地方色をあらはし得てゐる。下句は少し難解である。右のやうに解すれば戀の爲に理性を失つた女の、大膽な聲である。袖中秒に引いてある。
 
3433 薪こる 鎌倉山の 木垂る木を まつと汝が言はば 戀ひつつやあらむ
 
多伎木許流《タキギコル》 可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》 許太流木乎《コダルキヲ》 麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》 古(414)非都都夜安良牟《コヒツツヤアラム》
 
私ガ旅ニ出タ後デ〔八字傍線〕(多伎木許流可麻久良夜麻能許太流木乎)待ツテヰル〔三字傍線〕トオマヘガ言フナラバ、私モオマヘヲ〔六字傍線〕戀シク思フコトデアラウ。
 
○多伎木許流《タキギコル》――枕詞。薪切る鎌とつづいてゐる。○可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》――鎌倉山は、今の鎌倉の背後の山々をいふのであらう。今の鶴岡の大臣山なりとする説は當らない。○許太流木乎《コダルキヲ》――木垂る木を。卷三に東市之殖木乃木足左右《ヒムカシノイチノウヱキノコダルマデ》(三一〇)とある。老木となつて、枝の垂れたのをかくいふのである。ここまでの三句は松を待つにかけた序詞である。○麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》――待つと汝が言はば。汝が我を待つといふならば。○古非都追夜安良牟《コヒツツヤアラム》――我は汝を旅にあつて戀しく思つてゐることであらうかの意。古義に「いたづらに戀しくのみ思ひつゝあるべしやは」と反語に見たのは當らない。新考に「ウハ氣ヲセズニコヒツツアラムカといへるなり」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 旅に出かける男が、女と別を惜しんだ歌。私を侍つてゐると、おまへが言つてよこすなら、私も歸ることが出來ないで、おまへを戀しく思つてゐるであらうと、旅中の淋しさを想像したのである。古今集の「立ち別れいなばの山の峯に生ふるまつとし聞かば今かへり來む」と少し似通つた點がある。
 
右三首相模國歌
 
3434 上つ毛野 安蘇山つづら 野を廣み はひにしものを あぜか絶えせむ
 
可美都家野《カミツケヌ》 安蘇夜麻都豆良《アソヤマツヅラ》 野乎比呂美《ヌヲヒロミ》 波比爾思物能乎《アヒニシモノヲ》 安是加多延世武《アゼカタエセム》
 
(415)(可美都家野安蘇夜麻都豆良野乎比呂美)永イ間思ヒ合ツテヰル二人ノ間デアル〔七字傍線〕ノニ、ドウシテ絶エルコトガアラウゾ。二人ハ何時マデモ絶エルコトハナイ〔二人〜傍線〕。
 
○安蘇夜麻都豆良《アソヤマツヅラ》――安蘇山に生えてゐる黒葛。安蘇山は、上野歌解に「今の相馬嶽の事にて、其邊りより箕輪のわたりをかけて、安蘇の莊と云ふとぞ。此相馬も伊香保の一峰にして、云う々」とあるが從ひ難い。前に志母都家努安素乃河泊良欲《シモツケヌアソノカハラヨ》(三四二五)とある安蘇郡の山で、即ち今の下野佐野町附近である。著者の實地踏査によると、この山は今の唐澤山ではなからうかと思はれる。この山に生えてゐる黒葛が麓の野に延び廣がるといふのである。寫眞は著者撮影。○野乎比呂美《ヌヲヒロミ》――ここまでの三句は波比《ハヒ》と言はむ爲の序詞。○波比爾思物能乎《ハヒニシモノヲ》――ハヒは延へ。黒葛の野に廣がるのを、二人の戀の永く續いて、密たる關係になつてゐるのに譬へてゐる。○安是加多延世武《アゼカタエセム》――アゼカは何故《ナゼ》かに同じ。二人の關係はどうして斷えようか、決して斷えはせぬといふので、上の黒葛の縁語として多延《タエ》が用ゐられてゐる。
〔評〕 序詞が極めて有效に用ゐられ、下に縁語として關係してゐるのは巧である。平野に臨んでゐる安蘇山に、黒葛の生ひ茂つた、上代の有樣もしのばれる、下に多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》(三(416)五〇七)とあるのと意は同じである。
 
3435 伊香保ろの そひのはり原 吾が衣に 著きよらしもよ ひたへと思へば
 
伊可保呂乃《イカホロノ》 蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》 和我吉奴爾《ワガキヌニ》 都伎與良之母與《ツキヨラシモヨ》 比多敝登於毛敝婆《ヒタヘトオモヘバ》
 
私ノ着テヰル着物ガ〔九字傍線〕、栲バカリデ織ツタモノナノデ、伊香保ノ岨ノ萩原ノ萩ヲ取ツテ〔五字傍線〕私ノ着物ヲ摺ルノ〔四字傍線〕ニ、着キヨイコトダヨ。自分ニハ私ノ夫ガ似合ツテヰテ、誠ニ私ハ仕合セデス〔自分〜傍線〕。
 
○伊可保呂乃蘇比乃波里波艮《イカホロノソヒノハリハラ》――伊香保ろの岨の萩原。三四一〇參照。〇都伎與良之母與《ツキヨラシモヨ》――着き宜しもよ。萩を以て衣を染めると、よく染まるよといふのである。○比多敝登於毛敝婆《ヒタヘトオモヘバ》――舊本、多の上に比の字が無いのは脱ちたのである。元暦校本・類聚古集その他古寫本の多くは、比の字がある。比多敝《ヒタヘ》は純栲で、ひたすら栲のみにて織つた布であらう。純栲と思へばは純袴であるからの意。思へばは輕く用ゐてある。仙覺がひとへの事として、ひとへにおもへばの意也としたのは當らない。
〔評〕 言葉通りに見れば、伊香保の岨のはり原の衣に着き易く、染料に適することを喜んだ歌であるが、譬喩歌として見れば、吾が配偶者が自分に適應してゐることに滿足してゐる歌である。袖中抄に上野防人歌として、この歌を載せてゐる。
 
3436 白砥掘ふ 小新田山の もる山の うら枯せなな 常葉にもがも
 
志良登保布《シラトホフ》 乎爾比多夜麻乃《ヲニヒタヤマノ》 毛流夜麻能《モルヤマノ》 宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》 登許波爾毛我母《トコハニモガモ》
 
(417)白イ砥石ヲ掘ル新田山ト云フ、山番人ヲ置イテ〔七字傍線〕守ラシテヰル山ハ、木葉ガ末枯シナイデ、何時デモ常磐デヰテクレレバヨイガ。二人ノ間ガイツマデモ絶エナイデヰテクレレバヨイガ〔二人〜傍線〕。
 
○志良登保布《シラトホフ》――代匠記には眞珠通《シラタマトホ》す緒とつづくかと言つてゐるが、苦しい説である。古義は布は留の誤で、白砥掘《シラトホル》であらうと言つてゐるのは、比較的おもしろいが、もとの儘で白砥掘ふとしたい。但しこの山の地質について、種々調査したが、中央部は石英斑岩、麓は水成岩で、どの部分からも白砥を出したらしい跡がない。常陸國風土記新治郡の條に風俗(ノ)諺曰白遠新治之國とあるから、志良登保布はニヒにかかる枕詞とすべきであらうか。○乎爾比多夜麻乃《ヲニヒタヤマノ》――前に爾比多夜麻《ニヒタヤマ》(三四〇八)とあつた山、即ち太田の金山である。○毛流夜麻能《モルヤマノ》――守る山が。守る山は番人を置いてゐる山。○宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》――末枯しないで禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》(三四〇八)・宿奈莫那里爾思《ネナナナリニシ》(三四八七)・和須禮姿勢奈那《ワスレハセナナ》(三五五七)など參照。○登許波爾毛我母《トコハニモガモ》――常磐にも變らずにあれの意。
〔評〕 新田山の常磐なる如く、二人の關係が持續するやうにと、祈つた歌である。譬喩歌としては、珍らしい點はないが、素直な作である。
 
右三首上野國歌
 
3437 みちのくの 安太多良眞弓 はじき置きて せらしめきなば つらはかめかも
 
美知乃久能《ミチノクノ》 安太多良末由美《アダタラマユミ》 波自伎於伎?《ハジキオキテ》 西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》 都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》
 
陸奧ノ安太多良眞弓ノ弦〔二字傍線〕ヲ外シテ置イテ、ソノ儘弓ヲ〔五字傍線〕ソラセテ置イタナラ、弦ヲ再ビ〔二字傍線〕カケラレヨウカ。ナカナカ再ビ弦ヲカケルコトハ困難デアラウ。一度二人ノ間ガ絶エテ、互ニ反キ合フコトニナレバ、再ビ打チトケル(418)コトハムツカシカラウ〔ナカ〜傍線〕。
 
○美知乃久能安太多良末由美《ミチノクノアタタラマユミ》――陸奥の安達地方から出る弓、卷七の陸奥之吾田多良眞弓著絃而引者香人之吾乎事將成《ミチノクノアダタラマユミツラハケテヒカバカヒトノアヲコトナサム》(一三二九)參照。○波自伎於伎?《ハジキオキテ》――弦をはづして置いて。古義に「弓弦を斷て置く由なり」とあるのはいけない。男との關係を、ゆるべて置いての意に譬へてゐる。○西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》――反《ソ》らしめ置きなば。弓を反るにまかせて置いたならの意。男の行動を自由に任して置いたならばの意に譬へてゐる。○都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》――都良《ツラ》はツルに同じ。卷二に梓弓都良絃取波氣《アヅサユミツラヲトリハケ》(  九)とある。ハカメは著《ハ》カムに同じ。ハクはすべて着けること穿つことなどにいふ。カモはヤモに同じ。又舊の關係に戻ることは出來ないの意に譬へてある。
〔評〕 おもしろい諷喩の歌である。用語も東語が多く用ゐられてゐる。併しこれが陸奥に於て行はれた歌とは斷じ難い。東國の歌ではあらうが、唯陸奥の名物安太多良眞弓を用ゐたに過ぎない。
 
右一首陸奥國歌
 
雜歌
 
これ以下卷未までの百四十首は國名不明のものを集めてゐる。
 
3438 都武賀野に 鈴が音きこゆ 上志太の 殿の仲ちし 鳥狩すらしも 或本歌曰 美都我野に 又曰、若子し
 
都武賀野爾《ツムガヌニ》 須受我於等伎許由《スズガオトキコユ》 可牟思太能《カムシダノ》 等能乃奈可知師《トノノナカチシ》 登我里須良思母《トガリスラシモ》
 
都武賀野ニ鷹ノ尾ニツケタ〔七字傍線〕鈴ノ音ガ聞エル。上志太ノ殿樣ノ中ノ御子ガ、鳥狩ヲセラレルラシイヨ。
 
(419)○都武賀野爾《ツムガヌニ》――所在不明。但し第三句の可牟思太《カムシダ》を上志太とすれば駿河の地名である。○須受我於等伎許由《スズガオトキコユ》――鈴は鷹の尾に附けたもの。○可牟思太能《カムシダノ》――思太は前に斯太能宇良《シダノウラ》(三四〇〇)とよんだ駿河の志太郡とすればそれが上下に分れてゐたものと考へることが出來る。併しそれも確定的には言はれない。○等能乃奈可知師《トノノナカチシ》――殿の仲子がの意 殿は其處の國守、郡守などを指すのであらう。奈可知《ナカチ》は次男。シは強めていふ助詞。○登我里須良思母《トガリスラシモ》――登我里《トガリ》は鷹狩。卷七に垣越犬召越鳥獵爲公《カキコユルイヌヨビコシテトガリスルキミ》(一二八九)とあるのも鷹狩か。卷十七に大伴家持放逸せる鷹を思つで夢に見た長歌(四〇一一)があつて、上流人の遊びであつたことがわかる。なほ鷹狩の起源について、仁徳天皇紀に、「四十三年秋九月庚申朔、依網屯倉阿弭古《ヨサミノミヤケノアヒコ》捕2異鳥1獻2於天皇1曰臣毎(ニ)張v網捕v鳥、未3曾得2是鳥之類1、故奇而献v之、天皇召2酒(ノ)君1示v鳥曰、是何鳥矣、酒君對言、此鳥類多在2百濟1得馴而能從v人。亦捷飛之掠2諸鳥1、百濟俗号2此鳥1曰2倶知1是今時鷹也乃授2酒君1令2養馴1未2幾時1而得v馴、酒君則以2韋緡1著2其足1、以2小鈴1著2其尾1居2腕上1、献2于天皇1、是目幸2百舌鳥野1而遊獵、時雌雉多起、乃放v鷹令v捕、忽獲2數十雉1是月、甫定2鷹甘部1、故時人號2其養v鷹之處1曰2麿甘邑1也」とある。
〔評〕 京師の文化が地方にも及んで、地方人の耳にも鳥獵の鈴の音が、なつかしく響いてゐる。殿の仲子と言つたのは、その公子と親しくなつてゐる由舍女の言葉らしく思はれる、併しこの歌は田舍人の作としてはよく洗練せられて、情景を髣髴たらしめるものがある。
 
或本歌曰 美都我野爾《ミツガヌニ》 又曰 和久胡思《ワクゴシ》
 
美都我野爾とあるは初句の異本。これも所在不明。和久胡思は第四句|京可知師《ナカチシ》の異傳。和久胡は若兒。
 
3439 鈴が音の はゆま驛の 堤井の 水を賜へな 妹がただ手よ
 
須受我禰乃《スズガネノ》 波由馬宇馬夜能《ハユマウマヤノ》 都追美井乃《ツツミヰノ》 美都乎多麻倍奈《ミヅヲタマヘナ》 伊毛(420)我多太手欲《イモガタダテヨ》
 
馬ノ〔二字傍線〕鈴音モ急ガシク聞エル、驛舍ノ側ニアル〔四字傍線〕、圍ノアル井戸ノ水ヲ、ナツカシイアナタノ手デ.直接ニ掬ンデ、私ニ〔二字傍線〕下サイヨ。
 
○須受我禰乃《スズガネノ》――鈴が音の。次句へ、鈴の音が早い即ち急がしい意でつづくのである。○波由馬宇馬夜能《ハユマウマヤノ》――波由馬《ハユマ》は早馬。宇馬夜《ウマヤ》は驛、ハユマウマヤは早馬を用意してある驛。○都追美井乃《ツツミヰノ》――水を圍つて、湛へてある井。堀井ではなく、飲料水を湛へたもの。かうしたものが、驛では人馬の用として必要であつた。略解に「つつみゐは、美はそへ言ふ詞にて筒井也」とあるのはよくない。○伊毛我多太手欲《イモガタダテヨ》――妹が直手で。直接に妹の手での意。ヨはヨリの意である。
〔評〕 驛舍にゐる美人に、旅人が戯れていふ言葉であらう。宿場の茶屋女に串戯を言つてゐるやうな圖である。東歌中でも異色ある佳作である。
 
3440 この河に 朝菜洗ふ兒 汝もあれも よちをぞ持てる いで兒たばりに 一云、ましもあれも
 
許乃河泊爾《コノカハニ》 安佐奈安良布兒《アサナアラフコ》 奈禮毛安禮毛《ナレモアレモ》 余知乎曾母?流《ヨチヲゾモテル》 伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》
 
コノ川デ朝菜ヲ洗ツテ居ル女ヨ、オマヘモ私モ、同年グラヰノ子ヲ持ツテヰルヨ。サアオマヘノ〔四字傍線〕女ノ兒ヲ私ノ男ノ兒ニ〔六字傍線〕クレヨ。ヨイ似合ヒノ夫婦ダラウ〔ヨイ〜傍線〕。
 
○安佐奈安良布兒《アサナアタフコ》――朝菜洗ふ女。朝菜は朝食べる菜。ナはすべて副食物にいふが、ここは野菜であらう。○余知乎曾母?流《ヨチヲゾモテル》――舊本、知余とあるが、元暦校本その他、余知となつてゐる本が多いから、それによるべきだ。余知は卷五に企知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》(八〇四)・卷十六に四千庭《ヨチニハ》(三七九一)とある、ヨチコ・ヨチと同じで、同(421)年輩の子と解せられてゐるから、これに從ふことにする。なほ次の評の部をも參照せられたい。○伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》――伊低《いで》はサアと誘ひ促す語。兒《コ》はその余地《ヨチ》を指したもの。ヨチコの略と考へられる、多婆里爾《タバリニ》は賜はりね。
〔評〕 この歌は右のやうに見て、朝早く河岸で菜を洗つてゐる女に對して、こちらの岸から、男が話かけて、おまへの娘を私の息子の嫁にくれないかと請求する意となり、上代の長閑な風景だと解かれてゐる。暫くこれに、從ふことにした。併し既に嫁入り前の年頃の娘を持つた女に、朝菜洗ふ兒と呼びかけるのはふさはしくない。よろしく朝菜洗ふ刀自といふべきである。どうもこの句は若い女に呼びかけてゐるやうにしか思はれない。さうすると第四句の余知《ヲチ》と第五句の兒がわからなくなる。そこで前記のやうな解を取ることになるのだが、このヨチ・ヨチコは同年輩の若い男女の意から轉じた隱語であつて、卑猥な意味になるのではあるまいかと想像される 河岸で朝菜を洗つてゐる處女の、だらしない姿を見て、若い男が對岸から呼びかけたものとすれば、どうしてもさう見なければなるまい。自由な結婚が盛であつたらうと思はれる上代でも、親と親とが約束して、その子女を婚せしめることもあつたらうが、かういふ民衆の歌としては、さういふ場面を謠ふことは、ありさうに思はれない。後世の俚謠にでも、そんな内容のものは一寸見當らぬやうである。
 
一云 麻之毛安禮母《マシモアレモ》
 
これは第三句の奈禮毛《ナレモ》の異傳である。麻之《マシ》はイマシに同じ。即ちナレと同樣である。
 
3441 間遠くの 雲居に見ゆる 妹が家に いつか到らむ 歩め吾が駒 柿本朝臣人麿歌集曰、遠くして 又曰、歩め黒駒
 
麻等保久能《マトホクノ》 久毛爲爾見由流《クモヰニミユル》 伊毛我敝爾《イモガヘニ》 伊都可伊多良武《イツカイタラム》 安由賣安我古麻《アユメアガコマ》
 
(422)私ハ今カラ愛スル女ノ所ヘ行クノダガ、アノ〔私ハ〜傍線〕遠イ空ノアナタニ見エル女ノ家ニ、何時行キ着クデアラウカ。早ク行キタイモノダ。早ク〔早ク〜傍線〕歩メヨ、私ノ乘ツテヰル〔五字傍線〕駒ヨ。
 
○麻等保久能《マドホクノ》――間遠くの。遠いところにあるの意。○久毛爲爾見由流《クモヰニミユル》――雲居は空。空のあなたに遙かに見える。○伊毛我敝爾《イモガヘニ》――妹が家に。イヘをヘといふのは。今も方言として行はれてゐるところである。
〔評〕 別に東歌らしい點もない。強ひて言へばイヘをヘと言つた位が、多少方言的色彩がある點か。左註にある如く、柿本人麿歌集の歌と同樣であることも、東歌としては變なものである。
 
柿本朝臣人麿歌集曰 等保久之?《トホクシテ》 又曰 安由賣久路古麻《アユメクロコマ》
 
これは第一句と、第五句との異本であつて、この文によると、柿本人麿歌集には第一句が「遠くして」とあり、又第五句が「歩め黒駒」とあるといふ意らしい。然るにこの歌を卷七に載せて、「行路」と題して遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニハヤクイタラムアユメクワロコマ》(一二七一)とあり、その左に右一首柿本朝臣人麿之歌集出とあるが、ここに記されてゐる註と少しく異なつてゐるのは、どうしたものであらう。
 
3442 東路の 手兒の呼坂 越えかねて 山にか寢むも 宿りは無しに
 
安豆麻治乃《アヅマヂノ》 手兒乃欲妣左賀《タゴノヨビサカ》 古要我禰?《コエカネテ》 夜麻爾可禰牟毛《ヤマニカネムモ》 夜杼里波奈之爾《ヤドリハナシニ》
 
私ハ〔二字傍線〕東海道ノ手兒ノ呼坂ヲ、越サウト思ツテモ晝ノ内ニハ〔越サ〜傍線〕越シキレズ、宿ル家〔二字傍線〕モナイノニ、今夜ハ山ノ中ニ寢コルトカナア。アア苦シイ〔五字傍線〕。
 
(423)○安豆麻治乃《アヅマヂノ》――東路の。○手兒乃欲妣左賀《タゴノヨビサカ》――手兒は即ち田子の浦の田子で、其處の坂であらう。大日本地名辭書に「蒲原驛の東なる七難坂などの古名とすべし」とある。同書は田子の浦を「蒲原の浦を田子の浦とも呼べること明白とす。後世は富士都吉原の南に田子浦を説くは之にあはす」と言つてゐる。なほこの坂を薩〓峠とする説が古くから唱へられてゐるが、薩〓峠は前にあつた磐城山《イハキヤマ》(三一九五)であるから、これとは別であらう。なほこれをテゴノヨビサカと訓む説も古くからある。
〔評〕 手兒の呼坂を越えむとして、早くも夕闇が迫つて來た淋しさを歌つた旅人の歌で、卷七の志長鳥居名野乎來者有間山夕霧立宿者無而《シナガドリヰナヌヲクレバアリマヤマユフギリタチヌヤドハナクシテ》(一一四〇)と氣分が相似てゐる。然るに駿河國風土記にはこの歌及び下の安都麻道乃手兒乃欲婢佐可古要?伊奈婆安禮婆古非牟奈能知波安比奴登母《アヅマヂノタゴノヨビサカコエテイナバアレヘコヒムナノチハアヒヌトモ》(三四七七)を男神の作とし、前の卷十二の磐城山《イハキヤマ》(三一九五)の歌を女神の作として、贈答の歌としてゐる、もとより地名傳説に過ぎないが、この集の編者が古風土記の内容を知らなかつたことを示すやうに思はれる。もし知つてゐたとすれば、卷十二の歌もこの卷に收めて、共に駿河國歌とすべきである。なほ風土記の文は卷十二(三一九五)に引いてあるから、その條を參照せられたい。
 
3443 うらもなく 吾が行く道に 青柳の 張りて立てれば もの思ひづつも
 
宇良毛奈久《ウラモナク》 和我由久美知爾《ワガユクミチニ》 安乎夜宜乃《アヲヤギノ》 波里?多?禮婆《ハリテタテレバ》 物能毛比豆都母《モノモヒヅツモ》
 
何心モ無クテ、私ガ路ヲ歩イテ居ル道ノ邊〔二字傍線〕ニ、青柳ガ芽ヲ〔二字傍線〕張ツテ立ツテ居ルノヲ見ル〔四字傍線〕ト、物ヲ思ヒ出シタヨ。家ニ殘シテ來タ妻ノコトナドガ思ハレテ悲シイ〔家ニ〜傍線〕。
 
○宇良毛奈久《ウラモナク》――心無く。何心も無く。物思もせずに。○波里?多?禮婆《ハリテタテレバ》――芽を張つて立つてゐると。春の青柳が芽を出してゐるのを見るとの意 ○物能毛比豆都母《モノモヒヅツモ》――物思ひ出つも。豆を弖に作る本も多いが、豆《ヅ》は出《デ》の東語であらうから、この儘がよい。今も九州では出るをヅルといふ。豆都母《ヅツモ》は出でつもで、出たよの意で(424)ある。
〔評〕 やさしい情緒の溢れた作である。青柳の芽を張つた枝を見て、思ひ起したのは何であらう。卷十九の春日爾張流柳乎取持而見者京之大路所思《ヘルノヒニハレルヤナギヲトリモチテミレバミヤコノオホヂオモホユ》(四一四二)に傚つて考へることも出來ようが、さうではなく、やはり可愛らしい春の柳を見て、なつかしい妹を思ひ出したのであらう。卷十に吾屋前之柳乃眉師所念可聞《ワガヤドノヤナギノマユシオモホユルカモ》(一八五三)などともあるが、妹が眉を連想したものと限定する見方は感服しない。
 
3444 伎波都久の 岡のくくみら われ摘めど 籠にものたなふ せなと摘まさね
 
伎波都久乃《キハツクノ》 乎加能久君美良《ヲカノククミラ》 和禮都賣杼《ワレツメド》 故爾毛乃多奈布《コニモノタナフ》 西奈等都麻佐禰《セナトツマサネ》
 
伎波都久ノ岡ノ莖韮ヲ私ガ摘ミマスケレドモ、籠ニモ滿チマセンヨ。貴女ハ〔三字傍線〕夫ノ君ト一緒ニオ摘ミナサイマシヨ。
 
○伎波都久乃乎加能久君美良《キハツクノヲカノククミラ》――伎波都久の岡は、仙覺抄に「枳波都久岡、常陸國眞壁郡にあり、風土記にみえたり」とあるが、現存の常陸風土記は白壁郡(眞壁郡の古名)の部が標題のみあつて、文が缺けてゐるから、この岡に就いて、如何に記されてゐたかを知り得ないのは、遺憾である。逸文考證には「今其處詳ならず」と記してゐる。大日本地名辭書には「郡郷考云、枳波都久岡、其處知り難し。本郡東邊、山岡起伏す、新志云、伎波都久岡は今山尾村にあるか。或は曰ふ。今山田の最勝寺を筑波山と稱す。眞壁郡にありて、筑波と稱するは如何なる事にやと恩ひしに、是は枳波都久より出たる號にや。此寺は岡の上にありと」とあるが、やはり眞壁郡の東邊として置くべきで、それ以上の詮索(425)は却つて牽強に陷る虞がある。久君美良《ククミラ》は莖|韮《ニラ》即ちニラの莖に立つたものか。ニラは今は畑に作るが、もと山野に白生した百合科の植物で、葉は線形をなし扁平で質が柔かい。葉間から莖を出して繖形をなした白い小花を附ける。花期は夏である。ここにククミラとあるククはククタチのククで莖であらうと思はれるが、ニラは葉を食ふもので莖は用がないやうに思はれる。併し延喜式によると、踐祚大嘗祭の料に阿波國所献の蒜英根合漬が見え、同じく新嘗祭、釋奠祭の料に蒜英・蒜花が見えてゐるから、韮の花も亦食料として珍重せられたものかも知れない。○故爾毛乃多奈布《コニモノタナフ》――籠にも滿たない。ナフはナクに同じ。舊本乃とあるのは考は美の誤であらうとし、古義は民《ミ》の誤としてゐる。ノタナフはミタナクの東語と見るべきであらう。○西奈等都麻佐禰《セナトツマサネ》――セナは夫。等《ト》はト共ニの意であらう。新考はこれを茂《モ》の誤としてゐる。都麻佐禰《ツマサネ》は摘み給へよの意である。略解に「夫とともに摘むを願ふ也。左禰は……他よりいふ言を、吾願ふ事にも言へり」とあるが、無理であらう。さういふ用例が見當らぬやうだ。
〔評〕 第三句の和禮《ワレ》と第五句の西奈《セナ》との關係が明らかでない。女が自分の夫を西奈《セナ》と呼んでゐることにするのが穩當であるが、都麻佐禰《ツマサネ》とあるから、さうは出來ない。暫く古義に從つて、主人の女と共に莖韮を採む、はした女の言葉として置かう。或は、自から第三者となつて、自分に向つて「夫と一緒に摘みなさい」と言つてゐるものと見るべきであらうか。第四句までは、やさしい物哀な情緒であるが、第五句の關係が明らかでない爲に、情景がよく諒解せられないのは遺憾である。
 
3445 湊のや 葦がなかなる 玉小菅 苅り來わが背子 床のへだしに
 
美奈刀能也《ミナトノヤ》 安之我奈可那流《アシガナカナル》 多麻古須氣《タマコスゲ》 可利己和我西古《カリコワガセコ》 等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》
 
河口ニ生エテヰル蘆ノ中ノ美シイ小菅ヲ、苅ツテオイデナサイヨ、吾ガ夫ヨ。サウシタラソレヲ編ンデ床ノ上(426)ヘ敷イテ〔サウ〜傍線〕、床ノ隔ニシマセウヨ〔五字傍線〕。
 
○美奈刀能也《ミナトノヤ》――湊のや、美奈刀《ミナト》は河口。ヤは歎辭として添へたもの。石見乃也《イハミノヤ》(一三一)、淡海之哉《アフミノヤ》(一三五〇)などと同型である。○多麻古須氣《タマコスゲ》――玉小菅。玉は美稱。○可利己和我西古《カリコワガセコ》――苅來吾が背子。卷十六の玉掃苅來鎌麻呂《タマハハキカリコカマロ》(三八二〇)と同型。○等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》――ヘダシは隔《ヘダ》ての東語。床の上に敷く席としての意。席は吾が身と床とを隔てるからヘダシと言つたのである。
〔評〕 女が男に向つて、床に敷く蓆の料の菅を苅つて來よと注文するもの。ヘダシといふ東語が見えるだけで、他はわかり易い言葉であるが、内容は全く俚謠的で野趣が横溢してゐる。
 
3446 妹なろが つかふ河津の ささら荻 あしと一言 語りよらしも
 
伊毛奈呂我《イモナロガ》 都可布河泊豆乃《ツカフカハヅノ》 佐左良乎疑《ササラヲギ》 安志等比登其等《アシトヒトコト》 加多里與良斯毛《カタリヨラシモ》
 
愛スル女ガ水ヲ〔二字傍線〕使ツテヰル河ノ船着場ニ生エテヰル小荻、ソレト〔三字傍線〕蘆トハ同ジヤウナモノデ、似合ツテヰルガ、私ト貴女トハ夫婦ノ〔似合〜傍線〕語ラヒガ釣リ合ツテ良イヨ。
 
○伊毛奈呂我《イモナロガ》――妹なろが。ナは親しんでいふ言葉。ロは伊香保呂《イカホロ》(三四〇九)・伊可抱乃禰呂《イカホノネロ》(三四二三)などのロと同じく、添へていふのみであらう。妹名根《イモナネ》(一八〇〇)と同じきか。○都可布河泊豆乃《ツカフカハヅノ》――都可布《ツカフ》は使ふであらう。河の水を汲み用ゐる意か。考は「妹と吾と行ちがふをいふなるべし」とし、宣長は束生といふ地名かといひ、新考には岸に近づく意としてゐる。河泊豆《カハヅ》は河津であらう。河水とも見られるが、それでは下への續きがよくない。○佐左良乎疑《ササラヲギ》――佐左良《ササラ》は集中、左佐羅能小野《ササラノヲヌ》(四二〇)・左佐良枝壯子《ササラエヲトコ》(九八三)などがあつて同意と思はれるが、多分、左射禮思《サザレシ》(三四〇〇)・左射禮浪《サザレノナミ》(二〇六)などのサザレと同じく小さく可愛らしいことであらう。○安志等比登其等《アシトヒトゴト》――蘆と一事。荻と蘆とは同じ物のやうに相似ての意であらう。○加多里與良斯毛《カタリヨラシモ》――語りよろしもに同じ(427)であらう。荻と蘆との語らひが仲よく、似合つゐるといふのであらう。河邊に生えた荻と蘆とに譬へて、自分等二人の似合の間柄なることを述べたものか。考は「今男の行河津の向ふより、よそながら心かけたるをとめの來るに行ちがはん時、何ぞに事つけて言問よらんと思ふに、ここにあしとをぎの有て分ちがたく見ゆれば、何れが何れぞとこととひよらんといふなり、伊勢物語に、忘草をこは何ぞと問しに、心は異にて事は似たり」とあるが、どうであらう。
〔評〕 まことに殊勝の歌である。上句を序詞としても解き得るが、普通の序詞とは異なる點もあるから、さうは見ないことにした、解釋もいろいろに分れてゐる。暫らく私意を述べて後考をまつ次第である。
 
3447 草蔭の 安努な行かむと はりし道 阿努は行かずて 荒草立ちぬ
 
久佐可氣乃《クサカゲノ》 安努奈由可武等《アヌナユカムト》 波里之美知《ハリシミチ》 阿努波由加受?《アヌハユカズテ》 阿良久佐太知奴《アラクサタチヌ》
 
(久佐可氣乃)安努ニ行カウトテ折角〔二字傍線〕開墾シタ道ダノニ、誰モ〔五字傍線〕安努ニハ行カナイモノダカラ、荒草ガ生ヒ立ツテシマツタ。
 
○久佐可氣乃《クサカゲノ》――枕詞。アとつづくらしい。接續の具合がよくわからない。卷十二に草陰之荒藺之崎乃笠島乎《クサカゲノアラヰノサキノカサシマヲ》(三一九二)とある。○安努奈由可武等《アヌナユカムト》――舊本、努の下に弩の字があるのは衍であらう。元暦校本、その他の古本にないのが多い。この句は阿努に行かむとの意で、阿努は地名である。倭姫世紀に「汝國名何(ゾト)問賜(フ)、白久草陰阿野國」とあつて、これは伊勢の阿濃郡の地名であるから、これもさうかも知れない。併し伊勢の地名では東歌にふさはしくないといふ見地からすれば、新考に「駿河に阿野莊あるそれならむ」とあるを採るべきか。○波里之美知《ハリシミチ》――波里《ハリ》は治《ハリ》。開墾すること。○阿努波由加受?《アヌハユカズテ》――舊本、努の下に弩の字があるのは衍であらう。元暦校本その他ない本が多い。○阿良久佐太知奴《アラクサタチヌ》――阿良久佐《アラクサ》は荒草。あらあらしく生えた草。雜草の類(428)をいふ。
〔評〕 折角安努へ通ふ新道が出來たのに、それを人が通はないので、草が生ひ茂つたといふ意であらうが、何か寓意があるやうでもある。或は阿努に戀人を置く男が、さはることありてその新道を通はぬ内に、早くも雜草が生ひ茂つたといふのであらうか。民謠風の感じのよい作品である。
 
3448 花散らふ この向つ峰の 乎那の峯の ひじにつくまで 君がよもがも
 
波奈知良布《ハナチラフ》 己能牟可都乎乃《コノムカツヲノ》 乎那能乎能《ヲナノヲノ》 比自爾都久麻提《ヒジニツクマデ》 伎美我與母賀母《キミガヨモガモ》
 
花ノ咲イテハ〔四字傍線〕散ルコノ向ヒノ山ノ乎那山ガ、低ク低クナツテ〔七字傍線〕海ノ洲ニ着クヤウナ、何時トモワカラナイ後々ノ代〔クヤ〜傍線〕マデモ、君ノ御壽命ガ續クヤウニ。
 
○波奈知良布《ハナナラフ》――花散らう。花散る。○己能牟可都乎能《コノムカツヲノ》――此の向ひの峯なる。○乎那能乎能《ヲナノヲノ》――乎那の峯の。乎那は地名であらう。遠江引佐郡の西部に尾奈の地があつて濱名湖に面してゐる。其處か。○比自爾都久麻提《ヒジニツクマデ》――代匠記初稿本にヒシを海中の洲とし、「洲をひしといふ事は、大隅國風土記云、必志里、昔者此村之中有2海之洲1因曰2必志里1海中之洲者、隼人俗語云2必志1」とあるのは面白い説で、この句は尾奈の峯が、低くなつて海の洲に着くまでといふ意らしい。濱名湖の西北部が特に灣入して、猪鼻湖と稱する一區割をなし、尾奈はその湖の入口にあつて、大崎の鼻に對してゐる。或はこのヒジは大崎の鼻を指したものかも知れない。眞淵は比自は比目の誤で、紐に着くまでの意であらうとしてゐるが、當るまい。舊本、久の下に佐の字があるが、元暦校本などの古本にないのがよいのであらう。○伎美我與母賀毛《キミガヨモガモ》――君が代もつづけよと希ふ意である。
〔評〕 「君が代は千代に八千代にさゝれ石の巖となりて苔のむすまで」の前驅をなしたもので、自己の主人の長命を祝した歌。用語優麗、思想高雅、東歌としては珍らしい作品である。
 
3449 しろたへの 衣の袖を 麻久良我よ 海人こぎ來見ゆ 浪立つなゆめ
 
(429)思路多倍乃《シロタヘノ》 許呂母能素低乎《コロモノソデヲ》 麻久良我欲《マクラガヨ》 安麻許伎久見由《アマコギクミユ》 奈美多都奈由米《ナミタツナユメ》
 
(思路多倍乃許呂母能素低乎)麻久艮我ノ沖ヲ通ツテ〔三字傍線〕、海人ガ舟ヲ〔二字傍線〕漕イデ來ルノガ見エル。浪ヨ決シテ立ツナヨ。
 
○思路多倍乃許呂母能素低乎《シロタヘノコロモノソデヲ》――思路多倍乃《シロタヘノ》は枕詞。白栲の衣とつづく。この二句は衣の袖を枕《マ》くとつづく序詞である。○麻久良我欲《マクラガヨ》――麻久良我《マクラガ》は地名。この下に麻久良我乃許我能和多利乃《マクラガノコガノワタリノ》(三五五五)とあたのと同所らしい。さうすれば、今の下總の古河で、あの附近を古く麻久良我と言つたものと見える。考にはマを發語として、久良我は下總であらうとし、古義に「下總國葛飾郡久良我をいふべし」とあるが、今その地名を知り難い。なほこれを上野・武藏とする説もあるが當らない。ヨはヲと同意と見るべきであらう。○安麻許伎久見由《アマコギクミユ》――海人漕ぎ來る見ゆ。
〔評〕 歌の趣で見れば、海邊の景色らしいが、利根川の風景と見られぬこともあるまい。序詞は巧に出來てゐる。全體的に東歌らしい氣分が薄い。
 
3450 乎久佐をと 乎具佐すけをと 潮舟の 竝べて見れば 乎具佐勝ちめり
 
乎久佐乎等《ヲクサヲト》 乎具佐受家乎等《ヲクサスケヲト》 斯乎布禰乃《シヲブネノ》 那良敝?美禮婆《ナラベテミレバ》 乎具佐可知馬利《ヲグサカチメリ》
 
乎久佐ノ正丁ト乎具佐ノ次丁ト(斯乎布禰乃)並ベテ見ルト、手具佐ノ次丁ノ方〔五字傍線〕ガ勝ツテヰルヤウダ。私ハ乎具佐サンガ好キデス〔私ハ〜傍線〕。
 
○乎久佐乎等《ヲクサヲト》――乎久佐といふ地の男。次の句に對比すると、この地の正丁をいつたものらしい。乎久佐の所在を明らかにしない。○乎具佐受家乎等《ヲグサスケヲト》――乎具佐の助丁と。乎具佐は乎久佐と同地なりや、別地なりやも不(430)明である。宣長は久具の清濁の別によつて、別地としてゐる。結句によるとどうも別地らしく見える。受家乎《スケヲ》は正丁に對して次丁をいふ。正丁とは男盛りの公役を勤るもので、次丁は中年以上の男をいふ。受家乎《スケヲ》を古義に好色男《スキヲ》としてゐるのは當るまい。卷二十(四三六八)に右一首久慈郡|丸子部佐壯《マルコベノスケヲ》と見えるから、かういふ名もあつたのである。併しここは人名ではあるまい。○斯乎布禰乃《シヲブネノ》――潮舟の。枕詞。潮に浮んだ舟のやうに並ぶとつづいてゐる。舊本、乎とあるは類聚古集・西本願寺本などに抱に作るに從ふべきか。この下に思保夫禰能於可禮婆可奈之《シホブネノオカレバカナシ》(三五五六)・卷二十の志富夫彌爾麻可知之自奴伎《シホブネニマカヂシジヌキ》(四三六八)・志保不尼乃弊古祖志良奈美《シホブネノヘコソシラナミ》(四三八九)などがある。但し元暦校本は於に作つてゐるから、必ずしも抱に從はねばならぬことはなく、却つて、シヲといふ東語があつたかも知れない。○乎具佐可知馬利《ヲグサカチメリ》――乎具佐助丁の方が勝つやうだといふので、馬利《メリ》といふ助動詞は中世以後盛に用ゐられてゐるが、この集では唯一の例である。これによると、東語が都言葉に採用せられたとも言ひ得るのである。舊本可利とある。古寫本に知と記したものが多いから、それを採ることにしよう。
〔評〕 何か面白い説話中の歌らしくも思はれる、ともかくある女、例へば遊女のやうなものが、二人の男を並べ比して、乎具佐助丁が勝れてゐるやうだと、串戯を言つてゐるやうに見える。蓮葉な氣分の歌である。
 
3451 さなつらの 岡に粟蒔き かなしきが 駒はたぐとも わはそともはじ
 
左奈都良能《サナツラノ》 乎可爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》 可奈之伎我《カナシキガ》 古麻波多具等毛《コマハタグトモ》 和波素登毛波自《ワハソトモハジ》
 
左奈都良ノ岡ニ粟ヲ播イテヰル所ヘ、私ノ〔二字傍線〕可愛イ男ガ駒ノ手綱ヲ繰リナガラ、歩マセテ來〔九字傍線〕テモ、私ハソノ馬ヲ〔四字傍線〕ソト云ツテ追フマイ。
 
○左奈都良能《サナツラノ》――左奈都良は地名であらうがわからない。考に「神名式に常陸國那賀郭酒烈磯城神社あり、是さなづらてふ所を酒烈と書しなり」とあるが、さうとも斷じ難い。古義には陸奥國名取郡名取郷ではないかと(431)いつてゐる。○可奈之伎我《カナシキガ》――愛する男の。卷七に佐伯山于花以之哀我手鴛取而者花散鞆《サヘキヤマウノハナモチシカナシキガテヲシトリテバハナハチルトモ》(一二五九)とある哀我《カナシキガ》に同じ。○古麻波多具等毛《コマハタグトモ》――タグは手繰るに同じで、卷十九の石》瀬野爾馬太伎由吉?《イハセノニウマタギユキテ》(四一五四)とある太伎《タギ》も同じ。この句は駒の手綱をたぐりつつ來てもの意である。新考には「タグは皇極天皇紀なる童謠のコメダニモクゲテトホラセのタゲテの原形にて、食ふ事なり。さて今は男ノ馬ガソノ粟ヲ食フトモといへるなり」とある食ふ意のタグといふ動詞は集中にも、卷二に妻毛有者採而多宜麻之《ツマモアラバトリテタゲマシ》(二一一)とあるが、ここのはその意ではないやうである。○和波素登毛波自《ワハソトモハジ》――吾はソとも追はじの意と大平が解いたのがよいか。追馬をソと訓ませてゐるから、ソは馬を追ふ聲である オハジを省いてハジといつたものと見るのである、契沖・眞淵等は、それを何とも思はじの意に解してゐる、
〔評〕 山地に粟時く女が、戀しい男を思ふ歌である。女の前になつかしい夫が、駒の手綱をかい繰りつつ佇むと、その駒は畑地を頻りに踏み蹂つて、折角蒔いた粟も臺なしになる。かういふ幻影を目前に畫いて、いやいやそれでもその駒を私は追はうとしないと、首を振りながら、夢を見るやうにうつとりと男を思つてゐる女の態度である。東歌らしい野趣が充分である。
 
3452 面白き 野をばな燒きそ 古草に 新草まじり 生ひは生ふるが
 
於毛思路伎《オモシロキ》 野乎婆奈夜吉曾《ヌヲバナヤキソ》 布流久左爾《フルクサニ》 仁比久佐麻自利《ニヒクサマジリ》 於非波於布流我爾《オヒハオフルガニ》
 
コノ儘ニシテオイテモ冬枯ノ古イ〔コノ〜傍線〕古イ草ニ、春ノ〔二字傍線〕新草ガ混ツテ生エルコトハ生エルノダカラ、コノ面白イ野ヲ燒キ拂ヒナサルナ。
 
○於毛思路伎《オモシロキ》――面白き。※[立心偏+可]怜。春の野の景色のよいのを褒めていふのである。○野乎婆奈夜吉曾《ヌヲバナヤキソ》――野をばな燒きそ。春の初めに野火をつけて燒き拂ふのは山野に種を蒔かむ爲で、又新草のよく萠え出でむ爲である。(432)○於非波於布流我爾《オヒバオフルガニ》――生えれば生えることなるをの意。このガニを古義に「生々《オヒオフ》るがためにの意なり。我爾《ガニ》はこゝは我禰《ガネ》といふべきを、かく爾《ニ》と云るは東歌なるが故なるべし」とあるが、眞淵以來の諸註多くはかうなつてゐる。併しここは捨て思いても古草に新草が交つて、おのづから生ずるのにといふやうな意で、東語の特別用例とは見えない。
〔評〕 何か寓意がありさうでもあるが、諸注にこれはただ春の歌だとしてゐる。ともかく伊勢物語の「武藏野は今日はな燒きそ若草の妻も籠れりわれも籠れり、」古今集の「春日野は今日はな燒きそ若草の妻もこもれりわれもこもれり」の前驅をなしたものといつてよからう。和歌童蒙抄に出てる。
 
3453 風のとの 遠き吾妹が 著せし衣 袂のくだり まよひ來にけり
 
可是乃等能《カゼノトノ》 登抱吉和伎母賀《トホキワキモガ》 吉西斯伎奴《キセシキヌ》 多母登乃久太利《タモトノクダリ》 麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》
 
家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕(可是乃等能)遠イ吾ガ妻ガ、故郷ヲ出立スル時ニ〔九字傍線〕着セタ着物ノ袂ガ、上カラ下マデ糸ガスリ切レテ〔七字傍線〕ヨレテ來タヨ。
 
○可是乃等能《カゼノトノ》――枕詞。風の音の。遠きとつづく。風の音は遠く聞えるからである。○多母登乃久太利《タモトノクダリ》――袂の行。袂の縱の線をいふ。○麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》――麻欲比《マヨヒ》は卷七の肩乃問亂者誰取見《カタノマヨヒハタレカトリミム》(一二六五)のマヨヒ・卷十一の白細之袖者間結奴《シロタヘノソデハマユヒヌ》(二六〇九)のマユヒと同じく、糸がよれよれになつて切れること。
〔評〕 防人などに出た男が、衣の披れかけたのを見て、遠き故郷の妻を思ふ歌。あはれな悲しい感情があらはれたよい作である。
 
 
3454 庭に立つ 麻で小衾 今宵だに 妻よし來せね 麻で小衾
 
爾波爾多都《ニハニタツ》 安佐提古夫須麻《アサデコブスマ》 許余比太爾《コヨヒダニ》 都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》 安佐(433)提古夫須麻《アサデコブスマ》
 
庭ニ生エテヰル麻デ織ツタ〔四字傍線〕布デ作ツタ小衾ヨ。セメテ〔三字傍線〕今夜ナリトモ、私ノ戀シイ待チコガレテヰル〔私ノ〜傍線〕夫ヲ、此處ヘ〔三字傍線〕寄セテ來テクレヨ。麻ノ布ノ小衾ヨ。
 
○爾波爾多都《ニハニタツ》――庭に生えてゐる。冠辭考に枕詞に收め、考・略解・古義など皆枕詞としてゐるが、卷四に庭立麻乎刈干《ニハニタツアサヲカリホシ》(五二一)とあるのと共に、枕詞と見ない方がよい。庭とは屋敷内をいふ。謂はゆる庭園ではない。○安佐提古夫須麻《アサデコフスマ》――安佐提《アサデ》は麻の布。テはタヘの略か。今も絹・布・麻などを細かく割いたものを、サイデと言つてゐる。古夫須麻《コブスマ》は小衾。この句は麻布で作つた小衾の意。○都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》――夫を寄せ給へよの意。コセはコスの變化で、希望をあらはす。卷九に妻社妻依來西尼《ツマノモリツマヨシコセネ》(一六七九)とある。
〔評〕 おとづれ來るべき夫を待つて、幾夜か獨寢の床淋しく明かした女が、その麻の衾に對して、今宵こそ必ず夫を引寄せてくれよと呼びかける言葉である。胸中萬斛の悲愁と、押へむとして押へ難き情炎とが迸つて、自からこの長大息をなしてゐる。二句を五句に反覆したのも緊張の聲調をなしてゐる。
 
相聞
 
目録には未勘國相聞往來歌とある。分類はしてないが、始から二十六首が正述心緒で、次の八十六首が寄物陳思になつてゐる。寄物陳思の部はその配列の順序が、卷十一・卷十二のそれと大體同樣になつてゐる。
 
3455 戀しけば 來ませ吾が背子 垣内柳 末摘みからし 我立ち待たむ
 
古非思家婆《コヒシケバ》 伎麻世和我勢古《キマセワガセコ》 可伎都楊疑《カキツヤギ》 宇禮都美可良思《ウレツミカラシ》 和禮(434)多知麻多牟《ワレタチマタム》
 
戀シク思召スナラバ、吾ガ夫ヨ、尋ネテ〔三字傍線〕オイデナサイ。垣根ノ内ニ植ヱテアル柳ノ、末ノ方ヲ摘ミ苅ラセテ、外ヲ見易イヤウニシテ〔十字傍線〕私ガ貴方ノオイデヲ〔七字傍線〕立ツテ待ツテヰマセウ。
 
○古非思家婆《コヒシケバ》――戀しからばに同じ。○可伎都楊疑《カキツヤギ》――垣内柳。垣の内に植ゑた柳。代匠記は垣つ柳とし、考以下、垣として植ゑた柳と解してゐるが、垣津田《カキツタ》(三二二三)と共に可伎都《カキツ》は垣内の意に見るべきである。○宇禮都美可良思《ウレツミカラシ》――宇禮《ウレ》は末。柳の梢を摘み苅らしめての意。可良思《カラシ》は枯らしではない。柳の梢を苅り採るのは、籬の外を眺めるに都合よき爲である、垣を越え易からしめむ爲としたのは當らない。新考に「柳の末を摘み枯すは人侍つほどの手すさびなり」と言つて、この柳を絲柳としてゐるが、人待つ手すさびなどは後世ぶりの思想であり、又絲柳では末摘み苅らしにふさはしくない。ここのヤナギは正しくは楊の字を以て記すヤナギである。
〔評〕 人を待つ女が男に言ひ贈つたもの。田舍人らしい情緒が優麗な辭を以て叙べ盡くされ、渾然玲玲瓏たる作品となつてゐる。
 
3456 うつせみの 八十言のへは 繁くとも 爭ひかねて あをことなすな
 
宇都世美能《ウツセミノ》 夜蘇許登乃敝波《ヤソコトノヘハ》 思家久等母《シゲクトモ》 安良蘇比可禰?《アラソヒカネテ》 安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》
 
世間ノ人ガイロイロ評判シテ邪魔スル言葉ガ多クトモ、貴方ハソレニ〔六字傍線〕反抗シカネテ、私ヲ事實トシテシマヒナサルナ。
 
○字都世美能《ウツセミノ》――枕詞として用ゐられるが、ここは現し身即ち世間の人のの意である。○夜蘇許登乃敝波《ヤソコトノヘハ》――八十言の隔は。八十言の上はと見る説が多いが從ひ難い。○安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》――我をその事實ありと認める(435)な。許登奈須《コトナス》はむつかしい言葉である。言《コト》成す、即ち言ひ成すと見る説も多い。
〔評〕 世人の口の喧ましいのに辟易してゐる男を、激勵した女の言葉。かうなると女の方が却つて強く、何處までも二人の關係を否定しつづけようといふのである。力強い叙法。
 
3457 うち日さす 宮の吾が背は 大和女の 膝枕くごとに あを忘らすな
 
宇知日佐須《ウチヒサス》 美夜能和我世波《ミヤノワガセハ》 夜麻登女乃《ヤマトメノ》 比射麻久其登爾《ヒザマクゴトニ》 安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》
 
(宇知日佐須)宮仕ニ出テヰル私ノ夫ハ、都ノ大和ノ女ニ馴レ親シンデ私ヲ思ヒ出シナサラナイダラウガ、セメテ〔都ノ〜傍線〕大和ノ女ノ膝ヲ枕シテ寢ル時毎ニデモ、私ヲ忘レナサルナ。
 
○宇知日佐須《ウチヒサス》−枕詞。宮とつづく。四六〇參照。○美夜能和我世波《ミヤノワガセハ》――宮に奉仕してゐる吾が夫は。○夜麻
登女乃《ヤマトメノ》――大和の國の女の。○比射麻久其登爾《ヒザマクゴトニ》――膝を枕として寢る度毎に。○安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》――我を忘れ給ふな。
〔評〕 東國の男が京に上つて奉仕の生活に入つてゐる者の、妻の詠んだ歌。大和女の膝を枕として寢るものと定めて、敢てそれを怨みはしないが、その時には必ず我を思ひおこし給へと希つてゐる女の言葉は、いとしくも可憐である。
 
3458 なせの子や 等里の岡路し なかだをれ あをねし泣くよ いくづくまでに
 
奈勢能古夜《ナセノコヤ》 等里乃乎加耻志《トリノヲカヂシ》 奈可太乎禮《ナカダヲレ》 安乎禰思奈久與《アヲネシナクヨ》 伊久豆君麻?爾《イクヅクマデニ》
 
私ノ夫ノ君ヨ。等里ノ岡ノ路ガ途中デ曲ツテヰテ、此處カラ別レテ行ツ夫十姿ガ見エナクナルノデ、ソレヲ〔此處〜傍線〕(436)悲シンデ〔〜傍線〕吐息ヲツクホドマデニ、私ヲ聲出シテ泣カシメルヨ。
 
○奈勢能古夜《ナセノコヤ》――奈勢《ナセ》は汝夫。夫を親しんでいふ。書紀に「吾夫君此云2阿我儺勢1」とある。古事記にも「愛我那勢命《ウツクシキワガナセノミコト》」とある。古《コ》は更に親しんで添へたもの。ヤはヨに同じく、呼び懸けの助詞。○等里乃乎加耻志《トリノヲカヂシ》――等里乃乎加耻《トリノヲカヂ》は等里の岡の路。等里は地名であるが、どこかわからない。古義に「等里は未だ慥に考へ得ざれども嘗《ココロミ》に云はば、和名抄に、常陸國鹿島郡下つ鳥中つ鳥上つ島(上つ島の島は鳥の字か)と見えて其は鳥といふ郷に、上中下あるなるべし。されば其地の岡を鳥之岡といふならむ」とある。シは強めて言ふのみ。○奈可太乎禮《ナカダヲレ》――中程で折れ曲つて。等里の岡の道が中途で曲つて、それから男の姿が見えなくなるのであらう。○安乎禰思奈久與《アヲネシナクヨ》――我を音に哭かしめるよ。前に伊毛我名欲妣?吾乎禰之奈久奈《イモガナヲビテアヲネシナクナ》(三三六二)とある。略解は上を男の中絶えて來ぬ譬喩とし、この句を不令寢《ネセヌ》と解してゐる。○伊久豆君麻?爾《イクツクマデニ》――息吐《イキツ》くまでにに同じ。ため息をついて嘆息するまでにの意。
〔評〕 初句に呼びかけのヤを用ゐた爲に、句切となつてゐるのは、集中では極めて珍らしい形である 多少解し難い點もあるので、二三句に誤字ありとする説もあるが、さうではあるまい。
 
3459 稻舂けば かがる吾が手を 今宵もか 殿の若子が 取りて嘆かむ
 
伊禰都氣波《イネツケバ》 可加流安我手乎《カガルアガテヲ》 許余比毛可《コヨヒモカ》 等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》 等里?奈氣可武《トリテナゲカム》
 
稻ヲ舂ク荒仕事ヲシテ〔六字傍線〕居ルノデ、赤ギレノ切レタコノ私ノ手ヲ、今夜、殿ノ若旦那樣ガ手ニオトリナサレテ、アア可愛サウダト〔八字傍線〕オ嘆キ下サルデアラウ。ヤサシイ御方ダカラ屹度サウナサルダラウガ、嬉シクモアリ、恥カシクモアル〔ヤサ〜傍線〕。(437)○可加流安我手乎《カガルアガテヲ》――可加流は皹る。和名抄に「漢書註云、皹(ハ)手足拆裂也、和名阿加々利」とある。今の謂はゆる赤ギレになるをいふ。加は濁つて訓むがよいか。○等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》――殿の若子が。前に等能乃奈可知《トノノナカチ》(三四三八)とあつたのと同じく、殿はその地方の國守郡守などを指すのであらう、和久胡《ワクゴ》は若い子。即ち若君である。○等里?奈氣可武《トリテナゲカム》――手に取つて見て、可愛さうにと嘆くであらうの意。
〔評〕 稻舂く賤女が、殿の若君の愛を得て、今宵殿の若君が來て、この赤切れだらけの手を取つて、可愛さうにと嘆息せられることであらうと、恥かしくもあり嬉しくもある心をその儘に述べたもので、纏綿たる純情を直截的な叙法を以て表現し、毫も潤飾の痕なくして、明朗切實、惻々として人を感動せしめるものがある。蓋し東歌中の秀絶であらう。なほ略解に「良民などの女が身をくだりて、賤女の業もて言へるにぞ有べき。よき人も山がつ海人などに譬へて言ふも歌の常也」とあるのは、途方もない見當違ひである。
 
3460 誰ぞこの 屋の戸おそぶる にふなみに 吾が背をやりて 齋ふこの戸を
 
多禮曾許能《タレゾコノ》 屋能戸於曾夫流《ヤノトオソブル》 爾布奈未爾《ニフナミニ》 和家世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》 伊波布許能戸乎《イハフコノトヲ》
 
新嘗ノ祭ニ私ノ夫ヲ出シテ〔三字傍線〕ヤツテ、私ガ留守ヲシテ〔七字傍線〕汚レノ入ラヌヤウニ、謹慎シテ、閉ヂテ〔三字傍線〕ヰルコノ家ノ〔二字傍線〕戸ヲ、押シ開ケヨウト〔七字傍線〕動カスノハ誰デスカ。開ケルコトハ出來マセヌゾ〔開ケ〜傍線〕。
 
○屋能戸於曾夫流《ヤノトオソブル》――屋能戸《ヤ/ト》は屋の戸。於曾夫流《オソブル》は押し動かす。古事記八千矛神の歌に、遠登賣能那須夜伊多斗遠淤曾夫良比《ヲトメノナスヤイタドヲオソブラヒ》とある淤曾夫良比《オソブラヒ》に同じ。○爾布奈未爾《ニフナミニ》――爾布奈未《ニフナミ》は新嘗の東語。新穀を供へて神を祭ること。○和家世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》――吾が夫を遣りて。舊本、家とあるは我の誤か。元暦校本など我に作つてゐる。○伊波布許能戸乎《イハフコノトヲ》――齋ふは神聖にして穢に觸れじとすること。許能戸《コノト》は二句の屋能戸《ヤノト》で、人を入れじと閉してあるのである。
(438)〔評〕 新嘗祭の民間に行はれた有樣がよく分つて、文化史料として大切な作品である。略解に、「にふなみはにひなめ也。十一月公の新嘗祭有時は國の廳にても同じ祭すれば、其國の里長より上は皆廳に集ふべし。しかればその里長などの家にても、妻の物忌して在を忍び來たる男の戸をおしひらかむとする時、其妻の詠める也。上にかつしかわせをにへすとも詠めるは、家々にて爲なれど事はひとし」とあるのは考の説を踏襲したもので、公にて催される新嘗とし、里長などの妻の歌としてゐるが、これはさうではなく村々で行はれたもので、各戸の家長などが集まつてやつたのであらう。もとより一家族として各戸でも行つたのだが、かうした團體的の新嘗もあつたのである、この神聖な祭に、男の留守に乘じて、人妻を誘惑しようとする不徳漢をたしなめた歌である。卷十一の誰此乃吾屋戸來喚足千根母爾所嘖物思吾呼《タレゾコノワガヤドニキヨブタラチネノハハニコロバエモノモフワレヲ》(二五二七)と形式が似てゐる。なほ新解には、「新嘗の祭は婦人の爲事であつて、最神聖な祭であるから、家中の男子を外に出してしまふのである。ヤルは男を出して遣る意」とある。
 
3461 あぜと云へか さねに逢はなくに 眞日暮れて よひなは來なに 明けぬしだ來る
 
安是登伊敝可《アゼトイヘカ》 佐宿爾安波奈久爾《サネニアハナクニ》 眞日久禮?《マヒクレテ》 與比奈波許奈爾《ヨヒナハコナニ》 安家奴思太久流《アケヌシダクル》
 
何ト云フコトカ。アノ人ハ〔四字傍線〕本當ニハ逢ハナイヨ。イツデモ〔四字傍線〕日ガ暮レテスグニ〔三字傍線〕宵ノ内〔二字傍線〕ニハ來ナイデ、夜ノ〔二字傍線〕明ケタ時ニヤツテ來ルヨ。コレデハ眞實ニ私ヲ思ハナイノデアラウ〔コレ〜傍線〕。
 
○安是登伊敝可《アゼトイヘカ》――何と言へばか。何といふことかの意。安是《アゼ》は東語で、今のナゼに同じ、今も房總地方ではナゼをアゼといふ。○佐宿爾安波奈久爾《サネニアハナクニ》――佐宿《サネ》は眞實。本當には逢はないよの意。○眞日久禮?《マヒクレテ》――眞日《マヒ》は眞日。マは添へていふのみ。○與比余波許奈爾《ヨヒナハコナニ》――宵には來ないで。ナは宵に添へたもので、朝ナ・夕ナなどのナであらう。契沖以下の諸註このナをニと同義とし、古義には爾の字の誤であらうと言つてゐるが、さうで(439)はあるまい。許奈爾《コナニ》は來ないで。○安家奴思太久流《アケヌシダクル》――夜の明けた時來る。明けぬるといふべきを明けぬといふのは、連體形の古格である、思太《シダ》は時。他にも用例が多い。
〔評〕 男が晝のみ訪れて、夜は來てくれないことを、物足りなく遺憾に思つた歌。戀の完成を急ぐいらいらしてゐる氣分である、内容も用語も東語らしい作である、
 
3462 足引の 山澤人の 人さはに まなといふ兒が あやにかなしさ
 
安志比奇乃《アシヒキノ》 夜末佐波妣登乃《ヤマサハヒトノ》 比登佐波爾《ヒトサハニ》 麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》 安夜爾可奈思佐《アヤニカナシサ》
 
(安志比奇乃)澤山ノ人ガ多勢デ、愛ラシイ、女ダ〔二字傍線〕ト言ツテ評判シテ〔四字傍線〕ヰル女ガ、不思議ト思ハレル程モ私ニハ〔三字傍線〕戀シイヨ。
 
○夜末佐波妣登乃《ヤマサハビトノ》――山澤人の。ヤマサハはサハヤマと同じく、今の澤山と同意であらう。古義に山澤に居《ス》む人といふことなりといふ、源嚴水説を採用してゐるのは諒解に苦しむ、この句までを序詞と見る説が多いが、澤山の人の、人が澤山にと三句で繰返してゐるのであらう。○麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》――愛らしいといふ女が、マナは愛らしいこと、集中、愛子の二字をマナゴと訓んだ所が多い。考に「庶子は其家にも他もかろしめ、嫡妻《ムカヒメ》の子を眞《マ》なむすめと人もさはにたふとむ、その女こそよろづ事もなければ、吾は本より深く思ふといふなり」とあるのは從ひ難い。○安夜爾可奈思佐《アヤニカナシナ》――怪しく可愛いことよ。
〔評〕 評判の美人を戀する歌。民謠風の作品。
 
3463 ま遠くの 野にも逢はなむ 心なく 里のみ中に 逢へるせなかも
 
麻等保久能《マトホクノ》 野爾毛安波奈牟《ヌニモアハナム》 己許呂奈久《ココロナク》 佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》 安敝(440)流世奈可母《アヘルセナカモ》
 
人里〔二字傍線〕遠イ人目ニ觸レナイヤウナ〔人目〜傍線〕、野原デデモアナタト〔四字傍線〕逢ヒタカツタ。不用意ニモ、里ノ眞中デ逢ツタ私ノ愛〔二字傍線〕スル男ヨ。里中デハ折角逢ツテモ人目ヲ恐レテ、思フヤウニ話ヲスルコトモ出來ナイノハ殘念デス〔里中〜傍線〕。
 
○麻等保久能《マトホクノ》――ま遠くの。麻《マ》は接頭語のみ。○野爾毛安波奈牟《ヌニモアハナム》――野にも逢はなむ。安波奈牟《アハナム》は逢へかしと希望を述べてゐる。○佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》――里の眞中に。美《ミ》は接頭語。○安敝流世奈可母《アヘルセナカモ》――世奈《セナ》は男を親しんでいふ。
〔評〕 人目に觸れないで男に逢ひたいと希ふ女の歌。前の可美都氣乃乎度能多杼里我可波治爾毛兒良波安波奈毛比等理能未思?《カミツケノヲドノタドリガカハヂニモコラハアハナモヒトリノミシテ》(三四〇五)は男の歌であるが、意はよく似てゐる、
 
3464 人言の 繋きによりて 眞小薦の おやじ枕は わはまかじやも
 
比登其等乃《ヒトゴトノ》 之氣吉爾余里?《シゲキニヨリテ》 麻乎其母能《マヲゴモノ》 於夜目麻久良波《オヤジマクラハ》 和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》
 
世間ノ人ノ口ガ喧マシイカラトテ、私ハ、同ジ一ツノ〔三字傍線〕鷹枕ヲシテオマヘト共ニ〔六字傍線〕寢ナイト云フコトガアルモノカ。人ガ何ト言ハウトモカマハズニ共寢ヲシヨウ〔人ガ〜傍線〕。
 
○麻乎其母能《マヲゴモノ》――眞小薦の。マ・ヲ共に接頭語。この句から四句の麻久良《マクラ》につづく。薦枕をして共に寢ようといふのである。○於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》――於夜自《オヤジ》は同じの古言。○和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》――我は枕かざらむや、必ず枕く考だといふのである 同じ枕を枕くとは一つ枕をして共に寢ること。
〔評〕 人言を憚らぬ戀をする男の歌。かなり熱烈である。
 
3465 高麗錦 紐解き放けて 寢るが上に あどせろとかも あやにかなしき
 
(441) 巨麻爾思吉《コマニシキ》 比毛登伎佐氣?《ヒモトキサケテ》 奴流我倍爾《ヌルガヘニ》 安杼世呂登可母《アドセロトカモ》 安夜爾可奈之伎《アヤニカナシキ》
 
高麗錦ノ紐ヲ解キ放ツテ、私ハ戀シイ人ト〔七字傍線〕共寢ヲシテヰルノニ、コノ上何トシロトテ、コノ人ガ〔四字傍線〕不思議ニモ可愛イノデアラウカ。コンナニ心解ケテ共寢シテヰルノニ、マダ物足ラヌトハ不思議ダ〔コン〜傍線〕。
 
○巨麻爾思吉《コマニシキ》――高麗より舶來の錦。この錦を以て紐を作つた。○奴流我倍爾《ヌルガヘニ》――共寢をしてゐるのに、これ以上に。○安杼世呂登可母《アドセロトカモ》――何と爲よとかも。安杼《アド》は何との東語。セロは爲よ。ロをヨに用ゐるのは今日の關東語にも普通に行はれてゐることである。
〔評〕 男の歌であらう。女の歌とも見られないことはない。情緒纏綿。第四句は心の駒の荒れ狂ふ樣をあらはした、端的な情熱的表現である。
 
3466 まかなしみ 寢れば言にづ さ寢なへば 心の緒ろに 乘りてかなしも
 
麻可奈思美《マカナシミ》 奴禮婆許登爾豆《ヌレバコトニヅ》 佐禰奈敝波《サネナヘバ》 己許呂乃緒呂爾《ココロノヲロニ》 能里?可奈思母《ノリテカナシモ》
 
可愛サニ戀人ト共ニ〔五字傍線〕寢レバ、世間ノ人ノ〔五字傍線〕口ニ喧マシク言ヒ騷ガレル。ト言ツテ〔四字傍線〕共寢ヲシナケレバ、アノ人ノコトガ〔七字傍線〕絶エズ心ニ思ハレテ悲シイヨ。サテサテ困ツタコトダ〔サテサ〜傍線〕。
 
○麻可奈思美《マカナシミ》――愛《カナ》しき故。麻《マ》は接頭語。○奴禮婆許登爾豆《ヌレバコトニヅ》――許登爾豆《コトニヅ》は言に出づ。言に出づとは、多く自から口に言ひあらはすことであるが、ここは戀人と共に寢れば人に言ひ騷がれるといふのである。○佐禰奈敝波《サネナヘバ》――さ寢ざれば。サは接頭語。ナヘは打消の助動詞ヌに同じ。下に禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》(三五二九)・(三五五五)・宿奈敝杼(442)母《ネナヘドモ》(三五〇九)などの例がある。○己許呂乃緒呂爾《ココロノヲロニ》――心の緒ろに。心はつづいて絶えぬものであるから、緒といふのであらう。或は正述心緒などの心緒か。ロはこの卷に多い接尾語である。○能里?可奈思母《ノリテカナシモ》――心に思つて忘れかねる意を、心に乘るといつた例は、卷二の妹情爾乘爾家留香聞《イモガココロニノリニケルカモ》(一〇〇)などがある。ここは心の緒ろに乘るといつてゐるが、要するに同じである。
〔評〕 人言を憚る戀。男の歌であらう。遣瀬ない戀情。
 
3467 奧山の 眞木の板戸を とどとして 吾が開かむに 入り來てなさね
 
於久夜麻能《オクヤマノ》 眞木乃伊多度乎《マキノイタドヲ》 等杼登之?《トドトシテ》 和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》 伊利伎?奈左禰《イリキテナサネ》
 
奥山ニ生エテヰル檜ノ板デ作ツタ戸ヲ、ドンドント音ヲ立テテ、貴方ガ叩イタナラバ〔九字傍線〕、私ガ中カラ〔三字傍線〕開キマセウカラ、ソノ時ニ〔四字傍線〕入ツテ來テアナタハ〔四字傍線〕オ寢ナサイ。
 
○於久夜麻能眞木乃伊多度乎《オクヤマノマキノイタドヲ》――奥山に生える眞木の板で作つた戸を。奧山のは眞木と言はむ爲のみ。眞木は檜。○等杼登之?《トドトシテ》――等杼《トド》はドンドンと鳴る音。卷十一に馬音之跡杼登毛爲者《ウマノトノトドトモスレバ》(二六五三)とある。考に「とどとしては男のするなり。和我は女なり。此間を切て心得べし」とあり、略解もこれに從つて、「とどは男の戸を叩く音也。さて三の句に切て吾開かむにとは女のひらく也」とあるが、古義はこれに反對して、女が内から戸轟として押開かむその時に入り來て寢給へよの意として解してゐる。語調からいへば三四の句が續いてゐるやうであるが、内より開くに殊更轟として開くと言ふは穩やかでないから、眞淵説の如く、等杼登之?《トドトシテ》は男の外より戸を鳴らす音。和我は女とすべきであらう。○伊利伎?奈左禰《イリキテナサネ》――入來て寐さね。ナスはは寐《ヌ》に同じ。夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》(八〇二)參照。
〔評〕 少し叙法に曖昧な點もあるが、面白い作品だ。如何にも純一な上代の田舍人の戀らしい。民謡に違ひない。
 
3468 山鳥の 尾ろのはつ尾に 鏡懸け 唱ふべみこそ 汝によそりけめ
 
(443)夜麻杼里乃《ヤマドリノ》 乎呂能波都乎爾《ヲロノハツヲニ》 可賀美可家《カガミカケ》 刀奈布倍美許曾《トナフベミコソ》 奈爾與曾利※[奚+隹]米《ナニヨソリケメ》
 
人ガ私ノ浮名ヲ〔七字傍線〕(夜麻杼里乃乎呂能能波都乎爾可賀美可家)言ヒ立テヨウト思ツテ、私ヲ〔二字傍線〕貴方ト關係アルヤウ〔七字傍線〕ニ言ヒ寄セタノデアラウ。喧マシイ人ノ口ダ〔八字傍線〕。
 
○夜麻杼里乃《ヤマドリノ》――山鳥は卷八に山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云《ヤマドリコソハヲムカヒニツマドヒストイヘ》(一六二九)とある山鳥で、雉に似て尾の長い鳥である。○乎呂能波都乎爾《ヲロノハツヲニ》――乎呂《ヲロ》は尾。ロは添へていふのみ。波都乎《ハツヲ》は秀《ホ》ツ尾《ヲ》と同じく、尾の中の特に長い尾即ち垂り尾である。○可賀美可家《カガミカケ》――鏡懸け。山鳥の垂り尾に鏡を懸けることは、代匠記に「魏時南方(ヨリ)献2山鶏1、帝欲2其歌舞1而無v由、公子蒼舒令d以2大鏡1著c其前u、山鷄鑑v形而舞、不v知v止、遂至v死、韋仲將爲v之賦」と引いた故事に出たのであらう。この傳説は枕草子にも「山鳥は友を戀ひてなくに、鏡を見せたれば、なぐさむらむ、いとあはれなり。谷距てたるほどなど、いと心くるし」とあつて、古くから吾が國の民間に行はれたものらしい。宣長が「から國の故事は此歌には叶はず。これは或人の云、山鳥の尾は夜いみじく光る事有ものにて、人其光を見て捕むとして行に、やゝ近くなるまでうごかず、今まさに捕ふべきほどに近づく時に、俄かに立去て、又行先の方にて光るを人又行て捕むとすれば、又さきの如くにて終に捕がたきもの也。されば此歌に鏡かけと言ふは、尾の鏡の如く夜光るを言ふ。となふべみは捕ふべみ也。たとへたる意は山鳥の捕へらるべく見えて、とらへがたき如く、女の吾になびくべきさまに見えながら、つひになびかぬにて、はじめなびくべく見えたればこそ、心をかけて言ひより初めたれの意也と言へり、右の説いとよく歌に叶へり。但し其意ならば、結句けれと有べきを、けめと言へるはいさゝか心得ず」と言つてゐる。古義は太體これに賛して、雄鳥のはつをに雌鳥の影のうつる事あるを見て鳴くのを、かがみといふので、誠の鏡ではないとしてゐるが無理であらう。新考の可賀美は掛網をつづめたので、カガミではなくカカミだといつたのは更に奇説である。ここまでは山鳥が鏡(444)を見て鳴くといふ傳説によつて唱ふとつづけた序詞。○刀奈布倍美許曾《トナフベミコソ》――トナフは聲を立てて呼ぶこと。人が吾が名を唱へ言ひ立てようとての意である。ベミはべくあるによつて、べき故になどの意。卷十に秋芽子乎落過沼蛇《アキハギヲチリスギスベミ》(二二九〇)とある。○奈爾與曾利鷄米《ナニヨソリケメ》――私を汝に關係ある如く言ひ寄せたのであらうの意。ケレと有べきだとする説は理由がない。
〔評〕 有名な山鳥傳説を序詞として取入れた作で、支那傳説が地方の民間に廣まつてゐたのである。秀でてはゐないが、注意すべき作品である。袖中抄にも載せてある。
 
3469 夕占にも 今宵と告らろ 吾がせなは あぜぞも今宵 よしろ來まさぬ
 
由布氣爾毛《ユフケニモ》 許余比登乃良路《コヨヒトノラロ》 和賀西奈波《ワガセナハ》 阿是曾母許與比《アゼゾモコヨヒ》 與斯呂伎麻左奴《ヨシロキマサヌ》
 
夕方ノ占ヲシテ見タノ〔六字傍線〕ニモ、今夜私ノ夫ガオイデナサル〔十字傍線〕ト出タ。ソレダノニ〔五字傍線〕私ノ夫ハ何故ニマア、今夜ハ寄ツテオイデニナラナイノダラウ。
 
○由布氣爾毛《ユフケニモ》――由布氣《ユフケ》は夕占。夕方辻に立つて行ふ占。卷三に夕衝占間《ユフケトヒ》(四二〇)とあるのは、衢で行ふことを示してゐる。○許余比登乃良路《コヨヒトノラロ》――乃良路《ノラロ》は宣《ノ》れるの東語。〇阿是曾母許與比《アゼゾモコヨヒ》――何故ぞも今宵。○與斯呂伎麻左奴《ヨシロキマサヌ》――ヨシは依セ、ロは助辭。依せ來まさぬ。寄り來まさぬと同じであらう。
〔評〕 卷十一の夕占爾毛占爾毛告有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモノレルコヨヒダニキマサヌキミヲイツトカマタム》(二六一三)と同意。用語が全く東語らしい。
 
3470 相見ては 千年や去ぬる 否をかも あれや然思ふ 君持ちがてに
 
安比見?波《アヒミテハ》 千等世夜伊奴流《チトセヤイヌル》 伊奈乎加母《イナヲカモ》 安禮也思加毛布《アレヤシカモフ》 伎美末知我?爾《キミマチガテニ》
 
(445)私ハアナタニ〔六字傍線〕逢ツテカラ、千年モタツタノカ知ラ、ドウモソンナ氣ガスルガ〔ドウ〜傍線〕サウデハナイノカ知ラ、アナタノオイデヲ待チカネテ、私ガサウ思フノカ知ラ。
 
〔評〕 卷十一の相見者千歳八去流否乎鴨我哉然念待公難爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモワレヤシカオモフキミマチガテニ》(二五三九)と全く同一の歌である。なほ左註に柿本朝臣人麿歌集出也とあるけれども、卷十一の柿本朝臣歌集出と記した部類中には入つてゐない。又その書き方も人麿集のものらしくない。卷十一に於いて人麿集以外としたものを、何故にこの卷ではかかる註を附したか、この矛盾に注意すべきである。代匠記精撰本はこれについて「つらつら按ずるに彼卷には他本によのつねの歌の中に入れたるに依て載せ、今は人丸集に東歌と註せられたるに依て此處にも載る故に、後人に兩卷の相違を疑がはしめむとて注せらるなり」と言つてゐる。考もこれに就いて説をなしてゐるが、なほ攻究すべき問題である。
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
3471 しまらくは 寢つつもあらむを 夢のみに もとな見えつつ あを音し泣くる
 
思麻良久波《シマラクハ》 禰都退母安良牟乎《ネツツモアラムヲ》 伊米能未爾《イメノミニ》 母登奈見要都追《モトナミエツツ》 安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》
 
セメテ〔三字傍線〕暫クノ間ハ落ツイテ〔四字傍線〕寢テ居タイモノダノニ、落ツイテ寢ルコトガ出來ズ〔落ツ〜傍線〕、夢ニバカリニ徒ラニ、戀人ノ姿ガ〔五字傍線〕見エテ、私ヲ落付イテ〔四字傍線〕寢サセナイ。
 
○禰都追母安良牟乎《ネツツモアラムヲ》――ネは安眠・熟睡の意である。臥床することではない。○伊米能末爾《イメノミニ》――考に伊米を於米の誤として、面影に見えることとしてゐる。前句の誤解に基くものである。○安乎彌思奈久流《アヲネシナクル》――前に安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》(三三六二の或本)とあり、我を音に泣かしむるの意。略解に「我を寢せしめぬと言ふ意也」とあるのはよくない。
 
(446)〔評〕 ツツといふ助詞が二句と四句とに用ゐられてゐるが、格別耳ざはりでもない。
 
3472 人妻と あぜかそを言はむ 然らばか 隣の衣を 借りて著なはも
 
比登豆麻等《ヒトヅマト》 安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》 志可良婆加《シカラバカ》 刀奈里乃伎奴乎《トナリノキヌヲ》 可里?伎奈波毛《カリテキナハモ》
 
人妻人妻〔二字傍線〕ト手モ出セナイモノノヤウニ〔手モ〜傍線〕、何故アノ女ヲ言ハウカ。若シサウ云フモノナラバ、隣ノ人ノ着物ヲ借リテ着ナイト云フコトガアルカ。着物ハ隣ノ人ノデモ場合ニヨツテハ借リルノダカラ、人妻デモ黙ツテ見テヰナクテハナラナイモノトバカリ言ハレマイ〔着物〜傍線〕。
 
○安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》――何故か其を言はむ。何故にその女を言はむやの意。○可良婆加《シカラバカ》――然らばか。カは疑問の助詞。○刀奈里乃伎奴乎《トナリノキヌヲ》――隣人の衣服を。○可里?伎奈波毛《カリテキナハモ》――借りて着ざらむ。
〔評〕大膽な歌である。人妻を觸れ難きものとした。卷四の神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞《カムキニモテハフルトフヲウツタヘニヒトツマトイヘバフレヌモノカモ》(五一七)とある思想と反對に、人妻なりとて觸れられぬことはないと叫んでゐる。人妻を隣の衣に譬へたのは、勝手な言葉であるが面白い。卷四の歌の道徳的なるに對して、この方が本能的・原始的である。
 
3473 佐野山に 打つや斧音の 遠かども 寢もとか子ろが 面に見えつる
 
左努夜麻爾《サヌヤマニ》 宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》 等拘可騰母《トホカドモ》 禰毛等可兒呂賀《ネモトカコロガ》 於由爾美要都留《オモニミエツル》
 
(左努夜麻爾宇都也乎能登乃)遠イケレドモカウシテ二人デ〔七字傍線〕寢ヨウトノ前シラセカ〔六字傍線〕、女ノコトガ目ノ前ニチラツイテ見エタ。
(447)○左努夜麻爾《サヌヤマニ》――佐野といふ地名は所々にあるが、東國で有名なのは上野である。考にサを發言として、野山と見てゐるのは、この歌が未勘國の部に入つてゐるからであらうが、從ひ難い説である。○宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》――打つや斧音の。ヤは詠歎の辭として添へたのみ。ここまでは遠と言はむ爲の序詞。○等抱可騰母《トホカドモ》――遠かれども。女と遠く距つてゐるがの意。○禰母等可兒呂賀《ネモトカコロガ》――我と寢むとか女がの意。ネモは寢むに同じ。コロは兒にロを添へたもの。○於由爾美尊都留《オモニミエツル》――舊本、於由とあるが考に由を母の誤として面に見えつる、即ち面影に見えつるの意としたのがよいやうだ。於由では解しがたい。
〔評〕 樵夫が佐野山に入つて材木を伐り出す音が、かすかに遠く響いてゐる。その音を序詞に取り入れて綴つた手際は巧なものである。田舍人の作らしい材料だ。
 
3474 植竹の 本さへとよみ 出でて去なば いづし向きてか 妹が嘆かむ
 
宇惠多氣能《ウヱタケノ》 毛登佐倍登與美《モトサヘトヨミ》 伊低?伊奈婆《イデテイナバ》 伊豆思牟伎氏可《イヅシムキテカ》 伊毛我奈藝可牟《イモガナゲカム》
 
(宇惠多氣能)皆ノ者マデガ泣キ騷イデ、別ヲ悲シデ私ガ旅ニ〔九字傍線〕出カケタナラバ、何方ヲ向イテ妻ハ私ヲ慕ツテ〔五字傍線〕歎クコトデアラウカ。サゾ私ヲ思ヒヤツテ泣クコトデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
○字惠多氣能《ウヱタケノ》――殖竹の。殖は殖子水葱《ウヱコナギ》(四〇七)・植槻《ウヱツキ》(三三二四)などのウヱと同じく、殊更に植ゑたものではなく、おのづから生えたものにもいふ。宇惠多氣《ウヱタケ》は生えてゐる竹。上の句は本《モト》と言はむ爲に、枕詞として置かれてゐる。○毛登佐倍登與美《モトサヘトヨミ》――モトは本、末に對して根本の方をいふ。本まで響かせてとは考に「こは家こぞりてね泣さわぐを強くいふなり」といつたのがよいか。○伊豆思牟伎?可《イヅシムキテカ》――イヅシは何方《イヅチ》に同じ。○伊毛我奈藝可牟《イモガナゲカム》――舊本、藝とあるが、元暦校本その他の古本、氣に作つてゐるから、ナゲカムであらう。
〔評〕 旅に出でむとして留守居の妻を思ひやつたもの。哀情が籠つてゐる。防人などの作か。前に可須美爲流布(448)時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉?加伊毛我奈氣可牟《カスミヰルフジノヤマビニワガキナバイヅチムキテカイモガナゲカム》(三三五七)とあるのと、下句殆ど同樣である。
 
3475 戀ひつつも 居らむとすれど 木綿間山 隱れし君を 思ひかねつも
 
古非都追母《コヒツツモ》 乎良牟等須禮杼《ヲラムトスレド》 遊布麻夜萬《ユフマヤマ》 可久禮之伎美乎《カクレシキミヲ》 於母比可禰都母《オモヒカネツモ》
 
戀シク思ヒナガラモソノ儘耐ヘテ〔六字傍線〕居ヨウトスルケレドモ、木綿間山ヲ越エテ〔四字傍線〕、見エナイヤウニナツテ行〔三字傍線〕ツタ君ヲ思ツテハ、戀シサニ〔四字傍線〕堪ヘラレナイヨ。
 
○乎良牟等須禮杼《ヲラムトスレド》――さうして忍びこらへてゐようと思ふが。○遊布麻夜萬《ユフマヤマ》――所在不明、卷十二(三一九二)にもある。
〔評〕 卷十二に不欲惠八師不戀登爲杼木綿間山越去之公之所念良國《ヨシヱヤシコヒジトスレドユフマヤマコエニシキミガオモホユラクニ》(三一九一)とあつて、羈旅發思の部に收めてあるのと同歌の異傳と思はれるほどによく似てゐる、木綿間山の所在は明瞭でないが、東歌らしくない作である。
 
3476 うべこなは わぬに戀ふなも たとつくの ぬがなへ行けば 戀ふしかるなも 或本歌末句曰、ぬがなへ行けど わぬがゆのへば
 
宇倍兒奈波《ウベコナハ》 和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》 多刀都久能《タトツクノ》 奴賀奈敝由家婆《ヌガナヘユケバ》 故布思可流奈母《コフシカルナモ》
 
オマヘハ俺ガ戀シイト言ツテヨコシタガ〔オマ〜傍線〕、オマヘガ俺ヲ戀シク思フノハ尤モナコトダ。立ツ月ガ流レテ、月日ガタツ〔六字傍線〕タコトダカラ、戀シク思フコトデアラウ。
 
○宇倍兒奈波《ウベコナハ》――諾兒等《ウベコラ》は。ウベは尤も。次句につづいてゐる、コナのナは狹名《セナ》(二五二二)・妹名根《イモナネ》(一八〇〇)・伊毛奈呂《イモナロ》(三四四六)などのナに同じで、コナは女を親しんでいふ。○和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》――ワヌは我に同じであらう。コフナモは戀ふらむ。ナモは結句にもあり、ラムの意らしい。○多刀都久能《タトツクノ》――立つ月の。立つは月の始まること。(449)○奴賀奈敝由家婆《ヌガナヘユケバ》――流らへ行けばであらう。月が改まり經過して行けばの意。○故布思可流奈母《コフシカルナモ》――戀しがるらむに同じ。戀しいであらう。
〔評〕 旅に出た男が故郷に殘して來た女からの消息を見て、よんだものであらう。徹頭徹尾東語が用ゐられて、如何にも東歌らしい。
 
或本宇末句曰 努我奈敝由家杼《ヌガナヘユケド》 和奴賀由乃敝波《ワヌガユノヘバ》
 
努我奈敝由家杼《ヌガナヘユケド》は流らへ行けど。和奴賀由乃敝波《ワヌガユノヘバ》は宣長説に「或人のいはく、賀由は由賀を下上に誤れるにてわぬゆかなへば也と言へり」とあるのがよいであらう。吾が歸り行かねばの意であらう。
 
3477 東路の 手兒の呼坂 越えて去なば 我は戀ひむな 後は逢ひぬとも
 
安都麻道乃《アヅマヂノ》 手兒乃欲婢佐可《タゴノヨビサカ》 古要?伊奈婆《コエテイナバ》 安禮婆古非牟奈《アレハコヒムナ》 能知波安此奴登母《ノチハアヒヌトモ》
 
アナタガ〔四字傍線〕東海道ノ田子ノ呼坂ヲ越エテ、出カケタナラバ、私ハ後ニハオ目ニカカルコトガ出來ルト思ツ〔四字傍線〕デモ、ヤハリ〔三字傍線〕戀シク思フコトデセウナア。
 
○手兒乃欲婢佐可《タゴノヨビサカ》――前の安豆麻治乃手兒乃欲妣左賀《アヅマヂノタゴノヨビサカ》(三四四二)參照。
〔評〕 防人などに行く悲別の歌か。卷十二の三沙呉居渚爾居舟之※[手偏+旁]出去者裏戀監後者會宿友《ミサゴヰルスニヲルフネノコギデナバウラコヒシケムノチハアヒヌトモ》(三二〇三)と同じ形で、歌意も相似てゐる。この歌に關する傳説が駿河風土記に出てゐる。三一九五と三四四二とを參照せられたい。
 
3478 遠しとふ 故奈の白峯に 逢ほしだも 逢はのへしだも 汝にこそよされ
 
等保斯等布《トホシトフ》 故奈乃思良禰爾《コナノシラネニ》 阿抱思太毛《アホシダモ》 安波乃敝思太毛《アハノヘシダモ》 奈爾(450)己曾與佐禮《ナニコソヨサレ》
 
(等保斯等布故奈乃思良禰爾)逢フ時デモ、逢ハナイ時デモ區別ナク、イツデモ私ハ〔十字傍線〕貴方ニ心ヲ寄セテ居リマス。
 
○等保斯等布《トホシトフ》――遠しとふ。遠いと言はれてゐる、乏しいといふと見る説はとらない。○故奈乃思良禰爾《コナノシラネニ》――故奈の白峯は何處にあるかわからない。故奈は故志の誤で、越の白峯即ち白山ではないかとする古義の説も、遽かに從ひ難い。シラネは今の日光山西方の白根山かも知れない。なほ伊豆田方郡に古奈温泉がある。その地方に白根といふ山があるか研究を要する。思良禰爾《シラネニ》は白峯の如くにの意だと契沖・眞淵は言つてゐるが、白峯に逢ふとつづくのである。この二句は序詞と見るがよい。○阿抱思太毛《アホシダモ》――逢ふ時も。逢ふは即ち白峯の見ゆることをいふ。○安波乃敝思太毛《アハノヘシダモ》――逢はぬ時も。ノヘはナヘと同じく、ヌの東語である。略解に乃をナと訓んだのは正しくはあるまい。○奈爾已曾與佐禮《ナニコソヨサレ》――汝にこそ心を寄すれの意。
〔評〕 序詞は少し用語が曖昧であるが、全意は把むことが出來る。全身的に男にたよる女の歌である。
 
3479 安可見山 草根刈りそけ 逢はすがへ 爭ふ妹し あやにかなしも
 
安可見夜麻《アカミヤマ》 久左禰可利曾氣《クサネカリソケ》 安波須賀倍《アハスガヘ》 安良蘇布伊毛之《アラソフイモシ》 安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》
 
赤見山ノ草ノ根ヲ刈リ拂ツテ、其處デ私ニ〔五字傍線〕逢ツテ居ル上ニ、二人ノ間ニハ何ノ關係モナイト、人ト言ヒ〔二人〜傍線〕爭フ、アノ〔二字傍線〕女ガ、我ナガラ〔四字傍線〕不思議ナ程ナツカシイヨ。ホントニ可愛イ女ダ〔九字傍線〕。
 
○安可見夜麻《アカミヤマ》――安可見山の所在はわからない。明見郷は近江・美濃にあり、赤見は尾張・下野にある。下野のは安蘇郭で、佐野町の西北方に當つてゐる。東歌としてはこれが最もふさはしい地であるが、果して古名の遺(451)つてゐるものであるか、どうか明らかでない。○久左禰可利曾氣《クサネカリソケ》――草の根を刈り除けて。略解・古義などはここまでを譬喩として、此山の草を刈除る如く、障をよけて、又は人目を避けてなどと解してゐるが、文字通りに赤見山の草根を刈り除いて、其處で男女相逢ふのであらう。○安波須賀倍《アハスガヘ》――逢はすが上に。逢ひ給ふ上にの意 ○安良蘇布伊毛之《アラソフイモシ》――爭ふ妹し。我に逢はじと人に爭ひ打消す妹が。○安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》――あやしく思はるるまでに可愛いよ。
〔評〕 右の如く解すると文字通りの野合である。上代の田舍ではかういふことは普通のことであつたらう。結句の安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》は東歌中に見える形である。
 
3480 大君の 命かしこみ かなし妹が 手枕離れ よだち來ぬかも
 
於保伎美乃《オホキミノ》 美己等可思古美《ミコトカシコミ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》
 
防人ニ出ヨトノ〔七字傍線〕天子樣ノ御仰セ言ヲ畏レ謹ンデ、ソレニオ從ヒ申シテ、私ハ〔ソレ〜傍線〕戀シイ妻ノ手枕ヲ離レテ、夜早ク〔二字傍線〕出カケテ來マシタヨ。アア妻ガナツカシイガ仕方ガナイ〔アア〜傍線〕。
 
○於保伎美乃美己等可思古美《オホキミノミコトカシコミ》――大君の勅畏み。集中に多い言葉である。上代人の忠誠な態度が伺はれる。○可奈之伊毛我《カナシイモガ》――愛《カナ》しき妹がに同じ。○多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》――手枕をしてゐたのをやめて。○欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》――夜立ち來ぬかも。役のこととした宣長説は從ひ難い。役はエダチであつて、東語ではヨダチと轉ずべき語ではあるが、手枕離れにつづいては、夜立ちてと見る方がよいやうだ。
〔評〕 防人として出立する東人の歌であらう。東人の忠誠があらはれてゐると同時に、女の手枕をして寢てゐた男が、飽かぬ別を惜しみつつ、夜をこめて出發する樣が詠まれてゐていたましい。
 
3481 あり衣の さゑさゑしづみ 家の妹に 物言はず來にて 思ひ苦しも
 
(452)安利伎奴乃《アリキヌノ》 佐惠佐惠之豆美《サヱサヱシヅミ》 伊敝能伊母爾《イヘノイモニ》 毛乃伊波受伎爾?《モノイハズキニテ》 於毛比具流之母《オモヒクルシモ》
 
別ヲ悲シンデ〔六字傍線〕(安利伎奴乃)ザワザワト騷イデヰル妻〔六字傍線〕ヲ押シ鎭メテ、強ヒテ平氣ヲ装ツテ〔九字傍線〕、家ノ妻ニ別ノ〔二字傍線〕辭モ言ハナイデ別レテ〔三字傍線〕來タノデ、心ガ苦イヨ。
 
○安利伎奴乃《アリキヌノ》――枕詞。サヱサヱとつづく、宣長は玉勝間に鮮かなる絹の意といつてゐる。絹の音がさわさわとする意で下につづいてゐる。
〔評〕 この歌は卷四に、珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《タマギヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ》(五〇三)とある柿本朝臣人麿歌と殆ど同一である。左註に柿本朝臣人麿歌集に出づとあるが、同歌が少し形をかへて東歌として載つてゐるので、人麿の作が東歌中にあるといふことは大いに攻究すべき問題である。これに關し、眞淵は人麿集がこの東歌の卷から採つたのだから、この卷の記載が本だといつてゐる。なほこの歌は下の水都等利乃多多武與曾比爾伊母能良爾毛乃伊波受伎爾?於毛比可禰都毛《ミヅトリノタタムヨソヒニイモノラニモノイハズキニテオモヒカネツモ》(三五二八)・卷二十の美豆等利乃多知能已蘇伎爾父母爾毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎《ミヅトリノタチノイソギニチチハハニモノハズケニテイマゾクヤシキ》(四三三七)などと同型である。これ以下は寄物陳思である。寄衣戀。
 
柿本朝臣人麻呂歌集(ノ)中(ニ)出(ヅ)見(ユルコト)v上(ニ)已(ニ)詮(セリ)也
 
舊本に詮に作つてゐるが、元暦校本に記とあるに從ふべきであらう。この歌が既に前の卷に見えて記されてゐるといふのである。眞淵以下の學者、この卷の編纂を古く見てゐるが、これによると、卷四よりも後に出來たものなることが明らかである(但しこの註を後人の業と見ることも出來るが)。
 
3482 から衣 裾のうち交へ あはねども 異しき心を あが思はなくに
 
(453)可良許呂毛《カラコロモ》 須蘇乃宇知可倍《スソノウチカヘ》 安波禰杼毛《アハネドモ》 家思吉己許呂乎《ケシキココロヲ》 安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》
 
私ハ貴方ニ久シク〔八字傍線〕(可良許呂毛須蘇乃宇知可倍)オ逢ヒ申シマセンガ、決シテ〔三字傍線〕他《アダ》シ心ハ思ツテハ居リマセヌヨ。御目ニカカラナカツタノハ差支ガアツタカラノコトデス〔御目〜傍線〕。
 
○可良許呂毛須蘇乃宇知可倍《カラコロモスソノウチカヘ》――支那風の衣は襴の打交が合はない制になつてゐた。卷十一に朝影爾吾身者成《アサカケニワガミハナリヌ》 辛衣襴之不相而久成者《カラコロモスソノアハズテヒサシクナレバ》(二六一九)ともある。ここまでは安波禰《アハネ》につづく序詞。 ○家思吉己許呂乎《ケシキココロヲ》――異しき心を。薄情な心をといふに同じ。
〔評〕 用語が東歌らしくない。下句は卷十一の朱引秦不經雖寐心異我不念《アカラヒクハダモフレズテネタレドモココロノケシクワガモハナクニ》(二三九九)と似、又卷十六の安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノアサキココロヲワガモハナクニ》(三八〇七)とも似てゐる。寄衣戀。
 
或本歌曰 から衣 据のうち交ひ あはなへば ねなへのからに ことたかりつも
 
或本歌曰 可良己呂母《カラゴロモ》 須素能宇知可比《スソノウチカヒ》 阿波奈敝婆《アハナヘバ》 禰奈敝乃可良爾《ネナヘノカラニ》 許等多可利都母《コトタカリツモ》
 
貴方ト私トハ〔六字傍線〕(可良己呂母須素能宇知可比)逢ハナイカラ、共寢モシナイノニ、人ノ〔二字傍線〕口ガヤカマシイヨ。
 
○須素能宇知可比――カヘをカヒといふのは東語である。阿波奈敝《アハナヘ》につづく序詞。○阿波奈敝婆《アハナヘバ》――逢はねばに同じ。○禰奈敝乃可良爾《ネナヘノカラニ》――寢ぬことなるにの意。共寢せざるものを。○許等多可利都母《コトタカリツモ》――言痛《コチタ》かりつもの東語、人の口がやかましいよといふのである。
〔評〕 或本歌とあるが、一二句が同じだけで、下句は全く異なつてゐる。原歌に反し、この歌の方が用語も(454)氣分も著しく東歌らしい。
 
3483 晝解けば 解けなへ紐の わがせなに 相依るとかも 夜解けやすけ
 
此流等家波《ヒルトケバ》 等家奈敝比毛乃《トケナヘヒモノ》 和賀西奈爾《ワガセナニ》 阿比與流等可毛《アヒヨルトカモ》 欲流等家也須家《ヨルトケヤスケ》
 
晝解ケバ解ケナイ紐ガ、夜解ケバ解ケルノハ〔九字傍線〕、私ノ戀シイ〔三字傍線〕夫ニ、今夜〔二字傍線〕私ガ相逢フト云フノデ、夜ハタヤスク解ルノデアラウカ。コレハ戀シイ人ニ逢ヘル前兆ト見エル。嬉シイコトダ〔コレ〜傍線〕。
 
○等家奈敝比毛乃《トケナヘヒモノ》――解けぬ紐の。今の東京言葉でいへば、解ケナイ紐である。○阿比與流等可毛《アヒヨルトカモ》――相寄るとかも。夫と逢ふ前兆としてか。○欲流等家也須家《ヨルトケヤスケ》――ヤスケはヤスキの東語。上のカモを受けて結んでゐる。夜解けるのであらうか。舊本、家を流に作つて、トケヤスルと訓んでゐるが、それでは語格も變である。元暦校本その他の古本に從つて改めた。前句のヨルをこの句のヨルで、受けてゐるやうに見えるのは偶然か。
〔評〕 衣の紐のおのづから解けるのを、人に戀せられてゐる兆とした例は他にもあるが、これはそれと趣を異にしてゐる。一寸したことに、事の吉凶成否を判斷しようとするのは、戀する人の常である。田舍女らしい純眞さが溢れた、なつかしい歌である。寄紐戀。
 
3484 麻苧らを 麻笥にふすさに 績まずども 明日來せざめや いざせ小床に
 
安左乎良乎《アサヲラヲ》 遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》 宇麻受登毛《ウマズトモ》 安須伎西佐米也《アスキセザメヤ》 伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》
 
貴女ハ大サウ忙シサウニ、麻ヲツナイデヰルガ、ソンナニ〔貴女〜傍線〕麻苧ヲ苧笥ノ中ニ澤山ニ績ガナイデモ、明日ガ來ナイト云フコトハアリマセン、又明日モアルコトデスカラ、今夜ハモウヤメテ〔又明〜傍線〕、サア臥床ニイラツシヤイヨ。
 
(455)○安左乎良乎《アサヲラヲ》――麻苧等を。ラは添へて言ふのみ。卷五に※[糸+施の旁]綿良波母《キヌワタラハモ》(九〇〇)とある。○遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》――遠家《ヲケ》は麻笥。麻笥は麻を績いで入れる器。布須左《フスサ》は澤山。多く。卷十七の和我勢古我布佐多乎里家流乎美奈敝之香物《ワガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》(三九四三)の布佐《フサ》も同意であらう。○安須伎西佐米也《アスキセザメヤ》――明日の日が來ざらめや、明日の日もあることだの意。○伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》――イザはサアと誘ふ詞。セは爲《セ》。さあ行き給へといふのであらう。中古文に「いざさせ給へ」と云ふに同じであらう。ヲドコは小床。ヲは接頭語のみ。
〔評〕 麻を麻笥に績み入れてゐる女を、さあ寢ようと誘ふ男の言葉である。俚謠の標本といつてもよい位な作。實によく出來てゐる。寄麻苧戀。
 
3485 劍太刀 身に副ふ妹を とりみかね 音をぞ泣きつる 手兒にあらなくに
 
都流伎多知《ツルギタチ》 身爾素布伊母乎《ミニソフイモヲ》 等里見我禰《トリミカネ》 哭乎曾奈伎都流《ネヲゾナキツル》 手兒爾安良奈久爾《テゴニアラナクニ》
 
(都流伎多知)身ニ添ウテ離レナイ筈ノ〔七字傍線〕女ヲ、今ハカウシテ旅ニ出テヰルノデ〔今ハ〜傍線〕、親シク相見ルコトガ出來ナイデ、私ハ〔二字傍線〕赤兒デモナイノニ、丁度赤兒ノヤウニ〔八字傍線〕、聲ヲ出シテ泣イタヨ。
 
○都流伎多知《ツルギタチ》――枕詞。身に添ふとつづく。○等里見我禰《トリミカネ》――手に取りて相見ることが出來ないので、我は濁音であるが、ここは清濁いづれとも分らない。普通ならば清むべきところである。○手兒爾安良奈久爾《テゴニアラナクニ》――手兒は母の手に抱かれる兒の意で、ここでは幼兒のことである、手童兒《タワラハ》(一二九)と同じであらう。處女をテゴといふのと語は同じで、用法が異なつてゐるのである。
〔評〕 常に側去らず親しくしてゐた妻と別れて、旅に出た男の歌。手兒といふ東語が見えてゐるが、他に東歌らしい氣分は薄い。寄劍戀。
 
3486 かなし妹を 弓束なべまき もころをの 事とし云はば 彌勝たましに
 
(456)可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》 由豆加奈倍麻伎《ユヅカナベマキ》 母許呂乎乃《モコロヲノ》 許登等思伊波婆《コトトシイハバ》 伊夜可多麻斯爾《イヤカタマシニ》
 
自分ト同ジヤウナ男相手ノコトナラバ、弓束ヲ並ベ卷イテ、弓矢ノ上ノ立合デ〔八字傍線〕、是非トモ勝タウモノヲ、愛スル女ノコトデハ強イ心モ弱ツテ何トモ仕方ガナイヨ〔ノコ〜傍線〕。
 
○可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》――可愛い女よの意で、ここで切るべきものと解すべきであらう。○由豆加奈倍麻伎《ユヅカナベマキ》――弓束並べ卷き。弓の握革を斜に卷くと並べたやうになるからである。握革は多くこの卷方になつてゐる。古義に「魚彦云、弓束並向《ユツカナベムキ》なるべし。同等の男どち、弓束を並べ、的に向立て射競する意なりと云り」とあるが、的に向つて競射するやうな手ぬるい歌ではない。○母許呂乎乃《モコロヲノ》――卷九に如己男《モコロヲ》(一八〇九)とあるやうに、自分と同年輩の男である。○許登等思伊波婆《コトトシイヘハ》――事と言ふならば、シは強める助詞。○伊夜可多麻斯爾《イヤカタマシニ》――彌勝たましに。益勝たうものをの意。眞淵が射哉勝たんにといふことだとしたのは當つてゐまい。
〔評〕 少し意味が不明瞭な點がある。諸註多くは三四二五一と句を次第して解すべきものと言つてゐるから、しばらくそれに從ふことにした。弓矢にかけても同輩の男とならば爭ふのだが、相手がいとし女では戀に捕はれて苦しむのみで、何とも仕方がないといふのであらう。卷九の見2葦原處女墓1歌(一八〇九)に智奴壯士宇奈比壯士乃廬八燎須酒師競相結婚爲家類時者燒大刀乃手預押禰利白檀弓靱取負而《チヌヲトコウナヒヲトコノフセヤタキススシキホヒアヒヨバヒシケルトキハヤキタチノタガミオシネリシラマユミユキトリオヒテ》……知己男爾負而者不有跡《モコロヲニマケテハアラジト》などとあるによると、同輩との戀の爭を歌つてゐるのではないかと思はれるが、言葉のつづきからさう解し難いやうである。寄弓戀。
 
3487 梓弓 末に玉まき 斯くすすぞ 宿なな成りにし おくをかぬかぬ
 
安豆左由美《アヅサユミ》 須惠爾多麻末吉《スヱニタママキ》 可久須酒曾《カクススゾ》 宿奈莫那里爾思《ネナナナリニシ》 於久(457)乎可奴加奴《オクヲカヌカヌ》
 
(安豆左由美)末ヲ大切ニ思ツテ、コンナニグズグズ〔四字傍線〕シテ、先ノコトヲ心配シテ、私ハ戀シイ女ト〔七字傍線〕寢ナイデシマツタ。殘念ナコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○安豆左由美《アヅサユミ》――梓弓。須惠《スヱ》と言はむ爲の枕詞であらう。○須惠爾多麻末吉《スヱニタママキ》――末に玉纒き。弓の尖端の弭に玉の緒を纒いて飾とすることがあるので、かくつづけたのであらうが、將來を大切に思ふことに言ひかけたのである。○可久須酒曾《カクススゾ》――斯く爲すぞ。斯くしつつの意であらう。この下に宇艮布久可是能安騰須酒香《ウラフクカゼノアドススカ》(三五六四)とある安騰須酒香《アドススカ》も何と爲すかである。考に「古の弓は木のかぎりして作れば、弭直して弓未に弦音なし。鞆の音のみにては勢たらはぬ故に、弓末に玉を纒、鈴をもつけしなり。梓弓夜音の遠音など鳴弦《ツルナラシ》するも、これらの音あひて遠く聞ゆべし。弓のみかは萬の物にも、玉と鈴をつけし事多かり、かくて是は玉鈴の音を寢《ネ》にいひかけたる序のみ」とあるが、序としは曾《ゾ》ではつづきが穩やかでない。又この梓弓は儀禮的又は神下し、卜占などに用ゐたものであらう。○宿奈莫那里爾思《ネナナナリニシ》――寢ないでしまつた。舊本、奈莫に作つてゐるが、元暦校本によつて莫奈に改むべきであらう。○於久乎可奴加奴《オクヲカヌカヌ》――奧を兼ぬ兼ぬ。行先を心配して。兼ぬを重ねたのは、その動作の連接をあらはしてゐる。前に於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》(三四一〇)とあつた。
〔評〕 事あらはれて、戀の行末が破れないやうにと思つて、共寢もしないでしまつたと、自分の戀の卑怯さを後から淋しがつてゐる歌で、多分男の心持であらう。初二句には當時の民間儀禮があらはれてゐるやうであるが、委しいことがわからないのは遺憾である。寄弓戀。
 
3488 おふ? この本山の 眞柴にも 告らぬ妹が名 形に出でむかも
 
於布之毛等《オフシモト》 許乃母登夜麻乃《コノモトヤマノ》 麻之波爾毛《マシバニモ》 能良奴伊毛我名《ノラヌイモガナ》 可多爾伊?牟可母《カタニイデムカモ》
 
(458)(於布之毛等許乃母登夜麻乃)屡々口ニ出シテ私ガ人ニ〔九字傍線〕言ハナイ女ノ名ガ、占ヲシタナラバ明ラカニ〔四字傍線〕出テ來ルデアラウカ。隱シテヰルノニ顯ハレテハ困ル〔隱シ〜傍線〕。
 
○於布之毛等《オフシモト》――生ふる?。シモトは細い枝、若木などをいふ。古義に於布《オフ》を大と見たのは當つてゐない。?に特に大を冠する理由がないやうである。生ふるを生ふといふは古格である。モトの音を繰返して、コノモトヤマのモトにつづく枕詞と見るべきであらう。○詐乃母登夜麻《コノモトヤマ》――此の本山のか。此の本山は地名か否か明らかでない。この句まではマシバとつづく序詞。○麻之波爾毛《マシバニモ》――上からは眞柴の意でつづき、下へは屡《マシバ》としてつづいてゐる。宣長が波の清音なるに拘泥して、シハとして、物を惜しむ意のシハキと同じと解いたのは誤つてゐる。○能良奴伊毛我名《ノラヌイモガナ》――告らぬ妹が名。人に言はない女の名が。○可多爾伊?牟可母《カタニイデムカモ》――卜占の兆《カタ》に出るであらうかの意。カタは謂はゆる卜兆《ウラカタ》で、太占などの形にあらはれるものをいふ。
〔評〕 この歌は、前の武藏野爾宇良敝可多也伎麻左?爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低爾家利《ムサシヌニウラヘカタヤキマサデニモノラヌキミガナウラニデニケリ》(三三七四)と三句以下はかなり似てゐる、唯彼が過去なるに、これは未來なる相違があるのみと言つてよい。宣長や古義の説は、全然見當はづれであり、略解に結句を反語のやうに見てゐるのも無理であらう。上代卜占の民間風俗が知られる好資料である。弓に寄せた歌の間に挾んだのは、順序が亂れたか。寄柴戀。
 
3489 梓弓 欲良の山邊の 繋かくに 妹ろを立てて さ寢ど拂ふも
 
安豆左由美《アヅサユミ》 欲良能夜麻邊能《ヨラノヤマベノ》 之牙可久爾《シゲカクニ》 伊毛呂乎多?天《イモロヲタテテ》 左禰度波良布母《サネドハラフモ》
 
(安豆左由美)欲良ノ山邊ノ木立ノ〔三字傍線〕茂ツテ淋シイ〔四字傍線〕所ニ、女ヲ立タセテ置イテ、私ハ寢床ノ用意ヲシテ〔十字傍線〕寢床ノ塵ヲ拂フヨ。
 
○安豆左由美《アヅサユミ》――枕詞。寄りにかけて欲良《ヨラ》につづいてゐる。○欲良能夜麻邊能《ヨラノヤマベノ》――欲良の山は今の信濃小諸町(459)の岡であらう。小諸町は丘陵の斜面に市街をなしてゐて、その高い部分即ち町の東部を與良とつてゐる。有名な小諸の古城址邊から眺めると、與良方面が山となつて見える、古義には、和名抄に遠江國山香郡與利とあるところではないかといつてゐるが、さうではあるまい。○之牙可久爾《シゲカクニ》――繁きに。○伊毛呂乎多?天《イモロヲタテテ》――妹ろを立てて、ロは例の接尾語である。女を立てて置いて。女を待たして置いて。○左禰度波良布母《サネドハラフモ》――さ寢處拂ふも。サは接頭語。寢處の塵を拂ふよの意。
〔評〕 女を誘ひ來つて戸外に立たしめて置いて、寢處の塵を拂ふといふのであらう。與良の山で密會するものとも見られないことはあるまいが、さ寢處拂ふは屋内のやうに思はれる、前の阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多?天由吉可都麻思自移乎佐伎太多尼《アラタマノキベノハヤシニナヲタテテユキガツマシジイヲサキダタニ》(三三五三)と少し似てゐる。與良地方の若い男女が喜んで謠つた民謠であらう。調子が輕快である、これは本當の寄物陳思にはなつてゐないが、やはり弓に寄せたものとして、ここに入れたのであらう、寄弓戀。
 
3490 梓弓 末は依り寢む まさかこそ 人目を多み 汝をはしにおけ
 
安都佐由美《アヅサユミ》 須惠波余里禰牟《スヱハヨリネム》 麻左可許曾《マサカコソ》 比等目乎於保美《ヒトメヲオホミ》 奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》
 
只今ハ人目ガ多イノデ、オマヘヲ奥ヘ入レナイデ〔七字傍線〕、端ノ方ニ置クケレドモ〔四字傍線〕、(安都佐由美)アトデハ必ズ、二人デ〔五字傍線〕寄ツテ寢ヨウト思フ。暫ク待チナサイ〔七字傍線〕。
 
○安都佐由美《アヅサユミ》――枕詞。末とつづくのは、弓の尖端を弓末といふからである。○須惠波余里禰牟《スヱハヨリネム》――後に相寄りて共に寢よう。○麻左可許曾《マサカコソ》!――マサカは今。○奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》――汝を端近く置いてゐるの意。屋内深く寢處まで連れて行かないで、入口近く待たせて置くことである。
〔評〕 これは忍んで來た男を、暫らく入口に待たしめてゐる女の言葉である。前の欲良の山に女を立たしめてゐ(460)る男の歌と、對比すると誠におもしろい。卷十二の梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アヅサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》(二九八五)と内容は異なつてゐるが、用語は似てゐる。寄弓戀。
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
3491 楊こそ 伐れば生えすれ 世の人の 戀に死なむを 如何にせよとぞ
 
楊奈疑許曾《ヤナギコソ》 伎禮婆伴要須禮《キレバハヘスレ》 余能比等乃《ヨノヒトノ》 古非爾思奈武乎《コヒニシナムヲ》 伊可爾世余等曾《イカニセヨトゾ》
 
楊ト云フモノハ、切ルトソノ切株カラ〔六字傍線〕萠エルモノダ。シカシ人ハ死ンダラモウ二度ト生キテハ來ラレナイモノダノニ〔シカ〜傍線〕、コノ人間タル私ガ、今戀ノ爲ニ焦死シヨウトシテヰルノヲ、アナタハ〔四字傍線〕ドウシヨウトナサルノデスカ。私ノ死ヌノヲ見殺シニナサルノデスカ〔私ノ〜傍線〕。
 
○楊奈疑許曾《ヤナギコソ》――ヤの音をあらはす爲に特に楊の字を用ゐてゐるのに注意したい。○余能比等乃《ヨノヒトノ》――世の人の。自分を指してゐる
〔評〕卷七に丸雪降遠江吾跡川楊雖苅亦生云余跡川楊《アラレフリトホツアフミノアドカハヤナギカレドモマタモオフトフアドカガヤナギ》(一二九三)とあるやうに、楊は苅取つても後から後から生えて來る。これに反して人の命は、卷四に空蝉乃代世毛二行何爲跡鹿妹爾不相而吾獨將宿《ウツセミノヨヤモフタユクナニストカイモニアハズテワガヒトリネム》(七三三)とあるやうに、死ねばそれ限である。これを對比せしめて、自己の戀に死なうとしてゐることを述べて、如何にせよとぞと相手に迫つて行くところは、巧なものである、楊を材料に用ゐたのは、田舍の人の歌たるを思はしめるが、(既に述べたやうにこの楊は謂はゆる川楊の種類で、苅り取つて器具を編んだのである。庭に植ゑる柳ではない)。歌調が洗錬せられてゐる爲に、京人の作といつてもよい感がある。楊に寄せてある。以下寄木戀が集めてある。
 
3492 小山田の 池の堤に 刺す楊 成りも成らずも 汝と二人はも
 
(462)乎夜麻田乃《ヲヤマダノ》 伊氣能都追美爾《イケノツツミニ》 左須楊奈疑《サスヤナギ》 奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》 奈等布多里波母《ナトフタリハモ》
 
二人ノ間ガ夫婦ト云フ間柄ニ〔二人〜傍線〕(乎夜麻田乃伊氣能都追美爾左須楊奈疑)ナラウトナルマイト、オマヘト私トハナア。何時マデモ決シテ變ルマイナア〔何時〜傍線〕。
 
○乎夜麻田乃《ヲヤマダノ》――ヲは接頭語のみ。山田を地名とするのは從ひ難い。○伊氣能都追美爾左須楊奈疑《イケノツツミニサスヤナギ》――池の堤に刺した楊。ここまでは序詞で、奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》につづいてゐる。刺楊の生ひつくを成るといつたのである。○奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》――成就するもせぬも。二人の戀が夫婦として長く無事に續くか否かの意。○奈等布多里波母《ナトフタリハモ》――汝と私と二人はなあと詠歎したので、決して變るまいといふ意を含んでゐるのであらう。
〔評〕 序詞は巧である、前の歌と共に楊を培養したことがあらはれてゐる。古今集の「おふの浦に片枝さしおほひ成る梨の成りもならずもねて語らはむ」と少しく似てゐる。袖中抄に載つてゐる。楊に寄せてある。寄木戀。
 
3493 遲速も 汝をこそ待ため 向つ峰の 椎のこやでの 逢ひはたけはじ
 
於曾波夜母《オソハヤモ》 奈乎許曾麻多賣《ナヲコソマタメ》 牟可都乎能《ムカツヲノ》 四比乃故夜提能《シヒノコヤデノ》 安比波多家波自《アヒハタケハジ》
 
遲クトモ速クトモ、何時マデモ私ハ〔七字傍線〕オマヘヲ待ツテヰヨウ。(牟可都乎能四比乃故夜提能)逢フコトハ間違アルマイ。
 
○於曾波夜母《オソハヤモ》――遲速も。遲くとも速くとも何時までも。○奈乎許曾麻多賣《ナヲコソマタメ》――汝をこそ待つてゐよう。○牟可都乎能四比乃故夜提能《ムカツヲノシヒノコヤデノ》――向つ峯の椎の小枝の。向ふの峯に生えてゐる椎の小枝の。コヤデは小枝《コエダ》の東語で(462)あらう。ヤはエにデはダに同行で相通ずるわけである。次の或本歌に佐要太《サエダ》とあるのも傍證とするに足る。この二句は、椎の小枝が叢り生ひて、相交るを以て、アヒの序詞としたものであらう。代匠記初稿本に「椎の葉の色かへぬことく、約をたかへじといふをあひたかはじといへり」とあるのも、宣長が、「椎は春を過て夏秋までもよく芽の出て、小枝となる物なる故に、遲くとも逢むのたとへにせる也」と言つたのも、共に考へ過ぎてゐる。○安比波多家波自《アヒハタケハジ》――逢ひは違はじ、逢ふことは違ふまいといふのである。
〔評〕 今は障があつても何時かは逢はうと、女が男に誓ふ言葉であらう。物蔭に佇んで戀人を待つ歌とする説は從ひ難い。向つ峯の椎の小枝を材料としたのは、山間の民の間に行はれた歌らしい。袖中抄に載つてゐる。椎に寄せてある、寄木戀。
 
或本歌曰 遲速も 君をし待たむ 向つ峯の 椎のさ枝の 時は渦ぐとも
 
或本歌曰 於曾波也母《オソハヤモ》 伎美乎思麻多武《キミヲシマタム》 牟可都乎能《ムカツヲノ》 思比乃佐要太能《シヒノサエダノ》 登吉波須具登母《トキハスグトモ》
 
この歌は原歌と殆ど同じであるが、三四の句、牟可都乎能思比乃佐要太能《ムカツヲノシヒノサエダノ》は同じく序詞で、ここは登吉《トキ》につづいてゐる。椎の枝のさす時節が略一定してゐるからであらう。又卷十二に白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛常不所忘《シラガツクユフハハナモノコトコソハイツノサエダモツネワスラエネ》(二九九六)とあるによれば、何時之眞枝《イツノサエダ》は何時の時の意。即ち眞枝《サエダ》は時の意ある語であるから、トキにつづく序詞としたものかも知れない。縱令時は過ぎても、遲くとも速くとも君を待つてゐようといふのである。
 
3494 子持山 若かへるでの もみづまで ねもとわは思ふ 汝はあどか思ふ
 
兒毛知夜麻《コモチヤマ》 和可加敝流?能《ワカカヘルデノ》 毛美都麻?《モミヅマデ》 宿毛等和波毛布《ネモトワハモフ》 汝波実杼可毛布《ナハアドカモフ》
 
(463)子持山ノ夏ノ始ニ芽ヲ出シタ〔夏ノ〜傍線〕若※[木+戚]ガ、秋ノ末ニナツテ〔七字傍線〕紅葉スルマデ、オマヘト〔四字傍線〕寢ヨウト私ハ思フガ、オマヘハドウ思フカ。
 
○兒毛知夜麻《コモチヤマ》――子持山。上野國勢多・利根・吾妻三郡の境界點、伊香保温泉に近く、澁川町の北方に子持山があた、恐らくこれであらう。寫眞は澁川郊外にて著者撮影。○和可加敝流?能《ワカカヘルデノ》――若鷄冠木の。加敝流?《カヘルデ》は蝦手《カヘルデ》。謂はゆる紅葉の葉が蝦《カヘル》の手を擴げたやうな形をなしてゐるからである。卷八に吾屋戸爾黄變蝦手毎見《ワガヤドニモミヅカヘルデミルゴトニ》(一六二三)とある。○毛美都麻?《モミヅマデ》――紅葉するまで。モミヅといふ動詞になつてゐる。○宿毛等和波毛布《ネモトワハモフ》――寢むと我は思ふ。○奈波安杼可毛布《ナハアドカモフ》――汝は何とか思ふ。おまへはどう思ふか。
〔評〕 若※[木+戚]が紅葉する頃まで寢ようと言ふのは、長くといふ意であらうが、何か譬喩的の言ひ方のやうにも思はれる。さうしてこの爲に歌が著しく美化されてゐる。※[木+戚]に寄せてある。寄木戀。
 
3495 伊波保ろの そひの若松 かぎりとや 君が來まさぬ うらもとなくも
 
伊波保呂乃《イハホロノ》 蘇比能和可麻都《ソヒノワカマツ》 可藝里登也《カギリトヤ》 伎美我伎麻左奴《キミガキマサヌ》 宇良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》
 
私ハ貴方ノ來ルノヲ待チツヅケテ、今日マデ過シタガ〔私ハ〜傍線〕、(伊波保呂乃蘇比能)私ガ待ツコトモ今日限リデ、コレカラハ待ツ當モナク、絶エテシマフ〔コレ〜傍線〕トテカ、今日モ亦オイデニナラナイ。心キトナイ心配ナコトダ。
 
(464)○伊波保呂乃《イハホロノ》――前に伊香保呂能蘇比乃波里波良《イカホロノソヒノハリハラ》(三四一〇)とあるから、伊香保ろの訛であらう。下に伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久《イハノヘニイガカルクモノカヌマヅク》(三五一八)とあるのも、伊香保呂爾安麻久母伊都藝可奴麻豆久《イカホロニアマグモイツギカヌマヅク》(三四〇九)を唱へ誤つたもので、かかる傳唱の誤があるやうである。○蘇比能和可麻都《ソヒノワカマツ》――岨の若松。山の崖に生えてゐる若松。若松に吾が待つをかけたもので、即ちソヒノまでは序詞であらう。○可藝里登也《カギリトヤ》――限りとや。今日を限りとてかの意。○宇良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》――宇良《ウラ》は心。心もとなくも。不安心だよの意。
〔評〕 男を待つ女の歌。淋しい心細さうな感じが出てゐる、松に寄せてある。寄木戀。
 
3496 橘の 古婆のはなりが 思ふなむ 心うつくし いで我は行かな
 
多知婆奈乃《タチバナノ》 古婆乃波奈里我《コバノハナリガ》 於毛布奈牟《オモフナム》 己許呂宇都久志《ココロウツクシ》 伊?安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》
 
武藏ノ〔三字傍線〕橘樹郡ノ古婆ノ里ノ童女ガ、私ヲ〔二字傍線〕思フ心ガイトシイ。サア私ハアノ女ノ所ヘ〔六字傍線〕行カウヨ。
 
○多知婆奈乃古婆乃波奈里我《タチバナノコバノハナリガ》――橘の古婆は地名であらう。和名抄、武藏國に、楠樹都橘樹郷があるから、その處に古婆といふところがあつたのであらう、或は古婆は橘樹郡の小高郷か。併し未勘國の歌は、猥りに推斷しない方がよい。波奈里《ハナリ》は童女波奈里《ウナイハナリ》(三八二二)に同じで、振分髪なる處女をいふ。○於毛布奈牟《オモフナム》――奈牟《ナム》はラムに同じきことは前に見えてゐた。○己許呂宇都久志《ココロウツクシ》――心愛し。心がいとしい。○伊?安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》――さあ我は行かう。
〔評〕 女からの便でも受けて、飛び立つやうに出て行く男の心である。鮮明輕快。橘を木の名として、ここに掲げたもの。編者の杜撰さがあらはれてゐる。
 
3497 河上の 根白高がや あやにあやに さ寐さ寐てこそ 言に出にしか
 
可波加美能《カハカミノ》 禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》 安也爾阿夜爾《アヤニアヤニ》 左宿左寐?許曾《サネサネテコソ》 己(465)登爾?爾思可《コトニデニシカ》
 
(可波加美能禰自路多可我夜)嗚呼ホントニ、二人ガ屡々〔五字傍線〕共寢ヲシタカラコソ、コンナニ〔四字傍線〕人ニ噂ヲ立テラレルコトニナツタヨ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○可波加美能《カハカミノ》――河の上流の。河の邊とする説はよくあるまい。○禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》――根の白い丈の高い萱。水に洗はれて根の白く見える萱。ここまでの二句はカヤをアヤに轉じて下につづく序詞。古義に次の一句を隔てて左宿左寐にかかつてゐると見たのは當るまい。○安也爾阿夜爾《アヤニアヤニ》――奇《アヤ》に奇《アヤ》に。嗚呼ほんとになどの意である。考に「入り立てしげく通ひしなり」古義に「いつといふ分定《サダマリ》もなく」とあるが從ひ難い。○左宿左寐?許曾《サネサネテコソ》――共に寐たればこそ。サは接頭語。さ寐を重ねたのは、屡々二人で共に寐たからである。○己登爾?爾思可《コトニデニシカ》――言に出にしか。世の人の言葉に出た。世の人の噂に上つた。
〔評〕 河上の根白高萱は清いすがすがしい語感を持つた言葉である。さ寐につづけて考へると、女の白い脚を思はしめる語である。ともかく語調の上に一種の特色を有した住い作だ。以下は草に寄せたものが集めてある。これは萱に寄せてある。寄草戀。
 
3498 海原の ねやはら小菅 あまたあれば 君は忘らす 我忘るれや
 
宇奈波良乃《ウナハラノ》 根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》 安麻多阿禮婆《アマタアレバ》 伎美波和須良酒《キミハワスラス》 和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》
 
海岸ニ生エテヰル、根ノ柔イ小菅ノヤウナ若イ美シイ女〔ノヤ〜傍線〕ガ澤山アルカラ、貴方ハ私ヲ〔二字傍線〕オ忘レニナリマス。シカシ〔三字傍線〕私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕忘レマセウヤ。決シテ忘レハシマセヌ〔十字傍線〕。
 
○宇奈波良乃《ウナハラノ》――海原の。海邊をかく言つたので、海原に面したの意と解すべきであらう。○根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》(466)――根の柔らかい小菅。古義は萎柔子菅《ナエヤハラコスゲ》と解してゐる。若い女のなよやかなのに譬へてゐる。○伎美波和須良酒《キミハワスラス》――君は忘らす。君は我を怠れ拾ふ。○和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》――我は忘れむや。忘れはせじといふのである。
〔評〕 前の河上の根白高萱の歌に似た手法であるが、海原の根やらは小菅は女の譬喩になつてゐる。菅を女に譬へた例は古事記仁徳天皇の御製に夜多能比登母登須宜波古母多受多知迦阿禮那牟《ヤタノヒモトスゲハコモタズタチカアレナム》とあるのを始めとして、本集にも例が多いが、根やはら小菅は、感じのよい珍らしい用語である 男に對する嫉妬の情が婉曲に述べられてゐる、佳作。古今集の「花がたみ目ならぶ人のあまたあればわすられぬらむ數ならぬ身は」と内容が似てゐる。菅に寄せてある。寄草戀。
 
3499 岡に寄せ 吾が苅るかやの さねかやの まことなごやは 寢ろとへなかも
 
乎可爾與世《ヲカニヨセ》 和我可流加夜能《ワガカルカヤノ》 佐禰加夜能《サネカヤノ》 麻許等奈其夜波《マコトナゴヤハ》 禰呂等敝奈香母《ネロトヘナカモ》
 
アノ女ハ〔四字傍線〕(乎可爾與世和我可流加夜能佐禰加夜能)サモナヨナヨト自分ニ靡キサウダケレドモ〔サモ〜傍線〕、實際ニ心トケテ〔四字傍線〕柔《ナゴ》ヤカニハ私ニ〔二字傍線〕ヨトハ言ハナイヨ。サテモ強情ナ女ダ〔八字傍線〕。
 
○乎可爾與世《ヲカニヨセ》――岡にて引き寄せての意。○和我可流加夜能《ワガカルカヤノ》――吾が苅る萱の。○左禰加夜能《サネカヤノ》――古義に狹萎草之《サナエカヤノ》と解したのがよいか。なよなよと靡いた萱。代匠記・考には眞萱《サネガヤ》とあり、略解は、さは發語で根萱だと言つてゐる。ここまでは麻許等《マコト》につづく序詞。サネはマコトと同義だからであらう。奈其夜《ナゴヤ》につづくとする説は採らない。○麻許等奈其夜波《マコトナゴヤハ》――奈其夜《ナゴヤ》は卷四に蒸被奈胡也我下丹雖臥《ムシブスマナゴヤガシタニフセレドモ》(五二四)とあるやうに、なごやかなることで、ここはなごやかには、柔らかにはの意であらう。○禰呂等敝奈香母《ネロトヘナカモ》――寢よと言はぬかも。ロは今の關東語の命令語のロと同樣である。
〔評〕 苅萱に寄せた歌なることは分るが、隨分難解である。それだけに東歌らしい氣分が濃い。萱に寄せてあ(467)る。寄草戀。
 
3500 紫草は 根をかもをふる 人の兒の うらがなしけを 寢ををへなくに
 
牟良佐伎波《ムラサキハ》 根乎可母乎布流《ネヲカモヲフル》 比等乃兒能《ヒトノコノ》 宇良我奈之家乎《ウラガナシケヲ》 禰乎遠敝奈久爾《ネヲヲヘナクニ》
 
紫草ト云フ草〔四字傍線〕ハ根ヲ掘リ取ルガ、シカシ〔十字傍線〕根ハ無クナリハシナイ。ソノ通リワタシハ〔八字傍線〕女ノ兒ノ愛ラシイノト共寢ヲシテ戀〔六字傍線〕ヲ遂ゲルコトハ出來ナイヨ。
 
○牟良佐伎波《ムラサキハ》――牟良佐伎《ムラサキ》は紫草。この草の根を用ゐて、紫色を染める。二一參照。○根乎可母乎布流《ネヲカモヲフル》――根をかも終ふる。根を終ふるかも終へはせじといふので、紫草は根を貴んで人が掘り取るけれども、根は取り盡しはせぬといふのである。諸註これを反語と見てゐないが、どうしても反語でなければならぬ。この下に、その如くの意を補つて見るがよい。○比等乃兒能《ヒトノコノ》――人の兒は若い女をさす。○宇良我奈之家乎《ウラガナシケヲ》――心愛《ウラカナ》しきを。心に愛らしく思ふ女を。○禰乎遠敝奈久爾《ネヲヲヘナクニ》――寢を終へなくに。共に寢ることが出來ないよ。まだ戀が遂げられないといふのである。
〔評〕 紫草と對比して、吾が戀の成らざるを述べてゐる。やはりこれも難解であるが、東歌らしい野趣に富んでゐる。紫草に寄せてある。寄草戀。
 
3501 あはをろの をろ田に生はる 多波美づら 引かばぬるぬる 吾を言な絶え
 
安波乎呂能《アハヲロノ》 乎呂田爾於波流《ヲロタニオハル》 多波美豆良《タハミヅラ》 比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》 安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》
 
私ガ貴女ノコトヲ〔八字傍線〕(安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良)引クナラバ、能ク私ニ〔四字傍線〕靡イテ、私ニ音信ヲ絶チナサ(468)ルナヨ。
 
○安波乎呂能《アハヲロノ》――安波は地名で乎呂は峯ろ。ろは例の接頭語。安波は安房であらう。古義は和名抄に常陸國那珂郡阿波とある處であらうといつてゐるが其處は峯ろといふべきほどの山地でない。○乎呂田爾於波流《ヲロタニオハル》――峯ろ田に生ふるの意であらう。○多波美豆良《タハミヅヲ》――蔓草の名であらうが、どんなものかわからない。考には玉葛に同じとあるが、田に玉葛が生えるといふのもどうであらう。ここまでの三句は次句へつづく序詞。○比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》――引くならばぬらぬらとして。滑らかに靡いて。○安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》――我に音信を絶つことなかれの意。
〔評〕前の伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《イリマヂノオホヤガハラノイハヰヅラヒカバヌルヌルワニナタエソネ》(三三七八)・可美都氣奴可保夜我奴麻能伊波爲都良比可波奴禮都追安乎奈多要曾禰《カミツケヌカホヤガヌマノイハヰゾラヒカバヌレツツアヲナタヱリネ》(三四一六)と同型同想の歌。同じものが所をかへて謠はれたに過ぎない。多波美づらといふ蔓草に寄せてある。寄草戀。
 
3502 吾が目づま 人は放くれど 朝貌の 年さへこごと わは放るがへ
 
和我目豆麻《ワガメヅマ》 比等波左久禮杼《ヒトハサクレド》 安佐我保能《アサガホノ》 等思佐倍己其登《トシサヘコゴト》 和波佐可流哉倍《ワハサカルガヘ》
 
朝顔ノ花ノ〔二字傍線〕ヤウナ、君ガ愛スル女ヲ、人ハ邪魔ヲシテ二人ノ間ヲ〔十字傍線〕割カウトスルケレドモ、永年ノ間、私ハ割カレテヰヨウカ、決シテ割カレハシナイ〔十字傍線〕。
 
○和我目豆麻《ワガメヅマ》――舊訓はワガマツマ、元暦校本・類聚古集などの古訓はワガメツマである。モツマの訓もあるが、よくない。代匠記・考・略解などは眞凄と解してゐる。宣長は目につきて思ふ妻也といつてゐるが、愛づ妻の略であらう。○安佐我保能《アサガホノ》――朝貌の花で即ち桔梗のことである。卷八(一五三八)參照。これを次句へつづくとすれば、等思《トシ》の枕詞と見なければならぬので、考はこれを改めて、安良多麻能《アラタマノ》としてゐるが從ひ敵い。止むなく(469)宣長説に從つて、この句を初句の上において見ることにする。○等思佐倍己其登《トシサヘコゴト》――年さへ許多《ココダ》と解した代匠記説を採る。考はトシサヘコゾトと訓んで、「年にさへ來ずとも」と解してゐる。其をゾと訓むのは無理である。○和波佐可流我倍《ワハサカルガヘ》――我は裂かれむや、裂かれはせじ、於也波佐久禮騰和波左可流賀倍《オヤハサクレドワハサカルガヘ》(三四二〇)とあるに同じ。
〔評〕 第三句を眞淵は安良多麻能《アラタマノ》の誤としたけれども、前後の歌を見ると、やはり朝貌を詠んだものらしい。東語が多く用ゐられて、如何にも東歌らしい。意味が少し不明瞭なのは遺憾である。朝貌に寄せてある。これで見ても萬葉集の朝貌が、槿のやうな木類でないことがわかる。寄草戀。
 
3503 安齊可潟 汐干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも
 
安齊可我多《アセカガタ》 志保悲乃由多爾《シホヒノユタニ》 於毛敝良婆《オモヘラバ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾?米也母《イロニデメヤモ》
 
安齊可潟ノ汐干ノヤウニ、ユツクリト呑氣ニ人ヲ戀シク〔五字傍線〕思ツテヰルナラバ、(宇家良我波奈乃)顔色ニ出シテ人ニ悟ラレルヤウナコトヲ〔人ニ〜傍線〕ショウヤ。心ニ深ク思ヘバコソ顔色ニモ出ルノデス〔心ニ〜傍線〕。
 
○安齊可我多《アセカガタ》――舊訓アサカガタとあるのは卷十一の徃而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテクレバコヒシキアサカガタヤマゴシニオキテイネガテヌカモ》(二六九八)の朝香方《アサカガタ》と同一に見たのであるが、齊の文字は、サと訓んだ例がないから從ひ難い。常陸風土記に「香島郡、東大海、南下總常陸堺、安是湖《アゼノミナト》、西流海」とある安是湖かも知れない。なほ攻究を要する。○志保悲乃由多爾《シホヒノユタニ》――汐干のやうに、ゆつたりと。汐干になれば、汐の滿ちた時よりも海面穩やかになるからであらう。ゆたに思ふとは、のどかにゆつたりとしてあせらず、熱中しないこと。○字家良我波奈乃《ウケラガハナノ》――前に宇家良我波奈乃伊呂爾豆奈由米《ウケラガハナノイロニヅナユメ》(三三七六)とあるところに説明したやうに、今ヲケラと稱する草本である。ここは色に出づと言はむ爲の序詞として用ゐてある。
〔評〕 内容は簡單であるが、安齊可我多、うけらが花などを用ゐて巧に潤色してゐる。武藏野の名物たる、うけ(470)らが花を用ゐたので、安齊可我多が武藏ではないかとも思はれるのであるが、さう推測するのは危險である。袖中抄にも不知國として出てゐる。朮によせてある。寄草戀。
 
3504 春べ咲く 藤のうら葉の うら安に さ寢る夜ぞなき 子ろをし思へば
 
波流敝左久《ハルベサク》 布治能宇良葉乃《フヂノウラバノ》 宇良夜須爾《ウラヤスニ》 左奴流夜曾奈伎《サヌルヨゾナキ》 兒呂乎之毛倍婆《コロヲシモヘバ》
 
私ハ〔二字傍線〕女ノコトヲ思ツテヰルノデ、(波流敝左久布治能宇良葉乃)心安ラカニ寢ル夜はアリマセヌ。
 
○布治能宇良葉乃《フヂノウラバノ》――藤の末葉の。末葉は末の方の葉。初二句はウラの音を繰返して宇良夜須爾《ウラヤスニ》につづく。○宇良夜須爾《ウラヤスニ》――心安に。心安く穩やかに。吾が國を浦安國といふのと同意である。○兒呂乎之毛倍婆《コロヲシモヘバ》――兒呂《コロ》は兒らに同じく女をいふ。
〔評〕 兒呂《コロ》といふ東語は用ゐてあるが、全體が如何にも暢びやかに、上品に且調子よく出來てゐる。殊に初二句は優美である。後撰集の「春日さす藤の末葉のうらとけて君しおもはゞ我もたのまむ」はこれから脱胎したものだ。藤によせてある。藤は蔓になつてゐるから、木の部に入れなかつたらしい。寄藤戀。
 
3505 うち日さつ 宮の瀬川の 貌花の 鯉ひてか寢らむ きぞも今宵も
 
宇知比佐都《ウチヒサツ》 美夜能瀬河泊能《ミヤノセガハノ》 可保婆奈能《カホバナノ》 孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》 伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》
 
私ガ差支ガアツテ行カナカツタノデ、アノ女ハ〔私ガ〜傍線〕昨夜モ今夜モ、私ヲ(宇知比佐都美夜能瀬河泊能可保婆奈能)戀シク思ヒナガラ、獨デ〔二字傍線〕寢ルデアラウカ。
 
(471)○宇知比佐都《ウチヒサツ》――枕詞。内日指(四六〇)と同じく宮につづく。卷十三にも打久津三宅乃原《ウチヒサツミヤケノハラ》(三二九五)とあつた。○美夜能瀬河泊能《ミヤノセガハノ》――美夜能瀬河《ミヤノセガハ》は所在不明。○可保婆奈能《カホバナノ》――カホバナは容花。晝顔のことであらう。高圓之野邊乃容花《タカマドノヌベノカホバナ》(一六三〇)參照。代匠記・考・略解は容花は顔よき女に譬へたのであらうといつてゐるが、序詞らしい用法である。古義に「此ノ花日中は能咲て暮方には眠り、萎むものなれば戀て眠ると云はむ序とせるならむ」と言つてゐるのがよいか。又別に中山嚴水が「可保《カホ》と孤悲《コヒ》と音通ば可保花《カホハナ》の戀而《コヒテ》とうけたるなるべし」といつた説をも擧げてゐる。○伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》――伎曾《キゾ》は昨。昨日・昨夜をいふ。コゾと同一語源であらう。
〔評〕 我を思つて、淋しく獨寢するであらう女を思ひやつて詠んだものであらう。上品に出來てゐる。東歌らしくないとも言へる。貌花によせてある。寄草戀。
 
3506 新室の こときに到れば はた薄 穗に出し君が 見えぬこの頃
 
爾比牟路能《ニヒムロノ》 許騰伎爾伊多禮婆《コトキニイタレバ》 波太須酒伎《ハタススキ》 穗爾?之伎美我《ホニデシキミガ》 見延奴己能語呂《ミエヌコノコロ》
 
新室ノ言ホギニ行ツテヰルト、(波太須酒伎)心ヲ打アケ合ツタ貴方ガ、コノ頃ハオ見エニナラナイヨ。オ目ニカカレナイデ淋シイ氣ガシマス〔オ目〜傍線〕。
 
○爾比牟路能《ニヒムロノ》――新室の。新築の家の。卷十一に新室壁草苅邇《ニヒムロノカベクサカリニ》(一三五一)とある。○許騰伎爾伊多禮婆《コトキニイタレバ》――言祷《コトブキ》の爲に行つて見れば。代匠記に蠶時《コトキ》と見て、蠶を飼ふ頃としたのは、よくない。蠶時では新室へのつづきが穩やかでなく、又當時民間の養蠶が、所々に新家を建てて飼ふほどに盛であつたとは思はれない。伊多禮婆《イタレバ》は自分が行くとの意。古義に「新室の言祷《コトブキ》の時と成りしかばなり」とあるのは、少し當らぬやうである。○波太須酒伎《ハタススキ》――枕詞。穗爾?《ホニデ》とつづく。○穗爾?之伎美我《ホニデシキミガ》――心を外に顯はした君が。
〔評〕 新しく家を建てた時、多くの人が集つて、謂はゆる新室宴《ニヒムロウタゲ》をするのである。その時、行つて見ると、かね(472)て心解けて思を打明けた人が見えないと悲しんだのである。言祷に行くのは女であらう。卷十一の新室蹈靜子之手玉鳴裳玉如所照公乎内等白世《ニヒムロヲフミシヅムコガタダマナラスモタマノゴトテリタルキミヲウチヘトマヲセ》(二三五二)と對比すると、この情景を想像することが出來よう。薄に寄せてある。寄草戀。
 
3507 谷狹み 峰にはひたる 玉葛 絶えむの心 吾が思はなくに
 
多爾世婆美《タニセバミ》 彌年爾波比多流《ミネニハヒタル》 多麻可豆良《タマカヅラ》 多延武能己許呂《タエムノココロ》 和我母波奈久爾《ワガモハナクニ》
 
(多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良)切レヨウト云フ心ヲ、私ハ持ツテハ居ナイヨ。ドウシテ私ヲ疑フノダラウカ〔ドウ〜傍線〕。
 
○多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラ》――谷が狹いので、山の方へと伸びて、這つて行く玉葛、この三句は序詞で絶えむとつづくのであらう、卷十一の山高《ヤマタカミ》(二七七五)の歌は絶時無《タユルトキナク》につづいてゐるやうだが、これは少し異なつてゐるやうである。〇多延武能己許呂《タエムノココロ》――絶えむといふ心。
〔評〕 卷十一の山高谷邊蔓在玉葛絶時無見因毛欲得《ヤマタカミタニベニハヘルタマカヅラタユルトキナクミムヨシモガモ》(二七七五)・卷十二の谷迫峰邊延有玉葛令蔓之有者年二不來友《タニセバミミネベニハヘルタマカヅラハヘテシアラバトシニコズトモ》(三〇六七)によく似てゐる。同じ歌が東歌として傳へられてゐるのである。伊勢物語に「谷せばみ峯まで這へる玉葛絶えむと人に吾が思はなくに」とあるのはこれと同歌である。玉葛に寄せてある これも藤と同じく木の部に入れてゐない。寄王葛戀。
 
3508 芝付の 美宇良埼なる 根都古草 相見ずあらば 我戀ひめやも
 
芝付之《シバツキノ》 御宇良佐伎奈流《ミウラサキナル》 根都古具佐《ネツコグサ》 安比見受安良婆《アヒミズアラバ》 安禮古非米夜母《アレコヒメヤモ》
 
(473)アノ女ニ 一度モ〔七字傍線〕(芝付之御宇良佐伎奈流根都古具佐)逢ヒ見ルコトガナカツタナラバ、私ハアノ女ヲ〔四字傍線〕戀シク思ハウヤ。思ヒハセヌ。逢ツタカラコソ戀シイノダ〔思ヒ〜傍線〕。             、
○芝付之《シバツキノ》――何處か分らないが地名に相違ない。次句に御宇良佐伎《ミウラサキ》とあるから相模か。○御宇良佐伎奈流《ミウラサキナル》――三浦崎にある。御宇良佐伎《ミウラサキ》は和名抄に相模國御浦郡御浦美宇良とある。○根都古具佐《ネツコクサ》――草の名であらうが、どんな草かわからない。古義に「中山嚴水が陸奥國鹽竈の神官藤塚知明云、彼(ノ)國富山の麓の海に出たる岬を三浦崎と云り、又そのあたりにて、白頭翁をねこ草といへり。ねこぐさ、やがて根つこ草なるべしと云り、三浦崎は、それともさだめがたけれども、ねつこ草は、知明が云る如くなるべし。さて彼(ノ)國宮城郡|志波彦《シハヒコ》神社あり、芝付によしあるにや。さて御浦は彼(ノ)神の御浦なるべしと云り。いかがあらむ。珍しき説なれば此に擧つ」とある。以上の三句は序詞であらうが、下へのつづき方が明瞭でない。考には「共ねせLを相見しともいふ故に、序とせしなり」とある。或は古義の説の如く、この草の美しさを女に譬へたものか。
〔評〕 根都古具佐といふ珍らしい草を材料としてゐる爲に、わかり難くなつてゐるが、その他の用語は至つて平易である。根都古草に寄せてゐる。寄草戀。
 
3509 栲衾 白山風の 宿なへども 子ろがおそきの 有ろこそえしも
 
多久夫須麻《タクフスマ》 之良夜麻可是能《シラヤマカゼノ》 宿奈敝杼母《ネナヘドモ》 古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》 安路許曾要志母《アロコソエシモ》
 
(多久夫須麻)白山アタリヲ吹ク風ガ寒クテ〔三字傍線〕、眼ラレナイガ、旅ニ出ル時二形見トシテ〔旅ニ〜傍線〕女ガヨコシタ〔四字傍線〕表《ウハ》衣ガアルノハヨイヨ。ナツカシイ表衣ダ〔八字傍線〕。
 
○多久夫須麻《タクフスマ》――枕詞。栲の衾。白いから白山につづいてゐる。○之良夜麻可是能《シラヤマカゼノ》――白山風の。白山は加賀(474)の白山であらう。(當時は越前であつた)東歌に越の國の山名を詠む筈はないとして、これを東國に求める人もあるやうだが、東歌でも他の地方の地名が澤山出てゐるから、やはり古來有名な越の白山とすべきである。白山風は白山あたりを吹く風。白山風のといふと下へのつづきが序詞のやうに聞えるので古義には「風之音《カゼノネ》といふ意に宿《ネ》の言につゞけたるか」とある。併し風之音《カゼノネ》といふつづき方は面白くないから、風の寒きになどの意と見るべきであらう。○宿奈敝杼母《ネナヘドモ》――宿ざれども。眠られないけれども○0古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》――兒ろが襲着《オソキ》の襲着《オソキ》は襲ひ着る衣。即ち表衣《ウハギ》であらう。女が形見として贈つたものである。○安路許曾要志母《アロコソエシモ》――有るこそ善しも。あるのはよいことだよ。古義には、上にコソがあるから、必ず要吉《エキ》といふべきで、志は吉の誤であらうといつてゐるのは、書紀の磐之媛の御歌、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》などの形に拘泥したものであらう。
〔評〕 東國の男が越の國へ旅行し、白山の麓近く宿りして、故郷の妻を思つて詠んだ歌であらう。旅に出る時に、妻が貸してくれた彼の女の襲衣には、なつかしい彼(475)の女の膚の移り香が宿つてゐる。これを襲ねて着る時、寒い白山颪も彼にはさして身に感じない。かうして唯妻戀しい思に浸つてゐる歌である。用語が全く東歌らしい。次が雲の歌になつてゐるから、これは風に寄せたものらしい。寄風戀。
 
3510 み空行く 雲にもがもな 今日行きて 妹に言とひ 明日歸り來む
 
美蘇良由久《ミソラユク》 君母爾毛我母奈《クモニモガモナ》 家布由伎?《ケフユキテ》 伊母爾許等杼比《イモニコトトヒ》 安須可敝里許武《アスカヘリコム》
 
私ハ〔二字傍線〕空ヲ飛ンデ〔三字傍線〕行ク雲デアリタイモノダ。サウシタラ〔五字傍線〕、今日空ヲ飛ンデ國ヘ〔七字傍線〕行ツテ、戀シイ〔三字傍線〕女ト話ヲシテ、明日歸ツテ來ヨウ。
 
〔評〕 故郷を遙かに離れた男の歌。防人の作かも知れない。卷四の安貴王の長歌に水空徃雲爾毛欲成高飛鳥爾毛
欲成明日去而於妹言問《ミソラユククモニモガモタカトブトリニモガモアスユキテイモニコトトヒ》(五三四)とあるのに似てゐる。極めて平明な歌で、東人の作でないといふことも出來る。寄雲戀。
 
3511 青嶺ろに たなびく雲の いさよひに 物をぞ思ふ 年のこの頃
 
安乎禰呂爾《アヲネロニ》 多奈婢久君母能《タナビククモノ》 伊佐欲比爾《イサヨヒニ》 物能乎曾於毛布《モノヲゾオモフ》 等思乃許能己呂《トシノコノゴロ》
 
私ハ戀人ニ對シテドウシタラヨイカ〔私ハ〜傍線〕、(安乎禰呂爾多奈婢久君母能)心ガ定マラナイデ、コノ〔二字傍線〕年ノコノ頃ハ、物ヲ思ツテヰルヨ。
 
(476)○安乎禰呂爾多奈婢久君母能《アヲネロニタナビククモノ》――青嶺ろに靡く雲の、伊佐欲比《イサヨヒ》とつづく序詞。禰呂《ネロ》のロは接尾語で意味はない。安乎禰呂《アヲネロ》を吉野の青根が峯とする學者もある。○伊佐欲比爾《イサヨヒニ》――心の動いて定まらぬこと。○物能乎曾於毛布《モノヲゾオモフ》――舊本、能の下、安の字あるは衍である。類聚古集その他にない。
〔評〕 青山に棚引く雲は卷三に青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君《アヲヤマノミネノシラクモアサニケニツネニミレドモメヅラシワギミ》(三七七)とあるやうに、鄙びた感じが割合に尠い。袖中抄に載せてある。寄雲戀。
 
3512 一嶺ろに 言はるものから 青嶺ろに いさよふ雲の よそり妻はも
 
比登禰呂爾《ヒトネロニ》 伊波流毛能可良《イハルモノカラ》 安乎禰呂爾《アヲネロニ》 伊佐欲布久母能《イサヨフクモノ》 余曾里都麻波母《ヨソリツマハモ》
 
アノ女ト私トハ〔七字傍線〕一ツニナツタ親シイ〔三字傍線〕間柄ダト人ニ言ハレルケレドモ、丁度〔二字傍線〕青々トシタ山二去リモシナイデ〔七字傍線〕タダヨツテヰル雲ノヤウナ、心ノ定マラナイ、人ガ私ニ〔心ノ〜傍線〕言ヒ寄セテヰル妻ヨ。人ノ口ニバカリ騷ガレテ、實際ハサウデナイノハ、ツマラナイ〔人ノ〜傍線〕。
 
○比登禰呂爾伊波流毛能可良《ヒトネロニイハルモノカラ》――比登禰呂《ヒトネロ》は一嶺ろ。一嶺ろに言はれるとは、自分と女とが親しくて、一つになつてゐると世間に噂されるをいふ。かうした俗語があつたものでああう。下の青嶺ろと相對してゐる。毛能可良《モノカラ》はものながら、言はれるけれども。○安乎禰呂爾伊佐欲布久母能《アヲネロニイサヨフクモノ》――青嶺ろにいさようてゐる雲の如く心の定まらぬ。○余曾里都麻波母《ヨソリツマハモ》――人の我に言ひ寄せる妻よの意。
〔評〕 人の噂のみ高くて、妻が我に心から從はぬことを、物足らなく思つたのである。前の歌と似てゐる點があるので、此處に掲げたものか。この歌、袖中抄に見えてゐる。寄雲戀。
 
3513 夕されば み山を去らぬ にぬ雲の あぜか絶えむと 言ひし兒ろはも
 
(477)由布佐禮婆《ユフサレバ》 美夜麻乎左良奴《ミヤマヲサラヌ》 爾努具母能《ニヌグモノ》 安是可多要牟等《アゼカタエムト》 伊比之兒呂婆母《イヒシシコロハモ》
 
ドウシテ二人ノ間ハ〔五字傍線〕(由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能)切レヨウヤ、決シテ切レハシナイト言ツタアノ女ヨ。ドウシテ心變リシテ私ヲ見捨テタノデアラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○美夜麻乎左良奴《ミヤマヲサラヌ》――美夜麻《ミヤマ》はみ山。ミは接頭語のみ。○爾努具母能《ニヌグモノ》――ニヌグモは布雲。布のやうに長く棚引いた雲。旗雲。ここまでは次句の多要牟《タエム》につづいてゐる序詞。○安是可多要牟等《アゼカタエムト》――何故か絶えむ、絶えはせじとの意。
〔評〕 夕さればみ山を去らぬ布雲は茸實優雅な言葉で、東歌中ではめづらしい。布雲《ニヌグモ》は集中唯一の例である。下句には女と離れた痛恨の情が淋しく述べられてゐる。寄雲戀、
 
3514 高き嶺に 雲のつくのす 我さへに 君に著きなな 高嶺と思ひて
 
多可伎禰爾《タカキネニ》 久毛能都久能須《クモノツクノス》 和禮差倍爾《ワレサヘニ》 伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》 多可禰等毛比?《タカネトモヒテ》
 
高イ山ニ雲ガ著クヤウニ、私モ貴方ヲ〔三字傍線〕高イ山ト思ツテ、貴方ニ著キマセウ。
 
○久毛能都久能須《クモノツクノス》――雲が着くやうに。○和禮左倍爾《ワレサヘニ》――我までも、古義に「吾が身も雲になりて」とあるのは過ぎてゐる。○伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》――君に着きなむに同じ。
〔評〕 女が男にすがり着かうとする歌である。結句、多可禰等毛比?《タカネトモヒテ》に、男を仰ぎ慕ふ氣分が見えてゐる。
 
3515 吾が面の 忘れむしだは 國はふり 嶺に立つ雲を 見つつ偲ばせ
 
(478)阿我於毛乃《ワガオモノ》 和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》 久爾波布利《クニハフリ》 禰爾多都久毛乎《ネニタツクモヲ》 見都追之努波西《ミツツシヌバセ》
 
アナタハ旅ニオ出ニナツテ久シクナツテ〔アナ〜傍線〕、私ノ顔ヲオ忘レニナツタ時ハ、國ニ溢レテ嶺ニ立ツテヰル雲ヲ見テ、私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シテ下サイ。
 
○和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》――之太《シダ》は時。○久爾波布利《クニハフリ》――國溢り。國に溢れて、卷十八に射水河雪消溢而逝水能伊夜末思爾乃未《イミヅガハユキゲハフリテユクミヅノイヤマシニノミ》(四一一六)とある。
〔評〕 別離に際して、女が男に送つた歌。高峯の雲を見て我を思ひ起せといつたのは、雲に心を托してやらうといふのか。あはれに悲しい。併しこれには巫山の故事の「妾在2巫山之陽、高丘之阻1、且爲2朝雲1暮爲2行雨1云々」から出てゐるやうにも思はれる。寄雲戀。
 
3516 對馬の嶺は 下雲あらなふ かむの嶺に たなびく雲を 見つつ偲ばも
 
對馬能禰波《ツシマノネハ》 之多具毛安良南敷《シタグモアラナフ》 可牟能禰爾《カムノネニ》 多奈婢久君毛乎《タナビククモヲ》 見都追思怒波毛《ミツツシヌバモ》
 
對馬ノ嶺ニハ下ノ方ニカカル雲ハナイ。上ノ嶺ニ棚曳ク雲ヲ見テ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出シ〔この下判読不能〕。
 
○對馬能禰波《ツシマノネハ》――對馬《ツシマ》は文字通り酉海道の對馬であらう。○之多具毛安良南敷《シタグモアラナフ》――下雲あらなくに同じ。下には雲はないといふのである。考に具を久の誤とし、初句の波をここに入れて、ツシマノネ、ハシタグモアラナフと訓み、ハシククは細《クハ》し痛《イタ》くの略としてゐるのは牽強である。○可牟能禰爾《カムノネニ》――上の嶺に。これを考に東
(479)の神の嶺即ち足柄の御坂と見たのは當るまい。○見都追思怒波毛《ミツツシヌバモ》――見つつ偲ばむに同じ。舊本の怒を元暦校本その他に努に作り、波を西本願寺本その他婆に作つてゐる。
〔評〕 前の歌に對する返歌で、對馬に赴く防人が詠んだものか。對馬嶺にかかる雲の姿などは、前に行つた防人から聞いてゐるのであらう。下雲がないといふのが、不要の言の如くして然らず、何となく歌に趣を添へてゐる。寄雲戀。
 
3517 白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乘りて ここば悲しけ
 
思良久毛能《シラクモノ》 多要爾之伊毛乎《タエニシイモヲ》 阿是西呂等《アゼセロト》 許己呂爾能里?《ココロニノリテ》 許己婆可那之家《ココバカナシケ》
 
(思良久毛能)中〔傍線〕絶エタ女デアルノニ、今更〔二字傍線〕何トシロトテ、私ノ〔二字傍線〕心ニアノ女ノコトガ〔七字傍線〕浮ンデ、ヒドク戀シイノデアラウゾ。モハヤ何トモ仕樣ガナイノニ〔モハ〜傍線〕。
 
○思良久毛能《シラクモノ》――枕詞。絶えとつづいてゐる。前に爾努具母能安是可多要牟等《ニヌグモノアゼカタエムト》(三五一三)とつづいてゐるに同じ。○阿是西呂等《アゼセロト》――何とせよと。○許己婆可那之家《ココバカナシケ》――許多《ココダ》悲しきに同じ。
〔評〕 別れた女に對する未練が歌はれてゐる。三句以下に煩悶の状がよくあらはれてゐる。寄雲戀。
 
3518 岩の上に い懸る雲の かぬまづく 人ぞおたばふ いざ寢しめとら
 
伊波能倍爾《イハノヘニ》 伊賀可流久毛能《イカカルクモノ》 可努麻豆久《カヌマヅク》 比等曾於多波布《ヒトゾオタバフ》 伊射禰之賣刀良《イザネシメトラ》
 
岩ノ上ニカカツテヰル雲ガ山ノ〔二字傍線〕上ノ沼ニ降リテ〔三字傍線〕着イテヰル。ソノヤウニ私トオマヘト親シイ關係ガアルヤウニ〔ソノ〜傍線〕(480)人ガ言ヒ騷イデヰル。モウカウナツテハ〔八字傍線〕、サア一緒ニ寢ヨウヨ、女ヨ。
 
○伊波能倍爾伊賀可流久毛能《イハノヘニイカカルクモノ》――イは接頭語で、岩の上に懸る雲がの意であらう。○可努麻豆久《カヌマヅク》――この句以下、前の上野國歌(三四〇九)參照。○比等曾於多波布《ヒトゾオタバフ》――人がおらび騷ぐ意か。前の歌には比等登於多波布《ヒトトオタバフ》とあつた。○伊射禰之賣刀良《イザネシメトラ》――トラはコラの誤か。
〔評〕 前の伊香保呂爾安麻久母伊都藝《イカホロニアマクモイツギ》(三四〇九)を初二句だけ歌ひかへたものか。或はこれが本で彼が後とも言へないことはないが、岩の上では落ち付きがよぐないやうだ。ともかく難解な面倒な歌である。寄雲戀。
 
3519 汝が母に こられ吾は行く 青雲の いで來吾妹子 あひ見て行かむ
 
奈我波伴爾《ナガハハニ》 己良例安波由久《コラレアハユク》 安乎久毛能《アヲクモノ》 伊?來和伎母兒《イデコワギモコ》 安必見而由可武《アヒミテユカム》
 
折角アナタノ所ヘ逢ヒニ來タガ〔折角〜傍線〕、アナタノ母ニ叱ラレテ私ハスゴスゴト歸ツテ〔八字傍線〕行クヨ。一寸〔二字傍線〕(安乎久毛能)出テ來ナサイヨ。一目〔二字傍線〕逢ツテ行キマセウ。
 
○己良例安波由久《コラレアハユク》――己良例《コラレ》は嘖《コロバ》エに同じ。叱られること。卷十一に足千根母爾所嘖《タラチネノハハニコロバエ》(二五二七)・下に禰奈敝古由惠爾波伴爾許呂波要《ネナヘコユヱニハハニコロバエ》(三五二九)とある。今のオコラレルに同じであらう。アハユクは我は出て行く。○安乎久毛能《アヲクモノ》――枕詞。出でとつづく。青雲は空の晴れて青く見えるをいふ。雲晴れて青空があらはれる意で、つづくのである。古義には句を距てて安必見《アヒミ》へつづくとしてゐる。
〔評〕 男が女を婚ひに行つて、その母に叱られてすごすごと出て行く時の心。もとより民謠としてさういふ場面を取扱つたに過ぎないが、面白く出來てゐる。寄雲戀。
 
(481)3520 面形の 忘れむしだは 大野ろに たなびく雲を 見つつ偲ばむ
 
於毛可多能《オモカタノ》。和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》。於抱野呂爾《オホヌロニ》。多奈婢久君母乎《タナボククモヲ》。見都追思努波牟《ミツツシヌバム》。
 
アナタト別レテ久シクナツテ、アナタノ〔アナ〜傍線〕顔形ヲ忘レサウナ時ニハ、私ハ〔二字傍線〕大野ニ棚曳ク雲ヲ見テ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出シマセウ。
 
○於毛可多能《オモカタノ》――於毛可多《オモカタ》は面形。卷十一に面形之忘戸在者《オモカタノワスルトアラバ》(二五八〇)とある。○和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》――シダは時。○於抱野呂爾《オホヌロニ》――大野ろに。ロは接尾語のみ。
〔評〕 前の阿我於毛乃《アガオモノ》(三五一五)と對島能禰波《ツシマノネハ》(三五一六)とを一緒にしたやうな歌。旅に出た男の作であらう。寄雲戀。
 
3521 からすとふ おほをそ鳥の まさでにも 來まさぬ君を 兒ろ來とぞ鳴く
 
可良須等布《カラストフ》 於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》 麻左?爾毛《マサデニモ》 伎麻左奴伎美乎《キマサヌキミヲ》 許呂久等曾奈久《コロクトゾナク》
 
烏ト云フ大虚言ツキノ鳥ガ、本當ニアナタガオイデニナラナイノニ、子等來子等來《コロクコロク》ト鳴イテアナタガオイデニナツタヤウニ私ニ告ゲルヨ。イヤナ鳥ダ〔アナ〜傍線〕。
 
○可良須等布《カラストフ》――烏といふ。○於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》――大虚言鳥の。ヲソはウソに同じであらう。卷四に乎曾呂登吾乎於毛保寒毳《ヲソロトワレヲオモホサムカモ》(六五四)とある。新訓は大輕率鳥の文字を當ててゐる。卷八の一五四八の歌の宇都を乎曾の誤として、ヲソロハウトシと訓む説に從へば、輕率の解も出來るやうであるが、次に掲げた靈異記の歌などから見(482)ると、普通の説に從つて置くのが、無難のやうである。○麻左低爾毛《マサデニモ》――眞實にも。○許呂久等曾奈久《コロクトゾナク》――烏の鳴聲のコロクと聞えるのを、兒ろ來といつて鳴くやうに聞きなしたので、なるほどさう思へば、さう聞えるやうだ。兒ろは女。
〔評〕 實に面白い野趣が溢れてゐる、この歌は日本靈異記には、見2烏(ノ)邪婬(ヲ)1※[厭のがんだれなし]v世(ヲ)修v善縁として出てゐる。和泉國泉(ノ)郡大領血沼縣主倭麻呂が、その家の門に巣を作つた烏の邪姪を見て厭世觀を起し、出家して行基大徳に隨つて名を信巖と曰つた。さうして大徳と供に死に、必ず當に同じく徃生すべしと約束した、然るに信巖は行基大徳よりも先に命を終つたので、大徳は哭詠して歌を作つて 加良須止伊布於保乎蘇止刹能去止乎能米止母爾止伊比天佐岐※[こざと+施の旁]智伊奴留《カラストイフオホヲソトリノコトヲノミトモニトイヒテサキダチイヌル》」といつたとある。更に無名抄には、歌を「からすてふおほをそどりの心もてうつし人とは何なのるらむ」と改め、これを伊勢國の郡司のこととして、靈異記と同じく烏の邪姪を記し、「それを見て家あるじの郡司、道心おこして法師になりけり。それが心をよめるなり。おほをそとりとは烏の名なり」と述べて、出家した伊勢の郡司の歌にしてしまつた。これらはいづれもこの東歌から出たものである。ヲソ鳥は靈異記のも無名抄のも共にウソツキ鳥と解するのが適切のやうに思はれる。袖中抄にも載せてある、以下烏に寄せてある。これは烏に寄せたもの。寄鳥戀。
 
3522 きぞこそは 兒ろとさ寢しか 雲の上ゆ 鳴き行く鶴の 間遠く思ほゆ
 
伎曾許曾波《キゾコソハ》 兒呂等左宿之香《コロトサネシカ》 久毛能宇倍由《クモノウヘユ》 奈伎由久多豆乃《ナキユクタヅノ》 麻登保久於毛保由《マトホクオモホユ》
 
昨夜コソ女ト寢タノデアツタ。然ルニ〔三字傍線〕(久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃)久シクナツタヤウニ思ハレルヨ。
 
○久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃《クモノウヘユナキユクタヅノ》――雲の上を鳴いて飛んで行く鶴の如く。間遠くと言はむ爲の序詞。雲の上までの距離が遠いからである。○麻登保久於毛保由《マトホクオモホユ》――間遠くは久しくといふに同じ時間的に用ゐられてゐる。
(483)〔評〕 雲の上を鳴いて通る鶴を序詞に用ゐたのは上品である。卷八に雲上爾鳴奈流鴈之雖遠《クモノウヘニナクナルカリノトホケドモ》(一五七四)とある・鶴に寄せてある。寄鳥戀。
 
3523 坂越えて 安倍の田の面に ゐる鶴の ともしき君は 明日さへもがも
 
佐可故要?《サカコエテ》 阿倍乃田能毛爾《アベノタノモニ》 爲流多豆乃《ヰルタヅノ》 等毛思吉伎美波《トモシキキミハ》 安須左倍母我毛《アスサヘモガモ》
 
(佐可故要?阿倍乃田能毛爾爲流多豆乃)珍ラシイ貴方ハ今夜バカリデナク〔八字傍線〕、明日モカウシテ逢ヒタイ〔八字傍線〕モノデス。
サカコエテ
○佐可故要?《サカコエテ》――坂を越えて行く意か或は阿倍川の西方にある宇津《ウツ》ノ谷《ヤ》の坂のことか。○阿倍乃田乃毛爾《アベノタノモニ》――阿倍は卷三に駿河奈流阿倍乃市道爾《スルガナルアベノイチヂニ》(二八四)とある阿倍か。然らば今の靜岡市附近である。○爲流多豆乃《ヰルタヅノ》――この上の三句はトモシキと言はむ爲の序詞。○等毛思吉使美波《トモシキキミハ》――トモシキは、めづらしく愛らしい意。考に「こは群るをばいはず、ただめを二つをるをもて乏しきたとへとす。たまたまこし男をいかでかく日ならべて來んよしもがもと思ふなり」とあり、宣長は「此乏きはうらやましき也。日毎來ぬ日なく來居る鶴を羨みて、わが男も毎日、明日も來れかしと云也と言へり」とあるが、共に穩やかではない。
〔評〕 阿倍附近の女の歌。佐可故要?《サカコエテ》は不要のやうであるが、蓋し實景を捉へたものであらう。結句に激しい戀情があらはれてゐる。この歌、袖中抄に載つてゐる。鴎に寄せてある。寄鳥戀。
 
3524 眞小薦の ふのまちかくて 逢はなへば 沖つ眞鴨の 歎ぞあがする
 
麻乎其母能《マヲゴモノ》 布能未知可久?《フノマチカクテ》 安波奈敝波《アハナヘバ》 於吉都麻可母能《オキツマカモノ》 奈氣伎曾安我須流《ナゲキゾアガスル》
 
(484)(麻乎其母能布能)近ク眼ニ見ルバカリデ戀シイ人ニ〔見ル〜傍線〕逢ハナイカラ嗚呼ト〔三字傍線〕(於吉都麻可母能)嘆息ヲ私ハシテヰルヨ。
 
○麻乎其母能《マヲゴモノ》――眞小薦の。マとヲは接頭語のみ。薦は蓆。○布能未知可久?《フノマチカクテ》――フは蓆の編目と編目との間をいふ。舊本未とあるのは末の誤か。細井本はさうなつてゐる。考には末に改めて、「今本、未とあるは誤れり。薦《コモ》などのふは間ちかきとこそいへ」とある。節の短くて、又は節のみ近くてと見るのは當らない。フノまでは間近くと言はむ爲の序詞。間近くては、戀人との距離の近きことを言つたものである。○安波奈敝波《アハナヘバ》――逢はねば。○於吉都麻可母能《オキツマカモノ》――沖つ眞鴨の。鴨は水中に潜つて水上に出て長い息を吐くから、長息《ナガイキ》の略、嘆《ナゲキ》とつづけた序詞である。
〔評〕 眞小薦や沖つ眞鴨などの用法が巧で、東歌としては技巧的に進んだ歌である。鴨に寄せてある。寄鳥戀。
 
3525 水久君野に 鴨のはほのす 兒ろが上に 言おろはへて 未だ宿なふも
 
水久君野爾《ミクグヌニ》 可母能波抱能須《カモノハホノス》 兒呂我宇倍爾《コロガウヘニ》 許等於呂波敝而《コトオロハヘテ》 伊麻太宿奈布母《イマダネナフモ》
 
私ハ〔二字傍線〕女ニ就イテ(水久君野爾可母能波抱能須)ボンヤリト約束シタバカリデ、マダ一緒ニ〔三字傍線〕寢ナイヨ。ソレダノニ、ドウシテコンナニ戀シイノダラウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○水久君野爾《ミクグヌニ》――水久君野は地名であらう。次句に鴨とあるから、野は借字で、水久君沼であらうと思はれる。略解に「武藏の秩父郡に水久具利といふ里有り。もし其所の沼を言ふか」とあるが、今その所在が明瞭でない。代匠記には水を潜るといふ意があるとしてゐる。○可母能波抱能須《カモノハホノス》――鴨の匍ふなす。考に「鴨の羽ぶきの如くといふ也。池に群て羽ぶきするは聞驚かるる物也。夫伎《フキ》の約|備《ヒ》なるを抱《ホ》に轉じたり」とあるのは無理であらう。鴨の沼に降りゐる樣を匍ふと言つたのであらう。鴨の陸を歩く樣をかく言つたと見た宣長説は面白(485)くない。以上の二句は、句を距てて、同音を繰返してハヘにつづく序詞。○許等於呂波敝而《コトオロハヘテ》――言|凡《オロ》延へて。言葉でぼんやりと言つたばかりで、確かな的束をしたのでもなくの意。於は元暦校本その他、乎に作る本が多い。代匠記は異男ろ這ひて即ち他の男が這ひての意とし、考は「男の忍び來んぞと聞て、家こぞりとどろき騷といふなり」と言つてゐる。又新考は言をろ延へて解してゐる。かくの如く解釋が區々になつてゐる。
〔評〕 未だ戀を遂げずして、徒らに煩悶する男の歌。鴨に寄せた意が少しく明瞭を缺くやうである。寄鳥戀。
 
3526 沼二つ 通は鳥が巣 吾が心 二行くなもと なよ思はりそね
 
奴麻布多都《ヌマフタツ》 可欲波等里我栖《カヨハトリガス》 安我許己呂《アガココロ》 布多由久奈母等《フタユクナモト》 奈與母波里曾禰《ナヨモハリソネ》
 
沼ヲ二ツカケテ〔三字傍線〕通フ水鳥ノ住居ノヤウ〔三字傍線〕ニ、私ノ心ガ二心ガアルト、思ヒナサルナヨ。私ハ貴下ヨリ外ニハ愛スル人ハアリマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
○奴麻布多都《ヌマフタツ》――沼二つ。○可欲波等里我栖《カヨハトリガス》――通ふ鳥の巣。可欲波《カヨハ》は通ふに同じ。沼二つにかけて通つて棲んでゐる鳥の住處のやうに。この二句は布多由久《フタユク》にかかる序詞。新考は我は能の誤で、鳥ノス(鳥ナスの東語)だらうと言つてゐる。○布多由久奈母等《フタユクナモト》――二行くらむとに同じ。吾が心が二方に行くと、二心があると。○奈與母波里曾禰《ナヨモハリソネ》――ナは打消、ヨは添へていふ歎辭。モハリは思《オモ》はり、思《オモヒ》を延べたのであらう。ソは上のナと相對して打消となる。
〔評〕 沼がいくつも並んでゐる下總・常陸・上野あたりに行はれた歌らしい。水鳥を譬喩に用ゐたのも水郷の民謠らしくて面白い。寄鳥戀。
 
3527 沖に住も 小鴨のもころ 八尺鳥 息づく妹を 置きて來ぬかも
 
於吉爾須毛《オキニスモ》 乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》 也左可杼利《ヤサカドリ》 伊伎豆久伊毛乎《イキヅクイモヲ》 於伎(486)?伎努可母《オキテキヌカモ》
 
沖ニ住ム小鴨ノヤウニ、(也左可杼利)タメ息ヲツイテ、別ヲ悲シンデ〔六字傍線〕ヰル妻ヲ、私ハ家ニ〔四字傍線〕殘シテ出テ來タヨ。
 
○於吉爾須毛《オキニスモ》――沖に棲む。スモはスムの東語。○乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》――小鴨の如く。モコロは卷九、如己男《モコロヲ》(一八〇九)・母許呂乎《モコロヲ》(三四八八)・卷二十、和例乎美於久流等多多理之母己呂《ワレヲミオクルトタタリシモコロ》(四三七五)などのモコロで、如くの意である。○也左可杼利《ヤサカドリ》――八尺鳥。ヤサカは卷十三に八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》(三二七六)。(三三四四)とあるやうに、ここでは息の長いことに用ゐてある。枕詞として次のイキツクにつづいてゐる。○伊伎豆久伊毛乎《イキヅクイモヲ》――息吐く妹を。舊本、久の字が二つあるのは、一つは衍である。類聚古巣・西本願寺本などには、一つになつてゐる。
〔評〕 ため息をついて別離を悲しむ女、それは小鴨のやうな可憐なをとめである。それを後に殘して來た男の後髪を引かれるやうな思が詠まれてゐる、防人の歌だらうと見る説が多いが、さうとも定め難い。小鴨に寄せてある。寄鳥戀。
 
3528 水鳥の 立たむよそひに 妹のらに 物いはず來にて 思ひかねつも
 
水都等利乃《ミヅトリノ》 多多武與曾比爾《タタムヨソヒニ》 伊母能良爾《イモノラニ》 毛乃伊波受伎爾?《モノイハズキニテ》 於毛比可禰都毛《オモヒカネツモ》
 
(水都等利乃)出立スル準備ノ騷〔二字傍線〕デ、私ハ〔二字傍線〕女等ニ、別ノ言葉モシミジミ〔九字傍線〕言ハナイデ出テ來テ、悲シクテ堪へラレナイヨ。
 
○水都等利乃《ミヅトリノ》――枕詞。水鳥が飛立つ意で立たむとつづく。○多多武與曾比爾《タタムヨソヒニ》――ヨソヒは装ひ、準備。○伊母能良爾《イモノラニ》――ノは助詞で、妹等にの意である。考には「能は妹根と貴む言なり」とある。
 
(487)〔評〕 卷二十の防人歌に美豆等利乃多知能已蘇岐爾父母爾毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎《ミヅトリノタチノイソギニチチハハニモノハズケニテイマゾクヤシキ》(四三三七)とあるに似てゐる。なほ卷四の珠衣能狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《タマギヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ》(五〇三)・前の安利伎奴能佐惠佐惠之豆美《アリキヌノサヱサヱシヅミ》(三四八一)などいづれも相似た歌である。これは防人の作かも知れない。水鳥に寄せてある。寄鳥戀。
 
3529 等夜の野に をさぎねらはり をさをさも 寢なへ兒故に 母にころばえ
 
等夜乃野爾《トヤノヌニ》 乎佐藝禰良波里《ヲサギネラハリ》 乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》 禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》 波伴爾許呂波要《ハハニコロバエ》
 
(等夜乃野爾乎佐藝禰良波里)ロクニ一緒ニ〔三字傍線〕寢ナイ女ダノニ、アノ女ノ〔四字傍線〕母ニ私ハヒドク〔三字傍線〕叱ラレテ追ヒタテラレタ〔八字傍線〕。
 
○等夜乃野爾《トヤノヌニ》――等夜乃野《トヤノヌ》は地名らしいが所在不明。トヤといふ地名は紀伊・出雲・陸奧・陸中にあり、越後に鳥屋野・岩代に鳥谷野の地がある。古義は和名抄に下總國印旛郡島矢とある地は鳥矢の誤で、ここが即ちトヤであらうといつてゐる。○乎佐藝禰良波里《ヲサギネラハリ》――乎佐藝《ヲサギ》は兎《ウサギ》。ネラハリは窺《ネラ》ひの延言。ここまではヲサの音を繰返して、次句のヲサヲサにつづく序詞。○乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》――ヲサヲサは大方・大低などの意で下に打消を伴ふ副詞である。ここではあまり、碌になどの意であらう。○禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》――寢ざる女だのに。○波伴爾許呂波要《ハハニコロバエ》――母に嘖ばえ。母に叱られたといふのである。母は女の母である。
〔評〕 狩獵人らしい歌である。結句を連用形で言ひ終つてゐる點に、特色がある。以下獣に寄せたものを集めてゐる。これは兎に寄せてある。寄獣戀。
 
3530 さを鹿の 伏すや叢 見えずとも 兒ろが金門よ 行かくしえしも
 
左乎思鹿能《サヲシカノ》 布須也久草無良《フスヤクサムラ》 見要受等母《ミエズトモ》 兒呂家可奈門欲《コロガカナドヨ》 由可久之要思毛《ユカクシエシモ》
 
(488)戀シイ女ハ〔五字傍線〕(左乎思鹿能布須也久草無良)見エナイデモ、女ノ家ノ門ノアタリヲ、通ルノハヨイモノダヨ。私ハ何トナク女ノ門ノ邊ガ通リタイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○左乎思鹿能布須也久草無良《サヲシカノフスヤクサムラ》――さ牡鹿の伏すや叢。見えずとつづく序詞。叢に隱れて鹿の姿が見えないからである。ヤは輕く添へた詠歎の助詞。○見要受等母《ミエズトモ》――女の姿は見えずともの意。○兒呂家可奈門欲《コロガカナドヨ》――兒らの金門をの意。可奈門《カナド》は金門。カドと同語らしい。必ずしも金具を打連ねた門ではあるまい。一七三九參照。ヨはヲに同じ。舊本、家とあるは我の誤か。類聚古集に我に作つてゐる。○由可久之要思毛《ユカクシエシモ》――行くのは善いことだよ。
〔評〕 序詞は巧に出來てゐる。女のなつかしさに、引寄せられるやうに、その門邊により來る男の歌。戀する人の情が、なるほどとうなづかれるやうに詠まれてゐる。鹿によせてある。寄獣戀。
 
3531 妹をこそ あひ見に來しか 眉曳の 横山へろの ししなす思へる
 
伊母乎許曾《イモヲコソ》 安比美爾許思可《アヒミニコシカ》 麻欲婢吉能《マヨビキノ》 與許夜麻敝呂能《ヨコヤマヘロノ》 思之奈須於母敝流《シシナスオモヘル》
 
私ハ〔二字傍線〕女ヲコソ相見ニ來タノダ。ソレダノニ女ノ家ノ者ハ〔ソレ〜傍線〕、(麻欲婢吉能)横山ノ邊ニ居テ山田ヲ荒ラス〔七字傍線〕鹿猪ノヤウニ私ヲ〔二字傍線〕思ツテヰル。私ヲ追ヒダシテシマツタ。ヒドイ奴等ダ〔私ヲ〜傍線〕。
 
○麻欲婢吉能《マヨビキノ》――眉引の。枕詞。眉引は眉のことで、横に引かれてゐるから、横につづけてゐる。○與許夜麻敝呂能《ヨコヤマヘロノ》――横山邊ろの。横山あたりの。横山は横に靡き連なる山。地名ではあるまい。ロは接尾語として添へてある。○思之奈須於母敝流《シシナスオモヘル》――鹿猪のやうに思つてゐるよ。
〔評〕 女に逢ひに行つて、その母などにどなりつけられたのを憤概して、人を丸で鹿猪か何ぞのやうに思つて、(489)追ひ飛ばしたといふので、下句は實に奇拔、且適切である。麻欲婢吉能《マヨビキノ》の枕詞も、上の妹に連想があつて、歌をやさしくしてゐる。猪によせてある。寄獣戀。
 
3532 春の野に 草食む駒の 口やまず あを偲ぶらむ 家の兒ろはも
 
波流能野爾《ハルノヌニ》 久佐波牟古麻能《クサハムコマノ》 久知夜麻受《クチヤマズ》 安乎思努布良武《アヲシヌブラム》 伊敝乃兒呂波母《イヘノコロハモ》
 
(波流能野爾久佐波牟古麻能)口ヲ休メズニ絶エズ私ノ事ヲ噂シテ〔十字傍線〕、私ヲ思ヒ出シテナツカシガツテヰルデアラウ、家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ヨ。ドウシテヰルダラウ。可愛サウナ女ダ〔ドウ〜傍線〕」。
 
○波流能野爾久佐波牟古麻能《ハルノヌニクサハムコマノ》――序詞。春の野に草を食べてゐる駒が、口を休めずとつづく。○久知夜麻受《クチヤマズ》――口を休めず。絶えず言葉にあらはして。卷九に珠手次不懸時無口不息吾戀兒矣《タマダスキカケヌトキナククチヤマズアガコフルコヲ》(一七九二)とある。
〔評〕 旅に出た男が家に殘して來た妻を思ふ歌。春の野に放飼にしてある馬を見てよんだのかも知れない。久知夜麻受安乎思努布良武《クチヤマズアヲシヌブラム》の句は、自分を戀しがつてゐる女の樣を顯はし得て妙。駒によせてある。寄獣戀。
 
3533 人の兒の かなしけしだは 濱渚鳥 足惱む駒の 惜しけくもなし
 
比登乃兒乃《ヒトノコノ》 可奈思家之太波《カナシケシダハ》 波麻渚杼里《ハマスドリ》 安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》 乎之家口母奈思《ヲシケクモナシ》
 
女ガ戀シイ時ニハ女ニ逢ヒタサニ私ガ乘ツテヰル〔女ニ〜傍線〕馬ガ、(波麻渚杼里)歩ケナイデ惱ンデヰルノモ、可愛サウトハ思ハナイ。無理ニ歩マセテ女ノ所ヘ通ツテ行ク〔無理〜傍線〕。
 
○比登能兒能《ヒトノコノ》――人の兒は、人の娘。○可奈思家之太波《カナシケシダハ》――愛《カナ》しき時は。○波麻渚杼里《ハマストリ》――濱渚鳥。枕詞。濱(490)の渚にゐる鳥は沙の上の歩行が困難らしいから、足惱むとつづく。○安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》――安奈由牟《アナユム》は足惱《アナヤ》むの東語。○乎之家口母奈思《ヲシケクモナシ》――惜しくもなし。このヲシは可愛さうといふやうな意。
〔評〕 濱渚鳥から足惱むへのつづけは巧である。枕詞ではあるが、作者の創意に出てゐる。結句は代匠記に、遊仙窟の、若使(メバ)2人心(ヲ)密(ナラ)1莫(レ)v惜(ム)2馬蹄穿(ナムコトヲ)1の句を引いて、對比してゐるが、これから出たといふわけではない。駒によせてある。寄獣戀。
 
3534 赤駒が 門出をしつつ 出でがてに せしを見立てし 家の兒らはも
 
安可胡麻我《アカゴマガ》 可度※[人偏+弖]乎思都都《カドデヲシツツ》 伊※[人偏+弖]可天爾《イデガテニ》 世之乎見多※[人偏+弖]思《セシヲミタテシ》 伊敝能兒良波母《イヘノコラハモ》
 
私ノ乘ツテヲル〔七字傍線〕赤駒ガ、家ヲ出ル時ニ、イカニモ〔四字傍線〕出ニクサウニシタノヲ悲シサウニ〔五字傍線〕見送ツタ家ノ妻ヨ。サゾ今モ私ヲ慕ツテ悲シンデヰルデアラウ。アノ姿ガ今モ忘レラレナイ〔サゾ〜傍線〕。
 
○安可胡麻我《アカゴマガ》――赤駒が。自分が乘つて旅に出ようとした赤駒である。○可度※[人偏+弖]乎思都都《カドデヲシツツ》――可度※[人偏+弖]《カドデ》は門出。○伊※[人偏+弖]可天爾《イデガテニ》――出で難に。出にくさうに。○世之乎見多※[人偏+弖]思《セシヲミタテシ》――見多※[人偏+弖]《ミタテ》は見立て。見送ることを今も見立てといふ。
〔評〕 旅中家の妻を想ひ起した歌。上句に赤駒も門出を悲しんだ有樣が述べられて、人をして涙を催さしめるものがある、略解に、「上二句は馬の馬屋の戸口を出むとすれども、え出ぬ意にて、出がてと言はむ爲の序也」とあるのは誤解であらう。さう見ては興味索然だ。赤駒によせてある。寄獣戀。
 
3535 おのが男を おほにな思ひそ 庭に立ち 笑ますがからに 駒に逢ふものを
 
於能我乎遠《オノガヲヲ》 於保爾奈於毛比曾《オホニナオモヒソ》 爾波爾多知《ニハニタチ》 惠麻須我可良爾《ヱマスガカラニ》 古(491)麻爾安布毛能乎《コマニアフモノヲ》
 
私ノ戀シイ〔三字傍線〕男ヨ。私ヲ〔二字傍線〕疎カニ思ヒナサルナ。私ハ貴方ガニコニコト〔私ハ〜傍線〕オ笑ヒナサル御顔ヲ見タイ〔六字傍線〕ノデ、アナタヲ出迎ニ〔七字傍線〕庭ニ出テ、アナタノ乘ツテイラツシヤル〔アナ〜傍線〕馬ニ遭フノデスヨ。
 
○於能我乎遠《オノガヲヲ》――己が男よの意か。代匠記・新考などは己が尾をと解してゐる。○於保爾奈於毛比曾《オホニナオモヒソ》――疎かに思ふことなかれ。○惠麻須我可良爾《ヱマスガカラニ》――笑み給ふ故に。○古麻爾安布毛能乎《コマニアフモノヲ》――貴方の乘つてゐる駒に逢ふよ。新考は古麻を古呂の誤として、女と解してゐる。
〔評〕 難解の歌で、意味がよく分らない。この前後駒に寄せた歌であるから、古呂と改める説は正しくない。駒によせてある。寄獣戀。
 
3536 赤駒を 打ちてさ緒牽き 心引き いかなるせなか 吾許《わがり》來むと言ふ
 
安加胡麻乎《アカゴマヲ》 宇知※[人偏+弖]左乎妣吉《ウチテサヲビキ》 己許呂妣吉《ココロヒキ》 伊可奈流勢奈可《イカナルセナカ》 和我理許武等伊布《ワガリコムトイフ》
 
私〔二字傍線〕(安加胡麻乎宇知※[人偏+弖]左乎妣吉)心ヲ引イテ、私ノ家ヘ來ヨサトオツシヤルノハ、ドウイフ御方デスカ。アナタハ口バカリデ、アテニナラヌ御方デス〔アナ〜傍線〕。
 
○宇知※[人偏+弖]左乎妣吉《ウチテサヲビキ》――鞭打つて手綱を引き。サは接頭語。ヲは手綱。初二句は己許呂妣吉《ココロビキ》と言はむ爲の序詞。○己許呂妣吉《ココロビキ》――私の心を引いて。○伊可奈流勢奈可《イカナルセナカ》――どんな男か。○和我理許武等伊布《ワガリコムトイフ》――吾が家へ來むといふのは如何なる人かの意。
〔評〕 自分の心を引いて、戀を求め、やがて通つて來ようと言つてゐる男を、たしなめた女の歌。これも少し曖昧な點がある。赤駒によせてある、寄獣戀。
 
3537 くべ越しに 麥食むこうまの はつはつに 相見し子らし あやにかなしも
 
(492)久敝胡之爾《クベコシニ》 武藝波武古宇馬能《ムギハムコウマノ》 波都波都爾《ハツハツニ》 安比見之兒良之《アヒミシコラシ》 安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》
 
〔久敝胡之爾武藝波武古宇馬能)一寸バカリ逢ツタ女ガ、不思議ニモ可愛イヨ。ドウシタノダラウ〔八字傍線〕。
 
○久敝胡之爾《クベコシニ》――久敝《クベ》は垣・柵の類をいふ。○武藝波武古宇馬能《ムギハムコウマノ》――麥食む小馬の。宇の字を衍としてコマと訓む説が多いが、諸本悉く宇の字があるから、もとの儘がよい。この二句は柵越しに首を伸ばして麥を食ふ馬は、麥草の上端のみを喰ひ得るだけであるから、ハツハツと言はむ爲の序詞としたものである。○波都波都爾《ハツハツニ》――端々に。極めて僅かに、ほんの一寸。卷四に波都波都爾人乎相見而《ハツハツニヒトヲアヒミテ》(七〇一〜とある。
〔評〕 序詞は農民らしい材料が用ゐられてゐる。併し卷十二の??越爾麥咋駒乃雖詈猶戀久思不勝焉《ウマセコシニムギハムコマノノラユレトナホシコフラクオモヒカネツモ》(三〇九六)と同樣であるから、東歌特有のものではない。馬によせてある。寄獣戀。
 
或本歌曰 馬柵越し 麥食む駒の はつはつに 新膚觸れし 兒ろしかなしも
 
或本歌曰 宇麻勢胡之《ウマセコシ》 牟伎波武古麻能《ムギハムコマノ》 波都波都爾《ハツハツニ》 仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》 古呂之可奈思母《コロシカナシモ》
 
仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》は新膚觸れし。始めて新枕せしの意。古呂之可奈思母《コロシカナシモ》は女がいとしいよの意。垣《クベ》と馬柵《ウマセ》との差のみで、上句は殆ど原歌と同じであるが、これは新膚觸れしと露骨な叙法になつてゐるので、原歌よりも野趣が濃厚である。
 
3538 ひろ橋を 馬越しかねて 心のみ 妹がりやりて 吾は此處にして 或本歌發句曰、小林に駒をはささげ
 
比呂波之乎《ヒロハシヲ》 宇馬古思我禰※[人偏+弖]《ウマコシカネテ》 己許呂能未《ココロノミ》 伊母我理夜里※[人偏+弖]《イモガリヤリテ》 和波(493)己許爾思天《ワハココニシテ》
 
廣橋ヲ馬ガ越シカネルノデ、渡ルコトガ出來ズ〔八字傍線〕、心ダケヲ女ノ所ヘ通ハシテ、私自身ハ此處ニ佇ンデヰル。悲シイガ致シ方ガナイ〔佇ン〜傍線〕。
 
○比呂波之乎《ヒロハシヲ》――比呂波之《ヒロハシ》は廣橋であらう。下に馬越しかねてとあるので、代匠記精撰本は、尋橋で纔に一ひろばかりの細い橋と解し、考は呂は良の意で一枚《ヒトヒラ》橋の打橋だといつてゐる。宣長は間をおいて石を並べた石橋で、その間々が廣いのであらうといひ、古義は翻橋《ヒロハシ》で反橋《ソリハシ》のことだと言つてゐる。いづれも無理である。常の丸木橋などよりも廣いので、廣橋といはれてゐるが、なほ馬が通るには不充分なので馬が尻込みするのである。
〔評〕 はつきりしたよい作である。馬に跨つて女の許へ通ふ男の心が、やさしく詠まれてゐる。結句穩やかに餘韻を含めて言ひをさめてある。馬によせてある。寄獣戀。
 
或本歌發句曰 乎波夜之爾《ヲハヤシニ》 古麻古波左佐氣《コマヲハササゲ》
 
發句は初二句を指してゐる、乎波夜之《ヲハヤシ》は小林、ヲは接頭語。波左佐氣《ハササゲ》は走ラセアゲの約か。馬が林の叢中に走り込んでしまつたことである、古義に「乘れりし駒の下りたる間に放れ行て、林中へ上り遠ざかり入て、のりて行べき駒のなければ心のみ妹がりやるよしなり」とあるが、放馬になつたのではなく、乘つたままで林の中に走り込んで、如何にしても意に從はぬのであらう。廣橋を越しかねる馬は臆病馬だが、これはあばれ馬で手に合はぬのである。いづれもおもしろいが、この方が滑稽味がある。
 
3539 あずの上に 駒をつなぎて あやほかど 他妻兒ろを 息に吾がする
 
安受乃宇敝爾《アズノウヘニ》 古馬乎都奈伎※[人偏+弖]《コマヲツナギテ》 安夜抱可等《アヤホカド》 比登都麻古呂乎《ヒトツマコロヲ》 伊(494)吉爾和我須流《イキニワガスル》
 
(安受乃宇敝爾古馬乎都奈伎?)アブナイケレドモ、人ノ妻ノ女ニ戀ヲシテ〔四字傍線〕命懸ケデ我ハ思ツテヰル。
 
○安受乃宇敝爾《アズノウヘニ》――安受《アズ》は字鏡に「※[土+丹]ハ岸崩也久豆禮又阿須」とあるかち斷崖のことである。○古馬乎都奈伎?《コマヲツナギテ》――駒を繋いで。ここまでの二句は危しと言はむ爲の序詞。○安夜抱可等《アヤホカド》――危けれど。あぶないけれど。○比登都麻古呂乎《ヒトツマコロヲ》――人妻兒ろを。人妻たる女をの意。舊本、麻都《マツ》とあるが、類聚古集に都麻《ツマ》とあり、西本願寺本その他に豆麻とあるから、都麻とすべきである。○伊吉爾和我須流《イキニワガスル》――息に吾がする。伊吉《イキ》は命。命にかけて我は思ふといふのである。卷十九の伊吉能乎爾念《イキノヲニモフ》(四二八一)と同じ。
〔評〕 斷崖の上に駒を繋いだのは、危さを言ひあらはす序詞として、適切この上もない。下句の表現も、戀の煩悶を力強く言ひ得てゐる。傑れた作と言つてよい。駒に寄せてある。寄獣戀。
 
3540 左和多里の 手兒にい行きあひ 赤駒が 足掻を速み 言問はず來ぬ
 
左和多里能《サワタリノ》 手兒爾伊由伎安比《テゴニイユキアヒ》 安可故麻我《アカコマガ》 安我伎乎波夜美《アガキヲハヤミ》 許等登波受伎奴《コトトハズキヌ》
 
佐和多里トイフ所〔四字傍線〕ノ女ニ、途中デ行キ逢ツタケレドモ、私ノ乘ツテヲル〔ケレ〜傍線〕赤駒ノ歩キ方ガ早イノデ、アノ女ニ〔四字傍線〕物モ云ハナイデ別レテ〔三字傍線〕キタ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○左和多里能《サワタリノ》――友和多里《サワタリ》は大和の檜隈《ヒノクマ》を左檜隈《サヒノクマ》といふやうに、ワタリといふ地名に、サを添へたものか。和名抄によれば東國では、下野陸奥などに曰理《ワタリ》郷がある。○手兒爾伊由伎安比《テゴニイユキアヒ》――手兒は處女といふに同じ。伊《イ》は接頭語。手兒に行遇つて。
〔評〕 左和多里の手兒といつて、美人の聞え高かつた童女に途中に行き逢つたが、乘つてゐた駒が、あまり早く(495)歩くので、おやと思ふ間に行過ぎて、しみじみと話をする暇もなかつたといふ意。その場所がよく描き出されてゐる。赤駒によせてある。寄獣戀。
 
3541 あすへから 駒の行このす 危はども 人妻兒ろを まゆかせらふも
 
安受倍可良《アズヘカラ》 古麻乃由胡能須《コマノユコノス》 安也波刀文《アヤハドモ》 比等豆麻古呂乎《ヒトヅマコロヲ》 麻由可西良布母《マユカセラフモ》
 
斷崖ノ上ヲ、駒ガ行クヤウニ、危イケレドモ、私ハ人妻ニ戀ヲシテ〔九字傍線〕人妻ノ女ヲユカシク思フヨ。
 
○安受倍可良古麻乃由胡能須《アズヘカラコマノユコノス》――斷崖を駒が行く如くの意で、危いことの喩である。安受倍《アズヘ》は前の安受乃宇敝《アズノウヘ》(三五三九)と同意であらう。○安也波刀文《アヤハドモ》――前の三五三九の安夜抱可等《アヤホカド》と同意。○比登豆麻古呂乎《ヒトツマコロヲ》――前の舊本の比登麻都古呂乎(三五三九)とあるのが誤であることは、これでも證明せられる。○麻由河西良布母《マユカセラフモ》――マは接頭語。ユカセラフはユカセル即ちゆかしく思ふの意か、モは詠歎の助詞。人妻の女をゆかしく思ふよといふのであらう。但しユカシといふ語は、萬葉集その他に上代語としては見えないやうであり、又本義は「知りたい」といふので、なつかしい意となるのは、第二義のやうであるから、なほ研究を要する。
〔評〕 前の三五三九とよく似てぬるが、これは初二句が譬喩になつてゐるし、その他の用語も違つてゐる。考に同歌として、これを除いてゐるのは亂暴である。駒によせてある。寄獣戀。
 
3542 さざれ石に 駒をはさせて 心痛み 吾が思ふ妹が 家のあたりかも
 
佐射禮伊思爾《サザレイシニ》 古馬乎波佐世?《コマヲハサセテ》 己許呂伊多美《ココロイタミ》 安我毛布伊毛我《アガモフイモガ》 伊敝乃安多里可聞《イヘノアタリカモ》
 
(佐射禮伊思爾古馬乎波佐世?)心ヲイタメテ戀シク〔三字傍線〕私ガ思ウ女ノ家ノ邊ハ此處〔三字傍線〕ダヨ。アアナツカシイ〔七字傍線〕。
 
(496)○佐射禮伊思爾《サザレイシニ》――佐射禮伊思《サザレイシ》は小石。前に知具麻能河泊能左射禮思母《チクマノカハノサザレシモ》(三四〇〇)とあつた左射禮思《サザレシ》と同じである。○古馬乎波佐世?《コマヲハサセテ》――波佐世?《ハサセテ》は走らせて。以上の二句は、小石原を馬を走らせると、馬の脚を傷つけはせぬかと、心を苦しめるから、心痛みとつづく序詞としたのである。○己許呂伊多美《ココロイタミ》――心痛み。心苦しくの意で、心苦しき故にと解すべきではない。
〔評〕 初二句の序詞は、田舍の男子らしい材料で、面白く出來てゐる。駒によせてある。寄獣戀。
 
3543 むろがやの 都留のつつみの 成りぬがに 兒ろは言へども 未だ寢なくに
 
武路我夜乃《ムロガヤノ》 都留能都追美乃《ツルノツツミノ》 那利奴賀爾《ナリヌガニ》 古呂波伊敝杼母《コロハイヘドモ》 伊末太年那久爾《イマダネナクニ》
 
二人ノ間ハ戀ガ〔七字傍線〕(武路我夜乃都留能都追美乃)出來アガツタヤウニアノ〔二字傍線〕女ハ云フケレドモ、口バカリデ、マダ私ハアノ女ト〔口バ〜傍線〕共寢ヲシナイヨ。
 
○武路我夜乃都留能都追美乃《ムロガヤノツルノツツミノ》――武路我夜は室が谷などいふ地名らしいが所在不明。古義は群草之列々《ムラガヤノツラツラ》の意で都留につづく枕詞としてゐる。都留は甲斐國に都留郡があり、都留郷もあるから、そのあたりらしく思はれる。然らば今の北都留郡鶴川村の邊であらう。以上の二句はナリヌと言はむ爲の序詞。丁度その頃都留の堤が成就したのであらう。○那利奴賀爾《ナリヌガニ》――成就したやうに。二人の戀の約束が出來たやうに。
〔評〕 出來上つたばかりの都留の堤を材料として、那利奴賀爾《ナリヌガニ》の序詞としたのは面白い。前の信濃道者伊麻能波里美知《シナヌヂハイマノハリミチ(三三九九)に木曾路の開通が詠まれてゐるのと同樣である。これ以下水に關するものに寄せた歌が、集まつてゐる。寄堤戀。
 
3544 飛鳥川 下濁れるを 知らずして せななと二人 さ宿てくやしも
 
阿須可河泊《アスカガハ》 之多爾其禮留乎《シタニゴレルヲ》 之良受思天《シラズシテ》 勢奈那登布多理《セナナトフタリ》 左宿(497)而久也思母《サネテクヤシモ》
 
男ノ心ハウハベハ親切サウデ〔男ノ〜傍線〕(阿須可河泊)底ハ濁ツタ二心ヲ持ツ〔六字傍線〕テ居ルノヲ知ラナイデ、私ハ〔二字傍線〕アナタト二人デ寢タノハ殘念デスヨ。コンナ薄情ナ御方ト知ラナイデ、飛ンダコトヲシマシタ〔コン〜傍線〕。
 
○阿須可河泊《アスカガハ》――飛鳥川。大和の飛鳥川である。略解に東國にも飛鳥川があるのだらうといつたのはよくない。考に阿須太河泊の誤としたのは、更科日記に、武藏と相模とのあはひなるあすだ川とあるによつたものであるが、更によくない。次の下濁れると言はむ爲に、この河を枕詞式に用ゐたものである。○之多爾其禮留乎《シタニゴレルヲ》――男の心が濁つた二心を持つてゐることに譬へられてゐる。○勢奈那登布多理《セナナトフタリ》――勢奈那《セナナ》は夫《セナ》に更に親しんでナを添へたものであらう。前の勢奈能我素低毛《セナノガソデモ》(三四〇二)のセナノとは少し異なるやうである。
〔評〕 飛鳥川に寄せて男の二心を皮肉つてゐる。下濁れるといふのは、男の薄情を責める言葉としては、かなりひどいやうに思はれる。飛鳥川といふ大和の河の名が、東歌に詠まれてゐることに注意したい。六帖に「とね川は底はにごりてうはずみてありけるものをさねてくやしも」とあるのはこれを改竄し、脱胎したものである。寄河戀。
 
3545 飛鳥川 塞くと知りせば あまた夜も ゐねて來ましを 塞くと知りせば
 
安須可河泊《アスカガハ》 世久登之里世波《セクトシリセバ》 安麻多欲母《アマタヨモ》 爲禰?己麻思乎《ヰネテコマシヲ》 世久得四里世波《セクトシリセバ》
 
私トアノ女トノ間ヲ逢ハセナイヤウニ〔私ト〜傍線〕(安須可河泊)堰キ止メル者ガアル〔四字傍線〕ト前カラ〔三字傍線〕知ツテヰタナラバ、幾晩モ連レ出シテ寢テ來ヨウモノヲ。堰キ止メルモノガアル〔五字傍線〕ト知ツテヰタナラバ、モツト會ツテオクノデアツタノニ。殘念ナコトヲシタ〔モツ〜傍線〕。
 
(498)○安須可河泊《アスカガハ》――河の水を塞き止める意で、塞《セ》くの枕詞式に用ゐてゐる。○世久登之里世波《セクトシリセバ》――人が二人の間を塞き止めると知つたならば。○安麻多欲母《アマタヨモ》――數多の夜も。○爲禰底己麻思乎《ヰネテコマシヲ》――率寢て來ましを。連れて行つて寢て來ようものを。
〔評〕 母などに邪魔せられて思ふやうに會へないのを悲しんだ男の歌。飛鳥川は卷二の人麿の歌に明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカガハシガラミワタシセカマセバナガルルミヅモノドニカアラマシ》(一九七)とあつて、塞くといふに縁のある河である。この點からも、これを大和の飛鳥川と考へることが出來る。寄河戀。
 
3546 青楊の はらろ川門に 汝を待つと せみどは汲まず 立ちどならすも
 
安乎楊木能《アヲヤギノ》 波良路可波刀爾《ハラロカハトニ》 奈乎麻都等《ナヲマツト》 西美度波久末受《セミドハクマズ》 多知度奈良須母《タチドナラスモ》
 
私ハ〔二字傍線〕青々ト〔二字傍線〕楊ガ芽ヲ出シテ居ル川ノ渡リ場所デ、貴方ノ御出デ〔四字傍線〕ヲ待ツトテ、清水モ汲マナイデ、立ツテヰル足|下《モト》ヲ踏ミツケテ、平ラニシテ居ルヨ。アア待チ遠シイ〔七字傍線〕。
 
○波良路可波刀爾《ハラロカハトニ》――張れる河門に。河門は河の渡り場。卷四、千鳥鳴佐保乃河門乃《ナドリナクサホノカハトノ》(五二八)その他用例が多い。古義に安乎楊木能《アヲヤギノ》を枕詞とし、波良路《ハラロ》を地名としたのは大なる誤である。○酋美度波久末受《セミドハクマズ》――清水は汲まず。河の水を汲まずにの意。○多知度奈良須母《タチドナラスモ》――多知度《タチド》は立處。奈良須母《ナラスモ》は平らすよ。立つてゐる足もとを踏みつけて、平らにするよといふのである。
(評) 青楊の芽を出しかけた河のほとりに、水汲みに出た女が、水汲むことを忘れて、男の來るのを待ち焦れ、頻りに足もとを踏みつけてぢれてゐる歌。その情景が目に見るやうに詠んである。東語らしい語が多く用ゐられて、東歌としての香氣が高く、しかも東國らしい風景と田舍女の純情とがあらはれ、調も亦よく整つた佳作である。寄河戀。
 
3547 あぢの住む 須沙の入江の 隱沼の あな息づかし 見ず久にして
 
(499)阿知乃須牟《アヂノスム》 須沙能伊利江乃《スサノイリエノ》 許母理沼乃《コモリヌノ》 安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》 美受比佐爾指天《ミズヒサニシテ》
 
私ハ戀シイ人ニ〔七字傍線〕久シク逢ハナイデ、嗚呼(阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃)嘆カハシイコトダ。
 
○阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノ》――味鳧の棲んでゐる須沙の入江の隱沼の。伊伎豆加思《イキヅカシ》につづく序詞。古義にミズにかかると見たのは當るまい。須沙の入江は卷十一に味乃住渚沙乃入江之荒磯松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》(二七五一)とあつて、紀伊國有田郡保田村字高田地方にあるとの説があるが、よくわからない。但し東歌だからといつて、東國にあるとも斷定し難いことは前の飛鳥川の歌なとで明らかである。この入江の岸のあたりは草などが生ひ茂つて、水も見えない隱沼になつてゐたのである。○安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》――嗚呼歎息せられるの意。伊伎豆加思《イキヅカシ》は、ため息がつかれるといふので、心も晴れない欝陶しいことを言つてゐる。隱沼が草に埋れて欝陶しいのにかけてゐる。
〔評〕 これは東歌らしい香氣がない。右に掲げた卷十一の味乃住渚沙乃入江之荒磯松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》(二七五一)卷二の埴安乃池之堤之隱沼乃《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノ》(二〇一)などの歌と、別段の相異は認められない。寄沼戀。
 
3548 鳴る瀬ろに こづの依すなす いとのきて かなしけせろに 人さへ依すも
 
奈流世呂爾《ナルセロニ》 木都能余須奈須《コヅノヨスナス》 伊等能伎提《イトノキテ》 可奈思家世呂爾《カナシケセロニ》 比等佐敝余須母《ヒトサヘヨスモ》
 
タダサヘ〔四字傍線〕格別ニ可愛イ男ニ、私ト關係アリサウニ、世ノ〔私ト〜傍線〕人マデガ(奈流世呂爾木都能余須奈須)言ヒヨセテ、ヤカマシク、評判ス〔九字傍線〕ルヨ。イヨイヨ懷カシイ心持ガスル〔イヨ〜傍線〕。
 
(500)○奈流世呂爾《ナルセロニ》――鳴る瀬ろに。鳴る瀬ろは音立てて流れる瀬であらう。地名ではない。○木都能余須奈須《コヅノヨスナス》――木都《コツ》は木屑で、前に木積《コヅミ》(一一三七)とあつたのと同じであらう。古義の一説に能は彌の誤で、コヅミヨスナスであらうと言つてゐる。木屑の依せるやうに。この句から結句の余須母《ヨスモ》につづく序詞である。○伊等能伎提《イトノキテ》――甚除きて。甚だ格別に。卷五の伊等乃伎提短物乎《イトノキテミジカキモノヲ》(八九二)・伊等能伎提痛伎瘡爾波《イトノキテイタキキズニハ》(八九七)などの例がある。○可奈思家世呂爾《カナシケセロニ》――愛《カナ》しき夫ろに。愛する男に。○比等佐敝余須母《ヒトサヘヨスモ》――世の人までが、私と關係あるやうに言ひ騷ぐよの意。
〔評〕 鳴る瀬ろは地名か地名でないか明らかでないが、ともかく瀬の音の高い河であらう。これを點出したのは下にセロと言はむ爲であり、又世人の口の喧ましさをこれであらはしてゐる。ヨスが二句と五句とに對比せられてゐるのもおもしろい。ともかくかなり技巧上に工夫された作である 寄瀬戀。
 
3549 多由比潟 潮滿ちわたる いづゆかも かなしき夫ろが 吾許通はむ
 
多由比我多《タユヒガタ》 志保彌知和多流《シホミチワタル》 伊豆由可母《イヅユカモ》 加奈之伎世呂我《カナシキセロガ》 和賀利可欲波牟《ワガリカヨハム》
 
多由比潟ニ潮ガ滿チテ來タ。コレデハ〔四字傍線〕伺處カラ私ノ〔二字傍線〕愛スル男ガ、私ノ家ヘ通ツテ來ルデアラウカ。通リ道ガアルマイ。困ツタモノダ〔通リ〜傍線〕。
 
○多由比我多《タユヒガタ》――多由比潟、越前に田結の浦があつて、卷三に手結我浦爾《タユヒガウラニ》(三六六)と出てゐるが、北陸の海岸では潮の干滿が目立たないから。次句に志保彌知和多流《シホミチワタル》とあるのに適應しない。やはり東國にあるのであらう。或はタは接頭語式に添へたもので、鎌倉の由比が濱か。駿河にも薩陲峠の東方海岸に由比町がある。○伊豆由可母《イヅユカモ》――イヅはイヅクの東語。何處からかまあの意。
〔評〕 多由比潟に汐の滿ちたのを見て、戀しい男の通路の無くなつたことを悲しんだ女の歌。純情その儘に歌は(501)れてゐる。寄潟戀。
 
3550 押して否と 稻は舂かねど 波の穗の いたぶらしもよ きぞひとり宿て
 
於志?伊奈等《オシテイナト》 伊禰波都可禰杼《イネハツカネド》 奈美乃保能《ナミノホノ》 伊多夫良思毛與《イタブラシモヨ》 伎曾比登里宿而《キゾヒトリネテ》
 
無理ニイヤト貴方ノ言葉ヲ拒絶シテ、私ハ〔貴方〜傍線〕稻ヲ舂クノデハナイガ、昨夜アナタガ口バカリデオイデニナラズ〔口バ〜傍線〕、獨寢ヲシタノデ、私ハ貴方ノ引ク袖ヲ〔九字傍線〕(奈美乃保能)振リ拂ヒタク思フノデスヨ。
 
○於志?伊奈等《オシテイナト》――無理にいやだと言つて。貴方の言葉を拒絶して、相手にならずに稻を舂くのではないがと下につづいてゐる。古義に、「今は否《イナ》舂《ツカ》じと思ふを、人などに強令《シヒオホ》せられて、押して舂くにはあらねど、といふ屬《ツヅケ》なるべし」とあるが從ひ難い。その他の諸註いづれも當つてゐない。○奈美乃保能《ナミノホノ》――枕詞。波の高く立つたところを波の穗といふ。即ち波がしらである。古事記に拔2十掬釼1、逆3刺立于2浪穗1《トツカノツルギヲヌキテナミノホニサカサマニサシタテテ》とある。○伊多夫良思毛與《イタブラシモヨ》――甚振らしもよ。甚振《イタブラ》しといふ形容詞に、モとヨとの詠歎の助詞が附いたのである。卷十一に風緒痛甚振浪能間無《カゼヲイタミイタブルナミノアヒダナク》(二七三六)とある。ここは心の動搖することを言つてゐる。○伎曾比登里宿而《キゾヒトリネテ》――昨夜獨寢をして。
〔評〕 難解の歌である。考には稻舂の荒業をしたので、體が振へて寢られない譬のやうに言つてゐるが、そんな女ではなく、勞働に馴れた田舍の賤女であらう。前に伊禰都氣波可加流安我手乎《イネツケバカカルアガテヲ》(三四五九)とあつたやうな皹だらけの手をした女であらう。しかし浪の穗のの枕詞などは上手に用ゐてある。又イナ・イネ・ネなどの同音の繰返しも快い調をなしてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。寄波戀。
 
3551 味鎌の 潟にさく波 平瀬にも 紐解くものか かなしけを措きて
 
阿遲可麻能《アヂカマノ》 可多爾左久奈美《カタニサクナミ》 比良湍爾母《ヒラセニモ》 比毛登久毛能可《ヒモトクモノカ》 加奈(502)思家乎於吉?《カナシケヲオキテ》
 
私ハ〔二字傍線〕味鎌ノ渇ニ立ツ浪ノヤウナ美シイ〔七字傍線〕愛スル男ヲサシ覺イテ、淺ハカナ他ノ男ト共寢ヲシテ〔五字傍線〕紐ヲ解クモノデスカ。決シテソンナ二心ハ持チマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○阿遲可麻能可多爾左久奈美《アヂカマノカタニサクナミ》――阿遲可麻《アヂカマ》は所在不明。卷十一に昧鎌之鹽津乎射而《アヂカマノシホツヲサシテ》(二七四七)とあるのと同所か。然らば近江。略解には讃岐説が出てゐるが、次に安治可麻能可家能水奈刀《アヂカマノカケノミナト》(三五五三)とある。やはり東國地方か。左久奈美《サクナミ》は開く浪。波頭の白く見えるのをいふ。卷六に四良名美乃五十開回有住吉能濱《シラナミノイサキメグレルスミノエノハマ》(九三一)・卷二十に宇奈波良乃宇倍爾奈美那佐伎曾禰《ウナバラノウヘニナミナサキソネ》(四三三五)とある。ここまでは結句に述べてある可奈思家《カナシケ》の形容であらう。○比良湍爾母《ヒラセニモ》――比良湍《ヒラセ》は平湍。穩やかに浪立ぬ瀬。卷十九に叔羅河奈津左比泝平瀬爾波左泥刺渡《シクラガハナヅサヒノボリヒラセニハサデサシワタシ(四一八九)とある。平凡な男に譬へたのであらう。○加奈思家乎於吉?《カナシケヲオキテ》――可愛い男をさし置いて。
〔評〕 上に左久奈美《サクナミ》と言つて下に比毛登久《ヒモトク》と應じたのは、古今集に「百くさの花の紐とく秋の野に」とあるのを思ひ出させる。作者に「波の花咲く」「花の紐解く」といふやうな觀念があつたかどうかわからないが、かうした暗喩的の叙法が、おのづからかういふ言葉の連絡を作らしめたものであらう。男に誓ふ女の歌。寄波戀。
 
3552 松が浦に さわゑうらだち 眞ひと言 思ほすなもろ あが思ほのすも
 
麻都我宇良爾《マツガウラニ》 佐和惠宇良太知《サワヱウラダチ》 麻比等其等《マヒトゴト》 於毛抱須奈母呂《オモホスナモロ》 和賀母抱乃須毛《ワガモホノスモ》
 
松ガ浦ニ浪ガ〔二字傍線〕騷イデ高ク立ツヤウニ、人ノ噂ガ多イノ〔四字傍線〕ヲ、私ガ思フヤウニ責方ハ〔三字傍線〕宰ク思シ召スデセウヨ。
 
○麻都我宇良爾《マツガウラニ》――麻都我字良《マツガウラ》は所在不明。松が浦島、即ち今の陸前の松島か。○佐和惠宇良太知《サワヱウラダチ》――佐和惠《サワヱ》は騷に同じ。潮左爲《シホサヰ》(四二)のサヰ、狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》(五〇三)・佐惠佐惠之豆美《サヱザヱシヅミ》(三四八一)のサヰ・サヱも同じであらう。宇(503)良太知《ウラダチ》は末立《ウラダチ》で、波の穂の立つことであらう。宇を牟に改めて群立《ムラタチ》と解するのは從ひ難い。○麻比等其等《マヒトゴト》――マは接頭語で、人言、即ち人の噂。新考には今一言《イマヒトコト》の意としてゐる。○於毛抱須奈母呂《オモホスナモロ》――思ほすならむよの意。ナモはラムに同じ。○和賀母抱乃須毛《ワガモホノスモ》――吾が思ふなすも、私が思ふやうにも。ノスは如《ナス》。
〔評〕 これも少し難解である。初二句は暗喩で、吾が地方の松が浦に立つ波を、人の口の喧しさに喩へてゐる。三句から下へのつづきに、多少の無理がないではないが、辛くといふやうな意を補つて見ればよいのであらう。初句と二句とにウラの音を繰返してゐる。全體的に東歌らしい作である、寄浦戀。
 
3553 味鎌の 可家の湊に 入る潮の こてたすくもか 入りて寢まくも
 
安治可麻能《アヂカマノ》 可家能水奈刀爾《カケノミナトニ》 伊流思保乃《イルシホノ》 許?多受久毛可《コテタスクモカ》 伊里?禰麻久母《イリテネマクモ》
 
女ト私トノ關係ニツイテ〔十一字傍線〕、人ノ噂ガ喧シイダラウカ。私ハ女ノ家ニ〔六字傍線〕(安治可麻能可家能水奈刀爾伊流思保乃)入ツテ寢タイヨ。噂モ嫌ダシ、寢タクモアリ、因ツタモノダ〔噂モ〜傍線〕。
 
○安治可麻能可家能水奈刀爾伊流思保乃《アヂカマノカケノミナトニイルシホノ》――味鎌の可家の湊は所在不明。入る潮のまでは序詞。句を距てて伊里?《イリテ》につづいてゐる。○許?多受久毛可《コテタズクモカ》――この儘では解し難い。考に受を氣の誤としたのに從つて、コテタケクモカは言猛くもか、即ち人の口がこちたく喧ましいのかの意としたい。かう解すれば入潮のこちたしとつづくものとも見られるが、なほ結句の入りてにつづくと考ふべきであらう。○伊里?禰麻久母《イリテネマクモ》――入りて寢まくも。入つて寢たいよ。元暦校本は禰を許に作つてゐる。然らば入りて來まくもである。
〔評〕 第四句の爲に少し難解になつてゐるが、他は明瞭である。海岸に住む人らしい地方色があらはれてゐる。寄潮戀。
 
3554 妹が寢る 床のあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りて寢まくも
 
(504)伊毛我奴流《イモガヌル》 等許乃安多理爾《トコノアタリニ》 伊波具久留《イハグクル》 水都爾母我毛與《ミズニモガモヨ》 伊里?禰末久毛《イリテネマクモ》
 
私ハ〔二字傍線〕岩ノ下ヲ〔三字傍線〕潜ル水デアリタイモノダヨ。サウシタナラバ〔七字傍線〕妻ガ寢テヰル床ノアタリニ、潜リ込ンデ寢ヨウヨ。
 
○伊波具久留《イハグクル》――具久留《グクル》は略解に「潜るを古く清音に唱へたりと見ゆ。されば岩ぐくると上より言ひ下す故に、上を濁れり。具久は久具の下上になれる也とおもふはかへりて非也、谷具久など同じ例也」とあるやうに潜るの意である。
〔評〕 古義に 三四一二五と句を次第て意得べし」とあるやうにすれば、意は明らかで平易な歌である。かなり露骨な野鄙な作である。寄水戀。
 
3555 麻久良我の 許我の渡の から楫の 音高しもな 寢無へ兒故に
 
麻久良我乃《マクラガノ》 許我能和多利乃《コガノワタリノ》 可良加治乃《カラカヂノ》 於登太可思母奈《オトタカシモナ》 宿莫敝兒由惠爾《ネナヘコユヱニ》
 
アノ女ハ私ト〔六字傍線〕寢モシナイ女ダノニ、共寢デモシタヤウニ私ハ〔共寢〜傍線〕(麻久良我乃許我能和多利乃可良加治乃)評判ガ高イヨ。困ツタコトダ〔六字傍線〕。
 
○麻久良我乃許我龍和多利乃《マクラガノコガノワタリノ》――麻久良我の許我の渡は何處か。許我を今の下總の古河とするならば、利根河の渡である、前の麻久艮我欲《マクラガヨ》(三四四九)參照。○可良加治乃《カラカヂノ》――可良加治《カラカヂ》は唐※[楫+戈]。中世以後|唐櫓《カラロ》といふも同じであらう。當時既に外國風の※[楫+戈]が地方にも用ゐられてゐたのである。古義に柄※[楫+戈]《カラカヂ》としたのはよくない。ここまでの三句は音《オト》と言はむ爲の序詞のみ。○於登太可思母奈《オトタカシモナ》――音が高いよなあの意。○宿莫敝兒由惠爾《ネナヘコユヱニ》――共寢しない女だのに。
 
(505)〔評〕 鮮明な作だ。卷十一の木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾《キノウミノナタカノウラニヨスルナミオトタカキカモアハヌコユヱニ》(二七三〇)とよく似てゐる。寄渡戀。
 
3556 鹽船の 置かれば悲し さ寢つれば 人言しげし 汝をどかもしむ
 
思保夫禰能《シホブネノ》 於可禮婆可奈之《オカレバカナシ》 左宿都禮婆《サネツレバ》 比登其等思氣志《ヒトゴトシゲシ》 那乎杼可母思武《ナヲドカモシム》
 
女ヲ連レナイデ〔七字傍線〕(思保夫禰能)ソノママニ置ケバ悲シイ。ソレカト云ツテ〔七字傍線〕、共寢ヲスルト人ノ評判ガ高イ。私ハ〔二字傍線〕オマヘヲ何トシタモノデアラウカ。何トモシヤウガナイ。困ツタモノダ〔何トモ〜傍線〕。
 
○思保夫禰能《シホブネノ》――枕詞。置くとつづく、潮に浮ぶべき舟を、徒らに海濱の砂などに並べ置く意である。考に浮去る意といひ、略解に敷衍して、於は宇に通じ浮かればと解いてゐるのはよくない。○於可禮婆可奈之《オカレバカナシ》――女をそのままに置いて、共寢せねば悲しいといふのである。略解にうかれつゝよそにして在は悲し」とあるはよくない。○那乎杼可母思武《ナヲドカモシム》――汝を何《ド》かも爲む。汝をどうしようか。何ともしやうがないといふのである。
〔評〕 人の噂を恐れる歌。とやせむかくやあらむと迷ふ心が、よく詠まれてゐる。寄船戀。
 
3557 惱ましけ 人妻かもよ 漕ぐ舟の 忘れはせなな 彌思増すに
 
奈夜麻思家《ナヤマシケ》 比登都麻可母與《ヒトツマカモヨ》 許具布禰能《コグフネノ》 和須禮婆勢奈那《ワスレハセナナ》 伊夜母比麻須爾《イヤモヒマスニ》
 
私ノ心ヲ〔四字傍線〕苦シメル人妻ダヨ。(許具布禰能〕忘レルコトハ出來ナイデ、イヨイヨ思ガ増スノニ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○奈夜麻思家《ナヤマシケ》――惱ましき。○許具布禰能《コブフネノ》――枕詞として次句へつづいてゐる。漕ぐ舟の中にあつては、寸時も船中にあることを忘れ得ないからであらう。宣長がこぐ舟のから、惱ましきにつづくとし、古義もこれに賛同してゐるのは妄斷である。その他諸説があるがいづれも從ひ杜い。右のやうに見れば無理がないやうである。(506)○和須禮婆勢奈那《ワスレハセナナ》――忘れはしないでの意。前に爾比多夜麻禰爾波都可奈那《ニヒタヤマネニハツカナナ》(三四〇八)とある。○伊夜母比麻須爾《イヤモヒマスニ》――彌々思増すに。益々思が増すのにの意。
〔評〕 人妻を思ふ苦しさ、忘れむとして忘れられず、彌増に募る思に困惑してゐる。舟を持つて來たのは、舟に乘つて旅に上る時の歌とも見られさうであるが、さうではない。考にこれを人妻が舟にて別れ行く時、男の悲しみよめる歌とし、次を女の男に送つたものとしてゐるのは從ひ難い。寄船戀。
 
3558 逢はずして 行かば惜しけむ 麻久良我の 許賀漕ぐ船に 君も逢はぬかも
 
安波受之?《アハズシテ》 由加婆乎思家牟《ユカバヲシケム》 麻久良我能《マクラガノ》 許賀己具布禰爾《コガコグフネニ》 伎美毛安波奴可毛《キミモアハヌカモ》
 
私ハ今麻久良我ノ許賀ヲ漕グ舟ニ乘ツテ行クガ、アナタニ〔私ハ〜傍線〕會ハナイデ行クナラバ、口惜シイデアラウ。コノ麻久良我ノ許賀ヲ漕イデヰル舟デ、アナタニ會ハナイカヨ。ソレトナク途中デ逢ヒタイモノダ〔ソレ〜傍線〕。
 
○麻久良我能許賀己具布禰爾《マクラガノコガコグフネニ》――麻久良我の許我は前に許我能和多利乃《コガノワタリノ》(三五五五)とあつて舟で渡るところである。布禰爾《フネニ》は舟で。○伎美毛安波奴可毛《キミモアハヌカモ》――君にも逢はないかよ。逢ひたいものだといふのである。伎美毛《キミモ》は君ニを強く言へるのみ。卷七に青角髪依網原人相鴨《アヲミヅラヨサミノハラニヒトモアハヌカモ》(一二八七)とある、
〔評〕 舟で旅に出る男の歌。伎美《キミ》は女を指してゐる。女と別を惜しまうと思つたが、遂に逢へなかつたから、せめて船中からでも女を見ることが出來ればよいと希望してゐる。用語は東歌特有のものはない。寄船戀。
 
3559 大船を 舳ゆも艫ゆも 堅めてし 許曾の里人 あらはさめかも
 
於保夫禰乎《オホブネヲ》 倍由毛登毛由毛《ヘユモトモユモ》 可多米提之《カタメテシ》 許曾能左刀妣等《コソノサトビト》 阿良波左米可母《アラハサメカモ》
 
(507)(於保夫禰乎於倍由毛登毛由毛)堅ク約束ヲシテ、人ニ漏ラサヌト言ツ〔テ人〜傍線〕タアノ許曾ノ里ノ人ハ、約束通リ二人ノ關係ヲ〔約束〜傍線〕人ニ言フ筈ハナイ。ダカラ私ハ安心シテヰル〔ダカ〜傍線〕。
 
○於保夫禰乎倍由毛登毛由毛《オホブネヲヘユモトモユモ》――大船を舳からも艫からも、動かぬやうに綱で結び堅める意で、可多米《カタメ》につづく序詞。考に船はともへの堅めを專らとして作る」といつたのは見當違ひである。○可多米提之《カタメテシ》――口堅めをした。○許曾能左刀妣等《コソノサトビト》――許曾は地名であらう。所在不明。○阿良波左米可母《アラハサメカモ》――人に洩らさむや、洩らしはすまいといふ意。
〔評〕 許曾の里の女に通ふ男の歌であらう。港内碇泊の大船を以て序詞を作つたのは海國民として愉快な材料である。寄船戀。
 
3560 眞金ふく 丹生のまそほの 色に出て 言はなくのみぞ 吾が戀ふらくは
 
麻可禰布久《マガネフク》 爾布能麻曾保乃《ニフノマソホノ》 伊呂爾低?《イロニデテ》 伊波奈久能未曾《イハナクノミゾ》 安我古布良久波《アガコフラクハ》
 
私ガアナタヲ思ツテヰルコトハ(麻可禰布久爾布能麻曾保乃)顔色ニ出シテ言ハナイダケノコトデスゾ。胸ノ内ヲ察シテ下サイ〔十字傍点〕。
 
○麻可禰布久爾布能麻曾保乃《マガネフクニフノマソホノ》――眞金吹く丹生の山の赤土。眞金は鐡。吹くは吹き分けて鑄ること。丹生は所々にある地名だが、本集では大和吉野・越前などのが見える。併しこれは東國であらう。和名抄に、「上野國甘樂郡丹生」とあるから其處ではあるまいかと言はれてゐる、今、丹生村は、北甘樂郡の中央にある。大日本地名辭書にはこの地に鐡を出した傳説はないが、二里を距てた小坂山に鐵鑛を出すから鑛脈が續いてゐて、古代には鐡を吹いたのであらうといつてゐる、上野歌解には「今も丹生の里に下鍛冶屋と云所ありと云り」とある。マソホのマは接頭語。ソホは赤色の土。卷十六の佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)のマソホと同じ。丹生の地名はマソ(508)ホを産するに起つたのであらう、以上の二句は伊呂爾低?《イロニデテ》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 初ニ句は古今集の「ま金ふく吉備の中山帶にせる細谷川の音のさやけさ」の先驅をなしてゐる。三句以下は集中に多い内容である。全體的に見て東歌らしい感じが乏しい。七十一番職人歌合に「あぢきなや丹生の御山に堀る金のみづから人に思ひ入りぬる」とあるのはこの歌を本としたもので、金は水銀らしい。併しこの歌合によつて、右の眞金を水銀とするのは早計である。前の歌で水に關するものに寄せた歌が終つてゐる。これは寄赤土戀。
 
3561 金門田を あらがきまゆみ 日がとれば 雨を待とのす 君をと待とも
 
可奈刀田乎《カナトダヲ》 安良我伎麻由美《アラガキマユミ》 比賀刀禮婆《ヒガトレバ》 阿米乎萬刀能須《アメヲマトノス》 伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》
 
門ノ前ノ田ヲ、春ノ始ニ〔四字傍線〕荒掻キヲシテナラシタ後〔五字傍線〕、田ガ干割レテ日ガ照ルト、雨ノ降ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツヤウニ、私ハ〔二字傍線〕アナタノオイデ〔四字傍線〕ヲト思ツテ〔三字傍線〕待ツテヰルヨ。
 
○可奈刀田乎《カナトダヲ》――金門田を、可奈刀《カナト》は門。門前の田を。○安良我伎麻由美《アラガキマユミ》――わからない句だ。從つて説がいろいろ分れてゐる。代匪記は初句を舊訓のままに金門出《カナトデ》とよみ、後朝のわかれの門出を、荒垣の間から見るのだといつてゐるのは論外だ。考は由美を加幾の誤とし、田は春から高鍬でかき平らすのが荒がきで、次に苗を植ゑる時に鋤くのが、こながきとも眞掻《マガキ》ともいふのだと言つてゐる。略解に掲げた大平説には、マユミはマユムといふ動詞で、地の干割れることをいふ。今伊勢の方言でマフといふのがその語の殘つてゐるのらしいとある。新考に荒掻眞掻眞忌の略とし、新訓は新掻き間ゆ見」と記してある。この他、略解には荒木の眞弓で、次句へ引くとつづけてあると見る説も載せてゐるが、荒木の弓を安良我伎《アラガキ》の弓とはいふまじく、又次句はヒガであるから、弓からはつづきさうもない。暫く大平説に從つて置かう。なほ研究を要する。○比賀刀禮婆《ヒガトレバ》――日が照れば。(509)○阿米乎萬刀能須《アメヲマトノス》――雨を待つ如く。○伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》――君をと待つも。君をと思つて待つてゐるよの意。等は考・略解にラとよんでゐる。併しこの卷の用字法では、ラではないやうである。
〔評〕 二句が難解であるが、大旱の田に雨を待つ如く、君を待つといふ意には相違ない。農民の女が男を待つ歌である。寄田戀。
 
3562 荒磯やに 生ふる玉藻の うち靡き 一人や寢らむ 吾を待ちかねて
 
安里蘇夜爾《アリソヤニ》 於布流多麻母乃《オフルタマモノ》 宇知奈婢伎《ウチナビキ》 比登里夜宿良牟《ヒトリヤヌラム》 安乎麻知可禰?《アヲマチカネテ》
 
(安里蘇夜爾於布流多麻母乃)長々ト〔三字傍線〕靡イテ、身ヲ横ニシテアノ女ハ〔十字傍線〕私ノ來ルノヲ待チカネテ、一人デ寢テヰルデアラウカ。私モ行カレヌノハ殘念ダ〔私モ〜傍線〕。
 
○安里蘇夜爾《アリソヤニ》――考に夜は麻の誤で、アリソマニだと言つてゐる。宣長は夜は沼の誤とし、古義は夜を敝《ヘ》に改め、新考は美《ミ》の誤としてゐる。いづれとも定め難いが、アリソミとあらば最も無難である。ともかく意は荒磯のほとりにである。或はヤは唯添へたものかも知れない。○於布流多麻母乃《オフルタマモノ》――生ふる玉藻の。ここまでは打靡きの序詞。
〔評〕 初二句の序詞は、集中に屡々用ゐられた内容であるが、女のなよやかな獨寢の樣を思はしめるやうに詠まれてゐる。障ることがあつて、女の許へ通ひ得ない男の歌であらう。東歌らしい特色がない。寄藻戀。
 
3563 比多潟の 磯の若布の 立ち亂え 吾をか待つなも きぞも今夜も
 
比多我多能《ヒタガタノ》 伊蘇乃和可米乃《イソノワカメノ》 多知美多要《タチミダエ》 和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》 伎曾毛己余必母《キゾモコヨヒモ》
 
(510)アノ女ハ〔四字傍線〕(比多我多能伊蘇能乃和可米乃)思ガ亂レテ、昨夜モ今夜モ、私ノ來ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰルダラウヨ。可愛サウニ〔五字傍線〕。
 
○比多我多能《ヒタガタノ》――比多我多《ヒタガタ》は地名で、比多潟であらう。所在不明。○伊蘇乃和可米乃《イソノワカメノ》――ここまでは序詞。若布の波に亂れるのにつづけてある。○多知美多要《タチミダエ》――立ち亂れ。立ちは接頭語。女が心を亂すことを言つてゐる。○和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》――ナモはラムと同じで、我をか待つらむの意。
〔評〕 前の歌と同じやうな序詞であるが、波に揉まれる若布から、立ち亂えとつづけたのはこの方が面白い。全躰の意味も前と似てゐる。但しこれは前よりも用語は東歌らしい。寄藻戀。
 
3564 小菅ろの 浦吹く風の あどすすか かなしけ兒ろを 思ひすごさむ
 
古須氣呂乃《コスゲロノ》 宇良布久可是能《ウラフクカゼノ》 安騰須酒香《アドススカ》 可奈之家兒呂乎《カナシケコロヲ》 於毛比須吾左牟《オモヒスゴサム》
 
私ハ〔二字傍線〕愛スル女ヲ、何トシテ、(古須氣呂乃宇良布久可是能)思ハズニヰヨウカ。戀シクテ仕方ガナイカラ、何トカシテ忘レタイモノダ〔戀シ〜傍線〕。
 
○古須氣呂乃宇良布久可是能《コスゲロノウラフクカゼノ》――ロは例の添辭であるから、古須氣呂乃宇良《コスゲロノウラ》は小菅の浦である。考に「武藏と下總のあはひの葛飾郡に小菅てふ所今ありて、今は里中なれど、此邊古へ隅田川といひしあたりにて本は浦べなりけり。然ればここをいふならむ」とあるが、さうとも定め難い。小菅は今、堀切の北、千住の東に當つてゐる この二句は句を距てて、五句の須吾左牟《スゴサム》にかかつてゐる。風の吹き過ぎる意でつづくのであらう。○安騰須酒香《アドススカ》――何と爲《シ》つつか。ススはシシ。今の言葉で、何としいしいといふに當るであらう。○於毛比須吾左牟《オモヒスゴサム》――思ひ過すは思はずにゐること。
(511)〔評〕 あまりの戀の苦しさに、忘れようとして悶え苦しむ男の心。句の順序を四三一二五と置き換へて見ると明瞭になる。前に風に寄せたものがあつたのに、ここに復出したのは、後から追加したか。寄風戀。
 
3565 かの兒ろと 宿ずやなりなむ はた薄 浦野の山に 月片寄るも
 
可能古呂等《カノコロト》 宿受屋奈里奈牟《ネズヤナリナム》 波太須酒伎《ハタススキ》 宇良野乃夜麻爾《ウラヌノヤマニ》 都久可多與留母《ツクカタヨルモ》
 
私ハ女ニ逢ヒニ此處マデ來タガ、女ハ出テ來ナイデ、早クモ〔私ハ〜傍線〕(波太須酒伎)宇良野ノ山ニ月ガ傾イテヰルヨ。コレデハアノ女ト今夜ハ〔三字傍線〕寢ズニシマフデアラウカ。
 
○可能古呂等《カノコ。ト》――彼の女と。○宿受屋奈里奈牟《ネズヤナリナム》――舊本、屋とあるが、類聚古巣・西本願寺本など夜とあるのがよい。寢ずにしまほうか。○波太須酒伎《ハタススキ》――枕詞。旗薄の穗をウラと言ひかけたのであらう。旗薄の茂つてゐる宇良野の山と見るのは、無理ではあるまいか。○宇艮野乃夜麻爾《ウラヌノヤマニ》――家の背後にある野につづく山と見られぬこともあるまいが、やはり穩やかでない。延喜式に信濃浦野驛が見えてゐるから、多分其處であらう。今、小縣郡に浦野町がある。上田市と松本市との中間である。○都久可多與留母《ツクカタヨルモ》――ツクは月。可多與留《カタヨル》は片寄る。月が傾くよの意。
〔評〕 女の家へ行つて、戸外に佇む男が、女からの合圖もなき内に、早くも浦野の山に傾いた月を眺めて、空しく歸らねばならぬかと危ぶんだのである。寂しさ、ぢれつたさが、明朗な調子で歌はれて、渾然たる作となつてゐる。寄月戀。
 
3566 吾妹子に 吾が戀ひ死なば そわへかも かみに負せむ 心知らずて
 
和伎毛古爾《ワギモコニ》 安我古非思奈婆《アガコヒシナバ》 曾和敝可毛《ソワヘカモ》 加米爾於保世牟《カミニオホセム》 己許呂思良受?《ココロシラズテ》
 
(512)私ガ〔二字傍線〕私ノ戀シイ女ニ焦死シタナラバ、私ノ〔二字傍線〕心ヲ知ラナイデ、世間ノ人ハ〔五字傍線〕喧シク神樣ノ崇リダト云フデアラウ。エエ殘念ナ〔五字傍線〕。
 
○曾和敝可毛《ソワヘカモ》――代匠記は五月蠅かもと解し、五月蠅なす神と下につづくとしてゐる。考は敝を古本に惠とあるのがよいと言つて、ソバヱはサワヱと同じく騷ぐことと解してゐる。校本萬葉集には惠に作る古本を擧げてゐない。古義は和惠は故遠の誤でソコヲカモと訓むべしと言つてゐる。文字を改めずに考へるとソワヘはソバヘの東語であらうと思はれる。ソバフといふ動詞は枕草子などにも見えて、あまえふざけることである。後世ではソバエ・ソバユとなり今も方言として行はれてゐる。○加米爾於保世牟《カミニオホセム》――舊本、米とあるは未の誤であらう。西本願寺本・神田本など未に作つてゐる。但しもとのままで加米《カメ》は神《カミ》の東語と見られないことはない。神に負せむは神の崇りとするであらうの意。○己許呂思良受?《ココロシラズテ》――心は事情といふやうな意味にも解せられるが、なほ吾が心と見るべきであらう。
〔評〕 戀故の死は厭はねど、後に神罰で死んだと言はれるのを恐れた男の歌。伊勢物語に「人しれす吾が戀死なばあぢきなくいづれの神になき名負せむ」とあるのは、これから脱化したものらしい。寄神戀。
 
防人歌
 
3567 置きて行かば 妹はまがなし 持ちて行く 梓の弓の 弓束にもがも
 
於伎?伊可婆《オキテイカバ》 伊毛婆摩可奈之《イモハマガナシ》 母知?由久《モチテユク》 安都佐能由美乃《アヅサノユミノ》 由都可爾毛我毛《ユツカニモガモ》
 
私ハ妻ヲ家ニ〔六字傍線〕殘シテ行ケバ、妻ガ戀シク思ハレル。ダカラ妻ハ私ガ今〔八字傍線〕持ツテ行ク梓弓ノ弓束デアレバヨイガ、(513)サウシタラ離サズニヰルコトガ出來ルダラウニ〔サウ〜傍線〕。
 
○伊毛婆摩可奈之《イモハマカナシ》――妹は眞愛《マカナ》し。マガナシは愛《カナ》しといふ形容詞に、接頭語のマを添へたものである。○由都可爾母我毛《ユツカニモガモ》――由都可《ユツカ》は弓束。弓の握革のところ。
〔評〕 防人に出て立たむとする男の歌。こまやかな愛情。防人らしい口吻。妻を弓束として絶えず振りしめて行きたいといふ心根がいとしい。
 
3568 おくれ居て 戀ひば苦しも 朝狩の 君が弓にも ならましものを
 
於久禮爲?《オクレヰテ》 古非波久流思母《コヒバクルシモ》 安佐我里能《アサガリノ》 伎美我由美爾母《キミガユミニモ》 奈良麻思物能乎《ナラマシモノヲ》
 
アナタガ御出カケニナツタ後デ〔アナ〜傍線〕、後ニ殘ツテアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ツテヰルノハ苦シイデスヨ。デスカラ私ハ〔六字傍線〕、朝獵ニ持ツテイラツシヤル〔八字傍線〕、アナタノ弓ニモナリタウゴザイマスヨ。サウシタライツデモ御手ニトラレテヰテ、嬉シイデセウ〔サウ〜傍線〕。
 
○安佐我里能《アサガリノ》――朝獵に用ゐる。
〔評〕 防人として出立する男に答へた女の歌としては、朝獵とあるのがをかしい。これは恣に編者が問答に組合せたもので、防人の妻の歌ではないのである。
 
右二首問答
 
この二首の問答の疑はしいことは右に述べた通りである。
 
3569 防人に 立ちし朝けの 金門出に 手放れ惜しみ 泣きし兒らはも
 
(514)佐伎母理爾《サキモリニ》 多知之安佐氣乃《タチシアサケノ》 可奈刀低爾《カナトデニ》 手婆奈禮乎思美《テバナレヲシミ》 奈吉思兒良婆母《ナキシコラハモ》
 
私ガ〔二字傍線〕防人ニナツテ出カケテ來タ朝ノ門出ノ時ニ、取リ合ツタ〔五字傍線〕手ヲ離シテ、別レルノガ名殘惜シクテ泣イタ女ヨ。アノ女ハドウシテヰルダラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○可奈刀低爾《カナトデニ》――可奈刀低《カナトデ》は金門出。門出《カドデ》に同じ。○手婆奈禮乎思美《テバナレヲシミ》――手婆奈禮《テバナレ》は手離。手を別つこと。
〔評〕 防人に出立たうとする朝、別を悲しんで見送つて來た妻との間に、二人の手は堅く堅く握りかはされてゐた。併しもう村はづれも遠くなつた。さあ別れようと手を難さうとする妻は、唯涙であつた。嗚呼あのいとしい姿が、今もなほ眼底に深く燒き付けられて殘つてゐる。追憶の人も亦涙。その涙に口吟んだ饗の悲しさよ。
 
3570 葦の葉に 夕霧立ちて 鴨が音の 寒き夕べし 汝をばしぬばむ
 
安之能葉爾《アシノハニ》 由布宜利多知?《ユフギリタチテ》 可母我鳴乃《カモガネノ》 佐牟伎由布敝思《サムキユフベシ》 奈乎波思奴波牟《ナヲバシヌバム》
 
私ハ今カラ旅ニ出ルガ〔私ハ〜傍線〕、蘆ノ葉ニ夕霧ガカカツテ、鴨ノ鳴ク聲ガ寒イ夕方ニハ、オ前ヲ思ヒ出スデアラウ。
 
○奈乎波思奴波牟《ナヲバシヌバム》――汝をば偲ばむ。おまへを思ひ出さう。
〔評〕 芦の葉に夕霧が立ちこめた難波あたりの海邊に、鴨の鳴く音が寒く聞える時を想像して、戀しい女を思ひ出すであらうと詠んだもの。出立に際しての作であらう。温雅・優麗。東歌とは思はれぬ作品である。卷一の志貴皇子御歌、葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念《アシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》(六四)と歌品が似てゐる。
 
(515)3571 おの妻を ひとの里に置き おほほしく 見つつぞ來ぬる この道の間
 
於能豆麻乎《オノヅマヲ》 比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》 於保保思久《オホホシク》 見都都曾伎奴流《ミツツゾキヌル》 許能美知乃安比太《コノミチノアヒダ》
 
私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ヲ他ノ里ニ殘シテオイテ、不安ニ思ヒツツ、妻ノヰル里ヲ他所ニ〔九字傍線〕見ナガラ、コノ道ノ間ヲ歩イテ來夕ヨ。妻ト別ヲ惜シムコトガ出來ナカツタノハ悲シイ〔妻ト〜傍線〕。
 
○於能豆麻乎《オノヅマヲ》――己が妻を。於能豆麻《オノヅマ》は自妻《オノヅマ》(五四六)己妻《オノヅマ》(一一六五)など例が多い。○比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》――他の里に置いて、古義に「實は吾が家に留置く事なれど自は地をかへて筑紫へ下る故に、わざと他(ノ)里と云るにやあらむ」とあるのは當つてゐまい。○見都都曾伎奴流《ミソツゾキヌル》――外ながらその里を見つつ來たといふのである。
〔評〕 戀しい妻ながら、吾が家に共に住んでゐたのではなく、女は離れた里に置かれてあつた。だから出立に際して、充分に別を惜しむことも出來ず、唯女の住む里の方を外ながら見て、此處まで歩いて來たといふので、措辭が上品で洗練せられ、東歌らしい感じがしない。なほ内容から見て、必ずしも防人の作とは言はれない。
 
譬喩歌
 
考は「ここに譬喩歌としるせしも後なり。只その類を並べ擧たるのみ」と記してゐる。譬喩歌といふべきものは前にもあつたが、ここには全體的に譬喩になつたものだけを擧げてゐる。
 
3572 あど思へか 阿自久麻山の ゆづる葉の ふふまる時に 風吹かずかも
 
安杼毛敝可《アドモヘカ》 阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》 由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》
 
(516)阿自久麻山ノ由豆流葉ガマダ開カナイデヰル時ニ、ドウシテ風ガ吹カナイコトガアラウカ。タトヒ女ハマダ年ガ若クトモ、私ガ言ヒ寄ルニ差ツカヘハナイ筈ダ〔タト〜傍線〕。
 
○安杼毛敝可《アドモヘカ》――何と思へばか。思《モ》へは輕く添へたもので、何とてかの意。○阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》――阿自久麻山は所在不明。大日本地名辭書には、常陸筑波郡小田村平澤の條に「其地は北條町の東に隣接したり。其北嶺は、神郡の子飼山なり。古の阿自久麻山か」としてこの歌を引いてゐる、八雲御抄には攝津とある。○由豆流波乃《ユヅルハノ》――由豆流波《ユヅルハ》は今のユヅリハ。交讓木。正月の飾に用ゐるので人のよく知る常緑濶葉樹である。卷二に弓絃葉乃三井《ユヅルハノミヰ》(一一一)とあるのも、この樹が生えてゐたのであらう。少女を弓弦葉の樹に譬へてある。○布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》――含まる時に。ゆづり葉の木の若芽がまだ開かない時に。女の年若きに譬へてある。○可是布可受可母《カゼフカズカモ》――風が吹かないであらうか、必ず吹くであらうの意。自分が女に言ひ寄るに譬へてある。
〔評〕 ゆづる葉の木を若い少女に譬へた諷諭の歌。種々の解があるが、右のやうに見て始めて明瞭である。譬喩自然にして巧妙。
 
3573 足引の 山かつらかげ 眞柴にも 得がたきかげを 置きや枯らさむ
 
安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻可都良加氣《ヤマカツラカゲ》 麻之波爾母《マシバニモ》 衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》 於吉夜可良佐武《オキヤカラサム》
 
(安之比奇能)山ノ日蔭ノ蘿ハ、サウ〔二字傍線〕屡々タヤスクハ〔五字傍線〕得難イ蘿ダノニ、ソレヲ空シク取ラズニ〔十字傍線〕置イテ枯ラサウカ。ソレハ惜シイコトダ。容易ニ得ラレナイ美シイ女ヲ、ソノ儘ニシテ、手ニ入レズニ置クノハ惜シイコトダ〔ソレ〜傍線〕。
 
○夜麻可都艮加氣《ヤマカツラカゲ》――日かげのかづらのこと。○麻之波爾母《マバシニモ》――マは接頭語。屡々も。宣長は今のシハキと同(517)語で、惜しむこと。即ち少しもの意となるやうに見てゐる。○衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》――得難き蘿《カゲ》をの意。類聚古集西本願寺本など、上の可を我に作つてゐるのがよいであらう。
〔評〕 手に入れ難い少女を日蔭のかづらに譬へて、どうかして吾が物にしたいと望んでゐる歌。日かげのかづらをつけた、巫女などを戀したものとも見られないことはない。
 
3574 小里なる 花橘を 引き攀ぢて 折らむとすれど うら若みこそ
 
乎佐刀奈流《ヲサトナル》 波奈多知波奈乎《ハナタチバナヲ》 比伎余知?《ヒキヨヂテ》 乎良無登須禮杼《ヲラムトスレド》 宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》
 
里ノ花橘ノ木ヲ引キ寄セテ折ラウトスルケレドモ、アマリ若イノデ、折ルニモ折ラレナイヨ。女ガアマリ年ガ若イノデ、吾ガモノトスルコトガ出來ナイ〔折ル〜傍線〕。
 
○乎佐刀奈流《ヲサトナル》――乎佐刀《ヲサト》は小里。ヲは接頭語のみ。地名とするのは當らない。卷十九に天地爾足之照而吾大皇之伎座婆可母樂伎小里《アメツチニタラハシテリワガオホキミシキマセバカモタヌシキヲサト》(四二七二)とある。○比伎余知?《ヒキヨヂテ》――引攀ぢて。攀づも引寄せること、一四六一の左註參照。○宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》――うら若みこそあれといふのを略してゐる。未だうら若いから折らずにゐるのだの意。
〔評〕 少女を花橘に譬へてある。あまりの年若さに、まだ戀の相手にならぬといふのである、東歌らしい香がない。
 
3575 美夜自呂の 岡邊に立てる 貌が花 な吹き出でそね こめてしぬばむ
 
美夜自呂乃《ミヤジロノ》 緒可敝爾多底流《ヲカベニタテル》 可保我波奈《カホガハナ》 莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》 許米?思努波武《コメテシヌバム》
 
美夜自呂ノ岡ノホトリニ立ツテヰル貌花ヨ。色ニ〔二字傍線〕咲キ出ルナヨ。人ニ〔二字傍線〕隱レテナツカシガツテヰヨウ。美シイ女(518)ヨ。二人ノ戀ヲ顔色ニ出スナヨ。心ノ中ニ隱シテ慕ツテ居ラウ〔美シ〜傍線〕。
 
○美夜自呂乃緒可敝爾多?流《ミヤジロノヲカベニタテル》――美夜自呂の岡は何處ともわからない。若狭・美濃・岩代などに宮代があり、信濃に宮城がある。緒は須又は渚に作る本もあるが、スではわからない。○可保我波奈《カホガハナ》――貌が花。容花と同じであらう。容花は晝顔か。容花《カホバナ》(一六三〇)參照。○莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》――咲き出でるなよ。○許米?思怒波武《コメテシヌバム》――許米?《コメテ》は籠めて、隱して。シヌブはなつかしく思ふ。
〔評〕 美しい女を容花に譬へて、人に隱し秘して、二人の間を人に悟られるなかれといふので、これも諷諭になつてゐる。可保我波奈《カホガハナ》は顔の美しい女を譬へるに適してゐる。これも東歌の氣分が薄い。袖中抄に出てゐる。
 
3576 苗代の 子水葱が花を 衣に摺り 馴るるまにまに あぜか悲しけ
 
奈波之呂乃《ナハシロノ》 古奈伎我波奈乎《コナギガハナヲ》 伎奴爾須里《キヌニスリ》 奈流留麻爾末仁《ナルルマニマニ》 安是可加奈思家《アゼカカナシケ》
 
苗代ニ生エテヰル小水葱ノ花ヲ着物ニ摺ツテ、染メテ、ソレヲ着〔七字傍線〕慣レルノニツレテ、ドウシテナツカシイノデアラウカ。女ト馴レ親シムニツケテ、戀シイ心ガ尉ミサウナモノダノニ、ドウシテコンナニナツカシイノデアラウカ〔女ト〜傍線〕。
 
○奈波之呂乃《ナハシロノ》――奈波之呂《ナハシロ》は苗代。苗を植うる所。○古奈伎我波奈乎《コナギガハナヲ》――古奈伎《コナギ》は子水葱。卷三に殖子水葱《ウヱコナギ》(四〇七)・この卷に宇惠古奈宜《ウヱコナギ》(三四一五)・卷十六に水葱乃※[者/火]物《ナギノアツモノ》(三八二九)などがある。水田・小川などに自生する一年生草本・紫青色の小花が叢つて咲く。この歌によると、この花を以て着物を染めたものである。元暦校本に伎を宜に作つてゐる。奈洗留麻爾末爾《ナルルマニマニ》――馴れるに隨つて。着褻れるにかけてある。○安是可加奈思家《アゼカカナシケ》――何故いとしいのか。カナシケはカナシキの東語。
(519)〔評〕 子水葱の花で染めた衣を女に譬へてゐる。美しい女を得て親しむにつれて心が滿足しさなものだのに、更になつかしさを加へるのはどうしたのだらうと不思議がつてゐる。やさしい情の漂つた歌。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
挽歌
 
3577 かなし妹を いづち行かめと 山菅の 背向に宿しく 今し悔しも
 
可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》 伊都知由可米等《イヅチユカメト》 夜麻須氣乃《ヤマスゲノ》 曾我比爾宿思久《ソガヒニネシク》 伊麻之久夜思母《イマシクヤシモ》
 
愛スル女ガ何處ヘ行クモノカト思ツテ、ツマラヌ事ニ腹ヲ立テテ〔思ツ〜傍線〕(夜麻須氣乃)背ヲムケテ寢タノハ、今ニナツテ口惜シイヨ。意外ニモ女ハ死ンデシマツタ〔意外〜傍線〕。
 
○可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》――愛《カナ》しき妹をに同じ。○伊都知由可米等《イヅチユカメト》――何處に往かむやと。どこにも行きはすまいと。○夜麻須氣乃《ヤマスゲノ》――枕詞。山背の葉が彼方此方に亂れ靡いて向き合はないのに譬へて、背向《ソガヒ》につづけてゐる。○曾我比爾宿思久《ゾガヒニネシク》――背向に寢しく。背中合せに寢たことは。シは過去の助動詞。クは上を名詞的にする爲に用ゐられてゐる。
〔評〕 卷七の吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳《ワガセコヲイヅクユカメトサキタケノソガヒニネシクイマシクヤシモ》(一四一二)の辟竹を山菅に取換へただけと言つてよい。同歌の異傳である。東歌らしくない作だ。
 
以前(ノ)歌詞、未v得3勘(ヘ)知(ルコトヲ)國土山川之名(ヲ)1也
 
(520)この註は雜歌以下の全躰にかかつてゐる。この註について、考に「今本茲に以前歌詞未得勘知國土山川之地名と註せるも、いと後人の註なれば取らず。何ぞといはば、先上に東の國々の地名のしられたるもてよめるを載て其次に載たれば、國土の名不知部ともいふべきに似たれど、多き中に阿波乎呂對馬嶺などの如く、國明らかなるも有、おしはかるに違ふまじきも少からず有を、おしこめて右の如き言を古人の注すべきかは。又京人の取集し時、遠き東國の事は考違ひも有なん。その歌を傳へ聞て集る時、既字の誤りも有、後に書違へ唱ちがへも在と見ゆ。然ればかく末の世に成ても、その地をよく知るは、古へ誤しを思ひ正す事も有べし。よりて此國地不知てふ注に、泥みて、考へを止べからず、又後に考へん人の爲とも成べければ、この度は思ふ事有をば右にいひつ。ひがこともあるべければ、かならずとせざれば、見ん人のこころにあるべきなり。」といつてゐる。
 
萬葉集卷第十四
 
卷第十五
 
(521) 萬葉集卷第十五解説
 
この卷は二つの異なつた歌集からなつてゐる。即ち前半は遣新羅使一行の歌を集めたもので、後半は中臣宅守と茅上娘子との贈答歌集である。遣新羅使は目録によると、天平八年内子夏六月に派遣せられ、大使阿倍朝臣繼麻呂・副使大伴宿禰三中・大判官壬生使主宇太麻呂・少判官大藏忌寸麻呂などの一行であつたことが、續日本紀に明らかである。この人たちが、出發に當つて詠んだものを始め、瀬戸内海から筑前・肥前・壹岐・對馬を經て行く道すがらの作を集めてゐるが、新羅での作は一首もなく、又歸路のは播磨の家島で詠んだものが僅か五首あるのみで、その歌數は、長歌五首・旋頭歌三首・短歌百三十七首、總計百四十五首である。作者は大使・副使・大使の第二男などのものがあり、他に秦間滿・大石蓑麿・土師稻足などの名が見えてゐる。併し作者を記してゐない歌がかなり多く、その歌風内容から推して、すべて同一人であるらしく思はれるから、(冒頭の贈答も男の歌はやはりこの人らしい。)この一團の歌を蒐集して置いた人は、即ちその無名の作家であらうと推定することが出來る。これらの人々が途中望郷の念を述べ、矚目した風光を歌ひ、壹岐島で客死した友を弔ふなど、その體驗したところを諷詠したものには、惻々として人を動かすやうなものがあるが、全躰的に見て藝術價値が高いとは言はれない。宅守と娘子との贈答歌は、目録によると、宅守が藏部女嬬狹野茅上娘子を娶つた爲に、勅斷によつて越前に流された事件の歌で、訣別に臨んで娘子が悲嘆して作つたもの、宅守が配流途中の作、配所に赴いてから娘子との間に贈答したものなどで、(522)宅守作四十首、娘子作廿三首、併せて六十三首、盡く短歌のみである。之の一團の歌は事件が事件だけに、愛慕悲歎の情のみを歌つてゐるが、宅守の作は大丈夫ぶりでない女々しいものが多く、後世風のものも二三見えてゐる。これに對して娘子の作中には輪廓の大きい情熱的の二三の作品があつて、集中でも異彩を放つてゐる。斯の如く全く毛色を異にした二つの集團を、何故一卷に纏めたかは不明であるが、天平八年の遣新羅使一行と、天平十二年を距つるあまり遠からざる以前に、流罪になつた中臣宅守とが略々時代を同じくしてゐるといふ以外には、大した理由はないのではあるまいかと思はれる。全體の歌數は長歌五首・旋頭歌三首・短歌二百首・總計二百八首である。なほ茲に注意すべきはこの卷には部立がないことである。卷一より卷十四に至る十四卷は、いづれも何等かの部門に分類せられてゐるのに、この卷には全く部門の標示がない。これは卷十七以下と同一であつて、この卷が大伴家持によつて纏められたものなることを語つてゐるやうにも思はれるのである。用字法は大體一音一字式であるが、前半は後半よりも意字の使用が少し多いやうである。
 
(523)天平八年丙子夏六月遣2使新羅國1之時使人等各悲v別贈答及海路之上慟v旅陳v思作歌【并】當v所誦詠古歌 一百四十五首
贈答歌十一首
秦間滿謌一首
※[斬/足]還2私家1陳v思歌一首
臨v發之時歌三首
乘v船入v海路上作歌八首
當v所誦詠古歌十首
備後國水調郡長井浦舶泊之夜作歌三首
風速浦舶泊之夜作歌二首
安藝國長門島舶泊2礒邊1作歌五首
從2長門浦1舶出之夜仰2觀月光1作歌三首
古挽歌 丹比大夫悽2愴亡妻1挽歌一首【并】短歌一首
 
 
(527)遣(サルル)2新羅(ニ)1使人等悲(シミテ)v別(ヲ)贈答(シ)、及海路慟(シミ)v情(ヲ)陳(ブ)思(ヲ)、并(ニ)當(リテ)v所(ニ)誦詠之古謌
 
目録に、天平八年丙子夏六月、遣(サルル)2使(ヲ)新羅國(ニ)1之時、使人等各悲(シメル)v別(ヲ)贈答、及海路之上(ニ)慟(シミ)v旅(ヲ)陳(ベテ)v思(ヲ)作(レル)歌并(ニ)當(リテ)v所(ニ)誦詠(セル)古歌一百四十五首とあつて、この題詞と似てはゐるが、これよりも委しくて年號まで記してゐる。他の卷の例によると目録は卷の成立よりも遲れてゐるやうであるから、天平八年丙子夏六月とあるのをその儘信じてよいかどうか分らないが、續紀によると「天平八年夏四月丙寅、遣新羅使阿倍朝臣繼麻呂等拜v朝]「天平九年正月辛丑、遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麻呂少判官正E七位上大藏忌寸麻呂等入京、大使從五位下阿倍朝臣繼麻呂泊2津嶋1卒、副使從六位下大伴宿禰三中染v病不v得2入京1」とあるから、天平八年は誤ではあるまい。一行は筑紫館に到つて七夕を迎へてゐるから、夏六月に出發したものであらう。遣新羅使人等は阿倍朝臣繼麻呂を大使とした一行の人々。延喜式の入諸蕃使の條に入唐大使・入渤海使・入新羅使への賜物に關する規程が記されてゐる。それによると、入新羅使への賜物は入唐大使の十分の一で、入渤海使の三分の一に足りない。以てその重要視せられなかつたことがわかる。役員は入新羅使・判官・録事・大通事・史生・知乘・船事・船師・醫師・少通事・雜使・※[人偏+兼]人・鎌(誤字カ)工・卜部・※[木+施の旁]師・水手長・挾※[木+少]・水手などである。慟情は心中の情を嘆き悲しむこと。
 
3578 武庫の浦の 入江の渚鳥 羽ぐくもる 君を離れて 戀に死ぬべし
 
武庫能浦乃《ムコノウラノ》 伊里江能渚鳥《イリエノスドリ》 羽具久毛流《ハグクモル》 伎美乎波奈禮弖《キミヲハナレテ》 古非爾之奴倍之《コヒニシヌベシ》
 
吾ガ夫ハ今武庫ノ浦カラ舟出ヲナサラウトシテヰルガ〔吾が〜傍線〕、(武庫能浦乃伊里江能渚鳥)可愛ガツテ下サル貴方ニ離レテ、私ハ〔二字傍線〕焦死スルデセウ。
 
(528)○武庫能浦乃伊里江能渚鳥《ムコノウラノイリエノスドリ》――武庫の浦は武庫乃海《ムコノウミ》(二五六の一本云)、六兒乃泊《ムコノトマリ》(二八三)、武庫能和多里《ムコノワタリ》(三八九五)などとある海邊で、今の兵庫である。伊里江能渚鳥《イリエノスドリ》は入江の洲に居る鳥。ここまでは、羽具久毛流《ハグクモル》と言はむ爲の序詞。古義は譬喩と見てゐる。○羽具久毛流《ハグクモル》――ハグクムに同じきことナグサムとナグサモルと同じきが如くである。羽の下の含み愛すること。卷九に吾子羽※[果/衣のなべぶたなし]《ワガコハグクメ》(一七九一)とある。轉じて撫愛すること。
〔評〕 武庫の浦を舟出しようとしてゐる夫に贈つた歌。入江に穩やかに並んでゐる渚鳥を見て詠んだのであらう。親鳥が子を育てる意に用ゐる羽具久毛流《ハグクモル》といふ言葉を夫婦關係に使つてゐるが、今まで夫に抱擁せられ、力強い腕にすがつてゐた女の感情が、三句以下に生々しく盛られて、結句の古非爾之奴倍之《ヨヒニシヌベシ》の誇張もわざとらしく聞えないほどである。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3579 大船に 妹乘るものに あらませば 羽ぐくみもちて 行かましものを
 
大船爾《オホフネニ》 伊母能流母能爾《イモノルモノニ》 安良麻勢波《アラマセバ》 羽具久美母知※[氏/一]《ハグクミモチテ》 由可麻之母能乎《ユカマシモノヲ》
 
新羅ヘ行ク爲ニ私ガ乘ル〔新羅〜傍線〕大キイ船ニ、妻ガ乘ツテモヨイモノナラバ、可愛ガツテ連レテ行カウノニ。サウ出來ナイノハ殘念ダ〔サウ〜傍線〕。
 
○伊母能流母能爾《イモノルモノニ》――妻が乘つてもよいもので。○安良麻勢波《アラマセバ》――あらましかばに同じ。あつたならば。
〔評〕 右の歌に對して夫の答へたもの。遣新羅使の乘る公の船に、妻を携へ難いことを悲しんでゐる。はぐくむといふ言葉を襲用してゐるが、前の歌ほどの感情が出てゐない。
 
3580 君が行く 海邊の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ
 
君之由久《キミガユク》海邊乃夜杼爾《ウミベノヤドニ》奇里多多婆《キリタタバ》安我多知奈氣久《アガタチナゲク》伊伎等之(529)理麻勢《イキトシリマセ》
 
アナタガ御旅行ノ途中デ〔三字傍線〕、海邊ノ宿所ニ霧ガ立ツタラ、私ガアナタヲ戀シガツテ〔九字傍線〕立ツテ嘆息シテヰル息ガ霧ナツタノダ〔八字傍線〕ト思召セ。
 
○安我多知奈氣久《アガタチナゲク》――吾が立ち嘆く。私が立つて嘆息してゐる。
〔評〕留る妻が夫に贈つた歌。四五の句、嘆の霧がよんである。卷五に大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流《オホヌヤマキリタチワタルワガナゲクオキソノカゼニキリタチワタル》(七九九)とあり、古事記上卷に吹棄氣吹之狹霧《フキウツルイブキノサギリ》と見えて、氣息が霧となるといふ思想は古いものである。
 
3581 秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ
 
秋佐良婆《アキサラバ》 安比見牟毛能乎《アヒミムモノヲ》 奈爾之可母《ナニシカモ》 奇里爾多都倍久《キリニタツベク》 奈氣伎之麻佐牟《ナゲキシマサム》
 
秋ニナツタナラバ、マタ歸ツテ來テ、オ前ニ〔十字傍線〕會フノダカラ、ドウシテオマヘハ〔四字傍線〕霧トナツテ立ツヤウニヒドイ〔三字傍線〕嘆息ヲナサラウヤ。ソンナニ歎カズニ待ツテヰテ下サイ〔ソン〜傍線〕。
 
○奈氣伎之麻左牟《ナゲキシマサム》――三句|奈爾之可母《ナニシカモ》につづいてゐる。嘆し給はむや、嘆し給ふなの意。
〔評〕 夫の答歌。目録の通り六月に出發したものとすれば、僅か一ケ月足らずで、秋になつたら新羅から歸つて來ようといふのは、如何に慰めの言葉としても、あまりの氣安めのやうである。この點よりすれば六月を疑ひたくなる。しかし前に述べたやうに筑紫館で七夕を迎へてゐるから、六月の初の頃に出かけたと見るべきであらう。
 
3582 大船を 荒海に出だし います君 つつむことなく 早歸りませ
 
(530)大船乎《オホフネヲ》 安流美爾伊太之《アルミニイダシ》 伊麻須君《イマスキミ》 都追牟許等奈久《ツツムコトナク》 波也可敝里麻勢《ハヤカヘリマセ》
 
大キイ船ヲ浪ノ〔二字傍線〕荒イ海ニ乘リ出シテ、新羅へ〔三字傍線〕イラツシヤルアナタヨ。御障リモナク、早ク歸ツテイラツシヤイ。
 
○安流美爾伊太之《アルミニイダシ》――安流美《アルミ》は荒海《アラウミ》の約。卷七に大舟乎荒海爾※[手偏+旁]出《オホフネヲアルミニコギイデテ》(一二六六)、卷八に白波乃高荒海乎《シラナミノタカキアルミヲ》(一四五三)とある。○伊麻須君《イマスキミ》――行き給ふ君よの意。○都追牟許等奈久也可敝里麻勢《ツツムコトナクハヤカヘリマセ》――障ることなく早く歸り給へ。卷五の都都美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢《ツツミナクサキクイマシテハヤカヘリマセ》(八九四)と同樣である。早く歸り給へ。
〔評〕 女が男に贈つた歌。右に述べた卷七(一二六六)、卷五(八九四)の歌の句を繼ぎ合せたやうな作であるが、外海を渡り行く船路の人を送るにはふさはしい。
 
3583 眞幸くて 妹がいははば 沖つ浪 千重に立つとも 障あらめやも
 
眞幸而《マサキクテ》 伊毛我伊波伴伐《イモガイハハバ》 於伎都波美《オキツナミ》 知敝爾多都等母《チヘニタツトモ》 佐波里安良米也母《サハリアラメヤモ》
 
無事デ妻ガ家ニ居ツテ私ノ無事ヲ〔家ニ〜傍線〕神ニ祈ツテヰルナラバ、沖ノ浪ガ幾重ニモタツテモ障リガアラウカ。何ノ障リモナイ筈ダ。アナタモ是非無事デ居テ、私ノ無事ヲ祈ツテ下サイ。オ互ニ無事デヰヨウ。〔何ノ〜傍線〕。
 
○眞幸而《マサキクテ》――古義に「或説に而は與の誤にて、マサキクトなるべしといへり、」とあり。新考は「刀の誤ならむ」と言つてゐる。併し而の字に關する異本もなく、舊本のままで意も通ずるから、改めない方がよい。
〔評〕 男の答ふる歌。女が男の無事を祈つたのに對して、男からも女を祝福する意を以て、眞幸而伊毛我伊波伴伐《マサキクテイモガイハハバ》といつてゐる。眞情の溢れた歌。考に「こは妹がさきくありていはひいのるならば、まことかたみにさきか(531)らんとなり。古の妹背のむつびおもひはかるべし」とある通りである。
 
3584 別れなば うら悲しけむ 吾が衣 したにを著ませ 直に逢ふまでに
 
和可禮奈波《ワカレナバ》 宇良我奈之家武《ウラガナシケム》 安我許呂母《アガコロモ》 之多爾乎伎麻勢《シタニヲキマセ》 多太爾安布麻弖爾《タダニアフマデニ》
 
アナタガ旅ニオ出ニナツテ私ト〔アナ〜傍線〕別レテ御出カケニナツ〔八字傍線〕タナラバ、アナタハ〔四字傍線〕心ガ悲シイデセウ。デスカラ再ビ〔六字傍線〕直接ニ會フマデノ間、私ノコノ〔二字傍線〕衣ヲ肌ニツケテ御召シナサイ。
 
○宇良我奈之家武《ウラガナシケム》――心悲しからむ。舊本、字とあるは宇の語。類聚古集その他の古本、皆宇に作つてゐる。○之多爾乎伎麻勢《シタニヲキマセ》――乎は強めていふ動詞。
〔評〕 別に臨んで吾が衣を餞として男に贈つた女の歌。後世の作ならばウラと衣とが縁語に見られるべきであるが、これはさう見るのは過ぎてゐよう。
 
3585 吾妹子が 下にも著よと 贈りたる 衣の紐を 我解かめやも
 
和伎母故我《ワギモコガ》 之多爾毛伎余等《シタニモキヨト》 於久理多流《オクリタル》 許呂母能比毛乎《コロモノヒモヲ》 安禮等可米也母《アレトカメヤモ》
 
私ノ妻ガ肌ニツケテ着テ居レト云ツテ、送ツテクレタコノ〔二字傍線〕着物ノ紐ヲ、旅ニ居ル間ハ〔六字傍線〕私ハ解カウヤ。決シテ解カズニ着テヰヨウ〔決シ〜傍線〕。
 
○之多爾毛伎余等《シタニモキヨト》――宜長が毛は乎の誤と言つたのは、贈歌と一致せしめようとしたのであらうが、改めるには及ばない。
(532)〔評〕 男の答歌、感謝と親愛との念を充分にあらはし得てゐる。
 
3586 吾が故に 思ひな痩せそ 秋風の 吹かむその月 逢はむものゆゑ
 
和我由惠爾《ワガユヱニ》 於毛比奈夜勢曾《オモヒナヤセソ》 秋風能《アキカゼノ》 布可武曾能都奇《フカムソノツキ》 安波牟母能由惠《アハムモノユヱ》
 
私ハ今オマヘニ別レテ旅ニ出ルガ〔私ハ〜傍線〕、秋風ノ吹クデアラウソノ月ノ七月ニハ、私ガ歸ツテ來テ〔ノ七〜傍線〕會フデアラウノニ、私ノ爲ニ心配シテ痩セナサルナ。
 
○安波牟母能由惠《アハムモノユヱ》――逢はむものなるに。逢ふであらうのに。
〔評〕 男が女に贈つた歌。ユヱが兩つ用ゐてあるが、用法が違つてゐる。これも秋立つ月に歸來することを歌つてゐるのは、あまり早過ぎる感がある。
 
3587 栲衾 新羅へいます 君が目を 今日か明日かと いはひて待たむ
 
多久夫須麻《タクブスマ》 新羅邊伊麻須《シラギヘイマス》 伎美我目乎《キミガメヲ》 家布可安須可登《ケフカアスカト》 伊波比弖麻多牟《イハヒテマタム》
 
(多久夫須麻)新羅ノ國ヘ御出カケニナルアナタニ、コレカラハ貴方ガ御無事デオ歸ニナツテ〔コレ〜傍線〕、オ目ニカカルコトヲ今日カ明日カト、神樣ニ祈リナガラ待ツコトデアリマセウ。
 
○多久夫須麻《タクブスマ》――枕詞。栲の衾の白き意で新羅へつづいてゐる。○伎美我目乎《キミガメヲ》――君が目を待つと五句へつづいてゐる。君にお目にかかることをの意。○伊波比弖麻多牟《イハヒテマタム》――イハフは神を齋ふ。即ち神に祈ること。
〔評〕 女の答歌。四句に待ちわぶる心をあらはし得てゐる。
 
3588 はろばろに 思ほゆるかも 然れども けしき心を 吾が思はなくに
 
(533) 波呂波呂尓《ハロバロニ》 於毛保由流可母《オモホユルカモ》 之可禮杼毛《シカレドモ》 異情乎《ケシキココロヲ》 安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》
 
貴方ガ新羅ヘ御出ニナツタナラバ、新羅ノ國ハ〔貴方〜傍線〕遙々ト遠ク〔二字傍線〕思ハレマスヨ。然シナガラ、ソンナニ遠ク隔ツテ居テモ〔ソン〜傍線〕、他シ心ヲ私ハ持ツテハ居リマセヌヨ。唯アナタヲ戀シク思ツテ居リマス〔唯ア〜傍線〕。
 
○波呂波呂爾《ハロバロニ》――遙々にに同じ。
〔評〕 卷五の波漏婆漏爾於志方由流可母志艮久毛能智弊仁邊多天留都久紫能君仁波《ハロバロニオモハユルカモシラクモノチヘニヘダテルツクシノクニハ》(八六六)の初二句と、卷十四の可良許呂毛須蘇乃宇智可倍安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《カコロモスソノウチカヘアハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》(三四八二)の四五句とを連ねて作つたやうな歌だ。これも女の歌であらう。新考に男の歌としたのは從ひ難い。
 
右十一首贈答
 
以上の十一首は出發に際して、一行の人とその妻との間にとりかはされた贈答の歌である。
 
3589 夕されば ひぐらし來鳴く 生駒山 越えてぞ吾が來る 妹が目を欲り
 
由布佐禮婆《ユフサレバ》 比具良之伎奈久《ヒグラシキナク》 伊故麻山《イコマヤマ》 古延弖曾安我久流《コエテゾアガクル》 伊毛我目乎保里《イモガメヲホリ》
 
夕方ニナルト蜩蝉ガ來テ啼ク淋シイ〔三字傍線〕生駒山ヲ越エテ、私ハ妻ニ逢ヒタサニ、遙々ト難波カラ奈良ヘ〔十字傍線〕ヤツテ來ルヨ。
〔評〕 難波まで下つて、船待ちする間に、妻に逢ひたぐなつて奈良の都へ歸つて來た男の歌。上句は生駒山越が(534)淋しさうに詠んである。ここに蜩《ヒグラシ》蝉が鳴くやうに詠んであるのも、六月らしい氣分である。
 
右一首秦|間滿《ハシマロ》
 
下に秦田滿とあるのと同一人か。田と間と文字が近いからいづれかが誤であらう。秦姓の人だから録事又は通事などであつたらう。
 
3590 妹に逢はず あらば術なみ 石根履む 生駒の山を 越えてぞ吾が來る
 
伊毛爾安波受《イモニアハズ》 安良婆須敝奈美《アラバスベナミ》 伊波禰布牟《イハネフム》 伊故麻乃山乎《イコマノヤマヲ》 故延弖曾安我久流《コエテゾアガクル》
 
妻ニ逢ハズニ居テハ辛クテ〔三字傍線〕仕方ガナイノデ、一寸ノ間ヲ竊ンデ〔八字傍線〕、私ハ岩ヲ踏ミツケテ通ル嶮岨ナ〔三字傍線〕生駒山ヲ越エテ、家ニ歸ツテ〔五字傍線〕來ルヨ。
 
○伊波禰布牟《イハネフム》――生駒山越の嶮岨を述べて、岩根踏み行く生駒山とつづけたものである。略解に「いはねふむ駒といふ心につづけたりともおぼゆれど云々」とあるが、そんな解釋は出來さうにもない。
〔評〕 妻に逢ひたさに、生駒山の難路を踏んで家に歸つて來たといふので、前の歌が生駒山の寂しさを歌つたのに對し、これは路の嶮岨を述べてゐるが、要するに相似た作である。同一人の作とする説もあるが、前のは特に作者を記してゐるから、これ以下は別人とすべきであらう。
 
右一首|※[斬/足]《シバラク》還(リテ)2私家(ニ)1陳(ブ)v思(ヲ)
 
※[斬/足]は暫に同じ。古義にミソカニと訓んだのは當らない。
 
3591 妹とありし 時はあれども 別れては 衣手寒き ものにぞありける
 
(535)妹等安里之《イモトアリシ》 時者安禮杼毛《トキハアレドモ》 和可禮弖波《ワカレテハ》 許呂母弖佐牟伎《コロモデサムキ》 母能爾曾安里家流《モノニゾアリケル》
 
私ハ〔二字傍線〕妻ト一緒ニ家ニ〔二字傍線〕ヰタ時ハ、別ニ肌寒クモ〔六字傍線〕ナカツタケレドモ、別レテ旅ニ出テ居ルト、何トナク〔旅ニ〜傍線〕衣ガ寒イモノデアルヨ。
 
○時者安禮杼母《トキハアレドモ》――時は衣手寒からずあれどもの略。
〔評〕 女との抱擁にいつも暖さを覺えるのである。夏六月の作としては、あまり誇張に過ぎるやうでもあるが、獨寢の淋しさを述べてかく言つたのである。
 
3592 海原に 浮宿せむ夜は 沖つ風 いたくな吹きそ 妹もあらなくに
 
海原爾《ウナバラニ》 宇伎禰世武夜者《ウキネセムヨハ》 於伎都風《オキツカゼ》 伊多久奈布吉曾《イタクナフキソ》 妹毛安良奈久爾《イモモアラナクニ》
 
私ハコレカラ旅ニ出テ行クガ〔私ハ〜傍線〕、海ノ上デ浪ノ上ノ〔四字傍線〕浮寢ヲスル夜ハ、沖ノ風ヨ、ヒドク吹クナヨ。妻モ居ナイノダカラ。
 
〔評〕 舟出しようとして、海上の淋しさを思ひやつてゐる。唯さへ獨寢は淋しいのに、海上の波の浮寢の獨寢はどんなにか辛いであらう。いたくな吹きそと沖の風に祈る心がいたましい。
 
3593 大伴の 御津に船乘り ※[手偏+旁]ぎ出ては いづれの島に 廬せむ我
 
大伴能《オホトモノ》 美津爾布奈能里《ミツニフナノリ》 許藝出而者《コギデテハ》 伊都禮乃思麻爾《イヅレノシマニ》 伊保里世武和禮《イホリセムワレ》
 
(536)コレカラ〔四字傍線〕(大伴能美津デ舟ニ乘ツテ漕ギ出シタナラバ、何處ノ島デ上陸シテ〔四字傍線〕、私ハ寢ルコトデアラウカ。サゾ淋シイデアラウ〔九字傍線〕。
 
○大伴能《オホトモノ》――難波附近の總名。○伊保里世武和禮《イホリセムワレ》――我は庵せむ。庵すは小屋を立てて宿ること。
〔評〕 これも出立の時の心細さを歌つてゐる。卷六|木綿畳手向乃山乎今日越而何野邊爾廬將爲吾等《ユフダタミタムケノヤマヲケフコエテイヅレノヌベニイホリセムワレ》(一〇一七)と下句が似てゐる。
 
右三首臨(メル)v發(スルニ)之時作(レル)歌
 
3594 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ來にけり
 
之保麻都等《シホマツト》 安里家流布禰乎《アリケルフネヲ》 思良受之弖《シラズシテ》 久夜之久妹乎《クヤシクイモヲ》 和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》
 
私ノ舟ハ〔四字傍線〕汐ガ差シテ來るの〔七字傍線〕ヲ待ツテヰル舟ダノニ、ソレヲ〔三字傍線〕知ラナイデ、マダ出發マデ間ガアルノニ〔マダ〜傍線〕、殘念ニモ私ハ〔二字傍線〕妻ト別レテ來タヨ。コンナコトト知ツタナラバ、モツトユツクリシテ來ル筈ダツタノニ。惜シイコトヲシタ〔コン〜傍線〕。
 
○安里家流布禰乎《アリケルフネヲ》――ありける船なるをの意。○久夜之久妹乎《クヤシクイモヲ》――妹をは妹に同じ。
〔評〕 別離に際しては寸時も惜しいものである。生木を裂かれるやうな思で女に別れて來て見ると、船は未だ出さうでもない。こんなことならまだゐる筈であつたのに、との口惜しさである。暫く家に歸つて來た後の作か。
 
3595 朝びらき ※[手偏+旁]ぎ出で來れば 武庫の浦の 潮干の潟に 鶴が聲すも
 
(537)安佐妣良伎《アサビラキ》 許藝弖天久禮婆《コギデテクレバ》 牟故能宇良能《ムコノウラノ》 之保非能可多爾《シホヒノカタニ》 多豆我許惠須毛《タヅガコエスモ》
 
朝、港ヲ舟出シテ漕イデ出テ來ルト、武庫ノ浦ノ汐ノ干タ渇デ、鶴ガ啼ク〔二字傍線〕聲ガスルヨ。面白イ景色ダ〔六字傍線〕。
 
○安佐妣良伎《アサビラキ》――朝、港を舟出すること。且開《アサビラキ》(三五一)、朝開《アサビラキ》(一六七〇)など參照。
〔評〕 叙景の歌。船中の第一印象が、まづ旅人の目を慰めるものがある。明朗な感じの歌。
 
3596 吾妹子が 形見に見むを 印南都麻 白浪高み よそにかも見む
 
和伎母故我《ワギモコガ》 可多美爾見牟乎《カタミニミムヲ》 印南都麻《イナミツマ》 之良奈美多加彌《シラナミタカミ》 與曾爾可母美牟《ヨソニカモミム》
 
妻ト云フ名ガナツカシサニ、別レテ出テ來タ〔妻ト〜傍線〕私ノ妻ノ形見トシテ、印南都麻ヲ見テ行キ〔三字傍線〕タイノダガ、白波ガ高ク立ツテ海ガ荒イ〔五字傍線〕カラ、殘念ナガラ立チ寄ラズニ〔殘念〜傍線〕、他所ナガラ見テ通ラウカ。
 
○可多美爾見牟乎《カタミニミムヲ》――印南都麻の名が妻に通ずるので、別れて來た妻の形見として印南都麻を見ようといふのである。○印南都麻《イナミツマ》――卷四に稻日都麻浦箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》(五〇九)、卷六に伊奈美嬬《イナミヅマ》(九四二)とあると同所で、加古河の河口にあつた小島。後世、陸に連なつて高砂と稱してゐる。
〔評〕 妻をいふ名をなつかしがつた歌。言葉だけの戯ではない。船路の旅の苦しさもあらはれてゐる。略解に「故郷の方の印南をだに妹が形見と見むを、立浪のよそに來たるを嘆く也」とあるのは、地理を辨へない説である。
 
3597 わたつみの 沖つ白浪 立ち來らし 海人少女ども 島隱る見ゆ
 
(538)和多都美能《ワタツミノ》 於伎津之良奈美《オキツシラナミ》 多知久良思《タチクラシ》 安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》 思麻我久流見由《シマガクルミユ》
 
海ガ荒レテ〔五字傍線〕海ノ沖ノ白波ガ立ツテ來タラシイ。海士ノ女等ノ舟〔二字傍線〕ガ、島陰ニ隱レルノガ見エル。
 
○安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》――海人の小舟どもをかく言つたのであらう。○思麻我久流見由《シマガクルミユ》――島陰にかくれ行くのが見える。
〔評〕 卷三の風乎疾奥津白波高有之海人釣船濱眷奴《カゼヲイタミオキツシラナミタカカラシアマノツリブネハマニカヘリヌ》(二九四)と似た情景である。よく出來てゐる。
 
3598 ぬば玉の 夜は明けぬらし 多麻の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり
 
奴波多麻能《ヌバタマノ》 欲波安氣奴良之《ヨハアケヌラシ》 多麻能宇良爾《タマノウラニ》 安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》 奈伎和多流奈里《ナキワタルナリ》
 
(奴波多麻能)夜ハ明ケタラシイ。玉ノ浦デ餌ヲ〔二字傍線〕アサル鶴ガ啼イテ通ルヨ。
 
○多麻能宇良爾《タマノウラニ》――所在明らかでないが、印南都麻(539)神島との間に置いてあるから、多分備中の玉島であらう。
〔評〕 船中に浮宿して、けたたましい鶴の聲に夜の明けたのを知つた歌。清楚明澄。鶴の聲も耳にあるやうである。
 
3599 月よみの 光を清み 神島の いそみの浦ゆ 船出すわれは
 
月余美能《ツクヨミノ》 比可里乎伎欲美《ヒカリヲキヨミ》 神島乃《カミシマノ》 伊素未乃宇良由《イソミノウラユ》 船出須和禮波《フナデスワレハ》
 
今夜ハ〔三字傍線〕月ガ清ク明ラカナノデ、夜中ダケレド〔六字傍線〕神島ノ磯ノマハリノ海岸カラ、私ハ舟出ヲシテ漕イデ行クヨ。
 
○月余美能《ツクヨミノ》――月余美《ツクヨミ》は月讀。月のこと。○神島乃《カミシマノ》――神島は卷十三に備後國神島濱云々と題して恐耶神之渡乃《カシコキヤカミノワタリノ》(三三三九)とあり。備後は備中の誤で、笠岡の南方に横はつてゐる島であらう。○伊素未乃宇良由《イソミノウヲユ》――舊本、末とあるは未の誤であらう。細井本はさうなつてゐる。伊素未《イソミ》は礒回。磯のめぐり。伊素末《イソマ》の浦といふ地名とする説は從ひ難い。
〔評〕 月明に乘じて夜をこめて出帆する樣が思ひやられる。卷一の※[就/火]田津爾舩乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜《ニギタヅツニフナノリセムトツキマテバシホモカナヒヌイマハコギイデナ》(八)のやうな優麗さはないが、亦捨て難い明朗な調である。
 
3600 はなれ磯に 立てる室の木 うたがたも 久しき時を 過ぎにけるかも
 
(540)波奈禮蘇爾《ハナレソニ》 多※[氏/一]流牟漏能木《タテルムロノキ》 宇多我多毛《ウタガタモ》 比左之伎時乎《ヒサシキトキヲ》 須疑爾家流香母《スギニケルカモ》
 
離レ磯ニ立ツテヰル室ノ木ハ、危イ樣子ヲシナガラ、久シイ間ヲ此處デ〔三字傍線〕過シタモノダナア。ヨク此樣ナ處ニ久シク時ヲ過シタモノダ〔ヨク〜傍線〕。
 
○多※[氏/一]流牟漏能木《タテルムロノキ》――牟漏能木《ムロノキ》は杜松《ネズ》のこと。四四七參照。○宇多我多毛《ウタガタモ》――危げにもの意。この語については卷十二の歌方毛曰管毛有鹿《ウタガタモイヒツツモアルカ》(二八九六)參照。
〔評〕 離れ磯に落ちかかりさうになつて生えてゐる室の木を見て、かうしても無事に、永い年月をよくも經たものだと、直感をありのままに述べたもの。そこに面白味がある。略解に「さて妹に別ても、しばしはあれば在つる譬にとれる也」とあるのは考へ過ぎてゐる。なほ室の木は鞆の浦のみに生ずるわけではあるまいが、この歌は道の順が丁度鞆の浦あたりになつてゐるから、卷三に大伴旅人が吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者《ワギモコガミシトモノウラノムロノキハ》(四四六)外二首に詠んだ鞆の浦の室の木に違ないと思ふ。
 
3601 しましくも 獨あり得る ものにあれや 島の室の木 離れてあるらむ
 
之麻思久母《シマシクモ》 比等利安里宇流《ヒトリアリウル》 毛能尓安禮也《モノニアレヤ》 之麻能牟漏能木《シマノムロノキ》 波奈禮弖安流良武《ハナレテアルラム》
 
暫クノ間デモ獨デ居ルコトガ出來ルモノカ、トテモ出來ハシナイ。然ルニ〔トテ〜傍線〕島ノ室ノ木ハドウシテ獨デ〔六字傍線〕離レテ立ツテ〔三字傍線〕ヰルノダラウ。私ハ妻ニ別レテ來タガ、獨デ立ツテヰル室ノ木ガ不思議デ仕方ガナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○之麻思久母《シマシクモ》――暫くもに同じ。○毛能尓安禮也《モノニアレヤ》――ものならむや。獨ではゐられないといふのである。ヤを
(541)係辭として、結句ラムで結ぶと見るのはよくない。○之麻能牟漏能木《シマノムロノキ》――この句の上に然ルニ、ドウシテの語を入れて見るがよい。新考に四五の句を、島の室の木は馴れてあるらむと見てゐるのはその意を得ぬ。
〔評〕 第三句の意味が少し曖昧なので異説が生じてゐるが、右のやうに見れば意は明らかである。仙醉島あたりの離れ磯の室の木を見て、自分の身に引きくらべたものである。
 
右八首(ハ)乘(リ)v船(ニ)入(リテ)v海(ニ)路上(ニ)作(レル)歌
 
古義に入2海路上1と返點としてウミツヂニイレルトキと訓ませてあるのはよくない。海ニ人リテ路上ニ作レル歌である。右八首も同一人の作である。
 
當(リテ)v所(ニ)誦詠(セル)古哥
 
これ以下の十首は、所に臨んで、其の場合に適合した古歌を誦詠したのである。
 
3602 青丹よし 奈良の都に たなびける 天の白雲 見れど飽かぬかも
 
安乎爾余志《アヲニヨシ》 奈良能美夜古爾《ナラノミヤコニ》 多奈妣家流《タナビケル》 安麻能之良久毛《アマノシラクモ》 見禮杼安可奴加毛《ミレドアカヌカモ》
 
(安乎爾余志)奈良ノ都ノ方〔二字傍線〕ニ棚曳イテヰル空ノ白雲ヲ見ルト、イクラ〔七字傍線〕見テモ飽キ足ラナイヨ。故郷ノ奈良ノ方ガ戀シイヨ〔故郷〜傍線〕。
 
〔評〕 遙かに故郷の奈良の方を眺めて、空の白雲をなつかしがつたもの。海路に出て間もなく歌つたか。雲を詠じた歌ながらここによく當嵌つてゐる。
 
右一首詠v雲
 
(542) 青楊の 枝きりおろし 齋種蒔き ゆゆしき君に 戀ひわたるかも
 
3603 安乎楊疑能《アヲヤギノ》 延太伎里於呂之《エダキリオロシ》
 湯種蒔《ユダネマキ》 忌忌伎美爾《ユユシキキミニ》 故非和多流香母《コヒワタルカモ》
 
(安乎楊疑能延太伎里於呂之湯種蒔)恐レ憚ルベキ貴イ御身分ノ〔六字傍線〕貴方ニ、私ハ〔二字傍線〕戀ヒ慕ツテ日ヲ送ツテ居リマスヨ。
 
○安乎楊疑能延太伎里於呂之《アヲヤギノエダキリオロシ》――青楊の枝伐り下ろし。苗代田のほとりの川楊の枝を伐りおろして、日蔭を除いて種を蒔くのである。青楊は河邊などに生えてゐたので、上代の田は水を引く設備が今日のやうに便利ではなかつたから、主として河小川などに近く作られてゐた。苗代は殊に水をよく張つて置く必要上、水邊に作られてゐたらうから、從つて播種に先立つて、日光を遮るやうな川楊の枝をおろしたものである。宣長が「此上の句の意はすべて田に便よき所に井を掘り、井の邊に柳をおほして、其柳の枝を伐すかし、はねつるべといふ物をしかけ、苗代の田ごとに水を汲入るる專有。これかならず柳にて、他木を用ゐず。此青柳の枝きりおろしと言ふも、其事を言へる也」と言つたのも、古義に「楊枝を伐りて苗代の水口にさして、神を齊ひ奉るをいふなるべし。今も田を植る初めに、木の枝を刺していはふことあり、是をさばひおろしと云り、又土佐國長岡郡のあたりにては、もはら苗代をつくりて、種を蒔とき、水口に松杉などの枝を刺して、水口をいはへり、さて古へは何の木にても、あるにまかせて、刺けむを、後に事祝《コトホギ》して、しか松杉の常葉木に、かぎれる如くにはなれりけむ」とあるのも共に受取り難い説である。○湯種蒔《ユダネマキ》――湯種《ユダネ》は齋種。神聖な種。ここまでの三句は忌忌《ユユシ》と言はむ爲の序詞である。○忌忌伎美爾《ユユシキキミニ》――忌忌《ユユシキ》は恐ろしき憚るべきの意。
〔評〕 貴人を戀ふる女の歌であらう。上句の序詞が農民の歌なるを思はしめる。如何なる場所で誦詠した古歌か分明でない。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3604 妹が袖 別れて久に なりぬれど 一日も妹を 忘れておもへや
 
妹我素弖《イモガソデ》 和可禮弖比左爾《ワカレテヒサニ》 奈里奴禮杼《ナリヌレド》比登比母伊毛乎《ヒトヒモイモヲ》 和須禮(543)弖於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》
 
私ハ〔二字傍線〕妻ト袖ヲ別ツテカラ久シクナルケレドモ、一日モ妻ヲ忘レヤウカ、忘レハセヌヨ。
 
○和須禮弖於毛倍也《ワスレテホモヘヤ》――忘れて思はむや、忘れはせじといふのである。思ふは輕く添へたもの。かうした例は集中に尠くない。
〔評〕 思ふ通りをそのままに述べたに過ぎない。
 
3605 わたつみの 海に出でたる 飾磨河 絶えむ日にこそ あが戀止まめ
 
和多都美乃《ワタツミノ》 宇美爾伊弖多流《ウミニイデタル》 思可麻河伯《シカマガハ》 多延無日爾許曾《タエムヒニコソ》 安我故非夜麻米《アガコヒヤマメ》
 
海ニ流レ出シテヰル飾磨川ガ、水ガ〔二字傍線〕絶エテナクナル日ニコソハ、私ノ戀モ止ムデアラウ。飾磨川ノ水ガ無クナルコトハアルマイカラ決シテ私ノ戀ハ止マナイ〔飾磨〜傍線〕。
 
○和多都美乃宇美爾伊弖多流《ワタツミノウミニイデタル》――和多都美《ワタツミ》は海の神。和多都美乃宇美《ワタツミノウミ》は海の神の知ろしめす海をいつたのである。宇(544)美爾伊弖多流《ウミニイデタル》について、代匠記に「いづれの川とてつひに海に出ぬはなけれど、此川はやがて海にながれて、出るゆゑに、海に出たるとはいへり」とあり、略解に「いづこにても湊の川は海に出るなれど、播磨の飾磨川は海に近ければかく言へり」とあるが、これは飾磨川の海に注ぐ樣を見て詠んだ歌なのである。○思可麻河泊《シカマガハ》――播磨の飾磨川。今の姫路市を流れる船場川の古名なりといふ、飾磨町の西で海に注いでゐる。卷七に思賀麻江者許藝須疑奴良思《シカマエハコギスギヌラシ》(一一七八)とあるのも同所であらう。
〔評〕 海に注いで絶えることのない飾磨川を譬喩として、吾が戀の思を述べたもの。卷十二の久堅之天水虚爾照日之將失日社吾戀止目《ヒサカタノアマツミソラニテレルヒノウセナムヒコソワガコヒヤマメ》(三〇〇四)と型が類似してゐる。飾磨の河口あたりで、誦詠したものであらう。
 
右三首戀歌
 
この集では戀歌といふ稱呼は珍らしい。この集の相聞が古今以後の戀歌になつたやうに言はれてゐるが、戀歌といふ熟語も既にあつたのである。
 
3606 玉藻刈る 乎等女を過ぎて 夏草の 野島が崎に 廬す我は 柿本朝臣人麿歌曰、敏馬を過ぎて、又曰、船近づきぬ
 
多麻藻可流《タマモカル》 乎等女乎須疑※[氏/一]《ヲトメヲスギテ》 奈都久佐能《ナツクサノ》 野島我左吉爾《ヌジマガサキニ》 伊保里須和禮波《イホリスワレハ》
 
珠藻ヲ苅ル處女ノ浦〔二字傍線〕ヲ通ツテ、(奈都久佐能)野島ノ岬ニ、上陸シテ〔四字傍線〕小屋ヲカケテ私ハ旅寢ヲスル。
 
○乎等女乎須疑※[氏/一]《ヲトメヲスギテ》――乎等女《ヲトメ》は地名。葦屋處女塚の所在地であらう。處女といふ地名から處女塚の名も出たらしく想像せられる。敏馬《ミヌメ》と略々同處であるが、敏馬《ミヌメ》の誤とするのは當らない。○奈都久佐能《ナツクサノ》――枕詞。夏草の萎《ナ》ゆの約ヌにつづくのである。
〔評〕 卷三の二五〇の佐註に一本として載せたものその儘である。
 
(545)柿本朝臣人麿歌曰 敏馬乎須疑※[氏/一]《ミヌメヲスギテ》 又曰 布禰知可豆伎奴《フネチカヅキヌ》
 
卷三の珠藻苅《タマモカル》(二五〇)の歌に同じ。
 
3607 白妙の 藤江の浦に いざりする 海人とや見らむ 旅行く我を 柿本朝臣人麿歌曰 荒栲の 又曰、鱸釣る海人とか見らむ
 
之路多倍能《シロタヘノ》 藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻等也見良武《アマトヤミラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》
 
(之路多倍能)旅ヲシテヰル私ダノニ、世間ノ人ハ〔五字傍線〕藤江ノ浦デ漁ヲスル海人ト見ルデアラウカ。
 
○之路多倍能《シロタヘノ》――枕詞。藤に續けるには、荒栲のを用ゐるのが常であるが、これは珍らしく白栲のからつづいてゐる。○藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》――藤江の浦は播磨國明石郡の海岸にある。明石の西方。
〔評〕 卷三の二五二の左註に一本云として出てゐるのと同じである。和歌童蒙抄に採つてゐる。
 
柿本朝臣人麿歌曰 安良多倍乃《アラタヘノ》 又曰 須受吉都流《スズキツル》 安麻登香見良武《アマトカミラム》
 
初句と三四句との異傳である。卷三、荒栲《アラタヘノ》(二五二)の歌と、何等異なるところがない。
 
3608 天離る 鄙の長道を 戀ひ來れば 明石の門より 家のあたり見ゆ 柿本朝臣人麿歌曰、大和島見ゆ
 
安麻射可流《アマザカル》 比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》 孤悲久禮婆《コヒクレバ》 安可思能門欲里《アカシノトヨリ》 伊敝乃安多里見由《イヘノアタリミユ》
 
私ガ船ニ乘ツテ〔五字傍線〕(安麻射河流)田舍ノ長イ道中ヲ家ヲ〔二字傍線〕戀シク思ヒナガラ漕イデ〔三字傍点〕來ルト、明石ノ海峽カラ故郷ノ〔三字傍点〕家(546)ノ邊ガ見エルヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》――鄙の長道を。田舍の長道を。
〔評〕 卷三の二五五の一本云、家門當見由《ヤドノアタリミユ》とあるものと同じである。但し二句が長道從《ナガヂユ》と奈我道乎《ナガヂヲ》との相違がある。
 
柿本朝臣人麿歌曰 夜麻等思麻見由《ヤマトシマミユ》
 
これも二句に小異があるだけで、卷三|天離《アマザカル》(二五五)と同樣である。
 
3609 武庫の海の にはよくあらし いざりする 海人の釣船 浪の上ゆ見ゆ 柿本朝臣人麿歌曰、氣比の海の 又曰、かりこもの亂れて出づ見ゆ海人の釣船
 
武庫能宇美能《ムコノウミノ》 爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻能都里船《アマノツリフネ》 奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》
 
今ハ〔二字傍線〕武庫ノ海ハ海上ガ穩ヤカト見エル。アノ通リ〔四字傍線〕漁ヲスル海人ノ釣舟ガ、浪ノ上ニ出テヰルノガ〔六字傍線〕見エル。
 
○爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》――庭好くあるらし。庭は場所。ここでは海上。
〔評〕 卷三の二五六の一本云の歌と同樣である。但し舊本には武庫乃海舶爾波有之とあるが、神田本に武庫乃海爾波好有之とあるのがよい。和歌童蒙抄に載せてある。
 
柿本朝臣人麿歌曰 氣比乃宇美能《ケヒノウミノ》 又曰 可里許毛能《カリコモノ》 美太禮※[氏/一]出見由《ミダレテイヅミユ》 安麻能都里船《アマノツリフネ》
 
卷三の飼飯能海乃《ケヒノウミノ》(256)と同樣である。但し四句にテに當る文字がない。
 
3610 阿胡の浦に 船乘りすらむ 少女らが 赤裳の裾に 潮滿つらむか 柿本朝臣人麿歌曰、網の浦 又曰、玉裳の裾に
 
(547)安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》 布奈能里須良牟《フナノリスラム》 乎等女良我《ヲトメラガ》 安可毛能須素爾《アカモノスソニ》 之保美都良武賀《シホミツラムカ》
 
志摩ノ國ヘ行ツテ〔八字傍線〕安胡ノ浦デ舟乘リヲスル官〔傍線〕女共ノ、赤イ裳ノ裾ニ汐ガ滿チテ來ルデアラウカ。潮ニ濡レハスマイカ〔九字傍線〕。
 
○安胡乃宇良爾《アゴノウヲニ》――安胡の浦は志摩國の英處の浦。
〔評〕 卷一の嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》(四〇)の歌と同歌である。但し四の句が珠裳乃須十二《タマモノスソニ》となつてゐる。
 
柿本朝臣人麿歌曰 安美能宇良《アミノウラ》 又曰 多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》
 
安美能宇良は舊本に兒を見に誤つて、嗚呼見乃浦とあるに一致してゐる。その他卷一の四〇の歌と全く同じものである。
 
七夕歌一首
 
3611 大船に 眞楫繁貫き 海原を 榜ぎ出て渡る 月人をとこ
 
於保夫禰爾《オホブネニ》 麻可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》 宇奈波良乎《ウナハラヲ》 許藝弖天和多流《コギデテワタル》 月人乎登枯《ツクヒトヲトコ》
 
大キイ舟ニ楫ヲ澤山ニ貫キ通シテ、天ノ〔二字傍線〕海原ヲ漕イデ行ク月人男ヨ。
 
○月人乎登枯《ツキヒトヲトコ》――月人男。卷十、仰而將待月人壯《アフギアマタムツキヒトヲトコ》(二〇一〇)、舟榜度月人壯子《フネコキワタルツキヒトヲトコ》(二〇一三)、挽而隱在月人壯子《ヒキテカクセルツキヒトヲトコ》(二〇五一)、(548)懸而※[手偏+旁]所見月人壯子《カケテコグミユツキヒトヲトコ》(二二二三)などと同じく、月を擬人して男性としたものである。牽牛星のこととする説は誤つてゐる。
〔評〕 七夕歌と題してあるが、七夕としての特徴がない。併し卷十の七夕歌にかういふ類のものがあるから、これも七夕の歌群中にあつたので、七夕歌と題したのであらう。澄んだ空に輝く月を眺めて、天の海に月の舟を浮べて月人男が漕いで行くものと見立てたこの七夕の古歌を、一行の人が海上に浮びつつ、思ひ出して誦詠したものである。なほこの一行は九州に到着し、筑紫館に入つた後に七夕を迎へたのであるから、七夕に際してこれを謠つたのではない。この歌は集中他に見えてゐない。これに似たものを強ひて求めるならば、天海月船浮桂梶懸所※[手偏+旁]所見月人壯子《アメノウミニツキノフネウケカツラカヂカケテコグミユツギヒトヲトコ》(二二二三)であらう。和歌童蒙抄と袖中抄に載せてある。以上の十首が當所誦詠古歌である。
 
右柿本朝臣人麿歌
 
以上の六首は柿本朝臣人麿の歌とあつて、例の如く柿本朝臣人麿歌集出とないのは、歌集に載つてゐなかつたからであらう。
 
備後國|水調《ミヅキ》郡長井浦(ニ)舶舶之夜作(レル)歌三首
 
水調郡は今の御調郡。和名抄にも御調郡とある。備後の最西部、安藝の國境に近い。長井浦は今の糸崎港。
 
3612 青丹よし 奈良の都に 行く人もがも 草枕 旅行く船の 泊告げむに
 
安乎爾與之《アヲニヨシ》 奈良能美也故爾《ナラノミヤコニ》 由久比等毛我母《ユクヒトモガモ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多妣由久布禰能《タビユクフネノ》 登麻利都礙武仁《トマリツゲムニ》 旋頭歌也
 
(549)私ノ故郷ノ〔五字傍線〕(安乎爾與之)奈良ノ都ニ行ク人ガアレバヨイガ。(久佐麻久良)旅ヲ行ク私ノ〔二字傍線〕舟ガ、此處ニ〔三字傍線〕泊ツテヰルコトヲ家ニ〔二字傍線〕告ゲテヤリタイノニ。奈良ヘ行ク人ガナイノデ、私ノ無事ヲ家ニ告ゲラレナイハ殘念ダ〔奈良〜傍線〕。
 
○登麻利都礙武仁《トマリツゲムニ》――泊を告げたいのにの意。古義は「告遣るべき爲に」と解釋してゐる。
〔評〕 自分の無事を故郷に知らせる方法のないことを悲しんだ歌。平凡な作である、八雲御抄に載つてゐる。
 
右一首大判官
 
大判官は續紀に「天平九年正月辛丑、遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麿少判官正七位大藏忌寸麿等入京云々」とあるから、即ち壬生使主宇太麿である。この人は十八年四月癸卯に外從五位下を授けられ、八月丁亥、右京亮となり、勝寶二年五月辛丑但馬守、六年七月丙午に玄蕃頭となつてゐる。
 
3613 海原を 八十島隱り 來ぬれども 奈良の都は 忘れかねつも
 
海原乎《ウナバラヲ》 夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》 伎奴禮(550)杼母《キヌレドモ》 奈良能美也故波《ナラノミヤコハ》 和須禮可禰都母《ワスレカネツモ》
 
