入力者注、本文語句を大字にし、註釈を二行割にしているのを、改行して一行書きにした。頭書の二字を□で囲んでいるが、注記がわずらわしいので、凡例を除き、ただ「頭書、」とした。
 
(1)     新刊萬葉集攷證凡例
 
一、本書は、帝國圖書館所蔵の寫本によつて刊行した。而して便宜上、多少原本の體裁を改めたところがある。原本には、往々頭書があるが、これも本文中に收めて、初に頭書〔二字□で囲む〕と記すこととした。
一、原本は、萬葉集の本文を掲げ、さてその一二句づつを、別に註してゐるのだが、往々初の本文を、書かずに明けてあるところがある。これは新に補つて、括弧を加へておいた。その文は、別に註する爲に摘出した句に據り、それをも缺いた部分は、註釋の底本として用ゐたと認められるところの、校異本萬葉集によつた。
一、その外、すべて括弧の中にある文字は、刊行に際して校者の新に加へた文字である。
一、原本には、稀に句讀、濁點、返り點があつたが、今、讀者の便宜のために、全部に句讀、濁點、返り點を施した。原本に修正を施しであるものはその修正に從つた。
一、註釋中、萬葉集の本文を引用すること極めて多いが、その引用の所在を示すところの丁數は、すなはち校異本萬葉集によると認められるが、これは、寛永版本、寶永版本に於いても丁數は全く同じである。
また攷證中の他の部分との照應を出してゐるが、これは寫本に於ける丁數であつて、この刊本の頁(2)數を出しておくことが出來なかった。
一、註釋中、しばしば引用するところの、萬葉考に引ける萬葉集の本文の卷數は、賀茂眞淵の改定した卷數によるのであつて、現行本の卷數と一致しないものである。これは云ふまでも無いことであるが、一應ここに記しておく。因に眞淵は、現行本の卷第一、二、十三、十一、十二、十四、十、七、五、九、十五、八、四、三、六、十六、十七、十八、十九、二十の順序に、卷の順を改めてゐる。
 
(1)    新刊萬葉集攷證解題
 
 萬葉集攷證は、萬葉集卷第一より六に至るまでの六卷の註解で、各卷の終にある識語によれば、岸本由豆流の著述である。この書は、いまだ刊行せられし事なく、寫本の傳本も極めて少く、帝國圖書館と岩崎文庫とに各一部あるを見たのみである。岩崎文庫所藏の本は、文學博士木村正辭氏の舊藏であるが、帝國圖書館所藏の本に依つて書寫したものと思はれるから、畢竟、この書は、帝國圖書館所藏の本があるによつて、傳つたともいふべきである。
 帝國圖書館所藏本萬葉集攷證は、十五册より成り、今これを三册づつ五册に合畷してある。卷第一、五、六は各卷二册、卷第二、三、四は各三册である。版心下方に、「攷證閣」とある罫紙を用ゐてゐる。攷證閣は、すなはち著者の閣號であるから、この本は多分、著者家藏の本であつたらう。書中、往々、意外なる誤謬と思はれるものを見受けるから、著者自筆の稿本では無くして、他筆をして、草稿本を淨書せしめた本に屬するであらう。たとへば本書卷第一の九五頁一七七頁の如き、その書寫に際しての錯亂の一例と考へられる。
 各卷の奧なる由豆流の識語によれば、本書は、文政六年十月十九日に稿を起し、文政十一年九月十二日に至つて、卷第六の攷證を終つた。彼の家は白銀町にあつたが、その間、文政七年二月一日、同十一年二月五日の二囘に火炎に遭つて、家が燒けた。また卷第五の下册の終には「つこもりの頃より(2)例の物狂しき人にかゝりて」著述のやゝ怠つたことを記してゐる。かゝる災禍の爲に、往々中絶することがあつたが、しかも勇氣を起して執筆を續けて行つたのである。今傳はるところは卷第六までであるが、なほ集全部の攷證を爲し、提要をも作る豫定であつたと見え、書中往々、末の卷の攷證と照應を附け、又は提要にいふべしなど見えてゐる。その末の卷の攷證との照應は、丁數の部分を空白のまゝに明けてあるのが多いけれども、中には本書卷第一の一五一頁一七七頁の如き、卷第七の攷證の丁數を明記したものもあつて、少くともその部分の攷證は出來てゐたものと考へられる。また第一册の禮紙に、
  時代【なへての説は孝謙天皇の御宇左大臣橘諸兄公に勅して撰す書未成して諸兄公薨せられけれは其後平城天皇の御宇撰集成 天平寶字元年諸兄公薨本集廿に】
とあるもの、けだし提要の一部分を爲すものであらう。なほ「枕詞にて予が冠辭考補正(もしくは冠辭考補遺)に出せり」など見えてゐるから、彼に同名の著述があり、或は著述を爲す意があつたものと考へられる。以上の如き部分は、果して脱稿したものが存して居るか否かを知らない。卷第六までに就いていはば、その分量は、萬葉代匠記、萬葉集古義等の同卷までの分量と匹敵するものである。
 攷證の底本とした萬葉集の本文は、橋本經亮、山田以文等の校異本萬葉集であることが、その字面によつて知られる。書中に用ゐてあるところの校異も、校異本から出たと思はれるものが多分である。本書の價値は、その書名にても知らるる如く、豐富博捜なる引例に在る。殊に漢籍を多く引き來つた(3)ことは、萬葉註釋書中隨一とも稱すべきであらうか。彼が文政八年九月より約一個年を費して、萬葉集の類字を爲したことも、その効果がよく本書中に現れてゐる。著者の見解は、おほむね穩健であつて、しかも創見も乏しく無い。難解の詞句に至つては、從來の説を列擧して、見む人の心に從ふべしと云つてゐるのも、危からざる態度である。
 本書は傳本が少いために、從來あまり學者の顧る所とならなかつたが、木村博士はこの書の寫本を作つて所藏し、これによつて益せられた點も少くないやうである。殊に、岩崎文庫所藏の萬葉集美夫君志の稿本を見る者は、その影響の意外に多きに驚くであらう。
 岸本由豆流は、伊勢の人朝田某の子であるが、幕府の弓弦師岸本讃岐の養子となつて、岸本大隅と稱した。國學は村田春海の門であつて、藏書三萬卷と稱せられ、國文學書の校合註解を爲すこと數十部である。家を攷證閣と稱した程あつて、その註解中、攷證を名となすもの多く、いづれも學者を益すること尠少ならざるものである。博覽索捜の勞によつて、詞句の典據を證明し、引例を豐富にして、文詞の理解を爲したものが、その大部分である。
 由豆流は弘化三年閏五月十七日に年五十八で歿したといふから、萬葉集攷證はその壯年の著述である。しかしてこの書は、萬葉集註稱書中、重要なるものの一であつて、由豆流の著述中でも代表的のものであることを疑はない。
 今のこの書は、帝國圖書館所藏の本によつて刊行した。本書の謄寫に際して便宜を與へられたる帝(4)國圖書館、ならびに同館司書村島靖雄氏の好意、蠅頭の細字で書かれてある原本から印刷原痛を作つた鈴木滿吉氏外數氏の努力、また書寫より印行に至るまでの古今書院主人の苦心は、本書の印行に際して深く感謝する所である。而して萬葉集叢書の一輯として本書を選擇し、印刷原稿作製の監督、ならびに原本との比校に當られたのは、實に久保田俊彦氏である。自分はただ、同氏多忙の故を以つて、新に句讀點、濁點、返り點等を補ひ、局部に就いて原本と重校を爲したに過ぎない。本書の刊行を希ふが故に、代つて事を執つた次第である。
   大正十三年十一月
                     武田祐吉
 
萬葉集卷第一
 
 雜歌。
雜歌は、くさ/”\のうたとよむべし。書紀神代紀上に品、天武紀に種々、持統紀に雜、本集十九【卅九丁】に種、大祓祝詞に雜々、これらみなくさ/”\とよめり。いづれも意同じ。又説文云、雜五彩相合也云々。楊子方言卷三云、雜集也云々。廣雅釋詁三云、雜聚也云々。國語鄭語注云、雜合也云々などあるにても、雜はこれかれまじはれる事なるをしるべし。眞淵云、行幸、王臣の遊宴、旅、このほかくさぐさのうたをのせしかばしかいふ。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメノシタシラススメラミコトノミヨ》 大泊瀬稚武《オホハツセワカタケノ》天皇
書紀雄略紀云、大泊瀬幼武天皇、雄朝津間稚子宿禰天皇第五子也云々。十一月壬子朔甲子、天皇命2有司1、設2壇於泊瀬朝倉1、即2天皇位1、遂定v宮焉云々と見えたり。御宇は、あめのしたしらすとよむべし。古事記中卷には、治天下をあめのしたしろしめすとよみ、書紀神代紀に宇宙、神武紀に區宇、これをもあめのしたとよめり。又、孝徳紀に、御宇天皇とあるを、あめのしたしらす、すめらみことゝよめり。今はこの訓にしたがへり。靈異記上卷には、御【乎左女多比之】宇【阿米乃之多】とよみ、類聚名義抄、字鏡集等には宇をあめのしたとよめり。さて、尚書泰誓上傳云、御治也云々とあれば、古事記に治天下とある治の字も、御とかよへり。莊子庚桑篇云、四方上下曰v宇、古往今來(2)曰v宙云々など見えたり。大泊瀬稚武天皇、この七字印本大字にかけり。今、古本拾穗抄などによりて小字とせり。この御名、書紀には大泊瀬幼武天皇とし、古事記には大長谷若建命とせり。新撰姓氏録第廿四、秦忌寸條に、大泊瀬稚武天皇とあり。これ本集と同じ。眞淵云、この御名、後人の注なるを、今本に大字にせしは誤れり。今は古本によりて小字にせり。下同じ。此一二の卷にはかくのごとくその宮の名をあげて、その御代の歌をのせたり。
 
 天皇御製歌。
眞淵云、御製歌はおほんうたと訓也。すべて天皇の御事をば、大御身、大御代、大御食、大御歌などかきて、かく訓こと、古事記をはじめて例おほし。
 
1 籠毛與《コモヨ・カタマモヨ》。
籠は、舊訓ことあれど、東麿眞淵等の、かたまとよまれしに、したがへり。書紀神代紀下に、無目籠《マナシカタマ》とあるを、同一書に無目堅間《マナシカタマ》とせしにても、籠はかたまとよまんこと論なし。古事記上卷に无目勝間《マナシカツマ》、本集十二【九丁卅四丁卅九丁】に玉勝間《タマカツマ》とあるも、たとつと音かよへば、かたまといふに同じ。また古今集戀五に、花かたみめならぶ人云々。和名鈔竹器類に、四聲字苑云※[竹冠/令]※[竹冠/青]【二音同與※[竹冠/令]青漢語抄云賀太美】小籠也云々とあるかたみも、まとみとかよへれば、かたまの轉りたる也。韻會に籠魯孔切竹器云々とあるをも見るべし。毛與《モヨ》は助辭なり。古事記上卷に阿波母與賣邇斯阿禮婆《アハモヨメニシアレハ》云々。書紀顯宗紀に恕底喩羅倶慕與《ヌテユラクモヨ》云々、於岐毎慕與《オキメモヨ》云々。本集五【七丁】に母智騰利乃可々良波志母與《モチトリノカカラハシモヨ》云々。十四【十六丁】斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》云々など見えたり。
 
美《ミ》籠《コ・カタマ》母乳《モチ》。
眞淵云、母乳《モチ》は持也。美《ミ》は眞《マ》にてほむる辭也。集中に三熊野《ミクマノ》とも眞熊野《マクマノ》ともあるにて、通はしいふをしれ。紀に【推古】まそがよそがのこら、古事記に美延《ミエ》しぬのえしぬなどある(3)も、眞《マ》と美《ミ》と通はしざま、語のかさねざまなどひとし。布久思毛與《フクシモヨ》。代匠記云、ふぐしとは鐵にてへらのやうにこしらへて、菜つむ女のもつ物にて、これにてその根などさしきりてとるなり。常にふぐせといへり。しとせと五音通ずればふぐせともいふなり。和名鈔造作具云、唐韻云※[金+讒の旁]【音讒一音※[斬/足]漢語抄云加奈布久之】犂鐵又土具也。この字也。すきの具にもこの字あり云々。略解云、ふくしは、ほるの約、ふにて、ほる串といふなるべし云々。由豆流按に、伊呂波字類抄雜物の條に、※[木+立]をフクシとよめり。こゝにいへるふくしこれなるべし。
 
美夫君志持《ミブグシモチ》。
考云、美《ミ》は右に同じ。みぶぐしとつゞけよむ故に、音便にてふる(を?)濁ることをしらせて、夫《フ》の字をかきつ。】
此岳爾《コノヲカニ》。【岳は、字書を按に、みな嶽と同字としてたけ也。されど伊呂波字類抄に岳ヲカとありて、また和名鈔山谷類、嶽字注に、嶽又作v岳、訓與v丘同云々ともあれば、岳はをかとよまん事論なし。考云、この天皇吉野三輪などへいでましし時、少女を召し事あり。今はいづこの岳にまれ、をとめのよろしきを見たまひてよみましゝものぞ。
 
菜採須兒《ナツムスコ・ナツマスコ》。
宣長云、なつむすこと訓るは誤なり。なつますことよむべし。つますは十七巻【二十七丁】乎登賣良我春菜都麻須等《ヲトメラカワカナツマスト》云々とあると同じくて、つむをのべたる詞なり。十巻【四十丁】山田守酢兒《ヤマタモルスコ》云々、これももるすことよめるは誤りにてもらすこなり。すべて、すこといへる稱はなき事也。七卷【二十七丁】小田苅爲子《ヲタカラスコ》、九卷【十九丁】伊渡爲兒《イワタラスコ》などあると同じ例也。思ひあはせてしるべし云々といはれつる(4)がごとし。さて兒とは、女にまれ男にまれ、親み愛していふことなり。この事は下【攷證二中八丁】にくはしくいふべし。
 
家吉閑《イヘキカム・イヘノラヘ》
略解云、吉閑一本告閑とあり。閑は閇の誤りにて、告閇《ノラヘ》とす。いへのらへは、住所を申せ也。告を、古しへのるといへり。のれを延てのらへといふなり云々。この説すでに考にもいでゝ、考には本文をも家告閇《イヘノラヘ》と直されたり。今按に、すべて古書に注釋くはへんには、おもふべきほどは、もとのまゝにて解すべき事也。されど、いかにかたぶきても解しがたき所をば、おのが意もて考へ直さんも、學者のつねなれば、そのよしそこにしるしたるうへに直すべきを、考のごとく、其ゆゑよしをもしるさずして、みだりに本文をさへあらためられしは、あまりなる事ならずや。
 
名告沙根《ナノラサネ》。
名告沙根《ナノラサネ》は、名をつげよ也。告《ノル》は、人に物を云きかすこと也。集中いと多し。五【七丁】奈何名能良佐禰《ナカナノラサネ》云々。九【十五丁】汝名告左禰《ナカナノラサネ》云々。十【三十八丁】己名乎告《オノカナヲノル》云々。猶あまた見えたり。沙禰《サネ》は、考云、二たび延《ノベ》たる音にて、まづ、なのれのれを延れば、名のらせとなるを、又そのらせの、せをのべて、沙根《サネ》といふ也云々。この説にしたがふべし。さねといふ言は、古事記下卷歌に和賀耶斗波佐泥《ワカナトハサネ》云々。本集一【十一丁】草乎苅核《クサヲカラサネ》云々。十四【十丁】爲禰※[氏/一]夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》云々。この外猶多し。いづれも下知の語にて、せを延たる言なり。
 
虚見津《ソラミツ》。
考云、饒速日命、大そらをかけりて、そらより見て降りたまへるによりて、やまとに此言を冠らすること、紀【神武】に見ゆ。くはしくは冠辭考にいへり。
 
山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。
考云、跡は借字にて、山門《ヤマト》てふ事と見ゆ。そのくはしき事は、別記にいへり。さてこゝにやまとゝのたまふは、大和一國の事ぞ云々とあるごとく、こゝは大和國(5)一國をさしてのたまへるにて、日本の惣名にいへるやまとにあらず。猶くはしくは國號考にみえたればこゝにもらせり。
 
押奈戸手《オシナベテ》。押奈戸手《オシナヘテ》は、おしなびかせ也。びかせのつゞまり、べなリ。古事記下卷に、押靡をおしなびかすとよみ、本集一【二十一丁】禁樹押靡《シモトオシナヘ》云々、四能乎押靡《シノヲオシナヘ》云々。六【十七丁】淺茅押靡《アサチオシナヘ》云々。猶多し。みな靡をなべとよめり。これらにても思ひあはすべし。
 
吾許曾《ワレコソ》居師告《ヲラシツゲ・ヲレシキ》名倍手《ナベテ》。
宣長云、今本に、居師《ヲラシ》と師の字を上の句へつけて、をらしと訓るは誤りなり。是はをらしといひては語とゝのはず。又吉の字を告に誤りて、つげなべてのりなべてなどよむもいかゞ。のりなべといふ言心得ず。告はかならず吉の字を誤れるにて、師吉名倍手《シキナベテ》なり。しきは太數座《フトシキマス》、また敷ませるなどいへるしきなり云々。この説のごとく、考、略解等の訓あしゝ(ゝ衍?)。この句は、次の句のわれこそをれといふにむかへて、對をなせる句なれば、宣長の説のごとくよまでは、かなはざる句なり。この御歌、すべてはじめより對をとりてのたまへりしかば、こゝも對なる事明らけし。下にこのすがたなる歌多し。さて、しきは、本集十八【三十二丁】須賣呂伎能之伎麻須久爾能《スメロキノシキマスクニノ》云々。同【二十丁】伎美能御代々々之伎麻世流《キミノミヨミヨシキマセル》云々などあるがごとく、つぎかさなるをいへり。
 
吾許曾《ワレコソ》座《ヲラシ・マセ》。我許層《ワレコソハ・ワヲコソ》。
座を、舊訓にはをらしとよみ、考にはをれとよまれしかど、宣長の、われこそませとよむべしといへるにしたがへり。座はをるとよめる事も、(6)ますとよめる事も、集中に多し。許曾《コソ》は、諸本許者とあるを、こそはとよみ、考には許の下に曾の字のありしを脱せるなるべしとて、本文を許曾者《コソハ》とせられしかど、宣良が説に、者は曾の誤りならんとて、わをこそとよむべしといひしをよしとす。しかも許の一字を、こそとよめる例もなく、上の句にも吾許曾《ワレコソ》とありて、又下【十一丁】有許曾《アレコソ》云々、十四【二十四丁】奈乎許曾《ナヲコソ》云々、などあるによりて、者の字を曾にあらたむ。さて、われといふを、わとのみいへるは、本集十四【三十四丁】に和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》云々、廿【廿七丁】に和波可敝里許牟《ワハカヘリコム》云々とありて、汝《ナレ》をなとのみもいひ、誰《タレ》をたとのみもいへるがごとし。
 
背齒告目《セナニハツケメ・セトシノラメ》。
背は、男の稱なり。書紀仁賢紀分注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹云々とあれど、集中に男どちせといひし事見えたれば、せはたゞ男の稱とのみ心得べし。本集四【四十四丁】將死與吾背《シナムヨワカセ》云々。六【三十六丁】吾背乃公《ワガセノキミ》云々。七【十九丁】妹與背之山《イモトセノヤマ》云々など見えたり。(頭書、兄の事別記一(ノ)廿二丁可v引。)齒は、考に、としとよまれしをよしとす。これ借字にて、としのしは助辭なり。本集四、絶年云者《タエントシハヽ》云々とあるも同語にて、年は借字なり。さて齒は齡《ヨハヒ》にて、年と通ぜり。(頭書、禮記坊記に齒年也云々。廣雅釋詁一に齒季也云々などあるを見ても、齒は年とかよひて、としの借字なるをしるべし。考の一説云、又背の下に登の字落たるか。然らば、せとはのらめと訓て事もなし云々とあるはいかゞ。
 
家乎毛名雄母《イオヘヲモナヲモ》。
考云、われをこそは夫《セ》として、住所《スミカ》をも名をも告しらすべきことなれと也。古しへの女は、夫《セ》とすべき人にあらでは、家も名もあらはさぬ例なる事、集中に多く見ゆ。故にとはせたまへど、もだし居つらんにつけて、かくはよみたまひけん。
 
(7)高市崗本《タケチヲカモトノ》宮御宇天皇代。 息長足日廣額《オキナカタラシヒヒロヌカノ》天皇
天皇御謚を舒明と申す。書紀舒明紀云、息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也云々。二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷2於飛鳥岡傍1、是謂2岡本宮1云々とあるがごとく、書紀には岡とせるを、本集には崗とせり。こは韻會に、岡説文本从v山、俗又加v山、作v崗非云々とあれば、崗は岡の俗字なり。岡本宮は大和國高市郡なれば、高市崗本宮とはいへり。和名抄國郡部云、大和國高市【多介知】云々と見えたり。息長足日廣額天皇、この八字印本大字、今古本拾穗本等によりて小子(字)とせり。
 
天皇登2香具《カグ》山1望v國|之《(マヽ)》御製歌。
香具山は、延喜神名式云、大和國十市郡|天香《アマノカグ》山云々。書紀神武紀云、香山此云2介遇夜縻《カグヤマ》1云々。釋日本紀卷七引2伊豫國風土記1云、伊豫郡、自2郡家1以東北在2天山、所v名2天山1由者、倭《ヤマト》在|天加具《アマノカグ》山、自v天天降時、二分而以2片端1者、天2降於倭國1、以2片端1者天2隆於此土1、因謂2天山1也云々とあるがごとく、たゞ香具《カグ》とも、天のかぐ山とも、集中多くよめり。考云、香具山は十市郡にあり。古しへ天上のかぐ山になぞらへて、崇みたまふ故に、天のかぐ山ともいふ云々。望國は、くに見とよむべし。古しへの天皇、高き所にのぼりまして、國中を見給ひし事まゝあり。そは百姓の貧富、または國中のよしあしを、專ら見たまふにて、たゞけしきのみを見給ふにあらず。書紀神式紀云、天皇|陟《ノボリ》2彼菟田高倉皿之|巓《イタヾキ》1、瞻2望|域《クニノ》中1時、國見嶽止則有2八十梟師1云々。三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸、因登2腋上※[口+兼]間丘《ワキカミホヽマノヲカ》1、而廻2望國状1云々。仁徳紀云四年春二月、詔2群臣1曰、朕登2高臺1(8)以遠望之、烟氣不v起2於域中1云々。古事記下卷云、爾登2山上1望2》國内1者云々。なほ集中にも國見《クニミ》したまひし事多く見えたり。下、國見《クニミ》の所にいふべし。望は見る事なり。孔子家語辨樂篇注に、望羊遠視也云々とあるがごとし。
 
2 山常庭村山有等《ヤマトニハムラヤマアレド》。
山常は、大和也。常《ト》は假字なり。庭は辭《コトバ》にて、借字也。本集二【二十五丁】福路庭《フクロニハ》云々とあるも、借字にて、こゝと同じ。村山の村《ムラ》も借字にて、群《ムラガ》り立る山也。むら鳥、むら竹などいふむらと同じ。考云、大和國は四方にむらがりて多くの山はあれどなり。
 
取與呂布《トリヨロフ》。
取與呂布《トリヨロフ》のとりは辭にて、よろふは物の具足してたらはぬ事なきをいへり。代匠記云、齊明紀に弓矢|二《フタ》具《ヨロヒ・ソナヘ》とかきて、ふたよろひとよめり。源氏物語に屏風ひとよろひといへるも、二帖を一具といへる也。これは具足したる儀なれば、峰谷岩木にいたるまでそなはりて、圓滿したる山とほめたまふ歟。日本紀に兵器をものゝぐとよみ、俗語によろひを具足といふも、小手すねあてまで取そなへてきるものなればいふにや云々といはれしがごとし。新撰字鏡に冑、和名抄に鎧をよろひとよめるも、代匠記の説のごとし。また考云、よろふは宜きてふに同じくて、此山の形の足《タリ》ととのへるをほめ給ふなり。
 
天之香具山《アマノカグヤマ》。
香具山の事は上にいへり。考云、この天はあめとよむなり。古事記に例も故もあり。(頭書、古事記云、比佐加多能阿米能迦具夜麻。)
 
(9)騰立國見乎爲者《ノボリタチクニミヲスレハ》。
騰立《ノボリタチ》は、古事記中卷云、故|登2立《ノボリタチ》其坂1云々。書紀繼體紀歌云、美母慮紆陪※[人偏+爾]《ミモロカウヘニ》、能朋梨陀致《ノホリタチ》、倭我彌細磨《ワカミセハ》云々。本集下【十九丁】云、高殿乎高知座而上立《タカトノヲタカシリマシテノボリタチ》云々などあるがごとし。(頭書、立は添たる言なり。)國見の事は、上にもいへり。本集下【十九丁】國見乎爲波《クニミヲスレハ》云々。三【三十八丁】國見爲筑羽乃山乎《クニミスルツクハノヤマヲ》云々。十【二十二丁】國見毛將爲乎《クニミモセンヲ》云々。この外猶あれどこゝにはもらせり。(頭書、傳三ノ五ウ可v考。)
 
國原波《クニハラハ》。
考云、廣く平らけき所をすべてはらといふ云々。本集【十二丁】伊奈美國波良《イナミクニハラ》云々など見えたり。
 
煙立龍《ケムリタチタツ》。
煙立龍《ケムリタチタツ》の龍の字を、印本籠に作るによりて、考にはけふりたちこめとよまれしかど、次の句の加萬目立多都《カマメタチタツ》とあるにむかへたる句なれば、こゝもたちたつとよまゝほしき所なり。されば元暦校本に龍に作れるによりてあらたむ。さて、此御歌、けふりたちたつといへる所、仁徳天皇の故事に似たるこゝちす。書紀仁徳紀云、七年夏四月辛未朔、天皇居2臺上1而遠望之、烟氣多起、是日語2皇后1曰、朕既富矣、豈有v愁乎、皇后對諮、何謂v富焉、天皇曰、烟氣滿v國、百姓自富歟【中略】今百姓貧乏、則朕貧也、百姓富之、則朕富也云々。元慶六年日本紀竟宴歌云、多賀度能兒《タカトノニ》、乃保利天美禮波《ノホリテミレハ》、安女能之多《アメノシタ》、與母爾計布理弖《ヨモニケフリテ》、伊萬蘇渡美奴留《イマソトミヌル》云々などあると、こゝのさまよく似たり。
 
海原波《ウナハラハ》。
海原《ウナハラ》は、本集五【二十五丁】に宇奈波良《ウナハラ》云々。同【三十一丁】に宇奈原《ウナハラ》云々。十四【二十五丁】に宇奈波良《ウナハラ》云々とあるによりてよむべし。和名抄河海類に、滄溟【阿乎宇三波良】云々とあれど、うみはらとよまんは非なり。(10)さて、この御歌は、大和の香具山にてよませ給ふなれば、このほとりに海のあるべきやうなけれど、ふるくより湖水をも海といへば このほとりの湖水をみそなはして、海とはのたまひしなり。そは、本集三【廿七丁】詠2二不盡山1長歌に、石花海跡名付而有毛《セノウミトナツケテアルモ》、彼山之堤有海曾《ソノヤマノツヽメルウミソ》云々とよめる、せの海は鳴澤の事なり。この海の事、三代實録、貞觀七年十二月の條に、※[踐の旁+立刀]《セノ》海と見えたり。これ湖水を海といへる證なり。又後の歌なれど、あふみの海、すはの海、ふせの海などいへる、いづれも湖水なり。また大般若經音義、引2顧野王1云、海大水也云々とあるにても思ふべし。又考云、香《カク》山の北麓の埴安《ハニヤスノ》池は、いとひろらに見ゆるを、海原とはよみませしなり。大水を海ともいへる例あるが中に、卷十四|獵路《カリチ》池にて、人麿、すめろぎは神にしませば、眞木の立あら山中に海成可聞《ウミヲナスカモ》とよめるこれなり。同卷に、香山歌とて池波さわぎておきべには鴨妻喚《カモメヨバヒ》とあるもこのさまなり。その埴安池の大きなりしよしなど別記にいふ。
 
加萬目立多都《カマメタチタツ》。
加萬目は、まともとかよへば、鴎《カモメ》と同じ。和名抄羽族名云、唐韻云鴎【烏侯反和名加毛米】水鳥也、兼名苑云一名江※[燕の烈火が鳥]云々。かもめのめは、すゞめつばめなどのめと同じく、群《ムレ》の意にて、むれの反、めなり。また新撰字鏡に※[虫+都]【豆比又加萬女】云々とあるはむし歟。(頭書、かもめ池鳥ならざる事。)
 
※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニソ・ウマシクニソ》。
考云、こは、神代紀に可怜小汀をうましをはまと訓に依ぬ。※[立心偏+可]怜は、紀にも集にも、あはれとも訓しかば、今本のごとく、おもしろきとよむもあしからねど、猶右を用云云といはれしがごとく、神代紀下に、可怜、此云2于麻師《ウマシ》1また可怜御路《ウマシミチ》などあるによるべし。さて、何怜の字は、三【四十四丁】四【五十三丁】同【五十五丁】七【四丁四十一丁四十二丁】九【二十三丁】などにあはれとよめれど、猶こゝは、うましとよめる(11)かたまされり。※[立心偏+可]怜は、印本怜※[立心偏+可]とあれど、書紀また集中などの例に依てあらたむ。(頭書、※[立心偏+可]怜下【攷證三下二丁】可v考。うましはものをほゆ(む?)る事。)
 
蜻島。八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
蜻《アキツ》は、書紀神武紀に、三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸、因登2腋上※[口+兼]間丘1、而廻2望國状1曰、研哉乎、國之獲矣、雖2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國1、猶如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメ》1焉、由v是、始有2秋津洲《アキツシマ》之號1也云々とある、蜻蛉にて、あきつとよむべし。書紀には、蜻蛉の二字をしかよめれど、本集には蜻の一字をよめり。蜻の一字にて蜻蛉の意なり。呂覽精諭篇注に、蜻蜻※[虫+廷]小蟲、細腰四翅、一名白宿云々とあるがごとし。考云、紀に【神武】天皇ほゝまのをかにのぼりまして、やまとの國形を見さけたまひて、蜻蛉《アキツ》のとなめせる如とのりたまひしより、やまとの國の名ひとつの名となりたり云々とありて、猶くはしきは宣長が國號考に見えたり。事ながければこゝにのせず。八間跡《ヤマト》は假字《カナ》にて大和國也。あきつしまやまとゝつゞけし事は、書紀仁徳紀御歌に、阿耆豆辭莽《アキツシマ》、椰莽等能區珥々《ヤマノクニヽ》云々。雄略紀御歌に、婀岐豆斯麻野麻登《アキツシマヤマト》云々。本集十三【九丁】蜻島倭之國者《アキツシマヤマトノクニハ》云々。又【三十一丁】秋津島倭雄過而《アキツシマヤマトヲスギテ》云々どあるがごとし。猶十九【三十九丁】二十【五十丁】にも見えたり。考云、古は長歌の末を五七七とのみは、いひとぢめず。句はたらはぬごとくなる類、此下にもあり。うたがふことなかれ。
 
天皇。遊2獵内野1之時。中皇命。依d2間人連老1u上歌。并短歌。
 
天皇。
天皇は右に同じく舒明天皇を申す。
 
(12)遊獵。
書紀崇峻紀に、遊獵をかりすと訓ず。遊獵の字は、史記呂后妃、漢書司馬相加傳などに見えたり。さて此天皇、内野にみかりし給ひし事、紀に見えず。元暦本獵※[獣偏+葛]、下同。
 
内野。
内は、借字とおぼしくて、宇智郡の野なるべし。續日本紀云、大寶三年二月丁酉、車駕幸2内野1云々とあり。和名抄國郡部に、大和國宇智郡云々。延喜神名式に大和國宇智郡有智神社云々。諸陵式に有智陵云々。又大和志宇智郡の條に、内大野をのせて、本集を引たり。さて歌枕名寄よりして、名所類諸書に内野を山城國とす。非なり。新後拾遺集慶賀に、後採草院少將内侍、九重の内野の雪にあとつけてはるかにちよの道を見るかなとあるは、この内野にあらず。勝地吐懷篇云、内野は宇智郡なるべし。もしは、高市郡に、大内の丘といふ所、日本紀に見えたれば、そこにや云々。
 
中皇命。
考別記云、こは、舒明天皇の皇女間人皇女におはすと、荷田大人のいひしぞよき。さてまづ御乳母の氏に依て、間人《ハシヒト》を御名とするは例也。それをまた、中皇女と申せしならんよしは、御兄葛城皇子と申す。葛城は御乳母の氏によりたまひ、それを中大兄とも申すは、今一つのあがめ名なり。御庶兄を古人大兄と申せしなど、古しへの御子たちの御名のさま、此外にもかゝる類あり。こゝに、間人連老てふもて、御歌を奉らせ給ふも、老は御乳母の子などにて、御睦き故としらる。かゝれば、後に孝徳天皇の后に立ましゝ間人《ハシヒト》皇女は、すなはちこの御事なり。【中大兄命と間人皇女は御兄弟たる事もとより紀に見えたり。】かくて、岡本宮などより、次々に皇太子をば、日並知《ヒナメシ》皇子命、高市皇子命と申しき。中皇女命は、後に皇后に立ましゝ故に、崇て命と申せり。仁徳天皇の御母|仲《ナカツ》(13)姫命と紀にあるは、后《(マヽ)》大后なればなり。允恭天皇の皇后の御名も、忍坂《オサカ》大中姫命と紀にあり。そのころ既に、皇太子の外には、命としるせるなきを思ふに、共に后に立ませし故に、たふとみて申す例なりけり云々。また考云、この皇女、下にも出たるに、御歌とあり。かた/”\以て、こゝに女と御の字を補ひつ云々とて、本文を中皇女命御歌と直されしは、なか/\に誤りなるべし。中皇命は、この下にも出、又目録にも諸本にも女の字なきを、おしあてにいかで直し正すべき。又御の字を加へられしは、この歌を、中皇命のみづからの御歌と心得られしよりいでたる誤りなり。下に出たるは、中皇命のみづからの御歌なれば、御の字をかけるなり。今この歌は、中皇命間人連老に命じて、歌をよましめて奉らせ給ふにて、間人連老が歌なれば、御の字をばかゝざるなり。この歌、もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名を、ことさらにかくべきよしなきをや。命の字の事は下【攷證下ノ廿五丁】にいふべし。
 
間人連老《ハシヒトノムラシヲユ(オユ)》。
書紀孝徳紀に、小乙下中臣間人連老【老此云2於喩1】云々とある、この人なり。父祖不v可v知。さて、この姓は、推古紀、齊明紀、天智紀、天武紀などに、皆間人連とのみあるを、新撰姓氏録に、間人宿禰、間人造などのみありて、間人連といふなきは、いかなる事にか。
 
并短歌。
并は、玉篇に、并併也云々。儀禮射禮注に、並併也云々とあれば、并並併この三字共に通ず。平他字類抄、和玉篇などに、并をならぶとよめり。並に通ずる故なり。本集三【十七丁】六【十一丁】八【十五丁】九【十七丁】十一【廿八丁】などに、並をならぶと訓ぜるを見ても思ふべし。短歌は、長歌にむかへたる名なり。古今集雜體に、短歌とあるは、長歌の事なり。この事は、古今集標注附録(14)にいへり。さて、諸本、并短歌の三字なし。今目録と集に多かる例とによりておぎなふ。下皆准之。
 
3 八隅知之《ヤスミシヽ》。我大王乃《ワカオホキミノ》。朝庭《アシタニハ》。取撫賜《トリナテタマヒ》。夕庭《ユフヘニハ》。伊縁立之《イヨリタヽシ》。御執乃《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈加弭乃《ナカハスノ》。音爲奈利《オトスナリ》。朝獵爾《アサカリニ》。今立須良思《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフカリニ》。今他田渚良之《イマタヽスラシ》。御執能《ミトラシノ》。梓能弓之《アツサノユミノ》。奈加弭乃《ナカハスノ》。音爲奈里《オトスナリ》。
 
八隅知之《ヤスミシヽ》。
こは安見之爲《ヤスミシヽ》なり。くはしくは、冠辭考、古事記傳【廿八】等に出たれば、ひらき見て知るべし。二書の説、いふべき所もなくいとよしとは見ゆれど、本集にあまたところ八隅《ヤスミ》と出たるを見れば、八隅をしろしめす意もいさゝかこもれりやとも思はるれば、八隅てふ字の、出所をば下にしるせり。されどこは必ひがごとなるべし。釋日本紀、和歌釋云、八隅知也、言治2四海八※[土+廷]1也云々。抱朴子云、其曠則籠2罩乎八隅1云云。山海經云、崑崙之墟、白神之所v在、在2八隅之巖、赤水之際1云々。
 
我大王乃《ワカオホキミノ》。
我大王は、天皇を敬ひ親しみて申奉るなり。わがおほきみといふ語、集かぞへがたし。古事記中卷に、我大神《ワカオホカミ》云々。本集廿【三十八丁】安我須賣可未爾《アカスメカミニ》云々などあるも、敬ひしたしみて申すなり。わがせこなどいふも同じ。さて本集二【廿二丁】三【四十五丁】十【三十三丁】などにも、大王をおほきみと訓じ、二【三十三丁】十一【廿九丁】十六【廿五丁】などには、王の一字をおほきみと訓ぜり。大の字は、美稱(15)して申奉るなり。大御神、大御身、大御食、大殿、大御門などのたぐひなり。さて、集中假字に書る所は、和其《ワコ》、和期《ワコ》などのみあるによりて、久老はすべてわごおほきみとのみよみつれど、紀記によりてわがとはよめり。
 
朝庭《アシタニハ》。
この句を、考には、古事記下卷に、夜須美斯志《ヤスミシヽ》、和賀淤富岐美能《ワカオホキミノ》、阿佐計爾波《アサケニハ》、伊余理陀多志《イヨリタタシ》、由布計爾波《ユフケニハ》、伊余理陀多須《イヨリタヽス》云々とあるを引て、あさけにはとよまれしかど、誤りなり。古事記に、阿佐計云々、由布計云々とあるは、斗を計に誤れるにて、朝戸夕戸なるよし、傳に辨ぜり。こゝは、たゞ朝夕といへる所なれば、もとのまゝに、あしたにはゆふべにはとよむべし。祈年祭祝詞に、朝御食夕御食《アシタノミケユフヘノミケ》云々。古事記中卷に、朝夕之大御食《アシタユフヘノオホミケ》云々。本集四【二十八丁】旦夕爾《アシタユフヘニ》云々などあるがごとく、いづれもあしたゆふべといへり。但し、古事記、本集などにあさけといふも、あしたの事なれど、こゝはゆふべにむかへたる言なれば、あしたとよむべし。(頭書、庭は借字の事。)
 
取撫賜《トリナテタマヒ》。
考云、神武天皇、天つ璽《シルシ》とし給ひしも、只弓矢也。こを以て、天下治め知ます故に、古の天皇、これを貴み、めでます事かくなり云々といはれしは、餘りに考へすぎられしやうなり。さまでふかき事にもあらで、たゞこゝはあさゆふ手ならし給ふ事を、つよくのたまひしなるべし。とりは御手にとらしますをいふ。撫は、そのものをふかく愛し給ふをいへり。書紀神代紀に、中間置2一少女1、撫《ナテヽ》而哭之云々。本集六【廿五丁】掻撫曾禰宜賜、打撫曾禰宜賜云々。十九【十二丁】可伎奈泥見都追《カキナテミツヽ》云々。これみな物を愛するなり。猶この外あまたあり。
 
(16)伊《イ》縁立之《ヨリタヽシ・ヨセタテヽシ》。
伊は發語にて、こゝろなし。古事記中卷に、伊由岐多賀比《イユキタカヒ》云々。下卷に伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》云々。本集二【三十五丁】伊波比廻《イハヒモトホリ》云々。十七【三十四丁】伊由伎米具禮流《イユキメクレル》云々。これらの伊もじ、皆發語にて猶多し。又漢土とこゝとは別のことなれど、爾雅釋詁に伊維也。注に發語辭云云ある(に)似たり。縁立之《ヨリタヽシ》は、古事記下卷に、伊余埋陀多志云々。本集十七【三十一丁】に余理多々志《ヨリタヽシ》などあるによりて、よりたゝしとよみつ。こゝの意は、朝には御弓を取撫愛したまひ、夕には御弓によりて立せ給ひなどして、つかの間もはなち給はず、手ならし給ふといふ意なるを、考にはよせたゝしとよみて、よせたゝしてふは、夜の間もおろそけ(かり?)にせさせ給はぬ意なりといはれしは誤りなり。しかよむ時は、御弓をものによせて立おく意にて、意いたくたがへり。
 
御執乃《ミトラシノ》。
御執《ミトラシ》は、御令取なり。本集二【四十四丁】梓弓手取持而《アツサユミテニトリモチテ》云々。十三【二十八丁】刺楊根張梓矣《サシヤナキネハルアツサヲ》、御手二所取賜而《オホミテニトラシタマヒテ》云々などあるも、弓をとるといへり。これを轉じて、やがて弓のことゝもせり。書紀雄略紀に弓、春日祭祝詞に御弓などを、みたらしとよめるも、みとらしのとを轉じて御弓の事とせるなり。古事記上卷に、御刀をみはかしとよめるも、刀は佩《ハ》くものなれば、やがてその名として、みはかしといへる事、みたらしのごとし。また儀禮郷射禮に、左執v弓、右執2一个1云々。毛詩執競箋に、執持也云々などあるも思ひ合すべし。
 
梓弓之《アツサノユミノ》。
梓は、本草和名に、梓和名阿都佐乃岐云々。和名抄これに同じ。新撰字鏡に、梓【阿豆佐】云々と見えたり。梓弓は、梓の木もて作るによりて、いへるなり。櫨弓、槻弓など、皆その作る木もていへり。古事記中卷に、阿豆佐由美麻由美《アツサユミマユミ》云々。續日本紀に、大寶二年三月甲午、信濃献2梓弓一千二十張1云々など見えたり。集中あぐるにいとまなし。
 
(17)奈加弭乃《ナカハスノ》。
奈加弭《ナカハス》、心得ず。中弭《ナカハス》歟。弭は、書紀神武紀に、皇弓弭《ミユミノハス》云々。伊呂波字類抄に弭【ユミハス】とありて、釋名釋兵に、弓末曰v※[竹冠/肅]、又謂2之弭1云々。文選呉都賦劉注に、弭弓末云々ともありて、弓の末なるを中弭《ナカハス》といはん事いかゞ。考には、加は留の誤りなりとて、奈留弭《ナルハス》と直し、宣長は、加は利の誤りなりとて、奈利弭《ナリハス》と直して、弭《ハス》の鳴事と注されつ。本集二【三十四丁】取持流弓波受乃驟《トリモテルユハスノサワキ》云々ともあれば、弭は鳴るものとも思はれ、今も弦に音金《オトカネ》といふものを入て、弭をならす事あり。されど、留も利もたとへ草體なればとて、加と字體まがふべくもおもはれず。されば、今試みに考ふるに、弭は※[弓+付]の誤りにて、奈加※[弓+付]《ナカツカ》ならん。弭と※[弓+付]と眞草ともに字體よく似たり。※[弓+付]は和名抄征戰具に、弓末曰v※[弓+肅]【音蕭和名由美波數】中央曰v※[弓+付]【音撫和名由美都加】云々。延喜主税式上に、※[弓+付]鹿《ユツカ》革云々。兵庫式に※[弓+付]角附革などありて、今いふ弓の握りといふ所にて、弓の中なり。されば、中※[弓+付]《ナカツカ》ともいふべし。本集七【三十二丁】立檀弓束級《タツマユミツカマクマテニ》云々。十一【四十七丁】梓弓弓束卷易《アツサユミユツカマキカヘ》云々。又(十四)【三十四丁】安都佐能由美乃由都可爾母我毛《アツサノユミノユツカニモカモ》云々など見えて、釋名釋兵に、弓中央曰v※[弓+付]、※[弓+付]撫也、人所v撫也云々。廣雅釋器に、※[弓+付]柄也云々、などあるをも思ふべし。
 
音爲奈利《オトスナリ》。
弭の音する事は、上にいへり。考云、卷六に安豆佐由美須惠爾多麻末吉《アツサユミスヱニタマヽキ》、可久須酒曾《カクススソ》云々とよみたるを思ふに、古へは弓弭に玉をまき、鈴をかけつれば、手にとるごとにも鳴からに、鳴弭ともいふべし云々。又考ふるに、弭は附《(マヽ)》にても弓を引てはなつ時などには音すべし。
 
朝獵爾《アサカリニ》。今立須良思《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフカリニ》。
こは、朝獵暮獵といひて、辭の對をなせるのみなり。本集三【五十八丁】麻獵爾鹿猪踐起《アサカリニシヽフミオコシ》、暮獵爾鶉雉履立《ユフカリニトリフミタテヽ》云々。十(18)七【四十五丁】麻※[獣偏+葛]爾伊保都登里多底《アサカリニイホツトリタテ》、暮※[獣偏+葛]爾知登理布美多底《ユフカリニチトリフミタテ》云々などあると同じ。今立須良思《イマタヽスラシ》は今たゝすらんかし也。らんかしの約り、らし也。
 
御執能《ミトラシノ》。
諸本能字なし。今、元暦本と上句とによりて補ふ。
 
反歌。
反は毛詩※[言+民]箋云、反覆也云々。論語述而疏云、反猶v重也云々などあるがごとく、かへりかさなる意にて、反歌は、まへにあることをかへしかさねてもいひ、またのこれることをも、なが歌の意をかへしいふ也。反歌を、音にとなふる人もあれど、考にいはれしがごとく、かへしうたとよむべし。古事記下卷に、志都歌之返《シツウタノカヘシ》歌也云々とあるも、こゝとは少し意別なれど、かへしうたふ也。古今大歌所に、かへしものゝ歌とあるも、これなるべし。書紀神功紀に答歌、應神紀に報歌などあるを、かへしうたとよめるは、答ふる歌にて別なり。考云、長歌に短歌を添ふる事は、古事記にも集にも、よつ代には見えずして、こゝにあるは、此しばし前つころよりやはじまりつらん。
 
4 玉刻春《タマキハル》。内乃大《ウチノオホ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。馬數而《ウマナメテ》。朝布麻須等六《アサフマスラム》。其草深《ソノクサフケ》野《ヌ・ノ》。
 
玉刻春《タマキハル》。
玉刻春《タマキハル》は、枕詞にて、冠辭考、古事記傳【卅七】等に出たり。見ん人心のひかん方にしたがふべし。予は、宣長が説にしたがふ。さる時は、玉《タマ》は正字なり。刻《キ》は略訓也。集中足をあの假字とし、割をきの假字とし、大をおの假字とせるがごとし。此類猶多し。春は借字にて、本集十【十五丁】に靈寸春《タマキハル》云々とあるがごとし。
(19)内乃大野《ウチノオホノ》。
内野に、大の字を加へし也。大はその物美稱してつくること也。あたの大野、あきの大野などのたぐひ也。
 
馬數而《ウマナメテ》。
馬數而《ウマナメテ》は、馬を並べて也。本集六【十九丁】友名目而遊物月馬名目而《トモナマテアソハンモノヲウマナメテ》云々。七【七丁】馬並而《ウマナメテ》云々などあるがごとく、猶多し。數をなめとよめるは、義訓なり。本集十二【十三丁】袖不數宿《ソテナメスヌル》云々などあるをも見るべし。
 
