卷第十三
 
(193) 萬葉集卷第十三解説
 
この卷は雜歌・相聞・問答・譬喩歌・挽歌の五部に分れてゐる。この分類法は本集諸卷の部門の殆ど全部を含むものを見ることが出來る(卷十一・十二の正述心緒・寄物陳思・覊旅發思などは相聞の小別である)。歌數は百二十七首で、これを細別すると、雜歌二十七首、内長歌十六首・旋頭歌一首・短歌十首。相聞五十七首、内長歌二十九首・短歌二十八首。問答十八首、内長歌七首・短歌十一首。譬喩歌。長歌一首。挽歌二十四首、内長歌十三首・短歌十一首であるが、更にこれを歌躰によつて通算すると。長歌六十六首、旋頭歌一首、短歌六十首である。併しながら、これらの旋頭歌及び短歌は、いづれも長歌の反歌として、附せられたものであるから、この卷は長歌のみを輯録したものといふことが出來るのである。この卷の年代に就いて眞淵は、卷一・卷二につぐものとして、これを第三に置き、「一二は古き大宮|風《ブリ》にして、時代も歌主もしるきをあげ、三には(今の十三)同じ宮|風《ブリ》ながら、とき代も歌ぬしもしられぬ長歌を擧げ」と記し、又別に。古事記に載せた允恭天皇の御子輕太子の御歌のあること、その他古代の作と思はれるもののあることを述べて古代から奈良の宮の初期までの歌が集まつてゐると斷じてゐる。この他、この卷の長歌の中で、反歌を添へざるもの十一首が存すること、五七の歌調が未だ整齊の域に達してゐない時期の作品と思はれるもののあることなどは、この卷の長歌の年代が古いことを語るものである。併し和銅元年五月に卒したらしい三野王を悼んだ歌、養老六年正月に佐渡に配流せられた穗積老の作と註した(194)歌があるから、この卷の中の新らしいものは、和銅・養老まで下ることは明らかである。ともかくこの卷の作品は、卷一・卷二と共に、集中の古いものであることは疑ひない。然しながら、その編纂の時代を卷一・卷二と同時とする見解には從ひ難い。予は寧ろこれを、作者未詳の旋頭歌短歌を集めた、卷十一・卷十二につづいて、作者未詳の長歌を輯めたものではなからうかと思つてゐる。なほこの卷には紀記に載せた歌と似たもののあること、本集の他の卷の歌に似た長歌があること、人麿の作品と修辭上似通つたもののあること、長い歌の一部を切り取つて獨立せしめたのではないかと思はれるもののあることなど、これらの諸點に注意せねばならぬ。この卷の文字使用法は、他の卷に比して戯書の多いことが著しく目につく。例へば一伏三向《コロ》・十六《シシ》・八十一《クク》・喚※[奚+隹]《ツツ》・喚犬追馬《マソ》などが用ゐられてゐる。この現象は卷一・卷二には殆どないことであるのに、それと古さを同じうするこの卷に、かく多くの戯書が用ゐられてゐるのはどういふわけであらう。これも亦研究を要する問題である。
 
(195)萬葉集卷第十三
 
雜歌二十七首
相聞歌五十七首
問答歌十八音
譬喩歌一首
挽歌二十四首
 
(197)雜歌 是中長歌十六首
 
この註は後人の書加へたものである。元磨校本にこの七字が無い。
 
3221 冬ごもり 春さり來れば あしたには 白露置き 夕べには 霞たなびく 風の吹く 木末が下に 鴬鳴くも
 
冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》 朝爾波《アシタニハ》 白露置《シラツユオキ》 夕爾波《ユフベニハ》 霞多奈妣久《カスミタナビク》 汗湍能振《カゼノフク》 樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》 (貝+貝)/鳥鳴母《ウグヒスナクモ》
 
(冬木成)春ニナルト、朝ハ白露ガ降リ、夕方ハ霞ガ棚引ク。サウシテ〔四字傍線〕風ノ吹ク梢ノ下デハ、鶯ガ嶋クヨ。春ハ誠ニ面白イ時節ダ〔春ハ〜字傍線〕。
 
○汗湍能振《カゼノフク》――舊訓アメノフルとある。代匠記初稿本のカゼノフクがよいか。考は汗微竝能《カミナミノ》、略解の宣長説は
御諸能夜《ミモロノヤ》、古義は泊湍能夜《ハツセノヤ》かと言つてゐる。○樹奴禮我之多爾《コヌレガシタニ》――樹奴禮《コヌレ》は木の末《ウレ》。即ち梢。○(貝+貝)/鳥鳴母《ウグヒスナクモ》――鶯鳴くよの意。
〔評〕 作の時代を明らかにしないが、調子の古朴なる點、及び反歌を添へない點などからして、かなり古いものと推測せられる。併しその内容から見れば、春の景物を叙し、風そよぐ梢の鶯を賞してゐるのは、既に國民の自然觀照の眼が大いに開けた時代なることを語つてゐるもので、いたく古いものとは、考へられない。およそ舒明天皇の御代を遡るあまり遠いものではあるまい。
 
右一首
 
(198)3222 三諸は 人の守る山 本べは 馬醉木花開き 末べは 椿花開く うらぐはし山ぞ 泣く兒守る山
 
三諸者《ミモロハ》 人之守山《ヒトノモルヤマ》 本邊者《モトベハ》 馬醉木花開《アシビハナサキ》 末邊方《スヱベハ》 椿花開《ツバキハナサク》 浦妙山曾《ウラグハシヤマゾ》 泣兒守山《ナクコモルヤマ》
 
三諸山ハ神聖ナ山トシテ〔七字傍線〕、人ガ山番ヲスヱテ〔六字傍線〕番シテヰル山ダ。麓ノ方ニハ馬醉木ノ花ガ咲キ、頂上ノ方ニハ椿ノ花ガ咲イテヰル。美シイ山ダゾ。人ガ絶エズ〔五字傍線〕(泣兒)番シテヰル三諸〔二字傍線〕山ハ〔傍線〕。
 
○三諸者《ミモロハ》――三諸は御室。即ち神のいますところ。飛鳥の神南備、雷山のことであらう。○人之守山《ヒトノモルヤマ》――神聖な山として人を猥りに登らしめぬ山をいふのであらう。代匠記精撰本に「守山は三諸山の一名と知るべし」とあり、略解は「人の守山はもろをもるに轉じて、宜しき山なれば、人の目かれずまもると言ひなせり。まもるは目守也」とある。山番を据ゑて守らしめる意であらう。○本邊者《モトベハ》――山の麓をモトと言つたのである。○末邊方《スヱベハ》――スヱは山の巓。○浦妙《ウラグハシ》――ウラは心、クハシは細妙。心になつかしく思ふこと。ウラグハシキといふべきを、かく續けるのが古格である。○泣兒守山《ナクコモルヤマ》――單に守山《モルヤマ》といふべきを、泣兒《ナクコ》を添へて面白くつづけてゐる。即ち泣兒は短いながら、序詞の如き用をなしてゐる。第二句の人之守山を繰返すかはりに、目先をかへて面白く言つたのである。
〔評〕 前歌と同じやうな古體である。仁徳天皇紀の菟道稚郎子の御歌、智破揶臂等于泥能和多利珥和多利涅珥多底屡阿豆瑳由瀰摩由彌伊枳羅牟苫虚虚呂波望閇耐伊斗羅牟苫虚虚呂破望閇耐望苫弊破枳瀰烏於望臂泥須惠弊破伊暮烏於望比泥伊羅那鷄區曾虚珥於望比伽那志鷄區虚虚珥於望臂伊枳羅儒層區屡阿豆瑳由瀰摩由瀰《チハヤヒトウヂノワタリニワタリゼニタテルアヅサユミマユミイキラムトココロハモヘドイトラムトココロハモヘドモトヘハキミヲオモヒデスヱベハイモヲオモヒデイラナケクソコニオモヒカナシケクココニオモヒイキラズゾクルアヅサユミマユミ》が思ヒ出されるが、内容も異なり、歌風もそれよりは新しい。三諸山の美を賞讃してゐるが、愛する女を三諸山に譬へたものと見られぬこともない。
 
右一首
 
3223 かむとけの 日かをる空の 九月の 時雨の降れば 鴈がねも いまだ來鳴かず 神南備の 清き御田屋の 垣内田の 池の堤の 百足らず 齋槻が枝に 瑞枝さす 秋のもみぢば まき持たる 小鈴もゆらに 手弱女に 我はあれども 引き攀ぢて 枝もとををに うち手折り 我は持ちて行く 君がかざしに
 
(199)霹靂之《カムトケノ》 日香天之《ヒカヲルソラノ》 九月乃《ナガヅキノ》 鍾禮乃落者《シグレノフレバ》 鴈音文《カリガネモ》 未來鳴《イマダキナカズ》 神南備乃《カムナビノ》 清三田屋乃《キヨキミタヤノ》 垣津田乃《カキツダノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 百不足《モモタラズ》 五十槻枝丹《イツキガエダニ》 水枝指《ミヅエサス》 秋赤葉《アキノモミヂバ》 眞割持《マキモタル》 小鈴文由良爾《ヲスズモユラニ》 手弱女爾《タワヤメニ》 吾者有友《ワレハアレドモ》 引攀而《ヒキヨヂテ》 峯文十遠仁《エダモトヲヲニ》 ※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》 吾者持而往《ワレハモチテユク》 公之頭刺荷《キミガカザシニ》
 
(霹靂之)日ガ曇ツテヰル空ノ九月ノ時雨ガ降ルト、鴈モ末ダ來テ鳴カズニヰルガ、飛鳥ノ〔四字傍線〕神南備ノ清淨ナ神〔傍線〕田ノ番ヲスル家ノアル所ノ、垣ノ内ニアル田ノ、用水トシテ堀ツテアル〔用水〜傍線〕池ノ堤ノ上ニ生エテヰル〔七字傍線〕(百不足)神聖ナ欅ノ木ノ枝ニ、勢ヨク繁ツテ枝ヲサシテヰル秋ノ紅葉ハ誠ニ美シクテ一人デ見ルノガ惜シイカラ〔ハ誠〜傍線〕、私ハ手ニ卷キツケテヰル釧トシテヰル小サイ鈴モ、カラカラト音ヲ立テル、カヨワイ女デハアルケレドモ、貴方ノ挿頭ニシヨウト思ツテソノ木ヲ〔シヨ〜傍線〕引キ寄セテ枝ヲタヲタヲト曲ゲテ〔三字傍線〕、私ハ折リ取ツテ持ツテ行ク。
 
○霹靂之《カムトケノ》――天智天皇紀に「霹2靂《カムトケセリ》於藤原内大臣家1」とあり、カムトケは神解で雷の落つることである。又カミトケとも言つてゐる。和名抄に「霹靂加美渡介霹析也。靂、歴也。所v歴皆破析也」とある。舊訓これをカミトケノとよんだのはわるくはないが、古義に從つてカムトケと訓まう。考にナルカミノと改めたのはなほ可ともすべきも、宣長が雨霧合《アマギラヒ》としたのは、甚だしい妄斷である。この句は霹靂の光の意でヒカの枕詞として見るのが、最も穩やかなやうである。○日香天之《ヒカヲルソラノ》――日曇る空の。カヲルは神代紀に「唯有2朝霧1而|薫滿之哉《カヲリミテルカモ》」とあり、曇ることだと言はれてゐる。卷二に鹽氣能味香乎禮流國爾《シホゲノミカヲレルクニニ》(一六二)のカヲルも曇る意と解く學者もある。一體この句は舊訓ヒカルミソラノとあるが、文字を補はねばさうは訓めぬやうだ。宣長は初句を天霧合《アマギラヒ》、この句を渡日香久之《ワタルヒカクシ》と改めたのは從ひがたい。○神南備乃《カムナビノ》――これも雷山であらう。○清三田屋之《キヨキミタヤノ》――清く穢無き御(200)田屋。ミは敬語。田屋は田を守る爲に建てた家。○垣津田乃《カキツダノ》――垣内田。垣の内に作つた田。○池之堤之《イケノツツミ》――垣内田に水を引くために池が堀つてあつたのであらう。その池の堤に生えてゐる齋槻とつづく。○百不足《モモタラズ》――枕詞。五十《イ》とつづく。○五十槻枝丹《イツキガエダニ》――五十槻は齋槻。神木として齋み清まはつてゐる槻。舊本、五を三に誤つてゐる。○水枝指《ミヅエサス》――水枝はみづみづしく榮えてゐる枝。○眞割持《マキモタル》――舊訓マサケモチを代匠記初稿本マサケモツとし、考はマキモタルと訓んでゐる。マサキモツとよんで小鈴《ヲスズ》の枕詞とし、マを接頭語、サキは鈴の口の割けてゐることとし、割けた鈴を手に着ける意とも解釋出來るであらうが、言葉のつづきが、少し無理であるから、寧ろ眞淵に從つて、マキモタルとし、纏持ちたるの意とすべきであらう。○小鈴文由良爾《ヲスズモユラニ》――卷十に足玉母手珠毛由良爾《アシダマモタダマモユラニ》(二〇六五)とあつたやうにモは助詞。ユラは玉の響である。○引攀而《ヒキヨヂテ》――攀は引くこと。登ることではない。一四六一參照。○峯文十遠仁《エダモトヲヲニ》――舊訓ミネモトヲヲニとある。或は木末の意で峯と言つたのかも知れないが、他にその例がない。考によつて延多の二字を峯に誤つたものとしよう。トヲヲはタワワに同じ。○※[手偏+求]手折《ウチタヲリ》――ウチは強めていふのみ。○公之頭刺荷《キミガカザシニ》――頭刺《カザシ》は插頭。冠の飾としてつけるもの。
〔評〕 雜歌の部に入れてあるが相聞の歌である。田舍少女が愛する男の爲に、池の堤の槻紅葉を折取つて行くといふので、歌調も古色を帶び内容も野趣が溢れてゐる。神聖な境地の齋槻、それはいづれ欝蒼とした大木であらうと思はれるが、その枝を女だてらに折取らうといふのはかなり勇敢さが無くてはなるまい。そこに戀の力があるのであらう。内容が長歌としては珍らしい。
 
反歌
 
3224 獨のみ 見れば戀しみ 神名火の 山のもみぢば 手折りけり君
 
獨耳《ヒトリノミ》 見者戀染《ミレバコヒシミ》 神名火乃《カムナビノ》 山黄葉《ヤマノモミヂバ》 手折來君《タヲリケリキミ》
 
私ハ自分〔四字傍線〕一人ダケデ見テハ飽キ足ラズ〔五字傍線〕戀シク思ハレルノデ、神南備山ノ紅葉ヲ、貴方ニ御覽ニ入レヨウト思ツ(201)テ〔貴方〜傍線〕折リマシタヨ。貴方、ドウゾ御覽下サイ。〔八字傍線〕
 
○獨耳見者戀染《ヒトリノミミレバコヒシミ》――一人のみ見ては飽き足らず、君に見せたく思はれるのでの意。新考は戀は不樂の誤でサブシミであらうと言つてゐる。○山黄葉《ヤマノモミヂバ》――長歌に堤とあるから、神名火の山裾の池に近く生えてゐるのを、略して山の黄葉ばと言つたのである。
〔評〕 長歌の意を更に要約、反復したもので、男に對する愛情があふれてゐる。
 
此一首入道殿讀出給
 
これはこの歌の訓點を附けた人のことを書き加へたので、入道殿は即ち御堂關白道長であらう。次點の時に書き入れた註と思はれる。元暦校本・天治本・神田本にこの一行がない。
 
右二首
 
3225 天雲の 影さへ見ゆる 隱口の 長谷の河は 浦無みか 船の寄り來ぬ 磯無みか 海人の釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 磯はなくとも おきつ浪 きほひこぎり來 白水即の釣船
 
天雲之《アマグモノ》 影塞所見《カゲサヘミユル》 隱來※[竹冠/矢]《コモリクノ》 長谷之河者《ハツセノカハハ》 浦無蚊《ウラナミカ》 船之依不來《フネノヨリコヌ》 礒無蚊《イソナミカ》 海部之釣不爲《アマノツリセヌ》 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者無友《ウラハナクトモ》 吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》 礒者無友《イソハナクトモ》 奧津浪《オキツナミ》 諍※[手偏+旁]入來《キホヒコギリコ》 白水郎之釣船《アマノツリブネ》
 
大空ノ雲ノ影モ映ツテ見エル(隱來※[竹冠/矢])長谷ノ川ハヨイ〔二字傍線〕浦ガ無イカラカ船ガ寄ツテハ來ナイ。又、ヨイ〔三字傍線〕磯ガ無イカラカ海人ガ來テ〔二字傍線〕釣モシナイ。ヨシヤヨイ〔二字傍線〕浦ハナクトモ、ヨシヤ佳イ〔二字傍線〕磯ハナクトモ、(奧津浪)先ヲ爭ツテ漕イデ入ツテ來ヨ。海人ノ釣舟ヨ。
 
(202)○影塞所見《カゲサヘミユル》――舊本、寒とあるは誤。元暦校本に塞とあるのがよい。○隱來※[竹冠/矢]《コモリクノ》――枕詞。長谷とつづくのは隱處即ち別の區劃をなして、大和の平原から入り込んだところの意であらう。ここに泊瀬を長谷と記したのも、その地形によったのである。長谷之河は泊瀬地方を流れる河で、大和河の上流。○吉畫矢寺《ヨシヱヤシ》――前に屡々用ゐられた句。ヨシヤといふに同じ。考は寺を志、古義は子の誤かと言ってゐる。○奧津浪《オキツナミ》――枕詞。沖の浪の競ひ立つのを諍《キホフ》につづけたのである。○諍※[手偏+旁]入來《キホヒコギリコ》――競ひて漕ぎ入り來れの意。舊本、諍を淨に誤つてゐる。西本願寺本・神田本など多く諍に作つてゐる。
〔評〕 森々と湛へた泊瀬川に、浮んだ海人小舟の影の見えないのを、物足りなく思つた歌である。河に浦といふのは、いかにもふさはしく思はれない。天雲の影さへ見える流であるから、かう言ったのであらうが、如何に上代は水量が多かつたにしても、現代人には理解しかねる構想である。或は卷十の海小船泊瀬乃山爾落雪之消長戀師君之音曾爲流《アマヲブネハツセノヤマニフルユキノケナガクコヒシキミガオトゾスル》(二三四七)の海小船泊瀬といふ枕詞などから、聯想して、こんなにつづつたものか。巻二の柿本人麿の石見乃海角乃浦回乎浦無等人社見良目滷無等人社見良目能咲八師浦者無友縱畫屋師滷者無鞆《イハミノミツヌノウラミヲウラナシトヒトコソミラメカタナシトヒトコソミラメヨシヱヤシウラハナクトモヨシヱヤシカタハナクトモ》(一三一)とあるのに用語が酷似してゐる。そのいづれが先であるか、今明らかでないが、この二者の間の關係は否み難い。
反歌
 
舊本反を友に作るは誤。天治本その他の古本皆反に作つてゐる。
 
3226 さざれ浪 浮きて流るる 泊瀬河 よるべき磯の 無きがさぶしさ
 
沙邪禮浪《サザレナミ》 浮而流《ウキテナガルル》 長谷河《ハツセガハ》 可依礒之《よるべきいその》 無蚊不怜也《ナキガサブシサ》
 
小波ガ水ノ上ニ〔四字傍線〕浮イテ流レルヤウニ見エル〔六字傍線〕、初瀬川ハ、誠ニヨイ川デアルガ、唯海人ノ釣舟ヲ〔誠ニ〜傍線〕、寄セルヤウナ磯ガナイノガ物足ラナイヨ。
 
(203)○沙邪禮浪《サザレナミ》――小波。漣。○浮而流《ウキテナガルル》――考に浮を湧の誤として、ワキテナガルルと訓み、古義は沸に改めて、タギチナガルルと訓んでゐる。卷三に不知代經浪乃去邊白不母《イサヨフナミノユクヘシラズモ》(一六四)とある如く、波は水面に浮動するものと考へたのであるからウキテがよい。
〔評〕 上句に泊瀬川の風景を述べて、この清流に舟を着ける處のないのは物足らぬと言つたのである。この渓流に對して眞面目にかういふことを考へたらしい氣分が見える。
右二首
 
3227 葦原の 瑞穗の國に 手向すと 天降りましけむ 五百萬 千萬神の 神代より 言ひ續ぎ來る 甘南備の 三諸の山は 春されば 春霞立ち 秋往けば くれなゐ匂ふ 甘南備の 三諸の神の 帶にせる 明日香の河の 水尾速み 生ひため難き 石枕 蘿むすまでに あらた夜の ききく通はむ ことはかり 夢に見せこそ 劍太刀 齋ひまつれる 神にしませば
 
葦原※[竹冠/矢]《アシハラノ》 水穗之國丹《ミヅホノクニニ》 手向爲跡《タムケスト》 天降座兼《アモリマシケム》 五百萬《イホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅカミノ》 神代從《カミヨヨリ》 云績來在《イヒツギキタル》 甘南備乃《カムナビノ》 三諸山者《ミモロノヤマハ》 春去者《ハルサレバ》 春霞立《ハルガスミタチ》 秋徃者《アキユケバ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》 甘甞備乃《カムナビノ》 三諸乃神之《ミモロノカミノ》 帶爲《オビニセル》 明日香之河之《アスカノカハノ》 水尾速《ミヲハヤミ》 生多米難《オヒタメガタキ》 石枕《イハマクラ》 蘿生左右二《コケムスマデニ》 新夜乃《アラタヨノ》 好去通牟《サキクカヨハム》 事計《コトハカリ》 夢爾令見社《イメニミセコソ》 劔刀《ツルギタチ》 齋祭《イハヒマツレル》 神二師座者《カミニシマセバ》
 
葦原ノ水穗ノ國デオ祀リスべキ神トシテ、天降ツテオイデニナツタ、五百萬、千萬ノ澤山ノ〔三字傍線〕神様ノソノ〔二字傍線〕神代ノ時〔二字傍線〕カラ、言ヒ傳へ語リ傳ヘ〔四字傍線〕テ、神聖ナ山トシテ〔七字傍線〕アル神南備ノ三諸山ハ、春ニナルト春霞ガ立チ、秋ガ來ルト紅ニ紅葉ガ〔三字傍線〕美シクナル。サウシテ〔三字傍線〕神南備ノ三諸山ニ祀ラレテヰル〔八字傍線〕神樣ガ、帶トシテ山ノ廻リヲ取リ卷イテ〔山ノ〜傍線〕ヰル飛鳥川ハ、水流ガ早イノデソノ石ニ苔ガ〔六字傍線〕生エ留マルコトモ出來ナイガ、ソノ〔三字傍線〕枕トスル石ニ、苔ガ生エルマデモ、(204)永イ年數ノ間私ハ〔八字傍線〕、毎夜毎夜、變リナク此處ヘ〔三字傍線〕通フ方策ヲコノ神樣ガ私ノ〔七字傍線〕夢ニオ告ゲ下サイ。劔太刀ヲ神體トシテ〔五字傍線〕齋キ祀ツテアル神樣ダカラ、ドウゾ私ノ願ヲカナヘテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○葦原※[竹冠/矢]水穗之國丹《アシハラノミヅホノクニニ》――言ふまでもなく吾が日の本の國のことである。○手向爲跡《タムケスト》タムケを考には「荒背向神を、和して此方へおも向しむるをいふ。手は詔給言《ノリトゴト》に手長の御世てふ如く、發言のみ」とあるが、手向はやはり神を祀ることであらぬばならぬから、葦原の瑞穗の國にて、奉祀するものとして、天降り給へる神々といふのであらう。○云績來在《イヒツギキタル》――宣長は來去《キヌル》の誤といつてゐるが、もとのままでキタルがよい。○甘南備乃三諸山者《カムナビノミモロノヤマハ》――甘南備は神の森、ミモロは神の室で。共に同義で、神南備山とも三諸山ともいつてゐる。これも雷岳のことである、○春霞立《ハルガスミタチ》――舊本、霰とあるはもとより霞の誤である。天治本その他の古本、多く霞に作つてゐる。○帶爲明日香之河之《オビニセルアスカノカハノ》――雷岳の麓を繞つて流れる飛鳥川を山の神の帶にし給へるものと見たので、これはこの下にも神名火山之帶丹爲流明日香之河乃《カムナビヤマノオビニセルアスカノカハノ》(三二六六)とあり、卷七にもボ嘉か緋點出し郡鮮即斷緋觀相《オホキミノミカサノヤマノオビニセルホソタニカハノ》(一一〇二)とある。○水尾速《ミヲハヤミ》――水尾《ミヲ》は水脈。水路。○生多米難《オヒタメガタキ》――古義にムシタメガタキとある。オヒの方が隱やかであらう。生ひ留め難き。苔が水流の早さに、生える暇がないのである。卷一の河上乃湯都盤村二草武左受《カハノヘノユツイハムラニクサムサズ》(二二)と同意である。○石枕《イハマクラ》――河中の石をさしていつてゐることは明らかであるが、枕は解し難い。或は卷十の天漢原石枕卷《アマノカハラニイソマクラマク》(二〇〇三)のやうに河邊に寢ることかとも思はれる。考には枕は根の誤として、イハガネノとよんである。古義はイハガネニとある。○新夜乃《アラタヨノ》――あらたまり行く夜即ち毎夜。新代として解く説はいけない。古義にこの句から次の二句を隔てて夢《イメ》とつづくとしたのは無理である。○好去通牟《サキクカヨハム》――サキクは變らずにの意。○事計《コトハカリ》――事の計畫。方策。卷四の次相見六事計爲與《ツギテアヒミムコトハカリセヨ》(七五六)とある。〇夢爾令見社《イメニミセコソ》――コソは希望。○劔刀齋祭《ツルギダチイハヒマツレル》――劍を以て神體として祀つてあることであらう。劍を納めてと解するのは、少し無理のやうである。
〔評〕 三諸山のほとりに住む女のもとに通ふ男の歌。雜歌の中に收めてあるが、相聞の歌である。考には新夜《アラタヨ》を新京と解して、「然れば此度は藤原宮へ遷幸して始て飛島御神社へ御使立、大幣神寶など奉給ふ時、その御使人(205)のよめる歌なるべし」とあるが、そんないかめしい歌ではない。かういふ歌に神代から説き起してゐるのは不似合だとの考もあらうが、これは神に祈誓するからであらう。
 
反歌
 
3228 神南備の 三諸の山に 齋ふ杉 おもひ過ぎめや 蘿生すまでに
 
神名備能《カミナビノ》 三諸之山丹《ミモロノヤマニ》 隱藏※[木+久]《イハフスギ》 思將過哉《オモヒスギメヤ》 蘿生右左《コケムスマデニ》
 
神南備ノ三諸ノ山ニ祀ツテアル神杉、ソレニ〔三字傍線〕苔ノ生エル永イ後々〔四字傍線〕マデモ、私ハコノ女ヲ〔六字傍線〕忘レヨウヤ。私ハ決シテ忘レズニ通ハウ〔私ハ〜傍線〕。
 
○隱藏※[木+久]《イハフスギ》――イハフは神聖なるものとして祀ること。卷四の僻郵警一秒か群鰯辭瞑ボ配か邦射撃點卿巾《ウマサケヲミワノハフリガイハフスギテフレシツミカキミニアヒガタキ》(七一二)、卷七の巌か卿昭か酢鋸蹴鄭桁《ミヌサトリカミノハフリガイハフスギハラ》(一四〇三)などに同じ。○思將過哉《オモヒスギメヤ》――決して忘れはせぬの意。
〔評〕 第三句の隱藏※[木+久]《イハフスギ》のスギを繰返して思將過《オモヒスギメヤ》と言たのは、卷九の神南備神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《カムナビノイカミヨリイタニスルスギノオモヒモスギズコヒノシゲキニ》(一七七三)と同一手法で、恰も上句が序詞のやうに見えるが、さうではなく、杉の蘿むすまでに思ひ忘れずの意になつてゐるのは珍らしい。
 
3229 齋串立て みわ据ゑまつる 神ぬしの うずの玉蔭 見れば乏しも
 
五十串立《イグシタテ》 神酒座奉《ミワスヱマツル》 神主部之《カムヌシノ》 雲聚玉蔭《ウズノタマカゲ》 見者乏文《ミレバトモシモ》
 
幣帛、玉ナドヲ挾ンデ立テル〔幣帛〜傍線〕齋串ヲ立テ、御神酒ヲ供ヘテ、神主ドモガ頭ノ飾ニ附外ケテヰル〔頭ノ〜傍線〕髻華《ウズ》トシテカケタ玉鬘ヲ見ルト、實ニ〔二字傍線〕珍ラシイ立派ナモノダ〔六字傍線〕ヨ。
 
○五十串立《イグシタテ》――五十串は齋串。幣・玉などを懸けて、神に捧げる串。神代紀一書に五百箇眞坂樹八十玉籤《イホツマサカキヤソタマクシ》・五百(206)箇野篶八十玉籤《イホツヌスズヤソタマクシ》などある。これによると小竹(篶)をも懸けたものか。○神酒座奉《ミワスヱマツル》――和名抄に、「日本紀私記(ニ)云(ク)神酒、和語云(ク)美和」とあり、神酒をミワといふ。神酒を入れた瓶を据ゑるのをミワスヱといつたのである。○神主部之《カムヌシノ》――考にハフリベガとあるのはよくない。舊訓も八雲御抄もカミヌシノとある。部はトモガラの意で添へて書いたのみ。○雲聚玉蔭《ウズノタマカゲ》――雲聚《ウズ》は推古天皇紀に「十一年十二月戊辰朔壬申、始行2冠位1云々、唯元日(ニハ)著2髻華1髻華此云2于孺1」と見えてゐる。古事記に見えた倭建命の御歌に伊能知能麻多祁牟比登波多多美許《イノチノマタケムヒトハタタミゴモヘグリノヤマノクマカシガハヲウズニサセソノコ》とあつて、木の葉・花などの類を髻につけたのである。卷十九にも島山爾照在橘宇受爾左之仕奉者卿大夫等《シマヤマニテレルタチバナウズニサシツカヘマツルハマヘツキミタチ》(四二七六)とあり、實の生つた橘の枝をつけてゐる。なほ、推古天皇十九年五月五日の條には「是日諸臣云々、各著2髻華1大徳小徳并用v金、大仁小仁用2豹尾1大禮以下用2鳥尾1」とあつて、金銀鳥獣の尾などを用ゐたのである。ここに玉蔭とあるは、玉の緒の影で、即ち玉かづらであらう。宣長が玉を山の誤とし、ヤマカゲと訓んで日蔭の鬘としたのはどうであらう。後世心葉と稱して冠の巾子に立てるのが即ちこの轉じたものである。○見者乏文《ミレバトモシモ》――見ると珍らしやの意。
〔評〕 三諸山の神に奉祀する神主の威儀を正した装を歌つたものである。前の歌と内容的にかけ離れてゐるので、これを反歌でないとも見ることが出來る。
 
右三首但或書此短歌一首無v有v載v之也
 
この註によつて、最後の短歌を、反歌でないとする説もある。新考には有を衍としてゐるが、總べての古本にある。
 
3230 みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穗積に至り 島網張る 坂手を過ぎ 石走る 甘南備山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば 古へおもほゆ
 
帛※[口+立刀]《ミテグラヲ》 楢從出而《ナラヨリイデテ》 水蓼《ミヅタデ》 穗積至《ホヅミニイタリ》 鳥網張《トナミハル》 坂手乎過《サカテヲスギ》 石走《イハハシル》 甘南備山丹《カムナビヤマニ》 朝宮《アサミヤニ》 仕奉而《ツカヘマツリテ》 吉野部登《ヨシヌヘト》 入座見者《イリマスミレバ》 古所念《イニシヘオモホユ》
 
(207)天子樣ガ〔四字傍線〕(帛※[口+立刀])奈良カラオ出カケニナリ(水蓼)穗積ニ行ツテ(鳥網張)坂手ヲ過ギテ(石走)神南備山デ行宮ニオ宿ナサレ、臣下ノモノハ〔行宮〜傍線〕」朝ノ御殿ニ奉仕申シ上ゲテ、ソレカラ離宮ノアル〔九字傍線〕吉野ノ方ヘオ入リニナルノヲ見ルト、昔ノ代々ノ天子樣モカウアツタラウト〔昔ノ〜傍線〕、古ノコトガ思ヒ出サレル。
 
○帛※[口+立刀]《ミテグラヲ》――帛は幣帛の帛でミテグラ、※[口+立刀]は集中に多いヲの字である。宣長が帛は内日を轉倒し、※[口+立刀]は刺の誤、次句の楢は都の誤でウチヒサスミヤコユイヂテであらうと言つたのは妄斷も甚しい。古義は※[口+立刀]を奉の草書から誤つたものとして、ヌサマツリと訓んだのも從ひ難い。ミテグラヲと訓んで代匠記初稿本のやうに「みてくらをもて、ならより出づるといふべきを、古歌にはことくはしからぬ事おほし」と見るのはかなり無理があるので、この訓を退ける説が出るのであるが、次々の句を見ると、これは楢の枕詞たることは否定し難い。多分|幣帛《ミテグラ》を並べる意で、奈良《ナラ》とつづくのであらう。○楢從出而《ナラヨリイデテ》――楢は言フまでもなく、奈良。奈良山あたりに楢ノ樹の木が多かつたのが地名になつたのであらう。あのあたりには、樹名から出た地名が多い。○水蓼《ミヅタデ》――舊訓ミヅタデノとある。考にミヅタデヲに改めたのは上に揃へたのだが、文字通り四言に訓むがよい。穗とつづく枕詞。水蓼は、一にヤナギタデとも稱するもので、莖の高さ二尺許、葉は披針形にして尖り、緑色にして辛味がある。原野並びに河邊に生ずる。○穗積至《ホヅミニイタリ》――穗積は今の山邊郡朝和村大字新泉の附近であらうといふ。丹波市の南方にあたる。第一册附録、大和地圖參照。○鳥網張《トナミハル》――枕詞。山腹の傾斜面に鳥網を張るから、鳥網張る坂とつづく。○坂手乎過《サカテヲスギ》――坂手は磯城郡川東村大字坂手であらう。田原本の東に接してゐる。景行天皇紀に坂手池を造ることが見える。○石走《イハハシル》――枕詞。冠辭考にはイハハシノとよんで、いははしは石を並べたものであるから、イハハシの並《ナヒ》とつづくとしてゐる。新考には「石階アルといふ意とおぼゆればイハバシノとよむべし」とある。この枕詞は舊訓イハバシルとあり、淡海・瀧《タギ》などにつづくを常としてゐるのに、ここに特例として甘南備に連つてゐる。古義はイハハシルと訓んで「石を走り激つ瀬音の雷鳴振《カムナリブル》といふ意に、つづきたるにやあらむ。雷《カミ》の如聞ゆる瀧などよめるを併せ考ふべし」とあるが、無理な説であらう。これは甘南備山の麓を流れる飛鳥川がここで(208)瀧をなしてゐることを述べたので、この山からその情景が見えるから、かく續けたものに違ひない。今もその石走り流れた趾と思はれるものが山麓に殘つてゐる。第二册口繪參照。○甘南備山乃《カムナビヤマニ》――上に述べたやうに、甘南備山は雷岳。○朝宮仕奉而《アサミヤニツカヘマツリテ》――これは天皇がこの甘南備山の離宮に一夜を過し給ひて、供奉のものが、朝の御機嫌を奉伺し、それから出發して吉野へ赴き給ふといふ意で、極めて簡潔に、要領よく述べた言葉である。
〔評〕 天皇が奈良を御出發遊ばされ、飛鳥の神南備の行宮に御假泊、翌日吉野離宮に入り給ふ順路を詠んだものである。内容から見て、既に奈良遷都以後の作なることがわかる。歌詞はかなり古いから、元明天皇の御代のことであらう。
 
反歌
 
3231 月日は かはり行けども 久にふる 三諸の山の とつ宮どころ
 
月日《ツキヒハ》 攝友《カハリユケドモ》 久經流《ヒサニフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤドコロ》
 
月日ハ移リカハツテ行ツテ、ソレカラ永年ニナル〔ツテ〜傍線〕ガ、久シク續イテ、カハラナイ三諸ノ山ノ離宮ヨ。
 
○攝友《カハリユケドモ》――この句は極めて讀み難い。代匠記初稿本は攝を隔の誤とし、ヘタタリヌトモ、同じく精撰本は攝を接の誤かとしてゐるが、攝は代の意に用ゐたものとして、カハリユケドモと訓んだ考によることにした。舊訓カハリユクトモ、西本願寺本などカハリユケドモとあるから、古訓中の多きをも參考としたものである。その他、略解は攝の下に往の字、脱とし、訓は同じく、古義は攝の上、行の字、脱とし、ユキハカハレドモとよんでゐる。新訓に、次句の久までをつづけて、ユケドモヒサニとしたのは、注意すべき一案であらう。○久經流《ヒサニフル》――久しく續いてゐる。新訓は久を上の句に入れて、これをナガラフルとよんでゐる。○礪津宮地《トツミヤドコロ》――外つ宮處。離宮の地。雷岳に古くから、離宮が設けられてゐたのである。卷三の人麿の皇者神二四座者天雲之雷之上爾廬(209)爲流鴨《オホキミハカミニシマセバアマグモノイカヅチノウヘニイホリセルカモ》(二三五)は持統天皇がこの離宮に御宿泊の場合の作らしい。
 
〔評〕 二三の句に少しよみにくいところがあるが、右の如く訓めば、上品な調の高い歌である。枕草紙に「月も日もかはりゆけども久にふるみむろの山のといふ古言をゆるるかにうちよみ出し給へるいとをかしとおぼゆるを云々」とあり、袖中抄にも「月も日もあらたまれども久にふるみむろの山のとつみや所」とあるから、古くから人口に膾炙した歌であつたのである。
 
此歌入道殿讀出給
 
次點の際、御堂關白道長が訓を附けたといふ註である。元磨校本・天治本など、この一行無い本が多い。
 
右二首 但或本歌曰 故王都跡津宮地《フルキミヤコノトツミヤドコロ》也
 
これは四五の句の異本である。故王都《フルキミヤコ》は飛鳥の京を指すのであるが、ここの反歌としては、三諸之山の方がよい。
 
3232 斧取りて 丹生の檜山の 木こり來て 筏に作り ま楫貫き 磯榜ぎたみつつ 島傳ひ 見れども飽かず み吉野の 瀧もとどろに 落つる白浪
 
斧取而《ヲノトリテ》 丹生檜山《ニフノヒヤマノ》 木折來而《キコリキテ》 機爾作《イカダニツクリ》 二梶貫《マカヂヌキ》 礒※[手偏+旁]回乍《イソコギタミツツ》 島傳《シマヅタヒ》 雖見不飽《ミレドモアカズ》 三吉野乃《ミヨシヌノ》 瀧動動《タギモトドロニ》 落白浪《オツルシラナミ》
 
斧ヲ持ツテ丹生ノ檜山ノ木ヲ伐ツテ來テ、ソレヲ〔三字傍線〕筏ニ作リ、ソレニ〔三字傍線〕左右ノ楫ヲカケテ、岸ヲ漕ギ回リ、島ヲ漕ギ〔二字傍線〕傳ツテ、遊ンデ〔三字傍線〕見テ廻ツテ〔三字傍線〕モ、吉野ノ瀧ノ音〔二字傍線〕モ※[革+堂]々ト鳴ツテ落チル白浪ノ有樣〔三字傍線〕ハ、面白クテ〔四字傍線〕飽クコトガ無イヨ。
 
○丹生檜山《ニフノヒヤマ》――丹生は吉野川上流の地名。卷三に丹生乃河瀬者不渡而《ニフノカハセハワタラズテ》(一三〇)、卷七に斐太人之眞木流云爾布乃河《ヒダビトノマキナガストフニフノカハ》(210)(一一七三)とある。檜山は檜の生えてゐる山。○機爾作《イカタニツクリ》――舊本、機をフネとよんでゐるが、この文字は元暦校本は※[木+義]、西本願寺本は※[木+茂]、京大本は艤に作つてゐる。ともかく機は誤らしい。イカダと訓むべきであらう。
〔評〕 鮮明な歌である。前の歌と歌風も似てゐるし、内容から見ても、同じ場合の作かと思はれるから、或は同一人の作かも知れない。
 
旋頭歌
 
3233 み吉野の 瀧もとどろに 落つる白浪 とまりにし 妹に見せまく 欲しき白浪
 
三芳野《ミヨシヌノ》 瀧動動《タギモトドロニ》 落白浪《オツルシラナミ》 留西《トマリニシ》 妹見卷《イモニミセマク》 欲白浪《ホシキシラナミ》
 
芳野ノ瀧ノ音モ※[革+堂]々ト、落ツル白浪ノ面白サヨ〔五字傍線〕。家ニ留守居ヲシテヰル妻ニ見セタイト思フコノ〔二字傍線〕白浪ノ景色ヨ。一人デコノ良イ景色ヲ見ルノハ惜シイモノダ〔ノ景〜傍線〕。
 
○瀧動動《タギモトドロニ》――考はこの歌を短歌に改めて、動動と次句の落の三字を省いて、タキノシラナミとしてゐるが、もとより採るに足らぬ。○妹見卷《イモニミセマク》――舊訓、イモヲミマクとあるのは、よくない。見の下、天治本に西の字がある。
〔評〕 前の長歌の反歌として添へた旋頭歌である。古寫本はここに反歌とあるから、それが原形であらう。舊本は特種の歌躰だから旋頭歌と記したのである。併し考に「反歌、今本ここに旋頭歌と有はいふにも足らず、目録にもなければ、ただ近頃のひがわざなり」と斷じたのは從ひ難い。集中、長歌に反歌として、旋頭歌を添へた唯一の例である。長歌で吉野川の勝景を讃へ、反歌では轉じてこれを妻に見せたいと述べたので、明朗な佳調である。
 
右二首
 
3234 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の 聞し食す 御饌つ國 神風の 伊勢の國は 國見ればしも 山見れば 高く貴し 河見れば さやけく清し みなとなす 海も廣し 見渡しの 島の名高し ここをしも まぐはしみかも 掛けまくも あやにかしこき 山の邊の いしの原に うち日さす 大宮仕へ  朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ榮えて 秋山の 色なつかしき 百磯城の 大宮人は 天地 日月と共に 萬代にもが
 
(211)八隅知之《ヤスミシシ》 和期大皇《ワゴオホキミ》 高照《タカテラス》 日之皇子之《ヒノミコノ》 聞食《キコシヲス》 御食都國《ミケツクニ》 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃國者《イセノクニハ》 國見者之毛《クニミレバシモ》 山見者《ヤマミレバ》 高貴之《タカクタフトシ》 河見者《カハミレバ》 左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》 水門成《ミナトナス》 海毛廣之《ウミモヒロシ》 見渡《ミワタシノ》 島名高之《シマノナタカシ》 己許乎志毛《ココヲシモ》 間細美香母《マグハシミカモ》 挂卷毛《カケマクモ》 文爾恐《アヤニカシコキ》 山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃原爾《イシノハラニ》 内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤツカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》 目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》 春山之《ハルヤマノ》 四名比盛而《シナヒサカエテ》 秋山之《アキヤマノ》 色名付思吉《イロナツカシキ》 百磯城之《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》 天地《アメツチ》 與日月共《ヒツキトトモニ》 萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》
 
(八隅知之)我ラガオ仕ヘ申ス〔五字傍線〕天子樣、(高照日ノ御子デイラセラレル天子樣〔デイ〜傍線〕ガ、召シ上ガル御饌ノ料ヲ調《ミツギ》トシテ上ゲル(神風之ノ)伊勢ノ國ハ、國ヲ見ルト誠ニ佳イ國ダ〔六字傍線〕。山ヲ見ルト高ク貴イ。河ヲ見ルト美シク清イ。河口ノヤウニナツテヰル、入海ノヤウナ〔六字傍線〕海モ廣イ。見渡ス所ニアル〔四字傍線〕島ハ名高イ島ダ。コノ點ガヨイカラカ、口ニ出シテ言フノモ不思議ニ恐レ多イ、山邊ノ五十師ノ原ト云フ所〔四字傍線〕ニ、(内日刺)大宮ヲ御作リ申シテアルガ、朝日ノヤウニ実シイ所ダヨ。夕日ノヤウニ心面白イ所ダ。(春山之)艶ニ美シク榮エテ、(秋判之〔三字傍線〕)色ノナツカシイ着物ヲ着テヰル〔七字傍線〕(百磯城之)大宮ニ仕ヘテヰル〔五字傍線〕人タチハ、天地日月ト共二、萬年ノ後マデモ、榮エナサルヤウニ〔八字傍線〕アリタイモノダ。
 
○八隅知之和期天皇高照日之皇子之《ヤスミシシワゴオホキミタカテラスヒノミコノ》――既出。卷一(五〇)參照。○聞食《キコシヲス》――支配部し給ふ。○御食都國《ミケツクニ》――御饌つ國。天皇の御饌に奉仕し、御膳の料を貢とする國。卷六に御食國志麻乃海部有之《ミケツクニシマノアマナラシ》(一〇三三)とあるが、ここは伊勢國を言つてゐる。○神風之《カムカゼノ》――枕詞。神風の息《イ》とつづくか。神風乃伊勢處女等《カムカゼノイセヲトメドモ》(八一)參照。○國見者之毛《クニミレバシモ》――ここ(212)が破調になつてゐるのは變である。國見者の下に脱字があるのではないかとの想像が浮ぶ。代匠記初稿本に「此下に之毛の上に、かんなにして五もじ落たり」とあり、考は阿夜爾久波《アヤニクハ》の五字脱かとしてゐる。略解はこれによつて、之は乏の誤で、アヤニトモシモかとしてゐるが、古義はこの國見者之毛を衍字としてゐる、遽かに斷じ難いが、寧ろ衍とする方が穩やかである。○水門成《ミナトナス》――湊の如く。水門《ミナト》は河口で、即ち河口の如くなつてゐる、舟を着けるによい灣が多い海と下へつづくのである。○海毛廣之《ウミモヒロシ》――舊訓ウミモユタケシを略解ウミモマヒロシと改めてゐる。マは不必要であらう。○見渡《ミワタシノ》――舊訓ミワタセル、考はミワタス、略解による。○島名高之《シマノナタカシ》――古義は名を毛に改めて、シマモタカシと訓んでゐる。舊訓のままがよい。古義はこの下に曾許乎志毛浦細美香《ソコヲシモウラグハシミカ》の九字を補つてゐる。○己許乎志毛《ココヲシモ》――これをの意。此處ではない。○間細美香母《マグハシミカモ》――マは接頭語。意味はない。クハシは美し。上からつづいて、この句は、この點がよいからかの意である。○山邊乃五十師乃原爾《ヤマノベノイシノハラニ》――卷一に山邊乃御井乎見我?利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》(八一)とあるところで、宣長の玉勝間には伊勢國鈴鹿郡山邊村の今の石藥師驛が、この五十師の原だといつてゐる。山邊は鈴鹿川の北岸で、石藥師村の東南十三町許の地である。今、山邊は河藝郡に、石藥師は鈴鹿郡に屬してゐる。併し予は五十師の原は壹志の原、即ち壹志郡の平野と考へてゐる。委しく評の部に記して置いた。○内日刺《ウチヒサス》――枕詞。大宮にかかる。四六〇參照。○大宮都可倍《オホミヤツカヘ》――略解に「大宮つかへは、大神宮の御事は天皇の大宮とひとしく申せり。是れより下は齋王の神宮に仕奉給ふさまを言ふ」とあるが、神宮から遠く離れてゐる山邊の五十師の原に齋王のおはします理由はない。これは唯、行宮を造り奉る意をかく言つたであらう。○朝日奈須《アサヒナス》――朝日の如く。○春山之《ハルヤマノ》――枕詞。譬喩としてもわるくはない。○四名比盛而《シナヒサカエテ》――シナヒは靡く。花の枝もたわわに咲き誇るを靡《シナ》ひ榮えといつたのである。○秋山之《アキヤマノ》――枕詞。色とつづく。○百磯城之《モモシキノ》――枕詞。大宮とつづく。二九參照。○大宮人者《オホミヤビトハ》――この大宮人は奉仕の女官であらうといはれてゐる。前の譬喩を見るとさう思はれる。○天地與日月共《アメツチヒツキトトモニ》――與の字は下につけて、ヒツキトとなるのであらう。上につけてアメツチトと訓む説はおもしろくない。卷二に天地日月與共《アメツチヒツキトトモニ》(二二〇)、卷十九に天地日月等登聞仁《アメツチヒツキトトモニ》(四二五四)とある。この語例に從ふべく、この用字法に囚はれてはいけない。
(213)〔評〕 この歌は始に伊勢の國の山河海島の形勝を説き、この國の山邊の五十師の原に設けられた行宮を禮讃しそこに奉仕する大宮人をことほいだもので、卷一に出てゐる柿本人麿の幸于吉野宮之時の歌(三六・三七・三八・三九)や同卷の藤原宮御井歌(五二)などと同種のもので、かういふ件が他にも赤人・金村などによつて作られてゐる。山邊の五十師原の所在が、判然しないのでその地形が明らかでなく、從つて、歌の解釋にもそれが影響するのは遺憾である。卷一の山邊乃御井乎見我?利神風乃伊勢處女等相見鶴鴨《ヤマノベノミヰヲミガテリカムカゼノイセヲトメドモアヒミツルカモ》(八一)の山邊の御井と同所らしく思はれるが、それが果して今の石藥師なりや否や、頗る疑はしい。卷六にかげた十二年庚辰冬十月依2太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀v反發1v軍幸2于伊勢國1之時河口行宮内舍人大伴宿禰家持作歌一首(一〇二九)の條に委しく説明したやうに、當時大和から伊勢への通路は伊賀を經て壹志郡へ出て、大神宮に語るので、特別の事情があつて、北方に赴かれるとしても、その通路は右の卷六の説明にあるやうな順序であつたらうと想像せられる。然るにこの歌は伊勢の形勝を讃へる詞のうちに、海に近く島を望むやうな南伊勢の氣分がおのづからあらはれてゐ、又、この宮は離宮のやうな常置のものらしく見える。且反歌によると附近に山がなくてはならぬ。著者もわざわざ實地を踏査して見たが、山邊・石藥師の附(214)近の地形は、宣長が玉勝間に「此山邊村はその野の東のはづれの、俄にくだりたるきはの低き所なる故に、東の方より見れば小山の麓なり。さればかの長歌の反に、おのづからなれる錦をはれる山かもとよめるも、西の方よりはただ平なる地の續なれども、東より見たる樣によりて山とはいへるなりけり」と言つてゐる通りであるが、山といふ感じが薄い。山田孝雄氏は山邊の御井の所在を、御鎭座本紀によつて、壹志郡新家村としてゐるのは注目すべき説である。併しここは、石藥師よりも一層平野の中にあつて、附近に山らしいものがない。眞淵は師を鈴の誤として、五十鈴の原かと言つてゐるが、予はこの五十師の原を一志の原として、一志郡の中心なる一志、(今の豐地村)附近の平地と見たいと思ふ。一志をイシと訓んだことは、三代實録第三參河介壹志宿禰にイシと點を附し、准后親房洞津考に、「天富饒はいしの郡しりきて云々」とあるのは、古訓を遺せるものであらう。さればイキを壹岐と記す如く、イシに壹志の文字を當てたものに違ひない。なほこの地に近く宮古村があり、上代離宮の所在たるを思はしめ、其處に忘井の名が遺つてゐるのは、この御井ではないかと思はれる。舊初瀬街道に添うて、上代の通路に當り、西方數町を距てて小山がある。なほこの歌の時代を宣長は持統天皇の御幸の時と推定してゐる。(215)歌風より推しておよそその頃と判斷してもよい。二一三頁の寫眞は豐地村一志附近の平地。森は豐地神社。著者撮影。二一四頁の寫眞は宮古村忘井。前面の木立あるところが忘井で碑が立つてゐる。著者撮影。
 
反歌
 
3235 山の邊の いしの御井は おのづから 成れる錦を 張れる山かも
 
山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃御井者《イシノミヰハ》 自然《オノヅカラ》 成錦乎《ナレルニシキヲ》 張流山可母《ハレルヤマカモ》
 
山邊村ノ五十師ノ御井ト云フ井ノアタリノ山ハ、佳イ景色ダガ、コレ〔ト云〜傍線〕ハ自然ニ出來タ錦ヲ張リ廻シタ山ダヨ。實ニ美シイモノダ〔八字傍線〕。
 
○自然成錦乎《オノヅカラナレルニシキヲ》――自然に出來た錦を。長歌には何等この作の季節を推定し得べき叙述がない。從つてこの錦は春の花、秋の紅葉のいづれを指すか明らかでない。卷六の錦成花咲乎呼里《ニシキナスハナサキヲヲリ》(一〇五三)によれば、春の花の風景である。
〔評〕 御井の後方に山が聳えてゐるのであらうが、五十師乃御井者《イシノミヰハ》と言つて、山可母《ヤマカモ》と受けたのは少し變である。この二首は卷一の藤原宮御井歌(五二)と何となく似た氣分である。
 
此歌入道殿下令讀出給
 
これは前の三二三一の場合と同じく、藤原道長の訓なる旨を記して置いたのである。この十字は舊本に、歌の下に直ちに續けて記してあるが、元麿校本・天治本などに無いのがよい。
 
右二首
 
3236 空みつ 大和の國 あをによし 奈良山越えて 山城の つづきの原 ちはやぶる 宇治の渡 瀧の屋の 阿後尼の原を 千歳に かくることなく 萬歳に 在り通はむと 石田の森の 皇神に ぬさ取り向けて 我は越え行く 相坂山を
 
(216)空見津《ソラミツ》 倭國《ヤマトノクニ》 青丹吉《アヲニヨシ》 寧山越而《ナラヤマコエテ》 山代之《ヤマシロノ》 管木之原《ツヅキノハラ》 血速舊《チハヤブル》 于遲乃渡《ウヂノワタリ》 瀧屋之《タギノヤノ》 阿後尼之原尾《アゴネノハラヲ》 千歳爾《チトセニ》 闕事無《カクルコトナク》 萬歳爾《ヨロヅヨニ》 有通將得《アリカヨハムト》 山科之《ヤマシナノ》 石田之森之《イハタノモリノ》 須馬神爾《スメガミニ》 奴差取向而《ヌサトリムケテ》 吾者越往《ワレハコエユク》 相坂山遠《アフサカヤマヲ》
 
(空見津)大和ノ國ノ(青丹吉)奈良山ヲ越エテ、山背ノ筒城ノ原ヤ(血速舊)宇治ノ渡ヤ瀧ノ屋ノ阿後尼ノ原ヲ、千年マデモ、缺ケルコトナク、萬年モカウシテ通ハウト、山科ノ石田ノ森ノ神樣ニ、幣ヲ取リ捧ゲテ、御願ヲシテ〔四字傍線〕私ハ相坂山ヲ越エテ行クヨ。
 
○空見津《ツラミツ》――枕詞。大和とつづく。一參照。○青丹吉《アヲニヲン》――枕詞。寧《ナラ》とつづく。一七參照。○寧山越而《ナラヤマコエテ》――寧山は奈良の都の北方に連る丘陵。寧は寧樂の略である。○山代之管木之原《ヤマシロノツヅキノハラ》――管木は仁徳天皇紀に「皇后還2山背1興2宮室於筒城岡南1而居之」とある地方で、和名抄「山城國綴喜郡綴喜郷豆々木」と見えてゐる。今も相樂郡と久世郡との中間に綴喜郡がある。管木之原は筒城宮のあつた綴喜郷の舊地で、今の普賢寺村三山木の邊の平坦地であらうと思はれる。卷九の春草馬咋山《ハルクサヲウマクヒヤマ》(一七〇八)と詠まれたあたりの西方に當つてゐる。舊本、管を菅に誤つてゐる。寫眞の中央の山が、筒城宮の舊址の後方の山で今田畑になってゐる所が、古への管木の原である。著者撮影。○血速舊《チハヤブル》――枕詞。いち速ぶる即ち勇猛な氏とつづく。○瀧屋之阿後尼之原尾《タギノヤノアゴネノハラヲ》――この地名が今、全くわからないが、歌の趣から推せば、宇治の北方、山科までの間かと思はれる。略解に「或人宇治三室村に有り、蜻蛉《カギロフ》野の一名と言へり。考ふべし。」とあるのは、右の推定に一致してゐる。○山科之石田之森之《ヤマシナノイハタノモリノ》――卷九に山品之石田乃小野之母蘇原《ヤマシナノイハタノヲヌノハハソハラ》(一七三〇)・山科之石田社爾《ヤマシナノイハタノモリニ》(一七三一)とあるのと同所で、今、六地藏から醍醐へ行く道の左手にある神社であらう。○須馬神爾《スメガミニ》――スメガミは皇神で、皇祖神を指すが、廣義では、すべての神を(217)いふ。○奴左取向而《ヌサトリムケテ》――幣を手に取り手向けて。○相坂山遠《アフサカヤマヲ》――相坂山は山城から近江へ出る堺の山。一〇一七の寫眞參照。
〔評〕 奈良から近江へ赴く通路が明瞭に詠まれてゐる。極めてはつきりした歌だ。この路を絶えず通ふ人の作であるが、近江朝の頃のものとしては歌風が新し過ぎるから、寧樂に都が遷つてからの作であらう。眞淵は「史生雜色の人など、近江を本屬にて、暇を給て通ひ行時の歌か」と言つてゐる。
 
3237 あをによし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川渡り をとめらに 相坂山に 手向草 絲取り置きて 我妹子に 淡海の海の 沖つ浪 來寄す濱邊を くれぐれと 獨ぞ我が來し 妹が目を欲り
 
或本歌曰
 
緑丹吉《アヲニヨシ》 平山過而《ナラヤマスギテ》 物部之《モノノフノ》 氏川渡《ウヂガハワタリ》 未通女等爾《ヲトメラニ》 相坂山丹《アフサカヤマニ》 手向草《タムケグサ》 絲取置而《イトトリオキテ》 我妹子爾《ワギモコニ》 相海之海之《アフミノウミノ》 奧浪《オキツナミ》 來因濱邊乎《キヨスハマベヲ》 久禮久禮登《クレグレト》 獨曾我來《ヒトリゾワガコシ》 妹之目乎欲《イモガメヲホリ》
 
(緑丹青)奈良山ヲ過ギテ、(物部之)宇治川ヲ渡ツテ、(未通女等爾)相坂山デ、神樣ニ〔三字傍線〕捧ゲル物トシテ絲ヲ取(218)ツテ供ヘテ、神樣オ祭リ〔五字傍線〕町(我妹子爾)近江ノ湖ノ、沖ノ浪ガ打チ寄セテ來ル濱邊ヲ辿ツテ〔三字傍線〕、妻ニ逢ヒタサニ心モ暗クナツテ、一人デ私ガヤツテ來タ。
 
○緑丹吉《アヲニヨシ》――舊本丹を青に誤つてゐる。西本願寺本に從ふ。○物部之《モノノフノ》――枕詞。氏とつづく。○未通女等爾《ヲトメラニ》――枕詞。逢ふの意で相坂につづく。○手向草《タムケグサ》――神に手向けるものとしての意。○絲取置而《イトトリオキテ》――絲は考に幣の誤とし、略解は幣か麻の誤として、いづれもヌサと訓んでゐる、併し原字を尊重して絲を神に捧げるものとしたい。甚《イト》の借字と見てはいけない。○吾妹子爾《ワギモコニ》――枕詞。相海《アフミ》とつづくのは前の未通女等爾相坂《ヲトメラニアフサカ》と連なるのと同樣である。○久禮久禮登《クレグレト》――闇々と。心の暗くなり、悲しむこと。卷五に都禰斯良農道乃長手袁久禮久禮等伊可爾可由迦牟可利弖波奈斯爾《ツネシラヌミチノナガテヲクレグレトイカニカユカムカリテハナシニ》(八八八)とある。○獨曾我來《ヒトリゾワガコシ》――舊訓ヒトリゾワガクルとあるのはよくない。
〔評〕 或本歌曰とあるが、前の長歌の異本とは思はれない。大和から近江へ赴く點が一致してゐるのみである。人麿の長歌に似た格調を持つてゐる。
 
反歌
 
3238 相坂を うち出て見れば 淡海の海 白木綿花に 波立ち渡る
 
相坂乎《アフサカヲ》 打出而見者《ウチデテミレバ》 淡海之海《アフミノウミ》 白木綿花爾《シラユフバナニ》 浪立渡《ナミタチワタル》
 
相坂山ヲ越エテ濱ニ〔五字傍線〕出テ見ルト、近江ノ湖ハ、白木綿デ作ツタ〔四字傍線〕花ノヤウニ、眞白ニ美シイ〔六字傍線〕浪ガ一面ニ立ツテヰる。
 
○相坂乎打出而見者《アフサカヲウチデテミレバ》――相坂山を越えて、湖水のほとりに出て見れば。代匠記初稿本に「ある人のいはく、近江にうち出の濱といふは此哥よりいひならへり」とある。打出の濱は今の、大津市松本石場邊にあたつてゐる。○白木綿花爾《シラユフバナニ》――白木綿花の如く。白木綿花は白い木綿の花。木綿花は木綿で造つた花。一九九・九一二・九〇(219)九・一一〇七・一七三六などにもある。
 
〔評〕 實に雄大な活動的場面が巧に詠まれてゐる。格調亦勁健。實朝の「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ」はこれを學んだか。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右三首
 
古義に三の字を二に改むべしといつてゐる。或本の歌を一緒にして通算するのは例はないが、誤とも言ひ難い。
 
3239 近江の海 泊八十あり 八十島の 島の埼埼 在り立てる 花橘を 末枝に 黐引きかけ 仲つ枝に 斑鳩かけ 下枝に しめを懸け なが母を 捕らくを知らに なが父を 捕らくを知らに いそばひ居るよ 斑鳩としめと
 
近江之海《アフミノウミ》 泊八十有《トマリヤソアリ》 八十島之《ヤソシマノ》 島之埼邪伎《シマノサキザキ》 安利立有《アリタテル》 花橘乎《ハナタチバナヲ》 未枝爾《ホヅエニ》 毛知引懸《モチヒキカケ》 仲枝爾《ナカツエニ》 伊加流我懸《イカルガカケ》 下枝爾《シヅエニ》 此米乎懸《シメヲカケ》 己之母乎《ナガハハヲ》 取久乎不知《トラクヲシラニ》 己之父乎《ナガチチヲ》 取久乎思良爾《トラクヲシラニ》 伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》 伊加流我等此米登《イカルガトシメト》
 
近江ノ湖ニハ舟ノ泊ル所ガ澤山アル。ソノ舟着場ノ〔六字傍線〕澤山ノ島ノ岬々ニ、古カラ立ツテヰル花橘ノ木ガアルガ、ソノ木ノ〔四字傍線〕上ノ方ノ枝ニハ、黐ヲ引キカケ、中ノ枝ニハ媒鳥トシテ〔五字傍線〕斑鳩ヲカケ、下ノ枝ニハ※[旨+鳥]《シメ》ヲカケテ、私ハ鳥狩ヲスルガ、コノ枝ニカケラレタ媒島ドモハ〔私ハ〜傍線〕、オマヘノ母ヲ捕ルノモ知ラズ、オマヘノ父ヲ捕ルノモ知ラズニ斑鳩ト※[旨+鳥]トフザケテ居ルヨ。
 
○近江之海泊八十有《アフミノウミトマリヤソアリ》――泊は船の泊るところ。港。卷七に近江之海湖者八十《アフミノウミミナトハヤソヂ》(一一六九)、卷十に天漢河門八十有《アマノカハカハトヤソアリ》(二〇(220)八二)とある。○八十島之《ヤソシマノ》――上の八十を受けたので、實際は近江の湖水には、八十島といふ程の多くの島はないやうである。○安利立有《アリタテル》――在通《アリカヨフ》などのアリに同じく、ありありて立てる。生えて立つてゐるの意。○毛知引懸《モチヒキカケ》――黐を引き懸け。引懸けとあるから、黐繩などを引張るのであらう。○伊加流我懸《イカルガカケ》――イカルガは斑鳩、俗に豆マハシといふ鳥。○此米乎懸《シメヲカケ》――此米は今もシメといふ小鳥。元暦校本などの古本は此を比に作つてゐる。この二鳥については卷一の六の左註の解參照。○己之母乎《ナガハハヲ》――舊訓サガハハヲ、略解はシガハハヲとあるが、卷九の劔刀己之心柄《ツルギタチナガココロカラ》(一七四一)に傚つて、ナガと訓むことにしよう。○取久乎不知《トラクヲシラニ》――トラクはトルの延言。舊訓はシラズとある。下に思良爾《シラニ》と記されたるに對比すれば、ここはシラズがよいやうであるが、不知は多くシラニと訓んであるから、さう訓むがよい。○伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》――イソバヒは枕草子に「つねにたもとをみ、人にくらべなど、えもいはず思ひたるを、そばへ〔三字傍点〕たる小舍人童などに引留められて、なきなどするもをかし」とあるそばへ〔三字傍点〕と同語で、ふざけることである。多分イは接頭語であらう。今も方言でソバヘルと言つてゐるところがある。
〔評〕 童謠式内容と格調とを備へてゐて、齊明紀や天智紀の童謠が想ひ浮べられる。古義に「此歌は中山嚴水云こは天武天皇の吉野に入座し後、大友皇子の天武天皇を襲ひ賜はむとて、しのびしのびに軍の設などせさせおはすを見て、天武天皇に志ある臣のよみて、二人の皇子等に諷し奉りたる歌なるべしといへり。信にさもありなむ云々」と述べてゐる。近江の海云々とあるのは近江朝廷に關する童謠なることを思はしめる點はあるが、斑鳩と※[旨+鳥]とを高市皇子・大津皇子に譬へたやうに考へるのは、あまり過ぎてゐよう。面白い作である。
 
右一首
 
3240 大王の 命恐み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 眞木積む 泉の河の 速き瀬を 竿さし渡り ちはやぶる 宇治の渡の 瀧つ瀬を 見つつ渡りて 近江路の 相坂山に 手向して 吾が越えゆけば さざなみの 志賀の韓埼 幸くあらば また還り見む 道の隈 八十隈毎に 嗟きつつ 吾が過ぎゆけば いや遠に 里離り來ぬ 彌高に 山も越え來ぬ 劍刀 鞘ゆ拔き出でて 伊香胡山 如何にか吾がせむ 行方知らずて
 
王《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》 雖見不飽《ミレドアカヌ》 楢山越而《ナラユアマコエテ》 眞木積《マキツム》 泉河乃《イヅミノカハノ》 速瀬《ハヤキセヲ》 竿刺渡《サヲサシワタリ》 (221)千早振《チハヤブル》 氏渡乃《ウヂノワタリノ》 多企都瀬乎《タキツセヲ》 見乍渡而《ミツツワタリテ》 近江道乃《アフミヂノ》 相坂山丹《アフサカヤマニ》 手《タ》 向爲《ムケシタ》 吾越往者《ワガコエユケバ》 樂浪乃《サザナミノ》 志我能韓埼《シガノカラサキ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》 道前《ミチノクマ》 八十阿毎《ヤソクマゴトニ》 嗟乍《ナゲキツツ》 吾過徃者《ワガスギユケバ》 彌遠丹《イヤトホニ》 里離來奴《サトサカリキヌ》 彌高二《イヤタカニ》 山文越來奴《ヤマモコエキヌ》 劔刀《ツルギタチ》 鞘從拔出而《サヤユヌキイデテ》 伊香胡山《イカゴヤマ》 如何吾將爲《イカニカワガセム》 往邊不知而《ユクヘシラズテ》
 
佐渡ヘ島流シニスルゾト云フ〔佐渡〜傍線〕天子樣ノ勅ヲ、恐レ謹ンデ承ツテ、奈良ノ都ヲ離レテ、イクラ見テモ見飽キナイ奈良山ヲ越エテ、檜ノ材木ヲ積シデ置ク泉川ノ流ノ〔二字傍線〕速イ瀬ヲ、船ニ〔二字傍線〕竿サシテ渡ツテ、(千速振)宇治ノ渡場ノ、水ガ泡立ツテ流レル瀬ヲ見ナガラ渡ツテ、近江街道ノ相坂山デ、神樣ニ幣ヲ〔五字傍線〕手向ケテ無事ヲ祈ツテ〔六字傍線〕、私ガ山ヲ〔二字傍線〕越エテ行クト、樂浪《サザナミ》ノ志賀ノ韓埼ニ出ルガコノ韓埼ヲ若シ〔ニ出〜傍線〕無事デヰルナラバ、又再ビ還ツテ來テ見ヨウト〔傍線〕、道ノ曲リ角ノ、多クノ曲リ角毎ニ、歎息シナガラ私ガ通ツテ行クト、益々遠ク故〔傍線〕郷トハ離レテ來タ。益々高ク山モ越エテ來タ。行末ドウナルトモ分ラナイデ、私ハ(劔刀鞘從拔出而伊香胡山)何トシタモノデアラウゾ。アア困ツタモノダ〔八字傍線〕。
 
○眞木積《マキツム》――舊訓マキツメルとあるが、古義の訓がよい。川を運んで來た檜材を泉川の邊に積んであつたのである。卷一に泉乃河爾持越流眞木乃都麻手乎《イヅミノカハニモチコセルマキノツマデヲ》(五〇)とある。○千速振《チハヤブル》――枕詞。氏とつづく。○氏渡乃《ウヂノワタリノ》――宇治川の渡場の。○多企都瀬乎《タギツセヲ》――瀧つ瀬を。考に企は宜の誤とあるが、清音の文字を濁音に用ゐた例は他にもあるから、これも誤とは言はれない。○道前《ミチノクマ》――道の隈。道の曲角。前をクマと訓むのは、檜隈を檜前と記すと同樣である。○八十阿毎《ヤソクマゴトニ》――阿をクマと訓むことに就いては、卷一|八十阿不落《ヤソクマオチズ》(七九)參照。○劔刀鞘從拔出而伊香胡山《ツルギタチサヤユヌキイデテイカゴヤマ》――この三句は如何《イカニ》と言はむ爲の序詞であるが、劔刀鞘從拔出而《ツルギタチサヤユヌキイデテ》は伊香胡の序詞である。イは接頭語(222)で、劍を撃つことをカクといふのである。崇神天皇紀に「八廻撃刀《ヤタビタチカキヌ》」と訓んでゐる。伊香胡山は卷八に伊香山野邊爾開有《イカゴヤマヌベニサキタル》(一五三三)とあり、近江伊香郡、今の賤ケ獄の南嶺。途中通過したところを序詞に用ゐたのである。○如何吾將爲《イカニカワガセム》――イカガと訓みたいところだが、如何はイカニと訓む方がよい。
〔評〕 勅命によつて大和を出で、奈良山を越えて泉川・宇治川を渡つて相坂山を越えて近江に入り、更に伊香胡山を通過して越路に入る者の歌で、反歌の左註に、穗積朝臣老が佐渡に配流せらるる時の作歌とあるのはこの歌をも含むものと見るべきである 歌調も比較的新しく、又、王命恐《オホキミノミコトカシコミ》雖…‥道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマゴトニ》は卷一の從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌(七九)に似、樂浪乃志我能韓埼幸有者《ササナミノシガノカラサキサキクアラバ》は卷一の人麿の樂浪之思賀乃辛碕雖幸有《ササナミノシガノカラサキサキクアレド》(三〇)と同じく、彌遠丹里離來禰高二山文越來奴《イヤトホニサトサカリキヌイヤタカニヤマモコエキヌイヤトホニサトハサカリヌイヤタカニヤマモコエキヌ》は卷二の人麿の彌遠爾里者放奴益高爾山毛越來奴《イヤトホニサトハサカリヌイヤタカニヤマモコエキヌ》(一三一)と酷似してゐる。人麿以後の作たることは疑がないから、穗積朝臣老の作としてさしつかへがない。もしさう推定するならば彼が佐渡に配流に逢つた養老六年正月の作である。遠流を悲しむ情はあらはれてゐるが、劍刀鞘從拔出而伊香胡山《ツルギタチサヤユヌキイデテイカゴヤマ》の序詞が、奇拔なだけで、さほど秀でた作ではない。
 
反歌
 
3241 天地を 歎き乞ひのみ 幸くあらば またかへり見む 志賀の韓埼
 
天地乎《アメツチヲ》 歎乞祷《ナゲキコヒノミ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》 思我能韓埼《シガノカラサキ》
 
天ツ神ヤ〔三字傍線〕國ツ神〔二字傍線〕ヲ歎キナガラオ願ヒシテ祈ツテ、若シ願ガ屆イテ〔七字傍線〕、無事デアツタラナラバ、又コノ〔二字傍線〕志賀ノ韓埼ヲ還ツテ來テ見マセウ。ドウゾ無事デ還リタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○天地乎《アメツチヲ》――天神地祇即ち天つ神・國つ神といふべきを略して、かう言つたのである。○歎乞祷《ナゲキコヒノミ》――舊本、歎を難に作りコヒネギカタシと訓んでゐる。古本すべて難とあるが、考の説によつて歎に改むべきである。
(223)〔評〕卷三に穗積朝臣老歌として吾命之眞幸有者亦毛將見志賀乃大津爾縁流白浪《ワガイノチシマサキクアラバマタモミムシガノオホツニヨスルシラナミ》(二八八)と載せてあるのと内容も略々等しく、氣分も亦同じであるから、同時の歌と見える。悲しい感情が溢れてゐる。
 
右二首 但此短歌者或書(ニ)云(フ)穗積朝臣老配(セラレシ)2於佐渡1之時作(レル)歌者也
 
短歌のみではなく長歌も、佐渡配流の時の作なることは右に述べた如くである。この人の配流のことは、續日本紀に「養老六年正月癸卯朔壬戌、坐3正E五位上穗横朝臣老指2斥乘輿1處2斬刑1而依2皇太子奏1、降2死一等1配2流於佐渡島1」と見えてゐる。歌の下の者は衍か。
 
3242 ももきね 美濃の國の 高北の くくりの宮に 日向ひに 行きなびかくを ありとききて 吾が通路の 於吉蘇山 美濃の山 靡けと 人は踏めども 斯く依れと 人は衝けども 意無き山の 於吉蘇山 美濃の山
 
百岐年《モモキネ》 三野之國之《ミヌノクニノ》 高北之《タカギタノ》 八十一隣之宮爾《ククリノミヤニ》 日向爾《ヒムカヒニ》 行靡闕矣《ユキナビカクヲ》 有登聞而《アリトキキテ》 吾通道之《ワガカヨヒヂノ》 奧十山《オキソヤマ》 三野之山《ミヌノヤマ》 靡得《ナビケト》 人雖跡《ヒトハフメドモ》 如此依等《カクヨレト》 人雖衝《ヒトハツケドモ》 無意山之《ココロナキヤマノ》 奧礒山《オキソヤマ》 三野之山《ミヌノヤマ》
 
(百岐年)美濃ノ國ノ高北ノ久々利ノ宮ノ西ノ方ニ、姿ノヤサシイ女ガ居ルトイフコトヲ聞イテ、私ハソノ女ノ所ヘ通ツテ行キタイノダガ〔私ハ〜傍線〕私ガ通ツテ行クベキ路ニハ大吉蘇山ダノ美濃山ダノガアツテ、思フヤウニ通フコトモ出來ナイノデ、ソノ〔大吉〜傍線〕大吉蘇山ヤ美濃山ヲ、横ニ〔二字傍線〕靡ケトイツテ人ガ踏ミツケ、カウ側ヘ〔二字傍線〕寄レトイツテ〔三字傍線〕突クケレドモ、無情ナル山ノ大吉蘇山、美濃山ハ少シモ言フコトヲキカズニ、平然トシテヰルヨ〔ハ少〜傍線〕。
 
○百岐年《モモキネ》――舊訓モモクキネとあり、契沖は百岫嶺ある美濃とつづくと解してゐる。下に百小竹之三野王《モモシヌノミヌノオホキミ》(三三二七)とあり、考には百詩年《モモシネ》の誤であらうと言つてゐる。古義は百傳布《モモツタフ》の誤として、「集中に百傳布八十之島廻《モモツタフヤソノシマミ》といひ、古事記に毛々豆多布都奴賀《モモツタフツヌガ》、書紀に百傳度逢縣《モモツタフワタラヒガタ》などあるに同じかるべし」といつてゐる。よい説と思は(224)れるものもないから、文字通に訓んで暫らく後考を待たう。○三野之國之《ミヌノクニノ》――美濃の國の。○高北之八十一隣之宮爾《タカギタノククリノミヤニ》――景行天皇紀に「四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸2美濃1云々居2于泳宮1泳宮此云2區玖利能彌椰1」とあり、今、美濃國可兒郡久久利村にこの宮の舊址と稱するものが遺つてゐる。高北はよく分らないがこの邊の總稱であら。一説に高き區分《キタ》の意で、高原のことであらうとある。八十一《クク》は例の戯書である。○日向爾《ヒムカヒニ》――西の方にの意か。考にヒムカシニと訓み、古義は日月爾の誤でツキニヒニかと言つてゐる。或は日毎爾《ヒゴトニ》の誤ではあるまいか。○行靡闕矣《ユキナビカクヲ》――−考は靡は紫の誤で、イデマシノミヤヲと訓み、古義は行麻死里矣と改めてユカマシサトヲと訓んでゐる。新訓はユキナムミヤとなる、闕は集中の用例はすべてカクとあり、宮闕の意でミヤに用ゐたものがないから、ミヤと訓むことは考ふべきであらう。ナビカクは靡クの延言であらう。行き靡かくとは女のなよなよとして道を行く樣を言ふか。○奧十山《ヲキソヤマ》――木曾は信濃(225)西筑摩郡で信濃の南端になつてゐる。奈良朝の頃は美濃惠那郡に屬してゐた。三代實録に吉蘇・小吉蘇の村があつて南部を吉蘇とし、北部を小吉蘇と言つたのである。奧十《オキソ》は即ち大吉蘇で小吉蘇に對して南部の山々を指したものに違ひない。久は利からすれば東北方に當つてゐる。○三野之山《ミヌノヤマ》――一般的にこのあたりの山を言つたのであらう。武儀郡に美濃の地があるが、久々利の西北方に當つてゐるから、そこには關係はない。○人雖跡《ヒトハフメドモ》――跡を踏に用ゐてある。
〔評〕 高北の久久利地方に行はれた童謠かも知れない。歌詞がかなり古朴であるから、人麿以前であらう。彼が靡此山《ナビケコノヤマ》と詠んだのはこの歌に傚つたものかも知れない。又曰、奧十山を越えて久久利の宮に通ふとすると、信濃方面の人の歌となる。當時極めて人烟稀薄であつた岐蘇地方から、險岨な道を通つて來ることは、(文武天皇の大寶二年十二月に岐蘇山道は始めて開けた)事實としてはをかしいやうである。或は傳説的の作品か。
 
右一首
 
3243 處女らが 麻笥に垂れたる 績麻なす 長門の浦に 朝なぎに 滿ち來る潮の 夕なぎに 寄り來る波の その潮の いや益益に その浪の いやしくしくに 吾妹子に 戀ひつつ來れば 阿胡の海の 荒磯の上に 濱菜つむ 海人處女ども うながせる 領巾もてるがに 手に纏ける 玉もゆららに 白妙の 袖振る見えつ 相思ふらしも
 
處女等之《ヲトメラガ》 麻笥垂有《ヲケニタレタル》 續麻成《ウミヲナス》 長門之浦丹《ナガトノウラニ》 朝奈祇爾《アサナギニ》 滿來鹽之《ミチクルシホノ》 夕奈祇爾《ユフナギニ》 依來波乃《ヨリクルナミノ》 彼鹽乃《ソノシホノ》 伊夜益舛二《イヤマスマスニ》 彼浪乃《ソノナミノ》 伊夜敷布二《イヤシクシクニ》 吾妹子爾《ワギモコニ》 戀乍來者《コヒツツクレバ》 阿胡之海之《アゴノウミノ》 荒磯之於丹《アリソノウヘニ》 濱菜採《ハマナツム》 海部處女等《アマヲトメドモ》 纓有《ウナガセル》 領巾文光蟹《ヒレモテルガニ》 手二卷流《テニマケル》 玉毛湯良羅爾《タマモユララニ》 白栲乃《シロタヘノ》 袖振所見津《ソデフルミエツ》 相思羅霜《アヒモフラシモ》
 
(處女等之麻笥垂有續麻成)長門ノ浦ニ朝ノ風ノ和イダ時ニ、滿チテ來ル汐ノ、夕方風ノ和イダ時ニ、寄セテ來ル(226)波ノ、ソノ朝〔傍線〕汐ノヤウニ彌益シテ、又ソノ夕〔傍線〕波ノヤウニ彌繁ク、私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ニ戀ヒ焦レナガラヤツテ來ルト、阿胡ノ海ノ荒磯ノ上ニ、濱ノ菜ヲ摘ム海人ノ少女等ガ、頸ニカケテ居ル領巾モ輝クホドニ、手ニ纏イテアル玉モカラカラト音ヲ立テテ、(白栲乃)袖ヲ振ルノガ見エタ。アノ女モ私ヲ〔六字傍線〕思フラシイヨ。
 
○處女等之麻笥垂有續麻成《ヲトメラガヲケニタレタルウミヲナス》――長と言はむ爲の序詞。少女等が麻笥に垂れた續いだ麻の如く長い意である。麻笥に垂れるとは麻を麻桶の中に段々につなぎ入れること。卷六に續麻成長柄之宮爾《ウミヲナスナガラノミヤニ》(九二八)とあつた。○長門之浦丹《ナガトノウラニ》――長門の浦は安藝國安藝那倉橋島にあるといふ。卷十五に安藝國長門嶋舶泊2礒邊1作歌として、和我伊能知乎奈我刀能之麻能《ワガイノチヲナガトノシマノ》(三六二一)及び、從2長門浦1舶出之夜仰2觀月光1作歌(三六二二)とある。倉橋島は音戸瀬戸のある島で、江田島のある能美島の東南方に横はつた大きな島である。○彼鹽乃《ソノシホノ》――舊本、波鹽乃とありナミシホノとよんでゐるが、類聚古集に波を彼に作つてゐるに從ふべきである。○阿胡之海之《アゴノウミノ》――阿胡の海は何處にあるかわからない。長門の浦に近いところであらう。代匠記精撰本に「阿胡之海は奈呉海にて攝州なり」「都より安藝の國に下りて住人の、任官の限など滿て歸り上るとて、難波まで來て云々」とあるのは全然誤つてゐる。今、呉軍港の東に阿賀町があるから、その前面の海を上代は阿胡の海と稱したのであるまいか。ここは倉橋島の東方に接したところである。○濱菜採《ハマナツム》――濱菜は濱に生ずる菜。磯菜といふのも同じで、海邊に生ずる草の食ふべきをいふ。○海部處女等《アマヲトメドモ》――舊訓はアマヲトメラガとあるが古義の訓がよい。○纓有《ウナガセル》――舊訓マツヒタルとあるのを、考はウナガセルとしてゐる。古事記に宇那賀世流多麻能美須麻流《ウナガセルタマノミスマル》とあるから、古義の訓がよい。頸に懸けること。○領巾文光蟹《ヒレモテルガニ》――領巾も照り輝くほどに。○玉毛湯良羅爾《タマモユララニ》――玉がからからと鳴るほどに。ユララは玉の鳴る音である。○白栲乃《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。○相思羅霜《アヒモフラシモ》――あの海人少女も我を思ふらしいよとといふのである。略解に「これは吾故郷の妹を戀つつくれば、此海士處女も、吾妹を相思ふやらむ袖をふると言ふ意也」とあるのは、全く見當違ひであらう。
〔評〕 瀬戸内海を東に向つて都へ歸る人の歌であらう。故郷の妻を戀しく思ひつつ漕ぎ行くうちに、濱邊で舟を目(227)がけて領巾を振る海士處女を見て心を慰める歌である。船中の即興、長閑な旅行氣分である。
 
反歌
 
3244 阿胡の海の 荒磯の上の さざれ浪 吾が戀ふらくは 息む時もなし
 
阿胡乃海之《アゴノウミノ》 荒磯之上之《アリソノウヘノ》 小浪《サザレナミ》 吾戀者《ワガコフラクハ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
阿胡ノ海ノ荒磯ノ上ニ打チヨセル〔五字傍線〕漣ノヤウニ、吾ガ妻ヲ〔二字傍線〕戀シク思フコトハ、止ム時モナイ。私ハ絶エズ妻ヲ思ツテヰルヨ〔私ハ〜傍線〕。
 
○小浪《サザレナミ》――舊訓サザナミとあるが、サザレナミがよい。
〔評〕 上の三句は息時毛無《ヤムトキモナシ》につづく序詞とも見られないことはないが、ここは小浪の如くを略したものと見るべきであらう。吾戀者息時毛無《ワガコフラクハヤムトキモナシ》は卷十一の白細布乃《シロタヘノ》(二六一二)、この下の小治田之《ヲハリダノ》(三二六〇)などにある句であり、又卷四の千島嶋《チドリナク》(五二六)の如くこれを轉倒したものもある。この歌は前のものに比して、遙かに時代が新しい。
 
右二首
 
3245 天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月よみの 持たるをち水 い取り來て 君にまつりて をち得しむもの
 
天橋文《アマハシモ》 長雲鴨《ナガクモガモ》 高山文《タカヤマモ》 高雲鴨《タカクモガモ》 月夜見乃《ツクヨミノ》 持有越水《モタルヲチミヅ》 伊取來而《イトリキテ》 公奉而《キミニマツリテ》 越得之早物《ヲチエシムモノ》
 
天ニ道ズル〔五字傍線〕天ノ橋モ長ク天マデ屆イテ〔六字傍線〕アリタイモノダ。高イ山モイヨイヨ〔七字傍線〕高クテ天ヘ登ルノニ都合ヨイヤウニ〔テ天〜傍線〕アリタイモノダ。私ハ高イ山ニ登ツ、天ノ橋ヲ辿ツテ月世界マデモ行ツテ〔私ハ〜傍線〕、オ月樣ガ持ツテ居ラレル若クナ(228)ル水ヲ取ツテ來テ、ソレヲ貴方樣ニ捧ゲテ貴方樣ノ〔ソレ〜傍線〕御年ガ若返ツテイツマデモ若クイラツシヤ〔ツテ〜傍線〕ルヤウニシタイヨ。
 
○天橋文《アマハシモ》――アマハシは天へ昇る階。即ち天の浮橋などと同樣の考である。○月夜見乃《ツクヨミノ》――月を月毒といふことは、月讀之《ツクヨミノ》(六七〇)・月讀之《ツクヨミノ》(六七一)その他、例が多い。○持有越水《モタルヲチミズ》――舊訓にモチコセルミヅとあるのが、行はれて來たが、古義にモタルヲチミヅと訓んだのは、動かし難い名訓である。ヲチミヅは變若水。即ち飲めば若がへる水。○伊取來而《イトリキテ》――イは接頭語。○越得之早物《ヲチエシムモノ》――舊訓コユルトシハヤモでは全くわからないし略解に早を牟の誤として訓んだのがよい。若變らしむものをの意。新解に越得之旱母としてヲチエテシカモと訓んだのも良訓のやうである。
〔評〕 月世界の水を取り來つて、君に捧げ若がへらせてあげたいといふので、變若水の思想は卷六の從古人之言來流老人之變若云水曾名爾負瀧之瀬《イニシヘユヒトノイヒクルオイビトノヲツトフミヅゾナニオフタギノセ》(一〇三四)とあるやうに、かなり廣まつてゐた思想で、養老改元の事さへあつたほどである。殊にこれは月の世界の水であるから、外國思想に出たことは明瞭であるつ。當時流行した神仙思想の一つのあらはれと言つてよい。
 
反歌
 
3246 天なるや 月日の如く 吾が思へる きみが日にけに 老ゆらく惜しも
 
天有哉《アメナルヤ》 月日如《ツキヒノゴトク》 吾思有《ワガモヘル》 公之日異《キミガヒニケニ》 老落惜毛《オユラクヲシモ》
 
天ニアル月ヤ日ノヤウニ、私ガ大切ニ貴ク〔五字傍線〕思ツテヰル貴方樣ガ、日増シニ年ヲトツテ行カレルノガ、殘念ニ思ハレルヨ。
 
○天有哉《アメナルヤ》――ヤは輕く添へた歎辭のみ。古事記に阿米那流夜淤登多那婆多能《アメナルヤオトタナバタノ》とあるに同じ。古義は天照哉《アマテルヤ》の誤と(229)してゐる。○月日如《ツキヒノゴト》――古義は日月の誤でヒツキノゴトクであらうといつてゐるが、改める要はない。○老落惜毛《オユラクヲシモ》――オユラクは老ゆるの延言。
〔評〕 尊貴の人の老を悲しんだものである。どんな身分の人の作か分らないが、内容から見ると君を日月に譬へてあり、長歌の方には神仙思想が見えてゐるから、當時の智識階級の作たることは疑はれない。
 
右二首
 
3247 渟名河の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも
 
沼名河之《ヌナガハノ》 底奈流玉《ソコナルタマ》 求而《モトメテ》 得之玉可毛《エシタマカモ》 拾而《ヒロヒテ》 得之玉可毛《エシタマカモ》 安多良思吉君之《アタラシキキミガ》 老落惜毛《オユラクヲシモ》
 
沼名河ノ底ニアル玉。ワザワザ〔四字傍線〕捜シテ取ツタ玉デアラウカヨ。ソレトモ〔四字傍線〕拾ツテ得タ玉デアラウカヨ。ソノ玉ノヤウニ〔七字傍線〕アタラ惜シイモノト思ツテ、私ガ大切ニシテヰル〔モノ〜傍線〕貴方樣ガ年ヲトツテ行カレルノハ惜シイモノデスヨ。
 
○渟名河之《ヌナガハノ》――沼名河は何處にある河とも知り難いが、綏靖天皇を神渟名川耳《カムヌナカハミミノ》尊と申すのは大和の地名であらう。大和譯語田の舊名を渟名《ヌナ》と言つたのかも知れない。又攝津風土記によれば「昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出而巡2行天下1、※[不/見]2可v住國1、到2沼名椋之長岡之前1前者今神宮南邊、是其地乃謂斯實可v住之國、遂讃稱之云2眞住吉之國1、乃是定神社、今俗略之、直稱2須美乃叡1、とあるから、攝津にも沼名の地があつたのである。古義に「天安河の中にある渟名井と同じ處を云なるべし」とあるのは從ひ難い。○得之玉可毛《エシタマカモ》――舊訓エテシタマカモとあるが、テを添へない方がよい。○安多良思吉君之《アタラシキキミガ》――アタラシキは、あたら惜しき意。
〔評〕 これも君の老を悲しむ歌である。君を沼名河の玉に譬へて、如何にも貴ささうに詠んでゐる。この歌と前の歌に君とあるのは、親をさすのではないかと思ふ。當時孝を尊んで、孝子を表彰したことが見えてゐる。他(230)人の壽を祈るものとしては、老落惜毛《オユラクヲシモ》がふさはしくない。
 
右一首
 
相聞 此中長歌十九首
 
この註は後人の加へたもの。元暦校本にはない。
 
3248 敷島の やまとの國に 人多に 滿ちてあれども 藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひや明かさむ 長きこの夜を
 
式島之《シキシマノ》 山跡之土丹《ヤマトノクニニ》 人多《ヒトサハニ》 滿而雖有《ミチテアレドモ》 藤浪乃《フヂナミノ》 思纏《オモヒマツハリ》 若草乃《ワカクサノ》 思就西《オモヒツキニシ》 君目二《キミガメニ》 戀八將明《コヒヤアカサム》 長此夜乎《ナガキコノヨヲ》
 
(式島之)日本國ニ人ハ澤山ニ滿チ滿チテ居ルケレドモ、私ガ〔二字傍線〕(藤浪乃)思ヒ纏ヒツイテ焦レテ〔三字傍線〕居ル(若草乃)ナツカシク思ヒ、心ヲヨセテヰル貴方ニ逢ヒタサニ、長イコノ夜ヲ戀シク思ツテ明カスコトデアラウカ。
 
○式島之《シキシマノ》――枕詞。磯城島のある大和の國の意。磯城島は崇神天皇の皇居が、磯城瑞籬宮にあつたことに起るといはれてゐる。○山跡之土丹《ヤマトノクニニ》――この山跡は畿内の大和ではなく、日本の總稱である。○滿而雖有《ミチテハアレドモ》――舊訓イハミテアレドとあるのも聞えるが、却つて平凡にミチテハと訓む方がよからう。○藤浪乃《フヂナミノ》――枕詞。纏《マツハリ》にかかる意は明らかである。○若草乃《ワカクサノ》――ー枕詞。なつかしい意で思就《オモヒツキ》の枕詞として用ゐられるのであらう。古義には句を距てて、君につづくとしてゐる。○思就西《オモヒツキニシ》――上の思纏《オモヒマツハリ》に對した語で、戀しいと思ひ、心を寄せたこと。○君目二《キミガメニ》―――舊本に目自に誤つて、キミヨリニと訓んでゐるが、元暦校本に目とあるに從ふべきである。君に逢ふことをの意である。
 
〔評〕 卷四の人多國爾波滿而味村乃去來者行跡吾戀流君爾之不有者《ヒトサハニクニニハミチテアヂムラノユキキハユケドワガコフルキミニシアラネバ》(四八五)と相似た内容である。極めて純な素朴(231)な歌であるが、藤浪乃、若草乃の二句は麗はしい感情を添へてゐる。
 
反歌
 
3249 敷島の 日本の國に 人二人 ありとし念はば 何かなげかむ
 
式島乃《シキシマノ》 山跡乃土丹《ヤマトノクニニ》 人二《ヒトフタリ》 有年念者《アリトシモハバ》 難可將嗟《ナニカナゲカム》
 
(式島乃)日本國ノウチニ、戀シイ貴方ト云フ〔八字傍線〕人ガ二人アリト思フナラバ、何シニ私ハ〔二字傍線〕嘆キマセウゾ。貴方ヨリ外ニハ無イカラコンナニ戀シイノデス〔貴方〜傍線〕。
 
○難可將嗟《ナニカナゲカム》――何に難を用ゐたのは音を借りたのである。難は山攝寒韻 n 音尾の字であるから、ナニに用ゐられるのである。この下にも、吾哉難二加《ワレヤナニニカ》(三二六五)とある。
〔評〕 卷十二の打日刺宮道人雖滿行吾念公正一人《ウチヒサスミヤヂヲヒトハミチユケドワガモフキミハタダヒトリノミ》(二三八二)と相似てゐる。至純至情、愛慕の嗟嘆が、聞く人をして涙せしめずには置かない。
 
右二首
 
3250 蜻蛉島 日本の國は 神からと 言擧せぬ國 然れども 吾は言擧す 天地の 神もはなはだ 吾が念ふ 心知らずや 往く影の 月も經ゆけば 玉かぎる 日もかさなり 念へかも 胸安からぬ 戀ふれかも 心の痛き 末つひに 君に逢はずは 吾が命の 生けらむ極 戀ひつつも 我はわたらむ まそ鏡 正目に君を 相見てばこそ 吾が戀止まめ
 
蜻島《アキツシマ》 倭之國者《ヤマトノクニハ》 神柄跡《カムカラト》 言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》 雖然《シカレドモ》 吾者事上爲《ワレハコトアゲス》 天地之《アメツチノ》 神毛甚《カミモハナハダ》 吾念《ワガオモフ》 心不知哉《ココロシラズヤ》 往影乃《ユクカゲノ》 月文經徃者《ツキモヘユケバ》 玉限《タマカギル》 日文累《ヒモカサナリ》 念戸鴨《オモヘカモ》 ※[匈/月]不安《ムネヤスカラヌ》 戀列鴨《コフレカモ》 心痛《ココロノイタキ》 未遂爾《スヱツヒニ》 君丹不會者《キミニアハズハ》 吾命乃《ワガイノチノ》 生極《イケラムキハミ》 (232)戀乍文《コヒツツモ》 吾者將度《ワレハワタラム》 犬馬鏡《マソカガミ》 正目君乎《マサメニキミヲ》 相見天者社《アヒミテバコソ》 吾戀八鬼目《ワガコヒヤマメ》
 
(蜻島)日本國ハヨイ〔二字傍線〕神樣ダカラ、昔カラ兎ヤ角ト〔七字傍線〕言葉ニ角立テテ言ヒ爭ハ〔五字傍線〕ナイ國ト言ハレテ居ル〔七字傍線〕。併シナガラ私ハ言ハナイデハ居ラレナイ。何故カト云フト〔七字傍線〕、天ノ神モ地ノ神モ、私ガコレ程マデモ深ク〔八字傍線〕念ツテヰル心ノ中ヲ知ラナイノデアラウカ。(往影乃)月モ經テ行クト、(玉限)日モ重ナツテ、永イ間アノ人ヲ心ニ戀シク〔永イ〜傍線〕思フカラカ、胸ガ穩ヤカデナイノダラウ。戀シガツテヰルノデ、心ガ悲シイノデアラウ。コノ樣子デハ〔六字傍線〕末マデモ遂ニ貴方ニ逢ハナイナラバ、私ノ壽命ノアル間ハ、戀ヒ慕ヒナガラ私ハ暮シテヰルコトダラウ。モシ〔二字傍線〕(犬馬鏡)直接ニ貴方ニオ目ニカカツタナラバコソ、私ノ戀モ止ムデアラウ。サモナクバ、トテモコノ戀ノ煩悶ハ止ムコトハアルマイ。困ツタモノダ〔サモ〜傍線〕。
○蜻島《アキツシマ》――枕詞。倭《ヤマト》へつづく。孝安天皇の皇居が大和の室の秋津島の宮であつたからだと言はれてゐる。但しここの倭之國《ヤマトノクニ》は日本の總稱である。○神柄跡《カムカラト》――神からとて。神故に。卷六の三芳野之蜻蛉乃宮者神柄香貴將有《ミヨシヌノアキツノミヤハカムカラカタフトカルラム》(九〇七)のカムカラと同じ。カムナガラと同じとする説は當らない。○言擧不爲國《コトアゲセヌクニ》――言葉に出して言ひ立つるを言擧といふ。言擧せず、人々相和衷協同することを理想として、國家社會が成立つてゐたから、古から言擧せぬ國と言ひならはしたのである。ここにわが國民が如何に平和を愛したかを知ることが出來る。○雖然吾者事上爲《シカレドモワレハコトアゲス》――然れども我は止むを得ずして次の如く言擧するといふのである。○往影乃《ユクカゲノ》――空行く影の月とつづけて、枕詞としたのであらう。下の月は月次の月である。○玉限《タマカギル》――枕詞。日とつづくのは玉の光の如く輝く日の意か。玉限《タマカギル》(四五)玉蜻《タマカギル》(二〇七)參照。○念戸鴨《オモヘカモ》――思へばかもの意。下の戀列鴨《コフレカモ》も戀ふればかもの意。○犬馬鏡《マソカヾミ》――枕詞。句を隔てて見にかかつてゐる。喚犬追馬鏡の略書。○正目君乎《マサメニキミヲ》――正目は、正しく直接に見ること。眞十鏡直目爾不視者《マソカガミタダメニミネバ》(一七九二)・直目爾見兼《タダメニミケム》(一八〇三)などの直目《タダメ》と同意であるが、佛足石歌碑に與伎比止乃麻佐(233)米爾美祁牟《ヨキヒトノマサメニミケム》とあるから、ここはマサメと訓むがよい。○吾戀八鬼目《ワガコヒヤマメ》――鬼をマとよむのは魔の略字であらう。末の三句が七言になつてゐるので、調子が異つて聞える。
〔評〕 吾が國を言擧げせぬ國と言ひならはしてゐる稱呼の神聖さを尊重しつつも、戀故にはこれをも冒涜して、我は言擧げすと言ひ放つたのは、當時に於ては實に驚くべき大膽さで、神聖な傳説への反逆兒の聲である。さうして天地之神毛甚吾念心不知哉《アメツチノカミモハナハダワガオモフココロシラズヤ》と神をも呪つて、唯、戀人を正目に見むことを祈つてゐる。呪※[口+且]と呻吟との交錯した情熱的表現と言つてよい。
 
反歌
 
3251 大舟の 思ひたのめる 君ゆゑに つくす心は 惜しけくもなし
 
大舟能《オホフネノ》 思憑《オモヒタノメル》 君故爾《キミユヱニ》 盡心者《ツクスコヽロハ》 惜雲梨《ヲシケクモナシ》
 
今ハ逢ハナイデモ行末ハト〔今ハ〜傍線〕(大舟能)タノミニ思ツテ、タヨツテヰル貴方ノ爲ニ、戀ニナヤンデ〔六字傍線〕心ヲ盡シテ嘆ク〔三字傍線〕ノハ措シイトモ私ハ〔二字傍線〕思ハナイヨ。
 
○大舟能《オホブネノ》――枕詞。思憑《オモヒタノメル》とつづく。○君故爾《キミユヱニ》――本集では多く君であるのにの意に用ゐてあるが、ここは君だからの意に見なければならぬ。○惜雲梨《ヲシケクモナシ》――舊本、惜を情に誤つてゐる。天治本・西本願寺本などいづれも惜に作つてある。
〔評〕 直觀的に力強い調子で、思ふ儘を述べてゐる。
 
3252 久堅の 都を置きて 草枕 旅行く君を いつとか持たむ
 
久堅之《ヒサカタノ》 王都乎置而《ミヤコヲオキテ》 草枕《クサマクラ》 羈徃君乎《タビユクキミヲ》 何時可將待《イツトカマタム》
 
(234)(久堅之)都ヲ出テ(草枕)旅ニ出テ〔二字傍線〕行カレル貴方ノオ歸リ〔四字傍線〕ヲ、私ハ〔二字傍線〕何時ト思ツテアテニシテ〔五字傍線〕、待ツテ居ラウゾ。アア何時トモ分ラナイノヲ待ツテヰルノハツライ〔アア〜傍線〕。
 
○久堅之《ヒサカタノ》――枕詞。王都《ミヤコ》につづけたのは、尊んで天と同一視したものであらう。
〔評〕 前の長歌の反歌ではなく、旅に出立する人と離別を悲しむ歌である。古今集の「すがる鳴く秋のはぎ原朝立ちて旅行く人をいつとかまたむ」と下句同一であはれな作である。和歌童蒙抄にも載せてある。
 
柿本朝臣人麿歌集歌曰
 
3253 葦原の 水穗の國は 神ながら 言擧せぬ國 然れども 言擧ぞ吾がする 言さきく まさきくませと つつみなく さきくいまさば 荒磯浪 ありても見むと 百重波 千重浪にしき 言擧する吾
 
葦原《アシハラノ》 水穗國者《ミヅホノクニハ》 神在隨《カムナガラ》 事擧不爲國《コトアゲセヌクニ》 雖然《シカレドモ》 辭擧叙吾爲《コトアゲゾワガスル》 言幸《コトサキク》 眞福座跡《マサキクマセト》 恙無《ツツミナク》 福座者《サキクイマサバ》 荒磯浪《アリソナミ》 有毛見登《アリテミミムト》 百重波《モモヘナミ》 千重浪爾敷《チヘナミニシキ》 言上爲吾《コトアゲスルワレ》
 
葦原(ノ)水穗國ト謂ハレル日本國〔八字傍線〕ハ、神ソノママニ、昔カラ〔三字傍線〕言葉ニ出シテトヤカクト〔五字傍線〕言ハナイ國ダ。然シナガラ貴方ガ〔三字傍線〕言葉ノ威徳デ御無事デアルヤウニト、私ハ言葉ニ出シテ貴方ヲ祝福〔七字傍線〕シマス。恙ナク幸幅デ貴方ガ居ラレルナラバ(荒磯浪)カウシテ居ツテ、貴方ヲ〔三字傍線〕相見ルデアラウト、幾度モ幾度モ繁々ト私ハ言葉ニ出シテ言ヒマス。
 
○葦原水穗國者《アシハラノミヅホノクニハ》――この國名は日本の總稱。卷二の葦原乃水穗之國乎《アシハラノミヅホノクニヲ》(一六七)參照。○神在隨事擧不爲國《カムナガラコトアゲセヌクニ》――神在隨《カムナガラ》は神その儘に。事は言の借字である。○言幸《コトサキク》――古義に言は事の借宇とあるが、さうではなく、言葉の威徳によつて幸を得ることであらう。○眞福座跡《マサキクマセト》――マは接頭語。無事でいませとの意。この句で切つて、上(235)の辭擧叙吾爲《コトアゲゾワガスル》に反るのである。○恙無《ツツミナク》――ツツミは慎み、災難病氣などで閉ぢ籠るをいふ。○荒磯浪《アリソナミ》――枕詞。アリの音を繰返して下につづいてゐる。○百重波千重浪爾敷《モモヘナミチヘナミニシキ》――百重浪。千重浪の如く繁くの意。考に敷爾の誤として、シキニと訓んでゐる。卷三に一日爾波千重浪敷爾雖念《ヒトヒニハチヘナミシキニオモヘドモ》(四〇九)とあるによると、尤もな説であるが、原形を尊重しても意味が通ずる。○言上爲吾《コトアゲスルワレ》――古義は言上叙吾爲の誤として、コトアゲゾアガスルと訓んでゐる。新訓にコトアゲスワレハとあるのもよい。元暦校本にはこの句を反覆してゐる。
〔評〕 柿本朝臣人麿歌集曰とあるのは、例の或本歌曰と記したのと同じく、その或本の名を明示した書き方である。從つて前の歌の異本として掲げられたやうに見える。併し全く異なつた歌を或本歌として載せたのがあるやうに冒頭が似てゐるだけでこれも全く別の歌である。荒磯浪・百重波・千重浪などを用ゐたのは海路の旅に上る人に餞した作らしく、内容に國民的自覺があらはれてゐる點は人麿の歌なることを思はしめるものがある。又この歌と卷五の好去好來歌(八九四)とを比較するとその用語に於いて、かなり近似點がある。多分彼はこれに暗示を得た作品であらう。
 
反歌
 
3254 敷島の 日本の國は 言靈の たすくる國ぞ まさきくありこそ
 
志貴島《シキシマノ》 倭國者《ヤマトノクニハ》 事靈之《コトダマノ》 所佐國叙《タスクルクニゾ》 眞福在與具《マサキクアリコソ》
 
(志貴島)日本國ハ人ノ〔二字傍線〕言語ノ靈妙ナル〔四字傍線〕魂ガ、人ヲ〔二字傍線〕助ケテ〔傍線〕幸ヲ〔傍線〕與ヘ〔傍線〕ル國デアルゾヨ。デ私ガ今貴方ノ爲ニ幸ヲ祈ツテ言擧ゲヲシテヰルガ、貴方ハソレニヨツテ〔デ私〜傍線〕、幸ヲ得ラレルヤウニ願ヒマス。
 
○志貴島倭國者《シキシマノヤマトノクニハ》――三二四八參照。○事靈之所佐國叙《コトダマノタスクルクニゾ》――事は言の借字。言靈の助くる國は言葉の靈が、人を助ける國といふので、前の言靈能佐吉播布國《コトダマノサキハフクニ》(八九四)と同意である。○眞福在與具《マサキクアリコソ》――舊訓マサキクアレヨク(236)とあるが、恐らく具は其の誤であらう。
〔評〕 言靈信仰が明瞭に力強く現はされてゐる。言靈の靈妙と威徳とを信じた人麿の歌が、次いで憶良の好去好來歌を生み、言靈能佐吉播布國《コトダマノサキハフクニ》と歌はしめた。彼が後世、言の葉の道たる和歌の神として崇敬せらてゐることも、この言靈の力のあらはれと言ふべきで、不思議な因縁である。
 
右五首
 
3255 古ゆ 言ひ續ぎ來らく 戀すれば 安からぬものと 玉の緒の つぎては言へど 處女らが 心を知らに そを知らむ よしの無ければ 夏麻引く 命かたまけ 刈鷹の 心もしぬに 人知れず もとなぞ戀ふる 氣の緒にして
 
從古《イニシヘユ》 言續來口《イヒツギクラク》 戀爲者《コヒスレバ》 不安物登《ヤスカラヌモノト》 玉緒之《タマノヲノ》 繼而者雖云《ツギテハイヘド》 處女等之《ヲトメラガ》 心乎胡粉《ココロヲシラニ》 其將知《ソヲシラム》 因之無者《ヨシノナケレバ》 夏麻引《ナツソビク》 命號貯《イノチカタマケ》 借薦之《カリコモノ》 心文小竹荷《ココロモシヌニ》 人不知《ヒトシレズ》 本名曾戀流《モトナゾコフル》 氣之緒丹四天《イキノヲニシテ》
 
古カラ言ヒ傳ヘテ來ル所デハ、戀ヲスルト心ガ安ラカデナイモノトシテアル。私ハ〔六字傍線〕(玉緒之)絶エズ自分ノ思ヲ〔四字傍線〕述ベテ居ルケレドモ、戀人タル〔四字傍線〕女ノ心ガ分ラズ、ソレヲ知ルベキ方法モナイノデ、(夏麻引)命ヲ傾ケテ、命カギリ〔四字傍線〕心モ(刈薦之)シヲシヲト萎レテ、人ニ知ラレズ心ノ中デ〔四字傍線〕一生懸命、徒ラニ戀シク思ツテヰルヨ。
 
○言續來口《イヒツギクラク》――言續ぎ來ることはの意。○玉緒之《タマノヲノ》――枕詞。繼《ツギ》とつづくのは、玉を貫いた緒の長く續いてゐる意である。○心乎胡粉《ココロヲシラニ》――胡粉は即ち白土であるから、借りてシラニと訓ましめるのである。○夏麻引《ナツソヒク》――枕詞。卷七に夏麻引海上滷乃《ナツソヒクウナカミカタノ》(一一七六)とあった。命とつづく意はよくわからない。○命號貯《イノチカタマケ》――舊訓ミコトヲツミテ、代匠記精撰本イノチナヅミテ、考はウナカブシマケ、古義は命を念に改めて、オモヒナヅミ、新考は印號斜の誤として、ウナカタブケと訓み、新訓は元暦校本、號を方に作るによつて命カタマケと訓んでゐる。以上(237)の諸訓の内、いづれをよしとすべきか判斷に苦しむところであるが、夏麻引からのつづきでは、ウナとありさうである。併し命はウナとよむべくもない。考には紀に命令の二字を各ウナガシとよんであるから、ここもウナカブシとよむべしといってゐるが、無理であらう。號は古本に方、號・兮・弓の如き文字に作つてゐるから、多分號ではあるまい。號は集中他に用ゐられてゐない。貯の字も他に用例がないから或は誤字かも知れない。結局假に新訓によつて、イノチカタマケとし、マとムと通音で、命傾けと解さうと思ふ。なほ後考を待つ。○借薦之《カリゴモノ》――枕詞。苅りたる薦の萎れる意で下につづいてゐる。○心文小竹荷《ココロモシヌニ》――心もしをしをと萎れて。二六六・一五五二など他にも用例がある。○本名曾戀流《モトナゾコフル》――徒らに戀ふる。○氣之緒丹四天《イキノヲニテ》――命をかけて。シテは輕く言ひ納めてある。
〔評〕 古ゆ言ひ續ぎ來らくといつて、古代からの言傳を重んじてゐる。前の神在隨事擧不爲國《カムナガラコトアゲセヌクニ》とか、事靈之所佐國《コトタマノタスクルクニ》などのやうに、古い國民的信仰を述べてゐるのがなつかしい。さして古い歌ではないやうだが、心文小竹荷《ココロモシヌニ》・本名曾戀流《モトナゾコフル》・氣之緒丹四天《イキノヲニシテ》など後の歌に採られた句が多い。
 
反歌
 
3256 しくしくに 思はず人は あらめども しましも我は 忘らえぬかも
 
數數丹《シクシクニ》 不思人者《オモハズヒトハ》 雖有《アラメドモ》 暫文吾者《シマシモワレハ》 忘枝沼鴨《ワスラエヌカモ》
 
女ハ私ヲアマリ〔五字傍線〕頻繁ニハ思ハナイデアラウガ、私ハ暫クノ間モ、アノ女ヲ〔四字傍線〕忘レラレナイヨ。
 
○數數丹《シクシクニ》――重々と。頻りに。舊訓カズカズニとあるのを略解にシクシクニと改めたのがよい。但し敷敷丹の誤としたのはよくない。數をシクシクと訓んだ例は巻十一の布浪之數妹《シクナミノシクシクイモヲ》(二七三五)がある。
〔評〕 片戀の苦しみを詠んでゐる。略解に「世間の人の中にはかく重々に物思はで在もあらめども也」とあるの(238)は誤解であらう。
 
3257 直に來ず こゆ巨勢道から 石はし踏み なづみぞ吾が來し 戀ひて術なみ
 
直不來《タダニコズ》 自此巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石椅跡《イハハシフミ》 名積序吾來《ナヅミゾワガコシ》 戀天窮見《コヒテスベナミ》
 
私ハ〔二字傍線〕戀シクテ仕方ガナイノデ、コノアナタノ家ニ、直接ニ來ヨウト思ツタガ、人ノ目ニツクノガイヤサニ、廻リ道ヲシテ〔コノ〜傍線〕、直接ニハ來ナイデ、(自此)巨勢街道カラ、飛石ノ橋ヲ踏ンデ、難儀ヲシナガラ此處ヘ〔三字傍線〕來マシタ。
 
○直不來《タダニコズ》――眞直に來ないで、廻道をして來るといふのである。○自此巨勢道柄《コユコセヂカラ》――コユは此處より來の意で、巨勢路につづく、コユは歌の上に意味がない。○石椅跡《イハハシフミ》――舊訓イシハシトとあるが、跡は踏の誤であらう。椅は考に瀬の誤としてイハセフミとあるが、もとのままで、イハハシフミと訓むべきである。イハハシは石を川中に並べて渡るやうにしたもの。これは能登瀬川の石椅であらう。○名積序吾來《ナヅミゾワガコシ》――ナヅムは泥む。艱難すること。○戀天窮見《コヒテスベナミ》――術無きは即ち窮であるから、窮をスベナとよんだのである。
〔評〕 次に右三首とあつて、これも前の長歌の反歌として取扱はれてゐるが、さうは見られないやうである。なほ左註を見よ。
 
或本以(テ)2此一首(ヲ)1、爲(セリ)2之(ヲ)紀伊國之濱爾縁云鰒珠《キノクニノハマニヨルトウアハビタマ》、拾爾登謂而往之君《ヒリヒニトイヒテユキシキミ》、何時到來《イツキマサムトイフ》哥之反歌(ト)1也、具(ニ)見(エタリ)v下(ニ)也、但依(リテ)2古本(ニ)1亦累(ネテ)載(ス)v茲(ニ)
 
この註は或本にこの直不來《クダニコズ》の歌は、紀の國の濱に寄るとふ鰒珠拾はむといひて、妹の山勢の山越えて行きし君何時來まさむと云々(三三一八)といふ歌の反歌となつて、具に下に見えてゐる、併し古本にあるから、重複するが、古本によつてここに載せて置くといふのである。その反歌として掲げられたものは直不徃此從巨勢(239)道柄石瀬蹈求曾君來戀而爲便奈見《タタニユカスコユコセヂカライハセフミトメゾワガコシコヒテスベナミ》(三三二〇)とあるもので、二者の間に小異があり、又長歌の句にも文字の用法にもかなりの相異があることに注意したい。なほここに或本といひ、古本とあるのは、如何なる關係になつてゐるのか、攻究すべき問題であらう。
 
右三首
 
3258 あらたまの 年は來ゆきて 玉梓の 使の來ねば 霞立つ 長き春日を 天地に 思ひ足らはし たらちねの 母がかふこの まゆごもり いきづきわたり 吾が戀ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば 松が根の 待つこと遠み 天傳ふ 日のくれぬれば 白たへの 吾が衣手も 透りてぬれぬ
 
荒玉之《アラタマノ》 年者來去而《トシハキユキテ》 玉梓之《タマヅサノ》 使之不來者《ツカヒノコネバ》 霞立《カスミタツ》 長春日乎《ナガキハルビヲ》 天地丹《アメツチニ》 思足椅《オモヒタラハシ》 帶乳根笶《タラチネノ》 母之養蚕之《ハハガカフコノ》 眉隱《マユゴモリ》 氣衝渡《イキヅキワタリ》 吾戀《ワガコフル》 心中少《ココロノウチヲ》 人丹言《ヒトニイフ》 物西不有者《モノニシアラネバ》 松根《マツガネノ》 松事遠《マツコトトホミ》 天傳《アマヅタフ》 日之闇者《ヒノクレヌレバ》 白木綿之《シロタヘノ》 吾衣袖裳《ワガコロモデモ》 通手沾沼《トホリテヌレヌ》
 
(荒玉之)年ハ來テハ去り、久シイ間ニナルガ〔八字傍線〕、(玉梓之)使ガ貴方カラ〔四字傍線〕來ナイノデ、私ハ〔二字傍線〕霞ノ立ツ永イ春ノ日ニ天地ニ滿チ亘ルヤウナ烈シイ戀ヲシテ(帶乳根笶)母ガ飼フ蠶ガ繭ニ閉ヂ籠ツテ、鬱陶シガツテ居ルヤウニ〔鬱陶〜傍線〕、始終鬱々トシテ〔五字傍線〕吐息ヲツイテヰテ、私ガ戀シク思フ心中ヲ人ニデモ打開ケラレルモノナラバ憂サ晴ラシモ出來ルダラウガ〔人ニ〜傍線〕、人ニ言フベキ物デモナイノデ、(松根)待チ遠クテ、(天傳)日ガ暮レテ夜ニ〔四字傍線〕ルト、イヨイヨ戀人ヲ思ヒ出シテ〔イヨ〜傍線〕、私ノ着物ノ(白木綿之)袖ハ、涙ニ〔二字傍線〕沾レテ通ツタ。アア苦シイ〔五字傍線〕。
 
○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。四四三參照。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。二〇七參照。○天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》――天地の間に思ひ滿たしめる。天地の間に充滿するやうな戀をする。思《オモヒ》は動詞である。古今集の「わが戀は空しきそらに滿ちぬらし思(240)ひやれども行く方もなし」の上句もこれと同意である。○帶乳根笶母之養蚕之眉隱《タラチネノハハガカフコノマユゴモリ》――卷十一に足常母養子眉隱隱在妹見依鴨《タラチネノハハガカフコノマユゴモリコモレルイモヲミムヨシモガモ》(二四九五)、卷十二に垂乳根之母我養蠶乃眉隱馬聲蜂音石花蜘蛛荒鹿異母イキヅキワタリ二不相而《タラチネノハハガカフコノマユゴモリイブセクモアルカイモニアハズテ》(二九九一)とあるのと同樣であるが、ここは氣衝渡《イキヅキワタリ》につづいて、欝陶しく心の晴ない譬喩となつてゐる。○氣衝渡《イキヅキワタリ》――いつも吐息をついてゐること。○松根《マツガネノ》――枕詞。同音を繰返して下の松事遠《マツコトトホミ》につづいてゐる。○松事遠《マツコトトホミ》――待ち遠いので。松は待の借字。○天傳《アマヅタフ》――枕詞。空を渡る日とつづく。○白木綿之《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。舊訓シラユフノとあるが、衣につづく語としてはシラユフではわからない。シロタヘとあるべきところである。豐後風土記に「此郷之中栲樹多生常取2栲皮1、以造2木綿1、因曰2柚富郷1」とあるから栲は木綿の原料なることがわかる。ここの用字はそれを證明する好適例である。略解に「もし木綿は幣の字の誤れるにや」とあるのは妄である。
〔評〕 人を待つ女の歌らしい。久しく男からの使も來ず、悲しい思を一人胸につつんでゐると今日も亦日も暮れて、戀慕の涙に袖を濡らしたといふので、實にあはれな情緒が籠つてゐる。併し卷二の柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首の、後の長歌の後半に天傳入日刺奴禮大夫跡念有吾毛敷妙乃衣袖者通而沾奴《アマヅタフイリヒサシヌレマスラヲトオモヘルワレモシキタヘノコロモノソデハトホリテヌレヌ》(一三五)とあるのを、この歌の後半と比較すれば、その類似の大なるに驚かされる。兩者の關係は否み難い。或はこれも人麿の作か。
 
反歌
 
3259 かくのみし 相思はざらば 天雲の よそにぞ君は あるべくありける
 
如是耳師《カクノミシ》 相不思有者《アヒモハザラバ》 天雲之《アマグモノ》 外衣君者《ヨソニゾキミハ》 可有有來《アルベクアリケル》
 
私ノ方カラ思フダケデ〔私ノ〜傍線〕、コンナニ貴方ガ私ヲ〔五字傍線〕思ハナイナラバ、始カラ〔三字傍線〕(天雲之)無關係ノ人トシテ、貴方ハアルベキデアツタヨ。ナマナカ知ツタ人ニナツテ思ガ通ラナイ爲ニ苦勞ヲスルヨ〔ナマ〜傍線〕。
 
(241)○天雲之《アマグモノ》――枕詞。外《ヨソ》とつづくのは、雲が遙かの彼方にあるからである。
評〕 なま中知り合になつて、しかも心の疎通しない戀人を恨んだので、女らしい悔の繰言である。
 
右二首
 
3260 小沼田の あゆちの水を 間無くぞ 人はくむとふ 時じくぞ 人は飲むとふ くむ人の 間なきがごと 飲む人の 時じきが如 吾妹子に 吾が戀ふらくは やむ時もなし
 
小治田之《ヲハリダノ》 年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》 間無曾《ヒマナクゾ》 人者※[手偏+邑]云《ヒトハクムトフ》 時自久曾《トキジクゾ》 人者飲云《ヒトハノムトフ》 ※[手偏+邑]人之《クムヒトノ》 無間之如《ヒマナキガゴト》 飲人之《ノムヒトノ》 不時之如《トキジキガゴト》 吾妹子爾《ワギモコニ》 吾戀良久波《ワガコフラクハ》 已時毛無《ヤムトキモナシ》
 
小治田ノ愛知ト云フ所〔四字傍線〕ノ水ヲ、絶エ〔二字傍線〕間ナク人ハ汲ムト云フコトダ。時ヲ分タズニ、人ハ飲ムト云フコトダ。ソノ水ヲ〔四字傍線〕汲ム人ガ絶エ間ノナイヤウニ、ソノ水ヲ〔四字傍線〕飲ム人ガ何時デモアルヤウニ、私ガ私ノ妻ヲ戀シク思フコトハ、止ム時モナイヨ。
 
○小沼田之《ヲハリダノ》――舊訓ヲヌマタノとあるが、元暦校本・天治本などに、沼を治に作つてゐるから、ヲハリダノであらう。ヲハリダは下に年魚道《アユチ》とあるによれば、尾張田であらぬばならぬ。續紀に「尾張國山田郡小治田連藥師賜2姓尾張宿禰1」とあるによつて、宣長は「尾張を小治田とも云しか」(古事記傳卷二十七)と言つてゐる。大和高市郡にも小治田があり、卷十一に小墾田之板田乃橋之《ヲハリダノイタダノハシノ》(二六四四)とあるが、これはそれとは別であら。新考には「もし尾張ノ愛智といふことならば、ただに小治之年魚道といふべく小治田とはいふべからず。小治田は恐らくは卷十一に小墾田ノ坂田ノ橋ノとあるヲハリ田にて、大和國飛島の事ならむ。姓氏録左京神別上に、小治田宿禰……欽明天皇御代依v墾2小治田(ノ)鮎田1賜2小治田大連1とあり。されば年魚道の道は田とすべし」とある。群書(242)類從本の新撰姓氏録には、「依d墾2開小田1治c點田u賜2小治田大連1」とあつて、新考の記載と異なつて居り、且同書左京皇別、治田連の條には「開化天皇皇子彦坐命之後也。四世孫彦命征2北夷1有2功効1因割2近江國淺井郡地1賜v之爲2墾田地1大海眞持等墾1開彼地1以爲2居地1、大海六世孫之後、熊田宮平等因v行v事賜2治田連姓1也」とあるから、小治田連の小治田は鮎田に關係ある地名とは言ひ難い。○年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》――年魚道《アユチ》は愛智。和名抄に阿伊地とあるが、神代紀に吾湯市《アユチ》村、景行紀に年魚市《アユチ》郡、靈異記に阿育智《アユチ》郡とあるから、アユチが古名である、略々今の愛知郡にあたる。こに清列な泉が湧いてゐたものと見える。○不時之如《トキジキガゴト》――舊訓トキナキガゴトとあるのは當らない。略解にトキジクガゴトとよんだのもよくない。
〔評〕 小治田の年魚道の水に寄せて、戀の心をよんだのであるが、全體の構成は下の三吉野之御金高爾間無序雨者落云不時曾雪者落云《ミヨシヌノミカネノタケニマナクゾアメハフルトフトキジクゾユキハフルトフ》(三二九三)と全く同一で、從つて、卷一の天武天皇御製の歌(二五)・(二六)とも同じである。材料を異にして、同一型に長歌を作り上げたのは、珍らしい例である これらの作の時代の前後は推定しがたいが、眞淵はこの歌について、「調のさま崗本宮はじめつごろにて、反歌なきなるべし」と言つてゐる。
 
反歌
 
3261 思ひやる 術のたづきも 今はなし 君に逢はずて 年の歴ぬれば
 
思遣《オモヒヤル》 爲便乃田付毛《スベノタヅキモ》 今者無《イマハナシ》 於君不相而《キミニアハズテ》 年之歴去者《トシノヘヌレバ》
 
私ハ〔二字傍線〕貴方ニ逢ハナイデ年ガタツタノデ、今ハ胸中ノ思ヲ晴ラス方法モナイ。
 
○思遣《オモヒヤル》――思を晴らす。
 
〔評〕 卷四の劔太刀名惜雲吾者無君爾不相而年之經去禮者《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシキミニアハズテトシノヘヌレバ》(六一六)・卷十二の三空去名之惜毛吾者無不相日數多年之經者《ミソラユクナノヲシケクモワレハナシアハヌヒマネクトシノヘヌレバ》(二八九九)・虚蝉之宇都思情毛吾者無妹乎不相見而年之經去者《ウツセミノウツシゴコロモワレハナシイモヲアヒミズテトシノヘヌレバ》(二九六〇)・念八流跡状毛我者今者無妹二不相而年(243)之經行者《オモヒヤルタドキモワハイマハナシイモニアハズテトシノヘユケバ》(二九四一)などいづれも同型の歌である。殊に最後のものは酷似してゐる。
 
今案(ズルニ)此(ノ)反歌謂(ヘル)2之於|君不相《キミニアハズト》1者於v理不v合(ハ)也、宜(キ)v言(フ)2於|妹不相《イモニアハズト》1也
 
これは後人の註である。長歌に妹とあるのに、反歌に君にあはずとあるのは理が合はないから、妹にあはずと言ふべきだと言ふのであるが、女に對して君といふ例はいくらもあるから、古歌に通じない者の拙い註である。
 
或本反歌曰
 
3262 みづ垣の 久しき時ゆ 戀すれば 吾が帶ゆるぶ 朝よひ毎に
 
?垣《ミヅガキノ》 久時從《ヒサシキトキユ》 戀爲者《コヒスレバ》 吾帶緩《ワガオビユルブ》 朝夕毎《アサヨヒゴトニ》
 
(?垣)久シイ時カラ私ガ〔二字傍線〕戀ヲシテヰルト、片戀ニナヤンデ日ニ日ニ瘠セ衰ヘテ行クノデ〔片戀〜傍線〕、朝ニ晩ニ段々〔二字傍線〕私ノ帶ガユルクナツテ行クヨ。
 
○?垣《ミヅガキノ》――枕詞。神の瑞垣の久しき意で、久しきに冠す。卷四の未通女等之袖振山乃水垣之久時從憶寸吾者《ヲトメラガソデフルヤマノミヅガキノヒサシキトキユオモヒキワレハ》(五〇一)と同例である。但、代匠記は?が卷十二に??越爾麥咋駒乃《マセコシニムギハムコマノ》(三〇九六)とあるによつて、?をマセと訓むべきかと言ひ、新訓もこれによつてゐる。併し?はシモトとよむ字で、若い木のことである。これを馬柵《マセ》にも用ゐるであらうが、若々しくみづみづしい木の垣とすれば、即ち瑞籬であらぬばならぬ。ここをマセガキとよんでは次句へのつづきも分らなくなる。○吾帶緩《ワガオビユルブ》――舊本綾とあるのは緩の誤。古寫本多くは緩に作つてゐる。ユルムと訓むのはわるい。
(244)〔評〕 右の長歌の反歌としては調が新らしきに過ぎる。又卷四の一重耳妹之將結帶乎尚三重可結吾身者成《ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクワガミハナリヌ》(七四二)と同趣であるが、更に遊仙窟の「日々衣寛朝々帶緩」の影響がありさうである。この歌、和歌童蒙抄にも載つてゐる。
 
右三首
 
3263 こもくりの 泊瀬の河の 上つ瀬に い杭を打ち 下つ瀬に 眞杭を打ち い杭には 鏡を懸け 眞杭には 眞玉をかけ 眞珠なす 吾が念ふ妹も 鏡なす 吾が念ふ妹も ありと 言はばこそ 國にも 家にも行かめ 誰が故か行かむ
 
己母理久乃《コモリクノ》 泊瀕之河之《ハツセノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 伊杭乎打《イグヒヲウチ》 下瀬爾《シモツセニ》 眞杭乎格《マグヒヲウチ》 伊杭爾波《イグヒニハ》 鏡乎懸《カガミヲカケ》 眞杭爾波《マグヒニハ》 眞玉乎懸《マタマヲカケ》 眞珠奈須《マタマナス》 我念妹毛《アガモフイモモ》 鏡成《カガミナス》 我念妹毛《アガモフイモモ》 有跡謂者社《アリトイハバコソ》 國爾毛《クニニモ》 家爾毛由可米《イヘニモユカメ》 誰故可將行《タガユヱカユカム》
 
(己母理久乃泊瀬之河之上瀬爾伊杭乎打下湍爾眞杭乎格伊杭爾波鏡乎懸眞杭爾波眞玉乎懸)玉ノヤウニ私ガ大切ニ〔三字傍線〕思フ女モ、鏡ノヤウニ私ガ大切ニ〔三字傍線〕思フ女モ居ルト云フナラバ、國ヘモ行カウガ〔四字傍線〕家ヘモ歸ラウガ、私ノ國ニモ家ニモソンナ女ハナイカラ、私ハ〔私ノ〜傍線〕誰ノ爲ニ歸ラウゾ。家ニ歸ル心ハナイヨ〔九字傍線〕。
 
○己母理久乃《コモリクノ》――枕詞。泊瀬につづく。四五參照。○伊杭乎打《イグヒヲウチ》――伊杭は齋杙。神聖な杙。○眞杭乎格《マグヒヲウチ》――マクヒのマは接頭語で意味はない。杙のことである。格は元暦校本その他の古寫本、挌に作るがよい。挌は打。○伊杭爾波鏡乎懸眞杭爾波眞玉乎懸《イグヒニハカガミヲカケマグヒニハマタマヲカケ》――何故に杙に鏡珠を懸けるのか明らかでないが、多分神を祀るのであらう ここまでの十句は次の眞珠奈須《マタマナス》と鏡成《カガミナス》とを言ひ出さむ爲の序詞である。○誰故可將行《タガユヱカユカム》――タレユヱカユカムとよむのはよくない。
〔評〕 これは左註にあるやうに、古事記允恭天皇の條に、木梨之輕太子、その同母妹輕太郎女に通じ給ひしによつて伊余湯に流され給ひ、その後輕大郎女伊余湯に追到り給うた時、太子の詠み給うた歌として掲げてと殆ど同樣で、その歌は許母理久能波都勢能賀波能賀美都勢爾伊久比袁宇知斯毛都勢爾麻久比袁宇知伊久比爾波加賀美袁加氣麻久比爾波麻多麻袁加氣麻多麻那須阿賀母布伊毛加賀美那須阿賀母布都麻阿里登伊波婆許曾爾伊幣爾母由加米久爾袁毛斯怒波米《コモリクノハツセノカハノカミツセニイグヒヲウチシモツセニマグヒヲウチイグヒニハカガミヲカケマグヒニハマタマヲカケマタマナスアガモフイモカガミナスアガモフツマアリトイハバコソニイヘニモユカメクニヲモシヌバメ》とある。かく歌つてお二人共に自害せられた。かういふ歴史を持つてゐる歌であるのに、この卷の編者はただ作者不明の古歌としてここに掲げてゐる。古事記にこの歌の終に「讀歌也」とあつて、古から讀歌といふ名で民間に行はれてゐたのであるから、木梨之輕太子の作とする古事記の記載は必ずしも眞とは言はれないのである。宣長はこの歌は古事記のものよりもいたく劣つてゐると言つてゐる。
 
檢(スルニ)2古事記(ヲ)1曰(ク)、件(ノ)歌者木梨之輕太子(ノ)自(ラ)死(スル)之時、所v作(リシ)者也
 
この註は必ずしも後人の註とも斷じ難い。この卷の編者が、古事記と比較して自から記したものらしく思はれる。卷一・卷二に多い類聚歌林・書紀・古事記と對照した註と同樣らしい。舊本、件を伴に誤る。
 
反歌
 
3264 年わたる までにも人は 有りとふを 何時のまにぞも わが戀ひにける
 
年渡《トシワタル》 麻弖爾毛人者《マデニモヒトハ》 有云乎《アリトフヲ》 何時之間曾母《イツノマニゾモ》 吾戀爾來《ワガコヒニケル》
 
一年タツマデモ人ハ戀人ニ逢フノヲ氣永ニ待ツテ〔戀人〜傍線〕ヰルト云フコトダガ、私ハアノ人ニ逢ツタノハ〔私ハ〜傍線〕何時デアツタゾ、ツヒコノ間ダノニ〔八字傍線〕私ハコンナニ戀シガルノダラウ。
 
○年渡《トシワタル》――年の經過する。一年過ぎる。○何時之間曾母《イツノマニゾモ》――考はイツノヒマソモ、古義はイツノアヒダゾモと(246)あるが、卷四(五二三)の歌と統一して置く。
〔評〕 この歌は右の反歌とは思はれない。古事記のにも反歌はないから、後に添へたものである。卷四の好渡人
者年母有云乎何時間曾毛吾戀爾來《ヨクワタルヒトハトシニニモアリトフヲイツノマニゾモワガコヒニケル》(五二三)はこれを學んだものなることは否み難い。
 
或書反歌曰
 
多く一云、又は或本とあるのに、ここに或書と記したのは珍らしい。温故堂本には曰の字が無い。
 
3265 世の中を 倦しと思ひて 家出せし 我や何にか かへりて成らむ
 
世間乎《ヨノナカヲ》 倦跡思而《ウシトオモヒテ》 家出爲《イヘデセシ》 吾哉難二加《ワレヤナニニカ》 還而將成《カヘリテナラム》
 
世ノ中ヲ厭ニ思ツテ出家ヲシタ私ガ、再ビ〔二字傍線〕還俗シテ何ニナラウゾ。是カラ還俗シテモ何ニモナレナイカラモウ還俗ナドハシナイ〔是カ〜傍線〕。
 
○倦跡思而《ウシトオモヒテ》――憂しと思つて。舊本跡とあるガ、元暦校本・天治本その他の古寫本には多く迹とある。○家出爲《イヘデセシ》――出家して僧となつたことをいふのであらう。古義はイヘデセルと訓んでゐる。○吾哉難二加《ワレヤナニニカ》――ヤは詠嘆辭としてヨの意と見るべきか。又は下のカと同じく疑辭を重ねたものと見るべきか。恐らく後者であらう。難をナニに用ゐることについては難可將嗟《ナニカナゲカム》(三二四九)參照。○還而將成《カヘリテナラム》――俗に還つてから何にならうか。何になるすべもないから、還俗すまいといふのであらう。
〔評〕 世を厭うて出家したものが、還俗を奨められた時に、これを斷る爲に詠んだものか。ともかく前の長歌とは内容から言つても、時代から言つても全くかけ離れたもので、決して反歌ではない。
 
右三首
 
3266 春されば 花咲きををり 秋づけば 丹のほにもみづ 味酒を 神名火山の 帶にせる 明日香の川の 速き瀬に 生ふる玉藻の うち靡き 心は依りて 朝露の 消なば消ぬべく 戀ふらくも しるくも逢へる こもり妻かも
 
(247) 春去者《ハルサレバ》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》 秋付者《アキヅケバ》 丹之穗爾黄色《ニノホニモミヅ》 味酒乎《ウマサケヲ》 神名火山之《カムナビヤマノ》 帶丹爲留《オビニセル》 明日香之河乃《アスカノカハノ》 速瀬爾《ハヤキセニ》 生玉藻之《オフルタマモノ》 打靡《ウチナビキ》 情者因而《ココロハヨリテ》 朝露之《アサツユノ》 消者可消《ケナバケヌベク》 戀久毛《コフラクモ》 知久毛相《シルクモアヘル》 隱都麻鴨《コモリヅマカモ》
 
(春去者花咲乎呼里秋付者丹之穗爾黄色味酒乎神名火山之帶丹爲留明日香之河乃速瀕爾生玉藻之)靡イテ私ノ〔二字傍線〕心ガアノ女ニ〔四字傍線〕寄ツテ(朝露之)命ガ〔二字傍線〕消エルナラ消エヨトバカリ、戀シテヰルソノ甲斐ガアツテ、逢フコトノ出來タ隱シ妻ヨ。ヤツトノコトデ逢フコトガ出來テウレシイ〔ヤツ〜傍線〕。
 
○花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》――枝もたわわに花咲くこと。○丹之穗爾黄色《ニノホニモミヅ》――ニノホは丹の秀。赤の色美しいこと。○味酒乎《ウマサケヲ》――枕詞。神名火につづくのは釀《カ》ムの意であらう。○神名火山之《カムナビヤマノ》――神名火山は神を祀つた山て所々にあるが、これは雷山のことである。○生玉藻之《オフルタマモノ》――ここまでの十句は打靡《ウチナビキ》と言はむ爲の序詞である。○朝露之《アサツユノ》――枕詞。消につづく。○戀久毛《コフラクモ》――わが戀しく思ふことも。○知久毛相《シルクモアヘル》――著しく甲斐ありて逢へる意。○隱都麻鴫《コモリヅマカモ》――コモリヅマは隱し妻。人目を忍んで隱してある妻。略解・古義には親の守隱してゐる妻と解してゐる。ここのみをさう解するのはどうであらう。
〔評〕 序詞は優麗な感じはあるが、その用法は普通に使ひ慣されたものの連絡で、これと言つて特異の點もない。序詞の長さは前の己母理久之《コモリクノ》(三二六三)と一致し、その手法は人麿の從石見國別妻上來時歌(一三一)に似てゐる。
 
反歌
 
3267 明日香河 瀬瀬の珠藻の うち靡き 心は妹に 依りにけるかも
 
明日香河《アスカガハ》 瀬湍之珠藻之《セゼノタマモノ》 打靡《ウチナビキ》 情者妹爾《ココロハイモニ》 因來鴨《ヨリニケルカモ》
 
(248)(明日香河瀬湍之珠藻之)靡イテ私ノ〔二字傍線〕心ハ戀シイ〔三字傍線〕女ニ寄ツテシマツタヨ。戀シイ女ダナア〔七字傍線〕。
 
○明日香河瀬湍之珠藻之《アスカガハセゼノタマモノ》――打靡とつづく序詞。
〔評〕 長歌の一部を繰返して短歌の形式にしただけで、別に變つた點もない。
 
右二首
 
3268 三諸の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り來ぬ 雨ぎらひ 風さへ吹きぬ 大口の 眞神の原ゆ しぬびつつ かへりにし人 家に到りきや
 
三諸之《ミモロノ》 神奈備山從《カムナビヤマユ》 登能陰《トノグモリ》 雨者落來奴《アメハフリキヌ》 雨霧相《アマギラヒ》 風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》 大口乃《オホクチノ》 眞神之原從《マガミノハラユ》 思管《シヌビツツ》 還爾之人《カヘリニシヒト》 家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》
 
三諸ノ神南備山カラ、雲ガ空ニ棚引イテ曇ツテ、雨ガ降ツテ來タ。雨ガ霧ノヤウニ降ツテ風マデモ吹イテ來タ。此處カラ別レテ〔七字傍線〕(大口乃)眞神ノ原ヲ通ツテ、私ヲ〔二字傍線〕ナツカシク思ヒツツ家ヘ〔二字傍線〕歸ツテ行ツタ人ハ、家ニモウ歸リツイタデアラウカ。心配ナコトダ〔六字傍線〕。
 
○三諸之神奈備山從《ミモロノカムナビヤマユ》――この神奈備山は雷山。○登能陰《トノグモリ》――たな曇りに同じ。雲のたな曳き曇ること。○雨霧相《アマギラヒ》――雨が霧のやうに降ることであらう。卷六の雨霧合之具禮乎疾《アマギラフシグレヲイタミ》(一〇五三)・天霧相日方吹羅之《アマギラヒヒカタフクラシ》(一二三一)のアマギラヒとは異なつてゐる。○大口乃《オホクチノ》――枕詞。眞神とつづくのは、眞神は狼で、口が大きいからである。○眞神之原《マガミノハラ》――雷山の下から西南檜隈地方に亘つた平地をかく呼んだ。○思管《シヌビツツ》――舊訓オモヒツツとあるよりもシヌビツツがよい。考は思を哭の誤として、ネナキツツと訓んだのはよくない。シヌブはなつかしく思つて、心の萎れること。
〔評〕 男を送り出した女が、折から募る雨風に、男の行く手を心配した歌。景と情と併せ述べて、よく整つたあはれな作である。卷八に大口能眞神之原爾零雪者甚莫零家母不有國《オホクチノマガミノハラニフルユキハイタクナフリソイヘモアラナクニ》(一六三六)とある。
 
反歌
 
3269 かへりにし 人を念ふと ぬば玉の その夜は我も いもねかねてき
 
還爾之《カヘリニシ》 人乎念等《ヒトヲオモフト》 野干玉之《ヌバタマノ》 彼夜者吾毛《ソノヨハワレモ》 宿毛寢金手寸《イモネカネテキ》
 
此處カラ別レテ〔七字傍線〕歸ツテ行ツタ人ヲ思ツテ、ソノ別レタ〔三字傍線〕(野干玉之)晩ハ、私モ悲シクテ〔三字傍線〕寢ルコトガ出來ナカツタ。
 
○野干玉之《ヌバタマノ》――ソノを距てて夜につつく。○宿毛寢金手寸《イモネカネテキ》――イは寢ること。モは詠嘆の助詞。
〔評〕 女らしい、やさしい感情がよくあらはれてゐる。右の長歌の反歌としてまことにふさはしい。この歌は比較的新らしいやうである。
 
右二首
 
3270 さし燒かむ をやのしき屋に かきうてむ 破薦を敷きて うち折らむ しこのしき手を さし交へて ぬらむ君ゆゑ あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも
 
刺將燒《サシヤカム》 少屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》 掻將棄《カキウテム》 破薦乎敷而《ヤレゴモヲシキテ》 所掻將折《ウチヲラム》 鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》 指易而《サシカヘテ》 將宿君故《ヌラムキミユヱ》 赤根刺《アカネサス》 畫者終爾《ヒルハシミラニ》 野干玉之《ヌバタマノ》 夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》 此床乃《コノトコノ》 比師跡鳴左右《ヒシトナルマデ》 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
火デモ付ケテ〔六字傍線〕燒イテヤリタイヤウナ小屋ノキタナイ家ニ、捨テテシマツテヤリタイヤウナ破レ蓆ヲ敷イテ、打折ツテヤリタイヤウナ瘠セタ〔六字傍線〕醜イ女ノ〔二字傍線〕手ヲ、サシ交ハシテ寢ルデアラウ貴方故ニ、私ハ(赤根刺)晝ハ終日(野干玉之)夜ハ終夜、コノ寢テヰル〔四字傍線〕床ガギシギシト鳴ルマデモ、嘆息ヲシ夕ヨ。
(250)○刺將燒《サシヤカム》――サシは接頭語。燒き拂つてやりたいやうな。○少屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》――小さい家の醜い家に。これは女の家を罵つたのである。○掻將棄《カキウテム》――棄はスツと訓んでもよいが、棄ツをウツといふのは古語である。古事記に弊都那美曾邇奴棄宇弖《ヘツナミソニヌギウテ》とある。○破薦乎敷而《ヤレゴモヲシキテ》――破薦は女の薦を罵つて言つてゐる。乎《ヲ》は衍字であらうとする説もあるが、このままでよい。○所掻將折《ウチヲラム》――舊訓のカカレヲレラムではわからない。掻は元暦校本に挌とあるによつてウチヲラムとよむのがよからう。挌は打に同じ、所は衍字とすべきか。○鬼之四忌手乎《シコノシキテヲ》――鬼は醜の省畫でシコ。前に鬼乃志許草《シコノシコクサ》(七二七)とあつた。四忌手は醜手。女の手を罵つてゐる。シコテと訓まうとする説はよくない。○將宿君故《ヌラムキミユヱ》――舊訓ネナムキミユヱとあるのよりも、この方がよい。○赤根刺《アカネサス》――枕詞。晝とつづく。二〇參照。○畫者終爾《ヒルハシミラニ》――シミラは、ひまなく連續しての意。即ち終日。下に赤根刺日者之彌良爾《アカネサスヒルハシミラニ》(三二九七)とある。但し卷十七に今日毛之賣良爾《ケフモシメラニ》(三九六九)・卷十九に晝波之賣良爾《ヒルハシメラニ》(四一六六)とあるから、シメラとモ言つたのである。○野干玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○夜者須柄爾《ヨルハスガラニ》――終夜。スガラはその儘、盡く、終までなどの意。○此床乃《コノトコノ》――吾が寢る床の。○比師跡嶋左右《ヒシトナルマデ》――ヒシは床のギシギシとなる音。輾轉反側して床が鳴るのである。
〔評〕 わが男が他の女と親しんでゐる樣を想像して、日夜煩悶してゐる女の歌。冒頭の數句は女を罵り得て妙。瞋恚の※[火+餡の旁]に胸を焦してゐる賤女の心境が實によく詠まれてゐる。
 
反歌
 
3271 わが心 燒くも我なり はしきやし 君に戀ふるも 我が心から
 
我惰《ワガココロ》 燒毛吾有《ヤクモワレナリ》 愛八師《ハシキヤシ》 君爾戀毛《キミニコフルモ》 我之心柄《ワガココロカラ》
 
私ノ心ヲ燒イテ苦シムノ〔六字傍線〕モ私デス。戀シイ貴方ニ戀慕フノモ私ノ心デス。自分デ戀シテ苦シムノダカラ仕方ガナイ〔自分〜傍線〕。
 
(251)○愛八師《ハシキヤシ》――愛する。ヤシは歎辭として添へてある。
〔評〕 卷一の燒鹽乃念曾所燒吾下情《ヤクシホノオモヒゾヤクルワガシタゴコロ》(五)卷七の冬隱春乃大野乎燒人者燒不足香文吾情燒《フユゴモリハルノオホヌヲヤクヒトハヤキタラネカモワガココロヤク》(一三三六)など、心を燒くといつた例がある。苦しむのも戀するのも共に吾が心からと、あきらめて言ひ捨てた心ねがいたましい。
 
右二首
 
3272 打はへて 思ひし小野は 遠からぬ その里人の しめゆふと 聞きてし日より 立てらくの たづきも知らに をらまくの おくかも知らに 父母の わが家すらを 草枕 旅ねの如く 思ふそら 安からぬものを なげくそら 過ぐし得ぬものを 天雲の 行きのまくまく 蘆垣の 思ひ亂れて 亂れ麻の 麻笥をなみと わが戀ふる 千重の一重も 人知れず もとなや戀ひむ いきの緒にして
 
打延而《ウチハヘテ》 思之小野者《オモヒシヲヌハ》 不遠《トホカラヌ》 其里人之《ソノサトビトノ》 標結等《シメユフト》 聞手師日從《キキテシヒヨリ》 立良久乃《タテラクノ》 田付毛不知《タヅキモシラニ》 居久乃《ヲラクノ》 於久鴨不知《オクカモシラニ》 親親《チチハハノ》 己之家尚乎《ワガイヘスラヲ》 草枕《クサマクラ》 客宿之如久《タビネノゴトク》 思空《オモフソラ》 不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》 嗟空《ナゲクソラ》 過之不得物乎《スグシエヌモノヲ》 天雲之《アマグモノ》 行莫莫《ユキノマクマク》 蘆垣乃《アシガキノ》 思亂而《オモヒミダレテ》 亂麻乃《ミダレヲノ》 麻笥乎無登《ヲケヲナミト》 吾戀流《ワガコフル》 千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》 人不令知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》 氣之絹爾爲而《イキノヲニシテ》
 
久シイ以前カラ思ヲカケテ戀シテヰタアノ女ハ、ソノ近所ニヰル〔五字傍線〕里人ガ、自分ノ物トシタト聞イテカラ、私ハ〔二字傍線〕立ツ方法モ知ラズ、坐ル場所モ知ラズ、父母ノ住ンデヰル〔五字傍線〕自分ノ家ヲサヘモ、自分ノ家ノヤウナ落チツイタ氣分ニナラズニ〔自分〜傍線〕、(草枕)旅寢ノヤウニ思ハレテ、コノ事ヲ〔四字傍線〕思フ心モ安クナイノニ、コノ事ヲ〔四字傍線〕嘆ク心ヲ晴ラスコトモ出來ナイノニ、(天雲之)歩クニツレテ思ガ(蘆垣乃)亂レテ、唯サヘ〔三字傍線〕亂レタ麻ヲ麻笥ガ無イノデ、愈々亂ラスヤウニ、心ガ亂レテ〔愈々〜傍線〕、私ガ戀シク思フ、コノ胸ノ中ノ〔六字傍線〕千ノ一モ、アノ〔二字傍線〕人ニ知ラレナイデ、一生懸命デ、徒ラニ戀シク思フコトカヨ。、嗚呼困ツタモノダ〔八字傍線〕。
 
(252)○打延而《ウチハヘテ》――永引いて久しい前から。略解に「遠き所に在て思ふ意とすべし」、古義に「吾が居る處より差《ヤヤ》遠き方に心を打延て、いかで吾が物に領《セ》むと豫思ひし意なり」とあるのは、共に從ひ難い。○思之小野者《オモヒシヲヌハ》――戀した女は。懸想した女を小野に譬へてゐる。○標結等《シメユフト》――他人が女を領して吾が物としたのに譬へてゐる。卷十一に朝茅原小野印《アサヂハラヲヌニシメユフ》(二四六六)とある。○立良久乃《タテラクノ》――舊訓タツラクノとあり、古義は良を麻か萬の誤として、タタマクノとよんでゐるが、タテラクノとよむがよい。立つてゐることの。○田付毛不知《タヅキモシラズ》――方法も知らず。○居久乃《ヲラマクノ》――古義は居の下、麻又は萬の字、脱として、ヲラマクノと訓んでゐるが、もとのままにして訓んで置く。○於久鴨不知《ヲクカモシラニ》――奧處も知らず。奧處は落ちついて居るべきところの意であらう。○親親《チチハハノ》――舊訓オヤオヤノ、代匠記精撰本ムツマシキ、略解はチチハハノと訓し、更に「親々は親之の誤にて、むつばひしと訓まむか。むつばひはむつびを延いふ也。又にきびにしとも訓まむか」とある。元暦校本・天治本などの古本多く親々に作り、類衆古集は親之としてゐる。親々を親之の誤として、略解の如くムツバヒシと訓むのも一説であらうが、シといふ過去の助動詞を用ゐるところではないやうであるから、むしろ親々として、チチハハとよむのがよいのではあるまいか。萬葉用字格には、義訓として、チチハハとよんでゐる。但し親親《チチハハ》の用例は集中、他に見えない。新訓はシタシキとある。さう訓むにはいづれかを衍字とせねばなるまい。○己之家尚乎《ワガイヘスラヲ》――サガイヘスラヲと舊訓にある。父母の住む吾が家をすらにの意であらう。○客旅之如久《タビネノゴトク》――旅宿の如く心の落ちつかぬこと。○思空《オモフソラ》――思ふ心。○過之不得物乎《スグシエヌモノヲ》――心を晴らし得ぬものを。○天雪之《アマグモノ》――枕詞。行莫莫《ユキノマクマク》につづく。○行莫莫《ユキノマクマク》――舊訓ユカマクマクニとあり、略解・古義は行莫行莫《ユクラユクラ》の誤とし、心の動きさわぐこととしてゐるが、卷十八の大王乃麻氣能麻久麻久《オホキミノマケノマクマク》(四〇九八)のマクマクと同じく、ユキノマクマクで、マクマクはマニマニの意であらう。但しユクラユクラとする方が、意は更に明らかなやうであるが、しばらく原字を尊重することにしヨう。○蘆垣乃《アシガキノ》――枕詞。亂れとつづく。○亂麻乃《ミダレヲノ》――上の蘆垣乃《アシガキノ》と同樣に枕詞としても見られるが、それでは下への續きがわからない。○麻司乎無登《ヲケフナミト》――誤字があるか。元暦校本には麻の字なく笥を司に作つてゐる。新訓はこれに從つてゐるが、司は何と訓むべきかわからない。ツカサヲナミトと訓んでも意をなさぬやうである。ヲケヲナ(253)ミトと訓んで、麻笥がないとて、即ち上からつづけて、亂れた麻が、麻笥に入れない爲に一層亂れるが如くの意ではあるまいか。麻笥は麻を績いで入れる圓器。○千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》――千分の一も。○本名也戀牟《モトナヤコヒム》――モトナは徒らに。○氣之緒爾爲而《イキノヲニシテ》――一生懸命で。
〔評〕 吾が思ふ女を他に奪はれて、焦慮煩悶してゐる時の歌である。對句を多く用ゐた整備した作品である。人麿の語調らしいところも見える。吾戀流千重乃一重母《ワガコフルチヘノヒトヘモ》は人麿が妻を失つて泣血哀慟して作つた長歌(二〇七)の中に見える句である。
 
反歌
 
3273 二つなき 戀をしすれば 常の帶を 三重結ぶべく 吾が身はなりぬ
 
二無《フタツナキ》 戀乎思爲者《コヒヲシスレバ》 常帶乎《ツネノオビヲ》 三重可結《ミヘムスブベク》 我身者成《ワガミハナリヌ》
 
世間ニ〔三字傍線〕二ツトナイ戀ヲ私ハ〔二字傍線〕スルト、常ニシテヰル帶ヲ、三重ニ結ブヤウニ私ノ體ハ瘠セ衰ヘ〔四字傍線〕テシマツタ。
 
○二無《フタツナキ》――世に二つとなきの意であらう。
〔評〕卷四の家持作、ヒトヘノミイモガムスバムオビヲスラミヘムスブベクワガミハナリヌ(七四二)とあるのはこれを學んだものであらう。卷九の田邊福麿歌集出の足柄坂を過ぎて死人を見て作つた長歌(一八〇〇)にも一重結帶矣三重結《ヒトヘユワオビヲミヘユヒ》とある。これらは一重と三重とを對照せしめてゐるが、この歌では初句、二無《フタツナキ》が、下の三重に對して、縁語になつてゐるやうに見えるのは偶然であらうか。この歌、八雲御抄に載せてある。
 
右二首
 
3274 爲むすべの たづきを知らに 石がねの こごしき道を 岩床の 根延へる門を 朝には 出でゐて歎き 夕には 入り居て忍び 白妙の わが衣手を 折り反し 獨し寢れば ぬば玉の 黒髪敷きて 人の寢る 味いはねずて 大舟の ゆくらゆくらに 思ひつつ わがぬる夜らを よみもあへむかも
 
爲須部乃《セムスベノ》 田付呼不知《タヅキヲシラニ》 石根乃《イハガネノ》 興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》 石床笶《イハドコノ》 根延門呼《ネハヘルカドヲ》(254)朝庭丹《アサニハ》 出居而嘆《イデヰテナゲキ》 夕庭《ユフニハ》 入居而思《イリヰテシヌビ》 白栲乃《シロタヘノ》 吾衣袖呼《ワガコロモデヲ》 折反《ヲリカヘシ》 獨之寢者《ヒトリシヌレバ》 野干玉《ヌバタマノ》 里髪布而《クロカミシキテ》 人寢《ヒトノヌル》 味眠不睡而《ウマイハネズテ》 大舟乃《オホフネノ》 往良行羅二《ユクラユクラニ》 思乍《オモヒツツ》 吾睡夜等呼《ワガヌルヨラヲ》 續文將敢鴨《ヨミモアヘムカモ》
 
何ト爲スベキ方法モ知ラズ、岩ノ嶮岨ナ道ヲ、岩ガ廣ガツテヰル門ヲ、朝ニハ出テヰテ嘆キ、夕方ニハ入ツテヰテ嘆キ、(白栲乃)私ノ袖ヲ折リ反シテ二人デ寢ルト、(野干玉)黒髪ヲ長ク〔二字傍線〕敷イテ、世間ノ〔三字傍線〕人ガ寢ルヤウナ心地ヨイ寢方ハシナイデ、(大舟乃)ユラリユラリト心ガ動イテ、定マルコトモナク、戀人ヲ〔心ガ〜傍線〕思ヒナガラ私ガ寢ル夜ノ數〔二字傍線〕ヲ、數ヘキレルデアラウカ。トテモ數ヘラレナイダラウ〔トテ〜傍線〕。
 
○興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》――コゴシは嶮岨。磐金之凝敷山乎《イハガネノコゴシキヤマヲ》(三 一)。・石金之凝敷山爾《イハガネノコゴシキヤマニ》(一三三二)とある。ここは凝をゴの音假字に用ゐてゐる。○石床笶《イハトコノ》――岩の平らに横はつてゐるのを石床といふ。○根延門乎《ネハヘルカドヲ》――廣く延びてゐるのを根延へるといつたのである。○朝庭《アサニハ》丹――下の夕庭《ユフニハ》に對比すると丹は衍であらう。○人寢味眠不睡而《ヒトノヌルウマイハネズテ》――世の人の寢る安眠は寢ずして。この二句は卷十一(二三六九)にもある。○大舟乃《オホフネノ》――枕詞。往良行羅二《ユクラユクラニ》とつづくは、舟が漂ひ動搖する意である。○往良行羅二《ユクラユクラニ》――ゆらゆらと動いて。○續文將敢鴨《ヨミモアヘムカモ》――舊本、續とあつて、ツギモアヘムカモとあるのは、元暦校本に讀とあるに從つて、ヨミモアヘムカモと訓むべきである。ヨムは算へること。
〔評〕 この歌は全く變な歌である。冒頭の入居而思《イリヰテシヌビ》までの十句は下の白雲之棚曳國之《シラクモノタナビククニノ》(三三二九)の長歌の後半分にあるものと殆ど一致し、野干玉《ヌバタマノ》からの九句も亦、その長歌の末尾と同樣で、それを除くと白栲乃吾衣袖呼折反獨之寢者《シロタヘノワガコロモデヲヲリカヘシヒトリシヌレバ》の四句のみが殘つて、一首として、殆ど獨立した存在價値を有せぬやうになる。そこで最初の十句と白栲からの十三句を切斷して二首とし、前半は冒頭を落失したものとする説が多い。突如として爲須部乃《セムスベノ》と言ひ起したのは確かに落句のあることを思はしめるものがあるが、それはこの卷編纂後のものなりや、又落句あるまま(255)に編纂者がここに收めたかは遽かに定め難い。しばらく原形のままに語句に隨つて解釋することにした。
 
反歌
 
3275 獨ぬる 夜を算へむと 思へども 戀の繁きに 心どもなし
 
一眠《ヒトリヌル》 夜算跡《ヨヲカゾヘムト》 雖思《オモヘドモ》 戀茂二《コヒノシゲキニ》 情利文梨《ココロドモナシ》
 
戀シイ人ニ逢ヘナイデ私ガ〔戀シ〜傍線〕獨寢スル夜ノ數〔二字傍線〕ヲ算ヘヨウト思フケレドモ、アマリ〔三字傍線〕戀ノ心ノ〔二字傍線〕烈シサニ、シツカリシタ心モナクテ、トテモソンナコトハ出來〔ナク〜傍線〕ナイ。
 
○夜算跡《ヨヲカゾヘムト》――考にヨヒヲヨマムトとあるが、舊訓に從つておいた。○情利文梨《ココロドモナシ》――情利《ココロド》ハ心所《ココロド》。精神。四五七參照。
〔評〕 長歌の末尾の數句を、纏めて短歌の形式にしたもの、長歌は落句があり、錯簡があるかも知れないが、この反歌は、長歌の後半と切離すことは出來ない。
 
右二首
 
3276 百足らず 山田の道を 浪雲の うつくし妻と 語らはず 別れし來れば 速川の 行くも知らに 衣手の 反るも知らに 馬じもの 立ちてつまづき 爲む術の たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に 念ひたらはし 魂あはば 君來ますやと わがなげく 八尺のなげき 玉桙の 道來る人の 立ちとまり いかにと問はば 答へやる たづきを知らに さ丹づらふ 君が名いはば 色に出て 人知りぬべみ あしびきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 君待つわれを
 
百不足《モモタラズ》 山田道乎《ヤマダノミチヲ》 浪雲乃《ナミクモノ》 愛妻跡《ウツクシヅマト》 不語《カタラハズ》 別之來者《ワカレシクレバ》 速川之《ハヤカハノ》 往文不知《ユクモシラニ》 衣袂笶《コロモデノ》 反裳不知《カヘルモシラニ》 馬自物《ウマジモノ》 立而爪衝《タチテツマヅキ》 爲須部乃《セムスベノ》 田付乎白粉《タヅキヲシラニ》 物部乃《モノノフノ》 八十乃心呼《ヤソノココロヲ》 天地二《アメツチニ》 念足橋《オモヒタラハシ》 玉相者《タマアハバ》 君來益八跡《キミキマスヤト》 (256)吾嗟《ワガナゲク》 八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》 玉桙乃《タマボコノ》 道來人之《ミチクルヒトノ》 立留《タチトマリ》 何當問者《イカニトトハバ》 答遣《コタヘヤル》 田付乎不知《タヅキヲシラニ》 散釣相《サニヅラフ》 君名曰者《キミガナイハバ》 色出《イロニデテ》 人可知《ヒトシリヌベミ》 足日木能《アシビキノ》 山從出《ヤマヨリイヅル》 月待跡《ツキマツト》 人者云而《ヒトニハイヒテ》 君待吾乎《キミマツワレヲ》
 
(百不足)山田ト云フ囲〔四字傍線〕ノ道ヲ(浪雲乃)愛スル私ノ〔二字傍線〕夫ト、語スルコトモ出來ナイデ、空シク〔三字傍線〕別レテ來ルト、(速川之)行クベキ方モ分ラズ、(衣袂笶)歸ル道モ分ラズ、(馬自物)立ツテ躓イテ、何トモ仕方ガ無イノデ、(物部乃)色々ニ物ヲ思ツテ、物思ガ天地ニ充チ滿チルホドニナツテ、二人ノ〔三字傍線〕魂ガ相合スルナラバ、貴方ガオイデニナルカト思ツテ〔三字傍線〕、私ガアナタヲ戀シガリナガラ〔アナ〜傍線〕嘆イテヰル、長イ嘆息ヲ聞イテ〔三字傍線〕、(玉桙乃)道ヲ歩イテヰル人ガ、不思議ニ思ツテ〔七字傍線〕立チ留ツテ、ドウシタノカト尋ネルナラバ、何ト〔二字傍線〕答ヘル方法モナク、美シイ貴方ノ御名ヲ言ツタナラバ、直ニソレガ〔五字傍線〕外ニ表ハレテ、人ガ二人ノ戀ヲ〔五字傍線〕知ルデアラウカラ、私ハ(足日木能)山カラ出ル月ヲ待ツト人ニハ言ツテ、外ニ出テ〔四字傍線〕、貴方ノオイデ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰルヨ。
 
○百不足《モモタラズ》――枕詞。八十とつづくべきであるのに、山田《ヤマダ》と連ねたのは、八十《ヤソ》のヤのみをとつたか。宣長は足日木《アシビキ》とあつたのを誤つたのだとしてゐるが、さうすれば極めて簡單に解釋がつく。新考は百木成《モモキナリ》の誤としてゐる。○山田道乎《ヤマダノミチヲ》――山田は地名であらう。略解には「孝徳紀、山田寺と言ふ有り。或人、高市郡山田村と言へり。又河内にも山田郷有り。いづれにか」とある。所々にある地名であるから、何處とも定め難い。○浪雲乃《ナミクモノ》――枕詞。浪のやうな雲が美しいから、美しとつづくのであらう。冠辭考は靡藻之《ナビクモノ》と解し、古義は浪をシキと訓み、雲を雪の誤としてタヘと訓み、シキタヘノであらうと言つてゐるが、妄斷であらう。○不語《カタラハズ》――愛する女と談話を交へることもせずしての意。コトトハズ、モノイハズなどの訓もある。○速川之《ハヤカハノ》――枕詞。往くとつづく。(257)○往不知《ユクモシラニ》――舊訓ユクヘモシラズとあるのはよくない。考にはユクカモシラズ、略解はユクカモシラニとある。誤字説をとらず、文字通りにユクモシラニと訓むべきである。○衣袂笶《コロモデノ》――枕詞。袖は翻るものだからカヘルにつづいてゐる。○馬自物《ウマジモノ》――枕詞。馬は時々躓くからその意で下につづいてゐる。馬の如きもの。○立而爪衝《タチチツマヅキ》――自分が悲しみに心も暗んで、行くも歸るもわからず途方にくれて躓くのである。○物部乃《モノノフノ》――枕詞。物部は氏が多いから八十とつづける。○八十乃心乎《ヤソノココロヲ》――いろいろに物思ふ心。○天地二念足橋《アメツチニオモヒタラハシ》――三二五八參照。○玉相者《タマアハバ》――二人の魂が一致し親しむならば。○八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》――八尺は長さの長きをいふ。古事記に八尺勾※[王+總の旁]之五百津之美須麻流之珠《ヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマ》とある八尺に同じ。空間の長さにいふのをここは時間に用ゐてある。卷十四に也左可杼利《ヤサカドリ》(三五二七)とあるのも氣息の長い鳥のことである。八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》は長い嘆息。○王桙乃《タマボコノ》――枕詞。七九參照。○答遺《コタヘヤル》――古義はイヒヤラムとよんでゐる。○散釣相《サニヅラフ》――サは接頭語。ニヅラフは紅いこと。顔の美しさを褒めてゐる。散は山攝、翰韻 n 音尾の字であるから、サニの假名に用ゐられてゐる。散頬相《サニヅラフ》(二五二三)とある。○君待吾乎《キミマツワレヲ》――君を待つ我ぞの意。この末尾の五句は卷十二の足日木乃從山出流月待登人爾波言而妹待吾乎《アシビキノヤマヨリイヅルツキマツトヒトニハイヒテイモマツワレヲ》(三〇〇二)と同樣で、唯妹と君と異なるのみである。
〔評〕愛妻《ウルクシツマ》・君來益八《キミキマスヤ》・散釣相君《サニヅラフキミ》・君待吾乎《キミマツワレヲ》などの妻及び君の用法で前半は男の詞の如く、後半は女らしくなつてゐる。そこで略解・古義・新考などいづれもこれを前後二つの歌とし、且脱句あるものとしてゐる。併し愛妻《ウツクシツマ》の妻を文字に拘泥せず、卷四の愛夫者《ウツクシツマハ》(五四三)と同じく、夫のこととして解釋するならば、何の故障もなく、全體を女の歌として解くことが出來る。尤もさうなれば始めの部分は女が男のところに通ふやうになつて、不自然だとの考もあらうが、きういふ例もないではなく、又さうしたことが實際あり得ることであるから、それに囚はれてはいけない。さうして脱句がありとしたり、句を置き換へて見るやうな解釋法はなるべく避けたいと思ふ。末句がおのづから一首の短歌になつてゐて、それが卷十二に出てゐるのは面白いことである。考に卷十二の妹とあるを正とし、この卷の君とあるを誤としたのは、その意を得ない。いづれも民謡的のものであらうから、流動性に富んで、場合に應じて謠ひ替へられるのである。
 
(258)反歌
 
3277 いをもねず 吾が思ふ君は いづくべに 今宵誰とか 待てど來まさぬ
 
眠不睡《イヲモネズ》 吾思君者《ワガモフキミハ》 何處邊《イヅクベニ》 今身誰與可《コヨヒタレトカ》 雖待不來《マテドキマサヌ》
 
眠ルコトモ出來ナイデ、私ガ戀シク〔三字傍線〕思ツテヰル貴方ハ、何處デ今夜ハ誰ト樂シンデヰルノ〔七字傍線〕カ。コンナニ私ガ〔六字傍線〕待ツテヰルノニ、オイデニナラナイ。薄情ナ御方ダ〔六字傍線〕。
 
○何處邊今身誰與可《イヅクベニコヨヒタレトカ》――舊訓イツコニゾコノミタレトカとあるが、今身は今夜の誤としなければ到底解釋出來ない。誰與可《タレトカ》の下に寢ラムといふやうな語が省かれてゐる。
〔評〕 男が來ないので、男の心を疑つたのである。長歌の内容とはしつくり合はないやうな感じがないでもない。
 
右二首
 
3278 赤駒の 厩立て 黒駒の 厩立てて そを飼ひ 吾が行くが如 思ひ凄 心に乘りて 高山の 峯のたをりに 射部立てて しし待つが如 床敷きて 吾が待つ君を 犬な吠えそね
 
赤駒《アカゴマノ》 厩立《ウマヤタテ》 黒駒《クロゴマノ》 厩立而《ウマヤタテテ》 彼乎飼《ソヲカヒ》 吾徃如《ワガユクガゴト》 思妻《オモヒヅマ》 心乘而《ココロニノリテ》 高山《タカヤマノ》 峯之手折丹《ミネノタヲリニ》 射目立《イメタテテ》 十六待如《シシマツガゴト》 床敷而《トコシキテ》 吾待公《ワガマツキミヲ》 犬莫吠行年《イヌナホエソネ》
 
私ノ〔二字傍線〕心ニ戀シイ夫ガ(赤駒厩立黒駒厩立而彼乎飼吾徃如)ナツカシクテ、高イ山ノ頂ノ、曲ツタ所ニ、射手ヲ立タセテ置イテ、鹿猪ノ來ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツヤウニ、床ヲ敷キノベテ私ガ待ツテ居ル貴方ヲ、犬ヨ吠エルナヨ。人ニ知ラレルト惡イカラ〔人ニ〜傍線〕。
 
(259)○赤駒厩立黒駒厩立而彼乎飼吾徃如《アカゴマノウマヤタテクロゴマノウマヤタテテソヲカヒワガユクガゴト》――乘と言はむ爲に設けられた序詞。赤駒の爲に厩を立て、黒駒の爲に厩を立てて、その駒を飼つて、自分が乘つて行く如くの意。○思妻《オモヒヅマ》――この妻も前の愛妻《ウツクシヅマ》と同様、夫のことと見ねばならぬ。○心乘而《ココロニノリテ》――心に絶えず思ふこと。○峯之手折丹《ミネノタヲリニ》――峯は頂上。手折はタヲルを名詞としたもの。タヲルは撓む、このタヲリは山の曲つてゐるところ。○射目立《イメタテテ》――射目は射部。弓を射て獣を捕る獵人。○十六待如《シシマツガゴト》――十六は鹿猪。例の戯書である。○床敷而《トコシキテ》――寢床を敷いて。舊訓トコシキニとあり宣長は而を爾の誤として、トコシクニと訓んでゐる。文字通りによむべきであらう。○犬莫吠行年《イヌナホエソネ》――舊訓イヌナホエコソとよんでゐる。集中、行年をソネと訓む例は多い。卷三の雨莫零《アメナフリソネ》(二九九)參照。
〔評〕 これも前半を男の歌とし、後半を女の歌とし、その間に脱句があると見る説が多い。併しさうどの歌も同じやうな誤り方をする筈はない。やはりこれも思妻を夫とすれば、さうして吾徃如《ワガユクガゴト》までの六句を序詞とすれば、全體が一貫して女の歌になる。床敷而《トコシキテ》からの結句に、著しく野趣があらはれてゐるやうに、田舍に行はれた民謠であらうから、そのつもりで見なければいけない。序詞の六句は他に類のない材料で、且謠物らしくよく出來てゐる。
 
反歌
 
3279 葦垣の 末かきわけて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ
 
葦垣之《アシガキノ》 末掻別而《スヱカキワケテ》 君越跡《キミコユト》 人丹勿告《ヒトニナツゲソ》 事者棚知《コトハタナシレ》
 
葦デ作ツタ垣根ノ上ヲ掻キ別ケテ、アノ御方ガ越エテ私ノ所ヘ來ラレ〔八字傍線〕タト云フコトヲ、犬ヨ吠エツイテ〔云フ〜傍線〕人ニ告ゲテハナラヌゾ。事情ハ直ニ悟レヨ。
 
○事者棚知《コトハタナシレ》――舊訓コトハタナシリとあるが、古義にタナシレとあるのがよいであらう。事は直知れ。この事(260)はかくありとただ知れといふのである。
〔評〕 長歌の末尾に犬莫吠行年《イヌナホエソネ》とあるのを受けて、犬に向つて言ふ言葉である。葦垣之末掻別而《アシガキノスヱカキワケテ》の叙述も面白く田舍女らしい氣分が生々としてあらはれてゐる。袖中抄・和歌童蒙抄にも載せてゐる。
 