(550)私ハ旅ニ出テ〔六字傍線〕、海ノ上ヲ澤山ノ島々ニ漕ギ隱レテ、家ヲ遠ク離レテ〔七字傍線〕來タケレドモ、奈良ノ都ハ忘レカネタヨ。
 
○夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》――夜蘇之麻《ヤソシマ》は數多い島々。固有名詞とするのは非である。我久里《ガクリ》は隱れて、即ち八十の島々の陰に漕ぎ隱れて。
〔評〕 故郷は八十の島の彼方に遠ざかつたが、なほ忘れ難いのである。古義に「面白く目留る處々を見つつ、海原を經て來りぬれば、寧樂の都の事は忘らるべきに、猶得忘すしてぞ戀しく思はるるとなり」とあるのは誤解であらう。以下四首同人の作。袖中抄に載せてある。
 
3614 歸るさに 妹に見せむに わたつみの 沖つ白玉 ひりひて行かな
 
可敝流散爾《カヘルサニ》 伊母爾見勢武爾《イモニミセムニ》 和多都美乃《ワタツミノ》 於伎都白玉《オキツシラタマ》 比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》
 
歸ル時ニ土産トシテ〔五字傍線〕妻ニ見セル爲ニ、海ノ沖ニアル白玉ヲ拾ツテ行カウ。
 
○可敝流散爾《カヘルサニ》――歸りさまに。歸途に。ここでは家に歸り着いた時を言つてゐる。○伊母爾見勢武爾《イモニミセムニ》――妹に見せる爲に。○於伎都白玉《オキツシラタマ》――沖の白玉。沖の島などにある白い石などを指してゐるやうだ。拾ふとあるから海底の玉ではない。
〔評〕 評語は平庸の二字に盡きるであらう。
 
風速浦舶泊之夜作(レル)歌二首
 
風逮浦は和名抄に「高田郡風速郷加佐波也」と見えてゐると、略解・占義などにあるが、高田郡は安藝の東(551)北隅の山地で、海に臨んでゐない。今、賀茂郡三津町の西方、三津灣に臨んで風早の地があるから、其處に違ひない。代匠記・考には備後とあるのも信じ難い。
 
3615 わが故に 妹歎くらし 風早の 浦の沖邊に 霧たなびけり
 
和我由惠仁《ワガユヱニ》 妹奈氣久良之《イモナゲクラシ》 風早能《カザハヤノ》 宇良能於伎敝爾《ウラノオキベニ》 奇里多奈妣家利《キリタナビケリ》
 
旅ニ出テ來タ私ヲ戀ヒ慕ツテ〔旅ニ〜傍線〕、私ノコト故ニ妻ガ歎クラシイ。アノ通リ今夜ハ〔七字傍線〕風早ノ浦ノ沖ノ方ニ霧ガ棚曳イテヰルヨ。アノ霧ハ妻ガ嘆イタ息ガ、霧ニナツタノデアラウ〔アノ〜傍線〕。
 
〔評〕出發に際して妻が贈つた君之由久海邊乃夜杼爾奇里多多婆安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢《キミガユクウミベノヤドニキリタタバアガタチナゲクイキトシリマセ》(三五八〇)を想ひ起して詠んだものである。眞面目に言つてゐる點が上代人らしい。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3616 沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子が 歎の霧に 飽かましものを
 
於伎都加是《オキツカゼ》 伊多久布伎勢波《イタクフキセバ》 和伎毛故我《ワギモコガ》 奈氣伎能奇里爾《ナゲキノキリニ》 安可麻之母能乎《アカマシモノヲ》
 
 
眺メルト今夜ハ沖ノ方ニハ、霧ガ棚曳イテヰルガ〔眺メ〜傍線〕、沖ノ風ガヒドク吹イタナラバ、私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ノ嘆ク息カラ出來タ霧ニ、充分飽クコトガ出來ルダラウノニ。風ヨ、此方ヘアノ霧ヲ吹キツケテ來ヨ〔風ヨ〜傍線〕。
 
○伊多久布伎勢波《イタクフキセバ》――甚く吹いたならば。セは過去助動詞キの未然形である。○奈氣伎能奇里爾《ナゲキノキリニ》――嘆息から出來た霧に。○安可麻之母能乎《アカマシモノヲ》――飽まで充分に浸らうものを。
〔評〕 これも前の歌と同じく、妻の歌を想ひ起して詠んでゐる。妻の嘆息から成る霧が沖に棚引いてゐるのを、(552)此方へ運んで來るやうに、風が甚く吹くことを希望してゐる。妻の息吹の霧に包まれたいといふ戀情がいたましい。
 
安藝國長門島(ニテ)舶(ヲ)泊(テテ)2礒邊(ニ)1作(レル)哥五首
 
長門島は卷十三に續乎成長門之浦丹《ウミヲナスナガトノウチニ》(三二四三)とある。安藝國安藝郡倉橋島のことである。
 
3617 石走る 瀧もとどろに 鳴く蝉の 聲をし聞けば みやこしおもほゆ
 
伊波婆之流《イハバシル》 多伎毛登杼呂爾《タギモトドロニ》 鳴蝉乃《ナクセミノ》 許惠乎之伎氣婆《コヱヲシキケバ》 京師之於毛保由《ミヤコシオモホユ》
 
岩ノ上ヲ越シテ、流レ落チル瀧ノ音ト一緒ニナツテ、盛ニ〔二字傍線〕鳴ク蝉ノ聲ヲ聞クト、都ノコトガ懷シク〔三字傍線〕思ヒ出サレルヨ。
 
○伊波婆之流《イハバシル》――多伎《タギ》の枕詞として用ゐられることもあるが、此處は實景を述べたものであらう。○多伎毛登杼呂爾《タギモトドロニ》――代匠記は瀧と蝉の聲と響き合つたのだと解し、考はこの句までを鳴の序詞としてゐる。次の歌によつて思ふに、代匠記説がよいやうである。
〔評〕 長門島はかなり大きな島であるから、磯の上を滑つて流れ落ちる清瀬があつたものと見える。その附近で鳴き頻つてゐる蝉の聲を聞いて、ふと都なつかしい情が湧いて來たのである。景を情と併せ寫し得て妙。
 
右一首大石蓑麿
 
この人の傳はわからない。蓑の字、西本願寺本その他、※[草がんむり/衣]に作つてゐる。
 
3618 山川の 清き川瀬に 遊べども 奈良の都は 忘れかねつも
 
(553) 夜麻河伯能《ヤマガハノ》 伎欲吉可波世爾《キヨキカハセニ》 安蘇倍杼母《アソベドモ》 奈良能美夜故波《ナラノミヤコハ》 和須禮可禰都母《ワスレカネツモ》
 
私ハ今コノ島ニ上陸シテ〔私ハ〜傍線〕山川ノ清イ川ノ瀬デ遊ンデヰルケレドモ、ソレニモ心ガ紛レズ〔九字傍線〕、奈良ノ都ヲ忘レカネルヨ。
 
○夜麻河泊能伎欲吉可波世爾《ヤマガハノキヨキカハセニ》――右の歌にある伊波婆之流多伎《イハバシルタギ》と同じもので、この島山から流れ出る清瀬である。
〔評〕 旅中好景に遊びつつも、故郷忘れ難き心を述べてゐる。下句は前の海原乎《ウナバラヲ》(三六一三)と同樣である。
 
3619 磯の間ゆ たぎつ山河 絶えずあらば またも相見む 秋かたまけて
 
伊蘇乃麻由《イソノマユ》 多藝都山河《タギツヤマカハ》 多延受安良婆《タエズアラバ》 麻多母安比見牟《マタモアヒミム》 秋加多麻氣※[氏/一]《アキカタマケテ》
 
磯ノ間カラ泡立ツテ流レル山川ノ水ガ〔三字傍線〕、絶エナイデヰルナラバ、歸途ニハ〔四字傍線〕秋ニナツテ、又コノ山川ヲ〔五字傍線〕見ヨウト思フ。
 
○秋加多麻氣※[氏/一]《アキカタマケテ》――秋片設けて。秋を待ち受けて。加多麻氣※[氏/一]《カタマケテ》を近づきての意とする説もあるが、ここに當らぬやうである。春冬片設而《ハルフユカタマケテ》(一九一)參照。
〔評〕 磯の巖頭から流れてゐる奔瀬に對して、この水が絶えないならば、秋になつて我は再びこの景を見るであらうといつてゐる。山河の如く吾が命が絶えずあらばと契沖以下の諸註にあるが、さう見ては三の句に自己の命を危ぶむ意を含んで不吉な歌となる。これは旅の幸をことほいでゐるのである。既に秋も近づいてゐるのに、秋になつたら歸途にここを通らうといふのは、歸を急ぐ旅のあはれな心情であらう。
 
3620 戀しげみ 慰めかねて ひぐらしの 鳴く島かげに 廬するかも
 
(554)故悲思氣美《コヒシゲミ》 奈具左米可禰※[氏/一]《ナグサメカネテ》 比具良之能《ヒグラシノ》 奈久之麻可氣爾《ナクシマカゲニ》 伊保利須流可母《イホリスルカモ》
 
家〔傍線〕戀シサガヒドクテ、心ヲ〔二字傍線〕慰メルコトガ出來ナイノデ、私ハ〔二字傍線〕、蜩ノ鳴ク島陰ニ舟ヲ止メテ〔五字傍線〕、小屋ヲカケテ宿ルヨ。
 
○故悲思氣美《コヒシゲミ》――戀の繁き故に。戀繁しとは戀ふる心の頻なるをいふ。
〔評〕 家なる妹を思つて淋しい胸を抱きつつ、蜩の鳴く鳥陰に小屋がけをして、宿る人の悲しい情緒があはれである。この作者としてはよい作であらう。
 
3621 吾が命を 長門の島の 小松原 幾代を經てか 神さびわたる
 
和我伊能知乎《ワガイノチヲ》 奈我刀能之麻能《ナガトノシマノ》 小松原《コマツバラ》 伊久與乎倍弖加《イクヨヲヘテカ》 可武佐備和多流《カムサビワタル》
 
(和我伊能知乎)長門ノ島ノ小松原ハ、幾年ノ間コンナニ〔四字傍線〕神々シク古ビテ居ルノダラウ。私モコノ松ノヤウニ長生シタイモノダ〔私モ〜傍線〕。
 
○和我伊能知乎《ワガイノチヲ》――長《ナガ》とつづく枕詞として用ゐてある。○奈我刀能之麻能《ナガトノシマノ》――奈我刀能之麻《ナガトノシマ》は今の倉橋島。○小松原《ユマツバラ》――下の句によると今の謂はゆる小松の原ではなく、相當に古い松原を言つたものである。○伊久與乎倍弖加可武佐備和多流《イクヨヲヘテカカムサビワタル》――幾年經たのでこんなに神さびてゐるのだらうといふのではなく、幾年の間こんなに神々しい姿をしてゐるのだらうといふのである。
〔評〕 海邊の年古る松原に對して、吾が身をことほいだもの。考に「松原を見てふりし世には小松原なりけんと(555)見しなり」とあるのは當らない。行く先々で見る物につけて無事をことほぎ、長命をいのるのが、旅行く人の心理である。
 
從2長門浦1舶出之夜仰(ギ)2觀(テ)月光(ヲ)1作(レル)歌三首
 
3622 つくよみの 光を清み 夕なぎに 水手の聲呼び 浦み漕ぐかも
 
月余美乃《ツクヨミノ》 比可里乎伎欲美《ヒカリヲキヨミ》 由布奈藝爾《ユフナギニ》 加古能己惠欲妣《カコノコヱヨビ》 宇良未許具可母《ウラミコグカモ》
 
今夜ハ〔三字傍線〕月ノ光ガ清イノデ、夕凪ニ船頭共ガ互ニ大聲デ〔五字傍線〕掛聲ヲカケ合ツテ、海岸ヲ漕イデ行クヨ。
 
○加古能古惠欲妣《カコノコヱヨビ》――水夫が掛聲をかけ合つて、卷四に朝名寸二水手之音喚《アサナギニカコノコヱヨビ》(五〇九)とある。古義に「水手を喚立て」とあるのは、違つてゐる。○字良未許具可母《ウラミコグカモ》――舊本、宇艮末《ウラマ》とあるのは、他の例によると宇良未《ウラミ》とあるべきである。
〔評〕 皎々たる月夜の船出、思ふだにも心がすがすがしい。併し前の月余美能比可里乎伎欲美《ツクヨミノヒカリヲキヨミ》(三五九九)と初二句が同樣で、三句以下は右にあげた卷四(五〇九)の長歌や、卷十三(三三三三)の長歌の句と似てゐるから、さして褒められない。和歌童蒙抄に載せてある。
 
3623 山の端に 月かたぶけば いざりする 海人のともしび 沖になづさふ
 
山乃波爾《ヤマノハニ》 月可多夫氣婆《ツキカタブケバ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻能等毛之備《アマノトモシビ》 於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》
 
山ノ端ニ月ノ影〔二字傍線〕ガ傾イテ月ガ入リ際ニナル〔十字傍線〕ト、漁ヲシテヲル漁師共ガ舟デ點ス〔五字傍線〕燈火ガ、沖デ浪ノ上ニ漂ツテヰ(556)ルノガ見エル〔傍線〕。
 
○月可多夫氣婆《ツキカタブケバ》――月が傾くと。月が西の山に近づいて入り際になると。○於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》――卷三に吉野川奧名豆颯《ヨシヌノカハノオキニナヅサフ》(四三〇)とあり、名豆颯《ナヅサフ》は水に漬ることであるが、ここは水面に漂つて見えることである。
〔評〕 月の入り方になつて、沖の漁火が一段ときらめいて見える景色である、古義に「西の山の瑞に入方近く月が傾けば、今一際漁火をてらして彼方此方に漕廻りつつ、海人の漁業《イザリ》するが見ゆとなり」とあるのは誤つてゐる。海上の夜景が目に浮ぶやうである。佳作。
 
3624 我のみや 夜船は漕ぐと 思へれば 沖邊の方に 楫の音すなり
 
和禮乃未夜《ワレノミヤ》 欲布禰波許具登《ヨフネハコグト》 於毛敝禮婆《オモヘレバ》 於伎敝能可多爾《オキベノカタニ》 可治能於等須奈里《カヂノオトスナリ》
 
私バカリガ夜舟ニ乘ツテ〔四字傍線〕漕イデ行クノカト思ツタラ、サウデハナク〔六字傍線〕沖ノ方デ櫓ノ音ガスルヨ。コンナニ辛イ思ヲシテ夜ノ舟旅ヲスル者ハ、私バカリデハナイト見エル〔コン〜傍線〕。
 
○和禮乃未夜欲布禮波許具登《ワレノミヤヨフネハコグト》――我のみ夜舟を漕ぐならむとの意。○於伎敝能可多爾《オキベノカタニ》――ベと言つてカタといふのは重複のやうであるが、ベは輕く添へてある。○可治能於等須奈里《カヂノオトスナリ》――ナリは詠嘆の助動詞。
〔評〕 遣新羅使一行中での屈指の佳作であらう。夜舟の淋しさが、人の心に沁み入るやうな、しんみりとした調子で詠まれてゐる。
 
古挽歌一首并短歌
 
舊本、古を右に誤つてゐる。西本願寺本その他によつて改めた。
 
3625 夕されば 葦邊に騷ぎ 明け來れば 沖になづさふ 鴨すらも 妻とたぐひて 吾が尾には 霜な降りそと 白妙の 羽指し交へて 打ち拂ひ さぬとふものを 逝く水の 還らぬ如く 吹く風の 見えぬが如く 跡も無き 世の人にして 別れにし 妹が著せてし なれ衣 袖片敷して 獨かも寢む
 
(557) 由布左禮婆《ユフサレバ》 安之敝爾佐和伎《アシベニサワギ》 安氣久禮婆《アケクレバ》 於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》 可母須良母《カモスラモ》 都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》 和我尾爾波《ワガヲニハ》 之毛奈布里曾等《シモナフリソト》 之路多倍乃《シロタヘノ》 波禰左之可倍※[氏/一]《ハネサシカヘテ》 宇知波良比《ウチハラヒ》 左宿等布毛能乎《サヌトフモノヲ》 由久美都能《ユクミヅノ》 可敝良奴其等久《カヘラヌゴトク》 布久可是能《フクカゼノ》 美延奴我其登久《ミエヌガゴトク》 安刀毛奈吉《アトモナキ》 與能比登爾之弖《ヨノヒトニシテ》 和可禮爾之《ワカレニシ》 伊毛我伎世弖思《イモガキセテシ》 奈禮其呂母《ナレゴロモ》 蘇弖加多思吉※[氏/一]《ソデカタシキテ》 比登里可母禰牟《ヒトリカモキム》
 
夕方ニナルト蘆ノ生エテヰル邊デ騷イデ啼〔三字傍線〕キ、夜ガ明ケルト沖デ浪ノ上〔四字傍線〕ニ漂ツテヰル鴨デスラモ、妻ト一緒ニ並ンデ、自分ノ尾ニハ霜ガカカルナト、白イ羽ヲ雌雄〔二字傍線〕互ニ差シ交シテ、霜ヲ打チ拂ヒツツ寢ルトイフモノダノニ、流〔二字傍線〕レテ行ク水ガ歸ラナイヤウニ〔傍線〕、空ヲ吹ク風ガ目ニ見ニナイヤウニ、一度コノ世ヲ去ツテ〔九字傍線〕跡方モナクナツタコノ〔二字傍線〕世ノ人トシテ、別レタ妻ガ〔二字傍線〕私ニ着セテ〔三字傍線〕クレタ、着古シノ着物ヲ、袖ヲ片敷イテ私ハ〔二字傍線〕獨デ今夜ハ〔三字傍線〕寢ルコトカナ。アアア悲シイ〔六字傍線〕。
 
○都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》――妻と並んで。○和我見爾波《ワガヲミハ》――舊訓ワガミニハとある、尾をミの音に用ゐた例は尠いが、卷五に等等尾加禰《トトミカネ》(八〇四)、布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》(八七五)などがあるから、訓めないことはないが、ここはヲと訓む方が穩やかである。卷九に前玉之小埼乃沼爾鴨曾翼霧己尾爾零置流霜乎掃等爾有斯《サキタマノヲサキノヌマニカモゾハネキルオノガヲニニフリオケルシモヲハラフトナラシ》(一七四四)とあるのも參考としたい。○之路多倍乃《シロタヘノ》――羽根につづいてゐるが、鴨とあるから白い羽根では理窟が合はぬといふので、霜が降つてゐるので白いのだと見る説と、白栲の衣と同じく、羽根は鳥の衣のやうなものだから、白栲のを羽根の枕詞式に用(558)ゐてゐるのだとする説がある。併しやはり言葉通り白い羽根と見るのが無難であらう。鴨でもいろいろの種類があるだらうし、作者もよい加減に用ゐたのであらうから、あまりやかましく言はぬ方がよからう。白い羽根だからといつて、鴎のこととするのは當らない。○波禰左之可倍※[氏/一]《ハネサシカヘテ》――羽根をさし交して、雌雄陸じき樣子である。○宇知波良比《ウチハラヒ》――霜を打拂ひ。○佐布等布毛能乎《サヌトフモノヲ》――サは接頭語。寢るといふのに。○由久美都能可敝良奴其等久布久可是能美延奴我其登久《ユクミヅノカヘラヌゴトクフクカゼノミエヌガゴトク》――姦十九の悲2世間無常1歌に吹風能見要奴我其登久逝水能登麻良奴其等久《フクカゼノミエヌガゴトクユクミヅノトマラヌゴトク》(四一六〇)とあるのと同樣で、無常觀をあらはす佛教式譬喩である。○安刀毛奈吉《アトモナキ》――痕跡なき。人が一度死ねば何物も跡を留めないからかくいふのである。卷三に跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思《アトモナキヨノナカニアレバセムスベモナシ》(四六六)とあるのと同樣である。○與能比登爾之弖《ヨノヒトニシテ》――世の人として。世の人であつて。○奈禮其呂母《ナレゴロモ》――着古した衣。
〔評〕 舟の中で古歌を誦詠したのを書いて置いたものか。於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》の一句が前の山乃波爾《ヤマノハニ》(三一二三)の歌にあるのと一致してゐるので、その連想からこの歌を誦つたのであらうとする説もあるが、この句の一致は偶然であらう。雌雄仲陸じい鴨と對照して、妻を失つた淋しさを悲傷してゐるが、組織は簡單である。佛教的の厭世思想が多く見えてゐる。
 
反歌一首
 
3626 鶴が鳴き 葦邊をさして 飛び渡る あなたづたづし 獨さ寢れば
 
多都我奈伎《タヅガナキ》 安之敝乎左之弖《アシベヲサシテ》 等妣和多類《トビワタル》 安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》 比等里佐奴禮婆《ヒトリサヌレバ》
 
妻ガ死ンダノデ〔七字傍線〕一人デ寢ルト嗚呼(多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類)頼リナイコトダ。
 
○多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類《タヅガナキアシベヲサシテトビワタル》――鶴が鳴いて葦の生えてゐる方を指して飛び渡るといふので、實景(559)を詠んだやうであるが、右の長歌の反歌とすれば、多頭多頭志《タヅタヅシ》の序詞と見なければならない。○安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》――多頭多頭志《タヅタヅシ》はたどたどしに同じで、心の落付かぬこと。
〔評〕 前の歌の反歌とすると、鴨に續いて鶴を引出して來て、序詞として多頭多頭志《タヅタヅシ》と言ひ出したのは仰々しく、事々しくて、いやな感じがする。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右丹比大夫|悽2愴《イタミナゲク》亡妻(ヲ)1歌
 
丹比大夫は誰ともわからない。丹比眞人の名が、卷二(二二六)、卷八(一六〇九)、卷九(一七二六)などに見えるが、同人とも斷じ難い。
 
屬(キテ)v物(ニ)發(ス)思(ヲ)歌一首并短歌
 
3627 朝されば 妹が手に纏く 鏡なす 三津の濱びに 大船に 眞楫繁貫き から國に 渡り行かむと 直向ふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈びき行けば 沖邊には 白波高み 浦廻より 榜ぎて渡れば 吾妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隱りぬ さ夜ふけて 行方》を知らに 吾が心 明石の浦に 船泊めて 浮宿をしつつ わたつみの 沖邊を見れば 漁する 海人の少女は 小船乘り つららに浮けり 曉の 潮滿ちくれば 葦邊には 鶴鳴き渡る 朝なぎに 船出をせむと 船人も 水手も聲よび 鳰鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ 吾が思へる 心和ぐやと 早く來て 見むと思ひて 大船を 榜ぎ吾が行けば 沖つ浪 高く立ち來ぬ よそのみに 見つつ過ぎゆき 多麻の浦に 船をとどめて 濱びより 浦磯を見つつ 哭く兒なす ねのみし泣かゆ 海神の 手纏の珠を 家づとに 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて 反し遣る 使無ければ 持てれども しるしを無みと また置きつるかも
 
安佐散禮婆《アササレバ》 伊毛我手爾麻久《イモガテニマク》 可我美奈須《カガミナス》 美津能波麻備爾《ミツノハマビニ》 於保夫禰爾《オホブネニ》 眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》 可良久爾爾《カラクニニ》 和多理由加武等《ワタリユカムト》 多太牟可布《タダムカフ》 美奴面乎左指天《ミヌメヲサシテ》 之保麻知弖《シホマチテ》 美乎妣伎由氣婆《ミヲビキユケバ》 於伎敝爾波《オキベニハ》 之良奈美多可美《シラナミタカミ》 宇良未欲理《ウラミヨリ》 許藝弖和多禮婆《コギテワタレバ》 和伎毛故爾《ワギモコニ》 安波治乃之麻波《アハヂノシマハ》 由布左禮婆《ユフサレバ》 久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》 左欲布氣弖《サヨフケテ》 由久敝乎之良爾《ユクヘヲシラニ》 安我己許呂《アガココロ》 安可志能宇良爾《アカシノウラニ》 布禰等米弖《フネトメテ》 宇伎禰乎詞都追《ウキネヲシツツ》 和多都美能《ワタツミノ》 於枳敝乎見禮婆《オキベヲミレバ》 伊射理須流《イサリスル》 安麻能乎等女波《アマノヲトメハ》 (560)小船乘《ヲブネノリ》 都良良爾宇家里《ツララニウケリ》 安香等吉能《アカトキノ》 之保美知久禮婆《シホミチクレバ》 安之辨爾波《アシベニハ》 多豆奈伎和多流《タヅナキワタル》 安左奈藝爾《アサナギニ》 布奈弖乎世牟等《フナデヲセムト》 船人毛《フナビトモ》 鹿子毛許惠欲妣《カコモコヱヨビ》 柔保等里能《ニホドリノ》 奈豆左比由氣婆《ナヅサヒユケバ》 伊敝之麻婆《イヘシマハ》 久毛爲爾美延奴《クモヰニミエヌ》 安我毛敝流《アガモヘル》 許己呂奈具也等《ココロナグヤト》 波夜久伎弖《ハヤクキテ》 美牟等於毛比弖《ミムトオモヒテ》 於保夫祢乎《オホブネヲ》 許藝和我由氣婆《コギワガユケバ》 於伎都奈美《オキツナミ》 多可久多知伎奴《タカクタチキヌ》 與曾能未爾《ヨソノミニ》 見都追須疑由伎《ミツツスギユキ》 多麻能宇良爾《タマノウラニ》 布禰乎等杼米弖《フネヲトドメテ》 波麻備欲里《ハマビヨリ》 宇良伊蘇乎見都追《ウライソヲミツツ》 奈久古奈須《ナクコナス》 禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》 和多都美能《ワタツミノ》 多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》 伊敝都刀爾《イヘヅトニ》 伊毛爾也良牟等《イモニヤラムト》 比里比登里《ヒリヒトリ》 素弖爾波伊禮弖《ソデニハイレテ》 可敝之也流《カヘシヤル》 都可比奈家禮婆《ツカヒナケレバ》 毛弖禮杼毛《モテレドモ》 之留思乎奈美等《シルシヲナミト》 麻多於伎都流可毛《マタオキツルカモ》
 
(安佐散禮婆伊毛我手爾麻久可我美奈須)三津ノ濱邊デ、大船ニ櫓ヲ澤山ニ貫イテ、韓國ニ渡ツテ行カウト、直グ向ヒニアル敏馬ヲサシテ、汐ガ滿チテ來ルノ〔七字傍線〕ヲ待ツテ、舟ノ通リ道ノ〔六字傍線〕水脈ヲ水先案内ヲ付ケテ沖ヘ出テ〔四字傍線〕行クト、沖ニハ白浪ガ高イカラ、岸ノ方カラ漕イデ行クト、(和伎毛故爾)淡路ノ島ハ、夕方ニナルト雲ニ隱レテシマツタ。夜ガ更ケテ何方ヘ行ツテヨイカ方向ガ分ラナイノデ、(安我己許呂)明石ノ浦ニ船ヲ止メテ、船ノ中デ〔四字傍線〕浮寢ヲシナガラ、海ノ沖ノ方ヲ見ルト、漁ヲシテヰル海士ノ女ドモハ、小舟ニ乘ツテ漁火ヲ點シテ〔六字傍線〕ズラリト並ン(561)テカンデヰル。曉ノ汐ガ滿ちて來ルト、蘆ノ生エテヰル〔六字傍線〕邊デハ鶴ガ啼イテ飛ンデヰル。朝風ノナイダ時ニ船出ヲシヨウト、船頭共モ水夫モカケ聲ヲシテ、(柔保等里能)波ニツカリナガラ漕イデ〔三字傍線〕行クト、家島ハ空ノ彼方〔三字傍線〕ニ遠ク〔傍線〕見エタ。家トイフ名カラシテ〔九字傍線〕、私ガイエ家ヲ戀シク〔五字傍線〕思フ心ガ慰ムカト、早クアノ島ヘ〔六字傍線〕行ツテ見ヨウト思ツテ、大船ヲ漕イデ私ガ行クト、沖ノ浪ガ高ク立ツテ來タ。ソレデ家島ヘハ寄ラ〔來タ〜傍線〕ナイデ、他所ニ見タバカリデ通ツテ行ツテ、玉ノ浦ニ舟ヲ止メテ、濱邊カラ浦磯ヲ見ナガラ、戀シサニ〔四字傍線〕泣ク兒ノヤウニ聲ヲ出シテ泣イテバカリヰル。海ノ神樣ガ手ニ卷イテヰル玉ヲ、家ノ土産ニ妻ニヤラウト、拾ヒ取ツテ袖ニ入レタガ、家ヘ屆ケテヤル使ガナイノデ、持ツテヰテモ何ノ〔二字傍線〕甲斐モナイカラトテ、又捨テテシマツタヨ。
 
○安佐散禮婆伊毛我手爾麻久可我美奈須《アササレバイモガテニマクカガミナス》》――見と言はむ爲の序詞。卷四の臣女乃匣爾乘有鏡成見津乃濱邊爾《タワヤメノクシゲニノレルカガミナスミツノハマベニ》(五〇九)とよく似てゐる。妹が手に卷くとは鏡の紐を手に持つことである。○多太牟可布《タダムカフ》――直向ふ。直接に相對してゐる。卷四に直向淡路乎過《タダムカフアハヂヲスギ》(五〇九)、卷六に御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦能《ミケムカフアハヂノシマニタダムカフミヌメノウラノ》(九四六)とある。○美奴面乎左指天《ミヌメヲサシテ》――美奴面《ミヌメ》は敏馬。今の神戸市東方西灘村地方。○美乎妣伎由氣婆《ミヲビキユケバ》――水脈即ち深いところを導き教へること。難波の三津に水先案内がゐたのである。○宇良未欲理《ウラミヨリ》――舊本、末とあるは未の誤である。○和伎毛故爾《ワギモコニ》――枕詞。吾妹子に逢ふの意で、淡路につづいてゐる。卷十に吾妹吾爾相坂山之《ワギモコニアフサカヤマノ》(二二八三)とあつた。○久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》――雲ゐに隱れぬの意。雲ゐは雲。ここは空ではない。○安我己許呂《アガココロ》――吾が心|清明《アカ》しの意で明石につづいてゐる。御心乎吉野乃國之《ミココロヲヨシヌノクニノ》(三六)の類で、上代の國民性があらはれてゐて嬉しい。○都良良爾宇家里《ツララニウケリ》――列々に浮けり。小舟が連なつて海上に浮んでゐるといふ意、前の歌に伊射里須流安麻能等毛之備於伎爾奈都佐布《イザリスルアマノトモシビオキニナヅサフ》(三六二三)とあるのと同じで、漁火を見ていつてゐる。○鹿子毛許惠欲妣《カコモコヱヨビ》――鹿子《カコ》は水手。船を漕ぐ男。○柔保等里能《ニホドリノ》――鳰鳥の。奈豆左比《ナヅサヒ》の枕詞として用ゐてある。鳰島はカイツブリ。○奈豆左比由氣婆《ナヅサヒユケバ》――ナヅサヒは浪に漂ふこと。○伊敏之麻波《イヘシマハ》――家島は播磨揖保郡の海上にある島。○安我毛敝流許已呂奈具也等《アガモヘルココロナグヤト》――わが家を思へ(562)る心が慰むかと。家島といふ名によつて言つてゐる。○多麻能宇良爾《タマノウラニ》――前に多麻能宇良爾安佐里須流多豆奈伎和多流奈里《タマノウラニアサリスルタヅナキワタルナリ》(三五九八)とあつたのと同所。多分備中の玉島の浦であらう。○和多都美能《ワタツミノ》――海の神の。○多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》――多麻伎《タマキ》は手に纏く玉即ち釧のことであらう。字鏡に釧 多萬伎とある。なほ上代には手纏《タマキ》と稱する小手の如きものがあつて、和名抄射藝具に「※[革+溝の旁]多末岐一云小手」とあるが、それとは同名異物である。
〔評〕 題に屬v物發v思とあるのは、家島を眺めて家を戀しく思つたといふのか、玉の浦で玉を拾つて妹をなつかしく思つたといふのか、はつきりしないが、大躰大まかにかうした題を置いたのであらう。難波の三津から玉の浦に至る間の航路と海上の情景が、面白く述べてある。家苞に拾つた海若のたまきの玉といふのは、海岸に打上げられてゐた白い石であらう。結句、旅情はよくあらはれてゐる。なほこの歌は長門浦の後に出てゐるがそれによつて、玉の浦を安藝にあるものと考へることは出來ない。併し作つた時日は長門の浦を過ぎてからと考へてもよい。
 
反歌二首
 
3628 多麻の浦の 沖つ白珠 拾へれど またぞ置きつる 見る人を無み
 
多麻能宇良能《タマノウラノ》 於伎都之良多麻《オキツシラタマ》 比利敝禮杼《ヒリヘレド》 麻多曾於伎都流《マタゾオキツル》 見流比等乎奈美《ミルヒトヲナミ》
 
玉ノ浦ノ沖ノ海ノ底ノ〔四字傍線〕白玉ヲ拾ツタケレドモ、ソレヲ手ニ取ツテ〔五字傍線〕見ル妻ガ此處ニハ〔四字傍線〕ヰナイカラ、ツマラナクテ〔六字傍線〕再ビ其處ヘ〔三字傍線〕捨テテシマツタ。
 
○見流比等乎奈美《ミルヒトヲナミ》――見る人は妻をいふ。新考に「見の下に須をおとせるならむ」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 長歌の末句を繰返したのみ。玉の浦で海神のたまきの玉を拾つたといふのは、實事かも知れないが、わざ(563)
 
3629 秋さらば 吾が船泊てむ わすれ貝 寄せ來て置けれ 沖つ白浪
 
安伎左良婆《アキサラバ》 和我布禰波弖牟《ワガフネハテム》 和須禮我比《ワスレガヒ》 與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》 於伎都之良奈美《オキツシラナミ》
 
秋ニナツタナラバ私ノ舟ガ再ビ此處ニ歸ツテ來テ〔十字傍線〕泊ルデアラウ。沖ノ白浪ヨ。ソレマデニ〔五字傍線〕忘貝ヲ打チ寄セテ來テ置ケヨ。ソノ時コソ珍ラシイ忘貝ヲ拾ツテ土産ニ持つて歸ラウ〔ソノ〜傍線〕。
 
○與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》――寄せて來て置けよの意。於家禮《オケレ》は置ケリの命令形である。下に之呂多侶能安我之多其呂宇思奈波受毛弖禮和我世故多太爾安布麻低爾《シロタヘノアガシタゴロウシナハズモテレワガセコタダニアフマデニ》(三七五一)ともある。
〔評〕 これも「秋さらば吾が舟泊てむ」と言つて、歸朝の近いことを信じてゐる。歸途には忘貝はさして要もなささうである。珍らしいものとして家苞にしたか。袖中抄に載つてゐる。
 
周防國|玖珂《クガ》郡|麻里布《マリフノ》浦(ヲ)行(ク)之時、作(レル)歌八首
 
玖珂郡は續紀に「養老五年四月丙申、分2周防國熊毛郡1置2玖珂郡1」とあり、和名抄に「玖珂、珂音如v鵞」と訓法を示してゐる。麻里布浦は略解に「鞠生今は佐波郡也」とあるが、佐波郡の海岸にはさういふ所はない。大日本地名辭書は「今詳ならずと雖、室木の浦即是なりと云ひ傳へ、近年麻里布村と改稱す」とある。岩國町の東方に當つてゐる。この邊は錦河の土砂を流して海を埋めてゐるから、上代とは著しく地形を異にしてゐるであらう。歌の訓序によつて考へると、やはりこのあたりであらねばならぬ。なほ熊毛郡の西南海岸に麻里府があるが、これと無關係である。
 
3630 眞楫貫き 船し行かずは 見れど飽かぬ 麻里布の浦に やどりせましを
 
(564)眞可治奴伎《マカヂヌキ》 布禰之由加受波《フネシユカズハ》 見禮杼安可奴《ミレドアカヌ》 麻里布能宇良爾《マリフノウラニ》 也杼里世麻之乎《ヤドリセマシヲ》
 
私ノ乘ツテヰル〔七字傍線〕舟ガ、楫ヲカケテ、漕イデ〔三字傍線〕行カナイナラバ、イクラ見テモ〔六字傍線〕見飽キナイ麻里布ノ浦ニ旅寢ヲシヨウノニ。舟ガ進ンデ行クノデ、コノ佳イ景色ヲ空シク通リ過ギテ行クノハ殘リ惜シイ〔舟ガ〜傍線〕。
 
○布禰之由加受波《フネシユカズハ》――船が行かないならば。シは強めていふのみ。○也杼里世麻之乎《ヤドリセマシヲ》――舊本、牟とあるのは乎の誤。類聚古集・西本願寺本などの古本多くは乎に作つてゐる。
〔評〕 景色の佳い麻里布の浦を、空しく通過することを惜しんでゐるだけで、平凡な歌である。
 
3631 いつしかも 見むと思ひし 粟島を 外にや戀ひむ 行くよしを無み
 
伊都之可母《イツシカモ》 見牟等於毛比師《ミムトオモヒシ》 安波之麻乎《アハシマヲ》 與曾爾也故非無《ヨソニヤコヒム》 由久與思乎奈美《ユクヨシヲナミ》
 
何時ニナツタナラバ、見ラレルカト思ツテ、樂シミニシテ來〔八字傍線〕タ粟島ヲ、其處ヘ〔三字傍線〕行クコトガ出來ナイノデ、立チ寄ラズニ〔六字傍線〕、他所ナガラ戀シク思ヒツツ〔五字傍線〕行クコトカヨ。殘念ダ〔三字傍線〕。
 
○安波之麻乎《アハシマヲ》――安波之麻は周防の近海にあるものと見えるが分らない。卷三の武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣《ムコノウラヲコギタムヲブネアハシマヲ》(三五八)卷四の直向淡路乎過粟島乎背爾見管《タダムカフアハヂヲスギアハシマヲソガヒニミツツ》(五〇九)などの粟島は淡路に近いところである。
〔評〕 粟島は上代人に餘程有名であつたと見える。今その島に近づきながら、航路から隔つてゐるので、空しく通過することを惜しんでゐるものである。平板。
 
3632 大船に かし振り立てて 濱清き 麻里布の浦に やどりかせまし
 
(565) 大船爾《オホブネニ》 可之布里多弖天《カシフリタテテ》 波麻藝欲伎《ハマキヨキ》 麻里布能宇良爾《マリフノウラニ》 也杼里可世麻之《ヤドリカセマシ》
 
私ノ乘ツテヰルコノ〔九字傍線〕大船ニ、舟ヲ繋ク爲ノ〔六字傍線〕※[爿+戈]※[爿+可]《カシ》トイフ棒〔四字傍線〕ヲ立テテ、舟ヲ繋イデ〔五字傍線〕、海岸ノ景色ノ佳イ麻里布ノ浦デ、旅寢ヲシヨウカ。出來ルナラ〔旅寢〜傍線〕宿リタイト思フ。
 
○可之布里多弖天《カシフリタテテ》――可之《カシ》は※[爿+戈]※[爿+可]、船を繋ぐ爲に岸に突き立てる杙である。卷七に舟盡可志振立而廬利爲名子江乃濱邊過不勝鳧《フネハテテカシフリタテテイホリセムナゴ》エノハマベスギカテヌカモ》(一一九〇)とある。
〔評〕 これも麻里布の浦に未練を殘してゐる歌。右の卷七の歌と略同樣である。
 
3633 粟島の 逢はじと思ふ 妹にあれや やすいも寢ずて 吾が戀ひ渡る
 
安波思麻能《アハシマノ》 安波自等於毛布《アハジトオモフ》 伊毛爾安禮也《イモニアレヤ》 夜須伊毛禰受弖《ヤスイモネズテ》 安我故非和多流《アガコヒワタル》
 
今後再ビ〔四字傍線〕(安波思麻能)逢フマイト思フ妻デアラウヤ。決シテサウデハナイ。又歸ツテ、再ビ妻ニ逢フコトモアルノニ、私ハ〔決シ〜傍線〕、安ラカニ落チ着イテ〔五字傍線〕寢ルコトモ出來ナイデ、妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思ヒ續ケテヰル。
 
○安波思麻能《アハシマノ》――附近にある島の名を以て枕詞を作つたもの。同音を繰返して、安淡自《アハジ》につづいてゐる。○伊毛爾安禮也《イモニアレヤ》――妹ならむや、妹にはあらざるをの意。略解に「妹が思ふものならば夢にも見ゆべきに、妹があはじとおもへばにや、我寐ねられず思ふと言ふ也」とあるのはよくない。
〔評〕 妻を思うて眠りかねる吾が腑甲斐なさを自から嘲つてゐる。粟嶋といふ近所の島を枕詞にしたのが作者の思付であらう。
 
3634 筑紫道の 可太の大島 しましくも 見ねば戀しき 妹を置きて來ぬ
 
(566)筑紫道能《ツクシヂノ》 可太能於保之麻《カダノオホシマ》 思末志久母《シマシクモ》 見禰婆古非思吉《ミネバコヒシキ》 伊毛乎於伎弖伎奴《イモヲオキテキヌ》
 
(筑紫道能可太能於保之麻)暫クノ間モ、見ナイデ居テハ、戀シイ妻ヲ家ニ〔二字傍線〕殘シテ來タ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○筑紫道能可太能於保之麻《ツクシヂノカダノオホシマ》――筑紫へ行く道にある可太の大島。可太の大島は、周防の大島である。下に大島鳴門とある大島で、一郡をなした大なる島である。古事記上卷に「次生2大島1亦名謂2大多麻流別1」とあるのもこの島である。可太はこの附近の古名らしい。新考に筑紫道の方の大嶋としたのは當らない。この二句はシマの音を繰返して思末志久母《シマシクモ》につづく序詞。
〔評〕これも前の歌と同じく、旅中嘱目するところを以て序詞を作つた點が取得である。併し於保之麻《オホシマ》から思末志久母《シマシクモ》へ繰返したのは、序詞として巧なものとは言はれない。袖中抄に出てゐる。
 
3635 妹が家ぢ 近くありせば 見れど飽かぬ 麻里布の浦を 見せましものを
 
伊毛我伊敝治《イモガイヘヂ》 知可久安里世婆《チカクアリセバ》 見禮杼安可奴《ミレドアカヌ》 麻里布能宇良乎《マリフノウラヲ》 見世麻思毛能乎《ミセマシモノヲ》
 
妻ガ居ル私ノ〔四字傍線〕家ヘ行ク道ガ近イナラバ、コノ見飽キノシナイ景色ノ良イ〔五字傍線〕麻里布ノ浦ヲ妻ニ〔二字傍線〕見セヨウノニ。家マデ遠イノデコノ佳イ景色ヲ見セラレナイノハ殘念ダ〔家マ〜傍線〕。
 
○伊毛我伊敝治《イモガイヘヂ》――妻の住んでゐる家へ行く道。即ち吾が故郷への道である。
〔評〕 平凡な歌である。初二句は拙い感じがする。
 
3636 家人は 歸り早來と 伊波比島 いはひ待つらむ 旅行く我を
 
(567)伊敝妣等波《イヘビトハ》 可敝里波也許等《カヘリハヤコト》 伊波比之麻《イハヒシマ》 伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》
 
家ニ居ル人ハ早ク歸ツテ來ルヤウニト、コノ〔二字傍線〕旅ニ出テヰル私ヲ(伊波比之麻)神樣ニ祈ツテ待ツテヰルノデアラウ。
 
○可敝里波也許等《カヘリハヤコト》――早歸り來といふに同じ。○伊波比之麻《イハヒシマ》――同音を繰返して次句につづく枕詞として用ゐてある。伊波比島は熊毛郡の海上、長島の西方にある島。小祝島と稱する小島がその西方に所屬してゐる。題の麻里布浦行之時を文字通りに解釋すると、此處にあるのはをかしいが、この八首は一地點で詠んだものでないであらうし、又通路に當る島名を前以て取入れて詠んだとも考へられる。但し熊毛郡の別府を麻里府と改稱した説によれば、祝島が此處にあつてよいわけである。○伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》――伊波比《イハヒ》は齋ひ。神を祭ること。
〔評〕 これも通路にあたる島の名を以て枕詞としただけである。内容は當時の習俗をそのまま詠んでゐる。
 
3637 草枕 旅行く人を いはひ島 幾代經るまで いはひ來にけむ
 
久左麻久良《クサマクラ》 多妣由久比等乎《タビユクヒトヲ》 伊波比之麻《イハヒシマ》 伊久與布流末弖《イクヨフルマデ》 伊波比伎爾家牟《イハヒキニケム》
 
コノ島ハ〔四字傍線〕(久左麻久艮)旅ニ出テヰル人ノ無事〔三字傍線〕ヲ神ニ祈ルト云フ名ノ〔九字傍線〕祝島デアルガ、ソノ名ノ通リ、今マデニ〔デア〜傍線〕幾年ニナルマデ旅人ノ無事ヲ〔六字傍線〕神ニ祈ツテ來タデアラウ。隨分久シイコトダラウ〔十字傍線〕。
〔評〕 少し曖昧な點がある。併し略解に「昔より旅行人を幾代經るまで齋《イハヒ》來りて、島の名に負けむと也」とあるやうに解するのは無理であらう。祝島といふ名によつて神を祝つたのである。前の歌と同じく、島の名によつて思ひついたことを詠んだ、旅中の即興で、淡い興味を以つて詠んだのである。
 
(568)過(ギテ)2大島鳴門(ヲ)1而經(タル)2再宿(ヲ)1之後追(ヒテ)作(レル)歌二首
 
大島鳴門は大島と玖珂郡大畠との間の海峽で、大畠瀬戸といつてゐる。省線大畠驛の前面の海がそれで、その間隔二百メートル位に見える所もある。激しい潮流がいつも渦を卷いてゐる。再宿を經たる後とあるからこの海峽を通過後二日の後に思ひ出して詠んだものと見える。
 
3638 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に 玉藻苅るとふ 海人少女ども
 
巨禮也己能《コレヤコノ》 名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》 宇頭之保爾《ウヅシホニ》 多麻毛可流登布《タマモカルトフ》 安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》
 
コレガアノカネテ聞イテヰタ〔八字傍線〕、ソノ名ノ通リ潮ガ鳴リ轟イテ流レル〔十字傍線〕鳴門ノ渦卷ク汐ノ中デ、玉藻ヲ苅ルト云フ海士ノ少女共ダナア。
 
○巨禮也己能《コレヤコノ》――これがあの。終を名詞で止めて、詠嘆的に言ひさめる語法。結句の安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》にかかつ(569)てゐる。卷一に 此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山《コレヤコノヤマトニシテハワガコフルキヂニアリトフナニオフセノヤマ》とある。○名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》――名に負ふは、各に持つてゐる。名のやうな。ここは鳴門の名に背かない意。鳴門は潮が烈しい音を立てて鳴る瀬戸。○宇頭之保爾《ウヅシホニ》――渦を卷く潮の中で。
〔評〕 題詞によれば大島鳴門で詠んだのではないが、歌は目前にその海人處女を見るやうに詠んでゐる。多麻毛可流登布《タマモカルトフ》とあるのは、藻を苅る業を見て言ふのではないやうだ。明快な調子だ。和歌童蒙抄に載せてある。
 
右一首田邊秋庭
 
秋庭の傳は明らかではない。
 
3639 浪の上に 浮宿せしよひ あど思へか 心がなしく 夢に見えつる
 
奈美能宇倍爾《ナミノウヘニ》 宇伎禰世之欲比《ウキネセシヨヒ》 安杼毛倍香《アドモヘカ》 許己呂我奈之久《ココロガナシク》 伊米爾美要都流《イメニミエツル》
 
私ガ〔二字傍線〕浪ノ上デ舟中ニ〔三字傍線〕浮寢ヲシタ夜ニ、家ニ殘シテ來タ妻ガ〔九字傍線〕何ト思ツタノデ、イトシクモ、妻ノコトガ私ノ〔七字傍線〕夢ニ見エタノデアラウカ。
 
○安杼毛倍香《アドモヘカ》――何と思へばか。卷十四に安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母《アドモヘカアジクマヤマノユヅルハノフフマルトキニカゼフカズカモ》(三五七二)とある。ナドをアドといふのは東語式の訛音であるが、他にその例がないのではない。○許己呂我奈之久《ココロガナシク》――我奈之久《ガナシク》はなつかしく、いとしく。
〔評〕 作者が明らかになつてゐないから、前に多く見えた人と同一人である。前の歌と關聯せしめて、鳴戸の孃子を夢に見たと解する説は誤つてゐる。
 
熊毛浦(ニ)船泊之夜、作(レル)歌四首
 
(570)和名抄に熊毛那熊毛郷の地が見えてゐる。郡の南端で今の佐賀・室津・伊保庄等の諸村を含む半島である。今の小郡の地を郡家とすれば、熊毛浦は恐らくその海岸であらう。
 
3640 都べに 行かむ船もが 刈菰の 亂れて思ふ 言告げやらむ
 
美夜故邊爾《ミヤコベニ》 由可牟船毛我《ユカムフネモガ》 可里許母能《カリコモノ》 美太禮弖於毛布《ミダレテオモフ》 許登都礙夜良牟《コトツゲヤラム》
 
都ノ方ニ行ク船ガアレバヨイガ。サウシタラバ私ガ心ガ〔サウ〜傍線〕(可里許母能)亂レテ妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思フコトヲ妻ニ〔二字傍線〕知ラセテヤラウ。
 
○可里許母能《カリコモノ》――枕詞。苅菰の如く亂れとつづく。○許登都礙夜良牟《コトツゲヤラム》――許登《コト》は言とも事とも解されるが、亂れて思つてゐることを告げてやらうといふのであらう。
〔評〕 心も亂れつつ妻を思つてゐることを、都にしらせてやりたいが、都の方へ行く舟があればよいといふのである。音信の不便であつた當時としては尤もな考であるが、かうした内容のものは尠くない。
 
右一首|羽栗《ハグリ》
 
羽栗は誰ともわからない。代匠記に「寶字五年十一月癸未授d迎2清河1使外從五位下高元度從五位上u其録事羽栗翔者留21清河所1而不v歸。この人にや。又略して氏のみをかけるか、名の脱たる歟」とある。この行にも録事として加つてゐたものか。
 
3641 曉の 家戀しきに 浦廻より 楫の音するは 海人少女かも
 
安可等伎能《アカトキノ》 伊敝胡悲之伎爾《イヘコヒシキニ》 宇良未欲理《ウラミヨリ》 可治乃於等須流波《カヂノオトスルハ》 安麻乎等女可母《アマヲトメカモ》
 
(571)夜明ケ方ニ家ヲ思ヒ出シテ〔六字傍線〕戀シイ時ニ、海岸カラ、櫓ノ音ガ聞エルノハ、海士ノ少女ガ舟ヲ漕イデ行クノ〔九字傍線〕デアラウカ。アノ音ヲ聞クト、益々家ガ戀シクナル〔アノ〜傍線〕。
 
○安可等伎能《アカトキノ》――曉にの意。○宇艮未欲里《ウラミヨリ》――舊本、末とあるは他の例によれば未《ミ》の誤である。
〔評〕 靜かな曉に櫓聲を聞いて、望郷の念のいや益すことを歌つてゐる。淋しい感情と靜かな海邊の景とが、しんみりとした調子に盛られてゐる。佳い作だ。但し古義のやうに「かれをきけば、いつしかあの如く船漕て、家の方には歸るべきと思はれて、さても殊更に家戀しく思はるるよとなり」と見るのは、あまり過ぎてゐる。あの船のやうに故郷に歸りたいといふ考は見えてゐない。
 
3642 沖邊より 潮滿ち來らし 韓の浦に 求食する鶴 鳴きて騷ぎぬ
 
於枳敝欲理《オキベヨリ》 之保美知久良之《シホミチクラシ》 可良能宇良爾《カラノウラニ》 安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》 奈伎弖佐和伎奴《ナキテサワギヌ》
 
沖ノ方カラ段々ニ〔三字傍線〕汐ガ滿チテ來ルラシイ。韓ノ浦デ餌ヲ〔二字傍線〕アサツテヰル鶴ガ鳴イテ騷イデヰル。
 
○可良能宇艮爾《カラノウラニ》――可良の浦は何處か明瞭でないが、周防の熊毛又は都濃郡内であらう。略解に「からの浦は筑前韓泊歟。長門赤間より今の道一里程有とぞ」とあり、古義もこれを踏襲してゐるのは、とんでもない説である。○安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》――餌を探してゐる鶴。
〔評〕 汐のさして來るにつれて、海邊が深くなるので、今まで靜かに餌をあさつてねた鶴が、遽に騷ぎ出したといふので、かの山部赤人の名歌、卷六の若浦爾鹽滿來者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡《ワカノウラニシホミチクレバカタヲナミアシベヲサシテタヅナキワタル》(九一九)には及ばないが、かなり躍動的の風景が描き出されてゐる。
 
3643 沖邊より 船人のぼる 呼びよせて いざ告げ遣らむ 旅の宿りを 一云、旅のやどりをいざ告げやらな
 
於吉敝欲里《オキベヨリ》 布奈妣等能煩流《フナビトノボル》 與妣與勢弖《ヨビヨセテ》 伊射都氣也良牟《イザツゲヤラム》 多婢(572)能也登里乎《タビノヤドリヲ》
 
(572)沖ノ方ヲ船頭ガ舟ヲ漕イデ都ノ方ヘ〔九字傍線〕上ツテ行クノガ見エル〔五字傍線〕。アノ舟ヲ〔四字傍線〕呼ビ寄セテ、私ガ此處ニ〔五字傍線〕旅宿リヲシテヰルコトヲ、サア家ヘ〔二字傍線〕告ゲテヤラウ。
 
○於伎敝欲里《オキベヨリ》――前の歌の初句とは少し違つて、沖の方をの意。源氏物語須磨に「沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎゆく」とあるに同じ。
〔評〕 都への通信の機會を得たことを喜んでゐる。上代人の旅にあつては、かういふことが、心からの滿悦であつたに違ひない。
 
一云 多妣能夜杼里乎《タビノヤドリヲ》 伊射都氣夜良奈《イザツゲヤラナ》
 
これは下の句の異傳である。四五の句が轉倒してゐるだけで殆どかはりはない。但し舊本、結句をイザツゲヤラムと訓んだのはよくない。
 
佐婆《サバノ》海中忽遭(ヒ)2逆風漲浪(ニ)1、漂流(シ)經宿(シテ)而後、幸(ニ)得2順風(ヲ)1、到2著(ス)豐前國|下毛《シモツミケ》郡|分間《ワクマ》浦(ニ)1、於v是追(ヒ)2怛(ミ)艱難(ヲ)1、悽※[立心偏+周](シテ)作(レル)歌八首
 
佐婆は周防國佐波郡。和名抄に佐波 波音馬とあつて、波は濁音である。今の三田尻地方である。その沖合遙かに佐波島といふ小島がある。ここに佐婆海中とあるは佐婆郡の沖合である。下毛郡は和名抄に上毛郡 加牟豆美介とあり、御木《ミケ》を上下に分つて、カムツミケ、シモツミケと訓んだのである。今、上毛は筑城と合して筑上郡となり、福岡縣に屬し、下毛は元のままで大分縣に屬してゐる。分間浦は今、明らかでないが、和田村大字田尻の沙嘴を間間埼といふから、分間は萬間(573)の誤であらうと言はれてゐる。略解に「分間浦は下毛郡に有て、分間をままともわくまとも言へりとぞ」とあるが、和間は字佐郡にあつて、遙かに距つてゐる。
 
3644 大君の 命恐み 大船の 行きのまにまに やどりするかも
 
於保伎美能《オホキミノ》 美許等可之故美《ミコトカシコミ》 於保夫禰能《オホフネノ》 由伎能麻爾末爾《ユキノマニマニ》 夜杼里須流可母《ヤドリスルカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕天子樣ノ仰ヲ畏ミ承ツテ、新羅ヘ行クガ、乘ツテヰル〔承ツ〜傍線〕大船ガ行ツテ泊ル所デ、何處デモ旅寢ヲスルヨ。思ヒモヨラズニコンナ所ニ泊ルコトニナツタ〔思ヒ〜傍線〕。
 
○於保夫禰能由伎能麻爾末爾《オホフネノユキノマニマニ》――乘つてゐる大船が行く所に隨つて、行當りばつたりで。この語は暴風に吹かれて意外な地に到着した意を持たせてゐる。
〔評〕 勅命のまにまに、風波に翻弄せられつつ、意外な地點に漂着して宿泊することになつたのを詠んだものだが、大君に對する責務に從ひ、旅の苦難は自己の運命と思ひあきらめて、些の怨嗟の氣分がないのは嬉しい。
 
右一首|雪宅麿《ユキノヤカマロ》
 
雪宅麿は下に雪連宅滿とある。雪は壹岐氏であらう。懷風藻には伊支連古麻呂があつて、目録には雪連と記してゐる。
 
3645 吾妹子は 早も來ぬかと 待つらむを 沖にや住まむ 家附かずして
 
 和伎毛故波《ワキモコハ》 伴也母許奴可登《ハヤモコヌカト》 麻都良牟乎《マツラムヲ》 於伎爾也須麻牟《オキニヤスマム》 伊敝都可受之弖《イヘツカズシテ》
 
(574)私ノ妻ハ私ガ〔二字傍線〕早ク家ニ歸ツテ〔五字傍線〕來ナイカト待ツテヰルデアラウノニ、私ハ中々〔四字傍線〕家ニハ近ヅカナイデ、海ノ上デ月日ヲ送ルコトカヨ。アア早ク歸リタイ〔八字傍線〕。
 
○伴也母許奴可登《ハヤモコヌカト》――早く來ないかと。早く來れよの意となる。但しヌを希望の助動詞とし、カを歎辭とする説は從ひ難い。○於伎爾也須麻牟《オキニヤスマム》――海路に長く日を經ることを、沖に住むといつたのである。○伊敝都可受之弖《イヘツカズシテ》――家に近づかずしての意。下に安波治之麻久毛爲爾見廷奴伊敝都久良之母《アハヂシマクモヰニミエヌイヘヅクラシモ》(三七二〇)とある。
〔評〕 歸京の期遠くして、徒らに海路に日を經るのを歎いてゐる。四句沖にや住まむといつたのは面白い。
 
3646 浦みより こぎ來し船を 風早み 沖つみ浦に やどりするかも
 
宇良未欲里《ウラミヨリ》 許藝許之布禰乎《コギコシフネヲ》 風波夜美《カゼハヤミ》 於伎都美宇良爾《オキツミウラニ》 夜杼里須流可毛《ヤドリスルカモ》
 
海岸カラ漕イデ來タ舟ダガ、風ガヒドイノデ、吹キヤラレテ〔六字傍線〕、沖ノ島ノ浦ニ漂着シテ其處デ〔七字傍線〕旅寢スルヨ。
 
○許藝許之布禰乎《コギコシフネヲ》――漕ぎ來し船なるに。○於伎都美宇良爾《オキツミウラニ》――沖つみ浦に。ミは接頭語のみ。意味はない。沖の島の浦であらう。古義に「奧《オキ》は匣などの底を奥といふに同じく、行つまりたる處をいふ。御《ミ》は例の美稱なり。さればここは海中にもあらず、海底にもあらず、海浦の入こみ行つまりたる處をいふ」とあるのは無理な解釋であらう。新考に「ミウラは眞心にてオキツウラは沖の眞中なるべし」とあるのも根據のない説である。
〔評〕 佐波の海中で暴風に遭つて、周防灘の眞中に吹きやられて、姫島などの岸に漂着したことを詠んだのであらう。その事件を歌つたものとしては叙述に力が足りない。
 
3647 わぎもこが 如何に思へか ぬばたまの 一夜もおちず 夢にし見ゆる
 
和伎毛故我《ワギモコガ》 伊可爾於毛倍可《イカニオモヘカ》 奴婆多末能《ヌバタマノ》 比登欲毛於知受《ヒトヨモオチズ》 伊米(575)爾之美由流《イメニシミユル》
 
家ニ殘ツテヰル〔七字傍線〕吾ガ妻ガ何ト思フカラカ(奴婆多末能)一晩モカカサズニ、私ノ〔二字傍線〕夢ニ妻ガ〔二字傍線〕見エルヨ。妻モ私ヲ思ツテヰルト見エル〔妻モ〜傍線〕。
 
○伊可爾於毛倍可《イカニオモヘカ》――如何に思へばか。○比登欲毛於知受《ヒトヨモオチズ》――一夜も洩れなく。
〔評〕 平明な歌である。下の宅守の歌に於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》(三七三八)とあり、その他かういふ内容も語例もかなり澤山ある。
 
3648 海原の 沖邊に燭し 漁る火は 明して燭せ 大和島見む
 
宇奈波良能《ウナバラノ》 於伎敝爾等毛之《オキベニトモシ》 伊射流火波《イザルヒハ》 安可之弖登母世《アカシテトモセ》 夜麻登思麻見無《ヤマトシマミム》
 
海ノ上ノ沖デ、トモシテ漁ヲシテヰル漁火ハ、モツト〔三字傍線〕、明ルク燭シテクレヨ。私ハ其ノ火デ私ノ故郷〔私ハ〜傍線〕ノ大和島ヲ見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○安可之弖登母世《アカシテトモセ》――明るくして燭せの意。古義に夜を明して燭せよと解してゐるが、夜を徹して如何に永く燭すとも、見えぬものは見えないわけだから、光力を増して明るくせよといふのである。○夜麻登思麻見無《ヤマトシマミム》――夜麻登思麻《ヤマトシマ》は大和國をさす。卷三に天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマザカルヒナノナガヂヲコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》(二五五)とある倭島《ヤマトシマ》も同じである。明石の地名とするのは大なる誤謬である。
〔評〕 沖に並んだ漁火を見て、あの明るさをもう少し増したなら、吾が故郷の大和が見えないことはあるまいと切な望郷の念から、ふとさう思つたのである。道理にはづれた幼い構想が、いたましくあはれでもある。
 
3649 鴨じもの 浮宿をすれば 蜷の腸 か黒き髪に 露ぞ置きにける
 
(576)可母自毛能《カモジモノ》 宇伎禰乎須禮婆《ウキネヲスレバ》 美奈能和多《ミナノワタ》 可具呂伎可美爾《カグロキカミニ》 都由曾於伎爾家類《ツユゾオキニケル》
 
浪ノ上ノ舟ノ中デ〔八字傍線〕(可母自毛能)浮寢ヲスルト、私ノ〔二字傍線〕(美奈能和多)黒イ髪ニ夜〔傍線〕露ガ下リタヨ。
 
○可母自毛能《カモジモノ》――枕詞。浮きに冠してある。鴨の如くの意。卷一に鴨自物水爾浮居而《カモジモノミヅニウキヰテ》(五〇)とあつた。○美奈能和多《ミナノワタ》――枕詞。可具呂伎《カグロキ》に冠す。蜷といふ貝の腸が黒いからである。この用例は卷五(八〇四)卷七(一二七七)卷十三(三二九五)卷十六(三七九一)、などにもある。
〔評〕 何でもない歌だが、海上浮寢の樣もしのばれて、あはれに悲しい。
 
3650 ひさかたの 天照る月は 見つれども 吾が思ふ妹に 逢はぬ頃かも
 
比左可多能《ヒサカタノ》 安麻弖流月波《アマテルツキハ》 見都禮杼母《ミツレドモ》 安我母布伊毛爾《アガモフイモニ》 安波奴許呂可毛《アハヌコロカモ》
 
私ガ待ツテヰタ〔七字傍線〕、(比左可多能)空ヲ照ラス月ハ漸ク〔二字傍線〕見タケレドモ、私ノ思フ妻ニハコノ頃逢フコトガ出來ナイヨ。早ク逢ヒタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○見都禮杼母《ミツレドモ》――見たけれども。待つてゐた月は出たけれどもの意。略解の一説に「滿れどもにて、日數のかさなる意にもあらむか」とあるのは誤つてゐる。「見る」と「逢ふ」とを對照せしめたので、滿つでは意味をなさない。
〔評〕 この數日空が曇つてゐて月を見ることが出來なかつたのが、久しぶりで漸く月を仰いだので、それに托して妻思ふ心を述べたのであらう。第三句を「滿つれども」とすれば、六月初句に出發して、十五日ばかり經過(577)したことになるが、右に述べたやうにさうは解釋し難い。下旬の闇が終つて、七月の新月を迎へたものとも考へられるが、七月七日以前に筑紫館に到着してゐたのであるから、此處で三日月を仰いだものとしては、少し日が合はぬやうである。なほ次の歌から見ても初句の月らしくない。月を見るにつけても妻を見る事の出來ないのを悲しむのは、少しわざとらしい點がないでもないが、旅愁はあらはれてゐる。
 
3651 ぬばたまの 夜渡る月は 早も出でぬかも 海原の 八十島の上ゆ 妹があたり見む
 
奴波多麻能《ヌバタマノ》 欲和多流月者《ヨワタルツキハ》 波夜毛伊弖奴香文《ハヤモイデヌカモ》 宇奈波良能《ウナバラノ》 夜蘇之麻能宇敝由《ヤソシマノウヘユ》 伊毛我安多里見牟《イモガアタリミム》 旋頭歌也
 
(奴波多麻能)夜空ヲ〔二字傍線〕通ル月ハ早ク出テ來ナイカヨ。私ハ〔二字傍線〕海ノ上ノ澤山ノ島ノ彼方ニ、懷シイ〔三字傍線〕妻ノ家ノ方ヲ月ノ光デ〔四字傍線〕眺メヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○波夜毛伊弖奴香文《ハヤモイデヌカモ》――早く出てくれよの意。
〔評〕 前の歌は月を見て詠んだもの。これは月を待つ歌であるから、同夜の作ではないであらう。但し、この歌を始に作つたものとすれば、同夜の作と見られないことはない。旋頭歌の形式を試みただけで、佳作とは言はれない。袖中抄に出てゐる。
 
至(リ)2筑紫館(ニ)1遙(ニ)望(ミ)2本郷(ヲ)1悽愴(シテ)作(レル)歌四首
 
筑紫館は筑紫の博多にあつた官設の宿泊所である。九洲萬葉地理考に、「この筑紫館は志賀島にあつた官立の旅館であつたと新考にはありますが、中山博士の説では、舊福岡城内即ち今の歩兵二十四聯隊の兵營構内にあつた對外的客館であつたとのことです。「古代博多」といふ論説中に、氏は『初に筑紫館(大津館)と呼び後に鴻臚館と稱するに至つた對外的客館の設立時代に關しては、(578)我正史には毫も之に就いて記載せる處が無いから、考古學的見地に立つて、遣物の例から之を決定せんとして、前に擧示した福岡城内發見の古瓦の紋樣を通覽すると、其中一個のものは平安朝時代後期の頃に比定すべきものであるが、他は皆奈良朝時代前期に推定すべきものであつて此時代に於て彼の地點に既に筑紫館が建設されてゐたのを知らしむるものである。而して此の瓦當紋檢査に際して吾人の最も注意を喚起するのは、掲出した六個の華瓦の當紋であつて、此物は嘗て私が水城西門址より發見したもの及び都府樓草庵の河邊勵雲師が都府樓址畔より得られた華瓦式中の最古式のものの一つと同紋のものである。此事より推察すれば、筑紫館なるものは、水城や都府樓と略々同時代の建造物といふべく、水城の築造が天智天皇の二年なることは正史の記する所で、都府樓即ち太宰府正廳の移轉に決したのが同帝の二年と三年との間なるべきことは前に論定した處である、隨つて筑紫館も亦大體に於て此頃に起工されたものと見て差支が無い事となるのである云云』と詳細に論ぜられゐます」とある。
 
3652 志珂の海人の 一日もおちず 燒く鹽の 辛き戀をも 我はするかも
 
之賀能安麻能《シカノアマノ》 一日毛於知受《ヒトヒモオチズ》 也久之保能《ヤクシホノ》 可良伎孤悲乎母《カラキコヒヲモ》 安禮波須流香母《アレハスルカモ》
 
故郷ヲ慕ツテ〔六字傍線〕(之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能)辛イ戀ヲ私ハシテヰルヨ。
 
○之賀能安麻能《シカノアマノ》――之賀《シカ》は志珂。筑前福岡灣の前面に島をなしてゐるが、今は海の中道の尖端と相接して、干潮時に徒渉することが出來る。○一日毛於知受也久之保能《ヒトヒモオチズヤクシホノ》――一日も洩れなく毎月燒く鹽の。ここまでの三句は辛きとつづく序詞である。○可良伎孤悲乎母《カラキコヒヲモ》――辛き戀は、つらい苦しい戀。
〔評〕 志珂島を眼前に眺めて、古歌を改作し思を述べたもの。即ち卷十一に牡鹿海部乃火氣燒立而燎塩乃辛戀毛吾爲鴨《シカノアマノケブリヤキタテヤクシホノカラキコヒヲモワレハスルカモ》(二七四二)の改作にすぎない。なほ卷十七に須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安禮波須(579)流香物《スマヒトノウミベツネサラズヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》(三九三二)も同型の作である。
 
3653 志珂の浦に 漁する海人 家人の 待ち戀ふらむに 明かし釣る魚
 
思可能宇良爾《シカノウラニ》 伊射里須流安麻《イザリスルアマ》 伊敝妣等能《イヘビトノ》 麻知古布良牟爾《マチコフラムニ》 安可思都流宇乎《アカシツルウヲ》
 
志珂ノ浦デ漁ヲシテヰル海人ヨ。家ノ人タチガ歸リヲ〔三字傍線〕待チ焦レテヰルダラウニ、夜ヲ明〔三字傍線〕カシテ燈火ヲツケテ〔六字傍線〕魚ヲ釣ツテヰルヨ。家業トハ言ヒナガラサゾ辛イデアラウ〔家業〜傍線〕。
 
○安可思都流宇乎《アカシツルウヲ》――安可思《アカシ》は夜を明かして、即ち徹夜しての意。燈火を明くしてと略解にあるのはよくない。
〔評〕 漁火を見てその業に同情したもの。家人の待ち戀ふるにも拘はらず、歸らむとして歸り難い吾が身を思ひくらべてゐるのである。第二句と第五何とを名詞止にしてゐるが、普通ならば第五句も明かし釣る海人とありさうなところを、魚で留めたのは型を破つてゐる。新考に「アカシツル可毛《カモ》」の誤かとあるのは臆斷に過ぎる。
 
3654 可之布江に 鶴鳴き渡る 志珂の浦に 沖つ白浪 立ち頻くらしも 一云、滿ち頻きぬらし
 
可之布江爾《カシフエニ》 多豆奈吉和多流《タヅナキワタル》 之可能宇良爾《シカノウラニ》 於枳都之良奈美《オキツシラナミ》 多知之久良思母《タチシクラシモ》
 
可之布江ニ鶴ガ啼イテ通ツテヰル。アレデ見ルト〔六字傍線〕志珂ノ浦ニ沖ノ白浪ガ頻リニ〔三字傍線〕立ツテ來ルラシイヨ。浪ノ高イ志珂ノ浦ヲケテ穩ヤカナ可之布江ニ行クモノト見エル〔浪ノ〜傍線〕。
 
○可之布江爾《カシフエニ》――可之布江《カシフエ》は香椎潟であらうと諸説が一致してゐる。仙覺抄に引いた筑前風土記に「到2筑紫國1例先參2謁于※[加/可]襲宮1、※[加/可]襲可紫比也」とあり、哥襲は古事記に筑紫※[言+可]志比宮、書紀に橿日浦、本集卷六に香椎廟・(580)香椎乃滷(九五七)香椎滷(九五八)(九五九)などと記したカシヒであらう。襲は音シフであつて、※[加/可]襲は即ちカシフであるから、古くカシフとも稱したものと見える。筑紫館の所在地を博多とすると、香椎では距離がありすぎるが、必ずしも筑紫館上の展望のみを歌つたのではあるまいから、香椎の方へ足を運んだ時の作と見ればよい。但し往古、博多附近に大きな入江があつたことは古圖に見え、それが卷三の草加江(三七五)だと地方人は稱してゐる。予はそれを草加江とする説に賛成するものではなく、或は可之布江ではないかとの疑も有してゐる。けれども古風土記の※[加/可]襲の用字が加之布に一致してゐるから、暫く香椎説に從つて置くのである。○多知之久良思母《タチシクラシモ》――立ち頻くらしも。頻りに立つてゐるらしいよ。立ちし來らしもと見るのはよくない。
〔評〕 可之布江のあたりを鳴き渡る鶴を見て、沖の方、志珂の浦では白波が頻りに立つてゐるのであらうと想像した歌。すがすがしい風景が詠まれてゐるが、この種のものには卷三の櫻田部鶴鳴渡年魚市方鹽干二家良進鶴鳴流《サクラダヘタヅナキワクルアユチガタシホヒニケラシタヅナキワタル》(二七一)卷六の若浦爾塩滿來者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡《ワカノウラニシホミチクレバカタヲナミアシベヲサシテタヅナキワタル》(九一九)などの類例が多い。
 
一云 美知之伎奴良思《ミチシキヌラシ》
 
これは第五句の異傳である。滿ち重きぬらし。白波が一面に頻りに立つたのであらうの意。滿ちし來ぬらしもと見るのはよくない。
 
3655 今よりは 秋づきぬらし あしびきの 山松かげに 蜩鳴きぬ
 
伊麻欲理波《イマヨリハ》 安伎豆吉奴良之《アキヅキヌラシ》 安思比奇能《アシビキノ》 夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》 日具良之奈伎奴《ヒグラシナキヌ》
 
今カラハ秋ラシクナツテ來タラシイ。(安思比奇能)山ノ松ノ木蔭デ蜩ガ鳴イテヰル。
 
○安伎豆吉奴良之《アキヅキヌラシ》――秋らしくなつて來たらしい。○夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》――山松は博多灣頭の、荒津の崎の山の松であらう。
(581)〔評〕 七月初旬山蔭に茅蜩の鳴く聲を聞いて、秋を感じたのである 。秋には歸路に就いてゐるつもりであつたが、筑紫で秋の聲を聞いた心地は、淋しかつたであらう。
 
七夕仰(ギ)2觀(テ)天漢(ヲ)1各陳(ベテ)v所(ヲ)v思(フ)作(レル)歌三首
 
これも筑紫館で、七夕を迎へての作であらう。
 
3656 秋萩に にほへるわが裳 ぬれぬとも 君が御船の 綱し取りてば 
 
安伎波疑爾《アキハギニ》 爾保敝流和我母《ニホヘルワガモ》 奴禮奴等母《ヌレヌトモ》 伎美我莫布禰能《キミガミフネノ》 都奈之等理弖婆《ツナシトリテバ》
 
秋ノ萩ノ花デ美シク染メタ私ノ裳ガ、濡レテモヨイカラ、貴方ノ御歸リノ時ニ乘ツテイラツシヤル〔ヨイ〜傍線〕御舟ノ網ヲ握ツテ、離サナイデ、貴方ヲ引キ止メルコトガ出來〔ツテ〜傍線〕ルナラバ着物ナドハドウデモカマヒマセヌ〔着物〜傍線〕。
 
○安伎波疑爾爾保敝流和我母《アキハギニニホヘルワガモ》――秋萩の花で染めた私の衣。織女の着てゐる裳を想像したのである。○伎美我美布禰能都奈之等理弖婆《キミガミフネノツナシトリテバ》――貴方の御舟の綱を手に取るならば、それで滿足だといふのである。綱を手にするのは牽牛星の歸らうとする時に、舟の綱を手に取つて引留るのだと、略解・古義などに見えるが、新考は彦星の舟の著かむとする時に、水におり立つて、織女星みづから舳綱を引寄せる趣に、よんだものと解してゐる。どちらにも解釋は出來るが、舟の到着した際に、裳を濡らしてまでも舳綱を曳く要があるとは思はれないから、舊説をとることにしよう。
〔評〕 織女星の心になつて詠んでゐる。萬里の波濤を越えて行く人ながら、七夕に當つて、星を祭り歌を詠ずるのを忘れなかつた風流は、なつかしい。この行事が如何に盛であつたかを證するものである。
 
右一首大使
 
(582)右に述べたやうに大使は阿倍朝臣繼麻呂である。次男を伴つて旅に出てゐるが、その次男には妻があつたから、大使は既に相當の老齡であつたらうに、海外に使して翌年正月歸途對馬に泊つて病の爲に卒したことを思へば、洵に氣の毒の至りである。
 
3657 年にありて 一夜妹に逢ふ 牽牛星も 我にまさりて 思ふらめやも
 
等之爾安里弖《トシニアリテ》 比等欲伊母爾安布《ヒトヨイモニアフ》 比故保思母《ヒコホシモ》 和禮爾麻佐里弖《ワレニマサリテ》 於毛布良米也母《オモフラメヤモ》
 
一年ノ間待ツテヰテ、唯〔六字傍線〕一晩妻ニ逢フト言ヒ傳ヘテアル〔八字傍線〕彦星デモ、私以上ニ妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思フデアラウカ。私ニハ到底及ブマイ〔九字傍線〕。
 
○等之爾安里弖《トシニアリテ》――一年の間待つてゐて。卷十に年有而今香將卷《トシニアリテイマカマクラム》(二〇三五)とある。○於毛布良米也母《オモフラメヤモ》――思ふらむや、思ひはしないの意。
〔評〕 七夕に際して、牽牛星に比して自己の妻を思ふ心境を歌つたもの。旅人らしい作である。拾遺集に人丸として出してゐる。
 
3658 夕月夜 影立ち寄り合ひ 天》の河 こぐ舟人を 見るがともしさ
 
由布豆久欲《ユフヅクヨ》 可氣多知與里安比《カゲタチヨリアヒ》 安麻能我波《アマノガハ》 許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》 見流我等母之佐《ミルガトモシサ》
 
夕方ノ月ノ出テヰル頃ニ、夕月ノ〔三字傍線〕影ト相立チ寄リ合ツテ、天ノ川ヲ舟ニ乘ツテ〔五字傍線〕漕イデ渡ル彦星ヲ見ルノガ、ウラヤマシイヨ。
 
○由布豆久欲《ユフヅクヨ》――夕方月が出てゐる夜に。これは七日の月である。○可氣多知與里安比《カゲタチヨリアヒ》――夕月の影が立ち寄(583)り合つて。牽牛星と月と相伴ふこと。○許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》――漕ぐ舟人は牽牛星をいふ。○見流我等母之佐《ミルガトモシサ》――等母之《トモシ》は羨まし。
〔評〕 夕月の空にかがやく頃、月を頂いて天の川を渡る牽牛星を想像して詠んでゐる。自分が旅にあつて妻に逢はれぬ悲しみから、久しぶりで妻に逢ふ牽牛星を羨む心はあはれである。
 
海邊望(ミテ)v月(ヲ)作(レル)歌九首
 
海邊とあるのは筑紫館のある博多灣の海岸である。以下の九首は、一も月を詠んだものはないが、月前に宴でも催した時の作であらう。
 
3659 秋風は ひにけに吹きぬ 吾妹子は 何時とか我を いはひ待つらむ
 
安伎可是波《アキカゼハ》 比爾家爾布伎奴《ヒニケニフキヌ》 和伎毛故波《ワギモコハ》 伊都登加和禮乎《イツトカワレヲ》 伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》
 
秋風ハ毎日吹イテ來タ。家ニ留守シテヰル〔八字傍線〕吾ガ妻ハ、私ガ何時ニナツタラ歸ツテ來ル〔十字傍線〕カト思ツテ、神樣ニ祈ツテ私ヲ〔二字傍線〕待ツテヰルデアラウカ。サゾ待ツテヰルデアラウニ〔サゾ〜傍線〕。
 
○和伎毛故波《ワギモコハ》――吾が妻は。大使の第二男ながら、既に妻があつたのである。大使がかなり老人であつたことが想像せられる。○伊都登加和禮乎《イツトカワレヲ》――古義はイツカトを顛倒したのだらう言つてゐるが、もとの儘でよい。
〔評〕 秋までには歸るといふことは、一行の人たちが都を出る時、名殘を惜しむ人々に言遺して來た言葉であらう。然るに既に七夕も過ぎて、日毎に秋風は吹き渡つてゐる。それにつけても故郷に待つ人を思ふ心が、いよいよ募るのである。淋しい歌だ。
 
(584)大使之第二男
 
大使の第二男の名は明らかでない。古義に「續紀に寶宇元年八月庚辰、正六位上阿倍朝臣繼人授2從五位下1と見ゆ。もしは此の人か」とある。
 
3660 神さぶる 荒津の埼に 寄する浪 間なくや妹に 戀ひ渡りなむ
 
可牟佐夫流《カムサブル》 安良都能左伎爾《アラツノサキニ》 與須流奈美《ヨスルナミ》 麻奈久也伊毛爾《マナクヤイモニ》 故非和多里奈牟《コヒワタリナム》
 
(可牟佐夫洗安良都能左伎爾與須流奈美)絶間モナク私ハ〔二字傍線〕、妻ヲ戀シク思ヒツヅケテヰルコトデアラウカ。
 
○可牟佐夫流安良津能先伎爾與須流奈美《カムサブルアラツノサキニヨスルナミ》――神々しい荒津の崎に打ち寄せて來る波の如く、間なくと次の句につづく序詞。荒津は今の福岡市西公園になつてゐる丘陵。福岡灣に突出してゐる。
〔評〕 眼前に見える荒津の崎の景を以て序詞を作つてゐる。歌は平凡。
 
右一首土師稻足
 
土師稻足の傳は全くわからない。
 
3661 風のむた 寄せ來る浪に 漁する 海人娘子らが 裳の裾濡れぬ
一云、海人の少女が裳の裾濡れぬ
 
可是能牟多《カゼノムタ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻乎等女良我《アマヲトメラガ》 毛能須素奴禮奴《モノスソヌレヌ》
 
風ノマニマニ打チ寄セテ來ル浪ノ爲ニ、漁ヲシテヰル海人ノ少女等ノ着テヰル〔四字傍線〕裳ノ裾ガ濡レタ。
 
(585)○可是能牟多《カゼノムタ》――風と共に。風のまにまに。○與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》――寄せ來る波の爲に。波の中での意ではない。
〔評〕 海岸で漁をしてゐる海人少女の樣を、見るがままに述べてゐる。凡作といつてよい。
 
一云 安麻乃乎等賣我《アマノヲトメガ》 毛能須蘇奴禮濃《モノスソヌレヌ》
 
四五の句の遺傳として出してあるが、四句が少し異なるのみである。
 
3662 天の原 振放け見れば 夜ぞふけにける よしゑやし 獨寢る夜は 明けば明けぬとも
 
安麻能波良《アマノハラ》 布里佐氣見禮婆《フリサケミレバ》 欲曾布氣爾家流《ヨゾフケニケル》 與之惠也之《ヨシヱヤシ》 比等里奴流欲波《ヒトリヌルヨハ》 安氣婆安氣奴等母《アケバアケヌトモ》
 
空ヲ遙カニ仰イデ見ルト、ドウヤラ〔四字傍線〕夜ガ更ケタヨ。エエモウ〔四字傍線〕ヨロシイヨ。獨デ寢ル晩ハ、明ケルナラ明ケテモカマハナイヨ。アア獨寢ハツライモノダ〔カマ〜傍線〕。
 
○與之惠也之《ヨシヱヤシ》――前にも多くあつた言葉であるが、ヨシはよろし。ヱとヤとシとは詠歎的に添へた助詞である。
〔評〕 空を仰いで夜の更けたのを知つたのは、月の傾いたのを指すのであらう。下の三句は捨鉢的な淋しさが詠まれてゐる。卷十一の旭時等鷄鳴成縱惠也思獨宿夜者開者雖明《アカトキトカケハナクナリヨシヱヤシヒトリヌルヨハアケバアケヌトモ》(二八〇〇)を模倣したらしい。袖中抄に出てゐる、
 
右一首旋頭歌也
 
3663 わたつみの 沖つ繩海苔 來る時と 妹が待つらむ 月は經につつ
 
和多都美能《ワタツミノ》 於伎都奈波能里《オキツナハノリ》 久流等伎登《クルトキト》 伊毛我麻都良牟《イモガマツラム》 月者倍爾都追《ツキハヘニツツ》
 
(586)モウ私ガ歸ツテ(和多都美能於伎都奈波能里)來ル時ト思ツテ、家ニ居ル〔七字傍線〕妻ガ待ツテヰルデアラウガ、ソノ〔三字傍線〕月ハ段々經ツテ行ク。
 
○於伎都奈波能里《オキツナハノリ》――奈波能里《ナハノリ》は繩海苔。繩のやうに細長い海藻。つるも〔三字傍点〕などの類であらう。ここまでの二句は繰るにつづく序詞。繩海苔を手繰り寄せて採る意である。○久流等伎登《クルトキト》――歸つて來る時だとて。來ると繰るとを懸けてある。
〔評〕 海岸で目に觸れる繩海苔を以て序詞を作つてゐる。歸ると妻に約した月が、早くも過ぎむとしてゐるのを歎いてゐる。
 
3664 志珂の浦に 漁する海人 明け來れば 浦みこぐらし 楫の音聞ゆ
 
之可能宇良爾《シカノウラニ》 伊射里須流安麻《イザリスルアマ》 安氣久禮婆《アケクレバ》 宇良未許具良之《ウラミコグラシ》 可治能於等伎許由《カヂノオトキコユ》
 
志珂ノ浦デ漁ヲシテ居ル海人ハ、夜明ニナルト、歸ツテ來テ〔五字傍線〕海岸ヲ漕グラシイ。アノ通リ〔四字傍線〕櫓ノ音ガ聞エルヨ。
 
○安氣久禮婆《アケクレバ》――夜明けが來ると。明けは動詞とも見られるが、多分、名詞であらう。
〔評〕 志珂島の浦近くで漁火をともしてぬた海人が、夜明になると博多方面へ歸つて來て、岸近くを漕ぐ櫓の音が聞えるといふので、筑紫館で月を眺めた翌朝の情趣である。實情はよくあらはれてゐる。
 
3665 妹を思ひ いの寢らえぬに 曉の 朝霧ごもり 雁がねぞ鳴く
 
伊母乎於毛比《イモヲオモヒ》 伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》 安可等吉能《アカトキノ》 安左宜理其問理《アサギリゴモリ》 可里我禰曾奈久《カリガネゾナク》
 
家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ヲ戀シク〔三字傍線〕思ツテ、睡ルコトガ出來ナイノニ、夜明ケ方ノ朝霧ニ隱レテ雁ガ鳴イテ通ル〔四字傍線〕ヨ。
 
(587)○伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》――寐《イ》の寢られぬに。眠ることが寢られないといふので、イは名詞である。舊本、禮とあるは禰の誤。類聚古集その他の古本、多く禰に作つてゐる。○安左宜理其問理《アサギリゴモリ》――其問理《ゴモリ》は隱れに同じ、集中、隱の字をコモリと訓んだ例が多い。
〔評〕 これも曉の旅愁を歌つてゐる 雁が音を點出したのが、哀感をあらはしてゐる。自由に空を飛ぶ雁を羨んだやうに見るのは誤である。
 
3666 夕されば 秋風寒し 吾妹子が ときあらひ衣 行きて早着む
 
由布佐禮婆《ユフサレバ》 安伎可是左牟思《アキカゼサムシ》 和伎母故我《ワキモコガ》 等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》 由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》
 
夕方ニナルト秋風ガ冷々ト膚〔四字傍線〕寒ク吹ク〔三字傍線〕ヨ。早ク家ニ歸ツテ〔七字傍線〕行ツテ、私ノ妻ガ私ノ爲ニ〔四字傍線〕解イテ洗ツテ、仕立テ直シタ衣服ヲ早ク着ヨウ。
 
○等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》――解いて洗つて仕立直した衣。卷七に橡解擢衣之《ツルバミノトキアラヒキヌノ》(一三一四)とある解濯衣も同じ。○由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》――歸つて行つて早く着たい。
〔評〕 悲しい歌だ。まだ往路のうちに、こんなことを歌つてゐる旅人の心中は、同情に堪へない。解濯衣は家なる妻の手業を思ひ浮べたもので、妻戀ふる心のあらはれである。拾遺集に「もろこしにつかはしける時によめる」と題して、人丸の歌としてある。
 
3667 わが旅は 久しくあらし この吾がける 妹が衣の 垢づく見れば
 
和我多妣波《ワガタビハ》 比左思久安良思《ヒサシクアラシ》 許能安我家流《コノアガケル》 伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》 阿(588)可都久見禮婆《アカヅクミレバ》
 
コノ私ガ着テヰル妻ノ着物ガ、垢ガツイタノデ見ルト、私ノ旅モ久シクナツタラシイ。
 
○許能安我家流《コノアガケル》――此の吾が着る。この私が着てゐる。ケはキの轉音である。○伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》――旅に出る時、我に着よとて贈つた妻の衣。古は下着の衣は男女共通の形式になつてゐたから、女の着物を男が着ることが出來たのである。
〔評〕 出立に際して妻が贈つてくれた着物が、垢に汚れたのを見て、いつしか旅の長くなつたのを痛感した歌。あはれな作だ。卷二十の多妣等弊等麻多妣爾奈理奴以弊乃母加枳世之己呂母爾阿加都枳爾迦理《タビトイヘドマタビニナリヌイヘノモガキセシコロモニアカツキニカリ》(四三八八)と内容全く同じであるが、これは天平八年、かれは天平勝寶七歳であるから、この方が早いわけだ。
 
到(リテ)2筑前國志麻郡之|韓亭《カラトマリニ》1、舶泊(テテ)經(ケリ)2三日(ヲ)1於v時夜月之光皎皎(トシテ)流照(ス)、奄《タチマチ》對(シテ)2此華(ニ)1旅情悽噎、各陳(ベテ)2心緒(ヲ)1聊以(テ)裁(セル)歌六首
 
志麻郡は今は怡土《イト》郡と合して、糸島郡と稱してゐる。韓亭は次の歌に可良等麻里《カヲトマリ》といつてゐるから、カラトマリと訓むのである。和名抄に志麻郡|韓良《カラ》郷とあるところである。亭は宿舍であらう。下に能許能等麻里《ノコノトマリ》・引津亭・狛島亭とある。福岡灣の西に位置し、能古島と相對してゐる。古く韓泊・唐泊とも記してある。奄は忽ち。此華は下に於是瞻2望物華1とあるから、これも物の字が脱ちたのではないかと言はれてゐる。此景色の意であらう。悽噎は悲しみ咽ぶ。裁は作る。
 
3668 大君の 遠のみかどと 思へれど け長くしあれば 戀ひにけるかも
 
於保伎美能《オホキミノ》 等保能美可度登《トホノミカドト》 於毛敝禮杼《オモヘレド》 氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》 古非爾家流可母《コヒニケルカモ》
 
(589)此處ハ太宰府ノ管轄内デ〔十字傍線〕、天子樣ノ遠クノ役所デ、都ニ次イダ良イ所〔九字傍線〕ダトハ思フケレドモ、旅ニ出テ〔四字傍線〕、久シクナルカラ、此處デモ心ガ慰マナナイデ、ヤハリ都ヲ〔此處〜傍線〕戀シク思フヨ。
 
○等保能美可度登《トホノミカドト》――等保能美可度《トホノミカド》は遠くにある役所。美可度《ミカド》は御門の意から轉じて御所・天皇・朝廷・役所などに用ゐる。ここは太宰府を指してゐる。大君の遠の役所と思ふとは、大君の役所たる太宰府の所在地で、都に次いだよい所だとは思ふがの意。この語の用例はかなり多い。新解には「わが國土の外邊の地」とあるが、美可度《ミカド》はやはり朝廷の義から轉じて政廳の義に用ゐたものと思はれる。○氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》――日が長く經つたので 日數が多く重なつたから。ケは日《カ》の轉。
〔評〕 韓亭にあつて於保伎美能等保能美可度登於毛敝禮杼《オホキミノトホノミカドトオモヘレド》といふのはをかしいやうだが、ここも太宰府に近く、筑前の國内であるからである。卷六の山部赤人作、不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生《イナミヌノアサヂオシナベサヌルヨノケナガクシアレバイヘシシヌバユ》(九四〇)に少し似てゐる。
 
(590)右一首大使
 
3669 旅にあれど 夜は日燭し 居る我を 闇にや妹が 戀ひつつあるらむ
 
多妣爾安禮杼《タビニアレド》 欲流波火等毛之《ヨルハヒトモシ》 乎流和禮乎《ヲルワレヲ》 也未爾也伊毛我《ヤミニヤイモガ》 古非都追安流良牟《コヒツツアルラム》
 
私ハ〔二字傍線〕旅ニ居ルケレドモ、夜ニナルト、燈火ヲ點シテ暗イコトモナク過シテ〔十字傍線〕居ルノニ、コノ〔二字傍線〕私ヲ、心モ〔二字傍線〕暗ニナツテ、妻ガ家デ、戀ヒ慕ツテヰルデアラウ。
 
○乎流和禮乎《ヲルワレヲ》――居る我なるをの意。ヲは目的格を示す助詞とも見られるが、さうではあるまい。○也未爾也伊毛我《ヤミニヤイモガ》――戀しさに心も暗くなつて、妹が我を戀しがつてゐるだらうといふのである。闇の中で燈火もつけずにといふのではない。
〔評〕 火燭しに對して闇を用ゐた細工は、萬葉集には全く珍らしい。かうした後世ぶりの技巧が、そろそろ出來かけてゐるのである。
 
右一首大判官
 
大判官は續紀によれば、從六位上壬生使主宇太麻呂である。
 
3670 韓亭 能許の浦波 立たぬ日は あれども家に 戀ひぬ日はなし
 
可良等麻里《カラトマリ》 能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》 多多奴日者《タタヌヒハ》 安禮杼母伊敝爾《アレドモイヘニ》 古非奴日者奈之《コヒヌヒハナシ》
 
コノ私ガ居る〔六字傍線〕韓亭ノ能許ノ浦ノ浪ハ、立タナイ日ハアルケレドモ、私ハ〔二字傍線〕家ヲ戀シク思ハナイ日ハアリマセヌ。
(591)○能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》――能許の浦は殘《ノコ》島の周圍の海をさしたのである。殘島は福岡灣口の中央に横はつてゐて、唐泊に相對しその間約二里を距ててゐるが、すぐ目の前であるから、唐泊に立つ波を能許の浦波といつたのである。下に唐泊を能許能等麻里《ノコノトマリ》(三七六三)と言つたのも、その爲である。○安禮杼母伊敝爾《アレドモイヘニ》――安禮杼母《アレドモ》は前の句につづき、イヘニは家をに同じ。
〔評〕 有りと無しとを對照せしめてゐる。古今集の「駿河なる田子の浦波たたぬ日はあれども君を戀ひぬ日はなし」はこれを改作したものであらう。
 
3671 ぬばたまの 夜渡る月に あらませば 家なる妹に 逢ひて來ましを
 
奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲和多流月爾《ヨワタルツキニ》 安良麻世婆《アラマセバ》 伊敝奈流伊毛爾《イヘナルイモニ》 安比弖許麻之乎《アヒテコマシヲ》
 
(592)(奴波多麻乃)私ガ〔二字傍線〕夜空ヲ通ル月デアツタナラバ、家ニ在ル妻ニ一寸〔二字傍線〕行ツテ逢ツテ來ヨウノニ。月デナイカラ空ヲ通ツテ妻ニ逢つて來ルコトガ出來ナイノハ悲シイ〔月デ〜傍線〕。
 
○奴波多麻乃《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○安良麻世婆《アラマセバ》――あつたらうならば マセはマシカバに同じ。
〔評〕 空を渡り行く月を見て、月ならば空から通つて來る妻に、逢つて來ようものをと羨んでゐる。月に寄せてこんな言方をするのは珍らしい。袖中抄に載せてある。
 
3672 ひさかたの 月は照りたり いとまなく 海人の漁火は 燭し合へり見ゆ
 
比左可多能《ヒサカタノ》 月者弖利多里《ツキハテリタリ》 伊刀麻奈久《イトマナク》 安麻能伊射里波《アマノイザリハ》 等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》
 
(比左可多能)月ハ空ニ皎々ト〔五字傍線〕輝イテヰル。サウシテ〔四字傍線〕暇モナク絶エズ〔三字傍線〕、海人ノ漁火ハ海上ニ〔三字傍線〕アチコチ燭シテヰルノガ見エル。マコトニ明ルイ美シイ晩ダ〔マコ〜傍線〕。
 
○伊刀麻奈久《イトマナク》――暇なく。絶え間なく休む間もなくの意。○等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》――燭しあつてゐるのが見える。燭しあふとは、彼方此方に漁夫どもが漁火を燭してゐるをいふ。波立見《ナミタテルミユ》(二七八)波立有所見《ナミタテルミユ》(一一八二)の例によればアヘルミユといふのが普通であるが、船出爲利所見《フナデセリミユ》(一〇〇三)の如き用例もあつて、アヘリミユも亦古格である。
〔評〕 空も海も、共に皎々として明るい景色を捉へてゐる。一寸變つた歌だ。
 
3673 風吹けば 沖つ白浪 恐みと 能許のとまりに 數多夜ぞ宿る
 
可是布氣婆《カゼフケバ》 於吉都思良奈美《オキツシラナミ》 可之故美等《カシコミト》 能許能等麻里爾《ノコノトマリニ》 安麻多欲曾奴流《アマタヨゾヌル》
 
風ガ吹クト、沖ノ白浪ガ立ツノガ〔四字傍線〕恐ロシサニ、私ノ乘ツテヰル舟ハ沖ヘハ出ナイデ〔私ノ〜傍線〕、能許ノ港デ幾晩モ泊ルヨ。
 
(593)○能許能等麻里爾《ノコノトマリニ》――能許の泊は能許島にあるのではなく、韓亭と同所である。前の能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》(三六七〇)の項參照。
[評〕 玄海の白波を眺めて、恐ろしさに船出も得せず、唐泊の港に假泊すること三日に及んだ事情が詠まれてゐる。古代の海路の旅の實感が、まざまざとあらはれてゐる。
 
引津亭(ニ)舶泊(テテ)之作(レル)歌七首
 
引津亭は引津浦の宿舍。引津浦は糸島郡の北部で芥屋の大門の岬を廻ると東に入り込んで灣をなしてゐる。その東に可也山が聳えてゐる。梓弓引津邊在莫謂花《アヅサユミヒキツノベナルナノリソノハナ》(一二九九)(一九三〇)の引津《ヒキツ》も同所であらう。舶泊之の下に夜又は時の字が脱ちたのであらうとする説が多い。併しここにはかなり長く滯在してゐたのだから、夜でない。時でも落つきが惡い。
 
3674 草枕 旅を苦しみ 戀ひ居れば 可也の山邊に さを鹿鳴くも
 
(594)久左麻久良《クサマクラ》 多婢乎久流之美《タビヲクルシミ》 故非乎禮婆《コヒヲレバ》 可也能山邊爾《カヤノヤマベニ》 草乎思香奈久毛《サヲシカナクモ》
 
(久左麻久良)旅ガ難儀デ〔三字傍線〕苦シイノデ、家ヲ〔二字傍線〕戀シク思ツテヰルト、近所ノ〔三字傍線〕可也ノ山ノ邊デ、男鹿ガ淋シイ聲ヲ出シテ〔七字傍線〕啼クヨ。アレモ妻ガ戀シイト見エル〔アレ〜傍線〕。
 
○可也能山邊爾《カヤノヤマペニ》――可也の山は糸島郡の北部に聳えた山で、その西麓に引津がある。その形が富士に似てゐるので小富士と呼ばれてゐる。○草乎思香奈久毛《サヲシカナクモ》――サは接頭語で意味はない。男鹿がなくよ。
〔評〕 妻を戀ふる心から、牡鹿の聲を妻戀ふるものとして、同情を以て聞いてゐる。
 
3675 沖つ浪 高く立つ日に あへりきと 都の人は 聞きてけむかも
 
於吉都奈美《オキツナミ》 多可久多都日爾《タカクタツヒニ》 安敝利伎等《アヘリキト》 美夜古能比等波《ミヤコノヒトハ》 伎吉弖家牟可母《キキテケムカモ》
 
私ガ旅行中ニ沖〔七字傍線〕ノ浪ガ高ク立ツ時化ノ〔三字傍線〕日ニ出會ツテ、辛イ航海ヲシタ〔三字傍線〕トイフコトヲ、都ニ居ル家〔四字傍線〕ノ人ハ聞イタデアラウカ。聞イタラサゾ驚クダラウ〔聞イ〜傍線〕。
 
○美夜古能比等波《ミヤコノヒトハ》――都の人は主として家人をさしてゐる。
〔評〕 沖つ浪の高く立つ大風の日に逢つたといふのは、佐婆の海上で逆風波浪に遭つて、豐前下毛郡分間の浦に漂着した時のことを思ひ出したものらしい。四五の句に家人を思ふ情が、それとなく、にじみ出てゐる。
 
右二首大判官
 
3676 天飛ぶや 雁を使に 得てしがも 奈良の都に 言告げ遣らむ
 
(595)安麻等夫也《アマトブヤ》 可里乎都可比爾《カリヲツカヒニ》 衣弖之可母《エテシカモ》 奈良能弥夜故爾《ナラノミヤコニ》 許登都礙夜良武《コトツゲヤラム》
 
空ヲ飛ンデ通ル雁ヲ使トシテ得タイモノダ。サウシタラバソレニ頼ンデ〔サウ〜傍線〕、奈良ノ都ノ私ノ家〔四字傍線〕ニ、音信ヲシヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○安麻等夫也《アマトブヤ》――天飛ぶや。空を飛ぶ。也《ヤ》は詠歎の助詞として添へてある。○許登都礙夜良武《コトツゲヤラム》――許登《コト》は言。消息を傳へたいといふのである。
〔評〕 古事紀輕太子の歌に阿麻登夫登理母都加比曾多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥《アマトブトリモツカヒゾタヅガネノキコエムトキハワガナトハサネ》とあり、本集卷十一にも妹戀不寐朝明男爲鳥從是此度妹使《イモニコヒイネヌアサケニヲシドリノココユワタルハイモガツカヒカ》(二四九一)とあるが、この雁を使とすることは、蘇武の雁信の故事から思ひついたものであらう。この歌、拾遺集別の部に「もろこしにて」と題し、柿本人丸「天飛ぶや雁の使にいつしかも奈良の都にことづてやらむ」と載せてあるのは妄の甚だしいものだ。
 
3677 秋の野を にほはす萩は 咲けれども 見るしるしなし 旅にしあれば
 
秋野乎《アキノノヲ》 爾保波須波疑波《ニホハスハギハ》 佐家禮杼母《サケレドモ》 見流之留思奈之《ミルシルシナシ》 多婢爾師安禮婆《タビニシアレバ》
 
秋ノ野原ヲ美シク色ドル萩ノ花ガ咲イテ、大層良イ景色ダ〔九字傍線〕ケレドモ、妻ト別レテ私ハ〔七字傍線〕旅ニ出テヰルカラ、妻ヲ思フ心ノ悲シサニ、コノ良イ景色モ〔妻ヲ〜傍線〕見ル甲斐ガナイ。少シモ面白イトハ思ハナイ〔少シ〜傍線〕。
 
○爾保波須波疑波《ニホハスハギハ》――匂はす萩は。爾保波須《ニホハス》は美しく色どること。
〔評〕 秋野の萩を見て、妻を携へない旅の悲しさを、つくづくと感じてゐる。
 
3678 妹を思ひ いの寢らえぬに 秋の野に さを鹿鳴きつ 妻おもひかねて
 
(596)伊毛乎於毛比《イモヲオモヒ》 伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》 安伎乃野爾《アキノヌニ》 草乎思香奈伎都《サヲシカナキツ》 追麻於毛比可禰弖《ツマオモヒカネテ》
 
家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ヲ思ツテ、夜〔傍線〕睡ラレナイノニ、秋ノ野原デ、妻戀シサニ堪ヘカネテ、男鹿ガ啼イテヰルヨ。アレモ私ト同ジヤウニ悲シイト見エル〔アレ〜傍線〕。
○追麻於毛比可禰弖《ツマオモヒカネテ》――妻を思ふ情に堪へかねて。
〔評〕 秋の野は可也の山の麓なる引津の野であらう。前の久左麻久艮《クサマクラ》(三六七三)の歌と同趣同巧である。
 
3679 大船に 眞楫繁貫き 時待つと われは思へど 月ぞ經にける
 
於保夫禰爾《オホブネニ》 眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》 等吉麻都等《トキマツト》 和禮波於毛倍杼《ワレハオモヘド》 月曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》
 
私ハ〔二字傍線〕大船ニ楫ヲ澤山ニ貫イテ、船出スルノニヨイ〔八字傍線〕時ヲ待ツト、私ハ思ツテヰルガ、海ガ荒クテ出帆ニヨイ時ガ來ナイノデ、空シク此處デ〔海ガ〜傍線〕、一月經ツテシマツタ。
 
○等吉麻都等《トキマツト》――船出によき時を待つとて。即ち順風の吹くのを待つのである。代匠記に潮時を待つと解したのに從ふ説が多いのは遺憾である。潮時を待つて月を過す筈はない。
〔評〕 順風を待つて玄海へ乘り出さうとして、引津の亭にかなり長く滯在してゐたのである。その間の焦燥感が思ひやられる。
 
3680 夜を長み いの寝らえぬに あしびきの 山彦とよめ さを鹿鳴くも
 
欲乎奈我美《ヨヲナガミ》 伊能年良延奴爾《イノネラエヌニ》 安之比奇能《アシヒキノ》 山妣故等余米《ヤマビコトヨメ》 佐乎思(597)賀奈君母《サヲシカナクモ》
 
私ハ〔二字傍線〕夜ガ長イノデ、睡ラレナイノニ(安之比奇能)山彦ヲ反響サセテ、男鹿ガ啼クヨ。悲シクテ益々睡ラレナイ〔悲シ〜傍線〕。
 
○山妣古等余米《ヤマビコトヨメ》――山彦はこだま〔三字傍点〕に同じく、反響のこと。古代人は、反響は山中に住む男が答へるものと思つたのである。トヨメはトヨマセ。頼マセを頼メといふに同じであらう。
〔評〕 これも可也の山べになく牡鹿の聲を聞いた作。以上の諸歌いづれも深みはないが、かなりのあはれが籠つてゐる。
 
肥前國松浦郡狛島亭(ニ)舶泊之夜、遙(ニ)望(ミ)2海浪(ヲ)1慟(ミテ)2旅心(ヲ)1作(レル)歌七首
 
狛島亭は狛島にあつた宿舍。狛島は柏島の誤で、今の神集《カシハ》島であらうと言はれてゐる。京大本に柏島とも傍書してある。神集島は今東松浦郡に屬し、湊村の東北海上十町許にある小島で、西に向つた小灣があり、漁戸が百戸ばかりある。延喜式に「肥前國柏島牛牧」とあるのはこの島であらうと言はれてゐる。引津亭を船出して西航六里許でこの島に着き、此處から北に向つて、壹岐へ渡らうとするのである。口繪寫眞參照。
 
3681 かへり來て 見むと思ひし わが宿の 秋萩すすき 散りにけむかも
 
可敝里伎弖《カヘリキテ》 見牟等於毛比之《ミムトオモヒシ》 和我夜度能《ワガヤドノ》 安伎波疑須須伎《アキハギススキ》 知里爾家武可聞《チリニケムカモ》
 
私ガ旅カラ〔五字傍線〕歸ツテ來テ、見ヨウト思ツテ出テ來〔四字傍線〕タ、私ノ家ノ秋萩ヤ薄ノ花ハ、モハヤ〔三字傍線〕散ツテシマツタノデアラウカヨ。意外ニ遲クナツタモノダ〔意外〜傍線〕。
 
(598)○可敝里伎弖《カヘリキテ》――新羅の旅から歸つて來ての意。
〔評〕 平板ながら、意外に長引いた旅を悲しむ情は、よくあらはれてゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右一首秦田麿
 
前に秦間麿とあたのと同人か。
 
3682 天地の 神をこひつつ 我待たむ 早來ませ君 待たば苦しも
 
安米都知能《アメツチノ》 可未乎許比都都《カミヲコヒツツ》 安禮麻多武《アレマタム》 波夜伎萬世伎美《ハヤキマセキミ》 麻多婆久流思母《マタバクルシモ》
 
天地ノ神ニオ祈りヲシテ、私ハ貴方ノオ歸リヲ〔七字傍線〕待ツテ居リマセウ。デスカラ新羅カラ〔八字傍線〕早ク歸ツテオイデナサイマシ、貴方ヨ。待ツテ居テハ苦シウゴザイマスヨ。
 
○可未乎許比都都《カミヲコヒツツ》――神を祈りつつ。コヒは乞ひである。祈願である。
〔評〕 狛島亭で宴席に待つた遊女の歌。暫しのお客に對するとは思はれぬほどに、親切な言葉である。
 
右一首娘子
 
3683 君を思ひ 吾が戀ひまくは あらたまの 立つ月毎に よくる日もあらじ
 
伎美乎於毛比《キミヲオモヒ》 安我古非萬久波《アガコヒマクハ》 安良多麻乃《アラタマノ》 多都追奇其等爾《タツツキゴトニ》 與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》
 
貴方ヲ思ツテ私ガ戀シガルデアラウコトハ(安良多麻乃)月ガカハル毎二、毎月毎月一日モ〔七字傍線〕缺ケル日ハアリマ(599)スマイ。
 
○安我古非萬久波《アガコヒマクハ》――吾が戀ひむことはの意。○安良多麻乃《アラタマノ》――枕詞。語を距てて、月にかかつてゐる。○與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》――避くる日もあらじ。避くるは遠ざかり離れる意で、思ふことから開放される日は一日もあるまいといふのである。
〔評〕 初句が女性の言葉らしいので、これも娘子の作ではあるまいかとの疑問も起る。しかしさうすると新羅へ往還する人を待つ語としては、下句が月日の長くかかることを豫想し過ぎるやうであり、又女に對して君といつた例も多いから、やはり署名の無い同一人の作と見て、都の妻を戀うたたのとすべきであらう。新考に前の歌の和であらうとあるのも從ひ難い。
 
3684 秋の夜を 長みにかあらむ なぞここば いの寢らえぬも 獨ぬればか
 
秋夜乎《アキノヨヲ》 奈我美爾可安良武《ナガミニカアラム》 奈曾許許波《ナゾココバ》 伊能禰良要奴毛《イノネラエヌモ》 比等里奴禮婆可《ヒトリヌレバカ》
 
私ハ〔二字傍線〕ドウシテコンナニ〔四字傍線〕ヒドク寐ラレナイノダラウカ〔五字傍線〕。秋ノ夜ガ長イカラデアラウカ。ソレトモ〔四字傍線〕獨寢ヲスルカラデアラウカ。妻ト別レテ旅ノ獨寢ハツライモノダ〔メト〜傍線〕。
 
○奈曾許己波《ナゾココバ》――どうしてこんなに甚だしく。許己波《ココバ》は許多、澤山。甚だしくなどの意。
〔評〕 第二句で切つて、更に第四句で切り、更に第五句を言ひ添へてある。三四一二五と句を轉置して解くのがよいやうである。
 
3685 たらしひめ 御船はてけむ 松浦の海 妹が待つべき 月は經につつ
 
多良思比賣《タラシヒメ》 御舶波弖家牟《ミフネハテケム》 松浦乃宇美《マツラノウミ》 伊母我麻都敝伎《イモガマツベキ》 月者倍(600)爾都々《ツキハヘニツツ》
 
(600)(多良思比賣御舶波弖家牟松浦乃宇美)妻ガ私ヲ家ニ居ツテ〔七字傍線〕待ツテヰル筈ノ、月ハ空シク過ギタ。私ハ妻ト約束ノ歸ルベキ時期ニナツタケレドモ、歸ルコトハ出來ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○多良思比賣《タラシヒメ》――息長足姫《オキナガタラシヒメ》、即ち神功皇后。○御舶波弖家牟松浦乃宇美《ミフネハテケムマツウラノウミ》――御船が碇泊したであらうところの松浦の海。松浦の海は、肥前松浦郡の海。引津から狛島あたりの海が即ちそれである。ここまでは次句の松《マツ》へつづく序詞。今、松浦の海に船をつないで、神功皇后の故事を思ひ出したのである。○月者倍爾都都《ツキハヘニツツ》――月は經ヌにツツを添へた形である。
〔評〕 松浦の海に來て神功皇后の故事を思ひ起し、それを以て序詞を作つてゐる。結句は經ニケリなどあるべきところを、穩やかに言ひをさめてある。袖中抄に載つてゐる。
 
3686 旅なれば 思ひ絶えても ありつれど 家に在る妹し 思ひがなしも
 
多婢奈禮婆《タビナレバ》 於毛比多要弖毛《オモヒタエテモ》 安里都禮杼《アリツレド》 伊敝爾安流伊毛之《イヘニアルイモシ》 於母比我奈思母《オモヒガナシモ》
 
私ハ〔二字傍線〕旅こ出テ居ルノデ會ハレヌモノト〔七字傍線〕思ヒ切ツテヰタケレドモ、ヤハリ〔三字傍線〕家ニ殘シテ來タ妻ガドウシテモ〔五字傍線〕思ヒ出サレテ〔四字傍線〕、悲シイヨ。
 
○於毛比多要弖毛《オモヒタエチモ》――思ひ絶えても。思ひ切つても。斷念しても。○伊敝繭安流伊毛之《イヘニアルイモシ》――家にある妹が。シは強める助詞。○於母比我奈思母《オモヒガナシモ》――思ひ出が悲しいよといふのであるが、オモヒガナシといふ熟語になつてゐる。ここのカナシをカハユシとも解いてあるが、悲しの意がよいであらう。
〔評〕 逢はれぬとわかりきつた旅であるから、あきらめてはゐたが、なほ忘れられない家なる妻を戀ふる心は悲(601)しい。二句と結句とに思ひが用ゐられてぬるが、別に耳ざはりでもない。
 
3687 足曳の 山飛び越ゆる 雁がねは 都に行かば 妹に逢ひて來ね
 
安思必寄能《アシビキノ》 山等妣古由留《ヤマトビコユル》 可里我禰波《カリガネハ》 美也故爾由加波《ミヤコニユカバ》 伊毛爾安比弖許禰《イモニアヒテコネ》
 
(安思必寄能)山ヲ飛ビ越シテ行ク雁ハ、戀シイ都ニ行クデアラウガ、若シオ前ガ〔戀シ〜傍線〕都ニ行ツタナラバ、私ノナツカシイ〔七字傍線〕妻ニ會ツテ樣子ヲ見テ〔五字傍線〕來イ。サウシテ私ニ妻ノコトヲ告ゲテクレヨ〔サウ〜傍線〕。
 
〔評〕 東をさして山を飛び越えて行く雁の姿を見て、詠んだもの。山は神集島の山であらう。心ない飛雁に思を托するのは、さることながら、「妹に逢ひて來ね」といふのはあまり過ぎたやうでもある。併しそこに、愚にかへつた至情があらはれてゐるのである。
 
到(リ)2壹岐島(ニ)1雪連宅滿《ユキノムラジヤカマロ》忽(チ)遇(ヒテ)2鬼病(ニ)1死去之時、作(レル)歌一首并短歌
 
雪聯宅滿は前に雪宅麿(三六四四)とあつた人。遇の字は古本にないのがあり、又遭に作るものもあるが、舊本のままがよい。鬼病は疫病でエヤミと訓むのであらう。
 
3688 すめろぎの 遠の朝廷と 韓國に 渡る我がせは 家人の 齋ひ待たねか 疊かも 過しけむ 秋さらば 歸りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も經ぬれば 今日か來む 明日かも來むと 家人は 待ち戀ふらむに 遠の國 未だも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君
 
須賣呂伎能《スメロギノ》 等保能朝庭等《トホノミカドト》 可良國爾《カラクニニ》 和多流和我世波《ワタルワガセハ》 伊敝妣等能《イヘビトノ》 伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》 多太未可母《タタミカモ》 安夜麻知之家牟《アヤマチシケム》 安吉佐良婆《アキサラバ》 可敝里麻左牟等《カヘリマサムト》 多良知禰能《タラチネノ》 波波爾麻于之弖《ハハニマウシテ》 等伎毛須疑《トキモスギ》 都奇母倍奴禮婆《ツキモヘヌレバ》 今日可許牟《ケフカコム》 明日可蒙許武登《アスカモコムト》 伊敝妣等波《イヘヒトハ》 麻知故布(602)良牟爾《マチコフラムニ》 等保能久爾《トホノクニ》 伊麻太毛都可受《イマダモツカズ》 也麻等乎毛《ヤマトヲモ》 登保久左可里弖《トオクサカリテ》 伊波我禰乃《イハガネノ》 安良伎之麻禰爾《アラキシマネニ》 夜杼理須流君《ヤドリスルキミ》
 
天子様ノ御支配ナサル〔六字傍線〕遠クノ役所デアルトテ、韓國ヘ渡ル私ノ親シイ〔三字傍線〕友人ノ雪連宅滿〔五字傍線〕ハ、家ニ留守居シテ居ル〔七字傍線〕人ガ神樣ニ無事ヲ〔六字傍線〕御祈リシテ待ツテ居ナイカラカ、ソレトモ〔四字傍線〕疊ヲ大切ニシナイデ過失ヲシタノデアラウカ。秋ニナツタナラバオ歸リナサラウト(多良知禰能)母ニ申シテ置イテ、出掛ケテカラ、歸ルベキ〔十字傍線〕時モ過ギ、月モ經タカラ、留守宅デハ〔五字傍線〕今日歸ツテ來ルダラウカ、明日歸ツテ來ルダラウカト、家ノ人ハ貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテ戀シガツテ居ルダラウノニ、遠クノ韓〔傍線〕國ヘモ未ダ到着セズ、大和ノ國ヲモ遠ク離レテ、岩ノアル人里離レタ〔五字傍線〕淋シイ島ノ海邊デ、死ンデ〔三字傍線〕此所ニ葬ラレタ貴方ヨ。誠ニ氣ノ毒ナコトダ〔九字傍線〕。
 
○須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロギノトホノミカドト》――前にも屡々説いたやうに須賣呂伎能等保能朝廷《スメロギノトホノミカド》は天皇の遠の朝廷で、地方の役所をいふ。ここに可良國爾和多流和我世《カラクニニワタルワガセ》につづいてゐるところから、異説を立てる人もあるが、三韓は既に吾が領地としては放棄せられてゐたけれども、吾が支配下として、國民の間に永く意識せられてゐたことでもあり、又國民的自尊心から、今回の遣新羅使一行も、新羅を對等視せず、屬國あつかひにしてゐるから、おのづからかうした言葉を用ゐたのである。かういふことは、歴史に囚はれては却つて正解を失する。○可良國爾《カラクニニ》――可良《カラ》はここでは新羅を指してゐる。加羅國はもと任那の舊名であつて、早く崇神天皇の御代に來朝したので、やがて三韓の總名となり、支那その他の外國をさすことになつた。○和多流和我世波《ワタルワガセハ》――吾が背は、雪連宅滿をさして親しんで言つてゐる。○伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》――神を祭つて無事の歸りを待たないからか。○多太未可母安夜麻知之家牟《タタミカモアヤマチシケム》――疊を過したのであらうか。上代には人の旅中には、その人の敷いた疊を、大切にして置く習慣があつたので、もし疊を疎略にする時は、途中で凶事があると言ひならはしたのであらう。ここは家人が(603)疊を疎略にして過失があつたのではないかと疑ふのである。舊本、多大末可母とあるが、大は類聚古集その他太に作つてゐるのに從ふべく、末は未の誤であらう。○可敝里麻左牟等《カヘリマサムト》――お歸りなさらうと。直説法を用ゐないで、敬語を使つてゐる。○等伎毛須疑《トキモスギ》――歸つて來ると約束した時も過ぎ。○等保能久爾《トホノクニ》――遠の國。遠い國。新羅をさしてゐる。○伊波我禰乃安良伎之麻禰爾《イハガネノアラキシマネニ》――岩が根の荒き島根に。岩石の荒涼たる島即ち壹岐の國をさす。○夜杼里須流君《ヤドリスルキミ》――宿つてゐる君よ。墓に葬られたことを、生きてゐる人のやうにかく言つたのである。尤も次の長歌によると、廬やうなものが出來たのである。
〔評〕 例の無名の作家で、前のそれと同一人である。明瞭に纒りよく出來てゐる。この凶事を神への謹慎の不足か、又は疊の過失かと言つてゐるのは、上代の信仰をあらはすもので、壹岐の國を「遠き國未だも着かず、倭をも遠くさかりて」と言つたのは、半途にして斃れた悲しさをよくあらはし得てゐる。
 
反歌二首
 
3689 石田野に やどりする君 家人の いづらと我を 問はば如何に言はむ
 
伊波多野爾《イハタヌニ》 夜杼里須流伎美《ヤドリスルキミ》 伊敝妣等乃《イヘビトノ》 伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》 等婆波伊可爾伊波牟《トハバイカニイハム》
 
石田野ニ永久ノ〔三字傍線〕宿ヲシテ葬ラレテ〔四字傍線〕居ル貴方ヲ、貴方ノ〔三字傍線〕家ノ人ガ、何處ヘ行ツタ〔四字傍線〕ト私ニタヅネタナラバ、私ハ〔二字傍線〕何ト答ヘタモノデアラウカ。何トモ答ヘヤウガナイ〔何ト〜傍線〕。
 
○伊波多野爾《イハタヌニ》――石田野に。今の壹岐郡石田村。島の東南海岸にある。和名抄に伊之太と訓してあつて、はやく文字通りイシダと呼ぶことになつたと見える。なほ九州萬葉手記には「今壹岐國石田村の海岸から八丁許入つた處に、石田峯と云ふ岡がありまして、その上に方四間許高さ七八尺の古墳があります。里人は殿の墓又は官人の塚と稱してゐますが、これが宅滿の墓であると傳へられてゐます」とあるが、宅滿の墓とするのは、古墳と(604)この集の記事とを結びつけたものに過ぎない。○伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》――イヅラハはイヅコに同じ。ワレヲはワレニと同意になつてゐる。我を問ふといふ例は、仁徳天皇紀に、和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》とある。
〔評〕 旅中の凶事を知らずにゐる家人に顔を合せた時、何と答へたものであらう。都へ歸着の時の悲しい光景が、今から目の前に見えるやうに思はれるのである。旅中の安否は細大洩らさず、直ちに通告出來る現代人には、いづらと問はばといふのが、そらぞらしい位に思はれかも知れないが、その當時の人になつて考へねばならぬ。
 
3690 世の中は 常かくのみと 別れぬる 君にやもとな 吾が戀ひ行かむ
 
與能奈可波《ヨノナカハ》 都禰可久能未等《ツネカクノミト》 和可禮奴流《ワカレヌル》 君爾也毛登奈《キミニヤモトナ》 安我孤悲由加牟《アガコヒユカム》
 
世ノ中ハ何時デモコンナニ、無常ナ習ハシデ〔七字傍線〕アルトテ、死ンデ〔三字傍線〕別レテ行カレ〔四字傍線〕タ貴方ヲ、徒ラニ私ガ戀ヒ慕ヒナガラ、旅路ヲ〔三字傍線〕行クコトデアラウカ。戀シガツテモ仕樣ガナイノニ〔戀シ〜傍線〕。
 
○都禰可久能未等和可禮奴流《ヅネカクノミトワカレヌル》――常に斯くの如く無常なものだとて、死んでこの世を別れて行つた君とつづいてゐる。世の無常の道理を示すが如く、君は死んだといふやうに言つてゐる。○君爾也毛登奈《キミニヤモトナ》――毛登奈《モトナ》は徒らに。
〔評〕 佛數的の無常觀が基調をなしてゐる。しかも世の無常を示すが如く死んで行つた君を、なほ徒らに戀ひつつ行くであらうと、諦めかねるのが人間の本性である。第四句の毛等奈《モトナ》が痛切に聞える。
 
右三首挽歌
 
3691 天地と 共にもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 浪の上ゆ なづさひ來にて あらたまの 月日も來經ぬ 雁が音も 續ぎて來鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手ぬれて さきくしも あるらむ如く 出で見つつ 待つらむものを 世の中の 人の歎は 相思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散らへる野べの 初尾花 假庵に葺きて 雲離れ 遠き國べの 露霜の 寒き山べに やどりせるらむ
 
天地等《アメツチト》 登毛爾母我毛等《トモニモガモト》 於毛比都都《オモヒツツ》 安里家牟毛能乎《アリケムモノヲ》 波之家也(605)思《ハシケヤシ》 伊敝乎波奈禮弖《イヘヲハナレテ》 奈美能宇倍由《ナミノウヘユ》 奈豆佐比伎爾弖《ナヅサヒキニテ》 安良多麻能《アラタマノ》 月日毛伎倍奴《ツキヒモキヘヌ》 可里我禰母《カリガネモ》 都藝弖伎奈氣婆《ツギテキナケバ》 多良知禰能《タラチネノ》 波波母都末良母《ハハモツマラモ》 安佐都由爾《アサツユニ》 毛能須蘇比都知《モノスソヒヅチ》 由布疑里爾《ユフギリニ》 己呂毛弖奴禮弖《コロモデヌレテ》 左伎久之毛《サキクシモ》 安流良牟其登久《アルラムゴトク》 伊低見都追《イデミツツ》 麻都良牟母能乎《マツラムモノヲ》 世間能《ヨノナカノ》 比登乃奈氣伎波《ヒトノナゲキハ》 安比於毛波奴《アヒオモハヌ》 君爾安禮也母《キミニアレヤモ》 安伎波疑能《アキハギノ》 知良敝流野邊乃《チラヘルヌベノ》 波都乎花《ハツヲバナ》 可里保爾布伎弖《カリホニフキテ》 久毛婆奈禮《クモバナレ》 等保伎久爾敝能《トホキクニベノ》 都由之毛能《ツユシモノ》 佐武伎山邊爾《サムキヤマベニ》 夜杼里世流良牟《ヤドリセルラム》
 
天地ト共ニ何時マデモ長ク生キテ〔何時〜傍線〕ヰタイト、貴方ハ〔三字傍線〕思ツテヰタデアラウノニ、ナツカシイ家ヲ離レテ、新羅ヘ行クトテ〔七字傍線〕、波ノ上ヲ漂ヒナガラ、難儀ヲシテ壹岐ノ國迄〔十字傍線〕來テ(安良多麻能)月日モ多ク〔二字傍線〕經過シタ。早クモ秋ニナツテ〔八字傍線〕雁モ後カラ後カラ〔六字傍線〕續イテ來テ鳴クト、(多良知禰能)母モ妻等モ、朝露ニ裳ノ裾ヲ濡ラシテ、夕霧ニ着物ノ袖ヲ濡ラシテ、貴方ヲ〔三字傍線〕無事デ居ル人ノヤウニ、門ニ〔二字傍線〕出テ見テ待ツテ居ルデアラウニ、世ノ中ノ人ノ歎ハ、何トモ思ハナイ貴方デアラウカ。空シク旅中デ死ンデシマツテ〔空シ〜傍線〕、秋萩ノ花ガ散ル野邊ノ、初尾花ヲ假小屋ノ屋根ニ〔三字傍線〕葺イテ、雲ノアナタ〔四字傍線〕ニ隔ツテ遙カニ遠イコノ〔二字傍線〕國ノ、露ノツメタク降ツテヰル〔五字傍線〕山邊ニ、宿リシテヰルノデアラウカ。
 
○天地等登毛爾母我毛等《アメツチトトモニモガモト》――天地のあらむかぎり、天地と共に生きてゐたいものだと。○波之家也思《ハシケヤシ》――愛しきやし。愛しけは愛《ハ》しきに同じ。ヤシは詠歎の助詞。○奈豆佐比伎爾弖《ナヅサヒキニテ》――漂ひ來つて。於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》(三六二三)參照。○安良多麻能《アラタマノ》――枕詞。月とつづく。四四三參照。○多良知禰能《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○毛(606)能須蘇比都知《モノスソヒヅチ》――裳の裾が濡れて。ヒヅチはヒヅツといふ四段活の自動詞である。○安比於毛波奴《アヒオモハヌ》――安比《アヒ》は接頭語で輕く用ゐてある。○君爾安禮也母《キミニアレヤモ》――君にてあるからか。○知良敝流野邊乃《チラヘルヌベノ》――知良敝流《チラヘル》は散ルの延言散ラフにリを添へた形である。○波都乎花《ハツヲバナ》――初尾花。尾花の穗に出た初花。○可里保爾布伎弖《カリホニフキテ》――假廬として葺いて。假廬は墓の上に小屋を建てたのである。○久毛婆奈禮《クモバナレ》――雲の彼方に遠く離れ。古事記黒日賣の歌に、夜麻登幣邇爾斯布伎阿宜弖玖毛婆那禮曾伐袁理登母和禮和須禮米也《ヤマトベニニシフキアゲテクモバナレソキヲリトモワレワスレメヤ》とある久毛婆那禮《クモバナレ》も同じ。枕詞とする説はとらない。○都由之毛能《ツユシモノ》――露霜の。ツユシモは露のこと。
〔評〕 よく整つた行き屆いた歌だ。前の長歌よりもこの方が優れてゐる。但し安佐都由爾毛能須蘇比都知由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖《アサツユニモノスツヒヅチユフギリニコロモデヌレテ》は卷二の柿本人麿の長歌の句、旦露爾玉藻者※[泥/土]打夕霧爾衣者沾而《アサツユニタマモハヒヅチユフギリニコロモハヌレテ》(一九四)と似てゐる。
 
反歌二首
 
3692 はしけやし 妻も兒どもも 高高に 待つらむ君や 島隱れぬる
 
波之家也思《ハシケヤシ》 都麻毛古杼毛母《ツマモコドモモ》 多可多加爾《タカタカニ》 麻都良牟伎美也《マツラムキミヤ》 之麻我久禮奴流《シマガクレヌル》
 
貴方ノ〔三字傍線〕イトシイ妻モ子供モ、コチラヲ望ンデ、貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテ居ルダラウノニ、ドウシテ〔六字傍線〕貴方ハ空シク此處デ死ンデ〔九字傍線〕島ニ葬ラレタノデアラウ。
 
○多可多加爾《タカタカニ》――待ち望む意。次の麻都《マツ》の副詞になつてゐる。七五八參照。○之麻我久禮奴流《シマガクレヌル》――島に葬られたことを、磐隱《イハガクリ》(一九九)などに傚つてかう言つたのである。○麻都良牟伎美也《マツラムキミヤ》――新考に也を之の誤とあるのはよくない。ヤは疑間助詞で、待つらむ君が島隱れぬるかと、驚き疑つてゐるのである。
〔評〕 妻子が待つてゐるだらうに、どうして死んだのだらうと、いぶかるところに哀が籠つてゐる。船に使ふの(607)を常とする島隱といふ語を、死の意味に用ゐてゐるのも、航海の途上らしい。
 
3693 黄葉ばの 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも
 
毛美知葉能《モミチバノ》 知里奈牟山爾《チリナムヤマニ》 夜杼里奴流《ヤドリヌル》 君乎麻都良牟《キミヲマツラム》 比等之可奈之母《ヒトシカナシモ》
 
ヤガテハ〔四字傍線〕紅葉ノ葉ガ落チ〔二字傍線〕散ルデアラウコノ淋シイ〔四字傍線〕山ニ、葬ラレテ居ル貴方ヲ、死ンダトモ知ラズニ、デハ〔死ン〜傍線〕待ツテヰルデアウガ、家ノ〔六字傍線〕人ハ可愛サウダヨ。
 
○毛美知葉能知里奈牟山爾《モミチヂノチリナムヤマニ》――やがて紅葉の散るであらう山にの意。奈牟は未來完了である。
〔評〕 今は秋の半であるが、やがて紅葉の頃となり、宅滿を葬つた山に紅集が散り亂れる淋しい景色を想像してゐる。この人のこの三首は、すべて優雅に出來てゐる。
 
右三首|葛井連子老《フヂヰムラヂコオユ》作(レル)挽歌
 
子老の傳は分らない。
 
3694 わたつみの 畏き路を 安けくも 無くなやみ來て 今だにも 喪無く行かむと 壹岐の海人の ほつての卜へを 肩燒きて 行かむとするに 夢の如 道のそら路に わかれする君
 
和多都美能《ワタツミノ》 可之故伎美知乎《カシコキミチヲ》 也須家口母《ヤスケクモ》 奈久奈夜美伎弖《ナクナヤミキテ》 伊麻太爾母《イマダニモ》 毛奈久由可牟登《モナクユカムト》 由吉能安末能《ユキノアマノ》 保都手乃宇良敝乎《ホツテノウラヘヲ》 可多夜伎弖《カタヤキテ》 由加武等須流爾《ユカムトスルニ》 伊米能其等《イメノゴト》 美知能蘇良治爾《ミチノソラヂニ》 和可禮須流伎美《ワカレスルキミ》
 
(608)海ノ恐ロシイ路ヲ、コノ壹岐ノ國マデ〔八字傍線〕、安キ心モナク難儀ヲシテ來テ、セメテ〔三字傍線〕コレカラデモ凶事モナク無事デ〔三字傍線〕行カウト、壹岐ノ海人ノ上手ナ太占ノ卜ヲシテ、鹿ノ〔二字傍線〕肩ノ骨〔二字傍線〕ヲ火ニ〔二字傍線〕燒イテ占ツテ、出カケヤウトスルノニ、俄ニ夢ノヤウニ途中デ死ンデシマツタ貴方ヨ。實ニハカナイ悲シイコトダ〔實ニ〜傍線〕。
 
○也須家口母奈久奈夜美伎弖《ヤスケクモナクナヤミキテ》――安くもなく惱んで來て。この二句の連絡が一寸異風に聞える。○伊麻太爾母《イマダニモ》――今からだけでも。○毛奈久由可牟登《モナクユカムト》――毛《モ》は凶事。卷五に事母無裳無母阿良無遠《コトモナクモナクモアラムヲ》(八九七)とある。○由吉能安末能保都手乃宇良敝乎《ユキノアマノホツテノウラヘヲ》――壹岐の海人が行ふ秀手の占合を。由吉《ユキ》は壹岐。保都手《ホツテ》は秀でてゐる手、即ち優れた技術。壹岐の海人は當時卜占の上手といはれてゐたらしい。但しホツを褒める意とし太占の太にあたるとする説もある。○可多夜伎弖《カタヤキテ》――肩燒きて。鹿の肩の骨を燒く占、即ち太占をやつて。可多《カタ》は形で、龜卜の際にあらはれる卜兆《ウラカタ》であるとする説もある。新考には宅滿は卜部氏で、この人自らが、ウラヘカタヤキをやつたのだといつてゐる。○美知能蘇良治爾《ミチノソラヂニ》――道の空路で。途中での意。道の空路は道の空に、路を添へたのである。
〔評〕 短い長歌だが、力強い表現になつてゐる。
 
反歌二首
 
3695 昔より 言ひけることの から國の からくも此處に 別するかも
 
牟可之欲里《ムカシヨリ》 伊比祁流許等乃《イヒケルコトノ》 可良久爾能《カラクニノ》 可良久毛己許爾《カラクモココニ》 和可禮須留可聞《ワカレスルカモ》
 
昔カラ韓ノ國ヘ渡ルノハ、ツライモノダト言ヒ習ハシテアルガ、私モソノ言葉ノ通リ韓ヘ行ク途中、壹岐國マデ來テ〔私モ〜傍線〕、此處デコノ人ト〔四字傍線〕ツライ別ヲスルヨ。
 
○牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久爾能《ムカシヨリイヒケルコトノカラクニノ》――昔から辛いと言ひ傳へて來た韓國。即ち昔から韓國へ渡るのはつ(609)らいと言ひ傳へて來てゐるが、その韓國へ渡らうとしての意。カラク(辛く)の音を繰返して、次句の可良久毛《カラクモ》につづいてゐるから、一見序詞のやうな形になつてゐるが、序詞ではない。○可良久毛己許爾和可禮須流可聞《カヲクモココニワカレスルカモ》――悲しくつらくも此處で君に死別するよ。
〔評〕 可良久爾能可良久毛《カラクニノカラクモ》といふ技巧が歌の中心になつてゐるやうに見えて、長歌のどつしりした表現に比べると、少し輕い感じがする。もとよりこれによつて内容を豐富にして、言はむとするところを言ひ得てゐるが、感情そのままの發露としては遺憾な點がないではない。
 
3696 新羅へか 家にか歸る 壹岐の島 行かむたどきも 思ひかねつも
 
新羅奇敝可《シラギヘカ》 伊敝爾可加反流《イヘニカカヘル》 由吉能之麻《ユキノシマ》 由加牟多登伎毛《ユカムタドキモ》 於毛比可禰都母《オモヒカネツモ》
 
私ハ、壹岐ノ島デ貴方ニ死ナレタノデ、コレカラ〔私ハ〜傍線〕、新羅ヘ行クベキ〔四字傍線〕カ、ソレトモ〔四字傍線〕家ニ歸ルベキカ、ドチラヘ行ツタラヨイカ、コノ〔ドチ〜傍線〕壹岐ノ島デ行クベキ方法モ考ヘラレナイヨ。
 
○新羅奇敝可《シラギヘカ》――新羅へ行くべきか。新羅に奇を添へて書いたのは珍しい。新羅の二字は朝鮮の用字その儘で奇を添へる必要はないのであるが、一音一字式の書法で、かうしたのであらう。衍字ではない。但し前には多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラギヘイマス》(三五八七)とある。○由吉能之麻《ユキノシマ》――壹岐の島。枕詞式に用ゐて次の句に冠してゐるが、無意味の枕詞ではない。この壹岐の島での意に解すべきである。行きを連想せしめてゐる。○由加牟多登伎毛《ユカムタドキモ》――行くべき方法も。多登伎《タドキ》は方法、手段。○於毛比可禰都母《オモヒカネツモ》――考へられないよ。思ひ定めかねるよ。
〔評〕 カヘルと言つてユキの島を出し、それからしてユカムにつづけてゐる。その修辭法は巧といへるが、又謂はゆる後世ぶりの作でもある。
 
右三首六鯖作挽歌
 
(610)六鯖の傳はわからない。代匠記には「廢帝紀云。寶字八年正月授2正六位上六人部連鯖麻呂外從五位下1この人の氏と名とを略してかけるなるべし」と言つてゐる。
 
到(リ)2對馬島淺茅浦(ニ)1舶泊之時、不v得2順風(ヲ)1經停(スルコト)五箇日、於v是膽2望(シ)物華(ヲ)1各陳(ベテ)2慟心(ヲ)1作(レル)歌三首
 
對馬淺茅浦は大日本地名辭書に「一名大口海灣と云ふ。又|淺海《アサミ》浦と云ふ。今竹敷要港の防禦地帶に屬す。地誌提要云。淺茅浦は俗に大口浦と云ふ。下縣郡仁位、與良二郷に亘る。灣口濶二十四町、深八十仞、西少北に向ふ、灣内東西凡三里、南北一里二十四町、港※[山+奧]凡一十三所、皆碇泊す可し。東は大船越の瀬戸を以て海に達す。即上下二島の分界なり。灣内東偏に島山島あり」とある。併し淺海灣を淺茅浦とすれば、船は西口より灣内に入り、更に竹敷に到つたわけで、かかる迂廻路を取る筈はない。又大日本地名辭書によれば、津島編年略に「下縣郡小船越浦在村東、鴨居瀬浦隅也、中世朝鮮往來之船必由于此、故海東記曰、自都伊佐只至船越浦十九海里、自船越至一岐島風本浦四十八海里」とあるに合はない。上代の船舶は謂はゆる大船越・小船越を經て淺海灣に入つたので、大船越は淺海灣の東口をなして長凡二十四町幅八間の狹水道であるが、今日の如くなつたのは寛文十二年、藩主完義眞が五千人を役して開鑿したのである。それ以前は上下の兩島は連なつてゐた。東海と淺海との間に岡を距て、東西往來の舟は此處で荷物を背負ながら空舟を引いて岡を越えた。小舟越の方は岡が大きいので小舟を引いたといふことだ。大船越・小船越の名はこれに因ると言はれてゐる。右は諸書に記すところであつて、これによると、この一行も亦小船越をしたものとせねばならぬので、實地について調査するの必要を生じ、對馬中學校長豐田亨氏を煩はしたところ次のやうな回答を得た。「淺茅浦は普通淺海灣の一名といふが、實は小船越の直ぐ西方の浦で、即ち安佐治山(今の大山嶽)の前の浦である。新羅使一行は小船越で本土(611)からの船を下り、陸路を西の漕手に行き、新羅行の船に乘換へて西方竹越方面へ赴いたもので、當時は船を引揚げることはしなかつた。船を引揚げたのは後世の事だ。東岸の小船越以北は寒暖二流交流地點で海が荒立つから、往昔は小船越で乘換へ、比較的穩やかな西岸を選んで外國へ赴いたものである。(對島島誌の編纂者日野氏の談話に依る)」以上で上代の航路が明白である。
 
3697 百船の はつる對馬の 淺茅山 時雨の雨に もみだひにけり
 
毛母布禰乃《モモフネノ》 波都流對馬能《ハツルツシマノ》 安佐治山《アサヂヤマ》 志具禮能安米爾《シグレノアメニ》 毛美多比爾家里《モミダヒニケリ》
 
(毛母布禰乃波都流)對馬ノ國ノ〔二字傍線〕安佐治山ハ、コノ頃降ル〔五字傍線〕時雨ノ雨デ木ノ葉ガ〔四字傍線〕紅葉シタヨ。美シイ景色ダ〔六字傍線〕。
 
○毛母布禰乃波都流對馬能《モヽフネノハツルツシマノ》――百舟の泊つるは、對馬を修飾したやうであるが、百船の泊つる津とつづいて、對馬の序詞となつてゐると見るのが妥當のやうである。○安佐治山《アサヂヤマ》――淺茅浦の東方、小船越の南方にある、今の大山嶽だと言はれてゐる。○毛美多比爾家里《モミダヒニケリ》――モミダヒはモミヂの延言。モミヂは四段活動詞。(上二段の場合もある)紅くなつた。
〔評〕 船出し得ない、いらただしい心を、山の紅葉の色に慰めてゐる。流石に長閑な氣分が見えてゐる。
 
3698 天ざかる 鄙にも月は 照れれども 妹ぞ遠くは 別れ來にける
 
安麻射可流《アマザカル》 比奈爾毛月波《ヒナニモツキハ》 弖禮禮杼母《テレレドモ》 伊毛曾等保久波《イモゾトホクハ》 和可禮伎爾家流《ワカレキニケル》
 
コンナ〔三字傍線〕(安麻射可流)田舍ニモ都ト同ジヤウニ〔七字傍線〕、月ハ照ツテ居ルガ、共ニ眺メタ都ノ〔七字傍線〕妻トハ遠ク別レテ來タモノダヨ。月ヲ見ルコトハ出來ルガ妻ニ逢ヘナイノハ悲シイ〔月ヲ〜傍線〕。
 
(612)○伊毛曾等保久波《イモゾトホクハ》――妹ゾは妹ハの意。上に月ハとあるに對して、妹ゾと言つてゐる。月は眼前に近く見えるが、妹は遠く離れたといふのである。
〔評〕 月と妹とを對照せしめてゐるが面甘い。長安近きか日近きかと言つた故事の如き感がないでもない。卷十一の月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレバクニハオナジヲヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》(二四二〇)、卷十八の都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾婆伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》(四〇七三)とも似てゐる。
 
3699 秋されば 置く露霜に あへずして 都の山は 色づきぬらむ
 
安伎左禮婆《アキサレバ》 於久都由之毛爾《オクツユシモニ》 安倍受之弖《アヘズシテ》 京師乃山波《ミヤコノヤマハ》 伊呂豆伎奴良牟《イロヅキヌラム》
 
秋ガ來タノデ露ノ降ルノニ堰ヘラレナイデ、故郷ノ〔三字傍線〕都ノ山ハ紅葉シタデアラウ。コノ對馬ノ國ノ山ガ、紅葉シタノヲ見ルニツケテモ、都ガ思ヒ出サレル〔コノ〜傍線〕。
 
○安倍受之弖《アヘズシテ》――堪へずしてに同じ。安倍《アヘ》は敢ふ。
〔評〕 對馬の山の紅葉を見て、奈良の都の山を思ひ出しただけで、これといふ點もない。
 
竹敷浦(ニ)舶泊之時、各陳(ベテ)2心緒(ヲ)1作(レル)歌十八首
 
竹敷の浦は、今の竹敷要港のあるところ。上代はタカシキといつた。
 
3700 あしびきの 山下光る もみぢ葉の 散りのまがひは 今日にもあるかも
 
安之比奇能《アシビキノ》 山下比可流《ヤマシタヒカル》 毛美知葉能《モミヂバノ》 知里能麻河比波《チリノマガヒハ》 計布仁聞安留香母《ケフニモアルカモ》
 
(613)(安之比伎能)山ニ赤ク照リ輝クホド色ヅイテヰル〔七字傍線〕紅葉ガ、散り亂レル美シイ景色〔五字傍線〕ハ、今ガ眞〔三字傍線〕盛デアルヨ。實ニ今日ハ紅葉ノ亂レ散ルノガ美シイ景色ダ〔實ニ〜傍線〕。
 
○山下比可流《ヤマシタヒカル》――山が赤く照り輝く。下《シタ》は下照《シタテリ》のシタと同じで、山の麓が光るのではない。卷六に巖者山下耀《イハホニハヤマシタヒカリ》(一〇五三)とある。○知里能麻河比波《チリノマガヒハ》――散り亂れることは。卷五に烏梅能波奈知里麻我比多流乎加肥爾波《ウメノハナチリマガヒタルヲカビニハ》(八三八)とある。
〔評〕 山の紅葉が紛々と亂れ散る絢爛たる情景が、力強く直線的に詠まれてゐる。下句の知里能麻河比波計布仁聞安留香聞《チリノマガヒハケフニモアルカモ》は、風變りな言ひ方である。
 
右一首大使
 
3701 竹敷の 黄葉を見れば 吾妹子が 待たむといひし 時ぞ來にける
 
多可之伎能《タカシキノ》 母美知乎見禮婆《モミヂヲミレバ》 和藝毛故我《ワギモコガ》 麻多牟等伊比之《マタムトイヒシ》 等伎曾伎爾家流《トキゾキニケル》
 
コノ〔二字傍線〕竹敷ノ浦ノ美シイ〔五字傍線〕紅葉ヲ見ルト、家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ガ私ノ歸リヲ紅葉スル秋ノ頃ト思ツテ〔私ノ〜傍線〕待ウト言ツタソノ〔二字傍線〕時ガ來タヨ。モハヤ歸ル約束ノ時ニナツタノニ、マダナカナカ歸レサウニモナイ〔モハ〜傍線〕。
 
〔評〕 この竹敷の山の紅葉を眺めて、先づ思ひ出すのは都を出る時、秋には歸ると妻と約束して來たことだ。楓葉の美景を樂しむ念は少しもないのがあはれである。
 
右一首副使
 
副使は續紀によれば大伴宿禰三中である。卷三に天平元年己巳攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官(614)大伴宿禰三中作歌(四四三)とあるから、天平元年には班田使の判官であつたのである。新羅から歸途病に罹つて、京に入ることが出來なかつたが、三月壬寅、四十人の人たちと共に拜朝してゐる。十五年六月兵部少輔。十六年九月山陽道巡察使、十七年六月少貳、十八年四月長門守、十九年刑部大判事となつてゐる。
 
3702 竹敷の 浦みのもみぢ 我行きて 歸り來るまで 散りこすな、ゆめ
 
多可思吉能《タカシキノ》 宇良未能毛美知《ウラミノモミヂ》 和禮由伎弖《ワレユキテ》 可敝里久流末低《カヘリクルマデ》 知里許須奈由米《チリコスナユメ》
 
コノ〔二字傍線〕竹敷ノ浦囘ノ美シイ〔三字傍線〕紅葉ヨ。私ガ此處ヲ出カケテ新羅ヘ〔十字傍線〕行ツテ、又〔傍線〕歸ツテ來ルマデ決シテ散ルナヨ。
 
○和禮由伎弖《ワレユキテ》――吾が新羅へ行きて。○知里許須奈由米《チリコスナユメ》――許須《コス》は希望をあらはす。集中、一四三七、一五六〇、一六五七などに同じ用例がある。
〔評〕 紅葉に向つて、吾が歸るまで散らずにあれと、希望してゐるが、紅葉の光景を惜しむよりも、早くここまで歸つて來たい心が、かく言はしめたやうにも見える。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首大判官
 
大判官は續紀によれば從六位上壬生使主宇太麻呂である。
 
3703 竹敷の うへかた山は 紅の 八入の色に なりにけるかも
 
多可思吉能《タカシキノ》 宇敝可多山者《ウヘカタヤマハ》 久禮奈爲能《クレナヰノ》 也之保能伊呂爾《ヤシホノイロニ》 奈里爾家流香聞《ナリニケルカモ》
 
竹敷ノ宇敝可多山ハ紅葉シタノデ〔六字傍線〕、紅デ何回モ染メタヤウナ濃イ〔二字傍線〕色ニナツタヨ。美シイ景色ダ〔六字傍線〕。
 
(615)○宇敝可多山者《ウヘカタヤマハ》――上方山は竹敷の城山又は城八幡山と稱する山だといふ。海岸に迫つて斷崖をなしてゐる。○久禮奈爲能也之保能伊呂爾《クレナヰノヤシホノイロニ》――紅の八入の色に。紅の色に幾度も染めたやうな濃い色に。久禮奈爲《クレナヰ》は呉藍。紅花《ベニバナ》・末摘花のこと。八入は藍に入れ浸して染めることの、度數の多いことをいふ。
〔評〕 竹敷の港から仰いだ景色をその儘に詠歎してゐる。何の奇もないが、感じは出てゐる。
 
右一首小判官
 
小判官は續紀によれば正七位上大藏忌寸麻呂である。
 
3704 もみぢ葉の 散らふ山邊ゆ こぐ舟の にほひにめでて 出でて來にけり
 
毛美知婆能《モミヂバノ》  許具布禰能《コグフネノ》 爾保比爾米※[人偏+弖]弖《ニホヒニメデテ》 伊※[人偏+弖]弖伎爾家里《イデテキニケリ》
 
私ハ〔二字傍線〕紅葉ガ美シク〔三字傍線〕散ツテヰル山ノアタリヲ漕イデヰル貴方ノ御〔四字傍線〕舟ノ、立派サニ心引カレテ、此處ヘ〔三字傍線〕出テ參リマシタヨ。
 
○知良布山邊由《チラフヤマベユ》――散らふは散るの延言。散る山邊を。山邊からと見てはわるい。この句から直に次句につづいてゐる。結句へつづけて、山邊から出て來たと解しては大變である。○爾保比爾米※[人偏+弖]弖《ニホヒニメデテ》――舟の美しさに愛でて。爾保比《ニホヒ》は見る目の美しさをいふ。
〔評〕 紅葉の散る山を背景として、浦づたひ行く大使の舟の立派さを褒め讃へてゐる。讃辭として覗ひ所も珍らしく、歌品も優雅で、時にとつてふさはしい作だ。
 
3705 竹敷の 玉藻なびかし こぎ出なむ 君が御舟を いつとか待たむ
 
多可思吉能《タカシキノ》 多麻毛奈婢可之《タマモナビカシ》 己藝低奈牟《コギデナム》 君我美布禰乎《キミガミフネヲ》 伊都等(616)可麻多牟《イツトカマタム》
 
竹敷ノ浦ノ〔二字傍線〕玉藻ヲ靡カシテ、新羅ヲ指シテコレカラ〔新羅〜傍線〕漕イデ行カレル貴方ノ御船ノ御歸リ〔四字傍線〕ヲ、何時ト思ツテ〔三字傍線〕待ツテ居リマセウ。御歸リガ待チ遠ク思ハレマス。早ク御歸リ下サイ〔御歸リガ〜傍線〕。
 
○多麻毛奈婢可之《タマモナビカシ》――玉藻を押し分け靡かして。玉藻は美しい藻。
〔評〕 前の歌ほど勝れてはゐないが、これも穩やかな上品な作である。對馬のやうな邊陬の地にゐる遊女にして、かくの如き佳作をなすことを思へば、作歌の風の盛なること驚くべきものがある。
 
右二首對馬娘子名玉槻
 
對馬の娘子でその名は玉槻といふのである。玉槻といふ名は遊女らしい感じがある、後生の源氏名の先驅といつてよからう。
 
3706 玉敷ける 清き渚を 潮滿てば 飽かず我行く 歸るさに見む
 
多麻之家流《タマシケル》 伎欲吉奈藝佐乎《キヨキナギサヲ》 之保美弖婆《シホミテバ》 安可受和禮由久《アカズワレユク》 可反流左爾見牟《カヘルサニミム》
 
玉ヲ敷キ並ペタヤウナ〔三字傍線〕美シイコノ〔二字傍線〕海岸ヲナホ充分ニ眺メタイノダガ〔ナホ〜傍線〕、汐ガ滿チタノデ見飽カズニ名殘惜シクモ〔六字傍線〕私ハ船出ヲシテ行ク。歸リ路ニハ是非トモマタ充分ニ〔九字傍線〕見ヨウト思フ。
 
○多麻之家流《タマシケル》――玉を敷きならべた。玉は海岸の小石の美しさを賞めて言つたのである。
〔評〕 清き渚に思を殘して船出した大使の歌。大使は歸途ここまで來て遂に卒去したのであるが、歸るさに見むと言つた佳景を愛でる暇もなかつたことを思へば、人世のはかなさがつくづくと感ぜられる。考に玉槻を思ふ(617)心をこめてよんだとあるのは、言ひ過ぎてゐるやうだ。略解に「汐干なむ時にまた見むと也」とあるのは解し難い。
 
右一首大使
 
3707 秋山の 紅葉をかざし わが居れば 浦汐みち來 未いまだ飽かなくに
 
安伎也麻能《アキヤマノ》 毛美知乎可射之《モミヂヲカザシ》 和我乎禮婆《ワガヲレバ》 宇良之保美知久《ウラシホミチク》 伊麻太安可奈久爾《イマダアカナクニ》
 
秋ノ山ノ美シク色付イタ〔七字傍線〕紅葉ヲ、頭ニサシテ私ガ遊ンデ〔三字傍線〕ヰルト、マダ飽キナイノニ海岸ノ汐ガ滿チテ來テ、舟出ヲスベキ時ニナツタ、惜シイコトダ〔舟出〜傍線〕
 
○宇良之保美知久《ウラシホミチク》――浦潮は浦にさし來る潮。珍らしい用語で他に例がないやうだ。
〔評〕 大宮人らしい悠揚たる態度、佳景に對する惜別の情、共に偲ばれてなつかしい歌。考に紅葉を玉槻にたとへたとあるのは當らない。
 
右一首副使
 
3708 物思ふと 人には見えじ 下紐の したゆ戀ふるに 月ぞ經にける
 
毛能毛布等《モノモフト》 比等爾波美要緇《ヒトニハミエジ》 之多婢毛能《シタヒモノ》 思多由故布流爾《シタユコフルニ》 都寄曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》
 
私ハ家ニ殘シテ來タ妻ヲ戀シテ〔私ハ〜傍線〕、物思ヲシテ居ルトハ、人ニ見ラレマイ。(之多婢毛能)心ノ中デ戀シガツテ
 
(618)忍ンデ〔三字傍線〕ヰル内ニ、最早幾月モ〔五字傍線〕月ガ立ツテシマツタ。併ジ何處マデモ胸ノ思ヲ隱シテヰヨウ〔併シ〜傍線〕。
 
○比等爾波美要緇《ヒトニハミエジ》――人には見られまい。かういふエはラレと同意義である。この句で切つて、下は今までのことを述べるのである。○之多婢毛能《シタヒモノ》――枕詞。思多《シタ》にかかつてゐる。下紐は衣の下に隱れた紐。小袖の紐又は下裳・下袴の紐をいふ。○思多由故布流爾《シタユコフルニ》――心の内で戀してゐる内に。○都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》――月が經つたいふのは、幾月も經つたといふのであらう。
〔評〕 故郷の妻を思ふ歌であらうが、それにしてはあまり人目を忍び過ぎるやうである。或は席に待つてゐた娘子に與へたものか。さうすれば、結句は月が改つたといふのである。この歌をこの世に殘した最後の作として、大使は新羅に渡り、やがてここまで戻つて來て死んだのは氣の毒なことであつた。
 
右一首大使
 
3709 家づとに 貝を拾りふと 沖べより 寄せくる浪に 衣手ぬれぬ
 
伊敝豆刀爾《イヘヅトニ》 可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》 於伎敝欲里《オキベヨリ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》 許呂毛弖奴禮奴《コロモデヌレヌ》
 
家ヘノ土産ニ貝ヲ拾ハウト思ツテ〔三字傍線〕、沖ノ方カラ寄セテ來ル波ニ、着物ノ袖ガ濡レタ。
 
〔評〕 平明な歌。海に遠い都への苞として、貝を拾はうとして波に濡れるとは、如何にもさうありさうなことである。
 
3710 汐干なば またも我來む いざ行かむ 沖つ潮さゐ 高く立ち來ぬ
 
之保非奈波《シホヒナバ》 麻多母和禮許牟《マタモワレコム》 伊射遊賀武《イザユカム》 於伎都志保佐爲《オキツシホサヰ》 多可久多知伎奴《タカクタチキヌ》
 
(619)沖ノ汐ガ滿チテ〔三字傍線〕汐ノ高鳴ガ音高ク寄セテ來タ。サア歸ツテ〔三字傍線〕行カウ。サウシテ〔四字傍線〕汐ガ干タナラバ、マタ私ハ此處ヘ遊ビニ〔六字傍線〕來ヨウ。
 
○伊射遊賀武《イザユカム》――さあ歸らうといふのだ。古義には船出することに解してゐる。○於伎都志保佐爲《オキツシホサヰ》――沖の潮の騷。志保佐爲《シホサヰ》は潮の騷ぎ流れるをいふ。
〔評〕 對馬に停泊中海岸で遊んだ歌だ。前の家苞に貝を拾ふ歌から以下の九首は、すべて碇泊中の歌で出發の意はない。前の安伎也麻能《アキヤマノ》(三七〇七)の歌の宇良之保美知久《ウラシホミチク》とは全く事情を異にしてゐる。四五三一二の順序に句を置き換へて解釋すると明瞭である。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3711 吾が袖は 袂とほりて ぬれぬとも 戀忘貝 とらずは行かじ
 
和我袖波《ワガソデハ》 多毛登等保里弖《タモトトホリテ》 奴禮奴等母《ヌレヌトモ》 故非和須禮我比《コヒワスレガヒ》 等良受波由可自《トラズハユカジ》
 
私ハ旅ニ出テ家ガ戀シクテ堪ヘラレナイガ、アマリ苦シイカラ、タトヘ〔私ハ〜傍線〕私ノ袖ハ袂ガ濡レ〔二字傍線〕通ツテモカマハヌカ〔五字傍線〕ラ、戀ヲ忘レルトイフ〔六字傍線〕、忘貝ヲ取ラズニハ行クマイ。是非トモ忘貝ヲ取ツテ行カウ〔是非〜傍線〕。
 
○多毛登等保里弖《タモトトホリテ》――袂が濡れ徹つて。多毛登《タモト》は手下で、袖の手の下に垂れた部分である。袖は衣手《ソデ》。○故非和須禮我比《コヒワスレガヒ》――この語は集中に屡々用ゐられてゐる。忘貝は六八參照。
〔評〕 旅中に忘貝を拾つて、戀を忘れようといふのだ。戀の苦しさを強調しただけである。
 
3712 ぬばたまの 妹が乾すべく あらなくに 我が衣手を ぬれていかにせむ
 
奴波多麻能《ヌバタマノ》 伊毛我保須倍久《イモガホスベク》 安良奈久爾《アラナクニ》 和我許呂母弖乎《ワガコロモデヲ》 奴禮(620)弖伊可爾勢牟《ヌレテイカニセム》
 
(620)私ハ旅ニ出テヰルノデ〔私ハ〜傍線〕(奴波多麻能)妻ガ干スコトハ出來ナイノニ、コノヤウニ〔五字傍線〕私ノ着物ノ袖ガ、濡レタガ何トシタモノデアラウ。
 
○奴波多麻能《ヌバタマノ》――枕詞。黒・暗・夜・夕などにつづくのが常であるが、ここに妹につづけたのは珍らしい。卷十一に夜干玉之妹之黒髪《ヌバタマノイモガクロカミ》(二五六四)とあるのは妹《イモ》につづいたのではなく、黒《クロ》にかかつてゐるのだから、これとは別である。考はぬばたまの夜から轉じて、寢《イ》につづいたものとし、新考には、ぬば玉の夢《イメ》と妹《イモ》と近いから適用したのだらうといつてゐる。無理な枕詞の用例である。
〔評〕 前の歌の連作である。新考に「此歌は前者の和ならむ」とあるのは、解し難い。
 
3713 もみぢ葉は 今はうつろふ 吾妹子が 待たむといひし 時の經ゆけば
 
毛美知婆波《モミヂバハ》 伊麻波宇都呂布《イマハウツロフ》 和伎毛故我《ワギモコガ》 麻多牟等伊比之《マタムトイヒシ》 等伎能倍由氣婆《トキノヘユケバ》
 
私ガ旅ニ出ル時ニ家ノ〔私ガ〜傍線〕妻ガ、秋ニナツタナラバ、御歸リヲ〔秋ニ〜傍線〕待ツテヰマセウト云ツタ、ソノ〔二字傍線〕秋モ過ギ去ツテシマフノデ、紅葉モ今ハ盛過ギテシマツタ。家デハサゾ妻ガ待ツテヰルデアラウノニ、歸ルコトガ出來ナイノハ悲シイ〔家デ〜傍線〕。
 
○等伎能倍由氣婆《トキノヘユケバ》――秋の時節が過ぎ去れば。
〔評〕 秋には歸るとの約束が、空しくなつたことが屡々繰返されてゐるのは、悲しい言葉であるが、その秋も散る紅葉と共に去らうとしてゐるのを見て、妻を思ふ心は愈々切なるものがある。
 
3714 秋されば 戀しみ妹を 夢にだに 久しく見むを 明けにけるかも
 
(621)安伎佐禮婆《アキサレバ》 故非之美伊母乎《コヒシミイモヲ》 伊米爾太爾《イメニダニ》 比左之久見牟乎《ヒサシクミムヲ》 安氣爾家流香聞《アケニケルカモ》
 
秋ニナルト、必ズ歸ラウト約束シテ來タガ、歸ルコトハで來ナイカラ、妻ガ〔必ズ〜傍線〕戀シク思ハレルノデ妻ヲセメテ夢ニデモ、久シク見ヨウト思フノニ、未ダ充分見ナイ内ニ〔九字傍線〕夜ガ明ケタヨ。殘念ダ〔三字傍線〕。
 
○故非之美伊母乎《コヒシミイモヲ》――戀しみは戀しき故に。新考にはコヒシミイモは戀しき妹といふことだとしてゐる。又秋さればから、夢にだに久しく見むをにかかつてゐるといつてゐるが、いづれも從ひかねる。
〔評〕 秋になつたら歸ると妹と契つたが、秋になつても歸れないので、愈々戀しいのである。初二句の叙法は少し窮窟に過ぎるやうである。
 
3715 獨のみ 着ぬる衣の 紐解かば 誰かも結はむ 家遠くして
 
比等里能未《ヒトリノミ》 伎奴流許呂毛能《キヌルコロモノ》 比毛等加婆《ヒモトカバ》 多禮可毛由波牟《タレカモユハム》 
 
私ガ今コノ旅中ニ〔八字傍線〕着テ居ル着物ノ紐ヲ、私ガ〔二字傍線〕獨デ解イタナラバ、今ハ〔二字傍線〕家ヲ遠ク離レテヰルカラ、誰ガ結ンデクレヨウカ。妻ヨリ外ニハ、結ブ人ハナイカラ、誰ニモ結ンデ貰フコトハ出來ナイ〔妻ヨ〜傍線〕。
 
○比等里能未《ヒトリノミ》――紐解かばにつづいてゐる。新考に「獨ノミ來ヌルワガ衣ノと譯すべし」とある。○伊敝杼保久之弖《イヘトホクシテ》――家を遠く離れて、妻もゐないからの意。
〔評〕 家を出づる時、妻が夫の衣の紐を結び、歸るまでそれを解かないのが上代のならはしであつた。卷九、吾妹兒之結手師※[糸+刃]乎將解八方絶者絶十方直二相左右二《ワギモコガユヒテシヒモヲトカメヤモタエバタユトモタダニアフマデニ》(一七八九)、卷十一、菅根惻隱君結爲我紐緒解人不有《スガノネノネモゴロキミガムスビテシワガヒモノヲヲトクヒトハアラジ》(二四七(622)三)その他例がある。
 
3716 天雲の たゆたひ來れば 長月の 黄葉の山も うつろひにけり
 
安麻久毛能《アマクモノ》 多由多比久禮婆《タユタヒクレバ》 九月能《ナガツキノ》 毛美知能山毛《モミヂノヤマモ》 宇都呂比爾家里《ウツロヒニケリ》
 
私ハ長イ海路ヲアチラコチラト〔私ハ〜傍線〕、(安麻久毛能)ブラブラシテ、ヤツテ來ルト、最早〔二字傍線〕九月ノ紅葉シタ山モ盛ガ過ギテ〔五字傍線〕、色ガアセテシマツタヨ。
 
○安麻久毛能《アマクモノ》――枕詞。多由多比《タユタヒ》につづく。○多由多比久禮婆《タユタヒクレバ》――多由多比《タユタヒ》はぶらぶらと漂ふこと。舟が波にゆられ漂うて來たことを言つてゐる。
〔評〕 天雲のは枕詞として用ゐてあるが、たゆたひにつづいて、遠き海路を漂ひ來つた樣をあらはすによく適してゐる。三句以下は九月も末となつて、秋も暮れむとしてゐることを述べてゐる。
 
3717 旅にても 喪無く早來と 吾妹子が 結びし紐は なれにけるかも
 
多婢爾弖毛《タビニテモ》 母奈久波也許登《モナクハヤコト》 和伎毛故我《ワギモコガ》 牟須妣思比毛波《ムスビシヒモハ》 奈禮爾家流香聞《ナレニケルカモ》
 
道中モ何ノサハリモナク、早ク御歸リナサイト言ツテ〔御歸〜傍線〕、吾ガ妻ガ出立ニ際シテ〔六字傍線〕結ンデクレ〔三字傍線〕タ着物ノ〔三字傍線〕紐ハ、結ンダ儘デ〔五字傍線〕ヨゴレタヨ。
 
○母奈久波也許登《モナクハヤコト》――凶事もなくて早く來よと。前に伊麻太爾母毛奈久由可牟登《イマダニモモナクユカムト》(三六九四)とあつた。○奈禮爾家流香聞《ナレニケルカモ》――褻れにけるかも。褻れは古くなつて、萎えること。
(623)〔評〕 汚れた衣の紐を手まさぐりつつ、家なる妻を偲ぶ歌。感情はよくあらはれてゐる。
以上の九首はこの一行の一人として、一行の人たちの歌を集めて置いた筆者の作。これから新羅へ渡つたのであるが、新羅での作が一首も載せてないのは頗る遺憾である。この一行の人たちの、異國の風物に接した感想が何とか詠まれてゐささうなものであるのに、何も記されてゐない。若しあつたならば和歌史上に一大異彩を放つであらうのに。一體わが國人の外國へ赴いたものが尠くないが、彼土での作としては唯一首山上憶良のが卷一にあるのみなのは、どういふわけであらう。
 
回(リ)2來(テ)筑紫(ニ)1海路入(ルニ)v京(ニ)、到(レル)2播磨國家島(ニ)1之時作(レル)歌五首
 
新羅から九州へ戻つて播磨の家島まで來る間何の作もない。その間に大使阿倍朝臣繼麿は對島で卒し、副使も亦病んで後れた。漸く家島へ辿りついた一行の人たちの悲愁は、蓋し想像以上であつたらう。
 
3718 家島は 名にこそありけれ 海原を 吾が戀ひ來つる 妹もあらなくに
 
伊敝之麻波《イヘシマハ》 奈爾許曾安里家禮《ナニコソアリケレ》  宇奈波良乎《ウナバラヲ》 安我古非伎都流《アガコヒキツル》 伊毛母安良奈久爾《イモモアラナクニ》
 
家島トイフ島〔四字傍線〕ハ、名バカリデアツタヨ。家ト云フカラニハ妻ガヰサウナモノダガ〔家ト〜傍線〕、私ガ海上ヲ戀シク思ヒツツ來タ妻ハヰナイヨ。
 
○奈爾許曾安里家禮《ナニコソアリケレ》――名ばかりであつた。家といふ名に背いて、妻がゐないといふのである。○安我古非伎都流《アガコヒキツル》――吾が戀ひ來つる妹と次句へつづいてゐる。
〔評〕 家島の名に負はで、家なる妻もゐないことを歌つたので、言葉だけの戯のやうでもあるが、家を戀ふる旅(624)人の、いらただしい心の叫びと見るべきであらう。
 
3719 草枕 旅に久しく あらめやと 妹に言ひしを 年のへぬらく
 
久左麻久良《クサマクラ》 多婢爾比左之久《タビニヒサシク》 安良米也等《アラメヤト》 伊毛爾伊比之乎《イモニイヒシヲ》 等之能倍奴良久《トシノヘヌラク》
 
(久左麻久良)旅ニハ久シク居ルモノカ、直グニ歸ツテ來ル〔八字傍線〕ト妻ニ云ツタノニ豫期ニ反シテ〔六字傍線〕、年ガタツテシマツタ。マダ歸レナイノハ悲シイ〔マダ〜傍線〕。
 
○等之能倍奴良久《トシノヘヌラク》――經ぬらくは經ぬるの延言。年が經たよと輕く詠嘆的氣分を持たせてある。六月に船出して正月に歸つたので、年が改まつたから、年が經たといふのであらう。
〔評〕 家島といふ名から、いよいよ妹を思ふ心が切である。秋には歸るとの妻との約束が空しくなつて、年も立ちかはる春となつたことを痛恨してゐる。一行の入京は乙亥朔の辛丑の日であつたから、二十九日であつた。日取から言つても家島へ來るまでに既に元旦を迎へてゐたに違ひない。
 
3720 吾妹子を 行きてはや見む 淡路島 雲居に見えぬ 家つくらしも
 
(625)和伎毛故乎《ワギモコヲ》 由伎弖波也美武《ユキテハヤミム》 安波治之麻《アハヂシマ》 久毛爲爾見延奴《クモヰニミエヌ》 伊敝都久良之母《イヘツクラシモ》
 
私ノ妻ヲ家ニ〔二字傍線〕歸ツテ早ク見タイモノダ。遙カ向ウニ〔五字傍線〕淡路島ガ空ノ彼方ニ見エタ。イヨイヨ〔四字傍線〕家ガ近付クラシイヨ。
 
○伊敝都久良之母《イヘツクラシモ》――伊敝都久《イヘツク》は家付く、家に近づく。前に於伎爾也須麻牟伊敝都可受之弖《オキニヤスマムイヘツカズシテ》(三六四五)とある。
〔評〕 遙かに淡路島を眺めて、漸く家郷の近くなつたことを喜んだので、歡喜の情さこそと推しはかられる。淡路島まで來れば自明門倭島所見《アカシノトヨリヤマトシマミユ》(二九五)と人麿も歌つたやうに、やがて大和も見えるので、この島からが大和らしい氣分に接するわけである。
 
3721 ぬば玉の 夜明かしも船は こぎ行かな 御津の濱松 待ち戀ひぬらむ
 
奴婆多麻能《ヌバタマノ》 欲安可之母布禰波《ヨアカシモフネハ》 許藝由可奈《コギユカナ》 美都能波麻末都《ミツノハママツ》 麻知故非奴良武《マチコヒヌラム》
 
(626)(奴婆多麻能)夜通シデモ、私ノ乘ツテヰル〔七字傍線〕舟ハ漕イデ行ケヨ。難波ノ浦ノ〔五字傍線〕三津ノ濱ノ松ハ、私ノ歸ヲ〔四字傍線〕戀シガツテ待ツテ居ルダラウ。
 
○欲安可之母布禰波《ヨアカシモフネハ》――夜通しに吾が乘る舟は。母《モ》は詠嘆の助詞として添へてある。○美都能波麻末都《ミツノハママツ》――三津の濱に生えてゐる松。松を擬人してゐる。同音を繰返して次句のマチにつづけてゐる。
〔評〕 家島にしづかに碇泊してゐるぢれつたさを歌つてゐる。下句は卷一の山上憶良の大唐に在つて本郷を憶つて詠んだ歌、去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イザコドモハヤクヤマトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》(六三)を學んだものである。この歌の三津の濱松を難波の遊女とする説もあるが、この五首はいづれも家郷を思ふの情が熱烈で、他の女を顧る暇はない場合であるから、ここに遊女などを想ひ起す心の餘裕はない筈だ。
 
3722 大伴の 御津の泊に 船はてて 立田の山を 何時か越え行かむ
 
大伴乃《オホトモノ》 美津能等麻里爾《ミツノトマリニ》 布禰波弖弖《フネハテテ》 多都多能山乎《タツタノヤマヲ》 伊都可故延伊加武《イツカコエイカム》
 
大伴ノ三津ノ濱ニ私ノ〔二字傍線〕舟ガ碇泊シテ、ソレカラ私ハ〔六字傍線〕龍田山ヲ何時越エテ都ニ歸〔四字傍線〕ルデアラウ。早ク行キタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○大伴乃《オホトモノ》――大伴は難波から今の濱寺あたりの地名であつたらしい。枕詞として見《ミ》つにつづいた例もある。
〔評〕 家島に碇泊してゐて遙かにこれからの行先を想像し、待遠く思つてゐる。奈良へは生駒越と立田越とあつて、前に暫く暇を偸んで難波から生駒越して奈良へ行つて來たことが詠んであつたが、歸路は立田越して奈良に入らうと豫定してゐるのである。この歌、袖中抄に出てゐる。この歌を以て遣新羅使一行の人たちの作を終つてゐる。新羅からの歸途の作が僅かに五首に過ぎないのは、洵に物足りない、新羅から疫病のやうなものに(627)傳染して來て、大使その他の凶變があり、又途中落伍者なども出來、一行が這々の躰で京に歸つた爲に、歌作の氣分にならなかつたこともあらうし、又作つたものも散佚したのであらう。いたましいことであつた。
 
中臣朝臣宅守、與2狹野茅上娘子1贈(リ)答(フル)歌
 
目録には中臣朝臣宅守娶2藏部女嬬狹野茅上娘子1之時、勅斷2流罪1配2越前國1也、於v是夫婦相2嘆易v別難1v會各陳2慟情1贈答六十三首とあり、事件について委しく記してゐる。舊本に嬬の字を嫂に作つてゐるのを代匠記に聘の誤としてゐるが、それでは藏部女を娶り、狹野茅上娘子を聘する時と訓むことになつて意味をなさない。中臣朝臣宅守は續紀に「天平十二年六月庚午、宜v大2赦天下1、自2天平十二年六月十五日戍時1以前、大辟以下咸赦除之、云々、其流人穗積朝臣老等五人、召令v入v京、云々、中臣宅守不v在2赦限1」とあるから、配流になつたのは天平十年前後で、この時の大赦には、如何なる理由か赦されなかつたのである。赦免の後、再び任官したものと見えて、續紀に、天平賓宇七年正月壬子從六位上中臣朝臣宅守授2從五位下1」と見えてゐる、藏部は藏部司で、齋宮寮十二司の一。女嬬は掃除點燈などを掌る下級の女官。狹野茅上娘子の傳はわからない。茅は※[草がんむり/弟]となつてゐる本も多いが、この二字は他にも紛れた例があつて(七七三參照)どれが正しいか、判斷し難い。
 
3723 足引の 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし
 
安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻治古延牟等《ヤマヂコエムト》 須流君乎《スルキミヲ》 許許呂爾毛知弖《ココロニモチテ》 夜須家久母奈之《ヤスケクモナシ》
 
(安之比奇能)山道ヲ越エテ越前ノ國ヘ流サレテ〔九字傍線〕行カウトスル貴方ヲ、イトシイト〔五字傍線〕心ニ思ツテヰルノデ、私ハ〔二字傍線〕、心ノ安マルコトモアリマセヌ。
 
(628)○夜麻治古延牟等《ヤマヂコエムト》――山路を越えて越前に赴かむと。山路は主として愛發山を指すか。
〔評〕 別に臨んでの娘子の作。この一聯の中では佳作ではない。
 
3724 君が行く 道の長手を 繰りたたね 燒き亡さむ 天の火もがも
 
君我由久《キミガユク》 道乃奈我※[氏/一]乎《ミチノナガテヲ》 久里多多禰《クリタタネ》 也伎保呂煩散牟《ヤキホロボサム》 安米能火毛我母《アメノヒモガモ》
 
貴方ガ流サレテ〔四字傍線〕イラツシヤル、道ノ長イ道ヲ手繰リ寄セテ疊ンデ、ソレヲ〔三字傍線〕燒イテ無クシテシマフヤウナ、天ノ火ガ欲シイモノデス。コレカラ流サレテオイデニナル道ヲ、ナクシテシマヒタイト思ヒマス〔コレ〜傍線〕。
 
○道乃奈我※[氏/一]乎《ミチノナガテヲ》――道の長道を。卷二十に道乃長道波《ミチノナガヂハ》(四三四一)ともある。○久里多多禰《クリタタネ》――繰り疊に同じ。手繰り寄せて疊んで。古義は類聚古集に禰を彌に作るによつて、多多彌《タタミ》と改めてゐるが、タタヌといふ奈行の動詞のやうである。○安米能火毛我母《アメノヒモガモ》――天の火もあれかしの意。天の火は人間の燃やす火でなく、おのづから燃える不思議な火。史記孝景本紀に、「三年正月乙己天火燔2※[各+隹]陽東宮大殿城室1」とある天火と同じであらう。
〔評〕 山路を越えて行く越前への道は思ふだに遠い。その道さへ無くば別の悲しみもあるまい。それを燒いてしまふ天の火もあれかしと、身をも心をも燒くばかりの情熱の※[火+陷ノ旁]が燃え上つて、物凄い言葉と、強烈な調をなしてゐる。集中でも目立つた情熱的作品である。古義には「長道を繰り寄せ疊みて混一《ヒトツ》にして燒亡ぼして、近くならしむ天の神火もがなあれかし」と解いてゐるが、距離を近くならしめるのではない。越前へ行く道を亡くさうとするのである。天の火に支那的思想が見えるやうだ。
 
3725 吾が背子し 蓋しまからば 白妙の 袖を振らさね 見つつしぬばむ
 
和我世故之《ワガセコシ》 氣太之麻可良婆《ケダシマカラバ》 思漏多倍乃《シロタヘノ》 蘇低乎布良左祢《ソデヲフラサネ》 見都(629)追志努波牟《ミツツシヌバム》
 
私ノ夫ガ若シ越前ヘ流サレテ〔七字傍線〕、御出カケナサルナラバ、ソノ時ニハ〔五字傍線〕、(思漏多倍乃)袖ヲ振ツテ下サイ。私ハソレヲ〔五字傍線〕見テアナタヲ慕ヒマセウ。
 
○和我世故之《ワガセゴシ》――舊訓にワガセコガとあるのはよくない。○氣太之麻可良婆《ケダシマカラバ》――氣太之《ケダシ》は蓋し。若し。○思漏多倍乃《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。
〔評〕 流罪と定まつた人に、なほ萬一の赦免を期待して、蓋し罷らばと言つてゐるのはいたましい。道すがら打振る袖を見て、名殘を惜しまうとするのも可愛さうである。
 
3726 この頃は 戀ひつつもあらむ 玉匣 明けてをちより すべなかるべし
 
己能許呂波《コノコロハ》 古非都追母安良牟《コヒツツモアラム》 多麻久之氣《タマクシゲ》 安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》 須辨奈可流倍思《スベナカルベシ》
 
今ノ内ハ、アナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ヒナガラモ、堪ヘテ〔三字傍線〕居リマセウ。然シ愈々アナタガ御出立ナサル〔然シ〜傍線〕(玉匣)明朝以後ハ、戀シクテ私ハ〔三字傍線〕仕方ガナイデセウ。
 
○多麻久之氣《タマクシゲ》――枕詞。玉は美稱。櫛笥を開《ア》くにかけて用ゐる。卷九に玉匣開卷惜?夜矣《タマクシゲアケマクヲシキアタラヨヲ》(一六九二)とある。○安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》――夜が明けて後から。ヲチは遠。以後。
〔評〕 傷心の聲、悲痛の叫び、聞く人の心を動かさねば止まない。
 
右四首娘子臨(ミテ)v別(ニ)作(レル)歌
 
3727 塵泥の 數にもあらぬ 我故に 思ひわぶらむ 妹が悲しさ
 
(630)知里比治能《チリヒヂノ》 可受爾母安良奴《カズニモアラヌ》 和禮由惠爾《ワレユヱニ》 於毛比和夫良牟《オモヒワブラム》 伊母我可奈思佐《イモガカナシサ》
 
塵ヤ泥ノヤウナ、人間ノ〔三字傍線〕數ニモ入ラナイツマデナイ私ノ爲ニ、私ノ妻ハ〔四字傍線〕戀ニ苦シンデヰルデアラウガ、アノ〔三字傍線〕妻ハイトシイヨ。
 
○知里比治能《チリヒヂノ》――塵や泥のやうな。つまらぬものの譬である。○和禮由惠爾《ワレユヱニ》――吾故に。私の爲に。私だからの意ではない。○伊母我可奈思佐《イモガカナシサ》――この可奈思佐《カナシサ》はかはゆい、いとしいの意。
〔評〕 自分を謙遜して、塵泥の如き數ならぬ身といつてゐるのは、妻の愛情に對する感謝の念からであらう。古義に「かく此の度罪を被りて、遠く配流《ハナサ》れて、塵泥の如く世に容られず、數まへられぬ吾なるものを」とあるのは當らない。自分の賤しきを卑下して言つてゐるのである。つまらぬ身を塵泥に譬へるのは漢文學の影響ではあるまいか。この歌、拾遺集に第四句を思ひこふらむとして出してゐる。
 
3728 青丹よし 奈良の大路は 行きよけど この山道は 行き惡しかりけり
 
安乎爾與之《アヲニヨシ》 奈良能於保知波《ナラノオホヂハ》 由吉余家杼《ユキヨケド》 許能山道波《コノヤマミチハ》 由伎安之可里家利《ユキアシカリケリ》
 
(安乎爾與之)奈良ノ大通ハ歩クノニ歩キ艮イガ、今越前ニ流サレテコエテ行ク〔今越〜傍線〕コノ山道ハ歩キ難イヨ。
 
○許能山道者《コノヤマミチハ》――何處の山ともいつてゐないが、次の作に美故之治之太武氣爾多知弖《ミコシヂノタムケニタチテ》(三七三〇)とあるから、愛發山であらう。
〔評〕 由吉余家杼《ユキヨケド》に對して、由伎安之可里家利《ユキアシカリケリ》となつてゐるのは、調子が惡く、拙い感じがある。
 
3729 うるはしと 吾が思ふ妹を 思ひつつ 行けばかもとな 行き惡しかるらむ
 
(631)宇流波之等《ウルハシト》 安我毛布伊毛乎《アガモフイモヲ》 於毛比都追《オモヒツツ》 由氣婆可母等奈《ユケバカモトナ》 由伎安思可流良武《ユキアシカルラム》
 
イトシイト私ガ思フ妻ヲナツカシク〔五字傍線〕思ヒナガラ、歩イテヰルノデ、コンナニ〔四字傍線〕ムヤミニ歩キ難イノデアラウ。
 
○字流波之等《ウルハシト》――宇流波之《ウルハシ》は可愛いこと。○由氣婆可母等奈《ユケバカモトナ》――母等奈《モトナ》は徒らに、猥りに。この語を第三句の上に置きかへて見るべしと略解にあるのは誤つてゐる。
〔評〕 前の歌に許能山道波由伎安之可里家利《コノヤマミチハユキアシカリケリ》と言つた、その理由を説明したもので、連作になつてゐる。
 
3730 かしこみと 告らずありしを み越路の たむけに立ちて 妹が名告りつ
 
加思故美等《カシコミト》 能良受安里思乎《ノラズアリシヲ》 美故之治能《ミコシヂノ》 多武氣爾多知弖《タムケニタチテ》 伊毛我名能里都《イモガナノリツ》
 
罪ヲ受ケテ流サレテ行ク道中ダカラ〔罪ヲ〜傍線〕、恐多イトテ、戀シイ妻ノ名ヲ〔七字傍線〕口ニ出サズニ居ツタガ、イヨイヨ〔四字傍線〕越ノ國ヘ入ル道ノ峠ニ立ツテ、コレカラ越ノ國ダト思フト堪ヘ切レナイデ〔コレ〜傍線〕、妻ノ名ヲ呼ンダヨ。
 
○美故之治能《ミコシヂノ》――美《ミ》は接頭語。越路はここは越へ行く路と解しては當らない。越へ入る路で、ここから北陸道となる。多武氣《タムケ》とつづいてゐる。○多武氣爾多知弖《タムケニタチテ》――多武氣《タムケ》は手向。峠。ここで幣を手向けて神を祭り、道の安全を祈るのである、この多武氣《タムケ》は愛發山越の道。
〔評〕 第二句に能良受安里思乎《ノラズアリシヲ》と言つて、第五句に伊毛我名能里都《イモガナノリツ》と繰返したのは、技巧的には拙いと言つてよいが、内容はまことに悲しくあはれで、人をして同情せしめるものがある。
 
右四首中臣朝臣宅守上(リテ)v道(ニ)作(レル)歌
 
3731 思ふゑに 逢ふものならば しましくも 妹が目かれて 我居らめやも
 
(632)於毛布惠爾《オモフヱニ》 安布毛能奈良婆《アフモノナラバ》 之末思久毛《シマシクモ》 伊母我目可禮弖《イモガメカレテ》 安禮乎良米也母《アレヲラメヤモ》
 
戀シク思フカラ妻ニ〔二字傍線〕逢ヘルモノナラバ、コンナニ私ハ戀シク思ツテヰルノダカラ〔コン〜傍線〕、暫クノ間モ妻ニ分レテ私ガ居ルモノカ。必ズ逢ヘル筈ダ〔七字傍線〕。
 
○於毛布惠爾《オモフヱニ》――思ふ故に。ヱはユヱの略である。○之末思久毛《シマシクモ》――暫シにクを添へて、暫しくとしてゐる。意はしばらくもに同じ。
〔評〕 思ふ心の切なさ、暫しも止まぬ旅中の戀を述べてゐる。以下十四首は配所での作である。
 
3732 あかねさす 晝は物もひ ぬば玉の よるはすがらに ねのみし泣かゆ
 
安可禰佐須《アカネサス》 比流波毛能母比《ヒルハモノモヒ》 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲流波須我良爾《ヨルハスガラニ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》
 
(安可禰佐須)晝ハ物ヲ思ツテ妻ヲ戀シ〔四字傍線〕、(奴婆多麻乃)夜ハ夜通シ妻ヲ思ツテ〔五字傍線〕、聲ヲ出シテ泣イテバカリ居ル。
 
○欲流波須我良爾《ヨルハスガラニ》――「須我良《スガラ》は、その儘。盡くなどの意。この句は夜もすがらと同意。
〔評〕晝も夜も女を思ふことを強調しただけだ。卷十三の赤根刺日者之彌良爾烏玉之夜者酢辛二眠不睡爾妹戀丹生流便爲無《アカネサスヒルハシミラニヌバタマノヨルハスガラニイモネズニイモニコフルニイケルスベナシ》(三二九七)などを短歌にしたやうでもある。
 
3733 吾妹子が 形見の衣 なかりせば 何物もてか 命繼がまし
 
和伎毛故我《ワギモコガ》 可多美能許呂母《カタミノコロモ》 奈可里世婆《ナカリセバ》 奈爾毛能母※[氏/一]加《ナニモノモテカ》 伊能(633)知都我麻之《イノチツガマシ》
 
吾ガ妻ノ形見トシテ着セテクレタコノ〔八字傍線〕着物ガナカツタナラバ、何物ヲモツテ私ハ命ヲ繋ガウカ。只コレダケヲ形見トシテ、心ヲ慰メテ生キテヰルノダ〔コレ〜傍線〕。
 
○奈爾毛能母※[氏/一]加《ナニモノモテカ》――何物以ちてかの略。古義にはモチとモテとの別を嚴重に主張して、これを母智加《モチカ》の誤かといつてゐるが、モチテカの略とすればこの儘でよい。
〔評〕 女の形見の衣を膚身放たず持つてゐて、辛うじて焦死もせず命をつないでゐる心の、悲しさ淋しさは同情に堪へない。
 
3734 遠き山 關も越え來ぬ 今更に 逢ふべきよしの 無きがさぶしさ 一云ふ、さびしさ
 
等保伎山《トホキヤマ》 世伎毛故要伎奴《セキモコエキヌ》 伊麻左良爾《イマサラニ》 安布倍伎與之能《アフベキヨシノ》 奈伎我佐夫之佐《ナキガサブシサ》
 
都ヲ離レテ〔五字傍線〕、遠イ山ヤ愛發ノ〔三字傍線〕關モ越エテ來タ。ダカラ〔三字傍線〕今ニナツテハ、妻ニ〔二字傍線〕逢フベキ方法ガナイノハ、淋シク悲シ〔三字傍線〕イヨ。
 
○等保伎山《トホキヤマ》――都より遠くにある山。愛發山を指すか。○世伎毛故要伎奴《セキモコエキヌ》――關は愛發の關。當時不破・鈴鹿と共に三關と呼ばれてゐた。古義には礪波の關とあるが、礪波關は越中であるから、宅守が越える筈はない。○奈伎我佐夫之佐《ナキガサブシサ》――佐夫之《サブシ》は寂し。心に物足らず思ふこと。
〔評〕 愛發の關を越えて、いよいよ配所に來た作者の心中の、淋しさ戀しさが想像される。關といふものに對する上代人の考へ方は格別であつた。况んや流人においてをやである。その心境は下の歌の中にあらはれてゐる。
 
(634)一云 左必之佐《サビシサ》
 
結句の異傳である。この場合はサブシサと同意である。
 
3735 思はずも まことあり得むや さ寢る夜の 夢にも妹が 見えざらなくに
 
於毛波受母《オモハズモ》 麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》 左奴流欲能《サヌルヨノ》 伊米爾毛伊母我《イメニモイモガ》 美延射良奈久爾《ミエザラナクニ》
 
ドウシテ私ハ妻ヲ戀シク〔ドウ〜傍線〕思ハズニホントニ居ラレヨウゾ。寢ル夜ノ夢ニスラモ、妻ガ見エナイコトハナイ、見エル〔三字傍線〕ノダカラ。戀シイノハ無理モナイデセウ〔戀シ〜傍線〕。
 
○於毛波受母《オモハズモ》――戀しい人を思はないでも、モは詠歎の助詞。○亡麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》――ほんとにゐられようやとてもゐられない。○左奴流欲能《サヌルヨノ》――さ寢る夜の。サは接頭語。○美妓射良奈久爾《ミエザラナクニ》――見えずあらなくに。見えないことはないよの意。ナクニと言ふのは極めて輕い詠嘆的叙法である。この句を略解に「見えざらなくにのなくは詞にて、見えざるにと言ふ也。」とあり、古義にも「見え來ざる事なるを」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 夢にのみ見て逢へないことを嘆いてゐる。調子に強いところがある。代匠記に初句で切つて見てもよいとあるが、さういふ歌形ではない。
 
3736 遠くあれば 一日一夜も 思はずて 在るらむものと 思ほしめすな
 
等保久安禮婆《トホクアレバ》 一日一夜毛《ヒトヒヒトヨモ》 於母波受弖《オモハズテ》 安流良牟母能等《アルラムモノト》 於毛保之賣須奈《オモホシメスナ》
 
私ハアナタヲ思ハナイコトハナイノダカラ、私ガ今頃貴女ト〔私ハ〜傍線〕遠ク離レテヰルノデ、一日一晩デモ、アナタヲ〔四字傍線〕思ハ(635)ズニヰルダラウナドト思召スナヨ。
 
○等保久安禮婆《トホクアレバ》――第三句の思はずてにかかつてゐる。
〔評〕 遠く離れてゐても、私は貴女を忘れる時はないと、相手の同情を求めて、呼びかける言葉。女性的口吻である。
 
3737 ひとよりは 妹ぞも惡しき 戀もなく あらましものを 思はしめつつ
 
比等余里波《ヒトヨリハ》 伊毛曾母安之伎《イモゾモアシキ》 故非毛奈久《コヒモナク》 安良末思毛能乎《アラマシモノヲ》 於毛波之米都追《オモハシメツツ》
 
他ノ〔二字傍線〕人ノ誰〔二字傍線〕ヨリモ妻ノアナタ〔四字傍線〕ガイケナイノデス。私ハ〔二字傍線〕戀モナク長閑ニシテ〔五字傍線〕ヰタイノニ、アナタガ私ニ戀シク〔十字傍線〕思ハセナサツテ。ホントニアナタハ惡イ人デス〔ホン〜傍線〕。
 
○於毛波之米都追《オモハシメツツ》――思はしめて。シメは使役助動詞。ツツは輕く言ひをさめてゐる。
〔評〕 これも男らしくない女々しい戀である。宅守の性格のあらはれであらう。
 
3738 思ひつつ 寢ればかもとな 烏玉の 一夜もおちず 夢にし見ゆる
 
於毛比都追《オモヒツツ》 奴禮婆可毛等奈《ヌレバカモトナ》 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 比等欲毛意知受《ヒトヨモオチズ》 伊米爾之見由流《イメニシミユル》
 
妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思ヒツツ寢ルカラカ、(奴婆多麻能)一晩モ缺カサズニ、妻ノコトガ〔五字傍線〕徒ラニ夢ニ見エルヨ。
 
○奴禮婆可毛等奈《ヌレバカモトナ》――寢ればかもとな。毛等奈《モトナ》は五句の上に移して見るがよい。
〔評〕 意は少し異なるが、前の和伎毛故我伊可爾於毛倍可奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ワギモコカイカニオモヘカヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》(三六四七)に似てゐる。
 
3739 かくばかり 戀ひむとかねて 知らませば 妹をば見ずぞ あるべくありける。
 
(636)可久婆可里《カクバカリ》 古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》 之良末世婆《シラマセバ》 伊毛乎婆美受曾《イモヲバミズゾ》 安流倍久安里家留《アルベクアリケル》
 
コレホドニ妻ヲ〔二字傍線〕戀スルダラウト豫テ知ツテヰタナラバ、妻ニハ逢ハズニヰル筈デアツタノニ。
 
○伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《イモヲバミズゾアルベクアリケル》――見ずは、唯逢はないといふのではない。この句はあの女を知らずにあるべきであつたといふのである。
〔評〕 戀の苦しさに、娘子と知合になつたことを悔む言葉。卷十一の是量戀物知者遠可見有物《カクバカリコヒムモノトシシラマセバトホクミツベクアリケルモノヲ》(二三七二)と似てゐる。
 
3740 天地の 神なきものに あらばこそ 吾が思ふ妹に 逢はず死にせめ
 
安米都知能《アメツチノ》 可未奈伎毛能爾《カミナキモノニ》 安良婆許曾《アラバコソ》 安我毛布伊毛爾《アガモフイモニ》 安波受思仁世米《アハズシニセメ》
 
若シ〔二字傍線〕天ノ神、地ノ神ガナイモノデアツタナラバ、私ノ戀シイ妻ニ會ハズニ私ハ死ヌデセウ。天ノ神、地ノ神ガアル以上ハ、私ガコレ程ニ思ツテヰルコトヲ憐ンデ、會ハセテ下サルダラウカラ、妻ニ會ハズニ死ヌ筈ハナイ〔天ノ〜傍線〕。
 
〔評〕 卷四の笠女郎が大伴家持に贈つた歌。天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目《アメツチノカミシコトハリナクバコソワガモフキミニアハズシニセメ》(六〇五)と酷似してゐる。時代も略同年頃で、いづれが先とも判斷し難いが、雨者の關係は否定出來ない。
 
3741 命をし 全くしあらば あり衣の 在りて後にも 逢はざらめやも 一云、在りての後も
 
伊能知乎之《イノチヲシ》 麻多久之安良婆《マタクシアラバ》 安里伎奴能《アリキヌノ》 安里弖能知爾毛《アリテノチニモ》 安波(637)射良米也母《アハザラメヤモ》
 
命サヘ無事デアルナラバ、イツカハ〔四字傍線〕(人安里伎奴能)カウシテヰテ、後デ戀人ニ〔三字傍線〕會ハレナイコトハアラウヤ。必ズ後デ逢ヘルデセウ〔必ズ〜傍線〕。
 
○伊能知乎之麻多久之安良婆《イノチヲシマタクシアラバ》――強辭のシが二つ用ゐられてゐる。○安里伎奴能《アリキヌノ》――枕詞。安里弖《アリテ》とつづいてゐる。安里伎奴《アリギヌ》は諸説があるが、鮮かなる絹と解した宣長説に從ふ。
〔評〕 將來にはかない望をかけてゐる。卷四の玉緒乎沫緒二搓而結有者在手後二毛不相在目八方《タマノヲヲアハヲニヨリテムスベレバアリテノチニモアハザラメヤモ》(七六三)と下句同じ。卷十二にも在而後爾毛相等曾念《アリテノチニモアハムトゾオモフ》(三〇六四)とある。
 
一云 安里弖能乃知毛《アリテノノチモ》
 
第四句の異傳。意は同じである。
 
3742 逢はむ日を その日と知らず 常闇に いづれの日まで 我戀ひ居らむ
 
安波牟日乎《アハムヒヲ》 其日等之良受《ソノヒトシラズ》 等許也未爾《トコヤミニ》 伊豆禮能日麻弖《イヅレノヒマデ》 安禮古非乎良牟《アレコヒヲラム》
 
戀シイ人ニ〔五字傍線〕逢フ日ヲ何時トモワカラズコノ配所デ心モ〔七字傍線〕眞暗ニナツテ、何時ノ曰マデ私ハカウシテ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルデアラサカ。
 
○安波牟目乎其日等之良受《アハムヒヲソノヒトシラズ》――赦されて越から歸つて、あなたに逢ふべき日を何時とも豫定し難く。○等許也未爾《トコヤミニ》――常闇に。永しへに明けない闇。悲しみの爲に、心の暗くなつてゐることの、永久に晴れないこと。古義に卷四の照日乎闇爾見成而哭涙《テラスヒヲヤミニミナシテナクナミダ》(六九〇)にならつて、涙の爲に目も見えぬやうに解してゐるが、涙には關係が(638)ない。
〔評〕 配所にある人の戀の叫が、あはれに人の胸を打つものがある。しかしこれも益荒堆ぶりではない。
 
3743 旅といへば 言にぞ易き 少くも 妹に戀ひつつ 術無けなくに
 
多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許等爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須久奈久毛《スクナクモ》 伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》 須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》
 
旅ト口デ〔二字傍線〕言フト、言葉デハ、如何ニモ〔四字傍線〕容易ク聞エル〔三字傍線〕。シカシ旅デハ〔六字傍線〕妻ヲ戀シク思ツテ、少シグラヰノ術ナサ辛サデハアリマセヌゾ。
 
○多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎《タビトイヘバコトニゾヤスキ》――旅と言ふと言葉では何でもない。タビといふ語が、言ひ易いといふのではない、旅といふと言葉だけでは何でもないが實際は辛いといふのだ。○須久奈久毛《スクナクモ》――句を隔てて、結句につづいてゐる。○須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》――術なくはないよ。三句から續いて、少し術ないのではない、大に辛いよの意。
 
〔評〕 卷十一の言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘバミミニタヤスシスクナクモココロノウチニワガモハナクニ》(二五八一)と同型。多分これを模倣したものであらう。下に初二句同じ歌がある。
 
3744 吾妹子に 戀ふるに我は たまきはる 短き命も 惜しけくもなし
 
和伎毛故爾《ワギモコニ》 古布流爾安禮波《コフルニアレハ》 多麻吉波流《タマキハル》 美自可伎伊能知毛《ミジカキイノチモ》 乎之家久母奈思《ヲシケクモナシ》
 
吾ガ妻ヲ戀シク思フ苦シサ〔三字傍線〕ニ、私ハ死ンダ方ガ苦シミヲ遁レテヨカラウト思フカラ、人間ノコノ〔死ン〜傍線〕、短イ(多麻吉波流)壽命ナドハ惜シクモ思ハナイ。
 
(639)○古布流爾安禮波《コフルニアレハ》――安禮波《アレハ》は我は。○多麻吉波流《タマキハル》――枕詞。命につづく。○美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ミジカキイノチモヲシケクモナシ》――人間の壽命は短いから貴いが、その短い壽命も戀故には惜しいとは思はない。古義に「吾妹子を戀しく思ふ心の苦しき餘りに、中々に死たらば安かりなむと思へば、命の短からむことも、吾はさらに惜からずとなり」とあるのは誤解であらう。新考に「ミジカキとイノチモのモと相背きて聞ゆ。毛はおそらくは衍字ならむ」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 卷九の如是耳志戀思渡者霊刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタレバタマキハルイノチモワレハヲシケクモナシ》(一七六九)、卷十二の君爾不相久成宿玉緒之長命之惜雲無《キミニアハズヒサシクナリヌタマノヲノナガキイノチノヲシケクモナシ》(三〇八二)と酷似してゐる。
 
右十四首中臣朝臣宅守
 
目録には至2配所1中臣朝臣宅守作歌十四首とある。配所にての作で、纒めて娘子に贈つたものであらう。
 
3745 命あらば 逢ふこともあらむ わが故に はたな思ひそ 命だに經ば
 
伊能知安良婆《イノチアラバ》 安布許登母安良牟《アフコトモアラム》 和我由惠爾《ワガユヱニ》 波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》 伊能知多爾敝波《イノチダニヘバ》
 
命サヘ〔二字傍線〕アルナラバ、又〔傍線〕逢フコトモアルデセウ。デスカラ〔四字傍線〕、私ノ爲ニ、ヤハリ物思ヲナサイマスナ。オ互ニ〔三字傍線〕命サヘアルナラバ又逢フコトモアルデセウ〔又逢〜傍線〕。
 
○波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》――波太《ハタ》は將。やはりなどの意。ここの用法は極めて輕いやうである。古義には「波多《ハタ》はそのもと心に欲《ネガ》はず、厭ひ惡《キラ》ひてあることなれど、外にすべきすじなくて、止むことなくするをいふ詞なり」とある。○伊能知多爾敝波《イノチダニヘバ》――命だに長らへば。
〔評〕 男を慰める言葉。初句の意を終句に繰返してゐる。男から和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎(640)伊能知毛乎之家久母奈思《ワギモコニコフルニアレヘタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》(三七四四)と言つたのに答へたものか。
 
3746 人の植うる 田は植ゑまさず 今更に 國別れして 我はいかにせむ
 
比等能宇宇流《ヒトノウウル》 田者宇惠麻佐受《タハウヱマサズ》 伊麻佐良爾《イマサラニ》 久爾和可禮之弖《クニワカレシテ》 安禮波伊可爾勢武《アレハイカニセム》
 
世ノ中ノ〔四字傍線〕人ガ皆〔傍線〕植ヱル田ヲアナタハ〔四字傍線〕御植ヱニナラズニ、國ヲ遠ク別レテ越前ヘ御出ニナツテ〔越前〜傍線〕、今更私ハ、何トシタモノデセウ。御留守中ドウシタモノカ、途方ニクレマス〔御留〜傍線〕。
 
○比等能宇宇流田者宇惠麻佐受《ヒトノウウルタハウヱマサズ》――世の人の植ゑる田を植ゑ給はず。世の人の如く田を植ゑ給はずの意。○伊麻佐良爾《イマサラニ》――句を隔てて結句につづいてゐる。○久爾和可禮之弖《クニワカレシテ》――國に分れて。故郷を去つて旅に出でて。○安禮波伊可爾勢武《アレハイカニセム》――我は如何にせむ。我は途方にくれる意。
〔評〕 農夫でない宅守は、もとより自ら田植する筈はないが、所領の田の植付のことも農夫に差圖する遑もなく、配流せられて、越前に赴いたので、後に殘つた娘子が途方にくれてゐるのであらう。新解には「人並の事はしないでの意。田を植ゑるのは譬喩で借り來つたまでである」と言つてゐる。併しまだ霞の春の頃、流されたことは下の歌に明らかであるから、ここに田植もしないでとあるのと、丁度時季があつてゐる。
 
3747 吾が宿の 松の葉見つつ 我待たむ 早帰りませ 戀ひ死なぬとに
 
和我屋度能《ワガヤドノ》 麻都能葉見都都《マツノハミツツ》 安禮麻多無《アレマタム》 波夜可反里麻世《ハヤカヘリマセ》 古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》
 
私ノ宿ノ松ノ葉ヲ眺メナガラ、ソノ待ツトイフ名ヲタヨリニシテ〔ソノ〜傍線〕、私ハアナタヲ〔四字傍線〕待ツテ居リマセウ。私ガ〔二字傍線〕戀ヒ死ナヌ内ニ早ク御歸リナサイマシ。
(641)○麻都能葉見都都《マツノハミツツ》――松で待を連想して、松を眺めながら貴方を待つてゐようといふのだ。○古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》――戀ひ死なぬ内に。焦死しない間に。トニは内に、時になどの意。卷十の夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》(一八二二)參照。
〔評〕 松を待にかけた歌は集中に尠くない。戀しい人を待つ淋しい心を、松の梢を眺めて慰めるのであらうが、現代人には松樹に對して戀人を待つ心は理解し難いやうだ。
 
3748 ひと國は 住惡しとぞいふ すむやけく 早歸りませ 戀ひ死なぬとに
 
比等久爾波《ヒトクニハ》 須美安之等曾伊布《スミアシトゾイフ》 須牟也氣久《スムヤケク》 波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》 古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》
 
他國ハ住ミニクイ所ダ〔二字傍線〕ト世間デ〔三字傍線〕申シマス。デスカラ、私ガ貴方ノ御歸リヲ待ツテ〔デス〜傍線〕、戀死シナイ内ニ、早ク御歸リ下サイ。
 
○比等久爾波《ヒトクニハ》――他國は。卷十二に他國爾結婚爾行而《ヒトクニニヨバヒニユキテ》(二九〇九)とある。○牟也氣久《スムヤケク》――速かに。卷六には急令變賜根《スムヤケクカヘシタマハネ》(一〇二〇〕とある。
〔評〕 前の歌と下句が同じである。弄語的な「松の葉見つつ」よりも、「人國は住みあしとぞいふ」の方が感情がこもつてゐるが、なほこれにも二句と三句とにスミとスムとの繰返しが、かなり主要な技巧として用ゐられてゐるやうである。
 
3749 他國に 君をいませて 何時までか 吾が戀ひ居らむ 時の知らなく
 
比等久爾爾《ヒトクニニ》 伎美乎伊麻勢弖《キミヲイマセテ》 伊都麻弖可《イツマデカ》 安我故非乎良牟《アガコヒヲラム》 等伎乃之良奈久《トキノシラナク》
 
他國ヘアナタヲ旅立タセテ、又、再ビ御目ニカカル〔九字傍線〕時モ知ラズ、何時マデ私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀シガツテ居ルコトデ(642)セウ。早ク御歸リ下サイ〔八字傍線〕。
 
○伎美乎伊麻勢弖《キミヲイマセテ》――君をいませて。貴方を行かしめて。イマスは居るの敬語である場合と、行くの敬語である場合とある。ここは後者。下二段活用の他動詞である。○等伎乃之良奈久《トキノシラナク》――再び逢ふべき時が何時ともわからない。前の句で切つて、この句を言ひ添へたのである。四五の句を續けて見る説は從ひ難い。
〔評〕 前の歌と略々同意。唯少しく言ひ方が穩やかである。
 
3750 天地の そこひのうらに 吾が如く 君に戀ふらむ 人はさねあらじ
 
安米都知乃《アメツチノ》 曾許比能宇良爾《ソコヒノウラニ》 安我其等久《アガゴトク》 伎美爾故布良牟《キミニコフラム》 比等波左禰安良自《ヒトハサネアラジ》
 
天地ノ極マデノ内ニ、コノ世界中デ〔六字傍線〕、私ノヤウニアナタヲ戀ヒ慕フ人ハ、實際アルマイ。
 
○安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》――天地の極《ハテ》の内に。曾許比《ソコヒ》は底ひ。底の方。ソキヘの轉訛とも考へられる。宇良《ウラ》は裡。内に同じ。○比等波左禰安良自《ヒトハサネアラジ》――左禰《サネ》は眞・實。ほんとに。實際に。
〔評〕 輪廓の大きな歌。張り切つた調子。燃えるやうな情緒。
 
3751 白妙の 吾が下衣 失はず 持てれ吾が背子 直に逢ふまでに
 
之呂多倍能《シロタヘノ》 安我之多其呂母《アガシタゴロモ》 宇思奈波受《ウシナハズ》 毛弖禮和我世故《モテレワガセコ》 多太爾安布麻低爾《タダニアフマデニ》
 
私ノ夫ヨ、再ビ〔二字傍線〕直接ニ御目ニカカルマデハ、私ノ(之呂多倍能)下着ヲ無クサズニ持ツテヰテ下サイ。
 
○之呂多倍能《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。○安我之多其呂母《アガシタゴロモ》――私の下衣。下衣は下に襲ねる衣。娘子が贈つた衣。(643)○毛弖禮和我世故《モテレワガセコ》――持てよ吾が背子。毛弖禮《モテレ》は持てりの命令形。
〔評〕宅守の出立に際して、娘子が贈つた衣は唯一の形見であつた。宅守も和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆奈爾毛能母※[氏/一]加伊能知都我麻之《ワギモコガカタミノコロモナカリセバナニモノモテカイノチツガマシ》(三七三三)といつてゐる。更に後から別の衣を贈つて、この衣を逢ふまでの形見として失ふなかれと言ひ送つたのであらう。
 
3752 春の日の うらがなしきに おくれ居て 君に戀ひつつ 顯しけめやも
 
波流乃日能《ハルノヒノ》 宇良我奈之伎爾《ウラガナシキニ》 於久禮爲弖《オクレヰテ》 君爾古非都都《キミニコヒツツ》 宇都之家米也母《ウツシケメヤモ》
 
只サヘ〔三字傍線〕春ノ日ガ心悲シイノニ、アナタト〔四字傍線〕別レテヰテ、私ハ〔二字傍線〕アナタヲ戀シク思ヒナガラ、正氣デヰラレマセウヤ、私ハボンヤリシテ悲シンデヰマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○宇良我奈之伎爾《ウラガナシキニ》――心悲しいのに。古義に、春の日の心愛憐しく樂しくの意に見てゐるのはよくない。○宇都之家米也母《ウツシケメヤモ》――顯しくあらめやも。正氣でゐられようか、正氣ではゐられない。
〔評〕 あはれな感傷的作品であるが、卷十二の足檜木乃片山雉立往牟君爾後而打四鷄目八方《アシビキノカタヤマキギシタチユカムキミニオクレテウツシケメヤモ》(三二一〇)から脱化したものらしい。
 
3753 逢はむ日の 形見にせよと 手弱女の 思ひ亂れて 縫へる衣ぞ
 
安波牟日能《アハムヒノ》 可多美爾世與等《カタミニセヨト》 多和也女能《タワヤメノ》 於毛比美太禮弖《オモヒミダレテ》 奴敝流許呂母曾《ヌヘルコロモゾ》
 
コノ着物ハ、又〔六字傍線〕、逢フ日マデノ形見ニナサイマシト思ツテ〔三字傍線〕、私ガ悲シサニ〔四字傍線〕心ガ亂レナガラ、アナタノ爲ニ〔六字傍線〕縫ツタ着物デゴザイマスヨ。ソノオツモリデ御召シ下サイ〔ソノ〜傍線〕。
(644)〔評〕 配所へ衣を贈つた時の歌。前の之呂多倍能安我之多其呂母《シロタヘノアガシタコロモ》(三七五一)の歌と同意である。多和也女能於毛比美太禮弖《タワヤメノオモヒミダレテ》が悲しい言葉だ。
 
右九首娘子
 
3754 過所無しに 關飛び越ゆる ほととぎす まねく吾が子にも 止まず通はむ
 
過所奈之爾《クワソナシニ》 世伎等婢古由流《セキトビコユル》 保等登藝須《ホトトギス》 多我子爾毛《マネクワガコニモ》 夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》
 
關所ノ〔三字傍線〕通過證ナシニ、關所ヲ飛ビ越エル郭公ノヤウニ私ハ〔六字傍線〕、何回モ私ノ妻ノトコロヘ、絶エズ通ツテ行カウ。私ハ流人デアルカラ、關所ノ通過證ガナクテ、妻ノトコロヘ通フコトガ出來ナイノハ殘念ダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○過所奈之爾《クワソナシニ》――過所は舊訓ヒマだぁり、代匠記初稿本に「過所とかけるは、ひまあればそこより物の過ればなり。我は咎ある身にて關山をこゆることあたはぬに、ひまもなくほとときすのとびこゆるは云々」と解してゐるが無理である。過所は關を越える人の手形で、公式令に過所式あり、關市令に「凡欲v度v關者、皆經2本部本司1請2過所1」と見えてゐる。考・略解はフミと訓み、古義はフダとよんでゐる。併し卷五の布施於吉弖《フセオキテ》(九〇六)の布施を文字通りにフセと訓んだのと同一方針で、これもクワソと訓むべきであらう。代匠記精撰本は初稿本の訓を自から拒けて、「今按、されど此卷はやすらかに書たる例なればひまならば、かくは書べからず。三代實録第十二云、譴2責豐前長門國司等1曰、關司出入、理用2過所1、而今唐人入v京、任v意經過、是國宰不v慎2督察1、關司不v責2過所1之所v致也、自v今以後、若有2驚忽1、必處2嚴科1、又云、唐人任中元、非v有2過所1、輙入2京城1、令d加2譴詰1還c太宰府u、重下2知長門太宰府1、嚴2關門之禁1焉。又第十七云、比年之間、公私雜人、或陸或海、來集深入、遠尋營2求善馬1、及2其歸向1、多者二三十少者八九疋、惣計2過所年出v關之類1凡千餘疋云々。適所は關を通る證文なるべし。此に依らはクワソナシニと音によむべき歟」と言つてゐる。○多我子爾毛《マネクワガコニモ》――舊訓アマ(645)タガコニモとあるのではわからない。考は多を和の誤、毛の下、可母の二字、脱としてワガミニモカモとし、略解・古義・新考などこれに從つてゐるが、原字の儘でよんだ新訓に暫く從ふことにする。幾囘も吾が愛する妻の所への意。但し前の句からの連絡が少し隱やかでない。
〔評〕 第四句が少し曖昧であるが、都の方へ飛んで行く郭公の鳴く聲を聞いて、途中の愛發の關を思ひ出して、手札もなしに關を飛び越える鳥を羨んだのである。着想も用語も珍らしい。なほ前の娘子の歌に、波流乃日能宇良我奈之伎爾《ハルノヒノウラガナシキニ》(三七五二)とあつたが、これ以下の十三首の歌は夏の初に贈つたものである。
 
3755 うるはしと 吾が思ふ妹を 山川を 中にへなりて 安けくもなし 
 
宇流波之等《ウルハシト》 安我毛布伊毛乎《アガモフイモヲ》 山川乎《ヤマカハヲ》 奈可爾敝奈里弖《ナカニヘナリテ》 夜須家久毛奈之《ヤスケクモナシ》
 
懷カシイト思フ吾ガ妻ト、山ヤ川ガ間ニ隔ツテ、別レテヰルノデ、私ハ、心ノ〔別レ〜傍線〕安マルコトモアリマセヌ。
 
○山川乎《ヤマカハヲ》――山と河を。○奈可爾敝奈里※[氏/一]《ナカニヘナリテ》――山や河が間に隔つて。ヘナルは自動詞である。卷十七に山河能弊奈里底安禮婆《ヤマカハノヘナリテアレバ》(三九五七)とある。
〔評〕 初二句は古義に「愛《ウルハ》しと吾が念ふ妹なるを」と譯してあるが、前に同じ人の作で、宇流波之等安我毛布伊毛乎於毛比都追由氣婆可母等奈由伎安思可流良武《ウルハシトアガモフイモヲオモヒツツユケバカモトナユキアシカルラム》(三七二九)とあるのと同じで、それは思ヒの目的になつてゐるのに、これには目的となるものがない。古義のやうに見るのもどうかと思はれるから、トの意味に見ることにしよう。或は誤字かも知れない。次句に又ヲを重ねて山川乎《ヤマカハヲ》としたのも面白くない。この人の作に下に山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登毛(ヤマカハヲナカニヘナリテトホクトモ》(三七六四)とあり、前に許許呂爾毛知弖夜須家久母奈之《ココロニモチテヤスケクモナシ》(三七二三)とあつた。語彙が乏しいといふ評は免かれまい。
 
3756 向ひゐて 一日もおちず 見しかども 厭はぬ妹を 月わたるまで
 
(646)牟可比爲弖《ムカヒヰテ》 一日毛於知受《ヒトヒモオチズ》 見之可杼母《ミシカドモ》 伊等波奴伊毛乎《イトハヌイモヲ》 都奇和多流麻弖《ツキワタルマデ》
 
妻ト家ニヰル間〔七字傍線〕、サシ向ヒニ坐ツテ、一日モ缺カサズ見テヰタケレドモ、厭ニハナラナイ妻ヲ、月ガ變ルマデ見ナイデヰルカラ戀シクテ仕方ガナイ〔見ナ〜傍線〕。
 
○伊等波奴伊毛乎《イトハヌイモヲ》――妹なるをと見る説はよくない。ヲは目的をあらはし、結句の下に見ズとあるべきを略してゐる。○都奇和多流麻弖《ツキワタルマデ》――月が經つまで。前の歌どもによると春霞の立つ頃、田植が未だ初まらない内に都を出たのだから、郭公のなき初めた初夏までは、一月は經過したわけである。
〔評〕 第四句までは卷四に向座而雖見不飽吾妹子二《ムカヒヰテミレドモアカヌワギモコニ》(六六五)とあるのと同意。結句、言ひ殘して餘情を籠めてゐる。
 
3757 吾が身こそ 關山越えて 此處に在らめ 心は妹に 依りにしものを
 
安我未許曾《アガミコソ》 世伎夜麻故要弖《セキヤマコエテ》 許己爾安良米《ココニアラメ》 許己呂波伊毛爾《ココロハイモニ》 與里爾之母能乎《ヨリニシモノヲ》
 
私ノ身體コソハ、愛發ノ〔三字傍線〕關ノ山ヲ越エテ、此處ニ流サレテ來テ〔六字傍線〕居ルデアヲウ。ガ然シ〔三字傍線〕心ハ妻ニ寄リ副ウテシマツタノニ。心ダケハ都ノ妻ノトコロニ殘シテ、私ノ躰ハ藻脱ケノ殻ダ〔心ダ〜傍線〕。
 
○世伎夜麻故要※[氏/一]《セキヤマコエテ》――關山は關ある山か、關と山とか不明。諸註皆後者に見てゐるが、恐らく關のある山、即ち愛發の關ある、愛發山であらう。この山が越の境で、當時の三關の一が置かれてゐたのである。
〔評〕 卷十一の紫之名高乃浦之靡藻之情者妹爾因西鬼乎《ムラサキノナタカノウラノナビキモノココロハイモニヨリニシモノヲ》(二七八〇)の下句を、その儘流用したものか。その爲か結句の含んでゐる眞意が、明瞭を缺いてゐる。
 
3758 刺竹の 大宮人は 今もかも 人なぶりのみ 好みたるらむ 一云、今さへや
 
(647)佐須太氣能《サスタケノ》 大宮人者《オホミヤヒトハ》 伊麻毛可母《イマモカモ》 比等奈夫理能未《ヒトナブリノミ》 許能美多流良武《コノミタルラム》
 
(佐須太氣能)大宮人ハ私ガ都ニヰタ時ノヤウニ〔私ガ〜傍線〕、今デモ人ヲナブルコトバカリヲ好ンデヤツテ〔三字傍線〕ヰルダラウ。私ガ流サレタノデ、妻ヲ嘸ナブツテヰルダラウ〔私ガ〜傍線〕。
 
○佐須太氣能《サスタケノ》――枕詞。大宮に冠す。九五五參照。○比等奈夫理能未《ヒトナブリノミ》――比等奈夫理《ヒトナブリ》は人を嬲り戯れること。これは留守の娘子をからかふのである。古義に「娘子が事により配《ツミ》せられし吾なれば自らが上也、また娘子がうへを、殿上の若公達はおもしろがりて、くさぐさ嬲りごとを今やするならむと思ひやるなり」とあるのは聊か違つてゐる。
〔評〕 我故に留守居の娘子が、人にからかはれ愚弄せられるのを、遙かに思ひやつた歌。眞情そのままで面白く内容も珍らしい。
 
一云 伊麻左倍也《イマサヘヤ》
 
これは第三句の遺傳である。原句と意は同じ。
 
3759 立ちかへり 泣けども我は しるしなみ 思ひ侘ぶれて 寢る夜しぞ多き
 
多知可敝里《タチカヘリ》 奈氣杼毛安禮波《ナケドモアレハ》 之流思奈美《シルシナミ》 於毛比和夫禮弖《オモヒワブレテ》 奴流欲之曾於保伎《ヌルヨシゾオホキ》
 
繰リ返シ繰リ返シイクラ〔七字傍線〕泣イテモ、何ノ〔二字傍線〕甲斐モナイカラ、私ハ、ガツカリシテアキラメテ〔五字傍線〕寢ル晩ガ多イヨ。
 
(648)○多知可敝里《タチカヘリ》――繰返し。○於毛比和夫禮弖《オモヒワブレテ》――思ひ侘ぶれて。思ひ惱んで、がつかりして。和夫禮《ワブレ》はワブルの連用形である。ワブは上二段活であるが、これは下二段に活くものと見える。
〔評〕 謂はゆる泣寢入に寢てしまふといふので、男らしくない戀歌である。
 
3760 さ寢る夜は 多くあれども 物思はず 安く寢る夜は さねなきものを
 
左奴流欲波《サヌルヨハ》 於保久安禮杼母《オホクアレドモ》 毛能毛波受《モノモハズ》 夜須久奴流欲波《ヤスクヌルヨハ》 佐禰奈伎母能乎《サネナキモノヲ》
 
寢ル晩ハ澤山アルケレドモ、物思ヲセズニ、落着イテ〔四字傍線〕、安眠スル晩ハホントニナイヨ。毎晩妻ヲ思ツテ眠ラレナイ〔毎晩〜傍線〕。
 
○左奴流欲波《サヌルヨハ》――サは接頭語のみ。寢る晩は。○佐禰奈伎母能乎《サネナキモノヲ》――ほんとに無いよ。この母能乎《モノヲ》は詠嘆の辭である。
〔評〕 つまらない平凡な、女々しい繰言に過ぎない。
 
3761 世の中の 常のことわり かくさまに なり來にけらし すゑし種から
 
與能奈可能《ヨノナカノ》 都年能己等和利《ツネノコトワリ》 可久左麻爾《カクサマニ》 奈里伎爾家良之《ナリキニケラシ》 須惠之多禰可良《スヱシタネカラ》
 
世間ノ常ノ因果ノ〔三字傍点〕道理デ、蒔イタ種カラシテ、コンナヒドイ〔三字傍点〕事ニ私ハ〔二字傍線〕ナツタノデアラウ。アキラメルヨリ仕方ハアリマスマイ〔アキ〜傍線〕。
 
○與能奈可能都年能己等和利《ヨノナカノツネノコトワリ》――世間の常の道理。因果の道理をさしてゐる。○可久左麻爾《カクサマニ》――斯く樣に。こ(649)んな有樣に。夫婦が相別れて悲しむ現在の状態をいつてゐる。○奈里伎爾家良之《ナリキニケラシ》――成つて來たらしい。今の結果を生じたらしい。○須惠之多禰可良《スヱシタネカラ》――須惠《スヱ》は据ゑ。据ゑと植ゑとは同語であらう。須惠之多禰《スヱシタネ》は蒔きし種と同樣である。
〔評〕 因果應報の道理。前世の業因といふ佛教思想があらはれてゐる。弱い男は結局宿命觀であきらめるより外はない。
 
3762 吾妹子に 逢坂山を 越えて來て 泣きつつ居れど 逢ふよしも無し
 
和伎毛故爾《ワギモコニ》 安布左可山乎《アフサカヤマヲ》 故要弖伎弖《コエテキテ》 奈伎都都乎禮杼《ナキツツヲレド》 安布余思毛奈之《アフヨシモナシ》
 
私ハ〔二字傍線〕吾ガ妻ニ逢フトイフ名ノ〔七字傍線〕逢坂山ヲ越エテコノ越ノ國ヘ〔六字傍線〕來テ、妻ニ逢ヒタサニ〔七字傍線〕泣イテ居ルガ、逢坂山ハ名バカリデ、一向〔逢坂〜傍線〕、逢フ方法ガナイヨ。
 
○和伎毛故爾《ワギモコニ》――近江・淡路・逢坂山・楝《アフチ》の花などにかかる枕詞であるが、ここは吾妹子に逢ふといふ名の逢坂山といふのであるから、枕詞とのみ見てはよろしくない。
〔評〕 和伎毛故爾《ワギモコニ》といふ枕詞を逢坂山につづけ、結句を安布余思毛奈之《アフヨシモナシ》で結んでゐるのは、萬葉集らしくない技巧である。この人は魂も言葉も萬葉人らしくない後世ぶりである。
 
3763 旅といへば 言にぞ易き 術もなく 苦しき旅も ことにまさめやも
 
多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許登爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須敝毛奈久《スベモナク》 久流思伎多婢毛《クルシキタビモ》 許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》
 
旅トイフト、言葉デハ何デモナイコトダガ、中々苦シイモノダ。併シ〔コト〜傍線〕仕方ノナイホド苦シイ旅モ、言葉デハ旅〔傍線〕(650)ト云フヨリ〔六字傍線〕以上ノ言ヒ方〔四字傍線〕ハナイ。
 
○多婢等伊倍婆許登爾曾夜須伎《タビトイヘバコトニゾヤスキ》――前の三七四三に同樣の句がある。○許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》――言に増さめやも。言葉ではこれ以上の言ひやうはないといふのである。舊訓コラニマサメヤモとあり、從來の諸註、多くは吾が術もなく苦しき旅も、都に留つてゐる娘子の苦しみにはまさらぬの意としてゐるが、西本願寺本・温故堂本・京大本などコトと訓んでゐるに從ふべきである。
〔評〕 これも言葉だけをひねくつたのであるが、前の歌どもよりはよく出來てゐる。
 
3764 山川を 中にへなりて 遠くとも 心を近く 思ほせ我妹
 
山川乎《ヤマカハヲ》 奈可爾敝奈里弖《ナカニヘナリテ》 等保久登母《トホクトモ》 許己呂乎知可久《ココロヲチカク》 於毛保世和伎母《オモホセワギモ》
 
私トアナタトハ〔七字傍線〕山ヤ川ヲ間ニ隔テテ、遠ク離レテヰルガ、心ハ隔ナク〔三字傍線〕近ク思ウテヰテ下サイヨ。吾ガ妻ヨ。
 
○山川乎奈可爾敝奈里弖《ヤマカハヲナカニヘナリテ》――前の三七五五に同樣の句がある。
〔評〕 遠くと近くとを對照せしめたのが、この作の重點になつてゐるのは、つまらない細工だ。後世ぶりの歌。
 
3765 まそ鏡 かけて偲べと まつり出す 形見の物を 人に示すな
 
麻蘇可我美《マソカガミ》 可氣弖之奴敝等《カケテシヌベト》 麻都里太須《マツリダス》 可多美乃母能乎《カタミノモノヲ》 比等爾之賣須奈《ヒトニシメスナ》
 
心ニ〔二字傍線〕(麻蘇可我美)カケテ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シナサイトテ、私ガアナタニ〔六字傍線〕差シ上ゲルコノ形見ノ品物ヲ、決シテ〔三字傍線〕人ニ見セナサルナ。
 
(651)○麻蘇可我美《マソカガミ》――枕詞。鏡は懸けるものであるから、カケテにつづけてゐる。○麻都里太須《マツリダス》――奉り出す。差し上げる。略解にあげた眞淵説に、須は類の誤でマツリタルであらうとあるが、もとの儘がよい。
〔評〕 形見として娘子に贈つた品は何であらう。初句を見ると鏡のやうである。鏡は魂の宿つたものとして形見とせられてゐる。次の歌に下紐に結び付けるとあるから、鏡では無ささうにも思はれるが、古代の鏡は普通直徑三寸位のものであるから、衣の下に隱して持てないこともない。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
3766 愛はしと 思ひしおもはば 下紐に 結ひ着け持ちて 止まず偲ばせ
 
宇流波之等《ウルハシト》 於毛比之於毛婆波《オモヒシオモハバ》 之多婢毛爾《シタヒモニ》 由比都氣毛知弖《ユヒツケモチテ》 夜麻受之努波世《ヤマズシノハセ》
 
アナタガ私ヲ〔六字傍線〕戀シイト思召スナラバ、コノ形見ノ物ヲ、アナタノ着物ノ〔コノ〜傍線〕、下紐ニ結ビツケテ持ツテヰテ、絶エズ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シテ下サイ。
 
○宇流波之等《ウルハシト》――愛しと。いとしいと。○ 於毛比之於毛婆波《オモヒシオモハバ》――思ひし思はば。思ひに思ふなら。思ふ上にも思ふなら。シは強めて言つてゐる。
〔評〕 形見のものを下紐に着けて持つてゐよといふので、形見のものは何とも分らないが、多分鏡であらう。契沖は初稿本では、前の歌の形見の物を鏡とし、この歌のは別の品物だと言つてゐる。
 
右十三首中臣朝臣宅守
 
これは配所から贈つた二囘目の作品集である。贈つた時期は初夏、配流になつて月餘のことらしい。
 
3767 魂は あした夕べに たまふれど 吾が胸痛し 戀の繁きに
 
多麻之比波《タマシヒハ》 安之多由布敝爾《アシタユフベニ》 多麻布禮杼《タマフレド》 安我牟禰伊多之《アガムネイタシ》 古非(652)能之氣吉爾《コヒノシゲキニ》
 
私ノ〔二字傍線〕魂ヲ、朝ニ晩ニ落チツケルヤウニ〔八字傍線〕、鎭魂ノ祭ヲスルガ、戀ノ心ガ〔二字傍線〕烈シサニ、私ノ胸ハ痛ンデ苦〔三字傍線〕シク感ジマス〔五字傍線〕。
 
○多麻布禮杼《タマフレド》――魂を鎭めるけれどの意。上代人は魂は肉躰から遊離するものと考へてゐた。だからそれを肉躰に落付ける必要がある。天皇の御魂を鎭め奉つて、御代の長久を祈り奉るのが、大寶令に見えてゐる仲冬寅日に行はれる鎭魂祭である。令義解に「謂、鎭安也、人陽氣曰v魂魂運也、言招2離遊之運魂1、鎭2身躰之中府1故曰2鎭魂1」とある。天武天皇紀に「十四年十一月丙寅、是日爲2天皇1招魂之《ミタマフリス》」とあるのはこの鎭魂祭の史に見えたものである。ミタマフリは御魂振で、御魂を振り起すことであるが、かくして魂の活きを盛にすることと、魂を落ちつけて身體の中府に居らしめることとは究極に於て同じことになる。鎭魂をミタマフリと訓む理由はここにあるのである。
〔評〕 上代の靈魂觀念を證すべき好資料たるべき歌。第三句を二人の魂が相觸れるけれどもの意に解した舊註は見當違ひである。かうした行事が民間にも一般に行はれてゐたのは面白いことだ。
 
3768 この頃は 君を思ふと 術もなき 戀のみしつつ ねのみしぞ泣く
 
己能許呂波《コノコロハ》 君乎於毛布等《キミヲオモフト》 須敝毛奈伎《スベモナキ》 古非能未之都都《コヒノミシツツ》 禰能未之曾奈久《ネノミシゾナク》
 
コノ頃ハ私ハ〔二字傍線〕貴方ヲ思ツテ、何トモ仕方ノナイ苦シイ〔三字傍線〕戀バカリヲシテ、聲ヲ出シテ泣イテバカリ居リマス。
 
○君乎於毛布等《キミヲオモフト》――君を思ふとて。○須敝毛奈伎《スベモナキ》――術もなき戀は何とも仕方のない苦しい戀。
〔評〕 遣瀬ない戀の心を述べ得てはゐるが、佳作とは言ひ難い。
 
3769 烏玉の 夜見し君を 明くるあした 逢はずまにして 今ぞ悔しき
 
(653)奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲流見之君乎《ヨルミシキミヲ》 安久流安之多《アクルアシタ》 安波受麻爾之弖《アハズマニシテ》 伊麻曾久夜思吉《イマゾクヤシキ》
 
(奴婆多麻乃)夜逢ツタ貴方ト其夜ノ中ニ別レテ〔九字傍線〕、翌朝ハ貴方ニ〔三字傍線〕御目ニカカラナカツタノデ、今更悔シイヨ。
 
○安波受麻爾之弖《アハズマニシテ》――逢はないで別れて。安波受麻《アハズマ》のマはコリズマのマと同じく添へたものであらう。考にはあはず妻《ツマ》と解し、新考にはアハズ儘《ママ》であらうと言つてゐる。
〔評〕 これは最後の訣別の夜のことを思ひ出して歌つたものであらう。古義に事出來ぬ時のこととしてゐるが、さうではあるまい。
 
3770 あぢま野に 宿れる君が 歸り來む 時の迎を 何時とか待たむ
 
安治麻野爾《アヂマノニ》 屋杼禮流君我《ヤドレルキミガ》 可反里許武《カヘリコム》 等伎能牟可倍乎《トキノムカヘヲ》 伊都等可麻多武《イツトカマタム》
 
流罪ニナツテ越前ノ〔九字傍線〕味眞野ニ宿ツテイラツシヤル貴方ガ、赦サレテ都ヘ〔六字傍線〕御歸リニナルトキ、私ガ〔二字傍線〕御出迎スルノヲ、何時ト思ツテ待ツテヰマセウカ。早クソノ時ガ來レバヨイ〔早ク〜傍線〕。
 
(654)○安治麻野爾《アヂマヌニ》――安治麻野《アヂマヌ》は越前國今立郡。武生町の東南二里ばかりの地點で、和名抄の味眞郷の舊地である。今、味眞野村北新庄村附近の平地。寫眞は味眞野村大字五分市から粟田部方面を望んだもの。著者撮影。この地に宅守は流罪となつてゐたのである。○可反里許武等伎能牟可倍乎《カヘリコムトキノムカヘヲ》――赦されて都に歸り給ふであらう時に私がお迎に出るのを。
〔評〕 等伎能牟可倍乎《トキノムカヘ》は少し無理な言葉であらう。結句は集中に例が多い。
 
3771 宮人の 安寢も寢ずて 今日今日と 待つらむものを 見えぬ君かも
 
宮人能《ミヤビトノ》 夜須伊毛禰受弖《ヤスイモネズテ》 家布家布等《ケフケフト》 麻都良武毛能乎《マツラムモノヲ》 美要奴君可聞《ミエヌキミカモ》
 
アナタノ御留守中〔八字傍線〕、御所ニ仕ヘテヰル貴方ノ友〔十字傍線〕人ハ夜モ〔二字傍線〕安眠シナイデ、今日カ今日カト御歸リヲ〔四字傍線〕待ツテヰルデセウノニ、何時マデモ〔五字傍線〕御歸リニナラナイ貴方ヨ。ドウナサツタノデアラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○宮人能《ミヤビトノ》――大宮人。即ち宅守の友人をさしてゐるのであらう。略解の或人説に宮は家の誤であらうといつてゐる。古義・新考などこれに從つてゐる。
〔評〕 宮人と家人とではかなり意味は違ふが、要するに自己を第三者として、宅守の知友近親の心中を忖度したもの。しかし他を言ふ如くして、實は自分の心を述べてゐるのである。
 
3772 歸りける 人來れりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて
 
可敝里家流《カヘリケル》 比等伎多禮里等《ヒトキタレリト》 伊比之可婆《イヒシカバ》 保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》 君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》
 
罪ヲ赦サレテ〔六字傍線〕歸ツタ人ガ、來タト或人ガ〔三字傍線〕言ツタノデ、私ハ〔二字傍線〕貴方ノ御歸リ〔四字傍線〕カト思ツテ、アマリノ嬉シサニ〔八字傍線〕、殆(655)ド、死ニサウデシタ。
 
○可敝里家流比等伎多禮里等《カヘリケルヒトキタレリト》――歸つた人が來たと。赦免になつて配所から歸つた人が戻つて來たと。○保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》――私は殆ど死んだ。危く死ぬところであつた。保等保登《ホトホト》は殆ど。危く。すんでのことに。代匠記精撰本に「驚て胸のほとはしるなり」と言つたのも、宣長が「フタフタと爲にけるなり」と言つたのも、皆シニキを爲ニキと見た誤である。
〔評〕 赦免の人が都に戻つて來たと聞いて、狂喜のあまり殆ど息の根も止まるばかりであつたといふ誇張が、わざとらしくなく、適切に用ゐられてゐる。佳作といふべきであらう。かうした熱情的なところがこの作者の特色である。なほ、續記によると、天平十二年六月庚午に大赦の勅が出て天平十二年六月十五日戍時以前の罪を赦すことになつて、「其流人穗積朝臣老、多治比眞人祖人、名負東人、久米連若女等五人、召令2入京1、大原釆女勝部鳥女還2本郷1、小野王日奉弟日女、石上乙麿、牟禮大野、中臣宅守、飽海古良比、不v在2赦限1」とあるから、この歌は穗積朝臣老等の歸京を聞いて、宅守かと思つて狂喜して詠んだのではあるまいかと言はれてゐる。歌の配列の順序から推測すると、前に宅守の郭公を詠んだ初夏の作があり、それに對して贈つた一聯がこの八首であるから、丁度六月頃であつたらうと想像せられ、時季も大躰合ふやうである。
 
3773 君がむた 行かましものを 同じこと 後れて居れど 良きこともなし
 
君我牟多《キミガムタ》 由可麻之毛能乎《ユカマシモノヲ》 於奈自許等《オナジコト》 於久禮弖乎禮杼《オクレテヲレド》 與伎許等毛奈之《ヨキコトモナシ》
 
貴方ト御一緒ニ私モ越前ノ國ヘ〔七字傍線〕行クベキデアルノニ。ヤハリ〔三字傍線〕同ジコトデス。カウシテ、私バカリ〔八字傍線〕都ニ止マツテ居ルケレドモ、良イコトモアサマセヌ。
 
○君我牟多《キミガムタ》――貴方と共に。集中、共の字をムタと訓ませたところが多い。○於奈自許等《オナジコト》――越國へ行くも(656)都にゐるのも向じ事で、どちらにしても辛いことだといふのである。この句で意は切れてゐる。
〔評〕 獨居の悲しさが歌はれてゐるが、結句は少し熱が足りない。
 
3774 吾がせこが 歸り來まさむ 時のため 命殘さむ 忘れたまふな
 
和我世故我《ワガセコガ》 可反里吉麻佐武《カヘリキマサム》 等伎能多米《トキノタメ》 伊能知能己佐牟《イノチノコサム》 和須禮多麻布奈《ワスレタマフナ》
 
貴方ガ御歸リニナル時ノ爲ニ、私ハコノ生キ甲斐ノナイ〔九字傍線〕命ヲ殘シテ、死ナズニ居リ〔七字傍線〕マセウ。ドウゾソノ時マデ〔八字傍線〕御忘レナサイマスナ。
 
○伊能知能己佐牟《イノチノコサム》――命を殘しとどめて死なずにゐよう。この句で切つて、その下に、それまでの意を補つて見るがよい。
〔評〕 第四句の伊能知能己佐牟《イノチノコサム》は哀な言葉である。しかし卷十一に爲妹壽遺在苅薦之思亂而應死物乎《イモガタメイノチノコセリカリゴモノオモヒミダレテシヌベキモノヲ》(二七六四)がある。
 
右八首娘子
 
娘子が配所へ送つた第二回の便である。六月半過のことらしい。目録に娘子作歌八首とある。
 
3775 あらたまの 年の緒永く 逢はざれど 異しき心を 吾が思はなくに
 
安良多麻能《アラタマノ》 等之能乎奈我久《トシノヲナガク》 安波射禮杼《アハザレド》 家之伎己許呂乎《ケシキココロヲ》 安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》
 
(安良多麻能)長年私ハアナタニ〔六字傍線〕逢ハナイケレドモ、アナタヲ忘レルヤウナ〔十字傍線〕他《アダ》シ心ヲ、私ハ持ツテハヲリマセン(657)ヨ。
 
○安良多麻能《アラタマノ》――枕詞。年にかかる。四四三參照。○等之能乎奈我久《トシノヲナガク》――年の長い間。年の長くつづくことを緒に譬へて、年の緒といふ。
 
〔評〕 卷十四の可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《カラコロモスソノウチカヘアハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》(三五八八)、この卷の波呂波呂爾於毛保由流可母之可禮杼母異情乎安我毛波奈久爾《ハロバロニオモホユルカモシカレドモケシキココロヲアガモハナクニ》(三五八八)など同型の歌である。
 
3776 今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩の 外に立てらまし
 
家布毛可母《ケフモカモ》 美也故奈里世婆《ミヤコナリセバ》 見麻久保里《ミマクホリ》 爾之能御馬屋乃《ニシノミマヤノ》 刀爾多弖良麻之《トニタテラマシ》
 
若シ此處ガ〔五字傍線〕都デアツタナラバ、私ハアナタニ〔六字傍線〕逢ヒタサニ、今日アタリハ、右馬寮ノ門外ニ立ツテヰルダラウヨ。
 
○爾之能御馬屋乃《ニシノミマヤノ》――爾之能御馬屋《ニシノミウマヤ》は西の御厩。即ち右馬寮のことである。平安京では談天門の南掖にあつた。内裏の西南隅に當つてゐる。○刀爾多弖良麻之《トニタテラマシ》――外に立つてゐることであらう。トは外。戸ではない。多弖良麻之《タテラマシ》は立テリにマシが附いた形である。
〔評〕 娘子の家が右馬寮の門外にあつたものか。それとも齋宮の宮廷内の役所のやうなものが、其處に出來てゐたものか。恐らく後者であらう。流人の望郷の念がまざまざとあらはれた、悲しい作である。
 
右二首中臣朝臣宅守
 
目録には中臣朝臣宅守更(ニ)贈(レル)歌二首とある、舊本三首とあるは誤。
 
3777 昨日今日 君に逢はずて する術の たどきを知らに 音のみしぞ泣く
 
伎能布家布《キノフケフ》 伎美爾安波受弖《キミニアハズテ》 須流須敝能《スルスベノ》 多度伎乎之良爾《タドキヲシラニ》 禰能(658)未之曾奈久《ネノミシゾナク》
 
コノ頃ハ貴方ニ逢ヘナイノデ、戀シクテ〔四字傍線〕ドウシタラ良イカ、方法ガワカラナイデ、聲ヲ出シテ泣イテバカリヰマスヨ。
 
○伎能布家布《キノフケフ》――この頃の意。この句は第三句以下につづいてゐる。古義は「長き間ならず、唯昨日今日君に別れて云々」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 前に娘子が贈つた、己能許呂波君乎於毛布等須敝毛奈伎古非能未之都都禰能未之曾奈久《コノゴロハキミヲオモフトスベモナキコヒノミシツツネノミシゾナク》(三七六八)と同意である。
 
3778 しろたへの 吾が衣手を 取り持ちて 齋へ吾が背子 直に逢ふまでに
 
之路多倍乃《シロタヘノ》 阿我許呂毛弖乎《アガコロモデヲ》 登里母知弖《トリモチテ》 伊波敝和我勢古《イハヘワガセコ》 多太爾安布末低爾《タダニアフマデニ》
 
私ガ形見トシテ貴方ニ贈ツタ〔私ガ〜傍線〕私ノ(之路多倍乃)着物ヲ手ニ持ツテ、又再ビ〔三字傍線〕直接ニ相逢フマデハ、神樣ニ無事ヲ〔六字傍線〕祈ツテヰテ下サイ。吾ガ夫ヨ。
 
○之路多倍乃《シロタヘノ》――枕詞。許呂毛《コロモ》につづいてゐる。○伊波敝和我勢古《イハヘワガセコ》――伊波敝《イハヘ》は神を祀れよの意。
〔評〕 贈つてあげた吾が衣を持つて、唯神に齋きかしづけといふので、前に娘子から贈つた、安波牟日能可多美爾世與等多和也女能於毛比美太禮弖奴敞流許呂母曾《アハムヒノカタミニセヨトタワヤメノオモヒミダレテヌヘルコロモゾ》(三七五三)の衣と同じであらう。
 
右二首娘子
 
目録に娘子和(ヘ)贈(レル)歌二首とある。
 
3779 吾が宿の 花橘は いたづらに 散りか過ぐらむ 見る人無しに
 
(659)和我夜度乃《ワガヤドノ》 波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》 伊多都良爾《イタヅラニ》 知利可須具良牟《チリカスグラム》 見流比等奈思爾《ミルヒトナシニ》
 
私ノ故郷ノ家ノ〔五字傍線〕橘ノ花ハ、私ガヰナイノデ、誰モ〔九字傍線〕見ル人モナクテ、空シク散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》――花橘とは橘の花の咲いたのをいふ。
〔評〕 卷二の高圓之野邊秋芽子徒開香將散見人無爾《タカマドノヌベノアキハギイタヅラニサキカチルヲムミルヒトナシニ》(二三一)、卷九の風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見人無《カザナシノハマノシラナミイタヅラニココニヨリクルミルヒトナシニ》(一六七三)卷十の去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二《コゾサキシヒサギイマサクイタヅラニツチニカオチムミルヒトナシニ》(一八六三)など、同型の歌である。
 
3780 戀ひ死なば 戀ひも死ねとや ほととぎす 物思ふ時に 來鳴き響むる
 
古非之奈婆《コヒシナバ》 古非毛之禰等也《コヒモシネトヤ》 保等登藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》
 
私ガ〔二字傍線〕焦死スルナラバ、焦死セヨト云フノカ、郭公ハ私ガ〔二字傍線〕物思ヲシテヰル時ニ來テ、悲シサウニ〔五字傍線〕高ク聲ヲ響カセテ、鳴クヨ。アノ聲ヲ聞クト戀シクナツテ焦死シサウダ〔アノ〜傍線〕。
 
○伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》――來て鳴いて聲を高く響かせるよの意。
〔評〕 初二句は強い叙法であるが、卷十一の戀死戀死耶玉桙路行人事告無《コヒシナバコヒモシネトヤタマボコノミチユクヒトニコトモツゲナク》(二三七〇)、戀死戀死哉我妹吾家門過行《コヒシナバコヒモシネトヤワギモコガワギヘノカドヲスギテユクラム》(二四〇一)の模倣たるは否定し難い。
 
3781 旅にして 物思ふ時に ほととぎす もとなな鳴きそ 吾が戀まさる
 
多婢爾之弖《タビニシテ》 毛能毛布等吉爾《モノモフトキニ》 保等登藝須《ホトトギス》 毛等奈那難吉曾《モトナナナキソ》 安我(660)古非麻左流《アガコヒマサル》
 
(660)私ガ〔二字傍線〕旅ニ出テ家ヲ〔二字傍線〕思ツテ、悲シンデ〔四字傍線〕ヰル時ニ、郭公ヨ。猥リニ鳴クナヨ。オマヘノ聲ヲ聞クト悲シサウナノデ〔オマ〜傍線〕私ノ戀ガマサルカラ〔二字傍線〕。
 
〔評〕 前を受けてゐる。卷八の神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥痛莫鳴吾益《カミナビノイハセノモリノヨブコドリイタクナナキソワガコヒマサル》(一四一九)と同型。袖中抄に出てゐる。
 
3782 雨ごもり 物思ふ時に ほととぎす 吾が住む里に 來鳴き響もす
 
安麻其毛理《アマゴモリ》 毛能母布等伎爾《モノモフトキニ》 保等登藝須《ホトトギス》 和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》 伎奈伎等余母須《キナキトヨモス》
 
雨ニ閉ヂ籠ツテ物思ヲシテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰル時ニ、郭公ガ私ノ住ム里ヘ來テ、聲ヲ高ク響カセテ鳴クヨ。愈々悲シサヲ増スバカリダ〔愈々〜傍線〕。
 
○安麻其毛理《アマゴモリ》――雨が降つて家に閉ぢ籠つてゐること。卷八に雨隱情鬱悒出見者《アマゴモリココロイブセミイデミレバ》(一五六八)とあつた。○和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》――吾が住む里は前の歌によれば、越前味眞野の配所である。
〔評〕 五月雨つづきで、心も晴れぬ頃に、配所で聞く郭公の聲は哀であつたらう。歌は平庸。
 
3783 旅にして 妹に戀ふれば ほととぎす 吾が住む里に こよ鳴き渡る
 
多婢爾之弖《タビニシテ》 伊毛爾古布禮婆《イモニコフレバ》 保登等伎須《ホトトギス》 和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》 許欲奈伎和多流《コヨナキワタル》
 
旅ニ出テヰテ、故郷ノ〔三字傍線〕妻ヲ戀シク思ツテヰルト、郭公ガ私ノ住ム里ニ飛ンデ來テ、恋シサウニ〔十字傍線〕此處ヲ鳴イテ通ルヨ。イヨイヨ悲シクナツテ來ル〔イヨイ〜傍線〕。
 
(661)○許欲奈伎和多流《コヨナキウタル》――此處を鳴いて通る。コヨは此處よりであるが、この歌では此處をといふに同じ。
〔評〕 前の歌と同意同巧。唯少し言葉を變へたばかりだ。
 
3784 心なき 鳥にぞありける ほととぎす 物思ふ時に 鳴くべきものか
 
許己呂奈伎《ココロナキ》 登里爾曾安利家流《トリニゾアリケル》 保登等藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》
 
郭公ヨ、オ前ハ無情ナ鳥デアルヨ。私ガカウシテ〔六字傍線〕物ヲ思ツテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰル時ニ、來テ鳴クトイフコトガアルモノカ。オマヘガ鳴クト益々悲シクナルノニ〔オマ〜傍線〕。
 
○奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》――鳴くといふことがあるものか、鳴くべきではないの意。
〔評〕許己呂奈伎登里爾曾安利家流《ココロナキトリニゾアリケル》と言ひ切つて、結句を奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》と強く結んだところに、語調の變化があつて画白い。
 
3785 ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 吾が思ふ心 いたも術なし
 
保登等藝須《ホトトギス》 安比太之麻思於家《アヒダシマシオケ》 奈我奈氣婆《ナガナケバ》 安我毛布許己呂《アガモフココロ》 伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》
 
郭公ヨオマヘガ鳴クノエオ〔八字傍線〕間ヲ少シ置キナサイ。オマヘガ鳴クト私ハ益々悲シクナツテ悲シイト〔益々〜傍線〕思フ心ガヒドクテ、何トモ仕方ガナイ。
 
○安比太之麻思於家《アヒダシマシオケ》――鳴く聲の間を暫く置けよの意。暫く鳴き止めの意。○伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》――甚だしくも術なし。甚だしくて仕方がない。
(662)〔評〕 卷八の足引之山霍公鳥汝鳴者家有妹常所思《アシビキノヤマホトトギスナガナケバイヘナルイモシツネニオモホユ》(一四六九)と内容が似てゐる。
 
右七首中臣朝臣宅守、寄(セテ)2花鳥(ニ)1陳(ベテ)v思(ヲ)作(レル)歌
 
右の七首は初夏の作。花柄、郭公に寄せて思を述べてゐる。配流になつてから少くとも一年を經過した五月頃の作である。
 
                     ――第四冊、終――
 
萬葉集卷第十六
 
(1)萬葉集卷第十六解説
 
 この卷は部門を分つことなく卷頭に有由縁并雜歌と記してある。これは有由縁歌並に雜歌といふ意と思はれるが、斯くの如き標記法は他に類例がない。有由縁とは傳説を伴つた歌で、面白い話と共に傳へられたものである。冒頭の櫻兒・鬘兒の歌から、橘寺の長屋の歌(三八二三)に至るまでがそれに屬し、その次の長忌寸意吉麻呂の歌から以下を、雜歌と見る説が普通行はれてゐる。けれども右の橘寺の長屋の歌は、別に何の説話をも有しない古謠であるから、雜歌中に入れるのが妥當で、この他穗積親王・河村王・小鯛王などの歌も同樣である。又雜歌と考へられてゐるものの中にも新田部親王の婦人の歌(三八三五)、筑前國志賀白水郎を詠んだ歌(三八六〇)の如き、有由縁の部に入るべきものが尠くない。蓋し有由縁並雜歌は、卷の全躰に標記したものである。若し始を有由縁とし終を雜歌とするならば、この卷を二分してそれぞれ適當な所に標記すべき筈である。この有由縁歌の内には櫻兒・鬘兄の如く、謂はゆる歌物語の形になつてゐるものがあり、それに添へられた漢文を見るに、啻にその事柄の要點を記すといふ態度ではなく、娘子歔欷曰とか、娘子嘆息曰とか記して、長々しくその意中を述べてゐる。若しこれを國文に改むれば即ち伊勢物語・大和物語の形式となるのである。又竹取翁の歌の如きは、一個の神仙譚と稱すべきで、しかも翁と九人の仙女とが唱和してゐるのであるから、これは正しく一個の小説《ローマンス》であつて、これに曲節を附して誦詠するならば、立派な歌劇となるのである。雜歌中の數種の物を詠込んだ歌、無心所著(2)の歌は、謂はゆる歌作の藝が盛になつて來たことを示し、折句・物名などの歌が、やがて發生する前驅をなしてゐる。嗤笑歌は皮肉と諧謔とを喜んだ、天平時代の氣分のあらはれであつて、吾が國の狂歌の淵源の遠いことを語つてゐる。又能登・越中の民謠、乞食者の詠の如きも、民間の思想・風俗が窺はれ、内容的に見て實に多種多樣な卷である。更にこれを形式方面から見ると、歌躰には長歌・短歌・旋頭歌・佛足石歌體などがあり、若し後世の稱呼によつて小長歌なる歌體を別つとするならば、戀夫君歌(三八五七)はそれである。斯くの如く歌躰の種類も亦多く、本集中に存する總てがこの卷に集まつてゐるのである。歌數は長歌八首・短歌九十二首・旋頭歌・佛足石歌躰併せて四首、計百四首。卷一に次いで少數である。作者の名を掲げたものの内で著名なのは、長奧麿と大伴家持二人くらゐなものである。山上憶良作と思はれる志賀白水郎の歌があるが、他に有名な歌人の作はない。併し右に述べたやうな種々の意味からして、特色があり價値ある卷である。この卷の編纂された時代、及び編者については全く分らない。大伴家持が越中守となつた、天平十八年以前の編とする學者も多いが、又この卷中に天平勝寶元年の、東大寺大佛開眼供養の時のものありとする説もある。更にそれよりも新しく見ようとする人もあつて、一定し難い。併し予は卷中に見えた作者(例へば河村王など)の官位からして、天平十八年以後とするのに傾いてゐる。用字法は壇越・婆羅門・塔・双六・香・力士・餓鬼・法師・無何有郷・貌孤※[身+矢]・功・五位・※[金+巣]鐘生死などの、梵語や漢語をそのまま取り入れて、音讀せしめてゐるのが多いことが、一大特色である。戯書は極めで尠く、所聞多《カシマ》・神樂《ササ》ぐらゐのものである。
 
(3)萬葉集卷第十六
    有由縁雜歌
 二壯士誂2娘子1遂嫌v適2壯士1入2林中1死時各陳2心緒1作歌二首
 三男共娉2一女1娘子嘆息沈2没水底1時不v勝2哀傷1各陳v心作歌三首
 竹取翁偶逢2九箇神女1贖2近狎之罪1作歌一首并短歌
 娘子等和歌九首
 娘子竊交2接壯士1時欲v令v知v親與2其夫1歌一首
 壯士專2使節1赴2遠境1娘子累v年悲2嘆姿容疲羸1壯士還來流v涙口號歌一首
 娘子聞2夫君歌1應v聲和歌一首
 女子竊接2壯士1其親呵嘖壯士〓〓時娘子贈2與夫1歌一首
 葛城王發2陸奧1時祇承緩怠王意不v悦釆女捧v觴詠歌一首
 男女衆集遊時有2鄙人夫婦1容姿秀2衆諸1仍賛2嘆美貌1歌一首
 所v幸娘子寵薄還2賜寄物1時娘子怨恨歌一首
(4)(5)〔省略〕
(6) 大伴宿禰家持嗤2咲吉田連石麿痩1歌二首
 高宮王詠2數種物1歌二首
 戀夫君歌一首
 又戀歌二首
 筑前國志賀白水郎歌十首
 無名歌六首
 豐前國白水郎歌一首
 豐後國白水郎歌一首
 能登國歌三首
 越中國歌四首
 乞食者詠歌二首
 怕物歌三首
 
(7)有由縁并雜歌
 
有由縁并雜歌とは有由縁歌並びに雜歌といふのであらう。目録に有由縁雜歌とあるのは、并の字を脱したのであらう。有由縁歌とは傳説を伴つたもので、雜歌には題を設けて詠んだものと、人を嗤つた戯咲歌、地方の民謠、乞食者の詠の如きものが收めてある。
 
昔者有(リ)2娘子1、字(ヲ)曰(フ)2櫻兒(ト)1也、于v時有(リ)2二壯士1、共(ニ)〓(ム)2此(ノ)娘(ヲ)1、而|捐(テテ)v生(ヲ)挌競《アラソヒ》、貪(リ)v死(ヲ)相敵(ス)、於v是娘子|歔欷《ナゲキテ》曰(ク)、從v古|來《イタルマデ》v今、未v聞(カ)未v見、一女之身、往2適(クコトヲ)二門(ニ)1矣、方今《イマ》壯士之意、有(リ)v難(キモノ)2和平(ナリ)1、不v如妾死(シテ)相害(フコトヲ)永息《ナガクヤメムニハ》、爾乃《スナハチ》尋2入(リテ)林中(ニ)1懸(リテ)v樹(ニ)經死(ニキ)其(ノ)兩壯士、不v敢(ヘ)2哀慟(スルニ)1、血(ノ)泣漣(ル)v襟(ニ)、各陳(ベテ)2心緒(ヲ)1作(レル)歌二首、
 
○〓――誂と同じ、イドムと訓むのであらう。婚を求めること。○捐生――命を棄てて。○挌競――挌は爭ふ。○貪死相敵――死を望んで相反抗した。捐v生挌競と同意。○歔欷――字鏡に「涕泣貌、泣餘聲也、悲也、左久利」とあり、すすり泣く。ここはナゲキテと訓んで置かう。○爾乃――スナハチ。○經死――縊死に同じ。垂仁天皇紀に「自|經而《ワナキテ》死耳。」雄略天皇紀に「經死《ワナキ》」とあるから、ここもワナキシニキと訓むべきであらう。○不敢哀慟――不敢はアヘズと訓む。不堪に同じ。○血泣――血涙に同心。泣は涙と同樣に用ゐてある。○漣襟――襟にシタタルと訓む。漣は涙を垂るる貌。易經に「泣血漣加」とある。なほ舊本作歌二首を別行にしてあるのは誤。略解説によつて改めた。なほ今、畝傍の東北方に櫻兒塚と呼ばれてゐる小塚がある。辰己利文氏の好(8)意によつて撮影したから、ここに掲げて置く。(前の稻積の左方の方形の芝生がそれである。)
 
3786 春さらば かざしにせむと 吾が思ひし 櫻の花は 散りにけるかも
 
春去者《ハルサラバ》 挿頭爾將爲跡《カザシニセムト》 我念之《ワガモヒシ》 櫻花者《サクラノハナハ》 散去流香聞《チリニケルカモ》
 
春ニナツタラバ、頭ノ飾リトシテ髪ニ挿ス〔十一字傍線〕挿頭ノ花ニシヨウト私ガ思ツタ櫻ノ花ハ、空シク春ヲモ待タズ〔九字傍線〕散ツテシマツタヨ。ソノ内ニ時節ガ來タナラバ、私ノ妻ニシヨウト思ツテヰタ櫻兒ハ、空シク死ンデシマツタヨ。惜シイコトヲシタ〔ソノ〜傍線〕。
 
○挿頭爾將爲跡《カザシニセムト》――挿頭《カザシ》は頭髪の飾として挿すもの。多く花を用ゐる。和名抄に「挿頭花賀佐之」とある。○散去流香聞《チリニケルカモ》――舊訓を改めて、略解はチリユケルカモとし、新訓は類聚古集に、流の字なきによつて、チリイニシカモとしてゐる。去は動詞としては、ユク又はイヌと訓むのだが、ここは古義に家の字、脱として、舊訓のままに訓んだのがよいであらう。卷三の高槻村散去奚留鴨《タカツキノムラチリニケルカモ》(二七七)に傚つて奚の字、脱と考へることも出來る。トも(9)かくチリニケルカモと訓むのが、歌として最も穩やかである。なほ、類聚古集その他の古寫本は、この歌の下に「其一」と記したものが多い。
〔評」 櫻兒を櫻の花に譬へたのは、その名に因んだもので、珍らしくもない。全體的の譬喩とすると、四五の句に無理がある。寧ろ「櫻の若枝枯れにけるかも」などあるべきところだが、花と言はねば作者には承知出來なかつたのであらう。
 
3787 妹が名に かかせる櫻 花咲かば 常にや戀ひむ いや年のはに
 
妹之名爾《イモガナニ》 繋有櫻《カカセルサクラ》 花開者《ハナサカバ》 常哉將戀《ツネニヤコヒム》 彌年之羽爾《イヤトシノハニ》
 
私ノ戀シイ女ノ櫻兒ハ死ンデシマツタガ〔私ノ〜傍線〕、女ノ名ニツイテ居ル櫻ノ花ガ、咲クナラバ、私ハ毎年毎年ツヅケテイツデモ女ヲ思ヒ出スデアラウ。
 
○繋有櫻《カカセルサクラ》――舊訓カケタルとあるのを略解はカカセルと訓んでゐる。卷二の御名爾懸世流《ミナニカカセル》(一九六)にならつたもので、これに從ふべきであらう、妹の名に附いてゐる櫻。女の名が櫻兒であるからである。○彌年之羽爾《イヤトシノハニ》――卷十九に毎年謂2之等之乃波1(一三八)とあつて、年之羽《トシノハ》は毎年の意である。類聚古集その他の古寫本には、この歌の下に、「其二」と記したものが多い。
〔評〕 第二の男の歌。前歌のやうな無理がない。併し歌は平凡である。櫻兒の説話は三山・眞間手古奈・處女塚と同じく、妻爭傳説である。かういふことは、もとより民間に往々有りがちではあるが、この通りの事件が、實際にあつたものとは考へられない。從つて右の歌も、この説話に關係のないものが、この中に取入れられたものと考ふべきであらう。なほ妻爭傳説では、多くは美人が入水することになつてゐるが、この話では縊死してゐるのは、櫻兒といふ名に因んだものか。
 
或(ヒト)曰(ク)昔有(リ)2三男1、同(ジク)娉(フ)2一女(ヲ)1也、娘子嘆息(シテ)曰(ク)、一女之身易(キコト)v滅(エ)如(ク)v露(ノ)、三雄之(10)志、難(キ)v平(ギ)如(シト)v石(ノ)、遂(ニ)乃※[人扁+方]2※[人扁+皇](ヒ)池上(ニ)1、沈汲(ミキ)水底(ニ)1於v時其(ノ)壯士等、不v勝(ヘ)哀頽之至(ニ)1、各陳(ベテ)2所心(ヲ)1作(レル)歌三首、【娘子字曰2鬘兒1也】
 
○娉――ヨバフ又はツマドフと訓むべきであらう。女に婚を求めて、來り訪ふこと。○難平如石――平かにし難きこと石の如しといふので、石は堅くて容易に平かにし難いからである。平にするとは、和平妥協すること。○※[人扁+方]※[人扁+皇]――サマヨフ・モトホルなどと訓むべきであらう。彷徨とあるべきだが、※[人扁+方]※[人扁+皇]と記すこともないではない。○不勝哀頽之至――舊本頽を〓に誤る。哀頽は哀しみくづれる。
 
3788 耳無の 池し恨めし 吾妹子が 來つつ潜かば 水は涸れなむ
 
無耳之《ミミナシノ》 池羊蹄恨之《イケシウラメシ》 吾妹兒之《ワギモコガ》 來乍潜者《キツツカヅカバ》 水波將涸《ミヅハカレナム》
 
縵兒ハ耳梨ノ池ニ身ヲ投ゲテ死ンデシマツタガ〔縵兒〜傍線〕、耳梨ノ池ハ憎ラシイ池ダ〔二字傍線〕。私ノ戀シイ縵兒ガ來テ、池ノ中ニ飛ビ込ンデ〔九字傍線〕水ヲ潜ツタナラバ、水ガ涸レテ無クナ〔四字傍線〕レバヨイニ。
 
○無耳之池羊蹄恨之《ミミナシノイケシウラメシ》――無耳の池は耳梨山の下にある池。今も同山の南麓に木原池がある。寫眞は著者撮影。但し古の池がその儘殘つてゐるのではないらしい。羊蹄の二字をシに用ゐたのは、卷十に世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》(一八五七)とあつて、和名抄に、羊蹄菜を之布久佐一云之あるやうに、羊蹄《シ》といふ草の名によつたものである。この草は今のギシギシのことだといふ。齊明天皇紀に後方羊蹄【此云斯梨敝之】とあるから、當時の慣用假名であつたのである。○來乍潜者《キツツカヅカバ》――ツツは輕く用ゐてある。來乍《キツツ》は幾度も來ることではない。○水波將涸《ミヅハカレナム》――考・略解に舊訓を改めてミヅハアセナムとあるのは、要なき改訓であらう。水が涸れるであらうの意で、ナムはおのづから希望の意味になつてゐる、古義に「歌意は無耳の池に潜(キ)する妹は一(ト)すぢに深く恨めし、かやうに常に通ひ來つゝ此の池に潜せば、水盡て涸なむとなり。存在《イキ》てある妹が潜するやうに見なして其妹を深く恨むやうに云なして、悲情を(11)つよく含めたり」とあるのは、四五の句の誤解に基く失策である。なほ、古葉略類聚抄その他の古寫本に、歌の下に一と記したものが多い。其一の意である。
〔評〕 第一の男の歌。耳梨池に投身した女を悲しんだ歌。女を溺れしめた池を恨んでゐるのが上代人の感情らしい。大和物語に「猿澤の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし」として、奈良の帝が采女の投身をきこしめて詠み給うた歌が出てゐるのは、これを作りかへたものであらう。
 
3789 足曳の 山かづらの兒 今日ゆくと 我に告げせば 還り來ましを
 
足曳之《アシビキノ》 山縵之兒《ヤマカヅラノコ》 今日往跡《ケフユクト》 吾爾告世婆《ワレニツゲセバ》 還來麻之乎《カヘリコマシヲ》
 
(足曳之山)縵兒ガ今日耳梨ノ池ヘ〔五字傍線〕行ツテ死ヌ〔二字傍線〕ト私ニ、豫メ〔二字傍線〕告ゲタナラバ、私ハ旅カラ〔五字傍線〕歸ツテ來ベキ筈デアツタノニ。私ニ知ラセズニ死ンダノハ情ナイコトヲシタモノダ〔私ニ〜傍線〕。
 
○足曳之山縵之兒《アシビキノヤマカヅラノコ》――足曳之《アシビキノ》は山の枕詞たることはいふまでもないが、山は縵之兒に山かづらをいひかけたのである。山かづらは日蔭蔓である。縵之兒は題詞の註に娘子字曰2鬘兒1也とある鬘兒である。○吾爾告世婆《ワレニツゲセバ》――我に告げたならば。古義はノリセバト訓んでゐる。○還來麻之乎《カヘリコマシヲ》――略解に還は迅の誤で、(12)ハヤクコマシヲ又はトクキテマシヲであらうといつてゐるが、改めないで、解すべきであらう。なほ、古葉略類聚抄その他、歌の下に二と記したものが多い。其二の意である。
〔評〕 第二の男の歌。この男は旅中にあつて女の死に逢ふことを得なかつたらしい。歌の氣分がどうも事件としつくり合致しないやうである。
 
3790 足曳の 玉かづらの兒 今日の如 いづれの隈を 見つつ來にけむ
 
足曳之《アシビキノ》 玉縵之兒《タマカヅラノコ》 如今日《ケフノゴト》 何隈乎《イヅレノクマヲ》 見管來爾監《ミツツキニケム》
 
今日私ハ縵兒ノ死ンダ耳梨ノ池ヘアチコチト見テ來テ、アノ女ヲ思ヒヤツテ悲シンデヰルガ〔今日〜傍線〕(足曳之玉)縵兒ハ、今日私ガ此處ヘ來タ〔七字傍線〕ヤウニ道ノ〔二字傍線〕ドノ隅ヲ見ナガラ、歩イテ此處ヘ來タデアラウ。
 
○足曳之玉縵之兒《アシビキノタマカヅラノコ》――前歌と同じく、縵之兒と言はむが爲で、その上は序詞である。足曳之といふ枕詞から考へても、亦前歌から見ても、玉は山の誤でありさうに思はれるので、古點時代からヤマカツラノコと訓んでゐる。併し山となつてゐる異本もないから、暫く舊本のままにして置かう。玉縵は玉葛。蔓になつた草木の總稱。玉は美稱。○如今《ケフノゴト》――今日吾が來た如くの意。○何隈乎《イヅレノクマヲ》――何れの道の隈ヲ。古義に「池上の隈々を廻りつゝ、何の隈よりか身を投むと見つゝ來にけむとなり」とあるのは誤解であらう。新考は何隈乎は何時可の誤。次句の見は思の誤でイヅレノトキカモヒツツキニケムと訓んで、「今日は途スガラ常ヨリマサリテ妹ノ事ガ思ハレタガ、サテハカカル歎ニ逢ハム兆ナリシカといへるなり」と解してゐるが臆斷にすぎる。なほ類聚古集その他の古寫本に、歌の下に三と記したものが多い。其三の意である。
〔評〕 第三の男の歌。女の投身を聞いて、耳梨の池に尋ねて來て詠んだもの。哀愁の感があらはれてゐないのではないが、事件にはしつくり合はぬやうである。又上の三句が前の歌と酷似してゐるのは、第二の男の作を聞いて、それに傚つて詠んだものか。不自然の感がないでもない。この縵兒の話は男が三人になつてゐるのが、普通の妻爭傳説と異なつた點である。これもこの説話に、右の三つの歌を當て嵌めたものと考ふべきであらう。(13)この櫻兒縵兒の説話と卷一の三山の傳説とを、舂混ぜたやうなものが、謠曲の三山である。大和の香具山の里に住んでゐた、膳部公成といふ男に愛されてゐた二人の遊女があつた。一人は櫻子で畝火山の麓に住み、一人は桂子で耳梨の里にゐた。二人の間に戀の暗闘がつづいたが、遂に桂子は公成の無情を怨んで耳梨の池に投身してしまつた。その女の妄執が姿をあらはして櫻子を打つといふ筋で、後世の嫉妬打《ウハナリウチ》と結び付いて、話の内容は著しく變つてゐるが、出發點がこれらの歌にあることは言ふまでもない。
 
昔有(リ)2老翁1、號(シテ)曰(ヘリ)2竹取翁(ト)1也、此(ノ)翁、季春之月、登(リ)v丘(ニ)遠(ク)望(ム)、忽(チ)値(ヘリ)2※[者/火](ル)v羮(ヲ)之九箇女子(ニ)1也、百嬌無(ク)v儔、花容無v止、于v時娘子等、呼(ビ)2老翁(ヲ)1〓(ヒテ)曰(ク)舛父來(テ)乎、吹(ケ)2此(ノ)燭火(ヲ)1也、於v是(ニ)翁曰2唯唯《ヲヲト》漸(ク)※[走+多](テ)徐(ニ)行(キテ)、著2接(ス)座上(ニ)1、良久(シテ)、娘子等皆共(ニ)含(ミ)v咲(ヲ)相推讓(リテ)之曰(ク)、阿誰《タレゾ》呼(ビシカ)2此(ノ)翁(ヲ)1哉、爾乃(チ)竹取翁謝(シテ)v之曰(ク)非慮之外(ニ)、偶逢(ヘリ)2神仙(ニ)1、迷惑之心、無(シ)2敢(ヘテ)所1v禁(ズル)、近(ク)狎之罪(ハ)、希(クハ)贖(フニ)以(テセム)v謌(ヲ)、即(チ)作(レル)歌一首并短歌
 
○竹取翁――タケトリともタカトリとも訓まれる。この翁の名が、大和高市郡の南に聳える高取山から出たものらしいから、タカトリと訓むがよいであらう。竹取物語の竹取の翁はこの歌から出て、文字のままに竹を取つてつかふ翁にしてしまつたのである。但し萬葉集漫筆に見える山崎泰輔氏の説に「此の竹取翁は、いささかも竹に所由なし。仍て考ふるに、竹は借字、菌芝《たけ》の類を云ふにて、即ち菌取翁なるべきか。仙人の食ふ芝草も菌類にて、同じく多計と云ふなれば、この翁は仙方を學び、芝草をあさる漢土商山の四皓の如き老人にて、凡人にあらず、九人の少女も、翁が神仙と稱すれば、本より凡人にあらず、煮羮と云ふも芝草などの羮なるべし。皇極紀三年の條に雪中菌を取り、煮而食之といふ事迹を以て、その事の趣を思ふべし。かの押坂直童子なども(14)菌羮を喫ひて無病而壽とあれば、これ亦、右の竹取翁と云ふべきものならずや」とあるが歌の内容が著しく支那風の神仙譚的であるから、この説のやうな見解が、正しいかも知れない。○登丘遠望――右の如く解すると丘は即ち高取山である。○忽値2※[者/火]v羮之九箇女子1也――羮を煮るとは若菜を煮るのである。丘の上で羮を煮る少女は、言ふまでもなく仙女であらう。その數を九人としたのも、陽の數を貴んだ支那思想である。卷十に春日野爾煙立所見※[女+感]嬬等四春野之菟芽子採而※[者/火]良思文《カスガヌニケブリタツミユヲトメラシハルヌノウハギツミテニラシモ》(一八七九)とあるのを想ひ起さしめる。○花容無v止――止は神田本に上に作つてゐるが、契沖が言つたやうに匹の誤であらう。略解は「止は比か匹の誤」と言つてゐる。○〓曰――〓は嗤の略字。アザワラフ。○舛父――舛は叔に同じ。集中相通じて用ゐたところが多い。○吹此燭火――羮を煮てゐる鍋の下の火を吹けといふのである。○唯唯――諾する詞。ヲヲと訓む。今のハイハイといふに同じ。○漸※[走+多]徐行――漸は段々と、そろそろと。※[走+多]は趣に同じ。オモムク。○著接座上――座席に著いた。○阿誰――阿は上に冠するのみ。タレ。○非慮之外――思ひの外といふことを古くは、思はざる外といつた例が多い。天武天皇紀に「若|不意之《オモハザル》外有(ラバ)2倉卒之事1」、高橋氏文に「不思 保佐佐流 外 爾」、三代實録宣命に「不慮之外 爾」、靈異記に「不慮之外」「不思之外」、大鏡道長傳に「思はざる外の事によりて」、この外、謠曲隅田川にも「思はざる外に一人子を人商人に誘はれて」とある。非を計の誤とするは當らない。
 
3791 緑子の 若子が身には たらちし 母に懷かえ 襁かくる 這ふ兒が身には 木綿肩衣 ひつらに縫ひ著 うなつきの 童が身には ゆひはたの 袖著け衣 著し我を 丹よる子等が よちには 蜷の腸 か黒し髪を 眞櫛もち 肩にかき垂れ 取りつかね あげてもまきみ 解き亂り わらはに成しみ うすものの 色つふ色に 懷かしき 紫の 大綾のきぬ 住の江の 遠里小野の 眞榛もち にほしし衣に 高麗錦 紐に縫ひ着け 指さへ重なへ 竝み重ね著 うちそやし 麻續の兒ら あり衣の 寶の子らが 打栲は へて織る布 日曝の 麻てつくりを しき裳なすは しきに取りしき やどに經る 稻置丁女が つまどふと 我にぞ來し をち方の 二綾したぐつ 飛ぶ鳥の 飛鳥男が 長雨忌み 縫ひし黒沓 さし穿きて 庭に立たずみ 退りな立ちと 障ふるをとめが ほの聞きて 我にぞ來りし み縹の 絹の帶を 引帶なす 韓帶に取らし わたつみの 殿の盖に 飛び翔る すがるの如き 腰細に 取り餝らひ まそ鏡 取りなめ懸けて 己が貌 還らひ見つつ 春さりて 野邊をめぐれば おもしろみ 我を思へか さ野つ鳥 來鳴き翔らふ 秋さりて 山邊を往けば 懷しと 我を思へか 天雲も 行き棚引く 還り立ち 路を來れば うち日さす 宮をみな さす竹の 舍人男も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえてある 斯くぞし來し 古へ ささきし我や 愛しきやし 今日やも子等に いさにとや 思はえてある 斯くぞ爲來し 古の 賢しき人も 後の世の かたみにせむと 老人を 送りし車 持ちかへり來し
 
緑子之《ミドリコノ》 若子蚊見庭《ワグゴガミニハ》 垂乳爲《タラチシ》 母所懷《ハハニウダカエ》 搓襁《スキカクル》 平生蚊見庭《ハフコガミニハ》 結經方衣《ユフカタギヌ》 氷津裡丹縫服《ヒツラニヌヒキ》 頸著之《ウナツキノ》 童子蚊見庭《ワラハガミニハ》 結幡《ユヒハタノ》 袂著衣《ソデツケゴロモ》 服我矣《キシワレヲ》 丹因子等何《ニヨルコラガ》 四千庭《ヨチニハ》 三名之綿《ミナノワタ》 蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》 信櫛持《マグシモチ》 於是蚊寸垂《カタニカキタレ》 取束《トリツカネ》 擧而裳纒見《アゲテモマキミ》 解亂《トキミダリ》 童兒丹成見《ワラハニナシミ》 羅《ウスモノノ》 丹津蚊經色丹《ニツカフイロニ》 名著來《ナツカシキ》 (15)紫之《ムラサキノ》 大綾之衣《オホアヤノキヌ》 墨江之《スミノエノ》 遠里小野之《トホザトヲヌノ》 眞榛持《マハリモチ》 丹穗之爲衣丹《ニホシシキヌニ》 狛錦《コマニシキ》 紐丹縫著《ヒモニヌヒツケ》 刺部重部《ササヘカサナヘ》 波累服《ナミカサネキ》 打十八爲《ウチソヤシ》 麻續兒等《ヲミノコラ》 蟻衣之《アリギヌノ》 寶之子等蚊《タカラノコラガ》 打栲者《ウツタヘハ》 經而織布《ヘテオルヌノ》 日暴之《ヒザラシノ》 朝手作尾《アサテツクリヲ》 信巾裳成者《シキモナスハ》 之寸丹取爲支《シキニトリシキ》 屋所經《ヤドニフル》 稻寸丁女蚊《イナキヲトメガ》 妻問迹《ツマドフト》 我丹所來爲《ワレニゾキタリシ》 彼方之《ヲチカタノ》 二綾裏沓《フタアヤシタグツ》 飛鳥《トブトリノ》 飛鳥壯蚊《アスカヲトコガ》 霖禁《ナガメイミ》 縫爲黒沓《ヌヒシクログツ》 刺佩而《サシハキテ》 庭立住《ニハニタタズミ》 退莫立《マカリナタチト》 禁尾迹女蚊《サフルヲトメガ》 髣髴聞而《ホノキキテ》 我丹所來爲《ワレニゾキタリシ》 水縹《ミハナダノ》 絹帶尾《キヌノオビヲ》 引帶成《ヒキオビナス》 韓帶丹取爲《カラオビニトラシ》 海神之《ワタツミノ》 殿盖丹《トノノイラカニ》 飛翔《トビカケル》 爲輕如來《スガルノゴトキ》 腰細丹《コシボソニ》 取餝氷《トリカザラヒ》 眞十鏡《マソカガミ》 取雙懸而《トリナメカケテ》 己蚊杲《オノガカホ》 還氷見乍《カヘラヒミツツ》 春避而《ハルサリテ》 野邊尾廻者《ヌベヲメグレバ》 面白見《オモシロミ》 我矣思經蚊《ワレヲオモヘカ》 狹野津鳥《サヌツトリ》 來鳴翔經《キナキカケラフ》 秋避而《アキサリテ》 山邊尾往者《ヤマベヲユケバ》 名津蚊爲迹《ナツカシト》 我矣思經蚊《ワレヲオモヘカ》 天雲裳《アマグモモ》 行田菜引《ユキタナビク》 還立《カヘリタチ》 路尾所來者《ミチヲクレバ》 打氷刺《ウチヒサス》 宮尾見名《ミヤヲミナ》 刺竹之《サスタケノ》 舍人壯裳《トネリヲトコモ》 忍經等氷《シヌブラヒ》 還等氷見乍《カヘラヒミツツ》 誰子其迹哉《タガコゾトヤ》 所思而在《オモハエテアル》 如是所爲故爲《カクゾシコシ》 古部《イニシヘ》 狹狹寸爲我哉《ササキシワレヤ》 端寸八爲《ハシキヤシ》 今日八方子等丹《ケフヤモコラニ》 五十狹邇迹哉《イサニトヤ》 所思而在《オモハエテアル》 如是所爲故爲《カクゾシコシ》 古部之《イニシヘノ》 賢人藻《サカシキヒトモ》 後之世之《ノチノヨノ》 堅監將爲迹《カタミニセムト》 老人矣《オイビトヲ》 送爲車《オクリシクルマ》 持還來《モチカヘリコシ》 
 
(16)赤兒ノ小サイ兒ノ時ニハ(垂乳爲)母ニ抱カレ、「襁ヲカケル匐兒ノ身ニハ、木綿ノ肩衣ヲ、總裏ニ縫ツテ着、更ニ生長シテ、髪ノ先ガ〔十字傍線〕頸ノ廻リ〔三字傍線〕ヲ衝ク位ナ、少年ノ時ニハ、絞染ノ袖ノアル着物ヲ着タ私デシタガ、顔ノ美シイ貴女タチト、同年輩ノ頃ニハ(三名之綿)黒イ髪ヲ、櫛デ肩ニカキ垂ラシテ、手ニ取リ束ネ或ハ櫛デ〔四字傍線〕カキ上ゲテ、結ンデ見タリ、解キ亂シテ童ノヤウニシテ見タリシテ、薄物ノ紅イ色ノ着物〔三字傍線〕、ナツカシイ紫ノ大綾錦ノ衣ヲ、住吉ノ遠里小野ノ萩デ染メタ着物ニ、高麗ノ錦ヲ紐トシテ縫ヒツケ、紐ヲ〔二字傍線〕差シ、着物ヲ〔三字傍線〕重ネ、並ベ重ネテ着テ、(打十八爲)麻ヲ績ム女等ヤ、絹布ヲ織ル〔五字傍線〕(蟻衣之)寶ノ女等ガ 只管ニ、糸ヲ〔二字傍線〕引キ延ヘテ織ル布、水ニツケテ〔五字傍線〕、日ニ晒シテ作ツタ、麻ノ手織リノ布ヲ、重裳《シキモ》ノヤウニハ澤山ニ〔三字傍線〕取リ重ネテ着ルト、家ニ閉ヂ籠ツテヰル箱入娘ノ〔四字傍線〕稻置ノ處女ガ、結婚ヲ申込ムトテ、私ノ所ヘ來タ。遠國製ノ二綾ノ靴下ヲ穿イテ〔四字傍線〕、(飛鳥)飛鳥里ノ〔二字傍線〕男ガ、長雨ヲ嫌ツテ縫ツテ作ツ〔三字傍線〕タ黒靴ヲ穿イテ庭ニ立ツト、歸ツテハイケマセント障ヘル少女ガ、私ノ聲ヲ〔四字傍線〕微カニ聞キツケテ、私ノ處ヘヤツテ來タ。水色ノ絹ノ帶ヲ引帶ノヤウニ唐帶ニ取ツテ、龍宮ノ御殿ノ屋根ノ棟ノ上ニ飛ンデヰル※[虫+果]羸ノヤウナ、腰ノ細イ姿ニ飾ツテ、鏡ヲ並ベ懸ケ、自分ノ顔ヲ何度モ映シテ見テ、春ガ來テ、野原ヲ廻ツテ見ルト、私ノ姿〔二字傍線〕ヲ面白イト思フノカ、雉モ來テ飛ビ廻ル。秋ガ來テ山ヲ歩イテヰルト、ナツカシイト私ヲ思フノカ、空ノ雲モ來テ靉イテヰル。更ニ又〔三字傍線〕還ツテ來テ立ツテ、都ノ〔二字傍線〕大通リヲ歩イテヰルト、(打氷刺)宮女(刺竹之)舍人ノ男モ、私ヲ〔二字傍線〕慕ツテ振リ返ツテ見テ、アノ美シイ男ハ何處ノ〔十字傍線〕誰ノ家ノ兒ダゾト思ハレテヰル。私ハ〔二字傍線〕カヤウニシテ來タ。皆得意ニナツテ、騷イデ歩イタ私ガ、今日ハ、コノ〔二字傍線〕美シイ女共ニ、イヤ知ラナイト思ハレテヰル。私ハ〔二字傍線〕カヤウニシテ來タ。然シ老人ダカラトイツテ嫌フモノデナイ〔然シ〜傍線〕。昔ノ原穀トイフ〔五字傍線〕賢イ人モ、後世ノ手本ニシ(17)ヨウト思ツテ、老人ヲ捨テニ行ツタ車ヲ、持ツテ來テ、ソノ父ノ不孝ヲ直シ〔十字傍線〕タ。ダカラ老人ダト言ツテ輕蔑シタモノデモアルマイ〔ダカ〜傍線〕。
 
○緑子之《ミドリコノ》――緑子は赤兒。○若子蚊見庭《ワクコガミニハ》――若子は卷十四に等能乃和久胡思《トノノワクゴシ》(三四三八)・等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》(三四五九)とあつたワクゴであるが、かれは青年の男を指してゐるのに、これは嬰兒のことを言つてゐる。見庭は身には。嬰兒の時にはの意。○垂乳爲《タラチシ》――タラチネと同じく母の枕詞である。卷五に多羅知斯夜波波何手波奈例《タラチシヤハハガテハナレ》(八八六)・多良知子能波波何目美受提《タラチシノハハガメミズテ》(八八七)とある。爲を禰の誤とする考の説はよくない。○母所懷《ハハニウダカエ》――舊訓ハハニイタカレとあるが、所懷はウダカエと訓むがよい。○搓襁《スキカクル》――舊訓タマタスキとあるのは據所のない訓法である。搓はヨルといふ字であるから代匠記にもヨリムツキ・ヨリタスキなどと訓んでゐるが、穩やかでない。略解にタスキカクと訓んであるが、古義に搓を挂の誤とし「襁は字鏡に負v兒帶也須支また束2小兒背1帶須支とあり。こは今俗、スケ〔二字右○〕といふものなり。さてここは襁《スキ》を束《カケ》て負ばかりの、ほどほひをいふにて、未だ幼稚《イトギナ》きを云り、さてこの襁を、古來タスキ〔三字右○〕と訓來れるは、いかがあらむ。タスキ〔三字右○〕ならば手襁と書べし。襁のみにては字足はず。書紀にも手襁と書り云々」とあるのに從ひたい。タスキは源氏物語・枕草子などに見えて、小兒の着る今の腹掛の如きもので、背中で紐を打がへにしてある。但し搓の字は古寫本多くは※[衣+差]に作つてゐる。※[衣+差]は衣(ノ)長キ貌であるから、ここには當嵌らヌやうである。○平生蚊見庭《ハフコガミニハ》――平生の二字を舊訓にハフコとあるのは、その理由は明らかでないが、動かし難い訓と思はれる。これについて古義には「熟々考るに論語に、久要不v忘2平生之言1とありて、孔安國(ガ)註に、平生(ハ)猶2少時1トあるのに依(レ)りと見えたれば、少時を即(チ)這めぐる少兒の意に取(レ)るものなり」とある。必ずしも從ひ難いが、注意すべき説であらう。○結經方衣《ユフカタギヌ》――木綿で作つた肩衣。肩衣は袖無し衣。○氷津裡丹縫服《ヒツラニヌヒキ》――氷津裡《ヒツラ》は純裏《ヒタウラ》の約で、卷十二に純裏衣《ヒツラノコロモ》(二九七二)とあるに同じ。通し裏のこと。舊訓ヒツリと訓んだのはよくない。○頸著之《ウナツキノ》――舊訓クビツキノを考にウナツキノト改めてゐる。子供の髪の末が頸のあたりで切られて、頸を衝く程になつてゐるから、かくいふのであらうか。女の兒を目刺しといふに似てゐる。○結幡之《ユヒハタノ》――結幡《ユヒハタ》は纐纈即ち絞染である。幡即ち布を結んで染めるからユヒハタといふ。ユフハタと舊訓(18)にはあるが、ユヒハタがよいであらう。○袂著衣《ソデツケゴロモ》――袖を着けた衣。肩衣を着た赤兒よりも大きくなつた装ひである。○服我矣《キシワレヲ》――着し我なるにの意。○丹因子等何四千庭《ニヨルコラガヨチニハ》――舊訓ニヨレルとある。この二句は意味不明瞭なので誤字説が多い。代匠記精撰本は庭を衍、四千を子の上に移し、ニヨレルヨチコラガとし、考は四千を見の誤としてニヨルコラガミニハ、久老は丹の上、吾の字、脱としてワニヨスコラガ、古義は丹の上、我の字、脱としてアニヨルコラガとしてゐる。ここでは原文のままとして、顔の美しい貴女たちと同年輩の頃にはの意としよう。ニヨルは丹頬合《ニヅラフ》(一九八六)と同じく、顔の美しいこと、四千《ヨチ》は卷五に餘知古良《ヨチコラ》(八〇四)とあるやうに同年輩の子といふのである。○三名之綿《ミナノワタ》――枕詞。黒とつづく。蜷といふ貝の腸が黒いからである。○蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》――舊訓カグロナルカミとあるが、爲をシと訓むのが穩やかである。カグロシは終止形で、名詞につづく古形である。美國《ウマシクニ》・嚴穗《イカシホ》・堅岩《カタシハ》などの類である。カは接頭語。○信櫛持《マグシモチ》――マは接頭語。櫛を以つて。○於是蚊寸垂《カタニカキタレ》――於是はココニと訓むの外はないが、古義に是を肩の誤として、カタニと訓んだのに從はう。肩に掻き垂らして。○擧而裳纒見《アゲテモマキミ》――櫛で掻き上げて、それを卷いて綰《ワガ》ねたりして見て。○童兒丹成見《ワラハニナシミ》――舊訓|董兒丹成見羅丹津蚊經色丹《ウナヰコニナレルミツラニツカフルイロニ》とあるのを代匠記以下種々に改訓してゐるが、古義によることにした。童の如く髪を解亂して見るといふので、謂はゆる大童になることである。○羅丹津蚊經色丹《ウスモノノニツカフイロニ》――古義は羅は紅の誤でクレナヰノは丹と言はむ爲といつてゐる。これに從へば意はよく通ずるが、誤字らしくもない。宣長が羅をサと訓んで、色の下の丹を衍とし、サニツカフイロナツカシキと訓むべしとて、卷七に羅をサの假名に用ゐた例があるといつてゐる。併し卷七のは音之清羅《オトノキヨラ》(一一五九)と訓むべきであるから證にはならない。暫く新訓によつて、ウスモノノと訓むことにしよう。丹津蚊經色《ニツカフイロ》は丹着かふ色。紅色。似着かふではあるまい。○大綾之衣《オホアヤノキヌ》――大きな綾織になつてゐる衣。○墨江之遠里小野之《スミノエノトホザトヲヌノ》――卷七に住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノトホサトヲヌノマハリモチスレルコロモノサカリスキヌル》(一一五六)とあると同所。宣長説によつて古義がヲリノヲヌノとよんだのは從ひ難い。○丹穗之爲衣丹《ニホシシキヌニ》――染めた衣に。○刺部重部《ササヘカサナヘ》――舊訓サシベカサナベとあるのを、考は部は米に通ひ米と美とは同言だとして、サシミカサネミと訓んでゐるのは無理であらう。古義によつて、ササヘはサシ、カサナヘはカサネの延言と見るべきであらう。紐を刺し、衣を重ねるのである。(19)○波累服《ナミカサネキ》――並み重ね着。舊訓はナミカサネキテとあるが、テは不要であらう。波は並の借字。取の誤とするは當らない。○打十八爲《ウチソケシ》――舊訓ウチソハシ、代匠配精撰本ウチソヤセバ、略解は八爲は烏の誤で、ウチソヲとし、古義は文字のままにウツソヤシと訓んでゐる。古義はウツツは全麻《ウツソ》、ヤシは縱惠八師《ヨシヱヤシ》・愛八師《ハシキヤシ》などのヤシと同じく歎辭と見て、この句を麻續《ヲミ》の枕詞としたのであるが、この説が最も優れてゐる。但し卷一の打麻乎麻續王《ウチソヲヲミノオホキミ》(二三)、卷十二の※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸《ヲトメラカウミヲノタタリウチソカケ》(二九九〇)によつても打十はウチソと訓むのが正しく、ウチソヤシは右の卷一の打麻乎《ウチソヲ》と全く同意の枕詞なることが知られる。○麻續兒等《ヲミノコラ》――麻を績むことを業とする女子ら。○蟻衣之《アリギヌノ》――枕詞。寶とつづく。アリギヌは鮮かなる絹の意で、布を寶としたからである。○寶之子等蚊《タカラノコラガ》――絹布を織るものを貴んで寶の子といつたのである。麻續兒《ヲミノコ》に對してゐる。新考は服部《ハトリ》之子等の誤であらうといつてゐる。○打栲者《ウツタヘハ》――ウツタヘは只管《ヒタスラ》にの意。者は煮の誤で、ウツタヘニであらうとも考へられるが、もとの儘で、ウツタヘニハの意として置かう。ウツタヘを考に美細布《ウツタヘ》とし、古義には打は打麻の打《ウツ》、栲は絹布の總名とあるのは誤つてゐる。○經而織布《ヘテオルヌノ》――古義は前句の者を下につづけて、ハヘテオルヌノと訓んでゐる。ヘは絲を引延へること。○日暴之《ヒザラシノ》――日光に暴《サラ》した。布は水に洗つて日に晒すのである。○朝手作尾《アサテツクリヲ》――朝は麻の借字。手作は手織布。卷十四の多麻河泊爾左良須※[氏/一]豆久利《タマガハニサラステツクリ》(三三七三)とある※[氏/一]豆久利《テツクリ》に同じ。○信巾裳成者《シキモナスハ》――重裳の如く。シキモは重裳・醜裳・敷裳などの説がある。いづれも面白くないが、重裳として、重ねて着る裳と解して置かう。但し巾の字は集中|領巾《ヒレ》に用ゐてあるのみで、假名として用ゐた例はない。一體この歌の用字が極めて異風ではあ(20)るが、信巾裳《シキモ》はどうも無理があるやうである。なほ攻究を要する。者《ハ》は衍とする説が多い。○之寸丹取爲支《シキニトリシキ》――重《シキ》に取り重《シ》きの意か。この句も明瞭ではなく、異説も多いが、當つてゐると思はれるものがないから、略して置く。○屋所經《ヤドニフル》――宿に籠つてゐるの意か。下の稻寸丁女につづいてゐる。この句の訓も解も諸説紛々である。○稻寸丁女蚊《イナキヲトメガ》――稻寸は成務天皇紀に、縣邑置2稻置1とあり、允恭天皇紀には姓謂2稻置1。天武天皇紀に作2八色之姓1とあつて、八曰2稻置1と見えてゐる。ここのは成務天皇紀に見える國造に屬したものではなく、天武天皇紀の稻置姓の少女であらう。これを地名とする説もあるが、地名としては所見がないやうである。代匠記に稻舂《イナツキ》をとめの略としたのは當らない。○妻問迹《ツマドフト》――結婚を申込むとて。○我丹所來爲《ワレニゾキタリシ》――私の所へ尋ねて來た。古義は來を賚の誤として、ワニゾタバリシと訓むべしと言つてゐる。○彼方之《ヲチカタノ》――遠方で出來る。舶來の意にもとれる。○二綾裏沓《フタアヤシタグツ》――二綾の襪。二綾は二色の綾。シタグツは靴下。和名抄に「説文云、襪 音末 字亦作v韈之太久頭」とある。○飛鳥《トブトリノ》――枕詞。アスカにつづくのは飛ぶ鳥の足輕《アシガル》、又は飛ぶ鳥の幽《カスカ》の轉とする説が行はれてゐる。○飛鳥壯蚊《アスカヲトコガ》――飛鳥の里の男。靴作りの男である。○霖禁《ナガメイミ》――長雨を嫌つて。革靴を縫ふには雨を忌むのであらう。考には「革沓は日能時ぬふが竪きなるべし」とあるが、略解には「革沓は日より能時にぬるが黒きなるべしと翁の説也」とある。宣長は「ながめいみ云々聞えず。強ひていはば、長雨の時は外のすべき業ならざる故に、家の内に居て沓をぬふをいふにや。俗にいふ雨ふりしごとと言ふ意也」といつてゐる。○縫爲黒沓《ヌヒシクロクツ》――黒沓は衣服令に烏皮※[潟の旁]《クリカハクツ》とあるによつて、考・古義はクリクツと訓んでゐる。なほクロクツでよいであらう。○挿入の寫眞は東瀛珠光による。○庭立住《ニハニタタスミ》――庭に佇み。考はニハタダスメバと訓んでゐる。○退莫立《マカリナタチト》――舊訓イデナタチとあるのを、代匠記精撰本ソキナタチとあるが、退はマカルと訓んだ例が多いから、ここもそれに從つて置かう。其處を立去るなと女が言ふのである。○禁尾迹女蚊《サフルヲトメガ》――禁は集中、種々の訓がある。ここは舊訓イサムヲトメガとあるが、人歟禁良武《ヒトカサフラム》(六一九)・將見時禁屋《ミムトキサヘヤ》(二六三三)・往時禁八《ユクトキサヘヤ》(三〇〇六)などに傚つてサフルと訓むがよい。この句は障ふる處女が。引留める處女がの意。○水縹《ミハナダノ》――水色縹。即ち藍色の薄いもの。○絹帶尾《キヌノオビヲ》――考はタヘノオビヲと訓んでゐるが、文字通りに訓むべきである。○引帶成《ヒキオビナス》――引帶のやうに。(21)引帶は和名抄に「衿帶、陸詞曰 音與襟同比岐於比 小帶也」とある。表衣に縫ひ附けてある小帶である。○韓帶丹取爲《カラオビニトラシ》――韓帶として取つて。韓帶とは韓風の帶であらうが、どんなものかわからない。弾正臺式に「凡紀伊石帶隱文者及定摺石帶參議已上、刻2鏤金銀1帶及唐帶五位已上並聽2著用1」とある。古義はカロビと訓んでゐる。トラシは敬語であるが、自分のことに使つてある。新考はトリナシと訓んでゐる。○殿盖丹《トノノイラカニ》――舊訓トノノミカサニとあり、ミカサを契沖は海神の殿に懸けたる華蓋《キヌガサ》と解してゐるが穩やかでない。盖は考にイラカとよんだのに從ふことにする。イラカは屋上の棟である。和名抄に「甍、釋名云、屋背曰v甍、音萌、伊良加」とある。○爲輕如來《スガルノゴトキ》――爲輕《スガル》は〓〓。似我蜂、腰細蜂の古名。この海神の殿の甍に飛び翔る〓〓とあるのを考には「野山こそあらめ、海神の殿をいひし心得す」とあるのは尤もであるが、海神の國は、水底にある如くして、しかも水中に没してゐるわけではないから、〓〓の飛ぶといふ想像もあり得るのである。○腰細丹《コシボソニ》――腰の細いのは美人の風姿。卷九に腰細之須輕娘《コシボソノスガルヲトメ》(一七三八)とある。○取餝氷《トリカザラヒ》――取り飾りての延言。○取雙懸而《トリナミカケテ》――取り並べ懸けて。○己蚊杲《オノガカホ》――己が顔。杲をカホに用ゐるのは見呆石《ミガホシ》(三八二)・在杲石《アリカホシ》(一〇五九)・杲鳥《カホドリ》(一八二三)・朝杲《アサガホ》(二一〇四)などと同じく、杲の字音コウを採つたものである。○我矣思經蚊《ワレヲオモヘカ》――我を思へばか。○狹野津鳥《サヌツドリ》――サは接頭語。この語は枕詞として雉の上に冠するを常とする。ここは即ち雉のことであらう。○行田菜引《ユキタナビク》――略解にユキタナビキヌとあるのはよくない。イを補つてイユキとする訓もさることだが、やはり原字のままで訓みたい。○打氷刺《ウチヒサス》――宮の枕詞。四六〇參照。○刺竹之《サスタケノ》――宮又は君などにかける枕詞であるのを、轉じて舍人に用ゐたのである。○忍經等氷《シヌブラヒ》――シヌブラフはシヌブルの延言。シヌブルはシヌブに同じ。心になつかしく思つて。○誰子其迹哉所思而在《タガコゾトヤオモハエテアル》――誰が家の子ぞやと、世の人に思はれてあつたと、若年時代を言つてゐる。誰が子ぞやと思はれるとは、人に注目せられることで、拾遺集神樂歌の「銀の目貫の太刀をさげはきて奈良の都をねるは誰が子ぞ」といふやうな氣分を指すのであらう。この句の舊訓はオモヒテアラム、考はモハレタリシヲ、久老はオモハレテアリシ、略解はオモホエテアラムヲ、古義オモハレテアルなど種々の訓がある。ここで切れたものとして古義に從つて置かう。○如是所爲故爲《カクゾシコシ》――斯樣に爲て來た。かくの如き行動を爲して來た。○古部《イニシヘ》(22)――舊訓にイニシヘノとあるのはよくない。○狹狹寸爲我哉《ササキシワレヤ》――ササクはササメクと同じく、戯れ騷ぐ意である。昔騷ぎ廻つて女どもに戯れた私が。ヤは疑問。○端寸八爲《ハシキヤシ》――語を距てて子等丹《コラニ》につづいてゐる。○五十邇迹哉《イサニトヤ》――イサはイサ知ラズのイサで、いや知らぬとばかりにの意。ニはニテなどの意であらう。輕く添へてある。ヤは疑間。○古部之賢人藻《イニシヘノサカシキヒトモ》――これから以下は孝子傳に「原穀者不v知2何許人1祖年老、父母厭患之、意欲v棄v之、穀年十五、涕泣苦諫、父母不v從乃作v輿舁棄v之、穀乃隨收v舁歸、父謂之曰、爾《ナンヂ》焉用2此凶具1、穀日、乃後父老不v能2更作1得v是以收v之耳、父感悟愧懼、乃載v祖歸、侍養更成2純孝1」とある記事によつたもので、古部之賢人《イニシヘノサカシキヒト》は即ち原穀のことである。○老人矣送爲車持遠來《オビトヲオクリシクルマモチカヘリコシ》――右の孝子傳の文に出てゐる故事をさしてゐる。
〔評〕 この長歌は萬集集中最も難解を以て聞えるものである。句法が整齊を缺いてゐる上に、用字に寄異なる點が多く、且當時の服装を述べてゐるが、男女いづれの風俗と見るべきか判斷に苦しむものがあつて、讀者をして五里霧中に彷徨せしめるの感がある。併し總べてこの翁の若い時の紛装と思へば間違ないやうである。又その内容は極めて混雜し、その叙述がいやに氣取つてゐる。最未に孝子傳の原穀の故事を引用してゐるのは、よほどの支那趣味作家で外國文學にかぶれた作品である。言ふまでもないことだが、この歌は竹取翁自身の作ではなく、竹取翁といふ架空の人物を作つて、かくの如き神仙譚的物語を仕組んだので、謂はゆる小説である。吾が國の小説は源氏物語に物語の祖と述べた竹取物語を待たずして、既にこの竹取翁歌があるのである。この作の年代は明らかでないが、かなり古いものかと思はれる。卷五に見えた梧桐日本琴の歌(八一〇)、松浦河に遊ぶ歌(八五三)などは、これと同一傾向の神仙めかした作品である。殊に松浦河の歌はこの歌の仙女を、海人の處女にかへただけのものである。
 
反歌二首
 
3792 死なばこそ 相見ずあらめ 生きてあらば しろかみ子等に 生ひざらめやも
 
(23)死者木苑《シナバコソ》 相不見在目《アヒミズアラメ》 生而在者《イキテアラバ》 白髪子等丹《シロカミコラニ》 不生在目八方《オヒザラメヤモ》
 
アナタ方ハ私ヲ老人ダト云ツテ輕蔑スルガ、早ク〔アナ〜傍線〕死ンダナラバ醜イ老人ノ姿ヲ〔七字傍線〕見ナイデスムデセウ。シカシ〔三字傍線〕生キテ居ルナラバ、白髪ガアナタガタニモ生エナイトイフコトガアリマセウカ。アナタガタモ、イツカハ老人ニナリマスヨ〔アナ〜傍線〕。
 
○死者木苑《シナバコソ》――舊本木を水に作るは誤。類聚古集その他多くの古本に依る。苑をソの假名に用ゐたのは、ソノの略か、集中唯一の例である。○相不見在目《アヒミズアラメ》――白髪になつた自分の姿を、見ないですむであらうの意。○生而在者《イキテアラバ》――略解に「我生きてあらば、子等に白髪生るを見むと也」とあるのは從ひ難い。○白髪子等《シロカミコラニ》――舊訓にシラカミとあるが、卷十七に布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマデニ》(三九二二)とあるに傚ふべきであらう。
〔評》 少し意味の不明瞭な點もあるのは、言ひ廻しが拙いのであらう。
 
3793 しろかみし 子等も生ひなば かくの如 若けむ子等に 罵らえかねめや
 
白髪爲《シロカミシ》 子等母生名者《コラモオヒナバ》 如是《カクノゴト》 將若異子等丹《ワカケムコラニ》 所詈金目八《ノラエカネメヤ》
 
白髪ガアナタガタニモ生エタナラバ、今私ガアナタガタニ罵ラレルヤウニ〔今私〜傍線〕、コノ通リ若イ人ニ罵ラレナイデヰヨウカ、必ズ罵ラレルデセウ〔九字傍線〕。
 
○白髪爲《シロカミシ》――舊訓シラガセムとあるが、眞淵の竹取翁歌解の説による。略解にシラガシテとある。○子等母生名者《コラモオヒナバ》――舊訓コラモイキナバとあるが、古義の説がよい。○將若異子等丹《ワカケムコラニ》――將若異の異はケと訓ましめむ爲に添へたものか。まことに珍らしい書き方である。この句は直譯すれば若いであらう女らにの意。○所詈金目八《ノラエカネメヤ》――カネは出來ないの意。罵られないでゐようか、必ず罵られるだらうの意。
(24)〔評〕 老を嗤ふ處女らを諫めてゐる。卷五の山上憶良の哀世間難住の歌に可久由既婆比等爾伊等波延可久由既婆《比等爾邇久麻延カクユケバヒトニイトハエカクユケバヒトニニクマエ》(八〇四)とあるのが思ひ出される。この二首の長歌の基調となつてゐるものは同じであるから、さうして、むつかしい漢土の故事などを引用した點などから、この作者は山上憶良ではないかといふ、想像が浮ぶのを禁ずることが出來ない。
 
娘子|和《コタフル》歌九首
 
九人の娘子が一人一首づつ詠んだのである。
 
3794 はしきやし おきなの歌に おほほしき 九の兒らや かまけて居らむ
 
端寸八爲《ハシキヤシ》 老夫之歌丹《オキナノウタニ》 大欲寸《オホホシキ》 九兒等哉《ココノノコラヤ》 蚊間毛而將居《カマケテヲラム》
 
愛スベキ翁ノ歌ヲ聞イテ、愚カナ九人ノ女ドモハ、皆〔傍線〕感心シテヰマセウ。
 
○端寸八爲《ハシキヤシ》――愛《ハ》しきにヤとシとが添へである。次の老夫《オキナ》につづいて、愛すべき翁の意。○大欲寸《オホホシキ》――心のはれないこと、景色の曇つてゐることなどに用ゐるが、ここは愚かなといふ意である。○蚊間毛而將居《カマケテヲラム》――カマケは感ずる。感心してをらうか。貴方のお言葉に從はうといふのであらう。古義の今村樂の説はカを發語とシ、負けと解してゐる。
〔評〕 翁の歌によつて愚かなる我等も、道理を悟つて感服してゐようといふのである。以下の九歌の前置のやうなもので、娘子の内の一人が和へた歌になつてゐるが、もとより前の長歌と同一人の作である。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
3795 恥をしぬび 辱をもだして 事もなく 物言はぬ先に 我は依りなむ
 
辱尾忍《ハヂヲシヌビ》 辱尾黙《ハヂヲモダシテ》 無事《コトモナク》 物不言先丹《モノイハヌサキニ》 我者將依《ワレハヨリナム》
 
(25)私ハ翁ニ説法サレテ〔九字傍線〕辱ヲ受ケテモ〔四字傍線〕忍ビ、辱ヲ受ケテモ〔四字傍線〕黙ツテ、穩ヤカニ、物モ言ハナイウチニ、私ハ翁ニ依リマセウ。
 
○辱尾忍《ハヂヲシヌビ》――辱とは老人から説明せられたことをいふ。老人の言葉に忍んで從つて。○辱尾黙《ハヂヲモダシテ》――老人の言葉に黙つて從つて。○無事《コトモナク》――無事に。穩やかに。○物不言先丹《モノイハヌサキニ》――物を言はない内に。物を言はないで。○我者將依《ワレハヨリナム》――我は老人に依り從はうといふのである。
〔評〕 辱尾忍辱尾黙《ハヂヲシヌビハヂヲモダシテ》といふのは漢文式の句調に聞える。契沖はこの句を班昭の女誡七篇の第一に「謙謙恭敬先v人後v己、有v善莫(レ)v名(ツクル)、有v惡莫v辭、忍v辱含v垢《ハチ》常若2畏懼1是謂2卑弱下1v人也」とあるに據つたのであらうといつてゐるのは、蓋し當つてゐる。
 