朝布麻須等六《アサフマスラム》。
あさふますは、獵し給ふとて、朝とく草ふかき所などをふみありき給ふ也。上に引たる、本集三に、あさかりにしゝふみおこし、夕かりにとりふみたてゝ云々などあると、意同じ。六をむの假字に用ひたるは、略訓なり。本集三【廿一丁】六兒乃泊《ムコノトマリ》云々。十一【四十六丁】八重六倉《ヤヘムクラ》云々などあるがごとし。
 
其草深野《ソノクサフケヌ》。
考云、深きを約轉して下へつゞくる時、夜ふけ行といひ、田の泥深きをふけ田といふがごとし。言は、加岐《カキ》の約は伎《キ》なるを、氣《ケ》に通はして、下へつゞくるなり。
 
幸《イテマシヽ》2讃岐國|安益《アヤ》郡1之時。軍王。見v山作歌。并短歌。
 
幸《イテマシ》。
幸は、蔡※[災の火が邑]獨斷上云、天子所v至曰v幸云々。後漢書光武紀注云、天子所v行、必有2恩幸1、故稱v幸云々などあるがごとく、天皇行幸といふに同じければ、こゝもいでますとよむべし。いでましの事は、下にいふべし。
 
(20)讃岐國|安益《アヤ》郡。
安益郡は、あやのこほりとよむべし。和名抄國郡部に、讃岐國安野【綾】と見えたり。又書紀景行紀に、讃岐綾君とあるも、こゝよりいでたる姓なるべし。
 
軍王《イクサノキミ》。
古事記書紀等に、將軍をいくさのきみとよみしによりて、こゝもしかよむべし。この人姓氏不v可v考。
 
并短歌。
此三字、例によりて補ふ。
 
5 霞立《カスミタツ》。長春日乃《ナカキハルヒノ》。晩家流《クレニケル》。和豆肝之良受《ワツキモシラス》。村肝乃《ムラキモノ》。心乎痛見《コヽロヲイタミ》。奴要子鳥《ヌエコトリ》。卜歎居者《ウラナケヲレハ》。珠手次《タマタスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》。遠神《トホツカミ》。吾大王乃《ワカオホキミノ》。行幸《イテマシ・ミユキ》能《ノ》。山《ヤマ》越《コス・コシノ》風乃《カセノ》。獨座《ヒトリヲル》。吾衣手爾《ワカコロモテニ》。朝《アサ》夕《ヨフ・ユフ》爾《ニ》。還比奴禮婆《カヘラヒヌレハ》。丈夫登《マスラヲト》。念有我母《オモヘルワレモ》。草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タヒニシアレハ》。思遣《オモヒヤル》。鶴寸乎白土《タツキヲシラニ》。網能浦之《アミノウラノ》。海處女等之《アマヲトメラカ》。燒鹽乃《ヤクシホノ》。念曾《オモヒソ》所燒《モユル・ヤクル》。吾《ワカ》下《シツ・シタ》情《コヽロ》。
 
(21)霞立《カスミタツ》。
枕詞にて、予が冠辭考補正に出せり。つゞけがら明らけし。和名抄雲雨類云、唐韻云霞赤氣雲也【胡加反和名加須美。】
 
長春日乃《ナカキハルヒノ》。
長春日《ナカキハルヒ》は、本集十【十六丁】菅根乃長着日乎《スカノネノナカキハルヒ》云々。十七【四十八丁】奈我伎波流比毛和須禮底於毛倍也《ナカキハルヒモワスレテオモヘヤ》云々など見えたり。
 
晩家流《クレニケル》。
こは長き春の日もくれぬと也。本集十【十一丁】朝霞春日之晩者《アサカスミハルヒノクレハ》云々などあるがごとし。
 
和豆肝之良受《ワツキモシラス》。
こは、代匠記に、これはわきもしらずといふに、つもじの中にそはれるにや。わきをわつきといへること、いまだ見およばざれど、古語にはその例あれば、いふなり。十一卷に、王垂小簾之可鷄吉仁《タマタレノヲスノスケキニ》云々とよめるは、すきなり。十四卷に安左乎良乎遠家爾布須左爾《アサヲラヲヲケニフスサニ》云々。十四卷は東語ながら、ふすさは、ふさにて、多きなり。これらに准じていふなり云々といはれしがごとく、豆《ツ》文字は助字と見るべし。考にわつきもは、分《ワカ》ち著《ツキ》も不知也。手著《タツキ》てふに似て、少し異るのみ云々といはれしは、なか/\に非なり。代匠記の説のごとく、別《ワキ》もしらずと見るべし。そは、本集十一【十六丁】年月之在覽別毛不所念鳧《トシツキノユクランワキモオホホエヌカモ》云々。十二【十一丁】出日之入別不知《イツルヒノイルワキシラス》云々などあると同じ。
 
村肝乃《ムラキモノ》。
枕ことばなり。冠辭考にゆづる。
 
心乎痛見《コヽロヲイタミ》。
こは心も痛きまで思ひこむ意なり。本集二【十九丁】肝向心乎痛《キモムカフコヽロヲイタミ》云々。八【三十一丁】吾情痛之《ワカコヽロイタシ》云々など猶多し。いたみの、みは、さにといふ意にかよふ詞也。集中いと多し。末(22)に考ふべし。(頭書、イタミ考別可v考。)
 
奴要子鳥《ヌエコトリ》。
ぬえは、新撰宇鏡に、鵺※[夜+鳥]※[易+鳥]などを奴江とよみ、和名抄羽族名に、唐韻云※[空+鳥]【音空漢語抄云沼江】恠鳥也云々などありて、集中にも多くいでたり。こは枕詞なれば、冠辭考にゆづる。
 
卜歎居者《ウラナケヲレハ》。
卜は借字にて心の中といふ也。古人、うらは心なりと斗いひ來れど、くはしからず。うらといふに二つあり。一つは、たゞ心をいひ、一つは、心の中といふ意にいへり。うらこふ、うらまちなどいへるうらと、こゝのうらなけといふと、同じくて、心の中なり。歎《ナケ》は、なげきのき、はぶけるにて、なげき也。これを考には、うらなきをればとよまれしかど、本集十七【三十二丁】に、奴要鳥能宇良奈氣之都追云々とあるによりて、しかよめり。又十【二十五丁】奴要鳥之裏歎座《ヌエトリノウラナケマシヌ》云々。また【二十七丁】奴延鳥浦嘆居《ヌエトリノウラナケヲルト》云々なども見えたり。(頭書、又考ふるに、うらは集中多く裏の字を訓る意にて、裏に難(歎)くなれば、おのづからに心の中の意となる也。うらまち、うらこふ、うらかなしなどいふも、皆裏に何々といふ意なり。うらわかみといふも、本は裏わかき意なれど、又それを轉じて内實の意と聞えたり。木草の末をうらといふも、本は同じ語なり。)
 
珠手次《タマタスキ》。
こは枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。手次《タスキ》は借字なり。本集二【三十五丁】七【三十二丁】など猶多くしかかけり。
(23)懸乃宜久《カケノヨロシク》。
本集二【三十五丁】に、玉手次懸而將偲《タマタスキカケテシヌハン》云々。四【四十六丁】吾聞爾繋莫言《ワカキヽニカケテナイヒソ》云々。十【六丁】君乎懸管《キミヲカケツヽ》云々など猶多くありて、心または詞などにかくるをいふなり。考云、懸《カケ》は言にかけて申すをいふ。懸まくもかしこきの懸に同じ。宜《ヨロシ》てふ言は、たゞよきことをいふのみにあらず。萬の事の足備れるをほむる言なり。くはしくは下の宜奈倍《ヨロシナヘ》てふ言の別記にいへり。(頭書、書紀天武天皇五年九月紀、訓注に次此云2須岐1也。)
 
遠神《トホツカミ》。
こは、本集三【二十三丁】遠神我王之幸行處《トホツカミワカオホキミノイテマシトコロ》云々などもありて、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。意は人に遠くして崇也と考にいはれぬ。
 
行幸《イテマシ・ミユキ》乃《ノ》。
行幸は、書紀天智紀童謡に、伊提麻志《イテマシ》云々。本集八【廿丁】伊而麻左自常屋《イテマサシトヤ》云々などあるによりて、いでましとよむべし。古事記上卷幸行、書紀神代紀に遊幸などみなしかよめり。
 
山《ヤマ》越《コス・コシノ》風乃《カセノ》。
こは舊訓やまこしのかぜのとありて、下の反歌にも山越乃風乎時自見《ヤマコシノカセヲトキシミ》云々ともあれど、本集九【十六丁】に石越浪乃《イハコスナミノ》云々。十一【三十四丁】井提越浪之《ヰテコスナミノ》云々などあるによりて、山こす風のとよむべし。
 
獨座《ヒトリヲル》。
舊訓、ひとりをるとあるを、考にはひとりゐると直されしかど、いかゞ。本集十一【四十七丁】に渚座船之《スニヲルフネノ》云々とあるにても座はをるとよまん事論なし。
 
(24)吾衣手爾《ワカコロモテニ》。
略解云、衣手は袖也。衣を古語そといへり。されば、衣の手にて、そでと同じ語なり。
 
朝《アサ》夕《ヨヒ・ユフ》爾《ニ》。
朝夕を、舊訓あさゆふとあれど、あさゆふと云ことは、後のことにて、本集のころまではなし。あしたといへば、ゆふべといひ、あさといへばよひといふ事、古語の定り也。本集十七【四十丁】に安佐欲比其等爾《アサヨヒコトニ》云々。十八【二十六丁】安沙余比爾【アサヨヒニ】云々。二十【五十四丁】安佐欲比爾《アサヨヒニ》云々などあるにても思ふべし。又十九【二十六丁】安志多爾波可度爾伊※[氏/一]多知《アシタニハカトニイテタチ》、由布敝爾波多爾乎美和多之《ユフヘニハタニヲミワタシ》云々とあるにて、あしたといへば、ゆふべといふ事をしるべし。
 
還比叡禮婆《カヘラヒヌレハ》。
らひの約、りなれば、かへりぬればにて袖のかへるなり。考云、山風の、常にかへる/\、わが袖に吹來つゝ、春寒きに獨居る人の妹戀しらをますなり。
 
丈夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》。
書紀、神代紀上下、并集中、丈夫はみなますらをとよめり。丈夫は、男子を稱する詞にて、雄々《ヲヽ》しきをいふ。こゝは、みづからわれは丈夫《マスラヲ》ぞと思ひはげませど、たよりなき旅にしあれば、すゞろにものがなしと也。本集三【五十三丁】に丈夫之心振起《マスラヲノココロフリオコシ》云々。五【九丁】に麻周羅遠乃遠刀古佐備周等《マスラヲノヲトコサヒスト》、都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルキタチコシニトリハキ》云々。六【廿八丁】に燒刀之加度打放丈夫之《ヤイタチノカトウチハナスマスラヲノ》云々。六【三十二丁】に益荒夫乃去能進爾《マスラヲノユキノスヽミニ》云々。十一【二丁】に健男《マスラヲ》云々などあるにても、をゝしき男といふことなるを知るべし。さて、丈夫は、周易上經に、係2小子1失2丈夫1云々。公羊傳定八年注云、丈夫大人之稱也云々などあるを見ても思ふべし。丈、印本大に誤る。今意改。下皆准之。
 
(25)草枕《クサマクラ》。
まくら詞なれば、冠辭考にくはし。旅にては草引むすびなどして、枕ともする故に枕詞とはせしなり。
 
客爾之有者《タヒニシアレハ》。
客は、義訓にて、旅なり。本集十【十八丁】客爾爲而妻戀爲良志《タヒニシテツマコヒスラシ》云々。同【五十一丁】吾客有跡《ワレタヒナリト》云々。十九【三十八丁】客別度知《タヒワカルトチ》云々など見えたり。玉篇云、客口格切、客旅云々。字鏡集云、客【タヒヒト】などあるにても思ふべし。爾之有者《ニシアレハ》云々の、し文字は助字なり。
 
思遣《オモヒヤル》。
こは思を遣るなり。心をやるといふに同じ。本集九【三十一丁】戀日之累行者思遣田時乎白土《コフルヒノカサナリユケハオモヒヤルタトキヲシラニ》云云。二【三十七丁】遣悶流情毛有八等《オモヒヤルココロモアルヤト》云々などあるがごとし。考云、心の思をやり失ふべき手よりをしらずと也。思遣は、卷二に、遣悶と出たる意なり。
 
鶴寸乎白土《タツキヲシラニ》。
鶴は、和名抄羽族名に、唐韻云※[零+鳥]【音零揚氏抄一多豆今案倭俗謂v鶴爲1葦鶴1是也。】鶴別名也云々とあるがごとし。たづとよめれば鶴寸《タツキ》と借字に用ひたる也。たづきもしらには、手よりもしらずといはんがごとし。そは本集四【三十四丁】雖念田付乎白土《オモヘトモタツキヲシラニ》云々。同【四十一丁】田付不知毛《タツキシラスモ》云々などあるがごとく、猶多し。又たどきともいへり。つと、とと音かよへば也。十二【六丁】思遣爲便乃田時毛吾者無《オモヒヤルスヘノタトキモワレハナシ》云々などありて、これも猶多し。白土《シラニ》、これも借字にて、不知の意にて、しらにのには、ずの意なり。この事くはしくは下【攷證三中四丁】にいふべし。考別記云、たづきをしらにてふ言の本は、手著《タツキ》を不知にて、手寄《タヨリ》もしらずといふに同じ。そを、この歌には、久しく旅の獨居の思ひをやるべきわざをも覺えぬ事にいへり。又何にても事のより所なきをもいふめり。この言、集中にいと多きを見(26)わたしてもしれ。(頭書、しらに、考別記頭書。)
 
網能浦之《アミノウラノ》。
考には、網《アミ》を綱《ツナ》に改ためて云、神祇式に、讃岐國鋼丁、和名抄に、同國鵜足郡に津野郷あり。その浦なるべし。綱をつのと云は古言なり。今本に網浦とありて、あみの浦と訓しかど、より所も見えず云々といはれ(脱字?)なか/\に誤りなるべし。網丁の網は、地名にあらず。こは船の網にかゝはりたる丁《ヨホロ》なる事、主税式下に、水脚若干人、網丁若干人、帆料薦若干枚云々などあるがごとし。又和名抄同國に津野郷ありとて、郡もたがひたれば、これ一つもて本文を直すべくも思はれず。されば思ふに、本集十一【三十七丁】或本歌に、中々爾君爾不戀波留鳥浦之海部爾有益男珠藻刈々《ナカ/\ニキミニコヒスハアミノウラノアマニアラマシヲタマモカル/\》云々とある、國はしれざれど、正しくあみの浦とあれば、こゝと同所なるべし。さればこゝもあみの浦とよまん方まされり。
 
海處女等之《アマヲトメラカ》。
こは、海の一字をあまとよむに似たり。あまをとめといふ時は、かゝる例ままあり。本集三【廿三丁】海女《アマメ》、七【十三丁】海未通女《アマヲトメ》云々など猶あまたあり。處女をとめとよめる事いと多く、處女の字は、史記戰國策にはじめて見えたり。
 
燒鹽乃《ヤクシホノ》。
やくしほのの、の文字はのごとくといふ言をふくめたる也。この例、集中いと多し。一つ二つをいはゞ、四【二十三丁】天雲之外耳見管《アマクモノヨソノミミツヽ》云々。九【二十九丁】羣鳥之群立行者《ムラトリノムラタチユケハ》云々などある、の文字のごとし。古今戀一、よしの川いは浪たかくゆく水のはやくぞ人を思ひそめてし。又、夕づくよさすやをかべの松の葉のいつともわかぬ戀もするかな云々などあるも同じ格なり。
 
(27)念曾《オモヒソ》所燒《モユル・ヤクル》。
所燒は、舊訓やくるとあれど、もゆるとよむべし。そは本集十一【三十二丁】布仕能高嶺之燒乍渡《フシノタカネノモエツヽワタル》云々。十二【二十一丁】若山爾燒流火氣能《ワカヤマニモユルケムリノ》云々。九|心波母延農《コヽロハモエヌ》云々などあり。
 
吾《ワカ》下《シツ・シタ》情《コヽロ》。
考云、下つ心をしづ心といふは下枝《シツエ》下鞍《シツクラ》などいふがごとし。後撰歌集にも、下《シツ》心かなとよめり云々。いはれつるごとくなれど、後撰とは誤り也。拾遺雜春に、春はをしほととぎすはたきかまほし思ひわづらふしつ心かな云々と見えたり。
 
反歌
 
6 山越乃《ヤマコシノ》。風乎時自見《カセヲトキシミ》。寐夜不落《ヌルヨオチス》。家在妹乎《イヘナルイモラ》。懸而小竹櫃《カケテシヌヒツ》。
 
山越乃《ヤマコシノ》。
古今大歌所かひ歌、かひがねのねこし山こしふく風を人にもがもやことづてやらん。
 
時自見《トキシミ》。
時自見《トキシミ》は、書紀垂仁紀に、非時香菓《トキシクノカクノコノミ》云々とあるがごとく、非時といふ言にて、こゝは風の時ならず不斷ふきて、わびしきといふ也。本集下【十六丁】時自久曾雪者落等言《トキシクソユキハフルトフ》云々。四【十三丁】時自異目八方《トキシケメヤモ》云々。八【五十一丁】非時藤之目頬布《トキシクフチノメツラシク》云々などあるにても思ふべし。猶下【攷證三中六十五丁】にくはしくいふべし。ときじみのみは、上【攷證十丁】に心乎痛見とある見《ミ》のごとく、さにの意なり。
 
寐夜不落《ヌルヨオチス》。
不落《オチス》は、漏《モラ》さずといふがごとし。古事記上卷に、伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチス》云々。續日本紀、神龜六年八月詔に、一二乎|漏落事《モラシオトスコト》母在【牟加止】云々。祈年祭祝詞に、島之八十島墜(28)事無《シマノヤソシマオツルコトナク》云々。本集下【二十九丁】川隈之八十阿不落《カハクマノヤソクマオチス》云々。十二【二丁】一夜不落夢見《ヒトヨモオチスイメニミエケリ》云云。十三【十七丁】眠夜不落《ヌルヨオチス》云々、などあるにて思ふべし。集中猶多し。
 
懸而小竹櫃《カカエテシヌヒツ》。
懸而《カケテ》は、上【攷證十丁】に懸乃宜久《カケノヨロシク》云々などありし所にいへるがごとく、心詞などにかけて、思ふなり。こゝは心にかけて思ひ忍ぶ意なり。本集三【三十五丁】に玉手次懸而將偲《タマタスキカケテシヌハン》云々。九【二十九丁】に留有吾乎懸而小竹葉背《トマレルワレヲカケテシヌハセ》云々。十二【十五丁】犬馬鏡懸而偲《マソカヽミカケテシヌヒツ》云々などあるがごとし。小竹櫃《シヌヒツ》は借字なり。印本、小竹櫃《シノヒツ》とよめれど、本集三【三十五丁】に珠手次懸而之努櫃《タマタスキカケテシヌヒツ》云々とあるのみならず、しぬゝにぬれて、こゝろもしぬに、などもあれば、しぬびつとよめり 二【三十五ウ】。小竹《シヌ》は、和名抄竹類云、蒋魴切韻云篠【先鳥反和名之乃一云佐々俗用2小竹二字1謂2之佐々1】細細竹也云々。櫃は同書木器類云、蒋魴切韻云櫃【音與v貴同和名比都】似v厨向上開v闔器也云々と見えたり。さて、しぬぶといふ言は、宣長の古事記傳卷十四にいはれつる如く、戀しぬぶと、堪しぬぶと、隱《カクレ》しぬぶと、三つありて、外に又たゞ物をめづる意なると、合せて四つあり。こゝなるは、戀しぬぶ意なり。餘の三つの事はつぎ/\にいふべし。
 
右檢2日本書紀1。無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰。紀曰。天皇十一年己亥。冬十二月己巳朔壬午。幸2于伊豫|温湯《ユノ》宮1云々。一書云。是時宮前在2二樹木1。此之二樹。班鳩《イカルカ》此(29)米《シメ》二鳥大集。時勅多掛2稻穗《イナホ》1。而養v之。乃《スナハチ》作歌云々。若疑從2此便1幸v之歟。
 
檢。
檢は、假名玉篇カンカフと見えたり。
 
日本書紀。
續紀元正紀云、養老四年五月云々、先v是、一品舍人親王、奉v勅、修2日本紀1、至v是功成奏上、紀三十卷系圖一卷云々。
 
山上憶良。
下【攷證下五十一丁】に出す。
 
大夫。
公式令云、於2太政官1、三位以上稱2大夫1、四位稱v姓、五位先v名後v姓、其於2寮以上1、四位稱2大夫1、五位稱v姓、六位以下稱2姓名1、司及中國以下、五位稱2大夫1云々とあり。また、和名抄位階の條に、四位五位【已上爲2大夫位階1】云々と見えたるは誤りにて、一位以下五位以上の稱なり。憶良從五位下なりしかば、大夫とはかけるなり。書紀崇神紀、皇極紀等に、大夫をまちきみとよめりしかど、こゝは音もてよむべし。猶大夫の事は、下【攷證三中四十五丁】にくはしくいふべし。
 
類聚歌林。
今傳はらず、をしむべし。仁和寺書目外録に、類聚歌林百卷、山上憶良撰在2平等院1云々、通憲説也云々、とあれど、この外録といふものうけがたきもの(30)なり。
 
紀曰。
紀、印本作v記、今意改。紀は舒明紀なり。
 
伊豫|温湯宮《ユノミヤ》。
伊豫の温泉は、古事記下卷に、故輕太子者、流2於|伊余湯《イヨノユ》1也云々。和名抄國郡部に、伊豫國温泉郡云々などあるは地名なれど、温泉のあるよりしかいへる也。延喜神名式に、湯神社あり。これも同じ。釋日本紀卷十四、引2伊豫國風土記1云、湯郡云々、凡湯之貴奇不2神世時耳1、於2今世1、染2※[病垂/令]痾1萬生、爲2除v病存v身奇藥1也、天皇等、於v湯幸行降坐五度也云々など見えたり。温湯宮は、天皇ゆあみまさんとて、そのほとりに行宮《カリミヤ》をつくらせ給ふ也。本紀十年の條に、有間温湯宮なども見ゆ。猶いよの湯は、本集三、赤人の歌にも見えたり。その所【攷證三中九丁】にもいへり。
 
一書云。
是を代匠記には、風土記なるべしといはれしかど、風土記の文といたくたがへり。ここにあぐるを見てしるべし。仙覺抄卷五、引2伊豫國風土記1云、湯郡、天皇等於v湯幸行降坐五度也【中略】、以2岡本天皇并皇后二躯1、爲2一度1、于v時、於2大殿戸1、有v椹、云2臣木1、於v其集v上鵤、云2比米鳥1、天皇爲2此鳥1、枝繋2穂等1養賜也云々などあるにても、一書と云は風土記ならざることしらる。
 
(31)班鳩《イカルカ》。
和名抄羽族名云、崔禹錫食經云鵤【胡岳反和名伊加流加】貌似v※[合+鳥]而白喙者也、兼名苑注云、斑鳩【和名上同見2日本紀私記1】觜大尾短者也云々、禽經云、斑鳩辨※[鞠の旁+鳥]班次序也云々。また本集十三【六丁】中枝爾伊加流我懸《ナカツエニイカルカカケ》、下枝爾此米乎懸《シツエニシメヲカケ》云々とあるも、斑鳩と此米とをよめり。
 
此米《シメ》。
風土記には、比米とあれど、上に引たる本集十三に、斑鳩《イカルカ》と此米《シメ》とを一首の中によめるにても、こゝは此米なる事しらる。和名抄羽族名云、孫※[立心偏+面]切韻云※[旨+鳥]【音脂漢語抄云之女】小青雀なり云云とあるこれなり。此注、後の人のわざなる事提要にいへり。
 
明日香川原《アスカノカハラ》宮御宇天皇代 天豐財重日足姫《アマツトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
天皇、御謚を齊明と申す。皇極天皇の重祚ましましたる也。書紀皇極紀云、天豐財重日足姫天皇、渟中倉太珠敷《ヌナクラフトタマシキノ》天皇曾孫、押坂彦人大兄《オシサカノヒコヒトノオホエノ》皇子|茅渟《チヌノ》王女也云々。本紀云、元年春正月壬申潮甲戌、皇祖母尊、即2天皇位於飛鳥坂蓋宮【中略】、是冬、災2飛鳥板蓋宮1、故還2居飛鳥川原宮1云々。明日香《アスカ》とかくも飛鳥と書も同じ。大和國高市郡なり。集中多く明日香とかけり。宣長云、凡て川原といふは、今の世にいふ川原のみにあらず。川近き地をいへり。さてこのあすかの川原は、やがて地名にもなれるか。川原寺といふも、この川の邊也云々。天豐財重日足姫天皇、この九字、印本大字、今元暦本古本などによりて、小字とせり。下皆これに同じ。
 
額田王作歌。未詳
額田王は、額田女王とありし、女の字を脱せる歟。集中七所出たる、皆女の字なけれど、本集四【十三丁】額田王思2近江天草1作歌一首とて、相聞の歌(32)あるを思へば、女王なること明らけし。書紀天武紀に、天皇初娶2鏡王女【印本無女字今意改】額田姫王1、生2十市皇女1云々とある額田姫王は、こゝなる額田王と同人歟。これを同人とする時は、集中鏡王女とあるは、額田王の兄弟なるべし。次に考と略解との説をあげたれば、見ん人、心のひかん方にしたがふべし。考云、紀に云々とありて、天武天皇いまだ皇太子におはしゝ時の夫人なり。かくて、集中に額田王とてあげたるは、皆女の歌なり。しかれば、此王に姫の字落し事定かなる故に、今加へつ。たゞ、額田王とありては、男王をいふ例にて、その歌どもにかなはねばなり云々。略解云、猶考ふるに、額田王は鏡王の女にて、鏡女王の妹なるべし。はじめ、天智天皇にめされたる事、卷四に思近江天皇といへる歌あるにてしるべし。さて、天武天皇は太子におはしましゝ御時より、この額田王に御心をかけ給ひし事、以下の紫草のにほへるいもを云々の御歌にてしらる。天智天皇崩給ひし後、天武天皇にめされて、十市皇女を生給へり云々。さて額田は地名より御名には付しなるべし。書紀顯宗紀に、山邊郡額田邑とあるは、大和なり。和名抄國郡部に、大和國平郡(群)郡額田【奴加多】云々とあるにても思ふべし。又額田氏は、古事記、書紀、姓氏録等に見えたり。(頭書、玉二ノ二十八丁。女王に女の字なきは、古事記下、衣通王。)未詳、この二字、印本大字、今元暦本によりて小字とせり。
 
7 金野乃《アキノヽノ》。美草《ヲハナ・ミクサ》苅茸《カリフキ》。屋杼禮里之《ヤトレリシ》。兎道乃宮子能《ウチノミヤコノ》。借《カリ》五百※[火+幾]所念《ほしおもほゆ・イホシソオオモフ》。
 
金野《アキノヽノ》。
金をあきとよめるは、本集十【三十四丁】に露枯金待難《ツユニシヲレテアキマチカタシ》云々。同【五十丁】に金山舌日下《アキヤマノシタヒカシタニ》云々などあるがごとし。五行を四季に配する時は、金は秋なればなり。そは禮記月令正義云、案2(33)此秋1云、其帝少※[白+皐]、在2西方金位1云々。春秋繁露五行逆順篇云、金者秋殺氣之始也云々。文選張景陽雜詩云、金風扇2素節1、丹霞啓2陰期1云々。李善注云、西方爲v秋、而主v金、故秋風曰2金風1也云云などあるにても知るべし。
 
美草《ヲハナ・ミクサ》。
美草は、印本みくさと訓ぜれど、元暦本にをばなとよめるうへに、又此歌を新勅撰にも、をばなとしてのせられたるをよしとす。本集八【四十一丁四十二丁】十六【十五丁】などに草花を、をばなとよめるなど思ふべし。また八【五十四丁】は波太須珠寸尾花逆葺《ハタススキヲハナサカフキ》云々。十【五十六丁】※[虫+廷]野之尾花苅副《アキツノヽヲハナカリソヘ》、秋芽子之花乎葺核君之借廬《アキハキノハナヲフカサネキミカカリホニ》云々とあるにても尾花を葺事しらる。宣長云、美草は、をばなとよむべし。貞觀儀式大甞祭の條に、次黒酒十缶云々、以2美草1餝v之。また次倉代十輿云々、餝以2美草1と見えて、延喜式に同じく見ゆ。然れば必一種の草の名也。古へ、薄を美草とかきならへるなるべし。もし眞草の意ならんには、式などに美草の字を似《(マヽ)》字かくべきよしなし云々。この説にしたがふべし。
 
屋杼禮里之《ヤトレリシ》。
こは宿るなり。
 
兎道乃宮子《ウチノミヤコ》。
宇道宮子《ウチノミヤコ》は、山城國宇治なり。宮子は借字にて、都なり。さて、この宇道の都に、三つの説あり。其一つは宇治に行幸ありし事、この天皇の紀には見えざれど、外の所々に行幸ありしその次に、宇治にも立よらせ給ひし行宮のありし所を、宇治の都とはいへるか。すべて天皇のおはします所を都とはいへり。そは本集六【十五丁】に、幸2于難波宮1時、笠朝(34)臣金村の作れる長歌の反歌に、荒野等爾里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿《アラノラニサトハアレトモオホキミノシキマストキハミヤコトナリヌ》とあるも、行《カリ》宮をみやこといへり。又唐韻引2帝王世紀1云、天子所宮曰v都云々。釋名釋州國云、國城曰v都、都者國君所v居、人所2都會1也云々などあるにても思ふべし。又考ふるlこ、應神天皇六年の紀に、近江國に行幸し給ひしをり、菟道にて和歌よませ給ひし事見え、天智天皇十年の紀に、天武天皇東宮におはしましゝ時、佛道脩行し給はんとて、吉野に入せ給ふに、大臣宇道まで送り奉りし事見えたるをおもへば、このころの通路なりしなるべし。其二つは、兎道若《ウチノワキ》郎子のおはしましゝかば、しかいふか。詞林釆葉引2山城國風土記1云、謂2宇治1者、輕島明宮御宇天皇之子、宇治若郎子、造2桐原桁日宮1、以因2御名1號2宇治1、本名曰2評之國1矣、彼是宇治都無2子細1者乎、稚郎子崩御ノ御事ヲヨミ給ヒケルニヤ云々。皇子おはします所をみやこといへるは、禮記考工記注云、都四百里外、距2五百里1、王子弟所v封云々。周禮夏官序官注云、都王子弟所v封、及三公衆釆地也云々などあるがごとし。其三つは、天皇皇子などおはしまさずとも、たゞにぎはしき所を都とはいふか。十八【十七丁】に、安麻射可流比奈能都夜故爾《アマサカルヒナノミヤコニ》云々【この事は其所にいふべし。】とあるたぐひ也。そは、穀梁僖十六年傳云、民所v聚衆曰v都云々。後漢書東平王蒼傳注云、人所v聚曰v都云々などあるがごとし。○考云、幸の時、山城の宇治に造りたる行《カリ》宮をいふ。さて離宮所《トツミヤトコロ》とも行宮所《カリミヤトコロ》を略《ハフ》きてみやこといへり云々。又云、是に兎道のみやことあるは、近江へ幸の時の行宮をいふなり。さて紀には、此時はなくて、後岡本宮の時、近江の幸の事あれど、この御代の紀は誤多し。此集によるべし。
 
借《カリ》五百磯所念《ホシオモホユ・イホシソオモフ》。
考云、五百は訓をかり、磯は助辭、行宮をかり廬《ホ》といふは、下にも類あり。今本、かりほしぞおもふとよみしも、下に妹乎師曾於母布《イモヲシソオモフ》ともあれば、さ(35)てもあるべきを、かく所念と書しをば、惣ておもほゆとよむ例なり。下も是によれ。○磯、印本※[火+幾]、今依2拾穗本1改。
 
右檢2二山上憶良大夫類聚歌林1。曰。一書曰。戊申年。幸2比良宮1大御歌。但紀曰。五年春正月己卯朔辛巳。天皇至v自2紀温湯1。三月戊寅朔。天皇幸2吉野宮1。而|肆宴焉《トヨノアカリシタマフ》。庚辰。天皇幸2近江之平浦1。
 
一書曰戊申年。
考別記云、飛鳥川原宮におはしゝは、齊明天皇重祚元年、乙卯の冬より二年丙辰の冬までにて、此御時に戊申の年はなし。此注例のよしなし。
 
比良宮。
上に幸2近江之平浦1とある行宮なるべし。本集下【十七丁】の一云比良乃大和太云云。九【十三丁】平山云々などあると、同所か。同所ならば近江國滋賀郡なり。
 
五年。
考別記云、此五年は、後岡本宮におはしませば、川原宮にかなはず。ことに三月なれば、こゝに秋野とあるにそむけり。
 
紀温湯。
こゝは、下に、幸2于紀温泉1之時額田王作歌とあると同所なるべし。
 
吉野宮。
書紀應神紀云、十九年冬十月、戊戌朔、幸2吉野宮1云々とあるをはじめにて、古事記、書紀、集中いと多し。下々に出るを見るべし。
 
(36)肆宴《トヨノアカリ》。
書紀雄略紀に、命v酒兮|肆宴《トヨノアカリス》云々と見えたり。古事記に豐明、豐樂、書紀に宴樂、宴會、宴饗など皆とよのあかりとよめり。この事、くはしくは本集十九【攷證】にいへり。あはせ見てしるべし。
 
庚辰。
印本、庚辰日とあり。今、書紀によりて日の字をはぶけり。元暦本、庚辰其日とあり。これも誤りなる事論なし。
 
平浦。
本紀云、平浦【平此云2毘羅1】とあり。まへの比良宮と同所なるべし。
 
後崗本宮御宇天皇代。天豐財重日足姫天皇、位後即2位後崗本宮1。
天皇、御謚を齊明と申す。上には明日香川原宮御宇天皇として、こゝには後崗本宮御宇天皇とせるは、書紀本紀云、元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、即2天皇位於飛鳥板蓋宮1、【中略】是冬、災2飛鳥坂蓋宮1、故遷2居飛鳥川原宮1云々。二年、是歳於2飛鳥岡本1、更定2宮地1、【中略】遂起2宮室1、天皇乃遷、號曰2後飛鳥岡本宮1云々とあるがごとし。崗本宮の事は上【攷證三丁】にいへり。活本、位後以下八字なし。
 
額田王歌。
上【攷證十四丁】にいへり。
 
(37)8 熟田津爾《ニキタツニ》。船乘世武登《フナノリセムト》。月待者《ツキマテハ》。潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝乞菜《イマハコキコナ》。
 
熟田津《ニキタツ》。
熟田津は、書紀齊明紀云、七年春正月【中略】庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1【熟田津此云2※[人偏+爾]枳陀豆1】云々(と)見えて、本集三【二十八丁】山部赤人至2伊豫温泉1てよめる長歌の反歌に、百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久《モヽシキノオホミヤヒトノニキタツニフナノシシケントシノシラナク》云々。十二【四十丁】柔田津爾舟乘將爲跡《キニ(ニキ)タツニフナノリセント》云々などあるもこゝなり。二【十八丁】人麿の長歌に和多豆《キニ(ニキ)タツ》とあるは石見國なり。
 
月待者《ツキマテハ》。
舟にのらんとて月を待ば也。
 
潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。
潮は、常はうしほとよめど、書紀神代上、字鏡集などに、しほとよみ、新撰字鏡、假名玉篇等には、しほみつとよめり。うしほといふも、いとふるし。古事記上卷、書紀齊明紀御歌などに見えたり。かなひぬは、心にかなふ意にて、滿足したりといふほどの言なり。書紀垂仁紀、一書に合、神功紀に有v志無v從とある從などを、かなふとよみ、續日本紀天平神護二年の詔に、應なしかよめるにても思ふべし。しほもかなひぬの、もの字に心をつくべし。月を待ば、月も出、潮もみちたりといふなり。又こゝろみに考ふるに、潮もかなひぬは、潮のみち盛りて、しばしとゞまれるをいふか。新撰字鏡に、逗を加奈不とよめり。逗は、史記韓長孺傳索隱に、逗留止也云々。後漢書張衡傳注に、逗止也云々などあるをも見るべし。
 
(38)今者許藝乞菜《イマハコキコナ》。
こは、月もいで潮もみちたれば、今は舟こぎ來らんとなり。考云、集中に乞をこそとよみて、即|乞《コヒ》願ふ意也。有乞《アリコソ》、見えこそ、又にほひ乞《コセ》、妻よしこせねなどもよめり。共に乞意なり。然ればこゝも今は時のかなひたれば、御船こぎいでよと乞給ふなり云々とて、訓をさへ今はこぎこそなと直されしは誤り也。乞の字を古《コ》のかなに遣しを疑ふ事、いかゞ。集中、音訓をつゞめもし、はぶきもして、遣へる事、常の事なれば、乞の字を古《コ》の假字《カナ》につかふ事の、などかはなからん。そは上【攷證八丁】にいへるがごとく、刻をき、足をあ、猿をさの假字に遣へるたぐひにて、訓を略せるなり。乞菜の菜は借字にて、來んの意也。んの意にかよふなもじ、集中いと多し。其一二をいはゞ、二【一六丁】玉藻苅手名《タマモカリテナ》云々。四【五六丁】行而早見奈《ユキタハヤミナ》云々。五【一六丁】阿素※[田+比]久良佐奈《アソヒクラサナ》云々などあるがごとし。考云、外蕃の亂をしづめ給はんとて、七年正月、筑紫へ幸ついでにこの湯宮に御船泊給へる事紀に見ゆ。額田姫王も、御ともにて、此歌はよみ給ひし也けり。さて、そこよりつくしへ向ます御船出の曉月を待(給脱?)ひしなるべし。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1。曰。飛鳥岡本宮御宇天皇。元年己丑。九年丁酉。十二月己巳朔壬午。天皇大后。幸2于伊豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇。七年辛酉。春正月丁酉朔壬寅。御船西征始就2于海路1。庚(39)戌。御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1。天皇御2覧昔日猶存之物1。當時忽起2感愛之惰1。所以因製2歌詠1。爲2之哀傷1也。即此歌者。天皇御製焉。但額田王歌者。別有2四首1。
 
元年己丑。
考別記云、この元年、何の用ともなし。又舒明天皇より齊明天皇まで元年に己丑もなし。
 
幸2于伊豫湯宮1。
考別記云、舒明天皇紀に、九年この事なし。十年十月にあり。伊豫風土記に、崗本天皇并皇后二躯爲2一度1とあるを、こゝにはいふと見ゆ。然れどもこゝは後岡本宮と標せれば、右は時代異にて用なし。
 
馭宇。
こは、御宇といふに同じ。荀子王覇篇注云、馭與v御同云々。玉篇云、馭魚據切古御字云々とあるがごとし。
 
七年。
こゝより下、行宮といふ字まで、書紀の文にてまへの歌に用あり。
 
石湯。
石湯といふ事は、釋日本紀卷十四、引2伊豫國風土記1云、湯郡、大穴持命、見悔耻而、宿奈※[田+比]古那命欲v活而、大分速見湯自2下樋1持度來、以2宿奈※[田+比]古奈命1而、浴漬者、暫間有(40)活起居、然詠曰、眞暫寢哉、踐建跡處今在2湯中石上1也云々とある、ふみたけびましゝ跡の、湯の中の石にのこれるによりて、石湯とはいへるならん。郡を湯郡といふも温泉のあるよりつけし名なるべし。
 
行宮《カリミヤ》。
行宮は、天皇の行幸ましますさき/\の假の宮をいふ。書紀神武紀云、乙卯年、春三月甲寅朔己未、徒2(徙?)入吉備國1、起2行宮1以居v之云々。天文本和名抄居宅類云、日本紀私記云、行宮【戸雄切室也中也人所v居也加利美夜】今案、俗云頓宮是也云々。文選呉都賦、李善注云、天子行所v立名曰2行宮1云々とあるにて事明らけし。
 
天皇御2覽昔日猶存之物1。
考別記云、此天皇と申より下は、又注にて、甚誤れり。こゝに製2歌詠1といふは、右の歌をさすに、其歌の何の處に感愛の意ありとするにや。思ふに、むかし天皇と御ともにおはしましゝ時のまゝに萬はありて、天皇のみおはしまさぬを悲しみ給ふ御心より、むかしの御船のこぎ來れかしとよみ給へりと思ふなるべし。こは今はこぎ乞《コソ》など訓べき、乞の字の例をもしらでこぎこなと訓誤りて、よしなき事に取なせるものぞ。乞は集中に多くこそと訓て、願ふ意なり。且、月まてば汐もかなひといふからは、今は船こぎ出こそといふより外に意なし。古言をも古歌をもしらぬものゝ、憶良の名をかりて人をまどはすなり。
 
別有2四首1。
考別紀云、別に四首あらば、何の書とも何の歌ともいふべし。右にいふごとくのひが心よりは、何歌をか見誤りていふらん。上の軍王の歌よりはじめて古注多(41)かれど、わづらはしくて、さのみは論ぜず。これらをおして知れ。
 
幸2于紀温泉1之時。額田王作歌。
 
紀。
書紀神代紀には、紀伊國とかき、古事記上卷には、木國とかけり。古くはかくのごとく、一字にも二字にもかきて定りたる事はなかりしを、續紀元明紀云、和銅六年五月甲子、畿内七道諸國郡郷名、著2好字1云々とありしより事定れることゝおぼし。(頭書、紀の下伊の字目録に依て加ふべし。)
 
温泉。
書紀齊明紀云、四年冬十月、庚戌朔甲子、幸2紀温湯1云々とある度なるべし。同紀、三年の條に、牟婁温湯とあると同ならば、今いふ熊野の温泉なるべし。
 
9 莫囂圓隣之《・ユフツキノ》。大相七兄爪謁氣《・アフキテトモヒシ》。吾瀬子之《ワカセコガ》。射立《イタヽ》爲《ス・セル》兼《ガネ》。五可新何本《イツカシガモト・イツカアハナム》。
 
この歌、一二の句解しがたし。おのれ思ひ得る事あらねば、たゞ故人の説をのみあぐ。見ん人心のひかん方にしたがふべし。いづれも心ゆきてもおぼえねど、予はしばらく久老か春海が説によらんとす。
 
莫囂圓隣之。大相七兄爪謁氣。
代匠記云、この歌のかきやう、難文にて心得がたし。しひて第一の句を案ずるに、莫は禁止の詞に(42)て、なかれなれども、たゞなしともよめり。囂は左傳杜預注に喧※[口+花]也といへり。堯の時、老人ありて、日出而起、日入而息といひ、又陶淵明が詩に、日入群動息と作れり。されば、陰氣に應じて、くるれば靜かになる心にて、莫囂を夕とはよめるか。圓隣とは、十日過るころは、月もやう/\まろに見ゆれば、七八日の月は、それにとなりつれば、かくはかけるにや。第二の句は、かきやうよみやうひたすら心得ず云々。考別記云、今本に、莫囂圓隣之、大相七兄爪謁氣とあるのみを守りで、強たる説どもあれど、皆とらず。何ぞといはゞ、諸の本に、字の違多きを見ず、古言に本づきて訓べきものともせず、後世の意もていふ説どもなればなり。仍て年月に多くの本どもを集へ見るに、まづ古本に、莫囂國隣之とあり。古葉略要に奠器國隣之とす。又一本に莫哭國隣之とす。今本と四本。かゝるが中に、古本ぞ正しかりき。二の句は、古本に大相云兄爪謁氣とあり。古葉略要に大相土兄瓜湯氣とす。一本に大相七咒瓜謁氣とす。又今と四本なり。是を考るに、七も土も、古の草より誤り、謁は湯なり。これを合せもて、大相古兄※[氏/一]湯氣となす時は、言やすく意通れり云々。考云、莫囂國隣乃《キノクニノ》、こはまづ、神武天皇紀に依に、今の大和國を内つ國といひつ。さてその内つ國を、こゝに囂《サワキ》なき國と書たり。同紀に、雖邊土未清餘妖尚梗而中州之地無風塵《トツクニハナホサヤケリトイヘトモウチツクニハヤスラケシ》てふと、同意なるにて、知ぬ。さてその隣とは、此度は紀伊國をさす也。然れば、莫囂國隣之の五字は紀《キ》の久爾《クニ》のと訓べし。又右の紀に、邊土と中州を對云しに依ては、此五字を外《ト》つ國のともよむべし。然れども、云々の隣と書しからは、遠き國はもとよりいはず、近きをいふなる中に、一國をさゝでは、此歌にかなはず。次下の歌に、三輪山を綜麻形とかきなせし事など、相似たるによりても、猶上の訓をとるべし。大相《ヤハ(マヽ)》やまなり。古兄※[氏/一]湯氣《コエテユケ》越てゆけなり云々。宣長が玉勝間云、(43)萬葉一の卷に、莫囂國隣之《カマヤマノ》、霜木兄※[氏/一]湯氣《シモキエテユケ》とあり。莫囂は加麻《カマ》と訓べし。加麻《カマ》をかく書るよしは、古へに人のものいふを制して、あなかまといへるを、そのあなをはつ(はぶ?)きて、かまとのみもいひつらん。そは、今の世の俗言に、囂《カマヒス》しきを制して、やかましといふと同じ。やかましは、囂《カマヒス》しといふことなれば、かまといひて、莫《ナカレ》v囂(シキコト)といふ意なり。さて、かま山といふは、神名帳に、紀伊國名草郡、竈山神社、諸陵式に、同郡竈山墓と見えたるこれ也。此御墓は、神武天皇の御兄、五瀬《イツセノ》命の御墓にて、古事記書紀にも見えたり。神社も、御墓も、古への熊野道ちかき所にて、今もあり。國隣は、夜麻《ヤマ》とよむべし。山は隣の國の堺なるものなれば、かくも書くべし。國の字は、本には圓とあるを、一本に國とある也。霜の字、本に大相とあるは、霜の草書を、大相の二字と見て誤れる也。そも/\、この事は、書紀、齊明天皇卷に、四年冬十月、庚戌朔甲子、幸2紀温湯1とありて、十一月までも、かの國にとゞまりませりしさま見えたれば、霜のふかくおくころ也。木兄※[氏/一]は、本には木(ノ)字を、七に誤り、或本には土にも云にも誤り、※[氏/一]ノ字は爪に誤れり。又湯の字を謁に誤れるを、そは一本に湯とある也。久老が信濃漫録云、莫囂圓隣の歌、師の考に、初句をきのくにのとよまれしは、いかゞ也。紀の國行幸に、きのくにの山こえてゆけとは、いふべきにあらず。紀の山をこえて、いづくにゆくにや。また第二句の、大相を、やまとよまれしも、いかなる意とも心得がたし。これはもと、大相土の三字を、やまとはよまれしものならんを、その土の字を、古の誤字として、次の句にとられしより、しひて大相の二字をやまとよみおかれしものとこそおぼゆれ。宣長、これをよみあらためて、初句をかま山とよみしもいかゞなり。物語ぶみに、あなかまと手かくなどいへるは、あゝやかましと制する言にて、かまはすなはち囂の字(44)にあたれば、かまとよまんに、莫の字|衍《アマ》れり。弟二句を、霜木兄※[氏/一]湯氣《シモキエテユケ》と改めよめるも、いかゞ也。又霜の、橋上、野面などにおきわたしたらんこそ、歌にもよみならひつれ。山上の霜、いかにぞや。雪にてありたし 雪はふみわけがたければ、消てのちゆけともいふべけれど、霜はさるものにしもあらねば、いかゞなり。とまれ、かくまれ、この第二句の訓は、たれもいかゞに思ふべかめるを、別に考出べき才力《チカラ》なきゆゑに、もだをるならん。己《オノレ》が考は、囂《カマヒスシキ》ことなきは、耳なし山なり。圓《ツブラ》は山の形にて、倭姫命世記に、圓《ツブラ》【奈留】有2小山1【支】、其所【乎】都不良《ツブラ》【止】号《ナツケ》【支】と見えたれ《(マヽ)》。しかれば、莫囂圓は耳なし山なり。耳無山に隣れるは、香具山なれば、莫囂圓隣之は、かぐ山のとよむべし。大相土は、書經洛誥に、大相2東土1とあるによるに、大に相《ミル》v土《ツチヲ》は國見なるべし。兄爪謁氣の兄は、一本无につくれゝば、爪謁の二字は、靄の一字を誤れるものにて、无靄氣はさやけきなれば、第二句をは、くに見さやけみとよむべきなり云々。春海云、大相土の三字にて、やまとよむべし。さらば大相土見乍湯氣にて、やま見つゝゆけとよまんか。一本に兄を見に作りたるもあれば、今、見に作れるを用て、爪を乍の誤りとなさんか云々。
 