右二首
 
わがせこは 待てど來まさず 天の原 ふりさけみれば ぬば玉の 夜もふけにけり さ夜ふけて 嵐の吹けば 立ちとまり 待つわが袖に ふる雪は こほりわたりぬ 今更に 君來まさめや さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて み袖持ち 床打ち拂ひ うつつには 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天のたり夜に
 
3280 妾背兒者《ワガセコハ》 雖待不來益《マテドキマサズ》 天原《アマノハラ》 振左氣見者《フリサケミレバ》 黒玉之《ヌバタマノ》 夜毛深去來《ヨモフケニケリ》 左夜深而《サヨフケテ》 荒風乃吹者《アラシノフケバ》 立留《タチトマリ》 待吾袖爾《マツワガソデニ》 零雪者《フルユキハ》 凍渡奴《コホリワタリヌ》 今更《イマサラニ》 公來座哉《キミキマサメヤ》 左奈葛《サナカヅラ》 後毛相得《ノチモアハムト》 名草武類《ナグサムル》 心乎持而《ココロヲモチテ》 三袖持《ミソデモチ》 床打拂《トコウチハラヒ》 卯管庭《ウツツニハ》 君爾波不相《キミニハアハズ》 夢谷《イメニダニ》 相跡所見社《アフトミエコソ》 天之足夜于《アマノタリヨニ》
 
私ノ夫ハイクラ〔三字傍線〕待ツテモオイデニナラナイ。空ヲ遙カニ仰イデ見ルト(黒玉之)夜モ更ケテシマツタ。夜ガ更ケテ嵐ガ吹クト、外ニ〔二字傍線〕佇ンデ、夫ヲ〔二字傍線〕待ツテヰル私ノ着物ノ〔三字傍線〕袖ニハ、降ル雪ガ一面ニ凍リツイタ。モウカウ夜更ニナツテカラ〔モウ〜傍線〕、今更夫ガオイデニナラウヤ。トテモオイデニナル見込ハナイ。ダカラ諦メテ〔トテ〜傍線〕(左奈葛)後ニデモ逢ハウト、強ヒテ〔三字傍線〕慰メル心ニナツテ、袖ヲ以テ床ヲ打チ拂ツテ、實際ニハ夫ニ御目ニカカレナイカラ、セメテ〔三字傍線〕コノヨイ夜ノ夢ニデモ、戀シイ夫ニ〔五字傍線〕逢フト見エテクレヨ。
 
○天原振左氣見者《アマノハラフリサケミレバ》――空を遙かに遠く眺めると。○黒玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。○左奈葛《サナカヅラ》――サネカヅラに同じ。後毛相《ノチモアルム》につづくのは、この葛の蔓が分れて、延び行きて後に復合ふからである。○三袖持《ミソデモチ》――ミソデのミ(261)は接頭語。意味はない。○卯管庭《ウツツニハ》――現には。○天之足夜于《アマノタリヨニ》――天の足夜は夜を褒めた言葉であらう。天を添へるのは天の香具山などの天で、足は足國《タルクニ》・足日《タルヒ》などのタルであらう。ここもタルヨとよんでもよいかも知れない。考に全夜・略解に長き夜と解したのは、その意を得ない。于《ニ》は元暦校本に乎《ヲ》とある。どちらでもよい。
〔評〕 寒夜男を待つ女の心。あきらめて夢にでも見ようと床打拂つて寢ようとしてゐる。用語が平易で、しかも優麗。木枯荒び、雪降り積る冬の夜の情景が見るやうに寫し出され、切ない閨怨の情も悲しく描かれてゐる。時代はあまり古い作ではない。
 
或本歌曰
 
3281 吾がせこは 待てど來たらず 鴈が音も とよみて寒し ぬば玉の 夜もふけにけり さ夜深くと 嵐の吹けば 立ち待つに わが衣手に 置く霜も 氷に冴え渡り 降る雪も 凍り渡りぬ 今更に 君來たらめや さなかづら 後も逢はむと 大舟の 思ひたのめど 現には 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天のたり夜に
 
吾背子者《ワガセコハ》 待跡不來《マテドキタラズ》 鴈音文《カリガネモ》 動而寒《トヨミテサムシ》 烏玉乃《ヌバタマノ》 宵毛深去來《ヨモフケニケリ》 左夜深跡《サヨフクト》 阿下乃吹者《アラシノフケバ》 立待爾《タチマツニ》 吾衣袖爾《ワガコロモデニ》 置霜文《オクシモモ》 氷爾左叡渡《ヒニサエワタリ》 落雪母《フルユキモ》 凍渡奴《コホリワタリヌ》 今更《イマサラニ》 君來目八《キミキタラメヤ》 左奈葛《サナカヅラ》 後文將會常《ノチモアハムト》 大舟乃《オホブネノ》 思憑迹《オモヒタノメド》 現庭《ウツツニハ》 君者不相《キミニハアハズ》 夢谷《イメニダニ》 相所見欲《アフトミエコソ》 天之足夜爾《アメノタリヨニ》
 
私ノ夫ハイクラ〔三字傍線〕待ツテモ來ナイ。雁ノ聲モ空ヲ〔二字傍線〕響カセテ嶋イテ〔三字傍線〕寒イコトダ〔三字傍線〕。(烏玉乃)夜モ更ケテシマツタ。夜ガ更ケルノヲ知ラセ顔ニ嵐ガ吹クト、外ニ〔二字傍線〕佇ンデ夫ヲ〔二字傍線〕待ツテヰルト、私ノ着物ノ袖ニ置ク霜モ氷トナツテ冴エ渡リ、降ル雪モ一面ニ凍ツテシマツタ。モウカウ夜更ニナツテカラ〔モウ〜傍線〕今更夫ガ來ヨウヤ、トテモ來ル見込ハナイ。ダカラアキラメテ〔トテ〜傍線〕(左奈葛)後ニデモ逢ハウト(大舟乃)タヨリニ思ツテヰルガ、實際ニハ夫ニハ逢ハナイ。(262)セメテ〔三字傍線〕コノ良イ夜ノ夢ニデモ戀シイ〔三字傍線〕夫ニ逢フト見エテクレヨ。
 
○左夜深跡《サヨフケト》――略解には原歌に左夜深而《サヨフケテ》とあるにならつて、跡を而の誤だらうといつてゐるが、夜が更けるとて、即ち夜更けを知らせ顔にの意。○阿下乃吹者《アラシノフケバ》――阿下をアラシと訓ませたのは、山下をアラシとよむのと同じで、阿は集中クマとよんであるが、岡の意もある字で、山と同樣に用ゐたのであらう。略解に「山阿出風を略きて山阿と書けるを、又略きて阿と書けり。下は下風とも書くを思へば、山より吹下すよしを以て書きけむ。喚犬追馬を略きて、犬馬とのみ書きまそと訓める類也。」とあるのは、どうであらう。
〔評〕 原歌とあまり異なつてゐないが、かれには敬語になつてゐるところを、これには用ゐてゐない點が違つてゐる。雁音文動而寒《カリガネモトヨミテサムシ》だの置霜文氷丹左叡渡《オクシモモヒニサエワタリ》などの美辭を、これには多く持つてぬる。
 
反歌
 
3282 衣手に あらしの吹きて 寒き夜を 君來たらずは 獨かも寢む
 
衣袖丹《コロモデニ》 山下吹而《アラシノフキテ》 寒夜乎《サムキヨヲ》 君不來者《キミキタラズハ》 獨鴨寢《ヒトリカモネム》
 
着物ノ袖ニ嵐ガ吹イテ寒イ晩ニ、コンナニ待ツテ居テモ〔十字傍線〕、夫ガ來ナイナラバ、私ハ〔二字傍線〕一人デ寢ルコトデアラウカ。アア淋シイ〔五字傍線〕。
 
○山下吹而《アラシノフキテ》――山下をアラシと詠むのは下風《アラシ》(七四)と同じで、山から吹き下す風の義であらう。和名抄に「嵐、山下出v風也」と記してある。
〔評〕 長歌の意を要約したものである。哀情は籠つてゐる。新古今集にこれを人麿として出してゐる。和歌童蒙抄にも載つてゐる。
 
3283 今更に 戀ふとも君に 逢はめやも ぬる夜をおちず 夢に見えこそ
 
(263)今更《イマサラニ》 戀友君爾《コフトモキミニ》 相目八毛《アハメヤモ》 眠夜乎不落《ヌルヨヲオチズ》 夢所見欲《イメニミエコソ》
 
今マデ待ツテ居テモオイデニナラナイノダカラ、モウ〔今マ〜傍線〕今更イクラ〔三字傍線〕戀シガツテモ、私ハ〔二字傍線〕夫ニ逢フコトハ出來ナイ。ダカラセメテ〔六字傍線〕、寢ル晩ハ毎晩、夢ニ夫ガ〔二字傍線〕見エテクダサイヨ。ソレデモ樂シミニシヨウト思フ〔ソレ〜傍線〕。
 
○眠夜乎不落《ヌルヨヲオチズ》――寢る夜の一夜も洩れず。
〔評〕 長歌の終末の部分の意を繰返してゐる。かういふ内容の歌は集中に尠くない。卷十二の從今雖戀妹爾將相哉母床邊不離夢所見乞《イマヨリハコフトモイモニアハメヤモトコノベサラズイメニミエコソ》(二九五七)・イマサラニネメヤワガセコアラタヨノマタヨモオチズイメニミエコソ(三一二〇)など、かなり類似點がある。
 
右四首
 
或本の歌をも併せて數へてゐる。この歌數を後人の書いたものとする説が多いが、或本を通算したからとて、後人の業とは斷じ難い。
 
3284 菅の根の ねもころごろに 吾が念へる 妹によりては 言のいみも 無くありこそと 齋瓮を 齋ひ掘りすゑ 竹珠を 間なく貫き垂り 天地の 神をぞ吾が祈む いたも術なみ
 
菅根之《スガノネノ》 根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロゴロニ》 吾念有《ワガモヘル》 妹爾縁而者《イモニヨリテハ》 言之禁毛《コトノイミモ》 無在乞常《ナクアリコソト》 齊戸乎《イハヒベヲ》 石相穿居《イハヒホリスヱ》 竹珠乎《タカダマヲ》 無間貰垂《マナクヌキタリ》 天地之《アメツチノ》 神祇乎曾吾祈《カミヲゾワガノム》 甚毛爲便無見《イタモスベナミ》
 
(菅根之)心カラ私ガ思ツテヰル女ニツイテハ、言靈ノ災ヲ受ケルコトモナイヤウニト、酒瓶ヲ地ニ掘リ据ヱ付ケテ、神ヲ祭リ〔四字傍線〕、竹ノ玉ヲ澤山ニ糸ニ貫イテ垂ラシテ、利ハ〔二字傍線〕ヒドク戀シクテ〔四字傍線〕シヤウガナイノデ、天地ノ神ヲ祈(264)ツテオ願ヲスルヨ。ドウゾ神樣憐ンデ願ヲカナヘテ下サイ〔ドウ〜傍線〕。
 
○菅根之《スガノネノ》――枕詞。根とつづく。○根毛一伏向凝呂爾《ネモコロゴロニ》――ネモゴロニといふべきを、語呂の關係からコロを重ねたのである。懇ろに。心から。一伏三向をコロと訓むのは、卷十二に一伏三起(二九八八)をコロとよんであるのと同じく、當時の博奕にもとづいてゐる。四箇の木片を用ゐ、その一箇伏し三箇仰いだのを、コロと言つたのである。委しくは卷十の暮三伏一向夜《ユフツクヨ》(一八七四)參照。○妹爾縁而者《イモニヨリテハ》――妹に關しては。妹は君の誤だらうと左註に見える。○言之禁毛《コトノイミモ》――言之禁《コトノイミ》は言葉の障り。言靈から受ける災。禁は集中、サヘとよんだ例が多い。用ゐる言葉によつて災を受ける。言靈の幸ふ國、言靈の助くる國であると同時に、惡い言葉を用ゐれば、その言靈によつて災を蒙るのである。○齊戸乎《イハヒベヲ》――齊戸は齋瓮。酒を盛つて神前に供へるもの。これ以下四句は用例が多い。○甚毛爲便無見《イタモスベナミ》――舊訓イトモとあるが、イタモの方がよい。
〔評〕 反歌によるとこれは女の歌でなければならぬ。さうすると妹爾縁而者《イモニヨリテハ》とあるのは變である。妹は※[女+夫]の誤でセコ又はキミと訓むのであらう。齋瓮を齋ひ掘りすゑ、竹珠を貫きたれて祈るのは、誰でもやつた神拜の形式であらうが、集中の用例を見るに、齋瓮を齋ひ掘り据ゑて祭るのは、卷三の大伴坂上郎女祭神歌に、齊戸乎忌穿居《イハヒベヲイハヒホリスヱ》(三七九)とあるのを始として、帶乳根之母命者齋忌戸乎前坐置而《タラチネノハハノミコトハイハヒベヲマヘニスヱオキテ》(四四三)、卷九に遣唐使の船が難波を發して海に入るとき親母が子に贈つた歌に、齊戸爾木綿取四手而《イハヒベニユフトリシデテ》(一七九〇)、卷二十に伊波比倍乎等許敝爾須惠弖《イハヒベヲトコベニスヱテ》……奈我伎氣遠麻知可母戀牟岐之伎都麻良波《ナガキケヲマチカモコヒムハシキツマラハ》(四三三一)とあるなど、すべて女の業であるから、これも女の歌と見なければならぬ。妹とあるのは誤であらう。但しこの誤は古くからのことで、妹の字をその儘セともよみならはしてゐたことは、源平盛衰記に妹尾《セノヲ》太郎とあるので明らかである。
 
今案(ズルニ)、不v可(ラ)v言(フ)2之(ヲ)因(リテ)v妹(ニ)者《ハト》1、應(ニ)v謂(フ)2之(ヲ)縁(リテハト)1v君(ニ)也、何(トナレバ)則(チ)反歌(ニ)云(ヘリ)2公之隨意《キミガマニマニト》1焉
 
今案とあるからは、後人の註なることは論がない。元暦校本にもあるから次點の時の書入でもあらうか。
 
(265)反歌
 
3285 たらちねの 母にもいはず 包めりし 心はよしゑ きみがまにまに
 
足千根乃《タラチネノ》 母爾毛不謂《ハハニモイハズ》 ※[果/衣]有之《ツツメリシ》 心者縱《ココロハヨシヱ》 公之隨意《キミガマニマニ》
 
(足千根乃)母ニモ言ハナイデ、包ンデ隱シテ〔三字傍線〕置イタ心ハ、ヨロシイ、貴方ノ思フ通リニ任カセテ御意ニ從ヒ〔六字傍線〕マス。
 
○足千根之《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○心者縱《ココロハヨシヱ》――舊訓ココロハユルスとある。代匠記精撰本の訓がよい。
〔評〕 卷十一にタラチネノハハニシラエズワガモタルココロハヨシヱキミガマニマニ(二五三七)と同歌の異傳といつてもよい。
 
或本歌曰
 
3286 玉たすき かけぬ時なく わが念へる 君によりては 倭文幣を 手に取り持ちて 竹珠を しじに貫き垂り 天地の 神をぞわが乞ふ いたも術なみ
 
玉手次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 吾念有《ワガモヘル》 君爾依者《キミニヨリテハ》 倭文幣乎《シヅヌサヲ》 手取持而《テニトリモチテ》 竹珠呼《タカダマヲ》 之自二貫垂《シジニヌキタリ》 天地之《アメツチノ》 神呼曾吾乞《カミヲゾワガコフ》 痛毛須部奈見《イタモスベナミ》
 
心ニ〔二字傍線〕(玉手次)懸ケナイコトモナク、何時デモ〔四字傍線〕私ガ思ツテヰル貴方ニツイテハ、倭文布ノ〔二字傍線〕幣ヲ手ニ取リ持ツテ、竹珠ヲ繋ク貰キ垂ラシ、私ハヒドク戀シクテ〔四字傍線〕、シヤウガナイノデ、天地ノ神樣ニオ祈リ致シマス。
 
○玉手次《タマダスキ》――枕詞。懸《カケ》とつづく。○倭文幣《シヅヌサヲ》――神に供へる爲に、倭文布を幣とするのである。倭文布は吾が國固有の縞ある布。○之自二貫垂《シジニヌキタレ》――シジは繁く。
 
(266)〔評〕 原歌とよく似て、同歌の異傳たることは爭はれない。歌としての價値は別段優劣はない。
 
反歌
 
3287 天地の 神を祷りて 吾が戀ふる 公い必ず 逢はざらめやも
 
乾地乃《アメツチノ》 神乎祷而《カミヲイノリテ》 吾戀《ワガコフル》 公以必《キミイカナラズ》 不相在目八方《アハザラメヤモ》
 
天地ノ神々ヲ祷ツテ、私ガ戀シテヰル貴方ガ、必ズ逢ハナイト云フ事ガアルモノデスカ。必ズ私ニ逢フ筈デス〔九字傍線〕。
 
○乾地乃《アメツチノ》――乾坤とありさうなところである。元暦校本・天治本など皆さうなつてゐるから、地は坤の誤であらう。○公以必《キミイカナラズ》――舊訓キミニカナラズとあり、代匠記初稿本、以は似の誤とある。併し新訓にもとのままで、キミイカナラズとよんだのが、よいのではないか。イは主語の下に附く助詞である。志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》(二三七)・菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》(一八〇九)のイと同じであらう。
〔評〕 強い信念のあらはれた、雄勁な歌である。前の原歌の反歌とは全然別なものである。
 
或本歌曰
 
舊本に反歌とあるが、反は衍である。元暦校本その他の古本にない。
 
3288 大船の 思ひたのみて さなかづら いや遠長く わがもへる 君に依りては ことの故も 無くありこそと 木綿襷 肩に取りかけ 齋瓮を 齋ひ掘りすゑ 天地の 神にぞ吾が祈む いたも術なみ
 
大船之《オホフネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 木始已《サナカヅラ》 彌遠長《イヤトホナガク》 我念有《ワガモヘル》 君爾依而者《キミニヨリテハ》 言之故毛《コトノユヱモ》 無有欲得《ナクアリコソト》 木綿手次《ユフタスキ》 肩荷取懸《カタニトリカケ》 忌戸乎《イハヒベヲ》 齊穿居《イハヒホリスヱ》 玄黄之《アメツチノ》 神祇二衣吾祈《カミニソワガノム》 甚毛爲便無見《イタモスベナミ》
 
(267)(大船之)タノミニ思ツテ(木始已)益々遠ク、イツマデモト〔六字傍線〕私ガ思ツテヰル貴方ニツイテハ、言靈ノ事故モナクテクレト、木綿襷ヲ肩ニ取リ懸ケ、齋瓮ヲ神ニ祭ツテ地ヲ掘ツテ据ヱツケテ、私委ハ〔二字傍線〕ヒドク戀シクテ仕方ガナイノデ、天地ノ神樣ニ祈リマス。
 
○大船之《オホブネノ》――枕詞。たよりにする意でつづく。○木始已《サナカヅラ》――枕詞。サネカヅラニ同じ。木始已は舊訓、コシオノレとあるのを代匠記精撰本に始の下、如を補つて、ネモコロニ、考は延絡石の誤として、ハフツタノ、略解は木は本の誤、始は如の誤で、本知已はネモゴロニ、古義は松根之の誤とし、又別に始は防の誤で、木防巳はアヲツヅラであらうといつた大神景井説をあげてゐる。かく諸説があるが、最後に擧げたものが最良く、なほ字鏡に木防已を佐奈葛とあるによつて ここはアヲツヅラよりもサナカヅラと訓むべきであらう。○言之故毛《コトノユヱモ》――言の事故。即ち前の言之禁《コトノイミ》とあつたのと同じく言靈の災。○木綿手次《ユフタスキ》――木綿《ユフ》で作つた襷。挿畫は木綿襷をかけた埴輪土偶である。○玄黄之《アメツチノ》――玄黄と記したのは珍らしい。千字文の天地玄黄で、アメツチとよませたのである。
〔評〕 原歌と大同小異で、とりたてていふべき點もない。これに添へた反歌はない。
 
3289 みはかしを 劍の池の 蓮葉に たまれる水の 行方無み わがせし時に 逢ふべしと あひたる君を な寢そと 母きこせども あが心 清隅の池の 池の底 われは忘れじ ただに逢ふまでに
 
(268)御佩乎《ミハカシヲ》 劔池之《ツルギノイケノ》 蓮葉爾《ハチスバニ》 渟有水之《タマレルミヅノ》 往方無《ユクヘナミ》 我爲時爾《ワガセシトキニ》 應相登《アフベシト》 相有君乎《アヒタルキミヲ》 莫寢等《ナネソト》 母寸巨勢友《ハハキコセドモ》 吾情《ワガココロ》 清隅之池之《キヨスミノイケノ》 池底《イケノソコ》 吾者不忍《ワレハワスレジ》 正相左右二《タダニアフマデニ》
 
戀シクテ〔四字傍線〕(御佩乎劔池之蓮葉爾渟有水之)途方ニクレテ私ガヰタ時ニ、逢ハウト言ツテ私ト〔五字傍線〕逢ツタ貴方ト、共寢ヲシテハナラヌト、母ガオツシヤルケレドモ、私ノ心ハ清クテ〔七字傍線〕直接ニ貴方〔三字傍線〕ニ逢フマデ(吾情)清隅ノ池ノ底ノヤウニ深ク思ツテ〔九字傍線〕、私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕忘レハシナイ。
 
○御佩乎《ミハカシヲ》――枕詞。御佩刀よ。劍とつづく。ミハカシは御佩し。衣を御|着《ケ》し。弓を御執《ミトラ》しといふ類である。ヲは詠嘆的に添へた助詞。○劔池《ツルギノイケノ》――劍池は大和高市郡白橿村大字石川にある。應神天皇紀に「作劍池輕池鹿垣池厩坂池。」舒明天皇紀七年の條に一端蓮生劍池、一莖二花」皇極天皇紀二年の條「劍池蓮中有一莖二萼者、豐浦大臣妄推曰、是蘇我臣將來瑞世、即以金墨書而獻大法興寺、丈六佛、明年蝦夷入鹿並被誅」とある。これを以ても蓮が多かつたごとがわかる。○蓮葉爾渟有水之《ハチスバニタマレルミヅノ》――ここまでは往方無《ユクヘナミ》と言はむ爲の序詞。蓮の葉に宿つた水が、何方へこぼれるとも知れぬ意でつづいてゐる。○往方無我爲時爾《ユクヘナミワガセシトキニ》――行方もわからす私が困つてゐた時に。途方にくれて私が居た時に。○相有君乎《アヒタルキミヲ》――舊訓を改めて、考にウラヘルキミヲとあり、卜占にあらはれた義としてゐる。併しこの短い歌の内に相の字三つあるが、その一のみをウラの意に用ゐることは少し無理のやうであり、又集中ウラとよんだ例がないから、これも同樣にアヒと訓むべきであらう。古義に「アヒタルキミヲとよむ時は吾がよるべなくせし時に、汝に逢べしとて、逢たる君なるをと云意なり」とあるのがよい。○莫寢等《ナネソト》――共寢するなの意。○母寸巨勢友《ハハキコセドモ》――母は宣へどの意。卷十一の不知二五寸許瀬余名告奈《イサトヲキコセワガナノラスナ》(二七 〇)、卷十二の將相跡令聞戀之名種爾《アハムトキコセコヒノナグサニ》(三〇六三)のキコスと同じである。○吾情《ワガココロ》――枕詞。清とつづけてある。○清隅之池之《キヨスミノイケノ》――大和國添上郡に清澄莊がある。今、五箇谷村と改めてゐる。その大字、高樋に清澄池がある。○池底《イケノソコ》(269)――清澄の池の池の底のやうに深く。○吾者不忍《ワレハワスレジ》――忍は元暦校本・天治本など多くは志に作つてゐる。志は忘であらう。
〔評〕 男と約束した女が、母の目を忍んで逢はうとする心が歌はれてゐる。冒頭の序詞と歌中の譬喩に、劍池と清隅池とを用ゐたのは、作者の工夫のあるところであらうが、殊に冒頭の序詞は巧に出來てゐる。
 
反歌
 
3290 古の 神の時より 逢ひけらし 今のこころも 常忘らえず
 
古之《イニシヘノ》 神乃時從《カミノトキヨリ》 會計良思《アヒケラシ》 今心文《イマノココロモ》 常不所念《ツネワスラエズ》
 
古ノ神ノ代カラシテ、私ハ前世デアノ人ト夫婦トシテ〔私ハ〜傍線〕逢ツテヰタモノト見エル。コノ世ニオケル〔七字傍線〕今ノ私ノ〔二字傍線〕心ニモ、常ニ忘レルコトガ出來ナイ。
 
○古之神乃時從《イニシヘノカミノトキヨリ》――神の御代にゐた時から、これは前世を言つたのである。略解に「上は卷一の、神代よりしかなるらし、いにしへも然なれこそ、うつせみもつまをあらそうらしきと、言ふに同じ意也」とあるのは誤解である。○今心文《イマノココロモ》――古義はイマココロニモとよんでゐるが、現世の心でもの意であるから、舊訓の方が正しい。○常不所念《ツネワスラエズ》――所念は忘の誤か。
〔評〕 前世からの宿縁を信じたものらしいが、佛教思想の浸潤の深いことを思はしめる。
 
右二首
 
3291 み芳野の 眞木立つ山に 青く生ふる 山菅の根の ねもごろに わが念ふ君は おほきみの 遣はしのまにま 或本云、大君のみことかしこみ 夷離る 國治めにと 或本云、天さかる夷治めにと 群鳥の 朝立ち行けば 後れたる 我か戀ひむな 旅なれば 君かしぬばむ 言はむ術 せむすべ知らに 或書に、足引の山の木末にの句あり はふ蔦の 歸りし 或本歸りしの句なし 別の數多 惜しきものかも
 
三芳野之《ミヨシヌノ》 眞木立山爾《マキタツヤマニ》 青生《アヲクオフル》 山菅之根乃《ヤマスゲノネノ》 慇懃《ネモゴロニ》 吾念君者《ワガモフキミハ》 天皇(270)之《オホギミノ》 遣之萬萬《ツカハシノマニマ》 【或本云|王命恐《オホキミノミコトカシコミ》 夷離《ヒナサカル》 國治爾登《クニヲサメニト》 【或本云|天疎夷治爾登《アマサカリヒナヲサメニト》】 群鳥之《ムラトリノ》 朝立行者《アサタチユケバ》 後有《オクレタル》 我可將戀奈《ワレカコヒムナ》 客有者《タビナレバ》 君可將思《キミカシヌバム》 言牟爲便《イハムスベ》 將爲須便不知《セムスベシラニ》 【或書有2足日木山之木末爾《アシビキノヤマノコヌレニノ》句1也】 延津田乃《ハフツタノ》 歸之《カヘリシ》 【或本無2歸之《カヘリシノ》句1也】 別之數《ワカレノアマタ》 惜物可聞《ヲシキモノカモ》
 
(三芳野之眞木立山爾青生山菅之根乃)心身ラ私ガ戀シク思ツ〔五字傍線〕テヰル貴方ハ、天子樣ノオ遣ハシナサルノニ從ツテ、遠イ邊鄙ノ國ヲ治メニチテ、(群鳥之)朝立ツテ出カケナサルト、後ニ遺サレタ私ハ、戀シク思フコトデアラウカヨ。又〔傍線〕旅ニ出テヰルノデ、貴方ガ私ヲ戀シク〔三字傍線〕思ヒナサルデアラウカ。何ト言ヒヤウモナク、何ト仕樣モナク、(延津田乃)別ガマコトニ惜シイモノデスヨ。
 
○眞木立山爾《マキタツヤマニ》――檜の生えてゐる山に。○青生《アヲクオフル》――青は重の誤で、シジニオフルであらうと考にあるが、舊本のままでよい。舊訓はアヲミオフルとある。○山菅之根之《ヤマスゲノネノ》――山菅はヤブラン。ここまでの四句はネモゴロとつづく序詞。○遣之萬萬《ツカハシノマニマ》――考にマケノマニマニとよんだのは、卷三の大王之任乃隨意《オホキミノマケノマニマニ》(三六九)にならつたものか。併し遣をマケとよんだ例が集中に無く、又さう訓むべくもないやうである。ヤリの訓もあるが、ここには感じが惡い。萬萬は徃乃萬萬《ユキノマニマニ》(五四三)の如く、マニマニと訓むべきであらうが、あまり音數が多いから、マニマでよいであらう。○夷離《ヒナサカル》――夷に離れてゐる。田舍の遠いところにある。卷十九に夷放國乎治等《ヒナサカルクニヲヲサムト》(四二一四)とある。○群烏之《ムラトリノ》――枕詞。朝立《アサタチ》とつづく。○我可將戀奈《ワレカコヒムナ》――ワレカコヒナムと訓む説はその意を得ない。吾は戀ひるであらうかよ。ナは歎辭として添へてある。卷七に家爾之?吾者將戀名《イヘニシテワレカコヒムナ》(一一七九)とある。○延津田乃《ハフツタノ》――枕詞。別につづく。蔦の蔓が枝をさして別れ行くからである。○歸之《カヘリシ》――この二字は衍字とすべきであらう。○別之數《ワカレノアマタ》――別が甚だしくの意。○惜物可聞《ヲシキモノカモ》――惜しきものよ。
〔評〕 地方官として、赴任せむとする夫との別を惜しむ歌。情緒纏綿。かなりな佳作である。或本又は或書とし(271)て、別傳が記されてゐるものの多い中に、足日木山之木末爾《アシビキノヤマノコヌレニノ》の句はこれを挿入する方が、下の延津田乃《ハフツタノ》に連絡がよい。
 
反歌
 
3292 うつせみの 命を長く ありこそと 留れるわれは 齋ひて待たむ
 
打蝉之《ウツセミノ》 命乎長《イノチヲナガク》 有社等《アリコソト》 留吾者《トマレルワレハ》 五十羽旱將待《イハヒテマタム》
 
貴方ガ旅ニ出ナサツタナラバ、御無事デ〔貴方〜傍線〕(打蝉之)命ガ永ク續クヤウニト、留守ヲシテヰル私ハ、神樣ヲオ祭リシテ待ツテ居リマセウ。
 
○打蝉之《ウツセミノ》――枕詞。命とつづく。○五十羽旱將待《イハヒテマタム》――考はイハヒマチナムとあり、古義は旱を日手の誤としてイハヒテマタムと訓むべしと言つてゐる。旱をヒテと訓むので、日手の誤とする必要はない。受旱宿跡《ウケヒテヌレド》(二五八九)の例もある。イハヒテは神を齋ひて。
〔評〕 長歌に述べなかつたところを補つてゐる。夫を思ふ心は誠實そのものと言つてよい。
 
右二首
 
3293 み吉野の 御金の嶽に 間無くぞ 雨は降るとふ 時じくぞ 雪は降るとふ その雨の 間無きが如 その雪の 時じきがごと 間もおちず 吾はぞ戀ふる 妹が正香に
 
三吉野之《ミヨシヌノ》 御金高爾《ミカネノタケニ》 間無序《マナクゾ》 雨者落云《アメハフルトフ》 不時曾《トキジクゾ》 雪者落云《ユキハフルトフ》 其雨《ソノアメノ》 無間如《マナキガゴト》 彼雪《ソノユキノ》 不時如《トキジキガゴト》 間不落《マモオチズ》 吾者曾戀《ワレハゾコフル》 妹之正香爾《イモガタダカニ》
 
吉野ノ金峯山ニハ、絶〔傍線〕間ナク雨ガ降ツテヰルト云フコトダ。時ヲ分タズニイツデモ〔四字傍線〕雪ガ降ルト云フコトダ。(272)ソノ雨ガ絶間ノナイヤウニ、ソノ雪ガ時ヲ分タズニ降ルヤウニ、絶間ナク私ハ戀シイ〔三字傍線〕女ノ身ノ上ヲ、戀シク思ツテヰル。
 
○御金高爾《ミカネノタケニ》――御金高は吉野の金峯山即ち大峯である。考に金は缶の誤でミミガノタケだといつたのは、卷一の耳我嶺《ミミガノタケ》(二五)とあるに一致せしめようとしたので妄である。○妹之正香爾《イモガタダカニ》――妹が身の上に。考は爾《ニ》を乎《ヲ》の誤としてゐる。正香《タダカ》は君之直香曾《キミガタダカゾ》(六九七)參照。
〔評〕 卷一の天皇御製歌(二五)と殆ど同じで、もとよりいづれかが原歌で、他はそれを少しく語を變へたに過ぎない。内容から推すと、卷一のやうに其山道乎《ソノヤマミチヲ》とあるよりも、妹之正香爾《イモガタダカニ》とある方が自然であるから、この歌の方が原作であるやうに思はれる。
 
反歌
 
3294 み雪ふる 吉野のたけに ゐる雲の よそに見し子に 戀ひわたるかも
 
三雪落《ミユキフル》 吉野之高二《ヨシヌノタケニ》 居雲之《ヰルクモノ》 外丹見子爾《ヨソニミシコニ》 戀度可聞《コヒワタルカモ》
 
(三雪落吉野之高二居雲之)一寸〔二字傍線〕外《ヨソ》目ニ見タバカリノ女ヲ、私ハ〔二字傍線〕戀シク思ヒツヅケテヰルヨ。ドウシタモノダラウ〔九字傍線〕。
 
○三雪落吉野之高二居雲之《ミユキフルヨシヌノタケニヰルクモノ》――外と言はむ爲の序詞。雲は遠いよその方にあるからである。○外丹見子爾《ヨソニミシコニ》――外目《ヨソメ》に見た女に。よそながら見た女に。
〔評〕 吉野を題材とした點は長歌と同じであるが、内容から見ると長歌の反歌としては、しつくり合はぬやうである。天武天皇御製の歌に反歌がないので見ると、この反歌のあるのは或は、原形でなかつたかも知れない。
 
右二首
 
3295 うち日さつ 三宅の原ゆ ひた土に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑぞ 通はすも吾子 うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷の腸 か黒き髪に 眞木綿もち あさざ結ひ垂り 大和の つげの小櫛を 抑へ挿す さすたへの子は それぞ吾が妻
 
(273)打久津《ウチヒサツ》 三宅乃原從《ミヤケノハラユ》 當土《ヒタツチニ》 足迹貫《アシフミヌキ》 夏草乎《ナツクサヲ》 腰爾莫積《コシニナヅミ》 如何有哉《イカナルヤ》 人子故曾《ヒトノコユヱゾ》 通簀文吾子《カヨハスモアゴ》 諾諾名《ウベナウベナ》 母者不知《ハハハシラジ》 諾諾名《ウベナウベナ》 父者不知《チチハシラジ》 蜷腸《ミナノワタ》 香黒髪丹《カグロキカミニ》 眞木綿持《マユフモチ》 阿邪左結垂《アサザユヒタリ》 日本之《ヤマトノ》 黄楊乃小櫛乎《ツゲノヲグシヲ》 抑刺《オサヘサス》 刺細子《サスタヘノコハ》 彼曾吾?《ソレゾワガツマ》
 
(打久津)三宅ノ原カラ土ノ上ヲ深ク踏ミナガラ、夏草ノ中〔二字傍線〕ヲ腰マデモ入ツテ苦シンデ歩イテ、ドンナ女ダカラ、吾ガ子ハ通ヒナサルノデスカ。尤モノコトデスヨ。母モ知リマスマイ。尤モノコトデスヨ。父モ知リマスマイ。(蜷腸)黒イ髪ニ木綿ヲ以テ、阿邪佐ヲ結ビ垂ラシテ、大和ノ黄楊ノ小橋ヲ髪ノ〔二字傍線〕抑ヘニサス、美シイ女ハソレガ私ノ妻デスヨ。
 
○打久津《ウチヒサツ》――枕詞。三宅につづくは宮の意である。多くウチヒサスとあるが、卷十四に宇知比佐都美夜能瀬河泊能《ウチヒサツミヤノセガハノ》(三五〇五)ともある。内日指《ウツヒサス》(四六〇)參照。○三宅乃原從《ミヤケノハラユ》――和名抄、城下郡に三宅郷がある。今舊名を再興して三宅村といふ。今の磯城郡の西北部で結崎の南方に當つてゐる。○當土《ヒタツチニ》――直接に土の上に。地びたに。直土爾《ヒタツチニ》(八九二)とある。西本願寺本。神田本など當を常に作るのが正しいであらう。○足迹貫《アシフミヌキ》――舊訓、アトヲツラネテ、考はアシフミナヅミ、古義はアシフミツラネとある。フミヌキは足を大地に深く踏み込むことで、あまり烈し過ぎる言葉のやうであるが、やはりさう訓むがよから(274)う。貫をツラネとよむのは無理である。○腰爾莫積《コシニナヅミ》――夏草の中を腰までつかへて歩む。古事記に宇美賀由氣婆許斯那豆牟《ウミガユケバコシナヅム》、本集にも、落雪乎腰爾奈都美?《フルユキヲコシニナヅミテ》(四二三〇)などがある。○如何有哉《イカナルヤ》――ヤは輕く添へた歎辭。如何なる人の子故ぞと下につづいてゐる。○人子故曾《ヒトノコユヱゾ》――人子《ヒトノコ》は女をいふ。○通簀文吾子《カヨハスモアゴ》――通ひなさるよ吾が子の意。吾子は親しんでいふ。ここまでは問になつてゐる。○諾諾名《ウベナウベナ》――尤もだな尤もだなの意。諾《ウベ》はうべなふの語根で、本當・尤もと應諾する詞。○蜷腸《ミナノワタ》――枕詞。蜷といふ貝の腸は黒いから黒につづく。○香黒髪丹《カグロキカミニ》――カは接頭語のみ。○眞木綿持《マユフモチ》――マは接頭語。木綿《ユフ》は栲の皮で作つたもの。○阿邪左結垂《アサザユヒタリ》――阿邪左は婦人の頭髪の装飾であらうが、よくわからない。考は何都良結垂《カツラユヒタリ》の誤とし、宣長は或人説として左を※[尸/工]の誤とし交《アザネ》の意であらうといつてゐる。古義は何邪志《カザシ》の誤とする眞淵説を是認してゐる。しかし猥りに誤字とせずに、原形を保存すべきである。○日本之《ヤマトノ》――畿内の大和をいふ。黄楊の小櫛は大和の名産であつたと見える。○刺細子《サスタヘノコハ》――考に刺を敷に改めて、シキタヘノコハとしてゐる。シキタヘノ子は卷十に朱羅引色妙子《アカラヒクシキタヘノコヲ》(一九九九)とあるが、サスタヘはシキタヘと同義で、シキは重《シキ》、サスは立《タツ》に通じ盛な意であらう。即ちサスタヘは盛に妙なる女であらう。○彼曾吾?《ソレゾワガツマ》――それこそ吾が妻なれと、指して教へる言葉。
〔評〕 通簀文吾子《カヨハスモアゴ》までは親がその子に問ふもので、それ以下が子の答となつてゐる。一首を問答の形式に作るのは旋頭歌に多く、長歌にも山上憶良貧窮問答歌(八九二)のやうなものがあるが、その例は極めて尠い。この形式が憶良によつて學ばれたものではないかとさへ思はれる。なほこの吾子を唯若者を親しんで呼ぶ言葉として、眞の親子の間の問答と見ない説もある。それも必ずしも惡くはないが、やはり吾子は言葉通りに解釋して置かう。形式も内容も共に珍らしく、叙述に劇的なところもあり、出色の作である。
 
反歌
 
3296 父母に 知らせぬ子故 三宅路の 夏野の草を なづみ來るかも
 
父母爾《チチハハニ》 不令知子故《シラセヌコユヱ》 三宅道乃《ミヤケヂノ》 夏野草乎《ナツヌノクサヲ》 菜積來鴨《ナヅミケルカモ》
 
(275)父ニモ母ニモ知ラセナイデ隱レテ通フ女〔六字傍線〕ノ爲ニ、私ハ〔二字傍線〕三宅街道ノ夏草ノ茂ツテヰル野原ヲ、惱ミナガラ通ツテ來ルヨ。
 
○不令知子故《シラセヌコユヱ》――父母にも隱してある女の爲に。ここはダノニの意では解し難い。
〔評〕 長歌中の問答の兩部の語を採つて、巧に答者の心を述べてゐる。
 
右二首
 
3297 玉だすき かけぬ時なく 吾が念ふ 妹にし逢はねば あかねさす 畫はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに いもねずに 妹に戀ふるに 生けるすべなし
 
玉田次《タマダスキ》 不懸時無《カケヌトキナク》 吾念《ワガオモフ》 妹西不會波《イモニシアハネバ》 赤根刺《アカネサス》 日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》 烏玉之《ヌバタマノ》 夜者酢辛二《ヨルハスガラニ》 眠不睡爾《イモネズニ》 妹戀丹《イモニコフルニ》 生流爲便無《イケルスベナシ》
 
(玉田次)心ニ〔二字傍線〕カケナイ時ハナク、私ガ戀シク〔三字傍線〕思フ女ニ逢ハナイノデ、(赤根刺)畫ハ終日、(烏玉之)夜ハ終夜、眠リモシナイデ、女ヲ戀シガツテヰルノデ、生キテヰル方法ガナイ。コレデハドウシテモ焦死シサウダ〔コレ〜傍線〕。
 
○玉田次《タマダスキ》――枕詞。懸けとつづく。○不懸時無《カケヌトキナク》――心に懸けない時はなく。○赤根刺別《アカネサス》――枕詞。日とつづく。○日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》――晝は終日。三二七〇參照。○烏玉之《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。○夜者酢辛二《ヨルハスガラニ》――夜は終夜。三二七〇參照。○妹戀丹《イモニコフルニ》――舊訓イモヲコフルニとあるが、イモニコフルニがよい。
〔評〕 叙述が形式的で、取り立てていふほどの重點もない、三二七〇に少し似てゐる。
 
反歌
 
3298 よしゑやし 死なむよ吾妹 生けりとも かくのみこそ吾が 戀ひ渡りなめ
 
(276) 縱惠八師《ヨシヱヤシ》 二二火四吾妹《シナムヨワギモ》 生友《イケリトモ》 各鑿社吾《カクノミコソワガ》 戀度七目《コヒワタリナメ》
 
エエモウ〔四字傍線〕ヨロシイ、死ナウヨ、吾ガ妻ヨ。タトヒ〔三字傍線〕生キテ居ツテモ、カウシテ私ハ貴方ニ逢ハレナイデ、貴女ヲ〔貴方〜傍線〕戀シガツテバカリ日ヲ送ルデセウヨ。死ンダ方ガマシデス〔九字傍線〕。
 
○二二火四吾妹《シナムヨワギモ》――二二は四であるからシに用ゐ、火をナムと訓むのは、五行を方角に配すれば、火は南に當るからである。卷十に事毛告火《コトモツゲナム》(一九九八)とある。○戀度七目《コヒワタリナメ》――舊本、日とあるは目の誤。元麿校本・西本願寺本など、古寫本多くさうなつてゐる。
〔評〕 強い熱情的の口調である。卷十二に今者吾者將死與吾妹不相而念渡者安毛無《イマハアハシナムヨワギモアハズシテオモヒワタレバヤスケクモナシ》(二八六九)・今者吾者指南與吾兄戀爲者一夜一日毛安毛無《イマハアハシナムヨワガセコヒスレバヒトヨヒトヒモヤスケクモナシ》(二九三六)とあるに似てゐる。なほ卷四の今者吾波將死與吾背生十方吾二可縁跡言跡云莫苦荷《イマハワハシナムヨワガセイケリトモワレニヨルベシトイフトイハナクニ》(六八四)はこれを粉本としたか。この歌、袖中抄にも載せてある。
 
右二首
 
3299 見渡しに 妹らは立たし この方に 我は立ちて 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに さ丹ぬりの 小舟もがも 玉まきの 小※[楫+戈]もがも 榜ぎ渡りつつも あひ語らめを 或本歌頭句云 こもりくの 泊瀬の河の 遠方に 妹らは立たし この方に 我は立ちて
 
見渡爾《ミワタシニ》 妹等者立志《イモラハタタシ》 是方爾《コノカタニ》 吾者立而《ワレハタチテ》 思虚《オモフソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 嘆虚《ナゲクソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 左丹漆之《サニヌリノ》 小舟毛鴨《ヲブネモガモ》 玉纏之《タママキノ》 小※[楫+戈]毛鴨《ヲカイモガモ》 ※[手偏+旁]渡乍毛《コギワタリツツモ》 相語妻遠《アヒカタラメヲ》
 
遠ク〔二字傍線〕見渡サレルアチラ〔六字傍線〕ニ、妻ハ立チ、コチラノ方ニ私ハ立ツテ、思フ心モ安クナク、嘆ク心モ安カラズニ居ルガ、朱塗ノ小舟モアレバヨイ。玉ヲ卷イタ美シイ〔三字傍線〕小櫂モアレバヨイ。サウシタラソノ舟ニ乘ツテ〔サウ〜傍線〕、漕イデ向ウヘ〔二字傍線〕(277)渡ツテ、話ヲシヨウノニ。
 
○見渡爾《ミワタシニ》――見渡す彼方に。○妹等者立志《イモラハタタシ》――妹等のラは接尾語で、意味はない。複數をあらはすものとは異
なつてゐる。立志《タタシ》のシは敬語。○思虚《オモフソラ》――ソラは心。○左丹漆之小舟毛鴨《サニヌリノヲフネモガモ》――卷八に佐丹塗之小船毛賀茂玉纏之眞可伊毛我母《サニヌリノヲフネモガモタママキノマカイモガモ》(一五二〇)とある。舊本、※[沫の異体字]とあるのは誤。漆の草體を誤まつたものである。○小※[沫の末の横線三本]毛鴨《ヲカイモガモ》――※[楫+戈]は楫と同字で、カヂと訓むを常とするが、ここではカイがよい カヂは漕具の總稱。カイをも含む。○相語妻遠《アヒカタラメヲ》――相語らうのにの意。略解に「妻は益の誤にて、かたらはましを歟」とあるのはよくない。
〔評〕 さ丹塗の小舟、玉まきの小櫂は、卷八の山上憶良の七夕の長歌に出てゐるもので、彼はこれを學んだのであらうが、この長歌も二星相思の情を歌つたもののやうに見える。然し次の或本歌によれば、別に頭句がある本があるので、それと比べて見ると、なるほどあまり唐突の感がある。然し冒頭に脱句あるものとせずに、七夕の歌として置きたいと思ふ。
 
或本歌頭句云
 
己母理久乃《コモリクノ》 波都世乃加波乃《ハツセノカハノ》 乎知可多爾《ヲチカタニ》 伊母良波多多志《イモラハタタシ》 己乃加多爾《コノカタニ》 和禮波多知?《ワレハタチテ》
 
これは前の歌を泊瀬川の歌として頭句を補つたものである。これを原形と斷ずるのは早計であらう。泊瀬川にさ丹塗の小舟、王纏の小櫂は不似合である。この二歌の同一句が、或本の方は全然假名書式になつてゐるのは、記録の時代が新しいことを語るもので、寧ろ七夕の歌を泊瀬川の歌に作りかへたことを思はしめる。
 
右一首
 
3300 押照る 難波の埼に 引きのぼる 赤のそほ舟 そほ舟に 綱取りかけ ひこづらひ ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ 言はれにし吾が身
 
(278)忍照《オシテル》 難波乃埼爾《ナニハノサキニ》 引登《ヒキノボル》 赤曾朋舟《アケノソホフネ》 曾朋舟爾《ソホフネニ》 綱取繋《ツナトリカケ》 引豆良比《ヒコヅラヒ》 有雙雖爲《アリナミスレド》 曰豆良賓《イヒヅラヒ》 有雙雖爲《アリナミスレド》 有雙不得叙《アリナミエズゾ》 所言西我身《イハレニシワガミ》
 
(忍照難波乃埼爾引登赤曾朋舟曾朋舟爾綱取繋)人ガカレコレ言フノニ〔十字傍線〕對抗シテ、ツヅケテヰルガ、言張ツテ、ツヅケテヰルガ、サウシテ〔四字傍線〕頑張ツテヰラレナイデ、私ハ到頭私ノ戀ヲ、人ニ言ヒ〔私ハ〜傍線〕騷ガレルコトニナツテシマツタ。
 
○忍照《オシテル》――枕詞。難波とつづく。四四三參照。○赤曾朋舟《アケノソホフネ》――赤いソホ塗の舟。ソホは朱。卷十の具穗船乃《ソホフネノ》(二〇八九)參照。○綱取繋《ツナトリカケ》――この句までは次のヒコヅラヒとつづく序詞である。○引豆良比《ヒコヅラヒ》――引張る。古事記上卷八千矛神の御歌に「ヲトメノナスヤイタトヲオソブラヒワガタタセレバヒコヅラヒワガタタセレバ」とあるヒコヅラヒと同じく、ヅラフは接尾語として加へられたものであるが、ヒキヅラフは單に引くとは異なり、強ひて強く引くことにいふやうである。中世の文に「ひきじろふ」「ひこじろふ」とあるのは、この轉じたものであらう。さて、この句は人が自分の戀人を想像してかれこれ言ふのを、突張つて打消してゐる意である。○有雙雖爲《アリナミスレド》――アリナミは在並びであらう。絶えず繼續してゐること。雙《ナミ》をなびけと見るのも、否《イナ》みと見る説も面白くない。○曰豆良賓《イヒヅラヒ》――無理に言ひ張ること。○所言西我身《イハレニシワガミ》――人に言ひ騷がれたわが身よ。
〔評〕 眞淵はこの歌を評して「此歌は崗本ノ宮より前なるべし、仍て反歌もなきなり。その古への歌の中にしもよくよみしにて、言厚く雅にして面白し。是らの類此卷に多きをとり集めて唱へ見るべし」と言つてゐる。反歌がないからとて、直ちに崗本宮以前とは斷じ難い。古雅な優美な歌ではあるが、技巧的にはかなり進歩してゐるから、舒明天皇より下つたものであらうと思はれる。
 
右一首
 
3301 神風の 伊勢の海の 朝なぎに 來寄る深海松 夕なぎに 來寄るまた海松 深海松の 深めし我を また海松の また往反り つまと言はじとかも 思ほせる君
 
(279) 神風之《カムカゼノ》 伊勢乃海之《イセノウミノ》 朝奈伎爾《アサナギニ》 來依深海松《キヨルフカミル》 暮奈藝爾《ユフナギニ》 來因俟海松《キヨルマタミル》 深海松乃《フカミルノ》 深目師吾乎《フカメシワレヲ》 俟海松乃《マタミルノ》 復去反《マタユキカヘリ》 都麻等不言登可聞《ツマトイハジトカモ》 思保世流君《オモホセルキミ》
 
(神風之伊勢乃海之朝奈伎爾來依深海松暮奈藝爾來因俟海松深海松乃)心〔傍線〕深ク貴女ヲ〔三字傍線〕思ツテヰルコノ〔二字傍線〕私ダノニ(俟海松乃)復歸ツテ來テ、貴女ヲ〔三字傍線〕妻ト言ハナイダラウトデモ思ツテヰルノデスカ貴女ハ。私ハ今カラ旅ニ出テモ、決シテ貴女ヲ忘レナイデ、歸ツテカラモ亦夫婦トナルカラ、サウ悲シミナサルナ〔私ハ〜傍線〕。
 
○神風之《カムカゼノ》――枕詞。伊勢とつづく。八一參照。○來依深海松《キヨルフカミル》――來り寄せる深海松。深海松は深い海中に生ずる海松。海松は海藻の名。一三五參照。○來因俟海松《キヨルマタミル》――海松は枝をさして股のやうになつてゐるので、俣海松といふ。舊本、俟とあるのは、俣の誤か。俣は國字であらう。字書には見えないが、古事記にも八俣遠呂智《ヤマタノヲロチ》とある。或は俟《マツ》の轉で、俟と俣と同字かも知れない。○深海松乃《フカミルノ》――この句を言はむが爲に前の六句を置いたので、さうしてこの句は又次の深目師《フカメシ》と言はむ爲であるから、ここまでの七句は序詞である。○探目師吾乎《フカメシワレヲ》――探目師《フカメシ》とは心に深く思つてゐる意である。○俟海松乃《マタミルノ》――この句は復《マダ》と言はむ爲に置かれたもので、前の六句の序詞の繼續である。○都麻等不言登可聞思保世流君《ツマトイハジトカモオモホセルキミ》――妻と言ふまいと、思つていらつしやるかよ貴方はの意。君は妻と一致してゐる。
 
〔評〕 冒頭の序詞は、卷一の人麿の長歌に、角障經石見之海乃言佐敝久辛乃埼有伊久里爾曾深海松生流荒礒爾曾玉藻者生流玉藻成靡寐之兒乎深海松乃深目手思騰《ツヌサハフイハミノウミノコトサヘグカラノサキナルイクリニゾフカミルオフルアリソニゾタマモハオフルタマモナスナビキネシコヲフカミルノフカメテモヘド》(一三五)とあるのと、全くその手法を一にしてゐる。この兩者の密接な關係は否み難い。若し反歌がないといふ點で、これを舒明天皇以前とするならば、これは正しく人麿のお手本になつた歌である。否舒明天皇以前とは斷じないでも、人麿以前とすることは不合理でないから、人麿(280)にも彼を大ならしめた粉本があつたもので、彼も亦時代の子といふことが出來るわけである。さうして人麿の作が、角障經石見之海乃《ツノサハフイハミノウミノ》になつてゐるに對して、これは神風之伊勢乃海之《カムカゼノイセノウミノ》になつてゐるのは、伊勢の國で、袂を別つ時の作と考へるのが至當のやうである。又この歌は用語の上からは、作者を男性とも女性とも考へられるが、内容から思ふに男性の作であらう。結末の二句が連續してゐるのは古格としては珍らしい。
 
右一首
 
3302 紀の國の 宝の江の邊に 千年に 障る事なく 萬世に 斯くしあらむと 大舟の 思ひたのみて 出で立ちの 清き渚に 朝なぎに 來寄る深海松 夕なぎに 來寄る繩苔 深海松の 深めし子らを 繩苔の 引けば絶ゆとや 里人の 行きの集ひに 泣く兒なす 行き取りさぐり 梓弓 弓腹振り起し 志之岐羽を 二つ手挾み 離ちけむ 人し悔しも 戀ふらく思へば
 
紀伊國之《キノクニノ》 室之江邊爾《ムロノエノベニ》 千年爾《チトセニ》 障事無《サハルコトナク》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 如是將有登《カクシアラムト》 大舟乃《オホブネノ》 思恃而《オモヒタノミテ》 出立之《イデタチノ》 清瀲爾《キヨキナギサニ》 朝名寸二《アサナギニ》 來依深海松《キヨルフカミル》 夕難伎爾《ユフナギニ》 來依繩法《キヨルナハノリ》 深海松之《フカミルノ》 深目思子等遠《フカメシコラヲ》 繩法之《ハナノリノ》 引者絶登夜《ヒケバタユトヤ》 散度人之《サトビトノ》 行之屯爾《ユキノツドヒニ》 鳴兒成《ナクコナス》 行取左具利《ユキトリサグリ》 梓弓《アヅサユミ》 弓腹振起《ユハラフリオコシ》 志之岐羽矣《シノキハヲ》 二手挾《フタツタバサミ》 離兼《ハナチケム》 人斯悔《ヒトシクヤシモ》 戀思者《コフラクオモヘバ》
 
紀伊ノ國ノ牟婁ノ江ノ邊ニカウシテ〔四字傍線〕千年ノ間〔二字傍線〕モ障ルコトモナク、萬年ノ後マデ〔四字傍線〕モカウシテヰヨウト(大舟乃)タヨリニ思ツテ、(出立之清瀲爾朝名寸二來依深海松夕難伎爾來依繩法深海松之)深ク思ツテヰタ女ダノニ(繩法之引者)女ハ〔二字傍線〕コレ限ニナルトデモ思フノカ、私ヲ見送リニ〔六字傍線〕里人ガ行キ集ツテ來ル中デ、泣ク兒ノヤウニ女ガ側ヘ〔四字傍線〕來テスガリ付イテ、コンナ悲シミヲシテ〔九字傍線〕(梓弓弓腹振起志之岐羽矣二手挾)別レタ女ヲ今ニナツテコンナニ〔九字傍線〕戀シク思フコトヲ考ヘルト、殘念デアルヨ。
 
(281)○室之江邊爾《ムロノエノベニ》――室之江は牟婁郡の江、即ち今の田邊灣であらう。○如是將有登《カクシアラムト》――考に舊訓を改めて、シカモアラムトとしたのは要なき改訓である。古義にはカクシモアラムトとある。○大舟乃《オホブネノ》――枕詞。思恃《オモヒタノミ》とつづく。○出立之《イデタチノ》――イデタチシと訓むのはよくない。出立は地名。今、田邊町の一部になつてゐる。卷九に出立之此松原乎《イデタチノコノマツバラヲ》(一六七四)とある。この句より以下、深海松之《フカミルノ》までの七句は深目思子等遠《フカメシコラヲ》とつづく序詞である。○繩法之《ナハノリノ》――上の來依繩法《キヨルナハノリ》を受けて序詞からつづいて、引者絶登夜《ヒケバタユトヤ》と連なつてぬる。繩法《ナハノリ》は繩のやうな海苔。卷十一の奧津繩乘《オキツナハノリ》(二七七九)參照。○引者絶登夜《ヒケバタユトヤ》――繩海苔は柔かいもので引くと切れるから、かく續けたのであるが引者《ヒケバ》は上につづけて序詞の一部をなすものと見るべきであらう。古義はヒカバと訓んでゐる。○散度人乃《サトビトノ》――度は多く濁音に用ゐてあるが、ここは清音の假名である。○行之屯爾《ユキノツドヒニ》――舊本、長とあるは屯を長の草書と見誤つたのであらう。屯とあるべきところである。天治本にはさうなつてゐる。屯は馬屯而《ウマナメテ》(一七二〇)とあるが、ここはツドヒと訓むべきである。○鳴兒成《ナクコナス》――よ泣く兒の如く、古義に枕詞としたのはよくない。○行取左具利《ユキトリサグリ》――行き取り探り。來つて取りつきすがり。代匠記精撰本に「行は靱に借てかけり。幼兒の泣時に物を弄《テサクリ》て泣く如く、我も靱を取さくりて泣意なり。若は鳴《メイ》は嗚《ヲ》にて男成《ヲノコナス》と云へるにや。梓弓なとつつけるやうは、然も聞ゆるなり」とあるのは從ひ難い。○弓腹振起《ユハラフリオコシ》――弓腹は弓末に同じく、弓の上端。古事記上卷に弓腹振立而《ユハラフリタテテ》とある。○志之岐羽矣《シノキハヲ》――志之岐羽《シノキハ》は代匠記精撰本に「志之岐羽は矢なり。矢は敵を凌ぐ物なる故なり」とあるが、又シシキではないかとも疑つてゐる。考はシノギハと訓んで「鳥の風切羽といふをいへり。ことはいかなる風をもよく凌ぎ行故に、征矢に專らとすれば、此名有べし」とある。古義はシシキハと訓んで「或説にシシキは、しわのある羽の矢なりといへれど、矢羽にしわのあらむこと如何なり。猶考べし」といつてゐる。要するに今はよく知り難いが、シノギバは矢の羽の名であらう。之の字は元暦校本・天治本などの古本多く乃に作つてゐるから、舊本は乃を之に寫しかへたもので、シノギハなることは疑ない。○二手挾《フタツタバサミ》――矢は二本を以て一對となすから、必ず二本を携へるのである。手挾は右手の指で持つこと。梓弓からここまでの四句は句中の序詞である。○離兼人斯悔《ハナチケムヒトシクヤシモ》――離兼人《ハナチケムヒト》は別れた女。上からは矢を放つ意でつづいてゐる。古義に「人は我の誤にはあ(282)らざるか、人にても自らのことなり」とあるのは從ひ難い、○戀思者《コフラクオモヘバ》――かくばかり吾が戀ふるを思へばの意。
〔評〕 伊勢と紀伊と國は異なつてゐるが、用語の上には多少の類似點がある。同類の歌としてここに併記したものか。考にこれを挽歌として、その部に轉置したのは從ひ難い。前の歌を伊勢での作とするならば、これも紀伊の國に於ける作と言はねばなるまい。句中の序詞が多く、意義の紛らはしい點がある。
 
右一首
 
3303 里人の 我に告ぐらく 汝が戀ふる うつくし夫は 黄葉の 散り亂れたる 神名火の この山邊から 或本云、その山邊 ぬば玉の 黒馬に乘りて 河の瀬を 七瀬渡りて うらぶれて 夫は逢ひきと 人ぞ告げつる
 
里人之《サトビトノ》 吾丹告樂《ワレニツグラク》 汝戀《ナガコフル》 愛妻者《ウツクシツマハ》 黄葉之《モミヂバノ》 散亂有《チリミダレタル》 神名火之《カムナビノ》 此山邊柄《コノヤマベカラ》 【或本云|彼山邊《ソノヤマベ》 烏玉之《ヌバタマノ》 黒馬爾乘而《クロマニノリテ》 河瀬乎《カハノセヲ》 七湍渡而《ナナセワタリテ》 裏觸而《ウラブレテ》 妻者會登《ツマハアヒキト》 人曾告鶴《ヒトゾツゲツル》
 
里人ガ私ニ告ゲルノニハ、オマヘガ戀シク思ツテヰル愛スル夫ハ、紅葉ガ散リ亂レテヰル、神名備ノコノ山ノアタリカラ(鳥玉之)黒イ馬ニ跨ツテ、河ノ瀬ヲイクツモ渡ツテ、悄然タル風デ私ノ〔二字傍線〕夫ニハ行キ逢ツタト里〔傍線〕人ガ告ゲタヨ。何處ヘイラツシヤツタノデアラウ〔何處〜傍線〕。
 
○愛妻者《ウツクシツマハ》――妻とあるのは借字で、夫のことである。○散亂有《チリミダレタル》――舊訓チリマガヒタルとあるが、文字通に訓むがよい。○神名火之此山邊柄《カムナビノコノヤマベカラ》――この神名火は雷山であらう。此は下に或本云|彼山邊《ソノヤマベ》とある。雷山の麓に住む女とすれば此山邊でよい。○烏玉之《ヌバタマノ》――枕詞。黒とつづく。ヌバタマは射干玉。黒い實が生る。○黒馬爾乘而《クロマニノリテ》――黒馬をコマと訓む説はよくない。卷四にも夜干玉之黒馬之來夜者《ヌバタマノクロマノクルヨハ》(五  )とある。○七湍渡而《ナナセワタリテ》――七瀬(283)は多くの瀬。これは飛鳥川の瀬であらう。卷七に明日香川七瀬之不行爾《アスカガハナナセノヨドニ》(一三六六)とある。○裏觸而《ウラブレテ》――悲觀して、萎れてゐること。○妻者會登《ツマハアヒキト》――舊訓ツマハアヒツト、考にツマハアヘリトとある。夫に逢つたといふのである。
〔評〕 女の歌で、その愛する男が、悄然として立去る姿を里人が見て、それをその女に語つたといふのである。雷山近くに住む女で、男はその女の家から歸るところであらう。考はこれを挽歌の部に入れ、卷七の挽歌|秋山黄葉※[立心偏+可]怜浦觸而人西妹者待不來《アキヤマノモミヂアハレトウラブレテイリニシイモハマテドキマサズ》(一四〇九)を引いて、送葬の作としてゐるが、送葬の歌ではない。
 
反歌
 
3304 聞かずして もだあらましを 何しかも 君が正香を 人の告げつる
 
不聞而《キカズシテ》 黙然有益乎《モダアラマシヲ》 何如文《ナニシカモ》 公之正香乎《キミガタダカヲ》 人之告鶴《ヒトノツゲツル》
 
夫ノコトニツイテハ私ハ何モ〔夫ノ〜傍線〕聞カナイデ、黙ツテヰレバヨイノニ、何シニ夫ノ樣子ヲ人ガ私ニ〔二字傍線〕告ゲタノダラウ。ホントニ餘計ナコトヲシテ私ニ物思ヲサセルヨ〔ホン〜傍線〕。
 
○黙然有益乎《モダアラマシヲ》――舊本、然黙とあるは誤。元暦校本による。中々者黙毛有益呼《ナカナカニモダモアラマシヲ》(六一二)・中中黙然毛揖申尾《ナカナカニモダモアラマシヲ》(二八九九)などにならつて、モダモと訓む説も多いが、ここはモに當る文字がない。○公之正香乎《キミガタダカヲ》――正香は身の上。樣子。
〔評〕 戀しい男の樣子を聞いて、胸を焦がす女の心。強い表現になつてゐる。
 
右二首
 
(284)問答
 
3305 物念はず 道行きなむも 青山を 振放け見れば 躑躅花 にほへるをとめ 櫻花 さかゆるをとめ 汝をぞも 吾に依すとふ 吾をもぞ 汝に依すとふ 荒山も 人し依すれば 依そるとぞいふ 汝が心ゆめ
 
物不念《モノオモハズ》 道行去毛《ミチユキナムモ》 青山乎《アヲヤマヲ》 振放見者《フリサケミレバ》 茵花《ツツジバナ》 香未通女《ニホヘルヲトメ》 櫻花《サクラバナ》 盛未通女《サカユルヲトメ》 汝乎曾母《ナレヲゾモ》 吾丹依云《ワレニヨストフ》 吾※[口+立刀]毛曾《アヲモゾ》 汝丹依云《ナニヨストフ》 荒山毛《アラヤマモ》 人師依者《ヒトシヨスレバ》 余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》 汝心勤《ナガココロユメ》
 
物思モナクテ、道ヲ歩キタイト思フノニ、青イ山ヲ遙カニ仰イデ見ルト、躑躅ノ花ガ咲イテヰルガ、ソノ〔躑躅〜傍線〕躑躅ノ花ノヤウナ美シイ少女、又櫻ノ花ガ咲イテヰルガ、ソノ櫻ノ花〔ガ咲〜傍線〕ノヤウナ今美シイ〔三字傍線〕盛リノ少女ヨ。オマヘヲ世間ノ人ガ〔五字傍線〕私ト関係ガアルヤウニ言フサウダ。又〔傍線〕私ノコトヲオマヘト關係ガアルヤウニ人ガ〔二字傍線〕言フサウダ。世間ノ諺ニ人ノ通ハナイヤウナ〔世間〜傍線〕淋シイ奧山デモ、人ガソノ山ト關係ガアルヤウニ言フト、山モソノ心ニナツテ、コチラニ心ヲ留メルヤウニナルト云フガ、山ノヤウナ無情ナモノデモサウダカラ、況ンヤ人間タル〔ガ山〜傍線〕オマヘノ心モ決シテ間違ナク私ヲ思ツテクレヨ〔間違〜傍線〕。
 
○道行去毛《ミチユキナムモ》――道を行くであらうにの意。毛は乎の誤であらうと古義は言ってゐる。○青山乎《アヲヤマヲ》――古義は五色を四時に配すれば、青は春に當るからハルヤマヲであらうと言ってゐる。○茵花《ツツジバナ》――下のつづきは枕詞式になつてゐるが、上からのつづきでは、山に躑躅が咲いてゐるのに、處女を譬へたものである。茵はシトネといふ字であるが、本集で躑躅と訓ませてある。卷三にも茵花香君之《ツツジバナニホヘルキミガ》(四四三)とある。○香未通女《ニホヘルヲトメ》――舊訓ニホヘルヲトメとあるのを、古義はニホヒヲトメと改めてゐるのも、必ずしもわるくはないが、右の巻三の例によれば舊(285)訓の通りでよささうである。この他ニホフヲトメ、ニホエヲトメとも訓めるわけである。○櫻花《サクラバナ》――これも枕詞式であるが、寛景を捕へて譬喩としてゐる。○盛未通女《サカユルヲトメ》――古義にサカエヲトメとしたのもよい。○汝乎曾母《ナレヲゾモ》――毛は詠嘆の助詞で、添へてある。古義はナヲゾモとよんでゐる。○吾丹依云《ワレニヨストフ》――舊訓はワレニヨルトイフとあるが、よくない。古義のアニヨスチフも面白くない。汝を我と關係ある如く、言ひはやすといふのである。○吾※[口+立刀]毛曾《ワレヲモゾ》――上の例によれば、これもワレヲゾモとありさうであるが、特に語をかへたものかも知れない。誤とするのは當らない。○荒山毛人師依者余所留跡序云《アラヤマモヒトシヨスレバヨソルトゾイフ》――荒涼たる淋しい山も人が言ひはやせば遂には人に寄り從ふものだと世間で言つてゐるの意。こんな俗言があつたのであらう。余所留跡序云《ヨソルトゾイフ》を舊訓はワカモトニトトムトゾイフとあつたが、略解に見えた宣長の訓がよい。ヨソルは寄從ふこと。卷十に公爾波思惠也所因友好《キミニハシヱヤヨソルトモヨシ》(一九二六)とある。○汝心勤《ナガココロユメ》――汝は決して違はずに、我に心を許せよの意。
〔評〕 發端が多少唐突の感があるのは時代が古いからであらう。對句を巧に用ゐて、長歌としての技巧はかなり進んでゐる。荒山云々の引用も面白く出來てゐる。
 
反歌
 
3306 いかにして 戀止むものぞ 天地の 神をいのれど 吾は思益す
 
何爲而《イカニシテ》 戀止物序《コヒヤムモノゾ》 天地乃《アメツチノ》 神乎祷迹《カミヲイノレド》 吾八思益《ワハオモヒマス》
 
ドウシタナラバ私ハ〔二字傍線〕戀ガ止ムダラウゾ。天神地祇ヲ祈ツテ戀ヲ忘レヨウトス〔ツテ〜傍線〕ルケレドモ、私ハ思ガ増スバカリダ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
〔評〕 絶大の力を持つ神に祈つたけれども、なほ吾が戀は止まない。して見ると他に如何なる方法があらうぞと困惑した心を詠んでゐる。古今集の「戀せじとみたらし川にせしみそぎ神は受けずぞなりにけらしも」に似たところがある。
 
3307 然れこそ 歳の八歳を 切る髪の よちこを過ぎ 橘の ほづ枝を過ぎて この河の 下にも長く 汝が心まて
 
(286)然有社《シカレコソ》 歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》 鑽髪乃《キルカミノ》 吾同子※[口+立刀]過《ヨチコヲスギ》 橘《タチバナノ》 末枝乎過而《ホヅエヲスギテ》 此河能《コノカハノ》 下文長《シタニモナガク》 汝情待《ナガココロマテ》
 
私モ貴女ノヤウニ思ツテヰマス〔私モ〜傍線〕。ソレダカラコソ、コノ八年間私ハ振分髪トシテ〔八六字傍線〕切リ下ゲニシテヰル同年輩ノ者ヨリモ、身ノ丈ガ〔四字傍線〕高クナリ、又、橘ノ上ノ枝ヨリモ、高クナツテ、コノ河ノ水ノ〔二字傍線〕ヤウニ心ノ底深ク、長イ間私ハ〔五字傍線〕汝ノ心ヲ打明ルノヲ〔六字傍線〕待ツテヰマス。
 
○然有社《シカレコソ》――然有ればこそ。長歌の意を受けて言つてゐる。○歳乃八歳※[口+立刀]《トシノヤトセヲ》――永年の間。八歳は年齡ではない。○鑽髪乃《キルカミノ》――髪を切つてゐる振分髪の。○吾同子※[口+立刀]過《ヨチコヲスギ》――吾同子はヨチコとよむのであらう。卷五に余知古良《ヨチコラトテタヅサハリテ》(八〇四)とあり、同年の兒の意に解かれてゐる。○橘末枝乎過而《タチバナノホヅエヲスギテ》――橘の樹の上枝を過ぎるほどに成長したといふのか。○此河能《コノカハノ》――水底の意で、下《シタ》につづいてゐるが、其處を流れる河をさして言つたのである。○汝情待《ナガココロマテ》――汝の心の打明けられるのを待つてゐる。初句のコソを受けて、マテで結んだのである。
〔評〕 難解の歌である。突如として、然有社《シカレコソ》と歌ひ出したのは、前の歌を受けた爲であらうが、鑽髪乃《キルカミノ》・橘《タチバナノ》・此河能《コノカハノ》が枕詞のやうでもあり、吾同子《ヨチコ》や末枝《ホヅエ》がどうも落付きがわるい。脱句説もあるが、それも想像に過ぎない。次の柿本朝臣人麿集の歌には、前の長歌とこれとを一にして、一首としてゐる。
 
反歌
 
3308 天地の 神をも我は いのりてき 戀とふものは 曾て止まずけり
 
天地之《アメツチノ》 髪尾母吾者《カミヲモワレハ》 祷而寸《イノリテキ》 戀云物者《コヒトフモノハ》 都不止來《カツテヤマズケリ》
 
(287)忘レヨウトシテ忘レルコトノ出來ナイ戀ノ苦シサニ〔忘レ〜傍線〕、天神地祇ヲモ私ハ祈リマシタ。シカシ〔三字傍線〕戀ト云フモノハ全然止マナイヨ。困ツタコトダ〔六字傍線〕。
 
○都不止來《カツテヤマズケリ》――都《カツテ》は全然。總べて。ザリケリといふべきをズケリといふのは古語である。卷三に尚不如來《ナホシカズケリ》(三五〇)とあつた。
(評) 右の長歌の反歌としては似合はしくないといふので、この前の何爲而《イカニシテ》(三三〇六)の歌の轉じたもので、別歌ではあるまいと略解・古義に見える。併しこの儘にして考へるより外はあるまい。三句切になつてゐるのは調を新しくしてゐる。
 
柿本朝臣人麿之集歌
 
3309 物念はず 路行きなむも 青山を ふり放け見れば 躑躅花 にほえをとめ 櫻花 さかえをとめ 汝をぞも 吾に依すとふ 吾をぞも 汝に依すとふ 汝はいかに念ふや 念へこそ 歳の八年を 切る髪の よちこを過ぐり 橘の ほづえを過ぐり この川の 下にも長く 汝が心待て
 
物不念《モノモハズ》 路行去裳《ミチユキナムモ》 青山乎《アヲヤマヲ》 振酒見者《フリサケミレバ》 都追慈花《ツツジハナ》 爾太遙越賣《ニホエヲトメ》 作樂花《サクラバナ》 左可遙越賣《サカエヲトメ》 汝乎叙母《ナレヲゾモ》 吾爾依云《アニヨストフ》 吾乎叙物《アヲゾモ》 汝爾依云《ナニヨストフ》 汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》 念社《オモヘコソ》 歳八年乎《トシノヤトセヲ》 斬髪《キルカミノ》 與知子乎過《ヨチコヲスグリ》 橘之《タチバナノ》 末枝乎須具里《ホヅエヲスグリ》 此川之《コノカハノ》 下母長久《シタニモナガク》 汝心待《ナガココロマテ》
 
前の長歌二首を一に繋いだのみで、大同小異である。次に異なる點をあげると、○爾太遙越賣《ニホエヲトメ》――前に香未通女とあるに同じ。太は集中多くはタの假名に用ゐてあるのに、ここと、爾太要盛而《ニホエサカエテ》(四二一一)とには、ホに用ゐてある。これを誤とする説もあるが、さうではなく、オホの略と見るべきか。戀良久乃太寸《コフラクノオホキ》(一三九四)の如き例もある。遙はエの假名に用ゐるのは珍らしい例だ。略解にこれを逕の誤としてゐるが、遙は外轉第二十六開效攝宵(288)韻で、ヤ行の文字であるから、エの假名に用ゐるに不思議はない。書紀にはヨの假名に用ゐてある。○佐可遙越賣《サカエヲトメ》――舊本に在とあるは佐の誤。元暦校本など古寫本多くは佐になつてゐる。○汝者如何念也《ナハイカニモフヤ》――イカニの下をヤで受けてゐるのに注意したい。○與知子乎過《ヨチコヲスグリ》――舊本、和に作るは知の誤。元暦校本などの古寫本、多くは知に作つてゐる。過は下に須具里《スグリ》とあるによれば、スグリと訓むべきである。スグリはスギの延言。
 
右五首
 
3310 隱口の 泊瀬の國に さよばひに 吾が來れば たなぐもり 雪はふり來ぬ さぐもり 雨は降り來ぬ 野つ鳥 雉とよみ 家つ鳥 鷄も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りて且眠む この戸開かせ
 
隱口乃《コモリクノ》 泊瀬乃國爾《ハツセノクニニ》 左結婚丹《サヨバヒニ》 吾來者《アガクレバ》 棚雲利《タナグモリ》 雪者零來奴《ユキハフリキヌ》 左雲理《サグモリ》 雨者落來《アメハフリキヌ》 野鳥《ヌツドリ》 雉動《キギシトヨミ》 家鳥《イヘツドリ》 可鷄毛鳴《カケモナク》 左夜者明《サヨハアケ》 此夜者旭奴《コノヨハアケヌ》 入而且將眠《イリテカツネム》 此戸開爲《コノトヒラカセ》
 
(隱口乃)初瀬ノ國ニ、女ヲ〔二字傍線〕婚スル爲ニ私ガヤツテ來ルト、空ニ雲ガ〔四字傍線〕棚引イテ曇ツテ、雪ガ降ツテ來タ。空ガ曇ツテ雨ガ降ツテ來夕。サウシテ骨ヲ折ツテ行クウチニ〔サウ〜傍線〕、(野鳥)雉ハヤカマシク鳴イテヰルシ、(家鳥)鷄モ鳴イテヰル。サウシテ〔四字傍線〕夜ガ明ケ、今夜モ明ケテシマツタ。シカシ女ノ家ニ〔七字傍線〕入ツテ私ハ〔二字傍線〕マヅ寢ヨウト思フ。コノ戸ヲオ開ケナサイヨ。
 
○左結婚丹《サヨバヒニ》――サは接頭語。結婚をヨバヒとよむのは、相結婚《アヒヨバヒ》(一八〇九)とあつた。ヨバヒは婚を求めて女を呼ぶ義から轉じて、婚することになつてゐる。○棚雲利《タナグモリ》――雲が棚引き曇つて。○左雲利《グモリ》――サは接頭語のみ。意味はない。○野鳥《ヌツドリ》――枕詞。野の鳥の代表的なものであるから、雉に冠する。家鳥《イヘツドリ》――枕詞。可鷄《カケ》とつづく。可(289)鷄《カケ》ハ鷄。その鳴聲から出てこの鳥の名となつたのである。○入而且將眠《イリテカツネム》――且は舊訓アサとあるが、卷四の安蘇蘇二波且者雖知《アソソニハカツハシレドモ》(五四三)の例にならつて、カツと訓むべきであらう。且先づといふやうな意に、輕く用ゐたのであらう。卷十八には且比等波安良自等《マタヒトハアラジト》(四〇九四)とある。○此戸開爲《コノトヒラカセ》――ヒラカセは命令法の開けの敬語である。
〔評〕 古事記上卷の八千矛の神が沼河比賣の家に到つて、詠じ給うた御歌、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》……佐用婆比爾阿理多多斯用婆比邇阿理加用婆勢多知賀遠母伊麻陀登加受弖淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《サヨバヒニアリタタシヨバヒニアリカヨハセタチガヲモイマダトカズテオヒヲモイマダトカネバ》……佐怒都登理岐藝斯波登與牟爾波都登理迦祁波那久《サヌツトリキギスハトヨムニハツトリカケハナク》……と著しく似て居り、又繼體天皇紀の勾大兄皇子の御歌に、矢自矩矢盧于魔伊禰矢度※[人偏+爾]※[人偏+爾]播都等※[口+利]柯稽播儺倶儺梨奴都等※[口+利]枳蟻失播等余武《シジクシロウマイネシドニニハツトリカケハナクナリヌツトリキギシハトヨム》……とあるのとも似てゐる。なほ卷十二の他國爾結婚爾行而太刀之緒毛未解者左夜曾明家流《ヒトクニニヨバヒニユキテタチガヲモイマダトカネバサヨゾアケニケル》(二九〇六)とも關係ある歌である。古代の民謠でよほど古いものであらう。
 
反歌
 
3311 こもりくの 泊瀬少國に 妻しあれば 石はふめども 猶ぞ來にける
 
隱來乃《コモリクノ》 泊瀬少國爾《ハツセヲクニニ》 妻有者《ツマシアレバ》 石者履友《イシハフメドモ》 猶來來《ナホゾキニケル》
 
(隱來乃」泊瀬ノ國ニ重ガアルノデ、ソノ女ニ逢ヒタイト思ツテ、川ノ瀬ノ〔ソノ〜傍線〕石ヲ踏ム歩キニクイ道ダ〔七字傍線〕ケレドモ、ヤハり難儀ヲシナガラ〔七字傍線〕ヤツテ來タヨ。
 
○泊瀬少國爾《ハツセヲグニニ》――ヲは添へて言ふのみで、意味はない。○石者履友《イシハフメドモ》――女の反歌に川瀬之石逆波《カハノセノイシフミワタリ》とあるから川
 
瀬の石である。卷十一に隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《コモリクノトヨハツセヂハトコナメノカシコキミチゾ》(二五一一)とある。
〔評〕 男が女に向つて遠來の勞苦を述べたもので、長歌と共によく出來た作である。
 
3312 隱口の 長谷小國に よばひせす 吾がすめろぎよ 奧床に 母は睡たり 外床に 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし ぬば玉の 夜は明け行きぬ ここだくも 念ふ如ならぬ こもり夫かも
 
隱口乃《コモリクノ》 長谷小國《ハツセヲグニニ》 夜延爲《ヨバヒセス》 吾大皇寸與《ワガスメロギヨ》 奧床仁《オクトコニ》 母者睡有《ハハハネタリ》 外床(290)丹《トツトコニ》 父者寢有《チチハネタリ》 起立者《オキタタバ》 母可知《ハハシリヌベシ》 出行者《イデユカバ》 父可知《チチシリヌベシ》 野干玉之《ヌバタマノ》 夜者昶去奴《ヨハアケユキヌ》 幾許雲《ココダクモ》 不念如《オモフゴトナラヌ》 隱?香聞《コモリヅマカモ》
 
(隱口乃)泊瀬ノ國ニ私ヲ〔二字傍線〕婚ヒノ爲ニ御イデニナル大君ヨ。私ノ家ノ〔四字傍線〕奧ノ方ノ寢床ニハ母ガ寢テヰマス。入口ノ方ノ寢床ニハ父ガ寢テヰマス。デ、私ガ〔三字傍線〕起キ出シタラ母ガ知ルデセウ。出テ行ツタラ父ガ知ルデセウ。ト思ハレルノデ折角ノ貴方ノオイデニモ逢フコトガ出來ナイデ、グズグズシテヰルウチニ〔ト思〜傍線〕(野干玉之)夜ガ明ケテ行キマシタ。ホントニ思フ通リニナラナイ隱シ夫ヨ。困ツタモノデス〔七字傍線〕。
 
○長谷小國《ハツセヲクニニ》――泊瀬を長谷と書くのは、その峽谷の地形によつてゐる。舊本、小とあるのは、前の例によれば少とあたべきである。類聚古集はさうなつてぬる。○吾大皇寸與《ワガスメロギヨ》――舊本、大とあるが、元暦校本その他多くの古寫本は天とある。この句を考は大は夫、皇は美の誤として、寸を美の上に移して、ワガセノキミヨとし、略解の春海説では大は夫の誤、皇寸は尊の誤として、アガセノミコトヨ、古義は皇を王に作る本によらば、皇寸は寸三とあつたのを顛倒し、三を王に誤つたので、ワガセノキミヨであらうといつてゐる。これらは天皇寸《スメロギ》とあるのを畏いと思つたのであらうが、紀記の神詠や天皇御製から考へても、又、本集卷頭の雄略天皇の御製から想像しても、かういふ答歌が、女によつて詠まれるやうな事實が無かつたとは言はれない。催馬樂の我家に「わいへんはとばり帳をも垂れたるを大君來ませ聟にせむ云々」とある大君は種々な見解もあらうが皇族と解することに差支はなささうである。○奧床仁《オクトコニ》――家の奧まつたところの臥床に。○外床丹《トツトコニ》――舊訓はソトトコニとあり、古義はトトコニとある。入口に近き臥床にの意であらう。○夜者昶去奴《ヨハアケユキヌ》――昶は旭に作る本もある。昶は日の永きこと。暢に同じ。○不念如《オモフゴトナラヌ》――宣長がオモハヌガゴトとよんだのは面白くない。○隱?香聞《コモリツマカモ》――考はシヌビツマカモ、宣長はシヌブツマカモとよんでゐるが舊訓のままでよい。卷十一に情中之隱妻波母《ココロノウチノコモリヅマハモ》(二五六六)とある。コモリツマは隱し夫の意。
(291)〔評〕 前の長歌に對する女の答歌。奧床・外床・母・父・起立者《オキタタバ》・出行者《イデユカバ》などの對句が巧に用ゐられている。天皇とあるのが、不思議のやうであるが、右に述べたやうに、後世の考を以て猥りにこれを律してはいけない。
 
反歌
 
3313 川の瀬の 石ふみわたり ぬば玉の 黒馬の來る夜は 常にあらぬかも
 
川瀬之《カハノセノ》 石迹渡《イシフミワタリ》 野干玉之《ヌバタマノ》 黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》 常二有沼鴨《ツネニアラヌカモ》
 
川ノ淺瀬ノ石ヲ踏ンデ渡ツテ、貴方ガ乘ツテオイデニナル〔貴方〜傍線〕、(野干玉之)黒馬ノ來ル晩ハ、イツデモアリタイモノダ。絶エズ毎晩ノヤウニ私ニ逢ヒニオイデ下サイ〔絶エ〜傍線〕。
 
○石迹渡《イシフミワタリ》――舊訓イハトワタリテとあり、袖中抄・元暦校本などもイハトワタリノとあるから、これが古訓であらうが、解し難い。略解による外はあるまい。迹は足迹貫《アシフミヌキ》(三二九五)とあるやうにフミと訓むべきである。○黒馬之來夜者《クロマノクルヨハ》――黒馬は野干玉之《ヌバタマノ》につづくとすれば、クロマと訓まねばならぬ 舊訓コマとあるのはよくない。○常二有沼鴨《ツネニアラヌカモ》――常にあれよの意。
〔評〕卷四のサホガハノサザレフミワタリヌバタマノクロマノクルヨハトシニアラヌカ(五二五)はこれと酷似してゐる。坂上郎女がこれを學んだものに違ひない。袖中抄に載せてある。
 
右四首
 
3314 つぎねふ 山背路を ひと夫の 馬より行くに おの夫し かちより行けば 見るごとに 哭のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 吾が持たる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひなめ持ちて 馬かへ吾背
 
次嶺經《ツギネフ》 山背道乎《ヤマシロヂヲ》 人都末乃《ヒトヅマノ》 馬從行爾《ウマヨリユクニ》 己夫之《オノヅマシ》 歩從行者《カチヨリユケバ》 毎見《ミルゴトニ》 (292)哭耳之所泣《ネノミシナカユ》 曾許思爾《ソコモフニ》 心之痛之《ココロシイタシ》 垂乳根乃《タラチネノ》 母之形見跡《ハハガカタミト》 吾持有《ワガモタル》 眞十見鏡爾《マソミカガミニ》 蜻蛉巾《アキツヒレ》 負並持而《オヒナメモチテ》 馬替吾背《ウマカヘワガセ》
 
(次嶺經)山背ノ道ヲ、他ノ人ノ夫ハ馬二乘ツテ行クノニ、私ノ夫ガ歩イテ行クト、ソレヲ〔三字傍線〕見ル度ニ私ハ悲シクテ〔六字傍線〕聲ヲ出シテ泣クバカリテス。ソレヲ考ヘルト心ガ痛イ。デ私ハ見ルニ見カネルカラ〔デ私〜傍線〕、(垂乳根乃)母ノ形見トシテ私ガ持ツテヰル、眞澄鏡ニ蜻蛉巾ヲ二ツ一緒ニ背負ウテ持ツテ行ツテ〔三字傍線〕、馬ヲ買ヒナサイヨ。吾夫ヨ。
 
○次嶺經《ツギネフ》――枕詞。山背《ヤマシロ》への續き方は明らかでない。冠辭考にはこの歌の用字の如く、「山外《ヤマト》の國より山背《ヤマシロ》の國へは、あまたつづきたる嶺嶺を經過ていたる故に、此冠辭はあるなり」と言つてゐるが、古義には續木根生《ヅギキネフ》の意で、ツギキはツギに縮まり、ツギは續き連れること。木根は祝詞の磐根木根立《イハネキネタチ》、倭姫命世紀の五十鈴原乃荒《》草木根苅掃比《イスズハラノアラクサキネカリハラヒ》、古今集神樂歌の神の木根かもなどの木根で、ただ木のこと。生は淺茅生・粟生などの生で、原といふに同じ。山代の代は苗代・網代の代で樹林の疆ありて、一構取圍んだのをいふ言であるから、連續《ツヅ》きたる木原の山代といつたのであらうと言つてゐる。いづれも牽強の感がある。古く仁徳天皇紀の兎藝泥布椰莽之呂餓波烏《ツギネフヤマシロガハヲ》、又古事記下卷に都藝[泥布夜麻志呂賣能《ツギネフヤマシロメノ》とあり、又古事記下卷に都藝泥布夜夜麻志呂賀波袁《ツギネフヤヤマシロガハヲ》ともあつて、かなり古くから使ひならはした枕詞だが、意は明瞭でない。○山背道乎《ヤマシロヂヲ》――山背は奈良山背後の地、即ち今の相樂・綴喜の二郡方面、山背川(泉川)の流域で、後に廣い國名となつたのである。ここの山背道は山背を通つてゐる遺。○馬從行爾《ウマヨリユクニ》――馬で行くのに。ヨリはニテの意。次の歩從《カチヨリ》のヨリも同じ。○曾許思爾《ソコモフニ》――それを思ふと。○垂乳根之《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○眞十見鏡爾《マソミカガミニ》――眞鐙の鏡に。ます鏡に同じ。ます鏡は眞澄鏡《マスミカガミ》の略。極めてよく澄んだ明らかな鏡。○蜻蛉巾《アキツヒレ》――蜻蛉の羽のやうな羅《ウスモノ》の領巾。領巾は女の肩からかける細長い巾。秋津羽之袖振妹《アキツハノソデフルイモ》(三七六)・秋都葉爾爾寶敝流衣《アキツハニニホヘルコロモ》(二三〇四)などのアキツも同樣であらう。略解に「之は類聚雜要或は雅亮装束抄に載たる鏡の具の比禮なるべし。鏡に添たる比禮は蜻蛉の羽の形したるものな(293)ればあきつひれと言ふべし」とあるのは從ひ難い。○負並持而《オヒナメモチテ》――身に負ひて二つを並べて持つて。この二品を共に負ひ持ちて。古義には「宮地春樹翁、此ノ負は價のことなるべし。俗におひを出すと云事あるは、譬は直拾匁ほどのものを買ふに、七匁ほどにあたる物を此方より渡して、殘三匁たらざる所を添てわたすを、三匁のおひを出すと云り。此の歌もその意ならば鏡にては、馬のあたひに足ざるゆゑに、その負に、領巾を添て出す意なるべしと云り。此の説に付て、本居氏、今ノ俗に云は、轉々したるものにて、古へ負と云しは唯直の事にても有べし。その時は鏡と領巾とを並べて馬の價に出す意なるべし。價を負と云むこと義よくあたれりと云り」とある。宮地春樹のおひ錢のおひと見る説も面白いが、おひは追加の意で、一度提出し、後更に附加へる時にいふ語ではないかと思はれるから、ここには無理であらう。宜長のやうにおひを直ちに價の義とするのは、根據のない説ではあるまいか。○馬替吾背《ウマカヘワガセ》――馬を交替せよ吾が夫よ。カヘは取替へること。物と物とを交換した上代の經濟状態がわかつて面白い。替《カヘ》はやがて買ふといふ動詞になるのである。
〔評〕無垢な純情と愛慕の至誠とが、惻々として人の胸奧に迫つて、おのづから無名の作者の前にぬかづきたいやうな、敬虔の感を起さしめる。山内一豐の妻そのままの話であるが、民衆の歌だけにこの方がより貴いやうに思はれる。なほ新考には當時の馬の價を論じて「馬の價は孝徳天皇紀に、凡官馬ハ中馬ハ一百戸ニ一疋ヲ輸《イタ》セ若細馬ナラバ二百戸毎ニ一疋ヲ輸セ。ソノ馬ヲ買ハム直《アタヒ》ハ一戸ニ布一丈二尺とあり。されば此天皇の御世には中馬は布三十端、上馬は布六十端にて買はれしなり」とある。
 
反歌
 
3315 泉河 渡瀬深み わが背子が 旅ゆき衣 ひづちなむかも
 
泉河《イヅミガハ》 渡瀬深見《ワタリセフカミ》 吾世古我《ワガセコガ》 旅行衣《タビユキゴロモ》 蒙沾鴨《ヒヅチナムカモ》
 
泉河ハ渡ル瀬ガ深イノデ、私ノ夫ノ旅ニ出カケル着物ハ、濡レルデアラウヨ。
 
(294)○泉河渡瀬深見《イヅミガハワタリセフカミ》――泉河は今の木津川。この河は水がかなり深かつたと見える。延喜式雜式に「凡山城國泉川樺井渡瀬者、官長率2東大寺工等1毎年九月上旬造2假橋1來年三月下旬壞收、其用度以2除帳得度田(ノ)地子稻一百束1充v之」とある。○啓沾鴨《ヒヅチナムカモ》――舊本は訓を附してゐない。代匠記初稿本はヌレニケルカモとある。考は蒙は裳の誤として、スソヌレムカモ、古義はモヌラサムカモとあるが、文字を改めるのはよくない。新訓によることにする。ヒヅチは濡れる。
〔評〕 泉川を徒渉する夫の勞苦を思つて、馬を買ひたく思ふのであらうが、右の長歌の反歌としては、しつくり合はない點があるやうだ。
 
或本反歌曰
 
3316 まそ鏡 持たれど我は しるしなし 君がかちより なづみ行く見れば
 
清鏡《マソカガミ》 雖持吾者《モタレドワレハ》 記無《シルシナシ》 君之歩行《キミガカチヨリ》 名積去見者《ナヅミユクミレバ》
 
貴方ガ徒歩デ苦ンデ行クノヲ見ルト、眞澄鏡ヲ持ツテ居テモ私ハ何ノ甲斐モアリマセヌ。母ノ形見ノ鏡モイリマセヌカラ、コレデ馬ヲオカヒナサイ〔母ノ〜傍線〕。
 
○清鏡《マソカガミ》――澄んだ鏡だから、意を以て清鏡と書いたのである。○記無《シルシナシ》――記は驗の借字。卷三に驗無物乎不念者《シルシナキモノヲオモハズハ》(三三八)とある。○名積去見者《ナヅミユクミレバ》――名積《ナヅミ》は泥む。苦しむ。卷七に吾馬難(《ワガウマナヅム》(一一九二)とある。
〔評〕 これは前の歌よりも、反歌としてよく適應してゐる。
 
3317 馬買はば 妹かちならむ よしゑやし 石は履むとも 吾は二人行かむ
 
馬替者《ウマカヘバ》 妹歩行將有《イモカチナラム》 縱惠八子《ヨシヱヤシ》 石者雖履《イシハフモトモ》 吾二行《ワハフタリユカム》
 
(295)馬ヲ買フナラバ、私ハ馬デ行カレルケレドモ、ヤハリ〔私ハ〜傍線〕オマヘハ、歩イテ行カナケレバナルマイ。ダカラ〔三字傍線〕タトヒ石ヲ踏ンデ難儀シテ歩イ〔六字傍線〕テモヨイカラ、私ハオマヘト〔四字傍線〕二人デ歩イテ行カウ。鏡ハ賣ラズニ置キナサイ〔鏡ハ〜傍線〕。
 
○馬替者《ウマカハバ》――前に馬替吾背《ウマカヘワガセ》とあるに對して言つたもの。ウマカヘバと訓むのはよくない。○縱惠八子《ヨシヱヤシ》――集中に多い言葉だ、ヨシヤに同じ。ここは縱令の意を強く言つてゐる。
〔評〕 男が女の歌に答へたもの。至純醇厚。正にこれ團欒和合の行進曲である。略解にはこの歌の前に和歌とあつたのが脱ちたのであらうとイひ、新考には「此歌の前に長歌ありしがおちたるならむ」と言つてゐる。
 
右四首
 
3318 紀の國の 濱に寄るとふ 鰒珠 拾はむといひて 妹の山 勢の山越えて 行きし君 何時來まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕卜を 吾が問ひしかば 夕卜の 我にのらく 吾妹子や 汝が待つ君は 沖つ浪 來寄る白珠 邊つ浪の 寄する白珠 求むとぞ 君が來まさぬ 拾ふとぞ 君は來まさぬ 久ならば 今七日ばかり 早からば 今二日ばかり あらむとぞ 君は聞しし な戀ひそ吾妹
 
木國之《キノクニノ》 濱因云《ハマニヨルトフ》 鰒珠《アハビタマ》 將拾跡云而《ヒロハムトイヒテ》 妹乃山《イモノヤマ》 男能山越而《セノヤマコエテ》 行之君《ユキシキミ》 何時來座跡《イツキマサムト》 玉桙之《タマボコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 夕卜乎《ユフウラヲ》 吾問之可婆《ワガトヒシカバ》 夕卜之《ユフウラノ》 吾爾告良久《ワレニノラク》 吾味兒哉《ワギモコヤ》 汝待君者《ナガマツキミハ》 奧浪《オキツナミ》 來因白珠《キヨルシラタマ》 邊浪之《ヘツナミノ》 縁流白珠《ヨスルシラタマ》 求跡曾《モトムトゾ》 君之不來益《キミガキマサヌ》 拾登曾《ヒロフトゾ》 公者不來益《キミハキマサヌ》 久有《ヒサナラバ》 今七日許《イマナヌカバカリ》 早有者《ハヤカラバ》 今二日許《イマフツカバカリ》 將有等曾《アラムトゾ》 君者聞之二二《キミハキコシシ》 勿戀吾妹《ナコヒソワギモ》
 
紀伊ノ國ノ濱ニ打寄セルト云フ、鰒ノ珠ヲ拾ハウト言ツテ、妹山ヤ背山ヲ越エテ行ツタ貴方ノ、オ歸ガ待チ遠サニ〔八字傍線〕、何時オ歸リナサルカト(玉桙之)道ニ出テ立ツテ、夕方辻占ヲヤツテ見ルト、辻占ガ私ニ告ゲテ言フノニハ、オマヘヨ、オマヘガ待ツテヰル御方ハ、沖ノ浪デ寄ツテ來ル白珠ヤ、海岸ノ浪ガ打寄セテ來ル白珠ヲ求(296)メル爲ニトアノ御方ハオ歸リニナラナイノダ。ソノ玉ヲ〔四字傍線〕拾ハウトテ、アノ御方ガオイデニナラナイノダ。シカシ〔三字傍線〕長イナラバ七日、早イナラバ二日グラヰノウチニハ歸ルダラウトアノ御方ガ仰セニナツタ。ダカラモウ暫クノ辛抱ダカラ《ダカラモ〜傍線〕、戀シク思フナヨ。オマヘヨ。ト辻占ニ出マシタ〔八字傍線〕。
 
○鰒珠《アハビタマ》――鮑の貝の中の玉。眞珠。九三三參照。○妹乃山勢能山越而《イモノヤマセノヤマコエテ》――妹背山は紀伊伊都郡。背山は紀の川の北岸にあり、笠田村に屬し、妹山は南岸にあり、澁田村に屬すといふ。○夕占乎《ユフウラヲ》――夕占は夕方街頭に立つて道行く人の言葉を以てうらなふ占。ユフケともいふ。○吾妹兒哉《ワギモコヤ》――吾妹子よと呼び懸けるのである。 ○來因白珠《キヨルシラタマ》――古義にキヨスシラタマとある。沖の浪で來り寄せる白珠の意。○君者聞之二二《キミハキコシシ》――君は宣ひし。聞之《キコシ》は言ひの敬相である。二二をシに用ゐたのは例の戯書である。
〔評〕 紀伊の海岸に眞珠採集に出かけた男の歸を待つ女の歌か。こんな男が卷七に見えた照左豆《テルサヅ》(一三二六)かも知れない。對句を巧に用ゐて立派な長歌になつてゐる。吾妹兒哉《ワギモコヤ》以下終まで、夕占の言葉であるが、かういふ長い挿語を入れた歌はめづらしい。
 
反歌
 
3319 杖つきも つかずも我は 行かめども 君が來らむ 道の知らなく
 
杖衝毛《ツヱツキモ》 不衝毛吾者《ツカズモワレハ》 行目友《ユカメドモ》 公之將來《キミガキタラム》 遺之不知苦《ミチノシラナク》
 
夫ヲ捜シニ〔五字傍線〕、私ハ杖ヲツイテデモツカナイデモ、出カケテ行カウト思フケレドモ、夫ガ歸ツテ來ナサル道ハ、ドコカラカ分ラナイカラ行違ヒニナルト困ルノデオ迎ヘニモ行カレナイ〔カラ〜傍線〕。
 
○杖衝毛不衝毛吾者行目友《ツヱツキモツカズモワレハユカメドモ》――杖をついてなりともつかずになりとも、ともかく歩いて行かうがの意。この句
 
(297)は卷三に天地至流左右二杖策毛不衝去而《アメツチノイタレルマデニツエツキモツカズモユキテ》(四二〇)とあるのと同じやうである。○公之將來《キミガキタラメ》――舊訓キミガキマサムとある。敬相に訓みたいが、用字の上からはキタラムと訓むべきであらう。
〔評〕 男を待ちかねて、しかも迎へにも行き得ざる困惑の情をよくあらはしてゐる。
 
3320 ただにゆかず こゆ巨勢路から 石瀬ふみ とめぞ吾が來し 戀ひて術なみ
 
直不徃《タダニユカズ》 此從巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石瀬蹈《イハセフミ》 求曾吾來《トメゾワガコシ》 戀而爲便奈見《コヒテスベナミ》
 
私ハ〔二字傍線〕戀シクテ仕方ガナイノデ、アナタヲ御迎ヘノタメニ出カケタガ〔アナ〜傍線〕、眞直ニハ行カナイテ、アナタノオ通リニナリサウナ道ヲ廻リ道ヲシテ〔アナ〜傍線〕、(此從)巨勢街道カラ石ノ多イ〔三字傍線〕瀬ヲ歩イテ、アナタヲ〔四字傍線〕捜シテ私ハ來マシタ。
 
○直不徃《タダニユカズ》――眞直に行かないで、廻道をして行くといふのである。○此從巨勢道柄《コユコセヂカラ》――此從《コユ》の二字は巨勢と言はむ爲に置いたもの。此處より來るの意でつづいてゐる。○石瀬蹈《イハセフミ》――石瀬は石の多い渡り瀬。この川は能登瀬川である。○求曾吾來《トメゾワガコシ》――考は求曾を名積序《ナヅミゾ》とし、古義はモトメゾと訓んでゐる。モトメ・ミトメ・トメは同語であつて、古くから並び行はれたらしく、卷九に冬※[草冠/叙]蕷都良尋去祁禮婆《トコロヅラトメユキケレバ》(一八〇九)とあるから、ここはトメと訓んで置かう。但し卷十一の緑兒之爲社乳母者求云乳飲哉君之於毛求覽《ミドリコノタメコソオモハモトムトイヘチノメヤキミガオモモトムラム》(二九二五)の例によればモトムである。
〔評〕 この歌は前の直不來自此巨勢道柄石椅跡名積序吾來戀天窮見《タダニコズコユコセヂカライオハバシフミナヅミゾワガコシコヒテスベナミ》(三二五七)と同歌で小異があるのみである。但し前の歌は男の歌であり、これは女の歌になつてゐる。
 
3321 さ夜ふけて 今は明けぬと 戸をあけて 紀へ行きし君を いつとか待たむ
 
左夜深而《サヨフケテ》 今者明奴登《イマハアケヌト》 開戸手《トヲアケテ》 木部行君乎《キヘユキシキミヲ》 何時可將待《イツトカマタム》
 
夜ガ更ケテカラ、モウ夜モ明ケタト言ツテ〔三字傍線〕、戸ヲ開ケテ、紀伊ノ國ヘ旅立チナサツタ夫ノ御歸リ〔四字傍線〕ヲ、何時ト思ツテ待ツテ居ラウゾ。待チ遠シイコトダ〔八字傍線〕。
 
(298)○開戸手《トヲアケテ》――開の字は集中アケ・ヒラキ・サキなどに用ゐられてゐる。略解が舊訓を改めて、トヒラキテと訓んだのもわるくはないが、旦戸開者所見霧可聞《アサドアクレバミユルキリカモ》(三〇三四)に傚ふのがよからう。○木部行君乎《キヘユキシキミヲ》――紀伊の國へ行つた君を。へは濁つてはわるい。舊訓キヘユクキミヲとある。
〔評〕 男との訣別の際を想起してよんだのである。代匠記初稿本に「さよふけてとは夜に入ても歸るやとまちふかして、明けぬればいととはやく戸をあけて又待つ心なり」略解に「右の男しばし有て又紀の路へ行を、女の悲みたる歌か。又は是より二首は別の贈答にも有べし」とあり、古義には「此の歌は右の男の紀伊の國へ出立時に、女の作るなるべし。然れば右の長歌より前にあるべきを、反歌に並載たるは混ひたるなるべし」とある。いづれも當らぬやうである。ここまでは反歌の中と見なければなるまい。
 
3322 門にゐし をとめは内に 至るとも いたくし戀ひば 今還り來む
 
門座《カドニヰシ》 郎子内爾《ヲトメハウチニ》 雖至《イタルトモ》 痛之戀者《イタクシコヒバ》 今還金《イマカヘリコム》
 
門ニ立ツテ私ヲ見送ツテ〔六字傍線〕ヰタ郎女ガ、家ニ引込ンダ後デモ、ヒドク私ヲ〔二字傍線〕戀シク思フナラバ、スグニ私ハ歸ツテ來ヨウ。ソンナニ別ヲ悲シミナサルナ〔ソン〜傍線〕。
 
○門座《カドニヰシ》――舊訓のやうにカドニヲルと訓んでは意が通じない。門に立つて見送つてゐたの意。○郎子内爾《ヲトメハウチニ》――郎子は郎女又は娘子とありさうである。多分娘子の誤であらう。内爾雖至《ウチニイタルトモ》を略解は「門まで送れる女の、わが屋の内へ歸り入程の暫の間なりともと言ふ意か」とあるが、どうも穩やかでないやうである。我を見送りて家に入つた後でも、なほ戀しさに堪へぬならばの意であらう。
〔評〕 前の歌の答として掲げてあるが、贈られた歌と、しつくり合はないやうである。下句は古今集の「立わかれいなばの山の峯に生ふるまつとし聞かば今かへり來む」と似てゐる。
 
右五首
 
(299)譬喩歌
 
3323 しな立つ 筑摩さぬかた 息長の 遠智の小菅 編まなくに い苅り持ち來 敷かなくに い苅り持ち來て 置きて 吾を偲ばす 息長の 遠智の小菅
 
師名立《シナタツ》 都久麻左野方《ツクマサヌカタ》 息長之《オキナガノ》 遠智能小菅《ヲチノコスゲ》 不連爾《アマナクニ》 伊苅持來《イカリモチキ》 不敷爾《シカナクニ》 伊苅持來而《イカリモチキテ》 置而《オキテ》 吾乎令偲《ワレヲシヌバス》 息長之《オキナガノ》 遠智能子菅《ヲチノコスゲ》
 
(師名立)筑摩ノ額田ノ息長ノ遠智ト云フ所ニ生エテヰル小サイ菅、ソノ菅ヲ〔四字傍線〕編ミモシナイノニ刈ツテ持ツテ來、敷キモシナイノニ刈ツテ持ツテ來テ、置イテ、如何ニモ使ヒサウニシテ置イテ〔如何〜傍線〕、私ヲ物思ハスル息長ノ遠智ノ小サイ菅ヨ。アノ女ハ私ノ言フ事ヲ聞キサウナ態度ヲシテヰナガラ、逢ハナイデ、私ニ物思ヲサセルヨ〔アノ〜傍線〕。
 
○師名立《シナタツ》――枕詞。級立《シナタツ》の意と解せられるが、都久麻《ツクマ》にかかる理由が明らかでない。舊訓はシナタテルとよんでゐる。考はシナテルと訓み、冠辭考に推古天皇紀の斯那提流箇多烏箇夜摩爾《シナテルカタヲカヤマニ》。卷九の級照片足羽河之《シナテルカタシハガハノ》(一七四二)などと同樣に見てゐるが、無理であらう。○都久麻左野方《ツクマサヌカタ》――筑麻狹額田か。筑摩は近江國坂田郡。今の米原驛の西方にあたる。サヌカタはわからない。卷十に狹野方波實雖不成《サヌカタハミニナラズトモ》(一九二八)・狭野方波實爾成西乎《サヌカタハミニナリニシヲ》(一九二九)沙額田乃野邊乃秋芽子《サヌカタノヌベノアキハギ》(二一〇六)とある狹野方、沙額田と同所か。○息長之《オキナガノ》――息長は同じく坂田郡にあり、今米原驛と醒ケ井驛との中間の北方に息長村がある。○遠智能小菅《ヲチノコスゲ》――遠智は息長の郷内の地名で菅の名所であらう。卷七にも眞珠付越能菅原《マタマツクヲチノスガハラ》(一三四一)とある。○伊苅持來《イカリモチキ》――伊《イ》は接頭語で意味はない。次の伊苅持來而《イカリモチキテ》も同じ。○吾乎令偲《ワレヲシヌバス》――我をなつかしく思はしめる。シヌブはなつかしく慕はしく思ふこと。
〔評〕 女を小菅に譬へてゐる。かういふ譬喩歌は、卷十一の三吉野之水具麻我菅乎不編爾刈耳苅而將亂跡也《ミヨシヌノミグマガスゲヲアマナクニカリノミカリテミダリナムトヤ》(二八三七)などの如く、短歌にはその例が尠くないが、長歌には珍らしい。俚謠風の作品である。古義には、少女の(三〇〇)未だ成長せざるを戀ひて、行末人にとられじと煩ふ意に解してゐるが、さうであるまい。
 
右一首
 
挽歌
 
3324 かけまくも あやにかしこし 藤原の 都しみみに 人はしも 滿ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年のを長く 仕へ來し 君が御門を 天の如 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひたのみて 何時しかも 日足らしまして 望月の たたはしけむと 吾が思ふ 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 國見あそばし 九月の 時雨の秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉だすき かけて偲ばし み雪ふる 冬の朝は 刺楊 根張梓を 御手に 取らしたまひて 遊ばしし 吾が大君を 煙立つ 春の日ぐらし まそ鏡 見れど飽かねば 萬歳に かくしもがもと 大船の たのめる時に およづれに 目かもまどへる 大殿を ふり放け見れば 白妙に 飾りまつりて うち日さす 宮の舍人は 一云、は 栲の穗の 麻衣着るは 夢かも 現かもと 曇り夜の まどへるほどに 麻裳よし 城の上の道ゆ つぬさはふ 石村を見つつ 神葬り 葬りまつれば 往く道の たづきを知らに 思へども しるしを無み 嘆けども おくがを無み 御袖の 行き觸りし松を 言問はぬ 木にはあれども あらたまの 立つ月ごとに 天の原 ふり放け見つつ 玉だすき かけてしぬばな かしこかれども
 
挂纏毛《カケマクモ》 文恐《アヤニカシコシ》 藤原《フヂハラノ》 王都志彌美爾《ミヤコシミミニ》 人下《ヒトハシモ》 滿雖有《ミチテアレドモ》 君下《キミハシモ》 大座常《オホクイマセド》 往向《ユキムカフ》 年緒長《トシノヲナガク》 仕來《ツカヘコシ》 君之御門乎《ミキガミカドヲ》 如天《アメノゴト》 仰而見乍《アフギテミツツ》 雖畏《カシコケド》 思憑而《オモヒタノミテ》 何時可聞《イツシカモ》 日足座而《ヒタラシマシテ》 十五月之《モチヅキノ》 多田波思家武登《タタハシケムト》 吾思《ワガオモフ》 皇子命者《ミコノミコトハ》 春避者《ハルサレバ》 殖槻於之《ウヱツキガウヘノ》 遠人《トホツヒト》 待之下道湯《マツノシタミチユ》 登之而《ノボラシテ》 國見所遊《クニミアソバシ》 九月之《ナガツキノ》 四具禮之秋者《シグレノアキハ》 大殿之《オホトノノ》 砌志美彌爾《ミギリシミミニ》 露負而《ツユオヒテ》 靡芽子乎《ナビケルハギヲ》 珠手次《タマダスキ》 懸而所偲《カケテシヌバシ》 三雪零《ミユキフル》 冬朝者《フユノアシタハ》 刺楊《サシヤナギ》 根張梓矣《ネハリアヅサヲ》 御手二《ミテニ》 所取賜而《トラシタマヒテ》 所遊《アソバシシ》 我王矣《ワガオホキミヲ》 煙立《ケブリタツ》 春日暮《ハルノヒグラシ》 喚犬追馬鏡《マソカガミ》 雖見不飽者《ミレドアカネバ》 萬歳《ヨロヅヨニ》 如是霜欲得常《カクシモガモト》 大船之《オホブネノ》 憑有時爾《タノメルトキニ》 涙言《オヨヅレニ》 目鴨迷《メカモマドヘル》 大殿矣《オホトノヲ》 振放見者《フリサケミレバ》 白細布《シロタヘニ》 飾奉而《カザリマツリテ》 内日刺《ウチヒサス》 宮舍人方《ミヤノトネリハ》【一云者】 雪穗《タヘノホノ》 麻衣服者《アサギヌキルハ》 夢鴨《イメカモ》 現前鴨跡《ウツツカモト》 雲入夜之《クモリヨノ》 迷間《マドヘルホドニ》 朝裳吉《アサモヨシ》 城於道從《キノヘノミチユ》 角障經《ツヌサハフ》 石村乎見乍《イハレヲミツツ》 (301)神葬《カミハフリ》 葬奉者《ハフリマツレバ》 往道之《ユクミチノ》 田付※[口+立刀]不知《タヅキヲシラニ》 雖思《オモヘドモ》 印乎無見《シルシヲナミ》 雖嘆《ナゲケドモ》 奧香乎無見《オクカヲナミ》 御袖《ミソデノ》 往觸之松矣《ユキフリシマツヲ》 言不問《コトトハヌ》 木雖在《キニハアレドモ》 荒玉之《アラタマノ》 立月毎《タツツキゴトニ》 天原《アマノハラ》 振放見管《フリサケミツツ》 珠手次《タマダスキ》 懸而思名《カケテシヌバナ》 雖恐有《カシコカレドモ》
 
口ニ出シテ言フノモ不思議ニ畏イコトダ。藤原ノ都ニ一杯ニ人ハ滿チ滿チテヰルケレドモ、皇子タチハ澤山ニイラツシヤルケレドモ、ソノ内モ〔五字傍線〕、過ギテハ來ル年ノ永イ間御奉公シテ來タ皇子ノ御殿ヲ、天ヲ仰グ〔二字傍線〕ヤウニ抑イデ見テ、畏多イケレドモ、末ヲアテニシテ〔七字傍線〕頼ミニ思ツテ、何時ニナツタラ日ノヤウニオ榮エニナツテ、(十五月之)滿足デイラセラレルデアラウカト、私ガ思ツテヰル皇子樣ハ、春ニナルト殖槻ト云フ所ノアタリニアル、(遠人)松ノ木ノ生エテヰル〔七字傍線〕下ノ道ヲオ登リニナツテ國見ヲナサリ、九月ノ時雨ノ降ル秋ノ頃ハ、御殿ノ庭モ一杯ニ、露ヲ帶ビテ靡イテヰル萩ヲ、(珠手次)御心ニ〔三字傍線〕オカケニナツテナツカシク思召シ、雪ノ降ル冬ノ朝ニハ、(刺楊根)張ツタ梓弓ヲ御手ニオ持チニナツテ、遊獵ヲナサツタ私ノ戴イテヰル〔五字傍線〕皇子ヲ、霞ノ立ツ春ノ日終日、(喚犬追馬鏡)イクラ見テモ見飽カナイノデ、萬歳ノ後マデモ、カウシテヰタイモノダト、(大船之)頼ミニ思ツテヰル時ニ、世間ノ〔三字傍線〕妖言ニ目デモ狂ツタノデアラウカ。皇子ノ〔三字傍線〕御殿ヲ遙カニ仰イデ見ルト、白イ布デオ飾リ申シテ、(内日刺)宮ニ仕ヘテヰル舍人ハ、白イ麻ノ着物ヲ着ルノハ夢デアラウカ、ソレトモ本當ノコトデアラウカト、(雲入夜之)迷ツテヰル時ニ、(朝裳吉)城上ノ道ヲ通ツテ、(角障經)石村ヲ横ニ〔二字傍線〕見ナガラ、神樣トシテ葬リ申シ上ゲルト、私ハ悲シクテ〔六字傍線〕道ヲ行クニモ行ク術モ知ラズ、心ニハ戀シク〔六字傍線〕思ツテモ甲斐ガナイノデ、嘆イテモ際限ガナイノデ、セメテノ心ヤリニ、皇子ノ〔セメ〜傍線〕御袖ヲオ觸レニナツタ松ヲ、物ヲ言ハナイ木デハアルガ、(荒玉(302)之)毎月毎月、空ヲ遙カニ仰イデ見ナガラ、畏イコトデハアルガ、心ニ〔二字傍線〕(珠手次)カケテ皇子ヲ〔三字傍線〕ナツカシク思ヒ出シ奉ラウ。
 
○王都志彌美爾《ミヤコシミミニ》――都に一杯にの意。志彌美《シミミ》は繁く。卷三に内日指京思美彌爾里家者左波爾雖在《ウチヒサスミヤコシミミニサトイヘハサハニアレドモ》(四六〇)とある。○君下《キミハシモ》――君はすべて仰ぎ仕ふべき人をいふ。シモは強めていふのみ。○往向《ユキムカフ》――略解にユキムカヒとして「宣長云外にも君はませども、わきて此君に心寄せて仕奉るよし也と言へり」とあるのは從ひがたい。古義に向を易として、ユキカハル、囘としてユキカヘルとしたのは共によくない。年が去り來る意で下につづいてゐる。○日足座而《ヒタラシマシテ》――舊本、日を曰に作つてゐるが、神田本に日に作るのがよい。古事記垂仁天皇の條、本牟智和氣御子の生れ給ひしところに、又命2詔何爲|日足奉《ヒタシマツラム》1答d白取2御母1定2大湯坐若湯坐1、宜c日足奉《ヒタシマツル》u、」とあり、幼子を育てることであるが、ここは幼皇子ではないやうだから、その意では當てはまらぬ。卷二の御壽者長久天足有《ミイノチハナガクアマタラシタリ》(一四七)の天足《アマタラシ》と同じく、日足《ヒタラシ》は日の如く榮え足りることであらう。○多田波思家武登《タタハシケムト》――たたはしくあらむと。タタハシは滿ちて缺けないこと。卷二に望月乃滿波之計武登《モチツキノタタハシケムト》(一六七)とある。○皇子命者《ミコノミコトハ》――皇子命《ミコノミコト》とは皇太子にかぎりいふ稱呼であるが、ここはさうではないやうであるから、命《ミコト》は尊稱と見ねばなるまい。○殖槻之於之《ウエツキガウヘノ》――殖槻は今昔物語に敷下郡植槻寺とあり、(敷は添の誤か)神樂歌小前張にも「殖槻や田中の杜や」とあつて同所であらう。今、郡山町に植槻八幡宮があり、植槻といふ地名も殘つてゐるから、しばらく地名とする説に從つて置かう。於《ウヘ》は邊《ホトリ》の意であらう。○遠人《トホツヒト》――枕詞。待つにかけて松につづけてゐる。○待之下道湯《マツノシタミチユ》――松の生えてゐる下の道を辿つて。○砌志美彌爾《ミギリシミミニ》――砌は軒下の石だたみ、即ち庭前。○珠手次《タマダスキ》――枕詞。懸けとつづく。○三雪零《ミユキフル》――枕詞とも見られるが、上の九月之四具禮之秋者《ナガツキノシグレノアキハ》に對したものとすると枕詞としない方がよからう。○刺楊《サシヤナギ》――次の根までを連ねて張梓《ハリアヅサ》とつづけてゐる。刺木の柳が根を張りて生ひつくからである。○根張梓矣《ネハリアヅサヅヲ》――根は上につけて見るがよい。張梓は張りたる梓弓。但し、梓の現代名をオホバミネバリとすると、(三參照)このネバリ梓は、ミネバリ梓の弓かも知れない。これは予の臆説に過ぎぬ。○御手二《ミテニ》――オホミテニとあ(303)りさうなところである。代匠記初稿本には御の上に大の字脱ちたものかといつてゐる。○所遊《アソバシシ》――遊獵し給ひし。古事記、雄略天皇の御製に、夜須美斯志和賀意富岐美能阿蘇婆志斯志斯能夜美斯志能《ヤスミシシワガオホキミノアソバシシシシノヤミシシノ》とある。○煙立《ケブリタツ》――煙は霞。霞・霧・煙を混同したことは卷十二の吾妹兒爾戀爲便名鴈※[匈/月]乎熱旦戸開者所見霧可聞《ワギモコニコヒスベナカリムネヲアツミアサトアクレバミユルキリカモ》(三〇三四)に明らかである。○喚犬追馬鏡《マソカガミ》――枕詞。見とつづく。犬を喚ぶ聲はマ、馬を追ふ聲はソであるから、戯れてかう書いた。○大船之《オホブネノ》――枕詞。憑《タノム》とつづく。○涙言《オヨヅレニ》――涙言は妖言の誤で、言の下、一本に可があるといふので、考はマガゴトカと訓んでゐる。併し集中に妖言の熟字はなく、いづれも逆言となつてゐるから、涙は逆の誤と見るべきであらう。校本萬葉集に可の字のある本がない。逆言之《オヨヅレノ》(四二一)とあるから、ここはオヨヅレニと訓むべきである。○白細布飾奉而《シロタヘニカザリマツリテ》――白栲の布を以て、皇子の御殿を飾り奉つて。卷二に吾大王皇子之御門乎神宮爾装束奉而遣使御門之人毛白妙乃麻衣著《ワガオホキミミコノミカドヲカムミヤニヨソヒマツリテツカハシシミカドノヒトモシロタヘノアサゴロモキ》(一九九)とある。○内曰刺《ウチヒサス》――枕詞。宮とつづく。四六〇參照。○宮舍人方《ミヤノトネリハ》――舊訓ミヤノトネリモとある。方は十方《トモ》・八方《ヤモ》・四方《ヨモ》の如き方角についてのみモと訓むので、これを他に及ぼすのは無理である。末邊方《スヱベハ》(三二二二)にならつて訓むべきである。○雪穗《タヘノホノ》――タヘは栲。白いからここは雪の字を用ゐたのである。穗は褒めていふ言葉。卷一に栲乃穗爾《タヘノホニ》(七九)とある。○麻衣服者《アサギヌキルハ》――古義はアサギヌケルハと訓んでゐる。○朝裳吉《アサモヨシ》――枕詞。城《キ》とつづく。五五參照。○城於道從《キノヘノミチユ》――城於《キノヘ》は城上・木※[瓦+缶]などとも書く。北葛城郡馬見村大塚とも、六道山ともいふ。一九六參照。城上の道を通つて。○角障經《ツヌサハフ》――枕詞。蔦多蔓《ツヌサハフ》、石とつづく。一三五參照。○石村乎見乍《イハレヲミツツ》――石村は大和磯城郡、安倍村附近一帶の地。今櫻井町南方の小丘を地方人は石村山と稱してゐる。安倍と櫻井とは少しく距つてゐるが、なほ古名の殘るものがあるかも知れないから次に、櫻井町の石村山の寫眞を載せて置いた。著者撮影。○往道之田付※[口+立刀]不知《ユクミチノタヅキヲシラニ》――吾が行く道の方法を知らず。どうして行くべきかを知らず。○印乎無見《シルシヲナミ》――印《シルシ》は驗《シルシ》。甲斐。○奧香乎無見《オクカヲナミ》――奧香《オクカ》は奧底。果《ハ》て。○御袖《ミソデノ》――略解にはオホミソデと訓んである。○往觸之松矣《ユキフリシマツヲ》――舊訓。往を上に附けてミソテノユキと訓み、古義は持に改めて、ミソテモチと訓んでゐる。往觸之松《ユキフリシマツ》とは道行く時に、皇子の御袖が觸れた松の意。○言不問《コトトハヌ》――物言はぬ。○荒玉之《アラタマノ》――枕詞。月とつづく。○立月毎《タツツキゴトニ》――毎月。立つは月の改まるをいふ。○天原《アマノハラ》――空(304)を。略解には天知《アメノゴト》の誤であらうとしてゐるが、さうではあるまい。
〔評〕 皇子に對する尊崇の念と、その薨去を悼む哀慕の情とが、典雅諄厚な麗句によつて巧に繰り展げられて行く手際は實に立派なものである。殊に結末の御袖往觸之松葉言不問木雖在《ミソデノユキフリシマツヲコトトハヌキニハアレドモ》云々の數句は、哀切痛恨惻々然として人の腸を斷つものがある。併しながらこれを一讀して誰もが感ずるのは、卷二に見えた柿本人麿作の高市皇子尊城上の殯宮の時の長歌(一九九)との類似であらう。先づ發端の挂纏毛文恐《カケマクモアヤニカシコシ》はかの挂文忌之伎鴨言久母綾爾畏伎《カケマクモユユシキカモイハマクモアヤニカシコキ》を約めたやうな形であり、末句の天原振放見管珠手次懸而思名雖恐有《アマノハラフリサケミツツタマダスキカケテシヌバナカシコカレドモ》は彼の天之如振放見乍玉手次懸而將偲恐有騰文《アメノゴトフリサケミツツタマダスキカケテシヌバムカシコカレドモ》と殆ど同樣である。而してその中間には、かの長歌に似た數句を發見する外に、同じく人麿作の日並皇子尊殯宮時の長歌(一六七)中に見える望月乃滿波之計武跡《モチヅキノタタハシケムト》のやうな句も含まれ、その他にも人麿らしい用語が散在してゐる。かかる現象はこれを何と解釋すべきものであらうか。この歌と人麿の作との間に、密接な關係があることは否み難いとして、いづれを先とし、いづれを後とすべきであらうか。慎重な考慮を要する。先づ決定すべきはこの皇子は誰にておはすかの問題である。代匠記・古義はこの歌を以て高市皇子尊薨去の時の挽歌としてゐるが、卷二の長歌に類似してゐる事から惹した錯覺で、何時可聞日足座而《イツシカモヒタラシマシテ》以下の叙述は、皇太子として萬機の政を執り給ひ御年四十を越えて、薨去あらせられた皇子の御有樣とは思はれない。又皇子の御墓は城上の岡であるのに、これは石村《イハレ》山で火葬してゐる。これらの點からして、高市皇子薨去の際でないことがわかる。なほ火葬は高市皇子の薨後五年目に當る文武天皇の四年、僧道昭の葬に始まると傳へられてゐるから、さうしてこの歌が藤原宮の作なることは、冒頭の句が示す如くであるから、大寶元年以後元明天皇の和銅三年までの十年間に作られたものとなるのである。この間に崩御あらせられた持統天皇も文武天皇も、飛鳥の岡で荼毘に附し奉つたのであるから、當時火葬の風が一時に盛になつたと見える。併し石村方面で火葬せられた皇族については、更に史に記すところがないので、今日からこれを推斷し難いのは遺憾である。次に然らばこの歌の作者は誰であるかといふ問題であるが、已にこれを文武天皇の大寶以後とすれば、人麿の高市皇子尊殯宮の時の歌が發表せられた後、少くとも五年を經過してゐるのである。さうして人麿の歿年は明らかでないが、その作の年代(305)の明らかなものは、文武天皇の四年四月の明日香皇女殯宮之時のが最後で、その後彼は和銅の初年まで生存してゐたらしく思はれるから、(本集卷二の彼の死に關する歌の記録せられた順序から推定して)この作は人麿がまだ存命中に何人かによつて作られたものであらう。さうすると、かく類似した作を人麿在世中に作るものはあらざるべく、又この歌は凡手がよくなし得るところにあらざることを思へば、これは人麿の作と推定してもよいのではないかと思はれる。さうして作者として彼の名が傳つてゐないのは、これを公表しなかつた爲ではなからうかと想像せられるのである。この歌を人麿とすることの當否は別として、これが高市皇子尊殯宮之時の歌より、後の作なることは爭ひがたいところである。
 
反歌
 
3325 つぬさはふ 石村の山に 白妙に かかれる雲は 吾が大君かも
 
角障經《ツヌサハフ》 石村山丹《イハレノヤマニ》 白栲《シロタヘニ》 懸有雲者《カカレルコモハ》 皇可聞《ワガオホキミカモ》
 
(角障經)石村ノ山ニ白ク懸ツテヰル雲ハ、私ノ戴イテヰタ〔五字傍線〕皇子デイラセラレルデアラウカヨ。アノ雲ハ皇子ノ(306)火葬ノ煙ノ名殘デハナカラウカ〔アノ〜傍線〕。
 
○角障經《ツヌサハフ》――枕詞。前の歌に出づ。○皇可聞《ワガオホキミカモ》――舊訓オホキミカモ、古義は皇の下、呂を脱として、オホキミロカモとよんでゐる。類聚古集その他の古本に皇を星に作り、袖中抄にもシロタヘノカカレルクモハホシニケルカモと訓んでゐるが、これらはいづれも穩やかでない。しばらく皇を吾王の誤とした、考に從ふことにする。
〔評〕 石村山の白雲を火葬の煙と見たのである。長歌に角障經石村乎見乍《ツヌサハフイハレヲミツツ》とあるのに呼應してゐるやうに見える。石村山の麓で火葬し奉つたので、葬送の時、特に其處を注意して眺めたもので、卷三の土形娘子を泊瀬山に火葬した時の人麿の作、隱口能泊瀬山之山際爾伊佐夜歴雲者妹鴨有牟《コモリクノハツセノヤマノヤマノマニイサヨフクモハイモニカモアラム》(四二八)とよく似てゐる。この歌を火葬に關係なしと見る説は誤である。この歌の内容も亦、これが人麿作なることを立證するやうに見える。
 
右二首
 
3326 磯城島の 大和の國に いかさまに おもほしめせか つれもなき 城上の宮に 大殿を 仕へ奉りて 殿ごもり こもりいませば あしたには 召して使はし 夕べには 召して使はし つかはしし 舍人の子らは 行く鳥の 群がりて待ち 在り待てど 召し賜はねば 劍だち 磨ぎし心を 天雲に 念ひはふらし こいまろび ひづちなけども 飽き足らぬかも
 
磯城島之《シキシマノ》 日本國爾《ヤマトノクニニ》 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》 津禮毛無《ツレモナキ》 城上宮爾《キノヘノミヤニ》 大殿乎《オホトノヲ》 都可倍奉而《ツカヘマツリテ》 殿隱《トノゴモリ》 隱在者《コモリイマセバ》 朝者《アシタニハ》 召而使《メシテツカハシ》 夕者《ユフベニハ》 召而使《メシテツカハシ》 遣之《ツカハシシ》 舍人之子等者《トネリノコラハ》 行鳥之《ユクトリノ》 羣而待《ムラガリテマチ》 有雖待《アリマテド》 不召賜者《メシタマハネバ》 劔刀《ツルギダチ》 磨之心乎《トギシココロヲ》 天雲爾《アマグモニ》 念散之《オモヒハフラシ》 展轉《コイマロビ》 土打哭杼母《ヒヅチナケドモ》 飽不足可聞《アキタラヌカモ》
 
(磯城島之)大和ノ國デ處モアラウニ〔六字傍線〕、何ト思召シテノコトカ、何ノ由縁モナイ城上ノ宮ニ、御墓ノ御殿ヲ造営申シテ、ソノ〔三字傍線〕御殿ニ閉ヂ籠ツテ葬ラレテ〔四字傍線〕オイデニナルト、御在世ノ間ニ〔六字傍線〕、朝ニハ召シ出シテ御使ヒナサレ、(307)夕方ニハ召シ出シテ御使ヒニナリ、カウシテ〔四字傍線〕御使ヒナサツタ舍人ドモハ、(行鳥之)群ツテ居ツテ御用ヲ〔五字傍線〕待ツテ居、サウシテ居テ待ツテヰルガ、モハヤ〔三字傍線〕御召ニナルコトハナイカラ、(劍太刀)磨ギスマシテ君ノ爲ニ緊張シテヰタ眞《キミノ〜》心ヲ、空シク空ノ雲ノアナタニ放チ散ラシテシマヒ、臥シコロガツテ、涙ニ〔二字傍線〕濡レテ泣イテヰルガ、飽キ足ラヌヨ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○磯城島之《シキシマノ》――枕詞。大和とつづく。一七八七參照。○日本國爾《ヤマトノクニニ》――日本國《ヤマトノクニ》は畿内の大和である。大和の國での意。國なるにの意と古義にあるのは當らない。○何方《イカサマニ》――これ以下の四句は卷二の日並皇子尊殯宮之時歌に何方爾御念食可由縁母無眞弓乃崗爾《イカサマニオモホシメセカツレモナキマユノヲカニ》(一六七)とあるのと一致してゐる、その項參照。○大殿乎都可倍奉而《オホトノヲツカヘマツリテ》――御墓を作つて奉仕して。○殿隱《トノゴモリ》――御墓に葬られ給ふをかく言つたのである。○舍人之子等者《トネリノコラハ》――舍人どもは。子は親しんでいふのみ。○行鳥之《ユクトリノ》――枕詞。群りとつづく。○羣而待《ムラガリテマチ》――略解に待は侍の誤で、ムレテサモラヒであらうとしてゐるが、改めない方がよい。○有雖待《アリマテド》――さうしてありて待てど。○劍刀《ツルギタチ》――枕詞。磨ぎとつづく。○磨之心乎《トギシココロヲ》――鋭く緊張した心。○天雲爾《アマグモニ》――空のあなたに。遙かに遠くなどの意。天雲の如くではない。○念散之《オモヒハフラシ》――ハフラシは散らし失ふこと。ここは緊張した心も摧けて、消え失せる意である。○土打哭杼母《ヒヅチナケドモ》――涙に濡れて泣けどもの意。
〔評〕 これは前歌と異なり、高市皇子尊城上殯宮の時の作である。これにも人麿式用語が少し見える。或は人麿が卷二の長歌と同時に作り試みたものかも知れない。併し反歌も添へてなく、未定稿として當時世に出さなかつたものであらう。
 
右一首
 
3327 百小竹の 三野の王 西の厩 立てて飼ふ駒 東の厩 立てて飼ふ駒 草こそは 取りて飼ふがに 水こそは くみて飼ふがに 何しかも 葦毛の馬の いばえ立ちつる
 
百小竹之《モモシヌノ》 三野王《ミヌノオホキミ》 金厩《ニシノウマヤ》 立而飼駒《タテテカフコマ》 角厩《ヒムガシノウマヤ》 立而飼駒《タテテカフコマ》 草社者《クサコソハ》 取(308)而飼旱《トリテカフガニ》 水社者《ミヅコソハ》 ※[手偏+邑]而飼旱《クミテカフガニ》 何然《ナニシカモ》 大分青馬之《アシゲノウマノ》 鳴立鶴《イバエタチツル》
 
(百小竹之)三野王ガ西ノ方ニ厩ヲ立テテ飼ヒナサル駒ヨ。東ノ方ニ厩ヲ立テテ飼ヒナサル駒ヨ。草ヲコソハ苅リ取ツ飼ツテヤルノニ、水ヲコソハ汲ンデ飼ツテヤルノニ、何シニ葦毛ノ馬ガ啼キ立テルノダラウ。アノ馬モ自分ノ主人ノ三野王ノ卒去セラレタノヲ悲シムノダラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○百小竹之《モモシヌノ》――枕詞。三野とつづく。多くの篠の生えてゐる野の意であらう。冠辭考には多くのしなへたる草の蓑《ミヌ》とつづき、小竹は訓を借りたのだと言つてゐるが、むつかしい説明である。前に百岐年三野之國之《モモキネミヌノクニノ》(三二四二)とあつたと同一用法らしい。○三野王《ミヌノオホキミ》――三野王は續紀、孝謙天皇、天平寶宇元年の條に「正月庚戌朔乙卯前左大臣正一位橘朝臣諸兄薨云々、大臣贈從二位栗隈王之孫、從四位下美弩王之子也」とあるから、橘諸兄の父である。天武天皇紀に屡々その名見えたるを始として、太宰帥、造大幣司長官・左京大夫・攝津大夫・治部卿などに歴任し、和銅元年五月辛酉從四位下を以て卒した人である。○金厩《ニシノウマヤ》――金を西と訓むのは五行を方角に配すれば、金が西に當るからである。○角厩《ヒムガシノウマヤ》――角を東と訓むのは、宮商角徴羽の五音を方角に配すれば、角が東に當るからである。○取而飼旱《トリテカフガニ》――取つて飼ふものをの意。ガで上を名詞的にしニで受けてゐる。舊訓カヘカニとあるのでは意が通じない。旱は山攝旱韻n音尾であるから、カニとなるを濁つてガニに用ゐてゐる。略解の宣長説に旱を甞の誤として、トリテカヒナメと訓んだのは從ひ難い。○※[手偏+邑]而飼旱《クミテカフガニ》――汲みて飼ふものを。※[手偏+邑]は汲んであけるの意。○大分青馬之《アシゲノウマノ》――白毛に青色の差毛あるものを、葦毛といふ。青毛が多いといふ意で、大分青馬と書いたものか。考はマシロノコマノ、略解にヒタヲノコマノと訓んでゐるが從ひ難い。○鳴立鶴《イバエタチツル》――和名抄に、「玉篇云、嘶馬鳴也訓以波由、俗云以奈奈久」とあつて、イバエは馬の鳴くことである。語源はイ吼エでイと吠える意であらう。温故堂本は鶴を鴨に作つてゐる。
〔評〕 三野王の卒去に當つて、葦毛の馬の嘶き立てるのを聞いて、草も水も充分にやつてあるものを、何しにあんなに嘶くのだらうかと不審がつて、裏に王の遺愛の馬も、王の卒去を知つて悲しむのであらうとの意を含め(309)てゐる。短い歌ながら、對句を多く用ゐ、技巧が極めて、洗練せられてゐる。言廻しも亦婉曲で、餘情が籠つてゐる。和銅元年の作である。
 
反歌
 
3328 衣手を 葦毛の馬の いばゆ聲 こころあれかも 常ゆけに鳴く
 
衣袖《コロモデノ》 大分青馬之《アシゲノウマノ》 嘶音《イバユコヱ》 情有鳧《ココロアレカモ》 常從異鳴《ツネユケニナク》
 
(衣袖)葦毛ノ罵ガ嘶ク聲ガ、三野王樣ノ卒去ナサツタノヲ悲シム〔三野〜傍線〕心ガアルカラカ、常ヨリモ異ツテ鳴クヨ
 
○衣袖《コロモデヲ》――枕詞。舊訓コロモデノとある。葦毛とつづく意は明らかでない。代匠記精撰本に「袖は白妙の袖といひ……白きを本とすれば、白妙の袖の色の葦毛とつづくる意なり」とあり、古義に「衣袖を襲著《オソケ》と云なるべし」とあるが、共に無理な説であらう。○嘶音《イバユコエ》――舊訓ナクコヱモ、略解イバユルモ、新考イバエゴヱとある。イバユルコヱを略した古格であらう。○常從異鳴《ツネユケニナク》――常より異なつて鳴く。卷十に島音異鳴秋過去良之《トリガネケニナクアキスギヌラシ》(二一六六)とある。
〔評〕 長歌の意を反覆して明瞭に述べてゐる。王子に對する哀悼の情がよくあらはれてゐる。
 
右二首
 
3329 白雲の たなびく國の 青雲の 向伏す國の 天雲の 下なる人は あのみかも 君に戀ふらむ あのみかも きみに戀ふれば 天地に 言を滿てて 戀ふれかも 胸のやめる 念へかも 心の痛き あが戀ぞ 日にけに益る いつはしも 戀ひぬ時とは あらねども この九月を わがせこが しぬびにせよと 千世にも しぬびわたれと 萬代に 語りつがへと 始めてし 此の九月の 過ぎまくを いたも術なみ あらたまの 月のかはれば せむ術の たどきを知らに 石が根の こごしき道の 石床の 根延へる門に あしたには 出で居て嘆き 夕べには 入りゐ戀ひつつ ぬば玉の 黒髪しきて 人の寢る 味寢は宿ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 吾が寢る夜らは よみもあへぬかも
 
白雲之《シラクモノ》 棚曳國之《タナビククニノ》 青雲之《アヲクモノ》 向伏國乃《ムカブスクニノ》 天雲《アマグモノ》 下有人者《シタナルヒトハ》 妄耳鴨《アノミカモ》 (310)君爾戀濫《キミニコフラム》 吾耳鴨《アノミカモ》 夫君爾戀禮薄《キミニコフレバ》 天地《アメツチニ》 滿言《コトヲミテテ》 戀鴨《コフレカモ》 ※[匈/月]之病有《ムネノヤメル》 念鴨《オモヘカモ》 意之痛《ココロノイタキ》 妾戀叙《アガコヒゾ》 日爾異爾益《ヒニケニマサル》 何時橋物《イツハシモ》 不戀時等者《コヒヌトキトハ》 不有友《アラネドモ》 是九月乎《コノナガツキヲ》 吾背子之《ワガセコガ》 偲丹爲與得《シヌビニセヨト》 千世爾物《チヨニモ》 偲渡登《シヌビワタレト》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 語都我部等《カタリツガヘト》 始而之《ハジメテシ》 此九月之《コノナガツキノ》 過莫乎《スギマクヲ》 伊多母爲使無見《イタモスベナミ》 荒玉之《アラタマノ》 月乃易者《ツキノカハレバ》 將爲須部乃《セムスベノ》 田度伎乎不知《タドキヲシラニ》 石根之《イハガネノ》 許凝敷道之《コゴシキミチノ》 石床之《イハドコノ》 根延門爾《ネハヘルカドニ》 朝庭《アシタニハ》 出居而嘆《イデヰテナゲキ》 夕庭《ユフベニハ》 入座戀乍《イリヰコヒツツ》 烏玉之《ヌバタマノ》 黒髪敷而《クロカミシキテ》 人寢《ヒトノヌル》 味寢者不宿爾《ウマイハネズニ》 大船之《オホブネノ》 行良行良爾《ユクラユクラニ》 思乍《オモヒツツ》 吾寢夜等者《ワガヌルヨラハ》 數物不敢鴨《ヨミモアヘヌカモ》
 
白雲ノ棚引イテヰル國デ、青雲ガ地ノ上ニ〔四字傍線〕向ヒ伏シテヰル國ノ、遠クノ極マデ〔六字傍線〕、天ノ雲ノ下ニヰル人即チ地上ノ人〔六字傍線〕ハ、私バカリガ貴方ニ戀シテヰルノデアラウカ。戀ニ惱ム者ハ私ノミデアラウカ〔戀ニ〜六字傍線〕。私バカリガ貴方ニ戀ヲスルカラカ、私ハ廣イ〔四字傍線〕天地ノ間ニ言葉ガ滿チルホドニ、イロイロト〔五字傍線〕申シテ戀シガルノデ胸ガ痛イノデアラウカ。思フノデ心ガ苦シイノデアラウカ。私ノ戀シサハ日ニ日ニ増ツテ來ルヨ。何時ト言日ツテ戀シク思ハナイ時トテハ無イガ、コノ九月ヲ私ノ夫ガ死ンデカラハ〔六字傍線〕記念ニセヨトテ、千年ノ後マデモナツカシク思ヒ出セトテ、萬年ノ後マデモ語リ續ゲトテ、記念ト〔三字傍線〕シ始メタコノ九月ガ過ギルノヲ、誠ニ惜シクテ〔四字傍線〕仕樣ガナイノデ、(荒玉之)月ガ改マルト、何トキスベキ方法モ知ラズ、岩ノ險岨ナ道ノ、石ヲ壘ンデ造ツタ墓所ノ側ニ居ツテ、朝ニハ外ニ出(311)テ居ツテ嘆キ、夕方ニハ家ノ内ニ入ツテ、(烏玉乃)黒髪ヲ敷イテ、人ノ寢ルヤウナ、快ヨイ熟寢ハ出來ナイデ、(大船之)ユラリユラリト心ガ落チ付カズ、死ンダ夫ヲ〔五字傍線〕思ツテ私(ノ)寢ル夜ノ數〔二字傍線〕ハ幾晩トモ〔四字傍線〕數ヘキレヌ程ダヨ。
 
○白雲之棚曳國之青雲之向伏國乃《シラクモノタナビククニノアヲグモノムカフスクニノ》――白雲が棚引いてゐる國で、遠く眺めれば青雲が地に向つて伏してゐる國の。即ち天の下、國の極までの意となる。卷三に天雲之向伏國《アマクモノムカフスクニノ》(四四三)・卷五に阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマクモノムカフスキハミ》(八〇〇)とある。青雲は青空。卷二の青雲之《アヲグモノ》(一六一)參照。○滿言《コトヲミテテ》――舊訓コトバヲミテテ、考はイヒタラハシテ、略解に掲げた宣長説は言を足の誤として、ミチタラハシテとしてゐる。新訓にコトヲミテテとしたのが最もよいか。天地の間に言葉を滿して。頻りに絶えず思を述べる意であらう。○何時橋物不戀時等者不有友《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモ》――この三句が長歌の句としては破調になつて、恰も短歌の上句のやうな感じを與へる。卷十一の何時不戀時雖不有夕方枉戀無乏《イツハシモコヒヌトキトハアラネドモユフカタマケテコヒハスベナシ》(二三七三)・卷十二の何時奈毛不戀有登者雖不有得田直比來戀之繁母《イツハナモコヒズアリトハアラネドモウタテコノゴロコヒノシゲキモ》(二八七七)などに似てゐる。○語都我部等《カタリツガヘト》――語り繼げと。○始而之此九月乎《ハジメテシコノナガツキヲ》――九月に死亡したことを、斯く言つたのである。○將爲須部乃田度伎乎不知《セムスベノタドキヲシラニ》――これ以下十九句は總べて前の爲須部乃田付呼不知《セムスベノタヅキヲシラニ》(三二七四)の長歌にあるものである。併し彼は相聞歌であり、これは挽歌であるから、解釋はそれを考慮に入れねばならぬ。○石根之許凝敷道乎《イハガネノコゴシキミチヲ》――岩根の嶮岨な道を。○石床之根延門爾《イハドコノネハヘルカドニ》――岩を築き廣く疊んだ墓に。ここの四句は山中に築いた古墳の構造を述べてゐる。○大船之《オホブネノ》――枕詞。○行良行良爾《ユクラユクラニ》――ゆらゆらと心が動いて。
〔評〕 この歌は後半が前の爲須部乃田付呼不知《セムスベノタヅキヲシラニ》(三二七四)と殆ど全く同樣であるから、錯簡があつて、二首の別歌が混淆したものと考へてゐる學者が多い。考には入座戀乍《イリヰコヒツツ》以下は脱落して、反歌もあつたのが脱ち、烏王之《ヌバタマノ》以下の別歌がここに紛れて連なつたとし、略解もこれに從ひ、古義は最初の十句は相聞で、ここに混入したもの、天地滿言《アメツチニコトヲミテテ》より入座戀乍《イリヰコヒツツ》までの三十四句は挽歌であつたのが、前後の句が落ちて、ここに混入したもので、終の烏玉之《ヌバタマノ》以下九句は冒頭の十句とつづけて、一首とすべきものだといつてゐる。これらの説も一應は尤もであ(312)るが、思ふにこれらの歌は最初事實に即して作られたものが、後に俚謠的になつて他の場合に流用せられることもあらうし、又もと俚謠であつたものが、事實に應用せられるやうな場合もあるであらう。それがその使用せられる場合に應じて、手心を加へ、謠ひ變へられることは當然であつて、長い形式を要するやうな場合は、他の歌の一部を取り來つて、それをその前後に置くやうなこともあらうし、又短きを好都合とする場合には、長い歌の一部分のみを謠ふこともあつたであらう。この卷の編纂者はかういふ歌形を聞くが儘に記し止めて置いたものらしいから、類似歌が並び掲げてあつても、それを以て、重複としたり、錯簡としたりするのは早計であらう。この歌を夫を失つた女の心境を述べた挽歌として見る時、少しも無理なく解けるのである。否、かなりに傑出した逸品とするを憚らぬ。
 
右一首
 
3330 隱口の 長谷の川の 上つ瀬に 鵜を八つかづけ 下つ瀬に 鵜を八つかづけ 上の瀬の 年魚をくはしめ 下つ瀬の 鮎をくはしめ くはし妹に あゆを惜しみ 投ぐるさの 遠ざかりゐて 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 衣こそは それやれぬれば つぎつつも 又も逢ふと言へ 玉こそは 緒の絶えぬれば くくりつつ またも逢ふといへ またも逢はぬものは つまにしあもりけり
 
隱來之《コモリク》 長谷之川之《ハツセノカハノ》 上瀬爾《カミツセニ》 鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》 下瀬爾《シモツセニ》 鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》 上瀬之《カミツセノ》 年魚矣令咋《アユヲクハシメ》 下瀬之《シモツセノ》 鮎矣令咋《アユヲクハシメ》 麗妹爾《クハシイモニ》 鮎遠惜《アユヲオシミ》 投左乃《ナグルサノ》 遠離居而《トホザカリヰテ》 思空《オモフソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 嘆空《ナゲクソラ》 不安國《ヤスカラナクニ》 衣社薄《キヌコソハ》 其破者《ソレヤレヌレバ》 縫乍物《ツギツツモ》 又母相登言《マタモアフトイヘ》 玉社者《タマコソハ》 緒之絶薄《ヲノタエヌレバ》 八十一里喚※[奚+隹]《ククリツツ》 又物逢登曰《マタモアフトイヘ》 又毛不相物者《マタモアハヌモノハ》 ?爾志有來《ツマニシアリケリ》
 
(隱來之長谷之川之上瀬爾鵜曰八頭漬下瀬爾鵜曰八頭漬上瀬之年魚矣令咋下瀬之點矣令咋)美シイ妻ニ(點遠惜投左乃)遠ザカツテ居ツテ、思フ心モ安ラカデナク、嘆ク心モ安ラソカデナイ。着物ト云フモノハ、ソレガ破レル(313)ト繼イデ又合フモノダト云フシ、玉コソハ紐ガ切レルト、縛ツテ又合フモノダト云フガ、又逢フコトノ出來ナイモノハ、死ンダ〔三字傍線〕妻デアルヨ。
 
○鵜矣八頭漬《ウヲヤツカヅケ》――鵜を澤山に水に潜らしめて。八頭をヤツと訓ましめたのは、禽獣を數へるのに、頭の字を添へるからである。この句は卷十九にも、※[盧+鳥]八頭可頭氣?河瀬多頭禰牟《ウヤツカヅケテカハセタヅネム》(四一五八)とある。○點矣令咋《アユヲクハシメ》――年魚を喫へて捕へしめる。發端から點矣令咋《アユヲクハシメ》までの十句は、麗妹爾《クハシイモニ》と言はむ爲の序詞。○麗妹爾《クハシイモニ》――美しい妻に。舊訓クハシメニとあるによれば、前句の令咋《クハシメ》の全音を繰返したことになるが、クハシメは美女で、ここは美妻の意でなければならぬから、さうして集中、妹の字は、常にイモとのみ訓んであるから、クハシイモと訓むべきである。○點遠惜《アユヲヲシミ》――舊訓アユヲアタラシとある。考は辭遠借《コトトホザカリ》、古義は副猿緒《タグヒテマシヲ》の誤としてゐる。誤字らしくはあるが、眞淵・雅澄の説は臆斷に過ぎない。代匠記精撰本にアユヲヲシミと訓んである方がよいか。折角鵜飼をして獲た點を、妹に贈るのが惜しさに遠ざかつてゐるといふのであらう。もとより事實ではないが、遠ざかつてゐる理由を、かく諧謔的に述べたものである。從つて、この句は次句と共に序詞と見るがよい。○投左乃《ナグルサノ》――枕詞。遠離《トホザカル》とつづく、舊訓ナゲクサノ、代匠記精撰本ナクサノとあるのはよくない。投左《ナグルサ》は下の、公之佩具之投箭之所思《キミガオバシシナグヤシオモホユ》(三三四五)・卷十九の投矢毛知子尋射和多之《ナグヤモチチヒロイワタシ》(四一六四)などの投箭、投矢と同じものであらう。箭をサといふ例は綏靖天皇紀に「時神渟名川耳尊|掣《ヒキ》2取(テ)其兄(ノ)所v持弓矢1而射2手研耳命1一發《ヒトサニ》中v※[匈/月]、再發《フタサ》中v背、遂殺v之」、天武天皇紀上云「乃擧2高市皇子之命1喚2穗積臣百足於小墾田兵庫1、(中略)時百足下v馬遲之、便取2其襟1以引墮、射中2一箭《ヒトサ》1、因拔v刀斬而殺之」とあり、又本集卷二十の防人歌に、阿良之乎乃伊乎佐太波佐美《アラシヲノイヲサタバサミ》(四四三〇)とあるのも、い小箭であらう。投箭《ナグルサ》は手にて投げる箭とする説もあるが、上代にさういふものがあつたらしい證もなく、やはり弓に番うて射放つものであらう。前に掲げた投失毛知千尋射和多之《ナグヤモチチヒロイワタシ》とあるのも、弓に番つて遠く射放つものなるを思はしめる。○遠離居而《トホザカリヰテ》――幽冥境を異にしたことをかく言つたのである。○思空不安國嘆空不安國《オモフソラヤスカラナクニナゲクソラヤスカラナクニ》――これは卷八の七夕の長歌(一五二〇)中の句と同樣である。○其破者《ソレヤレヌレバ》――それが破れぬればの意。(314)○縫乍物《ツギツツモ》――縫は元暦校本・温故堂本に繼に作つてゐるのが、正しいやうに思はれる。○八十一里喚鷄《ククリツツ》――八十一をクク、喚鷄ツツと訓むのは例の戯書である。○?爾志有來《ツマニシアリケリ》――舊訓を改めて、考にイモニシアリケリとしてゐる。舊本、山とあるは爾の誤であらう。元暦校本・天治本・西本願寺本その他、爾の草體になつてゐる本が多い。
〔評〕 一見相聞の歌らしく見えるが、妻の死を、遠離居而《トホザカリヰテ》と娩曲なる言ひ方をしたもので、やはり挽歌として見るべきであらう。隱口の泊瀬の川の上つ瀬、下つ瀬を序詞に用ゐたのは、前の三二六三にもあり、又古事記の歌にも見えて、古い型らしく思はれる。ここでは序詞の用法が奇拔で、鮎遠惜《アユヲヲシミ》の一句、極めて諒解に苦しむが、これも序詞の一部と見れば、わかり易くなる。その他全體的には鮮明な歌で、用語も古くないやうである。
 
3331 隱口の 長谷の山 青幡の 忍坂の山は 走出の 宜しき山の 出立の 妙しき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも
 
隱來之《コモリクノ》 長谷之山《ハツセノヤマ》 青幡之《アヲハタノ》 忍坂山者《オサカノヤマハ》 走出之《ハシリデノ》 宜山之《ヨロシキヤマノ》 出立之《イデタチノ》 妙山叙《クハシキヤマゾ》 惜山之《アタラシキヤマノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
(隱來之)長谷ニアル山ツヅキノ〔四字傍線〕(青幡之)忍坂ノ山ハ、此處カラ〔四字傍線〕直グ前ニアル姿ノ〔二字傍線〕ヨイ山デ、此處カラ〔四字傍線〕出カケタ近イ所ニアル姿ノ〔二字傍線〕立派ナ山デアルゾヨ。コノ私ノ大切ナ人ヲ葬ツタ〔コノ〜傍線〕アタラ惜シイ山ガ、荒レルノハ惜シイモノダヨ。
 
○青幡之《アヲハタノ》――枕詞。青布の如く青々とした忍坂山とつづくか。卷四に青※[弓+其]乃葛木山《アヲハタノカヅラキヤマ》(五〇九)とある。その條參照。なほ卷二、青旗乃木旗能上《アヲハタノコハタノウヘ》(一四八)とあるのは、青い旗の小旗の上と解して置いたが、或は木旗は即ち木幡山で青幡乃《アヲハタノ》は枕詞として用ゐられたものかも知れない。その條參照。○忍坂山者《オサカノヤマハ》――忍坂は櫻井町の東南方、忍坂山は其處の山である。長谷山は今の初瀬町後方の山で、忍坂山と初瀬川を距てて對してゐるが、ここは謂はゆる初瀬山ではなく、初瀬にある山の忍坂山といふのではあるまいか。忍坂は泊瀬朝倉宮址につづいてゐる。或(315)は忍坂山の東方、初瀬寄りの山を初瀬山といつたのかも知れない。寫眞は中央の高いのが忍坂山、遠景は初瀬つづきの山。著者撮影。○走出之《ハシリデノ》――卷二に※[走+多]出之堤爾立有《ハシリデノツツミニタテル》(二一〇)とある※[走+多]出と同じで家から走り出た近い所にある意。その條參照。走り出た樣として、山の姿と解するのは當らない。○出立之《イデタチノ》――これも家を出でて立てる所にあるといふ意である。山の出で立ち即ち山の姿とするのは當らない。○妙山叙《クハシキヤマゾ》――考にマクハシキヤマゾとあるが、マを添へる必要はない。クハシは細妙、麗しきこと。○惜山之《アタラシキヤマノ》――あたら惜しい山が。ここは少し破調になつてゐる。古義は山之《ヤマノ》を以て一句とすべしと言つてゐる。
〔評〕 古義に「可惜《アタラ》しき人の死ぬるを譬へて惜めるにて、今此の二山もて云るは、其の人徳の業の一つならず、左《カレ》にも右《コレ》にも、くさぐさ世にめでたくすぐれたりしをいふなるべし」とし、新解には「この歌は山をほめてゐる。さうしてその山に亡くなつた人を喩へてゐるが、集中にも人を山に喩へた歌は數出してゐる。昔の人が山に親みを感じ、是を愛して來た生活が思はれる」とある。かういふ見方も出來るであらうが、譬喩とするよりも、この忍坂山に葬つた人を悲しんだ歌とすべきであらう。即ち荒れるとは山の墓所の荒れ行くことである。さう思つて見ると、隱來之を隱處即ち墓所とする説、青幡之を葬式の旗とするのも、ここには當(316)嵌まるやうに考へられる。雄略天皇紀に見える擧暮利矩能播都制能野磨播伊底※[手偏+施の榜]智熊與慮斯企野麿和斯里底能與盧斯企夜磨能據暮利矩能播都制能夜靡播阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯阿野※[人偏+爾]于羅虞波斯《コモリクノハツセノヤマハイデタチノヨロシキヤマワシリデノヨロシキヤマノコモリクノハツセノヤマハアヤニウラグハシアヤニウラグハシ》と同型の歌で、御製は泊瀬峽谷の風景美を褒め給うたのであるが、これはそれから出て、挽歌として詠まれたものて青幡之忍坂山《アヲハタノオサカノヤマ》が重點であるから、かの御製に似てゐるからとて、直ちにそれに迎合して解釋すべきではない。哀切の情の漾つたよい作である。
 
3332 高山と 海こそは 山ながら かくもうつしく 海ながら しかもただならめ 人は花物ぞ うつせみの世人
 
高山與《タカヤマト》 海社者《ウミコソハ》 山隨《ヤマナガラ》 如此毛現《カクモウツシク》 海隨《ウミナガラ》 然直有目《シカモタダナラメ》 人者充物曾《ヒトハハナモノゾ》 空蝉與人《ウツセミノヨヒト》
 
高イ山ト海トコソハ、山ハ〔二字傍線〕山ノ姿ソノママデ、カウモ目ノ前ニ變ラズニアルシ、海ハ〔二字傍線〕海ソノ儘デ、サウシテ常ノヤウニシテ居ルデアラウ。然ルニコレトハ違ツテ〔然ル〜傍線〕、人ハ壽命ノアテニナラナイ〔壽命〜傍線〕空《アダ》ナモノダゾヨ。生身ヲ持ツタ世ノ人ハ。
 
○山隨《ヤマナガラ》――舊訓ヤマノマニとあるが、宜長がヤマナガラと訓まむと言つたのがよい。次の海隨《ウミナガラ》も同じ。○如此毛現《カクモウツシク》――現《ウツシク》は目の前に存する樣をいふ形容詞である。○然直有目《シカモタダナヲメ》――シカモは上のカクモと封してゐる。直有目《タダナラメ》は直《タダ》にあらめ、直《タダ》は正《タダ》に同じく、正しく確かに、變らずに、などの意になる。ナラメは上のコソを受けたのである。○人者充物曾《ヒトハハナモノゾ》――充は元暦校本その他、多くは花に作つてゐる。花物はあだなる物、たのみにならぬ物の意。卷十二に白香付木綿者花物《シラガツクユフハハナモノ》(二九九六)とある。○空蝉與人《ウツセミノヨヒト》――新訓はウツセミ、ヨヒトハと二句に訓んでゐる。空蝉《ウツセミ》は現身《ウツシミ》の意。
〔評〕 高山や大海は昔ながらに存するが、人の命は無常たのみ難いものなるぞといふので、挽歌ではあるが、ある個人の死を悼んだのではなく、人生のはかなさを歌つたものである。もとより佛教の無常觀から出發した作(317)品だ。これより更に一歩を進めて、海山の無常相をも強調したのが、卷十六の鯨魚取海哉死爲流山哉死爲流死許曾海者潮干而山者枯爲禮《イサナトリウミヤシニスルヤマヤシニスルシヌレコソウミハシホヒテヤマハカレスレ》(三八五二)である。住い歌だ。
 
右三首
 
3333 王の みことかしこみ 秋津島 大和を過ぎて 大伴の 御津の濱べゆ 大舟に 眞楫しじ貫き 朝なぎに かこの聲しつつ 夕なぎに 楫の音しつつ 行きし君 何時來まさむと 夕卜置きて 齋ひ渡るに まがことや 人の言ひつる わが心 筑紫の山の 黄葉ばの 散り過ぎにきと 君がただかを
 
王之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》 秋津島《アキツシマ》 倭雄過而《ヤマトヲスギテ》 大伴之《オホトモノ》 御津之濱邊從《ミツノハマベユ》 大舟爾《オホブネニ》 眞梶繁貫《マカヂシジヌキ》 旦名伎爾《アサナギニ》 水手之音爲乍《カコノコヱシツツ》 夕名寸爾《ユフナギニ》 梶音爲乍《カヂノトシツツ》 行師君《ユキシキミ》 何時來座登《イツキマサムト》 大夕卜置而《ユフケオキテ》 齋度爾《イハヒワタルニ》 枉言哉《マガゴトヤ》 人之言釣《ヒトノイヒツル》 我心《ワガココロ》 盡之山之《ツクシノヤマノ》 黄葉之《モミヂバノ》 散過去常《チリスギニキト》 公之正香乎《キミガタダカヲ》
 
天子様ノ勅ヲ畏レ謹ンデ、(秋津島)大和ヲ行キ過ギテ(大伴之)御津ノ濱邊カラ、大舟ニ両舷ノ楫ヲ澤山通シテ、朝凪ニ舟人ノ聲ヲ立テ、夕凪ニ揖ノ音ヲ立テナガラ、旅ニ行テ〔四字傍線〕行ツタ夫ハ、何時歸ツテ〔三字傍線〕オイデニナルダラウカト、夕占ヲ置イテ、神様ヲ御祭リシテヰタノニ、間違ツタ言葉ヲ人ガ言ツタノデアラウカ、私ガ心配シテヰル夫ハ旅先ノ〔五字傍線〕筑紫デ、(盡之山之黄葉之)死ンデシマツタト、夫ノ様子ヲ聞イタ。本當トハ信セラレナイ〔聞イ〜傍線〕。
 
○秋津島倭雄過而《アキツシマヤマトヲスギテ》――秋津島は枕詞。二参照。倭は畿内の大和。○大伴之《オホトモノ》――枕詞。御津とつづく。六三参照。○水乎之音爲乍《カコノコヱシツツ》――舊訓カコノオトシツツ、考はカコノトシツツとあるが、音は朝名寸二水乎之音喚《アサナギニカコノヱヨビ》(五〇九)。乏毛不有※[(貝+貝)/鳥]之音《トモシクモアラズウクヒスノコヱ》(一八二〇)に傚つてコヱと訓むがよい。○大夕卜置而《ユフケオキテ》――大夕卜は舊訓オホユフケとあるのを、代匠記精撰本は大は衍でユフケオキテとし、童蒙抄は大夕は大占の誤で、フトマニノウラヲ又はフトマニかとし、(318)考は大夕卜は幣の誤でヌサ、略解は、大夕卜は奴左又は幣の誤とし、古義はこれを幣《ヌサ》又は帛《ヌサ》の誤としてゐる。この他、諸説があるが、新訓は元暦校本に夕の字が無いのによつてゐる。併し大の字の無いのが原形とも言ひ難く、もとのままで舊訓に從ふことも出來るし、又大は添へて書いたとも考へられるから、ユフケオキテがよいのであらう。置くとつづくのが、少しどうかと思はれるが、用ゐぬことはあるまい。○枉言哉《マガゴトヤ》――マガゴトは曲つた言。間違つた言。○我心《ワガココロ》――枕詞。盡《ツクシ》とつづくのは、吾が心を盡し、心配する意である。○盡之山之黄葉之《ツクシノヤマノモミヂバノ》――盡之《ツクシノ》山は筑紫の山。次の黄葉之《モミヂバノ》につづいてゐるが、作者の夫が、筑紫に赴いて、彼の地で歿したことをあらはしてゐる。黄葉之《モミヂバノ》は枕詞。散過《チリスギ》とつづく。○散過去常《チリスギニキト》――死んで逝つたと。○公之正香乎《キミガタダカヲ》――君は夫であらう。正香《タダカ》は樣子。
〔評〕 官命によつて、筑紫に赴いた夫が、彼の地で歿した由の報知に接して、悲傷して詠じた女の作である。整然たる修辭で、しかも我心盡之山之黄葉之《ワガココロツクシノヤマノモミヂバノ》のあたりは懸詞の使用が巧妙で、一見序詞なるが如くして然らず。かなり圓熟した、この卷中では新しいものである。旦名伎爾《アサナギニ》以下の四句は、卷四の丹比眞人笠麻呂下2筑紫國1時作歌(五〇九)に採られてゐる。
 
反歌
 
3334 まがことや 人の言ひつる 玉の緒の 長くと君は 言ひてしものを
 
枉言哉《マガゴトヤ》 人之云鶴《ヒトノイヒツル》 玉緒乃《タマノヲノ》 長登君者《ナガクトキミハ》 言手師物乎《イヒテシモノヲ》
 
間違ツタ言ヲ人ガ言ツタノデアラウカ。(玉緒乃)長ク生キテイツマデモ夫婦デヰヨウ〔生キ〜傍線〕ト、夫ハ言ツタノニ、夫ガ死ンダトノ通知ハ、ドウモ本當トハ思ハレナイ〔夫ガ〜傍線〕。
 
○玉緒乃《タマノヲノ》――枕詞。長《ナガ》とつづくのは、玉を貫いた緒は長いからである。命の意ではない。○長登君者《ナガクトキミハ》――長く(319)生きむと吾が夫はの意。
〔評〕 初二句は長歌中の句を再び用ゐたもの。三句以下に夫婦の誓言を述べてゐる。はつきりした歌である。
 
右二首
 
3335 玉桙の 道行き人は あしびきの 山行き野ゆき ただ渡り 川ゆき渡り いさな取り 海道に出でて かしこきや 神の渡は 吹く風も のどには吹かず 立つ浪も おほには立たず しき浪の 立ちさふ道を 誰が心 いとほしとかも ただ渡りけむ
 
玉桙之《タマホコノ》 道去人者《ミチユキビトハ》 足檜木之《アシビキノ》 山行野往《ヤマユキヌユキ》 直海《タダワタリ》 川往渡《カハユキワタリ》 不知魚取《イサナトリ》 海道荷出而《ウミヂニイデテ》 惶八《カシコキヤ》 神之渡者《カミノワタリハ》 吹風母《フクカゼモ》 和音不吹《ノドニハフカズ》 立浪母《タツナミモ》 踈不立《オホニハタタズ》 跡座浪之《シキナミノ》 立塞道麻《タチサフミチヲ》 誰心《タガココロ》 勞跡鴨《イトホシトカモ》 直渡異六《タダワタリケム》
 
(玉桙之)道ヲ行ク旅〔傍線〕人は(足檜木之)山ヲ通ツタリ、野ヲ通ツタリ、川ヲ直ニ渡ツタリシテ、(不知魚取)海路ヘ出テ行クガ、恐ロシイ神ノ渡ト云フ所ハ〔五字傍線〕、吹ク風モ靜カニハ吹カズ、立ツ浪モ普通ニハ立タズ、繁キ浪ノ立チ塞ガル海〔傍線〕路ヲ、コノ人ハ〔四字傍線〕誰ノ心ヲイトホシイト思ツテ、誰ニ逢ヒタイトテカコノ難所ヲ〔誰ニ〜傍線〕直ニ渡ツタノデアラウ。コノ海邊デ溺死シタ人ノ屍ガアルガ、誠ニ可愛サウナコトダ〔コノ〜傍線〕。
 
○道去人者《ミチユキビトハ》――考にミチユクヒトはとあるのはよくない。旅人はの意。○直海《タダワタリ》――舊本の如くならば、タダウミニと訓むべきであるが、意が通じがたい。海を渉の誤として、タダワタリと訓む略解説による。所をも嫌はずに渉ること。○不知魚取《イサナトリ》――枕詞。海とつづく、一三一參照。○神之渡者《カミノワタリハ》――下の或本歌に、備後國神島濱(三三三九)とあるところの渡リである。その條參照。渡りは船にて渡る海上。ここは海路である。○和音不吹《ノドニハフカズ》――ノドは長閑《ノドカ》。和らかに。○踈不立《オホニハタタズ》――オホはオホヨソ、普通大抵、靜かになどの意。○跡座浪之《シキナミノ》――跡座(320)をシキと訓むのは無理であるが、新訓の如く文字通りトヰと訓んでも意が通じ難いから、致し方がない。頻りに立つ浪として置く。卷二の跡位浪立《シキナミタチ》(二二〇)の條參照。○立塞道麻《タチサフミチヲ》――立ちて塞げる道を。○誰心勞跡鴨直渡異六《タガココロイトホシトカモタダワタリケム》――誰の心をいとしいと思つて、難所をかまはず渡つたのであらうか。誰とは家にあつて待つ人、即ち妻をさしてゐる。待つてゐる妻の心が、いとしさに、急いでこの難所を渡つたのであらうといふのである。元暦校本には直渡異六《タダワタリケム》の句が繰返されてゐる。
〔評〕 神島の渡の海岸に漂着してゐる屍を見て、それを憐み悼んだのである。宣長は「これはただ川に溺れて死たるが、屍の海へ流れ出て磯へ打あげられて有を見て、かく詠める也。實に海を渡たるにはあらじ」と言ひ、古義には「かくてこれは屍の海へ流れ出て、磯際へ打あげられたるを見て、作者のありけむやうを思ひやりて、かくはよめるなり」と言つてゐるが、あまり歸路を急いで、この難路たる神の渡を渡りて、遂に難破したものとして、これに滿腔の同情を捧げたものである。卷三にある、柿本人麿の、讃岐狹岑島視2石中死人1(二二〇)歌と事件も似てゐるし、跡位浪といふやうな特殊語を用ゐた點など、かなり類似してゐる。
 
3336 鳥が音の きこゆる海に 高山を へだてになして 沖つ藻を 枕になして 蛾朋の 衣だに著ずに 鯨魚取り 海の濱べに うらもなく 宿れる人は おも父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言傳てむやと 家問へば 家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず 哭く兒なす 言だにとはず 思へども 悲しきものは 世の中にあり
 
鳥音之《トリガネノ》 所聞海爾《キコユルウミニ》 高山麻《タカヤマヲ》 障所爲而《ヘダテニナシテ》 奧藻麻《オキツモヲ》 枕所爲《マクラニナシテ》 蛾葉之《ヒムシハノ》 衣浴不服爾《キヌダニキズニ》 不知魚取《イサナトリ》 海之濱邊爾《ウミノハマベニ》 浦裳無《ウラモナク》 所宿有人者《ヤドレルヒトハ》 母父爾《オモチチニ》 眞名子爾可有六《マナゴニカアラム》 若芻之《ワカクサノ》 妻香有異六《ツマカアリケム》 思布《オモホシキ》 言傳八跡《コトツテムヤト》 家問者《イヘトヘバ》 家乎母不告《イヘヲモノラズ》 名問跡《ナヲトヘド》 名谷母不告《ナダニモノラズ》 哭兒如《ナクコナス》 言谷不語《コトダニトハズ》 思鞆《オモヘドモ》 悲物者《カナシキモノハ》 世間有《ヨノナカニアリ》
 