3796 否も諾も 欲するまにま 赦すべき かたちは見ゆや 我も依りなむ
 
否藻諾藻《イナモウモ》 隨欲《ホリスルマニマ》 可赦《ユルスベキ》 貌所見哉《カタチハミユヤ》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
他ノ女等ハ〔五字傍線〕承知トモ不承知トモ、翁ノ〔二字傍線〕思フ通リニ許シテ從フヤウナ樣子ガ見エルヨ。私モ亦翁ノ言葉ニ〔六字傍線〕從ヒマセウ。
 
○否藻諾藻《イナモウモ》――承諾も不承諾も。諾は代匠記精撰本にセ、久老はヲとよんでゐる。いづれも根據ある説であるが、舊訓も誤ではないから、それに從つてウと訓むことにしよう。○貌所見哉《カタチハミユヤ》――宣長はカタチミエメヤ、古義はカタチハミエヤトある。カタチハミユヤがよいやうだ。樣子が見えるよ。顔をしてゐるよの意。
〔評〕 前の歌に我者將依《ワレハヨリナム》とあるにならつて、我藻將依《ワレモヨリナム》といつてゐる。以下四首も同樣である。
 
3797 死も生も 同じ心と 結びてし 友やたがはむ 我も依りなむ
 
死藻生藻《シニモイキモ》 同心跡《オナジココロト》 結而爲《ムスビテシ》 友八違《トモヤタガハム》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
(26)死ヌノモ生キルノモ、同ジ心ト約束シタ九人ノ〔三字傍線〕友達ニ、私ハ〔二字傍線〕、背キマセウヤ。同ジ行動ヲトリマセウ〔十字傍線〕。私モ翁ニ〔二字傍線〕從ヒマセウ。
 
○死藻生藻同心跡《シニモイキモオナジココロト》――生をも死をも共にし、如何なる場合も同じ心でやらうと約束した意。○友八違《トモヤタガハム》――友にや違はむ、違ひはせじの意。舊訓トモハタガハジとあり、代匠記初稿本、八の下に不の字、脱とし、略解は八は不の誤として、トモニタガハズと訓んでゐる。代匠記初稿本の一訓による。
〔評〕 死藻生藻同心《シニモイキモオナジココロ》といふのは、九人の仙女の盟としてはあまりに大袈裟で、言葉が強烈すぎる。これも漢文熟語などから來たものであらう。
 
3798 何せむと たがひは居らむ 否も諾も 友のなみなみ 我も依りなむ
 
何爲迹《ナニセムト》 違將居《タガヒハヲラム》 否藻諾藻《イナモウモ》 友之波波《トモノナミナミ》 我裳將依《ワレモヨリナム》五
 
ドウシテ私ハ、私一人他ノ友ダチト〔私ハ〜傍線〕違ツタ事ヲシマセウカ。承知モ不承知モ九人ノ〔三字傍線〕友達ト一緒デス。私モ翁ニ〔二字傍線〕從ヒマセウ。
 
○何爲迹《ナニセムト》――何としようとて。宣長は迹は邇《ニ》の誤かと言つてゐるが、さうではあるまい。○友之岐波《トモノナミナミ》――友の並々。友と同じやうに。この句で意は切れてゐる。
〔評〕 前の二歌を混淆して、一首に纒めたやうな歌である。
 
3799 豈もあらぬ おのが身のから ひとの子の 言も盡さじ 我も依りなむ。
 
豈藻不在《アニモアラヌ》 自身之柄《オノガミノカラ》 人子之《ヒトノコノ》 事藻不盡《コトモツクサジ》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
何ノ能〔二字傍線〕モナイ私ガ人ト違ツタコトヲシテ〔私ガ〜傍線〕、私ノ爲ニ他人ニ言葉ヲ費サセル事ハスマイ。私モ翁ニ〔二字傍線〕從ヒマセウ。
 
(27)○豈藻不在《アニモアラヌ》――豈は何に同じ。何の能力もない。○自身之柄《オノガミノカラ》――吾が身の故に。○人子之《ヒトノコノ》――人の子は他の娘子らをいふ。古義にヒトノコシとあるは從ひ難い。
〔評〕 初二句に娘子の謙遜な態度が見えてゐるが、却つてこの氣分に似合はしくない。
 
3800 はた薄 穗にはな出でと 思ひたる 心は知らゆ 我も依りなむ
 
者田爲爲寸《ハタススキ》 穗庭莫出《ホニハナイデト》 思而有《オモヒタル》 情者所知《ココロハシラユ》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
私ガ〔二字傍線〕(者田爲爲寸)外ニハ表ハレルナト思ツテ、心ノ中デ包ンデ〔七字傍線〕ヰル考ガ、翁ニ〔二字傍線〕知ラレタ。コノ上ハ兎角云ハズニ〔十字傍線〕、私モ翁ニ從ヒマセウ。
 
○者田爲爲寸《ハタススキ》――枕詞。穗とつづく意は明らかである。○穩庭莫出《ホニハナイデト》――舊訓ホニハイヅナトあるのもよいが、文字通りに訓むことにする。略解にホニハイデジトと改めたのは、却つて面白くない。○思而有《オモヒタル》――考にシヌビタルと訓んだのはよくない。それによつて略解・古義に忍の意に解したのは誤つてゐる。○情者所知《ココロハシラユ》――舊訓ココロハシレリを、略解にココロハシレツと改めたのは、文字と離れ過ぎる。吾が心が翁に知られたといふのだ。
〔評〕 翁に心中を見拔かれて、冑を脱いだ貌である。袖中抄に載つてゐる。
 
3801 住の江の 岸野のはりに にほふれど 染はぬ我や にほひて居らむ
 
墨之江之《スミノエノ》 岸野之榛丹《キシヌノハリニ》 丹穗所經迹《ニホフレド》 丹穗葉寐我八《ニホハヌワレ》 丹穗氷而將居《ニホヒテヲラム》
 
墨ノ江ノ岸ノ野ニ生エテ居ル、萩ヲ摺ツテ着物ヲ〔七字傍線〕染メルケレドモ、中々染マラナイヤウニ、人ノ言フコトニ從ハナイ〔ヤウ〜傍線〕私モ、翁ノ言葉ニハ〔六字傍線〕從ツテ居リマセウカ。
 
○岸野之榛丹《キシヌノハリニ》――久老は岸之野榛丹の誤で、キシノヌハリニであらうと言つてゐるが、改めるには及ばない。住(28)吉の岸につづいた野の萩であらう。○丹穗所經迹《ニホフレド》――染めるけれど。○丹穗葉寐我八《ニホハヌワレヤ》――染まらない私が。染まらぬとは吾が心の人に從はぬことを言つたのである。ヤは疑問の助詞。輕く用ゐてある。○丹穗氷而將居《ニホヒテヲラム》――染まつてゐませうか。翁の言葉のままに從ふことを、ニホフと言つたのである。
〔評〕 衣服を染める住吉の岸野の榛を以て譬喩として、吾が心のかたくなぶりを述べてゐる。ニホフといふ語が三句以下に三囘繰返されてゐるのは、作者がわざと試みた技巧である。
 
3802 春の野の 下草靡き 我も依り にほひ依りなむ 友のまにまに
 
春之野乃《ハルノヌノ》 下草靡《シタクサナビキ》 我藻依《ワレモヨリ》 丹穗氷因將《ニホヒヨリナム》 友之隨意《トモノマニマニ》
 
春ノ野ノ木ノ下ニ生エテ居ル草ガ柔カク〔三字傍線〕靡クヤウニ、私モ友達ト同ジヤウニ、翁ニ〔十字傍線〕靡イテ從ヒマセウ。
 
○我藻依《ワレモヨリ》――前に澤山あつたワレモヨリナムと同語を用ゐてゐる。○丹穗氷因將《ニホヒヨリナム》――ニホヒは前の歌のものと同じで、從ひ付く意になつてゐる。
〔評〕 柔かい春の野の下草を譬喩として、靡く姿をあらはしてゐるのはよい。以上の九首は、仙女が各一首づつ作つたやうになつてゐるが、もとより同一人の手になるもので、しかも前の長歌の作者と同じである。九首が總べて、翁の言葉を受入れて從ふ意のみを詠んでゐるのは物足りない。しかも序では、非慮之外偶逢2神仙1と記してあるのに、九人の女の歌には少しも神仙らしい趣がない。これは作者が、常住であり得ない世の姿を説かうとする目的に出たかも知れないが、折角の構想が龍頭蛇尾に終つたやうにも思はれる。
 
昔者有(リ)3壯士(ト)與2美女1也、【姓名未詳】不(シテ)v告(ゲ)2二親(ニ)1、竊(ニ)爲(シキ)2交接《マジハリヲ》1於v時娘子之意、欲(ス)2親(ニ)令(メムト)1v知(ラ)、因(リテ)作(リ)2歌詠(ヲ)1送(リ)2與(フ)其(ノ)夫(ニ)1歌(ニ)曰(ク)
 
舊本、夫を父に誤つてゐる。類聚古集その他の古寫本、多く夫に作るに從ふべきである。
 
3803 こもりのみ 戀ふれば苦し 山の端ゆ 出で來る月の あらはさば如何に
 
(29)隱耳《コモリノミ》 戀者辛苦《コフレバクルシ》 山葉從《ヤマノハユ》 出來月之《イデクルツキノ》 顯者如何《アラハサバイカニ》
 
人ニ隱シテバカリ戀シテヰルノハ、苦シイモノデス。デスカラ〔八字傍線〕山ノ端カラ出テ來ル月ガ光ヲアラハス〔七字傍線〕ヤウニ、二人ノ間柄ヲ兩親ニ〔九字傍線〕告ゲテハドウデセウカ。
 
○山葉從出來月之《ヤマノハユイデクルツキノ》――山の端から出て來る月の如く。古義には序詞と見てゐるが、譬喩とすべきであらう。
〔評〕 平凡な歌デアル。卷十の隱耳戀者苦瞿麥之《コモリノミコフレバクルシナデシコノ》(一九九二)と初二句を等しくし、結句は卷七|平城有人之待問者如何《ナラナルヒトノマチトハバイカニ》(一二一五)・神乎齊禮而船出爲者如何《カミヲイハヒテフナデセバイカニ》(一二三二)などに似てゐる。
 
右或(ハ)曰(ヘリ)、男(ニ)有(リト)2答歌1者、未v得2探(リ)求(メ)1也
 
未v得2探求1の一語、編者の態度がほの見えてゐるやうに思はれる。
 
昔者有(リ)2壯士1、新(ニ)成(シテ)2婚禮(ヲ)1也、未(ダ)v經2幾時(モ)1、忽(ニ)爲(リテ)2驛使(ト)1、被(ル)v遣(ハ)2遠境(ニ)1、公事有(リ)v限、會(フ)期無(シ)v日、於v是娘子、感慟悽愴(シテ)、沈2臥(ス)疾※[やまいだれ/尓](ニ)1。累年之後、壯士還(リ)來(テ)、覆命既(ニ)了(ル)、乃(チ)詣(ヒテ)相視(ル)、而娘子之姿容、疲羸甚(ダ)異(ニシテ)、言語哽咽(ス)、于v時壯士、哀嘆流(シテ)v涙(ヲ)裁(リ)v歌(ヲ)口號(ム)、其(ノ)歌一首
 
○驛使――驛馬に乘つて急行する使者。官用によつて使に行く者である。ハユマヅカヒと訓む。古事記中卷に爾貢2上驛使《カレハユマヅカヒヲタテマツリテ》1とある。○疾※[やまいだれ/尓]――※[やまいだれ/尓]は西本願寺本・温故堂本などチムと振假名し(30)てゐるから、※[病垂/火]と何字で熱ある病。孟子に「恒存2乎※[病垂/火]疾1」禮記に「疾※[病垂/火]不v作」とある。○覆命――歸つて來ての報告。○詣――行きて。○哽咽――むせび泣き。すすり泣き。○口號――口ずさむ。
 
3804 斯くのみに ありけるものを 猪名川の 沖を深めて 吾が念へりける
 
如是耳爾《カクノミニ》 有家流物乎《アリケルモノヲ》 猪名川之《ヰナガハノ》 奧乎深目而《オキヲフカメテ》 吾念有來《ワガモヘリケル》
 
コノヤウニ私ヲ待ツテ戀ニ痩セテ死ニサウニ〔私ヲ〜傍線〕ナツテヰタノニ、ソレヲ知ラズニ〔七字傍線〕(猪名川之)行先長ク後マデ逢ハウ〔六字傍線〕ト私ガ思ツテヰタヨ。可愛サウナコトヲシタ〔可愛〜傍線〕。
 
○猪名川之《ヰナガハノ》――枕詞。奥につづく。猪名川は卷十一に居名山響爾行水乃《ヰナヤマトヨニユクミヅノ》(二七〇八)とある河で、即ち攝津の池田川である。○奧乎深目而《オキヲフカメテ》――岸から離れた中流を奧《オキ》といふ。その奧《オキ》を行末の意に轉用してゐる。奥を深めては行末長くの意。
〔評〕 猪名川を枕詞としてあるのは、攝津國の出來事だからであらう。卷十二の如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルキミヲキヌナラバシタニモキムトアガモヘリケル》(二九六四)と同型。
 
娘子臥(シテ)聞(キ)2夫君之歌(ヲ)1從v枕擧(ゲ)v頭(ヲ)應(ジテ)v聲(ニ)和(ヘシ)歌一首
 
3805 烏玉の 黒髪ぬれて 沫雪の 降るにや來ます ここだ戀ふれば
 
烏玉之《ヌバタマノ》 黒髪所沾而《クロカミヌレテ》 沫雪之《アワユキノ》 零也來座《フルニヤキマス》 幾許戀者《ココダコフレバ》
 
 
私ガカウシテ貴方ヲ〔九字傍線〕大層戀シガツテヰルト、ソノ心ガ、屆イタモノト見エテ貴方ハ〔ソノ〜傍線〕(烏玉之)黒髪ヲ濡シナガラ、雪ノ降ル中ヲ、カマハズ〔四字傍線〕オイデナサツタノデセウ。オ氣ノ毒ナ事デス〔八字傍線〕。
 
(31)○烏玉之《ヌバタマノ》――枕詞、黒とつづく。○沫雪之《アワユキノ》――沫雪は沫のやうな雪。雪は沫の如く白く消え易いから、沫雪といふ。
〔評〕 左註にある如く、夫が雪中に訪ねて來たので、自分の思ふ心の屆いたのを喜んだ歌であるが、前の歌の答歌としては、しつくり合はないやうに思はれる。
 
今案(ズルニ)此(ノ)歌(ハ)其(ノ)夫被(リテ)v使(ヲ)既(ニ)經2累載(ヲ)1而當(リテ)2還時(ニ)1、雪落(レル)之冬也、因(リテ)v斯(ニ)娘子作(レル)2此(ノ)沫雪之句(ヲ)1歟
 
この註のやうに見なければ、右の歌はこの話に適應しない。
 
3806 事しあらば 小泊瀬山の 石城にも こもらば共に な思ひ吾背
 
事之有者《コトシアラバ》 小泊瀬山乃《ヲハツセヤマノ》 石城爾母《イハキニモ》 隱者共爾《コモラバトモニ》 莫思吾背《ナオモヒワガセ》
 
私ト貴方トノ間ガ親ニ知レテ、私ノ親ニ叱ラレルカト貴方ハ心配シテイラツシヤルサウダガ、ソンナニ、躊躇ナサルコトハアリマセン〔私ト〜傍線〕。マサカノ場合ニハ、小泊瀬山ノ墓ノ下ニデモ、葬ラレルナラバ貴方ト一緒ニト思ツテヰマス〔七字傍線〕。御心配ナサルナ、吾ガ夫ヨ。
 
○事之有者《コトシアラバ》――萬一大變なことがあるならば。卷四に事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《コトシアラバヒニモミヅニモワレナケナクニ》(五〇六)とある。○小泊瀬山乃石城爾母《ヲハツセヤマノイハキニモ》――小泊瀬山の小は接頭語であらう。石城はここでは墓のことを言ふらしい。泊瀬山は上代の墓所であつた。天智天皇紀に「憂2恤萬民1之、故不v起2石槨《イシキ》之役1」と見える。
〔評〕 死なば諸共といふ女の強い心意氣を示してゐる。この歌、常陸風土記新治郡の條に「自郡以東五十里在2笠間村1越通道路稱2葦穗山1古老曰、古有2山賊1名稱2油置賣命1今社中在2石屋1俗歌曰、許智多鷄波乎婆頭勢夜麻(32)能伊波歸爾母爲弖許母良奈牟奈古非敍和支母《コチタケバヲハツセヤマノイハキニモシテコモラナムナコヒソワギモ》」とある同歌の異傳といつてよい。大和の民謠が轉じて、常陸の葦穗地方に謠はれたものか。或は乎婆頭勢夜麻《ヲハツセヤマ》は普通名詞で墓所の山の意かも知れない。
 
右傳(ヘ)云(フ)時(ニ)有(リ)2女子1、不(シテ)v知(ラセ)2父母(ニ)1、竊(ニ)接(ス)2壯士(ニ)1也、壯士|※[立心偏+束]2※[立心偏+易]《シヨウテキシテ》其親(ノ)呵嘖(ヲ)1、稍(ヤ)有(リ)2猶預之意1、因(リテ)v此(ニ)娘子、裁2作(シテ)斯謌(ヲ)1、贈2與(フル)其夫(ニ)1也
 
○※[立心偏+束]2※[立心偏+易]《シヨウテキ》――恐れ慎む。○呵嘖――叱責。古義はコロビと訓んでゐる。
 
3807 安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 淺き心を 吾が思はなくに
 
安積香山《アサカヤマ》 影副所見《カゲサヘミユル》 山井之《ヤマノヰノ》 淺心乎《アサキココロヲ》 吾念莫國《ワガモハナクニ》
 
貴方樣ハソンナニオ怒リナサイマスナ〔貴方〜傍線〕。私共ハ貴方サマニ對シテ(安積香山影副所見山井之)淺イ心ヲ持ツテハヲリマセヌ。オ怒リヲ解イテ下サイマシ〔オ怒〜傍線〕。
 
○安積香山《アサカヤマ》――陸奥國安積郡にある山。その所在について二説がある。一は日和田町即ち今の山之井村で、その町はづれ東方に安積山と稱する小丘あり、又山の井清水の跡と稱するものも殘つてゐる。一は片平村なる額取山とするもので、其所にも山之井の古跡あり、又釆女の墓と稱するものもある。この説いづれが正しいか、遽かに定め難いが、今の郡山町は上代の郡家で、驛家でもあつたと思はれるが、日和田は郡山(蘆屋驛)と本宮(安達驛)との中(33)間で驛路に添うてゐたから、歌枕として取られる可能性が多いやうに思はれる。これに反して片平は郡山の西北三里を距て、驛路から離れてゐる。なほ觀聞志・囘國雜記・奧の細道・大日本地名辭書などに記すところも前者としてある。奥の細道には「須賀川を出て七里計、檜皮《ヒハダ》の宿を離れてあさか山あり。路より近し。云々」と記してある。以上の理由から日和田町所在のものを以て、安積山の舊趾とするのが穩やかであらう。寫眞は日和田なる安積山。○影副所見《カゲサヘミユル》――影までが映つて見える。影とは木影である。安積山の影ではない。水の清澄なことをあらはしてゐる。卷十三|天雲之影塞所見隱來笶長谷之河者《アマクモノカゲサヘミユルコモリクノハツセノカハハ》(三二二五)とある。○山井之《ヤマノヰノ》――山の井は山の中に湧く清水を湛へたもの。掘井ではなく淺いから、ここまでの三句を淺さの序詞としてゐる。○淺心乎吾念莫國《アサキココロヲワガモハナクニ》――淺い心をもつてあなたを思つてはゐないよの意。心を思ふといふのが古い型である。卷十五に家之伎許己呂乎安我毛波奈久爾《ケシキココロヲアガモハナクニ》(三七七五)とある。ナクニは無いよと、輕い詠歎の意をもたせて言ひ切る詞。
〔評〕 この歌は古今集の序にあるやうに、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」と相並んで、中世以來、歌の父母のやうで、手習ふ人の(34)始めにしたものである。附近の名所を詠み込んだ釆女の機智で、王の心が和らいだといふ傳説が然らしめたものであらう。上品な作ではあるが、歌としてはさして秀でてゐるとも思はれない。和歌童蒙抄・八雲御抄などに載せてある。大和物語には全く異つた説話に附けて面白く書いてある。
 
右歌(ハ)傳(ヘ)云(フ)葛城王遣(サレシ)2于陸奧國(ニ)1之時、國司祗承緩怠異(ニ)甚(シ)於時(ニ)王(ノ)意不v悦(ビ)怒色顯(ル)v面(ニ)、雖3設(クト)2飲(ミ)饌《アヘヲ》1不2肯(ヘテ)宴樂(セ)1、於v是有(リ)2前(ノ)采女1、風流(ノ)娘子(ナリ)、左手(ニ)捧(ゲ)v觴(ヲ)、右(ノ)手(ニ)持(チ)v水(ヲ)、撃(チ)2之王膝(ヲ)1、而詠(ス)2此歌(ヲ)1爾《ココニ》乃(チ)王(ノ)意解(ケ)悦(ビテ)、樂飲(ムコト)終日(ナリキ)、
 
○葛城王――誰ともわからない。伊豫國風土記に、「湯郡、天皇等於湯幸行降坐五度也……以2上宮聖徳皇子1爲2一度1及侍(ハ)高麗慧慈僧、葛城王等也」とある、葛城王とすれば聖徳太子の時代である。天武天皇紀に「八年秋七月己卯朔乙未四位葛城王卒。」とあるのはもとより別人であらう。なほ一人は左大臣橘諸兄が、皇族であつた時の名で、卷六(一〇〇九)に、從三位葛城王とある人である。契沖と眞淵とは、天武天皇紀に見える葛城王であらうと言つてゐるが、諸兄と見る學者もある。この卷に諸兄の弟、佐爲王についての歌が載つてゐるから、この葛城王を諸兄と見る説も成立つわけである。併し陸奥は大化の國郡制定の際に置かれたもので、養老二年その、石城・標葉・行方・宇太・曰理及び常陸の菊多を割いて、石城《イハキ》國を置き、白河・石背・會津・安積・信夫を割いて石背《イハセ》國を置いた。それが神龜年中に廢せられて、舊の如く陸奥に編入せられたのであるから、右の文を嚴密に解すれば、この事件は養老二年以前か、又は神龜以後諸兄改名の天平八年までの間のこととなる。さてここに國司とあるのは、廣義では守介掾目等の總稱であるが、ここで王に應對してゐるのは長官らしく思はれる。さうして事件は國司の居住地、即ち國衙の所在地で行はれたものと考へねばなるまい。さうすると、陸奥の首都でなければならぬが、天平勝寶の頃まで、國府は陸前名取郡の武隈にあつたとのことであるから、安積は國司の居るところではない。尤(35)も國守が王を迎へる爲に安積まで來て居たとも考へられないことはあるまいが、この文ではさうは見られない。安積は國造時代の阿尺の國であつたのを、大化國郡制定の際、陸奥國に編せられ、ここに國府を置かれたのであるまいかと思はれる。安積に國府を置かれた記録は他にないが、最初ここにあつたものが、奥地の開拓につれて名取、多賀と進んで行つたことは想像し得ることである。安積に國府があつたものと見なければ、この文は解釋し難いものとなる。釆女は、古く仁徳天皇紀に見える。又孝徳天皇の大化二年正月の條には「凡釆女者貢2郡少領以上姉妹、及子女形容端正者1【從丁一人從女二人】以2一百戸1充2釆女一人之粮1庸布庸米皆准2仕丁1」とある。文武天皇の大寶二年四月壬子には「令d2筑紫七國及越後國1簡2點釆女兵衛1貢uv之、但陸奥國勿v貢、」と勅が出てゐる。これによると筑紫七國及び越後は從來釆女を出さなかつたのを、この時追加せられたのであるが、陸奥國勿貢とあるは、今まで奉つてゐたのをこの年から廢止せしめられたといふのか。然らばこの事件は大寶二年以前であらねばならぬ。諸兄の葛城王は和銅三年に始めて無位から從五位下を賜はつてゐるから、大寶年間はいまだ陸奥へ遣はされるやうな年齡ではなかつた。從つてこの葛城王は天武天皇紀に見えるお方とせねばならぬ。併し更に一歩を進めて考へると、右の續紀の文「陸奥國勿貢」は今まで釆女を貢としてゐたのを廢したのではなくて、從來貢しなかつた筑紫七國と越後とに貢を命じ給うた序を以て、陸奥國だけは從前の如く、兵衛と釆女とを貢するに及ばずと宣はせられたものと、解すべきもののやうに思はれる。當時の陸奥國の状態を想像すれば、采女を貢するまでには文化が進んでゐなかつたのではあるまいか。この見解にして許されるならば、ここの左註は全く事實を誤り傳へたものとせねばならぬ。併し一方から考へれば、この采女は陸奥から出たのではなく、いづれか他の國の出であつたが、謂はゆる遊行女婦となつてこの國に來て、宴席に侍つてゐたものと見ることも出來る。否この見方が最も正鵠を得てゐるのではあるまいか。ともかく葛城王は不明とすべきである。○祗承――謹しみ仕へること。古義はアヘシラフコトと訓んでゐる。○捧觴――盃をささげ。○持水――水を瓶に入れたのを持つたのであらう。水は下に味飯乎水爾釀成《ウマイヒヲミヅニカミナシ》(三八一〇)とあ(36)つて、酒と見る説もあるが、水に釀みなしとあるのは、水の中に入れて液體にしたといふやうな意で、祈年祭祝詞に〓閉高知〓腹滿雙※[氏/一]爾母爾母稱辭竟奉牟《ミカノヘタカシリミカノハラミテナラベテシルニモカヒニモタタヘゴトヲヘマツラム》とある汁と同樣であらう。水といつても直ちに酒の意にはなるまい。殊にこれは漢文であるから、水はどこまでも文字通りに見るべきであらう。本當の水でなくては、山の井が出て來ない。水の入つてゐる器を以て王の膝を撃つて、この歌を謠ひ、盃をさし、機嫌が直つたと見て酒を注いだのであらう。○其歌――類聚古集その他の古本に此歌とあるのがよい。〇解脱――これも類聚古集その他に解悦とある。然らば解け悦びてである。
 
3808 住の江の をづめに出でて うつつにも おの妻すらを 鏡と見つも
 
墨江之《スミノエノ》 小集樂爾出而《ヲスメニイデテ》 寤爾毛《ウツツニモ》 己妻尚乎《オノヅマスラヲ》 鏡登見津藻《カガミトミツモ》
 
住吉ノ小集樂《ヲヅメ》トイフ澤山人ノ集マル中ニ〔トイ〜傍線〕出テ、他ノ女ニ比ベテ見ルト吾ガ妻ハ格別美シイカラ夢デハナク〔他ノ〜傍線〕實際ニ自分ノ妻ナガラ、毎朝向フ〔四字傍線〕鏡ノヤウニ、懷カシク大切ニ〔七字傍線〕思ツタヨ。
 
○小集樂爾出而《ヲヅメニイデテ》――小集樂は舊訓ヲツメとあるが、袖中抄にこの歌をあげて、ここをヲヘラニイデテとし、註して、「をへらとは田舍者の出て集りで遊ぶを云ふとぞ。住吉には年毎に濱にてをへらひと云て遊ぶ事あり云々」とある。仙覺抄に或抄云として引用したのは、右の袖中抄の文である。これらによればヲヘラが古訓であらうが、これをヲヅメと改めたのも理のあることであらう。代匠記精撰本には「アソビニイデテとよむべきにや」とある。新考は「ヲスラとよむべきか。そのヲスラは元來邦語なるが、語源はヲシクラ(食座)か。さらば遊は本來ヲシクラアソビと謂ふべし云々」とあるが、根據が薄弱である。按ふにヲヅメのヲは接頭語で、ツメは集約《ツマリ》。集の字をツメと訓むことは物集《モツメ》などの如く今も行はれるところである。ここは人が集りて宴樂するのであるから、樂の字を添へて書いたのである。要するにヲヅメは天智天皇紀の童謠に于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》」云々とあるツメノアソビと同じで、※[女+燿の旁]歌などの如く、男女大勢集まり宴樂する行事があつたのである。○寤爾毛《ウツツニモ》――略解の宣長説は寤の上に阿の字脱とし、アサメニモであらうといひ、古義は寤の上に眞の字脱でマ(37)サメニモかとしてあるが、もとのままがよい。ウツツは現在。夢でもなく、慥かに。○鏡登見津藻《カガミトミツモ》――鏡と見たよ。鏡は上代人の大切なものとして、最も貴んだものである。鏡と見たとは鏡のやうに大切な貴いものとして見たといふので、吾が妻が衆に擢んでて貴く美しく見えたといふのである。
〔評〕 多くの女の中に、吾が妻の秀でて美しく見えたのを喜んだ歌。夢ならばともかく、實際にさう見えるとは我ながらをかしいと、自からそのお目出たさを認めつつも、自慢しないではゐられない男だ。ともかく美しい妻に首たけの田舍男の歌である。
 
右傳(ヘ)云(フ)、昔者鄙人(アリ)、【姓名未詳也】于時郷里(ノ)男女、衆集(ヒテ)野遊(ス)、是會集之中(ニ)有(リ)2鄙人(ノ)夫婦1、其(ノ)婦容姿端正、秀(ヅ)2於衆諸(ニ)1、乃(チ)彼(ノ)鄙人之意、彌増(シ)2愛(スル)v妻(ヲ)之情(ヲ)1、而作(リ)2斯歌(ヲ)1讃2嘆(スル)美貌(ヲ)1也、
 
昔者の下に有の字を脱せるかと略解は記してゐる。鄙人姓名未詳也の六字を、考は「後人のさかしらなり。撰者の何ぞ鄙人の名をとめん」といつてゐる。略解は小字に改めてゐる。次の例によると小字がよい。
 
3809 商かはり しらすとの御法 あらばこそ 吾が下衣 返し賜らめ
 
商變《アキカハリ》 領爲跡之御法《シラストノミノリ》 有者許曾《アラバコソ》 吾下衣《ワガシタゴロモ》 變賜米《カヘシタバラメ》
 
一度商賣シタ物ヲ、取引ヲ變更シテモヨイト云フ法律ガアルナラバコソ、私ガ差シ上ゲタコ〔七字傍線〕ノ着物ヲ御返シニナツテモヨイデセウ。ソンナ法律ハアリマセンカラ、私ガ上ゲタモノヲ御返シニナル筈ハアリマセヌ〔ソン〜傍線〕。
 
○商變《アキカハリ》――細井本にアキカヘリとあるのは、よくないであらう。代匠記精撰本に「落句にあはせて思ふにアキカヘシと讀べき歟」とあり。古義も同樣である。この句は代匠記精撰本に「既に物と價とを定て取交して後に(38)忽に變じで或は物をわろしとて、價を取返し、或は價を賤しとて物を取返すなり、」とあるやうに商賣の濟んだ後で、その取引を變更することであつて、どちらに訓んでも同じことである。むしろ舊訓が穩やかであらう。○領爲跡之御法《シラストノミノリ》――許すといふ法律。考はメセトノミノリ。宣長はアキカヘシメセトフミノリと訓むべしと言つてゐる。なほ「道別、さきに之は云の誤ならむと言へりき」と略解に見える。古義はシラセトノミノリと訓んでゐる。諸説があるが、舊訓のままがよいやうである。○變賜米《カヘシタバラメ》――タマハメでもよいが、タバラメの方が古語であらう。
〔評〕 左註によると男に捨てられて、以前贈つた形見の下衣を返却された女の歌である。賣買終了後の、取引變更自由といふ法律があるならばといつたのは、洵に珍らしい材料である。全體が理窟になつてゐるが、材料が珍らしいので、歌が面白くなつてゐる。
 
右傳(ヘ)云(フ)、時《ムカシ》有(リ)2所v幸娘子1也、【姓名未v詳】寵薄(レタル)之後、還(シ)2賜(ヒキ)寄物(ヲ)1【俗云可多美】於v是娘子怨恨(ミテ)聊(カ)作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1獻上(リキ)
 
この文の書き方で見ると,男は貴人である。法令の制定運用にたづさはるやうな高位高官の人に向つて、法律を云々してゐるので、益々この歌が面白くなる。
 
3810 味飯を 水に釀み成し 吾が待ちし かひは曾てなし 直にしあらねば
 
味飯乎《ウマイヒヲ》 水爾釀成《ミヅニカミナシ》 吾待之《ワガマチシ》 代者曾無《カヒハカツテナシ》 直爾之不有者《タダニシアラネバ》
 
オイシイ飯ヲ、酒ニ釀シテ、貫方ノ御イデヲ〔七字傍線〕待ツテヰマシタガ、コンナ贈物ヲ下サツテ、貴方ガ〔コン〜傍線〕御自身デ御イデニナラ〔六字傍線〕ナイカラ、ソノ甲斐ハ全クアリマセヌ。
 
○味飯乎《ウマイヒヲ》――味飯は舊訓アヂイヒとあるが、味はアヂの訓以外に味酒《ウマサケ》(一七)・味凝《ウマゴリ》(一六二)・味宿者不寢哉《ウマイハネズヤ》(二九六三)など(39)の如くウマの用例も多いから、味酒《ウマサケ》にならつて、ウマイヒと訓むべきであらう。味のよい酒を。○水爾釀成《ミヅニカミナシ》――水は汁、即ち酒。祈年祭祝詞に、〓高知〓腹滿雙※[氏/一]爾母爾母稱辭竟奉《ミカノヘタカシリミカノハラミテナラベテシルニモカヒニモタタヘゴトヲヘマツラム》とある汁と同じである。釀はカモスに同じ、口中に米粟などを入れて、噛んで唾液に混じ、壺に蓄へて醗酵せしめるのが、原始的の釀造法であつた。○吾待之《ワガマチシ》――私が待つた。謂はゆる待酒を釀したのである。卷四|爲君釀之待酒安野爾獨哉將飲友無二思手《キミガタメカミシマチザケヤスノヌニヒトリヤノマムトモナシニシテ》(五五五)とある。○代者曾無《カヒハカツテナシ》――代は舊訓ヨとあるのでは意が通じない。この文字は集中の用例を見ると、ヨ・シロ・カヘ・テ・デなどであるが、ここはカハリの約でカヒに用ゐたのであらう。略解はこの句をシルシハゾナキと訓んでゐるけれども、代の字をシルシとよんだ例もなく、その理由も見出し難い。曾はカツテ、常者曾《ツネハカツテ》(一〇六九)・曾木不殖《カツテキウヱジ》(一九四六)名者曾不告《ナハカツテノラジ》(三〇八〇)などに傚つてカツテと訓むがよい。總べて、全くの意。○直爾之不有者《タダニシアラネバ》――左註に正身不v來とあるのと同じで、タダは本人自身をいふ。左註にあるやうに、男が自身で來ないで、※[果/衣]物を贈つて來たからである。
〔評〕 待酒までも釀して、男を待つてゐたのが、裏切られたことを恨んだ歌。調子がどつしりとして、時代が稍古いやうである。
 
右傳(ヘ)云(フ)昔有(リ)2娘子1也、相2別(レテ)其夫(ニ)1、望(ミ)戀(フルコト)經(タリ)v年(ヲ)爾時、夫君更(ニ)娶(リテ)2他妻(ヲ)1、正身不v來(ラ)、徒(ニ)贈(リキ)2※[果/衣]物(ヲ)1、因(リテ)v此(ニ)娘子作(リ)2此(ノ)恨(ノ)歌(ヲ)1、還(シ)2酬(ユル)之(ヲ)1也、
 
正身は古義にミヅカラと訓んでゐるのは意は當つてゐる。併し源氏物語(例へば帚木に「さればよと心おごりするに、さうじみ〔四字傍点〕はなし」とある)などに、サウジミといふ語が俗語として用ゐられたのを見ると、既にこの頃から音讀してゐたものかも知れない。
 
戀(フル)2夫君(ヲ)1歌一首并短歌
 
3811 左丹づらふ 君が御言と 玉梓の 使も來ねば 憶ひ病む 吾が身一つぞ ちはやぶる 神にもな負せ 卜部坐せ 龜もな燒きそ 戀しくに 痛き吾が身ぞ いちじろく 身に染みとほり 村肝の 心碎けて 死なむ命 俄になりぬ 今更に 君か吾を喚ぶ たらちねの 母の命か 百足らず 八十の衢に 夕占にも 卜にもぞ問ふ 死ぬべき吾が故
 
(40)左耳通良布《サニヅラフ》 君之三言等《キミガミコトト》 玉梓乃《タマヅサノ》 使毛不來者《ツカヒモコネバ》 憶病《オモヒヤム》 吾身一曾《ワガミヒトツゾ》 千磐破《チハヤブル》 神爾毛莫負《カミニモナオホセ》 卜部座《ウラベマセ》 龜毛莫燒曾《カメモナヤキソ》 戀之久爾《コヒシクニ》 痛吾身曾《イタキワガミゾ》 伊知白苦《イチジロク》 身爾染保里《ミニシミトホリ》 村肝乃《ムラキモノ》 心碎而《ココロクダケテ》 將死命《シナムイノチ》 爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》 今更《イマサラニ》 君可吾乎喚《キミカワヲヨブ》 足千根乃《タラチネノ》 母之御事歟《ハハノミコトカ》 百不足《モモタラズ》 八十乃衢爾《ヤソノチマタニ》 夕占爾毛《ユフケニモ》 卜爾毛曾問《ウラニモゾトフ》 應死吾之故《シヌベキワガユヱ》
 
美シイナツカシイ〔五字傍線〕貴方ノ御便リダト言ツテ、(玉梓乃)使モ來ナイカラ、自分一人デ思ヒ惱ンデ居ル私デスヨ。(千磐披)神樣ノ祟トシテハイケマセンヨ。又病氣ノ理由ヲタヅネル爲ニ〔又病〜傍線〕占ヲスル者ヲ頼ンデ龜ノ甲〔二字傍線〕ヲ燒イテ、占ハシテ〔四字傍線〕ハイケマセンヨ。戀ノ爲ニカウシテ〔四字傍線〕惱ンデヰル私デスヨ。誰ガ見テモ分ルヤウニ瘠セテ、辛サガ〔六字傍線〕身ニ滲ミ透ツテ、(村肝乃)心ガ亂レテ死ヌ命ガ忽チ迫ツテ來マシタ。今息ヲ引キ取ラウトスル私ノ枕下ヘ來テ〔今息〜傍線〕今更、私ノ名ヲ呼ブノハ貴方デスカ。ソレトモ〔四字傍線〕(足千根乃)母上樣デスカ。モウコレデ、戀ノ爲ニ〔九字傍線〕死ヌベキ私ダノニ、皆サンハ〔四字傍線〕(百不足)方々ノ町々デ、夕方ノ辻占ヲシタリ、又ハ〔二字傍線〕ウラナヒヲナサルヨ。何モ役ニ立タナイノニ〔十字傍線〕。
 
○左耳通良布《サニヅラフ》――色の赤く美しいことを褒める言葉で、ここは男の顔を形容してゐる。枕詞とのみは見られない。○君之三言等《キミガミコトト》――君が御言葉なりとての意。○玉梓乃《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。二〇七參照。○吾身一曾《ワガミヒトツゾ》――上からつづいて、吾が身一つに思ひ惱む我なるぞの意。一を衍とする説はいけない。○千磐破《チハヤブル》――枕詞。神とつづく。一〇一參照。○神爾毛莫負《カミニモナオホセ》――神の業と言ひ負せるな。神の祟などと言ふな。皆自分の心からの戀病だといふのである。○卜部座《ウラベマセ》――舊訓ウラベスヱとある。庭はマセの用例が多い上に、ここは敬語の方が當り(41)さうであるから、マセと訓んで置かう。卜部は卜占を職とする部族。この句は卜部を招いての意。次の句につづいてゐる。○龜毛莫燒曾《カメモナヤキソ》――龜を燒くな。龜を燒くとは、龜の甲を燒いて、あらはれた形によつて吉凶を判斷する方法。支那から渡來したものである。伴信友の正卜考には、もと對馬龜卜口授から採つたといふ龜卜の圖が載せてあるが、必ずしも上代の俤を傳へるとは考へられない。○戀之久爾《コヒシクニ》――戀しいので。古義はコホシクニと訓んでゐる。○痛吾身曾《イタキワガミゾ》――苦しみ病む我なるぞの意。○伊知白苦《イチジロク》――はつきりと誰が目にも明らかに見えるやうに。要するに瘠せたことである。○身爾染登保里《ミニシミトホリ》――身に沁み通りは、戀しさが骨身にしみ透ること。舊本に登の字が無いのは脱ちたのであらう。代匠記説によつて補つた。○村肝乃《ムラキモノ》――枕詞。心につづく。五參照。○心碎《ココロクダケテ》而――心が碎けるとは、彼を思ひ是を思つて、種々に煩悶すること。○爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》――危篤になつた。○君可吾乎喚《キミカワヲヨブ》――君が我を喚ぶか。○足千根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四參照。○母之御事歟《ハハノミコトカ》――御事《ミコト》は敬稱。母の命なるかの意。○百不足《モモタラズ》――枕詞。八十とつづく。○夕占爾毛《ユフケニモ》――夕占は夕暮に行ふ占。八十の衢の夕占は即ち辻占である。○卜爾毛曾問《ウラニモゾトフ》――この卜は一般的に言ふのであるが、主として龜卜などをさしてゐるやうだ。新考は曾を莫の誤として、ウラニモナトヒと訓んでゐる。○應死吾之故《シヌベキワガユヱ》――死ぬべき我なるにの意。
〔評〕 死に臨んで夫を戀しく思つて詠んだ歌としてある。今更君可吾乎喚足千根乃母之御事歟《イマサラニキミカワヲヨブタラチネノハハノミコトカ》のあたりは、人の同情を呼ぶやうな悲しい言葉である。併し危篤の状態に陷つてゐる人にして、かくの如き整然たる長歌を詠じ得るであらうか。何人かの製作が本となつで、左註のやうな説話が後から出來たものであらう。
 
反歌
 
3812 卜部をも 八十の衢も 占問へど 君をあひ見む たどき知らずも
 
卜部乎毛《ウラベヲモ》 八十乃衢毛《ヤソノチマタモ》 占雖問《ウラトヘド》 君乎相見《キミヲアヒミム》 多時不知毛《タドキシラズモ》
 
(42)陰陽師ヲ招イタリ、方々ノ町々デ辻占ヲシテモ、病氣ガ直リサウナ兆ガナイカラ〔病氣〜傍線〕、貴方ト御目ニカカル方法ガ分リマセヌヨ。悲シウゴザイマス〔八字傍線〕。
 
○卜部乎毛《ウラベヲモ》――長歌中にあつた卜部座と同じで、卜部をも聘して龜卜をしたといふのである。○八十乃衢毛占雖問《ヤソノチマタモウラトヘド》――八十の衢に辻占をもやつたがの意。
〔評〕 男に逢ひたさに、曾て龜卜をしたり辻占をしたといふので、長歌に述べてないことである。病になつての言葉としては適切でない。右の長歌の反歌として適當しない感がある。袖中抄に載せてゐる。
 
或本反歌曰
 
3813 吾が命は 惜しくもあらず さ丹づらふ 君に依りてぞ 長く欲りせし
 
吾命者《ワガイノチハ》 惜雲不有《ヲシクモアラズ》 散追良布《サニヅラフ》 君爾依而曾《キミニヨリテゾ》 長欲爲《ナガクホリセシ》
 
私ハ貴方ニ御目ニカカレナイノデ〔私ハ〜傍線〕、私ノ命ハ惜シクモアリマセヌ。今マデ〔三字傍線〕美シイ貴方故ニコソ、長生キモシヨウト思ツテヰタノデス。
 
○散追良布《サニツラフ》――散は山攝、翰韻n音尾の字でサニに用ゐてある。○君爾依而曾《キミニヨリテゾ》――君の爲にこそ。君故にこそ。
〔評〕 類型の歌といふ程のものは見當らないが、内容の類似のものは他にもある。これは前のよりも反歌としてふさはしい。
 
右傳(ヘ)云(フ)時《ムカシ》有(リ)2娘子1、姓(ハ)車持氏也、其夫久(シク)逕(テ)2年序(ヲ)1不v作《ナサ》2往來(ヲ)1、于時(ニ)娘子係戀、傷(マシメ)v心(ヲ)沈(ミ)2臥(シキ)痾※[病垂/尓](ニ)1痩羸日(ニ)異(ニシテ)忽(チ)臨(ム)2泉路(ニ)1於v是遣(シテ)v使(ヲ)喚(ビ)2其(ノ)夫君(ヲ)1來(リ)而乃歔欷流涕|口2(43)號《クチスサミ》斯歌(ヲ)1登時《スナハチ》逝没也、
 
姓車持氏也の五字は前の例によれば小字で書くべきであらう。車持氏は新撰姓氏録に「車持公。上毛野朝臣同祖、豐城入彦命八世孫射狹君之後也。雄略天皇御世、供2進乘與1、仍賜2姓車持公1」とある。係戀は甚だしく戀すること。古義は係戀傷心をイキノヲニコヒツツと訓んでゐる。痾※[病垂/尓]の※[病垂/尓]は※[病垂/火]。熱病。登時はスナハチと訓む。
 
贈歌一首
 
3814 しら珠は 緒絶えしにきと 聞きし故に その緒また貫き 吾が玉にせむ
 
眞珠者《シラタマハ》 緒絶爲爾伎登《ヲダエシニキト》 聞之故爾《キキシユヱニ》 其緒復貫《ソノヲマタヌキ》 吾玉爾將爲《ワガタマニセム》
 
美シイ〔三字傍線〕眞珠ハソレヲ繋イダ〔六字傍線〕緒ガ切レタト人ノ話ニ〔四字傍線〕聞キマシタカラ、ソノ緒ヲ又貰キ直シテ、私ノ玉ニショウト思ヒマス。私ノ思フ美シイ女ハ、人ノ妻デアツタガ、離婚ニナツタ聞イタカラ、私ハソノ女ト結婚シテ、私ノ物ニシヨウト思ヒマス〔ト思ヒマス私〜傍線〕。
 
○眞珠者《シラタマハ》――眞珠は次の歌に白玉とあるから、シラタマと訓むべきである。和名抄に「日本紀私記云、眞珠之良多麻」とある。○聞之故爾《キキシユヱニ》――聞いたから。本集にはモノヲの意なるユヱが多いが、これは後世の用法と同じである。新考はカラと訓むべしと言つてゐる。
〔評〕 左註に記してある事實によつた諷論の作。眞珠を珍重した上代人の傾向が見えてゐる。古事記の阿加陀麻波袁佐閇比迦禮杼斯良多麻能岐美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《アカダマハヲサヘヒカレドシラタマノキミガヨソヒシタフトクアリケリ》。本集卷七、照左豆我手尓纏古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テルサヅガテニマキフルスタマモガモソノヲハカヘテワガタマニセム》(一三二六)などが思ひ出される。
 
答歌一首
 
3815 白玉の 緒絶はまこと しかれども その緒また貫き 人持ち去にけり
 
(44)白玉之《シラタマノ》 緒絶者信《ヲダエハマコト》 雖然《シカレドモ》 其緒又貫《ソノヲマタヌキ》 人持去家有《ヒトモテイニケリ》
 
白玉ノ緒ガ切レタ事ハ事實デス。然シソノ緒ヲ又貫キ直シテ、他ノ人ガ持ツテ行キマシタ。私ノ娘ハ離婚ニナツタノハ事實デス。然シ再ビ婚約ガ出來テ、他ノ人ガ連レテ行キマシタ〔私ノ〜傍線〕。
 
○人持去家有《ヒトモチイニケリ》――舊訓モテとあるのはよくない。略解に有は里の誤とある。アリの略でリに用ゐたか。
〔評〕 女の兩親の答へた歌。贈つた歌に對して、巧に調子を合せてゐる。
 
右傳(ヘ)云(フ)、時《ムカシ》有(リ)2娘子1、夫君(ニ)見(レ)v棄(テ)、改(メテ)適(ケリ)2他(ノ)氏(ニ)1也、于v時或(ハ)有(リ)2壯士1、不v知2改(メ)適(ケルヲ)1此(ノ)歌(ヲ)贈(リ)遣(ハシ)、請(ヒ)2誂(ヒキ)於女之父母者(ニ)1、於是《ココニ》父母之意、壯士未(ジト)v聞2委曲之旨(ヲ)1、乃(チ)依(リ)2彼(ノ)歌(ヲ)1、報(ヘ)送(リ)以(テ)顯(セル)2改適之|縁《ヨシヲ》1也、
 
依彼歌の依は、類聚古集その他の古寫本、多くは作に作るよつて、改むべきである。改適之縁は他に改めて嫁いだ由をの意。緑は由縁。
 
穗積親王御謌一首
 
穗積親王は天武天皇の第五皇子。卷二(二〇三)參照。
 
3816 家にありし 櫃に※[金+巣]さし 藏めてし 戀の奴の つかみかかりて
 
家爾有之《イヘニアリシ》 櫃爾※[金+巣]刺《ヒツニザウサシ》 藏而師《ヲサメテシ》 戀乃奴之《コヒノヤツコノ》 束見懸而《ツカミカカリテ》
 
家ニ置イタ、櫃ニ※[金+巣]ヲカケテ中ニ納メテ置イタ戀ト云フ奴ガ、何處カラヌケ出シタモノカ〔何處〜傍線〕、私ニ掴ミカカツテ私(45)ヲ苦シメルヨ〔七字傍線〕。
 
○櫃爾※[金+巣]刺《ヒツニザウサシ》――櫃は大形の匣で、上に向つて開く蓋のあるもの。寫眞は正倉院御物中の櫃である。※[金+巣]は舊訓にサラとあるは、ザウの誤字であらう。和名抄に「※[金+巣]子。唐韵云、鎖 蘇果反俗作2※[金+巣]子1 鐡鎖也楊氏漢語抄云※[金+巣]子、藏乃賀岐辨色立成云藏鑰」とあり。代匠記初稿本は「さうといふは藏の音と聞えたり。藏乃賀岐といひけるを、略してさうとのみいひきたれるなるべし」といつてゐる。今俗に錠前と稱するものである。正倉院に※[金+巣]子四十三を藏してゐる。略解は眞淵説によつてカギとよんでゐるが考にはクギとある。卷二十の牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之《ムラタマノクルニクギサシカタメトシ》(四三九〇)とあるによつたものである。○藏而師《ヲサメテシ》――古義はこの句で切つて、「此歌は上に曾乃夜《ソノヤ》何等の言なければ、てきといふこと※[氏/一]爾袁波のととのへさだまりなれど、然いひてはよろしからぬ故に、ことさらにたがへて、てしと宣へるなり」とあるは大なる誤解である。この句から直に、戀乃奴につづいてゐる。○戀乃奴之《コヒノヤツコノ》――戀といふ奴が。奴は奴隷。戀を賤しめて擬人したものである。卷十二に、戀之奴爾吾者可死《コヒノヤツコニワレハシヌベシ》(二九〇七)とある、
〔評〕 戀の爲に身を苦しめ、心を碎くことを滑稽的に述べてゐる。戀の奴を櫃に入れて※[金+巣]をかけて置いたのに、それがぬけ出して我に掴み懸つたといふ擬人法が巧妙に出來てゐる。卷四の戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有《コヒハイマハアラジトワレハオモヘルヲイヅクノコヒゾツカミカカレル》(六九五)は廣河女王の作で、元暦校本などにこの女王を註して、「穗積皇子之孫女上道王之女也」とあるから、卷四の歌は女王が、祖父親王の歌ひ給うたのを聞き覺えて、模作せられたものと見てよい。
 
(46)右歌一首(ハ)穗積親王宴飲之日、酒酣之時、好(ミテ)誦(シテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1以(テ)爲(セル)2恒(ノ)賞(ト)1也
 
恒賞は恒の慰みの意のツネノメデと訓むべきか。古義はアソビグサと訓んでゐるが、少し當らぬやうである。
 
3817 かる臼は 田廬のもとに 吾が兄子は にふぶに笑みて 立ちませり見ゆ
 
可流羽須波《カルウスハ》 田廬乃毛等爾《タブセノモトニ》 吾兄子者《ワガセコハ》 二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》 立麻爲所見《タチマセリミユ》【田廬者多夫世反】
 
唐臼ハ田ノ中ノ小屋ノ中ニ居ルシ〔三字傍線〕、私ノ夫ハニコニコ笑ヒナガラ、門口ニ〔三字傍線〕立ツテオイデニナルノガ見エル。嬉シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○可流羽須波《カルウスハ》――カルウスはカラウスの轉であらう。唐臼は下に佐比豆留夜辛碓爾舂庭立碓子爾舂《サヒヅルヤカラウスニツキニハニタツスリウスニツキ》(三八八六)とある。臼を地に埋め、穀類を入れて、杵を機上に載せ、足でその柄の端を踏んで、起伏せしめて舂くもの。名義は柄が長いからとする説もあるが、なほ唐臼の義であらう。和名妙に「碓 字亦作v※[石+追]、加良宇須 蹈舂具也」とある。宇津保物語吹上の下に、「いかめしきからうすに、男女立ちて踏めり」とあるはこれを證するものである。なほ、すりうすをも、からうすといふが、これは殻を除去する臼であるから別物である。○田廬乃毛等爾《タブセノモトニ》――田廬《タブセ》は田の中の伏屋。卷八に田廬爾居者京師所念《タブセニヲレバミヤコシオモホユ》(一五九二)とある。モトニは下に。内にと同意であらう。この句の次に立チを省いてあるものと見ねばならぬ。○二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》――にこにこと笑つて。卷十八に、夏野能佐由利能波奈能花咲爾に布夫爾惠美天《ナツノヌノサユリノハハナヱミニニフブニヱミテ》(四一一六)とある。○立麻爲所見《タチマセリミユ》――舊訓はタチマセルミユであるが、卷六の恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》(一〇〇三)・卷十五の安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《アマノイザリハトモシアヘリミユ》(三七六二)などによるに、タチマセリミユと訓むべきである。○田廬者多夫世反――これは、田廬はタブセと訓むといふ註である。反は卷五に、勅旨【反云大命】船舳(47)爾【反云布奈能閇爾】(八九四)よある反と同じく、卷八に戯奴【變云和氣】(一四六〇)とある變も同じやうである。卷五なるは反云とあるのに、これは下に反とのみ書いた點を異にしてゐる。反を西本願寺本に也に作つてゐるのはよくない。
〔評〕 吾が夫をたづねて、田中の小屋に來て見ると、唐臼は疲を休めてゐるかのやうに、長い柄を捧げで靜かにして居り、吾が夫は莞爾として笑ひつつ、戸口に立つて我を迎へてゐるといふので、物靜かな田中の伏屋の情景が目に見えるやうである。唐臼と吾が夫とを並べて詠んであるのは、狹い淋しい小屋の有樣を髣髴たらしめるもので、又其所に一種の滑稽味も宿つてゐる。珍らしい内容の歌である。次の朝霞の歌が古歌なることを思へば、これも河村王の自作ではあるまい。袖中抄に載せてある。
 
3818 朝霞 かびやが下に 鳴くかはづ しぬびつつありと 告げむ兒もがも
 
朝霞《アサガスミ》 香火屋之下乃《カヒヤガシタニ》 鳴川津《ナクカハヅ》 之努比管有常《シヌビツツアリト》 將告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》
 
私ガ心ノ中ニコレ程マデニアナタヲ〔私ガ〜傍線〕(朝霞香火屋之下乃鳴川津)ナツカシク思ツテヰルト、知ラセテヤルベキ女ガアレバヨイガ。私ニハソンナナツカシイ女ガヰナイノハ物足リナイ〔私ニ〜傍線〕。
 
○朝霞香火屋之下乃鳴川津《アサガスミカビヤガシタニナクカハヅ》――之努比《シヌビ》と言はむ爲の序詞。朝霞は香火屋の枕詞で、香火屋は峽谷即ち山間の溪流であるらしい。其所に鳴く河鹿の聲を、忍ぶに言ひかけたのである。委しくは二二六五參照。乃は耳か爾の誤であらうと略解に見えてゐる。○之努比管有常《シヌビツツアリト》――シヌブはなつかしく思ふこと。女をなつかしく思つてゐるの意である。古義は上句を序詞とせず、蝦の聲を賞《メデ》つつありといふなりと解してゐる。○將告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》――兒は女で、前句のシヌブはこれにかかつてゐる、古義に「嗚呼かくと我思ふ人に告やらむ兒もがなあれかしとなり」とあり、新考も略、同意で、「此の王は其性閑適を好まれきと見ゆ」とある。
〔評〕 卷十の朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷聞者吾將戀八方《アサガスミカビヤガシタニナクカハヅコヱダニキカバワレコヒメヤモ》(二二六五)と同一技巧の作である。これも卷十の歌と共に古歌であらうと思はれる。上句を序詞と見ない説は、この二歌を別個のものとして取扱ふので賛成し難い。河(48)村王の自作ではない。
 
右歌二首(ハ)河村王(ノ)宴居之時、彈(キテ)v琴(ヲ)而即(チ)先(ヅ)誦(シテ)2此(ノ)歌(ヲ)1以(テ)爲(シキ)2常(ノ)行(ト)1也
 
河村王は續紀によれば、「寶龜八年十一月己酉朔、授2旡位川村王從五位下、十年十一月甲午、爲2少納言1、延暦元年閏正月庚子、爲2阿波守1、七年二月丙子、爲2右大舍人頭1、八年四月丙戌爲2備後守1、九年九月己巳從五位上」とある。寶龜八年まで無位であつたとすると、萬葉作者としてはずゐぶん若い人で、この卷の前後の歌と時代が釣合はぬやうである。この卷を天平十七年以前とする説に從へば、その頃王はまだ生れてゐなかつたかも知れない。それかと言つて續紀の川村王と、これを別人とする説も遽かに賛成出來ない。なほ研究を要する。爲2常行1也は前に爲2恒賞1也とあると全く同じ。
 
3819 夕立の 雨うちふれば 春日野の をばなが末の 白露おもほゆ
 
暮立之《ユフダチノ》 雨打零者《アメウチフレバ》 春日野之《カスガヌノ》 草花之末乃《ヲバナガウレノ》 白露於母保遊《シラツユオモホユ》
 
夕立ノ雨ガ降ルト、春日野ノ尾花ノ上ニ宿ツタ白露ハ、サゾ美シカラウト〔八字傍線〕想像セラレル。
 
〔評〕卷十の暮立之雨落毎《ユフダチノアメフルゴトニ》【一云|打零者《ウチフレバ》】春日野之尾花之上乃白露所念《カスガヌノヲバナガウヘノシラツユオモホユ》の一云と略同一である。草花をヲバナとよんでゐるのは草花之上《ヲバナガウヘノ》(一五七二)・草花我末乎《ヲバナガウレヲ》(一五七七)・草花我末《ヲバナガウレニ》(二一六七)などの例がある。蓋し小鯛王が古歌を誦したものである。
 
3820 夕づく日 さすや河邊に つくる屋の かたをよろしみ うべぞより來る
 
夕附日《ユフヅクヒ》 指哉河邊爾《サスヤカハベニ》 搆屋之《ツクルヤノ》 形乎宜美《カタヲヨロシミ》 諸所因來《ウベゾヨリクル》
 
(49)夕日ノ美しく〔三字傍線〕射ス川端ニ作ツタ家ガ、形ガ宜シイノデ、多クノ人ガ〔五字傍線〕寄リ集まつて來ルノハ、尤モダ。
 
○夕附日《ユフヅクヒ》――夕方になつた日。夕ツクは近ヅク、家ヅク、秋ヅクなどのツクである。○指哉河邊爾《サスヤカハベニ》――ヤは輕く添へた詠嘆の辭。夕日の指す川の邊に。○形乎宜美《カタヲヨロシミ》――舊訓カタチヲヨシミとあるのは、面白くない。形がよいので。上句を序詞として、この句を容貌がよいからと解する説もある。蓋しあたらない。○諸所因來《ウベゾヨリクル》――舊訓シカゾヨリクル、考ウベヨソリクル。略解ウベヨソリケリとある。上句を序詞と見なければ、ウベゾヨリクルと訓む外はない。人が寄り集つて來るのは尤もだの意。
〔評〕 夕日に照らされて川のほとりに建つてゐる立派な家に、人が多く集り來る樣を詠んだもので、建築美を歌つた、集中唯一無二の作である。上代は家を建てるのに、朝日の直刺すところ、夕日の日照るところを好んだのである。明麗な感じのする佳い作だ。
 
右歌二首(ハ)小鯛王、宴居《ウタゲ》之日、取(ル)v琴(ヲ)登時《ソノトキ》、必(ズ)先(ヅ)吟2詠(セリ)此(ノ)歌(ヲ)1也、其(ノ)小鯛王者、更名《マタノナ》置始多久美《オキソメノタクミ》、斯人也、
 
小鯛王の傳はわからない。後に名を置始多久美と更めたとある。新考には「持統天皇紀に、七年夏四月|典鎰《カギトリ》置始(ノ)多久與2菟野(ノ)大伴1亦座v贓降2位一階1解2見任官1とあると同人にて、紀の多久は下に美をおとしたるにや」とある。併し孝徳天皇紀に置始|大伯《オホク》とあるによると、多久はオホクではあるまいかと思はれ、脱字とは考へられない。
 
兒部《コベノ》女王(ノ)嗤歌《アサケリウタ》一首、
 
兒部女王は傳がわからない。卷八に但馬皇女御歌一首【一書云子部王作】(一五一五)と題した歌があるが、兒部女(50)王と子部王とは同人かも知れない。兒部は多くコベと訓んでゐる。略解にチイサコベと振假名してゐるけれども、書紀に小子部をチイサコベと訓んでゐるから、兒部・子部は、やはりコベであらう。
 
3821 うましもの いづく飽かじを 尺度らが 角のふくれに しぐひあひにけむ
 
美麗物《ウマシモノ》 何所不飽矣《イヅクアカジヲ》 坂門等之《サカトラガ》 角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》 四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》
 
美シイ物ハ何處デモ飽キナイノニ、アノ尺度トイフ女〔四字傍線〕ハ、ドウシテ〔四字傍線〕角ノフクレタヤウナ醜男〔六字傍線〕ト、通ジタノデアラウ。
 
○美麗物《ウマシモノ》――文字通り美麗なもの。○何所不飽矣《イヅクアカジヲ》――舊訓ナゾモアカヌヲとある。何處でも飽かないのに。美しいものを、如何なる場合にも、人は飽くことなく欲するのに。○坂門等之《サカトラガ》――坂門は左註に姓尺度氏也とあつて女の氏の名である。卷一(五四)に坂門人足とあるのと同姓である。○角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》――フクレは※[皮+暴]。皮の膨脹してゐること。和名抄に※[皮+暴]布久流 肉憤起也。宇鏡に※[皮+爾] 不久留、靈異記に肥 不久禮天とある。角の布久禮は代匠記精撰本に「角のふくれとは、牛の角などの樣して中の※[皮+暴]出《フクレ》たる顔つきを云なるべし」とあるによるべきか。ともかく醜い顔の樣をいつたらしい。新考に「案ずるに醜士の姓、角《ツヌ》にて其人ふつつかにふくれたれば、ツヌノフクレといへるならむ。角氏は紀にも見えたり。」とあるのは、面白い説であるが、果して然らば左註に、尺度氏と共に角氏についても註すべきであらうと思はれる。なほ考ふべきである。○四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》――シグフは組みあふ。喰ひ合ふなどの意。シグヒアフは今の乳繰合ふに似た語である。新考は四は田の誤でタグヒであらうと言つてゐる。タグヒアフは落付の惡い言葉ではあるまいか。
〔評〕 角のふくれは甚だしい罵詈の言葉であらうし、しぐひ合ふは隨分露骨な語であらう。もとより滑稽を主とした表現ではあるが、女王の作としでは、少し粗野に過ぎるであらう。
 
(51)右|時《ムカシ》有(リ)2娘子1姓(ハ)尺度氏也、此(ノ)娘子、不v聽2高(キ)姓美人之所(ニ)1v誂、應(ジ)2許(シキ)2下姓(ノ)※[女+鬼]士之所(ヲ)1v誂也、於是《ココニ》兒部女王、裁2作(リテ)此歌(ヲ)1嗤2咲(ヘリ)彼(ノ)愚(ヲ)1也
 
高姓美人は名門美男。下姓は高姓の反對で、低い家柄。※[女+鬼]は代匠精撰本に醜の誤とあるが、萬葉集訓義辨證には、「※[女+鬼]娩(ノ)字も誤にあらず。其は歩梁祠堂畫像に、無鹽※[女+鬼]女と有て、隷釋云、以2※[女+鬼]女1爲2醜女1隷辨云、集覇醜古作v※[女+鬼]、漢書文帝紀、朕甚自※[女+鬼]、師古曰、※[女+鬼]古愧字、盖一字而有2二義1、今知2※[女+鬼]之爲1v愧、不v知2又爲1v醜也とあり。※[女+鬼]に醜の義あるを知るべし」とある。
 
古歌曰
 
3822 橘の 寺の長屋に 吾がゐねし うなゐはなりは 髪あげつらむか
 
橘《タチバナノ》 寺之長屋爾《テラノナガヤニ》 吾率宿之《ワガヰネシ》 童女波奈理波《ウナヰハナリハ》 髪上都良武可《カミアゲツラムカ》
 
橘寺ノ長屋ニ私ガ連レ込ンデ、一緒ニ〔三字傍線〕寢タ振分髪ノ童女ハ、モハヤ大人ニナツテ〔九字傍線〕、髪上ゲヲシタデアラウカ。ドウデアラウ。逢ヒタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○橘寺之長屋爾《タチバナノテラノナガヤニ》――橘は大和高市郡の地名。飛鳥川の上流に沿うてゐる。ここに橘寺が建つてゐる。用明天皇の別宮址であつたが、聖徳太子が此所に寺を建て給うた。元亨釋書第十五に「推古十四年秋七月帝請2太子1講2勝鬘經1、太子披2袈裟1握2※[鹿/主]尾1坐2獅子座1儀則如2沙門1、講已天雨2蓮華1、大三尺、帝大喜即其地建2伽藍1、今橘寺是也」とある。長屋は細長く建てた家。寺の門の兩側などに建て連ねたものであらう。○吾率宿之《ワガヰネシ》――私が連れて行つて寢た。古事記に意岐都登理加毛度久斯麻邇和賀韋泥斯伊毛波和須禮士余能許登碁登爾《オキツトリカモドクシマニワガヰネシイモハワスレジヨノコトゴトニ》とある。○童女波奈理波《ウナヰハナリハ》――童女波奈理は髫髪《ウナヰ》を垂髪としてゐるもの。童女の風である。○髪上都良武可《カミアゲツラムカ》――髪を上げ(52)て成人の姿になつたであらうかの意。
〔評〕 全く民謠風の作品である。野趣横溢。寺の神聖を冐涜するなどと、憤慨するのは野暮である。こんなことは隨分あつたであらう。純朴な直情徑行的作品。
 
右(ノ)歌(ハ)椎野連長年(ガ)脉曰(ク)、夫《ソレ》寺家之屋(ハ)者不v有(ラ)2俗人(ノ)寢處(ニ)1亦《マタ》※[人偏+稱の旁](ビテ)2若冠女(ヲ)1曰(フ)2放髪仆(ト)1矣然(ラバ)則(チ)腹句已(ニ)云(ヘレバ)2放髪仆(ト)丱1者、尾句不(ヲヤ)v可3重(テ)云(フ)2著冠之辭(ヲ)1哉
 
推野連長年は傳が全く分らない。推野は、績紀聖武天皇、神龜元年五月辛未正七位上四比(ノ)忠勇賜2姓推野連1とあるから、その族であらう。四比は卷三の志斐嫗の家であらう。脉曰とあるが脉ではわからない。古義に古寫小本・拾穗本等に從つて、説に改めたのに從ふべきであらう。若冠は代匠記初稿本に「若冠は若著冠にて、そのうへに未の字の脱たるなるべし」とあるが、もとのままでもよい。舊本放髪仆とあるが、西本願寺本などによるに、仆は丱の誤らしい。ウナヰバナリのことである。腹句は西本頗寺本は別筆で、腹を腰に改めてゐる。古義も、古寫小本、拾穗本等に從つて腰としてゐる。併し古寫本は多く腹であるから、誤とも言ひ難い。代匠記精撰本に「腹句とは今は第四の句を指せり。第一句を頭とし、第二を胸とし第三四を腹とし、第五を尾とする意なるべし。此は腹に腰ををさむ。常は第三を腰と云ひて腰に腹を兼ねたり」とある。この推野連長年の言は誠に諒解し難い説である。寺の長屋が俗人の寢處でないことは分か切つてゐる。その人のゐない處へ女を連込んで、密會したのに不思議はない筈だ。又第四句の童女波奈理《ウナヰハナリ》と、第五句の髪上とを同意に解してゐるのは、童女波奈理の何たるを辨へざるものである。この人の時代を明らかにすることによつて、この註と次の歌との製作期を知ることが出來、それが種々の問題に解決を與へるやうに思はれるが、わからないのは返す返す遺憾である。
 
決《サダメテ》曰
 
3823 橘の てれる長屋に わがゐねし うなゐはなりに 髪上げつらむか
 
(53)橘之《タチバナノ》 光有長屋爾《テレルナガヤニ》 吾率宿之《ワガヰネシ》 宇奈爲放爾《ウナヰハナリニ》 髪擧都良武香《カミアゲツラムカ》
 
橘ノ實ガ色ヅイテ〔六字傍線〕光ツテヰル長屋ニ、私ガ連レテ行ツテ寢タ女ハコノ頃ハ〔六字傍線〕大人ノ姿ニナツテ、髪ヲ上ゲタデアラウカ、ドウシテヰルダラウ。逢ヒタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
〔評〕 この歌は右に註するが如く、推野連長年が前の歌を誤解して改作したものである。もとより本文として掲ぐべきものではない。橘の光れる長屋は橘の實の色美しくなつてゐる長屋であらうが、宇奈爲放爾《ウナヰハナリニ》では何のことか意をなさない。彼は宇奈爲放《ウナヰハナリ》を髫髪《ウナヰ》から大人の姿となることと解してゐるから、この四五の句は大人の姿に髪を上げたのであらうの意らしい。それにしても第三句の下に言葉が足りない。和歌童蒙抄に載せてある。
 
長忌寸意吉麻呂歌八首
 
長忌寸意吉麻呂は卷一・卷二・卷三・卷九などに數首の旅の歌を遺してゐる。この卷のは趣をかへて詠物の滑稽な作である。旅の歌は、持統文武頃のものだが、これは晩年の作であらう。
 
3824 さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より來む 狐に浴むさむ
 
刺名倍爾《サシナベニ》 湯和可世子等《ユワカセコドモ》 櫟津乃《イチヒツノ》 檜橋從來許武《ヒバシヨリコム》 狐爾安牟佐武《キツニアムサム》
 
子供等ヨ。銚子鍋ニ湯ヲ沸カセヨ。ソノ湯ヲ〔四字傍線〕櫟津ニカケテアル檜ノ橋ノ方カラ此方ヘ〔三字傍線〕ヤツテ來ル狐ニ、浴セテヤラウ。
 
○刺名倍爾《サシナベニ》――刺名倍《サシナベ》は銚子。和名抄に、「銚 辨色立成云、銚子左之奈閇、俗云2佐須奈閇1」とあり。新撰字鏡には「鍋、左須奈戸。※[金+奄](ハ)推(ナリ) 佐須奈戸」とあつて、サシナベ・サスナベの兩訓が分れてあるが、南京遺芳に掲げた正倉院(54)文書に、佐志奈閇とあるから、サシナベがよい。銚子は和名抄に、「銚、燒器、似2※[金+烏]※[金+育]1而上有v鐶也」とあり、提梁《ツル》あり、注口《ツギグチ》ある鍋である。サスは注入する意であらう。後世の長い柄の附いた、酒を注ぐ具とは違つてゐる。○櫟津乃《イチヒツノ》――櫟津は允恭天皇紀に「到2倭春日1食2于櫟井上1」とある櫟井であらう。今添上郡櫟本村の西に櫟井があり、治道村地内になつてゐる。○檜橋從來許武《ヒバシヨリコム》――檜橋は檜の材を渡した橋であらう。來許武とある許は衍であらう。古葉略類聚抄には、許武の二字共にない。○狐爾安牟佐無《キツニアムサム》――狐に浴びせかけてやらうの意。
〔評〕 左註にあるやうに、宴會の席上の饌具・雜器・狐聲・河橋などを詠み込めとの注文に應じて、作つたのである。刺鍋と檜橋と狐とが詠んである。當意即妙、巧は即ち巧であるが、かくして謂はゆる歌作之藝(三八三七左註)が遊戯的となり墮落して行くのである。
 
右(ノ)一首(ハ)傳(ヘ)云、一時《アルトキ》衆集(ヒテ)宴飲(ス)也、於時夜漏三更所v聞《キコユ》2狐(ノ)聲1、爾乃、衆諸、誘(ヒテ)2興麿(ヲ)1曰(ク)關(ケテ)2此(ノ)饌具(ノ)雜器、狐聲、河橋等(ノ)物(ニ)1、但《スベテ》作(レト)v歌者、即(チ)應(ジテ)v聲(ニ)作(レリ)2此歌(ヲ)1也
 
夜漏は夜の時刻。漏は漏刻の漏である。三更は子の刻、今の十二時頃。舊本興麻呂とあるが、西本願寺本(55)その他の古寫本奧に作るものが多いから、奧麻呂がよいであらう。關はカケテ。但は童蒙抄・古義など併の誤とし、略解は而の誤とし、新訓は倶に改めてゐる。併はアハセテ、倶はトモニである。但のままでスベテと訓んではどうであらう。
 
詠2行縢《ムカバキ》、蔓菁《アヲナ》、食薦《スゴモ》、屋※[木+梁]《ヤノウツバリ》1歌
 
3825 すごも敷き あをな煮持ちこ うつばりに むかばきかけて 息むこの君
 
食薦敷《スゴモシキ》 蔓菁煮將來《アヲナニモチコ》 ※[木+梁]爾《ウツバリニ》 行騰懸而《ムカバキカケテ》 息此公《ヤスムコノキミ》
 
梁ノ上ニ行縢ヲ脱イデ〔三字傍線〕懸ケテ、休息シテイラツシヤルコノ君ニ、食事ヲスル時ノ蓆ヲ敷イテ、青菜ノ煮タノヲ持ツテ來テ差上ゲ〔四字傍線〕ナサイヨ。
 
○食薦敷《スゴモシキ》――食薦は和名抄厨膳具に「食單、唐式云、鐡鍋食單各一、漢語抄云、食單、須古毛」とある、食事に際して敷く薦の義。竹を簾のやうに編んで、白い生絹を裏につけ、白い縁を施し、食机の下に敷くのが中世の儀式などに用ゐられた。○蔓菁煮將來《アヲナニモチコ》――蔓菁はアヲナ、和名抄菜類に「蘇敬本草注云、蕪菁、北人名2之蔓菁1、上音蠻、阿乎奈揚雄方言云陳宋之間蔓菁曰v※[草がんむり/封]、毛詩云、采※[草がんむり/封]采v※[草がんむり/非]無v以2下體1、加布良下體根莖也、此二菜者、蔓菁與v下駄之類也」とあり。アヲナと蕪とを同一視してゐるが、古事記仁徳天皇の條に「於是爲v煮2大御羮1採2其地之※[草がんむり/松]菜1時天皇到2坐其孃子之採v※[草がんむり/松]處1歌曰、夜麻賀多邇麻祁流阿袁那母岐備比登々等母邇斯都米婆多怒斯久母阿流迦《ヤマガタニマケルアヲナモキビヒトトトモニシツメバタヌシクモアルカ》とあるアヲナは蕪菜ではないやうだ。多分アヲナは青菜で、葉を食ふべき蔬菜を總稱したのであらう。内膳司式に「蔓菁四把、准2四升1、自2正月1迄2十二月1」とあるは、一年中あるものなることを示してゐる。但し、持統天皇紀に「詔令3天下勸2殖桑紵梨栗蕪菁等草木1」とあるは蕪菜《カブラナ》のことであらう。○※[木+梁]爾《ウツバリニ》――※[木+梁]は梁《ハリ》に同じ。屋根裏の柱の上に棟と打違ひにわたした材。○行騰懸而《ムカバキカケテ》――行騰の騰は縢の誤に違ひない。和名抄、調度部行旅具に「釋名云、行縢 音與v騰同、行縢、旡加波岐、騰也言裹v脚可2以跳騰輕便1也」とある。ムカバキは(56)毛皮を以て作り、腰に著け垂れて、兩の股脚を被ふもの。騎馬の時に用ゐた。○息此公《ヤスムコノキミ》――舊訓ヤスムとあるのを代匠記精撰本の一訓にヤスメとし、略解もこれを採つてゐるのはよくない。この句は初二句に反るのであるから、ヤスメと訓むべきでない。
〔評〕 食薦・蔓菁・※[木+梁]・行縢の四種の物を詠み込んだもの。他人の注文によつたものか、それとも自分で設けて試みたものか。場合が記してないからわからないが、恐らく前者である。難題を巧に詠みこなしてある。
 
詠(メル)2荷葉(ヲ)1歌
 
荷葉は蓮の葉。食物を盛るに用ゐた。内膳司式にも荷葉の稚葉七十五枚・壯葉七十五枚・黄葉七十五枚を、河内國から進めることが記されてゐる。
 
3826 はちす葉は 斯くこそあるもの 意吉麻呂が 家なるものは うもの葉にあらし
 
蓮葉者《ハチスバハ》 如是許曾有物《カクコソアルモノ》 意吉麻呂之《オキマロガ》 家在物者《イヘナルモノハ》 宇毛乃葉爾有之《ウモノハニアラシ》
 
蓮ノ葉ハカウアルベキモノダ。コレガ本物ノ蓮ノ葉ダ〔コレ〜傍線〕。意吉麻呂ノ家ノハ、本當ノ蓮ノ葉デハナクテ〔本當〜傍線〕芋ノ葉デアルラシイ。
 
○如是許曾有物《カクコソアルモノ》――舊訓カクコソアレモとあるのは穩やかでない。考に物は疑の誤とし、カクコソアルカモとしたのもよくない。和歌童蒙抄にもカクコソアルモノとあるからこれが古訓である。物の下にナレを省いた形。下に馬爾己曾布毛太志可久物《ウマニコソフモダシカクモノ》(三八八六)とある。斯樣にあるものだの意。○宇毛乃葉爾有之《ウモノハニアラシ》――宇毛は芋。魚をイヲといふが如くイダク(抱)とウダクと通ずる如く、古代はイモをウモと言つたのであらう。西本願寺本・神田本など宇を芋に作る本もある。略解は宇は伊の誤かと言つてゐる。芋は今の里芋である。和名抄に「芋、四聲字苑云、芋、以倍乃伊毛 葉似v荷其根可v食v之」とある。特にイヘノイモといつたのは薯蕷に對したもので、同書に(57)「薯蕷、本草云、薯蕷一名山芋、夜万乃伊毛」(一本夜萬都以毛)とある。植物渡來考によれば、東印度の原産とあるから、古く支那を經て渡來したものであらう。
〔評〕 立派な蓮の葉を見て、蓮の葉とはこれが本物だ。私の家の蓮の葉は芋の葉だらうと、自分のを卑下したので、一寸戯れた以外に意味もなければ、面白味もない。
 
詠2雙六頭1謌
 
頭はサエと訓むのであらう。略解は頭の下に子を脱せるかとある。和名抄に「雙六采、揚氏漢語抄云、頭子 雙六乃佐以」とある。(下總本は佐以を佐江に作つてゐる)
 
3827 一二の 目のみにはあらず 五六三 四さへありけり 双六の采
 
一二之目《イチニノ》 耳不有《メノミニアラズ》 五六三《ゴロクサム》 四佐倍有《シサヘアリケリ》 雙六乃佐叡《スゴロクノサエ》
 
雙六ノ賽ハ一ツ二ツノ目バカリデハナイ。五ツ六ツ三ツ四ツノ目〔二字傍線〕サヘモ持ツテヰル。
 
○一二之目耳不有《イチニノメノミニアラズ》――考は舊訓イチニノメノミニアラズを改めてヒトフタノメノミニハアラズ、略解はヒトフタノメノミニアラズとしでゐる。ここは舊訓のハを省く事にした。○五六三四佐倍有《ゴロクサムシサヘアリケリ》――考は舊訓を改めてイツツムツミツヨツサヘアリとしてゐる。舊訓による。音讀か訓讀かの論はいづれにも立つわけであるが、催馬樂大芹に「五六かへしの一六のさいや四三のさいや」とあるから、采の數字は多分音讀したであらうと思はれる。○雙六乃佐叡《スゴロクノサエ》――雙六は双六。雙陸とも書く。謂はゆるスゴロクである。和名抄には「雙六一名六采、博奕是也」とある。印度の遊戯で支那を經て輸入せられてゐた。二人相對し盤に向ひ、采を轉じて勝負を爭ふ。盤は左右に各十二の格《スヂ》があり、各、馬《ウマ》十二を竝べる。二箇の采を筒に入れて交互に振り出し、その出た數に從つて格を數へて馬を送り、早く敵の格中に送り終つた者が勝である。この遊戯は早く民間に廣まつてゐたが、弊害が多かつたので、持統天皇紀の三年十二月に禁斷雙六の記事が見えてゐる。併し依然として流行してゐたら(58)しい。正倉暁にも雙六盤を藏してゐる。なほ雙六をスゴロクと訓むのは、雙は韻鏡外轉第三開江攝江韻 Saang で ng 音尾であるから、母音 u 又は o を補つてスグ・スゴとなるのである。尤も呉音漢音共にサウであるから、サグ或はサゴとなるべきやうであるが、輸入當時の古音又は訛音でスグとなつたのであらう。佐叡《サエ》は采。和名抄下總本に佐江とあるに一致してゐる。
〔評〕 目といへば先づ二つあるものときまつてゐるのに、双六の采は一二から三四五六まであると言つて、一から六までの數字を巧に詠み込んだだけである。
 
詠(メル)2香、塔、厠、屎鮒、奴(ヲ)1歌
 
香・塔・厠・屎・鮒・奴の六種のものを詠み込んだ歌。
 
3828 香ぬれる 塔にな依りそ 川くまの 屎鮒はめる 痛き女奴
 
香塗流《コリヌレル》 塔爾莫依《タフニナヨリソ》 川隅乃《カハクマノ》 屎鮒喫有《クソブナハメル》 痛女奴《イタキメヤツコ》
 
河ノ曲リ角ニ居ル、汚イ〔二字傍線〕屎鮒ヲ食ベタヒドイ女ノ奴ヨ。オマヘは汚イ奴だから神聖ナ〔オマ〜傍線〕香ヲ塗ツタ塔ノ側ニ立チ寄ルナヨ。
 
○香塗流《コリヌレル》――香は舊訓カウとあるのを略解はコリと改めた。皇極天皇紀に「手執2香爐1、燒v香《コリ》發願」とありコリと訓す。齋宮式忌詞にも、堂稱2香燃《コリタキ》1とあり。沙石集にも「僧をば髪長、堂をばこりたきなんど言ひて云々」とある。コリは古言である。香は呉音カウ、漢音キヤウであつて、ここをキヤウと訓む説は、全く成立たないが、カウと訓むのは無理ではない。併し前掲の古訓もあるから、コリがよいであらう。古義に「香はコリと訓て古言なり。字音に非ず。こは加乎理《カヲリ》の切りたる言なり。(カヲの切コ)」とあるが、香は韻鏡内轉第三十一開宕攝陽韻 ng 音尾で、カグとなるべきを、良行に轉じてコリとしたのである。鼻音と良行とは相轉ずるもので、(59)播磨をハリマ・榛をハン・盛《サカリ》をサカンといふ類である。カがコとなるのはをかしいやうであるが、雙六《サウロク》をスゴロクといふのと同じで、同行相通じたのであらう。又呉音以前の古音かとも考へられる。塗流《ヌレル》とあるのを古義に塗は焚の誤で、コリタケルであらうとしてあるが、香の一種に塗香《ヅカウ》と稱するものがあり、沈・白檀などを調合して作つたもので、佛に禮拜する時手に塗るのである。これは今も坊間に賣つてゐる。香は元來清淨ならしめむが爲に用ゐるので、佛身に塗るのも、禮者の手に塗るのも、同じ意味であらうから、塔に塗ることももとより有つたに違ひない。○塔爾莫依《タフユナヨリソ》――塔は卒塔婆の略語なる塔婆を更に略したもの。卒塔婆は梵語 Stupa の轉で、高顯の義である。但し吾が國では、卒塔婆・塔婆は墓所などに立てる丈低きものを言ひ、塔は三重五重に作つた寺院附屬の建物をいふ。○川隅乃《カハクマノ》――川の隅の。川の曲角の。隅は隈に通じて用ゐたのである。誤とするのは當らない。題の厠を川であらはしてゐる。厠はカハヤ即ち河屋で、昔は不淨を忌んで河の上に造つたと言はれてゐる。この歌によると、厠を略してカハとのみ言つたのかとも考へられるが、さうでないとしても、川隅の屎鮒は厠への連想を起さしめるわけだ。○屎鮒喫有《クソフナハメル》――屎鮒とは汚き所にゐる鮒の意であらう。川隅には塵などが溜つてゐるし、又川屋に近いところは、穢いものが漂つてゐたかも知れないので、かくいつたのであらう。喫有《ハメル》は食つた。○痛女奴《イタキメヤツコ》――ひどい女の奴。孝徳天皇紀に、事瑕之婦《コトサカノメヤツコ》とあり、メヤツコは即ち婢である。當時、奴と婢とがあつたことは東大寺奴婢籍帳に明らかである。
〔評〕 題の厠はその儘歌中に取入れてなく、又題の屎と鮒とは二物であるのに、歌には、屎鮒といふ一物にしてゐる。短い歌の中に六種の物を詠み込まうとするのは、隨分困難であるから、これくらゐは大目に見なければなるまい。神聖な香と塔に對して、汚穢なものを配してあるので、作者も大分手こすつたであらう。
 
詠(メル)2酢、醤、※[草がんむり/(禾+禾)]、鯛、水葱(ヲ)1歌
 
※[草がんむり/(禾+禾)]は蒜に通じて用ゐたのだが、かういふ字はないやうだ。
 
3829 ひしほすに 蒜つきかてて 鯛願ふ 我にな見せそ なぎの羮
 
(60) 醤酢爾《ヒシホスニ》 ※[草がんむり/(禾+禾)]蒜都伎合而《ヒルツキカテテ》 鯛願《タヒネガフ》 吾爾勿所見《ワレニナミセソ》 水葱乃煮物《ナギノアツモノ》
 
醤酢ニ蒜ヲ搗キ加ヘテ、ソレヲカケテ食フ爲ニ〔十字傍線〕鯛ガアレバヨイガト願ツテヰル私ニ、水葱ノ羮ナドノヤウナツマラヌ物ハ〔十字傍線〕見セテクレルナ。私ハ美味シイモノガ欲シイノダカラ。水葱ノ羮ナドハイラナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○醤酢爾《ヒシホスニ》――醤は和名抄に「醤、四聲字苑云、醤 即亮反、比之保、別有2唐醤1豆醢也」とある。小麥又は裸麥と大豆を熬つて皮を去つたものを、共に水に浸して麹に製し、鹽水に混じ貯ふること數十日で出來る。大體今の醤油の諸味《モロミ》のやうなものである。肉を以て作つたものを肉醤《シシビシホ》といふ。今も梅の實で作つたのを梅醤《ウメビシホ》といつてゐる。酢は今、日常用ゐるものと變りはあるまい。醤酢《ヒシホス》は即ち今日の謂はゆる二杯酢に類したものである。大膳式にも「醤酢各五勺」などの文が見える。○※[草がんむり/(禾+禾)]蒜都伎合而《ヒルツキカテテ》――※[草がんむり/(禾+禾)]は蒜。蒜は山野に自生する多年生の草本で、葉は細長い管状をなし、少し稜を有してゐる。その臭氣は葱《ネギ》と似てゐる。夏日葉間に莖を出し、莖頂に淡紫色の花を開く、地下には白色の鱗莖を有してゐる。和名抄に「搗蒜、食療經云、搗蒜〓 比洗都岐」とあり。又「四聲字苑云、〓 訓安不。一云 阿倍毛乃 擣2薑蒜1以v醋和之」ともあつて、蒜を醤酢に漬して、舂き混ぜたことがわかる。合而《カテテ》は交へ加へて。今も交へ加へることを、かてるといつてゐる地方が多い。○鯛願《タヒネガフ》――鯛が欲しいと思つてゐる。次の句の吾《ワレ》につづいてゐる。蒜の〓《アヘモノ》を作り、それを鯛にかけて食はうと鯛を得たいと思つてゐるといふのである。舊訓を改めて考にタヒモカモとしたのはよくない。宣長が願は餔の誤でタヒクラフであらうと言つたのも從ひ難い。餔の字は集中に用ゐてない。○水葱乃煮物《ナギノアツモノ》――水葱は水田・小川などに自生する草。卷三|殖子水葱《ウヱコナギ》(四〇七)參照。これを煮て羮《アツモノ》を作つたのである。但しあまり美味の料理でなかつたことはこの歌で知れる。
(61)〔評〕 酢、醤、蒜、鯛、水葱の五種の物を詠み込んだ歌。總べて食料品であるから、數の多い割合に比較的詠易かつたであらう。この歌八雲御抄に載せてある。
 
詠(メル)2玉掃、鎌、天木香、棗(ヲ)1歌
 
舊本、木を水に誤つてゐる。類聚古集によつて改めた。天木香は卷三に天木香樹(四四六)とある。
 
3830 玉掃 苅り來鎌麻呂 室の樹と 棗が本を かき掃かむ爲
 
玉掃《タマハハキ》 苅來鎌麻呂《カリコカママロ》 室乃樹與《ムロノキト》 棗本《ナツメガモトヲ》 可吉將掃爲《カキハカムタメ》
 
室ノ木ノ下ト、棗ノ木ノ下トヲ綺麗ニ〔三字傍線〕掃除スル爲ニ、玉箒ヲ苅ツテ來ヨ。鎌麻呂ヨ。
 
○玉箒《タマハハキ》――帚に作る草の名。玉は美稱のみ。卷二十に始春乃波都禰乃家布能多麻波婆伎《ハツハルノハツネノケフノタマハハキ》(四四九三)とある玉帚は、これを以つて作つた帚に、玉を飾つたのである。今俗に草※[草がんむり/帚]と稱するものを作る帚木、又は帚草と稱するものがあるが、あれは外來種で、園圃に栽培せられる漢名地膚、和名マキクサ・ニハクサと稱する一年生草本である。上代の帚を作つたのは、これと異なり、謂はゆるコウヤボウキと稱するものである。山林に自生する落葉灌木、高さ二尺内外、幹は極めて細く、枝は疎らで、卵状の毛ある葉を互生してゐる。秋の頃菊の如き白色の花を枝頭に生ずる。今正倉院に藏せられる玉帚は、正しくこの木を以て作つたものらしい。袖中抄には、玉はばきは蓍《メド》といふ草なりといふ説を擧げてゐる。蓍は即ちメドハギで、林野に自生する多年生草本,花も葉も萩に似て小さい。この莖は蓍木と稱して卜筮の具に用ゐられる。鐵掃帚とも記し、帚を造るに役立つたらしいが、ここのタマハハキはカウヤボウキとすべきであらう。○苅來鎌麻呂《カリコカママロ》――苅つて來よ、鎌麻呂よ。鎌麻呂は鎌を擬人したのであ(62)る。上代には人以外のものにも、麻呂を附して呼んだのが多かつた。刀劍の名に何丸と呼ぶのは後世まで行はれた。今なほ船舶に丸の字を添へていふのもその名殘である。○室乃樹與《ムロノキト》――室乃樹はネズノキ。○棗本《ナツメガモトヲ》――棗の木の下を。棗は庭園に植ゑる落葉喬木で、高さ二丈にも達する。葉は平滑卵形で互生し、鈍鋸齒がある。夏日葉腋に淡黄緑色の小花を發生し、果實は橢圓形の小さいもので、初秋の頃熱する。生食することも出來るし、藥用にも供せられる。和名抄には「棗、本草云、大棗、一名美棗、音草、字亦作v棗奈都米」とある。植物渡來考によれば、地中海東部地方より印度ベンガルに至る地方、及び支那に野生してゐるとのことであるから、早く支那から輸入せられたものであらう。舊訓にナツメガモトトとあるのを、古義はモトヲに改めてゐる。二つのトを並べるのが本格ではあるが、上代には必ずしもさうではなかつたらしい上に、若しトを用ゐるならば、ナツメの下にトを用ゐるべきであらうから、古義の訓がよいやうである。
〔評〕 これも多くの品目を詠み込んだ歌。多少の滑稽味もある。袖中抄と八雲御抄とに出てゐる。
 
詠(メル)2白鷺啄v木飛1歌
 
白鷺が木の枝をくはへて飛んでゐるのを詠んだ歌。こんな繪でもあつたのであらう。卷九の仙人の形を詠んだ歌|常之陪爾夏冬徃哉裘扇不放山住人《トコシヘニナツフユフケヤカハゴロモアフギハナタヌヤマニスムヒト》(一六八二)と共に畫賛の歌かも知れない。なほ卷十の春霞流共爾青柳之枝啄持而鴬鳴毛《ハルカスミナガルルナベニアヲヤギノエタクヒモチテウグヒスナクモ》(一八二一)が思ひ出される。
 
3831 池神の 力士※[人偏+舞]かも 白鷺の 桙啄ひ持ちて 飛びわたるらむ
 
池神《イケガミノ》 力士※[人偏+舞]可母《リキシマヒカモ》
 白鷺乃《シラサギノ》 桙啄持而《ホコクヒモチテ》 飛渡良武《トビワタルラム》
良武
 
(63)池上ノ力士舞ノ眞似デ〔三字傍線〕アラウカヨ。アンナニ〔四字傍線〕白鷺ガ桙ヲ銜ヘテ持ツテ飛ンデ行クノデアラウ。白鷺ガ枝ヲ銜ヘテ飛ブノガ、丁度力士ガ桙ヲ持ツテ踊ルノニ似テヰル〔白鷺〜傍線〕。
 
○池神《イケガミノ》――神は借字でイケガミといふ地名らしい。略解には、和名抄に十市郡池上郷とある所だらうと記してゐる。池上郷は磐余池のほとりで、今の安倍村香久山村に當つてゐる。然るに一説にこの池上を生駒郡富郷村岡本なる法起寺としてゐる。そこに岡本池と稱する小池があり、その寺を池後尼寺と呼ぶことが法隆寺資財帳に見える。靈異記にこの寺に關する觀音銅像化鷺形示寄表縁を載せてゐるが、それとこの歌との間には何の關係もあるまいと思はれる。ともかくこの歌に力士舞とあるからは、寺に關係あることであるから、十市郡の池上郷ではなく、これを法起寺とすると極めてよく當嵌まるのである。○力士※[人偏+舞]可毛《リキシマヒカモ》――力士※[人偏+舞]はかういふ名の舞が當時有名であつたのである。力士は金剛力士で、今、寺門の兩側に立つてゐる仁王尊のこと。兄を金剛、弟を力士といふとするのは俗説である。この金剛力士に扮したものが、桙を持つて舞つたもの。聖徳太子の時百濟の味摩之によつて傳へられた伎樂の一である。教訓抄の記載によれば「次ニ力士手タタキテ出金剛開門、謂(フ)2之ヲマラフリ舞(ト)1彼(ノ)五女ケサウスル所、外道崑崙ノ降伏スルマネ也。マラカタニ繩ヲ付テ引テ、件ノマラヲ打ヲリ打ヲリヤウ/\ニスル體に舞(フ)也」とあつて、力士が持つてゐる桙といふのは、實は男根に象どつたものであつたのである。なほ西大寺の資財帳の伎樂の條にも、金剛力士桙持四人とある。(高野辰之氏日本歌謠史參照)○桙啄持而《ホコクヒモチテ》――題に啄木とあるやうに、木の枝を啄へて飛んでゐるのを、滑稽的に力士舞の桙に見立てたのである。
〔評〕 力士舞の有樣が分つて見ると、隨分ひどい惡ふざけの歌である。當時佛教が流行を極めてゐた時に、寺院に於て、しかも法起寺といふ尼寺で、こんな馬鹿げた外來樂を催してゐたのは、むつかしく言へば宗教冒涜であるが、滑稽を喜ぶ國民性のあらはれといふべきである。舞樂史上の貴重なる參考資料である。
 
忌部首詠(メル)2數種物(ヲ)1歌一首 名忘失也
 
(64)忌部首は、下に名忘失也と小字で記してあるやうに、その名がわからない。或は卷六(一〇〇八)・卷八(一五五六)・(一六四七)及びこの卷(三八四八)に忌部首黒麿とあるのと同一人か。蓋しこの小字の注も古いもので、編纂者も黒麻呂と同一人とは考へなかつたから、かかる註を加へたのであらう。
 
3832 からたちの うまら刈りそけ 倉立てむ 屎遠くまれ 櫛造る刀自
 
枳《カラタチノ》 棘原苅除曾氣《ウバラカリソケ》 倉將立《クラタテム》 屎遠麻禮《クソトホクマレ》 櫛造刀自《クシツクルトジ》
 
枳ノ茨ヲ刈リ除ケテ、ソコヘ私ハ〔五字傍線〕倉ヲ建テヨウト思フ〔三字傍線〕。其處ヲ汚シテハナラナイカラ〔其處〜傍線〕、櫛ヲ作ル女ヨ。ソノ邊ニ〔四字傍線〕糞ヲセズニ、モツト〔六字傍線〕遠クニシロ。
 
○枳《カラタチノ》――枳はカラタチ。和名抄に「枳※[木+具]、本草云、枳※[木+具] 只矩二音、加良大知 玉篇云、木似v橘而屈曲者也」とある。新撰宇鏡には、枳を訓して、加良立花とあるから、カラタチはカラタチバナの略である。落葉灌木、高さ五六尺、謂はゆる柑橘類の一種であるが、刺が多く、實は小さく食ふに堪へない。生籬として植ゑられるのを常とすることは、人の知るところである。○棘原苅除曾氣《ウマラカリソケ》――ウマラはウバラの訓もあるが、卷二十に美知乃倍乃宇萬良能宇禮爾波保麻米乃《ミチノベノウマラノウレニハホマメノ》(四三五二)とあり、ウマラの方がよい。茨田をマムダと訓むのもウマラダの轉である。このウマラは、刺多きものの總稱で、ウバラ・イバラも同じ語である。原の字を衍とする説もあるが、棘原の二字でウマラと訓ましめたのであらう。苅除曾氣は略解は曾氣を衍とし、古義は曾氣は注で、反云曾氣とあつたのが、反云を脱し、曾氣が本文に紛れ込んだものと見て、いづれもカリソケと訓んでゐる。新訓にカリノゾケとあるのは、童蒙抄説と同じである。文字から見れば新訓がよいやうであるが、棘原をウマラと訓むやうに苅除の二字をカリと訓んだものと見るべきである。これをノゾケと訓む時は命令形となり、第四句と同形となつ(65)て、歌の意味が整はなくなる。この句は初句からつづいて、枳《カラタチ》といふ荊棘を苅り除いての意。○屎遠麻禮《クソトホクマレ》――屎は古事記に、屎麻理散《クソマリチラシキ》とあり、書紀に送糞此云2倶蘇麻屡《クソマル》1とある。クソは蓋し臭《クサ》の轉であらう。麻禮《マレ》はマルの命令形。マルは糞尿を排泄すること。今も九州では方言として用ゐられてゐる。○櫛造刀自《クシツクルトジ》――櫛を作る女よ。櫛は女の家庭工業として作つたものと見える。刀自は女を呼ぶ稱で、主婦といふやうな意に用ゐられる場合が多い。ここも相當な年齢の女をさしてゐるやうである。卷四には吾兒乃刀自《ワガコノトジ》(七二三)とある。
〔評〕 これは枳・棘・倉・屎・櫛・刀自などを詠み込んだものであるが、題中に記してゐないのは、豫め品目を定めなかつたからであらう。なるべく多數の物を詠み込まうとした爲に、意味の纒りが惡く、且殊更に滑稽ならむとして、材料が甚だしく下品になつてゐる。
 
境部王詠(メル)2數種物(ヲ)1歌【穗積親王之子也】
 
境部王は下に注して穗積親王之子也とあるが、皇胤紹運録には長皇子の御子とある。續紀には「養老元年正月乙巳、授2旡位坂合部王從四位下1、十月戊寅益v封、五年六月辛丑、爲2治部卿1」とあり、懷風藻には「從四位上治部卿境部王二首 年二十五」とあるから、養老五年後天平の初期に歿せられたお方である。西本願寺本その他、歌の下に一首とある本が多い。舊本にないのは脱ちたのである。
 
3833 虎に乘り 古屋を越えて 青淵に みづちとり來む 劔たちもが
 
虎爾乘《トラニノリ》 古屋乎越而《フルヤヲコヱテ》 青淵爾《アヲブチニ》 鮫龍取將來《ミヅチトリコム》 劔刀毛我《ツルギタチモガ》
 
虎ニ乘ツテ、古屋ヲ越エテ、水ガ〔二字傍線〕青々ト湛ヘテヰル深イ〔九字傍線〕淵ニ行ツテ、※[虫+交]龍ヲ取ツテ來ヨウト思フガ、ヨイ〔六字傍線〕劔太刀ガ欲シイモノダ。
 
○虎爾乘《トラニノリ》――虎に乘つて。虎をトラと呼ぶのは朝鮮語だといふ説もあり、又楚人が虎を於菟《オト》といつた於を省き、(66)菟《ト》にラを添へたのであらうとする説もあるが、恐らくは古い外來語であらう。○古屋乎越而《フルヤヲコエテ》――古屋は地名らしいが、何處ともわからない。略解には、「神樂歌に、伊曽乃加美不留也遠止古乃多知毛可奈久美乃遠志天天美也知加與波牟《イソノカミフルヤヲトコノタチモガナクニノヲシデテミヤヂカヨハム》と詠めるふるや是か。然らばいそのかみは、枕詞なるべし。古屋といふ所大和にありて、旦むかし名高き武夫ありしか」とあるが、神樂歌のは、石上の布留であるから、これとは別である。紀伊日高郡切目川村大字古屋の地があつて、玉葉集にも見える花山院の巡幸の舊蹟と考へられるが、この古屋は何處か明らかでない。何か傳説のあつた地であらう。○青淵爾《アヲフチニ》――青々とした淵に。青淵は深い淵である。○鮫龍取將來《ミヅチトリコム》――鮫能は舊訓サメとあるのは誤、鮫を蛟に通用したものとして、ミヅチと訓むべきである。和名抄に「蛟、説文云、蛟、音交、美都知、日本紀私記用2大※[虫+叫の旁]二字1龍之屬也、山海經云、蛟似v※[虫+也]而四脚池魚滿2二千六百1則蛟來爲2之長1」と見え、水に棲む龍の類である。ヅチは加具土《カグヅチ》・雷《イカヅチ》などのヅチで、神の意であるから、ミヅチは水に住む神であらう。宣長はミは※[靈の下半が龍]《オカミ》・蛇《ヘミ》・蛟《ハミ》などのミであるといつてゐる。
〔評〕 虎・古屋・淵・鮫龍・劍刀の五種を詠み込んでゐる。大さう勇ましさうな取合せで、益荒雄ぶりらしいが、虎と龍とを組合せたのは日本思想ではない。
 
作主未詳歌一首
 
3834 梨棗 黍に粟つぎ 延ふ葛の 後も逢はむと 葵花咲く
 
成棗《ナシナツメ》 寸三二粟嗣《キミニアハツギ》 延田葛乃《ハフクズノ》 後毛將相跡《ノチモアハムト》 葵花咲《アフヒハナサク》
 
梨ガ實リ〔三字傍線〕棗ガ實ルト〔四字傍線〕、黍ニ粟ガツヅイテ實ツテ〔三字傍線〕、(延田葛乃)後ニモ逢ハウトイフシルシニ〔六字傍線〕、葵ノ花ガ咲イテヰル。
 
○成棗《ナシナツメ》――成は梨、棗は既出(三八三〇)。梨と棗とが實のつての意。古義に「梨と棗の木實《キミ》といふ意にとりなして黍《キミ》といふへつづけたるにや」として枕詞と見てゐる。木《コ》の實《ミ》とはいふが木實《キミ》といふ語はないやうである。新考は黄實の意でつづくと見てゐるが、これも穩やかでない。○寸三二粟嗣《キミニアハツギ》――寸三は黍。黍と粟とがつづいて實(67)のるといふのである。嗣を蒔の誤とし、逢ハマクの借字で、逢ハム事ハの意とするのは從ひ難い。梨棗黍粟は相次いで秋に實るものである。○延田葛乃《ハフクズノ》――枕詞式に用ゐて次の句につづいてゐる。  である葛もも秋のものとして用ゐてある。舊本、田を由に作るは誤。類聚古集、西本願寺本などに田に作るによる。田葛は眞田葛原《マクズハラ》(一三四六)・眞田葛延《マクズハフ》(一九八五)・田葛葉日殊《クズハヒニケニ》(二二九五)などの用例がある。○後毛將相跡《ノチモアハムト》――後に再び逢はうと。○葵花咲《アフヒハナサク》――上代の葵はフユアフヒと稱するもので、蔬菜として、葉を食用に供したのである。賀茂の祭に用ゐる細辛、俗にカモアフヒと稱するものとは別科の植物である。(徳川氏の家紋となつてゐるアフヒはカモアフヒである)なほカラアフヒ・タチアフヒ・ゼニアフヒなどは同科の別種である。和名抄に「葵、本草云、葵、音逵阿布比、味甘寒無v毒者也」とあり。大膳式には、葵三斗、葵半把、葵爼などの記載があり、その他冬葵の實を藥用に供したことが諸書に散見してゐる。この歌では、梨・棗・黍・粟・葛などにつづいて詠んであるから、食用の蔬菜としての冬葵なることは疑ふ餘地がない。冬葵の花は冬から春にかけて咲き紫暈を有する白色である。ここは後も逢はむと葵花咲くと言つて、未來をことほいだもので、葵の花を眼前に見て詠んだのではあるまい。戀の心を述べたと見るのは惡い。
〔評〕 梨・棗・黍・粟・葛・葵の六種の物を詠み込んだ歌。これも宴席にあつて、食膳に並んだものを、片端から取合せて、しかも主客の無事をことほいでゐるのは、巧なものである。この歌は前の同類の歌よりも、上品に出來てゐる。
 
獻(レル)2新田部親王(ニ)1歌一首
 
新田部親王は天武天皇第七皇子。卷三に、柿本朝臣人麿献2新田部皇子1歌一首并短歌(二六一)とある。
 
3835 勝間田の 池は我知る 蓮無し 然言ふ君が 鬚無き如し
 
(68)勝間田之《カツマタノ》 池者我知《イケハワレシル》 蓮無《ハチスナシ》 然言君之《シカイフキミガ》 鬚無如之《ヒゲナキゴトシ》
 
貴方ハ勝間田ノ池ニ蓮ノ花ガ美シク咲イテヰルト仰ニナリマスガ〔貴方〜傍線〕、勝間田ノ池ニハ、私ハヨク存ジテヲリマス。蓮ハゴザイマセン。サウ仰ニナルアナタノオ顔ニ〔三字傍線〕鬚ガナイノト同ジデゴザイマス。
 
○勝間田之池者我知《カツマタノイケハワレシル》――勝間田の池は今も奈良市の西方、都跡村字六條に遺つてゐる。枕草子に「池はかつまたの池、いはれの池、にえのの池云々」とあつて、永く歌枕として有名であつた。○鬚無如之《ヒゲナキゴトシ》――舊訓ヒゲナキガゴトとあり、代匠記精撰本は之如の誤かといつてゐるが、文字通りに訓むがよい。他に相見如之《アヒミルコトシ》(三〇九)の例もある。舊本、鬚を鬢に誤つてゐる。西本願寺本によつて改めた。
〔評〕 左註にあるやうに、極めて鬚の濃い新田部親王に對して、貴方の御顔に鬚のないやうに、勝間田の池には蓮はありませんと言つた、反語《アイロニー》の興味が主となつてゐる。二句で切つて、更に三句で蓮なしと斷言し、徐ろに然言ふ君が鬚無き如しと歌ひ添へたところに、言ふべからざる滑稽味が藏されてゐる。袖中抄に戴せてある。袋草子にも三井寺の勝觀法師のこの歌に關する言葉が出てゐる。
 
右、或(ハ)有(リ)v人、聞(ク)v之(ヲ)曰(ク)、新田部親王、出(デ)2遊(ビ)于堵裏(ニ)1御2見(シテ)勝田之池(ヲ)1感2緒(セリ)御心之中(ニ)1、還(リテ)v自2彼(ノ)池1不v忍(ビ)2憐愛(ニ)1於v時語(リテ)2婦人《ヲムナニ》1曰(ク)、今日遊行(シテ)見(ル)2勝間田池(ヲ)1水影濤濤(トシテ)蓮花灼灼(タリ)、可憐斷腸、不v可v得v言(フヲ)、爾乃《ココニ》婦人作(リテ)2此(ノ)戯歌(ヲ)1、專輙《モハラ》吟詠(セル)也
 
堵裡は都の内。堵は都。卷一に近江舊堵(三二)、卷三に難波堵(三一二)とある。感緒の緒は正述心緒の緒で、感緒は感心すること。憐愛は類聚古集その他怜愛に作る本が多い。あはれと思ふことをいふ。婦人は妾。ヲミナメと訓むべきだ。和名抄に「妾和名乎旡奈女」とある。卷二にも天皇崩時婦人作歌(一五〇)とある。(69)水影濤濤は水の滿々と湛へた貌。蕩々に通ずるのであらう。蓮花灼灼は蓮華の盛なる貌。可憐は古葉略類聚抄・西本願寺本などに※[立心偏+可]怜とある。專輙はモハラ。輙はスナハチといふ字だが、專輙といふ熟語として古くから用ゐられてゐる。
 
謗(ル)2佞人(ヲ)1歌一首
 
3836 奈良山の 兒の手柏の 兩おもに かにもかくにも 佞人の徒
 
奈良山乃《ナラヤマノ》 兒手柏之《コノテカシハノ》 兩面爾《フタオモニ》 左毛右毛《カニモカクニモ》 佞人之友《ネヂケビトノトモ》
 
アノ人タチハドチラニモウマイコトヲ言ツテ〔アノ〜傍線〕、(奈良山乃兒手柏之)裏表ナシノ〔五字傍線〕兩面デ、ドチラカラ見テモ、ネヂケタ佞人ドモダ。
 
○奈良山乃《ナラヤマノ》――奈良山は奈良の都背後の山。○兒手柏之《コノテカシハノ》――今、兒手柏と稱するものは松科の植物で漢名側柏、檜に似て、葉は峙立ち、表裏の別がない。丁度ここに兩面《フタオモテ》とあるに合致してゐる。しかしこれは支那原産で吾が國の山林に自生するものでないから、この歌の兒手柏は別物に相違ない。大和志に「兒手柏、漢名未詳、山中所在有v之奈良坂特多、葉如2粘黐樹1而濶短、或三尖、恰似2小兒掌1、四時不v凋、白花黒實」とあり、倭訓栞には「このてかしは萬葉集に兒手柏とかけり。是は樹の嫩葉の乳兒の手掌に似たるをいふなり。一種奈良にていふものは、犬ぼぼ也。是は後人萬葉集の奈ら山のこのてがしはとめるによりて、別種の名とせるなり。これも萬葉集に兒手柏、兩面にと云ふより出でたり。よつて兩面とも云ふ【中略】住吉に、このて柏の神供といふあり。橿の葉を用ふといへり」とある。その他藻鹽草・仙覺抄などに柏若葉とした説があるが、小兒の手のやうな形に廣がつた葉の柏を言ふものとしたい。卷二十の知波乃奴乃古乃弖加之波能保保麻例等《チバノヌノコノテガシハノホホマレド》(四三八七)とあるのも、卷十四の安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母《アトモヘカアジクマヤマノユヅルハノフフマルトキニカゼフカズカモ》(三五七二)と比較して見ると、ホホマルも(70)フフマルも同語で、柏の葉の未だ開かぬ婆に譬へたものらしい。檜の類の葉ではホホマルとは言ひ難いであらう。袖中抄に見えた、オホドチ即ちヲトコヘシ説は後世に出來た説で同名異物である。○兩面爾《フタオモニ》――和歌童蒙抄和歌色葉集などにフタオモテとあるのは、かういふ古訓が廣く行はれでゐたのであらう。細井本には爾の字がない。兒手柏は兩面同樣の色をなしてゐるので、兩面の序詞としたのである。この句は兩面にての意。兩面《フタオモテ》を表と裏と兩面異なつてゐる意に見るのは從ひ難い。○左毛右毛《トニモカクニモ》――どうでもかうでも。どちらから見ても。左右將爲《トモカクモセム》(三九九)、左右裳《カニモカクニモ》(六二九)、左右將爲乎《カモカモセムヲ》(一三四三)、などの用例がある。新解はヒダリモミギモと訓んで「どちら向いても曲つた人ばかりである」と解してゐるのは珍らしい説である。ヒダリに對しては、ミギリといふべきであらう。○佞人之友《ネヂケビトノトモ》――佞人《ネヂケビト》は心の曲つた人。腹黒い人。友は借字で輩《トモガラ》の意。どちらにしても佞人の徒輩であるといふのである。
〔評〕 かなり人口に膾炙してゐる歌だが、解釋は種々に分れてゐる。佞人があちら向いても、こちら向いても、體裁のよい御世辞を言つてゐる樣を兩面《フタオモテ》と謗つたので、佞人の數多いことを憤つたのではない。題の謗佞人とあるに注意したい。この歌は如何なる場合の作か記されてゐない。多分作者が世事に憤慨して詠んだのであらう。しかし滑稽味といふほどのものなく、強い嗤笑の態度でもない。和歌童蒙抄・袖中抄・和歌色葉集などに載せてある。
 
右歌一首博士|消奈行文大夫《セナノユキフミノマヘツキミ》作(レリ)v之
 
消奈行文は續紀に「養老五年正月戊申朔甲戍詔曰、文人武士國實所v重、醫卜方術古今斯崇云々、明經第二博士正七位上背奈公行文賜2※[糸+施の旁]十五疋・絲十五絢・布三十端・鍬二十口1」「神龜四年十二月丁亥云々授2正六位上背奈公行文從五位下1」と見え、懷風藻に「從五位下大學助背奈王行文二首年六十二」と見える背奈行文と同人であらねばならぬ。天平の初年に歿したらしい。續紀に「天平十九年六月辛亥正六位下背奈福信、外正七位下背奈大山等八人賜2背奈王姓1」とあつて、行文は王姓を賜はらないうちに歿したで(71)あらうと想像される。懷風藻は後の稱呼に傚つて、背奈王行文と記したのであらう。代匠記初稿本には奈の下、公の字が脱ちたものとしてゐる。略解に消は背の誤としてゐるが、消は音セウであるから略してセに用ゐたのであらう。古葉略類聚抄に「明經儒林傳云助教消奈行文右記云行文於學良京※[人偏+己]助講周易甬福代弟子新羅人也、拜博士叙從五位下傅大學助後改高麗朝臣入哥一〓」とあるのも參考すべきである。博士は右に記すが如く、明經博士。大夫は五位の通稱。
 
3837 久方の 雨も降らぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たる見む
 
久堅之《ヒサカタノ》 雨毛落奴可《アメモフラヌカ》 蓮荷爾《ハチスハニ》 渟在水乃《タマレルミヅノ》 玉似將有見《タマニニタルミム》
 
(久竪之)兩ガ降ラナイカヨ。私ハ〔二字傍線〕蓮ノ葉ニタマツタ水ガ、玉ニ似テヰル美シイ景色〔五字傍線〕ヲ見タイト思フ〔三字傍線〕。
 
○久堅之《ヒサカタノ》――枕詞。天・空・日などにつづく。ここでは雨に連ねてゐる。○雨毛落奴可《アメモフラヌカ》――雨も降らないかよ。雨も降れよの意。○蓮荷爾《ハチスハニ》――前に荷葉とあつたのに同じ。代匠記には荷は葉の誤かといつてゐる。○玉爾似將見《タマニニタルミム》――舊訓はタマニニムミムとあるが調子が惡い。玉爾似有將見の誤としてかく訓むべきであらう。新訓は類聚古集に爾がなくて、玉似となつてゐるによつて、タマニアラムミムと訓んでゐる。似を假名に用ゐた例は卷七・卷十一なにど見えるが、この歌の書き方を見ると、爾がなくとも、似は意字として訓むべきである。
〔評〕 左註にこの歌を詠んだ由縁が委しく記されてゐるが、さして面白い作でもない。宴席の食膳に用ゐられた荷葉を、池の中に生じてゐる樣に詠みなしたのは、その場合に囚はれない機智とも言へようが、また窮餘の作とも言へば言へる。
 
右(ノ)歌一首(ハ)傳(ヘ)云(フ)、有《アリ》2右兵衛1【姓名未詳】多能《タヘタリ》2歌作之藝(ニ)1也、于時府(ノ)家、備(ヘ)2設(ケ)酒食(ヲ)1饗2宴(ス)府(ノ)官人等(ヲ)1於v是饌食盛(ルニ)v之(ヲ)皆用(フ)2荷葉(ヲ)1諸人酒酣謌舞駱驛(ス)、乃(チ)誘(ヒテ)2兵衛(ヲ)1云(フ)關(ケテ)2其(ノ)荷(72)葉(ニ)1而作(レト)2此歌(ヲ)1者、登時《スナハチ》應(ジテ)v聲(ニ)作(レル)2斯(ノ)歌(ヲ)1也
 
右兵衛は官名。天武天皇朱鳥元年の天皇崩御の條に「直大參當摩眞人國見誄2左右兵衛事1」とあるから、この官衙の設けられたのも古いものである。姓氏未詳は類聚古集その他、氏を名に作る古寫本が多い。歌作之藝とあるのは、已に詠歌を一の藝能と考へてゐたことを示してゐる。府は右兵衛府で府家はその役所である。駱驛は駱繹の誤であらう。徃來の絶えざる貌をいふので、ここには、しつくり當嵌らぬやうでもあるが、これでよいのであらう。開は關の誤であらう。作此歌者の此は衍であらう。
 
無(キ)2心(ノ)所1v著歌二首
 
無心所著歌は心の著く所無き歌。左註に無所由之歌とあるに同じで、一句一句別のことを言つて、全體としては意味をなさぬ歌である。この頃既に歌を弄んで、かうしたことがかなり流行してゐたのである。濱成式には雜會體とある。奧儀抄にも「無心所著歌、雜會體也、無2所存1也、」徹書記物語には「無心所著の歌は一句一句、別々のことをいひたる也」と見えでゐる。
 
3838 吾妹子が ぬかに生ひたる 双六の ことひのうしの くらの上の瘡
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 額爾生流《ヌカニオヒタル》 雙六乃《スゴロクノ》 事負乃牛之《コトヒノウシノ》 倉上之瘡《クラノウヘノカサ》
 
私ノ妻ノ額ニ生エテヰル雙六ノ、牡牛ノ背中ノ〔三字傍線〕鞍ノ上ニ、出來タ〔三字傍線〕腫物。
 
○額爾生流《ヌカニオヒタル》――舊訓ヒタイニキフルとあるは、ヒタヒニオフルの誤字であらう。生流の二字はオフルと訓むべく、流の字がない本もあるから、オフルがよいやうだが、額は、和名抄には「額 五陌反比太比」とあるけれども、集中すべてヌカと訓んであるから、古義にヌカニオヒタルと訓んだのがよいであらう。○雙六乃《スゴロクノ》――雙六は前の三八二四參照。○事負乃牛之《コトヒノウシノ》――コトヒノウシは卷九に牡牛乃《コトヒウシノ》(一七八〇)とあるところに説明したやうに、牡牛(73)のことで、一説に許多負牛《ココタオヒウシ》の略、牡牛が荷物を多く負ふからだと言はれてゐるが、果してどうであらう。○倉上之瘡《クラノウヘノカサ》――倉は鞍の借字。瘡は和名抄に「瘡 唐韻云、瘡 音倉、加佐 痍也、痍 音夷、岐須 瘡也」とある。腫物の總稱である。
〔評〕 吾妹兒・額・双六・事負乃牛・鞍・瘡の六種のものを無暗に並べて、意味の分らない歌としてゐる。蓋し無心所著歌は、前にあつた讀込歌の一種であつて、讀込歌では豫め定めて置いた品目を詠むものと、豫め定めないで、何でもかまはずに數種のものを取合せて工夫して詠むのとの區別があつたが、無心所著歌は、詠込む品目を豫定しない點は後者と同じであるが、何等の意味をも持たしめないやうに作る點が異なつてゐる。その奇拔な組合せと、それが全體として何の意味をも構成しないで、人の意表に出る點に滑稽を感ずるのである。この歌では、妻の額に双六が生えるといふのも、鞍の上に瘡が出來てあるといふのも、實に珍奇を極めたもので、人を抱腹せしめるに充分である。
 
3839 吾が背子が たふさきにする つぶれ石の 吉野の山に 氷魚ぞさがれる
 
吾兄子之《ワカセコガ》 犢鼻爾爲流《タフサキニスル》 都夫禮石之《ツブレイシノ》 吉野乃山爾《ヨシヌノヤマニ》 氷魚曾懸有《ヒヲゾサガレル》【懸有反云佐我禮流】
 
私ノ夫ガ犢鼻褌ニスル圓イ石ノ、吉野山ニ水魚ガ下ツテヰル。
 
○犢鼻爾爲流《タフサキニスル》――犢鼻褌の略。神代妃に「著犢鼻」とあり、雄略天皇紀にも、同樣の句があるから、褌の字を省いて用ゐることも多かつたのである。字鏡に「※[衣+鼻] 太不佐伎」とあるのは、更にこの二字を一にしたやうな文字である。和名抄に「褌、方言注云、袴而無v跨謂2之褌1 音昆、須萬之毛乃、一云知比佐岐毛能 史記云、司馬相知、着2犢鼻褌1、韋昭曰、今三尺布作v之、形如2牛鼻1者也、唐韵云、※[衣+公] 職容反、與v鍾同、楊氏漢語抄云、※[衣+公]子、毛乃之太乃太不佐岐一云水子、小褌也」とあり。これによつで短い袴とする説もあるが、犢鼻褌は史記の記述の如く、三尺の布で作つて、形が牛鼻の如しとあるから、今の猿股のやうなものでなく、ワンドシに違ひない。○都夫禮石之《ツブレイシノ》――ツブレイシは圓石《ツブライシ》に同じ。圓い石である。履中天皇紀に「圓此云2豆夫羅1」とある。○氷魚曾懸有《ヒヲゾサガレル》――氷魚(74)は和名抄に「※[魚+小]、考聲切韻云、※[魚+小]音小、今案俗云、氷魚是也、初學記冬事對、雖v有2氷魚霜鶴之文1而尋2其義1非也白小、魚名也、似2※[魚+白]魚1長一二寸者也」とあり、今イサザといふ魚。白魚のやうなもので、琵琶湖・宇治川などに多く産する。宇治の網代による氷魚は、後世の歌に多く詠まれてゐる。秋の末から冬に亘つて捕れる。○懸有反云住家禮流――懸有はサガレルと訓むのだと註したのである。家は我の誤らしい。
〔評〕 吾兄子・犢鼻・圓石・吉野乃山・氷魚の五種の品目を並べて無意味な滑稽なものとしてゐる。犢鼻にする圓石、吉野の山に氷魚がさがつてゐるといふのが、奇想天外的である。前の歌が吾妹子で始つてゐるに對して、これは吾が兄子になつてゐる。
 
右(ノ)歌者、舍人親王、令(シテ)2侍座(ニ)1曰(ク)或《モシ》有(ラバ)d作(ル)2無(キ)v所由之歌(ヲ)1人u者、賜(フニ)以(テセム)錢帛(ヲ)1、于v時大舍人安倍朝臣|子祖父《コオヂ》、乃(チ)作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1獻上(ル)、登時《スナハチ》以(テ)2所(ノ)v募(ル)物錢、二千文(ヲ)1給(ハル)v之(ニ)也
 
舍人親王は天武天皇の皇子。日本書紀の撰者。卷二(一一七)參照。侍座は座に侍る人、考はサムラフモノ、古義はモトコビトと訓んでゐる。無所由之歌は、由る所無きの歌。意味のない歌。無心所著歌に同じである。錢帛は金銀と布帛。ゼニとキヌ。大舍人は宮廷に奉仕し、行幸に供奉し警衛駈便の雜事を務める役。令の制によれば、左右大舍人寮に屬し、定員八百人であつた。安倍朝臣|子祖父《コオヂ》は傳が明らかでない。古義に「續紀に大寶三年七月甲子從五位下引田朝臣祖父爲2武藏守1と見えて、其(ノ)後慶雲元年に此(ノ)引田氏本姓に復りて、阿倍朝臣と改めたるよし見ゆ。されば續紀に祖父とあるは、子字を脱せるにて、今の子祖父なるべし、と云説あり。親王と同時の人なれば、さもあるべきか。」とある。併し引田朝臣祖父が大舍人であつたとすれば、武藏守たる前、即ち大寶三年以前でなければならず、又その當時阿倍氏を名乘つてゐたとも定め難いから、引田朝臣と阿倍朝臣子祖父とが同人とは考へられない。
 
池田朝臣、嗤(ル)2大神《オホミワ》朝臣奥守(ヲ)1歌一首【池田朝臣名忘失也】
 
(75)池田朝臣は古義に池田朝臣|眞枚《マヒラ》であらうといつてゐる。眞枚は續紀に、天平寶字八年十月從八位上から從五位下、神護景雲二年十一月檢校兵庫軍監、寶龜元年十月上野介、同五年三月少納言、同八年正月員外少納言、同十一年三月長門守、延暦六年二月鎭守副將軍になつた人である。相手の大神朝臣奥守と略々同時に從五位下になつてゐて、同輩であらうから、心安立てにこんな嗤合もやつたであらう。併しこの卷の成立を、大伴家持が越中守となつた天平十七年以前とすれば、眞枚は四十三年後の延磨六年に鎭守副將軍といふ劇務に就いて、東北地方に轉戰してゐるから、この歌を作つた時の二人は隨分若くなければならない。なほ眞枚は家持と同時の人で、家持の知己であらう。ここに池田朝臣名忘失也とあるのは、家持又はその時の人の手記としては、疑はしいやうだ。大神朝臣奧守は續紀に天平寶字八年正月乙巳正六位下大神朝臣奧守授2從五位下1とある外、傳ふるところがない。
 
3840 寺寺の 女餓鬼申さく 大神の 男餓鬼たばりて その子うまはむ
 
寺寺之《テラデラノ》 女餓鬼申久《メガキマヲサク》 大神乃《オホミワノ》 男餓鬼被給而《ヲガキタバリテ》 其子將播《ソノコウマハム》
 
方々ノ〔三字傍線〕寺々ニ作ツテ〔四字傍線〕アル女ノ餓鬼ノ像〔二字傍線〕ガ申スニハ、大神ト云フ男ノ餓鬼ハ大層痩セテヰテ私ニ似アフカラ、アノ男ヲ私ノ夫ニ〔ハ大〜傍線〕賜ハツテ、アレト夫婦ニナツテ〔九字傍線〕ソノ子ヲ産ミマセウト言ツタ〔四字傍線〕。
 
○寺寺之女餓鬼申久《テラデラノメガキマヲサク》――寺々にある女の餓鬼の像が言ふには。餓鬼は和名抄に「餓鬼、孫〓切韻云餓【五箇反、訓與飢同】久飢也、内典云餓鬼 和名加岐 其喉如v針不v得v飲v水、見v水則變成v火」とあり、謂はゆる三惡道の一なる餓鬼道に苦しんでゐるものをいふ。當時の寺には、餓鬼道の有樣 塑像などに作つたのが、飾付けてあつたのである。卷四に大寺之餓鬼之後爾額衝如《オホテラノガキノシリヘニヌカヅグガゴト》(六〇八)とある。挿繪は餓鬼の草子から複寫した。○男餓鬼被給而《ヲガキタバリテ》――大神朝臣が痩せてゐるので、男餓鬼といつたのである。男の餓鬼を賜はつてといふのは、大神朝臣を夫として賜はつての意。即ち大神朝臣と夫婦になつて。○其子將播《ソノコウマハム》――古訓はソノコハラマム、考はソノコウミナムとあるが、代(76)匠記にソノコウマハムと訓んだのがよい。ウマハムはウマフといふ動詞に助動詞ムを添へたのである。ウマフは産《ウ》ムの延言。自動詞としてウマハルと用ゐられた例は、允恭天皇紀に 「一氏|蕃息《ウマハリテ》更爲2萬姓1、」仁賢天皇紀に「戸口|滋殖《マスマスウマハリテ》」雄略天皇紀に「女|産兒《ウマハリセリ》」「百濟心許非常、臣毎見v之不v覺2自失1恐更|蔓生《ウマハリナム》」とある。播は種蒔くこと、産む意に用ゐてある。
〔評〕 痩せた男を嗤ふ言葉としては、隨分ひどい惡口で、滑稽を通り越してゐる。結句|其子將播《ソノコウマハム》は巧な揶揄の言葉である。
 
大神朝臣奥守、報(ヘ)嗤(ル)歌一首
 
3841 佛造る 眞そほ足たらずは 水たまる 池田のあそが 鼻の上をほれ
 
佛造《ホトケツクル》 眞朱不足者《マソホタラズハ》 水渟《ミヅタマル》 池田乃阿曾我《イケダノアソガ》 鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》
 
佛像ヲ作ルノニ、眞朱トイフ赤イ繪具〔七字傍線〕ガ足リナイナラバ、アノ赤イ色ヲシタ〔八字傍線〕(水渟)池田朝臣ノ鼻ノ上ヲ掘リナサイ。アノ人ノ鼻ノ中ニハ澤山眞朱ガアルダラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズバ》――佛像を造るのに、眞朱が足りないならば。佛《ホトケ》は代匠記精撰本に「和語にホトケと云は浮屠木《フトケ》の意なるべし。浮屠は舊澤の梵語佛陀なり。木は此國に貴人に云詞なり」とある。一説にケは韓語を添へたのであらうとも言はれてゐる。眞朱《マソホ》は彩色に用ある赤い染料。赤土をいふ場合と、朱を指す場合とある。マは接頭語で、卷十の具穗船《ソホフネ》(二〇八九)、卷十三の赤曾朋舟《アケノソホフネ》(三三一〇)のソホも同じである。眞朱を舊訓にアカニとある(77)のはわるい。和名抄圖繪具に「丹砂、考聲切韻云、丹砂 丹音都感反、邇 似2朱砂1而不2鮮明1者也。朱砂、本草云、朱砂最上者謂2之光明沙1」とあつて、眞朱は即ち朱砂・辰砂のことで、鮮明な朱色の顔料である。上代の佛像の彩色に多く用ゐられてゐる。○水渟《ミヅタマル》――枕詞。水の溜る池とつづく。○池田乃阿曾我《イケダノアソガ》――池田朝臣の。阿曾《アソ》は親しんでいふ語。必ずしも朝臣ならでもいふのであるが、ここは朝臣即ちアソミを略したものと見るのが穩やかであらう。○鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》――池田朝臣の赤鼻を罵つたので、あの鼻を掘つたなら、いくらでも眞朱が出るだらうといふ惡口である。
〔評〕 寺にある餓鬼の像に譬へて罵られたのに對して、同じく寺の佛像に關係を持たせて、嘲り返した手際はうまい。この贈答の二歌はいづれも秀逸で、その優劣を判じ難い。なほこの佛造るといふのを、當時の東大寺大佛造営のこととし、あれだけの大佛を造る間には、それに用ゐた眞朱も時には不足を告げ、眞朱穿る岡を何處かと探すやうなこともあつたらうから、かかる有樣を目撃し、自らその工事に交つて働いたらしい大神朝臣奧守が、池田朝臣の朱鼻を嗤笑するに托して、太佛造營に國幣を傾ける馬鹿らしさに、嘲笑の聲を放つた歌と見る人もあるが、眞朱を要する佛像は木造の彩色した像であつて、銅像に黄金を張つた東大寺の大佛には、眞朱はいらない筈である。東大寺大佛記によると、大佛鑄造に要した材料として、熟銅七十三萬九千五百六十斤、白※[金+葛]一萬二千六百十八斤、練金一萬四百四十六兩、水銀五萬八千六百兩、炭一萬六千三百五十六斛とあつて、眞朱については、何の記述もない。但し卷十四に麻可禰布久爾布能麻曾保乃伊呂爾低※[氏/一]伊波奈久能未曾安我古布良久波《マカネフクニフノマソホノイロニデテイハナクノミゾアガコフラクハ》(三五六〇)とあるのは、眞金を吹くのに赤い土を用ゐたやうにも見えるが、あの歌では眞金吹くは、丹生といふ地名にのみかかつてゐるのであるから、誤解のないやうにしたい。かくの如き次第であるから、この歌を以て大佛造營と關係を持たせて考へるのは誤つてゐる。又大佛は、天平十七年八月起工、十五ケ月間に原形を製作したのだから、この歌をその間の作であらうと推定し、それによつてこの卷の編纂時代をも決定しようとする人があるのは全然從ひ難い。
 
或云
 
(78)この下の文が脱落したものか。
 
平群朝臣(ノ)嗤(ル)歌一首
 
平群朝臣は誰ともわからない。前後の例によると、名忘失とでもありさうなところである。古義には、平群朝臣廣成であらうと言つてゐる。廣成は天平九年九月(當時在唐)に正六位上から從五位下になり、十一年十月歸國入京。その後刑部大輔・東山道巡察使・式部大輔・攝津大夫・武藏守などに歴任し、天平勝寶五年正月には從四位上であつたことが續紀に記されてゐる。考には嗤の下に咲穗積朝臣の五字を補つてゐる。
 
3842 わらはども 草はな刈りそ 八穗蓼を 穗積のあそが 腋くさを刈れ
 
小兒等《ワラハドモ》 草者勿苅《クサハナカリソ》 八穗蓼乎《ヤホタデヲ》 穗積乃阿曾我《ホヅミノアソガ》 腋草乎可禮《ワキクサヲカレ》
 
子供等ヨ。ワザワザ遠クヘ行ツテ〔十字傍線〕車ハ刈ルナヨ。ソレヨリモ〔五字傍線〕(八穗蓼乎)穗積朝臣ノ腋ノ臭サヲ刈リナサイ。
 
○子兒等《ワラハドモ》――子供等。○八穗蓼乎《ヤホタデヲ》――枕詞。穗とつづく。穗摘みの意で、穗積につづくとするのは當らない。卷十三に水蓼穗積至《ミヅタテホヅミニイタリ》(三二三〇)とある。八積蓼は穗の多い蓼。ヲはヨに同じ。○腋草乎可禮《ワキクサヲカレ》――腋草は腋臭即ちワキガであらう。臭と草と音が同じなので、戯れて草者勿刈《クサハナカリソ》と言つたのに對し、文字も腋草と記したのである。これを從來腋下の毛と解いたのは當るまい。腋毛は誰でも生えてゐるもので、多寡長短の別はあつても、さう取り立てて言ふほどのことはない筈である。腋臭は和名抄に「胡臭、病源論云、胡臭 和岐久曾」とある。ワキクソはワキクサの轉。
〔評〕 これも可なり烈しい惡口である。無形の腋臭を草に言ひなしたのはおもしろい。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
(79)穗積朝臣和(フル)歌一首
 
穗積朝臣は誰ともわからない。これも名忘失とありさうなところである。古義は穗積朝臣老人であらうと言つてゐる。老人は續紀によれば、天平九年九月正六位上から、外從五位下を授かり、十二年左京亮十八年四月從五位下、同九月内藏頭になつてゐる。
 
3843 いづくぞ 眞そほほる岳 こも疊 平群のあそが 鼻の上を穿れ
 
何所曾《イヅクゾ》 眞朱穿岳《マソホホルヲカ》 薦疊《コモダタミ》 平群乃阿曾我《ヘグリノアソガ》 鼻上乎穿禮《ハナノウヘヲホレ》
 
眞朱ヲ掘リ出スノハ何處カ。何處デモナイ〔六字傍線〕。(薦疊)平群朝臣ノ鼻ノ上ハ赤イカラ、アソコニ在ルダラウ。アノ鼻ノ上〔ハ赤〜傍線〕ヲ掘リナサイ。
 
○何所曾《イヅクゾ》――舊訓イヅコニゾ。古義に從ふ。○眞朱穿岳《マソホホルヲカ》――この句で切つて上に反つてゐる。○薦疊《コモダタミ》――枕詞。重《ヘ》とつづく。薦を編んで作つた疊蓆。古事記倭建命の御歌に、多多美許母幣具理能夜麻能《タタミコモヘグリノヤマノ》」とある。
〔評〕 初二句が問の如く、三句以下が答のやうである。つまり自問自答の形式になつてゐる。これが歌をより面白くしてゐる。前の佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)と同想で、いづれかが他を學んだものに相違ない。仲好しの間の串戯であらうが、隨分ひどい惡口である。
 
嗤2咲(フ)黒色(ヲ)1歌一首
 
顔の色の黒いのを嗤笑つた歌。古義は古寫本に從つたといつて、土師宿禰水通嗤2咲巨勢朝臣豐人黒色1歌一首としてゐるが、校本萬葉集には、さうした異本がない。
 
3844 鳥玉の 斐太の大黒 見る毎に 巨勢の小黒し おもほゆるかも
 
(80)鳥玉之《ヌバタマノ》 斐太乃大黒《ヒダノオホグロ》 毎見《ミルゴトニ》 巨勢乃小黒之《コセノヲグロシ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
斐太ノ朝臣ノ〔三字傍線〕(烏玉之)大黒ヲ見ル度ニ、巨勢ノ朝臣ノ〔三字傍線〕、小黒ガ思ヒ出サレルヨ。ドチラモ黒馬ノヤウニ黒イ男ダ〔ドチ〜傍線〕。
 
○烏玉之《ヌバタマノ》――語を距てて、大黒の黒にかかる枕詞。○斐太乃大黒《ヒダノオホクロ》――左註に巨勢斐太朝臣【名字忘v之也島村大夫之男也】とある人。格別色が黒かつたので、大黒といつたのである。但し馬は黒色を貴ぶから、大黒は馬になぞらへて言つたのである。次の小黒も同じ。○巨勢乃小黒之《コセノヲグロシ》――巨勢の小黒は巨勢朝臣豐人で、色の黒い男ではあつたが、斐太朝臣ほどではなかつたから、小黒と言はれたのである。シは強めて言つたもの。○所念可聞《オモホユルカモ》――思ひ出されるよ。
〔評〕 大黒小黒と馬になぞらへたのが、この作の工夫であらう。もしそれがないとすればつまらぬ歌である。
 
答歌一首
 
3845 駒造る 土師の志婢麻呂 白くあれば うべ欲しからむ その黒色を
 
造駒《コマツクル》 土師乃志婢麻呂《ハシノシビマロ》 白爾有者《シロクアレバ》 諾欲將有《ウベホシカラム》 其黒色乎《ソノクロイロヲ》
 
土ヲ練ツテ〔五字傍線〕駒ノ形〔二字傍線〕ヲ造ル土師ノ志婢麻呂ハ、色ガ〔二字傍線〕白イカラ、アノ黒イ色ガ欲シイダラウガ、ソレハ〔四字傍線〕尤モナコトダ。
 
○造駒《コマツクル》――駒を造る。土師は即ち埴師《ハニシ》で、土偶を造つた氏。埴で駒をも造るから、かく言つたのである。但し特に駒と言つたのは、前の歌の大黒小黒に答へむが爲である。○土師乃志婢麻呂《ハシノシビマロ》――左註に「大舍人土師宿禰水通字曰志婢麻呂也」とあり、水通のことである。水通は卷五(八四三)に、土師氏御通とある人。太宰府の梅(81)花の宴に列して、歌を詠んでゐるが、傳は明らかでない。土師氏は垂仁天皇の御代に埴輪を作つて、殉死を止めるやうにしたと傳へられる、野見宿禰の裔で、永くこの職に從つてゐたのである。○白爾有者《シロクアレバ》――舊本、白の下、爾に作るのでもよいが、類聚古集・古葉略類聚抄など、久に作るに從ふべきであらう。顔の色が良いのでの意。○諾欲將有《ウベホシカラム》――なるほど欲しいであらう。欲しいのは尤もだといふのである。舊訓サモホシカラムとあるのは、後世風の訓だ。○其黒色乎《ソノクロイロヲ》――斐太の大黒や、巨勢の小黒の黒色を、欲しいのは尤もだと、上に反るのである。
〔評〕 贈られた歌が、馬に關してゐるので、初句に駒に關したことを以て答へてゐる。志婢麻呂の顔が白いから、それを冷かす爲に、かう言つたものか。それともおまへは大さう白いよと反語的に、自分を棚にあげて、人のことは言はれまいと皮肉つたものか、兩樣に解せられる。三句をシロナレバと訓んで、白を白馬とする説に從ふと、落窪物語の面白の駒のやうになつて,奇拔であるが、それはあまり過ぎた考かと思はれるから、採らぬことにする。志婢麻呂は實際色が白かつたものと解して置かう。
 
右歌者、傳云(フ)、有(リ)2大舍人土師宿禰|水通《ミミチ》1、字(ヲ)曰(フ)2志婢麻呂(ト)1也、於時、大舍人巨勢朝臣豐人、字(ヲ)曰(フ)2正月《ムツキ》麻呂(ト)1、與2巨勢(ノ)斐太朝臣1【名字忘之也、島大夫之男也】兩人竝(ニ)此彼貌黒色(ナリ)焉、於v是土師宿祢水通、作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1嗤(リ)咲(フ)者、而(テ)巨勢朝臣豐人、聞(キテ)之(ヲ)即(チ)作(リ)2和(ヘ)歌(ヲ)1酬(イ)咲(ヘル)也
 
大舍人は既出(三八三九)。島大夫は古寫本に、島村大夫とあるのが多い。續紀に巨勢斐太朝臣島村の名が見え、天平九年六月正六位下から外從五位下、十六年二月平城宮留守、九月南海道巡察使、十七年正月外從五位上、十八年五月從五位下、同九月刑部少輔と見える。この人の子とすると、この卷が編纂せられ(82)たと推測せられる天平十六年頃は、まだ若い人であつたであらう。舊本、黒色也烏とある。烏は焉の草體を誤つたものである。
 
戯(ニ)嗤(ル)v僧(ヲ)歌一首
 
3846 法師らが 鬚の剃抗 馬つなぎ いたくな引きそ 法師は泣かむ
 
法師等之《ホフシラガ》 鬚乃剃抗《ヒゲノソリクヒ》 馬繋《ウマツナギ》 痛勿引曾《イタクナヒキソ》 僧半甘《ホフシハナカム》
 
坊主ドモガ鬚ヲ剃ツタ後ガノビテ〔七字傍線〕、杭ノヤウニナツテヰルノ〔十字傍線〕ニ、馬ヲ繋イデ、ヒドク引クナヨ。無理ニ引クト〔六字傍線〕坊主ガ泣クデアラウ。
 
○法師等之《ホフシラガ》――法師はホフシと字音の儘に訓むより外はない。法は呉音ホフ、漢音ハフ。○鬚乃剃杭《ヒゲノソリクヒ》――鬚を剃つたのが、少し伸びると、杭のやうであるから,剃杭といふのである。鬚を舊本鬢に作つてゐる。○僧半甘《ホフシハナカム》――半甘は舊訓ナカラカモとあり、代匠記初稿本は「なからにならんといふ心なり」、精撰本は「痩たる僧にて僧の半分許なれば、痛くひかば倒るべければ、なひきそと云なり」、考は「法師引さかれ半分にならんと云」、略解はホウシナカラムと訓み「なからむは半分の意にて、なからにならむと戯れ言ふ也」、古義は「半缺《ナカラカカ》むといふことなり、(カヽ〔二字右○〕の切カ。)僧の面を傷ひて、半を缺《カカ》むといへるなり」とあり。かくの如く説がわかれてゐる。廿は韻鏡外轉第四十開咸攝談韻m音尾であるから、カムと訓むに差支はないが、半にならむといふのを、ナカラムと言ひ得べきか、頗る疑はしい。古義は「又一説に將《ム》v泣《ナカ》といふ言の伸りたるなりと云るもわろし」といつてゐる。なるほど、泣カムを延ばしても、ナカラムとはなりさうにない。然るに、義門は男信に、半廿《ハネナム》と訓んでゐる。半はハネ、廿は甞の省畫として、ナムに用ゐられたといふのである。音韻學上からは、さうも訓めるわけだが、ハネナムでは意をなさない。彼はハネを首ハネの意としてゐるが、首ハネを古くハネとのみいふ筈はない。又黒川春村はナカナムと訓むべしとしてゐるが、この場合泣キナムならばよいが、泣カナムとは言ふ(83)べくもない。しかも泣キナムと訓むことは文字がゆるさない。この他松岡調はナカアマシの略ナカマシ、敷田年治は哭カムとし、新考は半を嘆に改めてナゲカムと訓んでゐる。いづれも多少の無理がないものはない。今半の字の集中に於ける用例を調査すると、ハの假名に用ゐられたものがあるから、ここも半をハと訓み、廿をカムとすれば、ハとカムとの間にナの假名に當る文字が脱ちたものとして、ホフシハナカムと訓むことが出來る。けれども、次の歌にも半甘とあるから、この二字の間の脱字を考へることは少し無理がある。だから予は半をナカと訓んだものとして半廿はナカカムの略、ナカムと訓み、僧の下にハの助詞を附けて、やはりホフシハナカムと訓むことにしたいと思ふ。なほ攻究を要する。
〔評〕 法師より以外に髪鬚を剃るもののなかつた時代に、鬚を剃つた法師が、しかも不精にしてゐて、剃つたあとが黒々と伸びてゐるのは、見苦しいものに感ぜられたであらう。剃杭とは全く適切な言葉である。杭から聯想して馬繋ぎを言ひ起し、痛くな引きそと突飛なことを言ひ出したのは、實に奇拔とも滑稽とも譬へやうのない巧妙さである。嗤笑の歌の中の白眉であらう。
 
法師報(フル)歌一首
 
3847 壇越や しかもな言ひそ 里長らが えつきはたらば いましも泣かむ
 
檀越也《ダヌヲチヤ》 然勿言《シカモナイヒソ》 ※[氏/一]戸等我《サトヲサラガ》 課役徴者《エツキハタラバ》 汝毛半甘《イマシモナカム》
 
檀那ヨ、サウ仰ルナヨ。村長ガ、税ヲ納メヨ〔四字傍線〕、役ニ出デヨ〔四字傍線〕トセメタテタナラバ、アナタモ泣クデセウ。私共ハ坊主デスカラ、税ヤ夫役ノ心配ハアリマセン〔私共〜傍線〕。
 
○檀越也《ダヌヲチヤ》――檀越は梵語Dana-patiに漢字をあてたもの。檀那に同じ。檀は山攝n音尾で、原語もダナであるから、ダムと振假名してはいけない。飜譯名義集に「稱2檀越1者即施也、此人行v施越2貧窮海1」とあり、施主の意で、僧侶が布施する信者を呼ぶ語である。ヤは呼掛けの助詞。○然勿言《シカモナイヒソ》――さう言ふなよ。モは詠歎の(84)助詞で、文字にはないが。添へて訓むがよからう。○※[氏/一]戸等我《サトヲサラガ》――舊本※[氏/一]戸等我とあるのは、誤字であらう。舊訓のテコラワガでは了解し難い。童蒙抄、戸長等我《ヘヲサラガ》、考は良長等我《イヘヲサラガ》などの説もあるが、古義に※[氏/一]を五十の誤とし、戸の下、長の字を補つて、サトヲサラガと訓んだのに從ふ。卷五に楚取五十戸良我許惠波《シモトトルサトヲサガコヱハ》(八九二)とある。良は長に同じ。○課役徴者《エツキハタラバ》――課役は代匠記精撰本にエタチとあるのを、古義にエツキとしたのがよい。賦役令に課役並(ニ)徴(ス)。又は免(シ)課(ヲ)徴(ス)v役(ヲ)、或は課役倶(ニ)免(ス)など見えて課と役とは別である。仁コ天皇紀に、「悉除2課役《エツキ》1息2百姓之苦1」とある。エは役で、ツキは調である。即ち人夫に出ることと貢を納めること。エダチと訓む時は役に出ることのみとなる。徴はハタルと訓む。その例、紀記に多い。ハタルは無理に徴集すること。○汝毛半甘《イマシモナカム》――汝も泣くであらう。
〔評〕 法師の竹箆返しも、かなりひどく檀越にこたへたであらう。贈つた歌には及ばないが、これも巧に出來てゐる。法師は無税で、課役に服することを免れてゐたから、かういつて俗人をからかつたのである。この贈答には作者を明記してないのは遺憾である。或は二首共に同一人の作で、戯れに檀越になり、法師になつで詠んで見たのではあるまいかとの想像も浮ぶ。
 
夢(ノ)裡(ニ)作(レル)歌一首
 
3848 あらきだの しし田の稻を 倉につみて あなひねひねし 吾が戀ふらくは
 
荒城田乃《アラキダノ》 子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》 倉爾擧蔵而《クラニツミテ》 阿奈于稻于稻志《アナヒネヒネシ》 吾戀良久者《ワガコフラクハ》
 
私ガアノ女ヲ戀シク思フ心ハ、(荒城田乃子師田乃稻乎倉爾擧蔵而)嗚呼古クナツタ。永イ間ノカナハヌ戀ハ苦シイモノダ〔永イ〜傍線〕。
 
(85)○荒城田乃《アラキダノ》――荒城田乃は新墾の田の。新らしく開墾した田の。卷七湯種蒔荒木之小田矣《ユダネマキアラキノヲダヲ》(一一一〇)とある。○子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》――子師田は鹿猪の出て荒す田。卷十一に小山田之鹿猪田禁如《ヲヤマダノシシダモルゴト》(三〇〇〇)とある。○倉爾擧蔵而《クラニツミテ》――上代の倉は高いから、擧藏と書いてツミと訓ましめたのであらう。古義はコメテと訓んでゐる。○阿奈于稻于稻志《アナヒネヒネシ》――舊訓アナウタウタシとあるが、ウタウタシといふ語は他に例がないやうである。考にはウタテに同じとしてゐる。併し于は干の誤でアナヒネヒネシであらうと言つた、契沖説がよいのではあるまいか。ヒネヒネシは、今も物の盛を過きたことをヒネルといつてゐるのに當つてゐる。藏に積み蓄へた稻の古くなるのに譬へて、上三句を序詞としたのである。干稻の文字は上の意味に關係せしめて用ゐてある。アナヒネヒネシはああ久しくなつたといふので、戀の成らずして日を過したことである。
〔評〕 永い戀に惱みつつある心を述べてゐる。上句の序詞と干稻《ヒネ》との關係も面白い。別に夢の中の作らしい特異點はない。和歌童蒙抄と袖中抄とに出てゐる。
 
右(ノ)歌一首(ハ)忌部(ノ)首黒麿、夢(ノ)裡(ニ)作(リテ)2此戀歌(ヲ)1贈(ル)v友(ニ)覺(テ)而令(ルニ)誦(ミ)習(ハ)1如(シ)v前
 
忌部首黒麻呂は卷六(一〇〇八)參照。舊本不誦習とあるのは誤。代匠記に不を衍としてゐるが、西本願寺本に不を令に作るに從ふべきである。令誦習はヨミナラハシムルニ。その歌を歌はして見ると、右の通りに歌つたといふのである。作者は寶字二年八月に正六位上から、外從五位下になつたことが、續紀に見えてゐるが、これも天平十七年以前に遠く遡らない作である。
 
厭(フ)2世間無常(ヲ)1歌二首
 
3849 生死の 二つの海を 厭はしみ 潮干の山を しぬびつるかも
 
生死之《イキシニノ》 二海乎《フタツノウミヲ》 厭見《イトハシミ》 潮干乃山乎《シホヒノヤマヲ》 之努比鶴鴨《シヌビツルカモ》
 
(86)コノ世間ノ〔五字傍線〕生ト死トノ二ツノ苦シイ〔三字傍線〕海ガ厭ハシイノデ、私ハ此ノ世ノ中を免レテ、生死ヲ超越シタ〔私ハ〜傍線〕彼岸ニ到達シタイト、願ハシク思ツテヰルヨ。
 
○生死之二海乎《イキシニノフタツノウミヲ》――生死《シヤウジ》と音讀する説もあるが、舊訓のままがよい。生死の二つの海は代匠記精撰本に「生死の海は、華嚴經(ニ)云(ク)、何(レカ)能(ク)度(シテ)2生死海(ヲ)1入(ン)2佛智海1、海は深くして底なく限りなき物の、能人を溺らすこと、無邊の生死の衆生を沈没せしむるに相似たれば、喩ふるなり」とあつて、生死の世界から離脱し得ず、苦しんでゐるのを海に喩へたのである。○厭見《イトハシミ》――舊訓イトヒミテとあるのはよくない。略解の訓がよい。厭はしい故に。○潮干乃山乎《シホヒノヤマヲ》――代匠記精撰本、「潮干乃山は名所にあらず。生死を海に喩へたるに付て、海水の滿る時も山はさりげなき如く、涅槃の究竟の處には生滅の動轉もなければ、涅槃山と云故に、寂滅無爲の處に強て名付たり。鹽の滿ぬ處には、干ると云名もなけれど、生死の此岸より彼岸を指て假に潮干の山と云なり」とある。生死を超越した彼岸の境界をいふ。○之努比鶴鴨《シヌビツルカモ》――なつかしく慕はしく思つてゐるよの意。ツルとはあるが、現在の心境を述べてゐる。
〔評〕 全く佛教思想の厭世觀である。生死海といふ佛教の專門語を用ゐ、それに關連して、彼岸を潮干の山といつてゐるのは、巧である。
 
3850 世の中の 繁き借廬に 住み住みて 至らむ國の たづき知らずも
 
世間之《ヨノナカノ》 繁借廬爾《シゲキカリイホニ》 住々而《スミスミテ》 將至國之《イケラムクニノ》 多附不知聞《タヅキシラズモ》
 
私ハ此ノ〔四字傍線〕世ノ中ノ、面倒ナ假庵ニ永ク住シデヰテ、何時極樂ヘ行ケルカ〔九字傍線〕、行クベキ極樂ト云フ〔五字傍線〕國ヘノ方法ガ分ラナイヨ。
 
○世間之繁借廬爾《ヨノナカノシゲキカリイホニ》――世の中の事繁き假廬に。繁きは事繁く煩はしい意。シキと訓んで醜きとする説はよくあ(87)るまい。借廬といつたのは、この世は假の世で、假の住居だからである。○住々而《スミスミテ》――住みつづけて。○將至國之《イケラムクニノ》――到らむ國は行くべき國、即ち極樂國。○多附不知聞《タヅキシラズモ》――方法を知らぬよ。
〔評〕 この世を假と見、淨土を欣求する思想がよく現はれてゐる。以上二首は僧侶の作か。
 
右歌二首(ハ)、河原寺之佛堂(ノ)》裡(ニ)在(リ)2倭琴(ノ)面(ニ)1也
 
河原寺は飛鳥川の西、今、高市郡高市村大字河原にある。正しくは弘福寺といふ寺である。俗に瑠璃の礎石と言はれるものが今も遺つてゐる。齊明天皇の川原の宮の舊址として信ぜられてゐるが、孝徳天皇紀に既に川原寺の名が見えてゐる。敏達天皇の御代の草創のやうに傳へられてゐるけれども、確かではない。倭の字を舊本佞に誤つてゐる。倭琴は六絃琴。卷五(八一〇)に日本琴とあるに同じ、舊本、面の下、之とあるは也の誤であらう。考と古義とはこの註の前に、下の鯨魚取海哉死爲流の歌があつたものとし、二首は三首の誤としてゐる。從ひ難い。
 
3851 心をし 無何有の郷に 置きてあらば ※[草がんむり/貌]姑射の山を 見まく近けむ
 
心乎之《ココロヲシ》 無何有乃郷爾《ムカウノサトニ》 置而有者《オキテアラバ》 藐狐射能山乎《ハコヤノヤマヲ》 見末久知香谿務《ミマクチカケム》
 
(88)心ヲサヘ虚無ニシテ、自然ニマカセル〔虚無〜傍線〕無何有郷ニ置イタナラバ、仙人ノ住ムトイフ〔八字傍線〕、※[草がんむり/貌]姑射ノ山ヲ見ル事ガ出來ルノモ、近イデアラウ。
 
○無何有乃郷爾《ムカウノサトニ》――無何有乃郷は莊子に出てゐる語で、虚無の郷、無爲にして自然なる郷。莊子に「彼至人者歸(シテ)2精神(ヲ)乎無始(ニ)1而甘2瞑(ス)乎無何有之郷1」「周※[行人偏+扁]咸一(ノ)者異(ニシ)v名(ヲ)同(シテ)v實(ヲ)其|指《ムネ》一也。嘗相與(ニ)遊2乎無何有之宮(ニ)1、同合而論無v所2終窮(スル)1乎」「惠子謂(テ)2莊子(ニ)1曰、吾有2大樹1人謂2之(ヲ)樗1云々、莊子曰、今子有2大樹1、患2其無1v用、何不v樹2之(ヲ)於無何有之郷廣莫之野1」「厭則又乘2天(ノ)莽眇之鳥(ニ)1以出(デ)2六極之外1、而遊(ブ)2無何有之郷(ニ)1以處2壙※[土+良]之野1」など所々に見えてゐる。○※[草がんむり/貌]姑※[身+矢]能山乎《ハコヤノヤマヲ》――※[草がんむり/貌]姑※[身+矢]能山も莊子に「※[草がんむり/貌]姑姑射山有(テ)2神人1居(レリ)焉、肌膚若(シ)2氷雪1、綽約(トシテ)若(シ)2處士1、不v食2五穀(ヲ)1吸(ヒ)v風(ヲ)飲(ミ)v〓(ヲ)乘(リ)2風氣(ニ)1御(シ)2飛龍(ニ)1而遊(ブ)2四海之外(ニ)1、其神凝(テ)使dv物(ヲ)不(シテ)2疵※[病垂/萬](セ)而年穀熟(セ)u」とある。仙人の住んでゐる靈山。○見末久知香谿務《ミマクチカケム》――見むことは近からむの意。これを略解は「目に近く見むと也」と解し、古義は「目前に見つべき事の近からむとなり」と言つてゐる。即ち一は距離の近きこととし、一は時間の近いことに解してゐる。やがて仙境をも見得るであらうの意であらうから、時間に解した古義に從ふべきであらう。
〔評〕 老莊思想のあらはれとして、集中最も注意すべき歌である。無何有の郷、※[草がんむり/貌]孤射の山といふやうな、長い漢語を取入れた手際は、他に殆ど類例がない。作者を記さないのは遺憾である。
 
右歌一首
 
一首の下に作者の名が脱ちたのかと、略解にあり、古義は其處に作主未詳の四字を補つてゐる。いづれも尤もな疑問である。
 
3852 いさなとり 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ
 
鯨魚取《イサナトリ》 海哉死爲流《ウミヤシニスル》 山哉死爲流《ヤマヤシニスル》 死許曾《シヌレコソ》 海者潮干而《ウミハシホヒテ》 山者枯爲(89)禮《ヤマハカレスレ》
 
(鯨魚取)海ハ死ヌデアラウカ。イヤ死ヌコトハナイ〔九字傍線〕。山ハ死ヌデアラウカ。死ヌコトハナイ。イヤサウデハナイゾ〔死ヌコ〜傍線〕。死ネバコソ海ハ汐ガ干、山ハ木ガ〔二字傍線〕枯レルノダ。海モ山モ死ヌコトガアルノダ。實ニ無常ナ世ノ中ダナア〔海モ〜傍線〕。
 
○鯨魚取《イサナトリ》――枕詞。海で鯨を捕る意で、海に冠してある。一三一參照。○海哉死爲流《ウミヤシニスル》――海は死ぬか、否、海は死なない。死ニは名詞である。○山哉死爲流《ヤマヤシニスル》――山は死ぬか、否山は死なない。○死許曾《シヌレコソ》――死ねばこその意。シネコソ・シネバコソ・シナバコツなどの訓は面白くない。○海者潮干而《ウミハシホヒテ》――海は潮が干上つて。海の潮干を海の死と見てゐる。○山者枯爲禮《ヤマハカレスレ》――山の木は枯れるのである。これも山の死と見てゐる。
〔評〕 旋頭歌。前半は海や山は死なぬものだと言ひ、後半はそれを打消して、海も山も死ぬものだと答へてゐる。人間のみならず、世上の何物にも死はある。實に世は無常至極だといつてゐる。考・古義がこれを前の厭世間無常歌のうちに入れたのは、一應は尤もである。併し彼には二首とあり、又倭琴の面に記したもので、長さにもおのづから制限のあることであるから、内容のみを以て推斷することは出來ない。卷十三の高山與海社者山隨如此毛現海隨然直有目人者花物曾空蝉與人《タカヤマトウミコソハヤマナガラカクモウツシクウミナガラシカモタダナラメヒトハハナモノゾウツセミノヨヒト》(三三三三)と似て、更に海山の無常相をも嗟嘆してゐる 深刻な厭世觀だ。形式的にも整然としてゐる。
 
右歌一首
 
嗤(リ)2咲(フ)痩人(ヲ)1歌二首
 
3853 石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふ物ぞ 鰻とりめせ
 
(90)石麻呂爾《イシマロニ》 吾物申《ワレモノマヲス》 夏痩爾《ナツヤセニ》 吉跡云物曾《ヨシトイフモノゾ》 武奈伎取喫《ムナギトリメセ》 賣世反也
 
石麻呂サン〔二字傍線〕ニ私ハ〔二字傍線〕物ヲ申シ上ゲマス。アナタハ、大層痩セテヰナサルガ〔アナ〜傍線〕鰻ハ夏痩ニヨイト世間デ〔三字傍線〕云フモノデスゾ。ダカラ〔三字傍線〕鰻ヲ捕ツテ召上リナサイ。
 
○石麻呂爾《イシマロニ》――石麻呂は左註ある如く、吉田連老のこと。この人は甚だしく瘠せてゐた。○武奈伎取食《ムナギリメセ》――武奈伎は鰻。和名抄に「※[魚+壇の旁]魚、文字集略云。※[魚+壇の旁] 音天、旡奈岐」とある。今ウナギといふのはムナギの轉訛である。食の下に賣世反也とあるのは、食の字はメセと訓むといふ註である。
〔評〕 「吾物申す、武奈伎取りめせ」など丁寧な言ひ方になつてゐるのが、却つて、石麻呂をひやかす、皮肉な言葉に聞える。夏瘠の藥として、鰻を用ゐたのは、土用鰻の起源を示すもので、面白い。
 
3854 痩す痩すも 生けらばあらむを 將やはた 鰻をとると 河に流るな
 
痩々母《ヤスヤスモ》 生有者將在乎《イケラバアラムヲ》 波多也波多《ハタヤハタ》 武奈伎乎漁取跡《ムナギヲトルト》 河爾流勿《カハニナガルナ》
 
然シイクラ〔五字傍線〕痩セナガラデモ、生キテ居レバヨイデアラウノニ、併シ又、鰻ヲ捕ルトテ、河ニ入ツテ〔三字傍線〕流レナサルナ。
アナタハ、身體ガ輕イカラ、河ニ流サレテ溺レルカモシレナイ。用心ナサイ〔アナ〜傍線〕。
 
○痩々母《ヤスヤスモ》――瘠せながらも。ヤセヤセモと訓むのはわるい。○生有為將在乎《イケラバアラムヲ》――生きてあらばよくあらむを。生きてあるならば、それでよいだらうのに。○波多也波多《ハタヤハタ》――ハタは併し又といふやうな意になつてゐる。ハタを二つ重ね、間にヤを置いてある。ヤは詠嘆の助詞。卷一の爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》(七四)のハタヤと意は異なつてゐる。
〔評〕 前の歌を受けて、更に言葉をつづけた形である。初二句も皮肉であるが、鰻を捕ると河に流るなといつたのは、如何にも瘠せた、ふわふわと水に流れさうな、青瓢箪のやうな男らしくて、滑稽至極である。これに對(91)して石麻呂も一言なかるべからずであるが、何も傳つてゐないのは、どうしたのであらう。答歌があまりひどい惡口であつたのに閉口して、家持が載せなかつたものか。
 
右有(リ)2吉田連老1字(ヲ)曰(ヘリ)2石麻呂(ト)所謂仁教之子也、其(ノ)老爲(リ)v人(ト)身體甚痩(セタリ)雖2多(ク)喫飲(スト)1形(ハ)以(タリ)2飢饉(ニ)1、因(リテ)v此(ニ)大伴宿禰家持、聊(カ)作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1以爲(セリ)2戯(レ)咲(フコトヲ)1也
 
吉田連老即ち右麻呂は、どういふ人か、まくわからない。代匠記には「光仁紀云、寶龜九年二月辛巳内典佐外從五位下吉田連古麻呂爲2兼豐前介1。十年二月壬午後正五位下。天應元年四月巳丑朔癸卯正六位上。石麻呂を紀にあやまりて古麻呂になすなるべし」とあるが、古義は「字《アザナ》を記すべきに非ねば、別人《コトヒト》なり」と反對してゐる。新解は「文徳實録、嘉祥三年十一月の條に、興世書主の傳を記して、本姓は吉田氏、祖は吉田宜、父は石麻呂とあるによれば、仁敬といふは吉田宜の字で、石麻呂はその子である」とある。流布の文徳實録には古麻呂又は右麻呂とあるが、石麻呂とある本もあるのであらう。宜は卷五に見えた作者で、歿年は明らかでないが、享年七十と懷風藻にある。丁度天平十六七年頃、大伴家持と同輩位の子がありさうな年輩に見える。文徳實録の興世朝臣書主が、その人の子としても、年代が大體適合するやうである。代匠記の説は古義に述べたやうな理由で、簡單に退けることは出來ないやうに思ふ。ことに三代實録の記載の如く、石麻呂が父の代からの醫者であつたとすると、家持が石麻呂に、夏瘠に鰻を捕つて食べよと言つたのが、頗る面白くなるわけである。又文徳實録に、興世朝臣書主を「書主雖v長2儒門1、身稍輕捷、超2躍高岸1浮2渡深水1、」とあるのも、親讓りの瘠ぎすであつたやうにも思はれる。仁教は類聚古集・古葉略類聚抄などに仁敬とある。石麻呂の父の字《アザナ》で、文徳實録に從へば、吉田連宜のことである。舊本、身體甚疲とある疲は、古寫本多く痩に作つてあるに從ふべきだ。飢饉は飢饉の人。飢ゑてゐる人。
 
(92)高宮王詠(メル)2數種物(ヲ)1歌二首
 
高宮王は傳が全くわからない。或は高安王か。然らば天平十一年に大原眞人の姓を賜はつた人、同十四年十月に歿してゐる。
 
3855 かはらふぢに 延ひおほどれる 屎葛 絶ゆることなく 宮仕せむ
 
※[草がんむり/皀]莢爾《カハラフヂニ》 延於保登禮流《ハヒオホドレル》 屎葛《クソカヅラ》 絶事無《タユルコトナク》 宮將爲《ミヤツカヘセム》
 
私ハイツマデモ〔七字傍線〕(※[草がんむり/皀]莢爾延於保登禮流屎葛)絶エルコトガナク、宮仕ヲシタイモノデス。
 
○※[草がんむり/皀]莢爾《カハラフヂニ》――舊本に葛英爾とあつて、フチノキニと訓んである。併し類聚古集・西本願寺本などの古寫本多く※[草がんむり/皀]莢に作つてゐるに從ふべきである。考にクズバナニとよんだのに從ふ説も多いが、なほ古寫本を尊重したい。古來※[草がんむり/皀]莢と稱するものに二種ある。一は本草和名に 「皀莢 加波良布知乃岐」とあるもので、今のサイカチである。康頼本草に「皀角、佐伊加知」とある。一は和名抄葛類に本草云皀莢 造夾二音、加波良不知、俗云地結」とあるもので、雲實即ちジヤケツイバラといふ灌木である。この二者は早く混同せられてゐるが、延喜式典藥寮の條に、「皀莢《カハラフヂ》二兩、皀莢二分一銖」などと記してあるものは、サイカチのことらしく、その實が藥用になるのである。屎蔓の這ひついたものとしては、喬木なるサイカチよりも、灌木なるジヤケツイバラの方が似合はしい。よつて予はカハラフヂとよんで、ジヤケツイバラのことにしたいと思ふ。これを新訓にサウケフとよんでゐる。藥種としてはさうも言つたであらうが、到る所に多い野生の植物であるから、和名を以(93)て訓まねばならぬ。○延於保登禮流《ハヒオホドレル》――這ひ亂れてゐる。オホドルは亂れはびこること。オドロ(荊棘)と語源を同じうする動詞らしい。○屎葛《クソカヅラ》――屎葛は和名抄に、「細子草、辨色立成云、細子草、久曾可都良」とあり。謂はゆるヘクソカヅラと稱する蔓草である。莖葉共に惡臭を有してゐる。花は鐘状をなし、灰白色で、内面に紫色を帶びてゐる。俗にヤイトバナといふ。以上二句は絶事無《タユルコトナク》に冠した序詞。○宮將爲《ミヤツカヘセム》――宮の一字をミヤツカヘと訓むのは、少し無理のやうであるが、舊訓もさうなつてゐる。然るに類聚古集・大矢本・京大本などは、宦に作つてゐる。宦は宮仕といふ字であるから、これが原字であらう。
〔評〕 ※[草がんむり/皀]莢・屎葛・宮の三種を詠み込んである。詠數種物歌としては品目が尠ない。絶ゆることのない宮仕に譬へるものとしては、吉野川の清流などを材料とするのが例であるのに、刺だらけの※[草がんむり/皀]莢と、名を聞くだに臭い感じのする屎葛とを以て、序詞を作つたのは隨分ひどい話だが、そこに滑稽を藏してゐるのであらう。高宮王はどういふ御方か分らないけれども、皇室に對する敬意を缺いてゐるといふ、批評を受けてもやむを得まい。
 
3856 波羅門の 作れる小田を 食む烏 まなぶたはれて 幡ほこに居り
 
波羅門乃《バラモヌノ》 作有流小田乎《ツクレルヲダヲ》 喫烏《ハムカラス》 瞼腫而《マナブタハレテ》 幡幢爾居《ハタホコニヲリ》
 
婆羅門僧正〔二字傍線〕ガ作ツテヰル田ノ稻〔二字傍線〕ヲ食べル烏ガ、ソノ罰デ〔四字傍線〕、目ノフチガ腫レ上ツ〔二字傍線〕テ、幡桙ノ竿ノ〔二字傍線〕上ニ止マツテヰル。
 
○婆羅門乃《バラモヌノ》――婆羅門は梵語、Brahman に漢字を當てたもの。(門は臻攝 n 音尾である。淨行と譯す。印度四姓の最上の階級で、神に仕へる種族である。併しここに言ふ婆羅門は、中天竺の人|菩提仙那《ボーデイセーナ》姓は婆羅遲《バラドワーシヤ》のことで、聖武天皇から僧正に任ぜられ、婆羅門僧正と呼ばれてゐたのである。天平八年遣唐使の船が歸國する時に、林邑の樂師佛哲を伴つて、吉備眞備等と共に來朝し、勅によつて大安寺に住し、莊田を與へられてゐた。次の句に作有流小田《ツクレルヲダ》とあるのは、即ちその莊田であらう。○喫烏《ハムカラス》――田を喰ひ荒らす鳥。○瞼腫而《マナブタハレテ》――瞼は和名抄(94)に、「瞼、唐韻云、瞼 巨險反、又居儼反、末奈布太」とある。目の蓋《フタ》の意か。この句は烏の目のふちが腫れての意。婆羅門の作つた田を喰ひ荒した爲に、その罰で烏の眼瞼が腫れたのであらう。○幡幢爾居《ハタホコニヲリ》――幡幢は旗を附けた桙。幡は和名抄調度部伽藍具に、「幡、涅槃經云、諸香木上懸2五色幡1 波太又見2征戰具1」征戰具に「者工記云、幡、音飜、波太、旌旗之惣名也」と出てゐて、旗のことである。ハタはもと布帛のこと、それを織る具即ち機《ハタモノ》をも略してハタといふのである。幡を梵語とする説は當るまい。幢は旌旗の屬で、儀衛又は指麾などに用ゐるものである。和名抄には「寶幡、華嚴經偈云、寶幢諸幡盖訓 波多保古」とある。幢の一字をもハタホコと訓む。ハタホコは要するに幡を附けた桙で、日像幢、月像幢の如きその一種であるが、ここのは、寺院の庭などに立てたものをいふのである。高楠順次郎氏は、説法し布教する時に、寺院の庭に幡を建てることが、必要の習慣となつてゐたと言はれ、婆羅門僧正の説法の感化力のために、自分の所行を後悔して涙を流し、烏の眼が腫れて、しをしをとして幡ほこに居るといふ意味だと説明して居られる(高楠氏の説は「天平文化」による)。烏の眼が腫れたのは、後悔して涙を流したと見るよりも、僧正の田を喰ひ荒した罰と見る方がよいであらうが、ともかく以上の如く見る時、その場の情景も明らかに理解し得るのである。
〔評〕 この歌は婆羅門・田・烏・瞼・幡幢の五種を詠み込んだもの。婆羅門僧正の説法と、その靈驗が鳥類にまで及んだことが詠んであり、又各所の寺院で幡桙を立ててゐたことなども知られ、當時の佛教弘布の状態がわかる貴重な作品である。その用語と調子の上に、一種の滑稽味があらはれてゐるのも面白い。この種の作品としては秀逸といつてよい。
 
戀(フル)2夫君(ヲ)歌一首
 
3857 飯はめど うまくもあらず 行き往けど 安くもあらず 茜さす 君が心し 忘れかねつも
 
飯喫騰《イヒハメド》 味母不在《ウマクモアラズ》 雖行往《ユキユケド》 安久毛不有《ヤスクモアラズ》 赤根佐須《アカネサス》 君之情志《キミガココロシ》 忘(95)可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
私ハ〔二字傍線〕飯ヲ食ベテモ、ウマクモナシ、外ヲ歩イテモ心ガ落着カズ、只〔傍線〕(赤根佐須)貴方ノ御親切ナ〔四字傍線〕御心ガ忘レカネマスヨ。
 
○飯喫騰《イヒハメド》――略解にはイヒクヘドとあるが、前にも喫をハムに用ゐてゐる。○雖行往《ユキユケド》――從來の諸訓アリケドモ或はアルケドモとあるが、新訓にユキユケドとあるのが、文字からいへば當つてゐる。意味からいへば絶えず歩くことになつて,それほどに言はなくても、よいところのやうに思はれるが、輕くいつてゐるものと見て、新訓に從はう。○安久毛不有《ヤスクモアラズ》――心が安らかでない。心の落ちつかぬことであらう。○赤根佐須《アカネサス》――枕詞。赤い色をしてゐる意であるから、美しい意として君に冠するのである。
〔評〕 七句からなつてゐる。短歌でもなく旋頭歌でもない。長歌としては、これより短い形式はないわけである。謂はゆる小長歌に屬すべきものであらう。左註によると、この歌も、武きもののふの心を和げたものである。
 
右歌一首傳云、佐爲王有2近習(ノ)婢1也于v時(ニ)宿直《トノヰ》不v遑《イトマアラ》、夫君(ニ)難(シ)v遇(ヒ)、感情馳(セ)結《ムスボホレ》、係戀實(ニ)深(シ)、於v是、當宿之夜、夢(ノ)裡(ニ)相見(ル)、覺寤(メテ)探(リ)抱(クニ)曾(テ)無(シ)v觸(ル)v手(ニ)、爾乃哽※[口+周]歔欷(シテ)高聲(ニ)
吟2詠(シキ)此(ノ)歌(ヲ)1、因(テ)王聞(キテ)v之(ヲ)哀慟(シ)永(ク)免(シキ)2侍宿(ヲ)1也
 
任爲王は葛城王の弟。天平八年十一月、橘宿禰佐爲となつた人。馳結は珍らしい熟語である。馳せ結ぼれと訓むか。心のあくがれ亂れるをいふのであらう。哽※[口+周]は古葉略類聚抄・西本願寺本などの諸古寫本、多く※[口+周]を〓に作る。即ち哽咽《カウエツ》である。哽も咽も共にむせぶこと。歔欷はすすりなき。
 
3858 この頃の 吾が戀力 記し集め 功に申さば 五位のかかふり
 
(96)比來之《コノコロノ》 吾戀力《ワガコヒチカラ》 記集《シルシツメ》 功爾申者《クウニマヲサバ》 五位乃冠《ゴヰノカカフリ》
 
コノ頃ノ私ノ戀ノ爲ノ〔二字傍線〕骨折ヲ文書ニ〔三字傍線〕記シ集メテ、功績トシテ、官ニ〔二字傍線〕申シ上ゲタナラバ、御褒美トシテ〔六字傍線〕、五位ノ冠ニ相當スルデアラウ〔九字傍線〕。
 
○吾戀力《ワガコヒチカラ》――戀力は戀の勞即ち戀の骨折り。代匠記初稿本に、「周禮(ニ)王功曰(ヒ)v勲(ト)、國功曰v功(ト)、民功曰v庸(ト)、事功曰v勞(ト)、治功曰v力(ト)戰功曰v多(ト)」とある。○記集《シルシツメ》――記し集め。古義に集をツメと訓んだのがよい。○功爾申者《クウニマヲサバ》――勲功として上申したならば。○五位乃冠《ゴヰノカカフリ》――五位の冠位に相當する。この句の下に、「ニ當ル」といふやうな言葉が略されてゐる。冠は即ち冠位で、始め位階は冠によつて表章せられたのであつたが、大寶元年新令によつて、冠を賜ふことを止め、位記のみを賜はつたけれども、なほ位階を冠《カカフリ》と稱したのである。その制によれば、五位以上は勅授となつてゐたから、五位に叙せられるのは、今日で言へば勅任官になるのと同じである。
〔評〕 この頃の自分の戀故の勞力を上申したら、勅任官になるだけの功績があるといふのだから、實に振つたものである。戀の勞苦の多いことを述べる點は、卷四の戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄《コヒクサヲチカラクルマニナナクルマツミテコフラクワガココロカラ》(六九四)と同じであるが、これは全く滑稽を基調としてゐる。
 
3859 この頃の 吾が戀力 たばらずは みさとつかさに 出でて訴へむ
 
頃者之《コノゴロノ》 吾戀力《ワガコヒチカラ》 不給者《タバラズハ》 京兆爾《ミサトツカサニ》 出而將訴《イデテウタヘム》
 
コノ頃ノ私ガ戀ノ爲ノ〔二字傍線〕骨折ニ御褒美ヲ〔四字傍線〕下サラナイナラバ、私ハ訴訟ノ事務ヲ取扱フ〔私ハ〜傍線〕、京職ノ役所ニ出テ、訴ヘヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○不給者《タバラズバ》――褒賞を賜はらないならば。○京兆爾《ミサトツカサニ》――舊本兆を〓に誤り、京〓をミヤコと訓み、次句につづけミヤコニイデテとなつてゐる。考に、京兆をミサトヅカサと訓んだのがよい。天武天皇紀に京職をミサトツカサ(97)と訓してある。京兆は京職の唐名。左京職と右京職で京中を分管し、戸口・田宅・租税・商業・道路・橋梁及び訴訟訟のことを掌つてゐた。大寶元年に制定せられた。
〔評〕 前歌の連作。どこまでも滑稽的に言つてゐる。作者は分らないが、京職の設置せられた、大寶元年以後の作なることは明らかである。
 
右歌二首
 
筑前國志賀白水郎(ノ)歌十首
 
志賀の海士の歌とあるが、左註の終にあるやうに、山上憶良の作に違ひない。
 
3860 おほきみの 遣はさなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖ふる
 
王之《オホキミノ》 不遣爾《ツカハサナクニ》 情進爾《サカシラニ》 行之荒雄良《ユキシアラヲラ》 奧爾袖振《オキニソデフル》
 
天子樣ガオ遣シニナツタノデモナイノニ、自分ノ心カラ〔六字傍線〕サシ出ガマシク、人ノ頼ミヲ引受ケテ、對島ヘ出カケテ〔人ノ〜傍線〕行ツタ荒雄ハ、沖ニ出テ別ヲ惜シンデ〔八字傍線〕袖ヲ振ツテヰル。
 
○情進爾《サカシラニ》――ここの情進の二字を、古くからサカシラと訓んでゐる。後に情出爾《サカシラニ》(三八六四)とあるのも同じである。サカシラは賢ぶる意であるが、ここは吾が心から進んでやることであらう。○行之荒雄良《ユキシアラヲラ》――ラは意味のない助詞。卷三の憶良等者《オクララハ》(三三七)、この卷の坂門等之《サカトラガ》(三八二一)のラと同じ。○奧爾袖振《オキニソデフル》――沖で袖を振つてゐる。海に溺れて袖を振るとするもの、救を求めて袖を振るとするもの、別を悲しんで袖を振るとするもの、以上の三説がある。後説を採る。
〔評〕 官命でもないのに、醉狂に代つて引受けた荒雄の、出船の淋しい姿を詠んでゐる。下の官許曾《ツカサコソ》(三八六四)とよ(98)く似てゐる。
 
3861 荒雄らを 來むか來じかと 飯盛りて 門に出で立ち 待てど來まさず
 
荒雄良乎《アラヲラヲ》 將來可不來可等《コムカコジカト》 飯盛而《イヒモリテ》 門爾出立《カドニイデタチ》 雖待來不座《マテドキマサズ》
 
對馬ヘ行ツタ〔六字傍線〕荒雄ガ歸ツテ〔三字傍線〕來ルカ、來ナイカト、心配シナガラ、留守居ヲシテヰル妻子ハ〔心配〜傍線〕、飯ヲ椀ニ盛ツテ、門ニ出テ待ツテヰルケレドモ歸ツテ〔三字傍線〕來ナイ。
 
○將來可不來可等《コムカコジカト》――來るだらうか來ないだらうかと。卷十に梅花咲而落去者吾妹乎將來香不來香跡吾待乃木曾《ウメノハナサキテチリナバワキモコヲコムカコジカトワガマツノキゾ》(一九二二)とある。○飯盛而《イヒモリテ》――飯を器に盛つて。今も人の留守中、その人の爲に、飯を盛つて供へて置く風習があるのは、この遺風であらう。
〔評〕 留守居の妻子どもが、焦慮してゐる氣分がよんである。留守中飯を盛つて待つのは、古俗研究資料として好材料である。
 
3862 志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが よすがの山と 見つつ偲ばむ
 
志賀乃山《シカノヤマ》 痛勿伐《イタクナキリソ》 荒雄良我《アラヲラガ》 余須可乃山跡《ヨスガノヤマト》 見管將偲《ミツツシヌバム》
 
志賀ノ山ヲヒドク伐ルナヨ。アノ山ハ荒雄ノ住ンデヰル島ノ山ダカラ、アノ山ヲ〔アノ山ハ〜傍線〕荒雄ノ縁故ノアル山ト思ツテ〔三字傍線〕眺メナガラ、荒雄ヲ〔三字傍線〕思ヒ慕ハウ。
 
○荒雄良我余須可乃山跡《アラヲラガヨスガノヤマト》――荒雄と關係ある山として。荒雄の住む島の山であるから、彼と馴染深いわけである。略解には、「荒雄を此志賀山に葬りたればかく詠めり」とある。從ひ難い。荒雄は沖で死んだので、遺骸を葬つたらしい形跡はない。下にも年之八歳乎待騰來不座《トシノヤトセヲマテドキマサズ》(三八六五)とある。
(99)〔評〕 荒雄の記念として、眺めようと思ふ志賀山が、濫伐の爲、山容の改るのを嫌つたのである。敬虔な思慕。
 
3863 荒雄らが 行きにし日より 志賀の海人の 大浦田沼は さぶしくもあるか
 
荒雄良我《アラヲラガ》 去爾之日從《ユキニシヒヨリ》 志賀乃安麻乃《シカノアマノ》 大浦田沼者《オホウラタヌハ》 不樂有哉《サブシクモアルカ》
 
荒雄ガ出カケテ行ツタ日カラ、志賀ノ海士ドモガ、仕事ヲスル〔五字傍線〕大浦ノ田ノ沼地ハ淋シイヨ。
 
○大浦田沼者《オホウラタヌハ》――わからない句である。代匠記精撰本に「大浦田沼は海邊に田ありて、それに沼水を任すを云歟」とあり、考にも「志賀の大浦田の沼なり。まを略」とある。その他の諸書大體同樣であるが、新考はこれを夫繩田服者《ソノナハタギハ》の誤とし、網の繩をたぐる事と解してゐる。併し改字は全く根據のない臆測で、夫は集中ソノと訓んだ例はない。やはり大浦を地名とし、田沼は其處の田の沼状をなしてゐるのをさしたのであらう。つまり水田のことであらう。九州萬葉手記に「さて私は地名と考へて太宰管内志を調べましたところ、『(海路記)に大浦田沼と云ふ名所志賀邊に有と、歌枕にもあり。(宗氏家譜)武藤判官知宗對馬島の阿比留平太郎征伐の件に、浦田と云姓も見えたり。吾友(香月春岑)云志賀の島なる勝馬村の内に、大浦田といふ所ありて、古の田沼のさまなどもかづかづ殘れりと云へりき』とありましたので、志賀海神杜に賽しましたついでに、境内入口の左側から、背後の丘陵を辿り勝馬村を探りました。この村は三方に山を控へ、谷ふところにありまして、百餘戸農を營んでゐます。北は海岸の砂丘まで一面田畑が續いてゐます。この勝馬村の中央から左に、弘村に向つて一丘越したところに、大浦と云ふ地があります。今は山麓から北海岸に向つて段段畑が展けてゐますが、古くはこの田は水田で、海水も入つて來てゐたとのことでした。もし地名とすればこの邊ではなかつたでせうか」とある。○不樂有哉《サブシクモアルカ》――舊訓カナシクモアルカ、代匠記初稿本カナシクモアレヤ、同精撰本サビシクモアルカ、考サブシカルカモ、古義は有の上、不の字脱として、サブシカラズヤと訓んでゐる。文字のままで、サブシクモアルカと訓むべきである。淋しいことかなの意。
〔評〕 荒雄行きて歸らず、その耕した大浦の水田も、彼の姿を見ずして寂しくなつたといふのである。意味の不(100)明瞭な點もあるが、淋しい氣分だけはわかつてゐる。
 
3864 つかさこそ さしてもやらめ さかしらに 行きし荒雄ら 波に袖ふる
 
官許曾《ツカサコソ》 指弖毛遣米《サシテモヤラメ》 情出爾《サカシラニ》 行之荒雄良《ユキシアラヲラ》 波爾袖振《ナミニソデフル》
 
役人コソ指命シテ對馬ヘ〔三字傍線〕遣リモシヨウガ、自分ノ心カラ〔七字傍線〕、差シ出ガマシク、出カケテ行ツタ荒雄ハ、別ヲ惜シンデ〔六字傍線〕波ノ上デ袖ヲ振ツテヰルヨ。
 
○官許曾指弖毛遣米《ツカサコソサシテモヤラメ》――役人こそ荒雄を指命して派遣もしようが。古義に「その身のあづかりうけもちたる官職ならばこそ、朝より差(シ)科(セ)て遣すべき理なれ。さる事にあらず、云々」とあるのは少し違つてゐる。
〔評〕 前の王之(《オホギミノ》(三八六〇)と内容も用語も酷似し、殆ど別歌として掲げる要がない程である。
 
3865 荒雄らは めこのなりをば 思はずろ 年の八とせを 待てど來まさず
 
荒雄良者《アラヲラハ》 妻子之産業乎波《メコノナリヲバ》 不念呂《オモハズロ》 年之八歳乎《トシノヤトセヲ》 待騰來不座《マテドキマサズ》
 
荒雄ハ妻ヤ子ノ世渡リノ業ヲ、何トモ思ハナイト見エル〔四字傍線〕ヨ。モウ出カケテカラ〔八字傍線〕、長年ノ間ヲイクラ〔三字傍線〕待ツテヰテモ、出タキリデ、歸ツテ〔八字傍線〕オイデニナラナイ。
 
○妻子之産業乎波《メコノナリヲバ》――産業は舊訓ワザとあるが、代匠記精撰本にナリと訓んだのがよい。ナリは生成の義で農業によつて物を産出すること。轉じて人の生活する家業をいふ。ナリハヒに同じ。○不念《オモハズロ》――ロは助詞で、輕い詠嘆の意があるやうである。この句で切れてゐる。古義に「念はずあるらむといふ意と聞えたり」とある。ラムから來たロは今も筑前の方言として用ゐられてゐるが、これはそれとは別である。もしラムと同じならば思ハヌロとあるべきであらう。
(101)〔評〕 ロといふ助詞を用ゐたのは珍しい。或は筑前地方の當時の方言を採つたものか。三句切になつてゐる。
 
3866 沖つ鳥 鴨とふ船の かへり來ば 也良の埼守 早く告げこそ
 
奧鳥《オキツドリ》 鴨云船之《カモトフフネノ》 還來者《カヘリコバ》 也良乃埼守《ヤラノサキモリ》 早告許曾《ハヤクツゲコソ》
 
荒雄ガ乘ツテ行ツタ〔九字傍線〕、(奧鳥)鴨トイフ名ノ〔二字傍線〕船ガ、歸ツテ來タナラバ、也良ノ崎ノ番人ヨ〔傍線〕、早クソレヲ〔三字傍線〕知ラセテクレヨ。
 
○奧鳥《オキツドリ》――枕詞。鴨《カモ》とつづく意は明らかである。○鴨云舟之《カモトフフネノ》――鴨云舟《カモトフフネ》は鴨といふ舟。鴨は舟の名である。○也良乃埼守《ヤラノサキモリ》――也良の埼にある防人。也良の埼は能許《ノコ》島(殘島)の北端の岬。今、訛つて荒崎といつてゐる。能許島については、卷十五能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》(三六七〇)參照。○早告許曾《ハヤクツゲコソ》――コソは願望の助詞。
〔評〕 荒雄を待つ家の人の心。荒雄の乘つて行つた船は、太宰府の官船で、相當大きなものであつたらう。鴨といふ名も、大船であるから附いてゐたものか。ともかく船名が詠まれてゐるのは珍らしい。
 
3867 沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の埼 たみて榜ぎ來と 聞かれ來ぬかも
 
奥鳥《オキツトリ》 鴨云舟者《カモトフフネハ》 也良乃埼《ヤラノサキ》 多未弖榜來跡《タミテコギクト》 所聞許奴可聞《キカレコヌカモ》
 
荒雄ガ乘ツテヰル〔八字傍線〕(奧鳥)鴨トイフ船ハ、也良ノ崎ヲ廻ツテ、漕イデ歸ツテ〔三字傍線〕來ルト人ノ話ニモ〔五字傍線〕聞エテ來ナイヨ。
 
○多末弖榜來跡《タミテコギクト》――タミテは回つて。卷三|礒前榜手回行者《イソノサキコギタミユケバ》(二七三)とある。○所聞許奴可聞《キカレコヌカモ》――古義は舊本、禮を衣の誤としキコエコヌカモ、新訓は古葉略類聚抄に、禮を衣に作るに依つてキコエコヌカモとし、新解は同じく古葉略類聚抄によつてキカエコヌカモと訓んでゐる。校本萬葉集によると、禮の異本としては、類聚古集が夜、古葉略類聚抄が衣となつてゐるだけである。さうして衣は常に阿行のエに用ゐられて。也行に用ゐたのは卷十八に也末古衣野由伎《ヤマコエヌユキ》(四一一六)の一例があるのみで、それは轉寫の際の誤であらうと考へられてゐる。從つて(102)この禮を衣の誤たすることは、慎重な考慮を要するわけである。也行に活用するレ・ルが上代に於いてエ・ユであつたことは確であるが、レ・ルが無かつたとは斷言出來ない。卷五に、唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》(八九四)とあるはその一例であり、續紀の宣命にもこの用法を發見するのである。だから、ここは、舊本のままにして置く方が無難であらう。キカレコヌカモは人の話にも聞かれ來ないなあ、即ち聞えて來ないことよと詠歎したのである。
〔評〕 前歌で述べた期待が、全く裏切られて、沓として消息のない悲しみを歌つてゐる。
 
3868 沖行くや 赤ら小船に つとやらば けだし人見て 解きあけ見むかも
 
奥去哉《オキユクヤ》 赤羅小船爾《アカラヲブネニ》 ※[果/衣]遣者《ツトヤラバ》 若人見而《ケダシヒトミテ》 解披見鴨《トキアケミムカモ》
 
沖ヲ漕イデ行ク、朱塗リノ小舟ニ言傳ヲシテ、荒雄ノ處ヘ〔十字傍線〕、物品ヲ送リタイト思フガ、サウシ〔九字傍線〕タナラバ、多分人ガ、ソレヲ〔三字傍線〕見テ開ケテ見ルデアラウカ。人ニ頼ンデ物モ送ルコトガ出來ナイノハ悲シイ〔人ニ〜傍線〕。
 
○奧去哉《オキユクヤ》――沖を漕いで行く、ヤは輕く添へた詠歎助詞で切れ字ではない。○赤羅小船爾《アカラヲブネニ》――赤羅小船は赤乃曾保船《アケノソホブネ》(二七〇)・赤曾朋船《アケノソホブネ》(三三〇〇)とあつたのと同じく、赤色の塗料を施した船。これは當時としては立派な船で、即ち官船であつたのであらうと思はれる。○※[果/衣]遣者《ツトヤラバ》――※[果/衣]は藁などに包んだ物をいふのが原義で、轉じて土産・贈物の意となる。ここは贈物。○若人見而《ケダシヒトミテ》――舊訓ワカキヒトミテとあるのは論外であるが、考にモシモヒトミテとあるのもよくない。若君香跡《ケダシキミカト》(二六九三)・若雲《ケダシクモ》(二九二九に傚つて、若はケダシと詠むべきである。○解披見鴨《トキアケミムカモ》――考にヒラキミムカモとあるが、舊訓のままがよい。
〔評〕 荒雄の家に留守居する妻の心を詠んだもの。夫の許へ贈物をしようと思ふが、人に開けて見られるのが恥かしいといふので、女らしい心づかひである。
 
3869 大船に 小船引きそへ かづくとも 志賀の荒雄に かづきあはめやも
 
(103)大舶爾《オホブネニ》 小船引副《ヲブネヒキソヘ》 可豆久登毛《カヅクトモ》 志賀乃荒雄爾《シカノアラヲニ》 潜將相八方《カヅキアハメヤモ》
 
大キイ船ニ小サイ舟ヲ引キ添ヘテ、海ヘ漕イデ出テ、澤山ノ人デ海ノ中ニ〔海ヘ〜傍線〕潜ツテ探シテ〔二字傍線〕モ、志賀ノ荒雄ニハ、潜ツテ水ノ中デ〔四字傍線〕逢フコトハ出來マイヨ。悲シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○小船引副《ヲブネヒキソヘ》――大船の後に小船を曳いて一緒にして。多勢の人が大船小船に分乘して、海に出かけることを言つてゐる。○可豆久登毛《カヅクトモ》――海中に潜つても 海中に潜つて荒雄を探してもの意。○潜將相八方《カヅキアハメヤモ》――潜つてゐる中に出逢ふことがあらうや、とても見込がないといふのである。
〔評〕 いよいよ荒雄の生存の見込が、なくなつたことを悲しんでゐる。結句が絶望的の叫である。以上十首の歌は連作になつてゐるが、思想的に見て必ずしも順序が立つてはゐない。併し冒頭は荒雄の出發について歌ひ、最後は不歸の客となつたことの絶望の聲であるから、全く帽序がないでもない。
 
右、以(テ)2神龜年中(ヲ)1、大宰府、差(シテ)2筑前國宗像郡之百姓|宗形部津麿《ムナカタベノツマロヲ》1充(ツ)2對馬乃送(ル)v粮(ヲ)舶(ノ)〓師《カトリニ》1也、于v時津麻呂、詣(リテ)2於滓屋郡志賀村(ノ)白水郎荒雄之許(ニ)1語(リテ)曰(ク)、僕有(リ)2小事1、若疑(フラクハ)不v許(ル)歟、荒雄答(ヘテ)曰(ク)、走《ワレ》雖v異(ニスト)v郡(ヲ)同(クスル)v船(ヲ)日久(シ)、志篤(シ)2兄弟(ヨリ)1、在(リ)2於殉(スルニ)1v死(ニ)、豈復(タ)辭(マンヤ)哉、津麿曰(ク)、府官差(シ)v僕(ヲ)充(ツ)2對馬(ノ)送(ル)v粮(ヲ)舶(ノ)〓師《カトリニ》1客齒袁(ヘ)老(イテ)不v堪2海路(ニ)1、故來※[衣+弖]候(ス)、願(ハクハ)垂(レヨ)2相替(ルコトヲ)1矣、於v是荒雄許(シ)諾(ヒテ)遂(ニ)從(ヒ)2彼事(ニ)1、自(リ)2肥前國松浦縣美禰良久埼1發(シ)v舶(ヲ)直(ニ)射(シテ)2對馬(ヲ)1渡(ル)v海(ヲ)、登時《ソノトキ》忽(ニ)天暗冥(ニ)暴風交(ヘ)v雨(ヲ)竟(ニ)無(クシテ)2順風1沈2没(ス)海中(ニ)1焉、因(リテ)v斯(ニ)妻子等不v(104)勝2犢慕(ニ)1、裁2作(ス)此謌(ヲ)1或(ハ)云(フ)、筑前國守山上憶良臣、悲2感(シ)妻子之傷(ヲ)1、述(ベテ)v志(ヲ)而作(レリト)2此歌(ヲ)1
 
差は差使す、擇ぶなどの意。百姓は庶民、人民。宗形部津麻呂は傳がわからない。對馬送v粮舶は、主税式上に、「凡筑前筑後肥前肥後豐前豐後等國、毎年穀二千石、漕2送對馬島1以充2島司及防人等(ノ)粮1」雜式に「凡運2漕對馬島粮者、毎國作v番以運送」とある。※[木+施の旁]師は和名抄に、「舵、唐韻云、舵、徒可反、上聲之重、字亦作※[舟+施の旁]正船木也漢語抄云、柁、船尾也、或作v※[木+施の旁]、和語云太以之、今案舟人呼2挾※[木+少]1爲2※[舟+施の旁]師1是」とある。舵取。船頭。滓屋郡は筑前糟屋郡舊本、滓を澤に誤つてゐる。西本願寺本によつて改む。走は玉篇に僕也とある。府官は太宰府の官人。容齒は容貌年齡。※[示+弖]侯は祗侯に同じ。相替は舊本替を賛に誤つてゐる。西本願寺本によつて改む。願垂2相替1矣は、どうぞ替つて下さいといふのである。美禰良久《ミネラク》埼は、袖中抄にこの文を引いて、美彌良久とあるによつて、代匠紀精撰本に禰は彌の誤としてゐる。續日本後記に「承和四年七月癸未、太宰府馳傳言、遣唐三ヶ船共指2松浦郡旻樂埼1發行」とあつて旻樂はミミラクと訓まれてゐる。併し旻は臻攝眞韻n音尾の文字であるから、ミネであつてミミではない筈だ。舊本のままにしておくがよい。旻樂は五島の福江島の西北端、今の三井樂村で、古昔外國に赴かむとする船舶は、此所に來つて天氣を見定め、朝鮮海峽を渡り、或は直接に楊子江を指してここを出帆したのである。卷十五の遣新羅使一行のやうな航路もあるのに、わざわざ旻樂まで行つて、對馬へ渡るのは、迂回のやうに見えるが、この方が却つて普通であつたのかも知れない。なほ對馬への送粮船が難破したことは、續紀に、「寶龜三年十二月己未、太宰府言、壹岐島掾從六位上上(ノ)村主墨繩等、送2年粮於對馬島1俄遭2逆風1船破人没、所v載之穀隨復漂失云々」とあり、屡々あつたことである。犢慕は舊本慕を暴に誤る。類聚古集によつて改む。小牛が母を慕ふが如く慕ふ心。この註の經に、或云としで、筑前國守山上憶良臣が妻子の傷を悲感し、志を述べて此の歌を作つたとあるが、右の十首は決して荒雄の妻子の作ではなく、憶良がその心になつて作つたものに相違ない。彼の(105)作には、かの熊凝の歌(八八六)を始として、他人の身になつて作つたものが尠くない。
 
3870 紫の 粉滷の海に かづく鳥 珠かづき出でば 吾が玉にせむ
 
紫乃《ムラサキノ》 粉滷乃海爾《コカタノウミニ》 潜鳥《カヅクトリ》 珠潜出者《タマカヅキイデバ》 吾玉爾將爲《ワガタマニセム》
 
(紫乃)粉滷ノ海デ水ノ中ヘ潜ル鳥ガ、若シ〔二字傍点〕玉ヲ取ツテ來タナラバ、ソノ玉ハ〔四字傍線〕私ノ玉ニシヨウ。
 
○紫乃《ムラサキノ》――枕詞。紫の色の濃い意で、粉滷乃海につづく。○粉滷乃海爾《コカタノウミニ》――粉滷の海は卷十二に越懈乃子難懈乃島楢名君《コシノウミノコカタノウミノシマナラナクニ》(三一六六)とあるから、北陸の何處かの海であらうが、今は知り難い。
〔評〕 水鳥が海中に潜入しては、浮かんで來る樣が、海人の潜入して鰒王などを採るのに似てゐるから、こんなことを詠んだものであらう。上代人らしい童心のあらはれた歌である。
 
右歌一首
 
3871 角島の せとの稚めは 人のむた あらかりしかど 吾がむたはにぎめ
 
角島之《ツヌシマノ》 迫門乃稚海藻者《セトノワカメハ》 人之共《ヒトノムタ》 荒有之可杼《アラカリシカド》 吾共者和海藻《ワガムタハニギメ》
 
角島ノ瀬戸ニ生エテヰル若海布ハ、他人ノ爲ニハ、ヒドカツタケレドモ、私ノ爲ニハ、穩ヤカデアツタ。アノ若イ女ハ他人ニハ、ツラク當ツタケレドモ、私ニハ穩ヤカニ私ノ心ニ從ツテクレタヨ。ヨイ女デアツタ〔アノ〜傍線〕。
 
○角島之《ツヌシマノ》――角島は延喜式に、「長門國角島牛牧場」とある。長門國豐浦郡の西北、日本海中にある島。その夢崎に今、燈臺が建てられてゐる。○迫門乃稚海藻者《セトノワカメハ》――迫門はこの島と島戸浦との間の海峽で、海士ケ瀬と呼ぶ潮流の早いところである。稚海藻《ワカメ》は若海布。若女に通ず。○人之共《ヒトノムタ》――ムタは共にの意なるを常としてゐるが、ここでは、爲にの意に用ゐてある。他人の爲に。○荒有之可杼《アラリシカド》――荒かつたけれども。他人にはつらく當つた(106)けれども。○吾共者和海藻《ワガムタハニギメ》――私の爲には親切であつた。上に稚海藻といつてあるので、荒有之《アラカリシ》を受けて、和海藻といつたのである。舊訓これをもワカメと訓んだのはよくない。和名抄に「海藻、本草云、海藻 邇岐米、俗用2和布字1味苦鹹寒無v毒者也」とある。
〔評〕 角島あたりを旅した男が、所の海女などに親しんだ時の歌か。稚海藻で若い女を連想せしめるやうにしたのも巧だが、結句を和海藻で受けたのもおもしろい。第四句は荒海藻なりしかどと言つても、よささうなところである。
 
右歌一首
 
3872 吾が門の 榎の實もり喫む 百千鳥 千鳥は來れど 君ぞ來まさぬ
 
吾門之《ワガカドノ》 榎實毛利喫《エノミモリハム》 百千鳥《モモチドリ》 千鳥者雖來《チドリハクレド》 君曾不來座《キミゾキマサヌ》
 
私ノ家ノ〔二字傍線〕門ノ傍ニ生エテヰル〔七字傍線〕榎ノ木ノ實ヲ食ベル澤山ノ鳥、ソノ澤山ノ鳥ハ飛ンデ來ルガ、私ガオ待シシテヰル〔私ガ〜傍線〕貴方はオイデニナリマセヌ。
 
○榎實毛利喫《エノミモリハム》――榎は欅に似た喬木で、人のよく知るところである。果實は小豆大の球状果。始は青いが後黄赤色を呈し甘味がある。秋の頃熟する。毛利喫《モリハム》は、守りて食む即ち枝を離れず、目守りて食む意とも、モリはムレの轉で、群れて食む意とも解せられる。又モギトリて食むと見る説もたる。川村悦磨氏は萬葉集傳説歌考に土佐の幡多の方言では今も「榎實もりに行かんか」「ぐりん(木の實の名)もりに行かう」などと使はれ「木から扱き取つてその上食ふ」といふ意味だと言つてをられるのは、注意すべき説である。ともかく、この場合、毛利喫《モリハム》は啄み食(107)ふの意と見るのが最も穩やかで、他の諸説はいづれもあてはまらない。○百千鳥《モモチドリ》――百千の鳥。多くの鳥。古義に百津鳥《モモツドリ》と見たのは當らない。○千鳥者雖來《チドリハクレド》――千鳥は多くの鳥。鳥の名ではない。卷十七|朝※[獣偏+葛]爾伊保都登里底暮※[獣偏+葛]爾知登理布美多底《アサガリニイホツトリタテユフガリニチドリフミタテ》(四〇一一)とある。前句の意を繰返したのである。
〔評〕 門前に木高い榎が繁つてゐる。その梢に數知れぬ秋の小鳥が群つて、熟した木の實を啄んでゐる。このかしましい梢を見上げながら、門に倚つて立つてゐる一人の處女がある。人待つ思に面やつれして、口吟んだのがこの歌だ。三四句の繰返しの調も快く、言ふべからざる優艶な情趣が漂つてゐる。和歌童蒙抄と袖中抄とに載つてゐる。
 
3873 吾が門に 千鳥しば鳴く 起きよ起きよ 吾が一夜づま 人に知らゆな
 
吾門爾《ワガカドニ》 千鳥數鳴《チドリシバナク》 起余起余《オキヨオキヨ》 我一夜妻《ワガヒトヨヅマ》 人爾所知名《ヒトニシラユナ》
 
私ノ家ノ〔二字傍線〕門デ、澤山ノ島ガ頻リニ鳴イテヰル。モウ夜ガ明ケマシタ〔九字傍線〕。起キナサイ、起キナサイ。私ガ今夜〔二字傍線〕一夜ダケ始メテ〔三字傍線〕逢ツタ夫ヨ。人ニ知ラレルナヨ。人ニ見ツカラナイ内ニオ歸リナサイ〔人ニ〜傍線〕。
 
○千鳥數鳴《チドリシバナク》――多くの鳥が頻りに鳴く。この千鳥も鳥の名ではない。○我一夜妻《ワガヒトヨヅマ》――一夜妻は、一夜逢つた夫。女の歌であるから、ツマはここでは夫である。
〔評〕 全く民謠式の歌。起余起余《オキヨオキヨ》の一句、躍動的な調子を與へてゐる。卷十一の可旭千鳥數鳴白細乃君之手枕未厭君《アケヌベクチドリシバナクシロタヘノキミガタマクライマダアカナクニ》(二八〇七)と似た内容である。和歌童蒙抄に出てゐる。なほ神樂歌の「庭鳥はかけろと鳴きぬ起きよ起きよわが一夜づま人もこそ見れ」はこれを改作したものである。
 
右歌二首
 
3874 いゆししを 繋く河邊の にこ草の 身のわかがへに さねし兒らはも
 
(108)所※[身+矢]鹿乎《イユシシヲ》 認河邊之《ツナグカハベノ》 和草《ニコグサノ》 身若可倍爾《ミノワカガヘニ》 佐宿之兒等波母《サネシコラハモ》
 
(所※[身+矢]鹿乎認河邊之和草)私ガ未ダ年若カツタ頃ニ、一緒ニ寢タ女ヨ。アノ女ハ今ハドウシテヰルデアラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○所※[身+矢]鹿乎認河邊之和草《イユシシヲツナグカハベノニコグサノ》――四句のワカと言はむ爲の序詞。射られた鹿のあとをつけて置く河邊に生えた和い若草の如くの意。射られた鹿が遁げたあとに、河邊の和い草が踏みにじられてゐるのを辿つて、獵師がこれを獲ることを以て序詞としたのである。所※[身+矢]鹿《イユシシ》は射られた鹿、但しこれを射られる鹿、射られる運命の鹿として、鹿が河邊の若草を食べに來て、狙ひうたれることに解せられぬこともない。併しその場合は認の字が當らぬやうであるから、從來の説によつた。認は舊訓トムルとあるのを考はツナグと改訓した。この事は集中に二つの用例があるのみで、その一は卷三に大夫爾認有神曾好應祀《マスラヲニトメタルカミゾヨクマツルベキ》(四〇六)とあるものである。それに傚へば舊訓がよいやうであるが、この歌は次に掲げた齊明天皇紀のものの異傳であるから、それによつて訓む方が無難であらう。ツナグは繋ぎとめて置く。即ち手負の鹿の辿つた足跡を明らかに殘して、獵師に知らしめることである。和草《ニコグサノ》も齊明天皇紀に從ふとすると、ワカグサのと訓むべきであり、又宣長説の如く和の下に加の字脱とも考へられるのであるが、原字を尊重してニコグサと訓むがよい。○身若可倍爾《ミノワカガヘニ》――身の若き頃に。ワカガヘが少し明瞭でない。古事記の雄略天皇の御製、比氣多能和加久流須婆良和加久閇爾違泥弖麻斯母能游伊爾祁流加母《ヒケタノワカクルスバラワカクヘニイネテマシモノオイニケルカモ》の和加久閇爾と同語らしい。舊訓ミノワカキカヘニとあるので、代匠記初稿本は、「身わかきかひにといへる心歟」とあるが、精撰本は右の雄略天皇の御製を引いて「此御歌に准らへば、みのわかかへにと讀むべき歟、若き時にといふ意とおぼえたり」と言つてゐる。考には「身のわかく、はしきがうへに、寢し兒はわすれぬを、上の序の歌をたとへにとるなり」、とあるが、へはウヘではないやうだ。宣長がヘはイニシヘ・ムカシヘなどのヘで、若かりし間にといふ意といつたのがよい。
〔評〕 序詞がむつかしい。民謠らしい香が高い。齊明天皇紀の御製|伊喩之之乎都都遇何播杯能倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰阿我謀婆儺倶爾《イユシシヲツナグカハベノワカクサノワカクアリキトアガモハナクニ》と酷似してゐる。御製は天皇が皇孫建王を八歳にして失ひ給うた時に、この王が御年(109)の割に賢明にましまして、幼兒とは思はれざりしものをと嘆き給うたので、これと結句一句のみ相異し、意は著しく違つてゐる。併しこの二歌は同一系統の作なることは否み難い。御製を作りかへたものとするのに諸説一致してゐる。時代の上からは、やはりこれを後と見ねばなるまい。
 
古歌一首
 
3875 琴酒を 押垂小野ゆ 出づる水 ぬるくは出でず さむ水の 心もけやに おもほゆる 音のすくなき 道に逢はぬかも すくなきよ 道に逢はさば いろけせる 菅笠小笠 わがうなげる 珠の七つ緒 取り替へも 申さむものを すくなき 道に逢はぬかも
 
琴酒乎《コトサケヲ》 押垂小野從《オシタリヲヌユ》 出流水《イヅルミヅ》 奴流久波不出《ヌルクハイデズ》 寒水之《サムミヅノ》 心毛計夜爾《ココロモケヤニ》 所念《オモホユル》 音之少寸《オトノスクナキ》 道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》 少寸四《スクナキヨ》 道爾相佐婆《ミチニアハサバ》 伊呂雅世流《イロケセル》 菅笠小笠《スガガサヲガサ》 吾宇奈雅流《ワガウナゲル》 珠乃七條《タマノナナツヲ》 取替毛《トリカヘモ》 將申物乎《マヲサムモノヲ》 少寸《スクナキ》 道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》
 
(琴酒乎押垂小野從出流水奴流久波不出寒水之心毛計夜爾所念)人音ノ少イ道デアノ女ニ〔四字傍線〕逢ハナイカヨ。逢ヒタイモノダ。人音ノ〔十字傍線〕少ナイ道デ君若シ〔二字傍線〕逢ツタナラバ、私ハ〔二字傍線〕女ガ着テヰル菅笠、小笠ヲ、私ノ首ニ懸ケテヰル統ノ〔二字傍線〕玉ノ幾條ト交換モシヨウノニ。ドウゾ、アノ女ト、人音ノ〔ドウ〜傍線〕少ナイ淋シイ〔三字傍線〕道デ逢ハナイカヨ。逢ヒタイモノダ〔七字傍線〕。
 
○琴酒乎《コトサケヲ》――次の句へつづく枕詞であるが、意が明らかでない。代匠記精撰本に「琴をばおさへ、酒をばたるゝ物なれば、さてかくはつづくるなり。琴詩酒とつゞけて云はれ、共に賢人の愛する物なれば琴酒とは云へり」とある。謂はゆる唐心の解であるが、かういふ思想がなかつたとも言はれない。考は琴を美の誤としてウマサケと訓み新考は釀の誤としてカミザケと訓んでゐる。卷七の殊故者奧從酒甞《コトサケバオキユサケナム》(一四〇二)・卷十三の琴酒者國丹放甞《コトサケバクニニサケナム》(三三四六)のコトサケと關係があるかとも思はれるが、さうでもないやうだ。しばらく契冲説に從ふ。○抑垂小野(110)從《オシタリヲヌユ》――押垂はオシタレ・オシタル・オシタリなど三樣に訓める。さうしてこれは地名と考へられるが、又宣長のやうに、小を水の誤として押までを序とし、垂水野といふ地名と見ることも出來る。垂水ならば卷七の垂水水乎《タルミノミヅヲ》(一一四二)、その他に見える攝津豐能郡豐津村大字垂水であらう。考には「東鑑に押垂左衛門といふ人ありさらば始にいふごとくに地名なるべし」と見え、押垂の所在不明だが、地名とするのが穩やかであらう。始に掲げた三訓の中いづれとも定め難いが、語法の古きに從つて、オシタリとして記かう。○奴流久波不出《ヌルクハイデズ》――奴流久《ヌルク》は温く。生温いこと。○寒水之《サムミヅノ》――舊訓ヒヤミヅノ、考はシミヅノ、古義はマシミヅノ、又催馬樂の飛鳥井に「みもひもさむしみま草もよし」とあるによれば、サムキミモヒノとも訓めさうだが、少し考へ過ぎであらう。今は代匠記書入説によつて置く。寒水は冷い水。○心毛計夜爾《ココロモケヤニ》――ケヤニのケヤは、ケヤケシの語根ケヤであらう。ケヤケシははつきりすること、潔きこと。考は計を斜の誤として、ココロモサヤニと改めてゐる、代匠記初稿本に「心もけやにおもほゆるおとのとは、心もけやは心もきやといふ心なり。常に肝きえするをきやきやするといへり。いとつめたき水を手にくみ、もしはのめば、身もひえ、心もきやきやとおほゆるによせて、おもふ人のうるはしき聲を道にて聞て、きものつふるゝ心ちするをかたとれり」とあるのは、無理な説である。○ 所念《オモホユル》――この句までの七句は音と言はむ爲の序詞で、その意は押垂小野から出る水が温くはなく,冷かで、その清水が、人に心すがすがしく思はしめる音を立てるといふのである。寒水之のまでの五句を序詞として、その下を心も消えるばかりに淋しく思はれる、人音の少い道と解する説は當らない。○音之少寸《オトノスクナキ》――序詞は音だけにかかつてゐる。この句の全意にかかるのではない。音の少きは人音の少く淋しいこと。○道爾相奴鴨《ミチニアハヌカモ》――淋しい道で、戀しい人に逢はないかよ。逢へばよいの意。この句で切れてゐる。○少寸四《スクナキヨ》――ヨは感歎の助詞。ヤと同じ。直に道につづいてゐる。言葉を更めて上の音之少寸《オトノスクナキ》を繰返したもの。○道爾相佐婆《ミチニアハサバ》――道に逢はばといふのを、鄭重にアハサバと言つたのである。○伊呂雅世流《イロケセル》――伊呂は伊呂兄《イロセ》・伊呂弟《イロト》などの伊呂、親しんでいふ語。戀女のことである、雅世流は舊訓チセルとあるのは、雅を稚と見たのであらう、代匠記精撰本一説にケセルとしたのがよい。考は呂を毛に改めイモケセルと訓み、古義は雅を※[奚+隹]の誤としてゐる。雅は次の吾宇奈雅(111)流にはゲに用ゐ、卷十八の伊比都雅流《イヒツゲル》(四〇九四)にも同じく濁音になつてゐる。もと濁音の字であるから、ここもさうではないかと思はれるが、集中清濁混淆の場合が多いから、これでよいのであらう。新考は伊呂を伊之の誤で汝の意だとしてゐる。ナセルは著せるの敬語。著給へる菅笠小笠とつづく。○吾宇奈雅流《ワガウナゲル》――吾が頸にかけた。○珠乃七條《タマノナナツヲ》――統《ミスマル》の玉の幾筋。七條《ナナツヲ》は七筋、七は數の多きをいふ。○取替毛將申物乎《トリカヘモマヲサムモノヲ》――交換しませうのに。將申《マヲサム》は動作を敬つていふ言葉。○少寸道爾相奴鴨《スクナキミチニアハヌカモ》――考は少の上に言の字脱とし、コトノスクナキと訓み、古義は寸の下四の字脱とし、スクナキヨとあるべきだといつてゐる。新考は少寸の上に音之の二字を脱したと言つてゐる。
〔評〕 大きく二段に分れてゐる。前段には長い序詞がついて、野中の清水の湧き出づる樣を述べたのは、すかすがしい感じを與へてゐる。後段に女の菅笠と、男の統の玉とを交換しようといふのは、畫のやうな情景を思はしめる。前後の兩段が同じ句で終つてゐるのも、調を快くしてゐる。これも地方の民謠らしい。
 
右歌一首
 
豐前國白水郎歌一首
 
3876 豐國の 企玖の池なる 菱のうれを つむとや妹が 御袖ぬれけむ
 
豐國《トヨクニノ》 企玖乃池奈流《キクノイケナル》 菱之宇禮乎《ヒシノウレヲ》 採跡也妹之《ツムトヤイモガ》 御袖所沾計武《ミソデヌレケム》
 
豐前〔傍線〕ノ國ノ企玖ノ池ニ生エテヰル、菱ノ末ニ成ツタ實〔五字傍線〕ヲ摘マウトシテ、吾ガ妻ハコンナニ〔四字傍線〕袖ヲ濡ラシタノデアラウカ。
 
○豐國企玖乃池奈流《トヨクニノキクノイケナル》――豐前國企救郡の池。聞之濱邊《キクノハマベ》(一三九三)・聞濱松《キクノハママツ》(三一三〇)・聞之長濱《キクノナガハマ》(三二一九)・聞乃高濱《キクノタカハマ》(二二〇)など皆同郡である。○菱之宇禮乎《ヒシノウレヲ》――菱の末を。菱の莖の尖瑞に生つた實を。○御袖沾計武《ミソデヌレケム》――ミは文字通り敬稱。
(112)〔評〕 豐前の海人の間に謠はれた歌であらう、内容は別に海人らしい點はない。卷七の君爲浮沼池菱採我染袖沾在哉《キミガタメウキヌノイケノヒシツムトワガシメシソデヌレニタルカモ》(一二四九)と少し似てゐる。
 
豐後國白水郎歌一首
 
3877 くれなゐに しめてし衣 雨ふりて にほひはすとも 移ろはめやも
 
紅爾《クレナヰニ》 染而之衣《シメテシコロモ》 雨零而《アメフリテ》 爾保比波雖爲《ニホヒハストモ》 移波米也毛《ウツロハメヤモ》
 
紅ノ色ニ染メタ着物ハ、雨ガ降ツテ色ガヨクナルニシテモ、色ガ〔二字傍線〕サメルコトハアリマセウカ、決シテサメマセヌ。私ノ深ク思ヒ込ンダ戀ハ増スコトアツテモ、變ルコトハアリマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○爾保比波雖爲《ニホヒハストモ》――ニホフは色美しくなること。即ち色のまさること。
〔評〕 神樂歌の前張に「秋萩に衣はすらむ雨ふれどうつろひがたしふかくそめてば」とあるのに似てゐる。併しこれは譬喩歌で、自分の戀の心は、如何なることがあつても、彌増すのみで變らぬ意を述べたものである。
 
能登國歌三首
 
能登國は續紀によると、養老二年五月に越前國の羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を割いて、始めて置かれた。その後天平十三年十二月越中に併せられ、更に天平勝寶九年五月、獨立して一國となつた。次の越中國歌に比して考へると、これは前に獨立した時代、即ち養老二年から天平十三年まで、二十三年の間に記録したものと考へることが出來る。
 
3878 梯立の 熊來のやらに 新羅斧墜し入れわし 懸けて懸けて な泣かしそね 浮き出づるやと見むわし
 
※[土+皆]楯《ハシダテノ》 熊來乃夜良爾《クマキノヤラニ》 新羅斧墮入和之《シラギヲノオトシイレワシ》 河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]《カケテカケテ》 勿鳴爲曾禰《ナナカシソネ》(113) 浮出流夜登將見和之《ウキイヅルヤトミムワシ》
 
(※[土+皆]楯)熊來ノ淺イ海ノ泥ノ底ニ新羅斧ヲ墮シ込ンデ。ヨイヨイ。決シテ決シテ泣キナサルナ、ソノ内ニ〔四字傍線〕、浮カンデ來ルカト思ツテ〔三字傍線〕見テヰヨウ。ヨイヨイ。
 
○※[土+皆]楯《ハシダテノ》――※[土+皆]は西本願寺本その他、楷に作る本もある。温故堂本は階に作つてゐる。枕詞。クマに冠してゐる。元來ハシタテは梯のことで、枕詞としては橋立倉椅山《ハシタテノクラハシヤマ》(一二八二)の如くクラに冠し、仁徳天皇紀の破始多※[氏/一]能佐餓始枳椰摩茂《ハシタテノサガシキヤマモ》の如く、嶮《サカ》しきにつづいてゐるのに、ここにクマキに冠してあるのは解し難い。梯には棧を組んであるから、組木《クミキ》が熊來に轉じたのだと考へられてゐる。暫くこれに從はう。○熊來乃夜良爾《クマキノヤラニ》――熊來は卷十七に能登郡從2香島津1發v船行2射熊來村1往時作歌二首、香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能《カシマヨリクマキヲサシテコグフネノ》(四〇二七)とある熊來で、和名抄に「熊來久萬岐」と記され、今の熊木村・中島村・西岸村・豐田村・笠師保村・鉈打村などの一帶を古く熊來郷と稱したらしい。この附近は七尾灣西部にあり、その最奥部に位してゐるので、潮波の流動が少く、從つて附近の河川からの土沙が堆積して、淺い海になつてゐる。ここにヤラとあるのは即ちその泥底の淺海の義らしい。仙覺抄には「やらとは水つきて、か〓み蘆やうの物など生ひしげりたるうき土也。田舍の者はやはらとも云ふ」とあり。略解には「やらは上總の土人、沼澤などの蘆蒋生たるやうの所をやらといへり」とあるが、果してその地方に現存してゐるかどうか、知(114)りたいものである。古義には「夜良は舊説に水の底なる泥を、北國の俗にいひならへりと云へり」とあるが、予の調査によれば、現在は熊木地方のみならず、北國にこの稱呼が殘つてゐないやうである。なほこの語を地名の由良《ユラ》。※[魚+少]《エラ》(魚柵)と同一語とする説もあるが、從ひ難い。○新羅斧《シラギヲノ》――新羅より渡來の斧、欽明天皇紀に、十五年冬十二月、百濟から好錦二匹、※[榻の旁+毛]※[登+毛]一領、斧三百口を献じたことが記されてゐる。なほ能登には朝鮮との直接の交通があつた形跡があるから、かういふ舶載の日用品も行はれてゐたのであらう。但し新羅型の斧の意かも知れない。○墮入和之《オトシイレワシ》――和之は代匠記初稿本に汝といふ意とし、精撰本には「和之とは同等の人を指して云北國の詞」その他數説をあげでゐるが、宣長が言つたやぅに調子を取るだけの無意義な語で、ここで切れてゐる。○河毛※[人偏+弖]河毛※[人偏+弖]《カケテカケテ》――懸けて懸けて。懸けては心に懸けて。よく心しての意から、決しての意となる。新考は阿毛※[人偏+弖]《アモテ》とし、アリマテの訛だといつてあるが無理な説であらう。○勿鳴爲曾禰《ナナカシソネ》――泣くの敬語泣かすを、ナ……ソで打消し、助詞のネを添へたもの。泣くのは愚人であらう。
〔評〕 前後の二段に分れ、それぞれワシといふ囃子詞を以て終つてゐる。各句音敷が區々になつて、異樣な歌型をなしてゐるやうだが、これを口吟んで見ると、別に調子の整はないやうな感もないのはおもしろい。蓋し、五七、十にワシを添へたものと、五、七、九にワシを添へたものとが並んで、大體旋頭歌型になつてゐるのである。その樣式は次の歌と同一と言つてよい。謠ふ場合には、同曲節であつたらうと思ふ。熊來地方の民謠らしく、内容は斧の水に浮ばぬことを知らない愚人を笑つたもので、其處に滑稽味が溢れてゐるのである。新考は前段は斧を墮した人の言葉、後段は愚人の言葉と見てゐる。さうとも思はれない。これは愚人を笑ひ、次の歌は奴隷をいたはつてゐるのだ。
 
右歌一首傳(ヘ)云(ク)、或(ハ)有(リ)2愚人1、斧(ヲ)墮(シテ)2海底(ニ)1而(モ)不v解(ラ)2鐵(ノ)沈(テ)無(キヲ)1v理v浮(ブ)v水(ニ)、聊(カ)作(リテ)2此歌(ヲ)1、口吟(ミテ)爲(シキ)v喩(スコトヲ)也
 
この註は或有愚人となつてゐるから、愚人が主格で、斧を海底に墮したのも、この歌を作つて口吟した(115)のも、愚人らしくも見えるが、斧が海底に墮ちて浮ぶの理無きを知らないのは愚人で、この歌を作つて喩したのは別の或人である。從つて全文の意味は或愚人があつて、斧を海底に落し、鐡が水に浮かぶの理なきを解しない、そこで或人がこの歌を作つて愚人を喩したといふのである。
 
3879 梯立の 熊來酒屋に まぬらる奴わし さすひ立て ゐて來なましを まぬらる奴わし
 
※[土+皆]楯《ハシダテノ》 熊來酒屋尓《クマキサカヤニ》 眞奴良留奴和之《マヌラルヤツコワシ》 佐須比立《サスヒタテ》 率而來奈麻之乎《ヰテキナマシヲ》 眞奴良留奴和之《マヌラルヤツコワシ》
 
(※[土+皆]楯)熊來ノ酒ヲ作ル家デ、叱ラレテヰル奴。ヨイヨイ。可憐サウダカラ、外ヘ〔九字傍線〕誘ヒ出シテ、連レテ來ヨウノニ、叱ラレテヰル奴。ヨイヨイ。
 
○熊來酒屋爾《クマキサカヤニ》――熊來の酒屋で。酒屋は酒を造る家一酒を賣る家とする説は當らない。播磨風土記に「是時造2酒殿1之處即號2酒屋村1」とあるやうに、酒屋即ち酒殿である。神樂歌の酒殿に「さかどのは廣しま廣し、みか越しに吾が手なとりそ、しかつげなくに」とあるのは、酒を造る家なることを示してゐる。この熊來酒屋は熊來にあつた官設の酒造所であらう。○眞奴良留奴和之《マヌラルヤツコワシ》――マヌラルのマは接頭語。ヌラルは罵《ノ》らる。叱られてゐること。奴《ヤツコ》は奴隷。ワシは前の歌にあつたのと同じく、拍子を取る爲の囃子の由である。この奴の罵られてゐるのを、酒に醉うて醜態を演じ、酒屋の主人に罵られてゐるやうに解く説が多いが、さうではなく釀造の勞役に從事して、酷使せられてゐるのである。奴隷については卷七の住吉小田刈爲子賤鴨無《スミノエノヲダヲカラスコヤツコカモナキ》(一二七五)參照。○佐須比立《サスヒタテ》――誘ひ立て。誘ひうながして。○率而來奈麻之乎《ヰテキナマシヲ》――連れて來ようものを。
〔評〕 旋頭歌の形式になつてゐるが、謠物であるから、更にワシといふ囃子を添へてゐる。酒造所で酷使せられてゐる、奴隷をいたはつたものである。前のは愚人を詠んだもので、これは奴隷を詠んだもの。當時の社會相の一端がわかる。なほ若しこの歌を酒造男が、酒を造りながら謠ふものとしたら、自己の境遇を詠み込んだ皮肉な(116)歌になつて、極めて面白い。自ら卑しめたやうな内容の俚謠が、今日でも行はれてゐるのは耳にする所である。
 
右一首
 
3880 かしまねの 机の島の しただみを い拾ひ持ち來て 石もち つつきやぶり 早川に 洗ひすすぎ 辛鹽に ここと揉み 高杯に盛り 机に立てて 母にまつりつや めづ兒の刀自 父にまつりつや みめづ兒の刀自
 
所聞多祢乃《カシマネノ》 机之島能《ツクヱノシマノ》 小螺乎《シタダミヲ》 伊拾持來而《イヒリヒモチキテ》 石以《イシモチ》 都追伎破夫利《ツツキヤブリ》 早川爾《ハヤカハニ》 洗濯《アラヒススギ》 辛鹽爾《カラシホニ》 古胡登毛美《コゴトモミ》 高坏爾盛《タカツキニモリ》 机爾立而《ツクヱニタテテ》 母爾奉都也《ハハニマツリツヤ》 目豆兒乃負《メヅゴノトジ》 父爾獻都也《チチニマツリツヤ》 身女兒乃負《ミメヅコノトジ》
 
香島ノ山ノ下ニアル〔四字傍線〕机島ノ、小螺ヲ拾ツテ持ツテ來テ、石デツツイテ碎イテ、水ノ流ノ〔四字傍線〕早イ川デ洗ヒ濯イデ、カライ鹽デゴシゴシト揉ンデ、ソレヲ脚高盆ニ盛り、机ノ上ニ立テテ、御母サンニ上ゲタカ、可愛ラシイオカミサン。御父サンニ上ゲタカ、可愛ラシイオカミサン。
 
○所聞多祢乃《カシマネノ》――舊訓ソモタネノとあるが、何のことか分らない。代匠記には、能登にそもたねといふ所があつて、そこに机の島があるのだらうといつてゐるが、そんな所はない。その初稿本の書入にカシマネノとあり、考も同じ訓み方で、「和名抄云此國能登部加島(加之萬)あり、斯聞多はかしましき義もて借て云り」といつてから、諸説それに從つてゐる。所聞多の用字例は集中他に見出されないが、卷七に霰零鹿島之崎乎《アラレフリカシマノサキヲ》(一一七四)、卷二十に阿良例布理可志麻能可美乎《アラレフリカシマノカミヲ》(四三七〇)などとあるのは、鹿島の枕詞としてアラレフリを用ゐたもので、即ち霰の降る音がかしましい意でつづいてゐるのであるから、所聞多をカシマと訓ませても無理ではないわけである。但し今、机島と稱する島は、種子島《タネジマ》と稱する島に低い洲を以て接續し、種子島の一部をなしてゐるとも言へば言ひ得るのである。ここの所聞多禰乃〔三字右○〕と種子島との間に、何等かの關係があるのではないかとの疑問も起る(117)のであるが、やはりカシマネノと訓むに勝る訓法を得ないから、從來の説に從ふことにしよう。カシマネは普通香島嶺と解されてゐる。香島は即ち卷十七に香島欲里久麻吉乎左之底《カシマヨリクマキヲサシテ》(四〇二七)とある香島津、即ち今の七尾港、香島嶺はその附近の嶺であらねばならぬ。併し現在の机島と七尾とは略二里を距て、海上は狹い海峽を以て隔て、全く別の區域になつてゐる。但し今の鳳至郡の地内に鹿島の地があり、上代の能登郡は、今の鹿島部よりも廣く、机島から今の鳳至郡鹿島あたりを含んで、この邊一帶を鹿島とも稱してゐたのかも知れないが、いづれにしても鹿島嶺の机の島では、島が山にあるやうで穩やかでない。新考には「カシマ禰の机ノ島といへる禰の言いぶかし。或は禰乃を誤り、又顛倒したるにあらざるか。カシマノミは香島の海なり」と言つてゐる。おもしろい説ではあるが、未だ遽かに賛成し難い。しばらく舊説に從つて、香島の嶺の下にある机の島としようか。○机之島能《ツクヱノシマノ》――机の島は今、和倉温泉の海上十町ばかりにあり。直徑數十間高さ一丈にも足らぬ平坦な小島で、一面に松樹を植ゑて風致がよい。前に記す如く、種子島《タネジマ》に接して、その一部をなしてゐるといつてもよい位である。島内に一つの大石があつて、その凹みに四時水を湛へてゐるのを硯石と呼んでゐるのは、机といふ名から後の好事家の附會たるは言ふまでもない。なほこの鳥の所在に關して異説がないではない。加賀藩の學者富田景周の楢葉越枝折には「この机の島は、鹿島郡長濱の浦より、むかひの島山へちかき小島にて、今の里人(118)も大やうしる所也」とあり、彼の説によれば、長濱は七尾の東方につづいた大田村・矢田村などの濱となつてゐるから、机島もその方面にあることになつて、全く位置を異にしてゐる。又この書を昭和八年四月石川縣圖書館協倉が出版した時、その校訂解説の任に當つた日置謙氏は、これを批評して、「この著者は次に言ふ如く、長濱を鹿島半島東方海岸とするものであるから、その向ふで、能登島へ近い島ならば、今の中の島海岸にあるカラス島・寺島・嫁島・コシキ島等のうちの一つをさしてゐるやうである。能登名跡志附翼にも、机島八箇庄との記載があつて、その八箇庄は島八ケ即ち能登島をさすものであるから、さうした説も行はれたことがあると見える」といひ、更に自説を掲げて「しかし萬葉集の歌には、かしまねの机の島とあるのだから、香島津又は加島郷の附近に求めるのが、正しかりさうではないか。さうしてその島は今恐らくは桑滄の變によつて、存在を失つたものかとも思はれる」と附記して居られる。かくの如く現在の机島ではないとの説もあるのであるが、確證もないから、しばらく流布の説に從つて置かう。但し右にあげた、能登名跡志附翼に、机島八箇庄と記載せられてゐることは、頗る注目すべきで、上代には能登島を、机島とも呼んだのではあるまいかと思はれる。能登島は嶺が平らかで机の如き形をなしてゐる上に、香島津の前面に横はつてゐて、香島嶺といふのにふさはしい。今の机島は獨立した島とは言はれない形になつてをり、且※[草がんむり/最]爾たる小島なのは、予の疑を深めるものである。一説として卑見を記して置く。○小螺乎《シタダミヲ》――シタダミは和名抄に「小〓子、崔禹食經云、小〓子 漢語抄云、細螺、之太太美貌似2甲〓1而細小、口有2白玉蓋1者也、」とあるもので、普通名をコシタカガンカラと稱する。能登地方の海岸では今なほ一般にシタダミと呼んでゐる。從來これをキシヤゴと混同してゐたが、その大きさはキシヤゴの二倍以上ある。形状も圓錐形に近く、底部も平坦といつてよく、貝殻はキシヤゴより遙かに堅牢である。又キシヤゴは海中の砂泥の中に棲むもので、シタダミは巖石の周圍に這ひ廻るを常とする。古事記神武天皇御製に「神風の大石にはひもとほろふしただみのい這ひもとほり打ちてしやまむ」とあるのは、この貝の棲息状態をよく言ひあらはしてゐる。味は榮螺などと同じく、充分食ふに足る。キシヤゴは食ふに堪(119)へないさうである。○ 伊拾持來而《イヒリヒモチキテ》――イは接頭語。拾つて持つて來て。○都追伎破夫利《ツツキヤブリ》――ヤブリは、略解に「又はふりとも訓むべし。はふりも破る意也」とあるに從ふ説も多い。併しハフルは切り散らすことで、散亂せしめる意であるから、ここにはあたらない。用字の上から言つても意字が多いところで、破は音字ではなささうだ。○古胡登毛美《ココトモミ》――ココは揉む音である。ゴシゴシと揉んで。○高杯爾盛《タカツキニモリ》――高杯は腰の高い杯《ツキ》。食物を盛る器。上代のは土器であつたが、後世のは木製で、漆塗にしたのが常である。○机爾立而《ツクヱニタテテ》――机は食膳。杯裾《ツキスヱ》の義であらう。文机《フツクヱ》と混同してはいけない。高杯だから、立而《タテテ》と言つてある。○母爾奉都也《ハハニマツリツヤ》――母に奉りたるかの意。母に差上げたか。○目豆兒乃負《メヅコノトジ》――目豆兒《メヅコ》は愛づ兒。愛する女。負を舊訓にマケとあるのはわるい。眞本上宮法王帝説・日本靈異記に※[刀/目]の字を用ゐてあるのは、刀自の合字である。蓋し古書の通用字であつたのである。刀自《トジ》は婦人の尊稱。戸主《トヌシ》の義で、婦人が屋内のことを、主とるに起るといふ。必ずしも老女に限らぬことは、卷四、大伴坂上郎女がその女子大孃に贈つた歌の中に、吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》(七二三)とあるのでも明らかである。○身女兒乃負《ミメヅコノトジ》――身女兒をミメヅコと訓むのは少し無理であるが、他に良訓を見出し得ない。ミメコと訓めば最も合理的で、代匠記初稿本の書入や新解はさうなつてゐる。新解は「みめよき兒の意で、美しい兒を言ふ」とあるが、ミメは容貌のことであるから、ミメヨシともミメワルシとも言はれるわけで、ミメコはミメヨキ兒の意とはなるまい。又容貌をミメといふのは、萬葉集には見えないから、上代語かどうか疑はしい。ミメヅコと訓めば、ミは接頭語で、前のメヅコを繰返したものである。
〔評〕 机島の細螺の美味は、あのあたりの郷土の誇であつたらう。著者も屡々能登の海に遊んで、あの地方の細螺を口にしたが、中々捨て難い味である。生貝を鹽で揉んだのは未だ試みないが、生善肉《ナマヨミ》の貝は又格別であらう。愛づ兒は若い女等をさしたので、村人の純眞な氣分が溢れてゐる、集中に數多い民謠の中でも、内容的にめづらしい佳作である。父母に侍養せよと教へる孝道のあらはれなどと、道徳的に見るわけではないが、和平悦樂、上代の朗らかな民俗があらはれてゐると思ふ。
 
越中國歌四首
 
3881 大野路は しげぢ森みち 繁くとも 君し通はば みちは廣けむ
 
(120)大野路者《オホヌヂハ》 繁道森徑《シゲヂモリミチ》 之氣久登毛《シゲクトモ》 君志通者《キミシカヨハバ》 徑者廣計武《ミチハヒロケム》
 
大野ヘノ道ハ、木ノ繁ツタ道デ〔傍線〕森ノ中ノ〔二字傍線〕道デス。シカシ、イクラ木ガ〔八字傍線〕繁ツテヰテモ、アナタガ御通リニナルナラバ、木ヲ切リ拂ツテ〔七字傍線〕道ガ廣クナツテヰルデセウ。
 
○大野路者《オホヌヂハ》――大野は和名抄に「越中礪波郡大野 於保乃」とある地か。それは今の西礪波郡赤丸村三日市とせられてゐる。即ち福岡町の東北方、小矢部川沿岸の平地である。ここは古の北陸道の支線礪波山越の通路に當つて、當時の人に廣く知られてゐたところらしい。別に高岡市の北方、今の能町の邊とする説もあるが、それは射水郡である。大野路は大野へ行く道。○繁道森徑《シゲヂモリミチ》――木の繁つた道で、森の中の道だの意。舊訓シゲヂハシゲヂとあるのも意は通ずるが、森は森爾早奈禮《モリニハヤナレ》(一八五〇)などの、例があるからモリがよく、徑は直ぐ下にミチと訓んであるから、ここも同訓がよからう。但し卷二に山徑徃者《ヤマヂヲユケバ》(二一二)とよんだのに傚ふことも出來るが、卷六|此徑爾師弖《コノミニシテ》(九七七)とあり、やはりミチがよい。○君志通者《キミシカヨハバ》――君は地方の國司などの貴人をさしてゐる。愛する男と見てはいけない。次の歌の君と同じである。○徑者廣計武《ミチハヒロケム》――貴人の通路は,地方人によつて伐り開かれて、廣くなるであらうの意。戀しい男の通ふによつて、草木も踏まれて、道がおのづから廣くならうと見るのは當らない。
〔評〕 國司など地方貴人の巡視に、土民が敬意を表した歌である。古今集の陸奥歌「み侍み笠と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり」と同一の氣分である。上代民衆の上司に對する敬虔な態度があらはれてゐる。
 
3882 澁溪の 二上山に 鷲ぞ子むとふ さしばにも 君が御爲に 鷲ぞ子むとふ
 
澁溪乃《シブタニノ》 二上山爾《フタガミヤマニ》 鷲曾子産跡云《ワシゾコムトフ》 指羽尓毛《サシバニモ》 君之御爲尓《キミガミタメニ》 鷲曾子生跡云《ワシゾコムトフ》
 
澁溪ノ二上山デ、鷲ガ子ヲ産ムト云フコトデス。君ニサシカケル〔コト〜傍線〕翳《サシバ》トシテ、君ノ御爲ニナラウトテ〔五字傍線〕、鷲ガ子ヲ産ム(121)ト云フコトデス〔四字傍線〕。
 
○澁溪乃《シブタニノ》――越中射水郡の射水川下流北岸一帶を、澁溪と言つたらしい。今はその海岸地方のみを、さういつてゐる。○二上山爾《フタガミヤマニ》――二上山は射水川北岸に連なる山彙中の最高峯で、頂上が二つに分れてゐる。一は二百五十八米突、一は二百七十三米突、さしたる高山ではないが、高岡市方面の射水平野から、よく望むことが出來るので、古くから尊崇せられ、頂上には二上神が祀られてゐた。續紀に「寶龜十一年十二月甲辰越中國射水郡二上神從五位下」三代實録に「貞觀元年正月廿七日甲申奉授從三位二上神」とある神で、式内射水神社はこれである。明治八年山上から下して、高岡市舊城址内公園地に泰祀し、國幣中社射水神社となつてゐる。寫眞は著者撮影。○鷲曾子産跡云《ワシゾコムトフ》――舊訓ワシゾコウムトイフとあるのでもわるくはない。併し古事記仁徳天皇の御歌に蘇良美都夜麻登能久邇爾加理古牟登山岐久夜《ソラミツヤマトノクニニカリコムトキクヤ》とあるから、コムがよいであらう。○指羽爾毛《サシバニモ》――指羽は翳。指しかざす羽。柄の長い團扇樣のもので、貴人にさしかけるもの。多くは鳥の羽を以て造つてあるが、布帛又は菅を用ゐたもののあつたことは、臨時祭式度會宮装束の中に、紫翳一枚、菅翳一枚。儀式帳に、紫刺羽一柄。菅刺羽などとあるのでわかる。挿入の圖は※[火+敦]煌發見觀世音菩薩圖から採つたもの。唐代の風俗ながら、それに模傚した當時のわが状態を(122)想像することが出來る。○君之御爲爾《キミガミタメニ》――君は前の歌と同じく、國司などの地方貴人である。
〔評〕 旋頭歌。鷲曾子産跡云《ワシゾコムトフ》の句を反復し、前後句の結尾を揃へてゐるのが、調子をよくしてゐる。前の歌同樣、地方民衆の上司に對する敬意のあらはれた民謠である。内容は他に類例のない珍らしいものだ。
 
3883 伊夜彦 おのれ神さび 青雲の 棚引く日すら こさめそぼふる 一云、あなに神さび
 
伊夜彦《イヤヒコ》 於能禮神佐備《オノレカムサビ》 青雲乃《アヲクモノ》 田名引日良《タナビクヒスラ》 ※[雨/沐]曾保零《コサメソボフル》 一云|安奈爾可武佐備《アナニカムサビ》
 
彌彦ノ山〔二字傍線〕ハ山〔傍線〕自身デ神々シクナツテヰテ、青雲ガ棚曳ク晴天ノ〔三字傍線〕日デモ、小雨ガシヨボシヨボト降ツテヰル。木カラ落チル雫ガ雨ノヤウダ。美シク神々シイ山ダ〔木カ〜傍線〕。
 
○伊夜彦《イヤヒコ》――伊夜彦は彌彦山。この山は越後西蒲原郡にある。新潟市の西南八里。海岸に近く、越後平野の西に片寄つて、さながら浮島のやうに横(123)はつてゐる。山頂が二峯に分れ、姿が神々しい。山麓の彌彦村に伊夜比古神社が祀られてゐる。ここにこの山を、越中國の歌中に收めてあるのは頗る解し難い。越中は始め礪波山脈を以て越前と堺し、その以東信濃川河口に至るまでを含んでゐたのを、文武天皇紀に「大寶二年三月甲申分2越中國四郡1屬2越後國1」とある所屬變更があつてから、親不知以西となり、彌彦山は越後に屬することになつたのである。この事情から考へると、この歌は大寶二年以前の國分によつたことになり、從つて製作時代も隨分古いことになる。歌詞もかなり古く、大寶二年以前説を打消すべき理由もないから、さうして置かう。然るに古本に彦を産に作つてゐるので、西本願寺本の頭書に、「産諸本皆同然而依夢想直産字也」と記してゐる。これによるともと伊夜産とあつたのを伊夜彦と改めたのである。新解は産を立山として「恐らくはもとは伊夜立山とあつたのではないかと思はれる」と言つてゐるが、イヤタチヤマでは穩やかでない。萬葉漫筆に戴せた福田美楯の越中地圖に、布勢の海の西方能登の寶達山にならべて、伊夜彦と記してあるのも、古義に「越後の彌彦山を越中の人の見放てよめるなるべし。これによりて、越中國歌の中に入(レ)るならむ」とあるのも、共に地理を辨へぬものである。越中の國内に伊夜彦の地名はなく、越中國境の親不知から彌彦山までは數十里を距(124)て、その山影をすら認め得ないのである。○於能禮神佐備《オノレカムサビ》――山が己自身神々しく古びて。○青雲乃《アヲクモノ》――青空説と白雲説と兩説あるが、この歌で青雲の棚引く日といふのは、晴れ渡つた日のことでなければならぬ。委しくは青雲之《アヲグモノ》(一六一)參照。○田名引日良《タナビクヒスラ》――た靡く日でも。日の下に須の字脱として、しばらく舊訓に從つて置くが、日良は次によるに、或は今日良かも知れない。○※[雨/沐]曾保零《コサメソボフル》――※[雨/沐]はコサメと訓む。小雨である。卷七、今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《ケフノコサメニ》(一〇九〇)とある。○一云|安奈爾可武佐備《アナニカムサビ》――アナニは古事記神代卷の「阿奈邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲ》のアナニで、美しいこと。この句は美しく神々しくての意。古義には安奈爾《アナニ》は安夜爾《アヤニ》の誤だとしてゐる。從來これを第二句|於能禮神佐備《オノレカムサピ》の異傳と見る説が多く、舊本一云とあるのも、その見解から來たものである。併し次の歌と比較してみても、謂はゆる佛足跡歌體に屬するもので、この句がその第六句に當つてゐると見るべきであらう。
〔評〕 彌彦山の神々しさ樹木欝蒼たる森嚴さを歌つたもの。青雲の棚引く日すら云々は、祝詞に用ゐられてゐる古い成語を活かして、その情景を髣髴たらしむるものがある。第六句は謠物としての曲節の關係上、繰返して添へたもの。かういふ歌形が、地方にも行はれてゐたことが知られて嬉しい。袖中抄にも載せてある。
 
3884 伊夜彦 神の麓に 今日らもか 鹿のこやすらむ 皮ごろも着て 角附けながら
 
伊夜彦《イヤヒコ》 神乃布本《カミノフモトニ》 今日良毛加《ケフラモカ》 鹿乃伏良武《カノコヤスラム》 皮服著而《カハゴロモキテ》 角附奈我良《ツヌツケナガラ》
 
彌彦ノ神山〔傍線〕ノ麓デ、今日ハ皮ノ着物ヲ着テ、角ヲ附ケナガラ、鹿ガ寢テヰルデアラウカ。
 
○伊夜彦《イヤヒコ》――舊本乃の字があるが、西本願寺本その他、無い本が多い。○神乃布本《カミノフモトニ》――彌彦の山を神とし、山麓を神の麓といつたのである。○今日良毛加《ケフラモカ》――ラは添へて言ふのみ。○鹿乃伏良武《カノコヤスラム》――鹿が臥てゐるであらう。(125)伏は多くフスと訓んであるが、ここでは、コヤスが良いであらう。○皮服著而《カハゴロモキテ》――舊訓カハノキヌキテとあるが、服は形見乃服《カタミノコロモ》(七四七)・服之襴毛《コロモノスソモ》(四一五六)などによつてコロモと訓むがよい。○角附奈我良《ツヌツケナガラ》――角をつけたままで。舊訓はツキナガラとあり、これを良しとして、角が附いたままでと見る説も多い。併し他動詞と見て、古義のやうに、ツケナガラと訓む方がよいやうに思ふ。新解は、ツヌツキナガラと訓んで、「その皮服に角が附いたままでの意」としてゐるが、皮服に角が附いてゐるのではあるまい。裘のやうな立派なものを着てゐるのに、角を附けた異樣な装を、をかしとしたのではあるまいか。皮服着而《カハコロモヰテ》で終つて、角附奈我良《ツヌツケナガラ》からは後で言ひ添へたのである。この歌型の第六句は、皆さうした形式になつてゐる。
〔評〕 これも前のと同樣、佛足跡の歌體である。從來これを旋頭歌と見て、第三句を「ケフラモカカノ」第四句を「コヤスラム」とよんで來たのは誤である。さうよんでは、字數だけは旋頭歌の型に當嵌るが、調子が全く整はない。彌彦の神山には鹿が多く、詣づるものは驚異の目を瞠つたであらうが、この光景を見なれてゐる國人が、山麓の樣子を想像して詠んだもので、もとより地方の俚謠である。裘は貴いものとしてあるのに、鹿がそれを着て寢そべつてゐる。しかも角を附けたままでと、かう言つたところに淡い滑稽もあり、童心が盛られてゐるのである。謂はゆる童謠風の民謠といつてよからう。
 
乞食者詠二首
 
乞食者はホカヒヒトと訓む。和名抄に、「乞兒、列子云、齊有2貧者1、常乞2於城市1、乞兒曰、天下之辱莫v過2於乞1 楊氏漢語抄云、乞索兒、保加比々斗、今案乞索兒即乞兒也、和名加多井」とあつて、古く乞食者をホカヒヒトと呼んだのである。蓋しホカヒは大殿壽《オホトノホカヒ》・酒壽《サカホカヒ》などのホカヒで、乞食者は壽詞《ホカヒゴト》を唱へて門毎に物を乞ひ歩いたから、かく言ひならはしたのであらうと言はれてゐる。今乞食をホイトといふ方言が各地に行はれてゐるのは、或はこの語の略かも知れない(禅語の陪堂だとも、アイノ語だとも言はれてゐるが)。古今集眞名序に、「其餘業2和歌1者綿々不v絶、及彼時變2澆漓1(126)入貴2奢淫1浮詞雲興、艶流泉涌、其實皆落其花孤榮、至v有d好色之家以v此爲2花鳥之使1、乞食之客以v此爲u活計之媒1」とあるのをも參考すべきである。
 
3885 いとこ なせの君 居り居りて 物にい行くとは 韓國の 虎といふ神を 生取りに 八つとり持ちき その皮を 疊に刺し 八重疊 平群の山に 四月と 五月のほどに 藥獵 仕ふる時に 足引の 此の片山に 二つ立つ 櫟が本に 梓弓 八つ手挾み ひめ鏑 八つ手挾み 鹿待つと 吾が居る時に さを鹿の 來立ち嘆かく たちまちに 吾は死ぬべし おほきみに 吾は仕へむ 吾が角は み笠のはやし 吾が耳は 御墨坩 吾が目らは 眞澄の鏡 吾が爪は 御弓の弓弭 吾が毛らは 御筆はやし 吾が皮は 御箱の皮に 吾が肉《シシ》は 御膾はやし 吾がきもも 御膾はやし 吾がみぎは 御鹽のはやし 老いたる奴 吾が身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 白しはやさね 白しはやさね
 
伊刀古《イトコ》 名兄乃君《ナセノキミ》 居居而《ヲリヲリテ》 物爾伊行跡波《モノニイユクトハ》 韓國乃《カラクニノ》 虎云神乎《トラトフカミヲ》 生取爾《イケドリニ》 八頭取持來《ヤツトリモチキ》 其皮乎《ソノカハヲ》 多多彌爾刺《タタミニサシ》 八重疊《ヤヘダタミ》 平羣乃山爾《ヘグリノヤマニ》 四月與《ウツキト》 五月間爾《サツキノホドニ》 藥獵《クスリガリ》 仕流時爾《ツカフルトキニ》 足引乃《アシビキノ》 此片山爾《コノカタヤマニ》 二立《フタツタツ》 伊智比何本爾《イチヒガモトニ》 梓弓《アヅサユミ》 八多婆佐彌《ヤツタバサミ》 比米加夫良《ヒメカブラ》 八多婆左彌《ヤツタバサミ》 宍待跡《シシマツト》 吾居時爾《ワガヲルトキニ》 佐男鹿乃《サヲシカノ》 來立嘆久《キタチナゲカク》 頓爾《タチマチニ》 吾可死《ワレハシヌベシ》 王爾《オホキミニ》 吾仕牟《ワレハツカヘム》 吾角者《ワガツヌハ》 御笠乃波夜詩《ミカサノハヤシ》 吾耳者《ワガミミハ》 御墨坩《ミスミツボ》 吾目良波《ワガメラハ》 眞墨乃鏡《マスミノカガミ》 吾爪者《ワガツメハ》 御弓之弓波受《ミユミノユハズ》 吾毛等者《ワガケラハ》 御筆波夜斯《ミフデハヤシ》 吾皮者《ワガカハハ》 御箱皮爾《ミハコノカハニ》 吾宍者《ワガシシハ》 御奈麻須波夜志《ミナマスハヤシ》 吾伎毛母《ワガキモモ》 御奈麻須波夜之《ミナマスハヤシ》 吾美義波《ワガミゲハ》 御鹽乃波夜之《ミシホノハヤシ》 耆矣奴《オイタルヤツコ》 吾身一爾《ワガミヒトツニ》 七重花佐久《ナナヘハナサク》 八重花生跡《ヤヘハナサクト》 白賞尼《マヲシハヤサネ》 白賞尼《マヲシハヤサネ》
 
(伊刀古名兄乃君居居而物爾伊行跡波韓國乃虎云神乎生取爾八頭取持來其皮乎多多彌爾刺八重疊)平群ノ山ニ、四月ト五月ノ頃ニ鹿ノ若イ角ヲ取ル爲ノ〔十字傍線〕、薬獵ニ奉仕スル時ニ、(足引乃)此ノ里近イ山ニ、二本立ツテヰル、(127)櫟ノ木ノ〔二字傍線〕下ニ梓ノ弓ヲ澤山ニ手挾ミ持ツテ、小サイ鏑矢ヲ澤山ニ手挾ンデ持ツテ、鹿ガ出テ來ルノ〔五字傍線〕ヲ待チ伏セシテ私ガ居ル時ニ、男鹿ガ來テ立ツテ嘆イテ云フニハ、私ハ今貴方ニ射殺サレテ〔九字傍線〕、俄ニ死ヌデアラウ。サウシテ〔四字傍線〕天子樣ノ御役ニ私ハ立チマセウ。デ〔傍線〕私ノ角ハ御笠ノ立派ナ材料ニナリマス。私ノ耳ハ御墨坩ニナリマス〔五字傍線〕。私ノ眼ハ眞澄鏡ニナリマス〔四字傍線〕。私ノ爪ハ御弓ノ弭ニナリマス。私ノ毛ハ御筆ノ立派ナ材料ニナリマス〔五字傍線〕。私ノ皮ハ御箱ノ皮ニナリマス〔五字傍線〕。私ノ肉ハ御鱠ノ立派ナ材料ニナリマス〔五字傍線〕。私ノ肝モ御鱠ノ立派ナ材料ニナリマス〔五字傍線〕。私ノ腸ハ鹽辛ノ立派ナ材料ニナリマス。此ノ通リ〔九字傍線〕。年老イタ奴デアル私ノ身體一ツニ、七重ニモ花ガ咲キマス。八重ニモ花ガ咲キマス。非常ナ光榮デアル〔八字傍線〕ト言ツテ褒メハヤシテ下サイ。ト言ツテ褒メハヤシテ下サイ。
 
○伊刀古《イトコ》――愛子。いとしき子の意で、人を親しみ呼ぶ語。男女いづれにも用ゐてある。古事記、八千矛神の御歌に、伊刀古夜能伊毛能美許等《イトコヤノイモノミコト》、神樂歌篠波に伊止己世仁萬伊止己世仁世牟也《イトコセニマイトコセニセムヤ》、風俗歌知知良良に伊止古世乃加止仁天宇止比佐介夫《イトコセノカドニテウドヒサケヲ》とあるなど同じである。今は從兄弟姉妹にのみ用ゐるのは、意が狹くなつたのである。○名兄乃君《ナセノキミ》――汝兄の君。名兄《ナセ》は男を親んで言ふ語で古事記に用例が多い。○居居屬而《ヲリヲリテ》――アリアリテといふに同じく、かうしてゐての意。○物爾伊行跡波《モノニイユクトハ》――物に行くとては。掛は別に指すところはなく、外出することを物に行くといふのだ。○韓國乃《カラクニノ》――文字の如く朝鮮をさしてゐる。○虎云神乎《トラトフカミヲ》――虎といふ神を。獣類でも恐ろしいものを神とあがめたことは、狼を大口能眞神《オホクチノマガミ》(一六三六)といつたのでも明らかである。虎が朝鮮に棲む獣として恐れられてゐたことは、欽明天皇紀に見える膳臣巴提使の故事にもあるが、その文中に虎を汝|威神《カシコキカミ》と言つてゐる。○八頭取持來《ヤツトリモチキ》――澤山擒つて來て。八頭は數多きをいふのみ。○多多彌爾刺《タタミニサシ》――疊として刺し縫うて作る。ここまでの十句は、次の句を言ひ出さむ爲の序詞である。○八重疊《ヤヘダタミ》――幾重にも重ねた疊。枕詞。重《ヘ》の意で平群につづいてゐる。○平羣乃山爾《ヘグリノヤマニ》――平群は大和平野の西部。古くは一郡をなしてあたが、今は生駒郡に合した。法隆寺附近の地である。古事記倭建命の御歌に伊能知能麻多祁牟比登波多多美許母幣具理能夜麻(128)能久麻加志賀波袁宇受爾佐勢曾能古《イノチノマタケムヒトハタタミゴモヘグリノヤマノクマカシガハヲウヅニサセソノコ》とある。○藥獵《クスリガリ》――鹿の若角即ち鹿茸《ロクジヨウ》を取る爲にする獵。鹿の若角を藥とした。藥獵は推古天皇紀に、十九年夏五月五目、菟田野で行はせられたのを始として、同廿年夏五月五日、同廿二年夏五月五日に行はれた記事が見える。朝廷の行事としては端午の日に行はれたのであらうが、一般には四月、五月の頃に隨時行つたのであらう。卷十七に加吉都播多衣爾須里都氣麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里《カキツバタキヌニスリツケマスラヲノキソヒカリスルツキハキニケリ》(三九二一)とあるのも同じく藥獵を詠んだのである。○仕流時爾《ツカフルトキニ》――奉仕する時に。朝廷の爲にするからかく言つたのである。○此片山爾《コノカタヤマニ》――片山は平地に面した山。片側山。○伊智比何本爾《イチヒガモトニ》――伊智比は和名抄に「櫟子崔禹食經云、櫟子 上音歴、伊知比 相似大2於椎子1者也」とあり、字鏡に、「※[木+巳]枸※[木+繼の旁]也 比乃木又一比乃木。櫟本名、一比乃木、枸一比乃木」など見えてゐる。謂はゆるイチヒガシと稱するもので、落葉喬木、シラカシに似て葉が薄い。實は※[木+諸]に酷似してゐる。古事記には赤檮をイチヒと訓んでゐるが、謂はゆるアカガシとは別物である。○八多婆佐彌《ヤツタバサミ》――多く手に持つことを、かく言つてゐる。下の比米加夫良と對にする爲であらうが、梓弓を八つ手挿むは似つかはしからぬ言葉である。○比米加夫良《ヒメカブラ》――代匠記には、蟇目鏑矢のこととし、考は大神宮式に姫靱といふものがあるから、これも姫鏑で、小さくてあらあらしくない鏑だらうといひ、宣長は樋目鏑で、鏑に樋を掘つたものだといつてゐる。眞淵説がよいのではあるまいか。○完待跡《シシマツト》――シシは鹿猪の總稱。完は宍即ち肉で借字である。○來立來嘆久《キタチナゲカク》――類聚古集に上の來の字が無いが、多分下の來が衍であらう。○頓爾《タチマチニ》――略解は舊訓を改めてニハカニとしてゐる。卷九に頓情消失奴《タチマナニココロケウセヌ》(一七四〇)とあるから、改めない方がよい。○王爾吾仕牟《オホキミニワレハツカヘム》――我は天皇の御料とならう。○御笠乃波夜詩《ミカサノハヤシ》――ハヤシは榮《ハエ》あらしめるもの。即ち立派な材料といふやうな意。御料の笠に鹿角を附けたのがあつたのであらう。○御墨坩《ミスミツボ》――鹿の耳の形が墨坩に似てゐる意。考には「鹿の耳の皮を墨坪にあつることありけむ」とあるが、まさかさ(129)ういふことはあるまい。○吾目良波《ワガメラハ》――ラは添へていふのみ。二つあるから複數を用ゐたのではない。○眞墨乃鏡《マスミノカガミ》――眞澄の鏡。これも目の清く澄んでゐるのを、鏡に譬へたもの。○御弓之弓波受《ミユミノユハズ》――ユハズは弓の上下の尖端をいふ。角弭の弓といふのはあるが、これは爪を以て、弭を造つた弓である。○吾毛等者《ワガケラハ》――このラも添へて言ふのみ。○御筆波夜斯《ミフデハヤシ》――御筆の材料として立派なもの。鹿毛筆の名は圖書寮式にも見えてゐる。新訓にフデをフミテと訓んであるのは從ひ難い。○吾完者《ワガシシハ》――完は宍。○御奈麻須波夜志《ミナマスハヤシ》――御鱠の立派な材料。奈麻須は和名抄「鱠唐韵云、鱠 音會奈萬須 細切完也」とある。これで見ると古は必ずしも酢を用ゐなかつたものと見える。○吾美義波《ワガミギハ》――和名抄毛群部獣體に「※[齒+台] 爾雅集注云、獣呑v蒭噬、反出而嚼、牛曰v※[齒+台]、羊曰v※[齒+世]、麋鹿曰v※[齒+益] 已上三字、皆邇介加旡、今案俗人謂2麋鹿屎1爲2味氣1是」とあり、牛・羊・鹿などの一旦呑下したるものを、再び口に戻して噬むものを、ミゲといふのである。ミゲとミギと音が近いから、多分古ミギといつたのを、後轉じてミゲ又はニゲとなつたのであらうと考へられてゐる。なほ字鏡には「※[月+玄] 肚也、牛百葉、三介、又三乃」とあり、※[月+玄]の字をミゲ又はミノと訓してゐる。同書に「肚 腹也、久曾布久呂」とあるから、※[月+玄]は牛の腸のことらしい。字書に、「※[月+玄]胡田切音賢、牛百葉也、一曰胃之厚肉爲※[月+玄]」とあるによれば、胃の肉である。いづれにしても鹿の腸又は胃の肉で、次の句に御鹽乃波夜之《ミシホノハヤシ》とあるに適應してゐるやうである。大膳式に鹿五藏一升とあるのはこれに相違ない。○御鹽乃波夜之《ミシホノハヤシ》――御鹽はミは敬語。鹽は鹽辛即ち醢《シシヒシホ》のことである。大膳式に鹿醢一升と見えてゐる。鹽辛の立派な材料。○耆矣奴《オイタルヤツコ》――舊訓オイハテヲヌとあるのを、考がオイハテヌと改めたのが普通行はれてゐる。併し矣は文末に置かれる字としてハテと訓むのであらうが、無理があり、奴をヌの假名に訓むならば次句に續けるにはヌルと言ふべきで、終止形の連體法が古格として存しないではないが、この場合はどうであらう。矣を文末に來る助動詞タリの連體形として、オイタルヤツコと訓んだ、新訓が最も妥當のやうである。耆は六十歳以上の老者。老いたる奴なる吾が身一つにと、下につづいてゐる。○七重花佐久《ナナヘハナサク》――七重に花が咲いたとは、幾重にも幸福が來たといふのである。次句の八從花生《ヤヘハナサク》とあるも同じ。○白賞尼《マヲシハヤサネ》――といつて譽めたてて下さい。この句を二回繰返して拍子を取つてゐる。
(130)〔評〕 門毎に流して歩く乞食者の歌である。作者は誰ともわからないが、かの藤原宮役民作歌(五〇)のやうに、いづれは名ある匿名氏の作であらう。左註には鹿の爲に痛を述べてこれを作るとあるが、鹿は大君の爲に死んで種々に役立つことを、老いたる奴の光榮として喜んでゐる。これを皇室に對する民衆の怨嗟の聲でもあるやうに解する學者もあるが、この歌の何處にもさうした氣分は見えてゐない。寧ろ鹿の言葉として皇室の尊嚴を述べ、萬物身を挺して君の爲に盡すことを謠つたものと見るべきである。始めに長い序詞を置いてゐるのは、人麻呂の作を始めとして、多くの古歌に見るところであるが、これは極めて奇拔な内容で先づ人を驚かすものがある。最初の四句が下への連續が惡いやうに見えるので、ここだけを別に取扱つて、新考のやうに、旦那オデカケデスカといふ意だとする説があるが、さう見ては却つて全體を打毀すことになつて、おもしろくない。序詞の内容は或は古傳説に關係のあるものかも知れないし、又さうでないとして、かくの如き長い俚謠になると言葉だけの連絡の内に興味を感ずるやうに作つてあるもののあることは、江戸時代の謠物にはその例が澤山あるのである。その點が又この歌の特色として見るべきであらうと思はれる。
 
右歌一首爲v鹿述v痛作v之也、
 
3886 押照るや 難波の小江に 廬作り なまりて居る 葦蟹を 王君すと 何せむに 吾を召すらめや 明らけく 吾が知ることを 歌人と 吾を召すらめや 笛吹と 吾を召すらめや 琴彈と 吾を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に到り 立てども 置きなに到り つかねども つく野に到り 東の 中のみかどゆ まゐり來て みこと受くれば 馬にこそ ふもだし掛くもの 牛にこそ 鼻繩はくれ あし引の この片山の もむ楡を 五百枝はぎ垂り 天光るや 日の氣に干し 囀づるや から碓につき 庭に立つ からうすにつき 押照るや 難波の小江の 初垂りを 辛く垂り來て 陶人の 作れる瓶を 今日往き 明日取り持ち來 吾が目らに 鹽ぬり給ひ もち賞すも もち賞すも
 
忍照八《オシテルヤ》 難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》 廬作《イホツクリ》 難麻理弖居《ナマリテヲル》 葦河爾乎《アシカニヲ》 王召跡《オホキミメスト》 何爲牟爾《ナニセムニ》 吾乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》 明久《アキラケク》 吾知事乎《ワガシルコトヲ》 歌人跡《ウタビトト》 和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》 笛吹跡《フエフキト》 和乎召良米夜《ワヲメスラメヤ》 琴引跡《コトヒキト》 和乎召良光夜《ワヲメスラメヤ》 彼毛《カモカクモ》 命受牟等《ミコトウケムト》 今日今日跡《ケフケフト》 飛鳥爾到《アスカニイタリ》 雖立《タテドモ》 置勿爾到《オキナニイタリ》 雖不策《ツカネドモ》 都久怒爾到《ツクヌニイタリ》 東《ヒムガシノ》 中門由《ナカノミカドユ》 參納來弖《マヰリキテ》 命受例婆《ミコトウクレバ》 馬爾己曾《ウマニコソ》 布毛太志可久物《フモダシカクモノ》 牛爾己(131)曾《ウシニコソ》 鼻繩波久例《ハナナハハクレ》 足引乃《アシビキノ》 此片山乃《コノカタヤマノ》 毛武爾禮乎《モムニレヲ》 五百枝波伎垂《イホエハギタレ》 天光夜《アマテルヤ》 日乃異爾干《ヒノケニホシ》 佐比豆留夜《サヒヅルヤ》 辛碓爾舂《カラウスニツキ》 庭立《ニハニタツ》 碓子爾舂《カラウスニツキ》 忍光八《オシテルヤ》 難波乃小江乃《ナニハノヲエノ》 始垂乎《ハツタリヲ》 辛久垂來弖《カラクタリキテ》 陶人乃《スヱビトノ》 所作瓶乎《ツクレルカメヲ》 今日往《ケフユキ》 明日取持來《アストリモチキ》 吾目良爾《ワガメラニ》 鹽漆給《シホヌリタマヒ》 時賞毛《モチハヤスモ》 時賞毛《モチハヤスモ》
 
(忍照八)薙波江ニ小屋ヲコシラヘテ、隱レテ棲ンデ〔三字傍線〕ヰル葦蟹ヲ、天子樣ガ御召シニナルト云フガ、何ノ爲ニ私ヲ御召シニナルノデアラウ。私ガ何モ役ニ立タナイ事ハ〔私ガ〜傍線〕明ラカニ私ニハ分ツテヰルノニ。歌手トシテ、私ヲ御召シニナルノデアラウカ。ソレトモ〔四字傍線〕笛吹手トシテ、私ヲ御召シニナルノデアラウカ。ソレト〔四字傍線〕琴彈手トシテ私ヲ御召シニナルノデアラウカ。私ニハソンナ事ハ出來ナイノニ〔私ニ〜傍線〕。兎ニモ角ニモ、仰セヲ承ハラウト思ツテ(今日今日跡)飛鳥ノ都〔二字傍線〕ニ行ツテ(雖立)置勿トイフ所〔四字傍線〕ニ行ツテ(雖不策)都久野ニ行ツテ、サテ御所ノ〔五字傍線〕東ノ中ノ御門カラ、參ツテ來テ、仰セヲ承ルト、コレハ意外〔五字傍線〕、馬ニコソ絆ノ繩ヲカケルモノダ。牛ニコソ鼻繩ヲハメルモノダガ、私ハソレヨリモ、モツトヒドイ目ニ逢ハサレテ〔私ハ〜傍線〕(足引乃)此ノ里近イ山ノ、毛武楡ノ木〔二字傍線〕ヲ、澤山ノ枝ノ〔二字傍線〕皮ヲ剥ギ取リ垂ラシテ、ソレヲ(天光夜)日ノ氣ニ乾カシ、(佐比豆留夜)唐碓ニ搗イテ、庭ニ置イテアル辛碓デ搗イテ、私ノ身體ヲヨク搗キ碎イテ〔私ノ〜傍線〕(忍光八)難波江ノ鹽ノ〔二字傍線〕手ノツカナイ垂レヲ、鹽カラク垂ラシテ持ツテ來テ、陶器ヲ燒ク人ガ作ツタ瓶ヲ、今日行ツテ明日取ツテ持ツテ來テ、私ノ目ニ鹽ヲ塗リナサツテ、カウシテ〔四字傍線〕私ヲモテハヤスヨ。モテハヤスヨ。
 
○忍照八《オシテルヤ》――枕詞。難波とつづく。九七七參照。○難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》――小江の小は接頭語のみ。難波江に。○廬(132)作《イホツクリ》――小屋を作つて。擬人して斯く言ふのである。○難麻理射居《ナマリテヲル》――ナマルは隱るに同じ。隱れるの古語。○葦河爾乎《アシガニヲ》――葦の中に棲む蟹。葦鶴《アシタヅ》
葦鴨《アシガモ》の類である。○王召跡《オホキミメスト》――天皇が召し給ふと云ふ。○何爲牟爾《ナニセムニ》――何に爲むとて。何の爲に。○吾乎召良米夜《アヲメスラメヤ》――我を召すのであらうか。新考に吾乎召倍伎《ワレヲメスベキ》の誤としたのは、穿鑿に過ぎて却つてわるい。○明久吾知事乎《アキラケクワガシルコトヲ》――この上に何の用事もないことはの意が含まれてゐる。何の用もないことは、明かに私が知つてゐることであるのに。○歌人跡《ウタビトト》――歌ひ手として。卷八佛前唱歌(一五八四)の左註に歌|子《ヒト》田口朝臣家守云々とある。これから以下の數句は自分で假に設けて疑つて見る。〇笛吹跡《フエフキト》――笛吹は笛を吹く者。天武天皇紀十四年九月の條に「是月詔曰。凡諸歌男歌女。笛吹者、即傳2己子孫1、令v習2歌笛1」とある。○琴引跡《コトヒキト》――琴弾く者として。前掲の佛前唱歌左註に彈琴市原王云々とある。以上歌人・笛吹・琴弾は蟹が泡を吹いて晋を立てる樣に形どつたのである。○彼毛《カモカクモ》――文字脱か。舊訓カレモ代匠記初稿本カレヲシモ,考ソコヲモ、略解はこの下、此毛の二字脱としてカモカクモと訓んでゐる。略解の訓がよい。とにもかくにも。○令受牟等《ミコトウケムト》――令をミコトと訓んでゐる。命令に從はうとて。○今日今日跡《ケフケフト》――枕詞。明日《アス》とつづく。○雖立《タテドモ》――枕詞で置勿《オキナ》に冠してゐる。立てども横に置くとつづくか。タテレドモ・クチタレドモなどの訓もある。古義は立は置の字の草書を誤り、置の上に不の字が脱ちたので、雖不置置竃《オカネドモオク》といふのだらうといつてゐる。○置勿爾到《オキナニイタリ》――置勿は或は誤字か。ともかくも飛鳥附近の地名である。○雖不策《ツカネドモ》――枕詞。杖をつかねどもつくといふ意で、都久怒《ツクヌ》につづいてゐる。○都久怒爾到《ツクヌニイタリ》――都久怒は桃花鳥野《ツキヌ》か。この地は今日の白橿村大字鳥屋にあたる。第一册附録、大和地圖參照。○中門由《ナカノミカドユ》――皇居の東門が三つあるから、その中央の門である。○布毛太志可久物《フモダシカクモノ》――布毛太志は和名抄に、「絆釋名云、絆、保太之半也、拘使3牛v行不v得2自縱1也」とあるホダシである。馬の脚にどを繋ぐ繩。今のフンドシはこの語の訛であらう。絆をかくるものなれの意。○鼻繩波久例《ハナハハクレ》――鼻繩をかけるものなれの意。ハクレは下一段活の他助詞、佩くの已然形。○毛武爾禮乎《モムニレヲ》――モムニレは代匠記精撰本に、「毛武爾禮は和名云、爾雅注云、楡之皮白名扮、上音叟、下音汾和名、夜仁禮、皮の白きと白からぬにて、楡と扮との名唐にも替れば、此國にも同じ意にて、毛武爾禮は別名歟。若は揉《モム》物にて揉楡にや。(而稿本には「百(133)楡に、にれの木のおほきをいふなるべし」とある。)延喜式第三十九内膳式云。楡皮一千枚 別長一尺五寸、廣四寸搗得2粉二石1枚別二合右楡皮年中雜御菜并羮等料。或者の語り侍りしは楡の皮を以て、楡餅とて山里には餅にし侍り。葉をも糯米に合せて餅に舂よし申き」と考證してある。考に樅楡《モミニレ》であらうといつてゐる。大膳式にも「楡皮蔓青九斗五升二合」と見えて、楡皮を碎いたものを、種々の食用に供したらしい。なほ同式に ※[草がんむり/爼]蔓菁四斗七升六合」とある※[草がんむり/爼]はニラキとよみ、楡樹《ニレキ》の轉で、葉を楡皮粉に和して漬けたのをいふのだといふ。契沖の百楡説は、次句の五百枝波伎垂《イホエハキタリ》につづく上からは穩やかでなく、眞淵の樅楡《モミニレ》説もさうした木の名がなく、又濶葉樹の楡に、針葉樹の樅に似たものがあるとも思はれない。一體楡科の木は品種の尠いもので、普通楡と呼ばれてゐるものでは、春楡と秋楡とがある。開花の時期によつて區別したものである。モムニレはこの二種の内か又は他種かは明らかでないが、その皮が厚くて食用に適するものであらう。○五百枝波伎垂《イホエハキタリ》――幾枝も澤山に剥ぎ垂らして。○天光夜《アマテルヤ》――枕詞。日とつづく。○日乃異爾干《ヒノケニホシ》――日の氣に干し。日光に乾燥せしめる。○佐比豆留夜《サヒヅルヤ》――枕詞。唐《カラ》とつづく。唐人の言葉が鳥の囀づるやうで、解し難いからである。○辛碓爾舂《カラウスニツキ》――辛碓は唐碓、柄《カラ》の長い臼とする説もある。和名抄に「碓字亦作v※[石+追]加良宇須蹈舂具也」 とある。前に可流羽須《カルウス》(三八一七)とあつたのと同樣である。舊本舂を春に誤る。○庭立《ニハニタツ》――庭に置いてある。○碓子爾舂《カラウスニツキ》――上に引くやうに、和名抄に碓をカラウスと訓んでゐるから、ここはカラウスであらう。古義には「碓子は本居氏|磑子《スリウス》の誤かと云り、さもあるべし」といつて、スリウスと訓んでゐる。併しスリウスで舂《ツ》くといふのはどうであらう。スリウスなら磨《ス》ると言ひさうである。舊本舂を春に誤つてゐる。○始垂乎《ハツタリヲ》――鹽を燒く前に作つた、濃厚な鹽水の最初に汲取つたものを、初垂といふのであらう。古は海水を汲んで、砂を圖錐形に盛りあげた、謂はゆる鹽尻に注ぎかけ日に干し、これを繰返し、その下に垂れて溜つた濃厚な鹽水を、竈に移して燒いたのである。今も醤油・味淋などで作つた濃厚な液をタレといふのは、これに關係があるだらうと思ふ。○辛久垂來弖《カラクタリキテ》――辛く垂れたのを取つて來て。○陶人乃《スヱビトノ》――陶器を造る人。雄略天皇紀に新漢陶部《イマキノアヤスヱツクリベ》高貴の名が見えてゐる。蓋し陶《スヱ》は外國風の陶器で藥を施したものである(在來の土器は土師これを造り、齋瓮《イハヒベ》風の素燒であつた)。陶人は外(134)來者又はその子孫であつた。○吾目良爾《ワガメラニ》――ラは添へて言ふのみ。新考に目は身の誤だらうとある。○鹽漆給《シホヌリタマヒ》――瓶に楡粉と鹽の垂とを入れて置いて、それに蟹を漬ける時、更に蟹に鹽を塗るのであらう。○時賞毛《モチハヤスモ》――舊訓は時を上に附けて、トと訓み、シホヌリタマヘトしてゐるが、それでは下の時の訓みやうがない。眞淵は時を聞の誤とし、奏聞の意でマヲスとよむのだと言つてゐる。宣長は時賞の二字をモテハヤスと訓むと言つてゐる。古義もこれに從ひ、訓はモチハヤスとしでゐる。古義に從ふのがよいであらう。
〔評〕 前歌とその長さを殆ど一にし、形式も酷似してゐる。内容も亦前者は鹿の爲に、これは蟹の爲に痛を述べて相似てゐる。蟹は古事記の應神天皇の御歌に「許能迦邇夜伊豆久能迦邇毛毛豆多布都奴賀能迦邇余許佐良布伊豆久邇伊多流《コノカニヤイヅクノカニモモヅタフツヌガノカニヨコサラフイヅクニイタル》云々」と詠まれ、古くから食膳に戴せられたことがわかる。併し角鹿の蟹は、あの邊の名物のずわゐ蟹といふ大きなもの、この歌のは難波の葦蟹で小さいものである。ずわゐ蟹は※[火+蝶の旁]《ゆ》でて大きく切つてそのまま食べるが、この葦蟹は楡皮を粉にしたものと鹽とを混ぜて漬けたのである。この歌を讀むと予が青年時代佐賀に住んでゐT、時々食べた蟹漬《ガンツケ》を思ひ出す。この歌には蟹を臼で舂いたとは言つてないが、恐らくあの蟹漬のやうに舂碎いた鹽辛であらう。あの原始的な食物らしい感じのする蟹漬《ガンヅケ》は、必ず萬葉時代の大和人の好んで食べたものであらう。なほこの歌に蟹が飛鳥へ行くと言つてゐるのは、飛鳥地方に都のあつた頃、乞食者が謠うたことを證するもので、即ち奈良朝以前の作なることが推定せられる。多分淨見原宮或は藤原宮頃のものであらう。これも前歌の同一人の作で、凡手でない。
 
右歌一首爲(ニ)v蟹(ノ)述(ベテ)v痛(ヲ)作(レル)v之(ヲ)也、
 
怕物歌《オソロシキモノノウタ》三首
 
怕物はオソロシキモノであらう。恐ろしいものを詠んだ歌。古義にはオドロシキモノと詠んであ
(135)る。舊本怕を※[立心偏+自]に誤つてゐる類聚古集その他の古寫本 によつて改む。
 
3887 天なるや 神樂良の小野に 茅がや刈り かや刈りばかに 鶉を立つも
 
天爾有哉《アメナルヤ》 神樂良能小野爾《ササラノヲヌニ》 茅草苅《チガヤカリ》 草苅婆可爾《カヤカリバカニ》 鶉乎立毛《ウヅラヲタツモ》
 
恐ロシイ〔四字傍線〕天上ニ在ル神樂良ノ野ニ入ツテ〔三字傍線〕、茅草ヲ刈ツテヰルソノ〔四字傍線〕茅ヲ苅ル場所デ俄ニ〔二字傍線〕、鶉ガ飛ビ出シタヨ。驚イテ魂モツブレテシマツタ〔驚イ〜傍線〕。》
 
○天爾有哉《アメナルヤ》――天ニアル。ヤは詠歎の助詞として添へてある。○神樂良能小野爾《ササラノヲヌニ》――神樂良能小野《ササラノヲヌ》は卷三|天有左佐羅能小野之七相菅手取持而《アメナルササラノヲヌノナナフスゲテニトリモチテ》(四二〇)とあるものと同じく、天上にあると信ぜられてゐる野原の名。○茅草苅《チガヤカリ》――茅草を苅つて。カヤは茅・萱・菅・薄の類の總稱。チガヤは、即ち茅の草である。チは春の頃茅花をつける草。○草苅婆可爾《カヤカリバカニ》――カリバカは卷四の秋田之穗田乃苅婆加《アキノタノホタノカリバカ》(五一二)・卷十の秋田吾苅婆可能《アキノタノワガカリバカノ》(二一三三)などのカリバカと同樣で、苅る範圍といふやうな意。その苅り取る場所の意。○鶉乎立毛《ウヅラヲタツモ》――鶉を立てるよ。鶉が立つよに同じ。考は乎は之の誤として、ウヅラシタツモと訓んでゐるが、よくない。
〔評〕 天の神樂良の小野で、茅草を苅つてゐる時に、鶉が遽かに飛立つたので驚いたといふのであるが、天上の野で茅を苅るといふのは何か傳説でもあつたのか。天爾有哉《アエナルヤ》を冠詞と見、神樂良の小野を地上に求め、河内にありとする説もあるが、當嵌らぬやうである。鶉は淋しい陰氣な鳥である。小さい鳥ではあるが、しかも叢の中にゐて、遽かに飛び立つことが多く、さうした場合、かなり人を驚かすものである。怖ろしい天上の野と、この鶉の飛び立つおそろしさとを一緒にして、氣味の惡い場面を作り出してゐる。しかし今の吾等には、その感じが充分に出て來ないやうである。
 
3888 奥つ國 うしはく君が 染屋形 黄染の屋形 神の門渡る
 
奧國《オキツクニ》 領君之《ウシハクキミガ》 染屋形《シメヤカタ》 黄染乃屋形《キシメノヤカタ》 神之門渡《カミノトワタル》
 
(136)遠イ島〔傍線〕國ノ國守ガ乘ツテヰル染屋形ノ船、ソノ〔二字傍線〕黄色ニ染メタ立派ナ〔三字傍線〕屋形船ガ、神樣ノヰル恐ロシイ海ノ〔六字傍線〕瀬戸ヲ渡ツテヰル。ヤガテ難船シナケレバヨイガ。オソロシイ、オソロシイ〔ヤガ〜傍線〕。
 
○奧國《オキツクニ》――奧つ國は沖つ國で、海上遠い島國であらう。考に「黄泉をいふなり」とある。これも一説であらうが、今從はない。○領君之《ウシハクキミガ》――舊訓シラセシキミガとあるが、古事記上卷に「汝之宇志波祁流葦原中國者我御子之所知國言依賜《ナガウシハケルアシハラノナカツクニハアガミコノシラサムクニトコトヨザシタマヒ》云々」とあるやうに、シルは絶對の統治權を以て支配することで、ウシハクは主として佩くこと、吾が物としてしばらく身につけてゐる意であるから、領はウシハクと訓むべきである。從つてこの君は國守などであらう。考には閻魔王としてゐる。○染屋形《シメヤカタ》――染はソメと訓む説も多い。屋形は謂はゆる屋形船の屋形である。和名抄に「※[竹/逢]※[まだれ/卑]、唐韻云、※[竹/逢]※[まだれ/卑]逢婢二音、布奈夜賀太船上屋也」とある。染屋形は色を染めた屋形。○黄染乃屋形《キシメノヤカタ》――前句を繰返しで、委しく言つたもの。黄色に染めた屋形船。黄色は黄土《ハニ》を塗つた船であらう。卷十の具穗船《ソホブネ》(二二八九)・卷三の赤乃曾保船(二七〇)・卷十三の赤曾朋船《アケノソホブネ》(三三〇〇)・この卷の赤羅小船《アカラヲブネ》(三八六八)など皆同じであらう。○神之門渡《カミノトワタル》――神の座ます恐ろしい海峽を通つてゐる。神之門は地名ではない。
〔評〕 實景を捉へたのではなく、空想的に恐ろしさうな場面を作り上げたまでである。初二句を閻魔大王とする説に從ふと、大ぶん恐ろしくなるが、船に乘つた閻魔王は空想にしても一寸をかしい。黄染の屋形船は何故おそろしいか。これについて二つの見方がある。一は代匠記初稿本に「海神ははかりがたくおそろしき物にて、廣大の資財に貪する物なれば、舟に財あれば心をかけ、色よきものをもはしがるなり。よりてさはりをなすものなり」と言つたのに從ふので、略解・古義も同説である。二は代匠記精撰本に「黄染としも云へるは、黄色をば海神の愛してほしがる歟。嫌ひて厭ふ歟」と言つた後説の方で、若し海神が赤色を好むとするならば、船を赤く塗る理由もなく、現在諸國に存するやうに、船夫などが赤い物を身につける習俗がある筈もない。この見地からして新考は「播磨國風土記の逸文に『ソノ土《ニ》(赤土)ヲ天ノ逆桙ニ塗リテ御舟ノ艫舳ニ建テ、又御舟ノ裳《スソ》及御軍ノ著タル衣ヲ染メ又海水ヲ攪《カキ》濁シテ渡リ賜ヒシ時底潜ル魚及高飛ブ鳥等往來セズ前ヲ遮ラズ』とあるを思へば、船を染むるは寧ろ海神を嚇さむ爲なるに似たり。然らば一首の趣はいかがといふに、黄染の船は海島の魔王(137)の乘れるものにて、其船に逢へば禍ありといふ俗信ありしならむ。さて處は神ノトなる上に、さる船を見しかばおそろしくおぼゆる趣なるべし」といつてゐる。この黄染の船を海島の魔王の乘用とするのは、眞淵が黄泉の閻魔王の船としたのと、略同樣で、いかにも物恐ろしいが、根據がないやうである。この他に黄染の屋形船を船幽靈であらうとする説もある。かやうに、なるべく恐ろしいやうに想像を逞しうすれば、際限もないことで、海賊を恐れたとするなど種々の解釋が出來ようが、國守の乘つてゐる立派な屋形船が、恐ろしい瀬戸を通つて、外海へ進まうとしてゐるのを見て、あれもやがては難破の厄に逢ふのではないかと、おそれおののいた人の歌と見るのが無難であらう。平凡な解ではあるが致し方がない。
 
3889 人魂の さ青なる君が ただ獨 逢へりし雨夜は ひさしく念ほゆ
 
人魂乃《ヒトタマノ》 佐青有公之《サヲナルキミガ》 但獨《タダヒトリ》 相有之雨夜葉《アヘリシアマヨハ》 非左思所念《ヒサシクオモホユ》
 
人魂ノ眞青ナソノ人魂ニ、唯一人デ私ガ〔二字傍線〕逢ツタ雨ノ降ル夜ハ、恐ロシクテ夜ノ明ケルノガ〔恐ロ〜傍線〕久シク思ハレル。
 
○人魂乃《ヒトタマノ》――人魂は死人の魂。身體より脱け出でて青い光を放つて飛んで行くのである。これを直ちに幽靈と見る説もあるが、幽靈は古く鬼と云つたので即ち怨靈である。人魂とはいはない。なほこの句を人魂の如くと見る説も多いが、さうではあるまい。○佐青有公之《サヲナルキミガ》――佐青《サヲ》のサは接頭語。今|眞青《マツサヲ》といふに同じ。公《キミ》は人魂その物をさしてゐる。公之《キミガ》はキミニに同じ。公《キミ》を主としてかくいふのは古格である。卷二に天數風津子之相日《ソラカゾフオホツノコガアヒシヒニ》(二一九)とある。之を仁又は爾に改めようとするのはわるい。人魂のやうな青い顔色をした貴君にと解するのは當らない。○但獨《タダヒトリ》――自分が獨歩きをして。○相有之雨夜葉《アヘリシアマヨハ》――人魂に出逢つた雨の夜のことは。○非左思所念《ヒサシクオモホユ》――舊訓はヒサシトゾオモフとあるが、ここによく當嵌らない。代匠記精撰本に、思の下に久又は九などの字が脱ちたのとしで、ヒサシクオモホユと訓まうと言つたのに從はう。夜の明けるのが待遠いと解すべきであらう。久しい年月の間、その氣味わるさを忘れないと解する説はどうであらう。新考は左非の顛倒として、サビシクオモホユと訓むべきかと言つてゐる。
(138)〔評〕 人魂と聞いただけでも、ぎよつとするやうな材料だ。雨のそぼ降る夜に、その青い光を見たのだから、淋しくおそろしいわけである。怕ろしいものの材料としては、正に無類で、かういふ歌は他に類例を見ないやうである。以上の三首は特に題を設けて、怕ろしさうなものを詠んだらしい。三首とも現代の我等には、しつくり來ない點があるやうである。
 
萬葉集卷第十六
 
卷第十七
 
(139)萬葉集卷第十七解説
 
この卷は部門を立てることなく、年月の順序に從つて排列してあり、恰も日記の如き體裁をなしてゐる。さうして以下の卷十八・卷十九・卷二十の三卷と連續して、同一の組織になつてゐる。即ちこれまでの總べての卷々と趣を異にしてゐるが、部門を分たない點と、假名書式になつてゐる點とに於て卷十五と同じく、題詞と左註とが他の卷よりも立派な漢文になつてゐるものがあること、贈答の書牘文を掲げ、漢詩をも載せてある點、及び假名書式になつてゐる點に於ては、卷五と趣を一にしてゐる。この卷の年代は、冒頭に天平二年冬十一月、太宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられて上京の際、扈從の人々の詠んだ作を擧げ、その後十年・十二年・十三年・十六年等の歌を掲げ、次に十八年正月の作につづいて、家持が同年七月越中守として赴任以後、同廿年春までの歌を記してある。越中に赴いてから歌の數も多くなり、それが月日を追うて記されてゐるので、家持自らの手記であることが確認せられるが、卷頭に置かれた天平十六年までの作三十餘首は、卷三・四・五・六・八などと時代を等しくし、それらの歌の殆ど總べてが、家持に直接間接に關係を有するものであつて、やはり家持の手記たることは疑ふ餘地がない。即ちこの卷の全部を、家持の手記とすることは異論はないのである。以下の卷十八・十九・二十についても、同樣のことが言へるのであつて、萬葉集の最後の四卷が家持の手記とすれば、萬葉集全體が家持の手を經たものとする見解も成立するわけで、かくして、この集の撰者を家持とする説が廣く行はれて來たのであ(140)る。併し家持の手記が原形その儘で傳へられてゐるか、又この四卷は、最初から別の卷としで記されたか、又は卷の區劃は、便宜上後に設けられたものか等の問題に關して、近時種々の論議が行はれてゐるが、未だ定説とすべき程のものがない。これらは以下の卷々に亘つて精査攻究の上論ずべきことであるから、ここには述べないことにする。この卷の歌數は長歌十四首・旋頭歌一首・短歌百二十七首、合計百四十二首である。そのうち家持の作は實に八十二首に及んでゐることは、この卷が彼の手記たる關係上當然のことであらうが、從來の卷とは全く趣を異にするところである。この卷の用字法が一字一音式の假名書なることは、上述の通りであるが、音字の外に意字を用ゐたものも所々に散見し、文中には漢字交り式の書き方になつてゐるやうな歌もないではない。まづその程度は卷十五のそれと、略同一程度にあるものと考へてよいであらう。この卷の藝術的價値はあまり高いとは言はれない。天平の初年頃までに見えた、素朴な雄渾な作品は影をひそめ、古歌の型を踏み既成の成語を踏襲したものが多くなつてゐる。
 
(141)萬葉集卷第十七
 
天平二年庚午冬十一月太宰帥大伴卿被v任2大納言1上v京時、卷※[人偏+兼]從人等別取2海路1入v京於v是悲2傷羈旅1各陳2所心1作歌十首
同十年七月七日大伴宿禰家持獨仰2天漢1聊述v懷歌一首
同十二年十一月九日大伴宿禰家持追2和太宰時梅花1新歌六首
同十三年二月右馬頭境部宿禰老麻呂讃2三香原新都1歌一首并短歌
同年四月二日大伴宿禰書持詠2霍公鳥1贈2兄家持1歌二皆
三日内舍人大伴宿禰家持從2久邇京1報2送弟書持1歌三首
田口朝臣馬長思2霍公鳥1歌一首
山邊宿禰明人詠2春※[(貝+貝)/鳥]1歌一首
同十六年四月五日大伴宿禰家持於2平城故郷1作歌六首
同十八年正月白雪零左大臣橋卿率2王卿等參2入太上皇御在所1作歌五首【十七首略之】
同七月越中守大伴宿禰赴v任時大伴坂上郎女贈2家持1歌二首
更贈2越中國1歌二首
(142)(143)略
(144)介内藏忌寸繩麻呂餞2守家持1歌一首
守大伴家持和2繩麻呂1歌一首
大伴池主傳2誦石川朝臣水道橘歌1一首
同日守大伴家持舘飲宴歌一首
二十七日大伴家持立山賦一首
二十八日大伴池主敬2和守大伴家持立山賦1一并二絶
三十日守大伴家持贈2掾大伴池主1歌一首并一絶
五月五日掾大伴池主報2和守家持述v懷歌1一首并二絶
九月二十六日守大伴家持思2放逸鷹1夢感悦作歌一首并短歌
高市連黒人歌一首
同二十年大伴宿禰家持歌四首
守大伴家持春出擧巡2行諸郡1當時所v屬歌丸首
大伴家持怨2※[(貝+貝)/鳥]晩哢1歌一首
造酒歌一首
 
(145)天平二年庚午冬十一月太宰帥大伴卿被(ル)v任(ケ)2大納言(ニ)1【兼(ヌル)v帥(ヲ)如(シ)v舊(ノ)】上(ル)v京(ニ)之時、陪從(ノ)人等、別(ニ)取(リテ)2海路(ヲ)1入(ル)v京(ニ)於(テ)v是(ニ)悲(ミ)2傷(ミテ)※[覊の馬が奇]旅(ヲ)1各陳(ベテ)2所心(ヲ)1作(レル)歌十首
 
舊本陪從人等とあるが、元暦校本その他、人の字が無い本が多い。取海路の取の字、神田本にはない。卷三(四四六)天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌、卷六(九六五)に冬十二月太宰帥大伴卿上v京時娘子作歌とあるによると、旅人の上京に先立つて、陪從人等のみ一ケ月以前に出發したものらしい。
 
3890 吾がせこを 吾が松原よ 見渡せば 海人少女ども 玉藻刈る見ゆ
 
和我勢兒乎《ワガセコヲ》 安我松原欲《アガマツバラヨ》 見度婆《ミワタセバ》 安麻乎等女登母《アマヲトメドモ》 多麻藻可流美由《タマモカルミユ》
 
(和我勢兒乎安我)松原カラ遙カニ〔三字傍線〕見渡スト、海士ノ少女等ガ、玉藻ヲ刈ツテヰルノガ見エル。アアヨイ景色ダ〔七字傍線〕。
 
○和我勢兒乎安我松原欲《ワガセコヲアガマツバラヨ》――吾が背兒を吾が待つとつづけて、松原を言ひ起したので和我勢兒乎安我《ワガセコヲアガ》は松原に冠した序詞である。安我松原《アガマツバラ》といふ地名があるのではない。卷六に妹爾戀吾乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡《イモニコヒアガノマツバラミワタセバシホヒノカタニタヅナキワタル》(一〇三〇)とある吾乃松原《アガ()ツバラ》は伊勢の地名であるから、混同してはいけない。卷十の吾松原《アガマツバラ》(二一九八)も同樣である。
〔評〕 すがすがしい感じの作。前掲の卷六の歌は天平十二年冬十月、聖武天皇伊勢行幸の際の御製であるから、これよりも十年後の作である。これは筑紫の海岸での作。格調風趣相似てゐる。
 
右一首|三野《ミヌノ》連|石守《イソモリ》作
 
(146)三野連石守の傳はわからない。この人の作が卷八(一六四四)に一首見えてゐる。
 
3891 荒津の海 潮干潮滿ち 時はあれど いづれの時か 吾が戀ひざらむ
 
荒津乃海《アラツノミ》 之保悲思保美知《シホヒシホミチ》 時波安禮登《トキハアレド》 伊頭禮乃時可《イヅレノトキカ》 吾孤悲射良牟《ワガコヒザラム》
 
荒津ノ海ハ、汐ガ干タリ汐ガ滿チタリスルノニ定マツタ〔八字傍線〕時ガアルガ、イツノ時デモ私ガ女ヲ〔二字傍線〕戀シナイ時ガアラウカ。何時デモ私ハ女ヲ戀シテヰル〔何時〜傍線〕。
 
○荒津乃海《アラツノウミ》――博多灣内に突出した岬が安良都能左伎《アラツノサキ》(三六六〇)で、即ち今の西公園の地である。その附近が荒津之濱《アラツノハマ》(三二一五)であり、荒津海《アラツノウミ》(三二一七)である。○時波安禮登《トキハアレド》――汐が干たり汐が滿ちたりするのは、定まつた時があるけれども。
〔評〕 時によつて汐の滿干のある荒津の海を眺めて、時を分たず戀しく思ふ自分と對比してゐる。卷廿|伊奈美野安可良我之波波等伎波安禮騰伎美乎安我毛布登伎波佐禰奈之《イナミヌアカラガシハハトキハアレドキミヲアガモフトキハサネナシ》(四三〇一)と似てゐるが、下句だけについて言へば卷十一の人目多常如是耳志侯者何時吾不戀將有《ヒトメオホミツネカクノミシサモラハバイヅレノトキカワガコヒザラム》(二六〇六)と同樣である。
 
3892 磯毎に 海人の釣船 泊てにけり 吾が船泊てむ 磯の知らなく
 
伊蘇其登爾《イソゴトニ》 海夫乃釣船《アマノツリブネ》 波底爾家里《ハテニケリ》 我般波底牟《ワガフネハテム》 伊蘇乃之良奈久《イソノシラナク》
 
磯を見ルト〔五字傍線〕、ドノ磯ニデモ、海士ノ釣舟ガ・碇泊シテヰルヨ。然シ〔二字傍線〕私ノ乘ツテヰル〔五字傍線〕舟ノ碇泊スベキ磯ハ、何處カ〔三字傍線〕分ラナイ。アア心細イ〔五字傍線〕。
 
(147)○波底爾家里《ハテニケリ》――碇泊したよ。ハツは終る意。果つ。泊意つ。ケリは詠歎の助動詞。
〔評〕 晝の間は、わが乘る船と共に海上に浮んであた海士の釣舟が、夕暮近くなるに從つて、それぞれその磯に歸つてしまつた。しかも吾が乘る船のみは、何處に碇泊せむとするのだらう。遽かに淋しくなつた海上に、唯獨依然として進行をつづけでゐるといふので、寂寥感が滿ち溢れたよい作だ。三句切にして詠歎のケリを以て結び、五句|伊蘇乃之良奈久《イソノシラナク》と柔らかに歌ひをさめたのが、言ひ知れぬあはれさを籠めてゐる。袖中抄に作者を大伴卿として出してゐる。
 
3893 昨日こそ 船出はせしか 鯨魚取り 比治奇の灘を 今日見つるかも
 
昨日許曾《キノフコソ》 敷奈底婆勢之可《フナデハセシカ》 伊佐魚取《イサナトリ》 比治奇乃奈太乎《ヒヂキノナダヲ》 今日見都流香母《ケフミツルカモ》
 
太宰府ヲ出テ來テ〔八字傍線〕、昨日コソ船出ヲシタヨ。然ルニ早クモ〔六字傍線〕(伊佐魚取)比治奇ノ灘ヲ今日ハ見タコトヨ。思ヒノ外ニ早ク來タモノダ〔思ヒ〜傍線〕。
 
○伊佐魚取《イサナトリ》――枕詞。海とつづく。勇魚《イサナ》即ち鯨を漁する意といはれてゐる。ここは比治奇乃奈太《ヒヂキメナダ》に冠してゐる。○比治奇乃奈太乎《ヒヂキノナダヲ》――今ヒヂキ灘といふところはないから、響の灘であらうとするのに、大體異論はない。即ちヒヂキはヒビキの誤寫Iとるか、ヒビキをヒヂキの訛とするのである。然るにこの響の灘が長門と播磨との兩方にある。長門のは豐浦部西方、玄界灘につづく海面で、即ち小倉市・若松市の北方に當つでゐる。播磨なるは播磨灘の一部、高砂の前面の海上だと言はれてゐる。忠見集に「音にきき目にはまだ見ぬはりまなる響の灘と聞くはまことか」とあるのがその證とせられてゐる。右のいづれを以て、この比治奇乃奈太に當つべきか。歌意から考へて、長門では近過ぎるやうでもあり、播磨では遠過ぎるやうでもある。源氏物語玉鬘に「早船といひて樣異になむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、危きまで※[馬+史]りのぼりぬ。響の灘もなだらかに過ぎ(148)ぬ。海賊の船にやあらむ、小さき船の飛ぶやうにて來るなどいふものあり。海賊のひたぶるならむよりも、かの怖ろしき人の追ひ來るにやと思ふにせむ方なし。『うきことに胸のみ騷ぐ響にはひびきの灘も名のみなりけり』川尻といふ所近づきぬといふにぞ、少し息出づる心地する」とあるのは、響の灘からやがて淀川尻のやうに書いてある。これも播磨とすべきか。
〔評〕 初二句は、物の進行の速かなるに驚いた時に、言ふ一つの形式になつてある。卷十の昨日社年者極之賀春霞春日山爾速立爾來《キノフコソトシハハテシカハルガスミカスガノヤマニハヤタチニケリ》(一八四三)參照。喜悦の情があらはれてゐる。袖中抄に載つてゐる。
 
3894 淡路島 と渡る舟の 楫間にも 我は忘れず 家をしぞ思ふ
 
淡路島《アハヂシマ》 刀和多流船乃《トワタルフネノ》 可治麻爾毛《カヂマニモ》 吾波和須禮受《ワレハワスレズ》 伊弊乎之曾於毛布《イヘヲシゾオモフ》
 
淡路島ノ瀬戸ヲ通ツテ行ク船ノ中デ、ソノ船〔六字傍線〕ノ楫ヲ動カス絶エ〔六字傍線〕間ノ暫ク〔三字傍線〕デモ、私ハ忘レナイデ、家ヲ思ツテヰルヨ。
 
○刀和多流船乃《トワタルフネノ》――トは迫門。海峽。淡路の瀬戸を通つて行く吾が乘る船の。○可治麻爾毛《カヂマニモ》――楫間は楫を操る絶え間。時間の短きをいふ。
〔評〕 家郷に近づいて、いよいよ歸心矢の如しである。卷十八の多流比女能宇艮乎許具夫禰可治末爾母奈良野和藝敝乎加須禮※[氏/一]於毛倍也《タルヒメノウラヲコグフネカヂマニモナラノワギヘヲワスレテオモヘヤ》(四〇四八)はこれに似てゐる。
 
3895 玉映やす 武庫の渡りに 天づたふ 日の暮れゆけば 家をしぞ思ふ
 
多麻波夜須《タマハヤス》 武庫能和多里爾《ムコノワタリニ》 天傳《アマヅタフ》 日能久禮由氣婆《ヒノクレユケバ》 家乎之曾於毛布《イヘヲシゾオモフ》
 
(149)(多麻波夜須)武庫ノ海デ、(天傳)日ガ暮レテ行クト、淋シクテ〔四字傍線〕、家ヲ戀シク思フヨ。
 
○多麻波夜須《タマハヤス》――枕詞。武庫とつづく意は明らかでない。冠辭考には、或説として、玉の如くめではやす聟の意とする説を掲げ、「然れども又おもふに、玉の光そふる椋《ムク》といひかけたらんか。むこ、むく、音の通ふままに、轉じていひ下すは冠辭のつねなり」と言つてゐる。宣長は玉映《タマハユ》むかしきといふつづけ方であつて、玉の光るのを愛する意。古は心にかなつて愛することを、むかしきといつたといつてゐる。○武庫能和多里爾《ムコノワタリニ》――武庫の渡は今の兵庫附近の海。難波へ向けて横斷するから、渡といふのである。○天傳《アマヅタフ》――枕訊。空を渡る日とつづく。
〔評〕 武庫から難波へ、直線航路を取つてゐる海上で、段々日の暮れて行く淋しさを歌つたもの。平明な作。感じは出てゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3896 家にても たゆたふ命 浪の上に 思ひし居れば 奧處知らずも 一云、浮きてしをれば
 
家爾底母《イヘニテモ》 多由多敷命《タユタフイノチ》 浪乃宇倍爾《ナミノウヘニ》 思之乎禮婆《オモヒシヲレバ》 於久香之良受母《オクガシラズモ》
  一云、宇伎底之乎禮八《ウキテシヲレバ》
 
家ニ住ンデヰ〔四字傍線〕テスラモ、危イ定メナイ命ダカラ、今ハカウシテ〔九字傍線〕浪ノ上ニ浮カンデ船ニ乘ツテ、種々危イ事ヲ〔浮カ〜傍線〕考ヘテヰルト誠ニ恐ロシクテ〔七字傍線〕、際限ガワカラナイヨ。
 
○多由多敷命《タユタフイノチ》――タユタフは漂ふ。ここは定まらぬ危き命の意。船の縁でタユタフと用ゐたのである。○思之乎禮婆《オモヒシヲレバ》――いろいろと危いことを考へて居ると。○於久香之良受母《オクガシラズモ》――於久香《オクガ》は奧處。この句は恐ろしくて際限がわからないよといふのである。○一云|宇伎底之乎禮八《ウキテシヲレバ》――第四句の異傳である。この方が原歌よりも穩やかであらう。元暦校本・古葉略類聚抄に、これを原歌としてゐる。
(150)〔評〕 初二句は例の佛教の無常觀である。かういふところに、こんなことを述べると、却つて哀感を殺ぐやうに思はれる。
 
3897 大海の 奧處も知らず  行く我を いつ來まさむと 問ひし兒らはも
 
大海乃《オホウミノ》 於久可母之良受《オクガモシラズ》 由久和禮乎《ユクワレヲ》 何時伎麻佐武等《イツキマサムト》 問之兒良波母《トヒシコラハモ》
 
大海ノ極《ハテ》モ知ラズ、遠イ筑紫ヘ〔五字傍線〕出カケル私ダノニ、何時歸ツテ〔三字傍線〕オイデニナルカト尋ネタアノ〔二字傍線〕女ヨ。筑紫デノ仕事モ終ツテ、歸ルコトニナツタガ、アノ女ハドウシテヰルダラウ〔筑紫〜傍線〕。
 