吾瀬子之《ワカセコカ》。
吾せこは、集中いと多く見えて、親しみ敬ひていふ言なり。こゝにわがせことあるは、此行幸に供奉し給ふ皇太子【天智】をさしてのたまへるなるべし。吾せこは、古事記上卷に、我夫子《ワカセコ》云々。本集十六【十五丁】に吾兄子《ワカセコ》云々などあるがごとし。又|兄《セ》とのみいふも同じ。下にいふべし。
 
射立《イタヽ》爲《ス・セル》兼《カネ》。
いたゝすのいは發語にて、心なし。上【七丁】にいへるがごとし。がねといふ詞は、集中いと多かり。古事記下卷に、波夜夫佐和氣熊《ハヤブサワケノ》、美游須比賀泥《ミヲ(マヽ)スヒカネ》云々。本集三【三十四丁】(45)に、後將見人者語繼金《ノチミンヒトハカタリツグガネ》云々などあるがごとく、皆その料にといふ言なり。中古の書にきさきがね、坊がね、むこがねなどいへるもこゝと同じく、その料にまうくるなり。
 
五可《イツカ》新河本《シカモト・アハナン》。
この訓、説々あれど、眞淵、宣長などの説によりて、いづかしがもとゝよめり。されど、其注くはしからねば、今くはしくいはん。古事記下卷に、美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイヅカシガモト》云々。書紀垂仁紀一書に、天照大神、鎭2坐於|磯城嚴橿之本《シキノイヅカシカモト》云々。倭姫世記に、倭國|伊豆加志本宮云《イヅカシガモトノミヤ》々などあるいづは、垂仁紀に嚴橿《イヅカシ》とかけるがごとく、嚴の意なり。嚴《イヅ》は書紀神武紀に、嚴瓮、此云2怡途背《イヅヘ》1云々。同紀に、嚴咒詛、此云2怡途能伽辭離《イヅノカジリ》1云々。神功紀に、嚴之御魂《イヅノミタマ》云々などある嚴にて、忌清《イミキヨ》まはりて、齋《イツ》く意なり。嚴は古事記に、伊都とかきたるに、またこゝに五の字をかりてかければ、清《スム》べきかとも思へど、書紀に嚴を怡途《イヅ》とよみ、倭姫世記に伊豆とかけるにても、濁るべき事明らか也。さて五の字を濁音の所にかりて書るは、うたがはしきやうなれど、五手船を本集廿【十九丁】に伊豆手夫禰とかけるにても思ふべし。すべて、借字の例、清濁にかゝはらざること、前の句にがねといふ所に、兼金などかけるにてもしるべし。可新《カシ》は假にて橿なり。和名抄木類に、唐韻云橿【音薑和名加之】萬年木なり云々とあるがごとし。本《モト》は大祓祝詞に、彼方之繁木本《ヲチカタノシケキカモト》云々などあるがごとく、木の下なり。そは、説文に木下曰v本云々。山海經西山經注に、本根也云々などあるがごとし。
 
中皇命。往《イマセル》2于紀伊温泉1之時。御作歌。
 
(46)中皇命。
上【五丁】にいへり。
 
往《イマス》。
いますは、古事記中卷に、罷往《マカリイマス》云々。同卷に和賀伊麻勢波夜《ワカイマセハヤ》云々。下卷に追往《オヒイマス》云々とあるによりていませりとよめり。この言、集中いと多し。
 
御作歌。
印本、作の字を脱す。今、集中の例によりて加ふ。
 
10 君之齒母《キミカヨモ》。吾代毛《ワカヨモ》所知哉《シラム・シレヤ》。磐代乃《イハシロノ》。岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》。去來結手名《イサムスヒテナ》。
 
君之齒母《キミカヨモ》。
こゝに、きみとさせる事は、御兄中大兄皇子にいざなはれてやおはしけんと、考にいはれし、さもあるべし。齒《ヨ》は、齡にて、君がよはひもわがよはひもなり。齒の字は、禮紀文王世子篇に、古者謂2年齡1、齒亦齡也云々。國語晋語注に、齒年壽也云々とあるにても、よとよみてよはひなるをしるべし。
 
所知哉《シラム・シレヤ》。
この言心得がたし。舊訓のごとく、しれやとよむ時は、しれと物に下知する言にて、やは添たるやなり。本集六【十八丁】水烏二四毛有哉家不念有六《ウニシモアレヤイヘモハサラム》云々とある、同格のやなり。されは、下に、去來結手名《イサムスヒテナ》とありては、一首の意きこえがたし。こは宣長が、哉は武の誤りにて、所知武《シラム》なるべくやといへるによりて、訓をばあらたむ。考には所知哉《シルヤ》とよまれしかど、さても意きこえがたし。
 
(47)磐代乃《イハシロノ》。
岩代は、紀伊國日高郡なり。本集二七などにも見えたり。
 
草根《クサネ》。
草は、集中くさともかやとも多くよみて、大須本にはこゝもかやねとよみつれど、結ぶとあれば、こゝは草《クサ》とよむべし。そは本集七【十五丁】君之舟泊草結兼《キミカフネハテクサムスヒケン》云々。十二【二十三丁】妹門去過不得而草結《イモカカトユキスキカナテクサムスフ》云々などあるにて、くさとよむべき事を知るべし。
 
去來結手名《イサムスヒテナ》。
去來は借字に、いざと誘《イサナ》ひもよほす詞なり。書紀履中紀に、去來此云2伊弉《イザ》1とあるがごとし。古事記中卷に、伊邪古杼母《イサコトモ》云々。本集下【二十六丁】に、去來子等《イサコトモ》云云などあると思ひあはすべし。結は、すべて草にまれ木にまれ、むすびて、後のしるしとするよしなり。また上に引たる本集七、十二などの歌も、思ひ合すべし。さて、此磐代の岡にて、草を結びますを、略解に本集二【廿二丁】の有間皇子の磐代の松を結び給ひしに、引あてたるは、いかゞ。この歌に、君が代もわがよもしらんなどよはひをちぎらせ給ふに、いかでかいまし(衍?)はしき磐代の松の故事を引いて(脱字?)手名《てな》はてん也。んにかよふなの事、上【攷證十七丁】にとけり。あはせ見てしるべし。考云、松を結びて、よはひをちぎるにひとしければ、此草は山菅をさしてよみ給ふならん。さて卷五に山草とあるを、山すげとよむによりて、こゝの草を山すげのことゝしるべき也云々。
 
11 吾勢子波《ワカセコハ》。借《カリ》廬《ホ・イホ》作良須《ツクラス》。草無者《カヤナクハ》。小松《コマツ》下《カモト・シタ》乃《ノ》。草《カヤ・クサ》乎苅核《ヲカラサネ》。
 
(48)借《カリ》廬《ホ・イホ》作良須《ツクラス》。
借廬《カリホ》は、上【印本九丁】に借五百《カリホ》とかけるも、借字にて、假のいほりなり。印本、かりいほと訓しかど、かりほとよむべきなり。そは本集十五【廿五丁】に、波都乎花可里保爾布伎弖《ハツヲハナカリホニフキテ》云々などあるがごとし。考云、古へは、旅ゆく道のまに/\、假庵作りて、宿れりし也。この事下【攷證二下六十五丁】にもいへり。
 
草《カヤ》。
草は、舊訓のまゝかやとよむべし。かやとは、草の事にて、後世のごとくかやとて一種の草あるにあらざる事、屋根を葺料の草にかぎりたる事、古事記上卷に鹿屋野比賣《カヤヌヒメノ》神と書たるを、書紀神代紀上には草野姫《カヤヌヒメ》と書たるにても、思ふべし。猶集中いと多し。
 
小松《コマツカ》下《モト・シタ》乃《ノ》。
小松下《コマツカモト》の、下を、印本したとよみつれど、元暦本に、もとゝよめるによるべし。上【攷證二十丁】に、五可新何本《イツカシカモト》とある所にいへるがごと、説文に、木下曰v本とあるにても思ふべし。
 
苅《カラ・カリ》核《サネ》。
舊訓、かりさねとあれど誤り也。此詞、集中いと多くて、みなからさね、のらさね、ゆかさねなど、からせ、のらせ、ゆかせといふをのべていふ言なれば、必からさねとよまではかなはぬ所也。さねといふ言の事は、上【攷證二丁】にいへり。核《サネ》とかけるは、借字なるのみ。和名抄菓具に、核を佐禰とよめり。さて、苅の字、字書に見えず。こは、釆女の釆を※[女+采]に作り、鞍作の鞍を按に作れる類にて、中國附會の文字なるべし。
 
(49)12 吾欲之《ワカホリシ》。野島波見瀬追《ヌシマハミセツ》。底深伎《ソコフカキ》。阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》。珠曾不拾《タマソヒロハヌ》。
 
吾欲之《ワカホリシ》。
欲は、字のごとし。本集二【廿六丁】に、欲見吾爲君毛《ミマクホリワカセシキミモ》云々などあると、同意にて、常に見まくほしと思ひし野島を、けふこそ君が見せつれと也。また、書紀武烈紀に、婀我褒《アカホ》屡※[木+施の旁]摩能《アカホルタマノ》云々。釋日本紀引2私記1て、古歌謂v欲爲2保留1云々などあるも見るべし。
 
野島波見世追《ヌシマハミセツ》。
野島は、淡路にも同名あれど、こゝにいへるは紀伊國なり。そは、宣長が玉勝間に、野島阿胡根浦は、日高郡鹽屋の浦の南に野島の里あり。その海べをあこねの浦といひて、貝の多くより集る所也云々とあり。見世追《ミセツ》は、人のわれに見せつ也。はじめにもいふごとく、中皇命御兄、大兄皇子などにいざなはれおはしましけんなれば、つね/”\紀の國へゆきかひし人々などにきゝて見まくほしと、おぼしわたりし野島を、此度|誘《イサナ》ひおはして、われに見せしめ給へりと、よろこびのたまへるなるべし。本集三【二十丁】に吾妹兒二猪名野者令見都《ワキモコニヰナヌハミセツ》云々とあり。考には、この一句或本の歌をとりて、子島羽見遠《コシマハミシヲ》と直されしかど、いかゞ。そは、いかにしても心得がたき所をば、意をもて改むるも、學者の常なれど、もとのまゝにて心得らるるだけは、そのまゝにありたきわざなるを、かくみだりにあらためなどせらるゝは、罪おほきわざならずや。
 
阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》。
考云、これも紀伊にあるべし。さて、聖武天皇、此國へ幸有て、若浦の字をあらためて、明光《アカノ》浦とせさせ給ひしは、和加と阿加と言の通へばか。又そ(50)のころ、若浦とは書ども、本は阿加浦と唱へし故にもあるべし。こを思ふに、其始は阿古根の浦と云しを、後に阿加の浦といひしにやあらん。胡根のつゞめ、氣《ケ》なれば、おのづから、阿加とも和加ともなりぬべし。集中に吾大君《ワカオホキミ》を阿期大君《アコオホキミ》ともいひ、志摩國の安呉《アゴ》の浦を、吾浦と書しを、後に若の浦と誤り、又阿波宇美を阿布美と唱ふるごとき約言も、多ければなり。そのうへ、この命のいましけんころに、わかの浦てふ名あらば、これにもれじやともおぼえ、玉拾はんも同じ浦によしあり。
 
珠曾不拾《タマソヒロハヌ》。
阿胡根《アコネ》の浦は、底深きにより、珠ばかりぞひろはぬとなり。珠は海底にあるものなれはしかいへり。そは本集七【三十一丁】に、海底沈白玉《ワタノソコシツクシラタマ》、風吹而海者雖荒《カセフキテウミハアルトモ》、不取者不止《トラスハヤマシ》云々。また大海之水底照之《オホウミノミナソコテラシ》、石著玉《シツクタマ》、齋而將採《イハヒテトラン》、風莫吹行年《カセナフキソネ》云々などあるがごとく、集中いと多かり。また初學記引2禮斗威儀1云、其政年徳至2淵泉1、則江海出2明珠1云々とあるにても、海中より出ることを知るべし。さて、玉を拾ふといへるは、本集七【十三丁】に、住吉之名兒之濱邊爾《スミノエノナコノハマヘニ》、馬立而《ウマテテヽ》、玉拾之久《タマヒロヒシク》、常不所忘《ツネワスラレス》云々。また雨者零《アメハフル》、借廬者作《カリホハツクル》、何暇爾吾兒之鹽干爾王者將拾《イツノマニアコノシホヒニタマハヒロハン》云々などあるがごとし。(頭書、催馬樂紀伊州可v考。)
 
或云。吾《ワカ》欲《ホリシ・ホリ》。子《コ・シ》島者《シマハ》見《ミシ・ミツル》遠《ヲ》。
 
或云。
印本、或頭云とせり。元暦本に、頭の字なきにしたがふ。集中、或本歌、一書、一云、一本云などかく例なるを、或頭云とはいかなることぞや。又考るに、或頭書云とあり(51)し、書の字を脱せる歟。又は、或歌云とありし、歌の字を頭に誤れるか。
 
子島羽見遠《コシマハミシヲ》。
子島きの國にありや、不v知。みしをとあるは、本書よりまされり。されば、考にはとられつるなり。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1。曰。天皇御製歌云々。
 
集中の例もておすに、右三首とか、右一首とかありしを、脱せしなるべし。右とのみありては、三首か一首か不v詳。
 
中大兄。近江宮御宇天皇。三山御歌一首。并短歌二首。
 
中大兄。
中大兄は、天智天皇の御諱なり。皇胤紹運録云、天智天皇、諱葛城、又中大兄皇子、又號2天命開別尊1云々。書紀皇極紀云、四年春正月庚戌、讓2位於輕皇子1、立2中大兄1、爲2皇太子1云々。本紀云、天命開別天皇、息長足日尋額天皇太子也、母曰2天豐財重日足姫天皇1云云。十年冬十二月、癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1云々、などあるがごとし。さて考には、皇太子を申す例なりとて、命の字を加へて、中大兄命とせられしかど、皇極紀をはじめにて、つぎつぎの紀にも多く見えさせ給へど、命、尊などの字なく、皆中大兄とのみあれば、こゝも本のまゝに、命の字なきをよしとす。近江宮御宇天皇、この七字、印本大字にかけり。今、元暦本、仙覺抄などによりて、改て小字とせり。
 
(52)三山。
三山は、御歌に見えたる香山、畝火、耳成の三つの山也。さて、この山のあらそひし事は、仙覺抄引2播磨國風土記1云、出雲國阿菩大神、聞2大和國畝火、香山、耳梨三山相闘1、以v此歌(欲)v諫v山、上來之時、到2於此處1、乃聞2闘|山《(マヽ)》1、覆2其所v乘之船1、而坐之、故號2神集之形覆1云々と見えたり。考云、これはかの三の山を見まして、よみ給へるにはあらず。播磨國印南郡に往ましし時、そこの神集てふ所につけて、古事のありしを聞してよみ給へるなり。
 
御歌。
この御の字印本なし。目録と集中の例とによりて補ふ。
 
并短歌二首。
この五字も印本なし。これも目録と集中の例とによりて補ふ。さて次の御歌の、反歌二首の中、後の歌は、まへの反歌にはあらじと思へど、目録に二首とあるにしばらくしたがふのみ。
 
13 高山波《カクヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネヒヲヽシト》。耳梨與《ミヽナシト》。相諍競伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カクニアルラシ・カヽルニアラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカニアレコソ》。虚蝉毛《ウツセミモ》。嬬乎《ツマヲ》。相格《アラソフ・アヒウツ》良思吉《ラシキ》。
 
高山《カグヤマ》。
高山をかぐ山とよむにつきで、考に、高は香の誤り也とて、本文をさへ香山と改められしは甚しき誤りなり。又代匠記に、かぐ山を高山とかきて、しかよむ事は、神代より名高(53)き山にて、他の山にことなれば(意)をもてかけりといはれしも、又誤りなり。香山とかきて、かぐ山とよむも、かう〔右○〕のう〔右○〕をく〔右○〕に轉じて、音を用ふる借字なれば、高山とかくと同じ。高も、かうの音なればなり。和名抄に、越後國の郷名、勇禮を、以久禮《イクレ》とよみ、上總國の郡名望陀を、本集十四【九丁】に宇麻具多とあるにても、う〔右○〕をく〔右○〕に轉じたる地名の例をしるべし。又代匠記の説もいかが。名高き山ぞとて、高山とかゝんには、高山とかくべき山、いくらもあらんをや。さらば富士などをも高山とかくべきにや。
 
雲根火《ウネビ》。
古事記中卷に、畝火之白檮原宮《ウネヒノカシハラノミヤ》云々。同卷に宇泥備夜麻《ウネヒヤマ》云々。書紀神武紀に、畝傍山、此云2宇禰麋夜麻《ウネヒヤマ》1云々などありて、大和國高市郡也。集中いと多し。
 
雄男志等《ヲヽシト》。
をゝしは、書紀綏靖紀に雄拔《ヲヽシキ》、崇神紀に雄略《ヲヽシキ》、武烈紀に雄斷《ヲヽシキタハカリ》、天智紀に雄壯《ヲヽシ》などあるがごとく、をとこ/\しきなり。物語書などに、めゝしといふ言あるにむかへてしるべし。源氏葵卷に、をゝしくあざやかに心はづかしきさましてまゐり給へり云々。枕草子に、漢書の御屏風はをゝしくぞ聞えたる云々と見えたり。さてまた、代匠記云、第一の句は、かぐ山をばと心得べし。畝火のをゝしき山と、耳なし山とが、おの/\かぐ山の女山をわれえんとあらそふ也と見えたり。又このこと、木下幸文といふ人の説に、雲根火、雄男志は、雄々しの義にはあらで、雲根火を愛《ヲシ》との意也。さて畝火を、女山として、かぐ山と耳梨の二男山いどめる意とすれば、いとやすらか也といひしをよしとは思へど、雄男志とかきたる文字を見れば、舊説もまたすてられず。先、此集、借字を專らとすれど、猶こゝなどは、文字の意もとりたらんここちす。
 
(54)耳梨。
まへに引たる播磨風土記に、耳梨とかけり。本集十六【七丁】に無耳《ミヽナシ》の池あり。これ同所なるべし。古今集雜體に、みゝなしの山のくちなしえてしがな、思ひのいろのしたぞめにせん云々なども見えたり。考云、香山と耳梨は、十市郡、畝火は高(市)郡なれど、各一里ばかり間有て、物の三足のごとし。
 
相諍競伎《アヒラソヒキ》。
あひあらそふのあひは、詞にて、俗言にたがひになどいふに當れり。集中に、あひいふ、あひのまん、あひうづなひなどいふたぐひなり。諍競は、諍の一字にてあらそふとよむべきを、競の字を付たるは、本集十九【廿六丁】に、名平競爭登云々などありて、又漢土にも爭競といふ熟字もあれば、二字にてしかよまんこと論なし。考云、あひあらそひの言は、相諍二字にて、これに競をそへしは、奈良人のくせなり。字に泥むことなかれ。
 
神代從《カミヨヨリ》。
マデに引たる播磨風土記に、この三山のあらそひし事ありしは、神代のこと也。今そを思しいでゝ、かくのたまへるなり。
 
如此爾有良之《カクナルラシ・カヽルニアラシ》、.
かくなるらしとよむべし。考には、しかなるらしとよまれしかど、如此の字をしかとよみし事、物に見えず。必らずかくとよむべき字也。そは、古事記中卷に、如此之夢《カクノイメ》云々。續紀卷一詔に、如此之状《カクノサマ》云々。本集二【八丁】如此許《カクハカリ》云々などあるがごとし。集中猶多し。爾有良之《ナルラシ》の、爾有の二字、舊訓、にあるとよめれど、こはなるらしとよむべきなり。にあの約まり、な也。次に、然爾有許曾とあるも、同じ。下【廿七丁】にもこの語見えたり。可v考。
 
(55)古昔母《イニシヘモ》。
こは、上に神代よりとある神代をさし給へり。さて、古か昔か一字にても、いにしへとよまんを、かく書るは、上に諍競の二字をあらそふとよめるたぐひ也。本集三【四十八丁】に、古昔爾有家武人之《イニシヘニアリケムヒトノ》云々とあるがごとし。
 
然《シカ》爾有《ナレ・ニアレ》許曾《コソ》。
考には、しかなれこそと訓直されしにしたがふべし。集中、すべて爾有と書るは皆なるなり。なれとつゞめて訓べき也。そはなれこそは、にあればこそといふ、ばの字をはぶける也。この訓下【廿二丁】天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアリコソ》云々とあり。その所【攷證一ノ下廿七丁】にいへり。
 
虚蝉毛。
枕詞也。冠辭考に現《ウツヽ》の身といふことなりとあるに、しばらくよるべし。
 
嬬乎《ツマヲ》相格《アラソフ。アヒウツ》良思吉《ラシキ》。
相格は、舊訓あひうつとあれど、あらそふとよむべき也。宣長云、相格はあらそふとよむべし。二卷【卅四丁】相競《アラソフ》、十卷【十丁】相爭《アラソフ》など、相の字をそへて二字にかける例なり。又格の字をあらそふと用るは、十六卷【六丁】に有2二壯士1、共挑2此娘1、而捐v生格競などもあり。嬬をあひうつといひては、理り聞えがたし云々とあるをよしとす。さて、格は汲家周事武稱解注に、格闘也とあるにても、こゝはあらそふとよまん事、論なし。良思吉《ラシキ》は、こその結び詞のらしに、きをそへたるなるべし。考云、紀【推古】おほきみのつかはす羅志枳《ラシキ》。また卷十六|偲家良思吉《シヌヒケラシキ》とあるも同じ。後世はこれを上下して、けるらしといへり云々。また、代匠記云、つまをあらそへる事は、この末に見えたる縵子《カツラコ》、櫻兒《サクラコ》、あしやのうなゐをとめなどのたぐひなり(56)云云。
 
反歌。
 
14 高山與《カクヤマト》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》。相之時《アヒシトキ》。立見爾來史《タチテミニコシ》。伊奈美國波良《イナミクニハラ》。
 
相之時《アヒシトキ》。
略解云、畝火は爭ひまけて、かぐ山と耳梨と逢し也。立て見にこしは、かの阿菩大神の來り見し事をのたまへり云々。この説の中に、立て見にこしを、阿菩大神とするはいかゞ。この御歌どもは、考にもいはれしがごと、天皇、播磨國印南郡に行幸ましましゝ時、そこにてよみ給ひし御歌也。しかも、この三山のあらそひの事、かの國の風土記にものりて、神集《カンツメ》といふ地もあれば、この印南郡ぞ、其山どもの相《アヒ》しを、かたはらに立て見たらんとの意なるべし。さて又木下幸文説云、二つの男山の、あらそひ、相向ひ戰ふ事をいへる也。さてこそ、出雪國阿菩大神、諍ひを諫めんとおぼして、この所まで出ませりとある、播磨風土記のおもむきにも、いとよくかなひたれ。
 
伊奈美國波良《イナミクニハラ》。
和名抄國郡部云、播磨國印南【伊奈美】云々。考云、伊奈美国ははりまの郡の名也。古へは、初瀬國、吉野國ともいへるごとく、一郡一郷をも、國といへり。この事は、下【攷證三下卅三丁】にもいふべし。原とは、廣く平らかなるを惣ていふ云々。
 
(57)15 渡津海乃《ワタツミノ》。豐旗雲爾《トヨハタクモニ》。伊埋比沙之《イリヒサシ》。今夜乃《コヨヒノ》月《ツク・ツキ》夜《ヨ》。清明《アキラケク・スミアカク》己曾《コソ》。
 
渡津海《ワタツミ》。
こは枕辭な|ら《(マヽ)》ねの冠辭考にくはし。集中、綿津海《ワタツミ》、方便海《ワタツミ》など書れど、渡津海とかける正字也。山にはこゆといひ、海には渡るといへれば、渡つ海の義にて、つは助字、みは海の略なり。そはつの引聲うなれば、うをはぶけるなり。本集下【廿六丁】に對馬乃渡渡中爾《ツシマノワタリワタナカニ》云々とあるにても、わたは渡る事なるをしるべし。
 
豐旗雲《トヨハタクモニ》。
豐はた雲の豐は、物をほめもし祝しもする詞にて、豐葦原《トヨアシハラ》、豐明《トヨノアカリ》、豐榮上《トヨサカノホリ》、豐御酒《トヨミキ》、豐泊瀬道《トヨハツセチ》、豐年《トヨノトシ》などいふ豐と、おなじ言にて、ものゝ大《オホ》きく多《サハ》にて、足滿饒《タリミチユタカ》なる意也。そは、周易※[掾の旁]下傳に、豐大也云々。國語周語注に、豐厚也云々。毛詩湛露傳に、豐茂也云々。文選東京賦、李周翰注に、豐饒也云々。廣雅釋詁一に、豐滿也云々などあるがごとし。旗雲は、雲の旗のごとく、長くなびきたるをいふなるべし。文徳實録云、天安二年六月庚子、早旦、有2白雪、自v艮亘v坤、時人謂2之旗雲1云々。八月丁未、夜有v雲竟天自v艮至v坤、人謂2之旗雲1云々。袖中抄卷一に、無名抄云、とよはた雲といふは、雲のはたてといふも同じこと也。日いらんとする時に、西の山ぎはに、あかくさま/”\なるくもみゆるが、はたのあしの、風にふかれてさわぐに似たる也云々などあるがごとし。古今集戀一に、夕ぐれはくものはたてに物ぞ思ふ、あまつそらなる人をこふとて云々とあるも、袖中抄の説のごとく、旗手なり。又懷風藻、大津皇子遊獵詩に、月弓輝2谷裏1、雲旌張2嶺前1云々とあるを(も?)、雲のはたのごとくなるをのたまへり。
 
(58)伊理比沙之《イリヒサシ》。
入日のさせるなり。
 
月夜《ツクヨ・ツキヨ》。
月夜は、舊訓つきよとあれど、つくよとよむべき也。そは、本集十八【十丁】に、登毛之備乎都久欲爾奈蘇倍《トモシヒヲツクヨニナソヘ》云々。廿【四十七丁】に、伎欲伎都久欲爾《キヨキツクヨニ》云々などあるがごとし。
 
清明《アキラケク・スミアカク》己曾《コソ》。
清明の二年を、舊訓、すみあかくこそとよめれど、考に、今本、清明の字を、すみあかくと訓しは、萬葉をよむ事を得ざるものぞ。紀にも、清明心をあきらけき心と訓し也云々といはれつるごとし。さて、己曾は、下へ意をふくめて、とぢめたるてにをは也。こそあらめといふごとく、詞をつけてきくべし。○考云、此一首は、同じ度に、印南の海べにてよみましつらん。故に右につぎてのせしなるべし。下に類あり云々。
 
右一首歌。今案不v似2反歌1也。但。舊本。以2此歌1載2於反歌1。故今猶載v此歟。亦紀曰。天豐財重日足姫天皇。先四年乙巳。立2天皇1爲2皇太子1。
 
載此歟亦。
元暦本、載の下に、朱をもて如の字あり。歟亦の二字を、次立に作れり。活本、歟字を次に作れり。されど此本まされり。
 
(59)天豐財重日足姫天皇。
御謚、皇極天皇と申す。後に重祚ましまして、齊明と申す。上にくはし。
 
立2天皇1爲2皇太子1。
書紀、皇極紀云、四年六月庚戌、譲2位於輕皇子1、立2中大兄1爲2皇太子1云々。印本、立の字の(下脱?)に、爲の字あり。今、元暦本に依てはぶけり。
 
近江大津宮御宇天皇代。天命開別《アマツミコトヒラカスワケノ》天皇
天皇御謚を天智と申す。書紀本紀云、天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也、母曰2天豐財重日足姫天草1云々。六年春三月、辛酉朔己卯、遷2都于近江1云々。十年冬十二月、癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1云々と見えたり。大津宮といひし事、書紀に見えず。はじめて續日本紀に見えたり。そは、天平神護二年正月詔に、掛《カケマクモ》畏|淡海《アフミ》大津宮、天下所知行《シロシメシ》、天皇御世云々とあると、下の人麿の歌に出たるや、はじめならん。
 
天皇詔2内大臣藤原朝臣1。競2燐春山萬花之艶。秋山千葉之彩1時。額田王。以v歌判v之歌。
 
内大臣。
書紀孝徳紀云、以2大錦冠1、授2中臣鎌子連1、爲2内臣1云々。天智紀云、八年冬十月、丙午朔庚申、天皇遣2東宮大皇弟於藤原内大臣家1、授3大織冠與2大臣位1、仍賜v姓爲2藤原(60)氏1、自v此以後、通曰2藤原大臣1云々。職原抄云、孝徳天皇御宇、以2中臣鎌子連1、始爲2内臣1、天智朝擧爲2内大臣1、賜2藤原朝臣姓1、此時其位在2左右大臣上1云々とあるごとく、内大臣の官はこの鎌子公はじめなり。
 
藤原朝臣。
こは鎌足公をいへり。藤原は氏、朝臣は姓なり。傳は下にあぐるを見るべし。さてこゝに、考并別記にも、いと長き論あり。そは皆誤りなれど、見ん人のまどひをとかんために、こゝに論ぜり。よく/\考へてしるべし。さてまづ、考云、これはいまだ、後岡本宮にての事と見ゆれば、内臣中臣連鎌足と本は有つらんを、後より崇みて、かく書たる也云云。この説誤れり。何によりて、後岡本宮にての事とは定られしにか。此次の歌を、左注の説に、都を近江にうつされし時の歌也とある、その歌より前にのせたれば、後岡本宮の時なるべしとは定られしならん。はじめより、考には、この集の左注并類聚歌林をも、うけがたきものゝよしにて、すてられしならずや。それを又とらるゝは、首尾あはざる事也。さて、この歌は、近江大津宮にての事也。さる證は、天智天皇六年、都を近江にうつされしよし、前に引たる本紀に見えて、そのころ、鎌足公、内大臣におはしたりとおぼしければ、この歌を、大津宮にての事とするに、なにのうたがひかあらん。又考云、今本に朝臣の姓《カバネ》をさへ書しは、ひがごとなれば、除きて下の例によりて卿とす云々。この説、又誤り也。鎌足公、藤原の氏を給はりし時、朝臣の姓をも、共に一度にたまはられし也。尤、天智紀に、賜v姓爲2勝原氏1とのみありて、朝臣の事はあらざれど、氏ばかりを賜はりしならば、賜v氏爲2藤原1などあるべし。賜v姓とあるからは、その時、一(61)度に、氏姓ともに賜はりし也。しかいふ證は、大織冠鎌足公傳に、授2大織冠1、以任2内臣1、改v姓爲2藤原朝臣1云々。扶桑略記に、八年十月十三日、内臣鎌足、任2内大臣1、改2中臣姓1、賜2藤原朝臣1云々。職原抄に、天智朝、擧爲2内大臣1、賜2藤原朝臣姓1云々とあるごとく、一つならず、三つまで、姓氏共一度に賜はりしをしるせるうへに、此集にもかくあれば、合せて四部の書どもに、符合せり。さるにても、姓氏一度にたまはりしなしるべし。但し、書紀の書ざま、いとまぎらはしければ、書紀のみを見ん人は、疑はんもうべなり。又考云、下の例によりて卿とす云々。これ又誤り也。尤、下に内大臣藤原卿、贈左大臣北卿などあれど、そは、其人のうへをのみ、かく時の例也。こゝは、天皇にむかへ奉りて、かけるうへに、こゝは詔し給ふ所なれば、姓のみかは、諱をかくとも、何のはゞかりあらじをや。さる證は、續日本紀に、養老四年八月辛巳朔、詔曰、右大臣正二位藤原朝臣、疹疾漸留、寢膳不v安云々。本集十七【十三丁】に、左大臣橘宿禰、應v詔歌云云。鎌足公傳に、遣2宗我舍人臣1、詔曰、内大臣某朝臣云々などあるがごとく、詔の例也。又考別記云、朝臣のかばねは、天武天皇十三年に至て、賜て、鎌足公の時は、中臣連なりしかど、惣て、後によりてしるすからは、姓もしかあるべきかと思ふ人有べけれど、此集の例にたがふ事、右にいふごとくなれば、とらず云々。此説又誤り也。右のごとくいはれしは、新撰姓氏録卷十一に、藤原朝臣云々、内大臣大織冠 中臣連鎌子、天命開別天皇、謚天智八年、賜2藤原氏1、男正一位贈太政大臣、不比等、天渟中原瀛眞人天皇謚天武十三年、賜2朝臣姓1云々とあるによりてなるべけれど、書紀天武紀、十三年に、朝臣の姓を賜はりし五十二氏の中に、藤原氏はなきを思へば、天智紀に、賜v姓爲2藤原氏1とまぎらはしく、しるし給へりしを、姓氏録にも、見誤り給ひ(62)しなるべし。されば、姓氏録といへども、誤りなしとは定めがたし。たゞ多くの書にあるを、まことゝはすべし。くれ/”\も、朝臣の姓は、鎌足在世に賜はりしなれば、こゝに藤原朝臣とあるも、誤りならず。○鎌足公傳云、内大臣、諱鎌足字中郎、大和國高市郡人也、其先出v自2天兒屋根命1、世掌2天地之祭1、相2和人神之間1、仍命2其氏1曰2中臣1、美氣古卿之長子也、母曰2大件夫人1云々。
 
萬花。
萬花は、いろ/\の花をいへり。杜甫詩に、紫萼扶2千蕊1、黄鬚照2萬花1云々。儲嗣宗、晩眺2延福寺1詩に、片水明在v野、萬花深見v人云々など見えたり。
 
艶《ニホヒ》。
にほふとよむべし。本集十【十丁】開艶者《サキニホヘルハ》云々。左氏桓元年傳注云、美色曰v艶云々とあるがごとし。
 
千葉。
千葉は、いろ/\の紅葉をいへり。魏收詩に、神山千葉照、仙草百根香云々。杜甫詩に、終然※[手偏+長]撥損、得※[女+鬼]千葉黄云々など見えたり。
 
判《コトワル》。
ことわるとよむべし。書紀繼體紀に、天恩|判《コトワリタマヘ》云々。假名玉篇に判コトワル云々などあり。○右端辭に、競憐とあるは、天皇と内大臣と春秋のあはれをきそひあらそひ給ふ也。さて、春秋をあらそふ事は、拾遺集雜下に、ある所に春秋いづれかまされるととはせ給ひけるに、よみて奉れる、貫之、はる秋に思ひみだれてわきかねつ、時につけつゝうつる心は云々。元良のみこ、承香殿のとしこに、春秋いづれかまさるととはせ侍りければ、秋もをかしう侍りといひければ、おもしろき櫻を、これはいかにといひて侍りければ、おほかたの秋に心はよせしかど花見る時はい(63)づれともなし云々。よみ人しらず、春はたゞ花のひとへにさくばかりものゝあはれはあきぞまされる云々などありて、又伊勢物語、更科日記、新古今集、源氏物語、その外これかれに見えたれど、この集ぞはじめなりける。されど、古事記中卷に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》と、春山之霞壯夫《ハルヤマノカスミヲトコ》と、伊豆志《イツシ》をとめをいどみし事あり。これこゝによしありてきこゆ。又漢土にも、春秋をくらべし事あり。そは侯鯖録卷四に、元祐七年正月、東坡先生、在2汝陰州1、堂前梅花大開、明色鮮霽、先生|王《(マヽ)》夫人曰、春月色勝2如秋月色1、秋月色令2人悽慘1、春月色令2人和悦1云々などあり。
 
16 冬《フユ》木成《コモリ・キナリ》。春去來者《ハルサリクレハ》。不喧有之《ナカサリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不聞有之《サカサリシ》。花毛佐家禮杼《ハナモサケレト》。山乎《ヤマヲ》茂《シミ・シケミ》。入而毛不取《イリテモトラス》。草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミス》。秋山乃《アキヤマノ》。木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉《モヅ・モミヂ》乎婆《ヲハ》。取而曾思奴布《トリテソシヌフ》。青乎者《アヲキヲハ》。置而曾歎久《オキテソナケク》。曾許之恨之《ソコシウラメシ》。秋山吾者《アキヤマ(・ソ)ワレハ》。
 
冬《フユ》木成《コモリ・キナリ》。
舊訓、誤れり。ふゆごもりとよむべきなり。冬ごもりとは、考に、冬は、萬の物内に籠りて、春を得てはりいづるより、此詞はあり云々と、いはれしがごとく、冬こもりたりしかど、春にしなれば、冬のほどなかざりしも鳥もなき、さかざりし花もさけりと也。さて考に、今本に、冬木成と書て、ふゆごもりと訓しは、言の例も、理りもなし。そは、盛の草は、※[盛の草書]とかくを、※[成の草書]と見誤りて、成と書なしたるものなり。故に古意と例によりて、改めつ云々、とて、冬木盛と改められしは、甚しき誤りなり。そは本集二【卅四丁】に、冬木成《フユコモリ》、春去來者《ハルサリクレハ》云々。三【卅八丁】(64)冬木成《フユコモリ》、時敷時跡《トキシクトキト》云々とあるのみならず、集中みな冬木成と、成の字をかけるうへに、釋名釋言語に、成盛也云々。禮記考工記注に、盛之言成也云々。周禮掌蜃注に、盛猶v成也云々などあるにて、成と盛と通ずること明らかなれば、冬木成を、冬ごもりとよまん事、論なきをや。すべて、考には、この歌の端辭の朝臣を卿と直し、又こゝの成を盛と直されしごとく、よくたゞしもせで、みだりに直されし事おほきは、古書をそこなへる罪すくなからず。その誤りを、又略解にもうけたれば、考も略解も、古書のまゝならず。心して見るべき書なり。(頭書、冬木成は枕詞なる事。)
 
春去來者《ハルサリクレハ》。
集中いと多き詞也。春されば、秋されば、ゆふさればなどいふと同じ。さて、考に、去は借字にて、春になりくればてふ言也。になの約は、ななるを、さに轉じて、さりといへり云々といはれつるがごとく、春さらば、秋さらば、春さりぬればなどいふも、春にならば、秋にならば、春になりぬればの意なり。
 
不喧有之《ナカサリシ》。
こはなかずありしといふをつゞめて、なかざりしといへる也。されば、有の字はかけるなり。假名玉篇に、喧【サヘツル・ナク】云々とあり。
 
山乎茂【ヤマヲシミ】。
こは、考に、よまれしごとく、やまをしみとよむべL。しみは、繁き言にて、こゝの意は、山の草木を繁さに、入ても花をたをらずと也。しみは本集下【廿三丁】春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサヒタテリ》云々。九【卅一丁】茂立嬬待木者《シミタテルツママツノキハ》云々。十七【九丁】に烏梅乃花美夜萬等之美爾《ウメノハナミヤマトシミニ》云々とあるも同じく、しげき意也。古事記下卷に、多斯美陀氣《タシミダケ》とあるも、立繁竹にてこゝのしみと同じ。
 
執手母不見《トリテモミス》。
この訓を、考には、たをりても見ずと直されしかど、舊訓のまゝに、とりても見ずと訓べき也。すべて、集中文字のまゝによみては、言をなさゞる所は、(65)其字の義によりて、訓もし、又は字の音訓をかりても訓べき事なれども、文字のまゝによみて、其義通ずる所は、其まゝにおくべき也。その上、執の字は、本集十九【十九丁】に山吹乃花執持而《ヤマフキノハナトリモチテ》云々とあるにて、こゝもとりてとよまん事論なし。
 
黄葉乎婆《モミヅヲバ》。
考云、丹出《モミヅル》をば、折取て見|愛《メヅ》るをいへり。此しぬぶは、慕ふ意にで、其黄葉に向ひて、めでしたふなり。古歌に、花などに向ひて、をしと思ふと云は、散るを惜むにはあらで、見る/\愛《メヅ》る事なると心ひとし。毛美豆《モミヅ》は、赤《モミ》出るを略きいへり。これを毛美治婆《モミヂバ》といふは、萬曾保美出《マソホミイツ》るてふ言なり。何ぞといはゞ、毛《モ》は、萬曾保《マソホ》の、その萬《マ》は眞《マ》とほむる言、曾保《ソホ》はもと丹土《ニツチ》の名なるを、何にも赤きいろある物には、借ていふ也。美《ミ》は、萬利《マリ》の約、眞朱《マソホ》萬利也。染をそまり、赤きをあかまりと云類也。治《ヂ》は出《イヅ》るを略《ハブ》き轉じ、婆《バ》は葉也云々といはれしがごとくあれば、もみぢ、もみだす、もみでる、もみづるとはたらく語なれば、こゝは、もみづをばといひて、もみいづるをばといふ言なり。次の句の、青乎者《アヲキヲバ》といふにむかへてしるべし。さて、本集八【五十二丁】吾屋前之芽子乃下葉者《ワガニハノハキノシタハヽ》、秋風毛未吹者《アキカセモイマタフカネハ》、如此曾毛美照《カクソモミテル》云々。十四(十)【四十三丁】に、春日山乎令黄物者《カスカノヤマヲモミタスモノハ》云々。十四【廿五丁】に和可加敝流※[氏/一]能毛美都麻手《ワカカヘルデノモミヅマテ》云々などあるにても、はたらく語なるを知るべし。
 
思奴布《シヌフ》。
前の句の考の説のごとく、黄葉を折取て、愛ししたふ意にいへり。
 
(66)置而曾歎久《オキテソナケク》。
こはいまだ、そめもやらぬ木の葉は、木におきて、とくそめぬをなげきうらみませるなり。
 
曾許之恨之《ソコシウラメシ》。
宣長云、恨字は怜の誤りなり。そこし、おもしろしと訓也。うらめしにては聞えず云々。この説いかゞ。集中、※[立心偏+可]怜の二字をこそ、おもしろしとも、あはれとも、よみつれ。怜一字を、しかよみし例なし。さて思ふに、曾許之の之文字は、助字ながらも、その所の意をつよくして、そこぞなどいふごとく聞ゆるなり。この例、本集三【廿九丁】に春日者山四見容之《ハルヒニヤマシミカホシ》、秋夜者河四清之《アキノヨハカハシサヤケシ》云々。同【卅丁】に、欲爲物者酒西有良師《ホリスルモノハサケニシアルラシ》云々。四【廿六丁】三笠杜之神思知三《ミカサノモリノカミシシラサン》云々などある、し文字と、同じ格の助字にて、その所の意をつよくし、そこにかぎりたる所につかふ例なり。集中猶多し。さてこゝの意は、春秋とくらべ見れば、秋の方は、山野などにも入よくて、黄葉などをも、とりて見などよろづをかしけれど、そめもやらぬ木の葉をば、木におきて、とくそめぬことをなげくが、そこのみぞうらめしきといふ意也。上に引たる、し文字の格を、引合せ考ふべし。さて、中ごろよりの言に、それといふを、古くはそことのみいへり。この事は、下【攷證二中四十六丁】にいふふべし。
 
秋山《アキヤマ》(・ゾ)吾者《ワレハ》。
考には、秋山曾吾者と、曾文字を加へられしかど、なくても意聞えたり。さて、こゝの意は、宣長が説に、あき山われはとよむべし。それがおもしろければ、吾は秋山なりといふ意なり。秋山曾と、ぞをそへては、なか/\におとれり云々といへるがごとく、吾は秋山に心ひけり、吾は秋山なりといふごとく、語をうらうへにかへして聞くべし。
 
(67)額田王。下2近江國1時作歌。井戸王即和歌。
この端辭、いと疑はし。考に、大海人皇子命、下2近江國1時御作歌と直されしごとくする時は、意よく聞ゆれど、みだりに直すべきならねば、疑ひながらもさておきつ。さてその疑はしき故は、こゝの端辭の趣にては、額田王近江に下りし時、歌をよみし、その歌を井戸王が和せる歌なり。額田王は、上【十四丁】にいへるがごとく、女王なるを、この歌の反歌二首めの歌に、和我勢とあるを見れば、男の歌を和せる體也。集中男どち、兄《セ》といひし事はあれど、女どち、又は男より女をさして、兄《セ》といふべきいはれなき事は、書紀仁貿紀注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄、男以v女稱v妹云々とあるにて明らけし。
 
下2近江國1時。
こは、天智天皇六年三月、都を近江に遷されし時、御供に下られしなるべし。又は外の度歟。
 
井(ノ)戸《ヘノ》王。
書に見えず。考ふるに、書紀孝徳紀二年の條に、井上君といふ人あり。上も戸もへとよめば、訓かよへり。されば井上も、井戸も、訓同じかるぺければ、こゝによしありて聞ゆ。又井戸は氏にも見えず。
 
和歌。
こは考によまれしがごとく、こたへ歌とよむべし。集中、皆答報する所にいへり。後にかへし歌といふと同じ。書紀神代紀上、一書に陰神後和v之曰云々。列子周穆王篇注に、(68)和答也云々などあるにても、思ふべし。さてこゝの意は、額田王のよまれし歌に、答へられし歌なれど、そのもとの歌をば、あげずして、答へ歌のみをあげたる也。考に、和歌の字を端詞につづけて書しを、例なしとて疑はれしかど、さのみうたがふべくもあらず。(頭書、五ノ廿五ウ倭歌。)
 
17 味酒《ウマサケ》。三輪乃山《ミワノヤマ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良能山乃《ナラノヤマノ》。山《ヤマノ》際《マニ・ハニ》。伊隱萬代《イカクルマテ》。道隈《ミチノクマ》。伊積流萬代爾《イツモルマテニ》。委曲《ツハラニ・ツフサ》毛《モ》。見管行武雄《ミツヽユカムヲ》。數數毛《シハ/\モ》。見《ミ》放武《サケム・サム》八萬雄《ヤマヲ》。情無《コヽロナク》。雲乃《クモノ》。隱障倍之也《カクサフヘシヤ》。
 