鳥ノ鳴ク聲ノミ〔二字傍線〕スル海ニ、高イ山ヲ後ロノ〔三字傍線〕障壁トシテ、奧ノ藻ノ濱ニ打チ上ゲラレタノ〔ノ濱〜傍線〕ヲ枕トシテ、蛾ノ羽ノ(321)ヤウナ見苦シイ短イ〔九字傍線〕短イ着物モ着ナイデ(不知魚取)海ノ濱邊ニ、屍トナツテ〔五字傍線〕何心モナク寢テヰル人ハ、父母ニハ愛子デアラウカ、又(若蒭之)妻モアツタダラウカ。言ヒタイト思フ傳言ヲシテ上ゲヨウカト、家ヲ問フト家ヲモ告ゲズ、名ヲ問フケレドモ名サヘモ告ゲナイ。又(哭兒如)物モ言ハナイ。ツクヅクト〔五字傍線〕考ヘテ見テモ、悲シイモノハ世ノ中デアルヨ。
 
○鳥音之所聞海爾《トリガネノキコユルウミニ》――考は鳥音不聞海爾《トリガネノキコエヌウミニ》に改め、「今本、鳥音之所聞海爾と有はいかほどの遠き處まで、鳥がねは聞ゆるものと思ひけん、人笑へなる事なり」と言つてゐるが、この鳥は水沙兒《ミサゴ》・鴎などの海鳥で、怪しく淋しい聲で鳴いてゐるのであらう。略解・古義・新考などいづれも考に從つてゐるのは早計であらう。○高山麻障所爲而《タカヤマヲヘダテニナシテ》――高山を背面の障として。障《ヘダテ》になすとは、屏風の如く後方に控へることであらう。○蛾葉之衣浴不服爾《ヒムシハノキヌダニキズニ》――舊訓カハノキヌススキテキヌニ、代匠記初稿本、クハノキヌアラヒモキズニ又はススキモキズニとあり、考は蛾は蝦の誤とし、略解は或人のマユノキヌ説をよしとし、春海は葉は糸の誤かといひ、古義は蛾は蜻の誤、浴は谷の誤で、訓はアキツハノキヌダニキズニであらうとしてゐる。蛾の字は陰爾蚊蛾欲布《カゲニカガヨフ》(二六四二)・酢蛾島之《スガシマノ》(二七二七)などの如く、音假名としてのみ用ゐられ、それに傚ふときは、カハノキヌと訓むべきであらうが、下へのつづきが、穩やかでない。新訓には蛾を意字として、ヒムシとよんでゐる、蛾をヒムシと訓むのは古事記に少彦名命が天之|蘿摩船《カガミノフネ》に乘り、蛾皮《ヒムシノカハ》(鵝とあるを誤として)を内剥ぎにして、衣服として寄り來給うたことが記されてゐる。古義が蜻の誤としてアキツハノと訓んだのも面白いが、蜻※[虫+延]羽《アキツハ》は集中の用例によれば、いづれも女子の美しい服であるからここには當らない。カハノを一句として、次をキヌダニキズニと訓まうかとも思ふが、皮衣はここにはふさはしくないから、致し方がない。暫く新訓に傚つて、ヒムシハノと訓むことにしよう。ヒムシは火虫で蛾である。古事記の少彦名神は蛾の皮を以て衣としたのに、これは蛾の羽の衣であるから、あの傳説を聯想して解しない方がよい。仁徳天皇紀に皇后御歌「那菟務始能譬務始能虚呂望赴多幣耆?《ナツムシノヒムシノコロモフタヘキテ》」とあるヒムシノコロモは、蠶の衣、即ち絹布であつて、ここに當らない。ヒムシハノコロモは蛾の羽の如き見苦しい(322)短い衣であらう。浴は類聚古集、谷とあるによつて、ダニと訓むべきである。○浦裳無《ウラモナク》――心無く。ここでは心神亡失したことをいつてゐる。○所宿有人者《ヤドレルヒトハ》――舊訓ネテアルヒトハ、古義はイネタルヒトハとあるが、用字の上からは、ヤドレルヒトハと訓んだ略解がよいやうである。 ○眞名子爾可有六《マナゴニカアラム》――眞名子《マナゴ》は愛子、卷六に父公爾吾者眞名子叙妣刀自爾吾者愛兒叙《チチキミニワレヘマナゴゾハハトジニワレハマナゴゾ》(一〇二一)とある。○若蒭之《ワカクサノ》――枕詞。妻とつづく。一五三參照。蒭は苅草・牧草であるからクサに用ゐてある。○妻香有異六《ツマカアリケム》――古義は異は羅の誤で、ツマカアルラムであらうと言つてゐるがよくない。○思布言傳八跡《オモホシキコトツテムヤト》――オモホシキは思《オボ》しき。傳へようと思ふ言葉を傳へようかと。○哭兒如《ナクコナス》――枕詞。子供が泣くのみで、物を言はぬから、かくつづけてある。○恩鞆《オモヘドモ》――つくづく考へて見ても。○世間有《ヨノナカニアリ》――世の中にてあり。舊訓ヨノナカナレヤ、新訓ヨノナカナラシとある。元暦校本にはこの句が反覆せられてゐる。
〔評〕 前歌と同時の作である。死人に對し、その父母を思ひ、妻を思ひ、その家を知らむとし、その名を知らむとし、湧き返る同情感に、身も世もあらざる態度が詠み出されてゐる。思鞆悲物者世間有《オモヘドモカナシキモノハヨノナカニアリ》の末句が投げ出すやうな悲しき調をなしてゐる。
 
反歌
 
3337 おも父も 妻も子どもも 高高に 來むと待ちけむ 人の悲しさ
 
母父毛《オモチチモ》 妻毛子等毛《ツマモコドモモ》 高高二《タカダカニ》 來跡待異六《コムトマチケム》 人之悲沙《ヒトノカナシサ》
 
母モ父モ妻モ子供モ首ヲ長クシテ、歸ツテ〔三字傍線〕來ルダラウト待ツテヰタラウノニ、コノ〔四字傍線〕人ハ、カウシテ途中デ死ンデシマツタノハ〔カウ〜傍線〕悲シイコトダ。
 
○高高二《タカダカニ》――下の待《マチ》にかかる副詞で、心から待ち望むやうな時にいふ言葉である。集中、用例が尠くない。七(323)五八參照。
 
〔評〕 これにも同情が漲つてゐる。内容は長歌を要約したのみである。
 
3338 あし引の 山道は行かむ 風吹けば 浪のささふる 海道は行かじ
 
蘆檜木乃《アシビキノ》 山道者將行《ヤマヂハユカム》 風吹者《カゼフケバ》 浪之塞《ナミノササフル》 海道者不行《ウミヂハユカジ》
 
(蘆檜木乃)山道ヲ行カウヨ。風ガ吹クト浪ガ立ツテ、路ヲ〔五字傍線〕通レナイヤウニスル海路ハ、恐ロシイカラ〔六字傍線〕行クマイト思フ。コノ人ノヤウニ海路ヲ通ルコトハコレカラ止メヨウ〔ト思〜傍線〕。
 
○山道者將行《ヤマヂハユカム》――古義に者《ハ》は乎《ヲ》を誤つたのではないかと言つてゐる。○浪之塞《ナミノササフル》――ナミノフサケルと舊訓にある。考は之は立でナミノタチソフだとしてゐる。略解もナミノサヘヌルと訓みながら、考の説によつて、ナミタチサフル、ナミノタチサフとか訓むべしと言つてゐる。ナミノササフルと訓むべきであらう。
〔評〕 略解に「是は溺死人の事を聞きて、おくれたるもの、恐こみ詠める也」とあるのは考へ違ひである。やはり死屍を見た時の作で、内容から見ると、前の玉桙之道去人者《タマボコノミチユキビトハ》(三三三五)の長歌の反歌とするのが、適當のやうでもあるが、必ずしも原形がさうなつてゐたとは斷じ難い。
 
或本歌
 
備後國神島濱|調使首《ツキノオヒト》見(テ)v屍(ヲ)作(レル)歌一首并短歌
 
神島濱は卷十五に、月余美能比可里乎伎欲美神島乃伊素未乃宇良由船出須和禮波《ツクヨミノヒカリヲキヨミカミシマノイソミノウラユフナデスワレハ》(三五九九)とある所で、ここに傭後國とあるが、神名帳に「備中國小田郡神島神社」。續拾遺集賀に「建久九年大嘗會(324)主基方御屏風に、備中國神島有2神祠1所を、前中納言資實」として「神島の浪の白木綿懸まくも畏き御代のためしとぞ見る」と載せてゐる。備後は備中の誤か。小田郡は備中の西部で、備後に接してゐるから、この島は或は古く備後に屬してゐたかも知れない。笠岡港の南方に横はる島で長四十町横十二町許ある。前の長歌に神之渡とあるのは、この島と陸地との海峽をさしたのであらう。調使首は誰だかわからない。卷一(五五)に調首淡海といふ人が、見えてゐる。或はその人か。然らばここに使とあるのは衍である。和銅・養老まで生存した人らしい。
 
3339 玉桙の 道に出で立ち あし引の 野行き山行き みなぎらふ 川ゆきわたり 鯨魚取り 海路に出でて 吹く風も おほには吹かず 立つ浪も のどには立たず かしこきや 神の渡の しき浪の 寄する濱べに 高山を へだてに置きて うらふちを 枕にまきて うらもなく こやせる君は おも父の 愛子にもあらむ わか草の 妻もあらむと 家問へど 家道もいはず 名を問へど 名だにも告らず 誰が言を いとほしみかも たか浪の かしこき海を ただわたりけむ
 
玉桙之《タマボコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 葦引乃《アシビキノ》 野行山行《ヌユキヤマユキ》 潦《ミナギラフ》 川往渉《カハユキワタリ》 鯨名取《イサナトリ》 海路丹出而《ウミヂニイデテ》 吹風裳《フクカゼモ》 母穗丹者不吹《オホニハフカズ》 立浪裳《タツナミモ》 箆跡丹者不起《ノドニハタタズ》 恐耶《カシコキヤ》 神之渡乃《カミノワタリノ》 敷浪乃《シキナミノ》 寄濱邊丹《ヨスルハマベニ》 高山矣《タカヤマヲ》 部立丹置而《ヘダテニオキテ》 ※[サンズイ+内]潭矣《ウラブチヲ》 枕丹卷而《マクラニマキテ》 占裳無《ウラモナク》 偃爲公者《コヤセルキミハ》 母父之《オモチチノ》 愛子丹裳在將《マナゴニモアラム》 稚草之《ワカクサノ》 妻裳將有等《ツマモアラムト》 家問跡《イヘトヘド》 家道裳不云《イヘヂモイハズ》 名矣問跡《ナヲトヘド》 名谷裳不告《ナダニモノラズ》 誰之言矣《タガコトヲ》 勞鴨《イトホシミカモ》 腫浪能《タカナミノ》 恐海矣《カシコキウミヲ》 直渉異將《タダワタリケム》
 
○前の長歌と酷似してゐるから、口語譯を省いて、語釋のみを添へることにする。○潦《ミナギラフ》――舊訓は原歌を直海川《ヒタス ハ》と訓んだのに傚つて、この字を同樣に訓んでゐるが、意が通じない。考に水激の誤としたのに從つて、ミナギラフと訓むことにする。○母穗丹者不吹《オホニハフカズ》――舊訓に母は於の誤としてオホニハフカズとある。元暦校本に母穗を箆跡に作つてゐるに從へば、ノドニハフカズである。○※[サンズイ+内]潭矣《ウラブチヲ》――舊訓イルフチヲ、童蒙抄イリフチヲとあるのもよイであらうが、※[サンズイ+内]は集中、浦に用ゐてある。潭は淵である。○偃爲公者《コヤセルキミハ》――コヤスは臥す。○腫(325)浪能《タカナミノ》――舊訓ユフナミノを、代匠記初稿本には腫は身體のふくれはれる意の字であるから、タカとよんでよからうと言つてゐる。鍾と同音だから鍾禮《シグレ》と書く類で、シキナミであらうとする宣長論は從ひ難い。
〔評〕 この或本の歌と前の長歌二首との關係は、今から明らかには斷じ難い。眞淵は前の二首が亂れて、一首となつたとしてゐるが、反對にこれを基として、前の二首が出來たとも考へ得るのである。全躰が整然としてゐるので見ると、後の考へ方が正しいのではあるまいか。
 
反歌
 
3340 おも父も 妻も子どもも 高高に 來むと待つらむ 人の悲しさ
 
母父裳《オモチチモ》 妻裳子等裳《ツマモコドモモ》 高高丹《タカダカニ》 來將跡待《コムトマツラム》 人乃悲《ヒトノカナシサ》
 
この歌は前の三三三七と全く同歌であるから解は省くことにする。但し第四句、來將跡《コムト》は變な書き方である。將の字、古葉略類聚鈔・西本願寺本などに無いのを正しとすべきか。或は古義のやうに來跡將待《コムトマツラム》に轉置すべきであらう。
 
3341 家人の 待つらむものを つれもなき 荒磯をまきて ふせる君かも
 
家人乃《イヘヒトノ》 將待物矣《マツラムモノヲ》 津煎裳無《ツレモナキ》 荒磯矣卷而《アリソヲマキテ》 偃有公鴨《フセルキミカモ》
 
家ノ人ガ貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテヰルダラウノニ、コンナ〔三字傍線〕縁故モナイ、淋シイ磯ヲ枕シテ、死ンデ〔三字傍線〕横タハツテヰル貴方ヨ。嗚呼可愛サウダ〔七字傍線〕。
 
○津煎裳無《ツレモナキ》――煎は烈《レ》の誤であらう。舊訓、文字通りにツニモナキとあるが意が通じない。ツレモナキは關係もない縁故もない。
〔評〕 この歌は卷二の柿本人麿の奧波來依荒礒乎色妙乃枕等卷而奈世流君香聞《オキツナミキヨルアリソヲシキタヘノマクラトマキテナセルキミカモ》(二二二)と似てゐるが、作の前後は(326)今から判斷し難い。
 
3342 うらふちに こやせる君を 今日今日と 來むとまつらむ 妻し悲しも
 
?潭《ウラフチニ》 偃爲公矣《コヤセルキミヲ》 今日今日跡《ケフケフト》 將來跡將待《コムトマツラム》 妻之可奈思母《ツマシカナシモ》
 
コノ〔二字傍線〕浦ノ淵ニ死ンデ〔三字傍線〕横ハツテヰルコノ人ヲ、家ノ妻ハ知ラナイデ〔九字傍線〕、今日カ今日カト歸リヲ待ツテヰルデアラウガ、ソノ〔三字傍線〕妻ハ可愛サウナモノダヨ。
 
〔評〕 卷二に人麿が死んだ時、妻の依羅娘子の作つた歌に、旦今日且今日吾待君者石水貝爾交而有登不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》(二二四)とあるのは、多少の類似點がないではない。卷五には山上憶良作の出弖由伎斯日乎可俗閉都都家布家布等阿袁麻多周良武知知波波浪良波母《イデテユキシヒヲカゾヘツツケフケフトアヲマタスラムチチハハラハモ》(八九〇)とある。その結句、一云、波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》とあるによれば、更に似てゐる。
 
3343 うら浪の 來寄する濱に つれもなく ふしたる君が 家道知らずも
 
?浪《ウラナミノ》 來依濱丹《キヨスルハマニ》 津煎裳無《ツレモナク》 偃有公賀《フシタルキミガ》 家道不知裳《イヘヂシラズモ》
 
浦ノ浪ガ打チ寄セテ來ル濱ニ、何ノ〔傍線〕縁故モナクテ、一人サビシク死屍トナツテ〔一人〜傍線〕横ハツテヰルコノ人ノ家ハ何處デアラウゾ。家サヘ分レバ知ラセルノニ、可愛サウナコトダ〔家サ〜傍線〕。
 
○津煎裳無《ツレモナキ》――前と同じく、煎は烈の誤とする外はない。○偃有公賀《フシタルキミガ》――偃有の二字は略解にコヤセルとよんでゐるが、元暦校本その他、多くの古本、有を爲に作るによれば、フシタルがよいやうである。
〔評〕 家人に告げむ爲に家路が知りたいの意を含めてある。この反歌四首はいづれも末句に詠歎的の辭を用ゐて感情をあらはしてゐる。
 
右九首
 
3344 この月は 君來たらむと 大舟の 思ひたのみて いつしかと 吾が待ちをれば 黄葉ばの 過ぎて行きぬと 玉梓の 使の云へば 螢なす ほのかに聞きて 大地を 炎と蹈み 立ちてゐて 行方も知らに 朝霧の 思ひまどひて 杖足らず 八尺の嘆 嘆けども しるしを無みと 何所にか 君がまさむと 天雲の 行きのまにまに 射ゆししの 行きも死なむと 思へども 道し知らねば 獨ゐて 君に戀ふるに ねのみし泣かゆ
 
(327)此月者《コノツキハ》 君將來跡《キミキタラムト》 大舟之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》 何時可登《イツシカト》 吾待居者《ワガマチヲレバ》 黄葉之《モミヂバノ》 過行跡《スギテユキヌト》 玉梓之《タマヅサノ》 使之云者《ツカヒノイヘバ》 螢成《ホタルナス》 髣髴聞而《ホノカニキキテ》 大士乎《オホツチヲ》 太穗跡《ホノホトフミ》 立而居而《タチテヰテ》 去方毛不知《ユクヘモシラニ》 朝霧乃《アサギリノ》 思惑而《オモヒマドヒテ》 杖不足《ツヱタラズ》 八尺乃嘆《ヤサカノナゲキ》 嘆友《ナゲケドモ》 記乎無見跡《シルシヲナミト》 何所鹿《イヅクニカ》 君之將座跡《キミガマサムト》 天雲乃《アマグモノ》 行之隨爾《ユキノマニマニ》 所射完乃《イユシシノ》 行文將死跡《ユキモシナムト》 思友《オモヘドモ》 道之不知者《ミチシシラネバ》 獨居而《ヒトリヰテ》 君爾戀爾《キミニコフルニ》 哭耳思所泣《ネノミシナカユ》
 
コノ月ハ貴方ガ歸ツテ〔三字傍線〕オイデニナルダラウト(大舟之)思ツテアテニシテ何時カ何時カト私ガ待ツテヰルト、(黄葉之)死ンデシマハレタト(玉梓之)使ノモノガ來テ〔二字傍線〕言フノデ、ソノ言葉ヲ〔五字傍線〕(螢成)ホノカニ聞イテ、大地ヲ炎ノヤウニ蹈ミツケテ、立ツテモ居テモ、行ク先ノコトモ分ラズ途方ニクレテ〔六字傍線〕(朝霧乃)心モ惑ツテ(杖不足)長大息ヲシテ、嘆クケレドモ、何ノ〔二字傍線〕効モナイカラ、何所ニアナタハ死ンデ〔三字傍線〕行カレタデアラウト、天ノ雲ノ動クママニ足ノ〔五字傍線〕行クノニ從ツテ(所射完乃〕歩イテ死ナウカト思フケレドモ、貴方ノヰル所ヘ行ク〔九字傍線〕道ヲ知ラナイカラ、一人デ居ツテ貴方ヲ戀シク思ツテヰルト、唯聲ヲ出シテ泣クバカリデアル。
 
○黄葉之《モミヂバノ》――枕詞。過《スギ》とつづく。○過行跡《スギテユキヌト》――死んで行つたとの意。○玉梓之《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。二〇七參照。○螢成《ホタルナス》――枕詞。螢火の如く幽かなる意で、髣髴《ホノカ》につづく。○大士乎太穗跡《オホツチヲホノホトフミ》――この二句、舊訓マスラヲヲハタトトノフトとあり、これに對して、誤字とする説多く、考は士は土の誤。大穗跡は足踏駈の誤として、オホツチヲアシフミカケリとし、古義の谷眞潮説は天土乎乞祷呼《アメツチヲコヒノミヨバヒ》の誤とあり、雅澄は呼は歎の草書から誤つたので、コヒノミナゲキであらうといつてゐる。併し太を火とする元麿枠校に從へば、士を土に改めれば、オホツチヲホノホトフミと訓むことが出來る。新訓はさうなつてゐるから、それを採用することにしよう。但(328)しかう訓んでは、あまり語氣が強烈で、ここに適しない感がないではない。なほ研究を要する。○朝霧乃《アサギリノ》――枕詞。惑《マドフ》につづく。○杖不足《ツヱタラズ》――枕詞。杖は丈で八尺は一丈に足らぬから、かくつづけるのである。○八尺乃嘆《ヤサカノナゲキ》――長い嘆息。前に吾嗟八尺之嗟《ワガナゲクヤサカノナゲキ》(三二七六)とあつた。○記乎無見跡《シルシヲナミト》――記《シルシ》は驗《シルシ》。甲斐。○天雲乃《アマクモノ》――枕詞と見る説もある。○所射完乃《イユシシノ》――枕詞。射られた鹿が、遁げ行くうちに疲れて死ぬ意でつづけてある。新考には次の句の將死を將爲の借字としてゐる。
〔評〕 旅に出た夫が死亡した通知を受け取つた妻の嘆の歌である。黄葉之過行跡玉梓之使之云者《モミヂバノスギテユキヌトタマヅサノツカヒノイヘバ》の四句は、卷二の、人麿が妻の死んだ後で作つた長歌(二〇七)の句と一致し、枕詞を多く連ねてゐるのも、中期以前の歌風なるを思はしめる。無名婦人の作つた長歌としては、注目に價する。
 
反歌
 
3345 葦邊ゆく 鴈の翅を 見るごとに 君がおばしし なぐ箭し思ほゆ
 
葦邊徃《アシベユク》 鴈之翅乎《カリノツバサヲ》 見別《ミルゴトニ》 公之佩具之《キミガオバシシ》 投箭之所思《ナグヤシオモホユ》
 
葦ノ生エテヰルアタリヲ、飛ンデ行ク鴈ノ翼ヲ見ル度毎ニ、旅ニ出テ死ナレタ夫モ、アンナ羽ノ矢ヲ身ニツケテ居ラレタヨト〔旅ニ〜傍線〕、夫ノ背ニ負ウテ〔五字傍線〕帶ビテ居ラレタ矢ノコトガ思ヒ出サレルヨ。
 
○葦邊徃《アシベユク》――葦の生えてゐるあたりを飛んで行く。○公之佩具之《キミガオバシシ》――君が身につけてゐられた。具は思の誤。○投箭之所思《ナグヤシオモホユ》――投箭は弓の箭であらう。投左乃《ナグルサノ》(三三三〇)參照。
〔評〕 飛んでゐる鴈の翅を見て、死んだ夫の帶びてゐた箭を思ひ出して、なつかしがるとは、實に珍らしい聯想である。左註に防人の妻の作とあるのは、直ちに信ずべきや否やを知らないが、ともかくもののふの妻の作らしい。この歌と卷一のアシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》(六四)と、初句と結句とが同型になつてゐるのは偶然か。
 
(329)右二首 但或(ハ)云(フ)此(ノ)短歌者防人(ノ)妻所v作(リシ)也(ト)然(ラバ)則(チ)應(ニ)v知(ル)2長歌(モ)亦此同(ジク)作(リシヲ)1焉
 
3346 見が欲れば 雲井に見ゆる うつくしき 十羽の松原 少子ども いざわ出で見む ことさけば 國に放けなむ ことさけば 家に放けなむ あめつちの 神しうらめし 草枕 この旅のけに 妻避くべしや
 
欲見者《ミガホレバ》 雲井所見《クモヰニミユル》 愛《ウツクシキ》 十羽能松原《トバノマツバラ》 少子等《ワクゴドモ》 率和出將見《イザワイデミム》 琴酒者《コトサケバ》 國丹放甞《クニニサケナム》 別避者《コトサケバ》 宅仁離南《イヘニサケナム》 乾坤之《アメツチノ》 神志恨之《カミシウラメシ》 草枕《クサマクラ》 此羈之氣爾《コノタビノケニ》 妻應離哉《ツマサクベシヤ》
 
眺メヤウトスルト、空ノアナタ〔四字傍線〕ニ遠ク〔二字傍線〕見エルナツカシイ十羽ノ松原ヲ、小供等ヨ、サア出テ見ヨウ。ドウセ同ジコト妻ト〔二字傍線〕死別ヲシヨウトナラバ、國ニ居ル時〔四字傍線〕ニ死別シタイモノダ。ドウセ同ジコト妻ト〔二字傍線〕死別ヲシヨウト云フナラバ、家ニ居ル時ニ〔四字傍線〕死別ヲシタイモノダ。ホントニ〔四字傍線〕天ノ神モ地ノ神モ、恨メシイモノダ。カウシテ(草枕)旅ニ出テ居ル時ニ、妻ヲ死別サセルト云フコトガアルモノデスカ。嗚呼何トシタラヨイデアラウゾ〔嗚呼〜傍線〕。
 
○欲見者《ミガホレバ》――見ようと思へば。宣長は欲は放の誤でミサクレバとあるべきだといつてゐる。○雲井所見《クモヰニミユル》――雲井は空。略解。古義に雲のこととしてゐる。○愛《ウツクシキ》――愛らしき。ハシキヤシの訓はよくない。○十羽能松原《トバノマツバラ》――十羽の松原は何處か不明。この地名は所々にあるが、集中に見えた卷四の白鳥能飛羽山松之《シラトリノトバヤママツノ》(五八八)の鳥羽山《トバヤマ》は大和らしく、卷九の新治乃鳥羽能淡海毛《ニヒバリノトバノアフミモ》(一七五七)の鳥羽能淡海《トバノアフミ》は常陸である。○率和出將見《イザワイデミム》――イザワは誘ひうながす辭で、イザヤに同じ。神武天皇紀に、「烏到2其營1而鳴之曰、天神(ノ)子召v汝(ヲ)、怡弉過怡弉過《イザワイザワ》」とある。○琴酒者《コトサケバ》――どうせ同じ事別れるならば。琴酒は借字である。○國丹放甞《クニニサケナム》――故郷で別れたいものだ。○乾坤之《アメツチノ》――天地の代りに乾坤の二字を用ゐてある。○此羈之氣爾《コノタビノケニ》――此の旅の日に。
〔評〕 地方官の任などにあつて、妻を失つた人の歌であらう。十羽の松原は、妻を葬つたところか。いとしい妻の忘形見の子供を呼びかけて、遙かに十羽の松原を眺め、この旅中にあつて、配偶者と別れた哀傷を歌つて、神を(330)恨んでゐる。悲切惶惑の状、全面に溢れて、人に迫るの慨がある。傑作だ。考に妻《ツマ》を夫の借字としてゐるが、文字通りに見るのが穩やかのやうである。
 
反歌
 
3347 草枕 この旅のけに 妻さかり 家道思ふに 生ける術なし 或本歌曰 旅の日にして
 
草枕《クサマクラ》 此羈之氣爾《コノタビノケニ》 妻放《ツマサカリ》 家道思《イヘヂオモフニ》 生爲便無《イケルスベナシ》
 
カウシテ(草枕)旅ニ出テ居ル先デ、妻ガ死ンデ、コレカラ〔四字傍線〕故郷ヘノ道中ヲ考ヘルト、悲シクテ〔四字傍線〕生キテヰル方法ガナイ。
 
○家道思イヘヂオモフニ》――舊訓イヘヂオモヘバとあるが、古義の訓がよい。この家道は家へ行く道。即ち故郷への歸路である。故郷と見るのは當らない。○生爲便無《イケルスベナシ》――古義にイカムスベナシと訓んだのは窮窟である。上に生流爲便無《イケルスベナシ》(三二九七)とある。
〔評〕 十羽の松原を鳥羽の淡海と同所とすれば、常陸から家に歸らむとして、詠んだもので、妻を亡つた官人が多くの兒らを伴つて、任國を去らうとしてゐる時の、悲傷の念と途中のたよりなさとが、實によく詠まれてゐる。あはれな作だ。
 
或本歌曰 羈乃氣二爲而《タビノケニシテ》
 
これは二の句の異本である。どちらでも大差はない。
 
右二首
 
萬葉集卷第十三
          〔2009年5月23日(土)午後6時12分、巻十三入力終了〕
 
 
卷第十四
 
(331) 萬葉集卷第十四解説
 
この卷は東歌を輯録したもので、萬葉集中特殊の色彩を有してゐる。卷頭に東歌と標記し、全躰を國の分明せる歌と未勘國の歌との二部に別ち、前者は更に雜歌・相聞・譬喩歌に分類し、遠江・駿河・伊豆・相模・武藏・上總・下總・常陸・信濃・上野・下野・陸奧等十二國の歌九十首を集めてゐる。東歌と記した次に、雜歌とあるべきが脱落してゐるやうである。後者は雜歌・相聞・防人歌。譬喩歌・挽歌に分類し、その數併せて百四十首である。以上累計二百三十首、歌躰はすべて短歌の形式になつてゐる。作者の名は一も記してない。東歌の意義については東國の歌枕を詠んだ歌・東國防人の作つた歌・東國方言を用ゐた歌・東國人の作つた歌など種々の説が行はれてゐる。併し予の見解では、東歌は東國に行はれた歌といふ意で、東語を用ゐた歌は勿論、上品な京語を以て綴つた作も、いづれも東國に行はれてゐた歌である。大和・伊勢・越などの地名が詠まれたものも、東國に於て傳誦せられてゐたから、これらを一括して東歌と題したものであらう。國名の明らかなものは、遠江以東の十二國に國分してあるが、未勘國の歌も亦同一範圍内に行はれたものを集めたのである。卷二十の防人歌が同じく遠江以東の十國(甲斐・伊豆・陸奧を缺く)であるのが、それを證明してゐる。遠江以東の國々は當時に於ける邊陬の特殊地域とせれらた爲に、其處に行はれた歌がかく別卷に輯められたものである。「常陸なる奈佐可の海」「信濃なる千曲の川」などは、その地方人又は地方に來り住んでゐる人の言葉ではないと言ふ説は尤もであるが、それかと言つて、これを東國外の作とは言ひ難い。(332)同じ東國内にあつて、他から常陸・信濃などの名所をよんだと見ることも出來る。前半の國名の明らかな歌は、國名を冠したものと、誰でも知つてゐるやうな東國の地名を詠んだ歌とを、適宜その所屬の國々に分けたもので、もとより都にゐてやつた机上の分類に過ぎない。だから同じ安蘇の地が一方では上野歌に列し、他方では下野歌に出てをり、下總の海上潟らしい歌を、上總國歌にしてゐるやうなことが起つてゐる。次にこの歌の蒐集者を高橋蟲麿とする學者もあるが、蟲麿らしい根據はなく、彼の任地であつた常陸方面よりも、他の地方に關する歌の多いことを考へなければなるまい。或は防人部領使などに依頼して、大伴家持などが蒐集して置いたものではあるまいかと考へられる。卷二十に昔年防人の歌八首が、主典刑部少録正七位磐余伊美吉諸君によつて抄寫せられて、大伴家持に贈られてゐるなども參考とすべきであらう。又この卷の時代について、眞淵はこれを卷十一・卷十二の古き宮ぶりに對して、古き國ぶりを集めたものとして、第六位に置いてゐるが、山田孝雄氏は相聞往來の國分の順序が、武藏を東海道に入れ相模の次に列してあるので、この卷の編纂は光仁天皇の寶龜二年十月以後であらぬばならぬといふ説を學界に提供せられ、異常の衝動を與へた。この卷は原本を今の如き一字一音式に書き改めたものだといふ説があり、それが成立てば、今本の排列は故事の際に直したものともいへるので、山田氏説も權威を失ふことになる。併し改書説の理由とするところが薄弱であるから、この間題は今後の慎重な考覈に俟たねばならぬ。用字法は大躰字音を用ゐた假名書式であるが、稀に訓を用ゐたのは、多くは正訓になつてゐる。
 
(333)萬葉葉卷弟十四
 
東歌
 
上總國雜歌一首
下總國雜散一首
常陸國雜歌二首
信濃國雜歌一首
遠江國相聞往來歌二首
駿河國相聞往來歌五首
伊豆國相聞往來歌一首
相模國相聞往來歌十二首
武藏國相聞往來歌九首
上總國相聞往來歌二首
下總國相聞往來歌四首
(334)常陸國相聞往來歌十首
信濃國相聞往來歌四首
上野國相聞往來歌二十二首
下野國相聞往來歌二首
陸奥國相聞往來歌三首
遠江國譬喩歌一首
駿河國譬喩歌一首
相模國譬喩歌三首
上野國譬喩歌三首
陸奥國譬喩歌一首
未勘國雜歌十七首
未勘國相聞往來歌百十二首
未勘國防人歌五首
未勘國譬喩歌五首
未勘國挽歌一首
 
(335)東歌
 
ここに雜歌とあつたのが脱ちたものとして、古義には補つてゐる。考には次の相聞・譬喩以下の分類は後人の仕業として、認めて居ない。脱落説に從ふべきもののやうに思はれる。
 
3348 なつそひく 海上潟の 沖つ渚に 船はとどめむ さ夜更けにけり
 
奈都素妣久《ナツソヒク》 宇奈加美我多能《ウナカミガタノ》 於伎都渚爾《オキツスニ》 布禰波等杼米牟《フネハトドメム》 佐欲布氣爾家里《サヨフケニケリ》
 
モウ夜ガ更ケタヨ。ダカラ此〔四字傍線〕(奈都素妣久)海上潟ノ沖ノ洲ニ、船ヲ止メテ、今夜ハ碇泊シ〔七字傍線〕ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○奈都素妣久《ナツソヒク》――枕詞。卷七の夏麻引海上滷乃《ナツソヒクウナカミガタノ》(一一七六)參照。○于奈加美我多能《ウナカミガタノ》――ウナカミガタは海上滷。海上は上總と下總との二國にあり、これを上總とすれば、東京湾内の市原郡の海岸であり、下總とすれば、海上郡の流海の沿岸である。さうして卷九に海上之其津於指而《ウナカミノソノツヲサシテ》(一七八〇)とあるのが、下總の海上《ウナカミ》なるを思へば、これも亦下總と推斷し得るのである。然るにここに上總國歌の部に入れてあるのは、どう考へてよいか。これは海上の地が、上總として都人によつて知られてゐたからのことで、東歌の國別は現地で行はれたものでなく、都人の机上の仕事であつたことを語るものである。なほこの地名については 卷七の一一七六を參照せよ。
〔評〕 卷七の夏麻引海上滷乃奥津洲爾鳥者簀竹跡君者音文不爲《ナツソヒクウナカミガタノオキツスニトリハスダケドキミハオトモセズ》(一一七六)と比べて見ると、上句が全く一致し、唯彼が相聞(雜歌に入れてあるが)なるに、これが羈旅歌なるの相異があるのみである。その格調も全く相同じで、これを卷七に收めることも出來るし、卷七のものを此處に入れても、差支ないわけである。それだけこの歌は東歌らしい特色がない。これに就いて略解は「こゝに載たる五首の中、初二首と末一首は東ぶりならず。既に(336)久しく仕奉りて、歸りをる人の、東にての歌故に是に入たるか。或ひは、京人の東の國の司などにて下りたるが、詠めるを、それも其國に傳はりたるは、其國の歌とて有なるべし。古今集の東歌にも、此類あり」といひこれに對して、古義は「略解にこゝに載たる五首の中、初二首と末一首は、東風ならず、京人の東國の司などにて下りたるがよめるなるべしと云るは、甚偏なる論なり。いかにとなれば、凡て古に、東人の歌よみけむことは、たとへば今の世に、琉球人などの、歌よむごとくにぞ有けむ。そは琉球人の、皇朝學に未熟《イマダシキ》が、彼の國の語にてよみとゝのへたるは、むげにつたなくて、聞えがたきふしいと多かるを、そが中に、皇朝の學にやゝ長たるがよめるは、皇朝人の歌に、をさ/\おとらぬも多きが如し、されば古の東人も、雅言をよく學び得たる人は、猶京人の作にも、立おくれざりしなり、かゝればこゝの初二首末一首のみならず凡て東歌の中に、京人のと異なることなきが多かるは、さる故にこそありけれ。(中略)かく正しく生《ハエ》ぬけの京人にをさ/\おとらざるうたよみの有しにて、凡て京にも、勝たる劣たるありて、必ず東語ならすとて、東歌にあらずと思ふはいと/\かたくななりけり。猶たとへて云ば、後の世に古風の歌よむもしかり。なべて世の古風を學ぶ人の作を見るに、多くは後の世語のまじりなど、いとつたなきを、又それが中に、古を熟學び得たる人の、多くよみたる中には、又まれまれ此の萬葉などにも入べきほどの歌もあるが如し」と論じてゐる。古義の論は實に堂々たるものであるが、幕末頃の琉球人の作歌や擬古的の和歌と、この東歌とを一緒にするのは、無理であらうと思はれる。卷二十の防人歌を見ると、指導者があつて作り、又それを選擇し、或は添削したのではないかとの想像もせられるが、それでも、彼等がその方言を用ゐて、三十一文字の形式にあてて作ることは、さしたる難事ではなかつたので、さういふことが、東國地方でかなり行はれてゐたらうと思はれる。又方言を以て詠まれた短歌形式の俚謠がかなり行はれてゐたであらう。さればかくの如き都風の作品は東人の作品と見るべきではなく、都人の東國にての作とすべきであらう。古義よりも、略解の論ずるところが當つてゐるのではないかと思はれる、この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首上總國歌
 
3349 葛飾の 眞間の浦みを こぐ船の 船人騷ぐ 浪立つらしも
(337)可豆思加乃麻萬能宇良末乎許具布禰能布奈妣等佐和久奈美多都良思母《カツシカノママノウラミヲコグフネノフナビトサワグナミタツラシモ》
 
葛飾ノ眞間ノ浦ノ岸ヲ漕ゲ舟ノ、船頭ガ騷イデヰル。アノ樣子デハ〔六字傍線〕、浪ガ荒ク〔二字傍線〕立ツテヰルラシイヨ。
 
○可豆思加乃麻萬能宇良末乎《カツシカノママノウラミヲ》――葛飾の眞間の浦囘を。舊本、宇艮末《ウラマ》とあるは宇艮未《ウラミ》の誤であらう。
〔評〕卷七に、風早之三穂乃浦廻乎榜舟之船人動浪立良下《カザハヤノミホノウラミヲコグフネノフナビトサワグナミタツラシモ》(一二二八)とあるのと同形の歌である。これも葛飾の眞間といふ下總の地名があるのみで、東歌らしい風姿がない。明朗な、よい作だ。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首下總國歌
 
3350 筑波嶺の 新桑繭の きぬはあれど 君がみけしし あやに著欲しも  或本歌云、たらちねの  又云、數多著欲しも
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 爾比具波麻欲能《ニヒグハマヨノ》 伎奴波安禮杼《キヌハアレド》 伎美我美家思志《キミガミケシシ》 安夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》
 
筑波山デトレル新ラシイ桑繭デ織ツタ着物ハアルケレドモ、ソレハ着タクモナイ〔九字傍線〕、貴方ノ御召物ガ、不思議ニモ着タイヨ。
 
○筑波禰乃《ツクバネノ》――筑波嶺の。筑波山に生ずる。○爾比具波麻欲能《ニヒグハマヨノ》――新桑繭の。桑繭《クハマヨ》とは野蠶《クハゴ》の異名で、和名抄に、「桑繭。唐韻云、〓【久波萬由】桑上繭【即桑蠶也】」とあり、桑樹に野生する蠶である。その形、家蠶に同じく、暗褐色で尾角が黄褐色を呈してゐる。恐らくこれが家蠶の原種であらうと言はれてゐる。繭は七八月頃作り、灰褐色又は黄帶色である。これから粗惡な絹糸を得る。從來この句を春蠶とする説と、桑の春の若葉を以て飼つた蠶とする説との、二に分れてゐるやうであるが、家蠶としては初句の筑波禰乃《ツクバネノ》が理解されないから、筑波山に野(338)生する桑蠶と解すべきである。なほ卷十二に桑子爾毛成益物乎《クハコニモナラマシモノヲ》(三〇八六)とある桑子は、家蠶のことで、ここの桑繭又、野蠶《クハゴ》とは異なつてゐるから、混同してはいけない。○伎奴波安禮杼《キヌハアレド》――伎奴《キヌ》は絹と解する學者もあるが、下の美家思《ミケシ》と並べてあるから、衣の意であらう。卷七の買師絹之商自許里鴨《カヘリシキヌノアキジコリカモ》(一二六四)は文字通り絹らしいが、他は衣と解すべきもののやうである。○伎美我美家思志《キミガミケシシ》――美家志《ミケシシ》は御衣。ミは接頭語で敬語 ケは着《キ》の古語。シは敬語の動詞スの名詞形。○安夜爾伎保思母《アヤニキホシモ》――アヤニは奇しく不思議なほどにの意。
〔評〕 東少女の歌で、自分には筑波山の新桑繭で作つたよい着物があるが、戀しい人の着物を身に着けてゐたいといふのである。略解に「宣長云、之は京より下り居る官人などの衣服の美きを見て詠めるなるべし。上句のさましか聞ゆと云り。これも然るべし」とあるが、この歌には女が男に對する戀慕の情が溢れてゐるのが、看取せられる。ことに末句の安夜爾《アヤニ》の一語にそれがあらはれてゐる。京人の衣服の美を愛でたとするのは、これを雜歌とするのに拘泥した説である。古昔は男女衣を取りかはしたことは、卷一の旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾《タビニシテコロモカスベキイモモアラナクニ》(七五)・卷十二の吾味兒爾衣借香之宜寸河《ワギモコニコロモカスガノヨシキカハ》(三〇一一)などの如くその例が多い。私は自慢の着物があるのだが、それも着たくない。唯無暗に着たいのは貴方の着物だと、男に戀しさを打あける田舍少女の言葉に、あはれさと魅力とが籠つてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
或本歌曰 多良知禰能《タラチネノ》 又云 安麻多伎保思母《アマタキホシモ》
 
これは初句と五句との異本である。多良知禰能《タラチネノ》は母の枕詞であるが、ここは母の意に用ゐたものとしなければならぬ。もしこの句の如くならば、恐らく常陸國歌の中には入れられなかつたであらう。末句は安麻多《アマタ》よりも、原歌の如く、安夜爾《アヤニ》の方がよい。この又云の句を第六句とすれば佛足跡歌の形式になる。下の三三五九についても同樣なことが言へる。
 
3351 筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも かなしき兒ろが にぬ乾さるかも
 
(339)筑波禰爾《ツクバネニ》 由伎可母布良留《ユキカモフラル》 伊奈乎可母《イナヲカモ》 加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》 爾努保佐流可母《ニヌホサルカモ》
 
筑波山ニハ雪ガ降ツテ屈ルノダラウカ。イヤサウデハナイノダラウカ。私ノ〔二字傍線〕愛スル戀シイ女ガ、布ヲ干シテヰルノダラウカナア。
 
○由伎可母布良留《ユキカモフラル》――雪かも降れるの東語。○伊奈乎可母《イナヲカモ》――否をかも。ヲは嘆辭のみ、卷十一に否乎鴨《イナヲカモ》(二五三九)とあるに同じ。古義に「香歟諾歟《イナカヲカ》と云が如し」とあるのは、その意を得ない。○加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》――加奈思吉《カナシキ》は愛する。いとしいなどの意。兒呂《コロ》は子らに同じ。東語にロといふ接尾語が多く用ゐられてみる。○爾努保佐流可母《ニヌホサルカモ》――爾努《ニヌ》は布。この下に、爾努具母能《ニヌグモノ》(三七一三)とあるは布雲である。類聚古集に、爾を企に作るに從へば、衣《キヌ》である。保佐流可母《ホサルカモ》は乾せるかもの東語。
〔評〕 筑波山頂に降つた雪を見て、愛する女が織りあげた布を乾したのではないかと、ふと思つたのである。筑波山麓に住む若い衆の謠つた歌であらう。織布にいそしんでゐた常陸少女の樣も偲ばれるし、又夢寐にもその少女を忘れ得ぬ男の氣分も出てゐる。卷一の衣乾有天之香來山《コロモホシタリアメノカグヤマ》(二八)の御製と共に、上代曝布の風俗を證する作である。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
右二首常陸國歌
 
3352 信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く聲きけば 時すぎにけり
 
信濃奈流《シナヌナル》 須我能安良能爾《スガノアラノニ》 保登等藝須《ホトトギス》 奈久許惠伎氣婆《ナクコヱキケバ》 登伎須凝爾家里《トキスギニケリ》
 
(340) 信濃ノ國ノ菅野ト云フ淋シイ野デ、郭公ノ鳴ク聲ガ聞エルガ、モハヤ都ヘ歸ルベキ春ノ〔モハ〜傍線〕時期モ過ギテ、夏ニナツタヨ〔七字傍線〕。
 
○須我能安良能爾《スガノアラノニ》――須我能安良能《スガノアラノ》は和名抄に信濃筑摩郡|苧賀《ソガ》郷【曾加】とあるあたりで大日本地名辭書には「今、波多村・新村・和田村・山形村より今井・神麻・笹賀までわたるごとし。梓川と楢井川との間なる曠野とす。古昔此を須我の荒野とも云ふ。」と記してある。併しこれはソガとスガと音が似てゐるところから、略解に此處と推定したのによつたもので、この他、行嚢抄には「河中島にて菅平といふ山を望み、是荒野なりと」とあり、又信濃地名考に伊那郡下條に菅野と云ふ地名あるところとする説を記してゐるが、いづれも確たる根據が無い。安良能《アラノ》は荒野の意であらうが、野はヌといふべきであるのに、ここに野をノと言つたのはどうかと思はれる。野をノの假名に用ゐて、多流比賣野宇良乎《タルヒメノウラヲ》(四〇四七)奈良野和藝敝乎《ナラノワギヘヲ》(四〇四八)安利蘇野米具利《アリソノメグリ》(四〇四九)・伊都波多野佐加爾《イツハタノサカニ》(四〇五六)須久奈比古奈野《スクナヒコナノ》(四一〇六)の如きがあり、野を能と記した夏能能之《ナツノノノ》(四一一三)波奈能爾波《ハナノニハ》(四四五三)などの例が、いづれも特異のものである。これも特例の一に數ふべきであらうか。○登伎須疑爾家里《トキスギニケリ》――考には「旅に在てとく歸らんことを思ふに、ほととぎすの鳴まで猶在をうれへたる歌」とし、古義は、「春の末かぎりに逢むと人に約り置しを得逢はずして、夏來りて霍公鳥の音に驚きて彼が鳴を聞ば、契りし時はや過にけりと云ふなり」とし、新考は「夫の歸り來べき時なるべし」と言つてゐる。この作者を地方人とするか、京人とするか、雜歌とするか、相聞歌とするか、男とするか、女とするかなどによつて、時の解が變つて來るわけである。京人の歌として、歸るべき時期の遲れたのに驚いたものとしよう。
〔評〕 右に述べたやうに、種々に見解が分れる歌である、併しこの歌調が雅麗で、毫も東歌らしい香がないこと、地方人が自ら信濃なるすがの荒野といふ筈のないこと(信濃なるは他郷人にして初めて言ふべきである)などから、これを右のやうに解した。ともかく信濃の地名を詠込んだといふまでで、全く東歌らしくないものである。賀茂眞淵の名歌「信濃なるすがの荒野を飛ぶ鷲のつばさもたわに吹く嵐かな」はこの歌によつて作つたものである。
 
(341)右一首信濃國歌
 
相聞
 
この分類は後人の業だと考には見えてゐる。
 
3353 あらたまの きへの林に なを立てて 行きかつましじ 寐を先立たね
 
阿良多麻能《アラタマノ》 伎倍乃波也之爾《キヘノハヤシニ》 奈乎多?天《ナヲタテテ》 由吉可都麻思自《ユキガツマシジ》 移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》
 
オマヘハワタシガ來ルダラウト思ツテ〔オマ〜傍線〕、麁玉ノ柵戸ノ林ニ立ツテ待ツテヰルダラウガ〔立ツ〜傍線〕、オマヘヲ其處ニ〔三字傍線〕立タセテオイテモ私ハ都合ガ惡クテ、今夜ハ〔モ私〜傍線〕行クコトハ出來マイ。待タナイデ〔五字傍線〕早ク寢テヰナサイ。
 
○阿良多麻能伎倍乃波也之爾《アラタマノキヘノハヤシニ》――阿良多麻能伎倍《アラタマノキヘ》は卷十一に璞之寸戸我竹垣《アラタマノキヘガタケガキ》(二五三〇)とあつたところで、遠江國麁玉郡の柵戸《キヘ》。蝦夷を防ぐ爲に東國地方に設けられた城塞を守る民家で、その所在地をキヘと稱したのである。伎倍乃波也之《キヘノハヤシ》は柵戸附近の林であらう。○奈乎多?天《ナヲタテテ》――汝を立てて。○由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》――行くに堪へまじの意。マシジはマジの原形であらう。卷二の有勝麻之自《アリガツマシジ》(九四)參照。自を目の誤として、ユキカツマシモと訓んだ考の説は誤つてゐる。○移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》――略解に稻掛大平説として、移乎は移毛の誤とするをあげ、これを穩やかなりとしてゐるが、妹では、上に「汝を」とあるのに對して、穩やかでない。やはり寐《イ》ヲと見るべきであらう。新考には移邪《イザ》に改めたのは、更によくない。尼は舊訓ニとあるが、吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》(一六九四)・柴莫苅曾尼《シバナカリソネ》(一二七四)都久波尼乎《ツクバネヲ》(四三六七)などの如くネと訓むべきである。
(342)〔評〕 宣長は男が旅に出立する時、妻が伎倍の林まで見送つて來たのに、男が別れる時の歌だとしてゐるが、それでは五の句の落付がわるい。考に女が男にいふ歌としたのは四の句を「雪が積ましも」と見たので、もとより見當はづれである。次の歌と並べて考へると、右のやうに解くべきである。純朴な歌。
 
3354 きべ人の 斑衾に 綿さはだ 入りなましもの 妹が小床に
 
伎倍比等乃《キベビトノ》 萬太良夫須麻爾《マダラフスマニ》 和多佐波太《ワタサハダ》 伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》 伊毛我乎杼許爾《イモガヲドコニ》
 
私ハ戀シイ〔五字傍線〕女ノ臥床ニ(伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波太)入リタイモノダヨ。
 
○伎倍比等乃《キベビトノ》――前の歌にある麁玉の柵戸地方の人の。○萬太良夫須麻爾《マダラフスマニ》――斑衾に。斑衾は班に摺つて染めた夜具である。○和多佐波太《ワタサハダ》――和多《ワタ》は綿。サハダは多く。下に安比太欲波佐波太奈利努乎《アヒタヨハサハダナリヌヲ》(三三九五)とあるサハダも同じ。考に太を爾の誤としたのはよくない。ここまでの三句は伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》といはむ爲の序詞。柵戸人の著る斑衾には、綿を多く入れる習俗があつたのである。柵戸人は官から特別の給與があつて、富裕な生活をしてゐたのであらう。○伊利奈麻之母乃《イリナマシモノ》――入らうものを。○伊毛我乎杼許爾《イモガヲドコニ》――乎杼許《ヲドコ》のヲは接頭語のみ。
〔評〕 柵戸附近に住む男の歌。佐波太《サハダ》といふ東語が見えるだけで、全體的には、平易な歌であるが、野趣が溢れてゐて面白い。俚謠らしい氣分である。
 
右二首遠江國歌
 
3355 天の原 富士の柴山 木のくれの 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ
 
安麻乃波良《アマノハラ》 不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》 己能久禮能《コノクレノ》 等伎由都利奈波《トキユツリナバ》 阿波受可母安良牟《アハズカモアラム》
 
(343)(安麻乃波良不自能之婆夜麻)今夜、時ガ遲クナツタナラバ、折角行ツテモ女ニ〔八字傍線〕逢ハナイデアラウカ。
 
○安麻乃波良――天の原。天の原に聳ゆる意であらう。○不自能之婆夜麻《フジノシバヤマ》――富士山は裾野の草原を登れば、やがて森林地帶となる。柴山といふのは、この地帶について言つたのであらう。その上は熔岩と火山灰の堆積である。ここまでの二句は己能久禮《コノクレ》と言はむ爲の序詞である。○己能久禮能《コノクレノ》――木の暗の。木の下の小暗きをいひ、此の暮の意にかけてゐる。○等伎由都利奈波《トキユツリナバ》――ユツリは移《ウツ》りと同語。移ると讓ると同意である。
〔評〕 富士山麓の男の歌であらう。木の暗と此の暮との、かけ詞は巧である。略解に一二句を序詞とせず、富士山麓の柴のこぐらき夜道をたどり行く男が、妹に逢はれないのを心配して、時おくれじと急ぐ意に解いてゐるが、それでは三四の句のつづきがどうかと思はれる。古義に「富士の柴山の繁く生なびきて、木暗き折しも、わが隱妻を率て、立隱るべきなれば、此の時節を過しては、さることも叶ひがたければ、逢ずなりなむか、さてもくちをしやとなり」とあるのも感心しない。富士山麓に行はれた民謠であらう。
 
3356 不盡の嶺の いや遠長き 山路をも 妹がりとへば けによばず來ぬ
 
不盡能禰乃《フジノネノ》 伊夜等保奈我伎《イヤトホナガキ》 夜麻治乎毛《ヤマヂヲモ》 伊母我理登倍婆《イモガリトヘバ》 氣爾餘婆受吉奴《ケニヨバズキヌ》
 
不盡山ノ麓ノ實ニ遠ク長イ山道ヲモ、妻ノ所ヘ通フノダト思ヘバ、一日カカラズニ、早ク到着シタヨ。
 
○氣爾餘婆受吉奴《ケニヨバズキヌ》――代匠記初稿本はケを霧とし、ヨバズを迷はずと解し、「霧にも迷はずして來ぬるとなり」としてゐる。、又別にケは異、ヨバズは不及とし、異義にも及ばず、異なる思案をめぐらすに及ばずして來ぬるの意としてゐる。精撰本には更に食《ケ》の義と解し「食の義ならば、〓蒼を行ものは、兼て糧を舂《ツク》習ひなるを、それまでもなくて來ぬとなり」と述べてゐる。考は「氣《ケ》は息《イキ》なり、爾餘婆受《ニヨバズ》は不2呻吟1なり。山路につかれては、息つきうめく物なるを、妹がもとへ行と思へば、やすく來りつといへり」とある。略解にあげた宣長説は「けは、(344)け長きのけにて、來經《キヘ》也。さればこは時刻を移さず、いそぎて來ぬと云也。よばずは、不v及也」とある。以上のうちで、契沖のケを霧と見たのと、眞淵の息《イキ》と見たのは、相似た點があるが、共にわるい。氣を息とするは字義に釣られたもので、しかもケが字音なるを忘れた説である。ケを異とすることは假名遣奥の山路に從ふとすれば、氣《ケ》と異《ケ》とは、別類の音であるから、これは同一視しない方がよい。食《ケ》と日《ケ》とは氣と同類であるが、食に及ばずと見るのは頗る穩やかでない。すると、日《ケ》に及ばずして來た。即ち一日かからずして到着した意と見るのが、最も穩當であらう。
〔評〕 富士の峯の彌遠長き山路といふのは、富士山麓を辿る遠長い山路をいふのであらう。その山路を妹がりに通つて行く男の、急ぎ足の姿が目に見えるやうだ。これもあの邊の民謡であらうか。
 
3357 霞ゐる 富士の山びに わが來なば いづち向きてか 妹が嘆かむ
 
可須美爲流《カスミヰル》 布時能夜麻備爾《フジノヤマビニ》 和我伎奈婆《ワガキナバ》 伊豆知武吉?加《イヅチムキテカ》 伊毛我奈氣可牟《イモガナゲカム》
 
私ガ旅ニ出テ〔六字傍線〕霞ノカカツテ居ル富士ノアタリニ、私ガ來タナラバ、私ノアリカモワカラナイデ〔私ノ〜傍線〕、何處ノ方ヲ向イテ妻ガ私ヲ慕ツテ〔五字傍線〕嘆クデアラウカ。
 
○布時能液麻備爾《フジノヤマビニ》――ヤマビは山邊。
〔評〕 やがて妻と別れて旅立たむとする男が、わが行く手に聳える、霞の棚引いた富士山を眺めて詠んだ歌である。妻の嘆きを想像した、情愛の溢れた佳作である。歌品も典雅である。和歌童蒙抄に初句をミサゴヰルとして出てゐるのは滑稽だ。
 
3358 さぬらくは 玉の緒ばかり 戀ふらくは 富士の高嶺の 鳴澤の如
 
佐奴良久波《サヌラクハ》 多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》 古布良久波《コフラクハ》 布自能多可禰乃《フジノタカネノ》 奈流(345)佐波能其登《ナルサハノゴト》
 
私ハアナタト共寢スルコトハ、玉ヲ通シタ緒ノヤウニ、短イガ、私ガ貴女ヲ〔八字傍線〕戀シク思フコトハ、富士ノ高嶺ニアル鳴澤ノヤウニ、鳴リ響イテ大評判デス〔十字傍線〕。
 
○佐奴良久波《サヌラクハ》――サは接頭語のみ。共に寢ることは。○多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》――多麻乃緒《タマノヲ》は玉の緒。短いものの譬喩に取つて、相寢ることの短きを言つてゐる。○奈流佐波能其登《ナルサハノゴト》――奈流佐波《ナルサハ》は鳴澤。富士山中にある音を立てて流れる溪流であらう。代匠記には「此山のいただきに大なる澤あり。山のもゆる火の氣と、其澤の水と相剋して、常にわきかへりなりひびくゆゑになるさはといふ」とあるが、頂上に澤があるといふのは信じ難い。次に「伊豆の高嶺の鳴澤」とあるから、噴火には關係のない溪流であらう。今富士山の北方、河口湖の南方に鳴澤と稱する村落があるのは、古名を襲うたものであらう。この句は鳴澤の如く音が高いといふのである。
〔評〕 富士の高嶺の鳴澤といふ珍らしいものを譬喩に用ゐたのが、この歌の異色の點である。卷七の見良久少戀良久乃太寸《ミラクスクナクコフラクノオホキ》(一三九四)の意を強調したやうな作で、調子に素朴な點もあるが、東歌以外の部に置くことも出來ないことはない作品である。古今集の「あふことは玉の緒ばかり名の立つは吉野の川のたきつせのごと」は、これから出た歌に違ひない。袖中抄・和歌童蒙抄に載せてある。
 
或本歌曰 まかなしみ 寢らくはしけらく さならくは 伊豆の高嶺の 鳴澤なすよ
 
或本哥曰 麻可奇思美《マカナシミ》 奴良久波思家良久《ヌラクハシケラク》 住奈良久波《サナラクハ》 伊豆能多可禰能《イヅノタカネノ》 奈流左波奈須與《ナルサハナスヨ》
 
可愛イノデ一緒ニ寢ルガ〔六字傍線〕、寢ルノハシバラクデ、評判ノ〔三字傍線〕鳴リ響クノハ、伊豆ノ高嶺ノ鳴澤ノヤウダヨ。
 
○奴良久波思家良久《ヌラクヘシケラク》――細井本と無訓本は波の字が無い。シケラクをシマラクと見るより外に解しやうが(346)ないやうである。○佐奈良久波《サナラクハ》――舊本、奈良久波とあるのではわからない。類聚古集・西本願寺本その他、佐の字がある本が多いから、サナラクハに違ひない。サナラクはサヌラクと同語らしいが、前にヌラクハとあるから、又ここにサヌラクはを繰返す筈がない。しばらくサ鳴ラクハと解して、後考を俟つことにしよう。○伊豆能多可禰能《イヅノタカネノ》――伊豆の高嶺は指すところが明瞭でないが、一説に伊豆山即ち今の日金山であらうといふ。鳴澤は謂はゆる伊豆山の走湯か。但し今伊豆に鳴澤と呼ぶ溪流が別にあるさうである。
〔評〕 誤字がありさうだ。併し前の歌よりも、東歌としての色彩は濃いやうだ。これも袖中抄に出てゐる。
 
一本歌曰 逢へらくは 玉の緒しけや 戀ふらくは 富士の高嶺に 降る雪なすよ
 
一本歌曰 阿敝良久波《アヘラクハ》 多麻能乎思家也《タマノヲシケヤ》 古布良久波《コフラクハ》 布自乃多可禰爾《フジノタカネニ》 布流由伎奈須毛《フルユキナスモ》
 
逢ツタコトハ玉ノ緒ノヤウニ短ク〔二字傍線〕アルヨ。サウシテ〔四字傍線〕戀シク思フコトハ、富士ノ高嶺ニ降ル雪ノヤウニ止ム時ハナイヨ〔八字傍線〕。
 
○多麻能乎思家也《タマノヲシケヤ》――シケはシキで、玉の緒らしいよの意か。
〔評〕 戀の繁きを富士の高嶺の雪に譬へたのはおもしろい。調も素朴である。袖中抄に載せてある。
 
3359 駿河の海 おしべに生にる 濱つづら いましを憑み 母にたがひぬ 一云、親に違ひぬ
 
駿河能宇美《スルガノウミ》 於思敝爾於布流《オシベニオフル》 波麻都豆良《ハマツヅラ》 伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》 波播爾多我比双《ハハニタガヒヌ》 一云 於夜爾多我此奴《オヤニタガヒヌ》
 
駿河ノ海ノ磯邊ニ生エテヰル濱葛ノヤウニ、私ハ〔六字傍線〕貴方ノ絶エナイ御心〔七字傍線〕ヲ頼ミニ思ツテ、母ノ心〔二字傍線〕ニモ背イテ、他人(347)ニハ嫁ガズニ〔八字傍線〕ヰルヨ。
 
○於思敝爾於布流《オシベニオフル》――オシベは磯邊の東語である。下の麻末乃於須比爾奈美毛登杼呂爾《ママノオスヒニナミモトドロニ》(三三八五)のオスヒも同じであらう。○波麻都豆良《ハマツヅラ》――濱に生える蔓草。濱つづらの如く長く絶えずにの意であらう。舊本、夜とあるは良の誤。類聚古集・西本願寺本など皆さうなつてゐる。○波播爾多我比奴《ハハニタガヒヌ》――母の心に背いたといふのである。○一云|於夜爾多我比奴《オヤニタガヒヌ》――五句の異傳として、一云として記してあるが、これを第六句として、佛足跡歌體と見ることも出來る。
〔評〕 初三句が序詞の如く、譬喩の如く、しかも常の用法と異なつてゐる。少女の歌。オシベといふ方言があるのみで、全體的にはやさしく出來てゐる。
 
右五首駿河國歌
 
3360 伊豆の海に 立つ白波の 在りつつも つぎなむものを 亂れしめめや
 或本歌云、白雲の絶えつつも繼がむともへや亂れそめけむ
 
伊豆乃宇美爾《イヅノウミニ》 多都思良奈美能《タツシラナミノ》 安里都追毛《アリツツモ》 都藝奈牟毛能乎《ツギナムモノヲ》 美太禮志米梅楊《ミダレシメメヤ》
 
私ハ〔二字傍線〕カウシテヰテ(伊豆乃宇美爾多都思良奈美能)續イテ戀人ニ〔三字傍線〕逢ハウカラ、ソレデ戀ニ心ヲ〔七字傍線〕、亂スコトハスマイヨ。
 
○伊豆乃宇美爾多都思良奈美能《イヅノウミニタツシラナミノ》――序詞。都藝奈牟《ツギナム》とつづく。白浪が絶えず續いて立つ意を以てつづけてゐる。○安里都追毛《アリツツモ》――かうしてゐて。ありありて。○美太禮志米梅楊《ミダレシメメヤ》――亂れ始めめや。亂れ始めむや、亂れはすまいの意。
(348)〔評〕 立つ波を以て序詞として、不斷の戀を語つてゐる。伊豆地方の俚謠であらう。
 
或本歌曰 之良久毛能《シラクモノ》 多延都追母《タエツツモ》 都我牟等母倍也《ツガムトモヘヤ》 美太禮曾米家武《ミダレソメケム》
 
これは二の句以下の異本である。一二の句は序詞で、絶えながらも、再び繼がむと思へばこそ、心が戀に亂れ初めたのであらうの意。
 
右一首伊豆國歌
 
3361 足柄の をてもこのもに さすわなの かなる間しづみ 兒ろ我紐解く
 
安思我良能《アシガラノ》 乎?毛許乃母爾《ヲテモコノモニ》 佐須和奈乃《サスワナノ》 可奈流麻之豆美《カナルマシヅミ》 許呂安禮比毛等久《コロアレヒモトク》
 
(安思我良能乎?毛許乃母爾佐須和奈乃)人ノ〔二字傍線〕騷々シイ音ノ鎭マルノヲ待ツテカラ、女ト私トハ紐ヲ解イテ心靜カニ共寢ヲスルヨ〔イテ〜傍線〕。
 
○安思我良能《アシガラノ》――アシガラは相模の足柄山。○乎?毛許乃母爾《ヲテモコノモニ》――此面彼面にの意。この下に筑波禰乃乎?毛許能母爾《ツクバネノヲテモコノモニ》(三三九三)・卷十七に安之比奇能乎底母許乃毛爾《アシビキノヲテモコノモニ》(四〇一一)・二上能乎底母許能母爾《フタガミノヲテモコノモニ》(四〇一三)とあるが、卷十七のは家持が東語を學んだものか。○佐須和奈乃《サスワナ/》――サスは※[横目/絹]を張るをいふ。※[横目/絹]は張り置きて鳥獣を捕へる具。○可奈流麻之豆美《カナルマシヅミ》――代匠記には鹿鳴間沈《カナルマシヅミ》とし、鹿を捕へむと係蹄を刺して守り居る者が、鹿が鳴いて依り來る程屏息しで靜まつて待如くの意としてゐるが、鹿鳴間《カナルマ》の解は無理であらう。考は「わな小機《コハゼ》のはづるる間をかな(349)くる間といふを略きてかなる間といへり」と解いて、「いと暫のひまを竊むなり」と言つてゐる。古義は「可奈流は囂く鳴響をいふべし」と述べて、囂しき音をしづめてと解してゐる。卷二十に阿良之乎乃伊乎佐太波佐美牟可比多知可奈流麻之都美伊※[泥/土]弖登阿我久流《アラシヲノイヲサタバサミムカヒタチカナルマシヅミイテテトアガクル》(四四三〇)とあり、卷四に珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《タマキヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ(五〇三)・この下に安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美伊敝能伊母爾毛乃伊波受伎爾?於毛比具流之母《アリキヌノサヱザヱシヅミイヘノイモニモノイハズキニテオモヒグルシモ》(三四八一)とあるのと比較すると、かまびすしく鳴る音を鎭めてと解釋すべきもののやうである。即ち人の立ち騷ぐのが鎭まるのを俟つての意であらう。○許呂安禮比毛等久《コロアレヒモトク》――子らと我とが紐を解くといふ意。
〔評〕 足柄山は、獣類が多いので、罠をかけてこれを獲へたものと見える。それを序詞として巧に用ゐてゐる。あの地方の民謠であらうが、末句は隨分露骨な叙法である。
 
3362 相模峯の 小峯見そぐし 忘れ來る 妹が名呼びて 吾を哭し泣くな
 
相模禰乃《サガムネノ》 乎美禰見所久思《ヲミネミソグシ》 和須禮久流《ワスレクル》 伊毛我名欲妣?《イモガナヨビテ》 吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》
 
相模嶺ノ嶺ヲ見ナガラ過ギテ來テ、モウ見エナクナツタノデ、家ニ殘シテ來タ妻ヲ漸ク私ハ〔モウ〜傍線〕忘レテ來タガ、今道連レトナツテヰル人ヨ〔今道〜傍線〕、妻ノ名ヲ呼ンデ、又思ヒ出シテ〔六字傍線〕私ヲ泣カセナサルナ。
 
○相模禰乃《サガムネノ》――相模は古事記に相武國と書いてあるから、古くはサガムと稱したのである。相模禰《サガムネ》は相模嶺で相模の國の中央なる雨降山、即ち大山のことであらう。○乎美禰見所久思《ヲミネミソグシ》――ヲは小。接頭語で意味はない。ヲミネは嶺。相模嶺の小嶺は重複するやうだが、古語に用例が多い。見所久思《ミソグシ》は見過ぐし。經過して來た意である。○和須禮久流《ワスレクル》――忘れ來る。吾が忘れ來る妹が名と下へつづいてゐる。○吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》――我を音に泣かしむる勿れの意。古義にナを「戀むナけらしナなどいふナに同じくて、ナアと歎きすてたる辭なり」とあ(350)るは當らない。このナクは下に奈勢能古夜等里乃乎加耻志奈可太乎禮安乎禰思奈久與伊久豆君麻氏爾《ナセノコヤトリノヲカヂシナカダヲレナヲネシナクヨイクヅクマデニ》(三四五八)・思麻良久波禰都追母安良牟乎伊米能未爾母登奈見要都追安乎禰思奈久流《シマラクハンルツtモアラムヲイメノミニモトナミエツツアヲネシナクル》(三四七一)とあるが、卷二十の先太上天皇御製にも、富等登藝須奈保毛奈賀那牟母等都比等可氣都都母等奈安乎禰之奈久母《ホトトギスナホモナカナムモトツヒトカケツツモトナアヲネシナクモ》(四四三七)とあつて、東語ではないと見える。
〔評〕 末句は東語式の表現でないかも知れないが、二句は全くさうである。その他全體の叙法が、稚拙で東歌らしい。
 
或本欲曰 武藏峯の 小峯見かくし 忘れ行く 君が名かけて 吾を哭し泣くる
 
或本歌曰 武藏禰能《ムザシネノ》 乎美禰見可久思《ヲミネミカクシ》 和須禮遊久《ワスレユク》 伎美我名可氣?《キミガナカケテ》 安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》
 
武藏嶺ノ嶺ガカクレテ見エナクナルトコロマデ來テ漸クアナタヲ〔四字傍線〕忘レテ歩イテヰルノニ、ソノ〔四字傍線〕アナタノ名ヲ言ヒ出シテ、私ヲ泣カセルナヨ。
 
○武藏禰能《ムザシネノ》――武藏禰《ムザシネ》は武藏嶺。秩父山のことだら(351)といふが確なことはわからない。○乎美禰見可久思《ヲミネミカクシ》――小嶺見隱し。武藏嶺の見えなくなるところまで來たことを、かく他動的にいつたのである。○伎美我名可氣?《キミガナカケテ》――君が名を口にかけて言つての意。○安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》――我を音に泣かしむる。
〔評〕 前の相模國の歌が、武藏國で謠はれた爲にかう變つたのである。君とあるから女の歌にしたのかも知れない。いかにも東歌らしい作品だ。
 
3363 吾が背子を 大和へ遣りて まつしだす 足柄山の 杉の木の間か
 
和我世古乎《ワガセコヲ》 夜麻登敝夜利?《ヤマトヘヤリテ》 麻都之太須《マツシダス》 安思我良夜麻乃《アシガラヤマノ》 須疑乃木能末可《スギノコノマカ》
 
私ノ夫ヲ都ヘ旅立タセテ、ソノ歸リヲ〔五字傍線〕待ツ時ハ、足柄山ノ杉ノ木ノ間デ立チ暮スコト〔七字傍線〕カヨ。
 
○麻都之太須《マツシダズ》――わからない語である。代匠記は翳《マブシ》立つで、鳥獣を射る者が翳を立てて、うかがふやうに、今や歸ると足柄山の杉の木の間より見てゐることとし、別に、「まつしたすは持《マチ》し立《タツ》歟。それは文字弱く聞ゆ」(精撰本)と言つてゐる。考は、松し如《ナ》すで、松を待つにかけてゐるといつてゐる。古義は令《ス》2待慕《マチシタハ》1と見て、「足柄山の木ノ際より待慕ひ望ましめつつある、杉の木哉と云へるにや」と解いてゐる。新訓は、松し立すの字を當ててゐるが、太は集中の用例を見るに、落波太列可《フレルハダレカ》(一七〇九)・多太爾安布麻弖爾《タダニアフマデニ》(三五八四)などの如くダに用ゐられるを常としてゐるから、ここもマツシダスであらう。さうすると「待つ時《シタ》し」の訛音と見られないであらうか。○安思我良夜麻乃須疑乃木能末可《アシガラヤマノスギノコノマカ》――表面は足柄山の杉の木の間かなの意で、夫の歸る間を足柄山の杉の間に待ち暮すといふのであらう。
〔評〕 第三句を除けば極めて明瞭な語のみであるが、麻都之太須《マツシダス》が分らない爲に、明解を得ないのは遺憾である。女らしい氣分が出てゐるやうである。
 
3364 足柄の 箱根の山に 粟蒔きて 實とはなれるを 逢はなくもあやし 或本歌未句云、はふ葛の引かば依り來ね下なほなほに
 
(352)安思我良能《アシガラノ》 波姑禰乃夜麻爾《ハコネノヤマニ》 安波麻吉?《アハマキテ》 實登波奈禮留乎《ミトハナレルヲ》 阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》
 
足柄ノ箱根ノ山二粟ヲ蒔イテ、ソレガ既ニ〔五字傍線〕實トナツタノニ、粟ガ無イトイフノハ不思議ナコトダ。私ハ戀人ト約束モ出來テ思ガカナツタノニ、アノ人ニ逢ヘナイトイフノハ不思議ナコトダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○安思我良能波姑禰乃夜麻爾《アシガラノハコネノヤマニ》――足柄は相模の西部、酒勾川西方一帶の地域を稱しなので、おのづから、箱根もその内に含まれてゐたのである。○安波麻吉?《アハマキテ》――粟蒔きて。女を手に入れたことに譬へてある。○實登波奈禮留乎《ミトハナレルヲ》――女と契つたことを粟の稔れるに譬へてゐる。○阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》――粟無くと逢はなくとをかけてゐる。
〔評〕 面白い譬喩の歌である。阿波奈久《アハナク》のかけ詞が振つてゐる。民謠的色彩が濃厚だ。
 
或本歌未句云 波布久受能《ハフクズノ》 比可波與利己禰《ヒカバヨリコネ》 思多奈保那保爾《シタナホナホニ》
 
これは前の歌とは、初二句同じきのみで、全然別歌である。これを解釋すれば、
 
私ガアナタヲ〔六字傍線〕(安思我良能波姑禰乃夜麻爾波布久受能)引イタナラバ、アナタハ〔四字傍線〕心素直ニ私ノ所ヘ〔四字傍線〕寄ツテオイデナサイヨ。
 
○比可波與利己禰《ヒカバヨリコネ》――舊本|比可利《ヒカリ》とあるが、利は元麿校本その他の古本に波に作つてゐるがよい。引かば寄り來ねである。○思多奈保那保爾《シタナホナホニ》――下は心。ナホナホニは素直に穩やかに。
(353)〔評〕男が女を誘ふ詞である。素直に吾が意に從へと、物靜かに説いてゐる。何となく、一種の魅力があるやうだ。
 
3365 鎌倉の みこしの埼の 岩くえの 君が悔ゆべき 心は持たじ
 
可麻久良乃《カマクラノ》 美胡之能佐吉能《ミコシノサキノ》 伊波久叡乃《イハクエノ》 伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》 己許呂波母多自《ココロハモタジ》
 
私ハ〔二字傍線〕アナタガ私ト約束ヲナサツタ後デ、アンナ薄情ナ男ト契ラナケレバヨカツタト〔私ト〜傍線〕、(可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃)後悔ナサルヤウナ薄情ナ〔三字傍線〕心ハ持ツテハ居リマセヌ。安心シテ約束ヲナサイ〔十字傍線〕。
 
○可麻久良之美胡之能佐吉能《カマクラノミコシノサキノ》――鎌倉の見越崎の。見越崎は今の稻村が崎の古名だらうといふ。新篇鎌倉志に「大佛の東の山を御輿が嶽と云ふ」とあるが、相模風土記の逸文に、「鎌倉郡見越崎、毎有速崩石、人名號伊曾布利、謂振石也」とあるは、稻村が崎らしい。○伊波久叡乃《イハクエノ》――岩崩の。ここまでの三句は久由《クユ》と言はむ爲の序詞に過ぎない。○伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》――あなたが後悔するやうな薄情なの意。
〔評〕 鎌倉の見越の崎の岩は質が軟かで、潮水に冒され、崩れ易いのであらう。これを以て序詞を作つたものであるが、東歌らしい氣分は尠い歌である。卷三の妹毛吾毛清之河之河岸之妹我可悔心者不持《イモモワレモキヨミノカハノカハギシノイモガクユベキココロハモタジ》(四三七)と酷似してゐる。この歌、和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3366 まかなしみ さ寢に吾は行く 鎌倉の みなの瀬河に 潮滿つなむか
 
麻可奈思美《マカナシミ》 佐禰爾和波由久《サネニワハユク》 可麻久良能《カマクラノ》 美奈能瀬河泊爾《ミナノセガハニ》 思保美都奈武賀《シホミツナムカ》
 
(354)私ハ女ガ〔二字傍線〕戀シサニ、女ノ處ヘ〔四字傍線〕寢ニ行ク。ガ、途中ニアル〔六字傍線〕鎌倉ノ水無ノ瀬川ニハ已ニ潮ガ滿チテヰテ渡ルコトガ出來ナクナツタ〔テヰ〜傍線〕ノデハナカラウカ。心配ダ〔三字傍線〕。
 
○麻可奈思美《マカナシミ》――眞|愛《カナ》しみ。、マは接頭語。いとしいので。○佐禰爾和波由久《サネニワハユク》――サは接頭語。相寢る爲に我は行く。○美奈能瀬河波爾《ミナノセガハニ》――美奈能瀬河波《ミナノセガハ》は今の稻瀬川で「深澤の奥に發し、大佛の東傍を過ぎ、長谷の巷市を貫き、屈曲して坂之下の東に於て海へ入る。長二十町許の小溪なり」と大日本地名辭書に記してある。稻瀬は水無瀬を訛つたのであらう。舊本|余《ヨ》とあるが、元暦校本その他の古本すべて爾《ニ》とあるから、誤である。○思保美都奈武賀《シホミツナムカ》――ナムはラムの東語である。考にはツナの約タで、潮みたんかとし、略解にはミツナムはミチナムの東語だと言つてゐる。
〔評〕 東歌らしい歌で、その内容から考へても、鎌倉附近の俚謠であらう。
 
3367 百つ島 足柄小舟 あるき多み 目こそかるらめ 心は思へど
 
母毛豆思麻《モモツシマ》 安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》 安流古於保美《アルキオホミ》 目許曾可流良米《メコソカルラメ》 己許呂波毛倍杼《ココロハモヘド》
 
私ハコレ程アノ男ヲ〔九字傍線〕戀シク思ツテヰルケレドモ、男ハ所々ノ女ニ心ヲ移シテ〔男ハ〜傍線〕(母毛豆思麻安之我良乎夫禰)歩キ訪ネル所〔五字傍線〕ガ多イノデ、コチラヘ〔四字傍線〕ハ來ナイノデアラウ。
 
○母毛豆思麻《モモツシマ》――百つ島。或は百千島の東語か。豆《ツ》は濁音の文字だが、清音に用ゐられることもある。多くの島を過る足輕《アシカル》小舟とつづくのであらう。即ち足柄の枕詞である。大日本地名辭書にモモツシマを大島としたのは從ひ難い。○安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》――足柄山の材を以て作つた小舟。この舟は卷三にも鳥總立足柄山爾船木伐《トブサタテアシガラヤマニフナキキリ》(三九一)とあつて、當時松浦船・熊野船などと共に、有名であつた。ここまでの二句は足柄の舟が島々を歩き過る意(355)を以て、下につづけてゐる。○安流古於保美《アルキオホミ》――歩行《アルキ》多み。男は行くべき所が多いのでの意であらう。○目許曾可流良米《メコソカルラメ》――目枯れるであらう。目枯るとは逢はぬこと。男の尋ねて來ぬをいふ。○己許呂波毛倍杼《ココロハモヘド》――我は心には思へどの意。
〔評〕 女が男の薄情を恨んだ歌。しかし微温的の表現になつてゐるのは、男の放縱を許容する上代の風習のしからしめるところか。袖中抄に載つてゐる。
 
3368 あしがりの 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 兒ろが言はなくに
 
阿之我利能《アシガリノ》 刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》 伊豆流湯能《イヅルユノ》 余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》 故呂何伊波奈久爾《コロガイハナクニ》
 
(阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能)ホントニ浮氣ポイ〔四字傍線〕浮キ浮キシタコトヲ女ハ言ハナイノニ、私ハ女ノ誠意ヲ信ジテヰレバヨイノニ、ソレガ出來ナイデ、女ノ心ヲ疑ツテヰルノハ、我(356)ナガラ腑甲斐ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○阿之我利能《アシガリノ》――アシガリはアシガラに同じ。集中アシガリの用例も多い。○刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》――土肥の河内に。土肥は伊豆國境に近い今の土肥・吉濱・眞名鶴方面の總稱である。河内は即ち河に圍まれたところで、今の湯河原温泉をさしたものに違ひない。○伊豆流湯能《イヅルユノ》――ここまでは序詞。温泉が漫々と湛へて、波打つてゐる意で、タヨラにつづいてゐる。○余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》――ヨニモは、實に、本當に、タヨラはタユラ・タユタに同じ。上へは湯の多く漫々たる意でつづき、下は心の漂つて定まらぬ意になつてゐる。○故呂何伊波奈久爾《コロガイハナクニ》――兒らが言はなくに。兒ろは兒らと同じく、愛する女をいふ。ロは接尾語のみ。
〔評〕 この下に筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆代爾毛多由良爾和家於毛波奈久爾《ツクバネノイハモトドロニオツルミヅヨニモタユラニワガオモハナクニ》(三三九二)と同型で、同じ歌が場所をかへて歌はれたものであらう。温泉を詠んだ歌は珍らしい。
 
3369 あしがりの 麻萬の小菅の 菅枕 あぜか纒かさむ 兒ろせ手枕
 
阿之我利乃《アシガリノ》 麻萬能古須氣乃《ママノコスゲノ》 須我麻久良《スガマクラ》 安是加麻可左武《アゼカマカサム》 許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》
 
足柄ノ麻萬ニ生エテヰル菅ヲ編ンデ作ツタ〔六字傍線〕菅ノ枕ヲ、何シニアナタハ〔四字傍線〕ナサラウゾ。女等ヨ、私ノ〔二字傍線〕手枕ヲシテ寢〔二字傍線〕ナサイヨ。
 
○阿之我利乃麻萬能古須氣乃《アシガリノママノコスゲノ》――阿之我利乃麻萬《アシガリノママ》は足柄の麻萬。麻萬は、もと斷崖といふやうな意で、それが地名となつたものであらう。今、福澤村の内に※[土+盡]下《ママシタ》の地があるのは其處だと言はれてゐる。酒匂川の右岸に當つてゐる。コスゲは小菅。○須我麻久良《スガマクラ》――菅を編んで作つた枕。○安是可麻可佐武《アゼカマカサム》――アゼは何故《ナゼ》に同じ。この句は何故枕き給はむやの意。○許呂勢多麻久良《コロセタマクラ》――兒らよ吾が手枕をせょ。略解に「兒等《コラ》と夫《セ》は共に手枕(357)を交《カハ》すからは、菅枕は何ぞやまかむと言ふ也」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 男が女に、そんな菅枕をするのをやめて、吾が手枕をせよと言ひ寄る言葉である。かなり官能的である。袖中抄と和歌童蒙抄とに載せてある。
 
3370 あしがりの 箱根の嶺ろの 和草の はなつつまなれや 紐解かず寢む
 
安思我里乃《アシガリノ》 波故禰能禰呂乃《ハコネノネロノ》 爾古具佐能《ニコグサノ》 波奈都豆麻奈禮也《ハナツツマナレヤ》 比母登可受禰牟《ヒモトカズネム》
 
アナタハ〔四字傍線〕(安思我里乃波故禰能禰呂乃爾古具佐能〉、實ノナイアダナ妻デモナイノニ、何シニ〔三字傍線〕紐ヲ解カナイデ寢ルト云フコトガアルモノデスカ。紐ヲ解イテ共寢シマセウ〔紐ヲ〜傍線〕。
 
○波故禰能禰呂乃《ハコネノネロノ》――箱根の嶺ろの。ロは添へていふのみ。○爾古具佐能《ニコグサノ》――爾古具佐《ニコグサ》はどんな草かわからない。にこやかな柔い草といふのであらう。代匠記はニコグサを萩ではないかと言つてゐる。下の花妻から思ひついたのである。最も廣く行はれてゐるのは貝原篤信の箱根草説であるが、この歌によつて推定した想像説に過ぎない。略解に惠美《ヱミ》草としたのも、信じ難い。下に花とつづいてゐるから、花のある草であらう。卷十一の蘆垣之中之似兒草《アシガキノナカノニコグサ》(二七六二)を參照せよ。以上の三句は花と言はむ爲の序詞。○波奈都豆麻奈禮也《ハナツツマナレヤ》――花つ妻なれやであらう。代匠記初稿本は都豆の中、いづれかを衍とし、略解は豆を衍としてゐる。花つ妻は花の妻。實のないあだな妻ならむや、さうではないからの意。古義は波奈都豆麻《ハナツツマ》を新婚の妻と解してゐる。
〔評〕 如何にも野趣の多い俚謠式の作だ。四の句、少し不明瞭なのは遺憾である。袖中抄に出てゐる。
 
3371 足柄の み坂かしこみ くもり夜の 吾が下延を こちでつるかも
 
安思我良乃《アシガラノ》 美佐可加思古美《ミサカカシコミ》 久毛利欲能《クモリヨノ》 阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》 許知(358)?都流可毛《コチデツルカモ》
 
私ハ辿ツテ行ク〔七字傍線〕足柄ノ山ノ〔二字傍線〕坂路ノ恐シサニ(久毛利欲能)心ニ包ンデ人ニ隱シテ居ル女ノコトガ、戀シク思ハレテソノ女ノ〔女ノコ〜傍線〕コトヲ口ニ出シテ言ツタヨ。
 
○安思我良乃美佐可加思古美《アシガラノミサカカシコミ》――足柄のみ坂は謂はゆる足柄山で、卷九に過2足柄坂1見2死人1作歌一首(一八〇〇)とあるところに説明して置いた。これは恐ろしい坂だから美佐可加思古美《ミサカカシコミ》といつたので、その歌に鳥鳴東國能恐耶神之三坂爾《トリガナクアヅマノクニノカシコキヤカミノミサカニ》とある。○久毛利欲能《クモリヨノ》――曇夜の。枕詞。曇つた夜は、物が明らかに見えないから、下に隱れて見えない意の、下延《シタバヘ》に冠してゐる。○阿我志多婆倍乎《アガシタバヘヲ》――私が、心の下に、即ち胸の中に思つてゐることを。志多婆倍《シタバヘ》は心に隱してゐること。○許知?都流可毛《コチデツルカモ》――言出つるかも。許知?《コチデ》は言出《コトイデ》の略であらう。
〔評〕 足柄の坂が恐ろしさに、隱して置いた女のことを口に出してしまつたといふのは、坂の神の神威に恐れたのか。卷十五に加思故美等能良受安里思乎美故之治能多武氣爾多知弖伊毛我名能里都《カシコミトノラズアリシヲミコシヂノタムケニタチテイモガナノリツ》(三七三〇)とあるのも、少し似てゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3372 相模路の 淘綾の濱の 眞なごなす 兒等はかなしく 思はるるかも
 
相模治乃《サガムヂノ》 余呂伎能波麻乃《ヨロギノハマノ》 麻奈胡奈須《マナゴナス》 兒良波可奈之久《コラハカナシク》 於毛波流留可毛《オモハルルカモ》
 
相模ノ街道ノ餘綾ノ濱ノ眞砂ハ、美シクテ愛ラシイガ、丁度ソ〔ハ美〜傍線〕ノヤウニ、私ハ〔二字傍線〕女ノコトガイトシク思ハレルヨ。
 
○相模治乃余呂伎能波麻乃《サガムヂノヨロギノハマノ》――相模路の淘綾の濱の。余呂伐は和名抄に、餘綾郡餘綾 與呂木とあり、延喜式には淘綾《ユルキ》と記してゐる。又ユルギともいふ。東は小磯大磯から西は國府津あたりの海岸である。古今集に「玉たれ(359)のこかめやいづらこゆるきの磯の波わけ沖に出にけり」、「こゆるきの磯立ちならし磯菜つむめざしぬらすな沖に居れ波」とあるのもこの地である。○麻奈胡奈須《マナゴナス》――マナゴは眞砂。餘綾の濱の美しい眞砂に譬へたのであるが、マナゴに愛子の聯想がありさうである。○兒良波可奈之久《コラハカナシク》――コラは女を指す。舊本兒良久とあるが、久は元暦校本その他波に作る本が多いから、これによるべきである。カナシクはいとしく。○於毛波流留可毛《オモハルルカモ》――オモホユルといふべきを、東語でオモハルルといつたのであらうが、これが後世の語と、一致してゐるのはおもしろい。
〔評〕 整然たる歌。この餘綾の濱を旅しつつある京人が、家なる妻を思ふ歌かも知れない。和歌童蒙抄に載せてある。
 
右十二首相模國歌
 
3373 多麻河に さらす手作 さらさらに 何ぞこの兒の ここだかなしき
 
多麻河泊爾《タマガハニ》 左良須?豆久利《サラステヅクリ》 佐良左良爾《サラサラニ》 奈仁曾許能兒乃《ナニゾコノコノ》 己許太可奈之伎《ココダカナシキ》
 
(多麻河泊爾左良須?豆久利)更ニ更ニ、ドウシテアノ女ガコンナニ〔四字傍線〕ヒドクナツカシイノデアラウカ。カウ戀シイトハ不思議ダ〔カウ〜傍線〕。
 
○多麻河泊爾《タマガハニ》――多麻河は西多摩郡雲取山の奧(360)雁坂峠の東南に發し、上流を市の瀬川・丹波川と稱し、武藏平野の南邊を流れ羽田に至りて海に注ぐ。下流を六郷川といふ。多摩川の名は武藏の國府、今の府中に近い多摩の地を中心としての名稱であらう。寫眞は稻田にある樂翁公筆の歌碑。○左良須?豆久利《サラステヅクリ》――晒す手作。手作は手織の布。和名抄に「白絲布今按俗用2手作布三字1云2天都久利乃沼乃1是乎」とあり、字鏡に「紵繍?豆久利、」靈異記に「〓?都九里」、名義抄「紵布テツクリノヌノ」とある。本集卷十六にも日暴之朝手作尾《ヒサラシノアサテツクリヲ》(三七九一)とある。織り上げた布を多摩の川原で晒すのである。今かの地方に調布・砧などの地名が存するのはこれに基くものである。ここまでの二句は序詞。布を晒らす音のサラサラと聞える音で佐良左良爾《サラサラニ》とつづいてゐる。○佐良左良爾《サラサラニ》――更に更に。改めて。○奈仁曾許能兒乃《ナニゾコノコノ》――どうしてこの女が。○己許太可奈之伎《ココダカナシキ》――己許太《ココダ》は許多。澤山。可奈之伎《カナシキ》は愛しき。こんなに甚だしく戀しいのか。
〔評〕 佐良左良爾《サラサラニ》のかけ詞が一首の中心をなして、極めて巧に、快く出來てゐる。東歌中の佳作の一である。武藏の多摩地方の民謠であらう。袖中抄・和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3374 武藏野に 占へ肩燒き まさでにも 告らぬ君が名 うらに出にけり
 
武藏野爾《ムサシヌニ》 宇良敝可多也伎《ウラヘカタヤキ》 麻左?爾毛《マサデニモ》 乃良奴伎美我名《ノラヌキミガナ》 宇良爾低爾家里《ウラニデニケリ》
 
私ハ戀シイ貴方ノ名ヲ〔十字傍線〕、ハツキリト人ニ〔二字傍線〕告ゲタコトモナイノニ〔二字傍線〕、貴方ノ名ガ、武藏野ノ鹿ノ肩骨ヲ燒イテ占ヲシタラ〔五字傍線〕、占ニ顯ハレテシマツタヨ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○武藏野爾《ムザシヌニ》――武藏はこの下に牟射志《ムザシ》と記してあつて、ムザシと訓むべきである。古事記に牟邪志、國造本紀に旡邪志・胸刺の文字が用ゐてある。國郡の制が定まつて以來、武藏の二字をムザシに用ゐることになつた。○宇良敝可多也伎《ウラヘカタヤキ》――ウラヘは占合《ウラアヘ》の略で、占をすることである。古義にウラヘを名詞としてゐるが、占へて肩燒をしたといふので、つまり肩燒の占をしたことである。可多也伎《カタヤキ》は鹿の屑骨を燒く太占《フトマニ》である。古事記に召(361)2天兒屋命布刀玉命1而内2拔天香山之眞男鹿之肩1拔而取2天香之天波波迦1而令2占合麻迦那波1而《アメノコヤネノミコトフトダマノミコトヲヨビテアメノカグヤマノマヲシカノカタヲウツヌキニヌキテアメノカグヤマノアメノハハカヲトリテウラヘマカサハシメテ》云々」とある。○麻左?爾毛《マサデニモ》――眞定《マサダ》にも。確かに、はつきりと。マは接頭語。古義は眞實《マサネ》にもの訛としてゐる。○乃良奴伎美我名《ノラヌキミガナ》――私が人に言はなかつた君の名が。○宇良爾低爾家利《ウラニデニケリ》――占にあらはれたよ。
〔評〕 ウラヘカタヤキについては異説もあるが、肩燒の占が東國の民間に行はれてゐたことを證據立つる歌である。四足獣の肩胛骨を燒いて占ふのは、蒙古人種の風習だといふことであるから、大陸的のものである。文化史的に注意すべき歌である。袖中抄・八雲御抄に出てゐる。
 
3375 武藏野の をぐきが雉 立ち別れ 往にし宵より せろに逢はなふよ
 
武藏野乃《ムザシヌノ》 乎具奇我吉藝志《ヲグキガキギシ》 多知和可禮《タチワカレ》 伊爾之與比欲利《イニシヨヒヨリ》 世呂爾安波奈布與《セロニアハナフヨ》
 
(武藏野乃乎具奇我吉藝志)立別レテ、夫ガ〔二字傍線〕去ツタ晩カラ今日マデ、私ハ戀シイ〔九字傍線〕夫ニ逢ハナイヨ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○武藏野乃乎具奇我吉藝志《ムザシヌノヲグキガキギシ》――武藏野の小岫が雉。小岫のヲは接頭語。岫は和名抄に「陸詞曰、岫似祐反、和名久岐山穴似v袖也」とあり、山の洞穴あるところをいふ。代匠記精撰本に「乎具奇は顯宗紀云、或本云、弘計天皇之宮有2二所1焉、一(ニハ)宮2於|少郊《ヲグキ》1二(ニハ)宮2於池野1、此|少郊《ヲグキ》は所の名なれど、所の名も其義を以て名つくへければ、今の乎具奇も此歟」とあるが、少郊をヲグキと訓することは確證なく、流布本は、ヲノと訓んでゐる。ここの乎具奇《ヲグキ》は山ふところのことであらう。キギシは雉。これまではタチと言はむ爲の序詞。雉が飛立つにかけたのである。○世呂爾安波奈布與《セロニアハナフヨ》――世呂《セロ》は夫ろ。ロは接尾語。安波奈布與《アハナフヨ》は逢はぬよの意。
〔評〕 別れた夫を戀ふる女の歌。何となく哀な感情が籠つた作である。序詞は足檜木乃片山雉立往牟君爾後而打四鷄目八方《アシビキノカタヤマキギシタチユカムキミニオクレテウツシケメヤモ》(三二一〇)と同一技巧である。
 
3376 戀しけば 袖も振らむを 武藏野の うけらが花の 色にづなゆめ
 
(362)古非思家波《コヒシケバ》 素?毛布良武乎《ソデモフラムヲ》 牟射志野乃《ムザシヌノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾豆奈由米《イロニヅナユメ》
 
貴方ガ〔三字傍線〕戀シク思フナラバ、私ハ〔二字傍線〕袖デモ振ツテ見セテ合圖ヲシテ〔八字傍線〕アゲヨウノニ。戀シク思フコトヲ〔八字傍線〕決シテ(牟射志野乃宇家良我波奈乃)顔色ニ出スナヨ。
 
○古非思家波《コヒシケバ》――戀しくばに同じ。○素?毛布良武乎《ソデモフラムヲ》――我は袖を振つて、貴女に合圖しようのにの意。○宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》――宇家良《ウケラ》は一にヲケラともいふ。菊科蒼朮屬の宿根草本で、山野に自生する薊に似た植物である。莖の高さは二三尺に達する。葉は多くは三裂、時に五裂ともなり、又複葉ともなつて、葉柄を以て莖に互生する。夏秋の頃、枝梢に白色又は淡紅色の頭状花を附け、魚骨状の葉に圍まれる。若苗も根も食用に供し、根の乾したものは蒼朮と稱して藥用にする。これを晒して白色になつたものを白朮といふといふことである。一説に花色白色なるを蒼朮といひ、紅紫色を帶ぶるものを白朮といふとある。然るに小野博は「白朮は蒼朮よりも苗も葉も大なり、三葉或は一葉にして、花は白色なり」と言ひ、契沖は「或書云蒼朮一名赤朮、白朮一名抱薊とあるをあはせて按ふるに、花の紅なるが蒼朮にてや、赤朮とも紅朮と申侍るならむ」と言ひ、蒼朮、白朮の別は明らかでない。和名抄は朮を乎介良と訓し、字鏡には白朮を乎介良と訓んでゐる。宇家良《ウケラ》といつてあるのは東歌のみである。ここまでの二句は色に出《ヅ》と言はむ爲の序詞であつて、宇家良の花の紅色を帶びたものについて言つたのである。白色のものが普通であるが、武藏野の宇家良は紅色なのが多かつたのかも知れない。○伊呂爾豆奈由米《イロニヅナユメ》――顔色に顯はすなかれゆめゆめの意。ユメは決して。イヅをヅといふのは田舍(363)言葉らしい。
〔評〕 忍戀の歌で、男から女の方へ、秘密を守つて人に看破されぬやうに注意したものである。地方色があらはれてゐる。加藤千蔭の歌集「うけらが花」はこの歌によつたもので、彼が武藏の歌人たることを示してゐる。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
或本歌曰 如何にして 戀ひばか妹に 武藏野の うけらが花の 色に出ずあらむ
 
或本歌曰 伊可爾思?《イカニシテ》 古非波可伊毛爾《コヒバカイモニ》 武藏野乃《ムザシヌノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾低受安良牟《イロニデズアラム》
 
ドウ云フ風ニ私ハ〔二字傍線〕女ヲ戀シタナラバ、(武藏野乃宇家良我波奈乃)顔色ニ出サズニ居ルコトガ出來ルデアラウカ。コンナニ戀シクテハ、トテモ心ノ中デ包ンデバカリ居ラレナイ〔コン〜傍線〕。
 
○伊可爾思?古非波可伊毛爾《イカニシテコヒバカイモニ》――どうやつて妹に戀したならば。
〔評〕 或本歌とあるが、前の歌とは全く別である。忍ぶに堪へかねて、外にあらはれない戀の仕方を知らうとしてゐるので、男としては、弱い戀であるが、又あはれな戀である。
 
3377 武藏野の 草葉諸向 かもかくも 君がまにまに 吾はよりにしを
 
武藏野乃《ムサシヌノ》 久佐波母呂武吉《クサハモロムキ》 可毛可久母《カモカクモ》 伎美我麻爾未爾《キミガマニマニ》 吾者余利爾思乎《ワハヨリニシヲ》
 
(武藏野乃久佐波母呂武吉)ドウニデモカウニデモ、貴方ノ御心次弟ニ、私ハ私ノ身ヲ委セテ貴方ヲ〔私ノ〜傍線〕タヨツタノニ。私ヲオ棄テニナルトハヒドイ御方デス〔私ヲ〜傍線〕。
 
(364)○久佐波母呂武吉《クサハモロムキ》――草の葉がどちらへでも諸方に向ふ意。草は諸向と見る説もある。ここまでの二句は可毛可久母《カモカクモ》と言はむ爲の序詞。○可毛可久毛《カモカクモ》――どうにでも、かうにでも、どちらにでも。
〔評〕 女が男の變心を恨んだ歌。古義に「今更何の疑しく異しき意かあらむとなり」とあるが、怨言らしい語勢である。
 
3378 入間道の 大家が原の いはゐづら 引かばぬるぬる わにな絶えそね
 
伊利麻治能《イリマヂノ》 於保屋我波良能《オホヤガハラノ》 伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》 和爾奈多要曾禰《ワニナタエソネ》
 
(伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良)私ガ〔二字傍線〕引イタラ、オトナシク〔五字傍線〕滑ラカニ私ニ靡キ寄ツテ、貴方ハ〔私ニ〜傍線〕私ト縁ヲ切ラナイヤウニシテ下サイ。
 
○伊利麻治能於保屋我波良能《イリマヂノオホヤガハラノ》――伊利麻治《イリマヂ》は入間道で、入間は入間郡、於保屋《オホヤ》は和名抄に「武藏國入間郡大家於保也介」とある地であらう。川越より東南二里を距つる地に大井村があり、其處であらうと大日本地名辭書は記してゐる。今、川越の西方、二里餘の地に大家村があるのは新村名であり、又古代の入間郡の範圍でない。なほ於保屋我波良《オホヤガハラ》を大家河原と見る説はよくない。大家が原である。○伊波爲都良《イハヰヅラ》――いはゐ蔓で、蔓草らしいが、どんな草かわからない。下に可美都氣努可保夜我奴麻能伊波爲都良比可波奴禮都追安乎奈多要曾禰《カミツケヌカホヤガヌマノイハヰヅラヒカバヌレツツアヲナタエソネ》(三四一六)とあつて、水邊の草らしい。白井博士は小野蘭山の本草綱目啓蒙に馬齒※[草がんむり/見]《スベリヒユ》の伯州方言にイハヰヅラとあるのを引いてこの物を指すに似たりといつて居られるが、遽かに從ひ難い。以上は引かばと言はむ爲の序詞。○比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》――引かばぬらぬらとして。奴流奴流《ヌルヌル》はヌラヌラに同じく、滑らかに靡いての意。○和爾奈多要曾禰《ワニナタエソネ》――我に絶えることなかれ。我との關係を絶つことなかれの意。
〔評〕 下に安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴留安乎許等奈多延《アハヲロノヲロタニオハルタハミヅラヒカバヌルヌルアヲコトナタエ》(三五〇一)とあるに似てゐる。東歌(365)らしい言ひ廻しである。
 
3379 吾が背子を あどかも言はむ 武藏野の うけらが花の 時なきものを
 
和我世故乎《ワガセコヲ》 安杼可母伊波武《アドカモイハム》 牟射志野乃《ムザシヌノ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 登吉奈伎母能乎《トキナキモノヲ》
 
私ガ〔二字傍線〕私ノ夫ヲ戀シク思フ心ハ〔七字傍線〕(牟射志野乃宇家良我波奈乃)何時ト云フ〔五字傍線〕時ノ區別モナク戀シイノニ、コノ心ヲ〔ク戀〜傍線〕ドウ言ツタラバヨイデアラウゾ。何トモ言ヒヤウガナイ〔何ト〜傍線〕。
 
○和我世故乎《ワガセコヲ》――略解にヲはヨの意だとあるのは從ひ難い。○安杼可母伊波武《アドカモイハム》――何とかも言はむ。毛は詠嘆の助詞である。○登吉奈伎母能乎《トキナキモノヲ》――何時といふ時はなく、いつでも戀しいのに。宇家良の花の時とつづく。時は花の咲くべき季節をいふ。
〔評〕 女が男を戀ふる心を述べてゐる。武藏野の朮が花を序詞として用ゐたところに地方色があるが、初二句が少し拙く曖昧な點がある。
 
3380 埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
 
佐吉多萬能《サキタマノ》 津爾乎流布禰乃《ツニヲルフネノ》 可是乎伊多美《カゼヲイタミ》 都奈波多由登毛《ツナハタユトモ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》
 
埼玉ノ津ニ繋イデアル舟ガ、風ガヒドイノデ、舫ヒノ〔三字傍線〕綱ガ切レテモ、私ト貴方ハ行末長ク縁ガ續イテ〔私ト〜傍線〕、音信ガ絶エナイヤウニシタイモノダ。
 
○佐吉多萬能津爾乎流布禰乃《サキタマノツニヲルフネノ》――サキタマは和名抄に「武藏埼玉郡佐伊太末」とあり、埼玉郷がその中心で、(366)今の熊谷町の東方、羽生町西方一帶の地。埼玉の津はその附近の利根川の舟着場であらう。○許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》――言は絶えるな。音信は絶やさないで下さいといふ意。
〔評〕 譬喩巧妙。この譬喩の興味を中心として構成せられた歌だ。用語も雅麗で、埼玉の津を他の地名に換へると東歌らしくなくなる。
 
3381 なつそひく うなひを指して 飛ぶ鳥の いたらむとぞよ 吾が下延へし
 
奈都蘇妣久《ナツソヒク》 宇奈比乎左之?《ウナビヲサシテ》 等夫登利乃《トブトリノ》 伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》 阿我之多波倍思《ワガシタバヘシ》
 
(奈都蘇妣久宇奈比乎左之?等夫登利乃)貴方ノ所ニ〔五字傍線〕行ツテ逢ハウト思ツテ、私ハ戀シサヲ〔四字傍線〕心ノ内ニ包ンデ外ニ出サズニ〔六字傍線〕ヰタノデアルヨ。
 
○奈都蘇妣久《ナツソヒク》――枕詞。前に海上に冠してあつた。一一七六參照。○宇奈比乎左之?《ウナヒヲサシテ》――宇奈比《ウナヒ》は地名らしいが、何とも分らない。併しこれも東歌から除いて考へれば、海邊とも考へられるし、又攝津の菟名日とも言ひ得るのである。○等夫登利乃《トブトリノ》――ここまでの三句は到らむと言はむ爲の序詞、鳥は何處にも飛び到るからである。○伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》――貴方の所へ行かうと思つて。ヨは詠嘆の助詞として添へてある。○阿我之多波倍思《アガシタバヘシ》――之多波倍思《シタバヘシ》は、心に思うて口に出さぬをいふ。中々二辭緒下延《ナカナカニコトノヲシタバヘ》(一七九二)・隱沼乃下延置而《コモリヌノシタバヘオキテ》(一八〇九)などの用例がある。
〔評〕 宇奈比を地名とすると、何故に其處を指して鳥が飛び行くか不思議である。伊多良武等曾與《イタラムトゾヨ》と戀を心の内に忍んだ理由を述べてゐるが、一體に語勢に強烈な情熱が見えてゐる。
 
右九首武藏國歌
 
3382 馬來田の 嶺ろの篠葉の 露霜の 濡れて吾來なば 汝は戀ふばぞも
 
(367)宇麻具多能《ウマグタノ》 禰呂能佐左葉能《ネロノササバノ》 都由思母能《ツユシモノ》 奴禮?和伎奈婆《ヌレテワキナバ》 汝者故布婆曾母《ナハコフバゾモ》
 
馬來田ノ峯ノ笹ノ葉ガ、露ニ濡レテヰルヤウニ、私ガ涙ニ〔二字傍線〕濡レテ貴方ト別レテ〔二字傍線〕來タナラバ、貴方モ私ヲ〔二字傍線〕戀シク思フコトデアラウゾヨ。
 
○宇麻具多能禰呂乃佐左葉能《ウマグタノネロノササバノ》――字麻具多《ウマグタ》は和名抄に「上總國望陀末宇太」とある所で、古くはウマグタと言ひ、馬來田と記したのである。望陀又は望多と書いても、ウマグタと訓んだことは、天武天皇紀に大伴連馬來田とも大伴連望多とも二樣に記されてゐるので明らかである。望陀郡は今の上總君津郡の一部で 小櫃川の流域である。其處に今、馬來田村がある。宇麻具多能禰呂《ウマグタノネロ》は馬來田の嶺で、ロは接尾語として添へたもの。馬來田の嶺は、何處の嶺を指すか明らかでない。大日本地名辭書は「今根形村の岡巒にや、神納より飯富、岩井を經て泉村の方まで連互す」と言つてゐる。一説に久留里の愛宕山かともあるが明らかでない。寫眞は根形村の全形である。○都由思母能《ツユシモノ》――露霜の降つたやうに。露霜は露であらう。○奴禮?和伎奈婆《ヌレテワキナバ》――濡れて吾が來たらば。○汝者故布婆曾母《ナハコフバゾモ》――汝は戀ふであらうぞよといふのであらう。代匠記精撰本に「汝は戀むそとなるべし、落句は其比吾妻の俗語なる故に慥に意得かたし」とある。
〔評〕 男が旅に出る時、女に贈つた歌であらう。馬來田の嶺に濡れた、笹(368)葉のやうに袖を濡らして、出かけようとしてゐる男の、女をいたはる心があらはれてゐる。東歌らしい、語調に特色のある歌だ。
 
3383 馬來田の 嶺ろにかくりゐ かくだにも 國の遠かば 汝が目欲りせむ
 
宇麻具多能《ウマグタノ》 禰呂爾可久里爲《ネロニカクリヰ》 可久太爾毛《カクダニモ》 久爾乃登保可婆《クニノトホカバ》 奈我目保里勢牟《ナガメホリセム》
 
私ハ旅ニ出カケテ〔八字傍線〕、今馬來田ノ嶺ニ家ノ方ガ〔四字傍線〕隱レテ見エナイガ〔五字傍線〕、コレダケデスラモコンナニ戀シイノニ〔九字傍線〕、國遠ク離レテ行ツタナラバ、ドンナニ〔四字傍線〕貴方ニ逢ヒタク思フデアラウ。
 
○可久太爾毛《カクダニモ》――かくてさへも。これだけの事ですらも。この下に戀しく思はるるにの意を、補つて見ねばならぬ。○久爾乃登保可婆《クニノトホカバ》――國の遠くあらば。國を遠く離れたならば。○奈我目保里勢牟《ナガメホリセム》――汝が目欲りせむ。奈我目《ナガメ》は眺めではない。
〔評〕 旅に出かけた男が、馬來田の嶺を越えむとして詠んだのである。二三句が少し曖昧で、言葉を補はないでは解き難いやうである。新考に可久里爲《カクリヰ》を下の筑波禰乃禰呂爾可須美爲《ツクバネノネロニカスミヰ》(三三八八)に傚つて、可須美爲《カスミヰ》の誤としてゐるが、ここには無理であらう。
 
右二首上總國歌
 
3384 葛飾の 眞間の手兒奈を まことかも 我によすとふ 眞間の手兒奈を
 
可都思加能《カツシカノ》 麻末能手兒奈乎《ママノテゴナヲ》 麻許登可聞《マコトカモ》 和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》 麻末乃?胡奈乎《ママノテゴナヲ》
 
(369)葛飾ノ眞間ノ手兒奈ヲ、私ト關係ノアルヤウニ人ガ言ヒ騷グト云フノハ眞デアラウカ。アノ有名ナ〔五字傍線〕眞間ノ手兒奈ヲ。ソレハ嬉シイコトダ〔九字傍線〕。
 
○可都思加能麻末能手兒奈乎《カツシカノママノテゴナヲ》――葛飾の眞間の手兒奈をこの處女のことは、卷三の過2勝鹿眞間娘子墓1時山部宿禰赤人作歌(四三一)、卷九の詠2勝鹿眞間娘子1歌(一八〇七)に委しく出てゐる。○和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》――我に關係ありとするといふことだの意。ヨスは言ひ寄せること、即ち二人の間に關係ありとすること。卷十三に汝乎曾母吾丹依云吾※[口+立刀]毛曾汝丹依云《ナヲゾモアニヨストフアヲモゾナニヨストフ》(三三〇五)とある。宣長が「古への眞間の手ごなを、吾によそへて似たりと人の言ふと云はまことかと悦べる女の歌也。されば此手ごなの在世の歌にはあらずと言へり」とあるのは、誤つてゐる。
〔評〕 眞間の手兒奈は傳説上の人物で、その生存時代などは攻究してもわかる筈はない。眞淵は考に「卷十四(今の三)なるは山部赤人の長歌なれば、奈良朝に至て天平の始め頃までの歌なるに、其歌に、古へありけん事といひしからは此少女は飛鳥岡本の宮の頃に在し成べし。ここの歌の樣も其頃の歌と聞ゆ」とあるのは、傳説と事實との別を知らないものである。ともかくこの歌は、手兒奈在世の時に詠まれたものとして傳はつてゐるのだ。美人の譽の高い手兒奈と、親しい關係があるやうに、人に言ひ騷がれるよと喜ぶ男の歌である。麻許登可聞和禮爾余須等布《マコトカモワレニヨストフ》と言つて、ママノテゴナヲと繰返した所に、歡喜の情が躍動してゐる。
 
3385 葛飾の 眞間の手兒奈が ありしかば 眞間のおすひに 波もとどろに
 
可豆思賀能《カヅシカノ》 麻萬能手兒奈家《ママノテゴナガ》 安里之可婆《アリシカバ》 麻末乃於須比爾《ママノオスヒニ》 奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》
 
葛飾ノ眞間ノ手兒奈トイフ美人〔五字傍線〕ガ昔アツタノデ、眞間ノ磯邊ニ打依セル〔四字傍線〕浪ガトドロトドロト響キ渡ルヤウニ、人ガ大騷ヲシテ集ツテ來タ。エライ評判ノ女デアツタ〔ヤウ〜傍線〕。
 
(370)○麻萬能手兒奈家《ママノテゴナガ》――舊本家とあるは我の誤か。元暦校本以下、我に作る本が多い。但しこの卷には、和家於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》(三三九三)・和家世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》(二四六〇)・兒呂家可奈門欲《コロガカナトヨ》(三五  )など家をガに用ゐたところが多い。これをすべて、我の誤とすべきか、攻究を要する問題である。○安里之可婆《アリシカバ》――昔、手兒奈が居たのでの意とも 又|磯邊《オスヒ》にありしかばの意とも解せられる。前者として見るべきであらう。○麻末乃於須比爾《マヽノオスヒニ》――於須比《オスヒ》は磯邊の東語で、前にオシベとあつた(三三五九)と同樣であらうといふ。○奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》――この終の二句は、人の言ひ騷ぐ譬喩と見たい。
〔評〕 考には「是は既に身まかりし後にいへるなり」とある。もとより過去の事實として、傳説を詠んだものである。宣長は下句を「手ごなが磯べに在しかば浪さへめでて、さわぎしと言ふ意ならむ」と言つたが、さうではあるまい。これを譬喩と見ると、かなり詩味の豐かな作品である。
 
3386 鳩鳥の 葛飾早稻を にへすとも そのかなしきを とに立てめやも
 
爾保杼里能《ニホドリノ》 可豆思加和世乎《カヅシカワセヲ》 爾倍須登毛《ニヘストモ》 曾能可奈之伎乎《ソノカナシキヲ》 刀爾多?米也母《トニタテメヤモ》
 
新嘗ノ祭ヲスル時ハ神聖ナモノデ、決シテ人ヲ近ヅケナイガ、私ハタトヒ〔新嘗〜傍線〕(爾保杼里能)葛飾ノ早稻ヲ以テ新嘗ノ祭ヲスルトモ、アノ愛スル人ヲ家ノ外ニ立タセテ置カウヤ。スグニ内ニ入レテアゲヨウ〔スグ〜傍線〕。
 
○爾保杼里能《ニホドリノ》――枕詞。鳰鳥(カイツブリ)が水中に潜《カヅ》く意で、可豆思加《カヅシカ》につづけてゐる。○可豆思加和世乎《カヅシカワセヲ》――葛飾地方の早稻。○爾倍須登毛《ニヘストモ》――爾倍《ニヘ》は新饗《ニヒアヘ》の約で、新穀を神に供へて祭るをいふ。この句は新嘗の祭をするとも。○曾能可奈之伎乎《ソノカナシキヲ》――その愛《イト》しと思ふ人を。○刀爾多?米也母《トニタテメヤモ》――外に立て置かうや、家の内に案内するであらうの意。
〔評〕 稔の秋に新穀を神に供へ、自からもこれを食し、神に對し報賽の誠を致すことは、二月に行つた祈年祭に(371)對する行事である。極めて神聖なものであるから、不淨を忌んで他人を近づけず、恐れ慎んでお祭をするのである。これは上は朝廷から、下々の民戸に於いても行つた。この神聖な祭に際しても、わが戀しい人が來たらば、屋外には立てず、内へ請じ入れようといふので、戀に狂つて、神を忘れた若い女の心である。神に對し、絶對の信仰を有してゐた、上代人の歌としては、實に常軌を逸した熱情的なものである。新嘗祭のことは下に多麗曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和家世乎夜里?伊波布許能戸乎《タレゾコノヤノトオソブルニフナミニワガセヲヤリテテイハフコノトヲ》(三四六〇)ともあるから、それをも併せ考ふべきである。眞淵の「鳰鳥のかつしか早稻の新しぼり汲みつつをれば月かたぶきぬ」といふ名歌は、この二句を巧に使用したものである。
 
3387 足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 眞間の繼橋 やまず通はむ
 
安能於登世受《アノオトセズ》 由可牟古馬母我《ユカムコマモガ》 可都思加乃《カツシカノ》 麻末乃都藝波思《ママノツギハシ》 夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》
 
足音ヲ立テズニ歩ク駒ガアレパヨイガ、サウシタラ私ハ、ソノ駒ニ乘ツテ〔サウ〜傍線〕、葛飾ノ眞間ノ繼橋ヲ渡ツテ〔三字傍線〕、絶エズアノ女ノ所ヘ忍ンデ通ハウト思フ〔アノ〜傍線〕。
 
○安能於登世受《アノオトセズ》――安能於登《アノオト》は足の音。○麻末乃都藝波思《ママノツギハシ》――眞間の繼橋。古昔眞間の入江に架けてあつた橋。繼橋は河の廣いところに設けるもので、柱を河中に相對して打立て、これに横木を結び、その上に板又は丸太を並べて架け渡し、中途で繼いだやうになつてゐるから、かく呼ぶのである。今、國府臺に眞間の繼橋と稱する名所があるのは後人の附會である。
〔評〕 駒に打乘つて妹がりへ通ふ歌は他にもあるが、地方の官吏又は豪族の仕業らしく、一般民衆の歌としてはどうかと思はれないこともない。さう思つて見ると、この歌は言葉が洗練されて、野趣に乏しいやうである。なほこの歌は、やはり手兒奈の傳説と結びつけて詠まれたものではあるまいか。
 
(372)右四首下總國歌
 
3388 筑波嶺の 嶺ろに霞ゐ 過ぎがてに 息づく君を ゐ寢てやらさね
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 禰呂爾可須美爲《ネロニカスミヰ》 須宜可提爾《スギガテニ》 伊伎豆久伎美乎《イキヅクキミヲ》 爲禰?夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》
 
戀シイ女ノ家ノ前ヲ〔九字傍線〕(筑波禰乃禰呂爾可須美爲)通リ適ギカネテ、吐息ヲツイテヰルアノ御方ヲ、サア家ヘ〔四字傍線〕連レテ來テ、一緒ニ〔三字傍線〕寢テ行カセナサイ。アマリ可愛サウダカラ〔アマ〜傍線〕。
 
○筑波禰乃禰呂爾可須美爲《ツクバネノネロニカスミヰ》――筑波嶺の頂上に霞がかかつて、晴れ難い意を以て、須宜可提爾《スギガテニ》とつづく序詞。○須宜可提爾《スギガテニ》――上の序詞を受けてゐるが、本意は女の家の前を行き過ぎかねて。○伊伎豆久伎美乎《イキヅクキミヲ》――吐息をつく男を。○爲禰?夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》――率て共に寢て行かしめよの意。ヤラサネは遣ラセに同じく、命令である。第三者が言ふ言葉である。
〔評〕 序詞は高山らしく、地方色をあらはしてゐる。結句を第三者の言にしたのが、俚謠らしい氣分になつてゐる。略解に「ゐねてやれと他より令《オホ》する樣に言ひて、實は自願ふこと也」とあるのは考の説を受けついだものであるが、誤つてゐる。島木赤彦氏は今の人が獨語的に「やつてやれ」「爲方がない書いてやれ」といふのと同じだといつてゐるのも、結局、略解と同説である。
 
3389 妹が門 いや遠そきぬ 筑波山 かくれぬ程に 袖はふりてな
 
伊毛我可度《イモガカド》 伊夜等保曾吉奴《イヤトホソキヌ》 都久波夜麻《ツクバヤママ》 可久禮奴保刀爾《カクレヌホドニ》 蘇提婆布利?奈《ソデハフリテナ》
 
(373)別レテ出テ來タ〔七字傍線〕女ノ家ハ、愈々遠ク離レテシマツタ。アノ家ガ〔四字傍線〕筑波山ノ〔二字傍線〕蔭ニ隱レナイウチニ、袖ヲ振ラウ。サウシテ女トノ別ヲ惜シマウ〔サウ〜傍線〕。
 
○伊夜等保曾吉奴《イヤトホソキヌ》――彌々遠く離れた。ソクは退く。放《サカ》る。○蘇提婆布利?奈《ソデハフリテナ》――布利氏?《フリテナ》は振りてむに似てその意が強く、且古格である、自己についてのみいふのが常である。これを相手の女の動作に對する希望のやうに見るのは誤つてゐる。
〔評〕 女との別を悲しむ歌。筑波山麓に住む人の作だ。「防人に立行く道にてよめるか」と考にあつて、諸註それを受けついでゐるが、さうとも定め難い。
 
3390 筑波嶺に かか鳴く鷲の 音のみをか 鳴き渡りなむ 逢ふとはなしに
 
筑波禰爾《ツクバネニ》 可加奈久和之能《カカナクワシノ》 禰乃未乎可《ネノミヲカ》 奈岐和多里南牟《ナキワタリナム》 安布登波奈思爾《アフトハナシニ》
 
私ハ戀シイ人ニ〔七字傍線〕逢ハレナイデ、(筑波禰爾可加奈久和之能)聲ヲ出シテ泣イテバカリ日ヲ送ルコトデアラウカ。アア悲シイ〔五字傍線〕。
 
○可加奈久和之能《カカナクワシノ》――カカナクはカカと鳴くで、カカは鷲の鳴く聲であらう。考に「景行天皇紀に、相模海にて覺賀《カガ》鳥の聲せしてふ事有、其覺賀はここを以て假字とし、ここは覺賀の字を以て濁るべきなり」とあるが、カガと濁る説は遽かに從ひ難い。和名抄に、「文選蕪城賦云、寒鴟嚇v雛嚇讀加加奈久」とある。大祓祝詞に、「速開都比呼云神|持可可呑《モチカカノミ》?牟」とある可可《カカ》も呑む音で、これと同意であらう。
〔評〕 序詞に地方色が らはれてゐるだけで、用語はみやびやかである。一體に上品な作である。袖中抄に載せてある。
 
3391 筑波嶺に 背向に見ゆる 葦穗山 あしかるとがも さね見えなくに
 
(374)筑波禰爾《ツクバネニ》 曾我比爾美由流《ソガヒニミユル》 安之保夜麻《アシホヤマ》 安志可流登我毛《アシカルトガモ》 左禰見延奈久爾《サネミエナクニ》
 
アノ人ハ別ニ是ゾト云ツテ〔アノ〜傍線〕(筑波禰爾曾我比爾美由流)惡イ缺點モホントニ見エナイヨ。ナツカシイ御方ダ〔八字傍線〕。
 
○曾我比爾美由流安之保夜麻《ソガヒニミユルアシホヤマ》――曾我比《ソガヒ》は背向。筑波山の後方に見える葦穗山といふのである 葦穗山は筑波山の北方に連なり、その北は加波山である。大日本地名辭書に「古人のいへるは、今の加波山をも汎く呼びて、佛頂山に至るまでの一脉。五六里に亘れる横嶺の惣名とせり」とある。今、足尾山と記す。略解に「あしほ山は下野國にて、筑波よりは北、二荒山の山つづき也」とあるのは、考も同意になつてゐるが、大なる誤である。以上の三句は序詞で、アシの音を繰返して下につづいてゐる。○安志可流登我毛《アシカルトガモ》――惡しかる咎も。登我《トガ》は缺點。○左禰見延奈久爾《サネミエナクニ》――左禰《サネ》は實。實に。ホントニ。
〔評〕 女が男を讃美した歌であらう。序詞のみが長くて、主意を言ひ盡してゐないやうでもある。古義は、女の容儀に一點の難點もないが、我につれないのだけが缺點だと、男が嘆じた歌として解してゐる、和歌童蒙抄に載せてある。
 
3392 筑波嶺の いはもとどろに 落つる水 世にもたゆらに 吾が思はなくに
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 伊波毛等杼呂爾《イハモトドロニ》 於都流美豆《オツルミヅ》 代爾毛多由良爾《ヨニモタユラニ》 和家於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》
 
(筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆)決シテ、グラツクヤウナ心デ、私ハアナタヲ〔四字傍線〕思ツテハ居マセヌヨ。
 
○筑波禰乃伊波毛等杼呂爾於都流美豆《ツクバネノイハモトドロニオツルミヅ》――序詞で、下の多由良爾《タユラニ》につづいてゐる。筑波嶺の岩もとどろに落つ(375)る水とは男女《ミナノ》川を指すか。常陸風土記に「筑波岳東峰四方盤石昇降決屹、其側流泉冬夏不絶」とあるものであらう。○代爾毛多由良爾《ヨニモタユラニ》――代爾毛《ヨニモ》は決して。多由良爾《タユラニ》は水の寛けく多い意から、轉じて動搖することにかけてゐる。我は動搖するやうな心は持たず、ひたすら君を念へるよの意。○和家於毛波奈久爾《ワガオモハナクニ》――家は我の誤であらう。古本多くはさうなつてゐる、元暦校本のみは於の字が無い。下の二句は上の阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能余爾母多欲良爾故呂何伊波奈久爾《アシガリノトヒノカフチニイヅルユノヨニモタヨラニコロガイハナクニ》(二三六八)と酷似してゐる」
〔評〕 筑波嶺を序詞にとり入れたのみで、地方色はあまり濃厚でない。この序詞を阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能《アシガリノトヒノカフチニイヅルユノ》に變へることも出來る。否その方が一層面白いやうである。
 
3393 筑波嶺の をてもこのもに 守部すゑ 母い守れども 魂ぞ逢ひにける
 
筑波禰乃《ツクバネノ》 乎?毛許能母爾《ヲテモコノモニ》 毛利敝須惠《モリベスヱ》 波播已毛禮杼母《ハハイモレドモ》 多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》
 
母ハ(筑波禰乃乎?毛許能母爾毛利敝須惠)番ヲシテ二人ヲ逢爪セヌヤウニ〔シテ〜傍線〕スルケレドモ、二人ノ〔三字傍線〕魂ハ行通ツテ〔四字傍線〕逢ツテヰルヨ。二人ハ段々親シクナツテ行クノミダ〔二人〜傍線〕。
 
○乎?毛許能母爾《ヲテモコノモニ》――彼面此面に。前の安思我良能乎?毛許乃母爾佐須和奈乃《アシガラノヲテモコノモニサスワナノ》(三三六一)と同樣である。○毛利敝須惠《モリベスヱ》――毛利敝《モリベ》は守部。番をする人たち。山にゐる守部は即ち山守である、須惠《スヱ》は置きに同じ。以上の三句は毛禮杼母《モレドモ》につづく序詞。○波播已毛禮杼母《ハハイモレドモ》――舊訓ハハコモレドモとあるが、已はイの音假名に違ひない。考に可の誤として、ハハガモレドモ、宣長が巴の誤としてハハハモレドモとしたのも皆よくない。イは主語の下に添へて用ゐる助詞で、意味はない。○多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》――二人の魂が逢つたといふのは、二人の交情が益々濃やかになつて行くをいふ。卷十三に玉相者君來釜八跡《タマアハバキミキマスヤト》(三二七六)とある。
〔評〕 卷十二に靈合者相宿物乎小山田之鹿猪田禁如母之守爲裳《タマアハバアヒネムモノヲヲヤマダノシシタモルゴトハハシモラスモ》(三〇〇〇)とあるのに似てゐる。この歌は乎?毛許能(376)母《ヲテモコノモ》といふ東語らしいものを除くと、全體的には優雅な作品で、結句にあらはれた情緒は涙ぐましいばかりの哀が籠つてゐる。しかし女の心を謠つた民謠式のものであるから、やはり東國人の作であらう。古今集の東歌に「筑波嶺のこの面かの面にかげはあれど君が御蔭にます蔭はなし」などの言ひ方は、この歌から出たものであらう。
 
3394 さ衣の 小筑波嶺ろの 山のさき 忘らえ來ばこそ 汝を懸けなはめ
 
左其呂毛能《サゴロモノ》 乎豆久波禰呂能《ヲツクバネロノ》 夜麻乃佐吉《ヤマノサキ》 和須良延許波古曾《ワスラエバコソ》 那乎可家奈波賣《ナヲカケナハメ》
 
私ハ女ニ別レテ、今筑波山ノ下ヲ通ルガ〔私ハ〜傍線〕、(左其呂毛能)筑波嶺ノ山ノ鼻ヲ通ル時ニ、殘シテ出テ來タオマヘヲ〔ヲ通〜傍線〕忘レテ行カレルナラバコソ、オマヘ〔二字傍線〕ノ名ヲ口ニ懸ケテ言ハナイデアラウガ、ドウシテモ忘レラレナイカラ、カウシテ言ツテヰルノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○左其呂毛能《サゴロモノ》――枕詞。狹衣の緒とつづくのであらう。○乎豆久波彌呂能《ヲツクバネロノ》――小筑波嶺ろの。ヲは添へて言ふのみ。○夜麻乃佐吉《ヤマノサキ》――山の岬。山の鼻を通りつつの意。○和須良延許波古曾《ワスラエコバコソ》――忘られて來らばこそ。來《コ》は行くに同じ。新訓は元暦校本に延の字がないのによつてワスラコバコソと訓んでゐる。○那乎可家奈波賣《ナヲカケナハメ》――汝を懸けざるならめの意。可家《カケ》は口に懸けて言ふこと。ナハはナフの變化で、ヌに同じく打消である。
〔評〕 用語が全く東語で綴られて、いかにも東歌らしい作である。女に別れて來た男の心が詠んである。必ずしも旅に出る時の作とはし難い。
 
3395 小筑波の 嶺ろに月立し 逢ひた夜は さはだなりぬを また寢てむかも
 
乎豆久波乃《ヲツクバノ》 禰呂爾都久多思《ネロニツクタシ》 安比太欲波《アヒタヨハ》 佐波太奈利努乎《サハダナリヌヲ》 萬多(377)禰天武可聞《マタネテムカモ》
 
筑波山ノ峯カラ月ガ毎夜毎夜〔四字傍線〕立チ上ツテ、私ガアノ人ト〔六字傍線〕逢ツタ夜カラ〔二字傍線〕ハ、澤山日數ガ經ツタガ、又二人デ共〔四字傍線〕寢シタイモノダヨ。ソノ時ガ待チ遠イヨ〔九字傍線〕。
 
○禰呂爾都久多思《ネロニツクタシ》――嶺ろに月立ちの意であらう。○安比太欲波《アヒタヨハ》――逢ひたる夜は。今の口語と同じく、タリの意のタが用ゐられてゐるのが面白い。略解に間夜《アヒダヨ》と解し、古義に太を之に改めて、アヒシヨとしたのは、共によくない。太は多く濁音に用ゐられてゐるが、ここはタリの意らしい。○佐波太奈利努乎《サハダナリヌヲ》――サハダは澤山前に和多佐波太伊利奈麻之母乃《ワタサワダイリナマシモノ》(三三五四)とあつた。類聚古集に太の下に爾《ニ》の字がある。意は、さはだに成りぬるをであらう。○萬多禰天武可聞《マタネテムカモ》――再び相逢うて相寢むかよの意。
〔評〕 前の歌よりも更に一層東歌らしい作だ。筑波山の頂から出る月を見て、日數の經つたことを知るのは、暦のない上代僻陬の生活を思はしめるものがあり、萬多禰天武可聞《マタネテムカモ》の一句は實に天眞爛漫だ。
 
3396 小筑波の 繁き木の間よ 立つ鳥の 目ゆか汝を見む さ寢ざらなくに
 
乎都久波乃《ヲツクバノ》 之氣吉許能麻欲《シゲキコノマヨ》 多都登利能《タツトリノ》 目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》 左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》
 
私ハ貴方ト〔五字傍線〕共寢ヲシタコトガナイデモナイノニ、コンナ戀シク思ツテ〔コン〜傍線〕(乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能)目デアナタヲ見ルバカリデ過ゴスコトカヨ。
 
○乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能《ヲツクバノシゲキコノマヨタツトリノ》――序詞。目とつづくのは群《ムレ》の意にかけたのである。○目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》――目ゆか汝を見む。目でのみ汝を見ることであらうかの意。○左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》――さ寢ずあらなくに。共(378)寢しないのではないのに。略解・古義など寢ざるにの意としてゐる、
〔評〕 序詞は、樹木の欝蒼たる筑波山と、それから一齊に飛び立つ鳥の群との風景を思はしめるものがある。古今集の「筑波ねのこの面かの面にかげはあれど」も、新古今集の「筑波山は山しげ山しげけれど」も、いづれもこのあたりを根源としてゐるのである。常陸國十首の内で、以上の九首はすべて筑波山に關したものであるのは、如何にこの山が人口に膾炙してゐたかを示すものである。
 
3397 常陸なる 浪逆の海の 玉藻こそ 引けば絶えすれ あどか絶えせむ
 
比多知奈流《ヒタチナル》 奈左可能宇美乃《ナサカノウミノ》 多麻毛許曾《タマモコソ》 比氣波多延須禮《ヒケバタエスレ》 阿杼可多延世武《アドカタエセム》
 
常陸ノ國ノ浪逆ノ海ノ玉藻コソハ、引ケバ切レルモノダガ、私ハ〔二字傍線〕ドウシテ貴方ト〔三字傍線〕切レヨウカ、決シテ切レハシナイ〔九字傍線〕。
 
○奈左可能宇美乃《ナサカノウミノ》――浪逆の海は又浪逆の浦ともいふ。今は北浦の南方、利根の廣く江灣をなす部分を呼んでゐるが、古昔は利根川はここに注がず、鬼怒川ここに來つて、海をなしてゐた。この邊は河口に近く潮滿れば浪が逆流したので、かく呼んだのであらう。卷九の一七五七に掲げた上代の筑波附近想定圖參照。○阿杼可多延世武《アドカタエセム》――何故か絶えせむ。二人の關係は決して絶えることはないの意。
〔評〕 浪逆の海の玉藻に寄せて、二人の關係の絶えないことを詠んでゐる。常陸風土記に流海と記されてゐるが、水流の極めて緩やであつたこの海に、玉藻が多く繁つてゐたらうことは、想像するに難くない。結句が東語式になつてゐるだけの歌だ。
 
右十首常陸國歌
 
3398人皆の 言は絶ゆとも 埴科の 石井の手兒が 言な絶えそね
 
(379)比等未奈乃《ヒトミナノ》 許等波多由登毛《コトハタユトモ》 波爾思奈能《ハニシナノ》 伊思井乃手兒我《イシヰノテコガ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》
 
他ノ人タチトノ音信ハ凡テ〔二字傍線〕絶エテシマツテモ、格別可愛イ〔五字傍線〕埴科ノ石井ノ娘子トノ音信ダケハ、絶エナイデクレ。
 
○波爾思奈能伊思井乃手兒我《ハニシナノイシヰノテコガ》――埴科の石井の手兒が。埴科は信濃の郡名。河中島の南方、筑摩川の東方の小郡である。石井は地名であらうが、今その所在を知り難い。手兒は、處女《ヲトメ》といふに同じ。眞間の手兒奈の奈《ナ》を添へないだけである。○許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》――言は絶えるなかれ。コトは消息、音信。
〔評〕 埴科の石井の手兒は葛飾の眞間の手兒奈と同じく、その地方での代表的美人であつたのであらう。これも傳説上の人物であらうが、その時代の人になつて詠んだのである。明瞭鮮明な作だ。
 
3399 信濃道は 今のはり道 刈ばねに 足踏ましなむ 履はけ吾が夫
 
信濃道者《シナヌヂハ》 伊麻能波里美知《イマノハリミチ》 可里婆禰爾《カリバネニ》 安思布麻之奈牟《アシフマシナム》 久都波氣和我世《クツハケワガセ》
 
信濃街道ハマダ開拓シタバカリノ新道デス。竹ヤ木ノ切株ガ所々ニアリマスガ〔竹ヤ〜傍線〕、切株ニ足ヲ踏ミ付ケナサルデセウ。ソノ用心ニ〔五字傍線〕沓ヲ穿イテイラツシヤイヨ、我ガ夫ヨ。
 
○伊麻能波里美知《イマノハリミテ》――今の墾道。今は新しき意。今所知久邇乃京爾《イマシラスクニノミヤコニ》(七六八)・今造久爾乃王都者《イマツクルクニノミヤコハ》(一〇三七)とある。ハリは開墾すること。この句は卷十二の新治今作路《ニヒバリノイマツクルミチ》(一八五五)と同意である。○可里婆禰爾《カリバネニ》――苅株に。原義はよくわからないが、苅骨かも知れない。新考には苅生根《カリフネ》の轉としてゐる。但し同書に「今株をカブといふはカリ(380)ブの略か」とあるのは當らない。カブは頭《クブ》の轉である。○安思布麻之奈牟《アシフマシナム》――足踏み給ふであらう。シは敬語。舊本、安思布麻之牟奈《アシフマシムナ》とあり、シムは敬語で、足踏み給ふ勿れと解されてゐるが、宣長が玉勝間に述べたやうに、シムを敬語に用ゐることは、上代には無いから、ここは元暦校本に從つて、安思布麻之奈牟《アシフマシナム》とすべきであらう。○久都波氣和我世《クツハケワガセ》――履穿けよ吾が夫よ。
〔評〕 ここに信濃路とあるは、即ち木曾街道のことで、續紀によれば文武天皇の「大寶二年十二月壬寅、始開2美濃國岐蘇山道1」とあり、又元明天皇の「和銅六年七月戊辰、美濃信濃二國之堺、徑道險阻、往還艱難、仍通2吉蘇路1」とあり、その翌、「和銅七年閏二月戊午朔賜2美濃守從四位下笠朝臣麻呂封七十戸田六町1云々以v通2吉蘇路1也」とあつて、大寶二年に起工、十二年の歳月を費して、和銅六年に至つて完成し、その翌年美濃國守笠朝臣麻呂以下に論功行賞があつたのである。この歌はこの新道が開拓せらるた當時のことで、斷崖の密林を開いて作つたのであるから、至る所に木の切株などが露出してゐたであらう。これが木曾街道開拓の傍證となるわけである。又この歌はあの地方の女の作で、新道を行く夫の身を案ずる愛情があらはれた佳作である、なほ當時地方民の多くは履をも穿かないのを常としたことは、卷九の眞間娘子を詠んだ歌に、履乎谷不著雖行《クツヲダニハカズユケドモ》(一八〇七)とあるのを併せ考ふれば明らかである。
 
3400 信濃なる 千曲の川の さされしも 君しふみてば 玉と拾はむ
 
信濃奈流《シナヌナル》 知具麻能河泊能《チクマノカハノ》 左射禮思母《サザレシモ》 伎彌之布美?婆《キミシフミテバ》 多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》
 
信濃ノ國ノ筑摩川ノ小石モ、貴方ガオ踏ミニナツタナラバ、ソレヲ〔三字傍線〕玉ト思ツテ〔三字傍線〕拾ツテ大切ニシテ〔五字傍線〕置キマセウ。ツマラナイ小石デモ愛スル貴方ニ踏マレタノダト思ヘバ、ナツカシク貴クナリマス、ソレホド私ハ貴方ヲ思ツテ居リマス〔ツマ〜傍線〕。
 
(381)○知具麻能河泊能《チクマノカハノ》――知具麻能河泊《チクマノカハ》は千曲川。筑摩川とも記す。佐久郡川上村の甲武信嶽・國師嶽・金峰等の溪谷に發し海之口・野澤・小諸・上田を經て川中島に至り、犀川と合し、東北に流れて越後に入り信濃川といふ。○左射禮思母《サザレシモ》――サザレシはさざれ石。○伎彌之布美?婆《キミシフミテバ》――シは強めていふのみ。フミテバは踏みたらば。○多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》――玉として拾はむ。
〔評〕 優雅な歌である。それだけ東歌らしい感が乏しい。信濃奈流知具麻能河泊能《シナヌナルチクマノカハノ》と言つたのは地方人の言葉らしくないが、歌の内容は、やはり千曲川での作なるを肯定せねばならぬ。
 
3401 なかまなに 浮きをる船の 漕ぎ出なば 逢ふこと難し 今日にしあらずは
 
中麻奈爾《ナカマナニ》 宇伎乎流布禰能《ウキタルフネノ》 許藝?奈婆《コギデナバ》 安布許等可多思《アフコトカタシ》 家布爾思安良受波《ケフニシアラネバ》
 
私ガ乘ツテ旅ニ出ル筈ノアノ〔私ガ〜傍線〕中麻奈ニ浮イテ居ル船ガ、漕ギ出シタナラバ、私ハ貴方ニ〔五字傍線〕今日デナクテハ、モウ〔二字傍線〕逢フコトハムツカシイ。今日ノ内ニヨクヨク逢ツテ置カウ〔今日〜傍線〕。
 
(382)○中麻奈爾《ナカマナニ》――中麻奈は地名である、少くともこの卷の編者はこれを信濃の地名と考へたのである。併しその所在は明らかでない。荒木田久老の信濃漫録には「彼國人小泉好平がいひけるは、こは水内郡に中俣といふ村あり、そこなるぺしといへり。その地は千隈川へ犀川とすすばな河の流れ落る河股なり。今も上古船をつなぎし木ぞとて、大樹の株の殘れる、村の内にありといへり」とあるのは比較的よいやうであるが、遽かに從ひ難い。略解に中麻奈《ナガヲナ》と訓んで地名としたのも、古義は中志麻の誤として今の川中島としてゐるのも共によくない。○安布許等可多思《アフコトカタシ》――逢ふ事難からむといふべきを、確定的に言つたのである。
〔評〕 中麻奈がよくわからないが、これを除けば明瞭な歌で、東歌らしい氣分が薄い。船に乘つて旅に出る人が別を惜しんだ言葉であらうが(古義は留れる妻の歌としてゐる)、信濃の地形から考へると、かうした歌を詠むべき場所は殆ど無いやうである。或は中麻奈は、眞淵が言つたやうに地名ではなく、眞《マ》な中《ナカ》即ち中流の意なのを、この卷の編者が信濃の地名と勘違へして、ここに收めたのではあるまいか。
 
右四首信濃國歌
 
3402 日の暮に 碓氷の山を 越ゆる日は せなのが袖も さやに振らしつ
 
比能具禮爾《ヒノクレニ》 宇須比乃夜麻乎《ウスヒノヤマヲ》 古由流日波《コユルヒハ》 勢奈能我素低母《セナノガソデモ》 佐夜爾布良思都《サヤニフラシツ》
 
碓氷ノ山ヲ夕暮ニ越エテ別レテ行カレ〔七字傍線〕ル日ニハ、名殘ヲ惜シンデ私ガ袖ヲ振ルバカリデナク〔名殘〜傍線〕、夫モ袖ヲ目立ツテ烈シク〔三字傍線〕オ振リニナルヨ。
 
○比能具禮爾《ヒノグレニ》――日の暮に。冠辭考に枕詞として、日の暮に薄き日影の意としたのはよくない。○宇須比乃夜麻乎《ウスヒノヤマヲ》――碓氷の山は、上野國碓氷郡碓氷峠である。寫眞は著者撮影。○古由流日波《コユルヒハ》――越える日は。新考に(383)日を太陽としたのは、その意を得ない。○勢奈能我素低母《セナノガソデモ》 勢奈《セナ》は夫。恨登思狹名盤在之者《ウラミムトオモヒテセナハアリシカバ》(二五二二)のセナに同じ。ノは強流志斐能我《シフルシヒノガ》(二三六)のノと同じく、間に挾んだ助詞である。但し勢奈能《セナノ》を卷九の妹名根《イモナネ》(一八〇〇)と同一に見る説もある。○佐夜爾布良思都《サヤニフラシツ》――さやかに振り給ひつの意。上野歌解には神武天皇の御製に須賀多多美伊夜佐夜斯岐弖《スガタタミイヤサヤシキテ》とあるのを引いてサヤは許多の意としてゐる。
〔評〕 旅に出づる男を見送る女の歌。略解・古義など別れ行く女が袖を振りつつよんだやうに見てゐるのは誤である。特に比能具禮爾《ヒノクレニ》とある理由がよくわからないが、或は何か傳説を持つてゐる歌ではあるまいか。日本武尊の碓氷峠を越え給ふ時のことを想像したものとも、考へられないことはないが、やはり比能具禮《ヒノクレ》が穩やかでない。
 
3403 吾が戀は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも
 
安我古非波《ワガコヒハ》 麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》 於久母可奈思母《オクモカナシモ》
 
私ノ母ハ今モシミジミ〔四字傍線〕人ヲナツカシク思ツテヰル〔五字傍線〕。
 
(384)(久佐麻久良多胡能伊利野乃)今後モヤはり〔三字傍線〕ナツカシク思フヨ。私ハイツマデモ貴方ヲ思フ戀ハ止マナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》――麻左香《マサカ》は今。卷十二に眞坂者君爾縁西物乎《マサカハキミニヨリニシモノヲ》(二九八五)とある。可奈思《カナシ》は、いとしい。○久佐麻久良《クサマクラ》――枕詞で旅とつづくことに定つてゐるのに、ここは多胡につづいてゐる。これについて古義は「若しは薦枕《コモマクラ》多可《タカ》とつづくと同じく、枕を多久《タク》といふ意にてもあらむか」といつてゐる。併し代匠記の説のやうに草枕旅とつづく心で多《夕》の一字に連ねたのかも知れない。ともかく接續の意味がよく分らない。略解に「此草枕は、枕詞ならず、旅のさまをいふ」とあるのは從ひ難い。○多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》――多胡《タコ》は上野國多胡郡で、この郡を設置したことは續記に「和銅四年辛亥割2上野國甘樂郡、織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡、武美・片岡郡、山等六郷1別置2多故郡1」とあり、その時建てられた碑を多故の碑と稱し、今も池村にあるといふことだ。この郡は今、緑野郡と合して、多野郡と稱してゐる、上野の西南隅で、山地であるが、その平地と境するところ、即ち藤岡町の西方、吉井町に近く大字池・多胡村等がある。伊利野《イリヌ》は山の間に入り込んだ野であらう。今、吉井町の東方に入野村があるのは、この歌によつて名づけたものではないかと思はれるが、場所は大よそあの邊であらう。この句は奥《オク》と言はむ爲の序詞である。○於久母可奈思母《オクモカナシモ》――舊本、於父母《オフモ》とあるが、父は久の誤字なることを認めねばならぬ。於久《オク》は後、行末の意。
〔評〕 略解・古義に、夫が旅行の時、家に留つた妻の詠んだ歌とあるが、更に根據がない。唯、ある女性がその戀の變らぬことを述べたのである。可奈思《カナシ》を悲しと解した爲に、かく誤つたのである。女らしい一筋な戀心が詠まれた、よい歌である。
 
3404 上つ毛野 安蘇のまそむら かきむだき 寢れど飽かぬを あどかあがせむ
 
可美都氣努《カミツケヌ》 安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》 可伎武太伎《カキムダキ》 奴禮杼安加奴乎《ヌレドアカヌヲ》 安杼加安我世牟《アドカアガセム》
 
(385)(可美都氣努安蘇能麻素武良)掻キ抱イテ女ト〔二字傍線〕寢ルケレドモ、マダ飽キ足ラナク戀シク思フ〔五字傍線〕ガ、コノ上ハ〔四字傍線〕何ト私ハシタモノデアラウ。
 
○可美都氣努《カミツケヌ》――上つ毛野國即ち上野。上野歌解に努を、てにはの能《ノ》也とあるのは誤つてゐる。○安蘇能麻素武良《アソノマソムラ》――安蘇は、上野歌解に、「今甘樂郡に宇田村と云在、其村に小山あり、今峰山と云。其山を往古《ムカシ》より安蘇岡《アソヲカ》山と云ひ來れるを、今朝岡と書くと鈴木千本云り。云云」と言つてゐるが、附會の説である。この安蘇は今、下野の西端なる安蘇郡であらう。この郡は地形上、上野に屬すべきもので、上代はさうも考へられてゐたのであらう。下に志母都家努安素乃河泊良欲《シモツケヌアソノカハラヨ》(三四二五)とあるのは、それを證するやうに思はれる。麻素武良《マソムラ》は眞苧群。畑に植ゑた麻の密生したもの。ここまでの二句は可伎武太伎《カキムダキ》と言はむ爲の序詞である。畑の麻を苅り取り、これを束としたものを抱き運ぶから、かくつづける。○可伎武太伎《カキムダキ》――かき抱き。可伎《カキ》は接頭語。武太伎《ムダキ》はウダク・イダクと同語。女を抱くこと。○安杼加安我世牟《アドカアガセム》――安杼加《アドカ》はナドカに同じ。安我《アガ》は吾が。
〔評〕 隨分思ひ切つた官能的な歌であるが、戀にいらだつてゐる若い男の氣分はよく出てゐる。あの地方は今日でも麻の産地であるが、その麻を苅り取る時の所作を詠みこんで、巧に地方色をあらはしてゐる。但し安蘇をここに上つ毛野としてゐるのに、下に下つ毛野に入れた歌があるのは、眞にその地方で作つたものではないことを示すやうに思はれる。
 
3405 上つ毛の をどのたどりが 川路にも 兒らは逢はなも 一人のみして
 
可美都氣乃《カミツケノ》 乎度能多杼里我《ヲドノタドリガ》 可波治爾毛《カハヂニモ》 兒良波安波奈毛《コラハアハナモ》 比等理能未思?《ヒトリノミシテ》
 
上野ノ乎度ト云フ所ノ多杼里ノ川ノホトリノ路ヲ、私ハ今一人デ行クガ、コンナ淋シイ〔路ヲ〜傍線〕路ニデモ、私ハ〔二字傍線〕唯一人デ來ル〔二字傍線〕アノ女ト逢ヒタイモノダヨ。人目ニツカナイデ逢フコトガ出來タラサゾヨカラウ〔人目〜傍線〕。
 
(386)○可美都氣乃《カミツケノ》――元暦校本・類聚古集その他、乃を努に作つてゐるのに從ふべきであらう。○乎杼能多杼里我《ヲドノタドリガ》――乎杼《ヲド》の多杼里《タドリ》は地名らしい。乎杼《ヲド》は次の或本歌に乎野《ヲヌ》とあり、略解に、小野郷は和名抄に甘樂・緑野・群馬の三郡にあるから、その中であらうと言つてゐるが、どこか分らない。多杼里《タドリ》は古義に川の名であらうとあるが、これも明らかでない。○可波治爾毛《カハヂニモ》――川路にも。淋しい川添の路ででもの意。○兒良波安波奈毛《コラハハナモ》――兒良《コラ》は女をいふ。安波奈毛《アハナモ》は逢はなむに同じ。
〔評〕 人目を忍んで女を慕つてゐる男の歌で、第二句が鮮明を缺くが、三句以下はまことに可憐な情緒である。
 
或本歌曰 かみつけの を野のたどりが あは路にも せなは逢はなも 見る人なしに
 
或本歌曰 可美都氣乃《カミツケノ》 乎野乃多杼里我《ヲヌノタドリガ》 安波治爾母《アハヂニモ》 世奈波安波奈母《セナハアハナモ》 美流比登奈思爾《ミルヒトナシニ》
 
第一句は前歌と同樣であるが、これには乃を努とした異本がない。第二句|乎度《ヲド》がこれでは乎野《ヲヌ》になつてゐる。第三句|安波治《アハヂ》は前歌の如く可波治《カハヂ》とあるべきであらう。第四句|世奈《セナ》は前歌に兒良《コラ》とあるのと異なり、女性の歌になつてゐる。第五句|美流比登奈思爾《ミルヒトトシニ》は前歌の比等理能未思?《ヒトリノミシテ》と同意である。
 
3406 上つ毛野 佐野のくくたち 折りはやし あれは待たむゑ 今年來ずとも
 
可美都氣野《カミツケヌ》 左野乃九久多知《サヌノククタチ》 乎里波夜志《ヲリハヤシ》 安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》 許登之許受登母《コトシコズトモ》
 
私ハ貴方ノオイデヲ待ツテ居マスガ、萬一〔私ハ〜傍線〕今年オイデガナイニシテモ、貴方ノオ好キナ〔七字傍線〕上野ノ佐野ニ出來ル莖立菜ヲ里人ト共ニ賑ヤカニ折ツテ、私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕オ待チシマセウヨ。ソレニシテモ、モウオイデナサリサウナモノ(387)ダノニ、ドウシタノデアラウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○左野乃九久多知《サヌノククタチ》――左野《サヌ》は上野國群馬郡佐野。下に佐野田《サヌダ》(三四一八)・佐野乃布奈波之《サヌノフナバシ》(三四二〇)などあるところと同所であらう。高崎市の南方約半里、烏川に添うた地である。九久多知《ククタチ》は莖立。和名抄に、「〓久々太知、俗用2莖立二字1蔓菁苗也」とある。蔓菁は卷十六に食薦敷蔓菁※[者/火]將來※[木+梁]爾縢懸而息此公《スゴモシキアヲナニモチコウツバリニムカバキカケテヤスムコノキミ》(三八二五)とあつて、アヲナと訓んであるから、ククタチはアヲナの苗といふことになる。併し又別に和名抄には「蘇敬本クサ註云蕪菁北人名2之蔓菁1阿乎奈、楊雄方言云、陳宋之間蔓菁曰v※[草がんむり/封]毛詩云、采v※[草がんむり/封]采v韮無v以2下體1加布良、下體、根莖也、此菜者、蔓菁與v〓之類也、方言云、趙魏之間謂2蕪菁1爲2大芥1小者謂2之辛芥1太加奈」とあり、蔓菁はアヲナの外に蕪《カブラ》又はタカナにも用ゐられてゐる。けれども右の卷十六の歌はアヲナであることは間違ひがない。持統天皇紀には蕪菁をアヲナと訓し、古事記仁徳天皇の條には、於是爲v煮2大御羮1採2其地之菘菜1時天皇到2坐其孃子之採v菘處歌曰、として夜麻賀多迩麻祁流阿袁那母岐備比登登等母迩斯都米婆多怒斯久母阿流迦《ヤマガタニマケルアヲナモキビヒトトトモニシツメバタヌシクモアルカ》と見えてゐる。これによると菘菜・菘をアヲナに用ゐたのである。これから考へると古義にアヲナを加夫良菜《カブラナ》としたのは穩かでなく、狩谷掖齋の箋注倭名類聚抄に、ナは菜蔬の總名でアヲナはその一種、是は專ら葉を食べるから、アヲナといふ、と説いたのがよい。つまり上代に於ける最も流布された、蔬菜の種類であらうと思ふ。白井光太郎氏の植物渡來考には、「アヲナ漢名菘一名白菜以上訂正植物彙和名シラクキナ草木圖説原産地未詳、支那にては名醫別録に始めて記載す。日本にては古事記に、仁徳天皇が吉備の國に行幸ありし時、黒日賣命が其地の菘菜を探りて、羮を作りて天皇に進め奉りし記事あり。當時已に舶來ありしなり」と述べて、アヲナを白菜としてゐるが、これはアヲナといふ稱呼からしても、肯定することは出來ない。(388)アヲナは今のタカナに似て小さく、辛味のない種頬であらうと思ふ。さてクキタチは右に引いた和名抄の文によつても、アヲナの苗だといふことだが、この名稱が今北陸地方に廣く行はれてゐるのは頗るおもしろいことである。地方人の内には、フキタチと稱へる者もあるが、それがクキタチの訛音なることは言ふまでもない。植物和漢辭林には、クキタチ・ククタチはアブラナ(※[草がんむり/雲]薹)の別名としてあつて、菜種の苗と見てゐるやうである。筆者が目下住んでゐる金澤地方では、油菜の未だ薹に立たぬものを、クキタチと稱する者もあるやうだが、特に蔬菜として食用に供する爲に作るのが、本當のクキタチである。その形態は右に述べたやうに、タカナに似て小さく、色の青いもので、その味は如何にも原始的な野生種に近い感じがするのである。クキタチといふ名は春早く雪のある内から、早くも薹に立つて花をつけるからで、その點も亦タカナに似てゐる。上代のアヲナ・ククタチは必ず同一物で、アヲナをその薹に立つ頃から、クキタチ・ククタチと言つたものであらうと思はれる。○乎里波夜志《ヲリハヤシ》――折り映やし。賑やかに折り取ること。里人と共に野に出て、莖立を折り摘むのであらう。この波夜志《ハヤシ》の解は種々に分れてゐる。「今年の莖立を人を待つ設に折て、又來年の莖立をはやすなり」(代匠記精撰本)「はやしは物を榮あらする事にて卷十六に、吾角は御笠のはやし、吾宍は御膾はやしなどいへるにひとし」(考)(略解・上野歌解も同じ)「凡て波夜須《ハヤス》といふ言は、榮《ハエ》あらしむ意なれば、一つの物を切り折りて、二つにも三つにも爲《ナス》をいふなり」(古義)「ヲリハヤシのハヤシは調製することにて、ここにては鹽漬にすることならむ」(新考)などで、中には隨分突飛なものもある。○安禮波麻多率惠《アレハマタムヱ》――惠《ヱ》はヨに同じ。我は君を待たうよの意。
〔評〕 旅に出た夫の遲い歸りを待ちわびて、春淺い頃、里の少女等と野に生ふる莖立を摘みながら、戀人を思つてゐるやるせない妻の心が、調つた韻律に盛られてゐる。
 
3407 上つ毛野 まぐはしまとに 朝日さし まぎらはしもな 在りつつ見れば
 
可美都氣努《カミツケヌ》 麻具波思麻度爾《マグハシマトニ》 安佐日左指《アサヒサシ》 麻伎良波之母奈《マギラハシモナ》 安利都退見禮婆《アサリツツミレバ》
 
(389)私ハ戀シイ御方ヲカウシテ〔私ハ〜傍線〕、對ヒアツテ見テヰルト(可美都氣努麻具波思麻度爾安佐日左指)マバユイヤウナ氣ガスルヨ。逢ヘナイ時ハ逢ヒタイト思フガ、御目ニカカレバ何トナク恥カシイヤウナ心地ガスルヨ〔逢ヘ〜傍線〕。
 
○麻具波思麻度爾《マグハシマトニ》――麻具波思麻度《マグハシマト》はよく分らない。仙覺・契冲は美しい窓の意に解いてゐるが、地名と見るべきもののやうである。考に眞桑島といふ島の渡瀬と見たのがよいか。上野歌解には目妙島門《マクハシシマド》とし、目妙は其處を譽めた詞だといつてゐる。眞桑といふ地名は今は聞えないが、利根川の沿岸にあつたのであらう。○安佐日左指《アサヒサシ》――朝日指し。ここまでの三句は眞桑島といふ利根川沿岸の地に、朝日が指し、水面に映じて、目映《マバユ》い意で下につづく序詞であらう。○麻伎良波之母奈《マギラハシモナ》――麻伎良波之《マギラハシ》は目がきらきらと目映ゆいこと。モナはいづれも詠嘆の辭である。○安利都追見禮婆《アリツツミレバ》――かうして居て見れば。二人向ひ合つてゐて見ればの意。
〔評〕 戀人と相對して面はゆく恥かしい氣分である。女らしい、しとやかさが見える。
 
3408 新田山 嶺にはつかなな わによそり はしなる兒らし あやにかなしも
 
爾比多夜麻《ニヒタヤマ》 禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》 和爾余曾利《ワニヨソリ》 波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》 安夜爾可奈思(390)母《アヤニカナシモモ》
 
新田山ガ他ノ〔二字傍線〕嶺ニハツカナイデ、孤立シテヰルヤウニ〔九字傍線〕、私ニ世ノ人ガ関係アルヤウニ〔世ノ〜傍線〕言ヒ寄セテヰルガ、實ハ未ダサウハナツテヰナイデ〔實ハ〜傍線〕、中ブラノ態度ヲ取ツテ居ル〔八字傍線〕女ガ、不思議ニ可愛イヨ。
 
○爾比多夜麻《ニヒタヤマ》――新田山。和名抄に新田郡新田郷がある、新田は其處の山で即ち今の大田町の背後なる金山である。その頂上に新田義貞を祀つた新田神社がある。寫眞は著者撮影。〇禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》――嶺には着かないで。嶺に着かずとは、この山が他の高嶺に連絡せず孤立してゐること。古義が地理を知らずして、この説をなしたのは卓見である この山は上野平野の北部中央に、孤島の如く、離れて立つてゐる。ツカナナは着かなくに同じ。ナナは東語で無しの活用である 下の宿奈美那里爾思於久乎可奴加奴《ネナナナリニシオクヲカヌカヌ》(三四八七)・和須禮婆勢奈那伊夜母比麻須爾《ワスハヘセナナイヤモヒマスニ》(三五五七)・卷二十の於妣波等可奈奈阿也爾加母禰毛《オビハトカナナアヤニカモネモ》(四四二二)などの例がある。初二句は孤立してゐる譬喩で、第四句の波之奈流兒良《ハシナルコラ》につづいてゐる。これを新田山の嶺に雲の着かぬ如くと代匠記に解し、これに從ふ説が多いが、雲といふ語はないから、さう見るべきでない。○和爾余曾利《ワニヨソリ》――人が我に言ひ寄せてゐるの意であらう。古義は「心は我に依ながら」と解してゐる。○波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》――間《ハシ》なる兒等し。間はどつち附かず、中ぶらの状態にあるをいふ。さう見なければ初二句へつづかない。
〔評〕 一寸難解な歌であるが、それだけ東歌らしい要素を多分に備へてゐる。袖中抄にも載せてある。
 
3409 伊香保ろに 天雲いつぎ かぬまづく 人とおたばふ いざ寢しめとら
 
伊香保呂爾《イカホロニ》 安麻久母伊都藝《アマクモイツギ》 可奴麻豆久《カヌマヅク》 比等登於多波布《ヒトトオタバフ》 伊射禰誌米刀羅《イザネシメトラ》
 
アノ通リ〔四字傍線〕伊香保ノ嶺ニ、天雲ガ頻リニ後カラ後カラ〔九字傍線〕立チツヅイテ、上ノ沼ニ降リテ〔三字傍線〕着イテヰル。丁度アノ雲ノ(391)ヤウニ私ト貴方トハ心ガ一ツダト〔丁度〜傍線〕人ガ評判シ〔三字傍線〕騷グヨ。コンナニ人ニ言ハレル以上ハ〔コン〜傍線〕、サア一緒ニ〔三字傍線〕寢マセウヨ。女ヨ。
 
○伊香保呂爾《イカホロニ》――伊香保に。ロは添へて言ふのみ。伊香保は今の伊香保温泉から榛名方面に亘つた廣い地方をさしたらしい。○安麻久母伊都藝《アマクモイツギ》――天雲い繼ぎ。イは接頭語で意味はない。○可奴麻豆久《カヌマヅク》――わからない句である。代匠記に彼眞附《カノマツク》と解してゐるが、やはりわからない。略解にカヌマを地名としてゐるのは、下野鹿沼をさすか。この地は伊香保と並べ考ふべき地形ではなく、且、拒離が遠過ぎる。伊香保から鹿沼は見えず、鹿沼からも伊香保は見えない。下にも伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久《イハノヘニイカカルクモノカヌマヅク》(三五一八)とあり、地名らしくも思はれる。或は上野歌解にあるやうに、伊香保の沼をさしたものかも知れない。きうすれば神沼《カムヌマ》又は上沼《カミヌマ》の略と見るべきであらう。伊香保山の雲が伊香保の沼に降りて來て着く、そのやうに人が自分とおまへとの間を言ひ騷ぐと見ることが出來る。なほ、兩毛國境、鬼怒川の水源地に鬼怒沼山があつて、標高二一四〇米である。鬼怒は即ち毛野で、毛野國の名がこれから出てゐるのであるから、この山も上代人の注目したもので、カヌマはこのケヌヌマの轉ではあるまいか。ここに私案を書き添へて置く。○比等登於多波布《ヒトトオタバフ》――下に比等曾於多波布《ヒトゾオタバフ》(三五一八)とあるによれば、登は曾の誤か。又はこの儘でゾと同意と見るべきか。オタバフは略解に、おらぶに同じく言騷がれることとしたのに從はう。その他種々の説があるが、いづれも無理が多い。○伊射禰誌米刀羅《イザネシメトラ》――イザはサアと誘ふ語。ネシメは寢さしめよといふことか。トラは助詞と見る説もあるが、刀は己《コ》の誤とする説に暫く從つて置かう。コラは女ら。
〔評〕 難解な東歌中でも、最も難解を以て聞えた歌である。下に伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久比等曾於多波布伊射禰之賣刀良《イハノヘニイカクルコムノカヌマヅクヒトゾオタバフイザネシメトラ》(三五一八)とあつて、同歌の轉じたものなることは明らかであるが、これと對比して見ると誤字があることも想像せられる。
 
3410 伊香保ろの そひのはり原 ねもころに 奥をなかねそ まさかしよかば
 
(392)伊香保呂能《イカホロノ》 蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》 禰毛己呂爾《ネモコロニ》 於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》 麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》
 
今サヘ二人ガ樂シクカウシテ逢フコトガ出來テ、都合ガ〔二人〜傍線〕ヨイナラバ、カレコレト〔五字傍線〕(伊香保呂能蘇比乃波里波良)深ク行末ヲ心配シテ〔四字傍線〕心ニカケナサルナ。先ハ先トシテ、今ノ逢瀬ヲ樂シマウデハアリマセンカ〔先ハ〜傍線〕。
 
○蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》――ソヒは代匠記初稿本に「そひは傍なり。川そひ柳などいふごとし。山《ヤマ》の岨《ソハ》といふも山にそひてかたはらを、行やうの所をいへば、もとはおなじことばなるべし」とある。添と岨《ソハ》とを、同語源とするのは從ひ難いが、山の崖のやうなところをソヒといふのであらう。下に伊波保呂乃蘇比能和可麻都《イハホロノソヒノワカマツ》(三四九五)とある。波里波良《ハリハラ》は榛原とも萩原とも解せられるが、下に伊可保呂乃蘇比乃波里波良和我吉奴爾都伎與良之母與比多敝登於毛敝婆《イカホロノソヒノハリハラワガキヌニツキヨラシモヨヒタヘトオモヘバ》(三四三五)とあるから、萩原であらう。但し萬葉のハリが榛か萩かについては、なほ今後の攻究に俟つべき點が多い。以上の二句は根とつづく序詞。この句に續けずに奧につづくものとする説も多い。 ○禰毛己呂爾《ネモコロニ》――懇ろに。はり原の根とつづいてゐる。○於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》――於久《オク》は奥で、行末の意。この句は行末を心配するなといふのである。○麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》――麻左可《マサカ》は今。現在。ヨカバは良からば。
〔評〕 眼前の戀の陶醉に行末を忘れた人の歌。男性の作か、女性の作かは分らない。やはり民謠であらう。よく整つた難のない作である。
 
3411 多胡の嶺に よせ綱はへて 寄すれども あに來やしづし そのかほよきに
 
多胡能禰爾《タコノネニ》 與西都奈波倍?《ヨセツナハヘテ》 與須禮騰毛《ヨスレドモ》 阿爾久夜斯豆志《アニクヤシヅシ》 曾能可把與吉爾《ソノカホヨキニ》
 
(393)多胡ノ峯ニ引綱ヲ引張ツテ引寄セルケレドモ、アノ山ハ〔四字傍線〕顔付ダケハ穩ヤカニ良〔五字傍線〕ササウニシテヰルガ、ドウシテコチラヘ寄ツテ來ヨウヤ。泰然トシテ少シモ動カナイヨ。アノ女ハ人ノ言ニ從ヒサウデ、少シモ從ハナ情ナ女ダ〔泰然〜傍線〕。
 
○多胡能禰爾《タコノネニ》――多胡の嶺に。多胡は前に多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》(三四〇三)とあつた地方の山。上野歌解に、三株・八束・牛伏などの山をすべていふのであらうと言つてゐる。○與西都奈波倍?《ヨセツナハヘテ》――與西都奈《ヨセツナ》は引き寄せる爲の綱で、波倍?《ハヘテ》は引き延へて。綱をかけての意。○阿南久夜斯豆之《アナクヤシヅシ》――豈來や靜しの意で、豈來らむや、平氣な顔をして靜かにしてゐるといふのであらう。舊訓アニクヤシツノとあるに從つて、代匠記は豈來や鹿の其の皮良きにと釋いてゐるのは苦しい説明である。元暦校本、之を久に作つてゐるが、考は之を久に改めて、アニクヤシツクとし「敢惡《アヘニク》く鎭りゐてよらぬなり」と解してゐる。略解はこれに從ひ、古義は豈來耶沈石《アニクヤシヅシ》と解してゐる。いづれも當らないが、古義のは殊にむづかしい。○曾能可把與吉爾《ソノカホヨキニ》――その女の顔のみ穩やかに、人の言葉に從ひさうな態度ながらの意。考に把は抱の誤とある。
〔評〕 多胡の嶺に綱をかけて引き寄せるといふのは、面白い譬喩である。出雲風土記の意宇郡國引の條や、祈年祭祝詞のトホキクニハヤソツナウチカカテヒキヨスルコトノゴトクの句が思ひ出される。從ひさうで強情な女を恨んだ歌。第四句は少し難解である。
 
3412 上つ毛野 くろほの嶺ろの くずはがた かなしけ兒らに いやさかり來も
 
賀美都氣野《カミツケヌ》 久路保乃禰呂乃《クロホノネロノ》 久受葉我多《クズハガタ》 可奈師家兒良爾《カナシケコラニ》 伊夜射可里久母《イヤサカリクモ》
 
後ニ殘シテ別レテ出テ來夕〔後ニ〜傍線〕(賀美都氣野久路保乃禰呂乃久受葉我多)可愛イ女ト益々遠ク離レテ來タヨ。アア心細ク戀シイ〔八字傍線〕。
 
(394)○久路保乃禰呂乃《クロホノネロノ》――赤城山塊の最高峯を今、黒檜嶽《クロヒダケ》といふ、これが即ち久路保乃禰呂《クロホノネロ》であらう。その東南麓に黒保根村がある、寫眞は赤城山。右端の高處が久郎保乃禰呂《クロホノネロ》であらう。○久受葉我多《クズハガタ》――地名と見る説もあるが、今かういふ地名がない。下野安蘇郡に葛生町があるけれども、勢多郡なる赤城山とは足利郡を隔てて、遠く離れてゐる。略解に「豆良の約多なればくずはがたは、葛葉かづら也」とある。葛葉かづらは、語として葉が不要のやうであるから、葛葉如《クズハゴト》の東語かも知れない。ここまでの三句は可奈師家《カナシケ》の譬喩として置いた序詞である。○可奈師家兒良爾《カナシケコラニ》――愛する女に。○伊夜射可里久母《イヤサカリクモ》――彌遠放り來るよ。女の家より益々遠く離れ行くよといふのである。
〔評〕 旅に行く男が、妻の家を顧みつつ行く場合の心であらう。上句の序詞が少し落つかぬやうであるが、下句はあはれに詠まれてゐる。
 
3413 利根川の 川瀬も知らず ただわたり 浪に逢ふのす 逢へる君かも
 
刀禰河泊乃《トネガハノ》 可波世毛思良受《カハセモシラズ》 多多和多里《タダワタリ》 奈美爾安布能須《ナミニアフノス》 安敝流伎美可母《アヘルキミカモ》
 
利根川ノ淺瀬ハ何處ニカルト〔七字傍線〕モ知ラナイデ、無暗ニ渡ツテ高〔傍線〕波ニ出逢ツテ危カツ〔四字傍線〕タヤウニ、危イ所デ〔四字傍線〕貴方ニ逢ツタモノデスヨ。モウ少シデ人目ニ觸レテ大變デアツタノニ、マヅヨカツタ〔モウ〜傍線〕。
 
○刀禰河泊乃《トネガハノ》――刀禰河沼《トネガハ》は利根川。この川は上野國利根郡から出て、(395)片品川・吾妻川などを合せて、赤城・榛名兩山の間を流れ、東に轉じて、武藏・上野の國境を下り、常陸・下總の界をなし、遠く太平洋に注いでゐるが、ここは今の前橋市附近までの上流であらう。なほこの河名を、アイヌ語とし、大河の意なりとするものがあるが、元來、上野北部山地なる利根から起つてゐるので、下流の状熊を以て河名としたのではないから、大河の意とするのは當らない。○可波世毛思良受多多和多里《カハセモシラズタダワタリ》――河瀬の深淺の樣子も知らずに、直渉りに渉つて。元暦校本は、多大和多里とある。○奈美爾安布能須《ナミユアフノス》――波に逢ふ如《ナス》の東語。ナスは如くに同じ。語源は似すであらうといはれてゐる。
〔評〕 利根河のやうな急流を横切らうとするのに、渡り瀬をも知らずに徒渉するのは、無謀も甚だしいもので、危險の極である。それにも比すべき間髪を入れない危さのうちに、人目にも付かないで、戀人に逢ひ得たことを喜んだもので、猪突的猛進的の戀である。譬喩巧妙。
 
3414 伊香保ろの やさかのゐでに 立つぬじの あらはろまでも さ寢をさ寢てば
 
伊香保呂能《イカホロノ》 夜左可能爲提爾《ヤサカノヰデニ》 多都弩自能《タツヌジノ》 安良波路萬代母《アラハロマデモ》 佐禰乎佐禰?婆《サネヲサネテバ》
 
(伊香保呂能夜左可能爲提爾多都弩自能)顯ハレテ人二知ラレ〔六字傍線〕ルホドニナツテモ、私ハ貴方ト〔五字傍線〕充分ニ共寢シタ上ノコトナラバ、カマフコトデハナイ。浮名ガ立ツテモヨイカラ打チ解ケテ寢タイモノダ〔カマ〜傍線〕。
 