○大海乃《オホウミノ》――新考は枕詞としてゐるが、さうらしくない。
〔評〕 家が近づいて、出發の當時を回顧して、留守居の女を思ひ出した歌。筑紫なる女を思ふ歌とするのは當らない。
 
3898 大船の 上にしをれば 天雲の たどきも知らず 歌へいで吾兄
 
大船乃《オホブネノ》 宇倍爾之居婆《ウヘニシヲレバ》 安麻久毛乃《アマグモノ》 多度伎毛思良受《タドキモシラズ》 歌乞和我世《ウタヘイデワガセ》
  諸本如v此可v尋v之
 
大船ノ上ニ乘ツテ、海ニ浮カンデ〔六字傍線〕ヰルト、(安麻久毛乃)何所ト云ツテタヨリ所モナイ。歌デモ〔三字傍線〕歌ヒナサイ、サア、吾ガ友ヨ。
 
○安麻久毛乃《アマグモノ》――枕詞。天雲の寄る所なきを、たづきも知らずの枕詞としたものである。○歌乞和我世《ウタヘイデワガセ》――舊(151)訓はウタコソワガセとあるが、解し難い。考はウタガタワガセと訓み、略解は乞を方に改めて、考の訓を採用してゐる。ウタガタは泡のことで、危き意だと解してあるが、成るべく改字は避けたい。代匠記にウタヘコソワガセとあるのもよいが、予は乞吾君《イデワガキミ》(六六〇)に傚つて歌乞和我世《ウタヘイデワガセ》と訓みたいと思ふ。歌へよ、さあ吾が兄よ、兄《セ》は同船の人を指す。この下に舊本諸本如此可尋之とあるは、この句は諸本が皆かうなつてゐるが、なほ研究を要するといふので、歌乞を訓みかねて、仙覺などが注したものである。もとより除くべきものだ。元暦校本その他、多くの古寫本に記されてゐない。
〔評〕 結句が少し曖昧であるが、全體に淋しい氣分が出てゐる。
 
3899 海人少女 漁り焚く火の おほほしく 都努の松原 思ほゆるかも
 
海未通女《アマヲトメ》 伊射里多久火能《イザリタクヒノ》 於煩保之久《オホホシク》 都努乃松原《ツヌノマツバラ》 於母保由流可聞《オモホユルカモ》
 
私ハ武庫カラ難波ヲサシテ漕イデ行クト、遙カ彼方ニ〔私ハ〜傍線〕角ノ松原ガ、見エルヤウダガ〔七字傍線〕、(海未通女伊射里多久火能)ボンヤリト不確カニ思ハレルヨ。
 
○海未通女伊射里多久火能《アマヲトメイザリタクヒノ》――海人の處女の漁をして焚いてゐる火が、影薄く明らかでないから、於煩保之久《オホホシク》と言はむ爲の序詞としてゐる。○於煩保之久《オホホシク》――欝悒。ぼんやりと不明瞭なこと。○都努乃松原《ツヌノマツバラ》――卷三に名次山角松原何時可將示《ナスギヤマツヌノマツバライツカシメサム》(二七九)とある角の松原で、今の西宮市字松原の地であらう。○於母保由流可聞《オモホユルカモ》――三句の於煩保之久《オホホシク》から、この句につづいてゐる。ぼんやりと朧げに見えて、角の松原も、それと明瞭ではないといふのである。古義に「都の方にむきてこぎ來れば、はや都努《ツヌ》の松原の風景の、ほのぼのと目の前にうかびておぼゆる哉、さても歡しやとなり」とあるのは當らない。
〔評〕 初二句は序詞ではあるが、既に夜に入つて漁火がちらつき初めた頃の、景を捕へたものかと思はれる。前(152)の多麻波夜須《タマハヤス》(三八九五)の歌によると、武庫の渡で日を暮したとあるから、そのまま角の松原あたりを、左舷遙かに眺めつつ進行したのかも知れない。元暦校本・西本願寺本などは、ここの五首の順序をかへて、淡路島(三八九四)の次に、大船乃(三八九八)・海未通女(三八九九)・多麻波夜須(三八九五)・家爾底母(三八九六)・大海乃(三八九七)となつてゐる。
 
右九首作者不v審(カニ)2姓名(ヲ)1
 
十年七月七日之夜獨仰(イデ)2天漢(ヲ)1聊(カ)述(ブ)v懷(ヲ)一首
 
3900 織女し 船乘りすらし まそかがみ 清き月夜に 雲立ち渡る
 
多奈波多之《タナバタシ》 船乘須良之《フナノリスラシ》 麻蘇鏡《マソカガミ》 吉欲伎月夜尓《キヨキツクヨニ》 雲起和多流《クモタチワタル》
 
織女ガ今天ノ川ヲ〔五字傍線〕船ニ乘ツテ、渡〔三字傍線〕ルラシイ。空ヲ仰イデ見ルト〔八字傍線〕(麻蘇鏡)清イ月夜ニ雲ガ浪ノ樣ニ〔四字傍線〕立ツテヰルヨ。船ヲ漕グノデ、雲ノ浪ガアノ樣ニ立ツノデアラウ〔船ヲ〜傍線〕。
 
○麻蘇鏡《マソカガミ》――枕詞。清きとつづく意は明らかである。
〔評〕 七日の夜に、空に雲の騷ぐのを、織女の舟出によつて、波が立つと見たのである。古義に「織女の儀容《ヨソヒ》を人に見せじと、雲の起わたり覆ふ意なりと、大神眞潮翁の説《イヘ》る、さもあるべし」とあるのは從ひ難い。織女が舟に乘るといふのは、どうかとの説もあるが、さう嚴格に考へる要はない。八雲御抄に載せである。
 
右一首大伴宿禰家持
 
元暦校本西本願寺本その他、家持の下に作の字があるのがよい。
 
(153)追2和(セル)大宰之時(ノ)梅花(ニ)1新歌六首
 
卷五に出てゐる、天平二年正月十三日、太宰帥大伴旅人の宅で宴を開いた時の梅花歌三十二首(八一五)に追和して、新に作つたものである。家持は當時父と共に太宰府にゐたのであるが、未だ十三歳の少年であつたから、宴に列して歌を作ることは出來なかつた。それから十年を經た天平十二年になつて、當時を想ひ起して、この六首を作つて追和したのである。なほ卷十九にも天平勝寶二年三月二十七日に作つた、追和筑紫太宰之時春苑梅謌一首(四一七四)がある。
 
3901 み冬つぎ 春はきたれど 梅の花 君にしあらねば 折る人もなし
 
民布由都藝《ミフユツギ》 芳流波吉多禮登《ハルハキタレド》 烏梅能芳奈《ウメノハナ》 君爾之安良祢婆《キミニシアラネバ》 遠流人毛奈之《ヲルヒトモナシ》
 
冬ニ次イデ春ニナツタケレドモ、梅ノ花ハ、折角咲イテモ風流ナ〔九字傍線〕貴方ガオイデニナラナイカラ、折ツテ賞メ〔三字傍線〕ル人モナイ。
 
○民布由都藝《ミフユツギ》――ミは接頭語のみ。代匠記精撰本に、「發句は三冬盡《ミフユツキ》なり。孟冬仲冬季冬の限つきで春の來るなり。」とあるが、從ひ難い。ツギを盡きと見る説が多いが、藝は一般に濁音として用ひられてゐるから、ツギと訓むべきで、隨つてその解も、冬に次いでの意とすべきであらう。古義は都を須の誤として、ミフユスギと改訓してゐるが、獨斷に過ぎない。○芳流波吉多禮登《ハルハキタレド》――ハの假名に芳の字を用ゐたのは珍らしい。この歌と卷十八に芳里夫久路《ハリブクロ》(四一二九)とがあるのみである。芳は敷方切で漢呉音共にハウであるから、ハの假名に用ゐられるのである。○君爾之安良祢婆《キミニシアラネバ》――貴方でないから。風流な貴方が、ゐないからといふ意である。爾を衍とする説もあり、京大本のみは爾の字が無いが、もとのままでよいのであらう。○遠流人毛奈之《ヲルヒトモナシ》――折つて愛する人もない。
(154)〔評〕 卷五の三十二首中の第一首、大貳紀卿の作。武都紀多知波流能吉多良姿可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米《ムツキタチハルノキタラバカクシコソウメヲヲリツツタヌシキヲヘメ》(八一五)に和したのであらう。結句の君は大貳紀卿を指してゐるやうである。これを父の旅入の、故人となつてゐることを詠んだとするのは當らない。稚拙な作といつてよからう。
 
3902 梅の花 み山としみに 有りともや 斯くのみ君は 見れど飽かにせむ
 
烏梅乃花《ウメノハナ》 美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》 安里登母也《アリトモヤ》 如此乃未君波《カクノミキミハ》 見禮登安可爾氣牟《ミレドアカニセム》
 
梅ノ花ガ、山ノヤウニ澤山咲イテ居ツテモ、コンナニ貴方ハ梅ノ花ヲ〔四字傍線〕眺メテモ飽キナイデアラウ。
 
○美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》――み山と繁に。ミは接頭語。シミニは繁く。山の如く繁く。トは、の如く。○安里登母也《アリトモヤ》――雖有《アリトモ》に疑問の助詞ヤを添へてゐる。○如此乃未君波《カクノミキミハ》――君は斯くのみ見れどとつづいてゐる。君は梅の花を指したとするのも、又、吾の誤字とするのも當らない。○見禮登安可爾氣牟《ミレドアカニセム》――舊本氣とあるが、元暦校本その他の古寫本、多くは勢になつてゐるのに從ふべきである。アカニは不飽《アカズ》、セムはするの未來。アカニセムは飽かずとするであらうの意。
〔評〕 この歌は三十二首中の第二首|鳥梅能波奈伊麻佐家留斯等知利須義受和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛《ウメノハナイマサケルゴトチリスギズワガヘノソノニアリコセヌカモ》(八一六)に和したので、如何に澤山の梅花があつても、かうして君は見てゐても飽かないだらうといふのである。從來の諸説ここに心付かなかつた爲に、解釋に苦しんでゐる。略解に「梅はみ山の木のしげきが如く有とも、其花のあかれぬ如くや、いつもかくばかり君を見れども飽ざらむと言ふ也」とあるのは全然誤つてゐる。これでは梅の花の歌にはならない。
 
3903 春雨に 萠えし楊か 梅の花 ともに後れぬ 常の物かも
 
春雨爾《ハルサメニ》 毛延之楊奈疑可《モエシヤナギカ》 烏梅乃花《ウメノハナ》 登母爾於久禮奴《トモニオクレヌ》 常乃物能香聞《ツネノモノカモ》
 
(155)梅ノ花ノ咲イタ園ニ青柳ガ芽萠エテヰルガ、コレハ〔梅ノ〜傍線〕春雨ガ降ルノデ、ソレニ催促セラレテ、イツモヨリ早ク芽ヲ〔ガ降〜傍線〕出シク柳デアラウカ。ソレトモ〔四字傍線〕友ダチノ梅ノ花ニ遲レナイデ萠エ出ル、イツモノ普通ノ物ナノデアラウカ。
 
○毛延之楊奈疑可《モエシヤナギカ》――春雨にそそのかされて、萠え出た柳かの意。略解に「可は等の誤なるべし」とあるのはその意を得ない。○登母爾於久禮奴《トモニオクレヌ》――友の梅の花に遲れないで萠え出た。○常乃物香聞《ツネノモノカモ》――尋常のものかよ。別に早く萠えたのではないのか。
〔評〕 この歌は多少誤解を生じ易い叙法である。新考に「此梅ノ花ハ春雨ニ萠エシ柳ニ相後レズシテ早クサケルカ又ハ尋常ノモノカ」と解してゐるが、頗る無理であらう。やはり卷五の梅花の歌第三首、烏梅能波奈佐吉多流僧能能阿遠也疑波可豆良爾須倍久奈利爾家良受夜《ウメノハナサキタルソノノアヲヤギハカヅラニスベクナリニケラズヤ》(八一七)に和したもので、一見柳の歌のやうになつてゐるのもその爲である。新考説は強ひて梅を主としようとした爲に、誤に陷つたものと考へられる。併しそれはこの歌が拙い爲なるは言ふまでもない。この歌、八雲御抄に載つてゐる。
 
3904 梅の花 いつは折らじと 厭はねど 咲の盛は 惜しきものなり
 
宇梅能花《ウメノハナ》 伊都波乎良自等《イツハヲラジト》 伊登波禰登《イトハネド》 佐吉乃盛波《サキノサカリハ》 乎思吉物奈利《ヲシキモノナリ》
 
梅ノ花ハ、格別ニ〔三字傍線〕何時ハ、折ルマイト私ハソレヲ折リ取ルノヲ〔六字傍線〕嫌フノデハナイガ、盛ニ咲イタ時ダケハ〔三字傍線〕折ルノガ惜シイモノダ。
 
○伊都波乎良自等伊登波禰登《イツハヲラジトイトハネド》――何時は折るまいと言つて、折るのを厭ひはしないが、私は梅の花を折取つて人に與へるのを、何時は嫌だと厭ふのではないが。略解は自は目の誤、イツハヲラメかと言つてゐるが、改めない方がよい。
(156)〔評〕 卷五の梅花歌の第六首、烏梅能波奈伊麻佐可利奈理意母布度知加射之爾斯弖奈伊麻佐可利奈理《ウメノハナイマサカリナリオモフドチカザシニシテナイマサカリナリ》(八二〇)に和したもので、今や眞盛の梅の花を折つてかざさうとあるのに對し、眞盛の頃は折るのが惜しいと言つたのである。二句の叙法が拙いやうである。結句も幼稚な格調に聞える。しかしこれは、伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》の奈理《ナリ》に揃へる爲に、特にかうした言葉を用ゐたものとすれば、深く咎めるわけにはゆかぬ。ともかく拙作と言つてよい。
 
3905 遊ぶ内の 樂しき庭に 梅柳 折りかざしてば 思ひ無みかも
 
遊内乃《アソブウチノ》 多努之吉庭爾《タヌシキニハニ》 梅柳《ウメヤナギ》 乎理加謝思底婆《ヲリカザシテバ》 意毛比奈美可毛《オモヒナミカモ》
 
遊ブ間ノ樂シイ庭デ、梅ヤ柳ヲ折ツテ、冠ニ〔二字傍線〕カザシタナラバ、何ノ物思ヒモナイダラウカ。
 
○遊内乃《アソブウチノ》――宣長は内は日の誤でアソブヒノであらうと言ひ、新考は春内乃《ハルノウチノ》の誤であらうと言つてゐる。かういふ疑問が出るので見ても、少し穩當でない言葉のやうにも思はれる。併し舊のままで遊ぶ間の意とするのが無難ではあるまいか。○意毛比奈美可毛《オモヒナミカモ》――思ひ無みかもあらむの略。思ひがないことであらうの意。このナミは無いからと譯するものとは異なつてゐる。奈良朝文法史はこれについて論じ、「この形みな四段麻行の動詞の遺形」と言つてゐる。なほ攻究すべき形である。
〔評〕 これは卷五梅花歌の第七首|阿乎夜奈義烏梅等能波奈乎遠理可射之能彌弖能能知波知利奴得母與斯《アヲヤナギウメトノハナヲヲリカザシノミテノノチハチリヌトモヨシ》(八二一)に和したものである。何となく言葉の整はぬ歌である。
 
3906 御苑生の 百木の梅の 散る花の 天に飛びあがり 雪と降りけむ
 
御苑布能《ミソノフノ》 百木乃宇梅乃《モモキノウメノ》 落花之《チルハナノ》 安米爾登妣安我里《アメニトビアガリ》 雪等敷里家牟《ユキトフリケム》
 
御園ニ植ヱテアル澤山ノ梅ノ花ノ散ルノガ、空ニ舞ヒ上ツテ、雪ノ樣ニ降ツタノデアラウ。
 
(157)○御苑布能《ミソノフノ》――御園生とあるのは、太宰府に於ける旅人の家の庭園を指すのである。この歌は左に掲げた卷五の歌に當嵌めて解釋せねばならぬ。○百木乃宇梅乃《モモキノウメノ》――植ゑられてゐる澤山の梅樹。○安米爾登妣安我里雪等敷里家牟《アメニトビアガリユキトフリケム》――空に飛び上つて、雪となつて降つて來たのであらう。左に掲げた卷五の歌の下句について言つてゐる。
〔評〕 これは卷五梅花歌の第八首|和何則能爾宇米能波奈知流比佐可多能阿米欲里由吉能那何例久流加母《ワガソノニウメノハナチルヒサカタノアメヨリユキノナガレクルカモ》(八二二)に和したもので、父の旅人の歌だけに、御園生なる敬語を用ゐ、全體が原歌にしつくり合致するやうに出來てゐる。下句|安米爾登妣安我里雪等敷里家牟《アメニトビアガリユキトフリケム》が面白く出來てゐる。以上の六首は右に述べるやうに、卷五の梅花歌三十二首中の六首に和したもので、三十二首中の八首は、かの宴席に列した上客七人と、旅人との歌であるから、それらの歌どもの中、大貳紀卿・少貳小野大夫・少貳粟田大夫・筑後守葛井大夫・笠沙彌と父の旅人との六首に和したので、しかもそれが卷五の記載の順序になつてゐることは注意すべきである。第四首の筑前守山上大夫と第五首の豐後守大伴大夫との歌に對しては、和してゐないのは、別に理由あることではあるまい。從來の諸註これらに心付かなかつたのは遺憾である。
 
右天平十二年十一月九日大伴宿禰家持作
 
元暦校本その他、天平の二字が無い本が多い。なほ元暦校本のみは十一月を十二月に作つてゐる。いづれが正しいかわからない。卷六の十二年庚辰冬十月の歌(一〇二九)に内舍人大伴宿禰家持とあるから、ここも正しくは内舍人と記すべきである。但し元暦校本のみは家持を書特に作つてゐるが、若しそれに從へばこの儘でよいわけである。歌が拙いから書持とするのが正しいかも知れない。
 
讃(ムル)2三香原(ノ)新都(ヲ)1歌一首并短謌
 
(158)三香原新都は久邇の都である。久邇乃京《クニノミヤコ》(四七五)(七六八)久邇乃王都《クニノミヤコ》(一〇三七)三香原久邇乃京師《ミカノハラクニノミヤコ》(一〇五九)などある。なほ卷六には、十五年癸未秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持讃2久邇宮1作歌一首(一〇三七)讃2久邇新京1歌二首并短歌(一〇五〇)がある。この都は山城相樂郡泉川のほとりなる三香原に造られたので、三香原の新都といつたのである。
 
3907 山城の 久邇の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉にほひ 帶ばせる 泉の河の 上つ瀬に 打ち橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し 在り通ひ 仕へまつらむ 萬代までに
 
山背乃《ヤマシロノ》 久邇能美夜古波《クニノミヤコハ》 春佐禮播《ハルサレバ》 花咲乎乎理《ハナサキヲヲリ》 秋左禮婆《アキサレバ》 黄葉邇保比《モミヂバニホヒ》 於婆勢流《オバセル》 泉河乃《イヅミノカハノ》 可美都瀬爾《カミツセニ》 宇知橋和多之《ウチハシワタシ》 余登瀬爾波《ヨドセニハ》 宇枳橋和多之《ウキハシワタシ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 都加倍麻都良武《ツカヘマツラム》 萬代麻底爾《ヨロヅヨマデニ》
 
山背ノ久邇ノ都ハ、春ガ來ルト花ガ枝モ曲ルホドニ咲キ、秋ニナルト、紅葉ガ美シク、色ヅイテ、帶ノヤウニ廻ツテ居ル泉川ノ、上ノ瀬デハ打橋ヲ架ケ、流ノ淀ンデヰル瀬ニハ浮橋ヲ架ケ、カウシテ行キ通ヒツツ萬代ノ後マデモ、仕ヘ奉ラウ。此度出來タコノ久邇ノ都ハ誠ニ良イ都ダ〔此度〜傍線〕。
 
○和咲乎乎理《ハナサキヲヲリ》――花が咲いて枝もたわわになること。ヲヲルは撓む。○於姿勢流《オバセル》――帶び給へる。セルは敬語スの變化。○宇知橋和多之《ウチハシワタシ》――宇知《ウチ》橋は打橋。かけはづしの出來るやうになつてゐる橋。卷二に飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡下瀬打橋渡《トブトリノアスカノカハノカミツセニイハハシワタシシモツセニウチハシワタシ》(一九六)とある。○余登瀬爾波《ヨドセニハ》――淀瀬は水の淀んだ深い渡り場。○宇枳橋和多之《ウキハシワタシ》――宇枳橋《ウキハシ》は浮橋。水面に浮かんでゐる橋。高橋に對する名。舟筏などの上に板を渡して、踏んで渡るやうにしたのである。○安里我欲比《アリガヨヒ》――在り在りて通つて。かうして行き通つて。
〔評〕 卷一の幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作歌(三六)、卷二の明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麿作歌(一九六)などの句に少し似てゐるところがある。一體に獨創もなく、淺い興趣の歌である。
 
(159)反哥
 
楯並めて 泉の河の 水脈絶えず 仕へまつらむ 大宮所
 
楯並而《タタナメテ》 伊豆美乃河波乃《イヅミノカハノ》 水緒多要受《ミヲタエズ》 都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》 大宮所《オホミヤドコロ》
 
コノ〔二字傍線〕(循並而)泉川ノ水ノ流ガ絶エナイヤウニ、何時マデモコノ〔七字傍線〕御所ニ御奉公シマセウ。
 
○楯並而《タタナメテ》――文字通りにタテナメテと訓むのもよいが、古事記神武天皇の御製に、多多那米弖伊那佐能夜麻能《タタナメテイナサノヤマノ》とあるに傚ふべきであらう。枕詞。楯を並べて射るとつづく。○水緒多要受《ミヲタエズ》――水脈の絶えないやうに。水緒《ミヲ》までを絶えずの序詞とも見得るが、ここは實地について言つてゐるから、譬喩とするがよい。○都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》――この句で切れてゐる。次句へつづけてはいけない。○大宮所《オホミヤドコロ》――この大宮所にはの意。
〔評〕 楯並而《タタナメテ》の枕詞は、右に掲げた神武天皇の御製を學んだものであらう。集中他に用例がない。平明の調。
 
右天平十三年二月右馬寮(ノ)頭《カミ》境部《サカヒベノ》宿禰|老《オユ》麿作也
 
續紀に「十三年正月天皇始御2恭仁宮1受v朝」とあるから、二月はまだ遷都のあつたばかりである。天平の二字と寮の字、元暦校本その他ない本が多い。境部宿禰老麿の傳は明らかでない。
 
詠(メル)2霍公鳥(ヲ)1歌二首
 
3909 橘は 常花にもが ほととぎす 住むと來鳴かば 聞かぬ日なけむ
 
多知婆奈波《タチバナハ》 常花爾毛歟《トコハナニモガ》 保登等藝須《ホトトギス》 周無等來鳴者《スムトキナカバ》 伎可奴日奈家牟《キカヌヒナケム》
 
(160)橘ノ花ハ、何時マデモ散ラズニ〔四字傍線〕咲ク花デアリタイモノダ。コノ花ガ咲イテ居レバ、郭公ガ何時デモ鳴クノダカラ〔コノ〜傍線〕、郭公ガ此ホ花ニ〔四字傍線〕宿ラウト思ツテ、飛ンデ來ルナラバ、其ノ聲ヲ〔四字傍線〕聞カナイ日ハナイデアラウ。
 
○常花爾毛歟《トコハナニモガ》――とこしへに何時までも散らずに咲く花であつてくれよ。○周無等來鳴者《スムトキナカバ》――棲むとて來り鳴かば。
〔評〕 霍公鳥を絶えず聞かむと欲して、その宿り所なる花橘の絶えず咲かむことを望んでゐる。霍公鳥と花橘との關係の、密なることを言はうとした定型的思想である。表現に拙い點がある。
 
3910 珠に貫く 楝を宅に 植ゑたらば 山ほととぎす 離れず來むかも
 
珠爾奴久《タマニヌク》 安布知乎宅爾《アフチヲイヘニ》 宇惠多良婆《ウヱタラバ》 夜麻霍公鳥《ヤマホトトギス》 可禮受許武可聞《カレズコムカモ》
 
藥玉ニ貫キ混ヘル楝ノ花ヲ、家ニ植ヱテ置イタナラバ、ソノ花ヲ慕ツテ〔七字傍線〕山郭公ガ絶エズ、飛ンデ來ルデアラウカヨ。
 
○珠爾奴久《タマニヌク》――珠に混へて貫く。珠は藥玉。藥玉は支那で長命縷又は續命縷と名づけて、五月五日に用ゐたものを學んだので、菖蒲・花橘・艾などを五色の縷に貫いたもの。これを右の肩にかけ、左の脇へ垂れかけ、腰に結んだのである。麝香、沈香その他の藥種を用ゐたのは後のことである。八尺乃至一丈に及ぶ五色の糸をつけ、柱などにかけることも、上代には無かつたやうだ。ここに楝を玉に貫くとあるのは、菖蒲・花橘などと共に、楝の花を用ゐたのである。實を用ゐたのではない。實の成るのは秋である。○可禮受許武可聞《カレズコムカモ》――カレズは離れず。絶えずといふに同じである。
〔評〕 平明な歌。楝は郭公との關係が、橘ほどに密でないことがわかる。和歌童蒙抄に載せてゐる。
 
(161)右四月二日大伴宿禰書持從2奈良宅1贈(レル)2兄(ノ)家持(ニ)1和(ヘ)歌二首
 
古義はここに四月とあるのを五月の誤ではないかと疑つて、縷々述べてゐるが、續紀によると、天平十三年は閏三月があつたのどから、四月は例年の五月のやうな氣節であつたのである。和歌二首とあるのは、疑はしい。和歌は和へ歌であるから、ここに適應しない。西本願寺本・神田本などに、この四字が無いのが原形であらう。
 
橙橘初(メテ)咲(キ)、霍公鳥|翻嚶《カヘリナク》、對《アタリ》2此(ノ)時候(ニ)1、※[言+巨]《ナンゾ》不(ム)v暢(ベ)v志(ヲ)、因(リテ)作(リ)2三首短歌1、以(テ)散(ズル)2欝結之緒(ヲ)1耳
 
橙橘は二字で橘のこと。橙と橘とではない。翻嚶は身をひるがへしつつ鳴く。嚶は雌雄の鳥が互に囀りかはすこと。※[言+巨]は何ゾ……セザラムといふやうに反語に用ゐる字である。緒は心の意に用ゐてある。西本願寺本は霍の下に公の字がない。舊本、候を侯に誤つてゐる。
 
3911 足引の 山邊に居れば ほととぎす 木の間立ちくき 鳴かぬ日はなし
 
安之比奇能《アシヒキノ》 山邊爾乎禮婆《ヤマベニヲレバ》 保登等藝須《ホトトギス》 木際多知久吉《コノマタチクキ》 奈可奴日波奈之《ナカヌヒハナシ》
 
(安之比奇能)山邊ニ居ルト、郭公ガ、木ノ間ヲ潜リナガラ,鳴カナイ日ハナイ。此處ハ良イ處ダ〔七字傍線〕。
 
○木際多知久吉《コノマタナクキ》――木の間を飛び潜り。クキは漏。卷十の春之在者伯勞鳥之草具吉《ハルサレバモズノクサグキ》(一八九七)の條に説明したやうに、古事記に漏をクキと訓んでゐる。潜《クグ》ること。
(162)〔評〕 家持の久邇京に於ける寓居は山に近かつたと見える。卷四にもこの人の久邇宮での作に久堅之雨之落日乎直獨山邊爾居者欝有來《ヒサカタノアメノフルヒヲタダヒトリヤマベニヲレバイブセカリケリ》(七六九)とある。實況は想像せられるが、さして優れた作でもない。袖中抄に載つてゐる。
 
3912 霍公鳥 何の心ぞ 橘の 珠ぬく月し 來鳴きとよむる
 
保登等藝須《ホトトギス》 奈爾乃情曾《ナニノココロゾ》 多知花乃《タチバナノ》 多麻奴久月之《タマヌクツキシ》 來鳴登餘牟流《キナキトヨムル》
 
橘ノ實ヲ玉トシテ、糸ニ貫ク五月ノ〔三字傍線〕月ニ、郭公ガ聲高ク響カセテ來テ鳴クノハ、ドウイフ心デアルゾ。何故ニ此ノ月ニ限ツテ鳴クノダラウ〔何故〜傍線〕。
 
○多麻奴久月之《タマヌクツキシ》――橘の實を玉として貫く五月に。橘の實は花の中から小さく黄金色に輝いてゐる。○來鳴登餘牟流《キナキトヨムル》――來て鳴いて聲を響かせる。聲を反響せしめて鳴く。
〔評〕 恰も橘の花咲く頃に郭公が來鳴くのは、どういふ考かと、作者が疑つた意味は、我々にもやはり疑問として殘されてみる。蓋し、橘と郭公との二つの優れた景物の、相伴つてあらはれることを讃嘆した意であらう。古義に「己が聲をその玉に貫き交へよとて歟」とあるのは考へ過ぎであり、新考に「サラヌダニ故郷コヒシクオボユルヲ思遣モナク來鳴クモノカナといへるならむ」とあるのも從ひ難い。
 
3913 ほととぎす あふちの枝に 行きてゐば 花は散らむな 玉と見るまで
 
保登等藝須《ホトトギス》 安不知能枝爾《アフチノノエダニ》 由吉底居者《ユキテヰバ》 花波知良牟奈《ハナハチラムナ》 珠登見流麻泥《タマトミルマデ》
 
郭公ガアナタノ方ノ〔六字傍線〕、楝ノ木ノ技ニ飛ンデ〔三字傍線〕行ツテトマツタナラバ、楝ノ〔二字傍線〕花ハ王ノ糸ヲコキ散ラスノ〔九字傍線〕デハナイカト思ハレル程、花ガ散ルデアラウナア。
 
(163)○珠登見流麻泥《タマトミルマデ》――珠かと見えるまで。この珠を藥玉と見る説は當らない。花辨の亂れ散る樣を、玉の亂れ散るに譬へたのである。
〔評〕 書特の珠爾奴久安布知乎《タマニヌクアフチヲ》の歌に報へたので、珠に貫く楝だから、散る花も亦玉のやうに見えるといつてゐるのである。字惠多良婆《ウヱタラバ》とあるのだから、書持のゐる奈良の故宅には楝は無いのであらうが、それはどうでもよい。家持は弟の歌に對して、珠登見流麻泥《タマトミルマデ》が言つて見たかつたのである。
 
右四月三日内舍人大伴宿禰家持從2久邇京1報(ヘ)2送(ル)弟書持(ニ)1、
 
思(フ)2霍公鳥(ヲ)1歌一首、 田口朝臣|馬長《ウマヲサ》作
 
田口朝臣馬長の傳はわからない。
 
3914 ほととぎす 今し來鳴かば 萬代に 語りつぐべく 思ほゆるかも
 
保登等藝須《ホトトギス》 今之來鳴者《イマシキナカバ》 餘呂豆代爾《ヨロヅヨニ》 可多理都具倍久《カタリツグベク》 所念可母《オモホユルカモ》
 
今私共ハ宴會ヲシテヰルガ〔今私〜傍線〕、郭公ガ丁度〔二字傍線〕今來テ鳴イタナラバ、ソレヲ賞デ囃シテ〔八字傍線〕萬代マデモ語リ傳ヘヨウト思ハレルヨ。一聲鳴イテクレレバヨイガ〔一聲〜傍線〕。
 
○餘呂豆代爾可多理都具倍久《ヨロヅヨニカタリツグベク》――萬世までも語り傳へるべきほどに。大袈裟な言ひ方である。
〔評〕 萬代に語りつぐべき名を立つることは、當時の總ての人の念願とするところであつた。郭公が今鳴いたならば、その功に愛でて、これを萬世までも語りつたへたいほどに思ふといふのは、もとより誇張ではあるが、時代思想のあらはれと見るべきである。
 
(164)右傳(ヘ)云(フ)、一《アル》時交遊集宴(ス)、此(ノ)日此處(ニ)霍公鳥不v喧(カ)仍(リテ)作2件(ノ)歌(ヲ)1以(テ)陳(ブ)2思慕之意(ヲ)1、但(シ)其(ノ)宴所、并(ニ)年月(ハ)末(ダ)v得2詳審(ニスルヲ)1也
 
山部宿禰赤人詠(メル)2春(ノ)※[(貝+貝)/鳥](ヲ)1歌一首
 
西本願寺本・神田本その他、赤を明に作る本が多い。目録に山邊宿禰明人とあるは誤である。
 
3915 足引の 山谷越えて 野づかさに 今は鳴くらむ 鶯のこゑ
 
安之比奇能《アシビキノ》 山谷古延底《ヤマタニコエテ》 野豆加佐爾《ヌヅカサニ》 今者鳴良武《イマハナクラム》 宇具比須乃許惠《ウグヒスノコヱ》
 
春ニナツタノデ〔七字傍線〕、鶯ノ聲ハ、(安之比奇能)山ヤ谷ヲ越エテ、野原ニ出テ〔五字傍線〕野ノ小高イ處デ、今ハ、鳴クデアラウヨ。サゾ佳イ聲デアラウ〔九字傍線〕。
 
○山谷古延底《ヤマタニコエテ》――山や谷を越えて。山谷は山の谷ではない。○野豆可佐爾《ヌヅカサニ》――野豆可佐《ヌヅカサ》は野の高いところ。卷四の涯之官《キシノツカサ》(五二九)、卷十の野山司之《ヌヤマヅカサノ》(二二〇三)など、ツカサは高い所をさす。○今者鳴良武《イマハナクラム》――古義は者は香の誤で、イマカナクラムであらうといつてゐるが、改めるには及ばない。
〔評〕 優艶にして清楚。練りあげたばかりの、つややかな白絹のやうな感じの作である。
 
右年月所處、未v得2d詳審1、但(シ)隨(フテ)2聞之時(ニ)1記2載(ス)於茲1、
 
天平十三年から十六年までの間に、この卷の編者のノートに採載せられた古歌である。作者の赤人なるこ(165)とはわかつてゐるが、作の年月も場所も明らかでないと言ふのである。
 
十六年四月五日獨居(テ)2平壌故宅(ニ)1作(レル)歌六首
 
天平十六年二月に久邇京の高御座并に大楯を難波京に遷され、更に天皇は近江紫香樂宮に行幸あらせられた。その四月に、家持は何か事故があつて、平城の故宅に居たものである。ここに四月とあるのを、古義には五月の誤かと言つてゐるが、續紀によるとこの年も正月に閏があつたので、その爲時候が少し早まつてゐたのである。
 
3916 橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜の雨に うつろひぬらむ
 
橘乃《タチバナノ》 尓保敝流香可聞《ニホヘルカカモ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈久欲乃雨爾《ナクヨノアメニ》 宇都路比奴良牟《ウツロヒヌラム》
 
橘ノ花ノ佳イ薫ガ、郭公ガ鳴ク今夜ノ雨デ、失セテシマツタデアラウカヨ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○爾保弊流香可聞《ニホヘルカカモ》――薫つてゐる香が。カモは末句の下に遷して見るがよい。ニホフは色の美しいことであるが、ここは薫ることに用ゐである。新考は「ニホヘルはなほサケルといふ意とすべし。さてサケル香とは云はれざれば、ここは橘ノニホヘル花ノ香カモの花ノを略したるものと認むべし」とある。○宇都路比奴良牟《ウツロヒヌラム》――第二句のカモをこの句の下に遷して、移ろうたであらうかよの意と見ねばならぬ。ウツロフは總べて物の盛の衰へるをいふ。
〔評〕 夜の雨に鳴く郭公の聲を聞きつつ、庭前の花橘の香が雨に洗ひ去られて、失せたらうことを想像して、惜しんでゐる。佳作といふほどではないが、優雅な氣分の作である。
 
(166)3917 ほととぎす 夜ごゑなつかし 網ささば 花は過ぐとも かれずか鳴かむ
 
保登等藝須《ホトトギス》 夜音奈都可思《ヨゴヱナツカシ》 安美指者《アミササバ》 花者須具登毛《ハナハスグトモ》 可禮受加奈可牟《カレズカナカム》
 
庭ノ橘ニ宿ツテ〔七字傍線〕郭公ノ夜鳴ク聲ガ、マコトニ〔四字傍線〕懷カシイ佳イ聲ダ。庭の周圍ニ〔九字傍線〕網ヲ張ツテ、何處ヘモ飛ンデ行カナイヤウニシタ〔テ何〜傍線〕タナラバ、橘ノ〔二字傍線〕花ハ散ツテモ、絶エズ鳴クデアラウカ。
 
○安美指者《アミササバ》――網を張つたならば。網を張ることを、サスといふは、卷一に下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタシ》(三八)とある通りである。○可禮受加奈可牟《カレズカナカム》――絶えず鳴くであらうかの意。其處から離れないでの意ではない。
〔評〕 庭の橘に來て鳴く郭公を聞いて、この闇夜に乘じて周圍に網を張つたら、何時までも此處にゐて鳴くだらうと、ふと思つたのである。可能不可能は問題でない。作者の童心を見ればそれでよい。
 
3918 橘の にほへる苑に ほととぎす 鳴くと人告ぐ 網ささましを
 
橘乃《タチバナノ》 爾保敝流苑爾《ニホヘルソノニ》 保登等藝須《ホトトギス》 鳴等比登都具《ナクトヒトツグ》 安美佐散麻之乎《アミササマシヲ》
 
橘ノ花ガ美シク咲イテヰル園デ、郭公ガ嶋イテヰルト人ガ告ゲテクレタ。他ヘハヤリタクナイモノダ。園ノ周圍ニ〔他ヘ〜傍線〕網ヲ張リタイモノダガ。
 
〔評〕これは鳴等比登都具《ナクトヒトツグ》と餘所ごとのやうに言つてゐるが、前歌と全く同意同巧である。古義に「もし吾が庭に來て鳴ならば、網を張て、外に遁さずあるべきものをとなるべし」とあるのは、從ひ難い。
 
3919 青丹よし 奈良の都は 古りぬれど もと郭公 鳴かずあらなくに
 
青丹余之《アヲニヨシ》 奈良能美夜古波《ナラノミヤコハ》 布里奴禮登《フリヌレド》 毛等保登等藝須《モトホトトギナ》 不鳴安(167)良久爾《カズアラクニ》
 
(青丹余之)奈良ノ都ハ今ハ、舊都ニナツテ〔八字傍線〕淋レテシマツタガ、昔馴染ノ郭公ハ昔ノ通リニ相變ラズ〔九字傍線〕來テ鳴イテヰルヨ。愛ラシイ鳥ダ〔六字傍線〕。
 
○青丹余之《アヲニヨシ》――枕詞。奈良とつづく。青丹吉《アヲニヨシ》(一七)參照。○毛等保登等藝須《モトホトトギナ》――卷十に本人霍公鳥《モトツヒトホトトギス》(一九六二)とあるやうに舊馴染の霍公鳥の意である。○不鳴安良久爾《ナカズアラナクニ》――舊本の儘ならば、ナカズアラクニであるが、それではわからない。代匠記初稿本に、良の下奈の字脱としたのに從ふべきであらう。鳴かないことはないよの意。
〔評〕 平城は舊都となつて淋れたが、馴染の郭公は相變らず來て鳴くよ、と舊都に對する執着の情を郭公に托して述べてゐる。哀愁の籠つた住い作である。
 
3920 うづら鳴く 古しと人は 思へれど 花橘の にほふこの宿
 
鶉鳴《ウヅラナク》 布流之登比等波《フルシトヒトハ》 於毛敝禮騰《オモヘレド》 花橘乃《ハナタチバナノ》 爾保敷許乃屋度《ニホフコノヤド》
 
此乃言えハ〔四字傍線〕鶉ガ鳴クホド〔二字傍線〕古イト人ハ思ツテヰルガ、昔ナガラニ〔五字傍線〕花橘ガ咲キ匂ウテヰル良イ〔二字傍線〕家ダ。
 
○鶉鳴《ウヅラナク》――鶉は淋しく荒れた所に鳴くものであるから、布流之《フルシ》の修飾語として置かれてゐる。これは夏の初で鶉の鳴く頃でもないから、枕詞と見てもよいのであるが、なほ修飾の意あるものとして置かう。古義はウヅラナキと訓んでゐる。卷十一に鶉鳴人之古家爾《ウヅラナクヒトノフルヘニ》(二七九)とある。○布流之登比等波《フルシトヒトハ》――古い宿だと人は思ふが、新考に之を反又は家の誤でフルヘだといつてゐる。結句の屋度《ヤド》で受けてゐるのだから、古家《フルヘ》では却つて重複する。
〔評〕 淋しい舊都の舊宅と世人は思つてゐるが、夏としなれば花橘は清新な色に咲いてゐるといふので、前歌が郭公を材としたのに對し、これは花橘を用ゐてゐるが、意は結局同じである。但し前歌ほどの哀情が無い。
 
3921 杜若 衣に摺りつけ ますらをの きそひ狩る 月は來にけり
 
(168)加吉都播多《カキツバタ》 衣爾須里都氣《キヌニスリツケ》 麻須良雄乃《マスラヲノ》 服曾比獵須流《キソヒガリスル》 月者伎爾家里《ツキハキニケリ》
 
杜若ノ花〔二字傍線〕ヲ衣服ニ摺リツケテ、男子等ガ美シイ狩衣ヲ〔六字傍線〕着テ、藥狩ニ出カケル四月ガ來タヨ。獨デカウシテヰルノハ淋シイ〔獨デ〜傍線〕。
 
○加吉都播多衣爾須里都氣《カキツバタキヌニスリツケ》――杜若の花を衣に摺り付けて染めて。卷七に墨吉之淺澤小野之垣津幡衣爾摺著將衣日不知毛《スミノエノアサザハヲヌノカキツバタキヌニスリツケキムヒシラズモ》(一三六一)とある。○服曾比獵須流《キソヒカリスル》――着襲ひ獵爲る。杜若の花摺衣を着て藥獵を爲る。服曾比《キソヒ》は競ひはない。ソフは着物を身につけること。ここに獵とあるのは藥獵、即ち鹿茸を獲る爲の獵である。卷十六に四月與五月間爾樂獵仕流時爾《ウヅキトサツキノホドニクスリガリツカフルトキニ》(三八八五)とある。
〔評〕 當時儀禮的になつてゐた藥獵の状況もうかがはれる。その花やかな藥獵の日の近づいたのを喜んだのではなくて、それを餘所にして、獨平城の故宅にゐる淋しさを歌つてゐる。かうした年中行事を樂しんでゐた青年家持の氣分も見えてある。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右六首歌者天平十六年四月五日獨居(テ)2於平城故郷舊宅(ニ)1大伴宿禰家持作
 
六首歌者天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅の二十二字、元暦校本には無い。既に前に同意の文字があるから、これは無いのが原形であらう。
 
(169)天平十八年正月、白雪多(ク)零(リテ)積(ルコト)v地(ニ)數寸也、於v時左大臣橘卿率(テ)2大納言藤原豐成朝臣及諸王臣等(ヲ)1、參2入(リテ)太上天皇(ノ)御在所(ニ)1、【中宮兩院】供2奉(シテ)掃(フ)v雪(ヲ)於v是降(シテ)v 詔(ヲ)、大臣參議并諸王者、令(シメ)v侍(ハ)2于大殿(ノ)上1、諸卿大夫者、令(シメ)v侍(ハ)2于南(ノ)細殿(ニ)1、而則(チ)賜(ヒテ)v酒(ヲ)肆宴《トヨノアカリス》 勅(シテ)曰、汝諸王卿等聊(カ)賦(シテ)2此(ノ)雪(ヲ)1、各奏(セヨト)2其(ノ)謌(ヲ)歌1、
 
天平十八年正月は天平の二字元暦校本にないのがよいやうだ。正月の下に日が記してないのは脱ちたのであらう。左大臣橘卿は橘諸兄。大納言藤原豐成朝臣は中納言の誤か。代匠記精撰本に、「聖武紀を考へるに、此豐成卿は天平十三年五月に從三位に叙し、十五年正月中納言、二十年三月に從二位大納言とは成給ひければ、十八年には從三位中納言にておはしけるを、大納言とあるは若中の字を書生の誤て大に作ける歟。凡そ集中の例、大納言以上には名を云はず。考へて知るべし。今豐成朝臣と云へり。中納言なる事知るべし。」とある。近頃の學者中、これによつてこの卷が後に手入れのあつた證とするものもあるが、なほ考究を要する問題である。南家、武智麻呂の嫡男。神護元年十一月薨。横佩右大臣と稱す。當麻の如空尼中將姫の父である。諸王諸臣等は元暦校本に諸王臣等とあるのがよい。中宮兩院は中宮西院の誤。元暦校本その他、西に作る本が多い。太上天皇即ち元正天皇の御所が中宮の西院だといふのである。供奉は奉仕といふやうな意に用ゐてある。南細殿は南にある廊。細殿は和名抄に「廊。唐韵云、廊 保曾度能 殿下外屋也」とある。賜酒は舊本、酒を海に誤つてゐる。肆宴はトヨノアカリと訓んでゐる。宴を肆ぶること。
 
左大臣橘宿禰應(ズル)v 詔(ニ)歌一首
 
3922 降る雪の 白髪までに 大きみに 仕へまつれば 貴くもあるか
 
(170)布流由吉乃《フルユキノ》 之路髪麻泥爾《シロカミマデニ》 大皇爾《オホキミニ》 都可倍麻都禮婆《ツカヘマツレバ》 貴久母安流香《タフトクモアルカ》
 
只今ハ大雪ガ降ツテ居リマスガ、私ハ〔只今〜傍線〕(布流由吉乃)白髪ニナルマデカウシテ〔四字傍線〕天子様ニ御奉公致シマスト、カタジケナク勿體ナク存ジマスヨ。
 
○布流由吉乃《フルユキノ》――降雪の。白と言はむ爲の枕詞。眼前に降つた雪を取つて、枕詞としたのである。○貴久母安流香《タフトクモアルカ》――貴くもあるかなの意。この貴くは畏く勿體ないなどの意。古義には「まづ最一《イヤサキ》に召上られて、大御酒賜りなどするを思へば、げにも大御惠の貴くもある哉となり」とある。
〔評〕 品格の備はつた、調子のどつしりした歌である。この場合にまことにふさはしい。既に老齡に達し、位人臣を極めた諸兄の滿足感もあらはれてゐる。古今集の「春の日の光にあたる我なれど頭の雪となるぞわびしき」のやうな悲觀的でないところに、時代思想の相異が見える。
 
紀朝臣清人、應(ズル)v 詔(ニ)歌一首
 
紀朝臣清人は續紀によれば、和銅七年二月戊戍、詔2從六位上紀朝臣清人、三宅臣藤麿1令v撰2國史1」とあるのを最始として、靈龜元年正月癸巳從五位下、七年正月丙子從五位上、天平四年十月丁亥右京亮、十三年七月辛亥治部大輔兼文章博士、十五年五月癸卯正五位下、十六年二月丙申、平城宮留守、十一月庚辰從四位下、十八年五月癸丑武藏守となり、天平勝寶五年七月庚戍に卒したことが見えてゐる。その間に學士として優遇せられ物を賜はつたこと、東宮に侍せしめられたことが記されてゐる。
 
3923 天の下 すでに覆ひて 降る雪の 光を見れば たふとくもあるか
 
(171)天下《アメノシタ》 須泥爾於保比底《スデニオホヒテ》 布流雪乃《フルユキノ》 比加里乎見禮婆《ヒカリヲミレバ》 多敷刀久母安流香《タフトクモアルカ》
 
天下ヲ盡ク蓋ヒカブセテ、只今雪ガ降〔四字傍線〕降ツテ居リマスガ、ソノ〔三字傍線〕雪ノ光ヲ見マストコノ雪ノヤウニ、天下中ニ、行キ渡ツタ天子樣ノ御威光ガ思ハレマシテ〔コノ〜傍線〕貴イ事デゴザイマスヨ。
 
○須泥爾於保比底《スデニオホヒテ》――須泥爾《スデニ》は全く、盡くの意。時をあらはすのではなく、分量について言つてゐる。
〔評〕 佳い歌だ。皇威の普きを、天の下蔽ひ盡くした雪の光に譬へたのは、實に適切な言葉である。潔く氣高い雪の、見渡す限りを埋めた姿は、廣大にして慈光限りなき皇澤そのもの、と言つてよい。
 
紀朝臣男梶應(フル)v 詔(ニ)歌一首
 
紀朝臣男梶は續紀に天平十五年五月癸卯、正六位から外從五位下となり、六月丁酉彈正弼、十七年正月乙丑從五位下、十八年四月壬辰太宰少貳、天平勝寶二年三月庚子山背守、六年十一月辛酉東海道巡察使、天平寶字四年正月戊寅和泉守になつてゐる。
 
3924 山の峽 そことも見えず 一昨日も 昨日も今日も 雪の降れれば
 
山乃可比《ヤマノカヒ》 曾許登母見延受《ソコトモミエズ》 乎登都日毛《ヲトツヒモ》 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 由吉能布禮禮婆《ユキノフレレバ》
 
一昨日モ昨日モ今日モ、雪ガ續イテ〔三字傍線〕降リマシタノデ、山ガ、スツカリ埋マツテシマツテ〔山ガ〜傍線〕、山ト山トノ間谷合ヒ〔三字傍線〕ガ何處カ分ラナイヤウニナリマシタ。
 
(172)○山乃可比《ヤマノカヒ》――山の峽。山と山との間。谷。
〔評〕 奈良の宮から背後の奈良山あたりを望んだ景を歌つたものか。降りつづいた深い雪の光景が目に見るやうである。古今集の「梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば」はこれに似てゐる。
 
葛井《フヂヰ》連|諸會《モロアヒ》應(フル)v 詔歌一首
 
葛井連諸會は續紀によると、天平七年九月庚辰大史正六位下と見え、十七年四月壬子正六位上から外從五位下、十九年四月丁卯相模守となり、天平寶字元年五月丁卯從五位下を授かつてゐる。この時は外從五位下であつたわけである。
 
3925 新しき 年のはじめに 豐の年 しるすとならし 雪のふれるは
 
新《アタラシキ》 年乃婆自米爾《トシノハジメニ》 豐乃登之《トヨノトシ》 思流須登奈良思《シルストナラシ》 雪能敷禮流波《ユキノフレルハ》
 
新年ノ始メニ、カヤウニ〔四字傍点〕雪ガ降リマシタノハ、春ノ雪ハ豊年ノ瑞兆ト申シマスカラ〔春ノ〜傍線〕、今年ハ、豊年ダトイフ前兆デアリマセウ。
 
○年乃婆自米爾《トシノハジメニ》――婆は元暦校本に波に作るのがよいであらう。○思流須登奈良思《シルストナラシ》――あらはすとてであらうの意。シルスは瑞兆をあらはすこと。瑞兆は即ちシルシである。
〔評〕 雪は豊年の瑞兆とする思想があらはれてゐる。文選謝惠連の雪賦に、盈v尺則呈2瑞於豊年1、袤v丈則表2※[さんずい+珍の旁]於陰徳1とあり、殊に新年の雪を吉瑞としたことは、孝武帝大明五年正月朔日雪降、義泰以v衣受v雪爲2佳瑞1とある。この作者は經國集に和銅四年三月五日對策文二首を載せてゐるだけあつて、支那思想によつて詠んだのである。
 
(173)大伴宿禰家持應(フル)v 詔(ニ)歌一首
 
3926 大宮の 内にも外にも 光るまで 零らす白雪 見れど飽かぬかも
 
大宮能《オホミヤノ》 宇知爾毛刀爾毛《ウチニモトニモ》 比賀流麻泥《ヒカルマデ》 零須白雪《フラスシラユキ》 見禮杼安可奴香聞《ミレドアカヌカモ》
 
此ノ〔二字傍線〕御所ノカコヒノ〔四字傍線〕内ニモ外ニモ、光リ渡ルヤウニ、立派ニ〔三字傍線〕降ツタ雪ノ景色ハ見テモ、見飽キナイ事デゴザイマスヨ。
 
○宇知爾毛刀爾毛《ウチニモトニモ》――大宮の門の内にも外にもの意。この句からフラスにつづいてゐる。○零須白雪《フラスシラユキ》――フラスは降るを丁寧に言つたものか。されど少し穩やかでないやうである。類聚古集に、須を流に作つてあるのによつて、フレルと訓むべきか。卷十九にこの人の作に大宮能内毛外爾母米都良之久布禮留大雪莫踏禰乎之《オホミヤノウチニモトニモメヅラシクフレルオホユキナフミソネヲシ》(四二八五)とある。
〔評〕 はつきりした歌。上句がよく出來てゐる。この時、作者の大伴家持は從五位下であつたにも拘はらず、外從五位下であつた葛井連諸會よりも下に記してあるのは、この卷が家持の手記たる證とも考へられるのである。
 
藤原豐成朝臣 巨勢奈底麿朝臣
 
豐成の傳は三九二二の序の註に述べである。
巨勢奈底麿は底を弖に作る本もある。この人は小治田の朝の小徳大海の孫、淡海朝の中納言大雲比登の子である。續紀によれば天平元年三月甲午正六位上から、外從五位下となり、三年正月丙子從五位下、八年正月辛丑正五位下、九年八月甲子造佛像司長官、九月己亥從四位下、十年正月乙未民部卿、十一年四月壬午民部卿兼春宮大夫から參議、十三年閏三月乙卯從四位上、七月辛亥左大辨兼神祇伯、辛酉正四位上、九(174)月乙卯造宮卿、十四年二月丙子從三位、十五年五月癸卯中納言、十八年同月丙戍北陸山陰兩道鎭撫使、二十年二月己未正三位、天平勝寶元年四月甲申從二位大納言、五年三月辛未薨去した。
 
大伴牛養宿禰 藤原仲麻呂朝臣
 
大伴牛養宿禰は、大コ咋子連の孫、贈大錦中吹負の男である。續紀によれば、和銅二年正月丙寅從六位上から從五位下に、三年五月戊年遠江守、七年三月乙卯從五位上、養老四年正月甲子正五位下、天平九年九月己亥正五位上、十年正月壬午從四位下、閏七月癸卯攝津大夫、十一年四月壬午參議、十五年五月癸卯從四位上、十六年丙申の記事には兵部卿と見えてゐる。十七年正月乙丑從三位、十八年四月丙戍兼山陽道鎭撫使、天平勝寶元年四月甲午正三位中納言。閏五月壬戍薨去した。
藤原仲麿朝臣は内大臣鎌足の曾孫、贈太政大臣武智麻呂の第二子である。續紀によれば、天十六年正月己卯正六位下から從五位下に、十一年正月丙午從五位上、十二年正月庚子正五位下、十一月甲辰正五位上、十三年閏三月乙卯從四位下、七月辛亥民郡卿、十五年五月癸卯從四位上參議、六月丁酉左京大夫、十七年正月乙丑正四位上、九月戊午兼近江守、十八年三月丁巳式部卿、四月丙戍兼東山道鎭撫使、癸卯從三位、二十年三月壬辰正三位、天平勝寶元年七月甲午大納言、八月辛未兼紫微令、二年正月乙巳從二位、天平寶字元年五月丁卯紫微内相、二年八月甲子大保に任じ、勅によつて惠美押勝と曰ふ。四年正月丙寅從一位、大師、六年二月辛亥正一位、八年九月丙申都督使、乙巳謀反のことあらはれて、近江に走り、壬子、石村村主石楯の爲に斬らる。
 
三原王 智努王
 
三原王は舍人親王の御子。卷六の一五四三參照。
智努王は長親王の御子。續紀によれば養老元年正月乙巳無位から從四位下に、天平元年三月甲午從四位上、十二年十一月甲辰正四位下、十三年八月丁亥木工頭、九月乙卯造宮卿、十八年四月癸卯正四位上、十九年正(175)月内申從三位、天平勝寶四年八月乙丑文室眞人の姓を賜ふ。六年四月庚午攝津大夫、天平寶字元年六月壬辰治部卿、二年六月丙辰出雲守、四年正月丙寅中納言、五年正月戊子從三位文屋眞人淨三に正三二位を授くとあるのは、改名したものと見える。六年正月癸未御史大夫、十二月乙巳神祇伯、八年正月乙巳從二位、九月戊戍致仕。寶龜元年十月丁酉薨去した。
 
船王 邑知王
 
始王は舍人親王の御子。卷六の九九八參照。
邑知王は長親王の第七子。續紀によれば、天平十一年正月丙午無位から從四位下に、十五年六月丁酉刑部卿、十八年四月壬辰内匠頭、天平勝寶三年正月己酉從四位上、六年九月丙申に文室眞人大市を大藏卿と爲すとある。天平寶字元年五月丁卯正四位下、六月壬辰彈正尹、三年十一月丁卯節部卿、五年十月壬子出雲守、八年九月己卯民部卿、神護元年正月己亥從三位、二年七月乙亥參議、景雲二年十月甲子の記事に中務卿從三位とあり、寶龜元年十月己丑正三位、二年三月庚午大納言、七月丁未兼彈正尹、十一月庚戍從二位、十二月戊午兼治部卿、五年三月甲辰兼中務卿、十一月甲辰正二位、十一年十一月戊子、七十七歳を以て薨去。
 
山田王 林王
 
山田王の名は續紀に見えない。元暦校本に小田王とあるのがよいか。小田王は天平六年正月己卯に無位から從五位下に、十年閏七日癸卯大藏大輔、十六年二月丙申木工頭として出てゐる。十八年四月庚子因幡守癸卯從五位上、天平勝寶元年十一月己未、由機須岐國司從五位上小田王に正五位下を授くる由見え、庚申正五位上になつてゐる。
林王は三島王の御子、續紀によれば天平十五年五月癸卯、無位から從五位下に、六月丁西圖書頭、天平寶字三年六月甲戍無位林王に從四位下を授く、五年正月戊子從五位下林王に從五位上を授く、六年正月戊子(176)從四位下林王木工頭となるとあるが、この王の記事は叙位の順序が亂れてゐるから誤があらう。寶龜二年九月丙申從四位上三島王の男林王に姓を山邊眞人と賜ふことが記してある。
 
穗積朝臣老 小田朝臣諸人
 
穂積朝臣老の傳は卷三の二八八參照。
小田朝臣諸人は代匠記初稿本に小治田朝臣諸人で、治の字が脱したのだと言つてゐる通りであらう。續紀によれば小治田朝臣諸人は天平元年三月甲午正六位上から外從五位下に、九年十二月壬戍散位頭、十年八月乙亥備後守、十八年五月戊午從五位下、天平勝寶六年正月壬子從五位上と見えてゐる。
 
小野朝臣綱手 高橋朝臣國足
 
舊本綱を網に作つてゐるのは誤である。小野朝臣綱手は續紀によれば、天平十二年十一月甲辰正六位上から外從五位下に、十五年六月丁酉内藏頭、十八年四月壬寅上野守、癸卯從五位下となつてゐる。
高橋朝臣國足は續紀によれば、天平十五年五月癸卯正六位上から外從五位下に、十八年四月癸卯從五位下閏九月戊子越後守となつてゐる。
 
太朝臣徳太理 高丘連河内
 
太朝臣徳太理は續紀によれば、天平十七年正月乙丑正六位上から外從五位下に、十八年四月癸卯從五位下を授かつてゐる。
高丘連河内の傳は卷六の一〇三八參照。
 
秦忌寸朝元 楢原造東人
 
秦忌寸朝元は續紀によると養老三年四月丁卯に忌寸の姓を賜つてゐる。五年正月甲戍の勅には醫術從六位(177)下秦朝元に物を賜ふ由が見え、天平三年正月丙子正六位上から外從五位下、七年同月戊申外從五位上、九年十二月壬戍圖書頭、十八年三月丁巳主計頭となつてゐる。なほ懷風藻にこの人に關する次の面白い記事がある。「辨正法師者俗姓秦氏……大寶年中、遣2學唐國1……、有2子朝慶朝元1法師及慶在v唐死、元歸2本朝1仕至2大夫1、天平年中、拜2入唐判官1到2大唐1見2天子1天子以2其父(ノ)故1、特優詔厚賞賜、還2至本朝1尋卒」
楢原造東人は續紀によると、天平十七年正月乙丑正六位上から外從五位下に、十八年五月戊午從五位下、十九年三月乙丑駿河守、天平勝寶二年三月戊戍駿河國廬原郡多胡浦の濱で黄金を獲て献つたので、勒臣の姓を賜はつた。十二年癸亥從五位上、天平寶字元年五月丁卯正五位下を授けられてゐる。
 
右件(ノ)王卿等、應(シテ)v 詔(ニ)作(リ)v歌(ヲ)依(リテ)v次(ニ)奏(ス)之(ヲ)、登時《ソノトキ》不《ズ》v記(サ)其(ノ)歌漏失(セリ)、但(シ)秦(ノ)忌寸朝元者、左大臣橘卿|謔《タハフレテ》曰(ク)靡《ザラバ》v堪(ヘ)v賦(スルニ)v歌(ヲ)以(テ)v麝(ヲ)贖(ヘ)v之(ヲ)因(リテ)v此(ニ)黙止也
 
朝元者の下に數字脱ちてゐるとする説もあるが、この儘でよいやうである。舊本諺とあるのは、西本願寺本に謔とあるのがよいであらう。以麝贖は、麝香を提供して歌を作らない罪を贖へといふのである。秦朝元は唐で生れた人で、漢學に通じてゐたが、歌は詠み得なかつたのである。入唐判官として唐に到り、最近歸朝した人であるから、彼が携へ歸つた麝を以て、贖物とせよと諸兄が戯れたのである。因v此黙止也とは其の理由で歌を詠まなかつたといふのである。
 
大伴宿禰家持以(テ)2天平十八年閏七月(ヲ)1、被(レ)v任(セ)2越中國守(ニ)1、即(チ)取(リテ)2七月(ヲ)1赴(ク)2任所(ニ)1、於v時|姑《ヲバ》大伴坂上郎女、贈(レル)2家持(ニ)1歌二首
 
閏七月とあるのは誤記であらう。續紀によればこの年六月壬寅從五位下大伴宿禰家持越中守とな(178)す由を記してゐる。又この七月に閏はなく、九月に閏があつた。又ここに、取七月赴在所とあるから、閏七月に任命せられる筈がない。閏を衍とする代匠記に從ふか又は夏六月の誤とする古義に從はねばならぬ。續紀を併せ考へると六月説がよいやうだ。但し閏は衍と見るがよい。なほ取七月とあるに就いて代匠記精撰本は七月は七日の誤であらうと言つてゐる。卷十九にも取2八月五日1應v入2京都1(四二五〇)とあつて、日を記すべきところのやうでもあるが、必ずしもさうとも斷じ難い。姑は玉篇に父之姉妹とあり、爾雅にも父之姉妹爲v姑とあり、叔母のことである。坂上郎安は家持の父旅人の妹であるから、この字を用ゐたのである。家持の妻坂上大孃の母であるが、外姑《シヒトメ》の意でかく記したのではない。元暦校本・西本願寺本など大伴の下に氏の字がある。
 
3927 草枕 旅ゆく君を 幸くあれと 齋瓮すゑつ 吾が床のべに
 
久佐麻久良《クサマクラ》 多妣由久吉美乎《タビユクキミヲ》 佐伎久安禮等《サキクアレト》 伊波比倍須惠都《イハヒベスヱツ》 安我登許能弊爾《アガトコノベニ》
 
(久佐麻久良)旅ニ出カケル貴方ガ御無事ナヤウニト、私ハ〔二字傍線〕私ノ床ノアタリニ齋瓮ヲ据ヱテ、神樣ヲ御祀リシ〔八字傍線〕マシタ。ドウゾ無事デオ歸リナサイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○安我登許能弊爾《アガトコノベニ》――吾が床の邊に。吾が寢る床のほとりに、齋瓮を据ゑたといふのである。床の方ではない。略解に「我床のべと言へるは、古へ其旅立る人の妻或は親しき人、其床に臥守る事有てかく言へるか」とあるのも、古義にこれを否定して、「こは吾之《アガ》の言は甚輕くして、吾がいはひべを床の方にすゑつ、といふほどに見てありぬべきことなるをや」と言つたのも從ひ難い。床のほとりに齋瓮を据ゑて神を祭るのは、上代の風習であつたのだ。卷二十に伊波比倍乎等許敝爾須惠弖《イハヒベヲトコヘニスヱテ》(四三三一)とある。
〔評〕 卷三に出てゐるこの人の祭神歌(三七九)が思ひ起される。自分の甥であり聟である家持の無事を、氏神に願つ(179)たものであらう。眞心の歌である。
 
3928 今の如 戀しく君が 思ほえば いかにかもせむ 爲るすべのなさ
 
伊麻能其等《イマノゴト》 古非之久伎美我《コヒシクキミガ》 於毛保要婆《オモホエバ》 伊可爾加母世牟《イカニカモセム》 須流須邊乃奈左《スルスベノナサ》
 
今別レニ臨ンデ私ハ貴方ガ戀シクテ堪ヘラレナイガ、別レタ後デ〔今別〜傍線〕、今ノヤウニ戀シク貴方ノコトガ思ハレルナラバ、ソノ時ハ、ドウシタラ良カラウカ。仕方ガアリマセンヨ。
 
○須流須邊乃奈左《スルスベノナサ》――略解は「するすべはせむすべに同じ」とあるのを古義に「勢牟須辨《セムスベ》は爲《ナサ》む爲方《シカタ》といふにあたりて、行さきをかねて云、須流須邊《スルスベ》は爲《ナ》す爲方《シカタ》といふにあたりて、さしあたりたる即ち今を云とて差別《ケヂメ》あり、しかるを略解に、するすべは、せむすべに同じと一トくくりにいへるは、ときざま宜しからず」と攻撃してゐる。嚴格にいへば古義のいふ通りであるが、ここでははつきりした區別を立てた用ゐ方ではない。
〔評〕 第四句で切つて、更に五句を詠歎的に言ひ添へてある。叔母さんが甥との別を悲しむ言葉としては、甚だしきに過ぎてゐるくらゐである。
 
更贈(レル)2越中國(ニ)1歌二首
 
3929 旅にいにし 君しもつぎて 夢に見ゆ 吾が片戀の しげければかも
 
多妣爾伊仁思《タビニイニシ》 吉美志毛都藝底《キミシモツギテ》 伊米爾美由《イメニミユ》 安我加多孤悲乃《アガカタコヒノ》 思氣家禮婆可聞《シゲケレバカモ》
 
旅ニ出カケタ貴方ガ、毎晩毎晩〔四字傍線〕續ケテ夢ニ見エマス。コレハ貴方ガ私ヲ思ツ列下サル爲デハナクテ〔コレ〜傍線〕、私ノ片思(180)ガ、ヒドイカラデアリマセウカ。ドウモサウラシイ〔八字傍線〕。
○吉美志毛都藝底《キミシモツギテ》――シモは強めて言ふのみ。別に深い意味はない。
〔評〕 三句切になつてゐる。歌調が一體に新らしい。戀人に言ふやうな歌である、この叔母さんはかういふことを平氣でいふ人だ。古今集の「君をのみ思ひ寢にせし夢なれば吾が心から見つるなりけり」と心は似てゐる。
 
3930 道の中 國つみ神は 旅行も し知らぬ君を 惠みたまはな
 
美知乃奈加《ミチノナカ》 久爾都美可未波《クニツミカミハ》 多妣由伎母《タビユキモ》 之思良奴伎美乎《シシラヌキミヲ》 米具美多麻波奈《メグミタマハナ》
 
越中ノ國ノ神樣ハ、旅行ヲ爲タコトノナイ貴方ヲ、惠ンデ下サイヨ。
 
○未知乃奈加《ミチノナカ》――越の道の中。即ち越中をいふ。○久爾都美可未波《クニツミカミハ》――國の御神は。越中の國の國内に祀られてゐる神は。天つ神國つ神の國つ硝即ち地祇のことではない。○之思良奴伎美乎《シシラヌキミヲ》――爲《シ》不v知君を。旅行をしてみたことのない君を。○米具美多麻波奈《メグミタマハナ》――惠み賜はな。ナは希望を意味してゐる。
〔評〕 これは如何にも叔母さんらしい情が見えてゐる。三十にも足らぬ甥を、遠い邊境へ國守として送り出すのは、どんなに悲くし淋しかつたであらう。
 
平群《ヘグリ》氏女郎贈(レル)2越中守大伴宿禰家持(ニ)1歌十二首
 
平群氏女郎はその傳が明らかでない。この人の作はここにのみ出てゐる。
 
3931 君により 吾が名はすでに 立田山 絶えたる戀の しげき頃かも
 
吉美爾餘里《キミニヨリ》 吾名波須泥爾《ワガナハスデニ》 多都多山《タツタヤマ》 絶多流孤悲乃《タエタルコヒノ》 之氣吉許呂(181)可母《シゲキコロカモ》
 
貴方ノ爲ニ私ノ浮〔傍線〕名ハ既ニ世間ニ〔三字傍線〕立チマシタ。シカシ貴方ガ越中ニオイデニナツタノデ二人ノ中ハ絶エマシタガ〔シカ〜傍線〕、絶エタ戀ガコノ頃ハ募ツテ〔二字傍線〕ヒドクナリマシタヨ。
 
○吾名波須泥爾《ワガナハスデニ》――スデニは悉く、普くなどの意であることは天下須泥爾於保比底《アメノシタスデニオホヒテ》(三九二一)の條に説明した如くである。この歌では後世の、早くもといふ意に解することも出來る。否その方が寧ろ當つてあるやうに見える。この頃早くこの用法が行はれてゐたのであらう。○多都多山《タツタヤマ》――吾が名は既に立つと續けてある。立田山と言ひ下したのは、次句の絶につづくのだと代匠記・古義などにいつてゐる。略解は繁《シジ》とつづくのだらうといひ、新考は絶をタチと訓んで、立田山をタチタルの枕に使つたのだと言つてゐる。立田山は平群郡(今生駒郡に合す)にあるから、自分の氏に因んで用ゐたのであらうが、下へのつづきが明瞭でない。山には要はなく、語勢でかう言ひ下したので、下への續きには關係のないものと見るべきであらう。
〔評〕 三句の立田山は下へどうつづくとしても、用法が後世ぶりで面白くない。上下兩句の連絡も穩やかでない。卷十一の旋頭歌に玉緒之絶有戀之繁此者《タマノヲノタエタルコヒノシゲキコノコロ》(二三六六)とある。
 
3932 須磨人の 海べ常去らず 燒く鹽の 辛き戀をも 我はするかも
 
須麻比等乃《スマビトノ》 海邊都禰佐良受《ウミベツネサラズ》 夜久之保能《ヤクシホノ》 可良吉戀乎母《カラキコヒヲモ》 安禮波須流香物《アレハスルカモ》
 
(須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能)辛イ戀ヲ私ハシマスヨ。
 
○須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能《スマビトノウミベツネサラズヤクシホノ》――須磨の浦に住む海人が海邊を常に離れず燒いてゐる鹽の。序詞。(182)辛きと下へつづいてゐる。
 
〔評〕 卷十一の牡鹿海部乃火氣燒立而燎鹽乃辛戀毛吾爲鴨《シカノアマノケブリタキタテテヤクシホノカラキコヒヲモワレハスルカモ》(二七四二)、卷十五の之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能可良伎孤悲乎母安禮波須流香母《シカノアマノヒトヒモオチズヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》(三六五二)と同型同想。その改作であることは言ふまでもない。
 
3933 ありさりて 後も逢はむと 思へこそ 露の命も つぎつつ渡れ
 
阿里佐利底《アリサリテ》 能知毛相牟等《ノチモアハムト》 於母倍許曾《オモヘコソ》 都由能伊乃知母《ツユノイノチモ》 都藝都追和多禮《ツギツツワタレ》
 
カウシテ居ツテ、時日ガタツタ〔六字傍線〕後デ御目ニカカラウト思ヘバコソ、露ノヤウナ脆イ此ノ〔四字傍線〕命ヲ繋イデ、暮シテ居ルノデス。
 
○阿里佐利底《アリサリテ》――かうしてゐて時日を經過して。○於母倍許曾《オモヘコソ》――思へばこその古形。○都藝都追和多禮《ツギツツワタレ》――命を繼ぎつつ月日を過してゐる。ワタルは物の繼續をあらはす。
〔評〕 卷十二の在有而後毛將相登言耳乎堅要管相者無爾《アリアリテノチモアハムトコトノミヲカタクイヒツツアフトハナシニ》(三一一三)と初二句が似てゐるが、更に卷四の後湍山後毛將相常念社可死物乎至今日毛生有《ノチセヤマニトモアハムトオモヘコソシヌベキモノヲケフマデモイケレ》(七三九)と二三の句が同じである。殊に後者は家持が坂上大孃に和へた歌だけに、恐らく家持を苦笑せしめたことであらう。露の命といふ譬喩法が後の世ぶりの感じを與へる。
 
3934 中々に 死なば安けむ 君が目を 見ず久ならば 術なかるべし
 
奈加奈加爾《ナカナカニ》 之奈婆夜須家牟《シナバヤスケム》 伎美我目乎《キミガメヲ》 美受比佐奈良婆《ミズヒサナラバ》 須敝奈可流倍思《スベナカルベシ》
 
却ツテ死ンダナラバ呑氣デセウ。私ハ〔二字傍線〕貴方ニ御目ニカカラナイデ、久シクナツタナラバ、悲シクテ〔四字傍線〕、仕方ガナ(183)イデセウ。
〔評〕 卷十二の中中二死者安六出日之入別不知吾四九流四毛《ナカナカニシナバヤスケムイヅルヒノイルワキシラヌワレシクルシモ》(二九四〇)と初二句同じである。熱烈な言葉ではあるが、類句があるので、推奨し難い。
 
3935 隱沼の 下ゆ戀あまり 白波の いちじろく出でぬ 人の知るべく
 
許母利奴能《コモリヌノ》 之多由孤悲安麻里《シタユコヒアマリ》 志良奈美能《シラナミノ》 伊知之路久伊泥奴《イチジロクイデヌ》 比登乃師流倍久《ヒトノシルベク》
 
私ハ〔二字傍線〕(許母利奴能)心ノ中デ戀シサヲ包ンデヰタガソレガ〔九字傍線〕包ミ切レナイデ、到る頭〔二字傍線〕人ガ知ルヤウニ(志良奈美能)著シク顔色ニ〔三字傍線〕現ハレテシマヒマシタ。困ツタコトニナリマシタ〔困ツ〜傍線〕。
 
〔評〕 卷十二に出てゐる隱沼乃下從戀餘白派之灼然出人之可知《コモリヌノシタユコヒアマリシラナミノイチジロクイデヌヒトノシルベク》(三〇二三)を拜借して家持に贈つたもの。多く言ふを要しない。
 
3936 草枕 旅にしばしば 斯くのみや 君をやりつつ 吾が戀ひ居らむ
 
久佐麻久良《クサマクラ》 多妣爾之婆之婆《タビニシバシバ》 可久能未也《カクノミヤ》 伎美乎夜利都追《キミヲヤリツツ》 安我孤悲乎良牟《アガコヒヲラム》
 
(久佐麻久良)旅ニシバシバ貴方ヲ出シテ、私ハ、都ニ淋シク止マツテ〔九字傍線〕、カウシテ、戀シテバカリ居ルコトデセウカ。淋シウゴザイマス〔八字傍線〕。
 
○多妣爾之婆之婆《タビニシバシバ》――旅に屡々君を遣りつつと第四句につづいてゐる。古義に「此は尾句の上にうつして意得(184)べし。屡々吾戀《シバシバアガコヒ》とつづく意なり」とあるのは誤つてゐる。○可久能未也《カクノミヤ》――この句から第五句につづいてゐる。斯くのみや吾が戀ひ居らむ。
〔評〕 家持との歡會が、彼の旅行によつて屡遠ざかつたことを悲しんだ歌。句の順序の倒置は巧とは言ひ難い。
 
3937 草枕 旅去にし君が 歸りこむ 月日を知らむ すべのしらなく
 
草枕《クサマクラ》 多妣伊爾之伎美我《タビイニシキミガ》 可敝里許牟《カヘリコム》 月日乎之良牟《ツキヒヲシラム》 須邊能思良難久《スベノシラナク》
 
(草枕)旅ニ御出カケニナツタ貴方ガ御歸リニナル月日ヲ、何時ト〔三字傍線〕知ル方法ガワカリマセンヨ。悲シウゴザイマス〔八字傍線〕。
 
○多妣伊爾芝伎美我《タビイニシキミガ》――旅に往つた君が。旅に出かけた貴方が。
〔評〕 四五の句に「知ラ」が繰返されてあるが、さして目立たない。結句知ラナクと詠歎的に言ひをさめたのがあはれである。
 
3938 斯くのみや 吾が戀ひ居らむ ぬば玉の 夜の紐だに 解き放さけずして
 
可久能未也《カクノミヤ》 安我故非乎浪牟《アガコヒヲラム》 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 欲流乃比毛太爾《ヨルノヒモダニ》 登吉佐氣受之底《トキサケズシテ》
 
私ハ、貴方ト御別レシテカラ〔私ハ〜傍線〕(奴婆多麻能)夜着ル衣〔三字傍線〕ノ紐サヘモ解キ放タナイデ、カウシテ貴方ヲ〔三字傍線〕戀シテバカリ過スコトデセウカ。悲シウゴザイマス〔八字傍線〕。
 
(185)○欲流乃比毛太爾登吉佐氣受之底《ヨルノヒモダニトキサケズシテ》――夜の衣即ち寢る時に着てゐる衣の紐さへも、解き放たずして。落ちついて、くつろいで寢ることもないといふのである。古義に「君を除《オキ》て他にあふべき人なければ、夜の紐をさへ解放ずして」と解いてゐるのは過ぎてゐる。
〔評〕 君が旅に行き給ひし故といふ意は言外に含めてある。夜の紐だに解き放けずとは蓋し誇張の言であらう。
 
3939 里近く 君が成りなば 戀ひめやと もとな思ひし あれぞ悔しき
 
佐刀知加久《サトチカク》 伎美我奈里那婆《キミガナリナバ》 古非米也等《コヒメヤト》 母登奈於毛比此《モトナオモヒシ》 安連曾久夜思伎《アレゾクヤシキ》
 
私ノ住ンデヰル〔七字傍線〕里ニ近ク貴方ガオイデニナツタナラバ、オ目ニカカル機會モ多クテ貴方ヲ〔オ目〜傍線〕戀シク思ヒハスマイト、徒ラニサウ思ツテヰタ、私ハ今ニナツテ〔五字傍線〕殘念ニ思ヒマス。貴方ハ難波カラ、奈良ヘオ歸ニナツタト思ツタラ、又越中ヘオ出ケニナリマシタ〔貴方〜傍線〕。
 
○佐刀知加久《サトチカク》――吾が住む里に近く。平群氏女郎は、本郷の平群郡に住んでゐたのであらうと言はれてゐる。○伎美我奈里那婆《キミガナリナバ》――君がは家持を指す。家持は天皇に陪して難波に赴いてゐたのが、奈良へ歸つて來たことを言つてゐる。奈良ならば女郎の住む里に近いからかく言つたのである。○母登奈於毛比此《モトナオモヒシ》――母登奈は徒らに、猥りに。思つたことの甲斐なきをいふ。
〔評〕 隔り住んで思ふやうに逢はれなかつたのに、復、越路へ戀人を送り出した悲歎を歌つてゐるが、深酷さがない。
 
3940 萬代と 心は解けて 吾が背子が つみし手見つつ しのびかねつも
 
餘呂豆代等《ヨロヅヨト》 許己呂波刀氣底《ココロハトケテ》 和我世古我《ワガセコガ》 都美之乎見都追《ツミシヲミツツ》 志乃(186)備加禰都母《シノビカネツモ》
 
(186)何時マデモカハルマイト二人ノ〔九字傍線〕心ガ、解ケテ貴方ガ、私ノ手ヲ抓《ツメ》ツタガ、今カウシテ、御別シテ見レバ、此ノ私ノ〔ガ今〜傍線〕手ヲ見テ其ノ時ノ事ガ思ヒ出サレ〔其ノ〜傍線〕、懷シサニ堪ヘラレマセンヨ。
 
○餘呂豆代爾《ヨロヅヨト》――舊本爾とあるのは元暦校本に等とあるのがよい。萬代までも永く契らうと。○都美之乎見都追《ツミシテミツツ》――抓つた私の手を見て。舊本乎とあるが 元暦校本手に作るのに從ふ説が多いから、それに從つた。二人で親しさの餘りに手を抓つたのであらう。○志乃備加禰都母《シノビカネツモ》――堪へかねたよ。感慨胸にせまつて堪へられなかつたといふのである。本集ではシヌブといふのを常とするが、シノブといふ形もあつたことは、佛足跡の歌に美都々志乃波牟多太爾阿布麻弖爾《ミツツシノハムタダニアフマデニ》とあるので明らかである。
〔評〕 肉感的な歌である。こんな痴話喧嘩のやうなことは本集にも珍らしい。江戸時代の端唄にでもありさうな内容である。
 
3941 鴬の 鳴くくら谷に うちはめて 燒けは死ぬとも 君をし待たむ
 
※[(貝+貝)/鳥]能《ウグヒスノ》 奈久久良多爾爾《ナククラタニニ》 宇知波米底《ウチハメテ》 夜氣波之奴等母《ヤケハシヌトモ》 伎美乎之麻多武《キミヲシマタム》
 
私ハ鶯ガ鳴ク谷ニ、投ゲ込ンデ、此ノ身ヲ火葬セラレテ〔十字傍線〕、燒ケテ死ンデモ、ヤハリ貴方を忘レズニ〔十字傍線〕、貴方ノ御歸リ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰマセウ。
 
○奈久久良多爾爾《ナククラタニニ》――舊本、久良多爾之とあるが、之は元暦校本その他、々に作る本が多いから、それによるべきである。クラは谷のこと、古事記に闇游加美《クラオカミ》神とあるのも、谷の※[雨/龍]である。だからクラタニといふのは、要す(187)るに谷のことである。○宇治波米底《ウチハメテ》――打ち嵌めて。身を投じての意。○夜氣波之奴等母《ヤケハシヌトモ》――燒け死ぬとは火葬せらるることである。燒けは爲ぬともと見る説もあるが、燒けは死ぬともであらう。なほこれを火山の底に燒死してもと解する説もあるが、火山といふものを見たこともあるまいと思はれる大和人には、さういふ思想はあるまいし、又これを自殺的行爲としては、第五句が解し難い。火葬場で燒け死ぬとはをかしい、死んだからこそ燒かれるのだといふ理筋はあらうが、表現法が拙い爲にかうなったのである。
〔評〕 君を戀ふのあまり焦死して、遂に火葬場で燒かれるとも、私はなほ貴方を待つてゐようと、待戀の熱烈さを強調したものである。鶯の鳴くくら谷と言つたのについて、不適當だとか、悠長だとかいふ批評もあるが、歌を美化する爲に用ゐただけで他意があるのではない。佳作とは言はれないが、風變りの作としてとるべきであらう。
 
3942 松の花 花數にしも 吾が背子が 思へらなくに もとな咲きつつ
 
麻都能波奈《マツノハナ》 花可受爾之毛《ハナカズニシモ》 和我勢故我《ワガセコガ》 於母敝良奈久爾《オモヘラナクニ》 母登奈佐吉都追《モトナサキツツ》
 
松ノ花ハ花ノ數ノ内〔二字傍線〕ニモ貴方ガ思ツテヰナイノニ、徒ラニ咲イテヰマス。アナタハ私ノコトナドハ念頭ニモナイノニ、私ハヤハリアナタヲ戀シク思フノハツマラナイ事デス〔アナタハ〜傍線〕。
 
○麻都能波奈《マツノハナ》――松の花。花として目立たない松の花に自分を譬へてゐる。○花可受爾之毛《ハナカズニシモ》――花の數の内のものとして。シモは強める助詞。○於母敝良奈久爾《オモヘラナクニ》――思へりにナクニを附した形。○母登奈佐吉都追《モトナサキツツ》――徒らに咲いてゐるの意。咲キツツモトナといつても同じである。咲くは戀ふる意をよそへてある。
〔評〕 この十二首中ではこれが一番光つてある。花の中で最も目立たぬものとして、松の花を選擇したのは、炯眼である。自分を顧みない男への怨言が、穏やかに、しかも相當な迫力を以て述べられてゐる。松の花が咲く(188)といふことに、君を待つ心の盛なるよしを託してゐると見る説は賛成出來ない。この歌では松を待つにかけてゐるやうには見えない。この歌和歌童蒙抄に載せてゐる。
 
右件(ノ)十二首(ノ)歌者、時時(ニ)寄(セテ)2便(ノ)使(ニ)1來(リ)贈(レリ)、非(ル)v在(ラ)2一度(ニ)所(ニ)1v送也
 
便使は元暦校本に使の字がない。この二字はよく似てゐるから、重複したので、元暦校本が原形を傳へてゐるかも知れない。非在とある在は不要の文字のやうに見える。併しあつても分らぬこともないから、原形を保存するがよい。
 
八月七日夜、集(ヒテ)2于守大伴宿禰家持(ノ)舘(ニ)1宴(スル)歌
 
着任後間もなく國守館に於て開いた宴會である。國守館は國府廳に近く、今の伏木町背後の丘陵上にあつたことは、この後に出る歌によつて諒解せられる。
 
3943 秋の田の 穗むき見がてり 吾が兄子が ふさ手折りける 女郎花かも
 
秋田乃《アキノタノ》 穗牟伎見我底利《ホムキミガテリ》 和我勢古我《ワガセコガ》 布左多乎里家流《フサタヲリケル》 乎美奈敝之香物《ヲミナヘシカモ》
 
コノ女郎花ハ〔六字傍線〕秋ノ田ノ稻ノ穗ノ靡イテ居ル樣子ヲ見ガテラ、私ノ友ガ澤山ニ手折ツテ來タ女郎花デスナア。御親切ヲ感謝シマス〔九字傍線〕。
 
○穗牟伎見我底利《ホムキミガテリ》――穗向を見がてら。穗の靡き方。稻の稔りの樣子。見ガテリと言つた例は卷一に山邊乃御井乎見我底利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》(八一)とある。元暦校本その他、底を※[氏/一]に、利を里に作つた本が多い。○和我勢古我《ワガセコガ》――セコは次(189)の歌によると、大伴池主をさしてゐる。○布左多乎里家流《フサタヲリケル》――フサはふさふさと、澤山。卷八に射目立而跡見乃岳邊之瞿麥花総手折吾者將去寧樂人之爲《イメタテテトミノヲカベノナデシコノハナフサタヲリワレハモチイナムナラヒトノタメ》(一五四九)とある。ケルを古義に來家流《キケル》の約とあるのは從ひ難い。
〔評〕 秋の田の穗向見がてりといふのが、如何にも地方官として、稻作の豐凶に心を配つてゐるやうに見える。秋の田の檢見の職務を行ひつつ、しかも女郎花を折る風流心を讃へ、併せて自分にそれを贈つてくれた芳志を感謝する心をも述べてゐる。
 
右一首守大伴宿禰家持作
 
3944 女郎花 咲きたる野べを 行きめぐり 君を思ひ出 たもとほり來ぬ
 
乎美奈敝之《ヲミナヘシ》 左伎多流野邊乎《サキタルヌベヲ》 由伎米具利《ユキメグリ》 吉美乎念出《キミヲオモヒデ》 多母登保里伎奴《タモトホリキヌ》
 
私ハ〔二字傍線〕、女郎花ノ咲イテ居ル野邊ヲアチラコチラト〔七字傍線〕歩キマハツテ、コノ女郎花ヲ折リマシタノデ〔コノ〜傍線〕、貴方ヲ思ヒ出シテコレヲ差上ゲヨウト思ツテ〔コレ〜傍線〕廻道ヲシテ來マシタ。
 
○吉美乎念出《キミヲオモヒデ》――君は家持を指す。○多母登保里伎奴《タモトホリキヌ》――タモトホリのタは接頭語。モトホルは廻る。迂廻すること。
〔評〕 女郎花の咲いてゐるのを見て、君を思ひ出して、折り取つて廻道をして來たといふ親切な歌である。下句は卷七の春霞井上從直爾道者雖有君爾將相登他回來毛《ハルガスミヰノヘユタダニミチハアレドキミニアハムトタモトホリクモ》(一二五六)、卷八の雲上爾鳴奈流雁之雖遠君將相跡手回來津《クモノウヘニナクナルカリノトホケドモキミニアハムトタモトホリキツ》(一五七四)に似てゐる。
 
3945 秋の夜は あかとき寒し 白妙の 妹が衣手 著むよしもがも
 
安吉能欲波《アキノヨハ》 阿加登吉左牟之《アカトキサムシ》 思路多倍乃《シロタヘノ》 妹之衣袖《イモガコロモデ》 伎牟餘之母(190)我毛《キムヨシモガモ》
 
カウシテ、都ヲ離レテヰルト〔カウ〜傍線〕、秋ノ夜ハ明ケ方ガ寒イ。都ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ノ(思路多倍乃)着物ヲ借リテ〔三字傍線〕着ル事ガ出來レバヨイガ。ソレガ出來ナイノデ、寒クテ仕方ガナイ〔ソレ〜傍線〕。
 
○思路多倍乃《シロタヘノ》――白栲の。枕詞。衣《コロモ》につづいてゐる。
〔評〕 秋の夜の曉の寒さに、都の妻を思ふ情が悲しく歌はれでゐる。まだ仲秋の頃ながら、寒さの早い越路の曉の寐覺のわびしさは、さもこそとうなづかれる。新考には、この宴が曉に及んでよんだのだと言つてゐるが、どうであらう。
 
3946 ほととぎす 鳴きて過ぎにし 岡びから 秋風吹きぬ よしもあらなくに
 
保登等藝須《ホトトギス》 奈伎底須疑爾之《ナキテスギニシ》 乎加備可良《ヲカビカラ》 秋風吹奴《アキカゼフキヌ》 余之母安良奈久爾《ヨシモアラナクニ》
 
郭公ガ夏ノ頃〔三字傍線〕鳴イテ通ツタ岡ノ邊カラ(今ハ〔二字傍線〕、秋風ガ、寒ク吹イテ來〔二字傍線〕タ。コノ淋シサヲ忘レル〔九字傍線〕方法モナイノニ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○乎加備可良《ヲカビカヲ》――岡邊より。○余之母安良奈久爾《ヨシモアラナクニ》――ヨシは爲方《シカタ》。方法。何として慰むべきか、わが淋しさを慰むべき方法もないのに。「宣長云よしはよそりなくとも詠めるに同じくて、よりどころ、よすがを言ふ也。其よすがは即妹也と言へり」と略解にあるが、ヨシを直ちに妹と解するのは無理であらう。
〔評〕 霍公鳥が鳴いて通つた岡といふのは、國守館の背後の二上山つづきの丘陵である。家持よりも早く此處に赴任して、その岡の霍公鳥を聞いた池主は、ここに霍公鳥が鳴くことをも、この歌で家持に告げてゐるやうに(191)も見える。淋しい感が出てゐる。
 
右三首掾大伴宿禰池主作
 
大伴宿禰池主の傳は卷八(一五九〇)に記して置いた。家持が越中に國守として赴任した時、その國の掾であつたのである。二十一年三月の條には越前掾として出てゐる。
 
3947 今朝の朝け 秋風寒し 遠つ人 雁が來鳴かむ 時近みかも
 
家佐能安佐氣《ケサノアサケ》 秋風左牟之《アキカゼサムシ》 登保都比等《トホツヒト》 加里我來鳴牟《カリガキナカム》 等伎知可美香物《トキチカミカモ》
 
今朝ノ朝明ケ方ニ、秋風ガ寒ク吹イテ居ル。(登保都比等)雁ガ來テ鳴ク時ガ近イカラデアラウカ。
 
○登保都比等《トホツヒト》――遠つ人。雁は遠くから來る鳥であるから、擬人して遠つ人と言つたのである。この語は集中枕詞として、待つにかけて松に冠したものが多いが、また、卷十二の遠津人獵道之池爾《トホツヒトカリヂノイケニ》(三〇八九)のやうに雁にかけて枕詞とした例もある。ここでは枕詞とせずにも解き得るのであるが、他の例に傚つて枕詞とするのが穩當であらう。
〔評〕 冷え冷えと吹き來る秋の朝風に、初めて越路の秋を淋しむ、若い國守の心情が想はれてあはれである。
 
3948 天ざかる 鄙に月歴ぬ 然れども 結ひてし紐を 解きもあけなくに
 
安麻射加流《アマザカル》 比奈爾月歴奴《ヒナニツキヘヌ》 之可禮登毛《シカレドモ》 由比底之紐乎《ユヒテシヒモヲ》 登伎毛安氣奈久爾《トキモアケナクニ》
 
(192)私ハ〔二字傍線〕(安麻射可流)田舍デ、既ニ〔二字傍線〕一月經ツタ。然シ家ヲ出ル時ニ妻ガ〔八字傍線〕、結ンデクレタ着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ、未ダ一度モ解キ開ケモシナイヨ。
 
○安腕射加流《アマザカル》――枕詞。比奈《ヒナ》とつづく。天のかなたに遠ざかりたる田舍の意でつづいてゐる。○由比底之※[糸+刃]乎《ユヒテシヒモヲ》――妹が結ひてし紐を。門出に際して妻が結んでくれた紐を。○登伎毛安氣奈久爾《トキモアケナクニ》――解きも開けないよの意。解き開くとは解き放つこと。
〔評〕 旅に出て紐を解かぬことを詠んだ歌は多い。併し着任後既に一箇月、なほ紐を解かぬとあるのは、事實か誇張か、些事ながら研究の要があらう。
 
右二首守大伴宿禰家持作
 
3949 天ざかる 鄙にある我を うたがたも 紐解き放けて 思ほすらめや
 
安麻射加流《アマザカル》 比奈爾安流和禮乎《ヒナニアルワレヲ》 宇多我多毛《ウタガタモ》 比母登吉佐氣底《ヒモトキサケテ》 於毛保須良米也《オモホスラメヤ》
 
(安麻射加流)田舍ニカウシテ〔四字傍線〕ヰル私ヲ都ニヰル妻ハ〔六字傍線〕、一寸デモ着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ解キ開ケテ、クツロイデ〔五字傍線〕私ヲ思フデアラウヤ。ヤハリ私ノヤウニ、紐ヲ解キ開ケナイデ、私ヲ思ツテヰルデアラウ〔ヤハ〜傍線〕。
 
○宇多我多毛《ウタガタモ》――ウタガタは不安定なこと。消え易いこと、即ち暫くの意ともなる。歌方毛《ウタガタモ》(二八九六)參照。○比母毛登吉佐氣底《ヒモトキサケテ》――毛は元暦校本類聚古集にないから衍字である。底は元暦校本その他、※[氏/一]に作る本が多い。代匠記初稿本はテは濁音だといつてゐるが、略解は「此集にさけずと言ふべきを、さけでなど言へる事なし」とこれに反對してゐる。古義は底を受の誤として、ヒモトキサケズと訓んでゐる。併し改めないで右のやうに解くべきである。○於毛保須良米也《オモホスラメヤ》――妻が思ほすらむや、思ひはすまいといふのである。
(193)〔評〕 少しく曖昧な歌なので、種々の見解がある。家持の歌にうながされて、池主も妻を思ふ歌を作つたのである。思モホスと敬語を用ゐてはゐるが、略解にあるやうに、故郷の妹に贈つたとするのは蓋し當つてゐまい。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
右一首掾大伴宿禰池主
 
略解は「例によるに作の字を脱せり」とある。池主作とありさうなところであるが、これから下には人名の下に作の宇がないのが少くない。
 
3950 家にして 結ひてし紐を とき放けず 念ふ心を 誰か知らむも
 
伊敝爾之底《イヘニシテ》 由比底師比毛乎《ユヒテシヒモヲ》 登吉佐氣受《トキサケズ》 念意緒《オモフココロヲ》 多禮賀思良牟母《タレカシラムモ》
 
旅ニ出ル時ニ〔六字傍線〕家デ妻ガ〔二字傍線〕結ンデクレタ着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ解キ放タズニ、妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思ツテヰル心ヲ、誰ガ知ラウカヨ。都ノ妻ハヨモヤ私ノ心ヲ知ルマイ〔都ノ〜傍線〕。
 
○多禮賀思良牟母《タレカシラムモ》――誰が知らうよ、誰も知る人はあるまいの意。モは詠歎の助詞。
〔評〕 吾が旅の空に獨寢してゐる忠實さを、妻に知らせむよしもなしと歎いてゐる。眞面目な歌といふまでである。
 
右一首守大伴宿禰家持作
 
元暦校本には作の字がない。
 
3951 ひぐらしの 鳴きぬる時は をみなへし 咲きたる野べを 行きつつ見べし
 
(194)日晩之乃《ヒグラシノ》 奈吉奴流登吉波《ナキヌルトキハ》 乎美奈弊之《ヲミナヘシ》 佐伎多流野邊乎《サキタルヌベヲ》 遊吉追都見倍之《ユキツツミベシ》
 
蜩ガ鳴イタ時ニハ、淋シイカラ〔五字傍線〕女郎花ノ咲イテヰル野邊ヲ歩イテ、ソノ花ヲ〔四字傍線〕眺メナサイ。サウシテ心ヲ慰メルガヨイ〔サウ〜傍線〕。
 
○奈吉奴流登吉波《ナキヌルトキハ》――鳴いた時には。蜩が鳴いたならば。○遊吉追都見倍之《ユキツツミベシ》――見ベシは見ルベシの古格。
〔評〕 蜩の鳴く聲は淋しいもので、秋のあはれを感ぜしむる。この聲を聞かば野に出て女郎花の咲いた景色を見て心を慰めよといふのである。略解に「をみなへしは多く女にたとふれば、日ぐらしの鳴夕ぐれに行會むと云意成るべし」とあるのも、古義に「晩蝉《ヒグラシ》のなく夕ぐれになりなば、其の女と云名にめでて、女郎花のさきたる野べをだに見つつ、せめて旅の心をなぐさめやらむとなるべし」とあるのも、共に考へ過ぎてゐる。
 
右一首大目秦忌寸八千島
 
大目は國の屬官で、即ちサクワンである。目を大少に分つて二人を置くのは、大國である。越中は日本後紀に延暦廿三年六月に上國と爲すとあるから、元來中國であつたのに、なほ目を二人置いてゐたのである。續紀に「寶龜六年三月乙未始置2越中但馬因幡伯耆大少目員」とあるが、それ以前から置かれてゐたのである。かくの如く本集によつて、史の誤を正すことも出來る。秦忌寸八千島の傳はわからない。元暦校本は千を十に作つてゐる。
 
古歌一首【大原高安眞人作】年月不v審、但隨(テ)2聞(ク)時(ニ)1記2載(ス)茲(ニ)1焉
 
(195)大原高安眞人の傳は卷四の攝津大夫高安王(五七七)とあるところに説明してある、天平十四年十二月に卒した人で既に故人であるから、古歌と書いたのであらう。年月不審以下の文は、この作の年月は審かでないが、これを聞いた時に隨つて、此處に記載したといふのである。
 
3952 妹が家に 伊久里の森の 藤の花 今來む春も 常斯くし見む
 
伊毛我伊弊爾《イモガイヘニ》 伊久里能母里乃《イクリノモリノ》 藤花《フヂノハナ》 伊麻許牟春母《イマコムハルモ》 都禰加久之見牟《ツネカクシミム》
 
(伊毛我伊弊爾)伊久理ノ森ニ咲イテ居ル藤ノ花ハ美シイカラ〔五字傍線〕、又コレカラ以後ノ春モイツモカウシテ、眺メヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○伊毛我伊弊爾《イモガイヘニ》――枕詞。妹が家に行くとつづいて、伊久理に冠してある。○伊久理能母里乃《イクリノモリノ》――代匠記精撰本に「或者の語りしは、南京に十町許隔て、いぐりと云神の社有と申き。若彼處にや。くもじも濁て申つれどさる事は例あり」とあつて、奈良の南方十町ばかりの地點としてある。考には「式神名に越後國蒲原郡伊久禮神社有、是ならん。契沖のイクリの神社ありとなりといへるは歌の意どもも此宴席にてうたへるにも心づかぬ説にてわらふべし。且、禮と理は通へば伊久理ともよむべし。又|招垂《ヌタリ》郡に美久理神社もあり」と契沖説を笑つてゐる。略解・古義共に考の説に從つてゐる。新考はこれに就いて、更に委しく、「略解に、神名帳越後國蒲原郡伊久禮神社あり。禮と理と通へばイクリノモリは是ならんといへり。和名抄郷名に、越後國蒲原郡勇禮 以久禮とあり。今南蒲原郡|井栗《ヰクリ》村に村社八幡宮あり。延喜式の伊久禮神社は即是なりといふ。又此宮の東北なる藤(ノ)樹(ノ)丘に藤樹神社あり。是伊久理能母里の跡なりといふ。果して然らば伊久理が伊久禮となり、更に井栗となりしなり。大原高安は此國の國司たりしにや」と述べてゐる。これは大日本地名辭書の記事によつたものか。然るに、冨田景周の楢葉越枝折には「愚按には、礪波郡般若郷に井栗谷村あれば、このほとりの林なるべし。今(196)も藤ありて、歌詞と符すとなん。況《マシテ》八雲の御説に越中とみゆれば、いよよ越後となすは孟浪《ラウガハ》しきことなり」とあり、森田柿園の萬葉事實餘情には「藻鹽草、續松葉集等に伊久理杜《イクリノモリ》越中とあり。東大寺の所藏天平神護三年五月七日越中國解に、東大寺墾田礪波郡石栗庄地壹佰壹拾貳町と見え、東大寺要録卷六に載たる長徳四年の注文定にも、越中國礪波郡石栗庄田百廿町とあり、其地は今同郡に井栗谷村と稱する村落ありで、此池邊を般若郷とす。(中略)按に東大寺の所藏天平寶字三年十一月十四日の文書に、越中國礪波郡伊加流伎野地域佰町東山、南利波(ノ)臣志留志(ノ)地、西(ハ)故大原眞人麿(ノ)地とあり。麿は續紀に天平十五年五月從六位上大原眞人麿授2從五位下1とあれば、高安(ノ)眞人の子なるぺし。されば父高安このかた。礪波郡伊久里の地は所領なりし故に、此領地にてよまれたる歌なるべし云々」と説くところ頗る詳かであり。かくの如く大和説・越後説・越中説の三に分れてゐる。作者の大原眞人高安の履歴には北陸方面との關係はないやうであるから、その點からいへば大和説が穩當であるけれども、奈良の南方にあるとする或人説も、根據のないもので信じ難い。若し東大寺文書にある大原眞人麿を大原眞人高安と父子の關係として、萬葉事實餘情の如く考へるならば、この歌の作者は越中の石栗を領地として此處に通つたことも否定し難い。さうして僧玄勝が越中の地名を詠み込んだ歌を 新任の國守に歌つて聞かせたとするのが妥當のやうに思はれる。越後の伊久禮とするのは、神名帳や和名抄に載つてゐる地名だから、強ちに拒け難いけれども、理と禮と音も異なつて居り、又越後は隣國ながら、遙かに遠く隔つた地名であるから賛成し難い。石栗庄即ち井栗谷村は今般若村の南方につづいてゐる。○伊麻許牟春毛《イマコムハルモ》――今來むは又來むに同じ。
〔評〕 上品な佳い作である。妹が家にの枕詞も面白く出來てゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右一首傳誦(スルハ)僧玄勝是也
 
玄勝の傳は全くわからない。多分國分寺の僧であらうか。彼は久しく此の國に住んで、大原眞人高安の古歌を聞き覺えたのであらう。
 
3953 雁がねは 使に來むと 騷ぐらむ 秋風寒み その河のべに
 
(197) 鴈我禰波《カリガネハ》 都可比爾許牟等《ツカヒニコムト》 佐和久良武《サワグラム》 秋風左無美《アキカゼサムミ》 曾乃可波能倍爾《ソノカハノベニ》
 
 
秋風ガ寒ク吹クノデ、アノ川邊デ、雁ハ、使ニ來ヨウトテ鳴キ騷イデヰルデアラウ。モウソロソロ雁ガ鳴キサウナモノダ〔モウ〜傍線〕。
 
○雁我禰波都可比爾許牟等《カリガネハツカヒニコムト》――雁は使として飛んで來ようと思つて。雁を使とするのは卷十五に安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母《アマトブヤカリヲツカヒニエテシガモ》(三六七六)とあり、既に古事記の歌にも見えたことで、蘇武の雁信の故事に相違ない。○曾乃可波能倍爾《ソノカハノベニ》――其河とはいづれを指すのであらう。略解・古義は京の中川と解してゐる。併し南方なる都から秋風の吹くままに、越路をさして雁が飛來するといふのは事實に反する。代匠記精撰本に「その河邊とは、雁の住胡國の川邊なり」とあるのがよく、秋風の寒く吹くにつれて、雁も使として南をさして飛立たうと騷いでをるであらう。然らばその雁に托して都への便をしようといふのであらう。
〔評〕 其の河の邊が少し曖昧である。前の氣佐能安佐氣秋風左牟之《ケサノアサケアキカゼサムシ》(三九四七)に似て、それに雁信の故事を織り込んだものである。
 
3954 馬なめて いざうち行かな 澁溪の 清き磯みに 寄する波見に
 
馬並底《ウマナメテ》 伊射宇知由可奈《イザウチユカナ》 思夫多爾能《シブタニノ》 伎欲吉伊蘇未爾《キヨキイソミニ》 與須流奈彌見爾《ヨスルナミミニ》
 
澁溪ノ清イ磯ノマハリニ、打チ寄セル白〔傍線〕浪ノ面白イ景色〔六字傍線〕ヲ觀ル爲ニ、皆サント一緒ニ〔七字傍線〕馬ヲ並ベテ、サア出カケマセウ。
 
(198)○伊射宇知由可奈《イザウチユカナ》――ウチは強めて言へるのみ。馬に鞭打ちてといふのではない。ユカナは行かう。ナは希望。○思夫多爾能《シブタニノ》――澁溪は前に澁溪乃二上山爾《シブタニノフタカミヤマニ》(三八八二)とあるところで、二上山の山脈が海に入つて恁きるところ、其處が奇岩怪岩の聳え立つた絶景で、澁溪の磯といふ。伏木町の北方十町ばかりの地點である。○伎欲吉伊蘇未爾《キヨキイソミニ》――舊本末《マ》とあるは未の誤。温故堂本によつて改めた。
〔評〕 赴任匆々、澁溪の勝景を聞いて、諸君と共に馬を並べて、觀に行きませうと、心の動くままに歌つたものである。宴席での作で、これから直ぐ出發しようといふのではない。結句が少し調子がよくない。
 
右二首守大伴宿禰家持
 
3955 ぬばたまの 夜はふけぬらし 玉くしげ 二上山に 月かたぶきぬ
 
奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲波布氣奴良之《ヨハフケヌラシ》 多末久之氣《タマクシゲ》 敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》 月加多夫伎奴《ツキカタブキヌ》
 
最早〔二字傍線〕(努婆多麻乃)夜ガ更ケタラシイ。アノ通リ〔四字傍線〕、(多末(199)久之氣)二上山ニ月ガ傾イタ。サアソロソロ宴會モ終トシマセウ〔サア〜傍線〕。
 
○奴婆多麻乃《ヌバタマノ》――烏玉の。枕詞。夜とつづく。○多末久之氣《タマクシゲ》――玉櫛笥。蓋《フタ》にかけて二上山に冠してある。
〔評〕 明澄な秋の月のやうな感じの歌。更けわたる秋の夜の靜寂な氣分が身に迫るやうである。佳い作だ。袖中抄に載つてゐる。以上の十三首は八月七日夜國守館の宴に於ける歌であらう。古義には雁我禰波《カリガネハ》(三九五三)の歌の前に、次の大目秦忌寸八千島之館宴歌の題詞があつたのが脱ちたものとしてゐるが、從ひ難い。
 
右一首史生土師宿禰道良
 
史生はシシヤウ又はフミヒトと訓す。公文書を繕ひ寫し、文案を署することを掌る。ここの史生は越中國の史生で、守・介・掾・目・史生の順であるから、最下の卑官である。土師宿禰道良の傳はわからない。
 
大目秦忌寸八千島之館宴歌一首
 
3956 奈呉の海人の 釣する舟は 今こそは 船たな打ちて あへて榜ぎ出め
 
奈呉能安麻能《ナゴノアマノ》 都里須流布禰波《ツリスルフネハ》 伊麻許曾婆《イマコソハ》 數奈太那宇知底《フナダナウチテ》 安倍底許藝泥米《アヘテコギデメ》
 
奈呉ノ海人ノ釣ヲスル船ハ、今コソ船ノ傍ニ設ケテアル〔九字傍線〕船棚ヲ叩イテ、勢ヨク、浮きヘ〔二字傍線〕漕ギ出スデアラウ。我々ガカウシテ眺メテヰルノニ興ヲ添ヘル爲ニ、今漕ギ出シテ見セテクレルトヨイガ〔我々〜傍線〕。
 
○奈呉能安麻能《ナゴノアマノ》――奈呉の海人の。奈呉は今の新湊放生津で、其處に住んでゐる海人をかく言つたのである。この下に奈呉の浦、奈呉の海、奈呉の江などと出てゐる。○敷奈太那宇知底《フナタナウチテ》――敷奈太那《フナタナ》は船棚。船の旁板《ヨコイタ》で(200)ある。和名抄に、「※[木+世]、野王案、※[木+世]、音曳字亦作v※[木+曳]、不奈太那、大船旁板也、」とある。代匠記初稿本に「古今集のほりえこくたななしをふねといふ哥につきて顯昭注云、たななし小舟とはちひさき舟にはふなたなのなきなり。萬葉には棚無小船とかけり。ふなたなとは、せがいとて、ふねの左右のそばにえむのやうに板をうちつけたるなり。それをふみてもあるくなり。とものかたにつけたるをはしたなといふ。尻のたななり」とある。新考には「フナタナは舟の側板《ワキイタ》なり。顯昭が踏板の事とせるは非なり」と言つてゐるが、かういふたのは古説に從ふ方が安全であらう。ウチテは略解に「とりつくるを言ふならむ」とあるが、取り附けるのではなくて叩くのであらう。音を立てるのは何の爲かといふことについて、宣長は「今もふなだなをかしましく打つ事有り。其音に魚のよりくると也」と言つてゐるが、唯景氣よく囃し立てて船出することではあるまいか。○安倍底許藝泥米《アヘテコギデメ》――アヘテは代匠記・考など喘ぎての意とし、古義はアベテと濁つて、やはり喘ぎてとしてゐるが、卷三の安倍而榜出牟《アヘテコギイデム》(三八八)、卷九の敢而榜動《アヘテコギトヨム》(一六七一)と共に、思ひ切つて、勢よくなどの意であらう。コギデメは漕ぎ出よう。今こそ漁に出るであらうと期待し、且希望する心である。
〔評〕 八千島の館は國守館のあつた今の古國府の高地の、最も海に近いところにあつたのであらう。客を迫へて、(201)眺望に更に興を添へようとする主人の心は、さもこそとうなづかれる。
 
右館之客屋(ハ)居《ヰナガラ》望(ム)2蒼海(ヲ)1仍(テ)主人八千島作(レル)2此歌(ヲ)1也
 
客屋は客を請ずる爲に、座を設けてある室。中世|出居《イデヰ》と稱したところに相當するか。
 
哀2傷(シム)2長逝之弟(ヲ)1歌一首并短歌
 
長逝之弟とあるは家持の弟書持のことである。この人はその作が集中に數首見えてゐるから、家持とは年齡に大差はなかつたのであらう。
 
3957 天離る 鄙治めにと 大王の 任のまにまに 出でて來し 我を送ると あをによし 奈良山過ぎて 泉河 清き河原に 馬とどめ 別れし時に まさきくて 我歸り來む 平らけく 齋ひて待てと 語らひて 來し日の極み 玉桙の 道をた遠み 山河の へなりてあれば 戀しけく け長きものを 見まく欲り 思ふ間に 玉梓の 使の來《け》れば 嬉しみと 吾が待ち問ふに およづれの たは言とかも はしきよし な弟の命 何しかも 時しはあらむを はた薄 穗に出《づ》る秋の 萩の花 薫へる屋戸を 言ふ意は、斯の人となり花草花樹を好愛して多く寢院の庭に植う、故花薫へる庭といへるなり。 朝庭に 出で立ちならし 夕庭に 踏み平げず 佐保の内の 里を行き過ぎ 足引きの 山の木末に 白雲に 立ち棚引くと 我に告げつる 佐保山に火葬す、故、佐保の内の里を行き過ぎといへり。
 
安麻射加流《アマザカル》 比奈乎佐米爾等《ヒナヲサメニト》 大王能《オホキミノ》 麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》 出而許之《イデテコシ》 和禮乎於久流登《ワレヲオクルト》 青丹余之《アオニヨシ》 奈良夜麻須疑底《ナラヤマスギテ》 泉河《イヅミカハ》 伎欲吉可波良爾《キヨキカハラニ》 馬駐《ウマトドメ》 和可禮之時爾《ワカレシトキニ》 好去而《マサキクテ》 安禮可弊里許牟《アレカヘリコム》 平久《タヒラケク》 伊波比底待登《イハヒテマテト》 可多良比底《カタラヒテ》 許之比乃伎波美《コシヒノキハミ》 多麻保許能《タマボコノ》 道乎多騰保美《ミチヲタドホミ》 山河能《ヤマカハノ》 弊奈里底安禮婆《ヘナリテアレバ》 孤悲之家口《コヒシケク》 氣奈我枳物能乎《ケナガキモノヲ》 見麻久保里《ミマクホリ》 念間爾《オモフアヒダニ》 多麻豆左能《タマヅサノ》 使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》 宇禮之美登《ウレシミト》 安我麻知刀敷爾《アガマチトフニ》 於餘豆禮能《オヨヅレノ》 多波許登等可毛《タハコトトカモ》 波之伎余思《ハシキヨシ》 奈弟乃美許等《ナオトノミコト》 奈(202)爾之加母《ナニシカモ》 時之波安良牟乎《トキシハアラムヲ》 波太須酒吉《ハタススキ》 穗出秋乃《ホニヅルアキノ》 〓子花《ハギノハナ》 尓保弊流屋戸乎《ニホヘルヤドヲ》【言(ハ)斯人爲v性好2愛花草花樹1而多植(ウ)2於寝院之庭(ニ)1故謂(ヘル)2之花薫庭(ト)1也、】 安佐爾波爾《アサニハニ》 伊泥多知奈良之《イデタチナラシ》 暮庭爾《ユフニハニ》 敷美多比良氣受《フミタヒラゲズ》 佐保能宇知乃《サホノウチノ》 里乎往過《サトヲユキスギ》 安之比紀乃《アシビキノ》 山能許奴禮爾《ヤマノコヌレニ》 白雲爾《シラクモニ》 多知多奈妣久等《タチタナビクト》 安禮爾都氣都流《アレニツゲツル》【佐保山(ニ)火葬(ス)故(レ)謂(ヘリ)2之佐保乃宇知乃佐刀乎由吉須疑1】
 
(安麻射加流)田舍ヲ治メル爲ニトテ國守ニ任ゼラレテ〔八字傍線〕、天子樣ノ御命令ニ從ツテ、越中ヲサシテ〔六字傍線〕出テ來タ私ヲ見送ルトテ、(青丹余之)奈良山ヲ過ギテ、泉川ノ清イ河原ニ、馬ヲ止メテ、オマヘト〔四字傍線〕別レタ時ニ、無事デ私ハ歸ツテ來ヨウ。オマヘハ〔四字傍線〕無事デヰテ神ヲ祀ツテ、待ツテヰナサイト、語ラツテ別レテ來タ日カラ(多麻保許能)途ガ遠イノデ、山ヤ川ガ隔ツテ居ルカラ、戀シク思フ月日ガ久シクナツタノニ、逢ヒタイト思ツテ居ルウチニ、(多麻豆左能〕使ガ來タノデ、嬉シイト思ツテ、ソノ使ヲ〔四字傍線〕待チ受ケテ家ノ事ヲ尋ネルト、奇怪ナ馬鹿ナ言葉デアルカヨ。私ノ〔二字傍線〕愛スル弟ハ、ドウシテ時モアラウノニ、旗薄ガ穗ニ出ル秋ノ、萩ノ花ガ咲キ薫ツナヰル家ヲ、朝庭ニ出テ踏ミツケル事モセズ〔五字傍線〕、夕方庭ニ出テ、踏ミツケルコトモセズ、ハカナクモ死ンデシマツテ、火葬セラレルコトニナツテ、アノ大伴氏ノ屋敷ノアル〔ハカ〜傍線〕佐保ノ内ノ里ヲ通リ過ギテ(安之比紀乃)山ノ梢ニ、白雲トナツテ棚引クト私ニ知ラセテ來タ。嗚呼悲シイ〔五字傍線〕。
 
○安麻射加流《フマザカル》――枕詞。二九參照。○比奈乎佐米爾等《ヒナヲサメニト》――鄙を治めにとて。鄙は越中をさう。○麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》――マケは任。天皇の御任命に隨つて。○青丹念之《アヲニヨシ》――枕詞。奈良山とつづく。一七參照。○好去而《マサキクテ》――舊(203)訓ヨシユキテ、考はヨクユキテとあるが、奈何好去哉《イカニサキクヤ》(六四八)、眞好去有欲得《マサキクアリコソ》(一七九〇)などに傚つてマサキクテとよむのが無難であらう。新訓はサキクユキテと訓んでゐる。○平久伊波比底待登《タヒラケクイハヒテマテト》――無事で暮して、神を齋ひ祀つて吾が歸を待ての意。○許之比乃伎波美《コシヒノキハミ》――來し日の極み。來し日を最後として、即ち來た日からの意となる。○多麻保許能《タマボコノ》――玉桙の。枕詞。道とつづく。七九參照。○道乎多騰保美《ミチヲタトホミ》――タは接頭語のみ。意味はない。道が遠いから。○弊奈里底安禮婆《ヘナリテアレバ》――隔つてゐるから。○孤悲之家口氣奈我枳物能乎《コヒシケクケナガキモノヲ》――卷十に戀家口氣長物乎《コヒシケクケナガヰモノヲ》(二〇三九)とあるのを取つたか。戀しく思つて暮すことは、長い日數であるのにの意。これに似た例は他にも澤山ある。○多麻豆左能《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。○使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》――使が來たから。ケレは來ケレの約で、來タレバと同意だと古義に見える。山田孝雄氏の奈良朝文法史には、加行三段形の來《ク》に、形式用言のアリが接續したものとしてゐる。○宇禮之美登《ウレシミト》――嬉しみと。嬉しむといふ動詞の中止法として、山田孝雄氏の奈良朝文法史には説明してゐる。○於餘豆禮能《オヨヅレノ》――オヨヅレは妖言。怪しき言葉、僞言。○多婆許登等可毛《タハコトゝカモ》――タハゴトは狂言。たはけた言。馬鹿な言葉。狂言としてかもの意。○波之伎余思《ハシキヨシ》――愛《ハ》しきよし。ヨシは歎辭。○奈弟乃美許等《ナオトノミコト》――奈弟はナセとも訓めるわけであるが、古事記清寧天皇の條に「爾一少曰汝兄先※[人偏+舞]《ソノヒトリノワラハナセマヅマヒタマヘトイヘバ》、其兄亦曰汝弟先※[人偏+舞]云《ソノアニモナオトマヅマヒタマヘトイフ》々」とあるからナオトがよい。ナは汝の意で親しみで添へるのである。○婆太須酒吉《ハタススキ》――旗薄。穗に出た薄。○言斯人爲v性云々――これは家持の自註であらう。寢院は正殿。○伊泥多知奈良之《イデタチナラシ》――下に敷美多比良氣受《フミタヒラゲズ》と打消になつてゐるので、この句も、出で立ち平らさずの意となる。古義に「後撰集に松も引若菜もつまずなりぬるをとあるに同じ例なり」とある。○白雲爾多知多奈妣久等《シラクモニクチタナピクト》――火葬せられたことを言つてゐることは、次の佐保山云々の自註で明らかである。
〔評〕 邊陬の地に任ぜられで、家郷を思ふ情切なるものがあるのに、忽ち最愛の弟、それは年齡の差も少く、弟であり、亦友人でもあつた弟を失つた通知を聞いた時の、家持の悲痛はどんなであつたらう。彼との訣別の當時から思ひ起し、花を愛した彼の趣味などをも、歌ひ込んでゐるのは哀の極である。併し身悶えして泣き叫ぶやうな情緒はあらはれてゐない。
 
3958 まさききくと 言ひてしものを 白雲に 立ち棚引くと 聞けば悲しも
 
(204)麻佐吉久登《マサキクト》 伊比底之物能乎《イヒテシモノヲ》 白雲爾《シラクモニ》 多知多奈妣久登《タチタナビクト》 伎氣婆可奈思物《キケバカナシモ》
 
私ハ弟ニ無事デ歸ルマデ待ツテヰナサイ〔私ハ〜傍線〕ト云ヒ置イテ來タ〔五字傍線〕ノニ、ソノ甲斐モナク弟ハ死ンデ、火葬セラレテ、ソノ煙ガソラノ〔ソノ〜傍線〕白雲トナツテ、棚引イテヰルト聞クノハ悲シイコトダヨ。
 
○麻佐吉久登伊比底之物能乎《マサキクトイヒテシモノヲ》――無事でゐて吾が歸を待てと言つて置いたのに。新考には「初二はマサキクアレト吾ニ云ヒテシモノヲとなり」とあるのも一説だが、長歌に平久伊波比底待登《タヒラケクイハヒテマテト》とあるのに一致せしむべきであらう。
〔評〕 長歌に述べたことを要約してゐる。熱情が足りない憾がある。
 
3959 かからむと 兼ねて知りせば 越の海の 荒磯の波も 見せましものを
 
可加良牟等《カカラムト》 可禰底思理世婆《カネテシリセバ》 古之能宇美乃《コシノウミノ》 安里蘇乃奈美母《アリソノナミモ》 見世麻之物能乎《ミセマシモノヲ》
 
カウシテ弟ガ死ンデシマウ〔八字傍線〕ト、豫テ知ツテ居ツタナラバ、私ハ弟ヲ此處ヘ呼ンデ、此ノ〔私ハ〜傍線〕越ノ國ノ〔二字傍線〕海ノ、荒磯ノ浪ノ佳イ景色ヲ〔六字傍線〕モ見セル筈デアツタノニ。殘念ナ事ヲシタ〔七字傍線〕。
 
○古之能宇美乃安里蘇乃奈美母《コシノウミノアリソノナミモ》――越の海の荒磯とは、主として國府に近い澁溪の磯をさしたのであらう。集中に澁溪の磯について荒磯《アリソ》と言つた例が多い。但し澁溪の海邊を今、有磯海と言つてゐるのは、この歌などから誤つたものである。安里蘇《アリソ》は地名ではない。
〔評〕 卷五の久夜斯可母可久斯良座世婆阿乎爾與斯久奴如許等其等美世摩斯母乃乎《クヤシカモカクシラマセバフヲニヨシクヌチコトゴトミセマシモノヲ》(七九七)を學んでゐる。しかも(205)哀情はこれほどにあらはれてゐない。
 
右天平十八年秋九月二十五日、越中守大伴宿禰家持、遙(ニ)聞(キ)2弟(ノ)喪(ヲ)1感傷(ミテ)作(ル)v之也
 
相歡歌二首 越中守大伴宿禰家持作
 
左註にあるやうに、池主の歸任を歡迎した歌。元暦校本に越中守大伴宿禰家持作の十字が無い。
 
3960 庭に降る 雪は千重しく 然のみに 思ひて君を 吾が待たなくに
 
庭爾敷流《ニハニフル》 雪波知敝之久《ユキハチヘシク》 思加乃未爾《シカノミニ》 於母比底伎美乎《オモヒテキミヲ》 安我麻多奈久爾《アガマタナクニ》
 
庭ニ降リ積〔二字傍線〕ル雪ハ千重ニモ降り積ツタ。此ノ雪グラヰニ、私ハアナタヲ思ツテ待ツテヲリマセヌヨ。コノ雪ヨリ以上ニ幾重ニモアナタヲ待ツテヰマシタ。オ目ニカカレテ嬉シク思ヒマス〔コノ〜傍線〕。
 
○雪波知敝之久《ユキハチヘシク》――雪は千重に降り重シ》く。○思加乃未爾《シカノミニ》――そればかりに。○安我麻多奈久爾《アガマタナクニ》――我は待たないよの意。雪が千重に降るのと同じやうに、千重に思つて私は貴方を待つてはゐないよ。この降り積る雪以上に繁く貴方を待つてゐるといふのである。代匠記精撰本に「落句は我不待爾《ワガマタナクニ》と云にはあらず。奈は助語にて、我またくになり。」とあるのは甚だしい誤である。古義に「雪の庭に千重に降|重《シキ》るけしきの面白くはあれど、雪はもろくはかなきものなれば、かやうに降重りたるも、やがて跡方なく消失るものなり。吾はその雪の如く時として思ふのみにて待はせず、いつと云定もなく、戀しく思ひ居しことなるをそのかひありて、此度君が京より本任に歸り棄て、逢るが懽しきとなるべし」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 折から降り頻る雪を材として、歡迎の意を強調してゐる。第三句の用法が適切でない爲に、誤解し易い。
 
3961 白浪の 寄する磯みを こぐ舟の 楫取る間なく 思ほえし君
 
(206)白浪乃《シラナミノ》 余須流伊蘇未乎《ヨスルイソミヲ》 榜船乃《コグフネノ》 可治登流間奈久《カヂトルマナク》 於母保要之伎美《オモホエシキミ》
 
(白浪乃余須流伊蘇未乎榜船乃可治登流)少シノ止ム間モ無ク、戀シク思ツテヰタ貴方ヨ。ソノ甲斐ガアツテ御目ニカカツテ嬉シク思ヒマス〔ソノ〜傍線〕。
 
○白浪乃余須流伊蘇未乎榜船乃可治登流間奈久《シラナミノヨスルイソミヲコグフネノカヂトルマナク》――可治登流《カヂトル》までは間無くと言はむ爲の序詞。白波の打ち寄せる磯のほとりを漕ぐ船の、楫を操るのに絶え間無くといふ意でつづいてゐる。○於母保要之伎美《オモホエシキミ》――思はれし君よの意。君は池主を指す。
〔評〕 白浪の寄する磯邊を漕ぐ舟を序詞に用ゐたのは、左註によれば國守館からの眺望を取つたものである。下に香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久京師之於母保由《カシマヨリクマキヲサシテコグフネノカヂトルマナクミヤコシオモホユ》(四〇二七)とこの人の歌が出てゐる。
 
右以(テ)2天平十八年八月(ヲ)1、掾大伴宿禰池主、附(セラレテ)2大帳使(ニ)1赴2向(フ)京師(ニ)1、而(シテ)同年十一月、還(リ)2到(ル)本任(ニ)1、仍(リテ)設(ケ)2詩酒之宴(ヲ)1、彈(ジテ)v絲(ヲ)飲樂(セリ)、是日|也《ヤ》白雪忽降(リテ)、積(ム)v地(ニ)尺餘(ナリキ)、此(ノ)時也|復《マタ》、漁夫之船入(リ)v海(ニ)、浮(ヘリ)v瀾(ニ)爰(ニ)守大伴宿禰家持寄(セテ)2情(ヲ)二(ノ)眺(ニ)1聊(カ)裁(ス)2所心(ヲ)1
 
○大帳使――大帳を上る使で、地方國廳から中央政府に上申する謂はゆる四度の使の一である(四度の使とは大帳使・正税使・調使・朝集使をいふ)。○大帳――大計帳とも計帳ともいふ。戸籍に關する帳簿、毎年六月三十日以前に國司から部内の人の手實を徴する。その手實には戸内の人數・容貌・年齡及び課不課を録してある。これによって國司は、一國の人口及び調庸の總計を録し、手實の轉寫したるものを添へて、八月(207)三十日以前に太政官に送ることになつてゐる。つまり歳入豫算がかうして出來るわけである。ここに八月に出發したとあるのは、この規定があるからである。附大帳使とあるのは大帳使に附けられと讀むべきであらう。池主が大帳使に附随して行ったのではなく、彼自から大帳使であつたことは、卷十九に家持が少納言に遷任せられ、越中を去らむとするを記して、便附2大帳使1取2八月五日1應v入2京師1(四二五〇)とあり、その次に于v時大帳使大伴宿禰家持和2内蔵伊美吉繩麻呂捧v盞之歌1一首とあるから、附大帳使は即ち大帳使を依托せられたといふ意味なることが明らかである。○弾絲――琴を弾ずること。○二眺――雪と漁舟との二つの眺望。○裁所心――思ふところを歌に作つたといふ意。挿入寫眞は正倉院古文書。小野老と池主との名が見えてゐる。
 
忽(チ)沈(ミ)2枉疾(ニ)1殆(ド)臨(メリ)2泉路(ニ)1仍(リテ)作(リテ)2謌詞(ヲ)1以(テ)申(ブル)2悲緒(ヲ)1一首并短歌
 
舊本沈を洗に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。枉疾の枉は略解に「?今枉に誤る。一本によりて改む。?字書に羸也弱也と有り。」とあるが、集中枉言ともあるから、舊のままでよいのであらう。又校本萬葉集に?に作る本がない。古義は忽の上に「十九年春二月二十日」の九字を補つてゐる。殆臨2泉路1は將に死ぬところであつた。泉路は黄泉の路。ヨミヂ。申2悲緒1は悲の心を(208)述ぶる。この下に歌の字脱とする説もある。
 
3962 大王の 任のまにまに 益荒雄の 心振り起し 足引の 山坂越えて 天放かる 鄙に下り來 息だにも 未だ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡き 床にこい伏し 痛けくし 日にけに益る たらちねの 母の命の 大舟の ゆくらゆくらに 下戀に 何時かも來むと 待たすらむ 心さぶしく 愛しきよし 妻の命も 明け來れば 門に倚り立ち 衣手を 折り反しつつ 夕されば 床打ち拂ひ 烏玉の 黒髪しきて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹も兄も 若き兒どもは をちこちに 騷き泣くらむ 玉桙の 道をた遠み 間使も 遣るよしも無し 思ほしき 言傳て遣らず 戀ふるにし 心は燃えぬ たまきはる 命惜しけど せむすべの たどきを知らに かくしてや あらし男すらに 嘆き臥せらむ
 
大王能《オホキミノ》 麻氣能麻爾麻爾《マケノマニマニ》 大夫之《マスラヲノ》 情布里於許之《ココロフリオコシ》 安思比奇能《アシビキノ》 山坂古延底《ヤマサカコエテ》 安麻射加流《アマザカル》 比奈爾久太理伎《ヒナニクダリキ》 伊伎太爾毛《イキダニモ》 伊麻太夜須米受《イマダヤスメズ》 年月毛《トシツキモ》 伊久良母阿良奴爾《イクラモアラヌニ》 宇都世美能《ウツセミノ》 代人奈禮婆《ヨノヒトナレバ》 宇知奈妣吉《ウチナビキ》 等許爾許伊布之《トコニコイフシ》 伊多家苦之《イタケクノ》 日異益《ヒニケニマサル》 多良知祢乃《タラチネノ》 波波能美許等乃《ハハノミコトノ》 大船乃《オホブネノ》 由久良由久良爾《ユクラユクラニ》 思多呉非爾《シタゴヒニ》 伊都可聞許武等《イツカモコムト》 麻多須良牟《マタスラム》 情左夫之苦《ココロサブシク》 波之吉與志《ハシキヨシ》 都麻能美許登母《ツマノミコトモ》 安氣久禮婆《アケクレバ》 門爾餘里多知《カドニヨリタチ》 己呂母泥乎《コロモデヲ》 遠理加弊之都追《ヲリカヘシツツ》 由布佐禮婆《ユフサレバ》 登許宇知波良比《トコウチハラヒ》 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 黒髪之吉底《クロカミシキテ》 伊都之加登《イツシカト》 奈氣可須良牟曾《ナゲカスラムゾ》 伊母毛勢母《イモモセモ》 和可伎兒等毛波《ワカキコドモハ》 乎知許知爾《ヲチコチニ》 佐和吉奈久良牟《サワギナクラム》 多麻保己能《タマボコノ》 美知乎多騰保弥《ミチヲタドホミ》 間使毛《マヅカヒモ》 夜流余之母奈之《ヤルトシモナシ》 於母保之伎《オモホシキ》 許登都底夜良受《コトツテヤラズ》 孤布流爾思《コフルニシ》 情波母要奴《ココロハモエヌ》 多麻伎波流《タマキハル》 伊乃知乎之家騰《イノチヲシケド》 世牟須辨能《セムスベノ》 多騰伎乎之良爾《タドキヲシラニ》 加苦思底也《カクシテヤ》 安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》 奈氣枳布勢良武《ナゲキフセラム》
 
(209)天子樣ノ御任命ニ從ツテ大丈夫ノ勇マシイ〔四字傍線〕心ヲ振リ起シ、(安思比奇能)山坂ヲ越エテ、(安麻射加流)田舍ノ此ノ越中〔五字傍線〕ニ下ツテ來テ、マダ落着イテ〔四字傍線〕息思ヲモ休メル間モ〔三字傍線〕ナク、年月モ、イクラモタタナイノニ、(宇都世美能)世ノ中ノ人デアルカラ、忽チ病氣ニ罹ツテ〔八字傍線〕、身ヲ横タヘテ床ノ上〔二字傍線〕ニ、コロビ伏シ、身體ノ〔三字傍線〕苦シミガ、毎日毎日増シテ來ル。郡ニ居給フ〔五字傍線〕(多良知禰乃)母上ガ、心ヲ〔二字傍線〕(大船乃)騷ガセナガラ、胸ノ中デ私ヲ戀シク思ツテ、何時ニナツタラバ、私ガ〔二字傍線〕歸ツテ來ルダラウカト、待ツテイラツシヤルデアラウガ其ノ〔三字傍線〕御心ガ淋シイ、又〔傍線〕、愛ラシイ私ノ〔二字傍線〕妻モ、朝ガ來ルト門ニ寄リ立ツテ、着物ノ袖ヲ折リ返シナガラ待ツテヰル〔五字傍線〕、夕方ニナルト、床ノ塵〔二字傍線〕ヲ拂ツテ、(奴波多麻能)黒イ髪ノ毛ヲ下ニ敷イテ寢テ〔二字傍線〕、何時ニナツタラバ、私ガ歸ツテ來ルカト〔八字傍線〕ト、歎イテヰルデアラウゾ。又〔傍線〕、女ノ兒モ男ノ兒モ幼イ子供ハ、アチラコチラニ、騷ギ廻ツテ泣イテヰルデアラウ。カヤウニシテ、私ヲ待ツテヰルダラウガ〔カヤ〜傍線〕、(多麻保己能)道ガ遠イノデ、コチラノ消息ヲ傳ヘル爲ノ〔コチ〜傍線〕彼方トコチラトヲ通フ使ヲ遺ル方法モナイ。言ツテヤリタイト思フ言傳モヤラナイ。カウシテ〔四字傍線〕戀シク思ツテヰルノデ、私ノ心ハ、然エタ。(多麻伎波流)命ガ惜シイケレドモ、ドウシタラヨイカ方法ガ分ラナイノデ、斯樣ニシテ私ノヤウナ〔五字傍線〕益荒雄デサヘモ、歎キナガラ病ノ床ニ〔四字傍線〕臥シテ居ルコトデアラウカ。
 
○大夫之情布里於許之《マスラヲノココロフリオコシ》――卷三に大夫之心振起《マスラヲノココロフリオコシ》(四七八)、卷二十に大夫情布里於許之《マスラヲノココロフリオコシ》(四三九八)とある。いづれも家持の作である。○伊伎太爾毛伊麻太夜須米受年月毛伊久良母阿良奴爾《イキダニモイマダヤスメズトシツキモイクラモアラヌニ》――卷五の山上憶良、日本挽歌に伊企陀爾母伊摩陀夜周米受年月母伊摩陀阿良禰婆《イキダニモモイマダヤスメズトシツキモイマダアラネバ》(七九四)とあるに同じ。○宇知奈妣吉《ウチナビキ》――打靡き。病の爲に横たはり臥す樣をいふ。○等許爾許伊布之《トコニコイフシ》――反側し。コイはコユといふ動詞。ころぶこと。○伊多家苦之《イタケクノ》――痛けくの。痛きことの。苦痛が。舊訓イタケクシとあるのを考はイタケクノと改めてゐる。次のこの人の作に宇知奈妣伎登許爾己伊布之伊多家苦乃日異麻世婆《ウチナビキトコニコイフシイタケクノヒニケニマセバ》(二九六九)とある。○多良知禰乃《タラチネノ》――枕詞。四四三參照。○波波能美許等乃《ハハノミコトノ》(210)――母の命の。家持の母はなほ存命してゐたのである。續紀に、天應元年八月云々、家持爲2左大辨兼春宮大夫1、先v是遭2母(ノ)憂1解v任、至v是復焉とある。卷三・卷五に見える太宰府で死んだ大伴旅人の妻は、家持の母ではない。○大船乃《オホフネノ》――枕詞。由久良由久良《ユクラユクラ》につづく。○由久良由久良爾《ユクラユクラニ》――ゆらゆらと動いて。心の動搖をいふ。この二句は卷十三(三二七四)にもある。○思多呉非爾《シタゴヒニ》――下戀に。心の内で戀しく思つて。この句から麻多須良武《マタスラム》につづいてゐる。○安氣久禮婆《アケクレバ》――朝が來ると。○己呂母泥乎遠理加弊之都追《コロモデヲヲリカヘシツツ》――袖を折返すとは、略解に「袖を折返し寢れば夢に見ると言ふ諺有し也」とあるが、ここは門に倚り立つてゐるのであるから、人を待つ時の態度である。○伊都之加登《イツシカト》――何時しかと。何時歸るかと。○伊母毛勢母《イモモセモ》――妹も兄も。下に若き子どもはとあるから、妹と兄とは家持の女兒と男兒とである。續紀、延暦四年八月家持が死んだ後のことを記したところに息永主の名が見える。この妹も兄もとあるのは、永主及びその姉妹であらう。家持はこの年既に二十九歳であつたから二三人の子供があつたのである。○間使毛《マツカヒモ》――間使は彼方と此方とを行き通ふ使。○多麻伎波流《タマキハル》――枕詞。命とつづく。四參照。○安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》――荒し男すらに。アラシヲは益荒雄といふに同じ。この形は嚴《イカ》し桙、くはし女、よろし女、うまし小濱などの類である。
〔評〕 着任後間もなく病の床に臥して、母を思ひ妻を思ひ、併せて幼兒等をなつかしがつてゐる。その心情は實に同情に堪へないものがある。表現に力強さはないが、悲しい歌である。
 
3963 世の間は かずなきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば
 
世間波《ヨノナカハ》 加受奈枳物能可《カズナキモノカ》 春花乃《ハルハナノ》 知里能麻我比爾《チリノマガヒニ》 思奴倍吉於母倍婆《シヌベキオモヘバ》
 
私ハ病氣ニナツテ、今〔九字傍線〕春ノ花ガ散り亂レルノト共ニ、空シク死ンデシマフノカト思ヘバ、世ノ中ノ人ノ壽命〔五字傍線〕ハ年〔傍線〕數ノ尠イモノデアルナア。
 
(211)○世間波加受奈吉物能可《ヨノナカハカズナキモノカ》――世の中は數無きものかといふのは、世の中即ち人生は短いものかなの意である。この下(三九七三)にも同樣の語あり、卷二十にも宇都世美波加受奈吉身奈利《ウツセミハカズナキミナリ》(四四六八)とある。○知里能麻可比爾《チリノマガヒニ》――花の散る紛れに。花の散るのと共に。古義に「花の散り亂《マガ》ふ如く」とあるのはよくない。
〔評〕 初二句は佛教思想である。この人の歌にはかなりこの思想傾向が見え、年と共に濃くなつて行つたやうである。春花の散りの紛ひは、季節を歌つたのであるが、自己の死を美化しようと思惟した跡も見える。或は佛教の散華の思想もあるかも知れない。
 
3964 山河の そきへを遠み はしきよし 妹を相見ず 斯くや嘆かむ
 
山河乃《ヤマカハノ》 曾伎敝乎登保美《ソキヘヲトホミ》 波之吉余思《ハシキヨシ》 伊母乎安比見受《イモヲアヒミズ》 可久夜奈氣加牟《カクヤナゲカム》
 
私ハ、都ヲ離れて來テ〔九字傍線〕、山ヤ川ガ遙カニ遠ク隔ツテヰルカラ、愛スル妻ト逢ハレナイデ、カウシテ、歎イテヰルコトデアラウカ。
 
○山河乃曾伎敝乎登保美《ヤマカハノソキヘヲトホミ》――山や河が遙かに隔つて遠いから。即ち越中の國を指してゐる。
〔評〕 遠隔の地に病んでゐる淋しさを款いてゐる。平凡な作だ。
 
右天平十九年春二月二十日越中國守之館(ニ)臥(シテ)v病(ニ)悲傷(ミ)聊(カ)作(レリ)2此歌(ヲ)1
 
二十日は元暦校本に二十一日に作つてゐる。
 
守大伴宿禰家持、贈(レル)2掾大伴宿禰池主(ニ)1悲歌二首
 
(212)略解は二首の下に、目録によつて竝序の二字を補つてゐる。これは書牘文で序ではない。
 
忽沈(ミ)2枉疾(ニ)1、累(ネテノ)v旬(ヲ)痛苦(ス)。祷(ヒ)2恃(ミテ)百神(ヲ)1且得(タリ)2消損(ヲ)1而|由《ナホ》身體疼(ミ)羸(レ)、筋力怯軟(ニシテ)、未(ダ)v堪(ヘ)2展謝(ニ)1、係戀彌深(シ)、方今春朝(ノ)春花流(シ)2馥(ヲ)於春苑1、春暮(ノ)春※[(貝+貝)/鳥]、囀(ル)2聲(ヲ)於春林1、對(シ)2此(ノ)節候(ニ)1琴翠ツ(シ)v翫(ブ)矣、雖v有(リト)2乘(ズル)v興(ニ)之感1、不v耐(ヘ)2策(ク)v杖(ヲ)之勞(ニ)1、獨(リ)臥(シテ)2帷幄之裏(ニ)1、聊(カ)作(リ)2寸分之歌(ヲ)1、輕(シク)奉(リ)2机下(ニ)1、犯(ス)v解(カムコト)2玉頤(ヲ)1其(ノ)詞(ニ)曰(ク)
 
○累v旬痛苦――數旬に亘つて病苦に惱んでゐる。○且得2消損1――しばらく病氣が輕減した。消損は消え減ずること。○由身體疼羸――猶、身體が痛み疲れ。由は猶に同じ。○筋力怯軟――筋力が弱つて柔らかい。○未v堪1展謝1――未だ陳謝の爲に參上することが出來ない。展謝は左傳「牢禮不v度3敢展2謝之1」とあり陳謝に同じ。○係戀彌深――貴方を戀しく思ふ心が益々深い。係戀は戀著の甚だしいこと。○琴翠ツ翫――琴と酒とを翫ぶべきである。垂ヘ酒樽。瓦器なるを缶扁とす。○雖v有2乘v興之感――面白さが湧いて來ても。○不2v耐策v杖之勞――杖をついて出かける力がない。○帷幄――舊本帷を惟に作るは誤。元暦校本による。幕帳。○寸分之歌――寸分は短いこと。○犯v解2玉頤1――貴方の御笑を招く失禮を犯す。失禮ながら御笑に供します。舊本、頤を※[阜+頁]に作る。神田本による。※[阜+頁]はオトガヒ、頤に同じ。
 
3965 春の花 今は盛りに 匂ふらむ 折りてかざさむ 手力もがも
 
波流能波奈《ハルノハナ》 伊麻波左加里爾《イマハサカリニ》 仁保布良牟《ニホフラム》 乎里底加射佐武《ヲリテカザサム》 多治可良毛我母《タヂカラモガモ》
 
私ハ、今病氣デ寢テヰルガ〔私ハ〜傍線〕、春ノ花ハ今ハ盛リニ咲キ匂ツテヰルデアラウ。ソノ花ヲ〔四字傍線〕折ツテ冠ニ挿スダケノ、(213)手力ガアレバヨイガ、今ハソンナ力モナイ。悲シイ事ダ〔今ハ〜傍線〕。
 
〔評〕 書簡中の「方今春朝春花」以下の意を要約したもの。病に臥して、外出出來ないで悲しんでゐる氣分が、その儘にあはれに詠まれてゐる。
 
3966 鶯の 鳴き散らすらむ 春の花 いつしか君と 手折りかざさむ
 
宇具比須乃《ウグヒスノ》 奈枳知良須良武《ナキチラスラム》 春花《ハルノハナ》 伊都思香伎美登《イツシカキミト》 多乎里加射左牟《タヲリカザサム》
 
鶯ガ鳴イテ春ノ花ヲ〔四字傍線〕散ラシテヰルデアラウガ、ソノ〔三字傍線〕春ノ花ヲ、何時ニナツタラバ、貴方ト共ニ、手折ツテ挿頭ニシテ遊ブ事ガ出來ル〔十字傍線〕デアラウ。早ク病氣ガ直リタイモノダ〔早ク〜傍線〕。
 
○奈枳知良須良武《ナキチラスラム》――鳴き散らすとは、鶯が枝に宿つて鳴きつつ花を散らすこと。
〔評〕 これも哀れな作である。この二首は眞情が流露してゐる。
 
二月二十九日大伴宿禰家持
 
舊本ここに天平二十年二月二十九日とあるが、元暦校本に、天平二十年の五字が無いのがよい。前が十九年二月のことであるから、これも十九年である。ここに池主から家持に答へた歌竝序などいふ標があるべきを、脱したと見るのはよくない。
 
忽辱(クス)2芳音(ヲ)1翰苑凌(ギ)v雲(ヲ)、兼(テ)垂(ル)2倭詩(ヲ)1詞林舒(ベタリ)v錦(ヲ)以(テ)吟(ジ)以(テ)詠(ジ)能(ク)※[益+蜀](ク)2戀緒(ヲ)1、春(ノ)可(キハ)v樂(シム)暮春(ノ)風景、最可(シ)v怜(レム)、紅桃灼々(トシテ)戯蝶回(リテ)v花(ヲ)※[人偏+舞](ヒ)、翠柳依々(トシテ)、嬌※[(貝+貝)/鳥]隱(レテ)v葉(ニ)歌(フ)、可(キ)v樂(シム)哉、淡交促(シテ)v(214)席(ヲ)、得(テ)v意(ヲ)忘(ル)v言(ヲ)、樂(シキカモ)矣美(シキカモ)矣、幽襟足(レリ)v賞(スルニ)哉、豈|慮《ハカリキヤ》乎、蘭※[草がんむり/惠]隔(テテ)v※[草がんむり/聚](ヲ)、琴趨ウ(ク)v用、空(シク)過(シテ)2令節(ヲ)1、物色輕(ゼムトハ)v人(ヲ)乎、所v怨(ムル)有(リ)v此(ニ)、不v能2黙止(スルコト)1、俗語云(フ)、以(テ)v藤(ヲ)續(グト)v錦(ニ)、聊(カ)擬(スルノミ)2談咲(ニ)1耳
 
○忽辱2芳音1――御手紙をありがたう御座います。○翰苑凌v雲――御文章が立派なものです。凌雲は、史記の司馬相如列傳に、「相如既(ニ)奏(ス)2大人之頌(ヲ)1、天子大(ニ)説(テ)飄々有(テ)2凌(ク)v雲(ヲ)之氣1、似(タリ)d遊2天地之間(ニ)1意(ニ)u、」とある。○倭詩――倭歌。○※[益+蜀]――除《ノゾク》に同じ。○春可v樂――略解に「春の下脱字あるべし」と言ひ、古義は「甞に補はば、春朝和氣固可v樂などありしが、落たるなるべし」とあるが、もとのままでよい。○暮春風景――古義に、「舊本に暮春と作るは、上下に寫誤れるなるべし。上家持卿より贈られける書に、春朝云々春暮云々とあるに報へられたれば、ここも春朝云々春暮云々とあるべきこと疑なし」とあるのは臆斷の甚だしいものである。既に三月に入つてゐるから暮春とあるが當然である。○紅桃灼々――赤い桃が盛に咲いてゐる。灼々は盛んなる貌。阮籍、「夭夭桃李花、灼灼有2輝光1」とある。○翠柳依々――依々は柔弱なる貌。青柳が細々と枝を垂れである。○淡交――君子の交。莊子山木篇に、君子の交淡若v水、小人之交甘若v醴、君子淡以親、小人甘以絶」とある。○促席――膝を進める。親しく語る貌。○得v意忘v言――二人の心が通じ合つて、言ふべき言葉がないほど樂しい。この意は卷五の梅花歌の序(八一五)に促v膝飛v觴忘2言一室之裏1とあるに同じであらう。○幽襟――風雅なる心。○蘭※[草がんむり/惠]隔v※[草がんむり/聚]――蘭※[草がんむり/惠]は芳草。家持に譬へてある。※[草がんむり/聚]は叢。叢を隔てて別れてゐる。家持が病の爲に會はれぬこと。○令節――佳節。三月三日を指す。○物色――景色。このよい景色を觀なければ、景色に輕ぜられるといふのである。○所v怨有v此――この點が遺憾だ。有は在の誤と諸説が一致してゐる。○俗語云――俗語は當時の言ひならはしの言葉。俚諺の如きもの。○以v藤續v錦――藤衣即ち荒栲を以て、錦のよい衣に續けて縫ふ。即ち拙い文を以て、貴方の美しい文に答へるといふ謙遜の言である。○擬2談咲1耳――お笑ひ草に供するだけです。
 
3967 やまかひに 咲ける櫻を ただ一目 君に見せてば 何をか思はむ
 
(215)夜麻我比尓《ヤマガヒニ》 佐家流佐久良乎《サケルサクラヲ》 多太比等米《タダヒトメ》 伎美爾彌西底婆《キミニミセテバ》 奈爾乎可於母波牟《ナニヲカオモハム》
 
山ノ峽ニ咲イテ居ル櫻ノ花〔二字傍線〕ヲ,唯一目ダケ貴方ニ見セル事ガ出來タナラバ、私ハ何ノ物思ヒモアリマセヌ。貴方ガ今御病氣デオ見セ申スコトノ出來ナイノハ殘念デス〔貴方〜傍線〕。
 
○夜麻可比爾《ヤマカヒニ》――山峽に。山と山との間を峽といふ。
〔評〕 病友を思ふ情は見えてゐるが、佳作とは言ひがたい。
 
3968 鶯の 來鳴く山吹 うたがたも 君が手觸れず 花散らめやも
 
宇具比須能《ウグヒスノ》 伎奈久夜麻夫伎《キナクヤマブキ》 宇多賀多母《ウタガタモ》 伎美我手敷禮受《キミガテフレズ》 波奈知良米夜母《ハナチラメヤモ》
 
鶯ガ飛ンデ〔三字傍線〕來テ宿ツテ〔三字傍線〕、鳴ク山吹ノ花〔二字傍線〕ハ、暫クノ間デモ貴方ノ手ヲ觸レズニ、花ガ散ルトイフコトガアルモノデスカ。早ク貴方ノ御病氣ガ治ツテ此ノ美シイ山吹ヲ一寸デモ弄ンデ下サイ〔早ク〜傍線〕。
 
○字多賀多母《ウタガタモ》――ウタガタは、暫くの意。歌方毛《ウタガタモ》(二八九六)參照。
〔評〕 鶯と山吹とを結び付けたのは面白い。中世後あまり見ない組合せである。
 
姑洗二日掾大伴宿禰池主
 
姑洗は三月の異名。白虎通に「三月謂(フハ)2之姑洗(ト)1何(ゾ)、姑者故也、洗者鮮也、萬物去(テ)v故(ヲ)就v新、莫v不2鮮明(ナラ)1」(216)とある。舊本姑を沽に作るは誤。考に姑洗の上に右の字を添へたのはよくない。
 
更(ニ)贈(レル)歌一首并短歌
 
更に家持から池主に贈つた歌。
 
含v弘之コ(ハ)垂(レ)2恩(ヲ)蓬體(ニ)1不v貲《ハカラ》之思、報2慰(ス)陋心(ヲ)1、載《スナハチ》荷(フ)2未春(ヲ)1、無(キ)v堪(フル)v所(ニ)v喩(フル)1也、但(シ)以(テ)3稚(キ)時不(リシヲ)v渉(ラ)2遊藝之庭(ニ)1、横翰之藻、自(ラ)乏(シ)2于彫蟲(ニ)1焉、幼年未(ダ)v※[しんにょう+至](ラズ)2山柿之門(ニ)1、裁歌之趣詞(ヲ)失(フ)2乎※[草がんむり/聚]林(ニ)1矣、爰(ニ)辱(クス)2以(テ)v藤(ヲ)續(グ)v錦(ニ)之言(ヲ)1、更(ニ)題(ス)2將(テ)v石(ヲ)同(クスル)v瓊(ニ)之詠(ヲ)1因(リテ)v是(ニ)俗愚、懷(キテ)v癖(ヲ)不能2黙止(スル)1、仍(リテ)捧(ゲテ)2數行(ヲ)1、式《モチテ》※[酉+羽](ユ)2嗤咲(ニ)1、其(ノ)詞(ニ)曰(ク)
 
○含弘之徳――含弘は萬物。包合して徳の大なること。易に、「坤(ハ)厚(シテ)載v物、徳合2無疆1含弘光大品物咸享」とある。○蓬體――自分を卑下していふ。蓬の如きつまらぬ身體。○不貲之思――貲は※[此/言]に同じ。はからざる思。意外な御意。○報2慰陋心1――吾が拙い心に返書を贈つて慰ましめる。○載2荷未春1――この句誤字があるのであらう。代匠記精撰本は「今按載は戴、未は末にて季春の歌を頂戴荷負すと云なるべし」といつてゐる。宣長は載荷來眷とあつたのを誤つたので、來眷は池主が歌文を送つたこと、眷はかへりみるの意だといってゐる。新訓は載をスナハチと訓み未春を末眷に改めて荷をニナフと訓んでゐる。○無v堪2所喩1也――何とも譬へやうがない。○不v渉2遊藝之庭1――學藝を學ばなかつた。論語述而に遊2於藝1とあるによつたか。○横翰之藻――典據不明だが、文を作る才の意らしい。○白乏2手彫蟲1――おのづから文を作る技巧が拙い。彫蟲は文の技巧の末に走るのを卑しめることに使ふが、ここでは技巧といふやうな意である。○未※[しんにょう+至]2山柿之門1――山柿は山部赤人と柿本人麿とを指す。赤人・人麿について歌を學(217)ばなかつたといふのである。※[しんにょう+至]はここではイタルと訓むがよい。卷三に未※[しんにょう+至]奏上歌(三一五)とある。赤人と人麿が歌作の藝を教へてゐたとは思はれないが、斯道の偉人先哲として尊んでかう書いたのであらう。山を山上憶良とする説は當らない。憶良は家持の父の旅人の友人であり、又當時人麿と並んで尊崇せられてゐた歌人とは思はれない。○詞失2乎※[草がんむり/聚]林1矣――略解に「※[草がんむり/聚]林は藻林の誤か」とあり、古義は「※[草がんむり/聚]林は藻林と云に同じきを、上に横翰之藻といへる故に、字をかへて書るか」とある。要するに佳い歌が出來ないといふのである。○爰辱2以v藤續v錦之言1、――貴方から、俗語云以藤續錦といふ、お言葉を辱くしまして。○更題2將v石同v瓊之詠1――更にまた、石を以て玉と一緒にするやうに、つまらぬ歌を貴方の立派な歌に交ぜて作りました。○俗愚懐v癖――俗愚なる私は歌を詠む癖があつて。○式※[酉+羽]2嗤咲1――代匠記初稿本に、※[酉+羽]を酬の誤として、式《モツテ》酬と訓んでゐる。※[酉+羽]は酬と同字で、元暦校本に酬に作つてゐる。これを以て貴方のお笑ひに供へるといふのであるから、酬では穏やかでないやうでもあるが、なほ舊のままとして酬の意に解すべきであらう。
 
3969 大君の 任のまにまに しなざかる 越を治めに 出でて來し 益荒雄我すら 世の中の 常しなければ 打靡き 床にこい伏し 痛けくの 日にけに増せば 悲しけく ここに思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 歎くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 足引の 山來へなりて 玉桙の 道の遠けば 間使も 遣るよしも無み 思ほしき 言も通はず たまきはる 命惜しけど 爲むすべの たどきを知らに 籠り居て 思ひ嘆かひ なぐさむる 心はなしに 春花の 咲ける盛に 思ふどち 手折りかざさず 春の野の 茂み飛びくく 鶯の 聲だに聞かず をとめ等が 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛を いたづらに 過ぐし遣りつれ しぬばせる 君が心を うるはしみ 此のよすがらに いも寢ねずに 今日もしめらに 戀ひつつぞをる
 
於保吉民能《オホキミノ》 麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》 之奈射加流《シナザカル》 故之乎袁佐米爾《コシヲヲサメニ》 伊泥底許之《イデテコシ》 麻須良和禮須良《マスラワレスラ》 余能奈可乃《ヨノナカノ》 都禰之奈家禮婆《ツネシナケレバ》 宇知奈妣伎《ウチナビキ》 登許爾已伊布之《トコニコイフシ》 伊多家苦乃《イタケクノ》 日異麻世婆《ヒニケニマセバ》 可奈之家口《カナシケク》 許巳爾思出《ココニオモヒデ》 伊良奈家久《イラナケク》 曾許爾念出《ソコニオモヒデ》 奈氣久蘇良《ナゲクソラ》 夜須家奈久爾《ヤスケナクニ》 於母布蘇良《オモフソラ》 久流之伎母能乎《クルシキモノヲ》 安之比紀能《アシビキノ》 夜麻伎敝奈里底《ヤマキヘナリテ》 多麻保許乃《タマボコノ》 美知能等保家婆《ミチノトホケバ》 間使毛《マヅカヒモ》 遣縁毛奈美《ヤルヨシモナミ》 於母保之吉《オモホシキ》 許等毛(215)可欲波受《コトモカヨハズ》 多麻伎波流《タマキハル》 伊能知乎之家登《イノチヲシケド》 勢牟須辨能《セムスベノ》 多騰吉乎之良爾《タドキヲシラニ》 隱居而《コモリヰテ》 念奈氣加比《オモヒナゲカヒ》 奈具佐牟流《ナグサムル》 許己呂波奈之爾《ココロハナシニ》 春花乃《ハルバナノ》 佐家流左加里爾《サケルサカリニ》 於毛敷度知《オモフドチ》 多乎里可射佐受《タヲリカザサズ》 波流乃野能《ハルノヌノ》 之氣美登妣久久《シゲミトビクク》 ※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒスノ》 音太爾伎加受《コヱダニキカズ》 乎登賣良我《ヲトメラガ》 春菜都麻須等《ワカナツマスト》 久禮奈爲能《クレナヰノ》 赤裳乃須蘇能《アカモノスソノ》 波流佐米爾《ハルサメニ》 爾保比比豆知底《ニホヒヒヅチテ》 加欲敷良牟《カヨフラム》 時盛乎《トキノサカリヲ》 伊多豆良爾《イタヅラニ》 須具之夜里都禮《スグシヤリツレ》 思努波勢流《シヌバセル》 君之心乎《キミガココロヲ》 宇流波之美《ウルハシミ》 此夜須我浪爾《コノヨスガラニ》 伊母禰受爾《イモネズニ》 今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》 孤悲都追曾乎流《コヒツツゾヲル》
 
天子樣ノ御任命ニ從ツテ、(之奈射加流)越ノ國〔二字傍線〕ヲ治メル爲ニ越中守トナツテ、都ヲ〔九字傍線〕出テ來タ大丈夫タル私デスラモ、世ノ中ハ、無常ナモノナノデ、私ハ病氣ニナツテ〔八字傍線〕、身ヲ横ニシテ床ニ輾ビ臥シテ、苦シサガ毎日加ハルト、悲シクコレヲ思ヒ出シ、辛クソレヲ思ヒ出シテ、歎ク心モ、安クハナイノニ、思フ心モ苦シイノニ、(安之比紀能)山ヲ幾重ニモ〔四字傍線〕越エ工隔テテ來テ(多麻保許乃)道ガ遠イカラ、彼方ト此方トノ〔七字傍線〕間ヲ通フ使ヲヤル方法モナイノデ、言ツテヤリタイト〔八字傍線〕思フ言葉モ通ハズ、(多麻伎波流)命ガ惜シイケレドモ、何トモスベキ〔六字傍線〕方法ガナイカラ、家ニ〔二字傍線〕閉ヂ籠ツテ居テ、思ヒ歎イテ、心ヲ慰メル事ガ出來ナイデ、春ノ花ガ吹イテ居ル盛りニ、仲ノ良イ友達ト、ソレヲ〔三字傍線〕手折ツテ、挿頭モセズ、春ノ野ノ草木ノ〔三字傍線〕茂ツタ中ヲ、飛ビ潜ツテ、鳴ク〔二字傍線〕鶯ノ聲サヘモ聞カズ、少(219)女等ガ春ノ若菜ヲ摘ムトテト紅ノ赤イ裳ノ裾ガ春雨ニ染マリ濡レナガラ、通ツテ行クデアラウソノ面白イ春ノ〔七字傍線〕盛リノ時ヲ、空シク過シテシマツタカラ、此ノ病氣デ寢テヰル私ヲ〔此ノ〜傍線〕思ヒヤツテ、哀レンデ下サツタ貴方ノ御心ガナツカシサニ、昨夜ハ夜通シ睡リモセズニ、又今日モ終日貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテヰマス。
 
○之奈射加流《シナザカル》――枕詞。故之《コシ》にかかる。科坂在《シナサカアル》の意で、階坂ある越の國といふことだと冠辭考にある。古義に級々離《シナシナサカ》る層《コシ》といふことで、難《サカル》は地の方から空の方に、高く段々に離れるのを、いふのだらうといつたのは、物遠い説である。併しシナを坂としサカルを離る、即ち都から多くの坂を隔てた越の意とするのが、穩やかであらう。○麻須良和禮須良《マスラワレスラ》――益荒雄我すらとあるべきヲを略してゐる。○宇知奈妣伎《ウチナビキ》――以下の四句は、前の長歌(三九六二)と同じである。○可奈之家口許己爾思出伊良奈家久曾許爾念出《カナシケクココニオモヒデイラナケクソコニオモヒデ》――古事記の宇遲能和紀郎子の御歌に、伊良那祁久曾許爾淤母比傳加那志祁久許々爾淤母比傳《イラナケクソコニオモヒデカナシケクココニオモヒデ》――とあるのを採つたのである。イラナケクは苛なけく。苛痛《イライタ》くの義で、甚だしくの意である。○奈氣久蘇良夜須家奈久爾於母布蘇良久流之伎母能乎《ナゲクソラヤスケナクニオモフソラクルシキモノヲ》――卷四に思空安莫國嘆虚不安物乎《オモフソラヤスケクナクニナゲクソラヤスカラヌモノヲ》(五三四)とあるのを、學んだのである。作者は卷十九(四一六九)にも同樣な句を用ゐてゐる。○多麻保許乃美知能等保家婆《タマホコノミチノトホケバ》――ここの十句は前の長歌(三九六二)に出たのを再び用ゐてゐる。○之氣美登妣久久《シゲミトビクク》――茂つたところを飛び潜《クグ》る。○春菜都麻須等《ワカナツマスト》――古義は文字通りに、ハルナとよんでゐる。ツマスのスは敬語。○爾保比比豆知底《ニホヒヒヅチテ》――匂ひ濡ちて。匂ふは染まること。○加欲敷浪牟《カヨフラム》――春菜を摘むとて野に通ふのである。この以下の四句は卷五(八〇四)に似た句がある。○思努波勢流《シヌバセル》――我をなつかしく思ひ出し給へるの意。○宇流波之美《ウルハシミ》――舊本、宇を牟に誤まつてゐる。元暦校本に從つて改めた。ウルハシミは愛しさにの意。○今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》――卷十三に日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》(三二九七)とあるに同じ。終日。
〔評〕 長い作であるが冗長の評は免れ難い。右の語釋に掲げたやうに、この中に古事記の歌や卷四の安貴王の歌の句、自分が既に他の歌に用ゐた句などを、尠からず使用してゐるのは、作者の爲に惜しむべきである。何の感銘もなくで贈答の儀禮として作るから、かういふことになるのである。
 
3970 足引の 山櫻花 人目だに 君とし見てば 我戀ひめやも
 
(220)安之比奇能《アシビキノ》 夜麻佐久良婆奈《ヤマサクラバナ》 比等目太爾《ヒトメダニ》 伎美等之見底婆《キミトシミテバ》 安禮古非米夜母《アレコヒメヤモ》
 
美シク咲イタ〔六字傍線〕(安之比奇能)山櫻ノ花ヲ、セメテ〔三字傍線〕一目デモ、貴方ト一緒ニ見タナラバ、私ハコレホドマデニ〔七字傍線〕戀シクハ思ヒハスマイ。病氣デ貴方ト一緒ニ見ラレナイノデコンナニ戀シイノデス〔病氣〜傍線〕。
 
〔評〕 一目でもよいから貴方と一緒に見たいといふので、友情を強調してゐる。前の夜麻我比爾佐家流佐久良乎多太比等米伎美爾弥西底婆(4)奈爾乎可於母波牟《ヤマカヒニサケルサクラヲタダヒトメキミニミセテバナニヲカオモハム》(三九六七)に答へた作である。
 
3971 山吹の 茂み飛びくく 鶯の 聲を聞くらむ 君はともしも
 
夜麻扶枳能《ヤマブキノ》 之氣美登※[田+比]久久《シゲミトビクク》 ※[(貝+貝)/鳥]能《ウグヒスノ》 許惠乎聞良牟《コヱヲキクラム》 伎美波登母之毛《キミハトモシモ》
 
山吹ノ茂ツテ居ル中ヲ、飛ビ潜ツテ鳴ク鶯ノ聲ヲ、聞クデアラウ貴方ヲ羨マシク思ヒマス。私ハ病氣デ寢テヰルノデ鶯ノ聲ヲ聞カレナイノハ殘念デス〔私ハ〜傍線〕。
 
○伎美波登母之毛《キミハトモシモ》――君は羨ましいよ。このトモシは羨しい意。
〔評〕 二三句は長歌中にあるのを繰返してゐる。前の 宇具比須能伎奈久夜麻夫伎宇多賀多母伎美我手敷禮受波奈知良米夜母《ウグヒスノキナクヤマブキウタガタモキミガテフレズハナチラメヤモ》(三九六八)に和した作である。袖中抄に載つてゐる。
 
3972 出で立たむ 力をなみと 籠りゐて 君に戀ふるに 心どもなし
 
伊泥多多武《イデタタム》 知加良乎奈美等《チカラヲナミト》 許母里爲底《コモリヰテ》 伎彌爾故布流爾《キミニコフルニ》 許己(221)呂度母奈思《ココロドモナシ》
 
私ハ病氣デ外ヘ〔七字傍線〕出カケル力ガナイカラト、家ニ〔二字傍線〕閉ヂコモツテヰテ、貴方ヲ戀シク思ツテヰルト、魂モナクナツテヰマス。
 
○許己呂度母奈思《ココロドモナシ》――ココロドは心所。魂の意である。利心《トココロ》と混同してはいけない。卷三|心神毛奈思《ココロドモナシ》(四五七)參照。
〔評〕 かういふ形式の歌は集中に尠くない。型に嵌つてゐると言つてよい。
 
三月三日大伴宿禰家持
 
舊本、家の下に持を脱してゐる。元暦校本によつて補つた。三月の上に右の字を補ふのはよくない。
 
七言晩春三日遊覽一首并序
 
七言は七言の詩の意。代匠記には覽の下、詩の字があつたのが脱ちたのかと言つてゐる。
 
上巳名辰、暮春麗景、桃花照(シ)v瞼(ヲ)、以(テ)分(チ)v紅(ヲ)、柳色含(ミテ)v苔(ヲ)、而競(フ)v緑(ヲ)、于v時(ニ)也、携(ヘテ)v手(ヲ)曠(ク)望(ミ)2江河之畔1、訪(ヒテ)v酒(ヲ)※[向+しんにょう](ニ)遏(グ)2野客之家(ヲ)1、既(ニシテ)而也琴嵩セv性(ヲ)、蘭契和(グ)v光(ヲ)、嗟乎今日所v恨(ムル)、コ星已(ニ)少(キ)歟、若(シ)不(レバ)2扣(キ)v寂(ヲ)含(マ)合1v章(ヲ)何(ヲ)以(テ)※[手偏+慮](ベム)2逍遙之趣(ヲ)1、忽(チ)課(セテ)2短筆(ニ)1、聊(カ)勒(スト)2四韻(ヲ)1云爾
  餘春(ノ)媚日宜(ベシ)2怜賞1 上巳風光足(レリ)2覽遊爾1、
  柳陌臨(ミテ)v江(ニ)縟(ニシ)2※[衣+玄]服(ヲ)1 桃源通(ジテ)v海(ニ)泛(ブ)2仙舟(ヲ)1、
(222)  雲罍酌(メバ)v桂(ヲ)三清湛(ヘ)、 羽爵催(シテ)v人(ヲ)九曲(ニ)流(ル)
  縱醉陶心(シテ)忘(レ)2彼我(ヲ)1 酩酊(シテ)無(シ)3處(トシテ)不(ル)2掩留(セ)1
 
三月四日大伴宿禰池主
 
○上巳名辰――上巳は三月三日のこと。始め魏文帝の頃まで三月の最初の巳の日に行はれてゐたが、その時から三日と定まつても、なほ舊の稱呼を殘してゐた。名辰は佳日。○桃花照v瞼以分v紅――桃の花が目に美しく照り映じて、その紅の色を、はつきりと分明にしてゐる。○柳色含v苔――苔は黛か又は眉の誤かと略解にある。黛即ち眉の意でなければなるまい。○訪v酒――舊本酒を須に作つてゐるが、元暦校本その他の古本、酒に作るに從ふべきである。酒を賣る家を訪ねる意。○※[しんにょう+向]遏2野客之家1――※[しんにょう+向]はハルカニ、遏はトドム・ヤムの義であるからここに當嵌らない。元暦校本に過の草躰になつてゐるのに從ふべきであらう。但し舊のままで、立寄るの意とも解せられる。○開嵩セv性――開は元暦校本その他の古本に、琴に作るがよい。得v性はその特色を發揮したといふのであらう。即ち琴と垂ニを以て、樂しく遊ぶことが出來たの意。○蘭契和光――蘭契は易に「同心之言其臭如v蘭」とあるによつたもので、親しい友情をいふ。和光は老子の和光同塵によつたもので、自己の才能を隱して、徳を外にあらはさぬこと。○徳星己少歟――コ星は賢人についてゐる星。即ちここは賢者の聚るもの少きがといふのである。○不扣寂含章――扣寂は文選陸士衡の文(ノ)賦に叩2寂寞1求v音とあるによつたもので、賢者の少い寂しさを無理に鼓舞しての意であらう。含章は文選の左太冲の蜀都賦に「楊雄含v章而挺生」とある。文章を作ること。古義は不v扣2寂含之章1と改めて、「若シ寂《ヒソ》まりかへりて、そこに含たる章を叩きたでて、しひてひねり出ずば、何を以て云々の意なるべし」とある。○何以※[手偏+慮]2趙遙之趣1――※[手偏+慮]はノブル。趙は元暦校本その他、逍に作るのがよい。○勒2四韻1――次の七言詩を作る。勒は押韻の字を定めること。○餘春眉目宜怜賞――晩春のうららかな日は憐み賞すべきである。○上巳風光足2覽遊1――三月三日の風景は(223)遊覽するに足りてゐる。○柳陌臨v江縟2※[衣+玄]服1――柳の植ゑてある路が河に臨んで、好い着物を彩る。陌は路、※[衣+玄]服は晴れ着。縟はいろどる。古義にマダラニスとよんでゐる。要するに、堤の柳の下を行き交ふ人の晴衣が美しいの意。○桃源通v海泛2仙舟1――桃源の川が海まで連なつて、仙人の乘る舟を泛べてゐる。○雲罍酌v桂三清湛――雲罍の模樣ある酒樽には、よい酒を酌んで清酒を湛へ。桂は桂酒、よい酒。三清は清酒の意。「三曰清酒」即ち第三番目に數へる清酒の意。○羽爵催v人九曲流――杯が人を催促するが如く、幾曲りもして流れて來る。羽爵は雀の形に作つた杯。頭尾羽翼などが着いてゐる。この一句は曲水宴の趣で、杯を曲水に流し、それが流れ來る間に、詩を作らねばならぬから、催人と言つたのである。○縱醉陶心忘2彼我1――心のままに縱に醉つて、心が陶然として彼我の別を忘れるといふのである。○酩酊無3處不2掩留1――酩酊して何處にでも、留らないところはない。淹留は久しく留まること。ここに池主から家持へ答へるといふ標があるべきだとするのはよくない。池主から贈つた儘に記したものである。
 
昨日述(ベ)2短懷(ヲ)1、今朝※[さんずい+于](ス)2耳目(ヲ)1、更(ニ)承(リ)2賜書(ヲ)1、且奉(ル)2不次(ニ)1、死罪謹(ミ)言(ス)、
不v遺(サ)2下賤(ヲ)1、頻(ニ)惠(ム)2コ音(ヲ)1、英雲星氣、逸調過(ギタリ)v人(ニ)智水仁山、既(ニ)?(ミ)2琳瑯之光彩(ヲ)1、潘江陸海、自《ミヅカラ》坐(ス)2詩書之廊廟(ニ)1、※[馬+娉の旁](セ)2思(ヲ)非常(ニ)1、託(ケ)2情(ヲ)有理(ニ)1、七歩成(シ)v章(ヲ)、數篇滿(ツ)v紙(ニ)、巧(ニ)遣(リ)2愁人之重患(ヲ)1、能(ク)除(ク)2戀者之積思(ヲ)1、山柿(ノ)謌泉比(シテ)v此(ニ)如(シ)v蔑(キガ)、彫龍(ノ)筆海、粲然(トシテ)得(タリ)v看(ル)矣、方(ニ)知(リヌ)2僕之有(ルヲ)1v幸也、敬(ミテ)和(フル)歌。其(ノ)詞(ニ)云(ク)
 
○昨日述2短懷1、今朝※[さんずい+于]2耳目1――昨日拙い私の考を述べて、今朝は又この文を奉つて、御耳と御目とを汚す。○更承2賜書1――更にお手紙を頂戴して。○且《マタ》奉2不次1――又順序もない拙歌を奉ります。不次は順序によらぬこと。ここは歌の拙きをいつてゐる。○不v遺2下賤1――下賤な私をお捨てにならずに。○頻惠2(224)コ音1――頻りにお手紙を賜はります。○英雲星氣――歌の氣品の高いことを褒めたのであらう。元暦校本には英靈とある。○智水仁山――論語に、智者楽v水仁者楽v山とあるによつてゐる。○?2琳瑯之光彩1、――玉のやyな光彩を包み。?は包み藏すること。琳瑯は美玉の名。○潘江陸海――文選の作者、潘岳と陸機の文才の大なるを江海に比したのである。○自坐2詩書之廊廟1――自から詩の堂奥に入つてゐる。○※[馬+娉の旁]2思非常1託2情有理1――思を非常に馳せ、情を有理に托す。非常とは珍らしいこと。有理は道理あること。○七歩成v章――七歩を歩く間に文章を作る。魏の曹植の故事である。○山柿謌泉――山部赤人、柿本人麿の歌仙。○彫龍筆海――彫龍は龍を刻む如く、文章を巧にかざること。筆海は文字の多く集まれること。
 
3973 大君の 命かしこみ あしびきの 山野さはらず 天離る 鄙も治むる ますらをや 何か物思ふ あをによし 奈良路來通ふ 玉梓の 使絶えめや 籠り戀ひ 息づき渡り 下思に 嘆かふ吾が兄 古ゆ 言ひ繼ぎ來らし 世の中は かずなきものぞ 慰むる 事もあらむと 里人の 我に告ぐらく 山びには 櫻花散り 容鳥の 間なくしば鳴く 春の野に 菫を摘むと 白妙の 袖折り反し くれなゐの 赤裳すそ引き をとめらは 思ひ亂れて 君待つと うらごひすなり 心ぐし いざ見に行かな 事はたなゆひ
 
憶保枳美能《オホキミノ》 彌許等可之古美《ミコトカシコミ》 安之比奇能《アシビキノ》 夜麻野佐波良受《ヤマヌサハラズ》 安麻射可流《アマザカル》 比奈毛乎佐牟流《ヒナモヲサムル》 麻須良袁夜《マスラヲヤ》 奈爾可母能毛布《ナニカモノモフ》 安乎爾余之《アヲニヨシ》 奈良治伎可欲布《ナラヂキカヨフ》 多麻豆佐能《タマヅサノ》 都可比多要米也《ツカヒタエメヤ》 己母理古非《コモリコヒ》 伊枳豆伎和多利《イキヅキワタリ》 之多毛比余《シタモヒニ》 奈氣可布和賀勢《ナゲカフワガセ》 伊爾之弊由《イニシヘユ》 伊比都藝久良之《イヒツギクラシ》 餘乃奈加波《ヨノナカハ》 可受奈枳毛能曾《カズナキモノゾ》 奈具佐牟流《ナグサムル》 己等母安良牟等《コトモアラムト》 佐刀妣等能《サトビトノ》 安禮爾都具良久《アレニツグラク》 夜麻備爾波《ヤマビニハ》 佐久良婆奈知利《サクラバナチリ》 可保等利能《カホトリノ》 麻奈久之婆奈久《マナクシバナク》 春野爾《ハルノヌニ》 須美禮乎都牟等《スミレヲツムト》 之路多倍乃《シロタヘノ》 蘇泥乎利可弊之《ソデヲリカヘシ》 久禮奈爲能《クレナヰノ》 安可毛須蘇妣伎《アカモスソビキ》 乎登賣良波《ヲトメラハ》 於毛比美太禮底《オモヒミダレテ》 伎美麻都等《キミマツト》 宇良呉悲須奈理《ウラゴヒスナリ》 己許呂具志《ココログシ》 (225)伊謝美爾由加奈《イザミニユカナ》 許等波多奈由比《コトハタナユヒ》          )
 
天子樣ノ勅ヲ畏レ入リ承ツテ(安之比奇能)山ヤ野ヲカマハズニ、踏ミ越エテ來テ〔七字傍線〕(安麻射可流)田舍ヲモ治メル益荒雄タル貴方〔四字傍線〕ハ何ヲ、クヨクヨ〔四字傍線〕考ヘルカ、(安平爾余之)奈良ノ街道ヲ通ウテ來ル(多麻豆佐能)使ガ絶エヨウカ、決シテ〔七字傍線〕絶エルコトハナイ。ダカラソンナニ心配ナサル事ハナイ。今病氣デ〔ダカ〜傍線〕家ニ閉ヂ籠ツテ、故郷ヲ〔三字傍線〕戀シク思ヒ始終、吐息ヲツイテ胸ノ中デ、クヨクヨト〔五字傍線〕考へテヰル吾ガ友ヨ。昔カラ語リ傳ヘテ來タラシイ。世ノ中ノ人間ノ壽命〔六字傍線〕ハ、永ク無イモノゾト言ツテ來タヤウダ。貴方ガ御病氣ニナツテ、悲シンデイラツシヤル御心ヲ〔言ツ〜傍線〕、慰メル事モアルダラウカトテ、里人ガ私ニ來テ告ゲルニハ、山邊ニハ櫻ノ花ガ美シク咲イテ〔六字傍線〕散リ、容鳥ガ絶間ナク頻リニ鳴イテヰル。春ノ野デ菫ヲ摘ムトテ、白イ袖ヲ折リ返ヘシ紅ノ赤裳ノ裾ヲ曳イテ、少女等ハ思ヒ亂レナガラ、貴方ノ御イデ〔四字傍線〕ヲ待ツテ、貴方ヲ〔三字傍線〕、心ニ戀シク思ツテ居リマスト言ツテヰル〔六字傍線〕。心ガ落チツキマセン。サア、見ニ行キマセウ。コノ事ハ左樣ニ〔三字傍線〕御承知下サイマシ。
 
○夜麻野佐波良受《ヤマヌサハラズ》――山野に妨げられず。どんな山をも野も凌ぎ越えて。○比奈毛乎佐牟流《ヒナモヲサムル》――モはヲとありさうなところである。鄙をも治むると見るべきか。さらばモは感歎である。○奈良治伎可欲布《ナラヂキカヨフ》――奈良街道を來り通ふ。奈良路は奈良へ通ずる路。○己母理古非《コモリコヒ》――隱り戀ひ。引き籠つてゐて戀しく思ひ。○伊枳豆伎和多利《イキヅキワタリ――吐息をついて日を送り。○之多毛比余《シタモヒニ》――下思ひに。舊本余とあるのは、尓の誤に違ひない。○奈氣可布和賀勢《ナゲカフワガセ》――嘆くわが兄よ。わがせは家持を指しでゐる。○伊比都藝久良之《イヒツギクラシ》――略解は之を久の誤として、イヒツギグラクと訓んでゐる。もとのままでよい。○餘乃奈加波可受奈枳毛能曾《ヨノナカハカズナキモノゾ》――世の中の人の壽命は久しぐないものぞ。舊本曾を賀に誤つてゐる。元暦校本・西本願寺本などによつて改む。○可保等利能《カホトリノ》――容鳥の。容鳥はどんな鳥かよく分らない。或は呼子鳥か。卷三に容鳥能間無數鳴《カホトリノマナクシバナク》(三七二)とある。○之路多倍乃《シロタヘノ》――白栲(226)の。次の久禮奈為能《クレナヰノ》に對せしめてあるから、枕詞としない方がよいのであらう。○蘇泥乎利可弊之《ソデヲリカヘシ》――袖の端を折り返して。若菜などを摘むのに、袖の行が長くて邪魔になるから、それを折り返すのである。○伎美麻都等《キミマツト》――伎美《キミ》は家持を指してゐる。○宇良呉悲須奈里《ウラゴヒスナリ》――心戀爲なり。ウラは心。心のうちに戀しく思つてゐるよの意。舊本、須を次に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。この句の下に、「と言つてゐる」の意が含まれてゐる。○己許呂具志《ココログシ》――心が落ちつかない。卷四、情具久《ココログク》(七三五)參照。○許等波多奈由比《コトハタナユヒ》――むづかしい句である。代匠記精撰本に「言者棚結《コトハタナユヒ》の意歟。言には思ふ事の云ひ盡されねば、始終を結ひて暗《ソラ》に推量れと云意にや」とあり、考は「多奈由比てふ言は、其本、刀米禰良比也留倍志なり。其刀米の約多なり。禰良の約奈なり。比は辭にて略く。也留の約由なり。倍志の約、比にて上に云、野山花鳥をとめし意もたねらひやるべし、しらぬとなり」とあるが、兩説共によくわからない。略解の宣長説は、「凡此類のたなといふ詞。皆たな知とつづきたるに、ここのみ由比とつづきたるはいかが、由比は思禮《シレ》の誤なるべし。……さてたなしれは詳ならざれども、大かたのやうを以ていはば、今俗語に云々と人に物を言ひつけて、さやうに心得よと言ふに似たり。云々」とある。由比を思禮の誤と斷ずるのは早計のやうでもあるが、卷十三に、葦垣之末掻別而君越跡人丹勿告事者棚知《アシガキノスヱカキワケテキミコユトヒトニナツゲソコトハタナシレ》(三二七九)とあるによると、この説は必ずしも否定出來ない。タナユヒでは解釋が出來ないから、暫らく宣長説に從つて置かう。但し、コトは事で、事情は斯くと直に知り給への意であらう。
〔評〕 初句から玉梓の使絶えめやまでは、家持を慰める言葉。籠り戀ひ息づき渡り、世の中はかずなきものぞまでは、家持に對する同情の言葉。慰むる事もあらむとから、里人の言葉として、野山の光景や、里の少女が、家持の來遊を待つてゐることを述べて、その遊心をそそのかしてゐる。心ぐし以下は誘ひの言葉である。全體が數段に分れ、その切目に言葉の足りないやうなところもあるが、情誼を盡した親切があらはれてゐる。春の野の董摘む少女を點出して「思ひ亂れて君待つとうら戀ひすなり」とあるのが、病に臥してゐる若い國守を慰める言葉としては、適切なものであらう。
 
3974 山吹は 日に日に咲きぬ うるはしと 吾が思ふ君は しくしく思ほゆ
 
(227)夜麻夫枳波《ヤマブキハ》 比爾比爾佐伎奴《ヒニヒニサキヌ》 宇流波之等《ウルハシト》 安我毛布伎美波《アガモフキミハ》 思久思久於毛保由《シクシクオモホユ》
 
山吹ノ花ハ毎日毎日美シク〔三字傍線〕咲イテヰル。私ガ戀シク思フ貴方ノ事〔二字傍線〕ハ、此ノ花ノ毎日咲クヤウニ〔此ノ〜傍線〕、頻リニ戀シク思ハレルヨ。
 
○比爾比爾佐伎奴《ヒニヒニサキヌ》――他の例によれば、ヒニケニとありさうなところである。ヒニヒニと言つた例は、卷二十の防人歌に伊倍加是波比爾比爾布氣等《イヘカゼハヒニヒニフケド》(四三五三)とあるのみである。
〔評〕 山吹の花に對して病友を思ふ歌。やさしい感情が溢れてゐる。ヒニヒニとシクシクとの對比も格調を整齊ならしめてゐる。
 
3975 吾がせこに 戀すべなかり 葦垣の 外になげかふ 我し悲しも
 
和賀勢故爾《ワガセコニ》 古非須弊奈賀利《コヒスベナカリ》 安之可伎能《アシガキノ》 保可爾奈氣加布《ホカニナゲカフ》 安禮之可奈思母《アレシカナシモ》
 
私ハ〔二字傍線〕貴方ニ戀シクテシカタガアリマセヌ。カウシテ〔四字傍線〕(安之可伎能)外ニ離レテヰテ〔五字傍線〕、嘆イテヰル私ハ、悲シウゴザイマスヨ。
 
○和賀勢故繭《ワガセコニ》――吾が友に。勢故《セコ》は家持を指してゐる。○古非須弊奈賀利《コヒスベナカリ》――戀が術無くありの意。戀しさが仕方がない。○安之可伎能《アシガキノ》――芦垣の。枕詞。外とつづいてゐる。○保可爾奈氣加布《ホカニナゲカフ》――外で離れて、歎いてゐる。ナゲカフはナゲクの延言。外で嘆くとは、家持と別の處にあつて、家持を戀しく思ひ歎思してゐる意。
(228)〔評〕 異性の戀人に言ふやうな言葉だ。友情はあらはれてゐる。
三月五日大伴宿禰池主
 
考は三月五日の上に、右の字が脱ちたものとして、補つてあるが、よくない。これは池主の書牘そのままであるから、右の字がある筈がない。
 
ここに標を脱したと見るのはよくない。
 
昨暮(ノ)來使、幸(ニ)也以(テ)垂(レ)2晩春遊覽之詩(ヲ)1、今朝(ノ)累信(ハ)辱(ク)也以(テ)※[貝+兄]《タマハル》2相招望野之歌(ヲ)1、一(タビ)看(テ)2玉藻(ヲ)1稍|寫《ノゾキ》2鬱結(ヲ)1、二(タビ)吟(ジテ)2秀句(ヲ)1、已(ニ)※[益+蜀]《ノゾク》2愁緒(ヲ)1、非(ズハ)2此(ノ)〓翫(ニ)1、孰(レカ)能(ク)暢(ベム)v心(ヲ)乎《ヤ》、但惟《タダ》下僕稟性難(ク)v彫(リ)闇神靡(シ)v瑩(ク)、握(リテ)v翰(ヲ)腐(シ)v毫(ヲ)對(ヒテハ)v研(ニ)忘(ル)v渇(ヲ)、終日因流(シテ)綴(レドモ)v之(ヲ)不《ズ》v能(ハ)所謂文章(ハ)天骨(ニシテ)習(ヒテ)v之(ヲ)不v得也、豈堪(ヘム)3探(リ)v字(ヲ)勒(シテ)v韻(ヲ)、叶2和(スルニ)雅篇(ニ)1哉、抑(モ)聞(ク)2鄙里少兒(ニ)1、古人言無(シト)v不v酬(イ)、聊(カ)裁(シ)2拙詠(ヲ)1、敬(シテ)擬(ス)2解咲(ニ)1焉、如今《イマ》賦(シ)v言(ヲ)勒(シ)v韻(ヲ)同(ス)2斯(ノ)雅作之篇(ニ)1、豈殊(ラムヤ)3將(テ)v石(ヲ)同(ヘ)v瓊(ニ)唱(シテ)v聲(ヲ)遊(ブニ)2走曲(ニ)1歟、抑(モ)小兒(ノ)譬(ハ)2濫(ニ)諂(ヘリ)敬(ミテ)寫(シ)2葉喘(ニ)1、式(テ)擬(ス)v亂(ニ)曰(ク)
 
七言一首
 
抄春(ノ)餘日媚景麗(シ)、 初巳(ノ)和風拂(ヘドモ)自(ラ)輕(シ)、
來燕銜(テ)v泥(ヲ)賀(シテ)v宇(ヲ)入(リ)、 歸鴻引(テ)v蘆(ヲ)※[しんにょう+向](ニ)赴(ク)v瀛(ニ)、
(229)聞(ク)君(ガ)嘯侶新(ニ)流(スヲ)v曲(ヲ)、 禊飲催(シテ)v爵(ヲ)泛(ベ)2河(ノ)清(キニ)1、
雖v欲(ス)v追2尋(セムト)良(キ)此(ノ)宴(ヲ)1、 還(テ)知(リヌ)染(ミテ)v※[こざと+奧](ニ)脚(ノ)※[足+令]※[足+丁](タルヲ)
 
○昨暮來使幸也以垂2晩春遊覽之詩1――昨日の夕方の御使で晩春遊覽の詩を賜つてありがたう。○今朝累信辱也以※[貝+兄]2相招望v野之歌1――今朝の累ねての御手紙で、辱くも御一緒に野遊に行かうといふお誘ひの歌を賜はりました。○寫2欝結1――寫は辭書に思也切、除也とあるによつて、ノゾクと訓むがよい。○※[益+蜀]2愁緒1――※[益+蜀]もノゾク。前の寫欝結と略々同意の對句。○非2此〓翫1――〓は眺に同じ。眺翫は景色を詠んだ歌のことであらう。○稟性難v彫――性質が愚で。難彫は論語の宰予の故事、朽木不v可v彫也によつたもの。○闇神靡v瑩――闇い愚な心が磨くことがない。○握v翰腐v毫――筆を持つと筆の毛の腐るまで考へてゐる。○對v研忘v渇――硯に向つては、水が乾いてしまふまで考へてゐる。○終日因流綴v之不v能――終日ぐづぐづして文を綴つても出來ない。代匠記精撰本には因流綴之は淵明歸去來辭の。臨2清流1而賦詩、によつたものとあるが、果してどうであらう。略解には因流は因循の誤かとあるが、因流で因循の意になりさうである。西本願寺本は目流になつてゐる。これによれば流を目してである。○天骨――天性に同じ。○豈堪3探v字勒v韻叶2和雅篇1哉――とても字を探り韻を押して、貴方の立派な雅篇に和することは出來ませぬ。○抑聞2鄙里少兒1――抑私の里の小供に聞きますと、しかじかのことがあるさうです。聞少兒といふのは、世間の諺にといふやうな意で、少兒に深い意はなささうである。○古人言無v不v酬――古の人は、必ず人の言葉に返事をしたものだ。詩經に「無2徳不1v報、無2言不1v酬」とあるによつたもの。○擬2解咲1焉――お笑草に供へます。解咲は頤を解いて笑ふこと。○如今――舊本、今を令に誤つてゐる。西本願寺本によつて改む。この以下の三十八字元暦校本に無く、西本願寺本・細井本などこれを小字としてゐる。○將v石同v瓊――前の於保吉民能《オホキミノ》(三九六九)の題詞にある句である。新考に「如今以下三十八字は或本に無く、又或本には細書せり。恐らくは豈堪以下の一案ならむ。將v石同v瓊ははやく三日に贈りし歌の(230)序にいへり。僅に一日を隔てて再言ふべきにあらず。されば如今云々が初案、豈堪云々が再案ならむ」とある如くであらう。○唱聲遊走曲――この句は全くわからない。新考に唱聲は倡婦の誤かとある。併し新訓に走を衍として、豈以下を、「豈石ヲ將テ瓊ニ間《マジ》へ、聲ヲ唱シテ曲ニ遊ブニ殊ナラムヤ」と訓んだのに從ふがよい。○抑小兒譬濫諂――これもよくわからないが、新訓に「抑小兒ノ譬ハ濫ニ諂ヘリ」とあるに從ふべきか。○葉端――紙端といふに同じ。○式擬v亂――式はモチテ。詞之|卒《ヲハリ》、章(ヲ)曰v亂と字書に見える。亂は理で前意を重理するのである。賦の終末に添へる句。經文の終に附する偈に傚つたもので、長歌の反歌は亂を學んだものと言はれてゐる。○抄春――抄は※[木+少]の誤、※[木+少]はコズヱ。禮記に「冢宰制2國用1必於2歳之|※[木+少]《スヱ》1」とあり、文選謝靈運の詩にも、「※[木+少]《スヱノ》秋尋2秋山1」とある。○餘日――餘の日數。略解には「遲日と云ふ意なるべし」とある。○初巳――上巳に同じ。○賀宇入――代匠記精撰本に、「淮南子云、湯沐具而※[虫+幾]虱相弔、大厦成而燕雀相賀(ス)、今按下の對句に依に、宇入は入宇なるべし云々」とある。併しもとのままで宇ヲ賀シテ入リと訓んでよからう。○歸鴻引v蘆――淮南子に「雁銜v蘆而翔以避2※[矢+曾]※[糸+激の旁]1」とある。北を指して歸り行く雁が、蘆を銜へて飛ぶをいふ。○※[しんにょう+向]赴v瀛――遙かに海上に飛び去る。舊本※[しんにょう+向]を廻に作るのはわるい。元暦校本によつて改めた。○聞君嘯侶新流曲――嘯侶は吟詠の友。侶を倡に改める説は從ひ難い。新流曲は新に曲水宴を開いたこと。即ち句意は、貴方が吟友と共に、新に曲水宴を開いたと聞きます。○禊飲催爵泛2河清1――曲水の宴に杯を泛べることをいつてゐる。ここの二句は前の池主の詩、「羽爵催v人九曲流」に對してゐるやうである。○雖v欲v追2尋良此宴1――新訓に良キ此ノ宴ヲ追尋セムト欲ストイヘドモと訓んでゐる。○還知染v※[こざと+奧]脚※[足+令]※[足+丁]――還つて知る※[こざと+奧]に染んで脚の※[足+令]※[足+丁]たるを。※[こざと+奧]は卷五の山上憶良の沈痾自哀文に尋2膏肓之※[こざと+奧]處1欲v顯2二豎之逃避1とあるから、病の甚しきを染※[こざと+奧]といふのだらうと略解に見えてゐるが、※[こざと+奧]は水涯也又藏也と宇書にあつて、病の意はない。或は懊の誤か,懊はナヤム。しかしこれも病の意が無い。新訓に痾に改めたのがよいか。※[足+令]※[足+丁]はよろよろと歩くこと。よろめく。
 
(231)短歌二首
 
3976 咲けりとも 知らずしあらば もだもあらむ この山吹を 見せつつもとな
 
佐家理等母《サケリトモ》 之良受之安良婆《シラズシアラバ》 母太毛安良牟《モダモアラム》 己能夜萬夫吉乎《コノヤマブキヲ》 美勢追都母等奈《ミセツツモトナ》
 
私ハ病氣デ寢テヰテ、コンナニ山吹ノ花ガ〔私ハ〜傍線〕、咲イテヰルトイフ事ヲ知ラズニヰルナラバ、何トモ思ハズ〔六字傍線〕、黙ツテヰルデセウノニ〔二字傍線〕、此ノ山吹ノ花ヲ猥リニ私ニオ見セニナツテ、私ハソノ爲ニ俄カニ悲シクナツテ來マシタ〔私ハ〜傍線〕。
 
○美勢都追母都奈《ミセツツモトナ》――モトナミセツツと言つても同じである。徒らに我に見せで我を悲しましめるの意。
〔評〕 卷十の咲友不知師有者黙然將有此秋芽子乎令視管本無《サキヌトモシラズシアラバモダモアラムコノアキハギヲミセツツモトナ》(二二九三)を山吹に變へて用ゐたに過ぎない。
 
3977 葦垣の 外にも君が 寄り立たし 戀ひけれこそは 夢に見えけれ
 
安之可伎能《アシガキノ》 保加爾母伎美我《ホカニモキミガ》 余里多多志《ヨリタタシ》 孤悲家禮許曾婆《コヒケレコソハ》 伊米爾見要家禮《イメニミエケレ》
 
芦ノ垣根ノ外ニ貴方ガ立ツテ、寄リカカツテ、私ヲ〔二字傍線〕戀シク思ヒナサツタノデ、貴方ノ事ガ私ノ〔七字傍線〕夢ニ見エタノデアリマス。
 
○安之可伎能保加爾母伎美我《アシガキノホカニモキミガ》――前の池主の歌、和賀勢故爾《ワガセコニ》(三九七五)の第三第四の二句を採つて用ゐてゐる。彼の歌ではアシガキノは枕詞式に用ゐであつたが、これでは眞に芦垣があるやうに詠んである。前の歌を採つた爲に、おのづからかうなつたのであらう。○伊米爾見要家禮《イメニミエケレ》――吾が夢に君が見えたの意。
(232)〔評〕 池主の歌の句を巧に採つたといふだけで、上すべりのした歌である。
 
三月五日大伴宿禰家持臥(シテ)v病(ニ)作(ル)v之(ヲ)
 
述(ブル)2戀緒(ヲ)1歌一首并短歌
 
都に殘して來た妻の坂上大嬢を戀しく思ふ歌。
 
3978 妹も我も 心は同じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば とこ初花に 心ぐし 眼ぐしもなしに はしけやし 吾が奧妻 大君の 命かしこみ あしびきの 山越え野行き 天離る 鄙治めにと 別れ來し その日の極 あら玉の 年ゆき返り 春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ 敷妙の 袖かへしつつ 寐る夜おちず 夢には見れど 現にし 直にあらねば 戀しけく 千重に積りぬ 近からば かへりにだにも うち行きて 妹が手枕 指しかへて 寢ても來ましを 玉桙の 路はし遠く 關さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ ほととぎす 來鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を よそのみも ふり放け見つつ 淡海路に い行きのり立ち あをによし 奈良の吾家に ぬえどりの うら嘆しつつ 下戀に 思ひうらぶれ 門に立ち 夕占問ひつつ 吾を待つと なすらむ妹を 逢ひて早見む
 
妹毛吾毛《イモモアレモ》 許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》 多具敝禮登《タグヘレド》 伊夜奈都可之久《イヤナツカシク》 相見婆《アヒミレバ》 登許波都波奈尓《トコハツハナニ》 情具之《ココログシ》 眼具之毛奈之爾《メグシモナシニ》 波思家夜之《ハシケヤシ》 安我於久豆麻《アガオクヅマ》 大王能《オホキミノ》 美許登加之古美《ミコトカシコミ》 阿之比奇能《アシビキノ》 夜麻古要奴由伎《ヤマコエヌユキ》 安麻射加流《アマザカル》 比奈乎左米爾等《ヒナヲサメニト》 別來之《ワカレコシ》 乃日乃伎波美《ソノヒノキハミ》 荒璞能《アラタマノ》 登之由吉我弊利《トシユキガヘリ》 春花乃《ハルハナノ》 宇都呂布麻泥爾《ウツロフマデニ》 相見禰婆《アヒミネバ》 伊多母須弊奈美《イタモスベナミ》 之伎多倍能《シキタヘノ》 蘇泥可并之都追《ソデカヘシツツ》 宿夜於知受《ヌルヨオチズ》 伊米爾波見禮登《イメニハミレド》 宇都追爾之《ウツツニシ》 多太爾安良祢婆《タダニアラネバ》 孤悲之家口《コヒシケク》 知弊爾都母里奴《チヘニツモリヌ》 近在者《チカカラバ》 加弊利爾太仁母《カヘリニダニモ》 宇知由吉底《ウチユキテ》 妹我多麻久良《イモガタマクラ》 佐之加倍底《サシカヘテ》 禰天蒙許萬思乎《ネテモコマシヲ》 多麻保己乃《タマホコノ》 路波之騰保久《ミチハシトホク》 關左閇爾《セキサヘニ》 弊奈里底安(233)禮許曾《ヘナリテアレコソ》 與思惠夜之《ヨシヱヤシ》 餘志播安良武曾《ヨシハアラムゾ》 霍公鳥《ホトトギス》 來鳴牟都奇爾《キナカムツキニ》 伊都之加母《イツシカモ》 波夜久奈里那牟《ハヤクナリナム》 宇乃花能《ウノハナノ》 爾保弊流山乎《ニホヘルヤマヲ》 余曾能未母《ヨソノミモ》 布里佐氣見都追《フリサケミツツ》 淡海路爾《アフミヂニ》 伊由伎能里多知《イユキノリタチ》 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃吾家爾《ナラノワギヘニ》 奴要鳥能《ヌエドリノ》 宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》 思多戀爾《シタゴヒニ》 於毛比宇良夫禮《オモヒウラブレ》 可度爾多知《カドニタチ》 由布氣刀比都追《ユフケトヒツツ》 吾乎麻都等《アヲマツト》 奈須良牟妹乎《ナスラムイモヲ》 安比底早見牟《アヒテハヤミム》
 
妻モ私モ心ハ同ジ心デ、相並ンデ暮シテ〔三字傍線〕ヰテモ、益々懷カシク、相逢フ時ニハ何時デモ、初花ノヤウニ、心苦シク思フ事モナク、見テ厭ト思フ事モナク、愛ラシイ私ノ深ク思フ妻ニ、天子樣ノ勅ヲカシコミ承ツテ〔三字傍線〕、(阿之比奇能)山ヲ越エタリ、野原ヲ通ツタリシテ(安麻射可流)田舍ヲ治メル爲ニ別レテ來タソノ日以後、(荒璞能)年ガ暮レテ立チ變リ、春ノ花ガ咲イテ〔三字傍線〕散ルマデモ、逢ハナイカラ、悲シクテ〔四字傍線〕、何トモ仕方ガナイノデ、戀シイ妻ノ夢ヲ見ルヤウニ〔戀シ〜傍線〕(之伎多倍能)袖ヲ反シテ寢ル夜毎ニ、一晩モ〔三字傍線〕洩レズ妻ガ夢ニ見エルケレドモ、實際ニ〔三字傍線〕直接逢ハナイカラ、戀シサガ千重ニ積ツタ。近イ所ナラバ日歸リニデモ、一寸行ツテ、妻ノ手枕ヲ差シ交ハシテ寢テ來ヨウノニ、(多麻保己乃)道ハ遠ク、ソノウエ〔三字傍線〕關マデモ隔ツテヰルカラ、思フヤウニ逢ハレナイガ〔思フ〜傍線〕、ヨロシイ、仕方ガアルゾ。霍公鳥ガ來テ鳴ク五月ノ〔三字傍線〕月ニ、何時シカ早クナレバヨイ。サウシタラバ〔六字傍線〕、卯ノ花ガ美シク咲イテル山ヲ、他所カラバカリ遙カニ眺メナガラ、近江路ヘ出テ琵琶湖ヲ舟ニ〔六字傍線〕乘ツテ行ツテ、(青丹吉)奈良ノ(234)吾ガ家ニ(奴要鳥能)心ニ歎キナガラ、胸ノ中ニ戀シク思ツテ、窶レタ姿ヲシテ、門ニ立ツテ、夕方ノ占ヲシナガラ、私ノ歸リヲ待ツテ、寢テヰルデアラウ妻ヲ早ク逢ツテ見ヨウ。
 
○許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》――オヤジは同じの古語。妻も我も同じ心で相愛して。代匠記精撰本に、「初の二句は一篇の大意を括て句絶なり」とあり、略解は心はおやじだぐへれどとつづけてよんでゐる。代匠記説のやうにはつきり切れてはゐないやうである。○多具弊禮登《タグヘレド》――一緒にあるけれども。○登許波都波奈尓《トコハツハナニ》――常初花に。とこしへに、初花のやうに。いつもめづらしく。○情具之眼具之毛奈之爾《ココログシメグシモナシニ》――心の晴れぬこともなく、不快なこともなくて。ココログシは心の晴れないこと。メグシは不快なこと。卷九|目串毛勿見《メグシモナミソ》(一七五九)參照。○安我於久豆麻《アガオクヅマ》――吾が奧妻。奧妻は大切にかしづく妻。卷三に秋津羽之袖振妹乎珠〓奧爾念乎兒賜吾君《アキツハノソデフルイモヲタマクシゲオクニオモフヲミタマヘワギミ》(三七六)の奥に念ふの意であらう。○曾乃日乃伎波美《ソノヒノキハミ》――その日を限りとして。その日以後。○登之由吉我弊利《トシユキカヘリ》――年去き還り。年が去り改まつて。○之伎多倍能《シキタヘノ》――敷栲の。枕詞。袖とつづくのは、袖を敷いて寢るからである。○蘇泥可弊之都追《ツデカヘシツツ》――袖を反して。袖を反すのは思ふ人を夢に見る爲である。○宿夜於知受《ヌルヨオチズ》――寢る夜一夜も洩れることなく。○多太爾安艮禰婆《タダニアラネバ》――直接ではないから。直《タダ》に逢ふことが出來ないから。○加弊利爾太仁母《カヘリニダニモ》――歸つてでも行つて。この邊の數句は家持が不破行宮で作つた、關無者還爾谷藻打行而妹之手枕卷手宿益乎《セキナクバカヘリニダニモウチユキテイモガタマクラマキテネマシヲ》(一〇三六)、再び用ゐた感がある。○路波之騰保久《ミチハシトホク》――路は遠く。シは強める助詞。古義に「道間遠《ミチハシトホク》にて、道の間の遠きを云り」とあるのは當らない。○關左閉爾《セキサヘニ》――關までも。關は愛發の關。○弊奈里底安禮許曾《ヘナリテアレコソ》――隔りてあればこそ。この下に、思ふやうに逢はれぬといふやうな言葉を補つて見るがよい。○與思惠夜之《ヨシヱヤシ》――よろしいよ。この句から、思ひかへして、自から慰める意を述べてある。○餘志播安良武曾《ヨシハアラムゾ》――方法はあるだらうよ。ヨシの音を繰返してゐるやうである。○爾保弊流山《ニホヘルヤマヲ》――色美しく咲いてゐる山を。○余曾能未母布里佐氣見都追《ヨソノミモフリサケミツツ》――外にのみも振り放け見つつ。外ながら遙かに眺めつつ。○伊由伎能里多知《イユキノリタチ》――イは接頭語。ノリタチは船に乘つて出ること。○奴要鳥能《ヌエドリノ》――枕詞。○宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ−――心に歎きつつ。卷一に奴要子鳥卜歎居者《ヌエコトリウラナケヲレバ》(五)(235)とある。以下の句は奈須良牟妹《ナスラムイモ》の妹《イモ》にかかつてゐる。○思多戀爾《シタゴヒニ》――下戀に。心の内で思ふこと。○於毛比宇良夫禮《オモヒウラブレ》――思ひ惱み苦しむ。○由布氣刀比都追《ユフケトヒツツ》――夕占問ひつつ。ユフケは夕方辻に立つて行ふ卜占。○奈須良牟妹乎《ナスラムイモヲ》――ナスは寢す。寢るの敬語。寢るであらう妻を。
〔評〕 大きく二段に分れてゐる。前段は關左閉爾弊奈里底安禮許曾《セキサヘニヘナリテアレコソ》までで、妻に逢ひかねる懊惱の情を述べ、後段は一轉して、郭公來鳴き卯の花咲き匂ふ頃に都に歸つて、我を待ちこがれてゐる妻に逢はうと、その時期の、遠からぬことを期待してゐる。下の歌どもの趣によると、家持は五月の初旬に、正税帳を以つて京に上つてゐるから、この時既にその豫定があつて、かく詠んだのである。古歌中の句や古い自作を屡々繰返しでゐるのは、巧とは言ひ難い。
 
3979 あらたまの 年かへるまで 相見ねば 心もしぬに 思ほゆるかも
 
安良多麻乃《アラタマノ》 登之可弊流麻泥《トシカヘルマデ》 安比見禰婆《アヒミネバ》 許己呂毛之努爾《ココロモシヌニ》 於母保由流香聞《オモホユルカモ》
 
(安良多麻乃)年ガ改マツテ春ニナ〔五字傍線〕ルマデモ、私ハ妻ニ〔四字傍線〕逢ハナイカラ、心モシヲシヲトシテ、妻ガ懷カシク〔六字傍線〕思ハレルヨ。
 
○許己呂母之努爾《ココロモシヌニ》――心もしをれて。卷三の情毛思努爾《ココロモシヌニ》(二六六)など用例が多い。
〔評〕 長歌中に述べたところを、その儘繰返してゐる。柿本人麿の名句を用ゐてゐるのも遺憾である。
 
3980 ぬば玉の 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 戀ひ止まずけり
 
奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 伊米爾波母等奈《イメニハモトナ》 安比見禮騰《アヒミレド》 多太爾安良禰婆《タダニアラネバ》 孤悲夜麻受家里《コヒヤマズケリ》
 
(236)私ハ妻ヲ〔四字傍線〕(奴婆多麻乃)夢ニハ徒ラニ見ルケレドモ、直接デハナイカラ、戀シサガ止マナイヨ。
 
○伊米爾波母等奈《イメニハモトナ》――モトナは徒らに。猥りに。甲斐なく。○孤悲夜麻受家里《コヒヤマズケリ》――戀止マズに詠歎の助動詞ケリを添へてゐる。卷十三に戀云物者都不止來《コヒトフモノハカツテヤマズケリ》(三三〇八)とある。
〔評〕 これも長歌中の句を、短歌の形式に整へたに過ぎない。
 
3981 足引の 山來へなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり
 
安之比奇能《アシビキノ》 夜麻伎弊奈里底《ヤマキヘナリテ》 等保家騰母《トホケドモ》 許己呂之遊氣婆《ココロシユケバ》 伊米爾美要家里《イメニミエケリ》
 
此處ト故郷トハ〔七字傍線〕(安之比奇能)山ヲ越エテ來テ、距離ガ遠イケレドモ、心ガ通フカラシテ、妻ガ〔二字傍線〕夢ニ見エタノダ〔二字傍線〕。
 
○許己呂之遊氣婆《ココロシユケバ》――心が行けば。心は吾が心。行くは吾が方より都へ通ふことを言つてゐる。
〔評〕卷四丹生女王が太宰帥大伴卿に贈つた歌。天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳情志行者戀流物可聞《アマクモノソキヘノキハミトホケドモココロシユケバコフルモノカモ》(五五三)と似てゐる。
 
3982 春花の うつろふまでに 相見ねば 月日よみつつ 妹待つらむぞ
 
春花能《ハルハナノ》 宇都路布麻泥爾《ウツロフマデニ》 相見禰婆《アヒミネバ》 月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》 伊母麻都良牟曾《イモマツラムゾ》
 
春ノ花ガ散ツテシマフ此ノ頃〔三字傍線〕マデ、私ハ妻ト〔四字傍線〕逢ハナイカラ、故郷デハ〔四字傍線〕月日ヲ數ヘツツ、妻ガ私ノ歸ヲ〔四字傍線〕待ツテヰルダラウゾ。早ク歸リタイモノダ〔九字傍線〕。
 
(237)○月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》――月日を數へつつ。
〔評〕 これも長歌中の句を、短歌に整へたもの。平庸。
 
右三月二十日夜裏、忽兮起(シテ)戀情(ヲ)1作、大伴宿禰家持
 
夜裏は夜のうち。唯、夜といふに異なる所はない。
 
立夏四月既經(レドモ)2累日(ヲ)1而|由《ナホ》未v聞(カ)2霍公鳥(ノ)喧(クヲ)1因(リテ)作(レル)恨(ノ)歌二首
 
立夏の四月の季節の意で、立夏は必ずしも四月朔と同日ではないが、四月からが夏季に入るわけであるから、かう書いたのであらう。下に三月二十九日の作となつてゐるから、既經累日とあつても、四月に入つてゐるのではなく、三月二十四五日の頃が立夏であつたのである。卷十九(四一七一)にも二十四日應立夏四月節也とある。由は猶に同じ。因作恨歌を略解に「作恨は上下になれるか」とあるが、もとのままで、因リテ作レル恨ノ歌と訓むのであらう。
 
3983 あしびきの 山も近きを ほととぎす 月立つまでに 何か來鳴かぬ
 
安思比奇能《アシビキノ》 夜麻毛知可吉乎《ヤマモチカキヲ》 保登等藝須《ホトトギス》 都奇多都麻泥爾《ツキタツマデニ》 奈仁加吉奈可奴《ナニカキナカヌ》
 
(安思比奇能)山モ近イ所ダ〔二字傍線〕ノニ、郭公ハ夏ノ〔二字傍線〕四月ノ節ニナルマデ、何故來テ鳴カナイノカ。早ク來テ鳴イテクレ〔九字傍線〕。
 
○都奇多都麻泥爾《ツキタツマデニ》――月立つまでに。この月は立夏四月の節のことである。
(238)〔評〕 國守館のある丘陵はやがて二上山につづいてゐる。まことに郭公の鳴きさうな地點である。この場所で立夏を迎へ、郭公を思ふ心の切なるものがあるのは當然であらう。
 
3984 玉に貫く 花橘を ともしみし この吾が里に 來鳴かずあるらし
 
多麻爾奴久《タマニヌク》 波奈多知波奈乎《ハナタチバナヲ》 等毛之美思《トモシミシ》 己能和我佐刀爾《コノワガサトニ》 伎奈可受安流良之《キナカズアルラシ》
 
玉トシテ貫イテ弄ブ花橘ガ少イカラ、橘ノ好キナ郭公ハ〔八字傍線〕此ノ私ノ里ニハ、來テ鳴カナイラシイ。
 
○等毛之美思《トモシミシ》――乏しみし。乏しみは乏しき故に。シは強める助詞。
〔評〕 霍公鳥といふ言葉が用ゐてないのは、前の歌に讓つたのである、花橘と霍公鳥との、歌材としての密接な關係を基として作られたもの。
 
霍公鳥者、立夏之日來鳴(クコト)必(ズ)定(レリ)、又越中(ノ)風土(ハ)希2有(ナリ)橙橘1也、因(リテ)v此(ニ)大伴宿禰家持感發(シテ)2於懷(ニ)1、聊(カ)裁(ス)2此(ノ)歌(ヲ)1三月二十九日
 
霍公鳥者立夏之日來鳴必定とあるのは、當時は嚴格にかく言ひならはしたものか。卷十八の乎里安加之許余比波能麻牟保等登藝須安氣牟安之多波奈伎和多良牟曾《ヲリアカシコヨヒハノマムホトトギスアケムアシタハナキワタラムゾ》(四〇六八)の左註に二日應立夏節、故謂之明旦將喧也とある。卷十九(四一七一)にも二十四日(三月)應2立夏四月節1也、因v此二十三日之暮忽思2霍公鳥曉喧聲1作歌とある。越中風土希2有橙橘1也は越中は雪國で、柑橘類は殆ど育たないから、かく言つたのである。感發2於懷1は感が心に發しての意。三月二十九日の六字、温故堂本は小字になつてゐる。
 
(239)二上山(ノ)賦一首【此山者有2射水郡1也】
 
二上山は伏木町の西北に聳える山。山上が二峯になつてゐるからこの名がある。卷十六(三八八二)參照。賦は卜商詩序に「故詩有2六義1焉、一曰風、二曰賦云々、注云、賦者敷2陳其事1而直言之者也、」とあり、釋名に「敷2布其義1謂2之賦1」とある。集中の用例はこの長歌の外に、下に遊覽布勢水海賦、立山賦などがあるのみで、家持が漢詩に傚つて、用ゐ試みたものである。此山者有射水郡也の八字、舊本は大字になつてゐるが、元暦校本その他小字としたのがよいであらう。有は在の誤か。射水郡は今の射水・氷見の二郡を合したもの。氷見は明治二十九年に獨立して一郡となつた。
 
3985 射水川 い行き廻れる 玉くしげ 二上山は 春花の 咲ける盛に 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて ふり放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 皇神の 裾みの山の 澁溪の 埼の荒磯に 朝凪に 寄する白波 夕なぎに 滿ち來る潮の いやましに 絶ゆること無く 古ゆ 今の現に 斯くしこそ 見る人ごとに 懸けて偲ばめ
 
伊美都河泊《イミヅガハ》 伊由伎米具禮流《イユキメグレル》 多麻久之氣《タマクシゲ》 布多我美山者《フタガミヤマハ》 波流波奈乃《ハルハナノ》 佐家流左加利爾《サケルサカリニ》 安吉能葉乃《アキノハノ》 爾保弊流等伎爾《ニホヘルトキニ》 出立底《イデタチテ》 布里佐氣見禮婆《フリサケミレバ》 可牟加良夜《カムカラヤ》 曾許婆多敷刀伎《ソコバタフトキ》 夜麻可良夜《ヤマカラヤ》 見我保之加良武《ミガホシカラム》 須賣可未能《スメガミノ》 須蘇未乃夜麻能《スソミノヤマノ》 之夫多爾能《シブタニノ》 佐吉乃安里蘇爾《サキノアリソニ》 阿佐奈藝爾《アサナギニ》 餘須流之良奈美《ヨスルシラナミ》 由敷奈藝爾《ユフナギニ》 美知久流之保能《ミチクルシホノ》 伊夜麻之爾《イヤマシニ》 多由流許登奈久《タユルコトナク》 伊爾之弊由《イニシヘユ》 伊麻乃乎都豆爾《イマノヲツツニ》 可久之許曾《カクシコソ》 見流比登其等爾《ミルヒトゴトニ》 加氣底之努波米《カケテシヌバメ》
 
射水川ガ流レテ、廻ツテヰル(多麻久之氣)二上山ハ、春ノ花ノ盛リニ咲イテヰル時ニ、秋ノ紅葉ガ色ヅイテヰ(240)ル時ニ、外ヘ出テ立ツテ、遙カニ遠クカラ眺メルト、神樣ガ立派ナ神樣〔六字傍線〕デアルカラ甚ダ貴イノカ。山ガ良イ山デアル〔六字傍線〕カラ眺メタイノデアラウカ。(須賣加未能須蘇未乃夜麻能之夫多爾能佐吉乃安里蘇爾阿佐奈藝爾餘須流之良奈美由敷奈藝爾美知久流之保能)愈々益絶エルコトナク、昔カラ、今ノ現在マデカウシテ見ル人毎ニ、心ニカケテナツカシク思フコトデアラウ。
 
○伊美都河泊《イミヅカハ》――射水川。飛騨方面に源を發して、越中の礪波平野を流れ、射水郡に入り二上山の麓に沿うて東北に流れて海に注いでゐる。上流は小矢部川・庄川の二流になつてゐた。庄川即ち雄神川は、往古は今石動町の附近で合流してゐたさうだが、後幾度か合流地點を變へ、更に明治三十三年起工、十ケ年を費して今のやうに、新湊で海に注ぐことになつたのだから、家持時代の射水川は今日よりも水量が多かつたのである。○多麻久之氣《タマクシゲ》――壬匣。枕詞。蓋《フタ》にかけて二上山に冠してゐる。○可牟加良夜《カムカラヤ》――神故にか。卷二|國柄加《クニカラカ》(二二〇)の條參照。○曾許婆多敷刀伎《ソコバタフトキ》――ソコバは許多《ソコバク》に同じ。多く、澤山などの意。○夜麻可良夜《ヤマカラヤ》――山故にか。○須賣加未能《スメカミノ》――皇神は二上山の神をさしてゐる。山そのものを神として尊んだものである。但しこの山上には古くから二上の神を齋き奉つたので、續紀によると、「寶龜十一年十二月甲辰、越中國射水郡二上神、礪波郡高瀬神並叙2從五位下1」とある。この神社は明治八年奉遷して、高岡市の公園内に、國幣中社射水神社となつてゐる。○須蘇未乃夜麻能《スソミノヤマノ》――裾回の山。裾回は山の麓をいふ。○之夫多爾能佐吉乃安里蘇爾《シブタニノサキノアリソニ》――澁溪の埼の荒磯に。澁溪の埼は(241)今の雨晴附近。二上山の山彙、海に盡きたところに奇巖怪石が峙つて、絶景をなしてゐる。○美知久流之保能《ミチクルシホノ》――須賣可未能《スメカミノ》からここまでの八句は伊夜麻之爾《イヤマシニ》と言はむ爲の序詞。○伊麻乃乎都豆爾《イマノヲツツニ》――今の現に。ヲツツはウツツに同じ。○加氣底之努波米《カケテシヌバメ》――心にかけてなつかしく思ふことであらう。
〔評〕 例によつて、古歌に傚つた點が多い。可牟加良夜曾許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武《カムカラヤソコバタフトキヤマカラヤミガホシカラム》は卷二の國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸《クニカラカミレドモアカヌカムカラカココダタフトキ》(二二〇)、卷六の神柄香貴將有國柄鹿見欲將有《カムカラカタフトカルラムクニカラカミカホシカラム》(九二七)を學んだもの。美知久流之保能伊夜麻之爾《ミチクルシホノイヤマシニ》も卷四(六一七)・卷十二(三一五九)などに見える詞である。併し全體としては整然たる組織で、鮮明に且神々しく歌はれてゐる。なほ考には「此山に上つ代いはれ有しなるべし。其いにしへをしぬぶといふなり」とあるのは從ひ難い。
 
3986 澁谿の 埼の荒磯に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ
 
之夫多爾能《シブタニノ》 佐伎能安里蘇爾《サキノアリソニ》 與須流奈美《ヨスルナミ》 伊夜思久思久爾《イヤシクシクニ》 伊爾之弊於毛保由《イニシヘオモホユ》
 
(之夫多爾能佐伎能安里蘇爾與須流奈美)シキリニ、ツヅイテ、昔ガナツカシク思ハレル。
 
○之夫多爾能佐伎能安里蘇爾與須流奈美《シブタニノサキノアリソニヨスルナミ》――伊夜思久思久爾《イヤシクシクニ》と言はむ爲の序詞のみ。
〔評〕 所の風景を以て序詞を作つてゐるといふだけで、別に優れた點もない。古へ思ほゆとあるが、一般的に上代の神代を懷かしがつたもので、この地に關する古傳説があつたのではない。
 
3987 玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 聲の戀しき 時は來にけり
 
多麻久之氣《タマクシゲ》 敷多我美也麻爾《フタガミヤマニ》 鳴鳥能《ナクトリノ》 許惠乃孤悲思吉《コヱノコヒシキ》 登岐波伎爾家里《トキハキニケリ》
 
(242)(多麻久之氣)二上山ニ鳴ク鳥ノ聲ガ、戀シイ四月ノ〔三字傍線〕時節ガ來タヨ。早ク郭公ガ鳴ケバヨイガ〔早ク〜傍線〕。
 
○鳴鳥能《ナクトリノ》――この鳥は郭公である。既に立夏四月節に入つてゐるから、かく言つたのである。
〔評〕 集中の長歌で、名所を詠じたものは、殆ど總て、季節を超越して、一般的の記述をしてゐる。人麿の吉野の作でも、赤人の富士山の歌でも皆さうである。然るにここに反歌ながら季節を歌つて、作の時期を明らかにしてゐるのは異例といつてよい。多分前の歌にあらはれてゐる待郭公の氣分が、かういふ反歌を添へしめたものであらう。
 
右三月三十日依(リテ)v興(ニ)作(ル)v之(ヲ)大伴宿禰家持
 
四月十六日夜裏遙(カニ)聞(キテ)2霍公鳥(ノ)喧(クヲ)1述(ブル)v懷(ヲ)歌一首
 
3988 ぬば玉の 月に向ひて ほととぎす 鳴くおとはるけし 里遠みかも
 
奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 都奇爾牟加比底《ツキニムカヒテ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈久於登波流氣之《ナクオトハルケシ》 佐刀騰保美可聞《サトドホミカモ》
 
(奴婆多麻能)月ニ對シテ月ノ光ノ照ル所デ〔八字傍線〕鳴ク杜鵑ノ聲ガ遙カニ聞エル。アンナニ遠ク聞エルノハ此ノ私ノ〔アン〜傍線〕里カラ遠イカラデアラウカ。
 
○奴婆多麻能《ヌバタマノ》――枕詞。夜の枕詞なるを轉じて、月に冠したのである。○都奇爾牟加比底《ツキニムカヒテ》――郭公が月に向つて鳴くと言つてあるのは、卷十九の曉月爾向而往還鳴等余牟禮杼《アカトキツキニムカヒテユキカヘリナキトヨムレド》(四一六六)・暮去者向月而菖蒲玉貫麻泥爾鳴等余米安寢不令宿《ユフサラバツキニムカヒテアヤメグサタマヌクマデニナキトヨメヤスイネシメズ》(四一七七)などの例もあつて、月前に鳴くのをかく言つたのである。○佐刀騰保美可聞《サトトホミカミ》――吾が住む(243)里が、郭公の鳴く所と、遠く隔つてゐるからかといふのである。
〔評〕 四月十六日になつて郭公の初聲を聞いたのである。しかもそれがあまり遠くかすかであつたのを、物足りなく思つて、かういつてゐる。十六夜の月の光の中に聞えた、郭公のかすかな聲がしのばれる。
 
右大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
元暦校本には右の下に、一首の二字がある。
 
大目秦忌寸八千島之舘(ニテ)餞(スル)2守(ノ)大伴宿禰家持(ヲ)1宴歌二首
 
左註にあるやうに、やがて家持が上京することになつてゐるので、その餞別の宴を開いたのである。
 
3989 奈呉の海の 沖つ白波 しくしくに 思ほえむかも 立ち別れなば
 
奈呉能宇美能《ナゴノウミノ》 意吉都之良奈美《オキツシラナミ》 志苦思苦爾《シクシクニ》 於毛保要武可母《オモホエムカモ》 多知和可禮奈婆《タチワカレナバ》
 
貴方ト〔三字傍線〕御別レシタナラバ私ハ〔二字傍線〕(奈呉能宇美能意吉都之良奈美)頻リニ貴方ノ事ガ〔五字傍線〕戀シク思ハレルデセウカヨ。御別レハツラウゴザイマス〔御別〜傍線〕。
 
○奈呉能宇美能意吉都之良奈美《ナゴノウミノオキツシラナミ》――志苦思苦爾《シクシクニ》と言はむ爲の序詞。眼前の風光を採り用ゐたのである。
〔評〕 八千島の館が奈呉の海を、一眸の内に見渡すところにあつたことは、前の奈呉能安麻能《ナゴノアマノ》(三九五六)の歌に明ら(244)かである。歌は型に嵌つた平凡なものだ。これは八千島の作とも、家持の作とも考へられる。併し左註の書き方によると、家持の作らしい。
 
3990 わがせこは 玉にもがもな 手にまきて 見つつ行かむを 置きていかば惜し
 
和我勢故波《ワガセコハ》 多麻爾母我毛奈《タマニモガモナ》 手爾麻伎底《テニマキテ》 見都追由可牟乎《ミツツユカムヲ》 於吉底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》
 
吾ガ友ハ玉デアレバヨイガ。サウシタラバ私ガ都ヘ行クノニ〔サウ〜傍線〕手ニ卷キツケテ、見ナガラ行カウノニ、後ニ〔二字傍線〕殘シテ行クト殘リ〔二字傍線〕惜シイコトダ。
 
○我加勢故波《ワガセコハ》――元暦校本その他、我を和に作つてゐるのがよい。なほ元暦校本のみは和我となつてゐる。○於吉底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》――殘して行つたら惜しいであらうといふところだが、想像の餘地がないものとして、惜しと言ひ切つたのである。
〔評〕 この歌の殆ど全部が、下の入京漸近悲情難v撥述v懷一首(四〇〇六)の末尾に採り入れてある。これも家持作である。
 
右守大伴宿禰家持、以(テ)2正税帳(ヲ)1須v入(ラム)2京師(ニ)1、仍(リテ)作(リ)2此(ノ)歌(ヲ)1聊(カ)陳(ブ)2相別之歎(ヲ)1【四月二十日】
 
正税帳は又、税帳といふ。王朝時代四度公文の一で、國内の定穀穎出擧、並に借貸、填納勘出、田租、穀頴、及び例用、臨時並に其年殘定穀穎正倉等の事を記する帳簿。即ち諸國内の官物と去年の雜費支出との決算帳である。毎年二月三十日以前に太政官に送る規定であつたが、後、越中他八ケ國は四月中に送ることに改まつた。ここには五月初旬に家持が正税帳を以て京に上つてゐるのは、未だ式の規定がなかつたも(245)のか。他に理由があつたか知り難い。
 
遊2覽(スル)布勢水海(ニ)1賦一首并短歌【此海者有射水郡舊江村也】
 
布勢水海は二上山の北方にあつた湖水で、今の窪村・神代村・布勢村・十二町村などに圍まれた低地が、即ちその舊蹟である。堯惠法師の寛正六年の善光寺紀行に「やがて布勢の海のあたりになり侍り、遙々と湖水見渡せば鳴鴉飛盡て夕陽西山に隱れたり云々」とあるから、今日のやうに干拓せられたのは、慶長・元和以後のことであらうといふ。今はその中央に一條の水路を殘し、これを十二町潟といつてゐる。短歌の二字は元暦校本その他小字になつてゐる本が多い。有の字は類聚古集に在に作つてゐる。舊江村は下に安之我母能須太久舊江爾《アシガモノスダクフルエニ》(四〇一一)とあり、その左註に射水郡古江村と記してある。和名抄射水郡古江 布留江とあるところで、今の神代村・富田村・大田村等であらうといふ。即ち二上山の北麓で、布勢水海の南岸に當つてゐた。富田景周の楢葉越枝折には舊江村は今の堀田村、耳浦村であらうといひ、五十嵐篤好の三州郷莊考には下田子村に古江の森があるといつてゐるが、いづれも確證があるのではない。今十二町村の一部に古江村があるのは、干拓して出來た區域内に、舊名を襲うて附(246)したもので、證とはし難い。
 
3991 もののふの 八十伴の緒の 思ふどち 心遣らむと 馬なめて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 澁溪の 埼たもとほりまつだえの 長濱過ぎて うなび河 清き瀬ごとに 鵜河立ち かゆきかくゆき 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 船浮けすゑて 沖邊漕ぎ へに漕ぎ見れば 渚には あぢむら騷ぎ 島みには 木ぬれ花咲き ここばくも 見の清けきか 玉くしげ 二上山に 延ふ蔦の 行きは別れず 在り通ひ いやとしのはに 思ふどち 斯くし遊ばむ 今も見るごと
 
物能乃敷能《モノノフノ》 夜蘇等母乃乎能《ヤソトモノヲノ》 於毛布度知《オモフドチ》 許已呂也良武等《ココロヤラムト》 宇麻奈米底《ウマナメテ》 宇知久知夫利乃《ウチクチブリノ》 之良奈美能《シラナミノ》 安里蘇爾與須流《アリソニヨスル》 之夫多爾能《シブタニノ》 佐吉多母登保理《サキタモトホリ》 麻都太要能《マツダエノ》 奈我波麻須義底《ナガハマスギテ》 宇奈比河波《ウナビカハ》 伎欲吉勢其等爾《キヨキセゴトニ》 宇加波多知《ウカハタチ》 可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》 見都禮騰母《ミツレドモ》 曾許母安加爾等《ソコモアカニト》 布勢能宇彌爾《フセノウミニ》 布根宇氣須惠底《フネウケスヱテ》 於伎弊許藝《オキベコギ》 邊爾巳伎見禮婆《ヘニコギミレバ》 奈藝左爾波《ナギサニハ》 安遲牟良佐和伎《アヂムラサワギ》 之麻未爾波《シマミニハ》 許奴禮波奈左吉《コヌレハナサキ》 許已婆久毛《ココバクモ》 見乃佐夜氣吉加《ミノサヤケキカ》 多麻久之氣《タマクシゲ》 布多我弥夜麻爾《フタガミヤマニ》 波布都多能《ハフツタノ》 由伎波和可禮受《ユキハワカレズ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 伊夜登之能波爾《イヤトシノハニ》 於母布度知《オモフドチ》 可久思安蘇婆牟《カクシアソバム》 異麻母見流其等《イマモミルゴト》
 
役人ノ澤山ノ輩ガ、心ノ合ツタ友ダチ仲間、心ヲ慰メヨウトテ、馬ヲ並ベテ、アチコチノ岸ニ觸レル白波ガ、荒磯ニ打寄セル澁溪ノ崎ヲ廻ツテ、麻都太要《マツダエ》ノ長濱ヲ通ツテ、宇奈比川ノ清イ瀬毎ニ、鵜ヲ使ツテ魚ヲ取り、アチラヘ行ツタリ、コチラヘ行ツタリシテ眺メタケレドモ、其處モ飽キ足ラナイトテ、布勢ノ水海ニ舟ヲ浮ベテ下ロシテ、沖ノ方ヲ漕イダリ、岸ノ方ヲ漕イダリシテ見ルト、渚ニハ味鳧《アヂカモ》ノ群ガ鳴キ騷ギ、島ノ周圍ニハ、梢ニ花ガ咲キ、見タ所ガ大層清イ景色ダヨ。(多麻久之氣布多我弥夜麻爾波布都多能)互ニ離レ別レルコトナク、何時モ通ツテ來テ、今後〔二字傍線〕毎年毎年、心ノ合ツタ友達仲間ガ、今ノヤウニ、カウシテ、樂シク〔三字傍線〕遊バウヨ。
 
○物能乃敷能夜蘇等母乃乎能《モノノフノヤソトモノヲノ》――朝廷に奉仕する役人を總稱して物部《モノノフ》といふ。八十伴の緒は多くの部族の長。ここでは越中國府の官人どもを指してゐる。○於毛布度知《オモフドチ》――心の合つた友達。ドチは、仲間・連などの意。○許己呂也良武等《ココロヤラムト》――心遣らむと。心を慰めようとて。○宇知久知夫利乃《ウチクチブリノ》――よく分らない句である。代匠記初稿本は「馬ならへて、むちうつといふ心にいひかけて、をちこちふりとつづけたるなり。ふりは白浪の振といふ心なり。」とあり、精撰本には「うちくちふりは.遠近振《ヲチコチフリ》なるべし。波をいそふりとも云へば、遠近のいそに振ふなり」とある。考は「越後と越中の堺にちぶりの湊あり、こをもて馬並て打來知夫利といひてしら波にいひかけしならん」とある。略解も考の説を繼承して、「ちふりは今越中と越後の境に市振と言ふ所有り。海邊なりとぞ。云々」と言つてゐる。併しこの市振説は地理を辨へない妄説で、親不知に近い市振(今、北陸省線驛名になつてゐる)と、伏木・澁溪方面とは十數里を距て、全く無關係の地である。又語法か(248)ら言つても此處に市振を懸ける理由がない。この句は或は誤字があるかと思はれるが、暫く代匠記精撰本にならつて遠近振《ヲチコチフリ》とし、彼方此方の岸に振れて打ち寄せる白波と解しよう。新考は宇知牟禮來利《ウチムレキタリ》の誤かと言つてゐる。○麻都太要能奈我波麻須義底《マツダエノナガハマスギテ》――麻都太要《マツダエ》の長濱は、下にも麻都太要乃波麻《マツダエノハマ》(四〇一一)と見えてゐる。今その地名が殘つてゐないが、澁溪の磯から、氷見町に至る間、乃ち、今の島尾を中心とした長汀に違ひない。近時かの附近の無格社を合祀して、一社を建てそれに麻都太要神社の名を附したさうである。○宇奈比河波《ウナヒカハ》――宇奈比は和名抄に、越中射水郡宇納 宇奈美とあるところで、即ち今の字波村である。氷見村を距る更に北二里の海岸である。ここに宇波川と稱する小川が流れてゐる。河幅は河口に於て十間餘に過ぎないが今も鮎が多く棲んでゐるさうである。寫眞は著者撮影。○宇加波多知《ウカハタチ》――鵜河立ち。鵜河は河で鵜飼をすること。立ちは鵜飼人を河に立てることを言つてゐる。卷一にも上瀬爾鵜川乎立《カミツセニウカハヲタテ》(三八)とある。古義は「此句より下三句は可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》をいはむとての序なり。此處よくせずばまがひぬべし。家持卿の親《ミヅカラ》その鵜つかふ業|爲《シ》たまふ由には非ず。すべて鵜をつかふ人は、彼方此方行めぐるものなれば、ただ右往左往《カユキカクユキ》と云む料のみに、其地《ソコ》の宇納河《ウナヒカハ》もて、設け云るなり」とあるが、家持が鵜飼をさせて遊んだのである。序詞と見るは當らない。○曾許母安加爾等《ソコモアカニト》――其處も不飽と。アカニはアカズに同じ、。○安遲牟良佐和伎《アヂムラサワギ》――味鳧《アヂカモ》の群が鳴き騷ぎ。○之麻未爾波《シマミニハ》――シママと訓むのはよくない。シマミは嶋の廻り。(249)島は下に多古能之麻《タコノシマ》(四〇一一)とあるから、今の田子方面即ち湖水の東北邊にあつたのであらう。或は今の布勢圓山か。○許奴禮波奈左吉《コヌレハナサキ》――木末花咲き。コヌレは木《コ》の末《ウレ》の約。花は何の花か明らかでない。田子方面は集中藤花の名所として詠まれてをるから藤の花かと思はれるが、次の歌によると、卯の花とせねばならぬ。○許己婆久毛《ココバクモ》――ココバクはココダクに同じ。許多。澤山。○見乃佐夜氣吉加《ミノサヤケキカ》――見ることの清けきことよ。即ち景色のよいことよといふ意である。○多麻久之氣布多我弥夜麻爾波布都多能《タマクシゲフタガミヤマニハフツタノ》――この句は往きは別れずとつづく序詞。這ふ葛が彼方此方に枝を展げて別れるからである。○由伎波和可禮受《ユキハワカレズ》――往は別れず。互にちりぢりに別れ往くことなく。○安里我欲比《アリガヨヒ》――ありありて此處に通つて。かうして居て此處に通つて來て。集中に多い言葉である。○伊夜登之能波爾《イヤトシノハニ》――彌々毎年。今後毎年。卷十九に毎年謂2之|等之乃波《トシノハ》1(四一六八)とある。○異麻母見流其等《イマモミルゴト》――今も見るやうに。見るは輕く添へてある。今のやうにといふ意に過ぎない。
〔評〕 布勢水海の佳景に接して、これを讃歎すると共に、同伴の人たちに今後の再遊を契つて、友情をあらはしてゐる。これは遊覧の賦であるから、前の二上山賦と異なり、明らかにその季節を歌つてゐる。蓋し家持は上京に先立つて、この勝景を訪うて、都への自慢話の種を仕込んだものであらう。
 
3992 布勢の海の 沖つ白波 在り通ひ いや年のはに 見つつ偲ぬばむ
 
布勢能宇美能《フセノウミノ》 意枳都之良奈美《オキツシラナミ》 安利我欲比《アリガヨヒ》 伊夜登偲能波爾《イヤトシノハニ》 見都追思奴播牟《ミツツシヌバム》
 
布勢ノ海ノ沖ニ立ツ白浪ノ面白イ景色ヲ〔七字傍線〕、カウシテ此處ヘ〔三字傍線〕通ツテ來テ、毎年毎年眺メテナツカシク思ハウ。
 
○布勢能宇美能意枳都之良奈美《フセノウミノオキツシラナミ》――布勢の海の沖の白浪の景色を。略解に「沖浪の常に寄せかへるをもて、やがて序とせり」とあるが、下へのつづきが序詞らしくなつてゐない。○見都道思努播牟《ミツツシヌバム》――シヌブはなつかしく思ふこと。ここでは愛翫する意である。
 
(250)〔評〕 長歌の末句を繰返したに過ぎない。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。
 
右守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)、四月二十四日
 
敬(ミテ)和(フル)d遊覽(スル)2布勢水海爾1賦(ニ)u一首并一絶
 
長歌を賦と記したから、短歌を絶句に擬して、一絶と言つてゐる。
 
3993 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしびきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きしとよめば うち靡く 心もしぬに そこをしも うら戀しみと 思ふどち 馬うち群れて たづさはり 出で立ち見れば 射水川 湊の洲鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮滿てば 妻喚びかはす ともしきに 見つつ過ぎ行き 澁溪の 荒磯の埼に 沖つ波 寄せ來る玉藻 片よりに かづらに作り 妹がため 手に纏き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人船に まかぢかい貫き 白妙の 袖振り反し あともひて 吾が漕ぎ行けば 乎布の埼 花散りまがひ 渚には 葦鴨騷ぎ さざれ波 立ちてもゐても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば もみぢの時に 春さらば 花の盛に かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや
 
布治奈美波《フヂナミハ》 佐岐底知理爾伎《サキテチリニキ》 宇能波奈波《ウノハナハ》 伊麻曾佐可理等《イマゾサカリト》 安之比奇能《アシビキノ》 夜麻爾毛野爾毛《ヤマニモヌニモ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈伎之等與米婆《ナキシトヨメバ》 宇知奈妣久《ウチナビク》 許己呂毛之努爾《ココロモシヌニ》 曾己乎之母《ソコヲシモ》 宇良胡非之美等《ウラコヒシミト》 於毛布度知《オモフドチ》 宇麻宇知牟禮底《ウマウチムレテ》 多豆佐波理《タヅサハリ》 伊泥多知美禮婆《イデタチミレバ》 伊美豆河泊《イミヅカハ》 美奈刀能須登利《ミナトノスドリ》 安佐奈藝爾《アサナギニ》 可多爾安佐里之《カタニアサリシ》 思保美底婆《シホミテバ》 都麻欲妣可波須《ツマヨビカハス》 等母之伎爾《トモシキニ》 美都追須疑由伎《ミツツスギユキ》 之夫多爾能《シブタニノ》 安利蘇乃佐伎爾《アリソノサキニ》 於枳追奈美《オキツナミ》 余勢久流多麻母《ヨセクルタマモ》 可多與理爾《カタヨリニ》 可都良爾都久理《カツラニツクリ》 伊毛我多米《イモガタメ》 ?爾麻吉母知底《テニマキモチテ》 宇良具波之《ウラグハシ》 布勢能美豆宇弥爾《フセノミヅウミニ》 阿麻夫祢爾《アマブネニ》 麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》 之路多倍能《シロタヘノ》 蘇泥布理可邊之《ソデフリカヘシ》 阿登毛(251)比底《アトモヒテ》 和賀已藝由氣婆《ワガコギユケバ》 乎布能佐伎《ヲフノサキ》 波奈知利麻我比《ハナチリマガヒ》 奈伎佐爾波《ナギサニハ》 阿之賀毛佐和伎《アシガモサワギ》 佐射禮奈美《サザレナミ》 多知底毛爲底母《タチテモヰテモ》 已藝米具利《コギメグリ》 美禮登母安可受《ミレドモアカズ》 安伎佐良婆《アキサラバ》 毛美知能等伎爾《モミヂノトキニ》 波流佐良婆《ハルサラバ》 波奈能佐可利爾《ハナノサカリニ》 可毛加久母《カモカクモ》 伎美我麻爾麻等《キミガマニマト》 可久之許曾《カクシコソ》 美母安吉良米米《ミモアキラメメ》 多由流比安良米也《タユルヒアラメヤ》
 
藤ノ花ハ咲イテ散ツテシマツタ。卯ノ花ハ今ガ盛リダトテ、(安之比奇能)山ニモ野ニモ郭公ガ聲ヲ響カセテ鳴イテヰルト、ソレヲ、ユカシク思ツテ、ソレニ引カレ〔三字傍線〕靡ク心モ、シヲレテ、ソレガ心戀シサニ、心ノ合ツタ友達仲間、馬ヲ並ベテ相携ヘテ國府カラ〔四字傍線〕出カケテ見ルト、射水川ノ河口ノ洲ニ居ル鳥ハ、朝※[さんずい+相]ニハ潟デ餌ヲアサツテ居リ、汐ガ滿チテ來ルト、雌雄互ニ〔四字傍線〕妻ヲ呼ビカハシテヰル。ソノ景色ガ〔五字傍線〕、珍ラシイカラ、ソレヲ〔三字傍線〕見ナガラ通ツテ行キ、澁溪ノ荒磯ノ崎ニ、沖ノ浪ガ打チ寄セテ來ル玉藻ヲ、片搓リニ搓ツテ頭ノ飾ノ〔七字傍線〕※[草冠/縵]ニ作ツテ、ソレヲ〔三字傍線〕妻ニ贈ル爲ニ手ニ卷キ付ケテ持ツテ、愛スベキ布勢ノ水海ニ、漁船ニ櫓ヤ櫂ヲ貫イテ(之路多倍能)袖ヲ振ツテ飜シナガラ、皆ノ者ヲ〔四字傍線〕連レテ私ガ漕イデ行クト、乎布ノ崎ニハ花ガ散リ亂レ、渚ニハ蘆鴨ガ鳴キ騷イデヰテ、景色ガ良イカラ〔七字傍線〕漕ギマハツテ、(佐射禮奈美)立ツテ見テモ、坐ツテ見テモ、飽キナイ。(252)秋ガ來タナラバ紅葉ノ美シイ時ニ、春ガ來タナラバ花ノ盛リノ時ニ、兎ニモ角ニモ、貴方ノ御心次第ニト、カウシテ、眺メテ心ヲ晴ラシテ何時マデモ〔五字傍線〕絶エル日ハアリマセンヨ。
 
○宇知奈比久《ウチナビク》――打ち靡く。考に冠辭とあるが、さうではない。古義に「心の花鳥に靡き依るを云なるべし」とあるのがよい。卷十一の海原之奧津繩乘打靡心裳四怒爾所念鴨《ウナバラノオキツナハノリウチナビキココロモシヌニオモホユルカモ》(二七七九)などを始として、ウチナビキからココロとつづいた歌は多いが、ここをウチナビキの誤とするのはわるい。○曾己乎之母《ソコヲシモ》――それが。シモは強辭。ソコは其の處の意ではない。卯の花に鳴く郭公を言ふのである。○宇良胡非之美等《ウラコヒシミト》――心戀しとの意。○宇麻宇知牟禮底《ウマウチムレテ》――馬を並べて、ウチは馬を鞭打つのではない。○多豆佐波理《タヅサハリ》――相携へて。手を取り合つて。○伊美豆河泊美奈刀能須登利《イミヅカハミナトノスドリ》――射水河の河口にゐる渚鳥。渚鳥は洲にゐる水鳥。○可多爾安佐里之《カタニアサリシ》――カタは潟。海邊の汐の干滿によつて見え隱れする所をいふ。アサルは鳥の餌を求めること。○等母之伎爾《トモシキニ》――珍らしきに。面白いから。○余勢久流多麻母《ヨセクルタマモ》――寄せ來る玉藻。タマモは玉モではない。玉藻をの意である。○可多與理爾《カタヨリニ》――片搓りに。カタヨリは糸を一方にのみ搓ること。玉藻を繩のやうに綯つて、縵に作るのである。古義にこれを片寄りにして、上の句を轉倒して、於枳追奈美《オキツナミ》の下に置いて解してゐるのは從ひ難い。○宇良具波之《ウラグハシ》――心|細《クハ》し。心に愛する。花|細《クハ》し、名|細《クハ》し、などのクハシである。布勢の水海を褒めてゐる。○麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》――眞※[楫+戈]・櫂を貫いて。※[楫+戈]は櫓。櫂は今もカイといふもの。カヂは大きく、カイは小さい。和名抄に、「※[楫+戈]、釋名云、※[楫+戈]、音接、一音集、賀遲使2舟捷1疾也、兼名宛云、※[楫+戈]一名※[木+堯]」とあり。又「棹、釋名云、在v旁撥v水曰v櫂、直教反、字亦作v棹、楊氏漢語抄云、加伊、櫂2二於水中1、且v進v櫂也、」とある。○之路多倍能《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。○阿登毛比底《アトモヒテ》――引連れて。アトトモナヒテの略といふ。○乎布能佐伎《ヲフノサキ》――乎布の崎は湖中の地名。二上山の裾が湖中に突出した岬。今、耳浦をオホウラとも呼んでゐる。卷十八に乎不乃宇良《ヲフノウラ》(四〇四九)・卷十九に乎布能浦《ヲフノウラ》(四一八七)とある。寫眞の中景左方から突出した山。著者撮影。○波奈知利麻我比《ハナチリマガヒ》――前に卯の花は今ぞ盛とあるから、この花は卯の花である。○佐射禮奈美《サザレナミ》――小波。枕詞として、立ちても居てもに、つづけてゐる。(253)○多知底毛爲底母《タチテモヰテモ》――句を隔てて、見れども飽かずにつづいてゐる。立ちて見ても、居て見ても飽くことがないといふのである。○可毛加久母《カモカクモ》――とにもかくにも。○伎美我麻爾麻等《キミガマニマト》――貴方のお心のまにまにと、元暦校本、一に等を爾に作つてゐるが、等が原形であらう。○美母安吉良米米《ミモアキラメメ》――見て心を明らかにしよう。即ち心を晴さうの意。モは詠歎の助詞。古義に言つてゐるやうに、見もし明らめもせめといふのではない。卷三の御心乎見爲明米之《ミココロヲミシアキラメシ》(四七八)と同樣な言ひ方になつてゐる。
〔評〕 布勢水海遊覧の季節が先づ歌はれてゐる。藤波や卯の花を點出して、郭公を配したのに心引かれる。ついで郭公の聲に催されて行く遊覽の途上の光景が、目に見るやうに詠まれ、湖上の勝景に飽くことを知らぬ意を述べ、君と共に永久に此處に遊ばうと言つたのは、まことに行き屆いた作だ。前の家持のものより遙かに優れてゐる。
 
3994 白波の よせくる玉藻 世の間も つぎて見に來む 清き濱びを
 
(254) 之良奈美能《シラナミノ》 與世久流多麻毛《ヨセクルタマモ》 余能安比太母《ヨノアヒダモ》 都藝底民仁許武《ツギテミニコム》 吉欲伎波麻備乎《キヨキハマビヲ》
 
此ノ〔二字傍線〕美シイ濱邊ノ景色ヲ(之良奈美能與世久洗多麻毛)吾ガ〔二字傍線〕世ノ有ラム限、ツヅイテ見ニ來ヨウ。アマリヨイ景色ダカラ一度ヤ二度デハ物足リナイ〔アマ〜傍線〕。
 
○之良奈美能與世久流多麻毛《シラナミノヨセクルタマモ》――白浪が打寄せて來る玉藻。玉藻には節《ヨ》があるから、世《ヨ》にかけて用ゐた序詞である。卷十九に八隔浪爾靡珠藻乃節間毛惜命乎《ヤヘナミニナビクタマモノフシノマモヲシキイノチラ》(四三一)とある。○余能安比太母《ヨノアヒダモ》――ヨは世。命。命のある間はの意。
〔評〕 布勢の水海に對する熱愛の情を強調してゐるに過ぎない。中央政府から派遣せられた、任期のある官人の言葉としては、少しそらぞらしいやうでもある。
 
右掾大伴宿禰池主作、四月二十六日追和
 
四月廿六日に前の家持の歌に和して作つたといふのである。四月廿六日追和の七字は、舊本大字になつてゐるが、元暦校本その他小字にする本が多い。
 
四月二十六日掾大伴宿禰池主之館(ニ)餞(スル)税帳使守大伴宿禰家持(ヲ)1宴(ノ)謌并古歌四首
 
税帳使は正税使に同じ。正税帳を以て京に上る使である。舊本、餞を錢に誤つてゐる。元暦校本(255)によつて改めた。
 
3995 玉桙の 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さまねみ 戀しけむかも 一云、見ぬ日久しみ戀しけむかも
 
多麻保許乃《タマボコノ》 美知爾伊泥多知《ミチニイデタチ》 和可禮奈婆《ワカレナバ》 見奴日佐麻称美《ミヌヒサマネミ》 孤悲思家武可母《コヒシケムカモ》
 
私ガ旅ノ〔四字傍線〕(多麻保許乃)道ニ出カケテ貴方ガタニ〔五字傍線〕分レテ、都ヘ行ツ〔五字傍線〕タナラバ、相見ナイ日ガ多イノデ、私ハ貴方ガタガ〔七字傍線〕戀シイデアラウヨ。
 
○見奴日佐麻称美《ミヌヒサマネミ》――サは接頭語マネミは、數多《マネシ》にミを附した形、多き故にの意。逢はない日が多いから。舊本、佐の下に等の字あるは誤。元暦校本によつて削つた。
〔評〕 普通一遍の惜別の言葉に過ぎない。平凡の作といつてよい。
 
一云、不見日久彌《ミヌヒヒサシミ》、戀之家牟加母《コヒシケムカモ》
 
これは四五の句の異傳であるが、全く同意である。
 
右一首大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
3996 わがせこが 國へましなば ほととぎす 鳴かむ五月は さぶしけむかも
 
和我勢古我《ワガセコガ》 久爾弊麻之奈婆《クニヘマシナバ》 保等登藝須《ホトトギス》 奈可牟佐都寄波《ナカムサツキハ》 佐夫之家牟可母《サブシケムカモ》
 
(256)吾ガ友ガ故郷ノ奈良〔三字傍線〕ヘ御歸リニナツタナラバ、郭公ノ鳴ク五月ハ、ソノ鳥ノ聲ヲ聞ク度ニ、貴方ト一緒ニ聞カナイノヲ殘念ニ思ツテ〔ソノ〜傍線〕、淋シイデセウヨ。
 
○和我勢古我《ワガセコガ》宿禰――吾が背子とは、家持を親しんで言つてゐる。○久爾弊麻之奈婆《クニヘマシナバ》――國へ往き給はばの意。國は故國。即ち奈良を指してゐる。
〔評〕 郭公の鳴く好季節に語らふ友なきことを、物足りなく思つたのである。これも何の特色もない。
 
右一首介|内藏《ウチノクラ》忌寸繩麿作(ル)v之(ヲ)
 
この人の傳はわからない。卷十九(四二〇〇)に介を次官と記してゐる。
 
3997 あれなしと なわび吾が兄子 ほととぎす 鳴かむ五月は 玉を貫かさね
 
安禮奈之等《アレナシト》 奈和備和我勢故《ナワビワガセコ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈可牟佐都奇波《ナカムサツキハ》 多麻乎奴香佐禰《タマヲヌカサネ》
 
私ガ留守ニナツテモ〔九字傍線〕、私ガ居ナイカラトテ、吾ガ友ヨ、悲シミナサルナ。郭公ガ鳴ク五月ニハ、橘ヲ〔二字傍線〕玉ニ貫イテ藥玉ヲコシラヘテ遊ビ〔テ藥〜傍線〕ナサイ。
 
○奈和備和我勢故《ナワビワガセコ》――佗ぶるなかれ、吾が背子よ。○多麻乎奴香佐禰《タマヲヌカサネ》――橘の實を藥玉として、貫き給へよといふのである。
〔評〕 吾が留守中は藥玉でも作つて、心を慰め給へといふので、前の歌に答へたもの。國守とその次官たる介との間に、訣別に際してこんな呑氣な言葉が言ひ交はされてゐるのは、如何に風流韻事を主とした時代とは言へ、今から考へると不思議な感がするほどだ。
 
(257)右一首守大伴宿禰家持|和《コタフ》
 
石川朝臣|水通《ミミチ》橘歌一首
 
石川朝臣水通の傳は明らかでない。
 
3998 吾が宿の 花橘を 花ごめに 玉にぞ吾が貫く 待たば苦しみ
 
和我夜度能《ワガヤドノ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 波奈其米爾《ハナゴメニ》 多麻爾曾安我奴久《タマニゾアガヌク》  麻多婆苦流之美《マタバクルシミ》
 
貴方ガ御留守ニナツタラ、御歸リヲ〔貴方〜傍線〕待ツノハ、苦シイカラ、ソノ憂サヲ慰メル爲ニ〔ソノ〜傍線〕、吾ガ家ノ花橘ヲ花ト共ニ、玉ニ私ハ貰イテ遊ビ〔三字傍線〕マス。
 
○波奈其米爾《ハナゴメニ》――花と共に。橘の花が散つて、實となつたのを玉に貫くのであるが、それを待ちかねて、花のまま玉に貫くといふのである。
〔評〕 石川朝臣水通の作で、池主が諳んじてゐたもの。ここに丁度當て嵌まる歌だから、池主が思ひ出して誦したのである。但し結句は原歌では花の實となるのを待たばの意であるのを、ここでは旅なる人を待たばの意にして、謠ひ出したのであらう。前の標題に古歌とあるのは、この歌を指したものであるが、さして古い作とは思はれない。
 
右一首傳(ヘ)誦(ルハ)主人大伴宿禰池主(ト)云爾《シカイフ》
 
云爾は「……である」の意と見ればよい。
 
(258)守大伴宿禰家持舘(ニ)飲宴歌一首【四月二十六日】
 
前の池主の館に於ける送別の宴が四月二十六日で、これも亦同日になつてゐるのはどうしたのであらう。いづれか誤かとも考へられるが、恐らく家持が歸館して二次會を開いたのであらう。
 
3999 都べに 立つ日近づく 飽くまでに 相見て行かな 戀ふる日多けむ
 
美夜故弊爾《ミヤコベニ》 多都日知可豆久《タツヒチカヅク》 安久麻底爾《アクマデニ》 安比見而由可奈《アヒミテユカナ》 故布流比於保家牟《コフルヒオホケム》
 
私ハ〔二字傍線〕都ノ方ヘ出立スル日ガ近ヅイタ。此處ヲ別レテ行ツタナラバ〔此處〜傍線〕、戀シク思フ日ガ多イデセウ。デスカラ今ノ内〔七字傍線〕飽キルホドモ充分ニ、貴方ガタト〔八字傍線〕オ目ニカカツテ行キマセウ。今夜ハユツクリクツロイデ遊ンデ行ツテ下サイ〔今夜〜傍線〕。
〔評〕 これも平庸な作ではあるが、飽くまでに相見て行かうといつたのは、友情のあらはれた言葉である。
 
立山《タチヤマ》賦一首并短歌 此山者有2新河郡1也
 
立山は今は一般にタテヤマと言はれでゐるが、本集の歌に詠まれたのは、いづれも多知夜麻と記されてゐる。今なほ地方人は多くタチヤマといつてゐるやうである。越中の南邊信濃國境に近く聳えた休火山で、地中の平野から見ると淨土山・雄山・大汝山・別山・劔山などが相列んで、謂はゆる連峯をなしてゐる。その主峯が雄山で、標高二千九百十二米突である。この長歌はこの連峯の概觀を歌つたものである。新河郡は今、上新川・中新川・下新川の三郡に分れてゐる。和名抄には爾布加波と注してあるが、この長歌に爾比可波とあり、又延喜式にも爾比加波とあるから、中古に(259)はニヒカハともニフカハとも呼んだものか。
 
4000 天離る 鄙に名かかす 越の中 國内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多にゆけども 皇神の うしはきいます 新河の その立山に 常夏に 雪降り敷きて おばせる 片貝川の 清き瀬に 朝よひごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや 在り通ひ いや年のはに よそのみも ふり放け見つつ 萬代の 語らひ草と 未だ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 乏しぶるがね
 
安麻射可流《アマザカル》 比奈尓名可加須《ヒナニナカカス》 古思能奈可《コシノナカ》 久奴知許登其等《クヌチコトゴト》 夜麻波之母《ヤマハシモ》 之自爾安禮登毛《シジニアレドモ》 加波波之母《カハハシモ》 佐波爾由氣等毛《サハニユケドモ》 須賣加未能《スメガミノ》 宇之波伎伊麻須《ウシハキイマス》 爾比可波能《ニヒカハノ》 曾能多知夜麻尓《ソノタチヤマニ》 等許奈都爾《トコナツニ》 由伎布理之伎底《ユキフリシキテ》 於婆勢流《オバセル》 可多加比河波能《カタカヒカハノ》 伎欲吉瀬爾《キヨキセニ》 安佐欲比其等爾《アサヨヒゴトニ》 多都奇利能《タツキリノ》 於毛比須疑米夜《オモヒスギメヤ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 伊夜登之能播仁《イヤトシノハニ》 余増能未母《ヨソノミモ》 布利佐氣見都々《フリサケミツツ》 余(260)呂豆餘能《ヨロヅヨノ》 可多良比具佐等《カタラヒグサト》 伊末太見奴《イマダミヌ》 比等爾母都氣牟《ヒトニモツゲム》 於登能未毛《オトノミモ》 名能未母伎吉底《ナノミモキキテ》 登母之夫流我禰《トモシブルガネ》
 
(安麻射可流)田舍ニ名ヲアゲテヰル越中ノ國内ニ悉ク、山ハ澤山アルケレドモ、川ハ澤山流レ〔二字傍線〕行クケレドモ、神樣ガ鎭座シテ〔四字傍線〕領シテイラセラレル、新河ノソノ立山ニハ夏ノ間常ニ雪ガ降リ頻ツテ(於姿勢流可多加比河波能伎欲吉瀬爾安佐欲比其等爾多都奇利能)此ノ山ヲ〔四字傍線〕思ヒ忘レヨウヤ、決シテ忘レハセヌ〔八字傍線〕。常ニ通ツテ行ツテ、毎年毎年、他所乍ラモ遙ニ眺メテ、萬代ノ後マデモノ語リ草トシテ、マダ見ナイ人ニ告ゲテヤラウ。ソレラノ人タチガ〔八字傍線〕話ニバカリ聞キ評判ニバカリ聞イテ、羨マシガルヤウニ。
 
○安麻射可流《アマザカル》――枕詞。鄙《ヒナ》部とつづく。二九參照。○比奈尓名可加須《ヒナニナカカス》――鄙に名を懸けてゐる。カカスは懸くの敬相。この句については種々の説があつて、代匠記精撰本に、「名かかすは名懸《ナカカス》なり。越中と人の言に懸て名高き意なり。延喜式に紀伊國に國懸《クニカカス》神社あり。此|縣《カカス》と同じ」とあり、略解の宣長説には、「かかすは懸すなり。人麻呂歌に御名にかかせる飛島川と詠めるも、飛鳥皇女の御名にかかせる也。又紀の國の國懸《クニカカス》神をもおもふべし。ここは立山なれば、立つと言ふ事を名にかけて、高く立るよし也」と言つてゐる。古義もこれと同説で、「さてここは立山と云ふ名に懸りて、高く秀て立登れるを云なるべし。夷《ヒナ》と云に名を懸《カク》と云には非ず。夷(ノ)國にありて立山と云名に懸りて、高く立(テ)る謂《ヨシ》ならむ」とある。この宣長・雅澄の説は、この句から九句をおいで曾能多知夜麻爾《ソノタチヤマニ》にかかつてゐると見るのであるが、それはあまりに勝手な解釋であらう。語勢その他から考へて、次句の古思能奈可《コシノナカ》へ續いてゐることは否定し難い。即ち鄙に名を懸けてゐるといふのは、人の口にその名を懸けてゐる、即ち人口に有名な越中といふ意であらう。卷二の御名爾懸世流飛鳥河《ミナニカカセルアスカガハ》(一九六)とは似てゐるが、少し異なつてゐる。○久奴知許登其等《クヌチコトゴト》――國内悉く。國内に普く。○佐波爾由氣等毛《サハニユケドモ》――澤山に流れ逝けども。○須賣加(261)未能《スメガミノ》――皇神は立山におはす神。雄山の頂上に、式内雄山神社が祀られてゐる。○宇之波伎伊麻須《ウシハキイマス》――ウシハクは主《ウシ》として佩く。領すること。○等許奈都爾《トコナツニ》――常夏に。夏の間いつでも。代匠記精撰本に「とこなつには常《ツネ》にと云心なり。撫子を常夏と云も春こそ咲かね、秋も咲冬野にも若は咲ことのあれば常磐の意なるべし」とあるのは從ひ難い。宣長が「とこなつのなつは、のどと通ひて、のどかに久しき意也。草のとこなつといふ名も、花ののどかに久しく在よしの名也。なでしこも、のどしこにて同じ意也」と言つたのは牽強の言であらう。○於姿勢流《オバセル》――帶び給へる。立山を圍つて流れてゐる意。この句から多都奇利能《タツキリノ》までの五句は、立山が帶びてゐる片貝川の清い瀬に、朝夕毎に、立つ霧が消えるやうにの意で、於毛比須疑米夜《オモヒスギメヤ》につづく序詞である。○可多加比河波能《カタカヒカハノ》――片貝川は今もその名が殘つてゐる。立山の前山なる瀧倉嶽と猫又山とから發したものが合流し、片貝谷を流れて、魚津町の東方、經田村で海に注いでゐる。その流域約八里。○於毛比須疑米夜《オモヒスギメヤ》――思ひ忘れむやの意で、霧の消えるのに譬へてつづいてゐる。卷三の山部宿禰赤人作|明日香河川余藤不去立霧乃念應過孤悲爾不有國《アスカガハカハヨドサラズタツキリノオモヒスグベキコヒニアラナクニ》(三二五)に似てゐる。○余増能未母《ヨソノミモ》――外《ヨソ》にのみもの意。山に登つたのではなく、外ながら眺める意である。○於登能未毛名能未母伎吉底《オトノミモナノミモキキテ》――音にのみも名にのみも聞きで。話にばかり評判にばかり人が聞いて。○登母之夫流我禰《トモシブルガネ》――羨ましがるやうに。このトモシは羨ましく思ふをいふ。音にのみ名にのみ聞いて、實景を見ないことを人が遺憾とし、羨ましがるのである。ガネは卷三の語繼金《カタリツグガネ》(三六四)參照。
〔評〕 鄙に名高き越中といつて、先づ吾が任國を誇り、その國中に秀でた立山の、夏ながら雪を絶さぬことを述べて、この名山を萬世に語り草として、未見の人を羨ましがらせようと言つてゐる。卷三に見えた赤人及び無名氏の富士山の歌などの影響も見え、一體に型に嵌つた感興の乏しい作である。立山は加賀の白山と共に北陸の名山で、已にその頃かの地獄の姿なども世に知られてゐたと思ふが、その方面に一言も費さず、唯表面的の概説に終つたのは、まことに物足りない。蓋し安里我欲比《アリガヨヒ》云々と言つてゐるけれども、國府廳舍から眺めて詠んだ作であるからである。
 
4001 立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし
 
(262)多知夜麻爾《タチヤマニ》 布里於家流由伎乎《フリオケルユキヲ》 登己奈都爾《トコナツニ》 見禮等母安可受《ミレドモアカズ》 加武賀良奈良之《カムカラナラシ》
 
立山ニ降ツテ置イタ雪ヲ、夏ノ間常ニ見テモ、飽ク事ハナイ。コレハ此ノ山ガ不思議ナ〔コレ〜傍線〕神樣デイラツシヤルカラデアラウ。
 
○加武賀良奈良之《カムカラナラシ》――神柄であらう。この山の神が立派な神であるからであらうの意。古義に加武奈賀良奈良之《カムナガラナラシ》に改めたのは妄である。
〔評〕 この人の二上山賦にも可牟加良夜曾許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武《カムカラヤソコバタフトキヤマカラヤミガホシカラム》(三九八五)とあるが、それは笠金村の神柄香貴將有國柄鹿見欲將有《カムカラカタフトカルラムクニカラカミガホシカラム》(九〇七)、人麿の國柄加雖見不飽神柄加幾許貴寸《クニカラカミレドモアカヌカムカラカココダタフトキ》(二二〇)から學んだもので、これもそれと同巧である。
 
4002 片貝の 河の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく 在り通ひ見む
 
可多加比能《カタカヒノ》 可波能瀬伎欲久《カハノセキヨク》 由久美豆能《ユクミヅノ》 多由流許登奈久《タユルコトナク》 (263)安里我欲比見牟《アリガヨヒミム》
 
(可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能)絶エルコトガナク、何時マデモ私タチモ其處ヘ〔何時〜傍線〕通ツテ行ツテ、立山ノ面白イ景色ヲ〔九字傍線〕眺メヨウ。
 
○可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノ》――絶ゆることなくと言はむ爲の序詞。立山に關係ある河の名を取り入れたに過ぎない。
〔評〕 長歌中の霧を水に改めただけで、何の興趣もない作である。下句は卷一の醫見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無久復還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》(三七)を學んだものであらう。
 
四月二十七日大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
敬(ミテ)和(フル)2立山賦(ニ)1一首并二絶
 
4003 朝日さし 背向に見ゆる 神ながら 御名に負はせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 分くこともなく 白妙に 雪は降り置きて 古ゆ あり來にければ こごしかも 巖の神さび たまきはる 幾代へにけむ 立ちて居て 見れどもあやし 峯高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝去らず 霧立ち渡り 夕されば 雲ゐ棚引き 雲ゐなす 心もしぬに 立つ霧の 思ひ過さず 行く水の 音も清けく 萬代に 言ひつぎ行かむ 河し絶えずは
 
阿佐比左之《アサヒサシ》 曾我比爾見由流《ソガヒニミユル》 可無奈我良《カムナガラ》 彌奈爾於婆勢流《ミナニオバセル》 之良久母能《シラクモノ》 知邊乎於之和氣《チヘヲオシワケ》 安麻曾曾理《アマソソリ》 多可吉多知夜麻《タカキタチヤマ》 布由奈都登《フユナツト》 和久許等母奈久《ワクコトモナク》 之路多倍爾《シロタヘニ》 遊吉波布里於吉底《ユキハフリオキテ》 伊爾之邊遊《イニシヘユ》 阿理吉仁家禮婆《アリキニケレバ》 許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》 多末伎波流《タマキハル》 伊久代經爾家牟《イクヨヘニケム》 多知底爲弖《タチテヰテ》 見禮登毛安夜之《ミレドモアヤシ》 弥禰太可美《ミネダカミ》 多爾乎布(264)可美等《タニヲフカミト》 於知多藝都《オチタギツ》 吉欲伎可敷知爾《キヨキカフチニ》 安佐左良受《アササラズ》 綺利多知和多利《キリタチワタリ》 由布佐禮婆《ユフサレバ》 久毛爲多奈※[田+比]吉《クモヰタナビキ》 久毛爲奈須《クモヰナス》 己許呂毛之努爾《ココロモシヌニ》 多都奇理能《タツキリノ》 於毛比須具佐受《オモヒスグサズ》 由久美豆乃《ユクミヅノ》 於等母佐夜氣久《オトモサヤケク》 與呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊比都藝由可牟《イヒツギユカム》 加波之多要受波《カハシタエズハ》
 
旭ガ射ス東ノ方ニアツテ國府カラ〔東ノ〜傍線〕斜ノ方ニ見エル、神ソノママデ空高ク聳エ立ツトイフ〔空高〜傍線〕御名ヲ持ツテヰル、白雲ノ幾重モ重ナツテ居ルノヲ押シ分ケテ、空ニ聳エテ高イ立山ハ、冬夏ト區別モナク、眞白ニ雪ガ降ツテ居テ、昔カラ、續イテ來タノデ、嶮岨ナ岩ガ神々シク、古ビテ〔三字傍線〕(多末伎波流)幾代經タデアラウカ。立ツテ眺メテモ、坐ツテ眺メテモ、不思議ナ山〔二字傍線〕ダ。嶺ガ高イカラ谷ガ深イカラトテ、山カラ〔三字傍線〕泡ダツテ落チテ流レル景色ノヨイ、河ノ曲ツテ圍ンデヰル所ニハ、毎朝毎朝霧ガ立チ渡リ、夕方ニナルト、雲ガ棚曳イテヰルガ、其ノ〔三字傍線〕雲ノ靡ク〔二字傍線〕ヤウニ、心モシヲシヲト萎レテ、立ツ霧ノヤウニ思ヒ忘レルコトモナク、流レル水ノヤウニ、音モサヤカニ、此ノ河ガ絶エナイ限ハ、萬代ノ後マデモ、言ヒ傳ヘテ行キマセウ。
 
○阿佐比左之曾我比爾見由流《アサヒサシソガヒニミユル》――朝日がさして背向に見える。朝日さしは朝日のさす方にあることを言はむ爲に置いたのであらう。國府から見れば立山は東南に當つてゐる。古義に「阿佐比左之《アサヒサシ》は背向《ソガヒ》に所v見《ミユル》といはむとての、まくら詞におけるなるべし。すべて朝日のさす方には羞明《マバユク》て、直に向ひ難きものなればかくつづけたるなるべし。云々」とあるが、枕詞とするは從ひがたい。曾我比《ソガヒ》については卷三の繩浦從背向爾所見《ナハノウラユソガヒニミユル》(三五七)の條に解いたやうに背面の意ではなく、斜横といふやうな意に用ゐた例が多い。この語については、生田耕一氏の萬葉集難語難訓攷に、曾つて心の花誌上に載せた拙稿に對する批評が載つてゐるから、それを參考せられたい。(265)○可無奈我良《カムナガラ》――神隨。神そのものとして。○彌奈爾於婆勢流《ミナニオバセル》――御名に負はせる。帶ばせるではない。立山といふ名に負つてゐる如く。立山といふ名の如く、天そそり高く立つてゐろ立山と句を距ててつづいてある。○安麻曾曾理《アマソソリ》」天|進《ソソ》り。空に聳える貌をいふ。ソソルは進《スス》ム・スサムなどと同一語源であらう。○阿理吉仁家禮婆《アリキニケレバ》――在り來りければ。○許其志河毛《コゴシカモ》――凝々《ココ》しきかもの意。コゴシは嶮岨なるをいふ。卷三に極此疑伊豫能高嶺乃《コゴシカモイヨノタカネノ》(三二二)とある。○伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》――巖の神さび。巖が神々しく古くて。○多末伎波流《タマキハル》――枕詞。世とつづく。靈極《タマキハル》即ち壽命には限ある世といふ意である。○吉欲伎可敷知爾《キヨキカフチニ》――清き河内に。河内は河の廻つてゐるところ。これは前の歌なる片貝川を指してゐる。但し、立山から流れる河としては、常願寺川・早月川などがあるのに、それを措いて最も小さい片貝川を歌つたのは、偶々この河のことを耳にしたものであらう。○久毛爲多奈※[田+比]吉《クモヰタナビキ》――クモヰは雲のこと。この語を次の句で繰返してゐる。○己許呂毛之努爾《ココロモシヌニ》――雲の靡くやうに心のしをしをと靡くことをいつてゐる。○於毛比須具佐受《オモヒスグサズ》――思ひ忘れず。前の歌にある。○於等母佐夜氣久《オトモサヤケク》――音高く。評判高く萬世に語り傳へようの意で下へつづいてゐる。ここの久毛爲奈須《クモヰナス》・多都奇理能《タツキリノ》・由久美豆乃《ユクミヅノ》の三句は枕詞式用法であるが、眞の枕詞にはなつてゐない。
〔評〕 前の家持の歌よりも、立山の形容など、幾分實景に近いところがあるが、要するに既に出來上つてゐた、先人の型を踏んだだけである。末段は家持の歌の意を受けて繰返したに過ぎない。
 
4004 立山に ふり置ける雪の 常夏に けずてわたるは 神ながらとぞ
 
多知夜麻爾《タチヤマニ》 布理於家流由伎能《フリオケルユキノ》 等許奈都爾《トコナツニ》 氣受弖和多流波《ケズテワタルハ》 可無奈我良等曾《カムナガラトゾ》
 
立山ニ降ツテ居ル雪ガ、夏ノ間何時デモ消エナイデヰルノハアノ山ガ〔四字傍線〕神樣デアルカラダト思ハレル〔四字傍線〕。
 
○氣受弖和多流波《ケズテワタルハ》――消えずして繼續するのは。○可無奈我良等曾《カムナガラトゾ》――神そのままの山であるからであるの(266)意、この句の下に、思はれるといふやうな語が含まれてある。
〔評〕 前の多知夜麻爾布里於家流由伎乎登己奈都爾見禮等母安可受加武賀良奈良之《タチヤマニフリオケルユキヲトコナツニミレドモアカズカムカラナヲシ》(四〇〇一)に和してある。あまりに酷似してゐて、殆ど作の意義がないほどである。この歌、和歌童蒙抄・八雲御抄に載せてある。
 
4005 落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も 止まず通はむ
 
於知多藝都《オチタギツ》 可多加比我波能《カタカカヒガハノ》 多延奴期等《タエヌゴト》 伊麻見流比等母《イマミルヒトモ》 夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》
 
水ガ泡立ツテ落チテ流レル、片貝河ガ絶エナイヤウニ、今此ノ景色ヲ〔五字傍線〕見ル人タチモ、何時マデモ絶エズ此處〔二字傍線〕ニ通ハウ。サウシテコノ景色ヲ眺メヨウ〔サウ〜傍線〕。
 
○伊麻見流比等母《イマミルヒトモ》――今この景色を見る人も、新考には、今ミル人とは家持を指せるにて、所詮家持を祝せるなり」とあるが、さうではあるまい。
〔評〕 前の可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟《カタカヒノカハノセキヨクユクミヅノタユルコトナクアリガヨヒミム》(四〇〇二)に和してゐる。これも甚だしく酷似した作である。片貝の河畔に立つて詠んだやうになつてゐるが、さうでないことは作の日附が證明してゐる。
 
右掾大伴宿禰池主和(フ)v之(ニ) 四月二十八日
 
家持の歌を見て、その翌日作つたのである。四月廿八日の五字は、元暦校本その他小字を用ゐてゐる本が多いから、それによつた。
 
入(ルコトv京(ニ)漸(ク)近(ヅキテ)悲情難(ク)v撥《ノゾキ》述(ブル)v懷(ヲ)一首并一絶
 
(267)悲情撥き難くとは別離の悲しみが去り難いといふのである。池主への訣別の言葉なることは左註の示す通りである。
 
4006  かき數ふ 二上山に 神さびて 立てる樛の木 もとも枝も 同じ常磐に はしきよし 吾兄の君を 朝去らず 會ひて言問ひ 夕されば 手携りて 射水河 清き河内に 出で立ちて 吾が立ち見れば あゆの風 甚くし吹けば 湊には 白波高み 妻よぶと 洲鳥は騷ぐ 芦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し そこをしも あやにともしみ しぬびつつ 遊ぶ盛を 天皇の 食國なれば 御言持ち 立ち別れなば おくれたる 君はあれども 玉ぼこの 道行く我は 白雲の 棚引く山を 岩根ふみ 越え隔りなば 戀しけく 日の長けむぞ そこもへば 心し痛し ほととぎす 聲にあへ貫く 玉にもが 手にまき持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かばをし
 
可伎加蘇布《カキカゾフ》 敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》 可牟佐備底《カムサビテ》 多底流都我能奇《タテルツガノキ》 毛等母延毛《モトモエモ》 於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》 波之伎與之《ハシキヨシ》 和我世乃伎美乎《ワガセノキミヲ》 安佐左良受《アササラズ》 安比底許登騰比《アヒテコトドヒ》 由布佐禮婆《ユフサレバ》 手多豆佐波利底《テタヅサハリテ》 伊美豆河波《イミヅカハ》 吉欲伎可布知爾《キヨキカフチニ》 伊泥多知底《イデタチテ》 和我多知彌禮婆《ワガタチミレバ》 安由能加是《アユノカゼ》 伊多久之布氣婆《イタクシフケバ》 美奈刀爾波《ミナトニハ》 之良奈美多可彌《シラナミタカミ》 都麻欲夫等《ツマヨブト》 須騰理波佐和久《スドリハサワグ》 安之可流等《アシカルト》 安麻乃乎夫根波《アマノヲブネハ》 伊里延許具《イリエコグ》 加遲能於等多可之《カヂノオトタカシ》 曾己乎之毛《ソコヲシモ》 安夜爾登母志美《アヤニトモシミ》 之努比都追《シヌビツツ》 安蘇夫佐香理乎《アソブサカリヲ》 須賣呂伎能《スメロギノ》 乎須久爾奈禮婆《ヲスクニナレバ》 美許登母知《ミコトモチ》 多知和可禮奈婆《タチワカレナバ》 於久禮多流《オクレタル》 吉民婆安禮騰母《キミハアレドモ》 多麻保許乃《タマボコノ》 美知由久和禮播《ミチユクワレハ》 之良久毛能《シラクモノ》 多奈妣久夜麻乎《タナビクヤマヲ》 伊波祢布美《イハネフミ》 古要弊奈利奈婆《コエヘナリナバ》 孤悲之家久《コヒシケク》 氣乃奈我家牟曾《ケノナガケムゾ》 則許母倍婆《ソコモヘバ》 許已呂志伊多思《ココロシイタシ》 保等登藝須《ホトトギス》 許惠爾安倍奴久《コヱニアヘヌク》 多麻爾母我《タマニモガ》 手爾麻吉毛知底《テニマキモチテ》 安佐欲比爾《アサヨヒニ》 見都追由(268)可牟乎《ミツツユカムヲ》 於伎底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》
 
(可伎加蘇布)二上山ニ神々シク古ビテ立ツテヰル樛ノ木ハ、幹モ枝モ何ジ常磐ノ色〔二字傍線〕デ、ソノヤウニ昔カラ續イテ來タ大伴氏ノ本家ノ私モ分家ノ貴方モ共ニ榮エテ居リマス。ソノ吾ガ〔ソノ〜傍線〕愛スル吾ガ友ノ貴方ヲ、毎朝逢ツテ話ヲシ夕方ニナルト手ヲ取リ合ツテ、射水川ノ景色ノヨイ、川ノ曲ツテヰル所ニ出カケテ、私ガ立ツテ見ルト、東風ガヒドク吹クト、河口ニハ白浪ガ高イカラ雌雄互ニ〔四字傍線〕妻ヲ呼ブトテ、洲ニヰル鳥ハ鳴キ〔二字傍線〕騒イデヰル。芦ヲ刈ルトテ海人ノ小舟ハ入江ヲ漕グ櫓ノ音ガ高イ。ソレガ不思議ニモ珍ラシイカラ、ソノ景色ヲ〔五字傍線〕ナツカシク思ヒツツ、遊ンデ居ル丁度ソノ〔四字傍線〕最中ニ、天子様ノ御支配ナサル國デアルカラ、勅ニヨツテ、税帳使トシテ都ヘ上ラウト〔税帳〜傍線〕立チ別レテ行クナラバ、後ニ殘サレタ貴方ハヨイケレドモ、旅ノ〔二字傍線〕(多麻保許乃)道ニ出カケテ行ク私ハ、白雲ガ棚曳イテヰル山ヲ、岩根ヲ踏ンデ越エ隔ツテ行ツタナラバ、貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思フコトガ日数ガ長イコトデセウゾ。ソレヲ考ヘルト心ガ悲シイ。郭公ノ聲ト共ニ貫キ通ス藥玉デ貴方ガ〔三字傍線〕アレバヨイガ。サウシタラバ、貴方ヲ〔九字傍線〕手ニ卷キツケテ持ツテ、朝ニ晩ニ眺メテ行カウノニ。貴方ヲ此處ヘ〔六字傍線〕殘シテ行クナラバ、殘リ惜シイコトデアラウ〔六字傍線〕。
 
○可伎加蘇布《カキカゾフ》――枕詞。指を折つて一、二《フタ》と數へる意で二とつづく。カキは接頭語。○多底流都我能奇《タテルツガノキ》――立てる樛の木。樛の木は卷一に樛木乃彌繼嗣爾《ヅガノキノイヤツギツギニ》(二九)とある木で、今、栂といふ。この常磐木を以て大伴氏一族に譬へたのであらう。○毛等母延毛《モトモエモ》――幹も枝も。幹《モト》は本家たる自分を指し、枝《エ》は分家たる池主に譬へてゐる。○於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》――同じ常磐に。オヤジはオナジの古語。○和我世乃伎美乎《ワガセノキミヲ》――吾が兄の君は池主を指す。○安由能加是《アユノカゼ》――下に東風越俗語東風謂2之安由乃可是1也(四〇一七)と自註がある。今、かの地方で東北風をアイノカゼといつてゐるのは古語の殘つてゐるのである。家持が東風と記したのは誤で、正東の風は北陸地方では殆ど吹く(269)ことはない。これに反して東北風は春先から晴れた日によく吹くのである。○美奈刀爾波《ミナトニハ》――河口には。以下四句は前の池主の敬和遊覧布勢水海賦の中の伊美豆河泊美奈刀能須登利《イミヅカハミナトノスドリ》云々(三九九二)に傚つたものである。○曾己乎之毛《ソコヲシモ》――前にもあつたやうに、それをしもの意である。○美許登母知《ミコトモチ》――勅を持ちて。天皇の御依任によつて爲す職務であるから、かう言つたのである。税帳使として上京することを言つてゐる。○吉民波安禮騰母《キミハアレドモ》――君はそれでよいが。君はともかくも。○孤悲之家久氣乃奈我氣牟曾《コヒシケクケノナガケムゾ》――戀しく思ふことは、日數が多いであらうぞ。卷十に戀氣口氣長物乎《コヒシケクケナガキモノヲ》(二〇三九)とある。前の哀傷長逝之弟歌(三九五七)にもこれと似た句がある。○保等登藝須許惠爾安倍奴久多麻爾母我《ホトトギスコヱニアヘヌクタマニモガ》――郭公の聲と一緒に混へ貫く藥玉であれかしの意。郭公の聲を玉に交へ貫くことは卷八に霍公鳥痛莫鳴汝音乎五月玉爾相貫左右二《ホトトギスイタクナナキソナガコヱヲサツキノタマニアヘヌクマデニ》(一四六五)とある。○於伎底伊加婆乎思《オキテイカバヲシ》――あとに遺して行くなら惜しい。この終末の數句は、前の和我勢故波多麻爾母我毛奈手爾麻伎底見都追由可牟乎於吉底伊加婆乎思《ワガセコハタマニモガモナテニマキテミツツユカムヲオキテイカバヲシ》(三九九〇)を再び用ゐたものである。
〔評〕 池主に對する、一族として又僚友としての親愛の情は見えるが、池主の敬和遊覽布勢水海賦や、既に發表した自作の語句を再び用ゐたのは、作者の語彙の貧弱をあらはすものである。
 
4007 吾兄子は 玉にもがもな ほととぎす こゑにあへぬき 手にまきて行かむ
 
(270)右大伴宿禰家持贈(ル)2掾大伴宿禰池主(ニ)1 四月卅日
 
忽(チ)見(テ)2入(ラムトシテ)v京(ニ)述(ブル)v懷(ヲ)之作(ヲ)1生別(ノ)悲兮、斷(ツコト)v腸(ヲ)萬回、怨緒難(シ)v禁(ジ)聊(カ)奉(ル)2所心(ヲ)1一首 并2二絶1
 
細井本その他、兮を号に作る本があるのは誤であらう。所心は思ふところ。所感といふに同じ。
 
4008 あをによし 奈良を來離れ 天ざかる 鄙にはあれど わがせこを 見つつし居れば 思ひ遣る 事もありしを 大君の 命かしこみ をす國の 事執り持ちて 若草の あゆひたづくり 群鳥の 朝立ち去なば おくれたる 我や悲しき 旅に行く 君かも戀ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを とどめもかねて 見渡せば 卯の花山の ほととぎす 音のみし泣かゆ 朝霧の 亂るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 礪波山 たむけの神に 幣まつり 吾が乞ひのまく 愛しけやし 君がただかを まさきくも ありたもとほり 月立たば 時もかはさず 瞿麥が 花の盛に 相見しめとぞ
 
安遠邇與之《アヲニヨシ》 奈良乎伎波奈禮《ナラヲキハナレ》 阿麻射可流《アマザカル》 比奈尓波安禮登《ヒナニハアレド》 和賀勢故乎《ワガセコヲ》 見都追志乎禮婆《ミツツシヲレバ》 於毛比夜流《オモヒヤル》 許等母安利之乎《コトモアリシヲ》 於保伎美乃《オホキミノ》 美許等可之古美《ミコトカシコミ》 乎須久尓能《ヲスクニノ》 許等登理毛知底《コトトリモチテ》 和可久佐能《ワカクサノ》 安由比多豆久利《アユヒタヅクリ》 無良等理能《ムラトリノ》 安佐太知伊奈婆《アサダチイナバ》 於久禮多流《オクレタル》 阿禮也可奈之伎《アレヤカナシキ》 多妣尓由久《タビニユク》 伎美可母孤悲無《キミカモコヒム》 於毛布蘇良《オモフソラ》 夜須久安良禰婆《ヤスクアラネバ》 奈氣可久乎《ナゲカクヲ》 等騰米毛可禰底《トドメモカネテ》 見和多勢婆《ミワタセバ》 宇能婆奈夜麻乃《ウノハナヤマノ》 保等登藝須《ホトトギス》 禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》 安佐疑理能《アサギリノ》 美太流流許已呂《ミダルルココロ》 許登爾伊泥底《コトニイデテ》 伊波婆由遊思美《イハバユユシミ》 刀奈美夜麻《トナミヤマ》 多牟氣能可味尓《タムケノカミニ》 奴佐麻都里《ヌサマツリ》 安我許比能麻久《アガコヒノマク》 波之家夜之《ハシケヤシ》 吉美賀多太可乎《キミガタダカヲ》 麻佐吉(271)久毛《マサキクモ》 安里多母等保利《アリタモトホリ》 都奇多多婆《ツキタタバ》 等伎毛可波佐受《トキモカハサズ》 奈泥之故我《ナデシコガ》 波奈乃佐可里爾《ハナノサカリニ》 阿比見之米等曾《アヒミシメトゾ》
 
(安遠爾與之)奈良ノ都ヲ離レテ來テ(阿麻射可流)田舍デハアルケレドモ、吾ガ友ヲ見テ居レバ、思ヲハラスコトモアツタノニ、貴方ハ〔三字傍線〕天子樣ノ仰セヲ承ツテ任國ノ公事ヲ取リ持ツテ、税帳使トシテ〔六字傍線〕、若草デ作ツタ足結ヲツケテ、(無良等理能)朝旅ニ出カケテ行ツタナラバ、後ニ取リ殘サレタ私ガヨリ多ク〔四字傍線〕悲シク思フデアラウカ。ソレトモ旅ニ出カケテ行ク貴方ガヨリ多ク〔四字傍線〕戀シク思フデアラウカ。貴方ノ旅ニ御出ナサルノヲ〔貴方〜傍線〕考ヘルト、思フ心ガ安ラカデナイカラ、歎クノヲ止メルコトガ出來ナイデ、(見和多勢婆宇能波奈夜麻乃保等登藝須)聲ヲ出シテ泣クバカリデス。(安佐疑理能〕亂レル悲シイ心ヲ、口ニ出シテ言ツテハ、憚ガアルノデ、黙ツテ居テ〔五字傍線〕、礪波山ノ峠ニ祭ツテアル神樣ニ幣ヲサシ上ゲテ、私ガ御願ヒスルコトハ、貴方ハ御無事デ廻ツテオイデナサレテ、一月タツタナラバ時モ移サズ、瞿麥ノ花盛リノ時ニ、又私ノ愛スル貴方ノ御姿ヲ、オ見セ下サイト、祈リマス〔四字傍線〕。
 
○和賀勢敢乎《ワガセコヲ》――家持を指してゐる。○於毛比夜流《オモヒヤル》――思遣る。思を晴らす。○乎須久爾能許等登里毛知底《ヲスクニノコトトリモチテ》――天皇の知ろしめす國の政務を取り持つて。家持が税帳使として上京することを言つてゐる。ここの二句は前の長歌の須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆美許登母知多知和可禮奈婆《スメロギノヲスクニナレバミコトモチタナワカレナバ》とあるのを受けてゐる。○和可久佐能《ワカクサノ》――安由比の枕詞のやうに見えるが、枕詞としては連續の意義が明瞭でない。古義には若草の跪《アユフ》といふ意でつづいてゐるのであらうといつてゐる。さうして「安由布《アユフ》を安由久《アユク》とも用《ハタラ》かし云しなるべし。志奴布《シヌフ》を志奴久《シヌク》とも用《ハタラ》かすと同例なり。廿卷に以母加去々里波阿用久奈米加母《イモガココリハアヨクナメカモ》とある阿用久《アヨク》も脆《アヨ》くにて、もろき意ときこゆればなり云々」といつてゐるが、從ひ難い臆説である。この句は若草で作つた意と見るのが、最も穩やかであらう。○安由比(272)多豆久利《アユヒタヅクリ》――安由比《アユヒ》は足結即ち袴の上から膝のあたりを緊縛する紐。卷十一の朝戸出公足結乎閏露原《アサトデノキミガアユヒヲヌラスツユハラ》(二三五七)に圖を示して置いた。多豆久利《タヅクリ》のタは接頭語。ツクリは、ツクラヒで装ふことであらう、手作りと解してはここに當嵌らない。この句は皇極天皇紀の蘇我蝦夷の歌、野麻騰能飲斯能毘稜栖嗚倭※[手偏+施の旁]羅務騰阿庸比※[手偏+施の旁]豆矩梨擧始豆矩羅符母《ヤマトノオシノヒロセヲワタラムトアヨヒタヅクリコシヅクラフモ》の第四句を用ゐたのであらう。○無良等理能《ムラトリノ》――群鳥の。枕詞。朝塒を離れて飛立つ意で、朝立ち去なばにつづけてゐる。○奈氣可久乎《ナゲカクヲ》――嘆くをの延言。嘆くことを。○等騰米毛可禰底《トドメモカネテ》――止めもかねて下三句を隔てて、禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》につづいてゐる。○見和多勢婆宇能婆奈夜麻乃保等登藝須《ミワタセバウノハナヤマノホトトギス》――見渡すと卯の花の咲いてゐる山で鳴く郭公の音とつづく序詞である。卯の花山は卷十にも如是許雨之零爾霍公鳥宇之花山爾猶香將鳴《カクバカリアメノフラクニホトトギスウノハナヤマニナホカナクラム》(一九六三)とあつて山の名ではない。奥の細道にも「卯の花山・倶利伽羅が谷を越えて云々」とあり、今藪波村の南方の嶺を呼んでゐるのは、この歌の誤解に基づくものである。○安佐疑埋能《アサギリノ》――朝霧の。枕詞。朝の霧はやがて亂れ散つて、霽れ行くからである。○許登爾伊泥底伊波婆由遊思美《コトニイデテイハバユユシミ》――言葉に出して言つては、憚るべきであるから。この句は卷十の言出而云忌染朝貌乃穂庭開不出戀爲鴨《コトニイデテイハバユユシミアサガホノホニハサキデヌコヒモスルカモ》(二二七五)、卷十一の言出云忌忌山川之當都心塞耐在《コトニイデテイハバユユシミヤマカハノタギツココロヲセカヘタリケリ》(二四三二)などをそのまま踏襲したものである。○刀奈美夜麻《トナミヤマ》――礪波山。越中礪波郡と加賀との境の山。即ち今の倶利伽羅峠である。○多牟氣能可味爾《タムケノカミニ》――手向の神に。タムケは即ち峠で、礪波山の峠の神。三代實録に「元慶二年五月八日授2越中國手向神從五位下1」とあるのはこの神である。後世ここに倶利伽羅不動明王を祀つたものとして、この神名も忘れられてゐたが、明治になつてから舊に復した。この礪波山越は北陸の本道ではなかつたが、捷路であるから、通行が繁かつたやうである。○安我許比能麻久《アガコヒノマク》――吾が乞ひ祷まく。ノマクはノムの延言。私が祷ることは。○波之家夜之吉美賀多太可乎《ハシケヤシキミガタダカヲ》――愛しけやし君が直香を。タダカは玉勝間に「多太加とは、君また妹をただにさしあてていへる言にて、君妹とのみいふも同じことに聞ゆるなり」とある通りである。卷四の君之直香曾《キミガタダカゾ》(六九七)參照。この句から結句につづいてゐる。○安里多母等保利《アリタモトホリ》――在り廻り。前句からつづいて、無事でゐて巡り來ての意となる。○等伎毛可波佐受《トキモカハサズ》――時も換へず。時も移さず、直に。古義に「來年の此時にあたるほどを過さずしてと謂なり」とあるのはその意を得ない。一ケ(273)月後の瞿麥の花の盛りの頃には、必ず逢はしめ給へといふのである。
〔評〕 辭を取扱ふことは巧であるが、儀禮的な御挨拶を述べてゐるやうな感があつて、作者の謂はゆる斷腸萬回といふやうな、人に迫つて來る悲しさが見えない。
 
4009 玉ぼこの 道の神たち まひはせむ 吾が思ふ君を なつかしみせよ
 
多麻保許乃《タマボコノ》 美知能可未多知《ミチノカミタチ》 麻比波勢牟《マヒハセム》 安賀於毛布伎美乎《アガオモフキミヲ》 奈都可之美勢余《ナツカシミセヨ》
 
(多麻保許能)道ノ神樣達ヨ、御供ヘ物ヲイタシマセウ。デスカラ〔四字傍線〕私ノ大切ニ〔三字傍線〕思フ君ヲ、親シク思召シテ守ツテ〔三字傍線〕下サイヨ。
 
○麻比波勢牟《マヒハセム》――麻比は贈物。幣。卷五、末比波世武《マヒハセム》(九〇五)參照。○奈都可之美勢余《ナツカシミセヨ》――ナツカシミはナツカシムといふ動詞の連用形。ナツカシミスルとは親睦する。この句は親しくせよの意。
〔評〕 卷五(九〇五)の憶良の作や、卷六の湯原王の天爾座月讀壯子幣者將爲今夜乃長者五百夜繼許増《アメニマスツクヨミヲトコマヒハセムコヨヒノナガサイホヨツギコソ》(九八五)などと同一型である。とり立てていふべき點もない。
 
4010 うら戀し わが兄の君は なでしこが 花にもがもな 朝な朝《さ》な見む
 
宇良故非之《ウラコヒシ》 和賀勢能伎美波《ワガセノキミハ》 奈泥之故我《ナデシコガ》 波奈爾毛我母奈《ハナニモガモナ》 安佐奈佐奈見牟《アサナサナミム》
 
心戀シイ吾ガ友ノ君ハ、瞿麥ノ花デアレバヨイガ。サウシタナラバ〔七字傍線〕、毎朝毎朝眺メテ居ラウ。
 
○宇良故非之《ウラコヒシ》――うらこひしきに同じ。ウラは心。○安佐奈佐奈見牟《アサナサナミム》――アサナサナは朝な朝なの略。
(274)〔評〕 瞿麥の花を用ゐたのは、やがて咲くべき、時の花であるからか。これも口の先だけの歌である。
 
右大伴宿禰池主(ノ)報(ヘ)贈(リ)和(フル)歌 五月二日
 
五月二日の四字は元暦校本に、小字になつてゐるに從ふ。舊本の目録に五月五日とあるは誤。
 
思(ヒ)2放逸(セル)鷹(ヲ)1夢(ニ)見(テ)感悦(ビテ)作(レル)歌一首并短歌
 
放逸鷹は遁げて飛去つた鷹。放逸した次第は左註に明らかである。感悦はめでよろこぶ。この長歌は税帳使の務終つて、京から任地に歸つてからの作である。
 
4011 大王の 遠のみかどぞ み雪降る 越と名に負へる 天ざかる 鄙にしあれば 山高み 河とほしろし 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛と 島つ鳥 鵜養が伴は 行く河の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野もさはに 鳥すだけりと ますらをの ともいざなひて 鷹はしも 數多あれども 矢形尾の 吾が大黒に 大黒は蒼鷹の名なり 白塗の 鈴取り附けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥ふみ立て 追ふ毎に 免すことなく た放れも をちもか易き これをおきて 又はあり難し さならべる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて ゑまひつつ 渡る間に たぶれたる 醜つ翁の 言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を 鳥狩すと 名のみを告りて 三島野を 背向に見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隱り 翔り去にきと 歸り來て しはぶれ告ぐれ をくよしの そこに無ければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ戀ひ 息づき餘り けだしくも 逢ふことありやと 足引の をても此の面に 鳥網張り 守部をすゑて 千早振 神の社に 照る鏡 しづに取り添へ 乞ひのみて 吾が待つ時に をとめらが 夢に告ぐらく 汝が戀ふる そのほつ鷹は 麻都太要の 濱行き暮し つなしとる 氷見の江過ぎて 多古の島 飛びたもとほり 葦鴨の すだく舊江に 一昨日も 昨日もありつ 近くあらば 今二日だみ 遠くあらば 七日のうちは 過ぎめやも 來なむ吾兄子 ねもごろに な戀ひそよとぞ いまに告げつる
 
大王乃《オホキミノ》 等保能美可度曾《トホノミカドゾ》 美雪落《ミユキフル》 越登名爾於弊流《コシトナニオヘル》 安麻射可流《アマザカル》 比奈爾之安禮婆《ヒナニシアレバ》 山高美《ヤマタカミ》 河登保之呂思《カハトホシロシ》 野乎比呂美《ノヲヒロミ》 久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》 安由波之流《アユハシル》 奈都能左加利等《ナツノサカリト》 之麻都等里《シマツトリ》 鵜養我登母波《ウカヒガトモハ》 由久加波乃《ユクカハノ》 伎欲吉瀬其等爾《キヨキセゴトニ》 可賀里左之《カガリサシ》 奈豆左比能保流《ナヅサヒノボル》 露霜乃《ツユジモノ》 安伎爾伊多禮婆《アキニイタレバ》 野毛佐波爾《ノモサハニ》 等里須太家里等《トリスダケリト》 麻須良乎能《マスラヲノ》 登母伊射奈比弖《トモイザナヒテ》 多加波之母《タカハシモ》 安麻多安禮等母《アマタアレドモ》 矢形尾乃《ヤカタヲノ》 安我大黒爾《アガオホグロニ》【大黒者蒼鷹之名也】 之良奴里能《シラヌリノ》 鈴登里都氣底《スズトリツケテ》 朝※[獣偏+葛]爾《アサガリニ》 伊保都登里多底《イホツトリタテ》 (275)暮※[獣偏+葛]爾《ユフガリニ》 知登理布美多底《チドリフミタテ》 於敷其等爾《オフゴトニ》 由流須許等奈久《ユルスコトナク》 手放毛《タバナレモ》 乎知母可夜須伎《ヲチモカヤスキ》 許禮乎於伎底《コレヲオキテ》 麻多波安里我多之《マタハアリガタシ》 左奈良弊流《サナラベル》 多可波奈家牟等《タカハナケムト》 情爾波《ココロニハ》 於毛比保許里底《オモヒホコリテ》 惠麻比都追《ヱマヒツツ》 和多流安比太爾《ワタルアヒダニ》 多夫禮多流《タブレタル》 之許都於吉奈乃《シコツオキナノ》 許等太爾母《コトダニモ》 吾爾波都氣受《ワレニハツゲズ》 等乃具母利《トノグモリ》 安米能布流日乎《アメノフルヒヲ》 等我理須等《トガリスト》 名乃未乎能里底《ナノミヲノリテ》 三島野乎《ミシマヌヲ》 曾我比爾見都追《ソガヒニミツツ》 二上《フタガミノ》 山登妣古要底《ヤマトビコエテ》 久母我久理《クモガクリ》 可氣理伊爾伎等《カケリイニキト》 可弊理伎底《カヘリキテ》 之波夫禮都具禮《シハブレツグレ》 呼久餘思乃《ヲクヨシノ》 曾許爾奈家禮婆《ソコニナケレバ》 伊敷須弊能《イフスベノ》 多騰伎乎之良爾《タドキヲシラニ》 心爾波《ココロニハ》 火佐倍毛要都追《ヒサヘモエツツ》 於母比孤悲《オモヒコヒ》 伊伎豆吉安麻利《イキヅキアマリ》 氣太之久毛《ケダシクモ》 安布許等安里也等《アフコトアリヤト》 安之比奇能《アシビキノ》 乎底母許乃毛爾《ヲテモコノモニ》 等奈美波里《トナミハリ》 母利弊乎須惠底《モリベヲスヱテ》 知波夜夫流《チハヤブル》 神社爾《カミノヤシロニ》 底流鏡《テルカガミ》 之都爾等里蘇倍《シヅニトリソヘ》 己比能美底《コヒノミテ》 安我麻都等吉爾《アガマツトキニ》 乎登賣良我《ヲトメラガ》 伊米爾都具良久《イメニツグラク》 奈我古敷流《ナガコフル》 曾能保追多加波《ソノホツタカハ》 麻追太要乃《マツダエノ》 波麻由伎具良之《ハマユキグラシ》 都奈之等流《ツナシトル》 比美乃江過底《ヒミノエスギテ》 多古能之麻《タコノシマ》 等妣多毛登保里《トビタモトホリ》 安之我母乃《アシガモノ》 須太久舊江爾《スダクフルエニ》 乎等都日毛《ヲトツヒモ》 (276)伎能敷母安里追《キノフモアリツ》 知加久安良婆《チカクアラバ》 伊麻布都可太未《イマフツカダメ》 等保久安良婆《トホクアラバ》 奈奴可乃宇知波《ナヌカノウチハ》 須疑米也母《スギメヤモ》 伎奈牟和我勢故《キナムワガセコ》 禰毛許呂爾《ネモコロニ》 奈孤悲曾余等曾《ナコヒソヨトゾ》 伊麻爾都氣都流《イマニツゲツル》
 
此處ハ〔三字傍線〕天子様ノ御支配ニナル遠クノ役所デアルゾ。サウシテ〔四字傍線〕(美雪落)越ノ國〔二字傍線〕ト云フ名ヲモツテヰル(安麻射可流)田舍デアルカラ、山ガ高クテ、川ガ遠クハツキリ流レテヰル。野ガ廣クテ、草ガ茂ク生エテヰル。今ハ〔二字傍線〕鮎ガ走ツテヰル夏ノ盛デアルトテ、(之麻都等里)鵜飼ノ人タチハ、流レル川ノ清イ瀬毎ニ篝火ヲ焚イテ、水ニ漬ツテ、川上ヘ〔三字傍線〕上ツテ行ク。(露霜乃)秋ニナルト野原ノ中ニハ、澤山こ鳥ガ集ツテヰルトテ、男共ガ友ダチヲ誘ツテ、鷹ハ澤山アルケレドモ、取リ分ケ、大切ニシテヰル〔取リ〜傍線〕尾ニ矢ノ形ノ斑ノアル私ノ大黒トイフ名ノ鷹〔六字傍線〕ニ、白塗ノ鈴ヲ取リ付ケテ、朝ノ狩ニ五百ノ鳥ヲ追ヒタテ、夕方ノ狩ニ千ノ鳥ヲ踏ミ立テテ、追フ毎ニ一羽モ遁スコトナク、コノ鷹ガ取ツテ來テ、人ノ〔コノ〜傍線〕手ヲ放レテ、飛ビ出スコトモ、亦鳥ヲ取ツテ〔六字傍線〕歸ツテ來ルコトモ、間違ナク〔四字傍線〕容易イコトハ、コレヲ除イテハ、又ト良イ鷹〔三字傍線〕ハアルマイ。コレニ〔三字傍線〕並ンダ鷹ハナイダラウト、私ハ〔二字傍線〕心ニ思ツテ、得意ニナツテ、微笑シテ日ヲ送ツテヰル中ニ、山田史君麻呂ト云フ〔九字傍線〕氣狂ノ馬鹿ナ翁ガ、私ニハ話モシナイデ、空ガ曇ツテ雨ノ降ル日ニ、鳥狩ヲスルト云ツテ、自分ノ〔三字傍線〕名ダケヲ言ヒ置イテ、狩ニ出カケタガ、鷹ガ〔九字傍線〕三島ノ野ヲ横ニ見ナガラ、二上ノ山ヲ飛ビ越シテ、雲ニ隱レテ飛ンデ去ツテシマツタト、君麻呂ガ〔四字傍線〕歸ツテ來テカラ、咳ヲシナガラ、私ニ告ゲタ。ソノ鷹ヲ〔四字傍線〕招キヨセル方法ガナイカラ、何ト言フベキカ、言ヒヤウモ知ラナイノデ、心ノ中ハ、殘念サニ〔四字傍線〕、火サヘモ燃エルヤウナ心持デ、戀シク思ツテ、吐息ヲツイテ、思ヒ餘ツテ、萬一ニモ鷹ニ逢(277)フコトガアルカト、山ノ彼方此方に鳥網ヲ張ツテ、番人ヲ置イテ、(知波夜夫流)神樣ノ社ニ、照リ輝ク鏡ヲ倭文幣ニ取リ添ヘテ、ドウゾ鷹ガ歸リマスヤウニト〔ドウ〜傍線〕、乞ヒ祈ツテ、私ガ待ツテヰル時ニ、夢ニ少女ガ現ハレテ〔二字傍線〕私ニ告ゲルノニハ、汝ガ戀シク思ツテヰルソノ逸物ノ鷹ハ、麻都太要ノ濱ヲ通ツテ日ヲ暮ラシ、※[魚+制]ヲ捕ル氷見ノ江ヲ通ツテ、多古ノ島ヲ飛ビ廻リ、芦鴨ガ集ツテ居ル古江村ニ、一昨日モ昨日モヰタ。近イナラバ今二日ダケノ中ニ、遠イナラバ七日ノ中ハ過ハシナイデ歸ツテ〔四字傍線〕來ルダラウヨ。吾ガ男ヨ。ダカラソンナニ〔七字傍線〕心カラ戀シク思ツテ悲シムナヨト夢ニ告ゲタ。
 