味酒《ウマサケ》。
枕辭なれば、冠辭考にゆづれり。印本、うまさけのとよめど、の文字なく、四言によむべし。そは書紀崇神紀に宇磨佐開瀰和能等能々《ウマサケミワノトノヽ》云々などあるがごとし。
 
三輪乃山《ミワノヤマ》。
三輪山は、大和國城上郡なり。考云、飛鳥岡本宮より、三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里あまりありて、その中平らかなれば、奈良坂こゆるほどまでも、三輪山は見ゆる也。さて、その奈良山こえても、猶山の際よりいつまでも見放んとおは(ぼ?)しこゝかしこにて、かへり見したまふまに/\、やゝ遠ざかりはてゝ、雲のへだてたるを恨みて末未どもはある也。
 
(69)青丹吉《アヲニヨシ》。
枕ことばなれば、冠辭考にゆづれり。宣長云、青土《アヲニ》よし也。青土は、色青きつち也。よしのよは、呼《ヨヒ》出すことばにて、しは助辭なり。このよしは、眞菅よし、玉藻よしなどの類也。くはしくは古事記傳三十六にいへり。
 
奈良能山《ナラノヤマ》。
大和國添上郡なり。下【攷證四十七丁】に出。
 
山際《ヤマノマニ》。
山際は、山刀まにとよむべし。そは本集六【十三丁】象山際乃《キサヤマノマノ》云々。同【四十三丁】に、鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》云云。七【十丁】山際爾霞立良武《ヤマノマニカスミタツラン》云々などあるがごとく、際は間、または界などの意なり。字鏡集に、際【アヒタ】小爾雅に、際界也云々などあり。考云、山際の下に、從《ユ》の字落しか。
 
伊隱萬代《イカクルマデ》。
伊は發語にて、たゞかくるゝまで也。古事記下卷に、伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》云々などあるがごとし。
 
道隈《ミチノクマ》。
みちのくまは、みちのすみ/\、曲りなどをいへり。本集二【十五丁】に、道之阿囘爾《ミチノクマワニ》云々。同十九【十九丁】に、此道乃八十隈毎爾《コノミチノヤソクマコトニ》云々、など見えたり。又隈は、後漢書班彪傳注に、隈山曲なり云々などあり。
 
伊積流萬代爾《イツモルマテニ》。
伊は發語にて、たゞ數のかさなりつもるをいへり。
 
(70)委曲毛【ツハラニモ・ツフサニモ】。
つばらは、つまびらかにといへる也。曲の字を、假名玉篇に、つまびらかとも、つぶさともよめるに、本集三【三十丁】に曲々二《ツバラ/\ニ》云々などあると、思ひあはせて、つまびらかの意なるをしるべし。又本集九【廿二丁】に、國之眞保良乎委曲爾《クニノマホラヲツハラカニ》云々。十九【十一丁】に、八峯乃海石榴都婆良可爾《ヤツヲノツハキツハラカニ》云々など見えたり。さて、委曲の字は、毛詩箋、史記、禮書などに見えたり。
 
數數毛《シハ/\モ》。
しば/\は、たび/\などいはんがごとし。考には、一本によれりとて、數を一字はぶかれしかど、集中一字にても、二字にてもよめれば、いづれにてもありなん。そは十【十六丁】に、數君麻《シハ/\キミヲ》云々。十二【三丁】に有數々應相物《アラハシハ/\アフヘキモノヲ》云々などあるがごとし。
 
見《ミ》放《サケ・サ》武八萬雄《ンヤマヲ》。
見放武八萬雄《ミサケンヤマヲ》は、見やらん山を也。古事記上卷に、望の字をみさけとよめるごとく、見遣《ミヤル》意なり。本集一【五十二丁】一云|見毛左可受伎濃《ミモサカスキヌ》云々。十九【十一丁】に語左氣見左久流人眼《カタリサケミサクルヒトメ》云々などあるがごとし。又三【五十四丁】に問放流親族兄弟《トヒサクルウカラハラカラ》云々。續紀寶龜二年二月詔に、誰《タレ》爾加母我語《アカカタラ》佐氣《サケ》孰《タレ》爾加母我問《アカト》佐氣《サケ》牟止云々などあるも、こゝと同じくて情《コヽロ》を遣る意なり。
 
情無《コヽロナク》。
なさけなくなどいはんがごとし。
 
隱障倍之也《カクサフヘシヤ》。
隱障と、字をば書たれど、障は借字にて、かくすべしや也。さふの約り、す〔右○〕なれば、かくすとなれり。本集二十【五十一丁】に、加久佐波奴安加吉許己呂乎《カクサハヌアカキコヽロヲ》云々(と)あるも、さはの約り、さ〔右○〕なれば、かくさぬ也。又十一【八丁】に奧藻隱障浪《オキツモヲカクサフナミノ》云々とあるも、こゝと同語同字也。さてべしやのや文字は、うらへ意のかへるやにて、かくすべしや、かくさじをとい(71)へるなり。
 
反歌。
 
18 三輪山乎《ミワヤマヲ》。然毛隱賀《シカモカクスカ》。雲谷裳《クモタニモ》。情有南武《コヽロアラナム》。可苦佐布倍思哉《カクサフヘシヤ》。
 
然毛隱賀《シカモカクスカ》。
然毛《シカモ》は、俗言に、此やうにもといへる意也。本集二【卅五丁】に、萬代然之毛將有登《ヨロツヨニシカシモアラント》云云。四【五十六丁】に、然曾將待《シカソマツラン》云々などあるも同じ語也。かくすかの、か文字は、かなの意のか〔右○〕にて、かくすものかなといふやうに、歎息の意こもれり。さて、か〔右○〕は清めてよむべきを、濁音の賀の字をつかひしは、いぶかしけれど、集中、可河などの字を、清濁ともにまじへ遣ひし例なるべし。
 
雲谷裳《クモタニモ》。
雲谷の谷は、借字にて、本集二【卅三丁】。に明日谷將見等《アスタニミムト》云々。九【卅二丁】に今谷裳《イマタニモ》云々などあるがごとし。
 
情有南武《コヽロアラナム》。
心なき雲だにも、心して、わが見んと思ふ山を、かくさずもあれよと也。印本、武を畝に誤れり。今、古寫一本に依て改む。
 
可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》。まへに隱障倍之也《カクサフベシヤ》とあるに同じ。
 
(72)右二首歌。山上憶良大夫類聚歌林曰。遷2都近江國1時。御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰。六年丙寅。春三月。辛酉朔己卯。遷2都于近江1。御2覽三輪山1御歌。
考云、是に御覽、又御歌とあるをもて思ふに、すべて、集にも、歌林にも、天皇に御覧、また大御歌、皇太子と皇子には、御歌、王には歌とかけり。又御覽とは、天皇、皇太子にかくべく、皇子、王には書しことなし。
 
19 綜麻形《ミワヤマ・クマカタ》乃《ノ》。林始《シケキカモト・ハヤシハシメ》乃《ノ》。狹野《サヌ》榛《ハリ・ハキ》能《ノ》。衣爾著成《キヌニツクナス・コロモニキナシ》。目爾都久和我勢《メニツクワカセ》。
 
綜麻形《ミワヤマ・クマカタ》乃《ノ》。
綜麻形の三字、舊訓には、くまかたとよみ、代匠記には、そまかたを(と?)よまれしを、僻案抄にみわた(みわ?)山とよみしは、感ずべきこと也。さて、是をみわ山とよめる故は、古事記中卷に、活玉依毘賣《イクタマヨリヒメ》、其容姿端正、於v是有2神壯夫1、其形姿威儀、於v時無v比、夜半之時、倏忽到來、故相感共婚、供住之間、未v經2幾時1、其美人妊身、爾父母怪2其妊身之事1、問2其女1曰、汝者自妊、無v夫何由妊身乎、答曰、有2麗美壯夫1不v知2其姓名1、毎夕到來、供住之間、自然懷妊、是以、其父母、欲v知2其人1、誨2其女1曰、以2赤土1、散2床前1、以2閇蘇紡麻《ヘソヲヽ》1、貫v針、刺2其衣襴1、故如v教、而旦時見者、所v著v針麻者、自2戸之鉤穴1、控通而出、唯遺麻者|三勾《ミワ》耳、爾即知d自2鉤穴1出之状u、而從v糸尋行者、至2美和山1而留2神社1、故知2其神子1、故因2其|麻之三勾遺《ヲノミワノコルニ》1、而名2其地1、謂2美和《ミワ》1(73)也云々とあるがごとく、麻の三勾のこれるによりで、みわ山とはいへる也。さて閇蘇《ヘソ》は、假字にて、正字は綜麻《ヘソ》なる事は、仙覺抄に引たる、土佐國風土記に、以2綜麻1貫v針、及2壯夫之暁去1也、以v針貫v襴、及v旦也着之云々とあるにてしるべし。されば、上の故事によりて、綜麻の二字をみわとはよめる也。それに、形の字を附たるは、形の字をやまとよむべき爲也。いかにぞなれば、和名抄織機具に、楊氏漢語抄云、卷子【閇蘇今按本文未詳但閭※[菴の中が巳]所傳續v麻圓卷名也】云々とあるがごとく、綜麻の形は圓《マト》かなるものなれば、形の字をやまとはよめる也。山はまどかなるものゝよしは、上【攷證十九丁】の莫囂圓隣の久老が説にいへるがごとし。
 
林始《シケキカモト・ハヤシハシメ》乃《ノ》。
こは、僻案抄に、しげきがもとのとよみしぞよき。林は、木の繁きものなれば、しげきとよみ、始はものゝ本なれば、始をもとゝよまん事、理りにもかなひて、いかにもさる事ながら、證なくてはいかゞ。さて、その證は林をしげきとよむ事は、字鏡集に、林【シケシ】云々。淮南子説林篇注に、木叢生曰v林云々などあるがごとし。始をもとゝよむ事は、書紀神代紀上に元、下に本などを、はじめとよみ、荀子王制篇注に、始猶v本也云々など見えたり。さてこゝの語は、大祓詞に、彼方之繁木本乎《ヲチカタノシケキカモトヲ》云々なども見えたり。
 
狹野《サ》榛《ヌハリ・ノハキ》能《ノ》。
狹野《サヌ》の狹《サ》は、假字にて、發語也。狹の字をかきたる故に、せばき野の事と思ふ人あるべけれど、さにあらず。發語のさの字の例、さはだ、さばしる、さぬる、さわたる、さよばひなどの類、さの字みな發語にて意なし。榛《ハリ》は、考別記に、いと長き説あれど、わづらはしければしるさず。さて、その説に、芽子《ハギ》と一物なるよしいはれしがごとく、いかにも(74)榛と芽子とまがはしき歌ども多かれど、榛《ハリ》と芽子《ハキ》と、一物とするは、甚しき誤り也。そは、古事記下卷に、天皇畏2其|宇多岐《ウタキ》1登2坐|榛上《ハリノキ》1、爾歌曰云々とて、のせたる大御歌に、波埋能紀能延陀《ハリノキノエダ》とありて、本集七【二十四丁】に、衣服針原《コロモハリハラ》云々。十四【十三丁】蘇比乃波里波良云々などあるにても、芽子《ハキ》とは一物ならで、榛ははりとよまん事、論なきをや。さて、この木を衣に摺《スル》よしは、下【攷證一ノ下四十四丁】に、引馬野津爾仁保布榛原《ヒクマノニニホフハリハラ》云々とある所にいふべし。又此木を、宣良は今の世に、はんの木といふもの也といへりしかど心得ず。さる故は、延喜大學寮式、釋奠の供物に、榛子人《ハリノミノサネ》云々。宮内式、諸國例貢御贄に、大和|榛子《ハリノミ》云々。大膳式上、釋奠祭料に、榛人《ハリノサネ》云々。同下、諸國貢進菓子に、大和國榛子《ハリノミ》云々などあるを見れば、榛の實は食するものと見えたり。そのうへ、人といふは核《サネ》の事にて、核をさへ供するはあまり小き實の物とは見えず。又、周禮※[竹冠/邊]人に、※[食+貴]食之※[竹冠/邊]、其實棗〓桃乾〓榛實云々。注に榛似v栗而小云々ともあれば、漢土にても食する物也。今はんの木にも實はあれども、なか/\食料の物にあらず。されば、榛の木、今の名はいかにいふかしれがたきものなり。猶本草にくはしき人にとふべし。(頭書、今云はしばみなる事あぐべし。)
 
衣爾著成《キヌニツクナス・コロモニキナシ》。
こは、衣につくごとくといふ意也。すべて、なすといふ語は、みなごとくといふ意なること、書紀神代紀下、一書に、如2五月蠅《サハヘナス》1云々とあるに明らけし。また、本集下【廿二丁】に、玉藻成浮倍流禮《タマモナスウカヘナカレ》云々。二【廿二丁】に、鳥翔成有我欲比管《ツハサナスアリカヨヒツヽ》云々。同【卅八丁】に、入日成隱去之鹿齒《イリヒナスカクレニシカハ》云々などありて、集中猶いと多し。
 
目爾都久和我勢《メニツクワカセ》。
目に付なり。この歌序歌にて、榛の木を衣にすりて、そのいろの衣につくごとく、君がみかたちの、わが目につけりと也。めにつくは、本(75)集七【廿九丁】に、斑衣服面就《マタラコロモハメニツキテ》云々などあるがごとし。さて、考には、この歌の前に、額田姫王奉v和歌と、端辭をいれられたり。いかにも、左ありたき所なれど、みだりに加ふべきならねばはぶけり。
 
右一首歌。今案。不v似2和歌1。但。舊本載2于此次1。故以猶載焉。
 
この左注、こゝろ得ず。端辭分明ならざれば、右の歌、和する歌にかなへりともかなはずともしれがたきをや。右の歌どもを考の説のごとく見る時は、いとよくきこえたれば、この注なほ/\こころ得ず。
 
天皇遊2獵蒲生野1時。額田王作歌。
 
遊獵
書紀本紀云、七年夏五月五日、天皇縱2獵於蒲生野1、于v時、皇豐弟諸王内臣及群臣、皆悉從焉云々。
 
蒲生野。
和名抄郡名云、近江國蒲生【加萬不】云々。書紀本紀云、九年春二月云々、于v時、天皇、幸2蒲生郡遺邇野1而觀2宮地1云々。
 
20 茜草指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキノユキ》。標野行《シメノユキ》。野守者不見哉《ノモリハミスヤ》。君之袖布流《キミカソテフル》。
 
茜草指《アカネサス》。
こは枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。あかねさすは、赤き氣のさすなれば、紫も赤きけのあるものなれば、しかつゞけたるなり。和名抄染色具に、東名苑注云茜【蘇見反和(76)名阿加禰】可2以染1v緋者也云々。延喜縫殿式、深緋綾一疋、茜大四十斤、紫草卅斤云々。また古事記上卷に、阿多※[尸/工]都伎《アタネツキ》云々とあるも茜也。
 
武良前野逝《ムラサキノユキ》。
紫野行也。紫野は、山城國愛宕郡に同名あれば、こゝは地名にあらず。蒲生野のうちにて、紫の生たる所をのたまへる事、次の御歌に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》云々などあるがごとし。本草和名に、紫草和名无良佐岐云々。さて逝は、行なり。爾雅釋詁に、逝往也云々。廣雅釋詁一に、逝行なり云々などあるがごとし。
 
標野行《シメヌユキ》。
標野《シメノ》は、御獵し給はん料にまれ、草などつみ給はん料にまれ、人を入ず、標《シメ》おかしめ給ふ野也。そは、本集七【卅四丁】に、我標之野山之淺茅《ワカシメシヌヤマノアサチ》云々。八【十五丁】に、春菜將抹跡標之野爾《ワカナツマントシメシヌニ》云々。同【卅一丁】に、吾標之野乃《ワカシメシヌノ》云々などあるがごとし。猶下【攷證二上卅四丁】にもいへり。
 
野守《ノモリ》。
野守は、山守、關守のごとく、野に人をすゑて守らしめ給ふ也。古今春上、よみ人しらず、春日野のとぶ火の野守いでて見よいまいくかありてわかなつみてん云々とある野守も同じ。
 
君之袖布流《キミカソテフル》。
袖ふるとは、男にまれ、女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよ/\とをかしげなるをいふ事にて、そは、本集二【十九丁】に、我振袖乎妹見都良武香《ワカフルソテヲイモミツラムカ》云々。八【卅四丁】に、袖振者見毛可波之都倍久《ソテフラハミモカハシツヘク》云々などありて、猶多し。さて、この歌の意は、むらさき野、しめ野などを、ゆかせ給ふ君が、袖ふり給ふを、野守は見ずや、いかにとい(77)へるのみ也。さて、この哉は、疑て問かくるやなり。この事【攷證四中卅四丁】にいふべし。代匠記などに、いろ/\によそへたりといふ説あるはいかゞ。
 
皇太子答御歌。明日香宮御宇天皇。
 
皇太子は、天武天皇を申す。書紀本紀云、天渟中原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也、幼曰2大海人皇子1云々。天命開別天皇元年、立爲2東宮1云々。元年、是歳、營2宮室於崗本宮南1、即冬遷以居焉、是謂2飛鳥淨御原宮1云々。考云、皇太子をば、此集には、日並知皇子命、高市皇子など書例なるを、こゝにのみ、今本に皇太子と書しは、いかにぞや。思ふに、こゝの端詞みだれ消たるを、仙覺が補へるか。或本にかくありしに依しか。
 
21 紫草能《ムラサキノ》。爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。爾苦久有者《ニクヽアラバ》。人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》。吾戀目八方《ワカコヒメヤモ》。
紫草《ムラサキ・アキハキ》能《ノ》。
紫草は、本草和名に、紫草和名无良佐岐云々。和名抄染色具に、本草云紫草【和名無良散岐】云云とあるうへに、まへの歌にも、武良前野《ムラサキノ》とあるを、舊訓に、あきはぎとよめるは、いかなることぞや。代匠記に、むらさきとよまれしをよしとす。さて、紫草能《ムラサキノ》の、能文字は、のごとくといふ意なること、あまぐものたゆたふ心、あき山のしたべるいもなどのたぐひの、乃もじなり。
 
(78)爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。
こゝは本集十一【四十一丁】に、山振之爾保敝流妹之《ヤマフキノニホヘルイモカ》云々。十三【廿四丁】に都追慈花爾太遙越賣《ツツシハナニホヘルヲトメ》云々などあるがごとく、にほへるは、うるはしき意にのたまふ也。本集十【十丁】に艶の字をにほふとよめるにてもおもふべし。
 
爾苦久有者《ニクヽアラバ》。
憎《ニク》からば也。本集七【四十丁】に、海之玉藻之憎者不有乎《ウミノタマモノニクヽハアラヌヲ》云々。八【十五丁】に、吹有馬醉木乃不惡君乎何時《サケルアセミノニクカラヌキミヲイツシカ》云々。十【十七丁】に、夜哉將間二八十一不在國《ヨヲヤヘテンニクヽアラナクニ》云々などあるも同じ。
 
人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》。
人づまは、本集(九)【廿三丁】に、他妻《ヒトツマ》とかけるごとく、他人の妻をいふ。さて、集中|故爾《ユヱニ》といふに二つあり。一つは、今俗言にもいふ意、一つはなるものをといふ意也。こゝの人づまゆゑにも、人づまなるものをといふ意なり。そは、本集十【廿五丁】に、人妻故吾可戀奴《ヒトツマユヱニワカコヒヌヘシ》云々。十一【三丁】に人妻故玉緒之念亂而《ヒトツマユヱニタマノヲノオモヒミタレテ》云々。十二【廿八丁】に人妻※[女+后]爾吾戀二來《ヒトツマユヱニワレコヒニケリ》云々などあるゆゑに、皆ものをの意也。集中猶多し。
 
吾戀目八方《ワカコヒメヤモ》。
めやもといへる語は、裏へ意のかへるや〔右○〕文字に、も〔右○〕の字はただそへたるにて、意なし。本集四【五十五丁】に、不相在目八方《アハサラメヤモ》云々。七【卅八丁】に、人二將言八方《ヒトニイハメヤモ》云々。十【五十二丁】に、吾戀目八面《ワカコヒメヤモ》云々などあるがごとく、猶いと多し。さて、一首の意は、紫草《ムラサキ》の如く、うるはしき妹を、にくゝあらば、人づまなるものを、わがかく戀はせじを、にくからぬによりてこそ、(79)かくは戀ふれといふ意なり。
 
紀曰。天皇。七年丁卯。夏五月五日。縦2獵於蒲生野1。于v時。大皇弟諸王内臣。及群臣。皆悉從焉。
 
丁卯。
本紀を考ふるに、七年は戊辰なり。又集中、左注の例に依に、卯の下に天皇の二字あるべし。
 
五月五日。
書紀推古、本集十六等に、五月藥獵する事見えたり。五月五日とあれば、こゝもその藥獵したまふか。猶藥獵の事は、十六【攷證十六下ノ丁】にいふべし。
 
獵。
本紀、獵作v※[獣偏+葛]。
 
大皇弟。
印本、天皇とあれど、誤なる明らかなれば、本紀によりて改む。
 
明日香清御原宮御宇天皇代。天渟中原瀛眞人天皇。
 
天皇御謚を、天武と申す。書紀本紀云、天渟中原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也、幼曰2大海人皇子1云々。天命開別天皇、元年、文爲2東宮1云々。元年、是歳、營2宮室於崗本宮南1、即冬遷(80)以居焉、是謂2飛鳥淨御原宮1云々と見えたり。印本、御宇の二字を脱す。今、集中の例によりで補ふ。猶下【攷證下六十九丁】を見合すべし。
 
十市皇女。參2赴於伊勢神宮1時。見2波多横山巖1。吹黄刀自作歌。
 
十市皇女。
書紀天武紀云、天皇初娶2鏡王女額田媛王1、生2十市皇女1云々。四年春二月、丁亥、十市皇女、阿閇皇女、參2赴於伊勢神宮1云々。七年夏四月、丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜v之、癸巳食v卜、仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘與命v盖、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣云々とあるにて思へば、此皇女の伊勢神宮におはしましゝは、齋宮になりて下り給ひしにかともおもはるれど、齋宮記には、阿閇皇女をのみのせたり。そのうへ、二人一度に齋宮になり給はんいはれなければ、こゝはたゞ伊勢に下りおはしたりと見るべし。
 
伊勢神宮。
延暦儀式帳云、天照坐皇大神、伊勢國度會郡宇治里、佐古久志留伊須々川上、御幸行坐時儀式、磯城島瑞離宮御宇、御間城天皇御世以往、天皇同殿御坐、同天皇御世、以2豐耜入婦命1、爲2御杖代1出番云々。猶古事記、書紀、其外みな人のしれる事なればひかず。
 
波多横山《ハタノヨコヤマ》。
考云、神名式に、伊勢國壹志郡波多神社。和名抄に、同郡に八太郷あり。こは、伊勢の松坂里より、初瀬越して、大和へゆく道の、伊勢のうちに、今も八太里あ(81)り。その一里ばかり彼方に、かいとうといふ村に、横山あり。そこに、大なる巖ども、川邊にも多し。これならんとおぼゆ。飛鳥藤原宮などのころ、齋王群行は、この道なるべしと、その國人はいへり。猶考てん。(頭書、書紀推古紀に羽田といふ地あれど、これにはあるべからず。)
 
吹黄刀自《フキトシ》。
こは考に、同じ氏は卷十三にも出。さて天平七年紀に、富紀朝臣てふあり。今はこれを訓の假字にて、吹黄と書るか。されど猶おぼつかなし云々といはれしがごとく、いかにもしれがたけれど、試みにいふ説あり。書紀天武紀、元年の條に、大伴連馬來田、弟吹負、並見2時否1、以稱v病退2於倭家1、然知d其登2嗣位1者、必所2居吉野1大皇弟u矣云々とある、吹負と、吹黄刀自と、同人なるべし。さる故は、吹《フキ》も吹黄《フキ》も、一字と二字にかけるのみ。訓は同じ事也。負と、刀自と、又同じかる證は、和名抄老幼類に、劉向列女傳云、古語謂2老母1爲v負【今案和名度之俗用刀自二字者誤也】云々とありて、又字鏡集にも、負をとじとよめれば也。しかする時は、この吹黄刀自は男也。又男也といふ證もあり。そは本集四【十三丁】に、この吹黄刀自が歌に、眞野之浦乃與騰乃繼橋《マノヽウラノヨトノツキハシ》、情由毛思哉妹之伊目爾之所見《コヽロユモオモヘヤイモカイメニシミユル》云々。この歌に、妹といふ言あり。男どちは、かたみに、せことも、せともいひし事、集中にあれど、女どち妹といふべき事なし。(頭書、女どち妹といふ事、四ノ五十四オウ三所、同五十八ウ一所。)されば、この吹黄刀自は、男なること明らけし。或人難じて云、吹黄刀自と吹負と同人とする時は、書紀に、大伴連馬來田(ガ)弟吹負とあれば、姓大伴連なる人也。集中の例、姓氏をしるさずして、名ばかり書たる例ありや、いかに。答云、あり。本集九【十三丁】に元仁歌、【十四丁】に島足歌、【十五丁】に磨歌、【十六丁】に宇合卿歌、【十七丁】伊保麿歌云々などあり。これらを(82)見ても、思ふべし。
 
22 河上乃《カハカミノ》。湯都盤村二《ユツイハムラニ》。草《クサ・コケ》武左受《ムサズ》。常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。常處女煮手《トコヲトメニテ》。
 
湯都盤村二《ユツイハムラニ》。こは、古事記上卷に、湯津石村《ユツイハムラ》云々、祈年祭祝詞に、湯津磐村如《ユツイハムラノコトク》、塞座※[氏/一]《フサガリマシテ》云々などある、湯津も、湯津爪櫛《ユツツマクシ》、湯湯杜樹《ユツカツラノキ》などあるも、同じく、ものゝ繁き意なり。盤《イハ》は、古事記に、石《イハ》ともかけるがごとく、端辭にある巖なり。村《ムラ》は、書紀崇神紀の歌に、伊辭務邏《イシムラ》とあるも、石群にて、物の群《ムラ》がる事也。そは、木むら、竹むらなどいふむらと同じ。さて、諸本、盤の字を書けるを、考と略解に、磐に改めしは、さかしらなり。そは爾雅釋山釋文に、磐本作v盤云々あるにても、通ずる事明らけし。
 
草《クサ・コケ》武左受《ムサズ》。
こは、諸本くさむさずとよめれど、こけむさずとよむべき也。集中、苔むすと多くよめり。そは六【廿二丁】に、奧山之盤爾蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》云々。七【卅二丁】に、奧山之於石蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》云々。十三【三丁】に、石枕蘿生左右二《イハマクラコケムスマテニ》云々。古今賀に、よみ人しらず、君がよは千代にやちよにさゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで云々などあるがごとく、皆石には、こけむすといへり。また本集十八【廿一丁】山行者草牟須屍《ヤマユケハコケムスカハネ》云々とある所のみ、草とかきたれど、これもこけとよむべき也。さてむすは生也。上に引る集中の歌に、生をむすとよめるにてもしるべし。(頭書、再考、草武左受《クムサス》と訓べし。草《クサ》ムス、續紀天平勝寶元年詔、本集十八【廿一丁】。)
 
(83)常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。
この句の訓、考にはとこにもがもなとよま(れ字脱?)しかど、かゝる所に常といふ字を、とことよめるは誤り也。舊訓のまゝ、つねとよむべきなり。次の句に、常處女《トコヲトメ》とあるは、とこをとめとよむべし。さて、つねと訓と、とことよむとのわかちは、俗言に、平生、不斷《フダン》などいふ所に、つかへるは、つねとよみ、こしかた、行すゑ久しき事にかけて、とことはなどいふ所は、とことよむべき也。これらの證、こゝにあぐるごとし。本集五【廿七丁】に、常斯良奴國乃意久迦袁《ツネシラヌクニノオクカヲ》云々。三【五十七丁】に、世間之常加此耳跡《ヨノナカノツネカクノミト》云々。七【廿六丁】に、盈※[日/仄]爲烏人之常無《ミチカケスルソヒトノツネナキ》云々。十【廿八丁】に、如常哉吾戀居牟《ツネノコトクヤワカコヒヲラン》云々などあるは、みな平生、不斷などいふ意にて、猶いと多し。又二【卅二丁】に、常宮跡定賜《トコミヤトサタメタマヒテ》云々。七【十一丁】に、彌常敷爾吾反將見《イヤトコシキニワカカヘリミン》云々などありて、久しきをかけていへり。猶多し。冀名《カモナ》は、願ふ意の詞にて、がとのみいひても、願ふ意なるに、もをそへたるなり。又、それに、なもじをそへたる、願ふ意なるによりて、冀の字をばかける也。本集四【廿一丁】に、鳥爾毛欲成《トリニモカモナ》云々。六【十三丁】に、加此霜願跡《カクシモカモト》云々。十七【四十四丁】に、奈泥之故我波奈爾毛我母奈《ナテシコノハナニモカモナ》云々などあるがごとし。
 
常處女煮手《トコヲトメニテ》。
常處女《トコヲトメ》とは、常しへに久しく、いつも處女にてましませといふ意也。お《(マヽ)》とめは、書紀に少女、童女、娘子などをよめるがごとく、少女をいへる也。にてと、とめたるは、下へ、にてましませといふ意を、ふくめたる也。こゝは、吹黄刀自が、十市皇女を祝し申して、いつもわかく、少女のごとくましませといへる也。
 
吹黄刀自未v詳也。但紀曰。天皇四年乙亥。春二月。乙亥朔丁亥。十(84)市皇女。阿閉皇女。參2赴於伊勢神宮1。
 
書紀を考ふるに、阿閇皇女とす。閇と閉と同字なり。
 
麻績王。流2於伊勢國伊良虞島1之時。人哀傷作歌。
 
麻績王。
この王、父祖不v可v考。下の左注に、引たるごとく、天武紀四年の條に見えたるのみ。印本、績を續に作る。今書紀によりて改む。(頭書、諸本續。)
 
伊勢國伊良虞島
下の左注に引るがごとく、天武紀には、麻績王、有v罪流2于因播1とあるによりて、考には、伊勢國の三字を、後人の加へたるなりとて、はぶかれしかど、いかゞ。書紀と、此集と、事のたがへるありとて、いづれをかは誤りと定めん。見よ見よ、書紀と古事記と、傳へのたがへるところ/”\のあるを。古事記を古しとて實ともしがたく、書紀を正史也とて實ともしがたきをや。されば、古事記は古事記、書紀は書紀、此集は此集の傳へのまゝにてあるべき也。本集下【廿丁】に、幸2于伊勢國1時、留v京柿本朝臣人磨作歌とてのせたる、三首の中に、この島をよめる歌あり。されば、伊勢ならんを、歌枕名寄より始めて、名所部類の諸書には、皆志麻國とせり。可v考。又考にも、説あり。よしとも思はねど、すつべくもあらねば下にあげたり。(頭書、時下時字を脱歟。)(頭書、著聞。)
 
(85)23 打麻乎《ウチソヲ》。麻績王《ヲミノオホキミ》。白水郎有哉《アマナレヤ》。射等籠荷四間乃《イラコガシマノ》。珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
打麻《ウチソ・ウツアサ》乎《ヲ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。麻は水にひたし、打てそれを又さきて、績《ウム》物なれば、うちそを麻みとつゞけし也。
 
白水郎《アマ》。
白水郎を、あまとよみしは、書紀允恭紀に見え、本集には多く見えたり。其外古事記には海部、本集には海人、海女、海夫、磯人などをよめり。和名抄漁獵類に、辨色立成云、白水郎【和名阿馬今按云日本紀云用2漁人二字1一云用2海人二字1】云々などもあるがごとし。さて白水は、漢土の地名なり。楚辭注に、白水出2崑崙之山1、飲v之不v死云々。文選東京賦云、龍飛2白水1、鳳翔2參墟1云々などあるがごとし。郎は、韻會に男子の稱、又婦謂v夫爲v郎云云など見えたり。されば白水郎をあまとはよめり。
 
珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
本集【廿丁】に、大宮人之玉露苅良武《オホミヤヒトノタマモカルラム》云々とありて、集中猶いと多し。玉藻、考云、玉藻の玉をほむる詞といふはわろし。玉とほむるも、物にこそよれ。凡、草木に玉といふに、子《ミ》こそ多けれ。藻に眞の白玉の如き子《ミ》多きを、豐後の海よ持來て見せし人有(と脱?)いはれつれど、玉は藻をほめていへるなる事は、下【攷證二上卅一丁】玉松之枝の條にいへり。
 
麻績王。聞v之。感傷和歌。
 
24 (空蝉乃《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》。浪爾《ナミニ》所濕《ヌレ・ヒテ》。伊良處能島之《イラコノシマノ》。玉藻苅《タマモカリ》食《ヲス・マス》。)
 
(86)空蝉乃《ウツセミノ》。
枕詞なれば、.冠辭考にゆづれり。現《ウツ》し身の命とつゞけたるなり。
 
命乎惜美《イノチヲヲシミ》。
惜の字、印本、情に作れり。されど、本集五【十丁】に、多摩枳波流、伊能知遠志家騰云々。十七【廿三丁】多摩伎波流伊乃知乎之家騰云々ともあれば、惜を情に誤れる事明らかなれば、意もてあらたむ。惜美《ヲシミ》の、み文字は、さにといふ語にかよふ言也。【攷證十丁】に、心乎痛見《コヽロヲイタミ》云々とあると同じ。末々いと多し。
 
所濕《ヌレ・ヒテ》。
舊訓、ひでとあれど、本集九【廿五丁】に、雨不落等物裳不令濕《アメフラストモモヌラサス》云々とあるに依て、ぬれとよむべし。
 
苅《カリ》食《ヲス・マス》。
食を、舊訓、ますとあれど、しかよむべき理りなく、書紀神代紀上、一書に、灌2于天(ノ)渟《ヌ》名井、亦名|去來之眞名《イサノマナ》井1、而|食《ヲス》v之云々。靈異記上、訓釋に、食國【久爾乎師ス】云々ともあれば、こゝはかりをすとよむべし。
 
右案2日本紀1曰。天皇四年乙亥。夏四月。甲戌朔辛卯。三品麻績王。有v罪。流2于因幡1。一子流2伊豆島1。一子流2血鹿島1也。是云v配2于伊勢國伊良處島1者。若疑後人縁2歌辭1。而誤記乎。
 
(87)甲戌朔辛卯。
印本、戊戌朔乙卯とあれど、本紀并長暦によりてあらたむ。
 
伊豆島。
書紀推古紀云、二十八年秋八月、掖玖人二口、流2來於伊豆島1云々。天武紀云、十三年冬十月、伊豆島西北二面、自然増2益三百餘丈1。更爲2一島1云々など見えたり。今云伊豆大島なるべし。
 
血鹿島。
肥前國風土記云、松浦郡條に、勅云、此島雖v遠、猶見知v近、可v謂2近島1、因曰2値嘉島1云々。本集五【卅一丁】に、阿庭可遠志智可能岬欲利《アテカヲシチカノサキヨリ》、大伴御津濱備爾《オホトモノミツノハマヒ〓》云々。和名抄國郡部に、肥前國松浦郡値嘉【知加】云々など見えたり。こゝに血鹿とかけるは假字のみ。
 
伊良處島。
考云、いらごが崎を、志摩國にありと思へるも、ひがごとぞ。こは參河國より、志摩の答志《タフシ》の崎の方へ向ひて、海へさし出たる崎故に、此下の伊勢の幸の時の事を、思ひはかりてよめる、人まろの歌にはある也。然れば、右の紀に違ふのみならず、いらごをいせの國と思へるもひがごと也。後の物ながら、古今著聞集に、伊與の國にもいらごてふ地ありといへり。因幡にも同名あるべし。
 
天皇御製歌。
 
(88)25 三吉野之《ミヨシヌノ》。耳我嶺爾《ミヽカノミネニ》。時無曾《トキナクソ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。間無曾《ヒマナクソ》。雨者零計類《アメハフリケル》。其雪乃《ソノユキノ》。時無如《トキナキカコト》。其雨乃《ソノアメノ》。間無如《ヒマナキカコト》。隈毛不落《クマモオチス》。思《オモヒ・モヒ》乍叙來《ツヽソクル》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 
三吉野。
吉野は、いと古くは、古事記下卷御歌に、美延斯怒能袁牟漏賀多氣爾《ミエシヌノヲムロカタケニ》云々とあるがごとく、えしぬといへり。又書紀天智紀、童謡に、美曳之弩能曳之弩能阿喩云々ともあれば、こゝの三吉野も、みえしぬとよまんかとも思ひたりしかど、次の歌に芳野吉見與などもあれば、猶こゝはよしぬと訓べき也。和名抄郷名に、大和國吉野郡吉野【與之乃】云々と見えたり。さてみよしぬのみは、眞にて、ほむる詞なり。熊野をみくまぬといへるがごとし。
 
耳我嶺爾《ミヽカノミネニ》。
耳我嶺は、吉野山の中いづこをいふにかしれがたし。考并別記に説あり。よしとも思はれねど、外に考へ出せる事もなければ、しばらくそれによれり。さて考云、耳は借字にて、御缶《ミヽカ》の嶺也。卷三、此歌り同言なる歌に、御金高とあれど、金は缶の誤り也。ここに耳我と書しに合せてしらる。後世金の御嶽といふは、吉野山の中に勝れ出たる嶺にて、即、此大御歌のことばどもに、よくかなひぬ。然れば、古へもうるはしくは、御美我嶺《ミヽカネ》といひ、常には美我嶺《ミカネ》とのみいひけん。そのみかねをみ金《カネ》の事と思ひたる、後世心より、金嶽とはよこなはれる也けり。かの卷、三缶を金に誤りしも同じ後世人のわざなる事明らか也。
 
(89)。時無曾《トキナクソ》。
ときなくは、時ぞといふことなくといふ意也。本集九【廿二丁】に、時登無雲居雨零《トキトナククモヰアメフル》云々。十四【十四丁】に安我古非能未思《アカコヒノミシ》、等伎奈可里家利《トキナカリケリ》云々などあるがごとし。
 
雪者落家留《ユキハフリケル》。
本集十七【四十丁】に、等許奈都爾、由伎布理之伎底云々などあるも同意也。さて、落《フル》は二【十二丁】に大雪落有《ミユキフリタリ》云々、令落雪之摧之《フラセタルユキノクタケシ》云々などあるがごとし。
 
隈毛不落《クマモオチス》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
隈は上【攷證卅二丁】にいへるがごとく、すみ/”\曲りなどをいへるにて、こゝ、此山のくま/”\をも、もらさずをかしとみそなはしつゝ、この山をいでますと也。不落《オチス》は上【攷證十二丁】にいへるがごとク、漏《モラ》さずといふ意なり。
 
思乍叙來《モヒツヽソクル》。
思を、舊訓おもひとよめれど、本集四【四十七丁】に、爲便乃不知者片※[土+完]之《スヘノシラネハカタモヒノ》云々、同【四十九丁】に、片思男責《カタモヒヲセム》云々などもあれば、思はもひとよむべし。
 
或本歌。
 
26 三芳野之《ミヨシヌノ》。耳我山爾《ミヽカノヤマニ》。時自久曾《トキシクソ》。雪者落等言《ユキハフルトイフ》。無間曾《ヒマナクソ》。雨者落等言《アメハフルトイフ》。其雪《ソノユキノ》。不時《トキシクカ・トキナラヌ》如《コト》。其雨《ソノアメノ》。無間如《ヒマナキカコト》。隈毛不墮《クマモオチス》。思《モヒ・オモヒ》乍叙來《ツヽソクル》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 
右。句々相換。因v此重載焉。
 
(90)耳我山《ミヽカノヤマニ・ミカネ》。
舊訓、みかねとあれど、本歌耳我嶺を、みゝがのみねとよめるがごとく、こゝもみゝがの山とよむべし。
 
時自久《トキジク》。
こは上【攷證十二丁】にいへるがごとく、非時といふ言也。則本集八【五十一丁】非時をときじくとよめるにてしるべし。
不時《トキジク・トキナラヌ》如《ガコト》。
舊訓ときならぬごととあれど、本歌も、時無《トキナク》といふ言をかさねていへる例によれば、この歌もまへに時自久《トキシク》とあれば、こゝもときじくがごとゝよむべし。本集七【二十四丁】に、不時班衣《トキシクニマタラコロモヲ》云々、十三【十二丁】。に、飲人之不時如《ノムヒトノトキシクカコト》云々などあるにて思ふべし。
 
天皇。幸2于吉野宮1時。御製歌。
 
前に、天皇御製歌とて、吉野をよませ給ふ御歌をのせて、又こゝに天皇幸2于吉野宮1時御製歌と、同天皇同吉野の御歌を、かく端辭を別にかけるは、故ある事なるべし。されば、考ふるに、前の吉野の御歌は、書紀天智紀に、十年冬十月壬午、東宮見2天皇1、請d之2吉野1脩2u行佛道1云々とある時、吉野にいらせ給ふ度の御歌にて、こゝに幸2于吉野宮1とあるは、本紀に、八年五月庚辰朔甲申、幸2于吉野宮1云々とある度の御歌なるべし。吉野宮は上【攷證十六丁】に出たり。
 
27 ※[さんずい+林?]人乃《ヨキヒトノ》。良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》。好常言師《ヨシトイヒシ》。芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四《ヨキヒトヨ》來三《クミツ・キミ》。
 
(91)よき人とは、むかしの尊き人とのたまへる也。佛足跡歌に、與伎比止乃、麻佐米爾美祁牟云々。また、與伎比止乃、伊麻須久爾々波云々などあるは、佛をのたまへるにて、尊き人の意也。文本葉、六【二十丁】に、好人欲得《ヨキヒトモカモ》云々なども見えたり。さて、※[さんずい+林?]の字をよきとよめるは、字彙に、※[さんずい+林?]與v淑同云々。爾雅釋詁に、淑善也云々。孝經注に、勸善也云々などあればなり。また、毛子※[こざと+鳥]鳩に、淑人君子、其儀一兮云々などあり。本集九【十五丁】に、古之賢人之遊兼《イニシヘノカシコキヒトノアソビケン》、吉野川原雖見不飽鴨《ヨシヌノカハラミレトアカヌカモ》云々とあるにも、この歌によしありてきこゆ。
 
芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四《ヨキヒトヨ》來三《クミツ・キミ》。
芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》とは、古しへのよくかしこき人の、吉野をよき所ぞと、よく見定めて、よき所なりといひし、その吉野の山はこゝなれば、人々もよく見よと、從駕の人々にのたまふ也。四來三の三字は、僻案抄に、よくみつとよみしに、したがふべし。舊訓のごとく、良人《ヨキヒト》よきみとよみては、一首の意きこえがたし。さてこゝの意は、吉野の山をよき所也といひし、むかしのよき人は、吉野の山をよく見定めしぞとなり。猶代匠記、僻案抄、考など可v考。また、此御歌を濱成式に引て、大異同あれど僞書なればとらず。
 
紀曰。八年己卯五月。庚辰朔甲申。幸2于吉野宮1。
 
右の左注の文、集中の例によるに、五月の上夏の字を脱せる歟。
 
(92)藤原宮御宇天皇代。 高天原廣野姫天皇。 【天皇御謚を持統と申す。書紀本紀云、高天原廣野姫天皇 少名※[盧+鳥]野讃良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰2遠智娘1云々。四年春正月、戊寅朔、皇后即2天皇位1云々。八年冬十二月、庚戌朔乙卯、遷2居藤原宮1云々と見えたり。また、藤原宮は、天智紀に、※[盧+鳥]野皇女、及v有2天下1、居2于飛鳥淨御原宮1、後移2宮于藤原1云々とも見えたり。さて、此下に藤原に都をうつし給はぬまへの歌をもあげたるを、こゝに藤原宮御宇天皇代と書るは、いぶかしきに似たれば、こは藤原宮に、あののしたしろしめす、天皇の御代歌といふことにて、後の字をまへにおよぼしてかける也。御代の代といふ字に心をつくべし。これ、集中の例也。猶この事は、下【攷證下六十五丁】にもいへる事あり。考へ合すべし。さて、この藤原宮は、大和國十市郡にて、鎌足公の本居の藤原とは別所也。思ひまがふべからず。この事は下【攷證一下廿六丁】にいふべし。
 
天皇御製歌。
 
28 春過而《ハルスキテ》。夏《ナツ》來良之《キタルラシ・キニケラシ》。白妙能《シロタヘノ》。衣《コロモ》乾有《ホシタリ・サラセリ》。天《アメ・アマ》之香來山《ノカクヤマ》。
 
春過而《ハルスキテ》。
こは、僻案抄に、夏きたるらしとよみしにしたがふべし。本集十【八丁】寒過暖來良思《フユスキテハルキタルラシ》云々。十九【十八丁】に、春過而夏向者《ハルスキテナツキムカヘハ》云々なども見えたり。
 
白妙能《シロタヘノ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。白は、色白きをいひ、妙は借字にて、※[糸+旨]布の總名なり。
 
(93)衣《コロモ》乾有《ホシタル・サラセリ》
乾有は、僻案抄に、ほしたるとよめるにしたがふべし。字鏡集に、乾ホスとよめり。本集二【廿五丁】に、衣之袖者乾時又無《コロモノソテハヒルトキモナク》云々なども見えたり。舊訓のごとく、さらせりとよむ
べき理りなし。
 
天之香來山《アメノカクヤマ》。
舊訓、あまのかぐ山とあれど、のとうくる時は、必ずあめの何々といふべき語格也。古事記中卷に、比佐迦多能、阿米能迦具夜麻云々、あるにても思ふべし。さて、かぐ山の事は、上【三丁】にいへるがごとく、かぐ山とも天のかぐ山とも、集中多く見えたり。天のかぐ山といへるは、天上に天のかぐ山あるになぞらへて、大和なるをも天のかぐ山とはいへるなるべし。又、上に引たる伊豫風土記の説のごとくにてもあるべし。考云、都とならぬ先に、鎌足公の藤原の家、大伴氏の家もこゝにあり。この外にも多かりけん。然れば、夏のはじめつころ、天皇埴安の堤の上などに幸し給ふ時、かの家々に、衣をかけほしてあるを見まして、實に夏の來たるらし、衣をほしたりと見ますまに/\のたまへる御歌也。なつはものうちしめれば、萬の物ほすは常のこと也。○集中に、言の下に、有在の字を書しは、らりるれろのことばにぞある。然るに、後世乾有をほすてふとよみしはあやまりなり。
 
過2近江荒都1時。柿本朝臣人麿作歌。并短歌。
 
天智天皇六年三月、後飛鳥岡本宮より、近江大津宮に都をうつし給ひ、十年十二月、近江宮に崩じ給ひし後、天武天皇元年、飛鳥淨御原宮にうつり給ひしかば、(94)はやく近江の都はあれはてしなり。其後、故都を過られしなり。
 