○夜左可能爲提爾《ヤサカノヰデニ》――夜左可《ヤサカ》は地名であらう。上野歌解に「今水澤てふ邊りに八坂の塘《ヰテ》の跡あり、又井出野・井出野入てふ名も殘れりといへば其處《ソコ》成べし」とある。水澤は伊香保温泉の東南にある。爲提《ヰデ》は堰。河水を湛へたところ。なほ和名抄群馬郡の郷名に井出といふのがあるが、それは高崎から一里ばかり北であるから、伊香保の地域内ではないといふことである。○多都弩自能《タツヌジノ》――弩自《ヌジ》はニジの東語。ここまでの三句は、安良波路《アラハロ》と言はむ爲の序詞。虹は鮮やかに顯はれるからである。○安良波路萬代母《アラハロマデモ》――顯はるまでもの東語。○佐禰乎(396)佐禰?婆《サネヲサネテバ》――サは接頭語で意味はない。ヲは強めていふのみ。古事記に宇流波斯登佐泥斯佐泥弖波加里許母能美陀禮婆美陀禮佐泥斯佐泥弓波《ウルハシトサネシサネテバカリゴモノミダレバミダレサネシサネテバ》とあるによつて、新考は乎を斯の誤としてゐるが、さう一に律するわけには行かない。
〔評〕 上句の序詞が珍らしい。伊香保の山を背景とした水面に、くつきりと立つた鮮明な虹の七色の橋が眼前に髣髴たるを覺える。伊香保の山地は水分が多く虹の立つことも頻繁なのであらうが、この自然現象を巧に捉へた東人の炯眼に感服せざるを得ない。ことにこれが萬葉集唯一の虹の歌なることを思へば全く大和人も顔色がないと言つてよい。
 
3415 上つ毛野 伊香保の沼に うゑ子水葱 かく戀ひむとや 種求めけむ
 
可美都氣努《カミツケヌ》 伊可保乃奴麻爾《イカホノヌマニ》 宇惠古奈宜《ウヱコナギ》 可久古非牟等夜《カクコヒムトヤ》 多禰物得米家武《タネモトメケム》
 
上野ノ伊香保ノ沼ニ生エテヰル水葱ヲ、私ハ種ニ取ツテ植ヱテ置イテ、ソノ美シサニ心ヲナヤマシテヰ(397)ルガ〔私ハ〜傍線〕、コンナニ戀シク心ヲイタメヨウトテ、種ヲ求メタデアラウカ。決シテサウデハナカツタノニ、ドウシタモノデアラウ。私ハコンナ戀シイ思ヲシヨウトテ、アノ女ト知己ニナツタノデハナイノニ、ドウシタコトデアラウ〔決シテ〜傍線〕。
 
○伊可保乃奴麻爾《イカホノヌマニ》――伊可保乃奴麻《イカホノヌマ》は伊香保の沼で、今の榛名湖である。上野歌解に「伊香保沼は山の絶頂にあり。廣き所一里ばかり、水清く底深くして、魚あまたをり。岸遠淺にして花あやめ杜若のたぐひ多く、いとよき望《ナガメ》也」とある。新考は爾をノと訓むべしと言ってゐるのは無理な注文であらう。○宇惠古奈宜《ウヱコナギ》――殖小水葱。生えてゐる小水葱。水葱は水田小川などに生ずる草で、水葵《【ミヅアフヒ》ともいふ。卷三に春霞春日里之殖子水葱(四〇七)とある。その條參照。この子水葱を戀しい女に譬へたのである。
〔評〕 伊香保の沼に多く生えてゐる水葱を以て、女を譬へてゐるが、この事は、食用となる外に、下に奈波之呂乃古奈伎我波奈乎伎奴爾須里奈流留麻爾未仁阿是可加奈思家《ナハシロノコナギガハナヲキヌニスリナルルマニマニアゼカカナシケ》(三五七六)とあるやうに、衣服の染料にも用ゐられたので、花の色は紫で美しい。その可憐な點で、女を聯想したのであらう.用語はみやびやかである。
 
3416 上つ毛野 かほやが沼の いはゐづら 引かばぬれつつ あをな絶えそね
 
可美都氣努《カミツケヌ》 可保夜我奴麻能《カホヤガヌマノ》 伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可波奴禮都追《ヒカバヌレツツ》 安乎奈多要曾禰《アヲナタエソネ》
 
貴女ハ私ガアナタヲ〔九字傍線〕(可美都気努可保夜哉奴麻能伊波爲都良)引イタナラバ、ナヨナヨト靡キ寄ツテ、イツマデモ〔五字傍線〕私ヲ疎ンジテ下サルナヨ。
 
○可保夜我奴麻能《カホヤガヌマノ》――可保夜が沼は所在不明。上野歌解に「山吹日記云、群馬郡甲波宿禰神社の境内に在しを天明三年淺間燒、吾妻川泥おしの時流失せりとあれど、さる沼の在し所のさまにもあらず。或はいふ邑樂郡に大沼(398)四つあり。此内にやなどもいへど慥ならず、思ふに伊香保とよく詞かよひたれば、若し是もいかほの沼の事にはあらざるか。」とある。○伊波爲都良《イハヰヅラ》――伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良《イリマヂノオホヤガハラノイハヰヅラ》(三三一八)參照。上野歌解は蓴菜《ジユンサイ》のこととしてゐる。以上の三句は引かばとつづく序詞。○比可婆奴禮都追《ヒカバヌレツツ》――引き寄せれば靡いて。○安乎奈多要曾禰《アヲナタエソネ》――我に絶ゆることなかれの意。
 
〔評〕 この歌は前の武藏國の歌、伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《イリマヂノオホヤガハラノイハヰヅラヒカバヌルヌルワニナタエソネ》(三三七八)と同型同意で、唯、地名を異にするのみである。また阿波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良比可婆奴流奴留阿乎許等奈多延《アハヲロノヲロタニオハルタハミヅラヒカバヌルヌルアヲコトナタエ》(三五〇一)とも似てゐる。
 
3417 上つ毛野 いならの沼の 大藺草 よそに見しよは 今こそまされ
 
可美都氣奴《カミツケヌ》 伊奈良能奴麻能《イナラノヌマノ》 於保爲具左《オホヰグサ》 與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》 伊麻許曾麻左禮《イマコソマサレ》【柿本朝臣人麿歌集出也】
 
(可美都氣奴伊奈良能奴麻能於保爲具左)遠クテ見タヨリモ、カウシテ近ク今相對シテ見ルト〔カウ〜傍線〕、一層立マサツテ貴方ハ見エ〔五字傍線〕マスヨ。
 
○伊奈良能叔麻能《イナラノヌマノ》――伊奈良の沼も所在不明。上野歌解に「或曰邑樂郡板倉の沼ならんかと云るはさも有べし。さばかりなる大沼の四つまでは此ほとりにありといへば、昔はことに廣かりけんを、いひもらすべきいはれあらねばなり」とある。板倉沼は邑樂郡は東方にある沼。その沼の西邊が板倉村であつたのを、岩田・籾谷などを合せて伊奈良《イナラ》村と改めたのは、右に記したやうな説によつたもので、古名が殘つてゐるのではないから、證據にはならない。○於保爲具佐《オホヰグサ》――大藺草。和名抄に「莞(399)唐韵云、莞漢語抄云、於保井可2以爲1v席者也」とあり、フトヰに同じく、席を織る藺草の太きものである。ここまでは序詞で、伊奈良沼に生えてゐる太藺が、遠くから見るよりも、苅り取つて見れば立派だといふに譬へたのである、譬へる意は薄いから、序詞と見ねばならぬ。古義に於保《オホ》に凡《オホヨソ》の意をもたせたのであらうと言つたのは從ひ難い。○與曾爾見之欲波《ヨソニミシヨハ》――他所ながら見しよりはの意。
〔評〕 東國の地名が詠んであるといふだけで、東歌らしい感じが稀薄である。註して柿本朝臣人麿歌集出也とあるのは、愈々その感を深くせしめるものがある。
 
3418 上つ毛野 佐野田の苗の むら苗に 事は定めつ 今はいかにせも
 
可美都氣努《カミツケヌ》 佐野田能奈倍能《サヌダノナヘノ》 武良奈倍爾《ムラナヘニ》 許登波佐太米都《コトハサダメツ》 伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》
 
(可美都氣努佐野田能奈倍能)占ヲシテ私ノ身ヲ寄セル筈ノ〔九字傍線〕人ヲ定メテシマヒマシタ。貴方ノ御言葉ハ有リ難イケレドモ〔貴方〜傍線〕、今トナツテハモウ何トモ致シ方ガアリマセヌ。
 
○佐野田能奈倍能《サヌタノナヘノ》――佐野田は高崎市南方なる群馬郡の佐野の田であらう。但し、これをサヤダと訓んで和名抄に「那波郡鞘田佐也田」とある地とする説もある。那波郡は佐位郡と合して今は佐波郡と改稱せられてゐる。鞘田郷は、今の玉村と群馬郡瀧川村とにあたり、この兩村に齋田、下齋田の地があるのは、莢田の名が殘つてゐるのである。散木集に「秋かへすさやたにたてる稻くきのねごとに身をもうらみつるかな」「ながれつるせこのみわもりかずそひてさや田のさなへとりもやられず」などあるは、古くこれをサヤダと訓んだ證である。然し、左野乃九多知《サヌノククタチ》(三四〇六)・佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》(三四二〇)など皆野をヌと訓むべきやうであるから、これも同樣にサヌダとするのが無難ではあるまいか。ここまでは群苗とつづく序詞。○武良奈倍爾《ムラナヘニ》――群苗に。群苗は群がり生(400)じたる苗、これをウラナヘ(卜占)の意に言ひかけたので、東語では、ウラナヒをムラナへと言つたのだらうと見るのである。併し又この歌から、群苗を以てうらなふ方法があつたものとも考へることが出來る。その方法は苗代から一束の苗を採つて、その數を調べ、その丁半によつて吉凶を判斷するといふやうなものであつたかと想像せられる。○許登波佐太米都《コトハサダメツ》――事は定めつ。○伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》――今は如何にせむ。もはや何とも致し方なしの意。セモはセムに同じ。
〔評〕 武良奈倍《ムラナヘ》の解に異説もあるが、卜占の一種と見るのが當つてゐるであらう。下句を略解は「我戀の成むやと占とへば、成まじきと占に定まりぬ。しかれば、今はいかにしてましと歎く也」と解してゐるが、言ひ寄つて來た男に對して、女が自分は既に卜占によつて、神意をたづね、他に約した男があると述べて、斷つた言葉と見るべきであらう。神慮を信じ恐れた上代人の心が見えてゐる。男を謝絶する方便と見てはいけない。
 
3419 伊香保夫よ 汝が泣かししも 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも
 
伊香保世欲《イカホセヨ》 奈可中次下《ナガナカシシモ》 於毛比度路《オモヒドロ》 久麻許曾之都等《クマコソシツト》 和須禮西奈布母《ワスレセナフモ》
 
伊香保ノ男ヨ。アナタガ私ヲ慕ツテ〔五字傍線〕泣キナサツタ親切サ〔三字傍線〕モ私ハ〔二字傍線〕思ツテヰルガ、アナタガ私ニ〔六字傍線〕隱シゴトヲシタト云フコトヲ〔五字傍線〕、忘レナイヨ。私ノ外ニ心ヲウツシタノヲ遺憾ニ思ヒマス〔私ノ〜傍線〕。
 
○伊加保世欲《イカホセヨ》――伊香保夫よの意であらう、新訓は伊可保加世に改めて、欲を次句に入れてゐる。○奈可中次下《ナガナカシシモ》――汝が泣かししもであらう。この句は舊訓ナカナカシケニと訓み、新訓は欲奈可吹下《ヨナカフキオロシ》に改めてゐる。次の字、元暦校本、吹に作るに從つたのであるが、中の字を省いたのはどうかと思はれる。○於毛比度路《オモヒドロ》――思へどもの東語であらう。○久麻許曾之都等《クマコソシツト》――久麻は隈で隱《コモリ》の約であらうから、吾が目を忍ぶ隱事をしたとの意で、クマコソシツレトと言ふに同じであらう。○和須禮西奈布母《ワスレセナフモ》――忘れせなくも、即ち忘れないよの意。ナフは(401)ナク、ヌに同じである。
〔評〕 この歌は全く解し難い。第二句に誤字あるものとして、種々の説が立てられてゐるが、出來るだけ原本を尊重して、右の如く解いて置いた。これで充分といふのではないが、從來の説よりは幾分よいであらう。なほ慎重な研究を要する。
 
3420 上つ毛野 佐野の舟橋 取り放し 親はさくれど わはさかるがへ
 
可美都氣努《カミツケヌ》 佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》 登利波奈之《トリハナシ》 於也波左久禮騰《オヤハサクレド》 和波左可禮賀倍《ワハサカルガヘ》
 
二人ノ間ヲ(可美都氣努佐野乃布奈波之)引キ離シテ親ハ裂クケレドモ、私ハ離レヨウヤ、決シテ離レハシナイヨ〔決シ〜傍線〕。
 
○佐野乃布奈波之《サヌノフナハシ》――佐野の舟橋。群馬郡の佐野で、古昔烏川に架けた橋。舟を並べ板を渡して橋としたものである。あの附近河幅一町を越え、かなりの水勢であるから、舟橋を架けたといふ傳説も、強ち否定出來ない。ここまでの二句を、取放しの序詞とする説が多い。舟橋は出水などの場合、取り放つからである。寫眞は著者撮影。○登利波奈之《トリハナシ》――取放ちに同じ。繋いだ舟を取り放つて舟橋を解體するのである。男女二(402)人の間を引き放つことを言つてゐる。○於也波左久禮騰《オヤハサクレド》――親は二人の間を裂くけれども。○和波左可禮賀倍《ワハサカルガヘ》――我は裂かれむや、裂れはせじといふのである。ガヘはカヨに同じく、反語である。下に等思佐倍己其登和波佐可流我倍《トシサヘココトワハサカルガヘ》(三五〇二)・卷二十に宇麻夜奈流奈波多都古麻乃於久流我辨《ウマヤナルナハタツコマノオクルガヘ》(四四二九)とあり、又元暦校本以下の古本多く禮を流に作つてゐるから、それに從つてサカルガヘとするがよい。
〔評〕 初二句は序詞と見ないで、女の許に通ふ男が、縱令舟橋を取りはづして通はれないやうにして、二人の間を裂かうとしてもの意に解することも出來る。しかし地方で有名な佐野の舟橋を序詞として取り入れた作品と見れば、それでもよいから、右のやうに解くことにした。この歌を本にして、謠曲「舟橋」は作られてゐるが、その中に「佐野の船橋取り放し又鳥は無しと二流に讀まれたるは、何と申したる謂にて候ぞ」とあるのは滑稽である。なほ鷄を板に乘せて川に放つたので「とりはなし」と詠んだのだといふ俗説もある。東歌の中では古くから人口に膾炙したものである。枕草子 橋はの條に佐野の舟ばしとあり、詞花集の「夕霧に佐野の舟橋音すなりたなれの駒のかへり來るかも」はこの歌から出たもので、清新な佳作だ。
 
3421 伊香保嶺に 雷な鳴りそね 吾が上には 故はなけども 兒らに因りてぞ
 
伊香保禰爾《イカホネニ》 可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》 和我倍爾波《ワガヘニハ》 由惠波奈家杼母《ユヱハナケドモ》 兒良爾與里?曾《コラニヨリテゾ》
 
伊香保ノ峯ニ雷ハ鳴ルナヨ。私ニトツテハ雷ガ鳴ツタトテ、別ニ恐ロシイコトモナイカラ〔雷ガ〜傍線〕、何ノコトモナイガ、アノ女ガ恐ロシガルカラ鳴ルナト云フノ〔七字傍線〕ダゾ。
 
○可未奈那里曾禰《カミナナリソネ》――雷は鳴るなよの意。○和我倍爾波《ワガヘニハ》――吾が身にとりては。ヘはウヘの略。吾が家とするのは當らない。下に巨麻爾思吉比毛登伎佐氣?奴流我倍爾《コマニシキヒモトキサケテヌルカヘニ》(三四六五)とあるヘに同じ。○由惠波奈家杼母《ユヱハナケドモ》――故は無けれども。○兒良爾與里?曾《コラニヨリテゾ》――兒らに依りてぞ、女が恐しがるからだの意。
(403)〔評〕 けたたましく轟く雷鳴を聞いて、この音に如何ばかり愛する女がおびえてゐるだらうと想像して、雷鳴の鎭まることを祈つた歌で、眞情の溢れたよい作である。古義に男女伴つて伊香保邊を行く時の歌としてゐるが、さうも限るまい。二人別れてゐる時の男の心と見る方が却つてよいであらう。
 
3422 伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど あが戀のみし 時なかりけり
 
伊香保可是《イカホカゼ》 布久日布加奴日《フクヒフカヌヒ》 安里登伊倍杼《アリトイヘド》 安我古非能未思《アガコヒノミシ》 等伎奈可里家利《トキナカリケリ》
 
伊香保ノ風ハ、吹ク日モ吹カナイ日モアルケレドモ、私ノ戀ダケハ、何時トイフ區別モナク、始終止ムコトハナイヨ〔ナク〜傍線〕。
 
○伊香保可是《イカホカゼ》――伊香保風。伊香保を吹く風。佐保風・飛鳥風・泊潮風・白山風などの類である。○等伎奈可里家家利《トキナカリケリ》――何時といふ定まつた時はない、何時でも斷えず吹いてゐるよの意。ケリは詠嘆の辭として添へられてゐる。
〔評〕 伊香保地方の歌とも見られぬことはないが、伊香保風は唯對照的に出したものかも知れない。東歌としては言葉がみやびてゐる。
 
3423 上つ毛野 伊香保の嶺ろに 降ろ雪の 行き過ぎがてぬ 妹が家のあたり
 
可美都氣努《カミツケヌ》 伊可抱乃禰呂爾《イカホノネロニ》 布路與伎能《フロユキノ》 遊吉須宜可提奴《ユキスギガテヌ》 伊毛賀伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》
 
戀シイ〔三字傍線〕女ノ家ノ邊ハ(可美都氣努伊可諾乃禰呂爾布路與伎能)通リ過ギ難イモノダ。
 
(404)○布路與伎能《フロヨキノ》――降る雪の。ヨキは雪の東語。今も越後の方言で、雪をヨキと言つてゐる。ここまでの三句は序詞で、ヨキをユキと繰返してゐる。○遊吉須宜可提奴《ユキスギガテヌ》――行過ぎ勝《ガ》てぬ。行き過ぐるに堪へずの意。
〔評〕 地名を入れて序詞としただけで、内容は頗る簡單である。第三句に東歌としての特色が見えてゐる。
 
右二十二首上野國歌
 
東歌中、數の多いこと上野國に及ぶものはない。
 
3424 下つ毛野 みかもの山の 小楢のす まぐはし兒ろは 誰が笥か持たむ
 
之母都家野《シモツケヌ》 美可母乃夜麻能《ミカモノヤマノ》 詐奈良能須《コナラノス》 麻具波思兒呂波《マグハシコロハ》 多賀家可母多牟《タガケカモタム》
 
下野ノ三鴨ノ山ノ小楢ノ木ノヤウニ、美シイアノ女ハ、誰ノ妻トナツテ御飯ノ〔八字傍線〕器ナドヲ持ツデアラウ。誰ノ妻ニナツテ御飯ノ世話ナドヲスルデアラウ〔誰ノ〜傍線〕。
 
○美可母乃夜麻能《ミカモノヤマノ》――三鴨の山の。三鴨山は今、下都賀郡の西部、岩舟山の西南にある小丘である。省線岩舟驛に近い。延喜式に三鴨驛とあるのは今の岩舟・小野寺・靜和等の諸村に當り、和名抄に三島郷とあるのは三鴨郷の誤であらうと言はれてゐる。寫眞は著者撮影。○許奈良能須《コナラノス》――小楢なす。小楢の木のやうに。小楢(405)は即ち柞《ハハソ》である。一七三〇參照。略解に「若葉さす夏は陰好ましきものなれば、妹をほむる譬とせしならむ」とある。或はこの木の紅葉に譬へたものか。今も櫪の種類が滿山を埋めてゐる。宣長は「こならのすは高くの序也。こならは、本楢也」と言つてゐる。古義は楢の若木と解してゐる。○麻具波思兒呂波《マグハシコロハ》――愛らしき女らは。○多賀家可母多牟《タガケカモタム》――わからない句である。契沖が「高くか待たむなり。われを遠く高々に待らんとおもひやるなり」と言つたのに從ふ説が多いが、少し無理であらう。古義に誰笥歟將持《タガケカモタム》と見て、笥を持つとは、即ち妻となることであるから、誰が妻となるだらうかといふ意に見た大神眞潮説を肯定してゐる。暫らくそれに從ふことにする。或は家《ケ》は子の轉で、誰の妻となり、誰の子を持つであらうかと言つたものかとも考へられるが、子をケと言つた東語がなく、又ここに、コナラ・マグハシコロなどとコを用ゐてゐるから、ケを子と解するのは無理であらう。
〔評〕 上句の譬喩が田舍人らしく、しかもまことになつかしい感じを與へる。結句を充分に解き得ないのは遺憾である。
 
3425 下つ毛野 安蘇の河原よ 石踏まず 空ゆと來ぬよ 汝が心告れ
 
志母都家努《シモツケヌ》 安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》 伊之布麻受《イシフマズ》 蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》 奈我巳許呂能禮《ナガココロノレ》
 
(406)私ハ〔二字傍線〕下野ノ安蘇ノ河原ヲ通ツテ、來タケレドモ心ハ空ニナツテ、河原ノ〔來タ〜傍線〕石モ踏マナイデ空ヲ飛ンデ來タヨ。コレ程モ思ツテヰル私ニ對シテ〔コレ〜傍線〕、アナタノ心ヲ打アケナサイ。
 
○志母都氣努《シモツケヌ》――前に可美都氣努安蘇能麻素武良《カミツケヌアソノマソムラ》(三四〇四)とあるのと同所であらう。今は下野に屬してゐる。○安素乃河泊良欲《アソノカハラヨ》――安蘇の河原は今の安蘇郡佐野町を流れる秋山川である。寫眞は著者撮影。ヨはヨリ。ここではヲに同じ。○蘇良由登伎奴與《ソラユトキヌヨ》――空よと來ぬよ。空からと思つて飛んで來たよ。足が地に着かず空飛ぶ思で來たよといふのであらう。○奈我巳許呂能禮《ナガココロノレ》――汝が心告れ。汝の心を明らかに言ひなさい。
〔評〕 男が女の評へ尋ねて來て、自分の心が上の空になり、足も地につかぬ思ひでやつて來たのだから、おまへの心を打明けよと強要する言葉である。言葉も調子も力強い表現になつてゐる。
 
右二首下野國歌
 
3426 會津嶺の 國をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね
 
安比豆禰能《アヒヅネノ》 久爾乎佐杼抱美《クニヲサドホミ》 安波奈波婆《アハナハバ》 斯努比爾勢毛等《シヌビニセモト》 比毛牟須婆佐禰《ヒモムスバサネ》
 
私ハ今カラ旅ニ出テ行クガ、旅ニアツテ〔私ハ〜傍線〕、會津嶺ノ聳エテヰルコノ〔七字傍線〕國ガ遠イノデ、アナタニ〔四字傍線〕逢ハナイナラバ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出ス種トシヨウトテ、私ノ着物ノ〔五字傍線〕紐ヲ結ンデ置イテ下サイヨ。ソレヲ見テ心ヲ慰メヨウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○安比豆禰能《アヒヅネノ》――會津嶺の。會津嶺のある國と下へつづいてゐる。古義に第三句|安波奈波婆《アハナハバ》の上につづけて、枕詞としたのは誤。宣長も、二一三と次第して見べし。あひづねのあはなはば、Lからざれば初句いたづら也」と言つてゐるがよくない。會津嶺は岩代會津地方の山。磐梯山の舊名といはれてゐる。その地方を、耶麻郡と(407)稱し、この山がその郡名の基をなしてゐるといふ見地からかく推定するのである。○久爾乎佐杼抱美《クニヲサドホミ》――國をさ遠み。サは接頭語のみ。○安波奈波婆《アハナハバ》――逢はないならば。○斯努比爾勢毛等《シヌビニセモト》――偲びにせもと。舊本牟に作り、モと點してあるが、元暦校本その他、毛に作つてゐるから、牟は誤である。セモはセムに同じ。○比毛牟須婆左禰《ヒモムスバサネ》――紐結ばさね。吾が衣の紐を結び給への意。
〔評〕 會津を出立して旅に上る男の歌であらう。旅立に際して妻が男の紐を結ぶ風習のあつたことは妹之結紐吹返《イモガムスビシヒモフキカヘス》(二五一)その他で明らかである。
 
3427 筑紫なる にほふ兒ゆゑに 陸奥の かとり處女の 結ひし紐解く
 
筑紫奈留《ツクシナル》 爾抱布兒由惠爾《ニホフコユヱニ》 美知能久乃《ミチノクノ》 可刀利乎登女乃《カトリヲトメノ》 由比思比毛等久《ユヒシヒモトク》
 
筑紫ノ國ノ〔二字傍線〕美シイ女ノ爲ニ、私ノ故郷ノ〔五字傍線〕陸奥ノ可刀利ノ少女ガ私ノ爲ニ〔四字傍線〕結ンデクレタ紐ヲ解イテシマツタ。ツヒ目ノ前ノ美女ニ親シンダガ、故郷ノ女ニハスマナ(408)イコトヲシタ〔ツヒ〜傍線〕。
 
○爾抱布兒由惠爾《ニホフコユヱニ》――匂ふ兒故に。美しい女故に。ダノニの意のユヱニとは違つてゐる。○可刀利乎登女乃《カトリヲトメノ》――可刀利乎登女《カトリヲトメ》を契沖は※[糸+兼]《カトリ》を織る處女と見てゐるが、カトリは地名らしい。併し陸奥にその地名がないやうだから、或は下總の香取ではあるまいか。下總でも東海道の極の意で、道の奧と言つてさしつかへはあるまい。茲に陸奧國歌に入れてあるからとて、それに拘泥することはいらない。檜垣嫗集には大隅・薩摩をおく〔二字傍点〕といつてゐる。
〔評〕 香取の里人が筑紫で作つた歌である。防人として筑紫に赴いた人の作と解せられてゐるのは當つてゐる。併し集中陸奥國には防人の歌が一首もないから、陸奥からは防人を徴發しなかつたものと見ねばならぬ。さうすればこの歌の美智能久乃可刀利《ミチノクノカトリ》は右の語釋に記したやうに、陸奥ではなく、下總の香取であらねばならぬ。純眞な男の僞はらざる告白である。
 
3428 安太多良の 嶺に伏すししの 在りつつも あれは到らむ ねどな去りそね
 
安太多良乃《アダタラノ》 禰爾布須思之能《ネニフスシシノ》 安里郡都毛《アリツツモ》 安禮波伊多良牟《アレハイタラム》 禰度奈佐利曾禰《ネドナサリソネ》
 
安太多良ノ峯ニ伏ス鹿猪ガ、イツデモ寢處ヲカヘナイデ寢ルヤウニ〔イツ〜傍線〕、何時デモ變ラズニ私ハ、アナタノ所ヘ〔六字傍線〕行カウト思フ。ダカラ、アナタモ〔十字傍線〕寢處ヲ外ヘ〔二字傍線〕變ヘナイデ下サイ。
 
○安太多良乃禰爾布須思之能《アタタラノネニフスシシノ》――安太多良の嶺は卷七に陸奥之吾田多良眞弓《ミチノクノアタタラマユミ》(一三二九)とある岩代安達郡の山で、即ち今の安達太良山である。寫眞は二本松城山よりの遠望。禰爾布須思之《ネニフスシシ》は嶺に伏す鹿猪の類をいふ。○安里都都母《アリツツモ》――かうしていつまでも變らず。○安禮波伊多良牟《アレハイタラム》――我は到らむ。○禰度奈佐利曾禰《ネドナサリソネ》――寢處な去り(409)そね。汝の寢處を去るなの意。
〔評〕 鹿猪の類が、寢所を忘れず、必ずそこへ歸つて來る習性を譬喩に用ゐたのは、狩獵に親しんでゐる山人の歌であらう。一・三・四の三句にアの頭韻を揃へたのは偶然であらうが、謠物として、ふさはしいやうに思はれる。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
右三首陸奥國歌
 
譬喩歌
 
3429 遠江 引佐細江の みをつくし あれをたのめて あさましものを
 
等保都安布美《トホツアフミ》 伊奈佐保曾江乃《イナサホソエノ》 水乎都久思《ミヲツクシ》 安禮乎多能米?《アレヲタノメテ》 安佐麻之物能乎《アサマシモノヲ》
 
遠江ノ引佐細江ノ澪標ハ、深イ所ニ立テテアルモノダガ、貴方モサモ心深サウニ〔深イ〜傍線〕私ヲ思ハセテ置キナガラ、實ハ〔二字傍線〕淺イ心デアルノニ。ツヒダマサレタ〔七字傍線〕。
 
○等保都安布美《トホツアフミ》――遠つ淡海。遠江。卷二十防人歌に等倍多保美志留波乃伊宗等《トヘタホミシルハノイソト》(四三二四)とあり、方言でトヘタホミとも言つたのである。和名抄に止保太阿不三とあるが、宣長は阿は衍字だといつてゐる。○伊奈佐保曾江乃《イナサホソエノ》――引佐細江の。引佐細江は濱名湖の東北へ灣入した部分で、井伊谷川がこれに注いでゐる。(410)北に引佐峠が聳えてゐる。但し東海道圖會には「幻阿遠江記曰、官山寺は湖山の中へつと指出たる山崎にて奥の方の山を引佐峠といふ。其麓を流るる水の江に入るを、引佐細江といふ。然るに光廣卿の東の記には、舞坂と濱松の間、左に窪やかなる田のあるを細江の跡と人の告げたる由見ゆ、いぶかし」とあるから、その所在に關し異説もあるのである。眞淵は萬葉集遠江歌考に「いなさ細江は和名集に當國に引佐郡侍りて、今も其山をいなさ山といひ、村にもいなさといふあり、山あひをふかくいりまがりたる入江にて細江といふべく、えもいはずよきけしきの所なり。後の人は大道ならでは、よき人歌よむ人も、行かはじとおもふより、濱松舞澤のあひだ蓮ある池などをいふとて、後世僞作せる風土記などにもさと書しなり云々」と記してゐる。これによると濱名湖の一部ではなくて、山間へ入り込んだ小い江のやうであるが、著者が踏査したところによると、氣賀町から十町ばかりの下流の湖畔で、河中には今も澪標やうのものを立てて、船の通行に便にしてある。口繪寫眞參照。○水乎都久思《ミヲツクシ》――澪標。水脈つ串。舟の通ふべき深所を示す木標。○安禮乎多能米?《アレヲタノメテ》――我を頼みに思はせて、我をあてにさせて。○安佐麻之物能乎《アサマシモノヲ》――安佐麻之《アサマシ》は淺まし。淺ましは淺しに同じく、マは添へたもの。中世以來のものに「あさま」といふ副詞が用ゐられてゐる。この句は淺きものをといふに同じ。
〔評〕 水の深きところを指示する澪標を譬喩として、表面だけ深い心を持つてゐるやうな顔をしてゐる人をなじつたのである。女の歌であらう。上品な作である。この歌、袖中抄に載せてある。
 
右一首遠江國歌
 
3430 志太の浦を 朝漕ぐ船は よし無しに 漕ぐらめかもよ よしこざるらめ
 
斯太能于良乎《シダノウラヲ》 阿佐許求布禰波《アサコグフネハ》 與志奈之爾《ヨシナシニ》 許求良米可母與《コグラメカモヨ》 余志許佐流良米《ヨシコザルラメ》
 
(411)志太ノ浦ヲ朝漕イデ行〔三字傍線〕ク舟ハ、何ノ理由モナクテ漕イデヰルノデアラウカ。決シテサウデハナイ。必ズ何處ヘカ舟ヲツケル目的ガアツテ漕イデヰルノデアル。何故私ノ夫ハコチラヘハ〔決シ〜傍線〕ヨツテ來ナイノダラウ。
 
○斯太能宇良乎《シダノウラヲ》――斯太能宇良《シダノウラ》は志太の浦。駿河國の南端が志太郡で、その地方の海邊を指すのであらう。即ち大井川の河口附近である。○與志奈之爾《ヨシナシニ》――理由なしに。○許求良米可母與《コグラメカモヨ》――漕ぐのであらうかよ、さうではないよの意。○余志許佐流良米《ヨシコザルラメ》――舊本、奈とあるが元暦校本に余に作るのに從ふべきであらう。どうして寄つて來ないのであらうの意。ラメはラムに同じ。コソの係辭がなくとも、かやうに用ゐた例がある。舊本のままならばナシは何故の意で、何故に來ないのであらうの意となる。
〔評〕 男の來るのを待つ女の歌。志太の浦漕ぐ舟もいつかは港に泊てるやうに、道行く人も必ず目的の家に寄り來るものなるに、何故あの人は寄つて來ないのであらうかと、怪しんだのである。志太の浦を朝漕ぐ舟を眺めつつ、一夜を待ち明かした悲しみをそれに托してゐるやうに見える、淋しい氣分が漂つてゐる。
 
右一首駿河國歌
 
3431 足がりの あきなの山に 引こ船の しり引かしもよ ここば來難に
 
阿之我里乃《アシガリノ》 安伎奈乃夜麻爾《アキナノヤマニ》 比古布禰乃《ヒコフネノ》 斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》 許己波故賀多爾《ココバコガタニ》
 
足柄ノ安伎奈ノ山デ作ツタ〔三字傍線〕舟ヲ、下ニ〔二字傍線〕引キ下ス時ニハ、艫ノ方ニ綱ヲツケテ尻カラ引クガ、ソノ〔時ニ〜傍線〕ヤウニ、アナタハ〔四字傍線〕アトスザリヲナサルヨ。サウシテ私ノ所ヘ〔八字傍線〕大サウ來難イヤウナ風ヲ〔五字傍線〕ナサル。
 
○阿之我里乃《アシガリノ》――足柄の。○安伎奈乃夜麻爾《アキナノヤマニ》――安伎奈乃夜麻《アキナノヤマ》は何處か分らない。いづれ海に近い方面の山(412)であらう。○比古布禰乃《ヒコフネノ》――引く舟の。山で作つた舟を海に引きおろすのである。山で舟を作るのは、おかしいやうであるが、昔は大木を切つて、これを削つて舟とするのだから、切つた舟木を谷間などに轉ばし、ここで舟の形に作りあげ、それを徐々海へ下したのである、日本靈異記に、「諾樂宮御大八洲國之帝姫、阿倍天皇御代、紀伊國牟婁郡熊野村、有2永興禅師1云々、熊野村人、至2于熊野河(ノ)之上(ノ)山1伐v樹作v船云々。後經2半年1引v船入v山云々」と見えてゐる。○斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》――後《シリ》引くを延べて、後引かしと言つたので、引カシは引カスの東語である。それに詠嘆の助詞モとヨとを添へてゐる。古義に「山より船を下すには、舳《ヘ》のかたへ綱を着て引に波の上とは異にて、艫《トモ》のかたより引留るやうに覺えて、甚く寄難なるに、たとへていふなり」とあるが、艫から後すさりに引くのである。○許己波故賀多爾《ココバコガタニ》――許多《ココバ》來難にであらう。略解は此處はと解釋してゐる。ココバは、大に、甚だしくの意。甚だしく來難くするといふのである。
〔評〕 作り上げた船を山から下す時に、艫の方を先にして引く樣に譬へて、男が逡巡して女を訪はないことを罵つてゐる。東語が全面的に用ゐられて、如何にも東歌らしい。この歌、袖中抄に引いてある。
 
3432 足がりの 吾をかけ山の かづの木の わをかづさねも かづさかずとも
 
阿之賀利乃《アシガリノ》 和乎可※[奚+隹]夜麻能《ワヲカケヤマノ》 可頭乃木能《カヅノキノ》 和乎可豆佐禰母《ワヲカヅサネモ》 可豆佐可受等母《カヅサカズトモ》
 
アナタハ私ヲ思ツテ下サルナラバ〔アナ〜傍線〕(阿志賀利乃和乎可※[奚+隹]夜麻能可頭乃木能)私ヲ何處ヘカ連レ出シテ下サイヨ。縱令〔二字傍線〕連レ出シニククテモ、是非サウシテ下サイ〔九字傍線〕。
 
○和乎可鷄夜麻能《ワヲカケヤマノ》――かけ山といふ山名を、我を懸けと、かけ詞にしたので、我《ワ》をには意味はない。布留山・布留川を、袖振山《ソデフルヤマ》(五〇一)・袖振河《ゾデフルカハ》(三〇一三)などといふ類である。かけ山は仙覺抄には、彼が久しくこの山について疑問を抱いてゐたが、建長三年霜月、駿河に赴かうとして關本の宿で、老翁から、わをかけ山はかくらの獄のこ(413)とだと教へられた由を記してゐる。かくらの嶽は矢倉嶽のことであらう。山北驛の西南、金時山の東北に聳えてゐる。然るに箱根七湯志には、小田原の國學著吉岡信之(千葉葛野門)の説によつて、小田原からただ向ひに見える聖《ヒジリ》が嶽であらうと斷じ、このあたりには鞍掛山・石垣山・笠掛山などカケと呼んでゐる山があると言つてゐる。なほ「八雲御抄に、とひのかふちはわをかけ山の邊とあり。土肥は此山の南の麓なり。云々」と述べて、仙覺説と全く違つてゐる。今はその何れがよいか分らない。○可頭乃木能《カヅノキノ》――カヅの木は穀《カヂ》の木であらうと契沖は言つてゐるが、伴信友の比古婆衣、間宮永好の犬鷄隨筆、箱根七湯志などに、相模地方でカヅノ木といふはヌルデのこととしてゐるから、これに從ふべきであらう。植物和漢異名辭林にもカヅの木はヌルデとしてゐる、ヌルデは漆料の植物で、山野に自生する落葉小喬木、葉は羽状複葉にして長さ一尺許。この葉に生ずる五倍子即ちフシを藥用染料に供する。ふしのきのと稱するはこの爲である。ここまでの三句は同音を繰返して、次句の可豆佐禰母《カヅサネモ》へつづく序詞。○和乎可豆佐禰母《ワヲカヅサネモ》――わからない句である、考に我をかどはかせよの意とし、「かどはすとのみ今はいふを、卷十八に、可多於毛比遠宇萬爾布都麻爾於保世母天故事部爾夜良婆比登|加多波《カタバ》牟可母、後撰集に、香をだにぬすめてふ同じ心をとて、春風の花の香かどふふもとにはともよめれば、ぬすむことをかだす・かづす・かどすなどいひしなり。」とあるに從ふことにしよう。○可豆佐可受等母《カヅサカズトモ》――これも考に、かどはかし難くともの意に解し、「かづさかずとも、かどしかぬともは音通へり」と言つてゐるのに從つて置かう。
〔評〕 上句は同音を繰返して作つた序詞であるが、巧に地方色をあらはし得てゐる。下句は少し難解である。右のやうに解すれば戀の爲に理性を失つた女の、大膽な聲である。袖中秒に引いてある。
 
3433 薪こる 鎌倉山の 木垂る木を まつと汝が言はば 戀ひつつやあらむ
 
多伎木許流《タキギコル》 可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》 許太流木乎《コダルキヲ》 麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》 古(414)非都都夜安良牟《コヒツツヤアラム》
 
私ガ旅ニ出タ後デ〔八字傍線〕(多伎木許流可麻久良夜麻能許太流木乎)待ツテヰル〔三字傍線〕トオマヘガ言フナラバ、私モオマヘヲ〔六字傍線〕戀シク思フコトデアラウ。
 
○多伎木許流《タキギコル》――枕詞。薪切る鎌とつづいてゐる。○可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》――鎌倉山は、今の鎌倉の背後の山々をいふのであらう。今の鶴岡の大臣山なりとする説は當らない。○許太流木乎《コダルキヲ》――木垂る木を。卷三に東市之殖木乃木足左右《ヒムカシノイチノウヱキノコダルマデ》(三一〇)とある。老木となつて、枝の垂れたのをかくいふのである。ここまでの三句は松を待つにかけた序詞である。○麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》――待つと汝が言はば。汝が我を待つといふならば。○古非都追夜安良牟《コヒツツヤアラム》――我は汝を旅にあつて戀しく思つてゐることであらうかの意。古義に「いたづらに戀しくのみ思ひつゝあるべしやは」と反語に見たのは當らない。新考に「ウハ氣ヲセズニコヒツツアラムカといへるなり」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 旅に出かける男が、女と別を惜しんだ歌。私を侍つてゐると、おまへが言つてよこすなら、私も歸ることが出來ないで、おまへを戀しく思つてゐるであらうと、旅中の淋しさを想像したのである。古今集の「立ち別れいなばの山の峯に生ふるまつとし聞かば今かへり來む」と少し似通つた點がある。
 
右三首相模國歌
 
3434 上つ毛野 安蘇山つづら 野を廣み はひにしものを あぜか絶えせむ
 
可美都家野《カミツケヌ》 安蘇夜麻都豆良《アソヤマツヅラ》 野乎比呂美《ヌヲヒロミ》 波比爾思物能乎《アヒニシモノヲ》 安是加多延世武《アゼカタエセム》
 
(415)(可美都家野安蘇夜麻都豆良野乎比呂美)永イ間思ヒ合ツテヰル二人ノ間デアル〔七字傍線〕ノニ、ドウシテ絶エルコトガアラウゾ。二人ハ何時マデモ絶エルコトハナイ〔二人〜傍線〕。
 
○安蘇夜麻都豆良《アソヤマツヅラ》――安蘇山に生えてゐる黒葛。安蘇山は、上野歌解に「今の相馬嶽の事にて、其邊りより箕輪のわたりをかけて、安蘇の莊と云ふとぞ。此相馬も伊香保の一峰にして、云う々」とあるが從ひ難い。前に志母都家努安素乃河泊良欲《シモツケヌアソノカハラヨ》(三四二五)とある安蘇郡の山で、即ち今の下野佐野町附近である。著者の實地踏査によると、この山は今の唐澤山ではなからうかと思はれる。この山に生えてゐる黒葛が麓の野に延び廣がるといふのである。寫眞は著者撮影。○野乎比呂美《ヌヲヒロミ》――ここまでの三句は波比《ハヒ》と言はむ爲の序詞。○波比爾思物能乎《ハヒニシモノヲ》――ハヒは延へ。黒葛の野に廣がるのを、二人の戀の永く續いて、密たる關係になつてゐるのに譬へてゐる。○安是加多延世武《アゼカタエセム》――アゼカは何故《ナゼ》かに同じ。二人の關係はどうして斷えようか、決して斷えはせぬといふので、上の黒葛の縁語として多延《タエ》が用ゐられてゐる。
〔評〕 序詞が極めて有效に用ゐられ、下に縁語として關係してゐるのは巧である。平野に臨んでゐる安蘇山に、黒葛の生ひ茂つた、上代の有樣もしのばれる、下に多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良多延武能己許呂和我母波奈久爾《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラタエムノココロワガモハナクニ》(三(416)五〇七)とあるのと意は同じである。
 
3435 伊香保ろの そひのはり原 吾が衣に 著きよらしもよ ひたへと思へば
 
伊可保呂乃《イカホロノ》 蘇比乃波里波良《ソヒノハリハラ》 和我吉奴爾《ワガキヌニ》 都伎與良之母與《ツキヨラシモヨ》 比多敝登於毛敝婆《ヒタヘトオモヘバ》
 
私ノ着テヰル着物ガ〔九字傍線〕、栲バカリデ織ツタモノナノデ、伊香保ノ岨ノ萩原ノ萩ヲ取ツテ〔五字傍線〕私ノ着物ヲ摺ルノ〔四字傍線〕ニ、着キヨイコトダヨ。自分ニハ私ノ夫ガ似合ツテヰテ、誠ニ私ハ仕合セデス〔自分〜傍線〕。
 
○伊可保呂乃蘇比乃波里波艮《イカホロノソヒノハリハラ》――伊香保ろの岨の萩原。三四一〇參照。〇都伎與良之母與《ツキヨラシモヨ》――着き宜しもよ。萩を以て衣を染めると、よく染まるよといふのである。○比多敝登於毛敝婆《ヒタヘトオモヘバ》――舊本、多の上に比の字が無いのは脱ちたのである。元暦校本・類聚古集その他古寫本の多くは、比の字がある。比多敝《ヒタヘ》は純栲で、ひたすら栲のみにて織つた布であらう。純栲と思へばは純袴であるからの意。思へばは輕く用ゐてある。仙覺がひとへの事として、ひとへにおもへばの意也としたのは當らない。
〔評〕 言葉通りに見れば、伊香保の岨のはり原の衣に着き易く、染料に適することを喜んだ歌であるが、譬喩歌として見れば、吾が配偶者が自分に適應してゐることに滿足してゐる歌である。袖中抄に上野防人歌として、この歌を載せてゐる。
 
3436 白砥掘ふ 小新田山の もる山の うら枯せなな 常葉にもがも
 
志良登保布《シラトホフ》 乎爾比多夜麻乃《ヲニヒタヤマノ》 毛流夜麻能《モルヤマノ》 宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》 登許波爾毛我母《トコハニモガモ》
 
(417)白イ砥石ヲ掘ル新田山ト云フ、山番人ヲ置イテ〔七字傍線〕守ラシテヰル山ハ、木葉ガ末枯シナイデ、何時デモ常磐デヰテクレレバヨイガ。二人ノ間ガイツマデモ絶エナイデヰテクレレバヨイガ〔二人〜傍線〕。
 
○志良登保布《シラトホフ》――代匠記には眞珠通《シラタマトホ》す緒とつづくかと言つてゐるが、苦しい説である。古義は布は留の誤で、白砥掘《シラトホル》であらうと言つてゐるのは、比較的おもしろいが、もとの儘で白砥掘ふとしたい。但しこの山の地質について、種々調査したが、中央部は石英斑岩、麓は水成岩で、どの部分からも白砥を出したらしい跡がない。常陸國風土記新治郡の條に風俗(ノ)諺曰白遠新治之國とあるから、志良登保布はニヒにかかる枕詞とすべきであらうか。○乎爾比多夜麻乃《ヲニヒタヤマノ》――前に爾比多夜麻《ニヒタヤマ》(三四〇八)とあつた山、即ち太田の金山である。○毛流夜麻能《モルヤマノ》――守る山が。守る山は番人を置いてゐる山。○宇良賀禮勢那奈《ウラガレセナナ》――末枯しないで禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》(三四〇八)・宿奈莫那里爾思《ネナナナリニシ》(三四八七)・和須禮姿勢奈那《ワスレハセナナ》(三五五七)など參照。○登許波爾毛我母《トコハニモガモ》――常磐にも變らずにあれの意。
〔評〕 新田山の常磐なる如く、二人の關係が持續するやうにと、祈つた歌である。譬喩歌としては、珍らしい點はないが、素直な作である。
 
右三首上野國歌
 
3437 みちのくの 安太多良眞弓 はじき置きて せらしめきなば つらはかめかも
 
美知乃久能《ミチノクノ》 安太多良末由美《アダタラマユミ》 波自伎於伎?《ハジキオキテ》 西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》 都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》
 
陸奧ノ安太多良眞弓ノ弦〔二字傍線〕ヲ外シテ置イテ、ソノ儘弓ヲ〔五字傍線〕ソラセテ置イタナラ、弦ヲ再ビ〔二字傍線〕カケラレヨウカ。ナカナカ再ビ弦ヲカケルコトハ困難デアラウ。一度二人ノ間ガ絶エテ、互ニ反キ合フコトニナレバ、再ビ打チトケル(418)コトハムツカシカラウ〔ナカ〜傍線〕。
 
○美知乃久能安太多良末由美《ミチノクノアタタラマユミ》――陸奥の安達地方から出る弓、卷七の陸奥之吾田多良眞弓著絃而引者香人之吾乎事將成《ミチノクノアダタラマユミツラハケテヒカバカヒトノアヲコトナサム》(一三二九)參照。○波自伎於伎?《ハジキオキテ》――弦をはづして置いて。古義に「弓弦を斷て置く由なり」とあるのはいけない。男との關係を、ゆるべて置いての意に譬へてゐる。○西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》――反《ソ》らしめ置きなば。弓を反るにまかせて置いたならの意。男の行動を自由に任して置いたならばの意に譬へてゐる。○都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》――都良《ツラ》はツルに同じ。卷二に梓弓都良絃取波氣《アヅサユミツラヲトリハケ》(  九)とある。ハカメは著《ハ》カムに同じ。ハクはすべて着けること穿つことなどにいふ。カモはヤモに同じ。又舊の關係に戻ることは出來ないの意に譬へてある。
〔評〕 おもしろい諷喩の歌である。用語も東語が多く用ゐられてゐる。併しこれが陸奥に於て行はれた歌とは斷じ難い。東國の歌ではあらうが、唯陸奥の名物安太多良眞弓を用ゐたに過ぎない。
 
右一首陸奥國歌
 
雜歌
 
これ以下卷未までの百四十首は國名不明のものを集めてゐる。
 
3438 都武賀野に 鈴が音きこゆ 上志太の 殿の仲ちし 鳥狩すらしも 或本歌曰 美都我野に 又曰、若子し
 
都武賀野爾《ツムガヌニ》 須受我於等伎許由《スズガオトキコユ》 可牟思太能《カムシダノ》 等能乃奈可知師《トノノナカチシ》 登我里須良思母《トガリスラシモ》
 
都武賀野ニ鷹ノ尾ニツケタ〔七字傍線〕鈴ノ音ガ聞エル。上志太ノ殿樣ノ中ノ御子ガ、鳥狩ヲセラレルラシイヨ。
 
(419)○都武賀野爾《ツムガヌニ》――所在不明。但し第三句の可牟思太《カムシダ》を上志太とすれば駿河の地名である。○須受我於等伎許由《スズガオトキコユ》――鈴は鷹の尾に附けたもの。○可牟思太能《カムシダノ》――思太は前に斯太能宇良《シダノウラ》(三四〇〇)とよんだ駿河の志太郡とすればそれが上下に分れてゐたものと考へることが出來る。併しそれも確定的には言はれない。○等能乃奈可知師《トノノナカチシ》――殿の仲子がの意 殿は其處の國守、郡守などを指すのであらう。奈可知《ナカチ》は次男。シは強めていふ助詞。○登我里須良思母《トガリスラシモ》――登我里《トガリ》は鷹狩。卷七に垣越犬召越鳥獵爲公《カキコユルイヌヨビコシテトガリスルキミ》(一二八九)とあるのも鷹狩か。卷十七に大伴家持放逸せる鷹を思つで夢に見た長歌(四〇一一)があつて、上流人の遊びであつたことがわかる。なほ鷹狩の起源について、仁徳天皇紀に、「四十三年秋九月庚申朔、依網屯倉阿弭古《ヨサミノミヤケノアヒコ》捕2異鳥1獻2於天皇1曰臣毎(ニ)張v網捕v鳥、未3曾得2是鳥之類1、故奇而献v之、天皇召2酒(ノ)君1示v鳥曰、是何鳥矣、酒君對言、此鳥類多在2百濟1得馴而能從v人。亦捷飛之掠2諸鳥1、百濟俗号2此鳥1曰2倶知1是今時鷹也乃授2酒君1令2養馴1未2幾時1而得v馴、酒君則以2韋緡1著2其足1、以2小鈴1著2其尾1居2腕上1、献2于天皇1、是目幸2百舌鳥野1而遊獵、時雌雉多起、乃放v鷹令v捕、忽獲2數十雉1是月、甫定2鷹甘部1、故時人號2其養v鷹之處1曰2麿甘邑1也」とある。
〔評〕 京師の文化が地方にも及んで、地方人の耳にも鳥獵の鈴の音が、なつかしく響いてゐる。殿の仲子と言つたのは、その公子と親しくなつてゐる由舍女の言葉らしく思はれる、併しこの歌は田舍人の作としてはよく洗練せられて、情景を髣髴たらしめるものがある。
 
或本歌曰 美都我野爾《ミツガヌニ》 又曰 和久胡思《ワクゴシ》
 
美都我野爾とあるは初句の異本。これも所在不明。和久胡思は第四句|京可知師《ナカチシ》の異傳。和久胡は若兒。
 
3439 鈴が音の はゆま驛の 堤井の 水を賜へな 妹がただ手よ
 
須受我禰乃《スズガネノ》 波由馬宇馬夜能《ハユマウマヤノ》 都追美井乃《ツツミヰノ》 美都乎多麻倍奈《ミヅヲタマヘナ》 伊毛(420)我多太手欲《イモガタダテヨ》
 
馬ノ〔二字傍線〕鈴音モ急ガシク聞エル、驛舍ノ側ニアル〔四字傍線〕、圍ノアル井戸ノ水ヲ、ナツカシイアナタノ手デ.直接ニ掬ンデ、私ニ〔二字傍線〕下サイヨ。
 
○須受我禰乃《スズガネノ》――鈴が音の。次句へ、鈴の音が早い即ち急がしい意でつづくのである。○波由馬宇馬夜能《ハユマウマヤノ》――波由馬《ハユマ》は早馬。宇馬夜《ウマヤ》は驛、ハユマウマヤは早馬を用意してある驛。○都追美井乃《ツツミヰノ》――水を圍つて、湛へてある井。堀井ではなく、飲料水を湛へたもの。かうしたものが、驛では人馬の用として必要であつた。略解に「つつみゐは、美はそへ言ふ詞にて筒井也」とあるのはよくない。○伊毛我多太手欲《イモガタダテヨ》――妹が直手で。直接に妹の手での意。ヨはヨリの意である。
〔評〕 驛舍にゐる美人に、旅人が戯れていふ言葉であらう。宿場の茶屋女に串戯を言つてゐるやうな圖である。東歌中でも異色ある佳作である。
 
3440 この河に 朝菜洗ふ兒 汝もあれも よちをぞ持てる いで兒たばりに 一云、ましもあれも
 
許乃河泊爾《コノカハニ》 安佐奈安良布兒《アサナアラフコ》 奈禮毛安禮毛《ナレモアレモ》 余知乎曾母?流《ヨチヲゾモテル》 伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》
 
コノ川デ朝菜ヲ洗ツテ居ル女ヨ、オマヘモ私モ、同年グラヰノ子ヲ持ツテヰルヨ。サアオマヘノ〔四字傍線〕女ノ兒ヲ私ノ男ノ兒ニ〔六字傍線〕クレヨ。ヨイ似合ヒノ夫婦ダラウ〔ヨイ〜傍線〕。
 
○安佐奈安良布兒《アサナアタフコ》――朝菜洗ふ女。朝菜は朝食べる菜。ナはすべて副食物にいふが、ここは野菜であらう。○余知乎曾母?流《ヨチヲゾモテル》――舊本、知余とあるが、元暦校本その他、余知となつてゐる本が多いから、それによるべきだ。余知は卷五に企知古良等手多豆佐波利提《ヨチコラトテタヅサハリテ》(八〇四)・卷十六に四千庭《ヨチニハ》(三七九一)とある、ヨチコ・ヨチと同じで、同(421)年輩の子と解せられてゐるから、これに從ふことにする。なほ次の評の部をも參照せられたい。○伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》――伊低《いで》はサアと誘ひ促す語。兒《コ》はその余地《ヨチ》を指したもの。ヨチコの略と考へられる、多婆里爾《タバリニ》は賜はりね。
〔評〕 この歌は右のやうに見て、朝早く河岸で菜を洗つてゐる女に對して、こちらの岸から、男が話かけて、おまへの娘を私の息子の嫁にくれないかと請求する意となり、上代の長閑な風景だと解かれてゐる。暫くこれに、從ふことにした。併し既に嫁入り前の年頃の娘を持つた女に、朝菜洗ふ兒と呼びかけるのはふさはしくない。よろしく朝菜洗ふ刀自といふべきである。どうもこの句は若い女に呼びかけてゐるやうにしか思はれない。さうすると第四句の余知《ヲチ》と第五句の兒がわからなくなる。そこで前記のやうな解を取ることになるのだが、このヨチ・ヨチコは同年輩の若い男女の意から轉じた隱語であつて、卑猥な意味になるのではあるまいかと想像される 河岸で朝菜を洗つてゐる處女の、だらしない姿を見て、若い男が對岸から呼びかけたものとすれば、どうしてもさう見なければなるまい。自由な結婚が盛であつたらうと思はれる上代でも、親と親とが約束して、その子女を婚せしめることもあつたらうが、かういふ民衆の歌としては、さういふ場面を謠ふことは、ありさうに思はれない。後世の俚謠にでも、そんな内容のものは一寸見當らぬやうである。
 
一云 麻之毛安禮母《マシモアレモ》
 
これは第三句の奈禮毛《ナレモ》の異傳である。麻之《マシ》はイマシに同じ。即ちナレと同樣である。
 
3441 間遠くの 雲居に見ゆる 妹が家に いつか到らむ 歩め吾が駒 柿本朝臣人麿歌集曰、遠くして 又曰、歩め黒駒
 
麻等保久能《マトホクノ》 久毛爲爾見由流《クモヰニミユル》 伊毛我敝爾《イモガヘニ》 伊都可伊多良武《イツカイタラム》 安由賣安我古麻《アユメアガコマ》
 
(422)私ハ今カラ愛スル女ノ所ヘ行クノダガ、アノ〔私ハ〜傍線〕遠イ空ノアナタニ見エル女ノ家ニ、何時行キ着クデアラウカ。早ク行キタイモノダ。早ク〔早ク〜傍線〕歩メヨ、私ノ乘ツテヰル〔五字傍線〕駒ヨ。
 
○麻等保久能《マドホクノ》――間遠くの。遠いところにあるの意。○久毛爲爾見由流《クモヰニミユル》――雲居は空。空のあなたに遙かに見える。○伊毛我敝爾《イモガヘニ》――妹が家に。イヘをヘといふのは。今も方言として行はれてゐるところである。
〔評〕 別に東歌らしい點もない。強ひて言へばイヘをヘと言つた位が、多少方言的色彩がある點か。左註にある如く、柿本人麿歌集の歌と同樣であることも、東歌としては變なものである。
 
柿本朝臣人麿歌集曰 等保久之?《トホクシテ》 又曰 安由賣久路古麻《アユメクロコマ》
 
これは第一句と、第五句との異本であつて、この文によると、柿本人麿歌集には第一句が「遠くして」とあり、又第五句が「歩め黒駒」とあるといふ意らしい。然るにこの歌を卷七に載せて、「行路」と題して遠有而雲居爾所見妹家爾早將至歩黒駒《トホクアリテクモヰニミユルイモガイヘニハヤクイタラムアユメクワロコマ》(一二七一)とあり、その左に右一首柿本朝臣人麿之歌集出とあるが、ここに記されてゐる註と少しく異なつてゐるのは、どうしたものであらう。
 
3442 東路の 手兒の呼坂 越えかねて 山にか寢むも 宿りは無しに
 
安豆麻治乃《アヅマヂノ》 手兒乃欲妣左賀《タゴノヨビサカ》 古要我禰?《コエカネテ》 夜麻爾可禰牟毛《ヤマニカネムモ》 夜杼里波奈之爾《ヤドリハナシニ》
 
私ハ〔二字傍線〕東海道ノ手兒ノ呼坂ヲ、越サウト思ツテモ晝ノ内ニハ〔越サ〜傍線〕越シキレズ、宿ル家〔二字傍線〕モナイノニ、今夜ハ山ノ中ニ寢コルトカナア。アア苦シイ〔五字傍線〕。
 
(423)○安豆麻治乃《アヅマヂノ》――東路の。○手兒乃欲妣左賀《タゴノヨビサカ》――手兒は即ち田子の浦の田子で、其處の坂であらう。大日本地名辭書に「蒲原驛の東なる七難坂などの古名とすべし」とある。同書は田子の浦を「蒲原の浦を田子の浦とも呼べること明白とす。後世は富士都吉原の南に田子浦を説くは之にあはす」と言つてゐる。なほこの坂を薩〓峠とする説が古くから唱へられてゐるが、薩〓峠は前にあつた磐城山《イハキヤマ》(三一九五)であるから、これとは別であらう。なほこれをテゴノヨビサカと訓む説も古くからある。
〔評〕 手兒の呼坂を越えむとして、早くも夕闇が迫つて來た淋しさを歌つた旅人の歌で、卷七の志長鳥居名野乎來者有間山夕霧立宿者無而《シナガドリヰナヌヲクレバアリマヤマユフギリタチヌヤドハナクシテ》(一一四〇)と氣分が相似てゐる。然るに駿河國風土記にはこの歌及び下の安都麻道乃手兒乃欲婢佐可古要?伊奈婆安禮婆古非牟奈能知波安比奴登母《アヅマヂノタゴノヨビサカコエテイナバアレヘコヒムナノチハアヒヌトモ》(三四七七)を男神の作とし、前の卷十二の磐城山《イハキヤマ》(三一九五)の歌を女神の作として、贈答の歌としてゐる、もとより地名傳説に過ぎないが、この集の編者が古風土記の内容を知らなかつたことを示すやうに思はれる。もし知つてゐたとすれば、卷十二の歌もこの卷に收めて、共に駿河國歌とすべきである。なほ風土記の文は卷十二(三一九五)に引いてあるから、その條を參照せられたい。
 
3443 うらもなく 吾が行く道に 青柳の 張りて立てれば もの思ひづつも
 
宇良毛奈久《ウラモナク》 和我由久美知爾《ワガユクミチニ》 安乎夜宜乃《アヲヤギノ》 波里?多?禮婆《ハリテタテレバ》 物能毛比豆都母《モノモヒヅツモ》
 
何心モ無クテ、私ガ路ヲ歩イテ居ル道ノ邊〔二字傍線〕ニ、青柳ガ芽ヲ〔二字傍線〕張ツテ立ツテ居ルノヲ見ル〔四字傍線〕ト、物ヲ思ヒ出シタヨ。家ニ殘シテ來タ妻ノコトナドガ思ハレテ悲シイ〔家ニ〜傍線〕。
 
○宇良毛奈久《ウラモナク》――心無く。何心も無く。物思もせずに。○波里?多?禮婆《ハリテタテレバ》――芽を張つて立つてゐると。春の青柳が芽を出してゐるのを見るとの意 ○物能毛比豆都母《モノモヒヅツモ》――物思ひ出つも。豆を弖に作る本も多いが、豆《ヅ》は出《デ》の東語であらうから、この儘がよい。今も九州では出るをヅルといふ。豆都母《ヅツモ》は出でつもで、出たよの意で(424)ある。
〔評〕 やさしい情緒の溢れた作である。青柳の芽を張つた枝を見て、思ひ起したのは何であらう。卷十九の春日爾張流柳乎取持而見者京之大路所思《ヘルノヒニハレルヤナギヲトリモチテミレバミヤコノオホヂオモホユ》(四一四二)に傚つて考へることも出來ようが、さうではなく、やはり可愛らしい春の柳を見て、なつかしい妹を思ひ出したのであらう。卷十に吾屋前之柳乃眉師所念可聞《ワガヤドノヤナギノマユシオモホユルカモ》(一八五三)などともあるが、妹が眉を連想したものと限定する見方は感服しない。
 
3444 伎波都久の 岡のくくみら われ摘めど 籠にものたなふ せなと摘まさね
 
伎波都久乃《キハツクノ》 乎加能久君美良《ヲカノククミラ》 和禮都賣杼《ワレツメド》 故爾毛乃多奈布《コニモノタナフ》 西奈等都麻佐禰《セナトツマサネ》
 
伎波都久ノ岡ノ莖韮ヲ私ガ摘ミマスケレドモ、籠ニモ滿チマセンヨ。貴女ハ〔三字傍線〕夫ノ君ト一緒ニオ摘ミナサイマシヨ。
 
○伎波都久乃乎加能久君美良《キハツクノヲカノククミラ》――伎波都久の岡は、仙覺抄に「枳波都久岡、常陸國眞壁郡にあり、風土記にみえたり」とあるが、現存の常陸風土記は白壁郡(眞壁郡の古名)の部が標題のみあつて、文が缺けてゐるから、この岡に就いて、如何に記されてゐたかを知り得ないのは、遺憾である。逸文考證には「今其處詳ならず」と記してゐる。大日本地名辭書には「郡郷考云、枳波都久岡、其處知り難し。本郡東邊、山岡起伏す、新志云、伎波都久岡は今山尾村にあるか。或は曰ふ。今山田の最勝寺を筑波山と稱す。眞壁郡にありて、筑波と稱するは如何なる事にやと恩ひしに、是は枳波都久より出たる號にや。此寺は岡の上にありと」とあるが、やはり眞壁郡の東邊として置くべきで、それ以上の詮索(425)は却つて牽強に陷る虞がある。久君美良《ククミラ》は莖|韮《ニラ》即ちニラの莖に立つたものか。ニラは今は畑に作るが、もと山野に白生した百合科の植物で、葉は線形をなし扁平で質が柔かい。葉間から莖を出して繖形をなした白い小花を附ける。花期は夏である。ここにククミラとあるククはククタチのククで莖であらうと思はれるが、ニラは葉を食ふもので莖は用がないやうに思はれる。併し延喜式によると、踐祚大嘗祭の料に阿波國所献の蒜英根合漬が見え、同じく新嘗祭、釋奠祭の料に蒜英・蒜花が見えてゐるから、韮の花も亦食料として珍重せられたものかも知れない。○故爾毛乃多奈布《コニモノタナフ》――籠にも滿たない。ナフはナクに同じ。舊本乃とあるのは考は美の誤であらうとし、古義は民《ミ》の誤としてゐる。ノタナフはミタナクの東語と見るべきであらう。○西奈等都麻佐禰《セナトツマサネ》――セナは夫。等《ト》はト共ニの意であらう。新考はこれを茂《モ》の誤としてゐる。都麻佐禰《ツマサネ》は摘み給へよの意である。略解に「夫とともに摘むを願ふ也。左禰は……他よりいふ言を、吾願ふ事にも言へり」とあるが、無理であらう。さういふ用例が見當らぬやうだ。
〔評〕 第三句の和禮《ワレ》と第五句の西奈《セナ》との關係が明らかでない。女が自分の夫を西奈《セナ》と呼んでゐることにするのが穩當であるが、都麻佐禰《ツマサネ》とあるから、さうは出來ない。暫く古義に從つて、主人の女と共に莖韮を採む、はした女の言葉として置かう。或は、自から第三者となつて、自分に向つて「夫と一緒に摘みなさい」と言つてゐるものと見るべきであらうか。第四句までは、やさしい物哀な情緒であるが、第五句の關係が明らかでない爲に、情景がよく諒解せられないのは遺憾である。
 
3445 湊のや 葦がなかなる 玉小菅 苅り來わが背子 床のへだしに
 
美奈刀能也《ミナトノヤ》 安之我奈可那流《アシガナカナル》 多麻古須氣《タマコスゲ》 可利己和我西古《カリコワガセコ》 等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》
 
河口ニ生エテヰル蘆ノ中ノ美シイ小菅ヲ、苅ツテオイデナサイヨ、吾ガ夫ヨ。サウシタラソレヲ編ンデ床ノ上(426)ヘ敷イテ〔サウ〜傍線〕、床ノ隔ニシマセウヨ〔五字傍線〕。
 
○美奈刀能也《ミナトノヤ》――湊のや、美奈刀《ミナト》は河口。ヤは歎辭として添へたもの。石見乃也《イハミノヤ》(一三一)、淡海之哉《アフミノヤ》(一三五〇)などと同型である。○多麻古須氣《タマコスゲ》――玉小菅。玉は美稱。○可利己和我西古《カリコワガセコ》――苅來吾が背子。卷十六の玉掃苅來鎌麻呂《タマハハキカリコカマロ》(三八二〇)と同型。○等許乃敝太思爾《トコノヘダシニ》――ヘダシは隔《ヘダ》ての東語。床の上に敷く席としての意。席は吾が身と床とを隔てるからヘダシと言つたのである。
〔評〕 女が男に向つて、床に敷く蓆の料の菅を苅つて來よと注文するもの。ヘダシといふ東語が見えるだけで、他はわかり易い言葉であるが、内容は全く俚謠的で野趣が横溢してゐる。
 
3446 妹なろが つかふ河津の ささら荻 あしと一言 語りよらしも
 
伊毛奈呂我《イモナロガ》 都可布河泊豆乃《ツカフカハヅノ》 佐左良乎疑《ササラヲギ》 安志等比登其等《アシトヒトコト》 加多里與良斯毛《カタリヨラシモ》
 
愛スル女ガ水ヲ〔二字傍線〕使ツテヰル河ノ船着場ニ生エテヰル小荻、ソレト〔三字傍線〕蘆トハ同ジヤウナモノデ、似合ツテヰルガ、私ト貴女トハ夫婦ノ〔似合〜傍線〕語ラヒガ釣リ合ツテ良イヨ。
 
○伊毛奈呂我《イモナロガ》――妹なろが。ナは親しんでいふ言葉。ロは伊香保呂《イカホロ》(三四〇九)・伊可抱乃禰呂《イカホノネロ》(三四二三)などのロと同じく、添へていふのみであらう。妹名根《イモナネ》(一八〇〇)と同じきか。○都可布河泊豆乃《ツカフカハヅノ》――都可布《ツカフ》は使ふであらう。河の水を汲み用ゐる意か。考は「妹と吾と行ちがふをいふなるべし」とし、宣長は束生といふ地名かといひ、新考には岸に近づく意としてゐる。河泊豆《カハヅ》は河津であらう。河水とも見られるが、それでは下への續きがよくない。○佐左良乎疑《ササラヲギ》――佐左良《ササラ》は集中、左佐羅能小野《ササラノヲヌ》(四二〇)・左佐良枝壯子《ササラエヲトコ》(九八三)などがあつて同意と思はれるが、多分、左射禮思《サザレシ》(三四〇〇)・左射禮浪《サザレノナミ》(二〇六)などのサザレと同じく小さく可愛らしいことであらう。○安志等比登其等《アシトヒトゴト》――蘆と一事。荻と蘆とは同じ物のやうに相似ての意であらう。○加多里與良斯毛《カタリヨラシモ》――語りよろしもに同じ(427)であらう。荻と蘆との語らひが仲よく、似合つゐるといふのであらう。河邊に生えた荻と蘆とに譬へて、自分等二人の似合の間柄なることを述べたものか。考は「今男の行河津の向ふより、よそながら心かけたるをとめの來るに行ちがはん時、何ぞに事つけて言問よらんと思ふに、ここにあしとをぎの有て分ちがたく見ゆれば、何れが何れぞとこととひよらんといふなり、伊勢物語に、忘草をこは何ぞと問しに、心は異にて事は似たり」とあるが、どうであらう。
〔評〕 まことに殊勝の歌である。上句を序詞としても解き得るが、普通の序詞とは異なる點もあるから、さうは見ないことにした、解釋もいろいろに分れてゐる。暫らく私意を述べて後考をまつ次第である。
 
3447 草蔭の 安努な行かむと はりし道 阿努は行かずて 荒草立ちぬ
 
久佐可氣乃《クサカゲノ》 安努奈由可武等《アヌナユカムト》 波里之美知《ハリシミチ》 阿努波由加受?《アヌハユカズテ》 阿良久佐太知奴《アラクサタチヌ》
 
(久佐可氣乃)安努ニ行カウトテ折角〔二字傍線〕開墾シタ道ダノニ、誰モ〔五字傍線〕安努ニハ行カナイモノダカラ、荒草ガ生ヒ立ツテシマツタ。
 
○久佐可氣乃《クサカゲノ》――枕詞。アとつづくらしい。接續の具合がよくわからない。卷十二に草陰之荒藺之崎乃笠島乎《クサカゲノアラヰノサキノカサシマヲ》(三一九二)とある。○安努奈由可武等《アヌナユカムト》――舊本、努の下に弩の字があるのは衍であらう。元暦校本、その他の古本にないのが多い。この句は阿努に行かむとの意で、阿努は地名である。倭姫世紀に「汝國名何(ゾト)問賜(フ)、白久草陰阿野國」とあつて、これは伊勢の阿濃郡の地名であるから、これもさうかも知れない。併し伊勢の地名では東歌にふさはしくないといふ見地からすれば、新考に「駿河に阿野莊あるそれならむ」とあるを採るべきか。○波里之美知《ハリシミチ》――波里《ハリ》は治《ハリ》。開墾すること。○阿努波由加受?《アヌハユカズテ》――舊本、努の下に弩の字があるのは衍であらう。元暦校本その他ない本が多い。○阿良久佐太知奴《アラクサタチヌ》――阿良久佐《アラクサ》は荒草。あらあらしく生えた草。雜草の類(428)をいふ。
〔評〕 折角安努へ通ふ新道が出來たのに、それを人が通はないので、草が生ひ茂つたといふ意であらうが、何か寓意があるやうでもある。或は阿努に戀人を置く男が、さはることありてその新道を通はぬ内に、早くも雜草が生ひ茂つたといふのであらうか。民謠風の感じのよい作品である。
 
3448 花散らふ この向つ峰の 乎那の峯の ひじにつくまで 君がよもがも
 
波奈知良布《ハナチラフ》 己能牟可都乎乃《コノムカツヲノ》 乎那能乎能《ヲナノヲノ》 比自爾都久麻提《ヒジニツクマデ》 伎美我與母賀母《キミガヨモガモ》
 
花ノ咲イテハ〔四字傍線〕散ルコノ向ヒノ山ノ乎那山ガ、低ク低クナツテ〔七字傍線〕海ノ洲ニ着クヤウナ、何時トモワカラナイ後々ノ代〔クヤ〜傍線〕マデモ、君ノ御壽命ガ續クヤウニ。
 
○波奈知良布《ハナナラフ》――花散らう。花散る。○己能牟可都乎能《コノムカツヲノ》――此の向ひの峯なる。○乎那能乎能《ヲナノヲノ》――乎那の峯の。乎那は地名であらう。遠江引佐郡の西部に尾奈の地があつて濱名湖に面してゐる。其處か。○比自爾都久麻提《ヒジニツクマデ》――代匠記初稿本にヒシを海中の洲とし、「洲をひしといふ事は、大隅國風土記云、必志里、昔者此村之中有2海之洲1因曰2必志里1海中之洲者、隼人俗語云2必志1」とあるのは面白い説で、この句は尾奈の峯が、低くなつて海の洲に着くまでといふ意らしい。濱名湖の西北部が特に灣入して、猪鼻湖と稱する一區割をなし、尾奈はその湖の入口にあつて、大崎の鼻に對してゐる。或はこのヒジは大崎の鼻を指したものかも知れない。眞淵は比自は比目の誤で、紐に着くまでの意であらうとしてゐるが、當るまい。舊本、久の下に佐の字があるが、元暦校本などの古本にないのがよいのであらう。○伎美我與母賀毛《キミガヨモガモ》――君が代もつづけよと希ふ意である。
〔評〕 「君が代は千代に八千代にさゝれ石の巖となりて苔のむすまで」の前驅をなしたもので、自己の主人の長命を祝した歌。用語優麗、思想高雅、東歌としては珍らしい作品である。
 
3449 しろたへの 衣の袖を 麻久良我よ 海人こぎ來見ゆ 浪立つなゆめ
 
(429)思路多倍乃《シロタヘノ》 許呂母能素低乎《コロモノソデヲ》 麻久良我欲《マクラガヨ》 安麻許伎久見由《アマコギクミユ》 奈美多都奈由米《ナミタツナユメ》
 
(思路多倍乃許呂母能素低乎)麻久艮我ノ沖ヲ通ツテ〔三字傍線〕、海人ガ舟ヲ〔二字傍線〕漕イデ來ルノガ見エル。浪ヨ決シテ立ツナヨ。
 
○思路多倍乃許呂母能素低乎《シロタヘノコロモノソデヲ》――思路多倍乃《シロタヘノ》は枕詞。白栲の衣とつづく。この二句は衣の袖を枕《マ》くとつづく序詞である。○麻久良我欲《マクラガヨ》――麻久良我《マクラガ》は地名。この下に麻久良我乃許我能和多利乃《マクラガノコガノワタリノ》(三五五五)とあたのと同所らしい。さうすれば、今の下總の古河で、あの附近を古く麻久良我と言つたものと見える。考にはマを發語として、久良我は下總であらうとし、古義に「下總國葛飾郡久良我をいふべし」とあるが、今その地名を知り難い。なほこれを上野・武藏とする説もあるが當らない。ヨはヲと同意と見るべきであらう。○安麻許伎久見由《アマコギクミユ》――海人漕ぎ來る見ゆ。
〔評〕 歌の趣で見れば、海邊の景色らしいが、利根川の風景と見られぬこともあるまい。序詞は巧に出來てゐる。全體的に東歌らしい氣分が薄い。
 
3450 乎久佐をと 乎具佐すけをと 潮舟の 竝べて見れば 乎具佐勝ちめり
 
乎久佐乎等《ヲクサヲト》 乎具佐受家乎等《ヲクサスケヲト》 斯乎布禰乃《シヲブネノ》 那良敝?美禮婆《ナラベテミレバ》 乎具佐可知馬利《ヲグサカチメリ》
 
乎久佐ノ正丁ト乎具佐ノ次丁ト(斯乎布禰乃)並ベテ見ルト、手具佐ノ次丁ノ方〔五字傍線〕ガ勝ツテヰルヤウダ。私ハ乎具佐サンガ好キデス〔私ハ〜傍線〕。
 
○乎久佐乎等《ヲクサヲト》――乎久佐といふ地の男。次の句に對比すると、この地の正丁をいつたものらしい。乎久佐の所在を明らかにしない。○乎具佐受家乎等《ヲグサスケヲト》――乎具佐の助丁と。乎具佐は乎久佐と同地なりや、別地なりやも不(430)明である。宣長は久具の清濁の別によつて、別地としてゐる。結句によるとどうも別地らしく見える。受家乎《スケヲ》は正丁に對して次丁をいふ。正丁とは男盛りの公役を勤るもので、次丁は中年以上の男をいふ。受家乎《スケヲ》を古義に好色男《スキヲ》としてゐるのは當るまい。卷二十(四三六八)に右一首久慈郡|丸子部佐壯《マルコベノスケヲ》と見えるから、かういふ名もあつたのである。併しここは人名ではあるまい。○斯乎布禰乃《シヲブネノ》――潮舟の。枕詞。潮に浮んだ舟のやうに並ぶとつづいてゐる。舊本、乎とあるは類聚古集・西本願寺本などに抱に作るに從ふべきか。この下に思保夫禰能於可禮婆可奈之《シホブネノオカレバカナシ》(三五五六)・卷二十の志富夫彌爾麻可知之自奴伎《シホブネニマカヂシジヌキ》(四三六八)・志保不尼乃弊古祖志良奈美《シホブネノヘコソシラナミ》(四三八九)などがある。但し元暦校本は於に作つてゐるから、必ずしも抱に從はねばならぬことはなく、却つて、シヲといふ東語があつたかも知れない。○乎具佐可知馬利《ヲグサカチメリ》――乎具佐助丁の方が勝つやうだといふので、馬利《メリ》といふ助動詞は中世以後盛に用ゐられてゐるが、この集では唯一の例である。これによると、東語が都言葉に採用せられたとも言ひ得るのである。舊本可利とある。古寫本に知と記したものが多いから、それを採ることにしよう。
〔評〕 何か面白い説話中の歌らしくも思はれる、ともかくある女、例へば遊女のやうなものが、二人の男を並べ比して、乎具佐助丁が勝れてゐるやうだと、串戯を言つてゐるやうに見える。蓮葉な氣分の歌である。
 
3451 さなつらの 岡に粟蒔き かなしきが 駒はたぐとも わはそともはじ
 
左奈都良能《サナツラノ》 乎可爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》 可奈之伎我《カナシキガ》 古麻波多具等毛《コマハタグトモ》 和波素登毛波自《ワハソトモハジ》
 
左奈都良ノ岡ニ粟ヲ播イテヰル所ヘ、私ノ〔二字傍線〕可愛イ男ガ駒ノ手綱ヲ繰リナガラ、歩マセテ來〔九字傍線〕テモ、私ハソノ馬ヲ〔四字傍線〕ソト云ツテ追フマイ。
 
○左奈都良能《サナツラノ》――左奈都良は地名であらうがわからない。考に「神名式に常陸國那賀郭酒烈磯城神社あり、是さなづらてふ所を酒烈と書しなり」とあるが、さうとも斷じ難い。古義には陸奥國名取郡名取郷ではないかと(431)いつてゐる。○可奈之伎我《カナシキガ》――愛する男の。卷七に佐伯山于花以之哀我手鴛取而者花散鞆《サヘキヤマウノハナモチシカナシキガテヲシトリテバハナハチルトモ》(一二五九)とある哀我《カナシキガ》に同じ。○古麻波多具等毛《コマハタグトモ》――タグは手繰るに同じで、卷十九の石》瀬野爾馬太伎由吉?《イハセノニウマタギユキテ》(四一五四)とある太伎《タギ》も同じ。この句は駒の手綱をたぐりつつ來てもの意である。新考には「タグは皇極天皇紀なる童謠のコメダニモクゲテトホラセのタゲテの原形にて、食ふ事なり。さて今は男ノ馬ガソノ粟ヲ食フトモといへるなり」とある食ふ意のタグといふ動詞は集中にも、卷二に妻毛有者採而多宜麻之《ツマモアラバトリテタゲマシ》(二一一)とあるが、ここのはその意ではないやうである。○和波素登毛波自《ワハソトモハジ》――吾はソとも追はじの意と大平が解いたのがよいか。追馬をソと訓ませてゐるから、ソは馬を追ふ聲である オハジを省いてハジといつたものと見るのである、契沖・眞淵等は、それを何とも思はじの意に解してゐる、
〔評〕 山地に粟時く女が、戀しい男を思ふ歌である。女の前になつかしい夫が、駒の手綱をかい繰りつつ佇むと、その駒は畑地を頻りに踏み蹂つて、折角蒔いた粟も臺なしになる。かういふ幻影を目前に畫いて、いやいやそれでもその駒を私は追はうとしないと、首を振りながら、夢を見るやうにうつとりと男を思つてゐる女の態度である。東歌らしい野趣が充分である。
 
3452 面白き 野をばな燒きそ 古草に 新草まじり 生ひは生ふるが
 
於毛思路伎《オモシロキ》 野乎婆奈夜吉曾《ヌヲバナヤキソ》 布流久左爾《フルクサニ》 仁比久佐麻自利《ニヒクサマジリ》 於非波於布流我爾《オヒハオフルガニ》
 
コノ儘ニシテオイテモ冬枯ノ古イ〔コノ〜傍線〕古イ草ニ、春ノ〔二字傍線〕新草ガ混ツテ生エルコトハ生エルノダカラ、コノ面白イ野ヲ燒キ拂ヒナサルナ。
 
○於毛思路伎《オモシロキ》――面白き。※[立心偏+可]怜。春の野の景色のよいのを褒めていふのである。○野乎婆奈夜吉曾《ヌヲバナヤキソ》――野をばな燒きそ。春の初めに野火をつけて燒き拂ふのは山野に種を蒔かむ爲で、又新草のよく萠え出でむ爲である。(432)○於非波於布流我爾《オヒバオフルガニ》――生えれば生えることなるをの意。このガニを古義に「生々《オヒオフ》るがためにの意なり。我爾《ガニ》はこゝは我禰《ガネ》といふべきを、かく爾《ニ》と云るは東歌なるが故なるべし」とあるが、眞淵以來の諸註多くはかうなつてゐる。併しここは捨て思いても古草に新草が交つて、おのづから生ずるのにといふやうな意で、東語の特別用例とは見えない。
〔評〕 何か寓意がありさうでもあるが、諸注にこれはただ春の歌だとしてゐる。ともかく伊勢物語の「武藏野は今日はな燒きそ若草の妻も籠れりわれも籠れり、」古今集の「春日野は今日はな燒きそ若草の妻もこもれりわれもこもれり」の前驅をなしたものといつてよからう。和歌童蒙抄に出てる。
 
3453 風のとの 遠き吾妹が 著せし衣 袂のくだり まよひ來にけり
 
可是乃等能《カゼノトノ》 登抱吉和伎母賀《トホキワキモガ》 吉西斯伎奴《キセシキヌ》 多母登乃久太利《タモトノクダリ》 麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》
 
家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕(可是乃等能)遠イ吾ガ妻ガ、故郷ヲ出立スル時ニ〔九字傍線〕着セタ着物ノ袂ガ、上カラ下マデ糸ガスリ切レテ〔七字傍線〕ヨレテ來タヨ。
 
○可是乃等能《カゼノトノ》――枕詞。風の音の。遠きとつづく。風の音は遠く聞えるからである。○多母登乃久太利《タモトノクダリ》――袂の行。袂の縱の線をいふ。○麻欲比伎爾家利《マヨヒキニケリ》――麻欲比《マヨヒ》は卷七の肩乃問亂者誰取見《カタノマヨヒハタレカトリミム》(一二六五)のマヨヒ・卷十一の白細之袖者間結奴《シロタヘノソデハマユヒヌ》(二六〇九)のマユヒと同じく、糸がよれよれになつて切れること。
〔評〕 防人などに出た男が、衣の披れかけたのを見て、遠き故郷の妻を思ふ歌。あはれな悲しい感情があらはれたよい作である。
 
 
3454 庭に立つ 麻で小衾 今宵だに 妻よし來せね 麻で小衾
 
爾波爾多都《ニハニタツ》 安佐提古夫須麻《アサデコブスマ》 許余比太爾《コヨヒダニ》 都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》 安佐(433)提古夫須麻《アサデコブスマ》
 
庭ニ生エテヰル麻デ織ツタ〔四字傍線〕布デ作ツタ小衾ヨ。セメテ〔三字傍線〕今夜ナリトモ、私ノ戀シイ待チコガレテヰル〔私ノ〜傍線〕夫ヲ、此處ヘ〔三字傍線〕寄セテ來テクレヨ。麻ノ布ノ小衾ヨ。
 
○爾波爾多都《ニハニタツ》――庭に生えてゐる。冠辭考に枕詞に收め、考・略解・古義など皆枕詞としてゐるが、卷四に庭立麻乎刈干《ニハニタツアサヲカリホシ》(五二一)とあるのと共に、枕詞と見ない方がよい。庭とは屋敷内をいふ。謂はゆる庭園ではない。○安佐提古夫須麻《アサデコフスマ》――安佐提《アサデ》は麻の布。テはタヘの略か。今も絹・布・麻などを細かく割いたものを、サイデと言つてゐる。古夫須麻《コブスマ》は小衾。この句は麻布で作つた小衾の意。○都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》――夫を寄せ給へよの意。コセはコスの變化で、希望をあらはす。卷九に妻社妻依來西尼《ツマノモリツマヨシコセネ》(一六七九)とある。
〔評〕 おとづれ來るべき夫を待つて、幾夜か獨寢の床淋しく明かした女が、その麻の衾に對して、今宵こそ必ず夫を引寄せてくれよと呼びかける言葉である。胸中萬斛の悲愁と、押へむとして押へ難き情炎とが迸つて、自からこの長大息をなしてゐる。二句を五句に反覆したのも緊張の聲調をなしてゐる。
 
相聞
 
目録には未勘國相聞往來歌とある。分類はしてないが、始から二十六首が正述心緒で、次の八十六首が寄物陳思になつてゐる。寄物陳思の部はその配列の順序が、卷十一・卷十二のそれと大體同樣になつてゐる。
 
3455 戀しけば 來ませ吾が背子 垣内柳 末摘みからし 我立ち待たむ
 
古非思家婆《コヒシケバ》 伎麻世和我勢古《キマセワガセコ》 可伎都楊疑《カキツヤギ》 宇禮都美可良思《ウレツミカラシ》 和禮(434)多知麻多牟《ワレタチマタム》
 
戀シク思召スナラバ、吾ガ夫ヨ、尋ネテ〔三字傍線〕オイデナサイ。垣根ノ内ニ植ヱテアル柳ノ、末ノ方ヲ摘ミ苅ラセテ、外ヲ見易イヤウニシテ〔十字傍線〕私ガ貴方ノオイデヲ〔七字傍線〕立ツテ待ツテヰマセウ。
 
○古非思家婆《コヒシケバ》――戀しからばに同じ。○可伎都楊疑《カキツヤギ》――垣内柳。垣の内に植ゑた柳。代匠記は垣つ柳とし、考以下、垣として植ゑた柳と解してゐるが、垣津田《カキツタ》(三二二三)と共に可伎都《カキツ》は垣内の意に見るべきである。○宇禮都美可良思《ウレツミカラシ》――宇禮《ウレ》は末。柳の梢を摘み苅らしめての意。可良思《カラシ》は枯らしではない。柳の梢を苅り採るのは、籬の外を眺めるに都合よき爲である、垣を越え易からしめむ爲としたのは當らない。新考に「柳の末を摘み枯すは人侍つほどの手すさびなり」と言つて、この柳を絲柳としてゐるが、人待つ手すさびなどは後世ぶりの思想であり、又絲柳では末摘み苅らしにふさはしくない。ここのヤナギは正しくは楊の字を以て記すヤナギである。
〔評〕 人を待つ女が男に言ひ贈つたもの。田舍人らしい情緒が優麗な辭を以て叙べ盡くされ、渾然玲玲瓏たる作品となつてゐる。
 
3456 うつせみの 八十言のへは 繁くとも 爭ひかねて あをことなすな
 
宇都世美能《ウツセミノ》 夜蘇許登乃敝波《ヤソコトノヘハ》 思家久等母《シゲクトモ》 安良蘇比可禰?《アラソヒカネテ》 安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》
 
世間ノ人ガイロイロ評判シテ邪魔スル言葉ガ多クトモ、貴方ハソレニ〔六字傍線〕反抗シカネテ、私ヲ事實トシテシマヒナサルナ。
 
○字都世美能《ウツセミノ》――枕詞として用ゐられるが、ここは現し身即ち世間の人のの意である。○夜蘇許登乃敝波《ヤソコトノヘハ》――八十言の隔は。八十言の上はと見る説が多いが從ひ難い。○安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》――我をその事實ありと認める(435)な。許登奈須《コトナス》はむつかしい言葉である。言《コト》成す、即ち言ひ成すと見る説も多い。
〔評〕 世人の口の喧ましいのに辟易してゐる男を、激勵した女の言葉。かうなると女の方が却つて強く、何處までも二人の關係を否定しつづけようといふのである。力強い叙法。
 
3457 うち日さす 宮の吾が背は 大和女の 膝枕くごとに あを忘らすな
 
宇知日佐須《ウチヒサス》 美夜能和我世波《ミヤノワガセハ》 夜麻登女乃《ヤマトメノ》 比射麻久其登爾《ヒザマクゴトニ》 安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》
 
(宇知日佐須)宮仕ニ出テヰル私ノ夫ハ、都ノ大和ノ女ニ馴レ親シンデ私ヲ思ヒ出シナサラナイダラウガ、セメテ〔都ノ〜傍線〕大和ノ女ノ膝ヲ枕シテ寢ル時毎ニデモ、私ヲ忘レナサルナ。
 
○宇知日佐須《ウチヒサス》−枕詞。宮とつづく。四六〇參照。○美夜能和我世波《ミヤノワガセハ》――宮に奉仕してゐる吾が夫は。○夜麻
登女乃《ヤマトメノ》――大和の國の女の。○比射麻久其登爾《ヒザマクゴトニ》――膝を枕として寢る度毎に。○安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》――我を忘れ給ふな。
〔評〕 東國の男が京に上つて奉仕の生活に入つてゐる者の、妻の詠んだ歌。大和女の膝を枕として寢るものと定めて、敢てそれを怨みはしないが、その時には必ず我を思ひおこし給へと希つてゐる女の言葉は、いとしくも可憐である。
 
3458 なせの子や 等里の岡路し なかだをれ あをねし泣くよ いくづくまでに
 
奈勢能古夜《ナセノコヤ》 等里乃乎加耻志《トリノヲカヂシ》 奈可太乎禮《ナカダヲレ》 安乎禰思奈久與《アヲネシナクヨ》 伊久豆君麻?爾《イクヅクマデニ》
 
私ノ夫ノ君ヨ。等里ノ岡ノ路ガ途中デ曲ツテヰテ、此處カラ別レテ行ツ夫十姿ガ見エナクナルノデ、ソレヲ〔此處〜傍線〕(436)悲シンデ〔〜傍線〕吐息ヲツクホドマデニ、私ヲ聲出シテ泣カシメルヨ。
 
○奈勢能古夜《ナセノコヤ》――奈勢《ナセ》は汝夫。夫を親しんでいふ。書紀に「吾夫君此云2阿我儺勢1」とある。古事記にも「愛我那勢命《ウツクシキワガナセノミコト》」とある。古《コ》は更に親しんで添へたもの。ヤはヨに同じく、呼び懸けの助詞。○等里乃乎加耻志《トリノヲカヂシ》――等里乃乎加耻《トリノヲカヂ》は等里の岡の路。等里は地名であるが、どこかわからない。古義に「等里は未だ慥に考へ得ざれども嘗《ココロミ》に云はば、和名抄に、常陸國鹿島郡下つ鳥中つ鳥上つ島(上つ島の島は鳥の字か)と見えて其は鳥といふ郷に、上中下あるなるべし。されば其地の岡を鳥之岡といふならむ」とある。シは強めて言ふのみ。○奈可太乎禮《ナカダヲレ》――中程で折れ曲つて。等里の岡の道が中途で曲つて、それから男の姿が見えなくなるのであらう。○安乎禰思奈久與《アヲネシナクヨ》――我を音に哭かしめるよ。前に伊毛我名欲妣?吾乎禰之奈久奈《イモガナヲビテアヲネシナクナ》(三三六二)とある。略解は上を男の中絶えて來ぬ譬喩とし、この句を不令寢《ネセヌ》と解してゐる。○伊久豆君麻?爾《イクツクマデニ》――息吐《イキツ》くまでにに同じ。ため息をついて嘆息するまでにの意。
〔評〕 初句に呼びかけのヤを用ゐた爲に、句切となつてゐるのは、集中では極めて珍らしい形である 多少解し難い點もあるので、二三句に誤字ありとする説もあるが、さうではあるまい。
 
3459 稻舂けば かがる吾が手を 今宵もか 殿の若子が 取りて嘆かむ
 
伊禰都氣波《イネツケバ》 可加流安我手乎《カガルアガテヲ》 許余比毛可《コヨヒモカ》 等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》 等里?奈氣可武《トリテナゲカム》
 
稻ヲ舂ク荒仕事ヲシテ〔六字傍線〕居ルノデ、赤ギレノ切レタコノ私ノ手ヲ、今夜、殿ノ若旦那樣ガ手ニオトリナサレテ、アア可愛サウダト〔八字傍線〕オ嘆キ下サルデアラウ。ヤサシイ御方ダカラ屹度サウナサルダラウガ、嬉シクモアリ、恥カシクモアル〔ヤサ〜傍線〕。(437)○可加流安我手乎《カガルアガテヲ》――可加流は皹る。和名抄に「漢書註云、皹(ハ)手足拆裂也、和名阿加々利」とある。今の謂はゆる赤ギレになるをいふ。加は濁つて訓むがよいか。○等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》――殿の若子が。前に等能乃奈可知《トノノナカチ》(三四三八)とあつたのと同じく、殿はその地方の國守郡守などを指すのであらう、和久胡《ワクゴ》は若い子。即ち若君である。○等里?奈氣可武《トリテナゲカム》――手に取つて見て、可愛さうにと嘆くであらうの意。
〔評〕 稻舂く賤女が、殿の若君の愛を得て、今宵殿の若君が來て、この赤切れだらけの手を取つて、可愛さうにと嘆息せられることであらうと、恥かしくもあり嬉しくもある心をその儘に述べたもので、纏綿たる純情を直截的な叙法を以て表現し、毫も潤飾の痕なくして、明朗切實、惻々として人を感動せしめるものがある。蓋し東歌中の秀絶であらう。なほ略解に「良民などの女が身をくだりて、賤女の業もて言へるにぞ有べき。よき人も山がつ海人などに譬へて言ふも歌の常也」とあるのは、途方もない見當違ひである。
 
3460 誰ぞこの 屋の戸おそぶる にふなみに 吾が背をやりて 齋ふこの戸を
 
多禮曾許能《タレゾコノ》 屋能戸於曾夫流《ヤノトオソブル》 爾布奈未爾《ニフナミニ》 和家世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》 伊波布許能戸乎《イハフコノトヲ》
 
新嘗ノ祭ニ私ノ夫ヲ出シテ〔三字傍線〕ヤツテ、私ガ留守ヲシテ〔七字傍線〕汚レノ入ラヌヤウニ、謹慎シテ、閉ヂテ〔三字傍線〕ヰルコノ家ノ〔二字傍線〕戸ヲ、押シ開ケヨウト〔七字傍線〕動カスノハ誰デスカ。開ケルコトハ出來マセヌゾ〔開ケ〜傍線〕。
 
○屋能戸於曾夫流《ヤノトオソブル》――屋能戸《ヤ/ト》は屋の戸。於曾夫流《オソブル》は押し動かす。古事記八千矛神の歌に、遠登賣能那須夜伊多斗遠淤曾夫良比《ヲトメノナスヤイタドヲオソブラヒ》とある淤曾夫良比《オソブラヒ》に同じ。○爾布奈未爾《ニフナミニ》――爾布奈未《ニフナミ》は新嘗の東語。新穀を供へて神を祭ること。○和家世乎夜里?《ワガセヲヤリテ》――吾が夫を遣りて。舊本、家とあるは我の誤か。元暦校本など我に作つてゐる。○伊波布許能戸乎《イハフコノトヲ》――齋ふは神聖にして穢に觸れじとすること。許能戸《コノト》は二句の屋能戸《ヤノト》で、人を入れじと閉してあるのである。
(438)〔評〕 新嘗祭の民間に行はれた有樣がよく分つて、文化史料として大切な作品である。略解に、「にふなみはにひなめ也。十一月公の新嘗祭有時は國の廳にても同じ祭すれば、其國の里長より上は皆廳に集ふべし。しかればその里長などの家にても、妻の物忌して在を忍び來たる男の戸をおしひらかむとする時、其妻の詠める也。上にかつしかわせをにへすとも詠めるは、家々にて爲なれど事はひとし」とあるのは考の説を踏襲したもので、公にて催される新嘗とし、里長などの妻の歌としてゐるが、これはさうではなく村々で行はれたもので、各戸の家長などが集まつてやつたのであらう。もとより一家族として各戸でも行つたのだが、かうした團體的の新嘗もあつたのである、この神聖な祭に、男の留守に乘じて、人妻を誘惑しようとする不徳漢をたしなめた歌である。卷十一の誰此乃吾屋戸來喚足千根母爾所嘖物思吾呼《タレゾコノワガヤドニキヨブタラチネノハハニコロバエモノモフワレヲ》(二五二七)と形式が似てゐる。なほ新解には、「新嘗の祭は婦人の爲事であつて、最神聖な祭であるから、家中の男子を外に出してしまふのである。ヤルは男を出して遣る意」とある。
 
3461 あぜと云へか さねに逢はなくに 眞日暮れて よひなは來なに 明けぬしだ來る
 
安是登伊敝可《アゼトイヘカ》 佐宿爾安波奈久爾《サネニアハナクニ》 眞日久禮?《マヒクレテ》 與比奈波許奈爾《ヨヒナハコナニ》 安家奴思太久流《アケヌシダクル》
 
何ト云フコトカ。アノ人ハ〔四字傍線〕本當ニハ逢ハナイヨ。イツデモ〔四字傍線〕日ガ暮レテスグニ〔三字傍線〕宵ノ内〔二字傍線〕ニハ來ナイデ、夜ノ〔二字傍線〕明ケタ時ニヤツテ來ルヨ。コレデハ眞實ニ私ヲ思ハナイノデアラウ〔コレ〜傍線〕。
 
○安是登伊敝可《アゼトイヘカ》――何と言へばか。何といふことかの意。安是《アゼ》は東語で、今のナゼに同じ、今も房總地方ではナゼをアゼといふ。○佐宿爾安波奈久爾《サネニアハナクニ》――佐宿《サネ》は眞實。本當には逢はないよの意。○眞日久禮?《マヒクレテ》――眞日《マヒ》は眞日。マは添へていふのみ。○與比余波許奈爾《ヨヒナハコナニ》――宵には來ないで。ナは宵に添へたもので、朝ナ・夕ナなどのナであらう。契沖以下の諸註このナをニと同義とし、古義には爾の字の誤であらうと言つてゐるが、さうで(439)はあるまい。許奈爾《コナニ》は來ないで。○安家奴思太久流《アケヌシダクル》――夜の明けた時來る。明けぬるといふべきを明けぬといふのは、連體形の古格である、思太《シダ》は時。他にも用例が多い。
〔評〕 男が晝のみ訪れて、夜は來てくれないことを、物足りなく遺憾に思つた歌。戀の完成を急ぐいらいらしてゐる氣分である、内容も用語も東語らしい作である、
 
3462 足引の 山澤人の 人さはに まなといふ兒が あやにかなしさ
 
安志比奇乃《アシヒキノ》 夜末佐波妣登乃《ヤマサハヒトノ》 比登佐波爾《ヒトサハニ》 麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》 安夜爾可奈思佐《アヤニカナシサ》
 
(安志比奇乃)澤山ノ人ガ多勢デ、愛ラシイ、女ダ〔二字傍線〕ト言ツテ評判シテ〔四字傍線〕ヰル女ガ、不思議ト思ハレル程モ私ニハ〔三字傍線〕戀シイヨ。
 
○夜末佐波妣登乃《ヤマサハビトノ》――山澤人の。ヤマサハはサハヤマと同じく、今の澤山と同意であらう。古義に山澤に居《ス》む人といふことなりといふ、源嚴水説を採用してゐるのは諒解に苦しむ、この句までを序詞と見る説が多いが、澤山の人の、人が澤山にと三句で繰返してゐるのであらう。○麻奈登伊布兒我《マナトイフコガ》――愛らしいといふ女が、マナは愛らしいこと、集中、愛子の二字をマナゴと訓んだ所が多い。考に「庶子は其家にも他もかろしめ、嫡妻《ムカヒメ》の子を眞《マ》なむすめと人もさはにたふとむ、その女こそよろづ事もなければ、吾は本より深く思ふといふなり」とあるのは從ひ難い。○安夜爾可奈思佐《アヤニカナシナ》――怪しく可愛いことよ。
〔評〕 評判の美人を戀する歌。民謠風の作品。
 
3463 ま遠くの 野にも逢はなむ 心なく 里のみ中に 逢へるせなかも
 
麻等保久能《マトホクノ》 野爾毛安波奈牟《ヌニモアハナム》 己許呂奈久《ココロナク》 佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》 安敝(440)流世奈可母《アヘルセナカモ》
 
人里〔二字傍線〕遠イ人目ニ觸レナイヤウナ〔人目〜傍線〕、野原デデモアナタト〔四字傍線〕逢ヒタカツタ。不用意ニモ、里ノ眞中デ逢ツタ私ノ愛〔二字傍線〕スル男ヨ。里中デハ折角逢ツテモ人目ヲ恐レテ、思フヤウニ話ヲスルコトモ出來ナイノハ殘念デス〔里中〜傍線〕。
 
○麻等保久能《マトホクノ》――ま遠くの。麻《マ》は接頭語のみ。○野爾毛安波奈牟《ヌニモアハナム》――野にも逢はなむ。安波奈牟《アハナム》は逢へかしと希望を述べてゐる。○佐刀乃美奈可爾《サトノミナカニ》――里の眞中に。美《ミ》は接頭語。○安敝流世奈可母《アヘルセナカモ》――世奈《セナ》は男を親しんでいふ。
〔評〕 人目に觸れないで男に逢ひたいと希ふ女の歌。前の可美都氣乃乎度能多杼里我可波治爾毛兒良波安波奈毛比等理能未思?《カミツケノヲドノタドリガカハヂニモコラハアハナモヒトリノミシテ》(三四〇五)は男の歌であるが、意はよく似てゐる、
 
3464 人言の 繋きによりて 眞小薦の おやじ枕は わはまかじやも
 
比登其等乃《ヒトゴトノ》 之氣吉爾余里?《シゲキニヨリテ》 麻乎其母能《マヲゴモノ》 於夜目麻久良波《オヤジマクラハ》 和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》
 
世間ノ人ノ口ガ喧マシイカラトテ、私ハ、同ジ一ツノ〔三字傍線〕鷹枕ヲシテオマヘト共ニ〔六字傍線〕寢ナイト云フコトガアルモノカ。人ガ何ト言ハウトモカマハズニ共寢ヲシヨウ〔人ガ〜傍線〕。
 
○麻乎其母能《マヲゴモノ》――眞小薦の。マ・ヲ共に接頭語。この句から四句の麻久良《マクラ》につづく。薦枕をして共に寢ようといふのである。○於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》――於夜自《オヤジ》は同じの古言。○和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》――我は枕かざらむや、必ず枕く考だといふのである 同じ枕を枕くとは一つ枕をして共に寢ること。
〔評〕 人言を憚らぬ戀をする男の歌。かなり熱烈である。
 
3465 高麗錦 紐解き放けて 寢るが上に あどせろとかも あやにかなしき
 
(441) 巨麻爾思吉《コマニシキ》 比毛登伎佐氣?《ヒモトキサケテ》 奴流我倍爾《ヌルガヘニ》 安杼世呂登可母《アドセロトカモ》 安夜爾可奈之伎《アヤニカナシキ》
 
高麗錦ノ紐ヲ解キ放ツテ、私ハ戀シイ人ト〔七字傍線〕共寢ヲシテヰルノニ、コノ上何トシロトテ、コノ人ガ〔四字傍線〕不思議ニモ可愛イノデアラウカ。コンナニ心解ケテ共寢シテヰルノニ、マダ物足ラヌトハ不思議ダ〔コン〜傍線〕。
 
○巨麻爾思吉《コマニシキ》――高麗より舶來の錦。この錦を以て紐を作つた。○奴流我倍爾《ヌルガヘニ》――共寢をしてゐるのに、これ以上に。○安杼世呂登可母《アドセロトカモ》――何と爲よとかも。安杼《アド》は何との東語。セロは爲よ。ロをヨに用ゐるのは今日の關東語にも普通に行はれてゐることである。
〔評〕 男の歌であらう。女の歌とも見られないことはない。情緒纏綿。第四句は心の駒の荒れ狂ふ樣をあらはした、端的な情熱的表現である。
 
3466 まかなしみ 寢れば言にづ さ寢なへば 心の緒ろに 乘りてかなしも
 
麻可奈思美《マカナシミ》 奴禮婆許登爾豆《ヌレバコトニヅ》 佐禰奈敝波《サネナヘバ》 己許呂乃緒呂爾《ココロノヲロニ》 能里?可奈思母《ノリテカナシモ》
 
可愛サニ戀人ト共ニ〔五字傍線〕寢レバ、世間ノ人ノ〔五字傍線〕口ニ喧マシク言ヒ騷ガレル。ト言ツテ〔四字傍線〕共寢ヲシナケレバ、アノ人ノコトガ〔七字傍線〕絶エズ心ニ思ハレテ悲シイヨ。サテサテ困ツタコトダ〔サテサ〜傍線〕。
 
○麻可奈思美《マカナシミ》――愛《カナ》しき故。麻《マ》は接頭語。○奴禮婆許登爾豆《ヌレバコトニヅ》――許登爾豆《コトニヅ》は言に出づ。言に出づとは、多く自から口に言ひあらはすことであるが、ここは戀人と共に寢れば人に言ひ騷がれるといふのである。○佐禰奈敝波《サネナヘバ》――さ寢ざれば。サは接頭語。ナヘは打消の助動詞ヌに同じ。下に禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》(三五二九)・(三五五五)・宿奈敝杼(442)母《ネナヘドモ》(三五〇九)などの例がある。○己許呂乃緒呂爾《ココロノヲロニ》――心の緒ろに。心はつづいて絶えぬものであるから、緒といふのであらう。或は正述心緒などの心緒か。ロはこの卷に多い接尾語である。○能里?可奈思母《ノリテカナシモ》――心に思つて忘れかねる意を、心に乘るといつた例は、卷二の妹情爾乘爾家留香聞《イモガココロニノリニケルカモ》(一〇〇)などがある。ここは心の緒ろに乘るといつてゐるが、要するに同じである。
〔評〕 人言を憚る戀。男の歌であらう。遣瀬ない戀情。
 
3467 奧山の 眞木の板戸を とどとして 吾が開かむに 入り來てなさね
 
於久夜麻能《オクヤマノ》 眞木乃伊多度乎《マキノイタドヲ》 等杼登之?《トドトシテ》 和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》 伊利伎?奈左禰《イリキテナサネ》
 
奥山ニ生エテヰル檜ノ板デ作ツタ戸ヲ、ドンドント音ヲ立テテ、貴方ガ叩イタナラバ〔九字傍線〕、私ガ中カラ〔三字傍線〕開キマセウカラ、ソノ時ニ〔四字傍線〕入ツテ來テアナタハ〔四字傍線〕オ寢ナサイ。
 
○於久夜麻能眞木乃伊多度乎《オクヤマノマキノイタドヲ》――奥山に生える眞木の板で作つた戸を。奧山のは眞木と言はむ爲のみ。眞木は檜。○等杼登之?《トドトシテ》――等杼《トド》はドンドンと鳴る音。卷十一に馬音之跡杼登毛爲者《ウマノトノトドトモスレバ》(二六五三)とある。考に「とどとしては男のするなり。和我は女なり。此間を切て心得べし」とあり、略解もこれに從つて、「とどは男の戸を叩く音也。さて三の句に切て吾開かむにとは女のひらく也」とあるが、古義はこれに反對して、女が内から戸轟として押開かむその時に入り來て寢給へよの意として解してゐる。語調からいへば三四の句が續いてゐるやうであるが、内より開くに殊更轟として開くと言ふは穩やかでないから、眞淵説の如く、等杼登之?《トドトシテ》は男の外より戸を鳴らす音。和我は女とすべきであらう。○伊利伎?奈左禰《イリキテナサネ》――入來て寐さね。ナスはは寐《ヌ》に同じ。夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》(八〇二)參照。
〔評〕 少し叙法に曖昧な點もあるが、面白い作品だ。如何にも純一な上代の田舍人の戀らしい。民謡に違ひない。
 
3468 山鳥の 尾ろのはつ尾に 鏡懸け 唱ふべみこそ 汝によそりけめ
 
(443)夜麻杼里乃《ヤマドリノ》 乎呂能波都乎爾《ヲロノハツヲニ》 可賀美可家《カガミカケ》 刀奈布倍美許曾《トナフベミコソ》 奈爾與曾利※[奚+隹]米《ナニヨソリケメ》
 
人ガ私ノ浮名ヲ〔七字傍線〕(夜麻杼里乃乎呂能能波都乎爾可賀美可家)言ヒ立テヨウト思ツテ、私ヲ〔二字傍線〕貴方ト關係アルヤウ〔七字傍線〕ニ言ヒ寄セタノデアラウ。喧マシイ人ノ口ダ〔八字傍線〕。
 
○夜麻杼里乃《ヤマドリノ》――山鳥は卷八に山鳥許曾婆峯向爾嬬問爲云《ヤマドリコソハヲムカヒニツマドヒストイヘ》(一六二九)とある山鳥で、雉に似て尾の長い鳥である。○乎呂能波都乎爾《ヲロノハツヲニ》――乎呂《ヲロ》は尾。ロは添へていふのみ。波都乎《ハツヲ》は秀《ホ》ツ尾《ヲ》と同じく、尾の中の特に長い尾即ち垂り尾である。○可賀美可家《カガミカケ》――鏡懸け。山鳥の垂り尾に鏡を懸けることは、代匠記に「魏時南方(ヨリ)献2山鶏1、帝欲2其歌舞1而無v由、公子蒼舒令d以2大鏡1著c其前u、山鷄鑑v形而舞、不v知v止、遂至v死、韋仲將爲v之賦」と引いた故事に出たのであらう。この傳説は枕草子にも「山鳥は友を戀ひてなくに、鏡を見せたれば、なぐさむらむ、いとあはれなり。谷距てたるほどなど、いと心くるし」とあつて、古くから吾が國の民間に行はれたものらしい。宣長が「から國の故事は此歌には叶はず。これは或人の云、山鳥の尾は夜いみじく光る事有ものにて、人其光を見て捕むとして行に、やゝ近くなるまでうごかず、今まさに捕ふべきほどに近づく時に、俄かに立去て、又行先の方にて光るを人又行て捕むとすれば、又さきの如くにて終に捕がたきもの也。されば此歌に鏡かけと言ふは、尾の鏡の如く夜光るを言ふ。となふべみは捕ふべみ也。たとへたる意は山鳥の捕へらるべく見えて、とらへがたき如く、女の吾になびくべきさまに見えながら、つひになびかぬにて、はじめなびくべく見えたればこそ、心をかけて言ひより初めたれの意也と言へり、右の説いとよく歌に叶へり。但し其意ならば、結句けれと有べきを、けめと言へるはいさゝか心得ず」と言つてゐる。古義は太體これに賛して、雄鳥のはつをに雌鳥の影のうつる事あるを見て鳴くのを、かがみといふので、誠の鏡ではないとしてゐるが無理であらう。新考の可賀美は掛網をつづめたので、カガミではなくカカミだといつたのは更に奇説である。ここまでは山鳥が鏡(444)を見て鳴くといふ傳説によつて唱ふとつづけた序詞。○刀奈布倍美許曾《トナフベミコソ》――トナフは聲を立てて呼ぶこと。人が吾が名を唱へ言ひ立てようとての意である。ベミはべくあるによつて、べき故になどの意。卷十に秋芽子乎落過沼蛇《アキハギヲチリスギスベミ》(二二九〇)とある。○奈爾與曾利鷄米《ナニヨソリケメ》――私を汝に關係ある如く言ひ寄せたのであらうの意。ケレと有べきだとする説は理由がない。
〔評〕 有名な山鳥傳説を序詞として取入れた作で、支那傳説が地方の民間に廣まつてゐたのである。秀でてはゐないが、注意すべき作品である。袖中抄にも載せてある。
 
3469 夕占にも 今宵と告らろ 吾がせなは あぜぞも今宵 よしろ來まさぬ
 
由布氣爾毛《ユフケニモ》 許余比登乃良路《コヨヒトノラロ》 和賀西奈波《ワガセナハ》 阿是曾母許與比《アゼゾモコヨヒ》 與斯呂伎麻左奴《ヨシロキマサヌ》
 
夕方ノ占ヲシテ見タノ〔六字傍線〕ニモ、今夜私ノ夫ガオイデナサル〔十字傍線〕ト出タ。ソレダノニ〔五字傍線〕私ノ夫ハ何故ニマア、今夜ハ寄ツテオイデニナラナイノダラウ。
 
○由布氣爾毛《ユフケニモ》――由布氣《ユフケ》は夕占。夕方辻に立つて行ふ占。卷三に夕衝占間《ユフケトヒ》(四二〇)とあるのは、衢で行ふことを示してゐる。○許余比登乃良路《コヨヒトノラロ》――乃良路《ノラロ》は宣《ノ》れるの東語。〇阿是曾母許與比《アゼゾモコヨヒ》――何故ぞも今宵。○與斯呂伎麻左奴《ヨシロキマサヌ》――ヨシは依セ、ロは助辭。依せ來まさぬ。寄り來まさぬと同じであらう。
〔評〕 卷十一の夕占爾毛占爾毛告有今夜谷不來君乎何時將待《ユフケニモウラニモノレルコヨヒダニキマサヌキミヲイツトカマタム》(二六一三)と同意。用語が全く東語らしい。
 
3470 相見ては 千年や去ぬる 否をかも あれや然思ふ 君持ちがてに
 
安比見?波《アヒミテハ》 千等世夜伊奴流《チトセヤイヌル》 伊奈乎加母《イナヲカモ》 安禮也思加毛布《アレヤシカモフ》 伎美末知我?爾《キミマチガテニ》
 
(445)私ハアナタニ〔六字傍線〕逢ツテカラ、千年モタツタノカ知ラ、ドウモソンナ氣ガスルガ〔ドウ〜傍線〕サウデハナイノカ知ラ、アナタノオイデヲ待チカネテ、私ガサウ思フノカ知ラ。
 
〔評〕 卷十一の相見者千歳八去流否乎鴨我哉然念待公難爾《アヒミテハチトセヤイヌルイナヲカモワレヤシカオモフキミマチガテニ》(二五三九)と全く同一の歌である。なほ左註に柿本朝臣人麿歌集出也とあるけれども、卷十一の柿本朝臣歌集出と記した部類中には入つてゐない。又その書き方も人麿集のものらしくない。卷十一に於いて人麿集以外としたものを、何故にこの卷ではかかる註を附したか、この矛盾に注意すべきである。代匠記精撰本はこれについて「つらつら按ずるに彼卷には他本によのつねの歌の中に入れたるに依て載せ、今は人丸集に東歌と註せられたるに依て此處にも載る故に、後人に兩卷の相違を疑がはしめむとて注せらるなり」と言つてゐる。考もこれに就いて説をなしてゐるが、なほ攻究すべき問題である。
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
3471 しまらくは 寢つつもあらむを 夢のみに もとな見えつつ あを音し泣くる
 
思麻良久波《シマラクハ》 禰都退母安良牟乎《ネツツモアラムヲ》 伊米能未爾《イメノミニ》 母登奈見要都追《モトナミエツツ》 安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》
 
セメテ〔三字傍線〕暫クノ間ハ落ツイテ〔四字傍線〕寢テ居タイモノダノニ、落ツイテ寢ルコトガ出來ズ〔落ツ〜傍線〕、夢ニバカリニ徒ラニ、戀人ノ姿ガ〔五字傍線〕見エテ、私ヲ落付イテ〔四字傍線〕寢サセナイ。
 
○禰都追母安良牟乎《ネツツモアラムヲ》――ネは安眠・熟睡の意である。臥床することではない。○伊米能末爾《イメノミニ》――考に伊米を於米の誤として、面影に見えることとしてゐる。前句の誤解に基くものである。○安乎彌思奈久流《アヲネシナクル》――前に安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》(三三六二の或本)とあり、我を音に泣かしむるの意。略解に「我を寢せしめぬと言ふ意也」とあるのはよくない。
 
(446)〔評〕 ツツといふ助詞が二句と四句とに用ゐられてゐるが、格別耳ざはりでもない。
 
3472 人妻と あぜかそを言はむ 然らばか 隣の衣を 借りて著なはも
 
比登豆麻等《ヒトヅマト》 安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》 志可良婆加《シカラバカ》 刀奈里乃伎奴乎《トナリノキヌヲ》 可里?伎奈波毛《カリテキナハモ》
 
人妻人妻〔二字傍線〕ト手モ出セナイモノノヤウニ〔手モ〜傍線〕、何故アノ女ヲ言ハウカ。若シサウ云フモノナラバ、隣ノ人ノ着物ヲ借リテ着ナイト云フコトガアルカ。着物ハ隣ノ人ノデモ場合ニヨツテハ借リルノダカラ、人妻デモ黙ツテ見テヰナクテハナラナイモノトバカリ言ハレマイ〔着物〜傍線〕。
 
○安是可曾乎伊波牟《アゼカソヲイハム》――何故か其を言はむ。何故にその女を言はむやの意。○可良婆加《シカラバカ》――然らばか。カは疑問の助詞。○刀奈里乃伎奴乎《トナリノキヌヲ》――隣人の衣服を。○可里?伎奈波毛《カリテキナハモ》――借りて着ざらむ。
〔評〕大膽な歌である。人妻を觸れ難きものとした。卷四の神樹爾毛手者觸云乎打細丹人妻跡云者不觸物可聞《カムキニモテハフルトフヲウツタヘニヒトツマトイヘバフレヌモノカモ》(五一七)とある思想と反對に、人妻なりとて觸れられぬことはないと叫んでゐる。人妻を隣の衣に譬へたのは、勝手な言葉であるが面白い。卷四の歌の道徳的なるに對して、この方が本能的・原始的である。
 
3473 佐野山に 打つや斧音の 遠かども 寢もとか子ろが 面に見えつる
 
左努夜麻爾《サヌヤマニ》 宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》 等拘可騰母《トホカドモ》 禰毛等可兒呂賀《ネモトカコロガ》 於由爾美要都留《オモニミエツル》
 
(左努夜麻爾宇都也乎能登乃)遠イケレドモカウシテ二人デ〔七字傍線〕寢ヨウトノ前シラセカ〔六字傍線〕、女ノコトガ目ノ前ニチラツイテ見エタ。
(447)○左努夜麻爾《サヌヤマニ》――佐野といふ地名は所々にあるが、東國で有名なのは上野である。考にサを發言として、野山と見てゐるのは、この歌が未勘國の部に入つてゐるからであらうが、從ひ難い説である。○宇都也乎能登乃《ウツヤヲノトノ》――打つや斧音の。ヤは詠歎の辭として添へたのみ。ここまでは遠と言はむ爲の序詞。○等抱可騰母《トホカドモ》――遠かれども。女と遠く距つてゐるがの意。○禰母等可兒呂賀《ネモトカコロガ》――我と寢むとか女がの意。ネモは寢むに同じ。コロは兒にロを添へたもの。○於由爾美尊都留《オモニミエツル》――舊本、於由とあるが考に由を母の誤として面に見えつる、即ち面影に見えつるの意としたのがよいやうだ。於由では解しがたい。
〔評〕 樵夫が佐野山に入つて材木を伐り出す音が、かすかに遠く響いてゐる。その音を序詞に取り入れて綴つた手際は巧なものである。田舍人の作らしい材料だ。
 
3474 植竹の 本さへとよみ 出でて去なば いづし向きてか 妹が嘆かむ
 
宇惠多氣能《ウヱタケノ》 毛登佐倍登與美《モトサヘトヨミ》 伊低?伊奈婆《イデテイナバ》 伊豆思牟伎氏可《イヅシムキテカ》 伊毛我奈藝可牟《イモガナゲカム》
 
(宇惠多氣能)皆ノ者マデガ泣キ騷イデ、別ヲ悲シデ私ガ旅ニ〔九字傍線〕出カケタナラバ、何方ヲ向イテ妻ハ私ヲ慕ツテ〔五字傍線〕歎クコトデアラウカ。サゾ私ヲ思ヒヤツテ泣クコトデアラウ〔サゾ〜傍線〕。
 
○字惠多氣能《ウヱタケノ》――殖竹の。殖は殖子水葱《ウヱコナギ》(四〇七)・植槻《ウヱツキ》(三三二四)などのウヱと同じく、殊更に植ゑたものではなく、おのづから生えたものにもいふ。宇惠多氣《ウヱタケ》は生えてゐる竹。上の句は本《モト》と言はむ爲に、枕詞として置かれてゐる。○毛登佐倍登與美《モトサヘトヨミ》――モトは本、末に對して根本の方をいふ。本まで響かせてとは考に「こは家こぞりてね泣さわぐを強くいふなり」といつたのがよいか。○伊豆思牟伎?可《イヅシムキテカ》――イヅシは何方《イヅチ》に同じ。○伊毛我奈藝可牟《イモガナゲカム》――舊本、藝とあるが、元暦校本その他の古本、氣に作つてゐるから、ナゲカムであらう。
〔評〕 旅に出でむとして留守居の妻を思ひやつたもの。哀情が籠つてゐる。防人などの作か。前に可須美爲流布(448)時能夜麻備爾和我伎奈婆伊豆知武吉?加伊毛我奈氣可牟《カスミヰルフジノヤマビニワガキナバイヅチムキテカイモガナゲカム》(三三五七)とあるのと、下句殆ど同樣である。
 
3475 戀ひつつも 居らむとすれど 木綿間山 隱れし君を 思ひかねつも
 
古非都追母《コヒツツモ》 乎良牟等須禮杼《ヲラムトスレド》 遊布麻夜萬《ユフマヤマ》 可久禮之伎美乎《カクレシキミヲ》 於母比可禰都母《オモヒカネツモ》
 
戀シク思ヒナガラモソノ儘耐ヘテ〔六字傍線〕居ヨウトスルケレドモ、木綿間山ヲ越エテ〔四字傍線〕、見エナイヤウニナツテ行〔三字傍線〕ツタ君ヲ思ツテハ、戀シサニ〔四字傍線〕堪ヘラレナイヨ。
 
○乎良牟等須禮杼《ヲラムトスレド》――さうして忍びこらへてゐようと思ふが。○遊布麻夜萬《ユフマヤマ》――所在不明、卷十二(三一九二)にもある。
〔評〕 卷十二に不欲惠八師不戀登爲杼木綿間山越去之公之所念良國《ヨシヱヤシコヒジトスレドユフマヤマコエニシキミガオモホユラクニ》(三一九一)とあつて、羈旅發思の部に收めてあるのと同歌の異傳と思はれるほどによく似てゐる、木綿間山の所在は明瞭でないが、東歌らしくない作である。
 
3476 うべこなは わぬに戀ふなも たとつくの ぬがなへ行けば 戀ふしかるなも 或本歌末句曰、ぬがなへ行けど わぬがゆのへば
 
宇倍兒奈波《ウベコナハ》 和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》 多刀都久能《タトツクノ》 奴賀奈敝由家婆《ヌガナヘユケバ》 故布思可流奈母《コフシカルナモ》
 
オマヘハ俺ガ戀シイト言ツテヨコシタガ〔オマ〜傍線〕、オマヘガ俺ヲ戀シク思フノハ尤モナコトダ。立ツ月ガ流レテ、月日ガタツ〔六字傍線〕タコトダカラ、戀シク思フコトデアラウ。
 
○宇倍兒奈波《ウベコナハ》――諾兒等《ウベコラ》は。ウベは尤も。次句につづいてゐる、コナのナは狹名《セナ》(二五二二)・妹名根《イモナネ》(一八〇〇)・伊毛奈呂《イモナロ》(三四四六)などのナに同じで、コナは女を親しんでいふ。○和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》――ワヌは我に同じであらう。コフナモは戀ふらむ。ナモは結句にもあり、ラムの意らしい。○多刀都久能《タトツクノ》――立つ月の。立つは月の始まること。(449)○奴賀奈敝由家婆《ヌガナヘユケバ》――流らへ行けばであらう。月が改まり經過して行けばの意。○故布思可流奈母《コフシカルナモ》――戀しがるらむに同じ。戀しいであらう。
〔評〕 旅に出た男が故郷に殘して來た女からの消息を見て、よんだものであらう。徹頭徹尾東語が用ゐられて、如何にも東歌らしい。
 
或本宇末句曰 努我奈敝由家杼《ヌガナヘユケド》 和奴賀由乃敝波《ワヌガユノヘバ》
 
努我奈敝由家杼《ヌガナヘユケド》は流らへ行けど。和奴賀由乃敝波《ワヌガユノヘバ》は宣長説に「或人のいはく、賀由は由賀を下上に誤れるにてわぬゆかなへば也と言へり」とあるのがよいであらう。吾が歸り行かねばの意であらう。
 
3477 東路の 手兒の呼坂 越えて去なば 我は戀ひむな 後は逢ひぬとも
 
安都麻道乃《アヅマヂノ》 手兒乃欲婢佐可《タゴノヨビサカ》 古要?伊奈婆《コエテイナバ》 安禮婆古非牟奈《アレハコヒムナ》 能知波安此奴登母《ノチハアヒヌトモ》
 
アナタガ〔四字傍線〕東海道ノ田子ノ呼坂ヲ越エテ、出カケタナラバ、私ハ後ニハオ目ニカカルコトガ出來ルト思ツ〔四字傍線〕デモ、ヤハリ〔三字傍線〕戀シク思フコトデセウナア。
 
○手兒乃欲婢佐可《タゴノヨビサカ》――前の安豆麻治乃手兒乃欲妣左賀《アヅマヂノタゴノヨビサカ》(三四四二)參照。
〔評〕 防人などに行く悲別の歌か。卷十二の三沙呉居渚爾居舟之※[手偏+旁]出去者裏戀監後者會宿友《ミサゴヰルスニヲルフネノコギデナバウラコヒシケムノチハアヒヌトモ》(三二〇三)と同じ形で、歌意も相似てゐる。この歌に關する傳説が駿河風土記に出てゐる。三一九五と三四四二とを參照せられたい。
 
3478 遠しとふ 故奈の白峯に 逢ほしだも 逢はのへしだも 汝にこそよされ
 
等保斯等布《トホシトフ》 故奈乃思良禰爾《コナノシラネニ》 阿抱思太毛《アホシダモ》 安波乃敝思太毛《アハノヘシダモ》 奈爾(450)己曾與佐禮《ナニコソヨサレ》
 
(等保斯等布故奈乃思良禰爾)逢フ時デモ、逢ハナイ時デモ區別ナク、イツデモ私ハ〔十字傍線〕貴方ニ心ヲ寄セテ居リマス。
 
○等保斯等布《トホシトフ》――遠しとふ。遠いと言はれてゐる、乏しいといふと見る説はとらない。○故奈乃思良禰爾《コナノシラネニ》――故奈の白峯は何處にあるかわからない。故奈は故志の誤で、越の白峯即ち白山ではないかとする古義の説も、遽かに從ひ難い。シラネは今の日光山西方の白根山かも知れない。なほ伊豆田方郡に古奈温泉がある。その地方に白根といふ山があるか研究を要する。思良禰爾《シラネニ》は白峯の如くにの意だと契沖・眞淵は言つてゐるが、白峯に逢ふとつづくのである。この二句は序詞と見るがよい。○阿抱思太毛《アホシダモ》――逢ふ時も。逢ふは即ち白峯の見ゆることをいふ。○安波乃敝思太毛《アハノヘシダモ》――逢はぬ時も。ノヘはナヘと同じく、ヌの東語である。略解に乃をナと訓んだのは正しくはあるまい。○奈爾已曾與佐禮《ナニコソヨサレ》――汝にこそ心を寄すれの意。
〔評〕 序詞は少し用語が曖昧であるが、全意は把むことが出來る。全身的に男にたよる女の歌である。
 
3479 安可見山 草根刈りそけ 逢はすがへ 爭ふ妹し あやにかなしも
 
安可見夜麻《アカミヤマ》 久左禰可利曾氣《クサネカリソケ》 安波須賀倍《アハスガヘ》 安良蘇布伊毛之《アラソフイモシ》 安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》
 
赤見山ノ草ノ根ヲ刈リ拂ツテ、其處デ私ニ〔五字傍線〕逢ツテ居ル上ニ、二人ノ間ニハ何ノ關係モナイト、人ト言ヒ〔二人〜傍線〕爭フ、アノ〔二字傍線〕女ガ、我ナガラ〔四字傍線〕不思議ナ程ナツカシイヨ。ホントニ可愛イ女ダ〔九字傍線〕。
 
○安可見夜麻《アカミヤマ》――安可見山の所在はわからない。明見郷は近江・美濃にあり、赤見は尾張・下野にある。下野のは安蘇郭で、佐野町の西北方に當つてゐる。東歌としてはこれが最もふさはしい地であるが、果して古名の遺(451)つてゐるものであるか、どうか明らかでない。○久左禰可利曾氣《クサネカリソケ》――草の根を刈り除けて。略解・古義などはここまでを譬喩として、此山の草を刈除る如く、障をよけて、又は人目を避けてなどと解してゐるが、文字通りに赤見山の草根を刈り除いて、其處で男女相逢ふのであらう。○安波須賀倍《アハスガヘ》――逢はすが上に。逢ひ給ふ上にの意 ○安良蘇布伊毛之《アラソフイモシ》――爭ふ妹し。我に逢はじと人に爭ひ打消す妹が。○安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》――あやしく思はるるまでに可愛いよ。
〔評〕 右の如く解すると文字通りの野合である。上代の田舍ではかういふことは普通のことであつたらう。結句の安夜爾可奈之毛《アヤニカナシモ》は東歌中に見える形である。
 
3480 大君の 命かしこみ かなし妹が 手枕離れ よだち來ぬかも
 
於保伎美乃《オホキミノ》 美己等可思古美《ミコトカシコミ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》
 
防人ニ出ヨトノ〔七字傍線〕天子樣ノ御仰セ言ヲ畏レ謹ンデ、ソレニオ從ヒ申シテ、私ハ〔ソレ〜傍線〕戀シイ妻ノ手枕ヲ離レテ、夜早ク〔二字傍線〕出カケテ來マシタヨ。アア妻ガナツカシイガ仕方ガナイ〔アア〜傍線〕。
 
○於保伎美乃美己等可思古美《オホキミノミコトカシコミ》――大君の勅畏み。集中に多い言葉である。上代人の忠誠な態度が伺はれる。○可奈之伊毛我《カナシイモガ》――愛《カナ》しき妹がに同じ。○多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》――手枕をしてゐたのをやめて。○欲太知伎努可母《ヨダチキヌカモ》――夜立ち來ぬかも。役のこととした宣長説は從ひ難い。役はエダチであつて、東語ではヨダチと轉ずべき語ではあるが、手枕離れにつづいては、夜立ちてと見る方がよいやうだ。
〔評〕 防人として出立する東人の歌であらう。東人の忠誠があらはれてゐると同時に、女の手枕をして寢てゐた男が、飽かぬ別を惜しみつつ、夜をこめて出發する樣が詠まれてゐていたましい。
 
3481 あり衣の さゑさゑしづみ 家の妹に 物言はず來にて 思ひ苦しも
 
(452)安利伎奴乃《アリキヌノ》 佐惠佐惠之豆美《サヱサヱシヅミ》 伊敝能伊母爾《イヘノイモニ》 毛乃伊波受伎爾?《モノイハズキニテ》 於毛比具流之母《オモヒクルシモ》
 
別ヲ悲シンデ〔六字傍線〕(安利伎奴乃)ザワザワト騷イデヰル妻〔六字傍線〕ヲ押シ鎭メテ、強ヒテ平氣ヲ装ツテ〔九字傍線〕、家ノ妻ニ別ノ〔二字傍線〕辭モ言ハナイデ別レテ〔三字傍線〕來タノデ、心ガ苦イヨ。
 
○安利伎奴乃《アリキヌノ》――枕詞。サヱサヱとつづく、宣長は玉勝間に鮮かなる絹の意といつてゐる。絹の音がさわさわとする意で下につづいてゐる。
〔評〕 この歌は卷四に、珠衣乃狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《タマギヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ》(五〇三)とある柿本朝臣人麿歌と殆ど同一である。左註に柿本朝臣人麿歌集に出づとあるが、同歌が少し形をかへて東歌として載つてゐるので、人麿の作が東歌中にあるといふことは大いに攻究すべき問題である。これに關し、眞淵は人麿集がこの東歌の卷から採つたのだから、この卷の記載が本だといつてゐる。なほこの歌は下の水都等利乃多多武與曾比爾伊母能良爾毛乃伊波受伎爾?於毛比可禰都毛《ミヅトリノタタムヨソヒニイモノラニモノイハズキニテオモヒカネツモ》(三五二八)・卷二十の美豆等利乃多知能已蘇伎爾父母爾毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎《ミヅトリノタチノイソギニチチハハニモノハズケニテイマゾクヤシキ》(四三三七)などと同型である。これ以下は寄物陳思である。寄衣戀。
 
柿本朝臣人麻呂歌集(ノ)中(ニ)出(ヅ)見(ユルコト)v上(ニ)已(ニ)詮(セリ)也
 
舊本に詮に作つてゐるが、元暦校本に記とあるに從ふべきであらう。この歌が既に前の卷に見えて記されてゐるといふのである。眞淵以下の學者、この卷の編纂を古く見てゐるが、これによると、卷四よりも後に出來たものなることが明らかである(但しこの註を後人の業と見ることも出來るが)。
 
3482 から衣 裾のうち交へ あはねども 異しき心を あが思はなくに
 
(453)可良許呂毛《カラコロモ》 須蘇乃宇知可倍《スソノウチカヘ》 安波禰杼毛《アハネドモ》 家思吉己許呂乎《ケシキココロヲ》 安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》
 
私ハ貴方ニ久シク〔八字傍線〕(可良許呂毛須蘇乃宇知可倍)オ逢ヒ申シマセンガ、決シテ〔三字傍線〕他《アダ》シ心ハ思ツテハ居リマセヌヨ。御目ニカカラナカツタノハ差支ガアツタカラノコトデス〔御目〜傍線〕。
 
○可良許呂毛須蘇乃宇知可倍《カラコロモスソノウチカヘ》――支那風の衣は襴の打交が合はない制になつてゐた。卷十一に朝影爾吾身者成《アサカケニワガミハナリヌ》 辛衣襴之不相而久成者《カラコロモスソノアハズテヒサシクナレバ》(二六一九)ともある。ここまでは安波禰《アハネ》につづく序詞。 ○家思吉己許呂乎《ケシキココロヲ》――異しき心を。薄情な心をといふに同じ。
〔評〕 用語が東歌らしくない。下句は卷十一の朱引秦不經雖寐心異我不念《アカラヒクハダモフレズテネタレドモココロノケシクワガモハナクニ》(二三九九)と似、又卷十六の安積香山影副所見山井之淺心乎吾念莫國《アサカヤマカゲサヘミユルヤマノヰノアサキココロヲワガモハナクニ》(三八〇七)とも似てゐる。寄衣戀。
 
或本歌曰 から衣 据のうち交ひ あはなへば ねなへのからに ことたかりつも
 
或本歌曰 可良己呂母《カラゴロモ》 須素能宇知可比《スソノウチカヒ》 阿波奈敝婆《アハナヘバ》 禰奈敝乃可良爾《ネナヘノカラニ》 許等多可利都母《コトタカリツモ》
 
貴方ト私トハ〔六字傍線〕(可良己呂母須素能宇知可比)逢ハナイカラ、共寢モシナイノニ、人ノ〔二字傍線〕口ガヤカマシイヨ。
 
○須素能宇知可比――カヘをカヒといふのは東語である。阿波奈敝《アハナヘ》につづく序詞。○阿波奈敝婆《アハナヘバ》――逢はねばに同じ。○禰奈敝乃可良爾《ネナヘノカラニ》――寢ぬことなるにの意。共寢せざるものを。○許等多可利都母《コトタカリツモ》――言痛《コチタ》かりつもの東語、人の口がやかましいよといふのである。
〔評〕 或本歌とあるが、一二句が同じだけで、下句は全く異なつてゐる。原歌に反し、この歌の方が用語も(454)氣分も著しく東歌らしい。
 
3483 晝解けば 解けなへ紐の わがせなに 相依るとかも 夜解けやすけ
 
此流等家波《ヒルトケバ》 等家奈敝比毛乃《トケナヘヒモノ》 和賀西奈爾《ワガセナニ》 阿比與流等可毛《アヒヨルトカモ》 欲流等家也須家《ヨルトケヤスケ》
 
晝解ケバ解ケナイ紐ガ、夜解ケバ解ケルノハ〔九字傍線〕、私ノ戀シイ〔三字傍線〕夫ニ、今夜〔二字傍線〕私ガ相逢フト云フノデ、夜ハタヤスク解ルノデアラウカ。コレハ戀シイ人ニ逢ヘル前兆ト見エル。嬉シイコトダ〔コレ〜傍線〕。
 
○等家奈敝比毛乃《トケナヘヒモノ》――解けぬ紐の。今の東京言葉でいへば、解ケナイ紐である。○阿比與流等可毛《アヒヨルトカモ》――相寄るとかも。夫と逢ふ前兆としてか。○欲流等家也須家《ヨルトケヤスケ》――ヤスケはヤスキの東語。上のカモを受けて結んでゐる。夜解けるのであらうか。舊本、家を流に作つて、トケヤスルと訓んでゐるが、それでは語格も變である。元暦校本その他の古本に從つて改めた。前句のヨルをこの句のヨルで、受けてゐるやうに見えるのは偶然か。
〔評〕 衣の紐のおのづから解けるのを、人に戀せられてゐる兆とした例は他にもあるが、これはそれと趣を異にしてゐる。一寸したことに、事の吉凶成否を判斷しようとするのは、戀する人の常である。田舍女らしい純眞さが溢れた、なつかしい歌である。寄紐戀。
 
3484 麻苧らを 麻笥にふすさに 績まずども 明日來せざめや いざせ小床に
 
安左乎良乎《アサヲラヲ》 遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》 宇麻受登毛《ウマズトモ》 安須伎西佐米也《アスキセザメヤ》 伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》
 
貴女ハ大サウ忙シサウニ、麻ヲツナイデヰルガ、ソンナニ〔貴女〜傍線〕麻苧ヲ苧笥ノ中ニ澤山ニ績ガナイデモ、明日ガ來ナイト云フコトハアリマセン、又明日モアルコトデスカラ、今夜ハモウヤメテ〔又明〜傍線〕、サア臥床ニイラツシヤイヨ。
 
(455)○安左乎良乎《アサヲラヲ》――麻苧等を。ラは添へて言ふのみ。卷五に※[糸+施の旁]綿良波母《キヌワタラハモ》(九〇〇)とある。○遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》――遠家《ヲケ》は麻笥。麻笥は麻を績いで入れる器。布須左《フスサ》は澤山。多く。卷十七の和我勢古我布佐多乎里家流乎美奈敝之香物《ワガセコガフサタヲリケルヲミナヘシカモ》(三九四三)の布佐《フサ》も同意であらう。○安須伎西佐米也《アスキセザメヤ》――明日の日が來ざらめや、明日の日もあることだの意。○伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》――イザはサアと誘ふ詞。セは爲《セ》。さあ行き給へといふのであらう。中古文に「いざさせ給へ」と云ふに同じであらう。ヲドコは小床。ヲは接頭語のみ。
〔評〕 麻を麻笥に績み入れてゐる女を、さあ寢ようと誘ふ男の言葉である。俚謠の標本といつてもよい位な作。實によく出來てゐる。寄麻苧戀。
 
3485 劍太刀 身に副ふ妹を とりみかね 音をぞ泣きつる 手兒にあらなくに
 
都流伎多知《ツルギタチ》 身爾素布伊母乎《ミニソフイモヲ》 等里見我禰《トリミカネ》 哭乎曾奈伎都流《ネヲゾナキツル》 手兒爾安良奈久爾《テゴニアラナクニ》
 
(都流伎多知)身ニ添ウテ離レナイ筈ノ〔七字傍線〕女ヲ、今ハカウシテ旅ニ出テヰルノデ〔今ハ〜傍線〕、親シク相見ルコトガ出來ナイデ、私ハ〔二字傍線〕赤兒デモナイノニ、丁度赤兒ノヤウニ〔八字傍線〕、聲ヲ出シテ泣イタヨ。
 
○都流伎多知《ツルギタチ》――枕詞。身に添ふとつづく。○等里見我禰《トリミカネ》――手に取りて相見ることが出來ないので、我は濁音であるが、ここは清濁いづれとも分らない。普通ならば清むべきところである。○手兒爾安良奈久爾《テゴニアラナクニ》――手兒は母の手に抱かれる兒の意で、ここでは幼兒のことである、手童兒《タワラハ》(一二九)と同じであらう。處女をテゴといふのと語は同じで、用法が異なつてゐるのである。
〔評〕 常に側去らず親しくしてゐた妻と別れて、旅に出た男の歌。手兒といふ東語が見えてゐるが、他に東歌らしい氣分は薄い。寄劍戀。
 
3486 かなし妹を 弓束なべまき もころをの 事とし云はば 彌勝たましに
 
(456)可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》 由豆加奈倍麻伎《ユヅカナベマキ》 母許呂乎乃《モコロヲノ》 許登等思伊波婆《コトトシイハバ》 伊夜可多麻斯爾《イヤカタマシニ》
 
自分ト同ジヤウナ男相手ノコトナラバ、弓束ヲ並ベ卷イテ、弓矢ノ上ノ立合デ〔八字傍線〕、是非トモ勝タウモノヲ、愛スル女ノコトデハ強イ心モ弱ツテ何トモ仕方ガナイヨ〔ノコ〜傍線〕。
 
○可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》――可愛い女よの意で、ここで切るべきものと解すべきであらう。○由豆加奈倍麻伎《ユヅカナベマキ》――弓束並べ卷き。弓の握革を斜に卷くと並べたやうになるからである。握革は多くこの卷方になつてゐる。古義に「魚彦云、弓束並向《ユツカナベムキ》なるべし。同等の男どち、弓束を並べ、的に向立て射競する意なりと云り」とあるが、的に向つて競射するやうな手ぬるい歌ではない。○母許呂乎乃《モコロヲノ》――卷九に如己男《モコロヲ》(一八〇九)とあるやうに、自分と同年輩の男である。○許登等思伊波婆《コトトシイヘハ》――事と言ふならば、シは強める助詞。○伊夜可多麻斯爾《イヤカタマシニ》――彌勝たましに。益勝たうものをの意。眞淵が射哉勝たんにといふことだとしたのは當つてゐまい。
〔評〕 少し意味が不明瞭な點がある。諸註多くは三四二五一と句を次第して解すべきものと言つてゐるから、しばらくそれに從ふことにした。弓矢にかけても同輩の男とならば爭ふのだが、相手がいとし女では戀に捕はれて苦しむのみで、何とも仕方がないといふのであらう。卷九の見2葦原處女墓1歌(一八〇九)に智奴壯士宇奈比壯士乃廬八燎須酒師競相結婚爲家類時者燒大刀乃手預押禰利白檀弓靱取負而《チヌヲトコウナヒヲトコノフセヤタキススシキホヒアヒヨバヒシケルトキハヤキタチノタガミオシネリシラマユミユキトリオヒテ》……知己男爾負而者不有跡《モコロヲニマケテハアラジト》などとあるによると、同輩との戀の爭を歌つてゐるのではないかと思はれるが、言葉のつづきからさう解し難いやうである。寄弓戀。
 
3487 梓弓 末に玉まき 斯くすすぞ 宿なな成りにし おくをかぬかぬ
 
安豆左由美《アヅサユミ》 須惠爾多麻末吉《スヱニタママキ》 可久須酒曾《カクススゾ》 宿奈莫那里爾思《ネナナナリニシ》 於久(457)乎可奴加奴《オクヲカヌカヌ》
 
(安豆左由美)末ヲ大切ニ思ツテ、コンナニグズグズ〔四字傍線〕シテ、先ノコトヲ心配シテ、私ハ戀シイ女ト〔七字傍線〕寢ナイデシマツタ。殘念ナコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○安豆左由美《アヅサユミ》――梓弓。須惠《スヱ》と言はむ爲の枕詞であらう。○須惠爾多麻末吉《スヱニタママキ》――末に玉纒き。弓の尖端の弭に玉の緒を纒いて飾とすることがあるので、かくつづけたのであらうが、將來を大切に思ふことに言ひかけたのである。○可久須酒曾《カクススゾ》――斯く爲すぞ。斯くしつつの意であらう。この下に宇艮布久可是能安騰須酒香《ウラフクカゼノアドススカ》(三五六四)とある安騰須酒香《アドススカ》も何と爲すかである。考に「古の弓は木のかぎりして作れば、弭直して弓未に弦音なし。鞆の音のみにては勢たらはぬ故に、弓末に玉を纒、鈴をもつけしなり。梓弓夜音の遠音など鳴弦《ツルナラシ》するも、これらの音あひて遠く聞ゆべし。弓のみかは萬の物にも、玉と鈴をつけし事多かり、かくて是は玉鈴の音を寢《ネ》にいひかけたる序のみ」とあるが、序としは曾《ゾ》ではつづきが穩やかでない。又この梓弓は儀禮的又は神下し、卜占などに用ゐたものであらう。○宿奈莫那里爾思《ネナナナリニシ》――寢ないでしまつた。舊本、奈莫に作つてゐるが、元暦校本によつて莫奈に改むべきであらう。○於久乎可奴加奴《オクヲカヌカヌ》――奧を兼ぬ兼ぬ。行先を心配して。兼ぬを重ねたのは、その動作の連接をあらはしてゐる。前に於久乎奈加禰曾《オクヲナカネソ》(三四一〇)とあつた。
〔評〕 事あらはれて、戀の行末が破れないやうにと思つて、共寢もしないでしまつたと、自分の戀の卑怯さを後から淋しがつてゐる歌で、多分男の心持であらう。初二句には當時の民間儀禮があらはれてゐるやうであるが、委しいことがわからないのは遺憾である。寄弓戀。
 
3488 おふ? この本山の 眞柴にも 告らぬ妹が名 形に出でむかも
 
於布之毛等《オフシモト》 許乃母登夜麻乃《コノモトヤマノ》 麻之波爾毛《マシバニモ》 能良奴伊毛我名《ノラヌイモガナ》 可多爾伊?牟可母《カタニイデムカモ》
 
(458)(於布之毛等許乃母登夜麻乃)屡々口ニ出シテ私ガ人ニ〔九字傍線〕言ハナイ女ノ名ガ、占ヲシタナラバ明ラカニ〔四字傍線〕出テ來ルデアラウカ。隱シテヰルノニ顯ハレテハ困ル〔隱シ〜傍線〕。
 
○於布之毛等《オフシモト》――生ふる?。シモトは細い枝、若木などをいふ。古義に於布《オフ》を大と見たのは當つてゐない。?に特に大を冠する理由がないやうである。生ふるを生ふといふは古格である。モトの音を繰返して、コノモトヤマのモトにつづく枕詞と見るべきであらう。○詐乃母登夜麻《コノモトヤマ》――此の本山のか。此の本山は地名か否か明らかでない。この句まではマシバとつづく序詞。○麻之波爾毛《マシバニモ》――上からは眞柴の意でつづき、下へは屡《マシバ》としてつづいてゐる。宣長が波の清音なるに拘泥して、シハとして、物を惜しむ意のシハキと同じと解いたのは誤つてゐる。○能良奴伊毛我名《ノラヌイモガナ》――告らぬ妹が名。人に言はない女の名が。○可多爾伊?牟可母《カタニイデムカモ》――卜占の兆《カタ》に出るであらうかの意。カタは謂はゆる卜兆《ウラカタ》で、太占などの形にあらはれるものをいふ。
〔評〕 この歌は、前の武藏野爾宇良敝可多也伎麻左?爾毛乃良奴伎美我名宇良爾低爾家利《ムサシヌニウラヘカタヤキマサデニモノラヌキミガナウラニデニケリ》(三三七四)と三句以下はかなり似てゐる、唯彼が過去なるに、これは未來なる相違があるのみと言つてよい。宣長や古義の説は、全然見當はづれであり、略解に結句を反語のやうに見てゐるのも無理であらう。上代卜占の民間風俗が知られる好資料である。弓に寄せた歌の間に挾んだのは、順序が亂れたか。寄柴戀。
 
3489 梓弓 欲良の山邊の 繋かくに 妹ろを立てて さ寢ど拂ふも
 
安豆左由美《アヅサユミ》 欲良能夜麻邊能《ヨラノヤマベノ》 之牙可久爾《シゲカクニ》 伊毛呂乎多?天《イモロヲタテテ》 左禰度波良布母《サネドハラフモ》
 
(安豆左由美)欲良ノ山邊ノ木立ノ〔三字傍線〕茂ツテ淋シイ〔四字傍線〕所ニ、女ヲ立タセテ置イテ、私ハ寢床ノ用意ヲシテ〔十字傍線〕寢床ノ塵ヲ拂フヨ。
 
○安豆左由美《アヅサユミ》――枕詞。寄りにかけて欲良《ヨラ》につづいてゐる。○欲良能夜麻邊能《ヨラノヤマベノ》――欲良の山は今の信濃小諸町(459)の岡であらう。小諸町は丘陵の斜面に市街をなしてゐて、その高い部分即ち町の東部を與良とつてゐる。有名な小諸の古城址邊から眺めると、與良方面が山となつて見える、古義には、和名抄に遠江國山香郡與利とあるところではないかといつてゐるが、さうではあるまい。○之牙可久爾《シゲカクニ》――繁きに。○伊毛呂乎多?天《イモロヲタテテ》――妹ろを立てて、ロは例の接尾語である。女を立てて置いて。女を待たして置いて。○左禰度波良布母《サネドハラフモ》――さ寢處拂ふも。サは接頭語。寢處の塵を拂ふよの意。
〔評〕 女を誘ひ來つて戸外に立たしめて置いて、寢處の塵を拂ふといふのであらう。與良の山で密會するものとも見られないことはあるまいが、さ寢處拂ふは屋内のやうに思はれる、前の阿良多麻能伎倍乃波也之爾奈乎多?天由吉可都麻思自移乎佐伎太多尼《アラタマノキベノハヤシニナヲタテテユキガツマシジイヲサキダタニ》(三三五三)と少し似てゐる。與良地方の若い男女が喜んで謠つた民謠であらう。調子が輕快である、これは本當の寄物陳思にはなつてゐないが、やはり弓に寄せたものとして、ここに入れたのであらう、寄弓戀。
 
3490 梓弓 末は依り寢む まさかこそ 人目を多み 汝をはしにおけ
 
安都佐由美《アヅサユミ》 須惠波余里禰牟《スヱハヨリネム》 麻左可許曾《マサカコソ》 比等目乎於保美《ヒトメヲオホミ》 奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》
 
只今ハ人目ガ多イノデ、オマヘヲ奥ヘ入レナイデ〔七字傍線〕、端ノ方ニ置クケレドモ〔四字傍線〕、(安都佐由美)アトデハ必ズ、二人デ〔五字傍線〕寄ツテ寢ヨウト思フ。暫ク待チナサイ〔七字傍線〕。
 
○安都佐由美《アヅサユミ》――枕詞。末とつづくのは、弓の尖端を弓末といふからである。○須惠波余里禰牟《スヱハヨリネム》――後に相寄りて共に寢よう。○麻左可許曾《マサカコソ》!――マサカは今。○奈乎波思爾於家禮《ナヲハシニオケレ》――汝を端近く置いてゐるの意。屋内深く寢處まで連れて行かないで、入口近く待たせて置くことである。
〔評〕 これは忍んで來た男を、暫らく入口に待たしめてゐる女の言葉である。前の欲良の山に女を立たしめてゐ(460)る男の歌と、對比すると誠におもしろい。卷十二の梓弓末者師不知雖然眞坂者君爾縁西物乎《アヅサユミスヱハシシラズシカレドモマサカハキミニヨリニシモノヲ》(二九八五)と内容は異なつてゐるが、用語は似てゐる。寄弓戀。
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
3491 楊こそ 伐れば生えすれ 世の人の 戀に死なむを 如何にせよとぞ
 
楊奈疑許曾《ヤナギコソ》 伎禮婆伴要須禮《キレバハヘスレ》 余能比等乃《ヨノヒトノ》 古非爾思奈武乎《コヒニシナムヲ》 伊可爾世余等曾《イカニセヨトゾ》
 
楊ト云フモノハ、切ルトソノ切株カラ〔六字傍線〕萠エルモノダ。シカシ人ハ死ンダラモウ二度ト生キテハ來ラレナイモノダノニ〔シカ〜傍線〕、コノ人間タル私ガ、今戀ノ爲ニ焦死シヨウトシテヰルノヲ、アナタハ〔四字傍線〕ドウシヨウトナサルノデスカ。私ノ死ヌノヲ見殺シニナサルノデスカ〔私ノ〜傍線〕。
 
○楊奈疑許曾《ヤナギコソ》――ヤの音をあらはす爲に特に楊の字を用ゐてゐるのに注意したい。○余能比等乃《ヨノヒトノ》――世の人の。自分を指してゐる
〔評〕卷七に丸雪降遠江吾跡川楊雖苅亦生云余跡川楊《アラレフリトホツアフミノアドカハヤナギカレドモマタモオフトフアドカガヤナギ》(一二九三)とあるやうに、楊は苅取つても後から後から生えて來る。これに反して人の命は、卷四に空蝉乃代世毛二行何爲跡鹿妹爾不相而吾獨將宿《ウツセミノヨヤモフタユクナニストカイモニアハズテワガヒトリネム》(七三三)とあるやうに、死ねばそれ限である。これを對比せしめて、自己の戀に死なうとしてゐることを述べて、如何にせよとぞと相手に迫つて行くところは、巧なものである、楊を材料に用ゐたのは、田舍の人の歌たるを思はしめるが、(既に述べたやうにこの楊は謂はゆる川楊の種類で、苅り取つて器具を編んだのである。庭に植ゑる柳ではない)。歌調が洗錬せられてゐる爲に、京人の作といつてもよい感がある。楊に寄せてある。以下寄木戀が集めてある。
 
3492 小山田の 池の堤に 刺す楊 成りも成らずも 汝と二人はも
 
(462)乎夜麻田乃《ヲヤマダノ》 伊氣能都追美爾《イケノツツミニ》 左須楊奈疑《サスヤナギ》 奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》 奈等布多里波母《ナトフタリハモ》
 
二人ノ間ガ夫婦ト云フ間柄ニ〔二人〜傍線〕(乎夜麻田乃伊氣能都追美爾左須楊奈疑)ナラウトナルマイト、オマヘト私トハナア。何時マデモ決シテ變ルマイナア〔何時〜傍線〕。
 
○乎夜麻田乃《ヲヤマダノ》――ヲは接頭語のみ。山田を地名とするのは從ひ難い。○伊氣能都追美爾左須楊奈疑《イケノツツミニサスヤナギ》――池の堤に刺した楊。ここまでは序詞で、奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》につづいてゐる。刺楊の生ひつくを成るといつたのである。○奈里毛奈良受毛《ナリモナラズモ》――成就するもせぬも。二人の戀が夫婦として長く無事に續くか否かの意。○奈等布多里波母《ナトフタリハモ》――汝と私と二人はなあと詠歎したので、決して變るまいといふ意を含んでゐるのであらう。
〔評〕 序詞は巧である、前の歌と共に楊を培養したことがあらはれてゐる。古今集の「おふの浦に片枝さしおほひ成る梨の成りもならずもねて語らはむ」と少しく似てゐる。袖中抄に載つてゐる。楊に寄せてある。寄木戀。
 
3493 遲速も 汝をこそ待ため 向つ峰の 椎のこやでの 逢ひはたけはじ
 
於曾波夜母《オソハヤモ》 奈乎許曾麻多賣《ナヲコソマタメ》 牟可都乎能《ムカツヲノ》 四比乃故夜提能《シヒノコヤデノ》 安比波多家波自《アヒハタケハジ》
 
遲クトモ速クトモ、何時マデモ私ハ〔七字傍線〕オマヘヲ待ツテヰヨウ。(牟可都乎能四比乃故夜提能)逢フコトハ間違アルマイ。
 
○於曾波夜母《オソハヤモ》――遲速も。遲くとも速くとも何時までも。○奈乎許曾麻多賣《ナヲコソマタメ》――汝をこそ待つてゐよう。○牟可都乎能四比乃故夜提能《ムカツヲノシヒノコヤデノ》――向つ峯の椎の小枝の。向ふの峯に生えてゐる椎の小枝の。コヤデは小枝《コエダ》の東語で(462)あらう。ヤはエにデはダに同行で相通ずるわけである。次の或本歌に佐要太《サエダ》とあるのも傍證とするに足る。この二句は、椎の小枝が叢り生ひて、相交るを以て、アヒの序詞としたものであらう。代匠記初稿本に「椎の葉の色かへぬことく、約をたかへじといふをあひたかはじといへり」とあるのも、宣長が、「椎は春を過て夏秋までもよく芽の出て、小枝となる物なる故に、遲くとも逢むのたとへにせる也」と言つたのも、共に考へ過ぎてゐる。○安比波多家波自《アヒハタケハジ》――逢ひは違はじ、逢ふことは違ふまいといふのである。
〔評〕 今は障があつても何時かは逢はうと、女が男に誓ふ言葉であらう。物蔭に佇んで戀人を待つ歌とする説は從ひ難い。向つ峯の椎の小枝を材料としたのは、山間の民の間に行はれた歌らしい。袖中抄に載つてゐる。椎に寄せてある、寄木戀。
 
或本歌曰 遲速も 君をし待たむ 向つ峯の 椎のさ枝の 時は渦ぐとも
 
或本歌曰 於曾波也母《オソハヤモ》 伎美乎思麻多武《キミヲシマタム》 牟可都乎能《ムカツヲノ》 思比乃佐要太能《シヒノサエダノ》 登吉波須具登母《トキハスグトモ》
 
この歌は原歌と殆ど同じであるが、三四の句、牟可都乎能思比乃佐要太能《ムカツヲノシヒノサエダノ》は同じく序詞で、ここは登吉《トキ》につづいてゐる。椎の枝のさす時節が略一定してゐるからであらう。又卷十二に白香付木綿者花物事社者何時之眞枝毛常不所忘《シラガツクユフハハナモノコトコソハイツノサエダモツネワスラエネ》(二九九六)とあるによれば、何時之眞枝《イツノサエダ》は何時の時の意。即ち眞枝《サエダ》は時の意ある語であるから、トキにつづく序詞としたものかも知れない。縱令時は過ぎても、遲くとも速くとも君を待つてゐようといふのである。
 
3494 子持山 若かへるでの もみづまで ねもとわは思ふ 汝はあどか思ふ
 
兒毛知夜麻《コモチヤマ》 和可加敝流?能《ワカカヘルデノ》 毛美都麻?《モミヅマデ》 宿毛等和波毛布《ネモトワハモフ》 汝波実杼可毛布《ナハアドカモフ》
 
(463)子持山ノ夏ノ始ニ芽ヲ出シタ〔夏ノ〜傍線〕若※[木+戚]ガ、秋ノ末ニナツテ〔七字傍線〕紅葉スルマデ、オマヘト〔四字傍線〕寢ヨウト私ハ思フガ、オマヘハドウ思フカ。
 
○兒毛知夜麻《コモチヤマ》――子持山。上野國勢多・利根・吾妻三郡の境界點、伊香保温泉に近く、澁川町の北方に子持山があた、恐らくこれであらう。寫眞は澁川郊外にて著者撮影。○和可加敝流?能《ワカカヘルデノ》――若鷄冠木の。加敝流?《カヘルデ》は蝦手《カヘルデ》。謂はゆる紅葉の葉が蝦《カヘル》の手を擴げたやうな形をなしてゐるからである。卷八に吾屋戸爾黄變蝦手毎見《ワガヤドニモミヅカヘルデミルゴトニ》(一六二三)とある。○毛美都麻?《モミヅマデ》――紅葉するまで。モミヅといふ動詞になつてゐる。○宿毛等和波毛布《ネモトワハモフ》――寢むと我は思ふ。○奈波安杼可毛布《ナハアドカモフ》――汝は何とか思ふ。おまへはどう思ふか。
〔評〕 若※[木+戚]が紅葉する頃まで寢ようと言ふのは、長くといふ意であらうが、何か譬喩的の言ひ方のやうにも思はれる。さうしてこの爲に歌が著しく美化されてゐる。※[木+戚]に寄せてある。寄木戀。
 
3495 伊波保ろの そひの若松 かぎりとや 君が來まさぬ うらもとなくも
 
伊波保呂乃《イハホロノ》 蘇比能和可麻都《ソヒノワカマツ》 可藝里登也《カギリトヤ》 伎美我伎麻左奴《キミガキマサヌ》 宇良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》
 
私ハ貴方ノ來ルノヲ待チツヅケテ、今日マデ過シタガ〔私ハ〜傍線〕、(伊波保呂乃蘇比能)私ガ待ツコトモ今日限リデ、コレカラハ待ツ當モナク、絶エテシマフ〔コレ〜傍線〕トテカ、今日モ亦オイデニナラナイ。心キトナイ心配ナコトダ。
 
(464)○伊波保呂乃《イハホロノ》――前に伊香保呂能蘇比乃波里波良《イカホロノソヒノハリハラ》(三四一〇)とあるから、伊香保ろの訛であらう。下に伊波能倍爾伊賀可流久毛能可努麻豆久《イハノヘニイガカルクモノカヌマヅク》(三五一八)とあるのも、伊香保呂爾安麻久母伊都藝可奴麻豆久《イカホロニアマグモイツギカヌマヅク》(三四〇九)を唱へ誤つたもので、かかる傳唱の誤があるやうである。○蘇比能和可麻都《ソヒノワカマツ》――岨の若松。山の崖に生えてゐる若松。若松に吾が待つをかけたもので、即ちソヒノまでは序詞であらう。○可藝里登也《カギリトヤ》――限りとや。今日を限りとてかの意。○宇良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》――宇良《ウラ》は心。心もとなくも。不安心だよの意。
〔評〕 男を待つ女の歌。淋しい心細さうな感じが出てゐる、松に寄せてある。寄木戀。
 
3496 橘の 古婆のはなりが 思ふなむ 心うつくし いで我は行かな
 
多知婆奈乃《タチバナノ》 古婆乃波奈里我《コバノハナリガ》 於毛布奈牟《オモフナム》 己許呂宇都久志《ココロウツクシ》 伊?安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》
 
武藏ノ〔三字傍線〕橘樹郡ノ古婆ノ里ノ童女ガ、私ヲ〔二字傍線〕思フ心ガイトシイ。サア私ハアノ女ノ所ヘ〔六字傍線〕行カウヨ。
 
○多知婆奈乃古婆乃波奈里我《タチバナノコバノハナリガ》――橘の古婆は地名であらう。和名抄、武藏國に、楠樹都橘樹郷があるから、その處に古婆といふところがあつたのであらう、或は古婆は橘樹郡の小高郷か。併し未勘國の歌は、猥りに推斷しない方がよい。波奈里《ハナリ》は童女波奈里《ウナイハナリ》(三八二二)に同じで、振分髪なる處女をいふ。○於毛布奈牟《オモフナム》――奈牟《ナム》はラムに同じきことは前に見えてゐた。○己許呂宇都久志《ココロウツクシ》――心愛し。心がいとしい。○伊?安禮波伊可奈《イデアレハイカナ》――さあ我は行かう。
〔評〕 女からの便でも受けて、飛び立つやうに出て行く男の心である。鮮明輕快。橘を木の名として、ここに掲げたもの。編者の杜撰さがあらはれてゐる。
 
3497 河上の 根白高がや あやにあやに さ寐さ寐てこそ 言に出にしか
 
可波加美能《カハカミノ》 禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》 安也爾阿夜爾《アヤニアヤニ》 左宿左寐?許曾《サネサネテコソ》 己(465)登爾?爾思可《コトニデニシカ》
 
(可波加美能禰自路多可我夜)嗚呼ホントニ、二人ガ屡々〔五字傍線〕共寢ヲシタカラコソ、コンナニ〔四字傍線〕人ニ噂ヲ立テラレルコトニナツタヨ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○可波加美能《カハカミノ》――河の上流の。河の邊とする説はよくあるまい。○禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》――根の白い丈の高い萱。水に洗はれて根の白く見える萱。ここまでの二句はカヤをアヤに轉じて下につづく序詞。古義に次の一句を隔てて左宿左寐にかかつてゐると見たのは當るまい。○安也爾阿夜爾《アヤニアヤニ》――奇《アヤ》に奇《アヤ》に。嗚呼ほんとになどの意である。考に「入り立てしげく通ひしなり」古義に「いつといふ分定《サダマリ》もなく」とあるが從ひ難い。○左宿左寐?許曾《サネサネテコソ》――共に寐たればこそ。サは接頭語。さ寐を重ねたのは、屡々二人で共に寐たからである。○己登爾?爾思可《コトニデニシカ》――言に出にしか。世の人の言葉に出た。世の人の噂に上つた。
〔評〕 河上の根白高萱は清いすがすがしい語感を持つた言葉である。さ寐につづけて考へると、女の白い脚を思はしめる語である。ともかく語調の上に一種の特色を有した住い作だ。以下は草に寄せたものが集めてある。これは萱に寄せてある。寄草戀。
 
3498 海原の ねやはら小菅 あまたあれば 君は忘らす 我忘るれや
 
宇奈波良乃《ウナハラノ》 根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》 安麻多阿禮婆《アマタアレバ》 伎美波和須良酒《キミハワスラス》 和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》
 
海岸ニ生エテヰル、根ノ柔イ小菅ノヤウナ若イ美シイ女〔ノヤ〜傍線〕ガ澤山アルカラ、貴方ハ私ヲ〔二字傍線〕オ忘レニナリマス。シカシ〔三字傍線〕私ハ貴方ヲ〔三字傍線〕忘レマセウヤ。決シテ忘レハシマセヌ〔十字傍線〕。
 
○宇奈波良乃《ウナハラノ》――海原の。海邊をかく言つたので、海原に面したの意と解すべきであらう。○根夜波良古須氣《ネヤハラコスゲ》(466)――根の柔らかい小菅。古義は萎柔子菅《ナエヤハラコスゲ》と解してゐる。若い女のなよやかなのに譬へてゐる。○伎美波和須良酒《キミハワスラス》――君は忘らす。君は我を怠れ拾ふ。○和禮和須流禮夜《ワレワスルレヤ》――我は忘れむや。忘れはせじといふのである。
〔評〕 前の河上の根白高萱の歌に似た手法であるが、海原の根やらは小菅は女の譬喩になつてゐる。菅を女に譬へた例は古事記仁徳天皇の御製に夜多能比登母登須宜波古母多受多知迦阿禮那牟《ヤタノヒモトスゲハコモタズタチカアレナム》とあるのを始めとして、本集にも例が多いが、根やはら小菅は、感じのよい珍らしい用語である 男に對する嫉妬の情が婉曲に述べられてゐる、佳作。古今集の「花がたみ目ならぶ人のあまたあればわすられぬらむ數ならぬ身は」と内容が似てゐる。菅に寄せてある。寄草戀。
 
3499 岡に寄せ 吾が苅るかやの さねかやの まことなごやは 寢ろとへなかも
 
乎可爾與世《ヲカニヨセ》 和我可流加夜能《ワガカルカヤノ》 佐禰加夜能《サネカヤノ》 麻許等奈其夜波《マコトナゴヤハ》 禰呂等敝奈香母《ネロトヘナカモ》
 
アノ女ハ〔四字傍線〕(乎可爾與世和我可流加夜能佐禰加夜能)サモナヨナヨト自分ニ靡キサウダケレドモ〔サモ〜傍線〕、實際ニ心トケテ〔四字傍線〕柔《ナゴ》ヤカニハ私ニ〔二字傍線〕ヨトハ言ハナイヨ。サテモ強情ナ女ダ〔八字傍線〕。
 
○乎可爾與世《ヲカニヨセ》――岡にて引き寄せての意。○和我可流加夜能《ワガカルカヤノ》――吾が苅る萱の。○左禰加夜能《サネカヤノ》――古義に狹萎草之《サナエカヤノ》と解したのがよいか。なよなよと靡いた萱。代匠記・考には眞萱《サネガヤ》とあり、略解は、さは發語で根萱だと言つてゐる。ここまでは麻許等《マコト》につづく序詞。サネはマコトと同義だからであらう。奈其夜《ナゴヤ》につづくとする説は採らない。○麻許等奈其夜波《マコトナゴヤハ》――奈其夜《ナゴヤ》は卷四に蒸被奈胡也我下丹雖臥《ムシブスマナゴヤガシタニフセレドモ》(五二四)とあるやうに、なごやかなることで、ここはなごやかには、柔らかにはの意であらう。○禰呂等敝奈香母《ネロトヘナカモ》――寢よと言はぬかも。ロは今の關東語の命令語のロと同樣である。
〔評〕 苅萱に寄せた歌なることは分るが、隨分難解である。それだけに東歌らしい氣分が濃い。萱に寄せてあ(467)る。寄草戀。
 
3500 紫草は 根をかもをふる 人の兒の うらがなしけを 寢ををへなくに
 
牟良佐伎波《ムラサキハ》 根乎可母乎布流《ネヲカモヲフル》 比等乃兒能《ヒトノコノ》 宇良我奈之家乎《ウラガナシケヲ》 禰乎遠敝奈久爾《ネヲヲヘナクニ》
 
紫草ト云フ草〔四字傍線〕ハ根ヲ掘リ取ルガ、シカシ〔十字傍線〕根ハ無クナリハシナイ。ソノ通リワタシハ〔八字傍線〕女ノ兒ノ愛ラシイノト共寢ヲシテ戀〔六字傍線〕ヲ遂ゲルコトハ出來ナイヨ。
 
○牟良佐伎波《ムラサキハ》――牟良佐伎《ムラサキ》は紫草。この草の根を用ゐて、紫色を染める。二一參照。○根乎可母乎布流《ネヲカモヲフル》――根をかも終ふる。根を終ふるかも終へはせじといふので、紫草は根を貴んで人が掘り取るけれども、根は取り盡しはせぬといふのである。諸註これを反語と見てゐないが、どうしても反語でなければならぬ。この下に、その如くの意を補つて見るがよい。○比等乃兒能《ヒトノコノ》――人の兒は若い女をさす。○宇良我奈之家乎《ウラガナシケヲ》――心愛《ウラカナ》しきを。心に愛らしく思ふ女を。○禰乎遠敝奈久爾《ネヲヲヘナクニ》――寢を終へなくに。共に寢ることが出來ないよ。まだ戀が遂げられないといふのである。
〔評〕 紫草と對比して、吾が戀の成らざるを述べてゐる。やはりこれも難解であるが、東歌らしい野趣に富んでゐる。紫草に寄せてある。寄草戀。
 
3501 あはをろの をろ田に生はる 多波美づら 引かばぬるぬる 吾を言な絶え
 
安波乎呂能《アハヲロノ》 乎呂田爾於波流《ヲロタニオハル》 多波美豆良《タハミヅラ》 比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》 安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》
 