○等保能美可度曾《トホノミカドゾ》――古義は曾を等に改めて、トホノミカドトと訓んでゐるが、もとのままにして、この句で切つて見るべきであらう。トホノミカドは遠くの役所。○美雪落《ミユキフル》――枕詞。越に冠してある。この句と次の句とを、雪の降る越として昔から有名なといふ意に見るのは當るまい。○越登名爾於幣流《コシトナニオヘル》――越といふ名を持つてゐる。越は今の北陸道に當る。○河登保之呂思《カハトホシロシ》――河が遠く鮮やかに流れてゐる。雄大と解する説もある。この句は卷三、山高三河登保之呂之《ヤマタカミカハトホシロシ》(三二四)とあるのを採つたのである。○久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》――草こそ繁き。草こそ繁けれといふべきを、古格に從つたのである。○之麻都等里《シマツトリ》――島つ鳥。枕詞。島に棲む鳥の鵜とつづく。○鵜養我登母波《ウカヒガトモハ》――鵜飼の輩は。この句は古事記神武天皇の御製に、志麻都登理宇加比賀登母《シマツトリウカヒガトモ》とあるに傚つたのであらう。○可賀里左之《カガリサシ》――篝火《カガリ》をともして。篝は鐡で籠を圍んで中に火をともすをいふ。語源は赫《カガ》るであらう。和名抄に「篝火、漢書陳勝傳云、夜篝v火師説云比乎加々利邇須、今案漁者以v鐡作v篝盛v火照v水者名v之、此類乎」とある。○奈豆左比能保流《ナヅサヒノボル》――ナヅサヒは浪に漬る。この句の意は水に濡れつつ川を泝る。○露霜乃《ツユジモノ》――枕詞。露霜の降る秋とつづく。露霜は露のこと。○等里須太家里等《トリスダケリト》――鳥が集つてゐると。スダクは巣抱く。群集してゐること。○矢形尾乃《ヤタタヲノ》――矢形尾の鷹とはどんな鷹であるかわからない。これについて古來種々の説がある。一は矢形尾の文字通りに見る説で、奥儀抄に「やかた尾とは尾のふの矢の羽のやうにさがりふにきり(278)たる鷹なり。集には矢形尾と書けり」とあるものである。二は屋形尾と解するもので、袖中抄に「顯昭云、やかたをとは、鷹の相經には、屋像尾《ヤカタヲ》・町像尾《マチカタヲ》との二の樣をあげたり。やかたとは屋の棟のやうにさがりふに切りたるをいひ、町かたとは田の町のやうによこさまにうるはしうきりたるなるべし。云々」とあるものである。なほ、これを八形尾、即ち八の字のやうに文《フ》の切れたものとする説もあるが、要する以上の三は歸するところ同じで、尾の文《フ》が※[矢羽根の絵]のやうになつてゐるものと見るのである。この他持明院家鷹十卷書には、鷹の尾の鈴付の上に一枚重なりたるものをいふとあるさうだが、どんなものかよくわからない。予は卷十九にも矢形尾乃麻之路能鷹乎《ヤカタヲノマシロノタカヲ》(四一五五)とあるから、矢の形をした尾の鷹とするのがよいと思つてゐる。○安我大黒爾《アガオホグロニ》――吾が飼へる大黒にの意。下に註があるやうに、大黒は鷹に附けた名である。蒼鷹はオホタカで普通種である。○之良奴里能鈴登里都氣底《シラヌリノスズトリツケテ》――白塗の鈴は銀鍍した鈴であらう。延喜式に八十島祭料註文の中に、白塗鈴八十口とある。鈴は鷹の尾に附けるもの。鳥を追うて鷹が飛び去つた行方を知る爲である。○伊保都登里多底《イホツトリタテ》――五百つ鳥即ち數多の鳥を飛び立たしめ。○手放毛《タバナレモ》――鷹が手もとを飛び放れて鳥に向ふこと。○乎知母可夜須伎《ヲチモカヤスキ》――ヲチはをち還りのヲチで、戻つて來ること。即ち鳥が再び鷹飼の手に飛び歸るないふ。カヤスキは、タヤスキと同じであらう。カは接頭語で意味はない。連體形であるから、カヤスキ鷹ハの意であらう。○左奈良幣流《サナラベル》――サは接頭語で意味はない。並べる鷹は無からうと得意になつてゐるのである。○和多流安比太爾《ワタルアヒダニ》――渡る間に。月日を經る間に。○多夫禮多流《タブレタル》――タブレは狂ふこと。書紀・續紀などに狂をタブレと訓んであり、和名抄にも「狂訓2太布流1俗云毛乃久流比」とある。○之許都於吉奈乃《シコツオキナノ》――醜つ翁の。鷹飼の翁、山田史君麻呂を罵つたのである。○許等太爾母吾爾波都氣受《コトダニモワレニハツゲズ》――言葉すらも我に告げずに。委しいことを我に語らずに。○等乃具母利《トノグモリ》――たなぐもりに同じ。雲の棚曳き曇るをいふ。○等我理須等名能未乎能里底《トガリストナノミヲノリテ》――鳥狩しに出かけますと自分の名のみを申して。○三島野乎《ミシマヌヲ》――三島は和名抄に「射水郡、三島美之萬」とあるところであるが、今はそれらしい町村名をとどめてゐない。三州志に「二口村領に古の三島野と口碑する所あり」とあり、楢葉越の枝折には「今、二口村、堀内村領に三島野といふ所あり。此ほとりに島村といふも今存せり」とある。この他(279)萬葉越路の栞・三州郷莊考・大日本地名辭書などいづれも大體同説である。卷十八にも一、更矚v目と題して、美之麻野爾可須美多奈妣伎之可須我爾伎乃敷毛家布毛由伎波敷里都追《ミシマヌニカスミタナビキシカスガニキノフモケフモユキハフリツツ》(四〇七九)とあつて國守館の丘上から遙かに見やられるところで、今の大門町附近から、石瀬野につづいた平野であらう。○二上山登妣古要底《フタカミノヤマトビコエテ》――元暦校本・類聚古巣に二山上とあるによつてフタヤマノウヘトビコエテと訓む説もあるが、二山とはいづれを指すか地理上全く從ひ難い。○可氣理伊爾伎等《カケリイニキト》――飛び翔つて去つてしまつたと。○之波夫禮都具禮《シハブレツグレ》――シハブレはシハブキに同じく、咳することをいふ。ツグレは告れば。○呼久餘思乃《ヲクヨシノ》――ヲクは招く。古事記上卷に「於是副2賜|其遠岐斯《カノヲキシ》八尺勾※[王+總の旁]・鏡云々1」とあるのも天照大神を天の岩屋戸から招き出し奉つた玉と鏡とを言つたのである、○心爾波火佐倍毛要都追《ココロニハヒサヘモエツツ》――心の中には火さへ燃えつつ。腹立ち怒る樣である。○伊伎豆吉安麻利《イキヅキアマリ》――吐息をつくに餘つて。外にあらはして吐息をついて。卷七に水隱爾氣衝餘《ミコモリニイキヅキアマリ》(一三八四)とある。○氣太之久毛《ケダシクモ》――蓋しくも。若しも。○安之比奇能《アシビキノ》――足引の。山の枕詞を、直ちに山の意に用ゐてゐる。○乎底母許乃毛爾《ヲテモコノモニ》――彼面此面に。卷十四に安思我良能乎※[氏/一]毛許乃母爾《アシガラノヲテモコノモニ》(三三六一)・筑波禰乃乎※[氏/一]毛許能母爾《ツクバネノヲテモコノモニ》(三三四三)などに見えるもので、東語らしい語調だ。多分家持が東語を試用したのであらう。○等奈美波里《トナミハリ》――鳥網張り。○母利弊乎須惠底《モリベヲスヱテ》――守部を据ゑて。守部は番人。○底流鏡《テルカガミ》――照る鏡。輝く鏡。○之都爾等里蘇倍《シヅニトリソヘ》――倭文幣に鏡を取り副へ。○乎登賣良我《ヲトメラガ》――この少女は、神託を告げるのであるから、神女である。○曾能保追多加波《ソノホツタカハ》――ホツタカは秀つ鷹。優秀なる鷹。○麻都太要乃《マツダエノ》――マツダエは澁溪と氷見との間の海岸。○都奈之等流《ツナシトル》――ツナシは※[魚+制]。即ち今のコノシロである。今も越中・能登ではこの魚をツナシと呼んでゐる。和名抄に「※[魚+制]、四聲字苑云、※[魚+際]、子例反、字亦作v※[魚+制]和名古乃之侶魚名、似v※[魚+脊]而薄、細鱗也」とある。○比美乃江過底《ヒミノエスギテ》――ヒミノエは氷見の江。これについて氷見の海とするものと、布勢水海とするものと、氷見の海と布勢水海とを繋ぐ水路とするものとの三説があるが、恐らく最後の説がよいのであらう。今、氷見町の背後を海岸に平(280)行して流れ、町の中央から右に折れて海に入つてゐる、極めて緩い水路である。○多古能之麻《タコノシマ》――布勢水海の東南邊を多枯の浦又は多枯の灣といつた。そこに多枯の崎があり、多古の島もあつたのである。今、上田子下田子の名をとどめてゐる。○安之我母能須太久舊江爾《アシガモノスダクフルエニ》――葦鴨の多集く舊江に。舊江は布勢水海の南邊にあつた村名。前の遊覧布勢水海賦(三九九一)の題下に説明して置いた。この二句は卷十二一、葦鴨之多集池水《アシガモノスダクイケミヅ》(二八三三)に傚つたか。○伊麻布都可太未《イマフツカダミ》――今二日だけといふ意であらう。未の字、元暦校本・類聚古集などに米に作つてあるによればダメであるが、さうよんでも分らない語である。考にはダミのミはマリの約で今、二日留といふことだといつてゐる。なほダミは北國の俗語でバカリの義だといふ説もあるが、今北陸地方にさうした方言を聞かぬやうである。ここの數句は、卷十三に、久有者今七日許早有者今二日許將有等曾君者聞之二二勿戀吾妹《ヒサナラバイマナヌカバカリハヤカラバイマフツカバカリアラムトゾ キミハキコシシナコヒソワギモ》(三三一八)とあるのから思ひついたものであらう。○伎奈牟和我勢故《キナムワガセコ》――鷹が歸つて、來るであらう。吾が兄子よ。○奈孤悲曾余等曾《ナコヒソヨトゾ》――な戀ひそよまでが神女の夢の告である。○伊麻爾都氣都流《イマニツゲツル》――イマは代匠記に、イメに通ずる語で、或は寢間《イマ》の意かと言つてある。考には麻は米の誤としてゐる。いづれにしても夢の意に解する説が多い。暫くこれに從つて置く。今(281)と見るのは無理であらう。
〔評〕 鷹狩は仁徳天皇の朝に始まるといはれてゐる。即ち仁徳天皇紀に、「四十三年秋九月庚子朔。依網屯倉《ヨサミノミヤケ》阿弭古捕2異鳥1献2於天皇1曰、臣毎張v網捕v鳥未3曾得2是鳥之類1、故奇而献v之天皇召2酒君1示v鳥曰、是何鳥矣、酒君對言、此鳥類多在2百濟1、得馴而能從v人、又捷飛之掠2諸島1、百濟俗號2此鳥1曰2倶知1、【是今時鷹也】乃授2酒君1令2養馴1、未2幾時1而得v馴、酒君則以2韋緡1著2其足1、以2小鈴1著2其尾1、居2腕上1献2于天皇1、是日幸2百舌鳥野1而遊獵、時雌雉多起、乃放v鷹令v捕、獲2數千雉1、是月、甫定2鷹甘部1、故時人號2其養v鷹之處1曰2鷹甘邑1也」とある。蓋し朝鮮は早くから高飼のことが盛であつたので、三韓時代にわが國にこれを傳へたものである。わが國では漸次この風が盛となり、令の制によると、兵部省の管下に主鷹司が置かれてゐる。後、民部省に移管し放鷹司と稱したことが、正倉院文書の天平十七年四月二十一日のものに見えてゐる。併し佛教が盛となるにつれて、殺生を禁ずる主旨から、元正天皇の養老五年には勅して飼鷹を放たしめられ、聖武天皇の神龜五年にも、飼鷹を禁ぜられた。その後、稱徳天皇・光仁天皇の御代にも同樣の勅が出てゐる。併しながらその命令は、實際に効果がなかつたもので、殊に邊陬の地にある官人どもが、これを最大の娯樂としたことは想像するに難くない。今この歌を讀んで見ると、若い血氣の溢れてゐた國守家持が、如何にこの遊獵に熱中してゐたかがわかる。この遊びに最も大切な、自慢の逸物の大鷹を遁し、切齒扼腕して鷹匠の翁を罵つてゐるのは、さもこそと同情せられる。遂に神に祈つて夢中にその神託を得て、竊かに心を安んじてゐる樣は、多少の誇張もあらうが、正氣の沙汰とは言はれぬ程である。例によつて古歌中の成句を取り用ゐてあるが、珍らしい長い歌の割合に、だれ氣味のところが無いのは、その熱心が迸つてゐる爲か。歌中の句法に、奈奴可乃宇知波須疑米也母《ナヌカノウチハスギメヤモ》の如く、七五調になりかかつてゐるものがあるのは注意すべきである。
 
4012 矢形尾の 鷹を手にすゑ 三島野に 狩らぬ日まねく
月ぞ經にける
 
矢形尾能《ヤカタヲノ》 多加乎手爾須惠《タカヲテニスエ》 美之麻野爾《ミシマヌニ》 可良双日麻禰久《カラヌヒマネク》 都寄曾(282)倍爾家流《ツキゾヘニケル》
 
私ハ私ノ大切ニシテヰル〔私ハ〜傍線〕尾ニ矢ノ形ノ斑ノアル鷹ガ遁ゲタノデ、ソノ鷹〔九字傍線〕ヲ手ニ据ヱテ、三島野デ鷹狩ヲシナイ日ガ久シクナツテ、月ガ經ツタヨ。
 
○可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》――狩らぬ日數多く。鷹が遁去つたからである。
〔評〕 鷹がゐなくなつた爲に、狩が出來なくなつたことを歎いた歌。平凡。
 
4013 二上の をても此の面に 網さして 吾が待つ麿を 夢に告げつも
 
二上能《フタガミノ》 乎弖母許能母爾《ヲテモコノモニ》 安美佐之底《アミサシテ》 安我麻都多可乎《アガマツタカヲ》 伊米爾都氣追母《イメニツゲツモ》
 
二上ノ山ノ彼方此方ニ網ヲ張ツテ、私ガ待ツテヰル鷹ノ行方〔三字傍線〕ヲ、夢ニ少女ガ現ハレテ〔七字傍線〕告ゲタヨ。神ノ御告デアラウ。アリガタイ〔神ノ〜傍線〕。
 
○安我麻都多可乎《アガマツタカヲ》――私が待つてゐる鷹の行方を。
〔評〕 用語も内容も長歌中のものを繰返しでゐる。平凡。
 
4014 まつがへり しひにてあれかも さ山田の をぢがその日に 求め逢はずけむ
 
麻追我弊里《マツガヘリ》 之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》 佐夜麻太乃《サヤマダノ》 乎治我其日爾《ヲヂガソノヒニ》 母等米安波受家牟《モトメアハズケム》
 
待ツテヰレバ必ズ歸ツテ來ルト云フ諺〔傍線〕ハ虚言デアルカラカ、山田ノ翁ハ、鷹ヲ遁シタ〔五字傍線〕ソノ日ニ、鷹ヲ〔二字傍線〕捜シテモ(283)逢ハナカツタノデアラウカ。
 
○麻追我弊里《マツガヘリ》――難解の語である。松の色の變らぬを變るやうにいふのは誣言だとの意で、シヒの枕詞となると解かれてゐるが、又鷹の羽毛の拔け代ることで、鳥屋にゐて拔け代るのが、鳥屋がへりで、山にゐて拔けかはるのが山かへりだから、これは松にゐて拔けかはることだらうとする説もあるが、松と限るのは頗るをかしい。待てば歸るといふ俗諺があつたものと見るのが穩やかであらう。○之比爾弖安禮可母《シヒニテアレカモ》――誣ごとであるからか。待てば歸るといふ諺は謔であるからかの意。この二句は卷九(一七八三)のものを用ゐたのである。○佐夜麻太乃《サヤマダノ》――サは接頭語。山田史君麻呂をさす。○乎治我其日爾《ヲヂガソノヒニ》――ヲヂは翁。其日は鷹を遁したその日。○母等米安波受家牟《モトメアハズケム》――求め逢はぎりけむに同じ。捜し出せなかつたのであらうか。
〔評〕 初二句が難解である。卷九の松反四臂而有八羽《マツカヘリシヒテアレヤハ》(一七八三)といふ珍らしい用例を、少しかへて踏襲してゐるのは、作者の模倣癖で、又珍らしいもの好みの然らしめたものである。
 
4015 心には ゆるぶことなく 須加の山 すがなくのみや 戀ひ渡りなむ
 
情爾波《ココロニハ》 由流布許等奈久《ユルブコトナク》 須加能夜麻《スガノヤマ》 須可奈久能未也《スガナクノミヤ》 孤悲和多利奈牟《コヒワタリナム》
 
私ハ心ノ中〔二字傍線〕ニハ、コノ思ヒガ〔五字傍線〕ユルミ忘レル〔三字傍線〕コトガナク、遁ゲタ鷹ヲ〔五字傍線〕不愉快ニ思ヒツツ、戀シガツテ日ヲオクルコトデアラウカ。
 
○情爾波由流布許等奈久《ココロニハユルブコトナク》――行にあらはさずとも、心の中には、弛むことなく。ユルムとは、ここでは悲しみの薄らぐを言つてゐる。○須加能夜麻《スガノヤマ》――枕詞として、須加奈久《スカナク》の上に冠しである。須加の山は、正倉院文書の越中國諸郡庄園惣券第一【天平寶字三年】の中に、須加村、須加山と見え、又東瀛珠光所載の、正倉院文書「越中國射(284)水郡須加野東大寺開田地圖」(天平寶字三年十一月十四日のもの)に圖の左方に山形を畫いて、須加山と記し、欄外に、「東大□原里五行與六行堺畔、南、西、公田、北、須加山」と記してある。今その所在を明らかにし雖いが、射水郡内即ち國府から程遠からぬところにあつたものと思はれる。古義に「源平盛衰記三十に越中の國に須川山と云あり、是なるべし」とあり、萬葉越路の栞にはこれを退けて「古義には源平盛衰記の倶利伽羅の役に須川《スカ》ノ林に云々とある所なりと見えたれども本集本歌の須川山とは全々異所なり。思ひまがふべからず」と言つて、これを礪波郡宮島村字|須川《スガ》の山であらうとし、楢葉越の枝折には、今の姿村の山といつてゐる。いづれも誤謬でなければ、根據のない臆説である。○須可奈久能未也《スガナクノミヤ》――スガナクは代匠記初稿本に、透《スキ》なくで透間なくの意だとし、考はよすがなくと解し、略解も無因所《ヨスガナク》の略語であらうと言つてゐる。然るに古義には「字鏡に、※[口+喜]※[口+羅](ハ)心中不2悦樂1貌、坐(テ)歎(ク)貌、須加奈加留《スカナカル》、催馬樂蘆垣に、菅の根のすがなきことをわれはきくかな、これらを考合せて其(ノ)意をさとるべし」とあるが、この説が最も良いやうでみる。
〔評〕 須加の山といふ附近の地名を用ゐて枕詞としたのが、作者の思つきである。スガナクといふ語は集中他に用例が無い。
 
右、射水郡古江(ノ)村爾、取2獲(タリ)蒼鷹(ヲ)1、形容美麗(ニシテ)、※[執/鳥](ルコト)v雉(ヲ)秀(ヅ)v群(ニ)也、於v時|養吏《タカカヒ》山田(ノ)史君麻呂調試失(ヒ)v節(ヲ)、野獵乖(ク)v候(ニ)、搏(ツ)v風(ヲ)之翅、高(ク)翔(リテ)匿(レ)v雲(ニ)腐鼠之餌、呼(ビ)留(ムルニ)靡《ナシ》v驗、於v是張(リ)2設(ケ)羅網(ヲ)1、窺(ヒ)2乎非常1、奉2幣神祇(ニ)1、恃(ム)2乎不虞(ヲ)1也、粤《ココニ》以夢裏有2娘子1、喩(シテ)曰(ク)、使君勿(レ)d作(シテ)2苦念(ヲ)1、空費(スル)c精神(ヲ)u、放逸(レ)彼(ノ)鷹、獲(リ)得(ムコト)未v幾矣哉、須臾(ニシテ)覺寤(ス)、有(リ)v悦2於懷(ニ)1、因(リテ)作(リ)2却(クル)v恨(ヲ)之歌(ヲ)1、式《モチテ》旌《アラハス》2感信(ヲ)1、守大伴宿祢家持 九月二十六日作也
 
○※[執/鳥]――ツカミトル。説文に、撃殺v鳥也とある。○詞試失v節――鳥を馴らし、合せ試みることが、節度(285)即ち加減を央ひ。○乖v候――時候にそむく。雨の降る日に狩したことをいふのであらう。○搏v風之翅――舊本翅を※[走+羽]に誤る。西本願寺本によつて改む。この句は鷹が勢よく飛び去つたこと。○腐鼠之餌――腐つた鼠を餌としても、鷹を呼び留めることが出來なかつた。○窺2乎非常1――萬一を僥倖する意。○恃2乎不虞1也――萬一をたのむ。恃を舊本特に作るは誤。元暦校本による。粤――ココニ。舊本に奧とあるは誤。○使君――國守の唐名。○精神――舊本、精を情に誤つてゐる。○未幾――未を舊本末に誤つてゐる。○却v恨歌――却は※[谷+即の旁]の俗字。退くる。恨を止める歌。○式旌2感信1――以て感激信仰の念を顯はす。
 
高市連黒人一首年月未v審
 
高市連黒人は文武天皇の大寶二年に太上天皇の駕に從つて、參河に赴いた人で、柿本人麿と同時代の人である。諸方に旅行した人であるが、これも越中に來た時の作であらう。
 
4016 賣負の野の 薄押しなべ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思ほゆ
 
賣比能野能《メヒノヌノ》 須々吉於之奈倍《ススキオシナベ》 布流由伎爾《フルユキニ》 夜度加流家敷之《ヤドカルケフシ》 可奈之久於毛倍遊《カナシクオモホユ》
 
婦負ノ野ノ薄ヲ押シ靡カセテ、雪ガヒドク〔三字傍線〕降ルノニ、コノ淋シイ野原デ旅ノ〔コノ〜傍線〕宿ヲ借リル今日ハ悲シイコトダヨ。
 
○賣比能野能《メヒノヌノ》――賣比の野は婦負の野。婦負は延喜式・和名抄に禰比と訓してあり、今も郡名をネイと呼んでゐる。蓋し古くは婦の字をメとよましめたのを、ネに訛つたものか。但し三代實録に鵜坂|姉比※[口+羊]《ネヒメ》神社と鵜坂|妻比※[口+羊]《メヒメ》神社との名が見えるから、古くネヒとメヒとが兩つあつたのかも知れない。略解に「春海云、屓は老女の事なれば、ねびたる女と云義か。又青木敦書が郡名考に、婦負を當時官家に用ゐる文書に姉屓と書と有り。これによれば禰比ととなふるはよし有か」とある。この野を楢葉越栞には、今の下野村・下野新村のほとりであ(286)らうといってゐるが、その東方にも、野村・野口・野々上などの地名が殘つてゐるから、今の小杉町あたりから呉服山に至る間の平地が、昔の賣比野であらうかと思はれる。○可奈之久於毛倍遊《カナシクオモホユ》――舊訓オモヘユとあるが代匠記精撰本に倍を保の誤としてオモホユと訓んだのがよいか。新考には「もとのままにてオモハユとよむべし。倍の音ハイを略してハに借れるなり」とある。併し集中倍はベ又はヘの假名として毎卷に用ゐられてゐるが、ハの假名となつてゐるところは一箇所もないから。此所のみをハに訓することは無理であらう。元來倍は外轉第十三開、唇音の濁でバイである。けれども呉音及びそれ以前の古音が、ベであつたことは、この集の用例や紀記の用字法によつて明らかである。舊訓オモヘユとあるのを尊重して、北國の方言を取り入れたものかとも考へられないことはないが、さういふ方言があつたといふ證もなく、又この歌は方言を取入れるやうな氣分でもない。
〔評〕 婦負の野を旅してゐる時の作であらう。見渡す限の枯薄が、降りしきる雪に押されて、見る間に靡き倒れて行く。辿り行く野中の道も、暫くの間に埋れてしまつた。この雪の日にこの曠野に宿を借ることかと、途方にくれた旅人の淋しい姿が思ひやられる。哀切の調、斷腸の思、技巧を用ゐずして渾然たる作品となつてゐる。
 
右傳2誦(ルハ)此歌(ヲ)1三國眞人五百國是也
 
舊本、歌を誦に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。三國眞人五百國の傳は明らかでない。三國は越前の地名で、古事記に三國君・三國公の名が見えてゐる。三國眞人はその後裔であらう。越中にあつて何を職としてゐたものかは知ることを得ない。
 
4017 あゆのかぜ 越の俗語東風をあゆのかぜといふ いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隱る見ゆ
 
東風《アユノカゼ》【越俗語東風謂2之(ヲ)安由乃可是1也、】 伊多久布久良之《イタクフクラシ》 奈呉乃安麻能《ナゴノアマノ》 都利須流乎夫禰《ツリスルヲブネ》 許藝可久流見由《コギカクルミユ》
 
(287)東風ガヒドク吹クラシイ。奈呉ノ海人ノ釣ヲスル船ガ、漕ギ隱レデ行クノガ見エル。
 
○東風《アユノカゼ》――下の註にあるやうに、越の方言で東風をアユノカゼといふのである。即ち今の北國の方言のアイノカゼである。併し嚴密に言へは東北風であることは前の入京漸近悲情難v撥述v懷一首(四〇〇六)に説明した如くである。かの地は富山灣の底部にあつて、東北のみが開いてゐるから、この風の吹く時に最も波が立つのである。○許藝加久流見由《コギカクルミユ》――漕ぎ隱る見ゆ。船が漕ぎ去つて、海上から姿を隱すを言つてゐる。
〔評〕 目に見るところをその儘に詠んで、光景を髣髴たらしめてゐる。作者の位地が明瞭でないが、この日奈呉方面にこ散策を試みた途上の作であらう。白波の立つ海上から漁船の影が、漸次、消え行くを見て詠んだものである。和歌童蒙抄に結句をコギカヘルミユとしてあるが、若し奈呉の浦邊での作とすれば、かう詠むのが當然である。かの地方には漕ぎ隱るべき島蔭などはない。併し作者は卷七の月船星之林丹榜隱所見《ツキノフネホシノハヤシニコギカクルミユ》(一〇六八)などに傚つて、かうした言ひ方をしたものかも知れない。この歌は和歌童蒙抄と袖中抄とに載つてゐる。古今六帖にも少しく改作して出してある。
 
4018 港風 寒く吹くらし 奈呉の江に 妻よびかはし たづさはに鳴く
 
美奈刀可是《ミナトカゼ》 佐牟久布久良之《サムクフクラシ》 奈呉乃江爾《ナゴノエニ》 都麻欲妣可波之《ツマヨビカハシ》 多豆左波爾奈久《タヅサハニナク》
 
河口ノ風ガ寒ク吹クラシイ。奈呉ノ江デ妻ヲ呼ビカハシテ、鶴ガ澤山鳴イテヰル。
 
○美奈刀可是《ミナトカゼ》――河口の風。射水河の河口を吹く風。○奈呉乃江爾《ナゴノエニ》――奈呉の江は今の放生津潟であらう。射水河の河口を距る東へ十餘町で新湊町がある。一に放生津町とも稱してゐる。その町の入口で細い水路が海に續いてゐるのを、所の人は内川と呼んでゐる。それを數町許遡ると小湖に通ずる。それが即ち放生津潟である。周圍一里二十町ばかりの湖水であるが、古昔は今よりも大きく、南方に向つて廣がつてゐたらうと思はれる。(288)從つてこの内川も今よりも短かつたであらうと想像せられる。この湖水は狹い砂地で、海と境してゐるので、海岸を歩めば兩側に、海と湖水とを見るのであるが、海岸は全くの砂であるに反し、湖水の方には葦や菅が、穩やかな水面を圍んで生ひ繁つてゐる。從つて鶴などが多く來り栖んでゐたのである。卷十八にも多豆我奈久奈呉江能須氣能《タヅガナクナゴエノスゲノ》(四一一六)とある。
〔評〕 右に述べたやうな奈呉の江の風景を詠んだもの。湖面に集り來る群鶴の聲を聞いて、射水河口の春寒い風を想像してゐる。爽やかな感じの歌。
 
一云|多豆佐和久奈里《タヅサワグナリ》
 
これは五の句の異傳である。
 
4019 天ざかる 鄙ともしるく ここだくも 繁き戀かも なぐる日も無く
 
安麻射可流《アマザカル》 比奈等毛之流久《ヒナトモシルク》 許己太久母《ココダクモ》 之氣伎孤悲可毛《シゲキコヒカモ》 奈具流日毛奈久《ナグルヒモナク》
 
田舍ヘ來タノデ私ハ〔九字傍線〕(安麻射可流)田舍ト云フコトガハツキリト感ゼラレテ、戀シサガ靜マル日モナク、甚ダシク頻リニ都ガ〔二字傍線〕戀シイヨ。
 
○比奈等毛之流久《ヒナトモシルク》――鄙であることがはつきりと意識せられて。成るほど田舍だと思はれて。都は樂しく、田舍は悲しいところといふ觀念を基礎としてゐる。○許己太久母《ココダクモ》――許多も。ココダクは澤山。○奈具流日毛奈久《ナグルヒモナク》――ナグルは和《ナ》グといふ上二段の動詞の連體形であらう。戀しい心の靜まる日もなくの意。
〔評〕 好景の内にありながら、都忘じ難く、しきりに湧いて來る旅愁を如何ともし難いのである。淋しさ悲しさ(289)が、なだらかな調子でよく詠まれてゐる。
 
4020 越の海の 信濃【濱の名なり】の濱を 行き暮らし 長き春日も 忘れておもへや
 
故之能宇美能《コシノウミノ》 信濃《シナヌ》【濱名也】乃波麻乎《ノハマヲ》 由伎久良之《ユキクラシ》 奈我伎波流比毛《ナガキハルヒモ》 和須禮弖於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》
 
 
越ノ海ノ信濃ノ濱ヲ歩イテ、日ヲ暮シタガ、コノ〔四字傍線〕長イ春ノ日モ、都ヲ〔二字傍線〕忘レナイデ絶エズ゙思ツテヰル〔デ絶〜傍線〕ヨ。
 
○故之能宇美能信濃《コシノウミノシナヌ》【濱名也】乃波麻乎《ノハマヲ》――越の海にある信濃の濱を。越の海は北陸全體の海を總稱するが、ここではこの新湊地方の海を指してゐるのは勿論である。信濃の濱は今、その名が殘つてゐないが、この前後の歌から推して、これが新湊からあまり遠くない地點であることは明らかである。萬葉越路の栞に「此濱は奈古海濱と奈古入江との間の濱路にて、今も旅人往來する所なるべし。今古名を失へば其所さだかならず。今も放生津新町に信濃祭といふ祭禮あり。土人は訛言してシナン祭りと呼べり。此處と定め難けれど、此處ならんか」とあるは從ふべきであらう。○由伎久良之《ユキクラシ》――歩いて日を暮して、○和須禮底於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》――忘れて思へや。都を忘れはせじといふのである。
〔評〕 淋しい歌だ。つくづくと越の住居に倦き果てで、都を偲びつつ、荒凉たる長打を辿る、若い國守の姿を思はしめる。前の歌と同一氣分の作である。
 
右四首天平二十年春正月二十九日大伴宿禰家持
 
ここに天平二十年とあるのを代匠記精撰本に廿一年の誤とし、古義はそれに從つて 東風《アユノカゼ》(四〇一七)の歌の前に、二十一年春正月二十九日作歌の十三字を補つてゐる。これは前の字具比須乃《ウグヒスノ》(三九六六)の歌の左註に、舊本、天平二十年とあるのが誤つてゐることに心つかなかつた説で、從ふべきでない。
 
(290)礪波郡雄神河邊作歌一首
 
礪波郡は古事紀黒田宮の條に高志之利波臣とあるものの支配してゐたところで、射水郡の南に當つてゐる。明治二十末年これを東礪波・西礪波に分つた。雄神河は今、庄川と呼ぶ川で、飛騨白川地方の水を集めて北流し、雄神村附近を流れて雄神河の名があつた。上代は雄神村の式内雄神神社、即ち今、辨財天前と稱するあたりから西流して、小矢部川に合流し、射水川となつてゐたが、應永三年六月の大洪水で、辨財天前から東方に決水し、北流して射水河の河口近く、今の伏木町の上手で合流することになつた。その後、流域に多少の變更はあつたが大體は變らなかつた。併しこの川は絶えず土砂を流出して、伏木港口を淺くするので、明治三十二年から起工して、新湊町と射水河口との間に別に水路を作り、庄川が射水川と相並んで海に注ぐことになつたのである。寫眞は雄神神社附近。
 
4021 雄神河 くれなゐ匂ふ 少女らし 葦附【水松の類】とると 瀬に立たすらし
 
乎加未河伯《ヲガミガハ》 久禮奈爲爾保布《クレナヰニホフ》 乎等(291)賣良之《ヲトメラシ》 葦附《アシツキ》【水松之類】等流登《トルト》 湍爾多多須良之《セニタタスラシ》
 
見渡スト〔四字傍線〕雄神川デハ、赤裳ノ色ガ水ニ映ジテ〔赤裳〜傍線〕、紅ノ色美シク映エテヰル。アレハ〔三字傍線〕少女等ガ葦附ヲ採ルトテ、川ノ〔二字傍線〕瀬ニ下リ立ツテヰルラシイ。
 
○久禮奈爲爾保布《クレナヰニホフ》――紅の色に匂つてゐるの意。ニホフは映ずること。この句で切れてゐる。○乎等賣良之《ヲトメラシ》――處女等はその邊の里の少女である。シは強めていふのみ。○葦附《アシツキ》【水松之類】等流登《トルト》――葦附を採るとて。茸附はその名の如く、葦に附着するもので、註に水松之類とあるが、海苔の種類である。この植物は今も庄川の中田橋附近、東礪波郡北般若村石代地域内に發生してゐる。これについて、宮山縣史蹟名勝天然記念物調香委員の御旅屋太作氏が公にせられた報告書があるが、今それを要約すると「アシツキノリは水前寺苔に似てゐるが、細胞配列の關係が異なつてゐる。裂殖藻門念珠藻科、念珠藻屬に屬する。肉眼的形態は帶褐緑色柔軟の寒天樣質の塊で、波状にうねつてゐる褶襞の多い嚢状の固體で、大きいのは十仙米もある。發生の初即ち小なるものは、殊に疣状である。庄川堤防の外側から湧き出る、寒冷な清水が流れてゐる小川の底の小石の表面に附著してゐる。又葦の根もとにも附いてゐる。五六月から生じ、六月中旬から七月中句までは盛に繁殖するが、成熟すれば附着してゐるものから離れて流れ去り、泡沫状となつて腐敗する。石灰分の多い、寒冷にして、清淨な水が發育に通してあるやうである。云々」と記されてゐる。挿入の圖は御旅屋氏の筆になつたものによつた。○湍爾多多須良之《セニタタスラシ》――タタスは立つの敬相であるが、輕い意味で用ゐてあるやうだ。
(292)〔評〕 葦附といふ珍らしい植物を採集してゐると聞いて、彼の好奇心がこの歌を作らしめたものだ。卷七の黒牛乃海紅丹穗經百磯機乃大宮人四朝入爲良霜《クロウシノウミクレナヰニホフモモシキノオホミヤビトシアサリスラシモ》(一二一八)に酷似してゐて、模傚の跡が明瞭なのは、作者の爲に惜しむところである。これより以下九首は、左註にもあるやうに、家持が管内巡視中の作である。
 
婦負郡渡(ル)2※[盧+鳥]坂《ウサカ》河邊(ヲ)1時作(レル)歌一首
 
婦負郡は今もその郡名が用ゐられてゐる。東礪波・射水郡の東で、上新川郡と神通河とを以て界してゐる。古くメヒと訓んだらしいことは、右の賣比能野能《メヒノヌノ》(四〇一六)の歌の條に述べた通りである。※[盧+鳥]坂河は今その名がない。併し今の富山市の南方半里の地點に鵜坂村があり、そこには式内の鵜坂神社が祀られてゐて、神通河がその社地に添うて(今は少し境内が狹くなつてゐるが)流れてゐるから、かの雄神河の名が雄神村から起つたやうに、神通河を古くこの邊で※[盧+鳥]坂河と呼んだものに違ひない。なほ邊の字は衍文とする説も多いが、さうとも定め難い。
 
4022 ※[盧+鳥]坂河》 渡る瀬多み このあがまの 足掻の水に 衣ぬれにけり
 
宇佐可河伯《ウサカガハ》 和多流瀬於保美《ワタルセオホミ》 許乃安我馬乃《コノアガマノ》 安我枳乃美豆爾《アガキノミヅニ》 伎奴奴禮爾家里《キヌヌレニケリ》
 
※[盧+鳥]坂河ヲ渡ルノニ河ガ廣クテ〔十字傍線〕渡ル瀬ガ多イノデ、此ノ私ノ乘ツテル〔四字傍線〕馬ノ足掻キヲシテ迸ル〔五字傍線〕水デ、着物ガ濡レタヨ。アア難儀ナコトダ〔八字傍線〕。
 
○和多流瀬於保美《ワタルセオホミ》――渡るべき瀬が多いので。神通川はこの邊で河幅三町に達し、その間を瀬が幾筋にも分れて流れてゐる。從つてこれを渡らうとすれば幾多の瀬を横切るわけである。○許乃安我馬乃《コノアガマノ》――此の吾が乘る(293)駒の」。○安我枳乃美豆爾《アガキノミヅニ》――足掻の水で。馬が脚を動かす毎に水沫が飛んで。
〔評〕 廣い河瀬を馬打ちわたす情景がよくあらはれてゐる。結句に旅のわびしさが見える。併し卷七の武庫河水尾急嘉赤駒足何久激沾祁流鴨《ムコガハノミヲヲハヤケミアカゴマノアガクタギチニヌレニケルカモ》(一一四一)に似てゐるのは惜しい。
 
見(テ)2潜※[盧+鳥]人(ヲ)1作(レル)歌一首
 
潜※[盧+鳥]人は考にウカヒヒト、古義にウツカフヒト、新考ウヲカヅクルヒトとよんでゐる。文字通りに新考のやうに訓むがよいであらう。
 
4023 賣比河の 早き瀬ごとに かがりさし 八十伴の男は 鵜河立ちけり   
 
賣比河波能《メヒガハノ》 波夜伎瀬其等爾《ハヤキセゴトニ》 可我里佐之《カガリサシ》 夜蘇登毛乃乎波《ヤソトモノヲハ》 宇加波多知家里《ウカハタチケリ》
 
賣比河ノ早イ瀬毎ニ篝火ヲ焚イテ、澤山ノ役人ドモハ、鵜ヲ使ツテ魚ヲ捕ツテヰルヨ。
 
○賣比河波能《メヒガハノ》――賣比河は神通川を※[盧+鳥]坂川の下流について呼んだものらしい。※[盧+鳥]坂川を神通川とすれば、婦負郡内に於て、その東には河はないから、賣比河も亦神通川である。思ふに※[盧+鳥]坂川を渡つて、それから流に從つて下り、この歌を作つたのであらう。これを井田川又は若狹川とするのは根據のない説である。○可我里佐之《カガリサシ》――篝火をともして。○夜蘇登毛乃乎波《ヤソトモノヲハ》――八十伴の男は。多數の役人どもはの意で、家持の部下をさしてゐるやうだ。漁夫ではない。○宇加波多知家里《ウカハタチケリ》――鵜河立ちけり。鵜河は鵜を使つて河で魚で捕ること。卷一に鵜川乎立《ウカハヲタテ》(三八)とあつたが、ここは八十伴の男が自ら鵜飼をするので、ウカハタチケリといつたのであらう。
〔評〕 家持に扈從した國の役人どもが、賣比河の邊に宿つた一夜、旅のなぐさに鵜飼をして遊んでゐるのを見て、(294)詠んだものであらう。さう思つて見ると、長官らしい落付が下句にあらはれてゐるやうである。
 
新河郡渡(ル)2延槻《ハヒツキ》河(ヲ)1時作歌一首
 
新河郡は今上中下の三郡に分れてゐる。越中の東端で、神通川以東の大郡である。延槻河は今、早月川といつてゐる。立山の北なる大日獄に源を發し、北流して海に注ぐ。その延長十里に過ぎない。その下流は中新川・下新川兩郡の境界をなしてゐる。
 
4024 立山の 雪しくらしも 延槻の 河の渡瀬 鐙浸かすも
 
多知夜麻乃《タチヤマノ》 由吉之久良之毛《ユキシクラシモ》 波比都奇能《ハヒツキノ》 可波能和多理瀬《カハノワタリセ》 安夫美都加須毛《アブミツカスモ》
 
立山ノ雪ガ溶ケテ流レテ〔六字傍線〕來ルラシイヨ。延槻ノ河ノ渡ル瀬ハ、水ガ増シテ、私ノ乘ル馬ノ〔水ガ〜傍線〕鐙ヲ濡ラスヨ。
 
○由吉之久良之母《ユキシクラシモ》――雪頻くらしも。雪し消《ク》らしも。雪し來らしもなどの解があり、又新考のやうに之《シ》を誤とし(295)して雪解くらしもとする説もある。これらの内で、第三説の雪し來らしもがよいではなからうか。第二説は略解にあげたもので「しくらしも例の重《シク》々の意にては解がたし。宣長云、雪しのしは助辭にて、くらしもは消らしも也。消《キユ》るをくと言ふはめづらしけれども、書紀に居をう〔傍点〕と訓註もあり。又乾をふ〔傍点〕と訓註もあれば、消も古言にはく〔傍点〕と言へるなるべしと言へり。」とあり、これも面白い説であるが、なほ研究を要する。○可波能和多理瀬《カハノワタリセ》――ワタリセは渡り瀬。前の宇佐可河泊《ウサカガハ》(四〇二二)の歌には和多流瀬《ワタルセ》とあり、ここに和多理瀬《ワタリセ》とあるのは注意すべきである。古言を一二の例を以て一に律しようとするのは、慎まぬばならぬことを教へてゐるやうだ。○安夫美都加須毛《アブミツカスモ》――アブミは鐙。足踏《アシフミ》の約なることは言ふまでもない。和名砂に「鐙、蒋魴切韻云、鐙、都※[登+おおざと]反、阿布美、鞍兩邊承v脚具也」とある。ツカスは漬くの延言と見る説もあるが、さうではなく令v漬の意で、水に浸らしめることであらう。スを敬語と見るのは、もとより當らない。
〔評〕 これはこの一連の作中では秀でてゐる。北國の河は春になると、雪消で水量が著しく増大するのであるが、家持が駒の太腹まで水に浸らせながら、石の多い延槻川の早瀬を渡つてゐる樣が、目に見えるやうである。佳い作だ。
 
赴2參(ヰリ)氣太神宮(ニ)1行(キシ)2海邊(ヲ)1之時作(レル)歌一首
 
舊本、氣比大神宮とあるは誤。氣比は越前敦賀の神社で、ここにあるべきでない。元麿校本に氣太神宮とあるに從ふべきである。氣太神宮は即ち今の國幣大社氣多神社で、能登羽咋郡一(ノ)宮村の海岸近い丘陵の上に、西面して祀られてゐる。祭神は大國主命、能登一の宮として古くから尊崇の篤かつた神社である。當時能登は越中に合せられてゐたから、家持は礪波・婦負・新河の評郡の巡視を終へて國府に歸り、更に轉じて、能登に向ひ、第一にこの神社に賽したのである。赴參は參詣といふやうな意で用ゐであるやうだ。海邊については歌の波久比能海《ハクヒノウミ》の項を參照。
 
4025 志乎路から 直越來れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫もがも
 
(296) 之乎路可良《シヲヂカラ》 多太古要久禮婆《タダコエクレバ》 波久比能海《ハクヒノウミ》 安佐奈藝思多理《アサナギシタリ》 船梶母我毛《フネカヂモガモ》
 
之乎ノ路カラ眞直ニ山ヲ〔二字傍線〕越エテ來ルト、羽咋ノ海ハ、朝※[さんずい+和]デ穩カ〔三字傍線〕ニナツテヰル。船ヤ櫓ガ欲シイモノダ。サウシタラソノ船ニ乘ツテ行カウ〔サウ〜傍線〕。
 
○之乎路可良《シヲヂカヲ》――之乎路は志雄街道。カラはヨリに同じ。志雄は能登羽咋郡の名邑で、越中と能登との國境をなす山脉の西麓に、今も小市街をなしてゐる。この之乎路即ち志雄街道は、志雄と越中の氷見町とを繋ぐもので、志雄を離れて直ちに山路となり、石坂・向瀬・走入・三尾・小久米などの部落を經て氷見に通じたものらしい。さうしてこれが北陸の幹線道路であつた。家持は今、氷見からこの道を逆に辿つて志雄に來たのである。○多太古要久禮婆《タダコエクレバ》――直越え來れば。卷六の直超乃此徑爾師弖《タダコエノコノミチニシテ》(九七七)、卷十二の磐城山直越來益《イハキヤマタダコエキマセ》(三一九五)などの例のやうに、眞直ぐに越えて來るのが、直越えである。○波久比能海《ハクヒノウミ》――羽咋の海。從來これを羽咋郡の海、即ち能登西海岸の南部の海とする説が多い。志雄から氣多へ參詣するには、海岸に出て砂濱を北上する通路もないではないが、それは非常な迂廻であるから、家持がさういふ路を取つたとは思はれない。加之、當時は今の邑知潟と稱する(397)湖水が、地質學者の謂ゆる邑知潟地溝帶の大半を浸してゐたらしく、志雄はもとよりその湖に面してゐたのである。氷見方面から、山間の道を辿つて來た家持の目前に、E々と湛へた湖水が廣く展開してゐた。この歌で「直越え來れば羽咋の海朝※[さんずい+和]したり」とあるのは、即ち志雄路を越えれば、直に羽咋の海が見えることを詠んだので、羽咋の海はこの大湖水であることがわかる。志雄から羽咋の外海までは、少くとも三四里を距ててゐるから、この歌の趣に合致しない。彼はこの大湖の西岸に沿うて北上しつつ詠んだもので、題に海邊とあるのは、羽咋の外海の岸ではないのである。今、なほ口碑の傳ふるところによると、氣多神社南方の、水田かがられてゐるあたりまで、上代は湖水が浸入してゐたとのことである。家持はこの水路によることの便利を痛感して、この歌を作つたものに違ひない。なほ拙著『北陸萬葉古蹟研究』にこの邊の踏査記を載せて置いたから、參照せられたい。○船梶母我毛《フネカヂモガモ》――船と梶とがあればよいの意だから、フナカヂと訓んではわるい。つまり乘る(298)べき舟が欲しいのである。フネカヂは漢文の舟楫之利などの熟語を直譯したものらしい。
〔評〕 よく出來た作だ。卷十三の相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフサカヲウチデテミレナフミノウミシラユフバナニナミタチワタル》(三二三八)を學んだものと見るは僻目であらうか。結句は卷六の玉藻苅海未通女等見爾將去船梶毛欲得浪高友《タマモカルアマヲトメドモミニユカムフネカヂモガモナミタカクトモ》(九三六)から採つたかと思はれる。
 
能登郡從3香島津1發(シテ)v船(ヲ)行(キ)於d射(シテ)2熊來村(ヲ)1往(キシ)時u作(レル)歌二首
 
能登郡は今の鹿島郡に當る。羽咋郡の西、鳳至郡の南に當つてゐる。香島津は、今の七尾港。今七尾の郊外に小島と稱する字があるのが、香島の轉訛であらうとする説があるが、能登が一國として獨立してゐた時の國府は、今の徳田村にあったのだから、その玄關口として考へれば、やはり今の七尾町の東部が香島津であったらうかと思はれる。射はサシテと訓むがよい。卷十六にも自2肥前國松浦縣美禰良久埼1發v舶直射2對馬1渡海云々(三八六九の左註)とある。熊來村は卷十六の※[土+皆]楯(299)熊來乃夜良爾《ハシダテノクマキノヤラニ》(三八七八)の條に委しく説明したやうに、態登郡にあり、七尾灣の西灣の中央部の西邊に位してゐる。七尾を去る海上四里許。
 
4026 とぶさ立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びぞ
 
登夫佐多底《トブサタテ》 船木伎流等伊有《フナギキルトイフ》 能登乃島山《ノトノシマヤマ》 今日見者《ケフミレバ》 許太知之氣思物《コダチシゲシモ》 伊久代神備曾《イクヨカムビゾ》
 
斧ヲ立テテ置イテ、神ヲ祈ツテ〔五字傍線〕、船ヲ作ル材木ヲ出ストイフ能登ノ島山。今日見ルト木立ガ深ク茂ツテヰルヨ。幾年ノ長イ間ヲ經テカウシテ〔長イ〜傍線〕神々シクシテヰルノデアラウゾ。實ニ立派ナ島ダ〔七字傍線〕。
 
○登美佐多底《トブサタテ》――卷三に鳥總立足柄山爾船木伐《トブサタテアシガラヤマニフナギキリ》(三九一)とあつたものと同じ。その條に、「昔樵夫が山で木を伐つた時、山神を祭る爲に梢の方だけを殘して立て置く習慣があつたらしい。さうして字鏡集に朶の字をトブサ・エダなどと訓んであり、堀川百首や謠曲「右近」にも梢の義に用ゐた例があるから梢のことに見るべきであらう」と説いて置いた。このトブサを梢と解することの最も古いのは袖中抄の説であるが、これに先立つて和歌童蒙抄には「とぶさたてとはたづきたて〔五字傍線〕といへることばなり」とあつて、トブサはタヅキ即ち手斧のこととする説が早く行はれてゐたのである。仙覺もこの説に賛意を表してゐた。予もこの兩説に對し慎重な考慮を回らしたのであつたが、結局卷三の條に.右のやうな解釋を下したのであつた。然るにその後、薩藩叢書の稱名墓志卷三を披見してゐる際に、屋久島では如竹上人(明暦元年乙未五月二十五日歿)の頃まで大木を切ることは災があるといつて、絶對にやらなかつたのであつたが、如竹上人はこれを憂ひて、愚民を諭さうと思つて、「世の爲に私が山上に通夜して、木を伐り出すことを祈らう」と人々に誓ひ、一七日山中に籠り、下山の日に諭して曰く。「これから伐らうとする樹には、前夜から斧を立てかけて置け」翌朝までに倒れてゐないのは災がない。災があるのは必ず斧が倒れるであらうと山神のお告を承けた」と、これから、屋久嶋の良材が伐り出されること(300)になつたと記してあつたのを讀んで、これは上代伐木の風習が、如竹上人の徳化の一部として語り傳へられたものか、或は如竹上人が永く藤堂侯に仕へて他國にあつた間に、他の地方に於ける習俗を見聞し、これを屋久島に輸入したものであらう(恐らくは前者であらう)と思ひついて愉快に感じたことであつた。さればトブサタテはトブサ、即ち斧の類を伐らうとする大木の根本に立てて山神に祈り、さうしてから船材とするものな伐り出すといふ意に違ひないのである。卷三の場合も同樣に解して始めて明瞭になると思ふから、ここに訂正して置く。委しくは奈良文化二十號所載の拙稿「鳥總立考」を參照せられたい。○船木伎流等伊有《フナギキルトイフ》――舊本有とあるが、元暦校本・類聚古集に、布に作るに從ふべきであらう。○能登乃島山《ノトノシマヤマ》――能登嶋をいふ。七尾灣の東方に横たはつてゐる島で、周圍十四里許り、日本海岸における唯一の大島である。この島は水穩やかな七尾灣に面して、小舟の碇泊に利便が多く、且、樹木が欝蒼と繁茂してゐたので、船材を伐出す好適地として、知られてゐたのである。○許太知之氣思物《コダチシゲシモ》――木立繁しも。木立が欝蒼としてゐるよの意。○伊久代神備曾《イクヨカミビゾ》――神備《カミビ》は神々しきこと。ビはミヤコビ・ヒナビなどのビと同じく、ラシキの意である。この句は幾世を經たる神々しさぞの意。幾世を經てかくまでに神々しくなつてゐるのかといふのである。
〔評〕 家持の作としては珍らしい旋頭歌の形式を採つてゐる。香島津の前面に横たはる能登島は、熊來をさして(301)行く船の右舷に近く迫つてゐる。その間、左舷には今、大杉崎・屏風瀬戸などと呼ぶ奇勝があり、海面は極めて平穩で、眺めに飽かぬ佳景を充分に樂しむことが出來る。今は島山は開拓せられて田畑が多く、樹木には乏しいが、滿山緑樹に包まれてゐた、上代の神々しさは想像するに難くない。内容にふさはしい、おごそがな調をなしてゐる。
 
4027 香島より 熊來をさして 漕ぐ舟の 楫取る間なく みやこし思ほゆ
 
香島欲里《カシマヨリ》 久麻吉乎左之底《クマキヲサシテ》 許具布禰能《コグフネノ》 可治等流間奈久《カヂトルマナク》 京師之於母保由《ミヤコシオモホユ》
 
(香島欲里久麻吉手左之底許具布禰能可治等流)少シノ〔三字傍線〕間モナク、都ガ戀シク思ハレルヨ。
 
○香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久《カシマヨリクマキヲサシテコグフネノカヂトルマナク》――冒頭から可治等流《カヂトル》までは、間無くと言はむ爲の序詞で、今、自分が乘つてゐる船中で、水夫の楫を操る状を見ながら、それを採つて序詞を作つたものである。
 
〔評〕 この歌は前にあつた同じ人の作、白浪乃余須流伊蘇未乎榜船乃可治登流間奈久於母保要之伎美《シラナミノヨスルイソミヲヲコグフネノカヂトルマナクオモホエシキミ》(三九六一)と同巧異曲で、唯、場所に適應するやうに、少しく序詞を變更したものに過ぎない。
 
鳳至《フゲシノ》郡渡(ル)2饒石《ニギシ》河(ヲ)1之時作(レル)歌一首
 
鳳至郡は羽咋・鹿島の二郡に隣してその北方にある郡。和名抄に不布志と註してあるので、フフシが古音のやうに考へる學者もあるが、鳳は韻鏡内轉第一開の唇音で通攝ngの音尾であるから、呉音はブングであつた。だから鳳の字はフゲ(又はブグ)と訓むやうに當てられてゐるので、今の人がフゲシと發音してゐるのが正しい。和名抄の布は希の誤であらうとする新考の説も遽かに從ひ難いが、古書にあるからといつて、猥りに拘泥してはいけない。饒石河は今の劍地村にある(302)河。能登半島の北部西岸に注ぐ流域二里許の小い河で、今も仁岸川といつてゐる。
 
4028 妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石河 清き瀬ごとに 水占はへてな
 
伊母爾安波受《イモニアハズ》 比左思久奈里奴《ヒサシクナリヌ》 爾藝之河波《ニギシガハ》 伎欲吉瀬其登爾《キヨキセゴトニ》 美奈宇良波倍底奈《ミナウラハヘテナ》
 
妻ニ逢ハナイデ久シクナツタ。戀シクテ堪ヘラレナイカラ、コノ〔戀シ〜傍線〕饒石川ノ清イ瀬毎ニ、水占ヲシテ妻ガ無事デヰルカ占ツテ〔妻ガ〜傍線〕見ヨウ。アア淋シイ〔五字傍線〕。
 
○美奈宇良波倍底奈《ミナウラハヘテナ》――美奈宇良《ミナウラ》は水占であるが、波倍底奈《ハヘテナ》については諸説がある。即ち代匠記初稿本には「みなうらはへてなは、水占せんなといふ心なり」とあり、同精撰本には、「水占をしていつかあはむと占なひて見るにや」とあり。考には、「波倍の約|倍《ベ》にて水之卜部《ミナノウラベ》なり……さて庭奈《テナ》の庭《テ》は、てあらなを約云なり。庭《テ》あらの約多なるを庭《テ》に通じてかくはいふなりけり」とあり。いづれもミナウラハヘといふ動詞と見てゐるやうである。略解は「うらはへは、うらへを延たり」と言ひ、うらへに占相と傍書してゐる、古義も同じく、「水占《ミナウラ》令《ヘ》v合《ア》てななるべし」とし、新考は「思ふに波は安の誤ならむ。アヘテナは合セテムなり」と波を安に改めてゐるが、以上の諸説は結局同意に歸するわけである。然るに伴信友の正卜考のみは「波倍底奈《ハヘテナ》はしひて按ふるに、延《ハヘ》てむにて清き河瀬の水中に、繩を延《ハヘ》わたし置て、それに流れかかりたるもの、或は其物の數などによりて、卜ふ事にはあらざるか」といつて、波倍を「延《ハ》へ」と解してゐる。この間題を決するには先づ水占とは如何なるものかを考へなければならぬのであるが、この占法については、全く他に所見がない。契沖は「饒石河とは石の多きに名付たるべければ、清き瀬毎に石のあざやかに見ゆるを、踏こゝろ見て占なふを水占と云にや」と述べてゐるが、幼稚な説明で取るに足らぬ。眞淵が「きよき水にて占をせし事ありしならむ。今俗たたみざんなど云如き類ならん」と言つたのもよく分らない。略解は「神武紀、天皇夢の訓へのまゝに、天香山の埴をもて八十(303)|平瓮《ヒラカ》、天の手抉《タクジラ》八十枚|嚴瓮《イツヘ》をつくりて、嚴瓮を以て丹生の川に沈めて占ひませし事有り、其類ひの占、古しへ有しなるべし」と神武天皇の故事を引いて推定してゐる。これに對して伴信友は「美奈宇良《ミナウラ》は水占なるべし。然れども他に證考たることなし」として、前掲の水中に繩を延へたのだらうとする説を述べてゐる。この兩説の中で、略解にあげた神武天皇の嚴瓮の故事は、國家平定の成否を判斷せられたものであるから、もとより卜占の一種に違ひなく、これを水占として差支ないのである。信友が「結句を一説に水之占相を延《ノベ》たるなりといへど、然る語格のあるべくもおもはれず」と言つて、これを拒けてゐるが、ウラハフといふ形が無いとも言ひ難く、又古義に「波(ノ)字、官本にはなし」とあるやうに、校本萬葉集によれば、京大本には波の字がないから、この波は衍字で、「水占《ミナウラ》へてな」であるかも知れない。水中に繩を延へると見る説は確證のあがらぬ限、從ひ難いやうである。但し予は家持のやつた(或はやらうと思つただけかも知れない)水占を、神武天皇の遊ばされ(304)たやうな嚴瓮を用ゐたものとは考へたくない。かりそめの旅中、そんな大袈裟なことも出來ないから、何かもつと簡單な水占があつたものと思ふのである。さうしてそれは、目下のところその方法は知り難いとすべきであらうと思ふ。なほここに伎欲吉瀬其登爾《キヨキセゴトニ》とあるについて、西村眞次氏の萬葉集の文化史的研究には、清き瀬毎に云々とあるから、あちらやこちらで幾度も占つて見て、頻數によつて判斷したやうに思はれる」と論じてゐるが、この河は河口では水深五六尺あるが、少し遡れば水が淺く、謂はゆる「清き瀬」といふべき地點が至るところにあるのである。家持がこの川を渡つたのは、河口に近い今、新橋といふ橋が架つてゐるあたりではなく、當時のやうに橋の乏しかつた時代には、多分淺い上流を渡つたであらうと思はれるから、清い淺瀬を渡りつゝ、かやうな歌を詠じたものであらうと思はれる。水占の方法が明瞭でないのは遺憾であるが、今は如何ともし難い。ともかくも、ここでは水占はふといふ動詞と見ようと思ふ。
〔評〕 熊來付に上陸した家持は、そこから能登半島を斜に横斷して、西海岸なる今の富來町方面に出て、海岸傳ひに北上し饒石河に達したらしい。この邊は今日でも荒涼たる僻地であるが、當時に於いては更に甚だしいものがあつたらうと思はれる。饒石川は河口で七八間、中流は三四間位の河幅を有してゐるが、この川のほとりに佇んで、妻を偲び、ふと水占をやつてその安否を知らうとしたのである。その場合の情景は丁度、業平が隅田川の舟中で「名にしおはばいざこと問はむ都鳥吾が思ふ人はありやなしや」と詠じたのと、同じやうな哀さを感ぜしめるものがある。別に秀でた歌といふではないが、その場面が想像せられてあはれな作である。
 
從2珠洲《スズ》郡1發(シテ)v船(ヲ)還(リシ)2太沼郡(ニ)1之時、泊(シテ)2長濱灣(ニ)1仰(ギ)2見(テ)月光(ヲ)1作(レル)歌一首
 
珠洲郡は、鳳至郡の東に隣れる郡で、即ち能登半島の突端である。出雲風土記に記すところの、高志之都々乃三埼《コシノツツノミサキ》は此處である。但しここに珠洲郡とあるのは珠洲の郡家の所在地で、上代にあつた珠洲驛の地であつたらうと思はれる。さうしてそれは今の正院村あたりであらうと推定せられる。珠洲○御崎又は鹽津などを發船地とする説は從ひ難い。太沼郡はわからない。これについ(305)て古來諸説紛々として歸するところを知らないが、越中能登はもとより、北陸のいづこにもこの郡名は見えない。冠辭考に「越前國大泥郡に還る時云々」と記してゐるが、越前に大泥郡はない。或は和名抄の大沼郷をこれに思ひよせたかも知れないが、それは今の大野町方面であつて、彼が歸還すべき地ではない。萬葉考には、代匠記説を引いて、「契沖云、和名抄に羽咋郡に大海郷(於保美)有り、廷槻川をわたりて、羽咋郡にまします氣多神宮に詣で、能登郡より鳳至に至り、それより珠洲に至りて舟にて羽咋へかへらるるなるべし。然れば大海郷の字を誤て大沼郡となせるなるべしと。此説によるべし」と記して、冠辭考の説を捨ててゐるのは當然である。この契沖説は略解・古義にも踏襲せられ、北陸の學者の著たる楢の葉越の枝折・萬葉越路の栞もこれに對して異論を挾んでゐない。併し大海郷の所在から考へて、彼が還るべき地とも思はれない。又珠洲から大海郷へは能登半島を、北から西へ迂廻するもので、海上波荒く且つ遠く距つて、當時にあつては困難な航路であつたらう。若し大海郷に還らうとするならば、寧ろ香島津に上陸して、陸路を取るのが安全であらうと考へられる。新考には「太沼郡はおそらくは太沼邨を誤れるならむ。今鹿島郡(即古の能登郡)の東南端に北大呑村南大呑村ありて、氷見郡(もとの射水郡の西北部)の北端に隣れり。此大呑ぞ太沼を訛れるならむ」と云ふ新説を立ててゐるが、オホヌマとオホノミとの音の類似から推測しただけで、他に何等典據とすべきものがない。この他に太沼郡といふ郡名が、當時あつたとする學者もあるが、羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を割いて能登國を置いたことは、續紀の養老二年五月の條に記すところで、そんな郡名は絶對になかつたのである。然らば從來の諸説一として從ふべきものがないのである。然るに古寫本中元暦校本のみは、太沼部の三字を治布に作つてゐるのは注意すべきであらう。新訓はこれを採用してゐる。けれども、この治布とは何を指すのであるか、地名としてはこの地方に全く聞かざるところであり、又地名らしくない名でもある。私かに思ふに治布は治府の誤ではあるまいか。布と府とは字形も似て居り、音も同じであるから、間違つたのではあるまいか。さて治府といふ熟語は一寸見えないが、國府を治府と(306)記したものであらう。管下を統治する府であるから、治府でよささうである。これを越中の國府とすると、珠洲郡の正院あたりから、順風を得て南下すれば、正に一日行程であるから、管内巡視を終つた國守家持は、この航路を取つて一路歸途についたものである。かう考へるのが極めて自然であらう。予は敢へてこの新説を學界に提供するものである。長濱灣についても諸説があつて未だ決しない。珠洲郡の正院から蛸島方面の海岸を長濱と呼び、あの邊の人が萬葉集の長濱灣は此處だとするのは論外である。又鳳至郡の富來町の北方に中濱こいふ地かあるのが、長濱だとする説もあるが、これは太沼郡を大海郷として、能登西海岸航行説に從つたもので、上來述べたところでその誤つてゐることは明らかであらう。又代匠記には、和名抄に能登部長濱 奈加波萬とあるのをあげ、その所在地に關しては何等の推定をも下してゐない。略解・古義共に同樣である。これを加賀藩の學者富田景周はその著、三洲志及び楢の葉越の枝折に、七尾町につづいた大田・矢田の海岸であらうとし、大日本地名辭書は今の崎山村・南大呑村・北大呑村だらうといつてゐる。和名抄の長濱が果して今の何處であるかは明らかではないが、參謀本部の地圖には大日本地名辭書の記す地點に、長濱浦と記してある。若しこの長濱灣を和名抄記すところと一致してゐるとすると、小口瀬戸を入つた左側の七尾灣内とせねばならぬ。然し上述の如く、家持が一路國府に歸らうとしてゐるものとすれば、態々七尾灣内に入る必要はないから、長濱灣を他に求めるのが穩當ではあるまいか。それについて思ひ出すのは、前の遊覽布勢水海歌に麻都太要能奈我波麻須義底《マツダエノナガハマスギテ》(三九九一)とあつたことである。そこで述べたやうに麻都太要《マツダエ》は今の島尾附近の長汀で、長濱灣といふにふさはしいところである。多分、家持は國府まで一日で歸らうとしたが、丁度ここまで來た時夜に入つて月が出たので、そこに舟を泊めて陸路を府に入つたのであらう。岩の多い澁溪の磯を通り、射水川の河口を入つて府に達するのは、月夜でも危險がないではなかつたから、麻都太要から上陸して、里餘の道を月明に乘じて辿らうとしたのであらうと思はれる。この長濱灣を麻都太要《マツダエ》の(307)長濱とする私案をここに公にする次第である。
 
4029 珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ來れば 長濱のうらに 月照りにけり
 
珠洲能宇美爾《スズノウミニ》 安佐妣良伎之底《アサビラキシテ》 許藝久禮婆《コギクレバ》 奈我波麻能宇良爾《ナガハマノウラニ》 都奇底理爾家里《ツキテリニケリ》
 
珠洲ノ海カラ朝船出シテ、漕イデ來ルト、已ニ日モ暮レテ〔七字傍線〕、長濱ノ浦デ月ガ照ツテヰルヨ。マコトニ良イ景色ダ〔九字傍線〕。
 
○珠洲能宇美爾《スズノウミニ》――珠洲の海は今の正院地方の海であらう。○安佐比良伎之底《アサビラキシテ》――朝舟出をして。朝港を舟出することをアサビラキといふ。
〔評〕 皎々たる月を仰いで、早くも夜に入つたことを嘆息する意もあり、又月光の明らかなるを詠嘆する意もあるやうである。その月光のやうな明朗な感じの歌。
 
右件謌詞者、依(リ)2春(ノ)出擧(ニ)1巡2行(ス)諸郡(ヲ)1當時所2屬目(スル)1作(ル)v之(ヲ)、大伴宿禰家持
 
(308)出擧とは公私の稻を貸與して利稻を取るをいふ。稻の外に財物を貸すものもあるが、稻を貸すのが普通である。ここに述べてある出擧は官稻を貸すもので、下民の窮乏を救はん爲に、春耕に貸與して、秋收の時返還せしめた。家持は春の出擧に際し、管内を巡行し、百姓の状況を察したのである。なほ出擧の義について、出は國司より百姓に出し貸す義、擧は百姓より國司へ擧返す義と見る學者もあるが、荷田在滿は出擧は貸す義で返す義はない。擧は用の意で、出し用ゐる義だ。故に出擧は國より利を得る爲であるが、利のない時も出擧といふべきだと言つてゐる。擧の字の用例から見ると、擧も貸すことである。
 
怨(ムル)2※[(貝+貝)/鳥](ノ)晩(ク)哢(クヲ)1歌一首
 
4030 鶯は 今は鳴かむと 片待てば 霞たなびき 月は經につつ
 
宇具比須波《ウグヒスハ》 伊麻波奈可牟等《イマハナカムト》
 可多麻底婆《カタマテバ》 可須美多奈妣吉《カスミタナビキ》 都奇波倍爾都追《ツキハヘニツツ》
 
鶯ハモウ鳴クダラウト思ツテ〔三字傍線〕、偏ニ待ツテヰルト、霞ガ棚曳イテ春モ深クナツテ〔七字傍線〕、月ガ空シク〔三字傍線〕經ツテシマツタ。何故鳴カナイノダラウ〔何故〜傍線〕。
 
○可多麻底婆《カタマテバ》――片待は片よりて待つ。ひたすら待つ。
〔評〕 前の出擧の巡行から歸つた後の作であらう。春のみいたづらに更け行きて、鶯の鳴かぬを待ちわびた歌。結句が穩やかに言ひ納めてある。
 
造(ル)v酒(ヲ)歌一首
 
4031 中臣の ふと祝詞言 言ひはらへ あがふ命も 誰が爲に汝
 
(309)奈加等美乃《ナカトミノ》 敷刀能里等其等《フトノリトゴト》 伊比波良倍《イヒハラヘ》 安賀布伊能知毛《アガフイノチモ》 多我多米爾奈禮《タガタメニナレ》
 
中臣ノ太祝詞言ヲ唱へテ御祓ヲシテ、齋ミ清メテ酒ヲ〔七字傍線〕贖物トシテ、長命ヲ祈ルモノモ、誰ノ爲デアルゾ。オマヘノ爲ダ〔三字傍線〕。
 
○奈加等美乃《ナカトミノ》――中臣氏は天兒屋根命の裔で、齋部氏と共に神を祭る家柄である。○敷刀能里等其等《フトノリトゴト》――太祝詞言。古事記に「天兒屋命布刀諄戸之祷白而《フトノリトゴトネギマヲシテ》云々」書紀に「乃使3天兒屋命、掌2其(ノ)解除之|太諄辭《フトノリトヲ》1而宣之焉。太諄辭、此云2布斗能理斗1」とある。フトは褒め辭、ノリトゴトは宣説言。これを略してノリトいふのである。中臣氏の祝詞は、延喜式に「凡祭祀祝詞者、御殿御門等齋部氏祝詞、以外諸祭中臣氏祝詞」とあるので明らかである。○伊比波良倍《イヒハラヘ》――言ひ祓へ。祝詞を唱へて罪穢を祓つて。○安賀布伊能知毛《アガフイノチモ》――贖ふ命も。アガフは贖《アガナ》ふに同じ。物を提供して辨償すること。ここは酒を造つて神に捧げることを言つてゐる。命もはわが命も。この句は酒を神に捧げてわが命長かれと祈るのはの意。○多我多米爾奈禮《タガタメニナレ》――誰が爲か、汝の爲なりの意。古義の或人説に奈は阿の誤で、タガタメニアレとあつたのであらうとあるが、雅澄もこれを否定してゐる。又古義は爾は可の誤でタガタメカナレであらうといひ、略解札記に「清水光房云爾は曾の誤ならむ」とあり、新考は「おそらくは奈禮は等可などの誤ならむ」といつてゐる。もとの儘にして解くべきであらう。汝とは戀人を指す。
〔評〕 家持が酒を造つて、戀人の爲に吾が長命を祈つた歌。造酒歌と題してあるが、歌の中には酒のことは見えてゐない。併し神樂の酒樂歌にも「天のはらふりさけ見れば八重雲の、くもの中なる雲の中とみの、天の小すげをさきはらひ、いのりしことはけふの日のため、あなこなや、わがすへの神のかみろきのみけこ」とあるやうに、酒を造るに當つて神を招き祝詞を唱へ、その酒を神に捧げるので、この歌はその趣が詠まれてゐるので(310)ある。卷十二の時風吹飯乃濱爾出居乍贖命者妹之爲社《トキツカゼフケヒノハマニイヂヰヮッアガフイノチハイモガタメコソ》(三二〇一)と似てゐる。又卷十一の玉久世清河原身※[禾+祓の旁]爲齋命妹爲《タマクセノキヨキカハラニミソギシテイハフイノチハイモカタメナリ》(二四〇三)とも少し似てゐる。袖中抄に載せてある。
 
右大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
この歌を作つた時日は記されてゐないが、次の卷十八の冒頭が、天平二十年春三月二十三日であるから、同年の作であることは疑ない。普通酒を造るのは秋であるが、これは神を祭る爲のもので臨時の行事であらう。
 
萬葉集卷第十七
 
卷第十八
 
(311)萬葉集卷第十八解説
 
 この卷は卷十七から卷二十までの、大伴家持の手記と思はれるものの一部分で、その構成も他の三卷と同じく、部門を分たず、年代順に排列してある。天平二十年三月二十三日から、天平勝寶二年二月十八日までの二年間の作であるが、代匠記も古義も二十年は二十一年の誤としてゐる。これは卷十七の故之能宇美能信濃乃波麻乎《コシノウミノシナヌノハマヲ》(四〇二〇)の左註に、二十年春正月二十九日とあるのを、二十一年の誤としたのに出發してゐるので、採るに足らぬ説である。またこの卷には天平二十年四月の作なる奴婆多麻能欲和多流都奇乎《ヌバタマノヨワタルツキヲ》(四〇七二)と天平二十一年三月十五日の作、都奇見禮婆於奈自久爾奈里《ツキミレバオナジクニナリ(四〇七三)との間に、約一年の間隔があるのに、それを認めないで、四月の歌と三月の作とを入替へることによつて、年月を整へようとする代匠記や古義の説もあるが、これは誤謬を重ねたものと言はねばならぬ。ともかく大伴家持越中在任中、彼及び彼の周圍の人の作である。外に太上皇御在於難波宮之時歌七首(四〇五六)のやうな傳誦の歌があるけれども、その數は尠い。歌體は長歌と短歌とで、長歌十首、短歌九十七首、總數百〇七首に過ぎない。その内、六十九首が家持の作である。家持に無關係の作は皆無といつてもよい。だから、この卷を彼の手記と考へるのは、無理のないことである。なほ家持の歌に、爲向京之時見貴人及相美人飲宴之日述懷儲作歌と題して、朝參乃伎美我須我多乎美受比左爾比奈爾之須米婆安禮故非爾家里《マヰリノキミガスガタヲミズヒサニヒナニシスメバアレコヒニケリ》 一頭云、 波之吉與思伊毛我須我多乎《ハシキヨシイモガスガタヲ》(四一二一)の如きは、貴人に謁見した場合と、美人に逢つた時との兩方の爲に、豫め(312)用意して作つて置いたらしく、他の卷にある異傳を記したものとは違つてゐる。これもこの卷が家持の手記なる一證とすることが出來よう。併し編纂せられた最初の形が、その儘傳はつてゐるか否かは考ふべきで、左註の文句中には家持としては、どうかと思はれるやうな節もないではない。用字法は卷十七と大體同一で、一音一字式の假名書になつてゐるが、意字も決して尠くない。殊に長歌には訓讀せしめたものが多く、就中、賀陸奥國出金詔書歌(四〇九四)の如きは著しいものである。この卷の文藝的價値は高くはない。多くは贈答等の對人關係のもので先人の模倣が多く、又は豫め儲けて作つたやうな作もあり、眞情を吐露したもの、高雅な興趣を歌つたものなどは至つて尠い。特殊の假名としては、應《オ》・事《シ》・授《ズ》・川《ツ》などで、これらは他卷に用例のないものである。なほ衣《エ》を也行に用ゐたものが一個所あるのは、誤寫かも知れないが、注意すべきであらう。
 
(313)萬葉集卷第十八
 
 天平二十年春三月二十三日左大臣橘卿使田邊史福麿饗2越中守大伴家持舘1時、新作并誦2古詠1各述2心緒1歌四首
 于v時期d之明日二十四日將uv遊2覽布勢水海1、仍述v懷各作歌八首
 二十五日大伴宿禰家持徃2布勢水海1道中馬上口號二首
 同日至2水海1遊覽時各述v懷作歌六首
 二十六日掾久米朝臣廣繩舘宴饗2田邊史福麿1歌四首
 太上皇御2在於難波宮1時歌七首
 左大臣橘宿禰歌一首
 和2左大臣歌1 御製一首
 於2左大臣橘卿宅1御船泝v江遊宴時、御製一首
 河内女王奏歌一首
 粟田女王奏歌一首
 御船以2綱手1泝v江遊宴時史福麿傳誦歌二首
(314、315頁省略)
(316)天平勝寶元年十二月大伴家持詠2雪月梅花1哥一首
少目秦伊美吉石竹舘宴守大伴家持作歌一首
同二年正月二日於2國廳1給2饗諸郡司1時大伴家持作歌一首
五日判官久米朝臣廣繩舘宴時大伴家持作歌一首
二月十一日守大伴家持忽起2風雨1不v得2辭去1作歌一首
 
(317)天平二十年春三月二十三日左大臣橘家之使者、造酒司|令史《サクワン》田邊福麿(ヲ)饗(ス)2于守大伴宿禰家持(ノ)舘(ニ)1爰(ニ)作2新歌(ヲ)1并(ニ)便(チ)誦(シテ)2古詠(ヲ)1各述(ブ)心緒(ヲ)1
 
代匠記精撰本に天平二十年は二十一年の誤とある。古義もこれに從つてゐるが、改むべき理由はない。卷十七の宇具比須乃《ウグヒスノ》(三九六六)の左註と、故之能宇美能《コシノウミノ》(四〇二〇)の左註とを見よ。二十三日は下に前件十首歌者二十四日宴作之とあるのに合はない。或は二十四日の誤か。しかし輕々には斷じ難い。橘家は目録に橋卿とある。造酒司は、ミキノツカサ又はサケノツカサと訓む。文武天皇の大寶九年に設けられた役所で、宮内省に屬し、酒・醴・酢などを釀造して、皇室の供御、饗宴の用に供した。長官は正一人正六位上、次官は佑一人從七位下、令史はその下で一人大初代上、その下に、史生が四人あつて、酒部・使部などを指揮してゐた。田邊福麿はその傳記は明らかでないが、卷六に田邊福麿歌集中出の歌が二十一首あり、卷九にも田邊福麿集出のもの三首と七首、計十首が載せてある。これらも、この人の作であらう。これによつて家持との親密な關係が想像せられる。西本願寺本・神田本などは、田邊の下に史の字がある。續紀、聖武天皇、天平十一年四月に正六位上田邊史難波の名が見えてゐるから、これも史の字があるべきである。雄略天皇紀にも田邊史伯孫とある。爰の字の下、類聚古集・西本願寺本など作の字があるのがよい。舊本にないのは脱ちたのである。舊本、便を使に誤つてゐる。元暦校本西本願寺本など、便になつてゐるものが多い。略解に、各述心緒だけを別行にして、「今本右の標より書續けたり。これは題なれば離ち書くべし。」とあるが、題詞ではないやうだから、もとのままがよい。
 
4032 奈呉の海に 船しまし借せ 沖に出でて 波立ち來やと 見て歸り來む
 
奈呉乃宇美爾《ナゴノウミニ》 布禰之麻志可勢《フネシマシカセ》 於伎爾伊泥※[氏/一]《オキニイデテ》 奈美多知久夜等《ナミタチクヤト》(318) 見底可敝利許牟《ミテカヘリコム》
 
奈呉ノ海デ船ヲ暫ク借シテクレ。私ハソレニ乘ツテ〔八字傍線〕、沖ニ出テ浪ガ立ツテ來ルカドウカト見テ歸ツテ來ヨウ。
 
○奈呉乃宇美爾《ナゴノウミニ》――奈呉の海は國府の前面に見える今の新湊の海。新考に爾《ニ》は乃《ノ》の誤ならむとあるが、奈呉の海での意であるから、この儘健でよい。○布禰之麻志可勢《フネシマシカセ》――シマシは暫し。しばらく。
〔評〕 國府から見える前面の海が、廣々と穩やかに、展開してゐるのを喜んで、戯れたのである。いかにも海の無い奈良人の言葉らしい。
 
4033 波立てば 奈呉の浦みに 寄る貝の 間無き戀にぞ 年は經にける
 
奈美多底波《ナミタテバ》 奈呉能宇良未爾《ナゴノウラミニ》 余流可比乃《ヨルカヒノ》 末奈伎孤悲爾曾《マナキコヒニゾ》 等之波倍尓家流《トシハヘニケル》
 
奈美多底波奈呉能宇良未爾余流可比乃)絶エ間ノナイ戀ヲシテ年ヲ過シマシタヨ。私ハ貴方ヲ戀シク思ヒツツ年ヲ送リマシタヨ〔私ハ〜傍線〕。
 
○奈美多底波奈呉能宇良未爾余流可比乃《ナミタテバナゴノウラミニヨルカヒノ》――波が立つと奈呉の浦廻に打寄せる貝の間なきとつづくので、この三句は末奈伎《マナキ》と言はむ爲の序詞である。舊本、末《マ》とあるのは、他の例によれば未《ミ》の誤である。○末奈伎孤悲爾曾《マナキコヒニゾ》――間なき戀とは家持を戀しく思ふことの、絶え間がなかつたことを言つてゐる。古義に末《マ》を未《ミ》の誤として、實無きと解したのは從ひ難い。
〔評〕 序詞は、遙かに見える奈呉の浦邊に寄る貝を想像して詠んだもの。下句に家持と一別以來の愛慕の情があらはれてある。
 
4034 奈呉の海に 潮のはや干ば あさりしに 出でむと鶴は 今ぞ鳴くなる
 
(319)奈呉能宇美爾《ナゴノウミニ》 之保能波夜非波《シホノハヤヒバ》 安佐里之爾《アサリシニ》 伊泥牟等多豆波《イデムトタヅハ》 伊麻曾奈久奈流《イマゾナクナル》
 
奈呉ノ海ニ汐ガ早ク干タナラバ、ソノ汐干ノ潟デ〔七字傍線〕餌ヲアサリニ出ヨウトテ、待チカネタヤウニ〔八字傍線〕鶴ハ今〔傍線〕鳴イテヰルヨ。勇マシイ聲ダ〔六字傍線〕。
 
○之保能波夜悲波《シホノハヤヒバ》――潮が早く干たならば。○安佐里之爾《アサリシニ》――アサリは求食。鳥が餌を捜すこと。
〔評〕 頻りに聞える鶴の聲を耳にして、鶴が餌をあさらうと潮干を待ち兼ねて鳴くやうに想像して、斷定的に述べてゐる。北陸の海には、干滿の差が至つて尠いのであるが、作者は難波や若の浦などと同樣に考へたのである。鮮明な、しつかりした作だ。
 
4035 ほととぎす 厭ふ時なし 菖蒲草 鬘にきむ日 こゆ鳴き渡れ
 
保等登藝須《ホトトギス》 伊等布登伎奈之《イトフトキナシ》 安夜賣具左《アヤメグサ》 加豆良爾藝武日《カヅラニキムヒ》 許由奈伎和多禮《コユナキワタレ》
 
郭公ハ何時來テ鳴イテモ〔八字傍線〕厭ナ時ハナイ。シカシ同ジ鳴クナラ〔九字傍線〕菖蒲草ヲ頭ノ※[草冠/縵]トシテ遊ブ五月五日ノ〔五字傍線〕日ニ、此處ヲ鳴イテ通リナサイ。
 
○加豆良爾藝武日《カヅラニキムヒ》――舊本藝を勢に誤つてゐる。元暦校本その他の古本によつて改む。
〔評〕卷十の霍公鳥厭時無菖蒲※[草冠/縵]將爲日從此鳴度禮《ホトトギスイトフトキナシアヤメグサカヅラニセムヒコユナキワタレ》(一九五五)と殆ど同歌で、福麿が古歌を誦したものである。晩春に、端午の節句の日の心を詠んだものを誦するのは,あまりにふさはしくない。袖中抄に載つてゐる。
 
(320)右四首田邊史福麿
 
新考は「此處に二十三日の家持の歌若干首と、二十四日の歌二首とをおとせるなり」と述べてゐる。從ひ難い。
 
于v時期(ル)d之明日將(ムト)uv遊2覽布勢水海(ニ)1、仍(リテ)述(ベテ)v懷(ヲ)各作(レル)歌
 
舊本目録に明日の下に二十四日とあるのは誤つてゐる。西本願寺本の目録にはない。
 
4036 如何にある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我を留むる
 
伊可爾安流《イカニアル》 布勢能宇良曾毛《フセノウラゾモ》 許已太久爾《ココダクニ》 吉民我彌世武等《キミガミセムト》 和禮乎等登牟流《ワレヲトドムル》
 
ドンナニヨイ景色〔五字傍線〕デアル布勢ノ浦デスカヨ。頻リニ貴方ガ私ニ〔二字傍線〕見セヨウトテ、私ヲ引留メナサルノハ、一躰ドンナ所ナノデスカ〔ノハ〜傍線〕。
 
○伊可爾安流《イカニアル》――舊本、安を也に誤つて、イカニセルと訓んでゐるが、元暦校本・西本願寺本その他、安に作る本が多い。どんなにある。どんなによい景色の。○許己太久爾《ココダクニ》――許多に。澤山に。
〔評〕 布勢の水海を見ないうちは、都には歸さないと、家持が無理に引留めるので、福麿は、その布勢の水海とは一躰どんな所ですかと、質問を發したのである。かういふ歌には、住い作はない。
 
右一首田邊史福麿
 
4037 乎敷の埼 漕ぎたもとほり ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに 一云、君が問はすも
 
(321)乎敷乃佐吉《ヲフノサキ》 許藝多母等保里《コギタモトホリ》 比禰毛須爾《ヒネモスニ》 美等母安久倍伎《ミトモアクベキ》 宇良爾安良奈久爾《ウラニアラナクニ》
 
布勢ノ海ハ其ノ湖ノ中ノ〔布勢〜傍線〕、乎敷ノ岬ワ漕ギ過ツテ、終日見テモ、見飽キルヤウナ浦ノ景色〔三字傍線〕デハアリマセンヨ。
 
○乎敷乃佐吉《ヲフノサキ》――乎敷の崎は布勢水海南岸の岬。前に乎布能佐伎波奈知利麻我比《ヲフノサキハナチリマガヒ》(三九九三)とある。○占許藝多母等保里《コギタモトホリ》――漕ぎ廻り。○美等母安久倍伎《ミトモアクベキ》――見るとも飽くべき。見ともは見るともの古格。
〔評〕 右の歌に對する家持の答、これも平凡である。
 
一云|伎美我等波須母《キミガトハスモ》
 
これは從來の諸説皆、第二句の異傳と見てゐる。さうすれば、乎敷の崎を君が訊ね給ふことよ、終日見ても見飽くことあるべき浦の景色ならぬにの意となるが、福麿は「如何にある布勢の浦ぞも」と訊ねたので、乎敷の崎のことを言つたのではない。又これを第二句とすると、歌形も意味も原歌とは、あまりに懸隔して來る。然るにこれを第六句に置いて、佛足跡歌躰として見ると、終日見ルトモ飽クベキ浦デハナイノニ、貴方ガオタヅネニナルヨの意となつて、整然とした立派な歌となる。これは第六句に相違ない。佛足跡歌躰なるを誤つて、かく記したのである。
 
右一首守大伴宿禰家持
 
4038 玉くしげ いつしか明けむ 布勢の海の 浦を行きつつ 玉もひりはむ
 
多麻久之氣《タマクシゲ》 伊都之可安氣牟《イツシカアケム》 布勢能宇美能《フセノウミノ》 宇良乎由伎都追《ウラヲユキツツ》 多(322)麻母比利波牟《タマモヒリハム》
 
何時ニナツタラ夜ガ〔二字傍線〕(多麻久之氣)明ケルデアラウ。早ク明ケレバヨイ。夜ガ明ケタラ〔早ク〜傍線〕布勢ノ海ノ浦ヲ歩キナガラ、玉ヲ拾ハウト思フ〔三字傍線〕。
 
○多麻久之氣《タマクシゲ》――枕詞。明けむにつづいてゐる。○伊都之可安氣牟《イツシカアケム》――何時になつたら明けるであらうか。早く明けよと希ふ意である。○多麻母比利波牟《タマモヒリハム》――多麻母は玉もであらう。古義に玉藻とあるのは從ひ難い。玉藻を拾ふといふ例が無いやうである。ヒリハムはヒロハムの古語。
〔評〕 二十四日の夜宴に、明日の清遊を思うて、明くるを待つ心。福麿も家持の推奨によつで、布勢の海に心引かれるやうになつたのである。
 
4039 音のみに 聞きて目に見ぬ 布勢の浦を 見ずは上らじ 年は經ぬとも
 
於等能未爾《オトノミニ》 伎吉底目爾見奴《キキテメニミヌ》 布勢能宇良乎《フセノウラヲ》 見受波能保良自《ミズハノボラジ》 等之波倍奴等母《トシハヘヌトモ》
 
評判ニバカリ聞イテ、マダ行ツテ〔五字傍線〕見ナイ、有名ナ〔三字傍線〕布勢ノ浦ヲ、見ナイデハ、縱令〔二字傍線〕一年タツテモ、私ハ都ヘハ〔五字傍線〕上ルマイト思フ〔三字傍線〕。
 
○見受波能保良自《ミズハノボラジ》――見ないでは都に上るまい。
〔評〕 結句「年は經ぬとも」とあるのが大袈裟である。前に吉民我彌世武等和禮乎等登牟流《キミガミセムトワレヲトドムル》(四〇三六)とあるによてると、僅かな滯在で、歸京しようとしてゐるらしいのに、隨分誇張したものだ。これも平庸。
 
4040 布勢の浦を 行きてし見てば 百しきの 大宮人に 語りつぎてむ
 
(323)布勢能宇良乎《フセノウラヲ》 由吉底之見弖婆《ユキテシミテバ》 毛母之綺能《モモシキノ》 於保美夜比等爾《オホミヤビトニ》 可多利都藝底牟《カタリツギテム》
 
布勢ノ浦ノ景色〔三字傍線〕ヲ行ツテ見タナラバ、(毛母之綺能)大宮人ニ、ソノ景色ノヨイコトヲ〔ソノ〜傍線〕語リ傳ヘヨウ。
 
○由吉底之見弖波《ユキテシミテバ》――行きて見たならば。波は元暦校本その他、婆に作るがよい。○毛母之綺能《モモシキノ》――枕詞。百磯城の。大宮とつづく。
〔評〕 布勢の浦の好景を、よいお土産話にしようといふのである。これも平庸。
 
4041 梅の花 咲き散る園に われ行かむ 君が使を 片待ちがてら
 
宇梅能波奈《ウメノハナ》 佐伎知流曾能爾《サキチルソノニ》 和禮由可牟《ワレユカム》 伎美我都可比乎《キミガツカヒヲ》 可多麻知我底良《カタマチガテラ》
 
私ハ貴方カラノ使ヲ心力ラ待チガテラ、梅ノ花ノ咲イテハ散ル花園ヘ行カウト思フ〔三字傍線〕。
 
〔評〕 卷十に梅花咲散苑爾吾將去君之使乎片待香花光《ウメノハナサキチルソノニワレユカムキミガツカヒヲカタマチガテラ》(一九〇〇)とある古歌を誦したもの。どうして梅の花の歌を誦したか。次の歌にあるやうに藤の花の咲く三月二十四日頃では、北陸でももう梅は散つてゐる筈だ。古義に福麿が旅館へ家持卿の便の來らむを偏待がてらに、彼(ノ)館の苑に出行て、梅花を見むとなり」とあるのは當つて居るまい。
 
4042 藤浪の 咲き行く見れば ほととぎす 鳴くべき時に 近づきにけり
 
敷治奈美能《フヂナミノ》 佐伎由久見禮婆《サキユクミレバ》 保等登藝須《ホトトギス》 奈久倍吉登伎爾《ナクベキトキニ》 知可(324)豆伎爾家里《チカヅキニケリ》
 
藤ノ花ガ段々〔二字傍線〕咲イテ行クノヲ見ルト、郭公ガ鳴クベキ時節ニ近ヅイテ來タヨ。
○布治奈美能《フヂナミノ》――藤花を藤浪と言つた例は、吾屋戸爾殖之藤浪《ワガヤドニウヱシフヂナミ》(一四七一)など、その他にも多い。○佐伎由久見禮波《サキユクミレバ》――彼方此方に段々と咲いて行くのを見ると。山際遠木末乃開往見者《ヤマノマノトホキコヌレノサキユクミレバ》(一四二二)・山際最木末之咲往見者《ヤマノマノトホキコヌレノサキユクミレバ》(一八六五)の例がある。藤の花房が本から末に咲いて行くのではない。
〔評〕 何等取得のない凡作である。
 
右五首田邊史福麿
 
4043 明日の日の 布勢の浦みの 藤浪に けだし來鳴かず 散らしてむかも 一頭云ほととぎす
 
安須能比能《アスノヒノ》 敷勢能宇良未能《フセノウラミノ》 布治奈美爾《フヂナミニ》 氣太之伎奈可須《ケダシキナカズ》 知良之底牟可母《チラシテムカモ》
 
明日行ツテ見ル〔五字傍線〕布勢ノ浦回ニ咲イテヰル藤ノ花ニ、ヒヨツトシタラ郭公ガ來テ鳴カナイデ、空シク藤ノ花ヲ〔七字傍線〕散ラシテシマフデアラウカヨ。若シサウナラバ惜シイモノダ〔若シ〜傍線〕。
 
○安須能比能《アスノヒノ》――明日の日の。明日行つて見ることになつてゐる布勢の海とつづいてゐる。
〔評〕 霍公鳥といふ主語が省いてあるのは、前の歌に讓つたのであらうが、何となく纒りのわるい作品である。
 
一頭云|保等登義須《ホトトギス》
 
(325頁)これは右の歌の初句を霍公鳥とする異傳で、これならば意もよく聞えて無理がない。
 
右一首大伴宿禰家持和(フ)v之(ニ)
 
前件十首歌者二十四日宴(ニ)作(ル)v之(ヲ)
 
此處に十首とあるのは、以上總べて十二首の内で、保等登藝須伊等布登伎奈之《ホトトギスイトフトキナシ》(四〇三五)・字梅能波奈佐伎知流曾能爾《ウメノハナサキチルソノニ》(四〇四一)の古歌二首を省いた數であらうが、前に廿三日とあるのに合はない。或はこの一團の歌に脱漏があるか。代匠記精撰本は「十首と云は誤なり。八首なり。是は後人の誤れるなるべし。八首の中に古歌一首あればそれを除て、七首と云へるを、書生の誤て十に作れる歟。但二十三日宴の歌も、古歌を除けば三首なるを、右四首と注したれば、今も八首なりけむをや」といつてゐる。伊可爾安流《イカニアル》(四〇三六)以下を廿四日の歌とすれば、かういふ見解になるのである。考・略解などは無條件にこれに從つて、十首を八首に改めてゐる。
 
二十五日往(ク)2布勢水海(ニ)1道中、馬上口號二首
 
目録には二十五日の下に大伴宿禰家持の六字がある。
 
4044 濱邊より 吾が打ち行かば 海邊より 迎へも來ぬか 海人の釣舟
 
波萬部余里《ハマベヨリ》 和我宇知由可波《ワガウチユカバ》 宇美邊欲里《ウミベヨリ》 牟可倍母許奴可《ムカヘモコヌカ》 安麻能都里夫禰《アマノツリブネ》
 
(326)濱邊カラ私ガ馬ニ乘ツテ〔五字傍線〕鞭ヲ打ツテ行クナラバ、海人ノ釣船ヨ。海ノ方カラ私ヲ迎ヘニ來テクレナイカ。
○和我宇知由可波《ワガウチユカバ》――吾が馬を鞭打ち行かば。○宇美邊欲利《ウミベヨリ》――海の方から。この邊《ベ》は、初句の波萬部余里《ハマベヨリ》の部《ベ》とは意が異なつてゐる。○牟可倍母許奴可《ムカヘモコヌカ》――迎へに來ないか。迎へに來よかしの意。
〔評〕 馬上に跨りつつ、船を待つ心である。布勢の水海へは、馬でも舟でも、いづれでも行くことが出來る。但しこれは穩やかな海上を眺めて、海人の釣船に呼びかけただけであらう。のどかな歌である。
 
4045 沖邊より 滿ち來る潮の いや増しに 吾が思ふ君が 御船かも彼
 
於伎敝欲里《オキベヨリ》 美知久流之保能《ミチクルシホノ》 伊也麻之爾《イヤマシニ》 安我毛布支見我《アガモフキミガ》 彌不根可母加禮《ミフネカモカレ》
 
(於伎敝欲里美知久流之保能)彌益々私ガ戀シク〔三字傍線〕思フ貴方ノ船デハナイカヨ。アノ船ハ。貴方ノオ乘リニナル船ガオ迎ニ來タノデセウ〔貴方〜傍線〕。
 
○於伎敝欲里美知久流之保能《オキベヨリミチクルシホノ》――序詞。沖邊から滿ちて來る潮の彌増しとつづいてゐる。○伊也麻之爾安我毛布支見我《イヤマシニアガモフキミガ》――いや増しに吾が思ふ君とは田邊福麿を指してゐる。
〔評〕 卷四に從蘆邊滿來鹽乃彌益荷念歟君之忘金鶴《アシベヨリミチクルシホノイヤマシニオモヘカキミガワスレカネツル》(六一七)を少し改作したもの。沖の舟を眺めて、君を迎への舟かと、面白く言ひなしたのである。以上の二首は家持作。但し目録を信ぜぬとすれば、これを福麿の作と見ることも出來る。
 
至(リテ)2水海(ニ)1遊覽之時、各、述(ベテ)v懷(ヲ)作(レル)歌
 
4046 神さぶる 垂姫の埼 漕ぎめぐり 見れども飽かず 如何に我せむ
 
(327)可牟佐夫流《カムサブル》 多流比女能佐吉《タルヒメノサキ》 許支米具利《コギメグリ》 見禮登裳安可受《ミレドモアカズ》 伊加爾和禮世牟《イカニワレセム》
 
神々シイ垂姫ノ崎ヲ漕ギ廻ツテ、景色ヲ〔三字傍線〕眺メルケレドモ何時マデモ〔五字傍線〕飽キナイ。サテ〔二字傍線〕私ハドウシタラヨカラウカ。全ク途方ニクレル〔八字傍線〕。
 
○可牟佐夫流《カムサブル》――神々しい、垂姫崎の樹木欝蒼たる樣を言つたもの。○多流比女能佐吉《タルヒメノサキ》――卷十九に乎布能浦爾霞多奈妣伎垂姫爾藤浪咲而《ヲフノウラニカスミタナビキタルヒメニフヂナミサキテ》(四一八七)と詠んだ垂姫の崎である。今その地名は遺つてゐないけれども、越中國式内等舊社記に「垂比※[口+羊]神社、國史記載社、同保内耳浦村鎭座、今稱2火宮權現1往古布勢湖垂姫崎此地邊也」とあるによれば、二上山の北麓の耳浦村地方で、古の布勢水海の南岸に當つて、乎布の崎と共に半島をなしてゐたのである。地圖參照。
〔評〕 始めて布勢水海の佳景に接して、呆然たる樣である。家持の歡待に對する挨拶とのみも思はれない。
 
右一首田邊史福麿
 
4047 垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は 樂しく遊べ 言繼にせむ
 
多流比賣野《タルヒメノ》 宇良乎許藝都追《ウラヲコギツツ》 介敷乃日波《ケフノヒハ》 多奴之久安曾敝《タノシクアソベ》 移比都伎爾勢牟《イヒツギニセム》
 
垂姫ノ浦ヲ漕ギ廻ツテ〔三字傍線〕、今日ハ樂シクオ遊ビナサイ。今日ノコノ遊ビヲ後々マデモ〔今日〜傍線〕語リ傳ヘニシマセウ。
 
(328)○多流比賣野《タルヒメノ》――野は集中ヌと訓んであるのに、ノの假名に用ゐてあるのは注意すべきである。野をノと發音することが、既に初まつてゐたとも考へられ、又原本を後に改書したと見る説もある。但し温故堂本のみは能に作つてゐる。これは更に書き改めたものか。
〔評〕 結句、言ひつぎにせむは、集中に多い言葉である。語り繼ぎ言ひ續ぎ行かむといつた、名を重んずる思想が見えてゐる。遊行女婦の作としては立派なものである。
 
右一首遊行女婦|土師《ハニシ》
 
遊行女婦はウカレメと訓む。今日の藝妓の如きもので、遊藝を主とする婦女。ウカレは浮浪《ウカレ》歩く義で、アソビメ又はアソビといふも同じである。和名抄に「遊女、楊氏漢語抄云、遊行女兒 宇加禮女、一云阿曾比」とある。土師は姓であらう。この女の歌は下になほ一首ある。その傳は全くわからない。
 
4048 垂姫の 浦を漕ぐ船 楫間にも 奈良の吾家を 忘れて思へや
 
多流比女能《タルヒメノ》 宇良乎許具不禰《ウラヲコグフネ》 可治末爾母《カヂマニモ》 奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》 和須禮※[氏/一]於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》
 
私ハ今〔三字傍線〕、垂姫ノ浦ヲ漕グ船ニ乘ツテ遊ンデヰルガ、コノ船ノ〔ニ乘〜傍線〕楫ヲ操ル絶エ間ノ短イ間〔四字傍線〕デモ、奈良ノ吾ガ家ヲ忘レハシマセヌ。コノ田舍ニヰテ、イツデモ都ヲ思ツテヰマス〔コノ〜傍線〕。
 
○可治末爾母《カヂマニモ》――楫間にも。楫を取る絶え間にも。時間の短きをいふ。○奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》――奈良の吾が家を。これも野をノの假名に用ゐてゐる。さうしてこれには異本がない。○和須禮底於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》――忘れて思へや。忘れむやといふ意で、思ふは輕く用ゐてある。
(329)〔評〕 都人を迎へて、都を思ふ情が更に新である。あはれな歌。但し卷十七の淡路島刀和多流舩乃可治麻爾毛吾波和須禮受伊弊乎之曾於毛布《アハヂシマトワタルフネノカヂマニモワレハワスレズイヘヲシゾオモフ》(三八九四)に似てゐる。古義には初二句を序としてゐるが、さう見てはよくない。
 
右一首大伴家持
 
4049 おろかにぞ 我は思ひし 乎不の浦の 荒磯のめぐり 見れど飽かずけり
 
於呂可爾曾《オロカニゾ》 和禮波於母比之《ワレハオモヒシ》 乎不乃宇良能《ヲフノウラノ》 安利蘇野米具利《アリソノメグリ》 見禮度安可須介利《ミレドアカズケリ》
 
今マデハ乎不ノ浦ノ景色ノ良イコトヲ〔今マ〜傍線〕普通ノトコロ〔四字傍線〕ト私ハ考ヘテヲリマシタ。今カウシテ來テ見ルト〔今カ〜傍線〕、乎不ノ浦ノ荒磯ノ周圍ノ景色〔三字傍線〕ハ、イクラ見テモ飽キナイヨ。豫想以上ニ良イ所デス〔豫想〜傍線〕。
 
○於呂可爾曾《オロカニゾ》――オロカは凡《オヨソ》・普通・大抵などの意。愚ではない。○見禮度安可須介利《ミレドアカズケリ》――見ても飽かないよ。飽カズに詠嘆のケリを添へた形。集中に多い古格。
〔評〕 乎不の浦の絶景に對して、冑を脱いだ形である。前にこの人が伊可爾安流布勢能宇良曾毛許己太久爾吉民我彌世武等和禮乎等登牟流《イカニアルフセノウラゾモココダクニキミガミセムトワレヲトドムル》(四〇三六)と歌つたのに對比して見ると、頗る面白い。
 
右一首田邊史福麿
 
4050 めづらしき 君が來まさば 鳴けと言ひし 山ほととぎす 何か來鳴かぬ
 
米豆良之伎《メヅラシキ》 吉美我伎麻佐婆《キミガキマサバ》 奈家等伊比之《ナケトイヒシ》 夜麻保登等藝須《ヤマホトトギス》 奈爾加伎奈可奴《ナニカキナカヌ》
 
(330)珍客ノ貴方ガオイデニナツタナラバ、鳴ケト私ガ〔二字傍線〕云ツテオイタ、山郭公ハ何故マダ〔二字傍線〕來テ鳴カナイノダラウ。
 
○米豆良之伎吉美我伎麻佐波《メヅラシキキミガキマサバ》――珍らしき君は田邊福麿を指してゐる。
〔評〕 この珍客が來らば必ず鳴けよと、郭公に豫め命じて置いたやうに言つたのは、もとよりこの人の童心である。福麿は藤の花の咲くのを見て保等登藝須奈久倍吉登伎爾知可豆伎爾家里《ホトトギスナクベキトキニチカヅキニケリ》(四〇四二)と言つてゐるが、どうもまだ郭公には季節か早いのであらう。
 
右一首掾久米朝臣廣繩
 
久米朝臣廣繩の傳は明らかでない。大伴池主が、越前掾に轉じた後、越中掾として來任したのである。家持の歌の伴侶として、今後かなり多く詠作してゐる。
 
4051 多胡の埼 木の暗茂に ほととぎす 來鳴き響めば はた戀ひめやも
 
多胡乃佐伎《タコノサキ》 許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》 保登等藝須《ホトトギス》 伎奈伎等余米婆《キナキトヨメバ》 波太古非米夜母《ハタコヒメヤモ》
 
多胡ノ崎ノ木ガコンモリト〔五字傍線〕暗ク茂ツタ所ニ、郭公ガ來テ鳴イタナラバ、私ハコンナニ〔四字傍線〕又戀シクオマヘヲ〔四字傍線〕思ハウカ。オマヘガ鳴キサヘスレバ、カウハ戀シク思ハナイヨ。早ク來テ鳴イテクレ〔オマ〜傍線〕。
 
○多胡乃佐伎《タコノサキ》――多胡の埼は布勢湖畔の勝地。その南岸の東寄りの所にあり、垂姫の埼の東に半島をなしてゐたらしい。卷十七に多古能之麻《タコノシマ》(一〇一一)とあつたのと同所で、又卷十九に多※[示+古]乃浦《タコノウラ》(四二〇〇)・四二〇一)とあるのも此處である。○許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》――木の暗く繁つたところに。○伎奈伎等余米波《キナキトヨメバ》――古義は米を末の誤としてトヨマバと訓んでゐる。その説は尤もであるが、必ずしも誤とも斷じ難い。波は代匠記精撰本に言つてゐるやう(331)に、次句の婆と顛倒したものかも知れない。
〔評〕 ここで郭公さへ鳴いてくれたらと、鳴かぬのを殘念がる心。結句に焦燥感を強く言ひあらはしてゐる。
 
右一首大伴宿禰家持
 
前件十五首歌者二十五日作(ル)v之(ヲ)
 
ここに十五首とあるのは解し難い。二十五日の作は八首であるから、八首の誤であらねばならぬ。ここに脱落があるものとも考へられるが、八首の誤とするのが穩やかであらう。
 
掾久米朝臣廣繩之舘饗(スル)2田邊史福麿(ヲ)1宴(ノ)歌四首
 
福麿の爲に送別の宴を廣繩の官館で開いた時の歌。
 
4052 ほととぎす 今鳴かずして 明日越えむ 山に鳴くとも しるしあらめやも
 
保登等藝須《ホトトギス》 伊麻奈可受之弖《イマナカズシテ》 安須古要牟《アスコエム》 夜麻爾奈久等母《ヤマニナクトモ》 之流思安良米夜母《シルシアラメヤモ》
 
郭公ガ今コノ宴會ノ席デ〔七字傍線〕鳴カナイデ、明日私ガ獨デ歸ル途中〔八字傍線〕越エル山デ鳴イテモ、唯私ガ獨デ聞クダケダカラ〔唯私〜傍線〕何ノ甲斐モアラウカ。何ニモ甲斐ガナイ〔八字傍線〕。
 
○安須古要牟夜麻爾奈久等母《アスコエムヤマニナクトモ》――明日越えむ山は、礪波山であらう。新道である礪波の關を通つて行くつもりであつたらしい。下に家持が、東大寺の占墾地使僧平榮を饗した時にも、夜岐多知乎刀奈美能勢伎爾安須欲里(332)波毛利敝夜里蘇倍伎美乎等登米牟《ヤキタチヲトナミノセキニアスヨリハモリベヤリソヘキミヲトドメム》(四〇八五)と詠んでゐる。
〔評〕 宴席に列した總べての人と共に、郭公を聞いて樂しまうといふので、山では山郭公を聞くかも知れないが、獨で聞いてもつまらないと、友人に對する親愛の念をあらはしてゐる。
 
右一首田邊史福麿
 
4053 木の暗に なりぬるものを ほととぎす 何か來鳴かぬ 君に逢へる時
 
許能久禮爾《コノクレニ》 奈里奴流母能乎《ナリヌルモノヲ》 保等登藝須《ホトトギス》 奈爾加伎奈可奴《ナニカキナカヌ》 伎美爾安敝流等吉《キミニアヘルトキ》
 
最早三月ノ末デ〔七字傍線〕木ノ葉ノ暗ク茂ル頃ニナツタノニ、郭公ハ、カウシテ私ガ〔六字傍線〕貴方ニ逢ツテ面白ク酒宴ヲシテ〔八字傍線〕ヰル時ニ、何故來テ鳴カヌノカ。是非鳴イテモラヒタイモノダ〔是非〜傍線〕。
 
○伎美爾安敝流等吉《キミニアヘルトキ》――君は福麿をさしてゐる。
〔評〕 卷十に難相君爾逢有夜霍公鳥他時從者今社鳴目《アヒガタキキミニアヘルヨホトトギスコトトキヨリハイマコソナカメ》(一九四七)とよく似てゐる。
 
右一首久米朝臣廣繩
 
4054 ほととぎす こよ鳴き渡れ 燈火を 月夜になぞへ その影も見む
 
保等登藝須《ホトトギス》 許欲奈枳和多禮《コヨナキワタレ》 登毛之備乎《トモシビヲ》 都久欲爾奈蘇倍《ツクヨニナゾヘ》 曾能可氣母見牟《ソノカゲモミム》
 
(333)郭公ヨ、此處ヲ鳴イテ通レ。今夜ハ闇ノ夜ダカラ〔九字傍線〕、燈火ヲ月夜ニ代ヘテ、燈火ノ光デソノオマヘノ飛ブ〔燈火〜傍線〕姿ヲ見ヨウ。
 
○許欲奈枳和多禮《コヨナキワタレ》――此處を鳴いて通れ。ヨはヲの意。○都久欲爾奈蘇倍《ツクヨニナゾヘ》――月夜になぞらへて。燈を以て月の光に代へて。
〔評〕 郭公の鳴く姿を見ようとする歌は尠い。殊に月光の代りに燈火を以てしようとする趣向は全く珍らしい。
 
4055 鹿蒜廻《かへるみ》の 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ 我をし思はば
 
可敝流未能《カヘルミノ》 美知由可牟日波《ミチユカムヒハ》 伊都波多野《イツハタノ》 佐可爾蘇泥布禮《サカニソデフレ》 和禮乎事於毛波婆《ワレヲシオモハバ》
 
貴方ガ私ニ別レテ此處ヲ出立シテ〔貴方〜傍線〕、鹿蒜ノアタリノ道ヲ行ク日ニハ、私ヲ戀シク思ヒ出シタナラバ、五幡ノ坂デ袖ヲ振リナサイ。
 
○可敝流未能《カヘルミノ》――舊本、未を末に作りカヘルマノと訓んである。代匠記初稿本は「まは助語なり。歸るさの道ゆかん日はなり」、同精撰本は「かへるまは歸間《カヘルマ》なり」と言つてゐる。略解は「神名帳、越前敦賀郡加比留 社又鹿蒜神社ありて、かへる山もそこなるべくおぼゆれば、此可敝流は地名にて、まの詞は浦ま磯まなどのまと同じかるべし」とある。併し古義に末《マ》を未《ミ》の誤として、鹿蒜廻の意としたのがよいであらう。地名の下に廻《ミ》を添へるのは千沼囘《チヌミ》(九九九)の例がある。新考は可敝流夜末能《カヘルヤマノ》の夜を脱したものとしてある。鹿蒜は北陸道の古驛で、延喜式によれば、松原・鹿蒜・濟羅の順となつてゐる。松原は敦賀、濟羅は今の鯖波附近らしく、鹿蒜はその中間、和名抄に敦賀郡鹿蒜郷とある地、今は南條郡になつてゐる。鹿蒜村大字歸を中心とした地方である。後世の歌枕として有名な歸山は、即ち此處の山で、源平盛衰記には海路《カイロ》と記してある。式内鹿蒜神社は大字歸(334)の歸八幡だといはれてゐる。○伊都波多野《イツハタノ》――五幡の。ここにも野をノの假名に用ゐてある。五幡は卷三に手結我浦《タユヒガウラ》(三六六)・手結之浦《タユヒノウラ》(三六七)とあつた、田結の北につづいた所、やはり敦賀灣東岸の海邊にある。式内五幡神社が祀られてゐる。五幡の坂は、今の五幡より更に北して、杉津に出で、それより今の省線大桐附近に出る坂ではあるまいかと思はれる。それが上代の北陸道であつたやうである。このあたり後世新路が開けて、北陸道の幹線が變更したから、萬葉時代の交通路を知ることが困難であるが、予は各種の文献を渉獵し、實地踏査を經て右の如く推定した。委しくは拙著「北陸萬葉集古蹟研究」を參照せられたい。寫眞は五幡山。著者撮影。
〔評〕 五幡山で袖を振つても、越中まで見える筈はないが、見える見えないに拘はらず、袖を振るのが、上代人の純情であらう。尤も袖を振るのは一種の咒術でもあつたらしい。
 
右二首大伴宿禰家持
 
前件歌者二十六日作(ル)v之(ヲ)
 
太上皇|御2在《マシマシシ》於難波(ノ)宮(ニ)1之時哥七首【清足姫天皇也】
(335)舊本大上皇とあるのは元暦校本・西本願寺本などに太上皇とあるのが正しい。但しこれを太上天皇の誤とするのは過ぎてゐる。太上皇は下に清足姫天皇也と注してあるが、これは元正天皇である。天平二十年四月に崩御あらせられたから、その時(天平二十年三月)はまだ御在世であつたのである。難波宮の御滞在は何時のことか明らかでない。若しこれを家持が越中赴任後とすれば、この一團の歌中に奈都乃欲波《ナツノヨハ》(四〇六二)とあるから、即ち十九年夏のことになるのである。けれども必ずしも家持赴任後とも決し難いから、萬葉集新釋に澤瀉氏が述べたやうに、續紀十六年の條に「閏正月乙亥(十一日)天皇行2幸難波宮1。二月戊午(廿四日)取2三島路1行2幸紫香樂宮1、太上天皇及左大臣橘宿禰諸兄留在2難波宮1焉〔太上〜傍点〕。冬十月庚子(十一日)太上天皇行2幸珍努及竹原井離宮1……壬寅(十三日)太上天皇還2難波宮1。十一月癸酉(十四日)太上天皇幸2甲賀宮1内子(十七日)太上天皇自2難波1至」とあつて、十六年の夏は難波宮においでになつた事は明らかである。又同氏は卷十七に「十六年四月獨居2平城故宅1作歌六首(三九一六)とあつて、十六年夏、家持は難波宮に供奉してゐなかつた。さうして、この歌の題詞に「御2在〔二字右○〕於難波宮1之時」とあつて「幸〔右○〕2於難波宮1」とない事。十九年の夏五月五日の條に「是日太上天皇詔曰」とあつて、平城宮においでになる記事のあることなどによつて、この七首を天平十六年の夏の作と推定して居られるのは、よい説であらうと思ふ。但しこれは三囘に詠まれたので、この總べてを夏の歌とは見難いやうである。
 
左大臣橘宿禰歌一首
 
橘諸兄は勝寶二年正月に宿禰から朝臣となつた。ここは宿禰時代だから宿禰と記してある。卷十九に(勝寶四年)十一月八日左大臣橘朝臣とある。この正確な記録に注意したい。
 
4056 堀江には 玉敷かましを 大君を 御船漕がむと 豫て知りせば
 
保里江爾波《ホリエニハ》 多麻之可麻之乎《タマシカマシヲ》 大皇乎《オホキミヲ》 美敷禰許我牟登《ミフネコガムト》 可年弖之(336)里勢婆《カネテシリセバ》
 
(336)私ハ〔二字傍線〕陛下ヲ此ノ堀江デ〔五字傍線〕御船ヲオ漕ギニナルト豫メ知ツテ居リマシタナラバ、コノ難波ノ〔五字傍線〕堀江ニハ、玉ヲ敷キ並ベテ御待チ受ケ致スベキデシタノニ。突然ノコトデ失禮ヲ致シマシタ〔突然〜傍線〕。
 
○保里江爾波《ホリエニハ》――堀江は難波の堀江。今の天滿川にあたるといふ。卷七の穿江水手鳴《ホリエコグナル》(一一四三)參照。○大皇乎《オホキミヲ》――考に乎《ヲ》を之《ノ》の誤としてゐるのも、代匠記に乎《ヲ》と乃《ノ》と同韻で通ふといつてゐるのもいけない。大皇を……し給ふと知るといふのだから、舊のままでよい。大皇は太上天皇を指し奉る。乃《ノ》としては御船が主となり、乎《ヲ》ならば天皇が主となる。乎《ヲ》としたのは太上天皇に對する敬意のあらはれである。
〔評〕 昔も今のやうに、濁水であつたらうと思はれる難波の堀江に、玉を敷いて見ても効果がありさうでもないが、敬意を表する爲にかういつたのであらう。同じ作者の卷十九の牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之座牟等知者玉之可麻思乎《ムグラハフイヤシキヤドモオホキミノマサムトシラバタマシカマシヲ》(四二七〇)は無理がないが、堀江に玉を敷くのはどうであらう。和歌童蒙抄・和歌色葉隼共にこの三句を「みづかきの」として出してゐる。
 
御製歌一首 和
 
4057 玉敷かず 君が悔いていふ 堀江には 玉敷き滿てて 繼ぎて通はむ
 
多萬之賀受《タマシカズ》 伎美我久伊弖伊布《キミガクイテイフ》 保理江爾波《ホリエニハ》 多麻之伎美弖々《タマシキミテテ》 都藝弖可欲波牟《ツギテカヨハム》 或云、玉こきしきて
 
此度御幸ニ〔五字傍線〕玉ヲ敷イテ置カナカツタトテ、ソナタガ殘念ガル難波ノ堀江ニハ、玉ヲ一杯ニ敷キ滿タシテ置イテ、今後〔二字傍線〕續イテ、ワタシハ〔四字傍線〕通《カヨ》ツテ來ヨウ。ソンナニ殘念ガルニハ及バナイ〔ソンハ〜傍線〕。
 
(337)○多麻之伎美弖々《タマシキミテテ》――玉を敷き滿たして。太上天皇が玉を敷き滿たし給ふのではなくて、諸兄が敷くのであらう。
〔評〕 左樣に悔いるなかれ、今後玉を敷いた堀江に絶えず通うて來ようと慰め給うたので、女帝らしい柔らかさが見えてゐる。
 
或云|多麻古伎之伎弖《タマコキシキテ》
 
これは四句の異傳である。玉扱き敷きて。玉の緒の玉を扱き落して敷いて。扱くといふ言葉があるだけこの方が面白いか。
 
右二首、件(ノ)歌者御船泝(リ)v江(ヲ)遊宴之日、左大臣奏并御製
舊本一首とあるは誤である。
 
御製歌一首
 
太上天皇の御製である。
 
4058 橘の とをのたちばな やつ代にも 我は忘れじ この橘を
 
多知婆奈能《タチバナノ》 登乎能多知婆奈《トヲノタチバナ》 夜都代爾母《ヤツヨニモ》 安禮波和須禮自《アレハワスレジ》 許乃多知婆奈乎《コノタチバナヲ》
 
左大臣〔三字傍線〕橘卿ノ家ノ〔二字傍線〕枝モタワワニ實ツテヰル橘ヲ、何時マデモ私ハ忘レマイ。此ノ立派ナ〔三字傍線〕橘ヲ私ハ忘レマイ〔六字傍線〕。
 
○登乎能多知波奈《トヲノタチバナ》――考に乎は之の誤、波は婆の誤として改めてゐる。略解は「次下の歌に登能乃たちばなと(338)あれば、ここも登乎能は登能之と有しを誤れるなるべし。橘卿の殿の庭の橘なれば、かく詠ませたまへる也」とあり。古義は乎は乃の誤としてゐる。かうした見方も一理あるが、舊のままでも登乎《トヲ》を撓《トヲ》と解して、枝もたわわに榮えてゐることと見ることが出來よう。代匠記に十種と解したのは從ひ難い。○夜都代爾母《ヤツヨニモ》――彌つ代にも。永遠に。
〔評〕 橘の樹に寄せて橘卿をことほぎ給うたのである。調子が輕快で祝福の氣分が出である。
 
河内女王歌一首
 
河内女王は高市皇子の御女。續紀によれば、天平十一年正月丙午從四位下から從四位上に、二十年三月壬辰正四位下、寶字二年八月庚子朔正四位上から從三位、寶龜四年正月丁丑朔、無位から本位の正三位に復す。十年十二月己未正三位河内女王薨とある。
 
4059 橘の 下照る庭に 殿建てて 酒みづきいます 吾が大君かも
 
多知婆奈能《タチバナノ》 之多泥流爾波爾《シタテルニハニ》 等能多弖天《トノタテテ》 佐可彌豆伎伊麻須《サカミヅキイマス》 和我於保伎美可母《ワガオホキミカモ》
 
橘ノ實ガ色美シク輝イテ居ルコノ橘卿ノ〔五字傍線〕庭ニ、御殿ヲ御建テニナツテ、宴會ヲシテイラツシヤル吾ガ太上天皇陛下ヨ。ソノ橘ノヤウニ何時マデモ御榮エナサルデアラウ〔ソノ〜傍線〕。
 
○之多泥流爾波爾《シタテルニハニ》――下照る庭に。下照るは卷十九に春苑紅爾保布桃花下照道爾出立※[女+感]嬬《ハルノソノクレナヰニホフモモノハナシタテルミチニイデタツヲトメ》(四一三九)とあるやうに、色美しく照り映えることに用ゐる言葉であるが、橘の花は白色で、下照るとは言ひ難い。けれども從來これを夏の歌として花のことに見てゐる説が多いが、次に安加良多知婆奈《アカラタチバナ》とあるから、どうしても果實のこととしな(339)ければならぬ。蓋し、この一團の歌は三回に詠まれたものを列擧したので、下に奈都乃夜波《ナツノヨハ》とあつても、それと同季節とする必要はない。この太上天皇の難波宮御滯在は前に述べたやうに、相當期間が永かつたのである。これは冬季の作と見ねばならぬ。○佐可彌豆伎伊麻須《サカミヅキイマス》――酒水漬坐す。酒に浸つてゐ給ふ。酒宴し給ふこと。この下に左加美都伎安蘇比奈具禮止《サカミヅキアソビナグレド》(四一一六)・卷十九に酒見附榮流今日之《サカミヅキサカユルケフノ》(四二五四)とある。
〔評〕 橘諸兄の邸に御幸のあつた時の歌。三句は邸内の家を、特に太上天皇の御殿として建てたやうに言つたのである。橘氏の繁榮を賀し、太上天皇の歡を盡し給ふ樣を歌つてある。
 
粟田女王歌一首
 
粟田女王は續紀によると、養老七年正月丙子從四位下を授けられ、天平十一年正月丙午、從四位上、二十年三月壬辰正四位下から正四位上、寶字五年六月己卯從三位から一階を進めらる。八年五月庚子、正三位粟田女王薨とある。舊本歌の下に一首の二字が脱ちてゐる。西本願寺本によつて補つた。
 
4060 月待ちて 家には行かむ 吾が挿せる あから橘 影に見えつつ
 
都寄麻知弖《ツキマチテ》 伊敝爾波由可牟《イヘニハユカム》 和我佐世流《ワガサセル》 安加良多知婆奈《アカラタチバナ》 可氣爾見要都追《カゲニミエツツ》
 
私ハ〔二字傍線〕月ノ出ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツテ、私ガ頭ニ〔二字傍線〕挿シテヰルコノ〔二字傍線〕赤イ橘ノ實〔二字傍線〕ガ、月光ヲ浴ビテ輝キナガラ、家ニ歸ツテ行キマセウ。
 
○伊敝爾波由可牟《イヘニハユカム》――吾が家には歸らむといふのである。○和我佐世流《ワガサセル》――吾が頭に挿せる。挿頭《カザシ》とした。○安加良多知婆奈《アカラタチバナ》――赤ら橘。色の赤く熟した橘。この歌を夏の歌と見て、花の白く清く明らかなるをいふと(340)解した説が多いのは遺憾である。○可氣爾見要都追《カゲニミエツツ》――月影に見えつつ。この句から第二句につづいてゐる。古義にこの下に面白からむの意を含ませたのは、從ひ難い。
〔評〕 橘家の庭の橘樹の下の御殿で、橘の實を挿頭として、遊んでゐるが、月の出るのを待つて、この挿頭の橘の上に月光を浴びて、家に歸らうといふので、橘を愛翫する意は充分にあらはれてゐる。
 
右件歌者在(リ)2於左大臣橘卿之宅(ニ)1肆宴御歌并奏歌也
 
左大臣橋卿之宅に催された宴會の席上の歌。肆宴はトヨノアカリと訓んであるが、宴を展ぶる意である。右に述べたやうに、右の三首は冬の歌である。略解は御の下、製の字を脱としてゐるが、さうとも定め難い。
 
4061 堀江より 水脈引きしつつ 御船さす 賤男のともは 河の瀬申せ
 
保里江欲里《ホリエヨリ》 水乎妣吉之都追《ミヲビキシツツ》 美布禰左須《ミフネサス》 之津乎能登母波《シヅヲノトモハ》 加波能瀬麻宇勢《カハノセマウセ》
 
難波ノ〔三字傍線〕堀江カラ船ノ通ル深イ〔六字傍線〕水路ヲ案内シテ、御船ヲ漕イデヰル賤シイ男共ハ、川ノ瀬ヲ御船ガ無事ニ通ルヤウニ〔御船〜傍線〕御仕ヘ申セ。粗相ノナイヤウニセヨ〔粗相〜傍線〕。
 
○水乎妣吉之都追《ミヲビキシツツ》――水脈引きしつつ。水脈に從つて船を導いて行く。即ち水先案内をしての意。卷十五に之保麻知弖美乎妣伎由氣婆《シホマチテミヲビキユケバ》(三六二七)とある。○美布禰左須《ミフネサス》――御船に棹さす。○之津乎能登母波《シヅヲノトモハ》――賤男の輩は。船頭どもを言つたのである。○加波能瀬麻宇勢《カハノセマウセ》――河の瀬のことを誤なきやう掌れの意で、マウスは卷二の天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘバ》(一九九)の申《マヲシ》と同じである。宇は乎の誤かとする説もあるが、金有等麻宇之多麻敝禮《クガネアリトマウシタマヘレ》(四〇九四)・於夜爾麻宇(341)佐禰《オヤニマウサネ》(四四〇九)とあるから、マヲスともマウスとも兩樣に行はれてゐたのだ。
〔評〕 よく整つた、調子のしつかりした作品だ。名は記してないが恐らく諸兄の作であらう。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
4062 夏の夜は 道たづたづし 船に乘り 河の瀬ごとに 棹さし上れ
 
奈都乃欲波《ナツノヨハ》 美知多豆多都之《ミチタヅタヅシ》 布禰爾能里《フネニノリ》 可波乃瀬其等爾《カハノセゴトニ》 佐乎左指能保禮《サヲサシノボレ》
 
夏ノ夜ハ五月闇デ陸ノ〔六字傍線〕道ハ暗クテ〔三字傍線〕アブナイ。ダカラ綱手ヲ曳クノハヤメテ〔ダカ〜傍線〕、船ニ乘ツテ、河ノ瀬毎ニ棹ヲサシテ上りナサイ。船人ヨ〔三字傍線〕。
 
○美知多豆多都之《ミチタヅタヅシ》――道がたどたどしい。左注に綱手を曳いて江を泝るとあるから、堀江の岸の道が暗くておぼつかないから、綱手を曳くのは止めよといふのである。
〔評〕 これも前の歌と同じく、船頭に言ふ躰である。やはり氣品の高い作だ。同じく諸兄の作であらう。
 
右件歌者御船以(テ)2綱手(ヲ)1泝(リ)v江(ヲ)遊宴之自作(レル)也傳誦之人(ハ)田邊史福麿是也
 
右の二首は難波の堀江で夏の夜の遊宴の際の作。綱手は卷十一に網手引《ツナデヒク》(二四三八)とある。船の舳頭に着けて、陸を行きつつ曳く繩。和名抄に「牽※[糸+支]、唐韻云、牽※[糸+支]、音支、訓豆奈天挽v船繩也」とある。田邊史福麿が傳誦したのは、以上の七首である。
 
後追和(セル)橘(ノ)歌二首
 
(342)右の福麿の傳誦したのを聞いて、大伴家持が追和したもの。家持は諸兄配下の一人で、太上天皇の御殿に十八年正月の雪の日、諸兄及びその一黨と共に參侯してゐることは、卷十七(三九二二)に見える通りであるから、今、右の歌どもを聞いて、なつかしさに追和したものであらう。
 
4063 常世物 この橘の いや照りに わご大君は 今も見る如
 
等許余物能《トコヨモノ》 已能多知婆奈能《コノタチバナノ》 伊夜※[氏/一]里爾《イヤテリニ》 和期大皇波《ワゴオホキミハ》 伊麻毛見流其登《イマモミルゴト》
 
外國カラ取ツテ來タ物ノ、コノ橘ノ實ガ、愈々美シク〔三字傍線〕輝クヤウニ、吾ガ太上天皇陛下ハ、今眼ノ前ニ見奉ル如ク、後々モ長ク御榮エナサイマシ〔後々〜傍線〕。
 
○等許余物能《トコヨモノ》――常世物。常世の國即ち外國から渡來したもの。橘は垂仁天皇の御代に田道間守が、常世の國に渡つて將來したことが、古事記に見える。この下にも橘の長歌に田道間守常世爾和多利夜保許毛知麻爲泥許之登吉時久能香久乃菓子乎《タヂマモリトコヨニワタリヤホコモチマヰデコシトキジクノカグノコノミヲ》(四一一一)とある。
〔評〕 橘卿の家におはします、太上天皇の萬歳をことほぎ奉り、併せて橘家の繁榮を橘の實に托して祝幅してゐる。常世を仙郷の意に通はして、不老不死の意を含ませてゐるやうにも見える。橘卿之宅の肆宴の歌に和したもの。和歌童蒙抄に載せてある。
 
4064 大君は 常磐に在さむ 橘の 殿の橘 ひた照りにして
 
大皇波《オホキミハ》 等吉波爾麻佐牟《トキハニマサム》 多知婆奈能《タチバナノ》 等能乃多知婆奈《トノノタチバナ》 比多底里爾之※[氏/一]《ヒタテリニシテ》
 
(343)太上天皇樣ハ此ノ橘卿ノ御屋敷ノ橘ガ、大層美シクイツモ〔八字傍線〕照リニ照ツテヰルヤウニ、何時モ變ラズ御榮エニナツテ〔七字傍線〕オイデナサイマシ。
 
○等吉波爾麻佐牟《トキハニマサム》――常磐に坐さむ。この坐さむは、ましませと同意であらう。○比多度里爾之底《ヒタテリニシテ》――比多底里《ヒタテリ》はひたすら照ること。照りに照ること。前の歌に伊夜※[氏/一]里《イヤテリ》とあるのと略同じである。
〔評〕 前の歌と全く同意である。これも橘卿之宅の肆宴の歌に和してゐる。
 
右二首大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
射水郡驛舘之屋(ノ)柱(ニ)著(ケタル)歌一首
 
射水郡驛館は亘理驛の驛館であらう。古義に「兵部式に越中國驛馬布勢五疋と見えて、和名抄に射水郡布西とあれば、布勢《フセ》驛なるべし」とあるが布勢驛は式に、坂本・川合・亘理・白城・磐瀬・水橋・布勢佐味の順になつてゐるから、新川郡の布勢で、射水郡ではない。今下新川郡大布施村に沓掛の大字がある所が、その驛址だらうといふ。射水郡の布勢は驛路とは距つてゐる。式の坂本と川合とは礪波山越の道にある驛で、坂本は、礪波山の坂下、即ち今石動町附近にあつたらしく、川合はそれと國府との中間で、今の赤丸附近であつたらうかと思はれる。其處は多分平安朝の頃、雄神川と小矢部川との合流地點であつたらう。ともかくもこの二驛は礪波郡内であつた。磐瀬以東は新川郡であるから、白城は婦負郡であらうし、さうすると射水郡は亘理のみとなる。亘理驛は今の新湊町即ち放生津であつて、古の越中第一の要港であつたことは、主税式に「諸國雜物功賃、自越中亘理湊、漕越前敦賀津」とあるのでも明らかである。これを婦負郡曰理郷と混ずるのは誤つてゐる。萬葉事實餘情に「射水郡の驛館は延喜兵蔀式に載られたる越中の驛馬を考るに亘(344)理驛なるべし。此驛は二上山の麓守山町の隣邑に、渡村といふあり。是その遺蹟にて、いにしへは射水河の渡場なりし故に、亘理驛と號せしならん」とあるのは少しく地位を異にしてゐる。
 
4065 朝びらき 入江漕ぐなる 楫の音の つばらつばらに 吾家し思ほゆ
 
安佐妣良伎《アサビラキ》 伊里江許具奈流《イリエコグナル》 可治能於登乃《カヂノオトノ》 都波良都婆良爾《ツバラツバラニ》 吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》
 
今朝港ヲ舟出シテ入江ヲ漕イデヰル楫ノ音ガ聞エルガ〔今朝〜傍線〕、(安佐妣良伎伊里江許具奈流可治能於登乃)頻リニコマゴマト、私ハ〔二字傍線〕私ノ家ノコトガ思ヒ出サレル。
 
○安佐妣良伎伊里江許具奈流可治能於登乃《アサビラキイリエコグナルカヂノオトノ》――都波良都婆良《ツバラツバラ》と言はむ爲の序詞であるが、その所の光景をその儘に捉へてゐる。朝開きは朝舟出すること。入江は射水の驛を亘理驛とすると、放生津潟に通ずる謂はゆる内川であらう。○都波良都婆良爾《ツバラツバラニ》――曲々に。委しく、細かに、などの意であるが、上へのつづきは、楫が水を掻く音が、ツバラツバラと聞えるのに懸けたのである。
〔評〕 序詞が實に面白い。ツバラツバラの例は、卷三に淺茅原曲曲二物念者《アサヂハラツバラツバラニモノモヘバ》(三三二)とあるが、かういふ常套の枕詞などを用ゐないで、眼前の景を巧に捉へ、しかも擬音的になつてゐるのが、滑稽味をさへ感ぜしめる。左注の如く、作者は明瞭ではないが、凡手ではない。
 
右一首山上臣作。不v審(カニ)v名(ヲ)、或(ハ)云(フ)憶良大夫之男、但(シ)其正名(ハ)未v詳(カ)也
 
山上臣といへば、先づ憶良を想はしめるが、憤良が越中に來たといふ證もなく、歌風も少し違ふやうである。驛館の柱に右の歌を記して、山上臣と署名してあつたものか。憶良の男は何といふ人かわからない。もとよりその人が越中に來たことも知るべき由はない。憶良大夫は卷五にも筑前守山上大夫(八一八)(345)とあつたのと同じやうな書き方である。この註は、家持の手記としてはをかしい感じがある。なほこの歌が田邊福麿歡迎に關する歌中に混じてゐるのは、どういふわけであらう。或は福麿が射水驛館で、これを發見して家持に知らせたものか。
 
四月一日掾久米朝臣廣繩之館宴歌四首
 
古義に以下の四首を、三月十六日の歌の後に置き換へたのは、奴波多麻能《ヌバタマノ》(四〇七二)と都奇見禮婆《ツキミレバ》(四〇七二)との間に、約一ケ年の距りがあることに心付かなかつた誤である。
 
4066 卯の花の咲く月立ちぬほととぎす來鳴きとよめよふふみたりとも
 
宇能花能《ウノハナノ》 佐久都奇多知奴《サクツキタチヌ》 保等登藝須《ホトトギス》 伎奈吉等與米余《キナキトヨメヨ》 敷布美多里登母《フフミタリトモ》
 
卯ノ花ノ咲クベキ〔二字傍線〕四月ガ來タ。郭公ヨ。未ダ卯ノ花ハ〔四字傍線〕蕾ンデヰテモ、此處ヘ〔三字傍線〕來テ聲ヲ響カセテ鳴キナサイヨ。
 
○敷布美多里登母《フフミタリトモ》――舊本、美を里に作つて、フフリタリトモと訓んでゐるが語をなさない。考にはフフリはフフメリのメを省いたのだとあるのは從ひ難い。類聚古集・西本願寺本などに美に作るに從ふべきである。フフムは含むに同じく、花の蕾んでゐること。
〔評〕 卯の花と郭公との關係を強調したに過ぎない。四月は卯月であるから、卯の花月として、こんなに言つたものか。
 
右一首守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
4067 二上の 山にこもれる ほととぎす 今も鳴かぬか 君に聞かせむ
 
(346)敷多我美能《フタガミノ》 夜麻爾許母禮流《ヤマニコモレル》 保等登藝須《ホトトギス》 伊麻母奈加奴香《イマモナカヌカ》 伎美爾伎可勢牟《キミニキカセム》
 
二上ノ山ニ隱レテヰル郭公ヨ。オマヘノ鳴ク聲ヲ〔八字傍線〕御主人ニ聞カセヨウト思フカラ〔二字傍線〕、今鳴イテクレナイカ。
 
○伊麻母奈加奴香《イマモナカヌカ》――今も鳴かないかよ。今鳴けよと希望する語。モは詠嘆的に添へてある。○伎美爾伎可勢牟《キミニキカセム》――妓は京大本に伎とあるのがよい。伎美は家持を指してゐる。
〔評〕 卷八の物部乃石瀬之杜乃霍公鳥今毛鳴奴山之常影爾《モノノフノイハセノモリノホトトギスイマモナカヌカヤマノトカゲニ》(一四七〇)と似てゐる。凡作。
 
右一首遊行女婦|土師《ハニシ》作(ル)v之(ヲ)
 
この女の作は前(四〇四七)に一首出てゐる。
 
4068 居り明し 今宵は飲まむ ほととぎす 明けむあしたは 鳴き渡らむぞ
 
乎里安加之母《ヲリアカシモ》 許余比波能麻牟《コヨヒハノマム》 保等登藝須《ホトトギス》 安氣牟安之多波《アケムアシタハ》 奈伎和多良牟曾《ナキワタラムゾ》
 
今夜ハ此處ニ〔三字傍線〕居テ夜明シテ酒ヲ飲マウ。何故ナラバ〔五字傍線〕、郭公ハ明朝ハ立夏ダカラ必ズ此處ヲ〔立夏〜傍線〕鳴イテ通ルデアラウゾ。此處ニ居テ郭公ノ聲ヲ是非トモ聞くカウ〔此處〜傍線〕。
 
○乎里安加之《ヲリアカシ》――居り明し。この儘居て夜を明して。卷二に居明而君乎者將待《ヰアカシテキミヲバマタム》(八九)と同樣である。類聚古集・西本願寺本・神田本など、この下に母《モ》の字がある本が多い。それが原形であらうか。
(347)〔評〕 明日は立夏の節だから必ず鳴かうから、今夜は徹夜で郭公を待たうといふので、中世に多い待郭鳥の歌の前驅である。謂はゆる俑を作つたものといつてよい。
 
二日應(ズ)2立夏節(ニ)1故(ニ)謂(フ)2之(ヲ)明旦將(ト)1v喧(カ)也
 
これは右の歌の安氣牟安之多波奈伎和多良牟曾《アケムアシタハナキワタラムゾ》の註である。二日が丁度立夏節に當つてゐるので、かういつたのだ。古義に卷五の八六四の書牘に膺節とあるによつて、應の字は、膺ではないかといつてゐるが、卷十九に二十四日應2立夏四月節1也(四一七一)とある。
 
右一首守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
4069 明日よりは 繼ぎて聞えむ ほととぎす 一夜のからに 戀ひ渡るかも
 
安須欲里波《アスヨリハ》 都藝弖伎許要牟《ツギテキコエム》 保登等藝須《ホトトギス》 比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》 古非和多流加母《コヒワタルカモ》
 
明日カラハ立夏ダカラ、毎日毎日〔立夏〜傍線〕續イテ鳴ク筈ノ郭公ガ待チキレズニ〔七字傍線〕、一晩ノ事ダノニ、私ハ郭公ヲ〔五字傍線〕戀シク思ヒ續ケテヰルヨ。
 
○比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》――一夜だけだのに。カラは故《カラ》である。神代紀に「雖1復天(ツ)神1何能|一夜之間《ヒトヨノカラニ》令v人有娠乎」とあるによつて、一夜之聞の意とするのはよくない。紀の文も、一夜だけだのにの意に見て、かう訓んであるのである。
〔評〕 一晩だけだのに待たれないと、強く言つてゐる。わざとらしい作品である。
 
(348)右一首|羽咋《ハクヒ》郡擬主帳能登臣|乙美《オトミ》作
 
羽咋郡は能登四郡の一。和名抄に羽咋郡波久比とある。擬主帳は假りに主帳に擬してあるもの。その器量を認むれば、朝廷から主帳に任ずる。主帳は郡の四等官で、大領・少領・主政・主帳の順になつてゐる。職員令に「大郡主帳三人、掌d受v事(ヲ)上v抄(ヲ)勘2署文案(ヲ)1※[手偏+僉]2出稽失1讀c申(コトヲ)公文(ヲ)u餘(ノ)主帳準v此(ニ)、上郡二人、中郡一人、下郡一人、」とある。舊本、帳を張に誤つてゐる。神田本によつて改む。能登臣乙美は傳が明らかでない。能登臣は古事記に崇神天皇の御子、大入杵(ノ)命者能登臣之祖也とある。舊本、臣を巨に誤つてゐる。西本願寺本によつて改めた。
 
詠(メル)2庭中|牛麥《ナデシコ》花(ヲ)1一首
 
牛麥花は瞿麥花。ナデシコノハナである。代匠記初稿本に、「一切經音義第十二(ニ)曰。瞿此謂云v牛(ト)。これにつきて瞿麥を牛麥とかけるを思ふに、瞿麥の瞿は梵語なりとしられたり。牛を梵語に瞿といふ。あるひは遇の字を用ゆ。瞿も梵語には濁音に用たり。秘密藏の經軌におほく見えたり。瞿と牛と梵漢ことなれど自然に音相近し云々」とある。西本願寺本は花の下に歌の字がある。
 
4070 一本の なでしこ植ゑし その心 誰に見せむと 思ひそめけむ
 
比登母等能《ヒトモトノ》 奈泥之故字惠之《ナデシコウエシ》 曾能許已呂《ソノココロ》 多禮爾見世牟等《タレニミセムト》 於母比曾米家牟《オモヒソメケム》
 
一本ノ瞿麥ヲ庭ニ〔二字傍線〕植ヱタ私ノ〔二字傍線〕其ノ考ハ、誰ニ見セヨウト思ツテ植ヱタノデセウカ。コレハ貴方ニ見セタイバカリデス。今貴方ガ郡ヘオタチニナルノデ、此ノ瞿麥ノ花ヲ御見セ申ス事ノ出來ナイノハ殘念デス〔コレ〜傍線〕。
 
(349)○多禮爾見世牟等於母比曾米家牟《タレニミセムトオモヒソメケム》――誰に見せようと思つて植ゑたのでせう。唯貴方に見せたい故ですの意。
〔評〕 庭中の瞿麥の花に寄せて、惜別の意を述べてゐる。少しわざとらしい點がある。
 
右先國師(ノ)從僧清見可(シ)v入(ル)2京師(ニ)1因(テ)設(ケテ)2飲饌(ヲ)1饗宴(ス)、于v時主人大伴宿禰家持、作(リテ)2此(ノ)哥詞(ヲ)1送(ル)2酒(ヲ)清見(ニ)1也
 
國師は國分寺の主僧。續紀に文武天皇の「大寶二年二月任2諸國國師1」とある。清見の傳は明らかでない。考は前に、饌饗とあるから、更に酒を送る筈はないといふ見解で、酒を僧に改めてあるが考へ過ぎであらう。
 
4071 しなざかる 越の君らと かくしこそ 楊かづらき 樂しく遊ばめ
 
之奈射可流《シナザカル》 故之能吉美良等《コシノキミラト》 可久之許曾《カクシコソ》 楊奈疑可豆良枳《ヤナギカヅラキ》 多努之久安蘇婆米《タノシクアソバメ》
 
(之奈射可流)越ノ國ノ人等ト共ニ、カウシテ私ハ、毎年春ニナツタナラバ〔私ハ〜傍線〕、柳ヲ※[草冠/縵]ニシテ頭ニ飾リナガラ〔七字傍線〕面白ク遊ビタイモノダ。
 
○之奈射可流《シナザカル》――枕詞。越とつづく。卷十七の之奈射加流《シナザカル》(三九六九)參照。○故之能吉美良等《コシノキミラト》――越の君等と。越の君は左註に郡司已下子弟已上諸人とあるのに當つてゐる。舊本、吉美能とあるが元暦校本その他古本、多く良に作つてゐるから、能は誤である。○楊奈疑可豆良枳《ヤナギカヅラキ》――柳を※[草冠/縵]として、カヅラキはカヅラクといふ動詞である。卷十九に梅柳誰與共可吾※[草冠/縵]可牟《ウメヤナギタレトトモニカワガカヅラカム》(四二三八)とある。
(350)〔評〕 郡司以下は土着の人たちだから、越の君といつたのであらう。歌は平凡。
 
右郡司已下子弟已上(ノ)諸人、多(ク)集(フ)2此會(ニ)1因(テ)守大伴宿禰家持作(ル)2此歌(ヲ)1也
 
舊本、弟を茅に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。
 
4072 ぬば玉の 夜渡る月を 幾夜ふと よみつつ妹は 我待つらむぞ
 
奴波多麻能《ヌバタマノ》 欲和多流都奇乎《ヨワタルツキヲ》 伊久欲布等《イクヨフト》 余美都追伊毛波《ヨミツツイモハ》 和禮麻都良牟曾《ワレマツラムゾ》
 
今夜ハヨイ月夜ダガ〔今夜〜傍線〕(奴波多麻能〕夜空ヲ通ル月ヲ眺メナガラ、私ニ別レテカラ〔七字傍線〕幾晩タツタト云ツテ數ヘツツ、妻ハ私ノ歸リ〔三字傍線〕ヲ待ツテヰルダラウゾ。
 
○奴波多麻能《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。○余美都追伊毛波《ヨミツツイモハ》――余美都追《ヨミツツ》は數を數へつつ。
〔評〕 月光に對して妻を思ふ心。作者は書いてないが家持に相違ない。但し家持は既に故郷を離れて年を經てゐるのだから、「幾夜經」とあるのに合はない。この歌は來會の人々の心になつて、家持が詠じたものかも知れない。
 
右此(ノ)夕(ベ)月光遲(ク)流(レテ)、和風稍扇(ク)即(チ)因(テ)v屬(スルニ)v目(ニ)聊(カ)作(レル)2此歌(ヲ)1也
 
月光遲流とは月の光が遲く動くといふので、穩やかな月夜の光景である。和風稍扇は穩やかな風が少し吹いてゐる。因v屬v目は目に觸れる景色に因つて。
以上の三首は同時の作である。その季節は不朋であるが、牛麥の花の未だ咲かぬ頃で、柳の枝の※[草冠/縵]に適(351)する頃であらねばならぬ。月光遲流、和風稍扇は春らしいやうでもあるが、必ずしもさうとも定め難い。併し前に四月一日の作があるから、この三首は初夏の作と見るべきであらう。この歌と次の歌との間に約一ケ年の時日が距つてゐる。これより以下天平二十一年の作である。
 
越前國掾大伴宿禰池主來(リ)贈(レル)歌三首
 
大伴池主は始め越中國掾であつたが、久米廣繩が越中掾に補せられて、彼は越前に轉じたのである。
 
以(テ)2今月十四日(ヲ)1到2來(シ)深見村(ニ)1、望2拜(シ)彼(ノ)北方(ヲ)1常(ニ)念(フ)2芳徳(ヲ)1何日(カ)能(ク)休(マム)、兼(テ)以(テ)2隣近(ナルヲ)1忽増(ス)v戀(ヲ)加以《シカノミナラズ》先(ノ)書(ニ)云(フ)、暮春可(シ)v惜(ム)促(コト)v膝(ヲ)未(ト)v期(セ)生別(ノ)悲兮、夫(レ)復(タ)何(ヲカ)言(ム)、臨(ミテ)v紙(ニ)悽斷、奉(ル)v状(ヲ)不備(ナリ)
 
これは池主から家持に贈つた書牘。この前に家持から贈つた書のあることは文中に見えてゐるが、ここには載せてゐない。○深見村――下に、到2來部下加賀郡境1、面蔭見2射水之郷1、戀緒結2深海之村1云々(四一三二)とあるのと同所で、越前國加賀郡(即ち今の加賀國河北郡)にあつた村名である。延喜式によると、加賀の驛名は朝倉・湖津・安宅・比樂・田上・深見・横山であつて、深見は田上と横山との中間に位してゐるが、田上は大體今の金澤市、横山は今も能登の境界から二里ばかり距てたところにある。深見といふ地名は今無いが、式によつて推斷すれば、今の津幡邊であらねばならぬ。ここで北陸本道と、礪波山越とが分岐してゐたらしい。今、津幡町に近く倉見といふ字があるのが、恐らく古の深見の地ではあるまいか。○常念2芳徳1――常に家持の徳を念つて忘れない。○兼以2隣近1――その上御近所に參りましたの(352)で。○忽増v戀――古義は戀の下に緒を補つてゐる。○促v膝未v期――膝を突き合せて語る時は、何時とも分らない。暮春可惜とこの句とは、前に家持から池主に贈つた書牘中の句である。○悽斷――戀しくて腸も斷えること。
 
三月十五日大伴宿禰池主
 
一、古人云(フ)
 
これは古人の言葉だといふので、古歌の意を以つて詠んだのであらう。
 
4073 月見れば 同じ國なり 山こそは 君があたりを 隔てたりけれ
 
都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自久爾奈里《オナジクニナリ》 夜麻許曾婆《ヤマコソハ》 伎美我安多里乎《キミガアタリヲ》 敝太弖多里家禮《ヘダテタリケレ》
 
空ノ〔二字傍線〕月ヲ見マスト、貴方ノ所ト此方トハ同ジ月ノ下デ、ヤハリ〔貴方〜傍線〕同ジ國デアリマス。然シ〔二字傍線〕山ガ貴方ノオ所ヲ隔テテヰマスヨ。アノ山ガアルノデ、容易ク行キ通ヒノ出來ナイノハ殘念デス〔アノ〜傍線〕。
 
○都奇見禮婆於奈自久爾奈里《ツキミレバオナジクニナリ》――月を見ると同じ國だといふのは、月の影は同じで、そちらとこちらと、同じ所のやうに思はれるといふのである。
〔評〕古歌をその儘、取つたのではあるまい。古歌といふのは、卷十一の月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレバクニハオナシゾヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》(二四二〇)ではないかと思はれる。多分これを改作したのであらう。
 
一、屬《ツキテ》v物(ニ)發(ス)v思(ヲ)
 
4074 櫻花 今ぞ盛と 人は云へど 我はさぶしも 君とし在らねば
 
(353) 櫻花《サクラバナ》 今曾盛等《イマゾサカリト》 雖2云《ヒトハイヘド》 我佐不之毛《ワレハサブシモ》 支美止之不在者《キミトシアラネバ》
 
櫻ノ花ハ今ガ盛リダト人ハ申シマスガ、貴方ト御一緒デナイカラ、ソノ盛リノ櫻ヲ見テモ〔ソノ〜傍線〕私ハ面白ウゴザイマセンヨ。唯々貴方ガオナツカシウゴザイマス〔唯々〜傍線〕。
 
○我佐不之毛《ワレハサブシモ》――私は面白くないよ。サブシは心の樂しまぬこと。梶棹毛無而不樂毛《カヂサヲモナクテサブシモ》(二五七)・城山道者不樂牟《キノヤマミチハサブシケム》(五七六)などのやうに不樂をサブシと訓ましめた例が多い。略解に「我の字の下、波を脱せるか」とある。しかしこの歌は他と異なつて、謂はゆる假名書式になつてゐないから、必ずしもさうとも斷じ難い。夫は元暦校本その他、不に作つてゐる本が多い。
〔評〕 深見驛の櫻花を見て思を發した歌。卷四の山羽爾味村騷去奈禮騰吾者左夫思惠君二四不有者《ヤマノハニアヂムラサワギユクナレドワレハサブシヱキミニシアラネバ》(四八六)と同型。
 
一、所心歌
 
所心は思ふところの意で、思ふところを述ぶる歌といふのであらう。舊本、歌を耳に誤つてゐる。西本願寺本に謌、神田本に歌に作つてゐるに從ふ。
 
4075 相思はず あるらむ君を あやしくも 嘆き渡るか 人の問ふまで
 
安必意毛波受《アヒオモハズ》 安流良牟伎美乎《アルラムキミヲ》 安夜思苦毛《アヤシクモ》 奈氣伎和多流香《ナゲキワタルカ》 比登能等布麻泥《ヒトノトフマデ》
 
此方カラ思フバカリデ、ソチラカラハ思ツテクダサラナイ貴方ダノニ、ドウシタノカ〔六字傍線〕不思議ニモ、私ハ〔二字傍線〕人ガ、何カ物思ヒデモアルノカト〔何カ〜傍線〕尋ネルホドニ、歎息ヲシテ日ヲ送ツテヰマスヨ。
(354)〔評〕 卷十の相不念將有兒故玉緒長春日乎念晩久《アヒオモハズアルラムコユヱタマノヲノナガキハルヒヲオモヒクラサク》(一九三六)、卷十二の相不念有物乎鴨菅根乃懃懇吾念有良武《アヒオモハズアルモノヲカモスガノネノネモコロゴロニワガモヘルラム》(三〇五四)など類想の歌が多いが、結句|比登能等布麻泥《ヒトノトフマデ》とあるのが、婉曲で餘韻がある、男女間の戀愛のやうに、詠んでゐる。拾遺集の「しのぶれど色に出にけり吾か戀は物や思ふと人の問ふまで」の前驅をなした作だ。
 
越中國守大伴家持報贈(レル)歌四首
 
宿禰の二字がないのは脱ちたものか。
 
一、答(フ)2古人云(フニ)1
 
池主の贈つた、古人云と題した都奇見禮婆《ツキミレバ》の歌に答へたもの。
 
4076 あしびきの 山は無くもが 月みれば 同じき里を 心隔てつ
 
安之比奇能《アシビキノ》 夜麻波奈久毛我《ヤマハナクモガ》 都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自伎佐刀乎《オナジキサトヲ》 許已呂敝太底都《ココロヘダテツ》
 
(安之比奇能)山ガ二人ノ間ニ〔五字傍線〕ナケレバヨイガ。空ノ〔二字傍線〕月ヲ見ルト、同ジ里ダノニ、山ガ二人ノ〔五字傍線〕心ヲ隔テ、容易ク行キ通ヒサセナイヤウニシ〔テ容〜傍線〕テヰル。
 
○都奇見禮婆於奈自伎佐刀乎《ツキミレバオナジキサトヲ》――贈られた歌に、都吉見禮婆於奈自久爾奈里《ツキミレバオナジクニナリ》とあるのを受けて、國を里に改めてゐる。越中と越前とでは、同じ國とは言ひ難いからであらう。
〔評〕 贈られた歌に答へて、同じき里としても、やはり無理であらう。山が隔てて心が通はぬといふのも、面白(355)くない。
 
一、答(ヘ)2屬《ツキテ》v目(ニ)發(セルニ)1v思(ヲ)、兼(テ)詠(ル)2云遷任舊宅(ノ)西北隅(ノ)櫻樹(ヲ)1、
 
贈られた歌によれば屬目は屬物とあるべきだ。遷任舊宅は池主が越中掾として在任中の舊宅、今は越前に遷つたから遷任と言つたのである。云とあるのは穩やかでない。或は衍字か、或は之の誤字か。
 
4077 吾が兄子が 古き垣内《かきつ》の 櫻花 いまだふふめり 一目見に來ね
 
和我勢故我《ワガセコガ》 布流伎可吉都能《フルキカキツノ》 佐久良婆奈《サクラバナ》 伊麻太敷布賣利《イマダフフメリ》 比等目見爾許禰《ヒトメミニコネ》
 
貴方ノ御舊宅ノ垣ノ内ノ櫻ノ花ハ、マダ蕾ンデヰマス。今オイデニナレバ丁度花盛リニ間ニ合ヒマスカラ〔今オ〜傍線〕、一目見ニオイデナサイマシ。私ハ貴方ニオ目ニカカリタイノデスカラ〔私ハ〜傍線〕。
 
○和我勢故我《ワガセコガ》――吾が背子とは池主をさしてゐる。○布流伎可吉都能《フルキカキツノ》――古き垣内の。池主が越中在任中住んでゐた家の邸内の。題に舊宅西北隅櫻樹とあるものだ。○佐久良婆奈《サクラバナ》――具は元暦校本に久とあるのがよい。
〔評〕 花に托して、友人を誘つてゐる。やさしい友情の溢れた作品。
 
一、答(フ)2所心(ニ)1即(チ)以(テ)2古人之跡(ヲ)1代(フ)2今日之意(ニ)1
 
答2所心1とは前に所心歌(四〇七五)とあるのに答へたといふ意。以2古人之跡1代2今日之意1は古歌を以て今日の吾が言はむとする意を代り述べるといふのである。
 
4078 戀ふと云は えも名づけたり 言ふすべの たづきも無きは 吾が身なりけり
 
(356)故敷等伊布波《コフトイフハ》 衣毛名豆氣多理《エモナヅケタリ》 伊布須敝能《イフスベノ》 多豆伎母奈吉波《タヅキモナキハ》 安賀未奈里家利《アガミナリケリ》
 
戀シイトイフノハ、ヨクモ言ツタ言葉デス。私ノ思ハ、ソンナ普通ノ戀ノ程度デハナク、モツト深ク〔私ノ〜傍線〕、何トモ言フ方法ガナイノハ私ノ今ノ身ノ上デス。
 
○衣毛名豆氣多理《エモナヅケタリ》――よくも名づけたものだ。戀しいといふのはよくも言つたものだ。戀といふ言葉は當つてゐる。略解に「淺くも名づけたり也。えならずのえと同じ」とあるのは、誤解を招きさうな説明である。戀とは適切な語だが、普通の程度のものだといふのだ。
〔評〕 これは男女相聞の古歌で.先方から戀しいと言つて來たのに對して、あなたのは戀しさの程度、私のは何とも言ひやうのない、言語に絶したものだと答へたのであらう。それを流用して池主に答へたもの。第二句は古い珍らしい言ひ方だが、下句は中世風らしい句調になつてゐる。
 
一、更(ニ)矚v目(ニ)
 
贈られた三首の歌に對する三首の答歌の外に、更に矚目の作一首を添へる意味で、更矚v目と題したもの。矚は屬に通用してゐる。
 
4079 三島野に 霞たなびき 然すがに 昨日も今日も 雪は降りつつ
 
美之麻野爾《ミシマヌニ》 可須美多奈妣伎《カスミタナビキ》 之可須我爾《シカスガニ》 伎乃敷毛家布毛《キノフモケフモ》 由伎波敷里都追《ユキハフリツツ》
 
(357)三島ノ野ニ霞ガ棚曳イテ、春ラシイ景色ニハナツタガ〔春ラ〜傍線〕、然シソレデモヤハリ、昨日モ今日モ雪ガ降ツテヰル。
 
○美之麻野爾《ミシマヌニ》――三島野は、卷十七に三島野乎《ミシマヌヲ》(四〇一一)・美之麻野爾《ミシマヌニ》(四〇一二)とある。國府南方里余の平野、今の二口村附近といふ。○可須美多奈妣伎《カスミタナビキ》――霞たな曳き。タナビキは中止法を用ゐてある。
〔評〕 櫻が開かうとしてゐる三月十六日ながら、昨日も今日も雪が降つてゐるのは、正しく北國の風景らしい。餘韻のある典雅な作品だが、卷五の烏梅能波奈知良久波伊豆久志可須我爾許能紀能夜麻爾由企波布理都々《ウメノハナチラクハイヅクシカスガニコノキノヤマニユキハフリツヽ》(八二三)、卷八の從明日者春葉將採跡標之野爾昨日毛今日毛雪波布利管《アスヨリハワカナツマムトシメシヌニキノフモケフモユキハフリツツ》(一四二七)などを粉本としてゐるらしい。
 
三月十六日
 
これは右の歌の日附である。
 
姑大伴氏坂上邸女、來2贈(レル)越中守大伴宿禰家持(ニ)1歌二首
 
4080 常人の 戀ふと云ふよりは 餘りにて 我は死ぬべく なりにたらずや
 
都禰比等能《ツネヒトノ》 故布登伊敷欲利波《コフトイフヨリハ》 安麻里爾弖《アマリニテ》 和禮波之奴倍久《ワレハシヌベク》 奈里爾多良受也《ナリニタラズヤ》
 
普通ノ一般人ガ戀ヲスルトイフノヨリハ、以上ノ思ヒ〔三字傍線〕デ、私ハ死ヌホドニナツタデハアリマセンカ。私ハ死ニサウニナツテヰマスヨ〔私ハ〜傍線〕。
 
○都禰比等能《ツネヒトノ》――普通人の。一般の人の、代匠記初稿本は、「此人を清てよめば、常に人のと聞ゆ。濁てよめばよのつねの人のこふといふよりはと聞ゆ。濁をよしとすべし」といひ、古義は「比は清て唱ふべし。……古へ(358)は人を清ても、なほよのつねの人と云ことになれるなり」と言うてゐる。特に濁らねばならぬことはあるまい。新考は「ツネヒトノは常人ノにあらず。常ニ人ノなり。さるからに清音の比を書けるなり、」とあるが、下の都禰比登能伊布奈宜吉思毛《ツネヒトノイフイナゲキシモ》(四一三五)、卷十九の常人毛起都追聞曾《ツネヒトモオキツツキクゾ》(四一七一)などいづれも、一般の人のの意である。○安麻里爾弖《アマリニテ》――餘つて。より以上で。あまりは動詞である。○奈里爾多良受也《ナリニタラズヤ》――成りにたりに、打消のずと疑問のやとを添へてゐる。なつたではないか、なつたぞよの意。
〔評〕 叔母さんから甥に贈る歌としては隨分思ひ切つたものだ。かういふことを平氣で言ふ、さつぱりした人らしい。古今集の「戀しとはだが名づけけむことならむ死ぬとぞただに言ふべかりける」とあるのは、これに似てゐる。
 
4081 片思を 馬にふつまに 負せ持て 越べにやらば 人かだはむかも
 
可多於毛比遠《カタオモヒヲ》 宇萬爾布都麻爾《ウマニフツマニ》 於保世母天《オホセモテ》 故事部爾夜良波《コシベニヤラバ》 比登加多波牟可母《ヒトカダハムカモ》
 
私ガ貴方ヲ思フ〔七字傍線〕片思ヲ、馬ノ太ク逞シ〔三字傍線〕イ馬ニ負ハセ持ツテ、アナタノヰル〔六字傍線〕越ノ國ノ方ヘヤツタナラバ、重サウナ何カヨイ荷物ト思ツテ〔重サ〜傍線〕、盗人ガ取ルデセウカヨ。
 
○宇萬爾布都麻爾《ウマニフツマニ》――馬に太馬に。馬に、肥つた馬にと語を重べたもの。布都麻《フツマ》はフトウマの約。○於保世母天《オホセモテ》――負はしめ持ちて。モテは中古の語法であるが、この頃已に行はれでゐたのである。○故事部爾夜良波《コシベニヤラバ》――越の國の方へ遣つたならば。○比登加多波牟可母《ヒトカダハムカモ》――人がかどはかすであらうかよ。カダフはカドフと同じく欺き取る意だと言はれてゐる。併し他に用例も見えないから、なほ研究を要する。
〔評〕 片思を太つた駄馬に積んでやるといふのは、卷四に戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄《コヒクサヲチカラクルマニナナクルマツミテコフラクワガココロカラ》(六九四)とあるやうに、如何にも重さうな感じがする。その重さうな荷物を盗人が欺いて取るだらうと言つたのは、全く奇拔な思(359)つきで、滑稽味があふれてゐる。
 
越中守大伴宿禰家持報(フル)歌并所心三首
 
目録に大伴家持報歌二首とある。この題詞は家持の報ふる歌と所心の歌と合せて三首といふ意味であらうが、次に別所心一首とあるので、重複の感がある。
 
4082 天ざかる 鄙の奴に 天人の 斯く戀すらば 生けるしるしあり
 
安萬射可流《アマザカル》 比奈能夜都故爾《ヒナノヤツコニ》 安米比度之《アメビトノ》 可久古非須良波《カクコヒスラバ》 伊家流思留事安里《イケルシルシアリ》
 
(安萬射可洗)田舍ノ此ノ越中ニ〔五字傍線〕ヰル奴ノコノ私〔四字傍線〕ニ、天人ノ貴方〔三字傍線〕ガ、焦死スルホド〔六字傍線〕ソンナニ私ニ戀ヲナサルナラバ、私ハ〔二字傍線〕生キテヰル甲斐ガアリマス。
 
○比奈能都夜故爾《ヒナノヤツコニ》――舊本ヒナノミヤコニとあるが、都をミと訓むべき謂はれがない。又國府を鄙の都といつた例もない。略解の宣長説に「太平が説に、都夜故は夜都故《ヤツコ》を誤れる也と言へり。まことにしかるべし。國府をみやこと言ふべきよしなし。遠の朝廷と言ふとは事のさまかはれり」とあるに從ふべきであらう。○安米比度之《アメビトノ》――天人の。都人なる坂上郎女を尊んでかく言つたもの。天人は卷十の七夕の歌(二〇九〇)にもある。○可久古非須良波《カクコヒスラバ》――斯く戀ひすらば。こんなに戀するならば。スラバといふ形は珍らしい。代匠記精撰本に、「かくこひすらばは良と留と同音なれば、かくこひするはなり」とあり、略解は「如是戀するならばと云を略ける也」古義は「須良は勢列か世列の誤なるべし。如此戀爲有者《カクコヒセレバ》なり、可久は志可と云むが如し云々」とある。新考は略解・古義の説を拒けて、「波を久・玖などの誤とすべし。カク戀スラクにて、カク戀フル事ハといふ意なり」と(360)言つてゐるが、いづれも首肯し難い。
〔評〕 前の都禰比等能の歌に答へてゐる。自分を鄙の奴といひ、都なる坂上郎女を天人と言つて、かほどまで天人の戀を得るならば生甲斐があると、滑稽に應對してゐる。家持もかなり頓智に富んだ人だ。この歌袖中抄に出てゐる。
 
4083 常の戀 いまだ止まぬに 都より 馬にこひ來ば 荷ひあへむかも
 
都禰能孤悲《ツネノコヒ》 伊麻太夜麻奴爾《イマダヤマヌニ》 美夜古欲利《ミヤコヨリ》 宇麻爾古非許婆《ウマニコヒコバ》 爾奈比安倍牟可母《ニナヒアヘムカモ》
 
私ガ〔二字傍線〕平素戀シク思フ心ガマダ止マナイノニ、都カラ戀ヲ〔二字傍線〕馬ニ乘セテ、送ツテ〔三字傍線〕來タナラバ、私ハトテモ〔五字傍線〕、荷ヒキレマセヌヨ。
 
○都禰能孤悲《ツネノコヒ》――平素の戀。○宇麻爾古非許婆《ウマニコヒコバ》――馬に負はせ來ば。コヒはコフといふ動詞で、負ふ意らしい。他に用例は見えないが、さう見るより外はない。新考は「古非はツミの誤字らむ。ウマニツミコバの對格は新なる戀なり」とある。○爾奈比安倍牟可母《ニナヒアヘムカモ》――荷ひきれようや、とても荷ひきれないよ。
〔評〕 前の可多毛比遠《カタモヒヲ》の歌に答へたもの。これは前の歌よりも一層機智に富んでゐる。
 
別(ニ)所心一首
 
別に思ふ所を述べた歌。
 
4084 あかときに 名告り鳴くなる ほととぎす いやめづらしく 思ほゆるかも
 
安可登吉爾《アカトキニ》 名能里奈久奈流《ナノリナクナル》 保登等藝須《ホトトギス》 伊夜米豆良之久《イヤメヅラシク》 於毛(361)保由流香母《オモホユルカモ》
 
夜明ケ方ニホトトギスホトトギスト自分ノ〔十四字傍線〕名ヲ唱ヘナガラ鳴イテ居ル郭公ノ聲ハ、マコトニ珍ラシイガ、アナタノ御歌モ大層珍ラシク〔アナ〜傍線〕思ハレマスヨ。御消息ヲアリガタウ存ジマス〔御消〜傍線〕。
 
○安可登吉爾《アカトキニ》――曉に。○名能里奈久奈洗保登等藝須《ナノリナクナルホトトギス》――名を告りつつ鳴くところの郭公。郭公はホトトギスホトトギスとその名を呼びつつ鳴くのである。ここまでの三句は、伊夜米豆良之久《イヤメヅラシク》と言はむ爲の譬喩として用ゐられてゐる。上句を序詞と見る説は當らない。
〔評〕 折柄郭公の鳴く頃であるから、これにことよせて坂上郎女の消息を褒めたのである。郭公の聲のみを詠じたものではない。
 
右四日附(ケテ)v使(ニ)贈(リ)2上(ル)京師(ニ)1
 
四日は四月の誤だらうと代匠記精撰本にあるが、古義は四日は四月四日だらうといつてゐる。前に三月十六日の歌があり、次に五月五日の作があるから、ここは四月四日のことであらう。但し四日とあるのを改める要はあるまい。五月四日とも見られないとともないが、次の題詞の書き方を見ると、五月ではないやうだ。下にも五月十日を唯、十日と記したところがある。
 
天平感寶元年五月五日、饗(ス)2東大寺之占墾地(ノ)使(ノ)僧平榮等(ヲ)1于時守大伴宿禰家持送(ル)2酒(ヲ)僧(ニ)1歌一首
 
天平二十一年四月丁未(十四日)改元あつて、天平感寶元年となつた。東大寺は奈良の東大寺、(362)占墾地は墾田地を占むること。天平感寶元年四月甲午朔の宣命に、「大神宮 諸神多知爾御戸代奉諸祝部治賜《オホミカミノミヤヲハジメテモロモロノカミタチニミトシロタテマツリモロモロノハフリヲサメタマフ》、又寺寺墾田地許奉僧綱衆僧尼敬問治賜《マタテラテラニハリタノトコロユルシマツリホウシノツカサヲハジメテモロモロホウシアマヰヤマヒトヒヲサメタマヒ》云々」とあつて、諸寺に墾田地と稱して、私に開墾する田地を許し給うたのである。よつてその墾田地を諸國に占有せむが爲に使を派した。僧平榮は東大寺から、占墾地の爲に、使者として越中に出張した僧である。舊本、占を古に誤つてゐる。元暦校本による。平榮の傳は明らかでない。
 
4085 燒太刀を 礪波の關に 明日よりは 守部やりそへ 君を留めむ
 
夜岐多知乎《ヤキダチヲ》 刀奈美能勢伎爾《トナミノセキニ》 安須欲里波《アスヨリハ》 毛利敝夜里蘇倍《モリベヤリソヘ》 伎美乎等登米牟《キミヲトドメム》
 
(夜岐多知乎)礪波ノ關ニ明日カラハ、番人ヲ追加シテ派遣シテ貴方ノ御歸リ〔四字傍線〕ヲ止メマセウ。暫ク御歸リナサルナ。御名殘惜シウ存ジマス〔暫ク〜傍線〕。
 
○夜岐多知乎《ヤキダチヲ》――枕詞。燒太刀を礪ぐとつづく、古義に燒太刀の利《ト》とつづくと見てゐるのはどうであらう。○刀奈美能勢伎爾《トナミノセキニ》―礪波の關に。礪波の關は礪波山の東麓にあつた關所。今、(363)富山縣東礪波郡埴生村埴生に略々その舊地と推定せられるところがある。委しくは拙著「北陸萬葉集古蹟研究」を參照せられたい。○毛利敝夜里蘇倍《モリベヤリソヘ》――守部即ち番人を増派して。ヤリソヘは遣り副へ。今まで以上に多く派遣する意。
〔評〕 礪波山越で歸京せむとする僧平榮との名殘を惜しむ歌。虚構の言ながら惜別の意はあらはれてゐる。
 
同月九日、諸僚(ヲ)會(シテ)2少目秦伊美吉|石竹《イハタケ》之舘(ニ)1飲宴(ス)、於v時主人、造(リ)2旨合花縵三枚(ヲ)1疊2置(キ)豆器(ニ)1捧(ゲ)2贈(ル)賓客(ニ)1各賦(シテ)2此縵(ヲ)1作(レル)三首
 
諸僚は諸の官人。國府の官吏である。少目は國の四部官の最下。目はサクワンと訓む。秦伊美吉石竹は續紀によれば、寶字八年十月庚午、正六位上から、外從五位下に、寶龜五年三月甲辰飛驛守、七年三月癸巳播磨介となる。百合花縵は百合の花を鬘に造つたもの。三枚は元暦校本に三枝とあるのがよいであらう。豆器は肉を盛る木製の食器。祭器として用ゐる。豆の字はその形に象つたもので、上部の一は蓋《フタ》、中部は盛る部分、下部は臺である。この器の上に百合の花縵を重ねて置いて、これを客人に捧げ贈つたのである。略解に「大平云、歌に二首まで燈のことを詠めれば、豆は燈歟と言へり。」とあり、古義は、豆器にアブラツキと訓してゐるが、燈臺ではあるまい。作の下、歌の字が脱かと代匠記初稿本にある。
 
4086 あぶら火の 光に見ゆる 吾が縵 さ百合の花の 笑まはしきかも
 
安夫良火能《アブラヒノ》 比可里爾見由流《ヒカリニミユル》 和我可豆良《ワガカヅラ》 佐由利能波奈能《サユリノハナノ》 惠麻波之伎香母《ヱマハシキカモ》
 
燈火ノ光ニ照ラサレテ見エル、私ノ此ノ〔二字傍線〕※[草冠/縵]ノ百合ノ花ガ、咲イテ居ルノガ〔七字傍線〕、美シク見エマスヨ。御主人ノ御作(364)リニナツタ此ノ百合ノ花※[草冠/縵]ハ、マコトニ結構デゴザイマス〔御主〜傍線〕。
 
○安夫良火能《アブラヒノ》――油火の。油火は燈油をともした燈火をいふ。○比可里爾見由流《ヒカリニミユル》――光に照らされて見える。○佐由利能波奈能《サユリノハナノ》――サは接頭語のみ。○惠麻波之伎香母《ヱマハシキカモ》――笑まはしきかも。笑みたいやうな感じがするよといふので、美しいことよと讃歎したものである。
〔評〕 主人から捧げ贈られた花を取つて、まづ家持が詠んだ歌。燈火に色映える百合の花縵を見て、これを賞讃してゐる。頭に挿した影の映つたのを見て、詠んだとするのはあたらない。上四句を序詞とするのも當るまい。百合の花のやうに綺麗に出來てゐる歌。
 
右一首守大伴宿禰家持
 
4087 ともし火の 光に見ゆる さ百合花 ゆりもあはむと 思ひそめてき
 
等毛之火能《トモシビノ》 比可里爾見由流《ヒカリニミユル》 左由理婆奈《サユリバナ》 由利毛安波牟等《ユリモアハムト》 於母比曾米弖伎《オモヒソメテキ》
 
今夜ノ此ノ宴會ハ大層面白ウゴザイマスガ〔今夜〜傍線〕、(等毛之火能比可里爾見由流佐由理婆奈)後モ亦カウシテ會ヒタイモノダト私ハ考ヘマシタ。
 
○等毛之火能比可里爾見由洗佐由理婆奈《トモシビノヒカリニミユルサユリバナ》――由利《ユリ》と言はむ爲の序詞で、ユリの言を繰返して續けてゐる。○由利毛安波牟等《ユリモアハムト》――由利《ユリ》は後といふに同じ。後にも亦、かうして會はうと。○於母比曾米弖伎《オモヒソメテキ》――思ひ初めてき。今さういふ考を起したといふので、略解に「かねてより此會集を戀ひたりしと也」とあるのは、當らない。
〔評〕 卷八の吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花由利登云者不謌慍二似《ワギモコガイヘノカキツノサユリバナユリトイヘルハイナトフニニル》(一五〇三)の手法を學んだか。
 
(365)右一首介内藏伊美吉|繩《ナハ》麿
 
この人の作は、卷十七(三九九六)にもある。
 
4088 さ百合花 ゆりも逢はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ
 
左由理波奈《サユリバナ》 由里毛安波牟等《ユリモアハムト》 於毛倍許曾《オモヘコソ》 伊末能麻左可母《イマノマサカモ》 宇流波之美須禮《ウルハシミスレ》
 
(左由利波奈)後モ亦此ノヤウナ宴會デ〔八字傍線〕會ハウト思ヘバコソ、私ハ〔二字傍線〕今ノ現在デモ宴會ノ席デ、皆ト〔七字傍線〕睦ジクスルノデス。
 
○左由理波奈《サユリバナ》――枕詞式に用ゐてある。○於毛倍許曾《オモヘコソ》――思へばこそ。○伊末能麻左可母《イマノマサカモ》――今の現在も。マサカは目前、現在などの意。卷十二の眞坂者君爾縁西物乎《マサカハキミニヨリニシモノヲ》(二九八五)、その他、例が多い。○宇流波之美須禮《ウルハシミスレ》――陸じくするのです。
〔評〕 前の歌に和したもの。唯儀禮的の語である。この歌袖中抄に出てゐる。
 
右一首大伴宿禰家持 和
 
獨居(テ)2幄裏(ニ)1遙(ニ)聞(キテ)2霍公鳥(ノ)喧(ヲ)1作(レル)歌一首并短歌
 
幄裏は帳の内。即ち屋内といふに同じ。幄は和名抄に「幄、四聲字苑云、幄、於角反、阿計波利、大帳也」とある。
 
4089 高御座 天の日嗣と すめろぎの 神の命の 聞しをす 國の眞ほらに 山をしも さはに多みと 百鳥の 來居て鳴く聲 春されば ききのかなしも いづれをか 別きてしぬばむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととぎす 菖蒲草 珠貫くまでに 晝暮らし 夜わたし聞けど 聞くごとに 心うごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし
 
(366)高御座《タカミクラ》 安麻乃日繼登《アマノヒツギト》 須賣呂伎能《スメロギノ》 可未能美許登能《カミノミコトノ》 伎己之乎須《キコシヲス》 久爾能麻保良爾《クニノマホラニ》 山乎之毛《ヤマヲシモ》 佐波爾於保美等《サハニオホミト》 百鳥能《モモトリノ》 來居弖奈久許惠《キヰテナクコヱ》 春佐禮婆《ハルサレバ》 伎吉乃可奈之母《キキノカナシモ》 伊豆禮乎可《イヅレヲカ》 和枳弖之努波無《ワキテシヌバム》 宇能花乃《ウノハナノ》 佐久月多弖婆《サクツキタテバ》 米都良之久《メヅラシク》 鳴保等登藝須《ナクホトトギス》 安夜女具佐《アヤメグサ》 珠奴久麻泥爾《タマヌクマデニ》 比流久良之《ヒルクラシ》 欲和多之伎氣騰《ヨワタシキケド》 伎久其等爾《キクゴトニ》 許己呂豆呉枳弖《ココロウゴキテ》 宇知奈氣伎《ウチナゲキ》 安波禮能登里等《アハレノトリト》 伊波奴登枳奈思《イハヌトキナシ》
 
高御座ニ御上リナサレ〔七字傍線〕天ツ日嗣トシテ、天子様ト云フ神様ガ御支配ナサル立派ナ越中ノ〔三字傍線〕國内ニ、山ガ澤山ニ多クアルノデ、種々ノ〔三字傍線〕多クノ鳥ガ來テ鳴ク聲ガ、春ニナルト、聞イテ面白イヨ。然シソノ春ノ鳥ノ〔八字傍線〕ドレヲ、格別ニ賞メタモノデアラウカ。サウ擢ンデタモノハナイ〔サウ〜傍線〕。卯ノ花ノ咲ク〔二字傍線〕四月ニナルト、珍ラシク鳴ク郭公ガ、菖蒲草ヲ玉ニ貫ク五月〔二字傍線〕マデ、終日終夜聞クケレドモ、何時デモ〔四字傍線〕聞ク毎ニ、心ガ感動シテ、歎息シナガラ、嗚呼面白イ鳥ダト言ハナイ時ハナィ。實ニ郭公ニ優ル鳥ハナイ〔實ニ〜傍線〕。
 
○高御座安麻能日繼登《タカミクラアマノヒツギト》――高御座にまします天の日繼としての意。文武天皇の宣命にも「此天津日嗣高御座之業止現御神止大八島國所知倭根子天皇命《コノアマツヒツギタカミクラノワザトアキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラミコト》云々」とある。高御座は皇位の尊嚴高貴なることを示す語で、天の日嗣は日の御子として、天照御神の神勅によつて、嗣ぎ給ふ日の御位即ち皇位。○久爾能麻保良爾《クニノマホラニ》――國の眞秀らに。國のまほらは國の秀に同じ。國を褒めていふ詞。ここは越中を指してゐる。卷五の企許斯速周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》(八〇〇)、卷十の言借石國之眞保良乎《イブカリシクニノマホラヲ》(一七五三)參照る。○佐波爾於保美等《サハニオホミト》――サハもオホも同意語で、それを(367)重ね用ゐたのである。○百鳥能《モモトリノ》――百鳥は多くの鳥。○伎吉乃可奈之母《キキノカナシモ》――聞いて面白いよ。卷二に聞之恐久《キキノカシコク》(一九九)ともある。○和枳弖之努波無《ワキテシヌバム》――春の百鳥の内、何れの鳥を特に他と區別して、なつかしく思はむや。どれも一樣に面白いといふのである。古義に「春鳥の聲をほめて、さて霍公鳥と孰れを取わきて、ことに賞むと云るにて、霍公鳥の晝夜聞けど飽ず、怜《オモシロ》きことをいはむ下形なり」とあるのは誤つてゐる。○安夜女具佐珠奴久麻泥爾《アヤメグサタマヌクマデニ》――菖蒲草を藥玉に貫く端午の頃まで。○比流久良之《ヒルクラシ》――晝を暮らして。終日。○秋和多之伎氣騰《ヨワタシキケド》――夜を渡して聞けど、即ち夜通し聞けど。終夜聞いても。○許己呂豆呉枳弖《ココロウゴキテ》――舊本、ココロツコキシと訓んでゐるが、シは誤記であらう。代匠記精撰本に「宇と豆と同韻なれば、心動きてと云なるべし」とあり。考は豆を宇の誤として、ココロウゴキテと改めてゐる。これに從ふべきであらう。○安波禮能登里等《アハレノトリト》――あはれなつかしい鳥と。卷九に掻霧雨零夜乎霍公鳥鳴而去成※[立心偏+可]怜其鳥《カキキラシアメノフルヨヲホトトキスナキテユクナリアハレソノトリ》(一七五六)とある。
〔評〕 春の鳥には特に擢んでたよい鳥はないが、夏の鳥の郭公は何時聞いても面白い佳い鳥だといふので、郭鳥に對する絶讃の聲である。短く纒つたかなりの作品であるが。内容はさしたることはない。但し冒頭の數句は作者の尊王思想があらはれてゐて嬉しい。
 
反歌
 
4090 行方なく あり渡るとも ほととぎす 鳴きし渡らば 斯くやしぬばむ
 
由久敝奈久《ユクヘナク》 安里和多流登毛《アリワタルトモ》 保等登藝須《ホトトギス》 奈枳之和多良婆《ナキシワタラバ》 可久夜思努波牟《カクヤシヌバム》
 
郭公ガ何處ヘ飛ンデ行ツタカ〔何處〜傍線〕行方ガ分ラヌヤウニ鳴イテ〔三字傍線〕行ツテシマツテモ、マタ今ノヤウニ此處〔九字傍線〕ヲ鳴イテ通ルナラバ、私ハ郭公ヲ〔五字傍線〕コンナニ、慕ハシク思ヒハシナイ。一旦飛ビ去ルト中々來ナイカラ戀シイノダ〔一旦〜傍線〕。
 
(368)○由具敝奈久《ユクヘナク》――行く方無く。行方も知らずと同意で、何處ともわからずの意であらう。具は元暦校本に久に作つてゐる。略解に倶の誤としてゐる。○安里和多流登毛《アリワタルトモ》――在り渡るとも。飛び渡るともと同意であらう。處定めず郭公が飛び廻つても。○奈枳之和多良婆《ナキシワタラバ》――鳴き渡らば。シは強辭のみ。この句の上に此處をの意を補つて見るがよい。○可久夜思努波牟《カクヤシヌバム》――こんなになつかしく思はうか、思ひはしない。飛んで行くと後は中々來ないから、慕はれるのだの意。
〔評〕 初二句が曖昧な爲、從來の諸註の解釋が種々に分れてゐる。二句と四句とにワタルを重ね用ゐたのも感心しない。
 
4091 卯の花の 共にし鳴けば ほととぎす いやめづらしも 名告り鳴くなべ
 
宇能花能《ウノハナノ》 開爾之奈氣婆《トモニシナケバ》 保等登藝須《ホトトギス》 伊夜米豆良之毛《イヤメヅラシモ》 名能里奈久奈倍《ナノリナクナベ》
 
卯ノ花ト一緒ニ必ズ〔二字傍線〕郭公ガ來テホトトギスホトトギスト自分ノ〔來テ〜傍線〕名ヲ唱ヘテ、鳴クノデ、マスマス愛ラシイ感ジガスル〔五字傍線〕ヨ。
 
○宇能花能開爾之奈氣婆《ウノハナノトモニシナケバ》――卯の花と一緒に鳴くから。シは強辭。舊本開とあるが、元暦校本のみは登聞《トモ》とある。卷八に霍公鳥來鳴令響宇乃花能共也來之登問師思物乎《ホトトギスキナキトヨモスウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》(一四七二)とあるから、開は登聞《トモ》の誤であらう。○伊夜米豆良之毛《イヤメヅラシモ》――メヅラシは愛らし。○名能里奈久奈倍《ナノリナクナベ》――郭公がホトトギス・ホトトギスと吾が名を呼んで鳴くままに。
〔評〕 二句に「共にし鳴けば」と言つて、更に結句に「名のり鳴くなべ」とあるのは、言葉が重複して拙い感がする。
 
4092 ほととぎす いと嫉けくは 橘の 花散る時に 來鳴きとよむる
 
(369) 保登等藝須《ホトトギス》 伊登祢多家口波《イトネタケクハ》 橘乃《タチバナノ》 播奈治流等吉爾《ハナチルトキニ》 伎奈吉登余牟流《キナキトヨムル》
 
郭公ガマコトニ妬シク思ハレルノハ、橘ノ花ノ散ル時ニ聲高ク來テ鳴ク事ダ。唯サヘ悲シイ時ニ、愈私ニ物思ヒヲサセル〔唯サ〜傍線〕。
 
○伊登禰多家口波《イトネタケクハ》――甚だ妬ましく惡らしいことは。○播奈治流等吉爾《ハナチルトキニ》――略解に「治の濁音を書けるはいかが、知の誤歟」とあり、古義も「治の濁音の字を用たるは、取はづしてかけるなるべし、清て唱べし」と言つてゐるが、治を清音に用ゐることは何等差支はあるまい。
〔評〕 愛情が餘つて、妬ましくさへ思はれる心を、強く表現してゐる。五の句に力が籠つてゐる。
 
右四首十日大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
十日とあるのは、五月十日である。
 
行(ク)2英遠《アヲ》浦(ニ)1之日作(レル)歌一首
 
英遠浦は氷見町北方一里の海岸。今、阿尾村といつてゐる。丘陵が斷崖をなして海中に突出し、頗る風致がよい。寫眞は著者撮影。この歌は十日と(370)十二日との間にあるから、十一日の作か。
 
4093 英遠の浦に 寄する白波 いや増しに 立ちしき寄せく あゆを疾みかも
 
安乎能宇良爾《アヲノウラニ》 餘須流之良奈美《ヨスルシラナミ》 伊夜末之爾《イヤマシニ》 多知之伎與世久《タチシキヨセク》 安由乎伊多美可聞《アユヲイタミカモ》
 
英遠ノ浦ニ打チ寄セル白波ハ、マスマス盛ニ立ツテ、頻リニ寄セテ來ル。コレハ〔三字傍線〕東風ガヒドイカラデアラウカ。
 
○多知之伎與世久《タチシキヨセク》――起ち重《シキ》寄せ來。白波が起つて頻りに寄せて來る。○安由乎伊多美可聞《アユヲイタミカモ》――安由《アユ》は前に東風《アユノカゼ》 越俗語東風謂之安由乃可是也(四〇一七)とあるところに述べたやうに、今、北陸方面では東北風をアイノカゼと言つてゐるから、安由《アユ》は東北風と考ふべきである。
〔評〕 東を受けた清い海岸に、あゆの風によつて、打寄する白波が立ち騷ぐ情景が、よく詠まれてゐる。この白波のやうな、すがすがしい感じの作。
 
右一首大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
賀(グ)2陸奧國(ヨリ)出(セル)1v金(ヲ) 詔書(ヲ)1哥一首 并2短歌1
 
これは東大寺大佛造營に際し、黄金が缺乏して、聖武天皇は宸襟を惱まし給ふ折から、陸奥國より黄金を出したとの奏上あり、天皇大に喜び給ひ、詔書を煥發して、佛の恩を讃へ、百官人もこれ(371)を禮拜すべきことを諭された。そのことは續紀に記して、「天平二十一年二月丁巳、陸奥國始頁2黄金1、於是奉v幣以告2畿内七道諸社1、」「四月乙卯、陸奥守從三位百濟王敬福、貢2黄金九百兩1」とあり、詔については、「同四月甲午朔、天皇幸2東大寺1御2盧舍那佛像前殿1、北面對v像、皇后太子並侍焉、群臣百寮、及士庶分頭、行2列殿後1、勅遣2左大臣橘宿禰諸兄1、白v佛、三寳仕奉天皇羅我命盧舍那佛像大前奏賜部止此大倭國者天地開闢以來黄金人國用理獻言登毛斯地者無物部流仁聞看食國中東方陸奧國守從五位上百濟王敬福部内少田郡黄金出在奏獻此聞食驚久波盧舍那佛慈賜波陪賜物受賜戴持百官人等率礼拜仕奉事挂畏三寳大前美毛奏賜波久止奏《ホトケノヤツコトツカヘマツレルスメラガオホミコトラマトノルルサナノミカタノオホマヘニマヲシタマフトマヲサクコノオホヤマトノクニハアメツチノハジメヨリコノカタニクガネハヒトクニヨリタテマツルコトハアレトモコノクニニハナキモノトオモヘルニキコシメスヲスクニノウチノヒムカシノカタミチノククニノカミヒロキイツツノクラヰノカミツシナクダラノコニキシキヤウフクイクニノウチヲダノコホリニクガネイデタリトマヲシテタテマツレリコヲキコシメシオドロキヨロコビタフトビオモホサクハルサナホトケノメグミタマヒサキハヘタマフモノニアリトオモヘウケタマハリカシコマリイタダキモチテモモノツカサノヒトビトヲヒキヰテヲロガミツカヘマツルコトヲカケマクモカシコキホトケノオホマヘニカシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス》」とあり、これは佛に告げ給うたものであるが、次に從三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣の詔があつて、一般民衆に向つて出金の瑞祥について宣うてゐる。それはかなりの長篇であるから、ここに全篇を揚げることを得ないが、左の長歌中に關係ある部分は、その都度引用して説明することにしよう。
 
4094 葦原の 瑞穗の國を 天降り しらしめしける すめろぎの 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし來る 君の御代御代 敷きませる 四方の國には 山河を 廣みあつみと 奉る 御調寶は 數へ得ず 盡しもかねつ 然れども 吾が大君の 諸人を 誘ひ給ひ 善き事を 始め給ひて 黄金かも 樂しけくあらむと 思ほして 下惱ますに とりが鳴く 東の國の 陸奧の 小田なる山に 黄金ありと 奏し賜へれ 御心を 明らめ給ひ 天地の 神相うづなひ すめろぎの 御靈助けて 遠き代に なかりし事を 朕が御世に あらはしてあれば 御食國は 榮えむものと 神ながら 思ほし召して もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに 老人も をみなわらはも 其《し》が願ふ 心だらひに 撫で給ひ 治め給へば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の 其の名をば 大來目主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水浸く屍 山行かば 草むす屍 おほきみの 邊にこそ死なめ 顧みは 爲じと言立て 益荒雄の 清きその名を 古へよ 今のをつつに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つること立 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ繼げる ことのつかさぞ 梓弓 手に取り持ちて 劔太刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守 我をおきて また人はあらじと 彌立て 思し増さる 大君の 御言の幸の 一云、を 聞けば貴み 一云、貴くしあれば
 
葦原能《アシハラノ》 美豆保國乎《ミヅホノクニヲ》 安麻久太利《アマクダリ》 之良志賣之家流《シラシメシケル》 須賣呂伎能《スメロギノ》 神乃美許等能《カミノミコトノ》 御代可佐禰《ミヨカサネ》 天乃日嗣等《アメノヒツギト》 之良志久流《シラシクル》 伎美能御代御代《キミノミヨミヨ》 之伎麻世流《シキマセル》 四方國爾波《ヨモノクニニハ》 山河乎《ヤマカハヲ》 比呂美安都美等《ヒロミアツミト》 多弖麻都流《タテマツル》 御調寶波《ミツキタカラハ》 可蘇倍衣受《カゾヘエズ》 都久之毛可禰都《ツクシモカネツ》 之加禮騰母《シカレドモ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》 毛呂比登乎《モロヒトヲ》 伊射奈比多麻比《イザナヒタマヒ》 善事乎《ヨキコトヲ》 波自米多麻比弖《ハジメタマヒテ》 久(372)我禰可毛《クガネカモ》 多能之氣久安良牟登《タノシケクアラムト》 於母保之弖《オモホシテ》 之多奈夜麻須爾《シタナヤマスニ》 鷄鳴《トリガナク》 東國乃《アヅマノクニノ》 美知能久乃《ミチノクノ》 小田在山爾《ヲダナルヤマニ》 金有等《クガネアリト》 麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》 御心乎《ミココロヲ》 安吉良米多麻比《アキラメタマヒ》 天地乃《アメツチノ》 神安比宇豆奈比《カミアヒウヅナヒ》 皇御祖乃《スメロギノ》 御霊多須氣弖《ミタマタスケテ》 遠代爾《トホキヨニ》 可可里之許登乎《ナカリシコトヲ》 朕御世爾《ワガミヨニ》 安良波之弖安禮婆《アラハシテアレバ》 御食國波《ミヲスクニハ》 左可延牟物能等《サカエムモノト》 可牟奈我良《カムナガラ》 於毛保之賣之弖《オモホシメシテ》 毛能乃布能《モノノフノ》 八十伴雄乎《ヤソトモノヲヲ》 麻都呂倍乃《マツロヘノ》 牟氣乃麻爾麻爾《ムケノマニマニ》 老人毛《オイヒトモ》 女童兒毛《ヲミナワラハモ》 之我願《シガネガフ》 心太良比爾《ココロダラヒニ》 撫賜《ナデタマヒ》 治賜婆《ヲサメタマヘバ》 許已乎之母《ココヲシモ》 安夜爾多敷刀美《アヤニタフトミ》 宇禮之家久《ウレシケク》 伊余與於母比弖《イヨヨオモヒテ》 大伴乃《オホトモノ》 遠都神祖乃《トホツカムオヤノ》 其名乎婆《ソノナヲバ》 大來目主等《オホクメヌシト》 於比母知弖《オヒモチテ》 都加倍之官《ツカヘシツカサ》 海行者《ウミユカバ》 美都久屍《ミヅクカバネ》 山行者《ヤマユカバ》 草牟須屍《クサムスカバネ》 大皇乃《オホキミノ》 敝爾許曾死米《ヘニコソシナメ》 可敝里見波《カヘリミハ》 勢自等許等太弖《セジトコトダテ》 大夫乃《マスラヲノ》 伎欲吉彼名乎《キヨキソノナヲ》 伊爾之敝欲《イニシヘヨ》 伊麻乃乎追通爾《イマノヲツツニ》 奈我佐敝流《ナガサヘル》 於夜乃子等毛曾《オヤノコドモゾ》 大伴等《オホトモト》 佐伯乃氏者《サヘキノウヂハ》 人祖乃《ヒトノオヤノ》 立流辭立《タツルコトダテ》 人子者《ヒトノコハ》 祖名不絶《オヤノナタタズ》 大君爾《オホキミニ》 麻都呂布物能等《マツロフモノト》 伊比都雅流《イヒツゲル》 許等能都可左曾《コトノツカサゾ》 梓弓《アヅサユミ》 手爾等里母知弖《テニトリモチテ》 劔大刀《ツルギタチ》 許之爾等里波伎《コシニトリハキ》 安佐(373)麻毛利《アサマモリ》 由布能麻毛利爾《ユフノマモリヨ》 大王乃《オホキミノ》 三門乃麻毛利《ミカドノマモリ》 和禮乎於吉弖《ワレヲオキテ》 比等波安良自等《マタヒトハアラジト》 伊夜多弖《イヤタテ》 於毛比之麻左流《オモヒシマサル》 大皇乃《オホキミノ》 御言能左吉乃《ミコトノサキノ》【一云乎】 聞者貴美《キケバタフトミ》 【一云|貴久之安禮婆《タフトクシアレバ》】
 
葦原ノ瑞穗ノ國ヲ高天ガ原カラ〔六字傍線〕天降ツテ、御支配ニナツタ皇孫瓊々杵尊ノ御代カラ〔皇孫〜傍線〕天子樣ノ神樣ガ、御代ヲ重ネテ天ツ日嗣トシテ御支配遊バシテ來タ天皇ノ御歴代、御統治遊バサレル四方ノ國ニハ、山ガ厚ク、河ガ廣イノデ、其等ノ山河ノ物ヲ〔八字傍線〕、奉ル貢物ノ寶ハ數ヘラレモセズ、數ヘ〔二字傍線〕盡スコトモ出來ナィ。然シナガラ私ノ御仕ヘ申シテヰル〔八字傍線〕今上陛下ガ多クノ人ヲオ誘ヒナサレ、奈良ノ大佛造營トイフ〔奈良〜傍線〕善イ事業ヲオ始メニナツテ、黄金ガ足リナイノデ、若シ黄金ガ出タナラバサゾ〔七字傍線〕嬉シイデアラウト思召シテ、心ノ中ニ御心配ナサツテイラツシヤルト、(鷄鳴)東ノ國ノ陸奥ノ小用トイフ所ノ山ニ、黄金ガ出マシタト奏上シマシタノデ、今マデ御心配ナチテヰタ〔今マ〜傍線〕御心ヲオ晴ラシニナリ、コレハ大佛造營ノ事ヲ〔コレ〜傍線〕天地ノ神々モイヅレモ御承諾ニナリ、皇祖ノ御靈ガオ助ケ下サツテ、遠イ昔ニモ無カツタコトヲ、今ノ〔二字傍線〕朕ノ御代二アラハシテアルカラ、御支配遊バス國ハ必ズ〔二字傍線〕榮エルデアラウト、神ソノ儘ノ御方デアラセラレル天子樣ガ〔ノ御〜傍線〕思召シテ、朝廷奉仕ノ〔五字傍線〕役人ノ多クノ輩ノ長ヲ、服從セシメ、歸服セシメルト共ニ、又老人モ女ヤ子供モ、ソノ願フ心ガ滿足スルヤウニ、撫育ナサツテ、オ取立ニナルノデ、ソレヲ不思議ナホドニ貴ク思ヒ、嬉シク愈々思ツテ、考ヘテ見マスト〔七字傍線〕、大伴氏ノ遠イ先祖ノソノ名ヲ、大來目主ト言ハレテ神武天皇ニ〔五字傍線〕御奉公シタ役目デアツテ、ソノ家訓トシテ〔アツ〜傍線〕、海ヘ行ツタナラバ水ニ漬ル屍トナリ、山ヘ行ツタナラバ草ノ生エル屍トナリ、天子樣ノ御側デ死ナウ。敵ト戰フ時ニ〔六字傍線〕、後ロヲ顧ミルヤウナコトハスマイ(374)ト、格別ニ誓言ヲ立テテ、大丈夫タル名ヲ古ヨり今ノ現在マデ、流シテ居ル先祖ノ子孫デアルゾ。大伴氏ト佐伯氏ハ、先祖ガ立テタ所ノ家訓ニ、子孫ハ親ノ名譽ヲ絶ヤサヌヤウニ、天子樣ニ御奉公致スモノト、昔ヨリ言ヒ傳ヘテ來タ格別ノ役目デアルゾ。デアルカラ〔五字傍線〕弓ヲ手ニ取リ持チ、劔太刀ヲ腰ニ取リサシテ、御殿ノ朝ノ守護、夕方ノ守護ニ、天子樣ノ御所ノ守護ハ、我等以外ニハ他ニ人ハアルマイト、愈我々の籏幟ヲ鮮明ニ〔九字傍線〕立テテ、天子樣ノ我々ニ〔三字傍線〕幸ヲ御與ヘ下サル有難イ御言葉ヲ承ルト畏イノデ、忠勤ヲ抽デヨウト云フ〔忠勤〜傍線〕思ガ増シテ來マス。
 
○葦原能美豆保國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》――葦原の瑞穗國は卷二(一六七)・卷九(一八〇四)・卷十三(三二二七・三二五三)などの例がある。○安麻久太利《アマクダリ》――皇孫の降臨をいふ。○之良志賣之家流《シラシメシケル》――知ろしめしけるに同じ。御支配遊ばされた。○之伎麻世流《シキマセル》――敷き給へる。シキはシルに同じく、支配し給ふこと。○比呂美安都美等《ヒロミアツミト》――廣み厚みと。河が廣く山が厚いから、トはトテの意であるが、輕く添へてある。○御調寶波《ミツキタカラハ》――貢物にして差上げる寶物は。○都久之毛可禰都《ツクシモカネツ》――數へ盡すことも出來ない。ここまでは吾が國躰と物資の豐かなることを述べてゐる。○之加禮騰母《シカレドモ》――以下、聖武天皇の大佛造營のことを言ふ。○毛呂比登乎伊射奈比多麻比《モロヒトヲイザナヒタマヒ》――天皇が諸人を誘ひ給うて。○善事乎波自米多麻比弖《ヨキコトヲハジメタマヒテ》――善事《ヨキコト》とは大佛を造ること。佛像を造るのは、謂はゆる作善の一である。(寺を建て、佛像を造り、經を寫し、僧に供養するなどの類は作善の主なるもの)。○久我禰可毛多能之氣久安良牟登《クガネカモタノシケクアラムト》――この句頗る落付きがわるい。元暦校本には能の字がなくて、タシケクアラムトになつてゐる。詔詞によるとスクナケクアラムトとありさうなところである。タヌシをタノシといふことも、既に行はれてゐたのであらう。しばらく舊本のままとして、黄金か出たならば、樂しくあるであらうかの意としよう。なほここまでの八句は、詔詞に、「衆人〈〉伊謝〈奈比〉率〈〉仕奉心〈〉禍息〈〉善成危變〈〉全平〈牟等〉念〈〉仕奉間〈〉衆人〈〉不成〈※[加/可]登〉疑朕〈〉金少〈牟止〉念憂〈都都〉在〈〉《モロヒトヲイザナヒヒキヰテツカヘマtルルココロハワザハヒヤミテヨクナリアヤフキカハリテマタクタヒラガムトオモホシテツカヘマツルアヒダニモロヒトハナラジカトウタガヒワレハクガネスクナケムトオモホシウレヒツツアルニ》とあるに依つたものである。○之多奈夜麻須爾《シタナヤマスニ》――心の中に惱み給ふに。○鷄鳴《トリガナク》――枕詞。吾妻《アヅマ》につづく。卷二の鳥之鳴《トリガナク》(一九九)參照。○美知能久乃小田在山爾《ミチノクノヲダナルヤマニ》――陸奥の小田にある山に。續(375)紀この詔詞の次に「閏五月甲辰出v金山神主小田郡日下部深淵授2外少初位下1」と見えてゐる。延喜式神名帳に、小田郡黄金山神社とあるのは、その神社である。今、陸前國遠田郡元涌谷村字、涌谷に字、黄金迫の名が殘つてゐる。○麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》――奏し給へればの意。奏上する動作を尊んで、給ふを付けたのであらう。中古文にある下二段活用の給ふの前驅かとも思はれるが、さうではあるまい。ここは詔詞中の「食國東方陸奥國小田郡金出在禮利《ヲスクニノヒムガシノカタミチノクノクニノヲダノコホリニクガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》」とあるに當つてゐる。○安吉良米多麻比《アキラメタマヒ》――明らかにせられ。御心を晴らして、朗らかな氣分になり給うて。○天地乃神安比宇豆奈比《アメツチノカミアヒウヅナヒ》――天神地祇が御同意なされ。ウヅナヒのウヅは珍・貴・立派などの意で、それに活用接尾語のナフが附いたのであらう。即ち宜しとして同意することになる。これも詔詞の中に「天坐神地坐神相宇豆奈比奉佐枳波閇《アメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリサキハヘマツリ》」とあるに、依つたのである。○皇御祖乃御霊多須氣弖《スメロギノミタマタスケテ》――皇御祖《スメロギ》は歴代の天皇を指し奉る。詔詞に「又天皇御靈多知乃惠賜撫賜事依示給物在自等念召受賜歡受賜《マタスメロギノミタマタチノメグミタマヒナデタマフコトニヨリテアラハシシメシタマフモノナラシトオモホシメセバウケタマハリヨロコビウケタマハリ》」とあるによつてゐる。歴代天皇の神靈が御助力下さつて。○遠代爾可可里之許登乎《トホキヨニナカリシコトヲ》――舊本のままならばトホキヨニカカリシコトヲで、遠き代にもかくありし事をの意。かくの如き珍らしい祥瑞が上代もあつたといふのであらう。續紀、文武天皇三年十二月幸卯、令d2對馬島1冶c金鑛u」とあり、「大寶元年戊子、遣2追大肆|凡海《オフシアマ》宿禰麁鎌于陸奥1冶v金。甲牛、對馬嶋貢v金、建v元、爲2大寶元年1」とあつて、大寶改元の理由は對馬の國から金を貢したことによることがわかる。なほ、「八月丁未先v是、遣2大倭國忍海郡人三田首五瀬於對馬島1、冶2成黄金1、至v是詔授2五瀬正六位上1賜2封五十戸、田十町、并※[糸+施の旁]綿布鍬1、仍免2雜戸之名1、對馬嶋司及郡司主典已上進2位一階1、其出v金郡司者二階、獲v金人家部宮道授2正八位上1并賜2※[糸+施の旁]綿布鍬1、復2其戸終身百姓三年1、又贈右大臣大伴宿禰御行|首《ハジメ》遣2五瀬1冶v金、因賜2大臣(ノ)子封百戸田四十町1註年代暦日、於v後五瀬之詐欺發露、知d贈右大臣爲2五瀬1所u誤也」とあつて、右大臣大伴御行を始め、朝廷も五瀬の詐僞にかかつたことが記されてゐる。これによると五瀬の不正行爲であつたことは、家持も承知してゐたであらうし、文武天皇の御代を遠き代といふのは、聊か當らぬ感がないでもなく、又詔詞にも、黄金は人の國より献ることはあれども、この國には無き物と念ほしつるに、と仰せられてゐるのだから、略解に可可を奈可に改めて、ナ(376)カリシコトヲと訓んだのが、穩やかなのではあるまいか。上代にも無かつたことを。但しこの前後の數句は詔詞の夜日畏恐麻利所念天下撫惠賜事理坐君御代可在物多豆何奈伎朕時示賜禮波美奈母《ヨルヒルカシコマリオモホセバアメノシタヲナデメグビタマフコトコトワリニイマスキミノミヨニアタリテアベキモノヲヲシナクタヅガナキワガトキニアラハシシメシタマハレバカタジケナミハヅカシミナモオモホス》」とあるに當つてゐて、ナカリシコトヲではそれと一致せぬやうであるが、舊本のやうにカカリシユトヲとしても、やはり詔詞の文とは合はないから、ここは作者の考で、ナカリシコトヲとしたものと見るべきであらう。○御食國波《ミヲスクニハ》――御支配遊ばす國は。天皇の支配し給ふことをヲスといふ。元暦校本のみは御の字がない。○可牟奈我良《カムナガラ》――神隨。神そのままのお方。聖武天皇を指し奉る。○毛能乃布能八十伴雄乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》――朝廷奉仕の役人の多くの部屬の長を。○麻都呂倍乃牟氣乃麻爾麻爾《マツロヘノムケノマニマニ》――マツロヘは服從せしめること。ムケは歸服せしめること。即ち服從せしめ歸服せしめるままに。○女童兒毛《ヲミナワラハモ》――略解・古義はメノワラハコモとよんでゐるが、代匠記精撰本に、「今按、ヲミナワラハモと讀て、老たる人も女も童《ワラハベ》もと意得べし」とあるのがよいであらう。○之我願《シガネガフ》――それが願ふ。シガは其が。老人・女・童を指す。○心太良比爾《ココロタラヒニ》――心が滿足するやうに。○治賜婆《ヲサメタマヘバ》――ヲサメは處置をつける。きまりをつける。○許己乎之母《ココヲシモ》――この點がさあ。シモは強めていふ辭。○宇禮之家久伊余與於母比弖《ウレシケクイヨヨオモヒテ》――愈同嬉しく思つて。ここは詔詞中に大伴・佐伯兩氏のことを褒め給うたので、それに欣喜抃舞して、大件氏祖先の勲功と家訓とを述べるのである。なほこの句から遙かに句を距てて、伊夜多弖於毛比之麻左流《イヤタテオモヒシマサル》に續いてゐる。○大伴能遠都神祖乃《オホトモノトホツカムオヤノ》――大伴氏の遠い先祖の。○其名乎婆大來目主登於比母知弖《ソノナヲバオホクメヌシトオヒモチテ》――その名を大久米主と言つて。大伴氏の先祖は天孫降臨に際して護衛として扈從した神、天忍日命である。それは古事記に「故爾大忍日命天津久米命二人《カレココニアメノオシヒノミコトアマツクメノミコトフタリ》、……故其天忍日命此者大伴連等之祖《カレソノアメノオシヒノミコトコハオホトモノムラジラガオヤ》、天津久米命《アマツクメノミコト》、此者久米直等之祖也《コハクメノアタヘラガオヤナリ》」とあり、又神武天皇の條には、「爾大伴連等之祖道臣命久米直等之祖大久米命二人《ココニオホトモノムラジラガオヤミチノオミノミコトクメノアタヘラガオヤオホクメノミコトフタリ》」とあり、道臣命が大伴氏の先祖となつてゐる。道臣命は言ふまでもなく天忍日命の裔で、系圖によれば、その三世の孫になつてゐる。即ち久米直と大伴連とは別系で、大伴氏には久米といふ名の祖先は無いのであるが、ここに大久米主と負ひ持ちてとあるのは、天孫降臨から、神武天皇の頃は、後世の近衛兵に當る軍隊を久米部と稱したことは、古事記に美都美都斯久米能古《ミツミツシクメノコ》と詠まれた歌の多いのでも明らかで、道臣命はそ(377)の軍團の統帥者であつたから、大久米主と言はれたのである。なほ卷二十の喩族歌にも、於保久米能麻須良多祁乎々佐吉爾多弖由伎登利母多之《オホクメノマスラタケヲヲサキニタテユギトリモタシ》(四四六五)とある。○都加倍之官《ツカヘシツカサ》――奉仕した官で。○美都久屍《ミツクカバネ》――水に漬る屍。海中で死んで屍を其處に止めることをいふ。○草牟須屍《クサムスカバネ》――草の生える屍。山で討死して死骸となつて横はるをいふ。○敝爾許曾死米《ヘニコソシナメ》――へは邊《ホトリ》。天皇の御馬前で討死しようといふのだ。○可敝里見波勢自等許等太弖《カヘリミハセジトコトダテ》――後を振り返つて、躊躇はすまいと、特に立てて誓言すること。古義に異立と解釋してゐる通りであらう。この歌は書紀仁徳天皇御製に、干磨臂苔能多菟屡虚等太※[氏/一]于磋由豆流多由磨菟餓務珥奈羅倍※[氏/一]毛餓望《ウマヒトノタツルコトダテウサユヅルタユマツガムニナラベテモガモ》とあり、初二句は貴人の立つる異立即ち貴人の特に立てる誓言の意である。これらは言立とも見られるが、古事記の仁徳天皇の條に、「言立者足母阿賀迦爾嫉妬《コトタテバアシモアガカニネタミタマフ》」などは異に目立つことがあるとの意であるから、異立と見なければならない。なほ卷二十にも都加倍久流於夜者都加佐等許等太弖々佐豆氣多麻敝流《ツカヘクルオヤノツカサトコトダテテサヅケタマヘル》(四四六五)とある。舊本、太を大に誤つてある。西本願寺本によつて改む。なほ、この文は、詔詞に、「又大伴佐伯宿祢云如天皇朝守仕奉事顧奈伎人等阿禮多知乃止母乃云來海行豆久屍山行牟須屍王爾去曾能杼爾波不死云來人等止奈母聞召《オホトモサヘキノスクネハツネモイフゴトクスメラガミカドマモリツカヘマツルコトカヘリミナキヒトドモニアレバイマシタチノオヤドモノイヒクラクウミユカバミヅクカバネヤマユカバクサムスカバネオホキミノヘニコソシナメノドニハシナジトイヒクルヒトドモトナモキコシメス》」とあるのに當つてゐる。○伊麻乃乎追通爾《イマノヲツツニ》――今の現在に。ウツツに同じ。○奈我佐敝流《ナガサヘル》――流セルに同じ。名を傳へることを流すといふのは。竹取物語にも「汝等君のつかひと名を流しつ」とある。○於夜能子等毛曾《オヤノコトモゾ》――先祖の子孫ぞ。○大伴等佐伯氏者《オホトモトサヘキノウヂハ》――大伴氏と佐伯氏とはと言ふべきを、下のトを省いてゐる。大伴氏は前述の如く天忍日命・道臣命の裔で、代々武事に奉仕してゐた。雄略天皇の朝、室屋(ノ)大連が奏上して、宮門護衛の重任は一身には堪へかぬるから、兒の談と共に左右を衛りたいと申したので、勅許あり、爾來、大伴氏と、談の子孫たる佐伯氏とが相並んで宮門の衛に奉仕することになつた。即ち佐伯氏は大伴氏の分家である。續紀、寶字元年七月の皇太后の詔に、「又大伴佐伯宿禰等自遠天皇御世内爲而仕奉來《マタオホトモサヘキノスクネタチハトホスメロギノミヨヨリウチノイクサトシテツカヘマツリキ》。」又同月、奈良麻呂の言葉の中に、「大伴佐伯之族、此擧(ニ)前將(タラバ)無(ケム)v敵」とある。○人祖乃《ヒトノオヤノ》――人ノは添へて言ふのみ。次の、人古者の人ノも同じ。○立流辞立《タツルコトダテ》――立てた家訓に。立つるとあるが立てつるの意である。○人子者《ヒトノコハ》――これ以下|麻都呂布物能《マツロフモノ》までは家訓の言葉である。○祖名不絶《オヤノナタタズ》――先祖の美名を絶やさず、語り傳(378)へて。○許等能都可佐曾《コトノツカサゾ》――異の官ぞ。他と異なつた官職ぞ。○安佐麻毛利由布能麻毛利爾《アサマモリユフノマモリニ》――朝の守、夕の守に。大伴佐伯の兩氏が宮門を護衛することは前に述べた通りである。○和禮乎於吉弖比等波安良自等《ワレヲオキテマタヒトハアラジト》――卷五に安禮乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰《アレヲオキテヒトハアラジトホコロヘド》(八九二)とあるに同じ。○伊夜多弖《イヤタテ》――彌立。いよいよ明らかに言ひ立てて。代匠記精撰本に、テが二つあつたのを一つ脱したのかと言つてゐるが、さうではあるまい。古義に上の等をこの句に附けて、等伊夜多弖《トイヤタテ》と訓んだのは變である。○於毛比之麻佐流《オモヒシマサル》――思ひが増さる。いよいよ覺悟が加はつて來る。益々發憤せられる。○御言能左吉乃《ミコトノサキノ》――御言の幸は今回の詔詞の臣下に幸を與へ給ふこと。これは詔詞に大伴佐伯宿禰を褒め稱へ給うて、「男女并 ※[氏/一]一二治賜 夫《ヲノコメノコアハセテヒトリフタリヲサメタマフ》」と宜ひ、位階昇叙の御沙汰があつたのである。その時、家持も從五位下から從五位上に昇進した。この句の下に一云乎とあるのは御言能左吉乎《ミコトノサキヲ》とある異傳を記したもので、サキノならば幸がの意、サキヲならば幸を聞けばと續く形である。いづれも大差はない。○一云|貴久之安禮婆《タフトクシアレバ》――貴くあるから。この異傳は、御言能左吉乃《ミコトノサキノ》からでなくてはつづかない。
〔評〕 先づ天孫のことより説き起して、歴代皇室の御繁榮を記し、轉じて今上天皇の大佛造營のことに説き及ぼし、黄金の缺乏によつて宸襟を惱まし給うたが、はからずも陸奥に黄金が出たので、非常な御滿悦であらせられると述べ、それに就いて發布せられた詔詞の中に、大伴・佐伯二氏の家訓として語り傳へた、「海行かば云々」の句に言及し給うたので、彼は狂喜抃舞して、自己の武人としての覺悟を語り、併せて今回大伴佐伯兩家の者が、位階昇叙の恩惠に浴し、彼自身も亦昇進したことを感激してゐる。三十歳にして漸く越中の國守として在任することが出來た彼は、父祖に比較して自己の地位が、あまりに見すぼらしいことに不滿を抱いてゐたであらうから、この詔詞の御言葉に、氏の家訓とするところを引用せられてあるのは、彼をどんなに感激せしめたかわからない。恐らく彼は、この詔詞の文を奉持して、暫らく感涙に咽んだであらうと思はれる。この感激の中に筆を取つて綴つたのが、この長歌と反歌とであるから、前にあつた山海の風光を詠じたもの、放逸の鷹や霍公鳥を歌つたものなどとは異なつて、かなり力強く緊張してゐる。東大寺大佛造營に關聯した作品として、文化史的にも貴重な資料である。
 
(379)反歌三首
 
4095 益荒雄の 心思ほゆ 大君の 御言の幸を 一云、の 聞けば貴み 一云、貴くしあれば
 
大夫能《マスラヲノ》 許已呂於毛保由《ココロオモホユ》 於保伎美能《オホキミノ》 美許登乃佐吉乎《ミコトノサキヲ》【一云能】 聞者多布刀美《キケバタフトミ》
 
天子樣ガ我等ニ〔三字傍線〕幸ヲ御與ヘ下サル有リガタイ〔五字傍線〕御言葉ヲ承ルト、畏イノデ、愈々大丈夫ノ心ガ、胸ニ湧クヤウナ〔七字傍線〕感ジガスル。
 
○大夫能許已呂於毛保由《マスラヲノココロオモホユ》――益荒雄としての勇猛心が胸に湧くのを感ずる。○美許登能佐吉乎《ミコトノサキヲ》――長歌の結末とこの歌の下三句とが同樣であるが、彼と此と、本傳と異傳とが反對になつてゐる。
〔評〕 初二句は詔詞に奮ひ起つた、作者の氣分も見えて、よい表現である。併し下三句は長歌と同樣で、あまりに藝が無い。
 
一云|貴久之安禮婆《タフトクシアレバ》
 
第五句の異傳であるが、第四句が一云とある方でなければ、これとは連續しない。
 
4096 大伴の 遠つ神祖の 奧津城は しるく標《しめ》立て 人の知るべく 著く標立て 人の知るべく
 
大伴乃《オホトモノ》 等保追可牟於夜能《トホツカムオヤノ》 於久都奇波《オクツキハ》 之流久之米多弖《シルクシメタテ》 比等能之流倍久《ヒトノシルベク》
 
(380)大伴氏ノ遠イ昔ノ〔二字傍線〕神祖ノ墓處ハ、人ガ知ルヤウニ他ノ墓トハ違ツテ〔八字傍線〕、著シク標ヲ立テナサイヨ。サウシテ大伴氏ガ他ノ氏ト違ツタ立派ナ家柄デアルコトヲ世間ニ知ラセテヤラウ〔サウ〜傍線〕。
 
○大伴能等保追可牟於夜能《オホトモノトホツカムオヤノ》――長歌の中にあるやうに、大伴氏の遠祖は大久米主命で、主として道臣命を指してゐるやうだ。○於久都奇波《オクツキハ》――奥つ城は。墓は。卷三に奧槨乎《オクツキヲ》(四三一)とある。道臣命の墓は今明らかでない。○之流久之米多底《シルクシメタテ》――著く標を立てよの意。はつきりと見分けがつくやうに、標識を立てよといふのである。シメは占有の標として設けた、標識・繩張の如きもの。タテは命令になつてゐる。古形である。
〔評〕 大伴氏が他と異なつた家柄であることを、この際世人に知らしめる爲に、先祖の墓所に標識を立てて、一見明瞭ならしめよといふのである。家持が詔詞中の御言葉に感激して、得意になつてゐる姿が目前に見えるやうだ。
 
4097 すめろぎの 御代榮えむと 東なる みちのく山に 黄金花咲く
 
須賣呂伎能《スメロギノ》 御代佐可延牟等《ミヨサカエムト》 阿頭麻奈流《アヅマナル》 美知乃久夜麻爾《ミチノクヤマニ》 金花佐久《クガネハナサク》
 
今上陛下ノ御代ガ榮ニルヤウニトテ、東國ノ陸奥ノ山ニ、黄金ノ花ガ咲イタ。陸奥ノ小田ニアル山カラ金ガ出タノハ、今ノ大御代ガ榮エル兆デ、オメデタイコトダ〔陸奥〜傍線〕。
 
○須賣呂伎能《スメロギノ》――このスメロギは今上天皇を指し奉る。○美知能久夜麻爾《ミチノクヤマニ》――長歌に美知能久乃小田在山爾《ミチノクノヲダナルヤマニ》とある山である。○金花佐久《クガネハナサク》――金はコガネでもよいのであるが、長歌に久我禰《クガネ》とあるから、ここもクガネと訓むがよからう。金が出たことを金が花咲いたと美しくいつたのである。金華山の名は恐らく、この歌に出たものであらうが、今の金華山から金が出たと考へるのは誤である。
(381)〔評〕 金の出たことを慶賀し、御代をことほいでゐる。黄金の燦爛たる光輝を花に譬へて、黄金花咲くといつたのは、作者の創意で、面白く出來てゐる。
 
天平感寶元年五月十二日、於(テ)2越中國守舘(ニ)1大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
陸奧から黄金を出したことを喜び給うて、四月丁未(十四日)東大寺に行幸あり、大臣以下、百官士庶が行列した。この日天平二十一年を改めて天平感寶元年とせられた。家持は越中にあつてその通告に接し、ありがたき詔詞と、自己の昇進の辭令とを拜受して、この歌を作つたのである。
 
爲(ニ)d幸2行芳野離宮(ニ)1之時(ノ)u儲(テ)作(レル)歌一首并短歌
 
幸行は行幸に同じ。儲作はあらかじめ用意して作り置くをいふ。
 
4098 高御座 天の日嗣と 天の下 知らしめしける すめろぎの 神の命の 畏くも 始め給ひて 貴くも 定め給へる み吉野の この大宮に 在り通ひ めし給ふらし もののふの 八十伴の雄も おのが負へる おのが名負ひ 大君の 任けのまくまく この河の 絶ゆることなく この山の 彌つぎつぎに 斯くしこそ 仕へまつらめ いや遠永に
 
多可美久良《タカミクラ》 安麻乃日嗣等《アマノヒツギト》 天下《アメノシタ》 志良之賣師家類《シラシメシケル》 須賣呂伎乃《スメロギノ》 可未能美許等能《カミノミコトノ》 可之古久母《カシコクモ》 波自米多麻比弖《ハジメタマヒテ》 多不刀久母《タフトクモ》 左太米多麻敝流《サダメタマヘル》 美與之努能《ミヨシヌノ》 許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 賣之多麻布良之《メシタマフラシ》 毛能乃敷能《モノノフノ》 夜蘇等母能乎毛《ヤソトモノヲモ》 於能我於敝流《オノガオヘル》 於能我名負弖《オノガナオヒ》 大王乃《オホキミノ》 麻氣能麻久麻久《マケノマクマク》 此河能《コノカハノ》 多由流許等奈久《タユルコトナク》 此山能《コノヤマノ》 伊夜都藝都藝爾《イヤツギツギニ》 可久之許曾《カクシコソ》 都可倍麻都良米《ツカヘマツラメ》 伊夜等保奈我爾《イヤトホナガニ》
 
(382)高御座ニオ上リナサレ〔七字傍線〕、天ノ日繼トシテ、天下ヲ御支配ニナツタ昔ノ〔二字傍線〕天子樣ノ神樣ガ、恐レ多クモオ始メニナツテ、尊クモオ定メニナツタ、吉野ノ此ノ大宮ニ、天子樣ハ〔四字傍線〕絶エズカウシテ行幸遊バシテ、吉野ノ景色ヲ〔六字傍線〕御覽ナサルノデアラウ。又役人ノ澤山ノ輩ノ長ドモモ、各々ソノ先祖カラ受ケ繼イデ〔各々〜傍線〕、持ツテヰル家ノ職名ヲ持ツテ、天子樣ノ御委任ニ從ツテ御奉公申シ上ゲ〔七字傍線〕、コノ吉野〔二字傍線〕川ノ水ガ絶エナイ〔六字傍線〕ヤウニ、何時マデモ〔五字傍線〕絶エルコトナク、コノ吉野〔二字傍線〕山ガ讀イテ連ナツテヰル〔ガ續〜傍線〕ヤウニ、彌々相受ケテ、子々孫々〔四字傍線〕カウシテ,彌々遠ク永ク、御奉公申シマセウ。
 
○多可美久艮安麻能日嗣等《タカミクラアマノヒツギト》――既出(四〇八九)。○可之古久母波自米多麻比弖《カシコクモハジメタマヒテ》――吉野の宮を造り始め給うたことをいつてゐる。書紀に、應神天皇の十九年冬十月戊戍朔に吉野宮に幸のことが見えてゐる。○安里我欲比賣之多麻布艮之《アリガヨヒメシタマフラシ》――絶えずかうしてお通ひになつて、御覺遊ばすらしい。メシは見の敬語である。略解に「ありがよひは其繼々の天皇の幸し給へるを言ふ」とあるが、さうではなく、今上天皇について申してゐるのである。○於能我於敝流於能我名負名負《オノガオヘルオノガナオヒ》――舊訓オノガオヘルオノガナニナニとあるのではわからない。代匠記初稿本は「負の字日本紀にトルとよみたれば、オノガナトリテとよみて、今ひとつの名負は衍文にや」とし、同精撰本は、「オノガナオヒナオヒと讀べし」と言つてゐる。略解の宣長説は「名負弖と有しをかく誤れるならむ。先祖より負へる家の職を負てと言ふ也」といひ、古義は上の負の字を削つて、オノガナナオヒと訓んでゐる。名負の二字を衍として、オノガオヘルオノガナオヒとすべきであらう。多分、下に麻久麻久とあるに釣られて、名負名負と寫しひがめたのではあるまいか。○麻氣能麻久麻久《マケノマクマク》――考は久を爾の誤として、マニマニと訓んでゐる。ここの意はマニマニと同じであらうが、卷十三に行莫莫《ユキノマクマク》(三二七二)とあるに傚つて、原字を尊重するがよい。○此山能伊夜都藝都藝爾《コノヤマノイヤツギツギニ》――この山の如く彌繼々に。山が並び續いてゐるのに譬へて、繼々と言つたのである。
〔評」 冒頭は人麻呂式叙法にならつてゐる。末段も人麻呂の卷一の長歌に此川乃絶事奈久《コノカハノタユルコトナク》、此山乃彌高良之《コノヤマノイヤタカカラ》(三六)樛木乃彌繼嗣爾《ツガノキノイヤツギツギニ》(二九)などに似た點があつて、稽古の作品としてはよいかも知れないが、如何にも彼の創意のな(383)いことを示してゐる。又かういふ内容のものを、豫め儲けて作つて置くといふのも、徒事の感がある、古義には「儲作と云こと、集中に往々《トコロドコロ》見えたり、其(ノ)藝のたしなみあさからざりしことを、思ひやるべし」といつて褒めてゐるが、予は作者の爲に惜しむものである。
 
反歌
4099 いにしへを 思ほすらしも) わご大君 吉野の宮を 在り通ひめす
 
伊爾之敝乎《イニシヘヲ》 於母保須良之母《オモホスラシモ》 和期於保伎美《ワゴオホキミ》 余思努乃美夜乎《ヨシヌノミヤヲ》 安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》
 
昔此處ニ離宮ガ出來タ時ノコト〔此處〜傍線〕ヲ思召スラシイヨ。吾ガ天皇陛下ガ、吉野ノ宮ニ絶エズカウシテオ通ヒニナツテ、景色ヲ〔三字傍線〕御覽遊バシマス。本ヲ忘レ給ハヌ大御心ガオソレ多イ〔本ヲ〜傍線〕。
 
○伊爾之敝乎《イニシヘヲ》――古とは吉野離宮の創設せられた當時を指す。○安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》――長歌中の安里我欲比賣之多麻布良之《アリガヨヒメシタマフラシ》を斷定的に言つたもの。
〔評〕 長歌の前半を一首に纒めたに過ぎない。
 
4100 もののふの 八十氏人も 吉野河 絶ゆることなく 仕へつつ見む
 
物能乃布能《モノノフノ》 夜蘇氏人毛《ヤソウジビトモ》 與之努河波《ヨシヌガハ》 多由流許等奈久《タユルコトナク》 都可倍追通見牟《ツカヘツツミム》
 
役人ノ多クノ氏ノ人々モ、コノ〔二字傍線〕吉野川ノ水〔二字傍線〕ガ絶エナイヤウニ、何時マデモ〔五字傍線〕絶エズニ御奉公シテ、コノヨイ景色(384)ヲ〔七字傍線〕眺メヨウ。
〔評〕 これも長歌の後半を一首にまとめたもの。つまらぬ作品といつてよからう。
 
爲(ニ)v贈(ル)2京(ノ)家(ニ)1願(フ)2眞珠(ヲ)1哥一首并短歌
 
京家は都なる吾が家。眞珠は和名抄に「日本紀私記云、眞珠、之良太麻」とあり、鰒玉《アハビダマ》とも稱するもの。即ち今の眞珠である。允恭天皇紀、十四年秋九月の條に、天皇淡路に獵し給うて、海人|男狹磯《ヲサシ》をして海底を捜らしめて、鰒の腹中から、大さ桃子の如くなる眞珠を得られたことが記してある。
 
4101 珠洲の海人の 沖つ御神に い渡りて 潜き採るといふ 鰒珠 五百ちもがも はしきよし 妻の命の 衣手の 別れし時よ ぬば玉の 夜床片さり 朝寢髪 掻きもけづらず 出でて來し 月日よみつつ 歎くらむ 心なぐさに ほととぎす 來鳴く五月の 菖蒲草 花橘に 貫きまじへ 蘰にせよと 包みて遣らむ
 
珠洲乃安麻能《スズノアマノ》 於伎都美可未爾《オキツミカミニ》 伊和多利弖《イワタリテ》 可都伎等流登伊布《カヅキトルトイフ》 安波妣多麻《アハビタマ》 伊保知毛我母《イホチモガモ》 波之吉餘之《ハシキヨシ》 都麻乃美許登能《ツマノミコトノ》 許呂毛泥乃《コロモデノ》 和可禮之等吉欲《ワカレシトキヨ》 奴婆玉乃《ヌバタマノ》 夜床加多古里《ヨドコカタサリ》 安佐禰我美《アサネガミ》 可伎母氣頭良受《カキモケヅラズ》 伊泥※[氏/一]許之《イデテコシ》 月日余美都追《ツキヒヨミツツ》 奈氣久良牟《ナゲクラム》 心奈具佐余《ココロナグサニ》 保登等藝須《ホトトギス》 伎奈久五月能《キナクサツキノ》 安夜女具佐《アヤメグサ》 波奈多知婆奈爾《ハナタチバナニ》 奴吉麻自倍《ヌキマジヘ》 可頭良爾世餘等《カヅラニセヨト》 都追美※[氏/一]夜良牟《ツツミテヤラム》
 
珠洲ノ海人ガ沖ノ島ニ渡ツテ、水ノ中ニ〔四字傍線〕潜ツテ取ルト云フ、鰒ノ珠ヲ澤山ニ欲シイモノダ。愛スル吾ガ妻ガ、私〔傍線〕ト袂ヲ分ツタ時カラ、(奴婆玉乃)夜ノ寢床ノ片方ニ身ヲ寄セテ獨デ寢テ〔四字傍線〕、朝ノ寢亂レ〔二字傍線〕髪ヲ梳リモセズ、私ガ〔二字傍線〕(385)出テ來タ以後ノ〔三字傍線〕日數ヲ數ヘツツ、歎イテヰルデアラウ其ノ〔二字傍線〕心ヲ慰メル爲ニ、郭公ガ來テ鳴ク五月ノ、菖蒲草ト花橘トニコノ眞珠ヲ〔五字傍線〕貫キ交ヘテ、頭ヲ飾ル〔四字傍線〕※[草冠/縵]ニセヨトテ、ソレヲ〔三字傍線〕包ンデ都ヘ贈ツテ〔五字傍線〕ヤラウ。
 
○珠洲乃安麻能《スズアマノ》――珠洲は能登半島の尖端で一郡をなしてゐる。ここに珠洲の海人とあるのは多分、今も鳳至郡の輪島町の一部に部落をなしてゐる海人のことであらう。この部落の人は半年の間を舳倉島に渡つて、魚介海藻の採集に從事してゐる。珠洲と鳳至とは隣り合つてゐるので、混同してかく詠んだのではあるまいか。○於伎都美可未爾《オキツミカミニ》――沖つ御神とは沖の島といふ意で、島に神を齋き祀つてゐるからである。輪島町の北方に七つ島あり、舊名を邊つ島と稱し、そこに式内の邊津比※[口+羊]神社が祀られ、更にその北方に舳倉嶋があつて、式内奥津比※[口+羊]神社が祀られてゐる。今昔物語卷二十一に、能登國の光の浦といふ處の海人が、寢屋島及び猫の島といふ島に渡つて、鮑を取ることが記されてゐるが、その記事によると、寢屋島は輪島港の沖なる七つ島で、猫島はこの舳倉島らしく思はれる。寫眞は舳倉嶋の海人。○伊和多利弖《イワタリテ》――イは接頭語。意味はない。渡つて。○安波妣多麻《アハビタマ》――鰒珠。眞珠。眞珠は鰒貝の中から出るからである。○伊保知毛我母《イホチモガモ》――イホチは五百箇。チはツと同じく、一つ・二つ、はたち・みそぢなど、ツともチともなるのである。古事記雄略天皇御製に、袁登賣能伊加久流袁加袁加那須岐母伊本知母賀母須岐波奴流母能《ヲトメノイカクルヲカヲカナスキモイホチモガモスキハヌルモノ》とある伊本知《イホチ》もこれと同じである。○許呂毛(386)泥乃和可禮之等吉欲《コロモデノワカレシトキヨ》――袂を別つた時から。○夜床加多古里《ヨトコカタコリ》――舊本は文字通りカタコリと訓んであるが、古を左の誤とした代匠記説がよい。片去りは、片方によけて。即ち寝床の半分に片寄つて寢て、半分を明けて置くをいふ。○安佐禰我美《アサネガミ》――朝の寢亂れ髪。○月日余美都追《ツキヒヨミツツ》――月日を數へつつ。○心奈具佐余《ココロナグサニ》――舊本のままならばココロナグサヨであるが、代匠記に余を爾の誤としてゐる。次の短歌に許己呂奈具左爾夜良無多米《ココロナグサニヤラムタメ》(四一〇四)とあり、卷十九にも曾許由惠爾情奈具左爾《ソコユヱニココロナグサニ》(四一八九)とある。ヨでも無理に解すれば出來ないことはないが、恐らく尓を余に誤つたものであらう。心奈具佐《ココロナグサ》は心を慰める物。○安夜女具佐波奈多知婆奈爾《アヤメグサハナタチバナニ》――菖蒲草や花橘にこの眞珠を貫き交へてとつづいてゐる。
〔評〕 京に遺して來た最愛の妻、坂上大孃に贈らむが爲に、珠洲の海人の採取する眞珠を澤山に得たいといふ歌。題材が題材だけに、優秀な作品とはなつてゐないが、妻に對する親愛の情はよくあらはれてゐる。今の舳倉島の海人の生活が、遠くこの頃からの状態を傳へてゐることは、極めて興味ある問題である。考は前後の例によれば、ここに反歌とあつたのが脱ちたのだといつて、補つてゐる。古義は反歌四首の四字を補ってゐる。
 
4102 白玉を 包みて遣らば 菖蒲草 花橘に あへも貫くがね
 
白玉乎《シラタマヲ》 都々美※[氏/一]夜良婆《ツツミテヤラバ》 安夜女具佐《アヤメグサ》 波奈多知婆奈爾《ハナタチバナニ》 安倍母奴久我禰《アヘモヌクガネ》
 
眞珠ヲ包ンデ都ノ妻ニ贈ツテ〔七字傍線〕ヤルナラバ、菖蒲草ト花橘トニ混ゼテ、貫キ通シテ弄ンデ〔六字傍線〕クレ。ソノ爲ニ眞珠ヲ贈ツテヤリタイモノダ〔ソノ〜傍線〕。
 
(387)○都都美※[氏/一]夜良婆《ツツミテヤラバ》――代匠記初稿本は波は那の誤ではないかと疑つてゐるが、卷三の大夫之弓上振起射都流矢乎後將見人者語繼金《マスラヲノユズヱフリオコシイツルヤヲノチミムヒトハカタリツグガネ》(三六四)を擧げで「此哥もおなじ躰なれば、古哥のさまにていひのこせるにや」と言つてゐる。古義は波を那に改める説に賛成してゐるが、舊のままでもさしつかへない。三六四のガネの説明參照。
〔評〕 長歌の終の部分を繰返したに過ぎない。
 
4103 沖つ島 い行き渡りて かづくちふ 鰒珠もが 包みてやらむ
 
於伎都之麻《オキツシマ》 伊由伎和多里弖《イユキワタリテ》 可豆久知布《カヅクチフ》 安波妣多麻母我《アハビタマモガ》 都々美弖夜良牟《ツツミテヤラム》
 
沖ノ島ヘ渡ツテ行ツテ、水ノ中ヘ〔四字傍線〕潜ツテ取〔三字傍線〕ルトイフ、鰒ノ玉ガアレバヨイガ、サウシタナラバソレヲ〔サウ〜傍線〕包ンデ妻ヘ贈ツテ〔五字傍線〕ヤラウ。
 
○於伎都之麻《オキツシマ》――沖の島Jこれは前に述べたやうに、今の輪島町の北三十海里にある舳倉島に違ひない。寫眞中の神社は式内奥津比※[口+羊]神社。○安波妣多麻母我《アハビタマモガ》――鰒珠が欲しい。ガは希望の助詞である。この句で切れてゐる。
〔評〕 これも長歌中の句を排列して、短歌の形式にしたもの
 
4104 吾妹子が 心なぐさに 遣らむため 沖つ島なる 白玉もがも
 
(388)和伎母故我《ワギモコガ》 許己呂奈久佐爾《ココロナグサニ》 夜良無多米《ヤラムタメ》 於伎都之麻奈流《オキツシマナル》 之良多麻母我毛《シラタマモガモ》
 
家ニ留守居シテヰル〔家ニ〜傍線〕吾ガ妻ノ心ヲ慰メニ贈ル爲ニ、沖ノ島デ取レル眞珠ガ欲シイモノダ。
 
○之良多麻母我毛《シラタマモガモ》――白玉が欲しいよ。前の歌の安波妣多麻母我《アハビタマモガ》に同じ。
〔評〕 これも長歌中の意を繰返したに過ぎない。
 
4105 白玉の 五百つ集ひを 手に結び おこせむ海人は むかしくもあるか 一云、我家むきはも
 
思良多麻能《シラタマノ》 伊保都追度比乎《イホツツドヒヲ》 手爾牟須妣《テニムスビ》 於許世牟安麻波《オコセムアマハ》 牟賀思久母安流香《ムカシクモアルカ》
 
眞珠ノ澤山ノ集リノ玉ノ緒〔四字傍線〕ヲ手ニ結ビツケテ、此處ヘ持ツテ來ルデアラウトコロノ海人ハ、懷カシイヨ。若シ海人ガ持ツテ來タナラバ、私ハソレヲ妻ニ贈ルコトガ出來ルカラ嬉シイ〔若シ〜傍線〕。
 
○伊保都都度比乎《イホツツドヒヲ》――五百箇集ひを。澤山に集めたものを。長歌に安波妣多麻伊保知《アハビタマイホチ》とあるに同じ。○手爾牟須妣《テニムスビ》――手に結んで。玉の緒となつてゐるのを、手に結びつけて持つて來るのである。○於許世牟安麻波《オコセムアマハ》――オコスはヨコスに同じ。こちらへ贈つて來るであらうところの海人は。○牟賀思久母安流香《ムカシクモアルカ》――ムカシクはオムカシク・ウムカシクニ同じ。なつかしく慕はしいことにいふ。アルカはアルカナに同じ。古義はムガシと濁音によむべしと言つてゐる。
〔評〕 初句は卷十の七夕歌に、水良玉五百都集解毛不見《シラタマノイホツツドヒヲトキモミズ》(二〇一二)とあるのを學んだか。
 
(389)一云、我家|牟伎波母《ムキハモ》
 
この一云は第五句の異傳であらうが、何と訓むべきか明らかでない。古訓にワカケムキハモとあるのではわからない。多分誤字であらう。
 
右五月十四日大伴宿禰家持依(リテ)v興(ニ)作(レリ)
 
教(ヘ)2喩(ス)史生尾張|少咋《ヲクヒヲ》1歌一首并短歌
 
史生は越中の史生である。卷十七に史生土師宿禰道良(三九五五)の名が見えた。その條參照。尾張少咋の傳は明らかでない。
 
七出例(ニ)云(フ)
 
但(シ)犯(セラバ)2一條(ヲ)1、即(チ)合(シ)v出(ス)v之(ヲ)無(クテ)2七出1輙(ク)棄(ツル)者(ハ)徒一年半
三不去(ニ)云(フ)
雖v犯(スト)2七出(ヲ)1不v合(カラ)v棄(ツ)v之(ヲ)、違(フ)者(ハ)杖一百、唯犯v※[(女/女)+干]惡疾(ハ)得v棄(ツルヲ)v之(ヲ)
兩妻(ノ)例(ニ)云(フ)
有(リ)v妾更(ニ)娶(ル)者(ハ)徒一年、女家(ハ)杖一百、離(テ)v之(ヲ)
(390)詔書(ニ)云(フ)
愍(ミ)2賜(フ)義夫節婦(ヲ)1
謹(ミテ)案(ズルニ)先(ノ)件(ノ)數條(ハ)建法之基、化道之源也、然(ラバ)則(チ)義夫之道(ハ)情存(ス)v無(キニ)v別、一家同財、豈有(ラム)2忘(レ)v舊(ヲ)愛(スル)v新(ヲ)之志1哉、所以(ニ)綴(リ)2作(シ)數行之歌(ヲ)1令(ム)v悔(イ)2棄(ツル)v舊(ヲ)之惑(ヲ)1其(ノ)詞(ニ)曰(ク)
 
○七出――令義解第二に、「凡弃v妻須v有2七出之状1、一無v子。謂雖2女子亦有1爲無v子、更取2養子1故二婬※[さんずい+失]謂淫者蕩也。※[さんずい+失]者過也。須2其※[(女/女)+干]訖1乃爲2淫※[さんずい+失]1也。三不v事2舅姑1。謂夫父曰v舅、夫母曰v姑上條云、母之昆弟曰v舅、父之姉妹曰v姑、一字兩訓隨v事通用也、四口舌。謂多言也。婦有2長舌1維※[勵の左]之階是也。五盗竊。謂雖v不v得v財亦同2盗例1也。六妬忌。謂以v色曰v妬、以v行曰v忌也。七惡疾。夫手(ツカラ)書奔(テヨ)v之。與2尊屬近親1同(ク)署(セヨ)謂尊屬近親相須、即男家女家親屬共(ニ)署也。若不(ンバ)v解(セ)v書(ヲ)畫v指(ヲ)爲(セ)v記。」とある。○合v出v之――合は當に同じく、マサニ……スベシと訓むのである。○三不去――令義解に「雖v有2弃状1有2三不1v去。一(ニハ)經v持《タスクルコトヲ》2舅姑之喪1謂持猶2扶持1也二(ニハ)娶時賤後(ニ)貴(キ)謂依v律、稱v貴者、皆據2三位以上1、其五位以上即爲2通貴1、但此條曰v貴者、直謂2娶時貧苦下賤、弃日官位可1v稱而已、不2必五位以上1也、三(ニハ)有(テ)v所v受(クル)、無(キ)v所v歸(ス)。謂無2主婚之人1、是爲v無v所v歸、言不v窮也即犯2義絶淫※[さんずい+失]惡疾(ヲ)1不(レ)v拘(ラ)2此令(ニ)1。」とある。ここは三不去例云とありさうなところである。○詔書云――ここに詔書とあるのは、何時の代のものなるか明らかでない。代匠記には元明天皇紀の、和銅七年六月二十八日の大赦詔書に、「孝子順孫義夫節婦表2其門閭1終v身勿v事」とある詔だといつてゐるが、さうとも定め難い。○情存v無v別1――一家の者を同樣に愛するにある。○一家同財――新考に一家同躰の誤だらうといつてゐる。
 
4106 大己貴 少彦名の 神代より 言ひ繼ぎけらし 父母を 見れば尊く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世のことわりと かく樣に 言ひけるものを 世の人の 立つること立 ちさの花 咲ける盛に はしきよし その妻の兒と 朝よひに 笑みみ笑まずも うち歎き 語りけまくは とこしへに 斯くしもあらめや 天地の 神こと依せて 春花の 盛もあらむと 待たしけむ 時の盛ぞ さかり居て 嘆かす妹が 何時しかも 使の來むと 待たすらむ 心さぶしく 南吹き 雪消まさりて 射水河 流る水沫》の よるべなみ さぶるその兒に 紐の緒の いつがり合ひて 鳰鳥の 二人ならびゐ 奈呉の海の 沖を深めて さどはせる 君が心の 術もすべなさ
 
(391) 於保奈牟知《オホナムチ》 須久奈比古奈野《スイクナヒコナノ》 神代欲里《カミヨヨリ》 伊比都藝家良久《イヒツギケラシ》 父母乎《チチハハヲ》 見波多布刀久《ミレバタフトク》 妻子見波《メコミレバ》 可奈之久米具之《カナシクメグシ》 宇都世美能《ウツセミノ》 余乃許等和利止《ヨノコトワリト》 可久佐末爾《カクサマニ》 伊比家流物能乎《イヒケルモノヲ》 世人能《ヨノヒトノ》 多都流許等太弖《タツルコトダテ》 知左能花《チサノハナ》 佐家流沙加利爾《サケルサカリニ》 波之吉余之《ハシキヨシ》 曾能都末能古等《ソノツマノコト》 安沙余比爾《アサヨヒニ》 惠美々惠末須毛《ヱミミヱマズモ》 宇知奈氣支《ウチナゲキ》 可多里家末久波《カタリケマクハ》 等己之部爾《トコシヘニ》 可久之母安良米也《カクシモアラメヤ》 天地能《アメツチノ》 可未許等余勢天《カミコトヨセテ》 春花能《ハルハナノ》 佐可里裳安良牟等《サカリモアラムト》 末多之家牟《マタシケム》 等吉能沙加利曾《トキノサカリゾ》 波居弖《サカリヰテ》 奈介可須移母我《ナゲカスイモガ》 何時可毛《イツシカモ》 都可比能許牟等《ツカヒノコムト》 末多須良無《マタスラム》 心左夫之苦《ココロサブシク》 南吹《ミナミフキ》 雪消益而《ユキゲマサリテ》 射水河《イミヅガハ》 流水沫能《ナガルミナワノ》 余留弊奈美《ヨルベナミ》 左夫流其兒爾《サブルソノコニ》 比毛能緒能《ヒモノヲノ》 移都我利安比弖《イツガリアヒテ》 爾保騰里能《ニホドリノ》 布多理雙坐《フタリナラビヰ》 那呉能宇美能《ナゴノウミノ》 於支乎布可米天《オキヲフカメテ》 左度波世流《サドハセル》 支美我許己呂能《キミガココロノ》 須敝母須敝奈佐《スベモスベナサ》
 
言2佐夫流1者遊行女婦之字也
 
大已貴神少彦名ノ神ノ神代カラ言ヒ傳ヘテ來タラシイ、父母ヲ見ルト尊ク、妻子ヲ見ルト可愛ク、イトシイ。コレガ〔三字傍線〕(宇都世美能)世ノ道理デアル〔三字傍線〕ト、斯樣ニ言ツテ來タモノヲ、世ノ人ノオマヘ〔四字傍線〕ガ、曾テ〔二字傍線〕特別ニ約束シテ(392)知左ノ花ガ咲イテヰル盛ノ時〔二字傍線〕ニ、愛ラシイ其ノ妻ト、朝晩ニ笑ツタリ、笑ハナカツタリシテ、嘆息シテ語ツタコトハ、永久ニカウシテ貧乏デ〔三字傍線〕ヰヨウヤ。ソノ内ニハ何トカナルダラウ〔ソノ〜傍線〕。天地ノ神樣ガオ任セ下サツテ(春花能)盛リナ幸福ナ時〔五字傍線〕モアルデアラウト云ツテ〔四字傍線〕待ツテヰタデアラウトコロノ其ノ今ガ別〔八字傍線〕盛リノ時ダゾ。オマヘハ今越中ノ史生ニ就職シテ幸福ナ時ダ。サウシテ越中ト都トニ〔オマ〜傍線〕離レテヰテ、歎イテヰラレル妻ガ、何時ニナツタラ、オマヘノ〔四字傍線〕使ガ來ルダラウト待ツテヰルデアラウソノ〔二字傍線〕心ガツマラナイノニ妻ヲ慰メルコトモセズニ〔ノニ〜傍線〕、(南吹雪消益而射水河流水沫能)タヨル所ガナイノデ、浮カレテアルク遊行女婦ノ〔五字傍線〕左夫流ト云フソノ女ニ、(比毛能緒能)乳繰リ合ツテ、(爾保騰里能)二人並ンデヰテ、(那呉能宇美能於伎乎)深ク迷ツテヰルオマヘノ心ハ、何トモ仕方ガナイヨ。アンナ女ニ溺レルトハ全ク困ツタ人ダ〔アン〜傍線〕。
 
○於保奈牟知須久奈比古奈野《オホナムヂスクナヒコナノ》――大已貴少彦名の。この二神を、國土の最古の神として併稱してゐる例は、卷六・卷三に大汝少彦名乃《オホナムヂスクナヒコナノ》(三五五)・大汝少彦名能《オホナムヂスクナヒコナノ》(九六三)、卷七に大穴道少御神《オホナムヂスクナミカミノ》(一二四七)の如き例がある。ここに野をノの假名に用ゐたのに注意したい。○伊比都藝家良之《イヒヅギケラシ》――之《シ》は元暦校本に久《ク》とも記してあるが、このままでよからう。○可奈之久米具之《カナシクメグシ》――愛らしく、いとしい。父母乎《チチハハヲ》以下の六句は卷五の父母乎美禮婆多布斗斯妻子美禮婆米具斯宇都久志余能奈迦波加久叙許等和埋《チチハハヲミレバタフトシメコミレバメグシウツクシヨノナカハカクゾコトワリ》(八〇〇)に傚つたものである。○可久佐末爾《カクザマニ》――斯樣に。宇都世美能《ウツセミノ》以下の四句は卷十五に與能奈可能都年能己等和利可久左麻爾奈里伎爾家良之須惠之多禰吋良《ヨノナカノツネノコトワリカクサマニナリキニケラシスヱシタネカラ》(三七六一)に似てゐる。○世人能多都流許等太弖《ヨノヒトノタツルコトダテ》――世の人の特別に約束した言葉に。世の人は尾張少咋を指してゐる。舊本大とあるは元暦校本その他太に作るのがよい。○知左能花《チサノハナ》―知佐《チサ》は卷七に山治左能花爾香君之《ヤマチサノハナニカキミガ》(一三六〇)とある山治左と同じ、エゴノ木のこと。夏の頃白い小花が叢り咲く樣は美しい。○波之吉余之《ハシキヨシ》――愛しきよし。愛らしい。○曾能都末能古等《ソノツマノコト》――妻の兒は妻を親しんで言ふ詞。○惠美々惠末須毛《ヱミミヱマズモ》――笑つたり笑はなかつたりしても。ヱミミに對してヱマズミといふべきであるが、ミを省いてモを添へてゐる。○可多里家末久波《カタリケマクハ》――語りけむはに同(393)じ。○可久之母安良米也《カクシモアラメヤ》――斯くあらむや。こんなに貧乏ではあるまい。○天地能可未許等余勢天《アメツチノカミコトヨセテ》――天の神地の神が任せ給うて。卷四に神祇辞因《カミコトヨセテ》(五四六)とある。○春花能《ハルハナノ》――枕詞。盛りとつづく。○佐可里裳安良牟等末多之家牟《サカリモアラムトマタシケム》――舊本に佐可里裳安良多之家牟《サカリモアラタシケム》とあるが、京都帝大本によつて改む。代匠記精撰本は官本によつてかう改めてゐる。幸福な時期が來るだらうと待つてゐられたであらうところの。○等吉能沙加利曾《トキノサカリゾ》――時の盛りぞ。今こそその幸福が廻つて來た時だ。少咋が史生として就職したことを指してゐる。宣長は曾を乎の誤だらうと言つてゐる。○波居弖《サカリヰテ》――舊訓ナミヲリテとあるのではわからない。波は放の誤とした考に從つて訓むことにした。代匠記初稿本に、波を彼の誤としてヲチニヰテ、同精撰本波の下、奈禮を脱として、ハナレヰテとしてゐる。新訓は波奈利居弖と改めてハナリヰテと訓んでゐるが、この歌にはかなり意字を多く用ゐてあるから、波を放とするのも強ち不合理ではあるまい。妻が遠く故郷にゐることを言つたのである。○都可比能許牟等《ツカヒノコムト》――夫から使が來るであらうかと。○末多須良無心左夫之苦《マタスラムココロサブシク》――卷十七に思多呉非爾伊都可聞許武等麻多須良武情左夫之苦《シタゴヒニイツカモコムトマタスラムココロサブシク》(三九六二)とあるに同じ。マタスは待たす。待つの敬語。サブシは心の樂しまざるをいふ。○南吹《ミナミフキ》――南風が吹いて。○雪消益而《ユキゲマサリテ》――略解は益を溢の誤として、ユキゲハフリテとしてゐる。下の射水河雪消溢而《イミヅガハユキゲハフリテ》(四一一六)に傚つたのであるが、やはり文字通りに訓むべきであらう。○流水沫能《ナガルミナワノ》――流れる水の沫の如く。ナガルはナガルルの古格、南吹からここまでの四句はヨルベナミと言はむ爲の序詞。○余留弊奈美《ヨルベナミ》――寄る邊がないので。○左夫流其兒爾《サブルソノコニ》――サブルは浮かれ歩く意の動詞で、ここでは終の註にあるやうに、やがて遊行女婦の名となつてゐる。浮かれるところの左夫流といふ其の女にといふ意である。○比毛能緒能《ヒモノヲ/》――紐の緒の。枕詞。移都我利《イツガリ》とつづく。紐で、袋の口などを鎖のやうに綴ぢつなぐ意である。○移都我利安比弖《イツガリアヒテ》――イは接頭語。ツガリはツガルといふ動詞。鎖る。繋る。卷九に紐兒爾伊都我里座者革流波吾家《ヒモノコニイツガリヲレバカハルハワギヘ》(一七六七)とある。○爾保騰里能《ニホトリノ》――枕詞。二人並び居とつづく。○那呉能宇美能於伎乎布可米天《ナゴノウミノオキヲフカメテ》――那呉能宇美能於伎乎《ナゴノウミノオキヲ》は布可米天《フカメテ》と言はむ爲の序詞。卷十六の猪名川之奧乎深目而吾念有來《ヰナガハノオキヲフカメテワガモヘリケル》(三八〇四)と同型。舊本、呉を具に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。○左度波世流《サドハセル》――サドフは惑ふ。惑つてゐられる。○須敝母須弊奈佐《スベモスベナサ》――術も術なさ。術を(394)重ねモを間に置いて、強く言ひあらはしてゐる。卷五に伊毛我己許呂乃須別毛須別那左《イモガココロノスベモスベナサ》(七九六)とある。
〔評〕 一見して卷五の山上憶良の令反惑情歌を學んだことは明らかだ。用語にその中から取つたものの多いことは、語釋中に指摘した通りである。その他の歌からも學んだ句が二三あることも右に述べて置いた。年の若い家持が、鹿爪らしく下僚の浮氣を訓戒してゐるのは滑稽にさへ聞える。
 
反歌三首
 
4107 あをによし 奈良にある妹が たかたかに 待つらむ心 しかにはあらじか
 
安乎爾與之《アヲニヨシ》 奈良爾安流伊毛我《ナラニアルイモガ》 多可多可爾《タカダカニ》 麻都良牟許己呂《マツラムココロ》 之可爾波安良司可《シカニハアラジカ》
 
(安乎爾與之)奈良ニ留守居シテ〔五字傍線〕ヰル妻ガ、心カラオマヘノ歸リヲ〔七字傍線〕待ツテヰルデアラウソノ心ハ、可愛サウデハナイカ。ドウダ〔可愛〜傍線〕、サウデハナイカ。
 
○多可多可爾《タカタカニ》――高々に。待ち望む樣の熱心なるをいふ。卷四に高々二吾念妹乎《タカダカニワガオモフイモヲ》(七五八)とある。○之可爾波安安良司可《シカニハアラジカ》――さうではないか、さうであらうと、念を押すのである。卷五に斯可爾波阿羅慈迦《シカニハアラジカ》(八〇〇)とあるに同じ。
〔評〕 これも憶良の長歌の終末を採つたもので、彼の摸傚性をあらはしてゐる。
 
4108 里人の 見る目はづかし 左夫流兒に さどはす君が 宮出しりぶり
 
左刀妣等能《サトビトノ》 見流目波豆可之《ミルメハヅカシ》 左夫流兒爾《サブルコニ》 佐度波須伎美我《サドハスキミガ》 美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》
(395)左夫流トイフ女ニ迷ツタオマヘガ、左夫流兒ノ家カラ〔八字傍線〕役所ニ出勤スル後姿ハ、村ノ人ガ見ルノモ恥カシイヨ。
 
○佐度波須伎美我《サドハスキミガ》――迷ひなさる貴方が。サドフは迷ふ。○美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》――美夜泥《ミヤデ》は宮出。卷二に宮出毛爲鹿作日之隈囘乎《ミヤデモスルカサヒノクマミヲ》(一七五)とあつて、宮仕に出ることであるが、ここは役所に出勤することであらう。略解の宣長説に、「美は尼の誤にて、閨出か」とあるのも、古義に「此《ココ》は宮出とはいふまじきが如くなれども、此は少咋が遊女に甚《フカ》く惑ひて、彼が家に朝參《ミカドマヰリ》する如く通ふを嘲哢《アザケ》りて、わざと宮出《ミヤデ》とはいへるべし」とあるのも從ひがたい。之理夫利《シリブリ》は後風。後姿。
〔評〕 國府の役人たるものが、遊女に迷つて、だらしない姿で、役所に出勤して來るのを、里人がその後姿を指さして笑ふであらうと、忠告したのである。これには作者の獨自な點もあらはれてゐる。この歌、袖中抄にも載せてある。
 
4109 紅は うつろふものぞ 橡の なれにし衣に なほしかめやも
 
久禮奈爲波《クレナヰハ》 宇都呂布母能曾《ウツロフモノゾ》 都流波美能《ツルバミノ》 奈禮爾之伎奴爾《ナレニシキヌニ》 奈保之可米夜母《ナホシカメヤモ》
 
紅は美シイケレドモ色ガ〔美シ〜傍線〕褪メルモノダヨ。ダカラ〔三字傍線〕橡ノ色ノ〔二字傍線〕着古シタ着物ニ、ヤハリ及バウヤ及ビハセヌゾ。左夫流トイフ女ハ美シイケレドモ、心ガ變リ易イ。タトヒ醜クトモ古イ妻ニハ及バナイ〔左夫〜傍線〕。
 
○久禮奈爲波《クレナヰハ》――紅の色は。クレナヰは草の名。ベニバナ又は末採花《スヱツムハナ》といふ。この草で染めたのが紅色である。卷四の紅之《クレナヰノ》(六八三)參照。ここは左夫流兒に譬へてゐる。○都流波美能《ツルバミノ》――橡色の。橡は櫟の實。ドングリの煎汁で染めた黒色。○奈禮爾之伎奴爾《ナレニシキヌニ》――着褻れた衣に。着古した衣に。本妻に譬へてゐる。
〔評〕 見る目に美しい、しかも色の褪め易い紅色を左夫流兒に譬へ、見ばえのしない、しかも色の褪めない橡色(396)の衣を本妻に譬へて、相對比したのは巧といつてよい。橡の歌も、紅の歌も少くないが、かう對照したのは作者の創意である。
 
右五月十五日守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
先妻不v待(タ)2夫君之喚使(ヲ)1自(ラ)來(リシ)時作(レル)歌一首
 
舊本、夫君を夫妻に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。喚使は喚びにやる使。迎の使。
 
4110 左夫流兒が いつきし殿に 鈴かけぬ 早馬下れり 里もとどろに
 
左夫流兒我《サブルコガ》 伊都伎之等乃爾《イツキシトノニ》 須受可氣奴《スズカケヌ》 波由麻久太禮利《ハユマクダレリ》 佐刀毛等騰呂爾《サトモトドロニ》
 
左夫流トイフ女ガ大切ニ奉公シテヰタ少咋ノ〔三字傍線〕官舍ニ、鈴ヲツケナイ驛馬ガ下ツテ來タ。サウシテ〔四字傍線〕村中大騷ダ。何ノ前ブレモナク不意ニ少咋ノ妻ガ都カラ來タノデ、世間ノ人ガ大騷ヲシテヰル〔何ノ〜傍線〕。
 
○伊都伎之等能爾《イツキシトノニ》――齋きし殿に。左夫流兒がいつき祀つてゐた殿、即ち左夫流兒が少咋に仕へて、妻らしく振舞つてゐた少咋の家にの意。略解は「いつぎは上に言へるいつがりを約めたる詞なるべし」、といひ、古義は「伊都伎《イツギ》は上の長歌の移都我里《イツガリ》と同言にて、此《コナタ》よりいつぐ意のときには、伊都伎《イツギ》といひ、彼にいつがるる意のときには伊都我里《イツガリ》と云て、彼此の差別《ケヂメ》あるのみなり。(中略)此の歌は左夫流兄我《サブルコガ》とて、伊都伎《イツギ》といひかけたれば、遊女が少咋をいつぐ意なり。等能《トノは遊女が家をいふべし。遊女の誘(ヒ)引(キ)入るまにまに、少咋が宮中へ朝參するごとくに通ふをわざと嘲哢《アザケ》りて、殿《トノ》といふなるべし」とあり、共にイツギと濁つて、長歌のイツガリと同(397)語としてゐるのは大なる誤であらう。古義の解は殊に當を失してゐる。新考は初句の我を乎の誤として、左夫流兒を大切にしてゐる少咋殿と解してゐる。○須受可氣奴婆由麻久太禮利《スズカケヌハユマクダレリ》――鈴を懸けない驛馬が下つた。驛鈴を附けてゐない驛馬が京からやつて來た。當時官の用で旅行するものは、驛鈴を附けた馬に乘つて行くが、私用のものは驛鈴を懸けない馬に乘るのである。少咋の妻は、固より私用であるから、鈴をかけない驛馬に乘つたのである。婆由麻《ハユマ》は早馬《ハヤウマ》の約。驛に置いた馬は、驛毎に交代して、早く走るやうになつてゐるから、やがて驛馬をハユマといふのだ。舊本婆とあるが、古葉略類聚抄・西本願寺本など波に作るのがよい。○佐刀毛等騰呂爾《サトモトドロニ》――里も轟に。里中にとどろと轟き渡つた。里中が大騷だの意。
〔評〕 これは滑稽味が溢れてゐて面白い。左夫流兒が奧樣振りで濟まし込んでゐる少咋の家に、突然何の案内もなく、都から本妻がやつて來た。鈴かけぬ驛馬は、もとより文字通りの意であるが、同時に音もなく、出し拔けに本妻が來た趣があらはれてゐる。第四句で切つて、里も轟にと言ひ添へたのも餘韻があつてよい。本妻が乘り込んだ後の葛藤が、想像せられるやうに詠まれてゐる。
 
同月十七日大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
橘歌一首并短哥
 
4111 かけまくも あやにかしこし すめろぎの 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八矛持ち 參出來し 非時の 香の木の實を かしこくも のこ給へれ 國もせに 生ひ立ち榮え 春されば ひこえ萌いつつ ほととぎす 鳴く五月には、 初花を 枝に手折りて 少女等に つとにも遣りみ 白妙の 袖にもこきれ かぐはしみ 措きて枯らしみ あゆる實は 玉に貫きつつ 手にまきて 見れども飽かず 秋づけば 時雨の雨零り あしびきの 山の木末は 紅に にほひ散れども 橘の 成れるその實は ひた照りに いや見がほしく み雪降る 冬に到れば 霜置けども その葉も枯れず ときはなす いや榮ばえに 然れこそ 神の御代より よろしなべ この橘を ときじくの 香の木の實と 名づけけらしも
 
可氣麻久母《カケマクモ》 安夜爾加之古思《アヤニカシコシ》 皇神祖乃《スメロギノ》 可見能大御世爾《カミノオホミヨニ》 田道間守《タヂマモリ》 常世爾和多利《トコヨニワタリ》 夜保許毛知《ヤホコモチ》 麻爲泥許之登吉《マヰデコシ》 登吉時支能《トキジキノ》 香久乃菓子乎《カグノコノミヲ》 可之古久母《カシコクモ》 能許之多麻敝禮《ノコシタマヘレ》 國毛勢爾《クニモセニ》 於非多知左加延《オヒタチサカエ》 波流左禮婆《ハルサレバ》 孫枝毛伊都追《ヒコエモイツツ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈久五月爾波《ナクサツキニハ》 波都波奈乎《ハツハナヲ》 延太爾多乎理弖《エダニタヲリテ》 乎登女良爾《ヲトメラニ》 都刀爾母夜里美《ツトニモヤリミ》 之路多倍能《シロタヘノ》 蘇泥爾毛古伎禮《ソデニモコキレ》 香具播之美《カグハシミ》 於枳弖可良之美《オキテカラシミ》 安由流實波《アユルミハ》 多麻爾奴伎都追《タマニヌキツツ》 手爾麻吉弖《テニマキテ》 見禮騰毛安加受《ミレドモアカズ》 秋豆氣婆《アキヅケバ》 之具禮乃雨零《シグレノアメフリ》 阿之比奇能《アシビキノ》 夜麻能許奴禮波《ヤマノコヌレハ》 久禮奈爲爾《クレナヰニ》 仁保比知禮止毛《ニホヒチレドモ》 多知波奈乃《タチバナノ》 成流其實者《ナレルソノミハ》 比太照爾《ヒタテリニ》 伊夜見我保之久《イヤミガホシク》 美由伎布流《ミユキフル》 冬爾伊多禮婆《フユニイタレバ》 霜於氣騰母《シモオケドモ》 其葉毛可禮受《ソノハモカレズ》 常磐奈須《トキハナス》 伊夜佐加波延爾《イヤサカバエニ》 之可禮許曾《シカレコソ》 神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》 與呂之奈倍《ヨロシナベ》 此橘乎《コノタチバナヲ》 等伎自久能《トキジクノ》 可久能木實等《カグノコノミト》 名附家良之母《ナヅケケラシモ》
 
口ニカケテ言フモ不思議ニ畏イコトダ。垂仁天皇ト申上ゲル〔垂仁〜傍線〕天皇ノ神樣ノ大御代ニ、田道間守ガ外國ヘ行ツテ橘ノ〔二字傍線〕澤山ノ枝ヲ持ツテ歸ツテ來タ、ソノ〔二字傍線〕非時ノ香果ヲ、畏クモ後世ニ〔三字傍線〕御遺シニナツタノデ、ソレガ〔三字傍線〕國内狹シト澤山ニ〔三字傍線〕生ヒ立チ榮エ、春ニナルト、枝カラ〔三字傍線〕小枝ガ生エ出シ、郭公ノ鳴ク五月ニハ、ソノ〔二字傍線〕初花ヲ枝ナガラ手折ツテ、處女等ニ土産トシテヤツタリ、(之路多倍能)袖ニモ扱キ入レ、或ハ〔二字傍線〕薫ガ佳イノデ、ソノ儘枝ニ咲カシテ〔ソノ〜傍線〕置イテ萎ラカシタリ、又ハ〔二字傍線〕落チタ實ハ玉ノヤウニ糸ニ〔二字傍線〕貰キ通シテ、手ニ纒イテ、カヤウニイロイロニシテ〔カヤ〜傍線〕見ルケレドモ、飽クコトハナイ。秋ガ來ルト時雨ノ雨ガ降ツテ、(阿之比奇能)山ノ木末ハ、紅ニ色美シクナツテ葉(399)ガ〔二字傍線〕散ルケレドモ、橘ノ木ニ成ツテヰルソノ實ハ、愈々色美シク輝イテ、益々見タイト思ハレ、雪ノ降ル冬ニナルト、霜ガ降ツテモソノ葉モ枯レズ、永久ニ變ラヌ磐ノヤウニ、愈々榮エ榮エル。カヤウデアルカラコソ、垂仁天皇ト申上ゲル〔垂仁〜傍線〕神樣ノ御代カラ、ヨクモ此ノ橘ヲ非時香果ト名ヅケタラシイヨ。サウ名ヅケタノハ尤モナコトダ〔サウ〜傍線〕。
 
○皇神祖能可見能大御世爾《スメロギノカミノオホミヨニ》――以下の十句は古事記・日本書紀に記した垂仁天皇の朝に、非時香果《トキジクノカクノコノミ》を求める爲に、常世の國に田道間守《タヂマモリ》を遣はし給うたが、田道間守はその國に到着し、その木の實を採つて縵八縵《カゲヤカゲ》、矛八矛《ホコヤホコ》を持ち歸つて來た時は、既に天皇は崩御の後であつたので、田道問守はそれを天皇の陵に奉り、其虚で叫び泣いて死んだ。これが橘であるといふ意味の記事に一致してゐる。○円道間守《タヂマモリ》――書紀によれば垂仁天皇の三年春三月新羅王子天日槍が來た。その子に但馬諸助あり、諸助は但馬|日楢杵《ヒナラキ》を生み、日楢杵は清彦を生み、清彦が田道間守を生むとある。即ち田道間守は天日槍の四代の孫に當つてゐる。併しこれでは田道間守を垂仁天皇の御代の人とするのは不合理で、天日槍の渡來を神代とする説が、妥當なるは言ふまでもない。姓氏録に、「橘守、三宅連同祖、天日桙命之後也」とあるのは、この田道間守の系統に相違ない。橘は田道間守が携へ歸つた花で田道間花《タヂマバナ》の略、タチバナであるとする説がある。なほ、契沖は、田道を氏とし間守を名としてゐるが、宣長は「たちまもりと云名なり。古は姓の下へは必のと云ふ例也。もし姓ならば田道の間守といふべきなり」と言つてゐる。書紀の文によると、宣長説がよいやうだ。この人の名が、姓氏録にある橘守といふ姓になつたのである。○常世爾和多利《トコヨニワタリ》――常世はここでは外國。但しその何國なるやを判斷し難い。田道間守の往復が十年を要したこと、橘の暖國産なること等を考ふれば、遠く南支那地方に赴いたかと思はれる。併しこれを朝鮮とする説が多く、白井光太郎氏の植物渡來考には「此常世の國の所在詳ならず、朝鮮の邊海ならんと思はる。此タチバナを今日のタチバナとすれば、外國に行かずとも、日本内地に野生のものがある譯である。其地は日向國南那賀郡涌谷村市木村、肥後八代郡高田村小蜜柑村、筑後浮羽郡福富村、長門國萩附近、土佐幡多郡蹉※[足+它]岬、高岡郡(400)桑田山、薩摩海門岳等なり。垂仁天皇時代交通不便なりし故、其事明らかならず、態々外國に出掛しものと思はる。此タチバナの種類につき、貝原益軒は之をミカンと認め、寺島良安・小野蘭山・岩崎常正等は、之を今日内地に自生する、タチバナと認めし如く思はる。云々。」と記してゐる。○夜保許毛知《ヤホコモチ》――八矛持ち。古事記に縵八縵矛八矛《カゲヤカゲホコヤホコ》とあり、書紀に八竿八縵《ヤホコヤカゲ》とある。これも八矛八縵といふべきを略したのである。古事記傳の説に從へば、縵《カゲ》は蔭で、枝ながら折採つて葉の附いてゐるもの。矛は、やや長く折つた枝の葉を皆除いて、實ばかり著いたものであらうといふことである。○麻爲泥許之登吉時支能《マヰデコシトキジクノ》――舊本、麻爲泥許之登吉時支能《マヰデコシトキトキシクノ》と訓んでゐるが、代匠記精撰本は、「支の下に久《ク》の字を落せる歟」、考は「この支は及《シク》の誤ならんか」、略解は「時の下、支は敷《シキ》の誤ならむ」、古義は登布の二字を補つて、「麻爲泥許之登布《マヰデコシトフ》は參出來《マヰデコ》しと云《イフ》なり。舊本に登布の二字なきは次の登吉の登と見まがへて、寫し脱したるものなり。故今姑くこの二字を補へ入たり」、新考は「マヰデコシ可婆〔二字右○△〕登吉時久〔右△〕能の誤脱とすべし」とある。かくの如く諸説紛々であるが、原字の儘で、麻爲泥許之《マヰデコシ》と五言に訓み、次に支を久に改めて、登吉時久能《トキジクノ》と訓みたい。支を舊の儘として、トキジキノと訓むのも一法であらうが、この歌の終に等伎自久能可久能木實《トキジクノカクノコノミ》とあり、古事記に登岐士玖能迦玖能木實《トキジクノカクノコノミ》とあるから、支を久の誤としなければならない。なほ支をシの假名に用ゐた例は集中に一個所もないから、代匠記の説は全く駄目である。時をシの假名とした例は、集中にいくらもある。○香久乃菓子乎《カクノコノミヲ》――香のよい木の實を。橘は他の木の實と異なり、冬から春夏の候まで、枝についてゐるから、非時の香の木の實といふのである、書紀には、非時香菓と記し、香菓此(ヲ)云2箇倶能未《カグノミ》1と註してゐる。○能許之多麻敝禮《ノコシタマヘレ》――遺し給へればの古格。○國毛勢爾《クニモセニ》――國も狹しと。國内一杯に。○於非多知左加延《オヒタチサカエ》――生ひ立ち榮え。橘を所々に植ゑしめられたことは、卷二の橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》(一二五)その他の歌で明らかである。○孫枝毛伊都追《ヒコニモイツツ》−孫枝は枝から出る小枝。卷五(八一〇)に對馬結石山(ノ)桐孫枝とある。毛伊都追《モイツツ》は萠えつつの古語であらう。他に萠エをモイと言つた例を知らないが、萠ユといふ動詞は上二段にも活用したものと見える。○延太爾多乎理弖《エダニタヲリテ》――枝のまま折つて。枝ながら手折つて。○都刀爾母夜里美《ツトニモヤリミ》――土産にやつたり。ツトは裹。藁の苞。轉じてみやげのことになつた。このミは何々シタ(401)リといふやうな意。○之路多倍能《シロタヘノ》――枕詞。袖に冠す。○蘇泥爾毛古伎禮《ソデニモコキレ》――袖にも扱き入れ。○香具播之美《カグハシミ》――香がよいので。○於枳弖可良之美《オキテカラシミ》――その儘枝に置いて花を枯らしたり。○安由流實波《アユルミハ》――落ちる實は。アユは落ちること。今も九州の方言に用ゐられてゐる。卷八に安要奴我爾花咲爾家里《アエヌガニハナサキニケリ》(一五〇七)、卷十に水草花乃阿要奴蟹《ミクサノハナノアエヌガニ》(二二七二)とある。略解・古義に熟することに解してゐるのはわるい。○久禮奈爲爾仁保比知禮止毛《クレナヰニニホヒチレドモ》――紅の色に色づいて散るけれども。木の葉の紅葉して散るのを言つてゐる。禮奈爲の三字が脱ちてゐたのを、仙覺が補つた由、仙覺抄に見える。○比太照爾《ヒタテリニ》――ひたすら照ることを直照《ヒタテリ》といふ。○伊夜見我保之久《イヤミガホシク》――彌々見たく。○伊夜佐加波延爾《イヤサカバエニ》――彌榮映えに。サカバエは應神天皇紀の歌に「府保語茂利阿伽例廬塢等※[口+羊]伊弉佐伽麼曳那《フホコモリアカレルヲトメイザサカバエナ》」とあるに同じ。○之可禮許曾《シカレコソ》――然あればこそ。○與呂之奈倍《ヨロシナベ》――宜しきやうに。ふさはしくも。卷一に宜名倍神佐備立有《ヨロシナベカムサビタテリ》(五二)、卷六に宜名倍見者清之《ヨロシナベミレバサヤケシ》(一〇〇五)などの例がある。
〔評〕 橘の樹を讃美したもので、まづ常世の國より渡來の傳説を記し、その花を弄び、落實を玉に貫くこと、枝に熟した果實は黄金色に輝き、緑の廣葉は常磐に榮えて、霜雪に堪へてゐることを述べてゐる。卷六の聖武天皇が葛城王に賜はつた橘花者實左倍花左倍其葉左倍枝爾霜雖降益常葉之樹《タチバナハミサヘハナサヘソノハサヘエダニシモフレドイヤトコハノキ》(一〇〇九)を敷衍したやうな作品であるが、更にその時葛城王の上表の中に述べた、和銅元年十一月二十五日の御宴に賜はつた勅に、「橘者果子之長上、人所v好、柯凌2霜雪1而繁茂、葉經2寒暑1而不v彫、與2珠玉1共競v光、交2金銀1以逾美、云々」とあるのと對比して見ると、著しく似通つた點が多い。固より家持がこの花を愛好したのでもあらうが、彼を引立ててくれる恩人で、當時飛ぶ鳥を落す勢のあつた橘諸兄に、敬意を表はさむが爲に作つたのではあるまいかとの疑も起るのである。彼の長歌中では、かなりな作品と言つてよからう。
 
反歌一首
 
4112 橘は 花にも實にも 見つれども いや時じくに 猶し見がほし
 
橘波《タチバナハ》 花爾毛實爾母《ハナニモミニモ》 美都禮騰母《ミツレドモ》 移夜時自久爾《イヤトキジクニ》 奈保之見我保之《ナホシミガホシ》
 
(402)橘ハ花デモ實デモドチラモ〔四字傍線〕賞翫シタケレドモ、ドレモ飽キナイデ〔八字傍線〕愈々時ノ區別ナク何時モ、モツト〔三字傍線〕見タイモノダ。
 
○花爾毛實爾母《ハナニモミニモ》――の時にも實の時にも。○移夜時自久爾《イヤトキジクニ》――彌非時に。何時でもといふ意にトキジクを使つたのは、非時香果《トキジクノカグノコノミ》だからである。○奈保之見我保之《ナホシミガホシ》――やはり見たい。シは強める助詞。
〔評〕 非時香果《トキジクノカクノコノミ》】だから、特に第四句にトキジクニを用ゐた位が、作者の工夫の存するところで、他は何ら取り立てて言ふべき點のない凡作である。
 
閏五月二十三日大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
庭中花作歌一首并短寄
 
目録には庭の上に詠の字がある。略解・古義などは目録によつて、詠の字、脱としてゐる。代匠記も初稿本はさう見てゐるが、精撰本には「詠にては下の作歌の二字あまりに重疊する歟。見の字などの落たるにや」と言つてゐる。
 
4113 大君の 遠のみかどと 任き給ふ 官のまにま み雪降る 越に下り來 あらたまの 年の五年 敷妙の 手枕纒かず 紐解かず 丸寢をすれば いぶせみと 心なぐさに なでしこを 宿に蒔き生し 夏の野の さ百合引き植ゑて 咲く花を 出で見る毎に なでしこが その花妻に さ百合花 ゆりも逢はむと 慰むる 心し無くば 天ざかる 鄙に一日も 在るべくもあれや
 
於保支見能《オホキミノ》 等保能美可等々《トホオミカドト》 末支太末不《マキタマフ》 官乃末爾末《ツカサノマニマ》 美由支布流《ミユキフル》 古之爾久多利來《コシニクダリキ》 安良多末能《アラタマノ》 等之乃五年《トシノイツトセ》 之吉多倍乃《シキタヘノ》 手枕末可受《タマクラマカズ》 比毛等可須《ヒモトカズ》 末呂宿乎須禮波《マロネヲスレバ》 移夫勢美等《イブセミト》 情奈具左爾《ココロナグサニ》 奈泥之故乎《ナデシコヲ》 屋戸爾末枳於保之《ヤドニマキオホシ》 夏能能之《ナツノノノ》 佐由利比伎宇惠天《サユリヒキウヱテ》 開花乎《サクハナヲ》 移低見流其等爾《イデミルゴトニ》 那泥之古我《ナデシコガ》 曾乃波奈豆末爾《ソノハナヅマニ》 左由理花《サユリバナ》 (403)由利母安波無等《ユリモアハムト》 奈具佐無流《ナグサムル》 許己呂之奈久波《ココロシナクバ》 安末射可流《アマザカル》 比奈爾一日毛《ヒナニヒトヒモ》 安流部久母安禮也《アルベクモアレヤ》
 
天子様ノ遠クノ役所トシテ、天子様ガ〔四字傍線〕御任命ニナル越中守ト云フ〔六字傍線〕官職ニ隨ツテ、(美由伎布流)越ノ國〔二字傍線〕ニ下ツテ來テ、(安良多末能)年ノ五年ノ間、妻ノ〔四字傍線〕(之吉多倍乃)手枕ヲモシナイデ、着物ノ〔三字傍線〕紐ヲモ解カズニ、獨デ〔二字傍線〕丸寝ヲスルト、心ガ〔二字傍線〕晴レナイノデ、心ヲ慰メル爲ニ、瞿麥ヲ私ノ〔二字傍線〕家ノ庭〔二字傍線〕ニ蒔イテ生ヤシ、夏ノ野ノ百合ヲ引キ抜イテ來テ〔二字傍線〕植ヱテ、咲イテヰル花ヲ出テ見ル毎ニ、(那泥之古我)ソノ花ノヤウナ美シイ吾ガ〔二字傍線〕妻ニ,(左由理花)後ニモ會ハウト思ツテ、ソレデ〔六字傍線〕心ガ慰マナイナラバ、(安麻射可流)田舎ニ一日モ居ラレルデアラウカ、トテモ居ラレハシナイ。私ハ花ヲ見テ妻ヲ思ヒ出シ、妻ト後ニ會フコトヲ考ヘテ、ヤツト心ヲ慰メテヰルノデス〔トテ〜傍線〕。
 
○於保伎見能等保能美可等々《オホキミノトホオミカドト》――天皇の遠の朝廷として。ここは越中の國府をさしてゐる。既出(四〇一一)。○末伎太末不官乃末爾末《マキタマフワカサノマニマ》――任命し給ふ官のまにまに。つまり越中の國守に任命せられての意である。遠のみかどとして任き給ふとつづいてゐる。古義に等保能美可等々《トホノミカドト》のトを「等《ト》は、にてあるの意に用たる辭なり、さて此の句は次の二句を隔て、美由伎布流《ミユキフル》といふへ、屬《ツヅケ》て心得べし。遠之朝廷《トホノミカド》にてある、御雪《ミユキ》の零る越の國といふ意に、つゞきたればなり」とあるのは誤であらう。なほ、マキは四段活用動詞マクの連用形。下二段活用のものと兩様に用ゐられたのである。○美由伎布流《ミユキフル》――この句は、越《コシ》の枕詞に用ゐてある。○安良多末能《アラタマノ》――枕詞。璞の砥の意で.年につづく。荒玉之《アラタマノ》(四四三)参照。○等之能五年《トシノイツトセ》――天平十八年秋赴任以來.今年天平感寶元年夏まで。未だ滿三年にはならないのに、五年とあるのは.既に任地に長年月を經たやうに、殊更に永く言つたのであらう。○之吉多倍乃《シキタヘノ》――枕詞。敷布《シキタヘ》の意で枕につづく。○手枕末可受《タマクラマカズ》――妻の手枕を枕とせずの意。○末呂宿乎須禮波《マロネヲスレバ》――丸寢をするので、末呂宿《マロネ》は帶を解かずに、着たままで寝ること。卷九に紐不解丸呂寝乎爲(404)者《ヒモトカズマロネヲスレバ》(一七八七)とある。○移夫勢い美等《イブセミト》――いぶせさに。イブセシは欝悒。心の晴れねこと。○情奈具左爾《ココロナグサニ》――心を慰める爲に。○屋戸爾末枳於保之《ヤドニマキオホシ》――宿に蒔き生ほし。○夏能能之《ナツノノノ》――夏の野の。野をノといつた珍らしい例の一である。○佐由利比伎宇惠天《サユリヒキウヱテ》――小百合引き植ゑて。百合を野から引き拔いて來て庭に植ゑて。○那泥之古我曾乃波奈豆末爾《ナデシコガソノハナヅマニ》――上を受けて瞿麥を點出し、その花妻といつてゐる。花妻は花やかなる妻の意で、卷八の先芽之花嫁問爾來鳴樟牡鹿《サキハギノハナツマトヒニキナクサヲシカ》(一五四一)の花嫁《ハナツマ》に同じ。ここは故郷に遺した愛妻をさしてゐる。○左由理花由利母安波無等《サユリバナユリモアハムト》――これも前の佐由利比伎宇惠天《サユリヒキウヱテ》を受けて左由理花《サユリハナ》を點出し、由利といはむ爲の枕詞としてゐる。由利母《ユリモ》は後にもの意。○安洗部久母安禮也《アルベクモアレヤ》――在るべくもあらめや。到底、居ることは出來ないの意。
〔評〕 題は庭中の花を詠んだことになつてゐるが、庭中に植ゑられた瞿麥と百合とに寄せて、故郷の妻を思ふ情を述べたのである。しかし當時庭前に草花を蒔いたり、野から移植したりして樂しんでゐた樣もしのばれて、面白い歌だ。
 
反歌二首
 
4114 なでしこが 花見る毎に をとめらが ゑまひのにほひ 思ほゆるかも
 
奈泥之故我《ナデシコガ》 花見流其等爾《ハナミルゴトニ》 乎登女良我《ヲトメラガ》 惠末比能爾保比《ヱマヒノニホヒ》 於母保由流可母《オモホユルカモ》
 
瞿麥ノ花ヲ見ル毎ニ私ハ〔二字傍線〕、少女等ガニコニコ〔四字傍線〕笑フ顔ノ美シサガ、思ヒ出サレルヨ。
 
○惠末比能爾保比《ヱマヒノニホヒ》――笑顔の美しさ。爾保比《ニホヒ》は色の美しさをいふ。
〔評〕 長歌中の那泥之古我曾乃波奈豆末《ナデシコガソノハナヅマ》を敷衍して、短歌の形式にしただけだ。
 
4115 さゆり花 ゆりも逢はむと 下延ふる 心しなくば 今日も經めやも
 
(405)佐由利花《サユリバナ》 由利母相等《ユリモアハムト》 之多波布流《シタバフル》 許己呂之奈久波《ココロシナクバ》 今日母倍米夜母《ケフモヘメヤモ》
 
(佐由利花)後ニ故郷ヘ歸ツテ〔六字傍線〕吾ガ妻ニ逢ハウト、胸ノ中デアテニシヰル心ガ無イナラバ、私ハ〔二字傍線〕今日ノ日モ送ルコトガ出來ヨウヤ。トテモ出來ハシナイ〔九字傍線〕。
 
○之多波布洗《シタバフル》――下延ふる。下に思つてゐる。心の中に思つてゐる。卷九に辞緒下延《コトヲシタバヘ》(一七九二)・隱沼乃下延置而《コモリヌノシタバヘオキテ》(一八〇九)などの例がある。
〔評〕 奈具佐無流《ナグサムル》を之多波布流《シタバフル》に換へただけで、長歌の結末の部を殆どその儘取り入れてゐる。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
 
同閏五月二十六日大伴宿禰家持作(ル)
 
國掾久米朝臣廣繩以(テ)2天平二十年(ヲ)1附(キテ)2朝集使(ニ)1入(ル)v京(ニ)、其事畢(リテ)而天平感寶元年閏五月二十七日還2到(ル)本任(ニ)1、仍(リテ)長官之舘(ニ)設(ケ)2詩酒(ノ)宴(ヲ)1樂(シミ)飲(メリ)、於v時主人守大伴宿禰家持作(レル)歌一首并短歌
 
朝集使は謂はゆる四度の使の一で、朝集帳を奉る使である。朝集帳は國内の池溝・官舍・國衙の器杖・公私船・驛馬・傳馬・神社・僧尼等のことを記した帳簿。畿内は十月、七道は十一月に太政官に進めることになつてゐた。これによつて地方廳の一年間の政治が、中央政府に進達せられるわけである。續紀に「天平七年閏十一月壬寅、天皇臨v朝召2諸國朝集使等1」とあり、諸國の國司が條章を(406)奉遵するものが、尠いことを戒められた勅が記載せられてゐる。應天門内にあつた朝集堂は、これに關係がない。附2朝集使1とあるのは朝集使になつたことである。
 
4116 大君の 任のまにまに とり持ちて 仕ふる國の 年の内の 事かたね持ち 玉ぼこの 道に出で立ち 岩根踏み 山越え野行き 都べに まゐしわが兄を あらたまの 年往きがへり 月かさね 見ぬ日さまねみ 戀ふるそら 安くしあらねば ほととぎす 來鳴く五月の 菖蒲草 蓬蘰き 酒みづき 遊びなぐれど 射水河 雪消はふりて 逝く水の いや増しにのみ 鶴が鳴く 奈呉江の菅の ねもごろに 思ひ結ぼれ 歎きつつつ 吾が待つ君が 事をはり 歸りまかりて 夏の野の さ百合の花の 花咲みに にふぶに笑みて 逢はしたる 今日を始めて 鏡なす 斯くし常見む 面變りせず
 
於保支見能《オホキミノ》 末支能末爾末爾《マキノマニマニ》 等里毛知底《トリモチテ》 都可布流久爾能《ツカフルクニノ》 年内能《トシノウチノ》 許登可多禰母知《コトカタネモチ》 多末保許能《タマボコノ》 美知爾伊天多知《ミチニイデタチ》 伊波禰布美《イハネフミ》 也末古衣野由支《ヤマコエヌユキ》 彌夜故敝爾《ミヤコベニ》 末爲之和我世乎《マヰシワガセヲ》 安良多末乃《アラタマノ》 等之由吉我弊理《トシユキガヘリ》 月可佐禰《ツキカサネ》 美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》 故敷流曾良《コフルソラ》 夜須久之安良禰波《ヤスクシアラネバ》 保止止支須《ホトトギス》 支奈久五月能《キナクサツキノ》 安夜女具佐《アヤメグサ》 余母疑可豆良伎《ヨモギカヅラキ》 左加美都伎《サカミヅキ》 安蘇比奈具禮止《アソビナグレド》 射水河《イミヅガハ》 雪消溢而《ユキゲハフリテ》 逝水能《ユクミヅノ》 伊夜末思爾乃未《イヤマシニノミ》 多豆我奈久《タヅガナク》 奈呉江能須氣能《ナゴエノスゲノ》 根毛己呂尓《ネモゴロニ》 於母比牟須保禮《オモヒムスボレ》 奈介伎都都《ナゲキツツ》 安我末川君我《アガマツキミガ》 許登乎波里《コトヲハリ》 可敝利末可利天《カヘリマカリテ》 夏野能《ナツノヌノ》 佐由里能波奈能《サユリノハナノ》 花咲爾《ハナヱミニ》 爾布夫爾惠美天《ニフブニヱミテ》 阿波之多流《アハシタル》 今日乎波自米※[氏/一]《ケフヲハジメテ》 鏡奈須《カガミナス》 可久之都禰見牟《カクシツネミム》 於毛我波利世須《オモガハリセズ》
 
天子様ノ御任命ニ從ツテ、事務ヲ〔三字傍線〕執リ持ツテ、御奉公致シテ居ル越中ノ〔三字傍線〕國ノ、一年中ノ事ヲマトメテ、朝集使トシテ〔六字傍線〕(多末保許能)道ニ出カケテ、岩根ヲ踏ンデ.山ヲ越エタリ野ヲ通ツタリシテ.都ノ方ヘ行ツタ吾ガ友ヲ(407)(安良多末乃)年ガ暮レテ改マツテ、月ヲ重ネテ、見ナイ日ガ多イノデ、戀フル心ガ安ラカデナイカラ、郭公ガ來テ鳴ク五月ノ菖蒲草ヤ蓬ヲ※[草冠/縵]トシテ、冠ニ着ケ〔四字傍線〕酒宴ヲシテ遊ンデ心ヲ慰メルケレドモ、(射水河雪消溢逝水能)愈々ヒドクナルバカリ、(多豆我奈久奈呉江能須気能)シミジミト思ガ結バツテ、心ガ晴レズニ〔六字傍線〕歎息シナガラ、私ガ待ツテヰル貴方ガ、朝集使ノ〔四字傍線〕仕事ガ濟ンデ、任國ヘ都カラ〔六字傍線〕歸リ戻ツテ來テ、(夏野能佐由利能波奈能)花ノ咲クヤウニ、ニコニコト笑ツテ、再ビ此處デ〔五字傍線〕オ目ニカカルコトガ出來タコノ〔二字傍線〕今日ヲ始トシテ、カウシテオ互ニ〔三字傍線〕顔ガ變ラズニイツモ今ノ儘ノ若サデ〔七字傍線〕(鏡奈須)會ヒマセウ。
 
○末伎能末爾未爾《マキノマニマニ》――任命に隨つて。前に末伎太未不官乃末爾末《マキタマフツカサノマニマ》(四一一三)とあつた。○等里毛知底《トリモチテ》――執り持つて。卷十七に乎須久爾能許等登里毛知底《ヲスクニノコトトリモチテ》(四〇〇八)とあるのと意は同じであるが、用法が少し違ふやうである。○都可布流久爾能《ツカフルクニノ》――仕ふる國とは越中を指してゐる。廣繩が越中橡たることを言つたのである。○年内能許登可多禰母知《トシノウチノコトカタネモチ》――年内の政治の状況を一括して持つて。朝集使はその管轄國内の一年間の政治を記した朝集帳を中央政府に進達することは、右に記した通りである。可多禰《カタネ》は代匠記初稿本に、江次第第一、元日の條に「故攝政於2筥中1被《ラル》v結《カタネ》、故土御門右府稱2小野大臣例1不v被v結《カタネ》」とあるのを引いてゐる通りで、一まとめにすることをいふのである。略解に「ことかたねもちは、負事を俗かたげると言ひ、北國にてはかたねるといふとぞ。」とあるのも面白い説だが、北國の方言のカタネルは多分カタゲルの訛音であらうし、又ここには負ひ持ちといふよりも、一括して持つといふべきところのやうでもあるから、北國方言は證據にはなるまいと思ふ。○也末古衣野由伎《ヤマコエヌユキ》――山を越え野を歩いて。ここに越エに古衣の字を用ゐたのは不思議である。衣は韻鏡内轉第九開喉音、清影母三等の韻で、その阿行音の純粹母音なることは學界の定説である。集中にも、安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》(九五)・衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》(三五七三)・伊麻婆衣天之可《イマハエテシカ》(四一三二)・佐散良衣壯士《ササレヲトコ》(九八三)などの如く、いづれも阿行音としてのみ用ゐられてゐるのに、ここに也行音に用ゐられてゐるのは何を語るものか。校本萬葉集に一の異本もないから、こ(408)の筆寫は相當古いものであらう。かういふやうな新しい用字法を改書に由るものとする學者もあるが、阿行也行のエの別のなくなったのは、天暦以前で阿女都千の手習詞の出來た後とすると、平安朝に入つてから百年を經過した頃と考へることが出來る。しかし現行萬葉集の改書期をそんなに新しく考へることはどうであらう。これは慎重な檢討を要する問題である。○末爲之和我世乎《マヰシワガセヲ》――參りし吾が友をの意。マヰリをマヰとのみ言つた例が紀記に多い。○等之由吉我敝理《トシユキガヘリ》――年が去り改まつて。天平二十年が暮れて天平二十一年即ち天平感寶元年となつたことをいふ。○美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》――サは接頭語。マネミは數多き故に。○故布流曾良《コフルソラ》――戀ふる心。○余母疑可豆良伎《ヨモギカヅラキ》――蓬を※[草冠/縵]として。カヅラキはカヅラクといふ動詞の連用形である。卷十九に菖蒲可都良久麻泥爾《アヤメグサカヅラクマデニ》(四一七五)とある。○佐加美都伎《サカミヅキ》――酒水漬。酒宴をなすこと。前に佐可彌豆伎伊麻須《サカミヅキイマス》(四〇五九)とあつた。○安蘇比奈具禮止《アソビナグレド》――遊び和ぐれど。遊んで心を慰めるけれども。○射水河雪消溢而逝水能《イミヅガハユキゲハフリテユクミヅノ》――彌益しと言はむ爲の序詞。射水河を雪が融けて溢れて流れ行く水が、益々水量を益す意でつづいてゐる。○多豆我奈久奈呉江能須氣能《タヅガナクナゴエノスゲノ》――ネモコロと言はむ爲(409)
の序詞。鶴が鳴く奈呉江に生えてゐる菅の根とつづくのである。奈呉江は卷十七に奈呉乃江爾都麻欲妣可波之多豆左波爾奈久《ナゴノエニツマヨビカハシタヅサハニナク》(四〇一八)とある奈呉江と同じく、今の放生津潟であらう。あの小湖には菅が多く生えてゐる。○於母比牟須保禮《オモヒムスボレ》――思ひ結ぼれ。心が欝々とすること。○安我末川君我《アガマツキミガ》――川をツに用ゐることは續紀の宣命・催馬樂などにはあるが、本集ではこの一例のみである(但し西本願寺本のみはこれを津に作つてゐる)。川の古音ツヌを略したもので、片假名のツ、平假名のつ、共にこの文字から出てゐる。○許登乎波里《コトヲハリ》――朝集使の事が濟んで。○可敝利末可利天《カヘリマカリテ》――京から歸り罷りて。○夏野能佐由利能波奈能《ナツノヌノサユリノハナノ》――花咲《ハナヱミ》の序詞。その季節の花を用ゐたのである。○花咲爾《ハナヱミニ》――花の咲くやうに美しく。○爾布夫爾惠美天《ニフブニヱミテ》――にこにこ笑つて。卷十六に我兄子者二布夫爾咲而《ワガセコハニフブニヱミテ》(三八一七)とある。○阿波之多流《アハシタル》――お逢になつた。○今日乎波自米※[氏/一]《ケフヲハジメテ》――今日を初めとして。○鏡奈須《カガミナス》――語を隔てて、見牟にかかつてゐる。○於毛我波利世須《オモガハリセズ》――面變りせず。互に年をとらずにの意。
〔評〕 去年の九月の頃朝集使として上京の途に就いて、今年閏五月二十七日に越中に歸つて來た、掾の久米朝臣廣繩を歡迎する言葉。別れた悲しみと、再會の喜びとを第一級の詞を重ねて、巧に述べてゐるが、内容が内容だけに、あまり誇張に過ぎるやうな感じがないではない。要するに儀禮的で眞実性が乏しいのであらう。
 
反歌二首
 
4117 去年の秋 相見しままに 今日見れば 面彌珍らし 都方人
 
許序能秋《コゾノアキ》 安比見之末末爾《アヒミシママニ》 今日見波《ケフミレバ》 於毛夜目都良之《オモヤメヅラシ》 美夜古可多比等《ミヤコガタヒト》
 
都ヘ行ツテオイデニナツタ貴方ハ、スツカリ都人ニナツテシマハレタガ〔都ヘ〜傍線〕、去年ノ秋相見タママデ、今日久振リデ〔四字傍線〕(410)オ目ニカカルト、都人ノ貴方ハ愈々御顔ガ珍ラシウ思ハレマス。
 
○安比見之末末爾《アヒミシママニ》――元暦校本その他の古本、末爾末《マニマ》に作るものが多い。意味から考へれば舊本|末末爾《ママニ》がよいやうである。○於毛夜目都良之《オモヤメヅラシ》――面彌珍らし。略解に「おもやのや〔傍点〕はよ〔傍点〕と通ひて助辭か」、古義に「八卷に、於毛也者將見《オモヤハミエム》とよめるは、此と同音にて、共に面輪《オモワ》を通はして.於毛夜《オモヤ》といへるにもあるべきか」とある。略解説は強ちに否定出來ないが、古義の説は從ひ難い。ここは代匠記及び略解の宣長説によつて、ヤを彌の意に解して置く。○美夜古可多此等《ミヤコガタヒト》――都方の人。即ち都人。廣繩が久しく都に滯在して歸つて來たので、かう言つたのである。
〔評〕 地方からの朝集使は十一月一日までに着京することになつてゐるので、廣繩は九月の内に出立したものと見える。それから閏五月の末まで、正に九ケ月間不在であつたのであるから、家持らの歡迎も無理はない。廣繩を美夜古可多比等《ミヤコガタビト》といつてゐるところに、邊鄙に宰たる家持の淋しい感じもあらはれてゐる。
 
4118 斯くしても 相見るものを 少くも 年月ふれば 戀しけれやも
 
可久之天母《カクシテモ》 安比見流毛能乎《アヒミルモノヲ》 須久奈久母《スクナクモ》 年月經禮波《トシツキフレバ》 古非之家禮夜母《コヒシケレヤモ》
 
カウシテ、又年月立ツテカラ〔八字傍線〕、オ目ニカカルコトガ出來ルノニ、サウハ思ハナイデ多クノ〔サウ〜傍線〕年月ガ立ヤタノデ、私ハ貴方ヲ〔五字傍線〕少シ戀シイデセウカ、否、少カラズ戀シカツタノデス〔否少〜傍線〕。
 
○須久奈久母《スクナクモ》――少くも。この句は第四句の下に移して見るがよい。○古非之家禮夜母《コヒシケレヤモ》――戀しからむや、戀しからじの意。古義に禮を米の誤かとしてコヒシケメヤモと改訓してゐる。新考は、第四句を年月經那婆とし第五句を古義により、トシツキヘナバコヒシケメヤモと改めてゐる。從ひ難い。年月經ればと誇張してゐるが(411)今まで別れてゐた間を言つたのである。
〔評〕 再會の歡びを感ずるにつけて、別れてゐた淋しさを思ひ起して、年月を經たこと故、それも當然だと言つてゐる。懇ろな友情は見えてゐる。
 
聞(キテ)2霍公鳥喧(クヲ)1作(レル)歌一首
 
4119 いにしへよ しぬびにければ ほととぎす 鳴く聲聞きて 戀しきものを
 
伊爾之敝欲《イニシヘヨ》 之怒比爾家禮婆《シヌビニケレバ》 保等登伎須《ホトトギス》 奈久許惠伎吉※[氏/一]《ナクコヱキキテ》 古非之吉物能乎《コヒシキモノヲ》
 
昔カラ郭公ノ鳴ク聲ハ、人ガ懷カシク思ツテ〔郭公〜傍線〕慕ツタモノダカラ、郭公ノ鳴ク聲ヲ聞イテ、私ハ〔二字傍線〕戀シク思フヨ。
 
○之奴比爾家禮婆《シヌビニケレバ》――なつかしく思つたから。シヌブは懷しく思ふこと。ここは郭公を人が愛したからの意。○古非之吉物能乎《コヒシキモノヲ》――戀しいよの意。このモノヲは卷三の天雲毛伊去羽計田菜引物緒《アマクモモイユキハバカリタナビクモノヲ》(三二一)のモノヲと同じである。古義の解は從ひ難い。
〔評〕 平凡な作だ。略解に「按ふに、未相見ずして、慕はしく思ひし人に逢て、詠める譬喩歌ならむか」とあるのは、この平凡さに物足りなく感じたものであらう。併し譬喩歌らしくない。
 
爲(ニ)d向(ハム)v京(ニ)之時、見(テ)2貴人(ヲ)1及(ビ)相(ヒテ)2美人(ニ)1飲宴之日述(ベム)uv懷(ヲ)儲《アラカジメ》作(レル)歌二首
 
將來上京の際、貴人に逢つたり美人に逢つたりして、宴會する日に、懷を述べる爲に、豫め作つた歌。
 
4120 見まくほり 思ひしなべに かづらかけ かぐはし君を 相見つるかも
 
(412)見麻久保里《ミマクホリ》 於毛比之奈倍爾《オモヒシナベニ》 賀都良賀氣《カヅラカケ》 香具波之君乎《カグハシキミヲ》 安比見都流賀母《アヒミツルカモ》
 
逢ヒタイト思ツタ通リニ、私ハ髪ニ〔四字傍線〕※[草冠/縵]ヲカケタ美シイ貴方ニ逢ヒマシタヨ。マコトニ嬉シク思ヒマス〔マコ〜傍線〕。
 
○於毛比之奈倍爾《オモヒシナベニ》――思ひしままにに同じ。思つた通りに。○加都良賀氣《カヅラカケ》――加都良《カヅラ》は桂とも※[草冠/縵]とも解され、賀氣はカケと訓んで懸けとし、又はカゲと訓んで影・蔭とするなど、諸説がある。用字法から見ると、賀氣は懸け・影・蔭のいづれにも用ゐられてゐるから、判斷が困難である。※[草冠/縵]を懸けたかぐはしき君といふので、玉※[草冠/縵]を着けた美人の姿を言つたものとするが、穩やかであらう。これを枕詞とする説はよくない。○香具波之君乎《カグハシキミヲ》――美しい君を。カグハシは馨はしの意で、香の佳いものについて言ふのが常であるが、卷十九の笑爾保布花橘乃香吉於夜御言《サキニホフハナタナバナノカグハシキオヤノミコト》(四一六九)、卷二十の多知波奈乃之多布久可是乃可具波志伎都久波能夜麻乎《タチバナノシタフクカゼノカグハシキツクバノヤマヲ》(四三七一)などの例で見ると、目で見る美しさにも用ゐたのである。その場合はカを意味のない接頭語と見てもよいであらう。
〔評〕 美人に對するお世辭に過ぎない。つまらない作。
 
4121 まゐりの 君が姿を 見ず久に 鄙にし住めば 我戀ひにけり 一頭云、はしきよし妹が姿を
 
朝參乃《マヰリノ》 伎美我須我多乎《キミガスガタヲ》 美受比左爾《ミズヒサニ》 比奈爾之須米婆《ヒナニシスメバ》 安禮故非爾家里《アレコヒニケリ》
 
朝廷ヘ出仕ニナル貴方ノ御姿ヲ見ナイデ久シク、田舍ニ住ソデヰマスノデ、私ハ貴方アオ〔三字傍線〕戀シク思ヒマシタヨ。久シブリニオ目ニカカレテ嬉シウゴザイマス〔久シ〜傍線〕。
 
○朝參乃《マヰリノ》――釋日本紀・元暦校本・類聚古集などハシキヨシと訓んでゐるのは、左記の異傳によつたのであらう(413)が、從ひ難い。略解の宣長説は朝戸出などの誤かとある。古事記傳には朝參をミカドマヰリとよんでゐろが、ここには當らない。考の説によつてマヰリノと四言によんで置かう。新考には、テウサンノと音讀するのだと言つてゐる。朝參の君が姿とは、朝廷出仕の人の姿で、題詞に貴人とあるに當つてゐる。
〔評〕 これもつまらない作だ。かうした作の動機が氣に食はない。
 
一頭云 波之吉與思《ハシキヨシ》 伊毛我須我多乎《イモガスガタヲ》
 
これは初二句の異傳であるが かうすると、これも美人に逢つた歌となる。
 
同閏五月二十八日大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
天平感寶元年閏五月六日以來、起2少旱(ヲ)1、百姓(ノ)田畝稍有(リ)2凋(メル)色1也、至(リテ)2于六月朔日爾1、忽(チ)見(ル)2雨雲之氣(ヲ)1、仍(リテ)作(レル)雲(ノ)歌一首、短歌一絶
 
略解は起は赴の誤かとし、古義は越の字の誤ならむかと云つてゐるが、原文のままがよい。京大本は稍を稻に改めてゐるが、小旱とあるから、稍がよい。又京大本は六の上に今の字がある。考は作雲歌以下を、作雲歌并短歌と改めてゐる。
 