柿本朝臣人磨。
傳は、古今集目録、歌仙傳、人麿勘文等にいでたれど、いづれも分明ならざれば、こゝにあげず。又思ひ得る事もなければ、たゞ舊説をのみあぐ。さて僻案抄云、柿本朝臣人麿は、父親いまだ詳ならず。柿本は氏なり。朝臣は姓也。はじめの姓は臣《オミ》なり。天武天皇十三年、冬十月、己卯朔、詔ありて、更に諸氏の族姓をあらためて、八色の姓をつくる。十一月戊申朔に、五十二氏に朝臣の姓を給へる事、日本紀に見えたり。柿本も、その五十二氏の一つなり。これより後、柿本氏は朝臣の姓也。柿本氏の社(祖?)は、大春日朝臣同祖、天足差國押人命の後也。敏達天皇の御世、家門に柿樹ありしによりて、柿本氏とするよし、新撰姓氏録に見えたり。考別記云、この人麿の父親は、考ふべき物なし。紀に【天武】柿本朝臣|佐留《サル》とて、四位なる人見え、績紀には同氏の人かた/”\にいでゝ、中に五位なるもあり。されどいづれ近きやからか知がたし。さて、人麿は、後岡本宮のころにや、うまれつらん。藤原宮の、和銅のはじめのころに、身まかりしと見えたり。さて卷二、挽歌の但馬皇女薨後云々【此皇女和銅元年六月薨】の下、歌數のりて、此人在2石見國1死としるし、其次に、和銅四年としるして、他人の歌あり。【同三年奈良へ京うつされたり】すべて、この人の歌の載たる次でも、凡和銅のはじめまで也。齡はまづ、朱鳥三年四月、日並知皇子命の殯宮の時、この人の悼奉る長歌卷二にあり。蔭子の出身は、二十一|と《(マヽ)》齡よりなると、此歌の樣とを思ふに、この時わかくとも、二十四五にやありつらん。かりにかく定めおきて、藤原宮の和銅二年までを數ふるに、五十にいたらで、身まかりしなるべし。この人の歌、多かれど、老た(95)りと見ゆる言のなきにてもしらる。且、出身はかの日並知皇子命の舍人にて【大舍人也】其後に、高市皇子命の皇太子の御時も、同じ舍人なるべし。卷二の挽歌の言にてしらる。筑紫へ下りしは、假の使ならん。近江の古き都を悲み、近江よりのぼるなどあるは、これも使か。又近江を本居にて、衣暇田暇などにて下りしか。いと末に石見に任て、任の間に上れる、朝集使、税帳使などにて、かりに上りしもの也。この位には、もろ/\の國の司一人づゝ、九、十月に上りて、十一月一日の官會にあふ也。その上る時の歌に、もみぢ葉をよめる是也。即、石見へかへりて、かしこにて身まかりたる也。位は、其時の歌、妻の悲る歌の端にも、死と書つれば、六位より上にはあらず。三位以上に薨、四位五位に卒、六位以下庶人までに死とかく、令の御法にて、此集にも、この定のに書てあり。且、五位にもあらば、おのづから、紀にも載べく、又守なるは、必任の時を紀にしるさるゝを、柿本人麿は、惣て紀に見えず。然ば、此任は、掾目の間也けり。此外にこの人の事、考ふべきものすべてなし云々とて、古今序におほき三の位とある考をも、のせたれど、事ながければこゝにのせず。六【二十六丁】に、超2草香山1時神社忌寸老麿作歌云々。此端辭を、考には、柿本朝臣人麿、過2近江荒都1時作歌と直して、柿本云々の七字を、今の本に時の字の下へつけたるは、例にたがへり。古本によりてあらためつ云々といはれしかど、印本のごとく書し例、集中になしともいひがたし。そは、本集三【二十九丁】に、登2神岳1、山部宿禰赤人作歌云々。又、角鹿津乘v船時、笠朝臣金村作歌云々などあるを見ても思ふべし。集中猶多し。並短歌の三字、印本なし。今目録によりて補ふ。
 
(96)29 玉手次《タマタスキ》。畝火乏山乃《ウネビノヤマノ》。橿原乃《カシハラノ》。日知之御世從《ヒジリノミヨユ》。【或云。自宮《ミヤユ》】。阿禮座師《アレマシヽ》。神之《カミノ》書《ミコト・アラハス》。樛《ツカノ・トカノ》木乃《キノ》。彌繼嗣爾《イヤツキ/\ニ》。天下《アメノシタ》。所知《シラシ・シロシ》食之乎《メシシヲ》。【或云。食來《メシクル》。】天爾滿《ソラニミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山乎越《ナラヤマヲコエ》。【或云。虚見《ソラミツ》。倭乎置《ヤマトヲオキ》。 青丹吉《アヲニヨシ》。平山越而《ナラヤマコエテ》。】何方《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。【或云。所念計米可《オモホシケメカ》。】天離《アマサカル》。夷者雖有《ヒナニハアレト》。石《イハ》走《ハシメ(ノ)・ハシル》。淡海國乃《アフミノクニノ》。樂浪乃《サヽナミノ》。大津宮爾《オホツノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食兼《シラシメシケン》。天皇之《スメロキノ》。神之御言能《カミノミコトノ》。大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《コヽトハキケト》。大殿者《オホトノハ》。此間等雖云《コヽトハイヘト》。春《ハル・ワカ》草《クサ》之《シ・ノ》。茂生有《シケクオヒタリ》。霞《カスミ》立《タチ・タツ》。春日之霧流《ハルヒノキレル》。【或云。霞立《カスミタチ》。春日香霧流《ハルヒカキレル》。夏草香《ナツクサカ》。繁成奴留《シケクナリヌル》。】百磯城之《モヽシキノ》。大宮處《オホミヤトコロ》。見者悲毛《ミレハカナシモ》。【或云。見者左夫思母《ミレハサブシモ》。】
 
玉手次《タマタスキ》。
枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。上【攷證十丁】にも出たり。本集二【三十八丁】に、玉手次《タマタスキ》、畝火之山爾《ウネヒノヤマニ》、喧鳥之《ナクトリノ》云々などありて、猶多し。さて、玉手次畝火とつづくるは、襷《タスキ》をうなげるとつづけし也。
 
(97)橿原乃日知之御世從《カシハラノヒシリノミヨユ》。
橿原は、神武天皇の宮地なれば、橿原といひて、神武天皇を申奉るなり。書紀神武紀云、辛酉年春正月、庚辰朔、天皇即2帝位於橿原宮1、是歳爲2天皇元年1云々とあるごとし。さて、橿は、和名抄木類云、唐韻云橿【音薑和名加之】萬年木也云々と見えたり。日知之御世從とは、聖代と申す也。神武天皇は、人皇のはじめにさへましませば、御功もすぐれまします故に、聖代とは申す也。さて、日知《ヒシリ》は、考に、まづ月讀命は、夜之|食《ヲス》國を知しめせとあるにむかへて、日之食國を知ますは、大|日《ヒル》女の命也。これよりして、天つ日嗣しろしをす、御孫の命を、日知と申奉れり云々といはれしは、いかゞ。日知《ヒシリ》を、日の食國を知ます故也といはゞ、本集三【三十一丁】に、酒名乎聖跡負師《サケノナヲヒシリトオフシヽ》云々とある聖《ヒシリ》は、いかゞ解べきにか。されば、思ふに、日知と書しは、借字にて、正字は聖なり。ひじりといふは、聖の字の訓也。尚書大禹謨傳に、聖無v所v不v通云々。老子王注に、聖智才之善也云々。洪範五行傳に、心明曰v聖云云などあるがごとく、ものに勝れたるを、聖《ヒシリ》とはいふなり。さて、古事記下卷に、故稱2其御世1、謂2聖帝世1也云々。書紀神武紀云、己未年蕃三月、辛酉朔丁卯、下v命曰、【中略】苟有v利v民、何妨2聖造1云々。續日本紀、神龜六年八月癸亥詔に、天地八方、調賜事者、聖君坐而云々。又、天平十五年五月癸卯詔に、飛鳥淨御原宮、大八洲所知天皇命、天下治賜、平賜比弖云々なども見えたり。從《ユ》はよりの意、集中いと多し。(頭書、或云、自宮《ミヤユ》とあれど、この本わろし。)
 
阿禮座師《アレマシシ》。
あれましゝは、生《アレ》ましゝ也。本集三【三十七丁】に、久堅之天原從生來神之命《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタカミノミコトハル》云々。四【十二丁】。に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツキクレハ》云々。六【四十二丁】に、阿禮將座御子之嗣繼《アレマサンミコノツキ/\》云々などあるがごと(98)く、こゝの意も、神武天皇よりこなた、代々生つぎたまひて、天の下をしろしめすぞとなり。
 
神之《カミノ》書《ミコト・アラハス》。
舊訓、書をあらはす(と)よみしは、いかゞ。考に、かみのみことゝよまれしはよけれど、書の字、御言と二字に直されしは、誤りなり。書の字にて、みことゝよむべき也。そは、韓非子喩老篇に、書者言也云々とあるにて、書と言とかよふ事は論なし。されば、それを又借字して、命の訓には用ひし也。神といふからに、みの字は付てよめる也。さて書の字は、考に、一本に盡とありといはれしによりて、略解には、神之盡《カミノコト/\》と直しゝかど、共におぼつかなし。(頭書、代匠可v考。)
 
樛《ツガノ・トカノ》木乃《キノ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。さて、本集三【二十九丁】に、五百枝刺繁生有《イホエサシシヽニオヒタル》、都賀乃樹乃彌繼嗣爾《ツカノキノイヤツキ/\ニ》云々。六【十丁】に水枝指四時爾生有《ミツエサシシヽニオヒタル》、刀我乃樹能彌繼嗣爾《トカノキノイヤツキ/\ニ》云々。十七【四十二丁】に、多底流都我能奇《タテルツカノキ》、毛等母延毛《モトモエモ》云々。十九【四十二丁】に都我能木能伊也繼々爾《ツカノキノイヤツキ/\ニ》云々などあれば、樛はつがとよむべきか、とがとよむべきか、定めがたけれど、刀我《トガ》と書るは、集中一所のみ。外はみな都我と書れば、多きに依て、こゝをもつがとよめり。刀我乃樹とあるをも、眞淵はつがの木とよまれしかど、誤り也。さて、伊呂波字類抄に、※[木+〓]【トカノキ】とあるのみ。とがといふ木も、つがといふ木も和名の書に見えず。樛の字は、字書には見えたれど、木の名にあらず。字鏡集には、樛【マカキ・タカキ木】と見えたり。今材木につがといふ木あり。これなること明らかなれど、正字つまびらかならず。
 
(99)彌繼嗣爾《イヤツキ/\ニ》。
こは、上に引たる本集の中に、多く見えたるごとく、天皇代々つぎ/\、天の下しろしめしゝといへるなり。
 
所知食之乎《シラシメシヽヲ》。
考には、しろしめしと訓れしかど、舊訓のまゝ、しらしめしとよむべきなり。そは、本集十八【二十一丁】に、安麻久太利之良志賣之家流《アマクタリシラシメシケル》、須賣呂伎能《スメロキノ》云々。又【二十二丁】天下志良之賣師家流《アメノシタシラシメシケル》云々などあれば也。しらしめしゝは、しりましましゝをつゞめたるなり。りまの反、らにて、しらしましゝなるを、まをめに通はして、しらしめしゝとはいへる也。延喜祝詞式に、所知食、古語云2志呂志女須1とあれど、此集より後の物なれば、こゝにはとらず。或云|食來《メシケル》、これにてもしかるべし。
 
天爾滿《ソラニミツ》。
こは、枕詞にて、冠辭考に出たり。さて、考には、天爾滿《ソラニミツ》とあるは、例にたがへりとて、或云に、虚見《ソラミツ》とあるをとられしがごとく、天爾《ソラニ》の、爾文字、いかにもおだやかならず。古事記、書紀、本集の中に、爾の字あるは、こゝ一所のみなれば、爾の字は衍字なるべし。されど、そらに見つといひても、意はきこえたり。この枕詞、書紀神武紀に、及v至d饒速日命、乘2天磐船1、而翔2行u太虚1也、睨2是郷1而降v之、故因目v之、曰2虚空見日本國1矣云々とあるより出たる枕詞なれば、天にて見つといふ意とすれば、爾の字ありてもきこゆ。滿は借字にて見つ也。
 
倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。
大和をば、さて置て也。本集下【二十一丁】に、京乎置而隱口乃泊瀬山者《ミヤコヲオキテコモリクノハツセノヤマハ》云々。また【二十九丁】飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆《トフトリノアスカノサトヲオキテイナハ》云々などあるも同じ。集中猶多し。
 
(100)青丹吉《アヲニヨシ》。
上【攷證三十一丁】に出たり。枕詞なれば冠辭考にゆづれり。
 
平山乎越《ナラヤマヲコエ》。
平《ナラ》は、大和國添上郡なり。書紀崇神紀に、官軍屯聚、而|※[足+嫡の旁]」2※[足+且]《フミナラス》草木1、因以號2其山1、曰2奈羅山1【※[足+嫡の旁]」2※[足+且]此云2布瀰那羅須1。】云々とあるより、奈羅といふ地名はおこりて、地をならす義なれば、平の字をならとはよめる也。そは、本集九【二十七丁】に、石踐平之《イハフミナラシ》云々、また【三十五丁】立平之《タチナラシ》云々などあるがごとし。集中猶多し。或云、平山越而《ナラヤマコエテ》とある方まさるべし。本集十三【五丁】に、空見津倭國《ソラミツヤマトノクニ》、青丹吉寧山越而《アヲニヨシナラヤマコエテ》云々など見えたり。
 
何方《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。
おもほしめせかは、本集二【二十七丁】に、何方爾所念食可《イカサマニオモホシメセカ》云々ともありて、ばかの意のかにて、いかさまにおぼしめせばかといふ意也。そは、本集三【十八丁】に、妹母我母一有加母《イモヽワレモヒトツナレカモ》、三河有二見自道別不勝鶴《ミカハナルフタミノミチユワカレカネツル》云々。十五【十七丁】に、和伎毛故我伊可爾於毛倍可《ワキモコカイカニオモヘカ》、奴婆多末能比登欲毛於知受《ヌハタマノヒトヨモオチス》、伊米爾之美由流《イメニシミユル》云々などある、加文字と同格也。さて、こゝの意は、天智天皇いかにおぼしめしてか、大和をば、捨おきて、かゝる夷《ヒナ》には、宮地をさだめましけんと也。この都うつしの事、書紀本紀に、遷2都于近江1、是時天下百姓、不v願v遷v都、諷諫者多、童謡亦衆云々ともあるがごとく、都を近江にうつし給ふ事を、衆人|諾《ウヘ》なはざりしことゝ見えたり。されば、こゝにもかくよまれしにこそ。代匠記に、この所、句絶せりとあるによりて、考には、こゝを一行あけてかゝれしかど、古本皆つゞけ書たるうへに、古き歌にかゝるしらべ多ければ、こゝを落字ありとするはいかゞ。
 
(101)或云。所念計米可《オモホシケメカ》。
こは何方《イカサマ》とうたがひて、米とうけたり。この事下【攷證四中二十九丁】にいふべし。
 
天離《アマサカル》。
枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。こは、都より遠き所をのぞめば、天とともに遠ざかれば、かくはつゞくる也。古事記上卷、奧疎神《オキサカルカミ》云々。本集二【二十一丁】に、里放《サトサカリ》云々。又【四十丁】年離《トシサカル》云々。三【五十七丁】に、家離《イヘサカリ》云々などあるがごとく、はなれへだゝる意なり。
 
夷《ヒナ》。
夷は、都より遠き所をいふ。今田舍などいふがごとし。古事記上卷に、夷振《ヒナフリ》云々。本集二【四十三丁】に、夷之荒野《ヒナノアラヌ》云々。三【十六丁】に、夷之長道《ヒナノナカチ》云々。四【十六丁】に、夷乃國邊《ヒナノク〓ヘ》云々などありて、集中猶いと多し。古今集雜下に、たかむらの朝臣、思ひきやひなのわかれにおとろへてあまのなはたぎいさりせんとは云々と有も同じ。猶考別記にくはし。
 
石走《イハハシノ・イハハシル》。
こは枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。石走は、借字にて、磐橋なり。本集四【三十一丁】に、石走之間近君爾《イハハシノマチカキキミニ》云々とあると同じ意にて、磐橋の|あはひ《間》といふを、あはうみのあはに云かけしならん。猶くはしくは冠辭考につきて見るべし。代匠記、僻案抄などは、燭明抄の説によりたれどいかゞ。
 
淡海國《アフミノクニ》。
これあふみの正字也。近江とかくは義訓なり。
 
樂浪乃《サヽナミノ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。さゞ浪は、近江の地名なる事、古事記中卷に、自2項髪中1採2出設弦1、更張追撃、故逃2退逢坂1、對立亦戰、爾追2迫|沙々那美《サヽナミ》1、(102)悉斬2其軍1云々と見え、書紀神功紀には、狹々浪栗林と見えたり。今近江の志賀郡の中なりといへど、古しへは、その郡よりも廣かりしとおぼしき事は、さゝ浪といふ言を、志賀、大津、平《ヒヲ》山などlこかぶらせたれば也。そのうへ、さゞ浪のしがとはいへど、しがのさゞ浪とはいはざるにても、この地の古しへは廣かりし事しらる。さて、さゞ浪を樂浪と書は、義訓なり。本集二【廿四丁】に、神樂浪乃大山守者《サヽナミノオホヤマモリハ》云々。七【四十丁】に、神樂聲浪乃四賀津之浦能《サヽナミノシカツノウラノ》云々などもかけり。先達の説に、神樂に佐々とうたふ聲あれば、それに依て、神樂聲浪、神樂浪などかけるを、又文字をはぶきて、樂浪ともかけりといへるがごとく、いかにもさることながら、其證たらざれば、今こゝにあぐ。古事記中卷の御歌に、阿佐受袁勢佐々《アサスヲセサヽ》云々、宇多陀怒斯佐々《ウタヽヌシサヽ》云々などある佐々も、歌の後に付ていふ言也。古本、神樂歌の、殖舂、總角、大宮、湊田などの歌の後に、本方安以佐々々々、末方阿以佐々々々と見え、釋日本紀十一に、師説、沙者唱進之義也、言出《只》居神樂稱2沙佐之庭1也云々。又和名抄、但馬國の郷名に、樂前【佐々乃久萬】とあるなど皆考へ合すべし。又漢書地理志、文選東京賦などに樂浪といふ地名見えたれど、そは朝鮮國の事にて、こゝとはさらに別なり。(頭書、さゞ浪のしがとつゞくるは、枕詞にはあらず。地名を重ねたるにて、いその上ふるの山などつゞくる類也。七【十五丁】に、佐左浪乃連庫山爾《サヽナミノナミクラヤマニ》云々とつゞけたる連庫山は、高島郡なれば、狹々浪の地のいと廣く、隣郡までも及べりしをしるべし。通鐙十四【二丁ウ】審神者《サニハ》の條考へ合すべし。)
 
大津宮《オホツノミヤ》。
上【攷證二十七丁】にいへり。
 
(103)天皇《スメロキ》。
こは、天智天皇を申す。本集三【廿八丁】に、皇神祖之神之御言乃敷座《スメロキノカミノミコトノ》云々。十八【十八丁】に、須賣呂伎能《スメロキノ》、可未能美許登能《カミノミコトノ》、伎己之乎須《キコシヲス》云々などあるも同じ。さて、すめろぎとは、天皇の遠祖の天皇より、今の天皇をさして、申せる言にて、集中、皇神祖、皇祖神、皇祖などをよめるにてもしるべし。この事は、久老が三の卷の別記にくはしくいへり。
 
神之御言《カミノミコト》。
神は、天皇を申し、御言《ミコト》は借字にて、命なり。まへに引る、集中の歌にてもしるべし。さて、天皇を神と申すは、本集二【卅七丁】に、王者神西座者《オホキミハカミニシマセハ》云々。六【四十三丁】に、明津神吾皇之《アキツカミワカオホキミノ》云々などありて、集中猶多し。宣命に隨神《カンナカラ》、また現御神《アラミカミ》などあるも、みな天皇を申奉る也。
 
大宮《オホミヤ》。
大宮は、本集三【十二丁】大宮之内二手所聞《オホミヤノウチマテキコユ》云々。六【四十四丁】に刺竹乃大宮此跡定異等霜《サスタケノオホミヤコヽトサダメケラシモ》云々などあるがごとく、天皇のおはします宮をはめ奉りて、大宮とはいへる也。そは、大殿、大御門、大寺などのたぐひ也。
 
此間《コヽ》。
この二字を、こゝとよめるは、義訓也。本集三【廿二丁】四【廿八丁】この外いと多く、この二字をしかよめり。
 
春《ハル・ワカ》草《クサ》之《シ・ノ》。茂生《シゲクオヒ》有《タリ・タル》。
宣長云、春草し茂く生たりとよむべし。しはやすめ辭なり。さて、この二句は、宮のいたくあれたる事をなげきて、いふ也。次に、霞立云々は、たゞ見たるけしきのみにて、あれたる意をいふにはあらず。春日のきれるもゝしきの云々とつゞけて心得べし。春草の云々と、霞立云々とを、同意にならべて見るはわろし。一本の趣とは異な(104)り。さて、一本の方は、春日と夏草と、時節のたがへるもわろく、二つの疑ひの香《力》も心得がたし。
 
霞《カスミ》立《タチ・タツ》。春日之霧流《ハルヒノキレル》。
この霞立《カスミタチ》は、枕詞にあらず。舊訓、霞たつ春日のきれるとあれど、霞立はきれるといふへ、かゝる詞なれば、霞たちとよまでは解をなさず。さてきれるは、くもる事也。霞たちて春の日のくもれりと也。もと霧をきりといふも、きりふたがりて、くもるよりいへる也。書紀齊明紀御歌に、阿須簡我播《アスカガハ》、瀰儺蟻羅※[田+比]都々《ミナキラヒツヽ》云々。本集二【八丁】に、秋之田穗上爾露相朝霞《アキノタノホノヘニキラフアサカスミ》云々。八【一八丁】に打霧之雪者零乍《ウチキラシユキハフリツヽ》云々などありて、集中猶いと多し。また、後のものなれど、和泉式部日記に、いみじうきりたるそらをながむれば云々。源氏物語箒未に、めもきりて云々。榮花物語、きるはわびしと歎く女房の卷に、なくなみだあまぐもきりてふりにけりひまなくそらも思ふなるべし云々。これらみなくもる意也。或云、霞立春日香霧流《カスミタチハルヒカキレル》、夏草香繁成奴留《ナツクサカシケクナリヌル》云々。こは、大宮所をこゝときゝ、こゝといへども、あとかたもなきは、霞たちて春の日やくもれる、夏草やおひしげりてかくせると、をさなくうたがふ意なり。さて、考には、本文を捨て、この或云をとられしかど、本文解しがたくば、或本をとりもすべし。本文のまゝにても意明らかなるを、あながちに或本をとられしはいかゞ。
 
百磯城之《モヽシキノ》。
こは枕詞なれは、冠辭考にゆづれり。百《モヽ》は大數をいひ、磯《シ》は石をいひ、城《キ》は字のごとく、大宮のかたきをたとへ申せるなり。古事記下卷に、毛々志紀脳淤富美夜比登波《モヽシキノオホミヤヒトハ》云々などありて、集中猶いと多し。(頭書、モヽシキ冠辭考なし。)
 
(105)大宮處《オホミヤトコロ》。見者悲毛《ミレハカナシモ》。
大宮の宮殿なども、いつしかうせはてゝ、たゞ大宮の地のみ、あれはてゝあるを見れば、すゞろにものがなしと也。悲毛のもの字は、かろくそへたる字にて、意なし。本集二【廿八丁】に、皇子乃御門之荒卷惜毛《ミコノミカトノアレマクヲシモ》云々。古今集戀五、よみ人しらず、あしべよりくもゐをさしてゆくかりのいや遠ざかるわが身かなしも云々。これら同格なり。集中、猶いと多し。或云、見者左夫思母《ミレハサフシモ》云々。さぶしは、さびしにて、ひとふとかよへり。本集三【十七丁】に無而佐夫之毛《ナクテサフシモ》云々などありて、猶いと多し。さて、考には、この或本をとられしかど、本文にても意明らかなるをや。
 
反歌。
 
30 樂波之《サヽナミノ》。思賀乃辛崎《シカノカラサキ》。雖幸有《サキクアレト》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》。
 
思賀乃辛崎《シカノカラサキ》。
思賀は、近江滋賀郡、から崎はその郡の中なれば、しがのからさきとはよめり。本衆二【廿三丁】に、八隈知之《ヤスミシヽ》、吾期大王乃《ワコオホキミノ》、大御船《オホミフネ》、待可將戀《マチカコヒナン》、四賀之唐崎《シカノカラサキ》云々など見えたり。歌もここによしありてきこゆ。
 
雖幸有《サキクアレト》。
こはつゝがなく、かはらずといふ意也。こゝはしがの辛崎は、つゝがなく、むかしのまゝにてかはらずあれど、こゝに舟あそびなどせし大宮人も、今はなし。されば(106)舟よする人もなければ、待かねつと也。さきくあれどは、本集二【廿二丁】に、眞幸有者亦還見武《マサキクアラハマタカヘリミム》云云、九【八丁】に白崎者幸在待《シラサキハサキクアリマテ》、大船爾眞梶繁貫又將顧《オホフネニマカチシヽヌキマカタケヘリミム》云々などあり。この歌もこゝによしあり。
 
大宮人《オホミヤヒト》。
集中いと多し。天皇につかへまつる人をいふ。この大の字もまへにいへるがごとく、ほめてそへたるなり。
 
31 左散難彌乃《サヽナミノ》。志我能《シカノ》【一云比良乃。】大和太《オホワダ》。與杼六友《ヨドムトモ》。昔人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。【一云。將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》。】
 
志我能大和太《シカノオホワタ》。
志我は。まへにいへるごとく、近江滋賀郡なり。大和太は、大海也。山にはこゆといひ、海にはわたるといへば、海をわたる義にて、わたとのみもいへる也。本集四【四十三丁】に、海底奧乎深目手《ワタノソコオキヲフカメテ》云々とあるも同じ。猶いと多し。さて、海のこと、上【攷證二十六丁】の渡津海の條、考へ合すべし。一云、比良乃云々。これも近江地名也。上【攷證十六丁】にいへり。
 
與杼六友《ヨトムトモ》。
まへにいへるごとく、大わだは海なれば、水の淀むといふ事はなきを、たとへばその水のよどむせありとも、むかしの人に又とあはやめや、あふべきよしなしと也。この歌は、世にかたき事をいひて、それに又とあふまじきをたとへたる也。六帖四に、かたき事のたとへを引てよめる歌、三十七首あり。この歌と同じすがた也。さるを、考には、和太は入江にて、水の淀也といはれしは、甚しき誤り也。和太を淀とせば、淀のよどまん事めづらしからねば、かたき事をいふたとへには、ならざるをや。又、この歌をたとへ歌ならずともいはんか。(107)たとへ歌ならずとする時は、友《トモ》といふ詞、いたづらなり。この友といふ字に、心を付べし。
 
亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。
まへにいへるがごとく、たとへ、大海の水はよどむとも、むかしの大津の宮の人に、又もあはめや、あふせはあらじと也。やものやは、うらへ意のかへるやにて、もの字はたゞそへたるにて、意なし。上【攷證三十六丁】にいへるがごとし。一云、將會跡母戸八《アハントモヘヤ》云々。あはんと思へや、あはんとは思はじと也。もへやは、おもへやのおの字のはぶかりたる也。さておもふの、おの字を、はぶく例は、あはんとの、と文字の引聲、おなれば、おもふのおの字は、と文字のうちへこもる也。すべて、おもふの、おの字をはぶくは、第五の音よりうくる所をはぶく例也。その外の音より、つゞく所を、はぶく事なし。されど、かの字よりつゞく所をも、はぶける事、集にあり。こは變格といふべし。さてこれらの例は、本集三【五十六丁】に曾許念爾《ソコモフニ》云云。五【十八丁】に、彌夜古之敍毛布《ミヤコシソモフ》云々。六【廿三丁】に、無禮登母布奈《ナメシトモフナ》云々。十四【五丁】或本歌に、都我牟等母部也《ツカムトモヘヤ》云々などありて、猶多し。又變格は、十四【廿一丁】に、安禮也思加毛布《アレヤシカモフ》云々。二十【十一丁】に、安我毛布伎美波《アカモフキミハ》云々など見えたり。
             (以上攷證卷一上册)
 
(109)高市連古人。感2傷近江舊堵1作歌。或書云高市連黒人
 
高市連古人。
父祖官位不v可v考。或書に、黒人とあるや正しからん。古人といふ人、ものに見えず。黒人は、本集下【廿五丁】に、大寶二年壬頁、太上天皇幸2參河國1時歌云々。右一首、高市連黒人。又【廿七丁】太上天皇、幸2于吉野宮1時、高市連黒人作歌云々などあるを見れば、朱鳥大寶のころの人と見えたり。又懷風藻に、隙士民忌寸黒人云々。扶桑隱逸傳に、黒人者、民氏、不v詳2其世代1、亦不v知2何人1、只稱爲2隱士1耳云々などあるは、別人なるべし。印本連の字なし。今一本と目録によりて補ふ。さて、又、高市連の姓は、書紀天武紀に、十二年冬十月己未云々、高市縣主云々、并十四氏、賜v姓曰v連云々。新撰姓氏録卷十五に、高市連、額田部同v祖、天津彦根命三世孫、彦伊賀都命之後也云々など見えたり。さて又、高市は、和名抄大和國郡名に、高市【多介知】とあれば、こゝも、たけちとよむべし。
 
近江舊堵。
考には、堵にみやこと訓をつけ、略解には、堵は都に同じといへり。予はじめに思へるには、この説ども、何によりて、さは定めつるにか。誤り也。舊堵とは、ふるき家の事也。堵は、説文に、垣也、一丈爲v板、五板爲v堵云々とありて、もと垣の事なれど、毛詩鴻鴈に、百堵皆作云々。文選魏都賦に、宣王中興、而築室百堵云々などありて、禮記禮器注に、堵者謂2之臺1云々。假名玉篇に、堵【スミカ】とあるにても、舊堵は、この近江大津の都なりし時の家などあれはてしをいへるなるべしと、思つるは、なか/\に誤り也けり。本集三【廿四丁】に、高(110)市連黒人、近江舊都歌ともありて、また【廿六丁】に、難波堵とあるも、難波都なり。いかにとなれば、禮記禮器釋文に、堵本作v闍とありて、毛詩出其東門章、箋に、闍讀當v如2彼都人士之都1、謂2國外曲城之中市里1也云々ともあれば、堵も都も闍と通ずる故に、堵を都の意にかりては、書るなるべし。されば、舊堵は舊都の意なり。六【卅八丁】堵里之中。
 
32 古《イニシヘノ・フル》。人爾和禮《ヒトニワレ》有哉《アレヤ・アルラメヤ》。樂浪乃《サヽナミノ》。故京乎《フルキミヤコヲ》。見者悲寸《ミレハカナシキ》。
 
古《イニシヘノ・フル》。
古の一字を、いにしへとよめること、本集二【廿二丁】に、情毛不解古所念《コヽロモトケスイニシヘオモホユ》云々、十【卅丁】に、古織義之八多乎《イニシヘニオリテシハタヲ》云々などあるがごとし。さて、此歌に、古人とつゞきたる字のあるより、端辭の黒人をも、古人と誤り、端辭を古人と誤りてより、この歌をもわが名を自ら名のるにいひかけたる事と心得て、舊訓、ふるひとゝよめれど、いかゞ。この歌を、六帖五に、いにしへの人我なれやさゞ浪のふるき都を見ればかなしき云々とてのせたるにても、ふるくは古《イニシヘ》とよめりし事明らけし。
 
人爾和禮《ヒトニワレ》有哉《アレヤ・アルラメヤ》。
此句の意は、我は古への大津宮の時の人にあればにや、そのふるき京を見れば、すゞろにものがなしきと也。あれやのやは、あればにやといふ意をこめたる也。本集六【廿二丁】に、湯原爾《ユノハラニ》、鳴蘆多頭者《ナクアシタツハ》、如吾妹爾戀哉《ワカコトクイモニコフレヤ》、時不定鳴《トキワカスナク》云々。七【卅九丁】に、鹽滿者《シホミテハ》、入流磯之草有哉《イリヌルイソノクサナレヤ》、見良久少《ミラクスクナク》、戀良久乃太寸《コフラクノオホキ》云々。これら皆、ればにやの意なり。集中猶あり。
 
故京乎《フルキミヤコヲ》。
こは、近江大津の京を云。さて京の一字をみやことよめるは、本集三【卅九丁】に、平城京乎《ナラノミヤコヲ》云々。集中猶あり。後漢書班彪傳下注に、京師京都也云々。
 
(111)33 樂浪乃《サヽナミノ》。國都美神乃《クニツミカミノ》。浦佐備而《ウラサビテ》。荒有京《アレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレハカナシモ》。
 
國都美神乃《クニツミカミノ》。
國つ御神也。天神、國つ神といふ時は、天にむかへて、地神といふ事なり。今この國つ神は、その一國の中の神をいふにて、せばし。書紀神代紀に、對曰、吾是國神、號脚摩乳《ナハアシナツチ》云々。古事記上卷に、僕者國神、名猿田毘古神云々。本集十七【十五丁】に、美知乃奈加久爾都美可未波《ミチノナカカクニツミカミハ》云々などあるは、みなその國の中の神をいふにて、天神にむかへて地神といふにあらず。
 
浦佐備而《ウラサビテ》。
浦は借字にて、心なり。古事記上卷に、心恥をうらはづかしとよみ、集中に、うらもとなく、うらやすくなどいふたぐひ、皆心也。考云、佐備は、下に不樂、不怜などかき、卷十三、佐備乍將居《サヒツヽヲラン》ともよみて、心の冷《スサ》まじくなぐさめがたきをいふ。こゝは、國つ御神の御心の、冷《スサ》び荒びて、つひに世の亂をおこして、都もあれたりといふ也云々とて、又此佐備といふ詞の、四種に、うつれるを、考別記に、とけ(き?)、その第四云、四つにはうらさびといふ也。こは古事記に、我勝云而、於2勝佐備《カチサビ》1、離2天照大御神之營田之阿1、理2其溝1云々とありて、勝たる氣の進みには、物を荒す方となるより、うつりて、是も國つ御神の心すさびて、國の亂をおこし、あらせしとよめり云々といはれしがごとし。
 
幸2于紀伊國1時。川島皇子御作歌。或云。山上臣憶良作。
 
(112)幸2于紀伊國1。
歌の左注にあるごとく、この行幸は天皇四年九月なり。
 
川島皇子。
書紀天智紀云、有2忍海造小龍女1、曰2色夫古娘1、生2一男二女1云々。其二曰2川島皇子1云々。天武紀云、十四年春正月、丁末朔丁卯、川島皇子授2淨大參位1云々。持統紀云、五年秋九月、己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨云々。又この皇子の事は、懷風藻にも出たれど、事長ければこゝにあげず。
 
34 白浪乃《シラナミノ》。濱松之枝乃《ハママツカエノ》。手向草《タムケクサ》。幾代左右二賀《イクヨマテニカ》。年乃經去良武《トシノヘヌラム》。【一云。年者經爾計武《トシハヘニケム》。】
 
白浪乃。
考云、卷十同國に、白神之磯とよめり。然れば、白神の濱とありつらんを。神と浪の草の近きまゝに、且濱に浪をいふは、常也とのみ思ふ、後世心もて、白浪とはかきしなるべし。又、催馬樂に、支乃久爾乃《キノクニノ》、之良々之波末爾《シラヽノハマニ》とうたへるによらば、白良とありけんを、四言のあるをもしらぬ人、言たらず、浪の畫の落しとて、さかしらやしけん云々。この説いかにもさることながら、この歌、本集九【十三丁】にものりて、白那彌之《シラナミノ》、濱松之木乃《ハママツノキノ》、手酬草《タムケクサ》、幾世左右二筒《イクヨマテニカ》、年薄經濫《トシハヘヌラン》云々とあるうへに、六帖六に、手向草 白浪のはま松がえのたむけ草いく世までにか年のへぬらん云々とありて、又新古今集雜中にも、右のごとく、一字不v違、のせられたるを見れば、いと古くより、今のごとくありきと思はる。されば、字の誤りとも定めがたし。しひ(113)て思ふに、白浪のは、濱といはん枕詞にやとも思はるれど、さらば、白浪のよすとか、かゝるとかあるべし。猶よく可v考。
 
濱松之枝之《ハママツカエノ》。
考云、此歌卷十に、松之木《マツノキ》とあるを、古本には松之本《マツカネ》とあり。然れば、こゝは根を枝と誤りし也云々。此説もさる事ながら、まへに引るごとく、これかれ皆同じければ、枝を根の誤りとも定めがたし。これはた猶可v考。
 
手向草。
たむけ草の草は、草木の草にあらず、神に手むくる料のものといへる也。本集十三【六丁】に、未通女等爾《ヲトメラニ》、相坂山丹《アフサカヤマニ》、手向草絲取置而《タムケクサイトトリオキテ》云々とあるは、手向る糸を、手向ぐさといへるにても、その料のものなるをしるべし。又十二【廿四丁】に、目ざまし草、十七【四十丁】に、かたらひ草などあるも、同じ。さて、この歌の意は、濱松が枝などに、手向にすべき幣帛《ヌサ》などをや、とりかけつらん。それを、濱松が枝の手向ぐさとはいへるなるべし。松は常磐にて、久しきものなれば、いくよまでにか、年のへぬらんとはいへり。すべて、山にまれ、海にまれ、旅ゆく道にては、その所の神に、幣帛など手向けて、往來の道の平らかならん事をいのる也。土佐日記に、わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなん云々とあるにても、思ふべし。又、たむけは、集中に手祭とかけるにても、物を奉りて神をいのるなるをしるべし。たむけの事は、下【攷證三上六十五丁】にいふべし。或人云、この御歌は、本集二の有間皇子の、磐代の結び松の古事を思ひて、よみたまひしなるべしといへれど、行幸の御供などにて、さる凶例を引いで給ふべきよしなし。
 
(114)左右《マデ》。
本集二 に、年替左右《トシカハルマデ》云々とありて、もと集中に、二手、諸手、左右手などかきて、までとよめり。さてこれらを、までとよめるは、全き手といふ意也。それに、ほむる意の異もこもれり。國のまほらなどいふ、まも、同じ。又中をま中といへる、まも同じく、秋のも中といふも、このまを、もにかよはしたる也。その手もじを、はぶきて、左右とばかりもかける也。
 
年乃經去良武《トシノヘヌラム》。
去をば、集中なにぬの假字に轉じ用ひたり。いなん、いに、いぬの略、になり。本集三【四十丁】に、開去歳《アケヌトシ》云々ともかけり。考云、この歌の意は、いと古へに幸有し時、こゝの濱松が根にて、御手向せさせ給ひし事、傳へいふをきゝて、松は猶ありたてるを、ありし手向種の事は、いくその年をかへぬらんとよみ給へる也。卷十四、住の江の岸の松原遠神吾大君のいでましどころなど、かはらぬ松にむかひて、昔ありけん事をいへる、かぞへがたし。一云、年者經爾計武。この八字を、印本大字とすれど、今集中の例によりて小字とせり。
 
日本紀曰。朱鳥四年庚寅。秋九月。天皇幸2紀伊國1也。
 
朱鳥四年庚寅。
天武天皇、白鳳十五年丙戌、七月戊午、改元ありて、朱鳥元年とし給へり。されば、白鳳十五年は、朱鳥元年なれば、庚寅年は朱鳥五年にあたれり。その上、丁亥年、持統天皇即位ましまして、さらに元年をたてたまへりしかば、庚寅年は持統天皇四年なり。朱鳥の年號は、元年のみにて、明年より、持統天皇元年とせり。又わが友、狩谷望之が古京遺文、那須碑條に、蒙齋曰、永昌元年年(衍?)、當v作2朱鳥四年1、蓋係2洗者改作1、今審觀v之、字樣不v類、其説似v可v信、朱鳥四年、五年、六年、七年、見2萬葉集左注1、朱鳥七年、見2靈異記1、不(115)v得3據v史、斷言2朱鳥之號僅一年1也云々とあり。この説による時は、書紀たがへり。書紀は、ひたすら漢土の歴史にならひて、作らせたまひしかば、持統天皇即位の年より、かりに元年をたてたまひしのみにて、實は朱鳥の年號を用ひ給ひし事と見えたり。又本紀を考ふるに國也の二字なし。(頭書、靈異記考證上(ノ)廿六丁可v考。)
 
越2勢能山1時。阿閉皇女御作歌。
 
勢能山《セノヤマ》。
せの山は、紀伊國伊都郡なりといへり。書紀孝徳紀云、凡畿内、東自2名墾横河1以來、南自2紀伊|兄《セ》山1以來【兄此云v制】、西自2赤石櫛淵1以來、北自2近江狹々波合坂山1、以爲2畿内國1云々と見えて、集中猶多くよめり。
 
阿閉皇女。
後に即位まし/\て、元明天皇と申す。紀には、阿部、阿閇二樣に書り。閇と閉、同じ。書紀天智紀云、有2遠智娘弟1、曰2姪娘1、生3御名部皇女與2阿部皇女1、阿部皇女及v有2天下1、居2于藤原宮1、後移2都于乃樂1云々。天武紀云、四年春二月、乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、參2赴於伊勢神宮1云々。續日本紀元明紀云、日本根子天津御代豐國成姫天皇、小名阿閇皇女、天命開別天皇之第四皇女也、母曰2宗我嬪1、蘇我山田石川麻呂大臣之女也、適2日並知皇子尊1、生2天之眞宗豊祖父天皇1云々。慶雲四年、秋七月壬子、天皇即2位於大極殿1云々。
 
35 此也是能《コレヤコノ》。倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。我戀流《ワカコフル》。木路爾《キチニ》有云《アリトフ・アリトイフ》。名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。
 
(116)此也是能《コレヤコノ》。
これやこのといふ辭は、まづ一つ物をおきて、これやかの何ならんと、その物をさしていへる辭也。今、こゝの意は、これやかの、せの山ならんといふにて、これやこのといふ詞は、せの山へかけてきくべし。やは、疑ひのや也、本集十五【十五丁】に、巨禮也己能《コレヤコノ》、名爾於布奈流門能宇頭之保爾《ナニオフナルトノウツシホニ》、多麻毛可流登布安麻乎等女杼毛《タマモカルトフアマヲトメトモ》云々。後撰集雜一に、蝉九、これやこのゆくもかへるもわかれつゝしるもしらぬもあふさかの關云々。伊勢物語に、これやこのあまのは衣うべしこそ君がみけしと奉りけれ云々。すべて、かのといふ所を、このといへる例多し。
 
倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。
倭は、大和藤原の京をのたまふ。爾四手者《ニシテハ》は、にてはといふ意也。集中さる意の所に、してと用ひたる事多し。さて、この歌の意は、この山の名を、兄《セ》の山といふからに、夫《ツマ》をも、兄《セ》といへば、大和の京に留り給ふ御|夫《ツマ》の、皇太子の御事を、おぼしいでゝ、大和にては、わが戀ふるは、御夫の兄《セ》の君也。その兄《セ》といふことを、名におひし山ありといふことを、きゝつるが、これが、かの紀路にありといひし、せの山ならんとのたまふ也。代匠記に、大和にありて、きの國にこそ、せの山といへる、おもしろき山はあれと、人のかたるをきゝしは、これやこの山ならん。げにもおもしろき山なりと、兄《セ》の山といふ名を、戀しく思しめす夫君によせて、よませ給へり云々とのみいはれつるは、くはしからず。
 
木路爾有云《キチニアリトイフ》。
木路は、紀伊路なり。古事記上卷に、木國とかけり。さてき路は、紀伊へゆく道にはあらで、その國をいへる也。本集四【廿三丁】に、麻裳吉木道爾入立《アサモヨシキチニイリタチ》、眞土山《マツチヤマ》云々。七【六丁】に、木道爾社妹山在云《キチニコソイモヤマアリテヘ》云々などあるがごとし。大和路、越路などいふも同じ。有云《アリトフ》は、ありといふ也。考別記云、ありちふとも、ありとふとも訓。そはまづ、安里登以布《アリトイフ》の、登以《トイ》の(117)約め知《チ》なれば、卷九に宇既具都袁《ウケグツヲ》云々、ふみぬぎで由久智布比等波《ユクチフヒトハ》、また、いたき瘡《キス》には、鹹鹽《カラシホ》を灌知布《ソヽグチフ》がごと、卷十二に、誰の人かも、手に將卷知布《マカンチフ》などある、これ也。又、登布《トフ》とよむは、登以布《トイフ》の以《イ》を略く也。卷九に、さよひめが比禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》、きみまつら山。卷二十に、波々登布波奈乃《ハヽトフハナノ》さきでこずけんなど多し。これを、東の人は見るちふ、聞ちふなど、常に今もいへり。然るを、今の京のかた、※[氏/一]布《テフ》といへるは、その知《チ》を※[氏/一]《テ》に通はせる也。かくて奈良の朝までは、てふといはざれば、此集にて右の如く訓べし。今本に、てふとよみしは、時代の言にくはしからぬ也云々。この説、おしつけ也。そは本集五【廿六丁】に、必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》云々。十四【九丁】に、和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》云々。又【廿二丁】等保斯等布《トホシトフ》云々。又【廿八丁】可良須等布《カラストフ》云々。十五【十丁】に、左宿等布毛能乎《サヌトフモノヲ》云々。また【十五丁】多麻毛可流登布《タマモカルトフ》云々。十九【廿九丁】に、伊都久等布《イツクトフ》云々。二十【十六丁】に、波々登布波奈乃《ハヽトフハナノ》云々などありて、又、といふといひしは、一【十六丁】二【十二丁】三【廿四丁・三十五丁】十四【卅丁】十七【四十九丁】十八【十六丁・二十三丁】十九【廿四丁】二十【五十八丁】など見え、又、ちふといひしは、五【七丁・廿七丁】七【十五丁】八【卅七丁】十八【廿四丁】など見えて、文字に云の字書る所は、いづれによまんか、定めがたければ、舊訓のまゝにておくべし。下皆同じ。
 
名爾負《ナニオフ》。
考別記云、こは二樣に聞ゆれど、本同じ意也。卷四に、早人名負夜音《ハヤヒトノナニオフヨコヱ》。また何名負神幣饗奉者《イカサマニナニオフカミニタムケセハ》。卷十一に、巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾《コレヤコノナニオフナルトノウツシホニ》などは、たゞ何にでも、その名におひてあるをいふ也。今一つは、此卷に、これやこの云々、名二負勢《ナニオフセ》の山。卷十五に、名耳乎名兒山跡負而《ナノミヲナコヤマトオヒテ》、吾戀の千重のひと重もなぐさまなくになどにて、名に負《オフ》てふ意は、右とひとしきを、これはあやにいひしのみ也。且みな負と書たるにて、この言の意は明らか也。
 
(118)幸2于吉野宮1之時。柿本朝臣人麿作歌二首。并短歌二首。
 
幸2于吉野宮1。
書紀本紀を考ふるに、天皇吉野宮に行幸ありし事、二十九度あり。こゝは、いづれの度ならん。不v可v考。
 
歌二首并短歌二首。
この八字、印本なし。今、目録によりて補ふ。
 
36 八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王之《ワカオホキミノ》。所聞食《シロシメス》。天下爾《アメノシタニ》。國者思毛《クニハシモ》。澤二雖有《サハニアレトモ》。山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》。御心乎《ミコヽロヲ》。吉《ヨシ》野《ヌ・ノ》乃國之《ノクニノ》。花散相《ハナチラフ》。秋津乃《アキツノ》野《ヌ・ノ》邊爾《ヘニ》。宮柱《ミヤハシラ》。太敷座波《フトシキマセハ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮八者《オホミヤヒトハ》。船並※[氏/一]《フネナメテ》。旦川渡《アサカハワタリ》。舟競《フナキホヒ》。夕河《ユフカハ》渡《ワタル・ワタリ》。此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高良之《イヤタカヽラシ》。珠水激《イハハシル・タマミツノ》。瀧《タゴ・タキ》之宮子波《ノミヤコハ》。見禮跡不飽可聞《ミレトアカヌカモ》。
 