私ガ貴女ノコトヲ〔八字傍線〕(安波乎呂能乎呂田爾於波流多波美豆良)引クナラバ、能ク私ニ〔四字傍線〕靡イテ、私ニ音信ヲ絶チナサ(468)ルナヨ。
 
○安波乎呂能《アハヲロノ》――安波は地名で乎呂は峯ろ。ろは例の接頭語。安波は安房であらう。古義は和名抄に常陸國那珂郡阿波とある處であらうといつてゐるが其處は峯ろといふべきほどの山地でない。○乎呂田爾於波流《ヲロタニオハル》――峯ろ田に生ふるの意であらう。○多波美豆良《タハミヅヲ》――蔓草の名であらうが、どんなものかわからない。考には玉葛に同じとあるが、田に玉葛が生えるといふのもどうであらう。ここまでの三句は次句へつづく序詞。○比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》――引くならばぬらぬらとして。滑らかに靡いて。○安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》――我に音信を絶つことなかれの意。
〔評〕前の伊利麻治能於保屋我波良能伊波爲都良比可婆奴流奴流和爾奈多要曾禰《イリマヂノオホヤガハラノイハヰヅラヒカバヌルヌルワニナタエソネ》(三三七八)・可美都氣奴可保夜我奴麻能伊波爲都良比可波奴禮都追安乎奈多要曾禰《カミツケヌカホヤガヌマノイハヰゾラヒカバヌレツツアヲナタヱリネ》(三四一六)と同型同想の歌。同じものが所をかへて謠はれたに過ぎない。多波美づらといふ蔓草に寄せてある。寄草戀。
 
3502 吾が目づま 人は放くれど 朝貌の 年さへこごと わは放るがへ
 
和我目豆麻《ワガメヅマ》 比等波左久禮杼《ヒトハサクレド》 安佐我保能《アサガホノ》 等思佐倍己其登《トシサヘコゴト》 和波佐可流哉倍《ワハサカルガヘ》
 
朝顔ノ花ノ〔二字傍線〕ヤウナ、君ガ愛スル女ヲ、人ハ邪魔ヲシテ二人ノ間ヲ〔十字傍線〕割カウトスルケレドモ、永年ノ間、私ハ割カレテヰヨウカ、決シテ割カレハシナイ〔十字傍線〕。
 
○和我目豆麻《ワガメヅマ》――舊訓はワガマツマ、元暦校本・類聚古集などの古訓はワガメツマである。モツマの訓もあるが、よくない。代匠記・考・略解などは眞凄と解してゐる。宣長は目につきて思ふ妻也といつてゐるが、愛づ妻の略であらう。○安佐我保能《アサガホノ》――朝貌の花で即ち桔梗のことである。卷八(一五三八)參照。これを次句へつづくとすれば、等思《トシ》の枕詞と見なければならぬので、考はこれを改めて、安良多麻能《アラタマノ》としてゐるが從ひ敵い。止むなく(469)宣長説に從つて、この句を初句の上において見ることにする。○等思佐倍己其登《トシサヘコゴト》――年さへ許多《ココダ》と解した代匠記説を採る。考はトシサヘコゾトと訓んで、「年にさへ來ずとも」と解してゐる。其をゾと訓むのは無理である。○和波佐可流我倍《ワハサカルガヘ》――我は裂かれむや、裂かれはせじ、於也波佐久禮騰和波左可流賀倍《オヤハサクレドワハサカルガヘ》(三四二〇)とあるに同じ。
〔評〕 第三句を眞淵は安良多麻能《アラタマノ》の誤としたけれども、前後の歌を見ると、やはり朝貌を詠んだものらしい。東語が多く用ゐられて、如何にも東歌らしい。意味が少し不明瞭なのは遺憾である。朝貌に寄せてある。これで見ても萬葉集の朝貌が、槿のやうな木類でないことがわかる。寄草戀。
 
3503 安齊可潟 汐干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも
 
安齊可我多《アセカガタ》 志保悲乃由多爾《シホヒノユタニ》 於毛敝良婆《オモヘラバ》 宇家良我波奈乃《ウケラガハナノ》 伊呂爾?米也母《イロニデメヤモ》
 
安齊可潟ノ汐干ノヤウニ、ユツクリト呑氣ニ人ヲ戀シク〔五字傍線〕思ツテヰルナラバ、(宇家良我波奈乃)顔色ニ出シテ人ニ悟ラレルヤウナコトヲ〔人ニ〜傍線〕ショウヤ。心ニ深ク思ヘバコソ顔色ニモ出ルノデス〔心ニ〜傍線〕。
 
○安齊可我多《アセカガタ》――舊訓アサカガタとあるのは卷十一の徃而見而來戀敷朝香方山越置代宿不勝鴨《ユキテミテクレバコヒシキアサカガタヤマゴシニオキテイネガテヌカモ》(二六九八)の朝香方《アサカガタ》と同一に見たのであるが、齊の文字は、サと訓んだ例がないから從ひ難い。常陸風土記に「香島郡、東大海、南下總常陸堺、安是湖《アゼノミナト》、西流海」とある安是湖かも知れない。なほ攻究を要する。○志保悲乃由多爾《シホヒノユタニ》――汐干のやうに、ゆつたりと。汐干になれば、汐の滿ちた時よりも海面穩やかになるからであらう。ゆたに思ふとは、のどかにゆつたりとしてあせらず、熱中しないこと。○字家良我波奈乃《ウケラガハナノ》――前に宇家良我波奈乃伊呂爾豆奈由米《ウケラガハナノイロニヅナユメ》(三三七六)とあるところに説明したやうに、今ヲケラと稱する草本である。ここは色に出づと言はむ爲の序詞として用ゐてある。
〔評〕 内容は簡單であるが、安齊可我多、うけらが花などを用ゐて巧に潤色してゐる。武藏野の名物たる、うけ(470)らが花を用ゐたので、安齊可我多が武藏ではないかとも思はれるのであるが、さう推測するのは危險である。袖中抄にも不知國として出てゐる。朮によせてある。寄草戀。
 
3504 春べ咲く 藤のうら葉の うら安に さ寢る夜ぞなき 子ろをし思へば
 
波流敝左久《ハルベサク》 布治能宇良葉乃《フヂノウラバノ》 宇良夜須爾《ウラヤスニ》 左奴流夜曾奈伎《サヌルヨゾナキ》 兒呂乎之毛倍婆《コロヲシモヘバ》
 
私ハ〔二字傍線〕女ノコトヲ思ツテヰルノデ、(波流敝左久布治能宇良葉乃)心安ラカニ寢ル夜はアリマセヌ。
 
○布治能宇良葉乃《フヂノウラバノ》――藤の末葉の。末葉は末の方の葉。初二句はウラの音を繰返して宇良夜須爾《ウラヤスニ》につづく。○宇良夜須爾《ウラヤスニ》――心安に。心安く穩やかに。吾が國を浦安國といふのと同意である。○兒呂乎之毛倍婆《コロヲシモヘバ》――兒呂《コロ》は兒らに同じく女をいふ。
〔評〕 兒呂《コロ》といふ東語は用ゐてあるが、全體が如何にも暢びやかに、上品に且調子よく出來てゐる。殊に初二句は優美である。後撰集の「春日さす藤の末葉のうらとけて君しおもはゞ我もたのまむ」はこれから脱胎したものだ。藤によせてある。藤は蔓になつてゐるから、木の部に入れなかつたらしい。寄藤戀。
 
3505 うち日さつ 宮の瀬川の 貌花の 鯉ひてか寢らむ きぞも今宵も
 
宇知比佐都《ウチヒサツ》 美夜能瀬河泊能《ミヤノセガハノ》 可保婆奈能《カホバナノ》 孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》 伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》
 
私ガ差支ガアツテ行カナカツタノデ、アノ女ハ〔私ガ〜傍線〕昨夜モ今夜モ、私ヲ(宇知比佐都美夜能瀬河泊能可保婆奈能)戀シク思ヒナガラ、獨デ〔二字傍線〕寢ルデアラウカ。
 
(471)○宇知比佐都《ウチヒサツ》――枕詞。内日指(四六〇)と同じく宮につづく。卷十三にも打久津三宅乃原《ウチヒサツミヤケノハラ》(三二九五)とあつた。○美夜能瀬河泊能《ミヤノセガハノ》――美夜能瀬河《ミヤノセガハ》は所在不明。○可保婆奈能《カホバナノ》――カホバナは容花。晝顔のことであらう。高圓之野邊乃容花《タカマドノヌベノカホバナ》(一六三〇)參照。代匠記・考・略解は容花は顔よき女に譬へたのであらうといつてゐるが、序詞らしい用法である。古義に「此ノ花日中は能咲て暮方には眠り、萎むものなれば戀て眠ると云はむ序とせるならむ」と言つてゐるのがよいか。又別に中山嚴水が「可保《カホ》と孤悲《コヒ》と音通ば可保花《カホハナ》の戀而《コヒテ》とうけたるなるべし」といつた説をも擧げてゐる。○伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》――伎曾《キゾ》は昨。昨日・昨夜をいふ。コゾと同一語源であらう。
〔評〕 我を思つて、淋しく獨寢するであらう女を思ひやつて詠んだものであらう。上品に出來てゐる。東歌らしくないとも言へる。貌花によせてある。寄草戀。
 
3506 新室の こときに到れば はた薄 穗に出し君が 見えぬこの頃
 
爾比牟路能《ニヒムロノ》 許騰伎爾伊多禮婆《コトキニイタレバ》 波太須酒伎《ハタススキ》 穗爾?之伎美我《ホニデシキミガ》 見延奴己能語呂《ミエヌコノコロ》
 
新室ノ言ホギニ行ツテヰルト、(波太須酒伎)心ヲ打アケ合ツタ貴方ガ、コノ頃ハオ見エニナラナイヨ。オ目ニカカレナイデ淋シイ氣ガシマス〔オ目〜傍線〕。
 
○爾比牟路能《ニヒムロノ》――新室の。新築の家の。卷十一に新室壁草苅邇《ニヒムロノカベクサカリニ》(一三五一)とある。○許騰伎爾伊多禮婆《コトキニイタレバ》――言祷《コトブキ》の爲に行つて見れば。代匠記に蠶時《コトキ》と見て、蠶を飼ふ頃としたのは、よくない。蠶時では新室へのつづきが穩やかでなく、又當時民間の養蠶が、所々に新家を建てて飼ふほどに盛であつたとは思はれない。伊多禮婆《イタレバ》は自分が行くとの意。古義に「新室の言祷《コトブキ》の時と成りしかばなり」とあるのは、少し當らぬやうである。○波太須酒伎《ハタススキ》――枕詞。穗爾?《ホニデ》とつづく。○穗爾?之伎美我《ホニデシキミガ》――心を外に顯はした君が。
〔評〕 新しく家を建てた時、多くの人が集つて、謂はゆる新室宴《ニヒムロウタゲ》をするのである。その時、行つて見ると、かね(472)て心解けて思を打明けた人が見えないと悲しんだのである。言祷に行くのは女であらう。卷十一の新室蹈靜子之手玉鳴裳玉如所照公乎内等白世《ニヒムロヲフミシヅムコガタダマナラスモタマノゴトテリタルキミヲウチヘトマヲセ》(二三五二)と對比すると、この情景を想像することが出來よう。薄に寄せてある。寄草戀。
 
3507 谷狹み 峰にはひたる 玉葛 絶えむの心 吾が思はなくに
 
多爾世婆美《タニセバミ》 彌年爾波比多流《ミネニハヒタル》 多麻可豆良《タマカヅラ》 多延武能己許呂《タエムノココロ》 和我母波奈久爾《ワガモハナクニ》
 
(多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良)切レヨウト云フ心ヲ、私ハ持ツテハ居ナイヨ。ドウシテ私ヲ疑フノダラウカ〔ドウ〜傍線〕。
 
○多爾世婆美彌年爾波比多流多麻可豆良《タニセバミミネニハヒタルタマカヅラ》――谷が狹いので、山の方へと伸びて、這つて行く玉葛、この三句は序詞で絶えむとつづくのであらう、卷十一の山高《ヤマタカミ》(二七七五)の歌は絶時無《タユルトキナク》につづいてゐるやうだが、これは少し異なつてゐるやうである。〇多延武能己許呂《タエムノココロ》――絶えむといふ心。
〔評〕 卷十一の山高谷邊蔓在玉葛絶時無見因毛欲得《ヤマタカミタニベニハヘルタマカヅラタユルトキナクミムヨシモガモ》(二七七五)・卷十二の谷迫峰邊延有玉葛令蔓之有者年二不來友《タニセバミミネベニハヘルタマカヅラハヘテシアラバトシニコズトモ》(三〇六七)によく似てゐる。同じ歌が東歌として傳へられてゐるのである。伊勢物語に「谷せばみ峯まで這へる玉葛絶えむと人に吾が思はなくに」とあるのはこれと同歌である。玉葛に寄せてある これも藤と同じく木の部に入れてゐない。寄王葛戀。
 
3508 芝付の 美宇良埼なる 根都古草 相見ずあらば 我戀ひめやも
 
芝付之《シバツキノ》 御宇良佐伎奈流《ミウラサキナル》 根都古具佐《ネツコグサ》 安比見受安良婆《アヒミズアラバ》 安禮古非米夜母《アレコヒメヤモ》
 
(473)アノ女ニ 一度モ〔七字傍線〕(芝付之御宇良佐伎奈流根都古具佐)逢ヒ見ルコトガナカツタナラバ、私ハアノ女ヲ〔四字傍線〕戀シク思ハウヤ。思ヒハセヌ。逢ツタカラコソ戀シイノダ〔思ヒ〜傍線〕。             、
○芝付之《シバツキノ》――何處か分らないが地名に相違ない。次句に御宇良佐伎《ミウラサキ》とあるから相模か。○御宇良佐伎奈流《ミウラサキナル》――三浦崎にある。御宇良佐伎《ミウラサキ》は和名抄に相模國御浦郡御浦美宇良とある。○根都古具佐《ネツコクサ》――草の名であらうが、どんな草かわからない。古義に「中山嚴水が陸奥國鹽竈の神官藤塚知明云、彼(ノ)國富山の麓の海に出たる岬を三浦崎と云り、又そのあたりにて、白頭翁をねこ草といへり。ねこぐさ、やがて根つこ草なるべしと云り、三浦崎は、それともさだめがたけれども、ねつこ草は、知明が云る如くなるべし。さて彼(ノ)國宮城郡|志波彦《シハヒコ》神社あり、芝付によしあるにや。さて御浦は彼(ノ)神の御浦なるべしと云り。いかがあらむ。珍しき説なれば此に擧つ」とある。以上の三句は序詞であらうが、下へのつづき方が明瞭でない。考には「共ねせLを相見しともいふ故に、序とせしなり」とある。或は古義の説の如く、この草の美しさを女に譬へたものか。
〔評〕 根都古具佐といふ珍らしい草を材料としてゐる爲に、わかり難くなつてゐるが、その他の用語は至つて平易である。根都古草に寄せてゐる。寄草戀。
 
3509 栲衾 白山風の 宿なへども 子ろがおそきの 有ろこそえしも
 
多久夫須麻《タクフスマ》 之良夜麻可是能《シラヤマカゼノ》 宿奈敝杼母《ネナヘドモ》 古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》 安路許曾要志母《アロコソエシモ》
 
(多久夫須麻)白山アタリヲ吹ク風ガ寒クテ〔三字傍線〕、眼ラレナイガ、旅ニ出ル時二形見トシテ〔旅ニ〜傍線〕女ガヨコシタ〔四字傍線〕表《ウハ》衣ガアルノハヨイヨ。ナツカシイ表衣ダ〔八字傍線〕。
 
○多久夫須麻《タクフスマ》――枕詞。栲の衾。白いから白山につづいてゐる。○之良夜麻可是能《シラヤマカゼノ》――白山風の。白山は加賀(474)の白山であらう。(當時は越前であつた)東歌に越の國の山名を詠む筈はないとして、これを東國に求める人もあるやうだが、東歌でも他の地方の地名が澤山出てゐるから、やはり古來有名な越の白山とすべきである。白山風は白山あたりを吹く風。白山風のといふと下へのつづきが序詞のやうに聞えるので古義には「風之音《カゼノネ》といふ意に宿《ネ》の言につゞけたるか」とある。併し風之音《カゼノネ》といふつづき方は面白くないから、風の寒きになどの意と見るべきであらう。○宿奈敝杼母《ネナヘドモ》――宿ざれども。眠られないけれども○0古呂賀於曾伎能《コロガオソキノ》――兒ろが襲着《オソキ》の襲着《オソキ》は襲ひ着る衣。即ち表衣《ウハギ》であらう。女が形見として贈つたものである。○安路許曾要志母《アロコソエシモ》――有るこそ善しも。あるのはよいことだよ。古義には、上にコソがあるから、必ず要吉《エキ》といふべきで、志は吉の誤であらうといつてゐるのは、書紀の磐之媛の御歌、虚呂望虚曾赴多弊茂豫耆《コロモコソフタヘモヨキ》などの形に拘泥したものであらう。
〔評〕 東國の男が越の國へ旅行し、白山の麓近く宿りして、故郷の妻を思つて詠んだ歌であらう。旅に出る時に、妻が貸してくれた彼の女の襲衣には、なつかしい彼(475)の女の膚の移り香が宿つてゐる。これを襲ねて着る時、寒い白山颪も彼にはさして身に感じない。かうして唯妻戀しい思に浸つてゐる歌である。用語が全く東歌らしい。次が雲の歌になつてゐるから、これは風に寄せたものらしい。寄風戀。
 
3510 み空行く 雲にもがもな 今日行きて 妹に言とひ 明日歸り來む
 
美蘇良由久《ミソラユク》 君母爾毛我母奈《クモニモガモナ》 家布由伎?《ケフユキテ》 伊母爾許等杼比《イモニコトトヒ》 安須可敝里許武《アスカヘリコム》
 
私ハ〔二字傍線〕空ヲ飛ンデ〔三字傍線〕行ク雲デアリタイモノダ。サウシタラ〔五字傍線〕、今日空ヲ飛ンデ國ヘ〔七字傍線〕行ツテ、戀シイ〔三字傍線〕女ト話ヲシテ、明日歸ツテ來ヨウ。
 
〔評〕 故郷を遙かに離れた男の歌。防人の作かも知れない。卷四の安貴王の長歌に水空徃雲爾毛欲成高飛鳥爾毛
欲成明日去而於妹言問《ミソラユククモニモガモタカトブトリニモガモアスユキテイモニコトトヒ》(五三四)とあるのに似てゐる。極めて平明な歌で、東人の作でないといふことも出來る。寄雲戀。
 
3511 青嶺ろに たなびく雲の いさよひに 物をぞ思ふ 年のこの頃
 
安乎禰呂爾《アヲネロニ》 多奈婢久君母能《タナビククモノ》 伊佐欲比爾《イサヨヒニ》 物能乎曾於毛布《モノヲゾオモフ》 等思乃許能己呂《トシノコノゴロ》
 
私ハ戀人ニ對シテドウシタラヨイカ〔私ハ〜傍線〕、(安乎禰呂爾多奈婢久君母能)心ガ定マラナイデ、コノ〔二字傍線〕年ノコノ頃ハ、物ヲ思ツテヰルヨ。
 
(476)○安乎禰呂爾多奈婢久君母能《アヲネロニタナビククモノ》――青嶺ろに靡く雲の、伊佐欲比《イサヨヒ》とつづく序詞。禰呂《ネロ》のロは接尾語で意味はない。安乎禰呂《アヲネロ》を吉野の青根が峯とする學者もある。○伊佐欲比爾《イサヨヒニ》――心の動いて定まらぬこと。○物能乎曾於毛布《モノヲゾオモフ》――舊本、能の下、安の字あるは衍である。類聚古集その他にない。
〔評〕 青山に棚引く雲は卷三に青山之嶺乃白雲朝爾食爾恒見杼毛目頬四吾君《アヲヤマノミネノシラクモアサニケニツネニミレドモメヅラシワギミ》(三七七)とあるやうに、鄙びた感じが割合に尠い。袖中抄に載せてある。寄雲戀。
 
3512 一嶺ろに 言はるものから 青嶺ろに いさよふ雲の よそり妻はも
 
比登禰呂爾《ヒトネロニ》 伊波流毛能可良《イハルモノカラ》 安乎禰呂爾《アヲネロニ》 伊佐欲布久母能《イサヨフクモノ》 余曾里都麻波母《ヨソリツマハモ》
 
アノ女ト私トハ〔七字傍線〕一ツニナツタ親シイ〔三字傍線〕間柄ダト人ニ言ハレルケレドモ、丁度〔二字傍線〕青々トシタ山二去リモシナイデ〔七字傍線〕タダヨツテヰル雲ノヤウナ、心ノ定マラナイ、人ガ私ニ〔心ノ〜傍線〕言ヒ寄セテヰル妻ヨ。人ノ口ニバカリ騷ガレテ、實際ハサウデナイノハ、ツマラナイ〔人ノ〜傍線〕。
 
○比登禰呂爾伊波流毛能可良《ヒトネロニイハルモノカラ》――比登禰呂《ヒトネロ》は一嶺ろ。一嶺ろに言はれるとは、自分と女とが親しくて、一つになつてゐると世間に噂されるをいふ。かうした俗語があつたものでああう。下の青嶺ろと相對してゐる。毛能可良《モノカラ》はものながら、言はれるけれども。○安乎禰呂爾伊佐欲布久母能《アヲネロニイサヨフクモノ》――青嶺ろにいさようてゐる雲の如く心の定まらぬ。○余曾里都麻波母《ヨソリツマハモ》――人の我に言ひ寄せる妻よの意。
〔評〕 人の噂のみ高くて、妻が我に心から從はぬことを、物足らなく思つたのである。前の歌と似てゐる點があるので、此處に掲げたものか。この歌、袖中抄に見えてゐる。寄雲戀。
 
3513 夕されば み山を去らぬ にぬ雲の あぜか絶えむと 言ひし兒ろはも
 
(477)由布佐禮婆《ユフサレバ》 美夜麻乎左良奴《ミヤマヲサラヌ》 爾努具母能《ニヌグモノ》 安是可多要牟等《アゼカタエムト》 伊比之兒呂婆母《イヒシシコロハモ》
 
ドウシテ二人ノ間ハ〔五字傍線〕(由布佐禮婆美夜麻乎左良奴爾努具母能)切レヨウヤ、決シテ切レハシナイト言ツタアノ女ヨ。ドウシテ心變リシテ私ヲ見捨テタノデアラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○美夜麻乎左良奴《ミヤマヲサラヌ》――美夜麻《ミヤマ》はみ山。ミは接頭語のみ。○爾努具母能《ニヌグモノ》――ニヌグモは布雲。布のやうに長く棚引いた雲。旗雲。ここまでは次句の多要牟《タエム》につづいてゐる序詞。○安是可多要牟等《アゼカタエムト》――何故か絶えむ、絶えはせじとの意。
〔評〕 夕さればみ山を去らぬ布雲は茸實優雅な言葉で、東歌中ではめづらしい。布雲《ニヌグモ》は集中唯一の例である。下句には女と離れた痛恨の情が淋しく述べられてゐる。寄雲戀、
 
3514 高き嶺に 雲のつくのす 我さへに 君に著きなな 高嶺と思ひて
 
多可伎禰爾《タカキネニ》 久毛能都久能須《クモノツクノス》 和禮差倍爾《ワレサヘニ》 伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》 多可禰等毛比?《タカネトモヒテ》
 
高イ山ニ雲ガ著クヤウニ、私モ貴方ヲ〔三字傍線〕高イ山ト思ツテ、貴方ニ著キマセウ。
 
○久毛能都久能須《クモノツクノス》――雲が着くやうに。○和禮左倍爾《ワレサヘニ》――我までも、古義に「吾が身も雲になりて」とあるのは過ぎてゐる。○伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》――君に着きなむに同じ。
〔評〕 女が男にすがり着かうとする歌である。結句、多可禰等毛比?《タカネトモヒテ》に、男を仰ぎ慕ふ氣分が見えてゐる。
 
3515 吾が面の 忘れむしだは 國はふり 嶺に立つ雲を 見つつ偲ばせ
 
(478)阿我於毛乃《ワガオモノ》 和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》 久爾波布利《クニハフリ》 禰爾多都久毛乎《ネニタツクモヲ》 見都追之努波西《ミツツシヌバセ》
 
アナタハ旅ニオ出ニナツテ久シクナツテ〔アナ〜傍線〕、私ノ顔ヲオ忘レニナツタ時ハ、國ニ溢レテ嶺ニ立ツテヰル雲ヲ見テ、私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シテ下サイ。
 
○和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》――之太《シダ》は時。○久爾波布利《クニハフリ》――國溢り。國に溢れて、卷十八に射水河雪消溢而逝水能伊夜末思爾乃未《イミヅガハユキゲハフリテユクミヅノイヤマシニノミ》(四一一六)とある。
〔評〕 別離に際して、女が男に送つた歌。高峯の雲を見て我を思ひ起せといつたのは、雲に心を托してやらうといふのか。あはれに悲しい。併しこれには巫山の故事の「妾在2巫山之陽、高丘之阻1、且爲2朝雲1暮爲2行雨1云々」から出てゐるやうにも思はれる。寄雲戀。
 
3516 對馬の嶺は 下雲あらなふ かむの嶺に たなびく雲を 見つつ偲ばも
 
對馬能禰波《ツシマノネハ》 之多具毛安良南敷《シタグモアラナフ》 可牟能禰爾《カムノネニ》 多奈婢久君毛乎《タナビククモヲ》 見都追思怒波毛《ミツツシヌバモ》
 
對馬ノ嶺ニハ下ノ方ニカカル雲ハナイ。上ノ嶺ニ棚曳ク雲ヲ見テ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出シ〔この下判読不能〕。
 
○對馬能禰波《ツシマノネハ》――對馬《ツシマ》は文字通り酉海道の對馬であらう。○之多具毛安良南敷《シタグモアラナフ》――下雲あらなくに同じ。下には雲はないといふのである。考に具を久の誤とし、初句の波をここに入れて、ツシマノネ、ハシタグモアラナフと訓み、ハシククは細《クハ》し痛《イタ》くの略としてゐるのは牽強である。○可牟能禰爾《カムノネニ》――上の嶺に。これを考に東
(479)の神の嶺即ち足柄の御坂と見たのは當るまい。○見都追思怒波毛《ミツツシヌバモ》――見つつ偲ばむに同じ。舊本の怒を元暦校本その他に努に作り、波を西本願寺本その他婆に作つてゐる。
〔評〕 前の歌に對する返歌で、對馬に赴く防人が詠んだものか。對馬嶺にかかる雲の姿などは、前に行つた防人から聞いてゐるのであらう。下雲がないといふのが、不要の言の如くして然らず、何となく歌に趣を添へてゐる。寄雲戀。
 
3517 白雲の 絶えにし妹を あぜせろと 心に乘りて ここば悲しけ
 
思良久毛能《シラクモノ》 多要爾之伊毛乎《タエニシイモヲ》 阿是西呂等《アゼセロト》 許己呂爾能里?《ココロニノリテ》 許己婆可那之家《ココバカナシケ》
 
(思良久毛能)中〔傍線〕絶エタ女デアルノニ、今更〔二字傍線〕何トシロトテ、私ノ〔二字傍線〕心ニアノ女ノコトガ〔七字傍線〕浮ンデ、ヒドク戀シイノデアラウゾ。モハヤ何トモ仕樣ガナイノニ〔モハ〜傍線〕。
 
○思良久毛能《シラクモノ》――枕詞。絶えとつづいてゐる。前に爾努具母能安是可多要牟等《ニヌグモノアゼカタエムト》(三五一三)とつづいてゐるに同じ。○阿是西呂等《アゼセロト》――何とせよと。○許己婆可那之家《ココバカナシケ》――許多《ココダ》悲しきに同じ。
〔評〕 別れた女に對する未練が歌はれてゐる。三句以下に煩悶の状がよくあらはれてゐる。寄雲戀。
 
3518 岩の上に い懸る雲の かぬまづく 人ぞおたばふ いざ寢しめとら
 
伊波能倍爾《イハノヘニ》 伊賀可流久毛能《イカカルクモノ》 可努麻豆久《カヌマヅク》 比等曾於多波布《ヒトゾオタバフ》 伊射禰之賣刀良《イザネシメトラ》
 
岩ノ上ニカカツテヰル雲ガ山ノ〔二字傍線〕上ノ沼ニ降リテ〔三字傍線〕着イテヰル。ソノヤウニ私トオマヘト親シイ關係ガアルヤウニ〔ソノ〜傍線〕(480)人ガ言ヒ騷イデヰル。モウカウナツテハ〔八字傍線〕、サア一緒ニ寢ヨウヨ、女ヨ。
 
○伊波能倍爾伊賀可流久毛能《イハノヘニイカカルクモノ》――イは接頭語で、岩の上に懸る雲がの意であらう。○可努麻豆久《カヌマヅク》――この句以下、前の上野國歌(三四〇九)參照。○比等曾於多波布《ヒトゾオタバフ》――人がおらび騷ぐ意か。前の歌には比等登於多波布《ヒトトオタバフ》とあつた。○伊射禰之賣刀良《イザネシメトラ》――トラはコラの誤か。
〔評〕 前の伊香保呂爾安麻久母伊都藝《イカホロニアマクモイツギ》(三四〇九)を初二句だけ歌ひかへたものか。或はこれが本で彼が後とも言へないことはないが、岩の上では落ち付きがよぐないやうだ。ともかく難解な面倒な歌である。寄雲戀。
 
3519 汝が母に こられ吾は行く 青雲の いで來吾妹子 あひ見て行かむ
 
奈我波伴爾《ナガハハニ》 己良例安波由久《コラレアハユク》 安乎久毛能《アヲクモノ》 伊?來和伎母兒《イデコワギモコ》 安必見而由可武《アヒミテユカム》
 
折角アナタノ所ヘ逢ヒニ來タガ〔折角〜傍線〕、アナタノ母ニ叱ラレテ私ハスゴスゴト歸ツテ〔八字傍線〕行クヨ。一寸〔二字傍線〕(安乎久毛能)出テ來ナサイヨ。一目〔二字傍線〕逢ツテ行キマセウ。
 
○己良例安波由久《コラレアハユク》――己良例《コラレ》は嘖《コロバ》エに同じ。叱られること。卷十一に足千根母爾所嘖《タラチネノハハニコロバエ》(二五二七)・下に禰奈敝古由惠爾波伴爾許呂波要《ネナヘコユヱニハハニコロバエ》(三五二九)とある。今のオコラレルに同じであらう。アハユクは我は出て行く。○安乎久毛能《アヲクモノ》――枕詞。出でとつづく。青雲は空の晴れて青く見えるをいふ。雲晴れて青空があらはれる意で、つづくのである。古義には句を距てて安必見《アヒミ》へつづくとしてゐる。
〔評〕 男が女を婚ひに行つて、その母に叱られてすごすごと出て行く時の心。もとより民謠としてさういふ場面を取扱つたに過ぎないが、面白く出來てゐる。寄雲戀。
 
(481)3520 面形の 忘れむしだは 大野ろに たなびく雲を 見つつ偲ばむ
 
於毛可多能《オモカタノ》。和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》。於抱野呂爾《オホヌロニ》。多奈婢久君母乎《タナボククモヲ》。見都追思努波牟《ミツツシヌバム》。
 
アナタト別レテ久シクナツテ、アナタノ〔アナ〜傍線〕顔形ヲ忘レサウナ時ニハ、私ハ〔二字傍線〕大野ニ棚曳ク雲ヲ見テ、アナタヲ〔四字傍線〕思ヒ出シマセウ。
 
○於毛可多能《オモカタノ》――於毛可多《オモカタ》は面形。卷十一に面形之忘戸在者《オモカタノワスルトアラバ》(二五八〇)とある。○和須禮牟之太波《ワスレムシダハ》――シダは時。○於抱野呂爾《オホヌロニ》――大野ろに。ロは接尾語のみ。
〔評〕 前の阿我於毛乃《アガオモノ》(三五一五)と對島能禰波《ツシマノネハ》(三五一六)とを一緒にしたやうな歌。旅に出た男の作であらう。寄雲戀。
 
3521 からすとふ おほをそ鳥の まさでにも 來まさぬ君を 兒ろ來とぞ鳴く
 
可良須等布《カラストフ》 於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》 麻左?爾毛《マサデニモ》 伎麻左奴伎美乎《キマサヌキミヲ》 許呂久等曾奈久《コロクトゾナク》
 
烏ト云フ大虚言ツキノ鳥ガ、本當ニアナタガオイデニナラナイノニ、子等來子等來《コロクコロク》ト鳴イテアナタガオイデニナツタヤウニ私ニ告ゲルヨ。イヤナ鳥ダ〔アナ〜傍線〕。
 
○可良須等布《カラストフ》――烏といふ。○於保乎曾杼里能《オホヲソドリノ》――大虚言鳥の。ヲソはウソに同じであらう。卷四に乎曾呂登吾乎於毛保寒毳《ヲソロトワレヲオモホサムカモ》(六五四)とある。新訓は大輕率鳥の文字を當ててゐる。卷八の一五四八の歌の宇都を乎曾の誤として、ヲソロハウトシと訓む説に從へば、輕率の解も出來るやうであるが、次に掲げた靈異記の歌などから見(482)ると、普通の説に從つて置くのが、無難のやうである。○麻左低爾毛《マサデニモ》――眞實にも。○許呂久等曾奈久《コロクトゾナク》――烏の鳴聲のコロクと聞えるのを、兒ろ來といつて鳴くやうに聞きなしたので、なるほどさう思へば、さう聞えるやうだ。兒ろは女。
〔評〕 實に面白い野趣が溢れてゐる、この歌は日本靈異記には、見2烏(ノ)邪婬(ヲ)1※[厭のがんだれなし]v世(ヲ)修v善縁として出てゐる。和泉國泉(ノ)郡大領血沼縣主倭麻呂が、その家の門に巣を作つた烏の邪姪を見て厭世觀を起し、出家して行基大徳に隨つて名を信巖と曰つた。さうして大徳と供に死に、必ず當に同じく徃生すべしと約束した、然るに信巖は行基大徳よりも先に命を終つたので、大徳は哭詠して歌を作つて 加良須止伊布於保乎蘇止刹能去止乎能米止母爾止伊比天佐岐※[こざと+施の旁]智伊奴留《カラストイフオホヲソトリノコトヲノミトモニトイヒテサキダチイヌル》」といつたとある。更に無名抄には、歌を「からすてふおほをそどりの心もてうつし人とは何なのるらむ」と改め、これを伊勢國の郡司のこととして、靈異記と同じく烏の邪姪を記し、「それを見て家あるじの郡司、道心おこして法師になりけり。それが心をよめるなり。おほをそとりとは烏の名なり」と述べて、出家した伊勢の郡司の歌にしてしまつた。これらはいづれもこの東歌から出たものである。ヲソ鳥は靈異記のも無名抄のも共にウソツキ鳥と解するのが適切のやうに思はれる。袖中抄にも載せてある、以下烏に寄せてある。これは烏に寄せたもの。寄鳥戀。
 
3522 きぞこそは 兒ろとさ寢しか 雲の上ゆ 鳴き行く鶴の 間遠く思ほゆ
 
伎曾許曾波《キゾコソハ》 兒呂等左宿之香《コロトサネシカ》 久毛能宇倍由《クモノウヘユ》 奈伎由久多豆乃《ナキユクタヅノ》 麻登保久於毛保由《マトホクオモホユ》
 
昨夜コソ女ト寢タノデアツタ。然ルニ〔三字傍線〕(久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃)久シクナツタヤウニ思ハレルヨ。
 
○久毛能宇倍由奈伎由久多豆乃《クモノウヘユナキユクタヅノ》――雲の上を鳴いて飛んで行く鶴の如く。間遠くと言はむ爲の序詞。雲の上までの距離が遠いからである。○麻登保久於毛保由《マトホクオモホユ》――間遠くは久しくといふに同じ時間的に用ゐられてゐる。
(483)〔評〕 雲の上を鳴いて通る鶴を序詞に用ゐたのは上品である。卷八に雲上爾鳴奈流鴈之雖遠《クモノウヘニナクナルカリノトホケドモ》(一五七四)とある・鶴に寄せてある。寄鳥戀。
 
3523 坂越えて 安倍の田の面に ゐる鶴の ともしき君は 明日さへもがも
 
佐可故要?《サカコエテ》 阿倍乃田能毛爾《アベノタノモニ》 爲流多豆乃《ヰルタヅノ》 等毛思吉伎美波《トモシキキミハ》 安須左倍母我毛《アスサヘモガモ》
 
(佐可故要?阿倍乃田能毛爾爲流多豆乃)珍ラシイ貴方ハ今夜バカリデナク〔八字傍線〕、明日モカウシテ逢ヒタイ〔八字傍線〕モノデス。
サカコエテ
○佐可故要?《サカコエテ》――坂を越えて行く意か或は阿倍川の西方にある宇津《ウツ》ノ谷《ヤ》の坂のことか。○阿倍乃田乃毛爾《アベノタノモニ》――阿倍は卷三に駿河奈流阿倍乃市道爾《スルガナルアベノイチヂニ》(二八四)とある阿倍か。然らば今の靜岡市附近である。○爲流多豆乃《ヰルタヅノ》――この上の三句はトモシキと言はむ爲の序詞。○等毛思吉使美波《トモシキキミハ》――トモシキは、めづらしく愛らしい意。考に「こは群るをばいはず、ただめを二つをるをもて乏しきたとへとす。たまたまこし男をいかでかく日ならべて來んよしもがもと思ふなり」とあり、宣長は「此乏きはうらやましき也。日毎來ぬ日なく來居る鶴を羨みて、わが男も毎日、明日も來れかしと云也と言へり」とあるが、共に穩やかではない。
〔評〕 阿倍附近の女の歌。佐可故要?《サカコエテ》は不要のやうであるが、蓋し實景を捉へたものであらう。結句に激しい戀情があらはれてゐる。この歌、袖中抄に載つてゐる。鴎に寄せてある。寄鳥戀。
 
3524 眞小薦の ふのまちかくて 逢はなへば 沖つ眞鴨の 歎ぞあがする
 
麻乎其母能《マヲゴモノ》 布能未知可久?《フノマチカクテ》 安波奈敝波《アハナヘバ》 於吉都麻可母能《オキツマカモノ》 奈氣伎曾安我須流《ナゲキゾアガスル》
 
(484)(麻乎其母能布能)近ク眼ニ見ルバカリデ戀シイ人ニ〔見ル〜傍線〕逢ハナイカラ嗚呼ト〔三字傍線〕(於吉都麻可母能)嘆息ヲ私ハシテヰルヨ。
 
○麻乎其母能《マヲゴモノ》――眞小薦の。マとヲは接頭語のみ。薦は蓆。○布能未知可久?《フノマチカクテ》――フは蓆の編目と編目との間をいふ。舊本未とあるのは末の誤か。細井本はさうなつてゐる。考には末に改めて、「今本、未とあるは誤れり。薦《コモ》などのふは間ちかきとこそいへ」とある。節の短くて、又は節のみ近くてと見るのは當らない。フノまでは間近くと言はむ爲の序詞。間近くては、戀人との距離の近きことを言つたものである。○安波奈敝波《アハナヘバ》――逢はねば。○於吉都麻可母能《オキツマカモノ》――沖つ眞鴨の。鴨は水中に潜つて水上に出て長い息を吐くから、長息《ナガイキ》の略、嘆《ナゲキ》とつづけた序詞である。
〔評〕 眞小薦や沖つ眞鴨などの用法が巧で、東歌としては技巧的に進んだ歌である。鴨に寄せてある。寄鳥戀。
 
3525 水久君野に 鴨のはほのす 兒ろが上に 言おろはへて 未だ宿なふも
 
水久君野爾《ミクグヌニ》 可母能波抱能須《カモノハホノス》 兒呂我宇倍爾《コロガウヘニ》 許等於呂波敝而《コトオロハヘテ》 伊麻太宿奈布母《イマダネナフモ》
 
私ハ〔二字傍線〕女ニ就イテ(水久君野爾可母能波抱能須)ボンヤリト約束シタバカリデ、マダ一緒ニ〔三字傍線〕寢ナイヨ。ソレダノニ、ドウシテコンナニ戀シイノダラウ〔ソレ〜傍線〕。
 
○水久君野爾《ミクグヌニ》――水久君野は地名であらう。次句に鴨とあるから、野は借字で、水久君沼であらうと思はれる。略解に「武藏の秩父郡に水久具利といふ里有り。もし其所の沼を言ふか」とあるが、今その所在が明瞭でない。代匠記には水を潜るといふ意があるとしてゐる。○可母能波抱能須《カモノハホノス》――鴨の匍ふなす。考に「鴨の羽ぶきの如くといふ也。池に群て羽ぶきするは聞驚かるる物也。夫伎《フキ》の約|備《ヒ》なるを抱《ホ》に轉じたり」とあるのは無理であらう。鴨の沼に降りゐる樣を匍ふと言つたのであらう。鴨の陸を歩く樣をかく言つたと見た宣長説は面白(485)くない。以上の二句は、句を距てて、同音を繰返してハヘにつづく序詞。○許等於呂波敝而《コトオロハヘテ》――言|凡《オロ》延へて。言葉でぼんやりと言つたばかりで、確かな的束をしたのでもなくの意。於は元暦校本その他、乎に作る本が多い。代匠記は異男ろ這ひて即ち他の男が這ひての意とし、考は「男の忍び來んぞと聞て、家こぞりとどろき騷といふなり」と言つてゐる。又新考は言をろ延へて解してゐる。かくの如く解釋が區々になつてゐる。
〔評〕 未だ戀を遂げずして、徒らに煩悶する男の歌。鴨に寄せた意が少しく明瞭を缺くやうである。寄鳥戀。
 
3526 沼二つ 通は鳥が巣 吾が心 二行くなもと なよ思はりそね
 
奴麻布多都《ヌマフタツ》 可欲波等里我栖《カヨハトリガス》 安我許己呂《アガココロ》 布多由久奈母等《フタユクナモト》 奈與母波里曾禰《ナヨモハリソネ》
 
沼ヲ二ツカケテ〔三字傍線〕通フ水鳥ノ住居ノヤウ〔三字傍線〕ニ、私ノ心ガ二心ガアルト、思ヒナサルナヨ。私ハ貴下ヨリ外ニハ愛スル人ハアリマセヌ〔私ハ〜傍線〕。
 
○奴麻布多都《ヌマフタツ》――沼二つ。○可欲波等里我栖《カヨハトリガス》――通ふ鳥の巣。可欲波《カヨハ》は通ふに同じ。沼二つにかけて通つて棲んでゐる鳥の住處のやうに。この二句は布多由久《フタユク》にかかる序詞。新考は我は能の誤で、鳥ノス(鳥ナスの東語)だらうと言つてゐる。○布多由久奈母等《フタユクナモト》――二行くらむとに同じ。吾が心が二方に行くと、二心があると。○奈與母波里曾禰《ナヨモハリソネ》――ナは打消、ヨは添へていふ歎辭。モハリは思《オモ》はり、思《オモヒ》を延べたのであらう。ソは上のナと相對して打消となる。
〔評〕 沼がいくつも並んでゐる下總・常陸・上野あたりに行はれた歌らしい。水鳥を譬喩に用ゐたのも水郷の民謠らしくて面白い。寄鳥戀。
 
3527 沖に住も 小鴨のもころ 八尺鳥 息づく妹を 置きて來ぬかも
 
於吉爾須毛《オキニスモ》 乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》 也左可杼利《ヤサカドリ》 伊伎豆久伊毛乎《イキヅクイモヲ》 於伎(486)?伎努可母《オキテキヌカモ》
 
沖ニ住ム小鴨ノヤウニ、(也左可杼利)タメ息ヲツイテ、別ヲ悲シンデ〔六字傍線〕ヰル妻ヲ、私ハ家ニ〔四字傍線〕殘シテ出テ來タヨ。
 
○於吉爾須毛《オキニスモ》――沖に棲む。スモはスムの東語。○乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》――小鴨の如く。モコロは卷九、如己男《モコロヲ》(一八〇九)・母許呂乎《モコロヲ》(三四八八)・卷二十、和例乎美於久流等多多理之母己呂《ワレヲミオクルトタタリシモコロ》(四三七五)などのモコロで、如くの意である。○也左可杼利《ヤサカドリ》――八尺鳥。ヤサカは卷十三に八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》(三二七六)。(三三四四)とあるやうに、ここでは息の長いことに用ゐてある。枕詞として次のイキツクにつづいてゐる。○伊伎豆久伊毛乎《イキヅクイモヲ》――息吐く妹を。舊本、久の字が二つあるのは、一つは衍である。類聚古巣・西本願寺本などには、一つになつてゐる。
〔評〕 ため息をついて別離を悲しむ女、それは小鴨のやうな可憐なをとめである。それを後に殘して來た男の後髪を引かれるやうな思が詠まれてゐる、防人の歌だらうと見る説が多いが、さうとも定め難い。小鴨に寄せてある。寄鳥戀。
 
3528 水鳥の 立たむよそひに 妹のらに 物いはず來にて 思ひかねつも
 
水都等利乃《ミヅトリノ》 多多武與曾比爾《タタムヨソヒニ》 伊母能良爾《イモノラニ》 毛乃伊波受伎爾?《モノイハズキニテ》 於毛比可禰都毛《オモヒカネツモ》
 
(水都等利乃)出立スル準備ノ騷〔二字傍線〕デ、私ハ〔二字傍線〕女等ニ、別ノ言葉モシミジミ〔九字傍線〕言ハナイデ出テ來テ、悲シクテ堪へラレナイヨ。
 
○水都等利乃《ミヅトリノ》――枕詞。水鳥が飛立つ意で立たむとつづく。○多多武與曾比爾《タタムヨソヒニ》――ヨソヒは装ひ、準備。○伊母能良爾《イモノラニ》――ノは助詞で、妹等にの意である。考には「能は妹根と貴む言なり」とある。
 
(487)〔評〕 卷二十の防人歌に美豆等利乃多知能已蘇岐爾父母爾毛能波須價爾弖已麻叙久夜志伎《ミヅトリノタチノイソギニチチハハニモノハズケニテイマゾクヤシキ》(四三三七)とあるに似てゐる。なほ卷四の珠衣能狹藍左謂沈家妹爾物不語來而思金津裳《タマギヌノサヰサヰシヅミイヘノイモニモノイハズキテオモヒカネツモ》(五〇三)・前の安利伎奴能佐惠佐惠之豆美《アリキヌノサヱサヱシヅミ》(三四八一)などいづれも相似た歌である。これは防人の作かも知れない。水鳥に寄せてある。寄鳥戀。
 
3529 等夜の野に をさぎねらはり をさをさも 寢なへ兒故に 母にころばえ
 
等夜乃野爾《トヤノヌニ》 乎佐藝禰良波里《ヲサギネラハリ》 乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》 禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》 波伴爾許呂波要《ハハニコロバエ》
 
(等夜乃野爾乎佐藝禰良波里)ロクニ一緒ニ〔三字傍線〕寢ナイ女ダノニ、アノ女ノ〔四字傍線〕母ニ私ハヒドク〔三字傍線〕叱ラレテ追ヒタテラレタ〔八字傍線〕。
 
○等夜乃野爾《トヤノヌニ》――等夜乃野《トヤノヌ》は地名らしいが所在不明。トヤといふ地名は紀伊・出雲・陸奧・陸中にあり、越後に鳥屋野・岩代に鳥谷野の地がある。古義は和名抄に下總國印旛郡島矢とある地は鳥矢の誤で、ここが即ちトヤであらうといつてゐる。○乎佐藝禰良波里《ヲサギネラハリ》――乎佐藝《ヲサギ》は兎《ウサギ》。ネラハリは窺《ネラ》ひの延言。ここまではヲサの音を繰返して、次句のヲサヲサにつづく序詞。○乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》――ヲサヲサは大方・大低などの意で下に打消を伴ふ副詞である。ここではあまり、碌になどの意であらう。○禰奈敝古由惠爾《ネナヘコユヱニ》――寢ざる女だのに。○波伴爾許呂波要《ハハニコロバエ》――母に嘖ばえ。母に叱られたといふのである。母は女の母である。
〔評〕 狩獵人らしい歌である。結句を連用形で言ひ終つてゐる點に、特色がある。以下獣に寄せたものを集めてゐる。これは兎に寄せてある。寄獣戀。
 
3530 さを鹿の 伏すや叢 見えずとも 兒ろが金門よ 行かくしえしも
 
左乎思鹿能《サヲシカノ》 布須也久草無良《フスヤクサムラ》 見要受等母《ミエズトモ》 兒呂家可奈門欲《コロガカナドヨ》 由可久之要思毛《ユカクシエシモ》
 
(488)戀シイ女ハ〔五字傍線〕(左乎思鹿能布須也久草無良)見エナイデモ、女ノ家ノ門ノアタリヲ、通ルノハヨイモノダヨ。私ハ何トナク女ノ門ノ邊ガ通リタイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○左乎思鹿能布須也久草無良《サヲシカノフスヤクサムラ》――さ牡鹿の伏すや叢。見えずとつづく序詞。叢に隱れて鹿の姿が見えないからである。ヤは輕く添へた詠歎の助詞。○見要受等母《ミエズトモ》――女の姿は見えずともの意。○兒呂家可奈門欲《コロガカナドヨ》――兒らの金門をの意。可奈門《カナド》は金門。カドと同語らしい。必ずしも金具を打連ねた門ではあるまい。一七三九參照。ヨはヲに同じ。舊本、家とあるは我の誤か。類聚古集に我に作つてゐる。○由可久之要思毛《ユカクシエシモ》――行くのは善いことだよ。
〔評〕 序詞は巧に出來てゐる。女のなつかしさに、引寄せられるやうに、その門邊により來る男の歌。戀する人の情が、なるほどとうなづかれるやうに詠まれてゐる。鹿によせてある。寄獣戀。
 
3531 妹をこそ あひ見に來しか 眉曳の 横山へろの ししなす思へる
 
伊母乎許曾《イモヲコソ》 安比美爾許思可《アヒミニコシカ》 麻欲婢吉能《マヨビキノ》 與許夜麻敝呂能《ヨコヤマヘロノ》 思之奈須於母敝流《シシナスオモヘル》
 
私ハ〔二字傍線〕女ヲコソ相見ニ來タノダ。ソレダノニ女ノ家ノ者ハ〔ソレ〜傍線〕、(麻欲婢吉能)横山ノ邊ニ居テ山田ヲ荒ラス〔七字傍線〕鹿猪ノヤウニ私ヲ〔二字傍線〕思ツテヰル。私ヲ追ヒダシテシマツタ。ヒドイ奴等ダ〔私ヲ〜傍線〕。
 
○麻欲婢吉能《マヨビキノ》――眉引の。枕詞。眉引は眉のことで、横に引かれてゐるから、横につづけてゐる。○與許夜麻敝呂能《ヨコヤマヘロノ》――横山邊ろの。横山あたりの。横山は横に靡き連なる山。地名ではあるまい。ロは接尾語として添へてある。○思之奈須於母敝流《シシナスオモヘル》――鹿猪のやうに思つてゐるよ。
〔評〕 女に逢ひに行つて、その母などにどなりつけられたのを憤概して、人を丸で鹿猪か何ぞのやうに思つて、(489)追ひ飛ばしたといふので、下句は實に奇拔、且適切である。麻欲婢吉能《マヨビキノ》の枕詞も、上の妹に連想があつて、歌をやさしくしてゐる。猪によせてある。寄獣戀。
 
3532 春の野に 草食む駒の 口やまず あを偲ぶらむ 家の兒ろはも
 
波流能野爾《ハルノヌニ》 久佐波牟古麻能《クサハムコマノ》 久知夜麻受《クチヤマズ》 安乎思努布良武《アヲシヌブラム》 伊敝乃兒呂波母《イヘノコロハモ》
 
(波流能野爾久佐波牟古麻能)口ヲ休メズニ絶エズ私ノ事ヲ噂シテ〔十字傍線〕、私ヲ思ヒ出シテナツカシガツテヰルデアラウ、家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ヨ。ドウシテヰルダラウ。可愛サウナ女ダ〔ドウ〜傍線〕」。
 
○波流能野爾久佐波牟古麻能《ハルノヌニクサハムコマノ》――序詞。春の野に草を食べてゐる駒が、口を休めずとつづく。○久知夜麻受《クチヤマズ》――口を休めず。絶えず言葉にあらはして。卷九に珠手次不懸時無口不息吾戀兒矣《タマダスキカケヌトキナククチヤマズアガコフルコヲ》(一七九二)とある。
〔評〕 旅に出た男が家に殘して來た妻を思ふ歌。春の野に放飼にしてある馬を見てよんだのかも知れない。久知夜麻受安乎思努布良武《クチヤマズアヲシヌブラム》の句は、自分を戀しがつてゐる女の樣を顯はし得て妙。駒によせてある。寄獣戀。
 
3533 人の兒の かなしけしだは 濱渚鳥 足惱む駒の 惜しけくもなし
 
比登乃兒乃《ヒトノコノ》 可奈思家之太波《カナシケシダハ》 波麻渚杼里《ハマスドリ》 安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》 乎之家口母奈思《ヲシケクモナシ》
 
女ガ戀シイ時ニハ女ニ逢ヒタサニ私ガ乘ツテヰル〔女ニ〜傍線〕馬ガ、(波麻渚杼里)歩ケナイデ惱ンデヰルノモ、可愛サウトハ思ハナイ。無理ニ歩マセテ女ノ所ヘ通ツテ行ク〔無理〜傍線〕。
 
○比登能兒能《ヒトノコノ》――人の兒は、人の娘。○可奈思家之太波《カナシケシダハ》――愛《カナ》しき時は。○波麻渚杼里《ハマストリ》――濱渚鳥。枕詞。濱(490)の渚にゐる鳥は沙の上の歩行が困難らしいから、足惱むとつづく。○安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》――安奈由牟《アナユム》は足惱《アナヤ》むの東語。○乎之家口母奈思《ヲシケクモナシ》――惜しくもなし。このヲシは可愛さうといふやうな意。
〔評〕 濱渚鳥から足惱むへのつづけは巧である。枕詞ではあるが、作者の創意に出てゐる。結句は代匠記に、遊仙窟の、若使(メバ)2人心(ヲ)密(ナラ)1莫(レ)v惜(ム)2馬蹄穿(ナムコトヲ)1の句を引いて、對比してゐるが、これから出たといふわけではない。駒によせてある。寄獣戀。
 
3534 赤駒が 門出をしつつ 出でがてに せしを見立てし 家の兒らはも
 
安可胡麻我《アカゴマガ》 可度※[人偏+弖]乎思都都《カドデヲシツツ》 伊※[人偏+弖]可天爾《イデガテニ》 世之乎見多※[人偏+弖]思《セシヲミタテシ》 伊敝能兒良波母《イヘノコラハモ》
 
私ノ乘ツテヲル〔七字傍線〕赤駒ガ、家ヲ出ル時ニ、イカニモ〔四字傍線〕出ニクサウニシタノヲ悲シサウニ〔五字傍線〕見送ツタ家ノ妻ヨ。サゾ今モ私ヲ慕ツテ悲シンデヰルデアラウ。アノ姿ガ今モ忘レラレナイ〔サゾ〜傍線〕。
 
○安可胡麻我《アカゴマガ》――赤駒が。自分が乘つて旅に出ようとした赤駒である。○可度※[人偏+弖]乎思都都《カドデヲシツツ》――可度※[人偏+弖]《カドデ》は門出。○伊※[人偏+弖]可天爾《イデガテニ》――出で難に。出にくさうに。○世之乎見多※[人偏+弖]思《セシヲミタテシ》――見多※[人偏+弖]《ミタテ》は見立て。見送ることを今も見立てといふ。
〔評〕 旅中家の妻を想ひ起した歌。上句に赤駒も門出を悲しんだ有樣が述べられて、人をして涙を催さしめるものがある、略解に、「上二句は馬の馬屋の戸口を出むとすれども、え出ぬ意にて、出がてと言はむ爲の序也」とあるのは誤解であらう。さう見ては興味索然だ。赤駒によせてある。寄獣戀。
 
3535 おのが男を おほにな思ひそ 庭に立ち 笑ますがからに 駒に逢ふものを
 
於能我乎遠《オノガヲヲ》 於保爾奈於毛比曾《オホニナオモヒソ》 爾波爾多知《ニハニタチ》 惠麻須我可良爾《ヱマスガカラニ》 古(491)麻爾安布毛能乎《コマニアフモノヲ》
 
私ノ戀シイ〔三字傍線〕男ヨ。私ヲ〔二字傍線〕疎カニ思ヒナサルナ。私ハ貴方ガニコニコト〔私ハ〜傍線〕オ笑ヒナサル御顔ヲ見タイ〔六字傍線〕ノデ、アナタヲ出迎ニ〔七字傍線〕庭ニ出テ、アナタノ乘ツテイラツシヤル〔アナ〜傍線〕馬ニ遭フノデスヨ。
 
○於能我乎遠《オノガヲヲ》――己が男よの意か。代匠記・新考などは己が尾をと解してゐる。○於保爾奈於毛比曾《オホニナオモヒソ》――疎かに思ふことなかれ。○惠麻須我可良爾《ヱマスガカラニ》――笑み給ふ故に。○古麻爾安布毛能乎《コマニアフモノヲ》――貴方の乘つてゐる駒に逢ふよ。新考は古麻を古呂の誤として、女と解してゐる。
〔評〕 難解の歌で、意味がよく分らない。この前後駒に寄せた歌であるから、古呂と改める説は正しくない。駒によせてある。寄獣戀。
 
3536 赤駒を 打ちてさ緒牽き 心引き いかなるせなか 吾許《わがり》來むと言ふ
 
安加胡麻乎《アカゴマヲ》 宇知※[人偏+弖]左乎妣吉《ウチテサヲビキ》 己許呂妣吉《ココロヒキ》 伊可奈流勢奈可《イカナルセナカ》 和我理許武等伊布《ワガリコムトイフ》
 
私〔二字傍線〕(安加胡麻乎宇知※[人偏+弖]左乎妣吉)心ヲ引イテ、私ノ家ヘ來ヨサトオツシヤルノハ、ドウイフ御方デスカ。アナタハ口バカリデ、アテニナラヌ御方デス〔アナ〜傍線〕。
 
○宇知※[人偏+弖]左乎妣吉《ウチテサヲビキ》――鞭打つて手綱を引き。サは接頭語。ヲは手綱。初二句は己許呂妣吉《ココロビキ》と言はむ爲の序詞。○己許呂妣吉《ココロビキ》――私の心を引いて。○伊可奈流勢奈可《イカナルセナカ》――どんな男か。○和我理許武等伊布《ワガリコムトイフ》――吾が家へ來むといふのは如何なる人かの意。
〔評〕 自分の心を引いて、戀を求め、やがて通つて來ようと言つてゐる男を、たしなめた女の歌。これも少し曖昧な點がある。赤駒によせてある、寄獣戀。
 
3537 くべ越しに 麥食むこうまの はつはつに 相見し子らし あやにかなしも
 
(492)久敝胡之爾《クベコシニ》 武藝波武古宇馬能《ムギハムコウマノ》 波都波都爾《ハツハツニ》 安比見之兒良之《アヒミシコラシ》 安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》
 
〔久敝胡之爾武藝波武古宇馬能)一寸バカリ逢ツタ女ガ、不思議ニモ可愛イヨ。ドウシタノダラウ〔八字傍線〕。
 
○久敝胡之爾《クベコシニ》――久敝《クベ》は垣・柵の類をいふ。○武藝波武古宇馬能《ムギハムコウマノ》――麥食む小馬の。宇の字を衍としてコマと訓む説が多いが、諸本悉く宇の字があるから、もとの儘がよい。この二句は柵越しに首を伸ばして麥を食ふ馬は、麥草の上端のみを喰ひ得るだけであるから、ハツハツと言はむ爲の序詞としたものである。○波都波都爾《ハツハツニ》――端々に。極めて僅かに、ほんの一寸。卷四に波都波都爾人乎相見而《ハツハツニヒトヲアヒミテ》(七〇一〜とある。
〔評〕 序詞は農民らしい材料が用ゐられてゐる。併し卷十二の??越爾麥咋駒乃雖詈猶戀久思不勝焉《ウマセコシニムギハムコマノノラユレトナホシコフラクオモヒカネツモ》(三〇九六)と同樣であるから、東歌特有のものではない。馬によせてある。寄獣戀。
 
或本歌曰 馬柵越し 麥食む駒の はつはつに 新膚觸れし 兒ろしかなしも
 
或本歌曰 宇麻勢胡之《ウマセコシ》 牟伎波武古麻能《ムギハムコマノ》 波都波都爾《ハツハツニ》 仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》 古呂之可奈思母《コロシカナシモ》
 
仁必波太布禮思《ニヒハダフレシ》は新膚觸れし。始めて新枕せしの意。古呂之可奈思母《コロシカナシモ》は女がいとしいよの意。垣《クベ》と馬柵《ウマセ》との差のみで、上句は殆ど原歌と同じであるが、これは新膚觸れしと露骨な叙法になつてゐるので、原歌よりも野趣が濃厚である。
 
3538 ひろ橋を 馬越しかねて 心のみ 妹がりやりて 吾は此處にして 或本歌發句曰、小林に駒をはささげ
 
比呂波之乎《ヒロハシヲ》 宇馬古思我禰※[人偏+弖]《ウマコシカネテ》 己許呂能未《ココロノミ》 伊母我理夜里※[人偏+弖]《イモガリヤリテ》 和波(493)己許爾思天《ワハココニシテ》
 
廣橋ヲ馬ガ越シカネルノデ、渡ルコトガ出來ズ〔八字傍線〕、心ダケヲ女ノ所ヘ通ハシテ、私自身ハ此處ニ佇ンデヰル。悲シイガ致シ方ガナイ〔佇ン〜傍線〕。
 
○比呂波之乎《ヒロハシヲ》――比呂波之《ヒロハシ》は廣橋であらう。下に馬越しかねてとあるので、代匠記精撰本は、尋橋で纔に一ひろばかりの細い橋と解し、考は呂は良の意で一枚《ヒトヒラ》橋の打橋だといつてゐる。宣長は間をおいて石を並べた石橋で、その間々が廣いのであらうといひ、古義は翻橋《ヒロハシ》で反橋《ソリハシ》のことだと言つてゐる。いづれも無理である。常の丸木橋などよりも廣いので、廣橋といはれてゐるが、なほ馬が通るには不充分なので馬が尻込みするのである。
〔評〕 はつきりしたよい作である。馬に跨つて女の許へ通ふ男の心が、やさしく詠まれてゐる。結句穩やかに餘韻を含めて言ひをさめてある。馬によせてある。寄獣戀。
 
或本歌發句曰 乎波夜之爾《ヲハヤシニ》 古麻古波左佐氣《コマヲハササゲ》
 
發句は初二句を指してゐる、乎波夜之《ヲハヤシ》は小林、ヲは接頭語。波左佐氣《ハササゲ》は走ラセアゲの約か。馬が林の叢中に走り込んでしまつたことである、古義に「乘れりし駒の下りたる間に放れ行て、林中へ上り遠ざかり入て、のりて行べき駒のなければ心のみ妹がりやるよしなり」とあるが、放馬になつたのではなく、乘つたままで林の中に走り込んで、如何にしても意に從はぬのであらう。廣橋を越しかねる馬は臆病馬だが、これはあばれ馬で手に合はぬのである。いづれもおもしろいが、この方が滑稽味がある。
 
3539 あずの上に 駒をつなぎて あやほかど 他妻兒ろを 息に吾がする
 
安受乃宇敝爾《アズノウヘニ》 古馬乎都奈伎※[人偏+弖]《コマヲツナギテ》 安夜抱可等《アヤホカド》 比登都麻古呂乎《ヒトツマコロヲ》 伊(494)吉爾和我須流《イキニワガスル》
 
(安受乃宇敝爾古馬乎都奈伎?)アブナイケレドモ、人ノ妻ノ女ニ戀ヲシテ〔四字傍線〕命懸ケデ我ハ思ツテヰル。
 
○安受乃宇敝爾《アズノウヘニ》――安受《アズ》は字鏡に「※[土+丹]ハ岸崩也久豆禮又阿須」とあるかち斷崖のことである。○古馬乎都奈伎?《コマヲツナギテ》――駒を繋いで。ここまでの二句は危しと言はむ爲の序詞。○安夜抱可等《アヤホカド》――危けれど。あぶないけれど。○比登都麻古呂乎《ヒトツマコロヲ》――人妻兒ろを。人妻たる女をの意。舊本、麻都《マツ》とあるが、類聚古集に都麻《ツマ》とあり、西本願寺本その他に豆麻とあるから、都麻とすべきである。○伊吉爾和我須流《イキニワガスル》――息に吾がする。伊吉《イキ》は命。命にかけて我は思ふといふのである。卷十九の伊吉能乎爾念《イキノヲニモフ》(四二八一)と同じ。
〔評〕 斷崖の上に駒を繋いだのは、危さを言ひあらはす序詞として、適切この上もない。下句の表現も、戀の煩悶を力強く言ひ得てゐる。傑れた作と言つてよい。駒に寄せてある。寄獣戀。
 
3540 左和多里の 手兒にい行きあひ 赤駒が 足掻を速み 言問はず來ぬ
 
左和多里能《サワタリノ》 手兒爾伊由伎安比《テゴニイユキアヒ》 安可故麻我《アカコマガ》 安我伎乎波夜美《アガキヲハヤミ》 許等登波受伎奴《コトトハズキヌ》
 
佐和多里トイフ所〔四字傍線〕ノ女ニ、途中デ行キ逢ツタケレドモ、私ノ乘ツテヲル〔ケレ〜傍線〕赤駒ノ歩キ方ガ早イノデ、アノ女ニ〔四字傍線〕物モ云ハナイデ別レテ〔三字傍線〕キタ。惜シイコトヲシタ〔八字傍線〕。
 
○左和多里能《サワタリノ》――友和多里《サワタリ》は大和の檜隈《ヒノクマ》を左檜隈《サヒノクマ》といふやうに、ワタリといふ地名に、サを添へたものか。和名抄によれば東國では、下野陸奥などに曰理《ワタリ》郷がある。○手兒爾伊由伎安比《テゴニイユキアヒ》――手兒は處女といふに同じ。伊《イ》は接頭語。手兒に行遇つて。
〔評〕 左和多里の手兒といつて、美人の聞え高かつた童女に途中に行き逢つたが、乘つてゐた駒が、あまり早く(495)歩くので、おやと思ふ間に行過ぎて、しみじみと話をする暇もなかつたといふ意。その場所がよく描き出されてゐる。赤駒によせてある。寄獣戀。
 
3541 あすへから 駒の行このす 危はども 人妻兒ろを まゆかせらふも
 
安受倍可良《アズヘカラ》 古麻乃由胡能須《コマノユコノス》 安也波刀文《アヤハドモ》 比等豆麻古呂乎《ヒトヅマコロヲ》 麻由可西良布母《マユカセラフモ》
 
斷崖ノ上ヲ、駒ガ行クヤウニ、危イケレドモ、私ハ人妻ニ戀ヲシテ〔九字傍線〕人妻ノ女ヲユカシク思フヨ。
 
○安受倍可良古麻乃由胡能須《アズヘカラコマノユコノス》――斷崖を駒が行く如くの意で、危いことの喩である。安受倍《アズヘ》は前の安受乃宇敝《アズノウヘ》(三五三九)と同意であらう。○安也波刀文《アヤハドモ》――前の三五三九の安夜抱可等《アヤホカド》と同意。○比登豆麻古呂乎《ヒトツマコロヲ》――前の舊本の比登麻都古呂乎(三五三九)とあるのが誤であることは、これでも證明せられる。○麻由河西良布母《マユカセラフモ》――マは接頭語。ユカセラフはユカセル即ちゆかしく思ふの意か、モは詠歎の助詞。人妻の女をゆかしく思ふよといふのであらう。但しユカシといふ語は、萬葉集その他に上代語としては見えないやうであり、又本義は「知りたい」といふので、なつかしい意となるのは、第二義のやうであるから、なほ研究を要する。
〔評〕 前の三五三九とよく似てぬるが、これは初二句が譬喩になつてゐるし、その他の用語も違つてゐる。考に同歌として、これを除いてゐるのは亂暴である。駒によせてある。寄獣戀。
 
3542 さざれ石に 駒をはさせて 心痛み 吾が思ふ妹が 家のあたりかも
 
佐射禮伊思爾《サザレイシニ》 古馬乎波佐世?《コマヲハサセテ》 己許呂伊多美《ココロイタミ》 安我毛布伊毛我《アガモフイモガ》 伊敝乃安多里可聞《イヘノアタリカモ》
 
(佐射禮伊思爾古馬乎波佐世?)心ヲイタメテ戀シク〔三字傍線〕私ガ思ウ女ノ家ノ邊ハ此處〔三字傍線〕ダヨ。アアナツカシイ〔七字傍線〕。
 
(496)○佐射禮伊思爾《サザレイシニ》――佐射禮伊思《サザレイシ》は小石。前に知具麻能河泊能左射禮思母《チクマノカハノサザレシモ》(三四〇〇)とあつた左射禮思《サザレシ》と同じである。○古馬乎波佐世?《コマヲハサセテ》――波佐世?《ハサセテ》は走らせて。以上の二句は、小石原を馬を走らせると、馬の脚を傷つけはせぬかと、心を苦しめるから、心痛みとつづく序詞としたのである。○己許呂伊多美《ココロイタミ》――心痛み。心苦しくの意で、心苦しき故にと解すべきではない。
〔評〕 初二句の序詞は、田舍の男子らしい材料で、面白く出來てゐる。駒によせてある。寄獣戀。
 
3543 むろがやの 都留のつつみの 成りぬがに 兒ろは言へども 未だ寢なくに
 
武路我夜乃《ムロガヤノ》 都留能都追美乃《ツルノツツミノ》 那利奴賀爾《ナリヌガニ》 古呂波伊敝杼母《コロハイヘドモ》 伊末太年那久爾《イマダネナクニ》
 
二人ノ間ハ戀ガ〔七字傍線〕(武路我夜乃都留能都追美乃)出來アガツタヤウニアノ〔二字傍線〕女ハ云フケレドモ、口バカリデ、マダ私ハアノ女ト〔口バ〜傍線〕共寢ヲシナイヨ。
 
○武路我夜乃都留能都追美乃《ムロガヤノツルノツツミノ》――武路我夜は室が谷などいふ地名らしいが所在不明。古義は群草之列々《ムラガヤノツラツラ》の意で都留につづく枕詞としてゐる。都留は甲斐國に都留郡があり、都留郷もあるから、そのあたりらしく思はれる。然らば今の北都留郡鶴川村の邊であらう。以上の二句はナリヌと言はむ爲の序詞。丁度その頃都留の堤が成就したのであらう。○那利奴賀爾《ナリヌガニ》――成就したやうに。二人の戀の約束が出來たやうに。
〔評〕 出來上つたばかりの都留の堤を材料として、那利奴賀爾《ナリヌガニ》の序詞としたのは面白い。前の信濃道者伊麻能波里美知《シナヌヂハイマノハリミチ(三三九九)に木曾路の開通が詠まれてゐるのと同樣である。これ以下水に關するものに寄せた歌が、集まつてゐる。寄堤戀。
 
3544 飛鳥川 下濁れるを 知らずして せななと二人 さ宿てくやしも
 
阿須可河泊《アスカガハ》 之多爾其禮留乎《シタニゴレルヲ》 之良受思天《シラズシテ》 勢奈那登布多理《セナナトフタリ》 左宿(497)而久也思母《サネテクヤシモ》
 
男ノ心ハウハベハ親切サウデ〔男ノ〜傍線〕(阿須可河泊)底ハ濁ツタ二心ヲ持ツ〔六字傍線〕テ居ルノヲ知ラナイデ、私ハ〔二字傍線〕アナタト二人デ寢タノハ殘念デスヨ。コンナ薄情ナ御方ト知ラナイデ、飛ンダコトヲシマシタ〔コン〜傍線〕。
 
○阿須可河泊《アスカガハ》――飛鳥川。大和の飛鳥川である。略解に東國にも飛鳥川があるのだらうといつたのはよくない。考に阿須太河泊の誤としたのは、更科日記に、武藏と相模とのあはひなるあすだ川とあるによつたものであるが、更によくない。次の下濁れると言はむ爲に、この河を枕詞式に用ゐたものである。○之多爾其禮留乎《シタニゴレルヲ》――男の心が濁つた二心を持つてゐることに譬へられてゐる。○勢奈那登布多理《セナナトフタリ》――勢奈那《セナナ》は夫《セナ》に更に親しんでナを添へたものであらう。前の勢奈能我素低毛《セナノガソデモ》(三四〇二)のセナノとは少し異なるやうである。
〔評〕 飛鳥川に寄せて男の二心を皮肉つてゐる。下濁れるといふのは、男の薄情を責める言葉としては、かなりひどいやうに思はれる。飛鳥川といふ大和の河の名が、東歌に詠まれてゐることに注意したい。六帖に「とね川は底はにごりてうはずみてありけるものをさねてくやしも」とあるのはこれを改竄し、脱胎したものである。寄河戀。
 
3545 飛鳥川 塞くと知りせば あまた夜も ゐねて來ましを 塞くと知りせば
 
安須可河泊《アスカガハ》 世久登之里世波《セクトシリセバ》 安麻多欲母《アマタヨモ》 爲禰?己麻思乎《ヰネテコマシヲ》 世久得四里世波《セクトシリセバ》
 
私トアノ女トノ間ヲ逢ハセナイヤウニ〔私ト〜傍線〕(安須可河泊)堰キ止メル者ガアル〔四字傍線〕ト前カラ〔三字傍線〕知ツテヰタナラバ、幾晩モ連レ出シテ寢テ來ヨウモノヲ。堰キ止メルモノガアル〔五字傍線〕ト知ツテヰタナラバ、モツト會ツテオクノデアツタノニ。殘念ナコトヲシタ〔モツ〜傍線〕。
 
(498)○安須可河泊《アスカガハ》――河の水を塞き止める意で、塞《セ》くの枕詞式に用ゐてゐる。○世久登之里世波《セクトシリセバ》――人が二人の間を塞き止めると知つたならば。○安麻多欲母《アマタヨモ》――數多の夜も。○爲禰底己麻思乎《ヰネテコマシヲ》――率寢て來ましを。連れて行つて寢て來ようものを。
〔評〕 母などに邪魔せられて思ふやうに會へないのを悲しんだ男の歌。飛鳥川は卷二の人麿の歌に明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼爾賀有萬思《アスカガハシガラミワタシセカマセバナガルルミヅモノドニカアラマシ》(一九七)とあつて、塞くといふに縁のある河である。この點からも、これを大和の飛鳥川と考へることが出來る。寄河戀。
 
3546 青楊の はらろ川門に 汝を待つと せみどは汲まず 立ちどならすも
 
安乎楊木能《アヲヤギノ》 波良路可波刀爾《ハラロカハトニ》 奈乎麻都等《ナヲマツト》 西美度波久末受《セミドハクマズ》 多知度奈良須母《タチドナラスモ》
 
私ハ〔二字傍線〕青々ト〔二字傍線〕楊ガ芽ヲ出シテ居ル川ノ渡リ場所デ、貴方ノ御出デ〔四字傍線〕ヲ待ツトテ、清水モ汲マナイデ、立ツテヰル足|下《モト》ヲ踏ミツケテ、平ラニシテ居ルヨ。アア待チ遠シイ〔七字傍線〕。
 
○波良路可波刀爾《ハラロカハトニ》――張れる河門に。河門は河の渡り場。卷四、千鳥鳴佐保乃河門乃《ナドリナクサホノカハトノ》(五二八)その他用例が多い。古義に安乎楊木能《アヲヤギノ》を枕詞とし、波良路《ハラロ》を地名としたのは大なる誤である。○酋美度波久末受《セミドハクマズ》――清水は汲まず。河の水を汲まずにの意。○多知度奈良須母《タチドナラスモ》――多知度《タチド》は立處。奈良須母《ナラスモ》は平らすよ。立つてゐる足もとを踏みつけて、平らにするよといふのである。
(評) 青楊の芽を出しかけた河のほとりに、水汲みに出た女が、水汲むことを忘れて、男の來るのを待ち焦れ、頻りに足もとを踏みつけてぢれてゐる歌。その情景が目に見るやうに詠んである。東語らしい語が多く用ゐられて、東歌としての香氣が高く、しかも東國らしい風景と田舍女の純情とがあらはれ、調も亦よく整つた佳作である。寄河戀。
 
3547 あぢの住む 須沙の入江の 隱沼の あな息づかし 見ず久にして
 
(499)阿知乃須牟《アヂノスム》 須沙能伊利江乃《スサノイリエノ》 許母理沼乃《コモリヌノ》 安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》 美受比佐爾指天《ミズヒサニシテ》
 
私ハ戀シイ人ニ〔七字傍線〕久シク逢ハナイデ、嗚呼(阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃)嘆カハシイコトダ。
 
○阿知乃須牟須沙能伊利江乃許母理沼乃《アヂノスムスサノイリエノコモリヌノ》――味鳧の棲んでゐる須沙の入江の隱沼の。伊伎豆加思《イキヅカシ》につづく序詞。古義にミズにかかると見たのは當るまい。須沙の入江は卷十一に味乃住渚沙乃入江之荒磯松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》(二七五一)とあつて、紀伊國有田郡保田村字高田地方にあるとの説があるが、よくわからない。但し東歌だからといつて、東國にあるとも斷定し難いことは前の飛鳥川の歌なとで明らかである。この入江の岸のあたりは草などが生ひ茂つて、水も見えない隱沼になつてゐたのである。○安奈伊伎豆加思《アナイキヅカシ》――嗚呼歎息せられるの意。伊伎豆加思《イキヅカシ》は、ため息がつかれるといふので、心も晴れない欝陶しいことを言つてゐる。隱沼が草に埋れて欝陶しいのにかけてゐる。
〔評〕 これは東歌らしい香氣がない。右に掲げた卷十一の味乃住渚沙乃入江之荒磯松《アヂノスムスサノイリエノアリソマツ》(二七五一)卷二の埴安乃池之堤之隱沼乃《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノ》(二〇一)などの歌と、別段の相異は認められない。寄沼戀。
 
3548 鳴る瀬ろに こづの依すなす いとのきて かなしけせろに 人さへ依すも
 
奈流世呂爾《ナルセロニ》 木都能余須奈須《コヅノヨスナス》 伊等能伎提《イトノキテ》 可奈思家世呂爾《カナシケセロニ》 比等佐敝余須母《ヒトサヘヨスモ》
 
タダサヘ〔四字傍線〕格別ニ可愛イ男ニ、私ト關係アリサウニ、世ノ〔私ト〜傍線〕人マデガ(奈流世呂爾木都能余須奈須)言ヒヨセテ、ヤカマシク、評判ス〔九字傍線〕ルヨ。イヨイヨ懷カシイ心持ガスル〔イヨ〜傍線〕。
 
(500)○奈流世呂爾《ナルセロニ》――鳴る瀬ろに。鳴る瀬ろは音立てて流れる瀬であらう。地名ではない。○木都能余須奈須《コヅノヨスナス》――木都《コツ》は木屑で、前に木積《コヅミ》(一一三七)とあつたのと同じであらう。古義の一説に能は彌の誤で、コヅミヨスナスであらうと言つてゐる。木屑の依せるやうに。この句から結句の余須母《ヨスモ》につづく序詞である。○伊等能伎提《イトノキテ》――甚除きて。甚だ格別に。卷五の伊等乃伎提短物乎《イトノキテミジカキモノヲ》(八九二)・伊等能伎提痛伎瘡爾波《イトノキテイタキキズニハ》(八九七)などの例がある。○可奈思家世呂爾《カナシケセロニ》――愛《カナ》しき夫ろに。愛する男に。○比等佐敝余須母《ヒトサヘヨスモ》――世の人までが、私と關係あるやうに言ひ騷ぐよの意。
〔評〕 鳴る瀬ろは地名か地名でないか明らかでないが、ともかく瀬の音の高い河であらう。これを點出したのは下にセロと言はむ爲であり、又世人の口の喧ましさをこれであらはしてゐる。ヨスが二句と五句とに對比せられてゐるのもおもしろい。ともかくかなり技巧上に工夫された作である 寄瀬戀。
 
3549 多由比潟 潮滿ちわたる いづゆかも かなしき夫ろが 吾許通はむ
 
多由比我多《タユヒガタ》 志保彌知和多流《シホミチワタル》 伊豆由可母《イヅユカモ》 加奈之伎世呂我《カナシキセロガ》 和賀利可欲波牟《ワガリカヨハム》
 
多由比潟ニ潮ガ滿チテ來タ。コレデハ〔四字傍線〕伺處カラ私ノ〔二字傍線〕愛スル男ガ、私ノ家ヘ通ツテ來ルデアラウカ。通リ道ガアルマイ。困ツタモノダ〔通リ〜傍線〕。
 
○多由比我多《タユヒガタ》――多由比潟、越前に田結の浦があつて、卷三に手結我浦爾《タユヒガウラニ》(三六六)と出てゐるが、北陸の海岸では潮の干滿が目立たないから。次句に志保彌知和多流《シホミチワタル》とあるのに適應しない。やはり東國にあるのであらう。或はタは接頭語式に添へたもので、鎌倉の由比が濱か。駿河にも薩陲峠の東方海岸に由比町がある。○伊豆由可母《イヅユカモ》――イヅはイヅクの東語。何處からかまあの意。
〔評〕 多由比潟に汐の滿ちたのを見て、戀しい男の通路の無くなつたことを悲しんだ女の歌。純情その儘に歌は(501)れてゐる。寄潟戀。
 
3550 押して否と 稻は舂かねど 波の穗の いたぶらしもよ きぞひとり宿て
 
於志?伊奈等《オシテイナト》 伊禰波都可禰杼《イネハツカネド》 奈美乃保能《ナミノホノ》 伊多夫良思毛與《イタブラシモヨ》 伎曾比登里宿而《キゾヒトリネテ》
 
無理ニイヤト貴方ノ言葉ヲ拒絶シテ、私ハ〔貴方〜傍線〕稻ヲ舂クノデハナイガ、昨夜アナタガ口バカリデオイデニナラズ〔口バ〜傍線〕、獨寢ヲシタノデ、私ハ貴方ノ引ク袖ヲ〔九字傍線〕(奈美乃保能)振リ拂ヒタク思フノデスヨ。
 
○於志?伊奈等《オシテイナト》――無理にいやだと言つて。貴方の言葉を拒絶して、相手にならずに稻を舂くのではないがと下につづいてゐる。古義に、「今は否《イナ》舂《ツカ》じと思ふを、人などに強令《シヒオホ》せられて、押して舂くにはあらねど、といふ屬《ツヅケ》なるべし」とあるが從ひ難い。その他の諸註いづれも當つてゐない。○奈美乃保能《ナミノホノ》――枕詞。波の高く立つたところを波の穗といふ。即ち波がしらである。古事記に拔2十掬釼1、逆3刺立于2浪穗1《トツカノツルギヲヌキテナミノホニサカサマニサシタテテ》とある。○伊多夫良思毛與《イタブラシモヨ》――甚振らしもよ。甚振《イタブラ》しといふ形容詞に、モとヨとの詠歎の助詞が附いたのである。卷十一に風緒痛甚振浪能間無《カゼヲイタミイタブルナミノアヒダナク》(二七三六)とある。ここは心の動搖することを言つてゐる。○伎曾比登里宿而《キゾヒトリネテ》――昨夜獨寢をして。
〔評〕 難解の歌である。考には稻舂の荒業をしたので、體が振へて寢られない譬のやうに言つてゐるが、そんな女ではなく、勞働に馴れた田舍の賤女であらう。前に伊禰都氣波可加流安我手乎《イネツケバカカルアガテヲ》(三四五九)とあつたやうな皹だらけの手をした女であらう。しかし浪の穗のの枕詞などは上手に用ゐてある。又イナ・イネ・ネなどの同音の繰返しも快い調をなしてゐる。和歌童蒙抄に出てゐる。寄波戀。
 
3551 味鎌の 潟にさく波 平瀬にも 紐解くものか かなしけを措きて
 
阿遲可麻能《アヂカマノ》 可多爾左久奈美《カタニサクナミ》 比良湍爾母《ヒラセニモ》 比毛登久毛能可《ヒモトクモノカ》 加奈(502)思家乎於吉?《カナシケヲオキテ》
 
私ハ〔二字傍線〕味鎌ノ渇ニ立ツ浪ノヤウナ美シイ〔七字傍線〕愛スル男ヲサシ覺イテ、淺ハカナ他ノ男ト共寢ヲシテ〔五字傍線〕紐ヲ解クモノデスカ。決シテソンナ二心ハ持チマセヌ〔決シ〜傍線〕。
 
○阿遲可麻能可多爾左久奈美《アヂカマノカタニサクナミ》――阿遲可麻《アヂカマ》は所在不明。卷十一に昧鎌之鹽津乎射而《アヂカマノシホツヲサシテ》(二七四七)とあるのと同所か。然らば近江。略解には讃岐説が出てゐるが、次に安治可麻能可家能水奈刀《アヂカマノカケノミナト》(三五五三)とある。やはり東國地方か。左久奈美《サクナミ》は開く浪。波頭の白く見えるのをいふ。卷六に四良名美乃五十開回有住吉能濱《シラナミノイサキメグレルスミノエノハマ》(九三一)・卷二十に宇奈波良乃宇倍爾奈美那佐伎曾禰《ウナバラノウヘニナミナサキソネ》(四三三五)とある。ここまでは結句に述べてある可奈思家《カナシケ》の形容であらう。○比良湍爾母《ヒラセニモ》――比良湍《ヒラセ》は平湍。穩やかに浪立ぬ瀬。卷十九に叔羅河奈津左比泝平瀬爾波左泥刺渡《シクラガハナヅサヒノボリヒラセニハサデサシワタシ(四一八九)とある。平凡な男に譬へたのであらう。○加奈思家乎於吉?《カナシケヲオキテ》――可愛い男をさし置いて。
〔評〕 上に左久奈美《サクナミ》と言つて下に比毛登久《ヒモトク》と應じたのは、古今集に「百くさの花の紐とく秋の野に」とあるのを思ひ出させる。作者に「波の花咲く」「花の紐解く」といふやうな觀念があつたかどうかわからないが、かうした暗喩的の叙法が、おのづからかういふ言葉の連絡を作らしめたものであらう。男に誓ふ女の歌。寄波戀。
 
3552 松が浦に さわゑうらだち 眞ひと言 思ほすなもろ あが思ほのすも
 
麻都我宇良爾《マツガウラニ》 佐和惠宇良太知《サワヱウラダチ》 麻比等其等《マヒトゴト》 於毛抱須奈母呂《オモホスナモロ》 和賀母抱乃須毛《ワガモホノスモ》
 
松ガ浦ニ浪ガ〔二字傍線〕騷イデ高ク立ツヤウニ、人ノ噂ガ多イノ〔四字傍線〕ヲ、私ガ思フヤウニ責方ハ〔三字傍線〕宰ク思シ召スデセウヨ。
 
○麻都我宇良爾《マツガウラニ》――麻都我字良《マツガウラ》は所在不明。松が浦島、即ち今の陸前の松島か。○佐和惠宇良太知《サワヱウラダチ》――佐和惠《サワヱ》は騷に同じ。潮左爲《シホサヰ》(四二)のサヰ、狹藍左謂沈《サヰサヰシヅミ》(五〇三)・佐惠佐惠之豆美《サヱザヱシヅミ》(三四八一)のサヰ・サヱも同じであらう。宇(503)良太知《ウラダチ》は末立《ウラダチ》で、波の穂の立つことであらう。宇を牟に改めて群立《ムラタチ》と解するのは從ひ難い。○麻比等其等《マヒトゴト》――マは接頭語で、人言、即ち人の噂。新考には今一言《イマヒトコト》の意としてゐる。○於毛抱須奈母呂《オモホスナモロ》――思ほすならむよの意。ナモはラムに同じ。○和賀母抱乃須毛《ワガモホノスモ》――吾が思ふなすも、私が思ふやうにも。ノスは如《ナス》。
〔評〕 これも少し難解である。初二句は暗喩で、吾が地方の松が浦に立つ波を、人の口の喧しさに喩へてゐる。三句から下へのつづきに、多少の無理がないではないが、辛くといふやうな意を補つて見ればよいのであらう。初句と二句とにウラの音を繰返してゐる。全體的に東歌らしい作である、寄浦戀。
 
3553 味鎌の 可家の湊に 入る潮の こてたすくもか 入りて寢まくも
 
安治可麻能《アヂカマノ》 可家能水奈刀爾《カケノミナトニ》 伊流思保乃《イルシホノ》 許?多受久毛可《コテタスクモカ》 伊里?禰麻久母《イリテネマクモ》
 
女ト私トノ關係ニツイテ〔十一字傍線〕、人ノ噂ガ喧シイダラウカ。私ハ女ノ家ニ〔六字傍線〕(安治可麻能可家能水奈刀爾伊流思保乃)入ツテ寢タイヨ。噂モ嫌ダシ、寢タクモアリ、因ツタモノダ〔噂モ〜傍線〕。
 
○安治可麻能可家能水奈刀爾伊流思保乃《アヂカマノカケノミナトニイルシホノ》――味鎌の可家の湊は所在不明。入る潮のまでは序詞。句を距てて伊里?《イリテ》につづいてゐる。○許?多受久毛可《コテタズクモカ》――この儘では解し難い。考に受を氣の誤としたのに從つて、コテタケクモカは言猛くもか、即ち人の口がこちたく喧ましいのかの意としたい。かう解すれば入潮のこちたしとつづくものとも見られるが、なほ結句の入りてにつづくと考ふべきであらう。○伊里?禰麻久母《イリテネマクモ》――入りて寢まくも。入つて寢たいよ。元暦校本は禰を許に作つてゐる。然らば入りて來まくもである。
〔評〕 第四句の爲に少し難解になつてゐるが、他は明瞭である。海岸に住む人らしい地方色があらはれてゐる。寄潮戀。
 
3554 妹が寢る 床のあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りて寢まくも
 
(504)伊毛我奴流《イモガヌル》 等許乃安多理爾《トコノアタリニ》 伊波具久留《イハグクル》 水都爾母我毛與《ミズニモガモヨ》 伊里?禰末久毛《イリテネマクモ》
 
私ハ〔二字傍線〕岩ノ下ヲ〔三字傍線〕潜ル水デアリタイモノダヨ。サウシタナラバ〔七字傍線〕妻ガ寢テヰル床ノアタリニ、潜リ込ンデ寢ヨウヨ。
 
○伊波具久留《イハグクル》――具久留《グクル》は略解に「潜るを古く清音に唱へたりと見ゆ。されば岩ぐくると上より言ひ下す故に、上を濁れり。具久は久具の下上になれる也とおもふはかへりて非也、谷具久など同じ例也」とあるやうに潜るの意である。
〔評〕 古義に 三四一二五と句を次第て意得べし」とあるやうにすれば、意は明らかで平易な歌である。かなり露骨な野鄙な作である。寄水戀。
 
3555 麻久良我の 許我の渡の から楫の 音高しもな 寢無へ兒故に
 
麻久良我乃《マクラガノ》 許我能和多利乃《コガノワタリノ》 可良加治乃《カラカヂノ》 於登太可思母奈《オトタカシモナ》 宿莫敝兒由惠爾《ネナヘコユヱニ》
 
アノ女ハ私ト〔六字傍線〕寢モシナイ女ダノニ、共寢デモシタヤウニ私ハ〔共寢〜傍線〕(麻久良我乃許我能和多利乃可良加治乃)評判ガ高イヨ。困ツタコトダ〔六字傍線〕。
 
○麻久良我乃許我龍和多利乃《マクラガノコガノワタリノ》――麻久良我の許我の渡は何處か。許我を今の下總の古河とするならば、利根河の渡である、前の麻久艮我欲《マクラガヨ》(三四四九)參照。○可良加治乃《カラカヂノ》――可良加治《カラカヂ》は唐※[楫+戈]。中世以後|唐櫓《カラロ》といふも同じであらう。當時既に外國風の※[楫+戈]が地方にも用ゐられてゐたのである。古義に柄※[楫+戈]《カラカヂ》としたのはよくない。ここまでの三句は音《オト》と言はむ爲の序詞のみ。○於登太可思母奈《オトタカシモナ》――音が高いよなあの意。○宿莫敝兒由惠爾《ネナヘコユヱニ》――共寢しない女だのに。
 
(505)〔評〕 鮮明な作だ。卷十一の木海之名高之浦爾依浪音高鳧不相子故爾《キノウミノナタカノウラニヨスルナミオトタカキカモアハヌコユヱニ》(二七三〇)とよく似てゐる。寄渡戀。
 
3556 鹽船の 置かれば悲し さ寢つれば 人言しげし 汝をどかもしむ
 
思保夫禰能《シホブネノ》 於可禮婆可奈之《オカレバカナシ》 左宿都禮婆《サネツレバ》 比登其等思氣志《ヒトゴトシゲシ》 那乎杼可母思武《ナヲドカモシム》
 
女ヲ連レナイデ〔七字傍線〕(思保夫禰能)ソノママニ置ケバ悲シイ。ソレカト云ツテ〔七字傍線〕、共寢ヲスルト人ノ評判ガ高イ。私ハ〔二字傍線〕オマヘヲ何トシタモノデアラウカ。何トモシヤウガナイ。困ツタモノダ〔何トモ〜傍線〕。
 
○思保夫禰能《シホブネノ》――枕詞。置くとつづく、潮に浮ぶべき舟を、徒らに海濱の砂などに並べ置く意である。考に浮去る意といひ、略解に敷衍して、於は宇に通じ浮かればと解いてゐるのはよくない。○於可禮婆可奈之《オカレバカナシ》――女をそのままに置いて、共寢せねば悲しいといふのである。略解にうかれつゝよそにして在は悲し」とあるはよくない。○那乎杼可母思武《ナヲドカモシム》――汝を何《ド》かも爲む。汝をどうしようか。何ともしやうがないといふのである。
〔評〕 人の噂を恐れる歌。とやせむかくやあらむと迷ふ心が、よく詠まれてゐる。寄船戀。
 
3557 惱ましけ 人妻かもよ 漕ぐ舟の 忘れはせなな 彌思増すに
 
奈夜麻思家《ナヤマシケ》 比登都麻可母與《ヒトツマカモヨ》 許具布禰能《コグフネノ》 和須禮婆勢奈那《ワスレハセナナ》 伊夜母比麻須爾《イヤモヒマスニ》
 
私ノ心ヲ〔四字傍線〕苦シメル人妻ダヨ。(許具布禰能〕忘レルコトハ出來ナイデ、イヨイヨ思ガ増スノニ。困ツタモノダ〔六字傍線〕。
 
○奈夜麻思家《ナヤマシケ》――惱ましき。○許具布禰能《コブフネノ》――枕詞として次句へつづいてゐる。漕ぐ舟の中にあつては、寸時も船中にあることを忘れ得ないからであらう。宣長がこぐ舟のから、惱ましきにつづくとし、古義もこれに賛同してゐるのは妄斷である。その他諸説があるがいづれも從ひ杜い。右のやうに見れば無理がないやうである。(506)○和須禮婆勢奈那《ワスレハセナナ》――忘れはしないでの意。前に爾比多夜麻禰爾波都可奈那《ニヒタヤマネニハツカナナ》(三四〇八)とある。○伊夜母比麻須爾《イヤモヒマスニ》――彌々思増すに。益々思が増すのにの意。
〔評〕 人妻を思ふ苦しさ、忘れむとして忘れられず、彌増に募る思に困惑してゐる。舟を持つて來たのは、舟に乘つて旅に上る時の歌とも見られさうであるが、さうではない。考にこれを人妻が舟にて別れ行く時、男の悲しみよめる歌とし、次を女の男に送つたものとしてゐるのは從ひ難い。寄船戀。
 
3558 逢はずして 行かば惜しけむ 麻久良我の 許賀漕ぐ船に 君も逢はぬかも
 
安波受之?《アハズシテ》 由加婆乎思家牟《ユカバヲシケム》 麻久良我能《マクラガノ》 許賀己具布禰爾《コガコグフネニ》 伎美毛安波奴可毛《キミモアハヌカモ》
 
私ハ今麻久良我ノ許賀ヲ漕グ舟ニ乘ツテ行クガ、アナタニ〔私ハ〜傍線〕會ハナイデ行クナラバ、口惜シイデアラウ。コノ麻久良我ノ許賀ヲ漕イデヰル舟デ、アナタニ會ハナイカヨ。ソレトナク途中デ逢ヒタイモノダ〔ソレ〜傍線〕。
 
○麻久良我能許賀己具布禰爾《マクラガノコガコグフネニ》――麻久良我の許我は前に許我能和多利乃《コガノワタリノ》(三五五五)とあつて舟で渡るところである。布禰爾《フネニ》は舟で。○伎美毛安波奴可毛《キミモアハヌカモ》――君にも逢はないかよ。逢ひたいものだといふのである。伎美毛《キミモ》は君ニを強く言へるのみ。卷七に青角髪依網原人相鴨《アヲミヅラヨサミノハラニヒトモアハヌカモ》(一二八七)とある、
〔評〕 舟で旅に出る男の歌。伎美《キミ》は女を指してゐる。女と別を惜しまうと思つたが、遂に逢へなかつたから、せめて船中からでも女を見ることが出來ればよいと希望してゐる。用語は東歌特有のものはない。寄船戀。
 
3559 大船を 舳ゆも艫ゆも 堅めてし 許曾の里人 あらはさめかも
 
於保夫禰乎《オホブネヲ》 倍由毛登毛由毛《ヘユモトモユモ》 可多米提之《カタメテシ》 許曾能左刀妣等《コソノサトビト》 阿良波左米可母《アラハサメカモ》
 
(507)(於保夫禰乎於倍由毛登毛由毛)堅ク約束ヲシテ、人ニ漏ラサヌト言ツ〔テ人〜傍線〕タアノ許曾ノ里ノ人ハ、約束通リ二人ノ關係ヲ〔約束〜傍線〕人ニ言フ筈ハナイ。ダカラ私ハ安心シテヰル〔ダカ〜傍線〕。
 
○於保夫禰乎倍由毛登毛由毛《オホブネヲヘユモトモユモ》――大船を舳からも艫からも、動かぬやうに綱で結び堅める意で、可多米《カタメ》につづく序詞。考に船はともへの堅めを專らとして作る」といつたのは見當違ひである。○可多米提之《カタメテシ》――口堅めをした。○許曾能左刀妣等《コソノサトビト》――許曾は地名であらう。所在不明。○阿良波左米可母《アラハサメカモ》――人に洩らさむや、洩らしはすまいといふ意。
〔評〕 許曾の里の女に通ふ男の歌であらう。港内碇泊の大船を以て序詞を作つたのは海國民として愉快な材料である。寄船戀。
 
3560 眞金ふく 丹生のまそほの 色に出て 言はなくのみぞ 吾が戀ふらくは
 
麻可禰布久《マガネフク》 爾布能麻曾保乃《ニフノマソホノ》 伊呂爾低?《イロニデテ》 伊波奈久能未曾《イハナクノミゾ》 安我古布良久波《アガコフラクハ》
 
私ガアナタヲ思ツテヰルコトハ(麻可禰布久爾布能麻曾保乃)顔色ニ出シテ言ハナイダケノコトデスゾ。胸ノ内ヲ察シテ下サイ〔十字傍点〕。
 
○麻可禰布久爾布能麻曾保乃《マガネフクニフノマソホノ》――眞金吹く丹生の山の赤土。眞金は鐡。吹くは吹き分けて鑄ること。丹生は所々にある地名だが、本集では大和吉野・越前などのが見える。併しこれは東國であらう。和名抄に、「上野國甘樂郡丹生」とあるから其處ではあるまいかと言はれてゐる、今、丹生村は、北甘樂郡の中央にある。大日本地名辭書にはこの地に鐡を出した傳説はないが、二里を距てた小坂山に鐵鑛を出すから鑛脈が續いてゐて、古代には鐡を吹いたのであらうといつてゐる、上野歌解には「今も丹生の里に下鍛冶屋と云所ありと云り」とある。マソホのマは接頭語。ソホは赤色の土。卷十六の佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)のマソホと同じ。丹生の地名はマソ(508)ホを産するに起つたのであらう、以上の二句は伊呂爾低?《イロニデテ》と言はむ爲の序詞。
〔評〕 初ニ句は古今集の「ま金ふく吉備の中山帶にせる細谷川の音のさやけさ」の先驅をなしてゐる。三句以下は集中に多い内容である。全體的に見て東歌らしい感じが乏しい。七十一番職人歌合に「あぢきなや丹生の御山に堀る金のみづから人に思ひ入りぬる」とあるのはこの歌を本としたもので、金は水銀らしい。併しこの歌合によつて、右の眞金を水銀とするのは早計である。前の歌で水に關するものに寄せた歌が終つてゐる。これは寄赤土戀。
 
3561 金門田を あらがきまゆみ 日がとれば 雨を待とのす 君をと待とも
 
可奈刀田乎《カナトダヲ》 安良我伎麻由美《アラガキマユミ》 比賀刀禮婆《ヒガトレバ》 阿米乎萬刀能須《アメヲマトノス》 伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》
 
門ノ前ノ田ヲ、春ノ始ニ〔四字傍線〕荒掻キヲシテナラシタ後〔五字傍線〕、田ガ干割レテ日ガ照ルト、雨ノ降ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツヤウニ、私ハ〔二字傍線〕アナタノオイデ〔四字傍線〕ヲト思ツテ〔三字傍線〕待ツテヰルヨ。
 
○可奈刀田乎《カナトダヲ》――金門田を、可奈刀《カナト》は門。門前の田を。○安良我伎麻由美《アラガキマユミ》――わからない句だ。從つて説がいろいろ分れてゐる。代匪記は初句を舊訓のままに金門出《カナトデ》とよみ、後朝のわかれの門出を、荒垣の間から見るのだといつてゐるのは論外だ。考は由美を加幾の誤とし、田は春から高鍬でかき平らすのが荒がきで、次に苗を植ゑる時に鋤くのが、こながきとも眞掻《マガキ》ともいふのだと言つてゐる。略解に掲げた大平説には、マユミはマユムといふ動詞で、地の干割れることをいふ。今伊勢の方言でマフといふのがその語の殘つてゐるのらしいとある。新考に荒掻眞掻眞忌の略とし、新訓は新掻き間ゆ見」と記してある。この他、略解には荒木の眞弓で、次句へ引くとつづけてあると見る説も載せてゐるが、荒木の弓を安良我伎《アラガキ》の弓とはいふまじく、又次句はヒガであるから、弓からはつづきさうもない。暫く大平説に從つて置かう。なほ研究を要する。○比賀刀禮婆《ヒガトレバ》――日が照れば。(509)○阿米乎萬刀能須《アメヲマトノス》――雨を待つ如く。○伎美乎等麻刀母《キミヲトマトモ》――君をと待つも。君をと思つて待つてゐるよの意。等は考・略解にラとよんでゐる。併しこの卷の用字法では、ラではないやうである。
〔評〕 二句が難解であるが、大旱の田に雨を待つ如く、君を待つといふ意には相違ない。農民の女が男を待つ歌である。寄田戀。
 
3562 荒磯やに 生ふる玉藻の うち靡き 一人や寢らむ 吾を待ちかねて
 
安里蘇夜爾《アリソヤニ》 於布流多麻母乃《オフルタマモノ》 宇知奈婢伎《ウチナビキ》 比登里夜宿良牟《ヒトリヤヌラム》 安乎麻知可禰?《アヲマチカネテ》
 
(安里蘇夜爾於布流多麻母乃)長々ト〔三字傍線〕靡イテ、身ヲ横ニシテアノ女ハ〔十字傍線〕私ノ來ルノヲ待チカネテ、一人デ寢テヰルデアラウカ。私モ行カレヌノハ殘念ダ〔私モ〜傍線〕。
 
○安里蘇夜爾《アリソヤニ》――考に夜は麻の誤で、アリソマニだと言つてゐる。宣長は夜は沼の誤とし、古義は夜を敝《ヘ》に改め、新考は美《ミ》の誤としてゐる。いづれとも定め難いが、アリソミとあらば最も無難である。ともかく意は荒磯のほとりにである。或はヤは唯添へたものかも知れない。○於布流多麻母乃《オフルタマモノ》――生ふる玉藻の。ここまでは打靡きの序詞。
〔評〕 初二句の序詞は、集中に屡々用ゐられた内容であるが、女のなよやかな獨寢の樣を思はしめるやうに詠まれてゐる。障ることがあつて、女の許へ通ひ得ない男の歌であらう。東歌らしい特色がない。寄藻戀。
 
3563 比多潟の 磯の若布の 立ち亂え 吾をか待つなも きぞも今夜も
 
比多我多能《ヒタガタノ》 伊蘇乃和可米乃《イソノワカメノ》 多知美多要《タチミダエ》 和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》 伎曾毛己余必母《キゾモコヨヒモ》
 
(510)アノ女ハ〔四字傍線〕(比多我多能伊蘇能乃和可米乃)思ガ亂レテ、昨夜モ今夜モ、私ノ來ルノ〔四字傍線〕ヲ待ツテヰルダラウヨ。可愛サウニ〔五字傍線〕。
 
○比多我多能《ヒタガタノ》――比多我多《ヒタガタ》は地名で、比多潟であらう。所在不明。○伊蘇乃和可米乃《イソノワカメノ》――ここまでは序詞。若布の波に亂れるのにつづけてある。○多知美多要《タチミダエ》――立ち亂れ。立ちは接頭語。女が心を亂すことを言つてゐる。○和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》――ナモはラムと同じで、我をか待つらむの意。
〔評〕 前の歌と同じやうな序詞であるが、波に揉まれる若布から、立ち亂えとつづけたのはこの方が面白い。全躰の意味も前と似てゐる。但しこれは前よりも用語は東歌らしい。寄藻戀。
 
3564 小菅ろの 浦吹く風の あどすすか かなしけ兒ろを 思ひすごさむ
 
古須氣呂乃《コスゲロノ》 宇良布久可是能《ウラフクカゼノ》 安騰須酒香《アドススカ》 可奈之家兒呂乎《カナシケコロヲ》 於毛比須吾左牟《オモヒスゴサム》
 
私ハ〔二字傍線〕愛スル女ヲ、何トシテ、(古須氣呂乃宇良布久可是能)思ハズニヰヨウカ。戀シクテ仕方ガナイカラ、何トカシテ忘レタイモノダ〔戀シ〜傍線〕。
 
○古須氣呂乃宇良布久可是能《コスゲロノウラフクカゼノ》――ロは例の添辭であるから、古須氣呂乃宇良《コスゲロノウラ》は小菅の浦である。考に「武藏と下總のあはひの葛飾郡に小菅てふ所今ありて、今は里中なれど、此邊古へ隅田川といひしあたりにて本は浦べなりけり。然ればここをいふならむ」とあるが、さうとも定め難い。小菅は今、堀切の北、千住の東に當つてゐる この二句は句を距てて、五句の須吾左牟《スゴサム》にかかつてゐる。風の吹き過ぎる意でつづくのであらう。○安騰須酒香《アドススカ》――何と爲《シ》つつか。ススはシシ。今の言葉で、何としいしいといふに當るであらう。○於毛比須吾左牟《オモヒスゴサム》――思ひ過すは思はずにゐること。
(511)〔評〕 あまりの戀の苦しさに、忘れようとして悶え苦しむ男の心。句の順序を四三一二五と置き換へて見ると明瞭になる。前に風に寄せたものがあつたのに、ここに復出したのは、後から追加したか。寄風戀。
 
3565 かの兒ろと 宿ずやなりなむ はた薄 浦野の山に 月片寄るも
 
可能古呂等《カノコロト》 宿受屋奈里奈牟《ネズヤナリナム》 波太須酒伎《ハタススキ》 宇良野乃夜麻爾《ウラヌノヤマニ》 都久可多與留母《ツクカタヨルモ》
 
私ハ女ニ逢ヒニ此處マデ來タガ、女ハ出テ來ナイデ、早クモ〔私ハ〜傍線〕(波太須酒伎)宇良野ノ山ニ月ガ傾イテヰルヨ。コレデハアノ女ト今夜ハ〔三字傍線〕寢ズニシマフデアラウカ。
 
○可能古呂等《カノコ。ト》――彼の女と。○宿受屋奈里奈牟《ネズヤナリナム》――舊本、屋とあるが、類聚古巣・西本願寺本など夜とあるのがよい。寢ずにしまほうか。○波太須酒伎《ハタススキ》――枕詞。旗薄の穗をウラと言ひかけたのであらう。旗薄の茂つてゐる宇良野の山と見るのは、無理ではあるまいか。○宇艮野乃夜麻爾《ウラヌノヤマニ》――家の背後にある野につづく山と見られぬこともあるまいが、やはり穩やかでない。延喜式に信濃浦野驛が見えてゐるから、多分其處であらう。今、小縣郡に浦野町がある。上田市と松本市との中間である。○都久可多與留母《ツクカタヨルモ》――ツクは月。可多與留《カタヨル》は片寄る。月が傾くよの意。
〔評〕 女の家へ行つて、戸外に佇む男が、女からの合圖もなき内に、早くも浦野の山に傾いた月を眺めて、空しく歸らねばならぬかと危ぶんだのである。寂しさ、ぢれつたさが、明朗な調子で歌はれて、渾然たる作となつてゐる。寄月戀。
 
3566 吾妹子に 吾が戀ひ死なば そわへかも かみに負せむ 心知らずて
 
和伎毛古爾《ワギモコニ》 安我古非思奈婆《アガコヒシナバ》 曾和敝可毛《ソワヘカモ》 加米爾於保世牟《カミニオホセム》 己許呂思良受?《ココロシラズテ》
 
(512)私ガ〔二字傍線〕私ノ戀シイ女ニ焦死シタナラバ、私ノ〔二字傍線〕心ヲ知ラナイデ、世間ノ人ハ〔五字傍線〕喧シク神樣ノ崇リダト云フデアラウ。エエ殘念ナ〔五字傍線〕。
 
○曾和敝可毛《ソワヘカモ》――代匠記は五月蠅かもと解し、五月蠅なす神と下につづくとしてゐる。考は敝を古本に惠とあるのがよいと言つて、ソバヱはサワヱと同じく騷ぐことと解してゐる。校本萬葉集には惠に作る古本を擧げてゐない。古義は和惠は故遠の誤でソコヲカモと訓むべしと言つてゐる。文字を改めずに考へるとソワヘはソバヘの東語であらうと思はれる。ソバフといふ動詞は枕草子などにも見えて、あまえふざけることである。後世ではソバエ・ソバユとなり今も方言として行はれてゐる。○加米爾於保世牟《カミニオホセム》――舊本、米とあるは未の誤であらう。西本願寺本・神田本など未に作つてゐる。但しもとのままで加米《カメ》は神《カミ》の東語と見られないことはない。神に負せむは神の崇りとするであらうの意。○己許呂思良受?《ココロシラズテ》――心は事情といふやうな意味にも解せられるが、なほ吾が心と見るべきであらう。
〔評〕 戀故の死は厭はねど、後に神罰で死んだと言はれるのを恐れた男の歌。伊勢物語に「人しれす吾が戀死なばあぢきなくいづれの神になき名負せむ」とあるのは、これから脱化したものらしい。寄神戀。
 
防人歌
 
3567 置きて行かば 妹はまがなし 持ちて行く 梓の弓の 弓束にもがも
 
於伎?伊可婆《オキテイカバ》 伊毛婆摩可奈之《イモハマガナシ》 母知?由久《モチテユク》 安都佐能由美乃《アヅサノユミノ》 由都可爾毛我毛《ユツカニモガモ》
 
私ハ妻ヲ家ニ〔六字傍線〕殘シテ行ケバ、妻ガ戀シク思ハレル。ダカラ妻ハ私ガ今〔八字傍線〕持ツテ行ク梓弓ノ弓束デアレバヨイガ、(513)サウシタラ離サズニヰルコトガ出來ルダラウニ〔サウ〜傍線〕。
 
○伊毛婆摩可奈之《イモハマカナシ》――妹は眞愛《マカナ》し。マガナシは愛《カナ》しといふ形容詞に、接頭語のマを添へたものである。○由都可爾母我毛《ユツカニモガモ》――由都可《ユツカ》は弓束。弓の握革のところ。
〔評〕 防人に出て立たむとする男の歌。こまやかな愛情。防人らしい口吻。妻を弓束として絶えず振りしめて行きたいといふ心根がいとしい。
 
3568 おくれ居て 戀ひば苦しも 朝狩の 君が弓にも ならましものを
 
於久禮爲?《オクレヰテ》 古非波久流思母《コヒバクルシモ》 安佐我里能《アサガリノ》 伎美我由美爾母《キミガユミニモ》 奈良麻思物能乎《ナラマシモノヲ》
 
アナタガ御出カケニナツタ後デ〔アナ〜傍線〕、後ニ殘ツテアナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ツテヰルノハ苦シイデスヨ。デスカラ私ハ〔六字傍線〕、朝獵ニ持ツテイラツシヤル〔八字傍線〕、アナタノ弓ニモナリタウゴザイマスヨ。サウシタライツデモ御手ニトラレテヰテ、嬉シイデセウ〔サウ〜傍線〕。
 
○安佐我里能《アサガリノ》――朝獵に用ゐる。
〔評〕 防人として出立する男に答へた女の歌としては、朝獵とあるのがをかしい。これは恣に編者が問答に組合せたもので、防人の妻の歌ではないのである。
 
右二首問答
 
この二首の問答の疑はしいことは右に述べた通りである。
 
3569 防人に 立ちし朝けの 金門出に 手放れ惜しみ 泣きし兒らはも
 
(514)佐伎母理爾《サキモリニ》 多知之安佐氣乃《タチシアサケノ》 可奈刀低爾《カナトデニ》 手婆奈禮乎思美《テバナレヲシミ》 奈吉思兒良婆母《ナキシコラハモ》
 
私ガ〔二字傍線〕防人ニナツテ出カケテ來タ朝ノ門出ノ時ニ、取リ合ツタ〔五字傍線〕手ヲ離シテ、別レルノガ名殘惜シクテ泣イタ女ヨ。アノ女ハドウシテヰルダラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○可奈刀低爾《カナトデニ》――可奈刀低《カナトデ》は金門出。門出《カドデ》に同じ。○手婆奈禮乎思美《テバナレヲシミ》――手婆奈禮《テバナレ》は手離。手を別つこと。
〔評〕 防人に出立たうとする朝、別を悲しんで見送つて來た妻との間に、二人の手は堅く堅く握りかはされてゐた。併しもう村はづれも遠くなつた。さあ別れようと手を難さうとする妻は、唯涙であつた。嗚呼あのいとしい姿が、今もなほ眼底に深く燒き付けられて殘つてゐる。追憶の人も亦涙。その涙に口吟んだ饗の悲しさよ。
 
3570 葦の葉に 夕霧立ちて 鴨が音の 寒き夕べし 汝をばしぬばむ
 
安之能葉爾《アシノハニ》 由布宜利多知?《ユフギリタチテ》 可母我鳴乃《カモガネノ》 佐牟伎由布敝思《サムキユフベシ》 奈乎波思奴波牟《ナヲバシヌバム》
 
私ハ今カラ旅ニ出ルガ〔私ハ〜傍線〕、蘆ノ葉ニ夕霧ガカカツテ、鴨ノ鳴ク聲ガ寒イ夕方ニハ、オ前ヲ思ヒ出スデアラウ。
 
○奈乎波思奴波牟《ナヲバシヌバム》――汝をば偲ばむ。おまへを思ひ出さう。
〔評〕 芦の葉に夕霧が立ちこめた難波あたりの海邊に、鴨の鳴く音が寒く聞える時を想像して、戀しい女を思ひ出すであらうと詠んだもの。出立に際しての作であらう。温雅・優麗。東歌とは思はれぬ作品である。卷一の志貴皇子御歌、葦邊行鴨之羽我比爾霜零而寒暮夕和之所念《アシベユクカモノハガヒニシモフリテサムキユフベハヤマトシオモホユ》(六四)と歌品が似てゐる。
 
(515)3571 おの妻を ひとの里に置き おほほしく 見つつぞ來ぬる この道の間
 
於能豆麻乎《オノヅマヲ》 比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》 於保保思久《オホホシク》 見都都曾伎奴流《ミツツゾキヌル》 許能美知乃安比太《コノミチノアヒダ》
 
私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ヲ他ノ里ニ殘シテオイテ、不安ニ思ヒツツ、妻ノヰル里ヲ他所ニ〔九字傍線〕見ナガラ、コノ道ノ間ヲ歩イテ來夕ヨ。妻ト別ヲ惜シムコトガ出來ナカツタノハ悲シイ〔妻ト〜傍線〕。
 
○於能豆麻乎《オノヅマヲ》――己が妻を。於能豆麻《オノヅマ》は自妻《オノヅマ》(五四六)己妻《オノヅマ》(一一六五)など例が多い。○比登乃左刀爾於吉《ヒトノサトニオキ》――他の里に置いて、古義に「實は吾が家に留置く事なれど自は地をかへて筑紫へ下る故に、わざと他(ノ)里と云るにやあらむ」とあるのは當つてゐまい。○見都都曾伎奴流《ミソツゾキヌル》――外ながらその里を見つつ來たといふのである。
〔評〕 戀しい妻ながら、吾が家に共に住んでゐたのではなく、女は離れた里に置かれてあつた。だから出立に際して、充分に別を惜しむことも出來ず、唯女の住む里の方を外ながら見て、此處まで歩いて來たといふので、措辭が上品で洗練せられ、東歌らしい感じがしない。なほ内容から見て、必ずしも防人の作とは言はれない。
 
譬喩歌
 
考は「ここに譬喩歌としるせしも後なり。只その類を並べ擧たるのみ」と記してゐる。譬喩歌といふべきものは前にもあつたが、ここには全體的に譬喩になつたものだけを擧げてゐる。
 
3572 あど思へか 阿自久麻山の ゆづる葉の ふふまる時に 風吹かずかも
 
安杼毛敝可《アドモヘカ》 阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》 由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》
 
(516)阿自久麻山ノ由豆流葉ガマダ開カナイデヰル時ニ、ドウシテ風ガ吹カナイコトガアラウカ。タトヒ女ハマダ年ガ若クトモ、私ガ言ヒ寄ルニ差ツカヘハナイ筈ダ〔タト〜傍線〕。
 
○安杼毛敝可《アドモヘカ》――何と思へばか。思《モ》へは輕く添へたもので、何とてかの意。○阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》――阿自久麻山は所在不明。大日本地名辭書には、常陸筑波郡小田村平澤の條に「其地は北條町の東に隣接したり。其北嶺は、神郡の子飼山なり。古の阿自久麻山か」としてこの歌を引いてゐる、八雲御抄には攝津とある。○由豆流波乃《ユヅルハノ》――由豆流波《ユヅルハ》は今のユヅリハ。交讓木。正月の飾に用ゐるので人のよく知る常緑濶葉樹である。卷二に弓絃葉乃三井《ユヅルハノミヰ》(一一一)とあるのも、この樹が生えてゐたのであらう。少女を弓弦葉の樹に譬へてある。○布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》――含まる時に。ゆづり葉の木の若芽がまだ開かない時に。女の年若きに譬へてある。○可是布可受可母《カゼフカズカモ》――風が吹かないであらうか、必ず吹くであらうの意。自分が女に言ひ寄るに譬へてある。
〔評〕 ゆづる葉の木を若い少女に譬へた諷諭の歌。種々の解があるが、右のやうに見て始めて明瞭である。譬喩自然にして巧妙。
 
3573 足引の 山かつらかげ 眞柴にも 得がたきかげを 置きや枯らさむ
 
安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻可都良加氣《ヤマカツラカゲ》 麻之波爾母《マシバニモ》 衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》 於吉夜可良佐武《オキヤカラサム》
 
(安之比奇能)山ノ日蔭ノ蘿ハ、サウ〔二字傍線〕屡々タヤスクハ〔五字傍線〕得難イ蘿ダノニ、ソレヲ空シク取ラズニ〔十字傍線〕置イテ枯ラサウカ。ソレハ惜シイコトダ。容易ニ得ラレナイ美シイ女ヲ、ソノ儘ニシテ、手ニ入レズニ置クノハ惜シイコトダ〔ソレ〜傍線〕。
 
○夜麻可都艮加氣《ヤマカツラカゲ》――日かげのかづらのこと。○麻之波爾母《マバシニモ》――マは接頭語。屡々も。宣長は今のシハキと同(517)語で、惜しむこと。即ち少しもの意となるやうに見てゐる。○衣可多伎可氣乎《エガタキカゲヲ》――得難き蘿《カゲ》をの意。類聚古集西本願寺本など、上の可を我に作つてゐるのがよいであらう。
〔評〕 手に入れ難い少女を日蔭のかづらに譬へて、どうかして吾が物にしたいと望んでゐる歌。日かげのかづらをつけた、巫女などを戀したものとも見られないことはない。
 
3574 小里なる 花橘を 引き攀ぢて 折らむとすれど うら若みこそ
 
乎佐刀奈流《ヲサトナル》 波奈多知波奈乎《ハナタチバナヲ》 比伎余知?《ヒキヨヂテ》 乎良無登須禮杼《ヲラムトスレド》 宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》
 
里ノ花橘ノ木ヲ引キ寄セテ折ラウトスルケレドモ、アマリ若イノデ、折ルニモ折ラレナイヨ。女ガアマリ年ガ若イノデ、吾ガモノトスルコトガ出來ナイ〔折ル〜傍線〕。
 
○乎佐刀奈流《ヲサトナル》――乎佐刀《ヲサト》は小里。ヲは接頭語のみ。地名とするのは當らない。卷十九に天地爾足之照而吾大皇之伎座婆可母樂伎小里《アメツチニタラハシテリワガオホキミシキマセバカモタヌシキヲサト》(四二七二)とある。○比伎余知?《ヒキヨヂテ》――引攀ぢて。攀づも引寄せること、一四六一の左註參照。○宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》――うら若みこそあれといふのを略してゐる。未だうら若いから折らずにゐるのだの意。
〔評〕 少女を花橘に譬へてある。あまりの年若さに、まだ戀の相手にならぬといふのである、東歌らしい香がない。
 
3575 美夜自呂の 岡邊に立てる 貌が花 な吹き出でそね こめてしぬばむ
 
美夜自呂乃《ミヤジロノ》 緒可敝爾多底流《ヲカベニタテル》 可保我波奈《カホガハナ》 莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》 許米?思努波武《コメテシヌバム》
 
美夜自呂ノ岡ノホトリニ立ツテヰル貌花ヨ。色ニ〔二字傍線〕咲キ出ルナヨ。人ニ〔二字傍線〕隱レテナツカシガツテヰヨウ。美シイ女(518)ヨ。二人ノ戀ヲ顔色ニ出スナヨ。心ノ中ニ隱シテ慕ツテ居ラウ〔美シ〜傍線〕。
 
○美夜自呂乃緒可敝爾多?流《ミヤジロノヲカベニタテル》――美夜自呂の岡は何處ともわからない。若狭・美濃・岩代などに宮代があり、信濃に宮城がある。緒は須又は渚に作る本もあるが、スではわからない。○可保我波奈《カホガハナ》――貌が花。容花と同じであらう。容花は晝顔か。容花《カホバナ》(一六三〇)參照。○莫佐吉伊低曾禰《ナサキイデソネ》――咲き出でるなよ。○許米?思怒波武《コメテシヌバム》――許米?《コメテ》は籠めて、隱して。シヌブはなつかしく思ふ。
〔評〕 美しい女を容花に譬へて、人に隱し秘して、二人の間を人に悟られるなかれといふので、これも諷諭になつてゐる。可保我波奈《カホガハナ》は顔の美しい女を譬へるに適してゐる。これも東歌の氣分が薄い。袖中抄に出てゐる。
 
3576 苗代の 子水葱が花を 衣に摺り 馴るるまにまに あぜか悲しけ
 
奈波之呂乃《ナハシロノ》 古奈伎我波奈乎《コナギガハナヲ》 伎奴爾須里《キヌニスリ》 奈流留麻爾末仁《ナルルマニマニ》 安是可加奈思家《アゼカカナシケ》
 
苗代ニ生エテヰル小水葱ノ花ヲ着物ニ摺ツテ、染メテ、ソレヲ着〔七字傍線〕慣レルノニツレテ、ドウシテナツカシイノデアラウカ。女ト馴レ親シムニツケテ、戀シイ心ガ尉ミサウナモノダノニ、ドウシテコンナニナツカシイノデアラウカ〔女ト〜傍線〕。
 
○奈波之呂乃《ナハシロノ》――奈波之呂《ナハシロ》は苗代。苗を植うる所。○古奈伎我波奈乎《コナギガハナヲ》――古奈伎《コナギ》は子水葱。卷三に殖子水葱《ウヱコナギ》(四〇七)・この卷に宇惠古奈宜《ウヱコナギ》(三四一五)・卷十六に水葱乃※[者/火]物《ナギノアツモノ》(三八二九)などがある。水田・小川などに自生する一年生草本・紫青色の小花が叢つて咲く。この歌によると、この花を以て着物を染めたものである。元暦校本に伎を宜に作つてゐる。奈洗留麻爾末爾《ナルルマニマニ》――馴れるに隨つて。着褻れるにかけてある。○安是可加奈思家《アゼカカナシケ》――何故いとしいのか。カナシケはカナシキの東語。
(519)〔評〕 子水葱の花で染めた衣を女に譬へてゐる。美しい女を得て親しむにつれて心が滿足しさなものだのに、更になつかしさを加へるのはどうしたのだらうと不思議がつてゐる。やさしい情の漂つた歌。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
挽歌
 
3577 かなし妹を いづち行かめと 山菅の 背向に宿しく 今し悔しも
 
可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》 伊都知由可米等《イヅチユカメト》 夜麻須氣乃《ヤマスゲノ》 曾我比爾宿思久《ソガヒニネシク》 伊麻之久夜思母《イマシクヤシモ》
 
愛スル女ガ何處ヘ行クモノカト思ツテ、ツマラヌ事ニ腹ヲ立テテ〔思ツ〜傍線〕(夜麻須氣乃)背ヲムケテ寢タノハ、今ニナツテ口惜シイヨ。意外ニモ女ハ死ンデシマツタ〔意外〜傍線〕。
 
○可奈思伊毛乎《カナシイモヲ》――愛《カナ》しき妹をに同じ。○伊都知由可米等《イヅチユカメト》――何處に往かむやと。どこにも行きはすまいと。○夜麻須氣乃《ヤマスゲノ》――枕詞。山背の葉が彼方此方に亂れ靡いて向き合はないのに譬へて、背向《ソガヒ》につづけてゐる。○曾我比爾宿思久《ゾガヒニネシク》――背向に寢しく。背中合せに寢たことは。シは過去の助動詞。クは上を名詞的にする爲に用ゐられてゐる。
〔評〕 卷七の吾背子乎何處行目跡辟竹之背向爾宿之久今思悔裳《ワガセコヲイヅクユカメトサキタケノソガヒニネシクイマシクヤシモ》(一四一二)の辟竹を山菅に取換へただけと言つてよい。同歌の異傳である。東歌らしくない作だ。
 
以前(ノ)歌詞、未v得3勘(ヘ)知(ルコトヲ)國土山川之名(ヲ)1也
 
(520)この註は雜歌以下の全躰にかかつてゐる。この註について、考に「今本茲に以前歌詞未得勘知國土山川之地名と註せるも、いと後人の註なれば取らず。何ぞといはば、先上に東の國々の地名のしられたるもてよめるを載て其次に載たれば、國土の名不知部ともいふべきに似たれど、多き中に阿波乎呂對馬嶺などの如く、國明らかなるも有、おしはかるに違ふまじきも少からず有を、おしこめて右の如き言を古人の注すべきかは。又京人の取集し時、遠き東國の事は考違ひも有なん。その歌を傳へ聞て集る時、既字の誤りも有、後に書違へ唱ちがへも在と見ゆ。然ればかく末の世に成ても、その地をよく知るは、古へ誤しを思ひ正す事も有べし。よりて此國地不知てふ注に、泥みて、考へを止べからず、又後に考へん人の爲とも成べければ、この度は思ふ事有をば右にいひつ。ひがこともあるべければ、かならずとせざれば、見ん人のこころにあるべきなり。」といつてゐる。
 
萬葉集卷第十四
 
卷第十五
 
(521) 萬葉集卷第十五解説
 
この卷は二つの異なつた歌集からなつてゐる。即ち前半は遣新羅使一行の歌を集めたもので、後半は中臣宅守と茅上娘子との贈答歌集である。遣新羅使は目録によると、天平八年内子夏六月に派遣せられ、大使阿倍朝臣繼麻呂・副使大伴宿禰三中・大判官壬生使主宇太麻呂・少判官大藏忌寸麻呂などの一行であつたことが、續日本紀に明らかである。この人たちが、出發に當つて詠んだものを始め、瀬戸内海から筑前・肥前・壹岐・對馬を經て行く道すがらの作を集めてゐるが、新羅での作は一首もなく、又歸路のは播磨の家島で詠んだものが僅か五首あるのみで、その歌數は、長歌五首・旋頭歌三首・短歌百三十七首、總計百四十五首である。作者は大使・副使・大使の第二男などのものがあり、他に秦間滿・大石蓑麿・土師稻足などの名が見えてゐる。併し作者を記してゐない歌がかなり多く、その歌風内容から推して、すべて同一人であるらしく思はれるから、(冒頭の贈答も男の歌はやはりこの人らしい。)この一團の歌を蒐集して置いた人は、即ちその無名の作家であらうと推定することが出來る。これらの人々が途中望郷の念を述べ、矚目した風光を歌ひ、壹岐島で客死した友を弔ふなど、その體驗したところを諷詠したものには、惻々として人を動かすやうなものがあるが、全躰的に見て藝術價値が高いとは言はれない。宅守と娘子との贈答歌は、目録によると、宅守が藏部女嬬狹野茅上娘子を娶つた爲に、勅斷によつて越前に流された事件の歌で、訣別に臨んで娘子が悲嘆して作つたもの、宅守が配流途中の作、配所に赴いてから娘子との間に贈答したものなどで、(522)宅守作四十首、娘子作廿三首、併せて六十三首、盡く短歌のみである。之の一團の歌は事件が事件だけに、愛慕悲歎の情のみを歌つてゐるが、宅守の作は大丈夫ぶりでない女々しいものが多く、後世風のものも二三見えてゐる。これに對して娘子の作中には輪廓の大きい情熱的の二三の作品があつて、集中でも異彩を放つてゐる。斯の如く全く毛色を異にした二つの集團を、何故一卷に纏めたかは不明であるが、天平八年の遣新羅使一行と、天平十二年を距つるあまり遠からざる以前に、流罪になつた中臣宅守とが略々時代を同じくしてゐるといふ以外には、大した理由はないのではあるまいかと思はれる。全體の歌數は長歌五首・旋頭歌三首・短歌二百首・總計二百八首である。なほ茲に注意すべきはこの卷には部立がないことである。卷一より卷十四に至る十四卷は、いづれも何等かの部門に分類せられてゐるのに、この卷には全く部門の標示がない。これは卷十七以下と同一であつて、この卷が大伴家持によつて纏められたものなることを語つてゐるやうにも思はれるのである。用字法は大體一音一字式であるが、前半は後半よりも意字の使用が少し多いやうである。
 
(523)天平八年丙子夏六月遣2使新羅國1之時使人等各悲v別贈答及海路之上慟v旅陳v思作歌【并】當v所誦詠古歌 一百四十五首
贈答歌十一首
秦間滿謌一首
※[斬/足]還2私家1陳v思歌一首
臨v發之時歌三首
乘v船入v海路上作歌八首
當v所誦詠古歌十首
備後國水調郡長井浦舶泊之夜作歌三首
風速浦舶泊之夜作歌二首
安藝國長門島舶泊2礒邊1作歌五首
從2長門浦1舶出之夜仰2觀月光1作歌三首
古挽歌 丹比大夫悽2愴亡妻1挽歌一首【并】短歌一首
 
 
(527)遣(サルル)2新羅(ニ)1使人等悲(シミテ)v別(ヲ)贈答(シ)、及海路慟(シミ)v情(ヲ)陳(ブ)思(ヲ)、并(ニ)當(リテ)v所(ニ)誦詠之古謌
 
目録に、天平八年丙子夏六月、遣(サルル)2使(ヲ)新羅國(ニ)1之時、使人等各悲(シメル)v別(ヲ)贈答、及海路之上(ニ)慟(シミ)v旅(ヲ)陳(ベテ)v思(ヲ)作(レル)歌并(ニ)當(リテ)v所(ニ)誦詠(セル)古歌一百四十五首とあつて、この題詞と似てはゐるが、これよりも委しくて年號まで記してゐる。他の卷の例によると目録は卷の成立よりも遲れてゐるやうであるから、天平八年丙子夏六月とあるのをその儘信じてよいかどうか分らないが、續紀によると「天平八年夏四月丙寅、遣新羅使阿倍朝臣繼麻呂等拜v朝]「天平九年正月辛丑、遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麻呂少判官正E七位上大藏忌寸麻呂等入京、大使從五位下阿倍朝臣繼麻呂泊2津嶋1卒、副使從六位下大伴宿禰三中染v病不v得2入京1」とあるから、天平八年は誤ではあるまい。一行は筑紫館に到つて七夕を迎へてゐるから、夏六月に出發したものであらう。遣新羅使人等は阿倍朝臣繼麻呂を大使とした一行の人々。延喜式の入諸蕃使の條に入唐大使・入渤海使・入新羅使への賜物に關する規程が記されてゐる。それによると、入新羅使への賜物は入唐大使の十分の一で、入渤海使の三分の一に足りない。以てその重要視せられなかつたことがわかる。役員は入新羅使・判官・録事・大通事・史生・知乘・船事・船師・醫師・少通事・雜使・※[人偏+兼]人・鎌(誤字カ)工・卜部・※[木+施の旁]師・水手長・挾※[木+少]・水手などである。慟情は心中の情を嘆き悲しむこと。
 
3578 武庫の浦の 入江の渚鳥 羽ぐくもる 君を離れて 戀に死ぬべし
 
武庫能浦乃《ムコノウラノ》 伊里江能渚鳥《イリエノスドリ》 羽具久毛流《ハグクモル》 伎美乎波奈禮弖《キミヲハナレテ》 古非爾之奴倍之《コヒニシヌベシ》
 
吾ガ夫ハ今武庫ノ浦カラ舟出ヲナサラウトシテヰルガ〔吾が〜傍線〕、(武庫能浦乃伊里江能渚鳥)可愛ガツテ下サル貴方ニ離レテ、私ハ〔二字傍線〕焦死スルデセウ。
 
(528)○武庫能浦乃伊里江能渚鳥《ムコノウラノイリエノスドリ》――武庫の浦は武庫乃海《ムコノウミ》(二五六の一本云)、六兒乃泊《ムコノトマリ》(二八三)、武庫能和多里《ムコノワタリ》(三八九五)などとある海邊で、今の兵庫である。伊里江能渚鳥《イリエノスドリ》は入江の洲に居る鳥。ここまでは、羽具久毛流《ハグクモル》と言はむ爲の序詞。古義は譬喩と見てゐる。○羽具久毛流《ハグクモル》――ハグクムに同じきことナグサムとナグサモルと同じきが如くである。羽の下の含み愛すること。卷九に吾子羽※[果/衣のなべぶたなし]《ワガコハグクメ》(一七九一)とある。轉じて撫愛すること。
〔評〕 武庫の浦を舟出しようとしてゐる夫に贈つた歌。入江に穩やかに並んでゐる渚鳥を見て詠んだのであらう。親鳥が子を育てる意に用ゐる羽具久毛流《ハグクモル》といふ言葉を夫婦關係に使つてゐるが、今まで夫に抱擁せられ、力強い腕にすがつてゐた女の感情が、三句以下に生々しく盛られて、結句の古非爾之奴倍之《ヨヒニシヌベシ》の誇張もわざとらしく聞えないほどである。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3579 大船に 妹乘るものに あらませば 羽ぐくみもちて 行かましものを
 
大船爾《オホフネニ》 伊母能流母能爾《イモノルモノニ》 安良麻勢波《アラマセバ》 羽具久美母知※[氏/一]《ハグクミモチテ》 由可麻之母能乎《ユカマシモノヲ》
 
新羅ヘ行ク爲ニ私ガ乘ル〔新羅〜傍線〕大キイ船ニ、妻ガ乘ツテモヨイモノナラバ、可愛ガツテ連レテ行カウノニ。サウ出來ナイノハ殘念ダ〔サウ〜傍線〕。
 
○伊母能流母能爾《イモノルモノニ》――妻が乘つてもよいもので。○安良麻勢波《アラマセバ》――あらましかばに同じ。あつたならば。
〔評〕 右の歌に對して夫の答へたもの。遣新羅使の乘る公の船に、妻を携へ難いことを悲しんでゐる。はぐくむといふ言葉を襲用してゐるが、前の歌ほどの感情が出てゐない。
 
3580 君が行く 海邊の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ
 
君之由久《キミガユク》海邊乃夜杼爾《ウミベノヤドニ》奇里多多婆《キリタタバ》安我多知奈氣久《アガタチナゲク》伊伎等之(529)理麻勢《イキトシリマセ》
 
アナタガ御旅行ノ途中デ〔三字傍線〕、海邊ノ宿所ニ霧ガ立ツタラ、私ガアナタヲ戀シガツテ〔九字傍線〕立ツテ嘆息シテヰル息ガ霧ナツタノダ〔八字傍線〕ト思召セ。
 
○安我多知奈氣久《アガタチナゲク》――吾が立ち嘆く。私が立つて嘆息してゐる。
〔評〕留る妻が夫に贈つた歌。四五の句、嘆の霧がよんである。卷五に大野山紀利多知和多流和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流《オホヌヤマキリタチワタルワガナゲクオキソノカゼニキリタチワタル》(七九九)とあり、古事記上卷に吹棄氣吹之狹霧《フキウツルイブキノサギリ》と見えて、氣息が霧となるといふ思想は古いものである。
 
3581 秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ
 
秋佐良婆《アキサラバ》 安比見牟毛能乎《アヒミムモノヲ》 奈爾之可母《ナニシカモ》 奇里爾多都倍久《キリニタツベク》 奈氣伎之麻佐牟《ナゲキシマサム》
 
秋ニナツタナラバ、マタ歸ツテ來テ、オ前ニ〔十字傍線〕會フノダカラ、ドウシテオマヘハ〔四字傍線〕霧トナツテ立ツヤウニヒドイ〔三字傍線〕嘆息ヲナサラウヤ。ソンナニ歎カズニ待ツテヰテ下サイ〔ソン〜傍線〕。
 
○奈氣伎之麻左牟《ナゲキシマサム》――三句|奈爾之可母《ナニシカモ》につづいてゐる。嘆し給はむや、嘆し給ふなの意。
〔評〕 夫の答歌。目録の通り六月に出發したものとすれば、僅か一ケ月足らずで、秋になつたら新羅から歸つて來ようといふのは、如何に慰めの言葉としても、あまりの氣安めのやうである。この點よりすれば六月を疑ひたくなる。しかし前に述べたやうに筑紫館で七夕を迎へてゐるから、六月の初の頃に出かけたと見るべきであらう。
 
3582 大船を 荒海に出だし います君 つつむことなく 早歸りませ
 
(530)大船乎《オホフネヲ》 安流美爾伊太之《アルミニイダシ》 伊麻須君《イマスキミ》 都追牟許等奈久《ツツムコトナク》 波也可敝里麻勢《ハヤカヘリマセ》
 
大キイ船ヲ浪ノ〔二字傍線〕荒イ海ニ乘リ出シテ、新羅へ〔三字傍線〕イラツシヤルアナタヨ。御障リモナク、早ク歸ツテイラツシヤイ。
 
○安流美爾伊太之《アルミニイダシ》――安流美《アルミ》は荒海《アラウミ》の約。卷七に大舟乎荒海爾※[手偏+旁]出《オホフネヲアルミニコギイデテ》(一二六六)、卷八に白波乃高荒海乎《シラナミノタカキアルミヲ》(一四五三)とある。○伊麻須君《イマスキミ》――行き給ふ君よの意。○都追牟許等奈久也可敝里麻勢《ツツムコトナクハヤカヘリマセ》――障ることなく早く歸り給へ。卷五の都都美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢《ツツミナクサキクイマシテハヤカヘリマセ》(八九四)と同樣である。早く歸り給へ。
〔評〕 女が男に贈つた歌。右に述べた卷七(一二六六)、卷五(八九四)の歌の句を繼ぎ合せたやうな作であるが、外海を渡り行く船路の人を送るにはふさはしい。
 
3583 眞幸くて 妹がいははば 沖つ浪 千重に立つとも 障あらめやも
 
眞幸而《マサキクテ》 伊毛我伊波伴伐《イモガイハハバ》 於伎都波美《オキツナミ》 知敝爾多都等母《チヘニタツトモ》 佐波里安良米也母《サハリアラメヤモ》
 
無事デ妻ガ家ニ居ツテ私ノ無事ヲ〔家ニ〜傍線〕神ニ祈ツテヰルナラバ、沖ノ浪ガ幾重ニモタツテモ障リガアラウカ。何ノ障リモナイ筈ダ。アナタモ是非無事デ居テ、私ノ無事ヲ祈ツテ下サイ。オ互ニ無事デヰヨウ。〔何ノ〜傍線〕。
 
○眞幸而《マサキクテ》――古義に「或説に而は與の誤にて、マサキクトなるべしといへり、」とあり。新考は「刀の誤ならむ」と言つてゐる。併し而の字に關する異本もなく、舊本のままで意も通ずるから、改めない方がよい。
〔評〕 男の答ふる歌。女が男の無事を祈つたのに對して、男からも女を祝福する意を以て、眞幸而伊毛我伊波伴伐《マサキクテイモガイハハバ》といつてゐる。眞情の溢れた歌。考に「こは妹がさきくありていはひいのるならば、まことかたみにさきか(531)らんとなり。古の妹背のむつびおもひはかるべし」とある通りである。
 
3584 別れなば うら悲しけむ 吾が衣 したにを著ませ 直に逢ふまでに
 
和可禮奈波《ワカレナバ》 宇良我奈之家武《ウラガナシケム》 安我許呂母《アガコロモ》 之多爾乎伎麻勢《シタニヲキマセ》 多太爾安布麻弖爾《タダニアフマデニ》
 
アナタガ旅ニオ出ニナツテ私ト〔アナ〜傍線〕別レテ御出カケニナツ〔八字傍線〕タナラバ、アナタハ〔四字傍線〕心ガ悲シイデセウ。デスカラ再ビ〔六字傍線〕直接ニ會フマデノ間、私ノコノ〔二字傍線〕衣ヲ肌ニツケテ御召シナサイ。
 
○宇良我奈之家武《ウラガナシケム》――心悲しからむ。舊本、字とあるは宇の語。類聚古集その他の古本、皆宇に作つてゐる。○之多爾乎伎麻勢《シタニヲキマセ》――乎は強めていふ動詞。
〔評〕 別に臨んで吾が衣を餞として男に贈つた女の歌。後世の作ならばウラと衣とが縁語に見られるべきであるが、これはさう見るのは過ぎてゐよう。
 
3585 吾妹子が 下にも著よと 贈りたる 衣の紐を 我解かめやも
 
和伎母故我《ワギモコガ》 之多爾毛伎余等《シタニモキヨト》 於久理多流《オクリタル》 許呂母能比毛乎《コロモノヒモヲ》 安禮等可米也母《アレトカメヤモ》
 
私ノ妻ガ肌ニツケテ着テ居レト云ツテ、送ツテクレタコノ〔二字傍線〕着物ノ紐ヲ、旅ニ居ル間ハ〔六字傍線〕私ハ解カウヤ。決シテ解カズニ着テヰヨウ〔決シ〜傍線〕。
 
○之多爾毛伎余等《シタニモキヨト》――宜長が毛は乎の誤と言つたのは、贈歌と一致せしめようとしたのであらうが、改めるには及ばない。
(532)〔評〕 男の答歌、感謝と親愛との念を充分にあらはし得てゐる。
 
3586 吾が故に 思ひな痩せそ 秋風の 吹かむその月 逢はむものゆゑ
 
和我由惠爾《ワガユヱニ》 於毛比奈夜勢曾《オモヒナヤセソ》 秋風能《アキカゼノ》 布可武曾能都奇《フカムソノツキ》 安波牟母能由惠《アハムモノユヱ》
 
私ハ今オマヘニ別レテ旅ニ出ルガ〔私ハ〜傍線〕、秋風ノ吹クデアラウソノ月ノ七月ニハ、私ガ歸ツテ來テ〔ノ七〜傍線〕會フデアラウノニ、私ノ爲ニ心配シテ痩セナサルナ。
 
○安波牟母能由惠《アハムモノユヱ》――逢はむものなるに。逢ふであらうのに。
〔評〕 男が女に贈つた歌。ユヱが兩つ用ゐてあるが、用法が違つてゐる。これも秋立つ月に歸來することを歌つてゐるのは、あまり早過ぎる感がある。
 
3587 栲衾 新羅へいます 君が目を 今日か明日かと いはひて待たむ
 
多久夫須麻《タクブスマ》 新羅邊伊麻須《シラギヘイマス》 伎美我目乎《キミガメヲ》 家布可安須可登《ケフカアスカト》 伊波比弖麻多牟《イハヒテマタム》
 
(多久夫須麻)新羅ノ國ヘ御出カケニナルアナタニ、コレカラハ貴方ガ御無事デオ歸ニナツテ〔コレ〜傍線〕、オ目ニカカルコトヲ今日カ明日カト、神樣ニ祈リナガラ待ツコトデアリマセウ。
 
○多久夫須麻《タクブスマ》――枕詞。栲の衾の白き意で新羅へつづいてゐる。○伎美我目乎《キミガメヲ》――君が目を待つと五句へつづいてゐる。君にお目にかかることをの意。○伊波比弖麻多牟《イハヒテマタム》――イハフは神を齋ふ。即ち神に祈ること。
〔評〕 女の答歌。四句に待ちわぶる心をあらはし得てゐる。
 
3588 はろばろに 思ほゆるかも 然れども けしき心を 吾が思はなくに
 
(533) 波呂波呂尓《ハロバロニ》 於毛保由流可母《オモホユルカモ》 之可禮杼毛《シカレドモ》 異情乎《ケシキココロヲ》 安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》
 
貴方ガ新羅ヘ御出ニナツタナラバ、新羅ノ國ハ〔貴方〜傍線〕遙々ト遠ク〔二字傍線〕思ハレマスヨ。然シナガラ、ソンナニ遠ク隔ツテ居テモ〔ソン〜傍線〕、他シ心ヲ私ハ持ツテハ居リマセヌヨ。唯アナタヲ戀シク思ツテ居リマス〔唯ア〜傍線〕。
 
○波呂波呂爾《ハロバロニ》――遙々にに同じ。
〔評〕 卷五の波漏婆漏爾於志方由流可母志艮久毛能智弊仁邊多天留都久紫能君仁波《ハロバロニオモハユルカモシラクモノチヘニヘダテルツクシノクニハ》(八六六)の初二句と、卷十四の可良許呂毛須蘇乃宇智可倍安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《カコロモスソノウチカヘアハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》(三四八二)の四五句とを連ねて作つたやうな歌だ。これも女の歌であらう。新考に男の歌としたのは從ひ難い。
 
右十一首贈答
 
以上の十一首は出發に際して、一行の人とその妻との間にとりかはされた贈答の歌である。
 
3589 夕されば ひぐらし來鳴く 生駒山 越えてぞ吾が來る 妹が目を欲り
 
由布佐禮婆《ユフサレバ》 比具良之伎奈久《ヒグラシキナク》 伊故麻山《イコマヤマ》 古延弖曾安我久流《コエテゾアガクル》 伊毛我目乎保里《イモガメヲホリ》
 
夕方ニナルト蜩蝉ガ來テ啼ク淋シイ〔三字傍線〕生駒山ヲ越エテ、私ハ妻ニ逢ヒタサニ、遙々ト難波カラ奈良ヘ〔十字傍線〕ヤツテ來ルヨ。
〔評〕 難波まで下つて、船待ちする間に、妻に逢ひたぐなつて奈良の都へ歸つて來た男の歌。上句は生駒山越が(534)淋しさうに詠んである。ここに蜩《ヒグラシ》蝉が鳴くやうに詠んであるのも、六月らしい氣分である。
 
右一首秦|間滿《ハシマロ》
 
下に秦田滿とあるのと同一人か。田と間と文字が近いからいづれかが誤であらう。秦姓の人だから録事又は通事などであつたらう。
 
3590 妹に逢はず あらば術なみ 石根履む 生駒の山を 越えてぞ吾が來る
 
伊毛爾安波受《イモニアハズ》 安良婆須敝奈美《アラバスベナミ》 伊波禰布牟《イハネフム》 伊故麻乃山乎《イコマノヤマヲ》 故延弖曾安我久流《コエテゾアガクル》
 
妻ニ逢ハズニ居テハ辛クテ〔三字傍線〕仕方ガナイノデ、一寸ノ間ヲ竊ンデ〔八字傍線〕、私ハ岩ヲ踏ミツケテ通ル嶮岨ナ〔三字傍線〕生駒山ヲ越エテ、家ニ歸ツテ〔五字傍線〕來ルヨ。
 
○伊波禰布牟《イハネフム》――生駒山越の嶮岨を述べて、岩根踏み行く生駒山とつづけたものである。略解に「いはねふむ駒といふ心につづけたりともおぼゆれど云々」とあるが、そんな解釋は出來さうにもない。
〔評〕 妻に逢ひたさに、生駒山の難路を踏んで家に歸つて來たといふので、前の歌が生駒山の寂しさを歌つたのに對し、これは路の嶮岨を述べてゐるが、要するに相似た作である。同一人の作とする説もあるが、前のは特に作者を記してゐるから、これ以下は別人とすべきであらう。
 
右一首|※[斬/足]《シバラク》還(リテ)2私家(ニ)1陳(ブ)v思(ヲ)
 
※[斬/足]は暫に同じ。古義にミソカニと訓んだのは當らない。
 
3591 妹とありし 時はあれども 別れては 衣手寒き ものにぞありける
 
(535)妹等安里之《イモトアリシ》 時者安禮杼毛《トキハアレドモ》 和可禮弖波《ワカレテハ》 許呂母弖佐牟伎《コロモデサムキ》 母能爾曾安里家流《モノニゾアリケル》
 
私ハ〔二字傍線〕妻ト一緒ニ家ニ〔二字傍線〕ヰタ時ハ、別ニ肌寒クモ〔六字傍線〕ナカツタケレドモ、別レテ旅ニ出テ居ルト、何トナク〔旅ニ〜傍線〕衣ガ寒イモノデアルヨ。
 
○時者安禮杼母《トキハアレドモ》――時は衣手寒からずあれどもの略。
〔評〕 女との抱擁にいつも暖さを覺えるのである。夏六月の作としては、あまり誇張に過ぎるやうでもあるが、獨寢の淋しさを述べてかく言つたのである。
 
3592 海原に 浮宿せむ夜は 沖つ風 いたくな吹きそ 妹もあらなくに
 
海原爾《ウナバラニ》 宇伎禰世武夜者《ウキネセムヨハ》 於伎都風《オキツカゼ》 伊多久奈布吉曾《イタクナフキソ》 妹毛安良奈久爾《イモモアラナクニ》
 
私ハコレカラ旅ニ出テ行クガ〔私ハ〜傍線〕、海ノ上デ浪ノ上ノ〔四字傍線〕浮寢ヲスル夜ハ、沖ノ風ヨ、ヒドク吹クナヨ。妻モ居ナイノダカラ。
 
〔評〕 舟出しようとして、海上の淋しさを思ひやつてゐる。唯さへ獨寢は淋しいのに、海上の波の浮寢の獨寢はどんなにか辛いであらう。いたくな吹きそと沖の風に祈る心がいたましい。
 
3593 大伴の 御津に船乘り ※[手偏+旁]ぎ出ては いづれの島に 廬せむ我
 
大伴能《オホトモノ》 美津爾布奈能里《ミツニフナノリ》 許藝出而者《コギデテハ》 伊都禮乃思麻爾《イヅレノシマニ》 伊保里世武和禮《イホリセムワレ》
 
(536)コレカラ〔四字傍線〕(大伴能美津デ舟ニ乘ツテ漕ギ出シタナラバ、何處ノ島デ上陸シテ〔四字傍線〕、私ハ寢ルコトデアラウカ。サゾ淋シイデアラウ〔九字傍線〕。
 
○大伴能《オホトモノ》――難波附近の總名。○伊保里世武和禮《イホリセムワレ》――我は庵せむ。庵すは小屋を立てて宿ること。
〔評〕 これも出立の時の心細さを歌つてゐる。卷六|木綿畳手向乃山乎今日越而何野邊爾廬將爲吾等《ユフダタミタムケノヤマヲケフコエテイヅレノヌベニイホリセムワレ》(一〇一七)と下句が似てゐる。
 
右三首臨(メル)v發(スルニ)之時作(レル)歌
 
3594 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ來にけり
 
之保麻都等《シホマツト》 安里家流布禰乎《アリケルフネヲ》 思良受之弖《シラズシテ》 久夜之久妹乎《クヤシクイモヲ》 和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》
 
私ノ舟ハ〔四字傍線〕汐ガ差シテ來るの〔七字傍線〕ヲ待ツテヰル舟ダノニ、ソレヲ〔三字傍線〕知ラナイデ、マダ出發マデ間ガアルノニ〔マダ〜傍線〕、殘念ニモ私ハ〔二字傍線〕妻ト別レテ來タヨ。コンナコトト知ツタナラバ、モツトユツクリシテ來ル筈ダツタノニ。惜シイコトヲシタ〔コン〜傍線〕。
 
○安里家流布禰乎《アリケルフネヲ》――ありける船なるをの意。○久夜之久妹乎《クヤシクイモヲ》――妹をは妹に同じ。
〔評〕 別離に際しては寸時も惜しいものである。生木を裂かれるやうな思で女に別れて來て見ると、船は未だ出さうでもない。こんなことならまだゐる筈であつたのに、との口惜しさである。暫く家に歸つて來た後の作か。
 
3595 朝びらき ※[手偏+旁]ぎ出で來れば 武庫の浦の 潮干の潟に 鶴が聲すも
 
(537)安佐妣良伎《アサビラキ》 許藝弖天久禮婆《コギデテクレバ》 牟故能宇良能《ムコノウラノ》 之保非能可多爾《シホヒノカタニ》 多豆我許惠須毛《タヅガコエスモ》
 
朝、港ヲ舟出シテ漕イデ出テ來ルト、武庫ノ浦ノ汐ノ干タ渇デ、鶴ガ啼ク〔二字傍線〕聲ガスルヨ。面白イ景色ダ〔六字傍線〕。
 
○安佐妣良伎《アサビラキ》――朝、港を舟出すること。且開《アサビラキ》(三五一)、朝開《アサビラキ》(一六七〇)など參照。
〔評〕 叙景の歌。船中の第一印象が、まづ旅人の目を慰めるものがある。明朗な感じの歌。
 
3596 吾妹子が 形見に見むを 印南都麻 白浪高み よそにかも見む
 
和伎母故我《ワギモコガ》 可多美爾見牟乎《カタミニミムヲ》 印南都麻《イナミツマ》 之良奈美多加彌《シラナミタカミ》 與曾爾可母美牟《ヨソニカモミム》
 
妻ト云フ名ガナツカシサニ、別レテ出テ來タ〔妻ト〜傍線〕私ノ妻ノ形見トシテ、印南都麻ヲ見テ行キ〔三字傍線〕タイノダガ、白波ガ高ク立ツテ海ガ荒イ〔五字傍線〕カラ、殘念ナガラ立チ寄ラズニ〔殘念〜傍線〕、他所ナガラ見テ通ラウカ。
 
○可多美爾見牟乎《カタミニミムヲ》――印南都麻の名が妻に通ずるので、別れて來た妻の形見として印南都麻を見ようといふのである。○印南都麻《イナミツマ》――卷四に稻日都麻浦箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》(五〇九)、卷六に伊奈美嬬《イナミヅマ》(九四二)とあると同所で、加古河の河口にあつた小島。後世、陸に連なつて高砂と稱してゐる。
〔評〕 妻をいふ名をなつかしがつた歌。言葉だけの戯ではない。船路の旅の苦しさもあらはれてゐる。略解に「故郷の方の印南をだに妹が形見と見むを、立浪のよそに來たるを嘆く也」とあるのは、地理を辨へない説である。
 
3597 わたつみの 沖つ白浪 立ち來らし 海人少女ども 島隱る見ゆ
 
(538)和多都美能《ワタツミノ》 於伎津之良奈美《オキツシラナミ》 多知久良思《タチクラシ》 安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》 思麻我久流見由《シマガクルミユ》
 
海ガ荒レテ〔五字傍線〕海ノ沖ノ白波ガ立ツテ來タラシイ。海士ノ女等ノ舟〔二字傍線〕ガ、島陰ニ隱レルノガ見エル。
 
○安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》――海人の小舟どもをかく言つたのであらう。○思麻我久流見由《シマガクルミユ》――島陰にかくれ行くのが見える。
〔評〕 卷三の風乎疾奥津白波高有之海人釣船濱眷奴《カゼヲイタミオキツシラナミタカカラシアマノツリブネハマニカヘリヌ》(二九四)と似た情景である。よく出來てゐる。
 
3598 ぬば玉の 夜は明けぬらし 多麻の浦に あさりする鶴 鳴き渡るなり
 
奴波多麻能《ヌバタマノ》 欲波安氣奴良之《ヨハアケヌラシ》 多麻能宇良爾《タマノウラニ》 安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》 奈伎和多流奈里《ナキワタルナリ》
 
(奴波多麻能)夜ハ明ケタラシイ。玉ノ浦デ餌ヲ〔二字傍線〕アサル鶴ガ啼イテ通ルヨ。
 
○多麻能宇良爾《タマノウラニ》――所在明らかでないが、印南都麻(539)神島との間に置いてあるから、多分備中の玉島であらう。
〔評〕 船中に浮宿して、けたたましい鶴の聲に夜の明けたのを知つた歌。清楚明澄。鶴の聲も耳にあるやうである。
 
3599 月よみの 光を清み 神島の いそみの浦ゆ 船出すわれは
 
月余美能《ツクヨミノ》 比可里乎伎欲美《ヒカリヲキヨミ》 神島乃《カミシマノ》 伊素未乃宇良由《イソミノウラユ》 船出須和禮波《フナデスワレハ》
 
今夜ハ〔三字傍線〕月ガ清ク明ラカナノデ、夜中ダケレド〔六字傍線〕神島ノ磯ノマハリノ海岸カラ、私ハ舟出ヲシテ漕イデ行クヨ。
 
○月余美能《ツクヨミノ》――月余美《ツクヨミ》は月讀。月のこと。○神島乃《カミシマノ》――神島は卷十三に備後國神島濱云々と題して恐耶神之渡乃《カシコキヤカミノワタリノ》(三三三九)とあり。備後は備中の誤で、笠岡の南方に横はつてゐる島であらう。○伊素未乃宇良由《イソミノウヲユ》――舊本、末とあるは未の誤であらう。細井本はさうなつてゐる。伊素未《イソミ》は礒回。磯のめぐり。伊素末《イソマ》の浦といふ地名とする説は從ひ難い。
〔評〕 月明に乘じて夜をこめて出帆する樣が思ひやられる。卷一の※[就/火]田津爾舩乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜《ニギタヅツニフナノリセムトツキマテバシホモカナヒヌイマハコギイデナ》(八)のやうな優麗さはないが、亦捨て難い明朗な調である。
 
3600 はなれ磯に 立てる室の木 うたがたも 久しき時を 過ぎにけるかも
 
(540)波奈禮蘇爾《ハナレソニ》 多※[氏/一]流牟漏能木《タテルムロノキ》 宇多我多毛《ウタガタモ》 比左之伎時乎《ヒサシキトキヲ》 須疑爾家流香母《スギニケルカモ》
 
離レ磯ニ立ツテヰル室ノ木ハ、危イ樣子ヲシナガラ、久シイ間ヲ此處デ〔三字傍線〕過シタモノダナア。ヨク此樣ナ處ニ久シク時ヲ過シタモノダ〔ヨク〜傍線〕。
 
○多※[氏/一]流牟漏能木《タテルムロノキ》――牟漏能木《ムロノキ》は杜松《ネズ》のこと。四四七參照。○宇多我多毛《ウタガタモ》――危げにもの意。この語については卷十二の歌方毛曰管毛有鹿《ウタガタモイヒツツモアルカ》(二八九六)參照。
〔評〕 離れ磯に落ちかかりさうになつて生えてゐる室の木を見て、かうしても無事に、永い年月をよくも經たものだと、直感をありのままに述べたもの。そこに面白味がある。略解に「さて妹に別ても、しばしはあれば在つる譬にとれる也」とあるのは考へ過ぎてゐる。なほ室の木は鞆の浦のみに生ずるわけではあるまいが、この歌は道の順が丁度鞆の浦あたりになつてゐるから、卷三に大伴旅人が吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者《ワギモコガミシトモノウラノムロノキハ》(四四六)外二首に詠んだ鞆の浦の室の木に違ないと思ふ。
 
3601 しましくも 獨あり得る ものにあれや 島の室の木 離れてあるらむ
 
之麻思久母《シマシクモ》 比等利安里宇流《ヒトリアリウル》 毛能尓安禮也《モノニアレヤ》 之麻能牟漏能木《シマノムロノキ》 波奈禮弖安流良武《ハナレテアルラム》
 
暫クノ間デモ獨デ居ルコトガ出來ルモノカ、トテモ出來ハシナイ。然ルニ〔トテ〜傍線〕島ノ室ノ木ハドウシテ獨デ〔六字傍線〕離レテ立ツテ〔三字傍線〕ヰルノダラウ。私ハ妻ニ別レテ來タガ、獨デ立ツテヰル室ノ木ガ不思議デ仕方ガナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○之麻思久母《シマシクモ》――暫くもに同じ。○毛能尓安禮也《モノニアレヤ》――ものならむや。獨ではゐられないといふのである。ヤを
(541)係辭として、結句ラムで結ぶと見るのはよくない。○之麻能牟漏能木《シマノムロノキ》――この句の上に然ルニ、ドウシテの語を入れて見るがよい。新考に四五の句を、島の室の木は馴れてあるらむと見てゐるのはその意を得ぬ。
〔評〕 第三句の意味が少し曖昧なので異説が生じてゐるが、右のやうに見れば意は明らかである。仙醉島あたりの離れ磯の室の木を見て、自分の身に引きくらべたものである。
 
右八首(ハ)乘(リ)v船(ニ)入(リテ)v海(ニ)路上(ニ)作(レル)歌
 
古義に入2海路上1と返點としてウミツヂニイレルトキと訓ませてあるのはよくない。海ニ人リテ路上ニ作レル歌である。右八首も同一人の作である。
 
當(リテ)v所(ニ)誦詠(セル)古哥
 
これ以下の十首は、所に臨んで、其の場合に適合した古歌を誦詠したのである。
 
3602 青丹よし 奈良の都に たなびける 天の白雲 見れど飽かぬかも
 
安乎爾余志《アヲニヨシ》 奈良能美夜古爾《ナラノミヤコニ》 多奈妣家流《タナビケル》 安麻能之良久毛《アマノシラクモ》 見禮杼安可奴加毛《ミレドアカヌカモ》
 
(安乎爾余志)奈良ノ都ノ方〔二字傍線〕ニ棚曳イテヰル空ノ白雲ヲ見ルト、イクラ〔七字傍線〕見テモ飽キ足ラナイヨ。故郷ノ奈良ノ方ガ戀シイヨ〔故郷〜傍線〕。
 
〔評〕 遙かに故郷の奈良の方を眺めて、空の白雲をなつかしがつたもの。海路に出て間もなく歌つたか。雲を詠じた歌ながらここによく當嵌つてゐる。
 
右一首詠v雲
 
(542) 青楊の 枝きりおろし 齋種蒔き ゆゆしき君に 戀ひわたるかも
 
3603 安乎楊疑能《アヲヤギノ》 延太伎里於呂之《エダキリオロシ》
 湯種蒔《ユダネマキ》 忌忌伎美爾《ユユシキキミニ》 故非和多流香母《コヒワタルカモ》
 
(安乎楊疑能延太伎里於呂之湯種蒔)恐レ憚ルベキ貴イ御身分ノ〔六字傍線〕貴方ニ、私ハ〔二字傍線〕戀ヒ慕ツテ日ヲ送ツテ居リマスヨ。
 
○安乎楊疑能延太伎里於呂之《アヲヤギノエダキリオロシ》――青楊の枝伐り下ろし。苗代田のほとりの川楊の枝を伐りおろして、日蔭を除いて種を蒔くのである。青楊は河邊などに生えてゐたので、上代の田は水を引く設備が今日のやうに便利ではなかつたから、主として河小川などに近く作られてゐた。苗代は殊に水をよく張つて置く必要上、水邊に作られてゐたらうから、從つて播種に先立つて、日光を遮るやうな川楊の枝をおろしたものである。宣長が「此上の句の意はすべて田に便よき所に井を掘り、井の邊に柳をおほして、其柳の枝を伐すかし、はねつるべといふ物をしかけ、苗代の田ごとに水を汲入るる專有。これかならず柳にて、他木を用ゐず。此青柳の枝きりおろしと言ふも、其事を言へる也」と言つたのも、古義に「楊枝を伐りて苗代の水口にさして、神を齊ひ奉るをいふなるべし。今も田を植る初めに、木の枝を刺していはふことあり、是をさばひおろしと云り、又土佐國長岡郡のあたりにては、もはら苗代をつくりて、種を蒔とき、水口に松杉などの枝を刺して、水口をいはへり、さて古へは何の木にても、あるにまかせて、刺けむを、後に事祝《コトホギ》して、しか松杉の常葉木に、かぎれる如くにはなれりけむ」とあるのも共に受取り難い説である。○湯種蒔《ユダネマキ》――湯種《ユダネ》は齋種。神聖な種。ここまでの三句は忌忌《ユユシ》と言はむ爲の序詞である。○忌忌伎美爾《ユユシキキミニ》――忌忌《ユユシキ》は恐ろしき憚るべきの意。
〔評〕 貴人を戀ふる女の歌であらう。上句の序詞が農民の歌なるを思はしめる。如何なる場所で誦詠した古歌か分明でない。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3604 妹が袖 別れて久に なりぬれど 一日も妹を 忘れておもへや
 
妹我素弖《イモガソデ》 和可禮弖比左爾《ワカレテヒサニ》 奈里奴禮杼《ナリヌレド》比登比母伊毛乎《ヒトヒモイモヲ》 和須禮(543)弖於毛倍也《ワスレテオモヘヤ》
 
私ハ〔二字傍線〕妻ト袖ヲ別ツテカラ久シクナルケレドモ、一日モ妻ヲ忘レヤウカ、忘レハセヌヨ。
 
○和須禮弖於毛倍也《ワスレテホモヘヤ》――忘れて思はむや、忘れはせじといふのである。思ふは輕く添へたもの。かうした例は集中に尠くない。
〔評〕 思ふ通りをそのままに述べたに過ぎない。
 
3605 わたつみの 海に出でたる 飾磨河 絶えむ日にこそ あが戀止まめ
 
和多都美乃《ワタツミノ》 宇美爾伊弖多流《ウミニイデタル》 思可麻河伯《シカマガハ》 多延無日爾許曾《タエムヒニコソ》 安我故非夜麻米《アガコヒヤマメ》
 
海ニ流レ出シテヰル飾磨川ガ、水ガ〔二字傍線〕絶エテナクナル日ニコソハ、私ノ戀モ止ムデアラウ。飾磨川ノ水ガ無クナルコトハアルマイカラ決シテ私ノ戀ハ止マナイ〔飾磨〜傍線〕。
 
○和多都美乃宇美爾伊弖多流《ワタツミノウミニイデタル》――和多都美《ワタツミ》は海の神。和多都美乃宇美《ワタツミノウミ》は海の神の知ろしめす海をいつたのである。宇(544)美爾伊弖多流《ウミニイデタル》について、代匠記に「いづれの川とてつひに海に出ぬはなけれど、此川はやがて海にながれて、出るゆゑに、海に出たるとはいへり」とあり、略解に「いづこにても湊の川は海に出るなれど、播磨の飾磨川は海に近ければかく言へり」とあるが、これは飾磨川の海に注ぐ樣を見て詠んだ歌なのである。○思可麻河泊《シカマガハ》――播磨の飾磨川。今の姫路市を流れる船場川の古名なりといふ、飾磨町の西で海に注いでゐる。卷七に思賀麻江者許藝須疑奴良思《シカマエハコギスギヌラシ》(一一七八)とあるのも同所であらう。
〔評〕 海に注いで絶えることのない飾磨川を譬喩として、吾が戀の思を述べたもの。卷十二の久堅之天水虚爾照日之將失日社吾戀止目《ヒサカタノアマツミソラニテレルヒノウセナムヒコソワガコヒヤマメ》(三〇〇四)と型が類似してゐる。飾磨の河口あたりで、誦詠したものであらう。
 
右三首戀歌
 
この集では戀歌といふ稱呼は珍らしい。この集の相聞が古今以後の戀歌になつたやうに言はれてゐるが、戀歌といふ熟語も既にあつたのである。
 
3606 玉藻刈る 乎等女を過ぎて 夏草の 野島が崎に 廬す我は 柿本朝臣人麿歌曰、敏馬を過ぎて、又曰、船近づきぬ
 
多麻藻可流《タマモカル》 乎等女乎須疑※[氏/一]《ヲトメヲスギテ》 奈都久佐能《ナツクサノ》 野島我左吉爾《ヌジマガサキニ》 伊保里須和禮波《イホリスワレハ》
 
珠藻ヲ苅ル處女ノ浦〔二字傍線〕ヲ通ツテ、(奈都久佐能)野島ノ岬ニ、上陸シテ〔四字傍線〕小屋ヲカケテ私ハ旅寢ヲスル。
 
○乎等女乎須疑※[氏/一]《ヲトメヲスギテ》――乎等女《ヲトメ》は地名。葦屋處女塚の所在地であらう。處女といふ地名から處女塚の名も出たらしく想像せられる。敏馬《ミヌメ》と略々同處であるが、敏馬《ミヌメ》の誤とするのは當らない。○奈都久佐能《ナツクサノ》――枕詞。夏草の萎《ナ》ゆの約ヌにつづくのである。
〔評〕 卷三の二五〇の佐註に一本として載せたものその儘である。
 
(545)柿本朝臣人麿歌曰 敏馬乎須疑※[氏/一]《ミヌメヲスギテ》 又曰 布禰知可豆伎奴《フネチカヅキヌ》
 
卷三の珠藻苅《タマモカル》(二五〇)の歌に同じ。
 
3607 白妙の 藤江の浦に いざりする 海人とや見らむ 旅行く我を 柿本朝臣人麿歌曰 荒栲の 又曰、鱸釣る海人とか見らむ
 
之路多倍能《シロタヘノ》 藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻等也見良武《アマトヤミラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》
 
(之路多倍能)旅ヲシテヰル私ダノニ、世間ノ人ハ〔五字傍線〕藤江ノ浦デ漁ヲスル海人ト見ルデアラウカ。
 
○之路多倍能《シロタヘノ》――枕詞。藤に續けるには、荒栲のを用ゐるのが常であるが、これは珍らしく白栲のからつづいてゐる。○藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》――藤江の浦は播磨國明石郡の海岸にある。明石の西方。
〔評〕 卷三の二五二の左註に一本云として出てゐるのと同じである。和歌童蒙抄に採つてゐる。
 
柿本朝臣人麿歌曰 安良多倍乃《アラタヘノ》 又曰 須受吉都流《スズキツル》 安麻登香見良武《アマトカミラム》
 
初句と三四句との異傳である。卷三、荒栲《アラタヘノ》(二五二)の歌と、何等異なるところがない。
 
3608 天離る 鄙の長道を 戀ひ來れば 明石の門より 家のあたり見ゆ 柿本朝臣人麿歌曰、大和島見ゆ
 
安麻射可流《アマザカル》 比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》 孤悲久禮婆《コヒクレバ》 安可思能門欲里《アカシノトヨリ》 伊敝乃安多里見由《イヘノアタリミユ》
 
私ガ船ニ乘ツテ〔五字傍線〕(安麻射河流)田舍ノ長イ道中ヲ家ヲ〔二字傍線〕戀シク思ヒナガラ漕イデ〔三字傍点〕來ルト、明石ノ海峽カラ故郷ノ〔三字傍点〕家(546)ノ邊ガ見エルヨ。アア嬉シイ〔五字傍線〕。
 
○比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》――鄙の長道を。田舍の長道を。
〔評〕 卷三の二五五の一本云、家門當見由《ヤドノアタリミユ》とあるものと同じである。但し二句が長道從《ナガヂユ》と奈我道乎《ナガヂヲ》との相違がある。
 
柿本朝臣人麿歌曰 夜麻等思麻見由《ヤマトシマミユ》
 
これも二句に小異があるだけで、卷三|天離《アマザカル》(二五五)と同樣である。
 
3609 武庫の海の にはよくあらし いざりする 海人の釣船 浪の上ゆ見ゆ 柿本朝臣人麿歌曰、氣比の海の 又曰、かりこもの亂れて出づ見ゆ海人の釣船
 
武庫能宇美能《ムコノウミノ》 爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻能都里船《アマノツリフネ》 奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》
 