4122 すめろぎの しきます國の 天の下 四方の道には 馬の爪 い盡す極み 船の舳の い泊つるまでに 古へよ 今のをつつに 萬づつき まつるつかさと 作りたる そのなりはひを 雨降らず 日の重なれば 植ゑし田も 蒔きし畠も 朝ごとに しぼみ枯れ行く そを見れば 心を痛み 緑兒の 乳乞ふがごとく 天つ水 仰ぎてぞ待つ あしびきの 山のたをりに この見ゆる 天の白雲 わたつみの 沖つ宮邊に 立ち渡り との曇り合ひて 雨も賜はね
 
須賣呂伎能《スメロギノ》 之伎麻須久爾能《シキマスクニノ》 安米能之多《アメノシタ》 四方能美知爾波《ヨモノミチニハ》 宇麻乃都米《ウマノツメ》 伊都久須伎波美《イツクスキハミ》 布奈乃倍能《フナノヘノ》 伊波都流麻泥爾《イハツルマデニ》 伊爾之敝欲《イニシヘヨ》 伊麻乃乎都頭爾《イマノヲツツニ》 萬調《ヨロヅツキ》 麻都流都可佐等《マツルツカサト》 都久里多流《ツクリタル》 曾能奈里波比乎《ソノナリハヒヲ》 安米布良受《アメフラズ》 日能可左奈禮婆《ヒノカサナレバ》 宇惠之田毛《ウヱシタモ》 麻吉之波多氣毛《マキシハタケモ》 安佐其登爾《アサゴトニ》 之保美可禮由苦《シボミカレユク》 曾乎見禮婆《ソヲミレバ》 許己呂乎伊多美《ココロヲイタミ》 彌騰里兒能《ミドリゴノ》 知許布我其登久《チコフガゴトク》 安麻都美豆《アマツミヅ》 安布藝弖曾麻都《アフギテゾマツ》 安之比奇能《アシビキノ》 夜麻能多乎理爾《ヤマノタヲリニ》 許能見油流《コノミユル》 安麻能之良久母《アマノシラクモ》 和多都美能《ワタツミノ》 於枳都美夜敝爾《オキツミヤベニ》 多知和多里《タチワタリ》 等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》 安米母多麻波禰《アメモタマハネ》
 
天子樣ノ御支配ナサル國ノ、天ノ下ノ四方ノ道ニハ、馬ノ爪ガ歩イテ行ツテ〔六字傍線〕止マル地ノ〔二字傍線〕果テマデ、舟ノ舳先ガ漕イデ行ツテ〔六字傍線〕止マル海ノ〔二字傍線〕果マデ昔カラ今ノ現在ニ、萬ヅノ貢物トシテ奉ルモノノ最上トシテ、稻ヲ〔二字傍線〕作ルソノ大切ナ〔三字傍線〕農業ダノニ、雨ガ降ラズニ日ガ重ナルト、稻ヲ〔二字傍線〕植ヱタ田モ、種ヲ蒔イタ畑モ、毎朝毎朝段々ト〔三字傍線〕、凋ミ枯レテ行ク。ソレヲ見ルト心ガ辛イノデ、恰モ〔二字傍線〕、赤子ガ乳ヲ欲シガルヨウニ、雨ガ降ルノヲ〔四字傍線〕仰イデ待ツテヰル。所ガ今日ハ〔四字傍線〕(安之比奇能)山ノ懷ニ、アノ見エテヰル空ノ白雲ガ、海神ノ沖ノ龍宮マデ一面二續イテ、棚曳キ曇|ツ〔傍線〕テ、雨ヲ降ラシテ下サイヨ。
 
○四方能美知爾波《ヨモノミチニハ》――四方の道は東西南北の四方の道路をいふ。東海・東山などの七道をいふのではない。○宇麻乃都米伊都久須伎波美《ウマノツメイツクスキハミ》――馬の爪の行き盡す果まで。イは接頭語。この句は祈年祭祝詞の馬爪至留限《ウマノツメイタリトドマルカギリ》と同意である。○布奈乃倍能伊波都流麻泥爾《フナノヘノイハツルマデニ》――舟の舳が行つて泊まる果まで。これも祈年祭祝詞の、舟艫至(415)留極《フナノヘノイタリトドマルキハミ》とあるに同じ。○伊麻乃乎都頭爾《イマノヲツツニ》――今の現在に。前の賀陸奥國出金詔書歌にも、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾奈我佐敝流於夜能子等毛曾《イニシヘヨイマノヲツツニナガサヘルオヤノコドモゾ》(四〇九四)とある。○萬調《ヨロゾツキ》――萬づの貢の物。○麻都流都可佐等《マツルツカサト》――奉る長上と。ツカサは頭目、首長などの意で、稻が奉る萬づの貢物の頭目だといふのである。麻都流《マツル》と萬調《ヨロヅツキ》とを顛倒して見るがよい。○都久里多流曾能奈里波比乎《ツクリタルソノナリハヒヲ》――奈里波比《ナリハヒ》はここでは農業を指してゐる。崇神天皇紀に 農天下之大本也、民所2恃以生1也」とあつて、農をナリハヒと訓んでゐる。ソノナリハヒヲは其の農業なるをの意。○彌騰里兒能知許布我其登久《ミドリコノチコフガゴトク》――赤兒が乳を欲しがるやうに。○安麻都美豆《アマツミヅ》――天つ水。天より降る水、即ち雨をの意。○夜麻能多乎理爾《ヤマノタヲリニ》――卷十三に高山峯之手折丹《タカヤマノミネノタヲリニ》(三二七八)とあるやうに山の曲つてゐるところ。山ふところ。○和多都美能於枳都美夜敝爾《ワタツミノオキツミヤベニ》――海の神の沖の宮の方に。○等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》――棚引き曇り合つて。トノグモリは、タナグモリに同じ。○安米母多麻波禰《アメモタマハネ》――雨を賜へよ。古事記の上卷、綿津見神の宮の條に、「其綿津見大神誨曰《ソノワタツミノオホカミヲシヘマツリケラク》……吾掌v水故《アレミヅヲシレバ》、三年之間必其兄貧窮《ミトセノアヒダカナラズソノイロセマヅシクナリナム》云々」とあるやうに、海神が雨を掌るといふ思想があつたので、かういつたのである。上に安麻能之良久母《アマノシラクモ》とあるのを受けてはゐるが、雨も賜はねは、雲に向つて言つてゐるのではない。モは詠歎の助詞。
〔評〕 閏五月六日から六月の朔日まで、約一ケ月雨が降らなかつたので、管下の農作物を心配して、雨を祈つた若い國守の胸中は、眞劍なものがあつた。祈雨のことは皇極天皇紀にも、牛鳥を殺し、河伯に祷る由が見えて、漢土の風習も早くから傳つてゐたやうだが、これは必ずしも外來思想とのみは言はれまい。農業國たる吾が國では、かうしたことは古くからあつたのであらう。雨乞の爲に歌や句を詠むのは、後世の文學史上にも見えるが、その前驅をなしたものとして、注意すべき作品である。
 
反歌一首
 
4123 この見ゆる 雲ほびこりて との曇り 雨も降らぬか 心足らひに
 
(416)許能美由流《コノミユル》 久毛保妣許里弖《クモホビコリテ》 等能具毛理《トノグモリ》 安米毛布良奴可《アメモフラヌカ》 己許呂太良比爾《ココロダラヒニ》
 
アノ彼方ニ〔三字傍線〕見エル雲ガハビコツテ、棚曳キ曇ツテ、充分滿足スルホド雨ガ降ラナイカヨ。ドウゾ降ツテクレ〔八字傍線〕。
 
○久毛保妣許里弖《クモホビコリテ》――雲が廣がつて。ホビコリはハビコリと同じであらう。○安米毛布良奴可《アメモフラヌカ》――雨も降らないかよ。降れかしの意。○己許呂太良比爾《ココロダラヒニ》――心足らひに。心が滿足するやうに。
〔評〕 長歌中の語を繰返して、一首となしたに過ぎぬ。
 
右二首、六月一日晩頭、守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
晩頭は夕方。夕暮の頃。
 
賀(グ)2雨(ノ)落(ルヲ)1歌一首
 
4124 吾が欲りし 雨は降り來ぬ 斯くしあらば 言擧せずとも 年は榮えむ
 
和我保里之《ワガホリシ》 安米波布里伎奴《アメハフリキヌ》 可久之安良婆《カクシアラバ》 許登安氣世受杼母《コトアゲセズトモ》 登思波佐可延牟《トシハサカエム》
 
私ガ降ツテ貰イタイト〔八字傍線〕望ンデヰタ雨ハ降ツテ來タ。コンナナラバ、ヤカマシク騷ギタテナイデモ、稻ハヨク出來ルデアラウ。
 
(417)○許登安氣世受杼母《コトアゲセズトモ》――言葉にあらはして、いろいろ騷がないでも。黙つてゐても。神に祈らないでもと見るのは穩やかでない。○登思波佐可延牟《トシハサカエム》――年《トシ》は祈年祭の年《トシ》と同じで、稻のことである。
〔評〕 前の長歌を作つてから三日の後に、注文通り、心足らひに雨が降つたのを、賀して詠んだ歌。もうこれで安心だと歡喜に滿ちた氣分である。
 
右一首同月四日、大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
七夕歌一首並短歌
 
4125 天照らす 神の御代より 安の河 中に隔てて 向ひ立ち 袖振りかはし 生の緒に 歎かす子ら 渡守 船も設けず 橋だにも 渡してあらば その上ゆも い行き渡らし たづさはり うながけりゐて 思ほしき ことも語らひ 慰むる 心はあらむを 何しかも 秋にしあらねば 言問ひの ともしき子ら うつせみの 世の人我も ここをしも あやにくすしみ 往き更る としのはごとに 天の原 ふり放け見つつ 言ひ繼にすれ
 
安麻泥良須《アマテラス》 可未能御代欲里《カミノミヨヨリ》 夜洲能河波《ヤスノカハ》 奈加爾敝太弖々《ナカニヘダテテ》 牟可比太知《ムカヒタチ》 蘇泥布利可波之《ソデフリカハシ》 伊吉能乎爾《イキノヲニ》 奈氣加須古良《ナゲカスコラ》 和多里母理《ワタリモリ》 布禰毛麻宇氣受《フネモマウケズ》 波之太爾母《ハシダニモ》 和多之※[氏/一]安良波《ワタシテアラバ》 曾乃倍由母《ソノヘユモ》 伊由伎和多良之《イユキワタラシ》 多豆佐波利《タヅサハリ》 宇奈我既里爲※[氏/一]《ウナガケリヰテ》 於毛保之吉《オモホシキ》 許登母加多良比《コトモカタラヒ》 奈具左牟流《ナグサムル》 許己呂波安良牟乎《ココロハアラムヲ》 奈爾之可母《ナニシカモ》 安吉爾之安良禰波《アキニシアラネバ》 許等騰比能《コトドヒノ》 等毛之伎古良《トモシキコラ》 宇都世美能《ウツセミノ》 代人和禮毛《ヨノヒトワレモ》 許己乎之母《ココヲシモ》 安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》 徃更《ユキカハル》 年能波其登爾《トシノハゴトニ》 安麻乃波良《アマノハラ》 布里左氣見都追《フリサケミツツ》 伊比都藝爾須禮《イヒツギニスレ》
 
(418)天照大神ノ御代カラ天ノ安ノ川ヲ間ニ隔テテ、向ヒ立ツテ袖ヲ振リカハシ、命ガケニ歎キナサル織女ト牽牛トノ二ツノ〔織女〜傍線〕星ハ、天ノ川ノ〔四字傍線〕渡守ガ平素ハ〔三字傍線〕舟ノ用意モシナイ〔四字傍線〕。若シ〔二字傍線〕橋デモ架ケテアルナラバ、ソノ上カラデモ歩イテオ渡りニナツテ、手ヲ取り合ツテ、頸ニ手ヲカケテヰテ、言ヒタイト〔五字傍線〕思フコトヲモ語り、心ヲ慰メルコトガ出來ルデアラウノニ、何故ニ、コノ星ハ〔四字傍線〕秋デナケレバ會ヘナイコトニナツテ〔會ヘ〜傍線〕、訪ネテ來ルノガ稀ナノデアラウカ。(宇都世美能)世ノ人間デアル私モ、コレヲ怪シク不思議ニ思フノデ、年ガ改ツテ七月七日ニナ〔八字傍線〕ル毎ニ毎年、空ヲ遙カニ仰イデ見テ、コノ二ツノ星ノハカナイ契ヲ〔コノ〜傍線〕言ヒ傳ヘニスルヨ。
 
○安麻泥良須可未能御代欲里《アマテラスカミノミヨヨリ》――天照大神の御代から。高天原の祖神として、この神をここに持つて來たのである。○夜洲能打波《ヤスノカハ》――天の安の河は、高天原の河であるのを、天漢、即ち銀河のことに用ゐてゐる。○伊吉能乎爾《イキノヲニ》――生の緒に。命をかけて。命も絶えむばかりに。○奈氣加須古良《ナゲカスコラ》――ナゲカスは歎クの敬相。子ラは二星を指してゐる。○布禰毛麻宇氣受《フネモマウケズ》――船の用意もしない。この句で切れてゐる。○伊由伎和多良之《イユキワタラシ》――行き渡りの敬相。○宇奈我既利爲※[氏/一]《ウナガケリヰテ》――頸に手を懸け合つて居て。古事記上卷に「即《スナハチ》爲2宇岐由比《ウキユヒ》1而《シテ》宇那賀氣理弖《ウナガケリテ》、至v今鏡坐也《イマニイタルマデシヅマリマス》」とあるに同じ。○等毛之伎古良《トモシキコラ》――このトキシキは乏しく尠きこと。上の奈爾之可母《ナニシカモ》を受けて、乏しき子らなるぞの意である。この子らも二星と見るべきであらう。○許己乎之母《ココヲシモ》――舊本、乎を宇に作つてゐる。代匠記精撰本によつて改めた。ここの二句は前に許己乎之母安夜爾多敷刀美《ココヲシモアヤニタフトミ》(四〇九四)とあると同型である。○年能波其登爾《トシノハゴトニ》――トシノハは卷十九に毎年謂之等之乃波(四一六八)とあるやうに毎年の意である。ここに更に毎《ゴト》にを加へたのは異例である。○伊比都藝爾須禮《イヒツギニスレ》――上にコソの係がなくて、スレで結んだのは特例である。本居宣長は詞の玉緒に於て、シモがコソに通ふといつてゐるが,ここのシモは安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》にかかつてゐるので、スレには響いてゐないから、この説はここには當てはまらない。なほ研究を要する。
〔評〕 七夕に際し、二星交歡の傳説を想起し、二星のはかない契に同情して詠んだ歌。何の奇もなく、興味もな(419)い。要するに邊境にある心慰みに過ぎない。
 
反歌二首
 
4126 天の河 橋渡せらば その上ゆも い渡らさむを 秋にあらずとも
 
安麻能我波《アマノガハ》 波志和多世良波《ハシワタセラバ》 曾能倍由母《ソノヘユモ》 伊和多良佐牟乎《イワタラサムヲ》 安吉爾安良受得物《アキニアラズトモ》
 
天ノ川ニ橋ヲ渡シテアルナラバ、秋デハナクテモ、二ノ星ハ〔四字傍線〕ソノ橋ノ〔二字傍線〕上カラデモ渡ルデアラウニ。橋モ架ケテナイノハ殘念ダ〔橋モ〜傍線〕。
 
○波志和多世良波《ハシワタセラバ》――橋を渡してあるならば。渡セリにバを添へたのが、渡セラバである。○伊和多良佐牟乎《イワタラサムヲ》――イは接頭語。ワタラスはワタルの敬相。渡り給ふであらうのにの意。
〔評〕 長歌の中の、波之太爾母和多之※[氏/一]安良波《ハシダニモワタシテアラバ》以下の數句を一首に纏めただけ。
 
4127 安の河 こ向かひ立ちて 年の戀 け長き子らが 妻問ひの夜ぞ
 
夜須能河波《ヤスノカハ》 許牟可比太知弖《コムカヒタチテ》 等之乃古非《トシノコヒ》 氣奈我伎古良河《ケナガキコラガ》 都麻度比能欲曾《ツマドヒノヨゾ》
 
天ノ安ノ川デ、向ヒ合ツテ立ツテヰテ、一年間ノ長イ〔二字傍線〕戀ニ、長イ日數ヲ重ネテ〔三字傍線〕戀シク思ヒ合ツテヰル星ドモガ、久シブリデ〔五字傍線〕妻ヲ訪レル晩デアルゾ今夜ハ。サゾ嬉シイデアラ〔今夜〜傍線〕。
 
○許牟可比太知弖《コムカヒタチテ》――卷十の天漢已向立而《アマノガハイムカヒタチテ》(二〇一一)トある已を、コと訓まうとする説もあるが、それによると、(420)この句と一致するわけである。コムカヒのコは意味のない接頭語であらう。考に來向ひに同じとし、古義は古を伊の誤としてゐる。澤瀉氏は作者が古歌の己向《イムカヒ》をコムカヒとを誤讀したものだといつてゐる。○等之能古非《トシノコヒ》――卷十にも年之戀《トシノコヒ》(二〇三七)とある。一年間の戀。○氣奈我伎古良河《ケナガキコラガ》――日長き子らが。長い日數を重ねて久しく逢はなかつた二星が。
〔評〕 年の戀は古歌の詞を用ゐたもの。支那傳説を高天原の神話と混同して、天の川を安の川といつたのは、この作者の創意ではなく、已に卷十にも二首ばかりあつて、その由來は古いものである。それらを踏襲したのみで、何等獨自の點がない。この長歌と反歌とを、卷十の乾坤之《アメツチノ》(二〇八九)・天地跡《アメツチト》(二〇九二)などと比較すると、似て及ばざること遠しの感が深い。
 
右七月七日、仰(ギ)2見(テ)天漢(ヲ)1大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
越前國掾大伴宿禰池主(ノ)來(リ)贈(レル)戯(ノ)歌四首
 
忽(チ)辱(クス)2恩賜(ヲ)1驚欣已(ニ)深(シ)、心中含(ミ)v咲《ヱミヲ》、獨座稍開(ケバ)表裏不v同相違何(ゾ)異(レル)、推2量(ルニ)所由《ユヱヲ》1、率爾(ニ)作(セル)v策(ヲ)歟、明(ニ)知(ル)加(フル)v言(ヲ)、豈(ニ)有(ムヤ)2他意1乎、凡貿2易(スルハ)本物(ヲ)1、其罪不v輕(カ)正※[貝+藏]倍※[貝+藏]宜(シ)2急(ニ)并(セ)滿(タス)1、今勤(シテ)2風雲(ニ)1、發2遣(ス)徴使(ヲ)1、早速返報(シテ)、不v須(カラ)2延回(ス)1、
 
勝寶元年十一月十二日、物(ヲ)》所(レシ)2貿易(セ)1下史、
謹(ミテ)訴(フ)2 貿易人(ヲ)斷(ル)官司(ノ) 廳下(ニ)1
別(ニ)白(ス)可怜之意不v能(ハ)2黙止(スル)1聊述(ベテ)2四詠(ヲ)1准2擬睡覺(ニ)1
 
(421)この文章は池主から家持へ贈つた書簡である。家持から針袋を贈つたのに對する返事として、戯れて書いたものであるが、針袋を贈つた事情が判明しない爲に、この文の解釋に種々疑義を生ずる。代匠記精撰本には「池主より家持の許へ、此を針袋にぬはせて給へとて、羅を遣されたるを、家持の許によき絹の有けるを表とし、池主より遣はされたる羅を裏として、面白き袋を縫て贈られたるを、かうは戯ふれて書にもかき、歌にもよまれたる歟」とあり、略解・古義・新考など大躰これに依つてゐる。然るに新解には「家持から池主に物を贈つたところ、誤つて針袋を封じて送つてしまつた。そこで池主が戯れて、品物をすり換へたのは罪であるから、至急に賠償せよとの意を通じ、また針袋を贈られたことを興じて歌を詠んだのである。」とある。越前の國府から越中の國府まで三十余里の道を、針袋縫はせに頼んでやるといふのも、實際に合致せぬやうであり、又、家持から池主に物を贈つた時、誤つて針袋を封じ込んだと見るのも、不自然ではあるまいか。一躰針袋とは次の歌どもから推測すると、腰などに帶びて旅行に携帶したもので、針の外に糸の類などをも入れたものらしい。もとより旅中衣の綻びなどを繕ふ爲である。防人に行く夫に贈つた、卷二十の久佐麻久良多妣乃麻流禰乃比毛多要婆安我弖等都氣呂許禮乃波流母志《クサマクラタビノマルネノヒモタエバアガテトツケロコレノハルモシ》(四四二〇)といふ歌から見ても、旅行に針を携へたことは明らかである。從つてかういふものを進物として、人に贈ることもあり得るわけである。思ふに、家持は立派な袋物を作らしめて、これを池主への贈物としたのであるが、その上包には戯れで殊更に何か違つた品名を書いて置いたらしい。さう思つて見ると、この文章も次の歌も無理なく解けるやうである。
 
○忽辱2恩賜1驚欣已深――突然の御贈物を辱うしまして驚き喜ぶことが格別深うございます。○心中含v咲獨座稍開――心の中で笑を含みながら、獨りで坐つて少し開けて見ますと。○表裏不v伺――包の表に記すところと、包の中と違つてゐる。略解には「表裏は袋に縫たるさいでの事也」とあるが、さうではあるまい。○相違何異――どうしてこんなに相違してゐるのか。○率爾作v策歟――輕々しく大急ぎで荷物の札を附けたのか。略解に、「策は謀の意にて貿易せる事を云」とある。○明知加v言豈有2他意1乎――明かに知る、言を加ふる豈他意有らむやと訓むのであらう。貴方が私にお言葉を賜はつたことは、別に他意(422)あることではないといふことを明らかに知つてゐる。略解に加は如の誤として、「率爾に袋を作りたる故に、表裏をふと誤て、引たがへたらむ事は、池主が採量の言の如く明らかに、何しに外のわけあらむやと自らことわる也」とある。○凡貿2易本物1其罪不v輕――この句以下は特に戯言である。凡そ本の物をすり易へることは、その罪が輕くはない。貿易はここでは惡意を以て物を交換することに用ゐてある。○正倍※[貝+藏]宜急并滿――正※[貝+藏]と倍※[貝+藏]とは、どちらも急に揃へて償への意。正※[貝+藏]とは盗んだものをその儘に償はすこと。倍※[貝+藏]は二倍にして償はしめること。○今勒2風雲1發2遣徴使1――今、風雲に乘せて徴發の使をそちらへ派遣した。勒は轡。馬を御するが如く、風雲を御して。風雲に乘せてといふに同じであらう。○早速返報不v須2延回1――早速返報して下さい。遲くなつてはいけませぬ。囘は元暦校本などに廻に作るのがよいであらう。○物所2貿易1下吏――物をすり替へられた下役入。池主自身のこと。○謹訴2貿易人斷官司廳下1――謹んで、すり易へた人を裁判する官人の役所に訴へます。○別白――別伸。別に申上げます。舊本、別日とあるは誤。元暦校本による。○可怜之意不2v能黙止1――おもしろいと思ふ感興が、黙つてゐることが出來ません。○聊述2四詠1准2擬睡覺1――聊か四首の歌を詠んで睡氣覺ましに備へます。
 
4128 草枕 旅の翁と 思ほして 針ぞ賜へる 縫はむ物もが
 
久佐麻久良《クサマクラ》 多比乃於伎奈等《タビノオキナト》 於母保之天《オモホシテ》 波里曾多麻敝流《ハリゾタマヘル》 奴波牟物能毛賀《ヌハムモノモガ》
 
貴方ハ私ヲ〔五字傍線〕(久佐麻久良)旅ノ翁ト思召シテ、針ヲ下サイマシタ。針バカリデハ仕方ガアリマセヌ。ツイデニ〔針バ〜傍線〕縫フモノモ欲シウゴザイマス。
 
○奴波牟物能毛賀《ヌハムモノモガ》――縫ふべき物が欲しい。ガは希望を意味す。賀を舊本負に作るは誤。元暦校本によつて改(423)めた。
〔評〕 池主の年輩はよくわからないが、多分さしたる老齡ではあるまい。旅の翁と言つたのは戯である。針を得て更に縫ふべきものを得むと乞ふのも亦戯言である。その串戯氣分がおもしろい。
 
4129 針袋 取りあげ前に置き かへさへば おのともおのや 裏も繼ぎたり
 
芳理夫久路《ハリブクロ》 等利安宜麻敝爾於吉《トリアゲマヘニオキ》 可邊佐倍波《カヘサヘバ》 於能等母於能夜《オノトモオノヤ》 宇良毛都藝多利《ウラモツギタリ》
 
貴方ガ下サツタ〔七字傍線〕針袋ヲ手ニ取リ上ゲテ前ニ置イテ、裏反シテ見ルト、呆レタトモ呆レタ、裏モ澤山ノ巾ヲ〔五字傍線〕續ギ合セテアル。タイシタ針袋ダ〔七字傍線〕。
 
○芳理夫久路《ハリブクロ》――針袋。針袋については書牘の語釋に説いて置いた。○等利安宜麻敝爾於吉《トリアゲマヘニオキ》――手に取上げて前に置いて。この句は九音になつてゐる。○可邊佐倍波《カヘサヘバ》――返せばの延言。袋を裏返せばの意。○於能等母於能夜《オノトモオノヤ》――代匠記靭稿本に、「もしこれはわがにはあらぬにやと、かへして裏をみれば、おのがともいかにもおのがなりと決するなり」とあり、己が物とも己が物なるよの意としてゐる。考には「おもてもおもやと云なり。能と毛と通ひ、等と弖も通へば、言を通して表も表やといふをかくいふなり。」といつてゐる。代匠記説は兎も角として、考の説は無理であらう。然るに新撰宇鏡に「吁、疑怪之辭也、於乃」とあるによつて解すると、あきれたともあきれたよといふやうな意に見ることが出朱るから、それがよいであらう。○宇良毛都藝多利《ウラモツギタリ》――裏もついである。
〔評〕 これも戯言らしいふざけ氣分の歌だ。第二句の取り上げ前に置きは、馬鹿丁寧なわざとらしい言ひ方で、第四句も、とぼけた言葉である。從つて裏も繼いであるといふのも、果して實際かどうか、疑ふ餘地があるの(424)ではないか。
 
4130 はり袋 帶びつづけながら 里ごとに てらさひ歩けど 人も咎めず
 
波利夫久路《ハリブクロ》 應婢都都氣奈我良《オヒツヅケナガラ》 佐刀其等邇《サトゴトニ》 天良佐比安流氣騰《テラサヒアルケド》 比等毛登賀米授《ヒトモトガメズ》
 
貴方ノ賜ハツタ〔七字傍線〕針袋ヲ、私ハ身體ニ〔五字傍線〕イツモツケテ、里毎ニ見セビラカシテ、歩クケレドモ、誰モ〔二字傍線〕人ガ立派ナモノダト〔七字傍線〕言ツテ見咎メルモノハナイ。ソレモソノ筈デス。品ガヒドイノデスカラ〔ソレ〜傍線〕。
 
○應婢都都氣奈我良《オヒツヅケナガラ》――身に帶び續けながら。絶えず續けて身に帶びながら。針袋を數多く帶びる意ではない。應婢の二字は假名として珍らしい。略解に「按に應婢の字いと異樣なる假字書也。誤字あらむか。」とある。なるほど應は集中、他に用例はないが、韻鏡内轉第四十二開、曾攝の文字で於證切であるから、オの假名に用ゐるに不思議はない。婢の例はいくらでもある。新考は上の都を爾に改めて、オビニツケナガラと訓んでゐる。○天良佐比安流氣騰《テラサヒアルグド》――テラサヒは照シの延言。即ち衒ひ歩けど、見せびらかして歩けどの意。○比等毛登賀米授《ヒトモトガメズ》――人が誰も見咎めない。代匠記初稿本には「過分の針袋なれど、越中守殿より給はりたりと聞て、人もとがめぬなり。又みづから旅の翁とよみたれば、ゆきひらのおきなさび人なとがめそとよめるやうに、分に應ぜねど翁さぴすと見て、人もとがめずといへる歟」とあり、同じく精撰本には「落句は人も目にたてて見とがめぬなり。田舍なる故に好絹をも知らぬなり」と説を改めてゐる。古義は初稿本の後説に從つてゐるが、略解に「心はわろき袋なれば、人にてらさひほこれど、誰心につけて、めでとがむるものもなしと言ふ意也」とある。略解説がよい。
〔評〕 家持から贈られた針袋が、里人の注意を惹かないことを述べて、さしたるよい品でないと言つてゐるのは、やはりふざけた氣分であらう。
 
4131 鳥が鳴く あづまを指して ふさへしに 行かむと思へど 由もさねなし
 
(425)等里我奈久《トリガナク》 安豆麻乎佐之天《アヅマヲサシテ》 布佐倍之爾《フサヘシニ》 由可牟等於毛倍騰《ユカムトオモヘド》 與之母佐禰奈之《ヨシモサネナシ》
 
私ハ此ノ針袋ヲ持ツテ、(等里我奈久)東ノ國〔二字傍線〕ヲサシテ、幸ヲ求メニ行カウト思フケレドモ、ソノ方法ガホントニアリマセン。
 
○等里我奈久《トリガナク》――東《アヅマ》の枕詞。卷二の鳥之鳴吾妻乃國之《トリガナクアヅマノクニノ》(一九九)參照。○布佐倍之爾《フサヘシニ》――フサヘを爲《シ》にの意と思はれるが、フサヘが明瞭でない。代匠記初稿本に、「ふさへしには、おさへしにといふ心なり。國のおさへとなる心なり。云々」とあり、同じく精撰本は、「ふさへしには、ふさはしになり。物のふさふとは相應するを云へば、かかるめてたき針袋を帶ては、吾妻なとに行てこそふさふべければ、此袋をふさはしに、吾妻の方へゆかばやと思へど、行べき由のなきとなり。云々」とある。考には榮添無《ハエソヘナ》しにの意としてゐるが、牽強の言で意もよく通じない。略解は、ふさへは、ふさはずの反對で、ここは幸を得に行かむと云ふ意としてゐる。古義は、倍之《ヘシ》の約が比《ヒ》だから、布佐比爾《フサヒニ》で、布佐比とは、今も自慢することを、フサルといふに同じだといつた、今村樂の説を擧げてゐるが、別に布を於の誤として、鎭《オサヘ》しは東國の鎭守府將軍などに、行かうと思ふといふのであらうとしてゐる。いづれも無理な説である。しばらく略解説によつて、フサヘはフサフこと。即ち適應することから轉じて、幸を得る意に用ゐられたものとしたい。○與之母佐禰奈之《ヨシモサネナシ》――方法も實に無い。東國に出かけて行つて、幸を得ようと思ふが、その方法が全く無いといふのである。池主が、越前の任にあるからであらう。
〔評〕 意味がよくわからないのは遺憾である。特に吾妻を指してと言つたのは、當時東なる陸奥の小田なる山から黄金が出たといふので、謂はゆる黄金狂時代を現出してゐたのであるから、一攫千金を夢見て東國へ赴くものが多かつたのであらう。池主は既に天平十年の頃覓珠玉使として東國に旅したことがあつたので、貰つた針袋を下げて、出かけて見ようと思ふが、任地を猥りに離れることは出來ないと言つたのであらう。但しこれも(426)戯言であることは勿論である。
 
右歌之返報歌者脱漏(シテ)不v得2探求(スルヲ)1也
 
右の地主の歌に對する家持の返歌は、脱漏して探求することが出來ないといふのである。家持の手記の文としては、少し穩やかでないやうにも考へられないことはない。考には後人のさかしらとして捨ててゐる。古義は返歌が心にかなはないので、わざと忘脱《ワスレ》たやうに記したのであらうと言つてゐる。なほ研究を要する。
 
更(ニ)來(リ)贈(レル)歌二首
 
前に池主から家持へ贈つた戯歌に對して、家持から返歌があり、それに對して更に池主から家持に贈つた二首の歌。
 
依(リテ)d迎(フル)2驛使(ヲ)1事(ニ)u、今月十五日、到2來(ス)部下加賀郡境(ニ)1、面蔭(ニ)見2射水之郷(ヲ)1、戀緒(ヲ)結(ブ)2深海之村(ニ)1、身(ハ)異(レド)2胡馬(ニ)1、心(ハ)悲(シブ)2北風(ニ)1、乘(ジテ)v月(ニ)徘徊(シ)、曾(テ)無(シ)v所v爲(ス)、稍開(ク)2來封(ヲ)1、其辭(ニ)云々、著者先(ニ)所(ノ)v奉(ル)書、返(リテ)畏(ル)度(レル)v疑(ニ)歟、僕作(リ)2囑羅(ヲ)1、且(ツ)惱(マス)2使君(ヲ)1夫(レ)乞(ヒテ)v水(ヲ)得v酒(ヲ)、從來能口論(ジテ)時(ニ)合(ハバ)v理(ニ)、何(ゾ)題(セム)2強吏(ト)1乎、尋(ギテ)誦(スルニ)2針袋(ノ)詠(ヲ)1詞泉酌(メドモ)不v渇、抱(キテ)v膝(ヲ)獨咲(フ)、能(ク)※[益+蜀]《ノゾク》2旅愁(ヲ)1陶然(トシテ)遣(ル)v日(ヲ)、何(ヲカ)慮(ラム)何(ヲカ)思(ハム)、短筆不宣、
 
勝寶元年十二月十五日徴(リシ)v物(ヲ)下司(427)謹(ミテ)上(ル)2 不仗使君(ノ)記室(ニ)1
 
これは二首の歌に添へた書牘である。
 
○依d迎2驛使1事u――驛使を迎へる爲に。驛使は政府からの使者、下に加賀郡境の深海村に來たやうに記してあるから、越中から越前に入る使である。○加賀郡――當時越前の東隅即ち今の石川縣の石川・河北の二郡に當る地を加賀郡と稱した。弘仁十四年二月、越前の江沼・加賀の二郡を割いて、加賀國とした。○面蔭見2射水郷1――面蔭に射水郷を見るとは、曾つて自分が住んだ射水郷のことが眼前にちらついて見えるといふのである。射水郷は射水郡の地で、即ち越中國府の附近をさしてゐる。面蔭に見るは國語式の言ひ方である。當時かうした日本式漢文が行はれてゐタのである。○戀緒結2深海之村1――戀の思ひの糸を深海の村で結ぶ。緒は糸であるから、縁語として結ぶと言つたのである、これも日本式の言ひ方であらう。深海村で貴方を戀しく思つてゐる。深海は前に深見村(四〇七三)とあつたのと同所で、延喜式の驛名、深見、今の石川縣河北郡津幡附近の地、礪波山越ト能登路との分岐點で、越中の國境に近い。○身異2胡馬1心悲2北風1――文選に。胡馬依2北風1越鳥巣2南枝1とあるによつて、自分は胡馬ではないが、胡馬のやうに心は北風に向つて、もと住んだ越中を悲しく思ひ出すといふのである。○乘v月徘徊曾無v所v爲――月光に乘じて徘徊するばかりで、全く爲す術がない。曾はカツテと訓ましめて、總べての意に用ゐたらしい。これも漢字の國語式用法であらう。○稍開2來封1――漸くお手紙を開いて見ますと。舊本、稍を梢に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。○其辭云々――元暦校本に云々とある。舊本、云は云々の脱で、その手紙の文句に云々とあるといふのであらう。筆者が省いて書いたものである。○著者先所v奉書――著者は手紙を書いた者の意で、池主が自身のことを言つたのであらう。略解に「著者云々の十一字は、家持卿よりの來封を披見るに、其書に有し辭と見ゆ」とあるがさうではあるまい。○返畏度v疑歟――返つて畏る疑に度れるかとは、却つて貴方の誤解を招いたかを恐れます。○僕作囑羅――囑羅とある羅は※[口+羅]の省略で、(428)囑※[口+羅]はやかましく頼むことだと新解に述べてある。略解に「囑※[口+羅]は池主より家持卿へ袋を縫てとあつらへたる事ならむ」とある。新考は「作を咋の誤として僕|咋《サキ》ニ羅ヲ囑シとよむべし云々」とある。○使君――家持を指す。○夫乞v水得v酒從來能口――遊仙窟に乞v漿得v酒、舊來神口、打v兔得v〓非2意所1v望とあるに據つたもの。乞v水得v酒とは、つまらないものを乞うて佳い物を得ること。從來能口は、もとよりの巧言。口上手。○論時合v理――論ずることが時に道理に合ふならば。○何題2強吏1乎――どうして無道の役人と言はうか。さうは言はれない。題は名づけるといふやうな意。家持からの書簡に、池主を戯に強吏と稱してあつたのであらう。○尋誦2針袋詠1――尋いで貴方の御作の針袋の歌を。口ずさんで見ますと。家持から池主に贈つた針袋の歌は、右に記した脱漏して探求するを得ざるものである。○詞泉酌不v渇――詞の泉は酌んでも渇かない。泉の水の滾々として盡きないやうに、詩想が溢れてゐる。渇は温故堂本竭に作つてゐる。略解は竭に改めてゐるが、訓義辨證には渇は竭の古字だとある。○抱v膝獨咲能※[益+蜀]2旅愁1――膝を抱へて獨で坐つてゐて、獨で笑つて、能く旅の愁を除くことが出來ました。○陶然遣v日何慮何思――陶然として愉快に日を送つて、何の心配も何の思ふこともありませぬ。○徴v物下司――物を無理に催促して取つた下役人。○不仗使君記室――仗は杖に通じて、不仗は鞭打たざる寛大なるの意か。或は仗は伐の誤か。不伐は誇らざるの意。元暦校本その他の古寫本、多く不伏に作つてゐる。これによれば人に伏せざる、尊貴の意か。記室は書記。舊本紀室に作つてゐるのは誤であらう。元暦校本その他記に作るものが多い。
 
別(ニ)奉(ル)云云歌二首
 
云云は、池主の文章があつたのを省略したもので、書簡に添へて、別に奉る歌二首といふのである。前文にも其辭云々とあり、ここにも云云と原文を省略してゐるのに注意したい。
 
4132 たたさにも かにも横さも 奴とぞ 我はありける 主の殿戸に
 
(429)多多佐爾毛《タタサニモ》 可爾母與己佐母《カニモヨコサモ》 夜都故等曾《ヤツコトゾ》 安禮波安利家流《アレハアリケル》 奴之能等乃度爾《ヌシノトノトニ》
 
縱カラ見テ〔二字傍線〕モ横カラ見テ〔二字傍線〕モ、兎モ角モ、私ハ貴方ノ御殿ノ戸ノ處〔二字傍線〕ニ、奴トシテ御仕ヘスル身ノ上〔トシ〜傍線〕デアリマスヨ。
 
○多多佐爾毛《タタサニモ》――竪樣にも。竪から見ても。○可爾母與己佐母《カニモヨコサモ》――彼にも横樣も。かうして横から見ても。○夜都故等曾《ヤツコトゾ》――奴とぞ。奴は奴隷。自から卑下して、家持の奴隷だといつてゐる。○奴之能等能度爾庭《ヌシノトノトニ》――主の殿戸に。家持を尊んで主《ヌシ》といつてゐる。貴方の御殿の戸の處に。殿外《トノト》又は戸の外と見る説はどうであらう。
〔評〕 初二句は面白い言ひ方だ。或は當時の俗言を、その儘とり入れたものかも知れない。奴と主とを對照してあるのも作者の工夫であらう。
 
4133 針袋 これはたばりぬ すり袋 今は得てしが 翁さびせむ
 
波里夫久路《ハリブクロ》 己禮波多婆利奴《コレハタバリヌ》 須理夫久路《スリブクロ》 伊麻波衣天之可《イマハエテシガ》 於吉奈佐騰勢牟《オキナサビセム》
 
針袋、ソレハ已ニ〔二字傍線〕頂戴致シマシタ。私ハツイデニ、モウ一ツ〔私ハ〜傍線〕、摺袋ヲ今ハ欲シウゴザイマス。サウシタラソノ二ツヲ下ゲテ歩イテ〔サウ〜傍線〕翁ラシク致シマセウ。
 
○己禮波多婆利奴《コレハタバリヌ》――これは頂戴致しました。タバリヌは給はりぬ。○須理夫久路《スリブクロ》――すり袋はどんな物か明らかでない。代匠記初稿本は敦忠家集に。「親盛からものの使にて行くに、かねの火うちほくそに沈をして、しのぶをすりたる布の袋に。うちつけに思ひいづとや故郷のしのぶ草にてすれるなりけり」とあるによつて、火燧《ヒウチ》を入れる袋とし、考に、乎志也理《ヲシヤリ》袋で、食物を入れる袋だとある。同書の奧人按には、理比の約理で、摺火(430)袋だらうと言つてゐる。古義には※[竹/鹿]袋《スリブクロ》なるべし。※[竹/鹿]《スリ》は和名抄行旅具に、説文(ニ)云、※[竹/鹿]、竹篋也、楊氏漢語抄(ニ)云※[竹/鹿]子、須利、主鈴式に、凡行幸從駕内印、并驛鈴傳符等、皆納(テ)2漆(ノ)※[竹/鹿]《スリ》子1、主鈴|與《ト》2少納言1共(ニ)預(テ)供奉(セヨ)云々とある是なり。さて須利《スリ》といへる名義は、未(ダ)詳には知(ラ)れねど、今(ノ)世にこいふ皮籠《カハゴ》の類にて、旅客のもはら負て持ありく具なるが故に、行旅(ノ)具とせるなるべし。さてその※[竹/鹿]《スリ》を納る袋を、※[竹/鹿]袋《スリブクロ》といへるか、又は其(ノ)袋を、※[竹/鹿]代《スリシロ》に製(シ)たるを、やがて※[竹/鹿]袋《スリブクロ》といへるにもあるべし」とある。新考は古義の中山嚴水の藥袋《クスリブクロ》説を採り、更に久《ク》の字が脱ちたものとしてゐる。これらの諸説のうちで、火燧袋とするのは、火を打つことをする〔二字傍点〕といふ筈はないから不合理である。代匠記に引いた敦忠集の詞書も歌も、しのぶ草で摺つた布の袋であるから證とはし難い。※[竹/鹿]《スリ》子袋とするのも想像に過ぎない。藥袋説も從ひかねる。寧ろ摺染の布で作つた袋とするのが穩やかであらう。○伊麻婆衣天之可《イマハエテシカ》――今は得たいものだ。○於吉奈佐備勢牟《オキナサビセム》――翁らしくしよう。摺袋などを事々しく腰に着けるのは、老翁らしい風姿なのであらう。新考に「爵|進《サビ》にて年ヨリノ伊達なり」とあるはいかが。
〔評〕 針袋を得て、更に摺袋を求めるのは、隴を得て蜀を望むものか。ハリとスリとが韻を揃へたやうになつてゐるのは、殊更にしたものか。針袋摺袋と翁さびとの關係が明らかでないのは遺憾である。
 
宴席(ニ)詠(メル)2雪月梅花(ヲ)1歌一首
 
4134 雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ はしき兒もがも
 
由吉能宇倍爾《ユキノウヘニ》 天禮流都久欲爾《テレルツクヨニ》 烏梅能播奈《ウメノハナ》 乎理天於久良牟《ヲリテオクラム》 波之伎故毛我母《ハシキコモガモ》
 
雪ノ降ツテヰル上ニ、月ガ美シク〔三字傍線〕照ツテヰル夜ニ、梅ノ花ヲ手折ツテ贈ツテヤルヤウナ、愛スル女ガアレバヨイガ。私ニハサウイフ女ガナイノハ殘念ダ〔私ニ〜傍線〕。
 
(431)○乎理天於久良牟波之伎故毛我母《ヲリテオクラムハシキコモガモ》――折つて贈るべき愛する女があればよい。自分が折つて贈るのである。古義に「折で吾に贈り賜らむといふなるべし」とあるのは誤解であらう。
〔評〕 宴席で雪と月と梅花と詠んだもの。十二月の作で北國では未だ梅には早いから、實景を歌つたのではあるまい。下句に孤獨の淋しさが見えてゐる。藤原公任の「しらしらとしらけたる夜の月影に雪かきわけて梅の花折る」の先驅をなした作である。
 
右一首十二月大伴宿禰家持
 
元暦校本その他、家持の下に作の字ある本が多い。
 
4135 吾がせこが 琴取るなべに 常人の いふ歎しも いやしき増すも
 
和我勢故我《ワガセコガ》 許登等流奈倍爾《コトトルナベニ》 都禰比登乃《ツネヒトノ》 伊布奈宜吉思毛《イフナゲキシモ》 伊夜之伎麻須毛《イヤシキマスモ》
 
吾ガ友ガ琴ヲ手ニ〔二字傍線〕取ツテ彈ク〔三字傍線〕ノニツケテ、世間ノ〔三字傍線〕一般ノ人ガ、琴ヲヒクト悲シミガ涌クト〔琴ヲ〜傍線〕イフソノ悲シミガ、涌イテ來テ〔五字傍線〕愈々頻リニ悲シミガ〔四字傍線〕増シテ來ルヨ。
 
○和我勢故我《ワガセコガ》――吾が友が。勢古《セコ》は主人の石竹を指すものらしい。○許登等流奈倍爾《コトトルナベニ》――琴を手にするにつれて。琴を彈くのと共に。○都禰比登能《ツネヒトノ》――常人《ツネビト》即ち尋常の人の、一般の人のの意。前の都禰比等能《ツネヒトノ》(四〇八〇)・卷十九の常人毛《ツネヒトモ》(四一七一)と同じ。これを常に人のの意とするは當らない。○伊夜之伎麻須毛《イヤシキマスモ》――彌頻りに増すよ。
〔評〕 主人の石竹が琴を彈ずるのを聞いて、哀愁を催して家持が詠んだものである。卷七に琴取者嘆先立蓋毛琴之下樋爾嬬哉匿有《コトトレバナゲキサキダツケダシクモコトノシタヒニツマヤコモレル》(一一二九)とあり、琴の音は悲しみを誘ふものとしであつたものらしい。但し邊境に宰たる若い國守の、感傷的氣分のあらはれと見ることも出來る。
 
(432)右一首少目秦伊美吉石竹(ノ)舘(ノ)宴(ニ)守大伴宿禰家持作(ル)
 
元暦校本には宿禰の二字がない。石竹の傳は四〇八六の題詞參照。
 
天平勝寶二年正月二日、於(テ)2國廳(ニ)1給(ヘル)2饗(ヲ)諸郡司等(ニ)1宴(ノ)歌一首
 
正月國廳に於て國守が管下の郡司を饗するならはしになつてゐたと見える。卷二十の本集の最後の歌も、三年正月一日於因幡國廳賜饗郡司等之宴歌一首とある。
 
4136 足引の 山の木末の ほよ取りて かざしつらくは 千年壽ぐとぞ
 
安之比奇能《アシビキノ》 夜麻能許奴禮能《ヤマノコヌレノ》 保與等理天《ホヨトリテ》 可射之都良久波《カザシツラクハ》 知等世保久等曾《チトセホグトゾ》
 
(安之比奇能)山ノ木ノ梢ニ生エテヰル寄生木ヲ採ツテ、挿頭ニシタノハ、千年モ長命ヲスルヤウニト祈ツテノコトデス。
 
○夜麻能許奴禮能《ヤマノコヌレノ》――山の木末の。山の木の梢に生えてゐる。○保與等里天《ホヨトリテ》――保與《ホヨ》は、和名抄に「寄生、本草云、寄生、一名寓木、寓亦寄也音遇、夜度利岐、一云保夜」とあるものと同じで、寄生木《ヤドリギ》のことであらう。寄生木は榎・櫻・栗その他の樹上に寄生する植物で、※[木+解]寄生科、※[木+解]寄生屬、莖は木質で高さ二三尺位、三四寸毎に節を有し、若い部分は緑色を呈してゐる。葉は細い倒卵形で對生革質をなす。花は單性、雌雄異株淡黄色。果實は球形、漿果状、緑黄色であ(433)る。常緑植物であるから、めでたいものと考へられてゐたのであらう。元暦校本は里を理に作つてゐる。○可射之都良久波《カザシツラクハ》――挿頭にしたことは。○知等世保久等曾《チトセホグトゾ》――千歳の壽をことほぐとてなるぞの意。ホグは祝ふこと。
〔評〕 寄生木のやうな特種な植物を詠んだ唯一の歌で、かの紫芝を瑞物として尊んだのと同一思想から、寄生木が弄ばれたものかと思はれる。然らばこれも支那風の考へ方であらう。卷十九の此の人の作、青柳乃保都枝與治等理可豆良久波君之屋戸爾之千年保久等曾《アヲヤギノホツエヨヂトリカヅラクハキミガヤドニシチトセホクトゾ》(四二八九)と同型である。
 
右一首守大伴宿禰家持作(ル)
 
判官久米朝臣廣繩之舘(ニ)宴(ノ)歌一首
 
判官は掾である。國守が長官、介が次官、判官はその次である。
 
4137 正月立つ 春のはじめに かくしつつ あひし笑みてば 時じけめやも
 
牟都奇多都《ムツキタツ》 波流能波自米爾《ハルノハジメニ》 可久之都追《カクシツツ》 安比之惠美天婆《アヒシヱミテバ》 都枳自家米也母《トキジケメヤモ》
 
正月ガ來タ春ノ始メニ、カウシテ宴會ヲシテ、面白ク〔八字傍線〕共ニ笑ツテヰルナラバ、コレカラ〔四字傍線〕、何時デモコンナニシテヰラレナイコトハナイ筈ダ。
 
○安比之惠美天婆《アヒシヱミテバ》――互に笑ひ合つたならば。シは強める助詞。○等枳自家米也母《トキジケメヤモ》――少し解し難い句である。卷四に河上乃伊都藻之花乃何時何時來益我背子時自異目八方《カハノヘノイツモノハナノイツモイツモキマセワガセコトキジケメヤモ》(四九一)とあるのは、時じからめやも、時ならずと(434)いふことはない。何時でもよろしいの意であるから、それに傚へば、何時でもこれからは今日のやうに樂しくしてゐようといふ意と見るべきであらう。
〔評〕 年頭の賀詞に過ぎない。今日のやうに樂しく、一年を送らうといふのである。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。
 
同月五日守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
縁(リテ)d※[手偏+僉]2察(スル)墾田地(ヲ)1事(ニ)u宿(ル)2礪波郡(ノ)主張多治比部(ノ)北里之家(ニ)1、于v時忽起2風雨1不v得2辭去(スルヲ)1作(レル)歌一首
 
墾田地は前に東大寺占墾地使僧云々(四〇八五)とあるところに説明した如く、寺が私に開墾した田地で、それを寺領とすることを許されてゐたのである。但し新考には養老七年夏四月の詔と、天平十五年五月の詔とを引いて、庶人の開墾したものとしてゐる。墾田地の調査に國守自から囘つたとすると、至るところに散在する庶民のものではあるまいと思はれる。主帳は舊本、帳を張に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。主帳は郡の佐官。孝徳天皇紀にフミヒトと訓んである。顆員令に「大郡主帳三人、掌(ル)d受(テ)v事(ヲ)上抄(シ)、勘2署(シ)文案(ヲ)1、檢2出(シ)稽失(ヲ)1、讀(ミ)c申(スコトヲ)公文u餘(ノ)主帳准(セヨ)v此(ニ)」とある。多治比部北里の傳は明らかでない。
4138 やぶなみの 里に宿借り 春雨に こもりつつむと 妹に告げつや
 
(435)夜夫奈美能《ヤブナミノ》 佐刀爾夜度可里《サトニヤドカリ》 波流佐米爾《ハルサメニ》 許母理都追牟等《コモリツツムト》 伊母爾都宜都夜《イモニツゲツヤ》
 
私ガ〔二字傍線〕夜夫奈美ノ里ニ宿ヲ借リテ、春雨ニ降リ籠メラレテ〔七字傍線〕閉ヂ籠ツテ居ルト、留守居ノ〔四字傍線〕妻ニ告ゲタカドウカ。心配シテヰルダラウカラ告ゲテヤリタイモノダ〔心配〜傍線〕。
 
○夜夫奈美能《ヤブナミノ》――夜夫奈美《ヤブナミ》は古義に「神名帳に越中國礪波郡荊波神社とありて、(荊波はヤブナミなり、舊本にウハラと訓るは、よしもなきことなり。荊をヤブと訓こと、和名秒に、新川郡大荊於保也布とあり)北里が家居地なるべし」とある通りであるが、今その所在を知り得ないのは遺憾である。今、西礪波郡内に藪波村があるけれども、これは明治時代に、古名を襲うて附したもので、この夜夫奈美の里の舊地ではない。主帳の住居地とすれば、礪波郡家の所在地であつたであらう。○許母理都追牟等《コモリツツムト》――コモリは閉ぢ籠ること。ツツムも同じく籠つてゐること。共に雨に降り籠められたことである。卷六に雨隱《アマゴモリ》(九八〇)・卷四に雨乍見《アマヅツミ》(五二〇)とある。この他、例が多い。○伊母爾都宜都夜《イモニツゲツヤ》――妹に告げたか。妹が心配してゐるであらうから、知らせてやりたいといふのである。代匠記精撰本は、卷十九の勝寶二年三月廿日の歌と同月廿三日の歌との間に、爲3家婦贈2在v京尊母1所v誂作歌があつて、その時家持の妻、大伴坂上大孃が越中にゐたことは確實であり、又この卷の勝寶元年閏五月までの歌には妻は京にゐたのであるから、この年の秋冬の間に越中へ來てゐたのであらうとし、古義は卷十九の潜※[盧+鳥]歌(四一五六)によつて妻が京に留つてゐると解して、この時なほ妻は越中に下つてゐなかつたから、これは京なる妻を指したのだとしてゐる。大伴坂上大孃が越中に來たのは何時とも明らかではないが、潜※[盧+鳥]歌の吾妹子我可多見我※[氏/一]良等紅之八塩爾染而於已勢多流服之襴毛等寳利※[氏/一]濃禮奴《ワギモコガカタミガテラトクレナヰノヤシホニソメテオクリタルコロモノスソモトホリテヌレヌ》の句は、妻と同棲してゐる時の言葉ではないやうだが、併し今は同棲中でも、衣を贈られた時は獨居の時であつたと見ることも出來るから、この歌を以て證としようとするのは無理ではあるまいか。寧ろ代匠記の説によつて、この時既に坂上大孃が、國府に來てゐたものとしたい。然らばこの妹は妻の坂上大孃である。
〔評〕 留守居の妻を思ふ心。妹に告げつやと屬僚などに問ふ言葉らしいが、そこに愛情が溢れてゐる。妹を屬僚(436)の妻とするのは當らない。
 
二月十八日守大伴宿禰家持作(ル)
 
舊本、家持作の三字がないのは脱ちたのであらう。元暦校本その他の古本によつて改めた。
 
萬葉集卷第十八
 
卷第十九
 
(437)萬葉集卷第十九解説
 
この卷は大伴家持の手記として考へられてゐる卷十七以下の一團中の一卷で、部門を立てないことも他の三卷と同樣である。家持が越中在任中の天平勝寶二年三月一日の作から、翌三年七月少納言に任ぜられ、八月五日出發歸京、以後在京、翌四年を經て、五年二月二十五日に至るまで、三ケ年の作品を順次に記してゐる。その間に聞き及んだ古歌をも、その耳にした月日のままに記入してゐる。歸京後は越中守時代に比して作品の數が激減してゐる。歌數は長歌二十三首・短歌百三十一首、計百五十四首である。しかもその内の百三首が家持の作品であり、その他のものも、家持の參列した饗宴の席上の作や、彼に贈られた歌が大部分を占めてゐるのは、この卷が家持の手記たることを語るものである。併しここにこの卷について特に注意を要することは、この卷の用字法が他の三卷と同じく、一字一音の假名書式になつてゐながら、意字を用ゐることの著しく多いことである。また孝謙天皇が入唐使藤原朝臣清河に賜はつた御製の如きは、元暦校本その他の古寫本は、恰も宣命と同一形式になつて、助詞を右に寄せて小字で記してあるのは、蓋し原本の姿がその儘保存せられてゐるものである。なほこの卷の大伴家持の作品は、卷末に斷つである通り、一々署名がしてないのも、他卷と異なる點である。何故にこの卷のみがかかる特異の形式を有してゐるかは、我等に重大なる且つ興味ある題目を提供してあるのであるが、これらの點からして、他の三卷が原形を書き改められた中に、この卷のみが原の儘に手を加へられずに、(438)遺つたのではないかとの、想像説も成立してゐる。併しながら本集の卷の中に、後に改書したものがあるかどうかといふことは、極めて重大な問題であつて、輕々に論斷すべきではないから、ここには他卷との相異點を擧げで、後考を俟つことにしよう。この卷の藝術價値は、さして高いとは言はれない。萬葉末期の型に嵌つた、熱のない作品が多くなつてゐるのが目に立つ。併し卷末の三首は萬葉集の他卷には見えない、一種獨創の歌風で、家持の作歌技倆の頂點に達した傑作といふことが出來る。萬葉集はここに到つて、爛熟の域に達したものと見るべきであらう。
 
(439)萬葉集卷第十九
 
天平勝寶二年三月一日之暮、詠2桃李花1歌二首
見2翻翔鴫1作歌一首
二日攀2楊黛1思2京師1歌一首
攀2折堅香子草花1歌一首
見2歸雁1歌二首
夜裏聞2千鳥喧1歌二首
聞2曉鳴※[矢+鳥]1歌二首
遙聞2泝v江船人唱1歌一首
三日越中守大伴宿禰家持之舘宴歌三首
八日詠2白大鷹1歌一首并短歌
潜v※[盧+鳥]歌一首并短歌
過2澁溪崎1見2巖上樹1歌一首
悲2世間無常1歌一首并短歌
(440〜443略)
(444)高麗朝臣福信遣2難波1賜2肴酒入唐使藤原朝臣清河等1御歌一首并短歌
大伴家持爲v應v詔儲作歌一首并短歌
天皇太后共幸2於大納言藤原卿家1時、賜2黄葉澤蘭於大納言藤原卿并陪從大夫1御歌一首
十一月八日太上天皇於2左大臣橘朝臣宅1肆宴歌四首
二十五日新甞會肆宴應詔歌六首
二十七日林王宅餞2但馬按察使橘奈良麿朝臣1宴歌三首
五年正月四日於2治部少輔石上朝臣宅嗣家1宴歌三首
十一日大雪述2拙懐1歌三首
十二日侍2内裏1聞2千鳥喧1歌一首
二月十九日於2左大臣橘家宴1見v攀2折柳條1歌一首
二十三日依v興作歌二首
二十五日詠2〓〓1歌一首
 
(445)天平勝寶二年三月一日之暮、眺2矚(シテ)春苑(ノ)桃李花(ヲ)1作(レル)歌二首
 
眺矚とは眺め視ること。韻會に矚視之甚也とある。この卷で作者を記さないのは、いづれも家持作である。
 
4139 春のその くれなゐにほふ 桃の花 下てる道に 出で立つをとめ
春苑《ハルノソノ》 紅爾保布《クレナヰニホフ》 桃花《モモノハナ》 下照道爾《シタテルミチニ》 出立※[女+感]嬬《イテタテルイモ》
 
春ノ園ニ紅ノ色ニ美シク咲イテヰル桃ノ花ノ、赤ク照ツテ居ル道ニ出テ立ツテヰル、花ノヤウナ美シイ〔八字傍線〕少女ヨ。花ト少女ト相並ンデ誠ニ美シイ〔花ト〜傍線〕。
 
○紅爾保布《クレナヰニホフ》――紅の色に美しく映えてゐる。○下照道爾《シタテルミチニ》――下照るは卷十八に多知婆奈能之多泥流爾波爾等能多弖天《タチバナノシタテルニハニトノタテテ》(四〇五九)とあつた。樹の下が赤く輝くこと。
〔評〕 眼に見るところを、その儘寫生した作で、桃花と少女と相對照して、繪のやうな美しい場面である。
 
4140 吾が園の 李の花か 庭にちる はだれのいまだ 殘りたるかも
 
吾園之《ワガソノノ》 李花可《スモモノハナカ》 庭爾落《ニハニチル》 波太禮能未《ハダレノイマダ》 遣有可母《ノコリタルカモ》
 
吾ガ園ノ李ノ花ガ庭ニ散ルノデアラウカ。ソレトモ薄雪ガ未ダ殘ツテヰルノデアラウカ。李ノ花ノ散ツタノガマルデ雪ノヤウニ見エル。美シイ景色ダ〔李ノ〜傍線〕。
 
○波太禮能未《ハダレノイマダ》――波太禮《ハダレ》は斑雪のことと一般に解釋せられてゐるが、予は薄雪のことかと思つてゐる。卷八の沫雪香薄太禮零登《アワユキカハダレニフルト》(一四ニ○)參照。しかし、なほ研究を要する。
〔評〕 上句と下句と相對して、共に疑問の形式になつてゐる。もとより標題の如く、李の花を詠んだものだが、(446)この形式を採つたのが作者の工夫の存するところである、かなりの作といつてよからう。卷八の沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アワユキカハダレニフルトミルマデニナガラヘチルハナニノハナゾモ》(一四二〇)から暗示を持たか。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
見(テ)2飛翻(ビ)翔(ル)鴫(ヲ)1作(レル)歌一首
 
飛は衍字であらう。元暦校本その他、この字の無い本が多い。翻翔は飛びかける。鴫は歌に志藝《シギ》とある。田に棲む鳥であるから、鴫の字を用ゐる。これは和字である。
 
4141 春まけて 物かなしきに さ夜ふけて 羽ぶき鳴く鴫 たが田にか住む
 
春儲而《ハルマケテ》 物悲爾《モノカナシキニ》 三更而《サヨフケテ》 羽振鳴志藝《ハブキナクシギ》 誰田爾加須牟《タガタニカスム》
 
春ガ來テ何トナク〔四字傍線〕物悲シイノニ、夜更ケテ羽バタキヲシナガラ、鳴イテヰル鴫ハ、誰ノ田ニ棲ンデヰル鴫〔傍線〕デアラウカ。アノ聲ヲ聞クトイヨイヨ悲シクナル〔アノ〜傍線〕。
 
○春儲而《ハルマケテ》――春を待ち受けて、春になつて。卷五の波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》(八三八)參照。○三更而《サヨフケテ》――三更は夜半の子の刻をいふ。これをサヨフケテと訓ましめるのは、義訓である。○羽振鳴志藝《ハブキナクシギ》――ハブキは羽ばたきすること。振をフキとよむのは山|吹《ブキ》を山振と記すのと同じである。志藝は鴫。和名抄に一、〓、玉篇云、〓音籠、漢語抄云、之岐、一云田鳥野鳥也」とある。渉禽類の嘴の長い中形の鳥である。
〔評〕 春の哀愁に沈んでゐる夜半に、羽たたきしながら鳴く鴫の聲を聞いて詠んだもの。感傷的な氣分が淋しい調子に盛られてゐる。題に翻び翔る鴫を見てとあるのに對して、歌意がこれに反するのはどうしたのであらう。注意を要する問題ではないか。和歌童蒙抄に載せてある。
 
(447)二日、攀(ヂテ)2柳黛(ヲ)1思(フ)2京師(ヲ)1歌一首
 
柳黛は柳の眉。黛は眉墨なるを、眉の意に用ゐたのである。ここは芽を出した柳の枝のことである。攀は本集では引き折ることに用ゐてある。
 
4142 春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば京の 大路おもほゆ
 
春日爾《ハルノヒニ》 張流柳乎《ハレルヤナギヲ》 取持而《トリモチテ》 見者京之《ミレバミヤコノ》 大路所念《オホヂオモホユ》
 
春ノ日ニ青々ト芽ヲ〔五字傍線〕張ツタ柳ノ枝ヲ手ニ〔二字傍線〕取リ持ツテ見ルト、柳ノ木ガ並ンデヰル〔九字傍線〕都ノ大通ノ春景色〔四字傍線〕ガ想ヒヤラレル。
 
○張流柳乎《ハレルヤナギヲ》――芽を出した柳を。芽の出ることを張るといふのである。
[評〕 越路の任にあつて、青柳の靡く都大路の様を想ひやつたあはれな歌。しんみりとした氣分である。當時は既に柳を街路樹として植ゑたことも知られる。代匠記精撰本に「下句の意。京の大路を行かふ美女の黛の匂ひを思ひ出るなり、題に攀柳黛思京師とかける黛の字、かねて此意を含めり」とあるは考へ過である。なほ同書に「第十に、梅の花取持見れば我宿の柳の眉し思ほゆるかも。此歌を取用られたるべし」とあるのも、どうであらう。
 
攀(ヂ)2折(ル)堅香子草花(ヲ)1歌一首
 
堅香子はカタカゴ、今のカタクリのことで、百合科の植物、地下莖から二枚の葉を出し、春早くその中間から花莖を抽出して、紅紫色の百合のやうな花を頂端に開く。略解に「越にては、かたこゆりとも言へり。かたくりは、かたこゆりの約りたる言也」とあるのは當つてある。六帖にこ(448)れをカタカシと訓んで、木の部に入れたのは滑稽である。
 
4143 もののふの 八十をとめらが くみまがふ 寺井の上の 堅香子花
 
物部乃《モノノフノ》 八十乃※[女+感]嬬等之《ヤソヲトメラガ》 ※[手偏+邑]亂《クミマガフ》 寺井之於乃《テラヰノウヘノ》 堅香子之花《カタカゴノハナ》
 
(物部能)澤山ノ少女等ガ、大勢〔二字傍線〕入リ胤レテ水ヲ汲ンデヰル、寺ノ境内ノ清水ノホトリニ咲イタ山慈姑《カタクリ》ノ花ヨ。少女モ美シク、花モ美シイ〔少女〜傍線〕。
 
○物部能《モノノフノ》――枕詞。朝廷に奉仕する物部の數が多い意で、八十とつづく。○八十乃※[女+感]嬬等之《ヤソヲトメラガ》――舊本八十の下に乃の字があるが、元暦校本にないのがよい。澤山の少女どもが。○※[手偏+邑]亂《クミマガフ》――入り亂れて汲んでゐる。※[手偏+邑]は水を汲むこと。水※[手偏+邑]家牟《ミヅクマシケム》(一八〇八)・人者※[手偏+邑]云《ヒトハクムトフ》……※[手偏+邑]入之《クムヒトノ》(三二六〇)・※[手偏+邑]而飼旱《クミテカフカニ》(三三二七)などの例がある。○寺井之於《テラヰノウヘノ》――寺井は寺の境内に湧く清水であらう。その寺の所在は明かでないが、國分寺ではなからうかと思はれる。これを地名とするのは誤である。於《ウヘ》の字は上《ウヘ》と同じく用ゐてある。礒之於爾《イソノウヘニ》(一六六)・玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》(三九〇)・諸刃之於荷《モロハノウヘニ》(二六三六)など用例が多い。
〔評〕 寺の境内の隅の方に、滾々と湧き出る清水が湛へてゐる。その後方が直ちに岡になつて、ゆるい傾斜面をなしてある。其處に美しい山慈姑《かたくり》の花が一面に咲いてゐる。美しい里の處女らは、水桶を携へて三々五々相集まつてゐる。ひそひそと囁きあふものもあり、大聲に語つて笑ひ興ずるものもあり、時は春、花も美しく人も美しい。映畫でも見るやうな鮮明な場面である。
 
見(ル)2歸雁(ヲ)1歌二首
 
4144 燕來る 時になりぬと 雁がねは くに思ひつつ 雲隱り喧く
 
(449)燕來《ツバメクル》 時爾成奴等《トキニナリヌト》 鴈之鳴者《カリガネハ》 本郷思都追《クニオモヒツツ》 雲隱鳴喧《クモガクリナク》
 
最早燕ガ飛ンデ來ル時節ニナツタト雁ハ、自分ノ〔三字傍線〕本國ヲ思ヒツツ、雲ノ中ニ姿ヲ隱シナガラ鳴イテヰル。今國ヘ歸ルノデアラウ〔今國〜傍線〕。
 
○燕來《ツバメクル》――和名抄に「〓、爾雅集注云、〓、烏見反、豆波久良米、白〓小鳥也」とあり、古くからツバメともツバクラメとも言つたらしい。この鳥は春の社日に來つて、秋の社日に歸ると言はれてゐる(社日は春分、秋分に最も近い前後の戊《ツチノエ》の日)。燕と雁とが入れ替ることは、月令に「孟春之月鴻雁|來《カヘル》仲春之月、是月也玄鳥至、注玄島燕也」とある。三月二日であるから仲春と考へてさしつかへない。○本郷思都追《クニオモヒツツ》――本郷を舊訓にフルサトとあるのはよくない。故郷をクニと言つた例は卷十に吾屋戸爾鳴之鴈哭雲上爾今夜喧成國方可聞遊群《ワガヤドニナキシカリガネクモノウヘニコヨヒナクナリクニヘカモユク》(二一三〇)など、他にも多い。
〔評〕 支那流の季節觀念によつて詠んだもの。感興の淺い概念的な作である。和歌童蒙抄に載せてある。
 
4145 春まけて かく歸るとも 秋風に もみづる山を 越え來ざらめや 一云、春されば歸るこの雁
 
春設而《ハルマケテ》 如此歸等母《カクカヘルトモ》 秋風爾《アキカゼニ》 黄葉山乎《モミヅルヤマヲ》 不超來有米也《コエコザラメヤ》
 
春ガ來タノデ、カウシテ雁ハ本國ヘ飛ンデ〔八字傍線〕歸ツテモ、秋風ガ吹ク時〔四字傍線〕ニ、又コノ國ヘ來テ〔七字傍線〕紅葉シタ山ヲ越エナイコトハアルマイ。秋ニナツタラ是非トモ飛ンデ來イ〔秋ニ〜傍線〕。
 
○春設而《ハルマケテ》――前に春儲而《ハルマケテ》(四一四一)とある。○黄葉山乎《モミヅルヤマヲ》――舊訓モミヂノヤマヲとある。略解はモミデムヤマヲ、古義はモミヂムヤマヲとよんでゐる。モミヅルヤマヲがよいであらう。
〔評〕 雁は前の歌に讓つて、ここには言つてない。これも平凡。
 
(450)一云 春去者《ハルサレバ》 歸此鴈《カヘルコノカリ》
 
これは初二句の異傳であるが、恐らく二樣に作つたのであらう。これには雁が詠み込んである。
 
夜裏聞(ク)2千鳥(ノ)喧(クヲ)1歌二首
 
夜裏は夜中といふに同じ。
 
4146 夜くだちに 寐ざめてをれば 河瀬とめ 心もしぬに 鳴く千鳥かも
 
夜具多知爾《ヨクダチニ》 寐覺而居者《ネザメテヲレバ》 河瀬尋《カハセトメ》 情毛之努爾《ココロモシヌニ》 鳴知等理賀毛《ナクチドリカモ》
 
夜更ケニナツテ、目ガ覺メテヰルト、川瀬ヲ尋ネテ、川ノ方デ私ノ〔六字傍線〕心ヲ痛マシメルヤウナ、淋シイ聲ヲ出シテ〔八字傍線〕千鳥ガ鳴イテヰルヨ。アア、アノ聲ヲ聞クト何トナク心ガカナシクナル〔アア〜傍線〕。
 
○夜具多知爾《ヨクダチニ》――クダチは降《クダ》るに同じく。夜クダチは夜更け。卷七に待乍居爾與曾降家類《マチツツヲルニヨゾクダチケル》(一〇七一)とある。○河瀬尋《カハセトメ》――河瀬を尋ねて。河の流の方に千鳥の聲がするのを、かく言つたのである。○情毛之奴爾《ココロモシヌニ》――心もしをしをと萎れて。
 
〔評〕 千鳥について情毛之奴爾《ココロモシヌニ》と詠んだのは、人麿の淡海乃海夕浪千鳥汝鳴者情毛思努爾古所念《アフミノミユフナミチドリナガナケバココロモシヌニイニシヘオモホユ》(二六六)とあり、内容からは、赤人の卷六の烏王之夜乃深去者久木生留清河原爾知鳥數鳴《ヌバタマノヨノフケヌレバヒサギオフルキヨキカハラニチドリシバナク》(九二五)を想ひ起さしめるものがある。もとよりこれらの作には及ばないが、あはれな感じは出てゐる。
 
4147 夜くだちて 鳴く河千鳥 うべしこそ 昔の人も しぬび來にけれ
 
夜降而《ヨクダチテ》 鳴河波知登里《ナクカハチドリ》 宇倍之許曾《ウベシコソ》 昔人母《ムカシノヒトモ》 之努比來尓家禮《シヌビキニケレ》
 
(451)夜ガ更ケテ鳴ク川千鳥ノ聲〔二字傍線〕ハ、マコトニナツカシイ聲ダ〔マコ〜傍線〕。昔ノ人ガコレヲ懷カツガツタノハ尤ダ。
 
○昔人母之努比來尓家禮《ムカシノヒトモシヌビキニケレ》――の人と言つて、しぬび來にけれと受けては、上下のかけ合がわるい。さりとて、昔より人もしぬび來にけれとやうに、作者は言ひたくなかつたのであらう。シヌビはなつかしく慕はしく思ふこと。
〔評〕 昔の人とは、前に引いた赤人の吉野の作(九二五)などを指したものであらう。前の歌の連作であつて、前よりも劣つてゐる。この歌、和歌童蒙抄と袖中抄とに載つてゐる。
 
聞(ク)2曉(ニ)鳴※[矢+鳥](ヲ)1歌二首
 
4148 椙の野に さをどる雉 いちじろく ねにしもなかむ こもり妻かも
 
椙野爾《スギノヌニ》 左乎騰流※[矢+鳥]《サヲドルキギシ》 灼然《イチジロク》 啼爾之毛將哭《ネニシモナカム》 己母利豆麻可母《コモリヅマカモ》
 
椙ノ野デ勢ヨク踊ツテ喧シク鳴イテ〔六字傍線〕ヰル※[矢+鳥]ヨ。御前ハサウ人ノ目〔七字傍線〕目ニ立ツヤウニ、聲ヲ出シテ鳴クベキ隱レ妻カヨ。人ニ隱レテヰルベキ隱妻ダカラ、黙ツテ鳴カズニヰレバヨイニ〔人ニ〜傍線〕。
 
○椙野爾《スギノヌニ》――國府廳背後の丘上の平地で、杉が茂つてゐたのであらう。地名とするのは當らぬやうだ。椙は※[木+褞の旁]と同字。杉に同じ。○左乎騰流※[矢+鳥]《サヲドルキギシ》――さ踊る雉。サは接頭語。雉の鳴き騷ぐのを、踊るといつたのである。○啼爾之毛將哭《ネニシモナカム》――聲を出して泣くべき。シモは強く言つたもの。○己母利豆麻可母《コモリヅマカモ》――隱り妻かよ。否、さうではない。汝は隱妻だから、さう聲を出して鳴くべきではないと、叱責したやうな言ひ方である。隱妻は人目を忍ぶ妻。雉の草木にかくれて棲むのを、面白くかう言つたのである。古義の解は全く誤つてゐる。
〔評〕 曉の雉の聲を聞いて、その音に立てて鳴くのを咎めたのである。雉を隱妻としたところに、滑稽味がある。この歌、和歌重蒙抄に載せてある。鴨長明集に「うきながらすぎ野のきじの聲立ててさをどるばかり物をこそ(452)思へ」夫木集の「御かりする人や聞くらむすぎの野にさをどる雉子聲しきるなり」などは、これを本歌としてゐる。
 
4149 足引の やつをの雉 なきとよむ 朝けの霞 見ればかなしも
 
足引之《アシビキノ》 八峯之※[矢+鳥]《ヤツヲノキギシ》 鳴響《ナキトヨム》 朝開之霞《アサケノカスミ》 見者可奈之母《ミレハカナシモ》
 
幾山モツヅイタ(足引之)峯ノ中デ〔二字傍線〕雉ガ、ケタタマシク〔六字傍線〕聲ヲ響カセテ鳴イテヰル夜明ケ方ニ、立籠メタ〔五字傍線〕霞ヲ見ルト、何トナク〔四字傍線〕悲シイヨ。
 
○足引之《アシビキノ》――八峯《ヤツヲ》の峯《ヲ》につづく枕詞として置かう。但し足引を直ちに山の意に見られないこともない。○八峯之※[矢+鳥鳩《ヤツヲノキギシ》――重なりつづく峯に棲む雉。國府廳背後の二上山つづきの山を指してゐる。これを地名とするのは論外だ。この下にも八峯の用例は澤山ある。○見者可奈之母《ミレバカナシモ》――このかなしもは、おもしろい意ではない。哀愁が湧いて來ることである。
〔評〕 二句の八峯の雉に、遠近の山々に鳴き頻る曉の雉の聲が想像せられる。その聲を包んで、曉の霞の帷が深く棚曳いてゐる。その聲に耳を傾け、その景を見つめてゐる作者の眼には、涙の露が宿つてゐる。多感の詩人らしい感傷的な作。
 
遙(ニ)聞(ク)2※[さんずい+斤](ル)v江(ヲ)船人(ノ)唱(ヲ)1歌一首
 
國守館に寢てゐて、丘の下を流れる射水河の舟歌を聞いた歌。
 
4150 朝床に 聞けばはるけし 射水河 朝漕ぎしつつ 唱ふ船人
 
朝床爾《アサドコニ》 聞者遙之《キケバハルケシ》 射水河《イミヅガハ》 朝己藝思都追《アサコギシツツ》 唱船人《ウタフフナビト》
 
(453)射水河ヲ朝漕ギナガラ、唄ヲ謠ツテヰル船人ノ聲〔二字傍線〕ガ、朝寢床ノ中デ聞イテヰルト、遙カニ遠ク〔二字傍線〕聞エル。
 
○朝床爾《アサドコニ》――朝の寢床の中で。○聞者遙之《キケバハルケシ》――聞くと遙かに聞える。遠くかすかに聞える。○朝己藝思都追《アサコギシツツ》――朝船を漕ぐことを朝漕ぎといつたのである。
〔評〕 春の朝、獨り床中にあつて、遠く河上を渡り來る船歌を聞いた若い國守の胸は、何とも名状し難い哀愁に鎖されたであらう。その感情が淋しい調子をなして、この歌の中に盛られてゐる。よい作だ。今、勝興寺と稱する古刹が建つてゐる、舊國守館址に立つて、脚下の射水河を俯瞰する時、この歌のあらはしてゐる氣分が、よくわかるやうである。口繪參照。朝床・朝漕と朝を重ねたのは拙いやうだが、この頃の歌としては咎むべきではない。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
三日、守大伴宿禰家持之舘(ニ)宴(ノ)歌三首
 
三日の宴は即ち上巳節句、曲水の宴である。
 
4151 今日の爲と 思ひてしめし 足引の をの上の櫻 かく咲きにけり
 
今日之爲等《ケフノタメト》 思標之《オモヒテシメシ》 足引乃《アシビキノ》 峯上之櫻《ヲノヘノサクラ》 如此開爾家里《カクサキニケリ》
 
今日ノ曲水ノ宴會ノ〔六字傍線〕爲ト思ツテ、私ガ〔二字傍線〕標ヲ立テテ人ニ取テレヌヤウニシテ〔人ニ〜傍線〕置イタアノ(足引乃)山ノ上ノ櫻ハ、コンナニ立派ニ〔三字傍線〕咲キマシタヨ。ア嬉しいシイ〔五字傍線〕。
 
○今日之爲等《ケフノタメト》――今日の三月三日曲水宴の爲と。○思標之《オモヒテシメシ》――思つて標を立てて、人に取られぬやうにして置いた。結句|如此開爾家里《カクサキニケリ》とあるによると、山櫻を折取つて瓶に生けてあるのであらう。類聚古集には思の下に(454)而の字がある。
〔評〕 峰の櫻を遙かに眺めて詠んだのではなくて、山櫻を折つて瓶に挿したのであらう。曲水宴と桃花とはまだ結びついてゐなかつた。
 
4152 奧山の やつをの椿 つばらかに 今日は暮らさね ますらをのとも
 
奧山之《オクヤマノ》 八峯乃海石榴《ヤツヲノツバキ》 都婆良可爾《ツバラカニ》 今日者久良佐禰《ケフハクラサネ》 大夫之徒《マスラヲノトモ》
 
(奧山之八峯乃海石榴)充分ニクツロイデ〔五字傍線〕、今日ハオ暮シナサイヨ。皆サン〔三字傍線〕大丈夫諸君。
 
○奧山之八峯乃海石榴《オクヤマノヤツヲノツバキ》――ツバの音を繰返して都婆艮可《ツバラカ》につづく序詞。奥山の八重に重なる峯に咲いてゐる椿。○都婆良可爾《ツバラカニ》――委曲に。ここは懇ろに充分に、心に思ひ殘すことなくの意であらう。○大夫之徒《マスラヲノトモ》――大丈夫の諸君。宴席の男子に呼びかけたもの。
〔評〕 初二句の序詞は、櫻と共に花瓶に挿してあつた椿を詠み込んだものらしい。椿からツバラカにつづけた爲に、ツバラカから下へのつづきが少し無理のやうに見える。
 
4153 漢人も ふねを浮べて 遊ぶとふ 今日ぞわがせこ 花縵せよ
 
漢人毛《カラヒトモ》 ※[木+伐]浮而《フネヲウカベテ》 遊云《アソブトフ》 今日曾和我勢故《ケフゾワガセコ》 花縵世余《ハナカヅラセヨ》
 
今日ハ三月三日デ〔今日〜傍線〕唐ノ人モ、舟ヲ浮カベテ遊ブトイフ今日デアルゾヨ。吾ガ友ヨ。貴方等モ〔四字傍線〕花縵ヲ頭ニ飾ツテオ遊ビ〔七字傍線〕ナサイ。
 
○漢人毛《カラヒトモ》――曲水宴は支那で始まつて、早く吾が國に入り、既に顯宗天皇紀の二年三月上巳に行はれたことが見えてゐる。カラは廣く外國をさすが、ここは漢の字を用ゐてあるから、支那のことである。○※[木+伐]浮而《フネヲウカベテ》――(455)舊本※[木+伐]とあるは誤、筏又は※[木+筏]・※[木+〓]とある本がよい。〓をイカダとよむ説も多いが、〓は字書に同v筏(ニ)、筏(ハ)説文(ニ)海中(ノ)大船、又|桴《イカダ》也とあり、曲水宴にイカダを浮べるやうな殺風景なことがある筈はないから、古訓にフネとあるに從ふべきであらう。○今日曾和我勢故《ケフゾワガセコ》――今日なるぞ吾が背子よ。吾が背子は宴に列してゐる男子を指す。○花縵世余《ハナカヅラセヨ》――花縵をしなさい。花縵は花を糸で編んで作り頭に飾るもの。余は西本願寺その他、奈に作る本が多い。これによればハナカヅラセナである。意は殆ど變りはない。
〔評〕 曲水宴は支那から渡來の風俗で、文人氣取りの人たちの間に弄ばれたもの。支那尊崇の氣分が見えてゐる。この歌、和歌童蒙抄・新古今集などに見えてゐる。
 
八日詠(メル)2白大鷹(ヲ)1歌一首并短歌
 
白大鷹は歌中に眞白部乃多可《マシラフノタカ》と詠んである。
 
4154 足引の 山坂こえて ゆきかはる 年のを長く しなさかる 越にし住めば 大君の しきます國は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語りさけ 見さくる人め 乏しみと 思ひし繁し そこ故に こころなぐやと 秋づけば 萩咲き匂ふ 石瀬野に 馬たぎ行きて をちこちに 鳥ふみ立て 白塗の を鈴もゆらに 合せ遣り ふり放け見つつ いきどほる 心の中を 思ひのべ 嬉しびながら 枕附く 妻屋のうちに 鳥ぐらゆひ すゑてぞ吾が飼ふ 眞白ふの鷹
 
安志比奇乃《アシビキノ》 山坂超而《ヤマサカコエテ》 去更《ユキカハル》 年緒奈我久《トシノヲナガク》 科坂在《シナサカル》 故志爾之須米婆《コシニシスメバ》 大王之《オホキミノ》 敷座國者《シキマスクニハ》 京師乎母《ミヤコヲモ》 此間毛於夜自等《ココモオヤジト》 心爾波《ココロニハ》 念毛能可良《オモフモノカラ》 語左氣《カタリサケ》 見左久流人眼《ミサクルヒトメ》 乏等《トモシミト》 於毛比志繁《オモヒシシゲシ》 曾己由惠爾《ソコユヱニ》 情奈具也等《ココロナグヤト》 秋附婆《アキヅケバ》 芽子開爾保布《ハギサキニホフ》 石瀬野爾《イハセヌニ》 馬太伎由吉※[氏/一]《ウマダキユキテ》 乎知許知爾《ヲチコチニ》 鳥布美立《トリフミタテ》 白塗之《シラヌリノ》 小鈴毛由良爾《ヲスズモユラニ》 安波勢也理《アハセヤリ》 布里左氣見都追《フリサケミツツ》 伊伎騰保流《イキドホル》 許己呂能宇知乎《ココロノウチヲ》 思延《オモヒノベ》 宇禮之備奈我良《ウレシビナガラ》 (456)枕附《マクラツク》 都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》 鳥座由比《トグラユヒ》 須惠弖曾我飼《スヱテゾワガカフ》 眞白部乃多可《マシラフノタカ》
 
(安志比奇能)山阪ヲ起エテ立チカハル年ヲ幾年モ長ク、(科坂在)越ノ國ニ來テ住ンデヰルト、天子樣ノ御支配遊バス國ハ、都デモ此處デモ同ジダト心デハ思ツテヰルガ、話ヲシテ心ノ憂ヲ〔四字傍線〕ハラシ、相見テ心ノ思ヲ〔四字傍線〕ハラスヤウナ人ガ、少イノデ、物思ガ多イ。ソレ故ニ、私ハ此ノ悲シイ〔七字傍線〕心ガ慰ムカト思ツテ、秋ニナルト萩ノ花〔二字傍線〕ガ咲キ匂フ石瀬野ニ、馬ノ手綱〔三字傍線〕ヲ手繰リナガラ出カケテ行キ、アチラコチラデ草ヲ〔二字傍線〕踏ミツケテ鳥ヲ追ヒ出シ、白ク塗ツタ小イ鈴ノ音モ、カラカラト立テテ、鷹ヲ〔二字傍線〕放ツテ鳥ヲ〔二字傍線〕捕ラセ、空ヲ〔二字傍線〕振リ仰イデ見テ、憂鬱ナ心ノ中ヲハラシ、鷹狩ヲ〔三字傍線〕嬉シク思ヒツツ、(枕附)寐屋ノ内ニ、鳥ノ止マル所ヲ作り、其處ヘ鷹ヲ〔五字傍線〕止マラセテ、私ガ大切ニシテ〔五字傍線〕飼ツテ居ル、白斑ノ鷹ハコレダ。實ニ立派ナ鷹ダ〔七字傍線〕。
 
○去更《ユキカハル》――舊訓ユキカヘルとあるが、考にユキカハルと訓んだのがよい。卷十八にも徃更年能波其登爾《ユキカハルトシノハゴトニ》(四一二五)とある。○科坂在《シナサカル》――枕詞。故志《コシ》に冠す。卷十七の之奈射加流《シナサカル》(三九六九)參照。○大王之敷座國者京師乎母此間毛於夜自等《オホキミノシキマスクニハミヤコヲモココモオヤジト》――オヤジはオナジに同じ。この數句は、卷六の大伴卿の歌、八隅知之吾大王乃御食國者日本毛此間毛同登曾念《ヤスミシシワガオホキミノヲスクニハヤマトモココモオナジトゾオモフ》(九五六)を取り入れたものである。○語左氣《カタリサケ》――語りて心を晴らす。○見左久流人眼乏等《ミサクルヒトメトモシミト》――見て心を晴らす人が、乏しいので。○於毛比志繁《オモヒシシゲシ》――物思が多い。志《シ》は強めて言ふのみ。○曾己由惠爾《ソコユヱニ》――それ故に。○情奈具也等《ココロナグヤト》――心が慰むかと。○石瀬野爾《イハセヌニ》――石瀬は和名抄に越中國新川郡石勢伊波世とあるところ、即ち今の富山市北方の海岸なる、東岩瀬の地とする説が多いが、地形上さうは思はれない。多分今の射水部の大門町の北方、石瀬《イシセ》の地であらう。○馬太伎由吉※[氏/一]《ウマタギユキテ》――多伎《タギ》は手繰ること。手綱をあやつること、卷十四にも可奈之伎我古麻波多具等毛《カナシキガコマハタグトモ》(三四五一)とある。○鳥布美立《トリフミタテ》――大地を踏みつけて、鳥を隱れた場所から追ひ立てる。卷六に夕狩爾十里〓立《ユフカリニトリフミタテ》(九二六)とある。○白之塗小鈴毛由良爾《シラヌリノヲスズモユラニ》――白塗の小鈴は鷹の尾につけた銀鍍の鈴。由良爾《ユラニ》は(457)音の鳴り響くをいふ。※[王+倉]々。○安波勢也理《アハセヤリ》――鷹を放つて鳥を捕へしめることを、合せるといふ。○伊伎騰保流《イキドホル》――憤慨するといふほどの強い意ではなく、心の欝々として晴れないのをいふのが、この語の本義である。垂仁天皇紀に懷悒をイキドホリテとよみ、允恭天皇紀に悒懷をイキドホリオモフと訓んである。○枚附《マクラツク》――枕詞。妻屋《ツマヤ》につづくのは、夫婦枕を並べて寢るからである。○都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》――都麻屋は夫婦相寢る閨をいふ。○鳥座由比《トグラユヒ》――鳥座は塒。鳥の宿るべきところ。鳥屋。和名抄に「塒音時訓止久良」とある。○眞白部乃多可《マシラフノタカ》――眞白斑の鷹。白斑の多い鷹。題詞に白大鷹とあるやうに、一見白く見えるが、斑のある鷹であらう。袖中抄に「顯昭云、しらふの鷹とは、鷹にはあかふ、くろふ、しらふとて、三つの毛のある、そのしらふの中に、よくしろみたるを、ましらふといふ歟」とある。
〔評〕 家持が鷹狩を好んだことは、卷十七に思2放逸鷹1夢見感悦作歌(四〇一一)と見えてゐる。かれは蒼鷹であつたが、これは白の大鷹である。これには邊境に守たる欝悒の情を、鷹狩にまぎらはさむとする意を述べてゐる。自慢の鷹を大切にする心もあらはれてゐる。
 
反謌
 
4155 矢形尾の ましろの鷹を やどに据ゑ かきなで見つつ 飼はくしよしも
 
矢形尾乃《ヤカタヲノ》 麻之路能鷹乎《マシロノタカヲ》 屋戸爾須惠《ヤドニスヱ》 可伎奈泥見都追《カキナデミツツ》 飼久之余志毛《カハクシヨシモ》
 
尾ニ矢形ノ斑ノアル、眞白ノ鷹ヲ私ノ〔二字傍線〕家ニ飼ツテ〔三字傍線〕置イテ、撫デサスツテ見ナガラ、可愛ガツテ〔五字傍線〕飼フノハ面白イモノダヨ。
 
○矢形尾乃《ヤカタヲノ》――矢の形をした尾の鷹。卷十七にも矢形尾乃安我大黒爾《ヤカタヲノアガオホクロニ》(四〇一一)とある。その條參照。○飼久之余(458)志毛《カハクシヨシモ》――飼ふのはよいことだよ。飼ふのが面白いといふのである。
〔評〕 平凡な作。熱が無いのは、内容が然らしめたのであらう。和歌童蒙抄・袖中抄・和歌色葉集などに載つてゐる。
 
潜(クル)v※[盧+鳥](ヲ)歌一首井短歌
 
※[盧+鳥]をツカフと訓むのは面白くない。文字通り※[盧+鳥]ヲカヅクル歌と訓みたい。舊本に并短歌の三字がないのは脱ちたのである。元暦校本によつて補つた。
 
4156 あらたまの 年ゆきかはり 春されば 花咲き匂ふ 足引の 山下とよみ 落ちたぎち 流る辟田の 河の瀬に あゆ兒さ走る 島つ鳥 鵜かひともなへ かがりさし なづさひ行けば 吾妹子が 形見がてらと くれなゐの 八しほに染めて おこせたる 衣の裾も とほりてぬれぬ
 
荒玉能《アラタマノ》 年往更《トシユキカハリ》 春去者《ハルサレバ》 花耳爾保布《ハナサキニホフ》 安之比奇能《アシビキノ》 山下響《ヤマシタトヨミ》 墮多藝知《オチタギチ》 流辟田乃《ナガルサキタノ》 河瀬爾《カハノセニ》 年魚兒狹走《アユコサバシル》 島津鳥《シマツドリ》 鵜養等母奈倍《ウカヒトモナヘ》 可我理左之《カガリサシ》 奈頭佐比由氣婆《ナヅサヒユケバ》 吾妹子我《ワギモコガ》 可多見我※[氏/一]良等《カタミガテラト》 紅之《クレナヰノ》 八鹽爾染而《ヤシホニソメテ》 於己勢多流《オコセタル》 服之襴毛《コロモノスソモ》 等寳利※[氏/一]濃禮奴《トホリテヌレヌ》
 
(荒玉能)年ガ過ギ改ツテ春ガ來ルト、花ガ美シク咲イテヰル(安之比奇能)山ノ下ヲ音高ク響カセナガラ、落チテ泡立ツテ流レル辟田川ノ、川ノ瀬ニハ鮎ノ子ガ走リ泳イデヰル。ソレデ私ハ〔五字傍線〕(島津鳥)鵜飼人ヲツレテ、篝火ヲ焚イテ水ノ中ヘ〔四字傍線〕漬ツテ行クト、私ノ妻ガ別レル時ニ〔五字傍線〕、形見カタガタ紅ノ濃イ色ニ染メテ贈ツテクレタ、着物ノ裾ガ裏表徹ツテ濡レタ。
 
○花耳爾保布《ハナサキニホフ》――耳は開の誤とした考の説がよい。下にも春去者花開爾保比《ハルサレバハナサキニホヒ》(四一六〇)とある。○流辟田乃《ナガルサキタノ》――ナ(459)ガルルといふべきを、、ナガルから體言につづくのは古格である。卷十八にも流水沫能《ナガルミナワノ》(四一〇六)と訓んである。辟田河は所在不明。澁谷磯に注ぐ紅葉川とする説があるが、それは細谷川といふべき潺流で、鮎など棲まず、もとより鵜養などなすべき流でない。今の西田《サイダ》村附近を流れてゐる河とする説もあるが、これも小流であり、殊に布勢水海を干拓しなかつた當時は、現在よりも更に短かかつたと思はれる節があるから、これも疑はしい。なほ研究を要する。○年魚兒狹走《アユコサバシル》――舊訓にサバシリとあるよりも、サバシルの方がよい。サは接頭語。○島津鳥《シマツドリ》――枕詞。※[盧+鳥]とつづく意は明らかである。○鵜養等母奈倍《ウカヒトモナヘ》――鵜養する男を從へ。トモナヘはトモナフといふ他動詞の連用形であらう。隨伴せしめること。この下に麻須良乎々等毛奈倍立而《マスラヲヲトモナヘタテテ》(四一八九)とある。○可我理左之《カガリサシ》――篝火を照らし。卷十七に賣比河波能波夜伎瀬其等爾可我里佐之《メヒカハノハヤキセゴトニカガリサシ》(四〇二三)とある。○奈津左比由氣波《ナヅサヒユケバ》――ナヅサフは水に漬り濡れること。津は元暦校本その他、頭に作る本が多いのに、よるべきであらう。○可多見我※[氏/一]良等《カタミガテラト》――形見をかねて、形見かたがた。○八鹽爾染而《ヤシホニソメテ》――幾度も染料に入れるのを八|入《シホ》に染めるといふ。○於己勢多流《オコセタル》――贈つて來た。○等寶利※[氏/一]濃禮奴《トホリテヌレヌ》――裏表徹つて濡れた。この衣を近頃妻が京から贈つて來たものとすれば、妻の坂上大孃がなほ在京したことになるが、妻は已に越中に來てゐるにも拘はらず、曾て妻から贈られた衣なることか想ひ起して、詠んだとすれば、さうも見られる。予は後説を採る。なほ卷十八の伊母爾都宜都夜《イモニツゲツヤ》(四一三八)參照。
〔評〕 鷹の歌に併せて鵜養の歌を詠んでゐる。國守の長閑な遊樂氣分があらはれてゐる。歌は平凡。
 
反歌
 
4157 くれなゐの 衣にほはし 辟田河 絶ゆることなく われかへりみむ
 
紅乃《クレナヰノ》 衣爾保波之《コロモニホハシ》 辟田河《サキタガハ》 絶己等奈久《タユルコトナク》 吾等眷牟《ワレカヘリミム》
 
私ハ私ノ妻ガ形見トシテ贈ツテクレタ〔私ハ〜傍線〕紅ノ着物ヲ川ノ水ニ映ジナガラ、コノ〔二字傍線〕辟田川ヲコノ川ノ水ノ絶エナイヤ(460)ウニ〔ヲコ〜傍線〕絶エズ來テ見ヨウ。
 
○衣爾保波之《コロモニホハシ》――ニホフは色の美しく映えること。ここは衣の色が水に映ずることである。水に濡れて紅の色が濃く見えるとする説は當らない。○吾等眷牟《ワレカヘリミム》――眷は舊本に看とあるが、元暦校本によつて改む。
〔評〕 卷一の雖見飽奴吉野乃河之常滑乃絶事無複還見牟《ミレドアカヌヨシヌノカハノトコナメノタユルコトナクマタカヘリミム》(三七)に傚つたものであらう。型に嵌つた作。
 
4158 としのはに 鮎し走らば 辟田河 鵜八つかづけて 河瀬尋ねむ
 
毎年爾《トシノハニ》 鮎之走婆《アユシハシラバ》 左伎多河《サキタガハ》 ※[盧+鳥]八頭可頭氣※[氏/一]《ウヤツカヅケテ》 河瀬多頭禰牟《カハセタヅネム》
 
毎年點ガコンナニ〔四字傍線〕澤山泳イデヰルナラバ、私ハコノ〔四字傍線〕辟田川ニ鵜ヲ澤山潜ラセテ、川瀬デ鮎〔二字傍線〕ヲ探ラセヨウ。
 
○鮎之走婆《アユシハシラバ》――鮎の字は卷十三に上瀬之年魚矣令咋下瀬之點矣令咋麗妹爾鮎遠惜《カミツセノアユヲクハシメシモツセノアユヲクハシメクハシイモニアユヲヲシミ》(三三三〇)とも用ゐてある。漢字でナマヅのことなるを、年魚に借るのは吾が國の特訓である。神功皇后、御裳の糸を拔取り、飯粒を餌として年魚を釣つて、事の成否を占ひ給うたので、鮎の字を用ゐるといふのは、俗説であらう。○※[盧+鳥]八頭可頭氣※[氏/一]《ウヤツカヅケテ》――鵜を澤山に川に潜らせて。前に掲げた卷十三の歌にも鵜矣八頭漬《ウヲヤツカツケ》(三三三〇)とある。
〔評〕 前歌と略々同樣な内容である。これも凡作。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
季春三月九日、擬(シテ)2出擧之政(ニ)1、行(ク)2於舊江(ノ)村(ニ)1、道(ノ)上(ニ)屬(クル)2目(ヲ)物花(ニ)1之詠、并(ニ)興中所作之歌
 
出擧は稻を百姓に貸して利稻を取ること。委しくは卷十七(四〇二九)の左註に説いて置いた。擬は古義に「この擬(ノ)字はいと輕く用る例多し。たゞ出擧の政を行はむために、と云意なりと本居氏説なり」とあるが、新考にコトヨセテと訓み、托しての意としたのがよいであらう。舊江村は布勢水海(461)に沿うた村。委しくは卷十七遊覧布勢水海賦(三九九一)の題下の説明參照。物花は物華。景色。目を物花に屬すとは景色を眺めること。これは次の都當麻を指す。並以下は次の六首を指すらしい。
 
過(ギ)2澁溪埼(ヲ)1見(ル)2巖上(ノ)樹(ヲ)1歌一首 樹名都萬麻
 
國府から舊江方面に赴くには、澁溪埼を過ぐるのである。
 
4159 磯の上の つままを見れば 根をはへて 年深からし 神さびにけり
 
礒上之《イソノウヘノ》 都萬麻乎見者《ツママヲミレバ》 根乎延而《ネヲハヘテ》 年深有之《トシフカカラシ》 神左備爾家里《カムサビニケリ》
 
磯ノ上ニ生エテヰル都萬麻ノ木〔二字傍線〕ヲ見ルト、根ヲ長ク延バシテ、大分〔二字傍線〕年ガ經ツテヰルト見エル。神々シイ姿ヲシテヰルヨ。
 
○都萬麻乎見者《ツママヲミレバ》――都萬麻に就いては、從來、磯ムマベ説・トママシ説・妻松説・端松説などがあつたが、タブノキ、一名イヌクス即ち方言タモノキと稱する木とするのが、近時一般に認められるやうになつた。これはこの地方の肝煎宗九郎といふものが、種々研究の結果タモノキと推定し、安政五年戊午にこの歌を石に刻んで澁溪埼に近く、一本のタモノキを後ろにしてこれを建てた。その碑は一時行方を失つてゐたが、松居嚴夫・御旅屋太作氏らの盡力によつて、今は雨晴驛に近く、伏木街道に沿うて建つてゐる。タモノキは犬楠の名の如く、葉は楠に似た常緑樹で樹容も亦雄偉である。老木になると地上に根が盛り上り、如何にも神々しい姿となる。能登氣多神社の末社なる大多※[田+比]神社、同鹿島郡の金丸なる俗稱鎌の宮などは、タモノキの老樹を祀つたものである。委しくは、拙著「北陸萬葉集古蹟研究」を參照せられたい。(462)○根乎延而《ネヲハヘテ》――根を長く伸ばして。地上に長く根を張つてゐるのである。○年深有之《トシフカカラシ》――年が深いとは、多くの年を經たこと。卷六にも一松幾代可歴流吹風乃聲之清者年深香聞《ヒトツマウイクヨカヘヌルフクカゼノコヱノスメルハトシフカミカモ》(一〇四二)とある。
〔評〕 奇巖の峙つ澁溪の崎に立つてゐる老木都萬麻の風姿が、目に見るやうに詠まれてゐる。家持が常に地方色に目をつけて、葦附・堅香子・都萬麻などの、植物を材料として取扱つたことは、感謝すべきである。
 
悲(シム)2世間(ノ)無常(ヲ)1歌一首并短歌
 
4160 天地の 遠き始めよ よの中は 常なきものと 語りつぎ ながらへ來れ 天の原 ふりさけ見れば 照る月も みちかけしけり 足引の 山の木ぬれも 春されば 花咲き匂ひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り もみぢ散りけり うつせみも かくのみならし 紅の 色もうつろひ ぬば玉の 黒髪變り 朝のゑみ 夕べかはらひ 吹く風の 見えぬが如く ゆく水の とまらぬ如く 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 止めかねつも
 
天地之《アメツチノ》 遠始欲《トホキハジメヨ》 俗中波《ヨノナカハ》 常無毛能等《ツネナキモノト》 語續《カタリツギ》 奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》 天原《アマノハラ》 振左氣見婆《フリサケミレバ》 照月毛《テルツキモ》 盈昃之家里《ミチカケシケリ》 安之比奇能《アシビキノ》 山之木末毛《ヤマノコヌレモ》 春去婆《ハルサレバ》 花開爾保比《ハナサキニホヒ》 秋都氣婆《アキヅケバ》 露霜負而《ツユシモオヒテ》 風交《カゼマジリ》 毛美知落家利《モミヂチリケリ》 宇都勢美母《ウツセミモ》 如是能未奈良之《カクノミナラシ》 紅能《クレナヰノ》 伊呂母宇都呂比《イロモウツロヒ》 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 黒髪變《クロカミカハリ》 朝之咲《アサノヱミ》 暮加波良比《ユフベカハラヒ》 吹風能《フクカゼノ》 見要奴我其登久《ミエヌガゴトク》 逝水能《ユクミヅノ》 登麻良奴其等久《トマラヌゴトク》 常毛奈久《ツネモナク》 宇都呂布見者《ウツロフミレバ》 爾波多豆美《ニハタヅミ》 流H《ナガルルナミダ》 等騰米可禰都母《トドメカネツモ》
 
天地開闢〔二字傍線〕ノ遠イ初ノ時カラ〔二字傍線〕、世ノ中ハ無常ナモノト、語リツギ傳ヘテ來タ。空ヲ遙カニ仰イデ見ルト、照ル月モ毛滿チタリ缺ケタリスルヨ。(安之比寄能)山ノ梢モ春ガ來ルト、花ガ咲キ匂ヒ、秋ガ來ルト、露ヲ受ケテ風ニ(463)マジツテ紅葉ガ散ルヨ。人ノ身モコレト同ジデアラウ。若イ時ノ〔四字傍線〕紅ノ顔〔傍線〕色モ變ツテシマヒ、(奴婆多麻能)黒髪モ白髪ト〔三字傍線〕變リ、朝ノ樂シイ〔三字傍線〕笑顔ハ夕方ハ變ツテ終ヒ、吹ク風ガ目ニ〔二字傍線〕見エナイヤウニ、流レル水ガ止マラナイヤウニ、定住セズ變化シテ行クノヲ見レバ悲シクテ〔四字傍線〕庭ノ溜水ノヤウニ、流レル涙ガ止メカネルヨ。
 
○遠始欲《トホキハジメヨ》――遠い天地の始から。ヨはヨリに同じ。○俗中波《ヨノナカハ》――俗をヨと訓ませたのは、俗世間、娑婆といふやうな意として用ゐたのであらう。佛教的用字法である。○奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》――傳つて來た。ナガラヘは流レの延言。キタレはコソの係はないが終止法であらう。○照月毛盈昃之家里《テルツキモミチカケシケリ》――佛數式用語。卷三に世間者空物跡將有登曾此照月者滿闕爲家流《ヨノナカハムナシキモノトアラムトゾコノテルツキハミチカケシケル》(四四二)・卷七に隱口乃泊瀬之山丹照月者盈昃爲烏人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケシケリヒトノツネナキ》(一二七〇)などの前例がある。○毛美知落家利《モミヂチリケリ》――紅葉《モミヂ》が散るよ。古義に「變紅《モミヂ》て散けりと云なり、知は用言なり」とあるのは誤であらう。○宇都勢美母《ウツセミモ》――現身も。人の身も。○紅能伊呂母宇都呂比《クレナヰノイロモウツロヒ》――紅顔も色が變つて。年老いて行くをいふ。○朝之咲暮加波良比《アサノヱミユフベカハラヒ》――朝のにこやかな顔も、夕方は變つて。○吹風能見要奴我其登久逝水能登麻良奴其等久《フクカゼノミエヌガゴトクユクミヅノトマラヌゴトク》――佛教式用語。卷十五に由久美都能可敝良奴其等久布久可是能美延奴我其登久安刀毛奈吉與能比登爾之弖《ユクミヅノカヘラヌゴトクフクカゼノミエヌガゴトクアトモナキヨノヒトニシテ》(三六二五)とあるのを學んだものか。○爾波多豆美《ニハタヅミ》――庭潦のやうに。ニハタヅミは庭の雨の溜水。卷二の庭多泉流涙止曾金鶴《ニハタヅミナガルルナミダトメゾカネツル》(一七八)に傚つたもの。○等除米可禰都母《トドメカネツモ》――元暦校本のみは米を未に作つてゐる。然らばトドミである。
〔評〕 佛教的無常觀を詠んだもの。家持の思想にはかうしたものが早くから見えてゐるが、越中の淋しい住居にその傾向が段々深まつて行つたものらしい。但しこれは卷五の哀世間難住歌(八〇四)を主として學び、その他の古歌をも取り入れたものである。
 
反歌
 
4161 言とはぬ 木すら春咲き 秋づけば もみぢ散らくは 常を無みこそ 一云、常なけむとぞ
 
(464)言等波奴《コトトハヌ》 木尚春開《キスラハルサキ》 秋都氣婆《アキヅケバ》 毛美知遲良久波《モミヂチラクハ》 常乎奈美許曾《ツネヲナミコソ》
 
物ヲ言ハナイ木デスラモ春ハ花ガ〔二字傍線〕咲キ、秋ニナルト紅葉ガ散ルノハ、世ノ中ガ〔四字傍線〕無常ダカラダ。人ガ無常ナノハ仕方ガナイ〔人ガ〜傍線〕。
 
○言等波奴《コトトハヌ》――物を言はぬ。○毛美知遲良久披《モミヂチラクハ》――紅葉が散るのは。モミヂは名詞。動詞と見る説は當るまい。○常乎奈美許曾《ツネヲナミコソ》――無常だからである。このコソは係辭。
〔評〕 卷四のこの人の作に、事不問木尚味狹藍《コトトハヌキスラアヂサヰ》(七七三)とあるのと初二句は似てゐる。樹木の花咲き、紅葉散るのに世の無常を感じたもの。長歌の中の句を再用してゐるのは、巧とは言ひ難い。
 
一云、當無牟等曾《ツネナケムトゾ》
 
當無からむとぞ。五句の異傳であるが、恐らく作者が二樣に作つて置いたものであらう。一云の方が拙いやうだ。
 
4162 うつせみの 常なき見れば 世の中に 心つけずて 念ふ日ぞ多き 一云、嘆く日ぞ多き
 
宇都世美能《ウツセミノ》 常無見者《ツネナキミレバ》 世間爾《ヨノナカニ》 情都氣受※[氏/一]《ココロツケズテ》 念日曾於保伎《オモフヒゾオホキ》
 
コノ〔二字傍線〕人間ノ身ガ無常ナノヲ見ルト、私ハ〔二字傍線〕世ノ中ニ執着シナイデ、考ヘル日ガ多イ。コンナ世ニハ未練モナイ〔コン〜傍線〕。
 
○情都氣受※[氏/一]《ココロツケズテ》――ココロツキズテと訓むのはわるい。心をつけないでといふのは、執着しないこと。未練がないこと。古義に「末(ノ)句は、契沖が心つけて思はぬ日ぞ多きといふ意なりといへるが如し」とあるのは從ひ難い。○念日曾於保伎《オモフヒゾオホキ》――悟つた態度で觀念する日が多いといふのである。少し曖昧な言ひ方である。
(465)〔評〕 下句の言ひ廻しがわるい爲に、解釋がいろいろに分れてゐる。世の無常を感じて、稍悟つたやうな態度である
 
一云|歎日曾於保伎《ナゲクヒゾオホキ》
 
これは五の句の異傳であるが、やはり作者が兩樣に作つたのであらう。世に執着せずして、無常を歎ずる、といふのである。
 
豫(メ)作(レル)七夕(ノ)歌一首
 
4163 妹が袖 われまくらかむ 河の瀬に 霧立ち渡れ さ夜ふけぬとに
 
妹之袖《イモガソデ》 我禮枕可牟《ワレマクラカム》 河湍爾《カハノセニ》 霧多知和多禮《キリタチワタレ》 左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》
 
今夜ハ七夕デアルカラ、妻ノ織女ノ所ヘ通ツテ〔今夜〜傍線〕、妻ノ袖ヲ私ハ枕ニシテ寢ヨウト思フ。ダカラ〔三字傍線〕夜ガ更ケナイ内ニ、天ノ川ノ渡リ瀬ニ霧ガ立チ渡レヨ。ソノ霧ニ隱レテ妻ノ織女ノモトヘ通ツテ行カウ〔ソノ〜傍線〕。
 
○和禮枕可牟《ワレマクラカム》――私は枕しよう。マクラカムは枕することをマクラクといふ動詞の未然形にムを附けたもの。○左欲布氣奴刀爾《サヨフケヌトニ》――夜が更けないうちに。トニは時ニと解してよい。卷十の夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》(一八二二)參照。
〔評〕 織女の許へ通ふ彦星の心になつて詠んだもの。まだ三月の上旬で、七夕の歌を豫め作つて置くとは、隨分の早手廻しである。
 
慕(フ)v振(フヲ)2勇士之名(ヲ)1歌一首并短歌
 
(466)勇士がその勇名を世に轟かしたことを、慕はしく思ふ歌。
 
4164 ちちの實の 父の命 柞葉の 母の命 おほろかに 心盡して 念ふらむ その子なれやも ますらをや 空しくあるべき 梓弓 末ふり起し 投矢もち 千尋射渡し 劍たち 腰に取り佩き 足引の 八峯踏み越え さしまくる 心さやらず 後の代の 語りつぐべく 名を立つべしも
 
知智乃實乃《チチノミノ》 父能美許等《チチノミコト》 波播蘇葉乃《ハハソハノ》 母能美己等《ハハノミコト》 於保呂可爾《オホロカニ》 情盡而《ココロツクシテ》 念良牟《オモフラム》 其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》 大夫夜《マスラヲヤ》 無奈之久可在《ムナシクアルベキ》 梓弓《アヅサユミ》 須惠布理於許之《スヱフリココシ》 投矢毛知《ナグヤモチ》 千尋射和多之《チヒロイワタシ》 劔刀《ツルギタチ》 許思爾等理波伎《コシニトリハキ》 安之比奇能《アシビキノ》 八峯布美越《ヤツヲフミコエ》 左之麻久流《サシマクル》 情不障《ココロサヤラズ》 後代乃《ノチノヨノ》 可多利都具倍久《カタリツグベク》 名乎多都倍志母《ナヲタツベシモ》
 
(知智乃實乃)父上ガ(波播蘇葉乃)母上ガ、普通大抵ニ心ヲツクシテ、可愛イト〔四字傍線〕思フソノ子デアラウカ。決シテサウデハナイ。人タル者ハ皆父母ノアツイ慈愛ヲ受ケテ育ツタノダ。ダカラ〔決シ〜傍線〕大丈夫タル者ガ爲ス事ナク〔五字傍線〕空シク一生ヲ送ルベキデハナイゾ。梓弓ノ先ヲ振リ立テ、矢ヲ持ツテ遠方ニソノ矢ヲ〔四字傍線〕射渡シ、劔太刀ヲ腰ニ取リサシテ(安之比奇能)澤山ノ重ツタ山ヲ越エテ、任命セラレタ心ニソムカヌヤウニシテ、ソノ任務ヲ果シ〔七字傍線〕、後世ノ人ガ語リ傳ヘルヤウニ立派ナ〔三字傍線〕名ヲ立ツベキデアルゾヨ。
 
○知智乃實乃《チチノミノ》――枕詞。同音を繰返して父に冠す。舊本、實を寶に誤つてゐる。チチノミは銀杏の實のこととする説もあるが、それは銀杏の木に乳房状の瘤が垂れるところから、言ひ出したもので、俗説であらう。別に(467)犬枇杷とする説がある。この木には無花果のやうな小さい堅い實が成り、それを搾れば白い乳状の液が出るので、チチノミと稱してゐる。今もその稱呼が九州その他の方言として用ゐられてゐる。○波播蘇葉乃《ハハソハノ》――柞葉の。枕詞。同音を繰返して母とつづく。柞葉は小楢の葉である。卷九の母蘇原《ハハソハラ》(一七三〇)參照。○於保呂可爾《オホロカニ》――オホヨソニ・オロカニ。普通に、尋常に。○其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》――普通に心を盡して思ふその子ならむや、さうではない。父母が熱心に心を碎いて愛する子であるの意。○大夫夜無奈之久可在《マスラヲヤムナシクアルベキ》――山上憶良の士也母空應有《ヲノコヤモムナシカルベキ》(九七八)を採つたもの。立派な勲功を立てないで、空しく死ぬことはない筈だといふのである。○梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスユフリオコシ》――梓弓の弓末を振り起して。弓を射むとする時の樣子である。○投失毛知《ナグヤモチ》――投矢は卷十三の公之佩具之投箭之所思《キミガオバシシナグヤシオモホユ》(三三四五)の投箭と同じく、射る矢のこと。手で投げるのではない。投左乃遠離居而《ナグルサノトホザカリヰテ》(三三三〇)の投左《ナグルサ》も同じ。○左之麻久流《サシマクル》――さし任せる。任命する。サシは接頭語。○情不障《ココロサヤラズ》――心にそむかず。心に反せず。
〔評〕 この歌の左註にある通り、山上憶良臣の卷六、士也母空應有萬代爾語續可名者不立之而《ヲノコヤモムナシカルベキヨロヅヨニカタリツグベキナハタテズシテ》(九七八)に追和した作で、この長歌中にもその詞を用ゐてゐる。武人らしい作者の信念があらはれた、佳い作である。
 
反歌
 
4165 ますらをは 名をし立つべし 後の代に 聞き繼ぐ人も 語りつぐがね
 
大夫者《マスラヲハ》 名乎之立倍之《ナヲシタツベシ》 後代爾《ノチノヨニ》 聞繼人毛《キキツグヒトモ》 可多里都具我禰《カタリツグガネ》
 
大丈夫タル者ハ、立派ナ〔三字傍線〕名ヲ此ノ世ニ〔四字傍線〕立ツベキデアルゾ。サウシテソレヲ〔七字傍線〕後世ニ聞キ傳ヘル人モ、語リ傳ヘテモラヒタイ。
 
○可多里都具我禰《カタリツグガネ》――卷三の語繼金《カタリツグガネ》(三六四)參照。
〔評〕 憶良の歌に追和した作ながら、原歌の氣分と雄偉な格調とを取り入れたのは、巧手と言つてよい。上代日本精神のあらはれた歌だ。以上が興中に作つた歌である。
 
(468)右二首(ハ)追2和(セリ)山上憶良臣(ノ)作歌(ニ)1
 
詠(ル)2霍公鳥并時花(ヲ)1歌一首并2短歌1
 
4166 時ごとに いや珍らしく 八千くさに 草木花咲き なく鳥の こゑもかはらふ 耳に聞き 眼にみるごとに うち嘆き しなえうらぶれ 偲びつ あり來るはしに 木のくれやみ 四月し立てば 夜隱りに 鳴く郭公 昔より 語り繼ぎつる 鶯の うつしまこかも あやめ草 花橘を をとめらが 珠貫くまでに あかねさす 晝はしめらに 足引きの 八つを飛び越え 烏玉の 夜はすがらに 曉の 月に向ひて 往きかへり なきとよむれど いかに飽き足らむ
 
毎時爾《トキゴトニ》 伊夜目都良之久《イヤメヅラシク》 八千種爾《ヤチクサニ》 草木花左伎《クサキハナサキ》 喧鳥乃《ナクトリノ》 音毛更布《コヱモカハラフ》 耳爾聞《ミミニキキ》 眼爾視其等爾《メニミルゴトニ》 宇知嘆《ウチナゲキ》 之奈要宇良夫禮《シナエウラブレ》 之努比都追《シヌビツツ》 有争波之爾《アリクルハシニ》 許能久禮罷《コノクレヤミ》 四月之立者《ウヅキシタテバ》 欲其母理爾《ヨゴモリニ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 從古昔《ムカシヨリ》 可多里都藝都流《カタリツギツル》 ※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》 宇都之眞子可母《ウツシマコカモ》 菖蒲《アヤメグサ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 ※[女+感]嬬良我《ヲトメラガ》 珠貫麻泥爾《タマヌクマデニ》 赤根刺《アカネサス》 晝波之賣良爾《ヒルハシメラニ》 安之比奇乃《アシビキノ》 八丘飛超《ヤツヲトビコエ》 夜干玉乃《ヌバタマノ》 夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》 曉《アカトキノ》 月爾向而《ツキニムカヒテ》 往還《ユキカヘリ》 喧等余牟禮杼《ナキトヨムレド》 何如將飽足《イカニアキタラム》
 
四季毎ニ何時モ珍ラシク、種々ト草木ガ花咲キ、鳴ク鳥ノ聲モ變ツテヰル。ソノ鳥ノ聲ヲ〔六字傍線〕耳ニ聞キ、ソノ花ヲ〔四字傍線〕目ニ見ル毎ニ、歎息シテ心ガ〔二字傍線〕シヲレテ、ナツカシク思ツテ來ル間ニ、木ノ葉ガ茂ツテ暗イ四月ガ來ルト、未ダ夜ノ深イ内ニ鳴ク郭公ハ、昔カラ語リ傳ヘテ來タヤウニ〔三字傍線〕、鶯ノ實際ノ子デアラウカヨ。サウシテ〔四字傍線〕菖蒲草ヤ花橘ヲ、少女等ガ珠ニ貫イテ遊ブ五月〔二字傍線〕マデ、(赤根刺)晝ハ終日、八重ニ重ツタ(安之比奇乃)山ヲ越エテ、(夜干玉之)夜ハ終夜.明ケ方ノ月ニ向ツテ、行ツタリ來タリシテ、飛ビ廻ツテ〔五字傍線〕聲ヲ響カセテ鳴イテヰルケレドモ、ソノ聲ヲイ(469)クラ聞イテモ〔ソノ〜傍線〕、ドウシテ私ハ〔二字傍線〕飽キ足ラウヤ、ドウシテモ飽クコトハナイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○毎時爾《トキゴトニ》――四季毎に。この時は四時、春夏秋冬をいふ。○喧鳥乃音毛更布《ナクトリノコヱモカハラフ》――カハラフはカハルの延言。喧鳥云々と言つたのは、やがて霍公鳥を言ひ出さむ爲である。○之奈要宇良夫禮《シナエウラブレ》――シナエは萎《ナ》えに同じ。ウラブレは心悲しく思ふこと。卷十に於君戀之奈要浦觸吾居者《キミニコヒシナエウラブレワガヲレバ》(一二九八)とある。○有争波之爾《アリクルハシニ》――舊訓アラソフハシニとある。卷二に去鳥乃相競端爾《ユクトリノアラソフハシニ》(一九九)とあるが、ここには穩やかでない。略解に掲げた宣長説に爭を來の誤として、アリクルと訓んだのに從ふ。○許能久禮罷《コノクレヤミ》――木の晩闇。木が繁つて晝も暗いこと。罷は己むの意なるを闇に借りたのである。宣長は罷を能の誤としてコノクレノの誤と言つてゐる。○欲其母理爾《ヨゴモリニ》――夜隱りに。夜深く。夜をこめて。○※[(貝+貝)/鳥]之宇都之眞子可母《ウグヒスノウツシマコカモ》――ウツシは現し。現在の。實際の。眞子のマは美稱。意味はない。霍公鳥は鶯の巣の中に卵を産んで、鶯に育てられる由が、古くから語られてゐた。卷九に※[(貝+貝)/鳥]之生卵乃中爾霍公鳥獨所生而己父爾似而者不鳴己母爾似而者不鳴《ウグヒスノカヒコノナカニホトトギスヒトリウマレテナガチチニニテハナカズナガハハニニテハナカズ》(一七五五)とある。○珠貫麻泥爾《タマヌクマデニ》――珠に貫く頃までに。○赤根刺《アカネサス》――枕詞。晝につづく。既出(二〇)。○晝波之賣良爾《ヒルハシメラニ》――晝は終日。シラメは卷十七に今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》(三九六九)、卷十三に日者之彌良爾《ヒルハシメラニ》(三二九七)とあるも同じ。○夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》――夜は終夜。スガラはその儘。○何如將飽足《イカニアキタラム》――何如はイカガ・イカデ・ナドカ等の訓があるが、何如裳勢武《イカニカモセム》(一三三四)に傚つてイカニと訓むことにする。
〔評〕 霍公鳥とその時の花、菖蒲・花橘を詠んでゐるが、花は一寸添へただけで、主として霍公島を歌つてゐる。例の風流めかした作。優雅に出來てゐる。
 
反歌二首
 
4167 時ごとに いや珍らしく 咲く花を
 折りも折らずも 見らくしよしも
 
毎時《トキゴトニ》 彌米頭良之久《イヤメヅラシク》 咲花乎《サクハナヲ》 折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》 見良久之余志母《ミラクシヨシモ》
 
四季毎ニ、益珍ラシク咲ク花ヲ、折ツテ見テ〔二字傍線〕モ、折ラズニ枝ナガラ眺メルノモ、ドチラモ〔四字傍線〕面白イヨ。
 
(470)○折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》――折つて見るのも、折らないで枝のままで見るのもの意。
〔評〕 これは時の花を愛でたもの。反歌では花と鳥とを一首づつ詠みわけてゐる。
 
4168 年のはに 來なくもの故 郭公 聞けばしぬばく 逢はぬ日を多み
 
毎年爾《トシノハニ》 來喧毛能由惠《キナクモノユヱ》 霍公鳥《ホトトギス》 聞婆之努波久《キケバシヌバク》 不相日乎於保美《アハヌヒヲオホミ》 毎年謂(フ)2之(ヲ)等之乃波《トシノハト》1
 
毎年來テ鳴クモノダノニ、郭公ノ聲〔二字傍線〕ヲ聞カナイ日ガ多イノデ、タマタマ聞クト懷カシク思フ。
 
○來喧毛能由惠《キナクモノユヱ》――來て鳴くものだのに。○聞婆之努波久《キケバシヌバク》――聞くとなつかしく思ふ。シヌバクはシヌブの延言。○不相日乎於保美《アハヌヒヲオホミ》――郭公に逢はない日が多いので、郭公を稀に聞くから。○毎年謂之等之乃波――これは毎年をトシノハと訓むといふ註である。細井本・無訓本にはないが、此の歌を袖中抄に引いたのにも、この通り載せてあるから後人の業ではあるまい。
〔評〕 ○平庸と評する外はない。わかり切つたことを言つてゐるやうで、更に感興がない。
 
右二十日、雖2v未(ト)v及(ハ)v時(ニ)依(リテ)v興(ニ)豫(メ)作(レル)也
 
三月二十日に豫め作り試みた作。これでは感興の湧かないのも無理はない。
 
爲(ニ)3家婦、贈(ラムガ)2在(ル)v京(ニ)尊母(ニ)1所(レテ)v誂(ヘ)作(レル)歌一首并短歌
 
家婦は家持の妻、大伴坂上大孃。在京尊母はその母なる、坂上郎女。この時、坂上大孃は越中國府に來てゐたのである。
 
4169 郭公 來鳴く五月に 咲き匂ふ 花橘の 香ぐはしき 親のみこと 朝よひに 聞かぬ日まねく 天さかる 夷にし居れば 足引の 山のたをりに 立つ雲を 外のみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 念ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の かづき取るとふ しら玉の 見がほしみおもわ ただ向ひ 見む時までは 松かへの  榮えいまさね 尊き吾が君 【御面は、みおもわといふ。】
 
(471)霍公鳥《ホトトギス》 來喧五月爾《キナクサツキニ》 咲爾保布《サキニホフ》 花橘乃《ハナタチバナノ》 香吉《カグハシキ》 於夜能御言《オヤノミコト》 朝暮爾《アサヨヒニ》 不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》 安麻射可流《アマサカル》 夷爾之居者《ヒナニシヲレバ》 安之比奇乃《アシビキノ》 山乃多乎里爾《ヤマノタヲリニ》 立雲乎《タツクモヲ》 余曾能未見都追《ヨソノミミツツ》 嘆蘇良《ナゲクソラ》 夜須家奈久爾《ヤスケナクニ》 念蘇良《オモフソラ》 苦伎毛能乎《クルシキモノヲ》 奈呉乃海部之《ナゴノアマノ》 潜取云《カヅキトルトフ》 眞珠乃《シラタマノ》 見我保之御面《ミガホシミオモワ》 多太向《タダムカヒ》 將見時麻泥波《ミムトキマデハ》 松柏乃《マツカヘノ》 佐賀延伊麻佐禰《サカエイマサネ》 尊安我吉美《タフトキアガキミ》【御面謂之美於毛和】
 
(霍公鳥來喧五月爾笑爾保布花橘乃)ナツカシイ母ノ御言葉ヲ、朝晩ニ聞カナイ日ガ永ク續イテ、(安麻射可流)田舍ノコノ越中〔五字傍線〕ニヰルト(安之比奇乃)山フトコロニ、立ツ雲ヲ他所ナガラバカリ眺メテ、嘆ク心モ安ラカデナイノニ、思フ心モ苦シイノニ、(奈呉乃海部之潜取云眞珠乃)見タイト思フ母君ノ〔三字傍線〕御顔ニ、直接ニ向キ合ツテ、オ目ニカカル時マデハ、御無事デ〔四字傍線〕(松柏乃)榮エテオイデ下サイ。尊イ私ノ母〔傍線〕君ヨ。
 
○笑爾保布《サキニホフ》――舊本、笑を笶に誤つてゐる。笑は咲と同字。○花橘乃《ハナタチバナノ》――ここまでの四句は、カゲハシキと言はむ爲の序詞。○香吉《カグハシキ》――舊訓カヲヨシミとあるのはよくない。古義に、香の下、細の字脱として、カゲハシキと訓んでゐる。香の一字をカグハシと訓んだ例は他にないが、カグ又はカゴとは訓まれてゐるから、この儘でよからう。薫高き意から轉じて優れて立派なことに用ゐてある。○於夜能御言《オヤノミコト》――母の御言葉。この御言《ミコト》は文字通りである。○不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》――聞かない日が多く。永く聞かないで。マネクは數多。○山乃多乎里爾《ヤマノタヲリニ》――タヲリは曲つたところ。山|懷《フトコロ》に。卷十三に高山峯之手折丹《タカヤマノミネノタヲリニ》(三二七八)・卷十八に安之比奇能夜麻能多乎理爾《アシビキノヤマノタヲリニ》(四一二三)などがある。○夜須家奈久爾《ヤスケナクニ》――安くないのに。卷四の思空安莫國《オモフソラヤスケクナクニ》(五三四)とあるに同じ。卷十七に(472)は奈氣久蘇良夜須家奈久爾《ナゲクソラヤスケナクニ》(三九六九)とある。○奈呉乃海部之《ナゴノアマノ》――奈呉は今の新湊町。そこに海人がゐて眞珠を採つてゐた。○眞珠乃《シラタマノ》――眞珠の如き。以上の三句は見我保之《ミガホシ》と言はむ爲の序詞。○見我保之御面《ミガホシミオモワ》――見が欲しい御面わに同じ。ミガホシを古義に「見ま欲と云に同じ意なり」とあるが、ミガホシは見ることが望ましいこと、ミマホシは見まく欲しである。○松柏乃《マツカヘノ》――枕詞。松と柏との如く。栢は柏の俗字。柏は檜の種類。俗に柏子《ビシヤクシ》と稱するものである。和名抄に、「栢、兼名苑云、栢音百一名※[木+菊]音菊、加閇」とある。然るに別に同書に「榧子、本草云、栢實上音百、一名榧子、上音匪、加閇」とあつて、カヘを榧としてゐる。これが爲にカヘを柏子とする説と、榧とするものと二つに分れて、いづれとも決し難くなつた。しかし、松柏と熟字になつてゐる時は、松と檜とを常緑樹の代表として選んだもので、榧の如き特種の木を松と組合せる筈はないから、榧説は賛成し難い。なほここの松柏乃《マツカヘノ》は松柏之茂・松柏操といふやうな、漢文式熟語をその儘取り入れたものである。
〔評〕 技巧的に整つてゐるといふだけで、優れた作ではない。代作だからであらう。
 
反歌一首
 
4170 白玉の 見がほし君を 見ず久に 夷にしをれば 生けるともなし
 
白玉之《シラタマノ》 見我保之君乎《ミガホシキミヲ》 不見久爾《ミズヒサニ》 夷爾之乎禮婆《ヒナニシヲレバ》 伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》
 
(白玉之)御目ニ懸リタイ貴方ニ、永ク御會ヒ申サズニ、田舍ニ居リマスノデ、私ハ悲シクテ〔六字傍点〕生キテヰルヤウデハアリマセン。
 
○伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》――1生けるとも無し。生ける利心《トゴコロ》も無しの意とするのは誤である。助詞のトは終止形を受けるので、生跡無《イケリトモナシ》(二一二)・生刀毛無《イケリトモナシ》(二二七)・生友奈重二《イケリトモナシ》(九四六)・吾情利乃生戸裳名寸《ワガココロドノイケリトモナキ》(二五二五)・生友名帥《イケリトモナシ》(二九八〇)・生跡文奈思《イケリトモナシ》(三〇六〇)・生跡毛奈 《イケリトモナシ》(三一〇七)・生友《イケリトモ》(三二九八)などの如く、イケリトモとあるべきである。美夫君志別記に、流をりと訓むのだとあるのは、例の僻論である。イケルの用例は他に無いから、或は古義にあるやうに流は利又は理の(473)誤かも知れない。但し生けるものとも無しと、體言の省略せられたものと見れば、文法的にはこの儘で差支はない。かうした新例が、この頃になつて用ゐられ始めたとすべきであらう。
〔評〕 「生けるともなし」といふ熟語を用ゐて、淋しさ悲しさを強調したに過ぎぬ。
 
二十四日、應《アタレリ》2立夏四月(ノ)節(ニ)1也、因(リテ)v此(ニ)二十三日之暮、忽思(ヒテ)2霍公鳥(ノ)曉(ニ)喧(ク)聲(ヲ)1作(レル)歌二首
 
應はアタルと訓むべし。古義には卷五に孟秋膺節とあるによつて、膺の誤かと言つてゐる。
 
4171 常人も 起きつつ聞くぞ 郭公 このあかときに 來なけ初聲
 
常人毛《ツネヒトモ》 起都追聞曾《オキツツキクゾ》 霍公鳥《ホトトギス》 此曉爾《コノアカトキニ》 來喧始音《キナクハツコヱ》
 
一般ノ人モ誰デモ皆〔四字傍線〕起キテヰテ聞クゾ。郭公ヨ。コノ四月ノ節ノ日ノ〔七字傍線〕曉ニ來テ鳴イテ初聲ヲ聞カセナサイ。明日ハ鳴クベキ日ダカラ是非初聲ヲ聞カセナサイ〔明日〜傍線〕。
 
○常人毛《ツネヒトモ》――常の人も。一般の人も。○來喧始音《キナケハツコヱ》――舊訓キナクとあるのを、考にキナケと訓むべしと言つてゐる。キナクならば、來て鳴く筈の初聲となつて意は通ずるが、キナケと命令する方が良ささうである。
〔評〕 季節の移り變りと動物の飛來とを、形式的に結びつけたもの。かういふ觀念が盛であつたことが、所々に見られる。平凡な作。
 
4172 郭公 郭公 來鳴きとよまば 草取らむ 花橘を やどには植ゑずて
 
霍公鳥《ホトトギス》 來喧響者《キナキトヨマバ》 草等良牟《クサトラム》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 屋戸爾波不殖而《ヤドニハウヱズテ》
 
(474)郭公ガ來テ聲ヲ響カセテ鳴クナラバ、必ズ〔二字傍線〕枝ニ止マルベキ花橘ヲ、私ハ〔二字傍線〕宿ニ植ヱナイデ惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○草等良牟《クサトラム》――この句はわからない。卷十の月夜吉鳴霍公鳥欲見吾艸取有見人毛欲得《ツクヨヨミナクホトトギスミマクホリワガクサトレリミムヒトモガモ》(一九四三)のクサトレリと同樣らしくも思はれるが、それでは解し難い。暫く略解の宣長説に「草とるとは、凡て鳥の木の枝にとまるを言ひて、これもほととぎすの、とまるべき花橘を宿にうゑむものを、うゑずして今悔る意也」とあるに從つて置かう。○屋戸爾波不殖而《ヤドニハウヱズテ》――この句の下に、殘念なことをしたといふ意を補つて見ねばならぬ。
〔評〕 意味がよく分らないから、批評は出來ないが、あまり佳い作ではないやうだ。
 
贈(レル)2京(ノ)丹比家(ニ)1歌一首
 
丹比家とは丹比氏の家といふことであらう。集中で、家といつた例は大伴坂上家大娘(五八一)大伴田村家大孃(七五六)の如く、地名の下についてその家の所在を示したものと、南右大臣家藤原二郎(四二一六)の如く地名ではないが、同じくその位置を示したもの(これは北家に對する南家である)、右大臣橘家(一〇二四)の如く氏の下に記したものとある。京の丹比を奈良にある地名の丹比と見ることが出來ればそれもよいが、さういふ地名は聞かないから、丹比家は橘家のやうに、丹比氏の家と見るべきであらう。集中丹比縣守・同乙麻呂・同國人・同鷹主・同士作・同屋主などの名が見えるが、そのいづれとも分き難い。なほこの下、安由乎疾美《アユヲイタミ》(四二一三)の次にも右一首贈京丹比家とある。代匠記精撰本に「田村大孃なとが、丹比氏の妻となれる歟」とあり、新考には「家持の妹が其家に嫁したりしにて、下に留v克之女郎とあるが、それなるべし」とある。いづれも想像に過ぎない。
 
4173 妹を見ず 越の國べに 年ふれば あが心どの 和ぐる日もなし
 
妹乎不見《イモヲミズ》 越國敝爾《コシノクニベニ》 經年婆《トシフレバ》 吾情度乃《ワガココロドノ》 奈具流日毛無《ナグルヒモナシ》
 
貴女ニ逢ハナイデ、戀シク思ヒツツ〔七字傍線〕越ノ國デ年ヲ送ツテヰルト、私ノ魂ノ靜マル日ハ一日モ〔三字傍線〕アリマセン。
 
(475)○妹乎不見《イモヲミズ》――妹は丹比家の女郎であるが、集中に丹比女郎の名むもえない。○吾情度乃《ワガココロドノ》――ココロドは魂・精神などの意。トゴコロとは別である。心神毛奈思《ココロドモナシ》(四五七)參照。○奈具流日毛無《ナグルヒモナシ》――和ぐる日も無し。ナグは穩やかに靜まる。上二段活用の動詞。
〔評〕 平凡の二字に盡きる。何の工夫もない作。
 
追2加(サル)筑紫太宰之時(ノ)春苑(ノ)梅(ノ)謌(ニ)1一首
 
これは卷五に見えた、天平二年正月十三日帥老の宅に萃つて、宴會を申べた時の梅花歌に追和したものである。舊本、春花とあるは、略解説の如く春苑の誤であらう。
 
4174 春のうちの たぬしき終へは 梅の花 た折りをきつつ 遊ぶにあるべし
 
春裏之《ハルノウチノ》 樂終者《タヌシキヲヘハ》 梅花《ウメノハナ》 手折乎伎都追《タヲリヲキツツ》 遊爾可有《アソブニアルベシ》
 
春ノ内デ樂シイ事ノ頂上ハ、梅ノ花ヲ手折ツテ來テ、遊ブコトニアルデアラウ。
 
○樂終者《タヌシキヲヘハ》――舊訓タノシミヲヘハとあるのはよくない。代匠記初稿本タノシキハテハとあるのもわるい。これは梅花歌三十二首中の第一首、武都紀多知波流能吉多良婆可久斯許曾烏梅乎乎利都都多努之岐乎倍米《ムツキタチハルノキタラバカクシコソウメヲヲリツツタヌシキヲヘメ》(八一五)の結句を取つたのであるから、タヌシキヲヘハと訓むべきである。但し略解のやうに、タヌシキヲヘバと濁つたのでは意味がわからないから、ハは清んで訓まねばならぬ。樂しきことの限りはの意。ヲヘは終フの名詞形である。○手折乎伎都追《タヲリヲキツツ》――乎伎《ヲキ》は代匠記初稿本に置きと解して、乎と於と通する故なりと言つたのは妄であるが、同精撰本に「乎は手を寫し誤まりて、タヲリテキツツと云へるにや」とあるは、稍勝つてゐる。宣長が毛致《モチ》の誤としたのも臆説である。寧ろ新考に、もとの儘で手折リヲ來ツツと、ヲをヌレテヲユカムのヲに等しき助詞と見たのに左擔しよう。○遊爾可有《アソブニアルベシ》――舊訓アソブニカアラムとあるはわるい。
(476)〔評〕 卷五の梅花の歌の第一首に追和せむとして、強ひてその句を採り入れようとした爲に、第二句に無理が出來、又第四句も變な詞になつたのは作者の爲に採らない。つまらない作だ。
 
右一首二十七日依(リテ)v興(ニ)作(ル)v之(ヲ)
 
詠(メル)2霍公鳥(ヲ)1歌二首
 
4175 ほととぎす 今來喧きそむ あやめ草 かづらくまでに かるる日あらめや
 
霍公鳥《ホトトギス》 今來喧曾無《イマキナキソム》 菖蒲《アヤメグサ》 可都良久麻泥爾《カヅラクマデニ》 加流流日安良米也《カルルヒアラメヤ》 毛能波(ノ)三箇(ノ)辭闕(ク)v之(ヲ)
 
郭公ガ今初メテ飛ンデ〔六字傍線〕來テ鳴キ初メタ。コレカラ以後〔六字傍線〕菖蒲草ヲ※[草冠/縵]トシテ頭ニ〔二字傍線〕ツケテ遊ブ五月ノ頃〔六字傍線〕マデモ、一日モ飛ンデ〔六字傍線〕來ナイ日ハアルマイ。毎日鳴クデアラウ。樂シイコトダ〔毎日〜傍線〕。
 
○可都良久麻泥爾《カヅラクマデニ》――※[草冠/縵]とすることをカヅラクといふ。卷十八|楊奈疑可豆良枳《ヤナギカヅラキ》(四〇七一)とあり、この下にも數例がある。○加流流日安良米也《カルルヒアヲメヤ》――カルルは離れる。ここは郭公の來鳴かぬこと。○毛能波三箇辭闕之――これは註であるから小字になつてゐる本がよい。助詞のモ・ノ・ハの三つがこの歌には用ゐてないといふのである。
〔評〕 歌が出來上つた後に、この歌にはモ・ノ・ハの三助詞がないと言つたのではなくで、最初からこれを使はないことを約束して作つたのである。後世の弄語の風が、この人によつて早くも試みられてゐるのは慨かはしい。
 
4176 吾が門ゆ なき過ぎ渡る ほととぎす いやなつかしく 聞けどあきたらず
 
我門從《ワガカドユ》 喧過度《ナキスギワタル》 霍公鳥《ホトトギス》 伊夜奈都可之久《イヤナツカシク》 雖聞飽不足《キケドアキタラズ》 毛能波※[氏/一]爾乎六箇辭闕v之
 
(477)私ノ家ノ〔二字傍線〕門ノアタリヲ〔四字傍線〕ヲ鳴イテ通ツテ行ク郭公ハ、聞ケバ〔三字傍線〕益々懷カシイ鳥デ、イクラ〔三字傍線〕聞イテモ飽キ足リナイ。
〔評〕 これはモ・ノ・ハ・テ・ニ・ヲの六助詞を用ゐないで作つた歌。前歌よりも更に注文がむつかしい。それだけより多く弄語的である。歌としては平凡。
 
四月三日、贈(レル)2越前判官大伴宿禰池主(ニ)1霍公鳥歌、不v勝(ヘ)2感(ズル)v舊(ヲ)之意(ニ)1述(ブル)v懷(ヲ)一首并短歌
 
感舊之意とは舊きことを追懷する心。
 
4177 吾がせ》と 手たづさはりて あけ來れば 出で立ち向ひ 夕されば ふり放け見つつ 念ひのべ 見なぎし山に 八峯には 霞たなびき 谿べには 椿花咲く うらかなし 春し過ぐれば ほととぎす 彌しき喧きぬ 獨のみ 聞けばさぶしも 君と我 隔てて戀ふる 礪波山 飛び越え行きて あけ立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴きとよめ 安い宿しめず 君を惱ませ
 
和我勢故等《ワガセコト》 手携而《テタヅサハリテ》 曉來者《アケサレバ》 出立向《イデタチムカヒ》 暮去者《ユフサレバ》 授放見都追《フリサケミツツ》 念暢《オモヒノベ》 見奈疑之山爾《ミナギシヤマニ》 八峯爾波《ヤツヲニハ》 霞多奈婢伎《カスミタナビキ》 谿敝爾波《タニベニハ》 海石榴花咲《ツバキハナサク》 宇良悲《ウラカナシ》 春之過者《ハルシスグレバ》 霍公鳥《ホトトギス》 伊也之伎喧奴《イヤシキナキヌ》 獨耳《ヒトリノミ》 聞婆不怜毛《キケバサブシモ》 君與吾《キミトワレ》 隔而戀流《ヘダテテコフル》 利波山《トナミヤマ》 飛超去而《トビコエユキテ》 明立者《アケタタバ》 松之狹枝爾《マツノサエダニ》 暮去者《ユフサラバ》 向月而《ツキニムカヒテ》 菖蒲《アヤメグサ》 玉貫麻泥爾《タマヌクマデニ》 鳴等余米《ナキトヨメ》 安寐不令宿《ヤスイネシメズ》 君乎奈夜麻勢《キミヲナヤマセ》
 
吾ガ友ト手ヲ携ヘテ、夜ガ明ケルト出テ相對シ、夕方ニナルト遙カニ振リ仰イデ見テ、心ヲハラシ見テハ思ヒヲ和ラゲタ山ニ、多クノ峯毎ニ霞ガ棚曳イテ、谷ニハ椿ガ花咲イテヰル。心悲シイ春ガ過ギルト、郭公ガシキリニ來テ鳴イタ。ソノ郭公ヲ〔五字傍線〕獨デバカリ聞クトオモシロクナイヨ。貴方ト私トハ礪波山ヲ中ニ〔七字傍線〕隔テテ戀シク思ツ(478)テヰルガソノ〔三字傍線〕礪波山ヲ、郭公ガ飛ビ越エテ行ツテ、夜ガ明ケルト松ノ木ノ枝デ、夕方ニナルト月ニ向ツテ鳴イテ、菖蒲草ヲ玉ニ貫イテ弄ブ五月ノ頃マデ〔八字傍線〕、聲高ク響カセテ、鳴イテ、安眠セシメナイデ貴方ヲ苦シマセヨ。
 
○念暢《オモヒノベ》――前に思延宇禮之備奈我良《オモヒノベウレシビナガラ》(四一五四)とある通り、心を晴らすこと。舊本念鴨とあるは誤。元暦校本によつて改めた。○見奈疑之山爾《ミナギシヤマニ》――見て心を和げた山に。ミナギシ山といふ固有名詞とする説があるのは噴飯に堪へない。この山は國府背後の二上山である、○八峯爾波《ヤツヲニハ》――この八峯《ヤツヲ》は前の奥山之八峯乃海石榴《オクヤマノヤツヲノツバキ》(四一五二)の八峯と同じく、府廳の背後に連亘せる二上山つづきの山をいふ。○海石榴花咲《ヅバキハナサク》――椿が花咲く。この句で切れてゐる。○宇良悲《ウラカナシ》――心悲しい。下の春につづいてゐる。春は哀愁を感ずるのである。○伊也之伎喧奴《イヤシキナキヌ》――彌頻鳴きぬ。シキナクは頻りに鳴く。○聞婆不怜毛《キケバサブシモ》――サブシは樂しまぬをいふ。聞くと面白くない。○利波山《トナミヤマ》――礪波山。卷十七に刀奈美夜麻多牟氣能可味爾《トナミヤマタムケノカミニ》(四〇〇八)とあると同所。今の倶利伽羅山である。○安寢不令宿《ヤスイネシメズ》――舊訓ヤスイシナサデとあるが、代匠記初稿本ヤスイネシメデ、同精撰本ヤスイネサセデ又はヤスイネシメデ、略解・古義はヤスイシナサズと訓んでゐる。ヤスイネシメズと訓むべきである。
(479)〔評〕 始めに越中國府附近の山の春景色を述べ、次いで夏に入つて霍公鳥を點出し、これを我一人で聞くに堪へぬから、礪波山を越えて、越前國府に飛び行きて、五月頃まで聲高く鳴いて、君を安眠せしめるなかれと結んでゐる。つまり今鳴く郭公を所を異にして、相共に聞かうといふのである。そこに友愛の熱情が強調せられてゐる。この種の歌としては先づ佳い作であらう。
 
反歌
 
4178 我のみし 聞けばさぶしも ほととぎす 丹生の山べに い行き鳴かなも
 
吾耳《ワレノミシ》 聞婆不怜毛《キケバサブシモ》 霍公鳥《ホトトギス》 丹生之山邊爾《ニフノヤマベニ》伊去鳴爾毛《イユキナカナモ》
 
私ガ獨ダケデ聞イテハ面白クナイヨ。ダカラ〔三字傍線〕、郭公ヨ、吾ガ友ノヰル〔六字傍線〕丹生ノ山ノホトリヘ行ツテ鳴イテクレヨ。
 
○吾耳《ワレノミシ》――舊訓ヒトリノミとあるのを、考にワレノミと改めたが、古義にワレノミシと訓んだのがよい。○丹生之山邊爾《ニフノヤマベニ》――丹生の山は越前國府西方の山。今の武生町が古の國府で、その西方一里の地に丹生郡丹生郷がある。その附近の山である。鬼が獄とする説もあるが、それでは少し國府から遠過ぎる。寫眞の中景が丹生山。その後方の左に見えるのが鬼が嶽。著者撮影。○伊去鳴爾毛《イユキナカナモ》――爾は南の誤に違ひない。舊訓のイユキナクニ(480)モではわからない。古義に鳴夜毛《ナクヤモ》の誤としたのも從ひ難い。ナカナモは鳴いてくれよと希望するのである。
〔評〕 長歌に明立者松之狹枝爾暮去者向月而《アケタタバマツノサエダニユフサラバツキニムカヒテ》とあるのを、これでは丹生の山邊としてゐる點が違つてゐる。國府近い地名を詠み込んだものだ。平庸。
 
4179 ほととぎす 夜よなきをしつつ 吾がせこを 安いな寢しめ ゆめ心あれ
 
霍公鳥《ホトトギス》 夜喧乎爲管《ヨナキヲシツツ》 和我世兒乎《ワガセコヲ》 安宿勿令寐《ヤスイナネシメ》 由米情在《ユメココロアレ》
 
郭公ヨ。夜鳴イテ吾ガ友ヲ安眠サセルナ。ツトメテ注意シナサイ。
 
○夜喧乎爲管《ヨナキヲシツツ》――夜喧《ヨナキ》は名詞である。卷二に佐太乃岡邊爾鳴鳥之夜鳴變布此年己呂乎《サダノヲカベニナクトリノヨナキカハラフコノトシコロヲ》(一九二)とある。○和我世兒乎《ワガセコヲ》――吾がせことは池主を指す。○安宿勿令寢《ヤスイナネシメ》――舊訓はヤスイシナステ、代匠記初稿本ヤスイネセソ、略解はヤスイシナスナ、古義はヤスイナナセソとあるが、新考にヤスイナネシメとあるのがよい。○由米情在《ユメココロアレ》――ユメは下に否定を伴ふのを常とするに、ここに情在《ココロアレ》で受けたのは珍らしい。但し神武天皇紀に、「基業成否、當以v汝爲v占|努慎焉《ユメツツシメ》」とあるから、この語法もあつたのである。
〔評〕 長歌の終の部分を繰返したもの。別に特色の無い作。以上三首とも盡く、霍公鳥に向つて言ふ言葉になつてゐる。
 
不v飽(カ)d感(ヅル)2霍公鳥(ヲ)1之情(ニ)u述(ベテ)v懷(ヲ)作(レル)歌一首并短歌
 
4180 春過ぎて 夏來向へば 足引の 山よびとよめ さ夜中に 鳴くほととぎす 初聲を 聞けば懷かし あやめ草 花橘を 貫き交へ かづらくまでに 里とよめ なき渡れども 尚ししぬばゆ
 
春過而《ハルスギテ》 夏來向者《ナツキムカヘバ》 足檜木乃《アシビキノ》 山呼等余米《ヤマヨビトヨメ》 左夜中爾《サヨナカニ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 始音乎《ハツゴヱヲ》 聞婆奈都可之《キケバナツカシ》 菖蒲《アヤメグサ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 貫交《ヌキマジヘ》 可頭良沼久麻泥爾《カヅラクマデニ》 (481)里響《サトトヨメ》 喧渡禮騰母《ナキワタレドモ》 尚之努波由《ナホシシヌバユ》
 
春ガ過ギテ夏ガ來り向フト(足檜木乃)山デ聲高ク響カセテ、夜中ニ鳴ク郭公ノ初聲ヲ、聞クトナツカシイ。ソレカラ〔四字傍線〕菖蒲草ト花橘トヲ一緒ニ貫キ交ヘテ、頭ノ縵トシテ遊ブ五月〔五字傍線〕マデ、里ヲ響カセテ聲高ク鳴イテヰルケレドモ、尚飽キズニ〔四字傍線〕ナツカシク思ハレルヨ。
 
○菖蒲《アヤメグサ》――舊本に昌とあるは菖の誤であらう。元暦校本その他、多くは菖に作つてゐる。○可頭良沼久麻而爾《カヅラクマデニ》――沼は元暦校本その他、無い本が多いから、除くべきである。而も元暦校本、泥に作るのがよい。
〔評〕 始に山郭公の初聲を述べ、菖蒲草・花橘を玉に貫きまじへる頃まで里を響かせて、盛に鳴いても、その聲はなほなつかしく慕はしいと言つてゐる。用語平易、歌品も亦平凡。
 
反歌三首
 
4181 さ夜ふけて あかとき月に 影見えて なくほととぎす 聞けばなつかし
 
左夜深而《サヨフケテ》 曉月爾《アカトキヅキニ》 影所見而《カゲミエテ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 聞者夏借《キケバナツカシ》
 
夜ガ更ケテ、曉ノ月ノ光デ、姿ガ見エテ、鳴ク郭公ノ聲〔二字傍線〕ヲ聞クト、ナツカシイヨ。
 
〔評〕 曉に月光を浴びて鳴く郭公の姿を見て詠んだもの。曉月爾影所見而《アカツキツキニカゲミエテ》は後世風の感がある。
 
4182 ほととぎす 聞けどもあかず 網取りに とりて懷けな かれず鳴くがね
 
霍公鳥《ホトトギス》 雖聞不足《キケドモアカズ》 網取爾《アミトリニ》 獲而奈都氣奈《トリテナヅケナ》 可禮受鳴金《カレズナクガネ》
 
郭公ノ聲ヲイクラ〔三字傍線〕聞イテモ聞キ〔二字傍線〕飽キナイ。ダカラ〔三字傍線〕網ヲ張ツテ捕ヘテ家ニ飼ツテ置イテ〔八字傍線〕馴ラシタイモノダ。サウ(482)シタラ〔五字傍線〕絶エズ鳴イテクレ。
 
○網取爾獲而奈都氣奈《アミトリニトリテナツケナ》――網取《アミトリ》は網で取ること。網取に獲るとは神拂ひに拂ふ・根こじにこずといふやうな類の、古語の一形式で、結局、網で取る意である。ナヅケナは手馴づけよう。ナは希望の意がある。○可禮受鳴金《カレズナクガネ》――絶えず鳴いてくれ。
〔評〕 卷十七に保登等藝須夜音奈都可思安美指者花者須具登毛可禮受加奈可牟《ホトトギスヨゴヱナツカシアミササバハナハスグトモカレズカナカム》(三九一七)とある、この人の作と同巧異曲。
 
4183 ほととぎす 飼ひとほせらば 今年へて 來向ふ夏は 先づなきなむを
 
霍公鳥《ホトトギス》 飼通良婆《カヒトホセラバ》 今年經而《コトシヘテ》 來向夏波《キムカフナツハ》 麻豆將喧乎《マヅナキナムヲ》
 
郭公ヲ家ニ來年マデ〔四字傍線〕飼ヒ通シテ置イタナラバ、今年ガ暮レテ來年ノ夏ハ、第一番ニ鳴クデアラウヨ。ドウカシテ捕ヘタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○飼通良婆《カヒトホセラバ》――飼通したらばの意。飼つて置いて無事に過したならば。○來向夏波《キムカフナツハ》――來り向ふ夏即ち來年の夏は。○麻豆將喧乎《マヅナキナムヲ》――先づ第一に、鳴くであらうよ。ヲはヨの意であらう。新考には可《カ》の誤か又はもとのままでカとよむべきかと言つてゐる。
〔評〕 前歌の意を受けて、連作のやうになつてゐる。郭公を飼鳥をすることが、當時行はれてゐたかどうかわからないが、これで見ると一般に飼鳥の術も進んでゐたのであらう。
 
從(リ)2京師1贈(リ)來(レル)歌一首
 
左註によると京に遺した女郎から贈つて來た歌で、歌中に妹《イモ》とあるから、家持の妻へよこしたものである。
 
4184 山吹の 花とり持ちて つれもなく かれにし妹を しぬびつるかも
 
(483)山吹乃《ヤマブキノ》 花執持而《ハナトリモチテ》 都禮毛奈久《ツレモナク》 可禮爾之妹乎《カレニシイモヲ》 之努比都流可毛《シヌビツルカモ》
 
山吹ノ花ヲ手折ツテ手ニ〔五字傍線〕取リ持ツテソレヲヲ見ルニツケ、山吹ノ花ノヤウナ貴女ヲ思ヒ出シテ〔ソレ〜傍線〕、氣強クモ私ヲ都ニ殘シテ越中ヘ下ツテ〔私ヲ〜傍線〕、別レテ行ツタ貴女ヲ懷カシク思ヒマシタヨ。
 
○都禮毛奈久《ツレモナク》――強情に。氣強く。○可禮爾之妹乎《カレニシイモヲ》――別れて行つた妹を。妹《イモ》はここでは女どち親しんでいふ言葉。家持の妻を指してゐる。
〔評〕 家持の妻を山吹の花に譬へ、別れた後の戀しさを歌つてゐる。都禮毛奈久叫禮爾之妹《ツレモナクカレニシイモ》は、相手の冷淡さに對する怨言のやうになつてゐるが、實は自分の別れかねた悲しみの情をあらはしたのである。
 
右四月五日從2留女之女郎1所v返也
 
舊本、留女之女良とある留女の女は、郷又は京の誤であらうと言はれてゐる。下にも留女之女郎(四一九八)とあるが、多分、京の誤であらう。良は郎の誤なること言ふまでもない。
 
詠(メル)2山振花(ヲ)1歌一首并短歌
 
4185 うつせみは 戀を繁みと 春まけて 念繁けば 引きよぢて 折りも折らずも 見る毎に 心和ぎむと 繁山の 谷べに生ふる 山吹を やどに引き植ゑて 朝つゆに にほへる花を 見る毎に 念はやまず 戀し繁しも
 
宇都世美波《ウツセミハ》 戀乎繁美登《コヒヲシゲミト》 春麻氣※[氏/一]《ハルマケテ》 念繁波《オモヒシゲケバ》 引攀而《ヒキヨヂテ》 折毛不折毛《ヲリモヲラズモ》 毎見《ミルゴトニ》 情奈疑牟等《ココロナギムト》 繁山之《シゲヤマノ》 谿敝爾生流《タニベニオフル》 山振乎《ヤマブキヲ》 屋戸爾引殖而《ヤドニヒキウヱテ》 朝露爾《アサツユニ》 仁保敝流花乎《ニホヘルハナヲ》 毎見《ミルゴトニ》 念者不止《オモヒハヤマズ》 戀志繁母《コヒシシゲシモ》 江家
 
(484)人間ハ戀シク思フ心ガ、多イモノダカラトテ、春ニナルト思ガ多クナルノデ、山吹ノ花ヲ〔五字傍線〕引キ寄セテ折ツテ眺メテ〔三字傍線〕モ、折ラナイデソノ儘眺メテモ〔六字傍線〕モ、見ルコトニ心ガ慰ムデアラウト思ツテ〔三字傍線〕、木ノ繁ツタ山ノ谷ニ生エテヰル山吹ヲ、引キ拔イテ吾ガ宿ニ植ヱタガ、併シ〔四字傍線〕朝露ニ濡レテ〔三字傍線〕美シク咲イテヰル花ヲ見ルタビニ、思ハ止マナイデ、ヤハリ〔三字傍線〕戀シイ心ガ多イヨ。
 
○宇都世美波《ウツセミハ》――現身は。人間は。○戀乎繁美登《コヒヲシゲミト》――戀は茂きものなればとて。○念繁波《オモヒシゲケバ》――思ひが繁き故に。シゲケバはシゲケレバの意。古義はオモヒシゲクバと訓んでゐる。○引攀而《ヒキヨヂテ》――引き寄せて。攀はこの集では木に登る意でないことは既に屡々述べた。○折毛折毛《ヲリモヲラズモ》――折つても折らないでも。上に毎時彌米頭良之久咲花乎折毛不折毛見良久之余志毛《トキゴトニイヤメヅラシクサクハナヲヲリモヲラズモミラクシヨシモ》(四一六七)とある。○毎見《ミルゴトニ》――下に情奈疑牟等《ココロナギムト》とつづいてゐるので、ミムゴトニと訓む説もあるが、かういふところは、必ずしも文法的に拘泥しない方がよい。○繁山之《シゲヤマノ》――木の茂つた山の。繁山の用例は本集では、これのみであるが、後世では新古今集の「筑波山はやま繁山しげけれど思ひいるにはさはらざりけり」のやうに屡々用ゐられである。○江家――舊本、歌の終にこの二字があるのは、次點の際江家即ち大江匡房が訓んだものだといふ註で、前に「入道殿讀出給」(三三二四)とあつたものと、同時の註である。元暦校本に無いのに從つて削るべきである。
〔評〕 京に留つてゐる女郎が、家持の妻を山吹の花によそへて歌を詠んでよこしたので、折から咲いてゐる山吹の花をなつかしく思つて詠んで見たのであらう。春愁を忘れようとして山吹を植ゑたが、花を見て愈々思ひが増すのみだと言つてゐる。弱々しい感傷的氣分である。戀乎繁美登《コヒヲシゲミト》・念繁波《オモヒシゲケバ》・毎見情奈疑牟等《ミルゴトニココロナギムト》・毎見念者不止《ミルゴトニオモヒハヤマズ》・戀志繁母《コヒシシゲシモ》といふやうな類似した句を用ゐたのは、對照せしめたのでもあらうが、重複して拙い感じがある。
 
反詠
 
(485)反詠は反歌に同じ。略解には詠は謌の誤とあるが、誤とは斷じ難い。代匠記精撰本に「定家卿勘物云、詠山振哥一首并短哥、長哥一反哥一。かくあれば彼卿所覽の本も反謌なりけるなり」とあるが、これも臆斷に過ぎる。稀有の例とすべきである。
 
4186 山吹を やどに植ゑては 見るごとに 念はやまず 戀こそまされ
 
山吹乎《ヤマブキヲ》 屋戸爾殖※[氏/一]波《ヤドニウヱテハ》 見其等爾《ミルゴトニ》 念者不止《オモヒハヤマズ》 戀己曾益禮《コヒコソマサレ》
 
山吹ヲ宿ノ庭ニ植ヱテ花ヲ〔二字傍線〕見ル度ニ、人戀シイ〔四字傍線〕思ガ止マナイデ、却ツテ〔三字傍線〕戀シサガ増シテ來ルヨ。
 
〔評〕 長歌の意を要約しただけで、何の工夫もない。
 
六日遊2覽布勢水準1作歌一首并短歌
 
布勢水海については、卷十七の遊覽布勢水海賦(三九九一)參照。
 
4187 念ふどち ますらをのこの 木のくれ 繁き思を 見明らめ 心やらむと 布勢の海に 小船つらなめ まかい懸け い漕ぎ廻れば 乎布の浦に 霞たなびき 垂姫に 藤浪咲きて 濱きよく 白浪騷ぎ しくしくに 戀は益れど 今日のみに 飽き足らめやも かくしこそ いや年のはに 春花の 繁き盛に 秋の葉の もみづる時に 在通ひ 見つつしぬばめ この布勢の海を
 
念度知《オモフドチ》 大夫能《マスラヲノコノ》 許乃久禮《コノクレ》 繁思乎《シゲキオモヒヲ》 見明良米《ミアキラメ》 情也良牟等《ココロヤラムト》 布勢乃海爾《フセノウミニ》 小船都良奈米《ヲブネツラナメ》 眞可伊可氣《マカイカケ》 伊許藝米具禮婆《イコギメグレバ》 乎布能浦爾《ヲフノウラニ》 霞多奈妣伎《カスミタナビキ》 垂姫爾《タルヒメニ》 藤浪咲而《フヂナミサキテ》 濱淨久《ハマキヨク》 白波左和伎《シラナミサワギ》 及及爾《シクシクニ》 戀波末佐禮杼《コヒハマサレド》 今日耳《ケフノミニ》 飽足米夜母《アキタラメヤモ》 如是己曾《カクシコソ》 彌年乃波爾《イヤトシノハニ》 春花之《ハルバナノ》 繁盛爾《シゲキサカリニ》 秋葉能《アキノハノ》 黄色時爾《モミヅルトキニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 見都追思努波米《ミツツシヌバメ》 此布勢能海乎《コノフセノウミヲ》
 
(486)心ノ合ツタ友達同志、益荒雄タチガ、(許能久禮)澤山ノ物思ヲ、ヨイ景色ヲ〔五字傍線〕見テ晴ラシ、心ヲ慰メヨウト、布勢ノ水海ニ、小船ヲ連ネ並ベ、ソレニ〔三字傍線〕左右ノ櫂ヲ掛ケテ、漕ギ廻ルト、布勢水海ノ沿岸ノ〔七字傍線〕乎布ノ浦ニハ霞ガ棚曳キ、垂姫ニハ藤ノ花ガ咲イテ、濱ガ清クテ白波ガ打寄セテ〔四字傍線〕騷イデ居リ、ソノ波ノヤウニ〔七字傍線〕頻リニ此處ヲ〔三字傍線〕、戀シク思フ心ハ募ツテ來ルガ、今日ダケ遊ンダノミ〔五字傍線〕デ、滿足シヨウカ、トテモ滿足出來ナイ。ダカラ〔トテ〜傍線〕カウシテ益々毎年毎年、春ノ花ガ澤山ニ咲ク盛ノ時〔二字傍線〕ニ、秋ノ木ノ〔二字傍線〕葉ガ紅葉スル時ニ、コノ布勢ノ水海ヲ、始終通ツテ來テ、眺メテナツカシク思ハウ。コノ布勢水海ハ實ニヨイ景色ダ〔コノ〜傍線〕。
 
○許能久禮《コノクレ》――木の晩。枕詞式に下につづいて繁《シゲ》に冠してゐる。舊訓はコノクレニ、代匠記精撰本は「或はこのくれのとも讀べし」とあり、考は禮の下、能の字脱とし、略解は同じく乃の字脱としてゐる。ノの字のある古本がないから、舊本のままにして置かう。○見明良米《ミアキラメ》――見て心を明らかにする。見て思をはらす。○小船都良奈米《ヲブネツラナメ》――ツラナメは連ね並べ。○眞可伊可氣《マカイカケ》――マカイは左右の櫂。○乎布能浦爾《ヲフノウラニ》――布勢水海の南岸の突出部、今の耳浦。卷十七に乎布能佐伎《ヲフノサキ》(三九九三)參照。○垂姫爾《タルヒメニ》――布勢水海南岸の突出部。今の石崎か。卷十八の多流比女能佐吉《タルヒメノサキ》(四〇四六)參照。○及及爾戀波末佐禮杼《シクシクニコヒハマサレド》――重々に、此處を戀しく思ふ心が増して行くが。○黄色時爾《モミヅルトキニ》――略解にモミヂノトキニ、古義にニホヘルトキニとある。共に從ひ難い。舊訓がよい。
〔評〕 布勢水海の好景を述べて、行末永く遊覽の機を得たいと言つたもの。卷十七のこの人の作、遊覽布勢水海賦(三九九一)と略同一構想である。卷一の幸于吉野宮之時柿本朝臣人麿作歌(三六)などから、かうした型が出來上つたものである。
 
反歌
 
4188 藤浪の 花の盛に かくしこそ 浦漕ぎたみつつ 年にしぬばめ
 
(487)藤奈美能《フヂナミノ》 花盛爾《ハナノサカリニ》 如此許曾《カクシコソ》 浦己藝廻都追《ウラコギタミツツ》 年爾之努波米《トシニシヌバメ》
 
藤ノ花ガ盛リニ咲イイテヰル時ニ、カウシテ、コノ布勢ノ水海ノ〔八字傍線〕岸ヲ漕ギ廻ツテ、毎年コノ景色ヲ〔五字傍線〕ナツカシク思ハウ。
 
○浦己藝廻都追《ウラコギタミツツ》――浦を漕ぎ廻つて。廻をタミと訓んだ例は、卷三に島傳敏馬乃埼乎許藝廻者《シマツタヒミヌメノサキヲコギタメバ》(三八九)とある。○年爾之努波米《トシニシヌバメ》――年爾《トシニ》は年毎にの意に用ゐてある。シヌブは、なつかしく思ふ。即ち賞翫しようといふのである。
〔評〕 長歌の意を要約したもの。形式的に添へたやうに見える。
 
贈(ル)2水烏(ヲ)越前判官大伴宿禰池主(ニ)1歌一首并短歌
 
水烏は鵜。水に棲む烏として戯れた書き方である。
 
4189 天離る 夷としあれば そこここも 同じ心ぞ 家さかり 年の經ぬれば うつせみは 物念繁し そこ故に 心なぐさに ほととぎす なく初聲を 橘の 珠にあへ貫き かづらきて 遊ぶはしも ますらをを 伴なへ立てて 叔羅河 なづさひのぼり 平瀬には さでさし渡し 早瀬には 鵜をかづけつつ 月に日に 然し遊ばね はしき吾がせこ
 
天離《アマサカル》 夷等之在者《ヒナトシアレバ》 彼所此間毛《ソコココモ》 同許己呂曾《オナジココロゾ》 離家《イヘサカリ》 等之乃經去者《トシノヘヌレバ》 宇都勢美波《ウツセミハ》 物念之氣思《モノモヒシゲシ》 曾許由惠爾《ソコユヱニ》 情奈具左爾《ココロナグサニ》 霍公鳥《ホトトギス》 喧始音乎《ナクハツコヱヲ》 橘《タチバナノ》 珠爾安倍貫《タマニアヘヌキ》 可頭良伎※[氏/一]《カヅラキテ》 遊波之母《アソブハシモ》 麻須良乎乎《マスラヲヲ》 等毛奈倍立而《トモナヘタチテ》 舛羅河《シラギガハ》 奈頭左比泝《ナヅサヒノボリ》 平瀬爾波《ヒラセニハ》 左泥刺渡《サデサシワタシ》 早湍爾波《ハヤセニハ》 水烏乎潜都追《ウヲカヅケツツ》 月爾日爾《ツキニヒニ》 之可志安蘇婆禰《シカシアソバネ》 波之伎和我勢故《ハシキワガセコ》 江家
 
(488)(天離)田舍デアルカラ、ソチラノ越前〔三字傍線〕モコチラノ越中〔三字傍線〕モ、淋シサハ〔四字傍線〕何ジ心デスゾ。家ヲ離レテ出テ來テカラ〔六字傍線〕、幾年モタツタノデ、私共〔二字傍線〕人間ハ物思ガヒドクアリマス。ソレ故ニ心ヲ慰メヨウト思ツテ、世間ノ人ガ〔五字傍線〕郭公ノ鳴ク初聲ヲ、橘ノ玉ニマゼテ貫イテ、頭ノ飾ノ〔二字傍線〕※[草冠/縵]トシテ遊ブ時ニモ、貴方ガハ〔三字傍線〕男ドモヲ引ツレ立テテ、叔羅河ヲ水ニツカリナガラ遡ツテ、穩ヤカナ瀬デハ小網ヲサシ渡シテ魚ヲ取リ〔五字傍線〕、早イ瀬デハ鵜ヲ潜ラセテ、魚ヲ取ツテ〔五字傍線〕、毎月毎日サウシテ遊ビナサイヨ。私ノ愛スル友ヨ。只今鵜ヲサシ上ゲマスカラ、之レデ鵜飼ヲナスツテ御遊ビ下サイ〔只今〜傍線〕。
 
○夷等之在者《ヒナトシアレバ》――田舍であるから。シは強める助詞。○彼所此間毛同許己呂曾《ソコココモオナジココロゾ》――其方も此方も、同じく淋しい心なるぞ。彼所《ソコ》は池主の居所越前を指し、此間は家持の居所越中を指す。○宇都勢美波《ウツセミハ》――人間は。前の宇都世美波戀乎繁美登《ウツセミハコヒヲシゲミト》(四一八五)に同じ。○曾許由惠爾《ソコユヱニ》――其故に。○情奈具左爾《ココロナグサニ》――心慰めに。○珠爾安倍貫《タマニアヘヌキ》――安倍《アヘ》は交へる。橘の珠を緒に貫き通して弄ぶ五月の頃に、郭公が鳴くから、郭公の鳴く初聲を、橘の珠に交へ貫きと言つたのである。○遊波之母《アソブハシモ》――舊訓タハルレハシモとあるのはよくない。代匠記初稿本精撰本ともにタハルルハシモと訓んでゐるが、タハルルト訓む必要はない。アソブとあるべきだ。ハシモを愛しもと見る説はよくない。ハシは間《ハシ》で遊ぶ時もの意。考のアソベレバシモ、略解のアソバハシモ、同宣長の遊波久與之母《アソバクヨシモ》の久與《クヨ》の二字が脱ちたものとする説などあるが、面白くない。○等毛奈倍立而《トモナヘタテテ》――トモナヘは伴はしめること。前の※[盧+鳥]養等母奈倍《ウカヒトモナヘ》(四一五六)に同じ。タテテを古義にタチテと訓んだのは誤つてゐる。佐須比立《サスヒタテ》(三八七九)の立《タテ》と同じである。舊本、毛毛とあるのは一字衍である。元暦校本によつて省いた。○叔羅河《シラギガハ》――越前の國府即ち今の武生町を流れる河で、今の名は白鬼女《シラギニヨ》川又は日野川である。舊訓にシクラカハとあつて、この訓が今なほ廣く用ゐられてゐるが、叔をシクと訓むのは集中にないことで、首肯し雖い上に、この地方に殘つてゐる信露貴《シロキ》山・信露貴彦神社などから考へても、現在名の白鬼女川から見てもシラギカハと訓まねばならないと思ふ。又延喜(489)式の越前の驛名は松原・鹿蒜・濟羅・丹生・朝津・阿味・足羽・三尾となつてゐて、鹿蒜と丹生との間の濟羅は大體、今の鯖波あたりらしいが、この驛名は多分シラギであつたと思はれる(源平盛衰記に鯨波にサイと假名付けしたのも音が近い)。校本萬葉集を見ると、叔は舛又はその略字らしい文字を用ゐた古寫本が多い。これは多分濟又はその省畫なる齊の略字から、來たのではあるまいか。いづれにしても叔羅をシクラと訓むべくもないから、現存名を生かしてシラギカハと訓むべきである。考に叔を新の誤と見てシラギと訓んだのも、亦一概に斥け難い説であらう。○奈頭左比泝《ナヅサヒノボリ》――ナヅサフは水に漬かりひたること。泝を舊本※[さんずい+斤]に誤つてゐる。○平瀬爾波《ヒラセニハ》――平瀬は穩やかな瀬。○左泥刺渡《サデサシワタシ》――サデは小網・卷一に小網刺渡《サデサシワタシ》(三八)とあるに同じ。○早湍爾波《ハヤセニハ》――流の早い瀬には。上の平瀬の反對である。○水烏乎潜都追《ウヲカヅケツツ》――舊本烏を鳥に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。○月爾日爾《ツキニヒニ》――月を旦《アサ》の誤とする説があり、又日の誤とも見られるが、舊のままにして置かう。○江家――この二字は前の詠山振花歌(四一八五)の場合と同じく、不要の文字である。
〔評〕 越前掾大伴池主に、遙々越中から鵜を贈つて、鵜飼を奨めたもの。鵜は越中、ことに能登海岸に多く棲(490)んでゐた。(今も國幣大社氣多神社で鵜祭が行はれてゐる)從つてこれを使用する鵜飼も盛であつた。越前にも鵜がゐないのではあるまいが、家持は特によく飼ひ馴らした鵜を池主に贈つて、鵜飼によつて旅中の愁を慰ましめようとしたもの。懇切な友情のあらはれであるが、歌は佳作とは言ひ難い。
 
4190 叔羅河 瀬を尋ねつつ 吾がせこは 鵜河立たさね 心なぐさに
 
叔羅河《シラギガハ》 湍乎尋都追《セヲタヅネツツ》 和我勢故波《ワガセコハ》 宇可波多多佐禰《ウカハタタサネ》 情奈具左爾《ココロナグサニ》
 
兄今此ノ鵜ヲ貴方ニ贈リマスガ〔只今〜傍線〕、貴方ハ叔羅河ノヨイ〔三字傍線〕瀬ヲ尋ネテ、心ヲ慰メル爲ニ、鵜飼ヲナサイマシ。
 
○湍乎尋都追《セヲタヅネツツ》――長歌に平瀬・早湍などと言つてゐるから、この湍は早湍で、鵜飼をなすに適した急湍である。○宇可波多多佐禰《ウカハタタサネ》――※[盧+鳥]を使つて漁をすることを、鵜川乎立《ウカハヲタテ》(三八)と言ふ。タタサネは立て給への意。
〔評〕 これも平庸。申わけに附したやうだ。この歌の前に反歌とあるべきだが、無いからと言つて脱落と見るのは早計である。
 
4191 鵜河立ち 取らさむ鮎の しがはたは 我に掻き向け 念ひし念はば
 
※[盧+鳥]河立《ウカハタチ》 取左牟安由能《トラサムアユノ》 之我波多波《シガハタハ》 吾等爾可伎无氣《ワレニカキムケ》 念之念婆《オモヒシモハバ》
 
貴方ガ此ノうヲ使ツテ〔貴方〜傍線〕河デ鵜飼ヲシテ御取リニナツタ鮎ノソノ鰭ハ貴方ガ私ヲ親シク〔三字傍線〕思召スナラバ、私ニ贈ツテ下サイ。
 
○※[盧+鳥]河立《ウカハタチ》――ウカハタテと訓んでもよいところであるが、卷十七に宇加波多知《ウカハタチ》(三九九一)・宇加波多知家里《ウカハタチケリ》(四〇二三)とあるから、舊訓のままにして置かう。○取左牟安由能《トラサムアユノ》――トラサムは取り給はむ。○之我波多波《シガハタハ》――シガは其《ソレ》ガに同じ、ハタほ鰭。○吾等爾可伎无氣《ワレニカキムケ》――カキは接頭語で強めて言ふのみ。ムケは向けよ。贈れよの意。○念之念婆《オモヒシモハバ》――念ふ心の切なるをあらはさむ爲に、言葉を重ねてゐる。シは強辭。
(491)〔評〕 鮎の鰭を我に贈れと言つたのは面白い。遠隔の地だから捕獲した鮎を贈れとは希望し難く、又越中は鮎の本場だから、その必要もないが、捕つたしるしとして、鰭を贈れといふのである。結句|念之念婆《オモヒシモハバ》が、遠廻しに友情を強要してゐるやうで、一寸おもしろい。
 
右九日附(ケテ)v使(ニ)贈(ル)v之(ヲ)
 
鵜を贈つた時の使に、持たせてやつた歌だといふのである。
 
詠(メル)2霍公鳥并(ニ)藤花(ヲ)1一首并短歌
 
4192 桃の花 くれなゐ色に にほひたる 面わのうちに 青柳の 細き眉根を 咲みまがり 朝かげ見つつ をとめらが 手に取り持たる まそ鏡 二上山に 木の晩の
 繁き谿邊《たにべ》を 呼び響《とよ》め 朝飛び渡り 夕月夜《ゆふづくよ》 かそけき野邊に はろばろに 鳴くほととぎす 立ち潜《く》くと 羽觸《はぶり》に散らす 藤浪の 花なつかしみ 引き攀《よ》ぢて 袖に扱入《こき》れつ 染《し》まば染《し》むとも
 
桃花《モモノハナ》 紅色爾《クレナヰイロニ》 爾保比多流《ニホヒタル》 面輪乃宇知爾《オモワノウチニ》 青柳乃《アヲヤギノ》 細眉根乎《ホソキマユネヲ》 咲麻我理《ヱミマガリ》 朝影見都追《アサカゲミツツ》 ※[女+感]嬬良我《ヲトメラガ》 手爾取持有《テニトリモタル》 眞鏡《マソカガミ》 蓋上山爾《フタガミヤマニ》 許能久禮乃《コノクレノ》 繁溪邊乎《シゲキタニベヲ》 呼等余米《ヨビトヨメ》 旦飛渡《アサトビワタリ》 暮月夜《ユフヅクヨ》 可蘇氣伎野邊《カソケキヌベニ》 遙遙爾《ハロバロニ》 喧霍公鳥《ナクホトトギス》 立久久等《タチククト》 羽觸爾知良須《ハブリニチラス》 藤浪乃《フヂナミノ》 花奈都可之美《ハナナツカシミ》 引攀而《ヒキヨヂテ》 袖爾古伎禮都《ソデニコキレツ》 染婆染等母《シマバシムトモ》
 
(桃花紅色爾爾保比多流面輪能宇知爾青柳乃細眉根乎咲麻我理朝影見都追※[女+感]嬬良我手爾取持有眞鏡)二上山デ木ノ暗ク茂ツタ谷ノ邊ヲ、聲高ク叫ンデ響カセナガラ、朝飛ンデ行キ、夕月夜ノ光ガ、幽カナ野邊ニ、遙々ト遠ク〔二字傍線〕鳴イテヰル郭公ガ、飛ビ廻ツテ木ノ下ヲ〔七字傍線〕潜ルトテ羽デ觸ツテ散ラス、藤ノ花ガ懷カシイノデ、着物ガ染マル(492)ナラバ染マツテモカマハナイト思ツテ、藤ノ花ヲ〔七字傍線〕ヒキヨセテソレヲ〔三字傍線〕袖ニ扱イテ入レタ。
 
桃花紅色爾《モモノハナクレナヰイロニ》――この句以下、眞鏡《マソカガミ》までの十一句は、蓋《フタ》と言はむ爲の序詞。鏡には蓋を蔽うてあるからである。この序詞の意は、桃の花のやうな紅の色に、美しい色をしてゐる顔の上に、青柳の葉のやうな細い眉を嫣然笑ひながら、朝の姿を映して見て、處女らが手に執り持つてゐる、眞鏡の鏡のその蓋とつづくのである。古義は細眉根乎をクハシマヨネヲと訓んでゐるが、もとのままがよい。咲麻我理《ヱミマガリ》は笑み曲り。笑つて眉を曲げること。朝影は卷十一、朝影吾身成《アサカゲニワガミハナリヌ》(二三九四)の如きは、朝日に映つる人影で、瘠せた姿であるが、これは朝の姿の意である。○呼等米爾《ヨビトヨメ》――舊本のままでは訓み難い。米爾を顛倒し、爾を余の誤としてヨビトヨメと訓むべきであらう。鳴きながら聲響かせて。○可蘇氣佐野邊《カソケキヌベニ》――夕月夜の光微かに照らす野邊に。○立久久等《タチククト》――立ち潜るとて。○羽觸爾知良須《ハブリニチラス》――ハブリは文字の通り、羽が觸れること。○引攀而《ヒキヨヂテ》――引き寄せて。○袖爾古伎禮都《ソデニコキレツ》――袖に扱き入れた。
〔評〕 冒頭に十一句の長い序詞を置いたのは、殊更に古體の長歌を學んだものか。序詞は優艶な感じをもつてゐて、他に類例もないやうである。結末の數句は、卷八の引攀而折者可落梅花袖爾古寸入津染者雖染《ヒキヨヂテヲラバチルベミウメノハナソデニコキレツシマバシムトモ》(一六四四)の燒直しなることは否み難い。
 
4193 ほととぎす 鳴くはぶりにも 散りにけり 盛過ぐらし 藤浪の花
 
霍公鳥《ホトトギス》 鳴羽觸爾毛《ナクハブリニモ》 落爾家利《チリニケリ》 盛過良志《サカリスグラシ》 藤奈美能花《フヂナミノハナ》
 
郭公ガ鳴イテ飛ビ廻ル〔四字傍線〕羽根ガ觸ルノデモ散ツタヨ。モハヤコノ〔二字傍線〕藤ノ花ハ盛ガ過ギタラシイ。
 
〔評〕 藤の花が郭公の羽觸りにほろほろと、こぼれ落ちる様は、優雅である。三句切で且つ名詞止の調子も柔く、萬葉集の素朴さが無くなつてゐる。
 
(493)一云、落奴倍美《チリヌベミ》 袖爾古伎納都《ソデニコキレツ》 藤浪乃花《フヂナミノハナ》也
 
これは、三句以下の異傳であるが、作者が一にかうも作り試みたのであらう。落奴倍美《チリヌベミ》は散るであらうからの意。藤波乃花也の也は漢文風に添へた不要の文字である。前歌よりも歌品が劣つてゐる。
 
同九日作(ル)v之(ヲ)
 
前の歌と同じく、四月九日に作つたといふのである。
 
更(ニ)怨(ムル)2霍公鳥(ノ)哢《ナクコト》晩(キヲ)1歌三首
 
4194 ほととぎす 鳴き渡りぬと 告ぐれども 我聞きつがず 花は過ぎつつ
 
霍公鳥《ホトトギス》 喧渡奴等《ナキワタリヌト》 告禮騰毛《ツグレドモ》 吾聞都我受《ワレキキツガズ》 花波須凝都追《ハナハスギツツ》
 
郭公ハ鳴イテ通ツタト人ハ私ニ〔四字傍線〕告ゲルケレドモ、私ハソノ後デ、郭公ノ鳴ク聲ヲ〔七字傍線〕聞カナイ。サウシテ〔四字傍線〕藤ノ花ガ盛ガ〔二字傍線〕過ギテ散ツテ〔三字傍線〕シマツタ。ドウシテ今マデ此處ヘ鳴イテ來ナイノダラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○告禮騰毛《ツグレドモ》――人が我に告ぐれどもの意。○吾聞都我受《ワレキキツガズ》――我はその聲を君に續いて聞かない。略解に「一たび聞て後に聞繼ぬと言ふ也」とあるのは曖昧である。○花波須凝都追《ハナハスギツツ》――花は藤浪の花である。藤の花は散つて終つて。藤の花が無くなつては、郭公は鳴くまいと危ぶむ意もある。
〔評〕 結句、花波須凝都追《ハナハスギツツ》と穩やかに歌ひ收めて、餘韻を持たしてある。
 
4195 吾がここだ しぬばく知らに ほととぎす いづへの山を 鳴きか超ゆらむ
 
(494)吾幾許《ワガココダ》 斯努波久不知爾《シヌバクシラニ》 霍公鳥《ホトトギス》 伊頭敝能山乎《イヅヘノヤマヲ》 鳴可將超《ナキカコユラム》
 
私ガコンナニ〔四字傍線〕ヒドク懷カシガツテヰルノヲモ知ラズニ、郭公ハ何處ノ邊ノ山ヲ、鳴イテ越エテヰルノデアラウカ。此處ヘ來テ鳴ケバヨイノニ〔此處〜傍線〕。
 
○斯奴波久不知爾《シヌバクシラニ》――懷しがると知らずに。シヌバクはシヌブの延言。○伊頭敝能山乎《イヅヘノヤマヲ》――何處の方の山を。卷二に何時邊乃方二我戀將息《イヅヘノカタニワガコヒヤマム》(八八)とある。
〔評〕 如何にも怨めしさうに、詠んであるのが取りえであらう。
 
4196 月立ちし 日よりをきつつ うち慕び 待てど來鳴かぬ ほととぎすかも
 
月立之《ツキタチシ》 日欲里乎伎都追《ヒヨリヲキツツ》 敲自努比《ウチシヌビ》 麻低騰伎奈可奴《マテドキナカヌ》 霍公鳥可母《ホトトギスカモ》
 
夏ノ四〔三字傍線〕月ガ來タ立夏節ノ〔三字傍線〕日カラ、郭公ガ來ルヤウニ、餌ナドヲ置イテ〔郭公〜傍線〕招キ寄セル方法ヲトツテ〔七字傍線〕、ナツカシク思ヒナガラ、私ガ〔二字傍線〕待ツテヰテモ來テ鳴カナイ郭公ヨ。ドウシテ鳴カナイノダル〔ドウ〜傍線〕。
 
○月立之《ツキタチシ》――この月立ちし日といふのは、朔日のことではなく、四月節をいつたのである。前の二十四日應立夏四月節也(四一七一)參照。○日欲里乎伎都追《ヒヨリヲキツツ》――ヲキは招く。卷十七の思2放逸鷹1夢見感悦作歌(四〇一一)に呼久餘思乃曾許爾奈家禮婆《ヲクヨシノソコニナケレバ》とある。郭公の來るやうに餌などを置いて待つ意であらう。○敲自努比《ウチシヌビ》――敲《ウチ》は接頭語のみ。自を清音に用ゐたか。
〔評〕 郭公を待つ心を痛切に述べてゐる。初二句は一寸變つてゐて面白い。
 
贈(レル)2京人(ニ)1歌二首
 
(495)前に從2京師1贈來歌(四一八四)とあつたのに答へたものである。
4197 妹に似る 草と見しより 吾がしめし 野べの山吹 誰か手折りし
 
妹爾似《イモニニル》 草等見之欲里《クサトミシヨリ》 吾標之《ワガシメシ》 野邊之山吹《ヌベノヤマブキ》 誰可手乎里之《タレカタヲリシ》
 
私ノ愛スル〔五字傍線〕貴女ニ似テヰル美シイ〔三字傍線〕草ト思ツテカラ、私ガナツカシガツテ〔七字傍線〕、標ヲシテ人ガ取ラナイヤウニシテ〔人ガ〜傍線〕置イタ野原ノ山吹ノ花〔二字傍線〕ヲ、誰ガ手折ツタノデスカ。アナタノ御歌ニ山吹ノ花ヲ手ニシタトアリマスガ、猥リニ折取ツテハイケマセン〔アナ〜傍線〕。
 
○妹爾似《イモニニル》――妹に似る草とは、前に山吹乃花執持而《ヤマブキノハナトリモチテ》(四一八四)とあるに應じた言葉である。山吹を女に譬へるのは、卷十一に山振之爾保敝流妹之《ヤマブキノニホヘルイモガ》(二七八六)とある。
〔評〕 家持の妹から、家持の妻大伴坂上大孃に贈つた四一八四の歌に答へたので、家持が妻の爲に代作したのである。卷七の於君似草登見從我標之野山之淺茅人莫苅根《キミニニルクサトミシヨリワガシメシヌヤマノアサヂヒトナカリソネ》(一三四七)に傚つたもので、これらは模傚といふよりも、後世の本歌取のやうな態度で、詠んだものと見るのが當つてゐるであらう。
 
4198 つれもなく 離れにしものと 人は言へど 逢はぬ日まねみ 念ひぞ吾がする
 
都禮母奈久《ツレモナク》 可禮爾之毛能登《カレニシモノト》 人者雖云《ヒトハイヘド》 不相日麻禰美《アハヌヒマネミ》 念曾吾爲流《オモヒゾワガスル》
 
薄情ニモ貴方ヲ振リ捨テテ〔八字傍線〕、出テ來タ私ダト貴方ハ仰ルケレドモ、私ハ貴方ニ〔三字傍線〕逢ハナイ日ガ多イノデ、貴方ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテ居リマス。
 
(496)○不相日麻禰美《アハヌヒマネミ》――マネミはマネキ故に。マネキは多き。
〔評〕 前歌は贈つて來た歌に、山吹乃花執持而《ヤマブキノハナトリモチテ》とあるに答へたもので、これはその次の月、都禮毛奈久可禮爾之妹乎《ツレモナクカレニシイモヲ》とあるに應じたのである。先方の串戯に對して、眞面目に受けてゐるのがしをらしい。
 
右爲(ニ)v贈(ル)2留v女之女郎(ニ)1所(テ)v誂(エ)2家婦(ニ)1作(レル)也、女郎者即大伴家持之妹
 
留女の女は郷又は京の誤と言はれてゐる。前(四一八四)のものと同じく、京の誤としよう。家婦は妻。即ち大伴坂上大孃。元暦校本には即の下、守の字がある。
 
十二日、遊2覽(シ)布勢水海(ニ)1、船(ヲ)泊(メテ)2於|多※[示+古]灣《タコノウラニ》1望(ミ)2見(テ)藤花(ヲ)1各述(ベテ)v懷(ヲ)作(レル)歌四首
 
多※[示+古]灣は布勢水海の東南隅の灣入したところ。多古能之麻《タコノシマ》(四〇一一)・多故乃佐伎《タコノサキ》(四〇五一)とあつたのと同所。今の宮田村田子の邊である。挿入の寫眞はこの舊蹟と言はれてゐる田子の藤波神社の、藤の花盛に著者が寫したのであるが、花がそれと見分け難いのは遺憾である。舊本※[示+古]を祐に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。なほ此の項、口繪參照。
 
4199 藤浪の 影なる海の 底清み しづく石をも 珠とぞ吾が見る
 
藤奈美乃《フヂナミノ》 影成海之《カゲナルウミノ》 底清美《ソコキヨミ》 之都久石乎毛《シヅクイシヲモ》 珠等曾吾見流《タマトゾワガミル》
 
藤ノ花ガ咲イテ居ル下蔭ニアル、水海ノ底ガ清イノデ、水ノ底ニ〔四字傍線〕沈ンデヰル石ヲモ、私ハ見テ玉カト思フヨ。ホントニ佳イ景色ダ〔九字傍線〕。
 
○影成海之《カゲナルウミノ》――藤の花の蔭にある海の。藤の花の咲いてゐる下蔭にある水海の。古義は「影之在海《カゲノアルウミ》にて(乃阿《ノア》は奈《ナ》と切れり)影のうつりてある海、といふ意なり」と解してゐるが、ナルはニアルの約であるから、ノアルの切と(497)するのは無理であらウ。新訓にはカゲナスウミノとある。然らば藤の花の下蔭をなす海の意か。○之都久石乎毛《シヅクイシヲモ》――シヅクは沈んでゐること。卷七の海底沈白玉《ワタノソコシヅクシラタマ》(一三一七)その他例が多い。
〔評〕 清い湖水の上に藤の花が、紫にその影を映してるる。水底に沈んだ石は玉のやうに美しい。その風景が鮮明に、繪のやうに描き出されてゐる。
 
守大伴宿禰家持
 
これは右の歌の作者を示したもの。
 
4200 多※[示+古]の浦の 底さへにほふ 藤浪を かざして行かむ 見ぬ人の爲
 
多※[示+古]乃浦能《タコノウラノ》 底左倍爾保布《ソコサヘニホフ》 藤奈美乎《フヂナミヲ》 加射之※[氏/一]將去《カザシテユカム》 不見人之爲《ミヌヒトノタメ》
 
田※[示+古]ノ浦ノ水ノ底マデモ、美シク映ツテ見エル藤ノ花ヲ、マダ來テ見ナイ人ニ見セル〔三字傍線〕爲ニ、手折ツテ〔四字傍線〕挿頭ノ花ニシテ行キマセウ。
 
○多※[示+古]乃浦《タコノウラ》――題に多※[示+古]灣とあるに同じ。舊本、※[示+古]を祐に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。
〔評〕 すなほな上品な歌だ。結句、不見人之爲《ミヌヒトノタメ》とある歌は他にもあるが、類型的といふほどでもない。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。謠曲「藤」はこの歌を織り込んで、田※[示+古]浦の藤の花の精を脚色したもので(498)ある。
 
次官内藏忌寸繩麻呂
 
次官は即ち介。
 
4201 いささかに 念ひて來しを 多※[示+古]《たこ》の浦に 咲ける藤見て 一夜經ぬべし
 
伊佐左可爾《イササカニ》 念而來之乎《オモヒテコシヲ》 多※[示+古]乃浦爾《タコノウラニ》 開流藤見而《サケルフヂミテ》 一夜可經《ヒトヨヘヌベシ》
 
一寸ト思ツテ出テ來タノダガ、此ノ多※[示+古]ノ浦ニ咲イテヰル藤ノ花ノ美シイ景色ヲ〔七字傍線〕見テ、私ハ此處デ〔五字傍線〕一晩過シサウダ。
○伊佐左可爾《イササカニ》――聊かに。一寸。古義に「伊佐左米爾と云と同じく、たゞかりそめになどいはむが如し」とある。新考に可を米の誤として、イササメニと改めてゐる。舊の儘でよい。
〔評〕 結句の一夜可經《ヒトヨヘヌベシ》は卷八の赤人の春野爾須美禮採爾等來師吾曾野乎奈都可之美一夜宿二來《ハルノヌニスミレツミニトコシワレゾヌヲナツカシミヒトヨネニケル》(一四二四)を思はしめるものがある。和漢朗詠集にこの歌を「いささめに思ひしものをたこの浦にさける藤なみ一夜ねぬべし」と改め赤人として出したのは、この類似點に迷はされたものであらう。
 
判官久米朝臣廣繩
 
4202 藤浪を 假廬に造り 浦みする 人とは知らに 海人とか見らむ
 
藤奈美乎《フヂナミヲ》 假廬爾造《カリホニツクリ》 灣廻爲流《ウラミスル》 人等波不知爾《ヒトトハシラニ》 海部等可見良牟《アマトカミラム》
 
コノ多※[示+古]浦デ〔七字傍線〕藤ノ花ヲ假廬ニコシラヘテ、ココニ宿ツテ、コノ〔八字傍線〕浦廻エイヲスル風流ナ〔三字傍線〕人トハ知ラナイデ、世間(499)ノ人ハ私ドモヲ〔九字傍線〕海人ト思ツテ見ルデアラウ。
 
○假廬爾造《カリホニツクリ》――代匠記初稿本に「藤の蔭にかくるるを、かりほにつくりとはいひなせるなり」とあるが、やはり言葉通りに、藤の花を廬の屋根などに葺いたことであらう。○灣廻爲流《ウラミスル》――舊訓アサリスルとあるのを、古義にウラミスルと改めたのがよい。灣はウラと訓む字である。灣廻《ウラミ》は浦のまはりであるが、ここは動詞にして、浦を廻ぐることに用ゐてある。
〔評〕 卷三の荒妙藤江之浦爾鈴寸鉤白水郎跡香將見旅去吾乎《アラタヘノフヂエノウラニスズキツルアマトカミラムタビユクワレヲ》(二五二)に傚つた作なることは否み難いが、初二句は風雅である。
 
久米朝臣繼麻呂
 
この作者は他に見えない。或は廣繩の子か。
 
恨(ムル)2霍公鳥不1v喧(カ)歌一首
 
4203 家に行きて 何を語らむ あし引の 山ほととぎす 一こゑも鳴け
 
家爾去而《イヘニユキテ》 奈仁乎將語《ナニヲカタラム》 安之比奇能《アシヒキノ》 山霍公鳥《ヤマホトトギス》 一音毛奈家《ヒトコヱモナケ》
 
家ニ歸ツテ何ヲ土産話ニショウカ。セメテ〔三字傍線〕(安之比奇能)山郭公ヨ、一聲デモ鳴イテクレ。ソレヲ土産話ニシヨウ〔十字傍線〕。
〔評〕 多※[示+古]の浦の清遊に、郭公を待つ心を歌つたもの。歌は平庸。
 
判官久米朝臣廣繩
 
(500)攀(ヂ)折(レル)保寶葉《ホホガシハヲ》1歌二首
 
保寶葉は歌に保寶我之波《ホホガシハ》と詠んだのと同じ、ホホガシハは字鏡に「厚朴【保保加志波】」とあり、和名抄には「厚朴、本草云、厚朴、一名厚皮漢語抄云、厚木保保加之波乃岐」とある。今の謂はゆるホホノキである。木蘭科の落葉喬木で、葉は頗る大きく、倒卵形全邊で互生してゐる。花は白色で大形。この木の枝を折り取つたのを見て詠んだ歌。
 
4204 吾わがせこが 捧げて持たる ほほがしは あたかも似るか 青き蓋
 
吾勢故我《ワガセコガ》 捧而持流《ササゲテモタル》 保寶我之婆《ホホガシハ》 安多可毛似加《アタカモニルカ》 青蓋《アヲキキヌガサ》
 
吾ガ友ガ頭ノ上ニ〔四字傍線〕捧ゲテ持ツテヰル厚朴ハ、丸デ青イ蓋ニ似テヰル。
 
○吾勢故我《ワガセコガ》――誰ともわからないが、列席者の一人。或は家持を指したか。○青蓋《アヲキキヌガサ》――青い色の蓋。蓋は絹を張つたさしかけの傘。令によれば一位は深緑の蓋をさしたのである。卷三に我大王者盖爾爲有《ワガオホキミハキヌガサニセリ》(二四〇)とある。
〔評〕 青々とした大きな葉の附いた厚朴の枝を捧げてゐるのを見て、丸で青い蓋のやうだと言つたのは當意即妙。その人を緑の蓋をさした一位の貴人に見たてた意もあつて面白い。和歌童蒙抄にも載つてゐる。
 
講師僧惠行
 
講師は國分寺の僧の最高位。諸國の僧尼を司り、教理を講説する役。續日本紀によれば、文武天皇の大寶二年二月の條に「丁巳、任2諸國國師1」とあり、始は國師と稱したのであつた。桓武天皇の延暦十四年八月の太政官符に「自今以後宜d改2國師1曰2講師1、毎v國置c一人u」とあつて、この時始めて講師の稱が起つたことになつてゐるのに、ここに講師とあるのはどういふわけであらう。研究を要する問題である。惠行の傳は明らかでない。
 
4205 すめろぎの 遠き御代御代は いしきをり 酒飲むといふぞ 此のほほがしは
 
(501)皇神祖之《スメロギノ》 遠御代三世波《トホキミヨミヨハ》 射布折《イシキオリ》 酒飲等伊布曾《サケノムトイフゾ》 此保寶我之波《コノホホガシハ》
 
皇祖ノ神樣ノ遠イ昔ノ〔二字傍線〕御代御代デハ、此ノ厚朴ノ葉ヲ折ツテ敷イテ、ソレデ〔三字傍線〕酒ヲ飲ンダトイフコトダゾ。
 
○皇祖神之《スメロギノ》――ここは文字通り、皇室の御先祖の神々をさしてゐる。○遠御代三世波《トホキミヨミヨハ》――古義はトホミヨミヨハとよみ、又波は從《ユ》の誤かと言つてゐる。舊のままでよい。御代三世は御代御代とあるべきを、文字を變へて記したのみで、三世とあるのに拘泥しないがよい。遠い御代御代にはの意。○射布折《イシキヲリ》――イは接頭語で意味はない。敷いて折つて。木の葉を折つて敷く。或はもと射折布《イヲリシキ》であつたのを、誤つたかも知れない。宣長は「布折は折布を下上に誤れるか。それも猶酒飲には、しくと言ふ事いかがなれば、布は誤ならむか。二の句の波といふ言も穩かならねば、波は三の句へつぎて、猶誤字有べし」と言つてゐる。新考は打手折《ウチタヲリ》の誤としてゐる。○酒飲等伊布曾此保寶我之波《サケノムトイフゾコノホホガシハ》――この厚朴の葉で酒を飲んだといふことだぞの意。新考・新訓はキノミキトイフゾと訓んでゐる。代匠記精撰本に「日本紀云、葉盤八枚《ヒラデヤツ》葉盤此云、※[田+比]羅耐和名集云、本朝式(ニ)云、十一月辰日(ノ)宴會、其飲器參議以上朱漆椀、五位以上葉椀和語云、久保天又云、漢語鈔云、葉手比良天、古は食ふ物をも木の葉に盛、又柏など折敷て其上に居《スヱ》もしければ、椎の葉に盛るともよみ、膳夫をかしはてと云ひ、食物|居《スウ》る盤を折敷《ヲシキ》とも云へり。神供は後までも柏に盛故に、曾禰好忠が歌に、さか木取卯月になれば神山の楢の葉かしは本つ葉もなしとよめり。廷喜式の大嘗會其外供御料の注文に、育※[木+解]《アヲカシハ》干※[木+解]《ホシカシハ》などあまた處に見えたり」とある。古事記明《アキラノ》宮(應神天皇)の段に、「天皇聞2看豐明1之日、髪長比賣|令v握2大御酒柏1賜2其太子《オホミキノカシハヲトラシメテソノヒツギノミコニタマヒキ》1」とあつて、これによつて古事記傳に、「大御酒柏は、酒を受て飲(ム)葉なり。貞觀儀式大嘗會(ノ)儀(ノ)中に、云々、次(ニ)神服男七十二人、着青摺(ノ)布(ノ)衫、并(ニ)日蔭縵(ヲ)1所謂(ル)各執2酒柏1、酒柏者、以2弓弦葉(ヲ)1挾(ミ)2白木(ニ)1四重、別(ニ)四枚在(リ)2左右(ニ)1、また午(ノ)日(ノ)儀に、次(ニ)神祇官(ニ)中臣忌(502)部、及|小齋《ヲミノ》侍從以下、番上以上、左右(ニ)分(レ)入(ル)、造酒司人別(ニ)賜(フ)v柏(ヲ)、即受(テ)v酒(ヲ)而飲訖(テ)以v柏(ヲ)爲(テ)v縵(ト)而和舞(ス)と見ゆ。大嘗祭式にも見ゆ。此(ノ)柏の事なほ委くは、下卷高津(ノ)宮(ノ)段に、大后爲2將豐(ノ)樂《アカリ》1而、於v採《トリ》2御網柏1云々とある處、又同段に、將2爲豐樂1之時(ニ)云々大后自|取《トラシテ》2大御酒柏(ヲ)1賜2諸氏々之|女等《ヲミナドモニ》1云々とある處に云むを考合すべし。抑酒を柏に受て飲(ム)事は、いといと上ツ代のわざなりしが、定まれる禮《ヰヤゴト》となりて、豐(ノ)明(リ)などには、必(ズ)其(ノ)事ありしなり。云々」と説明してゐる通り、上ツ代には柏の葉に酒をついだものである。
〔評〕 歌としては別に傑れてはゐないが、上代文化の研究資料として貴重な作品である。ここまでが十二日布勢水海に遊んで詠んだもの。
 
守大伴宿禰家持
 
還(ル)時濱(ノ)上(ニ)仰(ギ)2見(ル)月光(ヲ)1歌一首
 
歸路は多※[示+古]の浦から海岸に出たのである。地形から推すに、濱とあるは麻都太要《マツダエ》の濱であらう。
 
4206 澁溪を さして吾が行く この濱に 月夜飽きてむ 馬暫し停め
 
之夫多爾乎《シブタニヲ》 指而吾行《サシテワガユク》 此濱爾《コノハマニ》 月夜安伎※[氏/一]牟《ツクヨアキテム》 馬之末時停息《ウマシマシトメ》
 
澁溪ヲ指シテ私ガ行ク此ノ濱デ、今夜ノ此ノ良イ〔七字傍線〕月夜ヲ飽キルマデ眺メ〔五字傍線〕ヨウト思フ〔三字傍線〕。馬ヲ暫ク止メナサイ。
 
○之夫多爾乎《シブタニヲ》――之夫多爾《シブタニ》は澁溪の磯。今の雨晴《アマバラシ》。○指而吾行《サシテワガユク》――この句で切れてゐるのではない。次句へつづいてゐる。○月夜安伎※[氏/一]牟《ツクヨアキテム》――月夜の佳い景色を飽くまで眺めようの意。○馬之末時停息《ウマシマシトメ》
――馬を暫時止めよ。トメは命令形である。舊本、末を未に誤つてゐる。西本願寺本によつて改めた。
〔評〕 長汀曲浦を月光を浴びつつ、馬の手綱をかい繰る貴公子の姿が見えるやうだ。
 
(503)守大伴宿禰家持
 
二十二日、贈(レル)2判官久米朝臣廣繩(ニ)1霍公鳥(ノ)怨恨(ノ)歌一首井短歌
 
舊本、鳥の下に歌とあるのは衍である。西本願寺本によつで改めた。
 
4207 ここにして 背がひに見ゆる 吾が兄子が 垣内の谿に 明けされば 榛の小枝に 夕されば 藤の繁みに はろばろに 鳴くほととぎす 吾がやどの 植木橘 花に散る 時をまだしみ 來鳴かなく そこは怨みず 然れども 谷片づきて 家居れる 君が聞きつつ 告げなくもうし
 
此間爾之※[氏/一]《ココニシテ》 曾我比爾所見《ソガヒニミユル》 和我勢故我《ワガセコガ》 垣都能谿爾《カキツノタニニ》 安氣左禮婆《アケサレバ》 榛之狹枝爾《ハリノサエダニ》 暮左禮婆《ユフサレバ》 藤之繁美爾《フヂノシゲミニ》 遙遙爾《ハロバロニ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》 吾屋戸能《ワガヤドノ》 殖木橘《ウヱキタチバナ》 花爾知流《ハナニチル》 時乎麻太之美《トキヲマダシミ》 伎奈加奈久《キナカナク》 曾許波不怨《ソコハウラミズ》 之可禮杼毛《シカレドモ》 谷可多頭伎※[氏/一]《タニカタヅキテ》 家居有《イヘヲレル》 君之聞都都《キミガキキツツ》 追氣奈久毛宇之《ツゲナクモウシ》
 
此處カラハ斜横ニ見エル、貴方ノ家ノ〔二字傍線〕垣根ノ内ノ谷ニ、夜明ケガ來ルト榛ノ木ノ枝デ、夕方ガ來ルト藤ノ茂ツタ中デ、遙カニ遠ク鳴ク郭公ガ、私ノ家ノ庭ニ植ヱテアル橘ガ、空シク散ル時ガ未ダ來ナイノデ、ココヘハ〔四字傍線〕來テ鳴カナイガ、私ハ〔三字傍線〕ソレハ恨メシイトハ思ハナイ。然シナガラ、谷ニ片寄ツテ住マツテヰル貴方ガ、郭公ノ聲ヲ〔五字傍線〕聞キナガラ私ニ〔二字傍線〕告ゲナイノハ、ツライコトデス。
 
○曾我比爾所見《ソガヒニミユル》――ソガヒは背向であるが、斜横などの意らしいことは卷三(三五七)に述べて置いた。○垣都能谿爾《カキツノタニニ》――垣都《カキツ》は垣内。久米廣繩の邸内の谿。○安氣左禮婆《アケサレバ》――安氣《アケ》は夜明け。夜明けが來ると。○榛之狹枝爾《ハリノサエダニ》――榛はハンノキ。舊訓ナラとあるのはよくない。狹枝《サエダ》のサは接頭語。小枝ではない。○殖木橘《ウヱキタチバナ》――植ゑてある木の橘。○花爾知流《ハナニチル》――空しく散る。花爾《ハナニ》は徒《アダ》に、空しくなどの意。卷十に秋芽子者於雁不相常言有者香(504)音乎聞而者花爾散去流《アキハギハカリニアハジトイヘレバカコヱヲキキテハハナニチリヌル》(二一二六)とあるも同じ。○時乎麻太之美《トキヲマダシミ》――時が早いので。まだ花が散る時が來ないので。○谷可多頭伎※[氏/一]《タニカタヅキテ》――谷に片寄つて。谷の側に。海片就而《ウミカタヅキテ》(一〇六二)・山片就而《ヤマカタヅキテ》(一八四一)の類である。
〔評〕 消息文の代りに、長歌を以つてしたもの。内容も深刻味のない風流事だけに、一讀して何等の感興も湧いて來ない。
 
反歌一首
 
4208 吾がここだ 待てど來鳴かぬ ほととぎす 獨聞きつつ 告げぬ君かも
 
吾幾許《ワガココダ》 麻※[氏/一]騰來不鳴《マテドキナカヌ》 霍公鳥《ホトトギス》 比等里聞都追《ヒトリキキツツ》 不告君可母《ツゲヌキミカモ》
 
私ガ熱心ニ待ツテヰテモ私ノ處ヘハ〔五字傍線〕來テ鳴カナイ郭公ヲ、一人デ聞イテヰナガラ、告ゲテ下サラナイ貴方ヨ。薄情ナ御方ダ〔六字傍線〕。
 
○吾幾許《ワガココダ》――私が甚《ひど》く。ココダは多く、澤山に。
〔評〕 長歌の末句の意を繰返したに過ぎない。
 
詠(メル)2霍公鳥(ヲ)1歌一首并短歌
 
4209 谷近く 家は居れども 木高くて 里はあれども ほととぎす 未だ來鳴かず 鳴く聲を 聞かまく欲りと 朝には 門にいで立ち 夕べには 谷を見渡し 戀ふれども 一聲だにも 未だ聞えず
 
多爾知可久《タニチカク》 伊敝波乎禮騰母《イヘハヲレドモ》 許太加久※[氏/一]《コダカクテ》 佐刀波安禮騰母《サトハアレドモ》 保登等藝須《ホトトギス》 伊麻太伎奈加受《イマダキナカズ》 奈久許惠乎《ナクコヱヲ》 伎可麻久保理登《キカマクホリト》 安志多爾波《アシタニハ》 可度爾伊※[氏/一]多知《カドニイデタチ》 由布敝爾波《ユフベニハ》 多爾乎美和多之《タニヲミワタシ》 古布禮騰毛《コフレドモ》 (505)比等己惠太爾母《ヒトコヱダニモ》 伊麻太伎己要受《イマダキコエズ》
 
私ハ〔二字傍線〕谷ニ近ク家ヲ構ヘテ〔三字傍線〕住ンデヰマスガ、又、私ノ居ル〔五字傍線〕里ハ木ガ高ク茂ツテハヰマスガ、郭公ハマダ來テ鳴キマセン。其ノ〔二字傍線〕鳴ク聲ヲ聞キタイト思ツテ〔三字傍線〕、朝ニハ門ニ出デ立チ、夕方ニハ谷ヲ見渡シ、戀シク思ツテヰマスケレドモ、一聲スラモ未ダ聞エマセン。
 
○許太加久※[氏/一]《コダカクテ》――木高く。木が高く繁つて。○伎可麻久保理登《キカマクホリト》――聞かまく欲りとで。聞きたいと思つて。
〔評〕 家持が、郭公を聞きながら、知らせないと怨んで來たのに對して、否まだ私も聞かないのですと答へたもの。廣繩の作の中の唯一の長歌で、家持に答へる爲に殊更に作つたか。發端が長歌としてはあまり唐突であり、全體に技巧が拙い。
 
4210 藤浪の 繁りは過ぎぬ あし引の 山ほととぎす などか來鳴かぬ
 
敷治奈美乃《フヂナミノ》 志氣里波須疑奴《シゲリハスギヌ》 安志比紀乃《アシビキノ》 夜麻保登等藝須《ヤマホトトギス》 奈騰可伎奈賀奴《ナドカキナカヌ》
 
藤ノ花ノ盛リハ過ギマシタ。(安志比紀乃)山郭公ハモウ鳴ク頃ダノニ〔八字傍線〕、何故來テ鳴カナイノデセウ。
 
○志氣里波須疑奴《シゲリハスギヌ》――シゲリは繁り。藤の花が盛に咲くをいふ。
〔評〕 これもつまらない作だ。卷十八のこの人の作、米豆艮之伎吉美我伎麻佐波奈家等伊比之夜麻保等萱藝須奈爾加伎奈可奴《メヅラシキキミガキマサバナケトイヒシヤマホトトギスナニカキナカヌ》(四〇五〇)と似た歌である。
 
右二十三日掾久米朝臣廣繩(ノ)和
 
(506)追2和(スル)2處女(ノ)墓歌(ニ)1二首并短歌
 
追和は元暦校本その他の古寫本、多くは追同に作つてゐる。
 
4211 古に ありけるわざの くすはしき 事と言ひ繼ぐ 血沼壯士 菟原壯士の うつせみの 名を爭ふと たまきはる 命も捨てて 爭に つま問しける をとめらが 聞けば悲しさ 春花の にほえさかえて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身のさかりすら ますらをの こといたはしみ 父母に まをし別れて 家さかり 海べに出で立ち 朝よひに 滿ち來る潮の 八重浪に 靡く珠藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ おくつきを ここと定めて 後の代の 聞き繼ぐ人も いや遠に しぬびにせよと 黄楊小櫛 しか指しけらし 生ひて靡けり
 
古爾《イニシヘニ》 有家流和射乃《アリケルワザノ》 久須婆之伎《クスハシキ》 事跡言繼《コトトイヒツグ》 知努乎登古《チヌヲトコ》 宇奈比壯子乃《ウナヒヲトコノ》 宇都勢美能《ウツセミノ》 名乎競争登《ナヲアラソフト》 玉剋《タマキハル》 壽毛須底※[氏/一]《イノチモステテ》 相争爾《アラソヒニ》 嬬問爲家留《ツマドヒシケル》 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 聞者悲左《キケバカナシサ》 春花乃《ハルバナノ》 爾太要盛而《ニホエサカエテ》 秋葉之《アキノハノ》 爾保比爾照有《ニホヒニテレル》 惜《アタラシキ》 身之壯尚《ミノサカリスラ》 大夫之《マスラヲノ》 語勞美《コトイタハシミ》 父母爾《チチハハニ》 啓別而《マヲシワカレテ》 離家《イヘサカリ》 海邊爾出立《ウミベニイデタチ》 朝暮爾《アサヨヒニ》 滿來潮之《ミチクルシホノ》 八隔浪爾《ヤヘナミニ》 靡珠藻乃《ナビクタマモノ》 節間毛《フシノマモ》 惜命乎《ヲシキイノチヲ》 露霜之《ツユシモノ》 過麻之爾家禮《スギマシニケレ》 奧墓乎《オクツキヲ》 此間定而《ココトサダメテ》 後代之《ノチノヨノ》 聞繼人毛《キキツグヒトモ》 伊也遠爾《イヤトホニ》 思努比爾勢餘等《シヌビニセヨト》 黄楊小櫛《ツゲヲグシ》 之賀左志家良之《シカサシケラシ》 生而靡有《オヒテナビケリ》
 
昔在ツタコトデ、珍ラシイ事ト言ヒ傳へテヰル、アノ〔二字傍線〕知努壯士ト宇奈比壯士トガ、此ノ〔二字傍線〕人ノ世ハ名ヲ爭フトテ、(玉剋)命モ捨テテ、相爭ツテ妻ニシヨウトシタ葦屋ノ〔三字傍線〕處女ノコトヲ、話ニ〔二字傍線〕聞ケバ悲シイヨ。ソノ處女〔四字傍線〕ハ春ノ花ノヤウニ美シク榮エテ、秋ノ紅葉ノヤウニ美シイ色ニ輝イテヰル、アタラ惜シイ身ノ盛リデアリナガラ、コノ二人ノ〔五字傍線〕男ノ言フ〔二字傍線〕言葉ヲ氣ノ毒ニ思ツテ、父母ニ暇乞ヲシテ、家ヲ難レテ海邊ニ出テ立ツテ、(朝暮爾滿來潮之八隔(507)浪爾靡珠藻乃)短イ暫クノ間モ惜シイ命ダノニ、身ヲ投ゲテ空シク〔八字傍線〕(露霜之)死ンデシマハレタノデ、一族ノ者ガ〔五字傍線〕墓場ヲ此處ト選定シテ、後ノ世ノ聞キ傳ヘル人モ、益々遠ク遙カノ後マデモ〔七字傍線〕、ナツカシイ思ヒ出ニセヨトテ、黄楊ノ小櫛ヲ斯樣ニ墓ノ上ニ〔四字傍線〕挿シタモノラシイ。ソレガ〔三字傍線〕生ヒツイテ枝ヲ伸バシテヰル。
 
○久須婆之伎《クスハシキ》――奇はしき。奇妙な。クスシキに同じ。○知努乎登古宇奈比壯子乃《チヌヲトコウナヒヲトコノ》――知努乎登古は和泉國茅渟の男。又、小竹田丁子《シヌダヲトコ》(一八〇二)とも言つてある。宇奈比壯子は攝津の兎原《ウナヒ》の男である。この二人が兎原處女を得むと爭つたのである。○字都勢美能《ウツセミノ》――現世の。この世の。○玉剋《タマキハル》――枕詞。魂の極まる壽とつづく。○相爭爾《アラソヒニ》――舊訓アラソフニとあるが、代匠記精撰本による。意は爭つてといふに同じ。考は爭を共に改めて、アヒトモニと訓む説をよいとし、なほ、もとのままでアラソヒニと訓むべきだらうといつてゐる。略解は爭を具の誤としてアヒトモニとあつたのであらうといつてゐる。古義はこれに賛し、新考は爾を衍字としてアヒキホヒと訓むべしといつてゐる。○※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》――處女のことがの意。ヲトメラシと訓む説もある。古義には次の一句を隔てて春花乃《ハルハナノ》へ續くので、聞者《キケバ》とつづくのではないと言つてゐるが、今從はない ○爾太要盛而《ニホエサカエテ》――爾太要を誤字ありとして、考は志多要《シダエ》・略解は志奈要シナエ》・新考は彌太要《ミダエ》と改めてゐる。卷十三に都追慈花爾太遙越賣《ツツジバナニホエヲトメ》(三三〇九)とあるから誤ではあるまい。ニホエは匂ヒと同意であらう。○爾保比爾照有《ニホヒニテレル》――色美しく輝いてゐル。爾保比《ニホヒ》は匂つてゐること。照有《テレル》は顔の輝いてゐること。○惜身之壯尚《アタラシキミノサカリスラ》――舊訓ヲシキミノサカリナルスラを改めて、略解に、アタラミノサカリヲスラニと訓んだのが行はれでゐるが、新考にアタラシキミノサカリスラとしたのは卓見である。舊本、壯を莊に誤つてゐる。○大夫之語勞美《マスラヲノコトイタハシミ》――二人の男の心を籠めて言ひ寄る言葉が氣の毒なので。勞は舊訓の如くイタハシと訓むがよい。イトホシはイタハシの轉であるから、イトホシと訓むのは古意でない。○啓別而《マヲシワカレテ》――暇乞ひして。○朝暮爾滿來潮之八隔浪爾靡珠藻乃《アサヨヒニミチクルシホノヤヘナミニナビクタマモノ》――この四句は節間《フシノマ》と言はむ爲の序詞である。但し上に海邊爾出立《ウミベニイデタチ》とあるから、海邊の風景を捉へたのである。○節間毛《フシノマモ》――短い間も。玉藻には節があつて、節と節との間が短いから、僅かの短い間もの意としてゐる。新古今集の伊勢「難波潟短き葦の節の(508)間もあはでこの世を過してよとや」もこれと同じである。○露霜之《ツユシモノ》――枕詞。過《スギ》とつづく心は明らかである。○過麻之爾家禮《スギマシニケレ》――死んでしまはれたから、ケレバの意。○黄楊小櫛之賀左志家良之《ツゲヲグシシカサシケラシ》――黄楊の小櫛をかやうに挿したのであらう。古義に之賀《シカ》をシガと訓んで、其之《ソレガ》・處女《ヲトメ》がと解したのは、非常な誤である、處女の死後にその親どもが、塚の上に處女の櫛を挿したのである。
〔評〕 卷九の田邊福麿之歌集出の過葦屋處女墓作歌(一八〇一)三首と、高橋連蟲麿之歌集中出の、見菟原處女墓歌(一八〇九)二首とに追和したものであらう。知努壯士と菟原壯士との闘爭を、互に名を争つたものとして見てゐるのは、この頃の時代精神であらうが、又常に名を揚げようと腐心したこの作者の思想傾向でもあらう。塚の上に處女の黄楊の櫛をさしたのが生ひ着いたとあるのは、卷九の歌に墓上之木枝靡有如聞陳努壯士爾之依仁家良信母《ツカノウヘノコノエナビケリキクガゴトチヌヲトコニシヨリニケラシモ》(一八一一)と同じ木であらう。傳説が段々展開して行く跡が見えて面白い。
 
4212 をとめらが 後のしるしと 黄楊小櫛 生ひ更り生ひて 靡きけらしも
 
乎等女等之《ヲトメラガ》 後能表跡《ノチノシルシト》 黄楊小櫛《ツゲヲグシ》 生更生而《オヒカハリオヒテ》 靡家良思母《ナビキケラシモ》
 
處女ガ後ノ世マデモノ表トシテ、墓ノ上ニ挿シタ〔七字傍線〕黄楊ノ小櫛ガ生エ代リ生エ代ツテ、カウシテ枝ガ〔六字傍線〕靡イテヰルラシイヨ。
 
○乎等女等之《ヲトメラガ》――ヲトメラノと訓む説もあるが、舊訓のままでよい。次句へすぐつづいてゐる。等《ラ》は添へていふのみ。○生更生而《オヒカハリオヒテ》――枯れると又生え代り生え代りして。○靡家良思母《ナビキケラシモ》――枝がかやうに靡いたらしいよ。卷九の歌にあるやうに、知努壯士の塚の方に靡いてゐるといふのであらう。
〔評〕 第四句に、女の執心が見えてゐると見るのは、過ぎてゐるであらうか。とにかく第四句は面白い。
 
右五月六日依(リテ)v興(ニ)大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
4213 あゆをいたみ 奈呉の浦みに 寄する浪 いや千重しきに 戀ひ渡るかも
 
(509)安由乎疾《アユヲイタミ》 奈呉能浦廻爾《ナゴノウラミニ》 興須流浪《ヨスルナミ》 伊夜千重之伎爾《イヤチヘシキニ》 戀度可母《コヒワタルカモ》
 
(安由乎疾美奈呉能浦廻爾與須流浪)益々幾重ニモ頻リニ、私ハ貴女ヲ〔五字傍線〕戀シク思ヒツヅケテヰマスヨ。
 
○安由乎疾美奈呉能浦廻爾與須流浪《アユヲイタミナゴノウラミニヨスルナミ》――伊夜千重之伎爾《イヤチヘシキニ》と言はむ爲の序詞。東風が甚く吹くので、奈呉の浦わに打寄せで來る浪の、絶え間がないやうにの意でつづいてゐる。
〔評〕 國府附近の景を詠み込んだだけで、類型的な凡作といふより他はない。
 
右一首贈(ル)2京(ノ)丹比家(ニ)1
 
京の丹比家については、前の贈京丹比家歌(四一七三)參照。
 
挽歌一首并短歌
 
4214 天地の 初の時ゆ 現身の 八十件の男は 大王に まつろふものと 定まれる 官にしあれば おほきみの 命かしこみ 夷さかる 國を治むと あし引の 山河へだて 風雲に 言は通へど ただに遇はぬ 日の累れば 思ひ戀ひ いきづき居るに 玉桙の 道來る人の つてごとに 我に語らく はしきよし 君はこの頃 うらさびて 嘆かひいます 世の中の 憂けくつらけく 咲く花も 時にうつろふ うつせみも 常無くありけり たらちねの み母のみこと 何しかも 時しはあらむを まそ鏡 見れども飽かず 玉の緒の 惜しき盛に 立つ霧の 失せぬる如く 置く露の けぬるが如 玉藻なす 靡きこい伏し 逝く水の とどめかねつと たはごとや 人の言ひつる およづれを 人の告げつる 梓弓 爪ひく夜音の 遠|音《と》にも 聞けば悲しみ 庭たづみ 流るる涙 とどめかねつも
 
天地之《アメツチノ》 初時從《ハジメノトキユ》 宇都曾美能《ウツソミノ》 八十伴男者《ヤソトモノヲハ》 大王爾《オホキミニ》 麻都呂布物跡《マツロフモノト》 定有《サダマレル》 官爾之在者《ツカサニシアレバ》 天皇之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 夷放《ヒナサカル》 國乎治等《クニヲヲサムト》 足日木《アシビキノ》 山河阻《ヤマカハヘダテ》 風雲爾《カゼクモニ》 言者雖通《コトハカヨヘド》 正不遇《タダニアハヌ》 日之累者《ヒノカサナレバ》 思戀《オモヒコヒ》 氣衝居爾《イキヅキヲルニ》 玉桙之《タマボコノ》 道來人之《ミチクルヒトノ》 傳言爾《ツテゴトニ》 吾爾語良久《ワレニカタラク》 波之伎餘之《ハシキヨシ》 君者比來《キミハコノゴロ》 宇良佐備※[氏/一]《ウラサビテ》 嘆息伊麻須《ナゲカヒイマス》 世間之《ヨノナカノ》 厭家口都良家苦《ウケクツラケク》 開花毛《サクハナモ》 時爾宇都(510)呂布《トキニウツロフ》 宇都勢美毛《ウツセミモ》 無常阿里家利《ツネナクアリケリ》 足千根之《タラチネノ》 御母之命《ミハハノミコト》 何如可毛《ナニシカモ》 時之波將有乎《トキシハアラムヲ》 眞鏡《マソカガミ》 見禮杼母不飽《ミレドモアカズ》 珠緒之《タマノヲノ》 惜盛爾《ヲシキサカリニ》 立霧之《タツキリノ》 失去如久《ウセヌルゴトク》 置露之《オクツユノ》 消去之如《ケヌルガゴト》 玉藻成《タマモナス》 靡許伊臥《ナビキコイフシ》 逝水之《ユクミヅノ》 留不得常《トドメカネツト》 枉言哉《タハゴトヤ》 人之云都流《ヒトノイヒツル》 逆言乎《オヨヅレヲ》 人之告都流《ヒトノツゲツル》 梓弧《アヅサユミ》 弦爪夜音之《ツマヒクヨトノ》 遠音爾毛《トホトニモ》 聞者悲彌《キケバカナシミ》 庭多豆水《ニハタヅミ》 流涕《ナガルルナミダ》 留可禰都母《トドメカネツモ》
 
天地ノ初ノ時カラ、人ノ身デアル多クノ部屬ノ長ドモハ 天子樣ニ從フモノト足マツタ官職ダカラ、天子樣ノ仰セヲ畏マツテ、遙カニ都離レタ〔七字傍線〕田舍ノ國ヲ治メル爲ニ、(足日木)山ヤ川ヲ隔テテ、遠ク赴任シテ〔六字傍線〕、風ヤ雲ニ托シテ〔三字傍線〕通信ハスルケレドモ、直接ニ相逢フコトガ出來ナイ日數ガ重ナルノデ、戀シク思ツテ歎息シテヰルトー、(玉桙之)道ヲ來ル人ガ傳言トシテ私ニ語ツテ言フニ、愛スル貴方ハコノ頃、心淋シク悲觀シテ〔四字傍線〕嘆イテオイデニナル。世ノ中ガ憂ク辛イコトハ、咲ク花モ時節ガ來レバ、散ルモノダ。人ノ身モ無常ナモノダ。併シ貴方ノ〔五字傍線〕(足千根之)御母サンガ、ドウシテカ、時モアラウニイクラ〔三字傍線〕(眞鏡)見テモ見飽カナイ、惜シイ盛ノ年輩〔三字傍線〕デ立ツテヰル霧ガ消エテシマツタヤウニ、又〔傍線〕降ツタ露ガ消エタヤウニ、玉藻ノヤウニ靡イテ床ノ上ニ〔四字傍線〕病臥シ、流レル水ノヤウニ引キ留ルコトガ出來ナカツタト知ラセテ來タガ〔八字傍線〕、馬鹿ナ言ヲ人ガ言ツタノデアラウカ、僞リノ言ヲ人ガ告ゲタノデアラウカ。トテモ信ジラレナイガ仕方ナイ〔トテ〜傍線〕。コノコトヲ(梓弧爪夜音之)遠クノ話ニ聞ケバ悲シイノデ、(庭多豆水)流レル涙ヲ止メルコトガ出來ナイヨ。
 
(511)○宇都曾美能《ウツソミノ》――ウツセミノに同じ。現身の。○天皇之《オホキミノ》――舊訓はスメロギノとある。略解に從ふ。古義は天を大の誤として、オホキミノと訓んでゐる。○夷放《ヒナサカル》――夷の彼方に遠ざかつてゐる。○山河阻《ヤマカハヘダテ》――略解はヤマカハヘナリとあるが、舊訓の儘でよい。○風雲爾言者雖通《カゼクモニコトハカヨヘド》――風や雲に言葉を托すことは用來るが。卷八の七夕の歌に風雲者二岸爾可欲倍杼母吾遠嬬之事曾不通《カゼクモハフタツノキシニカヨヘドモワガトホツマノコトゾカヨハヌ》(一五二一)とある。○正不遇《タダニアハヌ》――タダニアハズと訓むのはよくない。○玉桙之道來人之《タマボコノミチクルヒトノ》――道行く往來の人ではなくて、ここは使の者であらう。玉桙之は枕詞。○波之伎餘之君者比來《ハシキヨシキミハコノゴロ》――愛しきよし君とは左註によれば、聟南右大臣家藤原二郎である。○宇良佐備※[氏/一]《ウラサビテ》――心淋しく。○世間之厭家口都良家苦《ヨノナカノウケクツラケク》――世の中の憂く辛いことは、卷五に世間能宇計久都良計久《ヨノナカノウケクツラケク》(八九七)とある。○時爾宇都呂布《トキニウツロフ》――時節によつて移ろひ散る。○御母之命《ミハハノミコト》――舊訓はオモノミコト、代匠記精撰本はミオモノミコト、考にミハハノミコトとある。いづれでもよいが、考に從つて置かう。○何如可毛時之波將有乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》――どうしてか時もあらうに、この句を顯倒して解釋しても同じである。この作者の卷十七、哀傷長逝之弟歌(三九五七)に、奈爾之加母時之波安良牟乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》とある。○眞鏡《マソカガミ》――枕詞。見《ミ》とつづく。○珠緒之《タマノヲノ》――魂の緒の。命の。○靡許伊臥《ナビキコイフシ》――床の上に身を横たへて、病臥すること。卷五に宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》(七九四)とある。コイはコイ・コユと活く動詞。○枉言哉《タハゴトヤ》――枉言はたはけた馬鹿な言葉。これをマガゴトと訓むことも出來る。然らば曲つた言葉。嘘。枉言加《マガゴトカ》(四二〇)參照。○逆言乎《オヨヅレヲ》――逆言《オヨヅレ》は怪しき言葉。僞りの言葉。○梓弧爪夜音之《アヅサユミツマヒクヨトノ》――遠音と言はむ爲の序詞。弧は字書に「弓別(ノ)名、又木弓」とある。梓弓を、夜、弦打ちする音が遠く聞えること。卷四に梓弓爪引夜音之遠音爾毛君之御事乎聞之好毛《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモキミガミコトヲキカクシヨシモ》(五三八)とある。ここに引の字が無いのは脱ちたのであらう。○庭多豆美《ニハタヅミ》――庭の溜り水。前の爾波多豆美流※[さんずい+帝]等騰米可禰都母《ニハタヅミナガルルナミダトドメカネツモ》(四一六〇)參照。
〔評〕 冒頭の十數句には、流石に作者の忠誠な精神が見えて見るが、その他はすべてが古來の成句の羅列で、何等目新らしいものもなく、從つて痛切な悲哀の感情があらはれてゐない。
 
(512)反歌二首
 
4215 とほとにも 君が嘆くと 聞きつれば 哭のみし泣かゆ 相念ふ吾は
 
遠音毛《トホトニモ》 君之痛念跡《キミガナゲクト》 聞都禮婆《キキツレバ》 哭耳所泣《ネノミシナカユ》 相念吾者《アヒオモフワレハ》
 
遠クカラノ通信デ、貴方ガオ母サンヲ亡クシテ〔オ母〜傍線〕オ歎キナサルト聞クト、貴方ト〔三字傍線〕親シクシテヰル私ハ、聲ヲ出シテ泣クバカリデス。御同情致シマス〔七字傍線〕。
 
○君之痛念跡《キミガナゲクト》――痛念をナゲクと訓ませたのは、謂はゆる義訓である。他に用例が見えない。イタムの訓もある。○相念吾者《アヒオモフワレハ》――相念は、二人親しきをいふ。
〔評〕 母を喪つた藤原二郎に對する同情の言葉。平庸。
 
4216 世の中の 常無きことは 知るらむを 心盡すな ますらをにして
 
世間之《ヨノナカノ》 無常事者《ツネナキコトハ》 知良牟乎《シルラムヲ》 情盡莫《ココロツクスナ》 大夫尓之※[氏/一]《マスラヲニシテ》
 
貴方ハオ母サンガ亡クナツテ悲シイデセウガ〔貴方〜傍線〕、世ノ中ノ無常ナ事ハ知ツテヰルデセウカラ、堂々タル〔四字傍線〕男ノ身デ、無暗ニ〔三字傍線〕心ヲ痛メナサルナ。世ノナラハシダカラ諦メナサイ〔世ノ〜傍線〕。
 
○情盡莫《ココロツクスナ》――心を盡すとは、心のかぎり悲しむをいふ。
〔評〕 前の同情の言葉につけて、世の無常を説いて諦めよと言つてゐる。この作者はかなり佛教的無常觀にかぶれてゐる。
 
右大伴宿禰家持、吊(ヘル)d聟南右大臣家藤原二郎之喪(ヘル)2慈母(ヲ)1患(ヲ)u也【五月二十七日】
 
(513)南右大臣は南家の右大臣。藤原氏が南家・北家・式家・京家の四家に分れてあた。南家は武智麻呂、北家は房前、式家は宇合、京家は麻呂の系統である。就中南家獨榮えて、他はやがて嗣が絶えた。南家の右大臣は武智麻呂の長子豐成。この人が右大臣になつたのは、續紀に勝寶元年四月丁未以2大納言從二位藤原朝臣豐成1拜2右大臣1とある。なほ卷十七の十八年正月白雪多零云々(三九二二)の條に注してある。藤原二郎はこの豐成の二男であるが、その名を明らかにしない。多分繼繩であらう。新考には「後の右大臣繼繩ならむ。繼繩は此時二十四歳、其母は路(ノ)眞人虫麿の女なり」とある。然るにこれに關して武田祐吉氏の「上代國文學の研究」には、「南右大臣といふのを藤原南家で、當時右大臣であつた藤原豐成とすれば、藤原二郎は、日本後紀に豐成の第二子と載せた、藤原繼繩に當る。繼繩は延暦十五年に七十歳で薨じたから、天平勝寶二年には二十三である。繼繩の室は百濟氏で、續日本紀延暦六年八月の條に、甲辰行幸高椅津、還過大納言從二位藤原朝臣繼繩第、授其室正四位上百濟王明信從三位と見え、天平寶字六年に繼繩と明信との間に、藤原乙叡を生んでゐる。勝寶二年と寶字六年との間には、十年以上のへだたりがあるから一概には言へぬが、繼繩に大伴氏の室があつたことは傳はらぬ。萬葉集中、ほかには繼繩の名は一も見えない。豐成の名は天平十八年正月、内裏の雪の宴の記事に見えるが、歌は遺つてゐない。卷十九の藤原二郎といふのは、豐成の弟押勝の第二子なる久須麻呂を指すものと考へられる。當時押勝の家をその兄の名によつて、稱してゐたものであらう。云々」とあるが、押勝はこの頃は大納言であつたので、右大臣は豐成であつたのだから、ここに右大臣とあるからは豐成と見なければならぬ。縱令、押勝を南家と稱するとしても、右大臣家と記す筈はない。豐成がこの時その妻を亡つたのである。家持はこの年、三十三歳と思はれるが、既に年頃の娘があつて、豐成の二男に嫁してゐたのである。なほ卷四の卷尾の歌の評を參照。
 
霖雨晴(ルル)日作(レル)歌一首
 
4217 卯の花を くたす長雨の 水ばなに よるこづみなす よらむ兒もがも
 
(514)宇能花乎《ウノハナヲ》 令腐霖雨之《クタスナガメノ》 始水逝《ミツバナニ》 縁木積成《ヨルコヅミナス》 將因兒毛我母《ヨラムコモガモ》
 
卯ノ花ヲ腐ラセテ降〔二字傍線〕ル長雨ノ時ニ〔二字傍線〕、大水ノ出初ニ流レ寄ツテ來ル塵芥ノヤウニ、私ニ〔二字傍線〕寄リツイテ來ル女ガアレバヨイ。
 
○宇能花乎令腐霖雨之《ウノハナヲクタスナガメノ》――卯の花を腐らせる長雨の。令腐はクタスと訓む。意は文字の通り、腐らす。この長雨は、左注に五月とあり、前の歌が五月二十七日とあるから、五月雨である。○始水爾《ミツバナニ》――この句の訓は困難である。逝はこの儘ではユキと訓むべきであらうが、意が通じない。邇の誤としてニと訓むべきであらう。ミツバナは、水の出初の意とすべきであらう。大水の出初の時に。○縁木積成《ヨルコヅミナス》――流れ寄る木の芥のやうに。木積《コヅミ》は塵芥の類。本積不來友《コヅミナラズトモ》(一一三七)・木積成《コヅミナス》(二五二四)・與流許都美《ヨルコヅミ》(四三九六)などの例がある。なほ卷十四の奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコヅノヨスナス》(三五四八)の木都《コヅ》も同じである。○將因兒毛我母《ヨラムコモガモ》――私に寄つて來る女がありたいものだ。
〔評〕 長雨に垣の卯の花が落ち散つてゐる。さうして國守館の下を流れてゐる射水河の濁流には、塵芥が頻りに浮動してゐる。それを見てふとその塵芥に托して、一首を纒めて見ようかと思つたのがこの歌であらう。塵芥《コヅミ》に寄せたものは他にもあるが、初二句は卷十の春去者宇乃花具多思吾越之妹我垣間者荒來鴨《ハルサレバウノハナクタシワガコエシイモガカキマハアレニケルカモ》(一八九九)と多少の類似はあるとしても、作者の創意を認めてよいと思ふ。
 
見(ル)2漁夫(ノ)火光(ヲ)1歌一首
 
4218 鮪つくと 海人のともせる 漁火の ほにか出ださむ 吾が下思を
 
鮪衝等《シビツクト》 海人之燭有《アマノトモセル》 伊射里火之《イザリビノ》 保爾可將出《ホニカイダサム》 吾之下念乎《ワガシタモヒヲ》
 
私ハ包ンデモ包ミ切レナイデ〔私ハ〜傍線〕私ノ胸ノ中ノ思ヲ(鮪衝等海人之燭有伊射里火之)外ニアラハシハ、シナイダラウカ。
 
(515)○鮪衝等《シビツクト》――鮪は今のシビマグロ。古事記に意布袁余志斯毘都久阿麻余《オフヲヨシシビツクアマヨ》とあつて、大魚であるから、その鰓を狙つて銛で突いて捕るのである。但し卷六に鮪釣等海人船散動《シビツルトアマブネトヨミ》(九三八)とあるから、釣るともあつたのである。北陸の海には今は鮪は尠いやうだ。○伊射里火之《イザリビノ》――ここまでの三句はホと言はむ爲の序詞、火はホともいふからである。○保爾可將出《ホニカイダサム》――舊訓はホニカイデナムとあるが、吾之下念乎《ワガシタモヒヲ》に對しては、イダサムと古義に訓んだのがよいであらう。
〔評〕 海人の漁火を、鮪衝くとて燭すものと見て序詞に用ゐたのであるが、實際は果してどうかわからない。序詞は奇拔に出來てゐる。この歌は卷三の門部王、在2難波波1見2漁父燭光1作歌一首、見渡者明石之浦爾燒火乃保爾曾出流妹爾戀久《ミワタセバアカシノウラニトモスヒノホニゾイデヌルイモニコフラク》(三二六)に傚つたものであらう。
 
右二首五月
 
五月の下に日を脱したか。
 
4219 吾がやどの 萩咲きにけり 秋風の 吹かむを待たば いと遠みかも
 
吾屋戸之《ワガヤドノ》 芽子開尓家理《ハギサキニケリ》 秋風之《アキカゼノ》 將吹乎待者《フカムヲマタバ》 伊等遠弥可母《イトトホミカモ》
 
私ノ家ノ萩ノ花ガ咲イタヨ。マダ六月ノ十五日ダノニ余リ早イガ、コレハ〔マダ〜傍線〕秋風ガ吹クノヲ待ツテヰタナラバ、アマリ遠イカラデアラウカ。
 
〔評〕 左註にあるやうに、六月十五日に萩の咲いたのを見て、秋風を待ちかねて咲いたものとしたのである。萩を秋の花とする固定した觀念から出發してゐる。
 
右一首六月十五日見(テ)2芽子早花(ヲ)1作(ル)v之(ヲ)
 
(516)芽子早花は萩の早咲の花。萩の花の早いのを、先芽《サキハギ》(一五四一)早芽子《ワサハギ》(二一一三)と言つてゐる。
 
從2京師1來(リ)贈(レル)歌一首并短歌
 
4220 わたつみの 神の命の みくしげに 貯ひ置きて いつくとふ 珠に勝りて 思へりし 吾が子にはあれど うつせみの 世のことわりと ますらをの 引きのまにまに しなさかる 越道を指して 延ふ蔦の 別れにしより 沖つ浪 とをむ眉引 大舟の ゆくらゆくらに 面影に もとな見えつつ かく戀ひば 老いづく吾が身 蓋しあへむかも
 
和多都民能《ワタツミノ》 可味能美許等乃《カミノミコトノ》 美久之宜爾《ミクシゲニ》 多久波比於伎※[氏/一]《タクハヒオキテ》 伊都久等布《イツクトフ》 多麻爾末佐里※[氏/一]《タマニマサリテ》 於毛敝里之《オモヘリシ》 安我故爾波安禮騰《アガコニハアレド》 宇都世美乃《ウツセミノ》 與能許等和利等《ヨノコトワリト》 麻須良乎能《マスラヲノ》 比伎能麻爾麻爾《ヒキノマニマニ》 之奈謝可流《シナサカル》 古之地乎左之※[氏/一]《コシヂヲサシテ》 波布都多能《ハフツタノ》 和可禮爾之欲理《ワカレニシヨリ》 於吉都奈美《オキツナミ》 等乎牟麻欲妣伎《トヲムマヨヒキ》 於保夫禰能《オホブネノ》 由久良由久良耳《ユクラユクラニ》 於毛可宜爾《オモカゲニ》 毛得奈民延都都《モトナミエツツ》 可久古非婆《カクコヒバ》 意伊豆久安我未《オイヅクアガミ》 氣太志安倍牟可母《ケダシアヘムカモ》
 
海ノ神樣ガ櫛笥ノ中ニ貯ヘテ置イテ、大事ニスルトイフ玉ニモ優ツテ、大切ニ私ガ〔五字傍線〕思ツテヰタ私ノ子デハアルガ、(宇都世美乃)世ノ中ノナラハシトシテ、夫ガ連レテ行()ニ從ツテ、(之奈謝可流)越路ヲ指シテアナタガ〔四字傍線〕(波布都多能)別レテカラハ(於吉都奈美)曲線ヲ描イタ美シイアナタノ〔七字傍線〕眉ノ形ガ、(於保夫神能)心モ〔二字傍線〕動搖シテ、目ノ前ニ空シクツラツイテ〔五字傍線〕見エテヰルガ〔三字傍線〕、カウシテ戀シク思ツテヰルナラバ、段々年老イテ來タコノ私ノ躰ハ、アナタニ逢フマデ〔八字傍線〕、若シモ堪ヘルコトガ出來ナイノデセウカヨ。ドウデセウカ。心配デスネ〔ゴウ〜傍線〕。
 
○美久之宜爾《ミクシゲニ》――御櫛笥に。クシゲは櫛箱。○多久波比於伎※[氏/一]《タクハヒオキテ》――貯へ置きて。タクハヘをタクハヒといふの(517)は當時かかる語法があつたものか。字音辨證に比をへと訓むとあるのは妄である。○伊都久等布《イツクトフ》――齋くといふ。イツクは大切にする。○與能許等和利等《ヨノコトワリト》――世の中の道理とて。妻は夫に從つて行くのが世間の道理だといふのである。○麻須良乎能比伎能麻爾麻爾《マスラヲノヒキノマニマニ》――夫が誘ふまにまに。卷六に皇之引乃眞爾眞爾《オホキミノヒキノマニマニ》(一〇四七)とある。○之奈謝可流《シナザカル》――枕詞。古之《コシ》に冠す。之奈射加流《シナザカル》(三九六九)參照。○波布都多能《ハフツタノ》――枕詞。別《ワカレ》に冠す。卷二に延都多能別之來者《ハフツタノワカレシクレバ》(一三五)とある。蔦が枝を分つて、延びて行くからである。○和我禮爾之欲理《ワカレニシヨリ》――我は元暦校本その他多くの古本に、可とあるに從ふべきであらう。○於吉都奈美《オキツナミ》――枕詞。等乎牟《トヲム》に冠す。沖の浪が撓みうねる意でつづいてゐる。○等乎牟麻欲妣伎《トヲムマヨビキ》――撓む眉引。撓《トヲ》むはタワムに同じく、しなひ曲ること。眉引は眉を黛で畫いたもの。卷五、一云、都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎《ツネナリシヱマヒマヨビキ》(八〇四)とある。○於保夫禰能由久良由久良耳《オホブネノユクラユクラニ》――大船のは枕詞で、ゆくらゆくらは動搖すること。卷十三に大舟乃往良行羅二《オホフネノユクラユクラニ》(三二七四)とある。○於毛可宜爾毛得奈民延都都《オモカゲニモトナミエツツ》――目の前にちらついて、徒らに見えて。○意伊豆久安我未《オイヅクアガミ》――老い付く吾が身。老境に入つた私は。○氣太志安倍牟可母《ケダシアヘムカモ》――蓋し堪へることが出來るであらうかよ。再び逢ふまで命永らへてあり得ようかよ、むつかしさうだの意。新考は牟を自に改めて、アヘジカモとしてゐるが、その要を認めない。
〔評〕 海神が櫛笥に秘藏する玉に、吾が娘を譬へたのは面白い。これは浦島傳説の玉櫛笥と同一で、當時民間に行はれた説話を取入れたのであらう。女子が男子に從ひ伴はれて行くものと歌つてあるのも、當時の社會相の一として注意すべきである。沖つ波撓む眉引といつて、大舟のゆくらゆくらにつづけたのも、縁語式の用法で後世風の技巧になつてゐる。以上の點からしても、亦母性愛のあらはれた歌としても注意すべきであらう。
 
反歌一首
 
4221 かくばかり 戀しくあらば まそ鏡 見ぬ日時なく あらましものを
 
可久婆可里《カクバカリ》 古非之久安良婆《コヒシクアラバ》 末蘇可我美《マソカガミ》 美奴比等吉奈久《ミヌヒトキナク》 安(518)良麻之母能乎《アラマシモノヲ》
 
コンナニ戀シイモノナラバ、(末蘇可我彌)見ナイ日モナク、見ナイ〔三字傍線〕時モナク、絶エズ逢ツテ〔六字傍線〕ヰタイモノデアルノニ。今カウシテ遠ク別レテハ戀シクテ堪ヘラレマセン〔今カ〜傍線〕。
 
○古非之久安良婆《コヒシクアラバ》――元暦校本に志《シ》の字がない。新考は故非之登志良婆《コヒシトシラバ》の誤としてゐるが從ひ難い。○末蘇可我彌《マソカガミ》――枕詞。眞澄鏡を見とつづく。○美奴比等吉奈久《ミヌヒトキナク》――見ぬ日がなく、見ぬ時がなくの意。
〔評〕 吾が兒を遠く手放した母の淋しさがあらはれてゐる。第四句の緊約した叙法は、無理なく出來てゐる。
 
右二首大伴氏坂上郎女賜(フ)2女子(ノ)大孃(ニ)1也
 
九月三日宴歌二首
 
廣繩の館で催した宴の歌らしい。
 
4222 この時雨 いたくな降りそ 吾妹子に 見せむが爲に 紅葉とりてむ
 
許能之具禮《コノシグレ》 伊多久奈布里曾《イタクナフリソ》 和藝毛故爾《ワギモコニ》 美勢牟我多米爾《ミセムガタメニ》 母美知等里※[氏/一]牟《モミヂトリテム》
 
此ノ時雨ノ雨ハ、ヒドク降ルナヨ。私ハ〔二字傍線〕吾ガ妻ニ見セル爲ニ、紅葉ヲ折リ取ラウト思フ。ダカラ暫ク降ラナイデクレ〔ト思〜傍線〕。
 
○和藝毛故爾《ワギモコニ》――吾妹子に。吾妹子は廣繩の妻である。
(519)〔評〕 廣繩の館から見える紅葉を、妻に見せる爲に折取らうといふのであるが、次の家持の歌に奈良比等美牟登《ナラヒトミムト》とあるから、その妻は都にゐたのである。都まで紅葉を折取つて贈るといふのもどうかと思はれる。或は廣繩の妻が近く國府に下ることになつてゐたものか。
 
右一首掾久米朝臣廣繩作(ル)v之(ヲ)
 
4223 あをによし 奈良人見むと 吾がせこが しめけむ紅葉 土に落ちめやも
 
安乎爾興之《アヲニヨシ》 奈良比等美牟登《ナラヒトミムト》 和我世故我《ワガセコガ》 之米家牟毛美知《シメケムモミヂ》 都知爾於知米也毛《ツチニオチメヤモ》
 
(安乎爾與之)奈良人ノアナタノ妻〔六字傍線〕ガ見ル爲ニトテ、貴方ガ標ヲ立テテ大切ニシテ〔五字傍線〕ヰル紅葉ハ、少シグラヰ時雨ガ降ツテモ〔少シ〜傍線〕、土ニ落チマヤウヤ。決シテ落チハシマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○奈良比等美牟登《ナラヒトミムト》――奈良人は奈良にゐる廣繩の妻。略解に家持が自ら言つたとしたのは當らない。○和我世故我《ワガセコガ》――吾が背子は廣繩を指してゐる。○之米家牟毛美知《シメケムモミヂ》――標を立てて置いたであらうところの紅葉。人に取らせまいと領しておいた紅葉。
〔評〕 廣繩の歌に對して、家持が和へたもの。結句は集中に數例がある。
 
右一首守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
4224 朝霧の たなびく田居に 鳴く鴈を とどめ得むかも 吾がやどの萩
 
朝霧之《アサギリノ》 多奈引田爲爾《タナビクタヰニ》 鳴鴈乎《ナクカリヲ》 留得哉《トドミエムカモ》 吾屋戸能波義《ワガヤドノハギ》
 
(520)吾ガ宿ニ咲イタ〔四字傍線〕萩ハ、今朝霧ノ棚曳イテヰル田ノ上デ鳴イテ通ル雁ヲ、止メルコトガ出來ルデアラウカヨ。ドウゾアノ雁ハ此ノ萩ニ見トレテ止マレバヨイガ〔ドウ〜傍線〕。
 
○多奈引田爲爾《タナビクタヰニ》――田爲《タヰ》は田。ヰは要がない。雲を雲ゐといふに同じ。○留得哉《トドメエムカモ》――舊訓トドメエテムヤを、考にトドメエムカモと改めたのがよい。古義はトドメエメヤモとあるが、さう訓んでは意が違つて來る。
〔評〕 左註によると、天皇が吉野宮に行幸の時、光明皇后が詠み給うたのである。代匠記には、「吉野へみゆきしたまふ君を鳴行鴈にたとへ、皇后の御身つからを、はぎの花によそへて、鴈は鹿のごとく、萩を愛せぬものなれば、とゞむともとゞめえじとよませたまふ心なるべし」とある。古義もこれに賛同してゐるが、實景をその儘詠み給うたもので、そんな寓意はありさうに思はれない。天皇皇后御同列で吉野へ行幸啓あらせられたのだから、歌に吾屋戸《ワガヤド》とあるのは、吉野宮のことであらう。
 
右一首歌者幸2於吉野宮(ニ)1之時藤原皇后御作、但年月未2審詳(カナラ)1十月五日河邊朝臣東人傳誦(シテ)云爾《シカイフ》
 
藤原皇后は光明皇后。この歌は越中に來てゐた河邊朝臣東人が、十月五日に傳誦したといふのである。その日に何かの宴會が催されたのであらう。東人は續紀によれば、神護景雲元年正月に正六位上から從五位下を授かつてゐるから、この頃はまだ卑官であつたであらう。卷八の春雨乃《ハルサメノ》(一四四〇)の題詞の解參照。なほこの人は山上憶良が痾に沈んだ時、藤原八束の使者として見舞に行つてゐる。卷六(九七八)參照。
 
4225 足引の 山のもみぢに しづくあひて 散らむ山道を 君が越えまく
 
足日木之《アシビキノ》 山黄葉爾《ヤマノモミヂニ》 四頭久相而《シヅクアヒテ》 將落山道乎《チラムヤマヂヲ》 公之超麻久《キミガコエマク》
 
(521)(足日木之)山ノ紅葉ニ時雨ノ雨ノ〔五字傍線〕雫ガ一緒ニナツテ、落チテ散ル山路ヲ、貴方ガ越エテ行カレルコトカヨ。御道中御難儀デセウ〔九字傍線〕。
 
○四頭久相而《シヅクアヒテ》――雫が一緒になつて。四頭久《シヅク》を動詞としては、四段活用であるから、相而《アヒテ》につづかない。山の紅葉に時雨の雫が一緒になつて、落ち散るといふのである。○公之越麻久《キミガコエマク》――君が越えむに同じ。但し君が越えむとすることよの意になつてゐる。
〔評〕 北陸地方は十月に入ると、冷い雨の日が、明けても暮れでも續く。山の紅葉も雨に叩かれて見る暇もなく散つてしまふ。その頃の旅行は上代にはどんなにか、惱みの種であつたらう。官命ながら、その時季に京に使する人に、同情した心持があらはれてゐるやうである。
 
右一首、同月十六日餞(スル)2之朝集使少目秦伊美吉石竹(ヲ)1時、守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
餞の下、之を略解に衍としてあるが、かうした用例が他にも多い。朝集使は朝集帳を奉る使。四一一六の題詞參照。少目秦伊美吉石竹は四〇八六の題詞參照。
 
雪日作(レル)歌一首
 
4226 この雪の け殘る時に いざ行かな 山橘の 實のてるも見む
 
此雪之《コノユキノ》 消遺時爾《ケノコルトキニ》 去來歸奈《イザユカナ》 山橘之《ヤマタチバナノ》 實光毛將見《ミノテルモミム》
 
今日降ツタ〔五字傍線〕コノ雪ガ消エテ少シ〔二字傍線〕殘ツテ居ル頃ニ、山ヘ〔二字傍線〕行キタイモノダ。サウシテ〔四字傍線〕山橘ノ實ガ、雪ニ映ジテ赤々ト〔雪ニ〜傍線〕(522)光ツイテヰルノヲ見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○山橘之《ヤマタチバナノ》――山橘は今、藪柑子といつてゐるもの。山中の陰地に生ずる小灌木で、冬になると實が眞紅に輝いてゐる。卷四の山橘乃《ヤマタチバナノ》(六六九)參照。
〔評〕 唯、漠然と、去來歸奈《イザユカナ》と言つてゐるが、山橘で山へ行くことをあらはしてゐるのであらう。卷二十のこの人の作、氣能已里能由伎爾安倍弖流安之比奇之夜麻多知波奈乎都刀爾通彌許奈《ケノコリノユキニアヘテルアシビキノヤマタチバナヲツトニツミコナ》(四四七一)と同意である。
 
右一首十二月大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
4227 大殿の このもとほりの 雪なふみそね しばしばも 零らざる雪ぞ 山のみに 零りし雪ぞ ゆめよよるな人や なふみそね雪は
 
大殿之《オホトノノ》 此廻之《コノモトホリノ》 雪莫蹈禰《ユキナフミソネ》 數毛《シバシバモ》 不零雪曾《フラザルユキゾ》 山耳爾《ヤマノミニ》 零之雪曾《フリシユキゾ》 由米縁勿人哉《ユメヨルナヒトヤ》 莫履禰雪者《ナフミソネユキハ》
 
オマヘ等ハ〔五字傍線〕御殿ノコノ廻リノ雪ヲ踏ミ付ケルナヨ。コノ雪ハ都デハ〔七字傍線〕度々ハ降ラナイ雪ダゾ。今マデ〔三字傍線〕山バカリニ降ツタ雪ダゾ。決シテ近寄ルナ。オマヘ等ヨ。雪ハ踏ミ付ケルナ。
 
○此廻之《コノモトホリノ》――モトホリは周圍。廻り。○山耳爾《ヤマノミニ》――この句の上に、今までの意が含まれてゐる。○由米縁勿人哉《ユメヨルナヒトヤ》――決して近寄るなよ。人よ。略解と古義とは、ユメヨルナとヒトヤとの二句に分つてゐるが、一句とすべきであらう。
〔評〕 雪を珍らしがつた大和人の歌。短い長歌であるが、切目が多く、一種異樣な形式と格調とをなしてゐる。さうして「雪な踏みそね」と言ひつつも、自ら嬉しさに踊り出しさうな調子である。形式上特に注意すべき作品であらう。
 
(523)反歌一首
 
4228 ありつつも 見し給はむぞ 大殿の このもとほりの 雪なふみそね
 
有都都毛《アリツツモ》 御見多麻波牟曾《ミシタマハムゾ》 大殿乃《オホトノノ》 此母等保里能《コノモトホリノ》 雪奈布美曾禰《ユキナフミソネ》
 
カウシテ置イテ左大臣樣ガ〔五字傍線〕御覽ニナルデアラウゾ。ダカラ〔三字傍線〕御殿ノコノ廻リノ雪ハ踏ミツケルナヨ。
 
○有都都毛《アリツツモ》――かうして置いて。この儘で。○御見多麻波牟曾《ミシタマハムゾ》――舊訓オミミタマハムゾ。代匠記精撰本オホミタマハムゾ。考はミミタマハムゾ。古義はメシタマハムゾとあるが、略解の訓が最もよい。御見の二字をミシと訓んだのである。
〔評〕 長歌では珍らしい雪だから踏むなといつてゐるが、これは左大臣が御覽になるから、踏むなと、異なつた立場から述べたのは、長歌に盡さなかつたところを補つたのである。
 
右二首歌者三形沙彌承(ケ)2贈左大臣藤原北卿之語(ヲ)1作(リテ)誦(セル)v之(ヲ)也、聞(キテ)之(ヲ)傳(フル)者笠朝臣子君(ナリ)、復(タ)後(ニ)傳(ヘ)讀(ム)者越中國掾久米朝臣廣繩是也
 
三形沙彌は卷二(一二三)に園臣生羽の女を娶つて詠んだ歌が見えてゐる。贈左大臣藤原北卿は藤原房前。不比等の第三子。天平九年四月薨じたが、續紀によるとその年の「十月丁未贈2民部卿正三位藤原朝臣房前正一位左大臣1云々」と記されてゐる。武智麿の家が南にあつて南卿と稱したのに對し、この卿の家は北にあつたから北卿といつたのであた。舊本胡を此に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。作は元暦校本、依に作つてゐる。右の歌は三方沙彌が房前の命によつて作つて誦つたもので、それを笠朝臣子君が聞き傳へたのを久米朝臣廣繩が更に傳へて、家持に朗讀して聞かせたといふのである。
 
(524)天平勝寶三年
 
ここに天平勝寶三年と標記したのは、他に類例のない書き方である。
 
4229 新しき 年のはじめは いや年に 雪ふみならし 常かくにもが
 
新《アタラシキ》 年之初者《トシノハジメハ》 彌年爾《イヤトシニ》 雪蹈平之《ユキフミナラシ》 常如此爾毛我《ツネカクニモガ》
 
新年ノ初ニハコレカラ〔四字傍線〕毎年イツデモ、雪ヲ踏ミツケテ〔三字傍線〕平ニシテ、常ニカウシテ樂シイ宴會ガ〔八字傍線〕シタイモノデス〔四字傍線〕。
 
○彌年爾《イヤトシニ》――年毎に。彌年之黄土《イヤトシノハニ》(一八八一)に同じ。○常如此爾毛我《ツネカクニモガ》――古義は爾は志か之の誤で、カクシモガであらうと言つてゐるが、さうではあるまい。
 
〔評〕 卷二十の終の新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰《アタラシキトシノハジメノハツハルノケフフルユキノイヤシケヨゴト》(四五一六)と似た氣分である。
 
右一首歌者正月二日、守(ノ)舘(ニ)集宴(ス)於v時零(レル)雪殊(ニ)多(ク)、積(ミテ)有2四尺1焉、即(チ)主人大伴宿禰家持作(レレ)2此歌(ヲ)1也
 
略解に「積尺有四寸と有しがかく誤れる也。末に例在り。」とあり、これに賛する説も多いが、尺余では次に腰爾奈都美※[氏/一]《コシニナヅミテ》とあるに合はない。北陸では四尺位の雪は時々降るから、決して誤ではない。
 
4230 降る雪を 腰になづみて 參り來し しるしもあるか 年のはじめに
 
落雪乎《フルユキヲ》 腰爾奈都美※[氏/一]《コシニナヅミテ》 參來之《マヰリコシ》 印毛有香《シルシモアルカ》 年之初爾《トシノハジメニ》
 
今日ノ宴會ハマコトニ面白ウゴザイマス。今日ノ〔今日ノ宴〜傍線〕年ノ初ノ日〔二字傍線〕ニ、降ル雪ヲ、腰マデツカヘテ難儀ヲシテ〔五字傍線〕ヤツテ來タ甲斐ガアリマスヨ、
 
(525)○落雪乎腰爾奈都美※[氏/一]《フルユキヲコシニナヅミテ》――降る雪の中を、腰まで没して難儀しながらの意。卷十三に夏草乎腰爾莫積《ナツクサヲコシニナヅミ》(三二九五)とある。○印毛有香《シルシモアルカ》――甲斐があつたことよ。カはカナの意。
〔評〕 腰爾奈都美※[氏/一]《コシニナヅミテ》は右に示すやうに、卷十三の古歌の句であるが、この場合は極めて適切に用ゐられて、大雪の樣がよくあらはれてゐる。
 
右一首(ハ)三日、會2集(ヒテ)介内藏忌寸繩麻呂之舘(ニ)1宴樂(ノ)時、大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
介内藏忌寸繩麻呂は卷十七、四月二十六日の條(三九九六)に、その名が見えてゐる。
 
于v時積(ミテ)v雪(ヲ)彫(リ)2成(シ)重巖之起(テルヲ)1奇巧綵(リ)2發(ク)草樹之花(ヲ)1、屬(キテ)v此(ニ)掾久米朝臣廣繩作(レル)歌一首
 
雪の降つたのを積み上げて、重なつた巖の峙つてゐるやうに作つて、珍らしい技巧を凝らして草木の造花を造つたのを、その雪の巖に取り付け、それに關する歌を詠んだといふのである。
 
4231 なでしこは 秋咲くものを 君が家の 雪の巖に 咲けりけるかも
 
奈泥之故波《ナデシコハ》 秋咲物乎《アキサクモノヲ》 君宅之《キミガイヘノ》 雪巖爾《ユキノイハホニ》 左家理家流可母《サケリケルカモ》
 
瞿麥ノ花〔二字傍線〕ハ秋咲クモノデスノニ、貴方ノ御宅ノ雪デ出來タ巖ノ上ニ、コノ寒イ冬ニ〔六字傍線〕咲キマシタヨ。サテモ不思議ナコトデス〔サテ〜傍線〕。
 
○雪巖爾《ユキノイハホニ》――舊訓ユキハイハホニとあり、代匠記初稿本に、文選の謝惠連の雪賦「山則千巖倶白」、古今集の「白雪の所もわかず降りしけばいはほにも咲く花とこそ見れ」などを引いてゐるのは、誤解である。題詞の彫(526)成重巖之起が即ち雪の巖である。今日でも北陸地方では、町に降つた雪は、忽ち路傍に積上げられて、大きな雪の巖が、幾つも並んで峙つのを見受ける。雪を高く積み上げたものは、さながら巖のやうな形になるものである。
〔評〕 造花とは知りながら、眞の瞿麥の花のやうに、とぼけて詠んでゐる。北陸に住んで、かういふ實景に毎年接してゐる予には、雪の巖といふ言葉が、實に適切な譬喩と感ぜられる。造花が流行してゐたことは、木綿花(一九九・九一二)・百合花縵(四〇八六)などにもあらはれてゐる。
 
遊行女婦蒲生娘子歌一首
 
遊行女婦はウカレメ卷八、遊行女婦(一四九二)參照。蒲生娘子の傳はわからない。近江國蒲生の女か。
 
4232 雪の島 いはほに殖たる なでしこは 千世に咲かぬか 君がかざしに
 
雪島《ユキノシマ》 巖爾殖有《イハホニウヱタル》 奈泥之故波《ナデシコハ》 千世爾開奴可《チヨニサキヌカ》 君之挿頭爾《キミガカザシニ》
 
雪ノ降ツタ〔三字傍線〕庭ノ雪ヲ積ミ上ゲテコシラヘタ〔雪ヲ〜傍線〕巖ニ植ヱテアル瞿麥ハ、コノ屋ノ〔四字傍線〕御主人ノ挿頭ノ花〔二字傍線〕トシテ、千年モ永ク〔二字傍線〕咲カナイカヨ。
 
○雪島《ユキノシマ》――舊訓ユキシマノであるが、雪の降つた島即も雪の庭の意でのるから、ユキノシマと訓むがよい。古歌に、これを名所として詠んだものがあり、更に越中氷見町の沖合なる唐島とする説をも生じたのは、笑ふべきである。庭をシマと言つた例は與妹爲而二作之吾山齋者《イモトシテフタリツクリシワガシマハ》(四五二)の他、多く集中に散見してゐる。○巖爾植有《イハニウヱタル》――舊訓イハホニオフル、考は植に改めて、イハホニタテルとあるが、共にふさはしくない。新考のイハニウヱタルがよい。○千世爾開奴可《チヨニサカヌカ》――千代までも咲かないかよ。咲けかしの意。○君之挿頭爾《キミガカザシニ》――君は主賓たる家持をさしたものとも思はれるが、多分、主人たる繩麿をことほいだのであらう。
(527)〔評〕 雪の巖に立てた造花の瞿麥を見て、この屋の主人を祝福してゐる。時にとつての祝言が、巧に出來てゐる。かやうに侮り難い遊行女婦が各地にゐたのである。
 
于v是諸人、酒酣(ニ)更深(ク)鷄鳴(ク)、因(リテ)v此(ニ)主人内藏伊美吉繩麻呂作(レル)歌一首
 
4233 うち羽ぶき 鷄は鳴とも 斯くばかり 零しく雪に 君いまさめやも
 
打羽振《ウチハブキ》 鷄者鳴等母《トリハナクトモ》 如此許《カクバカリ》 零敷雪爾《フリシクユキニ》 君伊麻左米也母《キミイマサメヤモ》
 
タトヒ夜ガ明ケテ〔八字傍線〕羽バタキヲシテ鷄ガ鳴イテモ、コレ程ヒドク〔三字傍線〕降リ積ム雪ニ、貴方ガ御歸ニナラレマセウヤ。御歸ニナル筈ハアリマセン。暫ク御待チ下サイ〔御歸〜傍線〕。
 
○打羽振《ウチハブキ》――舊訓ウチハフリを、古義にウチハブキに改めたのがよい。振は山振《ヤマブキ》などの如くフキと訓む字である。羽ばたきをして。○鷄者鳴等母《トリハナクトモ》――鷄は古義にカケと訓んでゐる。次の歌も同樣であるが、トリの方が穩やかであらう。○君伊麻左米也母《キミイマサメヤモ》――母《モ》は衍字のやうでもあるが、この儘にしておくべきであらう。君は家持をさしてゐる。イマスはここでは、歸り行くことの敬語。
〔評〕 夜更けて曉を催す鷄の聲を聞いて、家持が歸り仕度を始めたのを見て、引留めたのである。歌はつまらないが、なるほどかう降つては、いくら近いところでも夜道は困難であらう。
 
守大伴宿禰家持和(フル)歌一首
 
4234 鳴く鷄は いやしき鳴けど 降る雪の 千重につめこそ われ立ちがてね
 
鳴鷄者《ナクトリハ》 彌及鳴杼《イヤシキナケド》 落雪之《フルユキノ》 千重爾積許曾《チヘニツメコソ》 吾等立可※[氏/一]禰《ワレタチカテネ》
 
(528)鷄ハシキリニ鳴イテヰルガ、降ル雪ガ幾重ニモ積ツテヰルカラ、私ハ出カケルコトガ出來ナイノデス。
 
○鳴鷄者《ナクトリハ》――古義にナクカケハ、新考に鷄鳴者として、トリガネハとよんでゐる。いづれも從ひ難い。○彌及鳴杼《イヤシキナケド》――彌々頻りに鳴けど。○千重爾積許曾《チヘニツメコソ》――ツメコソは積めばこそに同じ。○吾等立可※[氏/一]禰《ワレタチガテネ》――立つに勝《た》へずの意で、カテは堪へに同じ。有勝麻之自《アリガツマシジ》(九四)の條參照。ネは打消の助動詞ズの已然形。上のコソの結辭となつてゐる。ガテを難《カタ》と同語とするのは當らない。
〔評〕 主人の歌と全く同じやうなことを言つてゐる。聞きやうによつては、右の二歌は男女逢會の別に傚つたやうにも見えるが、さうでもあるまい。凡作といつてよい。
 
太政大臣藤原家之縣犬養|命歸《ヒメトネ》奉(レル)2天皇(ニ)1歌一首
 
太政大臣藤原家は、藤原不比等。養老四年八月癸未薨去、その十月壬寅、太政大臣正二位を贈られたのである。縣犬養命婦は有名な橘夫人三千代。始め美努王との間に葛城王・佐爲王を産み、王卒去の後、不比等に嫁して光明皇后を産み奉つた。從四位下縣犬養宿禰東人の女。續紀によると、「元正天皇、養老元年正月戊申、授2從四位上縣犬養橘宿禰三千代從三位1、五年正月壬子、授2正三位1、五月乙丑、正三位縣犬養宿禰三千代、縁2入道1辞2食封資人1、優詔不v聽、聖武天皇、天平五年正月庚戌、内(ノ)命婦正三位縣犬養橘宿禰三千代薨、云々、命婦皇后之母也、云々」とある。なほ葛城王と佐爲王とが上表して、橘の姓を乞うたことが續紀に見えてゐるが、それは卷六(一〇〇九)に出てゐるから參照せられたい。命婦は大寶令によると五位以上を帶してゐる婦人を内命婦、五位以上の人の妻を外命婦と云ふとことになつてゐる。天皇は元明天皇・元正天皇・聖武天皇の内のいづれを指し奉るか不明である。
 
4235 天雲を ほろにふみあたし 鳴神も 今日にまさりて かしこけめやも
 
(529)天雲乎《アマグモヲ》 富呂爾布美安多之《ホロニフミアタシ》 鳴神毛《ナルカミモ》 今日爾益而《ケフニマサリテ》 可之古家米也母《カシコケメヤモ》
 
空ノ雲ヲハラハラト踏ミ散ラシテ、勢ヨク〔三字傍線〕鳴ル雷ノ恐ロシサ〔五字傍線〕モ、今日天子樣ノ御前ニ召サレテヲリマス〔天子〜傍線〕以上ニ恐レ多イコトガ、ゴザイマセウカ。天子樣ノ御威光ノ恐レ多サハ、比ベル何物モゴザイマセン〔天子〜傍線〕。
 
○富呂爾布美安多之《ホロニフミアタシ》――略解にあげた宣長説に「ほろは古事記如沫雪蹶散を、あわゆきなすくゑはららかしと訓める、其はららと同じ。あたしは散らす意也。云々」とあつて、富呂爾《ホロニ》は、ばらばらとの意、安多之《アタシ》は散らすことである。富は集中假名としては、ホとのみ用ゐられてゐる。フロニと訓むのはよくない。○可之古家米也母《カシコケメヤモ》――畏くあらめやの意。
〔評〕 上句の雷の形容は全く物凄い。雷も天皇の御威嚴には敵し難いと言つたのは、適切な表現である。卷三の皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカヅチノウヘニイホリセルカモ》(二三五)から、脱化してゐるやうであるが、格調雄渾、得難い作品である。古今集の「天の原ふみとどろかし鳴る神も思ふなかをばさくるものかは」の前驅をなしたものとも言へよう。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右一首、傳誦(セルハ)掾久米朝臣廣繩也
 
前の三形沙彌の雪の歌二首と共に、この傑作を傳誦して、家持をして記録せしめた、久米朝臣廣繩の功は大きいと言はねばならぬ。
 
悲(シミ)2傷(ム)死妻(ヲ)1歌一首并短歌 作者未詳
 
4236 天地の 神は無かれや うつくしき 吾が妻さかる 光る神 なりはたをとめ 手にづさはり 共にあらむと 念ひしに 心違ひぬ 言はむすべ 爲むすべ知らに 木綿襷 肩に取りかけ 倭文ぬさを 手に取り持ちて なさけそと 我は祈れど まきて寢し 妹が袂は 雲にたなびく
 
(530)天地之《アメツチノ》 神者無可禮也《カミハナカレヤ》 愛《ウツクシキ》 吾妻離流《ワガツマサカル》 光神《ヒカルカミ》 鳴波多※[女+感]嬬《ナルハタヲトメ》 携手《テタヅサハリ》 共將有等《トモニアラムト》 念之爾《オモヒシニ》 情違奴《ココロタガヒヌ》 將言爲便《イハムスベ》 將作爲便不知爾《セムスベシラニ》 木綿手次《ユフタスキ》 肩爾取挂《カタニトリカケ》 倭文弊乎《シヅヌサヲ》 手爾取持而《テニトリモチテ》 勿令離等《ナサケソト》 和禮波雖祷《ワレハイノレド》 卷而寢之《マキテネシ》 妹之手本者《イモガタモトハ》 雲爾多奈妣久《クモニタナビク》
 
天地ノ神ハナイモノデアルカラカ、私ノイトシイ妻ハ死ンデシマツタ。(光神鳴)波多少女《ハタヲトメ》ト云フ私ノ妻〔六字傍線〕ト手ヲ取リ交シテ、共ニ暮サウト思ツテヰタノニ、ソノ〔二字傍線〕ガ違ツテシマ〔四字傍線〕ツタ。妻ガ病氣ニナツテ以來〔妻ガ〜傍線〕何ト言ヒヤウモナク、爲ヤウモナク木綿襷ヲ肩ニ取リカケ、倭文布ノ幣ヲ手ニ取リ持ツテ、ドウゾ妻ヲ〔五字傍線〕死ナサヌヤウニト、私ハ神樣ニ祈ツタガ、妻ハ死ンデシマツテ、私ガ〔妻ハ〜傍線〕枕シテ寐タ妻ノ袂ハ、既ニ火葬ノ〔五字傍線〕煙トナツテ空ニ〔二字傍線〕棚曳イテヰル。
 
○神者無可禮也《カミハナカレヤ》――神は無かればや。神は無いからか。○吾妻離流《ワガツマサカル》――吾が妻が死んだ。離《サカル》流はこの世を離れ死ぬ意。○光神鳴波多※[女+感]嬬《ヒカルカミナリハタヲトメ》――光神は雷のことで、雷は鳴りはためくから、鳴波多《ナリハタ》につづけてゐる。即ち光神鳴《ヒカルカミナリ》は波多《ハタ》と言はむ爲の序詞で、波多處女《ハタヲトメ》といふ處女の名である。波多《ハタ》は地名であらう。○携手《テタヅサハリ》――手を取り合つて。○情違奴《ココロタガヒヌ》――奉仕之情違奴《ツカヘマツリシココロタガヒヌ》(一七六)とある。○木綿手次《ユフタスキ》――木綿で製した襷。神を祀る爲に肩に懸けるのである。○倭文幣乎《シヅヌサヲ》――倭文布《シヅヌノ》の幣《ヌサ》。神に捧げるもの。○妹之手本者雲爾多奈妣久《イモガタモトハクモニタナビク》――妻か死んで、火葬せられたことを言つたので、雲は火葬の烟である。雲爾《クモニ》は雲となつて。
〔評〕 始に天地の神も無きものかと痛歎し、愛妻の死を悲しみ、更に神を祷つた樣を述べて、その甲斐なかりしことを悲しんでゐる。調子の緊張した佳作である。なほ久米朝臣廣繩が鳴神に關する歌を誦つたので、列席してゐた蒲生娘子が光神鳴波多※[女+感]嬬《ヒカルカミナリハタヲトメ》の歌を披露したのである。
 
4237 うつつにと 思ひてしかも 夢のみに 袂卷き寢と 見るはすべ無し
 
(531)反歌一首
 
寤爾等《ウツツニト》 念※[氏/一]之處可毛《オモヒテシカモ》 夢耳爾《イメノミニ》 手本卷寢等《タモトマキヌト》 見者須便奈之《ミルハスベナシ》
 
實際ニ妻ノ袂ヲ枕シテ寢テヰル〔ニ妻〜傍線〕ト思ヒタイモノダ。妻ガ死ンダノデ、カウシテ〔妻ガ〜傍線〕夢ニバカリ妻ノ〔二字傍線〕袂ヲ枕ニシテ寢ルト、見ルノハ遣瀬ナイコトダ。
 
○寤爾等《ウツツニト》――舊本、寤を寢に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。○念※[氏/一]之可毛《オモヒテシカモ》――思ひたいものだ。古義には「この念《オモフ》は、空蝉と念ひし時又忘て念へやなど云念と同じく、輕き詞にて、初二句は、寤にありてしかもの謂にて云々」と言つてゐる。新考は初二句を、寤爾毛今毛見※[氏/一]之可《ウツツニモイマモミテシカ》の誤脱としてゐる。
〔評〕 これは必ずしも亡妻を思ふ歌でなく、逢ひ難い戀を悲しんだものとも考へられる。從つて右の長歌の反歌としては適切でない。卷十二の得管二毛今見牡鹿夢耳手本纏宿登見者辛苦毛《ウツツニモイマモミテシカイメノミニタモトマキヌトミレバクルシモ》(二八八〇)と似てゐる。
 
看二首傳誦(セルハ)遊行女婦蒲生是也
 
二月三日會2集(ヒテ)于守舘(ニ)1宴(シテ)作(レル)歌一首
 
4238 君が往 もし久ならば 梅柳 誰とともにか 吾がかづらかむ
 
君之往《キミガユキ》 若久爾有婆《モシヒサナラバ》 梅柳《ウメヤナギ》 誰共可《タレトトモニカ》 吾※[草冠/縵]可牟《ワガカヅラカム》
 
貴方ノ御旅行ガ、若シ永クナルナラバ、私ハ貴方ノ御留守中ハ〔八字傍線〕、誰ト共ニ梅ヤ柳ノ枝〔二字傍線〕ヲ※[草冠/縵]トシテ、頭ニ飾ツテ遊ビ〔八字傍線〕マセウ。ドウゾ早クオ歸リ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
(532)○君之往《キミガユキ》――往《ユキ》は旅行。卷二に君之行氣長成奴《キミガユキケナガクナリヌ》(八五)とある。
〔評〕 風流氣取つた作であるが、上品に出來てゐる。
 
右判官久米朝臣廣繩以(テ)2正税帳(ヲ)1應(トス)v入(ラム)2京師(ニ)1、仍(リテ)守大伴宿禰家持作(レル)2此歌(ヲ)1也、但越中風土、梅花柳絮三月初(メテ)咲(ク)耳
 
正税帳を以つて京師に入るのは即ち税帳使である。卷十七の和我勢故波《ワガセコハ》(三九九〇)の左註、及び多麻保許乃《タマホコノ》(三九九五)の題詞參照。越中風土梅花柳絮三月初咲耳は、雪の越路の春の遲さをあらはしてゐる。柳絮は柳の花。綿のやうなもの。
 
詠(メル)2霍公鳥(ヲ)1歌一首
 
4239 二上の 尾の上のしげに 籠りにし その霍公鳥 待てど來鳴か
 
二上之《フタガミノ》 峯於乃繁爾《ヲノヘノシゲニ》 許毛爾之《コモリニシ》 彼霍公鳥《ソノホトトギス》 待騰未來奈賀受《マテドキナカズ》
 
二上ノ山ノ上ノ木ノ茂ミニ、カクレテヰタ、去年鳴イタ〔五字傍線〕アノ郭公ハ、今年ハマダイクラ〔八字傍線〕待ツテモ來テ鳴カナイヨ。
 
○峯於乃繁爾《ヲノヘノシゲニ》――於は上に同じ。繁爾は舊訓シジニとあるが、シジニは副詞であるから、繁が名詞となる時はシゲと訓むがよい。卷三に木立之繁爾《コダチノシゲニ》(四七八)とある。○許毛爾之《コモリニシ》――舊本、許毛爾之波《コモニシハ》となつてゐるが、意が通じない。波は彼に改めて、次の句頭に移し、毛の下、里の字脱として、許毛里爾之《コモリニシ》と改むべきである。○彼霍公鳥待際來奈須受《ソノホトトギスマテドキナカズ》――舊本の波を元暦校本によつて彼に改め、來の上にある未の字は同本に無きによつて、削るべきである。
(533)〔評〕 誤脱があるらしい。右のやうに改めると大躰よいやうだが、まだ少し整はぬところがある。ともかく凡作といつてよい。
 
右四月十六日大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
春日(ニテ)祭(ル)v神(ヲ)之日、藤原太后御作歌一首、即(チ)賜(フ)2入唐大使藤原朝臣清河(ニ)1、【參議從四位下遣唐使】
 
春日は奈良の春日。祭神とあるは遣唐使の爲に天神地祇を祭り給うたので、春日の神を祀られたのではない。續紀に「寶龜八年二月戊子、遣唐使拜2天神地祇於春日山下1去年風波不調不v得2渡海1、使人亦復頻以相替、至v是副使少野朝臣石根重修2祭禮1也」とあるのと同じやうな例である。春日神社は和銅二年に始まると言はれてゐるが、この時まだ社殿もなかつたらしい。藤原太后は光明皇后、清河は大后の御兄房前の子である。清河が遣唐使に任命せられたのは、勝寶二年九月己酉のことで、翌三年の二月庚午に遣唐使の雜色の人一百十三人に叙位の御沙汰があり、同四月丙辰、參議左大辨從四位上石川朝臣年足等を遣はして、幣帛を伊勢太神宮に奉らしめられ、又使を遣はして幣帛を畿内七道の諸社に奉らしめられた。これは遣唐使一行の平安を祈られたのであつた。ここに春日祭神之日とあるのは、朝廷より幣帛を奉らしめられた日であるか、又は藤原氏の人々が、清河の爲に天神地祇を祭つて無事を祈つた日であるか、いづれとも定め難いが、恐らく後者であらう。さて四年三月庚辰に遣唐使等の拜朝があり、いよいよ閏三月丙辰に遣唐使副使以上を内裏に召されて、詔して節刀を給はり、清河は從四位上から正四位下に昇叙せられ、間もなく船は難波津を出帆した。寶字四年二月辛亥には、在唐の大使正四位下藤原朝臣清河を文部卿とな(534)し、七年正月壬子には在唐大使仁部卿正四位下藤原清河を兼常陸守とし、八年正月乙己從三位を授けられた。寶龜七年四月壬申に新に出發する遣唐大使佐伯今毛人宿禰等に節刀を賜はつた時、前入唐大使藤原朝臣清河に書を賜はつた。その詔書には、「汝奉2使絶域1久經2年序1、忠誠遠著、消息有v聞、故今因2聘使1、便命迎v之、仍賜2※[糸+施の旁]一百匹、細布一百端、砂金大一百兩1、宜2能努力、共v使歸朝1、相見非v※[貝+〓]《ハルカ》、指不2多及1」とあつた。同十年二月乙亥の續紀の記事には「故入唐大使從三位藤原朝臣清河從二位1、清河贈太政大臣房前之第四子也、勝寶五年、爲2大使1入唐、過日遭2逆風1漂着唐國南邊驩州1、時遇2土人反1、合v船被v害、清河僅以v身免、遂留2唐國1不v得2歸朝1、前後十餘年、薨2於唐國1」と見えてゐる。參議從四位下遣唐使の丸字は元暦校本にない。略解はこれを「後人の書加しなれば除くべし」といつてゐる。併し清河が從四位下になつたのは、天平十八年四月癸卯、參議となつたのは勝寶元年七月甲子で、同二年九月にこの官位を以て遣唐使となつてゐる。これを後人の注とすべき根據がないやうだ。
 
4240 大船に ま楫しじ貫き この吾子を 韓國へ遣る 齋へ神たち
 
大船爾《オホフネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 此吾子乎《コノアゴヲ》 韓國邊遣《カラクニヘヤル》 伊波敝神多智《イハヘカミタチ》
 
大キイ船ニ楫ヲ澤山貫イテ、コノ吾ガ甥ノ清河〔三字傍線〕ヲ、入唐大使トシテ〔七字傍線〕唐國ヘ遣ハシマス。ドウゾ〔三字傍線〕神樣タチヨ。清河ヲ〔三字傍線〕列オ守リ下サイ。
 
○此吾子乎《コノアゴヲ》――清河は光明皇后の御甥に當つてゐるから、親しんでかく仰せられたのである。○韓國邊遣《カラクニヘヤル》――韓國は唐をさしてゐる。カラは外國の總稱であるから、文字に拘泥してはいけない。○伊波敝神多智《イハヘカミタチ》――神たちよ、いはへと神に申し給ふのである。イハヘは神を祀れといふのではなく、神よ守れと宣ふのである。神等《カミタチ》は今日祀り給ふ天つ神國つ神をさす。
〔評〕 遣唐使として赴くことの危險は、實に言語に絶するものがあつた。一族、知己の心配は言ふまでもない。(535)ただ神を祈るより外はない。この御歌には、内親に對する御愛情があらはれてゐる。
 
大使藤原朝臣清河(ノ)歌一首
 
清河もその齋場に列つて、次の歌を詠んでゐる。清河の像は前賢故實による。
 
4241 春日野に 齋くみもろの 梅の花 榮えて在り待て 還り來るまで
 
春日野爾《カスガヌニ》 伊都久三諸乃《イツクミモロノ》 梅花《ウメノハナ》 榮而在待《サカエテアリマテ》 還來麻泥《カヘリクルマデ》
 
春日野ニ神樣ヲ祀ツテアル齋場ニ咲イテヰル梅ノ花ハ、私ガ歸ツテ來ルマデ榮エテ待ツテヰテ下サイ。皇后陛下ハ私ガ唐カラ歸ツテ參リマスマデ、御無事デオイデ遊バセ〔皇后〜傍線〕。
 
○伊都久三諸乃《イヅクミモロノ》――三諸《ミモロ》は御室、即ち神を祀るところ。今の春日神社はまだ無かつたやうだから、これは春日野に、臨時に設けた齋場であらう。○梅花《ウメノハナ》――上の三句は、眼前に見える風景を以てした譬喩で、梅花を以て皇后を譬へ奉つてゐる。○還來麻泥《カヘリクルマデ》――古義はカヘリコムマデと訓んである。寧ろ歸ることを確信しての言葉として、舊訓のカヘリクルマデがよいであらう。
〔評〕 高誰な氣品の高い梅花に、皇后を譬へ奉つたのは當を得てゐる。自分の無事を言はずに、皇后を祝福してゐるのは、立派な態度である、それにも拘はらず、清河は遂に歸國することを得ずして、唐國の土とな(536)つたのは、あはれなことであつた。
 
大納言藤原家(ニ)餞(スル)2之入唐使等(ヲ)1宴(ノ)日(ノ)歌一首、即主人卿作(ル)v之(ヲ)
 
大納言藤原家は仲麿である。續紀に勝寶元年七月甲子、爲2大納言1とある。この人の傳は卷十七の三九二六の左文に出しておいた。古義は藤原の下に卿の字を補つてゐるが、その要はない。代匠記精撰本は一首を三首の誤としてゐる。舊本、題詞の下に、、即主人卿作之の六字がないのは脱ちたのか。西本願寺本その他によつて補つた。
 
4242 天雲の ゆき還りなむ もの故に 念ひぞ吾がする 別かなしみ
 
天雲乃《アマグモノ》 去還奈牟《ユキカヘリナム》 毛能由惠爾《モノユヱニ》 念曾吾爲流《オモヒゾワガスル》 別悲美《ワカレカナシミ》
 
貴方ハ〔三字傍線〕(天雲乃)行ツテモマタ無事デ〔六字傍線〕歸ツテ來ルノデアルノニ、私ハ別ガ悲シイノデ、歎イテ居リマス。
 
○天雲乃《アマグモノ》――枕詞。雲は空を往還するものであるから、去還《ユキカヘリ》に冠してある。○毛能由惠爾《モノユヱニ》――物だのに。物なるを。
〔評〕 無事歸還を確信しつつも、別離を悲しむ心は如何ともし難い。上三句に清河に對する祝福の意もある。愛情の溢れた作。
 
民部少輔多治眞人|土作《ハニシ》(ノ)歌一首
 
民部少輔多治眞人士作は、天平十二年正月庚子正E六位上から從五位下。十五年三月乙己、新羅使薩※[にすい+食]金序貞等來朝によつて筑前に遣はさる。同六月丁酉攝津介、十八年四月壬辰民部少輔とな(537)る。勝寶元年八月辛未兼大忠となる。即ち清河が遣唐使に任ぜられた時は、民部少輔兼紫微大忠であつたのである。その後、六年四月庚午尾張守、寶字元年五月丁卯從五位上、五年十一月丁酉西海道節度副使、七年正月壬子正五位下、八年四月戊寅文部大輔、神護二年十一月丁己從四位下、神護景雲二年二月癸己左京大夫、讃岐守如v故、七月壬申治部卿、左京大夫讃岐守は如v故、寶龜元年七月庚辰參議從四位上、二年六月乙丑卒した。舊本土を古に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。又舊本治の下に比の字がないのを脱落とする説が多いが、これでタヂヒと訓むのであらう。古義に作の下に、更に作の字を補つたのはよくない。
 
4243 住吉に 齋くはふりが 神言と 行くとも來とも 舶は早けむ
 
住吉爾《スミノエニ》 伊都久祝之《イツクハフリガ》 神言等《カムゴトト》 行得毛來等毛《ユクトモクトモ》 舶波早家無《フネハハヤケム》
 
佐吉ニ神樣ヲオ祀リ申シテヰル神主ガ申ス〔二字傍線〕、神樣ノオ告ゲノ〔四字傍線〕オ言葉通リニ、行キモ歸リモ、船ハ無事ニ〔三字傍線〕早〔傍線〕ク行ク〔三字傍線〕(538)デセウ。航路ヲ守ル住吉ノ神樣ニオ願ヒシテアルカラ必ズ大丈夫デス〔航路〜傍線〕。
 
○住吉爾伊都久祝之《スミノエニイツクハフリガ》――住吉に齋く神は住吉の大神。今の官幣大社住吉神社。祭神、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命。古事記に謂はゆる墨江之三前大神《スミノエノミマヘノオホカミ》である。航路の守護神たることは、卷六、繋卷裳湯湯石恐石住
吉乃荒人神船舳爾牛吐賜《カケマクモユユシカシコシスミノエノアラヒトカミフネノヘニウシハキタマヒ》(一〇二〇)とあり、次の長歌(四二四五)にも略同樣の句がある。伊都久《イツク》は神を祀る。祝《ハフリ》は神主。三輪之祝我《ミワノハフリガ》(七一二)・三輪乃祝之《ミワノハフリノ》(一五一七)などなほ多い。○神言等《カムコトト》――神のお言葉として。神のお言葉の如く。神に申す祝詞とする説は無理であらう。○行得毛來等毛《ユクトモクトモ》――行くとても歸り來るとても。このトを時の意とするのは當つてあまい。
〔評〕 航海の神たる住吉の大神の託宣の如く、必ず無事であるぞと堅い信念を述べて、遣唐使を慰めてゐる。下句は卷九の海若之何神乎齋祈者歟往方毛來方毛舟之早兼《ワタツミノイヅレノカミヲイハハバカユクサモクサモフネノハヤケム》(一七八四)に傚つたものか。
 
大使藤原朝臣清河歌一首
 
4244 荒玉の 年のを長く 吾が念へる 兒らに戀ふべき 月近づきぬ
 
荒玉之《アラタマノ》 年緒長《トシノヲナガク》 吾念有《ワガモヘル》 兒等爾可戀《コラニコフベキ》 月近附奴《ツキチカヅキヌ》
 
(荒玉之)幾年モ長ク私ガ懷カシク思ツテヰル妻ト別レテ〔五字傍線〕、妻ヲ戀シク思フベキ月ガ近ヅイテ來タヨ。私ハコレカラ唐ヘ行カナケレバナラナイガ、旅ニ出タラ嘸妻ガ戀シイデアラウ〔私ハ〜傍線〕。
 
○荒王之《アラタマノ》――枕詞。年とつづく。○年緒長《トシノヲナガク》――年は幾年も長く續くから、年の緒といふのである。○兒等爾可戀《コラニコフベキ》――兒等は妻をさす。妻を戀しく思ふべき。○月近附奴《ツキチカヅキヌ》――特更に月と言つたのは、出立が一二ケ月の後に近づいたからである。
〔評〕 出發の期の近づいたのを悲しんでゐる。但し續紀によると大使が内裏に召され節刀を賜はつたのは、勝寶四年閏三月のことであり、下の韓國爾由伎多良波之※[氏/一]《カラクニニユキタラハシテ》(四二六二)の歌の題詞によるも、閏三月までは都にあつたのであるから、出發が意外に遲れたものであらう。なほ下の天雲能《アマクモノ》(四二二七)の評參照。
 
天平五年贈(レル)2入唐使(ニ)1歌一首并短歌【作主未詳】
 
天平五年の入唐使は多治比眞人廣成である。このことは、卷五の好去好來歌(八九四)卷八の天平五年癸酉春閏三月笠朝臣金村贈2入唐使1歌(一四五三)・卷九の天平五年癸酉遣唐使舶發2難波1入v海之時親母贈v子歌(一七九〇)などに見えてゐる。作主未詳の四字は細井本にはないが、他の古本にはある。最初からあつたのであらう。
 
4245 そらみつ 大和の國 あをによし 奈良の都ゆ 押照る 難波に下り 住の吉の 三津に船乘り ただ渡り 日の入る國に 遣はさる 吾が兄の君を かけまくの ゆゆしかしこき 住のえの 吾が大御神 船のへに うしはきいまし 船艫に みたちいまして さし寄らむ 磯の埼々 榜ぎはてむ 泊々に 荒き風 浪に逢はせず 平けく ゐて歸りませ もとのみかどに
 
虚見都《ソラミツ》 山跡乃國《ヤマトノクニ》 青丹與之《アヲニヨシ》 平城京歸由《ナラノミヤコユ》 忍照《オシテル》 難波爾久太里《ナニハニクダリ》 住吉乃《スミノエノ》 三津爾舶能利《ミツニフナノリ》 直渡《タダワタリ》 日入國爾《ヒノイルクニニ》 所遣《ツカハサル》 和我勢能君乎《ワガセノキミヲ》 懸麻久乃《カケマクノ》 由由志恐伎《ユユシカシコキ》 墨吉乃《スミノエノ》 吾大御神《ワガオホミカミ》 舶乃倍爾《フナノヘニ》 宇之波伎座《ウシハキイマシ》 船騰毛爾《フナトモニ》 御立座而《ミタチイマシテ》 佐之與良牟《サシヨラム》 礒乃崎々《イソノサキザキ》 許藝波底牟《コギハテム》 泊々爾《トマリトマリニ》 荒風《アラキカゼ》 浪爾安波世受《ナミニアハセズ》 平久《タヒラケク》 率而可敝理麻世《ヰテカヘリマセ》 毛等能國家爾《モトノミカドニ》
 
(虚見都)大和ノ國ノ(青丹與之)奈良ノ都カラ(忍照)難波ニ下ツテ、住吉ノ三津デ船ニ乘ツテ、眞直ニ海ヲ〔二字傍線〕渡ツテ、日ノ入ル國ノ唐〔二字傍線〕ヘ遣はサレル吾ガ夫ノ君ヲ、口ニ出シテ言フノモ憚ルベキ、恐多イ住吉ノ吾ガ大神ガ、船(540)ノ舳ニ鎭坐マシマシ、船ノ艫ニオ立チニナツテ、舟ガ〔二字傍線〕立チ寄ル磯ノ岬々、漕イデ行ツテ淀泊スル港々ニ、荒イ風ヤ浪ニ會ハセナイデ、無事デ連レテモトノ吾ガ國ヘオ歸リ下サイマシ。
 
○虚見都《ソラミツ》――枕詞。山跡につづく。卷一の虚見津《ソラミツ》(一)參照。○青丹與之《アヲニヨシ》――枕詞。平城につづく。卷一、青丹吉《アヲニヨシ》(一七)參照。○忍照《オシテル》――枕詞。難波につづく。卷三の押光《オシテル》(四四三)參照。○三津爾舟能利《ミツニフナノリ》――三津のミは接頭語。美稱。奈良から難波に來り、住吉から乘船したのである。○直渡《タダワタリ》――眞直に唐をさして海を渡り。○日入國爾《ヒノイルクニニ》――日入國《ヒノイルクニ》は唐をいふ。推古天皇の朝に使を隋に遣はされて、「日出處天子、致2書日没處天子1無v恙」と宣うたことは有名な話であるが、その精神が此處にもあらはれてゐる。○所遣《ヅカハサル》――遣はさるるといふべきであるがかういふのが古格である。○縣麻久乃由由志恐伎《カケマクノユユシカシコキ》――この句以下は卷六の石上乙麿卿配土左國之時歌の中に、繋卷裳湯湯石恐石住吉乃荒人神舩舳爾牛吐賜付賜將島之埼前依賜將礒乃埼前荒浪風爾不令遇草菅見身疾不有急令變賜根本國部爾《カケマクモユユシカシコシスミノエノアラヒトカミフナノヘニウシハキタマヒツキタマハムシマノサキザキヨリタマハムイソノサキザキアラキナミカゼニアハセズツツミヤマヒアラセズスムヤケクカヘシタマハネモトノクニベニ》(一〇二〇)と殆ど同樣である。○宇之波伎座《ウシハキイマシ》――ウシハクは領有すること。前に例が多い。ここは住吉の神が船の舳に居給ふ意。○般騰毛爾《フナトモニ》――船の艫に。船尾に。○毛等能國家爾《モトノミカドニ》――國家は舊訓の通りミカドと訓むがよい。略解にモトノクニベニとしたのは、右の卷六の歌に傚はうとしたもので、よくない。かの歌は國内のことで、國家《ミカド》とは言はれないから、國部《クニベ》としたのである。
〔評〕 語釋の部にあげた通り卷六(一〇二〇)の歌と酷似してゐる。しかもこれは天平五年、かれは天平十年で、これを學んだものなることは明らかである。奈良の都出發から、難波を經て住吉へ、其處から乘船、航海中の神威恩頼のいやちこさなどを述べて、無事の歸還を祈り、且つ祝福してゐる。よく纒つた整つた作といつてよい。
 
反歌一首
 
4246 沖つ浪 邊浪な越しそ 君が船 こぎ歸り來て 津にはつるまで
 
奥浪《オキツナミ》 邊波莫越《ヘナミナコシソ》 君之舶《キミガフネ》 許塾可敝里來而《コギカヘリキテ》 津爾泊麻泥《ツニハツルマデ》
(541)貴方ノ船ガ漕イデ歸ツテ來テ、港ニ到着スルマデハ、沖ノ浪モ岸ノ浪モ、船ヲ〔二字傍線〕越エルホドニ〔三字傍線〕ヒドク立ツナヨ。
 
○邊波莫越《ヘナミナコシソ》――考に越を起の誤とし、略解・古義・新考など、それに賛してゐるが、船を越ゆるばかりに、浪よ立つなと祈る心であるから、越《コシ》の方がよい。沖つ浪も邊浪も全く起つなとは、唐へ赴く船に期待すべく、不可能のことである。
〔評〕 無事の歸還を祝福して、海波の平穩を祈つたもの。長歌の意を要約して、添へたに過ぎない。
 
阿倍朝臣老人遣(ハサル)v唐(ニ)時、奉(リテ)v母(ニ)悲(シム)v別(ヲ)歌一首
 
何倍朝臣老人の傳はわからない。廣成と行を共にした下僚であらう。
 
4247 天雲の そきへの極み わが念へる 君に別れむ 日近くなりぬ
 
天雲能《アマグモノ》 曾伎敝能伎波美《ソキヘノキハミ》 吾念有《ワガモヘル》 伎美爾將別《キミニワカレム》 日近成奴《ヒチカクナリヌ》
 
空ノ雲ガ遙カニ遠ク〔五字傍線〕隔ツテヰル際限マデ、ソノヤウニ限リナク〔九字傍線〕私ガ思ツテヰル母上ニ、オ別レスル日ガ近クナリマシタ。私ハコレカラ唐ニ赴クノデスガ、母上ニオ別レスルノガ、何ヨリモ悲シウゴザイマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○天雲能曾伎敝能伎波美《アマグモノソキヘノキハミ》――空の雲の遠く隔つてゐる際限まで、この句は非常に遠いことを言つてるので、次の吾念有《ワガモヘル》につづいて、母を思ふ心の廣大無邊なること形容したのである。古義に、「吾深く愛しく思へる君に、天雲の避隔《ソヘキ》の極み、遠く相別るべき日の近く成ぬるよとなり。吾念有伎美爾《アガモヘルキミニ》の言を、初(ノ)句の上へうつして意得べし」とあるのは誤解であらう。
〔評〕 上句に母を思ふの情が、誇張的に述べられてゐるが、それがわざとらしからず、しつくりここに當嵌つてゐる。前に出てゐる大使藤原朝臣清河の歌、荒玉之年緒長吾念有兒等爾可戀月近附奴《アラタマノトシノヲナガクワガモヘルコラニコフベキツキチカヅキヌ》(四二四四)はこの歌の形式に(542)嵌めて、作り試みたものらしく、母を妻に代へ、日と月に改めただけで、しかも出來ばえに於いてこれに遙かに及ばぬ拙い作である。
 
右件歌者、傳誦之人、越中大目高安倉人種麻呂是也、但年月次者隨(ヒテ)2聞之時(ニ)1載(ス)2於此1焉
 
右件歌とは以上の八首をさしてゐる。高安倉人種麻呂の傳はわからない。但年月次者隨聞之時載於此焉とあるから、一回に傳誦したのではない。これは四月から七月までの間のことである。
 
以(テ)2七月十七日(ヲ)1遷2任(ス)少納言(ニ)1仍(リテ)作(リテ)2悲別之歌(ヲ)1、贈(リ)貽(セル)朝集使掾久米朝臣廣繩之舘(ニ)1二首
 
家持が少納言に遷任したことは續紀に漏れてゐる。贈貽は贈り遺す。この時、掾の久米朝臣廣繩は上京不在であつたから、家持は次の書簡と歌とを書き遺して置いたのである。但しここに朝集使とあるが、二月三日の宴の歌の注には、判官久米朝臣廣繩以正税帳應入京師云々(四二三八)とあり、玉桙之(四二五一)の歌の左註にも、正税帳使掾久米朝臣廣繩とある。正税帳は二月、朝集使は十一月の任命であるから、朝集使は誤で、正税使であらねばならぬ。
 
既滿(チ)2六載之期(ニ)1忽(チ)|値(フ)2遷替之運(ニ)1於是別(ルル)v舊(ニ)之|悽《カナシミ》、心中(ニ)欝結(ス)、拭(フ)v※[さんずい+帝](ヲ)之袖、何(ヲ)以(テ)能(ク)|旱《カハカム》、因(リテ)作(リテ)2悲歌二首(ヲ)1、式《モツテ》遺(ス)2莫忘之志(ヲ)1其詞(ニ)曰
 
既滿六載之期とは家持が天平十八年閏七月越中守となつてから、勝寶三年七月少納言に遷任上京まで滿五年、足掛け六年に亘つてあるからである。彼は下に之奈謝可流越爾五箇年住住而《シナザカルコシニイツトセスミスミテ》(四二五〇)と言つてゐる。舊(543)本、忽を勿に誤つてゐる。元暦校本その他によつて改めた。
 
4248 あら玉の 年のを長く 相見てし その心ひき 忘らえめやも
 
荒玉乃《アラタマノ》 年緒長久《トシノヲナガク》 相見※[氏/一]之《アヒミテシ》 彼心引《カノココロヒキ》 將忘也毛《ワスラエメヤモ》
 
私ハ此處デ貴方ニオ別シテモ〔私ハ〜傍線〕(荒玉乃)長年ノ間私ト仲良ク交ツテ來タ、ソノ貴方ノ〔三字傍線〕御芳志ハ忘レルコトハ出來マセンヨ。
 
○彼心引《ソノココロヒキ》――心引は代匠記精撰本に「心引は芳心なり」とあり。考は引を弘の誤として、ソノココロヲと訓み、略解は「宣長云、稱徳紀宣命、天下政|比岐比岐《ヒキヒキ》、其外にも己比伎比伎などあれば、心引と言ふべしと言へり」とあり。古義は「引《ヒキ》を用言に唱(フ)べし、其(ノ)心を引(キ)の意なり、同じ心の人なるゆゑに、心の引さるゝよしなり。云々」とあるが、引を用言とするのはどうであらう。心引といふ熟語の名詞で、心の引き方。即ち吾が方に心を引きつけることであらう。代匠記の芳心又は新考に「俗語の贔屓、今語の同情なり」とあるのが、寧ろ當つでゐるであらう。
〔評〕 廣繩に對する感謝の念はあらはれてゐる。初二句は前の大使藤原朝臣清河の歌(四二四四)を聞いて、それを學んだものか。
 
4249 いは瀬野に 秋萩しぬぎ 馬なめて 初鳥獵だに せずや別れむ
 
伊波世野爾《イハセヌニ》 秋芽子之努藝《アキハギシヌギ》 馬並《ウマナメテ》 始鷹獵太爾《ハツトガリダニ》 不爲哉將別《セテヤワカレム》
 
石瀬野デ秋萩ノ花〔二字傍線〕ヲ押シ分ケテ、貴方ト一緒ニ〔六字傍線〕馬ヲ並べテ、今年ノ〔三字傍線〕最初ノ鷹狩ヲモシナイデ、貴方ト〔三字傍線〕オ別レスルコトカ。モウシバラクシテ、鷹狩デモシテカラ別レタカツタノニ、殘念ナコトデス〔モウ〜傍線〕。
 