八隅知之《ヤスミシシ》。
枕詞なり。上【攷證一ノ上六丁】に出たり。
 
(119)所聞《キコシ》食《ヲス・メス》。
舊訓、きこしめすとあれど、きこしをすとよむべきなり。古事記上卷、夜之|食國《ヲスクニ》云云。靈異記上卷、釋訓に、食國【久爾乎師ス】云々。本集五【七丁】に、企計斯遠周《キコシヲス》、久爾能麻保良叙《クニノマホラソ》。十八【十八丁】に、可未能熊美許登能伎己之乎須《カミノミコトノキコシヲス》云々などある食を、をすとよめれば也。さて食《ヲス》は、物を食する事にて、見るも、聞も、知《シル》も、食ふも、みな物を身にうけ入る意なる故に、見《ミス》とも、聞《キコ》すとも、知《シラ》す(と)も、食《ヲス》とも、同じやうにかよはしいへり。又きこしめすは、書紀に所御、古事記、績紀に聞看などを、きこしめすとよみ、本集二十【二十五丁】に、伎己之米須四方乃久爾欲里《キコシメスヨモノクニヨリ》云云などありて、聞し給ひ、漢し給ふといふ意也。
 
國者思毛《クニハシモ》。
しもは、助辭にて、國はなり。本集三【五十六丁】に、時者霜何時毛將有乎《トキハシモイツモアランヲ》云々。十三【二十七丁】に、人下滿雖有君下《ヒトハシモミチテアレトモキミハシモ》云々などあるしもと同じ。
 
澤二雖有《サハニアレト》。
澤は、借字にて、多也。書紀神武紀に、比苔瑳破而異離烏利苔育毛《ヒトサハニイリヲリトモ》云々などありて集中いと多し。
 
山川之《ヤマカハノ》。山と川と也。川はすみてよむべし。本集六【十丁】に、山川乎清々《ヤマカハヲキヨミサヤケミ》云々。七【十丁】に、皆人之戀三吉野《ミナヒトノコフルミヨシヌ》、今日見者《ケフミレハ》、諾母戀來山川清《ウヘモコヒケリヤマカハキヨミ》云々。續日本紀、寶亀二年二月詔に、山川淨所者孰倶《ヤマカハノキヨキトコロハテタレトトモニ》【加母】、見行阿加良《ミソナハシアカラヘ》賜【牟止】云々などあるも、山と川と、二つをいへり。
 
河内《カフチ》は、此次の歌に、芳野川多藝津河内爾《ヨシヌカハタギツカフチニ》、高殿乎高知座而《タカトノヲタカシリマシテ》云々。六【十丁】に、三吉野乃清河内之《ミヨシヌノキヨキカフチノ》、多藝津白波《タギツシラナミ》云々。また、多藝追河内者《タキツカフチハ》、雖見不飽香聞《ミレトアカヌカモ》云々。又【十三丁】三(120)吉野乃多藝都河内之大宮所《ミヨシヌノタキツカフチノオホミヤトコロ》云々。七【八丁】に、妹之紐結八川内乎《イモカヒモユフハカフチヲ》云々。十四【七丁】に、阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能《アシガリノトヒノカフチニイツルユノ》云々。十七【四十一丁】に、於知多藝都吉欲伎可敷知爾《オチタキツキヨキカフチニ》、安佐左良受綺利多知和多利《アサヽラスキリタチワタリ》云々など見えたり。かはうちの、はうの反、ふなれば、かふちとよめり。さて、考云、川の行めぐれるを、かはうちといふ云々といはれつるは、何によりて、さはいはれつるにか、おぼつかなし。右に引る、集中の歌の中に、地名ならんと聞ゆる所も、河の中ならんと聞ゆる所もあり。諸國に、河内川内などいふ地名、和名抄に多く出せるにて思へば、こゝも地名にやとも思はるれど、右に引る、本集六に、清き河内のたぎつしら浪ともあれば、又河の中めきてもきこゆれば、とにかく定めがたし。しばらく、考の説にしたがふ。頭書、再考るに、河内と書るは、借字にて、河端《カハフチ》の意なるべし。をふの反、ふなれば、河端《カハフチ》をかふちともいふべし。)
 
御心乎《ミコヽロヲ》。
枕詞なれば、くはしくは冠辭考にいづ。天皇の御心を良《ヨシ》といひかけたるなり。
 
吉《ヨシ》野《ヌ・ノ》乃國《ノクニ》。
古しへは、一郡一郷をも國といひし事、上【攷證一ノ上二十六丁】にいだすがごとし。
 
花散相《ハナチラフ》。
らふの反、るなれば、ちるの、るをのべたる也。本集十四【十八丁】に、波奈知良布己能牟可都乎乃《ハナチラフコノムカツヲノ》云々。十五【二十七丁】に、毛美知婆能知良布山邊由《モミチハノチラフヤマヘユ》云々などある、皆同じ。同【二十五丁】安伎波疑能知良敝流野邊乃《アキハキノチラヘルノヘノ》云々とあるは、らへの反、れなれば、ちれる也。
 
(121)秋津刀野邊爾《アキツノヌヘニ》。
秋津は、借字にて、蜻蛉野也。古事記下卷云、即幸2阿岐豆野1而、御獵之時、天皇坐2御呉床1、爾※[虫+罔]咋2御腕1、即蜻蛉來咋2其※[虫+罔]1而飛云々、故自2其時1、號2其野1、謂2阿岐豆野1也云々。本集六【十丁】に、三芳野之蜻蛉乃宮者《ミヨシヌノアキツノミヤハ》云々。また、三吉野之秋津乃川之《ミヨシヌノアキツノカハノ》云々。七【四十一丁】に、秋津野爾朝居雲之《アキツヌニアサヰルクモノ》云々などありて猶多し。吉野のうちなり。
 
宮柱《ミヤハシラ》。太敷座波《フトシキマセハ》。
古事記上卷に、於2底津石根《ソコツイハネニ》1、宮桂布刀斯理《ミヤハシラフトシリ》、於2高天原《タカマノハラニ》1、冰椽多迦斯理《ヒキタカシリ》
云々。本集二【二十八丁】に、眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》、宮柱太布座《ミヤハシラフトシキマシ》云々。六【十四丁】に、長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》、眞木柱太高敷而《マキハシラフトタカシキテ》云々。又【四十三丁】鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》、宮柱太敷奉《ミヤハシラフトシキタテ》云々。祈年祭祝詞に、宮柱太知立《ミヤハシラフトシリタテ》云々。大祓祝詞に、下津磐根 爾 宮柱太敷立云《シモツイハネニミヤハシラフトシキタテ》々などあると同じ。宮柱は、宮中の柱をいふ。太《フト》は字のごとし。すべて、柱は太きをよしとする故に、かくはいへり。書紀神代紀下、一書に、其造営之制者、柱則高太云々。本集二【三十丁】に、眞木柱太心者云《マキハシラフトキコヽロハ》々などあるにても思ふべし。敷座《シキマス》は、本集二【二十七丁】に、天皇之敷座國等《スメロキノシキマスクニト》云々。三【十七丁】に、日之皇子茂座大殿於《ヒノミコノシキマセルオホトノヽウヘニ》云々。この外、いと多く、しきませるとあるも、しりますといふに意同じ。しきの解、考、いかゞ。
 
船並※[氏/一]《フネナメテ》。
船なめては、船ならべて也。馬なめて、友なめてなどいふに同じ。本集六【十六丁】に、鰒珠左盤爾潜出《アハビタマサハニカツギデ》、船並而仕奉之《フネナメテツカヘマツラシ》云々などあり。
 
旦川渡《アサカハワタリ》。
本集二【十五丁】に、未渡朝川渡《イマダワタラヌアサカハワタル》云々。三【五十四丁】に、佐保川乎朝川渡《サホカハヲアサカハワタリ》云々などありて、朝に川をわたる也。呂覽順民篇注に、旦(ハ)朝云々。戰國第齊策注に、旦暮(ハ)朝夕也云々などあリ。
 
(122)舟競《フナキホヒ》。
舟を競ひわたす也。本集二十【四十九丁】に、布奈藝保布保利江乃可波乃《フナギホフホリエノカハノ》云々と見えたり。
 
夕河渡《ユフカハワタル》。
旦川といふにむかへて、對をなせり。旦夕といふのみ。船なめ、舟ぎほひと、二つにわくるにあらず。朝夕に、舟なめ、舟ぎほひてわたる也。本集三【五十八丁】に、朝獵爾鹿猪踐起《アサカリニシヽフミオコシ》、暮獵爾鶉雉履立《ユフカリニトリフミタテ》云々とあると同格の對なり。宣長云、ゆふ川わたるとよみきるべし。わたる(り?)とよみては、下へつゞけてはわろし。
 
此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。
この二句と、次の二句は、山と川とによそへて、幸と宮とを祝し奉れり。本集六【十丁】に、三吉野之秋津乃川之《ミヨシヌノアキツノカハノ》、萬世爾斷事無《ヨロツヨニタユルコトナク》、又還將見《マタカヘリミン》云々。また、泊瀬川絶事無《ハツセカハタユルコトナク》云々などあるも同じ。また李白詩に、齊公鑿2新河1、萬古流不v絶云々とあり。
 
此山乃《コノヤマノ》。彌高良之《イヤタカヽラシ》。
彌《イヤ》は、ものゝ至り極る所に云言にて、こゝはます/\などいはんがごとし。古事記中卷に、最をよみ、本集六【十五丁】十【十二丁】この外にも益をよめり。小爾雅廣詁に、彌益也云々。廣雅釋詁三に、彌深也云々などあるにて明らけし。さて、考に、良は有の字を誤るか。又、良の上に、かの字を落せしか云々といはれつる、まことにさもあるべし。
珠水激《イハヽシル・タマミツノ》。
枕詞なれば、くはしくは、冠辭考にゆづれり。舊訓、たま水のたぎとよみしを、眞淵のいはゞしるとよまれしは、感心すべし。激は、水のはしり流るゝ意也。一切經(123)音義卷十四、引2莊子司馬注1て、流急曰v激云々。漢書溝※[さんずい+血]志に、爲2石※[こざと+是]1、激使2東注1、激者、聚2右於※[こざと+是]旁衝要之處1、所3以激2去其水1也云々などあるがごとし。
 
瀧《タギ・タキ》之宮子《ノミヤコ》。
考に、宮のまへ、即瀧川なれば、かくいふ云々といはれつるがごとく、次の歌に、多藝津河内《タキツカフチ》云々、三【十三丁】に、瀧上之三船乃山爾《タキノヘノミフネノヤマニ》云々などあるのみならず、吉野に瀧をよめる歌、集中いと多し。さて、瀧は、もとたぎる意にて、たぎつ、たぎちなど、はたらかし用ふれば、きを濁るべし。宮子《ミヤコ》は、借字にて、都也。かりそめにても、天皇のおはします所、都とはいふ也。この事上【攷證一ノ上十五丁】にいへり。
 
見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
いくたび見れども、あかずと也。さてこの歌を、拾遺集雜下に、いたくよみ誤りて、のせられたり。
 
反歌。
 
37 雖見飽奴《ミレトアカヌ》。吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》。常滑乃《トコナメノ》。絶事無久《タユルコトナク》。復還見牟《マタカヘリミム》。
 
常滑乃《トコナメノ》。
常《トコ》は、字のごとく、常《ツネ》のといふ意也。滑《ナメ》は、なめらかなる意にて、なめらかといへば用言なるを、物によそふる所なれば、體言にとりなして、滑《ナメ》のとはいへるなり。常《ツネ》に、水など、かわかね所の、石などには、なめらかなる苔《コケ》のごとき物、つくものなれば、吉野川の常滑《トコナメ》のとは、いへる也。又、山中道などにても、常に日などあたらぬ所は、こけおひて、な(124)めらかなるもの也。本集九【十一丁】に、妹門入出見河乃床奈馬爾《イモカヽトイリツミカハノトコナメニ》云々。十一【十四丁】に、豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《トヨハツセチハトコナメノカシコキチソ》云々とあるも同じ。さて又、古事記中卷に、舂2佐那葛《サナツラ》之根1取2其|汁滑《シルノナメヲ》1云々とある滑も、なめらかなる汁をとる也。常滑乃の、乃もじは、のごとくの意なり。
 
復還見牟《マタカヘリミム》。
行幸の御供なれば、今都にかへるとも、いくたびもゆきかへりつゝ見んと也。
 
38 安見知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワカオホキミノ》。神長柄《カムナカラ》。神《カム・カミ》佐備世須登《サビセスト》。芳野川《ヨシヌガハ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。高殿乎《タカトノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。上立《ノボリタチ》。國見乎爲波《クニミヲスレハ》。疊有《タヽナハル》。青垣山《アヲガキヤマノ》。山神乃《ヤマツミノ》。奉《マツル・タツル》御調等《ミツキト》。春部者《ハルベハ》。花挿頭持《ハナカザシモチ》。秋立者《アキタテハ》。黄葉頭刺里《モミヂカザセリ》。【一云。黄葉加射之《モミヂバカザシ》。】 遊副川之《ユフカハノ》。神母《カミモ》。大御食爾《オホミケニ》。仕奉等《ツカヘマツルト》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜川乎立《ウカハヲタテ》。下瀬爾《シモツセニ》。小網刺渡《サデサシワタシ》。山川母《ヤマカハモ》。依※[氏/一]《ヨリテ》奉流《マツレル・ツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
安見知之《ヤスミシシ》。
この枕詞、上【攷證一ノ上六丁】に出たり。こゝを正字とす。
 
(125)神長柄《カムナカラ》。
本集下【二十二丁】二に、高所知武等神長柄所念奈戸二《タカシラサムトカムナカラオモホスナヘニ》云々。五【十三丁】に、可武奈加良可武佐備伊麻須《カムナカラカムサヒイマス》云々。集中猶多し。續日本紀、文武天皇元年詔に、隨神《カムナカラ》所思行【佐久止】云々などあり。神にましますまゝにといへる也。天皇を神と申すこと、上【攷證一ノ上四十八丁】にいへるがごとし。
 
神《カム・カミ》佐備世須登《サビセスト》。
集中、神佐備と書るは、いと多し。五【十三丁】に、可武佐備伊麻須《カムサヒイマス》云々。また【二十三丁》可牟佐飛仁家理《カムサヒニケリ》云々などありて、猶十五【十一丁十九丁】十六【二十九丁】十七【四十一丁四十二丁】など、みなかんさびとあり。かみさびとあるは、二十【二十九丁】に、可美佐夫流伊古麻多可禰爾《カミサフルイコマタカネニ》云々とあるのみなれば、今は多きによりて、かんさびとよむべし。さて考別記云、即、天皇の神御心のすさみせさせ給ふよりなり云々。この説のごとくなれど、又一つ、たゞ古びたる意にいへるあり。そは、神は古しへまし/\しなれば、神めきたりといふ意になれば、語の本は同じ意也。このことは、下【攷證三上十三丁】にいふべし。又思ふに、佐は發語、備は、ひなび、おきなびなどのびと同じく、ぶる意なるべし。されば、神さぶるともいへり。世須登《セスト》は爲《シ》給ふとゝいふ意也。下【二十一丁】に多日夜取世須《タヒヤトリセス》云々とあるも同じ。須の字、清音によむべし。猶この下【攷證十二丁】にいふべし。
 
多藝津河内爾《タギツカフチニ》。
こは上【六丁】の、清河内《キヨキカフチ》とある所に引るがごとく、本集六【十丁十三丁】などにたぎつ河内とよめり。さて、たぎつは、水のたぎる言にて、たぎち、たぎつとはたらく語なり。六【四十四丁】に、落多藝都湍音毛清之《オチタギツセノトモキヨシ》云々。また六【二十九丁】に、石走多藝千流留《イハハシルタギチナガルヽ》云々などありて、猶多し。河内《カフチ》の事は上【攷證六丁】にいへり。
 
(126)高殿乎《タカドノヲ》。
古事記下卷に、高臺、高堂、書紀神代紀に、臺などを、たかどのとよめり。續日本紀に、大寶元年六月丁巳、宴2於西高殿1云々。和名抄居處部に、樓辨色立成云【太加止乃】など見えたり。
 
高知座而《タカシリマシテ》。
高知《タカシリ》は、古事記上卷に、於2高天原1冰椽|多迦斯理《タカシリ》云々とある、たかしりに同じく、高殿を高く知《シ》り領し座《マス》なり。まへの歌に、大敷座《フトシキマシ》とある敷も、知《シル》と同意なる事、其所にいへるがごとし。さて、高知《タカシル》といふ語は、この下【二十二丁】に、都宮者高所知武等《ミアラカハタカシラササムト》云々。六【十三丁】に、和期大王乃高知爲芳野離者《ワゴオホキミノタカシラスヨシヌノミヤハ》云々。また【四十四丁】吾皇《ワカオホキミ》、神乃命乃《カミノミコトノ》、高所知布當乃宮者《タカシラスフタキノミヤハ》云々などありて、集中、又祝詞にも多し。座《マシテ》而は、まし/\てなり。
 
上立《ノホリタチ》。國見乎爲波《クニミヲスレハ》。
 
して、所のけしき、又は百姓の貧富、國のよしあしなど見たまふなること、上【攷證一ノ上三丁四丁】にいへるがごとし。
 
疊有《タヽナハル》。
是を、考には、冠辭といはれつれど、冠辭にあらじ。たゝなつく青垣山といふ時は、冠辭なるべけれど、こゝは、たゞ文字のごとく、疊《タヽナハル》青垣山なれば、たゞ言なり。冠辭とするはよしなかるべし。さて、たゝなはるは、俗言に、物のたゝまるといふごとく、重りつもる意也。一切經音義卷九、引2蒼頡1て、疊重也、積也とあるがごとし。又、宇津保物語藏開上に、(御ぐ(127)し【中略】たたなはれたるいとめでたし)云々。濱松中納言に、みづら、かたはらにたゝなはりまるがし、かきいでたまへれば云々。枕草子に、そなのかたに、髪のうちたゝなはりて、ゆらゝかなる云々などあるも、皆意同じ。さて、冠辭考に、疊有の有の字は、付の誤りならんといはれしかど、しひて、冠辭と見る時は、さもあるべし。冠辭ならずとせんには、本のまゝにても聞ゆべきをや。
(頭書、疊付《タヽナツク》と改むべし。傳廿ノ四十七オ可v考。)
 
青垣山《アヲカキヤマ》。
古事記中卷に、多々那豆久阿袁如岐夜麻碁母禮流《タヽナヅクアヲカキヤマゴモレル》云々。本集六【十三丁】に、立名附青墻隱《タヽナヅクアヲカキコモリ》云々。十二【三十八丁】に、田立名付青垣山之《タヽナツクアヲカキヤマノ》云々。出雲風土記に、青垣山廻賜而云々などあるも、皆同意にて、青き垣の如く、山をめぐれる意也。さて、舊訓、あを垣山のと、の文字を付て、よめれど、の文字あるはわろしと、宣長いへり。さる事なり。
 
山神《ヤマツミ》。
古事記上卷云、生2山神1、名(ハ)大山津見神云々。書紀神代紀上、一書に、山神等(ヲ)號2山祇1云々などあれば、山神は、山つみとよめり。さて山つみの名義は、山つ持《モチ》にて、山の事を持あづかる神也。もちの反、みにて、つは助字なれば、山つみといへる也。考につを濁りて、山づみとせられしかど、助字のつを、にごるべき例なし。
 
奉《マツル・タツル》御調等《ミツキト》。
本集二【三十五丁】に、装束奉而《ヨソヒマツリテ》云々。十八【三十二丁】に、萬調麻都流都可佐等《ヨロツツキマツルツカサト》云々。二十【三十五丁】賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里《カミノミサカニヌサマツリ》云々などありて、古事記上卷に、たてまつるとよむべき所、立奉とかけるも、奉の一字は、たつるとも、まつるともよむ故に、こゝはたてまつると、よむべき事をしらせて、立奉とはかける也。これらにても、奉は、まつるとよむべき事をしるべ(128)し。又、舊訓、たつるとあるも、例なきにあらず。奉るを、たつるとのみもいへり。そは、大神宮儀式帳に、佐古久志侶伊須々乃宮仁御氣立止《サコクシロイスヽノミヤニミケタツト》云々。本集六【四十三丁】に、宮柱太敷奉《ミヤハシラフトシキタテ》云々などあるにても思ふべし。御調は、古事記に、調、御調などかき、書紀に調賦、また賦の一字をもよめり。民より天皇に物を奉るをいふ。
 
春《ハル》部者《ベハ・ベニハ》。
考別記云、部は假字なり。仍て、春部爾者とかゝぬをば、はるべはと四言によむ也。今本、これをも、はるべにはと訓しは、ひがごとぞ。假字の下に、辭をそへて、いふことなければ也。さて、こは春の方《カタ》てふことなれば、正しくは春方とかくべし。古事記に、匍2匐|御枕方《ミアトベ》1、匍2匐|御足方《ミマクラベ》1てふ、同じこゝろを、卷九に、父母波枕乃可多爾《チヽハヽハマクラノカタニ》、妻子等母波足乃方爾圍居而《メコトモハアトノカタニカクミヰテ》ともいひ、春べに向ひてといふ事を、春方設而《ハルカタマケテ》ともいへば也。又卷二に、皇子宮人行方不知毛《ミコノミヤヒトユクヘシラスモ》。卷八に、因來浪之逝方不知毛《ヨリクルナミノユクヘシラスモ》。その外、山べ、海べなどのべも、皆|方《カタ》てふ事也。今は、この、べに、邊の字をかくも、即、假字なり。集中に多あれど、みな同じ云々。宣長曰、此べは、方《カタ》の意とたれも思ふめれど、春にのみいひて、夏べ、秋べ、冬べといふことなければ、方にはあらず。春榮《ハルバヘ(エ)》をつゞめたる言なる故に、この事は、春の物ごとに、榮ることによれる所にのみいへり云々と、宣長のいへるは、さる事ながら、外に例なければ、別記の説にしたがふべし。
花挿頭持《ハナカザシモチ》。
こは、花を手に持ちて、頭にさしかざすなり。挿頭《カサシ》といふも、字のごとく、頭に挿《サス》意也 ふるくは、古事記中卷に、久麻加志賀波袁宇受爾佐勢《クマカシガハヲウスニサセ》云々といへるは、後にかざしの花といふもの也。又書紀推古紀に、皇子諸王諸臣、悉以2金(ノ)髻華《ウス》1着頭《カサセリ》云々などもありて、もとは頭に挿《サス》をのみ、いへる名なりしかど、そを轉じて、たゞ手に持たりて、頭にさゝげ(129)て、さしかざしたるをも、又實に頭にさすをも、挿頭《カサシ》とはいへる也。さてこゝなる花挿頭持《ハナカサシモチ》は、頭にさゝずして、たゞ手にもちて、さしかざせる事なるを、考には、持はそへたる言なりといはれしかど、挿頭《カサシ》は、實は頭にさすものなるを、手に持たるを、ことわらんが爲に、持の字はおけるにて、そへたる字にあらず。またかざしは、木集二【三十二丁】に、春部者花所挿頭《ハルヘハハナヲリカサシ》、秋立者黄葉挿頭《アキタテバモミチバカサシ》云々。七【九丁】に、彌和乃檜原爾挿頭折兼《ミワノヒハラニカサシヲリケム》云々。八【十六丁】に、※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾《ヲトメラカカサシノタメニ》云々などありて、集中猶いと多し。西宮記卷 云、挿頭花事、藤花、大甞會及可v然時、帝王所2刺給1也、祭使并列見之時、大臣藤花云々。其納言者、用2櫻花1、參議者、用2山葺1云々。和名抄雜藝具云、揚氏漢語抄云鈔頭花【賀佐之俗用2挿頭花1】云々。後撰集秋下に、三條右大臣、をみなへし花の名ならぬものならば何かは君がかざしにもせん云々など見えたり。
 
遊副川之神母《ユフカハノカミモ》。
代匠記云、ゆふ川は、よし野にある川の名、つねには、ゆかはといふ所なり云々。本集七【八丁】に、吾紐乎妹手以而結八川《ワカヒモヲイモカテモチテユフハカハ》云々。また妹之紐結八川内乎《イモカヒモユフハカフチヲ》云々などある、これか。猶可v考。川之神は、古事記中卷に、山神、河神、及穴戸神、皆言向和而云々。書紀仁徳紀云、以祷2河神1云々。和名抄神靈類云、兼名苑云河伯、一云水伯、河之神也【和名加波乃加美】云々など見えたり。(頭書、文開元遺事に、御苑新有2千葉桃花1、帝親折2一枝1、挿2於妃子寶冠上1、曰此箇花尤能助2嬌態1也云々。)
 
大御食《オホミケ》。
大御食の大御は、天皇に申奉るなり。大御子、大御身などのたぐひ也。さて大御食は、古事記中卷に、立2其河下1、將v獻2大御食1之時云々。本集二十【二十五丁】に、於保美(130)氣爾都加部麻都流等《オホミケニツカヘマツルト》、乎知許知爾伊射里都利家理《ヲチコチニイサリツリケリ》云々など見えたり。
 
仕奉《ツカヘマツル》。
この語は、もと被《レ》v使《ツカハ》奉るといふ言なるが、はれの反、へなれば、つかへまつるといふ也。されど、それを轉じて、たゞ何事にても、君の御爲にすることをもしかいへる也。古事記上卷に、答白|恐之仕奉《カシコシツカヘマツラム》云々。中卷に、仕2奉《ツカヘマツリ》假宮《カリミヤ》1而坐云々。書紀推古紀に※[言+可]之胡彌※[氏/一]菟伽倍摩都羅武《カシコミテツカヘマツラム》云々など見えたり。集中いと多く、あぐるにいとまなし。
 
鵜川乎立《ウカハヲタテ》。
鵜は、和名抄羽族名部に、辨色立成云大曰2※[盧+鳥]※[茲/子]【盧茲二音日本紀私記云志萬豆止利】小曰2鵜※[胡+鳥]1爾雅注曰、※[盧+鳥]※[茲/鳥]水鳥也、觜頭如v鈎、好食v魚者也云々とあるがごとくなれど、鵜を宇といふを俗名とせられしはいかゞ。しまつとりといふは、古事記にいでゝ、鵜といふ枕詞なるは、此鳥島などにありといふ意にて、島つ鳥鵜とつゞけしのみ。それよりうつりて、しまつとりを鵜の名とせるこそ、漸く後の事なれ。鵜といふ名は、古事記、書紀、此集にも、多くいでゝ、かくれなきを、俗名といはれしは、世にきゝなれぬを、雅名とのみ心得る、後世の心より、いでこし誤り也。さて、鵜川といふは、鵜を川にはなちて、魚をとらすといふ事なるを、やがて、一つのものゝ名のごとくいひし也。立《タテ》といふは、考に、川の上下を、多くの人もて、斷《タチ》せきて、中らにて、鵜を飼ふものなれば、斷《タチ》いふべし云々とて、立をたちとよみ直されしも、宣長が、立は、本のまゝに、たてと訓べし。是は、御獵立《ミカリタテ》、または射目立《イメタテ》などの立と同じくて、鵜に魚をとらするわざを、即鵜川といひて、その鵜川をする人共を、立《タヽ》するをいふ也云々(と)いひしも誤り也。この立《タテ》は、本集十六【二十九丁】に、高杯爾盛《タカツキニモリ》、机爾立而《ツクヱニタテヽ》、母爾奉都也《ハヽニマツリツヤ》云々とある立《タテ》と同じく、物を居置(131)意にて、置といふがごとし。そは、呂覽蕩兵篇注に、立置也云々。周禮天官書に、建2其牧1立2其監1云々などあるを見ても思ふべし。さて、鵜川は、本集十七【卅六丁】に、伎欲吉勢其等爾宇加波多知《キヨキセコトニウカハタチ》云々。また【四十九丁】夜蘇登毛乃乎波宇加波多知家里《ヤソトモノヲハウカハタチケリ》云々。十九【廿一丁】に、和我勢故波宇河波多々佐禰《ワカセコハウカハタヽサネ》云云など見えたり。又、北史倭國傳に、水多陸少、以2小環1掛2※[盧+鳥]※[茲+鳥]頂1、令2入v水捕1v魚、日得2百餘頭1云々とある、※[盧+鳥]※[茲+鳥]は鵜なり。
 
小網刺渡《サテサシワタシ》。
本集四【四十一丁】に、佐堤乃埼左手蠅師子之《サデノサキサテハヘシコノ》云々。九【十四丁】に、淵瀬物不落左提刺爾《フチセモオチスサテサシニ》云々。十九【廿一丁】に、平瀬爾波左泥刺渡《ヒラセニハサデサシワタシ》、早湍爾波水烏乎潜都追《ハヤセニハウヲカツケツヽ》云々。和名抄漁釣具云、文選注云※[糸+麗]【所買反師説佐天】網如2箕形1、狹v後廣v前名也云々。などあるにて、明らけし。
 
山川母《ヤマカハモ》。
山と川と也。上【攷證六丁】にいへり。さてこゝな(る脱?)山川の、山はまへの青垣《アヲカキ》山をいひ、川は遊副《ユフ》川をいへり。
 
依※[氏/一]《ヨリテ》奉流《マツレル・ツカフル》。
依※[氏/一]《ヨリテ》は、本集下【廿二丁】に、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》云々。二【廿七丁】に、天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》云々などある、よりといふ言と同じく、物の寄《ヨリ》くる事にて、こゝの意は、山に花紅葉、あるは山神の、みつぎを奉るごとく、川に鵜川、さでさしなどするは、河伯の、大御食を奉るがごとし。されば、山も川も、よりあひて、天皇にまつろひ奉るに、ことならすと也。さて、奉流を、考には、つかへるとよまれしかど、宣長が、本のまゝに、つかふる|よ《(マヽ)》むべし。つかへるは、今の世の鄙俗の言也。すべて、下を、くる、する、つる、ぬる、むる、ゆる、るる、うるといふ言(132)を、ける、せる、てる、へる、れる、める、えるといふは、皆鄙言にて、古しへになき事也。まれに、時雨のあめの染る也けり、峯に延るなどあるは、染有《ソメアル》、延有《ハヘアル》の意にて、そむる、はふといふとは異なり云々といはれしも、心ゆかず。今案に、奉流は、まつれると訓べし。其故は、集中、奉の一字を、つかふと訓し事なければ也。まつれるは、まつろへるの約りにて、ろへの反、れなれば也。ま|ろつ《(マヽ)》へるは、順ひ奉る事にて、こは山も川も、よりあひて、君に順ひ奉れりと也。このまつろふといへる事は、下【攷證二下十八渟】にいふべし。
 
神乃御代鴨《カミノミヨカモ》。
神は、天皇を申す事、上にいへるがごとし。宣命に、現神《アキツカミ》と大八洲しろしめす天皇といへる言多し。これこゝと同意なり。
 
反歌。
 
39 山川毛《ヤマカハモ》。因而奉流《ヨリテツカフル》。神《カム・カミ》長柄《ナカラ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。舶出《フナデ》爲《セス・スル》加毛《カモ》。
 
舶出《フナデ》爲《セス・スル》加毛《カモ》。
爲の字は、舊訓、するとあれど、考に、せすとよまれしにしたがふ。せすは、したまふといふ言なり。上【十九丁】に、神佐備世須登《カムサヒセスト》云々。下【廿一丁】に、多日夜取世須《タヒヤトリセス》云々。十九【卅九丁】に、國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》云々。また【四十二丁】豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云々などあるも意同じ。(頭書、久老別記の説あぐべし。)
 
右日本紀曰。三年己丑。正月、天皇幸2吉野宮1。六月。幸2吉野宮1。四年(133)庚寅二月。幸2吉野宮1。五月。幸2吉野宮1。五年辛卯正月。幸2吉野宮1。四月。幸2吉野宮1者。未v詳2知何月從駕作歌1。
 
日本紀曰、
本紀を考ふるに、吉野宮行幸二十九度なるを、はづかに六度をのみあげつるはいかゞ。
 
何月。
この何月の上に、何年の二字を脱せる歟。さなくば文をなさず。
 
幸2于伊勢國1時。留v京。柿本朝臣人麿作歌三首。
 
幸2于伊勢國1。
この行幸の事は、下の左注に、書紀を引てしるせるがごとし。
 
三首。
この二字、印本なし。今、目録によりて補ふ。
 
40 嗚呼兒乃浦爾《アコノウラニ》。船乘爲良武《フナノリスラム》。※[女+感]嬬等之《ヲトメラカ》。珠裳乃須十二《タマモノスソニ》。四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
 
(134)嗚呼兒乃浦《アゴノウラ》。
嗚呼兒乃浦《アゴノウラ》は、志摩國英虞郡の浦なり。印本、嗚呼見の浦とあれど、書紀本紀に、此行幸の事をしるして、御2阿胡行宮1云々とありて、和名抄志摩國郡名に、英虞【阿呉】とあるうへに、此歌を本集十五【十丁】に重出して、安胡乃宇良爾《アコノウラニ》云々などもあれば、見は兒と字體の似たるより誤れる事、論なし。依て改む。但し、本集十五、この歌の左注に、柿本朝臣人磨歌曰、安美納宇良《アミノウラ》云々とあれど、そは兒を見に誤りて、嗚呼見乃浦《アミノウラ》とせしを見て、又見を美と書かへたるなれば、證とするにたらず。又上【八丁】に、網能浦《アミノウラ》云々。十一【卅七丁】に、留鳥浦《アミノウラ》云云とあれど、こは他國なれば、こゝに用なし。さて、嗚呼の二字を、あの一言に用ひしは、本集十二【十六丁】に、馬聲をいの假字とし、蜂音をぶの假字に用ひしたぐひにて、よき事にまれ、あしき事にまれ、物を歎息するに、あといふ聲あるによりて、嗚呼の二字をば、あの一言に用ひし也。小爾雅に、烏乎(ハ)吁嗟也、吁嗟(ハ)嗚呼也、有v所2歎美1、有v所2傷痛1、隨v事有v義也云々。集韻に、嗚呼歎辭云々ともあるがごとし。今、嗚呼の二字を、あゝとよむも、もとはあの一言なれど、それを引て、あゝといふ也。靈異記中卷、訓釋に、噫 阿 云々。新撰字鏡に、嗟【憂歎阿又奈介久】云々とあるにても、歎息の詞は、あの一言にてもたれるをしるべし。書紀に、咨、嗟乎などの字を、あゝとよめり。すべて、歎息の詞に、あな、あや、あはれなど、皆、あの字あるにても、あの一言にて、歎息の詞なるをしるべし。
 
舶乘爲良武《フナノリスラム》。
上【十丁】に、熟田津爾船乘世武登《ニキタツニフナノリセムト》云々。七【十五丁】に、何處可舟乘爲家牟《イツコニカフナノリシケム》云々などあるがごとく、たゞ舟にのるらんといへる也。
 
(135)※[女+感]嬬《ヲトメ》。
集中、をとめに※[女+感]嬬とかける所多し。※[女+感]の字見およばざる字也。可v考。(頭書※[女+感]嬬は、感嬬なるを、下の字の扁を上へ及ぼしたる也。この事、下【攷證三下二渟】可v考。)
 
珠裳乃須十二《タマモノスソニ》。
珠裳は、考に、あかも(と脱?)よまれしかど、舊訓のまゝ、たまもとよむべき也。たまは、ものほむることば、玉だれ、玉だすき、玉つるぎ、玉はゝきなどの類なり。宣長云、本のまゝに、たまもとよむべし。二の卷【卅一丁】に、に(衍?)をちの大野の、朝露に玉もはひづち云々。廿卷【四十五丁】に、多麻毛須蘇婢久《タマモスソヒク》とあり。珠をあかとはよみがたし。
 
四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
潮滿らんかなり、かは輕く疑ふ意也。この次の歌に、妹乘良六鹿《イモノルラムカ》云々。九【十一丁】に家念良武可《イヘモフラムカ》云々などあると同意なり。
 
41 釧著《クシロツク》。手節乃崎二《タフシノサキニ》。今毛可母《イマモカモ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。玉藻苅良武《タマモカルラム》。
 
釧著《クシロツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。印本劔著とありて、たちはきの(と脱?)訓しを、僻案抄に、釧著《クシロツク》と改められしは、感心すべきなり。いかにも劔は訓の誤りなる事論なし。さて、訓は、古事記上卷に、佐久々斯呂伊須受能宮《サククシロイススノミヤ》云々。下卷に、所v纏2御手1之|玉釧《タマクシロ》云々。本集九【廿五丁】に、吾妹兒者久志呂爾有奈武《ワキモコハクシロニアラナム》、左手乃吾奧手爾纏而去麻帥乎《ヒタリテノワカオクノテニマキテイナマシヲ》云々。また【卅一丁】吾戀兒矣《ワカコフルコヲ》、玉釧手爾取持而《タマクシロテニトリモチテ》云々などありて、手にまけるもの也。そは、説文に、釧臂環也云々。事林廣記、引2通俗文1て、環臂謂2之釧1後漢孫程十九人、立2順帝1有v功、各賜2金釧指環1、則釧起2於後漢1云々などあるが(136)ごとし。和名抄には、釧の字は、あげられしかど、比知萬岐《ヒチマキ》と注されつ。此物、中古より絶たりとおぼしければ、そのころ、くしろといふ名もあらざりしなり。提要にもいへるがごとく、和名抄は、順主、はやくの著述にして、此集に訓を付られしよりまへなる事、これらにてもしるべし。又本集九の、わぎもこはくしろにあらなん云々の歌を、六帖五に、くしの條にのせて、わがせこがくしにあらなん云々とせるにても、此もの、中古より絶しなしるべし。著《ツク》は、字のごとく、訓釧《クシロ》を著《ツク》る手節《タフシ》とつゞけし也。節は、手のふし也。素問生氣通天論に、五臓十二節などあるを見ても思ふべし。
 
手節乃崎《タフシノサキ》。
和名抄志摩國郡名に、答志《タフシ》とあり。すなはちこの答志郡の崎なり。
 
今毛可母《イマモカモ》。
今毛可母の母は、助字にて、今もか手節《タフシ》のさきに、大宮人が玉藻かるらんと、おしはかりて、よまれし也。
 
42 潮左爲二《シホサヰニ》。五十等兒乃島邊《イラコノシマベ》。※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》。妹乘良六鹿《イモノルラムカ》。荒島囘乎《アラキシマワヲ》。
 
潮左爲二《シホサヰニ》。
潮の字しほとよむことは、上【攷證一ノ上十七丁】にいへり。さてしほざゐは、本集三【卅九丁】に、暮去者鹽乎令滿《ユフサレハシホヲミタシメ》、明去者鹽乎令干《アササレハシホヲヒシム》、鹽左爲能浪乎恐美《シホサヰノナミヲカシコミ》云々。十一【卅六丁】に、牛窓之浪乃鹽佐猪島響《ウシマトノナミノシホサヰシマヒヽキ》云々。十五【廿八丁】に、於伎都志保佐爲多可久多知伎奴《オキツシホサヰタカクタチキヌ》云々などありて、僻案抄に、潮佐爲とは、潮さわぎにて、潮のさしくる時、海のなるをいふ云々とあるがごとく、わきの反、ゐなれば、潮さわぎなり。
 
(137)五十等兒乃島《イラコノシマ》。
五十等兒乃島は、上【十五丁】に、麻績三流2於伊勢國伊良虞島1云々と見えたり。この事は、上【攷證一ノ上三十九丁四十丁】にいへり。考云、いらごは、參河國の崎也。其崎、いと長くさし出て、志摩のたふしの崎と、はるかに向へり。其間の海門《ウナト》に、神島、大づゝみ小づつみなどいふ島どもあり。それらかけて、古しへは、いらごの島といひしか。されど、この島門あたりは、世にかしこき波のたつまゝに、常の船人すら、漸くに渡る所なれば、官女などの船遊びする所ならず。こゝは、京にて大よそをきゝて、おしはかりに、よみしのみ也。五十の二字を、いの一言に用ふるは、古事記中卷に、五十日帶日子《イカタラシヒコ》云々。下【廿五丁】に、五十日太《イカタ》云々などあるがごとく猶多かり。
 
※[手偏+旁]船荷《コクフネニ》。
※[手偏+旁]は、小補韻會に、※[手偏+旁](ハ)進v船也云々ともありて、こぐとよまん事、論なし。本集七【十二丁】に、穿江水手鳴松浦船《ホリエコグナルマツラフネ》云々と、水手をこぐとよめるは、廣韻に、※[手偏+旁]人(ハ)船人也云々とありて、※[手偏+旁]をこぐとよむからに、※[手偏+旁]人の義にて、水手をもこぐとよめる也。荷は假字なり。
 
妹乘良六鹿《イモノルラムカ》。
妹のるらん歟也。このかの字の事は、上にいへり。
 
荒島《アラキシマ》囘《マ・ワ》乎《ヲ》。
荒《アラ》きは、波のあらきにて、荒磯《アリソ》などいふに同じ。島囘《シマワ》の囘《ワ》は、考に、島のあたりをいふ云々といはれしかど、くはしからず。囘《ワ》は阿《クマ》といふに似て、島にまれ、磯にまれ、浦にまれ、いりくまり、わだかまれるをいふ。書紀神武紀に、曲浦を、わだのうらとよめるも、わだかまりたる意也。國語晋語注に、囘曲也云々。漢書季布傳注に、阿曲也云々とありて、(138)二字通用すれば、囘《ワ》はくまといふに似たり。書紀天武紀に、川ぐまを、河曲と書たるにても思ふべし。本集二【十五丁】に、道之阿囘《ミチノクマワ》云々とあるは、道のくま/”\といふに似て、道の阿《クマ》のわだかまれる意也。さて、本集十七【十九丁】に、伎欲吉伊蘇末爾《キヨキイソマニ》云々。十五【七丁】に、伊素末乃宇良由《イソマノウラユ》云々などあるによりてか、宣長は、島囘《シママ》、、いそ囘《マ》など、囘をまとよめれど、いかゞ。考云、俄に、潮のきて、浪のさわぐに、そなれぬ妹らが、わぶらんことを思ふ也。島囘は、島のあたりをいふ。浦囘同、磯囘などいふ、皆|和《ワ》のかな也。浦び、浦箕、島|備《ビ》、磯間などいへるも、意は相通ひて、言は別也。此三くさのはじめは、宮びめをいひ、次は臣たちをいひ、其次は妹といへれば、人まろの思ふ人、御ともにあるをいふ歟。されど、言のなみによりて、妹といへる事もあれば定めがたし。(頭書、再考るに、囘は、宣長の説の如く、まと訓べし。まは間の意にて、ほとりの意也。)
 
當麻眞人麿妻作歌。
 
こは、まへの端辭に、幸2于伊勢國1時留v京とあるをうけて、かける也。當麻眞人麿が、此行幸の御供にて、下りしに、その妻、京にとゞまりて、思ひやりてよめる也。さて、當麻眞人麿は、父祖官位未v詳。本集四【十七丁】に、左の歌を重出して、當麻磨大夫妻とせり。書紀用明紀云、葛城直磐村女、生2一男一女1、男曰2麻呂皇子1、此當麻公之先也云々。天武紀云、十三年冬十月、己卯朔、當麻公云々十三氏、賜v姓曰2眞人1云々と見えたり。考は、紀にも出し人也云々といはれしかど今見えず。
 
(139)43 吾勢枯波《ワカセコハ》。何所《イツク・イツチ》行良武《ユクラム》。巳津物《オキツモノ》。隱《ナバリ・カクレ》乃山乎《ノヤマヲ》。今日香越等六《ケフカコユラム》。
 
何所《イツク・イツチ》。
舊訓、いづちとあるも、考にいづことよまれしも、いかゞ。古事記中卷にも、伊豆久とありて、集中皆しかかけり。枕詞にて、冠辭考にくはし。巳津物《オキツモノ》は、澳《オキ》つ藻《モ》のにて、物《モノ》は借訓也。澳つ藻の如く、隱とつゞけたる也。宣長云、起《オキ》を巳と書るは、古へ偏を省きて、書る例也。健を建とかき、日本紀、また式などに、石村を石寸とかき、古事記に、※[虫+呉]蚣を呉公とかける、此類、猶多し云々といはれしは、いかゞ。巳を起の省文とせずとも、巳の字に、もとより起の意はあるをや。そは玉篇に、巳徐里切、嗣也、起也云々。白虎通五行篇に、巳者物必起云々などあるを見ても思ふべし。省文のことは、提要にいへり。
 
隱《ナバリ・カクレ》乃山《ノヤマ》。
舊訓かくれの山とありて、名所部類の諸書に、伊勢國とすれどいかゞ。宣長云、隱の山は、伊賀國名張郡の山なり。大和の京のころ、伊勢へ下るには、伊賀を經る事常也。此卷【廿五丁】に、暮相而朝面無美隱爾加《ヨビニアヒテアシタオモナミナハリニカ》云々。八卷【卅五丁】に、隱野乃《ナハリヌノ》など皆同所也。さて名張を隱とかくことは、天武紀に、隱郡隱驛家とあり。また、大和の地名に、吉隱《ヨナバリ》もあり。これらを以て、こゝの隱の山も、なばりの山なるを思ひ定むべし。さて、なばりとは、即かくるゝ事をいふ古言と見えて、巳津藻《オキツモ》といふも、又|朝面無《アシタオモナシ》といふも、かくるゝ意のつゞけ也。十六卷【卅丁】に、忍照八難波乃小江爾《オシテルヤナニハノヲヘニ》、廬作難麻理弖居《イホツクリナマリテヲル》、葦河爾乎《アシカニヲ》云々。これ隱れてをることを、なまりてをるといへり。これを、古訓かたまりてとよめるは、いみじきひがごと也云々といはれしがごとし。右にいへる(140)ごとく、隱の山は伊賀なる事、明らかなるうへに、天武紀に、この伊勢の行幸の條に、伊賀、伊勢、志摩などの國を、過たまひし事あるにても思ふべし。
 
石上大臣。徒駕作歌。
 
石上大臣は、左大臣石上朝臣麻呂公なり。書紀天武紀、元年、五年、十年の條に、物部連磨と見えたり。その後、十三年十一月、朝臣の姓を給はりて、物部朝臣といへり。又其後、物部氏を、石上と改められしよし、姓氏録に見えたり。さて、この公は、持統紀三年に、直廣參石上朝臣麿云々。十年に、直廣壹石上朝臣麿云々。續紀に、大寶元年三月甲午、中納言正三位石上朝臣麿、爲2大納言1云々。慶雲元年正月癸巳、詔以2大納言從二位石上朝臣麿1、爲2右大臣1云々。和銅元年正月乙巳、授2從二位石上朝臣麿正二位1。三月丙午、右大臣正二位石上朝臣麿爲2左大臣1云々。養老元年三月癸卯、左大臣正二位石上朝臣麿薨、大臣(ハ)泊瀬朝庭大連物部目之後、難波朝衛部大華上宇麻呂之子也云々と見えたり。この麿公、このころは、まだ大臣にはおはさゞりしかど、極官をもてしるせしなり。從駕は、おほみともとよめり。駕は、小補韻會に、唐制天子居曰衙、行曰v駕、又車乘也云々とあるごとく、駕に從ふなれば、大御供とはよめるなり。
 