今ハ〔二字傍線〕武庫ノ海ハ海上ガ穩ヤカト見エル。アノ通リ〔四字傍線〕漁ヲスル海人ノ釣舟ガ、浪ノ上ニ出テヰルノガ〔六字傍線〕見エル。
 
○爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》――庭好くあるらし。庭は場所。ここでは海上。
〔評〕 卷三の二五六の一本云の歌と同樣である。但し舊本には武庫乃海舶爾波有之とあるが、神田本に武庫乃海爾波好有之とあるのがよい。和歌童蒙抄に載せてある。
 
柿本朝臣人麿歌曰 氣比乃宇美能《ケヒノウミノ》 又曰 可里許毛能《カリコモノ》 美太禮※[氏/一]出見由《ミダレテイヅミユ》 安麻能都里船《アマノツリフネ》
 
卷三の飼飯能海乃《ケヒノウミノ》(256)と同樣である。但し四句にテに當る文字がない。
 
3610 阿胡の浦に 船乘りすらむ 少女らが 赤裳の裾に 潮滿つらむか 柿本朝臣人麿歌曰、網の浦 又曰、玉裳の裾に
 
(547)安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》 布奈能里須良牟《フナノリスラム》 乎等女良我《ヲトメラガ》 安可毛能須素爾《アカモノスソニ》 之保美都良武賀《シホミツラムカ》
 
志摩ノ國ヘ行ツテ〔八字傍線〕安胡ノ浦デ舟乘リヲスル官〔傍線〕女共ノ、赤イ裳ノ裾ニ汐ガ滿チテ來ルデアラウカ。潮ニ濡レハスマイカ〔九字傍線〕。
 
○安胡乃宇良爾《アゴノウヲニ》――安胡の浦は志摩國の英處の浦。
〔評〕 卷一の嗚呼兒乃浦爾《アゴノウラニ》(四〇)の歌と同歌である。但し四の句が珠裳乃須十二《タマモノスソニ》となつてゐる。
 
柿本朝臣人麿歌曰 安美能宇良《アミノウラ》 又曰 多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》
 
安美能宇良は舊本に兒を見に誤つて、嗚呼見乃浦とあるに一致してゐる。その他卷一の四〇の歌と全く同じものである。
 
七夕歌一首
 
3611 大船に 眞楫繁貫き 海原を 榜ぎ出て渡る 月人をとこ
 
於保夫禰爾《オホブネニ》 麻可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》 宇奈波良乎《ウナハラヲ》 許藝弖天和多流《コギデテワタル》 月人乎登枯《ツクヒトヲトコ》
 
大キイ舟ニ楫ヲ澤山ニ貫キ通シテ、天ノ〔二字傍線〕海原ヲ漕イデ行ク月人男ヨ。
 
○月人乎登枯《ツキヒトヲトコ》――月人男。卷十、仰而將待月人壯《アフギアマタムツキヒトヲトコ》(二〇一〇)、舟榜度月人壯子《フネコキワタルツキヒトヲトコ》(二〇一三)、挽而隱在月人壯子《ヒキテカクセルツキヒトヲトコ》(二〇五一)、(548)懸而※[手偏+旁]所見月人壯子《カケテコグミユツキヒトヲトコ》(二二二三)などと同じく、月を擬人して男性としたものである。牽牛星のこととする説は誤つてゐる。
〔評〕 七夕歌と題してあるが、七夕としての特徴がない。併し卷十の七夕歌にかういふ類のものがあるから、これも七夕の歌群中にあつたので、七夕歌と題したのであらう。澄んだ空に輝く月を眺めて、天の海に月の舟を浮べて月人男が漕いで行くものと見立てたこの七夕の古歌を、一行の人が海上に浮びつつ、思ひ出して誦詠したものである。なほこの一行は九州に到着し、筑紫館に入つた後に七夕を迎へたのであるから、七夕に際してこれを謠つたのではない。この歌は集中他に見えてゐない。これに似たものを強ひて求めるならば、天海月船浮桂梶懸所※[手偏+旁]所見月人壯子《アメノウミニツキノフネウケカツラカヂカケテコグミユツギヒトヲトコ》(二二二三)であらう。和歌童蒙抄と袖中抄に載せてある。以上の十首が當所誦詠古歌である。
 
右柿本朝臣人麿歌
 
以上の六首は柿本朝臣人麿の歌とあつて、例の如く柿本朝臣人麿歌集出とないのは、歌集に載つてゐなかつたからであらう。
 
備後國|水調《ミヅキ》郡長井浦(ニ)舶舶之夜作(レル)歌三首
 
水調郡は今の御調郡。和名抄にも御調郡とある。備後の最西部、安藝の國境に近い。長井浦は今の糸崎港。
 
3612 青丹よし 奈良の都に 行く人もがも 草枕 旅行く船の 泊告げむに
 
安乎爾與之《アヲニヨシ》 奈良能美也故爾《ナラノミヤコニ》 由久比等毛我母《ユクヒトモガモ》 久佐麻久良《クサマクラ》 多妣由久布禰能《タビユクフネノ》 登麻利都礙武仁《トマリツゲムニ》 旋頭歌也
 
(549)私ノ故郷ノ〔五字傍線〕(安乎爾與之)奈良ノ都ニ行ク人ガアレバヨイガ。(久佐麻久良)旅ヲ行ク私ノ〔二字傍線〕舟ガ、此處ニ〔三字傍線〕泊ツテヰルコトヲ家ニ〔二字傍線〕告ゲテヤリタイノニ。奈良ヘ行ク人ガナイノデ、私ノ無事ヲ家ニ告ゲラレナイハ殘念ダ〔奈良〜傍線〕。
 
○登麻利都礙武仁《トマリツゲムニ》――泊を告げたいのにの意。古義は「告遣るべき爲に」と解釋してゐる。
〔評〕 自分の無事を故郷に知らせる方法のないことを悲しんだ歌。平凡な作である、八雲御抄に載つてゐる。
 
右一首大判官
 
大判官は續紀に「天平九年正月辛丑、遣新羅使大判官從六位上壬生使主宇太麿少判官正七位大藏忌寸麿等入京云々」とあるから、即ち壬生使主宇太麿である。この人は十八年四月癸卯に外從五位下を授けられ、八月丁亥、右京亮となり、勝寶二年五月辛丑但馬守、六年七月丙午に玄蕃頭となつてゐる。
 
3613 海原を 八十島隱り 來ぬれども 奈良の都は 忘れかねつも
 
海原乎《ウナバラヲ》 夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》 伎奴禮(550)杼母《キヌレドモ》 奈良能美也故波《ナラノミヤコハ》 和須禮可禰都母《ワスレカネツモ》
 
(550)私ハ旅ニ出テ〔六字傍線〕、海ノ上ヲ澤山ノ島々ニ漕ギ隱レテ、家ヲ遠ク離レテ〔七字傍線〕來タケレドモ、奈良ノ都ハ忘レカネタヨ。
 
○夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》――夜蘇之麻《ヤソシマ》は數多い島々。固有名詞とするのは非である。我久里《ガクリ》は隱れて、即ち八十の島々の陰に漕ぎ隱れて。
〔評〕 故郷は八十の島の彼方に遠ざかつたが、なほ忘れ難いのである。古義に「面白く目留る處々を見つつ、海原を經て來りぬれば、寧樂の都の事は忘らるべきに、猶得忘すしてぞ戀しく思はるるとなり」とあるのは誤解であらう。以下四首同人の作。袖中抄に載せてある。
 
3614 歸るさに 妹に見せむに わたつみの 沖つ白玉 ひりひて行かな
 
可敝流散爾《カヘルサニ》 伊母爾見勢武爾《イモニミセムニ》 和多都美乃《ワタツミノ》 於伎都白玉《オキツシラタマ》 比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》
 
歸ル時ニ土産トシテ〔五字傍線〕妻ニ見セル爲ニ、海ノ沖ニアル白玉ヲ拾ツテ行カウ。
 
○可敝流散爾《カヘルサニ》――歸りさまに。歸途に。ここでは家に歸り着いた時を言つてゐる。○伊母爾見勢武爾《イモニミセムニ》――妹に見せる爲に。○於伎都白玉《オキツシラタマ》――沖の白玉。沖の島などにある白い石などを指してゐるやうだ。拾ふとあるから海底の玉ではない。
〔評〕 評語は平庸の二字に盡きるであらう。
 
風速浦舶泊之夜作(レル)歌二首
 
風逮浦は和名抄に「高田郡風速郷加佐波也」と見えてゐると、略解・占義などにあるが、高田郡は安藝の東(551)北隅の山地で、海に臨んでゐない。今、賀茂郡三津町の西方、三津灣に臨んで風早の地があるから、其處に違ひない。代匠記・考には備後とあるのも信じ難い。
 
3615 わが故に 妹歎くらし 風早の 浦の沖邊に 霧たなびけり
 
和我由惠仁《ワガユヱニ》 妹奈氣久良之《イモナゲクラシ》 風早能《カザハヤノ》 宇良能於伎敝爾《ウラノオキベニ》 奇里多奈妣家利《キリタナビケリ》
 
旅ニ出テ來タ私ヲ戀ヒ慕ツテ〔旅ニ〜傍線〕、私ノコト故ニ妻ガ歎クラシイ。アノ通リ今夜ハ〔七字傍線〕風早ノ浦ノ沖ノ方ニ霧ガ棚曳イテヰルヨ。アノ霧ハ妻ガ嘆イタ息ガ、霧ニナツタノデアラウ〔アノ〜傍線〕。
 
〔評〕出發に際して妻が贈つた君之由久海邊乃夜杼爾奇里多多婆安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢《キミガユクウミベノヤドニキリタタバアガタチナゲクイキトシリマセ》(三五八〇)を想ひ起して詠んだものである。眞面目に言つてゐる點が上代人らしい。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3616 沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子が 歎の霧に 飽かましものを
 
於伎都加是《オキツカゼ》 伊多久布伎勢波《イタクフキセバ》 和伎毛故我《ワギモコガ》 奈氣伎能奇里爾《ナゲキノキリニ》 安可麻之母能乎《アカマシモノヲ》
 
 
眺メルト今夜ハ沖ノ方ニハ、霧ガ棚曳イテヰルガ〔眺メ〜傍線〕、沖ノ風ガヒドク吹イタナラバ、私ハ〔二字傍線〕私ノ妻ノ嘆ク息カラ出來タ霧ニ、充分飽クコトガ出來ルダラウノニ。風ヨ、此方ヘアノ霧ヲ吹キツケテ來ヨ〔風ヨ〜傍線〕。
 
○伊多久布伎勢波《イタクフキセバ》――甚く吹いたならば。セは過去助動詞キの未然形である。○奈氣伎能奇里爾《ナゲキノキリニ》――嘆息から出來た霧に。○安可麻之母能乎《アカマシモノヲ》――飽まで充分に浸らうものを。
〔評〕 これも前の歌と同じく、妻の歌を想ひ起して詠んでゐる。妻の嘆息から成る霧が沖に棚引いてゐるのを、(552)此方へ運んで來るやうに、風が甚く吹くことを希望してゐる。妻の息吹の霧に包まれたいといふ戀情がいたましい。
 
安藝國長門島(ニテ)舶(ヲ)泊(テテ)2礒邊(ニ)1作(レル)哥五首
 
長門島は卷十三に續乎成長門之浦丹《ウミヲナスナガトノウチニ》(三二四三)とある。安藝國安藝郡倉橋島のことである。
 
3617 石走る 瀧もとどろに 鳴く蝉の 聲をし聞けば みやこしおもほゆ
 
伊波婆之流《イハバシル》 多伎毛登杼呂爾《タギモトドロニ》 鳴蝉乃《ナクセミノ》 許惠乎之伎氣婆《コヱヲシキケバ》 京師之於毛保由《ミヤコシオモホユ》
 
岩ノ上ヲ越シテ、流レ落チル瀧ノ音ト一緒ニナツテ、盛ニ〔二字傍線〕鳴ク蝉ノ聲ヲ聞クト、都ノコトガ懷シク〔三字傍線〕思ヒ出サレルヨ。
 
○伊波婆之流《イハバシル》――多伎《タギ》の枕詞として用ゐられることもあるが、此處は實景を述べたものであらう。○多伎毛登杼呂爾《タギモトドロニ》――代匠記は瀧と蝉の聲と響き合つたのだと解し、考はこの句までを鳴の序詞としてゐる。次の歌によつて思ふに、代匠記説がよいやうである。
〔評〕 長門島はかなり大きな島であるから、磯の上を滑つて流れ落ちる清瀬があつたものと見える。その附近で鳴き頻つてゐる蝉の聲を聞いて、ふと都なつかしい情が湧いて來たのである。景を情と併せ寫し得て妙。
 
右一首大石蓑麿
 
この人の傳はわからない。蓑の字、西本願寺本その他、※[草がんむり/衣]に作つてゐる。
 
3618 山川の 清き川瀬に 遊べども 奈良の都は 忘れかねつも
 
(553) 夜麻河伯能《ヤマガハノ》 伎欲吉可波世爾《キヨキカハセニ》 安蘇倍杼母《アソベドモ》 奈良能美夜故波《ナラノミヤコハ》 和須禮可禰都母《ワスレカネツモ》
 
私ハ今コノ島ニ上陸シテ〔私ハ〜傍線〕山川ノ清イ川ノ瀬デ遊ンデヰルケレドモ、ソレニモ心ガ紛レズ〔九字傍線〕、奈良ノ都ヲ忘レカネルヨ。
 
○夜麻河泊能伎欲吉可波世爾《ヤマガハノキヨキカハセニ》――右の歌にある伊波婆之流多伎《イハバシルタギ》と同じもので、この島山から流れ出る清瀬である。
〔評〕 旅中好景に遊びつつも、故郷忘れ難き心を述べてゐる。下句は前の海原乎《ウナバラヲ》(三六一三)と同樣である。
 
3619 磯の間ゆ たぎつ山河 絶えずあらば またも相見む 秋かたまけて
 
伊蘇乃麻由《イソノマユ》 多藝都山河《タギツヤマカハ》 多延受安良婆《タエズアラバ》 麻多母安比見牟《マタモアヒミム》 秋加多麻氣※[氏/一]《アキカタマケテ》
 
磯ノ間カラ泡立ツテ流レル山川ノ水ガ〔三字傍線〕、絶エナイデヰルナラバ、歸途ニハ〔四字傍線〕秋ニナツテ、又コノ山川ヲ〔五字傍線〕見ヨウト思フ。
 
○秋加多麻氣※[氏/一]《アキカタマケテ》――秋片設けて。秋を待ち受けて。加多麻氣※[氏/一]《カタマケテ》を近づきての意とする説もあるが、ここに當らぬやうである。春冬片設而《ハルフユカタマケテ》(一九一)參照。
〔評〕 磯の巖頭から流れてゐる奔瀬に對して、この水が絶えないならば、秋になつて我は再びこの景を見るであらうといつてゐる。山河の如く吾が命が絶えずあらばと契沖以下の諸註にあるが、さう見ては三の句に自己の命を危ぶむ意を含んで不吉な歌となる。これは旅の幸をことほいでゐるのである。既に秋も近づいてゐるのに、秋になつたら歸途にここを通らうといふのは、歸を急ぐ旅のあはれな心情であらう。
 
3620 戀しげみ 慰めかねて ひぐらしの 鳴く島かげに 廬するかも
 
(554)故悲思氣美《コヒシゲミ》 奈具左米可禰※[氏/一]《ナグサメカネテ》 比具良之能《ヒグラシノ》 奈久之麻可氣爾《ナクシマカゲニ》 伊保利須流可母《イホリスルカモ》
 
家〔傍線〕戀シサガヒドクテ、心ヲ〔二字傍線〕慰メルコトガ出來ナイノデ、私ハ〔二字傍線〕、蜩ノ鳴ク島陰ニ舟ヲ止メテ〔五字傍線〕、小屋ヲカケテ宿ルヨ。
 
○故悲思氣美《コヒシゲミ》――戀の繁き故に。戀繁しとは戀ふる心の頻なるをいふ。
〔評〕 家なる妹を思つて淋しい胸を抱きつつ、蜩の鳴く鳥陰に小屋がけをして、宿る人の悲しい情緒があはれである。この作者としてはよい作であらう。
 
3621 吾が命を 長門の島の 小松原 幾代を經てか 神さびわたる
 
和我伊能知乎《ワガイノチヲ》 奈我刀能之麻能《ナガトノシマノ》 小松原《コマツバラ》 伊久與乎倍弖加《イクヨヲヘテカ》 可武佐備和多流《カムサビワタル》
 
(和我伊能知乎)長門ノ島ノ小松原ハ、幾年ノ間コンナニ〔四字傍線〕神々シク古ビテ居ルノダラウ。私モコノ松ノヤウニ長生シタイモノダ〔私モ〜傍線〕。
 
○和我伊能知乎《ワガイノチヲ》――長《ナガ》とつづく枕詞として用ゐてある。○奈我刀能之麻能《ナガトノシマノ》――奈我刀能之麻《ナガトノシマ》は今の倉橋島。○小松原《ユマツバラ》――下の句によると今の謂はゆる小松の原ではなく、相當に古い松原を言つたものである。○伊久與乎倍弖加可武佐備和多流《イクヨヲヘテカカムサビワタル》――幾年經たのでこんなに神さびてゐるのだらうといふのではなく、幾年の間こんなに神々しい姿をしてゐるのだらうといふのである。
〔評〕 海邊の年古る松原に對して、吾が身をことほいだもの。考に「松原を見てふりし世には小松原なりけんと(555)見しなり」とあるのは當らない。行く先々で見る物につけて無事をことほぎ、長命をいのるのが、旅行く人の心理である。
 
從2長門浦1舶出之夜仰(ギ)2觀(テ)月光(ヲ)1作(レル)歌三首
 
3622 つくよみの 光を清み 夕なぎに 水手の聲呼び 浦み漕ぐかも
 
月余美乃《ツクヨミノ》 比可里乎伎欲美《ヒカリヲキヨミ》 由布奈藝爾《ユフナギニ》 加古能己惠欲妣《カコノコヱヨビ》 宇良未許具可母《ウラミコグカモ》
 
今夜ハ〔三字傍線〕月ノ光ガ清イノデ、夕凪ニ船頭共ガ互ニ大聲デ〔五字傍線〕掛聲ヲカケ合ツテ、海岸ヲ漕イデ行クヨ。
 
○加古能古惠欲妣《カコノコヱヨビ》――水夫が掛聲をかけ合つて、卷四に朝名寸二水手之音喚《アサナギニカコノコヱヨビ》(五〇九)とある。古義に「水手を喚立て」とあるのは、違つてゐる。○字良未許具可母《ウラミコグカモ》――舊本、宇艮末《ウラマ》とあるのは、他の例によると宇良未《ウラミ》とあるべきである。
〔評〕 皎々たる月夜の船出、思ふだにも心がすがすがしい。併し前の月余美能比可里乎伎欲美《ツクヨミノヒカリヲキヨミ》(三五九九)と初二句が同樣で、三句以下は右にあげた卷四(五〇九)の長歌や、卷十三(三三三三)の長歌の句と似てゐるから、さして褒められない。和歌童蒙抄に載せてある。
 
3623 山の端に 月かたぶけば いざりする 海人のともしび 沖になづさふ
 
山乃波爾《ヤマノハニ》 月可多夫氣婆《ツキカタブケバ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻能等毛之備《アマノトモシビ》 於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》
 
山ノ端ニ月ノ影〔二字傍線〕ガ傾イテ月ガ入リ際ニナル〔十字傍線〕ト、漁ヲシテヲル漁師共ガ舟デ點ス〔五字傍線〕燈火ガ、沖デ浪ノ上ニ漂ツテヰ(556)ルノガ見エル〔傍線〕。
 
○月可多夫氣婆《ツキカタブケバ》――月が傾くと。月が西の山に近づいて入り際になると。○於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》――卷三に吉野川奧名豆颯《ヨシヌノカハノオキニナヅサフ》(四三〇)とあり、名豆颯《ナヅサフ》は水に漬ることであるが、ここは水面に漂つて見えることである。
〔評〕 月の入り方になつて、沖の漁火が一段ときらめいて見える景色である、古義に「西の山の瑞に入方近く月が傾けば、今一際漁火をてらして彼方此方に漕廻りつつ、海人の漁業《イザリ》するが見ゆとなり」とあるのは誤つてゐる。海上の夜景が目に浮ぶやうである。佳作。
 
3624 我のみや 夜船は漕ぐと 思へれば 沖邊の方に 楫の音すなり
 
和禮乃未夜《ワレノミヤ》 欲布禰波許具登《ヨフネハコグト》 於毛敝禮婆《オモヘレバ》 於伎敝能可多爾《オキベノカタニ》 可治能於等須奈里《カヂノオトスナリ》
 
私バカリガ夜舟ニ乘ツテ〔四字傍線〕漕イデ行クノカト思ツタラ、サウデハナク〔六字傍線〕沖ノ方デ櫓ノ音ガスルヨ。コンナニ辛イ思ヲシテ夜ノ舟旅ヲスル者ハ、私バカリデハナイト見エル〔コン〜傍線〕。
 
○和禮乃未夜欲布禮波許具登《ワレノミヤヨフネハコグト》――我のみ夜舟を漕ぐならむとの意。○於伎敝能可多爾《オキベノカタニ》――ベと言つてカタといふのは重複のやうであるが、ベは輕く添へてある。○可治能於等須奈里《カヂノオトスナリ》――ナリは詠嘆の助動詞。
〔評〕 遣新羅使一行中での屈指の佳作であらう。夜舟の淋しさが、人の心に沁み入るやうな、しんみりとした調子で詠まれてゐる。
 
古挽歌一首并短歌
 
舊本、古を右に誤つてゐる。西本願寺本その他によつて改めた。
 
3625 夕されば 葦邊に騷ぎ 明け來れば 沖になづさふ 鴨すらも 妻とたぐひて 吾が尾には 霜な降りそと 白妙の 羽指し交へて 打ち拂ひ さぬとふものを 逝く水の 還らぬ如く 吹く風の 見えぬが如く 跡も無き 世の人にして 別れにし 妹が著せてし なれ衣 袖片敷して 獨かも寢む
 
(557) 由布左禮婆《ユフサレバ》 安之敝爾佐和伎《アシベニサワギ》 安氣久禮婆《アケクレバ》 於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》 可母須良母《カモスラモ》 都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》 和我尾爾波《ワガヲニハ》 之毛奈布里曾等《シモナフリソト》 之路多倍乃《シロタヘノ》 波禰左之可倍※[氏/一]《ハネサシカヘテ》 宇知波良比《ウチハラヒ》 左宿等布毛能乎《サヌトフモノヲ》 由久美都能《ユクミヅノ》 可敝良奴其等久《カヘラヌゴトク》 布久可是能《フクカゼノ》 美延奴我其登久《ミエヌガゴトク》 安刀毛奈吉《アトモナキ》 與能比登爾之弖《ヨノヒトニシテ》 和可禮爾之《ワカレニシ》 伊毛我伎世弖思《イモガキセテシ》 奈禮其呂母《ナレゴロモ》 蘇弖加多思吉※[氏/一]《ソデカタシキテ》 比登里可母禰牟《ヒトリカモキム》
 
夕方ニナルト蘆ノ生エテヰル邊デ騷イデ啼〔三字傍線〕キ、夜ガ明ケルト沖デ浪ノ上〔四字傍線〕ニ漂ツテヰル鴨デスラモ、妻ト一緒ニ並ンデ、自分ノ尾ニハ霜ガカカルナト、白イ羽ヲ雌雄〔二字傍線〕互ニ差シ交シテ、霜ヲ打チ拂ヒツツ寢ルトイフモノダノニ、流〔二字傍線〕レテ行ク水ガ歸ラナイヤウニ〔傍線〕、空ヲ吹ク風ガ目ニ見ニナイヤウニ、一度コノ世ヲ去ツテ〔九字傍線〕跡方モナクナツタコノ〔二字傍線〕世ノ人トシテ、別レタ妻ガ〔二字傍線〕私ニ着セテ〔三字傍線〕クレタ、着古シノ着物ヲ、袖ヲ片敷イテ私ハ〔二字傍線〕獨デ今夜ハ〔三字傍線〕寢ルコトカナ。アアア悲シイ〔六字傍線〕。
 
○都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》――妻と並んで。○和我見爾波《ワガヲミハ》――舊訓ワガミニハとある、尾をミの音に用ゐた例は尠いが、卷五に等等尾加禰《トトミカネ》(八〇四)、布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》(八七五)などがあるから、訓めないことはないが、ここはヲと訓む方が穩やかである。卷九に前玉之小埼乃沼爾鴨曾翼霧己尾爾零置流霜乎掃等爾有斯《サキタマノヲサキノヌマニカモゾハネキルオノガヲニニフリオケルシモヲハラフトナラシ》(一七四四)とあるのも參考としたい。○之路多倍乃《シロタヘノ》――羽根につづいてゐるが、鴨とあるから白い羽根では理窟が合はぬといふので、霜が降つてゐるので白いのだと見る説と、白栲の衣と同じく、羽根は鳥の衣のやうなものだから、白栲のを羽根の枕詞式に用(558)ゐてゐるのだとする説がある。併しやはり言葉通り白い羽根と見るのが無難であらう。鴨でもいろいろの種類があるだらうし、作者もよい加減に用ゐたのであらうから、あまりやかましく言はぬ方がよからう。白い羽根だからといつて、鴎のこととするのは當らない。○波禰左之可倍※[氏/一]《ハネサシカヘテ》――羽根をさし交して、雌雄陸じき樣子である。○宇知波良比《ウチハラヒ》――霜を打拂ひ。○佐布等布毛能乎《サヌトフモノヲ》――サは接頭語。寢るといふのに。○由久美都能可敝良奴其等久布久可是能美延奴我其登久《ユクミヅノカヘラヌゴトクフクカゼノミエヌガゴトク》――姦十九の悲2世間無常1歌に吹風能見要奴我其登久逝水能登麻良奴其等久《フクカゼノミエヌガゴトクユクミヅノトマラヌゴトク》(四一六〇)とあるのと同樣で、無常觀をあらはす佛教式譬喩である。○安刀毛奈吉《アトモナキ》――痕跡なき。人が一度死ねば何物も跡を留めないからかくいふのである。卷三に跡無世間爾有者將爲須辨毛奈思《アトモナキヨノナカニアレバセムスベモナシ》(四六六)とあるのと同樣である。○與能比登爾之弖《ヨノヒトニシテ》――世の人として。世の人であつて。○奈禮其呂母《ナレゴロモ》――着古した衣。
〔評〕 舟の中で古歌を誦詠したのを書いて置いたものか。於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》の一句が前の山乃波爾《ヤマノハニ》(三一二三)の歌にあるのと一致してゐるので、その連想からこの歌を誦つたのであらうとする説もあるが、この句の一致は偶然であらう。雌雄仲陸じい鴨と對照して、妻を失つた淋しさを悲傷してゐるが、組織は簡單である。佛教的の厭世思想が多く見えてゐる。
 
反歌一首
 
3626 鶴が鳴き 葦邊をさして 飛び渡る あなたづたづし 獨さ寢れば
 
多都我奈伎《タヅガナキ》 安之敝乎左之弖《アシベヲサシテ》 等妣和多類《トビワタル》 安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》 比等里佐奴禮婆《ヒトリサヌレバ》
 
妻ガ死ンダノデ〔七字傍線〕一人デ寢ルト嗚呼(多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類)頼リナイコトダ。
 
○多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類《タヅガナキアシベヲサシテトビワタル》――鶴が鳴いて葦の生えてゐる方を指して飛び渡るといふので、實景(559)を詠んだやうであるが、右の長歌の反歌とすれば、多頭多頭志《タヅタヅシ》の序詞と見なければならない。○安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》――多頭多頭志《タヅタヅシ》はたどたどしに同じで、心の落付かぬこと。
〔評〕 前の歌の反歌とすると、鴨に續いて鶴を引出して來て、序詞として多頭多頭志《タヅタヅシ》と言ひ出したのは仰々しく、事々しくて、いやな感じがする。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右丹比大夫|悽2愴《イタミナゲク》亡妻(ヲ)1歌
 
丹比大夫は誰ともわからない。丹比眞人の名が、卷二(二二六)、卷八(一六〇九)、卷九(一七二六)などに見えるが、同人とも斷じ難い。
 
屬(キテ)v物(ニ)發(ス)思(ヲ)歌一首并短歌
 
3627 朝されば 妹が手に纏く 鏡なす 三津の濱びに 大船に 眞楫繁貫き から國に 渡り行かむと 直向ふ 敏馬をさして 潮待ちて 水脈びき行けば 沖邊には 白波高み 浦廻より 榜ぎて渡れば 吾妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隱りぬ さ夜ふけて 行方》を知らに 吾が心 明石の浦に 船泊めて 浮宿をしつつ わたつみの 沖邊を見れば 漁する 海人の少女は 小船乘り つららに浮けり 曉の 潮滿ちくれば 葦邊には 鶴鳴き渡る 朝なぎに 船出をせむと 船人も 水手も聲よび 鳰鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ 吾が思へる 心和ぐやと 早く來て 見むと思ひて 大船を 榜ぎ吾が行けば 沖つ浪 高く立ち來ぬ よそのみに 見つつ過ぎゆき 多麻の浦に 船をとどめて 濱びより 浦磯を見つつ 哭く兒なす ねのみし泣かゆ 海神の 手纏の珠を 家づとに 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて 反し遣る 使無ければ 持てれども しるしを無みと また置きつるかも
 
安佐散禮婆《アササレバ》 伊毛我手爾麻久《イモガテニマク》 可我美奈須《カガミナス》 美津能波麻備爾《ミツノハマビニ》 於保夫禰爾《オホブネニ》 眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》 可良久爾爾《カラクニニ》 和多理由加武等《ワタリユカムト》 多太牟可布《タダムカフ》 美奴面乎左指天《ミヌメヲサシテ》 之保麻知弖《シホマチテ》 美乎妣伎由氣婆《ミヲビキユケバ》 於伎敝爾波《オキベニハ》 之良奈美多可美《シラナミタカミ》 宇良未欲理《ウラミヨリ》 許藝弖和多禮婆《コギテワタレバ》 和伎毛故爾《ワギモコニ》 安波治乃之麻波《アハヂノシマハ》 由布左禮婆《ユフサレバ》 久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》 左欲布氣弖《サヨフケテ》 由久敝乎之良爾《ユクヘヲシラニ》 安我己許呂《アガココロ》 安可志能宇良爾《アカシノウラニ》 布禰等米弖《フネトメテ》 宇伎禰乎詞都追《ウキネヲシツツ》 和多都美能《ワタツミノ》 於枳敝乎見禮婆《オキベヲミレバ》 伊射理須流《イサリスル》 安麻能乎等女波《アマノヲトメハ》 (560)小船乘《ヲブネノリ》 都良良爾宇家里《ツララニウケリ》 安香等吉能《アカトキノ》 之保美知久禮婆《シホミチクレバ》 安之辨爾波《アシベニハ》 多豆奈伎和多流《タヅナキワタル》 安左奈藝爾《アサナギニ》 布奈弖乎世牟等《フナデヲセムト》 船人毛《フナビトモ》 鹿子毛許惠欲妣《カコモコヱヨビ》 柔保等里能《ニホドリノ》 奈豆左比由氣婆《ナヅサヒユケバ》 伊敝之麻婆《イヘシマハ》 久毛爲爾美延奴《クモヰニミエヌ》 安我毛敝流《アガモヘル》 許己呂奈具也等《ココロナグヤト》 波夜久伎弖《ハヤクキテ》 美牟等於毛比弖《ミムトオモヒテ》 於保夫祢乎《オホブネヲ》 許藝和我由氣婆《コギワガユケバ》 於伎都奈美《オキツナミ》 多可久多知伎奴《タカクタチキヌ》 與曾能未爾《ヨソノミニ》 見都追須疑由伎《ミツツスギユキ》 多麻能宇良爾《タマノウラニ》 布禰乎等杼米弖《フネヲトドメテ》 波麻備欲里《ハマビヨリ》 宇良伊蘇乎見都追《ウライソヲミツツ》 奈久古奈須《ナクコナス》 禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》 和多都美能《ワタツミノ》 多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》 伊敝都刀爾《イヘヅトニ》 伊毛爾也良牟等《イモニヤラムト》 比里比登里《ヒリヒトリ》 素弖爾波伊禮弖《ソデニハイレテ》 可敝之也流《カヘシヤル》 都可比奈家禮婆《ツカヒナケレバ》 毛弖禮杼毛《モテレドモ》 之留思乎奈美等《シルシヲナミト》 麻多於伎都流可毛《マタオキツルカモ》
 
(安佐散禮婆伊毛我手爾麻久可我美奈須)三津ノ濱邊デ、大船ニ櫓ヲ澤山ニ貫イテ、韓國ニ渡ツテ行カウト、直グ向ヒニアル敏馬ヲサシテ、汐ガ滿チテ來ルノ〔七字傍線〕ヲ待ツテ、舟ノ通リ道ノ〔六字傍線〕水脈ヲ水先案内ヲ付ケテ沖ヘ出テ〔四字傍線〕行クト、沖ニハ白浪ガ高イカラ、岸ノ方カラ漕イデ行クト、(和伎毛故爾)淡路ノ島ハ、夕方ニナルト雲ニ隱レテシマツタ。夜ガ更ケテ何方ヘ行ツテヨイカ方向ガ分ラナイノデ、(安我己許呂)明石ノ浦ニ船ヲ止メテ、船ノ中デ〔四字傍線〕浮寢ヲシナガラ、海ノ沖ノ方ヲ見ルト、漁ヲシテヰル海士ノ女ドモハ、小舟ニ乘ツテ漁火ヲ點シテ〔六字傍線〕ズラリト並ン(561)テカンデヰル。曉ノ汐ガ滿ちて來ルト、蘆ノ生エテヰル〔六字傍線〕邊デハ鶴ガ啼イテ飛ンデヰル。朝風ノナイダ時ニ船出ヲシヨウト、船頭共モ水夫モカケ聲ヲシテ、(柔保等里能)波ニツカリナガラ漕イデ〔三字傍線〕行クト、家島ハ空ノ彼方〔三字傍線〕ニ遠ク〔傍線〕見エタ。家トイフ名カラシテ〔九字傍線〕、私ガイエ家ヲ戀シク〔五字傍線〕思フ心ガ慰ムカト、早クアノ島ヘ〔六字傍線〕行ツテ見ヨウト思ツテ、大船ヲ漕イデ私ガ行クト、沖ノ浪ガ高ク立ツテ來タ。ソレデ家島ヘハ寄ラ〔來タ〜傍線〕ナイデ、他所ニ見タバカリデ通ツテ行ツテ、玉ノ浦ニ舟ヲ止メテ、濱邊カラ浦磯ヲ見ナガラ、戀シサニ〔四字傍線〕泣ク兒ノヤウニ聲ヲ出シテ泣イテバカリヰル。海ノ神樣ガ手ニ卷イテヰル玉ヲ、家ノ土産ニ妻ニヤラウト、拾ヒ取ツテ袖ニ入レタガ、家ヘ屆ケテヤル使ガナイノデ、持ツテヰテモ何ノ〔二字傍線〕甲斐モナイカラトテ、又捨テテシマツタヨ。
 
○安佐散禮婆伊毛我手爾麻久可我美奈須《アササレバイモガテニマクカガミナス》》――見と言はむ爲の序詞。卷四の臣女乃匣爾乘有鏡成見津乃濱邊爾《タワヤメノクシゲニノレルカガミナスミツノハマベニ》(五〇九)とよく似てゐる。妹が手に卷くとは鏡の紐を手に持つことである。○多太牟可布《タダムカフ》――直向ふ。直接に相對してゐる。卷四に直向淡路乎過《タダムカフアハヂヲスギ》(五〇九)、卷六に御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦能《ミケムカフアハヂノシマニタダムカフミヌメノウラノ》(九四六)とある。○美奴面乎左指天《ミヌメヲサシテ》――美奴面《ミヌメ》は敏馬。今の神戸市東方西灘村地方。○美乎妣伎由氣婆《ミヲビキユケバ》――水脈即ち深いところを導き教へること。難波の三津に水先案内がゐたのである。○宇良未欲理《ウラミヨリ》――舊本、末とあるは未の誤である。○和伎毛故爾《ワギモコニ》――枕詞。吾妹子に逢ふの意で、淡路につづいてゐる。卷十に吾妹吾爾相坂山之《ワギモコニアフサカヤマノ》(二二八三)とあつた。○久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》――雲ゐに隱れぬの意。雲ゐは雲。ここは空ではない。○安我己許呂《アガココロ》――吾が心|清明《アカ》しの意で明石につづいてゐる。御心乎吉野乃國之《ミココロヲヨシヌノクニノ》(三六)の類で、上代の國民性があらはれてゐて嬉しい。○都良良爾宇家里《ツララニウケリ》――列々に浮けり。小舟が連なつて海上に浮んでゐるといふ意、前の歌に伊射里須流安麻能等毛之備於伎爾奈都佐布《イザリスルアマノトモシビオキニナヅサフ》(三六二三)とあるのと同じで、漁火を見ていつてゐる。○鹿子毛許惠欲妣《カコモコヱヨビ》――鹿子《カコ》は水手。船を漕ぐ男。○柔保等里能《ニホドリノ》――鳰鳥の。奈豆左比《ナヅサヒ》の枕詞として用ゐてある。鳰島はカイツブリ。○奈豆左比由氣婆《ナヅサヒユケバ》――ナヅサヒは浪に漂ふこと。○伊敏之麻波《イヘシマハ》――家島は播磨揖保郡の海上にある島。○安我毛敝流許已呂奈具也等《アガモヘルココロナグヤト》――わが家を思へ(562)る心が慰むかと。家島といふ名によつて言つてゐる。○多麻能宇良爾《タマノウラニ》――前に多麻能宇良爾安佐里須流多豆奈伎和多流奈里《タマノウラニアサリスルタヅナキワタルナリ》(三五九八)とあつたのと同所。多分備中の玉島の浦であらう。○和多都美能《ワタツミノ》――海の神の。○多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》――多麻伎《タマキ》は手に纏く玉即ち釧のことであらう。字鏡に釧 多萬伎とある。なほ上代には手纏《タマキ》と稱する小手の如きものがあつて、和名抄射藝具に「※[革+溝の旁]多末岐一云小手」とあるが、それとは同名異物である。
〔評〕 題に屬v物發v思とあるのは、家島を眺めて家を戀しく思つたといふのか、玉の浦で玉を拾つて妹をなつかしく思つたといふのか、はつきりしないが、大躰大まかにかうした題を置いたのであらう。難波の三津から玉の浦に至る間の航路と海上の情景が、面白く述べてある。家苞に拾つた海若のたまきの玉といふのは、海岸に打上げられてゐた白い石であらう。結句、旅情はよくあらはれてゐる。なほこの歌は長門浦の後に出てゐるがそれによつて、玉の浦を安藝にあるものと考へることは出來ない。併し作つた時日は長門の浦を過ぎてからと考へてもよい。
 
反歌二首
 
3628 多麻の浦の 沖つ白珠 拾へれど またぞ置きつる 見る人を無み
 
多麻能宇良能《タマノウラノ》 於伎都之良多麻《オキツシラタマ》 比利敝禮杼《ヒリヘレド》 麻多曾於伎都流《マタゾオキツル》 見流比等乎奈美《ミルヒトヲナミ》
 
玉ノ浦ノ沖ノ海ノ底ノ〔四字傍線〕白玉ヲ拾ツタケレドモ、ソレヲ手ニ取ツテ〔五字傍線〕見ル妻ガ此處ニハ〔四字傍線〕ヰナイカラ、ツマラナクテ〔六字傍線〕再ビ其處ヘ〔三字傍線〕捨テテシマツタ。
 
○見流比等乎奈美《ミルヒトヲナミ》――見る人は妻をいふ。新考に「見の下に須をおとせるならむ」とあるのは從ひ難い。
〔評〕 長歌の末句を繰返したのみ。玉の浦で海神のたまきの玉を拾つたといふのは、實事かも知れないが、わざ(563)
 
3629 秋さらば 吾が船泊てむ わすれ貝 寄せ來て置けれ 沖つ白浪
 
安伎左良婆《アキサラバ》 和我布禰波弖牟《ワガフネハテム》 和須禮我比《ワスレガヒ》 與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》 於伎都之良奈美《オキツシラナミ》
 
秋ニナツタナラバ私ノ舟ガ再ビ此處ニ歸ツテ來テ〔十字傍線〕泊ルデアラウ。沖ノ白浪ヨ。ソレマデニ〔五字傍線〕忘貝ヲ打チ寄セテ來テ置ケヨ。ソノ時コソ珍ラシイ忘貝ヲ拾ツテ土産ニ持つて歸ラウ〔ソノ〜傍線〕。
 
○與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》――寄せて來て置けよの意。於家禮《オケレ》は置ケリの命令形である。下に之呂多侶能安我之多其呂宇思奈波受毛弖禮和我世故多太爾安布麻低爾《シロタヘノアガシタゴロウシナハズモテレワガセコタダニアフマデニ》(三七五一)ともある。
〔評〕 これも「秋さらば吾が舟泊てむ」と言つて、歸朝の近いことを信じてゐる。歸途には忘貝はさして要もなささうである。珍らしいものとして家苞にしたか。袖中抄に載つてゐる。
 
周防國|玖珂《クガ》郡|麻里布《マリフノ》浦(ヲ)行(ク)之時、作(レル)歌八首
 
玖珂郡は續紀に「養老五年四月丙申、分2周防國熊毛郡1置2玖珂郡1」とあり、和名抄に「玖珂、珂音如v鵞」と訓法を示してゐる。麻里布浦は略解に「鞠生今は佐波郡也」とあるが、佐波郡の海岸にはさういふ所はない。大日本地名辭書は「今詳ならずと雖、室木の浦即是なりと云ひ傳へ、近年麻里布村と改稱す」とある。岩國町の東方に當つてゐる。この邊は錦河の土砂を流して海を埋めてゐるから、上代とは著しく地形を異にしてゐるであらう。歌の訓序によつて考へると、やはりこのあたりであらねばならぬ。なほ熊毛郡の西南海岸に麻里府があるが、これと無關係である。
 
3630 眞楫貫き 船し行かずは 見れど飽かぬ 麻里布の浦に やどりせましを
 
(564)眞可治奴伎《マカヂヌキ》 布禰之由加受波《フネシユカズハ》 見禮杼安可奴《ミレドアカヌ》 麻里布能宇良爾《マリフノウラニ》 也杼里世麻之乎《ヤドリセマシヲ》
 
私ノ乘ツテヰル〔七字傍線〕舟ガ、楫ヲカケテ、漕イデ〔三字傍線〕行カナイナラバ、イクラ見テモ〔六字傍線〕見飽キナイ麻里布ノ浦ニ旅寢ヲシヨウノニ。舟ガ進ンデ行クノデ、コノ佳イ景色ヲ空シク通リ過ギテ行クノハ殘リ惜シイ〔舟ガ〜傍線〕。
 
○布禰之由加受波《フネシユカズハ》――船が行かないならば。シは強めていふのみ。○也杼里世麻之乎《ヤドリセマシヲ》――舊本、牟とあるのは乎の誤。類聚古集・西本願寺本などの古本多くは乎に作つてゐる。
〔評〕 景色の佳い麻里布の浦を、空しく通過することを惜しんでゐるだけで、平凡な歌である。
 
3631 いつしかも 見むと思ひし 粟島を 外にや戀ひむ 行くよしを無み
 
伊都之可母《イツシカモ》 見牟等於毛比師《ミムトオモヒシ》 安波之麻乎《アハシマヲ》 與曾爾也故非無《ヨソニヤコヒム》 由久與思乎奈美《ユクヨシヲナミ》
 
何時ニナツタナラバ、見ラレルカト思ツテ、樂シミニシテ來〔八字傍線〕タ粟島ヲ、其處ヘ〔三字傍線〕行クコトガ出來ナイノデ、立チ寄ラズニ〔六字傍線〕、他所ナガラ戀シク思ヒツツ〔五字傍線〕行クコトカヨ。殘念ダ〔三字傍線〕。
 
○安波之麻乎《アハシマヲ》――安波之麻は周防の近海にあるものと見えるが分らない。卷三の武庫浦乎※[手偏+旁]轉小舟粟島矣《ムコノウラヲコギタムヲブネアハシマヲ》(三五八)卷四の直向淡路乎過粟島乎背爾見管《タダムカフアハヂヲスギアハシマヲソガヒニミツツ》(五〇九)などの粟島は淡路に近いところである。
〔評〕 粟島は上代人に餘程有名であつたと見える。今その島に近づきながら、航路から隔つてゐるので、空しく通過することを惜しんでゐるものである。平板。
 
3632 大船に かし振り立てて 濱清き 麻里布の浦に やどりかせまし
 
(565) 大船爾《オホブネニ》 可之布里多弖天《カシフリタテテ》 波麻藝欲伎《ハマキヨキ》 麻里布能宇良爾《マリフノウラニ》 也杼里可世麻之《ヤドリカセマシ》
 
私ノ乘ツテヰルコノ〔九字傍線〕大船ニ、舟ヲ繋ク爲ノ〔六字傍線〕※[爿+戈]※[爿+可]《カシ》トイフ棒〔四字傍線〕ヲ立テテ、舟ヲ繋イデ〔五字傍線〕、海岸ノ景色ノ佳イ麻里布ノ浦デ、旅寢ヲシヨウカ。出來ルナラ〔旅寢〜傍線〕宿リタイト思フ。
 
○可之布里多弖天《カシフリタテテ》――可之《カシ》は※[爿+戈]※[爿+可]、船を繋ぐ爲に岸に突き立てる杙である。卷七に舟盡可志振立而廬利爲名子江乃濱邊過不勝鳧《フネハテテカシフリタテテイホリセムナゴ》エノハマベスギカテヌカモ》(一一九〇)とある。
〔評〕 これも麻里布の浦に未練を殘してゐる歌。右の卷七の歌と略同樣である。
 
3633 粟島の 逢はじと思ふ 妹にあれや やすいも寢ずて 吾が戀ひ渡る
 
安波思麻能《アハシマノ》 安波自等於毛布《アハジトオモフ》 伊毛爾安禮也《イモニアレヤ》 夜須伊毛禰受弖《ヤスイモネズテ》 安我故非和多流《アガコヒワタル》
 
今後再ビ〔四字傍線〕(安波思麻能)逢フマイト思フ妻デアラウヤ。決シテサウデハナイ。又歸ツテ、再ビ妻ニ逢フコトモアルノニ、私ハ〔決シ〜傍線〕、安ラカニ落チ着イテ〔五字傍線〕寢ルコトモ出來ナイデ、妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思ヒ續ケテヰル。
 
○安波思麻能《アハシマノ》――附近にある島の名を以て枕詞を作つたもの。同音を繰返して、安淡自《アハジ》につづいてゐる。○伊毛爾安禮也《イモニアレヤ》――妹ならむや、妹にはあらざるをの意。略解に「妹が思ふものならば夢にも見ゆべきに、妹があはじとおもへばにや、我寐ねられず思ふと言ふ也」とあるのはよくない。
〔評〕 妻を思うて眠りかねる吾が腑甲斐なさを自から嘲つてゐる。粟嶋といふ近所の島を枕詞にしたのが作者の思付であらう。
 
3634 筑紫道の 可太の大島 しましくも 見ねば戀しき 妹を置きて來ぬ
 
(566)筑紫道能《ツクシヂノ》 可太能於保之麻《カダノオホシマ》 思末志久母《シマシクモ》 見禰婆古非思吉《ミネバコヒシキ》 伊毛乎於伎弖伎奴《イモヲオキテキヌ》
 
(筑紫道能可太能於保之麻)暫クノ間モ、見ナイデ居テハ、戀シイ妻ヲ家ニ〔二字傍線〕殘シテ來タ。アア戀シイ〔五字傍線〕。
 
○筑紫道能可太能於保之麻《ツクシヂノカダノオホシマ》――筑紫へ行く道にある可太の大島。可太の大島は、周防の大島である。下に大島鳴門とある大島で、一郡をなした大なる島である。古事記上卷に「次生2大島1亦名謂2大多麻流別1」とあるのもこの島である。可太はこの附近の古名らしい。新考に筑紫道の方の大嶋としたのは當らない。この二句はシマの音を繰返して思末志久母《シマシクモ》につづく序詞。
〔評〕これも前の歌と同じく、旅中嘱目するところを以て序詞を作つた點が取得である。併し於保之麻《オホシマ》から思末志久母《シマシクモ》へ繰返したのは、序詞として巧なものとは言はれない。袖中抄に出てゐる。
 
3635 妹が家ぢ 近くありせば 見れど飽かぬ 麻里布の浦を 見せましものを
 
伊毛我伊敝治《イモガイヘヂ》 知可久安里世婆《チカクアリセバ》 見禮杼安可奴《ミレドアカヌ》 麻里布能宇良乎《マリフノウラヲ》 見世麻思毛能乎《ミセマシモノヲ》
 
妻ガ居ル私ノ〔四字傍線〕家ヘ行ク道ガ近イナラバ、コノ見飽キノシナイ景色ノ良イ〔五字傍線〕麻里布ノ浦ヲ妻ニ〔二字傍線〕見セヨウノニ。家マデ遠イノデコノ佳イ景色ヲ見セラレナイノハ殘念ダ〔家マ〜傍線〕。
 
○伊毛我伊敝治《イモガイヘヂ》――妻の住んでゐる家へ行く道。即ち吾が故郷への道である。
〔評〕 平凡な歌である。初二句は拙い感じがする。
 
3636 家人は 歸り早來と 伊波比島 いはひ待つらむ 旅行く我を
 
(567)伊敝妣等波《イヘビトハ》 可敝里波也許等《カヘリハヤコト》 伊波比之麻《イハヒシマ》 伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》
 
家ニ居ル人ハ早ク歸ツテ來ルヤウニト、コノ〔二字傍線〕旅ニ出テヰル私ヲ(伊波比之麻)神樣ニ祈ツテ待ツテヰルノデアラウ。
 
○可敝里波也許等《カヘリハヤコト》――早歸り來といふに同じ。○伊波比之麻《イハヒシマ》――同音を繰返して次句につづく枕詞として用ゐてある。伊波比島は熊毛郡の海上、長島の西方にある島。小祝島と稱する小島がその西方に所屬してゐる。題の麻里布浦行之時を文字通りに解釋すると、此處にあるのはをかしいが、この八首は一地點で詠んだものでないであらうし、又通路に當る島名を前以て取入れて詠んだとも考へられる。但し熊毛郡の別府を麻里府と改稱した説によれば、祝島が此處にあつてよいわけである。○伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》――伊波比《イハヒ》は齋ひ。神を祭ること。
〔評〕 これも通路にあたる島の名を以て枕詞としただけである。内容は當時の習俗をそのまま詠んでゐる。
 
3637 草枕 旅行く人を いはひ島 幾代經るまで いはひ來にけむ
 
久左麻久良《クサマクラ》 多妣由久比等乎《タビユクヒトヲ》 伊波比之麻《イハヒシマ》 伊久與布流末弖《イクヨフルマデ》 伊波比伎爾家牟《イハヒキニケム》
 
コノ島ハ〔四字傍線〕(久左麻久艮)旅ニ出テヰル人ノ無事〔三字傍線〕ヲ神ニ祈ルト云フ名ノ〔九字傍線〕祝島デアルガ、ソノ名ノ通リ、今マデニ〔デア〜傍線〕幾年ニナルマデ旅人ノ無事ヲ〔六字傍線〕神ニ祈ツテ來タデアラウ。隨分久シイコトダラウ〔十字傍線〕。
〔評〕 少し曖昧な點がある。併し略解に「昔より旅行人を幾代經るまで齋《イハヒ》來りて、島の名に負けむと也」とあるやうに解するのは無理であらう。祝島といふ名によつて神を祝つたのである。前の歌と同じく、島の名によつて思ひついたことを詠んだ、旅中の即興で、淡い興味を以つて詠んだのである。
 
(568)過(ギテ)2大島鳴門(ヲ)1而經(タル)2再宿(ヲ)1之後追(ヒテ)作(レル)歌二首
 
大島鳴門は大島と玖珂郡大畠との間の海峽で、大畠瀬戸といつてゐる。省線大畠驛の前面の海がそれで、その間隔二百メートル位に見える所もある。激しい潮流がいつも渦を卷いてゐる。再宿を經たる後とあるからこの海峽を通過後二日の後に思ひ出して詠んだものと見える。
 
3638 これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に 玉藻苅るとふ 海人少女ども
 
巨禮也己能《コレヤコノ》 名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》 宇頭之保爾《ウヅシホニ》 多麻毛可流登布《タマモカルトフ》 安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》
 
コレガアノカネテ聞イテヰタ〔八字傍線〕、ソノ名ノ通リ潮ガ鳴リ轟イテ流レル〔十字傍線〕鳴門ノ渦卷ク汐ノ中デ、玉藻ヲ苅ルト云フ海士ノ少女共ダナア。
 
○巨禮也己能《コレヤコノ》――これがあの。終を名詞で止めて、詠嘆的に言ひさめる語法。結句の安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》にかかつ(569)てゐる。卷一に 此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山《コレヤコノヤマトニシテハワガコフルキヂニアリトフナニオフセノヤマ》とある。○名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》――名に負ふは、各に持つてゐる。名のやうな。ここは鳴門の名に背かない意。鳴門は潮が烈しい音を立てて鳴る瀬戸。○宇頭之保爾《ウヅシホニ》――渦を卷く潮の中で。
〔評〕 題詞によれば大島鳴門で詠んだのではないが、歌は目前にその海人處女を見るやうに詠んでゐる。多麻毛可流登布《タマモカルトフ》とあるのは、藻を苅る業を見て言ふのではないやうだ。明快な調子だ。和歌童蒙抄に載せてある。
 
右一首田邊秋庭
 
秋庭の傳は明らかではない。
 
3639 浪の上に 浮宿せしよひ あど思へか 心がなしく 夢に見えつる
 
奈美能宇倍爾《ナミノウヘニ》 宇伎禰世之欲比《ウキネセシヨヒ》 安杼毛倍香《アドモヘカ》 許己呂我奈之久《ココロガナシク》 伊米爾美要都流《イメニミエツル》
 
私ガ〔二字傍線〕浪ノ上デ舟中ニ〔三字傍線〕浮寢ヲシタ夜ニ、家ニ殘シテ來タ妻ガ〔九字傍線〕何ト思ツタノデ、イトシクモ、妻ノコトガ私ノ〔七字傍線〕夢ニ見エタノデアラウカ。
 
○安杼毛倍香《アドモヘカ》――何と思へばか。卷十四に安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母《アドモヘカアジクマヤマノユヅルハノフフマルトキニカゼフカズカモ》(三五七二)とある。ナドをアドといふのは東語式の訛音であるが、他にその例がないのではない。○許己呂我奈之久《ココロガナシク》――我奈之久《ガナシク》はなつかしく、いとしく。
〔評〕 作者が明らかになつてゐないから、前に多く見えた人と同一人である。前の歌と關聯せしめて、鳴戸の孃子を夢に見たと解する説は誤つてゐる。
 
熊毛浦(ニ)船泊之夜、作(レル)歌四首
 
(570)和名抄に熊毛那熊毛郷の地が見えてゐる。郡の南端で今の佐賀・室津・伊保庄等の諸村を含む半島である。今の小郡の地を郡家とすれば、熊毛浦は恐らくその海岸であらう。
 
3640 都べに 行かむ船もが 刈菰の 亂れて思ふ 言告げやらむ
 
美夜故邊爾《ミヤコベニ》 由可牟船毛我《ユカムフネモガ》 可里許母能《カリコモノ》 美太禮弖於毛布《ミダレテオモフ》 許登都礙夜良牟《コトツゲヤラム》
 
都ノ方ニ行ク船ガアレバヨイガ。サウシタラバ私ガ心ガ〔サウ〜傍線〕(可里許母能)亂レテ妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思フコトヲ妻ニ〔二字傍線〕知ラセテヤラウ。
 
○可里許母能《カリコモノ》――枕詞。苅菰の如く亂れとつづく。○許登都礙夜良牟《コトツゲヤラム》――許登《コト》は言とも事とも解されるが、亂れて思つてゐることを告げてやらうといふのであらう。
〔評〕 心も亂れつつ妻を思つてゐることを、都にしらせてやりたいが、都の方へ行く舟があればよいといふのである。音信の不便であつた當時としては尤もな考であるが、かうした内容のものは尠くない。
 
右一首|羽栗《ハグリ》
 
羽栗は誰ともわからない。代匠記に「寶字五年十一月癸未授d迎2清河1使外從五位下高元度從五位上u其録事羽栗翔者留21清河所1而不v歸。この人にや。又略して氏のみをかけるか、名の脱たる歟」とある。この行にも録事として加つてゐたものか。
 
3641 曉の 家戀しきに 浦廻より 楫の音するは 海人少女かも
 
安可等伎能《アカトキノ》 伊敝胡悲之伎爾《イヘコヒシキニ》 宇良未欲理《ウラミヨリ》 可治乃於等須流波《カヂノオトスルハ》 安麻乎等女可母《アマヲトメカモ》
 
(571)夜明ケ方ニ家ヲ思ヒ出シテ〔六字傍線〕戀シイ時ニ、海岸カラ、櫓ノ音ガ聞エルノハ、海士ノ少女ガ舟ヲ漕イデ行クノ〔九字傍線〕デアラウカ。アノ音ヲ聞クト、益々家ガ戀シクナル〔アノ〜傍線〕。
 
○安可等伎能《アカトキノ》――曉にの意。○宇艮未欲里《ウラミヨリ》――舊本、末とあるは他の例によれば未《ミ》の誤である。
〔評〕 靜かな曉に櫓聲を聞いて、望郷の念のいや益すことを歌つてゐる。淋しい感情と靜かな海邊の景とが、しんみりとした調子に盛られてゐる。佳い作だ。但し古義のやうに「かれをきけば、いつしかあの如く船漕て、家の方には歸るべきと思はれて、さても殊更に家戀しく思はるるよとなり」と見るのは、あまり過ぎてゐる。あの船のやうに故郷に歸りたいといふ考は見えてゐない。
 
3642 沖邊より 潮滿ち來らし 韓の浦に 求食する鶴 鳴きて騷ぎぬ
 
於枳敝欲理《オキベヨリ》 之保美知久良之《シホミチクラシ》 可良能宇良爾《カラノウラニ》 安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》 奈伎弖佐和伎奴《ナキテサワギヌ》
 
沖ノ方カラ段々ニ〔三字傍線〕汐ガ滿チテ來ルラシイ。韓ノ浦デ餌ヲ〔二字傍線〕アサツテヰル鶴ガ鳴イテ騷イデヰル。
 
○可良能宇艮爾《カラノウラニ》――可良の浦は何處か明瞭でないが、周防の熊毛又は都濃郡内であらう。略解に「からの浦は筑前韓泊歟。長門赤間より今の道一里程有とぞ」とあり、古義もこれを踏襲してゐるのは、とんでもない説である。○安佐里須流多豆《アサリスルタヅ》――餌を探してゐる鶴。
〔評〕 汐のさして來るにつれて、海邊が深くなるので、今まで靜かに餌をあさつてねた鶴が、遽に騷ぎ出したといふので、かの山部赤人の名歌、卷六の若浦爾鹽滿來者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡《ワカノウラニシホミチクレバカタヲナミアシベヲサシテタヅナキワタル》(九一九)には及ばないが、かなり躍動的の風景が描き出されてゐる。
 
3643 沖邊より 船人のぼる 呼びよせて いざ告げ遣らむ 旅の宿りを 一云、旅のやどりをいざ告げやらな
 
於吉敝欲里《オキベヨリ》 布奈妣等能煩流《フナビトノボル》 與妣與勢弖《ヨビヨセテ》 伊射都氣也良牟《イザツゲヤラム》 多婢(572)能也登里乎《タビノヤドリヲ》
 
(572)沖ノ方ヲ船頭ガ舟ヲ漕イデ都ノ方ヘ〔九字傍線〕上ツテ行クノガ見エル〔五字傍線〕。アノ舟ヲ〔四字傍線〕呼ビ寄セテ、私ガ此處ニ〔五字傍線〕旅宿リヲシテヰルコトヲ、サア家ヘ〔二字傍線〕告ゲテヤラウ。
 
○於伎敝欲里《オキベヨリ》――前の歌の初句とは少し違つて、沖の方をの意。源氏物語須磨に「沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎゆく」とあるに同じ。
〔評〕 都への通信の機會を得たことを喜んでゐる。上代人の旅にあつては、かういふことが、心からの滿悦であつたに違ひない。
 
一云 多妣能夜杼里乎《タビノヤドリヲ》 伊射都氣夜良奈《イザツゲヤラナ》
 
これは下の句の異傳である。四五の句が轉倒してゐるだけで殆どかはりはない。但し舊本、結句をイザツゲヤラムと訓んだのはよくない。
 
佐婆《サバノ》海中忽遭(ヒ)2逆風漲浪(ニ)1、漂流(シ)經宿(シテ)而後、幸(ニ)得2順風(ヲ)1、到2著(ス)豐前國|下毛《シモツミケ》郡|分間《ワクマ》浦(ニ)1、於v是追(ヒ)2怛(ミ)艱難(ヲ)1、悽※[立心偏+周](シテ)作(レル)歌八首
 
佐婆は周防國佐波郡。和名抄に佐波 波音馬とあつて、波は濁音である。今の三田尻地方である。その沖合遙かに佐波島といふ小島がある。ここに佐婆海中とあるは佐婆郡の沖合である。下毛郡は和名抄に上毛郡 加牟豆美介とあり、御木《ミケ》を上下に分つて、カムツミケ、シモツミケと訓んだのである。今、上毛は筑城と合して筑上郡となり、福岡縣に屬し、下毛は元のままで大分縣に屬してゐる。分間浦は今、明らかでないが、和田村大字田尻の沙嘴を間間埼といふから、分間は萬間(573)の誤であらうと言はれてゐる。略解に「分間浦は下毛郡に有て、分間をままともわくまとも言へりとぞ」とあるが、和間は字佐郡にあつて、遙かに距つてゐる。
 
3644 大君の 命恐み 大船の 行きのまにまに やどりするかも
 
於保伎美能《オホキミノ》 美許等可之故美《ミコトカシコミ》 於保夫禰能《オホフネノ》 由伎能麻爾末爾《ユキノマニマニ》 夜杼里須流可母《ヤドリスルカモ》
 
私ハ〔二字傍線〕天子樣ノ仰ヲ畏ミ承ツテ、新羅ヘ行クガ、乘ツテヰル〔承ツ〜傍線〕大船ガ行ツテ泊ル所デ、何處デモ旅寢ヲスルヨ。思ヒモヨラズニコンナ所ニ泊ルコトニナツタ〔思ヒ〜傍線〕。
 
○於保夫禰能由伎能麻爾末爾《オホフネノユキノマニマニ》――乘つてゐる大船が行く所に隨つて、行當りばつたりで。この語は暴風に吹かれて意外な地に到着した意を持たせてゐる。
〔評〕 勅命のまにまに、風波に翻弄せられつつ、意外な地點に漂着して宿泊することになつたのを詠んだものだが、大君に對する責務に從ひ、旅の苦難は自己の運命と思ひあきらめて、些の怨嗟の氣分がないのは嬉しい。
 
右一首|雪宅麿《ユキノヤカマロ》
 
雪宅麿は下に雪連宅滿とある。雪は壹岐氏であらう。懷風藻には伊支連古麻呂があつて、目録には雪連と記してゐる。
 
3645 吾妹子は 早も來ぬかと 待つらむを 沖にや住まむ 家附かずして
 
 和伎毛故波《ワキモコハ》 伴也母許奴可登《ハヤモコヌカト》 麻都良牟乎《マツラムヲ》 於伎爾也須麻牟《オキニヤスマム》 伊敝都可受之弖《イヘツカズシテ》
 
(574)私ノ妻ハ私ガ〔二字傍線〕早ク家ニ歸ツテ〔五字傍線〕來ナイカト待ツテヰルデアラウノニ、私ハ中々〔四字傍線〕家ニハ近ヅカナイデ、海ノ上デ月日ヲ送ルコトカヨ。アア早ク歸リタイ〔八字傍線〕。
 
○伴也母許奴可登《ハヤモコヌカト》――早く來ないかと。早く來れよの意となる。但しヌを希望の助動詞とし、カを歎辭とする説は從ひ難い。○於伎爾也須麻牟《オキニヤスマム》――海路に長く日を經ることを、沖に住むといつたのである。○伊敝都可受之弖《イヘツカズシテ》――家に近づかずしての意。下に安波治之麻久毛爲爾見廷奴伊敝都久良之母《アハヂシマクモヰニミエヌイヘヅクラシモ》(三七二〇)とある。
〔評〕 歸京の期遠くして、徒らに海路に日を經るのを歎いてゐる。四句沖にや住まむといつたのは面白い。
 
3646 浦みより こぎ來し船を 風早み 沖つみ浦に やどりするかも
 
宇良未欲里《ウラミヨリ》 許藝許之布禰乎《コギコシフネヲ》 風波夜美《カゼハヤミ》 於伎都美宇良爾《オキツミウラニ》 夜杼里須流可毛《ヤドリスルカモ》
 
海岸カラ漕イデ來タ舟ダガ、風ガヒドイノデ、吹キヤラレテ〔六字傍線〕、沖ノ島ノ浦ニ漂着シテ其處デ〔七字傍線〕旅寢スルヨ。
 
○許藝許之布禰乎《コギコシフネヲ》――漕ぎ來し船なるに。○於伎都美宇良爾《オキツミウラニ》――沖つみ浦に。ミは接頭語のみ。意味はない。沖の島の浦であらう。古義に「奧《オキ》は匣などの底を奥といふに同じく、行つまりたる處をいふ。御《ミ》は例の美稱なり。さればここは海中にもあらず、海底にもあらず、海浦の入こみ行つまりたる處をいふ」とあるのは無理な解釋であらう。新考に「ミウラは眞心にてオキツウラは沖の眞中なるべし」とあるのも根據のない説である。
〔評〕 佐波の海中で暴風に遭つて、周防灘の眞中に吹きやられて、姫島などの岸に漂着したことを詠んだのであらう。その事件を歌つたものとしては叙述に力が足りない。
 
3647 わぎもこが 如何に思へか ぬばたまの 一夜もおちず 夢にし見ゆる
 
和伎毛故我《ワギモコガ》 伊可爾於毛倍可《イカニオモヘカ》 奴婆多末能《ヌバタマノ》 比登欲毛於知受《ヒトヨモオチズ》 伊米(575)爾之美由流《イメニシミユル》
 
家ニ殘ツテヰル〔七字傍線〕吾ガ妻ガ何ト思フカラカ(奴婆多末能)一晩モカカサズニ、私ノ〔二字傍線〕夢ニ妻ガ〔二字傍線〕見エルヨ。妻モ私ヲ思ツテヰルト見エル〔妻モ〜傍線〕。
 
○伊可爾於毛倍可《イカニオモヘカ》――如何に思へばか。○比登欲毛於知受《ヒトヨモオチズ》――一夜も洩れなく。
〔評〕 平明な歌である。下の宅守の歌に於毛比都追奴禮婆可毛等奈奴婆多麻能比等欲毛意知受伊米爾之見由流《オモヒツツヌレバカモトナヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》(三七三八)とあり、その他かういふ内容も語例もかなり澤山ある。
 
3648 海原の 沖邊に燭し 漁る火は 明して燭せ 大和島見む
 
宇奈波良能《ウナバラノ》 於伎敝爾等毛之《オキベニトモシ》 伊射流火波《イザルヒハ》 安可之弖登母世《アカシテトモセ》 夜麻登思麻見無《ヤマトシマミム》
 
海ノ上ノ沖デ、トモシテ漁ヲシテヰル漁火ハ、モツト〔三字傍線〕、明ルク燭シテクレヨ。私ハ其ノ火デ私ノ故郷〔私ハ〜傍線〕ノ大和島ヲ見ヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○安可之弖登母世《アカシテトモセ》――明るくして燭せの意。古義に夜を明して燭せよと解してゐるが、夜を徹して如何に永く燭すとも、見えぬものは見えないわけだから、光力を増して明るくせよといふのである。○夜麻登思麻見無《ヤマトシマミム》――夜麻登思麻《ヤマトシマ》は大和國をさす。卷三に天離夷之長道從戀來者自明門倭島所見《アマザカルヒナノナガヂヲコヒクレバアカシノトヨリヤマトシマミユ》(二五五)とある倭島《ヤマトシマ》も同じである。明石の地名とするのは大なる誤謬である。
〔評〕 沖に並んだ漁火を見て、あの明るさをもう少し増したなら、吾が故郷の大和が見えないことはあるまいと切な望郷の念から、ふとさう思つたのである。道理にはづれた幼い構想が、いたましくあはれでもある。
 
3649 鴨じもの 浮宿をすれば 蜷の腸 か黒き髪に 露ぞ置きにける
 
(576)可母自毛能《カモジモノ》 宇伎禰乎須禮婆《ウキネヲスレバ》 美奈能和多《ミナノワタ》 可具呂伎可美爾《カグロキカミニ》 都由曾於伎爾家類《ツユゾオキニケル》
 
浪ノ上ノ舟ノ中デ〔八字傍線〕(可母自毛能)浮寢ヲスルト、私ノ〔二字傍線〕(美奈能和多)黒イ髪ニ夜〔傍線〕露ガ下リタヨ。
 
○可母自毛能《カモジモノ》――枕詞。浮きに冠してある。鴨の如くの意。卷一に鴨自物水爾浮居而《カモジモノミヅニウキヰテ》(五〇)とあつた。○美奈能和多《ミナノワタ》――枕詞。可具呂伎《カグロキ》に冠す。蜷といふ貝の腸が黒いからである。この用例は卷五(八〇四)卷七(一二七七)卷十三(三二九五)卷十六(三七九一)、などにもある。
〔評〕 何でもない歌だが、海上浮寢の樣もしのばれて、あはれに悲しい。
 
3650 ひさかたの 天照る月は 見つれども 吾が思ふ妹に 逢はぬ頃かも
 
比左可多能《ヒサカタノ》 安麻弖流月波《アマテルツキハ》 見都禮杼母《ミツレドモ》 安我母布伊毛爾《アガモフイモニ》 安波奴許呂可毛《アハヌコロカモ》
 
私ガ待ツテヰタ〔七字傍線〕、(比左可多能)空ヲ照ラス月ハ漸ク〔二字傍線〕見タケレドモ、私ノ思フ妻ニハコノ頃逢フコトガ出來ナイヨ。早ク逢ヒタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○見都禮杼母《ミツレドモ》――見たけれども。待つてゐた月は出たけれどもの意。略解の一説に「滿れどもにて、日數のかさなる意にもあらむか」とあるのは誤つてゐる。「見る」と「逢ふ」とを對照せしめたので、滿つでは意味をなさない。
〔評〕 この數日空が曇つてゐて月を見ることが出來なかつたのが、久しぶりで漸く月を仰いだので、それに托して妻思ふ心を述べたのであらう。第三句を「滿つれども」とすれば、六月初句に出發して、十五日ばかり經過(577)したことになるが、右に述べたやうにさうは解釋し難い。下旬の闇が終つて、七月の新月を迎へたものとも考へられるが、七月七日以前に筑紫館に到着してゐたのであるから、此處で三日月を仰いだものとしては、少し日が合はぬやうである。なほ次の歌から見ても初句の月らしくない。月を見るにつけても妻を見る事の出來ないのを悲しむのは、少しわざとらしい點がないでもないが、旅愁はあらはれてゐる。
 
3651 ぬばたまの 夜渡る月は 早も出でぬかも 海原の 八十島の上ゆ 妹があたり見む
 
奴波多麻能《ヌバタマノ》 欲和多流月者《ヨワタルツキハ》 波夜毛伊弖奴香文《ハヤモイデヌカモ》 宇奈波良能《ウナバラノ》 夜蘇之麻能宇敝由《ヤソシマノウヘユ》 伊毛我安多里見牟《イモガアタリミム》 旋頭歌也
 
(奴波多麻能)夜空ヲ〔二字傍線〕通ル月ハ早ク出テ來ナイカヨ。私ハ〔二字傍線〕海ノ上ノ澤山ノ島ノ彼方ニ、懷シイ〔三字傍線〕妻ノ家ノ方ヲ月ノ光デ〔四字傍線〕眺メヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○波夜毛伊弖奴香文《ハヤモイデヌカモ》――早く出てくれよの意。
〔評〕 前の歌は月を見て詠んだもの。これは月を待つ歌であるから、同夜の作ではないであらう。但し、この歌を始に作つたものとすれば、同夜の作と見られないことはない。旋頭歌の形式を試みただけで、佳作とは言はれない。袖中抄に出てゐる。
 
至(リ)2筑紫館(ニ)1遙(ニ)望(ミ)2本郷(ヲ)1悽愴(シテ)作(レル)歌四首
 
筑紫館は筑紫の博多にあつた官設の宿泊所である。九洲萬葉地理考に、「この筑紫館は志賀島にあつた官立の旅館であつたと新考にはありますが、中山博士の説では、舊福岡城内即ち今の歩兵二十四聯隊の兵營構内にあつた對外的客館であつたとのことです。「古代博多」といふ論説中に、氏は『初に筑紫館(大津館)と呼び後に鴻臚館と稱するに至つた對外的客館の設立時代に關しては、(578)我正史には毫も之に就いて記載せる處が無いから、考古學的見地に立つて、遣物の例から之を決定せんとして、前に擧示した福岡城内發見の古瓦の紋樣を通覽すると、其中一個のものは平安朝時代後期の頃に比定すべきものであるが、他は皆奈良朝時代前期に推定すべきものであつて此時代に於て彼の地點に既に筑紫館が建設されてゐたのを知らしむるものである。而して此の瓦當紋檢査に際して吾人の最も注意を喚起するのは、掲出した六個の華瓦の當紋であつて、此物は嘗て私が水城西門址より發見したもの及び都府樓草庵の河邊勵雲師が都府樓址畔より得られた華瓦式中の最古式のものの一つと同紋のものである。此事より推察すれば、筑紫館なるものは、水城や都府樓と略々同時代の建造物といふべく、水城の築造が天智天皇の二年なることは正史の記する所で、都府樓即ち太宰府正廳の移轉に決したのが同帝の二年と三年との間なるべきことは前に論定した處である、隨つて筑紫館も亦大體に於て此頃に起工されたものと見て差支が無い事となるのである云云』と詳細に論ぜられゐます」とある。
 
3652 志珂の海人の 一日もおちず 燒く鹽の 辛き戀をも 我はするかも
 
之賀能安麻能《シカノアマノ》 一日毛於知受《ヒトヒモオチズ》 也久之保能《ヤクシホノ》 可良伎孤悲乎母《カラキコヒヲモ》 安禮波須流香母《アレハスルカモ》
 
故郷ヲ慕ツテ〔六字傍線〕(之賀能安麻能一日毛於知受也久之保能)辛イ戀ヲ私ハシテヰルヨ。
 
○之賀能安麻能《シカノアマノ》――之賀《シカ》は志珂。筑前福岡灣の前面に島をなしてゐるが、今は海の中道の尖端と相接して、干潮時に徒渉することが出來る。○一日毛於知受也久之保能《ヒトヒモオチズヤクシホノ》――一日も洩れなく毎月燒く鹽の。ここまでの三句は辛きとつづく序詞である。○可良伎孤悲乎母《カラキコヒヲモ》――辛き戀は、つらい苦しい戀。
〔評〕 志珂島を眼前に眺めて、古歌を改作し思を述べたもの。即ち卷十一に牡鹿海部乃火氣燒立而燎塩乃辛戀毛吾爲鴨《シカノアマノケブリヤキタテヤクシホノカラキコヒヲモワレハスルカモ》(二七四二)の改作にすぎない。なほ卷十七に須麻比等乃海邊都禰佐良受夜久之保能可良吉戀乎母安禮波須(579)流香物《スマヒトノウミベツネサラズヤクシホノカラキコヒヲモアレハスルカモ》(三九三二)も同型の作である。
 
3653 志珂の浦に 漁する海人 家人の 待ち戀ふらむに 明かし釣る魚
 
思可能宇良爾《シカノウラニ》 伊射里須流安麻《イザリスルアマ》 伊敝妣等能《イヘビトノ》 麻知古布良牟爾《マチコフラムニ》 安可思都流宇乎《アカシツルウヲ》
 
志珂ノ浦デ漁ヲシテヰル海人ヨ。家ノ人タチガ歸リヲ〔三字傍線〕待チ焦レテヰルダラウニ、夜ヲ明〔三字傍線〕カシテ燈火ヲツケテ〔六字傍線〕魚ヲ釣ツテヰルヨ。家業トハ言ヒナガラサゾ辛イデアラウ〔家業〜傍線〕。
 
○安可思都流宇乎《アカシツルウヲ》――安可思《アカシ》は夜を明かして、即ち徹夜しての意。燈火を明くしてと略解にあるのはよくない。
〔評〕 漁火を見てその業に同情したもの。家人の待ち戀ふるにも拘はらず、歸らむとして歸り難い吾が身を思ひくらべてゐるのである。第二句と第五何とを名詞止にしてゐるが、普通ならば第五句も明かし釣る海人とありさうなところを、魚で留めたのは型を破つてゐる。新考に「アカシツル可毛《カモ》」の誤かとあるのは臆斷に過ぎる。
 
3654 可之布江に 鶴鳴き渡る 志珂の浦に 沖つ白浪 立ち頻くらしも 一云、滿ち頻きぬらし
 
可之布江爾《カシフエニ》 多豆奈吉和多流《タヅナキワタル》 之可能宇良爾《シカノウラニ》 於枳都之良奈美《オキツシラナミ》 多知之久良思母《タチシクラシモ》
 
可之布江ニ鶴ガ啼イテ通ツテヰル。アレデ見ルト〔六字傍線〕志珂ノ浦ニ沖ノ白浪ガ頻リニ〔三字傍線〕立ツテ來ルラシイヨ。浪ノ高イ志珂ノ浦ヲケテ穩ヤカナ可之布江ニ行クモノト見エル〔浪ノ〜傍線〕。
 
○可之布江爾《カシフエニ》――可之布江《カシフエ》は香椎潟であらうと諸説が一致してゐる。仙覺抄に引いた筑前風土記に「到2筑紫國1例先參2謁于※[加/可]襲宮1、※[加/可]襲可紫比也」とあり、哥襲は古事記に筑紫※[言+可]志比宮、書紀に橿日浦、本集卷六に香椎廟・(580)香椎乃滷(九五七)香椎滷(九五八)(九五九)などと記したカシヒであらう。襲は音シフであつて、※[加/可]襲は即ちカシフであるから、古くカシフとも稱したものと見える。筑紫館の所在地を博多とすると、香椎では距離がありすぎるが、必ずしも筑紫館上の展望のみを歌つたのではあるまいから、香椎の方へ足を運んだ時の作と見ればよい。但し往古、博多附近に大きな入江があつたことは古圖に見え、それが卷三の草加江(三七五)だと地方人は稱してゐる。予はそれを草加江とする説に賛成するものではなく、或は可之布江ではないかとの疑も有してゐる。けれども古風土記の※[加/可]襲の用字が加之布に一致してゐるから、暫く香椎説に從つて置くのである。○多知之久良思母《タチシクラシモ》――立ち頻くらしも。頻りに立つてゐるらしいよ。立ちし來らしもと見るのはよくない。
〔評〕 可之布江のあたりを鳴き渡る鶴を見て、沖の方、志珂の浦では白波が頻りに立つてゐるのであらうと想像した歌。すがすがしい風景が詠まれてゐるが、この種のものには卷三の櫻田部鶴鳴渡年魚市方鹽干二家良進鶴鳴流《サクラダヘタヅナキワクルアユチガタシホヒニケラシタヅナキワタル》(二七一)卷六の若浦爾塩滿來者滷乎無美葦邊乎指天多頭鳴渡《ワカノウラニシホミチクレバカタヲナミアシベヲサシテタヅナキワタル》(九一九)などの類例が多い。
 
一云 美知之伎奴良思《ミチシキヌラシ》
 
これは第五句の異傳である。滿ち重きぬらし。白波が一面に頻りに立つたのであらうの意。滿ちし來ぬらしもと見るのはよくない。
 
3655 今よりは 秋づきぬらし あしびきの 山松かげに 蜩鳴きぬ
 
伊麻欲理波《イマヨリハ》 安伎豆吉奴良之《アキヅキヌラシ》 安思比奇能《アシビキノ》 夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》 日具良之奈伎奴《ヒグラシナキヌ》
 
今カラハ秋ラシクナツテ來タラシイ。(安思比奇能)山ノ松ノ木蔭デ蜩ガ鳴イテヰル。
 
○安伎豆吉奴良之《アキヅキヌラシ》――秋らしくなつて來たらしい。○夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》――山松は博多灣頭の、荒津の崎の山の松であらう。
(581)〔評〕 七月初旬山蔭に茅蜩の鳴く聲を聞いて、秋を感じたのである 。秋には歸路に就いてゐるつもりであつたが、筑紫で秋の聲を聞いた心地は、淋しかつたであらう。
 
七夕仰(ギ)2觀(テ)天漢(ヲ)1各陳(ベテ)v所(ヲ)v思(フ)作(レル)歌三首
 
これも筑紫館で、七夕を迎へての作であらう。
 
3656 秋萩に にほへるわが裳 ぬれぬとも 君が御船の 綱し取りてば 
 
安伎波疑爾《アキハギニ》 爾保敝流和我母《ニホヘルワガモ》 奴禮奴等母《ヌレヌトモ》 伎美我莫布禰能《キミガミフネノ》 都奈之等理弖婆《ツナシトリテバ》
 
秋ノ萩ノ花デ美シク染メタ私ノ裳ガ、濡レテモヨイカラ、貴方ノ御歸リノ時ニ乘ツテイラツシヤル〔ヨイ〜傍線〕御舟ノ網ヲ握ツテ、離サナイデ、貴方ヲ引キ止メルコトガ出來〔ツテ〜傍線〕ルナラバ着物ナドハドウデモカマヒマセヌ〔着物〜傍線〕。
 
○安伎波疑爾爾保敝流和我母《アキハギニニホヘルワガモ》――秋萩の花で染めた私の衣。織女の着てゐる裳を想像したのである。○伎美我美布禰能都奈之等理弖婆《キミガミフネノツナシトリテバ》――貴方の御舟の綱を手に取るならば、それで滿足だといふのである。綱を手にするのは牽牛星の歸らうとする時に、舟の綱を手に取つて引留るのだと、略解・古義などに見えるが、新考は彦星の舟の著かむとする時に、水におり立つて、織女星みづから舳綱を引寄せる趣に、よんだものと解してゐる。どちらにも解釋は出來るが、舟の到着した際に、裳を濡らしてまでも舳綱を曳く要があるとは思はれないから、舊説をとることにしよう。
〔評〕 織女星の心になつて詠んでゐる。萬里の波濤を越えて行く人ながら、七夕に當つて、星を祭り歌を詠ずるのを忘れなかつた風流は、なつかしい。この行事が如何に盛であつたかを證するものである。
 
右一首大使
 
(582)右に述べたやうに大使は阿倍朝臣繼麻呂である。次男を伴つて旅に出てゐるが、その次男には妻があつたから、大使は既に相當の老齡であつたらうに、海外に使して翌年正月歸途對馬に泊つて病の爲に卒したことを思へば、洵に氣の毒の至りである。
 
3657 年にありて 一夜妹に逢ふ 牽牛星も 我にまさりて 思ふらめやも
 
等之爾安里弖《トシニアリテ》 比等欲伊母爾安布《ヒトヨイモニアフ》 比故保思母《ヒコホシモ》 和禮爾麻佐里弖《ワレニマサリテ》 於毛布良米也母《オモフラメヤモ》
 
一年ノ間待ツテヰテ、唯〔六字傍線〕一晩妻ニ逢フト言ヒ傳ヘテアル〔八字傍線〕彦星デモ、私以上ニ妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思フデアラウカ。私ニハ到底及ブマイ〔九字傍線〕。
 
○等之爾安里弖《トシニアリテ》――一年の間待つてゐて。卷十に年有而今香將卷《トシニアリテイマカマクラム》(二〇三五)とある。○於毛布良米也母《オモフラメヤモ》――思ふらむや、思ひはしないの意。
〔評〕 七夕に際して、牽牛星に比して自己の妻を思ふ心境を歌つたもの。旅人らしい作である。拾遺集に人丸として出してゐる。
 
3658 夕月夜 影立ち寄り合ひ 天》の河 こぐ舟人を 見るがともしさ
 
由布豆久欲《ユフヅクヨ》 可氣多知與里安比《カゲタチヨリアヒ》 安麻能我波《アマノガハ》 許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》 見流我等母之佐《ミルガトモシサ》
 
夕方ノ月ノ出テヰル頃ニ、夕月ノ〔三字傍線〕影ト相立チ寄リ合ツテ、天ノ川ヲ舟ニ乘ツテ〔五字傍線〕漕イデ渡ル彦星ヲ見ルノガ、ウラヤマシイヨ。
 
○由布豆久欲《ユフヅクヨ》――夕方月が出てゐる夜に。これは七日の月である。○可氣多知與里安比《カゲタチヨリアヒ》――夕月の影が立ち寄(583)り合つて。牽牛星と月と相伴ふこと。○許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》――漕ぐ舟人は牽牛星をいふ。○見流我等母之佐《ミルガトモシサ》――等母之《トモシ》は羨まし。
〔評〕 夕月の空にかがやく頃、月を頂いて天の川を渡る牽牛星を想像して詠んでゐる。自分が旅にあつて妻に逢はれぬ悲しみから、久しぶりで妻に逢ふ牽牛星を羨む心はあはれである。
 
海邊望(ミテ)v月(ヲ)作(レル)歌九首
 
海邊とあるのは筑紫館のある博多灣の海岸である。以下の九首は、一も月を詠んだものはないが、月前に宴でも催した時の作であらう。
 
3659 秋風は ひにけに吹きぬ 吾妹子は 何時とか我を いはひ待つらむ
 
安伎可是波《アキカゼハ》 比爾家爾布伎奴《ヒニケニフキヌ》 和伎毛故波《ワギモコハ》 伊都登加和禮乎《イツトカワレヲ》 伊波比麻都良牟《イハヒマツラム》
 
秋風ハ毎日吹イテ來タ。家ニ留守シテヰル〔八字傍線〕吾ガ妻ハ、私ガ何時ニナツタラ歸ツテ來ル〔十字傍線〕カト思ツテ、神樣ニ祈ツテ私ヲ〔二字傍線〕待ツテヰルデアラウカ。サゾ待ツテヰルデアラウニ〔サゾ〜傍線〕。
 
○和伎毛故波《ワギモコハ》――吾が妻は。大使の第二男ながら、既に妻があつたのである。大使がかなり老人であつたことが想像せられる。○伊都登加和禮乎《イツトカワレヲ》――古義はイツカトを顛倒したのだらう言つてゐるが、もとの儘でよい。
〔評〕 秋までには歸るといふことは、一行の人たちが都を出る時、名殘を惜しむ人々に言遺して來た言葉であらう。然るに既に七夕も過ぎて、日毎に秋風は吹き渡つてゐる。それにつけても故郷に待つ人を思ふ心が、いよいよ募るのである。淋しい歌だ。
 
(584)大使之第二男
 
大使の第二男の名は明らかでない。古義に「續紀に寶宇元年八月庚辰、正六位上阿倍朝臣繼人授2從五位下1と見ゆ。もしは此の人か」とある。
 
3660 神さぶる 荒津の埼に 寄する浪 間なくや妹に 戀ひ渡りなむ
 
可牟佐夫流《カムサブル》 安良都能左伎爾《アラツノサキニ》 與須流奈美《ヨスルナミ》 麻奈久也伊毛爾《マナクヤイモニ》 故非和多里奈牟《コヒワタリナム》
 
(可牟佐夫洗安良都能左伎爾與須流奈美)絶間モナク私ハ〔二字傍線〕、妻ヲ戀シク思ヒツヅケテヰルコトデアラウカ。
 
○可牟佐夫流安良津能先伎爾與須流奈美《カムサブルアラツノサキニヨスルナミ》――神々しい荒津の崎に打ち寄せて來る波の如く、間なくと次の句につづく序詞。荒津は今の福岡市西公園になつてゐる丘陵。福岡灣に突出してゐる。
〔評〕 眼前に見える荒津の崎の景を以て序詞を作つてゐる。歌は平凡。
 
右一首土師稻足
 
土師稻足の傳は全くわからない。
 
3661 風のむた 寄せ來る浪に 漁する 海人娘子らが 裳の裾濡れぬ
一云、海人の少女が裳の裾濡れぬ
 
可是能牟多《カゼノムタ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻乎等女良我《アマヲトメラガ》 毛能須素奴禮奴《モノスソヌレヌ》
 
風ノマニマニ打チ寄セテ來ル浪ノ爲ニ、漁ヲシテヰル海人ノ少女等ノ着テヰル〔四字傍線〕裳ノ裾ガ濡レタ。
 
(585)○可是能牟多《カゼノムタ》――風と共に。風のまにまに。○與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》――寄せ來る波の爲に。波の中での意ではない。
〔評〕 海岸で漁をしてゐる海人少女の樣を、見るがままに述べてゐる。凡作といつてよい。
 
一云 安麻乃乎等賣我《アマノヲトメガ》 毛能須蘇奴禮濃《モノスソヌレヌ》
 
四五の句の遺傳として出してあるが、四句が少し異なるのみである。
 
3662 天の原 振放け見れば 夜ぞふけにける よしゑやし 獨寢る夜は 明けば明けぬとも
 
安麻能波良《アマノハラ》 布里佐氣見禮婆《フリサケミレバ》 欲曾布氣爾家流《ヨゾフケニケル》 與之惠也之《ヨシヱヤシ》 比等里奴流欲波《ヒトリヌルヨハ》 安氣婆安氣奴等母《アケバアケヌトモ》
 
空ヲ遙カニ仰イデ見ルト、ドウヤラ〔四字傍線〕夜ガ更ケタヨ。エエモウ〔四字傍線〕ヨロシイヨ。獨デ寢ル晩ハ、明ケルナラ明ケテモカマハナイヨ。アア獨寢ハツライモノダ〔カマ〜傍線〕。
 
○與之惠也之《ヨシヱヤシ》――前にも多くあつた言葉であるが、ヨシはよろし。ヱとヤとシとは詠歎的に添へた助詞である。
〔評〕 空を仰いで夜の更けたのを知つたのは、月の傾いたのを指すのであらう。下の三句は捨鉢的な淋しさが詠まれてゐる。卷十一の旭時等鷄鳴成縱惠也思獨宿夜者開者雖明《アカトキトカケハナクナリヨシヱヤシヒトリヌルヨハアケバアケヌトモ》(二八〇〇)を模倣したらしい。袖中抄に出てゐる、
 
右一首旋頭歌也
 
3663 わたつみの 沖つ繩海苔 來る時と 妹が待つらむ 月は經につつ
 
和多都美能《ワタツミノ》 於伎都奈波能里《オキツナハノリ》 久流等伎登《クルトキト》 伊毛我麻都良牟《イモガマツラム》 月者倍爾都追《ツキハヘニツツ》
 
(586)モウ私ガ歸ツテ(和多都美能於伎都奈波能里)來ル時ト思ツテ、家ニ居ル〔七字傍線〕妻ガ待ツテヰルデアラウガ、ソノ〔三字傍線〕月ハ段々經ツテ行ク。
 
○於伎都奈波能里《オキツナハノリ》――奈波能里《ナハノリ》は繩海苔。繩のやうに細長い海藻。つるも〔三字傍点〕などの類であらう。ここまでの二句は繰るにつづく序詞。繩海苔を手繰り寄せて採る意である。○久流等伎登《クルトキト》――歸つて來る時だとて。來ると繰るとを懸けてある。
〔評〕 海岸で目に觸れる繩海苔を以て序詞を作つてゐる。歸ると妻に約した月が、早くも過ぎむとしてゐるのを歎いてゐる。
 
3664 志珂の浦に 漁する海人 明け來れば 浦みこぐらし 楫の音聞ゆ
 
之可能宇良爾《シカノウラニ》 伊射里須流安麻《イザリスルアマ》 安氣久禮婆《アケクレバ》 宇良未許具良之《ウラミコグラシ》 可治能於等伎許由《カヂノオトキコユ》
 
志珂ノ浦デ漁ヲシテ居ル海人ハ、夜明ニナルト、歸ツテ來テ〔五字傍線〕海岸ヲ漕グラシイ。アノ通リ〔四字傍線〕櫓ノ音ガ聞エルヨ。
 
○安氣久禮婆《アケクレバ》――夜明けが來ると。明けは動詞とも見られるが、多分、名詞であらう。
〔評〕 志珂島の浦近くで漁火をともしてぬた海人が、夜明になると博多方面へ歸つて來て、岸近くを漕ぐ櫓の音が聞えるといふので、筑紫館で月を眺めた翌朝の情趣である。實情はよくあらはれてゐる。
 
3665 妹を思ひ いの寢らえぬに 曉の 朝霧ごもり 雁がねぞ鳴く
 
伊母乎於毛比《イモヲオモヒ》 伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》 安可等吉能《アカトキノ》 安左宜理其問理《アサギリゴモリ》 可里我禰曾奈久《カリガネゾナク》
 
家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ヲ戀シク〔三字傍線〕思ツテ、睡ルコトガ出來ナイノニ、夜明ケ方ノ朝霧ニ隱レテ雁ガ鳴イテ通ル〔四字傍線〕ヨ。
 
(587)○伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》――寐《イ》の寢られぬに。眠ることが寢られないといふので、イは名詞である。舊本、禮とあるは禰の誤。類聚古集その他の古本、多く禰に作つてゐる。○安左宜理其問理《アサギリゴモリ》――其問理《ゴモリ》は隱れに同じ、集中、隱の字をコモリと訓んだ例が多い。
〔評〕 これも曉の旅愁を歌つてゐる 雁が音を點出したのが、哀感をあらはしてゐる。自由に空を飛ぶ雁を羨んだやうに見るのは誤である。
 
3666 夕されば 秋風寒し 吾妹子が ときあらひ衣 行きて早着む
 
由布佐禮婆《ユフサレバ》 安伎可是左牟思《アキカゼサムシ》 和伎母故我《ワキモコガ》 等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》 由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》
 
夕方ニナルト秋風ガ冷々ト膚〔四字傍線〕寒ク吹ク〔三字傍線〕ヨ。早ク家ニ歸ツテ〔七字傍線〕行ツテ、私ノ妻ガ私ノ爲ニ〔四字傍線〕解イテ洗ツテ、仕立テ直シタ衣服ヲ早ク着ヨウ。
 
○等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》――解いて洗つて仕立直した衣。卷七に橡解擢衣之《ツルバミノトキアラヒキヌノ》(一三一四)とある解濯衣も同じ。○由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》――歸つて行つて早く着たい。
〔評〕 悲しい歌だ。まだ往路のうちに、こんなことを歌つてゐる旅人の心中は、同情に堪へない。解濯衣は家なる妻の手業を思ひ浮べたもので、妻戀ふる心のあらはれである。拾遺集に「もろこしにつかはしける時によめる」と題して、人丸の歌としてある。
 
3667 わが旅は 久しくあらし この吾がける 妹が衣の 垢づく見れば
 
和我多妣波《ワガタビハ》 比左思久安良思《ヒサシクアラシ》 許能安我家流《コノアガケル》 伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》 阿(588)可都久見禮婆《アカヅクミレバ》
 
コノ私ガ着テヰル妻ノ着物ガ、垢ガツイタノデ見ルト、私ノ旅モ久シクナツタラシイ。
 
○許能安我家流《コノアガケル》――此の吾が着る。この私が着てゐる。ケはキの轉音である。○伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》――旅に出る時、我に着よとて贈つた妻の衣。古は下着の衣は男女共通の形式になつてゐたから、女の着物を男が着ることが出來たのである。
〔評〕 出立に際して妻が贈つてくれた着物が、垢に汚れたのを見て、いつしか旅の長くなつたのを痛感した歌。あはれな作だ。卷二十の多妣等弊等麻多妣爾奈理奴以弊乃母加枳世之己呂母爾阿加都枳爾迦理《タビトイヘドマタビニナリヌイヘノモガキセシコロモニアカツキニカリ》(四三八八)と内容全く同じであるが、これは天平八年、かれは天平勝寶七歳であるから、この方が早いわけだ。
 
到(リテ)2筑前國志麻郡之|韓亭《カラトマリニ》1、舶泊(テテ)經(ケリ)2三日(ヲ)1於v時夜月之光皎皎(トシテ)流照(ス)、奄《タチマチ》對(シテ)2此華(ニ)1旅情悽噎、各陳(ベテ)2心緒(ヲ)1聊以(テ)裁(セル)歌六首
 
志麻郡は今は怡土《イト》郡と合して、糸島郡と稱してゐる。韓亭は次の歌に可良等麻里《カヲトマリ》といつてゐるから、カラトマリと訓むのである。和名抄に志麻郡|韓良《カラ》郷とあるところである。亭は宿舍であらう。下に能許能等麻里《ノコノトマリ》・引津亭・狛島亭とある。福岡灣の西に位置し、能古島と相對してゐる。古く韓泊・唐泊とも記してある。奄は忽ち。此華は下に於是瞻2望物華1とあるから、これも物の字が脱ちたのではないかと言はれてゐる。此景色の意であらう。悽噎は悲しみ咽ぶ。裁は作る。
 
3668 大君の 遠のみかどと 思へれど け長くしあれば 戀ひにけるかも
 
於保伎美能《オホキミノ》 等保能美可度登《トホノミカドト》 於毛敝禮杼《オモヘレド》 氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》 古非爾家流可母《コヒニケルカモ》
 
(589)此處ハ太宰府ノ管轄内デ〔十字傍線〕、天子樣ノ遠クノ役所デ、都ニ次イダ良イ所〔九字傍線〕ダトハ思フケレドモ、旅ニ出テ〔四字傍線〕、久シクナルカラ、此處デモ心ガ慰マナナイデ、ヤハリ都ヲ〔此處〜傍線〕戀シク思フヨ。
 
○等保能美可度登《トホノミカドト》――等保能美可度《トホノミカド》は遠くにある役所。美可度《ミカド》は御門の意から轉じて御所・天皇・朝廷・役所などに用ゐる。ここは太宰府を指してゐる。大君の遠の役所と思ふとは、大君の役所たる太宰府の所在地で、都に次いだよい所だとは思ふがの意。この語の用例はかなり多い。新解には「わが國土の外邊の地」とあるが、美可度《ミカド》はやはり朝廷の義から轉じて政廳の義に用ゐたものと思はれる。○氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》――日が長く經つたので 日數が多く重なつたから。ケは日《カ》の轉。
〔評〕 韓亭にあつて於保伎美能等保能美可度登於毛敝禮杼《オホキミノトホノミカドトオモヘレド》といふのはをかしいやうだが、ここも太宰府に近く、筑前の國内であるからである。卷六の山部赤人作、不欲見野乃淺茅押靡左宿夜之氣長在者家之小篠生《イナミヌノアサヂオシナベサヌルヨノケナガクシアレバイヘシシヌバユ》(九四〇)に少し似てゐる。
 
(590)右一首大使
 
3669 旅にあれど 夜は日燭し 居る我を 闇にや妹が 戀ひつつあるらむ
 
多妣爾安禮杼《タビニアレド》 欲流波火等毛之《ヨルハヒトモシ》 乎流和禮乎《ヲルワレヲ》 也未爾也伊毛我《ヤミニヤイモガ》 古非都追安流良牟《コヒツツアルラム》
 
私ハ〔二字傍線〕旅ニ居ルケレドモ、夜ニナルト、燈火ヲ點シテ暗イコトモナク過シテ〔十字傍線〕居ルノニ、コノ〔二字傍線〕私ヲ、心モ〔二字傍線〕暗ニナツテ、妻ガ家デ、戀ヒ慕ツテヰルデアラウ。
 
○乎流和禮乎《ヲルワレヲ》――居る我なるをの意。ヲは目的格を示す助詞とも見られるが、さうではあるまい。○也未爾也伊毛我《ヤミニヤイモガ》――戀しさに心も暗くなつて、妹が我を戀しがつてゐるだらうといふのである。闇の中で燈火もつけずにといふのではない。
〔評〕 火燭しに對して闇を用ゐた細工は、萬葉集には全く珍らしい。かうした後世ぶりの技巧が、そろそろ出來かけてゐるのである。
 
右一首大判官
 
大判官は續紀によれば、從六位上壬生使主宇太麻呂である。
 
3670 韓亭 能許の浦波 立たぬ日は あれども家に 戀ひぬ日はなし
 
可良等麻里《カラトマリ》 能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》 多多奴日者《タタヌヒハ》 安禮杼母伊敝爾《アレドモイヘニ》 古非奴日者奈之《コヒヌヒハナシ》
 
コノ私ガ居る〔六字傍線〕韓亭ノ能許ノ浦ノ浪ハ、立タナイ日ハアルケレドモ、私ハ〔二字傍線〕家ヲ戀シク思ハナイ日ハアリマセヌ。
(591)○能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》――能許の浦は殘《ノコ》島の周圍の海をさしたのである。殘島は福岡灣口の中央に横はつてゐて、唐泊に相對しその間約二里を距ててゐるが、すぐ目の前であるから、唐泊に立つ波を能許の浦波といつたのである。下に唐泊を能許能等麻里《ノコノトマリ》(三七六三)と言つたのも、その爲である。○安禮杼母伊敝爾《アレドモイヘニ》――安禮杼母《アレドモ》は前の句につづき、イヘニは家をに同じ。
〔評〕 有りと無しとを對照せしめてゐる。古今集の「駿河なる田子の浦波たたぬ日はあれども君を戀ひぬ日はなし」はこれを改作したものであらう。
 
3671 ぬばたまの 夜渡る月に あらませば 家なる妹に 逢ひて來ましを
 
奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲和多流月爾《ヨワタルツキニ》 安良麻世婆《アラマセバ》 伊敝奈流伊毛爾《イヘナルイモニ》 安比弖許麻之乎《アヒテコマシヲ》
 
(592)(奴波多麻乃)私ガ〔二字傍線〕夜空ヲ通ル月デアツタナラバ、家ニ在ル妻ニ一寸〔二字傍線〕行ツテ逢ツテ來ヨウノニ。月デナイカラ空ヲ通ツテ妻ニ逢つて來ルコトガ出來ナイノハ悲シイ〔月デ〜傍線〕。
 
○奴波多麻乃《ヌバタマノ》――枕詞。夜とつづく。八九參照。○安良麻世婆《アラマセバ》――あつたらうならば マセはマシカバに同じ。
〔評〕 空を渡り行く月を見て、月ならば空から通つて來る妻に、逢つて來ようものをと羨んでゐる。月に寄せてこんな言方をするのは珍らしい。袖中抄に載せてある。
 
3672 ひさかたの 月は照りたり いとまなく 海人の漁火は 燭し合へり見ゆ
 
比左可多能《ヒサカタノ》 月者弖利多里《ツキハテリタリ》 伊刀麻奈久《イトマナク》 安麻能伊射里波《アマノイザリハ》 等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》
 
(比左可多能)月ハ空ニ皎々ト〔五字傍線〕輝イテヰル。サウシテ〔四字傍線〕暇モナク絶エズ〔三字傍線〕、海人ノ漁火ハ海上ニ〔三字傍線〕アチコチ燭シテヰルノガ見エル。マコトニ明ルイ美シイ晩ダ〔マコ〜傍線〕。
 
○伊刀麻奈久《イトマナク》――暇なく。絶え間なく休む間もなくの意。○等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》――燭しあつてゐるのが見える。燭しあふとは、彼方此方に漁夫どもが漁火を燭してゐるをいふ。波立見《ナミタテルミユ》(二七八)波立有所見《ナミタテルミユ》(一一八二)の例によればアヘルミユといふのが普通であるが、船出爲利所見《フナデセリミユ》(一〇〇三)の如き用例もあつて、アヘリミユも亦古格である。
〔評〕 空も海も、共に皎々として明るい景色を捉へてゐる。一寸變つた歌だ。
 
3673 風吹けば 沖つ白浪 恐みと 能許のとまりに 數多夜ぞ宿る
 
可是布氣婆《カゼフケバ》 於吉都思良奈美《オキツシラナミ》 可之故美等《カシコミト》 能許能等麻里爾《ノコノトマリニ》 安麻多欲曾奴流《アマタヨゾヌル》
 
風ガ吹クト、沖ノ白浪ガ立ツノガ〔四字傍線〕恐ロシサニ、私ノ乘ツテヰル舟ハ沖ヘハ出ナイデ〔私ノ〜傍線〕、能許ノ港デ幾晩モ泊ルヨ。
 
(593)○能許能等麻里爾《ノコノトマリニ》――能許の泊は能許島にあるのではなく、韓亭と同所である。前の能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》(三六七〇)の項參照。
[評〕 玄海の白波を眺めて、恐ろしさに船出も得せず、唐泊の港に假泊すること三日に及んだ事情が詠まれてゐる。古代の海路の旅の實感が、まざまざとあらはれてゐる。
 
引津亭(ニ)舶泊(テテ)之作(レル)歌七首
 
引津亭は引津浦の宿舍。引津浦は糸島郡の北部で芥屋の大門の岬を廻ると東に入り込んで灣をなしてゐる。その東に可也山が聳えてゐる。梓弓引津邊在莫謂花《アヅサユミヒキツノベナルナノリソノハナ》(一二九九)(一九三〇)の引津《ヒキツ》も同所であらう。舶泊之の下に夜又は時の字が脱ちたのであらうとする説が多い。併しここにはかなり長く滯在してゐたのだから、夜でない。時でも落つきが惡い。
 
3674 草枕 旅を苦しみ 戀ひ居れば 可也の山邊に さを鹿鳴くも
 
(594)久左麻久良《クサマクラ》 多婢乎久流之美《タビヲクルシミ》 故非乎禮婆《コヒヲレバ》 可也能山邊爾《カヤノヤマベニ》 草乎思香奈久毛《サヲシカナクモ》
 
(久左麻久良)旅ガ難儀デ〔三字傍線〕苦シイノデ、家ヲ〔二字傍線〕戀シク思ツテヰルト、近所ノ〔三字傍線〕可也ノ山ノ邊デ、男鹿ガ淋シイ聲ヲ出シテ〔七字傍線〕啼クヨ。アレモ妻ガ戀シイト見エル〔アレ〜傍線〕。
 
○可也能山邊爾《カヤノヤマペニ》――可也の山は糸島郡の北部に聳えた山で、その西麓に引津がある。その形が富士に似てゐるので小富士と呼ばれてゐる。○草乎思香奈久毛《サヲシカナクモ》――サは接頭語で意味はない。男鹿がなくよ。
〔評〕 妻を戀ふる心から、牡鹿の聲を妻戀ふるものとして、同情を以て聞いてゐる。
 
3675 沖つ浪 高く立つ日に あへりきと 都の人は 聞きてけむかも
 
於吉都奈美《オキツナミ》 多可久多都日爾《タカクタツヒニ》 安敝利伎等《アヘリキト》 美夜古能比等波《ミヤコノヒトハ》 伎吉弖家牟可母《キキテケムカモ》
 
私ガ旅行中ニ沖〔七字傍線〕ノ浪ガ高ク立ツ時化ノ〔三字傍線〕日ニ出會ツテ、辛イ航海ヲシタ〔三字傍線〕トイフコトヲ、都ニ居ル家〔四字傍線〕ノ人ハ聞イタデアラウカ。聞イタラサゾ驚クダラウ〔聞イ〜傍線〕。
 
○美夜古能比等波《ミヤコノヒトハ》――都の人は主として家人をさしてゐる。
〔評〕 沖つ浪の高く立つ大風の日に逢つたといふのは、佐婆の海上で逆風波浪に遭つて、豐前下毛郡分間の浦に漂着した時のことを思ひ出したものらしい。四五の句に家人を思ふ情が、それとなく、にじみ出てゐる。
 
右二首大判官
 
3676 天飛ぶや 雁を使に 得てしがも 奈良の都に 言告げ遣らむ
 
(595)安麻等夫也《アマトブヤ》 可里乎都可比爾《カリヲツカヒニ》 衣弖之可母《エテシカモ》 奈良能弥夜故爾《ナラノミヤコニ》 許登都礙夜良武《コトツゲヤラム》
 
空ヲ飛ンデ通ル雁ヲ使トシテ得タイモノダ。サウシタラバソレニ頼ンデ〔サウ〜傍線〕、奈良ノ都ノ私ノ家〔四字傍線〕ニ、音信ヲシヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○安麻等夫也《アマトブヤ》――天飛ぶや。空を飛ぶ。也《ヤ》は詠歎の助詞として添へてある。○許登都礙夜良武《コトツゲヤラム》――許登《コト》は言。消息を傳へたいといふのである。
〔評〕 古事紀輕太子の歌に阿麻登夫登理母都加比曾多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥《アマトブトリモツカヒゾタヅガネノキコエムトキハワガナトハサネ》とあり、本集卷十一にも妹戀不寐朝明男爲鳥從是此度妹使《イモニコヒイネヌアサケニヲシドリノココユワタルハイモガツカヒカ》(二四九一)とあるが、この雁を使とすることは、蘇武の雁信の故事から思ひついたものであらう。この歌、拾遺集別の部に「もろこしにて」と題し、柿本人丸「天飛ぶや雁の使にいつしかも奈良の都にことづてやらむ」と載せてあるのは妄の甚だしいものだ。
 
3677 秋の野を にほはす萩は 咲けれども 見るしるしなし 旅にしあれば
 
秋野乎《アキノノヲ》 爾保波須波疑波《ニホハスハギハ》 佐家禮杼母《サケレドモ》 見流之留思奈之《ミルシルシナシ》 多婢爾師安禮婆《タビニシアレバ》
 
秋ノ野原ヲ美シク色ドル萩ノ花ガ咲イテ、大層良イ景色ダ〔九字傍線〕ケレドモ、妻ト別レテ私ハ〔七字傍線〕旅ニ出テヰルカラ、妻ヲ思フ心ノ悲シサニ、コノ良イ景色モ〔妻ヲ〜傍線〕見ル甲斐ガナイ。少シモ面白イトハ思ハナイ〔少シ〜傍線〕。
 
○爾保波須波疑波《ニホハスハギハ》――匂はす萩は。爾保波須《ニホハス》は美しく色どること。
〔評〕 秋野の萩を見て、妻を携へない旅の悲しさを、つくづくと感じてゐる。
 
3678 妹を思ひ いの寢らえぬに 秋の野に さを鹿鳴きつ 妻おもひかねて
 
(596)伊毛乎於毛比《イモヲオモヒ》 伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》 安伎乃野爾《アキノヌニ》 草乎思香奈伎都《サヲシカナキツ》 追麻於毛比可禰弖《ツマオモヒカネテ》
 
家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ヲ思ツテ、夜〔傍線〕睡ラレナイノニ、秋ノ野原デ、妻戀シサニ堪ヘカネテ、男鹿ガ啼イテヰルヨ。アレモ私ト同ジヤウニ悲シイト見エル〔アレ〜傍線〕。
○追麻於毛比可禰弖《ツマオモヒカネテ》――妻を思ふ情に堪へかねて。
〔評〕 秋の野は可也の山の麓なる引津の野であらう。前の久左麻久艮《クサマクラ》(三六七三)の歌と同趣同巧である。
 
3679 大船に 眞楫繁貫き 時待つと われは思へど 月ぞ經にける
 
於保夫禰爾《オホブネニ》 眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》 等吉麻都等《トキマツト》 和禮波於毛倍杼《ワレハオモヘド》 月曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》
 
私ハ〔二字傍線〕大船ニ楫ヲ澤山ニ貫イテ、船出スルノニヨイ〔八字傍線〕時ヲ待ツト、私ハ思ツテヰルガ、海ガ荒クテ出帆ニヨイ時ガ來ナイノデ、空シク此處デ〔海ガ〜傍線〕、一月經ツテシマツタ。
 
○等吉麻都等《トキマツト》――船出によき時を待つとて。即ち順風の吹くのを待つのである。代匠記に潮時を待つと解したのに從ふ説が多いのは遺憾である。潮時を待つて月を過す筈はない。
〔評〕 順風を待つて玄海へ乘り出さうとして、引津の亭にかなり長く滯在してゐたのである。その間の焦燥感が思ひやられる。
 
3680 夜を長み いの寝らえぬに あしびきの 山彦とよめ さを鹿鳴くも
 
欲乎奈我美《ヨヲナガミ》 伊能年良延奴爾《イノネラエヌニ》 安之比奇能《アシヒキノ》 山妣故等余米《ヤマビコトヨメ》 佐乎思(597)賀奈君母《サヲシカナクモ》
 
私ハ〔二字傍線〕夜ガ長イノデ、睡ラレナイノニ(安之比奇能)山彦ヲ反響サセテ、男鹿ガ啼クヨ。悲シクテ益々睡ラレナイ〔悲シ〜傍線〕。
 
○山妣古等余米《ヤマビコトヨメ》――山彦はこだま〔三字傍点〕に同じく、反響のこと。古代人は、反響は山中に住む男が答へるものと思つたのである。トヨメはトヨマセ。頼マセを頼メといふに同じであらう。
〔評〕 これも可也の山べになく牡鹿の聲を聞いた作。以上の諸歌いづれも深みはないが、かなりのあはれが籠つてゐる。
 
肥前國松浦郡狛島亭(ニ)舶泊之夜、遙(ニ)望(ミ)2海浪(ヲ)1慟(ミテ)2旅心(ヲ)1作(レル)歌七首
 
狛島亭は狛島にあつた宿舍。狛島は柏島の誤で、今の神集《カシハ》島であらうと言はれてゐる。京大本に柏島とも傍書してある。神集島は今東松浦郡に屬し、湊村の東北海上十町許にある小島で、西に向つた小灣があり、漁戸が百戸ばかりある。延喜式に「肥前國柏島牛牧」とあるのはこの島であらうと言はれてゐる。引津亭を船出して西航六里許でこの島に着き、此處から北に向つて、壹岐へ渡らうとするのである。口繪寫眞參照。
 
3681 かへり來て 見むと思ひし わが宿の 秋萩すすき 散りにけむかも
 
可敝里伎弖《カヘリキテ》 見牟等於毛比之《ミムトオモヒシ》 和我夜度能《ワガヤドノ》 安伎波疑須須伎《アキハギススキ》 知里爾家武可聞《チリニケムカモ》
 
私ガ旅カラ〔五字傍線〕歸ツテ來テ、見ヨウト思ツテ出テ來〔四字傍線〕タ、私ノ家ノ秋萩ヤ薄ノ花ハ、モハヤ〔三字傍線〕散ツテシマツタノデアラウカヨ。意外ニ遲クナツタモノダ〔意外〜傍線〕。
 
(598)○可敝里伎弖《カヘリキテ》――新羅の旅から歸つて來ての意。
〔評〕 平板ながら、意外に長引いた旅を悲しむ情は、よくあらはれてゐる。和歌童蒙抄に載つてゐる。
 
右一首秦田麿
 
前に秦間麿とあたのと同人か。
 
3682 天地の 神をこひつつ 我待たむ 早來ませ君 待たば苦しも
 
安米都知能《アメツチノ》 可未乎許比都都《カミヲコヒツツ》 安禮麻多武《アレマタム》 波夜伎萬世伎美《ハヤキマセキミ》 麻多婆久流思母《マタバクルシモ》
 
天地ノ神ニオ祈りヲシテ、私ハ貴方ノオ歸リヲ〔七字傍線〕待ツテ居リマセウ。デスカラ新羅カラ〔八字傍線〕早ク歸ツテオイデナサイマシ、貴方ヨ。待ツテ居テハ苦シウゴザイマスヨ。
 
○可未乎許比都都《カミヲコヒツツ》――神を祈りつつ。コヒは乞ひである。祈願である。
〔評〕 狛島亭で宴席に待つた遊女の歌。暫しのお客に對するとは思はれぬほどに、親切な言葉である。
 
右一首娘子
 
3683 君を思ひ 吾が戀ひまくは あらたまの 立つ月毎に よくる日もあらじ
 
伎美乎於毛比《キミヲオモヒ》 安我古非萬久波《アガコヒマクハ》 安良多麻乃《アラタマノ》 多都追奇其等爾《タツツキゴトニ》 與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》
 
貴方ヲ思ツテ私ガ戀シガルデアラウコトハ(安良多麻乃)月ガカハル毎二、毎月毎月一日モ〔七字傍線〕缺ケル日ハアリマ(599)スマイ。
 
○安我古非萬久波《アガコヒマクハ》――吾が戀ひむことはの意。○安良多麻乃《アラタマノ》――枕詞。語を距てて、月にかかつてゐる。○與久流日毛安良自《ヨクルヒモアラジ》――避くる日もあらじ。避くるは遠ざかり離れる意で、思ふことから開放される日は一日もあるまいといふのである。
〔評〕 初句が女性の言葉らしいので、これも娘子の作ではあるまいかとの疑問も起る。しかしさうすると新羅へ往還する人を待つ語としては、下句が月日の長くかかることを豫想し過ぎるやうであり、又女に對して君といつた例も多いから、やはり署名の無い同一人の作と見て、都の妻を戀うたたのとすべきであらう。新考に前の歌の和であらうとあるのも從ひ難い。
 
3684 秋の夜を 長みにかあらむ なぞここば いの寢らえぬも 獨ぬればか
 
秋夜乎《アキノヨヲ》 奈我美爾可安良武《ナガミニカアラム》 奈曾許許波《ナゾココバ》 伊能禰良要奴毛《イノネラエヌモ》 比等里奴禮婆可《ヒトリヌレバカ》
 
私ハ〔二字傍線〕ドウシテコンナニ〔四字傍線〕ヒドク寐ラレナイノダラウカ〔五字傍線〕。秋ノ夜ガ長イカラデアラウカ。ソレトモ〔四字傍線〕獨寢ヲスルカラデアラウカ。妻ト別レテ旅ノ獨寢ハツライモノダ〔メト〜傍線〕。
 
○奈曾許己波《ナゾココバ》――どうしてこんなに甚だしく。許己波《ココバ》は許多、澤山。甚だしくなどの意。
〔評〕 第二句で切つて、更に第四句で切り、更に第五句を言ひ添へてある。三四一二五と句を轉置して解くのがよいやうである。
 
3685 たらしひめ 御船はてけむ 松浦の海 妹が待つべき 月は經につつ
 
多良思比賣《タラシヒメ》 御舶波弖家牟《ミフネハテケム》 松浦乃宇美《マツラノウミ》 伊母我麻都敝伎《イモガマツベキ》 月者倍(600)爾都々《ツキハヘニツツ》
 
(600)(多良思比賣御舶波弖家牟松浦乃宇美)妻ガ私ヲ家ニ居ツテ〔七字傍線〕待ツテヰル筈ノ、月ハ空シク過ギタ。私ハ妻ト約束ノ歸ルベキ時期ニナツタケレドモ、歸ルコトハ出來ナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○多良思比賣《タラシヒメ》――息長足姫《オキナガタラシヒメ》、即ち神功皇后。○御舶波弖家牟松浦乃宇美《ミフネハテケムマツウラノウミ》――御船が碇泊したであらうところの松浦の海。松浦の海は、肥前松浦郡の海。引津から狛島あたりの海が即ちそれである。ここまでは次句の松《マツ》へつづく序詞。今、松浦の海に船をつないで、神功皇后の故事を思ひ出したのである。○月者倍爾都都《ツキハヘニツツ》――月は經ヌにツツを添へた形である。
〔評〕 松浦の海に來て神功皇后の故事を思ひ起し、それを以て序詞を作つてゐる。結句は經ニケリなどあるべきところを、穩やかに言ひをさめてある。袖中抄に載つてゐる。
 
3686 旅なれば 思ひ絶えても ありつれど 家に在る妹し 思ひがなしも
 
多婢奈禮婆《タビナレバ》 於毛比多要弖毛《オモヒタエテモ》 安里都禮杼《アリツレド》 伊敝爾安流伊毛之《イヘニアルイモシ》 於母比我奈思母《オモヒガナシモ》
 
私ハ〔二字傍線〕旅こ出テ居ルノデ會ハレヌモノト〔七字傍線〕思ヒ切ツテヰタケレドモ、ヤハリ〔三字傍線〕家ニ殘シテ來タ妻ガドウシテモ〔五字傍線〕思ヒ出サレテ〔四字傍線〕、悲シイヨ。
 
○於毛比多要弖毛《オモヒタエチモ》――思ひ絶えても。思ひ切つても。斷念しても。○伊敝繭安流伊毛之《イヘニアルイモシ》――家にある妹が。シは強める助詞。○於母比我奈思母《オモヒガナシモ》――思ひ出が悲しいよといふのであるが、オモヒガナシといふ熟語になつてゐる。ここのカナシをカハユシとも解いてあるが、悲しの意がよいであらう。
〔評〕 逢はれぬとわかりきつた旅であるから、あきらめてはゐたが、なほ忘れられない家なる妻を戀ふる心は悲(601)しい。二句と結句とに思ひが用ゐられてぬるが、別に耳ざはりでもない。
 
3687 足曳の 山飛び越ゆる 雁がねは 都に行かば 妹に逢ひて來ね
 
安思必寄能《アシビキノ》 山等妣古由留《ヤマトビコユル》 可里我禰波《カリガネハ》 美也故爾由加波《ミヤコニユカバ》 伊毛爾安比弖許禰《イモニアヒテコネ》
 
(安思必寄能)山ヲ飛ビ越シテ行ク雁ハ、戀シイ都ニ行クデアラウガ、若シオ前ガ〔戀シ〜傍線〕都ニ行ツタナラバ、私ノナツカシイ〔七字傍線〕妻ニ會ツテ樣子ヲ見テ〔五字傍線〕來イ。サウシテ私ニ妻ノコトヲ告ゲテクレヨ〔サウ〜傍線〕。
 
〔評〕 東をさして山を飛び越えて行く雁の姿を見て、詠んだもの。山は神集島の山であらう。心ない飛雁に思を托するのは、さることながら、「妹に逢ひて來ね」といふのはあまり過ぎたやうでもある。併しそこに、愚にかへつた至情があらはれてゐるのである。
 
到(リ)2壹岐島(ニ)1雪連宅滿《ユキノムラジヤカマロ》忽(チ)遇(ヒテ)2鬼病(ニ)1死去之時、作(レル)歌一首并短歌
 
雪聯宅滿は前に雪宅麿(三六四四)とあつた人。遇の字は古本にないのがあり、又遭に作るものもあるが、舊本のままがよい。鬼病は疫病でエヤミと訓むのであらう。
 
3688 すめろぎの 遠の朝廷と 韓國に 渡る我がせは 家人の 齋ひ待たねか 疊かも 過しけむ 秋さらば 歸りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も經ぬれば 今日か來む 明日かも來むと 家人は 待ち戀ふらむに 遠の國 未だも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君
 
須賣呂伎能《スメロギノ》 等保能朝庭等《トホノミカドト》 可良國爾《カラクニニ》 和多流和我世波《ワタルワガセハ》 伊敝妣等能《イヘビトノ》 伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》 多太未可母《タタミカモ》 安夜麻知之家牟《アヤマチシケム》 安吉佐良婆《アキサラバ》 可敝里麻左牟等《カヘリマサムト》 多良知禰能《タラチネノ》 波波爾麻于之弖《ハハニマウシテ》 等伎毛須疑《トキモスギ》 都奇母倍奴禮婆《ツキモヘヌレバ》 今日可許牟《ケフカコム》 明日可蒙許武登《アスカモコムト》 伊敝妣等波《イヘヒトハ》 麻知故布(602)良牟爾《マチコフラムニ》 等保能久爾《トホノクニ》 伊麻太毛都可受《イマダモツカズ》 也麻等乎毛《ヤマトヲモ》 登保久左可里弖《トオクサカリテ》 伊波我禰乃《イハガネノ》 安良伎之麻禰爾《アラキシマネニ》 夜杼理須流君《ヤドリスルキミ》
 
天子様ノ御支配ナサル〔六字傍線〕遠クノ役所デアルトテ、韓國ヘ渡ル私ノ親シイ〔三字傍線〕友人ノ雪連宅滿〔五字傍線〕ハ、家ニ留守居シテ居ル〔七字傍線〕人ガ神樣ニ無事ヲ〔六字傍線〕御祈リシテ待ツテ居ナイカラカ、ソレトモ〔四字傍線〕疊ヲ大切ニシナイデ過失ヲシタノデアラウカ。秋ニナツタナラバオ歸リナサラウト(多良知禰能)母ニ申シテ置イテ、出掛ケテカラ、歸ルベキ〔十字傍線〕時モ過ギ、月モ經タカラ、留守宅デハ〔五字傍線〕今日歸ツテ來ルダラウカ、明日歸ツテ來ルダラウカト、家ノ人ハ貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテ戀シガツテ居ルダラウノニ、遠クノ韓〔傍線〕國ヘモ未ダ到着セズ、大和ノ國ヲモ遠ク離レテ、岩ノアル人里離レタ〔五字傍線〕淋シイ島ノ海邊デ、死ンデ〔三字傍線〕此所ニ葬ラレタ貴方ヨ。誠ニ氣ノ毒ナコトダ〔九字傍線〕。
 
○須賣呂伎能等保能朝廷等《スメロギノトホノミカドト》――前にも屡々説いたやうに須賣呂伎能等保能朝廷《スメロギノトホノミカド》は天皇の遠の朝廷で、地方の役所をいふ。ここに可良國爾和多流和我世《カラクニニワタルワガセ》につづいてゐるところから、異説を立てる人もあるが、三韓は既に吾が領地としては放棄せられてゐたけれども、吾が支配下として、國民の間に永く意識せられてゐたことでもあり、又國民的自尊心から、今回の遣新羅使一行も、新羅を對等視せず、屬國あつかひにしてゐるから、おのづからかうした言葉を用ゐたのである。かういふことは、歴史に囚はれては却つて正解を失する。○可良國爾《カラクニニ》――可良《カラ》はここでは新羅を指してゐる。加羅國はもと任那の舊名であつて、早く崇神天皇の御代に來朝したので、やがて三韓の總名となり、支那その他の外國をさすことになつた。○和多流和我世波《ワタルワガセハ》――吾が背は、雪連宅滿をさして親しんで言つてゐる。○伊波比麻多禰可《イハヒマタネカ》――神を祭つて無事の歸りを待たないからか。○多太未可母安夜麻知之家牟《タタミカモアヤマチシケム》――疊を過したのであらうか。上代には人の旅中には、その人の敷いた疊を、大切にして置く習慣があつたので、もし疊を疎略にする時は、途中で凶事があると言ひならはしたのであらう。ここは家人が(603)疊を疎略にして過失があつたのではないかと疑ふのである。舊本、多大末可母とあるが、大は類聚古集その他太に作つてゐるのに從ふべく、末は未の誤であらう。○可敝里麻左牟等《カヘリマサムト》――お歸りなさらうと。直説法を用ゐないで、敬語を使つてゐる。○等伎毛須疑《トキモスギ》――歸つて來ると約束した時も過ぎ。○等保能久爾《トホノクニ》――遠の國。遠い國。新羅をさしてゐる。○伊波我禰乃安良伎之麻禰爾《イハガネノアラキシマネニ》――岩が根の荒き島根に。岩石の荒涼たる島即ち壹岐の國をさす。○夜杼里須流君《ヤドリスルキミ》――宿つてゐる君よ。墓に葬られたことを、生きてゐる人のやうにかく言つたのである。尤も次の長歌によると、廬やうなものが出來たのである。
〔評〕 例の無名の作家で、前のそれと同一人である。明瞭に纒りよく出來てゐる。この凶事を神への謹慎の不足か、又は疊の過失かと言つてゐるのは、上代の信仰をあらはすもので、壹岐の國を「遠き國未だも着かず、倭をも遠くさかりて」と言つたのは、半途にして斃れた悲しさをよくあらはし得てゐる。
 
反歌二首
 
3689 石田野に やどりする君 家人の いづらと我を 問はば如何に言はむ
 
伊波多野爾《イハタヌニ》 夜杼里須流伎美《ヤドリスルキミ》 伊敝妣等乃《イヘビトノ》 伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》 等婆波伊可爾伊波牟《トハバイカニイハム》
 
石田野ニ永久ノ〔三字傍線〕宿ヲシテ葬ラレテ〔四字傍線〕居ル貴方ヲ、貴方ノ〔三字傍線〕家ノ人ガ、何處ヘ行ツタ〔四字傍線〕ト私ニタヅネタナラバ、私ハ〔二字傍線〕何ト答ヘタモノデアラウカ。何トモ答ヘヤウガナイ〔何ト〜傍線〕。
 
○伊波多野爾《イハタヌニ》――石田野に。今の壹岐郡石田村。島の東南海岸にある。和名抄に伊之太と訓してあつて、はやく文字通りイシダと呼ぶことになつたと見える。なほ九州萬葉手記には「今壹岐國石田村の海岸から八丁許入つた處に、石田峯と云ふ岡がありまして、その上に方四間許高さ七八尺の古墳があります。里人は殿の墓又は官人の塚と稱してゐますが、これが宅滿の墓であると傳へられてゐます」とあるが、宅滿の墓とするのは、古墳と(604)この集の記事とを結びつけたものに過ぎない。○伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》――イヅラハはイヅコに同じ。ワレヲはワレニと同意になつてゐる。我を問ふといふ例は、仁徳天皇紀に、和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》とある。
〔評〕 旅中の凶事を知らずにゐる家人に顔を合せた時、何と答へたものであらう。都へ歸着の時の悲しい光景が、今から目の前に見えるやうに思はれるのである。旅中の安否は細大洩らさず、直ちに通告出來る現代人には、いづらと問はばといふのが、そらぞらしい位に思はれかも知れないが、その當時の人になつて考へねばならぬ。
 
3690 世の中は 常かくのみと 別れぬる 君にやもとな 吾が戀ひ行かむ
 
與能奈可波《ヨノナカハ》 都禰可久能未等《ツネカクノミト》 和可禮奴流《ワカレヌル》 君爾也毛登奈《キミニヤモトナ》 安我孤悲由加牟《アガコヒユカム》
 
世ノ中ハ何時デモコンナニ、無常ナ習ハシデ〔七字傍線〕アルトテ、死ンデ〔三字傍線〕別レテ行カレ〔四字傍線〕タ貴方ヲ、徒ラニ私ガ戀ヒ慕ヒナガラ、旅路ヲ〔三字傍線〕行クコトデアラウカ。戀シガツテモ仕樣ガナイノニ〔戀シ〜傍線〕。
 
○都禰可久能未等和可禮奴流《ヅネカクノミトワカレヌル》――常に斯くの如く無常なものだとて、死んでこの世を別れて行つた君とつづいてゐる。世の無常の道理を示すが如く、君は死んだといふやうに言つてゐる。○君爾也毛登奈《キミニヤモトナ》――毛登奈《モトナ》は徒らに。
〔評〕 佛數的の無常觀が基調をなしてゐる。しかも世の無常を示すが如く死んで行つた君を、なほ徒らに戀ひつつ行くであらうと、諦めかねるのが人間の本性である。第四句の毛等奈《モトナ》が痛切に聞える。
 
右三首挽歌
 
3691 天地と 共にもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 浪の上ゆ なづさひ來にて あらたまの 月日も來經ぬ 雁が音も 續ぎて來鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手ぬれて さきくしも あるらむ如く 出で見つつ 待つらむものを 世の中の 人の歎は 相思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散らへる野べの 初尾花 假庵に葺きて 雲離れ 遠き國べの 露霜の 寒き山べに やどりせるらむ
 
天地等《アメツチト》 登毛爾母我毛等《トモニモガモト》 於毛比都都《オモヒツツ》 安里家牟毛能乎《アリケムモノヲ》 波之家也(605)思《ハシケヤシ》 伊敝乎波奈禮弖《イヘヲハナレテ》 奈美能宇倍由《ナミノウヘユ》 奈豆佐比伎爾弖《ナヅサヒキニテ》 安良多麻能《アラタマノ》 月日毛伎倍奴《ツキヒモキヘヌ》 可里我禰母《カリガネモ》 都藝弖伎奈氣婆《ツギテキナケバ》 多良知禰能《タラチネノ》 波波母都末良母《ハハモツマラモ》 安佐都由爾《アサツユニ》 毛能須蘇比都知《モノスソヒヅチ》 由布疑里爾《ユフギリニ》 己呂毛弖奴禮弖《コロモデヌレテ》 左伎久之毛《サキクシモ》 安流良牟其登久《アルラムゴトク》 伊低見都追《イデミツツ》 麻都良牟母能乎《マツラムモノヲ》 世間能《ヨノナカノ》 比登乃奈氣伎波《ヒトノナゲキハ》 安比於毛波奴《アヒオモハヌ》 君爾安禮也母《キミニアレヤモ》 安伎波疑能《アキハギノ》 知良敝流野邊乃《チラヘルヌベノ》 波都乎花《ハツヲバナ》 可里保爾布伎弖《カリホニフキテ》 久毛婆奈禮《クモバナレ》 等保伎久爾敝能《トホキクニベノ》 都由之毛能《ツユシモノ》 佐武伎山邊爾《サムキヤマベニ》 夜杼里世流良牟《ヤドリセルラム》
 
天地ト共ニ何時マデモ長ク生キテ〔何時〜傍線〕ヰタイト、貴方ハ〔三字傍線〕思ツテヰタデアラウノニ、ナツカシイ家ヲ離レテ、新羅ヘ行クトテ〔七字傍線〕、波ノ上ヲ漂ヒナガラ、難儀ヲシテ壹岐ノ國迄〔十字傍線〕來テ(安良多麻能)月日モ多ク〔二字傍線〕經過シタ。早クモ秋ニナツテ〔八字傍線〕雁モ後カラ後カラ〔六字傍線〕續イテ來テ鳴クト、(多良知禰能)母モ妻等モ、朝露ニ裳ノ裾ヲ濡ラシテ、夕霧ニ着物ノ袖ヲ濡ラシテ、貴方ヲ〔三字傍線〕無事デ居ル人ノヤウニ、門ニ〔二字傍線〕出テ見テ待ツテ居ルデアラウニ、世ノ中ノ人ノ歎ハ、何トモ思ハナイ貴方デアラウカ。空シク旅中デ死ンデシマツテ〔空シ〜傍線〕、秋萩ノ花ガ散ル野邊ノ、初尾花ヲ假小屋ノ屋根ニ〔三字傍線〕葺イテ、雲ノアナタ〔四字傍線〕ニ隔ツテ遙カニ遠イコノ〔二字傍線〕國ノ、露ノツメタク降ツテヰル〔五字傍線〕山邊ニ、宿リシテヰルノデアラウカ。
 
○天地等登毛爾母我毛等《アメツチトトモニモガモト》――天地のあらむかぎり、天地と共に生きてゐたいものだと。○波之家也思《ハシケヤシ》――愛しきやし。愛しけは愛《ハ》しきに同じ。ヤシは詠歎の助詞。○奈豆佐比伎爾弖《ナヅサヒキニテ》――漂ひ來つて。於伎爾奈都佐布《オキニナヅサフ》(三六二三)參照。○安良多麻能《アラタマノ》――枕詞。月とつづく。四四三參照。○多良知禰能《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四三參照。○毛(606)能須蘇比都知《モノスソヒヅチ》――裳の裾が濡れて。ヒヅチはヒヅツといふ四段活の自動詞である。○安比於毛波奴《アヒオモハヌ》――安比《アヒ》は接頭語で輕く用ゐてある。○君爾安禮也母《キミニアレヤモ》――君にてあるからか。○知良敝流野邊乃《チラヘルヌベノ》――知良敝流《チラヘル》は散ルの延言散ラフにリを添へた形である。○波都乎花《ハツヲバナ》――初尾花。尾花の穗に出た初花。○可里保爾布伎弖《カリホニフキテ》――假廬として葺いて。假廬は墓の上に小屋を建てたのである。○久毛婆奈禮《クモバナレ》――雲の彼方に遠く離れ。古事記黒日賣の歌に、夜麻登幣邇爾斯布伎阿宜弖玖毛婆那禮曾伐袁理登母和禮和須禮米也《ヤマトベニニシフキアゲテクモバナレソキヲリトモワレワスレメヤ》とある久毛婆那禮《クモバナレ》も同じ。枕詞とする説はとらない。○都由之毛能《ツユシモノ》――露霜の。ツユシモは露のこと。
〔評〕 よく整つた行き屆いた歌だ。前の長歌よりもこの方が優れてゐる。但し安佐都由爾毛能須蘇比都知由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖《アサツユニモノスツヒヅチユフギリニコロモデヌレテ》は卷二の柿本人麿の長歌の句、旦露爾玉藻者※[泥/土]打夕霧爾衣者沾而《アサツユニタマモハヒヅチユフギリニコロモハヌレテ》(一九四)と似てゐる。
 
反歌二首
 
3692 はしけやし 妻も兒どもも 高高に 待つらむ君や 島隱れぬる
 
波之家也思《ハシケヤシ》 都麻毛古杼毛母《ツマモコドモモ》 多可多加爾《タカタカニ》 麻都良牟伎美也《マツラムキミヤ》 之麻我久禮奴流《シマガクレヌル》
 
貴方ノ〔三字傍線〕イトシイ妻モ子供モ、コチラヲ望ンデ、貴方ノ歸リヲ〔六字傍線〕待ツテ居ルダラウノニ、ドウシテ〔六字傍線〕貴方ハ空シク此處デ死ンデ〔九字傍線〕島ニ葬ラレタノデアラウ。
 
○多可多加爾《タカタカニ》――待ち望む意。次の麻都《マツ》の副詞になつてゐる。七五八參照。○之麻我久禮奴流《シマガクレヌル》――島に葬られたことを、磐隱《イハガクリ》(一九九)などに傚つてかう言つたのである。○麻都良牟伎美也《マツラムキミヤ》――新考に也を之の誤とあるのはよくない。ヤは疑間助詞で、待つらむ君が島隱れぬるかと、驚き疑つてゐるのである。
〔評〕 妻子が待つてゐるだらうに、どうして死んだのだらうと、いぶかるところに哀が籠つてゐる。船に使ふの(607)を常とする島隱といふ語を、死の意味に用ゐてゐるのも、航海の途上らしい。
 
3693 黄葉ばの 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも
 
毛美知葉能《モミチバノ》 知里奈牟山爾《チリナムヤマニ》 夜杼里奴流《ヤドリヌル》 君乎麻都良牟《キミヲマツラム》 比等之可奈之母《ヒトシカナシモ》
 
ヤガテハ〔四字傍線〕紅葉ノ葉ガ落チ〔二字傍線〕散ルデアラウコノ淋シイ〔四字傍線〕山ニ、葬ラレテ居ル貴方ヲ、死ンダトモ知ラズニ、デハ〔死ン〜傍線〕待ツテヰルデアウガ、家ノ〔六字傍線〕人ハ可愛サウダヨ。
 
○毛美知葉能知里奈牟山爾《モミチヂノチリナムヤマニ》――やがて紅葉の散るであらう山にの意。奈牟は未來完了である。
〔評〕 今は秋の半であるが、やがて紅葉の頃となり、宅滿を葬つた山に紅集が散り亂れる淋しい景色を想像してゐる。この人のこの三首は、すべて優雅に出來てゐる。
 
右三首|葛井連子老《フヂヰムラヂコオユ》作(レル)挽歌
 
子老の傳は分らない。
 
3694 わたつみの 畏き路を 安けくも 無くなやみ來て 今だにも 喪無く行かむと 壹岐の海人の ほつての卜へを 肩燒きて 行かむとするに 夢の如 道のそら路に わかれする君
 
和多都美能《ワタツミノ》 可之故伎美知乎《カシコキミチヲ》 也須家口母《ヤスケクモ》 奈久奈夜美伎弖《ナクナヤミキテ》 伊麻太爾母《イマダニモ》 毛奈久由可牟登《モナクユカムト》 由吉能安末能《ユキノアマノ》 保都手乃宇良敝乎《ホツテノウラヘヲ》 可多夜伎弖《カタヤキテ》 由加武等須流爾《ユカムトスルニ》 伊米能其等《イメノゴト》 美知能蘇良治爾《ミチノソラヂニ》 和可禮須流伎美《ワカレスルキミ》
 
(608)海ノ恐ロシイ路ヲ、コノ壹岐ノ國マデ〔八字傍線〕、安キ心モナク難儀ヲシテ來テ、セメテ〔三字傍線〕コレカラデモ凶事モナク無事デ〔三字傍線〕行カウト、壹岐ノ海人ノ上手ナ太占ノ卜ヲシテ、鹿ノ〔二字傍線〕肩ノ骨〔二字傍線〕ヲ火ニ〔二字傍線〕燒イテ占ツテ、出カケヤウトスルノニ、俄ニ夢ノヤウニ途中デ死ンデシマツタ貴方ヨ。實ニハカナイ悲シイコトダ〔實ニ〜傍線〕。
 
○也須家口母奈久奈夜美伎弖《ヤスケクモナクナヤミキテ》――安くもなく惱んで來て。この二句の連絡が一寸異風に聞える。○伊麻太爾母《イマダニモ》――今からだけでも。○毛奈久由可牟登《モナクユカムト》――毛《モ》は凶事。卷五に事母無裳無母阿良無遠《コトモナクモナクモアラムヲ》(八九七)とある。○由吉能安末能保都手乃宇良敝乎《ユキノアマノホツテノウラヘヲ》――壹岐の海人が行ふ秀手の占合を。由吉《ユキ》は壹岐。保都手《ホツテ》は秀でてゐる手、即ち優れた技術。壹岐の海人は當時卜占の上手といはれてゐたらしい。但しホツを褒める意とし太占の太にあたるとする説もある。○可多夜伎弖《カタヤキテ》――肩燒きて。鹿の肩の骨を燒く占、即ち太占をやつて。可多《カタ》は形で、龜卜の際にあらはれる卜兆《ウラカタ》であるとする説もある。新考には宅滿は卜部氏で、この人自らが、ウラヘカタヤキをやつたのだといつてゐる。○美知能蘇良治爾《ミチノソラヂニ》――道の空路で。途中での意。道の空路は道の空に、路を添へたのである。
〔評〕 短い長歌だが、力強い表現になつてゐる。
 
反歌二首
 
3695 昔より 言ひけることの から國の からくも此處に 別するかも
 
牟可之欲里《ムカシヨリ》 伊比祁流許等乃《イヒケルコトノ》 可良久爾能《カラクニノ》 可良久毛己許爾《カラクモココニ》 和可禮須留可聞《ワカレスルカモ》
 
昔カラ韓ノ國ヘ渡ルノハ、ツライモノダト言ヒ習ハシテアルガ、私モソノ言葉ノ通リ韓ヘ行ク途中、壹岐國マデ來テ〔私モ〜傍線〕、此處デコノ人ト〔四字傍線〕ツライ別ヲスルヨ。
 
○牟可之欲里伊比祁流許等乃可良久爾能《ムカシヨリイヒケルコトノカラクニノ》――昔から辛いと言ひ傳へて來た韓國。即ち昔から韓國へ渡るのはつ(609)らいと言ひ傳へて來てゐるが、その韓國へ渡らうとしての意。カラク(辛く)の音を繰返して、次句の可良久毛《カラクモ》につづいてゐるから、一見序詞のやうな形になつてゐるが、序詞ではない。○可良久毛己許爾和可禮須流可聞《カヲクモココニワカレスルカモ》――悲しくつらくも此處で君に死別するよ。
〔評〕 可良久爾能可良久毛《カラクニノカラクモ》といふ技巧が歌の中心になつてゐるやうに見えて、長歌のどつしりした表現に比べると、少し輕い感じがする。もとよりこれによつて内容を豐富にして、言はむとするところを言ひ得てゐるが、感情そのままの發露としては遺憾な點がないではない。
 
3696 新羅へか 家にか歸る 壹岐の島 行かむたどきも 思ひかねつも
 
新羅奇敝可《シラギヘカ》 伊敝爾可加反流《イヘニカカヘル》 由吉能之麻《ユキノシマ》 由加牟多登伎毛《ユカムタドキモ》 於毛比可禰都母《オモヒカネツモ》
 
私ハ、壹岐ノ島デ貴方ニ死ナレタノデ、コレカラ〔私ハ〜傍線〕、新羅ヘ行クベキ〔四字傍線〕カ、ソレトモ〔四字傍線〕家ニ歸ルベキカ、ドチラヘ行ツタラヨイカ、コノ〔ドチ〜傍線〕壹岐ノ島デ行クベキ方法モ考ヘラレナイヨ。
 
○新羅奇敝可《シラギヘカ》――新羅へ行くべきか。新羅に奇を添へて書いたのは珍しい。新羅の二字は朝鮮の用字その儘で奇を添へる必要はないのであるが、一音一字式の書法で、かうしたのであらう。衍字ではない。但し前には多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクブスマシラギヘイマス》(三五八七)とある。○由吉能之麻《ユキノシマ》――壹岐の島。枕詞式に用ゐて次の句に冠してゐるが、無意味の枕詞ではない。この壹岐の島での意に解すべきである。行きを連想せしめてゐる。○由加牟多登伎毛《ユカムタドキモ》――行くべき方法も。多登伎《タドキ》は方法、手段。○於毛比可禰都母《オモヒカネツモ》――考へられないよ。思ひ定めかねるよ。
〔評〕 カヘルと言つてユキの島を出し、それからしてユカムにつづけてゐる。その修辭法は巧といへるが、又謂はゆる後世ぶりの作でもある。
 
右三首六鯖作挽歌
 
(610)六鯖の傳はわからない。代匠記には「廢帝紀云。寶字八年正月授2正六位上六人部連鯖麻呂外從五位下1この人の氏と名とを略してかけるなるべし」と言つてゐる。
 
到(リ)2對馬島淺茅浦(ニ)1舶泊之時、不v得2順風(ヲ)1經停(スルコト)五箇日、於v是膽2望(シ)物華(ヲ)1各陳(ベテ)2慟心(ヲ)1作(レル)歌三首
 
對馬淺茅浦は大日本地名辭書に「一名大口海灣と云ふ。又|淺海《アサミ》浦と云ふ。今竹敷要港の防禦地帶に屬す。地誌提要云。淺茅浦は俗に大口浦と云ふ。下縣郡仁位、與良二郷に亘る。灣口濶二十四町、深八十仞、西少北に向ふ、灣内東西凡三里、南北一里二十四町、港※[山+奧]凡一十三所、皆碇泊す可し。東は大船越の瀬戸を以て海に達す。即上下二島の分界なり。灣内東偏に島山島あり」とある。併し淺海灣を淺茅浦とすれば、船は西口より灣内に入り、更に竹敷に到つたわけで、かかる迂廻路を取る筈はない。又大日本地名辭書によれば、津島編年略に「下縣郡小船越浦在村東、鴨居瀬浦隅也、中世朝鮮往來之船必由于此、故海東記曰、自都伊佐只至船越浦十九海里、自船越至一岐島風本浦四十八海里」とあるに合はない。上代の船舶は謂はゆる大船越・小船越を經て淺海灣に入つたので、大船越は淺海灣の東口をなして長凡二十四町幅八間の狹水道であるが、今日の如くなつたのは寛文十二年、藩主完義眞が五千人を役して開鑿したのである。それ以前は上下の兩島は連なつてゐた。東海と淺海との間に岡を距て、東西往來の舟は此處で荷物を背負ながら空舟を引いて岡を越えた。小舟越の方は岡が大きいので小舟を引いたといふことだ。大船越・小船越の名はこれに因ると言はれてゐる。右は諸書に記すところであつて、これによると、この一行も亦小船越をしたものとせねばならぬので、實地について調査するの必要を生じ、對馬中學校長豐田亨氏を煩はしたところ次のやうな回答を得た。「淺茅浦は普通淺海灣の一名といふが、實は小船越の直ぐ西方の浦で、即ち安佐治山(今の大山嶽)の前の浦である。新羅使一行は小船越で本土(611)からの船を下り、陸路を西の漕手に行き、新羅行の船に乘換へて西方竹越方面へ赴いたもので、當時は船を引揚げることはしなかつた。船を引揚げたのは後世の事だ。東岸の小船越以北は寒暖二流交流地點で海が荒立つから、往昔は小船越で乘換へ、比較的穩やかな西岸を選んで外國へ赴いたものである。(對島島誌の編纂者日野氏の談話に依る)」以上で上代の航路が明白である。
 
3697 百船の はつる對馬の 淺茅山 時雨の雨に もみだひにけり
 
毛母布禰乃《モモフネノ》 波都流對馬能《ハツルツシマノ》 安佐治山《アサヂヤマ》 志具禮能安米爾《シグレノアメニ》 毛美多比爾家里《モミダヒニケリ》
 
(毛母布禰乃波都流)對馬ノ國ノ〔二字傍線〕安佐治山ハ、コノ頃降ル〔五字傍線〕時雨ノ雨デ木ノ葉ガ〔四字傍線〕紅葉シタヨ。美シイ景色ダ〔六字傍線〕。
 
○毛母布禰乃波都流對馬能《モヽフネノハツルツシマノ》――百舟の泊つるは、對馬を修飾したやうであるが、百船の泊つる津とつづいて、對馬の序詞となつてゐると見るのが妥當のやうである。○安佐治山《アサヂヤマ》――淺茅浦の東方、小船越の南方にある、今の大山嶽だと言はれてゐる。○毛美多比爾家里《モミダヒニケリ》――モミダヒはモミヂの延言。モミヂは四段活動詞。(上二段の場合もある)紅くなつた。
〔評〕 船出し得ない、いらただしい心を、山の紅葉の色に慰めてゐる。流石に長閑な氣分が見えてゐる。
 
3698 天ざかる 鄙にも月は 照れれども 妹ぞ遠くは 別れ來にける
 
安麻射可流《アマザカル》 比奈爾毛月波《ヒナニモツキハ》 弖禮禮杼母《テレレドモ》 伊毛曾等保久波《イモゾトホクハ》 和可禮伎爾家流《ワカレキニケル》
 
コンナ〔三字傍線〕(安麻射可流)田舍ニモ都ト同ジヤウニ〔七字傍線〕、月ハ照ツテ居ルガ、共ニ眺メタ都ノ〔七字傍線〕妻トハ遠ク別レテ來タモノダヨ。月ヲ見ルコトハ出來ルガ妻ニ逢ヘナイノハ悲シイ〔月ヲ〜傍線〕。
 
(612)○伊毛曾等保久波《イモゾトホクハ》――妹ゾは妹ハの意。上に月ハとあるに對して、妹ゾと言つてゐる。月は眼前に近く見えるが、妹は遠く離れたといふのである。
〔評〕 月と妹とを對照せしめてゐるが面甘い。長安近きか日近きかと言つた故事の如き感がないでもない。卷十一の月見國同山隔愛妹隔有鴨《ツキミレバクニハオナジヲヤマヘナリウツクシイモハヘナリタルカモ》(二四二〇)、卷十八の都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾婆伎美我安多里乎敝太弖多里家禮《ツキミレバオナジクニナリヤマコソハキミガアタリヲヘダテタリケレ》(四〇七三)とも似てゐる。
 
3699 秋されば 置く露霜に あへずして 都の山は 色づきぬらむ
 
安伎左禮婆《アキサレバ》 於久都由之毛爾《オクツユシモニ》 安倍受之弖《アヘズシテ》 京師乃山波《ミヤコノヤマハ》 伊呂豆伎奴良牟《イロヅキヌラム》
 
秋ガ來タノデ露ノ降ルノニ堰ヘラレナイデ、故郷ノ〔三字傍線〕都ノ山ハ紅葉シタデアラウ。コノ對馬ノ國ノ山ガ、紅葉シタノヲ見ルニツケテモ、都ガ思ヒ出サレル〔コノ〜傍線〕。
 
○安倍受之弖《アヘズシテ》――堪へずしてに同じ。安倍《アヘ》は敢ふ。
〔評〕 對馬の山の紅葉を見て、奈良の都の山を思ひ出しただけで、これといふ點もない。
 
竹敷浦(ニ)舶泊之時、各陳(ベテ)2心緒(ヲ)1作(レル)歌十八首
 
竹敷の浦は、今の竹敷要港のあるところ。上代はタカシキといつた。
 
3700 あしびきの 山下光る もみぢ葉の 散りのまがひは 今日にもあるかも
 
安之比奇能《アシビキノ》 山下比可流《ヤマシタヒカル》 毛美知葉能《モミヂバノ》 知里能麻河比波《チリノマガヒハ》 計布仁聞安留香母《ケフニモアルカモ》
 
(613)(安之比伎能)山ニ赤ク照リ輝クホド色ヅイテヰル〔七字傍線〕紅葉ガ、散り亂レル美シイ景色〔五字傍線〕ハ、今ガ眞〔三字傍線〕盛デアルヨ。實ニ今日ハ紅葉ノ亂レ散ルノガ美シイ景色ダ〔實ニ〜傍線〕。
 
○山下比可流《ヤマシタヒカル》――山が赤く照り輝く。下《シタ》は下照《シタテリ》のシタと同じで、山の麓が光るのではない。卷六に巖者山下耀《イハホニハヤマシタヒカリ》(一〇五三)とある。○知里能麻河比波《チリノマガヒハ》――散り亂れることは。卷五に烏梅能波奈知里麻我比多流乎加肥爾波《ウメノハナチリマガヒタルヲカビニハ》(八三八)とある。
〔評〕 山の紅葉が紛々と亂れ散る絢爛たる情景が、力強く直線的に詠まれてゐる。下句の知里能麻河比波計布仁聞安留香聞《チリノマガヒハケフニモアルカモ》は、風變りな言ひ方である。
 
右一首大使
 
3701 竹敷の 黄葉を見れば 吾妹子が 待たむといひし 時ぞ來にける
 
多可之伎能《タカシキノ》 母美知乎見禮婆《モミヂヲミレバ》 和藝毛故我《ワギモコガ》 麻多牟等伊比之《マタムトイヒシ》 等伎曾伎爾家流《トキゾキニケル》
 
コノ〔二字傍線〕竹敷ノ浦ノ美シイ〔五字傍線〕紅葉ヲ見ルト、家ニ殘シテ來タ〔七字傍線〕妻ガ私ノ歸リヲ紅葉スル秋ノ頃ト思ツテ〔私ノ〜傍線〕待ウト言ツタソノ〔二字傍線〕時ガ來タヨ。モハヤ歸ル約束ノ時ニナツタノニ、マダナカナカ歸レサウニモナイ〔モハ〜傍線〕。
 
〔評〕 この竹敷の山の紅葉を眺めて、先づ思ひ出すのは都を出る時、秋には歸ると妻と約束して來たことだ。楓葉の美景を樂しむ念は少しもないのがあはれである。
 
右一首副使
 
副使は續紀によれば大伴宿禰三中である。卷三に天平元年己巳攝津國班田史生丈部龍麿自經死之時、判官(614)大伴宿禰三中作歌(四四三)とあるから、天平元年には班田使の判官であつたのである。新羅から歸途病に罹つて、京に入ることが出來なかつたが、三月壬寅、四十人の人たちと共に拜朝してゐる。十五年六月兵部少輔。十六年九月山陽道巡察使、十七年六月少貳、十八年四月長門守、十九年刑部大判事となつてゐる。
 
3702 竹敷の 浦みのもみぢ 我行きて 歸り來るまで 散りこすな、ゆめ
 
多可思吉能《タカシキノ》 宇良未能毛美知《ウラミノモミヂ》 和禮由伎弖《ワレユキテ》 可敝里久流末低《カヘリクルマデ》 知里許須奈由米《チリコスナユメ》
 
コノ〔二字傍線〕竹敷ノ浦囘ノ美シイ〔三字傍線〕紅葉ヨ。私ガ此處ヲ出カケテ新羅ヘ〔十字傍線〕行ツテ、又〔傍線〕歸ツテ來ルマデ決シテ散ルナヨ。
 
○和禮由伎弖《ワレユキテ》――吾が新羅へ行きて。○知里許須奈由米《チリコスナユメ》――許須《コス》は希望をあらはす。集中、一四三七、一五六〇、一六五七などに同じ用例がある。
〔評〕 紅葉に向つて、吾が歸るまで散らずにあれと、希望してゐるが、紅葉の光景を惜しむよりも、早くここまで歸つて來たい心が、かく言はしめたやうにも見える。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
右一首大判官
 
大判官は續紀によれば從六位上壬生使主宇太麻呂である。
 
3703 竹敷の うへかた山は 紅の 八入の色に なりにけるかも
 
多可思吉能《タカシキノ》 宇敝可多山者《ウヘカタヤマハ》 久禮奈爲能《クレナヰノ》 也之保能伊呂爾《ヤシホノイロニ》 奈里爾家流香聞《ナリニケルカモ》
 
竹敷ノ宇敝可多山ハ紅葉シタノデ〔六字傍線〕、紅デ何回モ染メタヤウナ濃イ〔二字傍線〕色ニナツタヨ。美シイ景色ダ〔六字傍線〕。
 
(615)○宇敝可多山者《ウヘカタヤマハ》――上方山は竹敷の城山又は城八幡山と稱する山だといふ。海岸に迫つて斷崖をなしてゐる。○久禮奈爲能也之保能伊呂爾《クレナヰノヤシホノイロニ》――紅の八入の色に。紅の色に幾度も染めたやうな濃い色に。久禮奈爲《クレナヰ》は呉藍。紅花《ベニバナ》・末摘花のこと。八入は藍に入れ浸して染めることの、度數の多いことをいふ。
〔評〕 竹敷の港から仰いだ景色をその儘に詠歎してゐる。何の奇もないが、感じは出てゐる。
 
右一首小判官
 
小判官は續紀によれば正七位上大藏忌寸麻呂である。
 
3704 もみぢ葉の 散らふ山邊ゆ こぐ舟の にほひにめでて 出でて來にけり
 
毛美知婆能《モミヂバノ》  許具布禰能《コグフネノ》 爾保比爾米※[人偏+弖]弖《ニホヒニメデテ》 伊※[人偏+弖]弖伎爾家里《イデテキニケリ》
 
私ハ〔二字傍線〕紅葉ガ美シク〔三字傍線〕散ツテヰル山ノアタリヲ漕イデヰル貴方ノ御〔四字傍線〕舟ノ、立派サニ心引カレテ、此處ヘ〔三字傍線〕出テ參リマシタヨ。
 
○知良布山邊由《チラフヤマベユ》――散らふは散るの延言。散る山邊を。山邊からと見てはわるい。この句から直に次句につづいてゐる。結句へつづけて、山邊から出て來たと解しては大變である。○爾保比爾米※[人偏+弖]弖《ニホヒニメデテ》――舟の美しさに愛でて。爾保比《ニホヒ》は見る目の美しさをいふ。
〔評〕 紅葉の散る山を背景として、浦づたひ行く大使の舟の立派さを褒め讃へてゐる。讃辭として覗ひ所も珍らしく、歌品も優雅で、時にとつてふさはしい作だ。
 
3705 竹敷の 玉藻なびかし こぎ出なむ 君が御舟を いつとか待たむ
 
多可思吉能《タカシキノ》 多麻毛奈婢可之《タマモナビカシ》 己藝低奈牟《コギデナム》 君我美布禰乎《キミガミフネヲ》 伊都等(616)可麻多牟《イツトカマタム》
 
竹敷ノ浦ノ〔二字傍線〕玉藻ヲ靡カシテ、新羅ヲ指シテコレカラ〔新羅〜傍線〕漕イデ行カレル貴方ノ御船ノ御歸リ〔四字傍線〕ヲ、何時ト思ツテ〔三字傍線〕待ツテ居リマセウ。御歸リガ待チ遠ク思ハレマス。早ク御歸リ下サイ〔御歸リガ〜傍線〕。
 
○多麻毛奈婢可之《タマモナビカシ》――玉藻を押し分け靡かして。玉藻は美しい藻。
〔評〕 前の歌ほど勝れてはゐないが、これも穩やかな上品な作である。對馬のやうな邊陬の地にゐる遊女にして、かくの如き佳作をなすことを思へば、作歌の風の盛なること驚くべきものがある。
 
右二首對馬娘子名玉槻
 
對馬の娘子でその名は玉槻といふのである。玉槻といふ名は遊女らしい感じがある、後生の源氏名の先驅といつてよからう。
 
3706 玉敷ける 清き渚を 潮滿てば 飽かず我行く 歸るさに見む
 
多麻之家流《タマシケル》 伎欲吉奈藝佐乎《キヨキナギサヲ》 之保美弖婆《シホミテバ》 安可受和禮由久《アカズワレユク》 可反流左爾見牟《カヘルサニミム》
 
玉ヲ敷キ並ペタヤウナ〔三字傍線〕美シイコノ〔二字傍線〕海岸ヲナホ充分ニ眺メタイノダガ〔ナホ〜傍線〕、汐ガ滿チタノデ見飽カズニ名殘惜シクモ〔六字傍線〕私ハ船出ヲシテ行ク。歸リ路ニハ是非トモマタ充分ニ〔九字傍線〕見ヨウト思フ。
 
○多麻之家流《タマシケル》――玉を敷きならべた。玉は海岸の小石の美しさを賞めて言つたのである。
〔評〕 清き渚に思を殘して船出した大使の歌。大使は歸途ここまで來て遂に卒去したのであるが、歸るさに見むと言つた佳景を愛でる暇もなかつたことを思へば、人世のはかなさがつくづくと感ぜられる。考に玉槻を思ふ(617)心をこめてよんだとあるのは、言ひ過ぎてゐるやうだ。略解に「汐干なむ時にまた見むと也」とあるのは解し難い。
 
右一首大使
 
3707 秋山の 紅葉をかざし わが居れば 浦汐みち來 未いまだ飽かなくに
 
安伎也麻能《アキヤマノ》 毛美知乎可射之《モミヂヲカザシ》 和我乎禮婆《ワガヲレバ》 宇良之保美知久《ウラシホミチク》 伊麻太安可奈久爾《イマダアカナクニ》
 
秋ノ山ノ美シク色付イタ〔七字傍線〕紅葉ヲ、頭ニサシテ私ガ遊ンデ〔三字傍線〕ヰルト、マダ飽キナイノニ海岸ノ汐ガ滿チテ來テ、舟出ヲスベキ時ニナツタ、惜シイコトダ〔舟出〜傍線〕
 
○宇良之保美知久《ウラシホミチク》――浦潮は浦にさし來る潮。珍らしい用語で他に例がないやうだ。
〔評〕 大宮人らしい悠揚たる態度、佳景に對する惜別の情、共に偲ばれてなつかしい歌。考に紅葉を玉槻にたとへたとあるのは當らない。
 
右一首副使
 
3708 物思ふと 人には見えじ 下紐の したゆ戀ふるに 月ぞ經にける
 
毛能毛布等《モノモフト》 比等爾波美要緇《ヒトニハミエジ》 之多婢毛能《シタヒモノ》 思多由故布流爾《シタユコフルニ》 都寄曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》
 
私ハ家ニ殘シテ來タ妻ヲ戀シテ〔私ハ〜傍線〕、物思ヲシテ居ルトハ、人ニ見ラレマイ。(之多婢毛能)心ノ中デ戀シガツテ
 
(618)忍ンデ〔三字傍線〕ヰル内ニ、最早幾月モ〔五字傍線〕月ガ立ツテシマツタ。併ジ何處マデモ胸ノ思ヲ隱シテヰヨウ〔併シ〜傍線〕。
 
○比等爾波美要緇《ヒトニハミエジ》――人には見られまい。かういふエはラレと同意義である。この句で切つて、下は今までのことを述べるのである。○之多婢毛能《シタヒモノ》――枕詞。思多《シタ》にかかつてゐる。下紐は衣の下に隱れた紐。小袖の紐又は下裳・下袴の紐をいふ。○思多由故布流爾《シタユコフルニ》――心の内で戀してゐる内に。○都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》――月が經つたいふのは、幾月も經つたといふのであらう。
〔評〕 故郷の妻を思ふ歌であらうが、それにしてはあまり人目を忍び過ぎるやうである。或は席に待つてゐた娘子に與へたものか。さうすれば、結句は月が改つたといふのである。この歌をこの世に殘した最後の作として、大使は新羅に渡り、やがてここまで戻つて來て死んだのは氣の毒なことであつた。
 
右一首大使
 
3709 家づとに 貝を拾りふと 沖べより 寄せくる浪に 衣手ぬれぬ
 
伊敝豆刀爾《イヘヅトニ》 可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》 於伎敝欲里《オキベヨリ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》 許呂毛弖奴禮奴《コロモデヌレヌ》
 
家ヘノ土産ニ貝ヲ拾ハウト思ツテ〔三字傍線〕、沖ノ方カラ寄セテ來ル波ニ、着物ノ袖ガ濡レタ。
 
〔評〕 平明な歌。海に遠い都への苞として、貝を拾はうとして波に濡れるとは、如何にもさうありさうなことである。
 
3710 汐干なば またも我來む いざ行かむ 沖つ潮さゐ 高く立ち來ぬ
 
之保非奈波《シホヒナバ》 麻多母和禮許牟《マタモワレコム》 伊射遊賀武《イザユカム》 於伎都志保佐爲《オキツシホサヰ》 多可久多知伎奴《タカクタチキヌ》
 
(619)沖ノ汐ガ滿チテ〔三字傍線〕汐ノ高鳴ガ音高ク寄セテ來タ。サア歸ツテ〔三字傍線〕行カウ。サウシテ〔四字傍線〕汐ガ干タナラバ、マタ私ハ此處ヘ遊ビニ〔六字傍線〕來ヨウ。
 
○伊射遊賀武《イザユカム》――さあ歸らうといふのだ。古義には船出することに解してゐる。○於伎都志保佐爲《オキツシホサヰ》――沖の潮の騷。志保佐爲《シホサヰ》は潮の騷ぎ流れるをいふ。
〔評〕 對馬に停泊中海岸で遊んだ歌だ。前の家苞に貝を拾ふ歌から以下の九首は、すべて碇泊中の歌で出發の意はない。前の安伎也麻能《アキヤマノ》(三七〇七)の歌の宇良之保美知久《ウラシホミチク》とは全く事情を異にしてゐる。四五三一二の順序に句を置き換へて解釋すると明瞭である。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
3711 吾が袖は 袂とほりて ぬれぬとも 戀忘貝 とらずは行かじ
 
和我袖波《ワガソデハ》 多毛登等保里弖《タモトトホリテ》 奴禮奴等母《ヌレヌトモ》 故非和須禮我比《コヒワスレガヒ》 等良受波由可自《トラズハユカジ》
 
私ハ旅ニ出テ家ガ戀シクテ堪ヘラレナイガ、アマリ苦シイカラ、タトヘ〔私ハ〜傍線〕私ノ袖ハ袂ガ濡レ〔二字傍線〕通ツテモカマハヌカ〔五字傍線〕ラ、戀ヲ忘レルトイフ〔六字傍線〕、忘貝ヲ取ラズニハ行クマイ。是非トモ忘貝ヲ取ツテ行カウ〔是非〜傍線〕。
 
○多毛登等保里弖《タモトトホリテ》――袂が濡れ徹つて。多毛登《タモト》は手下で、袖の手の下に垂れた部分である。袖は衣手《ソデ》。○故非和須禮我比《コヒワスレガヒ》――この語は集中に屡々用ゐられてゐる。忘貝は六八參照。
〔評〕 旅中に忘貝を拾つて、戀を忘れようといふのだ。戀の苦しさを強調しただけである。
 
3712 ぬばたまの 妹が乾すべく あらなくに 我が衣手を ぬれていかにせむ
 
奴波多麻能《ヌバタマノ》 伊毛我保須倍久《イモガホスベク》 安良奈久爾《アラナクニ》 和我許呂母弖乎《ワガコロモデヲ》 奴禮(620)弖伊可爾勢牟《ヌレテイカニセム》
 
(620)私ハ旅ニ出テヰルノデ〔私ハ〜傍線〕(奴波多麻能)妻ガ干スコトハ出來ナイノニ、コノヤウニ〔五字傍線〕私ノ着物ノ袖ガ、濡レタガ何トシタモノデアラウ。
 
○奴波多麻能《ヌバタマノ》――枕詞。黒・暗・夜・夕などにつづくのが常であるが、ここに妹につづけたのは珍らしい。卷十一に夜干玉之妹之黒髪《ヌバタマノイモガクロカミ》(二五六四)とあるのは妹《イモ》につづいたのではなく、黒《クロ》にかかつてゐるのだから、これとは別である。考はぬばたまの夜から轉じて、寢《イ》につづいたものとし、新考には、ぬば玉の夢《イメ》と妹《イモ》と近いから適用したのだらうといつてゐる。無理な枕詞の用例である。
〔評〕 前の歌の連作である。新考に「此歌は前者の和ならむ」とあるのは、解し難い。
 
3713 もみぢ葉は 今はうつろふ 吾妹子が 待たむといひし 時の經ゆけば
 
毛美知婆波《モミヂバハ》 伊麻波宇都呂布《イマハウツロフ》 和伎毛故我《ワギモコガ》 麻多牟等伊比之《マタムトイヒシ》 等伎能倍由氣婆《トキノヘユケバ》
 
私ガ旅ニ出ル時ニ家ノ〔私ガ〜傍線〕妻ガ、秋ニナツタナラバ、御歸リヲ〔秋ニ〜傍線〕待ツテヰマセウト云ツタ、ソノ〔二字傍線〕秋モ過ギ去ツテシマフノデ、紅葉モ今ハ盛過ギテシマツタ。家デハサゾ妻ガ待ツテヰルデアラウノニ、歸ルコトガ出來ナイノハ悲シイ〔家デ〜傍線〕。
 
○等伎能倍由氣婆《トキノヘユケバ》――秋の時節が過ぎ去れば。
〔評〕 秋には歸るとの約束が、空しくなつたことが屡々繰返されてゐるのは、悲しい言葉であるが、その秋も散る紅葉と共に去らうとしてゐるのを見て、妻を思ふ心は愈々切なるものがある。
 
3714 秋されば 戀しみ妹を 夢にだに 久しく見むを 明けにけるかも
 
(621)安伎佐禮婆《アキサレバ》 故非之美伊母乎《コヒシミイモヲ》 伊米爾太爾《イメニダニ》 比左之久見牟乎《ヒサシクミムヲ》 安氣爾家流香聞《アケニケルカモ》
 
秋ニナルト、必ズ歸ラウト約束シテ來タガ、歸ルコトハで來ナイカラ、妻ガ〔必ズ〜傍線〕戀シク思ハレルノデ妻ヲセメテ夢ニデモ、久シク見ヨウト思フノニ、未ダ充分見ナイ内ニ〔九字傍線〕夜ガ明ケタヨ。殘念ダ〔三字傍線〕。
 
○故非之美伊母乎《コヒシミイモヲ》――戀しみは戀しき故に。新考にはコヒシミイモは戀しき妹といふことだとしてゐる。又秋さればから、夢にだに久しく見むをにかかつてゐるといつてゐるが、いづれも從ひかねる。
〔評〕 秋になつたら歸ると妹と契つたが、秋になつても歸れないので、愈々戀しいのである。初二句の叙法は少し窮窟に過ぎるやうである。
 
3715 獨のみ 着ぬる衣の 紐解かば 誰かも結はむ 家遠くして
 
比等里能未《ヒトリノミ》 伎奴流許呂毛能《キヌルコロモノ》 比毛等加婆《ヒモトカバ》 多禮可毛由波牟《タレカモユハム》 
 
私ガ今コノ旅中ニ〔八字傍線〕着テ居ル着物ノ紐ヲ、私ガ〔二字傍線〕獨デ解イタナラバ、今ハ〔二字傍線〕家ヲ遠ク離レテヰルカラ、誰ガ結ンデクレヨウカ。妻ヨリ外ニハ、結ブ人ハナイカラ、誰ニモ結ンデ貰フコトハ出來ナイ〔妻ヨ〜傍線〕。
 
○比等里能未《ヒトリノミ》――紐解かばにつづいてゐる。新考に「獨ノミ來ヌルワガ衣ノと譯すべし」とある。○伊敝杼保久之弖《イヘトホクシテ》――家を遠く離れて、妻もゐないからの意。
〔評〕 家を出づる時、妻が夫の衣の紐を結び、歸るまでそれを解かないのが上代のならはしであつた。卷九、吾妹兒之結手師※[糸+刃]乎將解八方絶者絶十方直二相左右二《ワギモコガユヒテシヒモヲトカメヤモタエバタユトモタダニアフマデニ》(一七八九)、卷十一、菅根惻隱君結爲我紐緒解人不有《スガノネノネモゴロキミガムスビテシワガヒモノヲヲトクヒトハアラジ》(二四七(622)三)その他例がある。
 
3716 天雲の たゆたひ來れば 長月の 黄葉の山も うつろひにけり
 
安麻久毛能《アマクモノ》 多由多比久禮婆《タユタヒクレバ》 九月能《ナガツキノ》 毛美知能山毛《モミヂノヤマモ》 宇都呂比爾家里《ウツロヒニケリ》
 
私ハ長イ海路ヲアチラコチラト〔私ハ〜傍線〕、(安麻久毛能)ブラブラシテ、ヤツテ來ルト、最早〔二字傍線〕九月ノ紅葉シタ山モ盛ガ過ギテ〔五字傍線〕、色ガアセテシマツタヨ。
 