(544)○伊波世野爾《イハセヌニ》――前に石瀬野《イハセヌ》(四一五四)とあつたところ。今の射水郡石瀬村附近であらう。東岩瀬とする説は從はない。○秋芽子之努藝《アキハギシヌギ》――秋萩の花を押分けて。シヌグは無理に通ること。押靡かせること。○初鷹獵太爾《ハツトガリダニ》――始鷹獵は小鷹狩のことだと言はれてゐる。鷹狩には小鷹狩と大鷹狩とあり、小鷹狩は小鷹を用ゐて秋期に行ひ、鶉・雲雀などの小鳥を獲り、大鷹狩は大鷹を用ゐて冬期に行ひ鶴・雁・鴨などを狩る。併しここは最初の鷹狩と解すべきであらう。鳥獵と書くべきを鷹を用ゐるから鷹獵と記したのである。卷十一に鷹田《トガリ》(二六三八)と記したところもある。トガリは鳥を用ゐる獵とも、鳥を獲る獵とも解せられる。後者とすべきであらう。
〔評〕 鷹狩が家持の最も面白い遊びであつたことは、思放逸鷹夢見感悦作歌(四〇一一)・詠白大鷹歌(四一五四)などに明らかである。いつもその遊獵に行を共にした廣繩との訣別に、まづこれを思ひ出して名殘を惜しんだもの。流石に別の聲は悲しく聞える。袖中抄に出てゐる。
 
右八月四日贈(ル)v之(ヲ)
 
便(チ)附(ケラレ)2大帳使(ヲ)1取(リテ)2八月五日(ヲ)1應(ニ)v入(ラム)2京師(ニ)1、因(リテ)v此(ニ)以(テ)2四日(ヲ)1設(ケ)2國厨之饌(ヲ)1於2介内藏伊美吉繩麻呂(ノ)舘1餞(ス)v之(ヲ)、于v時大伴宿禰家持作(レル)歌一首
 
附大帳使は大帳使となつたこと。大帳使は大計帳を持つて行く使。八月末までに國廳から、太政官にとどけることになつてゐた。三九六一の左註參照、國厨之饌とは、國衙の厨で作つた料理。國廳に專屬の料理人がゐたのである。介内藏伊美吉繩麿は傳未詳。この人の歌は卷十七・十八・十九に四首見えてゐる。
 
4250 しなざかる 越に五つ年 住み住みて 立ち別れまく 惜しきよひかも
 
之奈謝可流《シナザカル》 越爾五箇年《コシニイツトセ》 住々而《スミスミテ》 立別麻久《タチワカレマク》 惜初夜可毛《ヲシキヨヒカモ》
 
(545)(之奈謝可流)越ノ國ニ五年ノ間ツヅケテ住ンデヰテ、今〔傍線〕立チ別レルコトガ、惜シイ今夜ヨ。永年住ミ慣レタノデ、今夜ノ別ガ悲シク思ハレマス〔永年〜傍線〕。
 
○之奈謝可流《シナザカル》――枕詞。越につづく。之奈射加流《シナザカル》(三九六九)參照。○越爾五箇年《コシニイツトセ》――前に既滿2六載之期1とあつたが、ここは滿五箇年であるから、かういつたのである。○住住而《スミスミテ》――住みに住んで。住みつづけて。
〔評〕 いよいよ明日といふ前夜の送別の宴で詠んだもの。住み馴れれば鄙も都である。別離の淋しさを感せずにはゐられなかつたのであらう。必ずしもお世辭ではないやうだ。卷五の憶良の阿麻社迦留比奈爾伊都等世周麻比都都美夜故能提夫利和周良延爾家利《アマザカルヒナニイツトセスマヒツツミヤコノテブリワスラエニケリ》(八八〇)と少し似てゐる。
 
五日平旦、上(ル)v道(ニ)、仍(リテ)國司(ノ)次官已下諸僚、皆共(ニ)視送(ル)、於v時射水郡大領安努君廣島(ガ)門前之林中(ニ)預(ネテ)設(ク)2餞饌之宴(ヲ)1、于v時大帳使大伴宿禰家持、和(フル)2内藏伊美吉繩麻呂(ノ)捧(グル)v盞(ヲ)之歌(ニ)1一首
平旦は曉。天智天皇紀には、平旦をトラノトキと訓んでゐる。上道は道に上る。出發す。國司次官は國の介。已下諸僚はそれ以下の掾・目らをいふ。大領は郡の長官。コホリノミヤツコと訓む。一人、外從八位上。その下に少領一人あり、スケノミヤツコと訓む。外從八位下。安努君廣島の傳はわからない。安努は和名抄、射水郡阿努郷とある地で今の氷見郡加納村の邊といふ。かの地方にその住宅があつたか。然らば國府を發して海岸つたひに氷見に出で、左に折れて志乎方面に出る、北陸の本道を通つたのである。捧v盞之歌とは繩麿が家持に献盃して詠んだ歌。ここには記されてゐない。
 
4251 玉桙の 道に出で立ち 往く吾は 君がことどを 負ひてし行かむ
 
(546)玉桙之《タマボコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 往吾者《ユクワレハ》 公之事跡乎《キミガコトドヲ》 負而之將去《オヒテシユカム》
 
旅ノ〔二字傍線〕(玉桙之)道ニ出カケテ行ク私ハ、別ニ臨ンデ〔五字傍線〕貴方ノ別離ノ言葉ヲ、身ニツケテ〔五字傍線〕持ツテ行キマセウ。
 
○玉桙之《タマボコノ》――枕詞。道とつづく。七九參照。○公之事跡乎《キミガコトドヲ》――事跡《コトド》は古事記に「爾千引石引2塞其黄泉比良坂1其石置v中《スナハチチビキイハヲソノヨモツヒラサカニヒキサヘテソノイハヲナカニオキテ》、各對立而度2事戸1之時《アヒムキタタシテコトドヲワタストキニ》、云々」とある事戸と同じである。書紀には絶妻之誓とあるが、語義は異處《コトド》と解せられ、一般的に離別の辭をいふものと思はれる。ここでは繩麿が盞を捧げて述べた、送別の歌をさしてゐる。代匠記は事跡を文字通りに.行事の蹤跡とし、この下句を、君が功勞の事迹を記しておいたのを負持つて、都に上ることに解してゐる。考は事跡をシワザと訓み、公が國にての政務の事跡を京へ持つて行かうの意としてゐる。新考に事跡《コトド》を解由状と見たのは面白いが、さう見るべき根據がないやうである。
〔評〕 送別の歌に對する挨拶に過ぎない。
 
正税帳使掾久米朝臣廣繩、事畢(ヘテ)退(ル)v任(ニ)、適々遇(ヒ)2於越前國掾大伴宿禰池主之館(ニ)1、仍(リテ)共(ニ)飲樂(ス)也、于v時久米朝臣廣繩矚(テ)2芽子花(ヲ)1作(レル)歌一首
 
前に、二月三日の宴の歌に、判官久米朝臣廣繩以正税帳應入京師云々(四二三八)と註してある。家持は歸京の途次越前國掾大伴地主の家に立寄り、ここで、事を畢つて越中に歸任の途にある廣繩と、邂逅したのである。
 
4252 君が家に 植ゑたる萩の 初花を 折りてかざさな 旅別るどち
 
君之家爾《キミガイヘニ》 殖有芽子之《ウヱタルハギノ》 始花乎《ハツハナヲ》 折而挿頭奈《ヲリテカザサナ》 客別度知《タビワカルドチ》
 
(547)貴方ノ家ニ植ヱテアル萩ノ初花ヲ、家持卿ト私ト〔六字傍線〕旅デ別レ別レニナルモノ同志ガ、互ニ〔二字傍線〕折ツテ冠ノ〔二字傍線〕挿頭ノ花ニ致シマセウヨ。
 
○君之家爾《キミガイヘニ》――君は池主をさしてゐる。○折而挿頭奈《ヲリテカザサナ》――舊本、挿を※[手偏+卒]に誤つてある。○客別度知《タビワカルドチ》――旅に別れ別れとなるもの同志。旅で別れる家持卿と自分とはの意。
〔評〕 家持に向つて言ふ言葉であるのに、初句には池主を君と呼んだのはをかしい。しかし旅の空で相別れる離れ難さ、淋しさはあらはれてあはれな作である。
 
大伴宿禰家持和(フル)歌一首
 
4253 立ちてゐて 待てど待ちかね 出でてこし 君にここにあひ かざしつる萩
 
立而居而《タチテヰテ》 待登待可禰《マテドマチカネ》 伊泥※[氏/一]來之《イデテコシ》 君爾於是相《キミニココニアヒ》 挿頭都流波疑《カザシツルハギ》
 
立ツタリ坐ツタリシテ、待ツテヰタガ待チカネテ、出テ來テ、貴方ニ此處デ逢ツテコノ萩ノ花ヲ二人デ〔六字傍線〕挿頭トシマシタ。
 
○立而居而《タチテヰテ》――立つたり居たりして。待ちかねた態度である。○待登待可禰《マテドマチカネ》――久米朝臣廣繩の歸任を、越中の國府にあつて待つてゐたが、遂に待ちかねて出發したといふのである。○伊泥※[氏/一]來之《イデテコシ》――出でて來しがの意であらう。直ちに君につづけては意をなさない。古義は之《シ》は弖《テ》の誤でイデテキテであらうといつてゐる。新考はもとのままで、「我マテドマチカネイデテコシソノ君といへるなり」といつてゐる。
〔評〕 直線的な名詞止になつてゐる。叙法が多少窮屈な感じがないでもないが、贈られたものよりもよく出來てゐる。略解に「廣繩が家持卿を待ちかねて、池主の館まで出來りて、共にはぎをかざしつると言ふ也」とある(548)のは、甚だしい誤解である。
 
向(フ)v京(ニ)路(ノ)上《ホトリ》依(リ)v興(ニ)預(ネテ)作(レル)侍(シテ)v宴(ニ)應(ズル)v詔(ニ)歌一首并短歌
 
着京の上は宴に侍して、詔に應じて歌を作ることがあらうと豫想して、預め作つた歌。この人の作には、かういふ歌が他にも少しある。
 
4254 秋津島 倭の國を 天雲に 磐船浮べ 艫に舳に ま櫂しじぬき い榜ぎつつ 國見しせして 天降りまし 掃ひ平げ 千代かさね いやつぎつぎに 知らし來る 天の日嗣と 神ながら 吾がおほきみの 天の下 治め賜へば 物のふの 八十伴のをを なでたまひ 齊へたまひ をす國の 四方の人をも あてさはず めぐみたまへば いにしへゆ 無かりししるし たびまねく 申したまひぬ たむだきて 事無き御代と 天つち 日月と共に 萬世に 記しつがむぞ 安見しし 吾が大きみ 秋の花 しがいろいろに めし給ひ 明らめ給ひ さかみづき 榮ゆる今日の あやに貴さ
 
蜻島《アキツシマ》 山跡國乎《ヤマトノクニヲ》 天雲爾《アマクモニ》 磐船浮《イハフネウカベ》 等母爾倍爾《トモニヘニ》 眞可伊繁貫《マカイシジヌキ》 伊許藝都遣《イコギツツ》 國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》 安母里麻之《アモリマシ》 掃平《ハラヒタヒラゲ》 千代累《チヨカサネ》 彌嗣繼爾《イヤツギツギニ》 所知來流《シラシクル》 天之日繼等《アマノヒツギト》 神奈我良《カムナガラ》 吾皇乃《ワガオホキミノ》 天下《アメノシタ》 治賜者《ヲサメタマヘバ》 物乃布能《モノノフノ》 八十友之雄乎《ヤソトモノヲヲ》 撫賜《ナデタマヒ》 等登能倍賜《トトノヘタマヒ》 食國之《ヲスクニノ》 四方之人乎母《ヨモノヒトヲモ》 安天左波受《アテサハズ》 愍賜者《メグミタマヘバ》 從古昔《イニシヘユ》 無利之瑞《ナカリシシルシ》 多婢末禰久《タビマネク》 申多麻比奴《マヲシタマヒヌ》 手拱而《タムダキテ》 事無御代等《コトナキミヨト》 天地《アメツチ》 日月等登聞仁《ヒツキトトモニ》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 記續牟曾《シルシツガムゾ》 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大皇《ワガオホキミ》 秋花《アキノハナ》 之我色色爾《シガイロイロニ》 見賜《メシタマヒ》 明米多麻比《アキラメタマヒ》 酒見附《サカミヅキ》 榮流今日之《サカユルケフノ》 安夜爾貴左《アヤニタフトサ》
 
昔ノ神樣ガ〔五字傍線〕コノ秋津島大和ノ國ヲ空ノ雲ニ岩船ヲ浮ベテ、艫ニモ舳ニモ櫂ヲ澤山貫イテ漕イデ、空ノ上カラ〔五字傍線〕國見ヲナサレテ、此處ハ良イ處ダト思召シテ〔此處〜傍線〕、天降リナサレ、惡者ヲ〔三字傍線〕掃ヒ平ゲ、ソノ後〔三字傍線〕千代ヲ重ネテ永ク相繼イ(549)デ、コノ世ヲ〔四字傍線〕御支配遊バサレテ來ラレタ天ツ日繼ノ御方〔三字傍線〕トシテ、神ソノママノ吾ガ今上天皇ガ、天下ヲオ治メニナルト、宮中ニ奉仕スル役人ノ澤山ノ部屬ノ長ヲ、可愛ガリナサレ、秩序ヲ〔三字傍線〕整ヘナサツテ、御支配遊バス國ノ四方ノ人民ヲモオ棄テニナラズ、オ惠ミ下サルノデ、昔カラ今マデ〔三字傍線〕無カツタ珍ラシイ〔四字傍線〕瑞兆ガ、澤山アラハレタトテ、臣下カラ〔四字傍線〕申上ゲタ。カクシテ天子樣ハ〔八字傍線〕手ヲ拱イテ、治マル〔三字傍線〕無事泰平ノ御代デアルト、天地日月ト共ニ萬世ノ後マデモ書キ記シテ、傳ヘルデアラウゾ。カヤウニ有難イ〔七字傍線〕(八隅知之)吾ガオ仕ヘ申ス天子樣ガ、折カラ咲キ匂フ〔七字傍線〕秋ノ花ノソノ色トリドリニ、特徴ヲ〔三字傍線〕御覽ニナリ御區別ナサリ、臣下ノ特質ヲ夫々オ見分ケニナツテ〔臣下〜傍線〕、御酒ヲメシ上ツテ、笑ミ榮エテ、イラツシヤル今日ノ宴會〔三字傍線〕ガ、不思議ナホド貴イコトヨ。
 
○蜻島《アキツシマ》――枕詞。山跡に冠するのは、孝安天皇の皇居、大和の秋津島の宮に起るといはれてゐる。○天雲爾磐船浮《アマクモニ》《イハフネウカベ》――空の雲に磐船を浮べて。磐船は堅固な船。卷三に久方乃天之探女之石船乃《ヒサカタノアマノサクメガイハフネノ》(二九二)とある。○國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》――國見を爲給うて。之《シ》は強辭。○安母里麻之《アモリマシ》――天降りいまし。天降り給ひ。以上は神武天皇紀に、「及v至d饒速日命乘2天磐船1而翔2行太虚1也睨2是郷1而降u之、故因目v之曰2虚空見日本國1矣」とあるに一致してゐるが、これを饒速日命のこととしては、後へのつづきが惡い。冒頭の蜻島山跡國《アキツシマヤマトノクニ》を、わが日本の總稱と見るべきであらう。○神奈我良《カムナガラ》――神そのままの御方にてまします。○物乃布能八十友之雄乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》――前にも屡々出た語。朝廷に奉仕する多くの部屬の長。○安天左波受《アテサハズ》――分らない言葉である。代匠記初稿本には、「わづらはさずといふ心ときこゆ。あたらずさへずといへるにや」同精撰本には「煩らはさずと云意の詞なるべし。あてずさはらずの意歟」と見えてゐるが、どうも穩やかでない。考は「安萬左受の左を延ていふのみ。今本、安天と有る天は、末の誤しるかれば改む」といつて、餘さずの意としてゐる。略解は「宣長云、天は夫の誤にて、あふさはず也。光仁紀宣命に、彌麻之大臣之家内子等乎母波布理不v賜《ミマシオホオミノイヘノウチノコドモヲモハフリタマハズ》云々と在と同じ。はふりたまはずは、はふらかしたまはず也。源氏物語玉かづらの卷に、おとしあぶさず、とりしたためたまふと言へる、これと全く同じ意也(550)と言へり。これしかるべし」と宣長説に賛成してゐる。天を夫の誤とすればアブサハズで、これはアブサズの延言と思はれるが、アブスが果してハフリと同語なるや否やは疑問であるが、放棄する意なることは確かである。或は口語アブルと關係ある語かも知れない。○無利之瑞《ナカリシシルシ》――無かつた瑞祥。○多婢末禰久《タビマネク》――度數多く。舊本、末を未に誤つてゐる。○申多麻比奴《マヲシタマヒヌ》――奏上した。タマフは先方を尊敬して、自己の動作にも附していふことがある。これが中世になつて、下二段活の動詞給フ〔二字傍点〕となつたものか。○手拱而《タムダキテ》――舊訓コマヌキテとあるのはよくない。卷六に手抱而我者御在《タウダキテワレハイマサム》(九七三)とある。○萬世爾記續牟曾《ヨロヅヨニシルシツガムゾ》――萬世の後までも、記録して傳へむぞ。語りつがむぞとあるのを常とするに、ここに記し續がむとあるのは、口から口に傳へるよりも、漸く記録の時代に入つたことを語るものである。○秋花《アキノハナ》――秋の花を。折から秋であつたから、かういつたのである。○之我色色爾《シガイロイロニ》――それが種々の色毎に。○見賜《メシタマヒ》――舊訓ミエタマヒ、代匠記精撰本ミセタマヒ、考はミシタマヒとあるが、古義に、ここは見給ふの意で、聞《キキ》を伎可之《キカシ》、伎許之《キコシ》、知《シリ》を志良之《シラシ》、志呂之《シロシ》いふと同じく、メシと訓まねばならぬ。ミシでは過去になつてしまふ、といふ意を主張してゐるのがよいやうだ。○明米多麻比《アキラメタマヒ》――明らかにし給ひ、秋の花の特徴をそれそれ見分け給ふをいふ。新考には御心ヲハラシ給ヒと解いてゐる。代匠記精撰本に「臣下の才徳忠功をほとほとにつけて見そなはしわくるを喩へて云へり。折節秋なれば秋花とは云へり」とあるが、さうした寓意もあるやうである。○酒見附《サカミツキ》――酒見漬《サカミツキ》即ち酒にひたることで、酒宴をいふ。卷十八に佐可彌豆伎伊麻須《サカミヅキイマス》(四〇五九)・佐可美都伎安蘇比奈具禮止《サカミツキアソビナグレド》(四一一六)などの例がある。○榮流今日之《サカユルケフノ》――この榮流《サカユル》は喜び笑ひ樂しむことをいつてゐる。○安夜雨貴左《アヤニタフトサ》――あやしく不思議に貴いことよ。舊本この下に小字で、江の一字を記してゐる。これは前(四一八五)に江家とあつたのと同じく、大江匡房の訓だといふので、次點の時に記し添へたものである。元暦校本その他に無いのがよい。
〔評〕 天孫降臨の時から説き起して、皇統の連綿として今日に及べることを述べ、今上陛下の恩惠の甚大なるを感謝し、各種の瑞祥がつづいて顯はれる、泰平なる御代を謳歌し、折から秋の花の色々に盛なるに托して、臣下の特徴を見分け給ひつつ、今日の酒宴に君臣和樂の情に笑み榮えてゐる樣を、畏しと敬讃してゐる。整然た(551)る措辭で、皇室に對する尊崇の念を歌つてゐるのは、流石に家持の特色があらはれてゐる。前にもこの人に、爲d幸2行芳野離宮1之時u儲作歌(四〇九八)爲d向v京之時見2貴人1及相2美人1飲宴之日u述v懷儲作歌(四一二〇)などがあつて、彼が謂はゆる歌作の藝に熱心であつたかがわかる。
 
反歌一首
 
4255 秋の花 くさぐさなれど 色ごとに めし明らむる 今日の貴さ
 
秋時花《アキノハナ》 種爾有等《クサグサナレド》 色別爾《イロゴトニ》 見之明良牟流《メシアキラムル》 今日之貴左《ケフノタフトサ》
 
秋ノ花ガ色々ニ咲クケレドモ、ソレヲ〔三字傍線〕ソノ色毎ニ御覽ニナツテ、御見分ケナサル今日ノ貴サヨ。臣下ノ特色ヲ一々御見分ナサル今日ノ酒宴ガ貴イコトヨ〔臣下〜傍線〕。
 
○秋時花種爾有等《アキノハナクサグサナレド》――時は衍のやうでもあるが、秋時花でアキノハナと訓むのであらう。種の下、或は々が脱ちたのかとも思はれるが、もとのままでもクサゲサと訓めないことはあるまい。新訓にアキノトキハナクサナレドとああのは、代匠記精撰本によつたもので、文字には合致してゐるが、語調が頗る惡く、意も通じ難いやうである。秋の花が種々に咲くけれども。
〔評〕 長歌の末句を繰返したのみで、別に何の變つたこともない。
 
爲(ニ)v壽(カム)2左大臣橘卿(ヲ)1預(テ)作(レル)歌一首
 
左大臣橘諸兄を壽《コトホ》がむ爲に、豫め作つた歌。上京して諸兄の宴席に列した時の爲に、作つて置いたのである。
 
4256 いにしへに 君が三代へて 仕へけり 吾が大主は 七世申さね
 
(552)古昔爾《イニシヘニ》 君之三代經《キミガミヨヘテ》 仕家利《ツカヘケリ》 吾大主波《ワガオホヌシハ》 七世申禰《ナナヨマヲサネ》
 
古ノ人ハ天皇ノ三代ノ間ニ渡ツテ、御奉公シタ。貴方樣ハ七代ニ仕ヘテ政ヲ〔五字傍線〕奏上ナサイマシヨ。ドウゾ歴史上先例ノナイホド、御長命御奉公ナサイマシ〔ドウ〜傍線〕。
 
○古昔爾君之三代經仕家利《イニシヘニキミガミヨヘテツカヘケリ》――昔の人は天皇の三代に亘つて奉仕し主。代匠記初稿本に武内宿禰のことかとあり、同精撰本には、「此大臣葛城王なりし時、和銅三年に初て從五位下に叙せられ、元明・元正・聖武の三代に仕へたまへるを、古に君が三代へてとは云なるべし」とあり、考に「母縣犬養宿禰は天皇の御代三代を經て仕奉りつれば、其子にます諸兄公は七代仕へ給ひて政申し給はねと賀るなり」といつてゐる。かく種々の見方が出來るわけであるが、長命にして三代に奉仕した人といへば、まづ武内宿禰のことであらう。(正確にいへば、成務・仲哀・神功・應神・仁徳などに仕へてゐるが)、代匠記精撰本や古義に諸兄が、元明・元正・聖武の三代のこととしたのは從ひ難いやうである。○吾大主波《ワガオホヌシハ》――舊本、大王とあるが、類聚古集その他、王を主に作る本が多い。諸兄卿の前身は葛城王であつたが、臣下に列した後に大王《オホキミ》とは言ふべくもない。大主といふ語は他に例はないけれども、特に尊んでかういつたものであらう。○七世申禰《ナナヨマヲサネ》――七世は七代。七を數多の意とし、數代といふに同じと見るのはよくない。申《マヲス》は政を奏上すること。
〔評〕 これも豫め作つた歌。三句切で歌調が新しい。
 
十月二十二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家(ノ)宴歌三首
 
家持歸京後の歌。左大辨紀飯麻呂朝臣は、續紀によると、天平元年八月癸亥外從五位下から從五位下、五年三月辛亥從五位上、十二年九月丁亥藤原朝臣廣嗣の反に、勅して副將軍に任ぜらる、十三年閏三月乙卯從四位下、同七月辛亥春宮大夫から右大辨となる。十六年九月甲戍畿内巡察使、(553)十七年五月甲子地震、平城宮を掃除せしむ。十八年九月己巳常陸守、天平勝寶元年二月壬戍大倭守、七月甲午從四位上、五年九月乙丑太宰大貳、六年四月庚午大藏卿、九月丙申右京大夫、十一月辛酉朔西海道巡察使、寶字元年六月壬辰左京大夫、七月乙卯左大辨、八月庚辰參議、二年八日甲子參議紫微大弼正四位下兼左大辨と見ゆ。三年六月庚戍正四位上、十一月丁卯義部卿、阿波守如v故,四年正月戊寅美作守、六年正月癸未從三位、七月丙申薨ぜられた。その時の紀事に「散位從三位紀朝臣飯麻呂薨、淡海朝大納言贈正三位大人之孫、平城朝式部大輔正五位下古麻呂之長子也、任至2正四位下左大辨1拜2參議1授2從三位1、病久不v損、上v表乞2骸骨1詔許之」と見えてゐる。これによると、この天平勝寶三年は大倭守の時で、まだ左大辨にはなつてゐない。或は左は右の誤かとも思はれるが、右大辨になつたのは天平十三年七月のことであつて、この時まで他の官と共に兼ねてゐたらしくない。最後に左大辨から參議になつて、病の爲引退したから、かう書いたのかも知れないが、いづれにしても、この時の記録としては受取り難い。
 
4257 手束弓 手に取り持ちて 朝獵に 君は立たしぬ 棚倉の野に
 
手束弓《タツカユミ》 手爾取持而《テニトリモチテ》 朝獵爾《アサカリニ》 君者立去奴《キミハタタシヌ》 多奈久良能野爾《タナクラノヌニ》
 
手ニ執ル弓ヲ取リ持ツテ、朝ノ狩ヲナサル爲ニ天子樣ハ、棚倉ノ野ニ御出發ニナリマシタ。
 
○手束弓《タツカユミ》――卷五に多都可豆惠《タツカヅヱ》(八〇四)とある手束杖に同じく、手束弓は手に握り持つ弓で、卷一、御執乃梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》(三)とあるのと同意である。新考に「いづれの弓か手に握らざらむ。おそらくは太さ一握なるをいふならむ」とあるが、太さ一握と特に言ふべき理由はない。○立去奴《タタシヌ》――去は元暦校本・類聚古集などに之に作つてあるに從ふべきである。タタシヌは出立せられた。棚倉の野に立ち給ふ樣をいふのではない。卷一に御獵立師斯時者來向《ミカリタタシシトキハキムカフ》(四九)とある。○多奈久良能野爾《タナクラノヌニ》――神名帳に山城國綴喜郡棚倉|孫《ヒコ》神社とある處の野で、この神社は今綴喜郡田邊町にあり、この野は田邊町附近の平地であらう。
(554)〔評〕 棚倉の野は久邇京から程近い地點であつて、左註にある如く、久邇京から出獵せられた時の作である。君とあるのは天皇を指し奉つてゐる。袖中抄にも載つてゐる。
 
右一首治部卿船王傳(ヘ)2誦(ス)之(ヲ)1、久邇京都時(ノ)歌、未v詳(ニ)2作主(ヲ)1也
 
船王は卷六、如眉雲居爾所見《マユノゴトクモヰニミユル》(九九八)の作があつて、其處に御傳記を掲げて置いたが、治部卿になり給うたことが續紀に見えないのは、脱ちたのであらう。このお方は天平寶字三年六月親王となり給ひ三品、同四年正月信部卿、同八年正月二品、同年十月仲麻呂の反に坐し、王に下して隱岐に流されてゐるから、丁度この頃は未だ王でおはしまし、治部卿であつたのであらう。能登河乃《ノトガハノ》(四二七九)・奈弖之故我《ナデシコガ》(四四二九)の歌にも治部卿船王とある。久邇京は天平十二年十二月から造營に着手、同十六年正月まで、聖武天皇の都であつた。
 
4258 飛鳥河 河戸を清み おくれゐて 戀ふればみやこ いや遠そきぬ
 
明日香河《アスカガハ》 河戸乎清美《カハトヲキヨミ》 後居而《オクレヰテ》 戀者京《コフレバミヤコ》 彌遠曾伎奴《イヤトホソキヌ》
 
飛鳥河ノ河ノ渡場ガ景色ガヨイノデ、此處ヲ捨テテ去ルノガ惜シクテ、私ガ〔此處〜傍線〕後ニ殘ツテヰテ、人々ヲ〔三字傍線〕戀シク思ツテヰルト、都ハ遙カニ遠ク離レテシマツタ。アア淋シイ。何トシタモノデアラウ〔アア〜傍線〕。
 
○河戸乎清美《カハトヲキヨミ》――河戸《カハト》は河の渡り場。清美《キヨミ》は清き故に。清しとは景色のよいこと。○彌遠曾伎奴《イヤトホソキヌ》――益々遠ざかつた。この彌《イヤ》は「更にまた」、「今まで以上に」といふやうな意ではなく、「甚だしく」といふ意らしい。口語の「ずつと」が當るのではないかと思ふ。飛鳥淨御原宮から、藤原宮に遷り、更に奈良に遷り給うたから、いよいよ遠のくとよんだのだらうと見る説は誤つてゐる。
〔評〕 奈良遷都に際し、藤原の京に、居殘つた人の歌。住み馴れた舊都の佳景に對する離れ難さと、取殘された者の淋しさとを歌つて、哀調が人に迫るものがある。古義に「思ふ人に遺《オク》れ居る己が里の明日香川の清きが故(555)に思ふ人のあらば、共に出遊ぶべきをと戀しく思ふに、更に京の遷ひかはるままに、いよいよ其の思ふ人に遠ざかりぬるよ、といふなるべし」とあるが、かう解すべきではなく、又かう見ては歌の哀さも減じてしまふ。
 
右一首左中辨中臣朝臣清麻呂傳(ヘ)誦(ス)、古京(ノ)時(ノ)歌也
 
中臣朝臣清麿は、續紀によると、天平十五年五月癸卯正六位上から從五佗下、六月丁酉神祇大(少カ)副、同十九年五月丙子朔尾張守、勝寶三年正月己酉從五位上、同六年四月神祇大副、七月丙午左中辨、寶宇元年五月丁卯正五位下、三年六月庚戍正五位上、六年正月癸未從四位下、八月丁巳文部大輔從四位下中臣朝臣清麿等を中宮院に侍せしむとあり。十二月乙巳朔參議、七年正月壬子左大辨、四日丁亥兼攝津大夫、八年正月乙巳從四位上、九月丙午正四位下、神護景雲元年正月己亥勲四等、十一月庚辰從三位、景雲二年二月癸己中納言、三年六月乙卯大中臣朝臣と稱す。寶龜元年十月己丑朔正三位、二年正月辛巳大納言正三位大中臣朝臣清麿を兼東宮傅と爲す。三月庚午右大臣、從二位、三年二月戊辰正二位、天應元年六月庚戍致仕、延暦七年七月癸酉薨、時に年八十七と記されてゐる。ここに左中辨とあるが、右に記す如く左中辨となつたのは、勝寶六年七月のことであるのに、ここ天平勝寶三年十月の條に、かく記してあるのはどういふわけであらう。卷二十の勝寶五年の條(四二九六)にも同じく左中辨とある。古京時とあるのは藤原の都の時の意である。古義に「古京といへるは、奈良(ノ)京なるべし。當時は恭仁(ノ)都なればなり」とあるのは、誤解である。恭仁の京は天平十六年二月庚申、難波宮を以て皇都とせられた時に廢止せられたのである。難波京も亦翌十七年廢せられて奈良に復した。
 
4259 神無月 時雨の常か 吾がせこが やどのもみぢ葉 ちりぬべく見ゆ
 
十月《カミナヅキ》 之具禮能常可《シグレノツネカ》 吾世古河《ワガセコガ》 屋戸乃黄葉《ヤドノモミヂバ》 可落所見《チリヌベクミユ》
 
十月ニ降ル〔三字傍線〕時雨ノ習ハシデアラウカ、吾ガ友ノ家ノ紅葉ハ、散リサウニナツテ見エル。
 
(556)之具禮能常可《シグレノツネカ》――時雨のならはしか。時雨が降ると、かうなるのが、いつもの事かの意。略解に「大平云、常は零《フレ》の誤なるべしと言へり。ふれかは、ふればか也」とある。古義は常可を落方《フレバ》に改めてゐる。いづれも從ひ難い。○吾世古河《ワガセコガ》――吾が背子は紀飯麻呂朝臣をさしてゐる。○可落所見《チリヌベクミユ》――散りさうに見えてゐる。散りさうになつて見える。新考はチルベクミユル、新訓はチリヌベシミユとある。新訓は船出爲利所見《フナデセリミユ》(一〇〇三)・等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》(三六七二)・波立見《ナミタテリミユ》(一一七八)・浪立有所見《ナミタテリミユ》(一一八二)に傚つたのであらうが、なほ攻究を要する語形である。
〔評〕 左註にあるやうに、飯麻呂の庭の梨の紅葉を見て詠んだのである。何等感銘のない報告的の歌。凡作といふより外はない。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右一首(ハ)少納言大伴宿彌家持、當時矚(テ)2梨(ノ)黄葉(ヲ)1作(レリ2此(ノ)歌(ヲ)1也
 
當時矚2梨黄葉1作2此歌1也は、その時梨の葉の紅葉したのを見て、この歌を作つたといふのだ。
 
壬申年之亂平定(セシ)以後(ノ)歌二首
 
壬申年之亂は天武天皇元年壬申の年の亂で、弘文天皇の近江朝を、天武天皇が覆へし給うた戰亂である。古義はこの題詞の前に天平勝寶四年の六字を移し、但し天平勝寶の四字は前にゆづりて削るべしとあるが、猥りに原形を改むべきではない。
 
4260 おほきみは 神にしませば 赤駒の はらばふ田ゐを みやことなしつ
 
皇者《オホキミハ》 神爾之座者《カミニシマセバ》 赤駒之《アカゴマノ》 腹婆布田爲乎《ハラバフタヰヲ》 京師跡奈之都《ミヤコトナシツ》
 
天子樣ハ神樣デイラツシヤルカラ、赤駒ガ這ツテ歩イテヰル田ヲモ、都トナサツタ。天子樣ノ稜威ニヨツテ、今マデ田デアツタ、コノ濕地ノ飛鳥ノ淨御原モ、立派ナ都トナリマシタ〔天子〜傍線〕。
 
(557)○赤駒之《アカゴマノ》――馬には赤いのが多いから、かく言つたのであらう。特に赤色の駒を選んたのではない。○腹婆布田爲乎《ハラバフタヰヲ》――腹這つてゐる田を。腹這ふは、腹を地につけて這ふこと。略解に「放ちおける馬を言ふ」とある通り、水田の多い濕地に馬を放飼にしてゐたのであらう。次の歌の水鳥乃須太久水奴麻乎《ミヅトリノスダクミヌマヲ》とあるのと、同樣である。古義に耕作に從事してゐる馬の樣と見てゐるのは當つてゐまい。この頃水田の耕作に、馬を用ゐたかどうかは攻究すべき問題だ。
〔評〕 壬申の亂が平定した後、從來濕地であつた飛鳥の淨見原地方が、忽ちに皇都となつた、皇威のすばらしさを歌つたものである。「大君は神にしませば」と言ひ起した歌は、卷二の王者神西座者天蜘蛛之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセバアマグモノイホエガシタニカクリタマヒヌ》(二〇五)・卷三の皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカヅチノウエニイホリセルカモ》(二三五)・皇者神爾之坐者眞木之立荒山中爾海成可聞《オホキミハカミニシマセバマキノタツアラヤマナカニウミヲナスカモ》(二四一)及び次の歌などがあつて、いづれも同一形式になつてゐるが、この作は時代から言つて、これらの中で古いものである。
 
右一首、大將軍贈右大臣大伴卿作
 
大將軍贈右大臣大伴卿は、大伴御行のことである。卷四(六四九)の左註に高市大卿とある人で、右大臣大紫長徳の子。大寶元年春正月己丑大納言で薨じ、右大臣を贈られたのである。
 
4261 大君は 神にしませば 水鳥の すだくみぬまを みやことなしつ
大王者《オホキミハ》 神爾之座者《カミニシマセバ》 水鳥乃《ミヅトリノ》 須太久水奴麻乎《スダクミヌマヲ》 皇都常成都《ミヤコトナシツ》 作者未詳
 
天子樣ハ神樣デイラツシヤルカラ、水鳥ノ澤山集ツテヰル沼ヲモ都トナサイマシタ。天子樣ノ御稜威デ、コノ濕地ノ飛鳥淨見原モ立派ナ都トナリマシタ〔天子〜傍線〕。
 
○須太久水奴麻乎《スダクミヌマヲ》――多く集まる水沼を。卷十一に葦鴨之多集池水《アシガモノスダタイケミヅ》(二八三三)とある。須太久《スダク》は巣抱く。多く集ること。
(558)〔評〕 これも前歌と全く同樣の場所で、形式も同じになつてゐる。これは歌の下に記してある通り、作者未詳。
 
右件(ノ)二首(ハ)天平勝寶四年二月二日聞(キテ)v之(ヲ)即(チ)載(ス)2於茲1也
 
古歌ながら聞いた年月に從つて、ここに掲げた由を記したのである。
 
閏三月於(テ)2衛門督大伴古慈悲宿禰(ノ)家(ニ)1餞(セル)2之入唐副使同(ジキ)胡麿宿禰等(ヲ)1歌二首
 
衛門督は衛門府の長官。衛門府は宮門を守る職。皇極天皇の代からその名が見え、ユゲヒノツカサと訓してゐる。當時未だ左右の別がなかつた。大伴古慈悲は續紀によると、天平九年九月從六位上から外從五位下を、十一年正月從五位下、十二年十一月從五位上、十四年四月河内守正五位下、十九年正月從四位下、勝寶元年十一月從四位上、八年五月癸亥、出雲守從四位上大伴宿禰古志斐が朝廷を誹謗し、人臣の禮が無いといふので、左右衛士の府に禁ぜられたが、丙寅詔して放免せられた。寶字元年七月土佐國守大伴古慈斐を任國に流すとある。寶龜元年十一月位を復し、十二月大和守となつた。二年十一月正四位下、六年正月從三位を授つた。かくて八年八月丁酉に薨じた。その紀事に「大和守從三位大伴宿禰古慈斐薨、飛鳥朝常道頭贈大錦吹負之孫、平城朝越前按察使從四位下祖父麻呂之子也、少有2才幹1略渉2書記1起v家、大宰大允、贈太政大臣藤原朝臣不比等以v女妻v之、勝寶年中、累遷2從四位上衛門督1、俄遷2出雲守1、自v見v疎v外、意常欝々、紫微内相藤原仲滿、誣以2誹謗朝廷1左2降土左守1、促命之v任、未v幾勝寶八歳亂、便流2土左1天皇宥v罪入v京、以2共焦老1授2從三位1、薨時年八十三」とある。なほ卷二十の喩族歌の左註(四四六七)に、右縁淡河眞人三船讒言出雲守大伴古慈悲宿禰解任是以家持作此歌也之見えてゐる。胡麿は卷四(五六七)の左註に、(559)天平二年庚馬夏六月、師の大伴旅人が脚に瘡を生じた時、その乞によつて、庶弟右兵庫助大伴宿禰稻公と、姪、治部少丞大伴宿禰胡麻呂との兩人をして、見舞はしめ給うたことが記されてゐる。この人の履歴の概略は、その條に述べて置いたから參照せられたい。入唐副使となつたのは、續紀に、「勝寶二年九月己酋爲2遣唐副使三年正月己酉、授2從五位上1四年閏三月丙辰、召2遣唐副使己上於内裏1、詔賜2節刀1仍云々副使從五位上大伴宿禰古麻呂授2從四位上1、六年正月壬子、入唐副使從四位上大伴宿禰子麻呂來歸」とある。
 
4262 韓國に 行き足らはして 歸り來む ますらたけをに みきたてまつる
 
韓國爾《カラクニニ》 由岐多良波之※[氏/一]《ユキタラハシテ》 可敝里許牟《カヘリコム》 麻須良多家乎爾《マスラタケヲニ》 美伎多※[氏/一]麻都流《ミキタテマツル》
 
韓國ニ行ツテ役目ヲ果シテ、無事ニ〔三字傍線〕歸ツテ來ラレル、大丈夫タル貴方〔四字傍線〕ニ御酒ヲ差シ上ゲテ無事ヲ祈リ〔六字傍線〕マス。ドウゾ御無事デオ歸り下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○韓國爾《カラクニニ》――唐國に。韓は借字。○由岐多良波之※[氏/一]《ユキタラハシテ》――行き足はして。行くことを仕遂げて。無事に行つて。使命を果す意も含めてある。○麻須良多家乎爾《マスラタケヲニ》――益荒武男に。勇ましい丈夫に。胡麻呂を指してゐる。○美岐多※[氏/一]麻都流《ミキタテマツル》――御酒を献上致します。
〔評〕 内容も調子も、壽歌として穩當に出來てゐる。
 
右(ノ)一首(ハ)多治比眞人鷹主、壽(ク)2副使大伴胡麿宿禰(ヲ)1也
 
多治比眞人鷹主は、寶字元年七月橘奈良麻呂謀反の條に、大伴古麻呂、大伴池主らと共に加擔したことが見えてゐる。
 
4263 櫛も見じ 屋ぬちも掃かじ 草枕 旅行く君を 齋ふと思ひて
 
(560)梳毛見自《クシモミジ》 屋中毛波可自《ヤヌチモハカジ》 久左麻久良《クサマクラ》 多婢由久伎美乎《タビユクキミヲ》 伊波布等毛比※[氏/一]《イハフトモヒテ》 作主未詳
 
(久左麻久良)旅ニ出力ケル貴方ノ御無事ヲ神ニ祈ツテ、私ハ貴方ノ御留守中ハ世間ノ言ヒナラハシノヤウニ〔私ハ〜傍線〕、櫛モ手ニシマスマイ、又〔傍線〕家ノ中モ掃キマスマイ。ドウゾ御無事デ御歸リ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○梳毛見自《クシモミジ》――櫛も取つて見まい。即ち櫛を用ゐまいの意であらう。○屋中毛波可自《ヤヌチモハカジ》――家の中をも掃くまい。この初二句は、仙覺が「人の物へありきたるあとには、三日は家の庭はかず、つかふ櫛を見ずといふ事のあるなり」と言つてゐるのは、何に據つたのか明らかでないが、恐らくかうした習俗があつたのであらう。但し屋中《ヤヌチ》は文字通り家の内で、土間庭などのみをいふのではない。○伊波布等毛比※[氏/一]《イハフトモヒテ》――齋ふと思ひて。この思ふは例の輕く用ゐたもので、齋ひてといふに同じである。
〔評〕 君の留守の間は、櫛も取らじ、箒も手にせじと、俗信その儘を述べてゐる。卷十五にも雪連宅滿が壹岐の島で死んだ時の歌に、多太未可母安夜麻知之家牟《タタミカモアヤマチシケム》(三六八八)とあつて、旅立つた人の無事を祈つて、種々俗間信仰が行はれでゐたのである。なほこの歌は作者不明であるが、恐らく古い民謠であらう。
 
右件(ノ)歌(ヲ)傳(ヘ)誦(セシハ)大伴宿禰村上、同清繼等是也
 
古義は、右件歌の下に、二首の二字を補つてゐるのは、下に村上、清繼の二人の名があげてあるので誤解したのである。この注はこの一首にのみにかかつてゐる。即ちこの歌はこの二人が席上で誦つたものである。大伴宿禰村上の履歴は卷八に、大伴宿禰村上歌二首(一四三六)とあるところに述べて置いた。卷二十に天平勝寶六年正月四日氏族の人等が、家持の宅に集つて宴飲の時に、民部少丞大伴宿禰村上として歌が出てゐる。大伴清繼の傳は全くわからない。
 
(561)勅(シテ)2從四位上高麗朝臣|福信《フクシヌニ》1遣(ハシ)2於難波(ニ)1、賜(ヘル)2酒肴(ヲ)入唐使藤原朝臣清河等(ニ)1御歌一首并短歌
 
高麗朝臣福信は本姓|背奈《セナ》であつたが、天平勝寶二年正月高麗朝臣の姓を賜ひ、更に、寶龜十年三月高倉朝臣と改めた。延暦八年十月乙酉に八十一歳で薨じてゐる。續紀のその日の條に「散位從三位高倉朝臣福信薨、福信武藏國高麗郡人也、本姓背奈、其祖福徳、屬2唐將李※[責+力]1拔2平壤城1、來2歸國家1、居2武藏1焉、福信即福徳之孫也、小年隨2伯父背奈行文1入v都、時與2同輩1、晩頭往2石上衢1、遊戯相撲、巧用2其力1、能勝2其敵1、遂聞2内裏1、召令v侍2内豎所1、自v是著v名、初任2右衛士大志1、稍遷、天平中授2外從五位下1、任2春宮亮1、聖武皇帝甚加2恩幸1、勝寶初、至2從四位紫微少弼1、改2本姓1賜2高麗朝臣1、遷2信部大輔1神護元年、授2從三位1拜2造宮卿1、兼2歴武藏近江守1、寶龜十年、上書言、臣自v投2聖化1、年歳己深、但雖2新姓之榮朝臣過分1、而舊俗之號高麗未v除、伏乞、改2高麗1以爲2高倉1詔許v之、天應元年、遷2彈正尹兼武藏守1、延暦四年、上v表乞v身、以2散位1歸v第焉、薨時年八十一」と記してゐる。御歌とあるのは孝謙天皇の御製。略解には「御の下製の字を脱せり」とある。寫眞は南京遣芳所載の沙金奉請文で、宜の字は孝謙天皇の御裁可の御筆である。
 
4264 空みつ 倭の國は 水のへは 土行く如く 船のへは 床にをる如 大神の いはへる國ぞ 四つの舶 舶の舳並べ たひらけく 早渡り來て 返り言 申さむ日に 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は
 
虚見都《ソラミツ》 山跡乃國波《ヤマトノクニハ》 水上波《ミヅノヘハ》 地往如久《ツチユクゴトク》 船上波《フネノヘハ》 床座如《トコニヲルゴト》 大神乃《オホカミノ》 鎭在國曾《イハヘルクニゾ》 四舶《ヨツノヘネ》 舶能倍奈良倍《フネノヘナラベ》 平安《タヒラケク》 早渡來而《ハヤワタリキテ》 還事《カヘリゴト》 奏日爾《マヲサムヒニ》 相飲酒曾《アヒノマムキゾ》 斯豐御酒者《コノトヨミキハ》
 
(虚見都)日本ノ國ハ、水ノ上ハ土ノ上〔二字傍線〕ヲ行クヤウニ、平穩デ〔三字傍線〕、舟ノ上ハ床ノ上ニ坐ツテヰルヤウニ、無事デアル(562)ヤウニト〔九字傍線〕、大神ガ鎭座シテ〔四字傍線〕護ツテ下サル國デアルゾ。ダカラ遣唐使ノ〔七字傍線〕四ツノ舶ハ、舳ヲ並べテ揃ツテ〔三字傍線〕無事デ早ク行ツテ來テ、歸ツテ來ルデアラウガ〔十字傍線〕、コノ良イ酒ハ。オマヘガ歸ツテ來テ〔九字傍線〕復命ヲ奏上スル日ニ、復、相共ニ飲ムベキ酒デアルゾ。無事デ早ク歸ツテ來テ一緒ニ歡ビノ盃ヲ擧ゲヨウ〔無事〜傍線〕。
○虚見都《ツラミツ》――枕詞。山跡につづくのは饒速日命が天より見て、大和の國に降臨せられた故事によつたものと言はれてゐる。
○山跡乃國波《ヤマトノクニハ》――この山
 
(563)跡は日本國の總稱に用ゐてある。〇床座如《トコニヲルゴト》――床は屋内の起伏する場所。○大神乃鎭在國曾《オホカミノイハヘルクニゾ》――大神が護り給ふ國なるぞ。鎭在は前に伊波敝神多智《イハヘカミタチ》(四三四〇)とあるに同じ。○四舶《ヨツノフネ》――遣唐使一行の船は、四艘から成り、大使・副使・判官・主典が分乘してゐた。○舶能侶奈良倍《フナノヘナラベ》――船の舳を並べて。四艘が總べて、無事で後れることなく。○還事《カヘリゴト》――復命。○相飲酒曾《アヒノマムキゾ》――相共に飲むべき酒なるぞ。無事で歸らば又共に盃を擧げようといふのである。
〔評〕 この御製は卷六の天皇賜2酒節度使卿等1御歌一首(九七三)と末段の數句が同樣で、全躰の氣分がよく似てゐる。蓋し、孝謙天皇が聖武天皇御製に傚はせ給うたのである。格調が堂々として、威嚴と親愛と共にあらはれた立派な御製である。なほこの御歌は、元暦校本・西本願寺本その他の古本に、助詞の類は右に寄せて小字を用ゐ、謂はゆる宣命風の書き方になつてゐる。今、元暦校本によつて記すと、虚見山跡水上地往如船上床座如大神鎭在國四舶舶【能倍奈良倍】平安早渡來而還事奏日相飲酒斯豐御酒者となつてゐる。これはその原形の儘に記されたもので、清河の出發に際し、特に使を遣はして賜はつた歌の宣命であるから、宣命式の書き方になつてゐたのである。
 
反歌一首
 
4265 四つの舶 はやかへり來と しらがつけ わが裳の裾に いはひて待たむ
 
四舶《ヨツノフネ》 早還來等《ハヤカヘリコト》 白香著《シラガツケ》 朕裳裙爾《ワガモノスソニ》 鎮而將待《イハヒテマタム》
 
入唐使ノ乘ツテヰル〔九字傍線〕四ツノ舶ガ早ク歸ツテ來ヨトテ、朕ノ裳ノ裾ニ白イ苧ヲツケテ、神樣ヲ御祭リシテ待ツテ居ラウ。無事デ早ク歸ツテ來ナサイ〔無事〜傍線〕。
 
○白香著《シラガツケ》――白香《シラガ》は白い苧。卷三の白香付木綿取付而《シラガツクユフトリツケテ》(三七九)の條、參照。卷十二にも白香付木綿者花物《シラカツクユフハハナモノ》(二九九六)(564)とある。白苧を附けるとは、榊の枝などに取付けるのかと思はれるが、次の句に朕が裳の裾にとあるから、裳に白苧を附けるのであらう。略解に「今はやがて其しらがを木綿※[草冠/縵]の事とし、著は御頭《ミグシ》に着る意を以て、しらがつけとのたまへり。さて木綿※[草冠/縵]を御頭に著給ひて、御裔まで垂て座しましつつ、常に齋て待むとのたまふ意也」とあるのは當つてゐまい。○朕裳緒爾鎭而得待《ワガモノスソニイハヒテマタム》――白苧を吾が裳の裾に附けて神に汝の無事を祈つて、無事の歸朝を待つてゐようといふのである。白香を裳に附けるのは、當時行はれた禁呪の一であらう。
〔評〕 まことに御慈愛の籠つた、佳い御製である。この御懇情の甲斐もなく、清河は暴風に遭つて歸るを得ず、遂に彼國の土となつたのは、悲しいことであつた。西本願寺本・神田本など、等の字を小字として右に寄せてゐる。
 
右發2遣(シ)勅使(ヲ)1并(ニ)賜(ヘル)v酒(ヲ)樂宴之日月、未(ダ)v得2詳審(ナルヲ)1也
 
清河一行が難波を出帆したのは、勝寶四年閏三月から間もないことであつたらう。當時都にゐた家持が、勅使御差遣の日を審かにしなかつたのは、どういふわけか。後からでも、いくらも知るべき術はあつたらうに。
爲(ニ)v應(ゼム)詔(ニ)儲(テ)作(レル)歌一首并短歌
 
若し詔によつて歌を召されることがあつたらと、豫め作つて置いた歌。家持にはかうした作品が尠くない。
 
4266 あしびきの 八峯の上の 樛の木の いやつぎつぎに 松が根の 絶ゆること無く あをによし 奈良の都に 萬代に 國知らさむと やすみしし わが大君の 神ながら 思ほしめして 豐のあかり めす今日の日は もののふの 八十伴の雄の 島山に あかる橘 うずに指し 紐解き放けて 千年ほぎ ほぎとよもし ゑらゑらに 仕へ奉るを 見るが貴さ
 
安之比奇能《アシビキノ》 八峯能宇倍能《ヤツヲノウヘノ》 都我能木能《ツガノキノ》 伊也繼繼爾《イヤツギツギニ》 松根能《マツガネノ》 絶事奈久《タユルコトナク》 青丹余志《アヲニヨシ》 奈良能京師爾《ナラノミヤコニ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所知等《クニシラサムト》 安美知之《ヤスミシシ》 (565)吾大皇乃《ワガオホキミノ》 神奈我良《カムナガラ》 於母保之賣志※[氏/一]《オモホシメシテ》 豐宴《トヨノアカリ》 見爲今日者《メスケフノヒハ》 毛能乃布能《モノノフノ》 八十伴雄能《ヤソトモノヲノ》 島山爾《シマヤマニ》 安可流橘《アカルタチバナ》 宇受爾指《ウズニサシ》 紐解放而《ヒモトキサケテ》 千年保伎《チトセホキ》 保吉等餘毛之《ホギトヨモシ》 惠良惠良爾《ヱラヱラニ》 仕奉乎《ツカヘマツルヲ》 見之貴者《ミルガタフトサ》 江説
 
(安之比奇能八峯能宇倍能都我能木能)順次ニ(松根能)絶エルコトナク、何時マデモ(青丹余志)奈良ノ都デ、萬年マデ吾ガ〔二字傍線〕國ヲ支配ナサラウトテ、(安美知之)私ノオ仕ヘ申ス天子樣ガ、神ソノママノ御方デイラセラレテ、思ヒ立チ遊バシテ、豐ノ明ノ宴會ヲキコシメス今日ハ、役人ノ多クノ輩ノ長ドモハ、御庭ノ池ノ島山デ色美シク實ツテヰル橘ヲ取ツテ〔三字傍線〕、髻華トシテ頭ニ〔二字傍線〕挿シ、衣ノ〔二字傍線〕紐ヲ解キ放ツテクツロイデ〔五字傍線〕、萬歳ヲ祝ヒ大キイ聲デ祝言ヲ述ベ、笑ヒ樂シンデ、宮仕ヲシテ居ルノヲ見ルト、貴イコトデアルヨ。
 
○八峯能宇倍能《ヤツヲノウヘノ》――八峯は多くの山。前にも八峯乃海石榴《ヤツヲノツバキ》(四一五一)とあつた。○都我能木能《ツガノキノ》――枕詞。同音を繰返して繼繼《ヅギツギ》につづく。二九參照。○松根能《マツガネノ》――枕詞。絶事奈久《タユルコトナク》とつづく。卷三に松根也遠久寸《マツガネヤトホクヒサシキ》(四三一)とあると同意である。○豐宴《トヨノアカリ》――トヨは盛なる意、アカリは大御酒をきこしめして、顔の赤くなる意だと言はれてゐる。古事記・祝詞などに多く豐明と記してある。本集でも題詞に、肆宴の二字を用ゐたのは、トヨノアカリと訓ませたのである。後世、新嘗祭の翌日行はせられる節會を、豐明節曾といつたのとは別である。○見爲今日者《メスケフノヒハ》――舊訓ミセマスケフハを考はミシセスケフハと改めてゐるが、古義にメスケフノヒハとあるのがよい。メスは見給ふ。ここは、召し上ること。○島山爾《シマヤマニ》――島山は池中の島である。○安可流橘《アカルタチバナ》――アカルは赤くなる、熟して色づいたこと。○宇受爾指《ウズニサシ》――髻華として指し。髻華は冠に着ける飾。卷十三に神主部之雲聚玉蔭《カムヌシノウヅノタマカゲ》(三二二九)とあるところに説明して置いた。○紐解放而《ヒモトキサケテ》――衣の前紐を解いて。うちくつろいだ貌である。○保吉等餘毛之《ホギトヨモシ》――聲を響かせて壽く。舊本、保伎吉とあるが、元暦校本に伎の字がないのがよい。○惠良惠良爾《ヱラヱラニ》――神代紀(566)に謔樂をヱラクと訓んでゐる。字書に※[口+虐]同v※[口+據の旁]、※[口+據の旁]大笑也とある。古事記にも歡喜咲樂をエラギアソブと訓んでゐる。績紀、天平神護元年大新嘗の詔にも「黒紀白紀乃御酒赤丹多末倍惠良云々」とあり、同、寶龜三年の新嘗の詔にも「黒記白記御間食惠良云々」とある。ヱラは即ちヱラグの語幹で、これを重ねて助詞ニを添へて副詞として用ゐてある。○見之貴左《ミルガタフトサ》――見るのは貴いことよの意。舊本この下に、小字で右寄せ、江説の二字を添へてあるのは、大江氏が訓んだといふので、次點の時の加筆であるから衍である。
〔評〕 冒頭の都我能木能伊也繼繼《ツガノキノイヤツギツギ》は、人麿の近江荒都を過ぐる時の歌(二九)に、松根能絶事奈久《マツガネノタユルコトナク》は、赤人の勝鹿眞間娘子墓を過ぐる時の歌(四三一)に萬代爾國所知等《ヨロヅヨニクニシラサムト》は日並皇子尊の宮の舍人の歌(一七一)に似にところがある。かうして先人の跡を學びつつ、豫め準備して作つて置いた歌だけに、よく練れた整つてはゐるが、力強さが足りないのは缺點である。
 
反歌一首
 
4267 すめろぎの 御代萬代に かくしこそ めし明らめめ 立つ年のはに
 
須賣呂伎能《スメロギノ》 御代萬代爾《ミヨヨロヅヨニ》 如是許曾《カクシコソ》 見爲安伎良目米《メシアキラメメ》 立年之葉爾《タツトシノハニ》
 
今上天皇陛下ノ御代ハ、萬年ノ後マデモ、カウシテ、新シク〔三字傍線〕立ツ年毎ニ、豐ノ明リノ宴ヲ〔七字傍線〕召シ上ツテ、御心ヲ〔三字傍線〕オ晴ラシ遊バスデセウ。
 
○須賣呂伎能御代萬代爾《スメロギノミヨヨロヅヨニ》――須賣呂伐の御代は、今の天皇の御代、萬代には萬年の後までも。○見爲安伎良目米《メシアキラメメ》――きこし召し心をはらし給はむの意。○立年之葉爾《タツトシノハニ》――新らしき年立つ毎に。
〔評〕 これによると、新年の宴の時のための作である。祝賀の意は充分にあらはれてゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
(567)右二首大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
天皇、太后、共(ニ)幸(シシ)2於大納言藤原家1之日、黄葉(セル)澤蘭《サハアララギ》一株(ヲ)拔(キ)取(リテ)令(シメ)v持(タ)2内侍佐佐貴山君(ニ)1遣2賜(ヘル)大納言藤原卿并(ニ)陪從大夫等(ニ)1御歌一首
 
天皇は孝謙天皇、太后は光明皇后、藤原家は大納言藤原仲麻呂の家。仲麻呂は勝寶元年七月甲午大納言となつてゐる。澤蘭は和名抄に「陶隱居云、澤蘭佐波阿良良岐 一云、阿加米久佐生2澤傍1故以名v之」とあるもので、今は俗に、サハヒヨドリといつてゐる。菊科蘭草屬の多年生草本、莖の高さ一二尺、葉は狹少で鋸齒を有してゐる。秋季藤袴に似た、淡紫色又は白色の花を莖頂に着ける。各地の山地・溪澤のほとりに自生する。内侍は内侍司の職員で、天皇に供奉し、又内侍所に奉仕し、尚侍・典侍・掌侍に分れてゐた。大寶令に規定せられてゐるが、始は地位低く尚侍准從五位、典侍准從六位、掌侍准從七位であつたのを、大同年間に尚侍を從三位、典侍を從四位、掌侍を從五位に准ずることになつた。後世では單に内侍と稱するのは掌侍のことであるが、ここでは次に命婦とあるので見ると、尚侍に當るやうである。佐佐貴山君は傳が明らかでない。續紀によると、佐佐貴山君親人、同足人、同由氣比、同賀比などの名が見え、いづれも近江の蒲生、神前などの郡領である。神名帳に、近江國蒲生郡沙々貴神社があつて、あの地方の豪族なることが知られる。代匠記精撰本に、「親人が娘などにや」とある。陪從大夫は行幸に供奉せる諸臣。御歌とあるのは天皇の御製か、太后の御歌か明らかでないが、特にことわつてないから、天皇御製であらう。
 
命婦《ヒメトネ》誦(ヒテ)曰(ク)
 
命婦はヒメトネと訓む。天武天皇紀にはヒメマチキミと訓んである。當時五位以上の婦人を内命婦、五位以上の人の妻を外命婦といつた。これは右の内侍佐佐貴山君である。新考に別人とした(568)のはどうであらう。
 
4268 この里は 繼ぎて霜や置く 夏の野に 吾が見し草は もみぢた
 
此里者《コノサトハ》 繼而霜哉置《ツギテシモヤオク》 夏野爾《ナツノヌニ》 吾見之草波《ワガミシクサハ》 毛美知多里家利《モミヂタリケリ》
 
オマヘノ住ム〔六字傍線〕コノ里ハ、コノ頃ハ〔四字傍線〕續イテ毎日〔二字傍線〕霜ガ降ルノカ。夏ノ頃〔二字傍線〕野原デ〔二字傍線〕私ガ見タ澤蘭ト云フ〔四字傍線〕草ハ、モウ此處デハ、コンナニ〔十字傍線〕紅葉シテヰルヨ。マコトニ綺麗ナ紅葉ダ〔マコ〜傍線〕。
 
○此里者《コノサトハ》――大納言藤原仲麿の邸のあるところ。○繼而霜哉置《ツギテシモヤオク》――絶えず續いて霜が降るのか。他の里よりも霜の降るのが甚だしいのか。○夏野爾吾見之草波毛美知多里家利《ナツノヌニワガミシクサハモミヂタリケリ》――此の間夏の頃野原で私が見た、この澤蘭は此處では早くも紅葉してゐるよの意。
〔評〕 季節が明瞭でないが、次に十一月の歌があるから、まづ初冬十月の御作と見てよからう。略解に、「夏の野にてさきに見させたまひし草の色付たるは、此野は冬より打つづきて霜の置るかと也」とあるのは、夏の御歌と誤解したものらしい。もはや冬に入つて霜が降つてゐるのである。
 
十一月八日、在(リテ)2於左大臣橘朝臣(ノ)宅(ニ)1肆宴歌四首
 
左大臣橘朝臣は橘諸兄。勝寶二年正月乙己、宿禰を改めて、朝臣の姓を賜つた。代匠記精撰本は十一月八日の下に、太上天皇とあるべきが脱ちたのだといつてゐる。古義は目録によつて補つてゐる。
 
4269 よそのみに 見てはありしを 今日見れば 年に忘れず おもほえむかも
 
余曾能未爾《ヨソノミニ》 見者有之乎《ミテハアリシヲ》 今日見者《ケフミレバ》 年爾不忘《トシニワスレズ》 所念可母《オモホエムカモ》
 
(569)今マデハコノ家ヲ〔四字傍線〕外目《ヨソメ》ニバカリ見テ、尋ネモシナカツ〔八字傍線〕タガ、今日カウシテ〔六字傍線〕來テ見ルト、マコトニ佳イ屋敷ナノデ、コレカラハ〔マコ〜傍線〕、一年中忘レナイデ、懷カシク〔四字傍線〕思フデアラウカヨ。
 
○余曾能未爾見者有之乎《ヨソノミニミテハアリシヲ》――外目《ヨソメ》にのみ見てゐたのに。よそに見るとは、親しく實地について見ないことである。古義は者を乍の誤として、ミツツアリシヲと改訓してゐる。卷十の外耳見筒戀牟《ヨソノミニミツツヲコヒム》(一九九三)に傚つたのであるがよくない。○年爾不忘《トシニワスレズ》――一年中忘れずの意。
〔評〕 親愛の御心が籠つた御製である。
 
右一首太上天皇御歌
 
太上天皇は聖武天皇。御歌を古義に御製に改めたのはよくない。
 
4270 葎はふ いやしき宿も おほきみの まさむと知らば 玉敷かましを
 
牟具良波布《ムグラハフ》 伊也之伎屋戸母《イヤシキヤドモ》 大皇之《オホキミノ》 座牟等知者《マサムトシラバ》 玉之可麻思乎《タマシカマシヲ》
 
葎ノ這ツテ居ル賤シイコノ私ノ〔二字傍線〕宿モ、陛下ガ御イデ遊バスト、豫テ知ツテヰマシタナラバ、玉ヲ敷キ並ベテ御待チ受ケ致シ〔七字傍線〕マセウノニ。マコトニムサ苦シイトコロデ畏レ入リマス〔マコ〜傍線〕。
 
○牟具良婆布《ムグラハフ》――牟具良《ムグラ》は今、カナムゲラと稱する草。卷四、牟具良布能穢屋戸爾《ムグラフノイヤシキヤドニ》(七五九)參照。
 
〔評〕 卷六に豫公來座武跡知麻世婆門爾屋戸爾毛珠敷益乎《アラカジメキミキマサムトシラマセバカドニヤドニモタマシカマシヲ》(一〇一三)・卷十一に念人將來跡知者八重六倉覆庭爾珠布益乎《オモフヒトコムトシリセバヤヘムグラオホヘルニハニタマシカマシヲ》(二八二四)・卷十八に保里江爾波多麻之可麻之乎大皇乎美敷禰許我牟登可年弖之里勢婆《ホリエニハタマシカマシヲオホキミヲミフネコガムトカネテシリセバ》(四〇五六)などの類歌がある。ことに卷十八のは、この左大臣の作だけに、作者の歌才の乏しさがわかるやうだ。
 
(570)右一首左大臣橘卿
 
4271 松かげの 清き濱邊に 玉しかば 君來まさむか 清き濱邊に
 
松影乃《マツカゲノ》 清濱邊爾《キヨキハマベニ》 玉敷者《タマシカバ》 君伎麻佐牟可《キミキマサムカ》 清濱邊爾《キヨキハマベニ》
 
松ノ木蔭ノ清イ濱邊ニ、玉ヲ敷キ並ベマシタナラバ、陛下ガ、再ビ〔二字傍線〕コノ清イ濱邊ニ御イデ下サルデセウカ。モウ一度ノ御幸ヲ御待チ致シマス〔モウ〜傍線〕。
 
○松影乃清濱邊爾《マツカゲノキヨキハマベニ》――松の木蔭になつてゐる景色の佳い濱邊に。これは橘家の庭中の池邊の光景である。○君伎麻佐牟可《キミキマサムカ》――君は陛下を指し奉る。再び君來給はむかの意。
〔評〕 第二句を第五句に反覆して、調が輕快になつてゐる。諸兄は井手の左大臣と稱し、相樂郡の井手に別邸を構へて住んでゐた。この歌が井手の邸なりや、はた寧樂の都の内なりしやは明らかでないが、次の歌に樂伎小里《タヌシキヲサト》とあるによると、井手の里らしい。
 
右一首右大辨藤原八束朝臣
 
藤原八束が右大辨になつたことが、續紀に見えないのは脱ちたのか。
 
4272 天地に 足らはし照りて 吾が大君 敷きませばかも たぬしき小里
 
天地爾《アメツチニ》 足之照而《タラハシテリテ》 吾大皇《ワガオホキミ》 之伎座婆可母《シキマセバカモ》 樂伎小里《タヌシキヲサト》
 
天地ノ間ニ御威光ガ〔四字傍線〕充チ充チ輝イテ、太上天皇樣ガ此處ヘ〔三字傍線〕御幸遊バシタカラカ、コノ橘家ノアル〔五字傍線〕里モ、樂シウゴザイマスヨ。御幸ヲ拜シテ歡喜ニ堪ヘマセン〔御幸〜傍線〕。
 
(571)○天地爾足之照而《メツチニタラハシテリテ》――天地の間を隈なく照らしての意。太上天皇の御威光の盛なる樣を述べてゐる。○之伎座婆可母《シキマセバカモ》――敷きますとは太上天皇の、此處に居を占め給うたこと。即ち御幸あらせられたことを言つてゐる。カは疑問。モは詠嘆の助詞。○樂伎小里《タヌシキヲサト》――かくも樂しき里なるよの意。小里の小《ヲ》は接頭語ではあるが、卑下の意もある。橘家の邸宅のみをいふのではなく、邸宅のある井手の里を指してゐるのであらう。新考は小里を奈良の都のこととし、「諸兄の家のあたりをいへるにあらざるは、シキマセバカモといへるにて明なり」といつてゐる。
〔評〕 崇重に尊嚴に、皇室に對する敬意が充分にあらはれてゐる。この種の作としては上位に置くべきものであらう。
 
右一首少納言大伴宿禰家持、未v奏(セ)
 
未奏とあるのは、作つたのみで御前に奏しないでしまつたといふのである。
 
二十五日新甞會肆宴應(ズル)v詔(ニ)歌六首
 
新嘗會はニヒナヘマツリと訓む。年の新穀を以て神を祭り、天皇自からきこし召し給ふ祭事で、古くは大嘗《オホニヘ》と稱し、その行はれる日は確定してゐなかつたが、皇極天皇の元年十一月中卯日に行はせられてから、この日と決定せられた。ここに二十五日とあるが天平勝寶四年十一月は癸卯の朔で二十五日はT卯即ち下の卯に當り、四時祭式に記した中卯日の規定に合はないといふので、古義は二を衍として、十五日の誤とし、「十五日は丁巳なり。おほよそ新嘗會は中寅日より事はじまりて、卯辰兩日まさしく奠幣ありて、巳日五位以上に宴を賜はり、午日は職事六位已下に宴を賜りしとおぼえたればなり。なほ考ふべし」と言つてゐるが、式に記すところを以て當時を律するわけには行かぬ。ことにこの月は朔が卯であつたから、下の卯を選ばれたのかと思はれる。(572)併し新嘗會の當日直ちに群臣に宴を賜はるのは、少しどうかと思はれる。なほ攻究すべきである。
 
4273 天地と 相榮えむと 大宮を 仕へまつれば 貴くうれしき
天地與《アメツチト》 相左可延牟等《アヒサカエムト》 大宮乎《オホミヤヲ》 都可倍麻都體婆《ツカヘマツレバ》 貴久宇禮之伎《タフトクウレシキ》
 
今上陛下ノ〔五字傍線〕大御代ガ天地ト共ニ永遠ニ〔三字傍線〕榮エルヤウニトテ、コノ新嘗會ノ〔六字傍線〕神殿ヲ造營シテ奉仕スレバ、貴クモ喜バシクモ思ハレマスヨ。
 
○天地與相左可延牟等《アメツチトアヒサカエムト》――天地と共に等しく榮えむとて。この上に、今上天皇の大御代がの意が略されてゐる。○大宮乎《オホミヤヲ》――大宮は新嘗祭の爲の神殿。○都可倍麻都禮婆《ツカヘマツレバ》――仕へ奉るとは、大宮を造營することである。○貴久宇禮之伎《タフトクウレシキ》――新考に伎は衍字かとあるが、これが古形である。
〔評〕 天地と共に榮えむといふのは、物の悠久性を稱へる最上級の言葉で、稍々常套的の感が無いではないが、この場合には、それがしつくりと當嵌つて、空前の聖代を謳歌する氣分が、力強く述べられてゐる。
 
右一首大納言巨勢朝臣
 
大納言巨勢朝臣は、卷十七の十八年正月の歌(三九二六)の左文に、巨勢奈※[氏/一]麻呂朝臣と見えた人。勝寶元年四月朔大納言になつてゐる。
 
4274 天にはも 五百つ綱はふ 萬代に 國しらさむと 五百つ綱はふ
 
天爾波母《アメニハモ》 五百都綱波布《イホツツナハフ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所知牟等《クニシラサムト》 五百都々奈波布《イホツヽナハフ》 似古歌而未詳
 
(573)新嘗ノ神殿ノ〔六字傍線〕屋根ノ上ニ、澤山ノ綱ガ張ツテアル。今上陛下ガ〔五字傍線〕萬年ノ後マデモ、コノ〔二字傍線〕國ヲ御支配ナサル兆〔傍線〕トシテ、アノ通リ〔四字傍線〕澤山ノ綱ガ張ツテアル。アノ綱ノ數ホド多ク年ヲ重ネテ世ヲシロシメスデアラウ〔アノ〜傍線〕。
○天爾波母《アメニハモ》――天《アメ》は禁中を指すと略解に見えてゐるが、同書の宣長説に、「天とは大嘗宮の屋根のあたり、上の方をほぎて天と言ふ也。高天原に千木高知と言ふたぐひ也。云々」とあるやうに屋根の上を天《アメ》といつたものと見るべきであらう。ハモは詠歎の助詞。○五百都綱波布《イホツツナハフ》――五百都綱《イホツツナ》は五百箇綱。澤山の綱。上代の建築は黒木を葛の類で結んで作つたので、おのづからその結びあまりが見えてゐるわけであるが、この歌のは、主として屋根の棟などに、結び堅めたあまりの綱をさしてゐる。延ふとあるのは、殊更に繩を引き延へたやうにも見えるが、さうではなく、結びあまりの永くなつてゐるのを言つたのである。多少装飾的に長く切つてあつたのであらう。○國所知牟等《クニシラサムト》――國をしろし召し賜はむしるしとしての意。○似(テ)2古歌(ニ)1而未詳――右の歌は古歌に似てゐるが、果して古歌なるや否や審かでないといふのである。或は年足が古歌を誦したのかも知れない。この註を後人の加へたものとして、考・略解・古義などは削り去るべしといつてゐる。
〔評〕 新嘗會は上代の風がその儘遺されてゐるもので、神殿の建築も神代をしのばしめるものがある。その屋根の上の五百つ綱を仰ぎ見て、それに托して神ながらの天皇の御代の悠久をことほいだのは適切な譬喩である。二句を五句に繰返したのも佳い調をなしてゐる。
 
右一首式部卿石川年足朝臣
 
石川年足靭臣は續紀によれば、天平十一年六月出雲守從五位下石川朝臣年足に善政を賞して※[糸+施の旁]三十疋、布六十端、正税三萬束を賜ふ。十二年正月從五位上、十五年五月正五位下、十六年九月東海道巡察使、十八年四月陸奥守、同月正五位上、九月春宮員外亮、十一月兼左中辨、十九年正月從四位下、三月春宮大夫、勝寶元(574)年七月從四位上、八月式部卿で大弼を兼ね。三年四月の條に參議左大辨と見える。ここに式部卿とあるのと一致しないやうだが、式部卿は故のままであつたのかも知れない。五年九月從三位、太宰帥となる。寶字元年六月神祇伯、兼兵部卿、八月中納言、兵部卿神祇伯故の如し、二年八月正三位、四年正月御史大夫となつた。その薨去の條には、「六年九月御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石河朝臣年足薨時年七十五。云々。年足者後岡本朝、大臣大紫蘇我臣牟羅志曾孫、平城朝、左大辨從三位石足之長子也、率性康勤習2於治體1起v家、補2少判事1頻歴2外任1、天平七年授2從五位1任2出雲守1視v事數年、百姓安之、聖武皇帝善之、賜2※[糸+施の旁]三十疋、布六十端、當國稻三萬束1、九年、至2從四位兼左中辨1拜2參議1、勝寶五年、授2從三位1、累遷至2中納言兼文部卿神祇伯1、公務之閑、唯書是悦、寶字二年、授2正三位1、轉2御史大夫1、時勅2公卿1、各言2意見1、仍上2便宜1、作2別式二十卷1、各以2其政1繋2於本司1、雖v未2施行1、頗有2據用1焉」と記してある。なほ文政三年庚辰三月廿六日、攝津國島上郡清水村の荒神山から、この朝臣の墓誌を掘出した。その墓誌には、「武内宿禰命子、宗我石川宿禰命十世孫、從三位行左大辨石川石足朝臣長子、御史大夫正三位兼行神祇伯年足朝臣、當平城宮御宇天皇之世、天平寶字六年、歳次壬寅九月丙子朔乙巳春秋七十有五、薨2于京宅1、以十二月乙巳朔壬申、葬2于攝津國島上郡白髪御酒垂山墓1、禮也儀形百代冠2蓋千年1、夜臺荒寂、松柏含□、鳴呼哀哉」とある。
4275 天地と 久しきまでに 萬代に 仕へまつらむ 黒酒白酒を
 
天地與《アメツチト》 久萬※[氏/一]爾《ヒサシキマデニ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》 黒酒白酒乎《クロキシロキヲ》
 
天地ト共ニ長ク〔四字傍線〕久シイ時マデ、萬年ノ後マデモ、コノ新嘗會ニ用ヰル〔九字傍線〕黒酒白酒ノ酒〔二字傍線〕ヲ造ツテ〔三字傍線〕、奉仕致シマセウ。
 
○天地與久萬※[氏/一]爾《アメツチトヒサシキマデニ》――天地のあらむ限り、悠久の時まで。○都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》――仕へるとは新嘗會の爲に黒酒白酒を造るをいふ。○黒酒白酒乎《クロキシロキヲ》――延喜式の制によれば、新嘗に用ゐる酒で、久佐木の灰を和したものを黒貴《クロキ》と稱し、然らざるものを白貴《シロキ》といふことになつてゐる。室町時代には禮酒《アマサケ》を白酒とし、これに黒胡麻の粉を(575)入れて黒酒を作つた。併し上代の黒酒は黒麹を用ゐたのであらうと、白井光太郎氏は言つてゐる。
〔評〕 二句は前の巨勢朝臣の歌と同想である。黒酒白酒を詠み込んであるのは嬉しい。
 
右一首從三位文屋智奴麻呂眞人
 
智奴麻呂は智努王。卷十七の大宮之《オホミヤノ》(三九二六)の左文にその名が見えてゐる。勝寶四年八月乙丑文室眞人の姓を賜つた。但し續紀には珍努・智努とのみあつて、麻呂が添へてない。晩年淨三と改めた。
 
4276 島山に 照れる橘 うずにさし 仕へまつるは まへつぎみたち
 
島山爾《シマヤマニ》 照在橘《テレルタチバナ》 宇受爾左之《ウズニサシ》 仕奉者《ツカヘマツルハ》 卿大夫等《マウチギミタチ》
 
庭ノ池ノ〔四字傍線〕島山ニ照リ光ツテ居ル橘ノ實〔二字傍線〕ヲ、髻華トシテ頭ニ〔二字傍線〕挿シテ、御仕ヘ申シテヰルノハ、卿大夫ドモデアリマス。
 
○島山爾《シマヤマニ》――島山は庭の池の中島。○宇受爾左之《ウズニサシ》――髻華として頭に挿して。宇受爾指《ウズニサシ》(四二六六)參照。○仕奉者《ツカヘマツルハ》――奉仕する者は。略解に「者は爲の誤か。つかへまつらすとあらまほし。宣長は者は布の誤にてつかへまつらふにでも有むかと言へり」とある。古義は者を名の誤として、ツカヘマツラナと訓むべしといつてゐるが、いづれも從ひ難ひ。○卿大夫等《マヘヅギミタチ》――マヘツギミは前つ公、即ち天皇の御前に奉仕する高級の官吏をいふ。卿は上達部、大夫は五位。
〔評〕 前の家持の長歌(四二六六)に島山爾安可流橘宇受爾指《シマヤマニアカルタチバナウズニサシ》云々とあるに、酷似してゐる。八束が家持の作を見せて貰つたのであるまいから、偶然の一致であらう。
 
右一首右大辨藤原八束朝臣
 
(576)この人の傳は卷三(三九八)に出てゐる。
 
4277 軸垂れて いざ吾がそのに うぐひすの 木傳ひ散らす 梅の花見に
 
袖垂而《ソデタレテ》 伊射吾苑爾《イザワガソノニ》 ※[(貝+貝)/鳥]乃《ウグヒスノ》 木傳令落《コヅタヒチラス》 梅花見爾《ウメノハナミニ》
 
着物ノ〔三字傍線〕袖ヲ垂ラシテ、サア私ノ家ノ園ヘオイデナサイ〔六字傍線〕。鶯ガ木ノ枝ヲ傳ツテ、鳴イテ散ラス梅ノ花ヲ見ニオイデナサイ〔六字傍線〕。
 
○袖垂而《ソデタレテ》――着物の袖を垂らして。上代の袖は細く長かつた。袖を垂れるとは、手を下げた下に袖が更に垂れた貌であらう。悠々たる漫歩の姿である。古義に「此句は終句へつづけて意得べし」とあるのは誤つてゐる。○伊射吾苑爾《イザワガソノニ》――さあ吾が園に來給への意。この句で切れてゐる。
〔評〕 新嘗會の頃に鶯の木傳ひ散らす梅の花がある筈がない。代匠記は江次第第十に「新嘗會装束次第云、尋常版位南二2三許丈1構2立舞臺1、【不v作2音樂1之時不v立】其上鋪v薦加2兩面1置2鎭子1、其四角三面樹2梅柳1、其東西北面懸2亘帽額1、【不v隱2鞆繪1】木工寮作2舞臺1、左右衛門進2梅柳1」とあるによつて、この日の興に梅柳を植ゑたからだと見てゐるが、卷十の何時鴨此夜將明※[(貝+貝)/鳥]之木傳落梅花將見《イツシカモコノヨノアケムウグヒスノコヅタヒチラスウメノハナミム》(一八七三)を學んで、戯れてこんなことを言つたのであらう。初二句は悠揚たる遊樂の樣もしのばれておもしろい。良寛の「心あらばたづねて來ませ鶯の木つたひ散らす梅の花見に」は更にこれに傚つたものである。
 
右一首大和國守藤原永手朝臣
 
舊本、手を平に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。藤原永手は房前の第二子。天平九年九月從六位上から從五位下、勝寶元年四月從四位下、二年正月從四位上、四年十一月大倭守、六年正月從三位、寶字元年四月に中務卿と見える。同五月中納言、七年正月兵部卿、八年九月正三位、神護元年正月勲二等、九月(577)從二位、二年正月大納言從二位で右大臣、十月左大臣、神護景雲三年二月從一位、寶龜元年十月正一位、寶龜二年二月薨、五十八。その時光仁天皇の賜はつた宣命が續紀に見えてゐる。ここに大和國守とあるのは、續紀に四年十一月乙巳爲2大倭守1とあるに一致してゐる。この月の乙巳は三日に當つてゐる。
 
4278 足引の 山下ひかげ かづらける 上にや更に 梅をしぬばむ
 
足日木乃《アシビキノ》 夜麻之多日影《ヤマシタヒカゲ》 可豆良家流《カヅラケル》 宇倍爾也左良爾《ウヘニヤサラニ》 梅乎之努波牟《ウメヲシノバム》
 
(足日木乃)山ノ下蔭ニ生エル〔五字傍線〕日影ノ蔓ヲ、頭ノ飾ノ〔四字傍線〕鬘トシテ遊ンデ〔三字傍線〕ヰル上ニ更ニ梅ノ花〔二字傍線〕ヲナツカシガリマセウカ。コレデ充分デスカラ、折角ノ御案内デスガ、御宅ノ梅ノ花見ハヤメニ致シマセウ〔コレ〜傍線〕。
 
○夜麻之多日影《ヤマシタヒカゲ》――山の下蔭などに生える日蔭の蔓。ヒカゲノカヅラは和名抄苔類に「蘿、唐韵云、蘿、魯何反、日本紀私記云、蘿、比加介女蘿也」とあるもので、石松科、石松屬の多年生陰花植物。莖は蔓状をなして地を匍ひ長さ數尺に達する。葉は細小で、莖に密生する。山野の陰地に自生す。上代にはこの蔓を以て襷又は頭髪の飾としたもので、古事記に、天宇受賣命が天の香山の天の日影を手次《タスキ》としたとあるのも、この蔓草である。後世では大嘗會などの際、冠の笄の左右に掛ける、絲を組んで造つたものをも、ヒカゲノカヅラと言つてゐる。○可豆良家流《カヅラケル》――鬘として頭につけた。カヅラクといふ動詞については、楊奈疑可豆良枳《ヤナギカヅラキ》(四〇七一)・可都良久麻泥爾《カヅラクマデニ》(四一七五)參照。
〔評〕 前の永手の歌に對する答歡である。古義に「日蔭縵をかざして肆宴にあづかれる今日なれば、何一つあかぬことはあるまじきを、國守のしかのたまへば、此の上に又更に梅の花を賞《シノバ》むかと云にて、云々」とあるのは(578)誤解である。永手の戯れに對して、家持も輕い氣分で答へたのである。この歌袖中抄に出てゐる。
 
右一首少納言大伴宿禰家持
 
二十七日、林王(ノ)宅(ニテ)餞(セル)2之但馬(ノ)按察使橘奈良麿朝臣(ヲ)1宴(ノ)歌三首
 
林王は卷十七の大宮之《オホミヤノ》(三九二六)の左文參照。橘奈良麻呂が但馬の按察使になつたのは、續紀によれば十一月乙巳即ち三日のことで、「以2參議從四位上橘朝臣奈良麻呂1爲2但馬因幡按察使1」と見えてゐる。
 
4279 能登河の 後には逢はむ しましくも 別るといへば 悲しくもあるか
 
能登河乃《ノトガハノ》 後者相牟《ノニチハアハム》 之麻之久母《シマシクモ》 別等伊倍婆《ワカルトイヘバ》 可奈之久母在香《カナシクモアルカ》
 
(能登河乃)後デハ、貴方ニイヅレ〔六字傍線〕御目ニ懸ルデセウ。然シ暫クデモ、別レトイヘバ悲シウゴザイマスヨ。
 
○能登河乃《ノトガハノ》――枕詞。同音を繰返して後《ノチ》につづいてゐる。能登河は卷十に能登河之水底并爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトガハノミナソコサヘニテルマデニミカサノヤマハサキニケルカモ》(一八六一)とある河で、春日山から發して高圓山と三笠山との間を流れてゐる。○後者相牟《ノニチハアハム》――古義は牟を常の誤として、ノチハアハメドと訓むべしといつてゐる。新考には牟の下に乎を補つて、ノチハアハムヲとよむぺしとある。もとの儘がよい。この下に「併しながら」といふ語を補つて見るべきである。○可奈之久母在香《カナシクモアルカ》――悲しくもあるかなの意。
〔評〕 林王の宅は能登河近くにあつたのであらう。眼前に見えるものを取つて、枕詞を作つてゐる。佳作といふほどでもないが、再會への祝福と、惜別の情を共に述べ得てゐる。
 
右一首治部卿船王
 
(579)船王は卷六(九九八)にその作が見える。この王が治部卿になり給うたことが、續紀に見えないのは脱ちたのか。
 
4280 立ち別れ 君がいまさば しきしまの 人は我じく いはひて待たむ
 
立別《タチワカレ》 君我伊麻左婆《キミガイマサバ》 之寄島能《シキシマノ》 人者和禮自久《ヒトハワレジク》 伊波比※[氏/一]麻多牟《イハヒテマタム》
 
京ヲ〔二字傍線〕立ツテ貴方ガ但馬國ヘ〔四字傍線〕御出カケニナツタナラバ、大和ノ國ノ人ハ誰デモ、私ト同ジヤウニ、貴方ノ御無事ヲ〔七字傍線〕神樣ニ祈ツテ御歸リヲ〔四字傍線〕待ツテヰルデセウ。
 
○君我伊麻左婆《キミガイマサバ》――貴方がいらつしやるならば。貴方が往き給ふならば。○之寄島能《シキシマノ》――之寄島とは大和の國をいふ。欽明天皇が倭國磯城郡磯城島に都を遷し給うて、磯城島|金刺《カナサシ》と號し給うてから、大倭の枕詞として、敷島のを用ゐることとなり、後、敷島は大和一國の號となり、轉じて日本の總名ともなつた。ここは大和國のことである。○人者和禮自久《ヒトハワレジク》――人は我が如く。この自久《ジク》の意は明瞭でないが、大和の國の人々は私と同じやうにの意らしい。續紀天平寶字三年六月の詔に、此家自久母藤原卿等乎波揖畏聖天皇御世重於母自岐人自門慈賜比上賜來奈利《コノイヘジクモフヂハラノマヘツギミタチヲバカケマクモカシコキヒジリノスメラガミヨカサネテオモジキヒトノウヂカドハメグミタマヒアゲタマヒクルイヘナリ》とある。比家自久《コノイヘジク》もこの家のやうにの意らしい。略解にあげた宣長説に、和禮自久の久を之の誤でワレジシであらうとあるが、從ひ難い。
〔評〕 世の總ての人の念願によつて、貴方の御無事御歸京は疑もないと言つてゐる。誠實の言といふべきであらう。
 
右一首右京少進大伴宿禰黒麻呂
 
右京少進は右京職の判官。舊本右の字がないのは脱ちたのである。西本願寺本によつて改めた。黒麻呂の傳はわからない。
 
4281 白雪の 降りしく山を 越え行かむ 君をぞもとな いきの緒にもふ
 
(580)白雪能《シラユキノ》 布里之久山乎《フリシクヤマヲ》 越由可牟《コエユカム》 君乎曾母等奈《キミヲゾモトナ》 伊吉能乎爾念《イキノヲニモフ》
 
白雪ガ澤山ニ後カラ後カラ〔六字傍線〕ツヅイテ降ル山ヲ、越エテ但馬ノ國ヘ〔五字傍線〕行カレル貴方ヲ、徒ラニ私ハ〔二字傍線〕命ニカケテ心配致シマス。
 
○布里之久山乎《フリシクヤマヲ》――降り重《シ》く山を。頻りに降る山を。○伊吉能乎爾念《イキノヲニモフ》――息の緒は命。息の緒に念ふとは命にかへて思ふこと。
〔評〕 結句が戀人にでも對するやうな、強烈な言葉である。左註にあるやうに、左大臣がこれに朱黄を加へたのは、何とか改めたかつたのであらうが、結局意に滿たないで、舊のままにしたものである。
 
左大臣換(ヘテ)v尾(ヲ)云(フ)、伊伎能乎爾須流《イキノヲニスルト》 然(レドモ)猶(ホ)喩(シテ)曰(ク)如(ク)v前(ノ)誦(セヨ)v之(ヲ)也
 
左大臣は諸兄。奈良麻呂の餞の宴に、父として列席してゐたのであらう。家持の作つたものを、尾句を改めてイキノヲニスルとしたが、又思ひ直して、もとの儘に歌ひ上げしめたといふのである。
 
右一首少納言大伴宿禰家持
 
五年正月四日、於(テ)2治部少輔石上朝臣|宅嗣《ヤカツクノ》家(ニ)1宴歌三首
 
石上朝臣宅嗣は、續紀に勝寶三年正月正六位下から從五位下、寶字元年五月從五位上、その後、相模守・參河守・上總守・遣唐副使・文部大輔・太宰少貳・常陸守・中衛中將・左大辨・參議・式部卿・太宰帥・中納言・兼中務卿・大納言などに歴任し、天應元年六月辛亥薨去した。續紀その條に記して、「宅嗣左大臣從一位麻呂之孫、中納言從二位弟麻呂之子也云々、勝寶三年、授2從五位下1、任2治部(581)少輔1稍遷2文部大輔1歴2居内外1、景雲二年至2參議從三位1、寶龜初出爲2太宰帥1、居無v幾、遷2式部卿1、拜2中納言1、賜2姓物部朝臣1以2其情願1也、尋兼2皇太子傅1、改賜2姓石上朝臣1、十一年轉2大納言1俄加2正三位1、宅嗣辭容閑雅有v名2於時、値2風景山水1、時把v筆而題之、自2寶字1後宅嗣及淡海眞人三船、爲2文人之首1、所v著詩賦數十首、世多傳誦之云云薨時年五十三、時人悼之」とある。なほこの人は多くの書を庫し、一庫を建てて名づけて芸亭と稱した。吾が國圖書館の最初である。肖像は前賢故實による。
 
4282 事繁み 相問はなくに 梅の花 雪に萎れて うつろはむかも
 
辭繁《コトシゲミ》 不相問爾《アヒトハナクニ》 梅花《ウメノハナ》 雪爾之乎禮※[氏/一]《ユキニシヲレテ》 宇都呂波牟可母《ウツロハムカモ》
 
用事ガ多イノデ、オ互ニオ尋ネシナイ中ニ、雪ガ降ツテ〔五字傍線〕梅ノ花ハ、雪ニ萎レテ、散ツテシマフデセウカヨ。心配シテヰマシタ〔八字傍線〕。
 
○辭繁《コトシゲミ》――辭は事の借字。用事が多いので。人言繁みの意に見ることも出來るが、ここにふさはしくない。○不相問爾《アヒトハナクニ》――舊訓アヒトハザルニとあるのも惡くはないが、代匠記精撰本による。新考に問の下に間を落したものとして、アヒトハヌマニと改めたのは燭斷に過ぎる。
〔評〕 吾が宿の梅の、人訪はぬ間に盛も過ぎ行くのを心配したもので、今友を待ち得て、歡を共にする嬉しさを詠んだと見るべきであらう。少し叙述に曖昧(582)な點がある。
 
右一首主人石上朝臣宅嗣
 
4283 梅の花 咲けるが中に ふふめるは 戀やこもれる 雪を待つとか
 
梅花《ウメノハナ》 開有之中爾《サケルガナカニ》 布敷賣流波《フフメルハ》 戀哉許母禮留《コヒヤコモレル》 雪乎待等可《ユキヲマツトカ》
 
梅ノ花ガ澤山〔二字傍線〕咲イテヰル中デ、マダ蕾ンデヰルノハ、客人ヲ待ツ〔五字傍線〕戀ノ心ガ籠ツテヰルノカ。ソレトモ〔四字傍線〕、雪ガ降ルノヲ待ツテヰテ、雪ガ降ツテカラ咲カウト云フ〔雪ガ〜傍線〕ノカ。御宅ノ梅ハマダ蕾ンデヰルノモアリマス〔御宅〜傍線〕。
 
○布敷賣流波《フフメルハ》――含めるものあるはの意。フフムは未だ開かぬこと。○戀哉許母禮留《コヒヤコモレル》――舊本、母を爾に誤つてゐる。元暦校本その他の古本によつて改めた。戀の心が籠つてゐるのか。
〔評〕 人を待つて咲かざるか、それとも雪の降るのを待つてゐるのかと、梅の花を心ありげに言ひなしたのは、優艶な情緒である。支那風の風流才子めかした趣向であらう。
 
右一首中務大輔|茨田《マムダ》王
 
茨田王は續紀によれば、天平十一年正月無位から從五位下、十二年十一月從五位上、十六年二月少納言、十八年九月宮内大輔、十九年十一月越前守と見える。中務大輔になられたことは記されてゐない。
 
4284 新しき 年の始に 思ふどち い群れて居れば 嬉しくもあるか4
新《アタラシキ》 年始爾《トシノハジメニ》 思共《オモフドチ》 伊牟禮※[氏/一]乎禮婆《イムレテヲレバ》 宇禮之久母安流可《ウレシクモアルカ》
 
新年ノ始ニ、心ノ合ツタ友人同志ガ、一所ニ〔三字傍線〕群レ集ツテヰルト、樂シク嬉シイコトダヨ。
 
(583)○伊牟禮※[氏/一]乎禮婆《イムレテヲレバ》――イは接頭語のみ。群れ集まつてゐると。
〔評〕 何等の技巧もなく、その儘の歌である。併し拙くはない。
 
右一首太膳大夫道祖王
 
大膳大夫は大膳職の長官。道祖王は代匠記精撰本に、サヘノオホキミ、略解はフナドノオホキミ、古義はミチノヤノオホキミと訓んでゐる。神代紀に岐神此云2布那斗能加微1とあつて道祖神をフナドノカミといふから、ここも略解の訓がよいであらう。
 
十一日、大雪落(リ)積(ル)尺有二寸、因(リテ)述(ブル)2拙懷(ヲ)1歌三首
 
4285 大宮の 内にも外にも めづらしく 降れる大雪 な踏みそね惜し
 
大宮能《オホミヤノ》 内爾毛外爾母《ウチニモトニモ》 米都良之久《メヅラシク》 布禮留大雪《フレルオホユキ》 莫蹈禰乎之《ナフミソネヲシ》
 
大宮ノ内ニモ外ニモ、珍ラシク降ツタコノ大雪ヲ、踏ミツケナサルナヨ。惜シイモノダカラ〔五字傍線〕。
 
○莫蹈禰乎之《ナフミソネヲシ》――踏むなよ、階しいから。
 
〔評〕 初二句は卷十七のこの人の、大宮能宇知爾毛刀爾毛比賀流麻泥零須白雪見禮杼安可奴香聞《オホミヤノウチニモトニモヒカルマデフラスシラユキミレドアカヌカモ》(三九二六)
》と同樣で全躰の意は前の三形沙彌の、大殿之此廻之雪莫踏禰數毛不零雪曾山耳爾零之雪曾由米縁勿人哉莫履禰雪者《オホトノノコノモトホリノユキナフミソネシバシバモフラザルユキゾヤマノミニフリシユキゾユメヨルナヒトヤナフミソネユキハ》(四二二七)を要約したものである。
 
4286 みそのふの 竹の林に 鶯は しば鳴きにしを 雪はふりつつ
 
御御苑布能《ミソノフノ》 竹林爾《タケノハヤシニ》 ※[(貝+貝)/鳥]波《ウグヒスハ》 之波奈吉爾之乎《シバナキニシヲ》 雪波布利都都《ユキハフリツツ》
 
(584)御園ノ竹ノ林デ鶯ハ、頻リニ鳴イテヰルノニ、未ダ〔二字傍線〕雪ガコンナニ〔四字傍線〕降ツテヰル。春ニナツテモ寒イコトダ〔春ニ〜傍線〕。
 
○之波奈吉爾之乎《シバナキニシヲ》――シバナキは頻繁に鳴くこと。
〔評〕 優美な歌だ。新古今集の「鶯の鳴けども未だ降る雪に杉の葉白き逢坂の關」に似た趣がある。竹と鵜との配合が、早くもここにあらはれてゐる。この歌、和歌童蒙抄に載せてある。
 
4287 鶯の 鳴きし垣内に にほへりし 梅この雪に うつろふらむか
 
※[(貝+貝)/鳥]能《ウグヒスノ》 鳴之可伎都爾《ナキシカキツニ》 爾保敝理之《ニホヘリシ》 梅此雪爾《ウメコノユキニ》 宇都呂布良牟可《ウツロフラムカ》
 
鶯ガ鳴イテヰタ垣根ノ内デ、咲イテヰタ梅ガ、コノ雪デ散ツタシマヒハセヌカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○鳴之可伎都爾《ナキシカキツニ》――可伎都《カキツ》は垣内。屋敷の内。
〔評〕 尺余の大雪で、梅花の空しく散るのを恐れたのである。第四句は少し急迫の調をなしてゐる。以上の三首は、いづれも同じ春の雪に對して、異なつた觀點から詠んでゐるのはよい。
 
十二日侍(ヒテ)2於内裏(ニ)1聞(キテ)2千鳥(ノ)喧(クヲ)1作(レル)歌一首
 
4288 河洲にも 雪は降れれし 宮のうちに 千鳥鳴くらし 居む所無み
 
河渚爾母《カハスニモ》 雪波布禮禮之《ユキハフレレシ》 宮乃裏《ミヤノウチニ》 智杼利鳴良之《チドリナクラシ》 爲牟等已呂奈美《スムトコロナミ》
 
河ノ洲ニモ雪ガ積リ〔二字傍線〕降ツタノデ、ヰル所ガナイカラ、内裏ノ内デアノヤウニ〔五字傍線〕千鳥ガ鳴クラシイ。
 
○河渚爾母《カハスニモ》――河の洲にも。河は佐保河である。○雪波布禮禮之《ユキハフレレシ》――雪ハ降レレに、強める助詞シを添へたものか。フレレバと同意であらう。代匠記精撰本は「第二句は雪はふるらしの意の古語か、今按ユキハフレレカと讀てふれればかと意得べきか」と言つてゐる。略解の宣長説は、之は也の誤で、フレレヤはフレレバヤの意だ(585)とし、新考はフレレ曾《ゾ》の誤で、フリタレバゾといふ意なりといつてある。○宮乃裏《ミヤノウチニ》――宮は内裏。○爲牟等己呂奈美《スムトコロナミ》――下り居む所無み。舊訓に爲牟をスムと訓んだのはわるい。
〔評〕 前の歌の翌日の作。河の渚も雪に埋れて、千鳥の下りゐるところがないので、御所の内までも飛び來つて鳴いてゐる情景は、潟をなみ芦邊をさして、鳴く鶴の聲と、趣を異にしてゐるが、あはれな優雅な作といつてよい。
 
二月十九日、於2左大臣橘家宴(ニ)1見(ル)2攀折(レル)柳條(ヲ)1歌一首
 
舊本十二月とあるが、十は衍である。元暦校本によつて削る。
 
4289 青柳の 秀つ枝よぢとり かづらくは 君が屋戸にし 千年ほぐとぞ
 
青柳乃《アヲヤギノ》 保都枝與治等理《ホヅエヨヂトリ》 可豆良久波《カヅラクハ》 君之屋戸爾之《キミガヤドニシ》 千年保久等曾《チトセホグトゾ》
 
青柳ノ梢ノ枝ヲ引キヨセテ折リ取ツテ、頭ノ飾ノ〔四字傍線〕鬘トスルノハ、貴方ノ御家デ皆サンガ〔四字傍線〕、千年モ榮エルヤウニトイフ意味〔二字傍線〕デスゾ。
 
○保都枝與治等理《ホヅエヨヂトリ》――ホヅエは秀つ枝。上の枝。ヨヂトリは攀取り。ヨヅは集中の用例は木の枝などを引き寄せることである。○可豆良久波《カヅラクハ》――※[草冠/縵]とするは、可豆良家流《カヅラケル》(四二七八)參照。○君之屋戸爾之《キミガヤドニシ》――君が宿で。君が宿は左大臣橘家を指す。
〔評〕 前のこの人の、安之比奇能夜麻能許奴禮能保與等理天可射之都良久波知等世保久等曾《アシビキノヤマノコヌレノホヨトリテカザシツラクハチトセホクトゾ》(四一三六)と同型の作である。新考は「君ガヤドニシといふこといささか心得がたし おそらくはおき處のよからざるならむ(初句の上に置き換へば意通すべし。)」、と言つてゐるが、四五の句を續けないと、橘家に對する祝賀の意が薄くなる。
 
(586)二十三日依(リテ)v興(ニ)作(レル)歌二首
 
4290 春の野に 霞たなびき うらがなし この夕かげに うぐひす鳴くも
 
春野爾《ハルノヌニ》 霞多奈妣伎《カスミタナビキ》 宇良悲《ウラガナシ》 許能暮影爾《コノユフカゲニ》 ※[(貝+貝)/鳥]奈久母《ウグヒスナクモ》
 
 
見渡スト春ノ野原ニ霞ガ棚引イテ、心悲シイ景色ダ。シカモ〔六字傍線〕コノ夕方ノ日影ガ薄ク照シテヰル〔八字傍線〕中デ、鶯ガ鳴イテヰルヨ。何ト哀ナコトヨ〔七字傍線〕。
 
○宇良悲《ウラガナシ》――心に哀愁を覺える。この句で切れてゐる。古義に結句につづけて、「心なつかしく※[(貝+貝)/鳥]のなくよ」と言つたのも、新考に「ウラガナシはアハレナルといふことなり。さて此句は准枕辭なり。さらずばウラガナシキと云はざるべからず。第二町にてしばらく切りて、ウラガナシコノユフカゲニとつづけて心得べし」とあるのも共に從ひ難い。○許能暮影爾《コノユフカゲニ》――暮影はここでは夕方の日影。夕日の光薄き中で鶯が鳴くのである。
〔評〕 現代の青年が陷りさうな感傷的氣分の作である。萬葉風の雄々しさは、この人の魂から披け去つたのではないかとさへ思はれる。歌としては佳作と言はねばならぬ。
 
4291 吾が宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも
 
和我屋度能《ワカヤドノ》 伊佐左村竹《イササムラタケ》 布久風能《フクカゼノ》 於等能可蘇氣伎《オトノカソケキ》 許能由布敝可母《コノユフベカモ》
 
吾ガ宿ニ植ヱテアル小イ群竹ニ、吹ク風ノ音ガソヨソヨト〔五字傍線〕、微カニ聞エルコノタ暮ヨ。靜カナ淋シイ夕方ダ〔九字傍線〕。
 
○伊佐左村竹《イササムラタケ》――イササはいささか。ささやかなること。村竹は群竹。古義に五十竹葉村竹《イササムラタケ》と解して、委しく論じてゐるが、當れりとも思はれない。○於等辭可蘇氣伎《オトノカソケキ》――音の幽《カソ》けき。カソケキは幽かなる意。
(587)〔評〕 暮れむとして暮れやらぬ永い春の日も、漸く夕暗に包まれる頃が來た。端居して、靜かな庭の面を眺めてゐる家持の耳に、かすかに囁くやうに聞えるものや何。と思つてじつと音する方を見つめると、それは吹くとしもなき夕風にそよいでゐる笹の葉ずれの音であつた。このかそけき音に耳を澄ます作者の心境は、唯これ靜寂。繊細にして優雅の調。人をして恍惚たらしめるものがある。
 
二十五日作歌一首
 
4292 うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも 獨しおもへば
宇良宇良爾《ウラウラニ》 照流春日爾《テレルハルヒニ》 比婆理安我里《ヒハリアガリ》 情悲毛《ココロカナシモ》 比登里志於母倍婆《ヒトリシオモヘバ》
 
ウララカニ照ツテヰル春ノ日ニ、雲雀ガ空高ク舞ヒ上ツテ、ソレヲ聞イテヰテ〔八字傍線〕一人デ物ヲ考ヘテヰルト、何トナク〔四字傍線〕心ガ悲シイヨ。
 
○宇良宇良爾《ウラウラニ》――うららかに。うららかは空晴れて長閑なるをいふ。○比登里志於母倍婆《ヒトリシオモヘバ》――唯獨ゐて物を考へると。シは強辭。この思ふは、戀の思には限らない。
〔評〕 ※[〔口+句〕/レッカ]々たる春の日に、雲雀の聲が頻りに聞える。ふと見れば雲雀の姿は一塊の黒點となつて、やがて霞の中に没して了ふ。このうららかな陽光を浴び、この長閑な風物に接して、若き歌人は唯淋しい悲しい物思が胸に湧いて來て、どうすることも出來ないのだ。感傷的作品としては、集中の第一に推すべきものである。その感覺は現代青年のそれであつて、これが萬葉人の作かと思(588)へば不思議なくらゐである。家持の多感な、氣の弱い性格と、作歌に對する不斷の修練とは、遂にこの傑作を産むに至つたのである。以上の三首は家持の作品の頂點に達しにものと言つてよい。
 
春日遲々(トシテ)、※[倉+鳥]※[庚+鳥]正(ニ)啼(ク)、悽惆之意、非(ズバ)v歌(ニ)難(シ)v撥《ハラヒ》耳、仍(リテ)作(リ)2此歌(ヲ)1、式《モチテ》展《ブ》2締緒(ヲ)1但此(ノ)卷中、不v※[人偏+稱の旁](ハ)2作者(ノ)名字(ヲ)1、徒《タダ》録(スル)2年月所處縁起(ヲ)1者、皆大伴宿禰家持(ノ)裁作(セル)歌(ノ)詞也、 異本左注也、
)歌詞也 異本左注也
 
○春日遲々※[倉+鳥]※[庚+鳥]正啼――詩經の「春日遲々、卉木萋々、倉庚階々、采繁祁々」を基とした文であらう。※[倉+鳥]※[庚+鳥]は鶯だといふ説もあるが、ここは雲雀に用ゐてある。和名抄にも、「雲雀、崔禹錫食經云、雲雀雲雀似v雀而大 比波利 楊氏漢語抄云、※[倉+鳥]※[庚+鳥] 倉康二音、和名上同】とある。○悽惆之意――悽は痛む・悲しむ。惆は音チウ、意を失ふ、悲しむ。○非v歌難v撥耳――歌でなければ、拂ふことが出來ない。○式展2諦緒1――以つて結ぼれた心を述べる。
但此卷中以下は別行に記すべきものであらう。この卷で署名のないのは、皆大伴家持の作だといふのである。最後の異本左注也の五字は元暦校本、その他古本にはない。但此卷中以下の文が異本には左注として記されてゐるといふ意か。次點か新點の頃の書き加へであらうから、削るべきであらう。
 
萬葉集卷十九
 
卷第二十
 
(1)萬葉集卷第二十解説
 
この卷は大伴家持の手記と考へらるる、卷十七以下の四卷中の一で、本集の最終である。家持とその周圍の人たちの作が大部分を占め、部門を分たぬこと、作歌をその年月の順序に並べ、古歌の傳誦せられたのは、傳誦の日の下に記してあること、用字が假名書式になつてゐるなど、すべて他の三卷と同樣である。歌體は長歌と短歌とであるが、歌數は長歌六首、短歌二百十八首、計二百二十四首である。この卷の著しい特色は、防人の歌である。防人とは、北九州の沿岸を防護する爲に、東國地方の壯丁を徴發して、これに當てたもので、その内わけは、遠江七首、相模三首、駿河十首、上總十三首、常陸十首(内一首長歌)下野十一首、下總十一首、信濃三首、上野四首、武藏十二首である。以上はいづれもその國の防人部領使が進つた内から、拙劣歌を除いて採録してゐる。當時大伴家持が兵部少輔として防人に關する事務を管掌してゐた爲に、防人歌が集中に記しとどめられることになつたのである。これらが東國の壯丁の眞情の發露なるは言ふまでもないが、部領使の指導によつたことも亦否み難い。武藏のに限つて、防人の妻の作をも採つてゐるのは注意すべきであらう。右の外に、主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君が、抄寫して家持に贈つた、昔年の防人の歌八首があるから、通算すると防人歌の總計は九十二首に上るわけである。卷十四の東歌と共に、當時の東國人の生活・思想、及び言語を知る資料として、極めて貴いものである。この卷には宴席の作が多く、從つて情熱のない儀(2)禮的挨拶になつてゐるものが多い中に、防人歌だけが、異なつた色彩を見せてゐるのは嬉しい。卷十九が天平勝寶五年二月二十五日を以つて終つてゐるのに續いて、この卷は同年五月に始まり、天平寶字三年正月まで、五年半に亘つてゐる。さうして湧き來る感興が、おのづから歌となつてゐるといふやうなものは殆どなく、いづれも社交的な形式的作品で、家持自身、作歌に對する興味が失せてゐることが明瞭に看取せられる。蓋し家持の歌は、卷十九を以て完成の頂點に上りつめたもので、この卷は惰勢によつて折々試みられた、下り坂の作品である。その調子の柔軟さと、内容の類型的に墮してゐる點に於て、萬葉風の終焉といふ感じがする。因幡の國廳に於ける正月の宴の歌で、この集は閉ぢられてゐるが、「いやしけ吉言《よごと》」といふ言葉を卷軸としたのは偶然ではなく、この嘉言を以てこの集の最後を飾り、併せて自己の將未の祝福としてゐるのである。彼がこの後、延暦四年まで二十六年間生存してゐるにも拘はらず、一首の歌をも遺してゐないことについて、不思議に思ふ人も多いが、萬葉集の終結と同時に、その歌人としての生活を閉ぢたのであらう。その後、時に臨んで、儀禮的贈答の作はあつたであらうが、それを記録して置くだけの興味はなくなつてゐた。否、奈良朝の終から平安朝初期にかけて、既に行きつまつた歌壇は、ただ衰頽の一路を辿つてゐたから、歌に對して世を擧げて無關心になりつつあつたのである。家持の身邊が多事であつたことなども、考へられないではないが、それがなくとも、萬葉集以後の彼の作品は、世に遺らなかつたのであるまいか。この見地からも、予はこの集の成立を、天平寶字三年を距る遠からぬ時期とするものである。
 
(3)萬葉集卷第二十
 
幸2行於山村1之時先太上天皇詔2陪從王1賦2和歌1之時 天皇御口號一首
舍人親王應v詔奉v和歌一首
天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提2壺酒1登2高圓野1聊述2所心1作歌三首
同六年正月四日氏族人等賀2集于少納言大伴家持宅1宴飲歌三首
同七日 天皇太上天皇皇太后在2東常宮南大殿1時播磨國守安宿王奏歌一首
同三月十九日家持之庄門槻樹下宴歌二首
置始連長谷歌一首
長谷攀v花提v壺到來因v是大伴家持和2長谷1歌一首
同二十五日左大臣橘卿宴2于山田御母之宅1時少納言大伴家持矚2時花1作歌一首
同四月大伴家持詠2霍公鳥1歌一首
七夕歌八首
同月二十八日大伴家持作歌一首
大伴宿禰家持憶2秋野1聊述2拙懷1作歌六首
(4)〜(7)〔略〕
(8)大伴宿禰家持歌一首
天平寶字元年十一月十八日於2内裏1肆宴歌二首
三一月十八日於2大監物三形王之宅1宴歌三首
年月未詳歌一首
二十三日於2治部少輔大原今城眞人之宅1宴歌一首
二年春正月三日王臣等應2詔旨1各陳2心緒1歌二首
六日内庭假2植樹木1以作2林帷1而爲2肆宴1歌一首
二月於2式部大輔中臣清磨朝臣之宅1宴歌十首
依v興各思2高圓離宮處1作歌五首
屬2目山齋1作歌三首
二月十日於2内相宅1餞2渤海大使小野田守朝臣等1宴歌一首
七月五日於2治部少輔大原今城眞人宅1餞2因幡守大伴宿禰家持1宴歡一首
三年春正月一日於2因幡國廳1賜2饗國郡司等1之宴歌一首
 
(9)幸2行(シシ)於山村1之時(ノ)歌二首
 
山村は地名。和名抄に「大和國添上郡山村、也末無良」とあるところ。今の奈良市の南方、帶解村に當るといふ。欽明天皇紀に、「元年二月百濟己知部投化、置2倭添上郡山村1、今(ノ)山村(ノ)己知部之先也」とある。
 
先(ノ)太上天皇、詔(シテ)2陪從(ノ)王臣(ニ)1曰、夫(レ)諸王卿等、宜(ベシト)d賦(シテ)2和(ヘ)歌(ヲ)1而奏上(ス)u即(チ)御口號(ニ)曰(ク)、
 
先太上天皇は元正天皇である。この時聖武天皇は、太上天皇として御在世であらせられた。和歌は答へ歌。
 
4293 足引の 山行きしかば 山人の われに得しめし 山つとぞこれ
 
安之比奇能《アシビキノ》 山行之可婆《ヤマユキシカバ》 山人乃《ヤマビトノ》 和禮爾依志米之《ワレニエシメシ》 夜麻都刀曾許禮《ヤマツトゾコレ》
 
(安之比奇能)山ヘ行ツタトコロガ、仙人ガ私ニクレタ山ノ土産物ハコレダ。コノ歌ハ仙人ニ貰ツテ來タモノダ〔コノ〜傍線〕。
 
○山人乃《ヤマビトノ》――山人は仙人。山里に住む人と見るのはよくない。○和禮爾依志米之《ワレニエシメシ》――朕に與へた。○夜麻都刀曾許禮《ヤマツトゾコレ》――山裹はこれだ。山の土産はこれだ。この山つとは「花紅葉などを、折らせて歸らせたまひて、山賤の奉れるよし詠ませ給へるか」と略解にあるが、宣長が「山つとぞ是とのたまへるは、即御歌を指して、のたまへる也」と言つたのがよいであらう。
(10)〔評〕 意味が少し曖昧であるが、當時流行した神仙思想によつた作品で、山村といふ地名を眞の山とし、其處で仙人から貰ひ受けた珍らしい土産はこれだと仰せになつて、この御歌をお示しになつたのであらう。風變りの作品である。
 
舍人親王應(ヘテ)v 詔(ニ)奉(レル)和(ヘ)歌一首
 
舍人親王は天武天皇の皇子。勅を奉じて日本書紀を編纂し給うた。天平七年十一月の薨去であるから、この歌は神龜元年九月元正天皇御讓位から天平七年までの作である。
 
4294 足引の 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰
 
安之比奇能《アシビキノ》 山爾由伎家牟《ヤマニユキケム》 夜麻妣批等《ヤマビトノ》 能情母之良受《ココロモシラズ》 山人夜多禮《ヤマビトヤタレ》
 
陛下ハ山ニ行ツタト仰セニナリマスガ〔陛下〜傍線〕、(安之比奇能)山ニオイデナサツタ太上天皇樣ノオ考ハ、仙人デイラツシヤルカラ私ドモニハ何ノ爲カ〔仙人〜傍線〕分リマセヌ。マタソノ山裹ヲサシ上ゲタ〔マタ〜傍線〕山人ハ誰デゴザイマセウ。
 
○山爾由伎家牟《ヤマニユキケム》――御歌の山行之可婆《ヤマユキシカバ》を受けたので、山に行つたであらう山人と太上天皇を指し奉つてゐる。○夜麻妣等能《ヤマビトノ》――上皇を仙人として、山人と申上げたのである。上皇の御所を仙洞・霞の洞・藐故射の山などと申す思想が早くもあらはれてゐる。これも道教思想に出てゐる。○情母之良受《ココロモシラズ》――山人即ち上皇が何故に山に行き給うたか、その御心を知ることが出來ない。この句で切れてゐる。○山人夜多禮《ヤマビトヤタレ》――この山人は前の御歌の山人である。
〔評〕 これも曖昧な點があつて、解釋が種々にわかれてゐる。要するに御歌の意を受けて、神仙思想を以て、お答へしたのである。二・三・五の三句にヤマを頭韻に押んでゐるのは、一つの技巧である。
 
(11)右、天平勝寶五年五月、在(リシ)2於大納言藤原朝臣之家(ニ)1時、依(リテ)v奏(スルニ)v事(ヲ)而請問(フ)之間、少主鈴山田史|土《ヒヂ》麿、語(リテ)2少納言大伴宿禰家持(ニ)1曰(ク)、昔聞(ケリト)2此(ノ)言(ヲ)1即(チ)誦(セリ)2此歌(ヲ)1也、
 
大納言藤原朝臣は藤原仲麿。在は家持が仲麿の家に在つての意。依奏事而請問之間は天皇に奏上する事件について、仲麿の指圖を待つてゐる間の意であらう。舊本間を問に誤つてゐる。西本願寺本によつて改めた。少主鈴は職員令に、「大主鈴二人、掌v出2納鈴印傳符飛騨函鈴1少主鈴二人、掌同2大主鈴1」とある。中務省の職員で大主鈴は正七位下、少主鈴は正八位上の卑官である。山田史土麿の傳はわからない。卷十七に見えた鷹飼の山田史君麿(四〇一五)とよく似た名である。
 
八月十二日、二三大夫等、各提(ゲテ)2壺酒(ヲ)1、登(リ)2高圓野(ニ)1、聊述(ベテ)2所心(ヲ)1作(レル)哥三首、
 
高圓野は高圓山麓の平地。小高くなつてゐるから登ると記したのである。
 
4295 高圓の 尾花吹き越す 秋風に 紐解きあけな ただならずとも
 
多可麻刀能《タカマトノ》 乎婆奈布伎故酒《ヲバナフキコス》 秋風爾《アキカゼニ》 比毛等伎安氣奈《ヒモトキアケナ》 多太奈良受等母《タダナラズトモ》
 
高圓ノ山ノ〔二字傍線〕尾花ヲ吹キ越シテ來ル秋風ガマコトニ快イガ、コノ〔秋風〜傍線〕秋風ニ吹カレテ〔四字傍線〕、着物ノ紐ヲ解キアケマセウ。サウシテ〔四字傍線〕直接デナクトモ風ヲ受ケテクツロギマセウ〔風ヲ〜傍線〕。
 
○比毛等伎安氣奈《ヒモトキアケナ》――着物の紐を解き開けよう。着物の胸の紐を解いて風を入れようといふのである。○多太奈良受等母《タダナラズトモ》――直接でなくとも。卷十に、吉哉雖不直奴延鳥浦歎居告子鴨《ヨシヱヤシタダナラズトモヌエトリノウラナゲヲリトツゲムコモガモ》(二〇三一)とある。ここは風を直接に(12)膚に受けずともといふ意であらう。
〔評〕 尾花吹き越す秋風は、すがすがしい感じの句である。悠揚たる大宮人の氣分。
 
右一首左京少進大伴宿禰池主
 
左京少進は左京職の判官、卷十九(四二八〇)に右京少進大伴宿禰黒麿の名が見える。
 
4296 天雲に 雁ぞなくなる 高圓の 萩の下葉は もみぢあへむかも
 
安麻久母爾《アマグモニ》 可里曾奈久奈流《カリゾナクナル》 多加麻刀能《タカマトノ》 波疑乃之多婆波《ハギノシタバハ》 毛美知安倍牟可聞《モミヂアヘムカモ》
 
空ノ雲デ雁ガ嶋イテヰルヨ。モウ秋モ深クナツタカラ〔モウ〜傍線〕、高圓)ノ野原ノ〔三字傍線〕萩ノ下葉ハ、今マデ紅葉シナカツタノモ今ハ〔今マ〜傍線〕、紅葉スルデアラウカヨ。
 
○毛実知安倍牟可聞モミヂアヘムカモ》――紅葉敢へむかも。紅葉してしまふであらうかよ。今まで紅葉しなかつたものも、紅葉するであらうの意。
〔評〕 天雲の中に鳴く雁の音と、萩の下葉の紅葉との組合せは、言ふべからざる味ひがある。高朗にして繊細。萬葉人の天然への目の注ぎ方が、この時期になつて著しく變つて來たことを認めざるを得ない。佳い作だ。
 
右一首左中弁中臣清麿朝臣
 
中臣清麿の傳は、卷十九|明日香河《アスカガハ》(四二五八)の左註に記して置いた。續紀によれば、勝寶六年七月丙申に左中(13)辨になつてゐるのに、ハヤク前卷、及びここに左中辨とあるのは、後になつて、その左中辨時代に記録したものかと見る説もある。しかし續紀に彼が右中辨になつたことは見えないが、左を右の誤とすることも出來よう。
 
4297 女郎花 秋萩しぬぎ さを鹿の 露分け鳴かむ 高圓の野ぞ
 
乎美奈弊之《ヲミナヘシ》 安伎波疑之努藝《アキハギシヌギ》 左乎之可能《サヲシカノ》 都由和氣奈加牟《ツユワケナカム》 多加麻刀能野曾《タカマトノヌゾ》
 
此處ハ〔三字傍線〕女郎花ヤ秋萩ノ花ヲ押シ伏セテ通ツテ、男鹿ガ露ヲ分ケテヤガテ〔三字傍線〕鳴ク高圓ノ野デアルゾヨ。コノ秋ノ花ノ中ニ、鹿ノ聲ガ聞エルノハマタ格別デス。實ニヨイトコロデス〔コノ〜傍線〕。
 
○安伎波疑之努藝《アキハギシヌギ》――秋萩の花を凌いで。凌ぐは押し伏せること。卷六に奧山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》(一〇一〇)とある。
〔評〕 女郎花や秋萩の花を踏みしだいて、棹鹿が露の玉ちる野邊に鳴く情景を想像してゐる。美しいが、歌が弱く、か細くなつて來た。
 
右一首少納言大伴宿禰家持
 
(14)六年正月四日、氏族(ノ)人等、賀(ギ)集(ヒテ)于少納言大伴宿禰家持之宅(ニ)1宴飲(セル)歌三首
 
氏族人とあるは大伴氏の一族の人々をいふ。家持がその氏の上として、正月の賀宴を催したのである。
 
4298 霜の上に 霰たばしり いや増しに 我は參來む 年の緒長く
 
霜上爾《シモノウヘニ》 安良禮多婆之里《アラレタバシリ》 伊夜麻之爾《イヤマシニ》 安禮波麻爲許牟《アレハマヰコム》 年緒奈我久《トシノヲナガク》 古今未詳
 
毎年毎年續イテ長ク、(霜上爾安良禮多婆之里)彌々益々、私ハコノ御屋敷ニ〔六字傍線〕參上致シマセウ。
 
○霜上爾安良禮多婆之里《シモノウヘニアラレタバシリ》――彌益《イヤマシ》につづく序詞。霜の降つた上に霰が降るのは、彌益しに白く見えるからである。多婆之里《タバシリ》はタ走リ。タは接頭語のみ。○安禮婆麻爲許牟《アレハマヰコム》――我はこの殿に參り來むといふのである。○年緒奈我久《トシノヲナガク》――年は絶えずつづいて行くから、年の緒といふ。下に古今未詳とあるのは、この歌が古歌か今の作かわからぬといふのである。
〔評〕 序詞は必ずしもその時の實景その儘でないとしても、その季節の風物を用ゐたものである。感じの好い言葉だ。四の句に氏の長者に對する敬意と壽を祝する心とが見えてゐる。一體に滑らかな調子に出來てゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右一首左兵衛督大伴宿禰千里
 
大伴宿禰千里の傳はわからない。
 
4299 年月は 新あらたに 相見れど 吾が思ふ君は 飽き足らぬかも
 
(15)年月波《トシツキハ》 安良多安良多爾《アラタアラタニ》 安比美禮騰《アヒミレド》 安我毛布伎美波《アガモフキミハ》 安伎太良奴可母《アキタラヌカモ》 古今未詳
 
年月ガ改マル毎ニ幾久シク〔四字傍線〕御目ニカカルケレドモ、私ガ大切ニ思フ貴方ハ、イクラ見テモ〔六字傍線〕見飽カナイヨ。
 
○安良多安良多爾《アラタアラタニ》――舊本、安多良安多良爾とあるが、元暦校本によつて改めた。新新に。年月があらたまり行くにつれて、幾久しく君を相見れどの意。
〔評〕 これも氏の長に對する、敬意親愛の念が詠まれてゐる。
 
右一首民部少丞大伴宿禰村上
 
大伴宿禰村上の傳は、卷八(一四三六)に記して置いた。この人が民部少丞になつたことが、續紀に見えないのは脱ちたのである。少丞は從六位上であるから、寶龜二年四月正六位上とある續紀の記載に合致してゐる。
 
4300 霞立つ 春のはじめを 今日のごと 見むと思へば たぬしとぞ思《も》ふ
 
可須美多都《カスミタツ》 春初乎《ハルノハジメヲ》 家布能其等《ケフノゴト》 見牟登於毛倍波《ミムトオモヘバ》 多努之等曾毛布《タヌシトゾモフ》
 
霞ノ立ツ春ノ初ヲ、今日ノヤウニ新年ヲ重ネテイツマデモ皆ノ人タチト〔新年〜傍線〕逢フダラウト思フト、仕合セナ〔四字傍線〕樂シイコトト思ヒマス。
 
○可須美多都《カスミタヅ》――春の修飾語として用ゐてある。初《ハジメ》までにかかるのではない。○春初乎《ハルノハジメヲ》――乎《ヲ》を爾《ニ》の誤と見(16)る説もあるが、もとの儘でよい。○見牟登於毛倍波《ミムトオモヘバ》――この見むと思ふは逢ふであらうと豫想すること。
〔評〕 これは氏族一同に對する祝福の辭である。四五の句に思ふを重ね用ゐたのは、感心しない。
 
右一首左京少進大伴宿禰池主
 
七日天皇・太上天皇・皇太后、於(テ)2東(ノ)常(ノ)宮(ノ)南(ノ)大殿(ニ)1肆宴歌一首
 
天皇は孝謙天皇、太上天皇は聖武天皇、皇太后は光明皇后である。於2東常宮南大殿1肆宴とあるのは、續紀に「天平勝寶六年春正月丁酉朔、癸卯天皇御2束院1宴2五位已上1」とある記事に一致してゐる。
 
4301 印南野の あから柏は 時はあれど 君を吾が思ふ 時はさねなし
 
伊奈美野乃《イナミヌノ》 安可良我之波波《アカラガシハハ》 等伎波安禮騰《トキハアレド》 伎美乎安我毛布《キミヲアガモフ》 登伎波佐禰奈之《トキハサネナシ》
 
印南野ノ赤ラ※[木+解]は紅葉スル〔四字傍線〕時節ガ定マツテヰルケレドモ、陛下ヲ私ガ思フ事ハ、實ニ時ノ區別ガアリマセヌ。イツデモ陛下ニ盡忠ノ心ヲ抱イテヲリマス〔イツ〜傍線〕。
 
○伊奈美野乃《イナミヌノ》――印南野の。印南野は播磨國明石西方の平原。卷一の伊奈美國波良《イナミクニハラ》(一四)參照。○安可良我之波波《アカラガシハハ》――赤ら※[木+解]は紅葉した※[木+解]の葉。延喜式に干※[木+解]を諸國から貢することが見えてゐるから、或はこれは干※[木+解]かも知れない。○登伎波佐禰奈之《トキハサネナシ》――時は實に無い。時の別なく何時でも思つてゐる。
〔評〕 任國播磨の物を材料として、君に忠勤ヲ擢んづる心の、止む時なきを歌つてゐる。時にとつての佳作であ(17)らう。但し播磨の民謠を謠つたのかも知れない。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首播磨國守|安宿《アスカベ》王奏 古今未詳
 
安宿王は左大臣長屋王の御子で、御母は藤原不比等の女。續紀によると、天平九年九月、無位から從五位下、十月從四位下、十年閏七月玄蕃頭、十二年十一月從四位上、十八年四月治部卿、勝寶元年八月中務大輔、三年正月正四位下、五年四月播磨守、六年九月兼内匠頭、八歳十二月の條に讃岐守正四位下とある。寶龜四年十月姓を高麗眞人と賜はつた。ここに播磨守とあるのは、右に掲げた續紀の記載に一致してゐる。
 
三月十九日家持之庄(ノ)門(ノ)槻(ノ)樹(ノ)下(ニテ)宴飲(セル)歌二首
 
庄は莊に同じ。私有の用地をいふ。ここは庄門とあるから、家持の私有地に建てた家の門。即ち別莊の門である。
 
4302 山吹は 撫でつつおほさむ 在りつつも 君來ましつつ かざしたりけり
 
夜麻夫伎波《ヤマブキハ》 奈※[泥/土]都都於保佐牟《ナデツツオホサム》 安里都都母《アリツツモ》 伎美伎麻之都都《キミキマシツツ》 可※[身+矢]之多里家利《カザシタリケリ》
 
コノ山吹ハ今後モ〔三字傍線〕大切ニシテ育テヨウト思ヒマス。何故ナレバ〔十字傍線〕カウシテ引キツヅイテ、貴方ガオイテニナツテ挿頭ノ花ニナサイマシタヨ。コレカラコノ花大切ニシテ、貴方ヲオ待チシマセウ〔コレ〜傍線〕。
 
○奈※[泥/土]都都於保佐牟《ナデツツオホサム》――撫でつつ生さむ。撫育しよう。○安里都都母《アリツツモ》――ありありて。引つづいて。
〔評〕 次の歌の左註によると置始連長谷が、わが家の山吹を折取つて携へ來たのを、家持が挿頭としたので、喜(18)んで、こんな歌を獻じたのである。この一首中に三つのツツが用ゐられてゐるのは、故意か偶然か。多分偶然であらうが、巧とは言ひ難い。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首置始連|長谷《ハツセ》
 
置始連長谷は家持の庄を預つてゐる男で、この邊に住んでゐたのである。傳はわからない。
 
4303 吾が兄子が 宿の山吹 咲きてあらば 止まず通はむ いや年のはに
 
和我勢故我《ワガセコガ》 夜度乃也麻夫伎《ヤドノヤマブキ》 佐吉弖安良婆《サキテアラバ》 也麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》 伊夜登之能波爾《イヤトシノハニ》
 
貴方ノ家ノ山吹ノ花ガコンナニキレイニ〔ノ花〜傍線〕咲イテヰルナラバ、私ハ〔二字傍線〕毎年毎年、絶エズ通ツテ來テ、コノ山吹ヲ賞シ〔八字傍線〕マセウ。
 
○和我勢故我《ワガセコガ》――吾が背子は置始連長谷を指す。
〔評〕 口でいふべき挨拶を、三十一文字の形式に作つたといふまでで、平庸の作である。但し、ヤドノヤマブキ、ヤマズカヨハムなど、ヤの音を重ねたのは作者の技巧か。
 
右一首長谷攀(ヂ)v花(ヲ)提(ケテ)v壺(ヲ)到(リ)來(ル)因(リテ)v是(ニ)大伴宿禰家持、作(リテ)2此(ノ)歌(ヲ)1和(フ)v之(ニ)
 
攀花は花を引折ること。提壺は酒壺を携へて。
 
同月二十五日、左大臣橘卿宴(セル)2于山田(ノ)御母《ミオモ》之宅(ニ)1歌一首
 
(19)山田御母は山田史|日女島《ヒメシマ》のことで、孝謙天皇の御乳母であつた。續紀に「天平勝寶元年七月甲午、皇太子受v禅即位、乙未正六位上山田史日女島授2從五位下1、天皇之乳母也、勝寶七年正月甲子從五位上比賣島等七人賜2山田(ノ)御井宿禰姓1、寶字元年八月戊寅、勅、故從五位下山田三井宿禰比賣島、縁v有2阿※[女+爾]之勞1、褒2賜宿禰之姓1、恩波狂激及2傍親1云々、理宜2追責1、可d除2御母之名1、奪2宿禰之姓1、依v舊從c山田史u」とある。當時、權勢のあつた婦人であつた。
 
4304 山吹の 花の盛に かくのごと 君を見まくは 千年にもがも
 
夜麻夫伎乃《ヤマブキノ》 花能左香利爾《ハナノサカリニ》 可久乃其等《カクノゴト》 伎美乎見麻久波《キミヲミマクハ》 知登世爾母我母《チトセニモガモ》
 
山吹ノ花ノ盛ノ時ニ、カウシテ貴方ニオ目ニカカルコトハ、千年モツヅキマスヤウニ。貴方モ私モ千年モ長命致シタイモノデゴザイマス〔貴方〜傍線〕。
 
○伎美乎見麻久波《キミヲミマクハ》――伎美《キミ》は橘諸兄卿を指してゐる。見麻久波《ミマクハ》は見むことは。
〔評〕 家持が自己の愛護者たる諸兄に對して、御機嫌を取り結んだ作。庭に咲いてゐた山吹を材料としただけが、作者の工夫である。
 
右一首少納言大伴宿禰家持矚(テ)2時(ノ)花(ヲ)1作(レリ)、但未(リシ)v出(サ)之間、大臣罷(リ)v宴(ヲ)而不2擧(ゲ)誦1耳
 
時花はその季節の花。不2擧誦1は舊本擧を攀に作つてゐるが、温故堂本によつて改めた。この歌をまだ發表しない内に、諸兄が宴を退出したので、これを誦み擧げずに濟んだといふのだ。
 
(20)詠(メル)2霍公鳥(ヲ)1歌一首
 
4305 木のくれの 繁き尾の上を ほととぎす 鳴きて越ゆなり 今し來らしも
 
許乃久禮能《コノクレノ》 之氣伎乎乃倍乎《シゲキヲノヘヲ》 保等登藝須《ホトトギス》 奈伎弖故由奈理《ナキテコユナリ》 伊麻之久良之母《イマシクラシモ》
 
木暗イ茂ツタ山ノ上ヲ、郭公ガ今鳴イテ越エルヨ。今奧山ヲ〔三字傍線〕出テ來ルラシイヨ。待ツテヰタ郭公ガ來テ嬉シイ〔待ツ〜傍線〕。
 
○許乃久禮能《コノクレノ》――木の暗の。木の繁つて暗いのを、木の暗といふ。○伊麻之久良之母《イマシクラシモ》――今こそ山を出て此處へ來るらしいよ。
〔評〕 青葉の山の郭公の聲を聞いて、歡ぶ意が詠まれてゐるが、平庸の作である。
 
右一首四月大伴宿禰家持作
 
七夕歌八首
 
4306 初秋風 涼しき夕べ 解かむとぞ 紐は結びし 妹に逢はむため
 
波都秋風《ハツアキカゼ》 須受之伎由布弊《スズシキユフベ》 等香武等曾《トカムトゾ》 比毛波牟須妣之《ヒモハムスビシ》 伊母爾安波牟多米《イモニアハムタメ》
 
私ハ〔二字傍線〕初秋風ガ涼シク吹ク夕方ニ、妻ニ逢ツテ、着物ノ紐ヲ〔五字傍線〕解カウト思ツテ、ソノ爲ニコノ着物ノ〔五字傍線〕紐ヲ結ンダノデアツタ。今丁度ソノ時節ニナツテ來タ。嬉シイ〔今丁〜傍線〕。
 
(21)○波都秋風《ハツアキカゼ》――初秋風。後世の歌には珍しくないが、本集では唯一の例である。段々歌が新しくなつて來たのである。
〔評〕 牽牛星の心になつて詠んだもの。第五句が頗る落付きが惡い。
 
4307 秋といへば 心ぞいたき うたてけに 花になぞへて 見まく欲りかも
 
秋等伊閉婆《アキトイヘバ》 許己呂曾伊多伎《ココロゾイタキ》 宇多弖家爾《ウタテケニ》 花仁奈蘇倍弖《ハナニナゾヘテ》 見麻久保里香聞《ミマクホリカモ》
 
秋ガ來タ〔三字傍線〕トイフト、何トナク格別ニ、私ハ戀シクテ〔五字傍線〕心ガ悲シイヨ。ソレハ吾ガ妻ノ織女ノ美シイ姿ヲ秋草ノ〔ソレ〜傍線〕花ニナゾラヘテ、見タイト思フカラデアラウカヨ。早ク織女ニ逢ヒタイモノダ〔早ク〜傍線〕。
 
○宇多弖家爾《ウタテケニ》――轉《ウタタ》格別に。この句は第二の句の上に置いて見るがよい。○花爾奈蘇倍弖《ハナニナゾヘテ》――花になぞらへて。花は秋草の花であらう。○見麻久保里香聞《ミマクホリカモ》――見むと欲すればかもに同じ。
〔評〕 これも牽牛星になつて詠んでゐる。四の句はわざとらしい感がある。
 
4308 初尾花 花に見むとし 天の川 へなりにけらし 年のを長く
 
波都乎婆奈《ハツヲバナ》 波名爾見牟登之《ハナニミムトシ》 安麻乃可波《アマノガハ》 弊奈里爾家良之《ヘナリニケラシ》 年緒奈我久《トシノヲナガク》
 
牽牛織女ノ二ツノ星ハ互ニ何時マデモ珍ラシク〔牽牛〜傍線〕(波都乎婆奈)花ヤカナ心デ見ヨウト思ツテ、昔カラ〔三字傍線〕永年ノ間天ノ川ヲ隔テテ別レテヰ〔五字傍線〕ルコトニナツタラシイ。
 
(22)○波都乎婆奈《ハツヲバナ》――初尾花。花と言はむ爲に枕詞として用ゐてある。尾花の穗に出初めたのをいふ。○波名爾見牟登之《ハナニムトシ》――花やかに見むとて、シは強める助詞。何時も若々しい花やかな戀心で、二人相見ようとて。○弊奈里爾家良之《ヘナリニケラシ》――隔りにけらし。隔てたらしい。
〔評〕 初尾花といふ初秋の景物を採つて、枕詞としたのが作者の工夫のあるところであらう。
 
4309 秋風に 靡く河びの にこ草の にこよかにしも 思ほゆるかも
 
秋風爾《アキカゼニ》 奈妣久可波備能《ナビクカハビノ》 爾故具左能《ニコグサノ》 爾古餘可爾之母《ニコヨカニシモ》 於毛保由流香母《オモホユルカモ》
 
私ハ、コノ秋風ニ河邊ノ草ガ靡イテヰル天ノ河ヲ渡ツテ、一年ブリデ織女ニ逢フガ〔私ハ〜傍線〕、(秋風爾奈妣久可波備能爾故具左能)ニコニコト樂シイコトダヨ。
 
○秋風爾奈妣久可波備能爾故具佐能《アキカゼニナビクカハビノニコグサノ》――爾古餘可《ニコヨカ》と言はむ爲の序詞。秋風に靡く河邊に生えてゐる和草。河邊は天の河のほとり。爾故草《ニコグサ》はなよなよとした、柔い草。箱根草の異名とする説は從ひ難い。卷十一の蘆垣之中之似兒草《アシガキノナカノニコグサ》(二七六二)參照。○爾古餘可爾之母《ニコヨカニシモ》――にこにこと。心樂しくおのづから、ほほゑまれること。シモは強めて言ふのみ。
〔評〕 織女に逢ふ牽牛の心であらう。天の河邊の七夕の風景を想像して、序を作つてゐる。卷十一の蘆垣之中之似兒草爾故余漢我共咲爲而人爾所知名《アシガキノナカノニコグサニコヨカニワレトヱマシテヒトニシラユナ》(二七六二)に傚つたものである。
 
4310 秋されば 霧立ちわたる 天の川 石なみ置かば つぎて見むかも
 
安吉佐禮婆《アキサレバ》 奇里多知和多流《キリタチワタル》 安麻能河波《アマノガハ》 伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》 都藝弖見牟可母《ツギテミムカモ》
 
(23)秋ニナルト霧ガ棚曳ク天ノ川ニ、石ヲ並ベテ置クナラバ、ソノ上ヲ秋デナクトモ何時デモ〔ソノ〜傍線〕、絶エズ相逢フ事ガ出來ルデアラウカヨ。サウシタイモノダ〔八字傍線〕。
 
○伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》――石を河中に並べて置くならば。即ち石橋《イハハシ》を渡すことである。
〔評〕 初二句は唯天の川の風景を述べたに過ぎない。下句、石を並べて置かば、秋ならずとも逢ふことが出來ようと言つたのは、牽牛の心であらう。
 
4311 秋風に 今か今かと 紐解きて うら待ち居るに 月かたぶきぬ
 
秋風爾《アキカゼニ》 伊麻香伊麻可等《イマカイマカト》 比母等伎弖《ヒモトキテ》 宇良麻知乎流爾《ウラマチヲルニ》 月可多夫伎奴《ツキカタブキヌ》
 
秋風ガソヨソヨト吹クノニ〔十字傍線〕、戀シイ彦星ガ來ルノモ〔十字傍線〕今カ今カト思ツテ着物ノ〔六字傍線〕紐ヲ解イテ、心待チシテ居ルト、月ガ西ニ傾イタ。早ク來レバヨイニ〔八字傍線〕。
 
○宇良麻知乎流爾《ウラマチヲルニ》――心で待つてゐると。
〔評〕 織女になつて詠んだ歌。月傾きぬといへば多くは既に曉近いやうであるが、ここは七日の月であるから、夜が徒らに更けた意である。夫を待つ心はあらはれてゐる。
 
4312 秋草に 置く白露の 飽かずのみ 相見るものを 月をし待たむ
 
秋草爾《アキクサニ》 於久之良都由能《オクシラツユノ》 安可受能未《アカズノミ》 安比見流毛乃乎《アヒミルモノヲ》 月乎之麻多牟《ツキヲシマタム》
 
(24)(秋草爾於久之良都由能)飽キ足ラズニ、イクラ〔三字傍線〕逢ツテモ戀シク思ハレル〔七字傍線〕ルノニ、今逢ツテカラ、又來年ノ今〔今逢〜傍線〕月ヲ待ツコトデアラウカ。サテサテ待チ遠イ〔八字傍線〕。
 
○秋草爾於久之良都由能《アキクサニオクシラツユノ》――秋草の上に宿る白露の玉と輝く樣は、見るに飽かないものであるから、不飽《アカズ》の序詞としたのである。○月乎之麻多牟《ツキヲシマタム》――來年のこの月を待たうといふ意であらう。
〔評〕 これもその頃の風物を採つて序詞としてゐる。五句は、今別れて一年後のこの月を待たうといふのであらうが、無理な言ひ方である。
 
4313 青波に 袖さへぬれて 漕ぐ船の かし振る程に さ夜ふけなむか
 
安乎奈美爾《アヲナミニ》 蘇弖佐閉奴禮《ソデサヘヌレテ》 弖許具布禰乃《コグフネノ》 可之布流保刀爾《カシフルホドニ》 左欲布氣奈武可《サヨフケナムカ》
 
天ノ川ニ立ツ〔六字傍線〕青波ニ、袖マデモ濡ラシテ、織女ニ逢フ爲ニ天ノ川ヲ横ギツテ〔織女〜傍線〕、漕イデ行ク船ガ、向フノ岸ヘ着イテ〔八字傍線〕、〓※[爿+可]トイフ船ヲ繋グ爲ノ棒ヲ〔トイ〜傍線〕振リ立テテヰル中ニ、夜ガ更ケテシマヒハセヌカ。早ク逢ヒタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○安乎奈美爾《アヲナミニ》――青波に。天の川に立つ波の青く見えるのをいふ。卷八に、青浪爾望者多要奴白雲爾※[さんずい+帝]者盡奴《アヲナミニノゾミハタエヌシラクモニナミダハツキヌ》(一五二〇)とある。○可之布流保刀爾《カシフルホドニ》――可之《カシ》は〓※[爿+可]。舟を繋ぐ爲に立てる棒・杙の如きもの。舟に載せてある。フルは振り立てること。卷七の舟盡可志振立而廬利爲《フネハテテカシフリタテテイホリセム》(一一九〇)、卷十五の大船爾可之布里多弖天《オホフネニカシフリタテテ》(三六三二)とある。
〔評〕 天の川を渡り行く牽牛の心。上品に出來てゐる。
 
右大伴宿禰家持獨仰(ギテ)2天漢(ヲ)1作(ル)v之(ヲ)
 
4314 八千くさに 草木を植ゑて 時毎に 咲かむ花をし 見つつしぬばな
 
(25)八千種爾《ヤチクサニ》 久佐奇乎宇惠弖《クサキヲウヱテ》 等伎其等爾《トキゴトニ》 佐加牟波奈乎之《サカムハナヲシ》 見都追思努波奈《ミツツシヌバナ》
 
私ハ澤山ニ〔五字傍線〕種々ナ草ヤ木ヲ庭ニ〔二字傍線〕植ヱテ置イテ、ソノ〔二字傍線〕季節毎ニ、咲ク花ヲ眺メテ樂シマウト思フ〔三字傍線〕。
 
○等伎其等爾《トキゴトニ》――時毎に。この時は季節。○見都追思努波奈《ミツツシヌバナ》――見てなつかしがらう。シヌブはここでは賞翫する意である。
〔評〕 つまらない歌である。報告的で更に感興が盛られてゐない。袖中抄に第三句「秋毎に」として出してあるが、かう改める方が、ここにはふさはしい。
 
右一首同月二十八日大伴宿禰家持作v之
 
4315 宮人の 袖つけ衣 秋萩に にほひよろしき 高圓の宮
 
宮人乃《ミヤビトノ》 蘇泥都氣其呂母《ソデツケゴロモ》 安伎波疑爾《アキハギニ》 仁保比與呂之伎《ニホヒヨロシキ》 多加麻刀能美夜《タカマトノミヤ》
 
宮仕ノ人ガ着テヰル〔四字傍線〕端袖ノ附イタ袖幅ノ廣イ〔五字傍線〕衣ノ色ガ、今咲イテヰル〔六字傍線〕秋萩ノ花ニ映《ウツ》リガヨクテ、景色ノ〔六字傍線〕ヨイ高圓ノ宮ヨ。マコトニ良イ離宮ノ風景ダ〔マコ〜傍線〕。
 
○宮人乃《ミヤビトノ》――宮人は宮に奉仕する人。五句に高圓の宮とあるから、その宮人である。○蘇泥都氣其呂母《ツデツケゴロモ》――袖付け衣。一幅の袖に、更に端袖と稱する半幅の巾を附けた衣をいふ。○仁保比與呂之伎《ニホヒヨロシキ》――映《うつ》りがよい。萩の花と袖の色との配合のよいこと。○多加麻刀能美夜《タカマトノミヤ》――高圓の野にあつた離宮。下に依v興各思2高圓離宮處1(26)作歌五首(四五〇六)とある。
〔評〕 萩の花が美しく咲き揃つてゐる高圓の野を、奉仕の人たちが長い袖をひらめかしつつ往來する樣を、そのままに描寫したもの。鮮明に、よく出來てゐる。色の配合に着目したのがこの作の佳い點であらう。
 
4316 高圓の 宮の裾みの 野つかさに 今咲けるらむ 女郎花はも
 
多可麻刀能《タカマトノ》 宮乃須蘇未乃《ミヤノスソミノ》 努都可佐爾《ヌツカサニ》 伊麻左家流良武《イマサケルラム》 乎美奈弊之波母《ヲミナヘシハモ》
 
高圓ノ宮ノ麓ノマハリノ野ノ小高イ所ニ、女郎花ガ〔四字傍線〕今咲イテヰルダラウガ、ソノ〔三字傍線〕女郎花ハサゾ美シイコトデアラウ〔ハサ〜傍線〕ヨ。
 
○宮乃須蘇未乃《ミヤノスソミノ》――宮の裾廻の。裾廻とあるのは、宮が山にあるから、その麓の外廓といふやうな意である。○努都可佐爾《ヌツカサニ》――努都可佐《ヌツカサ》は野の中の高きところ。高圓の宮の下に展開してゐる、高圓の野の小高い地點。卷十七に野豆可佐爾《ヌツカサニ》(三九一五)とあり、卷四に佐保河乃涯之官能《サホガハノキシノツカサノ》(五二九)とある。
〔評〕 高圓の宮の下に開展してゐる高圓の野の小高い所に、秋草の中にも一際目立つて咲き誇つてゐる、女郎花のやさしい姿を想像して詠んだもの。詠嘆的になつてゐて、いかにもなつかしさうである。
 
4317 秋野には 今こそ行かめ もののふの 男女の 花にほひ見に
 
秋野爾波《アキヌニハ》 伊麻己曾由可米《イマコソユカメ》 母能乃布能《モノノフノ》 乎等古乎美奈能《ヲトコヲミナノ》 波奈爾保比見爾《ハナニホヒミニ》
 
秋ノ野ハ今ガ花盛デ、大宮人ガ大勢來テヰマス〔秋ノ〜傍線〕。役人ノ男ヤ女ガ花ヤカニ着飾ツテ遊ンデ〔三字傍線〕ヰルノヲ見ル爲ニ、秋(27)ノ野ニ今コソ出カケマセウ。
 
○伊麻己曾由可米《イマコソユカメ》――我らは今こそ行かうの意。もののふの男女が見に行くであらうと、解するは當らない。○母能乃布能《モノノフノ》――廣義では朝廷に奉仕する役人をすべてもののふといふ。男のみならず、女も亦もののふである。この句を男の枕詞とする説は大なる誤謬である。○乎等古乎美奈能《ヲトコヲミナノ》――右に述べたやうに、大宮人の男女である。然るにこの男を男郎花《ヲトコヘシ》、女を女郎花のこととする袖中抄以來の古説は取るにたらぬ。をとこへしは、おほどちといふ草で、女郎花に似て、花の白いものだといふが、後世の附會である。○波奈爾保比見爾《ハナニホヒミニ》――ハナニホヒは花やかに匂ふ、即ち色美しく映ずることで、男女の服装の美を言つてゐる。古義に「花艶《ハナニホヒ》なり。花やぎ、媚艶《ナマメキニホ》ひ、ありきめぐり遊ぶを云なるべし」とあるのは、少し言ひ過ぎてゐよう。
〔評〕 はつきりした歌である。三句以下が後人の誤解を招いてゐるのは、作者の罪ではない。自然を賞するに非ずして、花見る人を見ようといふのは、鑑賞の墮落とも言へる。しかし威儀の盛な大宮人に對する、作者自らの誇があらはれてゐるとも見得るであらう。この歌、袖中抄第七と第十三とに出てゐる。
 
4318 秋の野に 露負へる萩を 手折らずて あたら盛を 過ぐしてむとか
 
安伎能野爾《アキノヌニ》 都由於弊流波疑乎《ツユオヘルハギヲ》 多乎良受弖《タヲラズテ》 安多良佐可里乎《アタラサカリヲ》 須具之弖牟登香《スグシテムトカ》
 
秋ノ野ニ露ヲ宿シテヰル美シイ〔三字傍線〕萩ノ花〔二字傍線〕ヲ手折ラズニ、アタラ惜シイ萩ノ花〔三字傍線〕盛リヲ、空シクソノ儘〔六字傍線〕過ゴサウトイフノカ。ソレハ、惜シイコトダ〔九字傍線〕。
 
○都由於弊流波疑乎《ツユオヘルハギヲ》――露負へる萩を、露を枝に宿してゐる萩の花を。○須具之弖牟登香《スグシテムトカ》――過さうといふのか。具を西本願寺本に其に作つてゐるに從へば、スゴシテムトカであるが、恐らく誤字であらう。
(28)〔評〕 秋の野に咲き誇つてゐる萩を見ずして、盛を過ごさうとするのを惜しんだ歌。萩の露を愛するのは、この作者の、秋野爾開流秋芽子秋風爾靡流上爾秋露置有《アキノヌニサケルアキハギアキカゼニナビケルウヘニアキノツユオケリ》(一五九七)にもあるが、かうして内容的にも型が定まつたのであるか。
 
4319 高圓の 秋野のうへの 朝霧に 妻呼ぶ男鹿 出で立つらむか
 
多可麻刀能《タカマトノ》 秋野乃宇倍能《アキヌノウヘノ》 安佐疑里爾《アサギリニ》 都麻欲夫乎之可《ツマヨブヲシカ》 伊泥多都良牟可《イデタツラムカ》
 
今頃ハ〔三字傍線〕高圓ノ秋ノ野ノ上ニ棚曳イテヰル〔七字傍線〕朝霧ノ中デ、妻ヲ呼ンデ鳴ク男鹿ガ出テ立ツテヰルダラウカ。サゾアハレナ淋シイ聲デ鳴イテヰルダラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
○秋野乃宇倍能《アキヌノウヘノ》――秋の野の上に棚曳いた。古義に「ただ秋野のあたりにて、宇倍《ウヘ》は藤原が上《ウヘ》、高野原《タカヌハラ》の上《ウヘ》など云|上《ウヘ》に同じ。下にも、多加麻刀能努乃宇倍能美夜《タカマトノヌノウヘノミヤ》とよめり」とあるが、それとこれとは違ふやうである。
〔評〕 霧中の鹿の聲は思ひやるだに物あはれである。併し優雅な想像といふに過ぎない。
 
4320 ますらをの 呼び立てしかば さを鹿の 胸分け行かむ 秋野萩原
 
麻須良男乃《マスラヲノ》 欲妣多天思加婆《ヨビタテシカバ》 左乎之加能《サヲシカノ》 牟奈和氣由加牟《ムナワケユカム》 安伎野波疑波良《アキヌハギハラ》
 
獵師ドモガ鹿笛ヲ吹イテ〔六字傍線〕呼ビ立テタノデ、牡鹿ガソノ笛ノ音ニ引カレテ〔ソノ〜傍線〕、胸デ押シ分ケテ通ツテ行クデアラウ秋野ノ萩原ヨ。萩ノ花ノ中ヲ押ジ分ケテ鹿ガ通ツテ行ク秋ノ野ハ、サゾ美シイコトデアラウ〔萩ノ〜傍線〕。
 
(29)○麻須良男乃《マスラヲノ》――益荒雄はここでは獵師をさしてゐる。○欲妣多天思加婆《ヨビタテシカバ》――呼び立てたので、呼び立てるとは、鹿笛を吹いて鹿を呼ぶことであるが、この句が過去の形になつてゐるに對し、第四句が未來の形となつてゐて、相呼應しないといふので、古義に「中山嚴水、此詞かくては聞えず、末(ノ)句の牟奈和氣由可牟《ムナワケユカム》といへるは行末をかけていへることなればなり。されば此の思の字は萬志の二字を一字に誤りしにはあらずや、と云へり、信にさることなり。但し呼立《ヨビタテ》マシカバにては、八言の句になりて、耳立つなり。されば思加の二字は、萬世の誤などにや、さらばヨビタテマセバと訓べし」と言つてゐるが、「呼び立てませば」はここには頗る落付きがわるい。やはり舊のままにして解すべきであらう。○牟奈和氣由可牟《ムナワケユカム》――ムナワケは胸別。陶で押しわけること。
 
卷八に狹尾牡鹿乃※[匈/月]別爾可毛萩芽子乃散過鷄類盛可毛行流《サヲシカノムナワケニカモアキハギノチリスギニケルサカリカモイヌル》(一五九九)とある。○安伎野波疑波良《アキヌハギハラ》――野をノの假名に用ゐたものとすれば、秋の萩原であり、野を意字とすれば秋野《アキヌ》萩原である。野をノの假名に用ゐるのは、集中に特例として存在するが、これは多分さうではあるまい。
〔評〕 鹿笛につられて、鹿が萩原を押し分け行く、あはれな情景を想像したもの。第二句と第四句との呼應が整つてゐないやうに見えるので、種々の説が出てゐるが、深く拘泥すべきではあるまい。然し其處に作者の手ぬかりもあるといへよう。新考に「此歌は前賢みないたく誤解してヨビタテシカバを、鹿笛を吹く事とし、サヲシカノムナワケユカムを鹿の行く事とせり。……今の歌のマスラヲは傍輩の男子、ヨビタテシカバは足下モ來ヌカト誘ヒシカバといふ意。サヲシカノはムナワケユカムにかかれる枕辭なり」とあるのは、變つた見解である。
 
右歌六首、兵部少輔大伴宿禰家持、獨憶(ヒテ)2秋野(ヲ)1聊述(ベテ)2拙懷(ヲ)1作(ル)v之(ヲ)
 
兵部少輔は兵部省の次官の第二位。家持がこの官に補せられたのは、績紀によれば勝寶六年四月庚午で、丁度ここの記載に一致してゐる。獨懷2秋野1は家に獨居て秋の野の好景を憶つて作つたといふのである。拙壞とあるのは、家持の手記たる證として、擧げられる點だ。
 
(30)天平勝寶七歳乙未二月、相替(リテ)遣(サルル)2筑紫(ニ)1諸國(ノ)防人等(ノ)歌
 
天平勝寶七歳は續紀に「天平勝寶七年春正月甲子、勅爲v有v所v思、宜d改2天平勝寶七年1爲c天平勝寶七歳1」とあり、年を歳に改められたが、九歳八月十八日、天平寶字元年となり歳を年に復した。これは唐の玄宗が天寶三年に年を載に改め、肅宗の乾元元年に載を年に復したのに傚つたのである。防人は筑紫の海岸の要地を守つた兵士、サキモリは岬守の義である。諸國軍團の兵士を派遣してこれに當らしめた。任期は三年で二月一目を以て交替期日としてあつた。防人が任に赴く際本國から難波津までは防人部領使《サキモリコトリヅカヒ》と稱するものが、國司の命によつてこれを指揮し、難波津からは兵部省の專使がこれを太宰府に送る。太宰府到着後はその防人司がこれを取扱ふことになつてゐた。防人の名は大化二年に始めて見えてゐるが、持統天皇の二年の詔に「筑紫防人滿2年限1者替」とあつて、交替の制は早く行はれてゐたものらしい。令義解には「凡兵士向v京者、名2衛士1、火別取2白丁五人1、充2火頭1、守v邊者名2防人1、凡防人欲v至、所在官司、預爲2部分1、【謂官司者、防人司也、預爲2部分1者、防人未v至之前依v舊差配、頭爲2分目1、送2於太宰1、防人至即相替也。】防人至後一日、即共2舊人1分付、交替使v訖、【謂主當之處有2器杖等類1、故曰2分付1也】守當之處、毎v季更代、使2苦楽均平1」と見え、大寶の頃からは兵部省防人司の所管となつてゐたのである。天平二年九月諸國の防人を停めて、東國のみとしたが、同九年九月癸已の記事に「是日停2筑紫防人1歸2于本郷1、差2筑紫人1令v戍2壹岐對馬1」とあるが、間もなく舊制に復したらしく、天平勝寶七歳に於ては、東國の正丁を防人として筑索に送つてゐるのである。併し天平寶字元年閏八月壬申の條に「勅曰、太宰府防人、頃年差2坂東諸國兵士1發遣、由v是路次之國皆苦2供給1、防人産業、亦難2辨濟1、自今已後、宜d差2西海道七國兵土合一千人1充2防人司1、依v式鎭戍u、集v府之日、便習2五教1事具2別式1、」とあるから、この卷の防人歌が詠まれた後、二年で東國の防人差遣のことも止んだわけである。その後太宰府の請求によつて、一時復活せられたこともあつたが、平安朝以後は全く廢止せられた。これ以下の防人歌は家持が兵部少輔の職にあり、防人のことを管(31)してゐたので、かくの如く蒐集せられたものである。
 
4321 畏きや 命かがふり 明日ゆりや かえがむた寢む いむ無しにして
 
可之古伎夜《カシコキヤ》 美許等加我布理《ミコトカガフリ》 阿須由利也《アスユリヤ》 加曳我牟多禰牟《カエガムタネム》 伊牟奈之爾志弖《イムナシニシテ》
 
私ハ防人ニナレトノ〔九字傍線〕畏イ勅ヲ戴イテ、明日カラハ、共ニ寢ル〔四字傍線〕妻モ無クテ、野山ノ中デ〔五字傍線〕、草《カヤ》卜一緒ニ寢ルコトデアラウ。アア悲シイコトダガ致シ方ガナイ〔アア〜傍線〕。
 
○可之古伎夜《カシコキヤ》――畏きや。ヤは輕く添へてある。○美許等加我布理《ミコトカガフリ》――御言を被り。天子樣の御命令を奉戴して。○阿須由利也《アスユリヤ》――明日からは。ユリはヨリに同じ。ヤ 疑問の助詞。○加曳我牟多禰牟《カエガムタネム》――舊本のままで加曳我伊牟多禰乎《カエガイムタネヲ》と訓んでは意が通じない。代匠記精撰本に「加曳は此の作者秋持が家ある地の名にて長(ノ)下郡に有にや」とあり、考は加曳我《カエガ》を地名とし、「加曳我は遠江國の地名なり。古くは延ていひしを、今は約て計我といふなり。則遠江に計我村在り」と言つてゐる。略解も古義も加曳《カエ》を地名としてゐる。伊牟多禰《イムタネ》については代匠記は妹名姉《イモナネ》、考はイを發語とし、共寐《ムタネ》と解してゐる。古義は齋田嶺《イムタネ》といふ山の名で、加曳の地にある齋田嶺をといふのだといつてゐる。これらの諸説いづれも從ひ難い。然るに、元暦校本と古葉略類聚抄には伊の字を缺き、又、元暦校本・類聚古集・古葉略類聚抄は乎を牟に作つてゐる。恐らくこれが原形であつて、カエガムタネムと訓む時、草《カエ》が共《ムタ》寢《ネ》むとなり、句意明瞭である。即ち草原に寢るであらうといふのだ。カエはカヤの東語。曳は也行のエである。この訓は新訓による。○伊牟奈之爾志弖《イムナシニシテ》――妹《イモ》無《ナ》しにしての意。
〔評〕 防人は命によつて軍務に服するものであるから、君命を畏むといふやうな思想が、一寸したことにもあらはれてゐる。その點が卷十四の東歌と、この卷の防人歌との相異點の重なものである。この歌には軍務に對する責任感と、妻に對する別れ難さと、謂はゆる義と情との衝突に悩む作者の心があはれに詠まれてゐる。
 
(32)右一首|國造丁長下郡物部秋持《クニノミヤツコノヨボロナガノシモノコホリモノノベノアキモチ》
 
國造はクニノミヤツコ。大化以前諸國にありて、國土・人民を世襲したものであるが、大化新政と共に廢止せられた。さうしてその中の清廉にして事務に堪ふるものを、新に郡の大領小領に採用した。即ち國造の制度はこの時に絶えたわけであるが、なほその稱呼は存續して、その國の神事を掌り、朝廷から國造田を給與せられてゐた。丁はヨボロと訓む。ヨボロは※[月+國]《ヒカガミ》のことで、※[月+國]の力を使ふもの、即ち人足《ニンソク》のことであるが、ここは壯丁即ち兵士といふやうな意であらう。但しヲノコと訓む説は採らない。國造丁は國造が殊に自己の一門眷族などから、防人として服役せしめたものであらう。これを國造の使丁と見る説も、亦國造自身防人となつたと見る説も共に從はない。下に、上丁・助丁などある丁も、皆今日の壯丁といふやうな義であるから、國造丁も國造に隷屬した私の使用人とは思はれない。又かかるものを上位に記載する理由もない。又當時地方の豪族たる國造自身が防人として、三年間の勞役に服することは、蓋しあり得べからざることであらう。次の主帳丁も同樣である。主帳は中央政府から任命せられた郡司の一人で、郡の大さによつて三人乃至一人の定員があり、文案を勘へ署し公文を讀む職であつた。それがその職を捨てて三年間防人に出る義務があつたとは思はれない。後に國造(四四〇一)・主帳(四四〇二・四四一五)とのみ記したところがあるのは、丁の字を脱したものと見るべきであらう。長下《ナガノシモ》郡は遠江國の郡名。天龍川沿岸の海に近き部分。和名抄にはその名が見えてゐるが、後分割して敷智郡・長上郡・豐田郡などに入つた。第四册附録、東國萬葉地圖參照。物部秋持の傳はわからない。
 
4322 吾が妻は いたく戀ひらし 飲む水に 影《かご》さへ見えて 世に忘られず
 
和我都麻波《ワガツマハ》 伊多久古比良之《イタクコヒラシ》 乃牟美豆爾《ノムミヅニ》 加其佐倍美曳弖《カゴサヘミエテ》 余爾和須良禮受《ヨニワスラレズ》
 
(33)吾ガ妻ハ私ヲ〔二字傍線〕ヒドク戀ヒ慕ツテヰルラシイ。何故ナラバ妻ノ心ガ通フト見エテ、私ガ〔何故〜傍線〕飲ム水ニ妻ノ〔二字傍線〕影サヘモ映ツテ見エテ、決シテ妻ガ〔二字傍線〕忘レラレナイ。
 
○伊多久古比良之《イタクコヒラシ》――痛く戀ひらし。戀ひらしは戀ふらしの東語。ひどく私を戀してゐるらしい。○加其佐倍美曳弖《カゴサヘミエテ》――加其《カゴ》は影《カゲ》の東語。類聚古集に其《ゴ》を家《ケ》に作るのは、後世の改書であらう。○余爾和須良禮受《ヨニワスラレズ》――余爾《ヨニ》は決して、少しもなどの意で打消を伴ふ。忘ラエズといふべきを、忘ラレズといふ語法が東國では既に普通であつたのである。
〔評〕 水を飲まうとして汲み上げると、其處に妻の姿が映つて見えてゐる。妻の至情は常に通ひ來つて、吾が身につき纒うてゐるかと嗟嘆してゐる。もとよりこの男の戀情が、妻の姿を飲む水にさへ映さしめたのである。何といふ可憐な言葉であらう。人をして同情の涙を濺がしめるものがある。
 
右一首主帳(ノ)丁|麁玉《アラタマ》郡|若倭部身麿《ワカヤマトベノムマロ》
 
主帳はフミヒトと訓む。郡の書記。主帳丁は主帳が自己の意志によつて、家人眷族などを防人としたもの。麁玉郡は遠江。今廢してその舊域は分割せられて、引佐・濱名・磐田の諸郡に入つてゐる。第四册附録、東國萬葉地圖參照。若倭部身麿の傳はわからない。
 
4323 時時の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲きでこずけむ
 
等伎騰吉乃《トキドキノ》 波奈波佐家登母《ハナハサケドモ》 奈爾須禮曾《ナニスレゾ》 波波登布波奈乃《ハハトフハナノ》 佐吉低巳受祁牟《サキデコズケム》
 
ソノ時ソノ時ノ花ハ時節ヲタガヘズニ〔八字傍線〕咲クケレドモ、ドウスレバ母トイフ花ガ、咲キ出テ來ナカツタノデアラ(34)ウカ。母ニ逢ヒタイモノダ〔九字傍線〕。
○等伎騰吉乃《トキドキノ》――四季折々の。○奈爾須禮曾《ナニスレゾ》――如何にすればぞ。どういふわけで。○波波登布波奈乃《ハハトフハナノ》――母といふ花が。母を花に譬へてゐる。ハハといふ花があるのではない。考には「母子草をいふなり」とあるが、妄説である。○佐吉低己受祁牟《サキデコズケム》――咲き出で來ずけむ。咲き出て來なかつたのだらう。低は出の意として濁音に訓むがよい。但し、元暦校本・西本願寺本その他の古本、泥に作るものが多いのによれば、もとよりデである。けむは過去推量の助動詞。
〔評〕 母を花に譬へた心は優しい。併し下句は表現に無理があるやうである。又咲き出來ずけむと過去の推量にしてあるのも、その意を得ない。孝徳天皇紀の、皇太子が造媛の薨去を聞こしめして、悲しみ給うた時、野中(ノ)川原(ノ)史滿が奉つた歌、模騰渠等爾婆那播左該騰模那爾騰柯母于都倶之伊母我磨陀佐枳涅渠農《モトゴトニハナハサケドモナニトカモウツクシイモガマダサキデコヌ》に酷似Lでゐるのは、偶然とは言ひ難い。紀の歌が民間に謠はれてゐて、それから影響を受けたものであらう。
 
右一首防人、山名《ヤマナ》郡|丈部眞麿《ハセツカベノママロ》
 
ここに限つて防人と記したのは如何なる理由か。山名郡は遠江。和名抄に山名郡也末奈とあり。今、周知郡に入つてゐる。第四册附録東國萬葉地圖參照。丈部眞麿の傳はわからない。新撰姓名録に杖部《ハセツカベノ》造あり、丈は、杖の略字であらう。ハセツカベは走使部《ハシリツカヒベ》の省略と言はれでゐる。
 
4324 とへたほみ しるはの磯と 贄の浦と あひてしあらば 言もかゆはむ
 
等倍多保美《トヘタホミ》 志留波乃伊宗等《シルハノイソト》 爾閉乃宇良等《ニヘノウラト》 安比弖之阿良婆《アヒテシアラバ》 巳等母加由波牟《コトモカユハム》
 
遠江ノ白羽ノ磯ト贄ノ浦トガ、行キ合ツテヰルナラバ、私ハ故郷ノ白羽ノ磯ニ居ル妻ニ〔私ハ〜傍線〕言葉ヲ通ハサウノニ。モ(35)ハヤ贄ノ浦マデ來タノデ、故郷ノ白羽ノ磯トハ遠ク隔ツタカラ、ソレモ出來ナイノハ悲シイ〔モハ〜傍線〕。
 
○等倍多保美《トヘタホミ》――遠江。東歌では等保都安布美《トホツアフミ》(三四二九)とある。○志留婆乃伊宗等《シルハノイソト》――シルハノイソは白羽の磯か。新考所引の高林方朗の志留波の磯の考に「白羽《シルハ》といふところ今遠江國に榛原《ハイパラ》郡と豐田郡と敷知《フチ》郡とに三處ありて、みな海邊なり。右のうち榛原郡なると豐田郡なるとは、牧馬に關係あり。故おもふに上古は、遠江の海邊みな磯松おひつづきて、駒なども住みて、その海邊をおしなべて志留波とぞいひけむを、たえだえに其名殘りて、今三處にはあるなるべし」とある。第四册附録の東國萬葉地圖には、假に榛原都と推定して置いた。○爾閉乃宇良等《ニヘノウラト》――ニヘノウラはよくわからないが今、遠江濱名郡濱名湖の西北隅なる猪鼻湖畔の贄代ではないかと言はれてゐる。○安比弖之阿良婆《アヒテシアラバ》――一緒になつたならば。故郷の白羽磯と今、旅行しつつある贄の浦とが、相接してゐるならばの意であらう。○己等母加由波牟《コトモカユハム》――二人の間に言葉が通ふであらう。カユハムは通はむの東語。
〔評〕 志留波の磯と爾閉の浦との地形が、よく分らないのは遺憾であるが、ともかくも、防人に出て爾閉の浦に來た男が、故郷の志留波の磯の妻を戀ふる歌で、あはれな作品である。
 
右一首同郡|丈部川相《ハセツカベノカハヒ》
 
丈部川相の傳はわからない。
 
4325 父母も 花にもがもや 草枕 旅は行くとも ささごて行かむ
 
知知波々母《チチハハモ》 波奈爾母我毛夜《ハナニモガモヤ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多妣波由久等母《タビハユクトモ》 佐佐已弖由加牟《ササゴテユカム》
 
(36)父母ハ花デアツテ下サイヨ。サウシタラ私ハ〔七字傍線〕(久佐麻久良)旅ニ出カケテモ、捧ゲテ持ツテ〔三字傍線〕行キマセウ。父母ト離レマイト思ツテモ、父母ハ花デハナイカラ、捧ゲ持ツテ行クワケニモユカナイ〔父母ト〜傍線〕。
 
○知知波波母《チチハハモ》――父母も。モは詠歎の助詞。○波奈爾母我毛夜《ハナニモガモヤ》――ガモは希望。ヤは詠歎の助詞。○佐佐己弖由加牟《ササゴテユカム》――ササゴテは捧げでの東語。
〔評〕 明瞭な歌である。前の波波登布波奈乃《ハハトフハナノ》(四三二三)と似て、思想を美化してゐる。それだけ東國人の言葉らしくないところがある。
 
右一首|佐野《サヤ》郡丈部|黒當《クロマサ》
 
佐野郡は有名な佐夜の中山のある方面。第四册附録、東國地圖參照。黒當はクロマサと訓むか。この人の傳はわからない。
 
4326 父母が 殿のしりへの 百代草 百代いでませ 吾が來るまで
 
父母我《チチハハガ》 等能能志利弊乃《トノノシリヘノ》 母母余具佐《モモヨグサ》 母母與伊弖麻勢《モモヨイデマセ》 和我伎多流麻弖《ワガキタルマデ》
 
父母ハ〔三字傍線〕私ガ筑紫カラ〔四字傍線〕歸ツテ來ルマデ、(父母我等能能志利弊乃母母余久佐)百年モ御無事デ永ラヘテ〔八字傍線〕イラツシヤイ。
 
○父母我等能能志利弊乃母母余具佐《チチハハガトノノシリヘノモモヨグサ》――母母與《モモヨ》と言はむ爲の序詞。同音を繰返してつづいてゐる。父母の住む殿の背後に生えてゐる百代草。百代草は草の名らしく詠んであるが、どんな草かわからない。一に鴨頭草《ツキクサ》の異名といはれてゐる。藏玉集に、百夜草、菊、とあるのは、後世のもので證にはならない。又この頃菊は未だ無(37)かつた。この序詞におのづから父母の壽を祝する意が含まれてゐる。○母母與伊弖麻勢《モモヨイデマセ》――百代おはしませの意。代は年に同じ。○和我伎多流麻弖《ワガキタルマデ》――私が筑紫から歸つて來るまで。
 
〔評〕 形式も整齊、内容も至純、ことにその孝悌の情は人を動かさずにはおかないであらう。併し退いて考へると、父母の家を殿《トノ》と稱するも殊更らしい敬語であり、百代草の序詞も優雅に過ぎて、東國人らしい氣分が見えない。部領使の手が加はつてゐることは否まれない。この歌、古今六帖に載せてある。
 
 
右一首同郡|生玉部足國《イクタマベノタリクニ》
 
生玉部足國の傳はわからない。
 
4327 吾が妻も 畫にかきとらむ いつまもが 旅行くあれは 見つつしぬばむ
 
和我都麻母《ワガツマモ》 畫爾可伎等良無《ヱニカキトラム》 伊豆麻母加《イツマモガ》 多比由久阿禮波《タビユクアレハ》 美都都志努波牟《ミツツシヌバム》》
 
私ノ妻ヲモ、繪ニ畫キ取ルベキ暇ガアレバヨイガ。サウシタラ〔五字傍線〕旅ニ行ク私ハソノ繪ヲ携ヘテ行ツテ、ソレヲ〔ソノ〜傍線〕見テ妻ヲ〔二字傍線〕ナツカシク思ハウ。ソノ暇モナク急イデ出立シタノハ殘念ダ〔ソノ〜傍線〕。
 
○畫爾簡可伎等良無《エニカキトラム》――繪に書き寫し取るべき。○伊豆麻母加《イツマモガ》――暇《イトマ》もあれかし。イツマは、イトマの東語である。○多比由久阿禮波《タビユクアレハ》――旅行く我は。元暦校本に波を可に作つてゐるのでも通じないではないが、舊本のままがよい。略解・古義に我之《了レガ》の意として、可を濁つて訓むべしといつたのは從ひ難い。
〔評〕 これも優雅な作だ。集中數千首の戀歌の内、妻の肖像を畫き寫して携へたいと言つた例は他に一もない。當に大宮人輩を瞠若たらしむべき秀逸である。文化の進んだ都人だに思ひつかない勝れた構想が、東國の防人(38)によつて、詠まれてゐることに注意しなければならぬ。
 
右一首長(ノ)下郡|物部古麿《モノノベノフルマロ》
 
長下郡は前に出てゐる。物部古麿の傳はわからない。
 
二月六日防人|部領使《コトリヅカヒ》遠江國(ノ)史生坂本朝臣人上(ガ)進(ルル)歌(ノ)數、十八首、但有2拙劣歌十一首1不v取2載(セ)之(ヲ)1、
 
防人部領使はサキモリノコトリツカヒと訓む。防人を東國から筑紫へ送る時、命ぜられてこれを難波まで引率して行く職。國の地方官がこれに補せられた。史生は國の書記。坂本朝臣人上の傳はわからない。十八首を進つた内、拙い歌の十一首を省いて、七首だけ載せたとある編纂者の態度に注意したい。
 
4328 大君の 命かしこみ 磯に觸り うの原渡る 父母を置きて
 
於保吉美能《オホキミノ》 美許等可之古美《ミコトカシコミ》 伊蘇爾布理《イソニフリ》 宇乃波良和多流《ウノハラワタル》 知知波波乎於伎弖《チチハハヲオキテ》
 
私ハ〔二字傍線〕天子樣ノ仰ヲ恐レ入リ謹ンデ、防人トナツテ、ナツカシイ〔防人〜傍線〕父母ヲ家ニ殘シテ〔五字傍線〕置イテ、磯ノ岩ニ船ヲツキアテナガラ、海ノ上ヲ渡ツテ危イ旅ヲス〔七字傍線〕ル。
 
○伊蘇爾布理《イソニフリ》――磯に觸り。巖に船を觸れつつ。危い渡海の樣である。代匠記初稿本に「あら浪の磯をふるう(39)なはらを渡るなり」、同精撰本に「磯に袖を振りてと云へるにや」とあり、考に、「諸成按るに、磯にはふれなり。」波布の約布。故に布理といふ、はなれと云に同じ」とあるが、いづれも誤解である。○宇乃波良和多流《ウノハラワタル》――ウノハラは海原《ウナバラ》の東語。
〔評〕 三四の句に危い航海の樣が、巧に詠まれてゐる。親を捨てて身を顧みず、君に盡す心境をよんでゐる。三四の句は卷四の大船乎※[手偏+旁]乃進爾磐爾觸覆者覆妹爾因而者《オホフネヲコギノススミニイハニフリカヘラバカヘレイモニヨリテバ》(五五七)に似通つてゐる。
 
右一首|助丁丈部造人麿《スケノヨボロハセツカベノミヤツコヒトマロ》
 
助丁は、スケノヨボロと訓むのであらう。上丁に對するもので、その下位にあつた。他の例によると、この上に郡名を脱したのである。丈部造人麿の傳はわからない。元暦校本には、造の字がない。防人に、丈部を氏とするものは多いが、姓《カバネ》を記したのはこれのみである。
 
4329 八十國は 難波につどひ 舟飾り あがせむ日ろを 見も人もがも
 
夜蘇久爾波《ヤソクニハ》 那爾波爾都度比《ナニハニツドヒ》 布奈可射里《フナカザリ》 安我世武比呂乎《アガセムヒロヲ》 美毛比等母我母《ミモヒトモガモ》
 
澤山ノ國ノ防人〔三字傍線〕ガ難波ニ集マツテ、筑紫ヘ向ケテ出帆シヨウト船ヲ飾リ立テルガ〔筑紫〜傍線〕、私ガ船飾ヲスル日ノ有樣〔三字傍線〕ヲ、故郷ノ人ガ誰カ〔七字傍線〕見ル人ガアレバヨイガ。コノ有樣ヲ故郷ノ父母ニ見セタイモノダ〔コノ〜傍線〕。
 
○夜蘇久爾波《ヤソクニハ》――八十國の防人はといふべきを略してゐる。八十國は澤山の國々。○布奈可射里《フナカザリ》――舟飾り。舟の艤装であるが、色々の旗などを立てて、今日の滿艦飾のやうなことをしたのであらう。○安我世武比呂乎《アガセムヒロヲ》――吾が爲む日を、呂は添へて言ふのみ。東語に多い。○美毛比等母我母《ミモヒトモガモ》――見む人もがも。ミモは見ムの東(40)語。人は故郷の人。主として父母妻子などを指してゐる。
〔評〕 東國から防人部領使に引率せられて難波に來た壯丁は、此處で兵部省の官吏の手に渡つて、隊伍を編成し官船に分乘する。これらの船が難波を出帆する時、數知れぬ旗を押し立て、鼓を打ち角笛を吹きならし、一大壯觀を展開したであらうことは、想像に難くない。東國から來た一防人が、やがて展開さるべき光景を、故郷の父母妻子に見せたいと希望した心情は、やさしくもしをらしい。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
右一首|足下郡上丁丹比部國人《アシガラノシモノコホリカミツヨボロタヂヒベノクニヒト》
 
足下郡は足柄下郡の略書であるが、上代は皆かう書いたのである。足柄山以南、酒匂川以西の地。上丁は助丁の上位にある壯丁。丹比部國人の傳はわからない。
 
4330 難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でてまからむ 見る母なしに
 
奈爾波都爾《ナニハヅニ》 余曾比余曾比弖《ヨソヒヨソヒテ》 氣布能比夜《ケフノヒヤ》 伊田弖麻可良武《イデテマカラム》 美流波波奈之爾《ミルハハナシニ》
 
難波津ニ船ヲ〔二字傍線〕盛ニ飾リ立テテ、今日ハ、コノ盛ナ私ノ船出ヲ〔九字〜傍線〕見送ル母モナクテ、難波津ヲ〔四字傍線〕出カケテ筑紫ヘ〔三字傍線〕行クコトカヨ。アア悲シノ〔五字傍線〕。
 
○余曾比余曾比弖《ヨソヒヨソヒテ》――舟艤ひして。その盛な有樣をあらはす爲に、言葉を重ねたのである。○伊田弖麻可良武《イデテマカラム》――出でて罷らむ。出帆するであらう。マカルは行くこと。
〔評〕 出帆の壯觀を母に見せたい心と、もう一目母に逢ひたい心とが、こんがらかつてゐる。よく整つた歌だ。
 
右一首鎌倉郡上丁|丸子連多麿《マロコノムラジオホマロ》
 
(41)鎌倉郡は三浦半島の北部。丸子連多麿の傳はわからない。
 
二月七日相模國防人部領使(ノ)守從五位下藤原朝臣宿奈麿進(ムル)歌(ノ)數八首、但拙劣歌五首者不v取(リ)2載(セ)之(ヲ)1
 
藤原朝臣宿奈麿は續紀によると、天平十八年四月正六位から從五位下、同六月越前守、同九月上總守、勝寶四年十一月相模守になつた。その後、民部少輔、右中辨、上野守、造宮大輔、太宰帥、兵部卿、造法華寺長官、參議、式部卿に歴任し、名を良繼と改め内大臣に至り、寶龜八年九月丙寅に薨じた。續紀はその條に記して、「内大臣從二位動四等藤原朝臣良繼薨、平城朝參議正三位式部卿太宰帥馬養之第二子也、天平十二年坐2兄廣嗣謀反1流2于伊豆1、十四年免v罪補2少判事1、十八年授2從五位1、歴2職内外1、所在無v績、太師押勝起2宅於楊梅宮南1、東西構v樓、高臨2裏1、南面之門便以爲v櫓、人士側v目、稍有2不臣之譏1、于v時押勝之男三人並任2參議1、良繼位在2子姪之下1、益懷2忿怨1、乃與2從四位下佐伯宿禰今毛人從五位上石上朝臣宅嗣大伴宿禰家持等1、同謀欲v害2太師1、於v是右大舍人弓削宿禰男廣知v計以告2太師1、即皆捕2其身1、下v吏驗v之、良繼對曰、良繼獨爲2謀首1、他人曾不2預知1、於v是強劾2大不敬1、除v姓奪v位、居二歳仲滿謀反、走2於近江1、即日奉v詔、將2兵數百1、追而討v之、授2從四位下勲四等1、尋補2參議1、授2從三位1、寶龜二年自2中納言1拜2内臣1、賜2職封一千戸1、專v政、得v志、升降自由、八年任2内大臣1薨時年六十二、贈2從一位1、」とある。以つてその履歴と人物とを知るべく、又家持と特殊關係があつたことがわかる。
 
追(ヒ)2痛(ミテ)防人(ノ)悲(シム)v別(ヲ)之心(ヲ)1作(レル)歌一首并短哥
 
(42)防人の別を悲しむ心に同情して大伴家持が作つた歌。
 
4331 すめろぎの 遠のみかどと しらぬひ 筑紫の國は あた守る おさへの城ぞと 聞しをす 四方の國には 人さはに 滿ちてはあれど 鳥がなく 東男は 出で向ひ 顧みせずて 勇みたる 猛きいくさと 勞ぎ給ひ 任けのまにまに たらちねの 母が目かれて 若草の 妻をもまかず あらたまの 月日よみつつ 蘆が散る 難波の御津に 大船に まかいしじ貫き 朝なぎに 水手ととのへ 夕汐に 楫引きをり あどもひて 漕ぎ行く君は 波の間を い行きさぐくみ 眞幸くも 早く到りて 大王の 命のまにま ますらをの 心を持ちて 在り廻り 事し畢らば つつまはず 歸り來ませと 齋瓮を 床べに据ゑて 白妙の 袖折り反し ぬば玉の 黒髪しきて 長きけを 待ちかも戀ひむ はしき妻らは
 
天皇乃《スメロギノ》 等保能朝廷等《トホノミカドト》 之良奴日《シラヌヒ》 筑紫國波《ツクシノクニハ》 安多麻毛流《アタマモル》 於佐倍乃城曾等《オサヘノキゾト》 聞食《キコシヲス》 四方國爾波《ヨモノクニニハ》 比等佐波爾《ヒトサハニ》 美知弖波安禮杼《ミチテハアレド》 登利我奈久《トリガナク》 安豆麻乎能故波《アヅマヲノコハ》 伊田牟可比《イデムカヒ》 加敝里見世受弖《カヘリミセズテ》 伊佐美多流《イサミタル》 多家吉軍卒等《タケキイクサト》 禰疑多麻比《ネギタマヒ》 麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》 多良知禰乃《タラチネノ》 波波我目可禮弖《ハハガメカレテ》 若草能《ワカクサノ》 都麻乎母麻可受《ツマヲモマカズ》 安良多麻能《アラタマノ》 月日餘美都都《ツキヒヨミツツ》 安之我知流《アシガチル》 難波能美津爾《ナニハノミツニ》 大船爾《オホブネニ》 末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》 安佐奈藝爾《アサナギニ》 可故等登能倍《カコトトノヘ》 由布思保爾《ユフシホニ》 可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》 安騰母比弖《アドモヒテ》 許藝由久伎美波《コギユクキミハ》 奈美乃間乎《ナミノマヲ》 伊由伎佐具久美《イユキサグクミ》 麻佐吉久母《マサキクモ》 波夜久伊多里弖《ハヤクイタリテ》 大王乃《オホキミノ》 美許等能麻爾末《ミコトノマニマ》 麻須良男乃《マスラヲノ》 許己呂乎母知弖《ココロヲモチテ》 安里米具理《アリメグリ》 事之乎波良婆《コトシヲハラバ》 都都麻波受《ツツマハズ》 可敝理伎麻勢登《カヘリキマセト》 伊波比倍乎《イハヒベヲ》 等許敝爾須惠弖《トコベニスヱテ》 之路多倍能《シロタヘノ》 蘇田遠利加敝之《ソデヲリカヘシ》 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 久路加美之伎弖《クロカミシキテ》 奈我伎氣遠《ナガキケヲ》 麻知可母戀牟《マチカモコヒム》 波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》
 
天子樣ノ遠クノ役所トシテ(之良奴日)筑紫ノ國ハ、外國ノ〔三字傍線〕敵ヲ防禦スル城デアルゾトテ、大切ナ所デアルカラ〔大切〜傍線〕(43)天子樣ノ御支配遊バス四方ノ國ニハ、人ガ澤山ニ充チ滿チテヰルケレドモ、(登利我奈久)東ノ國ノ男ハ、敵ニ〔二字傍線〕出デ向ツテ、後ヲ顧ミナイデ、勇マシイ強イ軍兵ダト思召シテ〔四字傍線〕勞ヒ給ヒ、防人ニ〔三字傍線〕御任命ニナツタノデ、ソレ〔三字傍線〕ニ從ツテ、(多良知禰乃)母ト別レテ、(若草能)妻ノ手〔二字傍線〕ヲモ枕セズ、(安良多麻能)月日ヲ数ヘツツ幾月モカカツテ〔七字傍線〕、(安之我知洗)難波ノ三津ノ濱ニ、大キイ船ニ楫ヲ澤山ニ貫キ、朝海ガ和イデヰル時、船頭ヲ呼ビ整ヘ、夕方差シテ來ル汐ニ、楫ガ曲ルホド漕イデ、互ニ〔二字傍線〕引キ連レテ漕イデ行ク貴方ハ、波ノ立ツ間ヲ押シ分ケテ通リ、無事デ早ク先方ニ〔三字傍線〕到着シテ、天子樣ノ詔ノマニマニ、大丈夫ノ強イ〔二字傍線〕心ヲ持ツテ、役ヲ勤メ國内ヲ〔七字傍線〕引キツヅイテ行キ巡ツテ、御用ガスンダナラバ、御無事デ歸ツテ御イデナサイト、神様ヲ祭ル爲ノ〔七字傍線〕齋瓶ヲ床ノ邊リニ据ヱツケテ、(之路多倍能)袖ヲ折リ返シ、(奴婆多麻乃)黒髪ヲ床ノ上ニ〔四字傍線〕敷イテ、獨デ寢ナガラ〔六字傍線〕、愛スル妻ドモハ私ヲ戀シク思ヒツツ〔九字傍線〕幾日モ長イ間待ツテヰルコトデアラウ。
 
○天皇乃《スメロギノ》――略解にオホキミノと訓んだのはよくない。○等保能朝廷等《トホノミカドト》――遠くの役所と。○之良奴日《シラヌヒ》――枕詞。筑紫につづく。卷三の白縫《シラヌヒ》(三三六)參照。○於佐倍乃城曾等《オサヘノキゾト》――防禦の城なりとて。城《キ》はすべて一區劃をなした場所をいふ。○聞食《キコシヲス》――天皇の支配し給ふ。○登利我奈久《トリガナク》――枕詞。吾妻《アヅマ》につづく。鳥之鳴《トリガナク》(一九九)參照。○伊田牟可比加弊里見世受弖《イデムカヒカヘリミセズテ》――敵に出で向ひ、後を顧みることなく。東國の男子が戰場に、身命を捨てて戰ふ勇ましさは、古くから世に知られてゐたので、その爲、防人として東國人を徴發したのである。神護景雲三年十月乙未朔の宣命にも、「是東人《コノアヅマビトハツネニイハク》、額爾止毛不立一心護物此心知汝都可弊比之御命不忘《ヒタヒニハヤハタツトモセハヤハタタジトイヒテキミヲヒトツココロヲモチテマモルモノゾコノココロシリテミマシツカヘトノリタマヒシオホミコトヲワスレズ》、此状悟諸東國人等謹之麻利奉侍《カクノサマトリテモロモロアヅマノクニノヒトドモツツシマリツカヘマツレ》」とある。○多家吉軍卒等《タケキイクサト》――軍卒をイクサとよんであるやうに、イクサの本義は、軍兵である。○禰疑多麻比《ネギタマヒ》――勞らひ給ひ。卷六に掻撫賜打撫賜《カキナデゾネギタマフウチナデゾネギタマフ》(九七三)とある。○麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》――天皇の御任命に隨つて。○多良知禰乃《タラチネノ》――枕詞。母とつ(44)づく。帶乳根乃《タラチネノ》(四四三)參照。○波波我目可禮弖《ハハガメカレテ》――母が目離れて。母と相見ることの出來ない意。○若草能《ワカクサノ》――枕詞。妻《ツマ》に冠す。若草乃《ワカクサノ》(一五三)參照。○都麻乎母麻可受《ツマヲモマカズ》――妻をも枕かず。妻と共に寢ず。○安良多麻乃《アラタマノ》――枕詞。年につづくのを常とするが、ここは月につづいてゐる。荒玉之《アラタマノ》(四四三)參照。○安之我知流《アシガチル》――枕詞。蘆の花散る難波とつづく。○末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》――左右の櫂を繁く貫き。○可故等登能倍《カコトトノヘ》――水夫を呼び集めて。○可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》――楫を折れるほどに撓ませて漕ぐこと。卷二にも行船乃梶引折而《ユクフネノカヂヒキヲリテ》(二二〇)とある。○安騰母比弖《アドモヒテ》――率ゐて。卷二に御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアドモヒタマヒ》(一九九)とある。○伊由伎佐具久美《イユキサグクミ》――イは接頭語。サグクミはサグムに同じ。踏み分けること。卷四に浪上乎五十左具久美《ナミノウヘヲイユキサグクミ》(五〇九)とある。○安里米具里《アリメグリ》――在り在りて廻り。在りは絶えず續く意。○都都麻波受《ツツマハズ》――つつまふといふ動詞を打消してゐる。恙無くに同じ。つつまふはつつむ。病氣災害あること。○伊波比倍乎《イハヒベヲ》――齋瓮《イハヒベ》は神を祭る酒瓶。○之路多倍能《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。○蘇田遠利加敝之《ソデヲリカヘシ》――袖を折り反し。思ふ人を夢に見る爲である。○奴婆多麻乃《ヌバタマノ》――枕詞。黒とつづく。奴婆珠乃《ヌバタマノ》(八九)參照。○奈我伎氣遠《ナガキケヲ》――長き日を。長い月日の間。
〔評〕 東國人の武勇の誇り、防人に擇ばれる者の光榮その辛勞、家族の悲別などを順序よく述べて、整然たる作品となつてゐるが、古歌の成語を幾個所も使用してゐるのは感心出來ない。なほ、これらの壯丁を、東夷あつかひにせず、丁寧な言葉遣ひをしてゐるのは、大君のまけのまにまに赴く人としての敬意が、然らしめたものであらう。
 
反歌
 
4332 ますらをの 靱取り負ひて 出でていけば 別を惜しみ 嘆きけむ妻
 
麻須良男能《マスラヲノ》 由伎等里於比弖《ユギトリオヒテ》 伊田弖伊氣婆《イデテイケバ》 和可禮乎乎之美《ワカレヲヲシミ》 奈氣伎家牟都麻《ナゲキケムツマ》
 
(45)益荒雄ガ靱ヲ背ニ〔二字傍線〕負ツテ、武装シテ防人ニ〔七字傍線〕出カケテ行クト、別ヲ惜シンデ泣イタデアラウソノ〔二字傍線〕妻ヨ。可愛サウナコトダ〔八字傍線〕。
 
○由伎等里於比弖《ユギトリオヒテ》――靱を背に取り負つて。靱は矢を入れて背に負ふもの。○奈氣伎家牟都麻《ナゲキケムツマ》――妻は嘆きけむといふのではなく、嘆きけむ妻よといふのであらう。
〔評〕 留守居する妻に同情してゐる。結句の名詞止が語勢を緊張せしめてゐる。
 
4333 とりが鳴く 東男の 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み
 
等里我奈久《トリガナク》 安豆麻平等故能《アヅマヲトコノ》 都麻和可禮《ツマワカレ》 可奈之久安里家牟《カナシクアリケム》 等之能乎奈我美《トシノヲナガミ》
 
(等里我奈久)東國ノ男ガ防人ニナツテ出カケル時ノ〔サキモリ〜傍線〕妻トノ別レハ、ソノ離レテヰル〔七字傍線〕年ノ期間ガ長イノデ、サゾ〔二字傍線〕悲シカツタデアラウ。
 
○安豆麻乎等故能《アヅマヲトコノ》――長歌には安豆麻乎能故《アヅマヲノコ》とあり、ここに乎等故《ヲトコ》とあるに注意したい。當時雨樣に用ゐられてゐたのである。
〔評〕 前歌に、妻に就いて別離の悲を述べたので、これは夫について言つたもの。凡作。
 
右二月八日兵部少輔大伴宿禰家持
 
大伴家持が、兵部省の官吏として、防人の事務を鞅掌し、第三者として防人の別離の情を詠んだのが右の作である。
 
4334 海原を 遠く渡りて 年ふとも 兒らが結べる 紐解くなゆめ
 
(46)海原乎《ウナバラヲ》 等保久和多里弖《トホクワタリテ》 等之布等母《トシフトモ》 兒良我牟須敝流《コラガムスベル》 比毛等久奈由米《ヒモトクナユメ》
 
海ノ上ヲ遠ク渡ツテ國ヲ出テカラ〔七字傍線〕年ガタツテモ、家ヲ出ル時ニオマヘノ〔十字傍線〕妻ガ結ンデクレタ着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ、決シテ解クナヨ。旅デ他ノ女ニ心ヲ移スナヨ〔旅デ〜傍線〕。
 
○兒良我卑須敝流《コラガムスベル》――兒らは妻を指す。門出に際して、妻が着物の紐を結んでやつたのである。
〔評〕 留守居の妻の心情を想像し、防人に忠言を與へてゐる。訓戒的態度だ。
 
4335 今替る 新防人が 船出する 海原のうへに 浪な開きそね
 
今替《イマカハル》 爾比佐伎母利我《ニヒサキモリガ》 布奈弖須流《フナデスル》 宇奈波良乃宇倍爾《ウナバラノウヘニ》 奈美那佐伎曾祢《ナミナサキソネ》
 
前ノ防人ト〔五字傍線〕新シク交代シテ、コノ難波カラ筑紫ヘ出力ケ〔テコ〜傍線〕ル新防人ガ、船出ヲスル海ノ上ニハ、浪ガ立ツナヨ。ドウカ無事デ行ツテクレ〔ドウ〜傍線〕。
 
○今替《イマカハル》――新たに交代する。○爾比佐伎母利我《ニヒサキモリガ》――新防人が。卷七に今年去新島守之麻衣《コトシユクニヒサキモリガアサゴロモ》(一二六五)とある。○奈美那佐伎曾祢《ナミナサキソネ》――波よ咲く勿れ。波の白く立つを、花に譬へて咲くといつた。卷六に四良名美乃五十開回有住吉能濱《シラナミノイサキメグレルスミノエノハマ》(九三一)、卷十四に阿遲可麻能可多爾佐久奈美《アヂカマノカタニサクナミ》(三五五一)とある。
〔評〕 新防人の爲に、航路の平穩を祈つたもの。結句の用語に新味を持たしてある。併し、それも既に先例があるのは遺憾だ。
 
4336 防人の 堀江漕ぎ出る 伊豆手船 楫取る間なく 戀は繁けむ
 
(47)佐吉母利能《サキモリノ》 保理江己藝豆流《ホリエコギヅル》 伊豆手夫祢《イヅテブネ》 可治登流間奈久《カヂトルマナク》 戀波思氣家牟《コヒハシゲケム》
 
防人ガ難波ノ〔三字傍線〕堀江ヲ伊豆手船ニ乘ツテ〔八字傍線〕漕イデ出カケルガ、ソノ〔三字傍線〕伊豆手船ノ櫓ヲ繰ル絶エ〔二字傍線〕間ノ無イヤウニ、防人ハ〔三字傍線〕絶エズ家ノ妻ヲ〔四字傍線〕戀シク思フデアラウ。
 
○保理江己藝豆流《ホリエコギヅル》――堀江は難波の堀江。今の天滿川であらうといふ。作夜深而穿江水手鳴《サヨフケテホリエコグナル》(一一四三)參照。○伊豆手夫禰《イヅテブネ》――伊豆手船は五つ手船即ち片側に五挺づつ櫓をかけた舟、伊豆から出た舟、伊豆で作つた舟、伊豆型の船などの諸説があつて、よくわからないが、他に松浦船《マツラブネ》(一一四三)・眞熊野之船《マクマヌノフネ》(九四四)・足柄小舟《アシガラヲブネ》(三三六七)などの例から推すと、伊豆型の船の義であらう。その制は明らかでない。
〔評〕 實景を捉へて譬喩としたのはよいが、卷十二の松浦舟亂穿江之水尾早梶取間無所念鴨《マツラブネサワグホリエノミヲハヤミカヂトルマナクオモホユルカモ》(三一七三)を少し改作したやうに見えるのは惜しい。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右九日大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
4337 水鳥の 立ちの急ぎに 父母に 物はず來《け》にて 今ぞ悔しき
 
美豆等利乃《ミヅトリノ》 多知能已蘇岐爾《タチノイソギニ》 父母爾《チチハハニ》 毛能波須價爾弖《モノハズケニテ》 已麻叙久夜志伎《イマゾクヤシキ》
 
(美豆登利乃)出立ノ忙シサマギレ〔三字傍線〕ニ、父母ニ碌々〔二字傍線〕物モ言ハズニ來テシマツタノデ、今更殘念ニ思フヨ。
 
○美豆等利乃《ミヅトリノ》――枕詞。水鳥の飛び立つ意で、多知《タチ》につづく。○多知能已蘇伎爾《タチノイソギニ》――出立の忙しさに。イソギ(48)を準備、支度と解するのは、ここには適切でない。○毛能波須價爾弖《モノハズケニテ》――物言はず來にて。ケは來《キ》の東語。
〔評〕 卷十四の水都等利乃多多武與曾比爾伊母能良爾毛乃伊波受伎爾※[氏/一]於毛比可禰都毛《ミヅトリノタタムヨソヒニイモノラニモノイハズキニテオモヒカネツモ》(三五二八)を改作したもの。無理に歌を作らしめられた苦しまぎれか。
 
右一首|上丁有度部牛麿《カミツヨボロウトベノウシマロ》
 
舊本、有度郡とある。有度郡は駿河の郡名であるが、ここの一團の歌はいづれも郡名を記さず、又、元暦校本その他の古本、郡を部に作つてゐるから、有度部の誤である。有度部牛麿の傳はわからない。
 
4338 疊薦《たたみけめ》 牟良自が磯の 離磯《はなりそ》の 母を離れて 行くが悲しさ
 
多多美氣米《タタミケメ》 牟良自加巳蘇乃《ムラジガイソノ》 波奈利蘇乃《ハナリソノ》 波波乎波奈例弖《ハハヲハナレテ》 由久我加奈之佐《ユクガカナシサ》
 
私ハ〔二字傍線〕(多多美氣米牟良自加已蘇乃波奈利蘇乃)母ノ〔二字傍線〕側ヲ離レテ防人トナツテ遠ク筑紫ヘ〔防人〜傍線〕行クノハ悲シイヨ。
 
○多多美氣米《タタミケメ》――代匠記初稿本は「たたみけめは疊薦なり。こも草かり集めたるをむらといふ心にていへり。今案、延喜式に榑一村ともいへり。又日本紀絹一疋をもひとむらといひ、布一端をもひとむらといひたれば、薦一枚をもひとむらふたむらといふ心にかくはつゝけたる歟」とあり、精撰本はこれを改めて、「發句は古と氣と毛と米と共に五音にて通ずれば、疊薦《タタミコモ》なり。疊を敷ならぶれば縁《ヘリ》の有て、村々に見ゆれば、むらしが磯とつつけたり」と言つてゐる。考は「氣《ケ》と古《コ》同音、たたみこもをかくいへるにて、下へあむとかけし阿をはぶけるなり」とある。古義は米を布か不の誤とし、直向《タダムカフ》といふことを、東詞に多々美氣布《タタミケフ》と云ふのであらう。然らば枕詞ではないといつてある。いづれも臆説で採るべきものはないが、しばらく枕詞として、疊薦編むとつづくと(49)した考の説に從はう。○牟良自加巳蘇乃《ムラジガイソノ》――牟良自が磯といふ地名が駿河にあるのであらうが、今その所在を知り難い。○波奈利蘇乃《ハナリソノ》――離れ磯の。海岸より離れて立つてゐる巖。ここまでの三句は、次の句の波奈例弖《ハナレテ》につづく爲の序詞で、同音を繰返してゐる。
〔評〕 母を思ふ孝子の心。序詞の手際が巧である。
 
スケノヨボロイクベ
右一首|助丁生部《》道麿
 
生部道麿の傳はわからない。
 
4339 國巡る あとりかまけり 行き廻り 歸《かひ》り來までに 齋ひて待たね
 
久爾米具留《クニメグル》 阿等利加麻氣利《アトリカマケリ》 由伎米具利《ユキメグリ》 可比利久麻弖爾《カヒリクマデニ》 己波比弖麻多禰《イハヒテマタネ》
 
私ガ防人トシテ西)國ヲ〔私ガ〜傍線〕、國々ヲ飛ビ廻ル※[獣偏+葛]子鳥ノ喧シイヤウニ、行キ廻ツテ歸ツテ來ルマデ、私ノ無事ヲ〔五字傍線〕神ニ祈ツテ待ツテ居ナサイ。
 
○阿等利加麻氣利《アトリカマケリ》――阿等利は仙覺などの古説は、「我一人《ワレヒトリ》」の意としてあるが、無理である。代匠記精撰本に「今按アトリは※[獣偏+葛]子鳥《アトリ》歟。和名集云、辨色立成云、臘嘴鳥【阿止里、一名胡雀】楊氏漢語抄云、※[獣偏+葛]子鳥、【和名上同、今案兩説所出未v詳、但本朝國史用2※[獣偏+葛]子鳥4、又或説云、此鳥群飛如3列卒之滿2山林1故名2※[獣偏+葛]子鳥1也】」とあるのがよいやうだ。※[獣偏+葛]子鳥のことは、天武天皇紀に「七年十二日癸丑朔、己卯臘子鳥蔽v天、自2西南1飛2東北1」と見える。この鳥は一にアツトリとも稱し、燕雀類、雀科の鳥で、雀より稍大きく嘴が臘の如き色をなし、頭部は淡い藍色で鼠色を帶び、背は青色で黒い斑點がある。群集して飛行する習性を有つてゐる。カマケリはよく分らない。代匠記精撰本に感の意として、「防人等が勅命に依て急ぎ立を、※[獣偏+葛](50)子鳥の物に感じて群立如くにて、獨漏て留る事を得ぬに喩ふる歟」と言つてゐるのは比較的良い説であらう。新訓はそれに從つてゐる。略解にあげた大平説では、「かまびすしき也。かしかまし、やかましなど皆かまと云。さてあとりのわたるは甚かまびすしきもの也。初二句は行廻りの序也。國を廻るあとりの、かまびすしく渡り行く如くに行きめぐり也」とある。古義はアトリを當《アタリ》、カを發語。マケリを負有《マケリ》とし、「防人の年番の當《アタリ》に負有《マケリ》なり。年番に當るをば、人々厭ふから、番に當るを負《マケ》ともいふべくおぼゆ」と言つた大神眞潮の説をあげ、當《アタリ》の説を賛し、「麻氣利《マケリ》は任有《マケリ》なるべし。さらば、この二句は國々を巡る防人の年番に當りて、任《マケ》られたりといふ意なるべし」と言つてゐる。この他新考は「マケリはモコロの訛にて如クといふことなり」と言ひ、松岡靜雄氏は※[獣偏+葛]子鳥《アトリ》・鴨《カマ》・鳧《ケリ》と三種の鳥名にしてゐる。以上の諸説、未だ從ふべきを見出さない。或は加麻を轉倒して、麻加氣利《マカケリ》として眞※[走+羽]りと見てはどうかと思ふが、これも落付かない。しばらく太平説に從つて置かう。○可比利久麻弖爾《カヒリクマデニ》――歸つて來るまでに。カヒリは歸《カヘ》りの東語。
〔評〕 第二句が意がよく通じないのは、遺憾であるが、良行の音が多い爲か、調が流暢である。
 
右一首|刑部《オサカベ》虫麿
 
刑部虫麿の傳はわからない。
 
4340 父母え 齋ひて待たね 筑紫なる 水漬く白玉 取りて來までに
 
知知波波江《チチハヽエ》 巳波比弖麻多禰《イハヒテマタネ》 豆久志奈流《ツクシナル》 美豆久白玉《ミツクシラタマ》 等里弖久麻弖爾《トリテクマデニ》
 
私ガ〔二字傍線〕筑紫ヘ行ツテアチラノ海〔ヘ行〜傍線〕ノ)水ニ漬ツテヰル眞珠ヲ、取ツテ歸ツテ〔三字傍線〕來ルマデ、父母ヨ、神樣ニ私ノ無事ヲ〔八字傍線〕祈(51)ツテ待ツテ居テ下サレ。
 
○知知波波江《チチハヽエ》――父母よ。エはヨの東語。古葉略類聚抄に江を波に作つてゐる。新考はこれをよいとしてゐるが、やはり江がよいであらう。○美豆久白玉《ミツクシラタマ》――水漬く白玉。水中に没してゐる眞珠。
〔評〕 筑紫から、眞珠のお土産を父母に持つて來ようといふ、孝心が詠んであるが、少しわざとらしい作品でもある。
 
右一首川原虫麿
 
川原虫麿の傳はわからない。
 
4341 橘の 美衣利の里に 父を置きて 道の長路は 行きがてぬかも
 
多知波奈能《タチバナノ》 美衣利乃佐刀爾《ミエリノサトニ》 父乎於伎弖《チチヲオキテ》 道乃長道波《ミチノナガヂハ》 由伎加弖努加毛《ユキガテヌカモ》
 
私ハ防人ニ出カケタガ〔私ハ〜傍線〕(多知波奈能)美衣別ノ里トイフ私ノ故郷〔七字傍線〕ニ父ヲ殘シテ置イテ、長イ道中後髪引カレルヤウウデ〔十字傍線〕、先ヘ歩ムコトガ出來ナイヨ。
 
○多知波奈能《タチバナノ》――枕詞。橘の實とつづくといはれてゐる。但し今庵原郡小島村に大字立花がある。其處が多知波奈能美衣利乃佐刀《タチバナノミエリノサト》だらうといふ説もある。○美衣利乃佐刀爾《ミエリノサトニ》――美衣利の里は所在不明。上記の如く庵原郡小島村大字立花とする説もあるが、多知波奈能《タチバナノ》を枕詞とする時、これは成立しなくなる。宣長は「和名抄の駿河の志太郡に夜梨郷あり、夜は衣の誤歟、又ここの衣は夜の誤か」と言つてゐる。○由伎加弖努加毛《ユキカテヌカモ》――行くに堪へないよ。
(52)〔評〕 母を思ふ歌は多いが、父を戀ふるのは稀である。その尠い作品中の一として、注意すべきものであらう。
 
右一首|丈部足麿《ハセツカベノタリマロ》
 
4342 眞|木《け》柱 ほめて造れる 殿の如 いませ母刀自 面《おめ》變りせず
 
麻氣波之良《マケバシラ》 寶米弖豆久禮留《ホメテツクレル》 等乃能其等《トノノゴト》 巳麻勢波波刀自《イマセハハトジ》 於米加波利勢受《オメガハリセズ》
 
祝言ヲ唱ヘテ神樣ヲ御祭リシテ〔八字傍線〕、眞木柱ヲ建テテ造ツタ御殿ガ何時マデモ動カヌ〔九字傍線〕ヤウニ、母上ヨ。年トツテ衰ヘテ〔七字傍線〕顔モ變ラズニ、私ノ歸ルマデ無事デ〔九字傍線〕イラツシヤイヨ。
 
○麻氣波之良《マケバシラ》――眞木柱《マキバシラ》の東語。檜の柱。木をケといふ例は、麻都能氣乃奈美多流美禮婆《マツノケノナミタルミレバ》(四三七五)とある。○寶米弖豆久禮留《ホメテツクレル》――褒めて造るとは賀詞《ヨゴト》を唱へて作ること、即ち神を祭つて家を新造することである。○巳麻勢波波刀自《イマセハハトジ》――いらつしやいよ、母上よ。刀自は女の尊稱。○於米加波利勢受《オメガハリセズ》――面變りせず。オメは面《オモ》の東語。
〔評〕 内容といひ調子といひ、實に立派な作品である。マケを眞木《マキ》に、オメを面《オモ》に改めたならば、都人の作としても優秀なものだ。眞淵が「飛騨たくみほめて作れる眞木柱立てし心は動かざらまし」と詠んだのは、これに暗示を得たのであらう。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
 
右一首|坂田部首麿《サカタベノオヒトマロ》
 
下に商長首麿《アキヲサノオヒトマロ》(四三四四)とあるに傚へば、この人の氏は坂田部、名は麿。首はカバネである。傳はわからない。
 
4343 吾等《わろ》旅は 旅と思ほど 家にして 子|持《め》ち痩すらむ 吾が妻《み》かなしも
 
(53)和呂多比波《ワロタビハ》 多比等於米保等《タビトオメホド》 巳比爾志弖《イヒニシテ》 古米知夜須良牟《コメチヤスラム》 和加美可奈志母《ワガミカナシモ》
 
私ノ旅ハ旅ダト思ツテ辛クテモアキラメル〔ツテ〜傍線〕ケレドモ、家ニ留守居〔三字傍線〕シテ子ドモヲ育テテ、苦勞シテ〔四字傍線〕痩セ細ツテヰルト思ハレル、吾ガ妻ハ可愛サウダ。
 
○和呂多比波《ワロタビハ》――吾が旅はの意であらう。ワロは吾《ワ》にロを添へた形で、このロは東語に多く用ひられてゐる。我《ワレ》と同語とも思はれるが、我旅《ワレタビ》では少し穩やかでない。○多比等於米保等《タビトオメホド》――旅と思へどの東語。○巳比爾志弖《イヒニシテ》――舊訓コヒニシテとあり、代匠記以下の諸説いづれも、戀にしての意に解してゐるが、已をイとしてイヒニシテと訓み、家にしての東語とした新考がよいのではあるまいか。已をイの假名に用ゐたのは、他卷には一寸見當らないが、この卷には多知能已蘇伎爾《タチノイソギニ》(四三三七)・牟良自加已蘇乃《ムラジガイソノ》(四三三八)・巳波比弖麻多彌《イハヒテマタネ》(四三四〇)など數例ある。家は伊波呂爾波《イハロニハ》(四四一九)、伊波妣等乃《イハビトノ》(四三七五)の如く、東語でイハといつたやうであるが、イヘの例も澤山ある。又イヒとも言つたのであらう。○古米知夜須良牟《コメチヤスラム》――この句はよくわからない。代匠記精撰本は、「知と※[氏/一]と同じ五音にて、籠て痩らむなり。云々」とあり、考は古を於の誤として、オメチヤスラムと改め、「おももちを略通しておめちと云は、方言おのづから然なるなり。やすらんは痩らんなり」と言つてゐる。略解は「こめちは、古は加保の約、知は毛弖を約轉せるにて、顔面《カホオモテ》ならむ。やすらむは、痩ぬらむ也。おもてのおは連言故略ける也。又はおも持と言ふ事物語に見ゆれば顔持にや」とある。古義は略解と同説、新考は考と同説である。併しこれらの諸説よりも、新訓に「子|持《め》ち痩すらむ」と訓んであるのがよいやうであるから、これに從ふことにしよう。子を持つて、育てる爲に苦勞して痩せるであらうの意。○和可美可奈志母《ワガミカナシモ》――吾が身悲しもでは意が通じ難い。吾が妻《め》愛《かな》しもの訛音と見るべきであらう。
〔評〕 少し意が通じ難い點があるが、右のやうに解すると、旅中家妻を思ふ心がいたいたしい。殊に三句以下は(54)まことに哀で、類例のない歌である。
 
右一首|玉作部廣目《タマツクリベノヒロメ》
 
玉作部廣目の傳はわからない。
 
4344 忘らむと 野行き山行き 我來れど 吾が父母は 忘れせぬかも
 
和須良牟砥《ワスラムト》 努由伎夜麻由伎《ヌキヤマユキ》 和例久禮等《ワレクレド》 和我知知波波波《ワガチチハハハ》 和須例勢努加毛《ワスレセヌカモ》
 
私ハ故郷ノ父母ノコトヲ〔九字傍線〕忘レヨウト思ツテ、野ヲ通ツタリ山ヲ通ツタリシテ、旅ヲ續ケテ〔五字傍線〕來ルケレドモ、途中ノ景色ニモ心ガ慰メラレズ〔途中〜傍線〕、私ノ父母ハ忘レハシナイヨ。
 
○和須良牟砥《ワスラムト》――忘らむと。忘れようと。忘るは四段活用の動詞。○和須例勢努加毛《ワスレセヌカモ》――忘れはしないよ。忘れられないよ。この忘れは、下二段活用の動詞。
〔評〕 父母を思ふの情、惻々として人を動かすものがある。首うなだれつつ、旅行く若者の姿も見えるやうだ。
 
右一首|商長首麿《アキヲサノオヒトマロ》
 
商長首麿の傳はわからない。姓氏録に商長首とあるによると、商長が氏で麿は名である。
 
4345 吾妹子と 二人吾が見し うちえする 駿河の嶺らは 戀《くふ》しくめあるか
 
和伎米故等《ワギメコト》 不多利和我見之《フタリワガミシ》 宇知江須流《ウチエスル》 須流河乃禰良波《スルガノネラハ》 苦不(55)志久米阿流可《クフシクメアルカ》
 
故郷ニヰル時ニ〔七字傍線〕吾ガ妻ト共ニ二人デ私ガ見タ、故郷ノ〔三字傍線〕(宇知江須流)駿河ノ山ハ戀シイヨ。
 
○和伎米故等《ワキメコト》――吾妹兒《ワキモコ》を訛つてワキメコと發音したのであらう。○宇知江須流《ウチエスル》――枕詞。駿河に冠す。卷三の打縁流駿河能國與《ウチヨスルスルガノクニト》(三一九)と同じで、ヨを東語式にエと訛つたのである。これらは古典に用ゐられた枕詞を、そのままに用ゐたのではあるまいか。○須流河乃禰良波《スルガノネラハ》――駿河の嶺らは。ラは添へていふのみ。駿河の嶺は即ち富士山である。○苦不志久米阿流可《クフシクメアルカ》――戀しくもあるかに同じ。戀しくもあることよ。米《メ》はモの東語である。略解に毛の誤かとあるのはよくない。
〔評〕 東語式發音が澤山用ゐられてゐるので、東國の地方色が濃く出てゐるが、表現形式は全く普通のものとかはりはない。
 
 
右一首|春日部麿《カスガベノマロ》
 
4346 父母が 頭かき撫で 幸く在れて 言ひし言葉ぞ 忘れかねつる
 
知知波波我《チチハハガ》 可之良加伎奈弖《カシラカキナデ》 佐久安禮天《サクアレテ》 伊比之古度婆曾《イヒシコトバゾ》 和須禮加禰豆流《ワスレカネツル》
 
旅ニ出ル時ニ〔六字傍線〕父母ガ、私ノ〔二字傍線〕頭ヲカキ撫デテ、無事デヰナサイト云ツタ言葉ハ忘レラレナイヨ。アア慈愛深イ父母ガ忘レラレナイ〔アア〜傍線〕。
 
○佐久安禮天《サクアレテ》――幸くあれと。サクはサキク、アレテはアレト。○伊比之古度婆曾《イヒシコトバゾ》――言ひし言葉ぞ。古度《コト》は元暦校本・西本願寺本などによれば氣等《ケト》であり、曾《ゾ》も亦、是《ゼ》であるから、この句の原形はイヒシケトバゼではあ(56)るまいか。イヒシケトバゼは言ひし言葉ぞの方言である。
〔評〕 方言こそ使つてあるが、内容は極めて鮮明で、表現法も素直である。父母の慈愛に感謝する若者の情が、悲しくあはれである。
 
右一首|丈部稻麿《ハセツカベノイナマロ》
 
丈部稻麿の傳はわからない。
 
二月七日、駿河國防人|部領使《コトリツカヒ》守從五位下布勢朝臣|人主《ヒトヌシ》、實(ニ)進(レルハ)九日、歌數二十首、但(シ)拙劣(ナル)歌者不v取(リ)2載(セ)之(ヲ)1
 
布勢朝臣人主は、續記によれば、勝寶六年四月癸未、太宰府言、入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主等、來2泊薩摩國石籬浦1、同年七月丙午授2從五位下1、爲2駿河守1、寶宇三年五月壬午爲2右少辨1、四年正月癸未爲2山陽道巡察使1、七年正月壬子授2從五位上1、爲2右京亮1、四月丁亥爲2文部大輔1、八年四月戊寅、爲2上總守1、景雲元年八月丙午、爲2式部大輔1三年六月乙巳、爲2出雲守1とある。これによれば,遣唐使として入唐し、歸朝の後、駿河守に任ぜられた人で、當時の新智識であつた。二月七日に一旦選定したのであるが、實際に上進したのは九日で、歌數は二十首であつたが、その内拙劣な歌十首は省いて、ここに載せないといふのだ。
 
4347 家にして 戀ひつつあらずは 汝が佩ける 太刀になりても 齋ひてしがも
 
伊閉爾之弖《イヘニシテ》 古非都都安良受波《コヒツツアラスハ》 奈我波氣流《ナガハケル》 多知爾奈里弖母《タチニナリテモ》 伊波非弖之加母《イハヒテシガモ》
 
(57)ワタシハ旅ニ出ルオマヘヲ〔ワタ〜傍線〕家ニ居ツテ戀シク思ツテ居ナイデ、寧ロ〔二字傍線〕オマヘガ佩シテ居ル太刀ニナツテデモ、オマヘノ身ヲ離レズニツイテ行ツテ、オマヘヲ〔オマヘノ〜傍線〕守リタイモノダ。サウ出來ナイノハ殘念ダ〔サウ〜傍線〕。
 
○古非都都安良受波《コヒツツアラズハ》――戀ひつゝあらずして。卷二に、如此許戀乍不有者《カクバカリコヒツツアラズハ》(八六)とある。この他にも用例が多い。○伊波非弖之加母《イハヒテシカモ》――このイハフは神を齋ふこととしては、太刀になりても神に汝の無事を祈らうといふこととなつて穩やかでない。卷十九の大舶爾眞梶繁貫此吾子乎韓國邊遣伊波敝神多智《オホフネニマカヂシジヌキコノアコヲカラクニヘヤルイハヘカミタチ》(四二四〇)のイハヘと同じく、神が守る意味に解釋すべきであらう。新考に波を曾の誤として、伊曾比《イソヒ》(イ添ヒ)の誤だらうといつてゐるのは從ひ難い。
〔評〕 左註によると、防人に赴く若者の父の歌である。東人の作としては、あまり整ひ過ぎてゐる。
 
右一首|國造丁日下部使主三中《クニノミヤツコノヨボロクサカベノミナカ》之父歌
 
國造丁は前に四三二一の左註に説明した通りである。舊本、日下部を早部に誤つてゐる。元暦校本・西本願寺本などが日下に作つてゐるのを寫し誤つたのである。使主はオミと訓む。カバネである。舊本、父を文に誤つてゐる。西本願寺本・神田本などによる。代匠記・考などは、次の歌に合致せしめむとして、母の誤としてゐる。
 
4348 たらちねの 母を別れて まこと我 旅の假廬に 安く寐むかも
 
多良知禰乃《タラチネノ》 波々乎和加例弖《ハハヲワカレテ》 麻許等和例《マコトワレ》 多非之加里保爾《タビノカリホニ》 夜須久禰牟加母《ヤスクネムカモ》
 
(多良知禰乃)母ト別レテ來テ、ドウシテ本當ニ私ハ、旅ノ假廬デ落着イテ〔四字傍線〕安々ト寐ラレヨウカヨ。トテモ寐ラ(58)レハシマセヌゾ〔トテ〜傍線〕。
 
○多良知禰乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。帶乳根乃《タラチネノ》(四四三)參照。○波波乎和加例弖《ハハヲワカレテ》――母に別れてに同じ。このヲは他動詞の目的につくのではない。古今集の離別歌の題詞に、「逢坂にて人を別れける時〔七字傍点〕によめる」とあるに同じである。○夜須久禰牟加母《ヤスクネムカモ》――安く寢ようかよ。寢はしないと反語になってゐる。
〔評〕 前の歌に和したものとしては、母を別れてといつたのが、穏やかでないともいへる。しかし父の歌とは無關係に詠んだものとすれば、もとよりこれで差支はない。
 
右一首國造丁日下部使主三中
 
これも舊本、日下を早に誤つてゐる。元暦校本・西本願寺本などによつて改めた。
 
4349 百隈の 道は來にしを まら更に 八十島過ぎて 別れか行かむ
 
毛母久麻能《モモクマノ》 美知波紀爾志乎《ミチハキニシヲ》 麻多佐良爾《マタサラニ》 夜蘇志麻須義弖《ヤソシマスギテ》 和加例加由可牟《ワカレカユカム》
 
陸路ヲ遙々ト〔六字傍線〕澤山ノ曲リ角ノアル道ヲ通ツテ來タガ、コノ難波津カラ〔七字傍線〕又更ニ、海路ヲ〔三字傍線〕澤山ノ島々ヲ通ツテ、遠ク〔二字傍線〕別レテ筑紫ヘ〔三字傍線〕行クコトデアラウカ。何ト苦シイツライ旅ヨ〔十字傍線〕。
 
○毛母久麻能《モモクマノ》――百隈の。百隈は澤山の曲角のある意。即ち陸路の道程の遠さをいふ。○夜蘇志麻須義弖《ヤソシマスギテ》――八十島過ぎて。八十島は海路にある多くの島々をいふ。
〔評〕 幾多の困苦を經て、漸く難波津に到着したのに、更にまた海路を遠く筑紫に向ふ淋しさを述べてゐる。こ(59)れも歌は哀によく出來てゐるが、用語が上品で、東國人らしい臭が尠い。この歌、袖中抄に載せてゐる。
 
右一首|助丁刑部直三野《スケノヨボロオサカベノアタヘミヌ》
 
助丁は前(四三二八)にあつた。刑部直三野の傳はわからない。
 
4350 庭中の 阿須波の神に 小柴さし 我は齋はむ 歸り來までに
 
爾波奈加能《ニハナカノ》 阿須波乃可美爾《アスハノカミニ》 古志波佐之《コシバサシ》 阿例波伊波波牟《アレハイハハム》 加倍理久麻※[人偏+弖]爾《カヘリクマデニ》
 
貴方ガ〔三字傍線〕歸ツテ來ルマデノ間は、庭ノ中央ニオハシマス〔六字傍線〕阿須波ノ神ヲ、祀ル爲ニ〔五字傍線〕小柴ヲ立テ、神籬ヲ作ツテ〔六字傍線〕、私ハ貴方ノ事ヲ〔五字傍線〕祈ツテ居リマセウ。
 
○爾波奈加能《ニハナカノ》――庭の中ほどに祀つである。ニハナカは庭内といふのとは意を異にしてゐる。○阿須波乃可美爾《アスハノカミニ》――阿須波の神は祈年祭祝詞に座摩御巫稱辭竟奉《ヰガスリノミカムナギノタタヘゴトヲヲヘマツル》、皇神等《スメガミタチノマヘニマヲサク》、生井《イクヰ》、榮井《サクヰ》、津長井《ツナガヰ》、阿須波《アスハ》、婆比支登御名者白※[氏/一]《ハヒキトミナハマヲシテ》云々とある阿須波の神である。古事記上卷に、大年神が天知迦流美豆比賣《アメシルカルミヅヒメ》にみ娶ひて生みませる御子九神の内に、阿須波神、波比岐神の御名が見えてゐる。古く袖中抄に「顯昭云、あすはの神にこしばさすとは、上總國にあすはと申す神おはす。その神のちかひにて、ちいさき柴をたてて祈ることありといへり。上總防人歌なり。俊頼朝臣悔2離別1といふことをよめる。『今さらに妹かへさめやいちしるきあすはの神にこしばさすとも』この歌は萬葉の歌に、あれはいははむ歸り來るまでにとよみたる心をとりて、わかれにし妹は今さらにいかが歸らむとよめるなり。」とあって、上總國の神としてあるのは、祝詞・古事記などに注意しなかつたものである。この神の意義について、古事記傳には、阿須波を足場《アシバ》の義とし、「人の物へ行くとても、萬の事業(60)をなすとても、人が足で踏み立つる地を守りますなるが故に、家毎に祭りしにや」とある。考には竈神としてある。重胤の祝詞講義には阿須波を大柴《オシバ》の轉と見て、竈に焚く薪の神としてゐる。上代には庭竈といふものがあつて、庭の中に竈を設けてあつたやうだが、古事記に列擧した神名から推すと、庭に祭つてある神で、竈の神ではないやうだ。旅行を守る神とすべきであらう。○古志波佐之《コシバサシ》――小柴を挿して。小い柴を神籬《ヒモロギ》として、地に立てるのであらう。
〔評〕 祈年祭祝詞に出てゐる阿須波の神が、當時東國地方では一般民家に祀られてゐたことが、これによつて知られる。宣長はこの歌を「末(ノ)二句を味ふに、彼(ノ)阿須波(ノ)神は、己が家のには非で、行前《ユクサキ》の宿々の家に祭れるを伊波比《イハヒ》つゝ行むとよめるなれば、何國にても、家ごとに祭ることしられたり、」と古事記傳卷十二に述べてゐるが、この歌の趣は、留守居する者の心が歌はれてゐるので、左註の作者、諸人の下に、父・母・妻などの文字が脱ちたのであらう。
 
右一首|帳丁若麻續部諸人《フミヒトノヨボロワカヲミベノモロヒト》
 
前の例によると帳の上に主の字脱ちたのであらう。諸人の下にも、父・母・妻などの文字が脱ちてゐるやうである。若麻續部諸人の傳はわからない。
 
4351 旅衣 八つ著重ねて いぬれども なほ膚寒し 妹にしあらねば
 
多比己呂母《タビゴモ》 夜豆伎可佐禰弖《ヤツキカサネテ》 伊努禮等母《イヌレドモ》 奈保波太佐牟志《ナホハダサムシ》 伊母爾志阿良禰婆《イモニシアラネバ》
 
私ハ〔二字傍線〕旅ノ衣ヲ、澤山ニ着重ネテ寐ルケレドモ、澤山ノ衣モ〔五字傍線〕妻デナイカラ、ヤハリ肌寒ク感ズルヨ。
 
○夜豆伎可佐禰弖《ヤツキカサネテ》――八つ着重ねて。八つは數の多いのをいふのみ。元暦校本・西本願寺本など、豆を部又は(61)倍に作る本が多い。それによれば八重である。○伊努禮等母《イヌレドモ》――寢ぬれども。寢るけれども。○伊母爾志阿良禰婆《イモニシアラネバ》――妻ではないから。旅衣は妻ではないからといふのであらう。少しく穩やかでないやうでもある。新考は爾は等の誤で、イモトシであらうといつてゐる。
〔評〕 旅中妻を戀ふる歌。防人らしい趣は尠い。
 
右一首|望陀郡上丁玉作部國忍《ウマグタノコホリノカミツヨボロタマツクリベノクニオシ》
 
望陀は卷十四に宇麻具多(三三八二、三三八三)とあつた地方である。玉作部國忍の傳はわからない。
 
4352 道の邊の うまらのうれに はほ豆の からまる君を はかれか行かむ
 
美知乃倍乃《ミチノベノ》 宇萬良能宇禮爾《ウマラノウレニ》 波保麻米乃《ハホマメノ》 可良麻流伎美乎《カラマルキミヲ》 波可禮加由加牟《ハカレカユカム》
 
私ガ防人トシテ出發シヨウトシテヰルト〔私ガ〜傍線〕、道傍ノ茨ノ上ノ枝ニ這ヒカランデ〔四字傍線〕ヰル豆ノ蔓ノ〔二字傍線〕ヤウニ、私ニ〔二字傍線〕纒ヒツイテ離レナマイトシテ〔七字傍線〕ヰルオマヘニ、別レテ出カケテ〔四字傍線〕行クコトカヨ。ツライ悲シイコトダ〔九字傍線〕。
 
○宇萬良能宇禮爾《ウマラノウレニ》――茨の末に。宇萬良《ウマラ》はイバラ・ウバラと同語。茨、荊棘。宇禮《ウレ》は末。上の方の枝。○波保麻米乃《ハホマメノ》――這ふ豆の如く。這《ハ》フをハホといふのは東語である。下に美禰波保久毛《ミネハホクモ》(四四二一)とあるのも、嶺這ふ雲である。以上の三句は、道の邊の茨の木の梢に這ふ豆の蔓のやうにの意であるが、これをカラマルと言はむ爲の序詞と見る説もある。しかし、やはり譬喩とするのが當つてゐるであらう。○可良麻流伎美乎《カラマルキミヲ》――絡まる君を。纒ひつく貴方に。君は妻を指すのであらう。君ニといふべきを君ヲといつたのは、前に波波乎和加例弖《ハハヲワカレテ》(四三四八)とあるに同じであらう。○波可禮加由加牟《ハカレカユカム》――別れ行くことかの意。ハカレはワカレに同じ。ハシルとワシル、(62)ハツカとワヅカと通ずる類である。
〔評〕 道の邊の茨の末に這ふ豆を譬喩としたのは、東國の田舍の風景を、その儘捉へたもので、地方色があらはれてゐる。絡まる君の一句、情緒纒綿、別れ難さにからみつく女の姿態も見えるやうである。防人歌中の佳作として推すべきものだ。
 
右一首|天羽《アマハ》郡上丁|丈部鳥《ハセツカベノトリ》
 
天羽郡は上總の南端、安房に接してゐる。今は望陀・周淮《スヱ》と合して君津郡となつてゐる。丈部鳥の傳はわからない。
 
4353 家風は 日に日に吹けど 吾妹子が 家言持ちて 來る人もなし
 
伊倍加是波《イヘカゼハ》 比爾比爾布氣等《ヒニヒニフケド》 和伎母古賀《ワキモコガ》 伊倍其登母遲弖《イヘゴトモチテ》 久流比等母奈之《クルヒトモナシ》
 
家ノ方カラ吹ク風ハ、毎日毎日吹イテヰルケレドモ、吾ガ妻ノ、家カラノ音信ヲ持ツテ來ル人ハナイ。アア妻ノ音信ガ來レバヨイ〔アア〜傍線〕。
 
○伊倍加是波《イヘカゼハ》――家の方から吹く風は。○伊倍其登母遲弖《イヘゴトモチテ》――家言を持ちで。家からの言傳を持つて。
〔評〕 そよ吹く東風をなつかしみつつ、故郷の愛妻を思ふ心はいたましくも、あはれである。家風・家言の熟語の重複も、別段目ざはりにはなつてゐない。
 
右一首|朝夷《アサヒナ》郡(ノ)上丁|丸子連大歳《マロコノムラジオホトシ》
 
(63)朝夷郡は安房國東部中央で、長狹・安房兩郡の中間にあつた。安房國は養老二年上總の、平群・安房・朝夷・長狹の四郡を割いて一國を立てられ、後天平十三年上總に合せ、更に天平寶字二年舊の如く分置した。この天平勝寶七年は恰も上總に合せられてゐた時であるから、ここに上總國防人部領使の所管となつてゐるのである。丸子連大歳の傳はわからない。
 
4354 立ちこもの 立ちの騷ぎに 相見てし 妹が心は 忘れせぬかも
 
多知許毛乃《タチコモノ》 多知乃佐和伎爾《タチノサワギニ》 阿比美弖之《アヒミテシ》 伊母加己己呂波《イモガココロハ》 和須禮世奴可母《ワスレセヌカモ》
 
(多知許毛乃)出立ノ騷ギニ一寸〔二字傍線〕逢ツタ妻ノヤサシイ〔四字傍線〕心ハ、忘レラレナイヨ。私ハ始終妻ヲ戀シク思ツテヰル〔私ハ〜傍線〕。
○多知許毛乃《タチコモノ》――枕詞。多知《タチ》に冠す。立鴨《タチコモ》の立ちとつづいてゐる。前に美豆等利乃多知能巳蘇伎爾《ミヅトリノタチノイソギニ》(四三三七)とあつたのと同巧。○多知乃佐和伎爾《タチノサワギニ》――出立の騷ぎに。○伊母加己己呂波《イモガココロハ》――妹のやさしい心は。この妹は隱妻らしい。
〔評〕 出立のどさくさまぎれに、一寸會つて別れを惜しんだだけの女を思ひ出して、なつかしがつてゐる男の心はあはれである。下二句は、卷十二の神左備而巌爾生松根之君心忘不得毛《カムサビテイハホニオフルマツガネノキミガココロハワスレカネツモ》(三〇四七)と相似てゐる。
 
右一首|長狹《ナガサ》郡上丁|丈部與呂麿《ハセツカベノヨロマロ》
 
長狹郡は安房の北端、上總に接してゐる。前歌參照。丈部與呂麿の傳はわからない。
 
4355 よそにのみ 見てやわたらも 難波潟 雲ゐに見ゆる 島ならなくに
 
余曾爾能美《ヨソニノミ》 美弖夜和多良毛《ミテヤワタラモ》 奈爾波我多《ナニハガタ》 久毛爲爾美由流《クモヰニミユル》 志麻(64)奈良奈久爾《シマナラナクニ》
 
難波潟カラ空ノ彼方ニ遠ク〔二字傍線〕見エル島デハナイノニ、丁度ソノ島ノヤウニ私ハ故郷ノ方ヲ遙カニ〔丁度〜傍線〕、他所ニバカリ見テ、日ヲ〔二字傍線〕過スコトデアラウカ。家ニ歸リタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○余曾爾能美美弖夜和多良毛《ヨソニノミミテヤワタラモ》――他所にばかり見てゐようか、否親しく行つて見たいものだの意。ワタラモは渡ラムに同じ。但しムをモといふのは必ずしも東語ではない。ワタルは海を渡ることに解するのはどうであらう。日を經る意であらねばならぬ。○奈爾波我多《ナニハガタ》――難波潟からの意にも見なければならぬ。○久毛爲爾美由流《クモヰニミユル》――クモヰは空。空の彼方に遠く見える。○志麻奈良奈久爾《シマナラナクニ》――島ではないのに。その島のやうに。この句から初二句へ反るのである。
〔評〕 難波津に滯在中、遙かに淡路島などを眺めて詠んだもの。上品に整ひ過ぎて、東人の作らしくない。又「他所にのみ見てや渡らも」といつた対象物は何か、假りに故郷として解いて置いたが、故郷は他所にすら見えない筈であるから、さう見るのは無理と言はねばならぬ。寧ろ難波津にあつて女をかい間見て、詠んだものとすべきであらう。新古今集の戀歌の劈頭に置かれた「よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山の峯の白雲」と對比すると、一層その感が深い。
 
右一首|武※[身+矢]《ムザ》郡上丁|丈部山代《ハセツカベノヤマシロ》
 
武射郡は上總國の東北隅、下總の匝瑳郡に接してゐる。今は山邊郡と合して山武郡と言つてゐる。丈部山代の傳はわからない。
 
4356 吾が母の 袖持ち撫でて 吾が故に 泣きし心を 忘らえぬかも
 
和我波波能《ワガハハノ》 蘇弖母知奈弖※[氏/一]《ソデモチナデテ》 和我可良爾《ワガカラニ》 奈伎之許己呂乎《ナキシココロヲ》 和須(65)良延努可毛《ワスラエヌカモ》
 
私ノ母ガ私ノ〔二字傍線〕袖ヲ持ツテ、私ヲ撫〔二字傍線〕デテ、旅立ツ〔三字傍線〕私故ニ別ヲ悲ンデ〔六字傍線〕泣イタ、慈愛ノ深イ〔五字傍線〕心ヲ私ハ〔二字傍線〕、トテモ忘レルコトハ出來ナイヨ。
 
○和我波波能蘇弖母知奈弖※[氏/一]《ワガハハノソデモチナデテ》――吾が母が私の袖を執つて、私を撫ででの意。代匠記初稿本に、「これは母がみづからの袖をもちなづるともきこゆ。なく時のさまなり。又出たつ我袖を打なづるともきこゆ。おやの子をいだしたつる時のさまなり」と二様に解いてゐるが、略解は「上にたらちねの母かきなでてと詠める如く、母が袖を以て吾を撫つゝ泣し也」とあり、古義も同意となつてゐる。併し母が自からの袖で吾を撫でると見るには當らない。母が子の袖にとりつくのである。○奈伎之許己呂乎《ナキシココロヲ》――心ヲは心ノ誤であらうとする説は臆斷であらう。舊の儘にして置くがよい。○和須良延努可毛《ワスラエヌカモ》− 舊本、延を廷に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。忘れられないよ。
〔評〕 母の愛情と、それを感謝する若者の心と、共に悲しく、いたましく詠まれてゐる。
 
右一首|山邊《ヤマノベ》郡上丁|物部手刀良《モノノベノテトラ》
 
山邊郡は武射部と長柄郡との間に介在してゐた。今は山武部に編入せられた。物部手刀良の傳はわからない。元暦校本に手を乎に作つてゐるによれば、ヲトラである。
 
4357 蘆垣の くまどに立ちて 吾妹子が 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ
 
阿之可伎能《アシガキノ》 久麻刀爾多知弖《クマドニタチテ》 和藝毛古我《ワギモコガ》 蘇弖毛志保々爾《アオセモシホホニ》 奈伎志曾母波由《ナキシゾモハユ》
 
(66)私ガ出カケル時ニ〔八字傍線〕蘆ノ垣根ノ隅ノ所ニ立ツテ、吾ガ妻ガ袖モ、シホシホト濡ラシテ、涙ヲ流シテ〔五字傍線〕泣イタノガ思ヒ出サレルヨ。妻ハドウシテヰルデアラウ〔妻ハ〜傍線〕。
 
○久麻刀爾多知弖《クマドニタチテ》――隈處に立ちて。クマドは曲つた角のところ。○蘇弖毛志保々爾《ソデモシホホニ》――袖もしほしほと。涙に濡れる樣である。○奈伎志曾母波由《ナキシゾモハユ》――泣きしぞ思《オモ》ほゆに同じ。泣いた姿が思ひ出されるといふのだ。上にゾの係辭があるから、ユはユルとなるべきだとて、詞の玉緒にも、てにをはたがへる歌の中に入れてゐるが、これは東語でもあり、古格でもあるから後世の語法に拘泥してはいけない。古義にソはオに通ずるので、ナキシゾモハユはナキシオモハユであるといふやうな説をなしてゐるのは、妄斷であらう。
〔評〕 蘆垣の隈に泣いてゐる妻との別は、思ひ出すだに胸も痛い。初二句には東國の田舍の光景もしのばれる。一體にしんみりとした情緒の漾つた佳い作だ。
 
右一首|市原《イチハラ》郡上丁|刑部直千國《オサカベノアタヘチクニ》
 
市原郡は上總の西岸の北邊で、海上郡と合して今も市原郡と稱してゐる。刑部直千國の傳はわからない。
 
4358 大君の 命かしこみ 出で來れば わぬ取り著きて 言ひし子なはも
 
於保伎美乃《オホキミノ》 美許等加志古美《ミコトカシコミ》 伊弖久禮婆《イデクレバ》 和努等里都伎弖《ワヌトリツキテ》 伊比之古奈波毛《イヒシコナハモ》
 
私ガ〔二字傍線〕天子樣ノ仰セヲ拜承シテ、防人トシテ家ヲ〔七字傍線〕出テ來ルト、私ニ取リ着イテ、別ガ悲シイト〔六字傍線〕言ツタ妻ヨ。アノ女ハドウシタデアラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○和努等里都伎弖《ワヌトリツキテ》――我に取り着きて。ワヌは、卷十四に宇倍兒奈波和奴爾故布奈毛《ウベコナハワヌニコフナモ》(三四七六)とあるから、我と(67)同語。ここはワヌニといふべきを略したのである。○伊比之古奈波毛《イヒシコナハモ》――言ひし女よ。別の悲しきことを言ひし妻よの意。コナは子等《コラ》に同じく、女を親しんでいふ。右に掲げた卷十四の歌にも用ゐてある。
〔評〕 出立の際の別の悲しかつたことを追想した歌。あはれに出來てゐる。大君の勅畏みが流石に防人らしい。
 
右一首|種※[さんずい+此]《スヱ》郡上丁|物部龍《モノノベノタツ》
 
種※[さんずい+此]郡は上總の周淮郡で、種はスと訓ましめるのであらうが、※[さんずい+此]は恐らく淮の誤であらう。この郡は望陀と天羽との中間で、今は君津郡内になつてゐる。卷九の、上總末珠名娘子(一七三八)參照。物部龍の傳はわからない。
 
4359 筑紫へに 舳むかる船の 何時しかも 仕へ奉りて くにに舳むかも
 
都久之閉爾《ツクシヘニ》 敝牟加流布禰乃《ヘムカルフネノ》 伊都之加毛《イツシカモ》 都加敝麻都里弖《ツカヘマツリテ》 久爾爾閉牟可毛《クニニヘムカモ》
 
防人トナツテ〔六字傍線〕筑紫ノ國ノ方ニ舳ヲ向ケテ漕イデ〔三字傍線〕行ク船ガ、何時ニナツタナラバ、無事ニ彼地ニ着イテ〔六字傍線〕役目ヲ果シテ、國ノ方ニ舳ヲ向ケテ歸〔二字傍線〕ルコトニナルノデアラウ。早ク歸リタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○都久之閉爾《ツクシヘニ》――筑紫の方に。○敝牟加流布禰乃《ヘムカルフネノ》――舳を向ける舟が、へは胎の舳先。ムカルはムクルの東語。○都加敝麻都里弖《ツカヘマツリテ》――仕へ奉りて。防人としての役を果して。○久爾爾閉牟可毛《クニニヘムカモ》――國に舳向かむ。故國に舳先を向けようか。
〔評〕 難波津を出帆しようとして詠んだもの。舳向くといふ動詞を、二句と五句とに巧に使つてある。四句の仕へ奉りても、防人としての忠誠をあらはしてゐる。佳作といつてよい。
 
(68)右一首|長柄《ナガラ》郡上丁|若麻續部羊《ワカヲミベノヒツジ》
 
長柄郡は上總の東岸、埴生郡の北、山邊郡の南に當つてゐる、今は埴生郡と合して長生郡となつてゐる。若麻續部羊の傳はわからない。京大本一に羊を串に作つてゐる。
 
二月九日上總國防人部領使少目從七位下|茨田連沙彌麿《マムタノムラジサミマロ》進(ムル)歌數十九首、但拙劣歌者不v取(リ)2載(セ)之(ヲ)1、
 
茨田連沙彌麿の傳はわからない。文武天皇元年八月に茨田足島に姓を連と賜はることが、續記に見える。茨田は河内の地名である。進歌十九首の中、十三首を載せてゐる。
 
陳(ブル)2私(ノ)拙懷(ヲ)1一首并短歌
 
私と拙懷とは重複するが、衍とするわけにも行くまい。私の拙懷を陳ぶると訓むべきであらう。代匠記初稿本は懷の下に歌の字脱かとしてゐる。この長歌一首並びに短歌は家持が難波に滯在中、難波離宮の繁榮を詠じたものである。古義には下に、天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉二十四日戍申太上天皇皇太后、幸2於河内離宮1經信以2壬子1傳2幸於難波宮也1(四四五七)とある行幸の準備として(彼は天皇の二字が脱してゐると疑つてゐる)七歳から難波に來てゐたので、豫め行幸のあつた心持で詠んだやうに記してゐるが、家持は兵部少輔として、その管掌事務たる防人のことについて、難波に來てゐたのである。歌中の叙述が、恰も天皇の行幸中のやうにも思はれるが、天皇を中心として離宮を歌つたので、おのづからさう見えるのに過ぎない。
 
4360 天皇の 遠き御代にも 押照る 難波の國に 天の下 知らしめしきと 今の世に 絶えず言ひつつ 懸けまくも あやに畏し 神ながら わご大王の うち靡く 春の初は 八千種に 花咲きにほひ 山見れば 見のともしく 河見れば 見のさやけく 物ごとに 榮ゆる時と めしたまひ 明らめ給ひ 敷きませる 難波の宮は きこしをす 四方の國より たてまつる 貢の船は 堀江より みを引きしつつ 朝なぎに 楫引きのぼり 夕汐に 棹さし下り あぢ群の 騒き競ひて 濱に出でて 海原見れば 白浪の 八重折るが上に 海人小船 はららに浮きて 大御食に 仕へまつると 遠近に 漁釣りけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ はじめけらしも
 
(69) 天皇乃《スメロギノ》 等保伎美與爾毛《トホキミヨニモ》 於之弖流《オシテル》 難波乃久爾爾《ナニハノクニニ》 阿米能之多《アメノシタ》 之良志賣之伎等《シラシメシキト》 伊麻能乎爾《イマノヲニ》 多要受伊比都都《タエズイヒツツ》 可氣麻久毛《カケマクモ》 安夜爾可之古志《アヤニカシコシ》 可武奈我良《カムナガラ》 和其大王乃《ワゴオホキミノ》 宇知奈妣久《ウチナビク》 春初波《ハルノハジメハ》 夜知久佐爾《ヤチクサニ》 波奈佐伎爾保比《ハナサキニホヒ》 夜麻美禮婆《ヤマミレバ》 見能等母之久《ミノトモシク》 可波美禮婆《カハミレバ》 見乃佐夜氣久《ミノサヤケク》 母能其等爾《モノゴトニ》 佐可由流等伎登《サカユルトキト》 賣之多麻比《メシタマヒ》 安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》 之伎麻世流《シキマセル》 難波宮者《ナニハノミヤハ》 伎己之乎須《キコシヲス》 四方乃久爾欲里《ヨモノクニヨリ》 多弖麻都流《タテマツル》 美都奇能船者《ミツキノフネハ》 保理江欲里《ホリエヨリ》 美乎妣伎之都都《ミヲビキシツツ》 安佐奈藝爾《アサナギニ》 可治比伎能保理《カヂヒキノボリ》 由布之保爾《ユフシホニ》 佐乎佐之久太理《サヲサシクダリ》 安治牟良能《アヂムラノ》 佐和伎々保比弖《サワギキホヒテ》 波麻爾伊泥弖《ハマニイデテ》 海原見禮婆《ウナハラミレバ》 之良奈美乃《シラナミノ》 夜敝乎流我宇倍爾《ヤヘヲルガウヘニ》 安麻乎夫祢《アマヲブネ》 波良良爾宇伎弖《ハララニウキテ》 於保美氣爾《オホミケニ》 都加倍麻都流等《ツカヘマツルト》 乎知許知爾《ヲチコチニ》 伊射里都利家理《イザリツリケリ》 曾伎太久毛《ソキダクモ》 於藝呂奈伎可毛《オギロナキカモ》 己伎婆久母《コキバクモ》 由多氣伎可母《ユタケキカモ》 許己見禮婆《ココミレバ》 宇倍之神代由《ウベシカミヨユ》 波自米家良思母《ハジメケラシモ》
 
昔ノ天子樣ノ遠イ御代ニ於テモ、(於之弖流)難波ノ國ニ都ヲナサレテ〔六字傍線〕、天下ヲ御支配遊バシタト、今ノ代ニモ(70)絶エズ言ヒ傳ヘテヰルガ〔三字傍線〕、口ニカケテ言フノモ、不思議ニ畏イ、神樣ソノ儘ノ御方デアル我等ノ仕ヘ奉ル今上〔六字傍線〕天皇ガ、(宇知奈妣久)春ノ初ハ、種々ニ草木ノ〔三字傍線〕花ガ咲キ匂ヒ、山ヲ見ルト眺メガ珍ラシク、川ヲ見ルト眺メガ好ク、何デモ〔三字傍線〕物毎ニ榮エル時ダト思召シ〔三字傍線〕御覽ニナリ、心ヲ〔二字傍線〕御晴ラシニナツテ、御造營ニナツタコノ難波ノ宮ハ、御支配ニナル四方ノ國カラ、献上スル貢物ヲ積ンダ船は、堀江カラ水路ニ添ウテ船ヲ〔六字傍線〕曳イテ上ツテ、朝凪ニ楫ガ曲ルホド漕イデ上リ、夕汐ニハ棹ヲサシテ下ツテ、(安治牟良能)騷ギ競ツテ、濱ニ出テ海原ヲ見ルト、白波ガ幾重ニモ立ツテヰル上ニ、海人ノ船ガマバラニ浮イテ、天子樣ノ召上リ物トシテ差上ゲルトテ、彼方デモ此方デモ漁ヲシテ魚ヲ釣ツテヰルヨ。アレヲ見ルト景色ガ〔九字傍線〕大層大キイコトヨ。サウシテ〔四字傍線〕大層廣イコトダヨ。此處ノ景色〔三字傍線〕ヲ見ルト、昔ノ天皇ノ〔五字傍線〕神ノ御代カラ、此處ニ〔三字傍線〕都ヲ始メナサツタノハ、尤ナコトダヨ。
 
○天皇乃等保伎美與爾毛《スメロギノトホキミヨニモ》――遠い天皇の御代に。仁徳天皇を指し奉る。○於之弖流《オシテル》――枕詞。難波とつづく。押照《オシテル》(四四三)參照。○伊麻能乎爾《イマノヨニ》――舊本のままではイマノヲニと訓む外はないが、それではわからない。乎は與の略字、与を誤つたのであらう。○可氣麻久母《カケマクモ》――この句以下の三句すべて、和其大王《ワゴオホキミノ》にかかつてゐる。可武奈我良《カムナガラ》は神ながらなる吾が大王の意でつづく。○和其大王乃《ワゴオホキミノ》――ワガオホキミといふべきを、ワゴオホキミといふのは、八隅知之利期大王《ヤスミシシワゴオホキミ》(五二)など、その例に乏しくない。○宇知奈妣久《ウチナビク》――枕詞。春とつづく。春は草木の柔かくて打靡くからである。○夜知久佐爾《ヤチクサニ》――八千種に。八千草ではない。○見能等母之久《ミノトモシク》――見るに珍らしく見て珍らしく思ふをいふ。○見乃佐夜氣久《ミノサヤケク》――見るに景色がよく。山と川とを對句としてある。○賣之多麻比《メシタマヒ》――メシは見るの敬語。○安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》――明らかにし給ひ。心を晴らし給ふをいふ。○之伎麻世流《シキマセル》――シキは天皇の宮居し給ひ支配し給ふこと。○伎己之乎須《キコシヲス》――舊本乎を米に作つてゐるが、元暦校本・西本願寺本などによつて改めた。キコシヲスは御支配遊ばす。○多弖麻都流美都奇能船者《タテマツルミツキノフネハ》――奉る御貢を積んだ船は。(71)○美乎妣吉之都都《ミヲビキシツツ》――水脈引きは水路のままに、船を導くをいふ。卷十五に美乎妣伎由氣婆《ミヲビキユケバ》(三六二七)、卷十八に保里江欲里水乎妣吉之都追《ホリエヨリミヲビキシツツ》(四〇六一)とある。○安治牟良能《アヂムラノ》――枕詞。味鳧の群のかしましく騷ぐ意で、サワギにつづけてゐる。その處の景物を以て枕詞を作つてゐる。○夜敝乎流我宇倍爾《ヤヘヲルガウヘニ》――浪は折れ返るやう打つからヲルといふ。この句は卷七の今日毛可母奧津玉藻者白浪之八重折之於丹亂而將有《ケフモカモオキツタマモハシラナミノヤヘヲルガウヘニミダレテアラム》(一一六八)に出てゐる。○波良艮爾宇伎弖《ハララニウキテ》――ハララには、ばらばらと、散り散りにの意であらう。○曾伎太久毛《ソキダクモ》――ソキダクはソコバク・ココダク・ココバクなどと同語で、許多・澤山の意であらう。集中、他に用例がない。○於藝呂奈伎可毛《オギロナキカモ》――オギロナキといふ語はわからない言葉である。欽明天皇紀六年九月の條に「盖聞造2丈六佛1、功徳甚大《ノリノワザオキロナリ》」とあるから、オギロナシはオギロに、ハシタナシなどのナシが附いたもので、海の廣大なることをいつてゐるらしい。○巳伎婆久母《コキバクモ》――ココバクモに同じ。○由多氣伎可母《ユタケキカモ》――豐けきことよ。ユタケキは海の廣きをいつてゐる。
〔評〕 難波宮を褒めた歌は、卷六に田邊福麿歌集中出の難波宮作歌(一〇六二)がある。それに比すると長さにおいて遙かに勝り、出來ばえにおいても劣るものではない。併しこの中に、保里江欲里水乎妣吉之都追《ホリエヨリミヲビキシツツ》(四〇六一)・白浪之八重折之於丹《シラナミノヤヘヲルガウヘニ》(一一六八)・大御食爾仕奉等《オホミケニツカヘマツルト》(三八)などの古句を、その儘用ゐてあるのは遺憾である。
 
4361 櫻花 今さかりなり 難波の海 押照る宮に きこしめすなべ
 
櫻花《サクラバナ》 伊麻佐可里奈里《イマサカリナリ》 難波乃海《ナニハノウミ》 於之弖流宮爾《オシテルミヤニ》 伎許之賣須奈倍《キコシメスナベ》
 
難波ノ海ノ押光ル宮デ、天子樣ガ〔四字傍線〕御支配ナサツテイラツシヤルニツレテ、櫻ノ花ハ今コンナニ盛リニ咲イテヰルヨ。コレモ御稜威ノ然ラシメルトコロダ〔コレ〜傍線〕。
 
○難波乃海於之弖流宮爾《ナニハノウミオシテルミヤニ》――難波の海にある押光る宮で。押光るは難波の枕詞であるのを、やがて難波と同義に用ゐて、押光る宮といつたのである。押光るや難波の宮にといふべきを、少し技巧的試みをやつたのである。但しオシテルは卷八の我屋戸爾月押照有《ワガヤドニツキオシテレリ》(一四八〇)などの如く、日月の光が、下界を普く照らす意であるから、オ(72)シテル宮は即ち天皇の君臨し給ふ宮といふやうな意があるかも知れない。○伎許之賣須奈倍《キコシメスナベ》――御支配遊ばすにつれて。
〔評〕 時恰も陽春二月、櫻花の爛漫たるを眺めて、これも此の地に君臨し給ふ天皇の、御稜威の然らしむるところと慶賀したのである。吉き事は何事も皇威に基づくものとする、皇室中心の思想がかう言はしめてゐる。但し難波の京に行幸中と見るのはよくない。ただこの離宮を祝福したに過ぎない。
 
4362 海原の ゆたけき見つつ 蘆が散る 難波に年は 經ぬべく思ほゆ
 
海原乃《ウナバラノ》 由多氣伎見都々《ユタケキミツツ》 安之我知流《アシガチル》 奈爾波爾等之波《ナニハニトシハ》 倍奴倍久於毛保由《ヘヌベクオモホユ》
 
海ノ上ノ廣々トシタ景色ヲ眺メテ、私ハ〔二字傍線〕(安之我知流)難波デ年ヲ送リタイヤウニ思フ。
 
○由多氣伎見都々《ユタケキミツツ》――長歌に己伎婆久母由多氣伎可母《コキバクモユタケキカモ》とあるのと同じで、ユタケキは海の廣々とした景色をいつてゐる。○安之我知流《アシガチル》――枕詞。蘆の花が散る難波とつづく。折しも二月であるから、蘆の花が咲いてゐたのではない。○倍努悠久於毛保由《ヘヌベクオモホユ》――年を過したいやうに思はれる。數年此の難波に住んでゐたいやうに思ふといふのである。
〔評〕 難波の好景を讃めたたへただけで、さしたる歌ではない。初二句は卷三の廬原乃清見之埼乃見穗乃浦乃寛見乍物念毛奈信《イホハラノキヨミガサキノミホノウラノユタケキミツツモノモヒモナシ》(二九六)に傚つたか。
 
右二月十三日兵部少輔大伴宿禰家持
 
4363 難波津に 御船おろすゑ 八十楫貫き 今はこぎぬと 妹に告げこそ
 
奈爾波都爾《ナニハヅニ》 美布禰於呂須惠《ミフネオロスヱ》 夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》 伊麻波許伎奴等《イマハコギヌト》 伊母(73)爾都氣許曾《イモニツゲコソ》
 
難波津デ防人ノ乘ル〔五字傍線〕官船ヲ下ロシ据ヱテ、澤山ノ櫓ヲ貫イテ、今筑紫ヘ向ツテ〔六字傍線〕漕ギ出シタト、故郷ノ〔三字傍線〕妻ニ告ゲテクレヨ。
 
○美布禰於呂須惠《ミフネオロスヱ》――御船下ろし据ゑの略、御船といつたのは官船だからである。○夜蘇加努伎《ヤソカヌキ》――八十楫貫き。澤山の楫を舷側に貫き通して。○伊母爾都氣許曾《イモニツゲコソ》――妻に告げてくれよ。コソは希望。
〔評〕 難波を出帆せむとしての作。今は漕ぎぬとあるが、漕ぎ出してからの作ではない。上句は船出の堂々たる樣がしのばれる。家郷の妻を思ふ心はあはれである、古今集、小野篁の「和田の原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」と心境の相似たものがある。
 
4364 防人に たたむさわぎに 家の妹が なるべきことを 言はず來ぬかも
 
佐伎牟理爾《サキムリニ》 多多牟佐和伎爾《タタムサワギニ》 伊敝能伊毛何《イヘノイモガ》 奈流弊伎己等乎《ナルベキコトヲ》 伊波須伎奴可母《イハズキヌカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕防人トシテ出カケヨウトスル騷ギデ、家ニ殘シテ來タ〔六字傍線〕妻ガ産業トスベキコトヲ言ハズニ出テ來タヨ。ドンナコトヲシテ暮シテヰルダラウカ〔ドン〜傍線〕。
 
○佐伎牟理爾《サキムリニ》――サキムリはサキモリの東語。○多多牟佐和伎爾《タタムサワギニ》――出立のどさくさまぎれに。○伊敝能伊毛何《イヘノイモガ》――元暦校本・西本願寺本その他、毛を牟に作る本が多い。サキモリをサキムリと言つてゐるから、イモもイムといふのであらう。○奈流敝伎己等乎《ナルベキコトヲ》――産業《ナリハヒ》とすべきことを。後世|業《ナリ》とのみ名詞として用ゐられてあるが、上代ではナルといふ動詞が使はれてゐたのである。○伊波須伎奴可母《イハズキヌカモ》――言はずに來たよ。ヌの終止形にカモ(74)を連ねたのに注意したい。
〔評〕 防人の徴發は突如として行はれたので、それに當つた者は大騷ぎをしたらしい。留守居の妻の生活の爲に、方法を講ずる暇さへなくて、出發したものか。這般の事情を想像せしめる作だ。家族に對する後髪引かれる情があはれである。
 
右二首|茨城《ウバラキ》郡|若舍人部廣足《ワカトネリベノヒロタリ》
 
茨城郡は上下の茨城國の舊地で、常陸國の中央。新治郡とその東北方を合せたもの。今の東西茨城郡とは區域が一致してゐない。若舍人部廣足の傳はわからない。元麿校本は廣を度に作つてゐる。
 
4365 押照るや 難波の津より ふなよそひ あれはこぎぬと 妹に告ぎこそ
 
於之弖流夜《オシテルヤ》 奈爾波能都與利《ナニハノツヨリ》 布奈與曾比《フナヨソヒ》 阿例波許藝奴等《アレハコギヌト》 伊母爾都岐許曾《イモニツギコソ》
 
(於之弖流夜)難波ノ法津カラ船ヲ艤装シテ、私ハ筑紫ヘ向ツテ〔六字傍線〕漕イデ行ツタト、家ノ〔二字傍線〕妻ニ告ゲテクレヨ。
 
○布奈與曾比《フナヨソヒ》――舟装ひ。舟を支度して。舟を艤装することを舟よそふといふ。○伊母爾都岐許曾《イモニツギコソ》――ツギは告ゲの東語。コソは希望の助詞。
〔評〕 難波津を出帆せむとして詠んだもの。前の奈爾波津爾美布彌於呂須惠《ナニハヅニミフネオロスヱ》と似て、彼に及ばない。この歌、和歌童蒙抄・袖中抄に載せてある。
 
4366 常陸さし 行かむ雁もが 吾が戀を 記して附けて 妹に知らせむ
 
比多知散思《ヒタチサシ》 由可牟加里母我《ユカムカリモガ》 阿我古比乎《アガコヒヲ》 志留志弖都祁弖《シルシテツケテ》 伊母(75)爾志良世牟《イモニシラセム》》
 
私ノ故郷ノ〔五字傍線〕常陸ノ方ヘ向ケテ飛ンデ〔三字傍線〕行ク雁ガアレバヨイガ、サウシタラバ〔六字傍線〕、私ノ戀シイ心〔三字傍線〕ヲ、手紙ニ〔三字傍線〕書イテ雁ニ〔二字傍線〕托シテ、妻ニ知ラセテヤラウ。
○由可牟加里母我《ユカムカリモガ》――行かむ雁もあれかしの意。○志留志弖都祁弖《シルシテツケテ》――手紙に書き記して、托して。ツケテは托して、頼んでの意であらう。雁に縛り附けるのではあるまい。伊勢物語にも「京にその人にとて、ふみ書きてつく」とある。
〔評〕 蘇武の故事に本づく雁信の思想によつたもの。卷十五の安麻等夫也可里乎都可比爾衣弖之可母奈良能彌夜古爾許登都疑夜良武《アマトブヤカリヲツカヒニエテシカモナラノミヤコニコトツゲヤラム》(三六七六)と似てゐる。東國文化が、かうした外國の傳説を歌に詠むまでに、高まつてゐたとも見得る。
 
右二首|信太《シダ》郡|物部道足《モノノベノミチタリ》
 
信太郡は今は廢して、稻敷郡に合した。孝徳天皇の御代、物部河内と物部會津らが請うて、筑波茨城部の七百戸を割いたものと傳へられてゐる。物部道足はその裔であらうが、傳はわからない。
 
4367 あが面の 忘れもしだは 筑波根を ふり放け見つつ 妹はしぬばね
 
阿我母弖能《アガモテノ》 和須例母之太波《ワスレモシダハ》 都久波尼乎《ツクバネヲ》 布利佐氣美都都《フリサケミツツ》 伊母波之奴波弖《イモハシヌバネ》
 
私ノ顔ガ忘レサウナ時ニハ、私ノ〔二字傍線〕妻ハ筑波山ヲ遙カニ仰ギ眺メテ、私ダト思ツテ〔六字傍線〕私ヲ思ヒ出シナサイ。
 
(76)○阿我母弖能《アガモテノ》――吾が面の。オモテを略してモテといつてゐる。○和須例母之太波《ワスレモシダハ》――忘れむ時は。ワスレモはワスレムに同じ。シダは時。○伊母波之奴波尼《イモハシヌバネ》――妻は我を思ひ出せ。舊本尼を弖に誤つてゐる。元暦校本・西本願寺本などによつて改めた。
〔評〕 あはれな作ではあるが、卷十四の阿我於毛乃和須禮牟之太波久爾波布利禰爾多都久毛乎見都追之努波西《アガオモノワスレムシダハクニハフリネニタツクモヲミツツシヌバセ》(三五一五)於毛可多能和須禮牟之太波於抱野呂爾多奈婢久君母乎見都追思努波牟《オモカタノワスレムシダハオホヌロニタナビククモヲミツツシヌバム》(三九二〇)を改作したものであらう。
 
右一首|茨城《ウバラキ》郡|占部小龍《ウラベノヲタツ》
 
占部小龍の傳はわからない。
 
4368 久慈河は さけくありまて しほ船に 眞楫しじ貫き わは歸り來む
 
久自我波波《クジガハハ》 佐氣久阿利麻弖《サケクアリマテ》 志富夫禰爾《シホブネニ》 麻可知之自奴伎《マカヂシジヌキ》 和波可敝里許牟《ワハカヘリコム》
 
久慈河ハ變ラズニヰテ私ヲ〔二字傍線〕待ツテヰナサイ。私ハ〔二字傍線〕海路ヲ行ク船ニ、楫ヲ澤山ニ貫キ通シテ、筑紫カラ〔四字傍線〕歸ツテ來ヨウ。
 
○久自我波波《クジガハハ》――代匠記に久慈郡の母なりとあるに對して(77)略解は、「されど久慈にある母をいかで久慈が母とは言ふべき。おもふに久慈川者にて、卷七、白崎はさきくありまてと詠める類なるべし、」と言つてゐるのは當つてゐる。久慈河は源を奧州白河郡に發し、久慈郡を貫流し、東に折れて那珂郡との境を流れて海に注いでゐる。寫眞はその河口の風景である。○佐氣久阿利麻弖《サケクアリマテ》――無事でかはらずにゐて我を待てよ。サケクはサキクの東語。○志富夫禰爾《シホブネニ》――シホブネは潮に浮ぶ舟。
〔評〕 心なき故郷の河に對して、別の言葉を述べてゐるのは悲しい。しかしこれも、卷九の白崎者幸在待大船爾眞梶繁貫又將顧《シラサキハサキクアリマテオホブネニマカヂシジヌキマタカヘリミム》(一六六八)と對比すると、模倣の跡は否まれない。
 
右一首|久慈《クジ》郡|丸子部佐壯《マロコベノスケヲ》
 
久慈郡は常陸の北部、那珂・多賀兩郡の間にあつて、昔は久慈國と稱した。丸子部佐壯の傳はわからない。
 
4369 筑波嶺の さゆるの花の 夜床にも かなしけ妹ぞ 晝もかなしけ
 
都久波禰乃《ツクバネノ》 佐由流能波奈能《サユルノハナノ》 由等許爾母《ユトコニモ》 可奈之家伊母曾《カナシケイモゾ》 比留毛可奈之祁《ヒルモカナシケ》
 
筑波山ニ咲イテヰル〔六字傍線〕百合ノ花ノヤウニ、夜ノ床ニ寢テヰル時ニ、可変イ妻ハ、晝モヤハリ〔三字傍線〕可愛イコトダ。晝デモ妻ガカハユクテ忘レラレナイ〔晝デ〜傍線〕。
 
○都久波禰乃佐由流能波奈能《ツクバネノサユルノハナノ》――筑波嶺に咲く小百合の花のやうに。サユルはサユリの東語。サは接頭語。代匠記及び古義に初二句をサユルのユを繰返して、第三句のユにつづく序詞と見てゐるのは無理であらう。小百合の花の如く可奈之家《カナシケ》とつづいてゐる、○由等許爾母《ユトコニモ》――夜床にも、夜床《ヨトコ》を東語でユトコと言つたのである。夜の床に共寢しても。このモは詠歎であらう。○可奈之家伊母曾《カナシケイモゾ》――いとしい妻が。カナシケはカナシキの東(78)語。○比留毛可奈之祁《ヒルモカナシケ》――晝もなほいとしい。このモは亦の意であらう。
〔評〕 初二句の譬喩は巧妙で、三句はかなり官能的である。五句には情緒纏綿の趣があらはれてある。佳い作だ。
 
4370 霰降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍に 我は來にしを
 
阿良例布理《アラレフリ》 可志麻能可美乎《カシマノカミヲ》 伊能利都都《イノリツツ》 須米良美久佐爾《スメラミクサニ》 和例波伎爾之乎《ワレハキニシヲ》
 
(阿良例布理)鹿島ノ神樣ヲ祈ツテ、私ハ天子樣ノ御軍隊ニ防人ニナツテ〔六字傍線〕來タノダヨ。
 
○阿良例布埋《アラレフリ》――枕詞。鹿島とつづくのは、霞降り喧《カシマ》しの意である。卷七にも霰零鹿島之崎乎《アラレフリカシマノサキヲ》(一一七四)とある。○可志麻能可美乎《カシマノカミヲ》――鹿島の神は鹿島神社。常陸國鹿島郡鹿島にあつて、建御雷命を奉祀してある。この神を防人が祈るのは本國の神であり、武の神であるからであらう。○須米良美久佐爾《スメラミクサニ》――皇御軍に。ミクサはミイクサの略である。天皇の軍隊に。イクサは軍兵の意。戰爭のことではない。○和例波伎爾之乎《ワレハキニシヲ》――我は來にしよの意。代匠記精撰本に「皇御軍のために我は來しますらをなるを、夜晝ともに悲しと思ひし妻を留めて置つれば、心弱く顧せらるゝ事を云ひ殘して含めるなるべし。」とあり、略解に「來にしをと言へるは、神に祈つて來りつるを、恙なく防人仕まつらざらめやと言ふ意なるべし」古義に「吾が尊信奉《アガメマツ》るところの鹿島の神に祈願《コヒイノリ》して、官軍《スメラミイクサ》に出て來しものを、いかでいみじき功勲《イサヲ》を立ずして、歸り來るべしやとなり。古の東人の義氣思ひやるべし」とあり。いづれもキニシヲで來タノニと解してゐるが、このヲは唯ヨといふだけの意である。
〔評〕 防人として徴發に應じ郷土の神・軍神を祈つて、出發した若者の心が、端的にあらはしてある。防人らしい素朴な作である。
 
右二首|那賀《ナカ》郡上丁|大舍人部千文《オホトネリベノチフミ》
 
(79)那賀郡は茨城郡と久慈郡との間にある。今は那珂郡と記してゐる。大舍人部の千文は温故堂本に、文を丈に作つてゐる。千文はチフミと訓んでゐる。この人の傳はわからない。
 
4371 橘の 下吹く風の 香ぐはしき 筑波の山を 戀ひず在らめかも
 
多知波奈乃《タチバナノ》 之多布久可是乃《シタフクカゼノ》 可具波志伎《カグハシキ》 都久波能夜麻乎《ツクバノヤマヲ》 古比須安良米可毛《コヒズアラメカモ》
 
私ハ今カウシテ國ヲ離レテ防人ニ出テヰテ、〔私ハ〜傍線〕、(多知波奈乃之多布久可是乃)ナツカシイ立派ナ〔三字傍線〕筑波ノ山ヲ、戀ヒ慕ハズニヰラレマセウヤ。筑波山ノアル故郷ガ戀シクテ仕様ガアリマセヌ〔筑波〜傍線〕。
 
○多知波奈乃之多布久可是乃《タチバナノシタフクカゼノ》――可具波志伎《カグハシキ》の序詞。橘の木の下を吹く風が、芳香を運ぶことを言つてゐる。橘は花橘であらう。橘の實ではあるまい。代匠記初稿本に「これは筑波山の橘によせて、妻のかうばしき心をこひざらめやといふ心なり」とあつて、筑波山の橘を妻の心に譬へてゐるやうに解してゐるのは當らない。又新考に「橘ノ下ニ吹ク風カグハシキソノ筑波山ヲといへるなり。……筑波山には今も蜜柑を植ゑて、其地にては筑波蜜柑と稱して、賞美する事なり」とあるのもどうかと思ふ。卷十九の霍公鳥來喧五月爾笑爾保布花橘乃香吉於夜能御言《ホトトギスキナクサツキニサキニホフハナタチバナノカグハシキヲヤノミコト》(四一六九)とあるのと同樣の用法である。○可具波志伎《カグハシキ》――褒めていふ詞。但しカを接頭語としてカ細《クハ》シキと見るのは當るまい。○古比須安良米可毛《コヒズナラメカモ》――戀ひずあらむや、戀ひずには居られないとの意。
〔評〕 筑波山は故郷の名山で、常陸の人の誇りでもあり、他郷にあつては先づ第一にこの山を思ひ出すのである。那賀郡にこの山があるのではない。初二句は右に引いた卷十九(四一六九)の歌によると、かういふ慣用があつたらしくも見える、
 
右一首|助丁占部廣方《スケノヨボロウラベノヒロカタ》
 
(80)郡名が記してないのは、前と同じく那賀郡なのであらう。占部廣方の傳はわからない。方を足に作る本もある。
 
4372 足柄の み坂たまはり 顧みず 我は越え行く あらし男も 立しや憚る 不破の關 越えて吾は行く 馬のつめ 筑紫の崎に ちまり居て あれはいははむ もろもろは さけくと申す 歸り來までに
 
阿志加良能《アシカラノ》 美佐可多麻波理《ミサカタマハリ》 可閉理美須《カヘリミズ》 阿例波久江由久《アレハクエユク》 阿良志乎母《アラシヲモ》 多志夜波婆可流《タシヤハバカル》 不破乃世伎《フハノセキ》 久江弖和波由久《クエテワハユク》 牟麻能都米《ムマノツメ》 都久志能佐伎爾《ツクシノサキニ》 知麻利爲弖《チマリヰテ》 阿例波伊波波牟《アレハイハハム》 母呂母呂波《モロモロハ》 佐祁久等麻乎須《サケクトマヲス》 可閉利久麻弖爾《カヘリクマデニ》
 
私ハ防人トシテ出カケテ〔私ハ〜傍線〕。足柄ノ山ノ〔二字傍線〕御坂ヲ通ツテ、後ヲ振返ツテモ見ナイデ其處ヲ〔三字傍線〕越エテ行ク。サウシテ〔四字傍線〕強イ男モ立チ留マツテ、通リ〔五字傍線〕カネル不破ノ關ヲモタヤスク〔五字傍線〕越エテ私ハ行ク。カクシ(81)テ目的地ノ九州ニ到着シ〔カク〜傍線〕、(牟麻能都米)筑紫ノ岬ニ留マリ滯在シテ〔四字傍線〕ヰテ、私ハ神ヲ祀ツテ無事ヲ祈〔六字傍線〕ラウ。留守居ノ〔四字傍線〕皆ノ者ドモハ、私ガ歸ツテ來ルマデノ間、無事デト申シテ神ヲ祷ツテ〔五字傍線〕ヰル。
 
○阿志加良能美佐可多麻波理《アシカラノミサカタマハリ》――足柄の御坂賜はり。足柄の御坂を越えることを許されるの意であらう。宣長は「たは添ていふ言にて、たもとほりなどのたの言に同じく、まはりは廻り也、此下にみさか多婆良婆《タバラバ》と詠めるも廻らば也」と言つてゐるが、坂を廻るといふのはをかしいやうである。神聖な神のいます坂として、御坂とも呼ばれてゐるのだから、通ることを賜はりと言つたのであらう。なほ、上代語には、メグル、モトホルはあるが、マハルは見當らぬやうである。○阿例波久江由久《アレハクエユク》――吾は越え行く。クエは越《コ》エの東語である。○阿良志乎母《アラシヲモ》――荒男も。卷十七に加苦思底也安良志乎須良爾奈氣枳布勢良武《カクシテヤアラシヲスラニナゲキフセラム》(三九六二)とある安良志乎《アラシヲ》に同じ。益荒男。○多志夜波婆可流《タシヤハバカル》――立ち憚る。タシは立チの東語。略解に志を知の誤としたのは從ひ難い。ヤは詠歎的に添へたのであらう。立ち憚るとは、立ち止まりて、越えか(20)ねる意であらう。○不破乃世伎《フハノセキ》――不破の關は美濃不破郡にあり、今の關原村大字松尾の大木戸坂にあつた。上代には伊勢の鈴鹿、越前の愛發と共に三關の一に數へられてゐた。○牟麻能都米《ムマノツメ》――枕詞。馬の爪盡すの意で筑紫にかけてゐる、馬の爪を盡すとは、馬の爪の行きて留る限《ハテ》の意で、祈年祭祀詞に馬爪至留限《ウマノツメノイタリトドマルカギリ》とあり、卷十八にも宇麻乃都米伊都久須伎波美《ウマノツメノイツクスキハミ》(四一二二)とある。宇麻《ウマ》を牟麻《ムマ》と記したのは東語とも言へるが、又丁度現代音のやうにウとムの中間音であつたとも言ひ得るのである。考に牟を宇の誤としたのは輕卒である。○都久志能佐伎爾《ツクシノサキニ》――筑紫の岬に。防人は北九州海岸の岬にゐたのである。○知麻利爲弖《チマリヰテ》――留り居て。チマリはツマリ。ツマリは祝詞の神留《カムツマリ》などのツマリで、留まり滯在すること。○阿例波伊波波牟《アレハイハハム》――我は神を祀つてゐよう。自分の無事を神に祈るのである。○母呂母呂波《モロモロハ》――諸々は。家に留守居してゐる皆の者どもは。○佐祁久等麻乎須《サケクトマヲス》――幸くと申して神を祷つてゐる。サケクはサキクの東語。マヲスはマヲセとありさうなところであるが、誤とも斷じ難い。
〔評〕 卷十四の東歌もこの卷の防人歌も、盡く短歌のみであるのに、これのみ長歌の形式になつてゐるのは、注意すべきである。作り馴れない長歌を試みた爲か、言葉の連續が穩やかでない點もあり、稚拙の評は免れないが、防人らしい心境はあらはれてゐる。
 
右一首|倭文部可良麿《シドリベノカラマロ》
 
舊本文を父に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。倭文部可良麿の傳はわからない。
 
二月十四日常陸國部領防人使大目正七位上息長眞人國島(ガ)進(レル)歌數十七首、但(シ)拙劣(ナル)歌者不v取(リ)載(セ)之(ヲ)1
 
部領防人使は前の例によると、防人部領使とあるべきであるが、下に武藏部領防人使(四四二四)とも(83)あるから、さういふ書き方もあつたのであらう。息長眞人國島は續紀に、寶字六年正月癸未正六位上息長丹生眞人國島授2從五位下1とある。
 
4373 今日よりは かへりみなくて 大君の しこの御楯と 出で立つわれは
 
祁布與利波《ケフヨリハ》 可敝里見奈久弖《カヘリミナクテ》 意富伎美乃《オホキミノ》 之許乃美多弖等《シコノミタテト》 伊※[泥/土]多都和例波《イデタツワレハ》
 
今日以後ハ家ヲモ身ヲモ〔六字傍線〕振リ返ラズニ、天子樣ノ物ノ數ナラヌ御楯トシテ防人トナツテ〔六字傍線〕、私ハ出カケテ行キマス。身命ヲ抛つて防人ノ職責ヲ果ス考デス〔身命〜傍線〕。
 
○可敝里見奈久弖《カヘリミナクテ》――顧みることなく。後を振返つて、躊躇することなくて。○之許乃美多弖等《シコノミタテト》――醜の御楯として。シコは卑下の言葉。ツマラヌ・數ナラヌといふやうな意である。但し醜《シコ》をカシコと同語として立派なの意とする説もある。古事記の葦原醜男などの例によると、その説も成立つわけであるが、なほ卑下の語とすべきであらう。御楯は干城。崇峻天皇紀に物部守屋大連の資人、捕鳥部|萬《ヨロヅ》の言葉として、「萬(ハ)爲2天皇|楯《ミタテ》1將v効2其勇1不2推間1云々」とある。○伊※[泥/土]多都和例波《イデタツワレハ》――我は出立つといふべきを倒置したのである。イデタツは出立する。終止形になつてゐる。
〔評〕 防人歌中の傑作として、人口に膾炙してゐるのみならず、忠誠の言懦夫をして立たしむるの慨があるといふべきであらう。
 
右一首|火長今奉部與曾布《クワチヤウイママツリベノヨソフ》
 
軍防令義解に「凡兵士(ハ)十人(ヲ)爲(ヨ)2一火(ト)1」とあるから、火長は十人の長である。今奉部與曾布の傳はわからな(84)い。
 
4374 天地の 神を祈りて さつ矢ぬき 筑紫の島を さして行くわれは
 
阿米都知乃《アメツチノ》 可美乎伊乃里弖《カミヲイノリテ》 佐都夜奴伎《サツヤヌキ》 都久之乃之麻乎《ツクシノシマヲ》 佐之弖伊久和例波《サシテイクワレハ》
 
天地ノ神ニ無事〔三字傍線〕ヲ祈ツテ矢ヲ靱ニ〔二字傍線〕差シテ、背中ニ背負ツテ〔七字傍線〕筑紫ノ島ヲ指シテ私ハ出カケテ行キマス。
 
○佐都夜奴伎《サツヤヌキ》――サツヤは獵に用ゐる矢で、戰に用ゐる征矢《ソヤ》に對する名であるが、ここは一般的に矢の總稱としたものであらう。ヌキは矢を靱に差し貫くことか。略解に載せた眞淵説に「卷三、笠朝臣金村旅行時鹽津山にて詠める歌に、丈夫の弓すゑふりおこし射つる矢を後見む人はかたりつぐがねと詠みたれば、旅に出立時、あるは防人の國を立時、さるべき方に向で、神を祈つて矢を放つ事有しにや。さらばぬきは射貫の意とすべし」とあり、考も同意になつてゐるが、穩やかでない。宣長が「きつ矢ぬきは、靱・胡※[竹/録]などへ矢を貫入れて指すぞ言ふなるべし」と言つたのがよい。矢を靱に差して、これを背に負ひ、武装したのである、保孝説に、「傍廂後集に、幸矢拔《サツヤヌキ》は天神地祇を祈るに、背矢の上別を拔出て神前に奉り、旅中安全旅中無難にして、歸國恙なからむ事をいのるための幣物なり。本居氏説非なり。縣居翁亦非なり」とある。○都久之乃之麻乎《ツクシノシマヲ》――筑紫の島は九州の島。古事記に九州を筑紫島といつてゐる。○佐之弖伊久和例波《サシテイクワレハ》――これも前歌と同じく、指して行くは終止形となつてゐる。
〔評〕 力強い調子になつてゐる。防人らしい雄々しい歌である。
 
右一首火長|大田部荒耳《オホタベノアラミミ》
 
大田部荒耳の傳はわからない。
 
4375 松の木の 並みたる見れば いは人の 我を見送ると 立たりしもころ
 
(85)麻都能氣乃《マツノケノ》 奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》 伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多多理之母已呂《タタリシモコロ》
 
松ノ木ガ路傍ニ〔三字傍線〕並ンデヰルノヲ見ルト、家ノ人ガ、出立ノ時ニ〔五字傍線〕私ヲ見送ルトテ並ンデ〔三字傍線〕、立ツテ居タノト同ジヤウダ。
 
○麻都能氣乃《マツノケノ》――松の木が。キを東語でケといつてゐる。○奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》――並んでゐるのを見ると。○伊波妣等乃《イハビトノ》――家人が。イヘをイハといつてゐる。下に伊波呂《イハロ》(四四一九)とある。○多多理之母己呂《タタリシモコロ》――立てりしが如しの意。タタリシは立テリシ。モコロは如シに同じ。卷二に立者玉藻之母許呂《タタバタマモノモコロ》(一九六)、卷十四に於吉爾須毛乎加母乃母己呂《オキニスモヲカモノモコロ》(三五二七)とある。
〔評〕 ずらりと立つてゐる松並木を見て、自分の出發を見送つて、立つてゐた家人を見出してゐる。松並木から家人への連想が突飛のやうで、しかも不自然でない。眞の東國人らしい味を持つてゐる。防人歌中の傑作である。
 
右一首火長物部|眞島《マシマ》
 
物部眞島の傳はわからない。
 
4376 旅行に 行くと知らずて あもししに ことまをさずて 今ぞ悔しけ
 
多妣由伎爾《タビユキニ》 由久等之良受弖《ユクトシラズテ》 阿母志志爾《アモシシニ》 巳等麻乎佐受弖《コトマヲサズテ》 伊麻叙久夜之氣《イマゾクヤシケ》
 
私ハカウシテ防人ニ徴發サレテ〔私ハ〜傍線〕旅行ニ出力ケルト知ラナイノデ、母ヤ父ニ懇ロニ〔三字傍線〕物モ言ハナイデ出テ來テ〔四字傍線〕、今(86)ニナツテ殘念ダヨ。コンナニ突然徴集サレテハ困ツタモノダ〔コン〜傍線〕。
 
○阿母志志爾《アモシシニ》――母父《オモチチ》にの東語。略解に「知々と書けるを志々に誤れるか。此下に意毛知々我多米と有り」とあるが、同じ東語ながらチチともシシともいふので、さう一律には行かない。○己等麻乎佐受弖《コトマヲサズテ》――言を申さないで。しみじみ話もしないで別れて來て。○伊麻叙久夜之氣《イマゾクヤシケ》――今ぞ悔しきに同じ。
〔評〕 不意に防人に指命せられて、出かけて來た著者の驚きが述べられてゐる。代匠記初稿本に「これは立時の心にはあらで、かくさきもりにさゝれてゆかんともしらで、日ごろ心のゆくばかり物をも申さゞりしがくやしきとなり」とあるが、やはり唐突の出發を悲しんだのであらう。この歌袖中抄に戴つてゐる。
 
右一首|寒川《サムカハ》郡上丁|川上臣老《カハカミノオミオユ》
 
寒川郡は下野國の東南隅。今は下都賀郡に合してゐる。川上臣老は舊本臣を巨に作つてゐるによれば、カハカミノオホオユか。元暦校本・神田本などによつて臣に改めた。この人の傳は明らかでない。
 
4377 あもとじも 玉にもがもや 頂きて みづらの中に あへまかまくも
 
阿母刀自母《アモトジモ》 多麻爾母賀母夜《タマニモガモヤ》 伊多太伎弖《イタダキテ》 美都良乃奈可爾《ミヅラノナカニ》 阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》
 
私ノ〔二字傍線〕母上ハ玉デアレバヨイガ。サウシタラバ〔六字傍線〕頭ノ上ニ載セテ、角髪ノ髷ノ〔二字傍線〕中ニ一緒ニ卷カウヨ。サウシテ旅ニ出カケテモ離レナイデヰヨウ〔サウ〜傍線〕。
 
○阿母刀自母《アモトジモ》――アモはオモに同じく母の東語。モは詠歎の助詞。刀自《トジ》は女の尊稱。○美都良乃奈可爾《ミヅラノナカニ》――美都良《ミヅラ》は角髪。上代男子の結髪。左右の耳の上に綰ねてある。○阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》――交へて纒かうよ。アヘは合アハ(87)セに同じく、まじへることである。玉を角髪《ミヅラ》に纒くことは、古事記に、天照大神が御髪を解き御角髪に纒かして、左右の御角髪にも、御鬘にも、左右の御手にも皆八尺勾※[玉+總の旁]の五百つの美須麻流の珠を纒き持たしたことが記されてゐる。マクはムに同じく、モは詠歎の助詞。
〔評〕 母に親しむ可愛らしい感情が詠まれてゐる。前の知々波々母波奈爾母我母夜《チチハハモハナニモガモヤ》(四三二五)と共に、愛情を美的に表現してある。
 
右一首津守宿禰|小黒《ヲクル》栖
 
舊本宿の下に禰の字を脱してゐる。元暦校本・西本願寺本などによつて補つた。津守宿禰小黒栖の傳はわからない。
 
4378 つく日やは 過ぐは行けども あもししが 玉の姿は 忘れせなふも
 
都久比夜波《ツクヒヤハ》 須具波由氣等毛《スグハユケドモ》 阿母志志可《アモシシガ》 多麻乃須我多波《タマノスガタハ》 和須例西奈布母《ワスレセナフモ》
 
月ヤ日ハ過ギテ行クケレドモ、母ヤ父ノ玉ノヤウナ御姿ハ忘レハシナイヨ。私ハ月日ガ經ツテモ父母ノ姿ガ忘レラレナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○都久比夜波《ツクヒヤハ》――月や日はといふべきを月日やはと言つたのであらう。舊訓にツクヒヨハとあり、代匠記に月日夜はと解したのを、考・略解など踏襲してゐるが、夜は意字ではなく、助詞であらう。○須具波由氣等毛《スグハユケドモ》――過ぎは行けどもに同じ。○阿母志志可《アモシシガ》――母父《オモチチ》がに同じ。○和須例西奈布母《ワスレセナフモ》――忘れ爲ぬよ。ナフはヌの延音。西をセの假名に用ゐたのは珍らしい。
〔評〕 父母を玉に譬へ玉の姿といつたのは、東人としては修辭的に進んだものであらう。これは前の歌と共に、(88)玉に寄する謂はゆる寄物陳思の歌ともいふべきであらう。
 
右一首|都賀《ツガ》郡上丁|中臣部足國《ナカトミベノタリクニ》
 
4379 白浪の よする濱邊に 別れなば いともすべなみ 八度袖振る
 
之良奈美乃《シラナミノ》 與曾流波麻倍爾《ヨスルハマベニ》 和可例奈波《ワカレナバ》 伊刀毛須倍奈美《イトモスベナミ》 夜多妣蘇弖布流《ヤタビソデフル》
 
今私ハ故郷ヲ離レヨウトシテヰルガ、アノ〔今私〜傍線〕白浪ノ打寄セル濱邊ニ向ケテ出發シテ〔七字傍線〕、別レテ行ツタナラバ、悲シクテ〔四字傍線〕ホントニ仕方ガナイト思ツテ、此處デ〔三字傍線〕幾度モ袖ヲ振ツテ別ヲ惜シムコトデア〔ツテ〜傍線〕ル。
 
○與曾流波麻倍爾《ヨソルハマベニ》――ヨソルは寄するに同じ。白波の寄する濱邊とは、何處を指すか明らかでない。下野の國の防人の作だから、東山道を經て難波津に赴くまで、白波の寄する濱邊はないわけである。略解に白波の寄する濱邊を難波津とし、家近きほどにて禰度袖振ると解してゐるが、考には「西のあら海をいふなり。……さる遠き間にわかれいなばなり」とあり、古義も、「白浪の所依《ヨスル》濱邊とは行向ふ難波より、西の海濱のことを、なほ家近き間にて豫云るなり。」と言つてゐる。濱邊には濱邊でと譯すのが普通であるが、ここでは前説どものやうに、濱邊ニ向ケテとしなければ意が通じない。○和可例奈波《ワカレナバ》――上に記す如く、「考に別れ去なば」と解し、諸註多くはこれに傚つてゐる。五の句に對して少し落付がわるい。○伊刀毛須倍奈美《イトモスベナミ》――甚だしく仕方がないので、未來にいふべきを現在に言つてゐる。
〔評〕 故郷の出發の際の作であらう。別離の哀愁に身悶えしてゐる樣が見える。併し意味の明瞭を缺く點があるのは遺憾である。
 
(89)右一首足利郡上丁|大舍人部禰麿《オホトネリベノネマロ》
 
足利郡は下野の西部。今もその郡が存してゐる。大舍人部禰麿の傳はわからない。
 
4380 難波とを こぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく
 
奈爾波刀乎《ナニハトヲ》 己伎※[泥/土]弖美例婆《コギデテミレバ》 可美佐夫流《カミサブル》 伊古麻多可禰爾《イコマタカネニ》 久毛曾多奈妣久《クモゾタナビク》
 
難波ノ港ヲ漕ギ出テ見ルト、神々シイ生駒ノ高嶺ニ雲ガ棚曳イテヰルヨ。ヨイ景色ダ〔五字傍線〕。
 
○奈爾波刀乎《ナニハトヲ》――難波津を。代匠記初稿本に「難波津ともまた難波門ともきこゆ」とある。難波津の東語と見るべきであらうか。○可美佐夫流《カミサブル》――カムサブルといふのが、普通である。
〔評〕 東人の歌とも思はれない明麗な作である。難波津を船出して、顧みて生駒山に雲の棚曳くを見て、その儘に詠出した叙景の作品である。代匠記初稿本に「故郷の遠きだにあるに、都さへ雲になりゆく心なり」と記してから、略解・古義など、いづれもその意を以て解してゐるが、さういふ哀感は盛られてゐないものと見たい。なほ防人の作歌は難波津出發以前に取りまとめて、部領使から提出せられたものであらうのに、出帆後の情景が詠まれてゐるのは、豫め想像して作つたのであらう。
 
右一首|梁田《ヤナタ》郡上丁|大田部三成《オホタベノミナリ》
 
梁田郡は下野の西偏。渡瀬川を以て足利郡と境してゐたが、今は足利郡に合した。大田部三成の傳はわからない。
 
4381 國國の 防人集ひ 船乗りて 別るを見れば いとも術なし
 
(90)久爾具爾乃《クニグニノ》 佐伎毛利都度比《サキモリツドヒ》 布奈能里弖《フナノリテ》 和可流乎美禮婆《ワカルヲミレバ》 伊刀母須弊奈之《イトモスベナシ》
 
國々ノ防人ガ難波津ニ〔四字傍線〕集ツテ、其處カラ〔四字傍線〕船ニ乘ツテ別レテ行クノヲ見ルト、又更ニ悲シクナツテ〔九字傍線〕、ホントニ仕方ガナイ。
 
○久爾具爾乃《クニグニノ》――國々の。東國諸國の。舊本、久を具に作るのはよくない。元暦校本によつて改めた。○布奈能里弖《フナノリテ》――フネをフナと言つたのか、熟語としてフナノリとなつてゐるのかわからないが、恐らく後者であらう。卷十九に三津爾舶能利《ミツニフナノリ》(四二四五)とある。○和可流乎美禮婆《ワカルヲミレバ》――別るるを見ればの古格である。難波津に別れて行くを見ると。
〔評〕 悲しい歌だ。故郷を離れて難波津に來たさへ心細いのに、更に見ず知らずの他國の防人らと一緒に、太宰府さして乘船出發するに際して、悲愁更に新なるものがある。
 
右一首|河内《カフチ》郡上丁|神麻續部島麿《カムヲミベノシママロ》
 
河内郡は今もその郡名を存してゐる。宇都宮市附近である。神麻續部島麿の傳はわからない。
 
4382 ふたほがみ 惡しけ人なり あたゆまひ 吾がする時に 防人にさす
 
布多富我美《フタホガミ》 阿志氣比等奈里《アシケヒトナリ》 阿多由麻比《アタユマヒ》 和我須流等伎爾《ワガスルトキニ》 佐伎母里爾佐酒《サキモリニサス》
 
アノ人ハ〔四字傍線〕二心デ腹ノ惡イ人ダ。私ガ脚氣デ困ツテ〔三字傍線〕ヰル時ニ、私ヲ〔二字傍線〕防人ニ指名シテ來タ。
 
(91)○布多富我美《フタホガミ》――わからない句である。從來の説では(1)二小腹とするもので、代匠記精撰本に、「二小腹《フタホガミ》と云にや。和名集(ニ)云、釋名(ニ)云、自v臍以下謂2之(ヲ)水腹1【和名古乃加美】かくはあれど世の人なべてほかみと云なるは和名集に漏たる和名もあれば、このかみの別名にて、陰上《ホトカミ》と云心にや。……さればホカミは腹なり。腹は心と云に近ければ二心にて惡きなりと、防人をさす人を譏るにや。」と述べたものである。略解の宣長説も「ふたほがみは兩小腹《フタホカミ》也。ほがみと曰ふは股上《モモカミ》の意也。故に兩とも言へり。百《モモ》をも、ほと云、五百《イホ》などの如し。」と言つてゐる。次は(2)二面神説で、考に「二面神の意を通し云言にて、かしら立人を指云。卷十六謗侫人歌に、奈良山乃兒手柏之兩面云云といへるにおなじ意なり」とあり、防人の差遣を掌る國司が、賄賂を受取りながら、腹惡しくも我を防人に指名したのを罵つて、二面の神と言つたものと見てゐる。次は(3)太小腹《フトホガミ》説で、ホガミを第一説と同じく、下腹と解し、フタをフトの訛として大膽剛腹といふやうな意に見てゐる。古義に「太小腹《フトホガミ》といへる意は、臍下の太《フト》く強暴《コハ》くて、物の憐を知らぬよしにて、常に大膽なるといふ意なるべし。」といつてゐるのがそれである。次は新考の(4)二大上《フタオホガミ》官説で「軍團の大毅少毅をいへるならむ」とある。以上の四説はいづれも良い説とは思はれないが、これらに代るべき私見を未だ得てゐないから、しばらく第一説に從つて、二心ある人として置かう。○阿志氣比等奈里《アシケヒトナリ》――惡しき人なり。ケはキの訛音。○阿多由麻比《アタユマヒ》――これも分らない言葉である。代匠記初稿本に、厚病(アツヤマヒと見たのであらう)、又、異例(アタヤマヒといへる歟といつてゐる)と解し、精撰本は異例だけを掲げてゐる。考には「あたゆる幣《マヒ》といふ則、賄賂なり」とあるが、略解は「與ふをあたゆとも言ふべからず」と言つて考の説を退けて、宣長が「あたゆまひは疝病也」和名抄、疝阿太波良と有り、是也。さて初句は三の句の上へうつして心得べし。ふたほがみ、あたゆやまひをする時に、防人にさす事よ、惡しき人なりと云也。あしき人とは、此役をさし來れる人をにくみて言ふ。」といつたのに賛同してゐる。古義も宣長の疝柄説を承認してゐる。併しアタユマヒをアタヤマヒとして、それが和名抄のアタハラと一致するや否やは頗る疑問である。アタの意は明瞭ではないが、アタ腹で始めて疝のことになるのであつて、アタ病とは言ひ得ないかと思はれる。宣長は初句から直ちに三句へつづけて、兩小腹《フタホガミ》が疝病《アタヤマヒ》をする時と見(92)てゐるやうだが、無理であらう。古義は初二句を「大膽にして、憐愁《モノノアハレ》をも知らず惡き人にてありけり」と解しながら、三句を疝病《アタヤマヒ》としたのは無理ではあるまいか。このアタユマヒについて、予は脚病《アトヤマヒ》の訛音ではあるまいかと、私かに考へてゐる。足をアトと言つた例は、卷五に、妻子等母波足乃方爾《メコドモハアトノカタニ》(八九二)と訓んでゐる通りで、脚病即ち脚氣に罹つてゐた時に、防人に指名せられたのを恨んだのである。なほ口譯には篤齋《アタユマ》ひとして、「ひどい物忌みにこもつて、わたしが謹んでゐる最中に」と解してゐる。○佐伎母里爾佐酒《サキモリニサス》――元暦校本その他酒を須に作る本が多い。
〔評〕 初句と三句とが、珍らしい東語を用ゐであるので、難解なのは遺憾であるが、それだけ防人らしい色彩が濃厚で面白い。大體自分を防人に徴發した國司を罵つてゐるやうに見えるが、防人部領使たる國の役人に見せる作としては、あまりに甚だしい惡罵のやうで、どうかと思はれる。或は單なる滑稽歌として許容さるべきものか。なほ攻究を要する。私見のやうに阿多由麻比《アタユマヒ》を脚病《アトヤマヒ》とすると、阿志氣《アシケ》が脚氣に通じで、滑稽味を加へるのではあるまいか。但しこれは予の臆測に過ぎない。
 
右一首那須郡上丁|大伴部廣成《オホトモベノヒロナリ》
 
那須郡は下野の北部。大伴部廣成の傳はわからない。
 
4383 津の國の 海のなぎさに 船装ひ たし出も時に あもが目もがも
 
都乃久爾乃《ツノクニノ》 宇美能奈伎佐爾《ウミノナギサニ》 布奈餘曾比《フナヨソヒ》 多志※[泥/土]毛等伎爾《タシデモトキニ》 阿母我米母我母《アモガメモガモ》
 
攝津ノ國ノ海ノ渚デ船ノ支度ヲシテ、筑紫ヘ向ツテ〔六字傍線〕出帆シヨウトスル時ニ、モウ一度故郷ノ〔七字傍線〕母ニ逢ヒタイモノダ。今舟路ノ旅ニナラウトシテイヨイヨ母ガ戀シクナツタ〔今舟〜傍線〕。
 
(93)○多志※[泥/土]毛等伎爾《タシデモトキニ》――立ち出む時に。出帆せむとする時に。○阿母我米母我母《アモガメモガモ》――アモはオモに同じ。母。この句は母に逢ひたいの意。
〔評〕 難波津に舟装ひして、いよいよ海路に入らむとして、更に故郷を思ふ情の新なるものがある。母に逢ひたしと叫ぶ若者の言葉は、蓋し人間の至情の發露である。
 
右一首|鹽屋《シホノヤ》郡上丁|丈部足人《ハセツカベノタリヒト》
 
鹽屋郡は那須郡の南に隣つてゐる。丈部足人の傳はわからない。
 
二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣|大戸《オホト》進(ル)歌數十八首但拙劣歌者不v取(リ)2載(セ)之(ヲ)1
 
田口朝臣大戸は續紀によれば、寶字四年正月丙寅正六位上から從五位下、六年正月戊子日向守、七年正月壬子兵馬正、八年正月己未上野介、寶龜八年正月庚申從五位上を授くと見えてゐる。十八首中の十一首を載せてゐる。
 
4384 あかときの かはたれ時に 島|陰《かぎ》を 漕ぎにし船の たづき知らずも
 
阿加等伎乃《アカトキノ》 加波多例等枳爾《カハタレトキニ》 之麻加枳乎《シマカギヲ》 己枳爾之布禰乃《コギニシフネノ》 他都枳之良受母《タヅキシラズモ》
 
夜明ケ方ノ薄暗イ時ニ島ノ陰ヲ漕イデ行ツタ船ガ、海ノ上デドウシテヨイカ〔海ノ〜傍線〕、何トモ方法ガワカラナイヨ。サゾ淋シクタヨリナイコトデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
(94)○阿加等伎乃《アカトキノ》――曉の。○加波多例等枳爾《カハタレトキニ》――拂曉に。カハタレは彼は誰で、夜明頃の人顔も定かならぬ時をいふ。黄昏を誰《タ》そ彼《カレ》といふに對する語である。○之麻加枳乎《シマカギヲ》――島蔭《シマカゲ》をの東語。○己枳爾之布禰乃《コギニシフネノ》――漕ぎ去にし船が。○他都枳之良受母《タツキシラズモ》――タツキは方便・術・手段などの意。どうしてよいか、爲すべき術がないといふのだ。
〔評〕 曉の薄暗い海を漕ぎ去つた船の行方を思つて、その船の人になつて詠んだものであらう。やがてそれに續いて出帆すべき、吾が乘る船の、たよりなさを想ひやつてゐるやうだ。これを島蔭を漕ぐ船中にあつて作つたと見る説もあるが、さうではあるまい。古義に初句から第四句までを、序と見てゐるのは蓋し當らない。
 
右一首助丁|海上《ウナカミ》郡海上國造|他出日奉直得大理《ヲサダノヒマツリノアタヒトコタリ》
 
海上郡は下總の東北部。卷十四の奈都素妣久宇奈加美我多能《ナツソヒクウナカミガタノ》(三三四八)參照。他田はヲサダ。古義は、續紀に延暦四年正月癸亥に、海上國造池田日奉直徳刀自、三代實録四十七に、下總國海上郡大領外正六位海上國造池田日奉直春岳とあるによつて、他田は池田の誤だうと言つてゐる。併し續紀の異本に他田とあり、正倉院天平二十年の文書にも海上國造他田日奉部直とある。他田日奉直得大理の傳はわからない。
 
4385 ゆこ先に 浪なとゑらひ しるへには 子をと妻をと 置きてとも來ぬ
 
由古作枳爾《ユコサキニ》 奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》 志流敝爾波《シルヘニハ》 古乎等都麻乎等《コヲトツマヲト》 於枳弖等母枳奴《オキテトモキヌ》
 
私ノ〔二字傍線〕行ク先ニハ浪ガヒドク〔三字傍線〕立騷グナヨ。後ロノ故郷〔三字傍線〕ノ方ニハ子ヲ妻ヲ殘シテ〔三字傍線〕置イテ來タ。故郷ノ妻子ガ心配デ旅ガツライノダカラ、セメテ海上ハ穩ヤカデアツテクレヨ〔故郷〜傍線〕。
 
○由古作枳爾《ユコサキニ》――行く先にの東語。○奈美奈等惠良比《ナミナトヱラヒ》――波よ騷ぐなかれ。從來の諸註は、代匠記に「浪の音ゆ(95)らひ」と譯したのに傚つて、ナミナトを浪の音とし、ヱラヒを搖り響む意としてゐる。併しナは打消で、トヱラヒといふ動詞と見る方が自然である。トヱラヒは卷九に釣船之得乎良布見者《ツリフネノトヲラフミレバ》(一七四〇)とあるトヲラフと同語で動搖し、彎曲するの意である。卷十九の於吉都奈美等乎牟麻欲比伎《オキツナミトヲムマヨヒキ》(四二二〇)のトヲムとも通ずる語であらう。○志流敝爾波《シルヘニハ》――後方《シリヘ》には。故郷の方を後方《シリヘ》といつたのである。○古手等都麻乎等於枳弖等母枳奴《コヲトツマヲトオキテトモキヌ》――舊訓コヲラツマヲラオキテラモキヌとあるが、古義に「三(ツ)の等はトと訓べし、(ラと訓るはわろし。此(ノ)前後の歌の書法によるに、もしラならば良(ノ)字を書べし。訓を假字に用ひしとは思はれず)この等《ト》は、曾《ソ》に似て輕き辭なり。例ば、十四に蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》、又|伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》、此(ノ)下に、伊※[泥/土]弖登阿我久流《イデテトアガクル》など皆同じ。」とあるのがよいやうである。新考には四の句をコヲラツマヲラと訓み、結句等を曾の誤としてオキテゾモキヌとしてゐるが、この改字は無理であらう。要するに、トは輕く添へたもので、子を妻を家に殘して來たといふ意である。但し元暦校本は結句の等母が良毛となつてゐる。
〔評〕 難波津を出發して、いよいよ海路に上らむとする時の淋しい心。故郷を思ふ情切なる上に、馴れぬ船路の恐ろしさも加はつでゐる。悲しい歌だ。
 
右一首|葛餝《カヅシカ》郡|私部石島《キサキベノイソシマ》
 
葛飾郭は下總の西部、今、東・南・北の三郡に分れてゐる、私を舊本和に作つてゐるのは誤、元暦校本によつて改めた。私部は敏達天皇紀に、六年春二月甲辰朔置2日祀部、私部《キサキベ》」とあり、續紀大寶三年の條に正七位上私(ノ)小田從七位上私(ノ)比都自《ヒツジ》長島などの名が見えてある。なほ姓氏録にも大私部、開化天皇皇子立彦坐命之後也と見えてゐる。元暦校本に石島の島を鳴に作つてゐるのは嶋の字であらう。私部石島の傳はわからない。
 
4386 吾がかづの 五本柳 いつもいつも おもが戀ひすな なりましつつも
 
(96)和加々都乃《ワガカヅノ》 以都母等夜奈枳《イツモトヤナキ》 以都母以都母《イツモイツモ》 於母加古比須奈《オモガコヒスナ》 奈理麻之都之母《ナリマシツシモ》
 
(和加々都乃以都母等夜奈伎)何時モ私ノ〔二字傍線〕母ハ仕事ヲナサリナガラモ、旅ニ出タ私ヲ〔六字傍線〕戀シク思ツテヰラレルデアラウ。私モ母ノコトガ心配デ仕方ガナイ〔私モ〜傍線〕。
 