44 吾妹子乎《ワキモコヲ》。去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》。高三香裳《タカミカモ》。日本能不所見《ヤマトノミエヌ》。國遠見可聞《クニトホミカモ》。
 
吾妹子乎《ワキモコヲ》。
わぎも子は、わがいも子といふ、かいの反、きなれば、わぎもこといへる也。古事記下卷に、和藝毛《ワギモ》云々。本集十五【五丁】に、和伎母故我《ワギモコカ》云々。また二十【廿五丁】に、和(141)我伊母古《ワカイモコ》云々とも見えたり。書紀雄略紀に、謂2皇后1曰2吾妹1【稱v妻爲v妹蓋古之俗乎】云々ともあれど、妻をいふのみにかぎらず。そは仁賢紀注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹云々とあるにても思ふべし。さて、わがといふは、親しみむつびていへる言なること、わが大きみ、わがせこの類なり。
 
去來見乃山《イザミノヤマ》。
去來は上【攷證一ノ上廿一丁】にいへるがごとく、いざと誘ひ※[人偏+端の旁](催)す詞なり。吾殊子を、いざ見んといふを、いざ見の山といひかけたる也。考云、いさみの山てふはしらねど、式に、伊勢國多氣郡に、伊佐和神社、志摩の答志郡に伊佐波神社などいふもあれば、この國々の中に、伊佐美の山てふもありしにや。又|楢《ナラ》山を、舊衣|著楢《キナヲ》の山といひ下せし類にて、佐美の山てふあるに、いさみといひかけしにや。
 
高三香裳《タカミカモ》。
高さにか也。みはさにの意。かもの、もは助字也。
 
日本能《ヤマトノ》。
日本は、中國の惣名にて、大和をも、日本をも、やまとゝいふ故に、こゝは借訓にて、日本とかける也。實は大和なり。書紀神代紀上に、日本《ヤマトノ》國之三諸山云々。本集六【四十二丁】に、吾大王乃《ワカオホキミノ》、高敷爲《タカシカス》、日本國者《ヤマトノクニハ》云々などあるも、大和のこと也。
 
國遠見可聞《クニトホミカモ》。
この句も、高三香裳《タカミカモ》といふに同じく、見《ミ》は、さにの意、聞《モ》は助字也。吾ぎも子を、いざ見んと思ふに、大和の國も見えぬは、このいざみの山の高さにか、(142)國をへだてゝ、國の遠きにかあらんとなり。
 
右日本紀曰。朱鳥六年壬辰。春三月。丙寅朔戊辰。以2淨廣肆廣瀬王等1。爲2留守官1。於v是。中納言三輪朝臣高市麿。脱2其冠位1。※[敬/手]2上於朝1。重諫曰。農作之前。車駕未v可2以動1。辛未。天皇不v從v諫。遂幸2伊勢1。五月。乙丑朔庚午。御2阿胡行宮1。
 
朱鳥六年壬辰。
壬辰年は、持統天皇六年にて、朱鳥元年よりは七年にあたれり。六年とするを《(マヽ)》七年を誤れる也。
 
淨廣肆。
書紀天武紀云。十四年春正月、丁來未朔丁卯、更改2爵位之號1、仍増2加階級1、明位二階、淨位四階、毎v階有2大廣1、并十二階、以前諸王已上之位云々とあるがごとく、淨廣肆は、淨位第四の位なり。但し此まへ、十三年の所に、淨廣肆廣瀬王と見えたれば、この位階、その以前はやく行はれしなるべし。
 
廣瀬王。
この王父祖未v詳。續紀に、養老六年正月卒とあり。はじめは、天武紀より見えたり。猶くはしくは本集八【攷證八ノ中丁】にいふべし。
 
(143)留守官。
書紀齊明紀云、留守官蘇我赤兄臣云々。延喜太政官式云、凡行幸應v經v旬者云々、若諸司鑰匙有v勅付2留守官1者、大臣若大納言、率2侍從五位以上1内裏令d2典鑰等1就2櫃所1出收u云々。文献通考  云、唐太宗、親征2遼東1、置2京城留守1云々。杜氏通典云、唐志云車駕不v在v京、則置2留守1、此蓋命v官之始也云々など見えたり。
 
中納言。
職原抄云、持統元皇六年、始置2此官1、其後罷v之、大寶二年、定2官位令1、曰無2此官1、仍爲2令外1歟、但慶雲四年、又置v之云々。和名抄職名部云、二方品員云令外置中納言【奈加乃毛乃萬宇須豆加佐】云々など見えたり。
 
三輪朝臣|高市《タケチ》麿。
高市麿卿は書紀天武元年紀にはじめて、三輪君高市麿と見えたり。其のち、十三年朝臣の姓をたまはりて、三輪朝臣といへり。續紀云、大寶二年、正月乙酉、從四位上大神朝臣高市麿、爲2長門守1云々。同三年、六月乙丑、爲2左京大夫1云々。慶雲三年、二月庚辰、左京大夫從四位上大神朝臣高市麿卒、以2壬申年功1、詔贈2從三位1、大花上利金之子也云々。靈異記上卷云、故中納言從三位大神高市萬侶卿者、大后天皇時忠臣也、有記曰、朱鳥七年壬辰二月、詔2諸司1、當三月將v幸2行伊勢1、宜d知2此状1、而設備u焉、時中納言恐v妨2農務1、上言諫、天皇不v從、猶將2幸行1、於v是脱2其蝉冠1、※[敬/手]2上朝庭1、亦重諫v之、方今農節不v可也云云。さて、この氏は、姓氏録卷十七に、大神朝臣、素佐能雄命六世孫、大國主之後也云々などありて、みな大神とかけるを、書紀にのみ、三輪とかけり。大神とかけるをも、みわとよむべき也。この事は、古事記傳卷二十三にくはしく辨ぜり。(頭書、高市麿卿官位の論あぐべし。靈異記攷證上(144)二十六丁オ可v考。)
 
脱2其冠位1。
文選謝靈運詩云、歸客遂2海隅1、脱v冠謝2朝列1云々ともありて、國語齊語注に、脱解也云々ともあれば、その官位をみづからときて、さていさめ奉るといへるなり。
 
※[敬/手]2上於朝1。
※[敬/手]上は、書紀にさゝぐと訓ぜり。玉篇に、※[敬/手](ハ)持高也云々とあるにても、さゝぐる意なる事、明らけし。朝は、小補韻會に、朝廷也云々。禮記曲禮下注に、朝(ハ)謂d君臣謀2l政事1之處u也云々など見えたり。懷風藻、藤原朝臣萬里、過2神納言墟1詩云、一旦辭v榮去、千年奉v諫餘、松竹含2春彩1、容※[日+軍]寂2舊墟1云々。
 
農事之前。事駕未v可2以動1。
孟子染惠王篇云、不v違2農時1、穀不v可2勝食1也云々。前の字、本紀に、節につくるをよしとす。
 
御2阿胡行宮1。
御は、蔡※[災の火が邑]獨斷云、天子所v進曰v御云々。阿胡は、地名也。上【攷證十二丁】にいへり。又行宮のことも、上【攷證一ノ上十八丁】にいへり。さて、こゝに、御2阿胡行宮1とあるは、本紀の文を見誤りて、かくはしるせる也。本紀には、五月乙丑朔庚申、御2阿胡行宮1、時進v贄者、紀伊國牟婁郡人、阿古志海部河瀬麿等、兄弟三戸、服2十年調投雜※[人偏+搖の旁]1云々とありて、天皇伊勢に行幸のついで、阿胡行宮におはしましゝ時、贄《ニヘ》を奉りし紀伊國人に、十年の調、其外をもゆるしたまひし日を、五月乙丑朔庚申の日なりといへる事にて、阿胡の行宮におはしましゝは行幸の|お《(マ・)》(145)りの事なり。
 
輕皇子。宿2于安騎野1時。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌四首。
 
輕皇子。
輕皇子は、文武天皇を申す。又孝徳天皇をも、輕皇子と申しゝかど、こゝは文武帝の御事なる事明らけし。書紀持統紀に、この皇子を、皇太子に立奉りし事、見えざるは、誤り也。そは、釋日本紀引2私説1云、愚案當卷【持統紀】三年夏四月、草壁皇子薨、其後未v立2皇太子1而十一年二月、丁卯朔甲午、召2東宮大傅、并春宮大夫等1、八月乙丑朔、天皇定2策禁中1、禅2天皇位於皇太子1云々、以v之案v之、丁卯朔下、可v設d壬午立2珂瑠皇子1爲2皇太子1之句u歟、何則案2王子枝別記1云、文武天皇、少名珂瑠皇子、天武天皇皇太子草壁皇子之子也、持統天皇、十一年春二月、丁卯朔壬午、立爲2皇太子1云々とあるがごとし。一代要記、愚管抄等には、諱輕とありて、扶桑略記には、號2後輕天皇1とあり。こは、孝徳帝をも、輕皇子と申しゝかば、それにむかへ奉りて、後輕天皇とは申す也。續紀文武紀云、天之真宗豐祖父天皇、天淳中原瀛眞人天皇之孫、日並知皇子尊之第二子也云々。八月、甲子朔、受禅即v位云々。慶雲四年、六月辛巳、天皇崩、十一月丙午、誄人事v誄、謚曰2倭根子豐祖父天皇1、即日火2葬於飛鳥岡1、二十日奉v葬2於檜隈阿古山陵1云々。(頭書、考云、この御ことは、王と申すべきを、皇子と書しは、後よりたふとみ書か云々。)
 
安騎野《アキヌ》。
考云、安騎野は、左の歌に阿騎乃大野とよみ、紀に【天武】菟田郡云々、到2大野1といひ、式に、宇陀郡阿紀神社などあるにてしらる云々といはれつるがごとく大和宇陀郡な(146)るべし。
 
一首并短歌四首。
この七字、印本なし。今、目録によりて補ふ。
 
45 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワカオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之《ヒノ》皇子《ミコ・ワカミコ》。神《カム・カミ》長柄《ナカラ》。神《カム・カミ》佐備世須登《サヒセスト》。太敷爲《フトシキシ》。京乎置而《ミヤコヲオキテ》。隱口乃《コモリクノ》。泊瀬山者《ハツセノヤマハ》。眞木《マキ》立《タツ・タテル》。荒山道乎《アラヤマミチヲ》。石根《イハカネノ》。楚樹推《シモトオシ》靡《ナベ・ナミ》。坂鳥乃《サカトリノ》。朝越座而《アサコエマシテ》。玉蜻《カギロヒノ》。夕去來者《ユフサリクレハ》。三雪落《ミユキフル》。阿騎乃大野爾《アキノホヌニ》。旗須爲寸《ハタスヽキ》。四能乎押《シノヲオシ》靡《ナベ・ナミ》。草枕《クサマクラ》。多日夜取世須《タビヤドリセス》。古昔念而《イニシヘオボシテ・ムカシオモヒテ》。
 
高《タカ》照《ヒカル・テラス》。
とは、枕詞にて、冠辭考にくはし。舊訓、たかてらすとあれど、古事記中卷に、多迦比迦流《タカヒカル》、比能美古《ヒノミコ》、夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシヽワカオホキミ》云々。本集二【卅六丁】に、高光日之皇子《タカヒカルヒノミコ》云々ともあれば、高照をもたかひかるとよむべし。集中いと多し。さて高照《タカヒカル》の高は、古事記中卷に、高往鵠之音《タカユクタヅガネ》云々。下卷に、多迦由久夜波夜夫佐和氣《タカユクヤハヤフサワケ》云々。本集四【廿一丁】に、水空往雲爾毛欲成《ミソラユククモニモガモ》、高飛鳥爾毛欲成《タカトフトリニモガモ》云々などある高《タカ》と同じく、天《ソラ》をいふ也。されば、高照《タカヒカル》は、天照《アマテラス》といふと同じ。けふ《(マヽ)》は、日《ヒ》とはつゞけしなり。
 
(147)日之《ヒノ》皇子《ミコ・ワカミコ》。
まへに引たる古事記にも、比能美古《ヒノミコ》云々ともあれば、ひのみことよむべし。舊訓、ひのわかみことあるは誤れり。やすみしゝわが大王、たかひかるひのみこと、つゞけしこと、集中いと多く、あぐるにいとまなし。日の皇子は、日神の御末と申す意、皇子をさして申せる事なれば、こゝは、輕皇子をさし奉れり。かの古事記に、たかひかるひのみことあるも、日本武命をさし奉れるにても思ふべし。
 
神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサビセスト》。
上【攷證八丁】にいへり。
 
太《フト》敷爲《シカス・シキシ》。
舊訓、ふとしきしとあれど、ゆくをゆかすといふごとく、しかすは、しくといふを、のべていふ言にて、かすの反なれば、ふとしかすは、ふとしく也。されば、こゝは、ふとしかすとよむべし。太《フト》は、太祝詞《フトノリト》、太占《フトマニ》、太玉串《フトタマクシ》などいふ太《フト》と同じく、物をほめていふ言也。上に【十八丁】ミヤハシラフトシキマセハ
云々とある太《フト》は、柱へかゝりて、柱の太《フト》きをいひ、こゝの太《フト》は、京《ミヤコ》といふへかゝりて、ほめていふ言也。敷爲《シカス》は知《シラ》すといふと同じく、知り領します意也。上【攷證九丁】にもいへり。
 
京乎置而《ミヤコヲオキテ》。
置而は、みやこをばさておきてといふ意也。本集上【十六丁】に、倭乎置而云々とあるに同じ。その所【攷證一ノ上四十七丁】にいへり。
 
隱口乃《コモリクノ》。
こは枕詞にて、冠辭考にくはし。又集中いと多し。下【二十九丁】に、隱國《コモリク》と書たる、正字にて、かなたこなたに山ありて、立こもりたる國といふ事にて、大神宮儀式帳に、許(148)母埋國志多備乃國《コモリクシタビノクニ》云云とあるがごとし。
 
泊瀬山《ハツセノヤマ》。
和名抄郷名に、大和國城上郡長谷【波都勢】云々。書紀にも、泊瀬とかけり。泊瀬とかける、借訓にて、泊は舟の宿るを泊《ハツ》といふより、かりて泊瀬とはかけるなり。本集下【二十五丁】に、船泊爲良武《フネハテスラム》云々。二【十六丁】に、大船之泊流登麻里《オホフネノハツルトマリ》云々などあるがごとし。書紀垂仁紀一書に、泊橿部《ハツカシヘ》とあるも借訓也。
 
眞木《マキ》立《タツ・タテル》。
舊訓、まきたてるとあれど、本集三【十三丁】に、眞木之立荒山中爾《マキノタツアラヤマナカニ》云々。十三【十九丁】に、三芳野之眞木立山爾《ミヨシヌノマキタツヤマニ》云々。これまきたつとあれば、こゝもまきたつと、四言よむべし。さて、こゝに眞木とあるを、考には、檜木にて、深き山に生也とある、いかゞ。こゝの眞木は、木の名にはあらで、たゞ木をほめて、眞木といへる也。この下の歌に、新草苅《ミクサカル》云々とあるも、まとみとかよひてほむる事なり。まはぎ、まくず、ますげなどいふまも、同じ。そも/\、眞木に二つあり。其一つは、こゝなる眞木のごとく、木の名ならで、たゞ、その木をほめていへる也。そは本集下【二十二丁】に、眞木乃都麻手《マキノツマテ》云々。十三【七丁】に、眞木積泉河乃《マキツメルイヅミノカハノ》云々などの類也。又枕詞に、まきさく檜の云々といへるも、檜の木の名を、眞木といふにはあらで、良材なる故に、まとはほむる也。其二つは、木の名にいへる也。そは、書紀神代紀上、一書に、※[木+皮]此云2磨紀1云々。本集六【三十三丁】に、奧山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシノキフルユキノ》云々。七【十九丁】に、小爲手乃山之眞木葉毛《ヲステノヤマノマキノハモ》、久不見者蘿生爾家里《ヒサシクミネハコケオヒニケリ》云々。十【四十五丁】に、四具禮能雨《シクレノアメノ》、無間之零者《マナクシフレハ》、眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《マキノハモアラソヒカネテイロツキニケリ》云々などある、これらは一つの木の名にて、和名抄木類に、玉篇云※[木+皮]【音彼日本紀私記云末木今案又杉一名也見2爾雅注1】木名、作v柱埋v之能不v腐也云々、などある(149)ごとし。また、新撰字鏡に(※[木+斯]【素※[(禾+尤)/山]反萬木又己曾木】槇【二作都牟反萬木】※[木+雁の中が言]【萬木】云々などもあり。
 
荒山道乎《アラヤマミチヲ》。
本集三【十三丁】に、眞木之立荒山中爾《マキノタツアラヤマナカニ》云々。九【三十四丁】に、蘆檜木笶荒山中爾《アシヒキノアラヤマナカニ》云々などありて、荒野などいふ、あらも同じ。人氣なき所をいふ。考云、初瀬寺のかたはらに、宇陀へこゆる坂路あり。古へも此道なるか。宣長云、この乎は、泊瀬はあしき山路なるものをといふ意の、を也。二【四十二オ】乎。
 
石根《イハガネノ》。
本集十三【十五丁】に、石根乃興疑敷道乎《イハカネノコヾシキミチヲ》云々。祈年祭祝詞に、磐根木根履佐久彌 ※[氏/一] 云々など見えたり。
 
楚樹押靡《シモトオシナベ》。
楚樹は、印本禁樹とありて、舊訓は、ふせぎとよみ、若冲が類林には、さへぎとよみて、さかへる意とし、僻案抄には、石根禁樹押靡の字を、いはねせくこだちおしふせとよめれど、いづれも、しからず。今は、考によりて改む。禁と楚と、いかにも字體よく似たり。されば誤れる也。さて、しもとは、本集十四【二十四丁】に於布志毛等《オフシモト》、許乃母登夜麻乃麻之波爾毛《コノモトヤマノマシハニモ》云々とありて、書紀景行紀に、茂林、雄略紀に、弱木林をしもとはらとよみ、靈異記、延喜臨時祭式齋宮等に※[木+若]、新撰字鏡に※[木+戎]、※[木+若]、※[代/木]などの字、皆しもとゝよめり。和名抄木具に、唐韻云※[草冠/〓]【音聰和名之毛止】木細枝也云々と見えたり。楚は、平他字類抄に、ずはへとよみ、禮記士喪禮注に、楚荊也云々。毛詩楚茨章傳に、楚々茨棘貌云々と見えたれば、おのづから、しもとゝよむべき意あり。さて楚樹は、盧綸送2楊※[白+皐]1詩に、楚樹荊雲發2遠思1云々。柳宗元詩に、今朝楚樹發2南枝1云云など見えたり。押靡《オシナベ》は、おしなびけ也。ひけの反、へなれば也。本集六【十七丁】に、淺茅押靡《アサヂオシナベ》云々(150)など見えたり。上【攷證一ノ上二丁】にもいへり。(頭書、十七【四十八丁】に須々吉於之奈倍云々。)
 
坂鳥乃《サカトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鳥の、坂などを、朝こえゆくごとくといふつゞけなり。
 
玉蜻《カキロヒノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。印本、玉限《タマキハル》に作るは誤り也。若冲が類林と、冠辭考との説によりて改む。本集十【五丁】に、玉蜻夕去來者佐豆人之《カキロヒノユフサリクレバサツヒトノ》云々などあるにても、玉限は玉蜻の誤りなる事しるし。又二【三十七丁】に、玉蜻磐垣淵之《カキロヒノイハカキフチノ》云々。十【五十九丁】に、玉蜻直一目耳《カキロヒノタヾヒトメノミ》云々。十二【二十七丁】に、玉蜻髣髴所見而《カキロヒノホノカニミエテ》云々などあるごとく、玉蜻とかきたり。かぎろひの夕とつゞくるは、夕日は、ことに火かげのごとくかゞやき、きらめく故に、さはつゞけし也。さて、冠辭考に、玉蜻とも書は、蜻※[虫+廷]が目は、實に玉のごとく見え、はた、そを土に埋めおけば、珠となるよし、博物志にいへるなどの意にもあるべし云々といはれしは、誤り也。玉は、物をほめて付る詞なること、玉だすき、玉つるぎ、玉はゝきなどの類、中國に例多し。漢土にても、尚書洪範注に、玉食(ハ)美食云々。呂覽貴直篇注に、玉女美女也云々などありて、玉の字は物をほむる言也。されば、こゝの玉蜻も、文字の上のみに、玉とほむる詞をつけたるにて、玉は訓にかゝはる事なし。(頭書、再考、玉限を玉蜻とあらためしはいかゞ。十一【十三丁】に、玉限石垣淵。十二(【十三ノ九丁】)に、玉限日ともつゞけたり。これをもかぎろひとよむべし。限はつねにはかぎりとのみい|へ《(マヽ)》て、かぎろふ、かぎろひともはたらけば也。玉は添たる字也。これを、舊訓たまきはるとよみしは、いかゞ。たまきはるといふべき所に、玉限と書しは、一つもなきを見ても思ふべし。)
 
(151)夕去來者《ユフサリクレバ》。
春去來者《ハルサリクレバ》、夜去來者《ヨルサリクレバ》などいふと同じく、夕になりくればなり。
 
三雪零《ミユキフル》。
三雪《ミユキ》の三は、眞にて、みそら、みそで、み浦、み熊野などの類の、みなり。考云、後世此みを、深と書は、古へなき事也。み山、み谷なども、眞とほむるに、大きなる事も、深きことも、こもりてあり云々。
 
阿騎大野爾《アキノオホヌニ》。
阿騎野の事は、上にいへり。大野といふは、稱美して大の字をば付る也。上【八丁】に、内野を内乃大野などいふを、思ひ合すべし。書紀天武紀に、菟田郡云々、到2大野1と見えたり。
 
旗須爲寸《ハタスヽキ》。
こは枕詞ならねど、集中枕詞に用ひたる所多し。されば、冠辭考に、くはし。本集三【三十一丁】十【五十五丁】などに、度爲酢寸《ハタスヽキ》などかきたれど、こゝに旗須爲寸《ハタスヽキ》とかき、書紀神功紀に、幡荻穗出吾《ハタスヽキホニイテシワレハ》云々などかける、正字にて、すゝきの穗の、旗のごとくなびくを、旗薄とはいへる也。豐旗雲《トヨハタクモ》、雲のはたて、また旗雲などいへるも、皆雲の旗のごとく、長くなびくをいふ也。この事上【攷證一ノ上二十七丁】にいへり。すゝきは、集中|須酒伎《スヽキ》、爲酢寸《スヽキ》、須爲寸《スヽキ》など書き、古事記上卷に、須々岐などかきたれ《(マヽ)》清てよむべし。和名抄草類云、爾雅云草聚生曰v薄【新撰萬葉集和歌云花薄波奈須々木今案即厚薄之薄字也見2玉篇1】辨色立成云※[草冠/千]【和名上同今案※[草冠/千]音千草盛也見2唐韻1】云々など見えたり。猶|薄《スヽキ》の事は、下【攷證七上十八丁】にくはしくいふべし。
 
(152)四能押《シノオシ》靡《ナヘ・ナミ》。
四能《シノ》は、篠にあらず。すゝきの、しなふを、おしなびけなり。なふの反、ぬなるを、のに轉じて、しのとはいへる也。小竹を、しのとも、しぬともいへるにて、のと、ねと、かよふをしるべし。小竹を、しのといへるも、もとしなふ意なり。
 
草枕《クサマクラ》。
枕詞なり。上【攷證一ノ上十一丁】にも見えたり。
 
多日夜取世須《タヒヤドリセス》。
たびやどりは、旅宿也。端詞に、宿2于安騎野1とあり。本集三【十九丁】に、何處吾將宿《イツクニカワカヤトリセム》云々。また、【四十七丁】草枕※[覊の馬が奇]宿爾《クサマクラタビノヤドリニ》云々など見えたり。世須は、し給ふといふ意也。この事は、上【攷證八丁十二丁】にいへり。
 
古昔念而《イニシヘオホシテ・ムカシオモヒテ》。
こは、御父、日並知皇子《ヒナメシノミコ》と、この野に獵し給ひし事のあるを、むかしとはいへる也。さて、そのむかしを、おぼしいでゝ、この野にやどりしたまふらんと也。この反歌に、日雙斯皇子命乃《ヒナメシノミコノミコトノ》、馬副而御獵立師斯時者來向《ウマナメテミカリタヽシヽトキハキムカフ》云々。二【三十丁】に、この皇子の殯宮の時、舍人等が歌に、毛許呂裳遠春冬片設而、幸之、宇陀乃大野者、所念武鴨云々などあるにて、御父尊の、此野に御獵したまひし事しらる。さて、この句、舊訓むかしおもひてとあれば、古昔の字は、上【十一丁】にもいにしへとよみ、そのうへ次の歌にも、古部《イニシヘ》ともあれば、いにしへとよみつ。念而《オボシテ》は皇子の申す所なれば、おぼすとよめり。
 
(153)反歌。
印本、この反歌を短歌とせり。さて、考別記云、長歌の末には、反歌と書ぞ例なる。然るに、この卷には、此所のみ短歌とあり。【藤原御井にもあれど、かの短歌は、別の歌にて、一本と見ゆ。其外一所にあるも注の歌なり。】卷二には、五所短歌とあり。【外に三所あるは或本の歌なり。】此外皆反歌としるせり。卷三より下は、二百あまりあり。長歌に皆反歌とあり、かかれば、一二の卷は、家々に書しに、私に短歌ともしるし、又一書どもには、短歌とありしがまぎれ入しもの也。故、此度は皆反歌とせり云々といはれしぞ、まことにさることなりける。そもそも、短歌とは長歌にむかへいふ時のことにて、端詞に、作歌并短歌とあるは、并反歌としては、同じ長歌をいふことにか、わかちなければ、そのよしをことわりて、短歌としるせるなれば、長歌にむかへていへる也。されば、こゝに短歌とあるべきいはれなし。こは、端辭に、反歌の事を短歌とかけば、反歌といふも、短歌といふも、同じ事ぞと心得て、後人のみだりにしるしたるもの也。依て、今、一二兩卷ともに、皆反歌とあらためつ。さるを略解には、集中多く反歌とあり。されど短歌ともかくまじきにあらねば、改めず云々とあるは、短歌といふ事を、いかに心得たるにか。まへにいへるごとく、こゝは短歌とは、かつて書まじき所なるをや。すべて、古言をみだりに、直しあらたむるは、罪多き事なれど、疑なき誤りとしりて、正し直さゞるは學者の見識あらざる也。
 
46 阿騎乃野爾《アキノヌニ》。宿旅人《ヤトルタビヒト》。打靡《ウチナビキ》。寐毛宿〔左*〕良目八方《イモヌラメヤモ》。古部念爾《イニシヘオモフニ》。
 
(154)阿騎乃野爾《アキノヌニ》。
印本、野の字を脱す。今校異本に引たる官本によりて、補ふ。但し、官本、騎下有2野字1とあれど、こは、上下に誤りしなること明らかなれば、乃の字下に補ふ。
 
宿旅人《ヤトルタビヒト》。
從駕の人々も旅なれば、御供の人々旅人といふ也。
 
打靡《ウチナビキ》。
本集五【五丁】に、宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》云々。十四【三十三丁】に、宇知奈婢伎比登里夜宿良牟《ウチナビキヒトリヤヌラム》云々。十七【二十三丁】に、宇知奈妣吉等許爾許伊布之《ウチナビキトコニコイフシ》云々などもありて、心とけてなよゝかにものゝうちなびきたるやうにふす也。心のどかなる意にいへり。
 
寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》。
舊訓も、考もいもねらめやもとあれど、ねらめといふ言あるべくもあらず。俗言也。こゝは、必ず、ぬらめといはでは、かなはぬ所なり。さて、いは俗言に、ねいるといふ言、ぬるはたゞふす事にて、いぬといふを分て、いをぬるとも、いのねられぬともいへる也。本集八【二十六丁】に、寐乃不所宿《イノネラレヌニ》云々。九【三十丁】に、五十母不宿二吾齒曾戀流《イモネスニワレハソコフル》云々。十【十九丁】に、君將聞可朝宿疑將寐《キミキヽケンカアサイカヌラム》云々などあるにて思ふべし。目八方《メヤモ》の、やは、うらへ意のかへるや、もは添たるもにて、こゝの意は、うちなびきて心やすく、いをもぬらめや、ねられはせじと也。めやもの事は、上【攷證一ノ上三十六丁】にいへり。目の字、印本自に誤る。今集中の例と、拾穗抄によりてあらたむ。
 
(155)古部念爾《イニシヘオモフニ》。
まへに、古昔|念而《オモヒテ》とあると同じ。古へ、御父尊の、此野に獵したまひしことを思ひ出て、ねられじと也。
 
47 眞草苅《ミクサカル》。荒野二者雖有《アラヌニハアレト》。黄葉《モミチハノ》。過去君之《スキニシキミカ》。形見跡曾來師《カタミトソコシ》。
 
眞草苅《ミクサカル》。
考には、まくさかるとよまれしかど、舊訓のまゝ、みくさかるとよむべき也。そは、本集二【十一丁】に、水篶苅信濃乃眞弓《ミスヾカルシナノノマユミ》云々。十【十四丁】に、春去者水草之上爾置霜之《ハルサレハミクサノウヘニオクシモノ》云々。又【五十四丁】秋就者水草花乃《アキツケハミクサノハナノ》云々などある水草は、みづ草にはあらで、眞草也。眞《ミ》は、物を稱美して付る事なる事、上にも所々にいへるがごとし。
 
荒野二者雖有《アラヌニハアレト》。
荒野は、本集六【十五丁】に、荒野等丹里雖有《アラヌラニサトハアレドモ》云々ともありて、荒山などいふ荒と同じく、人氣なく、里ばなれたる野をいふ。さて、印本、野の下の二の字なし。考に、一本にありとて加へられしにしたがふ。
 
黄葉《モミチハノ》。
黄の字、印本なし。脱せること明らかなれば、代匠記、僻案抄、考などによりて加ふ。そは、本集二【三十七丁】に、奧津藻乃名延之妹者《オキツモノナヒキシイモハ》、黄葉乃過伊去等《モミチバノスギテイニキト》云々。四【三十五丁】に、黄葉乃過哉君之《モミチハノスキヌヤキミカ》云々。九【三十二丁】に、黄葉之過去子等《モミチハノスキニシコト》云々。十三【三十四丁】黄葉之過行跡《モミチハノスキテユキヌト》云々などあるにても、黄の字を脱せしをしるべし。こは、枕詞にて、黄葉はちりて、過るものなれば、もみぢばのごと、過にしとつゞけし也。猶、冠辭考にくはし。
 
過《スギ》去《ニシ・ユク》君之《キミカ》。
舊訓、すぎゆく君がとあれど、こゝはすぎにしとよむべし。考にも、しかよめり。君とさすは、さき/”\もいへるがごとく、輕皇子【文武天皇】の御父、日並知皇子を申奉るなり。
 
形見跡曾來師《カタミトゾコシ・カタミノアトヨリソコシ》。
かたみは、こゝに形見とかけるぞ正字なる。形見をかたみとよむは、かたち見の略也。衣にまれ、器物にまれ、何にまれ、後々まで傳へおきて、わがゝたちを見るごとく、思ひしのべとて、のこしおく、その物を、形ち見の意にて、かたみとはいへるにて、形《カタ》ち代《シロ》を形代《カタシロ》といふがごとし。集中いと多し。本集十六【九丁】に堅監、遊仙窟に記念、信などを、かたみとよめるは、借訓、義訓なり。本集十六【十二丁】左注に、寵薄之還2賜寄物1【俗云可多美】云云。舊事記天孫本紀に、汝子|如吾形見物《モシワカカタミノモノニセハ》云々など見えたり。さて、こゝの意は、此野は、かく眞草などかるばかりの荒野なれど、君が御かりしたまひし所ぞと思へば、君が形見のごとく思はるれば、此野を君が形見と思ひてぞこしと也。本集九【十二丁】に、鹽氣立荒磯丹者雖在《シホケタツアリソニハアレト》、往水之過去妹之方見等曾來《ユクミヅノスキニシイモカカタミトソコシ》云々、あるもこゝと似たり。
 
48 東《ヒムカシノ・アツマ》。野炎《ヌニカギロヒノ・ノヽケフリノ》。立所見而《タツミエテ・タテルトコロミテ》。反見爲者《カヘリミスレバ》。月西渡《ツキカタブキヌ》。
 
東《ヒムカシノ》。
此歌、上句、印本、代匠記、僻案抄、共に訓いたく誤れり。今は、考の訓による。さて、東の一字を、一の句とせり。のは付てもよみ、又はかきもする例也。本集二【三十丁】に、東乃(157)多藝能御門爾《ヒムカシノタギノミカドニ》云々。三【二十五丁】に、東市之殖殖木乃《ヒムカシノイチノウエキノ》云々。十六【三十二丁】にヒ東中門由《ヒムカシノナカノミカトユ》云々など見えたるにても、こゝはひんがしとよむべきをしるべし。東は、俗にひがしといへど、和名抄官名に、東市司【比牟加之乃以知乃官】云々。又摂津國郡名に、束生【比牟我志奈里】云々とあれば、ひんがしとよむべし。此語、實はひむかしなれど、音便にてひんがしといへば、かの字を濁るべし。
 
炎《カギロヒノ・ケフリノ》。立《タツ・タテル》所見而《ミエテ》。
本集六【四十二丁に、炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレハ》云々とともあれば、こゝの炎の字も、かぎろひとよむべし。こは上【攷證二十一丁】に、玉蜻《カギロヒ》とあると同じく、日にまれ、火にまれ、かゞやく意よりいへるにて、古事記中巻に、迦藝漏肥能毛由流伊幣牟良《カキロヒノモユルイヘムラ》云々とあるは、火のかがやく也。それを又、日のかゞやく事にもいひ、又それを轉じて、今の世に糸ゆふとも、あそぶ糸ともいふものゝ事をも、かぎろひといへり。後世かげろふともいへり。(頭書、下【攷證二下四十六丁】可v考。)さて、こゝに炎《カキロヒ》といふは、今の糸ゆふをいへる也。これも、野または原などに、うら/\と日よりよき日は、ちら/\とたちて、火の氣のごとく見ゆる故に、かゞやく意にて、かぎろひとはいへる也。本集二【三十八丁】に、蜻火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラヌニ》云々。また【三十九丁】に、珠蜻髣髴谷裳《カギロヒノホノカニダニモ》云々。十【五十九丁】に、玉蜻直一目耳《カギロヒノタヽヒトメノミ】云々などある、これらも、上に引たる炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレハ》云々とあるも、こゝと同じく、今の糸ゆふといふもの也。この物、漢土にては、野馬とも、遊絲ともいへり。荘子逍遥遊に、野馬也、塵埃也、生物之以v息相吹也云々。郭注に、野馬者、遊氣也云々。庶物異名疏に、野馬、日光、一曰2遊絲1、水氣也、龍樹大士曰、日光著2微塵1、風吹2之野中1、轉v名爲2陽※[餡の旁+炎]1、愚夫見v之、謂2之野馬1云々。杜甫詩に、落花遊絲白日靜云々など見えたり。さて、こゝの意は、漸くあけわたる、その東の方の野に、朝日いでんとして、かゞやくにつけて、炎《カギロヒ》の立など見ゆる也。さて、うし(158)ろの方をかへりみれば、月もやゝかたぶきぬと也。今もつとめてなどは、日の出ても、月の、西の方に殘りてある事まゝあり。
 
反見爲者《カヘリミスレバ》。
本集下【二十九丁】に、萬段顧爲乍《ヨロツタヒカヘリミシツヽ》云々。二十【三十四丁】に、等騰己保里可弊里美之都都《トトコホリカヘリミシツツ》云々などあるも、こゝと同じく、うしろの方をふりかへり見る意也。
 
月西渡《ツキカタブキヌ》。
夜わたる月、わたらふ月、さわたる月など、月のゆくを、わたるといへば、西に渡ると書て、かたぶくとよめり。これ義訓也。本集十【五十七丁】に、秋風吹而月斜焉《アキカゼフキテツキカタブキヌ》云々。十一【二十九丁】に、君待跡居之間爾月傾《キミマツトヲリシアヒダニツキカタブキヌ》云々。十七【二十丁】に、敷多我美夜麻爾月加多夫伎奴《フタカミヤマニツキカタブキヌ》云々など見えたり。
 
49 日雙斯《ヒナメシノ》。皇子命乃《ミコノミコトノ》。馬副而《ウマナメテ》。御獵立師斯《ミカリタヽシヽ》。時者來向《トキハキムカフ》。
 
日雙斯《ヒナメシノ》。皇子命《ミコノミコト》。
こは、輕皇子【文武天皇】の御父、草壁皇子を申奉る。續紀文武紀に、天之眞宗豐祖父天皇、天渟中原瀛眞人天皇之孫、日並知皇子尊《ヒナメシミコノミコト》之第二子也云々。注云、日並知皇子尊者、寶字二年有v勅追崇尊號稱2岡宮御宇天皇1云々と見えたり。書紀には、天武紀云、天皇命2有司1,設2壇場1,即2帝位於飛鳥淨御原宮1、立2正妃1爲2皇后1、后生2草壁皇子尊1云云。十年二月、庚子朔甲子、立2草壁皇子尊1、爲2皇太子1、因以令v攝2萬機1云々。持統紀云、三年四月、癸未朔乙未、皇太子草壁皇子尊薨云々など、草壁皇子尊とのみありて、日並知皇子尊といふ事なきを思へば、日並知皇子尊と申すは、日と並《ナラヒ》て、天の下を知《シラ》しめすといふ事にて、後の御謚なるべし。皇太子の御事を、日之皇子と申すにても知るべし。此集には、雙と書、續紀には並と(159)書たれど、いづれもならぶ意にて、同じ。さて舊訓にも、考にも、日雙斯皇子命《ヒナメシミコノミコト》とよみて、の文字なし。古字の例、假字にかける所は、てにをはの字をよみ付る事はすくなければ、神名、人名などは、假字に書たるも、の文字をそへてよむべき例なり。古事記、書紀などをくりかへしてしるべし。又、皇子の下へ、命、尊などの字を付るは、本集二【十三丁】に日並皇子尊《ヒナメシミコノミコト》、また【二十四丁】高市皇子尊などありて、皇太子にかぎりたること也。この高市皇子尊のことは、二【攷證二ノ上 丁】にいふべし。さて命《ミコト》とは、尊稱していふ言にて、御祖命《ミオヤノミコト》、父《チヽノ》命、母《ハヽノ》命、弟之《ナセノ》命、妹《イモノ》命など、古事記にも、集中にも多かり。書紀には、神代紀上注に、至貴曰v尊、自餘曰v命、並訓2美擧等《ミコト》1也云々とありて、君臣の稱をわかたれしかど、本集 また古事記にはこのわかちなし。
 
馬副而《ウマナメテ》。
この語は、上【攷證一ノ上九丁】に出たり。玉篇に、副芳富切貳也云云とあれば、おのづからにならぶといふ意こもれり。
 
御獵立師斯《ミカリタヽシヽ》。
舊訓、みかりたちしゝとあり。こはいふにもたらぬ誤りなれど、古事記上卷注に、訓v立云2多々志1云々。書紀欽明紀に、基能倍※[人偏+爾]陀々志《キノベニタヽシ》云々。推古紀に、異泥多々須《イデタヽス》云々。本集二十【六十一丁】に、多々志々伎美能《タヽシヽキミノ》云々などあるにてもたゝしゝとよむべきをしるべし。さて本集三【十三丁】に、馬並而三獵立流《ウマナメテミカリタヽセル》云々。六【十四丁】に、馬並而御※[獣偏+葛]曾立爲《ウマナメテミカリソタヽス》云々などあり。
 
來向《キムカフ》。
考には、きまけりとよまれしかど、舊訓のまゝ、きむかふとよむべき也。さて、むかふといふ語は、古事記下卷に、牟加閇袁由加牟《ムカヘヲユカム》云々。本集六【二十五丁】に、山多頭能迎參出六《ヤマタツノムカヘマヰテム》云云。八【十六丁】に、櫻花者迎來良之母《サクラノハナハムカヘクラシモ》云々などあり。をか《(マヽ)》れをこゝにむかへるを本にて、むかひ居るなど相對する事をもいひて、こゝなどは、その時の、今こゝにむかひ來る意なれば、必ずきむか(160)ふとよまではかなはざる所なり。本集十九【十八丁】、に春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》云々なども見えたり。
 
藤原宮之役民作歌。
 
藤原宮。
藤原宮は、持統天皇の大宮なり。上【攷證一ノ上四十三丁】に出たり。考云、此宮は、持統天皇朱鳥四年より、あらましの事ありて、八年十二月ぞ、清御原宮よりこゝにうつりましつ。そのはじめ、宮作に立民の中に、この歌はよみし也。宮の所は、十市郡にて、香山、耳成、畝火の三山の眞中也。今も大宮殿といひて、いさゝかの所を畑にすき殘して、松立てあるこれ也云々。
 
役民。
賦役令義解云、役者使也云々。廣雅釋詁一云、役使也云々などありて、役は丁《ヨホロ》をつかふなり。これ、藤原宮作營の時、諸國より役にさゝれて上りし民をいふ。賦役令義解に、除2當年須v役人1之外、皆※[手偏+総の旁]輸v庸、充2衛士女丁食、并役民雇直及食1也云々と見えたり。考云、役の字を、今はえたちとよめど、元は役の字音にて、古言にあらず。集中、たつ民とよめるぞ、これにはかなへる。かつ、造藤原宮と書べきを、略にすぎたり云々。宣長が玉勝間に、萬葉集一の卷に、藤原宮の役民作歌とある長歌は、役民作歌とあるによつて、たれもたゞその民のよめると心得たれど、歌のさまをもて|思ふ《(マヽ)》、然にはあらず。こは、かの七夕の歌を、彦星棚ばたつめになりてよめると、同じことにて、かの民の心になずらへて、すぐれたる歌人のよめる也。その作者は、たれともなけれど、歌のさまのいと/\めでたく、巧のふかきやう、人麿主の口つきにぞありける云云といはれしは、さることながら、農民なりとも、よき歌よむべからずとは、いひがたければ、(161)役民がよめる歌と見てあるべきなり。
 
50 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。荒妙乃《アラタヘノ》。藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》。食《ヲス・ヲシ》國乎《クニヲ》。賣之賜牟登《メシタマハムト》。都宮《ミアラカ・ミヤコニ》者《ハ》。高《タカ》所知《シラサ・シルラ》武等《ムト》。神長柄《カムナガラ》。所念奈戸二《オモホスナベニ》。天地毛《アメツチモ》。縁而有許曾《ヨリテアレコソ》。磐走《イハハシノ・イハハシル》。淡海乃國之《アフミノクニノ》。衣手能《コロモデノ》。田上山之《タナカミヤマノ》。眞木佐苦《マキサク》。檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》。物乃布能《モノノフノ》。八十氏河爾《ヤソウヂガハニ》。玉藻成《タマモナス》。浮倍流禮《ウカベナガセレ》。其乎取登《ソヲトルト》。散和久御民毛《サワグミタミモ》。家忘《イヘワスレ》。身毛多奈不知《ミモタナシラズ》。鴨自物《カモジモノ》。水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》。吾作《ワガツクル》。日之御門爾《ヒノミカドニ》。不知國《シラヌクニ》。依巨勢道從《ヨリコセチヨリ》。我國者《ワガクニハ》。常世爾成牟《トコヨニナラム》。圖負留《フミオヘル》。神龜毛《アヤシキカメモ》。新代登《アタラヨト》。泉乃河爾《イヅミノカハニ》。持越流《モチコセル》。眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》。百不足《モヽタラス》。五十日太爾作《イカダニツクリ》。泝良牟《ノボスラム》。伊蘇波久見者《イソハクミレバ》。神隨《カムナガラ・カミノマヽ》爾有之《ナラシ》。
 
(162)荒妙乃《アラタヘノ》。
こは枕詞にて、冠辭考にくはし。荒《アラ》昇は、あら/\しき意、妙、《タヘ》は絹布《キヌヌノ》などの惣名にて、あら/\しき布といふ言也。藤もて織れる布は、あら/\しければ、荒妙の藤とはつゞけし也。實は、それよりうつりて、藤布ならでも、たゞあら/\しき布をもいへり。この言、集中いと多し。古語拾遺に、織布【古語阿良多倍】云々。延喜践祚大甞會式に、麁妙服【神語所謂阿良多倍是也】云々など見えたり。又字彙葛字注に、草名、蔓生根可v食、藤可v作v布云々。
 
藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》。
藤原は地名、大和國十市郡なり。釋日本紀引2和(私?)記1云 師説此地不v詳、愚案氏族略記云、藤原宮在2高市郡鷺柄坂北地1云々とあるはいかゞ。下の藤原宮御井歌に、麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフチヰガハラニ》、大御門始賜而《オホミカドハシメタマヒテ》、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシミシタマヘハ》、日本乃青香具山者《ヤマトノアヲカクヤマハ》云々と、よみ合せたる埴安、香具山などの、十市郡なるにても、藤原宮は十市郡なるをしるべし。鎌足公の本居の、藤原は、高市郡にて、こゝとは別所なれば、思ひまがふべからず。書紀持統紀云、四年十二月、癸卯朔辛酉、天皇幸2藤原1觀2宮地1云々など見えたり。宇倍《ウヘ》は、考に、此所今は畑となりつれど、他よりは高し。古しへは、いよゝ高き原なりけん。仍て上といふ云々といはれしは誤り也。宇倍《ウヘ》は上にて、俗言にもほとりといふ意也。古事記上卷に、傍之|井上《ヰノヘ》、有2湯津香木1云々。書紀には、この上の字をほとりとよめり。古事記中卷に、當藝野上《タギヌノウヘ》云々。本集二十【十五丁】に、多可麻刀能秋野宇倍能《タカマトノアキヌノウヘノ》云々。また【六十一丁】多可麻刀能努宇倍能美也婆《タカマトノヌノウヘノミヤハ》云々などあるも同じ。又野のへ、山のへ、川のへ、野べ、山べ、川べなどいふも同じ。
 
(163)食國《ヲスクニ》。
古事記上卷に、夜之|食國《ヲスクニ》云々。本集二【三十四丁】に、食國乎定賜等《ヲスクニヲサタメタマフト》云々。五【七丁】に、企許斯遠周久爾能麻保良敍《キコシヲスクニノマホラソツ》云々。十七【四十二丁】に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレハ》云々。靈異記上卷、釋訓に、食國【久爾乎師ス】云々などありて、食國とは、天皇のしろしめす天の下を、惣ていふなり。上【攷證五丁】にもいへり。
 