○安麻久毛能《アマクモノ》――枕詞。多由多比《タユタヒ》につづく。○多由多比久禮婆《タユタヒクレバ》――多由多比《タユタヒ》はぶらぶらと漂ふこと。舟が波にゆられ漂うて來たことを言つてゐる。
〔評〕 天雲のは枕詞として用ゐてあるが、たゆたひにつづいて、遠き海路を漂ひ來つた樣をあらはすによく適してゐる。三句以下は九月も末となつて、秋も暮れむとしてゐることを述べてゐる。
 
3717 旅にても 喪無く早來と 吾妹子が 結びし紐は なれにけるかも
 
多婢爾弖毛《タビニテモ》 母奈久波也許登《モナクハヤコト》 和伎毛故我《ワギモコガ》 牟須妣思比毛波《ムスビシヒモハ》 奈禮爾家流香聞《ナレニケルカモ》
 
道中モ何ノサハリモナク、早ク御歸リナサイト言ツテ〔御歸〜傍線〕、吾ガ妻ガ出立ニ際シテ〔六字傍線〕結ンデクレ〔三字傍線〕タ着物ノ〔三字傍線〕紐ハ、結ンダ儘デ〔五字傍線〕ヨゴレタヨ。
 
○母奈久波也許登《モナクハヤコト》――凶事もなくて早く來よと。前に伊麻太爾母毛奈久由可牟登《イマダニモモナクユカムト》(三六九四)とあつた。○奈禮爾家流香聞《ナレニケルカモ》――褻れにけるかも。褻れは古くなつて、萎えること。
(623)〔評〕 汚れた衣の紐を手まさぐりつつ、家なる妻を偲ぶ歌。感情はよくあらはれてゐる。
以上の九首はこの一行の一人として、一行の人たちの歌を集めて置いた筆者の作。これから新羅へ渡つたのであるが、新羅での作が一首も載せてないのは頗る遺憾である。この一行の人たちの、異國の風物に接した感想が何とか詠まれてゐささうなものであるのに、何も記されてゐない。若しあつたならば和歌史上に一大異彩を放つであらうのに。一體わが國人の外國へ赴いたものが尠くないが、彼土での作としては唯一首山上憶良のが卷一にあるのみなのは、どういふわけであらう。
 
回(リ)2來(テ)筑紫(ニ)1海路入(ルニ)v京(ニ)、到(レル)2播磨國家島(ニ)1之時作(レル)歌五首
 
新羅から九州へ戻つて播磨の家島まで來る間何の作もない。その間に大使阿倍朝臣繼麿は對島で卒し、副使も亦病んで後れた。漸く家島へ辿りついた一行の人たちの悲愁は、蓋し想像以上であつたらう。
 
3718 家島は 名にこそありけれ 海原を 吾が戀ひ來つる 妹もあらなくに
 
伊敝之麻波《イヘシマハ》 奈爾許曾安里家禮《ナニコソアリケレ》  宇奈波良乎《ウナバラヲ》 安我古非伎都流《アガコヒキツル》 伊毛母安良奈久爾《イモモアラナクニ》
 
家島トイフ島〔四字傍線〕ハ、名バカリデアツタヨ。家ト云フカラニハ妻ガヰサウナモノダガ〔家ト〜傍線〕、私ガ海上ヲ戀シク思ヒツツ來タ妻ハヰナイヨ。
 
○奈爾許曾安里家禮《ナニコソアリケレ》――名ばかりであつた。家といふ名に背いて、妻がゐないといふのである。○安我古非伎都流《アガコヒキツル》――吾が戀ひ來つる妹と次句へつづいてゐる。
〔評〕 家島の名に負はで、家なる妻もゐないことを歌つたので、言葉だけの戯のやうでもあるが、家を戀ふる旅(624)人の、いらただしい心の叫びと見るべきであらう。
 
3719 草枕 旅に久しく あらめやと 妹に言ひしを 年のへぬらく
 
久左麻久良《クサマクラ》 多婢爾比左之久《タビニヒサシク》 安良米也等《アラメヤト》 伊毛爾伊比之乎《イモニイヒシヲ》 等之能倍奴良久《トシノヘヌラク》
 
(久左麻久良)旅ニハ久シク居ルモノカ、直グニ歸ツテ來ル〔八字傍線〕ト妻ニ云ツタノニ豫期ニ反シテ〔六字傍線〕、年ガタツテシマツタ。マダ歸レナイノハ悲シイ〔マダ〜傍線〕。
 
○等之能倍奴良久《トシノヘヌラク》――經ぬらくは經ぬるの延言。年が經たよと輕く詠嘆的氣分を持たせてある。六月に船出して正月に歸つたので、年が改まつたから、年が經たといふのであらう。
〔評〕 家島といふ名から、いよいよ妹を思ふ心が切である。秋には歸るとの妻との約束が空しくなつて、年も立ちかはる春となつたことを痛恨してゐる。一行の入京は乙亥朔の辛丑の日であつたから、二十九日であつた。日取から言つても家島へ來るまでに既に元旦を迎へてゐたに違ひない。
 
3720 吾妹子を 行きてはや見む 淡路島 雲居に見えぬ 家つくらしも
 
(625)和伎毛故乎《ワギモコヲ》 由伎弖波也美武《ユキテハヤミム》 安波治之麻《アハヂシマ》 久毛爲爾見延奴《クモヰニミエヌ》 伊敝都久良之母《イヘツクラシモ》
 
私ノ妻ヲ家ニ〔二字傍線〕歸ツテ早ク見タイモノダ。遙カ向ウニ〔五字傍線〕淡路島ガ空ノ彼方ニ見エタ。イヨイヨ〔四字傍線〕家ガ近付クラシイヨ。
 
○伊敝都久良之母《イヘツクラシモ》――伊敝都久《イヘツク》は家付く、家に近づく。前に於伎爾也須麻牟伊敝都可受之弖《オキニヤスマムイヘツカズシテ》(三六四五)とある。
〔評〕 遙かに淡路島を眺めて、漸く家郷の近くなつたことを喜んだので、歡喜の情さこそと推しはかられる。淡路島まで來れば自明門倭島所見《アカシノトヨリヤマトシマミユ》(二九五)と人麿も歌つたやうに、やがて大和も見えるので、この島からが大和らしい氣分に接するわけである。
 
3721 ぬば玉の 夜明かしも船は こぎ行かな 御津の濱松 待ち戀ひぬらむ
 
奴婆多麻能《ヌバタマノ》 欲安可之母布禰波《ヨアカシモフネハ》 許藝由可奈《コギユカナ》 美都能波麻末都《ミツノハママツ》 麻知故非奴良武《マチコヒヌラム》
 
(626)(奴婆多麻能)夜通シデモ、私ノ乘ツテヰル〔七字傍線〕舟ハ漕イデ行ケヨ。難波ノ浦ノ〔五字傍線〕三津ノ濱ノ松ハ、私ノ歸ヲ〔四字傍線〕戀シガツテ待ツテ居ルダラウ。
 
○欲安可之母布禰波《ヨアカシモフネハ》――夜通しに吾が乘る舟は。母《モ》は詠嘆の助詞として添へてある。○美都能波麻末都《ミツノハママツ》――三津の濱に生えてゐる松。松を擬人してゐる。同音を繰返して次句のマチにつづけてゐる。
〔評〕 家島にしづかに碇泊してゐるぢれつたさを歌つてゐる。下句は卷一の山上憶良の大唐に在つて本郷を憶つて詠んだ歌、去來子等早日本邊大伴乃御津乃濱松待戀奴良武《イザコドモハヤクヤマトヘオホトモノミツノハママツマチコヒヌラム》(六三)を學んだものである。この歌の三津の濱松を難波の遊女とする説もあるが、この五首はいづれも家郷を思ふの情が熱烈で、他の女を顧る暇はない場合であるから、ここに遊女などを想ひ起す心の餘裕はない筈だ。
 
3722 大伴の 御津の泊に 船はてて 立田の山を 何時か越え行かむ
 
大伴乃《オホトモノ》 美津能等麻里爾《ミツノトマリニ》 布禰波弖弖《フネハテテ》 多都多能山乎《タツタノヤマヲ》 伊都可故延伊加武《イツカコエイカム》
 
大伴ノ三津ノ濱ニ私ノ〔二字傍線〕舟ガ碇泊シテ、ソレカラ私ハ〔六字傍線〕龍田山ヲ何時越エテ都ニ歸〔四字傍線〕ルデアラウ。早ク行キタイモノダ〔九字傍線〕。
 
○大伴乃《オホトモノ》――大伴は難波から今の濱寺あたりの地名であつたらしい。枕詞として見《ミ》つにつづいた例もある。
〔評〕 家島に碇泊してゐて遙かにこれからの行先を想像し、待遠く思つてゐる。奈良へは生駒越と立田越とあつて、前に暫く暇を偸んで難波から生駒越して奈良へ行つて來たことが詠んであつたが、歸路は立田越して奈良に入らうと豫定してゐるのである。この歌、袖中抄に出てゐる。この歌を以て遣新羅使一行の人たちの作を終つてゐる。新羅からの歸途の作が僅かに五首に過ぎないのは、洵に物足りない、新羅から疫病のやうなものに(627)傳染して來て、大使その他の凶變があり、又途中落伍者なども出來、一行が這々の躰で京に歸つた爲に、歌作の氣分にならなかつたこともあらうし、又作つたものも散佚したのであらう。いたましいことであつた。
 
中臣朝臣宅守、與2狹野茅上娘子1贈(リ)答(フル)歌
 
目録には中臣朝臣宅守娶2藏部女嬬狹野茅上娘子1之時、勅斷2流罪1配2越前國1也、於v是夫婦相2嘆易v別難1v會各陳2慟情1贈答六十三首とあり、事件について委しく記してゐる。舊本に嬬の字を嫂に作つてゐるのを代匠記に聘の誤としてゐるが、それでは藏部女を娶り、狹野茅上娘子を聘する時と訓むことになつて意味をなさない。中臣朝臣宅守は續紀に「天平十二年六月庚午、宜v大2赦天下1、自2天平十二年六月十五日戍時1以前、大辟以下咸赦除之、云々、其流人穗積朝臣老等五人、召令v入v京、云々、中臣宅守不v在2赦限1」とあるから、配流になつたのは天平十年前後で、この時の大赦には、如何なる理由か赦されなかつたのである。赦免の後、再び任官したものと見えて、續紀に、天平賓宇七年正月壬子從六位上中臣朝臣宅守授2從五位下1」と見えてゐる、藏部は藏部司で、齋宮寮十二司の一。女嬬は掃除點燈などを掌る下級の女官。狹野茅上娘子の傳はわからない。茅は※[草がんむり/弟]となつてゐる本も多いが、この二字は他にも紛れた例があつて(七七三參照)どれが正しいか、判斷し難い。
 
3723 足引の 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし
 
安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻治古延牟等《ヤマヂコエムト》 須流君乎《スルキミヲ》 許許呂爾毛知弖《ココロニモチテ》 夜須家久母奈之《ヤスケクモナシ》
 
(安之比奇能)山道ヲ越エテ越前ノ國ヘ流サレテ〔九字傍線〕行カウトスル貴方ヲ、イトシイト〔五字傍線〕心ニ思ツテヰルノデ、私ハ〔二字傍線〕、心ノ安マルコトモアリマセヌ。
 
(628)○夜麻治古延牟等《ヤマヂコエムト》――山路を越えて越前に赴かむと。山路は主として愛發山を指すか。
〔評〕 別に臨んでの娘子の作。この一聯の中では佳作ではない。
 
3724 君が行く 道の長手を 繰りたたね 燒き亡さむ 天の火もがも
 
君我由久《キミガユク》 道乃奈我※[氏/一]乎《ミチノナガテヲ》 久里多多禰《クリタタネ》 也伎保呂煩散牟《ヤキホロボサム》 安米能火毛我母《アメノヒモガモ》
 
貴方ガ流サレテ〔四字傍線〕イラツシヤル、道ノ長イ道ヲ手繰リ寄セテ疊ンデ、ソレヲ〔三字傍線〕燒イテ無クシテシマフヤウナ、天ノ火ガ欲シイモノデス。コレカラ流サレテオイデニナル道ヲ、ナクシテシマヒタイト思ヒマス〔コレ〜傍線〕。
 
○道乃奈我※[氏/一]乎《ミチノナガテヲ》――道の長道を。卷二十に道乃長道波《ミチノナガヂハ》(四三四一)ともある。○久里多多禰《クリタタネ》――繰り疊に同じ。手繰り寄せて疊んで。古義は類聚古集に禰を彌に作るによつて、多多彌《タタミ》と改めてゐるが、タタヌといふ奈行の動詞のやうである。○安米能火毛我母《アメノヒモガモ》――天の火もあれかしの意。天の火は人間の燃やす火でなく、おのづから燃える不思議な火。史記孝景本紀に、「三年正月乙己天火燔2※[各+隹]陽東宮大殿城室1」とある天火と同じであらう。
〔評〕 山路を越えて行く越前への道は思ふだに遠い。その道さへ無くば別の悲しみもあるまい。それを燒いてしまふ天の火もあれかしと、身をも心をも燒くばかりの情熱の※[火+陷ノ旁]が燃え上つて、物凄い言葉と、強烈な調をなしてゐる。集中でも目立つた情熱的作品である。古義には「長道を繰り寄せ疊みて混一《ヒトツ》にして燒亡ぼして、近くならしむ天の神火もがなあれかし」と解いてゐるが、距離を近くならしめるのではない。越前へ行く道を亡くさうとするのである。天の火に支那的思想が見えるやうだ。
 
3725 吾が背子し 蓋しまからば 白妙の 袖を振らさね 見つつしぬばむ
 
和我世故之《ワガセコシ》 氣太之麻可良婆《ケダシマカラバ》 思漏多倍乃《シロタヘノ》 蘇低乎布良左祢《ソデヲフラサネ》 見都(629)追志努波牟《ミツツシヌバム》
 
私ノ夫ガ若シ越前ヘ流サレテ〔七字傍線〕、御出カケナサルナラバ、ソノ時ニハ〔五字傍線〕、(思漏多倍乃)袖ヲ振ツテ下サイ。私ハソレヲ〔五字傍線〕見テアナタヲ慕ヒマセウ。
 
○和我世故之《ワガセゴシ》――舊訓にワガセコガとあるのはよくない。○氣太之麻可良婆《ケダシマカラバ》――氣太之《ケダシ》は蓋し。若し。○思漏多倍乃《シロタヘノ》――枕詞。袖とつづく。
〔評〕 流罪と定まつた人に、なほ萬一の赦免を期待して、蓋し罷らばと言つてゐるのはいたましい。道すがら打振る袖を見て、名殘を惜しまうとするのも可愛さうである。
 
3726 この頃は 戀ひつつもあらむ 玉匣 明けてをちより すべなかるべし
 
己能許呂波《コノコロハ》 古非都追母安良牟《コヒツツモアラム》 多麻久之氣《タマクシゲ》 安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》 須辨奈可流倍思《スベナカルベシ》
 
今ノ内ハ、アナタヲ〔四字傍線〕戀シク思ヒナガラモ、堪ヘテ〔三字傍線〕居リマセウ。然シ愈々アナタガ御出立ナサル〔然シ〜傍線〕(玉匣)明朝以後ハ、戀シクテ私ハ〔三字傍線〕仕方ガナイデセウ。
 
○多麻久之氣《タマクシゲ》――枕詞。玉は美稱。櫛笥を開《ア》くにかけて用ゐる。卷九に玉匣開卷惜?夜矣《タマクシゲアケマクヲシキアタラヨヲ》(一六九二)とある。○安氣弖乎知欲利《アケテヲチヨリ》――夜が明けて後から。ヲチは遠。以後。
〔評〕 傷心の聲、悲痛の叫び、聞く人の心を動かさねば止まない。
 
右四首娘子臨(ミテ)v別(ニ)作(レル)歌
 
3727 塵泥の 數にもあらぬ 我故に 思ひわぶらむ 妹が悲しさ
 
(630)知里比治能《チリヒヂノ》 可受爾母安良奴《カズニモアラヌ》 和禮由惠爾《ワレユヱニ》 於毛比和夫良牟《オモヒワブラム》 伊母我可奈思佐《イモガカナシサ》
 
塵ヤ泥ノヤウナ、人間ノ〔三字傍線〕數ニモ入ラナイツマデナイ私ノ爲ニ、私ノ妻ハ〔四字傍線〕戀ニ苦シンデヰルデアラウガ、アノ〔三字傍線〕妻ハイトシイヨ。
 
○知里比治能《チリヒヂノ》――塵や泥のやうな。つまらぬものの譬である。○和禮由惠爾《ワレユヱニ》――吾故に。私の爲に。私だからの意ではない。○伊母我可奈思佐《イモガカナシサ》――この可奈思佐《カナシサ》はかはゆい、いとしいの意。
〔評〕 自分を謙遜して、塵泥の如き數ならぬ身といつてゐるのは、妻の愛情に對する感謝の念からであらう。古義に「かく此の度罪を被りて、遠く配流《ハナサ》れて、塵泥の如く世に容られず、數まへられぬ吾なるものを」とあるのは當らない。自分の賤しきを卑下して言つてゐるのである。つまらぬ身を塵泥に譬へるのは漢文學の影響ではあるまいか。この歌、拾遺集に第四句を思ひこふらむとして出してゐる。
 
3728 青丹よし 奈良の大路は 行きよけど この山道は 行き惡しかりけり
 
安乎爾與之《アヲニヨシ》 奈良能於保知波《ナラノオホヂハ》 由吉余家杼《ユキヨケド》 許能山道波《コノヤマミチハ》 由伎安之可里家利《ユキアシカリケリ》
 
(安乎爾與之)奈良ノ大通ハ歩クノニ歩キ艮イガ、今越前ニ流サレテコエテ行ク〔今越〜傍線〕コノ山道ハ歩キ難イヨ。
 
○許能山道者《コノヤマミチハ》――何處の山ともいつてゐないが、次の作に美故之治之太武氣爾多知弖《ミコシヂノタムケニタチテ》(三七三〇)とあるから、愛發山であらう。
〔評〕 由吉余家杼《ユキヨケド》に對して、由伎安之可里家利《ユキアシカリケリ》となつてゐるのは、調子が惡く、拙い感じがある。
 
3729 うるはしと 吾が思ふ妹を 思ひつつ 行けばかもとな 行き惡しかるらむ
 
(631)宇流波之等《ウルハシト》 安我毛布伊毛乎《アガモフイモヲ》 於毛比都追《オモヒツツ》 由氣婆可母等奈《ユケバカモトナ》 由伎安思可流良武《ユキアシカルラム》
 
イトシイト私ガ思フ妻ヲナツカシク〔五字傍線〕思ヒナガラ、歩イテヰルノデ、コンナニ〔四字傍線〕ムヤミニ歩キ難イノデアラウ。
 
○字流波之等《ウルハシト》――宇流波之《ウルハシ》は可愛いこと。○由氣婆可母等奈《ユケバカモトナ》――母等奈《モトナ》は徒らに、猥りに。この語を第三句の上に置きかへて見るべしと略解にあるのは誤つてゐる。
〔評〕 前の歌に許能山道波由伎安之可里家利《コノヤマミチハユキアシカリケリ》と言つた、その理由を説明したもので、連作になつてゐる。
 
3730 かしこみと 告らずありしを み越路の たむけに立ちて 妹が名告りつ
 
加思故美等《カシコミト》 能良受安里思乎《ノラズアリシヲ》 美故之治能《ミコシヂノ》 多武氣爾多知弖《タムケニタチテ》 伊毛我名能里都《イモガナノリツ》
 
罪ヲ受ケテ流サレテ行ク道中ダカラ〔罪ヲ〜傍線〕、恐多イトテ、戀シイ妻ノ名ヲ〔七字傍線〕口ニ出サズニ居ツタガ、イヨイヨ〔四字傍線〕越ノ國ヘ入ル道ノ峠ニ立ツテ、コレカラ越ノ國ダト思フト堪ヘ切レナイデ〔コレ〜傍線〕、妻ノ名ヲ呼ンダヨ。
 
○美故之治能《ミコシヂノ》――美《ミ》は接頭語。越路はここは越へ行く路と解しては當らない。越へ入る路で、ここから北陸道となる。多武氣《タムケ》とつづいてゐる。○多武氣爾多知弖《タムケニタチテ》――多武氣《タムケ》は手向。峠。ここで幣を手向けて神を祭り、道の安全を祈るのである、この多武氣《タムケ》は愛發山越の道。
〔評〕 第二句に能良受安里思乎《ノラズアリシヲ》と言つて、第五句に伊毛我名能里都《イモガナノリツ》と繰返したのは、技巧的には拙いと言つてよいが、内容はまことに悲しくあはれで、人をして同情せしめるものがある。
 
右四首中臣朝臣宅守上(リテ)v道(ニ)作(レル)歌
 
3731 思ふゑに 逢ふものならば しましくも 妹が目かれて 我居らめやも
 
(632)於毛布惠爾《オモフヱニ》 安布毛能奈良婆《アフモノナラバ》 之末思久毛《シマシクモ》 伊母我目可禮弖《イモガメカレテ》 安禮乎良米也母《アレヲラメヤモ》
 
戀シク思フカラ妻ニ〔二字傍線〕逢ヘルモノナラバ、コンナニ私ハ戀シク思ツテヰルノダカラ〔コン〜傍線〕、暫クノ間モ妻ニ分レテ私ガ居ルモノカ。必ズ逢ヘル筈ダ〔七字傍線〕。
 
○於毛布惠爾《オモフヱニ》――思ふ故に。ヱはユヱの略である。○之末思久毛《シマシクモ》――暫シにクを添へて、暫しくとしてゐる。意はしばらくもに同じ。
〔評〕 思ふ心の切なさ、暫しも止まぬ旅中の戀を述べてゐる。以下十四首は配所での作である。
 
3732 あかねさす 晝は物もひ ぬば玉の よるはすがらに ねのみし泣かゆ
 
安可禰佐須《アカネサス》 比流波毛能母比《ヒルハモノモヒ》 奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲流波須我良爾《ヨルハスガラニ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》
 
(安可禰佐須)晝ハ物ヲ思ツテ妻ヲ戀シ〔四字傍線〕、(奴婆多麻乃)夜ハ夜通シ妻ヲ思ツテ〔五字傍線〕、聲ヲ出シテ泣イテバカリ居ル。
 
○欲流波須我良爾《ヨルハスガラニ》――「須我良《スガラ》は、その儘。盡くなどの意。この句は夜もすがらと同意。
〔評〕晝も夜も女を思ふことを強調しただけだ。卷十三の赤根刺日者之彌良爾烏玉之夜者酢辛二眠不睡爾妹戀丹生流便爲無《アカネサスヒルハシミラニヌバタマノヨルハスガラニイモネズニイモニコフルニイケルスベナシ》(三二九七)などを短歌にしたやうでもある。
 
3733 吾妹子が 形見の衣 なかりせば 何物もてか 命繼がまし
 
和伎毛故我《ワギモコガ》 可多美能許呂母《カタミノコロモ》 奈可里世婆《ナカリセバ》 奈爾毛能母※[氏/一]加《ナニモノモテカ》 伊能(633)知都我麻之《イノチツガマシ》
 
吾ガ妻ノ形見トシテ着セテクレタコノ〔八字傍線〕着物ガナカツタナラバ、何物ヲモツテ私ハ命ヲ繋ガウカ。只コレダケヲ形見トシテ、心ヲ慰メテ生キテヰルノダ〔コレ〜傍線〕。
 
○奈爾毛能母※[氏/一]加《ナニモノモテカ》――何物以ちてかの略。古義にはモチとモテとの別を嚴重に主張して、これを母智加《モチカ》の誤かといつてゐるが、モチテカの略とすればこの儘でよい。
〔評〕 女の形見の衣を膚身放たず持つてゐて、辛うじて焦死もせず命をつないでゐる心の、悲しさ淋しさは同情に堪へない。
 
3734 遠き山 關も越え來ぬ 今更に 逢ふべきよしの 無きがさぶしさ 一云ふ、さびしさ
 
等保伎山《トホキヤマ》 世伎毛故要伎奴《セキモコエキヌ》 伊麻左良爾《イマサラニ》 安布倍伎與之能《アフベキヨシノ》 奈伎我佐夫之佐《ナキガサブシサ》
 
都ヲ離レテ〔五字傍線〕、遠イ山ヤ愛發ノ〔三字傍線〕關モ越エテ來タ。ダカラ〔三字傍線〕今ニナツテハ、妻ニ〔二字傍線〕逢フベキ方法ガナイノハ、淋シク悲シ〔三字傍線〕イヨ。
 
○等保伎山《トホキヤマ》――都より遠くにある山。愛發山を指すか。○世伎毛故要伎奴《セキモコエキヌ》――關は愛發の關。當時不破・鈴鹿と共に三關と呼ばれてゐた。古義には礪波の關とあるが、礪波關は越中であるから、宅守が越える筈はない。○奈伎我佐夫之佐《ナキガサブシサ》――佐夫之《サブシ》は寂し。心に物足らず思ふこと。
〔評〕 愛發の關を越えて、いよいよ配所に來た作者の心中の、淋しさ戀しさが想像される。關といふものに對する上代人の考へ方は格別であつた。况んや流人においてをやである。その心境は下の歌の中にあらはれてゐる。
 
(634)一云 左必之佐《サビシサ》
 
結句の異傳である。この場合はサブシサと同意である。
 
3735 思はずも まことあり得むや さ寢る夜の 夢にも妹が 見えざらなくに
 
於毛波受母《オモハズモ》 麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》 左奴流欲能《サヌルヨノ》 伊米爾毛伊母我《イメニモイモガ》 美延射良奈久爾《ミエザラナクニ》
 
ドウシテ私ハ妻ヲ戀シク〔ドウ〜傍線〕思ハズニホントニ居ラレヨウゾ。寢ル夜ノ夢ニスラモ、妻ガ見エナイコトハナイ、見エル〔三字傍線〕ノダカラ。戀シイノハ無理モナイデセウ〔戀シ〜傍線〕。
 
○於毛波受母《オモハズモ》――戀しい人を思はないでも、モは詠歎の助詞。○亡麻許等安里衣牟也《マコトアリエムヤ》――ほんとにゐられようやとてもゐられない。○左奴流欲能《サヌルヨノ》――さ寢る夜の。サは接頭語。○美妓射良奈久爾《ミエザラナクニ》――見えずあらなくに。見えないことはないよの意。ナクニと言ふのは極めて輕い詠嘆的叙法である。この句を略解に「見えざらなくにのなくは詞にて、見えざるにと言ふ也。」とあり、古義にも「見え來ざる事なるを」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 夢にのみ見て逢へないことを嘆いてゐる。調子に強いところがある。代匠記に初句で切つて見てもよいとあるが、さういふ歌形ではない。
 
3736 遠くあれば 一日一夜も 思はずて 在るらむものと 思ほしめすな
 
等保久安禮婆《トホクアレバ》 一日一夜毛《ヒトヒヒトヨモ》 於母波受弖《オモハズテ》 安流良牟母能等《アルラムモノト》 於毛保之賣須奈《オモホシメスナ》
 
私ハアナタヲ思ハナイコトハナイノダカラ、私ガ今頃貴女ト〔私ハ〜傍線〕遠ク離レテヰルノデ、一日一晩デモ、アナタヲ〔四字傍線〕思ハ(635)ズニヰルダラウナドト思召スナヨ。
 
○等保久安禮婆《トホクアレバ》――第三句の思はずてにかかつてゐる。
〔評〕 遠く離れてゐても、私は貴女を忘れる時はないと、相手の同情を求めて、呼びかける言葉。女性的口吻である。
 
3737 ひとよりは 妹ぞも惡しき 戀もなく あらましものを 思はしめつつ
 
比等余里波《ヒトヨリハ》 伊毛曾母安之伎《イモゾモアシキ》 故非毛奈久《コヒモナク》 安良末思毛能乎《アラマシモノヲ》 於毛波之米都追《オモハシメツツ》
 
他ノ〔二字傍線〕人ノ誰〔二字傍線〕ヨリモ妻ノアナタ〔四字傍線〕ガイケナイノデス。私ハ〔二字傍線〕戀モナク長閑ニシテ〔五字傍線〕ヰタイノニ、アナタガ私ニ戀シク〔十字傍線〕思ハセナサツテ。ホントニアナタハ惡イ人デス〔ホン〜傍線〕。
 
○於毛波之米都追《オモハシメツツ》――思はしめて。シメは使役助動詞。ツツは輕く言ひをさめてゐる。
〔評〕 これも男らしくない女々しい戀である。宅守の性格のあらはれであらう。
 
3738 思ひつつ 寢ればかもとな 烏玉の 一夜もおちず 夢にし見ゆる
 
於毛比都追《オモヒツツ》 奴禮婆可毛等奈《ヌレバカモトナ》 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 比等欲毛意知受《ヒトヨモオチズ》 伊米爾之見由流《イメニシミユル》
 
妻ヲ戀シク〔五字傍線〕思ヒツツ寢ルカラカ、(奴婆多麻能)一晩モ缺カサズニ、妻ノコトガ〔五字傍線〕徒ラニ夢ニ見エルヨ。
 
○奴禮婆可毛等奈《ヌレバカモトナ》――寢ればかもとな。毛等奈《モトナ》は五句の上に移して見るがよい。
〔評〕 意は少し異なるが、前の和伎毛故我伊可爾於毛倍可奴婆多末能比登欲毛於知受伊米爾之美由流《ワギモコカイカニオモヘカヌバタマノヒトヨモオチズイメニシミユル》(三六四七)に似てゐる。
 
3739 かくばかり 戀ひむとかねて 知らませば 妹をば見ずぞ あるべくありける。
 
(636)可久婆可里《カクバカリ》 古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》 之良末世婆《シラマセバ》 伊毛乎婆美受曾《イモヲバミズゾ》 安流倍久安里家留《アルベクアリケル》
 
コレホドニ妻ヲ〔二字傍線〕戀スルダラウト豫テ知ツテヰタナラバ、妻ニハ逢ハズニヰル筈デアツタノニ。
 
○伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《イモヲバミズゾアルベクアリケル》――見ずは、唯逢はないといふのではない。この句はあの女を知らずにあるべきであつたといふのである。
〔評〕 戀の苦しさに、娘子と知合になつたことを悔む言葉。卷十一の是量戀物知者遠可見有物《カクバカリコヒムモノトシシラマセバトホクミツベクアリケルモノヲ》(二三七二)と似てゐる。
 
3740 天地の 神なきものに あらばこそ 吾が思ふ妹に 逢はず死にせめ
 
安米都知能《アメツチノ》 可未奈伎毛能爾《カミナキモノニ》 安良婆許曾《アラバコソ》 安我毛布伊毛爾《アガモフイモニ》 安波受思仁世米《アハズシニセメ》
 
若シ〔二字傍線〕天ノ神、地ノ神ガナイモノデアツタナラバ、私ノ戀シイ妻ニ會ハズニ私ハ死ヌデセウ。天ノ神、地ノ神ガアル以上ハ、私ガコレ程ニ思ツテヰルコトヲ憐ンデ、會ハセテ下サルダラウカラ、妻ニ會ハズニ死ヌ筈ハナイ〔天ノ〜傍線〕。
 
〔評〕 卷四の笠女郎が大伴家持に贈つた歌。天地之神理無者社吾念君爾不相死爲目《アメツチノカミシコトハリナクバコソワガモフキミニアハズシニセメ》(六〇五)と酷似してゐる。時代も略同年頃で、いづれが先とも判斷し難いが、雨者の關係は否定出來ない。
 
3741 命をし 全くしあらば あり衣の 在りて後にも 逢はざらめやも 一云、在りての後も
 
伊能知乎之《イノチヲシ》 麻多久之安良婆《マタクシアラバ》 安里伎奴能《アリキヌノ》 安里弖能知爾毛《アリテノチニモ》 安波(637)射良米也母《アハザラメヤモ》
 
命サヘ無事デアルナラバ、イツカハ〔四字傍線〕(人安里伎奴能)カウシテヰテ、後デ戀人ニ〔三字傍線〕會ハレナイコトハアラウヤ。必ズ後デ逢ヘルデセウ〔必ズ〜傍線〕。
 
○伊能知乎之麻多久之安良婆《イノチヲシマタクシアラバ》――強辭のシが二つ用ゐられてゐる。○安里伎奴能《アリキヌノ》――枕詞。安里弖《アリテ》とつづいてゐる。安里伎奴《アリギヌ》は諸説があるが、鮮かなる絹と解した宣長説に從ふ。
〔評〕 將來にはかない望をかけてゐる。卷四の玉緒乎沫緒二搓而結有者在手後二毛不相在目八方《タマノヲヲアハヲニヨリテムスベレバアリテノチニモアハザラメヤモ》(七六三)と下句同じ。卷十二にも在而後爾毛相等曾念《アリテノチニモアハムトゾオモフ》(三〇六四)とある。
 
一云 安里弖能乃知毛《アリテノノチモ》
 
第四句の異傳。意は同じである。
 
3742 逢はむ日を その日と知らず 常闇に いづれの日まで 我戀ひ居らむ
 
安波牟日乎《アハムヒヲ》 其日等之良受《ソノヒトシラズ》 等許也未爾《トコヤミニ》 伊豆禮能日麻弖《イヅレノヒマデ》 安禮古非乎良牟《アレコヒヲラム》
 
戀シイ人ニ〔五字傍線〕逢フ日ヲ何時トモワカラズコノ配所デ心モ〔七字傍線〕眞暗ニナツテ、何時ノ曰マデ私ハカウシテ〔四字傍線〕戀ヒ慕ツテヰルデアラサカ。
 
○安波牟目乎其日等之良受《アハムヒヲソノヒトシラズ》――赦されて越から歸つて、あなたに逢ふべき日を何時とも豫定し難く。○等許也未爾《トコヤミニ》――常闇に。永しへに明けない闇。悲しみの爲に、心の暗くなつてゐることの、永久に晴れないこと。古義に卷四の照日乎闇爾見成而哭涙《テラスヒヲヤミニミナシテナクナミダ》(六九〇)にならつて、涙の爲に目も見えぬやうに解してゐるが、涙には關係が(638)ない。
〔評〕 配所にある人の戀の叫が、あはれに人の胸を打つものがある。しかしこれも益荒堆ぶりではない。
 
3743 旅といへば 言にぞ易き 少くも 妹に戀ひつつ 術無けなくに
 
多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許等爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須久奈久毛《スクナクモ》 伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》 須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》
 
旅ト口デ〔二字傍線〕言フト、言葉デハ、如何ニモ〔四字傍線〕容易ク聞エル〔三字傍線〕。シカシ旅デハ〔六字傍線〕妻ヲ戀シク思ツテ、少シグラヰノ術ナサ辛サデハアリマセヌゾ。
 
○多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎《タビトイヘバコトニゾヤスキ》――旅と言ふと言葉では何でもない。タビといふ語が、言ひ易いといふのではない、旅といふと言葉だけでは何でもないが實際は辛いといふのだ。○須久奈久毛《スクナクモ》――句を隔てて、結句につづいてゐる。○須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》――術なくはないよ。三句から續いて、少し術ないのではない、大に辛いよの意。
 
〔評〕 卷十一の言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二《コトニイヘバミミニタヤスシスクナクモココロノウチニワガモハナクニ》(二五八一)と同型。多分これを模倣したものであらう。下に初二句同じ歌がある。
 
3744 吾妹子に 戀ふるに我は たまきはる 短き命も 惜しけくもなし
 
和伎毛故爾《ワギモコニ》 古布流爾安禮波《コフルニアレハ》 多麻吉波流《タマキハル》 美自可伎伊能知毛《ミジカキイノチモ》 乎之家久母奈思《ヲシケクモナシ》
 
吾ガ妻ヲ戀シク思フ苦シサ〔三字傍線〕ニ、私ハ死ンダ方ガ苦シミヲ遁レテヨカラウト思フカラ、人間ノコノ〔死ン〜傍線〕、短イ(多麻吉波流)壽命ナドハ惜シクモ思ハナイ。
 
(639)○古布流爾安禮波《コフルニアレハ》――安禮波《アレハ》は我は。○多麻吉波流《タマキハル》――枕詞。命につづく。○美自可伎伊能知毛乎之家久母奈思《ミジカキイノチモヲシケクモナシ》――人間の壽命は短いから貴いが、その短い壽命も戀故には惜しいとは思はない。古義に「吾妹子を戀しく思ふ心の苦しき餘りに、中々に死たらば安かりなむと思へば、命の短からむことも、吾はさらに惜からずとなり」とあるのは誤解であらう。新考に「ミジカキとイノチモのモと相背きて聞ゆ。毛はおそらくは衍字ならむ」とあるのも從ひ難い。
〔評〕 卷九の如是耳志戀思渡者霊刻命毛吾波惜雲奈師《カクノミシコヒシワタレバタマキハルイノチモワレハヲシケクモナシ》(一七六九)、卷十二の君爾不相久成宿玉緒之長命之惜雲無《キミニアハズヒサシクナリヌタマノヲノナガキイノチノヲシケクモナシ》(三〇八二)と酷似してゐる。
 
右十四首中臣朝臣宅守
 
目録には至2配所1中臣朝臣宅守作歌十四首とある。配所にての作で、纒めて娘子に贈つたものであらう。
 
3745 命あらば 逢ふこともあらむ わが故に はたな思ひそ 命だに經ば
 
伊能知安良婆《イノチアラバ》 安布許登母安良牟《アフコトモアラム》 和我由惠爾《ワガユヱニ》 波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》 伊能知多爾敝波《イノチダニヘバ》
 
命サヘ〔二字傍線〕アルナラバ、又〔傍線〕逢フコトモアルデセウ。デスカラ〔四字傍線〕、私ノ爲ニ、ヤハリ物思ヲナサイマスナ。オ互ニ〔三字傍線〕命サヘアルナラバ又逢フコトモアルデセウ〔又逢〜傍線〕。
 
○波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》――波太《ハタ》は將。やはりなどの意。ここの用法は極めて輕いやうである。古義には「波多《ハタ》はそのもと心に欲《ネガ》はず、厭ひ惡《キラ》ひてあることなれど、外にすべきすじなくて、止むことなくするをいふ詞なり」とある。○伊能知多爾敝波《イノチダニヘバ》――命だに長らへば。
〔評〕 男を慰める言葉。初句の意を終句に繰返してゐる。男から和伎毛故爾古布流爾安禮波多麻吉波流美自可伎(640)伊能知毛乎之家久母奈思《ワギモコニコフルニアレヘタマキハルミジカキイノチモヲシケクモナシ》(三七四四)と言つたのに答へたものか。
 
3746 人の植うる 田は植ゑまさず 今更に 國別れして 我はいかにせむ
 
比等能宇宇流《ヒトノウウル》 田者宇惠麻佐受《タハウヱマサズ》 伊麻佐良爾《イマサラニ》 久爾和可禮之弖《クニワカレシテ》 安禮波伊可爾勢武《アレハイカニセム》
 
世ノ中ノ〔四字傍線〕人ガ皆〔傍線〕植ヱル田ヲアナタハ〔四字傍線〕御植ヱニナラズニ、國ヲ遠ク別レテ越前ヘ御出ニナツテ〔越前〜傍線〕、今更私ハ、何トシタモノデセウ。御留守中ドウシタモノカ、途方ニクレマス〔御留〜傍線〕。
 
○比等能宇宇流田者宇惠麻佐受《ヒトノウウルタハウヱマサズ》――世の人の植ゑる田を植ゑ給はず。世の人の如く田を植ゑ給はずの意。○伊麻佐良爾《イマサラニ》――句を隔てて結句につづいてゐる。○久爾和可禮之弖《クニワカレシテ》――國に分れて。故郷を去つて旅に出でて。○安禮波伊可爾勢武《アレハイカニセム》――我は如何にせむ。我は途方にくれる意。
〔評〕 農夫でない宅守は、もとより自ら田植する筈はないが、所領の田の植付のことも農夫に差圖する遑もなく、配流せられて、越前に赴いたので、後に殘つた娘子が途方にくれてゐるのであらう。新解には「人並の事はしないでの意。田を植ゑるのは譬喩で借り來つたまでである」と言つてゐる。併しまだ霞の春の頃、流されたことは下の歌に明らかであるから、ここに田植もしないでとあるのと、丁度時季があつてゐる。
 
3747 吾が宿の 松の葉見つつ 我待たむ 早帰りませ 戀ひ死なぬとに
 
和我屋度能《ワガヤドノ》 麻都能葉見都都《マツノハミツツ》 安禮麻多無《アレマタム》 波夜可反里麻世《ハヤカヘリマセ》 古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》
 
私ノ宿ノ松ノ葉ヲ眺メナガラ、ソノ待ツトイフ名ヲタヨリニシテ〔ソノ〜傍線〕、私ハアナタヲ〔四字傍線〕待ツテ居リマセウ。私ガ〔二字傍線〕戀ヒ死ナヌ内ニ早ク御歸リナサイマシ。
(641)○麻都能葉見都都《マツノハミツツ》――松で待を連想して、松を眺めながら貴方を待つてゐようといふのだ。○古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》――戀ひ死なぬ内に。焦死しない間に。トニは内に、時になどの意。卷十の夜之不深刀爾《ヨノフケヌトニ》(一八二二)參照。
〔評〕 松を待にかけた歌は集中に尠くない。戀しい人を待つ淋しい心を、松の梢を眺めて慰めるのであらうが、現代人には松樹に對して戀人を待つ心は理解し難いやうだ。
 
3748 ひと國は 住惡しとぞいふ すむやけく 早歸りませ 戀ひ死なぬとに
 
比等久爾波《ヒトクニハ》 須美安之等曾伊布《スミアシトゾイフ》 須牟也氣久《スムヤケク》 波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》 古非之奈奴刀爾《コヒシナヌトニ》
 
他國ハ住ミニクイ所ダ〔二字傍線〕ト世間デ〔三字傍線〕申シマス。デスカラ、私ガ貴方ノ御歸リヲ待ツテ〔デス〜傍線〕、戀死シナイ内ニ、早ク御歸リ下サイ。
 
○比等久爾波《ヒトクニハ》――他國は。卷十二に他國爾結婚爾行而《ヒトクニニヨバヒニユキテ》(二九〇九)とある。○牟也氣久《スムヤケク》――速かに。卷六には急令變賜根《スムヤケクカヘシタマハネ》(一〇二〇〕とある。
〔評〕 前の歌と下句が同じである。弄語的な「松の葉見つつ」よりも、「人國は住みあしとぞいふ」の方が感情がこもつてゐるが、なほこれにも二句と三句とにスミとスムとの繰返しが、かなり主要な技巧として用ゐられてゐるやうである。
 
3749 他國に 君をいませて 何時までか 吾が戀ひ居らむ 時の知らなく
 
比等久爾爾《ヒトクニニ》 伎美乎伊麻勢弖《キミヲイマセテ》 伊都麻弖可《イツマデカ》 安我故非乎良牟《アガコヒヲラム》 等伎乃之良奈久《トキノシラナク》
 
他國ヘアナタヲ旅立タセテ、又、再ビ御目ニカカル〔九字傍線〕時モ知ラズ、何時マデ私ハアナタヲ〔四字傍線〕戀シガツテ居ルコトデ(642)セウ。早ク御歸リ下サイ〔八字傍線〕。
 
○伎美乎伊麻勢弖《キミヲイマセテ》――君をいませて。貴方を行かしめて。イマスは居るの敬語である場合と、行くの敬語である場合とある。ここは後者。下二段活用の他動詞である。○等伎乃之良奈久《トキノシラナク》――再び逢ふべき時が何時ともわからない。前の句で切つて、この句を言ひ添へたのである。四五の句を續けて見る説は從ひ難い。
〔評〕 前の歌と略々同意。唯少しく言ひ方が穩やかである。
 
3750 天地の そこひのうらに 吾が如く 君に戀ふらむ 人はさねあらじ
 
安米都知乃《アメツチノ》 曾許比能宇良爾《ソコヒノウラニ》 安我其等久《アガゴトク》 伎美爾故布良牟《キミニコフラム》 比等波左禰安良自《ヒトハサネアラジ》
 
天地ノ極マデノ内ニ、コノ世界中デ〔六字傍線〕、私ノヤウニアナタヲ戀ヒ慕フ人ハ、實際アルマイ。
 
○安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》――天地の極《ハテ》の内に。曾許比《ソコヒ》は底ひ。底の方。ソキヘの轉訛とも考へられる。宇良《ウラ》は裡。内に同じ。○比等波左禰安良自《ヒトハサネアラジ》――左禰《サネ》は眞・實。ほんとに。實際に。
〔評〕 輪廓の大きな歌。張り切つた調子。燃えるやうな情緒。
 
3751 白妙の 吾が下衣 失はず 持てれ吾が背子 直に逢ふまでに
 
之呂多倍能《シロタヘノ》 安我之多其呂母《アガシタゴロモ》 宇思奈波受《ウシナハズ》 毛弖禮和我世故《モテレワガセコ》 多太爾安布麻低爾《タダニアフマデニ》
 
私ノ夫ヨ、再ビ〔二字傍線〕直接ニ御目ニカカルマデハ、私ノ(之呂多倍能)下着ヲ無クサズニ持ツテヰテ下サイ。
 
○之呂多倍能《シロタヘノ》――枕詞。衣につづく。○安我之多其呂母《アガシタゴロモ》――私の下衣。下衣は下に襲ねる衣。娘子が贈つた衣。(643)○毛弖禮和我世故《モテレワガセコ》――持てよ吾が背子。毛弖禮《モテレ》は持てりの命令形。
〔評〕宅守の出立に際して、娘子が贈つた衣は唯一の形見であつた。宅守も和伎毛故我可多美能許呂母奈可里世婆奈爾毛能母※[氏/一]加伊能知都我麻之《ワギモコガカタミノコロモナカリセバナニモノモテカイノチツガマシ》(三七三三)といつてゐる。更に後から別の衣を贈つて、この衣を逢ふまでの形見として失ふなかれと言ひ送つたのであらう。
 
3752 春の日の うらがなしきに おくれ居て 君に戀ひつつ 顯しけめやも
 
波流乃日能《ハルノヒノ》 宇良我奈之伎爾《ウラガナシキニ》 於久禮爲弖《オクレヰテ》 君爾古非都都《キミニコヒツツ》 宇都之家米也母《ウツシケメヤモ》
 
只サヘ〔三字傍線〕春ノ日ガ心悲シイノニ、アナタト〔四字傍線〕別レテヰテ、私ハ〔二字傍線〕アナタヲ戀シク思ヒナガラ、正氣デヰラレマセウヤ、私ハボンヤリシテ悲シンデヰマス〔私ハ〜傍線〕。
 
○宇良我奈之伎爾《ウラガナシキニ》――心悲しいのに。古義に、春の日の心愛憐しく樂しくの意に見てゐるのはよくない。○宇都之家米也母《ウツシケメヤモ》――顯しくあらめやも。正氣でゐられようか、正氣ではゐられない。
〔評〕 あはれな感傷的作品であるが、卷十二の足檜木乃片山雉立往牟君爾後而打四鷄目八方《アシビキノカタヤマキギシタチユカムキミニオクレテウツシケメヤモ》(三二一〇)から脱化したものらしい。
 
3753 逢はむ日の 形見にせよと 手弱女の 思ひ亂れて 縫へる衣ぞ
 
安波牟日能《アハムヒノ》 可多美爾世與等《カタミニセヨト》 多和也女能《タワヤメノ》 於毛比美太禮弖《オモヒミダレテ》 奴敝流許呂母曾《ヌヘルコロモゾ》
 
コノ着物ハ、又〔六字傍線〕、逢フ日マデノ形見ニナサイマシト思ツテ〔三字傍線〕、私ガ悲シサニ〔四字傍線〕心ガ亂レナガラ、アナタノ爲ニ〔六字傍線〕縫ツタ着物デゴザイマスヨ。ソノオツモリデ御召シ下サイ〔ソノ〜傍線〕。
(644)〔評〕 配所へ衣を贈つた時の歌。前の之呂多倍能安我之多其呂母《シロタヘノアガシタコロモ》(三七五一)の歌と同意である。多和也女能於毛比美太禮弖《タワヤメノオモヒミダレテ》が悲しい言葉だ。
 
右九首娘子
 
3754 過所無しに 關飛び越ゆる ほととぎす まねく吾が子にも 止まず通はむ
 
過所奈之爾《クワソナシニ》 世伎等婢古由流《セキトビコユル》 保等登藝須《ホトトギス》 多我子爾毛《マネクワガコニモ》 夜麻受可欲波牟《ヤマズカヨハム》
 
關所ノ〔三字傍線〕通過證ナシニ、關所ヲ飛ビ越エル郭公ノヤウニ私ハ〔六字傍線〕、何回モ私ノ妻ノトコロヘ、絶エズ通ツテ行カウ。私ハ流人デアルカラ、關所ノ通過證ガナクテ、妻ノトコロヘ通フコトガ出來ナイノハ殘念ダ〔私ハ〜傍線〕。
 
○過所奈之爾《クワソナシニ》――過所は舊訓ヒマだぁり、代匠記初稿本に「過所とかけるは、ひまあればそこより物の過ればなり。我は咎ある身にて關山をこゆることあたはぬに、ひまもなくほとときすのとびこゆるは云々」と解してゐるが無理である。過所は關を越える人の手形で、公式令に過所式あり、關市令に「凡欲v度v關者、皆經2本部本司1請2過所1」と見えてゐる。考・略解はフミと訓み、古義はフダとよんでゐる。併し卷五の布施於吉弖《フセオキテ》(九〇六)の布施を文字通りにフセと訓んだのと同一方針で、これもクワソと訓むべきであらう。代匠記精撰本は初稿本の訓を自から拒けて、「今按、されど此卷はやすらかに書たる例なればひまならば、かくは書べからず。三代實録第十二云、譴2責豐前長門國司等1曰、關司出入、理用2過所1、而今唐人入v京、任v意經過、是國宰不v慎2督察1、關司不v責2過所1之所v致也、自v今以後、若有2驚忽1、必處2嚴科1、又云、唐人任中元、非v有2過所1、輙入2京城1、令d加2譴詰1還c太宰府u、重下2知長門太宰府1、嚴2關門之禁1焉。又第十七云、比年之間、公私雜人、或陸或海、來集深入、遠尋營2求善馬1、及2其歸向1、多者二三十少者八九疋、惣計2過所年出v關之類1凡千餘疋云々。適所は關を通る證文なるべし。此に依らはクワソナシニと音によむべき歟」と言つてゐる。○多我子爾毛《マネクワガコニモ》――舊訓アマ(645)タガコニモとあるのではわからない。考は多を和の誤、毛の下、可母の二字、脱としてワガミニモカモとし、略解・古義・新考などこれに從つてゐるが、原字の儘でよんだ新訓に暫く從ふことにする。幾囘も吾が愛する妻の所への意。但し前の句からの連絡が少し隱やかでない。
〔評〕 第四句が少し曖昧であるが、都の方へ飛んで行く郭公の鳴く聲を聞いて、途中の愛發の關を思ひ出して、手札もなしに關を飛び越える鳥を羨んだのである。着想も用語も珍らしい。なほ前の娘子の歌に、波流乃日能宇良我奈之伎爾《ハルノヒノウラガナシキニ》(三七五二)とあつたが、これ以下の十三首の歌は夏の初に贈つたものである。
 
3755 うるはしと 吾が思ふ妹を 山川を 中にへなりて 安けくもなし 
 
宇流波之等《ウルハシト》 安我毛布伊毛乎《アガモフイモヲ》 山川乎《ヤマカハヲ》 奈可爾敝奈里弖《ナカニヘナリテ》 夜須家久毛奈之《ヤスケクモナシ》
 
懷カシイト思フ吾ガ妻ト、山ヤ川ガ間ニ隔ツテ、別レテヰルノデ、私ハ、心ノ〔別レ〜傍線〕安マルコトモアリマセヌ。
 
○山川乎《ヤマカハヲ》――山と河を。○奈可爾敝奈里※[氏/一]《ナカニヘナリテ》――山や河が間に隔つて。ヘナルは自動詞である。卷十七に山河能弊奈里底安禮婆《ヤマカハノヘナリテアレバ》(三九五七)とある。
〔評〕 初二句は古義に「愛《ウルハ》しと吾が念ふ妹なるを」と譯してあるが、前に同じ人の作で、宇流波之等安我毛布伊毛乎於毛比都追由氣婆可母等奈由伎安思可流良武《ウルハシトアガモフイモヲオモヒツツユケバカモトナユキアシカルラム》(三七二九)とあるのと同じで、それは思ヒの目的になつてゐるのに、これには目的となるものがない。古義のやうに見るのもどうかと思はれるから、トの意味に見ることにしよう。或は誤字かも知れない。次句に又ヲを重ねて山川乎《ヤマカハヲ》としたのも面白くない。この人の作に下に山川乎奈可爾敝奈里弖等保久登毛(ヤマカハヲナカニヘナリテトホクトモ》(三七六四)とあり、前に許許呂爾毛知弖夜須家久母奈之《ココロニモチテヤスケクモナシ》(三七二三)とあつた。語彙が乏しいといふ評は免かれまい。
 
3756 向ひゐて 一日もおちず 見しかども 厭はぬ妹を 月わたるまで
 
(646)牟可比爲弖《ムカヒヰテ》 一日毛於知受《ヒトヒモオチズ》 見之可杼母《ミシカドモ》 伊等波奴伊毛乎《イトハヌイモヲ》 都奇和多流麻弖《ツキワタルマデ》
 
妻ト家ニヰル間〔七字傍線〕、サシ向ヒニ坐ツテ、一日モ缺カサズ見テヰタケレドモ、厭ニハナラナイ妻ヲ、月ガ變ルマデ見ナイデヰルカラ戀シクテ仕方ガナイ〔見ナ〜傍線〕。
 
○伊等波奴伊毛乎《イトハヌイモヲ》――妹なるをと見る説はよくない。ヲは目的をあらはし、結句の下に見ズとあるべきを略してゐる。○都奇和多流麻弖《ツキワタルマデ》――月が經つまで。前の歌どもによると春霞の立つ頃、田植が未だ初まらない内に都を出たのだから、郭公のなき初めた初夏までは、一月は經過したわけである。
〔評〕 第四句までは卷四に向座而雖見不飽吾妹子二《ムカヒヰテミレドモアカヌワギモコニ》(六六五)とあるのと同意。結句、言ひ殘して餘情を籠めてゐる。
 
3757 吾が身こそ 關山越えて 此處に在らめ 心は妹に 依りにしものを
 
安我未許曾《アガミコソ》 世伎夜麻故要弖《セキヤマコエテ》 許己爾安良米《ココニアラメ》 許己呂波伊毛爾《ココロハイモニ》 與里爾之母能乎《ヨリニシモノヲ》
 
私ノ身體コソハ、愛發ノ〔三字傍線〕關ノ山ヲ越エテ、此處ニ流サレテ來テ〔六字傍線〕居ルデアヲウ。ガ然シ〔三字傍線〕心ハ妻ニ寄リ副ウテシマツタノニ。心ダケハ都ノ妻ノトコロニ殘シテ、私ノ躰ハ藻脱ケノ殻ダ〔心ダ〜傍線〕。
 
○世伎夜麻故要※[氏/一]《セキヤマコエテ》――關山は關ある山か、關と山とか不明。諸註皆後者に見てゐるが、恐らく關のある山、即ち愛發の關ある、愛發山であらう。この山が越の境で、當時の三關の一が置かれてゐたのである。
〔評〕 卷十一の紫之名高乃浦之靡藻之情者妹爾因西鬼乎《ムラサキノナタカノウラノナビキモノココロハイモニヨリニシモノヲ》(二七八〇)の下句を、その儘流用したものか。その爲か結句の含んでゐる眞意が、明瞭を缺いてゐる。
 
3758 刺竹の 大宮人は 今もかも 人なぶりのみ 好みたるらむ 一云、今さへや
 
(647)佐須太氣能《サスタケノ》 大宮人者《オホミヤヒトハ》 伊麻毛可母《イマモカモ》 比等奈夫理能未《ヒトナブリノミ》 許能美多流良武《コノミタルラム》
 
(佐須太氣能)大宮人ハ私ガ都ニヰタ時ノヤウニ〔私ガ〜傍線〕、今デモ人ヲナブルコトバカリヲ好ンデヤツテ〔三字傍線〕ヰルダラウ。私ガ流サレタノデ、妻ヲ嘸ナブツテヰルダラウ〔私ガ〜傍線〕。
 
○佐須太氣能《サスタケノ》――枕詞。大宮に冠す。九五五參照。○比等奈夫理能未《ヒトナブリノミ》――比等奈夫理《ヒトナブリ》は人を嬲り戯れること。これは留守の娘子をからかふのである。古義に「娘子が事により配《ツミ》せられし吾なれば自らが上也、また娘子がうへを、殿上の若公達はおもしろがりて、くさぐさ嬲りごとを今やするならむと思ひやるなり」とあるのは聊か違つてゐる。
〔評〕 我故に留守居の娘子が、人にからかはれ愚弄せられるのを、遙かに思ひやつた歌。眞情そのままで面白く内容も珍らしい。
 
一云 伊麻左倍也《イマサヘヤ》
 
これは第三句の遺傳である。原句と意は同じ。
 
3759 立ちかへり 泣けども我は しるしなみ 思ひ侘ぶれて 寢る夜しぞ多き
 
多知可敝里《タチカヘリ》 奈氣杼毛安禮波《ナケドモアレハ》 之流思奈美《シルシナミ》 於毛比和夫禮弖《オモヒワブレテ》 奴流欲之曾於保伎《ヌルヨシゾオホキ》
 
繰リ返シ繰リ返シイクラ〔七字傍線〕泣イテモ、何ノ〔二字傍線〕甲斐モナイカラ、私ハ、ガツカリシテアキラメテ〔五字傍線〕寢ル晩ガ多イヨ。
 
(648)○多知可敝里《タチカヘリ》――繰返し。○於毛比和夫禮弖《オモヒワブレテ》――思ひ侘ぶれて。思ひ惱んで、がつかりして。和夫禮《ワブレ》はワブルの連用形である。ワブは上二段活であるが、これは下二段に活くものと見える。
〔評〕 謂はゆる泣寢入に寢てしまふといふので、男らしくない戀歌である。
 
3760 さ寢る夜は 多くあれども 物思はず 安く寢る夜は さねなきものを
 
左奴流欲波《サヌルヨハ》 於保久安禮杼母《オホクアレドモ》 毛能毛波受《モノモハズ》 夜須久奴流欲波《ヤスクヌルヨハ》 佐禰奈伎母能乎《サネナキモノヲ》
 
寢ル晩ハ澤山アルケレドモ、物思ヲセズニ、落着イテ〔四字傍線〕、安眠スル晩ハホントニナイヨ。毎晩妻ヲ思ツテ眠ラレナイ〔毎晩〜傍線〕。
 
○左奴流欲波《サヌルヨハ》――サは接頭語のみ。寢る晩は。○佐禰奈伎母能乎《サネナキモノヲ》――ほんとに無いよ。この母能乎《モノヲ》は詠嘆の辭である。
〔評〕 つまらない平凡な、女々しい繰言に過ぎない。
 
3761 世の中の 常のことわり かくさまに なり來にけらし すゑし種から
 
與能奈可能《ヨノナカノ》 都年能己等和利《ツネノコトワリ》 可久左麻爾《カクサマニ》 奈里伎爾家良之《ナリキニケラシ》 須惠之多禰可良《スヱシタネカラ》
 
世間ノ常ノ因果ノ〔三字傍点〕道理デ、蒔イタ種カラシテ、コンナヒドイ〔三字傍点〕事ニ私ハ〔二字傍線〕ナツタノデアラウ。アキラメルヨリ仕方ハアリマスマイ〔アキ〜傍線〕。
 
○與能奈可能都年能己等和利《ヨノナカノツネノコトワリ》――世間の常の道理。因果の道理をさしてゐる。○可久左麻爾《カクサマニ》――斯く樣に。こ(649)んな有樣に。夫婦が相別れて悲しむ現在の状態をいつてゐる。○奈里伎爾家良之《ナリキニケラシ》――成つて來たらしい。今の結果を生じたらしい。○須惠之多禰可良《スヱシタネカラ》――須惠《スヱ》は据ゑ。据ゑと植ゑとは同語であらう。須惠之多禰《スヱシタネ》は蒔きし種と同樣である。
〔評〕 因果應報の道理。前世の業因といふ佛教思想があらはれてゐる。弱い男は結局宿命觀であきらめるより外はない。
 
3762 吾妹子に 逢坂山を 越えて來て 泣きつつ居れど 逢ふよしも無し
 
和伎毛故爾《ワギモコニ》 安布左可山乎《アフサカヤマヲ》 故要弖伎弖《コエテキテ》 奈伎都都乎禮杼《ナキツツヲレド》 安布余思毛奈之《アフヨシモナシ》
 
私ハ〔二字傍線〕吾ガ妻ニ逢フトイフ名ノ〔七字傍線〕逢坂山ヲ越エテコノ越ノ國ヘ〔六字傍線〕來テ、妻ニ逢ヒタサニ〔七字傍線〕泣イテ居ルガ、逢坂山ハ名バカリデ、一向〔逢坂〜傍線〕、逢フ方法ガナイヨ。
 
○和伎毛故爾《ワギモコニ》――近江・淡路・逢坂山・楝《アフチ》の花などにかかる枕詞であるが、ここは吾妹子に逢ふといふ名の逢坂山といふのであるから、枕詞とのみ見てはよろしくない。
〔評〕 和伎毛故爾《ワギモコニ》といふ枕詞を逢坂山につづけ、結句を安布余思毛奈之《アフヨシモナシ》で結んでゐるのは、萬葉集らしくない技巧である。この人は魂も言葉も萬葉人らしくない後世ぶりである。
 
3763 旅といへば 言にぞ易き 術もなく 苦しき旅も ことにまさめやも
 
多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許登爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須敝毛奈久《スベモナク》 久流思伎多婢毛《クルシキタビモ》 許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》
 
旅トイフト、言葉デハ何デモナイコトダガ、中々苦シイモノダ。併シ〔コト〜傍線〕仕方ノナイホド苦シイ旅モ、言葉デハ旅〔傍線〕(650)ト云フヨリ〔六字傍線〕以上ノ言ヒ方〔四字傍線〕ハナイ。
 
○多婢等伊倍婆許登爾曾夜須伎《タビトイヘバコトニゾヤスキ》――前の三七四三に同樣の句がある。○許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》――言に増さめやも。言葉ではこれ以上の言ひやうはないといふのである。舊訓コラニマサメヤモとあり、從來の諸註、多くは吾が術もなく苦しき旅も、都に留つてゐる娘子の苦しみにはまさらぬの意としてゐるが、西本願寺本・温故堂本・京大本などコトと訓んでゐるに從ふべきである。
〔評〕 これも言葉だけをひねくつたのであるが、前の歌どもよりはよく出來てゐる。
 
3764 山川を 中にへなりて 遠くとも 心を近く 思ほせ我妹
 
山川乎《ヤマカハヲ》 奈可爾敝奈里弖《ナカニヘナリテ》 等保久登母《トホクトモ》 許己呂乎知可久《ココロヲチカク》 於毛保世和伎母《オモホセワギモ》
 
私トアナタトハ〔七字傍線〕山ヤ川ヲ間ニ隔テテ、遠ク離レテヰルガ、心ハ隔ナク〔三字傍線〕近ク思ウテヰテ下サイヨ。吾ガ妻ヨ。
 
○山川乎奈可爾敝奈里弖《ヤマカハヲナカニヘナリテ》――前の三七五五に同樣の句がある。
〔評〕 遠くと近くとを對照せしめたのが、この作の重點になつてゐるのは、つまらない細工だ。後世ぶりの歌。
 
3765 まそ鏡 かけて偲べと まつり出す 形見の物を 人に示すな
 
麻蘇可我美《マソカガミ》 可氣弖之奴敝等《カケテシヌベト》 麻都里太須《マツリダス》 可多美乃母能乎《カタミノモノヲ》 比等爾之賣須奈《ヒトニシメスナ》
 
心ニ〔二字傍線〕(麻蘇可我美)カケテ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シナサイトテ、私ガアナタニ〔六字傍線〕差シ上ゲルコノ形見ノ品物ヲ、決シテ〔三字傍線〕人ニ見セナサルナ。
 
(651)○麻蘇可我美《マソカガミ》――枕詞。鏡は懸けるものであるから、カケテにつづけてゐる。○麻都里太須《マツリダス》――奉り出す。差し上げる。略解にあげた眞淵説に、須は類の誤でマツリタルであらうとあるが、もとの儘がよい。
〔評〕 形見として娘子に贈つた品は何であらう。初句を見ると鏡のやうである。鏡は魂の宿つたものとして形見とせられてゐる。次の歌に下紐に結び付けるとあるから、鏡では無ささうにも思はれるが、古代の鏡は普通直徑三寸位のものであるから、衣の下に隱して持てないこともない。この歌、袖中抄に載つてゐる。
 
3766 愛はしと 思ひしおもはば 下紐に 結ひ着け持ちて 止まず偲ばせ
 
宇流波之等《ウルハシト》 於毛比之於毛婆波《オモヒシオモハバ》 之多婢毛爾《シタヒモニ》 由比都氣毛知弖《ユヒツケモチテ》 夜麻受之努波世《ヤマズシノハセ》
 
アナタガ私ヲ〔六字傍線〕戀シイト思召スナラバ、コノ形見ノ物ヲ、アナタノ着物ノ〔コノ〜傍線〕、下紐ニ結ビツケテ持ツテヰテ、絶エズ私ヲ〔二字傍線〕思ヒ出シテ下サイ。
 
○宇流波之等《ウルハシト》――愛しと。いとしいと。○ 於毛比之於毛婆波《オモヒシオモハバ》――思ひし思はば。思ひに思ふなら。思ふ上にも思ふなら。シは強めて言つてゐる。
〔評〕 形見のものを下紐に着けて持つてゐよといふので、形見のものは何とも分らないが、多分鏡であらう。契沖は初稿本では、前の歌の形見の物を鏡とし、この歌のは別の品物だと言つてゐる。
 
右十三首中臣朝臣宅守
 
これは配所から贈つた二囘目の作品集である。贈つた時期は初夏、配流になつて月餘のことらしい。
 
3767 魂は あした夕べに たまふれど 吾が胸痛し 戀の繁きに
 
多麻之比波《タマシヒハ》 安之多由布敝爾《アシタユフベニ》 多麻布禮杼《タマフレド》 安我牟禰伊多之《アガムネイタシ》 古非(652)能之氣吉爾《コヒノシゲキニ》
 
私ノ〔二字傍線〕魂ヲ、朝ニ晩ニ落チツケルヤウニ〔八字傍線〕、鎭魂ノ祭ヲスルガ、戀ノ心ガ〔二字傍線〕烈シサニ、私ノ胸ハ痛ンデ苦〔三字傍線〕シク感ジマス〔五字傍線〕。
 
○多麻布禮杼《タマフレド》――魂を鎭めるけれどの意。上代人は魂は肉躰から遊離するものと考へてゐた。だからそれを肉躰に落付ける必要がある。天皇の御魂を鎭め奉つて、御代の長久を祈り奉るのが、大寶令に見えてゐる仲冬寅日に行はれる鎭魂祭である。令義解に「謂、鎭安也、人陽氣曰v魂魂運也、言招2離遊之運魂1、鎭2身躰之中府1故曰2鎭魂1」とある。天武天皇紀に「十四年十一月丙寅、是日爲2天皇1招魂之《ミタマフリス》」とあるのはこの鎭魂祭の史に見えたものである。ミタマフリは御魂振で、御魂を振り起すことであるが、かくして魂の活きを盛にすることと、魂を落ちつけて身體の中府に居らしめることとは究極に於て同じことになる。鎭魂をミタマフリと訓む理由はここにあるのである。
〔評〕 上代の靈魂觀念を證すべき好資料たるべき歌。第三句を二人の魂が相觸れるけれどもの意に解した舊註は見當違ひである。かうした行事が民間にも一般に行はれてゐたのは面白いことだ。
 
3768 この頃は 君を思ふと 術もなき 戀のみしつつ ねのみしぞ泣く
 
己能許呂波《コノコロハ》 君乎於毛布等《キミヲオモフト》 須敝毛奈伎《スベモナキ》 古非能未之都都《コヒノミシツツ》 禰能未之曾奈久《ネノミシゾナク》
 
コノ頃ハ私ハ〔二字傍線〕貴方ヲ思ツテ、何トモ仕方ノナイ苦シイ〔三字傍線〕戀バカリヲシテ、聲ヲ出シテ泣イテバカリ居リマス。
 
○君乎於毛布等《キミヲオモフト》――君を思ふとて。○須敝毛奈伎《スベモナキ》――術もなき戀は何とも仕方のない苦しい戀。
〔評〕 遣瀬ない戀の心を述べ得てはゐるが、佳作とは言ひ難い。
 
3769 烏玉の 夜見し君を 明くるあした 逢はずまにして 今ぞ悔しき
 
(653)奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 欲流見之君乎《ヨルミシキミヲ》 安久流安之多《アクルアシタ》 安波受麻爾之弖《アハズマニシテ》 伊麻曾久夜思吉《イマゾクヤシキ》
 
(奴婆多麻乃)夜逢ツタ貴方ト其夜ノ中ニ別レテ〔九字傍線〕、翌朝ハ貴方ニ〔三字傍線〕御目ニカカラナカツタノデ、今更悔シイヨ。
 
○安波受麻爾之弖《アハズマニシテ》――逢はないで別れて。安波受麻《アハズマ》のマはコリズマのマと同じく添へたものであらう。考にはあはず妻《ツマ》と解し、新考にはアハズ儘《ママ》であらうと言つてゐる。
〔評〕 これは最後の訣別の夜のことを思ひ出して歌つたものであらう。古義に事出來ぬ時のこととしてゐるが、さうではあるまい。
 
3770 あぢま野に 宿れる君が 歸り來む 時の迎を 何時とか待たむ
 
安治麻野爾《アヂマノニ》 屋杼禮流君我《ヤドレルキミガ》 可反里許武《カヘリコム》 等伎能牟可倍乎《トキノムカヘヲ》 伊都等可麻多武《イツトカマタム》
 
流罪ニナツテ越前ノ〔九字傍線〕味眞野ニ宿ツテイラツシヤル貴方ガ、赦サレテ都ヘ〔六字傍線〕御歸リニナルトキ、私ガ〔二字傍線〕御出迎スルノヲ、何時ト思ツテ待ツテヰマセウカ。早クソノ時ガ來レバヨイ〔早ク〜傍線〕。
 
(654)○安治麻野爾《アヂマヌニ》――安治麻野《アヂマヌ》は越前國今立郡。武生町の東南二里ばかりの地點で、和名抄の味眞郷の舊地である。今、味眞野村北新庄村附近の平地。寫眞は味眞野村大字五分市から粟田部方面を望んだもの。著者撮影。この地に宅守は流罪となつてゐたのである。○可反里許武等伎能牟可倍乎《カヘリコムトキノムカヘヲ》――赦されて都に歸り給ふであらう時に私がお迎に出るのを。
〔評〕 等伎能牟可倍乎《トキノムカヘ》は少し無理な言葉であらう。結句は集中に例が多い。
 
3771 宮人の 安寢も寢ずて 今日今日と 待つらむものを 見えぬ君かも
 
宮人能《ミヤビトノ》 夜須伊毛禰受弖《ヤスイモネズテ》 家布家布等《ケフケフト》 麻都良武毛能乎《マツラムモノヲ》 美要奴君可聞《ミエヌキミカモ》
 
アナタノ御留守中〔八字傍線〕、御所ニ仕ヘテヰル貴方ノ友〔十字傍線〕人ハ夜モ〔二字傍線〕安眠シナイデ、今日カ今日カト御歸リヲ〔四字傍線〕待ツテヰルデセウノニ、何時マデモ〔五字傍線〕御歸リニナラナイ貴方ヨ。ドウナサツタノデアラウ〔ドウ〜傍線〕。
 
○宮人能《ミヤビトノ》――大宮人。即ち宅守の友人をさしてゐるのであらう。略解の或人説に宮は家の誤であらうといつてゐる。古義・新考などこれに從つてゐる。
〔評〕 宮人と家人とではかなり意味は違ふが、要するに自己を第三者として、宅守の知友近親の心中を忖度したもの。しかし他を言ふ如くして、實は自分の心を述べてゐるのである。
 
3772 歸りける 人來れりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて
 
可敝里家流《カヘリケル》 比等伎多禮里等《ヒトキタレリト》 伊比之可婆《イヒシカバ》 保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》 君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》
 
罪ヲ赦サレテ〔六字傍線〕歸ツタ人ガ、來タト或人ガ〔三字傍線〕言ツタノデ、私ハ〔二字傍線〕貴方ノ御歸リ〔四字傍線〕カト思ツテ、アマリノ嬉シサニ〔八字傍線〕、殆(655)ド、死ニサウデシタ。
 
○可敝里家流比等伎多禮里等《カヘリケルヒトキタレリト》――歸つた人が來たと。赦免になつて配所から歸つた人が戻つて來たと。○保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》――私は殆ど死んだ。危く死ぬところであつた。保等保登《ホトホト》は殆ど。危く。すんでのことに。代匠記精撰本に「驚て胸のほとはしるなり」と言つたのも、宣長が「フタフタと爲にけるなり」と言つたのも、皆シニキを爲ニキと見た誤である。
〔評〕 赦免の人が都に戻つて來たと聞いて、狂喜のあまり殆ど息の根も止まるばかりであつたといふ誇張が、わざとらしくなく、適切に用ゐられてゐる。佳作といふべきであらう。かうした熱情的なところがこの作者の特色である。なほ、續記によると、天平十二年六月庚午に大赦の勅が出て天平十二年六月十五日戍時以前の罪を赦すことになつて、「其流人穗積朝臣老、多治比眞人祖人、名負東人、久米連若女等五人、召令2入京1、大原釆女勝部鳥女還2本郷1、小野王日奉弟日女、石上乙麿、牟禮大野、中臣宅守、飽海古良比、不v在2赦限1」とあるから、この歌は穗積朝臣老等の歸京を聞いて、宅守かと思つて狂喜して詠んだのではあるまいかと言はれてゐる。歌の配列の順序から推測すると、前に宅守の郭公を詠んだ初夏の作があり、それに對して贈つた一聯がこの八首であるから、丁度六月頃であつたらうと想像せられ、時季も大躰合ふやうである。
 
3773 君がむた 行かましものを 同じこと 後れて居れど 良きこともなし
 
君我牟多《キミガムタ》 由可麻之毛能乎《ユカマシモノヲ》 於奈自許等《オナジコト》 於久禮弖乎禮杼《オクレテヲレド》 與伎許等毛奈之《ヨキコトモナシ》
 
貴方ト御一緒ニ私モ越前ノ國ヘ〔七字傍線〕行クベキデアルノニ。ヤハリ〔三字傍線〕同ジコトデス。カウシテ、私バカリ〔八字傍線〕都ニ止マツテ居ルケレドモ、良イコトモアサマセヌ。
 
○君我牟多《キミガムタ》――貴方と共に。集中、共の字をムタと訓ませたところが多い。○於奈自許等《オナジコト》――越國へ行くも(656)都にゐるのも向じ事で、どちらにしても辛いことだといふのである。この句で意は切れてゐる。
〔評〕 獨居の悲しさが歌はれてゐるが、結句は少し熱が足りない。
 
3774 吾がせこが 歸り來まさむ 時のため 命殘さむ 忘れたまふな
 
和我世故我《ワガセコガ》 可反里吉麻佐武《カヘリキマサム》 等伎能多米《トキノタメ》 伊能知能己佐牟《イノチノコサム》 和須禮多麻布奈《ワスレタマフナ》
 
貴方ガ御歸リニナル時ノ爲ニ、私ハコノ生キ甲斐ノナイ〔九字傍線〕命ヲ殘シテ、死ナズニ居リ〔七字傍線〕マセウ。ドウゾソノ時マデ〔八字傍線〕御忘レナサイマスナ。
 
○伊能知能己佐牟《イノチノコサム》――命を殘しとどめて死なずにゐよう。この句で切つて、その下に、それまでの意を補つて見るがよい。
〔評〕 第四句の伊能知能己佐牟《イノチノコサム》は哀な言葉である。しかし卷十一に爲妹壽遺在苅薦之思亂而應死物乎《イモガタメイノチノコセリカリゴモノオモヒミダレテシヌベキモノヲ》(二七六四)がある。
 
右八首娘子
 
娘子が配所へ送つた第二回の便である。六月半過のことらしい。目録に娘子作歌八首とある。
 
3775 あらたまの 年の緒永く 逢はざれど 異しき心を 吾が思はなくに
 
安良多麻能《アラタマノ》 等之能乎奈我久《トシノヲナガク》 安波射禮杼《アハザレド》 家之伎己許呂乎《ケシキココロヲ》 安我毛波奈久爾《アガモハナクニ》
 
(安良多麻能)長年私ハアナタニ〔六字傍線〕逢ハナイケレドモ、アナタヲ忘レルヤウナ〔十字傍線〕他《アダ》シ心ヲ、私ハ持ツテハヲリマセン(657)ヨ。
 
○安良多麻能《アラタマノ》――枕詞。年にかかる。四四三參照。○等之能乎奈我久《トシノヲナガク》――年の長い間。年の長くつづくことを緒に譬へて、年の緒といふ。
 
〔評〕 卷十四の可良許呂毛須蘇乃宇知可倍安波禰杼毛家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《カラコロモスソノウチカヘアハネドモケシキココロヲアガモハナクニ》(三五八八)、この卷の波呂波呂爾於毛保由流可母之可禮杼母異情乎安我毛波奈久爾《ハロバロニオモホユルカモシカレドモケシキココロヲアガモハナクニ》(三五八八)など同型の歌である。
 
3776 今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩の 外に立てらまし
 
家布毛可母《ケフモカモ》 美也故奈里世婆《ミヤコナリセバ》 見麻久保里《ミマクホリ》 爾之能御馬屋乃《ニシノミマヤノ》 刀爾多弖良麻之《トニタテラマシ》
 
若シ此處ガ〔五字傍線〕都デアツタナラバ、私ハアナタニ〔六字傍線〕逢ヒタサニ、今日アタリハ、右馬寮ノ門外ニ立ツテヰルダラウヨ。
 
○爾之能御馬屋乃《ニシノミマヤノ》――爾之能御馬屋《ニシノミウマヤ》は西の御厩。即ち右馬寮のことである。平安京では談天門の南掖にあつた。内裏の西南隅に當つてゐる。○刀爾多弖良麻之《トニタテラマシ》――外に立つてゐることであらう。トは外。戸ではない。多弖良麻之《タテラマシ》は立テリにマシが附いた形である。
〔評〕 娘子の家が右馬寮の門外にあつたものか。それとも齋宮の宮廷内の役所のやうなものが、其處に出來てゐたものか。恐らく後者であらう。流人の望郷の念がまざまざとあらはれた、悲しい作である。
 
右二首中臣朝臣宅守
 
目録には中臣朝臣宅守更(ニ)贈(レル)歌二首とある、舊本三首とあるは誤。
 
3777 昨日今日 君に逢はずて する術の たどきを知らに 音のみしぞ泣く
 
伎能布家布《キノフケフ》 伎美爾安波受弖《キミニアハズテ》 須流須敝能《スルスベノ》 多度伎乎之良爾《タドキヲシラニ》 禰能(658)未之曾奈久《ネノミシゾナク》
 
コノ頃ハ貴方ニ逢ヘナイノデ、戀シクテ〔四字傍線〕ドウシタラ良イカ、方法ガワカラナイデ、聲ヲ出シテ泣イテバカリヰマスヨ。
 
○伎能布家布《キノフケフ》――この頃の意。この句は第三句以下につづいてゐる。古義は「長き間ならず、唯昨日今日君に別れて云々」とあるのは誤つてゐる。
〔評〕 前に娘子が贈つた、己能許呂波君乎於毛布等須敝毛奈伎古非能未之都都禰能未之曾奈久《コノゴロハキミヲオモフトスベモナキコヒノミシツツネノミシゾナク》(三七六八)と同意である。
 
3778 しろたへの 吾が衣手を 取り持ちて 齋へ吾が背子 直に逢ふまでに
 
之路多倍乃《シロタヘノ》 阿我許呂毛弖乎《アガコロモデヲ》 登里母知弖《トリモチテ》 伊波敝和我勢古《イハヘワガセコ》 多太爾安布末低爾《タダニアフマデニ》
 
私ガ形見トシテ貴方ニ贈ツタ〔私ガ〜傍線〕私ノ(之路多倍乃)着物ヲ手ニ持ツテ、又再ビ〔三字傍線〕直接ニ相逢フマデハ、神樣ニ無事ヲ〔六字傍線〕祈ツテヰテ下サイ。吾ガ夫ヨ。
 
○之路多倍乃《シロタヘノ》――枕詞。許呂毛《コロモ》につづいてゐる。○伊波敝和我勢古《イハヘワガセコ》――伊波敝《イハヘ》は神を祀れよの意。
〔評〕 贈つてあげた吾が衣を持つて、唯神に齋きかしづけといふので、前に娘子から贈つた、安波牟日能可多美爾世與等多和也女能於毛比美太禮弖奴敞流許呂母曾《アハムヒノカタミニセヨトタワヤメノオモヒミダレテヌヘルコロモゾ》(三七五三)の衣と同じであらう。
 
右二首娘子
 
目録に娘子和(ヘ)贈(レル)歌二首とある。
 
3779 吾が宿の 花橘は いたづらに 散りか過ぐらむ 見る人無しに
 
(659)和我夜度乃《ワガヤドノ》 波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》 伊多都良爾《イタヅラニ》 知利可須具良牟《チリカスグラム》 見流比等奈思爾《ミルヒトナシニ》
 
私ノ故郷ノ家ノ〔五字傍線〕橘ノ花ハ、私ガヰナイノデ、誰モ〔九字傍線〕見ル人モナクテ、空シク散ツテシマフデアラウカ。惜シイモノダ〔六字傍線〕。
 
○波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》――花橘とは橘の花の咲いたのをいふ。
〔評〕 卷二の高圓之野邊秋芽子徒開香將散見人無爾《タカマドノヌベノアキハギイタヅラニサキカチルヲムミルヒトナシニ》(二三一)、卷九の風莫乃濱之白浪徒於斯依久流見人無《カザナシノハマノシラナミイタヅラニココニヨリクルミルヒトナシニ》(一六七三)卷十の去年咲之久木今開徒土哉將墮見人名四二《コゾサキシヒサギイマサクイタヅラニツチニカオチムミルヒトナシニ》(一八六三)など、同型の歌である。
 
3780 戀ひ死なば 戀ひも死ねとや ほととぎす 物思ふ時に 來鳴き響むる
 
古非之奈婆《コヒシナバ》 古非毛之禰等也《コヒモシネトヤ》 保等登藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》
 
私ガ〔二字傍線〕焦死スルナラバ、焦死セヨト云フノカ、郭公ハ私ガ〔二字傍線〕物思ヲシテヰル時ニ來テ、悲シサウニ〔五字傍線〕高ク聲ヲ響カセテ、鳴クヨ。アノ聲ヲ聞クト戀シクナツテ焦死シサウダ〔アノ〜傍線〕。
 
○伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》――來て鳴いて聲を高く響かせるよの意。
〔評〕 初二句は強い叙法であるが、卷十一の戀死戀死耶玉桙路行人事告無《コヒシナバコヒモシネトヤタマボコノミチユクヒトニコトモツゲナク》(二三七〇)、戀死戀死哉我妹吾家門過行《コヒシナバコヒモシネトヤワギモコガワギヘノカドヲスギテユクラム》(二四〇一)の模倣たるは否定し難い。
 
3781 旅にして 物思ふ時に ほととぎす もとなな鳴きそ 吾が戀まさる
 
多婢爾之弖《タビニシテ》 毛能毛布等吉爾《モノモフトキニ》 保等登藝須《ホトトギス》 毛等奈那難吉曾《モトナナナキソ》 安我(660)古非麻左流《アガコヒマサル》
 
(660)私ガ〔二字傍線〕旅ニ出テ家ヲ〔二字傍線〕思ツテ、悲シンデ〔四字傍線〕ヰル時ニ、郭公ヨ。猥リニ鳴クナヨ。オマヘノ聲ヲ聞クト悲シサウナノデ〔オマ〜傍線〕私ノ戀ガマサルカラ〔二字傍線〕。
 
〔評〕 前を受けてゐる。卷八の神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥痛莫鳴吾益《カミナビノイハセノモリノヨブコドリイタクナナキソワガコヒマサル》(一四一九)と同型。袖中抄に出てゐる。
 
3782 雨ごもり 物思ふ時に ほととぎす 吾が住む里に 來鳴き響もす
 
安麻其毛理《アマゴモリ》 毛能母布等伎爾《モノモフトキニ》 保等登藝須《ホトトギス》 和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》 伎奈伎等余母須《キナキトヨモス》
 
雨ニ閉ヂ籠ツテ物思ヲシテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰル時ニ、郭公ガ私ノ住ム里ヘ來テ、聲ヲ高ク響カセテ鳴クヨ。愈々悲シサヲ増スバカリダ〔愈々〜傍線〕。
 
○安麻其毛理《アマゴモリ》――雨が降つて家に閉ぢ籠つてゐること。卷八に雨隱情鬱悒出見者《アマゴモリココロイブセミイデミレバ》(一五六八)とあつた。○和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》――吾が住む里は前の歌によれば、越前味眞野の配所である。
〔評〕 五月雨つづきで、心も晴れぬ頃に、配所で聞く郭公の聲は哀であつたらう。歌は平庸。
 
3783 旅にして 妹に戀ふれば ほととぎす 吾が住む里に こよ鳴き渡る
 
多婢爾之弖《タビニシテ》 伊毛爾古布禮婆《イモニコフレバ》 保登等伎須《ホトトギス》 和我須武佐刀爾《ワガスムサトニ》 許欲奈伎和多流《コヨナキワタル》
 
旅ニ出テヰテ、故郷ノ〔三字傍線〕妻ヲ戀シク思ツテヰルト、郭公ガ私ノ住ム里ニ飛ンデ來テ、恋シサウニ〔十字傍線〕此處ヲ鳴イテ通ルヨ。イヨイヨ悲シクナツテ來ル〔イヨイ〜傍線〕。
 
(661)○許欲奈伎和多流《コヨナキウタル》――此處を鳴いて通る。コヨは此處よりであるが、この歌では此處をといふに同じ。
〔評〕 前の歌と同意同巧。唯少し言葉を變へたばかりだ。
 
3784 心なき 鳥にぞありける ほととぎす 物思ふ時に 鳴くべきものか
 
許己呂奈伎《ココロナキ》 登里爾曾安利家流《トリニゾアリケル》 保登等藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》
 
郭公ヨ、オ前ハ無情ナ鳥デアルヨ。私ガカウシテ〔六字傍線〕物ヲ思ツテ悲シンデ〔四字傍線〕ヰル時ニ、來テ鳴クトイフコトガアルモノカ。オマヘガ鳴クト益々悲シクナルノニ〔オマ〜傍線〕。
 
○奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》――鳴くといふことがあるものか、鳴くべきではないの意。
〔評〕許己呂奈伎登里爾曾安利家流《ココロナキトリニゾアリケル》と言ひ切つて、結句を奈久倍吉毛能可《ナクベキモノカ》と強く結んだところに、語調の變化があつて画白い。
 
3785 ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 吾が思ふ心 いたも術なし
 
保登等藝須《ホトトギス》 安比太之麻思於家《アヒダシマシオケ》 奈我奈氣婆《ナガナケバ》 安我毛布許己呂《アガモフココロ》 伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》
 
郭公ヨオマヘガ鳴クノエオ〔八字傍線〕間ヲ少シ置キナサイ。オマヘガ鳴クト私ハ益々悲シクナツテ悲シイト〔益々〜傍線〕思フ心ガヒドクテ、何トモ仕方ガナイ。
 
○安比太之麻思於家《アヒダシマシオケ》――鳴く聲の間を暫く置けよの意。暫く鳴き止めの意。○伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》――甚だしくも術なし。甚だしくて仕方がない。
(662)〔評〕 卷八の足引之山霍公鳥汝鳴者家有妹常所思《アシビキノヤマホトトギスナガナケバイヘナルイモシツネニオモホユ》(一四六九)と内容が似てゐる。
 
右七首中臣朝臣宅守、寄(セテ)2花鳥(ニ)1陳(ベテ)v思(ヲ)作(レル)歌
 
右の七首は初夏の作。花柄、郭公に寄せて思を述べてゐる。配流になつてから少くとも一年を經過した五月頃の作である。
 
                     ――第四冊、終――
 
萬葉集卷第十六
 
(1)萬葉集卷第十六解説
 
 この卷は部門を分つことなく卷頭に有由縁并雜歌と記してある。これは有由縁歌並に雜歌といふ意と思はれるが、斯くの如き標記法は他に類例がない。有由縁とは傳説を伴つた歌で、面白い話と共に傳へられたものである。冒頭の櫻兒・鬘兒の歌から、橘寺の長屋の歌(三八二三)に至るまでがそれに屬し、その次の長忌寸意吉麻呂の歌から以下を、雜歌と見る説が普通行はれてゐる。けれども右の橘寺の長屋の歌は、別に何の説話をも有しない古謠であるから、雜歌中に入れるのが妥當で、この他穗積親王・河村王・小鯛王などの歌も同樣である。又雜歌と考へられてゐるものの中にも新田部親王の婦人の歌(三八三五)、筑前國志賀白水郎を詠んだ歌(三八六〇)の如き、有由縁の部に入るべきものが尠くない。蓋し有由縁並雜歌は、卷の全躰に標記したものである。若し始を有由縁とし終を雜歌とするならば、この卷を二分してそれぞれ適當な所に標記すべき筈である。この有由縁歌の内には櫻兒・鬘兄の如く、謂はゆる歌物語の形になつてゐるものがあり、それに添へられた漢文を見るに、啻にその事柄の要點を記すといふ態度ではなく、娘子歔欷曰とか、娘子嘆息曰とか記して、長々しくその意中を述べてゐる。若しこれを國文に改むれば即ち伊勢物語・大和物語の形式となるのである。又竹取翁の歌の如きは、一個の神仙譚と稱すべきで、しかも翁と九人の仙女とが唱和してゐるのであるから、これは正しく一個の小説《ローマンス》であつて、これに曲節を附して誦詠するならば、立派な歌劇となるのである。雜歌中の數種の物を詠込んだ歌、無心所著(2)の歌は、謂はゆる歌作の藝が盛になつて來たことを示し、折句・物名などの歌が、やがて發生する前驅をなしてゐる。嗤笑歌は皮肉と諧謔とを喜んだ、天平時代の氣分のあらはれであつて、吾が國の狂歌の淵源の遠いことを語つてゐる。又能登・越中の民謠、乞食者の詠の如きも、民間の思想・風俗が窺はれ、内容的に見て實に多種多樣な卷である。更にこれを形式方面から見ると、歌躰には長歌・短歌・旋頭歌・佛足石歌體などがあり、若し後世の稱呼によつて小長歌なる歌體を別つとするならば、戀夫君歌(三八五七)はそれである。斯くの如く歌躰の種類も亦多く、本集中に存する總てがこの卷に集まつてゐるのである。歌數は長歌八首・短歌九十二首・旋頭歌・佛足石歌躰併せて四首、計百四首。卷一に次いで少數である。作者の名を掲げたものの内で著名なのは、長奧麿と大伴家持二人くらゐなものである。山上憶良作と思はれる志賀白水郎の歌があるが、他に有名な歌人の作はない。併し右に述べたやうな種々の意味からして、特色があり價値ある卷である。この卷の編纂された時代、及び編者については全く分らない。大伴家持が越中守となつた、天平十八年以前の編とする學者も多いが、又この卷中に天平勝寶元年の、東大寺大佛開眼供養の時のものありとする説もある。更にそれよりも新しく見ようとする人もあつて、一定し難い。併し予は卷中に見えた作者(例へば河村王など)の官位からして、天平十八年以後とするのに傾いてゐる。用字法は壇越・婆羅門・塔・双六・香・力士・餓鬼・法師・無何有郷・貌孤※[身+矢]・功・五位・※[金+巣]鐘生死などの、梵語や漢語をそのまま取り入れて、音讀せしめてゐるのが多いことが、一大特色である。戯書は極めで尠く、所聞多《カシマ》・神樂《ササ》ぐらゐのものである。
 
(3)萬葉集卷第十六
    有由縁雜歌
 二壯士誂2娘子1遂嫌v適2壯士1入2林中1死時各陳2心緒1作歌二首
 三男共娉2一女1娘子嘆息沈2没水底1時不v勝2哀傷1各陳v心作歌三首
 竹取翁偶逢2九箇神女1贖2近狎之罪1作歌一首并短歌
 娘子等和歌九首
 娘子竊交2接壯士1時欲v令v知v親與2其夫1歌一首
 壯士專2使節1赴2遠境1娘子累v年悲2嘆姿容疲羸1壯士還來流v涙口號歌一首
 娘子聞2夫君歌1應v聲和歌一首
 女子竊接2壯士1其親呵嘖壯士〓〓時娘子贈2與夫1歌一首
 葛城王發2陸奧1時祇承緩怠王意不v悦釆女捧v觴詠歌一首
 男女衆集遊時有2鄙人夫婦1容姿秀2衆諸1仍賛2嘆美貌1歌一首
 所v幸娘子寵薄還2賜寄物1時娘子怨恨歌一首
(4)(5)〔省略〕
(6) 大伴宿禰家持嗤2咲吉田連石麿痩1歌二首
 高宮王詠2數種物1歌二首
 戀夫君歌一首
 又戀歌二首
 筑前國志賀白水郎歌十首
 無名歌六首
 豐前國白水郎歌一首
 豐後國白水郎歌一首
 能登國歌三首
 越中國歌四首
 乞食者詠歌二首
 怕物歌三首
 
(7)有由縁并雜歌
 
有由縁并雜歌とは有由縁歌並びに雜歌といふのであらう。目録に有由縁雜歌とあるのは、并の字を脱したのであらう。有由縁歌とは傳説を伴つたもので、雜歌には題を設けて詠んだものと、人を嗤つた戯咲歌、地方の民謠、乞食者の詠の如きものが收めてある。
 
昔者有(リ)2娘子1、字(ヲ)曰(フ)2櫻兒(ト)1也、于v時有(リ)2二壯士1、共(ニ)〓(ム)2此(ノ)娘(ヲ)1、而|捐(テテ)v生(ヲ)挌競《アラソヒ》、貪(リ)v死(ヲ)相敵(ス)、於v是娘子|歔欷《ナゲキテ》曰(ク)、從v古|來《イタルマデ》v今、未v聞(カ)未v見、一女之身、往2適(クコトヲ)二門(ニ)1矣、方今《イマ》壯士之意、有(リ)v難(キモノ)2和平(ナリ)1、不v如妾死(シテ)相害(フコトヲ)永息《ナガクヤメムニハ》、爾乃《スナハチ》尋2入(リテ)林中(ニ)1懸(リテ)v樹(ニ)經死(ニキ)其(ノ)兩壯士、不v敢(ヘ)2哀慟(スルニ)1、血(ノ)泣漣(ル)v襟(ニ)、各陳(ベテ)2心緒(ヲ)1作(レル)歌二首、
 
○〓――誂と同じ、イドムと訓むのであらう。婚を求めること。○捐生――命を棄てて。○挌競――挌は爭ふ。○貪死相敵――死を望んで相反抗した。捐v生挌競と同意。○歔欷――字鏡に「涕泣貌、泣餘聲也、悲也、左久利」とあり、すすり泣く。ここはナゲキテと訓んで置かう。○爾乃――スナハチ。○經死――縊死に同じ。垂仁天皇紀に「自|經而《ワナキテ》死耳。」雄略天皇紀に「經死《ワナキ》」とあるから、ここもワナキシニキと訓むべきであらう。○不敢哀慟――不敢はアヘズと訓む。不堪に同じ。○血泣――血涙に同心。泣は涙と同樣に用ゐてある。○漣襟――襟にシタタルと訓む。漣は涙を垂るる貌。易經に「泣血漣加」とある。なほ舊本作歌二首を別行にしてあるのは誤。略解説によつて改めた。なほ今、畝傍の東北方に櫻兒塚と呼ばれてゐる小塚がある。辰己利文氏の好(8)意によつて撮影したから、ここに掲げて置く。(前の稻積の左方の方形の芝生がそれである。)
 
3786 春さらば かざしにせむと 吾が思ひし 櫻の花は 散りにけるかも
 
春去者《ハルサラバ》 挿頭爾將爲跡《カザシニセムト》 我念之《ワガモヒシ》 櫻花者《サクラノハナハ》 散去流香聞《チリニケルカモ》
 
春ニナツタラバ、頭ノ飾リトシテ髪ニ挿ス〔十一字傍線〕挿頭ノ花ニシヨウト私ガ思ツタ櫻ノ花ハ、空シク春ヲモ待タズ〔九字傍線〕散ツテシマツタヨ。ソノ内ニ時節ガ來タナラバ、私ノ妻ニシヨウト思ツテヰタ櫻兒ハ、空シク死ンデシマツタヨ。惜シイコトヲシタ〔ソノ〜傍線〕。
 
○挿頭爾將爲跡《カザシニセムト》――挿頭《カザシ》は頭髪の飾として挿すもの。多く花を用ゐる。和名抄に「挿頭花賀佐之」とある。○散去流香聞《チリニケルカモ》――舊訓を改めて、略解はチリユケルカモとし、新訓は類聚古集に、流の字なきによつて、チリイニシカモとしてゐる。去は動詞としては、ユク又はイヌと訓むのだが、ここは古義に家の字、脱として、舊訓のままに訓んだのがよいであらう。卷三の高槻村散去奚留鴨《タカツキノムラチリニケルカモ》(二七七)に傚つて奚の字、脱と考へることも出來る。トも(9)かくチリニケルカモと訓むのが、歌として最も穩やかである。なほ、類聚古集その他の古寫本は、この歌の下に「其一」と記したものが多い。
〔評」 櫻兒を櫻の花に譬へたのは、その名に因んだもので、珍らしくもない。全體的の譬喩とすると、四五の句に無理がある。寧ろ「櫻の若枝枯れにけるかも」などあるべきところだが、花と言はねば作者には承知出來なかつたのであらう。
 
3787 妹が名に かかせる櫻 花咲かば 常にや戀ひむ いや年のはに
 
妹之名爾《イモガナニ》 繋有櫻《カカセルサクラ》 花開者《ハナサカバ》 常哉將戀《ツネニヤコヒム》 彌年之羽爾《イヤトシノハニ》
 
私ノ戀シイ女ノ櫻兒ハ死ンデシマツタガ〔私ノ〜傍線〕、女ノ名ニツイテ居ル櫻ノ花ガ、咲クナラバ、私ハ毎年毎年ツヅケテイツデモ女ヲ思ヒ出スデアラウ。
 
○繋有櫻《カカセルサクラ》――舊訓カケタルとあるのを略解はカカセルと訓んでゐる。卷二の御名爾懸世流《ミナニカカセル》(一九六)にならつたもので、これに從ふべきであらう、妹の名に附いてゐる櫻。女の名が櫻兒であるからである。○彌年之羽爾《イヤトシノハニ》――卷十九に毎年謂2之等之乃波1(一三八)とあつて、年之羽《トシノハ》は毎年の意である。類聚古集その他の古寫本には、この歌の下に、「其二」と記したものが多い。
〔評〕 第二の男の歌。前歌のやうな無理がない。併し歌は平凡である。櫻兒の説話は三山・眞間手古奈・處女塚と同じく、妻爭傳説である。かういふことは、もとより民間に往々有りがちではあるが、この通りの事件が、實際にあつたものとは考へられない。從つて右の歌も、この説話に關係のないものが、この中に取入れられたものと考ふべきであらう。なほ妻爭傳説では、多くは美人が入水することになつてゐるが、この話では縊死してゐるのは、櫻兒といふ名に因んだものか。
 
或(ヒト)曰(ク)昔有(リ)2三男1、同(ジク)娉(フ)2一女(ヲ)1也、娘子嘆息(シテ)曰(ク)、一女之身易(キコト)v滅(エ)如(ク)v露(ノ)、三雄之(10)志、難(キ)v平(ギ)如(シト)v石(ノ)、遂(ニ)乃※[人扁+方]2※[人扁+皇](ヒ)池上(ニ)1、沈汲(ミキ)水底(ニ)1於v時其(ノ)壯士等、不v勝(ヘ)哀頽之至(ニ)1、各陳(ベテ)2所心(ヲ)1作(レル)歌三首、【娘子字曰2鬘兒1也】
 
○娉――ヨバフ又はツマドフと訓むべきであらう。女に婚を求めて、來り訪ふこと。○難平如石――平かにし難きこと石の如しといふので、石は堅くて容易に平かにし難いからである。平にするとは、和平妥協すること。○※[人扁+方]※[人扁+皇]――サマヨフ・モトホルなどと訓むべきであらう。彷徨とあるべきだが、※[人扁+方]※[人扁+皇]と記すこともないではない。○不勝哀頽之至――舊本頽を〓に誤る。哀頽は哀しみくづれる。
 
3788 耳無の 池し恨めし 吾妹子が 來つつ潜かば 水は涸れなむ
 
無耳之《ミミナシノ》 池羊蹄恨之《イケシウラメシ》 吾妹兒之《ワギモコガ》 來乍潜者《キツツカヅカバ》 水波將涸《ミヅハカレナム》
 
縵兒ハ耳梨ノ池ニ身ヲ投ゲテ死ンデシマツタガ〔縵兒〜傍線〕、耳梨ノ池ハ憎ラシイ池ダ〔二字傍線〕。私ノ戀シイ縵兒ガ來テ、池ノ中ニ飛ビ込ンデ〔九字傍線〕水ヲ潜ツタナラバ、水ガ涸レテ無クナ〔四字傍線〕レバヨイニ。
 
○無耳之池羊蹄恨之《ミミナシノイケシウラメシ》――無耳の池は耳梨山の下にある池。今も同山の南麓に木原池がある。寫眞は著者撮影。但し古の池がその儘殘つてゐるのではないらしい。羊蹄の二字をシに用ゐたのは、卷十に世人君羊蹄《ヨノヒトキミシ》(一八五七)とあつて、和名抄に、羊蹄菜を之布久佐一云之あるやうに、羊蹄《シ》といふ草の名によつたものである。この草は今のギシギシのことだといふ。齊明天皇紀に後方羊蹄【此云斯梨敝之】とあるから、當時の慣用假名であつたのである。○來乍潜者《キツツカヅカバ》――ツツは輕く用ゐてある。來乍《キツツ》は幾度も來ることではない。○水波將涸《ミヅハカレナム》――考・略解に舊訓を改めてミヅハアセナムとあるのは、要なき改訓であらう。水が涸れるであらうの意で、ナムはおのづから希望の意味になつてゐる、古義に「歌意は無耳の池に潜(キ)する妹は一(ト)すぢに深く恨めし、かやうに常に通ひ來つゝ此の池に潜せば、水盡て涸なむとなり。存在《イキ》てある妹が潜するやうに見なして其妹を深く恨むやうに云なして、悲情を(11)つよく含めたり」とあるのは、四五の句の誤解に基く失策である。なほ、古葉略類聚抄その他の古寫本に、歌の下に一と記したものが多い。其一の意である。
〔評〕 第一の男の歌。耳梨池に投身した女を悲しんだ歌。女を溺れしめた池を恨んでゐるのが上代人の感情らしい。大和物語に「猿澤の池もつらしなわぎもこが玉藻かづかば水ぞひなまし」として、奈良の帝が采女の投身をきこしめて詠み給うた歌が出てゐるのは、これを作りかへたものであらう。
 
3789 足曳の 山かづらの兒 今日ゆくと 我に告げせば 還り來ましを
 
足曳之《アシビキノ》 山縵之兒《ヤマカヅラノコ》 今日往跡《ケフユクト》 吾爾告世婆《ワレニツゲセバ》 還來麻之乎《カヘリコマシヲ》
 
(足曳之山)縵兒ガ今日耳梨ノ池ヘ〔五字傍線〕行ツテ死ヌ〔二字傍線〕ト私ニ、豫メ〔二字傍線〕告ゲタナラバ、私ハ旅カラ〔五字傍線〕歸ツテ來ベキ筈デアツタノニ。私ニ知ラセズニ死ンダノハ情ナイコトヲシタモノダ〔私ニ〜傍線〕。
 
○足曳之山縵之兒《アシビキノヤマカヅラノコ》――足曳之《アシビキノ》は山の枕詞たることはいふまでもないが、山は縵之兒に山かづらをいひかけたのである。山かづらは日蔭蔓である。縵之兒は題詞の註に娘子字曰2鬘兒1也とある鬘兒である。○吾爾告世婆《ワレニツゲセバ》――我に告げたならば。古義はノリセバト訓んでゐる。○還來麻之乎《カヘリコマシヲ》――略解に還は迅の誤で、(12)ハヤクコマシヲ又はトクキテマシヲであらうといつてゐるが、改めないで、解すべきであらう。なほ、古葉略類聚抄その他、歌の下に二と記したものが多い。其二の意である。
〔評〕 第二の男の歌。この男は旅中にあつて女の死に逢ふことを得なかつたらしい。歌の氣分がどうも事件としつくり合致しないやうである。
 
3790 足曳の 玉かづらの兒 今日の如 いづれの隈を 見つつ來にけむ
 
足曳之《アシビキノ》 玉縵之兒《タマカヅラノコ》 如今日《ケフノゴト》 何隈乎《イヅレノクマヲ》 見管來爾監《ミツツキニケム》
 
今日私ハ縵兒ノ死ンダ耳梨ノ池ヘアチコチト見テ來テ、アノ女ヲ思ヒヤツテ悲シンデヰルガ〔今日〜傍線〕(足曳之玉)縵兒ハ、今日私ガ此處ヘ來タ〔七字傍線〕ヤウニ道ノ〔二字傍線〕ドノ隅ヲ見ナガラ、歩イテ此處ヘ來タデアラウ。
 
○足曳之玉縵之兒《アシビキノタマカヅラノコ》――前歌と同じく、縵之兒と言はむが爲で、その上は序詞である。足曳之といふ枕詞から考へても、亦前歌から見ても、玉は山の誤でありさうに思はれるので、古點時代からヤマカツラノコと訓んでゐる。併し山となつてゐる異本もないから、暫く舊本のままにして置かう。玉縵は玉葛。蔓になつた草木の總稱。玉は美稱。○如今《ケフノゴト》――今日吾が來た如くの意。○何隈乎《イヅレノクマヲ》――何れの道の隈ヲ。古義に「池上の隈々を廻りつゝ、何の隈よりか身を投むと見つゝ來にけむとなり」とあるのは誤解であらう。新考は何隈乎は何時可の誤。次句の見は思の誤でイヅレノトキカモヒツツキニケムと訓んで、「今日は途スガラ常ヨリマサリテ妹ノ事ガ思ハレタガ、サテハカカル歎ニ逢ハム兆ナリシカといへるなり」と解してゐるが臆斷にすぎる。なほ類聚古集その他の古寫本に、歌の下に三と記したものが多い。其三の意である。
〔評〕 第三の男の歌。女の投身を聞いて、耳梨の池に尋ねて來て詠んだもの。哀愁の感があらはれてゐないのではないが、事件にはしつくり合はぬやうである。又上の三句が前の歌と酷似してゐるのは、第二の男の作を聞いて、それに傚つて詠んだものか。不自然の感がないでもない。この縵兒の話は男が三人になつてゐるのが、普通の妻爭傳説と異なつた點である。これもこの説話に、右の三つの歌を當て嵌めたものと考ふべきであらう。(13)この櫻兒縵兒の説話と卷一の三山の傳説とを、舂混ぜたやうなものが、謠曲の三山である。大和の香具山の里に住んでゐた、膳部公成といふ男に愛されてゐた二人の遊女があつた。一人は櫻子で畝火山の麓に住み、一人は桂子で耳梨の里にゐた。二人の間に戀の暗闘がつづいたが、遂に桂子は公成の無情を怨んで耳梨の池に投身してしまつた。その女の妄執が姿をあらはして櫻子を打つといふ筋で、後世の嫉妬打《ウハナリウチ》と結び付いて、話の内容は著しく變つてゐるが、出發點がこれらの歌にあることは言ふまでもない。
 
昔有(リ)2老翁1、號(シテ)曰(ヘリ)2竹取翁(ト)1也、此(ノ)翁、季春之月、登(リ)v丘(ニ)遠(ク)望(ム)、忽(チ)値(ヘリ)2※[者/火](ル)v羮(ヲ)之九箇女子(ニ)1也、百嬌無(ク)v儔、花容無v止、于v時娘子等、呼(ビ)2老翁(ヲ)1〓(ヒテ)曰(ク)舛父來(テ)乎、吹(ケ)2此(ノ)燭火(ヲ)1也、於v是(ニ)翁曰2唯唯《ヲヲト》漸(ク)※[走+多](テ)徐(ニ)行(キテ)、著2接(ス)座上(ニ)1、良久(シテ)、娘子等皆共(ニ)含(ミ)v咲(ヲ)相推讓(リテ)之曰(ク)、阿誰《タレゾ》呼(ビシカ)2此(ノ)翁(ヲ)1哉、爾乃(チ)竹取翁謝(シテ)v之曰(ク)非慮之外(ニ)、偶逢(ヘリ)2神仙(ニ)1、迷惑之心、無(シ)2敢(ヘテ)所1v禁(ズル)、近(ク)狎之罪(ハ)、希(クハ)贖(フニ)以(テセム)v謌(ヲ)、即(チ)作(レル)歌一首并短歌
 
○竹取翁――タケトリともタカトリとも訓まれる。この翁の名が、大和高市郡の南に聳える高取山から出たものらしいから、タカトリと訓むがよいであらう。竹取物語の竹取の翁はこの歌から出て、文字のままに竹を取つてつかふ翁にしてしまつたのである。但し萬葉集漫筆に見える山崎泰輔氏の説に「此の竹取翁は、いささかも竹に所由なし。仍て考ふるに、竹は借字、菌芝《たけ》の類を云ふにて、即ち菌取翁なるべきか。仙人の食ふ芝草も菌類にて、同じく多計と云ふなれば、この翁は仙方を學び、芝草をあさる漢土商山の四皓の如き老人にて、凡人にあらず、九人の少女も、翁が神仙と稱すれば、本より凡人にあらず、煮羮と云ふも芝草などの羮なるべし。皇極紀三年の條に雪中菌を取り、煮而食之といふ事迹を以て、その事の趣を思ふべし。かの押坂直童子なども(14)菌羮を喫ひて無病而壽とあれば、これ亦、右の竹取翁と云ふべきものならずや」とあるが歌の内容が著しく支那風の神仙譚的であるから、この説のやうな見解が、正しいかも知れない。○登丘遠望――右の如く解すると丘は即ち高取山である。○忽値2※[者/火]v羮之九箇女子1也――羮を煮るとは若菜を煮るのである。丘の上で羮を煮る少女は、言ふまでもなく仙女であらう。その數を九人としたのも、陽の數を貴んだ支那思想である。卷十に春日野爾煙立所見※[女+感]嬬等四春野之菟芽子採而※[者/火]良思文《カスガヌニケブリタツミユヲトメラシハルヌノウハギツミテニラシモ》(一八七九)とあるのを想ひ起さしめる。○花容無v止――止は神田本に上に作つてゐるが、契沖が言つたやうに匹の誤であらう。略解は「止は比か匹の誤」と言つてゐる。○〓曰――〓は嗤の略字。アザワラフ。○舛父――舛は叔に同じ。集中相通じて用ゐたところが多い。○吹此燭火――羮を煮てゐる鍋の下の火を吹けといふのである。○唯唯――諾する詞。ヲヲと訓む。今のハイハイといふに同じ。○漸※[走+多]徐行――漸は段々と、そろそろと。※[走+多]は趣に同じ。オモムク。○著接座上――座席に著いた。○阿誰――阿は上に冠するのみ。タレ。○非慮之外――思ひの外といふことを古くは、思はざる外といつた例が多い。天武天皇紀に「若|不意之《オモハザル》外有(ラバ)2倉卒之事1」、高橋氏文に「不思 保佐佐流 外 爾」、三代實録宣命に「不慮之外 爾」、靈異記に「不慮之外」「不思之外」、大鏡道長傳に「思はざる外の事によりて」、この外、謠曲隅田川にも「思はざる外に一人子を人商人に誘はれて」とある。非を計の誤とするは當らない。
 
3791 緑子の 若子が身には たらちし 母に懷かえ 襁かくる 這ふ兒が身には 木綿肩衣 ひつらに縫ひ著 うなつきの 童が身には ゆひはたの 袖著け衣 著し我を 丹よる子等が よちには 蜷の腸 か黒し髪を 眞櫛もち 肩にかき垂れ 取りつかね あげてもまきみ 解き亂り わらはに成しみ うすものの 色つふ色に 懷かしき 紫の 大綾のきぬ 住の江の 遠里小野の 眞榛もち にほしし衣に 高麗錦 紐に縫ひ着け 指さへ重なへ 竝み重ね著 うちそやし 麻續の兒ら あり衣の 寶の子らが 打栲は へて織る布 日曝の 麻てつくりを しき裳なすは しきに取りしき やどに經る 稻置丁女が つまどふと 我にぞ來し をち方の 二綾したぐつ 飛ぶ鳥の 飛鳥男が 長雨忌み 縫ひし黒沓 さし穿きて 庭に立たずみ 退りな立ちと 障ふるをとめが ほの聞きて 我にぞ來りし み縹の 絹の帶を 引帶なす 韓帶に取らし わたつみの 殿の盖に 飛び翔る すがるの如き 腰細に 取り餝らひ まそ鏡 取りなめ懸けて 己が貌 還らひ見つつ 春さりて 野邊をめぐれば おもしろみ 我を思へか さ野つ鳥 來鳴き翔らふ 秋さりて 山邊を往けば 懷しと 我を思へか 天雲も 行き棚引く 還り立ち 路を來れば うち日さす 宮をみな さす竹の 舍人男も 忍ぶらひ かへらひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえてある 斯くぞし來し 古へ ささきし我や 愛しきやし 今日やも子等に いさにとや 思はえてある 斯くぞ爲來し 古の 賢しき人も 後の世の かたみにせむと 老人を 送りし車 持ちかへり來し
 
緑子之《ミドリコノ》 若子蚊見庭《ワグゴガミニハ》 垂乳爲《タラチシ》 母所懷《ハハニウダカエ》 搓襁《スキカクル》 平生蚊見庭《ハフコガミニハ》 結經方衣《ユフカタギヌ》 氷津裡丹縫服《ヒツラニヌヒキ》 頸著之《ウナツキノ》 童子蚊見庭《ワラハガミニハ》 結幡《ユヒハタノ》 袂著衣《ソデツケゴロモ》 服我矣《キシワレヲ》 丹因子等何《ニヨルコラガ》 四千庭《ヨチニハ》 三名之綿《ミナノワタ》 蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》 信櫛持《マグシモチ》 於是蚊寸垂《カタニカキタレ》 取束《トリツカネ》 擧而裳纒見《アゲテモマキミ》 解亂《トキミダリ》 童兒丹成見《ワラハニナシミ》 羅《ウスモノノ》 丹津蚊經色丹《ニツカフイロニ》 名著來《ナツカシキ》 (15)紫之《ムラサキノ》 大綾之衣《オホアヤノキヌ》 墨江之《スミノエノ》 遠里小野之《トホザトヲヌノ》 眞榛持《マハリモチ》 丹穗之爲衣丹《ニホシシキヌニ》 狛錦《コマニシキ》 紐丹縫著《ヒモニヌヒツケ》 刺部重部《ササヘカサナヘ》 波累服《ナミカサネキ》 打十八爲《ウチソヤシ》 麻續兒等《ヲミノコラ》 蟻衣之《アリギヌノ》 寶之子等蚊《タカラノコラガ》 打栲者《ウツタヘハ》 經而織布《ヘテオルヌノ》 日暴之《ヒザラシノ》 朝手作尾《アサテツクリヲ》 信巾裳成者《シキモナスハ》 之寸丹取爲支《シキニトリシキ》 屋所經《ヤドニフル》 稻寸丁女蚊《イナキヲトメガ》 妻問迹《ツマドフト》 我丹所來爲《ワレニゾキタリシ》 彼方之《ヲチカタノ》 二綾裏沓《フタアヤシタグツ》 飛鳥《トブトリノ》 飛鳥壯蚊《アスカヲトコガ》 霖禁《ナガメイミ》 縫爲黒沓《ヌヒシクログツ》 刺佩而《サシハキテ》 庭立住《ニハニタタズミ》 退莫立《マカリナタチト》 禁尾迹女蚊《サフルヲトメガ》 髣髴聞而《ホノキキテ》 我丹所來爲《ワレニゾキタリシ》 水縹《ミハナダノ》 絹帶尾《キヌノオビヲ》 引帶成《ヒキオビナス》 韓帶丹取爲《カラオビニトラシ》 海神之《ワタツミノ》 殿盖丹《トノノイラカニ》 飛翔《トビカケル》 爲輕如來《スガルノゴトキ》 腰細丹《コシボソニ》 取餝氷《トリカザラヒ》 眞十鏡《マソカガミ》 取雙懸而《トリナメカケテ》 己蚊杲《オノガカホ》 還氷見乍《カヘラヒミツツ》 春避而《ハルサリテ》 野邊尾廻者《ヌベヲメグレバ》 面白見《オモシロミ》 我矣思經蚊《ワレヲオモヘカ》 狹野津鳥《サヌツトリ》 來鳴翔經《キナキカケラフ》 秋避而《アキサリテ》 山邊尾往者《ヤマベヲユケバ》 名津蚊爲迹《ナツカシト》 我矣思經蚊《ワレヲオモヘカ》 天雲裳《アマグモモ》 行田菜引《ユキタナビク》 還立《カヘリタチ》 路尾所來者《ミチヲクレバ》 打氷刺《ウチヒサス》 宮尾見名《ミヤヲミナ》 刺竹之《サスタケノ》 舍人壯裳《トネリヲトコモ》 忍經等氷《シヌブラヒ》 還等氷見乍《カヘラヒミツツ》 誰子其迹哉《タガコゾトヤ》 所思而在《オモハエテアル》 如是所爲故爲《カクゾシコシ》 古部《イニシヘ》 狹狹寸爲我哉《ササキシワレヤ》 端寸八爲《ハシキヤシ》 今日八方子等丹《ケフヤモコラニ》 五十狹邇迹哉《イサニトヤ》 所思而在《オモハエテアル》 如是所爲故爲《カクゾシコシ》 古部之《イニシヘノ》 賢人藻《サカシキヒトモ》 後之世之《ノチノヨノ》 堅監將爲迹《カタミニセムト》 老人矣《オイビトヲ》 送爲車《オクリシクルマ》 持還來《モチカヘリコシ》 
 
(16)赤兒ノ小サイ兒ノ時ニハ(垂乳爲)母ニ抱カレ、「襁ヲカケル匐兒ノ身ニハ、木綿ノ肩衣ヲ、總裏ニ縫ツテ着、更ニ生長シテ、髪ノ先ガ〔十字傍線〕頸ノ廻リ〔三字傍線〕ヲ衝ク位ナ、少年ノ時ニハ、絞染ノ袖ノアル着物ヲ着タ私デシタガ、顔ノ美シイ貴女タチト、同年輩ノ頃ニハ(三名之綿)黒イ髪ヲ、櫛デ肩ニカキ垂ラシテ、手ニ取リ束ネ或ハ櫛デ〔四字傍線〕カキ上ゲテ、結ンデ見タリ、解キ亂シテ童ノヤウニシテ見タリシテ、薄物ノ紅イ色ノ着物〔三字傍線〕、ナツカシイ紫ノ大綾錦ノ衣ヲ、住吉ノ遠里小野ノ萩デ染メタ着物ニ、高麗ノ錦ヲ紐トシテ縫ヒツケ、紐ヲ〔二字傍線〕差シ、着物ヲ〔三字傍線〕重ネ、並ベ重ネテ着テ、(打十八爲)麻ヲ績ム女等ヤ、絹布ヲ織ル〔五字傍線〕(蟻衣之)寶ノ女等ガ 只管ニ、糸ヲ〔二字傍線〕引キ延ヘテ織ル布、水ニツケテ〔五字傍線〕、日ニ晒シテ作ツタ、麻ノ手織リノ布ヲ、重裳《シキモ》ノヤウニハ澤山ニ〔三字傍線〕取リ重ネテ着ルト、家ニ閉ヂ籠ツテヰル箱入娘ノ〔四字傍線〕稻置ノ處女ガ、結婚ヲ申込ムトテ、私ノ所ヘ來タ。遠國製ノ二綾ノ靴下ヲ穿イテ〔四字傍線〕、(飛鳥)飛鳥里ノ〔二字傍線〕男ガ、長雨ヲ嫌ツテ縫ツテ作ツ〔三字傍線〕タ黒靴ヲ穿イテ庭ニ立ツト、歸ツテハイケマセント障ヘル少女ガ、私ノ聲ヲ〔四字傍線〕微カニ聞キツケテ、私ノ處ヘヤツテ來タ。水色ノ絹ノ帶ヲ引帶ノヤウニ唐帶ニ取ツテ、龍宮ノ御殿ノ屋根ノ棟ノ上ニ飛ンデヰル※[虫+果]羸ノヤウナ、腰ノ細イ姿ニ飾ツテ、鏡ヲ並ベ懸ケ、自分ノ顔ヲ何度モ映シテ見テ、春ガ來テ、野原ヲ廻ツテ見ルト、私ノ姿〔二字傍線〕ヲ面白イト思フノカ、雉モ來テ飛ビ廻ル。秋ガ來テ山ヲ歩イテヰルト、ナツカシイト私ヲ思フノカ、空ノ雲モ來テ靉イテヰル。更ニ又〔三字傍線〕還ツテ來テ立ツテ、都ノ〔二字傍線〕大通リヲ歩イテヰルト、(打氷刺)宮女(刺竹之)舍人ノ男モ、私ヲ〔二字傍線〕慕ツテ振リ返ツテ見テ、アノ美シイ男ハ何處ノ〔十字傍線〕誰ノ家ノ兒ダゾト思ハレテヰル。私ハ〔二字傍線〕カヤウニシテ來タ。皆得意ニナツテ、騷イデ歩イタ私ガ、今日ハ、コノ〔二字傍線〕美シイ女共ニ、イヤ知ラナイト思ハレテヰル。私ハ〔二字傍線〕カヤウニシテ來タ。然シ老人ダカラトイツテ嫌フモノデナイ〔然シ〜傍線〕。昔ノ原穀トイフ〔五字傍線〕賢イ人モ、後世ノ手本ニシ(17)ヨウト思ツテ、老人ヲ捨テニ行ツタ車ヲ、持ツテ來テ、ソノ父ノ不孝ヲ直シ〔十字傍線〕タ。ダカラ老人ダト言ツテ輕蔑シタモノデモアルマイ〔ダカ〜傍線〕。
 
○緑子之《ミドリコノ》――緑子は赤兒。○若子蚊見庭《ワクコガミニハ》――若子は卷十四に等能乃和久胡思《トノノワクゴシ》(三四三八)・等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》(三四五九)とあつたワクゴであるが、かれは青年の男を指してゐるのに、これは嬰兒のことを言つてゐる。見庭は身には。嬰兒の時にはの意。○垂乳爲《タラチシ》――タラチネと同じく母の枕詞である。卷五に多羅知斯夜波波何手波奈例《タラチシヤハハガテハナレ》(八八六)・多良知子能波波何目美受提《タラチシノハハガメミズテ》(八八七)とある。爲を禰の誤とする考の説はよくない。○母所懷《ハハニウダカエ》――舊訓ハハニイタカレとあるが、所懷はウダカエと訓むがよい。○搓襁《スキカクル》――舊訓タマタスキとあるのは據所のない訓法である。搓はヨルといふ字であるから代匠記にもヨリムツキ・ヨリタスキなどと訓んでゐるが、穩やかでない。略解にタスキカクと訓んであるが、古義に搓を挂の誤とし「襁は字鏡に負v兒帶也須支また束2小兒背1帶須支とあり。こは今俗、スケ〔二字右○〕といふものなり。さてここは襁《スキ》を束《カケ》て負ばかりの、ほどほひをいふにて、未だ幼稚《イトギナ》きを云り、さてこの襁を、古來タスキ〔三字右○〕と訓來れるは、いかがあらむ。タスキ〔三字右○〕ならば手襁と書べし。襁のみにては字足はず。書紀にも手襁と書り云々」とあるのに從ひたい。タスキは源氏物語・枕草子などに見えて、小兒の着る今の腹掛の如きもので、背中で紐を打がへにしてある。但し搓の字は古寫本多くは※[衣+差]に作つてゐる。※[衣+差]は衣(ノ)長キ貌であるから、ここには當嵌らヌやうである。○平生蚊見庭《ハフコガミニハ》――平生の二字を舊訓にハフコとあるのは、その理由は明らかでないが、動かし難い訓と思はれる。これについて古義には「熟々考るに論語に、久要不v忘2平生之言1とありて、孔安國(ガ)註に、平生(ハ)猶2少時1トあるのに依(レ)りと見えたれば、少時を即(チ)這めぐる少兒の意に取(レ)るものなり」とある。必ずしも從ひ難いが、注意すべき説であらう。○結經方衣《ユフカタギヌ》――木綿で作つた肩衣。肩衣は袖無し衣。○氷津裡丹縫服《ヒツラニヌヒキ》――氷津裡《ヒツラ》は純裏《ヒタウラ》の約で、卷十二に純裏衣《ヒツラノコロモ》(二九七二)とあるに同じ。通し裏のこと。舊訓ヒツリと訓んだのはよくない。○頸著之《ウナツキノ》――舊訓クビツキノを考にウナツキノト改めてゐる。子供の髪の末が頸のあたりで切られて、頸を衝く程になつてゐるから、かくいふのであらうか。女の兒を目刺しといふに似てゐる。○結幡之《ユヒハタノ》――結幡《ユヒハタ》は纐纈即ち絞染である。幡即ち布を結んで染めるからユヒハタといふ。ユフハタと舊訓(18)にはあるが、ユヒハタがよいであらう。○袂著衣《ソデツケゴロモ》――袖を着けた衣。肩衣を着た赤兒よりも大きくなつた装ひである。○服我矣《キシワレヲ》――着し我なるにの意。○丹因子等何四千庭《ニヨルコラガヨチニハ》――舊訓ニヨレルとある。この二句は意味不明瞭なので誤字説が多い。代匠記精撰本は庭を衍、四千を子の上に移し、ニヨレルヨチコラガとし、考は四千を見の誤としてニヨルコラガミニハ、久老は丹の上、吾の字、脱としてワニヨスコラガ、古義は丹の上、我の字、脱としてアニヨルコラガとしてゐる。ここでは原文のままとして、顔の美しい貴女たちと同年輩の頃にはの意としよう。ニヨルは丹頬合《ニヅラフ》(一九八六)と同じく、顔の美しいこと、四千《ヨチ》は卷五に餘知古良《ヨチコラ》(八〇四)とあるやうに同年輩の子といふのである。○三名之綿《ミナノワタ》――枕詞。黒とつづく。蜷といふ貝の腸が黒いからである。○蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》――舊訓カグロナルカミとあるが、爲をシと訓むのが穩やかである。カグロシは終止形で、名詞につづく古形である。美國《ウマシクニ》・嚴穗《イカシホ》・堅岩《カタシハ》などの類である。カは接頭語。○信櫛持《マグシモチ》――マは接頭語。櫛を以つて。○於是蚊寸垂《カタニカキタレ》――於是はココニと訓むの外はないが、古義に是を肩の誤として、カタニと訓んだのに從はう。肩に掻き垂らして。○擧而裳纒見《アゲテモマキミ》――櫛で掻き上げて、それを卷いて綰《ワガ》ねたりして見て。○童兒丹成見《ワラハニナシミ》――舊訓|董兒丹成見羅丹津蚊經色丹《ウナヰコニナレルミツラニツカフルイロニ》とあるのを代匠記以下種々に改訓してゐるが、古義によることにした。童の如く髪を解亂して見るといふので、謂はゆる大童になることである。○羅丹津蚊經色丹《ウスモノノニツカフイロニ》――古義は羅は紅の誤でクレナヰノは丹と言はむ爲といつてゐる。これに從へば意はよく通ずるが、誤字らしくもない。宣長が羅をサと訓んで、色の下の丹を衍とし、サニツカフイロナツカシキと訓むべしとて、卷七に羅をサの假名に用ゐた例があるといつてゐる。併し卷七のは音之清羅《オトノキヨラ》(一一五九)と訓むべきであるから證にはならない。暫く新訓によつて、ウスモノノと訓むことにしよう。丹津蚊經色《ニツカフイロ》は丹着かふ色。紅色。似着かふではあるまい。○大綾之衣《オホアヤノキヌ》――大きな綾織になつてゐる衣。○墨江之遠里小野之《スミノエノトホザトヲヌノ》――卷七に住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノトホサトヲヌノマハリモチスレルコロモノサカリスキヌル》(一一五六)とあると同所。宣長説によつて古義がヲリノヲヌノとよんだのは從ひ難い。○丹穗之爲衣丹《ニホシシキヌニ》――染めた衣に。○刺部重部《ササヘカサナヘ》――舊訓サシベカサナベとあるのを、考は部は米に通ひ米と美とは同言だとして、サシミカサネミと訓んでゐるのは無理であらう。古義によつて、ササヘはサシ、カサナヘはカサネの延言と見るべきであらう。紐を刺し、衣を重ねるのである。(19)○波累服《ナミカサネキ》――並み重ね着。舊訓はナミカサネキテとあるが、テは不要であらう。波は並の借字。取の誤とするは當らない。○打十八爲《ウチソケシ》――舊訓ウチソハシ、代匠配精撰本ウチソヤセバ、略解は八爲は烏の誤で、ウチソヲとし、古義は文字のままにウツソヤシと訓んでゐる。古義はウツツは全麻《ウツソ》、ヤシは縱惠八師《ヨシヱヤシ》・愛八師《ハシキヤシ》などのヤシと同じく歎辭と見て、この句を麻續《ヲミ》の枕詞としたのであるが、この説が最も優れてゐる。但し卷一の打麻乎麻續王《ウチソヲヲミノオホキミ》(二三)、卷十二の※[女+感]嬬等之續麻之多田有打麻懸《ヲトメラカウミヲノタタリウチソカケ》(二九九〇)によつても打十はウチソと訓むのが正しく、ウチソヤシは右の卷一の打麻乎《ウチソヲ》と全く同意の枕詞なることが知られる。○麻續兒等《ヲミノコラ》――麻を績むことを業とする女子ら。○蟻衣之《アリギヌノ》――枕詞。寶とつづく。アリギヌは鮮かなる絹の意で、布を寶としたからである。○寶之子等蚊《タカラノコラガ》――絹布を織るものを貴んで寶の子といつたのである。麻續兒《ヲミノコ》に對してゐる。新考は服部《ハトリ》之子等の誤であらうといつてゐる。○打栲者《ウツタヘハ》――ウツタヘは只管《ヒタスラ》にの意。者は煮の誤で、ウツタヘニであらうとも考へられるが、もとの儘で、ウツタヘニハの意として置かう。ウツタヘを考に美細布《ウツタヘ》とし、古義には打は打麻の打《ウツ》、栲は絹布の總名とあるのは誤つてゐる。○經而織布《ヘテオルヌノ》――古義は前句の者を下につづけて、ハヘテオルヌノと訓んでゐる。ヘは絲を引延へること。○日暴之《ヒザラシノ》――日光に暴《サラ》した。布は水に洗つて日に晒すのである。○朝手作尾《アサテツクリヲ》――朝は麻の借字。手作は手織布。卷十四の多麻河泊爾左良須※[氏/一]豆久利《タマガハニサラステツクリ》(三三七三)とある※[氏/一]豆久利《テツクリ》に同じ。○信巾裳成者《シキモナスハ》――重裳の如く。シキモは重裳・醜裳・敷裳などの説がある。いづれも面白くないが、重裳として、重ねて着る裳と解して置かう。但し巾の字は集中|領巾《ヒレ》に用ゐてあるのみで、假名として用ゐた例はない。一體この歌の用字が極めて異風ではあ(20)るが、信巾裳《シキモ》はどうも無理があるやうである。なほ攻究を要する。者《ハ》は衍とする説が多い。○之寸丹取爲支《シキニトリシキ》――重《シキ》に取り重《シ》きの意か。この句も明瞭ではなく、異説も多いが、當つてゐると思はれるものがないから、略して置く。○屋所經《ヤドニフル》――宿に籠つてゐるの意か。下の稻寸丁女につづいてゐる。この句の訓も解も諸説紛々である。○稻寸丁女蚊《イナキヲトメガ》――稻寸は成務天皇紀に、縣邑置2稻置1とあり、允恭天皇紀には姓謂2稻置1。天武天皇紀に作2八色之姓1とあつて、八曰2稻置1と見えてゐる。ここのは成務天皇紀に見える國造に屬したものではなく、天武天皇紀の稻置姓の少女であらう。これを地名とする説もあるが、地名としては所見がないやうである。代匠記に稻舂《イナツキ》をとめの略としたのは當らない。○妻問迹《ツマドフト》――結婚を申込むとて。○我丹所來爲《ワレニゾキタリシ》――私の所へ尋ねて來た。古義は來を賚の誤として、ワニゾタバリシと訓むべしと言つてゐる。○彼方之《ヲチカタノ》――遠方で出來る。舶來の意にもとれる。○二綾裏沓《フタアヤシタグツ》――二綾の襪。二綾は二色の綾。シタグツは靴下。和名抄に「説文云、襪 音末 字亦作v韈之太久頭」とある。○飛鳥《トブトリノ》――枕詞。アスカにつづくのは飛ぶ鳥の足輕《アシガル》、又は飛ぶ鳥の幽《カスカ》の轉とする説が行はれてゐる。○飛鳥壯蚊《アスカヲトコガ》――飛鳥の里の男。靴作りの男である。○霖禁《ナガメイミ》――長雨を嫌つて。革靴を縫ふには雨を忌むのであらう。考には「革沓は日能時ぬふが竪きなるべし」とあるが、略解には「革沓は日より能時にぬるが黒きなるべしと翁の説也」とある。宣長は「ながめいみ云々聞えず。強ひていはば、長雨の時は外のすべき業ならざる故に、家の内に居て沓をぬふをいふにや。俗にいふ雨ふりしごとと言ふ意也」といつてゐる。○縫爲黒沓《ヌヒシクロクツ》――黒沓は衣服令に烏皮※[潟の旁]《クリカハクツ》とあるによつて、考・古義はクリクツと訓んでゐる。なほクロクツでよいであらう。○挿入の寫眞は東瀛珠光による。○庭立住《ニハニタタスミ》――庭に佇み。考はニハタダスメバと訓んでゐる。○退莫立《マカリナタチト》――舊訓イデナタチとあるのを、代匠記精撰本ソキナタチとあるが、退はマカルと訓んだ例が多いから、ここもそれに從つて置かう。其處を立去るなと女が言ふのである。○禁尾迹女蚊《サフルヲトメガ》――禁は集中、種々の訓がある。ここは舊訓イサムヲトメガとあるが、人歟禁良武《ヒトカサフラム》(六一九)・將見時禁屋《ミムトキサヘヤ》(二六三三)・往時禁八《ユクトキサヘヤ》(三〇〇六)などに傚つてサフルと訓むがよい。この句は障ふる處女が。引留める處女がの意。○水縹《ミハナダノ》――水色縹。即ち藍色の薄いもの。○絹帶尾《キヌノオビヲ》――考はタヘノオビヲと訓んでゐるが、文字通りに訓むべきである。○引帶成《ヒキオビナス》――引帶のやうに。(21)引帶は和名抄に「衿帶、陸詞曰 音與襟同比岐於比 小帶也」とある。表衣に縫ひ附けてある小帶である。○韓帶丹取爲《カラオビニトラシ》――韓帶として取つて。韓帶とは韓風の帶であらうが、どんなものかわからない。弾正臺式に「凡紀伊石帶隱文者及定摺石帶參議已上、刻2鏤金銀1帶及唐帶五位已上並聽2著用1」とある。古義はカロビと訓んでゐる。トラシは敬語であるが、自分のことに使つてある。新考はトリナシと訓んでゐる。○殿盖丹《トノノイラカニ》――舊訓トノノミカサニとあり、ミカサを契沖は海神の殿に懸けたる華蓋《キヌガサ》と解してゐるが穩やかでない。盖は考にイラカとよんだのに從ふことにする。イラカは屋上の棟である。和名抄に「甍、釋名云、屋背曰v甍、音萌、伊良加」とある。○爲輕如來《スガルノゴトキ》――爲輕《スガル》は〓〓。似我蜂、腰細蜂の古名。この海神の殿の甍に飛び翔る〓〓とあるのを考には「野山こそあらめ、海神の殿をいひし心得す」とあるのは尤もであるが、海神の國は、水底にある如くして、しかも水中に没してゐるわけではないから、〓〓の飛ぶといふ想像もあり得るのである。○腰細丹《コシボソニ》――腰の細いのは美人の風姿。卷九に腰細之須輕娘《コシボソノスガルヲトメ》(一七三八)とある。○取餝氷《トリカザラヒ》――取り飾りての延言。○取雙懸而《トリナミカケテ》――取り並べ懸けて。○己蚊杲《オノガカホ》――己が顔。杲をカホに用ゐるのは見呆石《ミガホシ》(三八二)・在杲石《アリカホシ》(一〇五九)・杲鳥《カホドリ》(一八二三)・朝杲《アサガホ》(二一〇四)などと同じく、杲の字音コウを採つたものである。○我矣思經蚊《ワレヲオモヘカ》――我を思へばか。○狹野津鳥《サヌツドリ》――サは接頭語。この語は枕詞として雉の上に冠するを常とする。ここは即ち雉のことであらう。○行田菜引《ユキタナビク》――略解にユキタナビキヌとあるのはよくない。イを補つてイユキとする訓もさることだが、やはり原字のままで訓みたい。○打氷刺《ウチヒサス》――宮の枕詞。四六〇參照。○刺竹之《サスタケノ》――宮又は君などにかける枕詞であるのを、轉じて舍人に用ゐたのである。○忍經等氷《シヌブラヒ》――シヌブラフはシヌブルの延言。シヌブルはシヌブに同じ。心になつかしく思つて。○誰子其迹哉所思而在《タガコゾトヤオモハエテアル》――誰が家の子ぞやと、世の人に思はれてあつたと、若年時代を言つてゐる。誰が子ぞやと思はれるとは、人に注目せられることで、拾遺集神樂歌の「銀の目貫の太刀をさげはきて奈良の都をねるは誰が子ぞ」といふやうな氣分を指すのであらう。この句の舊訓はオモヒテアラム、考はモハレタリシヲ、久老はオモハレテアリシ、略解はオモホエテアラムヲ、古義オモハレテアルなど種々の訓がある。ここで切れたものとして古義に從つて置かう。○如是所爲故爲《カクゾシコシ》――斯樣に爲て來た。かくの如き行動を爲して來た。○古部《イニシヘ》(22)――舊訓にイニシヘノとあるのはよくない。○狹狹寸爲我哉《ササキシワレヤ》――ササクはササメクと同じく、戯れ騷ぐ意である。昔騷ぎ廻つて女どもに戯れた私が。ヤは疑問。○端寸八爲《ハシキヤシ》――語を距てて子等丹《コラニ》につづいてゐる。○五十邇迹哉《イサニトヤ》――イサはイサ知ラズのイサで、いや知らぬとばかりにの意。ニはニテなどの意であらう。輕く添へてある。ヤは疑間。○古部之賢人藻《イニシヘノサカシキヒトモ》――これから以下は孝子傳に「原穀者不v知2何許人1祖年老、父母厭患之、意欲v棄v之、穀年十五、涕泣苦諫、父母不v從乃作v輿舁棄v之、穀乃隨收v舁歸、父謂之曰、爾《ナンヂ》焉用2此凶具1、穀日、乃後父老不v能2更作1得v是以收v之耳、父感悟愧懼、乃載v祖歸、侍養更成2純孝1」とある記事によつたもので、古部之賢人《イニシヘノサカシキヒト》は即ち原穀のことである。○老人矣送爲車持遠來《オビトヲオクリシクルマモチカヘリコシ》――右の孝子傳の文に出てゐる故事をさしてゐる。
〔評〕 この長歌は萬集集中最も難解を以て聞えるものである。句法が整齊を缺いてゐる上に、用字に寄異なる點が多く、且當時の服装を述べてゐるが、男女いづれの風俗と見るべきか判斷に苦しむものがあつて、讀者をして五里霧中に彷徨せしめるの感がある。併し總べてこの翁の若い時の紛装と思へば間違ないやうである。又その内容は極めて混雜し、その叙述がいやに氣取つてゐる。最未に孝子傳の原穀の故事を引用してゐるのは、よほどの支那趣味作家で外國文學にかぶれた作品である。言ふまでもないことだが、この歌は竹取翁自身の作ではなく、竹取翁といふ架空の人物を作つて、かくの如き神仙譚的物語を仕組んだので、謂はゆる小説である。吾が國の小説は源氏物語に物語の祖と述べた竹取物語を待たずして、既にこの竹取翁歌があるのである。この作の年代は明らかでないが、かなり古いものかと思はれる。卷五に見えた梧桐日本琴の歌(八一〇)、松浦河に遊ぶ歌(八五三)などは、これと同一傾向の神仙めかした作品である。殊に松浦河の歌はこの歌の仙女を、海人の處女にかへただけのものである。
 
反歌二首
 
3792 死なばこそ 相見ずあらめ 生きてあらば しろかみ子等に 生ひざらめやも
 
(23)死者木苑《シナバコソ》 相不見在目《アヒミズアラメ》 生而在者《イキテアラバ》 白髪子等丹《シロカミコラニ》 不生在目八方《オヒザラメヤモ》
 
アナタ方ハ私ヲ老人ダト云ツテ輕蔑スルガ、早ク〔アナ〜傍線〕死ンダナラバ醜イ老人ノ姿ヲ〔七字傍線〕見ナイデスムデセウ。シカシ〔三字傍線〕生キテ居ルナラバ、白髪ガアナタガタニモ生エナイトイフコトガアリマセウカ。アナタガタモ、イツカハ老人ニナリマスヨ〔アナ〜傍線〕。
 
○死者木苑《シナバコソ》――舊本木を水に作るは誤。類聚古集その他多くの古本に依る。苑をソの假名に用ゐたのは、ソノの略か、集中唯一の例である。○相不見在目《アヒミズアラメ》――白髪になつた自分の姿を、見ないですむであらうの意。○生而在者《イキテアラバ》――略解に「我生きてあらば、子等に白髪生るを見むと也」とあるのは從ひ難い。○白髪子等《シロカミコラニ》――舊訓にシラカミとあるが、卷十七に布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマデニ》(三九二二)とあるに傚ふべきであらう。
〔評》 少し意味の不明瞭な點もあるのは、言ひ廻しが拙いのであらう。
 
3793 しろかみし 子等も生ひなば かくの如 若けむ子等に 罵らえかねめや
 
白髪爲《シロカミシ》 子等母生名者《コラモオヒナバ》 如是《カクノゴト》 將若異子等丹《ワカケムコラニ》 所詈金目八《ノラエカネメヤ》
 
白髪ガアナタガタニモ生エタナラバ、今私ガアナタガタニ罵ラレルヤウニ〔今私〜傍線〕、コノ通リ若イ人ニ罵ラレナイデヰヨウカ、必ズ罵ラレルデセウ〔九字傍線〕。
 
○白髪爲《シロカミシ》――舊訓シラガセムとあるが、眞淵の竹取翁歌解の説による。略解にシラガシテとある。○子等母生名者《コラモオヒナバ》――舊訓コラモイキナバとあるが、古義の説がよい。○將若異子等丹《ワカケムコラニ》――將若異の異はケと訓ましめむ爲に添へたものか。まことに珍らしい書き方である。この句は直譯すれば若いであらう女らにの意。○所詈金目八《ノラエカネメヤ》――カネは出來ないの意。罵られないでゐようか、必ず罵られるだらうの意。
(24)〔評〕 老を嗤ふ處女らを諫めてゐる。卷五の山上憶良の哀世間難住の歌に可久由既婆比等爾伊等波延可久由既婆《比等爾邇久麻延カクユケバヒトニイトハエカクユケバヒトニニクマエ》(八〇四)とあるのが思ひ出される。この二首の長歌の基調となつてゐるものは同じであるから、さうして、むつかしい漢土の故事などを引用した點などから、この作者は山上憶良ではないかといふ、想像が浮ぶのを禁ずることが出來ない。
 
娘子|和《コタフル》歌九首
 
九人の娘子が一人一首づつ詠んだのである。
 
3794 はしきやし おきなの歌に おほほしき 九の兒らや かまけて居らむ
 
端寸八爲《ハシキヤシ》 老夫之歌丹《オキナノウタニ》 大欲寸《オホホシキ》 九兒等哉《ココノノコラヤ》 蚊間毛而將居《カマケテヲラム》
 
愛スベキ翁ノ歌ヲ聞イテ、愚カナ九人ノ女ドモハ、皆〔傍線〕感心シテヰマセウ。
 
○端寸八爲《ハシキヤシ》――愛《ハ》しきにヤとシとが添へである。次の老夫《オキナ》につづいて、愛すべき翁の意。○大欲寸《オホホシキ》――心のはれないこと、景色の曇つてゐることなどに用ゐるが、ここは愚かなといふ意である。○蚊間毛而將居《カマケテヲラム》――カマケは感ずる。感心してをらうか。貴方のお言葉に從はうといふのであらう。古義の今村樂の説はカを發語とシ、負けと解してゐる。
〔評〕 翁の歌によつて愚かなる我等も、道理を悟つて感服してゐようといふのである。以下の九歌の前置のやうなもので、娘子の内の一人が和へた歌になつてゐるが、もとより前の長歌と同一人の作である。この歌、袖中抄に出てゐる。
 
3795 恥をしぬび 辱をもだして 事もなく 物言はぬ先に 我は依りなむ
 
辱尾忍《ハヂヲシヌビ》 辱尾黙《ハヂヲモダシテ》 無事《コトモナク》 物不言先丹《モノイハヌサキニ》 我者將依《ワレハヨリナム》
 
(25)私ハ翁ニ説法サレテ〔九字傍線〕辱ヲ受ケテモ〔四字傍線〕忍ビ、辱ヲ受ケテモ〔四字傍線〕黙ツテ、穩ヤカニ、物モ言ハナイウチニ、私ハ翁ニ依リマセウ。
 
○辱尾忍《ハヂヲシヌビ》――辱とは老人から説明せられたことをいふ。老人の言葉に忍んで從つて。○辱尾黙《ハヂヲモダシテ》――老人の言葉に黙つて從つて。○無事《コトモナク》――無事に。穩やかに。○物不言先丹《モノイハヌサキニ》――物を言はない内に。物を言はないで。○我者將依《ワレハヨリナム》――我は老人に依り從はうといふのである。
〔評〕 辱尾忍辱尾黙《ハヂヲシヌビハヂヲモダシテ》といふのは漢文式の句調に聞える。契沖はこの句を班昭の女誡七篇の第一に「謙謙恭敬先v人後v己、有v善莫(レ)v名(ツクル)、有v惡莫v辭、忍v辱含v垢《ハチ》常若2畏懼1是謂2卑弱下1v人也」とあるに據つたのであらうといつてゐるのは、蓋し當つてゐる。
 
3796 否も諾も 欲するまにま 赦すべき かたちは見ゆや 我も依りなむ
 
否藻諾藻《イナモウモ》 隨欲《ホリスルマニマ》 可赦《ユルスベキ》 貌所見哉《カタチハミユヤ》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
他ノ女等ハ〔五字傍線〕承知トモ不承知トモ、翁ノ〔二字傍線〕思フ通リニ許シテ從フヤウナ樣子ガ見エルヨ。私モ亦翁ノ言葉ニ〔六字傍線〕從ヒマセウ。
 
○否藻諾藻《イナモウモ》――承諾も不承諾も。諾は代匠記精撰本にセ、久老はヲとよんでゐる。いづれも根據ある説であるが、舊訓も誤ではないから、それに從つてウと訓むことにしよう。○貌所見哉《カタチハミユヤ》――宣長はカタチミエメヤ、古義はカタチハミエヤトある。カタチハミユヤがよいやうだ。樣子が見えるよ。顔をしてゐるよの意。
〔評〕 前の歌に我者將依《ワレハヨリナム》とあるにならつて、我藻將依《ワレモヨリナム》といつてゐる。以下四首も同樣である。
 
3797 死も生も 同じ心と 結びてし 友やたがはむ 我も依りなむ
 
死藻生藻《シニモイキモ》 同心跡《オナジココロト》 結而爲《ムスビテシ》 友八違《トモヤタガハム》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
(26)死ヌノモ生キルノモ、同ジ心ト約束シタ九人ノ〔三字傍線〕友達ニ、私ハ〔二字傍線〕、背キマセウヤ。同ジ行動ヲトリマセウ〔十字傍線〕。私モ翁ニ〔二字傍線〕從ヒマセウ。
 
○死藻生藻同心跡《シニモイキモオナジココロト》――生をも死をも共にし、如何なる場合も同じ心でやらうと約束した意。○友八違《トモヤタガハム》――友にや違はむ、違ひはせじの意。舊訓トモハタガハジとあり、代匠記初稿本、八の下に不の字、脱とし、略解は八は不の誤として、トモニタガハズと訓んでゐる。代匠記初稿本の一訓による。
〔評〕 死藻生藻同心《シニモイキモオナジココロ》といふのは、九人の仙女の盟としてはあまりに大袈裟で、言葉が強烈すぎる。これも漢文熟語などから來たものであらう。
 
3798 何せむと たがひは居らむ 否も諾も 友のなみなみ 我も依りなむ
 
何爲迹《ナニセムト》 違將居《タガヒハヲラム》 否藻諾藻《イナモウモ》 友之波波《トモノナミナミ》 我裳將依《ワレモヨリナム》五
 
ドウシテ私ハ、私一人他ノ友ダチト〔私ハ〜傍線〕違ツタ事ヲシマセウカ。承知モ不承知モ九人ノ〔三字傍線〕友達ト一緒デス。私モ翁ニ〔二字傍線〕從ヒマセウ。
 
○何爲迹《ナニセムト》――何としようとて。宣長は迹は邇《ニ》の誤かと言つてゐるが、さうではあるまい。○友之岐波《トモノナミナミ》――友の並々。友と同じやうに。この句で意は切れてゐる。
〔評〕 前の二歌を混淆して、一首に纒めたやうな歌である。
 
3799 豈もあらぬ おのが身のから ひとの子の 言も盡さじ 我も依りなむ。
 
豈藻不在《アニモアラヌ》 自身之柄《オノガミノカラ》 人子之《ヒトノコノ》 事藻不盡《コトモツクサジ》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
何ノ能〔二字傍線〕モナイ私ガ人ト違ツタコトヲシテ〔私ガ〜傍線〕、私ノ爲ニ他人ニ言葉ヲ費サセル事ハスマイ。私モ翁ニ〔二字傍線〕從ヒマセウ。
 
(27)○豈藻不在《アニモアラヌ》――豈は何に同じ。何の能力もない。○自身之柄《オノガミノカラ》――吾が身の故に。○人子之《ヒトノコノ》――人の子は他の娘子らをいふ。古義にヒトノコシとあるは從ひ難い。
〔評〕 初二句に娘子の謙遜な態度が見えてゐるが、却つてこの氣分に似合はしくない。
 
3800 はた薄 穗にはな出でと 思ひたる 心は知らゆ 我も依りなむ
 
者田爲爲寸《ハタススキ》 穗庭莫出《ホニハナイデト》 思而有《オモヒタル》 情者所知《ココロハシラユ》 我藻將依《ワレモヨリナム》
 
私ガ〔二字傍線〕(者田爲爲寸)外ニハ表ハレルナト思ツテ、心ノ中デ包ンデ〔七字傍線〕ヰル考ガ、翁ニ〔二字傍線〕知ラレタ。コノ上ハ兎角云ハズニ〔十字傍線〕、私モ翁ニ從ヒマセウ。
 
○者田爲爲寸《ハタススキ》――枕詞。穗とつづく意は明らかである。○穩庭莫出《ホニハナイデト》――舊訓ホニハイヅナトあるのもよいが、文字通りに訓むことにする。略解にホニハイデジトと改めたのは、却つて面白くない。○思而有《オモヒタル》――考にシヌビタルと訓んだのはよくない。それによつて略解・古義に忍の意に解したのは誤つてゐる。○情者所知《ココロハシラユ》――舊訓ココロハシレリを、略解にココロハシレツと改めたのは、文字と離れ過ぎる。吾が心が翁に知られたといふのだ。
〔評〕 翁に心中を見拔かれて、冑を脱いだ貌である。袖中抄に載つてゐる。
 
3801 住の江の 岸野のはりに にほふれど 染はぬ我や にほひて居らむ
 
墨之江之《スミノエノ》 岸野之榛丹《キシヌノハリニ》 丹穗所經迹《ニホフレド》 丹穗葉寐我八《ニホハヌワレ》 丹穗氷而將居《ニホヒテヲラム》
 
墨ノ江ノ岸ノ野ニ生エテ居ル、萩ヲ摺ツテ着物ヲ〔七字傍線〕染メルケレドモ、中々染マラナイヤウニ、人ノ言フコトニ從ハナイ〔ヤウ〜傍線〕私モ、翁ノ言葉ニハ〔六字傍線〕從ツテ居リマセウカ。
 
○岸野之榛丹《キシヌノハリニ》――久老は岸之野榛丹の誤で、キシノヌハリニであらうと言つてゐるが、改めるには及ばない。住(28)吉の岸につづいた野の萩であらう。○丹穗所經迹《ニホフレド》――染めるけれど。○丹穗葉寐我八《ニホハヌワレヤ》――染まらない私が。染まらぬとは吾が心の人に從はぬことを言つたのである。ヤは疑問の助詞。輕く用ゐてある。○丹穗氷而將居《ニホヒテヲラム》――染まつてゐませうか。翁の言葉のままに從ふことを、ニホフと言つたのである。
〔評〕 衣服を染める住吉の岸野の榛を以て譬喩として、吾が心のかたくなぶりを述べてゐる。ニホフといふ語が三句以下に三囘繰返されてゐるのは、作者がわざと試みた技巧である。
 
3802 春の野の 下草靡き 我も依り にほひ依りなむ 友のまにまに
 
春之野乃《ハルノヌノ》 下草靡《シタクサナビキ》 我藻依《ワレモヨリ》 丹穗氷因將《ニホヒヨリナム》 友之隨意《トモノマニマニ》
 
春ノ野ノ木ノ下ニ生エテ居ル草ガ柔カク〔三字傍線〕靡クヤウニ、私モ友達ト同ジヤウニ、翁ニ〔十字傍線〕靡イテ從ヒマセウ。
 
○我藻依《ワレモヨリ》――前に澤山あつたワレモヨリナムと同語を用ゐてゐる。○丹穗氷因將《ニホヒヨリナム》――ニホヒは前の歌のものと同じで、從ひ付く意になつてゐる。
〔評〕 柔かい春の野の下草を譬喩として、靡く姿をあらはしてゐるのはよい。以上の九首は、仙女が各一首づつ作つたやうになつてゐるが、もとより同一人の手になるもので、しかも前の長歌の作者と同じである。九首が總べて、翁の言葉を受入れて從ふ意のみを詠んでゐるのは物足りない。しかも序では、非慮之外偶逢2神仙1と記してあるのに、九人の女の歌には少しも神仙らしい趣がない。これは作者が、常住であり得ない世の姿を説かうとする目的に出たかも知れないが、折角の構想が龍頭蛇尾に終つたやうにも思はれる。
 
昔者有(リ)3壯士(ト)與2美女1也、【姓名未詳】不(シテ)v告(ゲ)2二親(ニ)1、竊(ニ)爲(シキ)2交接《マジハリヲ》1於v時娘子之意、欲(ス)2親(ニ)令(メムト)1v知(ラ)、因(リテ)作(リ)2歌詠(ヲ)1送(リ)2與(フ)其(ノ)夫(ニ)1歌(ニ)曰(ク)
 
舊本、夫を父に誤つてゐる。類聚古集その他の古寫本、多く夫に作るに從ふべきである。
 
3803 こもりのみ 戀ふれば苦し 山の端ゆ 出で來る月の あらはさば如何に
 
(29)隱耳《コモリノミ》 戀者辛苦《コフレバクルシ》 山葉從《ヤマノハユ》 出來月之《イデクルツキノ》 顯者如何《アラハサバイカニ》
 
人ニ隱シテバカリ戀シテヰルノハ、苦シイモノデス。デスカラ〔八字傍線〕山ノ端カラ出テ來ル月ガ光ヲアラハス〔七字傍線〕ヤウニ、二人ノ間柄ヲ兩親ニ〔九字傍線〕告ゲテハドウデセウカ。
 
○山葉從出來月之《ヤマノハユイデクルツキノ》――山の端から出て來る月の如く。古義には序詞と見てゐるが、譬喩とすべきであらう。
〔評〕 平凡な歌デアル。卷十の隱耳戀者苦瞿麥之《コモリノミコフレバクルシナデシコノ》(一九九二)と初二句を等しくし、結句は卷七|平城有人之待問者如何《ナラナルヒトノマチトハバイカニ》(一二一五)・神乎齊禮而船出爲者如何《カミヲイハヒテフナデセバイカニ》(一二三二)などに似てゐる。
 
右或(ハ)曰(ヘリ)、男(ニ)有(リト)2答歌1者、未v得2探(リ)求(メ)1也
 
未v得2探求1の一語、編者の態度がほの見えてゐるやうに思はれる。
 
昔者有(リ)2壯士1、新(ニ)成(シテ)2婚禮(ヲ)1也、未(ダ)v經2幾時(モ)1、忽(ニ)爲(リテ)2驛使(ト)1、被(ル)v遣(ハ)2遠境(ニ)1、公事有(リ)v限、會(フ)期無(シ)v日、於v是娘子、感慟悽愴(シテ)、沈2臥(ス)疾※[やまいだれ/尓](ニ)1。累年之後、壯士還(リ)來(テ)、覆命既(ニ)了(ル)、乃(チ)詣(ヒテ)相視(ル)、而娘子之姿容、疲羸甚(ダ)異(ニシテ)、言語哽咽(ス)、于v時壯士、哀嘆流(シテ)v涙(ヲ)裁(リ)v歌(ヲ)口號(ム)、其(ノ)歌一首
 
○驛使――驛馬に乘つて急行する使者。官用によつて使に行く者である。ハユマヅカヒと訓む。古事記中卷に爾貢2上驛使《カレハユマヅカヒヲタテマツリテ》1とある。○疾※[やまいだれ/尓]――※[やまいだれ/尓]は西本願寺本・温故堂本などチムと振假名し(30)てゐるから、※[病垂/火]と何字で熱ある病。孟子に「恒存2乎※[病垂/火]疾1」禮記に「疾※[病垂/火]不v作」とある。○覆命――歸つて來ての報告。○詣――行きて。○哽咽――むせび泣き。すすり泣き。○口號――口ずさむ。
 
3804 斯くのみに ありけるものを 猪名川の 沖を深めて 吾が念へりける
 
如是耳爾《カクノミニ》 有家流物乎《アリケルモノヲ》 猪名川之《ヰナガハノ》 奧乎深目而《オキヲフカメテ》 吾念有來《ワガモヘリケル》
 
コノヤウニ私ヲ待ツテ戀ニ痩セテ死ニサウニ〔私ヲ〜傍線〕ナツテヰタノニ、ソレヲ知ラズニ〔七字傍線〕(猪名川之)行先長ク後マデ逢ハウ〔六字傍線〕ト私ガ思ツテヰタヨ。可愛サウナコトヲシタ〔可愛〜傍線〕。
 
○猪名川之《ヰナガハノ》――枕詞。奥につづく。猪名川は卷十一に居名山響爾行水乃《ヰナヤマトヨニユクミヅノ》(二七〇八)とある河で、即ち攝津の池田川である。○奧乎深目而《オキヲフカメテ》――岸から離れた中流を奧《オキ》といふ。その奧《オキ》を行末の意に轉用してゐる。奥を深めては行末長くの意。
〔評〕 猪名川を枕詞としてあるのは、攝津國の出來事だからであらう。卷十二の如是耳在家流君乎衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《カクノミニアリケルキミヲキヌナラバシタニモキムトアガモヘリケル》(二九六四)と同型。
 
娘子臥(シテ)聞(キ)2夫君之歌(ヲ)1從v枕擧(ゲ)v頭(ヲ)應(ジテ)v聲(ニ)和(ヘシ)歌一首
 
3805 烏玉の 黒髪ぬれて 沫雪の 降るにや來ます ここだ戀ふれば
 
烏玉之《ヌバタマノ》 黒髪所沾而《クロカミヌレテ》 沫雪之《アワユキノ》 零也來座《フルニヤキマス》 幾許戀者《ココダコフレバ》
 
 
私ガカウシテ貴方ヲ〔九字傍線〕大層戀シガツテヰルト、ソノ心ガ、屆イタモノト見エテ貴方ハ〔ソノ〜傍線〕(烏玉之)黒髪ヲ濡シナガラ、雪ノ降ル中ヲ、カマハズ〔四字傍線〕オイデナサツタノデセウ。オ氣ノ毒ナ事デス〔八字傍線〕。
 
(31)○烏玉之《ヌバタマノ》――枕詞、黒とつづく。○沫雪之《アワユキノ》――沫雪は沫のやうな雪。雪は沫の如く白く消え易いから、沫雪といふ。
〔評〕 左註にある如く、夫が雪中に訪ねて來たので、自分の思ふ心の屆いたのを喜んだ歌であるが、前の歌の答歌としては、しつくり合はないやうに思はれる。
 
今案(ズルニ)此(ノ)歌(ハ)其(ノ)夫被(リテ)v使(ヲ)既(ニ)經2累載(ヲ)1而當(リテ)2還時(ニ)1、雪落(レル)之冬也、因(リテ)v斯(ニ)娘子作(レル)2此(ノ)沫雪之句(ヲ)1歟
 
この註のやうに見なければ、右の歌はこの話に適應しない。
 
3806 事しあらば 小泊瀬山の 石城にも こもらば共に な思ひ吾背
 
事之有者《コトシアラバ》 小泊瀬山乃《ヲハツセヤマノ》 石城爾母《イハキニモ》 隱者共爾《コモラバトモニ》 莫思吾背《ナオモヒワガセ》
 
私ト貴方トノ間ガ親ニ知レテ、私ノ親ニ叱ラレルカト貴方ハ心配シテイラツシヤルサウダガ、ソンナニ、躊躇ナサルコトハアリマセン〔私ト〜傍線〕。マサカノ場合ニハ、小泊瀬山ノ墓ノ下ニデモ、葬ラレルナラバ貴方ト一緒ニト思ツテヰマス〔七字傍線〕。御心配ナサルナ、吾ガ夫ヨ。
 
○事之有者《コトシアラバ》――萬一大變なことがあるならば。卷四に事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《コトシアラバヒニモミヅニモワレナケナクニ》(五〇六)とある。○小泊瀬山乃石城爾母《ヲハツセヤマノイハキニモ》――小泊瀬山の小は接頭語であらう。石城はここでは墓のことを言ふらしい。泊瀬山は上代の墓所であつた。天智天皇紀に「憂2恤萬民1之、故不v起2石槨《イシキ》之役1」と見える。
〔評〕 死なば諸共といふ女の強い心意氣を示してゐる。この歌、常陸風土記新治郡の條に「自郡以東五十里在2笠間村1越通道路稱2葦穗山1古老曰、古有2山賊1名稱2油置賣命1今社中在2石屋1俗歌曰、許智多鷄波乎婆頭勢夜麻(32)能伊波歸爾母爲弖許母良奈牟奈古非敍和支母《コチタケバヲハツセヤマノイハキニモシテコモラナムナコヒソワギモ》」とある同歌の異傳といつてよい。大和の民謠が轉じて、常陸の葦穗地方に謠はれたものか。或は乎婆頭勢夜麻《ヲハツセヤマ》は普通名詞で墓所の山の意かも知れない。
 
右傳(ヘ)云(フ)時(ニ)有(リ)2女子1、不(シテ)v知(ラセ)2父母(ニ)1、竊(ニ)接(ス)2壯士(ニ)1也、壯士|※[立心偏+束]2※[立心偏+易]《シヨウテキシテ》其親(ノ)呵嘖(ヲ)1、稍(ヤ)有(リ)2猶預之意1、因(リテ)v此(ニ)娘子、裁2作(シテ)斯謌(ヲ)1、贈2與(フル)其夫(ニ)1也
 
○※[立心偏+束]2※[立心偏+易]《シヨウテキ》――恐れ慎む。○呵嘖――叱責。古義はコロビと訓んでゐる。
 
3807 安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 淺き心を 吾が思はなくに
 
安積香山《アサカヤマ》 影副所見《カゲサヘミユル》 山井之《ヤマノヰノ》 淺心乎《アサキココロヲ》 吾念莫國《ワガモハナクニ》
 
貴方樣ハソンナニオ怒リナサイマスナ〔貴方〜傍線〕。私共ハ貴方サマニ對シテ(安積香山影副所見山井之)淺イ心ヲ持ツテハヲリマセヌ。オ怒リヲ解イテ下サイマシ〔オ怒〜傍線〕。
 
○安積香山《アサカヤマ》――陸奥國安積郡にある山。その所在について二説がある。一は日和田町即ち今の山之井村で、その町はづれ東方に安積山と稱する小丘あり、又山の井清水の跡と稱するものも殘つてゐる。一は片平村なる額取山とするもので、其所にも山之井の古跡あり、又釆女の墓と稱するものもある。この説いづれが正しいか、遽かに定め難いが、今の郡山町は上代の郡家で、驛家でもあつたと思はれるが、日和田は郡山(蘆屋驛)と本宮(安達驛)との中(33)間で驛路に添うてゐたから、歌枕として取られる可能性が多いやうに思はれる。これに反して片平は郡山の西北三里を距て、驛路から離れてゐる。なほ觀聞志・囘國雜記・奧の細道・大日本地名辭書などに記すところも前者としてある。奥の細道には「須賀川を出て七里計、檜皮《ヒハダ》の宿を離れてあさか山あり。路より近し。云々」と記してある。以上の理由から日和田町所在のものを以て、安積山の舊趾とするのが穩やかであらう。寫眞は日和田なる安積山。○影副所見《カゲサヘミユル》――影までが映つて見える。影とは木影である。安積山の影ではない。水の清澄なことをあらはしてゐる。卷十三|天雲之影塞所見隱來笶長谷之河者《アマクモノカゲサヘミユルコモリクノハツセノカハハ》(三二二五)とある。○山井之《ヤマノヰノ》――山の井は山の中に湧く清水を湛へたもの。掘井ではなく淺いから、ここまでの三句を淺さの序詞としてゐる。○淺心乎吾念莫國《アサキココロヲワガモハナクニ》――淺い心をもつてあなたを思つてはゐないよの意。心を思ふといふのが古い型である。卷十五に家之伎許己呂乎安我毛波奈久爾《ケシキココロヲアガモハナクニ》(三七七五)とある。ナクニは無いよと、輕い詠歎の意をもたせて言ひ切る詞。
〔評〕 この歌は古今集の序にあるやうに、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」と相並んで、中世以來、歌の父母のやうで、手習ふ人の(34)始めにしたものである。附近の名所を詠み込んだ釆女の機智で、王の心が和らいだといふ傳説が然らしめたものであらう。上品な作ではあるが、歌としてはさして秀でてゐるとも思はれない。和歌童蒙抄・八雲御抄などに載せてある。大和物語には全く異つた説話に附けて面白く書いてある。
 
右歌(ハ)傳(ヘ)云(フ)葛城王遣(サレシ)2于陸奧國(ニ)1之時、國司祗承緩怠異(ニ)甚(シ)於時(ニ)王(ノ)意不v悦(ビ)怒色顯(ル)v面(ニ)、雖3設(クト)2飲(ミ)饌《アヘヲ》1不2肯(ヘテ)宴樂(セ)1、於v是有(リ)2前(ノ)采女1、風流(ノ)娘子(ナリ)、左手(ニ)捧(ゲ)v觴(ヲ)、右(ノ)手(ニ)持(チ)v水(ヲ)、撃(チ)2之王膝(ヲ)1、而詠(ス)2此歌(ヲ)1爾《ココニ》乃(チ)王(ノ)意解(ケ)悦(ビテ)、樂飲(ムコト)終日(ナリキ)、
 
○葛城王――誰ともわからない。伊豫國風土記に、「湯郡、天皇等於湯幸行降坐五度也……以2上宮聖徳皇子1爲2一度1及侍(ハ)高麗慧慈僧、葛城王等也」とある、葛城王とすれば聖徳太子の時代である。天武天皇紀に「八年秋七月己卯朔乙未四位葛城王卒。」とあるのはもとより別人であらう。なほ一人は左大臣橘諸兄が、皇族であつた時の名で、卷六(一〇〇九)に、從三位葛城王とある人である。契沖と眞淵とは、天武天皇紀に見える葛城王であらうと言つてゐるが、諸兄と見る學者もある。この卷に諸兄の弟、佐爲王についての歌が載つてゐるから、この葛城王を諸兄と見る説も成立つわけである。併し陸奥は大化の國郡制定の際に置かれたもので、養老二年その、石城・標葉・行方・宇太・曰理及び常陸の菊多を割いて、石城《イハキ》國を置き、白河・石背・會津・安積・信夫を割いて石背《イハセ》國を置いた。それが神龜年中に廢せられて、舊の如く陸奥に編入せられたのであるから、右の文を嚴密に解すれば、この事件は養老二年以前か、又は神龜以後諸兄改名の天平八年までの間のこととなる。さてここに國司とあるのは、廣義では守介掾目等の總稱であるが、ここで王に應對してゐるのは長官らしく思はれる。さうして事件は國司の居住地、即ち國衙の所在地で行はれたものと考へねばなるまい。さうすると、陸奥の首都でなければならぬが、天平勝寶の頃まで、國府は陸前名取郡の武隈にあつたとのことであるから、安積は國司の居るところではない。尤(35)も國守が王を迎へる爲に安積まで來て居たとも考へられないことはあるまいが、この文ではさうは見られない。安積は國造時代の阿尺の國であつたのを、大化國郡制定の際、陸奥國に編せられ、ここに國府を置かれたのであるまいかと思はれる。安積に國府を置かれた記録は他にないが、最初ここにあつたものが、奥地の開拓につれて名取、多賀と進んで行つたことは想像し得ることである。安積に國府があつたものと見なければ、この文は解釋し難いものとなる。釆女は、古く仁徳天皇紀に見える。又孝徳天皇の大化二年正月の條には「凡釆女者貢2郡少領以上姉妹、及子女形容端正者1【從丁一人從女二人】以2一百戸1充2釆女一人之粮1庸布庸米皆准2仕丁1」とある。文武天皇の大寶二年四月壬子には「令d2筑紫七國及越後國1簡2點釆女兵衛1貢uv之、但陸奥國勿v貢、」と勅が出てゐる。これによると筑紫七國及び越後は從來釆女を出さなかつたのを、この時追加せられたのであるが、陸奥國勿貢とあるは、今まで奉つてゐたのをこの年から廢止せしめられたといふのか。然らばこの事件は大寶二年以前であらねばならぬ。諸兄の葛城王は和銅三年に始めて無位から從五位下を賜はつてゐるから、大寶年間はいまだ陸奥へ遣はされるやうな年齡ではなかつた。從つてこの葛城王は天武天皇紀に見えるお方とせねばならぬ。併し更に一歩を進めて考へると、右の續紀の文「陸奥國勿貢」は今まで釆女を貢としてゐたのを廢したのではなくて、從來貢しなかつた筑紫七國と越後とに貢を命じ給うた序を以て、陸奥國だけは從前の如く、兵衛と釆女とを貢するに及ばずと宣はせられたものと、解すべきもののやうに思はれる。當時の陸奥國の状態を想像すれば、采女を貢するまでには文化が進んでゐなかつたのではあるまいか。この見解にして許されるならば、ここの左註は全く事實を誤り傳へたものとせねばならぬ。併し一方から考へれば、この采女は陸奥から出たのではなく、いづれか他の國の出であつたが、謂はゆる遊行女婦となつてこの國に來て、宴席に侍つてゐたものと見ることも出來る。否この見方が最も正鵠を得てゐるのではあるまいか。ともかく葛城王は不明とすべきである。○祗承――謹しみ仕へること。古義はアヘシラフコトと訓んでゐる。○捧觴――盃をささげ。○持水――水を瓶に入れたのを持つたのであらう。水は下に味飯乎水爾釀成《ウマイヒヲミヅニカミナシ》(三八一〇)とあ(36)つて、酒と見る説もあるが、水に釀みなしとあるのは、水の中に入れて液體にしたといふやうな意で、祈年祭祝詞に〓閉高知〓腹滿雙※[氏/一]爾母爾母稱辭竟奉牟《ミカノヘタカシリミカノハラミテナラベテシルニモカヒニモタタヘゴトヲヘマツラム》とある汁と同樣であらう。水といつても直ちに酒の意にはなるまい。殊にこれは漢文であるから、水はどこまでも文字通りに見るべきであらう。本當の水でなくては、山の井が出て來ない。水の入つてゐる器を以て王の膝を撃つて、この歌を謠ひ、盃をさし、機嫌が直つたと見て酒を注いだのであらう。○其歌――類聚古集その他の古本に此歌とあるのがよい。〇解脱――これも類聚古集その他に解悦とある。然らば解け悦びてである。
 