○和加々都乃《ワガカヅノ》――吾が門《カド》の東語。元暦校本は和加可都乃に作つてある。○以都母等夜奈枳《イツモトヤナギ》――五本柳。代匠記にあるやうに、文選の陶淵明の五柳先生傳に「宅邊有2五柳樹1因以爲v號焉」とあるによつたものであらう。古義は「五十津株《イツモト》柳にて、五十津株《イツモト》は、樹株《コダチ》の多きを云、」「以都《イツ》は五橿《イツカシ》、伊都藻《イツモ》、五柴《イツシバ》などの伊都《イツ》と同じ」と言つてゐる。初句は同音を繰返して、以都母以都母《イツモイツモ》に續く序詞である。○於母加古比須奈《オモガコヒスナ》――母が戀すな。母が我を戀すらむの意らしい。於母《オモ》は母。前に例が多い。ナは下に阿加古比須奈牟《アガコヒスナム》(四三九一)とあるナムと同じで、ラムの東語であらうと思はれる。但し元暦校本その他、奈を々に作る本が多い。これによれば、オモガコヒススで、卷十四に可久須酒曾《カクススゾ》(三四八七)とあるススと同じく、爲《シ》つつの意となる。併しここでは戀スラムの意として置かう。○奈理麻之都之母《ナリマシツシモ》――業を爲ましつつもの意。マシは敬語である。都之《ツシ》の之は々の誤で、ツツであらうと言はれてゐる。母がその仕事を爲給ひつつも我を戀し給ふらむと言ふのである。
〔評〕 初二句の序詞から伊都母伊都母《イツモイツモ》につづいてゐるのは、卷三の妹家爾開有梅之何時毛何時毛《イモガイヘニサキタルウメノイツモイツモ》(三九八)・卷四の河上乃伊都藻之花乃何時何時《カハノウヘノイツモノハナノイツモイツモ》(四九一)・卷十一の道邉乃五柴原能何時毛何時毛《ミチノベノイツシバハラノイツモイツモ》(二七七〇)などと同型で優美に出来てゐる。五本柳を五柳先生の故事によつたとすると、防人の業としては似合はしくないとの見地からか、古義はこの説を認めてゐないが、防人歌には立派な指導者・添削者がついてゐたのだから、支那の故事を用ゐたとて不思議はない。下句には東人らしい匂が出てゐる。この歌、和歌童蒙抄に、「わが宿のいつもと柳いつもいつもおもが戀ひすななりましつとも」と出てゐる。
 
(97)右一首|結城《ユフキ》郡|矢作部眞長《ヤハギベノマナガ》
 
結城郡は下總の西北隅で、常陸と下野とに接してゐる。矢作部眞長の傳はわからない。
 
4387 千葉の野の 兒の手柏の ほほまれど あやにかなしみ 置きてたち來ぬい
 
知波乃奴乃《チバノヌノ》 古乃弖加之波能《コノテガシハノ》 保保麻例等《ホホマレド》 阿夜爾加奈之美《アヤニカナシミ》 於枳弖他加枳奴《オキテタチキヌ》
 
女ハマダ〔四字傍線〕(知波乃奴乃古乃弖加之波能)年ガ若イケレドモ、私ハアノ女ガ〔六字傍線〕不思議ナホド可愛クテ、後髪ヲ引カレル思デ故郷ニ〔後髪〜傍線〕置イテ出發シテ來タ。
 
○知波乃奴乃《チバノヌノ》――千葉の野の。千葉の野は、千葉郡の野。今の千葉市附近の平野である。○古乃弖加之波能《コノテガシハノ》――古乃弖加之波《コノテガシハ》は卷十六に、奈良山乃見手柏之兩面爾《ナラヤマノコノテカシハノフタオモニ》(三八三六)とある兒手柏と同じで、檜に似た側柏と稱するものだと言はれてゐるが、この歌の趣によれば決してさうではない。恐らく柏の若葉の未だ開かぬをいふのであらう。初二句はホホマレドの序詞である。○保保麻例等《ホホマレド》――ホホマルは含メルに同じ。卷十四の安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母《アドモヘカアジクマヤマノユヅルハノフフマルトキニカゼフカズカモ》(三五七二)のフフマルと同語で、女の年若きに譬へたものらしい。古義には、四句をこの句の上に移し、「あやしきまでに愛憐《カナ》しさに、妹と我と、閨房《ネヤ》に含《フフ》まり隱《コモ》りて、暫(シ)も放れ難き仲なれど」と解してゐるが、蓋し當らない。○阿夜爾加奈之美《アヤニカナシミ》―あやしく不思議に可愛く思つて。カナシミは悲しき故にではなく、愛しみての意であらう。○於枳弖他加枳奴《オキテタチキヌ》――舊本のままならばタカキヌであり、古訓もさうなつてゐるが、高々に遙かに來たと解するのは當らぬやうであるから、古義に傚つて加を知の誤として、立《タ》チ來ヌとして置かう。故郷に置いて出發して來たといふのである。略解は他を和の誤として、オキテワガキヌであらうと言つてゐる。
(98)〔評〕 故郷の千葉の野の兒の手柏を以て、女の若さに譬へで序詞としたのは、卷十四の阿自久麻山のゆづる葉の歌に似て、東人の間に言ひならはされたものかも知れないが、感じのよい言葉である。和歌童蒙抄と袖中抄とに載せであるのは、珍らしい兒の手柏に心引かれたのであらう。
 
右一首千葉郡|大田部足人《オホタベノタリヒト》
 
千葉郡は下總の東南部、今の千葉市附近である。大田部足人の傳はわからない。
 
4388 旅とへど 眞旅になりぬ 家のもが 著せし衣に 垢つきにかり
 
多妣等弊等《タビトヘド》 麻多妣爾奈理奴《マタビニナリヌ》 以弊乃母加《イヘノモガ》 枳世之己呂母爾《キセシコロモニ》
 
旅ト言ツテモ、私ノコノ旅ハ長イ〔八字傍線〕本當ノ旅ニナツタ。サウシテ、出カケル時ニ〔サウ〜傍線〕、家ノ妻ガ着セテクレタ私ノ着物ニ垢ガツイタヨ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
 
○多妣等弊等《タビトヘド》――旅と言へども。一口に旅とはいふけれども。○麻多妣爾奈理奴《マタビニナリヌ》――眞旅になりぬ。本當の長い旅となつた。家を離れて長くなつたことを言つてゐる。○以弊乃母加《イヘノモガ》――家の妹が。イモをモといつてゐる。伊《イ》が脱ちたとする説はよくない。○阿加都枳爾迦理《アカツキニカリ》――垢着きにけり。迦理を舊訓にケリとあり、略解に「迦は誤字か。又は東語にけりをかりと言へるか」とあるが、カリの儘として、ケリの東語と見るべきであらう。
〔評〕 有りのままの卒直な表現が、人をうなづかしめるものがある。卷十五の和我多妣波比左思久安良思許能安我家流伊毛我許呂母能阿可都久見禮婆《ワガタビハヒサシクアラシコノアガケルイモガコロモノアカツクミレバ》(三六六七)と似てゐるのは偶然か。但しこの防人作が却つて勝つてゐる。
 
(99)右一首|占部虫麿《ウラベノムシマロ》
 
郡名を記さないのは、前の歌と同じく千葉郡であらう。占部虫麿の傳はわからない。
 
4389 しほ船の 舳越そ白浪 にはしくも おふせたまほか 思はへなくに
 
志保不尼乃《シホブネノ》 弊古祖志良奈美《ヘコソシラナミ》 爾波志久母《ニハシクモ》 於不世他麻保加《オフセタマホカ》 於母波弊奈久爾《オモハヘナクニ》
 
私ハ夢ニモ〔三字傍線〕思ハナカツタノニ(志保不尼乃弊古祖志艮奈美)俄カニモ、私ヲ防人ニ〔五字傍線〕任命ナサツタヨ。アマリ急ナノデ驚イタ〔十字傍線〕。
 
○志保不尼乃《シホブネノ》――潮舟の。潮に浮ぶ船の。卷十四に思保夫禰能《シホブネノ》(三五五九)、この卷にも志富夫禰爾《シホブネニ》(四三六八)とあつた。○弊古祖志良奈美《ヘコソシラナミ》――舳越す白浪。コソはコスの東語。祖をスと訓むのではない。初二句は海の船の舳先を突如として白浪が越す意を以て序詞としたのである。○爾波志久母《ニハシクモ》――遽かにもに同じ。ニハシクはニハシといふ形容詞の副詞形であらう。○於不世他麻保加《オフセタマホカ》――仰せ賜ふか。オフセはオホセの東語。タマホはタマフの東語。○於母波弊奈久爾《オモハヘナクニ》――代匠記初稿本に「おもはへなくには、おもひあへなくになり。比阿反波なり。何事をおもひあへず、いそぎたつ心なり」とある。考・古義・新考などいづれも大體同説であるが、古義は「掛ても思ひ合せざりしものを」と言ひ、新考は「得心スル間モ無キニ」と解してゐる。思ひ敢へなくにの意ならば新考説がよいが、ここは意外にもの意らしい。なほ考ふべきであらう。
〔評〕 初二句は防人として、海路につく人の歌としてはふさはしい。防人の指名が突如として行はれたことも、これによつて明らかである。
 
右一首|印波《イナバ》郡|丈部直大歳《ハセツカベノアタヘオホトシ》
 
(100)印波郡は下總の中部。和名抄に印幡と記し、訓を記してない、今はインバと言つてゐるが、印はn音尾の文字であるから、上代はイニ又はイナと訓んだであらう。新考はイナバをよしとし、郡中に稻葉村ありと言つてゐる。播磨の印南《イナミ》に傚つてイナバと訓んで置かう。丈部直大歳の傳は明らかでない。歳は古本多くは麿に座つてゐるから、大麿が正しいのであらう。
 
4390 むら玉の くるに釘さし かためとし 妹がここりは あよぐなめかも
 
牟浪他麻乃《ムラタマノ》 久留爾久枳作之《クルニクギサシ》 加多米等之《カタメトシ》 以母加去去里波《イモガココリハ》 阿用久奈米加母《アヨグナメカモ》
 
(牟浪他麻乃久留爾久枳作之)堅ク約束ヲシタ妻ノ心ハ動搖シナイデアラウ。妻ハ心變リスルマイカラ安心ダ〔妻ハ〜傍線〕。
 
○牟浪他麻乃《ムラタマノ》――よくわからない句であるが、次句の久留《クル》に冠する枕詞なることは疑ない。文字の儘ならばムラタマノである。浪をラの假名に用ゐるのは珍らしいが、卷十七にも安我故非乎浪牟《アガコヒヲラム》(三九三八)・此夜須我浪爾《コノヨスガラニ》(三六九)などの例があるから、誤字と見るのは穩當でない。ムラタマを群玉とし、クルをくるめく意でつづくと見る説が契沖以來行はれてゐる。略解はムラタマをヌバタマの東語とし、クルをクロの東語としてつづくと言つてゐるのも面白いが、しばらく群玉説に從つて置かう。○久留爾久枳作之《クルニクギサシ》――クルは枢。クルルに同じ。戸ぼそと戸まらと相合ひて、戸を開閉せしめる装置をいふのが本義であるが、轉じて戸の棧、おとしをもいふ。ここのクルは枢《クルル》にて開閉する戸、即ちクルル戸のことであらうと思はれる。久枳《クギ》は釘、戸を固める爲に差す鎖《ジヤウ》である。以上の二句は固めとしにつづく序詞。○加多米等之《カタメトシ》――固めてしの東語。約束した。○以母加去去里波《イモガココリハ》――妹が心は。ココリはココロの東語。○阿用久奈米加母《アヨグナメカモ》――代匠記精撰本は、危くなみかもとし、危くなからめや危く思ひ置くの意とあり。略解には「危くはあらじと言ふを東語にかく言へり」とあり、古義は「危く無み歟《カ》もにて、嗚呼《アハレ》危くはあらじか、といふ意なり」と言つてゐる。併し新考は出雲風土記に「阿用郷……或人此處(101)山田(ヲ)佃而守之《ツクリテマモリキ》、爾時目一(ノ)鬼來而食2佃人《タツクリ》男1、爾時男之父母竹原中(ニ)隱而|居之《ヲリキ》、時竹葉|動之《アヨギキ》、爾時所v食《クハユル》男云2動々《アヨアヨ》1、故云2阿欲《アヨ》1(神龜三年改2字阿用1)とあるのを引いて、「アヨグナメカモは動カムヤハなり」と言つてゐる。崇峻天皇記に「衛士等被v詐指2搖《アヨグ》竹(ヲ)1馳言2萬在1v此」とあり、その他、拾遺集に「雲まよふ星のあゆぐと見えつるは螢の空に飛ぶにぞありける」千載集に「思ひかねあくがれ出でて行く道はあゆぐ草葉に露ぞこぼるる」、夫木集に「刈萱の穗に出でて物は言はねどもあゆぐ草葉にあはれとぞ思ふ」とあるアユグと同語で、動搖する意である。ナメカモは無いかよの意で、妻の心は動搖しないであらうかといふのである。疑ふ意は薄いやうだ。
〔評〕 方言的の香氣は高い作品であるが、序詞の用法は巧なものだ。卷十六の家爾有之櫃爾※[金+巣]刺藏而師戀乃奴之《イヘニアリシヒヅニゾウサシヲサメテシコヒノヤツコノ》(三八一六)といつたのに多少類似點がないではないが、ともかく面白く出來てゐる。
 
右一首|※[獣偏+爰]島《サシマ》郡|刑部志加麿《オサカベノシカマロ》
 
※[獣偏+爰]島郡は和名抄に佐之萬と訓し、今もサシマと呼んでゐる。下總の北隅で結城郡の西に隣つてゐる。刑部志加麿の傳はわからない。
 
4391 國國の 社の神に 幣まつり あがこひすなむ 妹がかなしさ
 
久爾具爾乃《クニグニノ》 夜之呂乃加美爾《ヤシロノカミニ》 奴佐麻都理《ヌサマツリ》 阿加古比須奈牟《アガコヒスナム》 伊母賀加奈志作《イモガカナシサ》
 
私ハ〔二字傍線〕國々ノ社ノ神樣ニ道スガラ〔四字傍線〕幣ヲ奉ツテ、妻ノ無事ヲ祈ツテヰルガ、カウシテ〔妻ノ〜傍線〕私ガ戀シク思ツテヰル妻ガイトシイコトヨ。
 
○阿加古比須奈牟《アガコヒスナム》――代匠記精撰本には「我をか戀に爲なむにて戀にせむなり。加の字濁るべからず」とあり、略解の宣長説では「あがこひは贖乞《アガコヒ》也。あがふ命なども有類也。こひも、こひのみのこひ也。すなむはすらむ也、(102)凡そ東歌には、らむをなむと言へる例多し。妹があがこひすらむと云也」とあり、古義もこれに從つて、「贖祈將爲《アガコヒスラム》なり、贖祈《アガコヒ》とは、贖《アガ》ふ命などもよめる如く、罪過《ツミトガ》の代りに贖《アガ》物を出して、神に祈願《コヒネグ》を云、奈牟《ナム》は良牟《ラム》といふ意の東語なり」と言つてゐる。併し贖祈《アガコヒ》といふ熟語は他になく、又家に留守居の妻が、國々の社の神に幣奉るといふのもどうかと思はれる。上三句は旅行く防人の仕業と見るのが自然であるから、從つてこの句は吾が戀ひ爲なるの意とすべきであらう。ナムはラムに通ずる東語であるが、ここは輕く用ゐたので、推量の意は薄くナルと同じやうな意であらう。○伊母賀加奈志作《イモガカナシサ》――妹が愛しきことよ。
〔評〕 第四句が難解なる爲に、説が別れてゐるのは遺憾だ。旅中防人が道すがら社々に幣を捧げて、唯妻の無事を祈る歌であらう。眞情が流露してゐる。
 
右一首結城郡|忍海部五百麿《オシノミベノイホマロ》
 
忍海部五百麿の傳はわからない。
 
4392 天つしの いづれの神を 祈らばか うつくし母に また言とはむ
 
阿米都之乃《アメツシノ》 以都例乃可美乎《イヅレノカミヲ》 以乃良波加《イノラバカ》 有都久之波波爾《ウツクシハハニ》 麻多己等刀波牟《マタコトトハム》
 
天地ノドノ神樣ヲ祈ツタナラバ、私ハ無事ニ歸國シテ〔九字傍線〕、再ビ親愛ナル母ニ逢ツテ〔三字傍線〕、話ヲスルコトガ出來ルデアラウカ。ドウカシテ無事任務ヲ果シテ歸國シテ母ニ逢ヒタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○阿米都之乃《アメツシノ》――天地《アメツチ》をアメツシといふのは東語である。略解に誤としたのは、その意を得ない。○有都久之波波爾《ウツクシハハニ》――ウツクシ母はウツクシキ母。愛する母。
(103)〔評〕 防人の任務を終へて歸るまで、母の無事を祈つてゐるのだが、八百萬の神の内でも、間違なくわが願を聽屆けるのはどの神であらうかと、訊ねる心はいたましい。親を思ふ眞情があらはれてゐる。併し古義に「天神地祇の中に、いづれの神に祈祷《イノリ》てあらばか、其(ノ)神のちはひによりて、公役のかぎりにあらずして愛しき母に、又物言交すよしのあらむとなり」とあるのは從ひ難い。公役も終らずして歸國しまうとするやうな、卑怯な防人はゐない筈である。平明なよい作だ。
 
宥一首|埴生《ハニフ》郡|大伴部麻與佐《オホトモベノマヨサ》
 
埴生郡は和名抄に波牟布と訓してある牟は爾の誤字であらう。下總の中部の北邊、利根川に沿うてゐる。今は印幡郡に合せられた。大伴部麻與佐の傳はわからない。
 
4393 大君の みことにされば 父母を 齋瓮と置きて まゐ出來にしを
 
於保伎美能《オホキミノ》 美許等爾作例波《ミコトニサレバ》 知知波波乎《チチハハヲ》 以波比弊等於枳弖《イハヒベトオキテ》 麻爲弖枳爾之乎《マヰデキニシヲ》
 
防人ニ出ヨトイフ〔八字傍線〕天子樣ノ詔デアルカラ、私ハ〔二字傍線〕父ヤ母ヲ神樣ヲ祭ル爲ニ〔七字傍線〕齋瓮ヲ供ヘテ置イテ、ソレト〔九字傍線〕ト共ニ、故郷ニ殘シテ〔六字傍線〕置イテ、別レテ來タヨ。父母ハ神ノ守護ニヨツテ、私ノ來ルマデハ、必ズ無事デイラツシヤルダラウ〔父母〜傍線〕。
 
○美許等爾作例波《ミコトニサレバ》――勅にしあればの約。シアの約がサになることは言ふまでもあるまい。○以波比弊等於枳弖《イハヒベトオキテ》――略解・古義などに父母を齋瓮として家に置きてとしてゐる。即ち神を祭る爲に酒を盛つて供へる齋瓮の如く、神聖視する意とするのである。併しどうも穩やかでない。考には「齋瓶と置てはいはひべといざなひ來(104)て置くなり。そはたらちねの母の守てふ守と同く、父母を率て來て守とせん物をと云を句を別つゝいふなり」とあるのは、結句舊本|麻爲弖枳麻之乎《マヰテヰマシヲ》とあるに誤られたのである。さりとて新考にイハヒ物等オキテの誤として、齋ひ持ち置きてと解したのにも從ひ難い。蓋し齋瓮と共に家に殘し置きての意で、出發に先立つて祭壇を設け、齋瓮を供へ、その儘にして家を出て來たのである。○麻爲弖枳爾之乎《マヰデキニシヲ》――爾は舊本麻とあるが、元暦校本その他、爾に作る古本が多いから、それによつて改めた。參出來にしよの意。ヲをモノヲの意とするのは、よくない。
〔評〕 神を祭つた齋瓮と、父母とを同居せしめて置いたから、神威によつて父母も無事であらうと、信頼をかけてゐる。初二句は皇室に對する絶對的服從の念が見えてゐる。
 
右一首結城郡|雀部廣島《ササキベノヒロシマ》
 
雀部廣嶋の傳はわからない。
 
4394 大君の 命かしこみ ゆみのみた さ寢か渡らむ 長けこの夜を
 
於保伎美能《オホキミノ》 美己等加之古美《ミコトカシコミ》 由美乃美他《ユミノミタ》 佐尼加和多良牟《サネカワタラム》 奈賀氣己乃用乎《ナガケコノヨヲ》
 
天子樣ノ詔ヲカシコミ承ツテ、私ハ防人ニ出カケルガ、コレカラ〔私ハ〜傍線〕弓ト一緒ニ寢テ、長イ月日ノ間ノ〔五字傍線〕夜ヲ送ルデアラウカ。
 
○由美乃美他《ユミノミタ》――舊本ユミノミニと訓み、從來の諸注は夢のみにと解してゐたが、元暦校本・類聚古集に仁を他に作つたのに從ふべきであらう。夢はイメとのみあつて、ユメといつた例はない。もとよりユミといふべくも(105)なささうである。だから由美乃美他《ユミノミタ》は弓の共《むた》の東語であらねばならぬ。弓の共《むた》は弓と共にの意である。なほ舊訓によつて夢ノミとする時は、乃美の用字法が他の例に一致しないのである。即ち謂はゆる特殊仮名遣によると、ミは美類と微類と分れるのであるが、ノミは微類の微・未・味・尾を用ゐるのが紀記萬葉の常であつて、美類の文字は用ゐてないのである。だからこれをバカリの意のノミとすることは困難である。ミタはムタの訛音とするに差支ない筈である。○佐尼加和多良牟《サネカワタラム》――さ寢か渡らむ。サは接頭語のみ。意味はない。古義に妻と相寢することとし、從來の説を拒けてゐるが、由美を夢でなく、弓とすれば、詩註の論爭は解消したわけである。○奈賀氣己乃用乎《ナガゲコノヨヲ》――長き此の夜をの東語。長き此り夜とは、夜を重ねて長年月を經ることであらう。コノとあるが、長き一夜を夜もすがらわたるといふのではあるまい。これから防人に出で立つのであるから、今のみのことを言ふ筈はない。ことにこれは二月十六日の進歌であつて、その一ケ月前の作としても、永夜といふほどの時期ではない。
〔評〕 妻を離れて、弓を抱いて寢るであらうといふ防人の歎聲は、あはれに人の胸を打つものがある。初二句も前歌と同じく、防人らしい言葉である。
 
右一首|相馬《サウマ》郡|大伴部子羊《オホトモベノコヒツジ》
 
相馬郡は下總の北部。※[獣偏+爰]島郡の東南に接してゐる。大伴部子羊の傳はわからない。考には子は首の誤であらうかといつてゐる。
 
 
二月十六日下總國|防人部領使少目《サキモリノコトリツカヒスクナキフミヒト》從七位下縣犬養宿禰|淨人《キヨヒト》進《タテマツレル》歌數二十二首但拙劣歌者不v取(リ)2載(セ)之(ヲ)1
 
縣犬養宿禰淨人の傳はわからない。古義に「逸史に、弘仁十四年正月、正六位上縣犬養宿禰淨人(106)授2從五位下1とあるは、同名異人なり」とある。奉つた歌二十二首とあるが載せであるのは、十一首であるから、半數の十一首は拙劣歌として棄てられたのである。
 
獨惜(メル)2龍田山(ノ)櫻花(ヲ)1歌一首
 
4395 龍田山 見つつ越え來し 櫻花 散りか過ぎなむ 吾が歸るとに
 
多都多夜麻《タツタヤマ》 見都都古要許之《ミツツコエコシ》 佐久良波奈《サクラバナ》 知利加須疑奈牟《チリカスギナム》 和我可敝流刀爾《ワガカヘルトニ》
 
龍田山ヲ越エル時ニ盛ニ咲イテヰルノヲ〔越エ〜傍線〕見ナガラ、越エテ來夕櫻ノ花ハ、私ガ歸ル時ニハ、散リ過ギテヰルデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○和我可敝流刀爾《ワガカヘルトニ》――吾が歸る時に。舊本に禰とあるが、元暦校本に爾とあるに從ふべきである。トニは時にといふやうな意。但し特種假名遣では、トには二種あり、時は登類で刀とは別類であるから、時の略とは言ひ難い。古義には内にと解してゐる。
〔評〕 都から難波への道すがら、龍田山で見て置いた櫻花を、今難波にあつて、想ひ起して、既に散り過ぎてゐるであらうかと惜しんだもの。但し、下にこの人の三月三日の作|布敷賣里之波奈之波自米爾許之和禮夜知里奈牟能知爾美夜古敝由可無《フフメリシハナノハジメニコシワレヤチリナムノチニミヤコヘユカム》(四四三五)とあるから、この時都に歸つたのではない。平明な作といふまでである。
 
獨見(テ)2江(ノ)水(ニ)浮(ビ)標(ヘル)糞(ヲ)1怨2恨(ミテ)貝玉(ノ)不(レヲ)1v依(ラ)作(レル)歌一首
 
江水は雖波堀江の水である。浮漂糞は浮び漂へる木屑。糞はコヅミと訓むのである。代匠記には(107)糞の上に木の字脱ちたるかとしてゐる。不依とあるは日本式漢文であらう。
 
4396 堀江より 朝潮滿ちに 寄る木づみ 貝にありせば つとにせましを
 
保理江欲利《ホリエヨリ》 安佐之保美知爾《アサシホミチニ》 與流許都美《ヨルコヅミ》 可比爾安里世波《カヒニアリセバ》 都刀爾勢麻之乎《ツトニセマシヲ》
 
難波ノ〔三字傍線〕堀江カラ朝汐ガ滿チテ來ル時ニ、岸ヘ流レ〔四字傍線〕寄ル木屑ハ、アレガモシ〔五字傍線〕貝デアツタナラバ、土産トシテ取ツテ行カウノニ。澤山アツテモ土産ニモナラナイカラ仕方ガナイ〔澤山〜傍線〕。
 
○保理江欲利《ホリエヨリ》――堀江から。堀江は難波の堀江。○安佐之保美知爾《アサシホミチニ》――朝汐滿に。朝汐が滿ちて來る時に。朝汐滿といふ名詞としてゐる。○與流許都美《ヨルコヅミ》――寄る塵芥。コヅミは木積不來友《コヅミナラズトモ》(一一三七)・木積成《コヅミナス》(二七二四)・縁木積成《ヨルコヅミナス》(四二一七)の木積《コヅミ》、木都能餘須奈須《コヅノヨスナス》(三五四八)の木都《コヅ》と同じである。今のゴミの源をなす語か。
〔評〕 上句は朝汐の滿ちた難波堀江の光景を思はしめるものがある、下句は海に遠い都人の貝類を珍らしがつた情をあらはしてゐる。平明な感じの作。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
在(リ)2舘門(ニ)1見(テ)2江南(ノ)美女(ヲ)1作(レル)歌一首
 
館門は兵部省出張所となつてゐる官館の門で、大伴家持がこの官館に滯在してゐたのである。略解に「館は防人の難波に逗留の間の館なるべし」とあるが、防人もこの館に宿營をしてゐたかどうかわからない。古義に「館門は離宮の南門なりといへり」とあるのは、何によつたのかその意を得ない。江南は難波堀江の南をいふ。
 
4397 見渡せば 向つ峯の上の 花にほひ 照りて立てるは はしき誰が妻
 
(108) 見和多世婆《ミワタセバ》 牟加都乎能倍乃《ムカツヲノヘノ》 波奈爾保比《ハナニホヒ》 弖里※[氏/一]多弖流婆《テリテタテルハ》 波之伎多我都麻《ハシキタガツマ》
 
見渡スト、向ヒノ山ノ上ニ咲イテヰル花ノヤウニ、美シク輝イテ、河ノ向フニ立ツテヰルノハ、誰ノ愛スル妻デアルゾ。マコトニ美シイ女ダ〔九字傍線〕。
 
○牟加都乎能倍乃《ムカツヲノヘノ》――向つ峯の上の。初二句は序詞のやうでもあるが、次につづいて譬喩となつてゐる。初句は四句以下にかけて見るがよい。難波には向つ峯といふやうなものはないから、實景を採り入れたのではない。○波奈爾保比《ハナニホヒ》――花の咲き匂つてゐるやうに。古義に花艶《ハナニホヒ》すとてとあるのは少し違つてゐる。○弖里※[氏/一]多弖流婆《テリテタテルハ》――美しく照り輝いて立つてゐる女は。婆は元暦校本に波に作るのがよい。○波之伎多我都麻《ハシキタガツマ》――愛しき誰が妻なるぞ。
〔評〕 河の對岸を歩いてゐる美女を見て、向つ峯の上の花の美しさに譬へて詠んだのは、題材も珍らしく、かうした態度の作は、集中に類例がないやうである。つきつめた眞情の作ではなくで、のんびりとした有閑者的氣分である。
 
右三首二月十七日兵部少輔大伴家持作(ル)v之(ヲ)
 
宿禰の二字がないのは脱ちたのか。
 
爲《ナリテ》2防人(ノ)情(ニ)1陳(ベテ)v思(ヲ)作(レル)歌一首并短歌
 
4398 大王の 命かしこみ 妻別れ 悲しくはあれど ますらをの こころふり起し とりよそひ 門出をすれば たらちねの 母かき撫で 若草の 妻は取付き 平らけく 我は齋はむ さきくゆきて 早かへりこと 眞袖持ち 涙をのごひ 咽びつつ こととひすれば 群鳥の 出で立ちがてに 滯り かへりみしつつ いや遠に 國を來離れ
 いや高に 山を越え過ぎ あしが散る 難波に來ゐて 夕汐に 船を浮けすゑ 朝なぎに 舳向け漕がむと さもらふと 吾が居る時に 春霞 島みに立ちて 鶴が音の 悲しみ鳴けば はろばろに 家を思ひ出 負ひ征矢の そよと鳴るまで 嘆きつるかも
 
(106) 大王乃《オホキミノ》 美己等可之古美《ミコトカシコミ》 都麻和可禮《ツマワカレ》 可奈之久波安禮特《カナシクハアレド》 大夫《マスラヲノ》 情布里於許之《ココロフリオコシ》 等里與曾比《トリヨソヒ》 門出乎須禮婆《カドデヲスレバ》 多良知禰乃《タラチネノ》 波波可伎奈※[泥/土]《ハハカキナデ》 若草乃《ワカクサノ》 都麻波等里都吉《ツマハトリツキ》 平久《タヒラケク》 和禮波伊波波牟《ワレハイハハム》 好去而《サキクユキテ》 早還來等《ハヤカヘリコト》 麻蘇※[泥/土]毛知《マソデモチ》 奈美太乎能其比《ナミダヲノゴヒ》 牟世比都都《ムセビツツ》 言語須禮婆《コトトヒスレバ》 群鳥乃《ムラドリノ》 伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチガテニ》 等騰己保里《トドコホリ》 可弊里美之都々《カヘリミシツツ》 伊也等保爾《イヤトホニ》 國乎伎波奈例《クニヲキハナレ》 伊夜多可爾《イヤタカニ》 山乎故要須疑《ヤマヲコエスギ》 安之我知流《アシガチル》 難波爾伎爲弖《ナニハニキヰテ》 由布之保爾《ユフシホニ》 船乎宇氣須惠《フネヲウケスヱ》 安佐奈藝爾《アサナギニ》 倍牟氣許我牟等《ヘムケコガムト》 佐毛良布等《サモラフト》 和我乎流等伎爾《ワガヲルトキニ》 春霞《ハルガスミ》 之麻未爾多知弖《シマミニタチテ》 多頭我禰乃《タヅガネノ》 悲鳴婆《カナシミナケバ》 波呂婆呂爾《ハロバロニ》 伊弊乎於毛比※[泥/土]《イヘヲオモヒデ》 於比曾箭乃《オヒソヤノ》 曾與等奈流麻※[泥/土]《ソヨトナルマデ》 奈氣吉都流香母《ナゲキツルカモ》
 
天子樣ノ詔ヲ恐レ多ク承ツテ、防人トシテ私ハ〔七字傍線〕妻トノ別レガ悲シクハアルガ、大丈夫タル勇マシイ〔四字傍線〕心ヲ振ヒ起シテ、防人ノ〔三字傍線〕装ヒヲシテ出立スルト、〔多良知禰乃)母ハ私ヲ〔二字傍線〕掻キ撫デ、(若草乃)妻ハ私ニ〔二字傍線〕取リツイテ、御無事デ御歸リナサルヤウニ〔九字傍線〕私ハ神樣ヲ祈リマセウ。御機嫌ヨクオ出カケニナツテ、早ク歸ツテオイデ下サイト、着物ノ〔三字傍線〕兩袖ヲ持ツテ、涙ヲ拭ヒ、涙ニ〔二字傍線〕咽ビナガラ別レノ言葉ヲ〔六字傍線〕言フト、私ハ悲シクナツテ〔九字傍線〕、(群鳥乃)出カケカネテ躊躇シテ顧ミナガラ、遙カニ遠ク國ヲ出テ來テ離レ、愈々高ク山ヲ越エテ過ギテ來テ、(安之我知流)難波ニ到(110)着シ滯在シテ、夕汐ニ船ヲ海ニ〔二字傍線〕浮ベ下ロシ、朝※[さんずい+和]ニ筑紫ノ方ヘ〔五字傍線〕舳ヲ向ケテ漕イデ出カケヨウト、日和ヲ〔三字傍線〕待ツテ私ガ居ル時ニ、春霞ガ島ノ廻リニ棚曳イテ、鶴ノ聲ガ悲シサウニ鳴クト、ソノ爲ニ〔四字傍線〕遙カニ家ヲ思ヒ出シテ、背中ニ負ウテヰル征矢ガ、ソヨソヨト音ヲ立テルホド、私ハ身ヲ搖ツテ泣イテ〔私ハ〜傍線〕歎息シタヨ。
 
○都麻和可禮《ツマワカレ》――前に、等里我奈久安豆麻乎等故能都麻和可禮《トリガナクアヅマヲトコノツマワカレ》(四三三三)とあるのと同じである。○大夫情布里於許之《マスラヲノココロフリオコシ》――卷十七に大夫之情布里於許之《マスラヲノココロフリオコシ》(三九六二)とこの人の作に出てゐる。○等里與曾比《トリヨソヒ》――取り装ひ。旅の装ひをする。古事記上卷八千矛神の歌にも奴婆多麻能久路岐美祁斯遠麻都夫佐爾登理與曾比《ヌバタマノクロキミケシヲマツブサニトリヨソヒ》とある。○波波可伎奈※[泥/土]《ハハカキナデ》――舊本※[泥/土]の下に泥の字があるによれば、ハハカキナデテであらうが、元暦校本に無いのに從つて、六言に訓むべきであらう。古義は波波《ハハ》の下にもう一つの波《ハ》が脱ちたので、ハハハカキナデだと言つてゐる。○若草乃《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづく。卷二の若草乃《ワカクサノ》(一五三)參照。○都麻波等里都吉《ツマハトリツキ》――妻が我に取り着いて。元暦校本に波の字が無い。○平久《タヒラケク》――平らかにとの意。古義に、「己が心を平にして、丹誠《マコト》を盡して、祈願《コヒネガ》ふ謂《ヨシ》と聞えたり。」とあるが、さうではあるまい。○好去而《サキクユキテ》――無事で行つて。卷五の好去好來歌(八九四)に都都美無久佐伎久伊麻志弖《ツツミナクサキクイマシテ》とあるのと同意である。○牟世比都都《ムセビツツ》――咽びつつ、涙に咽んで。○言語須禮婆《コトトヒスレバ》――言語《コトトヒ》は物語りに同じ。話をすること。○群鳥乃《ムラトリノ》――枕詞。出立につづく。群鳥の飛び立つ意につづいてゐる。○等騰己保里《トドコホリ》――滯り。躊躇逡巡するをいふ。卷四にも衣手爾取等騰己保里《コロモデニトリトドコホリ》(四九二)とある。○安之我知流《アシガチル》――枕詞。蘆の花の散る。難波とつづく。○船乎宇氣須惠《フネヲウケスユ》――船を海に浮べおろし。○倍牟氣許我牟等《ヘムケコガムト》――船の舳を筑紫の方へ向けて漕がうとて。○佐毛良布等《サモヲフト》――候ふとて。よい日和《ヒヨリ》を待つて。○之麻未爾多知弖《シマミニタチテ》――舊本に未を米と誤つてゐる。代匠記精撰本の一説による。春霞が島の廻りに立つといふので、島は淡路島か。○波呂波呂爾《ハロバロニ》――遙々に。遙かに。○於比曾箭乃《オヒソヤノ》――負ひたる征矢が。但し負ひ征矢といふ熟語である。ソヤは得物矢《サツヤ》に對する語で、和名抄に「征箭、唐式云、諸府衛士、人別弓一張、征箭卅隻、征箭曾夜」とある。○曾與等奈流麻※[泥/土]《ソヨトナルマデ》――そよそよと音を立てるほどに。身を動かして泣くので、背に負うた箭の羽根が觸れ合つて、音を立てるのである。(111)卷十二に左夜深而妹乎念出布妙之枕毛衣世二嘆鶴鴨《サヨフケテイモヲオモヒデシキタヘノマクラモソヨニナゲキツルカモ》(二八八五)とあるに似てゐる。曾箭《ソヤ》と曾與《ソヨ》と近い音を繰返したのである。
〔評〕 防人の心になつて作つたとある通り、防人の悲に同情した歌である。先人の用句や、彼自身既に使ひ古した詞を、またここに用ゐたのは感心しないが、全體に悲しい氣分が流れてゐる。ことに結末の佐毛良布等和我乎流等伎爾《サモラフトワガヲルトキニ》以下は、情景共に合せ至つてあはれな句である。併し防人が身を挺して醜の御楯となるやうな、勇壯な氣分が少しも見えてゐないのは、遺憾とすべきであらう。
 
反歌
 
4399 海原に 霞たなびき たづが音の 悲しき宵は 國べし思ほゆ
 
宇奈波良爾《ウナバラニ》 霞多奈妣伎《カスミタナビキ》 多頭我禰乃《タヅガネノ》 可奈之伎與比波《カナシキヨヒハ》 久爾弊之於毛保由《クニベシオモホユ》
 
海原ニ霞ガ棚曳イテ、鶴ノ鳴ク聲ガ悲シイ夜ハ、心細クナツテ〔六字傍線〕國ノ方ガ思ヒ出サレル。
 
○久爾弊之於毛保由《クニベシオモホユ》――國の方がなつかしく思ひ出される。
 
〔評〕 明麗な、さうして淋しい歌だ。家持の作には、すつかり磨きがかかつて、完成してしまつた。
 
4400 家おもふと いを寐ず居れば 鶴が鳴く 蘆邊も見えず 春の霞に
 
伊弊於毛負等《イヘオモフト》 伊乎禰受乎禮婆《イヲネズヲレバ》 多頭我奈久《タヅガナク》 安之弊毛美要受《アシベモミエズ》 波流乃可須美爾《ハルノカスミニ》
 
(112)家ヲ戀シク〔三字傍線〕思ツテ眠ラズニ居ルト、外デハ鶴ガ悲シク鳴イテヰルノデ、ソチラヲ見タガ〔外デ〜傍線〕、春霞ガ深ク立チ罩メテソノ爲〔十字傍線〕ニ、鶴ノ鳴イテヰル葦ノ生エテヰルアタリモ見エナイ。アアナント悲シイコトヨ〔アア〜傍線〕。
 
○伊乎禰受乎禮婆《イヲネズヲレバ》――イは寢、ヲは詠歎の助詞。眠らずに居ると。○安之弊毛美要受《アシベモミエズ》――モは詠歎的に添へてある。葦邊さへも見えず、まして故郷の方は全く見えないと解した略解・古義の説は誤つてゐる。
〔評〕 春夜故郷を思ふ歌。家を戀しく思うて、さらでだに眠をなさぬ夜、葦べに鳴く鶴の聲が悲しく聞えてゐる。戸を排して見れば、霞は深く閉して、月影もなく、葦の生ふるあたりもそれとも分かず、ただ鶴の聲のみ頻りに聞えてゐる。哀愁の調人を動かさずんば、止まない。卷十四防人歌の安之能葉爾由布宜利多知※[氏/一]可母我鳴乃佐牟伎由布敝思奈乎波思奴波牟《アシノハニユフギリタチテカモガネノサムキユフベシナヲバシヌバム》(三五七〇)から思ひついて、季節を更へてゐるやうにも見える。
 
右十九日兵部少輔大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
4401 唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ來ぬや おもなしにして
 
可良己呂茂《カラコロモ》 須曾爾等里都伎《スソニトリツキ》 奈苦古良乎《ナクコラヲ》 意伎弖曾伎怒也《オキテゾキヌヤ》 意母奈之爾志弖《オモナシニシテ》
 
私ハ出發ノ時、私ノ〔八字傍線〕着物ノ裾ニ取り付イテ泣ク子供ラヲ、後ニ〔二字傍線〕殘シテ來タヨ。ソノ子供ラハ〔六字傍線〕母モナイ孤兒ダ〔三字傍線〕ノニ。可哀サウナコトヲシタ〔十字傍線〕。
 
○可良己呂茂《カラコロモ》――唐衣。わが着る衣をさしてゐるのだから、一般的に衣の意で用ゐてゐる。外國風の衣といふのではあるまい。これを裾の枕詞とするのはよくない。○意伎弖曾伎怒也《オキテゾキヌヤ》――置きてぞ來ぬに詠歎のヤを添へてゐる。ゾの係に對してキヌルとあるべきてあるが、併しこれを誤とはし難い。○意母奈之爾之弖《オモナシニシテ》――母無しに(113)して。孤兒であつて。
〔評〕 妻を失つた男が、防人に指名せられて出發した。その時孤兒らが、自分の裾にすがりついて、別を悲しんだことを思ひ出した歌。かうした事情のもとに防人に徴發せられた男の、悲愁と困惑とはどんなであつたらう。人をして同情の涙に咽ばしめるものがある。
 
右一首國造|少縣《チヒサガタ》郡|他田舍人《オサダノトネリ》大島
 
國造は前の遠江國の防人歌(四三三一)、上總國の防人歌(四三四七・四三四八)に國造丁とあるから、ここも丁の字が落ちたのであらう。少を小に作る本が多い。少縣郡は信濃の東邊。今の上田市附近。和名抄に小縣を知比佐加多と訓してある。他田はヲサダとよむ。他田舍人大島の傳はわからない。
 
4402 ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り いはふいのちは おも父が爲
 
知波夜布留《チハヤブル》 賀美乃美佐賀爾《カミノミサカニ》 奴佐麻都里《ヌサマツリ》 伊波負伊能知波《イハフイノチハ》 意毛知知我多米《オモチチガタメ》
 
私ガ〔二字傍線〕恐ロシイ(知波夜布留)神ノ御ニ〔四字傍線〕幣ヲ奉ツテ、私ノ〔二字傍線〕命ガ長イヤウニト神樣ニ祈ルノハ、誰ノ爲デモアリマセヌ〔十字傍線〕、母ヤ父)爲デアリマス〔五字傍線〕。
 
○知波夜布留《チハヤブル》――枕詞。神とつづく。○賀美乃美佐賀爾《カミノミサカニ》――神の御坂に。神の御坂は、神のまします御坂の意で、卷九には足柄の坂を恐耶神之三坂《カシコキヤカミノミサカ》(一八〇〇)といつてゐるが、ここは信濃から東山道を美濃へ越える坂で、式によると、伊那郡の阿智驛(飯田町の西南方、下伊那郡駒場)と美濃の惠奈郡坂本驛(千里林)との間にあつた坂路である。これを推古天皇紀に信濃坂と記してある。岐蘇路が開かれるまではここが本道であつた。平安朝に入つても、往來が繁く、園原や伏屋に生ふる帚木はこの坂の途中から眺められたもので、都人にも有名にな(114)つたのである。○伊波負伊能知波《イハフイノチハ》――イハフはここでは神に祈ること。無事なれと神に祈るわが命は。○意毛知知我多米《オモチチガタメ》――オモチチは母父。
〔評〕 故郷から難波を指して行く道すがら、淋しく恐ろしい信濃の御坂の險路を越えねばならぬ。その時に立つて旅人の誰もがする、神に幣を手向けるわざは、道路の安全、わが身の無事を祈るのであるが、それは誰の爲でもない。わが父母の爲であるといつてゐる。親を思ふ孝子の心が、あはれにいたましい。卷十七の奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍安賀布伊能知毛多我多米爾奈禮《ナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘアガフイノチモタガタメニナレ》(四〇三一)・卷十一の玉久世清河原身祓爲齋命妹爲《タマクセノキヨキカハラニミソギシテイハフイノチハイモガタメナリ》(二四〇三)、卷十二の時風吹飯乃濱爾出居乍贖命者妹之爲社《トキツカゼフケヒノハマニイデヰツツアガフイノチハイモガタメコソ》(三二〇一)などと稍類似點がある。
 
右一首主帳|埴科《ハニシナ》郡|神人部子忍男《カムトベノコオシヲ》
 
舊本、帳を張に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。主帳は郡の書記。前に遠江國防人歌(四三二二)に、主帳丁とあるによれば、これも丁の字が脱ちたらしい。併し下の武藏國の防人歌(四四一五)にも丁の字がない。埴科郡は信濃。卷十四|波爾思奈能伊思井乃手兒我《ハニシナノイシヰノテゴガ》(三三九八)參照。神人部子忍男の傳はわからない。
 
4403 大君の 命かしこみ 青雲の との引く山を 越よて來ぬかむ。
 
意保枳美能《オホキミノ》 美己等可之古美《ミコトカシコミ》 阿乎久牟乃《アヲグムノ》 等能妣久夜麻乎《トノビクヤマヲ》 古與弖伎怒加牟《コヨテキヌカム》
 
私ハ防人ニ出ヨトノ〔九字傍線〕天子樣ノ詔ヲ恐レ入リ承ツテ、青雲ノ棚曳ク高イ山ヲ、越エテ來タコトヨ。
 
○阿乎久牟乃《アヲグムノ》――青雲のの東語。○等能妣久夜麻乎《トノビクヤマヲ》――舊本、多奈とあるが、元暦校本その他、等能に作る本が多い。トノビクは棚引くに同じ。○古與弖伎怒加牟《コヨテキヌカム》――舊本、與を江に作つてゐるが、元暦校本その他、與(115)とある本が多い。コエテの東語はコヨテであつたらう。舊本、怒を恕に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。キヌカムは來ぬかもの東語。
〔評〕 三句以下、東語らしい香が高い。青雲の棚曳く山といふのは類例がない。青雲の棚曳くといふ熟語を猥りにとり入れたので、やはりこの青雲は白雲ではあるまい。しかし田舍めいた調子が却つて力強く聞える。
 
右一首|小長谷部笠麿《ヲハツセベノカサマロ》
 
舊本少とあるのを、元暦校本その他、小に作る本が多い。西本願寺本はコハセヘノと傍書してある。小長谷部笠麻呂の傳はわからない。
 
二月二十二日信濃國防人部領使、上(リテ)v道(ニ)得(テ)v病(ヲ)不v來(ラ)、進(レル)歌數十二首、但拙劣歌者不v取2載之(ヲ)1
 
十二首の内僅かに三首を載せてゐる。防人部領使が途に病んで來なかつた爲に、指導者がなくて、整はない作が多かつたのであらう。部領使の名が無いのは、難波へ到着しなかつたから、分らなかつたのであらう。
 
4404 難波道を 行きて來までと 吾妹子が つけし紐が緒 絶えにけるかも。
 
奈爾波治乎《ナニハヂヲ》 由伎弖久麻弖等《ユキテクマデト》 和藝毛古賀《ワギモコガ》 都氣之非毛我乎《ツケシヒモガヲ》 多延爾氣流可母《タエニケルカモ》
 
私ガ防人トシテ出發ノ時〔私ガ〜傍線〕、難波路ヲ通ツテ筑紫ヘ行ツテ無事デ歸ツテ〔筑紫〜傍線〕來ルマデト言ツテ、吾ガ妻ガ付ケテクレ(116)タコノ着物ノ〔五字傍線〕紐ノ緒ハ、途中デコンナニ〔七字傍線〕切レテシマツタヨ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○奈爾波治乎《ナニハヂヲ》――難波路を。難波路は難波へ赴く道。難波からは筑紫へ海路であるから、陸路としては難波までとして、筑紫へ行くをも難波路と言つたものか。○由伎弖久麻弖等《ユキテクマデト》――行きて歸り來るまで、切れないでゐよとて。○都氣之非毛我乎《ツケシヒモガヲ》――着物に縫ひ付けた紐の緒。
〔評〕 出發に際して妻が付けてくれた着物の紐が、途中で切れたのを悲しんだ歌。旅の長さ憂さを歎く心に加へて、不吉の兆として恐れる心もあらう。結句「絶えにけるかも」と詠歎したばかりなのが、却つて餘情が籠つてゐる。
 
右一首|助丁上毛野牛甘《スケノヨボロカミツケヌノウシカヒ》
 
助丁は前出(四三二八)。上毛野牛廿の傳はわからない。以下四首とも郡名を記さないのは、他の國と異なつてゐる。
 
4405 吾が妹子が しぬびにせよと つけし紐 糸になるとも わは解かじとよ
 
和我伊母古我《ワガイモコガ》 志濃比爾西餘等《シヌビニセヨト》 都氣志比毛《ツケシヒモ》 伊刀爾奈流等母《イトニナルトモ》 和波等可自等余《ワハトカジトヨ》
 
家ヲ出ル時ニ〔六字傍線〕吾ガ妻ガ形見ニセヨトテ、付ケタ私ノ着物ノ〔五字傍線〕紐ハ、タトヒ〔三字傍線〕糸ノヤウニ細ク〔二字傍線〕ナツテモ、私ハ解クマイト思フ〔二字傍線〕ヨ。
 
○和我伊母古我《ワガイモコガ》――吾が妹子が。吾が妻が。都の言葉では約してワキモコといふのを、東語では約さずにワガイモコといつたのである。元暦校本に古を等に作つてゐるによつてワガイモラガと訓む説もあるが、この歌の等の字は皆トであるから、ラと訓むのは無理であらう。トと訓んでは意が通じない。○志濃比爾西飴等《シヌビニセヨト》――偲び(117)ぐさにせよとて、即ち形見にせよといふに同じ。シヌビは名詞である。○伊刀爾奈流等母《イトニナルトモ》――糸ばかりに磨り切れても。○和波等可自等余《ワハトカジトヨ》――我は解くまいと思ふよの意。トヨはト思フヨの約であらう。中世以後の物語などに、多く用ゐられてゐる「ぞとよ」に似てゐるが、その前驅をなすものではあるまい。
〔評〕 卷十一の獨寢等※[草がんむり/交]朽目八方綾席緒爾成及君乎之將待《ヒトリヌトコモクチメヤモアヤムシロヲニナルマデニキミヲシマタム》(二五三八)と少し似たところはあるが、それに傚つた作ではあるまい。旅にあつて、衣の紐を解かじと誓つた歌は多いが、こんな強烈な言ひ方をしたものは類がない。よい作といつてよい。
 
右一首|朝倉益人《アサクラノマスヒト》
 
和名抄によると、上野國那波郡に朝倉阿佐久良の郷が見える。この地名から出た姓か。朝倉益人の傳はわからない。
 
4406 吾が家ろに 行かも人もが 草枕 旅は苦しと 告げやらまくも
 
和我伊波呂爾《ワガイハロニ》 由加毛比等母我《ユカモヒトモガ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多妣波久流之等《タビハクルシト》 都氣夜良麻久母《ツゲヤラマクモ》
 
私ノ家ヘ行ク人ガアレバヨイガ。サウシタラバ〔六字傍線〕(久佐麻久良)旅ハ苦シイモノダト、家ノ人ニ〔四字傍線〕告ゲテヤリタイヨ。
 
○和我伊波呂爾《ワガイハロニ》――吾が家ろに。東語で家をイハといふことは、前に家人を伊波妣等《イハビト》(四三七五)と言つた例があり、下にも伊波呂爾波《イハロニハ》(四四一九)とある。ロは添へていふのみ。○由加毛比等母我《ユカモヒトモガ》――行かむ人もがの東語。行く人があればよい。○都氣夜良麻久母《ツゲヤラマクモ》――告げやらまくも。告げてやらうよ。告げてやりたいよ。マクモは上に美都良乃奈可爾阿敝麻可麻久母《ミヅラノナカニアヘマカマクモ》(四三七七)とあるに同じ。
 
(118)〔評〕 旅の辛さに悩む防人の姿が見えるやうだ。東語が用ゐてあるが、至つて平明な作である。
 
右一首|大伴部節麿《オホトモベノフシマロ》
 
大伴部節麿の傳はわからない。
 
4407 ひなくもり 碓氷の坂を 越えしだに 妹が戀しく 忘らえぬかも
 
比奈久母理《ヒナクモリ》 宇須比乃佐可乎《ウスヒノサカヲ》 古延志太爾《コエシダニ》 伊毛賀古比之久《イモガコヒシク》 和須良延奴可母《ワスラエヌカモ》
 
マダ私ハ〔四字傍線〕(比奈久母理)碓水ノ坂ヲ越エタダケダノニ、家ノ〔二字傍線〕妻ガ戀シクテ、忘レラレナイヨ。コンナコトデ筑紫マデ行ツタラ、ドンナニ妻ガ戀シイデアラウカ〔コン〜傍線〕。
 
○比奈久母理《ヒナクモリ》――枕詞。碓日とつづくのは、日の曇り薄日の意であらう。ノをナといふのは古語に多い。古義には純溟※[さんずい+幸]薄氷《ヒタクグモリウスヒ》の意でつづくのだらうとあるが、例の物遠い説である。○宇須比乃佐可乎《ウスヒノサカヲ》――碓日の坂を。碓日の坂は謂はゆる碓氷峠の坂である。上野から都方面に赴くには、まづ碓氷峠を越えて信濃に入り、御坂を越えて美濃に出たのである。
〔評〕 まだ同じ國の内なる碓氷峠を越えたのみなのに、妻が戀しくて忘れ得ない。かくては雲山幾百里を距つる筑紫へ赴き、年月を隔てたならば、どんなに戀しいことであらうと、思ひやつた歌。愛慕の至情惻々人を動かすものがある。田中道麿説に「けはしき山をこゆるにも紛れず、妹を戀ふることにや」とあるのはよくない。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首|他田部子磐前《ヲサダベノコイハサキ》
 
(119)舊本池とあるのは他の誤。元暦校本によつて改めた。他田部子磐前の傳はわからない。
 
二月二十三日、上野國防人部領使、大目正六位下|上毛野君駿河《カミツケヌノキミスルガ》進(レル)歌數十二首、但拙劣歌者不v取2載(セ)之(ヲ)1
 
舊本上野を下野に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。上毛野君駿河の傳はわからない。續紀によれば、勝寶二年三月戊戍に中衛員外少將從五位下田邊史難波等に上毛野君の姓を賜ふと見えてゐるから、その一族であらう。十二首の内、僅かに四首を載せてゐる。
 
陳(ブル)2防人(ノ)悲(シム)v別(ヲ)之情(ヲ)1歌一首并2短歌1
 
4408 大王の 任のまにまに 島《さき》守に 吾が立ち來れば 柞葉の 母の命は 御裳の裾 つみ擧げ掻き撫で ちちの實の 父の命は 栲綱の 白鬚の上ゆ 涙垂り 歎きのたばく 鹿兒じもの 唯一人して 朝戸出の かなしき吾が子 あらたまの 年の緒長く あひ見ずは 戀しくあるべし 今日だにも 言問ひせむと 惜しみつつ 悲しびいませ 若草の 妻も子どもも をちこちに さはに圍《かく》みゐ 春鳥の 聲のさまよひ 白妙の 袖泣きぬらし たづさはり 別れがてにと 引きとどめ 慕ひしものを 大君の 命かしこみ 玉ぼこの 道に出で立ち 丘のさき い廻《た》むる毎に 萬づ度 顧みしつつ はろばろに 別れし來れば 思ふそら 安くもあらず 戀ふるそら 苦しきものを うつせみの 世の人なれば たまきはる 命も知らず 海原の かしこき道を 島傳ひ い漕ぎ渡りて 在りめぐり 吾が來るまでに 平らけく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住のえの 吾が皇神に 幣奉り 祈り申して 難波津に 船を浮けすゑ 八十楫貫き かこ整へて 朝びらき わは漕ぎ出ぬと 家に告げこそ
 
大王乃《オホキミノ》 麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》 島守爾《シマモリニ》 和我多知久禮婆《ワガタチクレバ》 波波蘇婆能《ハハソバノ》 波波能美許等波《ハハノミコトハ》 美母乃須蘇《ミモノスソ》 都美安氣可伎奈※[泥/土]《ツミアゲカキナデ》 知知能未乃《チチノミノ》 知知能美許等波《チチノミコトハ》 多久頭努能《タクヅヌノ》 之良比氣乃宇倍由《シラヒゲノウヘユ》 奈美太多利《ナミダタリ》 奈氣伎乃多婆久《ナゲキノタバク》 可胡自母乃《カコジモノ》 多太比等里之※[氏/一]《タダヒトリシテ》 安佐刀※[氏/一]乃《アサトデノ》 可奈之伎吾子《カナシキワガコ》 安良多麻乃《アラタマノ》 等之能乎奈我久《トシノヲナガク》 安比美受波《アヒミズハ》 古非之久安流倍之《コヒシクアルベシ》 今日太爾母《ケフダニモ》 許等騰比勢武等《コトドヒセムト》 乎之美都都《オシミツツ》 可奈之備伊麻勢《カナシビイマセ》 若草之《ワカクサノ》 都麻母古騰母毛《ツマモコドモモ》 乎知己知爾《ヲチコチニ》 左波尓可久美爲《サハニカクミヰ》 春鳥乃《ハルトリノ》 (120)己惠乃佐麻欲比《コヱノサマヨヒ》 之路多倍乃《シロタヘノ》 蘇※[泥/土]奈伎奴良之《ソデナキヌラシ》 多豆佐波里《タヅサハリ》 和可禮加弖爾等《ワカレガテニト》 比伎等騰米《ヒキトドメ》 之多比之毛能乎《シタヒシモノヲ》 天皇乃《オホキミノ》 美許等可之古美《ミコトカシコミ》 多麻保己乃《タマボコノ》 美知爾出立《ミチニイデタチ》 乎可乃佐伎《ヲカノサキ》 伊多牟流其等爾《イタムルゴトニ》 與呂頭多妣《ヨロヅタビ》 可弊里見之都追《カヘリミシツツ》 波呂波呂爾《ハロバロニ》 和可禮之久禮婆《ワカレシクレバ》 於毛布蘇良《オモフソラ》 夜須久母安良受《ヤスクモアラズ》 古布流蘇良《コフルソラ》 久流之伎毛乃乎《クルシキモノヲ》 宇都世美乃《ウツセミノ》 與能比等奈禮婆《ヨノヒトナレバ》 多麻伎波流《タマキハル》 伊能知母之良受《イノチモシラズ》 海原乃《ウナバラノ》 可之古伎美知乎《カシコキミチヲ》 之麻豆多比《シマヅタヒ》 伊己藝和多利弖《イコギワタリテ》 安里米具利《アリメグリ》 和我久流麻泥爾《ワガクルマデニ》 多比良氣久《タヒラケク》 於夜波伊麻佐禰《オヤハイマサネ》 都都美奈久《ツツミナク》 都麻波麻多世等《ツマハマタセト》 須美乃延能《スミノエノ》 安我須賣可未爾《アガスメカミニ》 奴佐麻都利《ヌサマツリ》 伊能里麻乎之弖《イノリマウシテ》 奈爾波都爾《ナニハヅニ》 船乎宇氣須惠《フネヲウケスヱ》 夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》 可古等登能倍弖《カコトトノヘテ》 安佐婢良伎《アサビラキ》 和波己藝※[泥/土]奴等《ワガコギデヌト》 伊弊爾都氣己曾《イヘニツゲコソ》
 
天子樣ノ御任命ニ從ツテ、防人トシテ私ガ出カケテ來ルト、(波波蘇波能〜母上ハ、母ノ〔二字傍線〕裳ノ裾ヲ抓ミ上ゲ、私ノ頭ヲ〔四字傍線〕掻キ撫デ(知地能未乃)父上ハ、(多久頭怒能)白鬚ノ上カラ、涙ヲ垂ラシ歎イテ言ハレルノニハ、(可胡自母乃)唯一兒デアツテ、朝旅ニ出テ行ク別レガ、悲シイ吾ガ子ヲ、(安良多麻乃)長年ノ間、逢ハナイナラバ、戀シイデアラウ。セメテ今別レヨウトスル〔セメ〜傍線〕今日デモ、充分ニ話ヲシテ別レ〔三字傍線〕ヨウト、名殘ヲ〔三字傍線〕惜シミツツ悲シ(121)ンデイラツシヤルト(若草之)妻モ子供モ、アチラコチラニ大勢デ私ノ廻リヲ〔五字傍線〕圍ンデヰテ、(春鳥乃)聲ヲ出シテ泣キ叫ビ、(之路多倍乃)袖ヲ涙ニ〔二字傍線〕泣キ濡ラシ、私ニ〔二字傍線〕纒ハリツイテ、別レ難イト言ヒツツ〔四字傍線〕引キ止メテ、私ヲ戀ヒ〔四字傍線〕慕ツタノニ、天子樣ノ詔ヲ恐レ入リ承ツテ、(多麻保己乃)途ニ出カケ、岡ノ鼻ヲ曲ル毎ニ、何度モ振り返ツテ見テ、遙カニ別レテ來ルト、思フ心ガ安クモナク、戀シイ心ガ苦シイノニ、(宇都世美乃)世ノ中ノ人間デアルカラ、(多麻伎波流)命モドウナルカ〔五字傍線〕分ラズ、海ノ上ノ恐ロシイ道ヲ、島傳ヒニ漕ギツヅケテ、サウシテ行キ巡リ、私ガ歸ツテ來ルマデ無事デ親ハイラツシヤイ、恙ナク妻ハ待ツテヰナサイト、住吉ノ私ノ信仰スル〔四字傍線〕神樣ニ幣ヲ奉ツテ、祈リ申シテ、難波津ニ船ヲ浮ベ下ロシ、澤山ノ楫ヲ貫キ通シテ船頭ヲソロヘテ、朝港ヲ船出シテ私ハ漕イデ出タト家ニ告ゲテクレ。
 
○島守《サキモリニ》――これを文字通りシマモリと訓む説もある。卷四の八百日往濱之沙毛吾戀二豈不益歟奧島守《ヤホカユクハマノマサゴモワガコヒニアニマサラジカオキツシマモリ(五九六)に傚へばここもさうよめるが、併しこの場合はやはりサキモリと訓みたい。卷七のも今年去新島守之麻衣《コトシユクニヒサキモリガアサゴロモ》(一二六五)である。○波波蘇波能《ハハソハノ》――枕詞。同音を繰返して母とつづく。○和我多知久禮婆《ワガタチクレバ》――舊本和を我に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。○都美安氣可伎奈※[泥/土]《ツミアゲカキナデ》――摘み擧げ掻き撫で。御裳の裾をつまみ擧げたり、吾が身を撫でさすつたり。この句の詞通りならば、母がその御裳の裾をつまみ擧げたり、掻き撫でたりすることと解すべきであるが、それでは母の悲しみの心を表はしてゐるものと見えない。だから代匠記以下の諸註にあるやうに、カキナデは防人に行く男の頭又は身躰を母が撫でさするものと見るべきであらう。○知知能未乃《チチノミノ》――枕詞。同音を繰返して父につづく。卷十九の知知乃實乃《チチノミノ》(四一六四)參照。○多久頭怒能《タクヅヌノ》――枕詞。栲綱の。栲で作つた綱は、白いから白鬚につづけてある。○奈氣伎乃多婆久《ナゲキノタバク》――嘆き宣はく。ノタバクはノタマハクの約。給《タマ》フを給《タ》ブといふから、タマハクをタバクと言ふのである。○可胡自母乃《カコジモノ》――枕詞。鹿兒じもの。鹿の兒のやうに唯獨とつづく。鹿は兒を一疋のみ産むからである。卷九に秋芽子乎妻問鹿許曾一子二子持有跡五十戸《アキハギヲツマトフカコソヒトリコニコモタリトイヘ》(一七九〇)とある。○安(122)佐刀※[泥/土]乃《アサトデノ》――朝戸出の。朝、家を出でて出發すること。朝戸出之《アサトデノ》(一九二五)・朝戸出《アサトデノ》(二三九七)・朝戸出爾《アサトデニ》(二六九二)などの例がある。○安良多麻乃《アラタマノ》――枕詞。璞の磨《ト》ぐの意で年につづく。○等之能乎奈我久《トシノヲナガク》――年の緒長く。年の長く續くのを年の緒といつた。○許等騰比勢武等《コトドヒセムト》――言問ひせむと。言問ふは物を言ひかはすこと。相語らふことである。○乎之美都都《ヲシミツツ》――別を惜しみつつ。○可奈之備伊麻世《カナシビイマセ》――悲しみいませばの意。伊の字は元暦校本・西本願寺本などにないが、それが原形とも斷じ難い。○若草之《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづくのは、若草の愛らしい意であらう。○左波爾可久美爲《サハニカクミヰ》――澤山に圍んで居り、カクムは圍《カコ》むに同じ。○春鳥乃《ハルトリノ》――枕詞。春は百千鳥の囀る時であるから、かくつづけた。舊本にウグヒスノと訓んだのはよくない。○己惠乃佐麻欲比《コヱノサマヨヒ》――聲を上げて叫び。卷二に春鳥之佐麻欲比奴禮者《ハルトリノサマヨヒヌレバ》(一九九)とある。○和可禮加弖爾等《ワカレカテニト》――別れるに堪へずとて。○乎可之佐伎《ヲカノサキ》――岡の岬。岡の平地へ突出してゐる鼻。古義に之は乃の誤だらうとあるが、さうとも定め難い。○伊多牟流其等爾《イタムルゴトニ》――イは接頭語。タムルは廻ること。岡の鼻を廻る度毎に。○宇都世美乃《ウツセミノ》――枕詞。世とつづく。現身の意である。○多麻伎波流《タマキハル》――枕詞。命とつづくのは、靈極る、即ち魂に限ある命といふ意である。○安利米具利《アリメグリ》――在々て行き廻り。さうしてゐて廻つて。○都都美奈久《ツツミナク》――恙なく。ツツミは慎《ツツシミ》の意で病。○須美乃延能安我須賣可末爾《スミノエノアガスメガミニ》――住吉に祀られてゐる吾が信仰する神に。航海神としての住吉の神については、神功皇后の新羅御親征に際して、守護せられたことが古事記にも書紀にも記されてゐる。○伊能里麻宇之弖《イノリマウシテ》――宇は西本願寺本その他乎に作る本も多い。○夜蘇加奴伎《ヤソカヌキ》――八十楫貫き。多くの楫を舷側にかけて。この邊の句は前の奈爾波都爾美布禰於呂須惠夜蘇加奴伎伊麻波許伎奴等伊母爾都氣許曾《ナニハヅニミフネオロスヱヤソカヌキイマハコギヌトイモニツゲコソ》(四三六三)によつたやうである。
〔評〕 防人が難波津を出帆して、筑紫へ向はむとする時の心情を歌つたもの。最初に出發に際し、父母が別離を悲しむ樣や、妻子が悲歎に泣き騷ぐことを述べ、次いで途すがら故郷を思ふ情、無事歸宅を神に祈願しつつここまで辿りついた旨を歌つて、哀情の滿ちた作品である。武人としての防人らしい一面はよまれてゐないで、唯女々しい別離の悲しみにのみ同情の涙を濺いでゐるのは、この人の爲にとらないが、性格の然らしむるところであらう。一體に雅麗とでも評すべき作だが、古人の成句を用ゐたものも澤山ある。
 
4409 家人の いはへにかあらむ 平らけく 船出はしぬと 親に申さね
 
(123)反歌
 
伊弊婢等乃《イヘビトノ》 伊波倍爾可安良牟《イハヘニカアラム》 多比良氣久《タヒラケク》 布奈※[泥/土]波之奴等《フナデハシヌト》 於夜爾麻乎佐禰《オヤニマウサネ》
 
家ノ人ガ神樣ヲ〔三字傍線〕祀ツテヰルカラデアラウカ、私ハ〔二字傍線〕無事デ難波ノ津ヲ〔五字傍線〕船出シタト、故郷ノ〔三字傍線〕親ニ傳ヘテクレヨ。
 
○伊波倍爾可安良牟《イハヘニカアラム》――齋へばにかあらむ。齋ふは神を祀り祈ること。○於夜爾麻乎佐禰《オヤニマウサネ》――この宇も乎に作つてゐる本が多い。ネは他に向つて冀望する意である。
〔評〕 無事難波津を出帆せむとするに當り、親を思ひ、家人の至誠によつて神の守護を得てゐることを感謝してゐる心である。平明な作である。
 
4410 み空行く 雲も使と 人はいへど 家づとやらむ たづき知らずも
 
美蘇良由久《ミソラユク》 久母母都可比等《クモモツカヒト》 比等波伊倍等《ヒトハイヘド》 伊弊頭刀夜良武《イヘヅトヤラム》 多豆伎之良受母《タヅキシラズモ》
 
空ヲ往來スル雲モ、使ヲスルモノダト世間ノ〔三字傍線〕人ガ言フケレドモ、私ハソノ雲ニ托シテ〔私ハ〜傍線〕、家ヘノ土産ヲ送ル方法ガ分ラヌヨ。
 
○久母母都可比等《クモモツカヒト》――雲も消息を托してやるべき使なりと。
〔評〕 使とは名のみで、如何にしてそれに托すべきか方法がわからぬといふ意。雁の使といふことは集中に見えるが、雲を使とする例はないやうである。但し、卷八に風雲者二岸爾可欲倍杼母《カゼクモハフタツノキシニカヨヘドモ》(一五二一)・卷十九に風雲爾言者(124)雖通《カゼクモニコトハカヨヘド》(四二一四)などとあるのから思ひついて、かく言つたものか。
 
4411 家づとに 貝ぞ拾《ひり》へる 濱浪は いやしくしくに 高く寄すれど
 
伊弊都刀爾《イヘヅトニ》 可比曾比里弊流《カヒゾヒリヘル》 波麻奈美波《ハマナミハ》 伊也之久之久二《イヤシクシクニ》 多可久與須禮騰《タカクヨスレド》
 
濱ニ打チ寄セル浪ハ、益々頻繁ニ高ク打チ寄セルケレドモ、ソレニモカマハズニ、私ハ〔ソレ〜傍線〕家ヘノ土産トシテ貝ヲ拾ツタヨ。
 
○可比曾比里弊流《カヒゾヒリヘル》――里は類聚古集・元暦校本は呂に作つてある。ヒリフともヒロフともあるから、いづれがよいかわからない。
〔評〕 前の歌に「家土産やらむ」とあるのを受けて、その家土産の品を明らかにしたに過ぎぬ。
 
4412 島かげに わが船はてて 告げやらむ 使を無みや 戀ひつつ行かむ
 
之麻可氣爾《シマカゲニ》 和我布禰波弖※[氏/一]《ワガフネハテテ》 都氣也良牟《ツゲヤラム》 都可比乎奈美也《ツカヒヲナミヤ》 古非都都由加牟《コヒツツユカム》
 
島ノ陰ニ私ノ船ガ碇舶シテ、ソノ度毎ニ故郷ヘ無事ヲ告ゲテヤラウト思フケレドモ〔ソノ〜傍線〕、告ゲテヤルベキ使ガナイノデ、故郷ヲ〔三字傍線〕戀シク思ヒナガラ、コノ儘旅ヲ續ケテ行クコトデアラウカ。
 
○都氣也良牟《ツゲヤラム》――告げやらむ使と、すぐ次の句につづいてゐる。
〔評〕 これからの航路の淋しさ、たよりなさを嘆く心である。以上の四首はいづれも流麗とはいふべくして、力(125)強さがない。
 
二月二十三日兵部少輔大伴宿禰家持
 
古義は家持の下に、作之の二字を脱したのだらうと言つてゐる。
 
4413 まくらたし 腰に取り佩き まがなしき せろがまき來む 月《つく》の知らなく
 
麻久良多之《マクラタシ》 己志爾等里波伎《コシニトリハキ》 麻可奈之伎《マガナシキ》 西呂我馬伎己無《セロガマキコム》 都久乃之良奈久《ツクノシラナク》
 
枕刀ヲ腰ニ取リ挿シテ、私ノ〔二字傍線〕愛スル夫ガ筑紫カラ〔四字傍線〕歸ツテ來ルベキ月ガ、何時頃デアラウカ〔八字傍線〕分ラナイ。早ク歸ツテ下サレバヨイニ。待チ遠イコトデス〔早ク〜傍線〕。
 
○麻久良多之《マクラタシ》――舊本に多知とあるは、元暦校本その他多くの古本多|之《シ》になつてゐるに從ふべきである。タシは太刀《タチ》の東語である。枕のほとりに置いて、身を離さぬ太刀。マクラは大切にして、身邊を放さぬ意もあるであらう。考には「眞黒太刀なり。六位以下は黒太刀なり」とあるが、從ひ難い。○麻可奈之伎《マカナシキ》――眞愛しき。カナシキは愛する。○西呂我馬伎已無《セロガマキコム》――セロは夫ロ。ロは添へていふのみ。マキコムは罷來《マカリコ》ムで、防人の任を終へて、筑紫から歸り來むの意と解せられてゐる。○都久乃之良奈久《ツクノシラナク》――ツクは月《ツキ》。都言葉でも古くはツクといつたと見えて、熟語の場合は皆ツクとなつてゐる。
〔評〕 防人歌の中に、防人の家族の作を收めてあるのは武藏國だけである。そのため防人歌の内容が豐富になり、また當時の東國民衆の感情が、多面的にあらはれてゐるのは嬉しい。この歌は素朴な格調の内に、女の感情が盛られてゐて、如何にも東國人の作らしい。
 
(126)右一首上丁、那珂郡|檜前舍人石前《ヒノクマノトネリイハサキ》之妻、大伴|眞足女《マタリメ》
 
那珂郡は、今は兒玉郡に合せられ、武藏の西北隅に當つてゐる。舊本、大伴眞足母とあるが一元暦校本に母を女に作るのがよい。檜前舍人石前の傳はわからない。
 
4414 大君の 命かしこみ うつくしけ 眞子が手離り 島傳ひ行く
 
於保伎美乃《オホキミノ》 美己等可之古美《ミコトカシコミ》 宇都久之氣《ウツクシケ》 麻古我弖波奈利《マコガテハナリ》 之末豆多比由久《シマヅタヒユク》
 
私ハ〔二字傍線〕天子樣ノ詔ヲ恐レ多ク思ツテ、防人トナツテ〔六字傍線〕、懷カシイ妻ノ手ヲ離レ妻ト別レ〔四字傍線〕テ、船ニ乘ツテ〔五字傍線〕島々ヲ傳ヒツツ筑紫ヘ〔三字傍線〕行ク。
 
○宇都久之氣《ウツクシケ》――愛《ウツク》しきの東語。○麻古我弖波奈利《マコガテハナリ》――眞子が手離り。麻古は眞子。妻を親しんで言つてゐる。マは接頭語のみ。新考にマコは妻子《メコ》の訛であらうといつてゐるが、さうではあるまい。舊本、禮とあるが、元暦校本以下の古本、多く利とあるから、離《ハナ》りとすべきであらう。
〔評〕 結句に島傳ひ行くとあるが、武藏から海路を取つて、行くのではない。難波津からのことを豫想して言つてゐるのである。初二句は防人の常套語とも言へば言ひ得るが、忠誠の意はあらはれてゐる。
 
右一首助丁、秩父都大伴蔀|少歳《ヲトシ》
 
秩父郡は武藏の西隅の山地。大伴部少歳の傳はわからない。
 
4415 白玉を 手に取り持して 見るのすも 家なる妹を また見てももや
 
(127)志良多麻乎《シラタマヲ》 弖爾刀里母之弖《テニトリモシテ》 美流乃須母《ミルノスモ》 伊弊奈流伊母乎《イヘナルイモヲ》 麻多美弖毛母也《マタミテモモヤ》
 
白玉ヲ手ニ取リ持ツテ見ルヤウニ、家ニ留守居シテヰル〔七字傍線〕妻ヲ、又、親シク〔三字傍線〕見ヨウヨ。妻ニ逢ヒタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○志良多麻乎《シラタマヲ》――白玉を。白玉は眞珠。○弖爾刀里母之弖《テニトリモシテ》――手に取り持ちて。持チをモシといふのは、東語である。元暦校本に母知とあるのはよくない。○美流乃須母《ミルノスモ》――見る如《ナ》すも。見るやうに。ノスは如《ナ》スの東語。○麻多美弖毛母也《マタミテモモヤ》――復見てももや。ミテモは見テムの東語。次のモとヤとは共に詠歎の助詞である。即ちこの句は再び見ようよの意である。代匠記精撰本に母也は也母の誤字かと言つてゐるのに、從ふ説が多いが、ヤモでは反語のやうに聞える。考に麻多美弖毛我母《マタミテモガモ》と改めて、希望の意としたのは妄である。
〔評〕 旅中にあつて故郷の妻を思ふ歌。眞珠を手に取つて見る如く、家なる妻に逢ひたいといふ譬喩は、防人としては、出來過ぎたほどの巧妙さであらう。用語に東語が多いのも嬉しい。
 
右一首主帳|荏原《エバラ》郡|物部歳徳《モノノベノトシトコ》
 
舊本、帳を張に誤つてゐる。前に主帳丁(四三二二)とあるによれば、ここもさうかと思はれるが、主帳(四四〇三)とのみもあるから、いづれとも分ち難い。荏原郡は今の東京市の西南部。物部歳徳の傳はわからない。
 
4416 草枕 旅行くせなが) 丸寢せば 家なる我は 紐解かず寢む
 
久佐麻久良《クサマクラ》 多比由苦世奈我《タビユクセナガ》 麻流禰世婆《マルネセバ》 伊波奈流和禮波《イハナルワレハ》 比毛等加受禰牟《ヒモトカズネム》
 
(128)(久佐麻久良)旅ニ出カケテ行ク夫ガ、着物モ着カヘズニ獨デ〔十字傍線〕丸寢ヲシタナラバ、家ニ留守居シテル私ハ、着物ノ〔三字傍線〕紐ヲ解カズニ、夫ト同ジヤウニ一人デ〔十字傍線〕寢ヨウ。
 
○多比由久世奈我《タビユクセナガ》――旅行く夫が。セナは夫。ナは添へて言ふのみ。○麻流禰世婆《マルネセバ》――丸寢せば。丸寢は衣服を著たままで獨寢すること。紐不解丸寢乎爲者《ヒモトカズマロネヲスレバ》(一七八七)・丸宿吾爲《マロネワガスル》(一三〇五)・旅之丸寢爾《タビノマロネニ》(三一四五)・比毛等加須末呂宿乎須禮婆《ヒモトカズマロネヲスレバ》(四一一三)など,皆マロネであるが、ここに麻流禰《マルネ》とあるのは後世の發音と同樣である。○伊波奈流和禮波《イハナルワレハ》――イハは家《イヘ》の東語。家にある我は。
〔評〕 防人として旅に出ようとしてゐる夫の辛苦を思つて、我も紐解かずに丸寢してゐようと言ふ忠誠な妻の言葉。愛情溢るゝばかりの夫、物部歳徳の歌に答へたもの。この贈答の一聯には、田舍人の篤實さがあらはれてゐる。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右一首|妻《メ》椋椅部刀自賣《クラハシベノトジメ》
 
妻とあるは物部歳徳の妻である。これによつて上代には結婚後も、妻は生家の姓を名乘つてゐたことがわかる。椋椅部刀自賣の傳はわからない。
 
4417 赤駒を 山野にはかし 捕りかにて
 
阿加胡麻乎《アカゴマヲ》 夜麻努爾波賀志《ヤマヌニハカシ》 刀里加爾弖《トリカニテ》 多麻乃余許夜麻《タマノヨコヤマ》 加志由加也良牟《カシユカヤラム》
 
赤駒ヲ山野ニ放飼シテ捕ヘルコトガ出來ズ、夫ガ防人ニナツテ出力ケルノニ、馬ニモ乘セズニ〔夫ガ〜傍線〕、多摩ノ横山ヲ徒歩デ行カセルコトカ。折角馬ガアルノニ氣ノ毒ナ事ダ〔折角〜傍線〕。
 
(129)○阿加胡麻乎《アカゴマヲ》――赤駒を。赤駒は赤い毛の馬。普通の毛色である。夜麻努爾波賀志《ヤマヌニハカシ》――山野に放し。ハカシは放ちの東語か。代匠記初稿本に、「長流がいはく、はかしははさしといふことなり。馬をにがしたるなりとは、はさしは今馳の心にいへり。加と佐と同韵相通の心なり」とあるのも一説だが、少しむつかしい。考には「後世の鄙俗に、はりたる紙をはなすを、はがすといふに同じ」とあるのは無理であらう。はがすは剥ぐから來た語で、このハカシとは關係はあるまい。古義に前の波保麻米乃可良麻流伎美乎波可禮加由加牟《ハホマメノカラマルキミヲハカレカユカム》(四三五二)のハカレと同語だといつてゐるのも從ひかねる。○刀里加爾弖《トリカニテ》――取りかねての東語。○多麻乃余許夜麻《タマノヨコヤマ》――多摩の横山。多摩地方にある横山。略解に「たまの横山は多摩郡の多摩川の上に、今横山村と言ふ有て、其あたり、川にそひて今道一里計つづける山有横山と言ふ。」とある。それは今の八王子市の西南に接し、多摩御陵に近い地點にある横山のことであらう。併しこれらの武藏國の防人等が、當時の國府即ち今の府中に集合して、相模路を取つて東海道を進むとすると(東海道を行つたことは次の歌どもに明らかである)、八王子方面へ向ふ筈はなく、直ちに多摩川を渡つて南進する筈である。從つて横山も多摩川の南岸の丘陵でなければならぬ。丁度其處に今も多摩村があり、小高い岡を越えて原町田方面へ道が通じてゐる。この岡こそ多摩の横山であらうと思はれる。なほ犬※[奚+隹]隨筆に「猿渡盛章説に、玉河の南によこほりふせる山は、甲斐の横山といふ地より多摩郡まで、遙につづける山なれば、それなん多摩の横山なるべきといへり」とあるが、甲斐の横山は更に關係のないことである。○加志由加也良牟《カシユカヤラム》――徒歩で遣らうか。歩いて行かせることであらうか。カシはカチの東語。ユはヨリに同じく、ここではニテの意である。卷十三に人都末乃馬從行爾己夫之歩從行者《ヒトツマノウマヨリユクニオノツマノカチヨリユケバ》(三三一四)とある。
〔評〕 赤駒を山野に放したといふのは、誤つて遁したのか、それとも放ち飼にしたのか一寸不明である。併し當時各地に牛馬を放牧したことは、卷十九の皇者神爾之座者赤駒之腹婆布田爲乎京都跡奈之都《オホキミハカミニシマセバアカゴマノハラバフタヰヲミヤコトナシツ(四二六〇)の歌からも想像出來る。遽かの防人の任命で放飼にしてゐる馬を、捕へかねて、止むを得ず夫を、徒歩で行かしめることを悲しんだのである。田舍人らしい生活と感情とがあらはれて、面白い貴い作である。
 
(130)右一首|豐島《トシマ》郡上丁、椋椅部荒虫《クラハシベノアラムシ》之妻、宇遲部黒女《ウチベノクロメ》
 
豐島は和名抄に止志末と訓してある。今の東京市の西北部になつでゐる。椋椅部荒虫の妻宇遲部黒女の傳はわからない。
 
4418 わが門の 片山椿 まこと汝 吾が手觸れなな 土に落ちもかも
 
和我可度乃《ワガカドノ》 可多夜麻都婆伎《カタヤマツバキ》 麻己等奈禮《マコトナレ》 和我弖布禮奈奈《ワガテフレナナ》 都知爾於知母加毛《ツチニオチモカモ》
 
吾ガ家ノ門ニ咲イテ居ル片山椿ヨ。本當ニオマヘハ、私ノ手モ觸レナイウチニ散ツテシマツテ〔七字傍線〕、土ニ落チハスマイカヨ。私ノ故郷ニ殘シテ來タ美シイ女ヨ。本當ニオマヘハ、私ノ手モ觸レナイウチニ、他ノ男ニ取ラレハセヌカヨ〔私ノ故〜傍線〕。
 
○和我可度乃可多夜麻都婆伎《ワガカドノカタヤマツバキ》――吾が門の片山椿。この防人の住む家が片山近くにあつて、その門のあたりに山椿が咲いてゐるのである。片山は片側の山。平地に面した山。女を椿の花に譬へてゐる。○麻己等奈禮《マコトナレ》――實に汝は。○和我弖布禮奈奈《ワガテフレナナ》――吾が手を觸れずに。上のナは打消。下のナは冀望の助詞の極めて輕く用ゐられたもの。○都知爾於知母可毛《ツチニオチモカモ》――土に落ちむかもの東語。土に落ちはせぬかと危ぶんだのである。落ちむやは、落ちはせじと反語になつてゐるのではない。土に落ちるとは他の男のものとなるをいふ。略解の宣長説に「結句はよすがなくてわびむかと妻の事を憐むたとへ也」とあるのは從ひ難い。古義に、「遠く別れ居で、未(ダ)わが手觸れぬ間に、汝實におちぶれなむか、さても心がゝりや、と別(レ)に臨て、うしろめたく憐みたるなるべし」とあるのも、その意を得ない。
〔評〕 愛する女を片山椿に譬へ、防人の任終つて歸宅するまで、他の男に得られはしないかと恐れ危ぶんだ歌で
(131)
 
右一首|荏原《エハラ》郡上丁|物部廣足《モノノベノヒロタリ》
 
物部廣足の傳はわからない。
 
4419 いはろには 葦ぶ焚けども 住み好けを 筑紫に到りて こふしけもはも
 
伊波呂爾波《イハロニハ》 安之布多氣騰母《アシブタケドモ》 須美與氣乎《スミヨケヲ》 都久之爾伊多里※[氏/一]《ツクシニイタリテ》 古布志氣毛波母《コフシケモハモ》
 
私ノ〔二字傍線〕ニハ蘆火ヲ焚イテ、煙クテヒドイ家ダ〔八字傍線〕ケレドモ、私ニハ〔三字傍線〕住ミヨイガ、遠ク旅立ツテ〔六字傍線〕筑紫ニ行ツテカラ、ドンナニ〔四字傍線〕戀シク思フデアラウカヨ。
 
○伊波呂爾波《イハロニハ》――イハは家の東語。ロは添へて言ふのみ。○安之布多氣騰母《アシブタケドモ》――蘆火焚けども。アシブはアシビの東語。蘆を焚く火。○須美與氣乎《スミヨケヲ》――住み吉きを。ヨケはヨキの東語。○古布志氣毛波母《コフシケモハモ》――戀しく思はむ。コフシケは戀シク、モハモは思ハムの東語である。
〔評〕 東言葉が澤山用ゐられて、地方色が豐かである。内容もいかにも東人らしい感情が流れてゐる。橘樹郡は東京灣に接し、多摩川の下流に沿ひ、蘆の生ひ繁つたところであつたらう。蘆火焚く屋は難波人の住居と異なるところがなかつたらしい。
 
右一首|橘樹《タチバナ》郡上丁|物部眞根《モノノベノマネ》
 
(132)橘樹郡は今もその名が殘つてゐる。併し後世その區域を擴張したらしく、上代の範圍は明瞭でないが、多摩川の西岸で今の橘村あたりを中心とした小郡であつた。物部眞根の傳は明らかでない。
 
4420 草枕 旅の丸寢の 紐絶えば 吾が手と附けろ これの針《はる》持し
 
久佐麻久良《クサマクラ》 多妣乃麻流祢乃《タビノマルネノ》 比毛多要婆《ヒモタエバ》 安我弖等都氣呂《アガテトツケロ》 許禮乃波流母志《コレノハルモシ》
 
アナタガ筑紫ニ出カケテ〔アナ〜傍線〕(久佐麻久良)旅ノ獨寢ノ着タママノ〔八字傍線〕丸寢デ着物〔三字傍線〕ノ紐ガ切レタナラバ、只今針ヲアゲテオキマスカラ〔只今〜傍線〕、コノ針ヲ以ツテ、御自分ノ手デソレヲ縫ヒ〔五字傍線〕付ケナサイ。
 
○多妣乃麻流禰乃比毛多要婆《タビノマルネノヒモタエバ》――旅の獨寢に著たままで寢る時に、着物の紐が切れたならば。○安我弖等都氣呂《アガテトツケロ》――吾が手にて縫ひ付けよ。吾が手は自分の手の意で、即ち旅行く男の手である。この句を代匠記以下の諸註に、吾が手と思ひて付けよの意とし、吾が手を女の手としたのは誤つてゐる。ツケロのロは命令でヨに同じ。今も關東地方の方言にロを用ゐるのは、この語がその儘に殘つてゐるものである。○許禮乃波流母志《コレノハルモシ》――是の針持ち。この針を持つて。ハリをハル、モチをモシといふのは東語である。
〔評〕 防人に行く男に、妻が針を贈る言葉。吾が手とつけろと男に要求してゐるのは、旅中、他し女に觸れるなとの意も含んでゐるか。眞情のあらはれた佳い歌である。
 
 
右一首妻|掠椅部弟女《クラハシベノオトメ》
 
物部眞根の妻の椋椅部弟女の作。この女の傳はわからない。
 
4421 わが行の 息づくしかば 足柄の 峯延ほ雲を 見ととしぬばね
 
(133)和我由伎乃《ワガユキノ》 伊伎都久之可婆《イキヅクシカバ》 安之我良乃《アシガラノ》 美禰波保久毛乎《ミネハホクモヲ》 美等登志努波禰《ミトトシヌバネ》
 
オマヘハ〔四字傍線〕私ノ旅行ニ出ルノ〔四字傍線〕ガ悲シクテ〔四字傍線〕溜息ヲツクナラバ、足柄ノ峯ヲ這フ雲ヲ眺メナガラ、私ヲ〔二字傍線〕思ヒヤリナサイ。私ハアノ山ヲ越エテ行クノダカラ〔私ハ〜傍線〕。
 
○和我由伎乃《ワガユキノ》――吾が行の。ユキは旅行。○伊伎都久之可婆《イキヅクシカバ》――息衝かしからばの東語。即ち歎息せられるならばの意らしい。○安之我良乃《アシガラノ》――足柄の。足柄山を通つて行つたから、かういつたのである。○美禰波保久毛乎《ミネハホクモヲ》――峯這ふ雲を。這フをハホといふのは東語である。○美等登志怒波禰《ミトトシヌバネ》――見つつ偲ばね。ツツを東語でトトといふのである。元暦校本など、怒を努に作る本も多い。
〔評〕 武藏の防人は足柄山を越えて難波津に向つたので、我を戀しく思はば、足柄山の雲を眺めよといつたのである。前の阿我母弖能和須例母之太波都久波尼乎布利佐氣美都々伊母波之奴波尼《アガモテノワスレモシダハツクバネヲフリサケミツツイモハシヌバネ》(四三六七)と内容が似てゐるが、この歌には東語が豐富で、野趣横溢である。なほ當時武藏は東山道に屬してゐタのであるが、事實、東海道を經由してゐたことが、この歌で明らかである。下にも足柄を越える歌が二首見えてゐる。
 
右一首|都筑《ツツキ》郡上丁|服部於田《ハトリベノウヘダ》
 
都筑郡は橘樹郡の西に隣してゐる。和名抄に豆々伎と訓してゐる。於田はウヘダと訓むか。しかし人名としては少し變である。考は田を由の誤とし、オユは老であるといつてゐる。元暦校本に田の傍に由イとあるから、それがよいかも知れない。もとよりこの人の傳は分らない。
 
4422 吾がせなを 筑紫へやりて うつくしみ 帶は解かなな あやにかも寢も
 
(134)和我世奈乎《ワガセナヲ》 都久之倍夜里弖《ツクシヘヤリテ》 宇都久之美《ウツクシミ》 於妣波等可奈奈《オビハトカナナ》 阿也爾加母禰毛《アヤニカモネモ》
 
私ノ夫ヲ防人トシテ〔五字傍線〕筑紫ヘ遣ツテ、私ハ夫ヲ〔四字傍線〕懷カシク思フノデ、帶モ解カズニ、旅寢ノヤウナ〔六字傍線〕變ナ恰好デ寐ヨウカヨ。
 
○和我世奈乎《ワガセナヲ》――吾が夫を。ナは親しんで添へたもの。○宇都久之美《ウツクシミ》――愛しみ。いとしく思ふ故に。○於妣波等可奈奈《オビハトカナナ》――帶は解かないで。前の和我弖布禮奈奈《ワガテフレナナ》(四四一八)參照。○阿也爾加母禰毛《アヤニカモネモ》――アヤニは怪しくも。變な恰好での意。旅寢の樣に傚つて、丸寢する故、アヤニと言つたのであらう。代匠記精撰本は「皇極紀に吐嗟をあやと點したれば、吐嗟《アヤ》と打嘆てかも寢むと我上をよめるは答の意なるべし」とあるが、少しく無理であらう。考は「阿也は吾也にて吾にと云に同じく、爾はなげきの約にて、帶も解ず吾よなけき寐むと云成べし」とあるのは臆斷である。古義に「奇しきまでに戀しく思ひつゝ將寢歟《ネムカ》の意なり」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 旅中の夫の辛勞を思つて、旅寢のやうに帶をも解かずに寢ようといふ妻の心はあはれである。下に昔年防人歌と註した中に、和我世奈乎都久志波夜利弖宇都久之美叡比波登加奈奈阿夜爾可毛彌毛《ワガセナヲツクシハヤリテウツクシミエビハトカナナアヤニカモネモ》(四四二八)とあるによると、これは當時民間に行はれてゐた古謠を以て、夫への答歌としたらしい。
 
右一首妻|服部呰女《ハトリベノアタメ》
 
和名抄、參河國碧海郡に呰見、備中圖英賀郡に呰部 安多とあるから、呰女はアタメと訓むのであらう。但し呰はアザケル義で、アザと訓むとする説もある。服部呰女の傳はわからない。
 
4423 足柄《あしがら》の 御坂に立して 袖振らば いはなる妹は さやに見もかも
 
(135) 安之我良乃《アシガラノ》 美佐可爾多志弖《ミサカニタシテ》 蘇※[泥/土]布良波《ソデフラバ》 伊波奈流伊毛波《イハナルイモハ》 佐夜爾美毛可母《サヤニミモカモ》
 
私ガ〔二字傍線〕足柄ノ御坂ニ立ツテ袖ヲ振ルナラバ、家ニ留守居シテ〔五字傍線〕ヰル妻ハ、ハツキリトソレヲ〔三字傍線〕見ルデアラウカヨ。
 
○美佐可爾多志弖《ミサカニタシテ》――御坂に立ちて。神のまします坂であるから、畏みて御坂といふのである。タシテは立チテの東語。○伊波奈流伊毛波《イハナルイモハ》――家なる妹は。イハはイヘの東語。○佐夜爾美毛可母《サヤニミモカモ》――さやかに、はつきりと見るであらうかよ。見ムカモを東語でミモカモと言つてゐる。
〔評〕 出發に際して妻と別れを惜しむ言葉。別離の後に途すがら袖を振る歌が多い。足柄の坂で振る袖が、埼玉郡に住む妻の目に見えるとも思はれないが、かうした心を通はす一種の呪術に慰められつゝ旅したのである。
 
右一首|埼玉《サキタマ》郡上丁藤原部|等母麿《トモマロ》
 
埼玉は和名抄には佐伊太末とあるが、本集では佐吉多萬能津爾乎流布禰乃《サキタマノツニヲルフネノ》(三三八〇)のやうにサキタマとなつてゐる。この郡は武藏の北部で、利根川の南岸にある。今は南北埼玉の二郡に分れでゐる。藤原部等母麿の傳は明らかでない。
 
4424 色深く せなが衣は 染めましを 御坂たばらば まさやかに見む
 
伊呂夫可久《イロフカク》 世奈我許呂母波《セナガコロモハ》 曾米麻之乎《ソメマシヲ》 美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》 麻佐夜可爾美無《マサヤカニミム》
 
色深ク私ノ〔二字傍線〕夫ノ着物ハ豫ネテ〔三字傍線〕染メテ置クベキ筈デシタノニ。サウシタラ夫ガ足柄ノ〔サウ〜傍線〕御坂ヲ越エルナラバ、ソレ(136)ガ〔三字傍線〕明ラカニクツキリト〔五字傍線〕見エルデセウ。常々ソノ用意ガシテナカツタノハ殘念デス〔常々〜傍線〕。
 
○伊呂夫可久《イロフカク》――色深く。色濃くに同じ。防人の服色は何であつたか知らないが、赤色でもなくては、色濃く染めても遠方からは見えまいと思はれる。○曾米麻之乎《ソメマシヲ》――染めやうのに。ヲは詠歎ではあるまい。○美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》――御坂賜はらば。御坂を越えることを許されるならばの意で、つまり御坂を越えることである。タを接頭語として、御坂に廻らばと釋くのはよくない。○麻佐夜可爾美無《マサヤカニミム》――マサヤカはサヤカに同じ。マは接頭語のみ。はつきりと。
〔評〕 前の歌に對する妻の答歌である。夫の歌に對して、しつくりと合致した優雅な答である。三句切のやうな形式になつてゐるのは、東國の歌としてはめづらしい。
 
右一首妻|物部刀自賣《モノノベノトジメ》
 
物部刀自賣の傳はわからない。
 
二月二十日武藏國部領防人使、攘正六位上|安曇《アヅミ》宿禰|三國《ミクニ》進(ムル)歌數二十首、但拙劣歌者不v取2載之(ヲ)1
 
舊本二十日とあるが、古葉略類聚抄は廿九日とある。前に廿三日の歌があるから、二十の下に九の字が脱ちたのであらう。この國に限つて、部領防人使と記してあるのは異例である。安曇宿禰三國は續紀に、寶字八年十月庚午正E六位上安曇宿禰三國授2從五位下1とある。二十首の内、十二首を載せてある。そのうち女性の歌が六首あり、また夫妻贈答歌が四組あるのは、この部領使の方針であらう。他に例のないことで、防人歌に變つた光彩を添へてゐる。
 
4425 防人に 行くは誰がせと 問ふ人を 見るがともしさ 物思ひもせず
 
(137)佐伎母利爾《サキモリニ》 由久波多我世登《ユクハタガセト》 刀布比登乎《トフヒトヲ》 美流我登毛之佐《ミルガトモシサ》 毛乃母比毛世受《モノモヒモセズ》
 
私ノ夫ガ防人ニナツテ行ク時ニ、見送ノ人ノ中ニ混ツテ〔私ノ〜傍線〕、防人ニ行クノハ誰ノ夫カト、何ノ心配モナク、タヅネテヰル人ヲ見ルノハ羨マシイヨ。
 
○佐伎母利爾《サキモリニ》――元暦校本その他、古本多くは母を毛に作つてゐる。○美流我登毛之佐《ミルガトモシサ》――見るのは羨しい。トモシを羨ましい意に用ゐたのは集中に多い。
〔評〕 防人に徴發せられて、出發した男の妻の歌。第二句「行くは誰がせ」に女らしい思ひやりが見えてゐる。しかもそれが本人にとつては、悲しく羨ましく聞きなされるのである。防人の歌としては分りやすく、且つ巧妙に出來た作品である。
 
4426 あめつしの 神に幣置き いはひつつ いませ吾がせな 我をしもはば
 
阿米都之乃《アメツシノ》 可未爾奴佐於伎《カミニヌサオキ》 伊波比都々《イハヒツツ》 伊麻世和我世奈《イマセワガセナ》 阿禮乎之毛波婆《アレヲシモハバ》
 
吾ガ夫ヨ、アナタハ〔四字傍線〕私ヲ可愛イト〔四字傍線〕思ヒナサルナラバ、旅ノ道スガラ〔六字傍線〕天地ノ神ニ幣ヲ〔二字傍線〕奉ツテ、神ヲ祭リナガラオイデナサイヨ。ドウゾ私ノ爲ニ無事デイラシツテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○阿米都之乃《アメツシノ》――天地の。○可未爾奴佐於伎《カミニヌサオキ》――温故堂本に未を米に作つてあるによれば、カメである。卷十四に加米爾於保世牟《カメニオホセム》(三五六六)とあるから、東語では、神をカメともいつたのである。併し舊本のままにしておかう。
(138)〔評〕 防人の妻の歌。結句の「我をし思はば」が強く響いてある。君が身は君のみのものではない。吾が爲にこそ神を祭りて無事でゐ給へと要求する言葉に、純眞な戀情が溢れてゐる。
 
4427 いはの妹ろ わをしのぶらし 眞ゆすびに ゆすびし紐の 解くらくもへば
 
伊波乃伊毛呂《イハノイモロ》 和乎之乃布良之《ワヲシノブラシ》 麻由須比爾《マユスビニ》 由須比之比毛乃《ユスビシヒモノ》 登久良久毛倍婆《トクラクモヘバ》
 
確カリト〔四字傍線〕本結ビニ結ンダ私ノ着物ノ〔五字傍線〕紐ガ、獨デ〔二字傍線〕解ケルノデ考ヘテ見レバ、家ノ妻ハ私ヲ戀シク思ツテヰルラシイ。
 
○伊波乃伊毛呂《イハノイモロ》――家の妹ろ。ロは添へていふのみ。○和乎之乃布良之《ワヲシノブラシ》――我を偲ぶらし。シヌブといふのが常であるが、シノブも行はれてゐた。○麻由須比爾《マユスビニ》――ユスビはムスビの東語。本結びに。○由須比之比毛乃《ユスビシヒモノ》――結びし紐の。○登久良久毛倍婆《トクラクモヘバ》――解くる思へば。ラクはルの延音。
〔評〕 人に戀せらるれば、結んだ紐がおのづから解けるといふ、俗信によつて詠んだのである。旅なる防人が、家なる妻を思ふ心が悲しく詠まれてゐる。
 
4428 吾がせなを 筑紫は遣りて うつくしみ えびは解かなな あやにかも寢む
 
和我世奈乎《ワガセナヲ》 都久志波夜利弖《ツクシハヤリテ》 宇都久之美《ウツクシミ》 叡比波登加奈奈《エビハトカナナ》 阿夜爾可毛禰牟《アヤニカモネム》
 
私ノ夫ヲ防人トシテ〔五字傍線〕、筑紫ヘハ遣ツテ、私ハ夫ガ〔四字傍線〕懷シイカラ、帶モ解カズニ旅寢ノヤウナ〔六字傍線〕變ナ恰好デ一人デ〔三字傍線〕寐ヨウカヨ。
 
(139)○都久志波夜利弖《ツクシハヤリテ》――筑紫へは遣りての意か。前に都久之倍夜里弖《ツクシヘヤリテ》とある。○叡比波登加奈奈《エビハトカナナ》――エビはオビの東語。
〔評〕前の和我世奈乎都久之倍夜里弖宇都久之美於妣波等可奈奈阿也爾加母禰毛《ワガセナヲツクシヘヤリテウツクシミオビハトカナナアヤニカモネモ》(四四二二)とある歌の原歌である。
 
4429 厩なる 繩絶つ駒の おくるがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも
 
宇麻夜奈流《ウマヤナル》 奈波多都古麻乃《ナハタツコマノ》 於久流我弁《オクルガヘ》 伊毛我伊比之乎《イモガイヒシヲ》 於岐弖可奈之毛《オキテカナシモ》
 
私ガ出立スル時ニ別ヲ惜シンデ、丁度〔私ガ〜傍線〕厩ニ繋イデアル馬ガ、繩ヲ切ツテ驅ケ出スヤウナ勢デ、私モ一人デ〔八字傍線〕後ニハ殘サレハセヌゾト、私ヲ慕ツテ〔五字傍線〕妻ガ言ツタノニ、ソノ妻ヲ後ニ〔六字傍線〕殘シテ來テ〔二字傍線〕、可愛サウデアルヨ。
 
○宇麻夜奈流《ウマヤナル》――厩なる。厩に飼つてある。○奈波多都古麻乃《ナハタツコマノ》――繩絶つ駒の。繋いである繩を絶ち切つて遁げ出す馬の。以上の二句は厩に繋がれてゐる駒が繩を絶ち切つて、走り出すやうに、遲れはせじとの意で、第三句の譬喩になつてゐるのであらう。但し序詞と見られないこともない。○於久流我弁《オクルガヘ》――遲れるものか。遲れはしないの意であらう。ガヘは、卷十四の可美都氣努佐野乃布奈波之登利波奈之於也波佐久禮騰和波左可禮賀倍《カミツケヌサヌノフナハシトリハナシオヤハサクレドワハサカレガヘ》(三四二〇)のガヘと同じく、反語となる助詞である。妻が我に遲れじと、後を慕つたのである。この句の下にトの助詞が略されてゐるものとしたい。
〔評〕 初二句の譬喩は、田舍人の生活が反映してゐるやうに見える。さうして奇拔な適當な構想である。後れじと慕ひよる女の樣も思はれ、又それを追懷して悲しんでゐる男の、淋しさうな姿も見えるやうな作である。
 
4430 荒し男の いをさたばさみ 向ひ立ち かなる間しづみ 出でてとあが來る
 
阿良之乎乃《アラシヲノ》 伊乎佐太波佐美《イヲサタバサミ》 牟可比多知《ムカヒタチ》 可奈流麻之都美《カナルマシヅミ》 伊※[泥/土](140)弖登阿我久流《イデテトアガクル》
 
(140)防人ニ行ク私ノ別ヲ悲シンデ、家ノ者ガ〔防人〜傍線〕(阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知)騷ギ叫ンデヰルノガ沈マルノヲ待ツテ、私ハ漸ク家ヲ〔四字傍線〕出テ來タ。
 
○阿良之乎乃《アラシヲノ》――荒し男の。益荒雄に同じ。卷十七に安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》(三九六二)、この上に阿良志乎母《アラシヲモ》(四三七二)とある。○伊乎佐太波佐美《イヲサタバサミ》――サは卷十三に投左乃《ナグルサノ》(三三三〇)とある如く、箭のこと。即ちイは接頭語、ヲサは小箭とする説と、五百箭とする説とある。併しイヲとイホと假名が違ふから、五百箭とするは無理であらう。東語でも猥りに假名を混同して見るわけには行かない。又五百箭では手挾みといふには、あまり大袈裟である。○牟可比多知《ムカヒタチ》――猪鹿に向ひ立つ意であらう。ここまでの三句は序詞で、荒い男が箭を手挾んで猪鹿に向ひ立てば、恐れて囂しく騷ぐから、可奈流麻とつづけるのである。○可奈流麻之都美《カナルマシヅミ》――卷十四に安思我良能乎※[氏/一]毛許乃母爾佐須和奈乃可奈流麻之豆美許呂安禮比毛等久《アシガラノヲテモコノモニサスワナノカナルマシヅミコロアレヒモトク》(三三六一)とあるのと同樣である。それを參照せられたい。ここは別れを惜しんで家人の泣き騷ぐ間を沈めて、即ち泣き叫ぶ聲の鎭まるのを見はからつての意とすべきであらう。新考には、的に向つて矢を放つ時の 矢聲でシヅミはシヅマリの約だと言つてゐる。○伊※[泥/土]弖登阿我久流《イデテトアガクル》――出でてぞ吾が來るに同じ。トはゾに似てゐる。略解に※[泥/土]をネに訓んでい寢ての意としたのは、前掲の卷十四の歌に泥んだもので從ひ難い。本集には※[泥/土]をネの假名に使つてゐない。
〔評〕 上の句の序詞は防人らしい勇ましいものである。下句は別離の悲歎に泣き叫ぶ家人の姿と、その騷の中を遁げるやうにして出て來る、防人の淋しい影が見えるやうだ。特色ある作といつてよからう。
 
4431 ささが葉の さやぐ霜夜に 七重かる 衣にませる 子ろがはだはも
 
佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤグシモヨニ》 奈奈弁加流《ナナヘカル》 去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》 古侶賀波太波毛《コロガハダハモ》
 
(141)笹ノ葉ガサヤサヤト音ヲ立テル寒イ〔二字傍線〕霜ノ降ル夜ニ、七重モ重ネテ着ル暖カイ〔三字傍線〕衣ニモ増シタ、妻ノ柔カイ〔三字傍線〕肌ガナツカシイ〔六字〜傍線〕ヨ。カウシテ旅ニ出テ居レバ、寒イ夜ハ殊ニ妻ノ肌ガ慕ハシク思ハレル。〔カウ〜傍線〕
○佐佐賀波乃《ササガハノ》――笹の葉が。○佐也久志毛用爾《サヤグシモヨニ》――さやさやと鳴る霜の降る夜に。小竹の葉が霜の冴ゆる冬の夜風に、音立てて鳴るのである。卷二に小竹之葉者三山毛清爾亂友《ササノハハミヤマモサヤニサヤゲドモ》(一三三)とある。○奈奈弁加流《ナナヘカル》――七重着る。カルは卷十五の許能安我家流伊毛我許呂母能《コノアガケルイモガコロモノ》(三六六七)とある着《ケ》るに同じである。幾重にも重ねて着た。○去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》――衣に増せる。衣よりも以上に暖い。マセルはマサルの方言であらう。古義には「衣に益有なり、(益りて有といふ意なり。マサル〔三字右○〕と云とは異なり。マサル〔三字右○〕を通はしてマセル〔三字右○〕と云にあらず)佐禮《サレ》の切|世《セ》となれり。」とあるのはここには當るまい。
〔評〕 今夜は寒い晩だ。屋外では霜が降つてゐるらしい。小竹の葉の木枯に揉まれる音が、サヤサヤと聞えてゐる。故郷を離れて來た防人は、旅寢の床に七重の衣を重ねて着てゐるが、やはり寒い。それにつけても思い出すのは故郷に殘して來た、いとしい妻の暖い柔膚である。嗚呼あの女はどうしてゐるだらうと悲しい嘆聲が、曲節をなして、この歌となつてゐる。かなり肉感的な作だが、上品に麗はしく出來てゐる。卷四の蒸被奈朗也我下丹雖臥妹不宿肌之寒霜《ムシプスマナゴヤガシタニフセレドモイモトシネネバハダシサムシモ》(五二四)とも似てゐるが、それよりも上の上總國防人の作。多妣己呂母夜倍伎可佐禰弖伊努禮等母奈保波太佐牟志伊母爾志阿良禰婆《タビコロモヤヘキカサネテイヌレドモナホハダサムシイモニシアラネバ》(四三五一)と酷似してゐる。暗合とせねばなるまい。
 
4432 さへなへぬ 命にあれば かなし妹が 手枕離れ あやにかなしも
 
佐弁奈弁奴《サヘナヘヌ》 美許登爾阿禮婆《ミコトニアレバ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 阿夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》
 
背クコトノ出來ナイ勅命デアルカラ、私ハ防人ニナツテ〔八字傍線〕、懷カシイ妻ノ手枕ヲ離レテ出テ來テ、我ナガラ〔四字傍線〕不思(142)議ナホド、アノ女ガイトシイヨ。
 
○佐弁奈弁奴《サヘナヘヌ》――背かれない。サヘは障ヘ。ナヘは敢ヘ。障ヘ敢ヘぬ。謝絶することが、出來ない意である。○美許登爾阿禮婆《ミコトニアレバ》――勅命であるから。○可奈之伊毛我《カナシイモガ》――可愛い妻の。○阿夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》――不思議なほど可愛いよ。このカナシも三句のカナシと同樣に見るがよい。卷十四の奈仁曾許能兒乃己許太可奈之伎《ナニゾコノコノココダカナシキ》(三三七三)に似てゐる。
〔評〕 初二句は前にある於保吉美能美許等可之古美《オホキミノミコトカシコミ》(四三二八)と同意であつて、防人歌に多い常套思想といふことが出來よう。思ひ切つて出發しながら、なほ斷ち難い情痴の絆を、如何ともし難いのがあはれである。
 
右八首(ハ)昔年(ノ)防人歌矣、主典刑部少録正七位上|磐余伊美吉諸君《イハレノイミキモロキミ》、抄寫(シテ)贈(レリ)2兵部少輔大伴宿禰家持(ニ)1、
 
右の八首は昔の防人の歌であつて、主典刑部少録の正七位上磐余伊美吉諸君が、書き寫して兵部少輔大伴宿禰家持に贈つたものだといふのである。主典は謂はゆる四部の官の第四で、サクワンである。ここの書き方は、主典《サクワン》の刑部少録といふので、主典は職名ではない。和名抄に佐官、勘解由(ニ)曰2主典1とあるに依つて、勘解由《カゲユ》使のサクワンとすべきで、勘解由使の主典が、刑部省の少録を兼ねてゐるのであらうと見る人もあるが、勘解由使は桓武天皇の御代に始めて置かれた官であるから、この時は未だ無かつタ筈である。刑部は職員令によれば、宇多倍多々須都加佐《ウタヘタダスツカサ》とあり、令義解の訓にはウタヘサダムルツカサとある。八省中の重職で、罪人を裁判し、刑名を定め、疑獄を決し、良民賤民の名籍及び囚禁、負債の事を掌る。職員は卿一人正四位下、大輔一人正五位下、少輔一人從五位下、大丞二人正六位下、少丞二人從六位上、大録一人正七位上、少録二人正八位上、史生十人となつてゐる。ここに正七位上とあるが、七は八の誤か。又は少録は大録の誤かも知れない。磐余伊美吉諸君の傳は明らかでない。
 
(143)三月三日、檢2校(セル)防人(ヲ)1勅使 并兵部使人等、同(ジク)集(ヒテ)飲宴(シ)作(レル)哥三首
 
檢2校防人1勅使は、筑紫へ派遣する防人を檢閲する爲の勅使。兵部使人は兵部省の役人で、防人の事務を鞅掌する爲に、派遣せられた人たちである。家持もその中の一人である。これを家持の下僚と見るは當らない。
 
4433 朝なさな 揚る雲雀に なりてしか 都に行きて はや歸り來む
 
阿佐奈佐奈《アサナサナ》 安我流比婆理爾《アガルヒバリニ》 奈里弖之可《ナリテシカ》 美也古爾由伎弖《ミヤコニユキテ》 波夜加弊里許牟《ハヤカリコム》
 
毎朝毎朝空高ク飛ビ上ル、雲雀ニナリタイモノダ。サウシタラ〔五字傍線〕都ニ行ツテ早ク歸ツテ來ヨウ。シバラクデモ都ヲ離レテヰルトナツカシイ〔シバ〜傍線〕。
 
○阿佐奈佐奈《アサナサナ》――朝な朝なの略。毎朝。○奈里弖之可《ナリテシカ》――なりだいものだ。
〔評〕 上品に出來てあるといふまでで、歌が弱々しくなつてゐる。三句切の形式である。
 
右一首勅使紫微大弼安倍|沙美《サミ》麿朝臣
 
紫微大粥は、續紀に、「孝謙天皇、勝寶元年九月戊戍、制2紫微中臺官位1、令一人正三位官、大弼二人正四位下官、少弼三人從四位下官、大忠四人正五位下官、少忠四人從五位下官、大疏用人從六位上官。少疏四人正七位上官、寶字二年八月庚子朔、是日皇太子受v禅、甲子、是日奉v勅改2易官號1、紫微中臺、居v中奉v勅頒2行諸司1、如d地承v天亭c毒庶物u、故改爲2坤宮官1」と見えてゐる。天平勝寶元年に藤原仲麿の議によつて、唐制を模して皇后宮職を改めて、紫微中台としたが、天平寶字二年に坤宮官と改め、同八年仲麿誅に伏する(144)に及んで舊の皇后職に復したのである。安倍沙美麿は續紀によれば、天平九年九月己亥、正六位上から從五位下、十年閏七月癸卯少納言、十二年十一月甲辰從五位上、十五年五月癸卯正五位下、十七年正月乙丑正五位上、十八年川月癸卯從四位下、勝寶元年四月叩午朔從四位上、寶字元年五月丁卯正四位下、同八月庚辰參議、二年三月辛酉中務卿正四位下、阿倍朝臣佐美麿卒すとある。この紫微大弼の官になつたことは續紀に見えない。
 
4434 雲雀あがる 春べとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく
 
比婆里安我流《ヒバリアガル》 波流弊等佐夜爾《ハルベトサヤニ》 奈理奴禮波《ナリヌレバ》 美夜古母美要受《ミヤコモミエズ》 可須美多奈妣久《カスミタナビク》
 
雲雀ガ空ニ飛ビ上ル春ニスツカリナツタノデ、都モ見エナイヤウニ霞ガ欄曳イテヰマス。只サヘ遠イ都ガ、霞ニ隔テラレテソノソノ方角モワカラズ、愈々ナツカシイ氣ガ致シマス〔只サ〜傍線〕。
 
○波流弊等佐夜爾《ハルベトサヤニ》――春べとさやに。サヤニはさやかに。明白に。考に「佐夜とは霞にかなはず。夜は倍の誤にて春邊とさへになるべし」とあるが、サヤは霞には關係なく、全く、すつかりなどの意とすべきである。
〔評〕 勅使の歌に對する答歌。霞は天を罩め地を蔽うてゐる。都の方を眺めても、目あてとすべき生駒山さへ見えない。唯聞えるものは雲雀の聲のみ。幽艶の情景。萬葉末期を代表する作といつてよい。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
4435 ふふめりし 花の初に 來し我や 散りなむ後に 都へ行かむ
 
布敷賣里之《フフメリシ》 波奈乃波自米爾《ハナノハジメニ》 許之和禮夜《コシワレヤ》 知里奈牟能知爾《チリナムノチニ》 美夜古敝由可無《ミヤコヘユカム》
 
(145)櫻の花ガ未ダ蕾ンデヰル時ニ、コノ難波ヘ來タ私ハ、花ガ散ツテシマツタ後デ、都ヘ歸ル事デセウカ。早ク歸リタイモノデス。私モ御同樣都ガナツカシウゴザイマス〔早ク〜傍線〕。
 
○布教賣里之《フフメリシ》――含めりし。蕾んでゐた。○許之和禮夜《コシワレヤ》――來し我や。ヤは疑問の意の係辭。
〔評〕 これも勅使の歌に對する答歌。前にあつた獨惜2龍田山櫻花1歌一首、多都多夜麻見都都古要許之佐久良波奈知利加須疑奈牟和我可敝流刀爾《タツタヤマミツツコエコシサクラバナチリカスギナムワガカヘルトニ》(四三九五)と同意である。前の雲雀の歌に比して劣つてゐる。
 
右二首兵部少輔大伴宿禰家持
 
元暦校本・西本願寺本など、部の下に使の字がある。題に兵部使人等とあるのと同樣の書き方か。
 
昔年相替(リシ)防人(ノ)歌一首
 
昔年とのみあつて、何時の年の防人の歌かわからない。誰から聞いたとも記してない。やはり家持が難波にあつて聞いたものか。
 
4436 闇の夜の 行く先知らず 行く我を いつ來まさむと 問ひし兒らはも
 
夜未乃欲能《ヤミノヨノ》 由久左伎之良受《ユクサキシラズ》 由久和禮乎《ユクワレヲ》 伊都伎麻佐牟等《イツキマサムト》 登比之古良波母《トヒシコラハモ》
 
(夜未乃欲能)行ク先モ分ラズ、遠ク防人トナツテ出カケテ〔遠ク〜傍線〕行ク私ヲ、何時ニナツタラオ歸リニナルカト、尋ネタアノ〔二字傍線〕女ヨ。可愛サウナ女ダ。アノ女ハドウシタデアラウカ〔可愛〜傍線〕。
 
○夜未乃欲能《ヤミノヨノ》――枕詞。闇の夜の如くに行く先知らずと、つづいてゐる。○登比之古良波母《トヒシコラハモ》――コラは兒ら。妻(146)を指す。
〔評〕 防人となつて出發して、途中、故郷の妻を思ひ出して詠んだもの。初句の枕詞は珍らしい用例である。その場合の防人の心を、巧に表現してゐるやうだ。卷十七の大海乃於久可母之良受由久和禮乎何時伎麻佐武等問之兒等波母《オホウミノオクガモシラズユクワレヲイツキマサムトトヒシコラハモ》(三八九七)はこれと同歌である。いづれが先かわからない。
 
先太上天皇御製霍公鳥歌一首
 
元暦校本・西本願寺本などこの下に註して、日本根子高瑞日清足姫天皇也と小字で記してゐる。即ち元正天皇にまします。今年天平勝寶七歳は孝謙天皇の御代で、太上天皇は聖武天皇であつたから元正天皇を先太上天皇と申上げたのである。この卷の初にも同樣に記してある。
 
4437 ほととぎす なほも鳴かなむ もとつ人 かけつつもとな あを哭し泣くも
 
富等登藝須《ホトトギス》 奈保毛奈賀那牟《ナホモナカナム》 母等都比等《モトツヒト》 可氣都都母等奈《カケツツモトナ》 安乎禰之奈久母《アヲネシナクモ》
 
郭公ハ大抵ニ鳴イテクレ。サウヒドク鳴イテハ〔九字傍線〕亡クナツタ昔馴染ノ〔四字傍線〕人ヲ心ニ思ツテ、徒ラニ我ヲ泣カセルヨ。悲シクテ仕方ガナイカラサウヒドク鳴カナイデクレ〔悲シ〜傍線〕。
 
○奈保毛奈賀那牟《ナホモナカナム》――ナホは略解に、「なほざりにで、俗にたいがいにと言意也」とあるとほりであらう。尚この上にの意としては通じ難い。伊勢物語に「天の下の色ごのみの歌にては、なほぞありける」土佐日記に「かやうの物持て來る人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす物もなし」とあり。又續紀卷二十二の宣命に「遍重辭備申黙在牟止禮止毛止事不得《タビカサネテイナボマヲスニヨリテナホアラムトスレドモヤムコトエズ》」とあるによれば、ナホは黙する意ともなるのである。即ちこの句はもう少しおだやかに鳴けの意である。○母等都比等《モトツヒト》――本つ人。昔馴染の人。故人。古義はこの句を第(147)一句の上にうつして、「本津人霍公鳥と詔へるなるべし」といつてゐるのは、卷十の本人霍公鳥乎八《モトツヒトホトトギスヲヤ》(一九六二)とあるに因はれたもので、ここには當らない。○可氣都都母等奈《カケツツモトナ》――心に懸けて、徒らに。モトナは二三〇參照。○安乎禰之奈久母《アヲネシナクモ》――我を音に泣かしむるよの意。卷十四の相模禰乃乎美禰見所久思和須禮久流伊毛我名欲妣?吾乎禰之奈久奈《サガムネノヲミネミソグシワスレクルイモガナヨビテアヲネシナクナ》(三三六二)の結句參照。
〔評〕 郭公の聲を聞き給うて、故人を偲ぶ想に堪へかねて、詠み給うた御製である、母等都比等《モトツヒト》を契沖は元明天皇を指し給うたのであらうと言つてゐる。さうした見解も出來るわけだが、次の答歌によると、さうではなささうである。郭公を蜀魂・不知歸と言つて、死人に關係ある鳥とするのも、ここには過ぎてみるやうだ。
 
薩妙觀應(ジテ)v 詔(ニ)奉(レル)v和(ヘ)歌一首
 
舊本薩を※[こざと+經の旁]に作つてゐる。但し薩と※[こざと+經の旁]とは別宇であるが、※[こざと+經の旁]を薩の略字として用ゐたらしく、績紀にも薩を※[こざと+經の旁]に作つてゐる本がある。薩妙觀は續紀によれば、養老七年正月丙子從五位上、神龜元年正月辛未河上忌寸の姓を賜ふ。天平九年二月戊午、從五位上河上忌寸妙觀に正五位下を授くる由が見えてゐる。ここは薩妙觀とあるから、神龜以前で、元正天皇の御代のことをその儘掲げてゐる。下に薩妙觀命婦と出てゐる。
 
4438 ほとぎす 此處に近くを 來鳴きてよ 過ぎなむ後に しるしあらめやも
 
保等登藝須《ホトトギス》 許許爾知可久乎《ココニチカクヲ》 伎奈伎弖余《キナキテヨ》 須疑奈無能知爾《スギナムノチニ》 之流志安良米夜母《シルシアラメヤモ》
 
郭公ヨ。此處ニ近ク來テ鳴イテクレヨ。コノ今ノ時期ヲ過ギタ後ニ鳴イテモ〔四字傍線〕、何ノ甲斐モナイゾヨ。今太上天皇樣ガ御待チニナツテイラツシヤル時ニ鳴ケヨ〔今太〜傍線〕。
 
(148)○許許爾知可久乎《ココニチカクヲ》――此處に近く。ヲは詠歎的に添へたもの。○須疑奈無能知爾《スギナムノチニ》――過ぎなむ後に。こちらで待つ時が過ぎた後では。
〔評〕 郭公に言ふ樣に詠んである。答へ奉る歌としては、原の歌に反對して詠んでゐるが、かうした例もないではない。これも郭公を愛する心から出たのである。
 
冬日幸(ノ)2于靫負(ノ)御井(ニ)1之時、内命婦石川朝臣應(ジテ)v 詔(ニ)賦(メル)v雪(ヲ)歌一首、 諱曰2邑婆1
 
靫負御井は宮中にある御用の飲料水を汲む泉の一つであらう。その所在は明瞭でないが、或は靫負の府の内にあるか。然らば靫負の府は衛門の古名で、文武天皇の朝に名づけられたのだから、衛門府内にあつたのである。内命婦石川朝臣は下に註して諱曰邑婆とあるによれば、大伴安麿の妻で坂上郎女の母。安曇外命婦の姉妹である(六六七)。内命婦即ち五位以上を帶びた婦人であつた。略解の註は誤まつてゐる。舊本に邑を色に誤まつてゐる。元暦校本・西本願寺本によつて改めた。邑婆はオホバである。
 
4439 松が枝の つちに著くまで 降る雪を 見ずてや妹が 籠り居るらむ
 
麻都我延乃《マツガエノ》 都知爾都久麻※[泥/土]《ツチニツクマデ》 布流由伎乎《フルユキヲ》 美受弖也伊毛我《ミズテヤイモガ》 許母里乎流良牟《コモリヲルラム》
 
松ノ枝ガ土ニ付クマデモヒドク〔三字傍線〕降ツタコノ雪ノ景色〔三字傍線〕ヲ、見ナイデ水主内親王樣ハ御病氣デ〔四字傍線〕閉ヂ籠ツテイラツシヤルノデセウカ。御見舞申上ゲマス。
 
(149)○美受弖也伊毛我《ミズテヤイモガ》――イモは水主内親王樣を指し奉る。イモはすべて女を親しんでいふ語であるから、内親王を指し奉つても失敬とは言はれない。
〔評〕 松が枝の土に付くまでといつたのは、如何にも大雪らしくて、面白い詞だ。秀でた作といふ程でもないが、多數の女官を代表した作だけのことはある。なほ續紀の文によればこの内親王は天平九年八月に薨去あらせられたから、その前年の冬から御病床にあらせられ、かういふ御見舞があつたのかも知れない。
 
于v時|水主《ミヌシ》内親王寢膳不v安(カラ)、累日不v參(ラ)因(リテ)以(テ)2此(ノ)日(ヲ)1、太上天皇勅(シテ)2侍嬬等(ニ)1曰(ク)爲(ニ)v遣(ラムガ)2水主内親王(ニ)1、賦(シテ)v雪(ヲ)作(リテ)v歌(ヲ)奉(レ)v献(ジ)者、於(テ)v是(ニ)諸命婦等不v堪(ヘ)v作(ルニ)v歌(ヲ)、而此石川命歸獨作(リテ)2此歌(ヲ)1奏(ス)v之(ヲ)
 
水主内親王は天智天皇紀に、有2栗隈首徳萬女1曰2黒媛娘1生2水主皇女1とあり。續紀に靈龜元年正月甲午、四品水主内親王益2封一百戸1、天平九年二月戊午、授2三品1、同八月辛酉三品水主内親王薨、天智天皇之皇女也とある御方である。寢膳不v安とあるのは、御安眠も遊ばされず、御食事も進ませ給はぬをいふ。累日不參は日を重ねて久しく御參内あらせられぬこと。太上天皇は前に元正天皇を先太上天皇と申上げたから、ここは聖武天皇を指し奉つてゐる。新考は侍嬬にのみ歌を召されたのは、女帝の證であつて、元正天皇だといつてゐる。侍嬬は近侍の女官。
 
右件四首(ハ)上總國大掾正六位上大原眞人|今城《イマキ》傳誦(スト)云爾《シカイフ》 年月未詳
 
大原眞人今城は卷八に大原眞人今城傷2惜寧樂故郷1歌一首(一六〇四)とある人。その條參照。上總國大掾になつたことが續紀に見えないのは脱ちたのであらう。天平寶宇元年五月乙卯、正六位上から從五位下になつ(150)てゐるから、今年天平勝寶七歳は丁度ここに記す通り、正六位上であつたわけである。なほ上總は大國だから、大掾一人少掾一人を置いてあつた。ここに年月未詳とあるのは、右の四首の作の年月が審かでないといふのだ。今城が傳誦したのは、ここの記載の順序に從へば、三月と五月との間である。この卷にこの人に關係の歌が多いことに注意したい。
 
上總國朝集使大掾大原眞人今城(ガ)向(ヒシ)v京(ニ)之時、郡司(ノ)妻女等餞(セル)v之(ニ)歌二首
 
朝集使は朝集帳を朝廷に奉る使。謂はゆる四度の使の一。四一一六の題詞參照。朝集使は畿内は十月、七道は十一月に太政官に、參集することになつてゐるから、この歌は昨年上總出發の際のものである。
 
4440 足柄の 八重山越えて いましなば 誰をか君と 見つつ偲ばむ
 
安之我良乃《アシガラノ》 夜敝也麻故要※[氏/一]《ヤヘヤマコエテ》 伊麻之奈波《イマシナバ》 多禮乎可伎美等《タレヲカキミト》 弥都都志奴波牟《ミツツシヌバム》
 
貴方樣ガ〔四字傍線〕幾重ニモ重ナツタ足柄山ヲ越シテ、京ノ方ヘ〔四字傍線〕オイデニナリマシタナラバ、私ドモハ〔四字傍線〕誰ヲ貴方樣ト思ツテ見テ、懷カシク思ヒマセウゾ。貴方樣ノヤウナ御方ハ外ニアりマスマイ。オ別ガ悲シウゴザイマス〔貴方〜傍線〕。
 
○伊麻之奈波《イマシナバ》――いらつしやつたならば。イマスはアルの敬語であるが、ここは行くの意である。
〔評〕 東國人ながら郡司の妻だけあつて、都風の柔かい歌風である。
 
4441 立ちしなふ 君が姿を 忘れずは 世のかぎりにや 戀ひ渡りなむ
 
(151)多知之奈布《タチシナフ》 伎美我須我多乎《キミガスガタヲ》 和須禮受波《ワスレズハ》 與能可藝里爾夜《ヨノカギリニヤ》 故非和多里奈無《コヒワタリナム》
 
私ドモハ貴方樣ニオ別レシマシタ後デ〔私ド〜傍線〕、シナヤカナ美シイ〔三字傍線〕貴方樣ノ御姿ヲ忘レナイデ、私ノ生キテヰル間ハ、何時マデモ貴方樣ヲ〔九字傍線〕戀シク思ヒツヅケルデセウ。
 
○多知之奈布《タチシナフ》――立ち靡ふ。立ちは輕く用ゐてある。卷十二に或本歌云、誰葉野爾立志奈比垂《タガハヌニタチシナヒタル》(二八六三)とある。優しくしなやかなる風姿である。○和須禮受波《ワスレズハ》――忘れないで。忘レズバではない。忘れないならばなどといふべきところでない。○與能可藝里爾夜《ヨノカギリニヤ》――世の限りにや。ヨは齡・命・生涯。
〔評〕 立しなふ君が姿と言はれた都人の優雅な容儀が思はれる。シナフは卷十に率爾今毛欲見秋芽之四搓二將有妹之光儀乎《イササメニイマモミガホシアキハギノシナヒニアラムイモカスガタヲ》(二二八四)とあるやうに、女性的の感じがあるが、東女の眼には、若い都の官吏は、かう見えたであらう。これも都風の作である。
 
五月九日兵部少輔大伴宿禰家持之宅(ニ)集飲(セル)歌四首
 
次の歌どもによると、上總國朝集使大掾大原眞人今城が歸任に際し、家持の宅で送別の宴を催したのである。
 
4442 わがせこが 宿のなでしこ 日並べて 雨は降れども 色も變らず
 
和我勢故我《ワガセコガ》 夜度乃奈弖之故《ヤドノナデシコ》 比奈良倍弖《ヒナラベテ》 安米波布禮杼母《アメハフレドモ》 伊呂毛可波良受《イロモカハラズ》
 
(152)吾ガ友ノ宿ノ庭ニ咲イテヰル〔七字傍線〕瞿麥ノ花〔二字傍線〕ハ、毎日毎日雨ハ降ツテモ、色ハ變リマセヌ。マコトニ美シイ花デス〔十字傍線〕。
 
○比奈良倍弖《ヒナラベテ》――日並べて。日を重ねて。ケナラベテといふ例が多いが、卷八にも足比奇乃山櫻花日並而《アシビキノヤマザクラバナヒナラベテ》(一四二五)とある。
〔評〕 庭前の瞿麥を見て詠んだもの。折からの五月雨に濡れた姿をめでたのである。主人を慕ふ心を添へたと見るのは過ぎてゐる。感興の薄い平板な作である。
 
右一首大原眞人今城
 
4443 久方の 雨は降りしく なでしこが いや初花に 戀しきわがせ
 
比佐可多能《ヒサカタノ》 安米波布里之久《アメハフリシク》 奈弖之故我《ナデシコガ》 伊夜波都波奈爾《イヤハツハナニ》 故非之伎和我勢《コヒシキワガセ》
 
(比佐可多乃)雨ハ盛ニ降ツテヰルガ、ソノ雨ニ濡レテ咲ク〔十字傍線〕瞿麥ノ花〔二字傍線〕ガ、益々新ラシク咲クヤウニ、戀シイ吾ガ友ヨ。
 
○伊夜波都波奈爾《イヤハツハナニ》――彌初花に。花が彌々新らしく咲くやうに。次の句の譬喩となつてゐる。下に和我勢故我夜度能奈弖之故知良米也母伊夜波都波奈爾佐伎波麻須等母《ワガセコガヤドノナデシコチラメヤモイヤハツハナニサキハマストモ》(四四五〇)とあるのと、意は同じくて、用法を異にしてゐる。
〔評〕 前の歌に和したもの。折からの梅雨と、雨中に咲いてゐる瞿麥の花とを材として、客の大原眞人今城に敬意を表してゐる。二三の句の連絡が少し穩やかでない。
 
右一首大伴宿禰家持
 
4444 吾がせこが 宿なる萩の 花咲かむ 秋の夕べは 我を偲ばせ
 
(153)和我世故我《ワガセコガ》 夜度奈流波疑乃《ヤドナルハギノ》 波奈佐可牟《ハナサカム》 安伎能由布弊波《アキノユフベハ》 和禮乎之努波世《ワレヲシヌバセ》
 
アナタノ御宅ノコノ萩ハ秋ニナツタラ〔六字傍線〕咲クデセウガ、ソノ〔三字傍線〕秋ノ夕方ハ私ヲ思ヒ出シテ下サイ。ソノ頃ハ私ハモハヤ都ニハヰナイ筈デスガ、ドウゾ私ヲ思ヒ出シテ下サイ〔ソノ〜傍線〕。
 
○和我世故我《ワガセコガ》――吾が背子は大伴家持を指す。○安伎能由布弊波和禮乎之努波世《アキノユフベハワレヲシヌバセ》――秋には上總の國に歸任してゐる筈だから、秋の夕べには我を想起せといつたのである。
〔評〕 萩の花に對して知人を思ひ起し、なつかしがる意の歌は他にもあるが、これは餞別の宴席で、萩の花咲く頃は、我を思ひ起せと要求してゐるのである。彼は朝集使として昨年十一月以來滯京、今五月に京を出發して任地に赴かうとしてゐるのだ。
 
右一首大原眞人今城
 
即聞(キテ)2※[(貝+貝)/鳥](ノ)哢《サヒヅルヲ》1作(レル)歌一首
 
哢は鳥の吟ふ義。サヘヅルともよむべきであるが、卷七に雜豆臘漢女乎座而《サヒヅラフアヤメヲスヱテ》(一二七三)、卷十六に佐比豆留夜辛碓爾舂《サヒヅルヤカラウスニツキ》(三八八六)とあるから、サヒヅルがよい。
 
4445 うぐひすの 聲は過ぎぬと 思へども しみにしこころ なほ戀ひにけり
 
宇具比須乃《ウグヒスノ》 許惠波須疑奴等《コヱハスギヌト》 於毛倍杼母《オモヘドモ》 之美爾之許己呂《シミニシココロ》 奈保古非爾家里《ナホコヒニケリ》
 
(154)今ハ五月ダカラ〔七字傍線〕鶯ノ鳴ク聲ハ今ハモウ〔四字傍線〕時過ギタト思フケレドモ、春ノ頃ニ心ニ〔六字傍線〕染ミテ懷シイト思ツ〔七字傍線〕タ心ノナラハシ〔五字傍線〕デ、鶯ノ鳴ク聲ヲ今デモ〔九字傍線〕ヤハリ戀シク思ヒマスヨ。アナタガ御歸任ノ後モ相カハラズ、私ハアナタヲ戀シク思フデセウ〔アナタガ〜傍線〕。
 
○許惠波須疑奴等《コヱハスギヌト》――鶯の鳴く聲の時季は過ぎ去つたと。
〔評〕 題詞に即とあるから、今城の歌に對して答へたのである。既に五月の頃ながら鶯が鳴いたので、都に滯在の期間も過ぎて、任國の上總に歸らうとしてゐる今城に譬へて、慕ふこころを詠んでゐる。單なる儀禮的作品といつてよい。
 
右一首大伴宿禰家持
 
古義はこの歌の題詞を除いて、ここに右一首の下に、即聞※[(貝+貝)/鳥]哢作之の六字を補つてゐる。
 
同月十一日、左大臣橘卿宴(スル)2右大弁|丹比國人《タチヒノクニヒト》眞人之宅(ニ)1歌三首
 
左大臣橘卿は橘諸兄。右大辨丹比國人眞人は、卷三に登2筑波岳1丹比眞人國人作歌(三八二)とある人である。天平八年正月從五位下を、十年閏七月民部少輔になつたことが續紀に記されてゐる。右大辨になつた記録は脱ちてゐる。
 
4446 吾が宿に 咲けるなでしこ まひはせむ ゆめ花散るな いやをちに咲け
 
和我夜度爾《ワガヤドニ》 佐家流奈弖之故《サケルナデシコ》 麻比波勢牟《マヒハセム》 由米波奈知流奈《ユメハナチルナ》 伊也乎知爾左家《イヤヲチニサケ》
 
(155)私ノ家ニ咲イテヰル瞿麥ヨ。オマヘニ〔四字傍線〕贈物ヲスルゾ。ダカラ〔三字傍線〕決シテ花ハ散ルナ。サウシテ〔四字傍線〕何時迄モ咲キ變ツテ繰リ返シ咲キナサイ。
 
○麻比波勢牟《マヒハセム》――麻比は幣、賄。卷五に和可家禮婆道行之良士末比波世武《ワカケレバミチユキシラジマヒハセム》(九〇五)とあり、この他にも用例が多い。○伊也乎知爾佐家《イヤヲチニサケ》――ヲチは立歸ること。郭公の行きつもどりつして鳴くを、ヲチカヘリ鳴クといふヲチに同じ。ここは始に立ち歸つて、常に新らしく咲けといふのである。
〔評〕 庭中の瞿麥の花になぞらへて、左大臣橘諸兄を壽いでゐる。これも全く儀禮的である。この歌袖中抄に出てゐる。
 
右一首丹比國人眞人壽(グ)2左大臣(ヲ)1歌
 
4447 まひしつつ 君がおほせる なでしこが 花のみ訪はむ 君ならなくに
 
麻比之都都《マヒシツツ》 伎美我於保世流《キミガオホセル》 奈弖之故我《ナデシコガ》 波奈乃未等波無《ハナノミトハム》 伎美奈良奈久爾《キミナラナクニ》
 
贈物ヲシテ貴方ガ大事ニ〔三字傍線〕育テタ瞿麥ノ花バカリヲ尋ネテ、貴方ヲオ尋ネシナイコトハアリマセヌ。花ハ無クテモ貴方ヲオ尋ネシマス〔花ハ〜傍線〕。
 
○伎美我於保世流《キミガオホセル》――生ほせる。育てた。○伎美奈良奈久爾《キミナラナクニ》――伎美《キミ》とあるよりも和禮《ワレ》とある方が歌意が明瞭となるので、これを和禮《ワレ》の誤とする説がある。集中吾を君に誤記したと認められる歌があるから、これも原歌を假名書式に改書した際に、吾を君と見て、伎美に誤つたのだと考へられないことはない。併しなほ伎美《キミ》としても解し得るから舊本の儘にして置いた。
(156)〔評〕 略解に「上句は花と言はむ序也、花のみとは、はなばなしく實《じつ》のなき事に言へり」とあるが、穩やかでない。併し結句は伎美《キミ》を和禮《ワレ》にする方が穩やかで、改書説も成立し得るのであるが、改書を認めるとしても、これを家持以後と斷定するのは早計である。この問題に關しては、充分慎重なる考慮を要する。
 
右一首左大臣和(ヘ)歌
 
舊本に和の字がないのは脱ちたのであらう。元暦校本・西本願寺本などによつて補つた。
 
4448 紫陽花の 八重咲く如く やつ世にを いませ吾わがせこ 見つつしぬばむ
 
安治佐爲能《アヂサヰノ》 夜敝佐久其等久《ヤヘサクゴトク》 夜都與爾乎《ヤツヨニヲ》 伊麻世和我勢故《イマセワガセコ》 美都都思努波牟《ミツツシヌバム》
 
紫陽花ノ花ガ、幾重ニモ賑ヤカニ〔四字傍線〕咲クヤウニ、貴方ハ幾年モ永ク榮エテ〔五字傍線〕イラツシヤイ。私ハ貴方ヲ〔五字傍線〕見テナツカシク思ツテヰマセウ。
 
○安治佐爲能《アヂサヰノ》――紫陽花の。卷四に不問木尚味狹藍《コトトハヌキスラアヂサヰ》(七七三)とある。○夜都與爾乎《ヤツヨニヲ》――彌つ代にを。卷十八に多知婆奈能登乎能多知婆奈夜都代爾母《タチバナノトヲノタチバナヤツヨニモ》(四〇五八)とあるに同じく、永遠にの意で、ヲは詠歎の助詞である。前句の夜敝佐久《ヤヘサク》を受けて、夜都與《ヤツヨ》と言つたのである。○伊麻世和我勢故《イマセワガセコ》――吾が兄子は主人丹比國人眞人を指す。
〔評〕 紫陽花の花の賑やかに咲くのに譬へて、この家の主人、丹比國人眞人の繁榮を祝福してゐる。折から庭上にこの花が咲いてゐたのである。この歌和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首左大臣寄(スル)2味狹藍花(ニ)1詠也
 
(157)左大臣橘諸兄が、庭前の紫陽花に托して、主人をことほいだ歌だといふのだ。
 
十八日左大臣(ガ)宴(セル)2於兵部卿橘奈良麿朝臣之宅(ニ)1歌三首
 
左大臣橘諸兄がその長男兵部卿奈良麿の家で、宴を催した時の作。
 
4449 なでしこが 花取り持ちて うつらうつら 見まくのほしき 君にもあるかも
 
奈弖之故我《ナデシコガ》 波奈等里母知弖《ハナトリモチテ》 宇都良宇都良《ウツラウツラ》 美麻久能富之伎《ミマクノホシキ》 吉美爾母安流加母《キミニモアルカモ》
 
瞿麥ノ花ヲ手ニ〔二字傍線〕取リ持ツテ、ツクヅクト眺メルヤウニ、ツクヅクト貴方ヲ、見テヰタク思ヒマスヨ。
 
○宇都良宇都良《ウツラウツラ》――代匠記初稿本に、「つらつらにて熟の字なり。第一につらつら椿つらつらにとよめるにおなじ」とある。ツラツラにウを添へたのであらう。略解に「現顯也。今の現に見る如く。いつまでも見まくほしと言ふにて、云々」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 初二句は序詞とする説もあるが、純粹の序詞ではない。庭中の瞿麥を賞翫し、それに譬へて諸兄をことほいだのである。下句は卷四の春日山朝立雲之不居日無見卷之欲寸君毛有鴨《カスガヤマアサタツクモノヰヌヒナクミマクノホシキキミニモアルカモ》(五〇四)と同じ。優雅な作品と言つてよからう。
 
右一首治部卿船王
 
舍人親王の御子。卷六(九九八)に見えたお方である。治部卿になられたことは續紀に見えてゐない。
 
4450 吾がせこが 宿のなでしこ 散らめやも いや初花に 咲きは益すとも
 
(158)和我勢故我《ワガセコガ》 夜度能奈弖之故《ヤドノナデシコ》 知良米也母《チラメヤモ》 伊夜波都波奈爾《イヤハツハナニ》 佐伎波麻須等母《サキハマストモ》
 
貴方ノ御屋敷ノ瞿麥は、益々新ラシク花ガ咲キ加ハルコトハアリマスガ、花ガ散リマセウヤ。決シテ散リハシマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○伊夜波都波奈爾《イヤハツハナニ》――彌初花に。奈弖之故我伊夜波都波奈爾《ナデシコガイヤハツハナニ》(四四四三)とあるに同じ。
〔評〕 この家の瞿麥の花を賞美してゐる如くして、實は主人をことほいでゐるのである。凡作といつてよい。
 
4451 うるはしみ 吾が思ふ君は なでしこが 花になぞへて 見れど飽かぬかも
 
宇流波之美《ウルハシミ》 安我毛布伎美波《アガモフキミハ》 奈弖之故我《ナデシコガ》 波奈爾奈蘇倍弖《ハナニナゾヘテ》 美禮杼安可奴香母《ミレドアカヌカモ》
 
懷カシク私ガ思ツテヰル貴方ハ、コノ御庭ノ〔五字傍線〕瞿麥ノ花ニナゾラヘテ、見テモ見飽キナイデスヨ。益々懷シウゴザイマスヨ〔益々〜傍線〕。
 
○宇流波之美《ウルハシミ》――次の句の毛布《モフ》につづいてゐる。愛《ウルハ》しみは愛《ウルハ》しむといふ動詞で、それに思《モ》ふが添うたのである。古事記中卷の長歌にも、「美知能斯理古波陀袁登賣波阿良蘇波受泥斯久袁斯叙母宇流波志美意母布《ミチノシリコハダヲトメハアラソハズネシクヲシゾモウルハシミオモフ》」とある。○波奈爾奈蘇倍弖《ハナニナゾヘテ》――花になぞらへて。
〔評〕 主人を瞿麥の花になぞらへて見るけれども、なほ飽くことなしといふので、要するに感興の伴はない凡作である。
 
(159)右二首兵部少輔大伴宿禰家持追(ヒテ)作(ル)
 
追作とあるから、その時作らずして後に作り添へたのである。
 
八月十三日|在《イマシテ》2内(ノ)南(ノ)安殿《ヤスミドノニ》1肆宴(ノ)歌二首
 
内(ノ)南(ノ)安殿はウチノミナミノヤスミドノと訓す。安殿に内外、南北の別があつたのであらう。その所在は明らかでない。天武天皇紀に、「十年春正月辛未朔丁丑、天皇御2向小殿1而宴之、是日親王諸王引2入内安殿1、諸臣皆侍2于外安殿1、共置酒以賜樂」とある。この文に就いて、通證に「内安殿疑謂2小安殿1、江次第曰、小安殿(ハ)太極殿後房也、云々」集解に、「按後世大極殿後房謂2小安殿1、凡謂v安、對v正謂v之、謂v内者對v外謂之、時制不v詳、蓋生殿謂2之大極殿1、後房謂2之向小殿1、連2于後房1、又有2内外安殿1也」とある。通釋はこれを斥けて、「此説はいかゞ。安は正に對して云辭にあらず、中略、内は外に對して謂と云るはさる事なり。連2後房1、又有2内外安殿1とあるも、詳には知かたし。按に、古は大極殿大安殿の外なるも、みな安殿と云しにこそ。さて此第一の正殿なるを大安殿といひ、其餘の安殿には、内外向小南の釋をつけて、呼しなるべし。なほ東西の安殿ありしも知がたし。たまたま記し遺《モ》れたりしにもあるべし。されば今にしては、其大凡を知るの外なきなり」と言つてゐる。惟ふに安殿は安見知之《ヤスミシシ》などのヤスミで、安らかに天の下を知ろしめす意であらう。
 
4452 をとめらが 玉裳裾びく この庭に 秋風吹きて 花は散りつつ
 
乎等賣良我《ヲトメラガ》 多麻毛須蘇婢久《タマモスソビク》 許能爾波爾《コノニハニ》 安伎可是不吉弖《アキカゼフキテ》 波奈波知里都々《ハナハチリツツ》
 
(160)少女等ガ美シイ裳ノ裾ヲ曳イテ遊ンデ〔三字傍線〕ヰルコノ庭ニハ、秋風ガ吹イテ花ガ散ツテヰル。
 
○乎等賣良我《ヲトメラガ》――處女等は宴に侍る女官らである。○多麻毛須蘇婢久《タマモスソビク》――玉裳は美しい裳。裾曳くとは庭上を往きつもどりつして、宴に侍る樣である。○波奈声波知里都々《ハナハチリツツ》――花は萩の花を指してゐる。當陸萩の花を熱愛したことは、上來屡々説いた通りで、又散るとあるのは萩にふさはしい。殊に次の歌に、吹き扱き敷けるとあるのは、いよいよさうらしく見える。略解に「此花は秋の千くさの花也」とあるのはよくない。
〔評〕 玉しける禁庭に高貴の方々が居並び給ふ間を、楚々として羅綺にも堪へぬ美人が、往きつもどりつしてゐると、吹く秋風に萩の花が亂れ散るといふ情景は、まことに優麗そのものといつてよい。花は散りつつと結んであるのも、爛熟した萬葉末期の調である。この歌和歌童蒙抄に載せてある。
 
右一首内匠頭兼播磨守正四位下|安宿《アスカベ》王奏之
 
安宿王の傳は、前の伊奈美野乃《イナミヌノ》(四三〇一)の左註に記して置いた。播磨守になつたのは勝寶五年四月、兼内匠頭となつたのは六年九月のことである。ここは本官と兼官とが反對になつてゐる。
 
4453 秋風の 吹き扱き敷ける 花の庭 清き月夜に 見れど飽かぬかも。
 
安吉加是能《アキカゼノ》 布伎古吉之家流《フキコキシケル》 波奈能爾波《ハナノニハ》 伎欲伎都久欲仁《キヨキツクヨニ》 美禮杼安賀奴香母《ミレドアカヌカモ》
 
秋風ガ吹イテ花ヲコキ散ラシテ敷キ並ベタ萩ノ〔二字傍線〕花ノ咲イタ〔三字傍線〕庭ヲ、清イ月夜ニイクラ〔三字傍線〕見テモ見飽カナイヨ。
 
○布伎古吉之家流《フキコキシケル》――吹き扱き敷ける。秋風が吹いて萩の花を烈しく散らすのを、手で扱くやうに見立てて、扱き敷くといつたのである。
〔評〕 群り咲いてゐる花房に對して、扱くといつた例は、梅(一六四四)・藤(四一九三)・馬醉木(四五一二)などにあるが、ここは(161)萩の花について秋風が吹き扱き敷くと言つたのは頗る面白い。しかもそれに清き月を配してゐるので、全く繪のやうである。但し三句の花の庭は調子が窮屈になつてゐる。
 
右一首兵部少輔從五位上大伴宿禰家持 未奏
 
前歌と共に位を記したのは、奏上せむが爲か。
 
十一月二十八日左大臣集2於兵部卿橘奈良麿朝臣(ノ)宅1宴(ノ)歌一首
 
4454 高山の 巖に生ふる 菅の根の ねもころごろに 降り置く白雪
 
高山乃《タカヤマノ》 伊波保爾於布流《イハホニオフル》 須我乃根能《スガノネノ》 祢母許呂其呂爾《ネモコロゴロニ》 布里於久白雪《フリオクシラユキ》
 
(高山乃伊波保爾於布流須我乃根能)丁寧ニ幾重ニモ幾重ニモ〔八字傍線〕降リ積ツタ白雪ダ。
 
○高山乃伊波保爾於布流須我乃根能《タカヤマノイハホニオフルスガノネノ》――高い山の巖に生えた菅の根の。同音を繰返して、四句の禰母許呂《ネモコロ》のネにつづく序詞である。高山をカグヤマと訓んだ例(一三)もあるが、ここは山の名ではないやうだ。○禰母許呂其呂爾《ネモコロゴロニ》――ネモゴロニを重々しくいふ時に、ネモコロゴロニと言ふ。卷十二に、懃懇吾念有良武《ネモコロゴロニワガモヘルラム》(三〇五四)、卷十三に菅根之根毛一伏三向凝呂爾《スガノネノネモコロゴロニ》(三二八四)などとある。ねもころごろに降るとは、丁寧に繰返し頻りに降ることである。略解に「菅のはしぬぎ降雪と多く詠める如く、葉隱れもなくふり入たるを、ねもころに降と言へり。」とあるが、上は全くの序詞で、實景を捉へたのではない。
〔評〕 この日雪が降つたのを愛でたのであらう。名詞止の歌で、直線的に崇重な風格になつてゐる。略解に「あるじを思ふを添へしなるべし」とあるのは考へ過ぎであらう。
 
(162)右一首左大臣作
 
左大臣は橘諸兄。
 
天平元年班田之時(ノ)使葛城王從2山背國1贈る(レル)2薩妙觀命婦等(ノ)所(ニ)1歌一首、副(フ)2芹子|※[果/衣]《ツトニ》1
 
續紀に、天平元年十一月癸己、任2京及畿内(ノ)班田司1とある時のことで、卷三に天平元年己巳攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時判官大伴宿禰三中作歌一首並短歌(四四三)とあるのと同時である。使は長官。葛城王は橘諸兄。葛城王に橘姓の勅許があつたのは、天平八年冬十一月である。薩妙觀命婦は前に薩妙觀應詔奉和歌一首(四四三八)とあるところに述べてある。舊本、薩を※[こざと+經の旁]に作つてゐる。副芹子※[果/衣]は芹の藁苞に添へた歌だといふのだ。
 
4455 あかねさす 晝は田たびて ぬば玉の 夜の暇に 摘める芹これ
 
安可禰佐須《アカネサス》 比流波多多婢弖《ヒルハタタビテ》 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲流乃伊刀末仁《ヨルノイトマニ》 都賣流芹子許禮《ツメルセリコレ》
 
(安可禰佐須)晝間ハ田ヲ班チ與ヘル班田使ノ仕事ヲシ〔九字傍線〕テ、(奴婆多麻乃)夜ノ暇ノ時ニ、摘ンダ芹デスゾ、コレハ。コンナニ辛苦シテ摘ンダノデスカラ、ソノツモリデ召シ上ガレ〔コン〜傍線〕。
 
○安可禰佐須《アカネサス》――枕詞。日とつづくのは赤氣刺《アカゲサス》即ち赤味を帶ぶるの意といはれてゐる。○比流波多多婢弖《ヒルハタタビテ》――晝は田賜びて。晝の間は田を班ち與へて。代匠記精撰本に、欽明天皇紀に於是天皇命2神祇伯1敬受2策《タタマ》於紳義1云々とある策の字をタタマと訓んでゐるから、班田の策《ハカリゴト》を廻らすを、タタヒテと云ふのだらうといつてから、こ(163)れに從ふ説も多い。古義に、「多多婢弖《タタビテ》は策《タタマ》を活動《ハタラカ》し云るにて、班田も事を、色々|策《ハカリ》つとむを云なり。婢《ビ》はそのさまを云(フ)なりと本居氏云る如し。按(フ)に、婢《ビ》は美夜婢《ミヤビ》の婢《ビ》にて、俗にめくといふに近き意なり。されば策《タタマ》めきいそがはしき謂《ヨシ》なり。云々」とあるが、タタマビの約をタタビとすることは無理であらう。又假字遣奧山路によれば、メクの意なるビは荒備《アラビ》の如く備を用ゐ、サビも同じく、神佐備《カムサビ》・遠等※[口+羊]佐備《ヲトメサビ》の如く備であるが、婢は備とは別類の假名であつて、混同しては用ゐられない。だからタタビをタタマビの約とする説は、この點から言つても當らぬやうである。
〔評〕 古へは人に物を贈るのに、辛苦して穫たもののやうに言ひなす例が多い。それが却つて親愛の情をあらはす爲に役立つてゐるやうだ。
 
薩妙觀命婦報(ヘ)贈(レル)歌一首
 
4456 ますらをと 思へるものを 太刀佩きて にはの田井に 芹ぞ摘みける
 
麻須良乎等《マスラヲト》 於毛敝流母能乎《オモヘルモノヲ》 多知波吉弖《タチハキテ》 可爾波乃多爲爾《カニハノタヰニ》 世理曾都美家流《セリゾツミケル》
 
貴方ハ勇マシイ〔七字傍線〕益荒雄ト思ツテヰマシタノニ、太刀ヲ佩キナガラ、樺ノ田井デ私ノ爲ニ〔四字傍線〕芹ヲオ摘ミ下サイマシタヨ。御親切ナオ方デイラツシヤイマス〔御親〜傍線〕。
 
○麻須良乎等於毛敝流母能乎《マスラヲトオモヘルモノヲ》――私は貴方を、勇ましい益荒男と思つてゐたのに。益荒男と思ふとは、代匠記精撰本に、「武勇の才のみにて、かゝる風流の心は、あるべくも思へらざりしにと云意なり」とあり、古義は、「君をばうるさきますら男とのみ思ひ居つるものを」とあるが、武き益荒男と思つてゐたのに、やさしい心の人だといふのである。○可爾波乃多爲爾《カニハノタヰニ》――樺《カニハ》の田井に。樺《カニハ》は延喜雜式に、「凡山城國泉川樺井(ノ)渡瀬者、官長率2東(164)大寺(ノ)工等1、毎年九月上旬造2假橋1、來月三月下旬壞收云々」とあるところで、和名抄に山城國相樂郡蟹幡加無波多、神名帳に、同郡|綺原坐《カムハタノハラニマス》健伊那太比賣神社とあるところ。今、相樂郡棚倉村に、大字|綺田《カバタ》がある。木津川(泉川)の東、井手の玉水の南方に當る。多爲《タヰ》は円居。田のこと。卷九に伏見何田井爾《フシミガタヰニ》(一六九九)とあるに同じ。
〔評〕 健く勇ましい益荒男とのみ思つてゐたのに、太刀を佩いたままで、私の爲に芹を摘み給ふとは、何といふやさしき心ぞと感謝の意を表してゐる。女性らしい、しとやかさがあらはれてゐる。
 
右二首(ハ)左大臣讀(メリト)v之(ヲ)云爾【左大臣是葛城王後賜2橘姓1也】
 
左大臣が右の歌を讀み上げたといふのである。諸兄が天平元年の舊作をこの時披露したのだ。舊本、云爾の下に左大臣是葛城王後賜橘姓也と小字で記入してあるのは、後人のわざであらう。無訓本には無い。
 
天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉二十四日戊申、太上天皇、太后、幸2行《イデマシテ》於河内離宮(ニ)1、經v信(ヲ)以(テ)2壬子(ヲ)1傳2幸(スル)於難波宮(ニ)1也
 
舊本、太上天皇の下に、太皇の二字があるのは衍であらう。元暦校本・温故堂本に無いのに從つて削る。太上天皇は聖武天皇、太后は光明皇后。續紀に、天平勝寶八歳春二月戊申行2幸難波1、是日至2河内國1、御2智識寺南行宮1、己酉、天皇幸2智識山下大里三宅家原鳥坂等六寺1、禮v佛、庚戍、遣2内舍人於六寺1誦v經、襯施有v差、壬子、大雨、賜2河内國諸社祝禰宜等一百十八人正税1、各有v差、是日行至2難波宮1御2東南新宮1、三月甲寅朔、太上天皇幸2堀江(ノ)上1、乙卯、詔免2河内攝津二國田租1、戊午、遣2使攝津國諸寺1誦v經襯施有v差とある記事に略々一致してゐるが、太上天皇と太后とのことが、續紀にないのは脱ちたのであらう。又この集に天皇の二字を脱したか。或は舊本太皇とあるのは、天皇の誤か。經信は數宿を經ての意。古義に、「信は左傳に再宿爲v信とあれば戊(165)申(二十四日)壬子(二十八日)に至るまで、四宿を經給へるなれば、必《キハメテ》經2信信1とあるべきことなり。字彙に、爾雅有v客信、信言四宿也とも見えたり」とあるのは、尤もであるが、蓋しあまりに拘泥した説であらう。信は數宿といふやうな意に用ゐである。舊本は以壬子傳幸於難波宮也を以て終り、次の三月七日以下を別行にしてゐるのを、古義は誤として、直ちに連書してゐる。併し三月七日以下は、題詞として書いたやうになつてゐるから、この儘でよいのであらう。
 
三月七日於2河内國(ノ)伎人(ノ)郷(ノ)馬(ノ)國人之家1宴歌三首
 
三月七日を、古義には疑つて「三月七日は誤なるべし。二月廿四日に河内(ノ)離宮に幸して、同廿八日に難波(ノ)宮に傳り幸したまへれば、廿五日より廿七日までの内に、國人が宅にて飲宴ありしなるべければなり」といつて、三月は同月とあつたのを、傳寫した人が三月と見誤つて書いたので、即ち二月とし、二十七日とあつたのを二十の宇を落し失つたのだらうとしてゐるが、勝手な臆斷である。家持らは難波宮に扈從の間に故あつて、一行と別れて馬國人の家に來たのであらう。伎人郷はクレノサトと訓す。推古天皇紀、天武天皇紀に伎《クレ》樂、職員令義解に伎樂、謂呉樂と見えてゐる。呉人は伎樂に巧であつたから、伎人をクレと訓むことになつた、伎人郷は雄略天皇紀に呉(ノ)坂とある處で、今、住吉の東にある喜連の地、即ち大阪市住吉區|喜連《キレ》町となつてゐる。難波京から道程も遠くない。續紀にも天平勝寶二年五月辛亥、京中驟雨、水潦汎濫、又|伎人《クレ》茨田《マムタ》等堤往々決壞とある。馬史國人は續紀に天平寶字八年十月己丑、從六位上馬※[田+比]登國人授2外從五位下1、神護元年十二月辛卯、右京人外從五位下馬※[田+比]登國人賜2姓武生連1と見える。天平勝寶九歳以來、首・史の姓を改めて※[田+比]登とし、寶龜元年九月、舊に復した。
 
4457 住の吉の 濱松が根の 下延へて 吾が見る小野の 草な刈りそね
 
(166)須美乃江能《スミノエノ》 波麻末都我根乃《ハママツガネノ》 之多婆倍弖《シタバヘテ》 和我見流乎努能《ワガミルヲヌノ》 久佐奈加利曾禰《クサナカリソネ》
 
マタ來テ見ヨウト〔八字傍線〕、(須美乃江能波麻末都我根乃)心ノ中デ考ヘテ置イテ、私ガ今見テヰルコノ伎人ノ郷ノ〔七字傍線〕野ノ草ヲ苅リ取ルナ。コノ佳イ景色ヲ變ヘナイヨウニシテオイテクダサイ〔コノ〜傍線〕。
 
○須美乃江能波麻末都我根乃《スミノエノハママツガネノ》――第三句の下延《シタバヘ》につづく序詞。住吉の濱松の根が、地下に長く延びてゐるのに譬へてゐる。○之多婆倍弖《シタバヘテ》――T延《シタバヘ》は心の中に思ふこと。再び此處に來て遊ばうと思ふ意であらう。○和我見流乎努能《ワガミルヲヌノ》――吾が見る小野とは、伎人郷の野である。國人の邸宅から遙かに眺めやる平地を指すのであらう。略解に住吉のを野としてゐるのは誤つてゐる。
〔評〕 序詞に住吉の光景を用ゐたのは、難波からの往路に經て來たのであらう。四五の句は馬國人の邸宅の眺望を賞する意と、再來を約する意とを兼ねてゐる。
 
右一首兵部少輔大伴宿禰家持
 
4458 鳰鳥の 息長河は 絶えぬとも 君に語らむ 言盡きめやも
 
爾保杼里乃《ニホドリノ》 於吉奈我河波半《オキナガガハハ》 多延奴等母《タエヌトモ》 伎美爾可多良武《キミニカタラム》 己等都奇米也母《コトツキメヤモ》 古新未詳
 
タトヒ〔三字傍線〕(爾保杼里乃)息長川ノ水〔二字傍線〕ハ無クナツテモ、貴方ト話ヲスル言葉ハ盡キマセウヤ。決シテ盡キマセヌゾ〔九字傍線〕。
 
○爾保杼里乃《ニホドリノ》――鳰鳥の。枕詞。鳰即ちカイツブリは、水中に永く潜つてゐて、息が長いから、息長《オキナガ》とつつく。(167)○於吉奈我河波半《オキナガガハハ》――息長川は近江の坂田郡。卷十三に、師名立都久麻左野方息長之遠智能小菅《シナタツツクマサヌカタオキナガノヲチノコスゲ》(三三二三)とあるところの川で、今、天野《テンノ》川、又は箕浦川ともいふ。伊吹の西南、彌高《イヤタカ》・大清水の邊から發して、西南に流れ、長岡・醒井を經て西に折れ、筑摩の北で湖水に入る。長さ凡五里。第一册、四七頁の近江全圖參照。○伎美爾可多良武己等都奇米也母《キミニカタラムコトツキメヤモ》――コトは言とも事とも解せられる。しかし多分、君に語らむ言葉が盡きる時はないといふのであらう。この歌の下に小字で、古新未詳とあるのは古歌か新作かわからぬといふのである。後人の書き添へた註であらう。
〔評〕 息長とは元來長壽を意味する語で、神功皇后の御名を、息長帶比賣《オキナガタラシヒメ》命と申すのも、御命長く足り給ふ意である。だから息長川は名を聞くだに、永遠に流の絶えぬことを連想せしめる。今この川に寄せて、二人の交情の悠久に、相語らふ言葉の盡きる時なきを述べてゐる。調子の整つた優雅な作品である。河内の國にあつて、近江の川名に寄せて詠むのは少し變である。集中既にかうした、未知の名所を詠み込んだとも思はれる作もないではないが、これはどうも戀歌らしく、この場合の馬史國人の作とは考へられない。多分古歌を誦したのであらう。源氏物語の夕顔の卷に「まだしらぬ旅寢に、息長川と契らせ給ふよりほかのことなし」とあるのは、これを引歌としたのであるが、現存の平安朝歌書類に載せてないのは、直接萬葉集から引いたのか、又は古語として民間に行はれでゐたのを、採つたのかもわからない。ともかく平安朝歌人に歡迎せられさうな歌である。
 
右一首主人|散位寮散位《トネノツカサノトネ》馬史國人
 
散作寮散位は西本願寺本に訓してトネノツカサノトネ、温故堂本はトネリツカサノトネとあり、古義は西本願寺本と同じである。散位寮は職員令に、「散位寮、頭一人、掌2散位(ノ)【謂文武散位皆惣掌之也】名帳朝集(ノ)【謂諸國朝集使皆於2此寮1判2其上日1也】事1、助一人、允一人、大屬一人、少屬一人、史生六人、使部廿人、直丁二人」とあるので明らかである(168)が、更に、散位とあるのはどういふ意味であらう。元來散位とは位のみで官職なきものをいふのであるから、散位寮散位では變なものである。何かいはれのあることと思ふが、今明らかでない。
 
4459 蘆苅に 堀江漕ぐなる 楫のおとは 大宮人の 皆聞くまでに
 
蘆苅爾《アシカリニ》 保里江許具奈流《ホリエコグナル》 可治能於等波《カヂノオトハ》 於保美也比等能《オホミヤヒトノ》 未奈伎久麻泥爾《ミナキクマデニ》
 
蘆ヲ苅ル爲ニ難波ノ〔三字傍線〕堀江ヲ漕イデヰル船ノ櫓ノ音ハ、難波ノ御所ニ居ル〔八字傍線〕大宮人ガ皆聞ク程モ高ク響イテヰル〔七字傍線〕。
 
○蘆苅爾《アシカリニ》――蘆を苅る爲に。古義に爾を等の誤とし、「蘆苅とての意なればなり」といつてゐる。○保里江許具奈流《ホリエコグナル》――堀江は難波の堀江。今の天滿川に當るといふ。○未奈伎久麻泥爾《ミナキクマデニ》――皆聞くまでに。高く鳴り響くといふのである。下に言葉を略してゐる。
〔評〕 此處の風景を詠んだのではなく、難波堀江での作である。左註にあるやうに大原眞人今城が、先日他所で誦つたのを、大伴地主が記臆してゐて、この席で、謠ひ上げたのである。卷三の大宮之内二手所聞網引爲跡網子調流海人之呼聲《オホミヤノウチマデキコユアビキストアゴトトノフルアマノヨビコヱ》(二三八)と似た光景であるが、歌はそれよりも著しく劣つてゐる。
 
右一首式部少丞大伴宿禰池主讀(ム)v之(ヲ)、即(チ)云(フ)兵部大丞大原眞人今城、先日他所(ニテ)讀(メル)歌者也
 
池主が式部少丞になつたことは續紀に見えない。この歌は池主がこの席で朗吟したのであるが、先日他所で大原眞人今城が朗吟したものだといふのだ。だからよみ人知らずの歌である。
 
4460 堀江漕ぐ 伊豆手の船の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈早みかも
 
(169)保利江己具《ホリエコグ》 伊豆手乃船乃《イヅテノフネノ》 可治都久米《カヂツクメ》 於等之婆多知奴《オトシバタチヌ》 美乎波也美加母《ミヲハヤミカモ》
 
難波ノ〔三字傍線〕堀江ヲ漕イデヰル伊豆手ノ船ノ、櫓ヲ急ニ動カス音ガ頻リニ聞エテ來ル。アレハ〔三字傍線〕水ノ流ガ早イカラ、骨ヲ折ツテ櫓ヲ押シテヰルノ〔骨ヲ〜傍線〕デアラウカヨ。
 
○伊豆手乃船乃《イヅテノフネノ》――伊豆手乃船《イヅテノフネ》は前に、佐吉母利能保里江己藝豆流伊豆手夫禰《サキモリノホリエコギヅルイヅテブネ》(四三二六)とあつた伊豆手夫禰《イヅテブネ》に同じ。伊豆の國の特殊形式に作つた船であらう。○可治都久米《カヂツクメ》――この句はよくわからない。代匠記初稿本に、「かちつくめは長流が抄に束ねる心なりといへり。今案、豆と須と同韻にて通ずれば、かぢすくめといへるにや。みをのいとはやきを舟に櫓をおほくたてて、おしてさかのぼる心なり。たとへば物よくいふ人のことわりもあきらかならぬことをもて、よくもえいはぬ人のことわりあるを、口よくいひふするを、俗にいひすくむるといふ體なるべし。」とあり、考は「かぢつく間なり。則※[楫+戈]つかふ間をいふなり、米は未の誤り、又言を通す歟」とある。略解の宣長説は、「宣長云、都久米の久は夫の誤にて、都夫米《ツブメ》なるべし。卷十八、かぢのおとの都婆良々々々にと詠めると合せて知べし。つぶらつぶらと鳴るを、つぶめと言ふなるべし。古事記、海水の都夫多都時名を都夫多都御魂と言ふもよし有といへり。」とある。これに對して古義は、「中山巖水云、※[楫+戈]を船のつくへかけて、かなたへ引うごかすを都久牟流《ツクムル》といふべし。さてその※[楫+戈]をつくむるには、きしりて音の高く聞ゆる物なれば、音しば立ぬとはいへるたるべし。十八に※[楫+戈]の音のつばらつばらにとあるも、※[楫+戈]のつくにきしりてなる音なるべし、と云るぞ宜しき。本居氏の説に、久は夫の誤にて、ツブメ〔三字右○〕なり。十八に、かぢのおとのつばらつばらとあると同じく、つぶらつぶらとかぢの水にふるる音なりと云れど、※[楫+戈]の水かく音は、さばかり高く聞ゆる物にはあらざればいかが。水かく音は、少し許り隔りては聞えず、つくにきしりてなる音は遠くも聞ゆるものなり試みて知るべし」とある。新考は都久米を「都可布の誤にあらざるか」と疑つてゐる。以上の諸説いづれも(170)よいとは思はれない。前後の關係から、この句の意を推測するに、楫を頻繁に動かすことらしい。よつて想ふに、ツクメは盡クと云ふ動詞にムを添へて活らかしたものか、又は物をたゆみなく努めることを、ツメルといふのと同意の語か。更に又、後世の言葉に、金銀ヅクメ、などいふ盡クを基とした名詞と同樣のものかとも考へられる。なほ研究を要する。○於等之婆多知奴《オトシバタチヌ》――音屡立ちぬ。音が頻りに立つた。楫を漕ぐ音が急になつて來た。謂はゆるピツチを上げたのである。音が高くなつたのではない。○美乎波也美加母《ミヲハヤミカモ》――水脉が早いからか。水脉《ミヲ》は水の流れる筋。
〔評〕 第三句が少しく難解だが、この歌を袖中抄に載せたのにも同樣になつてゐるから、古語であらう。卷七の作夜深而穿江水手鳴松浦船梶音高之水尾早見鴨《サヨフケテホリエコグナルマツラブネカヂノトタカシミヲハヤミカモ》(一一四三)に似て、少しく劣つてゐる。
 
4461 堀江より 水脉さかのぼる 楫の音の 間なくぞ奈良は 戀しかりける
 
保利江欲利《ホリエヨリ》 美乎左香能保流《ミヲサカノボル》 梶音乃《カヂノオトノ》 麻奈久曾奈良波《マナクゾナラハ》 古非之可利家留《コヒシカリケル》
 
(保里江欲利美乎左可能保流梶乃音乃)絶間モナク私ハ〔二字傍線〕、奈良ノ都ガ戀シイコトヨ。
 
○保里江欲利美乎左可能保流梶乃音乃《ホリエヨリミヲサカノボルカヂノオトノ》――次の句の間無くにつづく序詞。その意は明らかであらう。
〔評〕 所の光景を以て序詞を作つてゐるが、形式的な作で、内容が乏しい。卷十七のこの人の作、香島欲里久麻吉乎左之底許具布禰能可治等流間奈久京師之於母保由《カシマヨリクマキヲサシテコグフネノカヂトルマナクミヤコシオモホユ》(四〇二七)と似てゐる。
 
4462 船競ふ 堀江の川の 水際に 來居つつ鳴くは 都鳥かも
 
布奈藝保布《フナギホフ》 保利江乃可波乃《ホリエノカハノ》 美奈伎波爾《ミナギハニ》 伎爲都都奈久波《キヰツツナクハ》 美夜故杼里香蒙《ミヤコドリカモ》
 
(171)船ヲ競ヒツツ先ヲ爭ツテ漕イデ〔八字傍線〕ヰル難波ノ〔三字傍線〕堀江ノ川ノ水際ニ、來テ居テ鳴クノハ都鳥デアラウカヨ。
 
○布奈藝保布《フナギホフ》――舟競ふ。舟が先を爭つて漕ぐこと。○伎波爾《ミナギハニ》――水際に。水際は汀《ミギハ》。○美夜故杼里香蒙《ミヤコドリカモ》――ミヤコドリは水鳥の一種。體の長さ一尺二三寸許、頭及び背面は黒く、腹は白い。伊勢物語に「白き鳥の嘴と脚と赤き鴫の大さなる、水の上にあそぴつつ魚を食ふ」とあるやうに、嘴と脚とは赤くて長い。都鳥と記されるが、もとより都に關係はない。ミヤは鳴く聲。子鳥は呼子鳥、鵺子鳥などの子鳥であらう。香蒙《カモ》は疑問のカに詠歎のモを添へたのである。なほ、古義に「吾が戀しく思ふ都の名負る都鳥か。さてもめづらしや」とあるのは誤解だ。
〔評〕 目に見えるところを其の儘にスケツチしたものだが、しかも自己の主觀もあらはれて、すがすがしい感じの作品である。藝術價はかなりに高い。
 
右三首江邊(ニテ)作(ル)v之(ヲ)
 
この三首は場所のみを記して、時日と作者とを記さない。前に引いた續紀の文に、三月甲寅朔、太上天皇幸2堀江上1とあるのを、この時とすれば、三月朔の三字脱漏と考へられないこともないが、それは根據のない想像に過ぎない。前に三月七日とあるから、その以後でなければならぬ。卷十九は作者の名を記さないものは、皆大伴家持の作となつてゐるが、この卷はそれと同一に律するわけには行かないけれども、この三首はやはり家持の作らしい。
 
4463 ほととぎす まづ鳴く朝け いかにせば わが門過ぎじ 語りつぐまで
 
保等登藝須《ホトトギス》 麻豆奈久安佐氣《マヅナクアサケ》 伊可爾世婆《イカニセバ》 和我加度須疑自《ワガカドスギジ》 可多(172)利都具麻※[泥/土]《カタリツグマデ》
 
郭公ガ今年ニナツテ〔六字傍線〕初メテ鳴ク今朝ハ、珍シクモアリ嬉シクモアリ、コレヲ皆ニ〔珍シ〜傍線〕知ラセ傳ヘテヤリタイガ、ソレ〔八字傍線〕マデ、ドウシタラ郭公ハ〔三字傍線〕吾ガ家ノ〔二字傍線〕門ヲ、過ギ去ツテシマハナイデアラウカ。ドウカシテ留メテ置キタイモノダガ〔ドウ〜傍線〕。
 
○麻豆奈久安佐氣《マヅナクアサケ》――先づといつたのは初めて鳴いたからである。○和我加度須疑自《ワガカドスギジ》――上の、如何にせばを受けて、どうしたら吾が門を過ぎ去るまいかといふのである。○可多利都具麻※[泥/土]《カタリヅグマデ》――語り繼ぐまで。人に知らせ傳へるまでの意。ツグは告ぐではなくて、繼ぐである。
〔評〕 難波から歸宅後の作であらう。三月の下旬に早くも郭公が鳴いたのを喜んで、どうかして人々に告げ知らせて、皆が寄り集まつて聽くまで、吾が門を過ぎ去るなかれと言ふのである。過ぎじが少し穩やかでないやうだ。
 
4464 ほととぎす かけつつ君が 松蔭に 紐解き放くる 月近づきぬ
 
保等登藝須《ホトトギス》 可氣都都伎美我《カケツツキミガ》 麻都可氣爾《マツカゲニ》 比毛等伎佐久流《ヒモトキサクル》 都奇知可都伎奴《ツキチカヅキヌ》
 
郭公ノ鳴ク聲ヲ戀シク〔八字傍線〕心ニ思ヒツツ、貴方ガ郭公ヲ待ツテ〔六字傍線〕、松ノ木陰デ紐ヲ解キ故ツテ、クツロイデ遊ブ〔七字傍線〕月ガ近クナツテ來タ。
 
○可氣都都伎美我《カケツツキミガ》――郭公を心にかけつつ君が待つと下につづいてゐる。古義に、我《ガ》を乎《ヲ》の誤とし、君をば松にかかる枕詞式の無意味の語としてゐるが、君松樹《キミマツノキ》(三〇四一)などとは異なつてゐる。代匠記精撰本(173)に、「かけつつとは郭公と我となり」とあるけれども、これは兼ねる意ではなく、かけまくも畏しなどの、カケで、心に思ふことでであらう。又同書に「君とは妻なり」とあるが、妻とのみも斷じ難い。只、彼の知己としておくべきであらう。○麻都可氣爾《マツカゲニ》――待つと松とをかけてゐる。このかけ言葉の用法は全く平安朝式になつてゐる。○比毛等伎佐久流《ヒモトキサクル》――紐解き放くる。「松陰に納凉すべき時は近く成ぬと言也」と略解にあり、古義も同樣であるが、郭公の鳴く頃は納凉には早い。くつろいで遊ぶ意とすべきであらう。
〔評〕 君がとあるから、妻か知人に送つたのであらう。難波での作とする説が多いけれども、前の歌の吾が門は、離宮に陪從しての言葉としては受取れぬ。歸宅後の作で、人に贈らむが爲の歌であらう。平庸な作。
 
右二首二十日大伴宿禰家持依(リテ)v興(ニ)作(ル)v之(ヲ)
 
二十日とあるは三月二十日である。
 
喩(ス)v族(ニ)》歌一首并短歌
 
喩は玉篇に曉《サトス》とある、
 
4465 久方の 天の戸開き 高千穗の 嶽に天降りし すめろぎの 神の御代より 梔弓を 手握り持たし 眞鹿兒矢を 手挾み添へて 大久米の ますら武雄を 先に立て 靱取り負せ 山河を 磐根さくみて 履みとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ まつろへぬ 人をも和し 掃き清め 仕へまつりて 秋津島 大和の國の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける すめろぎの 天の日嗣と つぎて來る 君の御代御代 隱さはぬ あかき心を すめらべに 極め盡して 仕へ來る 祖のつかさと 言立てて 授け給へる うみの子の いや繼ぎ繼ぎに 見る人の 語りつぎてて 聞く人の かがみにせむを あたらしき 清きその名ぞ おほろかに 心思ひて むなごとも 祖の名斷つな 大伴の 氏と名に負へる ますら男のとも
 
比左加多能《ヒサカタノ》 安麻能刀比良伎《アマノトヒラキ》 多可知保乃《タカチホノ》 多氣爾阿毛理之《タケニアモリシ》 須賣呂伎能《スメロギノ》 可未能御代欲利《カミノミヨヨリ》 波自由美乎《ハジユミヲ》 多尓藝利母多之《タニギリモタシ》 麻可胡也乎《マカゴヤヲ》 多婆左美蘇倍弖《タバサミソヘテ》 於保久米能《オホクメノ》 麻須良多祁乎乎《マスラタケヲヲ》 佐吉爾多弖《サキニタテ》 由伎登利於保世《ユギトリオホセ》 山河乎《ヤマカハヲ》 伊波禰左久美弖《イハネサクミテ》 布美等保利《フミトホリ》 久爾麻藝(174)之都都《クニマギシツツ》 知波夜夫流《チハヤブル》 神乎許等牟氣《カミヲコトムケ》 麻都呂倍奴《マツロヘヌ》 比等乎母夜波之《ヒトヲモヤハシ》 波吉伎欲米《ハキキヨメ》 都可倍麻都里弖《ツカヘマツリテ》 安吉豆之萬《アキヅシマ》 夜萬登能久爾乃《ヤマトノクニノ》 可之波良能《カシハラノ》 宇祢備乃宮爾《ウネビノミヤニ》 美也婆之良《ミヤバシラ》 布刀之利多弖※[氏/一]《フトシリタテテ》 安米能之多《アメノシタ》 之良志賣之祁流《シラシメシケル》 須賣呂伎能《スメロギノ》 安麻能日繼等《アマノヒツギト》 都藝弖久流《ツギテクル》 伎美能御代御代《キミノミヨミヨ》 加久左波奴《カクサハヌ》 安加吉許己呂乎《アカキココロヲ》 須賣良弊爾《スメラベニ》 伎波米都久之弖《キハメツクシテ》 都加倍久流《ツカヘクル》 於夜能都可佐等《オヤノツカサト》 許等太弖※[氏/一]《コトタテテ》 佐豆氣多麻敝流《サヅケタマヘル》 宇美乃古能《ウミノコノ》 伊也都岐都岐爾《イヤツギツギニ》 美流比等乃《ミルヒトノ》 可多里都藝弖※[氏/一]《カタリツギテテ》 伎久比等能《キクヒトノ》 可我見爾世武乎《カガミニセムヲ》 安多良之伎《アタラシキ》 吉用伎曾乃名曾《キヨキソノナゾ》 於煩呂加爾《オホロカニ》 己許呂於母比弖《ココロオモヒテ》 牟奈許等母《ムナゴトモ》 於夜乃名多都奈《オヤノナタツナ》 大伴乃《オホトモノ》 宇治等名爾於敝流《ウヂトナニオヘル》 麻須良乎能等母《マスラヲノトモ》
 
(比佐加多能)天ノ岩戸ヲ開イテ、高千穂ノ山ニ天降ツタ瓊々杵尊ト申ス〔七字傍線〕皇孫ノ神樣ノ御代カラ、大伴氏ノ先祖ノ天忍日命ガ〔大伴〜傍線〕梔弓ヲ手ニ握リ持給ヒ、眞鹿兒矢ヲ手ニ挟ンデ、添ヘテ持ツテ、大來目部ノ勇マシイ軍兵ヲ先ニ立テ、靱ヲ取ツテ背ニ負ハセ、山ヤ川ヲ岩根ヲ踏ミ破ツテ通ツテ、何處カ良イ國ハナイカト國〔何處〜傍線〕ヲ求メテ歩イテ惡イ亂暴ナ神ヲ歸服セシメ、從ハザル人ヲモ柔順ナラシメ、カヤウニシテ惡者共ヲ退治シテ國内ヲ〔カヤ〜傍線〕掃除シテ、卿仕ヘ申シ、又後ニハ〔四字傍線〕(安吾豆之萬大和ノ國ノ橿原ノ畝傍ノ宮ニ、宮ノ柱ヲ太ク構ヘテ大キイ御殿ヲ建テ〔八字傍線〕、天(175)下ヲ御支配ニナツタ神武〔二字傍線〕天皇樣ノ御後嗣ノ天皇トシテ、皇位ヲ〔三字傍線〕繼承アソバシテオイデニナツタ、御歴代ノ〔四字傍線〕天皇ノ御代ニ、後暗イ事ノナイ、公明正大ナル心ヲ天子樣ノ御側デ、有ラム限ヲ盡シテ、御奉公申シ上ゲテ來ル、先祖カラノ役目デアルト、格別ニ他トハ區別ヲ立テ、ソノ職ヲ授ケ給ウタ大伴氏ノ〔四字傍線〕子々孫々ノ者ガ、順々ニソレヲ承ケ繼イデ立派ニ忠義ヲ盡ジテ〔ソレ〜傍線〕、ソレヲ見ル人ガソノ事ヲ〔四字傍線〕語リ傳ヘ、聞ク人ガソレヲ〔三字傍線〕手本トスルデアラウノニ。大伴氏ノ家名ハ、汚スニハ〔大伴〜傍線〕惜シイ清イソノ名デアルゾ。ダカラ〔三字傍線〕オロソカニ思ツテ、タトヒ〔三字傍線〕嘘言ニデモ先祖カラノ良イ名ヲ絶ヤスナヨ。大伴氏ト云フ立派ナ〔五字傍線〕名ヲ持ツテヰル益荒男ノ輩ヨ。
 
○安麻能刀比良伎《アマノトヒラキ》――天の戸開き。神代紀の一書に、高皇産靈尊以2眞床覆衾1、※[果/衣]2天津彦國光彦火瓊々杵尊1、則引2開天磐戸1、排2分天八重雲1以奉降之云々とある傳によつたのであらう。○多可知保乃多氣爾阿毛理之《タカチホノタケニアモリシ》――高千穗の嶽に天降りし。高千穗の嶽に天降つた。この句は、古事記に、故《カレ》爾《ココニ》詔2天津日子番能邇邇藝命《アマツヒコホノニニギノミコト》1而離2天之石位1押2分天之八重多那雲1而伊都能知和岐知和岐弖於2天浮橋1宇岐士摩理蘇理多多斯弖天2降坐于竺紫日向之高千穂之久士布流多氣《アマノイハクラヲハナレアメノヤヘタナグモヲオシオワケテイツノチワキチワキテアメノウキハシニウキジマリソソリタタシテツクシノヒムカノタカチホノクシフルタケニアモリマシキ》1、書紀に、皇孫乃離2天磐座1且排2分天八重雲1、稜威之道別而、天2降於日向襲之高千穗峰1矣、とあり、即ち日向大隅の境に聳ゆる霧島とせられてゐる。この山は二峯に分れ、東を高千穗といひ、西を韓國嶽と稱してゐる。然るに、日向風土記には、臼杵郡千鋪郷、天津彦火瓊々杵尊、離2天磐座1、排2天八重雲1、稜戚之道別道別而天2降於日向之高千穗二上峯1時、天暗冥畫夜不v別、人物失v遣、物色難v別、於茲有2土蜘蛛1、名曰2大鉗小鉗1二人奏2言皇孫尊1、以2尊御手1拔2稻千穗1爲v籾、投2散四方1、必得2開晴1、于v如2大鉗等所奏1、千穗稻爲v籾投散、即天開晴日月照光、因曰2高千穗二上峯1後人改號2智鋪1、とある。この千鋪の郷は、和名抄に、臼杵郡智保郷とあるところで、今の西臼杵郡高千穗村三田井附近である。五箇瀬川の上流で肥後國境に近く、九州の丁度中央部に當つてゐる。この二傳のいづれに憑るべきかは困難な間題であるが、普通には霧島山と考へられてゐるやうだ。阿毛理《アモリ》は天降《アマオリ》の約。天降《アマクダ》りに同じ。○須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロギノカミノミヨヨリ》――スメロギノ(176)カミは皇《スメロギ》といふ神、乃ち皇孫瓊々杵尊を指し奉る。○波自由美乎《ハジユミヲ》――梔弓は古事記に、故爾天忍日命《コレココニアメノアメノオシヒノミコト》、
天津久命二人《アマツクメノミコトフタリ》取2負天之石靱1《アメノイハユギヲトリオヒ》、取2佩頭推之大刀1《クブヅチノタチヲトリハキ》取2持天之波士弓1《アメノハジユミヲトリモチ》手2挾天之眞鹿兒矢1《アメノマカゴヤヲタバサミ》立2御前1而仕奉《ミサキニタタシテツカヘマツリキ》、とあり、書紀には手捉2天梔弓天羽羽矢1とあり、梔此云2波茸1音之移反と註してある。梔は即ち櫨で、俗にハゼノキと稱するもの。漆樹科漆屬の落葉木で、幹の高さ二三丈に達し、輩は羽状複葉、光澤ある披針形の小葉から成り、小葉は殆ど無柄の全邊葉である。秋紅葉して美觀を呈する。花は淡黄緑色の小花で目立たないが、果實は扁平で堅く、小形のものが密集してゐる。これから蝋を採る。吾が國南部の暖地に多く自生してゐる。材は少しく黄色を帶び強靱であつて、古昔から弓を作るに用ゐた。今日使用せられてゐる弓の大部分は、この木と竹とを貼り合せたものである。古事記には一に天麻迦弓とも記されてゐる。眞鹿兒弓は鹿を射る弓の義。○多爾藝利母多之《タニギリモタシ》――手握り持たし。手に握つてお持ちになり。○麻可胡也乎《マカゴヤヲ》――右に引いた古事記の文にある通り眞鹿兒矢即ち鹿を射る矢である。古事記に天之加久矢《アメノカクヤ》と記したところもある。又天羽羽矢とあるのも同じである。○多波左美蘇倍弖《タバサミソヘテ》――手挾み添へて。手の指に挾んで持ち添へて。○於保久米能(177)麻須良多祁乎乎《オホクメノマスラタケヲヲ》――大久米の益荒健男は大久米部の兵士。右に引いた古事記の文に天忍日命と天津久米命とが、天孫降臨の前導として奉仕したとあり、天忍日命は大伴連の祖、天津久米命は久米直の祖と記されてゐる。天忍日命は當時の近衛兵、即ち久米部の統帥者であつたから、家持は先づその祖先の勲功を擧げたのである。卷十八にも大伴能遠都神祖乃其名乎婆大久來目主登於比母知弖《オホトモノトホツカムオヤノソノナヲバオホクメヌシトオヒモチテ》(四〇九四)とある。○由伎登利於保世《ユギトリオホセ》――靱を取り負はしめ。靱は矢を入れて背に負ふもの。大伴氏の遠祖天忍日命が、天(ノ)磐靱を負うて天孫に奉仕したことは神代紀に見えてゐる。卷三の大伴之名負靱帶而《オホトモノナニオフユギオビテ》(四八〇)參照。○伊波禰左久美弖《イハネサクミチ》――岩根を踏み裂いて、踏破して。卷二の石根左久見手《イハネサクミテ》(二一〇)參照。○久爾麻藝之都都《クニマギシツツ》――國を求めて捜しつつ。神代紀に膂宍之空國《ソジシノムナクニ》(ヲ)自《カラ》2頓丘《ヒタヲ》1覓《マギ》v國《クニ》行去《トホリ》【頓丘、此云2※[田+比]陀烏1、覓國、此云2矩貳磨儀、行去此云2騰褒屡1】とある。○知波夜夫流《チハヤブル》――いち早ぶる。荒ぶる。○神乎許等牟氣《カミヲコトムケ》――コトムケは事向け。服從せしめる。○麻都呂倍奴《マツロヘヌ》――マツロフは從ふ。卷二(一九九)に不奉仕をマツロハヌとよんである。ここはマツロハヌとありさうなところである。倍は波の誤か。字音辨證に「倍をハと呼は漢原音ハイの省呼也」とあるのは從ひ難い。○比等乎母夜波之《ヒトヲモヤハシ》――人をも從順ならしめ。卷二に人呼和爲跡《ヒトヲヤハセト》(一九九)とある。○波吉伎欲米《ハキキヨメ》――掃き清め。國内の邪惡なるものを平定するをいふ。○都可倍麻都里弖《ツカヘマツリテ》――仕へ奉りて。以上天孫降臨より神武天皇に至るまでの、大伴氏の祖先の武勲を述べてゐる。○安吾豆之萬《アキツシマ》――枕詞。大和に冠することは卷一の蜻島《アキツシマ》(二)參照。○美也婆之良布刀之利多弖※[氏/一]《ミヤバシラフトシリタテテ》――宮柱太知り立てて。フトシリはフトシキに同じく、太く構へること。卷一に宮柱太敷座波《ミヤバシラフトシキマセバ》(三六)とある。○須倍呂伎能《スメロギノ》――天皇の。神武天皇を指し奉る。○安麻能日繼等《アマノヒヅギト》――天の日繼として。天の日繼は天つ日繼に同じ、卷十八の安麻能日繼登《アマノヒツギト》(四〇八九)參照。○都藝弖久流《ツギテクル》――繼ぎて來る。古義はツギテを名詞と見て、「次來《ツギテク》たり。次第《ツギテ》の隨《ママ》に繼(ギ)來るよしなり。云々」とあるが、ここには當らぬやうだ。○加久佐波奴《カクサハヌ》――隱さはぬ。隱さぬに同じ。人に對して隱蔽せねばならぬやうな後暗きことのなきをいふ。○安加吉許己呂乎《アカキココロヲ》――(178)アカキココロは明き心。古事記に然者汝心之清明何以知《シカラバミマシノココロノアカキコトハイカニシテシラマシ》、又、我心清明故我所生之得手弱女《アガココロアカキユヱニアガウメリシミコタワヤメヲエツ》など清明の二字をアカキと訓んであるやうに、清く明らかなる心即ち曇りなき公明正大なる心である。書紀には赤心・丹心などの文字を用ゐてあるが、赤心・丹心は至誠の心であるから、嚴格にいへば清明心とは少しく異にする點があるのである。○須賣良弊爾《スメラベニ》――天皇のお側に。卷十八の大皇乃弊爾許曾死米《オホキミノヘニコソシナメ》(四〇九四)の大皇乃弊《オホキミノヘ》に同じ。○都加倍久流《ツカヘクル》――上からのつづきでは仕へ來しと言ふべきであらうが、啻に過去の事實として取扱ふことを避け、現在未來に通ずるものとして、特に現在法を用ゐたのであらう。○於夜能都可佐等《オヤノツカサト》――先祖の官職なりとて。
ここは大伴氏の祖先以來歴代の勲功を誇つたのである。○許等太弖底《コトタテテ》――コトタテは異立。殊に誓言を立てて。卷十八の可敝里見波勢自等許等太弖《カヘリミハセジトコトダテ》(四〇九四)參照。○宇美乃古能《ウミノコノ》――生みの子の。子孫の。○可多里都藝弖※[氏/一]《カタリツギテテ》――代匠記精撰本に、テテはツツに同じか又は弖※[氏/一]は豆豆《ツツ》の誤だらうといつてゐる。略解にはツギデテと訓み「かたりつぎでては語次《カタリツイデ》でと言ふ也」とあり、古義は、「語次而《カタリツギテ》なり。次第々々に語り繼ての意なり。次第《ツギテ》を都藝※[氏/一]々《ツギテテ》と用《ハタラ》かしいふは掟を於伎※[氏/一]々《オキテテ》といふに同格なり。」といつてゐる。新考には「弖※[氏/一]は弖婆の誤ならむ。カタリツギテバは語り繼ギタラバ(179)にて、カタリツギテバ鏡ニセムと照應したるなり」と見えてゐる。考へ方によつて種々に見られるが、語リ繼ギテに更にテを添へたもので、契沖の言つたやうにツツと同意とすべきではあるまいか。○可我見爾世武乎《カガミニセムヲ》――鑑にせむを。手本とするであらうのに。ヲはヨに同じとも考へられるが、なほ、モノヲの意に解して置かう。○安多良之伎《アタラシキ》――あたら惜しい。汚すには惜しい。○於煩呂加爾《オホロカニ》――疎かに。○牟奈許等母《ムナコトモ》――空言も。嘘にも。左註によつて、讒言になりともと解するのは當らない。○於夜乃名多都奈《オヤノナタツナ》――先祖の美名を絶やすな。卷十八に、人子者祖名不絶《ヒトノコハオヤノナタタズ》(四〇九四)とある。○大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母《オホトモノウヂトナニオヘルマスラヲノトモ》――大伴氏と名のつてゐる益荒男の輩よ。大伴氏一族のものに、呼びかけた言葉。
〔評〕 家持の長歌の作品中では、卷十八の賀陸奥國出金詔書歌(四〇九四)と共に出色のものであらう。彼はその同族の一人たる、出雲守大伴古慈悲宿禰が、讒に遭つて任を解かれた時に當つて、大伴氏の凋落せむとするを憂ひて、先祖以來傳へ來つた勇名を説いて、一族の人たちを激勵したものである。歌中に祝詞・古事記・書紀などと一致した句が所々用ゐられてゐるのは、必ずしもそれらによつたのではなく、大伴氏文などから採つたのかも知れない。その爲多少散文的の感がないでもないが、彼が常に試みる花鳥風月の作とは違つて、格調の力強さがある。獨、大伴氏一族のみらなず、上代國民の忠君崇祖の念があらはれた代表的作品である。
 
4466 しきしまの 倭の國に あきらけき 名に負ふ伴のを こころつとめよ
 
之奇志麻乃《シキシマノ》 夜未等能久爾々《ヤマトノクニニ》 安伎良氣伎《アキラケキ》 名爾於布等毛能乎《ナニオフトモノヲ》 己許呂都刀米與《ココロツトメヨ》
 
(之奇志麻乃)日本ノ國デ格別立派ナ部族トシテ〔格別〜傍線〕、公明正大ナル名ヲ持ツテヰル大伴氏ノ〔四字傍線〕輩ノ長ヨ。心ヲ激マシテ朝廷ニ忠義ヲ盡〔シテ〜傍線〕セヨ。
 
○之奇志麻乃《シキシマノ》――枕詞。礒城島のある大和國とつづく。崇神天皇の皇居が礒城の瑞籬宮にあつたからである。(180)○夜末等能久爾々《ヤマトノクニニ》――この夜末等《ヤマト》は日本の總稱。○安伎良氣伎《アキラケキ》――明らけき。清明なる。○名爾於布等毛能乎《ナニオフトモノヲ》――名に負ふ伴の緒。名を持つてゐる部族の長。於布等毛《オフトモ》に大伴を懸けてゐるのではない。
〔評〕 自己の氏族に對する自負の念を述べて、一族の自重心を刺激し、發憤を要求してゐる。調子が崇重で雄勁である。
 
4467 劍太刀 いよよ研ぐべし 古ゆ さやけく負ひて 來にしその名ぞ
 
都流藝多知《ツルギタチ》 伊與餘刀具倍之《イヨヨトグベシ》 伊爾之敝由《イニシヘユ》 佐夜氣久於比弖《サヤケクオヒテ》 伎爾之曾乃名曾《キニシソノナゾ》
 
劔太刀ヲ愈々研グベキデアルゾ。大伴氏トイフ家ハ〔八字傍線〕、昔カラ武士ノ家トシテ〔七字傍線〕、清イ有名ナ評判ヲ持ツテ傳ヘテ來タ名譽アル家〔四字傍線〕ダゾ。ソノツモリデ、武事ヲ勵メ〔ソノ〜傍線〕。
 
○都流藝多知《ヅルギタチ》――劔の太刀。從來これを麿《ト》ぐにつづく枕詞とする説が多いが、劔の太刀を磨ぐべしといふ意であるから枕詞ではない。○伊與餘刀具倍之《イヨヨトグベシ》――彌々研ぐべし。益々武事を勵めといふのである。古義は初句を枕詞として、この句を、「彌益精神を研で忠勤を勵ませよ。」新考も同じく枕詞として、「イヨヨトグベシは家名ヲ磨グベシといへるなり」とあるが、從ひ難い。○佐夜氣久於比弖《サヤケクオヒテ》――清けく負ひて、清く明らかに負うて。汚れのない佳名を持つての意。略解に、「名高く明らかに聞え來しと言ふ也」とあるは、少しく當らない。
〔評〕 前の歌より以上に勇ましく、力強く出來てゐる。懦夫をして起たしめるの慨がある。
 
右縁(リテ)2淡海眞人三船(ガ)讒言(ニ)1、出雲守大伴古慈悲宿禰解(カル)任(ヲ)是(ヲ)以(テ)家持作(レリ)2此歌(ヲ)1也
 
(181)淡海眞人三船は續紀によれば、勝寶三年正月辛亥に、無位御船王に淡海眞人の姓を賜ふことが見えるのを初とし、延暦四年七月庚戌に卒するまで屡々見えてゐる。卒去の條の記事に「刑部卿從四位下兼因幡守淡海眞人三船卒、三船大友親王之曾孫也、祖葛野王正四位上式部卿、父池邊王從五位上内匠頭、三船性識聰敏、渉2覽群書1、尤好2華札1、寳字元年、賜2姓淡海眞人1、起v家、拜2式部少丞1、累遷寳字中授2從五位下1歴2式部少輔參河美作守1、八年、被v宛2造池使1、徃2近江國1、修2造陂池1、時惠美仲麻呂、適v自2宇治1、走據2近江1、先遣2使者1調2發兵馬1、三船在2勢多1、與2使判官佐伯宿禰三野1共捉2縛賊使及同惡之徒1、尋將軍日下部宿禰子麻呂、佐伯宿禰伊達等、率2數百騎1而至、燒2斷勢多橋1、以故賊不v得v渡v江、奔2高島郡1、以v功授2正五位上勳三等1、除2近江介1遷2中務大輔兼侍從1、尋補2東山道巡察使1出而採2訪事1、竟復奏、昇降不v慥、頗乖2朝旨1、有v勅譴責之、出爲2大宰少貳1、遷2刑部大輔1歴2大判事大學頭兼文章博士1、寳龜末授2從四位下1、拜2刑部卿兼因幡守1、卒時年六十四」と見えてゐる。この註には、出雲守大伴古慈悲宿禰が、三船の讒によつて任を解かれたとあるが、續紀には、勝寶八年五月癸亥出雲國守從四位上大伴宿禰古慈斐、内竪淡海眞人三船、坐d誹謗2朝廷1無c人臣之禮u、禁2於左右衛士府1、丙寅詔並放免と記してあつて、著しく傳を異にしてゐる。蓋し三船も古慈悲を讒したことが因をなして、共に罪せられたのである。大伴古慈悲の傳は、卷十九に閏三月於2衛門督大伴古慈悲宿禰家1云々(四二六二)とあるところに、記して置いた。
 
臥(シテ)v病(ニ)悲(シミ)2無常(ヲ)1欲(リシテ)2修道(ヲ)1作(レル)歌二首
 
修道は欽明天皇紀十六年に、百濟(ノ)餘昌謂2臣等1曰、少子今願奉2爲考王1出家修道とある。
 
4468 うつせみは 數なき身なり 山川の 清《さや》けき見つつ 道を尋ねな
 
宇都世美波《ウツセミハ》 加受奈吉身奈利《カズナキミナリ》 夜麻加波乃《ヤマカハノ》 佐夜氣吉見都都《サヤケキミツツ》 美知乎多豆禰奈《ミチヲタヅネナ》
 
(182)人間ノ身體ハ壽命ノ短カイ者ダ。コンナ無常ナ世ニ煩悩ニ囚ハレテヰルヨリハ、塵ノ世ヲ離レテ〔コン〜傍線〕、山ヤ川ノ清イ景色ヲ見ナガラ、佛道ヲ修メタイモノダ。
 
○宇都世美波《ウツセミハ》――現身は。人の身は。○加受奈吉身奈利《カズナキミナリ》――數無き身とは、年の數即ち年壽の幾程も無き意である。卷七に世間波加受奈吉物能可《ヨノナカハカズナキモノカ》(三九六三)、餘乃奈加波可受奈枳毛能曾《ヨノナカハカズナキモノゾ》(三九七三)とある。○夜麻加波乃佐夜氣吉見都都《ヤマカハノサヤケキミツツ》――山や川の佳い景色を見ながら。出家して、入寰を離れる樣を言つてゐる。代匠記初稿本に「山川のさやけきみつつとは、本性清淨の理に主とへたり」とあるのは過ぎてゐる。夜麻加波《ヤマカハ》はヤマガハと濁つてはいけない。○美知乎多豆禰奈《ミチヲタヅネナ》――道は佛道。道を尋ねるとは即ち修道すること。ナは希望の助詞。
〔評〕 感傷的性格の持主で、謂はゆる氣の弱い男であつたらしい家持は、病に臥しては忽ち心細くなつて、無常觀を起したと見える。卷十七にも、病の床で、世間波加受奈吉物能可春花乃知里能麻可比爾思奴倍吉於母倍婆《ヨノナカハカズナキモノカハルハナノチリノマガヒニシヌベキオモヘバ》(三九六三)と詠んだ。その後兎角大伴氏の勢力が、振はないのを氣に病んだ彼は、偶々病を得てこんな歌を作る氣分になつたのである。
 
4469 渡る日の かげにきほひて 尋ねてな 清きその道 またも遇はむ爲
 
和多流日能《ワタルヒノ》 加氣爾伎保比弖《カゲニキホヒテ》 多豆禰弖奈《タヅネテナ》 伎欲吉曾能美知《キヨキソノミチ》 末多母安波無多米《マタモアハムタメ》
 
清イ佛ノ〔二字傍線〕道ニ再ビ生レ更ツテ後ノ世デ〔再ビ〜傍線〕、逢フコトガ出來ル〔六字傍線〕爲ニ、光陰ヲ惜ンデ修業ヲシヨウ。
 
○和多流日能加氣爾伎保比弖《ワタルヒノカゲニキホヒテ》――渡る日の影に競ひて。渡る日は空を通る太陽。移り行く日の光と競爭して。光陰を惜しむ意。○伎欲吉曾能美知《キヨキソノミチ》――清き其の道。清き道は佛道を指す。○末多母安波無多米《マタモアハムタメ》――復も遇はむ爲に。佛道に來世で遇ふ爲に。人身は享け難し、佛法には遭ひ難し、渦去の功徳によつて、人間に生れ佛道に遭ふことが出來たのだから、この世で善根を積んで、生々世々佛道に値遇せむことを心懸けねばならぬとい(183)ふのが佛教の説くところである。
〔評〕 初二句は光陰を惜しむといふ、漢文式の句法を翻譯したらしい。當時としては、もとより新らしい句法である。全體に行脚を希望するやうな氣分が見えてゐる。
 
願(ヒテ)v壽(ヲ)作(レル)歌一首
 
4470 みつぼなす 假れる身ぞとは 知れれども 猶し願ひつ 千歳の命を
 
美都煩奈須《ミツボナス》 可禮流身曾等波《カレルミゾトハ》 之禮禮杼母《シレレドモ》 奈保之禰我比都《ナホシネガヒツ》 知等世能伊乃知乎《チトセノイノチヲ》
 
水ノ泡ノヤウナ、ハカナイ〔四字傍線〕假ノ命ダトハ知ツテヰルケレドモ、長命ガシタクテ〔七字傍線〕、千年ノ壽命ヲ、ヤハリ願ツタコトダ。
 
○美都煩奈須《ミツボナス》――水泡の如き。ミツボは水の泡。ミヅノツボ。ツボは粒であらう。今もツボ又はツブといふ。圓い意である。金剛般若經に一切有爲法、如2夢幻泡影1、如v露林如v電、應v作2如是觀1とある。考に「水火なすと云」とあるのは誤解である。○可禮流身曾等波《カレルミゾトハ》――假れる身とは、假りに人間の姿を享けて生れて來た身。○奈保之禰我比都《ナホシネガヒツ》――やはり希望してゐる。シは強める助詞。
〔評〕 人生を水の泡に比した厭世思想は、卷五の山上憶良の作に、水沫奈須微命母《ミナワナスモロキイノチモ》(九〇二)にも見え、人身を假借の身とするのも、卷三に、この人の作、打蝉乃借有身在者《ウツセミノカレルミナレバ》(四六六)と出てゐて、既にこの思想が深く浸潤してゐたことがわかる。併も彼はこの佛教思想に徹することが出來ないで、現世に執着し、病の床に長壽を願つてゐたのである。歌調も亦弱々しいものである。
 
(184)以前(ノ)歌六首(ハ)六月十七日大伴宿禰家持(ノ)作
 
以前歌六首とは喩族歌以下の六首をいふ。以前は以上に同じ。
 
冬十一月五日夜、少雷起(リ)鳴(リ)、雪落(リテ)覆(フ)v庭(ヲ)、忽(チ)懷(ヒテ)2感憐(ヲ)1聊作(レル)短歌一首
 
少雷は小雷に作る本が多い。忽懷2感憐4とは遽に感興が湧いてといふやうな意であらう。
 
4471 け殘りの 雪にあへ照る 足曳の 山たちばなを つとに採み來な
 
氣能己里能《ケノコリノ》 由伎爾安倍弖流《ユキニアヘテル》 安之比奇乃《アシビキノ》 夜麻多知婆奈乎《ヤマタチバナヲ》 都刀爾通彌許奈《ツトニツミコナ》
 
消エ殘ツタ雪ニ映ジテ輝イテヰル、美シイ〔三字傍線〕(安之比奇之)山橘ノ實〔二字傍線〕ヲ、土産ニ摘ンデ來タイモノダ。私ハコノ雪ガ止ンダラ、山ヘ山橘ヲ摘ミニ行キタイト思フ〔私ハ〜傍線〕。
 
○氣能己里能《ケノコリノ》――消え殘りの。○由伎爾安倍弖流《ユキニアヘテル》――雪に合せ照る。雪と相映じて光つてゐる。アヘはアハセに同じ。○夜麻多知波奈乎《ヤマタチバナヲ》――山橘は今のヤブカウジ。卷四の、足引乃山橘乃色丹出而《アシビキノヤマタチバナノイロニイデテ》(六六九)參照。○都刀爾通彌許奈《ツトニツミコナ》――苞即ち土産として、摘んで來たいものだ。ナは希望の助詞。
〔評〕 今夜雷鳴さへして降つてゐる雪が、明日は晴れるであらうが、それが消えない中に山へ行つて藪柑子の實の、雪の中に眞紅に映發してゐるのを摘んで來ようというてゐるのは、自然鑑賞の態度が、後世の人たちと異なるものがある。可憐な紅の小果が當時の人の心を惹いたのであらう。歌は無理のない素直な調子といふまでである。略解に「此時やからなど山方へ行る事有りT、夫を思ひて詠まれしならむ」とあるも、古義に「もとよりいはゆる雁合泡沫のはかなきこの身なれば、雪の消はてむ後をたのむべきにあらずと急げるにて、はかなき(185)戯遊にてすらかかれば、況して悉有佛性さとりみがきて、修道せむことを、しばしものどむべきに非ず、といふ意を思ひ裏に感憐を發してよめるなるべし。
 
右一首兵部少輔大伴宿禰家持
 
八日讃岐守|安宿《アスカベ》王等、集(ヒテ)2於出雲掾|安宿奈杼麿《アスカベノナドマロ》之家(ニ)1宴(ノ)歌二首
 
安宿王の傳は上の伊奈美野乃《イナミヌノ》(四三〇一)の歌の左註に 播磨國守安宿王とあるところに、記して置いた。勝寶八歳十二月己酉、勅遣2讃岐守正四位下安宿王於山階寺1講2梵網經1と續紀に見えてゐる。この宴の行はれた翌月のことである。安宿奈杼麿は續紀に、天平神護元年正月己亥、正六位上百濟安宿公奈登麿授2外從五位下1とある奈登麻呂と同人である。(特種假名遣によれば、登と杼とは同類)左註によれば、朝集使で、これらの地方官が、滯京中に集宴したのである。
 
4472 大君の 命かしこみ おほの浦を そがひに見つつ 都へのぼる
 
於保吉美乃《オホキミノ》 美許登加之古美《ミコトカシコミ》 於保乃宇良乎《オホノウラヲ》 曾我比爾美都々《ソガヒニミツツ》 美也古敝能保流《ミヤコヘノボル》
 
私ハ〔二字傍線〕天子樣ノ勅ヲ承ツテ、急イデ、都ヘ行クノデ景色ノヨイ〔急イ〜傍線〕於保ノ浦ヲ、横ニ見ナガラ、通リ過ギテ〔五字傍線〕都ヘ上ルコトダ。惜シイケレドモ仕方ガナイ〔コト〜傍線〕。
 
○於保乃宇良乎《オホノウラヲ》――於保の浦は作者が出雲掾であることを思へは、和名抄に出雲國意宇郡意宇とあるところの海岸、即ち卷三に飫海《オウノウミ》(三七一)、卷四に飫宇能海《オウノウミ》(五三六)とある海か。然らば保は宇の誤か、又は保・宇は通音であつたのか。又は山陰道の海岸に於保《オホ》の浦といふところがあるのか、今は知り難い。卷八に大乃浦《オホノウラ》(一六一五)とある(186)のは遠江であるから、これとは別である。○曾我比爾美都々《ゾガヒニミツツ》――横に見つつ。卷三の背向爾所見《ソガヒニミユル》(三五七)參照。
〔評〕 大君の勅畏みは、集中に多い。型に嵌つた作。卷三の晝見騰不飽田兒浦大王之命恐夜見鶴鴨《ヒルミレドアカヌタゴノウラオホキミノミコトカシコミヨルミツルカモ》(二九七)と相似てある。途中での作を、この宴席で披露したものである。
 
右橡安宿奈杼麿
 
舊本、安を古に誤つてゐる。元暦校本・西本願寺本によつて改む、代匠記初稿本は、右の下に一首の二字が脱ちたのだと言つてゐる。
 
4473 うち日さす 都の人に 告げまくは 見し日の如く 在りと告げこそ
 
宇知比左須《ウチヒサス》 美也古乃比等爾《ミヤコノヒトニ》 都氣麻久波《ツゲマクハ》 美之比乃其等久《ミシヒノゴトク》 安里等都氣己曾《アリトツゲコソ》
 
貴方ガ都ヘオ上リニナツテ〔貴方〜傍線〕、(宇知比左須)都ノ人ニ告ゲルコトハ、私ガ〔二字傍線〕以前ニ會ツタ日ノ通リ、無事デ居ルト告ゲテ下サイ。
 
○宇知比左須《ウチヒサス》――枕詞。ミヤにつづく。卷三の内日指《ウチヒサス》(四六〇)參照。○都氣麻久波《ツゲマクハ》――告げむことは。○安里等都氣己曾《アリトツゲコソ》――コソは願望の助詞。
〔評〕 山背王から、奈杼麻呂に對する希望の言葉。三句と五句とに告げを繰返してゐるのは、重複のやうであるが、これが古格なのである。
 
右一首(ハ)守(ノ)山背王歌也、主人安宿奈杼麿語(リテ)云(フ)、奈杼麿被v差(サ)2朝集使(ニ)1、擬(トス)v入(ラム)2京(187)師(ニ)1、因(リテ)v此(ニ)餞之日、各作(リ)v歌(ヲ)、聊陳(ブル)2所心(ヲ)1也
 
守は出雲守を略して書いたもの。山背王は續紀に、天平十二年十一月甲申朔无位山背王授2從四位下1、十八年九月戊辰從四位下山背王爲2右舍人頭1、勝寶八歳十二月己酉、勅遣2出雲國守從四位下山背王於大安寺1講2凡網經1、寶字元年五月丁卯、授2從四位上1、同六月壬辰、爲2但馬守1、七月辛亥、授2從三位1、四年正月戊寅從三位藤原朝臣弟貞爲2坤官大弼1、但馬守如v故、六年十二月乙己朔、爲2參議1、七年十月丙戌、參議禮部卿從三位藤原朝臣弟貞薨、弟貞者平城朝左大臣正二位長屋王(ノ)子也、天平元年、長屋王、有v罪自盡、其男從四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、釣取王、皆經、時安宿王、黄文王、山背王、并女教勝復合2從坐1、以2藤原太政大臣之女所1v生、特賜2不死1、勝寶八歳安宿黄文謀反、山背王陰上2其變1、高野天皇嘉之、賜2姓藤原1名曰2弟貞1とある。擬v入は入ラムトスと訓むのだ。舊本、此歌とあるが、元暦校本に此の字が無いのがよい。
 
4474 群鳥の 朝立ちいにし 君が上は さやかに聞きつ 思ひし如く 一云、思ひしものを
 
武良等里乃《ムラトリノ》 安佐太知伊爾之《アサダチイニシ》 伎美我宇倍波《キミガウヘハ》 左夜加爾伎吉都《サヤカニキキツ》 於毛比之其等久《オモヒシゴトク》 一云|於毛比之母乃乎《オモヒシモノヲ》
 
(武良等里乃)朝旅ニ出カケテ、出雲ノ國ヘ〔五字傍線〕御立チニナツタ貴方ノ御話ハ、私ガ聞キタイト〔七字傍線〕思ツタ通リニ、充分確カニ聞キマシタ。
 
○武良等里乃《ムラトリノ》――群鳥の。枕詞。朝立ちとつづくのは、群鳥が朝、塒を離れ行くからである。○左夜加爾伎吉都《サヤカニキキツ》――はつきりと明瞭に聞いた。○於毛比之其等久《オモヒシゴトク》――かねて聞きたいと思つてゐた通りに。○一云|於毛比之母乃乎《オモヒシモノヲ》――これは第五句の異傳である。異傳といふよりも、二樣に作つて置いたと見るべきであらう。これに(188)よれば心配してゐたのにと譯すべきであらう。略解は「一本を用ふべし」とし、古義は一云の方を「理り然るべからず」といつてゐる。どちらでもよい。
〔評〕 左註の如く、家持が後日になつて、山背王の歌に追加したものである。つまらない作だ。
 
右一首兵部少輔大伴宿禰家持、後日追2和(シテ)出雲守山背王歌(ニ)1作(レリ)v之(ヲ)、
 
後日追加の歌がここに書き込まれてゐる。後日とは何時のことか。但しあまり時日を經過してからではあるまい。
 
二十三日、集(ヒテ)2於式部少丞大伴宿禰池主之宅(ニ)1飲宴(セル)歌二首、
 
舊本、丞を椽に誤まつてゐる。元暦校本によつて改む。
 
4475 初雪は 千重に降りしけ 戀しくの 多かる我は 見つつ偲ばむ
 
波都由伎波《ハツユキハ》 知敝爾布里之家《チヘニフリシケ》 故非之久能《コヒシクノ》 於保加流和禮波《オホカルワレハ》 美都都之努波牟《ミツツシヌバム》
 
初雪ハ千重ニモ澤山〔二字傍線〕降リ重ナレヨ。戀シイト思フコトガ多クテ、惱ンデヰル〔七字傍線〕私ハ、コノ雪ノ景色ヲ〔七字傍線〕見テ心ヲ慰メヨウ。
 
○故悲之久能《コヒシクノ》――戀しく思ふことの。
〔評〕 雪の深く降り積つたのを見て、心を慰めようといふのである。略解に、「今日初雪降りぬ。今より後、此雪(189)を見つつ、今日の思出ぐさにせむと思へば、千重も降しきて、久しく殘れと言ふ意也。あるじをしたふ意をそへたり。」とあるのは、從ひ難い。卷十柿本朝臣人麿之歌集出の沫雪千重零敷戀爲來食永我見偲《アワユキハチヘニフリシケコヒシクノケナガキワレハミツツシヌバム》(二三三四)を改作して、儀禮的の挨拶に用ゐたに過ぎない。
 
4476 奧山の 樒が花の 名の如や しくしく君に 戀ひわたりなむ
 
於久夜麻能《オクヤマノ》 之伎美我波奈能《シキミガハナノ》 奈能其等也《ナノゴトヤ》 之久之久伎美爾《シクシクキミニ》 故非和多利奈無《コヒワタリナム》
 
奥山ニ生エテヰル樒ノ花ノ、ソノ樒トイフ〔六字傍線〕名ノヤウニ、私ハコレカラ〔六字傍線〕頻ニ、貴方ヲ戀シク思ツテ居リマセウ。
 
○之伎美我波奈能奈能其等也《シキミガハナノナノゴトヤ》――樒の花のそのシキミといふ名の如くシキリニとつづいてゐる。ヤは五句のナムに係つてゐる疑問の係辭。樒は山地に自生する常緑の小喬木。葉は長橢圓形、全邊平滑で互生して一種の香氣を有してゐる。暮春の頃、葉腋に淡黄白の、多瓣の小花を開く。枝を佛前に供するは人の知るところであるが、上代には謂はゆるサカキの一として、神前にも供へられたのである。舊本に、波奈能其等也とあるのは、奈能の下にあつた奈能を脱したのである。○之久之久伎美爾《シクシクキミニ》――重《シク》々君に。シクシクは頻繁にの意。上のシキミを受けて、シキをシクで繰返したもの。伎美は主人の池主を指してゐる。
〔評〕 上句は譬喩でもなく、序詞でもなく、音の類似から思ひついた、一種風變りな技巧である。この特異點を採るべきであらう。熱のない儀禮的作品。
 
右二首兵部大丞大原眞人今城
 
(190)大原眞人今城は上總の任が終つて、今は中央官の兵部大丞になつてゐるのだ。
 
智努《チヌ》女王卒(ノ)後、圓方女王悲傷(ミテ)作(レル)歌一首
 
智努女王は、續紀に、養老七年正月丙子、授2從四位下1、神龜元年二月丙申、授2從三位1とある。卒去のことは記してない。代匠記には三位に叙せられたのを卒と書いたのは誤か。又は續紀に從三位とあるのが誤かといつてゐる。圓方女王は續紀によると、天平九年十月庚辛從五位下から從四位下、寶字七年正月壬子從四位上から正四位上、八年十月庚午從三位、景雲二年正月壬子正三位を授けらる。寶龜五年十二月丁亥正三位圓方女王薨、平城朝左大臣從一位長屋王女也と記してある。
 
4477 夕霧に 千鳥の鳴きし 佐保路をば 荒しやしてむ 見るよしをなみ
 
由布義理爾《ユフギリニ》 知杼里乃奈吉志《チドリノナキシ》 佐保治乎婆《サホヂヲバ》 安良之也之弖牟《アラシヤシテム》 美流與之乎奈美《ミルヨシヲナミ》
 
貴方ガ御卒去ナサレタノデ、今マデ御邸ヘ通ツタアノ〔貴方〜傍線〕、夕霧ノ中デ千鳥ガ鳴イテヰタ佐保ノ道ヲ、コレカラハ通ウテ〔七字傍線〕見ルコトモナイノデ、草ガ茂ツテ〔五字傍線〕荒レルニマカセルコトデアリマヤウ。
 
○佐保治乎婆《サホヂヲバ》――佐保道《サホヂ》は佐保へ通ふ路。女王の御邸が佐保の里にあつたのである。○安良之也之弖牟《アラシヤシテム》――荒らすであらうか。荒らすとは草の生ひ茂るにまかせるをいふ。○美流與之乎奈美《ミルヨシヲナミ》――見る術がないから。女王にお目にかかる方法がないので、通はなくなるからの意。この歌の解を、新考に「イツカ御尋ネシ夕時ニハ夕霧ニ千鳥ガ啼イテ面白カツタガ、今ハソノ佐保路ヲトホツテモ、再御目ニカカラレル由ガ無イカラ、イツソ心殘ノナイヤウニ、草ナドハヤシテトホラレヌヤウニ荒シテヤラウカ」とあるのは、その意を得ない。
〔評〕 夕霧の棚引いてゐる中で、千鳥が鳴いてゐたなつかしい佐保の川添道も、女王の卒去によつて最早通ふべ(191)きよしもなくなつた淋しさ悲しさが、その千鳥の鳴く聲のやうな、あはれな調子で述べられてゐる。
 
大原櫻井眞人、行(ク)2佐保川邊(ヲ)1之時作(レル)歌一首
 
大原櫻井眞人は卷八に遠江守櫻井王奉2天皇1歌一首(一六一四)とある櫻井王が、大原の姓を賜はつたのである。その條參照。
 
4478 佐保河に 凍り渡れる うすらひの うすき心を 吾がおもはなくに
 
佐保河波爾《サホガハニ》 許保里和多禮流《コホリワタレル》 宇須良婢乃《ウスラヒノ》 宇須伎許己呂乎《ウスキココロヲ》 和我於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》
 
(佐保河波爾許保里和多禮流宇須良婢乃)薄イ心デ私ハ貴方ヲ思ツテハヰマセンヨ。心カラ思ツテヰマス〔心カ〜傍線〕。
 
○佐保河波爾許保里和多禮流宇須良婢乃《サホガハニコホリワタレルウスラヒノ》――佐保川に一面に氷つてゐる薄氷の。第四句のウスキを言ひ起さむ爲の序詞。佐保の河邊を通行して、目賭したままを用ゐたのである。
〔評〕 如何なる理由でこんなことを詠んだものか。戀人でも佐保川邊に住んでゐたのか。或は佐保川の氷を見て、何といふことなしにこんなことを言つて見たのかも知れない。前の智努女王には關係はあるまい。もとより卷十六の安積香山影副見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノアサキココロヲワガモハナクニ》(三八〇七)に傚つた作なることは言ふまでもない。この歌袖中抄に載つてゐる。
 
藤原夫人歌二首 【淨御原宮御宇天皇之夫人也字曰氷上大刀自也】
 
夫人はオホトジと訓む。藤原夫人は天武天皇紀に夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1、十一年春(192)正月乙未朔壬子、氷上夫人薨2于宮中1とあるお方。卷二(一〇四)・卷八(一四六五)に見える大原大刀自と呼ばれた藤原夫人の姉君である。舊本、一首とあるのを二首の誤とする説もあるが、一首でよい。淨御原の下に宮の字がないのは脱ちたのである。元暦校本によつて補つた。
 
4479 朝よひに ねのみし泣けば 燒太刀の 利心も我は 思ひかねつも
 
安佐欲比爾《アサヨヒニ》 禰能未之奈氣婆《ネノミシナケバ》 夜伎多知能《ヤキタチノ》 刀其己呂毛安禮波《トゴコロモアレハ》 於母比加禰都毛《オモヒカネツモ》
 
朝ニ晩ニ聲ヲアゲテ泣イテバカリヰルノデ、今ハ〔二字傍線〕(夜伎多知能)シツカリシタ心モ私ハ無クナツテシマツタヨ。
 
○夜伎多知能《ヤキタチノ》――燒太刀の。枕詞。鋭い意で、利《ト》とつづく。○刀其己呂毛安禮波《トゴコロモアレハ》――利心も我は。雄々しい心も我は持たぬと次句につづいてゐる。○於母比加禰都毛《オモヒカネツモ》――思ひかねるよ。利心を思ひかねるとは利心を持たないといふのである。
〔評〕 相聞か挽歌か。どちらにもとれる。併し作者の氷上大刀自は、天武天皇の十一年に薨じてゐるから、天武天皇の崩御を悼み奉つたものでないことは確かだ。相聞とするのが、無難であらう。哀切の作。
 
4480 かしこきや 天のみかどを かけつれば ねのみしなかゆ 朝よひにして
 
可之故伎也《カシコキヤ》 安米乃美加度乎《アメノミカドヲ》 可氣都禮婆《カケツレバ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》 安左欲比爾之弖《アサヨニシテ》 作者未詳
 
私ハ畏レ多イ天子樣ノ事ヲ、心ニ〔二字傍線〕カケテ思ヒ出スト、悲シクテ悲シクテ〔八字傍線〕、朝ニ晩ニ聲ヲアゲテ泣イテバカリヰマス。
 
(193)○可之故伎也《カシコキヤ》――畏きに詠嘆のヤを添へてあるが、この句で切れてゐるのではない。○安米乃美加度乎《アメノミカドヲ》――天の帝を。ミカドは御門・朝廷の意から轉じて、天皇を申し奉る。天のは尊稱。古今集の墨滅歌「犬上の鳥籠の山なる」の歌の左註に、「この歌ある人、あめのみかどの近江釆女に給へると」とある。○可氣都禮婆《カケツレバ》――心に懸けたれば。戀しく慕ひ奉ればの意。古義に天のみかどを朝廷とし、「朝廷の事を、人の言に懸ていふにつけても」とあるのは、誤解であらう。舊本この歌の下に、作者未詳の四宇あるのを、考・古義などは誤として削つてゐる。もとのままがよい。
〔評〕 天皇を戀ひ奉る女の歌。作者はわからない。下句は卷三の挽歌、君爾戀痛毛爲便奈美蘆鶴之哭耳所泣朝夕四天《キミニコヒイタモスベナミアシタヅノネノミシナカユアサヨヒニシテ》(四五六)と同樣である。これも挽歌であらう。鞠窮如たる景仰の念と、遣瀬ない思慕の情とが、こんがらかつてゐる。
 
右(ノ)件(ノ)四首傳(ヘ)讀(ミシハ)兵部大丞大原今城
 
右の圓方女王・大原櫻井眞人・藤原夫人・作者未詳の四首は、大原今城が讀誦したものだといふのである。四首共に天平初期又はそれ以前の古歌である。讀誦したのは十一月二十三日の大伴池主宅の宴席に違ひない。大原の下に眞人の二字が脱ちたか。
 
三月四日於(テ)2兵部大丞大原眞人今城之宅(ニ)1宴歌一首
 
前が十一月二十三曰のことだから、ここは年が改まつて、勝寶九歳になつてゐるわけだ。
 
4481 足曳の 八つをの椿 つらつらに 見とも飽かめや 植ゑてける君
 
安之比奇能《アシビキノ》 夜都乎乃都婆吉《ヤツヲノツバキ》 都良都良爾《ツラツラニ》 美等母安可米也《ミトモアカメヤ》 宇惠(194)弖家流伎美《ウヱテケルキミ》
 
八重ニ重ナル(安之比奇能)山ノ椿ヲ、引拔イテ來テ此處ニ植ヱテアルガ〔引拔〜傍線〕、ツクヅクト見テモ見飽クコトハナイ〔見テ〜傍線〕。ソノ通リコレヲ〔七字傍線〕植ヱタコノ家ノ主人公ハ、イクラ見テモ見飽クコトハナイ。
 
○夜都乎乃都婆吉《ヤツヲノツバキ》――八峯の椿。八重に重なる山に咲いてゐる椿。○都良都良爾《ツラツラニ》――倩に。つくづくと。○美等母安加米也《ミトモアカメヤ》――見るとも飽かむや、飽くことはない。○宇惠弖家流伎美《ウヱテケルキミ》――この椿を植ゑたこの家の主人公は。
〔評〕 庭前に植ゑられた椿に托して、主人の今城に好意を示してゐる。卷一の巨勢山乃列列椿都良都良爾見兒乍思奈許湍乃春野乎《コセヤマノツラツラツバキツラツラニミツツオモフナコセノハルヌヲ》(五四)と、卷十九の奧山之八峯乃海石榴都婆良可爾今日者久良佐禰大夫之徒《オクヤマノヤツヲノツバキツバラカニケフハクラサネマスラヲノトモ》(四一五二)とを一緒にしたやうな作だ。この歌、和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右兵部少輔大伴家持屬(テ)2植椿(ヲ)1作(ル)
 
大伴の下に宿禰の二字が脱ちたか。屬は見る。矚に同じ。屬目の屬である。
 
4482 堀江越え 遠き里まで 送りける 君が心は 忘らゆましじ
 
保里延故要《ホリエコエ》 等保伎佐刀麻弖《トホキサトマデ》 於久利家流《オクリケル》 伎美我許己呂波《キミガココロハ》 和須良由麻之自《ワスラユマシジ》
 
私ガ播磨ヘ行ク時ニ〔九字傍線〕、堀江ヲ越エテ、遠イ里マデ送ツテ下サツ〔四字傍線〕タ、貴方ノ御親切ナ〔四字傍線〕御心ハ、忘レラレマセン。アリガタウゴザイマス〔アリ〜傍線〕。
 
○保男延政要《ホリエコエ》――堀江を越えて。堀江は難波の堀江であらう。○和須良由麻之自《ワスラユマシジ》――舊本、目とあるのは、自(195)の誤、元暦校本は自に作つてゐる。忘れられまい。マシジはマジと同意。
〔評〕 播磨の國へ赴任する時に、難波の堀江を越えて、その西方の村落まで、見送つてくれた人の好意に對する感謝の辭である。君は誰を指してゐるかわからない。
 
右一首播磨介藤原朝臣執弓、赴(キ)v任(ニ)悲(シム)v別(ヲ)也、主人大原今城傳讀(スト)云爾
 
續紀に寶宇元年五月丁卯、正六位上藤原朝臣執弓授2從五位下1とある。その播磨介であつた時期は明らかでないが、位から推すとあまり遠い以前ではないやうだ。
 
勝寶九歳六月二十三日於五2大監物三形王之宅1宴歌一首
 
勝寶九歳の四字は前の三月四日の上にあるべきで、ここには不要である。併しかうなつてゐるのは、何か理由あることであらう。監物はオロシモノノツカサ、又はケンモツとよむ。中務省の職員で出納を監察し、管鑰を請進することを掌る。大監物は從五位下の官である。三形王は續紀によれば、勝寶元年四月丁未、無位から從五位下を、寶字三年六月庚戍從四位下を授かつてゐる。大監物になつたことは續紀に見えないが、下の天平寶字二年二月の條に大監物御方王とあるのも同人で、翌三年六月に至つて從四位下に昇進せられたのである。同年七月丁卯木工頭になつてゐる。木工頭は從五位上の官であるが、從四位下でもさしつかへはあるまい。然るに續紀には、寶龜三年正月甲申、無位三方王に從五位下を授くとあり、その後三方王が從五位上、三月甲辰備前守、八年正月庚申、正五位下、十年正月甲子、從四位下となつたが、延暦元年閏正月辛丑、從四位下三方王爲2日向介1以v黨2氷上川繼1也、三月戊申、從四位下三方王、正五位下山上朝臣船主、正五位上弓削女王等三人坐3同謀魘2魅乘輿1、詔減2死一等1、三方弓削並配2日向國1、【弓削三方之妻也】船主(196)配2隱岐國1、自餘與黨亦據v法處v之と記されてゐる。天平寶字三年に從四位下まで進んでゐた王が、十三年後の寶龜三年に至つて無位から從五位下を授くとある筈はない。縱令何かの理由で官位を褫奪せられそれが復したと考へるとしても、續紀の書き方はその趣にはなつてゐない。だから寶龜三年正月以降の三方王は、この集の王とは別人と考ふべきである。
 
4483 移り行く 時見る毎に 心いたく 昔の人し 思ほゆるかも
 
宇都里由久《ウツリユク》 時見其登爾《トキミルゴトニ》 許己呂伊多久《ココロイタク》 牟可之能比等之《ムカシノヒトシ》 於毛保由流加母《オモホユルカモ》
 
移リ變ツテ行ク時節ヲ見ル毎ニ、私ハ〔二字傍線〕昔ノ死ンダ〔三字傍線〕人ガ、悲シク想ヒ出サレルヨ。
 
○字都里由久時見其登爾《ウツリユクトキミルゴトニ》――變遷し行く時節を見る度毎に。四季の光景が變つて行くのを見ると。三形王の邸中の景色について言つたのであらう。新考に「第二句を從來トキミルゴトニとよみたれど、時ならば時にアフなどいふべく、見ならば物ミルなど云ふべし。又ミルならば此卷の書式によれば見流と書くべし。おそらくはもと時相とありしを後人のトキアフにては辭を成さずと思ひて、さかしらに相を見に改めしならむ。げに後世の語法ならば、トキアフとは云ふべからざれど、本集には後世ならば省くべからざるニを省ける例多ければ、トキニアフをトキアフと云へりとすべし」とあるが臆斷である。○許己呂伊多久《ココロイタク》――心痛く。心苦しくも。卷八に春日山黄葉家良思吾情痛之《カスガヤマモミヂニケラシワガココロイタシ》(一五一三)とある。○牟可之能比等之《ムカシノヒトシ》――昔の人とは、三形王の父などを指すのであらう。
〔評〕 懷舊の作。感傷的な家持の特色が見えてゐる。新解には餘論として、「天平勝寶九歳、この年八月十八日に改元して、天平寶字元年と爲した年である。三月、皇太子鹽燒の王を廢し、四月大炊の王を立てて皇太子と爲した。五月、藤原仲麻呂を紫微内相と爲した。六月中に至つて橘奈良麻呂を中心とし、叛意を構ふること、漸く熟しつつあつた。大伴氏の人々、多くこれに參與してゐるので、家持もほぼその空氣を察し、仲麻呂の横暴(197)を慨いてゐるものと思はれる。うつりゆく時といふこと、ほぼこれを指してゐるのであらう。昔の人は誰であるかわからぬが、或は橘諸兄をさしてゐるのであらうか」とあるのは果して當つてゐるであらうか。
 
右兵部大輔大伴宿禰家持作
 
前の三月三日の歌には兵部少輔とあり、この六月二十三日の條に兵部大輔とある。續紀に天平寶字元年六月壬辰に從五位上大伴宿禰家持爲2兵部大輔1とあり、この六月は丁丑朔であるから、壬辰は十六日に當つてゐる。故に、ここに兵部大輔とあるのは續紀の記載に一致してゐる。
 
4484 咲く花は うつろふ時あり 足引の 山菅の根し 長くはありけり
 
佐久波奈波《サクハナハ》 宇都呂布等伎安里《ウツロフトキアリ》 安之比奇乃《アシビキノ》 夜麻須我乃根之《ヤマスガノネシ》 奈我久波安利家里《ナガクハアリケリ》
 
美シク〔二字傍線〕咲ク花ハ移リ變ル時ガアル。然シ、ツマラナイ〔七字傍線〕(安之比奇乃)山菅ノ根ハ、何時マデモ〔五字傍線〕永ク變ラズニツヅイテ〔八字傍線〕ヰルヨ。
 
○宇都呂布等伎安里《ウツロフトキアリ》――移ろふ時あり。ウツロフは移り變る。色の褪る。○夜麻須我乃根之《ヤマスガノネシ》――山菅の根が。シは強める助詞。山菅は藪《ヤブ》ラン。卷四の山菅(五六四)の挿繪參照。新考に禰はハの誤かとあるのは諒解し難い。菅の根は長きものの代表である。○奈我久波安利家里《ナガクハアリケリ》――長くあるよ。山菅の根はつまらぬものであるが、長くつづくよといつてゐる。
〔評〕 美しい併し變り易い花と、醜い併し永く繼續する山菅の根とを對比せしめて、榮えるものの脆さを悲しんでゐる。次の註がそれを語つてゐる。代匠記精撰本に、「初の二句は今年六月事ありて、繁華の人々多く死刑流罪にあはれければ、それによそへて悲しみて、下句は事もなき身を樂しまるる意なるべし。」とあり、新考は「こ(198)の年六月末より、橘奈良麻呂、大伴古麻呂等の叛意、やうやく現れて、七月に至つて、獄死し、又流されるものが多い。その黨は奈良麻呂、古麻呂を始め、鹽燒の王、安宿の王、黄文の王、道祖の王、大伴池主、多治比鷹主、多治比國人等である。家持は幸にして、この難を免れたけれども、意に仲麻呂の前途を危んで、この歌を作つたものと思はれる。さて、咲く花はうつろふ時ありの句を以つて、これを諷したものであらう。奈良麻呂等の叛意を以つて咲く花に譬へたといふ説は、余の取らざるところである」とある。かういふ見方も出來るわけであるが、やはり左註の通りに、庭前の風景に接して、思ひついたままを述べたものとしたい。下にもこの人の夜知久佐能波奈波宇都呂布等伎波奈流麻都能左要太乎和禮波牟須婆奈《ヤチクサノハナハウツロフトキハナルマツノサエダヲワレハムスバナ》(四五〇一)とあるのも、同意である。
 
右一首大伴宿禰家持悲2怜《カナシビアハレビテ》物色變化(ヲ)1作(レル)v之(ヲ)也、
 
物色は景色。卷十七の大伴池主の書簡に、物色輕v人乎とある。悲怜は悲しみあはれむ。風景を眺めて、風物の變化し易きを歎じたのである。考に、この註は前の歌に後人が書加へむとして、誤つて此歌の左に書添へたのだらう。この歌は花は散る時あれど、山菅の根は長しと、ことほいだ歌で、悲しんだものではないと斷じたのは、從ひ難い。
 
4485 時の花 いやめづらしも 斯くしこそ めしあきらめめ 秋立つごとに
 
時花《トキノハナ》 伊夜米豆良之母《イヤメヅラシモ》 可久之許曾《カクシコソ》 賣之安伎良米晩《メシアキラメメ》 阿伎多都其等
 
秋ノ〔二字傍線〕時節ガ來テ咲ク花ハ、マコトニ愛ラシイヨ。カウシテ今日此ノ花ヲ愛デルヤウニ、貴方樣ハ〔今日〜傍線〕秋ガ來ル毎ニ何時デモ花ヲ〔六字傍線〕御覽ニナツテ、心ヲオ晴ラシニナルデセウ。
 
○時花《トキノハナ》――時節の花。季節に應じて咲く花。ここでは秋の花を指してゐる。○賣之安伎良米晩《メシアキラメメ》――メシは見の
(199)つてゐる。
〔評〕 立秋の頃に、秋草の花を見て詠んだのだが、賣之安伎艮米晩《メシアキラメメ》とあるから、天皇か又は尊貴の方を壽いだ作らしい。但し古義のやうに、これまでを三形王宅の宴の歌とするのはよくない。これは別の場合の作である。多分天皇の御前に召されたやうな氣分で、試作したのではあるまいか。この人の作なる卷十九の秋時花種爾有等色別爾見之明良牟流今日之貴左《アキノハナクサグサナレドイロゴトニメシアキラムルケフノタフトサ》(四二五五)、及び須賣呂伎能御代萬代爾如是許曾見爲安伎良目米立年之葉爾《スメロギノミヨヨロヅヨニカクシコソメシアキラメメタツトシノハニ》(四二六七)と比較すると、どうもさう思はれる。略解に「めしあきらめめは、見て心をはるけめと言ふ也」とあるのは當らない。
 
右一首大伴宿禰家持作之
 
天平寶字元年十一月十八日於(テ)2内裏(ニ)1肆宴(ノ)哥二首
 
天平勝寶九歳八月十八日に、改元あつて天平寶字元年となつた。この年の十一月は乙亥朔であつたから、中の卯は十七日に當つて新嘗祭が行はれた。その翌日の十八日は即ち豐明節會であつた。
 
4486 天地を 照らす日月の きはみなく あるべきものを 何をか思はむ
 
天地乎《アメツチヲ》 弖良須日月乃《テラスヒツキノ》 極奈久《キハミナク》 阿流倍伎母能乎《アルベキモノヲ》 奈爾乎加於毛波牟《ナニヲカオモハム》
 
天地ヲ照ラス日月ノヤウニ、今ノ天皇ノ大御代ハ〔九字傍線〕、極リナク續イテ行ク筈デアルノニ、我等ハ〔三字傍線〕何ヲ心配シマセウカ。何モ心配スルコトハアリマセヌ〔何モ〜傍線〕。
 
(200)○天地乎弖良須日月能《アメツチヲテラスヒツキノ》――天地を照らす日月の如く。今の大御代を譬へたもの。○極奈久阿流倍伎母能乎《キハミナクアルベキモノヲ》――無窮であるべきものであるのに。○奈爾乎加於毛波牟《ナニヲカオモハム》――何も心配することはない。舊本爾の下に乎の字がないのは脱ちたのである。元暦校本・西本願寺本などによつて補ふ。
〔評〕 新嘗祭の豐明節會に際して、現代の大御代をことほいだもの。崇重な典雅な作品で佳什と稱すべきである。
 
右一首皇太子御歌
 
皇太子は孝謙天皇の皇太子で大炊王。天武天皇の御孫、舍人親王の御子でおはしました。天平五年御誕生、天平寶字元年四月立太子、天平寶字二年八月即位あらせられたが、惠美押勝兵を起し敗死するに及んで、上皇重詐あらせられ、天平寶字八年十月、帝は廢せられて淡路に流され給ひ、淡路廢帝と申し上げた。間もなく淡路で崩御あらせられた。御壽三十三。明治三年七月淳仁天皇と謚號を奉つた。
 
4487 いざ子ども たはわざなせそ 天地の 固めし國ぞ やまと島根は
 
伊射子等毛《イザコドモ》 多波和射奈世曾《タハワザナセソ》 天地能《アメツチノ》 加多米之久爾曾《カタメシクニゾ》 夜麻登之麻禰波《ヤマトシマネハ》
 
サア人々ヨ。馬鹿ナ事ヲスルナ。コノ〔二字傍線〕日本ノ國ハ天ノ神〔二字傍線〕地ノ神〔二字傍線〕ガ、オ固メニナツタ國デアルゾヨ。ダカラ、ドウシテモ動ク筈ハナイカラ、謀叛ナドヲシテハナラヌゾ〔ダカ〜傍線〕。
 
○伊射子等毛《イザコドモ》――イザはサアと促す詞。子ドモは下僚に向つて言つてゐる。○多波和射奈世曾《タハワザナセソ》――狂《タハ》けた業をするな。馬鹿な眞似をするな。○天地能《アメツチノ》――天神地祇が。○加多米之久爾曾《カタメシクニゾ》――固めなされた國なるぞの意。古事紀に謂はゆる修理國成の意で言つてゐるのであらう。如何にも堅固な國體らしく聞える。○夜麻登之麻禰(201)波《ヤマトシマネハ》――ヤマトは日本國の總稱である。上の堅メシに應ずる爲に、島根といつてゐる。
〔評〕 皆天皇の大御稜威の下に奉仕し、皇威に抗するやうなふざけた眞似をするなと言つてゐる。雄健な調子で、わが國體の搖ぎなきを述べた立派な作品である。但しこの作者藤原仲麻呂は、丁度この年の正月に左大臣橘諸兄が薨じ、その子の奈良麻呂はこの年の六月に事を擧げむとして失敗し、その連累者が盡く誄に伏したので、それを嘲り、自分の反對黨の滅亡に得意となつて、こんな歌を詠んだのである。
 
右一首内相藤原朝臣奏v之
 
内相は紫微内相。藤原朝臣は藤原朝臣仲麻呂。續紀に天平寶字元年五月丁卯、大納言從二位藤原朝臣仲麻呂を紫微内相と爲すことが見え、その時の詔に、朕覽2周禮1將相殊v道、政有2文武1、理亦宜v然、是以新令之外、則亦置2紫微内相一人1、令v掌2内外諸兵事1、其官位禄賜職分雜物者、皆准2大臣1と見えてゐる。同二年八月勅して、大保に任じ給ひ、又廣く民を惠むことの美しきこと古より並びなしといふ意で、姓中に惠美の二字を加へ、暴を押へ強に勝つ功ありとて、押勝といふ名を賜はり、同四年四月從一位、大師、同六年十二月正一位に叙せられたが、その頃道鏡の寵が盛で、押勝勢力衰へ、その間に彼の不軌計畫が暴露して、遂に近江の湖上で斬られた。
 
十二月十八日於(テ)2大監物|三形《ミカタノ》王之宅(ニ)1宴歌三首
 
大監物三形王は前(四四八三)に出てゐる。
 
4488 み雪降る 冬は今日のみ 鶯の 鳴かむ春べは 明日にしあるらし
 
三雪布流《ミユキフル》 布由波祁布能未《フユハケフノミ》 ?乃《ウグヒスノ》 奈加牟春敝波《ナカムハルベハ》 安須爾之安流良(202)之《アスニシアルラシ》
 
雪ノ降ル冬ハ今日ダケデ終〔二字傍線〕ダ。鶯ノ鳴ク樂シイ〔三字傍線〕春ハ、明日カラデアルテシイ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○布由波祁布能未《フユハケフノミ》――冬は今日だけで終だ。今日は冬の最後の日である。
〔評〕 この年十二月十八日で冬が盡きて、十九日が立春であつたと見える。即ち節分の夜の宴會での作で、春の來ることの早きを喜んでゐるだけだ。
 
右一首主人三形王
 
4489 打靡く 春を近みか ぬば玉の 今宵の月夜 霞みたるらむ
 
宇知奈婢久《ウチナビク》 波流乎知可美加《ハルヲチカミカ》 奴婆玉乃《ヌバタマノ》 己與比能都久欲《コヨヒノツクヨ》 可須美多流良牟《カスミタルラム》
 
(宇知奈婢久)春ガ近イカラカ(奴婆玉乃)今夜ノ月ハ、コンナニ霞ンデヰルノデアラウ。イヨイヨ春ガ近ヅイタラシイ〔イヨ〜傍線〕。
 
○宇知奈婢久《ウチナビク》――枕詞。春とつづく。春は草木が柔かく、靡いてゐるからである。○波流乎知可美加《ハルヲチカミカ》――春が近いからか。
〔評〕平明な作。實景をありのままに詠んだのであらう。卷十に※[(貝+貝)/鳥]之春成良思春日山霞棚引夜目見侶《ウグヒスノハルニナルラシカスガヤマカスミタナビクヨメニミレドモ》(一八四五)と多少似てゐる。
 
右一首大藏大輔|甘南備伊香《カムナビノイカゴノ》眞人
 
(203)甘南備伊香眞人は續紀に、天平十八年四月癸卯、授2無位伊香王從五位下1、同八月丁亥、爲2雅樂頭1、勝寶元年甲午、授2從五位上1、三年十月丙辰、從五位上伊香王、男高城王賜2甘南備眞人姓1、寶字五年十月壬子朔、從五位上甘南備眞人伊香爲2美作介1、七年正月壬子、爲2備前守1、八年正月己未、爲2主税頭1、景雲二年閏六月乙巳爲2越中守1、寶龜三年正月甲申、授2正五位下1、八年正月庚申、授2正五位上1とある。大藏大輔になつたことは、續紀に見えてゐない。
 
4490 あら玉の 年行きかへり 春立たば まづ吾が宿に 鶯は鳴け
 
安良多末能《アラタマノ》 等之由伎我敝理《トシユキカヘリ》 波流多多婆《ハルタタバ》 末豆和我夜度爾《マヅワガヤドニ》 宇具比須波奈家《ウグヒスハナケ》
 
(安良多末能)年ガ經過シテ、立チ返ツテ、春ガ來タナラバ、先ヅ第一番ニ、ドコヨリモ早ク〔七字傍線〕私ノ家デ鶯ハ鳴ケヨ。私ハオマヘヲ待チコガレテヰルカラ〔私ハ〜傍線〕。
 
○等之由伎我敝理《トシユキカヘリ》――年が過ぎ去つて、新しき年が立ち返つて。
〔評〕 鶯の鳴くを待ち焦れる心。先づ吾が宿にと言つたのが面白い。古義に「王(ノ)宅の宴席なるに、自の家に先(ヅ)鳴けといはむこと、いかゞしければ、これは主人の意に擬《ナリ》て、よまれしにやあらむ」とあるのは、理窟に墮した、囚はれた考へ方である。先づわが宿にといふのが、歌心であり、鶯を愛する風流心であり、無邪氣な童心でもあるのだ。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
家持が右中辨になつたことが、續紀に見えてゐないのは、脱ちたのである。
 
4491 大き海の 水底深く 思ひつつ 裳引きならしし 菅原の里
 
(204)於保吉宇美能《オホキウミノ》 美奈曾己布可久《ミナソコフカク》 於毛比都々《オモヒツツ》 毛婢伎奈良之思《モヒキナラシシ》 須我波良能佐刀《スガハラノサト》
 
(於保吉宇美能美奈曾己)深クアナタヲ〔四字傍線〕思ヒナガラ、私ガ〔二字傍線〕裳ヲ引イテ通ヒ馴レタ菅原ノ里ヨ。人ノ心ノ變リ易イノモ知ラズニ、私ハ貴方ノ住ム里ニ通ツテヰタガ、今ハ捨テラレテツマラヌコトヲシタ〔人ノ〜傍線〕。
 
○於保吉宇美能美奈曾己布可久《オホキウミノミナソコフカク》――大き海の水底は深くと言はむの序詞。オホキウミは大海《オホウミ》に同じ。神代紀に溟渤以之鼓盪《オホキウミユスリ》、山岳爲之鳴※[口+句]《ヤマヲカトヨミキ》、とあり、和名抄に、溟渤、見2日本紀1也、和名於保伎宇三と見えてゐる。○毛婢伎奈良之思《モヒキナラシシ》――裳引き馴らしし。ナラスを平らすと見る説は從ひ難い。引きならすを、踏み平らすとするのは無理であらう。○須我波良能佐刀《スガハラノサト》――菅原の里。今の奈良市三條の西方、山際に當る地。垂仁天皇の御陵を菅原伏見東陵と申し、安康天皇の御陵を菅原伏見西陵と申すので、その所在は明らかであらう。上代の平城京の廓内であつた。ここに藤原宿奈麿の家があつたのであらう。
〔評〕 初二句を譬喩と見る説もあるが、序詞としたい。契沖は「清少納言に、裳はおほうみ、しびらなど言ひたれば、古も此名ありておほきうみと云へるは、裳によせても云るにや」と言つてゐる。併しさういふ寓意がありさうな詞づかひではない。なほ古義に「菅原の里に、在り通ひしさまをいへりとせむは、女郎には、いささかふさはしからず云々」とあるが、この女郎が宿奈麻呂の愛を得て、常に召されて侍つてゐたと見れば、これで少しも無理はない。この歌は離別きれた悲憤を露骨に述べてゐないところに、却つてあはれさが籠つてゐる。
 
右一首藤原宿奈麿朝臣之妻石川女郎薄(ラキ)v愛離別(セラレテ)、悲(シミ)恨(ミテ)作(レル)歌也、年月未v詳
 
(205)藤原宿奈麿の傳は、前の奈爾波都爾《ナニハヅニ》(四三三〇)の歌の左註に委しく記して置いた。石川女郎はどういふ女か明瞭でない。年代から考ふれば、久米禅師が聘した石川郎女(九七)・大津皇子と親しんだ石川女郎(一〇八)。大伴安麿の妻で、坂上郎女の母であつた、名を邑婆といつた石川郎女(五一八)・(四四三九)とは別人である。年月未詳とあるは、その作の時期が明白でないといふのである。この歌は如何にして、ここに記載せらたかを明らかにしてゐない。多分十二月十八日から同月二十三日までの間に於て、家持がこれを誰からか聞いたものであらう。或は十二月八日の三形王宅の宴で誦せられたのを、書き込んだか。
 
二十三日於(テ)2治部少輔大原今城眞人之宅(ニ)1宴(ノ)歌一首
 
續紀に、天平寶宇元年六月壬辰、大原眞人今城爲2治部少輔1と見えてゐる
 
4492 月よめば 未だ冬なり しかすがに 霞たなびく 春立ちぬとか
 
都奇餘米婆《ツキヨメバ》 伊麻太冬奈里《イマダフユナリ》 之可須我爾《シカスガニ》 霞多奈婢久《カスミタナビク》 波流多知奴等可《ハルタチヌトカ》
 
月ヲ數ヘテ見ルト、未ダ冬デアル。然シナガラ、今日ハアンナニ〔七字傍線〕、霞ガ棚曳イテヰル。春ガ最早〔二字傍線〕來タト云フノカ。スツカリ春景色ニナツタ〔スツ〜傍線〕。
 
○都奇餘米婆《ツキヨメバ》――月を數へれば。ヨムは呼ぶから出た語で、聲を出して呼び上げること。轉じて數へるの意となつたのである。○伊麻太冬奈里《イマダフユナリ》――未だ十二月で、冬の内だといふのだ。
〔評〕 年内立春即ち十二月の内に立春になつたことを詠んでゐる。霞の棚引いたのを見て、春を知つた實感を詠(206)んでゐるだけに、無理がない。古今集の「年の内に春は來にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ」のやうな、わざとらしくないのが、嬉しい。但し卷十の雪見者未冬有然爲蟹春霞立梅者散乍《ユキミレバイマダフユナリシカスガニハルガスミタチウメハチリツツ》(一八六二)を粉本としたか。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持作
 
二年春正月三日召(シテ)2侍從竪子王臣等(ヲ)1令(メ)v侍(ハ)2於内裏之東屋垣下(ニ)1即賜(ヒテ)2玉箒(ヲ)1肆宴(ス)、于v時内相藤原朝臣奉(ジテ)v勅(ヲ)、宣(ル)2諸王卿等、隨(ヒテ)v堪(フルニ)任(セテ)v意(ニ)、作(リ)v歌(ヲ)并(ニ)賦(セト)1v詩(ヲ)、仍(リテ)應(ジテ)2 詔旨(ニ)1、各陳(ベテ)2心緒(ヲ)1、作(リ)v歌(ヲ)賦(ス)v詩(ヲ)、【未v得2諸人之賦詩并作歌(ヲ)1也、】
 
天平寶字二年正月は甲戍朔であつたから、三日は即ち丙子で、初子の日に當つてゐた。中世に盛であつた子の日の遊の濫觴の古いことがわかる。但し小松を曳くことは未だ行はれなかつたらしい。侍從はオモトヒトと訓ず。天皇の御許の人の意である。竪子はチヒサワラハと訓ず。小童の意。宮中の殿上に奉仕する小童。内豎ともいふ。竪は豎に同じ。王はオホキミで諸王を指し、臣はオミで卿等をいふ。東屋は東方にある建物。その名はわからない。東方は春の方角に當るから、これを用ゐたのである。垣下はミカキノモトと訓す。玉箒は玉を飾つた箒。箒を作る材料として箒草又は箒木と稱するものと、高野箒《カウヤバウキ》と稱するものとの二種がある。而して箒草は外來種で、上代には無かつたから、これは高野箒に違ひない。今高野箒(207)と稱する植物は古く玉箒とも稱したことは、卷十六の玉掃《タマハハキ》(三八三〇)の歌に明らかである。併しここにいふ玉箒はこの玉掃で作つた玉を飾つた箒で、これは蠶の床を掃く爲に使用するものを、儀禮的装飾品として作り、后妃親蠶を表はし、一方、辛鋤《カラスキ》を、同じく儀禮的装飾品として作つたものを、帝王躬耕を象り、この二品を正月の初子に、親王・諸王・臣等に賜はつたのである。辛鋤も、玉箒も今、正倉院御物中に存してゐる。この行事は何時頃から初まつたかわからないが、既に繼體天皇紀元年三月戊辰の詔に鎭聞、士有2當年而不1v耕者、則天下|或《アリ》v受2其飢1矣、女有2當年而不1v績者天下或v受2其寒1矣、故帝王躬耕而勸2農業1、后妃親蠶而勉2桑序1、況厥百寮|曁《イタルマデ》2于萬族1廢2棄農績1而至2殷富1者乎、有司普告2天下1、令v識2朕懷1と仰せられたから、その起源もかなり古いかも知れない。正倉院の御物は著者も數囘拜觀して、萬葉集の當時を偲んだが、今その形態について「正E倉院のしをり」に記すところを拔萃すると、「一、子日目利箒一雙、長二尺一寸五分、目利箒《メトハウキ》一に玉箒の稱あるは蓍草《メトクサ》を以て製し、玉を飾りある謂ひなるべし。或は云ふ蓍萩の莖を以て作りける箒にして、蓍萩は原野に叢生し、莖の長三尺餘に及び、秋期に開花し萩花に似たりと。(著者曰、玉箒を蓍草・蓍萩となすのは恐らくは誤である)箒鬚の抄ごとに細珠を著し飾りと爲したる装玉は脱落し、僅に緑玉を剰し、把は紫革にて包みたる上に、金糸を纏ひあり。(中略)一、子日手辛鋤二柄。一、長四尺三寸二分、二、長四尺一寸、弓状に彎曲せる木柄の頭は、丁字形を爲し、淡紅地に紅色の木理を描き、鋤刃の尖鐡は其の状※[金+帝]鐡の如く、金銀泥を以て草花を施せり。其の一柄に「東大寺子日献天平寶字二年正月」と墨書あり。(中略)前記玉箒と共に、帝王躬耕皇后親蠶の意味を以て、農桑の神を歳首に祀らせ給ひしものなり。云々」とある。これによると玉箒も辛鋤と同じく、天平寶字二年正月のもの、即ちこの歌に詠まれた當時のものかも知れない。寫眞は東瀛珠光による。内相藤原朝臣は紫微内相藤原朝臣仲麿。隨堪は堪ふるに隨つて。能ふところの儘に。來得諸人之賦詩并作歌也とあるのは左註の如く、その時家持が辨官として多忙であつた爲に、他人の詩歌を見聞することを得なかつたからであらう。
 
4493 初春の 初子の今日の 玉箒 手にとるからに ゆらぐ玉の緒
 
(208) 始春乃《ハツハルノ》 波都禰乃家布能《ハツネノケフノ》 多麻婆波伎《タマハハキ》 手爾等流可良爾《テニトルカラニ》 由良久多麻能乎《ユラグタマノヲ》
 
宴會ヲナサル〔六字傍線〕初春ノ初子ノ、日ノ〔二字傍線〕今日頂戴致シタ〔五字傍線〕玉箒ヲ、手ニ取リ持ツト、ソノ箒ニ飾ツテアル〔九字傍線〕玉ノ緒ガ搖レテ、音ヲ立テ〔五字傍線〕マス。マコトニコノ玉箒ハオメデタイ結構ナモノデゴザイマス〔マコ〜傍線〕。
 
○波都禰乃家布能《ハツネノケフノ》――初子の日の今日に賜はれる。○手爾等流可良爾《テニトルカラニ》――手に執り持つ故に。手に執り持つことによつて。○由良久多麻能乎《ユラグタマノヲ》――搖ぐ玉の緒。箒につけた飾の玉の緒がゆらゆらと搖れて、音を立てるのである。現存のものは、箒の枝頭にのみ玉がついてゐるが、當時のものは把の紫草の邊に、玉の緒が装飾として附けてあつたのである。
〔評〕 初春の初子のと頭韻を押んで歌ひ出したのも心地よく、手に執るからに搖ぐ玉の緒と名詞止にしたのも明朗な調子になつてゐる。全く感じのよい作品である。下句は古事記に見える。伊邪那岐命が、御頸珠の玉の緒|母由良邇《モユラニ》取り由良迦志《ユラカシ》て、天照大御神に賜はつたこと。叉天照大御神が天の安河の神誓の時に、須佐の男の命の十拳の劍を受取つて三段に打折り給ひ、奴那登母母由良爾《ヌナトモモユラニ》天の眞名井に振滌ぎ給うたといふやうなこと、書紀にこれに關して瓊音※[王+倉]々と記してあることなどが、思ひ浮べられるが、恐らく家持も、かうした古傳説を想起しつつ、こんな言葉を用ゐたのではあるまいか。この歌、和歌童蒙抄・袖中抄・八雲御抄などに載せてある。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持作、但(シ)依(リテ)2大藏(ノ)政(ニ)1不(ル)v堪(ヘ)v奏(スルニ)v之(ヲ)也、
 
家持は右中辨としで、大藏省の事務を管掌してゐたので、多忙の爲に、この歌を作つたのみで、奏上する遑がなかつたといふのである。多分中途で退席したのであらう。辨官は左は中務・式部・治部・民部の四省、(209)右は兵部・刑部・大藏・宮内の四省を管してゐた。
 
4494 水鳥の 鴨の羽の色の 青馬を 今日見る人は かぎりなしといふ
 
水鳥乃《ミヅトリノ》 可毛能羽能伊呂乃《カモノハノイロノ》 青馬乎《アヲウマヲ》 家布美流比等波《ケフミルヒトハ》 可藝利奈之等伊布《カギリナシトイフ》
 
白馬ノ節會ニ〔六字傍線〕(水鳥乃河毛能羽能伊呂乃)青イ馬ヲ、今日見ル人ハ、壽命ノ〔三字傍線〕限ガ無イトイフコトデス〔四字傍線〕。
 
○水鳥乃河毛能羽能伊呂乃《ミヅトリノカモノハノイロノ》――青と言はむが爲の序詞。水鳥の鴨の羽の色が青いからである。卷八の水鳥之鴨乃羽色乃春山乃《ミヅトリノカモノハイロノハルヤマノ》(一四五一)・水鳥乃青羽乃山能色付見者《ミヅトリノアヲバノヤマノイロヅクミレバ》(一五四三〕などと同樣である。○青馬乎《アヲウマヲ》――青馬は白馬。白い馬は青味を帶びてゐるから、シロといはずにアヲと言つたのである。白馬節會と書いてアヲウマノセチエと讀むのもその證である。宣長は、玉勝間に上代は青馬を用ゐたのが,延喜の頃から、白馬に變つたので、文字には白馬と書きながら、なほ昔のままにアヲウマと唱へてゐたといふやうな説をなしてゐるが、恐らく最初から白馬を用ゐて、アヲウマと稱してゐたのであらうと、予は考へてゐる。續後紀・文徳實録・三代實録・貞觀儀式・延喜式などに青馬とあつても、それは唱へ方のままに書いたのだから、青い毛色の馬を用ゐた證とはならぬ。伴信友が年中行事秘抄を引いて、「十節記云、馬性以v白爲v本、天有2白龍1地有2白馬1、是日見2白馬1即年中邪氣遠去不v來と云るかたの説に、さらに據り給へるものなるべし」と言つてゐる通りで、馬の色の根本は白であるから、白馬を見て邪氣を拂つたのである、然らば何故にシロウマといはなかつたといふに、元來この行事は陽氣に觸れることを主眼としたもので、馬は陽の獣、正月は少陽の月、七は少陽の數であるから、正月七日を定日とせられ、馬數を二十一疋とせられたのも、三陽の三と少陽の七とを乘じた陽の數を選ばれたのである。而して春を色に配すれば青に當り、謂はゆる青陽の春とも言つてゐるのである。然るに白は秋の色で陰であるから、シロといふことを忌み、陽の色なるアヲを以つて呼んだ。けれども右に掲げた馬性以v白爲v本の文面によつて、(210)白馬を用ゐたのである。平兼盛が「ふる雪に色もかはらで牽くものをたが青馬と名づけそめけむ」と言つたのは、古くから當然の疑問であつた。最初青馬であつたのが、白馬に變つたとするならば、さうした文献がありさうに思はれる。從つてこの歌の序詞は、ただアヲといふ語を引き出す爲のもので、馬の毛色が鴨の羽色のやうだといふのではないのである。○可藝利奈之等伊布《カギリナシトイフ》――際限なく壽命が續くといふことだ。
〔評〕 白馬節會は右に記すやうに、陽春の陽月陽日に陽の色の陽の獣を陽の數だけ見て、陽氣に觸れ、邪氣を拂はうとした、纎緯思想に基くものである。その俗信をその儘に述べてゐるといふだけで、歌としては全く平板な、つまらぬものである。強ひて言へば初二句に多少の修辭上の技巧もあるが、それさへ右にあげたやうな前蹤があるのである。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首爲(ニ)2七日侍宴(ノ)1右中弁大伴宿禰家持預(メ)作(ル)2此歌(ヲ)1、但依(リテ)2仁王會事(ニ)1、却(テ)以(テ)2六日(ヲ)1於(テ)2内裏(ニ)1召(シテ)2諸王卿等(ヲ)1、賜(ヒ)v酒(ヲ)肆宴(シ)給(フ)v禄(ヲ)因(リテ)v斯(ニ)不(ル)v奏(セ)也、
 
七日の白馬節會の宴會の爲に、家持が豫め右の歌を作つた。併しその日は仁王會があることになり、白馬節會がなかつたので、六日に内裏に諸王・卿等を召されて宴曾のみが催されたから、この歌は奏上する機會を逸したといふのである。仁王會は朝廷に於て、朝家の御祈の爲に、仁王護國般若經を講ずる儀式。齊明天皇紀に、六年五月辛丑朔戊申、是月設2仁王般若之會1とあるのが、物に見えた最初である。續紀にも、神龜六年六月庚申朔講2仁王經於朝堂及畿内七道諸國1と見えてゐる。後世では、三月及び七月と定まつたやうだが、上代は臨時の行事であつたらしい。この歌は三日と六日との間に挾まつてゐるから,その間の作である。
 
六日、内庭(ニ)假(ニ)植(ヱテ)2樹木(ヲ)1以(テ)作(シ)2林帷《カキシロト》1而爲(ス)2肆宴(ヲ)1歌一首
 
(211)内庭は内裏の庭。林帷はカキシロと訓ず。樹木を植ゑて。幔幕の代りに、目を遮るものを作つたのである。舊本、惟とあるは帷の誤、細井本によつて改めた。この歌は右の歌の註に、却以2六日1於2内裏1召2諸王卿等1云々とある肆宴の時の歌。
 
4495 うち靡く 春ともしるく 鶯は 植木の木間を 鳴き渡らなむ
 
(打奈婢久)春ガ來タト著シクワカルヤウニ、鶯ハ、コノ庭ニ假ニ〔六字傍線〕植ヱタ木ノ間ヲ、傳ツテ鳴イテクレヨ。
 
○波流等毛之流久《ハルトモシルク》――春とも著く。春になつたと、はつきりわかるやうに。○宇惠木之樹間乎《ウヱキノコマヲ》――宇惠木《ウヱキ》は題詞に假植樹木とあるに當つてゐる。
〔評〕 その場の情景は想像せられるが、平庸な作だ。
 
右一首右中辨大伴宿禰家持、不v奏、
 
二月於(テ)2式部大輔中臣清麿朝臣之宅(ニ)1宴歌十首
 
二月の下に日を脱したか。中臣清麿の傳は、卷十九(四二五八)に記して置いた。式部大輔になつたことは、續紀に見えてゐない。
 
4496 うらめしく 君はもあるか 宿の梅の 散り過ぐるまで 見しめずありける
 
宇良賣之久《ウラメシク》 伎美波母安流加《キミハモアルカ》 夜度乃烏梅能《ヤドノウメノ》 知利須具流麻?《チリスグルマデ》 美(212)之米受安利家流《ミシメズアリケル》
 
貴方ハ恨メシイ御方デスヨ。御宅ノ梅ガ散ツテシマフマデ、私ニオ見セニナリマセンデシタヨ。
 
○伎美波母安流加《キミハモアルカ》――君はあるかなの意。モは詠歎の助詞。カも亦カモに同じく詠歎である。○美之米受安利家流《ミシメズアリケル》――見しめずありけるよの意。係辭なくして、ケルで結んでゐる形に注意したい。
〔評〕 梅の花が已に盛過ぎるまで、宴を開かなかつたことについて、主人に不平を述べたもの。親密の情があらはれてゐる。
 
右一首治部少輔大原今城眞人、
 
4497 見むといはば 否といはめや 梅の花 散り過ぐるまで 君が來まさぬ
 
美牟等伊波婆《ミムトイハバ》 伊奈等伊波米也《イナトイハメヤ》 宇梅乃波奈《ウメノハナ》 知利須具流麻弖《チリスグルマデ》 伎美我伎麻左奴《キミガキマサヌ》
 
貴方ガ梅ノ花ヲ〔七字傍線〕見ヨウト仰ルナラバ、私ハ〔二字傍線〕厭ダトハ言ヒマセヌ。梅ノ花ガ散ツテシマフマデ、貴方ガオイデニナラナイノデス。
 
○伎美我伎麻佐奴《キミガキマサヌ》――君が來給はぬよの意。舊本、左奴を世波に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。
〔評〕 前の歌の答。つまらぬ串戯を言ひ合つてゐる。
 
右一首主人中臣清麿朝臣
 
4498 はしきよし 今日の主人は 磯松の 常にいまさね 今も見るごと
 
(213)波之伎余之《ハシキヨシ》 家布能安路自波《ケフノアロジハ》 伊蘇麻都能《イソマツノ》 都禰爾伊麻佐禰《ツネニイマサネ》 伊麻母美流其等《イマモミルゴト》
 
懷カシイ今日ノ主人ハ、コノ池ノ〔四字傍線〕磯ニ生エテヰル松ノ如ク、今眼ノ前ニ〔四字傍線〕見ルヤウニ、御無事デ〔四字傍線〕何時マデモ變ラズニオイデナサイ。
 
○波之伎余之《ハシキヨシ》――愛《ハ》シキに嘆辭ヨシを添へてゐる。ハシキヤシに同じ。次句の主人《アロジ》にかかつてゐる。○家布能安路自波《ケフノアロジハ》――今日の主人は。アロジはアルジに同じ。○伊蘇麻都能《イソマツノ》――磯松の。枕詞ともいへるが、むしろ譬喩と見るべきであらう。磯松は、磯に生ふる松。○伊麻母美流其等《イマモミルゴト》――今眼前に見るやうに。モは添へて言つた感歎の助詞。
〔評〕 庭中の池の巖に生えた松に寄せて、主人をことほいである。儀禮的挨拶のみ。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
4499 吾がせこし 斯くしきこさば 天地の 神を乞ひのみ 長くとぞ思ふ
 
和我勢故之《ワガセコシ》 可久志伎許散婆《カクシキコサバ》 安米都知乃《アメツチノ》 可未乎許比能美《カミヲコヒノミ》 奈我久等曾於毛布《ナガクトゾオモフ》
 
貴方ガ私ヲ〔二字傍線〕、カヤウニマデモ、親切ニ〔三字傍線〕仰ツシヤツテ下サルナラバ、私モ嬉シウゴザイマスカラ〔私モ〜傍線〕、天地ノ神樣ニオ願ヒシテ、長命ヲシヨウト思ヒマス。
 
(214)○和我勢故之《ワガセコシ》――吾が兄子は家持を指してゐる。シは強める助詞。○可久志伎許散婆《カクシキコサバ》――斯くし聞こさば、シは強辭。キコスは仰せになる。宣ふの意。卷十一の不知二五寸許瀬余名告奈《イサトヲキコセワガナノラスナ》(二七一〇)、その他例が多い。○可未乎許比能美《カミヲコヒノミ》――神を乞ひ祷り。
〔評〕 前の家持の歌に對する答歌。好意を感謝し、神祇を祈つて長命しようといふのである。やはり儀禮的挨拶ながら、天地の神を乞ひ祷《ノ》みといつたのは、中臣氏の人らしい。
 
右一首主人中臣清麿朝臣
 
4500 梅の花 香をかぐはしみ 遠けども 心もしぬに 君をしぞ思ふ
 
宇梅能波奈《ウメノハナ》 香乎加具波之美《カヲカグハシミ》 等保家杼母《トホケドモ》 己許呂母之努爾《ココロモシヌニ》 伎美乎之曾於毛布《キミヲシゾオモフ》
 
梅ノ花ガ香ガ良イノデ、コノ家ハ〔四字傍線〕遠クハアルケレドモ、私ハ〔二字傍線〕心モシヲシヲト萎レテ、貴方ヲ懷シク思ツテヲリマス。ソレデ遠方ヲ尋ネテ來タノデス〔ソレ〜傍線〕。
 
○香乎加具波之美《カヲカグハシミ》――梅の花の香が香はしいので。○己許呂母之努爾《ココロモシヌニ》――心もしをしをと萎れて。卷三の人麿の作に、情毛思努爾《ココロモシヌニ》(二六六)とあるのに傚つたか。この他にも集中に例が多い。
〔評〕 梅の花の香をなつかしみ、遠路を宴席に列したことを述べ、併せて主人を慕ふ心の、切なるを言つてゐる。但し初句に梅の花を主格として言ひ起しながら、結句に君をしぞ思ふと言つた爲に、叙述が混亂に陷つた。なほ、集中梅花の香を歌つたものはこの一首のみである。その點から注意すべき作品であらう。この歌、袖中抄に載せてある。
 
(215)右一首治部大輔市原王
 
市原王は安貴王の御子。傳は卷三(四一二)に記しておいた。治部大輔になられたことは續紀に見えない。
 
4501 八千くさの 花はうつろふ 常磐なる 松のさ枝を 我は結ばな
 
夜知久佐能《ヤチクサノ》 波奈波宇都呂布《ハナハウツロフ》 等伎波奈流《トキハナル》 麻都能左要太乎《マツノサエダヲ》 和禮波牟須婆奈《ワレハムスバナ》
 
八千種ノ花ハ美シイケレドモ、スグニ色ガ〔美シ〜傍線〕褪セテシマヒマス。私ハ何時マデモ變ラナイ〔私ハ〜傍線〕常磐ノ松ノ枝ヲ結ンデ、貴方ノ永久ノ御繁榮ヲ祈リ〔ンデ〜傍線〕マセウ。
 
○夜知久佐能《ヤチクサノ》――八千種の。八千草ではない。○麻都能左要太乎《マツノサエダヲ》――松の枝を。サは接頭語。
〔評〕 初二句は第五句と對照すると、八千種の花は變り易いから、これを結ぶまいといふやうに聞えるが、花を結ぶことは無いから、唯常磐の松と對照せしめたのみである。松の枝を結ぶことは、卷二の有間皇子の歌(一四一)にもあり、當時の呪術の一で、無事を祈つたものらしい。松の枝を結んで、常磐の松のやうに、行末かはらぬ契を結ばうといつたとするのは當るまい。前の佐久波奈波宇都呂布等伎安里安之比奇乃夜麻須我乃禰之奈我久波安利家里《サクハナハウツロフトキアリアシビキノヤマスガノネシナガクハアリケリ》(四四八四)とも似通つた點がある。袖中抄に載せてある。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
4502 梅の花 咲き散る春の 永き日を 見れども飽かぬ 磯にもあるかも
 
烏梅能波奈《ウメノハナ》 左伎知流波流能《サキチルハルノ》 奈我伎比乎《ナガキヒヲ》 美禮杼母安加奴《ミレドモアカヌ》 伊蘇(216)爾母安流香母《イソニモアルカモ》
 
梅ノ花ガ咲イテハ散ル春ノ長イ日ニ、何時や割マデ〔四字傍線〕眺メテモ飽キナイ、御宅ノ御庭ノ池ノ〔八字傍線〕磯ノ景色デスヨ。コノ御庭ノ景色ノヤウニ、ココノ御主人モ何時マデ御話シテヰテモ飽クコトハアリマセヌ〔コノ〜傍線〕。
 
○左伎知流波流能奈我伎比乎《サキチルハルノナガキヒヲ》――梅の花が咲いては散る春の長き日に。かういふところにニを用ゐないで、ヲといふ場合が歌に多い。咲くとのみ言へばよいやうに見えるところを、咲き散るといふ例が本集に散在してゐるのは、散る樣を賞したのであらう。卷一の花散相秋津乃野邊《ハナチラフアキツノヌベ》(三六)なども、そのつもりで見なければならぬやうだ。
〔評〕 既に盛過ぎた梅であるから、特に咲キ散ルと言つたのであらう。靜かに庭上に散り來る梅花の中に、庭園の好景を眺めてゐる長閑な春の日の氣分と、併せて今日の主人に對する敬意とが述べられてゐる。悠揚たる調。
 
右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 
4503 君が家の 池の白浪 磯に寄せ しばしば見とも 飽かむ君かも
 
伎美我伊敝能《キミガイヘノ》 伊氣乃之良奈美《イケノシラナミ》 伊蘇爾與世《イソニヨセ》 之婆之婆美等母《シバシバミトモ》 安如無伎彌加毛《アカムキミカモ》
 
(伎美我伊敝能伊氣乃之良奈美伊蘇繭與世)繰返シ繰返シ幾度オ目ニカカツテモ、飽キル貴方デアリマセウヤ。決シテ貴方ハ見飽キノスル御方デハアリマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○伎美我伊敝能伊氣乃之良奈美伊蘇爾與世《キミガイヘノイケノシラナミイソニヨセ》――之婆之婆《シバシバ》といはむ爲の序詞。君が家の池の白浪が、巖に頻りに打寄せる意で下につづいてゐる。○之婆之婆美等母《シバシバミトモ》――屡々見るとも。頻繁にお目にかかつても。○安如無伎(217)彌加毛《アカムキミカモ》――飽くであらう君かは、決して飽きはせぬ。このカモは反語になつてゐる。アカヌキミカモといつても結局は同じになるが、全く違つた叙法になつてゐる。
 
〔評〕 上句は屋前見るところの光景を捉へて、序詞を作成したもの。打つ浪に寄せて、シバシバとかシクシクとか言つた例は、集中にいくらもあるが、時にとつてのよい着想といつてよからう。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
4504 うるはしと 吾が思ふ君は いや日けに 來ませ吾がせこ 絶ゆる日なしに
 
宇流波之等《ウルハシト》 阿我毛布伎美波《アガモフキミハ》 伊也比家爾《イヤヒケニ》 伎末勢和我世古《キマセワガセコ》 多由流日奈之爾《タユルヒナシニ》
 
懷カシイト私ガ思ツテヰル貴方ハ、毎日毎日途絶エル日ハナク、オイデ下サイ、吾ガ友ヨ。イツデモオイデ下サイ〔イツ〜傍線〕。
 
○宇流波之等《ウルハシト》――愛《ウルハ》しと。親愛なるものとの意 ○伎末勢和我世古《キマセワガセコ》――西本願寺本・神田本その他、古を呂に作る本が多い。セロは東語であるから、舊本の如くセコとあるべきである。
〔評〕 上に吾が思ふ君といつて、再び吾が兄子とあるのは、重複のやうでもあるが、吾が兄子と更に呼びかけたところに、親愛の情が見えてゐるのであるから、咎むべきでない。但しこれは例の御挨拶で、平凡な作である。
 
右一首中臣清麿朝臣
 
4505 磯のうらに 常よび來住む をしどりの 惜しき吾が身は 君がまにまに
 
(218) 伊蘇能宇良爾《イソノウラニ》 都禰欲比伎須牟《ツネヨビキスム》 乎之杼里能《ヲシドリノ》 乎之伎安我未波《ヲシキアガミハ》 伎美我末仁麻爾《キミガマニマニ》
 
(伊蘇能宇良爾都禰欲比伎須牟乎之杼里能)大切ナ私ノ體モ、貴方ノ御心次第デ、如何ヤウニモナリマス。私ハ心カラ貴方ヲ敬愛シテ居リマス〔デ如〜傍線〕。
 
○伊蘇能宇良爾《イソノウラニ》――卷七の礒之浦爾《イソノウラニ》(一三八九)、卷九の礒裏爾《イソノウラニ》(一七三五)などによつて、礒のまはりにと解すべきである。磯の内にとするのは採らない。○都禰欲比伎須牟《ツネヨビキスム》――常に喚び來りて棲む。鴛鴦は妻を呼びかはして、共に來り棲む意である。○乎之杼里能《ヲシドリノ》――鴛鴦の。ここまでは次句の乎之伎《ヲシキ》へつづく序詞。○乎之伎安我未波《ヲシキアガミハ》――ヲシキは愛《ヲ》しき。おのづから、惜しきの意に通じてゐるが、ここでは大切なといふやうな意に用ゐてある。
〔評〕 庭の池に飛び來つて、雌雄喚びかはしでゐる鴛鴦を以て、序詞とし、おのづから主人と自分との親睦さをあらはしてゐる。第二句の「常喚び來棲む」は調子が窮屈で無理がある。さりとて新考のやうに、都禰《ツネ》を都麻(妻)に改めようといふのではない。下句は友人の親愛の情をあらはす言葉としての極限であらう。
 
右一首治部少輔大原今城眞人
 
以上の十首は宴席に於ける主客の贈答を列記したもので、歌が社交の要具視せられて來たことを語つてゐる。いづれも體のよいお世辭である。
 
依(リテ)v興(ニ)各思(ヒテ)2高圓離宮處(ヲ)1作(レル)歌五首
右の中臣清麿の宴會で、高圓の離宮を追懷し、これを題として、各自が詠んだのである。
(219)宮處はタカマトノトツミヤドコロと訓む。高圓山の裾にあつた高圓の宮(四三一五・四三一六)である。
高圓離
 
4506 高圓の 野の上の宮は 荒れにけり 立たしし君の 御代遠そけば
 
多加麻刀能《タカマトノ》 努乃字倍能美也波《ヌノウヘノミヤハ》 安禮爾家里《アレニケリ》 多多志々伎美能《タタシシキミノ》 美與等保曾氣婆《ミヨトホソケバ》
 
高圓ノ野ノ上ノ離宮ハ荒レ果テタヨ。時々〔二字傍線〕行幸遊バシタ聖武天皇樣ノ御代ガ遠ザカツタノデ、ヒドク荒廢シタ。聖武天皇樣崩御ノ後ハ行幸啓モナイノデ、アノ離宮ガ荒レタノハ惜シイコトダ。ソレニシテモ、アノ御代ガ慕ハシイ〔ヒド〜傍線〕。
 
○努乃字倍能美也波《ヌノウヘノミヤハ》――野の上の宮は。高圓山が緩い傾斜をなして、西に向つて開けでゐる地點にあつたから、野の上の宮と稱し、又次の歌のやうに峯の上の宮とも言つたのである。○多多志々伎美能《タタシシキミノ》――立ち給うた君が。行幸遊ばした天皇が。伎美《キミ》は聖武天皇を指し奉る。舊本、多多志伎々美とあるのは誤。類聚古集・西本願寺本によつて改む。○美與等保曾氣婆《ミヨトホソケバ》――御代が遠ざかつたから。御代は御在位中のみを指したのではない。
〔評〕 聖武天皇の崩御は天平勝寶八歳五月二日であつたから、この天平寶宇二年二月まで、未だ二年には滿たないのであるが、當時早くも荒廢に歸してゐたのであらう。三句切の倒置法で、緊張した詠歎的の調子になつてゐるが、それだけ後世ぶりに聞える。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
4507 高圓の 尾の上の宮は 荒れぬとも 立たしし君の 御名忘れめや
 
多加麻刀能《タカマトノ》 乎能宇倍乃美也波《ヲノウヘノミヤハ》 安禮奴等母《アレヌトモ》 多多志志伎美能《タタシシキミノ》 美(220)奈和須禮米也《ミナワスレメヤ》
 
タトヒ〔三字傍線〕高圓ノ山ノ上ノ離〔傍線〕宮ハ荒レテシマツテモ、コノ離宮ヘ〔五字傍線〕行幸ナサレタ、太上〔二字傍線〕天皇樣ノ御名ヲ私共ハ〔三字傍線〕忘レマセウヤ。決シテ忘レハシマセヌ〔十字傍線〕。
 
○乎能宇倍乃美也波《ヲノウヘノミヤハ》――峯の上の宮は。前歌に野の上の宮とあるに同じ。○美奈和須禮米也《ミナワスレメヤ》――御名を忘れむや、忘れはしない。聖武天皇は御出家あらせられて、勝滿と申上げたので、御謚號が無かつたのを、天平寶字二年八月戊申始めて、勝寶感神聖武皇帝と申し、又|天璽國押開豐櫻彦尊《アメシルシクニオシハラキトヨサクラヒコノミコト》と謚し奉つた。この宴席の六ケ月後であるから、ここに御名とあるのは、これらの尊號をいふのではない。
〔評〕 前歌に和したもの。結句は卷二の明日香川明日谷將見等念八方吾王御名忘世奴《アスカガハアスダニミムトオモヘヤモワガオホキミノミナワスレセヌ》(一九八)を思はしめる。
 
右一首治部少輔大原今城眞人
 
舊本、少輔の下に大原の二字を脱してゐる。元暦校本によつて補ふべきである。
 
4508 高圓の 野邊はふ葛の 末終に 千代に忘れむ 吾が大君かも
 
多可麻刀能《タカマトノ》 努敝波布久受乃《ヌベハフクズノ》 須惠都比爾《スヱツヒニ》 知與爾和須禮牟《チヨニワスレム》 和我於侠伎美加母《ワガオホキミカモ》
 
(多可麻刀能努敝波布久受乃)末遠ク〔二字傍線〕最後マデ、千年ノ後〔二字傍線〕ニモ忘レルベキ、吾ガオ仕ヘ申シタ〔六字傍線〕太上天皇樣デアラウカヨ。太上天皇樣ノ御事ハ何時マデモ忘レマセヌ〔太上〜傍線〕。
 
○多可麻刀能努敝波布久受乃《タカマトノヌベハフクズノ》――高圓の野邊を這つてゐる葛の蔓が末長い意で、末につづく序詞である。高圓(221)離宮を偲んでゐることは、いふまでもない。○和我於侠伎美加母《ワガオホキミカモ》――このカモは反語である。
〔評〕 初二句を譬喩と見て、高圓の野邊を蔓ひわたる葛の、末終に絶せぬごとくと解するのは當らない。これは前の歌に和してゐるやうだ。
 
右一首主人中臣清麿朝臣
 
4509 はふ葛の 絶えずしぬばむ 大君の めしし野邊には 標ゆふべしも
 
波布久受能《ハフクズノ》 多要受之努波牟《タエズシヌバム》 於保吉美乃《オホキミノ》 賣之思野邊爾波《メシシヌベニハ》 之米由布倍之母《シメユフベシモ》
 
(波布久受能)絶エズ永久ニ〔三字傍線〕、御慕ヒ申スベキ太上〔二字傍線〕天皇樣ガ、御覽遊バシタ高圓ノ〔三字傍線〕野ニハ後ノ記念ノ爲ニ〔七字傍線〕、標繩ヲ張ツテ置クベキデアリマスヨ。
 
○波布久受能《ハフクズノ》――絶えずと言はむ爲に、枕詞として用ゐてゐる。○賣之思野邊爾波《メシシヌベニハ》――メシシは見給ひしの意。○之米由布倍之母《シメユフベシモ》――標繩を結ひ廻らして置けよ。モは詠歎の助詞。
〔評〕 前歌の野邊這ふ葛を受けて、這ふ葛を枕詞として用ゐてゐる。卷十八に、大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波之流久之米多底比等能之流倍久《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハシルクシメタテヒトノシルベク》(四〇九六)と歌つてゐる大伴家持が、ここに標結ふべしもと主張してゐるのはおもしろい。
 
右一首右中弁大伴宿爾家持
 
4510 大君の 繼ぎてめすらし 高圓の 野べ見るごとに ねのみし哭かゆ
 
(222)於保吉美乃《オホキミノ》 都藝弖賣須良之《ツギテメスラシ》 多加麻刀能《タカマトノ》 努敝美流其等爾《ヌベミルゴトニ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》
 
崩御アラセラレタ〔八字傍線〕太上天皇樣ガ、御在世ノ時〔五字傍線〕、續イテ御覽ニナツタラシイ高圓ノ野ヲ見ル度ニ、私ハ悲シクテ〔六字傍線〕聲ヲアゲテ泣クバカリデス。
 
○都藝弖賣須良之《ツギテメスラシ》――この良之《ラシ》を略解・古義などに、常のラシとは異なつて、過去のことをいへる詞としてゐる。ラシを過去として取扱ふことは困難であるが、卷二の 暮去者召賜良之明來者問賜良志《ユフサレバメシタマフラシアケクレバトヒタマフラシ》(一五九)のラシの例によれば、これを確定的な事實、又は過去の事實を述べる場合もあつたと見ることが出來るから、それによることにしよう。この句は、續いて御覽になつたであらうの意。但しここで切れてゐるのではなく、直ちに次句へつづいてゐると見るべきである。
〔評〕 崩御あらせられた天皇を追憶し奉つて、生前の御愛好になつた高圓の離宮に對して涙を催してゐるのは、尤もなことである。悲しい作だ。
 
右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 
以上の五首は四人で試みた連作で、先づ家持が第一首を作り、今城・清麿とつづけ、次にまた家持、次は伊香となつてゐる。かうした多人數で順次に歌を作つてゆく方法が、早くも後世の連歌への動向を示してゐるやうにも思はれる。
 
屬2目(シテ)山齋(ヲ)1作(レル)歌三首
 
(223)屬目は眺めること。山齋はシマと訓ず。庭園のこと。庭に池あり島があつたからである。卷三の吾山齋《ワガシマハ》(四五二)參照。山齋とは築山に四阿などを造つたからであらう。これも前と同時の作である。
 
4511 鴛鴦のすむ 君がこのしま 今日見れば 馬醉木の花も 咲きにけるかも
 
乎之能須牟《ヲシノスム》 伎美我許乃之麻《キミガコノシマ》 家布美禮婆《ケフミレバ》 安之婢乃波奈毛《アシビノハナモ》 左伎爾家流可母《サキニケルカモ》
 
鴛鴦ガ住ンデヰル、貴方ノ御池ノ〔三字傍線〕コノ庭ヲ、今日見マスト、丁度〔二字傍線〕馬醉木ノ花マデモ、美シク咲イテヰマスヨ。マコトニヨイ景色デゴザイマス〔マコ〜傍線〕。
 
○乎之能須牟伎美我許乃之麻《ヲシノスムキミガコノシマ》――前に伊蘇能宇艮爾都禰欲比伎須牟乎之杼里能《イソノウラニツネヨビキスムヲシドリノ》(四五〇五)とあつたのと同じく、清麿宅の庭の池の光景である。○安之婢乃波奈毛《アシビノハナモ》――馬醉木はアセミ・アセボ・ネヂキ。カンフヂなどの名もある。卷二の礒之於爾生流馬醉木乎《イソノウヘニオフルアシビヲ》(一六六)參照。
〔評〕 鴛鴦の浮んでゐる池の、築山に馬醉木の花が白く咲いてゐる光景を、そのままに詠んでゐる。歌は平凡といつてよい。
 
右一首大監物御方王
 
この王のことは前に三形王(四四八八)とあるところに記しておいた。
 
4512 池水に 影さへ見えて 咲きにほふ 馬醉木の花を 袖に扱きれな
 
伊氣美豆爾《イケミヅニ》 可氣左倍見要底《カゲサヘミエテ》 佐伎爾保布《サキニホフ》 安之婢乃波奈乎《アシビノハナヲ》 蘇弖爾古伎禮奈《ソデニコキレナ》
 
(224)池ノ水ニ影マデモ映シテ〔三字傍線〕見エテ、美シク咲イテヰル馬醉木ノ花ヲ、扱イテ袖ニ入レタイモノダ。ヨソナガラ見ルノハ物足リナイカラ〔ヨソ〜傍線〕。
 
○蘇弖爾古伎禮奈《ソデニコキレナ》――袖に扱き入れよう。馬醉木の花は群つて咲くから、扱くといふのにふさはしい。
〔評〕 卷十九に、この人が藤浪の花を、引攀而袖爾古伎禮都染婆染等母《ヒキヨヂテソデニコキレツシマバシムトモ》(四一九二)といつてゐる。花を愛して折り取るよりも、少しむごたらしいやうだ。この頃の愛翫法があらはれてある。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持
 
4513 磯かげの 見ゆる池水 照るまでに 咲ける馬醉木の 散らまく惜しも
 
伊蘇可氣乃《イソカゲノ》 美由流伊氣美豆《ミユルイケミヅ》 ※[氏/一]流麻※[泥/土]爾《テルマデニ》 左家流安之婢乃《サケルアシビノ》 知良麻久乎思母《チラマクヲシモ》
 
磯ノ影ガ映ツテ見エル池ノ水ガ、輝クバカリニ、水面ニ影ヲウツシテ〔水面〜傍線〕咲イタ美シイ〔三字傍線〕馬醉木ノ花〔二字傍線〕ガ、散ルノハ惜シイヨ。
 
○伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆《イソカゲノミユルイケミヅ》――磯の影が映つて見える池の水が。島の築山の巖の影が池に影を投じてゐるのである。略解に「磯陰のあしびの池水に照ばかり云々」とあるのは誤つてゐる。○※[氏/一]流麻※[泥/土]爾《テルマデニ》――照り輝くほどに。馬醉木の花は稀に少し赤味を帶びたのもあるが、多くは純白である。照るとあつても紅色ではない。
〔評〕 卷十の能登河之水底并爾光及爾三笠之山者咲來鴨《ノトガハノミナソコサヘニテルマデニミカサノヤマハサキニケルカモ》(一八六一)と同型で用語も似てゐる。恐らくは模傚であらう。
 
右一首大藏大輔甘南備伊香眞人
 
(225)二月十日於(テ)2内相(ノ)宅(ニ)1餞(スル)2渤海大使小野田守朝臣等(ヲ)1宴(ノ)歌一首
 
内相は紫微内相藤原仲麻呂。渤海大使は渤海國に赴く大使。渤海國は今の滿州・東蒙古にあたり、渤海灣に面した地。西暦七百年の頃國を建てて、震と稱した。もとの高麗國である。文武天皇の頃、大祚榮なるもの諸郡を併呑し國勢隆盛となつたので、唐王これを封じで渤海郡王とした。ここに始めて渤海の名があつた。吾が國との交渉は聖武天皇の神龜四年十二月に、寧遠・高仁義ら來朝のことが見え、これに對し、引田蟲麻呂を送使として遣されたことが續紀に見える。その後、延長八年に至つて、交通を絶つたことが史上に載つてゐる。小野田守朝臣を渤海に遣はしたことは續紀に記されてゐないが、天平寶字二年九月の條に、丁亥、小野朝臣田守等至v自2渤海1、大使輔國大將軍兼將軍行木底、州刺史兼兵署少正開國公揚承慶已下廿三人、隨2田守1來朝、便於2越前國1安置と見え、同年十二月戊申に遣渤海使小野朝臣田守等が、唐國の消息を奏上したことが記してある。小野田守は、天平十九年正月丙申正六位上から、從五位下、天平感寶元年閏五月甲午朔、太宰少貳天平勝寶五年二月辛巳、遣新羅大使六年四月庚午、太宰少貳、天平寶字元年六月戊午刑部少輔などの經歴で、この時遣渤海大使となつたのである。
 
4514 青海原 風波なびき ゆくさくさ つつむことなく 舟は早けむ
 
阿乎宇奈波良《アヲウナバラ》 加是奈美奈妣伎《カゼナミナビキ》 由久左久佐《ユクサクサ》 都都牟許等奈久《ツツムコトナク》 布禰波波夜家無《フネハハヤケム》
 
青々トシタ海ノ上ハ、浪モ風モ鎭マツテ、往キニモ歸リニモ、恙ナク貴方ノ乘ツテヰル〔八字傍線〕船ハ早イデセウ。
 
○阿乎宇奈波良《アヲウナバラ》――青海原。蒼海。○加是奈美奈妣伎《カゼナミナビキ》――風も波も靜まつて。ナビキは起つの反對で、穩やかになること。○由久佐久佐《ユクサクサ》――往く時も歸る時も。
(226)〔評〕 卷九の海若之何神乎齊祈者歟往方來方毛舶之早兼《ワタツミノイヅレノカミヲイハハバカユクサモクサモフネノハヤケム》(衰四)、卷十九の住吉爾伊都久祝之神言等行得毛來等毛舶波早家無《スミノエニイツクハフリガカムゴトトユクトモクトモフネハハヤケム》(四二四三)など、大體慣用語があつたのを用ゐてゐる。
 
右一首右中弁大伴宿禰家持 未v誦(セ)v之(ヲ)
 
七月五日於(テ)2治部少輔大原今城眞人宅(ニ)1餞(スル)2因幡守大伴宿禰家持(ヲ)1宴(ノ)歌一首
 
大伴家持が、因幡守になつたのは、續紀によれば、この年の六月丙辰である。
 
4515 秋風の すゑ吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ
 
秋風乃《アキカゼノ》 須惠布伎奈婢久《スヱフキナビク》 波疑能花《ハギノハナ》 登毛爾加※[身+矢]左受《トモニカザサズ》 安比加和可禮牟《アヒカワカレム》
私ガ因幡ノ國ヘ行ツタナラバ〔私ガ〜傍線〕秋風ガ枝ヲ吹キ靡カセル萩ノ花ヲ、貴方ト〔三字傍線〕共ニ挿頭ノ花トセズニ相共ニ別レルコトデセウカ。惜シイコトデス〔七字傍線〕。
 
○須惠布伎奈婢久《スヱフキナビク》――末吹き靡かすと、ありさうなところであるが、卷十に、眞葛原名引秋風吹毎《マクズハラナビクアキカゼフクゴトニ》(二〇九六)とあるによると、ナビクは靡カスの意に用ゐたと見える。○安比加和可禮牟《アヒカワカレム》――相共に別れて行かむか。
イハセヌニアキハギシヌギウマナメテハツトガリダニセズヤワカレム
〔評〕 この人が越中を去らうとした時の、伊波世野爾秋芽子之努藝馬並始鷹獵太爾不爲哉將別《》(四二四九)と同趣になつてゐる。また久米朝臣廣繩が家持と別れる時の君之家爾殖有芽子之始花乎折而挿頭奈客別度知《キミガイヘニウヱタルハギノハツハナヲヲリテカザサナタビワカルドチ》(四二五二)とも似て(227)ゐる。
 
右一首守大伴宿禰家持作(ル)v之(ヲ)
 
三年春正月一日於(テ)2因幡國廳(ニ)1賜(ヘル)2饗(ヲ)國郡司等(ニ)1之宴(ノ)歌一首
 
國廳は國の役所、廳を書紀にマツリゴトヤと訓んである。元日に國守が國郡司を饗することは、儀制令に凡元日國司皆率2僚屬郡司等1向v廳朝拜(セヨ)、訖長官受v賀、設v宴者聽(セ)、其食以2當處官物及正倉1充(ヨ)、曰所v須多少從(ヘ)2別式1とあつて、官物を用ゐて饗宴を催すことになつてゐたのである。因幡の國府は今の岩美郡國府村にあつた。廳・國分寺・法花寺・三代寺・町屋・中郷・美歎・宮下などの大字があり、國府址はその聽にある。ここは古への稻羽郷の地内で、稻羽山はその北方にある。鳥取市を距る一里。寫眞はこの歌を刻んだ碑。
 
4516 新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
 
新《アラタシキ》 年乃始乃《トシノハジメノ》 波都波流能《ハツハルノ》 家布敷流由伎能《ケフフルユキノ》 伊夜之家餘其騰《イヤシケヨゴト》
 
(228)新年ノ初ノ、初春ノ今日、大層澤山ニ雪ガ降ツテヰルガ、何卒コノ〔大層〜傍線〕降ル雪ノヤウニ、メデタイコトガ益々重ツテクレ。
 
○新《アラタシキ》――アタラシキと訓むのは、後に音が轉倒したのであらうから、アラタシキとすべきであらう。○家布敷流由伎能《ケフフルユキノ》――今日降る雪の如く。○伊夜之家餘其騰《イヤシケヨゴト》――彌々吉い事が重なれよ。シケは重《シ》くの命令形。ヨゴトは目出たい事。吉言・壽詞などのヨゴトもあるが、これはさうではない。
〔評〕 元旦の折から降り頻る雪に譬へて、今年は此の國に慶事が重なれと歌つてゐる。配下の幸福を思ふ國守の言葉として、まことに當然なものである。新年の雪を豐年の瑞とする意も含めてあるのであらう。かうしたおめでたい歌を以て、集の終としたのは決して偶然ではあるまい。
 
右一首大伴宿禰家狩作(ル)v之(ヲ)
 
萬葉集卷第二十
 
(229)先度諸本云
此本者、肥後大進忠兼之書也。〔以下略〕
 
萬葉集五句索引〔略〕
 
(1)   後記
 萬葉集全釋も漸く出版を完了する時が來た。書肆廣文堂との契約が成つて、昭和三年九月舊稿の補訂を始め、五年九月第一册、六年十月第二册、七年十月第三册、八年十月第四册、九年十二月第五册と、毎年一册づつを刊行して、今十年十一月に至つて、第六册を以て全部を終ることとなつた。この間滿七歳、予は全く萬葉集と共に明し暮して、また他事を顧る遑がなかつた。若しそれ舊稿起筆の明治四十三年から數へれば、正に二十五年、長いと言へばかなりの長さである。
 さて此處まで來て、書き上つた六册を眺めると、苦心のかなり大きかつたにも拘はらず、その出來映えのみすぼらしさに唯々恥入るのみである。着手以來、常に研究の基礎的作業を怠らぬやうにし、新古の學説を普く受入れ、公平な判斷のもとに取捨したつもりであつたが、しかし萬葉集はあらゆる學科の研究對象となるべきもので、單に國文學國語學の角度からのみ見てゐるわけには行かないことが多く、その點では幾度か大難關に逢着し、自己の學識の乏しさに長大息せざるを得なかつた。又近時、萬葉學の隆盛につれて、多くの單行本が公刊せられ、論文の發(2)表せられるものが學壇を賑はしてゐる。かういふものによつて、予の知識の不足が補はれたことの多いのは勿論であるが、時にはその新奇性に誘はれ、不用意にそれを採用して、意外の誤謬に陷つたものがないでもない。また長年月に亘る執筆の爲、記憶の錯誤を生じ、訓法や解釋の上に多少の矛盾を生じたのは、衷心忸怩たるものがあるのてある。それらは當然卷未に再考として修正補記すべきであるが、なほ斷定を他日に俟たればならぬものもあるから、今はそれには觸れないことにした。なほ第一册發刊當時は、全部を三册ぐらゐに纒める考で、なるべく要約して書く方針であつたが、意に滿たぬことが多く、書肆もこれを諒としたので、漸次叙法が精細になつて行つた。但し歌數の甚だ多い卷十・卷十一・卷十二の三卷は頁數を顧慮して、やはり筆を省略せざるを得なかつた。
 要するに、この書には著者自ら不滿とし、缺陷と思惟する點があつて、予としては一日も早くこれが補正を試みたい心で一杯であるが、輕卒に事を斷ずるのは却つて誤を重ねる虞があるから、しばらく差し控へる次第である。但し誤植その他、誤謬の明らかなるものは、改版の際訂正する筈である。契沖が水戸光圀の依嘱によつて萬葉集代匠記を完成し、初稿本を献じた後、再び稿を起して精撰本を物した心境は、今の予には能く諒解せられるやうに思ふのである。
(3) 併しこの書が拙いながらも、兎に角完成したことについて、やはり喜悦を禁じ得ないのであるが、それにつけても、大方諸賢に對して、感謝の念が漲り起るのである。第一册刊行以來、先輩・同學・知己の、好意ある批評や、激勵の辭を發表せられたもの多く、また未知の人々から、態々寄せられた同情の言葉も尠くなかつた。これらが予を感激せしめ執る筆の輕きを覺えしめたことは言ふまでもない。更に遠く回顧すれば、この書起稿の當時から、今日に至る間に於いて、予の爲に筆寫の勞をとられた人々は、鹿兒島時代には長谷場純成・篠原貞治の兩君があり、金澤に轉じてから、大正六七年の頃に佐治孝徳君あり、昭和に入つて愈々出版に着手してからは、順次に瀬川政尾・西脇勲・家門憲治・秋本吉郎の四君を煩はして、清書・校正・索引の作製等に盡力を乞うた。この機會に於いて、これらの諸君に滿腔の謝意を表する次第である。併しこの二十餘年の長期に亘り、原稿の整理・校正など、直接の助力をなすと共に、常に予の健康保持に專念し、また冗費を節して研究資料の蒐集を圖り、事業の遂行に貢献したものは妻千勢子である。今や相共に恙なくこの完成を賀し得ることは、實に無上の幸福と言はねばならぬ。
 更にこのついでを以て、少しく一家の私事を記すことを許されたい。予が父盛雄は、弘化の初年飛騨高山盆地の寒村に生れ、夙に國學に志して、田中大秀の門人なる富田禮彦に師事し、(4)明治の初め郷關を出でて、東京に飯田年平に學んだ人である。世相の激變と家運の推移とは、父をして長くこの道を辿らしめなかつたから、轉じて司直の廳に職を奉じ、終にそれを生涯の業としたのであるが、好める敷島の道は終身これを捨てず、作品の記録せられて遺されたもの數千首に及んでゐる。予が國文學に對する熱愛は、全く父の遺傳であり、その感化を受けたものと言つてよい。この書の出版に着手以來、予は毎朝父の靈前に額づいて完成を祈つて來た。今日の喜びに逢ふことが出來るのは、全く父の靈の援助にょるものと信ずるのである、
 萬葉集全釋は完成した。けれどもそれは予の萬葉集研究の終局ではない。日毎にその深さを加へ行く萬葉學の進歩に遲れじと、努力し精進し、今までの研鑽を基礎とし階梯として、更に第二段の發表に進みたいと思つてゐる。
 
昭和十年十一月菊薫る明治節の佳辰に當り、洪大なる皇恩を感謝しつつ、金澤市なる馬醉木園の草廬にて識す。
 
 
昭和十年十二月五日印刷
昭和十年十二月十日發行   萬葉集全釋第六冊
昭和十二年七月一日再版發行    定價金四圓五十錢
著作者  鴻 巣 盛 廣
 東京市京橋區京橋一丁目八番地
發行者  大 倉 廣 文
 東京市京橋區築地一丁曰十四番地
印刷者  川 橋 源 三 郎
 東京市京橋區京橋一丁目八番地
廣文堂書店
     振替東京四六八四番
     電話京橋五六六番
          〔2014年3月9日(日)午前10時50分、入力終了〕