3808 住の江の をづめに出でて うつつにも おの妻すらを 鏡と見つも
 
墨江之《スミノエノ》 小集樂爾出而《ヲスメニイデテ》 寤爾毛《ウツツニモ》 己妻尚乎《オノヅマスラヲ》 鏡登見津藻《カガミトミツモ》
 
住吉ノ小集樂《ヲヅメ》トイフ澤山人ノ集マル中ニ〔トイ〜傍線〕出テ、他ノ女ニ比ベテ見ルト吾ガ妻ハ格別美シイカラ夢デハナク〔他ノ〜傍線〕實際ニ自分ノ妻ナガラ、毎朝向フ〔四字傍線〕鏡ノヤウニ、懷カシク大切ニ〔七字傍線〕思ツタヨ。
 
○小集樂爾出而《ヲヅメニイデテ》――小集樂は舊訓ヲツメとあるが、袖中抄にこの歌をあげて、ここをヲヘラニイデテとし、註して、「をへらとは田舍者の出て集りで遊ぶを云ふとぞ。住吉には年毎に濱にてをへらひと云て遊ぶ事あり云々」とある。仙覺抄に或抄云として引用したのは、右の袖中抄の文である。これらによればヲヘラが古訓であらうが、これをヲヅメと改めたのも理のあることであらう。代匠記精撰本には「アソビニイデテとよむべきにや」とある。新考は「ヲスラとよむべきか。そのヲスラは元來邦語なるが、語源はヲシクラ(食座)か。さらば遊は本來ヲシクラアソビと謂ふべし云々」とあるが、根據が薄弱である。按ふにヲヅメのヲは接頭語で、ツメは集約《ツマリ》。集の字をツメと訓むことは物集《モツメ》などの如く今も行はれるところである。ここは人が集りて宴樂するのであるから、樂の字を添へて書いたのである。要するにヲヅメは天智天皇紀の童謠に于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアソビニイデマセコ》」云々とあるツメノアソビと同じで、※[女+燿の旁]歌などの如く、男女大勢集まり宴樂する行事があつたのである。○寤爾毛《ウツツニモ》――略解の宣長説は寤の上に阿の字脱とし、アサメニモであらうといひ、古義は寤の上に眞の字脱でマ(37)サメニモかとしてあるが、もとのままがよい。ウツツは現在。夢でもなく、慥かに。○鏡登見津藻《カガミトミツモ》――鏡と見たよ。鏡は上代人の大切なものとして、最も貴んだものである。鏡と見たとは鏡のやうに大切な貴いものとして見たといふので、吾が妻が衆に擢んでて貴く美しく見えたといふのである。
〔評〕 多くの女の中に、吾が妻の秀でて美しく見えたのを喜んだ歌。夢ならばともかく、實際にさう見えるとは我ながらをかしいと、自からそのお目出たさを認めつつも、自慢しないではゐられない男だ。ともかく美しい妻に首たけの田舍男の歌である。
 
右傳(ヘ)云(フ)、昔者鄙人(アリ)、【姓名未詳也】于時郷里(ノ)男女、衆集(ヒテ)野遊(ス)、是會集之中(ニ)有(リ)2鄙人(ノ)夫婦1、其(ノ)婦容姿端正、秀(ヅ)2於衆諸(ニ)1、乃(チ)彼(ノ)鄙人之意、彌増(シ)2愛(スル)v妻(ヲ)之情(ヲ)1、而作(リ)2斯歌(ヲ)1讃2嘆(スル)美貌(ヲ)1也、
 
昔者の下に有の字を脱せるかと略解は記してゐる。鄙人姓名未詳也の六字を、考は「後人のさかしらなり。撰者の何ぞ鄙人の名をとめん」といつてゐる。略解は小字に改めてゐる。次の例によると小字がよい。
 
3809 商かはり しらすとの御法 あらばこそ 吾が下衣 返し賜らめ
 
商變《アキカハリ》 領爲跡之御法《シラストノミノリ》 有者許曾《アラバコソ》 吾下衣《ワガシタゴロモ》 變賜米《カヘシタバラメ》
 
一度商賣シタ物ヲ、取引ヲ變更シテモヨイト云フ法律ガアルナラバコソ、私ガ差シ上ゲタコ〔七字傍線〕ノ着物ヲ御返シニナツテモヨイデセウ。ソンナ法律ハアリマセンカラ、私ガ上ゲタモノヲ御返シニナル筈ハアリマセヌ〔ソン〜傍線〕。
 
○商變《アキカハリ》――細井本にアキカヘリとあるのは、よくないであらう。代匠記精撰本に「落句にあはせて思ふにアキカヘシと讀べき歟」とあり。古義も同樣である。この句は代匠記精撰本に「既に物と價とを定て取交して後に(38)忽に變じで或は物をわろしとて、價を取返し、或は價を賤しとて物を取返すなり、」とあるやうに商賣の濟んだ後で、その取引を變更することであつて、どちらに訓んでも同じことである。むしろ舊訓が穩やかであらう。○領爲跡之御法《シラストノミノリ》――許すといふ法律。考はメセトノミノリ。宣長はアキカヘシメセトフミノリと訓むべしと言つてゐる。なほ「道別、さきに之は云の誤ならむと言へりき」と略解に見える。古義はシラセトノミノリと訓んでゐる。諸説があるが、舊訓のままがよいやうである。○變賜米《カヘシタバラメ》――タマハメでもよいが、タバラメの方が古語であらう。
〔評〕 左註によると男に捨てられて、以前贈つた形見の下衣を返却された女の歌である。賣買終了後の、取引變更自由といふ法律があるならばといつたのは、洵に珍らしい材料である。全體が理窟になつてゐるが、材料が珍らしいので、歌が面白くなつてゐる。
 
右傳(ヘ)云(フ)、時《ムカシ》有(リ)2所v幸娘子1也、【姓名未v詳】寵薄(レタル)之後、還(シ)2賜(ヒキ)寄物(ヲ)1【俗云可多美】於v是娘子怨恨(ミテ)聊(カ)作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1獻上(リキ)
 
この文の書き方で見ると,男は貴人である。法令の制定運用にたづさはるやうな高位高官の人に向つて、法律を云々してゐるので、益々この歌が面白くなる。
 
3810 味飯を 水に釀み成し 吾が待ちし かひは曾てなし 直にしあらねば
 
味飯乎《ウマイヒヲ》 水爾釀成《ミヅニカミナシ》 吾待之《ワガマチシ》 代者曾無《カヒハカツテナシ》 直爾之不有者《タダニシアラネバ》
 
オイシイ飯ヲ、酒ニ釀シテ、貫方ノ御イデヲ〔七字傍線〕待ツテヰマシタガ、コンナ贈物ヲ下サツテ、貴方ガ〔コン〜傍線〕御自身デ御イデニナラ〔六字傍線〕ナイカラ、ソノ甲斐ハ全クアリマセヌ。
 
○味飯乎《ウマイヒヲ》――味飯は舊訓アヂイヒとあるが、味はアヂの訓以外に味酒《ウマサケ》(一七)・味凝《ウマゴリ》(一六二)・味宿者不寢哉《ウマイハネズヤ》(二九六三)など(39)の如くウマの用例も多いから、味酒《ウマサケ》にならつて、ウマイヒと訓むべきであらう。味のよい酒を。○水爾釀成《ミヅニカミナシ》――水は汁、即ち酒。祈年祭祝詞に、〓高知〓腹滿雙※[氏/一]爾母爾母稱辭竟奉《ミカノヘタカシリミカノハラミテナラベテシルニモカヒニモタタヘゴトヲヘマツラム》とある汁と同じである。釀はカモスに同じ、口中に米粟などを入れて、噛んで唾液に混じ、壺に蓄へて醗酵せしめるのが、原始的の釀造法であつた。○吾待之《ワガマチシ》――私が待つた。謂はゆる待酒を釀したのである。卷四|爲君釀之待酒安野爾獨哉將飲友無二思手《キミガタメカミシマチザケヤスノヌニヒトリヤノマムトモナシニシテ》(五五五)とある。○代者曾無《カヒハカツテナシ》――代は舊訓ヨとあるのでは意が通じない。この文字は集中の用例を見ると、ヨ・シロ・カヘ・テ・デなどであるが、ここはカハリの約でカヒに用ゐたのであらう。略解はこの句をシルシハゾナキと訓んでゐるけれども、代の字をシルシとよんだ例もなく、その理由も見出し難い。曾はカツテ、常者曾《ツネハカツテ》(一〇六九)・曾木不殖《カツテキウヱジ》(一九四六)名者曾不告《ナハカツテノラジ》(三〇八〇)などに傚つてカツテと訓むがよい。總べて、全くの意。○直爾之不有者《タダニシアラネバ》――左註に正身不v來とあるのと同じで、タダは本人自身をいふ。左註にあるやうに、男が自身で來ないで、※[果/衣]物を贈つて來たからである。
〔評〕 待酒までも釀して、男を待つてゐたのが、裏切られたことを恨んだ歌。調子がどつしりとして、時代が稍古いやうである。
 
右傳(ヘ)云(フ)昔有(リ)2娘子1也、相2別(レテ)其夫(ニ)1、望(ミ)戀(フルコト)經(タリ)v年(ヲ)爾時、夫君更(ニ)娶(リテ)2他妻(ヲ)1、正身不v來(ラ)、徒(ニ)贈(リキ)2※[果/衣]物(ヲ)1、因(リテ)v此(ニ)娘子作(リ)2此(ノ)恨(ノ)歌(ヲ)1、還(シ)2酬(ユル)之(ヲ)1也、
 
正身は古義にミヅカラと訓んでゐるのは意は當つてゐる。併し源氏物語(例へば帚木に「さればよと心おごりするに、さうじみ〔四字傍点〕はなし」とある)などに、サウジミといふ語が俗語として用ゐられたのを見ると、既にこの頃から音讀してゐたものかも知れない。
 
戀(フル)2夫君(ヲ)1歌一首并短歌
 
3811 左丹づらふ 君が御言と 玉梓の 使も來ねば 憶ひ病む 吾が身一つぞ ちはやぶる 神にもな負せ 卜部坐せ 龜もな燒きそ 戀しくに 痛き吾が身ぞ いちじろく 身に染みとほり 村肝の 心碎けて 死なむ命 俄になりぬ 今更に 君か吾を喚ぶ たらちねの 母の命か 百足らず 八十の衢に 夕占にも 卜にもぞ問ふ 死ぬべき吾が故
 
(40)左耳通良布《サニヅラフ》 君之三言等《キミガミコトト》 玉梓乃《タマヅサノ》 使毛不來者《ツカヒモコネバ》 憶病《オモヒヤム》 吾身一曾《ワガミヒトツゾ》 千磐破《チハヤブル》 神爾毛莫負《カミニモナオホセ》 卜部座《ウラベマセ》 龜毛莫燒曾《カメモナヤキソ》 戀之久爾《コヒシクニ》 痛吾身曾《イタキワガミゾ》 伊知白苦《イチジロク》 身爾染保里《ミニシミトホリ》 村肝乃《ムラキモノ》 心碎而《ココロクダケテ》 將死命《シナムイノチ》 爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》 今更《イマサラニ》 君可吾乎喚《キミカワヲヨブ》 足千根乃《タラチネノ》 母之御事歟《ハハノミコトカ》 百不足《モモタラズ》 八十乃衢爾《ヤソノチマタニ》 夕占爾毛《ユフケニモ》 卜爾毛曾問《ウラニモゾトフ》 應死吾之故《シヌベキワガユヱ》
 
美シイナツカシイ〔五字傍線〕貴方ノ御便リダト言ツテ、(玉梓乃)使モ來ナイカラ、自分一人デ思ヒ惱ンデ居ル私デスヨ。(千磐披)神樣ノ祟トシテハイケマセンヨ。又病氣ノ理由ヲタヅネル爲ニ〔又病〜傍線〕占ヲスル者ヲ頼ンデ龜ノ甲〔二字傍線〕ヲ燒イテ、占ハシテ〔四字傍線〕ハイケマセンヨ。戀ノ爲ニカウシテ〔四字傍線〕惱ンデヰル私デスヨ。誰ガ見テモ分ルヤウニ瘠セテ、辛サガ〔六字傍線〕身ニ滲ミ透ツテ、(村肝乃)心ガ亂レテ死ヌ命ガ忽チ迫ツテ來マシタ。今息ヲ引キ取ラウトスル私ノ枕下ヘ來テ〔今息〜傍線〕今更、私ノ名ヲ呼ブノハ貴方デスカ。ソレトモ〔四字傍線〕(足千根乃)母上樣デスカ。モウコレデ、戀ノ爲ニ〔九字傍線〕死ヌベキ私ダノニ、皆サンハ〔四字傍線〕(百不足)方々ノ町々デ、夕方ノ辻占ヲシタリ、又ハ〔二字傍線〕ウラナヒヲナサルヨ。何モ役ニ立タナイノニ〔十字傍線〕。
 
○左耳通良布《サニヅラフ》――色の赤く美しいことを褒める言葉で、ここは男の顔を形容してゐる。枕詞とのみは見られない。○君之三言等《キミガミコトト》――君が御言葉なりとての意。○玉梓乃《タマヅサノ》――枕詞。使とつづく。二〇七參照。○吾身一曾《ワガミヒトツゾ》――上からつづいて、吾が身一つに思ひ惱む我なるぞの意。一を衍とする説はいけない。○千磐破《チハヤブル》――枕詞。神とつづく。一〇一參照。○神爾毛莫負《カミニモナオホセ》――神の業と言ひ負せるな。神の祟などと言ふな。皆自分の心からの戀病だといふのである。○卜部座《ウラベマセ》――舊訓ウラベスヱとある。庭はマセの用例が多い上に、ここは敬語の方が當り(41)さうであるから、マセと訓んで置かう。卜部は卜占を職とする部族。この句は卜部を招いての意。次の句につづいてゐる。○龜毛莫燒曾《カメモナヤキソ》――龜を燒くな。龜を燒くとは、龜の甲を燒いて、あらはれた形によつて吉凶を判斷する方法。支那から渡來したものである。伴信友の正卜考には、もと對馬龜卜口授から採つたといふ龜卜の圖が載せてあるが、必ずしも上代の俤を傳へるとは考へられない。○戀之久爾《コヒシクニ》――戀しいので。古義はコホシクニと訓んでゐる。○痛吾身曾《イタキワガミゾ》――苦しみ病む我なるぞの意。○伊知白苦《イチジロク》――はつきりと誰が目にも明らかに見えるやうに。要するに瘠せたことである。○身爾染登保里《ミニシミトホリ》――身に沁み通りは、戀しさが骨身にしみ透ること。舊本に登の字が無いのは脱ちたのであらう。代匠記説によつて補つた。○村肝乃《ムラキモノ》――枕詞。心につづく。五參照。○心碎《ココロクダケテ》而――心が碎けるとは、彼を思ひ是を思つて、種々に煩悶すること。○爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》――危篤になつた。○君可吾乎喚《キミカワヲヨブ》――君が我を喚ぶか。○足千根乃《タラチネノ》――枕詞。母とつづく。四四參照。○母之御事歟《ハハノミコトカ》――御事《ミコト》は敬稱。母の命なるかの意。○百不足《モモタラズ》――枕詞。八十とつづく。○夕占爾毛《ユフケニモ》――夕占は夕暮に行ふ占。八十の衢の夕占は即ち辻占である。○卜爾毛曾問《ウラニモゾトフ》――この卜は一般的に言ふのであるが、主として龜卜などをさしてゐるやうだ。新考は曾を莫の誤として、ウラニモナトヒと訓んでゐる。○應死吾之故《シヌベキワガユヱ》――死ぬべき我なるにの意。
〔評〕 死に臨んで夫を戀しく思つて詠んだ歌としてある。今更君可吾乎喚足千根乃母之御事歟《イマサラニキミカワヲヨブタラチネノハハノミコトカ》のあたりは、人の同情を呼ぶやうな悲しい言葉である。併し危篤の状態に陷つてゐる人にして、かくの如き整然たる長歌を詠じ得るであらうか。何人かの製作が本となつで、左註のやうな説話が後から出來たものであらう。
 
反歌
 
3812 卜部をも 八十の衢も 占問へど 君をあひ見む たどき知らずも
 
卜部乎毛《ウラベヲモ》 八十乃衢毛《ヤソノチマタモ》 占雖問《ウラトヘド》 君乎相見《キミヲアヒミム》 多時不知毛《タドキシラズモ》
 
(42)陰陽師ヲ招イタリ、方々ノ町々デ辻占ヲシテモ、病氣ガ直リサウナ兆ガナイカラ〔病氣〜傍線〕、貴方ト御目ニカカル方法ガ分リマセヌヨ。悲シウゴザイマス〔八字傍線〕。
 
○卜部乎毛《ウラベヲモ》――長歌中にあつた卜部座と同じで、卜部をも聘して龜卜をしたといふのである。○八十乃衢毛占雖問《ヤソノチマタモウラトヘド》――八十の衢に辻占をもやつたがの意。
〔評〕 男に逢ひたさに、曾て龜卜をしたり辻占をしたといふので、長歌に述べてないことである。病になつての言葉としては適切でない。右の長歌の反歌として適當しない感がある。袖中抄に載せてゐる。
 
或本反歌曰
 
3813 吾が命は 惜しくもあらず さ丹づらふ 君に依りてぞ 長く欲りせし
 
吾命者《ワガイノチハ》 惜雲不有《ヲシクモアラズ》 散追良布《サニヅラフ》 君爾依而曾《キミニヨリテゾ》 長欲爲《ナガクホリセシ》
 
私ハ貴方ニ御目ニカカレナイノデ〔私ハ〜傍線〕、私ノ命ハ惜シクモアリマセヌ。今マデ〔三字傍線〕美シイ貴方故ニコソ、長生キモシヨウト思ツテヰタノデス。
 
○散追良布《サニツラフ》――散は山攝、翰韻n音尾の字でサニに用ゐてある。○君爾依而曾《キミニヨリテゾ》――君の爲にこそ。君故にこそ。
〔評〕 類型の歌といふ程のものは見當らないが、内容の類似のものは他にもある。これは前のよりも反歌としてふさはしい。
 
右傳(ヘ)云(フ)時《ムカシ》有(リ)2娘子1、姓(ハ)車持氏也、其夫久(シク)逕(テ)2年序(ヲ)1不v作《ナサ》2往來(ヲ)1、于時(ニ)娘子係戀、傷(マシメ)v心(ヲ)沈(ミ)2臥(シキ)痾※[病垂/尓](ニ)1痩羸日(ニ)異(ニシテ)忽(チ)臨(ム)2泉路(ニ)1於v是遣(シテ)v使(ヲ)喚(ビ)2其(ノ)夫君(ヲ)1來(リ)而乃歔欷流涕|口2(43)號《クチスサミ》斯歌(ヲ)1登時《スナハチ》逝没也、
 
姓車持氏也の五字は前の例によれば小字で書くべきであらう。車持氏は新撰姓氏録に「車持公。上毛野朝臣同祖、豐城入彦命八世孫射狹君之後也。雄略天皇御世、供2進乘與1、仍賜2姓車持公1」とある。係戀は甚だしく戀すること。古義は係戀傷心をイキノヲニコヒツツと訓んでゐる。痾※[病垂/尓]の※[病垂/尓]は※[病垂/火]。熱病。登時はスナハチと訓む。
 
贈歌一首
 
3814 しら珠は 緒絶えしにきと 聞きし故に その緒また貫き 吾が玉にせむ
 
眞珠者《シラタマハ》 緒絶爲爾伎登《ヲダエシニキト》 聞之故爾《キキシユヱニ》 其緒復貫《ソノヲマタヌキ》 吾玉爾將爲《ワガタマニセム》
 
美シイ〔三字傍線〕眞珠ハソレヲ繋イダ〔六字傍線〕緒ガ切レタト人ノ話ニ〔四字傍線〕聞キマシタカラ、ソノ緒ヲ又貰キ直シテ、私ノ玉ニショウト思ヒマス。私ノ思フ美シイ女ハ、人ノ妻デアツタガ、離婚ニナツタ聞イタカラ、私ハソノ女ト結婚シテ、私ノ物ニシヨウト思ヒマス〔ト思ヒマス私〜傍線〕。
 
○眞珠者《シラタマハ》――眞珠は次の歌に白玉とあるから、シラタマと訓むべきである。和名抄に「日本紀私記云、眞珠之良多麻」とある。○聞之故爾《キキシユヱニ》――聞いたから。本集にはモノヲの意なるユヱが多いが、これは後世の用法と同じである。新考はカラと訓むべしと言つてゐる。
〔評〕 左註に記してある事實によつた諷論の作。眞珠を珍重した上代人の傾向が見えてゐる。古事記の阿加陀麻波袁佐閇比迦禮杼斯良多麻能岐美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《アカダマハヲサヘヒカレドシラタマノキミガヨソヒシタフトクアリケリ》。本集卷七、照左豆我手尓纏古須玉毛欲得其緒者替而吾玉爾將爲《テルサヅガテニマキフルスタマモガモソノヲハカヘテワガタマニセム》(一三二六)などが思ひ出される。
 
答歌一首
 
3815 白玉の 緒絶はまこと しかれども その緒また貫き 人持ち去にけり
 
(44)白玉之《シラタマノ》 緒絶者信《ヲダエハマコト》 雖然《シカレドモ》 其緒又貫《ソノヲマタヌキ》 人持去家有《ヒトモテイニケリ》
 
白玉ノ緒ガ切レタ事ハ事實デス。然シソノ緒ヲ又貫キ直シテ、他ノ人ガ持ツテ行キマシタ。私ノ娘ハ離婚ニナツタノハ事實デス。然シ再ビ婚約ガ出來テ、他ノ人ガ連レテ行キマシタ〔私ノ〜傍線〕。
 
○人持去家有《ヒトモチイニケリ》――舊訓モテとあるのはよくない。略解に有は里の誤とある。アリの略でリに用ゐたか。
〔評〕 女の兩親の答へた歌。贈つた歌に對して、巧に調子を合せてゐる。
 
右傳(ヘ)云(フ)、時《ムカシ》有(リ)2娘子1、夫君(ニ)見(レ)v棄(テ)、改(メテ)適(ケリ)2他(ノ)氏(ニ)1也、于v時或(ハ)有(リ)2壯士1、不v知2改(メ)適(ケルヲ)1此(ノ)歌(ヲ)贈(リ)遣(ハシ)、請(ヒ)2誂(ヒキ)於女之父母者(ニ)1、於是《ココニ》父母之意、壯士未(ジト)v聞2委曲之旨(ヲ)1、乃(チ)依(リ)2彼(ノ)歌(ヲ)1、報(ヘ)送(リ)以(テ)顯(セル)2改適之|縁《ヨシヲ》1也、
 
依彼歌の依は、類聚古集その他の古寫本、多くは作に作るよつて、改むべきである。改適之縁は他に改めて嫁いだ由をの意。緑は由縁。
 
穗積親王御謌一首
 
穗積親王は天武天皇の第五皇子。卷二(二〇三)參照。
 
3816 家にありし 櫃に※[金+巣]さし 藏めてし 戀の奴の つかみかかりて
 
家爾有之《イヘニアリシ》 櫃爾※[金+巣]刺《ヒツニザウサシ》 藏而師《ヲサメテシ》 戀乃奴之《コヒノヤツコノ》 束見懸而《ツカミカカリテ》
 
家ニ置イタ、櫃ニ※[金+巣]ヲカケテ中ニ納メテ置イタ戀ト云フ奴ガ、何處カラヌケ出シタモノカ〔何處〜傍線〕、私ニ掴ミカカツテ私(45)ヲ苦シメルヨ〔七字傍線〕。
 
○櫃爾※[金+巣]刺《ヒツニザウサシ》――櫃は大形の匣で、上に向つて開く蓋のあるもの。寫眞は正倉院御物中の櫃である。※[金+巣]は舊訓にサラとあるは、ザウの誤字であらう。和名抄に「※[金+巣]子。唐韵云、鎖 蘇果反俗作2※[金+巣]子1 鐡鎖也楊氏漢語抄云※[金+巣]子、藏乃賀岐辨色立成云藏鑰」とあり。代匠記初稿本は「さうといふは藏の音と聞えたり。藏乃賀岐といひけるを、略してさうとのみいひきたれるなるべし」といつてゐる。今俗に錠前と稱するものである。正倉院に※[金+巣]子四十三を藏してゐる。略解は眞淵説によつてカギとよんでゐるが考にはクギとある。卷二十の牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之《ムラタマノクルニクギサシカタメトシ》(四三九〇)とあるによつたものである。○藏而師《ヲサメテシ》――古義はこの句で切つて、「此歌は上に曾乃夜《ソノヤ》何等の言なければ、てきといふこと※[氏/一]爾袁波のととのへさだまりなれど、然いひてはよろしからぬ故に、ことさらにたがへて、てしと宣へるなり」とあるは大なる誤解である。この句から直に、戀乃奴につづいてゐる。○戀乃奴之《コヒノヤツコノ》――戀といふ奴が。奴は奴隷。戀を賤しめて擬人したものである。卷十二に、戀之奴爾吾者可死《コヒノヤツコニワレハシヌベシ》(二九〇七)とある、
〔評〕 戀の爲に身を苦しめ、心を碎くことを滑稽的に述べてゐる。戀の奴を櫃に入れて※[金+巣]をかけて置いたのに、それがぬけ出して我に掴み懸つたといふ擬人法が巧妙に出來てゐる。卷四の戀者今葉不有常吾羽念乎何處戀其附見繋有《コヒハイマハアラジトワレハオモヘルヲイヅクノコヒゾツカミカカレル》(六九五)は廣河女王の作で、元暦校本などにこの女王を註して、「穗積皇子之孫女上道王之女也」とあるから、卷四の歌は女王が、祖父親王の歌ひ給うたのを聞き覺えて、模作せられたものと見てよい。
 
(46)右歌一首(ハ)穗積親王宴飲之日、酒酣之時、好(ミテ)誦(シテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1以(テ)爲(セル)2恒(ノ)賞(ト)1也
 
恒賞は恒の慰みの意のツネノメデと訓むべきか。古義はアソビグサと訓んでゐるが、少し當らぬやうである。
 
3817 かる臼は 田廬のもとに 吾が兄子は にふぶに笑みて 立ちませり見ゆ
 
可流羽須波《カルウスハ》 田廬乃毛等爾《タブセノモトニ》 吾兄子者《ワガセコハ》 二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》 立麻爲所見《タチマセリミユ》【田廬者多夫世反】
 
唐臼ハ田ノ中ノ小屋ノ中ニ居ルシ〔三字傍線〕、私ノ夫ハニコニコ笑ヒナガラ、門口ニ〔三字傍線〕立ツテオイデニナルノガ見エル。嬉シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○可流羽須波《カルウスハ》――カルウスはカラウスの轉であらう。唐臼は下に佐比豆留夜辛碓爾舂庭立碓子爾舂《サヒヅルヤカラウスニツキニハニタツスリウスニツキ》(三八八六)とある。臼を地に埋め、穀類を入れて、杵を機上に載せ、足でその柄の端を踏んで、起伏せしめて舂くもの。名義は柄が長いからとする説もあるが、なほ唐臼の義であらう。和名妙に「碓 字亦作v※[石+追]、加良宇須 蹈舂具也」とある。宇津保物語吹上の下に、「いかめしきからうすに、男女立ちて踏めり」とあるはこれを證するものである。なほ、すりうすをも、からうすといふが、これは殻を除去する臼であるから別物である。○田廬乃毛等爾《タブセノモトニ》――田廬《タブセ》は田の中の伏屋。卷八に田廬爾居者京師所念《タブセニヲレバミヤコシオモホユ》(一五九二)とある。モトニは下に。内にと同意であらう。この句の次に立チを省いてあるものと見ねばならぬ。○二布夫爾咲而《ニフブニヱミテ》――にこにこと笑つて。卷十八に、夏野能佐由利能波奈能花咲爾に布夫爾惠美天《ナツノヌノサユリノハハナヱミニニフブニヱミテ》(四一一六)とある。○立麻爲所見《タチマセリミユ》――舊訓はタチマセルミユであるが、卷六の恐海爾船出爲利所見《カシコキウミニフナデセリミユ》(一〇〇三)・卷十五の安麻能伊射里波等毛之安敝里見由《アマノイザリハトモシアヘリミユ》(三七六二)などによるに、タチマセリミユと訓むべきである。○田廬者多夫世反――これは、田廬はタブセと訓むといふ註である。反は卷五に、勅旨【反云大命】船舳(47)爾【反云布奈能閇爾】(八九四)よある反と同じく、卷八に戯奴【變云和氣】(一四六〇)とある變も同じやうである。卷五なるは反云とあるのに、これは下に反とのみ書いた點を異にしてゐる。反を西本願寺本に也に作つてゐるのはよくない。
〔評〕 吾が夫をたづねて、田中の小屋に來て見ると、唐臼は疲を休めてゐるかのやうに、長い柄を捧げで靜かにして居り、吾が夫は莞爾として笑ひつつ、戸口に立つて我を迎へてゐるといふので、物靜かな田中の伏屋の情景が目に見えるやうである。唐臼と吾が夫とを並べて詠んであるのは、狹い淋しい小屋の有樣を髣髴たらしめるもので、又其所に一種の滑稽味も宿つてゐる。珍らしい内容の歌である。次の朝霞の歌が古歌なることを思へば、これも河村王の自作ではあるまい。袖中抄に載せてある。
 
3818 朝霞 かびやが下に 鳴くかはづ しぬびつつありと 告げむ兒もがも
 
朝霞《アサガスミ》 香火屋之下乃《カヒヤガシタニ》 鳴川津《ナクカハヅ》 之努比管有常《シヌビツツアリト》 將告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》
 
私ガ心ノ中ニコレ程マデニアナタヲ〔私ガ〜傍線〕(朝霞香火屋之下乃鳴川津)ナツカシク思ツテヰルト、知ラセテヤルベキ女ガアレバヨイガ。私ニハソンナナツカシイ女ガヰナイノハ物足リナイ〔私ニ〜傍線〕。
 
○朝霞香火屋之下乃鳴川津《アサガスミカビヤガシタニナクカハヅ》――之努比《シヌビ》と言はむ爲の序詞。朝霞は香火屋の枕詞で、香火屋は峽谷即ち山間の溪流であるらしい。其所に鳴く河鹿の聲を、忍ぶに言ひかけたのである。委しくは二二六五參照。乃は耳か爾の誤であらうと略解に見えてゐる。○之努比管有常《シヌビツツアリト》――シヌブはなつかしく思ふこと。女をなつかしく思つてゐるの意である。古義は上句を序詞とせず、蝦の聲を賞《メデ》つつありといふなりと解してゐる。○將告兒毛欲得《ツゲムコモガモ》――兒は女で、前句のシヌブはこれにかかつてゐる、古義に「嗚呼かくと我思ふ人に告やらむ兒もがなあれかしとなり」とあり、新考も略、同意で、「此の王は其性閑適を好まれきと見ゆ」とある。
〔評〕 卷十の朝霞鹿火屋之下爾鳴蝦聲谷聞者吾將戀八方《アサガスミカビヤガシタニナクカハヅコヱダニキカバワレコヒメヤモ》(二二六五)と同一技巧の作である。これも卷十の歌と共に古歌であらうと思はれる。上句を序詞と見ない説は、この二歌を別個のものとして取扱ふので賛成し難い。河(48)村王の自作ではない。
 
右歌二首(ハ)河村王(ノ)宴居之時、彈(キテ)v琴(ヲ)而即(チ)先(ヅ)誦(シテ)2此(ノ)歌(ヲ)1以(テ)爲(シキ)2常(ノ)行(ト)1也
 
河村王は續紀によれば、「寶龜八年十一月己酉朔、授2旡位川村王從五位下、十年十一月甲午、爲2少納言1、延暦元年閏正月庚子、爲2阿波守1、七年二月丙子、爲2右大舍人頭1、八年四月丙戌爲2備後守1、九年九月己巳從五位上」とある。寶龜八年まで無位であつたとすると、萬葉作者としてはずゐぶん若い人で、この卷の前後の歌と時代が釣合はぬやうである。この卷を天平十七年以前とする説に從へば、その頃王はまだ生れてゐなかつたかも知れない。それかと言つて續紀の川村王と、これを別人とする説も遽かに賛成出來ない。なほ研究を要する。爲2常行1也は前に爲2恒賞1也とあると全く同じ。
 
3819 夕立の 雨うちふれば 春日野の をばなが末の 白露おもほゆ
 
暮立之《ユフダチノ》 雨打零者《アメウチフレバ》 春日野之《カスガヌノ》 草花之末乃《ヲバナガウレノ》 白露於母保遊《シラツユオモホユ》
 
夕立ノ雨ガ降ルト、春日野ノ尾花ノ上ニ宿ツタ白露ハ、サゾ美シカラウト〔八字傍線〕想像セラレル。
 
〔評〕卷十の暮立之雨落毎《ユフダチノアメフルゴトニ》【一云|打零者《ウチフレバ》】春日野之尾花之上乃白露所念《カスガヌノヲバナガウヘノシラツユオモホユ》の一云と略同一である。草花をヲバナとよんでゐるのは草花之上《ヲバナガウヘノ》(一五七二)・草花我末乎《ヲバナガウレヲ》(一五七七)・草花我末《ヲバナガウレニ》(二一六七)などの例がある。蓋し小鯛王が古歌を誦したものである。
 
3820 夕づく日 さすや河邊に つくる屋の かたをよろしみ うべぞより來る
 
夕附日《ユフヅクヒ》 指哉河邊爾《サスヤカハベニ》 搆屋之《ツクルヤノ》 形乎宜美《カタヲヨロシミ》 諸所因來《ウベゾヨリクル》
 
(49)夕日ノ美しく〔三字傍線〕射ス川端ニ作ツタ家ガ、形ガ宜シイノデ、多クノ人ガ〔五字傍線〕寄リ集まつて來ルノハ、尤モダ。
 
○夕附日《ユフヅクヒ》――夕方になつた日。夕ツクは近ヅク、家ヅク、秋ヅクなどのツクである。○指哉河邊爾《サスヤカハベニ》――ヤは輕く添へた詠嘆の辭。夕日の指す川の邊に。○形乎宜美《カタヲヨロシミ》――舊訓カタチヲヨシミとあるのは、面白くない。形がよいので。上句を序詞として、この句を容貌がよいからと解する説もある。蓋しあたらない。○諸所因來《ウベゾヨリクル》――舊訓シカゾヨリクル、考ウベヨソリクル。略解ウベヨソリケリとある。上句を序詞と見なければ、ウベゾヨリクルと訓む外はない。人が寄り集つて來るのは尤もだの意。
〔評〕 夕日に照らされて川のほとりに建つてゐる立派な家に、人が多く集り來る樣を詠んだもので、建築美を歌つた、集中唯一無二の作である。上代は家を建てるのに、朝日の直刺すところ、夕日の日照るところを好んだのである。明麗な感じのする佳い作だ。
 
右歌二首(ハ)小鯛王、宴居《ウタゲ》之日、取(ル)v琴(ヲ)登時《ソノトキ》、必(ズ)先(ヅ)吟2詠(セリ)此(ノ)歌(ヲ)1也、其(ノ)小鯛王者、更名《マタノナ》置始多久美《オキソメノタクミ》、斯人也、
 
小鯛王の傳はわからない。後に名を置始多久美と更めたとある。新考には「持統天皇紀に、七年夏四月|典鎰《カギトリ》置始(ノ)多久與2菟野(ノ)大伴1亦座v贓降2位一階1解2見任官1とあると同人にて、紀の多久は下に美をおとしたるにや」とある。併し孝徳天皇紀に置始|大伯《オホク》とあるによると、多久はオホクではあるまいかと思はれ、脱字とは考へられない。
 
兒部《コベノ》女王(ノ)嗤歌《アサケリウタ》一首、
 
兒部女王は傳がわからない。卷八に但馬皇女御歌一首【一書云子部王作】(一五一五)と題した歌があるが、兒部女(50)王と子部王とは同人かも知れない。兒部は多くコベと訓んでゐる。略解にチイサコベと振假名してゐるけれども、書紀に小子部をチイサコベと訓んでゐるから、兒部・子部は、やはりコベであらう。
 
3821 うましもの いづく飽かじを 尺度らが 角のふくれに しぐひあひにけむ
 
美麗物《ウマシモノ》 何所不飽矣《イヅクアカジヲ》 坂門等之《サカトラガ》 角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》 四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》
 
美シイ物ハ何處デモ飽キナイノニ、アノ尺度トイフ女〔四字傍線〕ハ、ドウシテ〔四字傍線〕角ノフクレタヤウナ醜男〔六字傍線〕ト、通ジタノデアラウ。
 
○美麗物《ウマシモノ》――文字通り美麗なもの。○何所不飽矣《イヅクアカジヲ》――舊訓ナゾモアカヌヲとある。何處でも飽かないのに。美しいものを、如何なる場合にも、人は飽くことなく欲するのに。○坂門等之《サカトラガ》――坂門は左註に姓尺度氏也とあつて女の氏の名である。卷一(五四)に坂門人足とあるのと同姓である。○角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》――フクレは※[皮+暴]。皮の膨脹してゐること。和名抄に※[皮+暴]布久流 肉憤起也。宇鏡に※[皮+爾] 不久留、靈異記に肥 不久禮天とある。角の布久禮は代匠記精撰本に「角のふくれとは、牛の角などの樣して中の※[皮+暴]出《フクレ》たる顔つきを云なるべし」とあるによるべきか。ともかく醜い顔の樣をいつたらしい。新考に「案ずるに醜士の姓、角《ツヌ》にて其人ふつつかにふくれたれば、ツヌノフクレといへるならむ。角氏は紀にも見えたり。」とあるのは、面白い説であるが、果して然らば左註に、尺度氏と共に角氏についても註すべきであらうと思はれる。なほ考ふべきである。○四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》――シグフは組みあふ。喰ひ合ふなどの意。シグヒアフは今の乳繰合ふに似た語である。新考は四は田の誤でタグヒであらうと言つてゐる。タグヒアフは落付の惡い言葉ではあるまいか。
〔評〕 角のふくれは甚だしい罵詈の言葉であらうし、しぐひ合ふは隨分露骨な語であらう。もとより滑稽を主とした表現ではあるが、女王の作としでは、少し粗野に過ぎるであらう。
 
(51)右|時《ムカシ》有(リ)2娘子1姓(ハ)尺度氏也、此(ノ)娘子、不v聽2高(キ)姓美人之所(ニ)1v誂、應(ジ)2許(シキ)2下姓(ノ)※[女+鬼]士之所(ヲ)1v誂也、於是《ココニ》兒部女王、裁2作(リテ)此歌(ヲ)1嗤2咲(ヘリ)彼(ノ)愚(ヲ)1也
 
高姓美人は名門美男。下姓は高姓の反對で、低い家柄。※[女+鬼]は代匠精撰本に醜の誤とあるが、萬葉集訓義辨證には、「※[女+鬼]娩(ノ)字も誤にあらず。其は歩梁祠堂畫像に、無鹽※[女+鬼]女と有て、隷釋云、以2※[女+鬼]女1爲2醜女1隷辨云、集覇醜古作v※[女+鬼]、漢書文帝紀、朕甚自※[女+鬼]、師古曰、※[女+鬼]古愧字、盖一字而有2二義1、今知2※[女+鬼]之爲1v愧、不v知2又爲1v醜也とあり。※[女+鬼]に醜の義あるを知るべし」とある。
 
古歌曰
 
3822 橘の 寺の長屋に 吾がゐねし うなゐはなりは 髪あげつらむか
 
橘《タチバナノ》 寺之長屋爾《テラノナガヤニ》 吾率宿之《ワガヰネシ》 童女波奈理波《ウナヰハナリハ》 髪上都良武可《カミアゲツラムカ》
 
橘寺ノ長屋ニ私ガ連レ込ンデ、一緒ニ〔三字傍線〕寢タ振分髪ノ童女ハ、モハヤ大人ニナツテ〔九字傍線〕、髪上ゲヲシタデアラウカ。ドウデアラウ。逢ヒタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
○橘寺之長屋爾《タチバナノテラノナガヤニ》――橘は大和高市郡の地名。飛鳥川の上流に沿うてゐる。ここに橘寺が建つてゐる。用明天皇の別宮址であつたが、聖徳太子が此所に寺を建て給うた。元亨釋書第十五に「推古十四年秋七月帝請2太子1講2勝鬘經1、太子披2袈裟1握2※[鹿/主]尾1坐2獅子座1儀則如2沙門1、講已天雨2蓮華1、大三尺、帝大喜即其地建2伽藍1、今橘寺是也」とある。長屋は細長く建てた家。寺の門の兩側などに建て連ねたものであらう。○吾率宿之《ワガヰネシ》――私が連れて行つて寢た。古事記に意岐都登理加毛度久斯麻邇和賀韋泥斯伊毛波和須禮士余能許登碁登爾《オキツトリカモドクシマニワガヰネシイモハワスレジヨノコトゴトニ》とある。○童女波奈理波《ウナヰハナリハ》――童女波奈理は髫髪《ウナヰ》を垂髪としてゐるもの。童女の風である。○髪上都良武可《カミアゲツラムカ》――髪を上げ(52)て成人の姿になつたであらうかの意。
〔評〕 全く民謠風の作品である。野趣横溢。寺の神聖を冐涜するなどと、憤慨するのは野暮である。こんなことは隨分あつたであらう。純朴な直情徑行的作品。
 
右(ノ)歌(ハ)椎野連長年(ガ)脉曰(ク)、夫《ソレ》寺家之屋(ハ)者不v有(ラ)2俗人(ノ)寢處(ニ)1亦《マタ》※[人偏+稱の旁](ビテ)2若冠女(ヲ)1曰(フ)2放髪仆(ト)1矣然(ラバ)則(チ)腹句已(ニ)云(ヘレバ)2放髪仆(ト)丱1者、尾句不(ヲヤ)v可3重(テ)云(フ)2著冠之辭(ヲ)1哉
 
推野連長年は傳が全く分らない。推野は、績紀聖武天皇、神龜元年五月辛未正七位上四比(ノ)忠勇賜2姓推野連1とあるから、その族であらう。四比は卷三の志斐嫗の家であらう。脉曰とあるが脉ではわからない。古義に古寫小本・拾穗本等に從つて、説に改めたのに從ふべきであらう。若冠は代匠記初稿本に「若冠は若著冠にて、そのうへに未の字の脱たるなるべし」とあるが、もとのままでもよい。舊本放髪仆とあるが、西本願寺本などによるに、仆は丱の誤らしい。ウナヰバナリのことである。腹句は西本頗寺本は別筆で、腹を腰に改めてゐる。古義も、古寫小本、拾穗本等に從つて腰としてゐる。併し古寫本は多く腹であるから、誤とも言ひ難い。代匠記精撰本に「腹句とは今は第四の句を指せり。第一句を頭とし、第二を胸とし第三四を腹とし、第五を尾とする意なるべし。此は腹に腰ををさむ。常は第三を腰と云ひて腰に腹を兼ねたり」とある。この推野連長年の言は誠に諒解し難い説である。寺の長屋が俗人の寢處でないことは分か切つてゐる。その人のゐない處へ女を連込んで、密會したのに不思議はない筈だ。又第四句の童女波奈理《ウナヰハナリ》と、第五句の髪上とを同意に解してゐるのは、童女波奈理の何たるを辨へざるものである。この人の時代を明らかにすることによつて、この註と次の歌との製作期を知ることが出來、それが種々の問題に解決を與へるやうに思はれるが、わからないのは返す返す遺憾である。
 
決《サダメテ》曰
 
3823 橘の てれる長屋に わがゐねし うなゐはなりに 髪上げつらむか
 
(53)橘之《タチバナノ》 光有長屋爾《テレルナガヤニ》 吾率宿之《ワガヰネシ》 宇奈爲放爾《ウナヰハナリニ》 髪擧都良武香《カミアゲツラムカ》
 
橘ノ實ガ色ヅイテ〔六字傍線〕光ツテヰル長屋ニ、私ガ連レテ行ツテ寢タ女ハコノ頃ハ〔六字傍線〕大人ノ姿ニナツテ、髪ヲ上ゲタデアラウカ、ドウシテヰルダラウ。逢ヒタイモノダ〔ドウ〜傍線〕。
 
〔評〕 この歌は右に註するが如く、推野連長年が前の歌を誤解して改作したものである。もとより本文として掲ぐべきものではない。橘の光れる長屋は橘の實の色美しくなつてゐる長屋であらうが、宇奈爲放爾《ウナヰハナリニ》では何のことか意をなさない。彼は宇奈爲放《ウナヰハナリ》を髫髪《ウナヰ》から大人の姿となることと解してゐるから、この四五の句は大人の姿に髪を上げたのであらうの意らしい。それにしても第三句の下に言葉が足りない。和歌童蒙抄に載せてある。
 
長忌寸意吉麻呂歌八首
 
長忌寸意吉麻呂は卷一・卷二・卷三・卷九などに數首の旅の歌を遺してゐる。この卷のは趣をかへて詠物の滑稽な作である。旅の歌は、持統文武頃のものだが、これは晩年の作であらう。
 
3824 さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より來む 狐に浴むさむ
 
刺名倍爾《サシナベニ》 湯和可世子等《ユワカセコドモ》 櫟津乃《イチヒツノ》 檜橋從來許武《ヒバシヨリコム》 狐爾安牟佐武《キツニアムサム》
 
子供等ヨ。銚子鍋ニ湯ヲ沸カセヨ。ソノ湯ヲ〔四字傍線〕櫟津ニカケテアル檜ノ橋ノ方カラ此方ヘ〔三字傍線〕ヤツテ來ル狐ニ、浴セテヤラウ。
 
○刺名倍爾《サシナベニ》――刺名倍《サシナベ》は銚子。和名抄に、「銚 辨色立成云、銚子左之奈閇、俗云2佐須奈閇1」とあり。新撰字鏡には「鍋、左須奈戸。※[金+奄](ハ)推(ナリ) 佐須奈戸」とあつて、サシナベ・サスナベの兩訓が分れてあるが、南京遺芳に掲げた正倉院(54)文書に、佐志奈閇とあるから、サシナベがよい。銚子は和名抄に、「銚、燒器、似2※[金+烏]※[金+育]1而上有v鐶也」とあり、提梁《ツル》あり、注口《ツギグチ》ある鍋である。サスは注入する意であらう。後世の長い柄の附いた、酒を注ぐ具とは違つてゐる。○櫟津乃《イチヒツノ》――櫟津は允恭天皇紀に「到2倭春日1食2于櫟井上1」とある櫟井であらう。今添上郡櫟本村の西に櫟井があり、治道村地内になつてゐる。○檜橋從來許武《ヒバシヨリコム》――檜橋は檜の材を渡した橋であらう。來許武とある許は衍であらう。古葉略類聚抄には、許武の二字共にない。○狐爾安牟佐無《キツニアムサム》――狐に浴びせかけてやらうの意。
〔評〕 左註にあるやうに、宴會の席上の饌具・雜器・狐聲・河橋などを詠み込めとの注文に應じて、作つたのである。刺鍋と檜橋と狐とが詠んである。當意即妙、巧は即ち巧であるが、かくして謂はゆる歌作之藝(三八三七左註)が遊戯的となり墮落して行くのである。
 
右(ノ)一首(ハ)傳(ヘ)云、一時《アルトキ》衆集(ヒテ)宴飲(ス)也、於時夜漏三更所v聞《キコユ》2狐(ノ)聲1、爾乃、衆諸、誘(ヒテ)2興麿(ヲ)1曰(ク)關(ケテ)2此(ノ)饌具(ノ)雜器、狐聲、河橋等(ノ)物(ニ)1、但《スベテ》作(レト)v歌者、即(チ)應(ジテ)v聲(ニ)作(レリ)2此歌(ヲ)1也
 
夜漏は夜の時刻。漏は漏刻の漏である。三更は子の刻、今の十二時頃。舊本興麻呂とあるが、西本願寺本(55)その他の古寫本奧に作るものが多いから、奧麻呂がよいであらう。關はカケテ。但は童蒙抄・古義など併の誤とし、略解は而の誤とし、新訓は倶に改めてゐる。併はアハセテ、倶はトモニである。但のままでスベテと訓んではどうであらう。
 
詠2行縢《ムカバキ》、蔓菁《アヲナ》、食薦《スゴモ》、屋※[木+梁]《ヤノウツバリ》1歌
 
3825 すごも敷き あをな煮持ちこ うつばりに むかばきかけて 息むこの君
 
食薦敷《スゴモシキ》 蔓菁煮將來《アヲナニモチコ》 ※[木+梁]爾《ウツバリニ》 行騰懸而《ムカバキカケテ》 息此公《ヤスムコノキミ》
 
梁ノ上ニ行縢ヲ脱イデ〔三字傍線〕懸ケテ、休息シテイラツシヤルコノ君ニ、食事ヲスル時ノ蓆ヲ敷イテ、青菜ノ煮タノヲ持ツテ來テ差上ゲ〔四字傍線〕ナサイヨ。
 
○食薦敷《スゴモシキ》――食薦は和名抄厨膳具に「食單、唐式云、鐡鍋食單各一、漢語抄云、食單、須古毛」とある、食事に際して敷く薦の義。竹を簾のやうに編んで、白い生絹を裏につけ、白い縁を施し、食机の下に敷くのが中世の儀式などに用ゐられた。○蔓菁煮將來《アヲナニモチコ》――蔓菁はアヲナ、和名抄菜類に「蘇敬本草注云、蕪菁、北人名2之蔓菁1、上音蠻、阿乎奈揚雄方言云陳宋之間蔓菁曰v※[草がんむり/封]、毛詩云、采※[草がんむり/封]采v※[草がんむり/非]無v以2下體1、加布良下體根莖也、此二菜者、蔓菁與v下駄之類也」とあり。アヲナと蕪とを同一視してゐるが、古事記仁徳天皇の條に「於是爲v煮2大御羮1採2其地之※[草がんむり/松]菜1時天皇到2坐其孃子之採v※[草がんむり/松]處1歌曰、夜麻賀多邇麻祁流阿袁那母岐備比登々等母邇斯都米婆多怒斯久母阿流迦《ヤマガタニマケルアヲナモキビヒトトトモニシツメバタヌシクモアルカ》とあるアヲナは蕪菜ではないやうだ。多分アヲナは青菜で、葉を食ふべき蔬菜を總稱したのであらう。内膳司式に「蔓菁四把、准2四升1、自2正月1迄2十二月1」とあるは、一年中あるものなることを示してゐる。但し、持統天皇紀に「詔令3天下勸2殖桑紵梨栗蕪菁等草木1」とあるは蕪菜《カブラナ》のことであらう。○※[木+梁]爾《ウツバリニ》――※[木+梁]は梁《ハリ》に同じ。屋根裏の柱の上に棟と打違ひにわたした材。○行騰懸而《ムカバキカケテ》――行騰の騰は縢の誤に違ひない。和名抄、調度部行旅具に「釋名云、行縢 音與v騰同、行縢、旡加波岐、騰也言裹v脚可2以跳騰輕便1也」とある。ムカバキは(56)毛皮を以て作り、腰に著け垂れて、兩の股脚を被ふもの。騎馬の時に用ゐた。○息此公《ヤスムコノキミ》――舊訓ヤスムとあるのを代匠記精撰本の一訓にヤスメとし、略解もこれを採つてゐるのはよくない。この句は初二句に反るのであるから、ヤスメと訓むべきでない。
〔評〕 食薦・蔓菁・※[木+梁]・行縢の四種の物を詠み込んだもの。他人の注文によつたものか、それとも自分で設けて試みたものか。場合が記してないからわからないが、恐らく前者である。難題を巧に詠みこなしてある。
 
詠(メル)2荷葉(ヲ)1歌
 
荷葉は蓮の葉。食物を盛るに用ゐた。内膳司式にも荷葉の稚葉七十五枚・壯葉七十五枚・黄葉七十五枚を、河内國から進めることが記されてゐる。
 
3826 はちす葉は 斯くこそあるもの 意吉麻呂が 家なるものは うもの葉にあらし
 
蓮葉者《ハチスバハ》 如是許曾有物《カクコソアルモノ》 意吉麻呂之《オキマロガ》 家在物者《イヘナルモノハ》 宇毛乃葉爾有之《ウモノハニアラシ》
 
蓮ノ葉ハカウアルベキモノダ。コレガ本物ノ蓮ノ葉ダ〔コレ〜傍線〕。意吉麻呂ノ家ノハ、本當ノ蓮ノ葉デハナクテ〔本當〜傍線〕芋ノ葉デアルラシイ。
 
○如是許曾有物《カクコソアルモノ》――舊訓カクコソアレモとあるのは穩やかでない。考に物は疑の誤とし、カクコソアルカモとしたのもよくない。和歌童蒙抄にもカクコソアルモノとあるからこれが古訓である。物の下にナレを省いた形。下に馬爾己曾布毛太志可久物《ウマニコソフモダシカクモノ》(三八八六)とある。斯樣にあるものだの意。○宇毛乃葉爾有之《ウモノハニアラシ》――宇毛は芋。魚をイヲといふが如くイダク(抱)とウダクと通ずる如く、古代はイモをウモと言つたのであらう。西本願寺本・神田本など宇を芋に作る本もある。略解は宇は伊の誤かと言つてゐる。芋は今の里芋である。和名抄に「芋、四聲字苑云、芋、以倍乃伊毛 葉似v荷其根可v食v之」とある。特にイヘノイモといつたのは薯蕷に對したもので、同書に(57)「薯蕷、本草云、薯蕷一名山芋、夜万乃伊毛」(一本夜萬都以毛)とある。植物渡來考によれば、東印度の原産とあるから、古く支那を經て渡來したものであらう。
〔評〕 立派な蓮の葉を見て、蓮の葉とはこれが本物だ。私の家の蓮の葉は芋の葉だらうと、自分のを卑下したので、一寸戯れた以外に意味もなければ、面白味もない。
 
詠2雙六頭1謌
 
頭はサエと訓むのであらう。略解は頭の下に子を脱せるかとある。和名抄に「雙六采、揚氏漢語抄云、頭子 雙六乃佐以」とある。(下總本は佐以を佐江に作つてゐる)
 
3827 一二の 目のみにはあらず 五六三 四さへありけり 双六の采
 
一二之目《イチニノ》 耳不有《メノミニアラズ》 五六三《ゴロクサム》 四佐倍有《シサヘアリケリ》 雙六乃佐叡《スゴロクノサエ》
 
雙六ノ賽ハ一ツ二ツノ目バカリデハナイ。五ツ六ツ三ツ四ツノ目〔二字傍線〕サヘモ持ツテヰル。
 
○一二之目耳不有《イチニノメノミニアラズ》――考は舊訓イチニノメノミニアラズを改めてヒトフタノメノミニハアラズ、略解はヒトフタノメノミニアラズとしでゐる。ここは舊訓のハを省く事にした。○五六三四佐倍有《ゴロクサムシサヘアリケリ》――考は舊訓を改めてイツツムツミツヨツサヘアリとしてゐる。舊訓による。音讀か訓讀かの論はいづれにも立つわけであるが、催馬樂大芹に「五六かへしの一六のさいや四三のさいや」とあるから、采の數字は多分音讀したであらうと思はれる。○雙六乃佐叡《スゴロクノサエ》――雙六は双六。雙陸とも書く。謂はゆるスゴロクである。和名抄には「雙六一名六采、博奕是也」とある。印度の遊戯で支那を經て輸入せられてゐた。二人相對し盤に向ひ、采を轉じて勝負を爭ふ。盤は左右に各十二の格《スヂ》があり、各、馬《ウマ》十二を竝べる。二箇の采を筒に入れて交互に振り出し、その出た數に從つて格を數へて馬を送り、早く敵の格中に送り終つた者が勝である。この遊戯は早く民間に廣まつてゐたが、弊害が多かつたので、持統天皇紀の三年十二月に禁斷雙六の記事が見えてゐる。併し依然として流行してゐたら(58)しい。正倉暁にも雙六盤を藏してゐる。なほ雙六をスゴロクと訓むのは、雙は韻鏡外轉第三開江攝江韻 Saang で ng 音尾であるから、母音 u 又は o を補つてスグ・スゴとなるのである。尤も呉音漢音共にサウであるから、サグ或はサゴとなるべきやうであるが、輸入當時の古音又は訛音でスグとなつたのであらう。佐叡《サエ》は采。和名抄下總本に佐江とあるに一致してゐる。
〔評〕 目といへば先づ二つあるものときまつてゐるのに、双六の采は一二から三四五六まであると言つて、一から六までの數字を巧に詠み込んだだけである。
 
詠(メル)2香、塔、厠、屎鮒、奴(ヲ)1歌
 
香・塔・厠・屎・鮒・奴の六種のものを詠み込んだ歌。
 
3828 香ぬれる 塔にな依りそ 川くまの 屎鮒はめる 痛き女奴
 
香塗流《コリヌレル》 塔爾莫依《タフニナヨリソ》 川隅乃《カハクマノ》 屎鮒喫有《クソブナハメル》 痛女奴《イタキメヤツコ》
 
河ノ曲リ角ニ居ル、汚イ〔二字傍線〕屎鮒ヲ食ベタヒドイ女ノ奴ヨ。オマヘは汚イ奴だから神聖ナ〔オマ〜傍線〕香ヲ塗ツタ塔ノ側ニ立チ寄ルナヨ。
 
○香塗流《コリヌレル》――香は舊訓カウとあるのを略解はコリと改めた。皇極天皇紀に「手執2香爐1、燒v香《コリ》發願」とありコリと訓す。齋宮式忌詞にも、堂稱2香燃《コリタキ》1とあり。沙石集にも「僧をば髪長、堂をばこりたきなんど言ひて云々」とある。コリは古言である。香は呉音カウ、漢音キヤウであつて、ここをキヤウと訓む説は、全く成立たないが、カウと訓むのは無理ではない。併し前掲の古訓もあるから、コリがよいであらう。古義に「香はコリと訓て古言なり。字音に非ず。こは加乎理《カヲリ》の切りたる言なり。(カヲの切コ)」とあるが、香は韻鏡内轉第三十一開宕攝陽韻 ng 音尾で、カグとなるべきを、良行に轉じてコリとしたのである。鼻音と良行とは相轉ずるもので、(59)播磨をハリマ・榛をハン・盛《サカリ》をサカンといふ類である。カがコとなるのはをかしいやうであるが、雙六《サウロク》をスゴロクといふのと同じで、同行相通じたのであらう。又呉音以前の古音かとも考へられる。塗流《ヌレル》とあるのを古義に塗は焚の誤で、コリタケルであらうとしてあるが、香の一種に塗香《ヅカウ》と稱するものがあり、沈・白檀などを調合して作つたもので、佛に禮拜する時手に塗るのである。これは今も坊間に賣つてゐる。香は元來清淨ならしめむが爲に用ゐるので、佛身に塗るのも、禮者の手に塗るのも、同じ意味であらうから、塔に塗ることももとより有つたに違ひない。○塔爾莫依《タフユナヨリソ》――塔は卒塔婆の略語なる塔婆を更に略したもの。卒塔婆は梵語 Stupa の轉で、高顯の義である。但し吾が國では、卒塔婆・塔婆は墓所などに立てる丈低きものを言ひ、塔は三重五重に作つた寺院附屬の建物をいふ。○川隅乃《カハクマノ》――川の隅の。川の曲角の。隅は隈に通じて用ゐたのである。誤とするのは當らない。題の厠を川であらはしてゐる。厠はカハヤ即ち河屋で、昔は不淨を忌んで河の上に造つたと言はれてゐる。この歌によると、厠を略してカハとのみ言つたのかとも考へられるが、さうでないとしても、川隅の屎鮒は厠への連想を起さしめるわけだ。○屎鮒喫有《クソフナハメル》――屎鮒とは汚き所にゐる鮒の意であらう。川隅には塵などが溜つてゐるし、又川屋に近いところは、穢いものが漂つてゐたかも知れないので、かくいつたのであらう。喫有《ハメル》は食つた。○痛女奴《イタキメヤツコ》――ひどい女の奴。孝徳天皇紀に、事瑕之婦《コトサカノメヤツコ》とあり、メヤツコは即ち婢である。當時、奴と婢とがあつたことは東大寺奴婢籍帳に明らかである。
〔評〕 題の厠はその儘歌中に取入れてなく、又題の屎と鮒とは二物であるのに、歌には、屎鮒といふ一物にしてゐる。短い歌の中に六種の物を詠み込まうとするのは、隨分困難であるから、これくらゐは大目に見なければなるまい。神聖な香と塔に對して、汚穢なものを配してあるので、作者も大分手こすつたであらう。
 
詠(メル)2酢、醤、※[草がんむり/(禾+禾)]、鯛、水葱(ヲ)1歌
 
※[草がんむり/(禾+禾)]は蒜に通じて用ゐたのだが、かういふ字はないやうだ。
 
3829 ひしほすに 蒜つきかてて 鯛願ふ 我にな見せそ なぎの羮
 
(60) 醤酢爾《ヒシホスニ》 ※[草がんむり/(禾+禾)]蒜都伎合而《ヒルツキカテテ》 鯛願《タヒネガフ》 吾爾勿所見《ワレニナミセソ》 水葱乃煮物《ナギノアツモノ》
 
醤酢ニ蒜ヲ搗キ加ヘテ、ソレヲカケテ食フ爲ニ〔十字傍線〕鯛ガアレバヨイガト願ツテヰル私ニ、水葱ノ羮ナドノヤウナツマラヌ物ハ〔十字傍線〕見セテクレルナ。私ハ美味シイモノガ欲シイノダカラ。水葱ノ羮ナドハイラナイ〔私ハ〜傍線〕。
 
○醤酢爾《ヒシホスニ》――醤は和名抄に「醤、四聲字苑云、醤 即亮反、比之保、別有2唐醤1豆醢也」とある。小麥又は裸麥と大豆を熬つて皮を去つたものを、共に水に浸して麹に製し、鹽水に混じ貯ふること數十日で出來る。大體今の醤油の諸味《モロミ》のやうなものである。肉を以て作つたものを肉醤《シシビシホ》といふ。今も梅の實で作つたのを梅醤《ウメビシホ》といつてゐる。酢は今、日常用ゐるものと變りはあるまい。醤酢《ヒシホス》は即ち今日の謂はゆる二杯酢に類したものである。大膳式にも「醤酢各五勺」などの文が見える。○※[草がんむり/(禾+禾)]蒜都伎合而《ヒルツキカテテ》――※[草がんむり/(禾+禾)]は蒜。蒜は山野に自生する多年生の草本で、葉は細長い管状をなし、少し稜を有してゐる。その臭氣は葱《ネギ》と似てゐる。夏日葉間に莖を出し、莖頂に淡紫色の花を開く、地下には白色の鱗莖を有してゐる。和名抄に「搗蒜、食療經云、搗蒜〓 比洗都岐」とあり。又「四聲字苑云、〓 訓安不。一云 阿倍毛乃 擣2薑蒜1以v醋和之」ともあつて、蒜を醤酢に漬して、舂き混ぜたことがわかる。合而《カテテ》は交へ加へて。今も交へ加へることを、かてるといつてゐる地方が多い。○鯛願《タヒネガフ》――鯛が欲しいと思つてゐる。次の句の吾《ワレ》につづいてゐる。蒜の〓《アヘモノ》を作り、それを鯛にかけて食はうと鯛を得たいと思つてゐるといふのである。舊訓を改めて考にタヒモカモとしたのはよくない。宣長が願は餔の誤でタヒクラフであらうと言つたのも從ひ難い。餔の字は集中に用ゐてない。○水葱乃煮物《ナギノアツモノ》――水葱は水田・小川などに自生する草。卷三|殖子水葱《ウヱコナギ》(四〇七)參照。これを煮て羮《アツモノ》を作つたのである。但しあまり美味の料理でなかつたことはこの歌で知れる。
(61)〔評〕 酢、醤、蒜、鯛、水葱の五種の物を詠み込んだ歌。總べて食料品であるから、數の多い割合に比較的詠易かつたであらう。この歌八雲御抄に載せてある。
 
詠(メル)2玉掃、鎌、天木香、棗(ヲ)1歌
 
舊本、木を水に誤つてゐる。類聚古集によつて改めた。天木香は卷三に天木香樹(四四六)とある。
 
3830 玉掃 苅り來鎌麻呂 室の樹と 棗が本を かき掃かむ爲
 
玉掃《タマハハキ》 苅來鎌麻呂《カリコカママロ》 室乃樹與《ムロノキト》 棗本《ナツメガモトヲ》 可吉將掃爲《カキハカムタメ》
 
室ノ木ノ下ト、棗ノ木ノ下トヲ綺麗ニ〔三字傍線〕掃除スル爲ニ、玉箒ヲ苅ツテ來ヨ。鎌麻呂ヨ。
 
○玉箒《タマハハキ》――帚に作る草の名。玉は美稱のみ。卷二十に始春乃波都禰乃家布能多麻波婆伎《ハツハルノハツネノケフノタマハハキ》(四四九三)とある玉帚は、これを以つて作つた帚に、玉を飾つたのである。今俗に草※[草がんむり/帚]と稱するものを作る帚木、又は帚草と稱するものがあるが、あれは外來種で、園圃に栽培せられる漢名地膚、和名マキクサ・ニハクサと稱する一年生草本である。上代の帚を作つたのは、これと異なり、謂はゆるコウヤボウキと稱するものである。山林に自生する落葉灌木、高さ二尺内外、幹は極めて細く、枝は疎らで、卵状の毛ある葉を互生してゐる。秋の頃菊の如き白色の花を枝頭に生ずる。今正倉院に藏せられる玉帚は、正しくこの木を以て作つたものらしい。袖中抄には、玉はばきは蓍《メド》といふ草なりといふ説を擧げてゐる。蓍は即ちメドハギで、林野に自生する多年生草本,花も葉も萩に似て小さい。この莖は蓍木と稱して卜筮の具に用ゐられる。鐵掃帚とも記し、帚を造るに役立つたらしいが、ここのタマハハキはカウヤボウキとすべきであらう。○苅來鎌麻呂《カリコカママロ》――苅つて來よ、鎌麻呂よ。鎌麻呂は鎌を擬人したのであ(62)る。上代には人以外のものにも、麻呂を附して呼んだのが多かつた。刀劍の名に何丸と呼ぶのは後世まで行はれた。今なほ船舶に丸の字を添へていふのもその名殘である。○室乃樹與《ムロノキト》――室乃樹はネズノキ。○棗本《ナツメガモトヲ》――棗の木の下を。棗は庭園に植ゑる落葉喬木で、高さ二丈にも達する。葉は平滑卵形で互生し、鈍鋸齒がある。夏日葉腋に淡黄緑色の小花を發生し、果實は橢圓形の小さいもので、初秋の頃熱する。生食することも出來るし、藥用にも供せられる。和名抄には「棗、本草云、大棗、一名美棗、音草、字亦作v棗奈都米」とある。植物渡來考によれば、地中海東部地方より印度ベンガルに至る地方、及び支那に野生してゐるとのことであるから、早く支那から輸入せられたものであらう。舊訓にナツメガモトトとあるのを、古義はモトヲに改めてゐる。二つのトを並べるのが本格ではあるが、上代には必ずしもさうではなかつたらしい上に、若しトを用ゐるならば、ナツメの下にトを用ゐるべきであらうから、古義の訓がよいやうである。
〔評〕 これも多くの品目を詠み込んだ歌。多少の滑稽味もある。袖中抄と八雲御抄とに出てゐる。
 
詠(メル)2白鷺啄v木飛1歌
 
白鷺が木の枝をくはへて飛んでゐるのを詠んだ歌。こんな繪でもあつたのであらう。卷九の仙人の形を詠んだ歌|常之陪爾夏冬徃哉裘扇不放山住人《トコシヘニナツフユフケヤカハゴロモアフギハナタヌヤマニスムヒト》(一六八二)と共に畫賛の歌かも知れない。なほ卷十の春霞流共爾青柳之枝啄持而鴬鳴毛《ハルカスミナガルルナベニアヲヤギノエタクヒモチテウグヒスナクモ》(一八二一)が思ひ出される。
 
3831 池神の 力士※[人偏+舞]かも 白鷺の 桙啄ひ持ちて 飛びわたるらむ
 
池神《イケガミノ》 力士※[人偏+舞]可母《リキシマヒカモ》
 白鷺乃《シラサギノ》 桙啄持而《ホコクヒモチテ》 飛渡良武《トビワタルラム》
良武
 
(63)池上ノ力士舞ノ眞似デ〔三字傍線〕アラウカヨ。アンナニ〔四字傍線〕白鷺ガ桙ヲ銜ヘテ持ツテ飛ンデ行クノデアラウ。白鷺ガ枝ヲ銜ヘテ飛ブノガ、丁度力士ガ桙ヲ持ツテ踊ルノニ似テヰル〔白鷺〜傍線〕。
 
○池神《イケガミノ》――神は借字でイケガミといふ地名らしい。略解には、和名抄に十市郡池上郷とある所だらうと記してゐる。池上郷は磐余池のほとりで、今の安倍村香久山村に當つてゐる。然るに一説にこの池上を生駒郡富郷村岡本なる法起寺としてゐる。そこに岡本池と稱する小池があり、その寺を池後尼寺と呼ぶことが法隆寺資財帳に見える。靈異記にこの寺に關する觀音銅像化鷺形示寄表縁を載せてゐるが、それとこの歌との間には何の關係もあるまいと思はれる。ともかくこの歌に力士舞とあるからは、寺に關係あることであるから、十市郡の池上郷ではなく、これを法起寺とすると極めてよく當嵌まるのである。○力士※[人偏+舞]可毛《リキシマヒカモ》――力士※[人偏+舞]はかういふ名の舞が當時有名であつたのである。力士は金剛力士で、今、寺門の兩側に立つてゐる仁王尊のこと。兄を金剛、弟を力士といふとするのは俗説である。この金剛力士に扮したものが、桙を持つて舞つたもの。聖徳太子の時百濟の味摩之によつて傳へられた伎樂の一である。教訓抄の記載によれば「次ニ力士手タタキテ出金剛開門、謂(フ)2之ヲマラフリ舞(ト)1彼(ノ)五女ケサウスル所、外道崑崙ノ降伏スルマネ也。マラカタニ繩ヲ付テ引テ、件ノマラヲ打ヲリ打ヲリヤウ/\ニスル體に舞(フ)也」とあつて、力士が持つてゐる桙といふのは、實は男根に象どつたものであつたのである。なほ西大寺の資財帳の伎樂の條にも、金剛力士桙持四人とある。(高野辰之氏日本歌謠史參照)○桙啄持而《ホコクヒモチテ》――題に啄木とあるやうに、木の枝を啄へて飛んでゐるのを、滑稽的に力士舞の桙に見立てたのである。
〔評〕 力士舞の有樣が分つて見ると、隨分ひどい惡ふざけの歌である。當時佛教が流行を極めてゐた時に、寺院に於て、しかも法起寺といふ尼寺で、こんな馬鹿げた外來樂を催してゐたのは、むつかしく言へば宗教冒涜であるが、滑稽を喜ぶ國民性のあらはれといふべきである。舞樂史上の貴重なる參考資料である。
 
忌部首詠(メル)2數種物(ヲ)1歌一首 名忘失也
 
(64)忌部首は、下に名忘失也と小字で記してあるやうに、その名がわからない。或は卷六(一〇〇八)・卷八(一五五六)・(一六四七)及びこの卷(三八四八)に忌部首黒麿とあるのと同一人か。蓋しこの小字の注も古いもので、編纂者も黒麻呂と同一人とは考へなかつたから、かかる註を加へたのであらう。
 
3832 からたちの うまら刈りそけ 倉立てむ 屎遠くまれ 櫛造る刀自
 
枳《カラタチノ》 棘原苅除曾氣《ウバラカリソケ》 倉將立《クラタテム》 屎遠麻禮《クソトホクマレ》 櫛造刀自《クシツクルトジ》
 
枳ノ茨ヲ刈リ除ケテ、ソコヘ私ハ〔五字傍線〕倉ヲ建テヨウト思フ〔三字傍線〕。其處ヲ汚シテハナラナイカラ〔其處〜傍線〕、櫛ヲ作ル女ヨ。ソノ邊ニ〔四字傍線〕糞ヲセズニ、モツト〔六字傍線〕遠クニシロ。
 
○枳《カラタチノ》――枳はカラタチ。和名抄に「枳※[木+具]、本草云、枳※[木+具] 只矩二音、加良大知 玉篇云、木似v橘而屈曲者也」とある。新撰宇鏡には、枳を訓して、加良立花とあるから、カラタチはカラタチバナの略である。落葉灌木、高さ五六尺、謂はゆる柑橘類の一種であるが、刺が多く、實は小さく食ふに堪へない。生籬として植ゑられるのを常とすることは、人の知るところである。○棘原苅除曾氣《ウマラカリソケ》――ウマラはウバラの訓もあるが、卷二十に美知乃倍乃宇萬良能宇禮爾波保麻米乃《ミチノベノウマラノウレニハホマメノ》(四三五二)とあり、ウマラの方がよい。茨田をマムダと訓むのもウマラダの轉である。このウマラは、刺多きものの總稱で、ウバラ・イバラも同じ語である。原の字を衍とする説もあるが、棘原の二字でウマラと訓ましめたのであらう。苅除曾氣は略解は曾氣を衍とし、古義は曾氣は注で、反云曾氣とあつたのが、反云を脱し、曾氣が本文に紛れ込んだものと見て、いづれもカリソケと訓んでゐる。新訓にカリノゾケとあるのは、童蒙抄説と同じである。文字から見れば新訓がよいやうであるが、棘原をウマラと訓むやうに苅除の二字をカリと訓んだものと見るべきである。これをノゾケと訓む時は命令形となり、第四句と同形となつ(65)て、歌の意味が整はなくなる。この句は初句からつづいて、枳《カラタチ》といふ荊棘を苅り除いての意。○屎遠麻禮《クソトホクマレ》――屎は古事記に、屎麻理散《クソマリチラシキ》とあり、書紀に送糞此云2倶蘇麻屡《クソマル》1とある。クソは蓋し臭《クサ》の轉であらう。麻禮《マレ》はマルの命令形。マルは糞尿を排泄すること。今も九州では方言として用ゐられてゐる。○櫛造刀自《クシツクルトジ》――櫛を作る女よ。櫛は女の家庭工業として作つたものと見える。刀自は女を呼ぶ稱で、主婦といふやうな意に用ゐられる場合が多い。ここも相當な年齢の女をさしてゐるやうである。卷四には吾兒乃刀自《ワガコノトジ》(七二三)とある。
〔評〕 これは枳・棘・倉・屎・櫛・刀自などを詠み込んだものであるが、題中に記してゐないのは、豫め品目を定めなかつたからであらう。なるべく多數の物を詠み込まうとした爲に、意味の纒りが惡く、且殊更に滑稽ならむとして、材料が甚だしく下品になつてゐる。
 
境部王詠(メル)2數種物(ヲ)1歌【穗積親王之子也】
 
境部王は下に注して穗積親王之子也とあるが、皇胤紹運録には長皇子の御子とある。續紀には「養老元年正月乙巳、授2旡位坂合部王從四位下1、十月戊寅益v封、五年六月辛丑、爲2治部卿1」とあり、懷風藻には「從四位上治部卿境部王二首 年二十五」とあるから、養老五年後天平の初期に歿せられたお方である。西本願寺本その他、歌の下に一首とある本が多い。舊本にないのは脱ちたのである。
 
3833 虎に乘り 古屋を越えて 青淵に みづちとり來む 劔たちもが
 
虎爾乘《トラニノリ》 古屋乎越而《フルヤヲコヱテ》 青淵爾《アヲブチニ》 鮫龍取將來《ミヅチトリコム》 劔刀毛我《ツルギタチモガ》
 
虎ニ乘ツテ、古屋ヲ越エテ、水ガ〔二字傍線〕青々ト湛ヘテヰル深イ〔九字傍線〕淵ニ行ツテ、※[虫+交]龍ヲ取ツテ來ヨウト思フガ、ヨイ〔六字傍線〕劔太刀ガ欲シイモノダ。
 
○虎爾乘《トラニノリ》――虎に乘つて。虎をトラと呼ぶのは朝鮮語だといふ説もあり、又楚人が虎を於菟《オト》といつた於を省き、(66)菟《ト》にラを添へたのであらうとする説もあるが、恐らくは古い外來語であらう。○古屋乎越而《フルヤヲコエテ》――古屋は地名らしいが、何處ともわからない。略解には、「神樂歌に、伊曽乃加美不留也遠止古乃多知毛可奈久美乃遠志天天美也知加與波牟《イソノカミフルヤヲトコノタチモガナクニノヲシデテミヤヂカヨハム》と詠めるふるや是か。然らばいそのかみは、枕詞なるべし。古屋といふ所大和にありて、旦むかし名高き武夫ありしか」とあるが、神樂歌のは、石上の布留であるから、これとは別である。紀伊日高郡切目川村大字古屋の地があつて、玉葉集にも見える花山院の巡幸の舊蹟と考へられるが、この古屋は何處か明らかでない。何か傳説のあつた地であらう。○青淵爾《アヲフチニ》――青々とした淵に。青淵は深い淵である。○鮫龍取將來《ミヅチトリコム》――鮫能は舊訓サメとあるのは誤、鮫を蛟に通用したものとして、ミヅチと訓むべきである。和名抄に「蛟、説文云、蛟、音交、美都知、日本紀私記用2大※[虫+叫の旁]二字1龍之屬也、山海經云、蛟似v※[虫+也]而四脚池魚滿2二千六百1則蛟來爲2之長1」と見え、水に棲む龍の類である。ヅチは加具土《カグヅチ》・雷《イカヅチ》などのヅチで、神の意であるから、ミヅチは水に住む神であらう。宣長はミは※[靈の下半が龍]《オカミ》・蛇《ヘミ》・蛟《ハミ》などのミであるといつてゐる。
〔評〕 虎・古屋・淵・鮫龍・劍刀の五種を詠み込んでゐる。大さう勇ましさうな取合せで、益荒雄ぶりらしいが、虎と龍とを組合せたのは日本思想ではない。
 
作主未詳歌一首
 
3834 梨棗 黍に粟つぎ 延ふ葛の 後も逢はむと 葵花咲く
 
成棗《ナシナツメ》 寸三二粟嗣《キミニアハツギ》 延田葛乃《ハフクズノ》 後毛將相跡《ノチモアハムト》 葵花咲《アフヒハナサク》
 
梨ガ實リ〔三字傍線〕棗ガ實ルト〔四字傍線〕、黍ニ粟ガツヅイテ實ツテ〔三字傍線〕、(延田葛乃)後ニモ逢ハウトイフシルシニ〔六字傍線〕、葵ノ花ガ咲イテヰル。
 
○成棗《ナシナツメ》――成は梨、棗は既出(三八三〇)。梨と棗とが實のつての意。古義に「梨と棗の木實《キミ》といふ意にとりなして黍《キミ》といふへつづけたるにや」として枕詞と見てゐる。木《コ》の實《ミ》とはいふが木實《キミ》といふ語はないやうである。新考は黄實の意でつづくと見てゐるが、これも穩やかでない。○寸三二粟嗣《キミニアハツギ》――寸三は黍。黍と粟とがつづいて實(67)のるといふのである。嗣を蒔の誤とし、逢ハマクの借字で、逢ハム事ハの意とするのは從ひ難い。梨棗黍粟は相次いで秋に實るものである。○延田葛乃《ハフクズノ》――枕詞式に用ゐて次の句につづいてゐる。  である葛もも秋のものとして用ゐてある。舊本、田を由に作るは誤。類聚古集、西本願寺本などに田に作るによる。田葛は眞田葛原《マクズハラ》(一三四六)・眞田葛延《マクズハフ》(一九八五)・田葛葉日殊《クズハヒニケニ》(二二九五)などの用例がある。○後毛將相跡《ノチモアハムト》――後に再び逢はうと。○葵花咲《アフヒハナサク》――上代の葵はフユアフヒと稱するもので、蔬菜として、葉を食用に供したのである。賀茂の祭に用ゐる細辛、俗にカモアフヒと稱するものとは別科の植物である。(徳川氏の家紋となつてゐるアフヒはカモアフヒである)なほカラアフヒ・タチアフヒ・ゼニアフヒなどは同科の別種である。和名抄に「葵、本草云、葵、音逵阿布比、味甘寒無v毒者也」とあり。大膳式には、葵三斗、葵半把、葵爼などの記載があり、その他冬葵の實を藥用に供したことが諸書に散見してゐる。この歌では、梨・棗・黍・粟・葛などにつづいて詠んであるから、食用の蔬菜としての冬葵なることは疑ふ餘地がない。冬葵の花は冬から春にかけて咲き紫暈を有する白色である。ここは後も逢はむと葵花咲くと言つて、未來をことほいだもので、葵の花を眼前に見て詠んだのではあるまい。戀の心を述べたと見るのは惡い。
〔評〕 梨・棗・黍・粟・葛・葵の六種の物を詠み込んだ歌。これも宴席にあつて、食膳に並んだものを、片端から取合せて、しかも主客の無事をことほいでゐるのは、巧なものである。この歌は前の同類の歌よりも、上品に出來てゐる。
 
獻(レル)2新田部親王(ニ)1歌一首
 
新田部親王は天武天皇第七皇子。卷三に、柿本朝臣人麿献2新田部皇子1歌一首并短歌(二六一)とある。
 
3835 勝間田の 池は我知る 蓮無し 然言ふ君が 鬚無き如し
 
(68)勝間田之《カツマタノ》 池者我知《イケハワレシル》 蓮無《ハチスナシ》 然言君之《シカイフキミガ》 鬚無如之《ヒゲナキゴトシ》
 
貴方ハ勝間田ノ池ニ蓮ノ花ガ美シク咲イテヰルト仰ニナリマスガ〔貴方〜傍線〕、勝間田ノ池ニハ、私ハヨク存ジテヲリマス。蓮ハゴザイマセン。サウ仰ニナルアナタノオ顔ニ〔三字傍線〕鬚ガナイノト同ジデゴザイマス。
 
○勝間田之池者我知《カツマタノイケハワレシル》――勝間田の池は今も奈良市の西方、都跡村字六條に遺つてゐる。枕草子に「池はかつまたの池、いはれの池、にえのの池云々」とあつて、永く歌枕として有名であつた。○鬚無如之《ヒゲナキゴトシ》――舊訓ヒゲナキガゴトとあり、代匠記精撰本は之如の誤かといつてゐるが、文字通りに訓むがよい。他に相見如之《アヒミルコトシ》(三〇九)の例もある。舊本、鬚を鬢に誤つてゐる。西本願寺本によつて改めた。
〔評〕 左註にあるやうに、極めて鬚の濃い新田部親王に對して、貴方の御顔に鬚のないやうに、勝間田の池には蓮はありませんと言つた、反語《アイロニー》の興味が主となつてゐる。二句で切つて、更に三句で蓮なしと斷言し、徐ろに然言ふ君が鬚無き如しと歌ひ添へたところに、言ふべからざる滑稽味が藏されてゐる。袖中抄に戴せてある。袋草子にも三井寺の勝觀法師のこの歌に關する言葉が出てゐる。
 
右、或(ハ)有(リ)v人、聞(ク)v之(ヲ)曰(ク)、新田部親王、出(デ)2遊(ビ)于堵裏(ニ)1御2見(シテ)勝田之池(ヲ)1感2緒(セリ)御心之中(ニ)1、還(リテ)v自2彼(ノ)池1不v忍(ビ)2憐愛(ニ)1於v時語(リテ)2婦人《ヲムナニ》1曰(ク)、今日遊行(シテ)見(ル)2勝間田池(ヲ)1水影濤濤(トシテ)蓮花灼灼(タリ)、可憐斷腸、不v可v得v言(フヲ)、爾乃《ココニ》婦人作(リテ)2此(ノ)戯歌(ヲ)1、專輙《モハラ》吟詠(セル)也
 
堵裡は都の内。堵は都。卷一に近江舊堵(三二)、卷三に難波堵(三一二)とある。感緒の緒は正述心緒の緒で、感緒は感心すること。憐愛は類聚古集その他怜愛に作る本が多い。あはれと思ふことをいふ。婦人は妾。ヲミナメと訓むべきだ。和名抄に「妾和名乎旡奈女」とある。卷二にも天皇崩時婦人作歌(一五〇)とある。(69)水影濤濤は水の滿々と湛へた貌。蕩々に通ずるのであらう。蓮花灼灼は蓮華の盛なる貌。可憐は古葉略類聚抄・西本願寺本などに※[立心偏+可]怜とある。專輙はモハラ。輙はスナハチといふ字だが、專輙といふ熟語として古くから用ゐられてゐる。
 
謗(ル)2佞人(ヲ)1歌一首
 
3836 奈良山の 兒の手柏の 兩おもに かにもかくにも 佞人の徒
 
奈良山乃《ナラヤマノ》 兒手柏之《コノテカシハノ》 兩面爾《フタオモニ》 左毛右毛《カニモカクニモ》 佞人之友《ネヂケビトノトモ》
 
アノ人タチハドチラニモウマイコトヲ言ツテ〔アノ〜傍線〕、(奈良山乃兒手柏之)裏表ナシノ〔五字傍線〕兩面デ、ドチラカラ見テモ、ネヂケタ佞人ドモダ。
 
○奈良山乃《ナラヤマノ》――奈良山は奈良の都背後の山。○兒手柏之《コノテカシハノ》――今、兒手柏と稱するものは松科の植物で漢名側柏、檜に似て、葉は峙立ち、表裏の別がない。丁度ここに兩面《フタオモテ》とあるに合致してゐる。しかしこれは支那原産で吾が國の山林に自生するものでないから、この歌の兒手柏は別物に相違ない。大和志に「兒手柏、漢名未詳、山中所在有v之奈良坂特多、葉如2粘黐樹1而濶短、或三尖、恰似2小兒掌1、四時不v凋、白花黒實」とあり、倭訓栞には「このてかしは萬葉集に兒手柏とかけり。是は樹の嫩葉の乳兒の手掌に似たるをいふなり。一種奈良にていふものは、犬ぼぼ也。是は後人萬葉集の奈ら山のこのてがしはとめるによりて、別種の名とせるなり。これも萬葉集に兒手柏、兩面にと云ふより出でたり。よつて兩面とも云ふ【中略】住吉に、このて柏の神供といふあり。橿の葉を用ふといへり」とある。その他藻鹽草・仙覺抄などに柏若葉とした説があるが、小兒の手のやうな形に廣がつた葉の柏を言ふものとしたい。卷二十の知波乃奴乃古乃弖加之波能保保麻例等《チバノヌノコノテガシハノホホマレド》(四三八七)とあるのも、卷十四の安杼毛敝可阿自久麻夜末乃由豆流波乃布敷麻留等伎爾可是布可受可母《アトモヘカアジクマヤマノユヅルハノフフマルトキニカゼフカズカモ》(三五七二)と比較して見ると、ホホマルも(70)フフマルも同語で、柏の葉の未だ開かぬ婆に譬へたものらしい。檜の類の葉ではホホマルとは言ひ難いであらう。袖中抄に見えた、オホドチ即ちヲトコヘシ説は後世に出來た説で同名異物である。○兩面爾《フタオモニ》――和歌童蒙抄和歌色葉集などにフタオモテとあるのは、かういふ古訓が廣く行はれでゐたのであらう。細井本には爾の字がない。兒手柏は兩面同樣の色をなしてゐるので、兩面の序詞としたのである。この句は兩面にての意。兩面《フタオモテ》を表と裏と兩面異なつてゐる意に見るのは從ひ難い。○左毛右毛《トニモカクニモ》――どうでもかうでも。どちらから見ても。左右將爲《トモカクモセム》(三九九)、左右裳《カニモカクニモ》(六二九)、左右將爲乎《カモカモセムヲ》(一三四三)、などの用例がある。新解はヒダリモミギモと訓んで「どちら向いても曲つた人ばかりである」と解してゐるのは珍らしい説である。ヒダリに對しては、ミギリといふべきであらう。○佞人之友《ネヂケビトノトモ》――佞人《ネヂケビト》は心の曲つた人。腹黒い人。友は借字で輩《トモガラ》の意。どちらにしても佞人の徒輩であるといふのである。
〔評〕 かなり人口に膾炙してゐる歌だが、解釋は種々に分れてゐる。佞人があちら向いても、こちら向いても、體裁のよい御世辞を言つてゐる樣を兩面《フタオモテ》と謗つたので、佞人の數多いことを憤つたのではない。題の謗佞人とあるに注意したい。この歌は如何なる場合の作か記されてゐない。多分作者が世事に憤慨して詠んだのであらう。しかし滑稽味といふほどのものなく、強い嗤笑の態度でもない。和歌童蒙抄・袖中抄・和歌色葉集などに載せてある。
 
右歌一首博士|消奈行文大夫《セナノユキフミノマヘツキミ》作(レリ)v之
 
消奈行文は續紀に「養老五年正月戊申朔甲戍詔曰、文人武士國實所v重、醫卜方術古今斯崇云々、明經第二博士正七位上背奈公行文賜2※[糸+施の旁]十五疋・絲十五絢・布三十端・鍬二十口1」「神龜四年十二月丁亥云々授2正六位上背奈公行文從五位下1」と見え、懷風藻に「從五位下大學助背奈王行文二首年六十二」と見える背奈行文と同人であらねばならぬ。天平の初年に歿したらしい。續紀に「天平十九年六月辛亥正六位下背奈福信、外正七位下背奈大山等八人賜2背奈王姓1」とあつて、行文は王姓を賜はらないうちに歿したで(71)あらうと想像される。懷風藻は後の稱呼に傚つて、背奈王行文と記したのであらう。代匠記初稿本には奈の下、公の字が脱ちたものとしてゐる。略解に消は背の誤としてゐるが、消は音セウであるから略してセに用ゐたのであらう。古葉略類聚抄に「明經儒林傳云助教消奈行文右記云行文於學良京※[人偏+己]助講周易甬福代弟子新羅人也、拜博士叙從五位下傅大學助後改高麗朝臣入哥一〓」とあるのも參考すべきである。博士は右に記すが如く、明經博士。大夫は五位の通稱。
 
3837 久方の 雨も降らぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たる見む
 
久堅之《ヒサカタノ》 雨毛落奴可《アメモフラヌカ》 蓮荷爾《ハチスハニ》 渟在水乃《タマレルミヅノ》 玉似將有見《タマニニタルミム》
 
(久竪之)兩ガ降ラナイカヨ。私ハ〔二字傍線〕蓮ノ葉ニタマツタ水ガ、玉ニ似テヰル美シイ景色〔五字傍線〕ヲ見タイト思フ〔三字傍線〕。
 
○久堅之《ヒサカタノ》――枕詞。天・空・日などにつづく。ここでは雨に連ねてゐる。○雨毛落奴可《アメモフラヌカ》――雨も降らないかよ。雨も降れよの意。○蓮荷爾《ハチスハニ》――前に荷葉とあつたのに同じ。代匠記には荷は葉の誤かといつてゐる。○玉爾似將見《タマニニタルミム》――舊訓はタマニニムミムとあるが調子が惡い。玉爾似有將見の誤としてかく訓むべきであらう。新訓は類聚古集に爾がなくて、玉似となつてゐるによつて、タマニアラムミムと訓んでゐる。似を假名に用ゐた例は卷七・卷十一なにど見えるが、この歌の書き方を見ると、爾がなくとも、似は意字として訓むべきである。
〔評〕 左註にこの歌を詠んだ由縁が委しく記されてゐるが、さして面白い作でもない。宴席の食膳に用ゐられた荷葉を、池の中に生じてゐる樣に詠みなしたのは、その場合に囚はれない機智とも言へようが、また窮餘の作とも言へば言へる。
 
右(ノ)歌一首(ハ)傳(ヘ)云(フ)、有《アリ》2右兵衛1【姓名未詳】多能《タヘタリ》2歌作之藝(ニ)1也、于時府(ノ)家、備(ヘ)2設(ケ)酒食(ヲ)1饗2宴(ス)府(ノ)官人等(ヲ)1於v是饌食盛(ルニ)v之(ヲ)皆用(フ)2荷葉(ヲ)1諸人酒酣謌舞駱驛(ス)、乃(チ)誘(ヒテ)2兵衛(ヲ)1云(フ)關(ケテ)2其(ノ)荷(72)葉(ニ)1而作(レト)2此歌(ヲ)1者、登時《スナハチ》應(ジテ)v聲(ニ)作(レル)2斯(ノ)歌(ヲ)1也
 
右兵衛は官名。天武天皇朱鳥元年の天皇崩御の條に「直大參當摩眞人國見誄2左右兵衛事1」とあるから、この官衙の設けられたのも古いものである。姓氏未詳は類聚古集その他、氏を名に作る古寫本が多い。歌作之藝とあるのは、已に詠歌を一の藝能と考へてゐたことを示してゐる。府は右兵衛府で府家はその役所である。駱驛は駱繹の誤であらう。徃來の絶えざる貌をいふので、ここには、しつくり當嵌らぬやうでもあるが、これでよいのであらう。開は關の誤であらう。作此歌者の此は衍であらう。
 
無(キ)2心(ノ)所1v著歌二首
 
無心所著歌は心の著く所無き歌。左註に無所由之歌とあるに同じで、一句一句別のことを言つて、全體としては意味をなさぬ歌である。この頃既に歌を弄んで、かうしたことがかなり流行してゐたのである。濱成式には雜會體とある。奧儀抄にも「無心所著歌、雜會體也、無2所存1也、」徹書記物語には「無心所著の歌は一句一句、別々のことをいひたる也」と見えでゐる。
 
3838 吾妹子が ぬかに生ひたる 双六の ことひのうしの くらの上の瘡
 
吾妹兒之《ワギモコガ》 額爾生流《ヌカニオヒタル》 雙六乃《スゴロクノ》 事負乃牛之《コトヒノウシノ》 倉上之瘡《クラノウヘノカサ》
 
私ノ妻ノ額ニ生エテヰル雙六ノ、牡牛ノ背中ノ〔三字傍線〕鞍ノ上ニ、出來タ〔三字傍線〕腫物。
 
○額爾生流《ヌカニオヒタル》――舊訓ヒタイニキフルとあるは、ヒタヒニオフルの誤字であらう。生流の二字はオフルと訓むべく、流の字がない本もあるから、オフルがよいやうだが、額は、和名抄には「額 五陌反比太比」とあるけれども、集中すべてヌカと訓んであるから、古義にヌカニオヒタルと訓んだのがよいであらう。○雙六乃《スゴロクノ》――雙六は前の三八二四參照。○事負乃牛之《コトヒノウシノ》――コトヒノウシは卷九に牡牛乃《コトヒウシノ》(一七八〇)とあるところに説明したやうに、牡牛(73)のことで、一説に許多負牛《ココタオヒウシ》の略、牡牛が荷物を多く負ふからだと言はれてゐるが、果してどうであらう。○倉上之瘡《クラノウヘノカサ》――倉は鞍の借字。瘡は和名抄に「瘡 唐韻云、瘡 音倉、加佐 痍也、痍 音夷、岐須 瘡也」とある。腫物の總稱である。
〔評〕 吾妹兒・額・双六・事負乃牛・鞍・瘡の六種のものを無暗に並べて、意味の分らない歌としてゐる。蓋し無心所著歌は、前にあつた讀込歌の一種であつて、讀込歌では豫め定めて置いた品目を詠むものと、豫め定めないで、何でもかまはずに數種のものを取合せて工夫して詠むのとの區別があつたが、無心所著歌は、詠込む品目を豫定しない點は後者と同じであるが、何等の意味をも持たしめないやうに作る點が異なつてゐる。その奇拔な組合せと、それが全體として何の意味をも構成しないで、人の意表に出る點に滑稽を感ずるのである。この歌では、妻の額に双六が生えるといふのも、鞍の上に瘡が出來てあるといふのも、實に珍奇を極めたもので、人を抱腹せしめるに充分である。
 
3839 吾が背子が たふさきにする つぶれ石の 吉野の山に 氷魚ぞさがれる
 
吾兄子之《ワカセコガ》 犢鼻爾爲流《タフサキニスル》 都夫禮石之《ツブレイシノ》 吉野乃山爾《ヨシヌノヤマニ》 氷魚曾懸有《ヒヲゾサガレル》【懸有反云佐我禮流】
 
私ノ夫ガ犢鼻褌ニスル圓イ石ノ、吉野山ニ水魚ガ下ツテヰル。
 
○犢鼻爾爲流《タフサキニスル》――犢鼻褌の略。神代妃に「著犢鼻」とあり、雄略天皇紀にも、同樣の句があるから、褌の字を省いて用ゐることも多かつたのである。字鏡に「※[衣+鼻] 太不佐伎」とあるのは、更にこの二字を一にしたやうな文字である。和名抄に「褌、方言注云、袴而無v跨謂2之褌1 音昆、須萬之毛乃、一云知比佐岐毛能 史記云、司馬相知、着2犢鼻褌1、韋昭曰、今三尺布作v之、形如2牛鼻1者也、唐韵云、※[衣+公] 職容反、與v鍾同、楊氏漢語抄云、※[衣+公]子、毛乃之太乃太不佐岐一云水子、小褌也」とあり。これによつで短い袴とする説もあるが、犢鼻褌は史記の記述の如く、三尺の布で作つて、形が牛鼻の如しとあるから、今の猿股のやうなものでなく、ワンドシに違ひない。○都夫禮石之《ツブレイシノ》――ツブレイシは圓石《ツブライシ》に同じ。圓い石である。履中天皇紀に「圓此云2豆夫羅1」とある。○氷魚曾懸有《ヒヲゾサガレル》――氷魚(74)は和名抄に「※[魚+小]、考聲切韻云、※[魚+小]音小、今案俗云、氷魚是也、初學記冬事對、雖v有2氷魚霜鶴之文1而尋2其義1非也白小、魚名也、似2※[魚+白]魚1長一二寸者也」とあり、今イサザといふ魚。白魚のやうなもので、琵琶湖・宇治川などに多く産する。宇治の網代による氷魚は、後世の歌に多く詠まれてゐる。秋の末から冬に亘つて捕れる。○懸有反云住家禮流――懸有はサガレルと訓むのだと註したのである。家は我の誤らしい。
〔評〕 吾兄子・犢鼻・圓石・吉野乃山・氷魚の五種の品目を並べて無意味な滑稽なものとしてゐる。犢鼻にする圓石、吉野の山に氷魚がさがつてゐるといふのが、奇想天外的である。前の歌が吾妹子で始つてゐるに對して、これは吾が兄子になつてゐる。
 
右(ノ)歌者、舍人親王、令(シテ)2侍座(ニ)1曰(ク)或《モシ》有(ラバ)d作(ル)2無(キ)v所由之歌(ヲ)1人u者、賜(フニ)以(テセム)錢帛(ヲ)1、于v時大舍人安倍朝臣|子祖父《コオヂ》、乃(チ)作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1獻上(ル)、登時《スナハチ》以(テ)2所(ノ)v募(ル)物錢、二千文(ヲ)1給(ハル)v之(ニ)也
 
舍人親王は天武天皇の皇子。日本書紀の撰者。卷二(一一七)參照。侍座は座に侍る人、考はサムラフモノ、古義はモトコビトと訓んでゐる。無所由之歌は、由る所無きの歌。意味のない歌。無心所著歌に同じである。錢帛は金銀と布帛。ゼニとキヌ。大舍人は宮廷に奉仕し、行幸に供奉し警衛駈便の雜事を務める役。令の制によれば、左右大舍人寮に屬し、定員八百人であつた。安倍朝臣|子祖父《コオヂ》は傳が明らかでない。古義に「續紀に大寶三年七月甲子從五位下引田朝臣祖父爲2武藏守1と見えて、其(ノ)後慶雲元年に此(ノ)引田氏本姓に復りて、阿倍朝臣と改めたるよし見ゆ。されば續紀に祖父とあるは、子字を脱せるにて、今の子祖父なるべし、と云説あり。親王と同時の人なれば、さもあるべきか。」とある。併し引田朝臣祖父が大舍人であつたとすれば、武藏守たる前、即ち大寶三年以前でなければならず、又その當時阿倍氏を名乘つてゐたとも定め難いから、引田朝臣と阿倍朝臣子祖父とが同人とは考へられない。
 
池田朝臣、嗤(ル)2大神《オホミワ》朝臣奥守(ヲ)1歌一首【池田朝臣名忘失也】
 
(75)池田朝臣は古義に池田朝臣|眞枚《マヒラ》であらうといつてゐる。眞枚は續紀に、天平寶字八年十月從八位上から從五位下、神護景雲二年十一月檢校兵庫軍監、寶龜元年十月上野介、同五年三月少納言、同八年正月員外少納言、同十一年三月長門守、延暦六年二月鎭守副將軍になつた人である。相手の大神朝臣奥守と略々同時に從五位下になつてゐて、同輩であらうから、心安立てにこんな嗤合もやつたであらう。併しこの卷の成立を、大伴家持が越中守となつた天平十七年以前とすれば、眞枚は四十三年後の延磨六年に鎭守副將軍といふ劇務に就いて、東北地方に轉戰してゐるから、この歌を作つた時の二人は隨分若くなければならない。なほ眞枚は家持と同時の人で、家持の知己であらう。ここに池田朝臣名忘失也とあるのは、家持又はその時の人の手記としては、疑はしいやうだ。大神朝臣奧守は續紀に天平寶字八年正月乙巳正六位下大神朝臣奧守授2從五位下1とある外、傳ふるところがない。
 
3840 寺寺の 女餓鬼申さく 大神の 男餓鬼たばりて その子うまはむ
 
寺寺之《テラデラノ》 女餓鬼申久《メガキマヲサク》 大神乃《オホミワノ》 男餓鬼被給而《ヲガキタバリテ》 其子將播《ソノコウマハム》
 
方々ノ〔三字傍線〕寺々ニ作ツテ〔四字傍線〕アル女ノ餓鬼ノ像〔二字傍線〕ガ申スニハ、大神ト云フ男ノ餓鬼ハ大層痩セテヰテ私ニ似アフカラ、アノ男ヲ私ノ夫ニ〔ハ大〜傍線〕賜ハツテ、アレト夫婦ニナツテ〔九字傍線〕ソノ子ヲ産ミマセウト言ツタ〔四字傍線〕。
 
○寺寺之女餓鬼申久《テラデラノメガキマヲサク》――寺々にある女の餓鬼の像が言ふには。餓鬼は和名抄に「餓鬼、孫〓切韻云餓【五箇反、訓與飢同】久飢也、内典云餓鬼 和名加岐 其喉如v針不v得v飲v水、見v水則變成v火」とあり、謂はゆる三惡道の一なる餓鬼道に苦しんでゐるものをいふ。當時の寺には、餓鬼道の有樣 塑像などに作つたのが、飾付けてあつたのである。卷四に大寺之餓鬼之後爾額衝如《オホテラノガキノシリヘニヌカヅグガゴト》(六〇八)とある。挿繪は餓鬼の草子から複寫した。○男餓鬼被給而《ヲガキタバリテ》――大神朝臣が痩せてゐるので、男餓鬼といつたのである。男の餓鬼を賜はつてといふのは、大神朝臣を夫として賜はつての意。即ち大神朝臣と夫婦になつて。○其子將播《ソノコウマハム》――古訓はソノコハラマム、考はソノコウミナムとあるが、代(76)匠記にソノコウマハムと訓んだのがよい。ウマハムはウマフといふ動詞に助動詞ムを添へたのである。ウマフは産《ウ》ムの延言。自動詞としてウマハルと用ゐられた例は、允恭天皇紀に 「一氏|蕃息《ウマハリテ》更爲2萬姓1、」仁賢天皇紀に「戸口|滋殖《マスマスウマハリテ》」雄略天皇紀に「女|産兒《ウマハリセリ》」「百濟心許非常、臣毎見v之不v覺2自失1恐更|蔓生《ウマハリナム》」とある。播は種蒔くこと、産む意に用ゐてある。
〔評〕 痩せた男を嗤ふ言葉としては、隨分ひどい惡口で、滑稽を通り越してゐる。結句|其子將播《ソノコウマハム》は巧な揶揄の言葉である。
 
大神朝臣奥守、報(ヘ)嗤(ル)歌一首
 
3841 佛造る 眞そほ足たらずは 水たまる 池田のあそが 鼻の上をほれ
 
佛造《ホトケツクル》 眞朱不足者《マソホタラズハ》 水渟《ミヅタマル》 池田乃阿曾我《イケダノアソガ》 鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》
 
佛像ヲ作ルノニ、眞朱トイフ赤イ繪具〔七字傍線〕ガ足リナイナラバ、アノ赤イ色ヲシタ〔八字傍線〕(水渟)池田朝臣ノ鼻ノ上ヲ掘リナサイ。アノ人ノ鼻ノ中ニハ澤山眞朱ガアルダラウ〔アノ〜傍線〕。
 
○佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズバ》――佛像を造るのに、眞朱が足りないならば。佛《ホトケ》は代匠記精撰本に「和語にホトケと云は浮屠木《フトケ》の意なるべし。浮屠は舊澤の梵語佛陀なり。木は此國に貴人に云詞なり」とある。一説にケは韓語を添へたのであらうとも言はれてゐる。眞朱《マソホ》は彩色に用ある赤い染料。赤土をいふ場合と、朱を指す場合とある。マは接頭語で、卷十の具穗船《ソホフネ》(二〇八九)、卷十三の赤曾朋舟《アケノソホフネ》(三三一〇)のソホも同じである。眞朱を舊訓にアカニとある(77)のはわるい。和名抄圖繪具に「丹砂、考聲切韻云、丹砂 丹音都感反、邇 似2朱砂1而不2鮮明1者也。朱砂、本草云、朱砂最上者謂2之光明沙1」とあつて、眞朱は即ち朱砂・辰砂のことで、鮮明な朱色の顔料である。上代の佛像の彩色に多く用ゐられてゐる。○水渟《ミヅタマル》――枕詞。水の溜る池とつづく。○池田乃阿曾我《イケダノアソガ》――池田朝臣の。阿曾《アソ》は親しんでいふ語。必ずしも朝臣ならでもいふのであるが、ここは朝臣即ちアソミを略したものと見るのが穩やかであらう。○鼻上乎穿禮《ハナノヘヲホレ》――池田朝臣の赤鼻を罵つたので、あの鼻を掘つたなら、いくらでも眞朱が出るだらうといふ惡口である。
〔評〕 寺にある餓鬼の像に譬へて罵られたのに對して、同じく寺の佛像に關係を持たせて、嘲り返した手際はうまい。この贈答の二歌はいづれも秀逸で、その優劣を判じ難い。なほこの佛造るといふのを、當時の東大寺大佛造営のこととし、あれだけの大佛を造る間には、それに用ゐた眞朱も時には不足を告げ、眞朱穿る岡を何處かと探すやうなこともあつたらうから、かかる有樣を目撃し、自らその工事に交つて働いたらしい大神朝臣奧守が、池田朝臣の朱鼻を嗤笑するに托して、太佛造營に國幣を傾ける馬鹿らしさに、嘲笑の聲を放つた歌と見る人もあるが、眞朱を要する佛像は木造の彩色した像であつて、銅像に黄金を張つた東大寺の大佛には、眞朱はいらない筈である。東大寺大佛記によると、大佛鑄造に要した材料として、熟銅七十三萬九千五百六十斤、白※[金+葛]一萬二千六百十八斤、練金一萬四百四十六兩、水銀五萬八千六百兩、炭一萬六千三百五十六斛とあつて、眞朱については、何の記述もない。但し卷十四に麻可禰布久爾布能麻曾保乃伊呂爾低※[氏/一]伊波奈久能未曾安我古布良久波《マカネフクニフノマソホノイロニデテイハナクノミゾアガコフラクハ》(三五六〇)とあるのは、眞金を吹くのに赤い土を用ゐたやうにも見えるが、あの歌では眞金吹くは、丹生といふ地名にのみかかつてゐるのであるから、誤解のないやうにしたい。かくの如き次第であるから、この歌を以て大佛造營と關係を持たせて考へるのは誤つてゐる。又大佛は、天平十七年八月起工、十五ケ月間に原形を製作したのだから、この歌をその間の作であらうと推定し、それによつてこの卷の編纂時代をも決定しようとする人があるのは全然從ひ難い。
 
或云
 
(78)この下の文が脱落したものか。
 
平群朝臣(ノ)嗤(ル)歌一首
 
平群朝臣は誰ともわからない。前後の例によると、名忘失とでもありさうなところである。古義には、平群朝臣廣成であらうと言つてゐる。廣成は天平九年九月(當時在唐)に正六位上から從五位下になり、十一年十月歸國入京。その後刑部大輔・東山道巡察使・式部大輔・攝津大夫・武藏守などに歴任し、天平勝寶五年正月には從四位上であつたことが續紀に記されてゐる。考には嗤の下に咲穗積朝臣の五字を補つてゐる。
 
3842 わらはども 草はな刈りそ 八穗蓼を 穗積のあそが 腋くさを刈れ
 
小兒等《ワラハドモ》 草者勿苅《クサハナカリソ》 八穗蓼乎《ヤホタデヲ》 穗積乃阿曾我《ホヅミノアソガ》 腋草乎可禮《ワキクサヲカレ》
 
子供等ヨ。ワザワザ遠クヘ行ツテ〔十字傍線〕車ハ刈ルナヨ。ソレヨリモ〔五字傍線〕(八穗蓼乎)穗積朝臣ノ腋ノ臭サヲ刈リナサイ。
 
○子兒等《ワラハドモ》――子供等。○八穗蓼乎《ヤホタデヲ》――枕詞。穗とつづく。穗摘みの意で、穗積につづくとするのは當らない。卷十三に水蓼穗積至《ミヅタテホヅミニイタリ》(三二三〇)とある。八積蓼は穗の多い蓼。ヲはヨに同じ。○腋草乎可禮《ワキクサヲカレ》――腋草は腋臭即ちワキガであらう。臭と草と音が同じなので、戯れて草者勿刈《クサハナカリソ》と言つたのに對し、文字も腋草と記したのである。これを從來腋下の毛と解いたのは當るまい。腋毛は誰でも生えてゐるもので、多寡長短の別はあつても、さう取り立てて言ふほどのことはない筈である。腋臭は和名抄に「胡臭、病源論云、胡臭 和岐久曾」とある。ワキクソはワキクサの轉。
〔評〕 これも可なり烈しい惡口である。無形の腋臭を草に言ひなしたのはおもしろい。和歌童蒙抄に出てゐる。
 
(79)穗積朝臣和(フル)歌一首
 
穗積朝臣は誰ともわからない。これも名忘失とありさうなところである。古義は穗積朝臣老人であらうと言つてゐる。老人は續紀によれば、天平九年九月正六位上から、外從五位下を授かり、十二年左京亮十八年四月從五位下、同九月内藏頭になつてゐる。
 
3843 いづくぞ 眞そほほる岳 こも疊 平群のあそが 鼻の上を穿れ
 
何所曾《イヅクゾ》 眞朱穿岳《マソホホルヲカ》 薦疊《コモダタミ》 平群乃阿曾我《ヘグリノアソガ》 鼻上乎穿禮《ハナノウヘヲホレ》
 
眞朱ヲ掘リ出スノハ何處カ。何處デモナイ〔六字傍線〕。(薦疊)平群朝臣ノ鼻ノ上ハ赤イカラ、アソコニ在ルダラウ。アノ鼻ノ上〔ハ赤〜傍線〕ヲ掘リナサイ。
 
○何所曾《イヅクゾ》――舊訓イヅコニゾ。古義に從ふ。○眞朱穿岳《マソホホルヲカ》――この句で切つて上に反つてゐる。○薦疊《コモダタミ》――枕詞。重《ヘ》とつづく。薦を編んで作つた疊蓆。古事記倭建命の御歌に、多多美許母幣具理能夜麻能《タタミコモヘグリノヤマノ》」とある。
〔評〕 初二句が問の如く、三句以下が答のやうである。つまり自問自答の形式になつてゐる。これが歌をより面白くしてゐる。前の佛造眞朱不足者《ホトケツクルマソホタラズハ》(三八四一)と同想で、いづれかが他を學んだものに相違ない。仲好しの間の串戯であらうが、隨分ひどい惡口である。
 
嗤2咲(フ)黒色(ヲ)1歌一首
 
顔の色の黒いのを嗤笑つた歌。古義は古寫本に從つたといつて、土師宿禰水通嗤2咲巨勢朝臣豐人黒色1歌一首としてゐるが、校本萬葉集には、さうした異本がない。
 
3844 鳥玉の 斐太の大黒 見る毎に 巨勢の小黒し おもほゆるかも
 
(80)鳥玉之《ヌバタマノ》 斐太乃大黒《ヒダノオホグロ》 毎見《ミルゴトニ》 巨勢乃小黒之《コセノヲグロシ》 所念可聞《オモホユルカモ》
 
斐太ノ朝臣ノ〔三字傍線〕(烏玉之)大黒ヲ見ル度ニ、巨勢ノ朝臣ノ〔三字傍線〕、小黒ガ思ヒ出サレルヨ。ドチラモ黒馬ノヤウニ黒イ男ダ〔ドチ〜傍線〕。
 
○烏玉之《ヌバタマノ》――語を距てて、大黒の黒にかかる枕詞。○斐太乃大黒《ヒダノオホクロ》――左註に巨勢斐太朝臣【名字忘v之也島村大夫之男也】とある人。格別色が黒かつたので、大黒といつたのである。但し馬は黒色を貴ぶから、大黒は馬になぞらへて言つたのである。次の小黒も同じ。○巨勢乃小黒之《コセノヲグロシ》――巨勢の小黒は巨勢朝臣豐人で、色の黒い男ではあつたが、斐太朝臣ほどではなかつたから、小黒と言はれたのである。シは強めて言つたもの。○所念可聞《オモホユルカモ》――思ひ出されるよ。
〔評〕 大黒小黒と馬になぞらへたのが、この作の工夫であらう。もしそれがないとすればつまらぬ歌である。
 
答歌一首
 
3845 駒造る 土師の志婢麻呂 白くあれば うべ欲しからむ その黒色を
 
造駒《コマツクル》 土師乃志婢麻呂《ハシノシビマロ》 白爾有者《シロクアレバ》 諾欲將有《ウベホシカラム》 其黒色乎《ソノクロイロヲ》
 
土ヲ練ツテ〔五字傍線〕駒ノ形〔二字傍線〕ヲ造ル土師ノ志婢麻呂ハ、色ガ〔二字傍線〕白イカラ、アノ黒イ色ガ欲シイダラウガ、ソレハ〔四字傍線〕尤モナコトダ。
 
○造駒《コマツクル》――駒を造る。土師は即ち埴師《ハニシ》で、土偶を造つた氏。埴で駒をも造るから、かく言つたのである。但し特に駒と言つたのは、前の歌の大黒小黒に答へむが爲である。○土師乃志婢麻呂《ハシノシビマロ》――左註に「大舍人土師宿禰水通字曰志婢麻呂也」とあり、水通のことである。水通は卷五(八四三)に、土師氏御通とある人。太宰府の梅(81)花の宴に列して、歌を詠んでゐるが、傳は明らかでない。土師氏は垂仁天皇の御代に埴輪を作つて、殉死を止めるやうにしたと傳へられる、野見宿禰の裔で、永くこの職に從つてゐたのである。○白爾有者《シロクアレバ》――舊本、白の下、爾に作るのでもよいが、類聚古集・古葉略類聚抄など、久に作るに從ふべきであらう。顔の色が良いのでの意。○諾欲將有《ウベホシカラム》――なるほど欲しいであらう。欲しいのは尤もだといふのである。舊訓サモホシカラムとあるのは、後世風の訓だ。○其黒色乎《ソノクロイロヲ》――斐太の大黒や、巨勢の小黒の黒色を、欲しいのは尤もだと、上に反るのである。
〔評〕 贈られた歌が、馬に關してゐるので、初句に駒に關したことを以て答へてゐる。志婢麻呂の顔が白いから、それを冷かす爲に、かう言つたものか。それともおまへは大さう白いよと反語的に、自分を棚にあげて、人のことは言はれまいと皮肉つたものか、兩樣に解せられる。三句をシロナレバと訓んで、白を白馬とする説に從ふと、落窪物語の面白の駒のやうになつて,奇拔であるが、それはあまり過ぎた考かと思はれるから、採らぬことにする。志婢麻呂は實際色が白かつたものと解して置かう。
 
右歌者、傳云(フ)、有(リ)2大舍人土師宿禰|水通《ミミチ》1、字(ヲ)曰(フ)2志婢麻呂(ト)1也、於時、大舍人巨勢朝臣豐人、字(ヲ)曰(フ)2正月《ムツキ》麻呂(ト)1、與2巨勢(ノ)斐太朝臣1【名字忘之也、島大夫之男也】兩人竝(ニ)此彼貌黒色(ナリ)焉、於v是土師宿祢水通、作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1嗤(リ)咲(フ)者、而(テ)巨勢朝臣豐人、聞(キテ)之(ヲ)即(チ)作(リ)2和(ヘ)歌(ヲ)1酬(イ)咲(ヘル)也
 
大舍人は既出(三八三九)。島大夫は古寫本に、島村大夫とあるのが多い。續紀に巨勢斐太朝臣島村の名が見え、天平九年六月正六位下から外從五位下、十六年二月平城宮留守、九月南海道巡察使、十七年正月外從五位上、十八年五月從五位下、同九月刑部少輔と見える。この人の子とすると、この卷が編纂せられ(82)たと推測せられる天平十六年頃は、まだ若い人であつたであらう。舊本、黒色也烏とある。烏は焉の草體を誤つたものである。
 
戯(ニ)嗤(ル)v僧(ヲ)歌一首
 
3846 法師らが 鬚の剃抗 馬つなぎ いたくな引きそ 法師は泣かむ
 
法師等之《ホフシラガ》 鬚乃剃抗《ヒゲノソリクヒ》 馬繋《ウマツナギ》 痛勿引曾《イタクナヒキソ》 僧半甘《ホフシハナカム》
 
坊主ドモガ鬚ヲ剃ツタ後ガノビテ〔七字傍線〕、杭ノヤウニナツテヰルノ〔十字傍線〕ニ、馬ヲ繋イデ、ヒドク引クナヨ。無理ニ引クト〔六字傍線〕坊主ガ泣クデアラウ。
 
○法師等之《ホフシラガ》――法師はホフシと字音の儘に訓むより外はない。法は呉音ホフ、漢音ハフ。○鬚乃剃杭《ヒゲノソリクヒ》――鬚を剃つたのが、少し伸びると、杭のやうであるから,剃杭といふのである。鬚を舊本鬢に作つてゐる。○僧半甘《ホフシハナカム》――半甘は舊訓ナカラカモとあり、代匠記初稿本は「なからにならんといふ心なり」、精撰本は「痩たる僧にて僧の半分許なれば、痛くひかば倒るべければ、なひきそと云なり」、考は「法師引さかれ半分にならんと云」、略解はホウシナカラムと訓み「なからむは半分の意にて、なからにならむと戯れ言ふ也」、古義は「半缺《ナカラカカ》むといふことなり、(カヽ〔二字右○〕の切カ。)僧の面を傷ひて、半を缺《カカ》むといへるなり」とあり。かくの如く説がわかれてゐる。廿は韻鏡外轉第四十開咸攝談韻m音尾であるから、カムと訓むに差支はないが、半にならむといふのを、ナカラムと言ひ得べきか、頗る疑はしい。古義は「又一説に將《ム》v泣《ナカ》といふ言の伸りたるなりと云るもわろし」といつてゐる。なるほど、泣カムを延ばしても、ナカラムとはなりさうにない。然るに、義門は男信に、半廿《ハネナム》と訓んでゐる。半はハネ、廿は甞の省畫として、ナムに用ゐられたといふのである。音韻學上からは、さうも訓めるわけだが、ハネナムでは意をなさない。彼はハネを首ハネの意としてゐるが、首ハネを古くハネとのみいふ筈はない。又黒川春村はナカナムと訓むべしとしてゐるが、この場合泣キナムならばよいが、泣カナムとは言ふ(83)べくもない。しかも泣キナムと訓むことは文字がゆるさない。この他松岡調はナカアマシの略ナカマシ、敷田年治は哭カムとし、新考は半を嘆に改めてナゲカムと訓んでゐる。いづれも多少の無理がないものはない。今半の字の集中に於ける用例を調査すると、ハの假名に用ゐられたものがあるから、ここも半をハと訓み、廿をカムとすれば、ハとカムとの間にナの假名に當る文字が脱ちたものとして、ホフシハナカムと訓むことが出來る。けれども、次の歌にも半甘とあるから、この二字の間の脱字を考へることは少し無理がある。だから予は半をナカと訓んだものとして半廿はナカカムの略、ナカムと訓み、僧の下にハの助詞を附けて、やはりホフシハナカムと訓むことにしたいと思ふ。なほ攻究を要する。
〔評〕 法師より以外に髪鬚を剃るもののなかつた時代に、鬚を剃つた法師が、しかも不精にしてゐて、剃つたあとが黒々と伸びてゐるのは、見苦しいものに感ぜられたであらう。剃杭とは全く適切な言葉である。杭から聯想して馬繋ぎを言ひ起し、痛くな引きそと突飛なことを言ひ出したのは、實に奇拔とも滑稽とも譬へやうのない巧妙さである。嗤笑の歌の中の白眉であらう。
 
法師報(フル)歌一首
 
3847 壇越や しかもな言ひそ 里長らが えつきはたらば いましも泣かむ
 
檀越也《ダヌヲチヤ》 然勿言《シカモナイヒソ》 ※[氏/一]戸等我《サトヲサラガ》 課役徴者《エツキハタラバ》 汝毛半甘《イマシモナカム》
 
檀那ヨ、サウ仰ルナヨ。村長ガ、税ヲ納メヨ〔四字傍線〕、役ニ出デヨ〔四字傍線〕トセメタテタナラバ、アナタモ泣クデセウ。私共ハ坊主デスカラ、税ヤ夫役ノ心配ハアリマセン〔私共〜傍線〕。
 
○檀越也《ダヌヲチヤ》――檀越は梵語Dana-patiに漢字をあてたもの。檀那に同じ。檀は山攝n音尾で、原語もダナであるから、ダムと振假名してはいけない。飜譯名義集に「稱2檀越1者即施也、此人行v施越2貧窮海1」とあり、施主の意で、僧侶が布施する信者を呼ぶ語である。ヤは呼掛けの助詞。○然勿言《シカモナイヒソ》――さう言ふなよ。モは詠歎の(84)助詞で、文字にはないが。添へて訓むがよからう。○※[氏/一]戸等我《サトヲサラガ》――舊本※[氏/一]戸等我とあるのは、誤字であらう。舊訓のテコラワガでは了解し難い。童蒙抄、戸長等我《ヘヲサラガ》、考は良長等我《イヘヲサラガ》などの説もあるが、古義に※[氏/一]を五十の誤とし、戸の下、長の字を補つて、サトヲサラガと訓んだのに從ふ。卷五に楚取五十戸良我許惠波《シモトトルサトヲサガコヱハ》(八九二)とある。良は長に同じ。○課役徴者《エツキハタラバ》――課役は代匠記精撰本にエタチとあるのを、古義にエツキとしたのがよい。賦役令に課役並(ニ)徴(ス)。又は免(シ)課(ヲ)徴(ス)v役(ヲ)、或は課役倶(ニ)免(ス)など見えて課と役とは別である。仁コ天皇紀に、「悉除2課役《エツキ》1息2百姓之苦1」とある。エは役で、ツキは調である。即ち人夫に出ることと貢を納めること。エダチと訓む時は役に出ることのみとなる。徴はハタルと訓む。その例、紀記に多い。ハタルは無理に徴集すること。○汝毛半甘《イマシモナカム》――汝も泣くであらう。
〔評〕 法師の竹箆返しも、かなりひどく檀越にこたへたであらう。贈つた歌には及ばないが、これも巧に出來てゐる。法師は無税で、課役に服することを免れてゐたから、かういつて俗人をからかつたのである。この贈答には作者を明記してないのは遺憾である。或は二首共に同一人の作で、戯れに檀越になり、法師になつで詠んで見たのではあるまいかとの想像も浮ぶ。
 
夢(ノ)裡(ニ)作(レル)歌一首
 
3848 あらきだの しし田の稻を 倉につみて あなひねひねし 吾が戀ふらくは
 
荒城田乃《アラキダノ》 子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》 倉爾擧蔵而《クラニツミテ》 阿奈于稻于稻志《アナヒネヒネシ》 吾戀良久者《ワガコフラクハ》
 
私ガアノ女ヲ戀シク思フ心ハ、(荒城田乃子師田乃稻乎倉爾擧蔵而)嗚呼古クナツタ。永イ間ノカナハヌ戀ハ苦シイモノダ〔永イ〜傍線〕。
 
(85)○荒城田乃《アラキダノ》――荒城田乃は新墾の田の。新らしく開墾した田の。卷七湯種蒔荒木之小田矣《ユダネマキアラキノヲダヲ》(一一一〇)とある。○子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》――子師田は鹿猪の出て荒す田。卷十一に小山田之鹿猪田禁如《ヲヤマダノシシダモルゴト》(三〇〇〇)とある。○倉爾擧蔵而《クラニツミテ》――上代の倉は高いから、擧藏と書いてツミと訓ましめたのであらう。古義はコメテと訓んでゐる。○阿奈于稻于稻志《アナヒネヒネシ》――舊訓アナウタウタシとあるが、ウタウタシといふ語は他に例がないやうである。考にはウタテに同じとしてゐる。併し于は干の誤でアナヒネヒネシであらうと言つた、契沖説がよいのではあるまいか。ヒネヒネシは、今も物の盛を過きたことをヒネルといつてゐるのに當つてゐる。藏に積み蓄へた稻の古くなるのに譬へて、上三句を序詞としたのである。干稻の文字は上の意味に關係せしめて用ゐてある。アナヒネヒネシはああ久しくなつたといふので、戀の成らずして日を過したことである。
〔評〕 永い戀に惱みつつある心を述べてゐる。上句の序詞と干稻《ヒネ》との關係も面白い。別に夢の中の作らしい特異點はない。和歌童蒙抄と袖中抄とに出てゐる。
 
右(ノ)歌一首(ハ)忌部(ノ)首黒麿、夢(ノ)裡(ニ)作(リテ)2此戀歌(ヲ)1贈(ル)v友(ニ)覺(テ)而令(ルニ)誦(ミ)習(ハ)1如(シ)v前
 
忌部首黒麻呂は卷六(一〇〇八)參照。舊本不誦習とあるのは誤。代匠記に不を衍としてゐるが、西本願寺本に不を令に作るに從ふべきである。令誦習はヨミナラハシムルニ。その歌を歌はして見ると、右の通りに歌つたといふのである。作者は寶字二年八月に正六位上から、外從五位下になつたことが、續紀に見えてゐるが、これも天平十七年以前に遠く遡らない作である。
 
厭(フ)2世間無常(ヲ)1歌二首
 
3849 生死の 二つの海を 厭はしみ 潮干の山を しぬびつるかも
 
生死之《イキシニノ》 二海乎《フタツノウミヲ》 厭見《イトハシミ》 潮干乃山乎《シホヒノヤマヲ》 之努比鶴鴨《シヌビツルカモ》
 
(86)コノ世間ノ〔五字傍線〕生ト死トノ二ツノ苦シイ〔三字傍線〕海ガ厭ハシイノデ、私ハ此ノ世ノ中を免レテ、生死ヲ超越シタ〔私ハ〜傍線〕彼岸ニ到達シタイト、願ハシク思ツテヰルヨ。
 
○生死之二海乎《イキシニノフタツノウミヲ》――生死《シヤウジ》と音讀する説もあるが、舊訓のままがよい。生死の二つの海は代匠記精撰本に「生死の海は、華嚴經(ニ)云(ク)、何(レカ)能(ク)度(シテ)2生死海(ヲ)1入(ン)2佛智海1、海は深くして底なく限りなき物の、能人を溺らすこと、無邊の生死の衆生を沈没せしむるに相似たれば、喩ふるなり」とあつて、生死の世界から離脱し得ず、苦しんでゐるのを海に喩へたのである。○厭見《イトハシミ》――舊訓イトヒミテとあるのはよくない。略解の訓がよい。厭はしい故に。○潮干乃山乎《シホヒノヤマヲ》――代匠記精撰本、「潮干乃山は名所にあらず。生死を海に喩へたるに付て、海水の滿る時も山はさりげなき如く、涅槃の究竟の處には生滅の動轉もなければ、涅槃山と云故に、寂滅無爲の處に強て名付たり。鹽の滿ぬ處には、干ると云名もなけれど、生死の此岸より彼岸を指て假に潮干の山と云なり」とある。生死を超越した彼岸の境界をいふ。○之努比鶴鴨《シヌビツルカモ》――なつかしく慕はしく思つてゐるよの意。ツルとはあるが、現在の心境を述べてゐる。
〔評〕 全く佛教思想の厭世觀である。生死海といふ佛教の專門語を用ゐ、それに關連して、彼岸を潮干の山といつてゐるのは、巧である。
 
3850 世の中の 繁き借廬に 住み住みて 至らむ國の たづき知らずも
 
世間之《ヨノナカノ》 繁借廬爾《シゲキカリイホニ》 住々而《スミスミテ》 將至國之《イケラムクニノ》 多附不知聞《タヅキシラズモ》
 
私ハ此ノ〔四字傍線〕世ノ中ノ、面倒ナ假庵ニ永ク住シデヰテ、何時極樂ヘ行ケルカ〔九字傍線〕、行クベキ極樂ト云フ〔五字傍線〕國ヘノ方法ガ分ラナイヨ。
 
○世間之繁借廬爾《ヨノナカノシゲキカリイホニ》――世の中の事繁き假廬に。繁きは事繁く煩はしい意。シキと訓んで醜きとする説はよくあ(87)るまい。借廬といつたのは、この世は假の世で、假の住居だからである。○住々而《スミスミテ》――住みつづけて。○將至國之《イケラムクニノ》――到らむ國は行くべき國、即ち極樂國。○多附不知聞《タヅキシラズモ》――方法を知らぬよ。
〔評〕 この世を假と見、淨土を欣求する思想がよく現はれてゐる。以上二首は僧侶の作か。
 
右歌二首(ハ)、河原寺之佛堂(ノ)》裡(ニ)在(リ)2倭琴(ノ)面(ニ)1也
 
河原寺は飛鳥川の西、今、高市郡高市村大字河原にある。正しくは弘福寺といふ寺である。俗に瑠璃の礎石と言はれるものが今も遺つてゐる。齊明天皇の川原の宮の舊址として信ぜられてゐるが、孝徳天皇紀に既に川原寺の名が見えてゐる。敏達天皇の御代の草創のやうに傳へられてゐるけれども、確かではない。倭の字を舊本佞に誤つてゐる。倭琴は六絃琴。卷五(八一〇)に日本琴とあるに同じ、舊本、面の下、之とあるは也の誤であらう。考と古義とはこの註の前に、下の鯨魚取海哉死爲流の歌があつたものとし、二首は三首の誤としてゐる。從ひ難い。
 
3851 心をし 無何有の郷に 置きてあらば ※[草がんむり/貌]姑射の山を 見まく近けむ
 
心乎之《ココロヲシ》 無何有乃郷爾《ムカウノサトニ》 置而有者《オキテアラバ》 藐狐射能山乎《ハコヤノヤマヲ》 見末久知香谿務《ミマクチカケム》
 
(88)心ヲサヘ虚無ニシテ、自然ニマカセル〔虚無〜傍線〕無何有郷ニ置イタナラバ、仙人ノ住ムトイフ〔八字傍線〕、※[草がんむり/貌]姑射ノ山ヲ見ル事ガ出來ルノモ、近イデアラウ。
 
○無何有乃郷爾《ムカウノサトニ》――無何有乃郷は莊子に出てゐる語で、虚無の郷、無爲にして自然なる郷。莊子に「彼至人者歸(シテ)2精神(ヲ)乎無始(ニ)1而甘2瞑(ス)乎無何有之郷1」「周※[行人偏+扁]咸一(ノ)者異(ニシ)v名(ヲ)同(シテ)v實(ヲ)其|指《ムネ》一也。嘗相與(ニ)遊2乎無何有之宮(ニ)1、同合而論無v所2終窮(スル)1乎」「惠子謂(テ)2莊子(ニ)1曰、吾有2大樹1人謂2之(ヲ)樗1云々、莊子曰、今子有2大樹1、患2其無1v用、何不v樹2之(ヲ)於無何有之郷廣莫之野1」「厭則又乘2天(ノ)莽眇之鳥(ニ)1以出(デ)2六極之外1、而遊(ブ)2無何有之郷(ニ)1以處2壙※[土+良]之野1」など所々に見えてゐる。○※[草がんむり/貌]姑※[身+矢]能山乎《ハコヤノヤマヲ》――※[草がんむり/貌]姑※[身+矢]能山も莊子に「※[草がんむり/貌]姑姑射山有(テ)2神人1居(レリ)焉、肌膚若(シ)2氷雪1、綽約(トシテ)若(シ)2處士1、不v食2五穀(ヲ)1吸(ヒ)v風(ヲ)飲(ミ)v〓(ヲ)乘(リ)2風氣(ニ)1御(シ)2飛龍(ニ)1而遊(ブ)2四海之外(ニ)1、其神凝(テ)使dv物(ヲ)不(シテ)2疵※[病垂/萬](セ)而年穀熟(セ)u」とある。仙人の住んでゐる靈山。○見末久知香谿務《ミマクチカケム》――見むことは近からむの意。これを略解は「目に近く見むと也」と解し、古義は「目前に見つべき事の近からむとなり」と言つてゐる。即ち一は距離の近きこととし、一は時間の近いことに解してゐる。やがて仙境をも見得るであらうの意であらうから、時間に解した古義に從ふべきであらう。
〔評〕 老莊思想のあらはれとして、集中最も注意すべき歌である。無何有の郷、※[草がんむり/貌]孤射の山といふやうな、長い漢語を取入れた手際は、他に殆ど類例がない。作者を記さないのは遺憾である。
 
右歌一首
 
一首の下に作者の名が脱ちたのかと、略解にあり、古義は其處に作主未詳の四字を補つてゐる。いづれも尤もな疑問である。
 
3852 いさなとり 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ
 
鯨魚取《イサナトリ》 海哉死爲流《ウミヤシニスル》 山哉死爲流《ヤマヤシニスル》 死許曾《シヌレコソ》 海者潮干而《ウミハシホヒテ》 山者枯爲(89)禮《ヤマハカレスレ》
 
(鯨魚取)海ハ死ヌデアラウカ。イヤ死ヌコトハナイ〔九字傍線〕。山ハ死ヌデアラウカ。死ヌコトハナイ。イヤサウデハナイゾ〔死ヌコ〜傍線〕。死ネバコソ海ハ汐ガ干、山ハ木ガ〔二字傍線〕枯レルノダ。海モ山モ死ヌコトガアルノダ。實ニ無常ナ世ノ中ダナア〔海モ〜傍線〕。
 
○鯨魚取《イサナトリ》――枕詞。海で鯨を捕る意で、海に冠してある。一三一參照。○海哉死爲流《ウミヤシニスル》――海は死ぬか、否、海は死なない。死ニは名詞である。○山哉死爲流《ヤマヤシニスル》――山は死ぬか、否山は死なない。○死許曾《シヌレコソ》――死ねばこその意。シネコソ・シネバコソ・シナバコツなどの訓は面白くない。○海者潮干而《ウミハシホヒテ》――海は潮が干上つて。海の潮干を海の死と見てゐる。○山者枯爲禮《ヤマハカレスレ》――山の木は枯れるのである。これも山の死と見てゐる。
〔評〕 旋頭歌。前半は海や山は死なぬものだと言ひ、後半はそれを打消して、海も山も死ぬものだと答へてゐる。人間のみならず、世上の何物にも死はある。實に世は無常至極だといつてゐる。考・古義がこれを前の厭世間無常歌のうちに入れたのは、一應は尤もである。併し彼には二首とあり、又倭琴の面に記したもので、長さにもおのづから制限のあることであるから、内容のみを以て推斷することは出來ない。卷十三の高山與海社者山隨如此毛現海隨然直有目人者花物曾空蝉與人《タカヤマトウミコソハヤマナガラカクモウツシクウミナガラシカモタダナラメヒトハハナモノゾウツセミノヨヒト》(三三三三)と似て、更に海山の無常相をも嗟嘆してゐる 深刻な厭世觀だ。形式的にも整然としてゐる。
 
右歌一首
 
嗤(リ)2咲(フ)痩人(ヲ)1歌二首
 
3853 石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふ物ぞ 鰻とりめせ
 
(90)石麻呂爾《イシマロニ》 吾物申《ワレモノマヲス》 夏痩爾《ナツヤセニ》 吉跡云物曾《ヨシトイフモノゾ》 武奈伎取喫《ムナギトリメセ》 賣世反也
 
石麻呂サン〔二字傍線〕ニ私ハ〔二字傍線〕物ヲ申シ上ゲマス。アナタハ、大層痩セテヰナサルガ〔アナ〜傍線〕鰻ハ夏痩ニヨイト世間デ〔三字傍線〕云フモノデスゾ。ダカラ〔三字傍線〕鰻ヲ捕ツテ召上リナサイ。
 
○石麻呂爾《イシマロニ》――石麻呂は左註ある如く、吉田連老のこと。この人は甚だしく瘠せてゐた。○武奈伎取食《ムナギリメセ》――武奈伎は鰻。和名抄に「※[魚+壇の旁]魚、文字集略云。※[魚+壇の旁] 音天、旡奈岐」とある。今ウナギといふのはムナギの轉訛である。食の下に賣世反也とあるのは、食の字はメセと訓むといふ註である。
〔評〕 「吾物申す、武奈伎取りめせ」など丁寧な言ひ方になつてゐるのが、却つて、石麻呂をひやかす、皮肉な言葉に聞える。夏瘠の藥として、鰻を用ゐたのは、土用鰻の起源を示すもので、面白い。
 
3854 痩す痩すも 生けらばあらむを 將やはた 鰻をとると 河に流るな
 
痩々母《ヤスヤスモ》 生有者將在乎《イケラバアラムヲ》 波多也波多《ハタヤハタ》 武奈伎乎漁取跡《ムナギヲトルト》 河爾流勿《カハニナガルナ》
 
然シイクラ〔五字傍線〕痩セナガラデモ、生キテ居レバヨイデアラウノニ、併シ又、鰻ヲ捕ルトテ、河ニ入ツテ〔三字傍線〕流レナサルナ。
アナタハ、身體ガ輕イカラ、河ニ流サレテ溺レルカモシレナイ。用心ナサイ〔アナ〜傍線〕。
 
○痩々母《ヤスヤスモ》――瘠せながらも。ヤセヤセモと訓むのはわるい。○生有為將在乎《イケラバアラムヲ》――生きてあらばよくあらむを。生きてあるならば、それでよいだらうのに。○波多也波多《ハタヤハタ》――ハタは併し又といふやうな意になつてゐる。ハタを二つ重ね、間にヤを置いてある。ヤは詠嘆の助詞。卷一の爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》(七四)のハタヤと意は異なつてゐる。
〔評〕 前の歌を受けて、更に言葉をつづけた形である。初二句も皮肉であるが、鰻を捕ると河に流るなといつたのは、如何にも瘠せた、ふわふわと水に流れさうな、青瓢箪のやうな男らしくて、滑稽至極である。これに對(91)して石麻呂も一言なかるべからずであるが、何も傳つてゐないのは、どうしたのであらう。答歌があまりひどい惡口であつたのに閉口して、家持が載せなかつたものか。
 
右有(リ)2吉田連老1字(ヲ)曰(ヘリ)2石麻呂(ト)所謂仁教之子也、其(ノ)老爲(リ)v人(ト)身體甚痩(セタリ)雖2多(ク)喫飲(スト)1形(ハ)以(タリ)2飢饉(ニ)1、因(リテ)v此(ニ)大伴宿禰家持、聊(カ)作(リテ)2斯(ノ)歌(ヲ)1以爲(セリ)2戯(レ)咲(フコトヲ)1也
 
吉田連老即ち右麻呂は、どういふ人か、まくわからない。代匠記には「光仁紀云、寶龜九年二月辛巳内典佐外從五位下吉田連古麻呂爲2兼豐前介1。十年二月壬午後正五位下。天應元年四月巳丑朔癸卯正六位上。石麻呂を紀にあやまりて古麻呂になすなるべし」とあるが、古義は「字《アザナ》を記すべきに非ねば、別人《コトヒト》なり」と反對してゐる。新解は「文徳實録、嘉祥三年十一月の條に、興世書主の傳を記して、本姓は吉田氏、祖は吉田宜、父は石麻呂とあるによれば、仁敬といふは吉田宜の字で、石麻呂はその子である」とある。流布の文徳實録には古麻呂又は右麻呂とあるが、石麻呂とある本もあるのであらう。宜は卷五に見えた作者で、歿年は明らかでないが、享年七十と懷風藻にある。丁度天平十六七年頃、大伴家持と同輩位の子がありさうな年輩に見える。文徳實録の興世朝臣書主が、その人の子としても、年代が大體適合するやうである。代匠記の説は古義に述べたやうな理由で、簡單に退けることは出來ないやうに思ふ。ことに三代實録の記載の如く、石麻呂が父の代からの醫者であつたとすると、家持が石麻呂に、夏瘠に鰻を捕つて食べよと言つたのが、頗る面白くなるわけである。又文徳實録に、興世朝臣書主を「書主雖v長2儒門1、身稍輕捷、超2躍高岸1浮2渡深水1、」とあるのも、親讓りの瘠ぎすであつたやうにも思はれる。仁教は類聚古集・古葉略類聚抄などに仁敬とある。石麻呂の父の字《アザナ》で、文徳實録に從へば、吉田連宜のことである。舊本、身體甚疲とある疲は、古寫本多く痩に作つてあるに從ふべきだ。飢饉は飢饉の人。飢ゑてゐる人。
 
(92)高宮王詠(メル)2數種物(ヲ)1歌二首
 
高宮王は傳が全くわからない。或は高安王か。然らば天平十一年に大原眞人の姓を賜はつた人、同十四年十月に歿してゐる。
 
3855 かはらふぢに 延ひおほどれる 屎葛 絶ゆることなく 宮仕せむ
 
※[草がんむり/皀]莢爾《カハラフヂニ》 延於保登禮流《ハヒオホドレル》 屎葛《クソカヅラ》 絶事無《タユルコトナク》 宮將爲《ミヤツカヘセム》
 
私ハイツマデモ〔七字傍線〕(※[草がんむり/皀]莢爾延於保登禮流屎葛)絶エルコトガナク、宮仕ヲシタイモノデス。
 
○※[草がんむり/皀]莢爾《カハラフヂニ》――舊本に葛英爾とあつて、フチノキニと訓んである。併し類聚古集・西本願寺本などの古寫本多く※[草がんむり/皀]莢に作つてゐるに從ふべきである。考にクズバナニとよんだのに從ふ説も多いが、なほ古寫本を尊重したい。古來※[草がんむり/皀]莢と稱するものに二種ある。一は本草和名に 「皀莢 加波良布知乃岐」とあるもので、今のサイカチである。康頼本草に「皀角、佐伊加知」とある。一は和名抄葛類に本草云皀莢 造夾二音、加波良不知、俗云地結」とあるもので、雲實即ちジヤケツイバラといふ灌木である。この二者は早く混同せられてゐるが、延喜式典藥寮の條に、「皀莢《カハラフヂ》二兩、皀莢二分一銖」などと記してあるものは、サイカチのことらしく、その實が藥用になるのである。屎蔓の這ひついたものとしては、喬木なるサイカチよりも、灌木なるジヤケツイバラの方が似合はしい。よつて予はカハラフヂとよんで、ジヤケツイバラのことにしたいと思ふ。これを新訓にサウケフとよんでゐる。藥種としてはさうも言つたであらうが、到る所に多い野生の植物であるから、和名を以(93)て訓まねばならぬ。○延於保登禮流《ハヒオホドレル》――這ひ亂れてゐる。オホドルは亂れはびこること。オドロ(荊棘)と語源を同じうする動詞らしい。○屎葛《クソカヅラ》――屎葛は和名抄に、「細子草、辨色立成云、細子草、久曾可都良」とあり。謂はゆるヘクソカヅラと稱する蔓草である。莖葉共に惡臭を有してゐる。花は鐘状をなし、灰白色で、内面に紫色を帶びてゐる。俗にヤイトバナといふ。以上二句は絶事無《タユルコトナク》に冠した序詞。○宮將爲《ミヤツカヘセム》――宮の一字をミヤツカヘと訓むのは、少し無理のやうであるが、舊訓もさうなつてゐる。然るに類聚古集・大矢本・京大本などは、宦に作つてゐる。宦は宮仕といふ字であるから、これが原字であらう。
〔評〕 ※[草がんむり/皀]莢・屎葛・宮の三種を詠み込んである。詠數種物歌としては品目が尠ない。絶ゆることのない宮仕に譬へるものとしては、吉野川の清流などを材料とするのが例であるのに、刺だらけの※[草がんむり/皀]莢と、名を聞くだに臭い感じのする屎葛とを以て、序詞を作つたのは隨分ひどい話だが、そこに滑稽を藏してゐるのであらう。高宮王はどういふ御方か分らないけれども、皇室に對する敬意を缺いてゐるといふ、批評を受けてもやむを得まい。
 
3856 波羅門の 作れる小田を 食む烏 まなぶたはれて 幡ほこに居り
 
波羅門乃《バラモヌノ》 作有流小田乎《ツクレルヲダヲ》 喫烏《ハムカラス》 瞼腫而《マナブタハレテ》 幡幢爾居《ハタホコニヲリ》
 
婆羅門僧正〔二字傍線〕ガ作ツテヰル田ノ稻〔二字傍線〕ヲ食べル烏ガ、ソノ罰デ〔四字傍線〕、目ノフチガ腫レ上ツ〔二字傍線〕テ、幡桙ノ竿ノ〔二字傍線〕上ニ止マツテヰル。
 
○婆羅門乃《バラモヌノ》――婆羅門は梵語、Brahman に漢字を當てたもの。(門は臻攝 n 音尾である。淨行と譯す。印度四姓の最上の階級で、神に仕へる種族である。併しここに言ふ婆羅門は、中天竺の人|菩提仙那《ボーデイセーナ》姓は婆羅遲《バラドワーシヤ》のことで、聖武天皇から僧正に任ぜられ、婆羅門僧正と呼ばれてゐたのである。天平八年遣唐使の船が歸國する時に、林邑の樂師佛哲を伴つて、吉備眞備等と共に來朝し、勅によつて大安寺に住し、莊田を與へられてゐた。次の句に作有流小田《ツクレルヲダ》とあるのは、即ちその莊田であらう。○喫烏《ハムカラス》――田を喰ひ荒らす鳥。○瞼腫而《マナブタハレテ》――瞼は和名抄(94)に、「瞼、唐韻云、瞼 巨險反、又居儼反、末奈布太」とある。目の蓋《フタ》の意か。この句は烏の目のふちが腫れての意。婆羅門の作つた田を喰ひ荒した爲に、その罰で烏の眼瞼が腫れたのであらう。○幡幢爾居《ハタホコニヲリ》――幡幢は旗を附けた桙。幡は和名抄調度部伽藍具に、「幡、涅槃經云、諸香木上懸2五色幡1 波太又見2征戰具1」征戰具に「者工記云、幡、音飜、波太、旌旗之惣名也」と出てゐて、旗のことである。ハタはもと布帛のこと、それを織る具即ち機《ハタモノ》をも略してハタといふのである。幡を梵語とする説は當るまい。幢は旌旗の屬で、儀衛又は指麾などに用ゐるものである。和名抄には「寶幡、華嚴經偈云、寶幢諸幡盖訓 波多保古」とある。幢の一字をもハタホコと訓む。ハタホコは要するに幡を附けた桙で、日像幢、月像幢の如きその一種であるが、ここのは、寺院の庭などに立てたものをいふのである。高楠順次郎氏は、説法し布教する時に、寺院の庭に幡を建てることが、必要の習慣となつてゐたと言はれ、婆羅門僧正の説法の感化力のために、自分の所行を後悔して涙を流し、烏の眼が腫れて、しをしをとして幡ほこに居るといふ意味だと説明して居られる(高楠氏の説は「天平文化」による)。烏の眼が腫れたのは、後悔して涙を流したと見るよりも、僧正の田を喰ひ荒した罰と見る方がよいであらうが、ともかく以上の如く見る時、その場の情景も明らかに理解し得るのである。
〔評〕 この歌は婆羅門・田・烏・瞼・幡幢の五種を詠み込んだもの。婆羅門僧正の説法と、その靈驗が鳥類にまで及んだことが詠んであり、又各所の寺院で幡桙を立ててゐたことなども知られ、當時の佛教弘布の状態がわかる貴重な作品である。その用語と調子の上に、一種の滑稽味があらはれてゐるのも面白い。この種の作品としては秀逸といつてよい。
 
戀(フル)2夫君(ヲ)歌一首
 
3857 飯はめど うまくもあらず 行き往けど 安くもあらず 茜さす 君が心し 忘れかねつも
 
飯喫騰《イヒハメド》 味母不在《ウマクモアラズ》 雖行往《ユキユケド》 安久毛不有《ヤスクモアラズ》 赤根佐須《アカネサス》 君之情志《キミガココロシ》 忘(95)可禰津藻《ワスレカネツモ》
 
私ハ〔二字傍線〕飯ヲ食ベテモ、ウマクモナシ、外ヲ歩イテモ心ガ落着カズ、只〔傍線〕(赤根佐須)貴方ノ御親切ナ〔四字傍線〕御心ガ忘レカネマスヨ。
 
○飯喫騰《イヒハメド》――略解にはイヒクヘドとあるが、前にも喫をハムに用ゐてゐる。○雖行往《ユキユケド》――從來の諸訓アリケドモ或はアルケドモとあるが、新訓にユキユケドとあるのが、文字からいへば當つてゐる。意味からいへば絶えず歩くことになつて,それほどに言はなくても、よいところのやうに思はれるが、輕くいつてゐるものと見て、新訓に從はう。○安久毛不有《ヤスクモアラズ》――心が安らかでない。心の落ちつかぬことであらう。○赤根佐須《アカネサス》――枕詞。赤い色をしてゐる意であるから、美しい意として君に冠するのである。
〔評〕 七句からなつてゐる。短歌でもなく旋頭歌でもない。長歌としては、これより短い形式はないわけである。謂はゆる小長歌に屬すべきものであらう。左註によると、この歌も、武きもののふの心を和げたものである。
 
右歌一首傳云、佐爲王有2近習(ノ)婢1也于v時(ニ)宿直《トノヰ》不v遑《イトマアラ》、夫君(ニ)難(シ)v遇(ヒ)、感情馳(セ)結《ムスボホレ》、係戀實(ニ)深(シ)、於v是、當宿之夜、夢(ノ)裡(ニ)相見(ル)、覺寤(メテ)探(リ)抱(クニ)曾(テ)無(シ)v觸(ル)v手(ニ)、爾乃哽※[口+周]歔欷(シテ)高聲(ニ)
吟2詠(シキ)此(ノ)歌(ヲ)1、因(テ)王聞(キテ)v之(ヲ)哀慟(シ)永(ク)免(シキ)2侍宿(ヲ)1也
 
任爲王は葛城王の弟。天平八年十一月、橘宿禰佐爲となつた人。馳結は珍らしい熟語である。馳せ結ぼれと訓むか。心のあくがれ亂れるをいふのであらう。哽※[口+周]は古葉略類聚抄・西本願寺本などの諸古寫本、多く※[口+周]を〓に作る。即ち哽咽《カウエツ》である。哽も咽も共にむせぶこと。歔欷はすすりなき。
 
3858 この頃の 吾が戀力 記し集め 功に申さば 五位のかかふり
 
(96)比來之《コノコロノ》 吾戀力《ワガコヒチカラ》 記集《シルシツメ》 功爾申者《クウニマヲサバ》 五位乃冠《ゴヰノカカフリ》
 
コノ頃ノ私ノ戀ノ爲ノ〔二字傍線〕骨折ヲ文書ニ〔三字傍線〕記シ集メテ、功績トシテ、官ニ〔二字傍線〕申シ上ゲタナラバ、御褒美トシテ〔六字傍線〕、五位ノ冠ニ相當スルデアラウ〔九字傍線〕。
 
○吾戀力《ワガコヒチカラ》――戀力は戀の勞即ち戀の骨折り。代匠記初稿本に、「周禮(ニ)王功曰(ヒ)v勲(ト)、國功曰v功(ト)、民功曰v庸(ト)、事功曰v勞(ト)、治功曰v力(ト)戰功曰v多(ト)」とある。○記集《シルシツメ》――記し集め。古義に集をツメと訓んだのがよい。○功爾申者《クウニマヲサバ》――勲功として上申したならば。○五位乃冠《ゴヰノカカフリ》――五位の冠位に相當する。この句の下に、「ニ當ル」といふやうな言葉が略されてゐる。冠は即ち冠位で、始め位階は冠によつて表章せられたのであつたが、大寶元年新令によつて、冠を賜ふことを止め、位記のみを賜はつたけれども、なほ位階を冠《カカフリ》と稱したのである。その制によれば、五位以上は勅授となつてゐたから、五位に叙せられるのは、今日で言へば勅任官になるのと同じである。
〔評〕 この頃の自分の戀故の勞力を上申したら、勅任官になるだけの功績があるといふのだから、實に振つたものである。戀の勞苦の多いことを述べる點は、卷四の戀草呼力車二七車積而戀良苦吾心柄《コヒクサヲチカラクルマニナナクルマツミテコフラクワガココロカラ》(六九四)と同じであるが、これは全く滑稽を基調としてゐる。
 
3859 この頃の 吾が戀力 たばらずは みさとつかさに 出でて訴へむ
 
頃者之《コノゴロノ》 吾戀力《ワガコヒチカラ》 不給者《タバラズハ》 京兆爾《ミサトツカサニ》 出而將訴《イデテウタヘム》
 
コノ頃ノ私ガ戀ノ爲ノ〔二字傍線〕骨折ニ御褒美ヲ〔四字傍線〕下サラナイナラバ、私ハ訴訟ノ事務ヲ取扱フ〔私ハ〜傍線〕、京職ノ役所ニ出テ、訴ヘヨウト思フ〔三字傍線〕。
 
○不給者《タバラズバ》――褒賞を賜はらないならば。○京兆爾《ミサトツカサニ》――舊本兆を〓に誤り、京〓をミヤコと訓み、次句につづけミヤコニイデテとなつてゐる。考に、京兆をミサトヅカサと訓んだのがよい。天武天皇紀に京職をミサトツカサ(97)と訓してある。京兆は京職の唐名。左京職と右京職で京中を分管し、戸口・田宅・租税・商業・道路・橋梁及び訴訟訟のことを掌つてゐた。大寶元年に制定せられた。
〔評〕 前歌の連作。どこまでも滑稽的に言つてゐる。作者は分らないが、京職の設置せられた、大寶元年以後の作なることは明らかである。
 
右歌二首
 
筑前國志賀白水郎(ノ)歌十首
 
志賀の海士の歌とあるが、左註の終にあるやうに、山上憶良の作に違ひない。
 
3860 おほきみの 遣はさなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖ふる
 
王之《オホキミノ》 不遣爾《ツカハサナクニ》 情進爾《サカシラニ》 行之荒雄良《ユキシアラヲラ》 奧爾袖振《オキニソデフル》
 
天子樣ガオ遣シニナツタノデモナイノニ、自分ノ心カラ〔六字傍線〕サシ出ガマシク、人ノ頼ミヲ引受ケテ、對島ヘ出カケテ〔人ノ〜傍線〕行ツタ荒雄ハ、沖ニ出テ別ヲ惜シンデ〔八字傍線〕袖ヲ振ツテヰル。
 
○情進爾《サカシラニ》――ここの情進の二字を、古くからサカシラと訓んでゐる。後に情出爾《サカシラニ》(三八六四)とあるのも同じである。サカシラは賢ぶる意であるが、ここは吾が心から進んでやることであらう。○行之荒雄良《ユキシアラヲラ》――ラは意味のない助詞。卷三の憶良等者《オクララハ》(三三七)、この卷の坂門等之《サカトラガ》(三八二一)のラと同じ。○奧爾袖振《オキニソデフル》――沖で袖を振つてゐる。海に溺れて袖を振るとするもの、救を求めて袖を振るとするもの、別を悲しんで袖を振るとするもの、以上の三説がある。後説を採る。
〔評〕 官命でもないのに、醉狂に代つて引受けた荒雄の、出船の淋しい姿を詠んでゐる。下の官許曾《ツカサコソ》(三八六四)とよ(98)く似てゐる。
 
3861 荒雄らを 來むか來じかと 飯盛りて 門に出で立ち 待てど來まさず
 
荒雄良乎《アラヲラヲ》 將來可不來可等《コムカコジカト》 飯盛而《イヒモリテ》 門爾出立《カドニイデタチ》 雖待來不座《マテドキマサズ》
 
對馬ヘ行ツタ〔六字傍線〕荒雄ガ歸ツテ〔三字傍線〕來ルカ、來ナイカト、心配シナガラ、留守居ヲシテヰル妻子ハ〔心配〜傍線〕、飯ヲ椀ニ盛ツテ、門ニ出テ待ツテヰルケレドモ歸ツテ〔三字傍線〕來ナイ。
 
○將來可不來可等《コムカコジカト》――來るだらうか來ないだらうかと。卷十に梅花咲而落去者吾妹乎將來香不來香跡吾待乃木曾《ウメノハナサキテチリナバワキモコヲコムカコジカトワガマツノキゾ》(一九二二)とある。○飯盛而《イヒモリテ》――飯を器に盛つて。今も人の留守中、その人の爲に、飯を盛つて供へて置く風習があるのは、この遺風であらう。
〔評〕 留守居の妻子どもが、焦慮してゐる氣分がよんである。留守中飯を盛つて待つのは、古俗研究資料として好材料である。
 
3862 志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが よすがの山と 見つつ偲ばむ
 
志賀乃山《シカノヤマ》 痛勿伐《イタクナキリソ》 荒雄良我《アラヲラガ》 余須可乃山跡《ヨスガノヤマト》 見管將偲《ミツツシヌバム》
 
志賀ノ山ヲヒドク伐ルナヨ。アノ山ハ荒雄ノ住ンデヰル島ノ山ダカラ、アノ山ヲ〔アノ山ハ〜傍線〕荒雄ノ縁故ノアル山ト思ツテ〔三字傍線〕眺メナガラ、荒雄ヲ〔三字傍線〕思ヒ慕ハウ。
 
○荒雄良我余須可乃山跡《アラヲラガヨスガノヤマト》――荒雄と關係ある山として。荒雄の住む島の山であるから、彼と馴染深いわけである。略解には、「荒雄を此志賀山に葬りたればかく詠めり」とある。從ひ難い。荒雄は沖で死んだので、遺骸を葬つたらしい形跡はない。下にも年之八歳乎待騰來不座《トシノヤトセヲマテドキマサズ》(三八六五)とある。
(99)〔評〕 荒雄の記念として、眺めようと思ふ志賀山が、濫伐の爲、山容の改るのを嫌つたのである。敬虔な思慕。
 
3863 荒雄らが 行きにし日より 志賀の海人の 大浦田沼は さぶしくもあるか
 
荒雄良我《アラヲラガ》 去爾之日從《ユキニシヒヨリ》 志賀乃安麻乃《シカノアマノ》 大浦田沼者《オホウラタヌハ》 不樂有哉《サブシクモアルカ》
 
荒雄ガ出カケテ行ツタ日カラ、志賀ノ海士ドモガ、仕事ヲスル〔五字傍線〕大浦ノ田ノ沼地ハ淋シイヨ。
 
○大浦田沼者《オホウラタヌハ》――わからない句である。代匠記精撰本に「大浦田沼は海邊に田ありて、それに沼水を任すを云歟」とあり、考にも「志賀の大浦田の沼なり。まを略」とある。その他の諸書大體同樣であるが、新考はこれを夫繩田服者《ソノナハタギハ》の誤とし、網の繩をたぐる事と解してゐる。併し改字は全く根據のない臆測で、夫は集中ソノと訓んだ例はない。やはり大浦を地名とし、田沼は其處の田の沼状をなしてゐるのをさしたのであらう。つまり水田のことであらう。九州萬葉手記に「さて私は地名と考へて太宰管内志を調べましたところ、『(海路記)に大浦田沼と云ふ名所志賀邊に有と、歌枕にもあり。(宗氏家譜)武藤判官知宗對馬島の阿比留平太郎征伐の件に、浦田と云姓も見えたり。吾友(香月春岑)云志賀の島なる勝馬村の内に、大浦田といふ所ありて、古の田沼のさまなどもかづかづ殘れりと云へりき』とありましたので、志賀海神杜に賽しましたついでに、境内入口の左側から、背後の丘陵を辿り勝馬村を探りました。この村は三方に山を控へ、谷ふところにありまして、百餘戸農を營んでゐます。北は海岸の砂丘まで一面田畑が續いてゐます。この勝馬村の中央から左に、弘村に向つて一丘越したところに、大浦と云ふ地があります。今は山麓から北海岸に向つて段段畑が展けてゐますが、古くはこの田は水田で、海水も入つて來てゐたとのことでした。もし地名とすればこの邊ではなかつたでせうか」とある。○不樂有哉《サブシクモアルカ》――舊訓カナシクモアルカ、代匠記初稿本カナシクモアレヤ、同精撰本サビシクモアルカ、考サブシカルカモ、古義は有の上、不の字脱として、サブシカラズヤと訓んでゐる。文字のままで、サブシクモアルカと訓むべきである。淋しいことかなの意。
〔評〕 荒雄行きて歸らず、その耕した大浦の水田も、彼の姿を見ずして寂しくなつたといふのである。意味の不(100)明瞭な點もあるが、淋しい氣分だけはわかつてゐる。
 
3864 つかさこそ さしてもやらめ さかしらに 行きし荒雄ら 波に袖ふる
 
官許曾《ツカサコソ》 指弖毛遣米《サシテモヤラメ》 情出爾《サカシラニ》 行之荒雄良《ユキシアラヲラ》 波爾袖振《ナミニソデフル》
 
役人コソ指命シテ對馬ヘ〔三字傍線〕遣リモシヨウガ、自分ノ心カラ〔七字傍線〕、差シ出ガマシク、出カケテ行ツタ荒雄ハ、別ヲ惜シンデ〔六字傍線〕波ノ上デ袖ヲ振ツテヰルヨ。
 
○官許曾指弖毛遣米《ツカサコソサシテモヤラメ》――役人こそ荒雄を指命して派遣もしようが。古義に「その身のあづかりうけもちたる官職ならばこそ、朝より差(シ)科(セ)て遣すべき理なれ。さる事にあらず、云々」とあるのは少し違つてゐる。
〔評〕 前の王之(《オホギミノ》(三八六〇)と内容も用語も酷似し、殆ど別歌として掲げる要がない程である。
 
3865 荒雄らは めこのなりをば 思はずろ 年の八とせを 待てど來まさず
 
荒雄良者《アラヲラハ》 妻子之産業乎波《メコノナリヲバ》 不念呂《オモハズロ》 年之八歳乎《トシノヤトセヲ》 待騰來不座《マテドキマサズ》
 
荒雄ハ妻ヤ子ノ世渡リノ業ヲ、何トモ思ハナイト見エル〔四字傍線〕ヨ。モウ出カケテカラ〔八字傍線〕、長年ノ間ヲイクラ〔三字傍線〕待ツテヰテモ、出タキリデ、歸ツテ〔八字傍線〕オイデニナラナイ。
 
○妻子之産業乎波《メコノナリヲバ》――産業は舊訓ワザとあるが、代匠記精撰本にナリと訓んだのがよい。ナリは生成の義で農業によつて物を産出すること。轉じて人の生活する家業をいふ。ナリハヒに同じ。○不念《オモハズロ》――ロは助詞で、輕い詠嘆の意があるやうである。この句で切れてゐる。古義に「念はずあるらむといふ意と聞えたり」とある。ラムから來たロは今も筑前の方言として用ゐられてゐるが、これはそれとは別である。もしラムと同じならば思ハヌロとあるべきであらう。
(101)〔評〕 ロといふ助詞を用ゐたのは珍しい。或は筑前地方の當時の方言を採つたものか。三句切になつてゐる。
 
3866 沖つ鳥 鴨とふ船の かへり來ば 也良の埼守 早く告げこそ
 
奧鳥《オキツドリ》 鴨云船之《カモトフフネノ》 還來者《カヘリコバ》 也良乃埼守《ヤラノサキモリ》 早告許曾《ハヤクツゲコソ》
 
荒雄ガ乘ツテ行ツタ〔九字傍線〕、(奧鳥)鴨トイフ名ノ〔二字傍線〕船ガ、歸ツテ來タナラバ、也良ノ崎ノ番人ヨ〔傍線〕、早クソレヲ〔三字傍線〕知ラセテクレヨ。
 
○奧鳥《オキツドリ》――枕詞。鴨《カモ》とつづく意は明らかである。○鴨云舟之《カモトフフネノ》――鴨云舟《カモトフフネ》は鴨といふ舟。鴨は舟の名である。○也良乃埼守《ヤラノサキモリ》――也良の埼にある防人。也良の埼は能許《ノコ》島(殘島)の北端の岬。今、訛つて荒崎といつてゐる。能許島については、卷十五能許乃宇良奈美《ノコノウラナミ》(三六七〇)參照。○早告許曾《ハヤクツゲコソ》――コソは願望の助詞。
〔評〕 荒雄を待つ家の人の心。荒雄の乘つて行つた船は、太宰府の官船で、相當大きなものであつたらう。鴨といふ名も、大船であるから附いてゐたものか。ともかく船名が詠まれてゐるのは珍らしい。
 
3867 沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の埼 たみて榜ぎ來と 聞かれ來ぬかも
 
奥鳥《オキツトリ》 鴨云舟者《カモトフフネハ》 也良乃埼《ヤラノサキ》 多未弖榜來跡《タミテコギクト》 所聞許奴可聞《キカレコヌカモ》
 
荒雄ガ乘ツテヰル〔八字傍線〕(奧鳥)鴨トイフ船ハ、也良ノ崎ヲ廻ツテ、漕イデ歸ツテ〔三字傍線〕來ルト人ノ話ニモ〔五字傍線〕聞エテ來ナイヨ。
 
○多末弖榜來跡《タミテコギクト》――タミテは回つて。卷三|礒前榜手回行者《イソノサキコギタミユケバ》(二七三)とある。○所聞許奴可聞《キカレコヌカモ》――古義は舊本、禮を衣の誤としキコエコヌカモ、新訓は古葉略類聚抄に、禮を衣に作るに依つてキコエコヌカモとし、新解は同じく古葉略類聚抄によつてキカエコヌカモと訓んでゐる。校本萬葉集によると、禮の異本としては、類聚古集が夜、古葉略類聚抄が衣となつてゐるだけである。さうして衣は常に阿行のエに用ゐられて。也行に用ゐたのは卷十八に也末古衣野由伎《ヤマコエヌユキ》(四一一六)の一例があるのみで、それは轉寫の際の誤であらうと考へられてゐる。從つて(102)この禮を衣の誤たすることは、慎重な考慮を要するわけである。也行に活用するレ・ルが上代に於いてエ・ユであつたことは確であるが、レ・ルが無かつたとは斷言出來ない。卷五に、唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》(八九四)とあるはその一例であり、續紀の宣命にもこの用法を發見するのである。だから、ここは、舊本のままにして置く方が無難であらう。キカレコヌカモは人の話にも聞かれ來ないなあ、即ち聞えて來ないことよと詠歎したのである。
〔評〕 前歌で述べた期待が、全く裏切られて、沓として消息のない悲しみを歌つてゐる。
 
3868 沖行くや 赤ら小船に つとやらば けだし人見て 解きあけ見むかも
 
奥去哉《オキユクヤ》 赤羅小船爾《アカラヲブネニ》 ※[果/衣]遣者《ツトヤラバ》 若人見而《ケダシヒトミテ》 解披見鴨《トキアケミムカモ》
 
沖ヲ漕イデ行ク、朱塗リノ小舟ニ言傳ヲシテ、荒雄ノ處ヘ〔十字傍線〕、物品ヲ送リタイト思フガ、サウシ〔九字傍線〕タナラバ、多分人ガ、ソレヲ〔三字傍線〕見テ開ケテ見ルデアラウカ。人ニ頼ンデ物モ送ルコトガ出來ナイノハ悲シイ〔人ニ〜傍線〕。
 
○奧去哉《オキユクヤ》――沖を漕いで行く、ヤは輕く添へた詠歎助詞で切れ字ではない。○赤羅小船爾《アカラヲブネニ》――赤羅小船は赤乃曾保船《アケノソホブネ》(二七〇)・赤曾朋船《アケノソホブネ》(三三〇〇)とあつたのと同じく、赤色の塗料を施した船。これは當時としては立派な船で、即ち官船であつたのであらうと思はれる。○※[果/衣]遣者《ツトヤラバ》――※[果/衣]は藁などに包んだ物をいふのが原義で、轉じて土産・贈物の意となる。ここは贈物。○若人見而《ケダシヒトミテ》――舊訓ワカキヒトミテとあるのは論外であるが、考にモシモヒトミテとあるのもよくない。若君香跡《ケダシキミカト》(二六九三)・若雲《ケダシクモ》(二九二九に傚つて、若はケダシと詠むべきである。○解披見鴨《トキアケミムカモ》――考にヒラキミムカモとあるが、舊訓のままがよい。
〔評〕 荒雄の家に留守居する妻の心を詠んだもの。夫の許へ贈物をしようと思ふが、人に開けて見られるのが恥かしいといふので、女らしい心づかひである。
 
3869 大船に 小船引きそへ かづくとも 志賀の荒雄に かづきあはめやも
 
(103)大舶爾《オホブネニ》 小船引副《ヲブネヒキソヘ》 可豆久登毛《カヅクトモ》 志賀乃荒雄爾《シカノアラヲニ》 潜將相八方《カヅキアハメヤモ》
 
大キイ船ニ小サイ舟ヲ引キ添ヘテ、海ヘ漕イデ出テ、澤山ノ人デ海ノ中ニ〔海ヘ〜傍線〕潜ツテ探シテ〔二字傍線〕モ、志賀ノ荒雄ニハ、潜ツテ水ノ中デ〔四字傍線〕逢フコトハ出來マイヨ。悲シイコトダ〔六字傍線〕。
 
○小船引副《ヲブネヒキソヘ》――大船の後に小船を曳いて一緒にして。多勢の人が大船小船に分乘して、海に出かけることを言つてゐる。○可豆久登毛《カヅクトモ》――海中に潜つても 海中に潜つて荒雄を探してもの意。○潜將相八方《カヅキアハメヤモ》――潜つてゐる中に出逢ふことがあらうや、とても見込がないといふのである。
〔評〕 いよいよ荒雄の生存の見込が、なくなつたことを悲しんでゐる。結句が絶望的の叫である。以上十首の歌は連作になつてゐるが、思想的に見て必ずしも順序が立つてはゐない。併し冒頭は荒雄の出發について歌ひ、最後は不歸の客となつたことの絶望の聲であるから、全く帽序がないでもない。
 
右、以(テ)2神龜年中(ヲ)1、大宰府、差(シテ)2筑前國宗像郡之百姓|宗形部津麿《ムナカタベノツマロヲ》1充(ツ)2對馬乃送(ル)v粮(ヲ)舶(ノ)〓師《カトリニ》1也、于v時津麻呂、詣(リテ)2於滓屋郡志賀村(ノ)白水郎荒雄之許(ニ)1語(リテ)曰(ク)、僕有(リ)2小事1、若疑(フラクハ)不v許(ル)歟、荒雄答(ヘテ)曰(ク)、走《ワレ》雖v異(ニスト)v郡(ヲ)同(クスル)v船(ヲ)日久(シ)、志篤(シ)2兄弟(ヨリ)1、在(リ)2於殉(スルニ)1v死(ニ)、豈復(タ)辭(マンヤ)哉、津麿曰(ク)、府官差(シ)v僕(ヲ)充(ツ)2對馬(ノ)送(ル)v粮(ヲ)舶(ノ)〓師《カトリニ》1客齒袁(ヘ)老(イテ)不v堪2海路(ニ)1、故來※[衣+弖]候(ス)、願(ハクハ)垂(レヨ)2相替(ルコトヲ)1矣、於v是荒雄許(シ)諾(ヒテ)遂(ニ)從(ヒ)2彼事(ニ)1、自(リ)2肥前國松浦縣美禰良久埼1發(シ)v舶(ヲ)直(ニ)射(シテ)2對馬(ヲ)1渡(ル)v海(ヲ)、登時《ソノトキ》忽(ニ)天暗冥(ニ)暴風交(ヘ)v雨(ヲ)竟(ニ)無(クシテ)2順風1沈2没(ス)海中(ニ)1焉、因(リテ)v斯(ニ)妻子等不v(104)勝2犢慕(ニ)1、裁2作(ス)此謌(ヲ)1或(ハ)云(フ)、筑前國守山上憶良臣、悲2感(シ)妻子之傷(ヲ)1、述(ベテ)v志(ヲ)而作(レリト)2此歌(ヲ)1
 
差は差使す、擇ぶなどの意。百姓は庶民、人民。宗形部津麻呂は傳がわからない。對馬送v粮舶は、主税式上に、「