賣之賜牟登《メシタマハムト》。
考に、天の下の臣民を、召給ひ、治たまふ都なればいふ云々といはれしは、たがへり。賣之《メシ》の、めは、みにかよひて、見し給ふといふに同じ。本集十八【二十三丁】に、余思努乃美夜乎安里我欲比賣須《ヨシヌノミヤヲアリカヨヒメス》云々。二十【二十五丁】に、賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》云々。また【六十一丁】於保吉美能賣之思野邊爾波《オホキミノメシヽヌヘニハ》云々などある、めし、めすも見し、見すにて、めし給ふ、みたまふ意、めすは見る意也。しろしめす、きこしめすなどいふ、めすも同じ語なり。さて、見しといへるは、本集下【二十三丁】に、埴安乃堤上爾在立之見之賜者《ハニヤスノツツミノウヘニアリタヽシミシタマヘハ》云々。六【三十二丁】に、我大王之見給芳野宮者《ワガオホキミノミシタマフヨシヌノミヤハ》。十九【三十九丁】に、見之明良牟流《ミシアキラムル》云々などあるがごとし。
 
都宮《ミアラカ・ミヤコ》。
舊訓、みやことよみ、宣長はおほみやとよまれしかど、考にみあらかとよまれしをよしとす。みあらかは、古事記に、御舍をよみ、古語拾遺に古語正殿謂2之|麁香《アラカ》1云々。大殿祭祝詞に、御殿古語云2阿良可1云々。本集二【二十八丁】に、御在香乎高知座而《ミアラカヲタカシリマシテ》云々などありて、御ありかのり〔傍点〕を、ら〔傍点〕にはたらかしたる也。
 
高《タカ》所知武《シラサム・シルラム》等《ト》。
舊訓、たかしるらむとゝあれど、前後の義もて考ふるに、たかしらさんとゝよむべきなり。この言は上【攷證九丁】にいへり。
 
(164)奈戸二《ナベニ》。
なべには、並《ナミ》にといへるにて、まゝにといふ意なるも、それに又といふ意なるもあり。本集二【卅八丁】に、黄葉之落去奈倍爾《モミチハノチリユクナヘニ》云々。五【十八丁】に、于遇比須能於登企久奈倍爾《ウクヒスノオトキクナヘニ》云々。七【五丁】に、山河之瀬之響苗爾《ヤマカハノセノナルナヘニ》云々などありて、猶多し。この言下【攷證卅七丁】宜名部《ヨロシナベ》の條考へ合すべし。
 
天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》。
本集上【十九丁】に、山川母依底奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》云々とある、よりと同じく、一つ所に寄《ヨリ》てあれこそ也。其所【攷證一ノ下十一丁】考へ合すべし。あれこそは、あればこその、ばをはぶける也。本集此卷【十一丁】に、古昔母然爾有許曾《イニシヘモシカニアレコソ》云々。四【卅七丁】に、吾背子我如是戀禮許曾《ワカセコカカクコフレコソ》云々。七【卅六丁】に、意有社波不立目《コヽロアレコソナミタヽサラメ》云々。十七【卅一丁】に、孤悲家禮許曾婆伊米爾見要家禮《コヒケレコソハイメニミエケレ》云々。これらみな、ば文字をはぶけるなり。集中猶いと多し。
 
衣手能《コロモテノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。衣手は、袖をいふ。本集九【十一丁】に袖、十三【廿九丁】に衣袖などを、ころもでとよめるにてもしるべし。さて田上《タナカミ》とつゞけるは、衣手の手長《タナガ》といふ意にて、しかつゞけたり。
 
田上山《タナカミヤマ》。
田上山《タナカミヤマ》は、近江國栗本郡、勢多のほとりといへり。書紀神功紀に、阿布瀰能瀰《アフミノミ》、齊多能和多利珥《セタノワタリニ》、介豆區苔利《カヅクトリ》、多那伽瀰須疑弖《タナカミスギテ》、于〓珥等邏倍菟《ウヂニトラヘツ》云々とあるにても思ふべし。本集十二【廿五丁】に、木綿疊田上山之《ユフタヽミタナカミヤマノ》云々。歌枕名寄に、中務、田上の山のもみぢにしぐれしてせたのわたりに秋風ぞふく云々。新六帖六に、きりたふす田上山のかしの木は宇治の川せにな(165)がれ來にけり云々なども見えたり。
 
眞木佐苦《マキサク》。
枕詞にて、冠辭考にくはしかれど、眞木は檜なりといはれしは、たがへり。上【攷證廿丁】にいへるがごとく、眞木は木の名ならで、木をほめて眞木といへる也。佐吉《サク》は、柝にて、木をわる也。木をばさきて、坂ともし、柱ともして用ふ。故に、眞木佐苦《マキサク》とはいへる也。檜は良材なる故に、眞木さく檜とはつゞけし也。さて、古事記下に、麻紀佐久比能美加度《マキサクヒノミカト》云々。書紀繼體紀に、莽紀佐倶避能伊陀圖嗚《マキサクヒノイタドヲ》云々など見えより。
 
檜乃嬬手《ヒノツマデ》。
檜は、和名抄木類に、爾雅云檜柏葉松身【音會又入聲占活反和名非】云々と見えたり。嬬《ツマ》は借字にて、書紀神代紀上、一書に、※[木+爪]津姫《ツマツヒメ》命とある※[木+爪]《ツマ》なり。此神、木によしある事は、神代紀の文にてしらる。※[木+爪]は、古今韻會引2通俗文1云、木四方爲v※[木+稜の旁]、八※[木+稜の旁]爲v※[木+爪]云々とありて、削《ケツ》りたる木をいへる也。手《デ》は、そへたる語にて、古事記上卷に、八十※[土+囘]手《ヤソクマデ》とある、手と同じ。さて、八十※[土+囘]手《ヤソクマデ》の手を、宣長は、本集に、道之永手《ミチノナガテ》とあるを引て、手は道《ヂ》なりといはれしかど、たがへり。手はそへたる語なること、書紀神代紀下、訓注に、隈此云2矩磨※[泥/土]《クマデ》1云々とありて、隈の一字を、くまでとよむにてもしるべし。
 
物乃布能《モノノフノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。ものゝふは、いちはやび建き人をいふ。八十氏河《ヤソウチカハ》とつゞくるは、八十《ヤソ》は物の多きをいひ、氏《ウチ》は稜威《イツ》にて、いとうと、ちとつとかよへ(166)ば也。この事は、冠辭考にくはし。さて稜威《イツ》は、雄々しき意にて、伊都之男建《イツノヲタケヒ》などいふいづと同じ。この事は、古事記傳【七ノ卅八丁】にくはし。(頭書、冠辭考の説いかゞ。古事記傳の説によるべし。傳十九【六十一丁ウ】小注。)
 
八十氏河《ヤソウヂガハ》。
和名抄郷名に、山城國宇治郡宇治とあり。則こゝ也。八十氏《ヤソウチ》河といふ名はあらねど、氏《ウチ》は、上にいへるごとく、稜威の意に用ひて、その多き意に、八十うぢ川とはいひかけし也。この言も冠辭考にくはし。
 
玉藻成《タマモナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉藻の事は、上【攷證一ノ上三十九丁】にいへり。成《ナス》は、如くといふ意。これも止【攷證一ノ上卅四丁】にいへり。こゝの意は、田上山より伐出せる木を、玉藻などの、水にうかびながるゝごとくに、宇治川に宮材《ミヤキ》をうかべながせりとなり。
 
浮倍流禮《ウカベナガセレ》。
字の如く、意明らけし。考に、禮の下に、はは略せるよしいはれしは、誤り也。このせれといふ詞は、まへに有許曾《アレコソ》とある、こその結び詞なれば、意明らかなるをや。
 
其乎取登《ソヲトルト》。
其乎は、字の如く、それをといふ、れもじをはぶける也。こは、上なる物をさして、いふ言にて、こゝは、上に、田上山の、檜のつまでを、宇治川にうかべなが(167)すとある、その材木をとるとてにて、民どもが、舟にまれ、筏にまれ、水にうかび居て、その材木を陸にとりあぐる也。さて、其《ソ》をといふ言は、本集三【五十六丁】に、花曾咲有其乎見杼《ハナソサキタルソヲミレト》云々。十四【廿一丁】に、比登豆麻登安是可曾乎伊波牟《ヒトツマトアゼカソヲイハム》云々。十八【卅二丁】に、之保美可禮由苦曾乎見禮婆《シホミカレユクソヲミレハ》云々など見えたり。(頭書、登はとての意也。)
 
散和久御民毛《サワクミタミモ》。
本集三【五十九丁】に、五月蠅成驟騷舍人者《サハヘナスサワグトネリハ》云々。五【卅八丁】に、佐和久兒等遠《サワグコドモヲ》云々などありて、猶いと多し。さて、こゝに、御民毛とある、民は、役民のみづからをいへるにはあらで、又別の民をいへる也。この歌作りし役民は、藤原宮にありて、こゝは外の民をもおしはかりていへる也。毛《モ》の字に意あり。その民もわがごとく家をも身をもわすれて、仕へまつれるならんと、意をこめたる也。
 
家忘《イヘワスレ》。
おほやけに仕へまつるとて、家をも身をもわするゝをいふ。漢書賈誼傳に、爲2人臣1者、主爾忘v身、國爾忘v家、公爾忘v私云々など見えたり。
 
身毛多奈不知《ミモタナシラス》。
多奈《タナ》といふ語、思ひ得ず。本集九【十八丁】に、金門爾之人乃來立者《カナトニシヒトノキタテハ》、夜中母身者田奈不知《ヨナカニモミハタナシラス》、出曾相來《イテソアヒタル》云々。また【卅五丁】何爲跡歟《ナニストカ》、身乎田名知而《ミヲタナシリテ》云々。十三【十六丁】に、人丹勿告事者硯知《ヒトニナツケソコトハタナシリ》云々。十七【廿九丁】に、伊謝美爾由加奈許等波多奈由比《イザミニユカナコトハタナユヒ》云々など見えたり。代匠記云、霞たなびくといふに、輕引とかける所あれば、たなはかろしといふ古語歟。しからば、身を王事のためにかろんじて、あやまちなどして、やぶりそこなふことをも、しらぬをいふなるべし云々。僻案抄云、多奈は、發語にて意なし。多奈不v知は、たゞ不知といふに同じ云(168)云。考別記云、多奈は多禰てふ言にて【奈禰は音同】物を心にたねらひ知得ること也。こゝは民どもの水に浮ゐなどして、身の勞もたねらひしらず仕奉をいへり。【らひ、辭なれば、そへてもいひ、たゞたなとのみもいふ。】卷六に、とやの野にをさぎねらはりてふは、兎をたねらひといふなれば、古言也。又|給《タマヘ》といふも同言也云々とて、猶説あれど、いづれも解得られたりともおぼえず。予は、しばらく僻案抄の説によりたらんとす。
 
鴨自物《カモジモノ》。
自物《ジモノ》は、の如くといふ意也。語の解は思ひ得ず。本集十五【十七丁】に、可母自毛能宇伎禰乎須禮婆《カモシモノウキネヲスレハ》云々とも見えたり。又書紀武烈紀に、斯々貳暮能瀰逗矩陛御暮黎《シヽジモノミツクヘコモリ》云々。續紀神龜六年八月詔に、恐古土物進退匍匐廻《カシコジモノシヽマヒハラハヒモト》【保里】云々。本集【卅五丁】に、鹿自物伊波比伏管《シヽジモノイハヒフシツヽ》云々。また鳥自物朝立伊麻之弖《トリジモノアサタチイマシテ》云々。また【四十丁】男自物脅挿持《ヲノコシモノワキハサミモチ》云々。三【十七丁】に、雪仕物往來乍益《ユキシモノユキヽツヽマセ》云々。五【廿八丁】に、伊奴時母能道爾布斯弖夜《イヌシモノミチニフシテヤ》云々。六【卅六丁】に、馬自物繩取附《ウマシモノナハトリツケテ》云々など見えて、集中いと多し。宣長云、稻掛大平が考へたるは、自物《シモノ》は状之《サマノ》なるべし。さまと、しもと音かよへり。鹿自物《シヽジモノ》は、鹿状之《シヽザマノ》にて、この類皆同じ。男自物《ヲノコシモノ》は、男の状《サマ》としてといふ意にて聞ゆといへり。此考へ、さもあるべし云々。久老云、鳥自物《トリジモノ》、犬自物《イヌジモノ》などある、みな鳥自久物《トリジクモノ》、犬自久物《イヌジクモノ》にて、自久《ジク》は、卷四に、思有四久志《オモヘリシクシ》、卷七に玉拾之久《タマヒロヒシク》などあるしくに同じく、そのさまをいふ言なれば、如の意に近し云々。これらの説、いづれも解得しともおぼえず。猶可v考。又自物といふに、三つあり。その二つは、二【攷證二下四十九丁】三【攷證三上卅丁】の卷にいふべし。
 
水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》。
宣長云、川より陸にとりあぐるとて、水に浮居て、とりあげて、それを泉の川に持越流《モチコセル》とつゞく詞也。されば浮居而《ウキヰテ》にて、しばらくきれたる語にて、た(169)だに吾作《ワカツクル》へはつゞかず。
 
吾作《ワカツクル》。
宣長云、吾は、役民の吾也。さて、日之御門爾《ヒノミカドニ》とあるをもて見れば、此作者の役民は、藤原の宮の地に在て、役《ツカ》はるゝ民也。上の散和久御民毛《サワクミタミモ》とある民にはあらず。思ひまがふべからず。
 
日之御門爾《ヒノミカドニ》。
日之御門《ヒノミカド》は、天子の御なればいふ。萬の事に、天子をば日にたとへ奉ること、皇太子を日の皇子と申し、又|日並知皇子《ヒナメシノミコ》と申す御名のあるも、天子を日になずらへ奉りて、その日とならびまして、天下をしろしめすといふ御名也。これらにてもしるべし。古事記下卷に、多加比加流比能美夜比登《タカヒカルヒノミヤヒト》云々。本集五【卅一丁】に、高光日御門庭《タカヒカルヒノミヤニハ》云々など見えたり。さて、或人の説に、日は借字にて、檜也。古事記下卷に、麻紀佐久比能美加度《マキサクヒノミカト》とあるにても思ふべしと、いへれどたがへり。古事記なるは、麻紀佐久《マキサク》とあるからは、檜の御門、こゝなるは、日の御門也。まがふべからず。御門は、借字にて、宮殿なり。みかどゝは、もとは御門のことなれど、轉じて宮殿の事をも、朝廷の事をも、帝の御事をも申奉れり。宮殿の事を、みかどといふ事は、下【攷證二中五十丁】にいふべし。古事記に朝廷、書紀に朝、朝廷、朝堂、帝朝などをよめり。皆意同じ。
 
不知國《シラヌクニ》。
考には、不知國依《シラヌクニヨリ》巨勢道從《コセチヨリ》と、句をきりて、不知國《シラヌクニ》は諸國にて、諸國從も、巨勢道從も、材木をのぼすよし注せられしかどたがへり。こは、代匠記に、大唐三韓の(170)外も、名もしらぬ國々まで、徳化をしたひて、よりくるといふ事を、高市郡のこせといふ所の名に、いひつゞけたり云々といはれしがごとく、不知國《シラヌクニ》は、異國にて、その異國も、中國に寄《ヨリ》くといふを、よりこせぢとはいひかけし也。この不知國《シラヌクニ》とあるは、こせぢといはん序のみにおけるにて、一首の意にかゝはる事にあらず。さては不知國《シラヌクニ》と、五言によみ、依巨勢道從《ヨリコセチヨリ》と、七言に句を切てよむべし。さて後の書なれど、宇津保物語俊蔭卷に、あだの風おほいなる浪に、たゞよはされて、しらぬくにゝ打よせらる云々とあるも、異國をいへり。
 
依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》。
よりこせといふ言は、本集九【九丁】に、妻依來西尼《ツマヨリコセネ》、妻常言長柄《ツマトイヒナカラ》云々ともありて、よりこせといふを、依巨勢道《ヨリコセチ》といひかけたる也。本集三【廿六丁】に、小浪磯越道有《サヽレナミイソコセチナル》云々。延喜神名帳に、大和國葛上郡巨勢山口神社とあり。此集中に出たる巨勢は、いづれの郡ならん。大和志にも、二郡に載たり。おのれ地理にうとければ辨じがたし。七【六丁】に、吾勢子乎《ワカセコヲ》 乞許世山登《コチコセヤマト》云々。十【六丁】に、吾瀬子乎莫越山能《ワカセコヲナコセノヤマノ》云々。十三【十一丁】に、直不來自此巨勢道柄《タヽニコヌコユコセチカラ》云々などあるも、みな巨勢といひかけたり。和名抄郷名に、大和國高市郡巨勢云々と見えたり。
 
我國者《ワカクニハ》。
この句より、薪代登といふまでは、泉の河といはん序のみにおける語にて、一首の意にかかはらず。
 
常世爾成牟《トコヨニナラム》。
集中、常世といふに二つあり。一つは常世國《トコヨノクニ》をいひ、一つは字のごとく常《トコ》とはにして、かはらぬ世をいへり。常世國の事は、本集四【攷證四ノ中四十丁】にいふべし。さてこゝなる常世爾成牟《トコヨニナラム》は、常《トコ》とはにかはらぬ世とならんといへる也。書紀垂仁紀に、伊勢國、則|常世《トコヨ》之浪重浪歸國也云々。顯宗紀に、拍上《ウチアゲ》賜吾|常世《トコヨ》等云々などある、これらみな同じ。猶下(171)【攷證三上卅一丁】にもいへり。
 
圖負留《フミオヘル》、神龜毛《アヤシキカメモ》。
藝文類聚、引2龍魚河圖1云、堯時、與2群臣賢智1、到2翠※[女+爲]之川1、大龜負v圖來投v堯、上勅2臣下1、寫取告2瑞應1、寫畢龜還2水中1云々。古微書、引2孝經援神契1云、天子孝、天龍負v圖、地龜出v書云々。これらの故事をよめり。又古微書、引2尚書中候1云、玄龜負v書出云々ともありて、負v圖とも負v書ともあれば、かよはして圖の字をふみとはよめる也。神龜は、爾雅釋魚に、一曰神龜、二曰靈龜云々と見えたり。假名玉篇に、神【アヤシ】とよみ、易繋辭上傳注に、神也者變化之極云々。管子内業篇注に、神不測者也云々などもあれば、あやしといふ意は、もとよりこもれり。書紀天智紀云、九年六月、邑中獲v龜、背書2申字1、上黄下玄、長六寸許云々。續紀云、靈龜元年八月、献2靈龜1、長|七年《(マヽ〜》闊六寸、左眼白右眼赤、頸著2三台1、脊負2七星1云々。天平元年六月、献v龜、長五寸三分闊四寸五分、其背有v文云、天皇貴平知2百年1云々。八月詔曰云々、負圖龜《フミオヘルカメ》一頭献 止 奏賜【不爾】云々なども見えたり。
 
新代登【アラタヨト】。
考に、新代とは、新京に御代しろしめすをいふ也云々といはれしは、くはしからず。あたら代とは、あらたにめづらしくふりせぬ代といふ意にて、御代をほめていふ言なり。本集三【五十九丁】に、吾黒髪乃眞白髪爾成極《ワカクロカミノマシラカニナリキハルマテ》、新世爾共將有跡《アタラヨニトモニアラムト》云々。六【四十三丁】に、名良乃京矣新世乃事爾之有者《ナラノミヤコヲアタラヨノコトニシアレハ》云々。十三【三丁】に、石根蘿生左右二新夜乃好去通牟《イハカネニコケムスマテニアタラヨノサキクカヨハム》云々などあるも、しか也。新夜とかけるも、夜は借字にて、世也。又十七【十四丁】に、新年乃婆自米爾《アタラシキトシノハジメニ》云々とあるも、あらたにめづらしき年といふにて、新世の新と同じ。又|惜《ヲシ》きことを、あたらしといへる言、古事記よりはじめ(172)て、書紀にも集中にもいと多し。これは、意は別なれど、惜むも愛し思ふより、をしむなれば、めづらしと愛する意も、こもりたれば、この|ゝ《(マヽ)》の新世のあたらと、語のもとは、一つ也。さて、宣長は、あたら世といふも、たゞ世といふと同じことになるなり。世とは、とし月日のうつりゆくほどの間をいへば也云々といはれしかど、これもくはしからぬなり。久老は、新はみなあらたと訓べし。二十の卷なる、年月波安多良安多良爾《トシツキハタラアタラニ》といふ歌も、一本に安良多安良多爾《アラタアラタニ》とあるぞよき。すべて、古へに、新をあたらしといへることなし。あらたしなり。そを後にあたらしといふは、可惜《アタラシ》とまがひたる訛也云々といひしかど、この説もいかゞ。○上に、我國者《ワカクニハ》といふより、この新代登《アタラヨト》といふまでは、泉の川といはん序におけるのみにて、前後の意にかゝはることにあらず。我國《ワカクニ》は、常世《トコヨ》にならん、新代《アタラヨ》と圖《フミ》負《オ》へる神龜《アヤシキカメ》も出《イツ》といふを、泉《イヅミ》といひかけたる也。本集九【十一丁】に、妹門入出見河乃《イモカカドイリイヅミカハノ》云々などいひかけたるにても、おもふべし。
 
泉乃川爾《イヅミノカハニ》。
書紀崇神紀云、挾v河屯之、各相挑焉、故時人改2號其河1、曰2挑河1、今謂2泉河1訛也云云。和名抄郷名に、山城國相樂郡水泉【以豆美】云々。延喜雜式に、山城國泉河樺井渡瀬者云々など見えたり。集中猶多くよめり。
 
持越流《モチコセル》。
こは、宮作る材木を、宇治川よりとりあげて、陸路を持越《モチコシ》て、又泉川にながせる也。古事記中卷に、自2山多和1、引2越《ヒキコシテ》御船1、逃上行也云々。書紀欽明紀に、發v自2難波津1、控2引《ヒキコシテ》船於狹々波山1云々とあるも、船と材木と異るのみ。水よりとりあげて、山を引こして、又水にうかべる也。又本集十三【八丁】に、月夜見乃持有越水伊取來而《ツキヨミノモチコセルミツイトリキテ》云々なども見えたり。さて、宣長云、(173)泉乃河爾持越流《イツミノカハニモチコセル》は、宇治川より上《アゲ》て、陸路を泉川まで、持越《モチコシ》て、又流す也。こは、今の世の心をもて思へば、宇治川より直に下すべき事なるに、泉川へ持越て、下せるは、いかなるよしにか。古へはしかすべき故ありけんかし云々。
 
眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》。
眞木は、木の名にあらず。木をほめて眞木とはいへる也。この事は、上【攷證廿丁】にいへり。都麻手《ツマテ》の事も、上【攷證廿八丁】にいへり。
 
百不足《モヽタラズ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。記紀にも見え、集中にも多かり。百にたらぬ五十《イ》八十《ヤソ》などつゞけしのみ。外に意なし。
 
五十日太爾作《イカタニツクリ》。
五十日太《イカタ》は、借字にて、桴の字、筏の字などをよめり。書紀孝徳紀に、採v竹爲v筏云々。延喜木工寮式に、近江國大津雜材直、並|桴《イカダ》功餞云々。和名抄船類に、論語注云、桴編2竹木1、大曰v筏【音伐字亦作v※[舟+發]】小曰v桴【音浮玉篇字亦作v艀在2舟部1和名以加太】云々など見えたり。五十の二字を、いの一言によむことは、上【攷證十四丁】にいへり。
 
泝須良牟《ノボスラム》。
泝は、書紀垂仁紀一書に、自2菟道河1泝《サカノボリ》北入2近江國吾名邑1云々。國語呉語注に、逆v流而上曰v泝とも見えたれば、のぼるとよまんこと論なし。さて、宣長云、泝須良牟《ノボスラム》とは、海より紀の川へいれて、紀の川を泝《ノボ》すをいひ、さて、巨勢路より宮所に運ぶまでをかねたり。されば、こは、泉の河に持越る材を、云々して、巨勢道より、吾作日御門《ワカツクルヒノミカト》にのぼすらんといふ語のつゞきにて、御門爾《ミカトニ》の爾《ニ》と、巨勢道從《コセヂヨリ》の從とを、この泝《ノボ》すらんにて結びたるもの也。てにをはのはこびを、よくたづねて、さとるべし。なほざりに見ば、まがひぬべし。さて、(174)良牟と疑ひたるは、この作者は、宮作の地にありて、よめるよしなれば、はじめ、田上山より、伐出せるより、巨勢路をはこぶまでは、皆よその事にて、見ざる事なれば也。さて伊蘇波久見者《イソバクミレバ》とは、宮地へ運び來たるを、目のまへに見たるをいへり。上の良牟《ラム》と、この見者《ミレバ》とを相照して、心得べし。さて難波海に出し、紀の川をのぼすといふ事は見えざれども、巨勢路よりといへるにて、然聞えたり。巨勢道は、紀の國にゆきかふ道なれば也。又筏に造り、泝すらんといへるにても、かの川をさかのぼらせたることしるく、然らざれば、此歌きこえず、大かた、そのかみ、近江山城などより、伐出す材を、大和へのぼすには、必ず、件の如く、難波海より紀の川にいれて、泝すが定まれる事なりし故に、其事はいはでも、しかきこえしなりけり云々。
 
伊蘇波久見者《イソバクミレバ》。
考に、事をよく勤るを、紀にいそしといへり云々といはれしは、いかゞ。伊蘇波久見者《イソバクミレハ》とは、筏に作りてのぼしゝ材木の、多きを見ればといふことにて、いそばくは數の多きをいふ。いくばく、そこばく、こゝばく、こきばくなど、みな數の多きをいふ言に、ぱくといふ言の付たるにて、こゝも、これらと一つ言なるをしるべし。古今集、物名に、花ごとにあかずちらしゝ風なれば、いくそばくわがうしとかは思ふ云々とあるも、こゝのいそばくと同じ。さて伊蘇波久《イソバク》の波の字も、こゝばく、こきばく、そこばく、いくばくなどの例もてにごるべし。波の字を、濁音に用ひたること、本集上【十八丁】に太敷座波《フトシキマセバ》云々。又【十九丁】國見乎爲波《クニミヲスレバ》云々などありで、猶多かり。すべて清濁といふものは、定りたるやうにて、又足らぬも多きものとしるべし。古言清濁考のごとく、こと/”\くに定りたるものにあらず。
 
(175)神隨《カムナカラ・カミノマヽ》爾有之《ナラシ》。
舊訓、かみのまゝならしとあれど、誤り也。かむながらならしとよむべき也。隨は、續紀第一之詔に、天 都 神 乃 御子隨 母 《アマツカミノミコナガラモ》云々。また隨神所思行《カムナガラオモホシメ》【佐久止《サクト》】云々。本集二【廿七丁】に、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミガミヤニ》、神隨太敷座而《カムナガラフトシキマシテ》云々。また【卅四丁】に、皇子隨任賜者《ミコナガラヨサシタマヘハ》云々などあるにても、ながらとよむべきをしるべし。又まに/\とよめるも、集中多かれど、こゝはかならずかむながらとよむべきなり。かんながらの事は、上【攷證八丁】にいへり。さて、宣長云、この歌のすべての趣は、田上川より伐出せる宮材《ミヤギ》を、宇治川へくだし、そを又泉川に持《モチ》越(シ)て、筏に作りて、その川より難波海に出し、海より又紀の川を泝《ノボ》せて、巨勢の道より藤原の宮の地へ運び來たるを、その宮造りに役《ツカ》はれ居る民の見てよめるさまなり。
 
右日本紀曰。朱鳥七年。癸巳。秋八月。幸2藤原宮地1。八年。甲午。春正月。幸2藤原宮1。冬十二月。庚戌朔乙卯。遷2居藤原宮1。
 
朱鳥七年癸巳。
癸巳の年は、持統天皇七年なれ《(マヽ)》、朱鳥元年よりは八|年《》あたれり。七年とするは誤り也。
 
秋八月。
本紀を考ふるに、この下に戊午朔の三字あるべし。
 
八年甲午。
これも朱鳥九年なり。
 
(176)後2明日香宮1。遷2居藤原宮1之後。志貴皇子御作歌。
 
明日香宮。
こゝは、明日香清御原宮なり。遷2居藤原宮1之云々とあれば、明日香宮とのみいひて、清御原宮なる事明かなれば、略してしか書る也。この宮の事は、上【攷證一ノ上卅六丁】にいへり。
 
志貴《シキノ》皇子。
書紀には、施基《シキ》、また芝基《シキ》などかけり。皆同じ。天智紀云、有2道君伊羅都賣1、生2施基皇子1云々。天武紀云、朱鳥元年八月、癸未、芝基皇子、磯城皇子、各加2二百戸1云々。續紀云、靈龜二年、八月甲寅、二品志貴親王薨、親王天智天皇第七之皇子也、寶龜元年追尊稱2御春日宮天皇1云々とあり。光仁天皇の御父なれば也。
 
51 婬女乃《タハレメノ》。袖吹反《ソテフキカヘス》。明日香風《アスカカセ》。京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》。無用爾布久《イタツラニフク》。
 
印本、※[女+采]女乃《タワヤメノ》とあれど、※[女+采]は正字通に、※[言+爲]字とせり。考に、※[女+委]に直されしも、さることながら、拾穗本に、婬とあるによりて、改む。されど、拾穗本「婬女をたをやめとよみしは誤り也.婬と、※[女+采]と、字體の似たるより誤れる也。婬女は、たはれめとよむべきなり。新撰字鏡に、婬【烏林反、過也、遊逸也、戯也、私逸也、宇加禮女又不介留又太波留。】云々とありて、本集九【十七丁】に、容艶縁而曾妹者多波禮弖有家留《カホトキニヨリテソイモハタハレテアリケル》云々など見えたり(四字衍?」などあるにてもたはれめとよむべきをしるべし。
(177)袖吹反《ソデフキカヘス》。
考には、袖ふきかへせと訓れつれど、舊訓のまゝ、かへすとよむべき也。この一首の意は、このあすかの地の、都なりしほどは、婬女《タハレメ》などの、袖をふきかへしゝ、この明日香の風も、今は都の遠さに、さる婬女のなければ、いたづらにふくぞといへる意なれば、袖ふきかへすとよまでは、意きこえがたし。
 
明日香風《アスカカゼ》。
こは、明日香《アスカ》といふ所の風なり。本集六【廿七丁】に、佐保風《サホカゼ》云々。十【五十二丁】に、泊瀬風《ハツセカゼ》云々。十四【十四丁】に、伊香保可是《イカホカセ》云々などの類なり。
 
無用爾布久《イタツラニフク》。
無用《イタツラ》、義訓也。書紀孝徳紀に、不食之地、閑曠之所などを、いたづらなるところとよめり。これらも義訓也。本集五【十九丁】に、伊多豆良爾阿例乎知良須奈云々。十一【十四丁】に、無用伊麻思毛吾毛事應成《イタツラニイマシモワレモコトヤナルベキ》云々なども見えたり。古今集、俳諧に、何をして身の|お1《(マヽ)》ぬらん、いたづらに年のおもはん事ぞやさしき云々。土佐日記に、いたづらに日をおくれば、人々ながめつゝぞある云々など見えたり。皆無用の意なり。
 
藤原宮御井歌。
 
藤原宮の宮中の井也。されば、御井とはかけり。いにしへ井といふに二つあり。一つは、今のごとく、底深く掘たるをいひ。一つは飲べき水にまれ、田に引水にまれ、用る水に汲んとて、水を引て取る流をも、井とはいひし也。この事、下【攷證七上十五丁】八信井《ハシリヰ》の下に、くはしくいふべし。こゝなる御井も、下に御井之清水とよめれば、藤原宮の大御水に汲んとて、外より流を取入られたる、(178)その流をいへるなり。この御井は、山の井のごとく、わき流るゝ井なるべし。歌の末に、御井之清水《ミヰノマシミヅ》とよめり。今の世の心にて思へば、井と清水《シミヅ》と別なるやうなれど、清水《シミヅ》とは流るゝ水をいひ、井とは人の手にて掘たるをいへる名也。おのづからに出る水を、泉《イヅミ》といひ、人の掘たるを井といふのみ。物は、井も泉も一つもの也。されば、井よりわき流るゝ水なれば、井の清水といはん事、論なし。釋名釋宮室に、井清也、泉之清潔者也云々とあるにても、井と泉と一つ物なるをしるべし。さて井に二つあり。一つは、水あさく、わき流るゝあり。そこふかく水ありて、流れぬもあり。こ|そそ《(マヽ)》の所々にいふべし。僻案抄に、御井は、大宮造營の時、掘たる井にはあらず。上古より、ありし井なり。朝廷に用ひらるゝ故に、御井とはいふなり云々。考云、うたに藤井が原とよめる、即、こゝに上つ代より異なる清水ありて、所の名ともなりしものぞ。香山の西北の方に、今清水ありといふは、これにや。
 
52 八隅知之《ヤスミシヽ》。和期大王《ワゴオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。麁妙乃《アラタヘノ》。藤井我原爾《フヂヰガハラニ》。大野門《オホミカド》。始賜而《ハジメタマヒテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツヽミノウヘニ》。在立之《アリタヽシ》。見之賜者《ミシタマヘバ》。日本乃《ヤマトノ》。青香具山者《アヲカグヤマハ》。日經乃《ヒノタテノ》。大御門爾《オホミカドニ》。青山跡《ハルヤマト》。之美佐備立有《シミサビタテリ》。畝火乃《ウネビノ》。此美豆山者《コノミヅヤマハ》。日緯能《ヒノヌキノ》。大御門爾《オホミカドニ》。彌豆山跡《ミヅヤマト》。山佐備伊座《ヤマサビイマス》。耳爲之《みヽナシノ》。青菅山者《アヲスカヤマハ》。背友乃《ソトモノ》。大(179)御門爾《オホミカドニ》。宜名倍《ヨロシナヘ》。神佐備立有《カミサビタテリ》。名細《ナグハシ》。吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》。影友乃《カゲトモノ》。大御門從《オホミカドユ》。雲居爾曾《クモヰニゾ》。遠久有家留《トホクアリケル》。高知也《タカシルヤ》。天之御蔭《アメノミカゲ》。天知也《アメシルヤ》。日御影乃《ヒノミカゲノ》。水許曾波《ミヅコソハ》。常爾有米《ツネニアルラメ・トキハニアラメ》。御井之《ミヰノ》清《マシ・キヨ》水《ミヅ》。
 
和期大王《ワゴオホキミ》。
印本、期を斯に誤る。今、集中の例によりてあらたむ。本集二【廿三丁】に、八隅知之吾期大王乃大御船《ヤスミシシワゴオホキミノオホミフネ》云々。また【廿四丁】八隅知之和期大王之恐也《ヤスミシシワゴオホキミノカシコキヤ》云々。六【十二丁】に、安見知之吾期大王之常宮等《ヤスミシシワゴオホキミノトコミヤト》云々などありて、猶多し。宣長云、こは下のおへ、つゞく故に、賀意《ガオ》つゞまりて、期《ゴ》となるを、長く詠《ウタ》へば、おのづから期意《ゴオ》となる也。さる故に、これはたゞ吾大王とつづく時のみのことなり。すべて、吾をわごともいふことゝ心得るはひがことなり。さてこゝに、和期大王《ワゴオホキミ》と申すは、持統天皇をさし奉り、日之皇子と申すは、高市皇子尊をさし奉れり。宮殿は別なるべけれど、天皇も春宮も同じ藤原の地におはしましゝ也。この事は、下【攷證二下廿八丁】にいふべし。
 
藤井我原《フヂヰガハラ》。
この地名、こゝより外、物に見えず。藤原といへる地名は、この藤井が原の井を略けるなるべし。僻案抄云、藤井が原は、藤原也。この原に、むかしより名井あるが故に、藤井が原ともいふ。殊に御井をよめる歌なれば、藤原を藤井が原とはよめる也。
 
(180)大御門《オホミカド》。始賜而《ハシメタマヒテ》。
大御門《オホミカド》は、大朝庭《オホミカド》にて、こゝは宮殿を造り始め給ふといへるなり。まへに、日之御門とあるも、借字にて、朝廷なるを思ふべし。さて、本集二【三十五丁】に、埴安乃御門之原爾《ハニヤスノミカドノハラニ》云々とよめるも、この御門ありし故の名なり。
 
埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツツミノウヘニ》。
埴安は、書紀神武紀に、天皇以2前年秋九月1、潜取2天香山之埴土1、以造2八十平瓮1、躬自齋戒、祭2諸神1、遂得v安2定區宇1、故號2取v土之處1曰2埴安1云々と見えたり。大和國十市郡也。大和志云、埴安池、在2南浦村1、今曰2鏡池1云々。本集二【三十六丁】に、埴安乃池之堤之隱沼之《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノ》云々。延喜式神名帳に、大和國十市郡畝尾坐健土安神社云々なども見えたり。
 
在立之《アリタヽシ》。
古事記上卷に、佐用婆比爾阿理多々斯《サヨバヒニアリタヽシ》、用婆比爾阿理加用婆勢《ヨバヒニアリカヨハセ》云々。本集十三【六丁】に、島之埼邪伎安利立有花橘乎《シマノサキザキアリタテルハナタチバナヲ》云々など見えたり。考云、むかし今と、絶せず在ことを、在通《アリカヨ》ふ、在乍《アリツヽ》などいへり。しかれば天皇、はやくよりこの堤にたゝして、物見放給へりしをいふなり。
 
見之賜者《ミシタマヘバ》。
見之賜者《ミシタマヘバ》の、みは、めとよ(か?)よひて、上に賣之賜《メシタマフ》とあると、同語なれど、ここをも、考に、めし給へば、とよまれしは、いかゞ。舊訓のまゝ、見し給ふとよむべき也。さて見し給へばの、し文字は、助字の如く、意なくて、見給ふ也。本集六【卅一丁】に、我大王之見給芳野宮者《ワカオホキミノミシタマフヨシヌノミヤハ》云々。十九【卅九丁】に、見賜明米多麻比《ミシタマヒアキラメタマヒ》云々なども見えたり。上【攷證廿七丁】賣之賜牟登《メシタマハムト》(181)云々とあるをも考へ合すべし。猶下【攷證三下六十五丁】をも考へ合すべし。
 
日本乃《ヤマトノ》。
大和國なり。日本とかけるは、借字なり。この事、上【攷證十六丁】にいへり。考云、此下に、幸2吉野宮1時、倭爾者鳴而歟來良武とよめるは、藤原都方を倭といへる也。然れば、香山をも、しかいへる事、しるべし。後にも、山邊郡の大和の郷といふは、古へは大各《オホナ》にて、其鄰郡かけて、やまとゝいひしなり云々。
 
青香具山者《アヲカグヤマハ》。
木草の、青々としげりたる香山といふ事也。古事記上卷に、青山如2枯山1泣枯《アヲヤマヲカラヤマナスナキカラシ》云々とある青山も、青々としたる山をいふ。下に青菅山といふも、菅のあをあをと生たるをいふ。
 
日經乃《ヒノタテノ》。
周禮天官書疏に、南北之道、謂2之經1、東西之道、謂2之緯1云々。漢書五行志注に、晋灼曰、南北爲v經、東西爲v緯云々とありて、南北を經とすれば、こゝに日の經とあるは、南北といふ事也。香山は、この大御門の南か北に當れるなるべし。予、いまだ、界をこえざれば、しらず。書紀成務紀に、以2東西1爲2日縱1、南北爲2日横1云々とも見えたり。さて、經緯《タテヌキ》といふは、正字通に、凡織縱曰v經、横言v緯云々。和名抄織機具に、説文云、緯【音尉和名沼岐】織v横絲也、謂v緯則經可v知云々などありて、もと機をおる糸の、よこたてをいふ事なるを、轉じて、何にまれ、物のよこたてには用ふる也。されば、天地四方のよこたてをも、經緯といふ也。
 
(182)大御門《オホミカド》。
まへに、大御門始賜而《オホミカドハシメタマヒテ》とあるは、朝廷をいひ、こゝは宮門をいふ。この御門、香山の方にむかへるなるべし。
 
青山跡《アヲヤマト》。
印本、春山路《ハルヤマヂ》とあれど、こゝは句を對にとりて、歌とせる處にて、青香具山《アヲカグヤマ》は、青山跡《アヲヤマト》しみさびたち、美豆山《ミヅヤマ》は、美豆山跡《ミツヤマト》やまさびいますと、對にせる句なれば、必ず青山跡《アヲヤマト》となくては、かなはざる所なるうへ、春と青、路と跡と、字體の似たるより誤れる事明らかなれば、考と宣長との説によりて改む。見ん人、句の對を考へてしるべし。
 
之美佐備立有《シミサビタテリ》。
之美《シミ》は、古事記下卷に、須惠幣爾波多斯美陀氣淤斐《スヱヘニハタシミダケオヒ》云々。本集三【五十四丁】に、京思美彌爾里家者左波爾雖在《ミヤコシミミニサトイヘハサハニアレドモ》云々。十七【九丁】に、烏梅乃花美夜萬等之美爾《ウメノハナミヤマトシミニ》云云などある、しみと同じく、繁《シゲ》き意也。佐備は、神さびのさびと同じく、進む意にて、青々と榮|へ《(マヽ)》進みて、たてりといふ意也。佐備てふ言は考別記にくはし。
 
畝火《ウネビ》。
畝火山也。上【攷證上ノ廿四丁】にいへり。
 
此美豆山者《コノミヅヤマハ》。
このといへるは、今、目前にある香山なれば、このとさしてはいへる也。みづは瑞にて、みづ枝などいふ、みづと同じ。青々とみづ/\しき意也。
 
日緯能《ヒノヌキノ》。
日緯《ヒノヌキ》は、經緯《タテヌキ》の緯にて、前の日經《ヒノタテ》の所にくはし。さてこの緯を、考には、よことよまれつ。前に引たる書紀に、日横とありて、正字通にも、構曰v緯ともあれど、たてぬきといふ時は、必らず、ぬきといふべき言にて、よことよまれしは誤り也。本集七【九丁】に、薨《・(マヽ)》席誰將織經緯無二《コケムシロダレカオリケンタテヌキナシニ》云々。八【卅一丁】に、經毛無緯毛不定《タテモナクヌキモサダメズ》云々。古今集、秋下に、霜のたて露のぬきこそよわ(183)からし、山の紅葉のおればかつちる云々。後撰集、秋上に、秋のよのながきわかれをたなばたはたてぬきにこそ思ふべらなれ云々などあるがうへに、和名抄に緯をぬきとよめるにても思ふべし。
 
大御門《オホミカド》。
字のごとく、宮門をいふ。この御門、日緯《ヒノヌキ》とあれば、東西に向へるなるべし。
 
山佐備伊座《ヤマサビイマス》。
考云、こゝにいますといひ、次に神さび立といへれば、上も神さびの略なるをしりぬ。其山を即神とするは例也云々。いはれつるがごとし。之美佐備《シミサヒ》、山佐備《ヤマサヒ》、神性備《カミサヒ》と三つを對にとりて、句をなせる也。皆意同じ。これ長歌の格なり。
 
耳爲之《ミヽナシノ》。
考云、今本に、耳高とあれど、こゝは大和の國中の三つの山をいひて、その三の一つの耳成山ぞ、北の御門にあたるなれば、爲を高に誤りし事、定か也。故に、改たり云々とあるがごとく、三つの山を對にとりて、歌をなせる所なれば、印本のごとく耳高《ミヽタカ》とありてきこえがたし。
 
青《アヲ》菅《スカ・スケ》山《ヤマ》。
考云、こは山の名にあらず。上の二山に、ほめたることあるがごとく、常葉なる山菅もて、耳成の茂榮るをいふ云々といはれつるがごとし。舊訓、あをすげ山とあれど、こ|く《(マヽ)》物の名にいふ時は、必ずすが何々といふべき也。古事記中卷に、須賀多々美云々、本集十四【七丁】に、須我麻久良《スカマクラ》云々などあるにても思ふべし。
 
背友《ソトモ》。
背友《ソトモ》の、友は、借字にて、背面也。書紀成務紀に、山腸曰2影面《カケトモ》1、山陰曰2背面《ソトモ》1云々とありて、影面《カゲトモ》はかげつおも、背面《ソトモ》はそつおも也。つおの反、となれば、かげとも、そとも(184)などなる也。さて、背は、毛詩蕩章釋文に、背後也云々。廣雅釋親に、背北也云々ともあるがごとく、後《ウシロ》の意なり。袖中抄十九に、そともはうしろといふこと也云々とも見えたり。又本集二【卅四丁】に、背友乃國之《ソトモノクニノ》、眞木立不破山越而《マキタツフハヤマコエテ》云々などもあり。
 
宜名倍《ヨロシナヘ》。
考別記云、よろしてふ言は、物の足《タリ》そなはれるをいふ。よろづ、よろこび、よろひなどいふ、皆同じ言より別れたる也。故、此卷に、取與呂布《トリヨロフ》天香具山てふは、山のかたち、麓の木立、池のさまゝでとゝのひ足たる山なれば也。耳爲《ミヽナシ》の青菅山《アヲスカヤマ》は、宜名倍《ヨロシナヘ》てふも、山のかたちの、そなはれる事、香具山にいへるがごとし。懸乃宜久《カケノヨロシク》、遠津神吾大王のとよまれしも、本より百千足《モヽチタル》天皇の御事なれば、申すもさら也。卷十四に、宜奈倍《ヨロシナヘ》吾背乃君が負來《オヒキ》にし、このせの山をいもとはよばじてふも、萬づ足たる君と、ほめいふなるをしるべし云々といはれしがごとし。名倍《シナヘ》は、上【攷證廿七丁】奈戸二《ナヘニ》とある所にいへるがごとく、並《ナヘ》の意也。されど、こゝなどは、それをもとにて、なべは助字のごとく、たゞよろしきといふに當れり。この事にも、この意なるも多かり。
 
神佐備《カムサビ》。
上【攷證八丁】にいへり。
 
名細《ナクハシ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。この語は、物をほめていふ言にて、古事記に細、微などの字をよみ、書紀に妙の字、本集に細、麗、妙、吉などの字をよめり。いづれも義訓にて、(185)細の字ぞ正字なる。細は、玉篇に、微也小也云々とありて、こまかに至らぬ所なきをいふ也。くはしてふ言は、今の世にいふ所も同じく、すみ/”\まで、いたりて、漏ることなきをいへり。されば、おのづからに、物をほることになりて、たゞ物のよきことにも、めでたきことにも用ひたり。花ぐはし、香ぐはし、いすぐはし、うらぐはし、くはし妹、くはし女などいふも、皆同じ。く(う?)るはしといへる語もうらぐはしのつゞまりなりと、眞淵はいはれきとぞ。
 
影友《カケトモ》。
上の背友《ソトモ》の條にいへるがごとし。友は借字にて、影面也。則かげつおもの略なり。こは南をいふ。
 
雲居爾曾《クモヰニゾ》。遠有家留《トホクアリケル》。
雲居《クモヰ》、集中いと多し。天《ソラ》は、雲の居るものなれば、雲ゐといひて、やがて、天との|こゝ《(マヽ)》もし、天は遠きものなれば、遠きを天にたとへて、かくは|か(い?)へる也。くもゐなす、とほきと、つゞくる枕詞などあるを見てもしるべし。本集十二【卅八丁】に、雲居有海山越而《クモヰナルウミヤマコエテ》云々などあるも同じ。爾曾《ニソ》の爾《ニ》は如くの意也。そは、(以下空白)
 
高知也《タカシルヤ》。天之御蔭《アメノミカゲ》
高知《タカシル》は、宮殿を高くしり領じませるをいへるよしは、上【攷證九丁】にいへるがごとし。也は、助字のやのたぐひにて、かろくおきたるにて、意なし。さて、この高知也てふ語は、天といはん枕詞なるを、冠辭考にもらされしはいかゞ。この事は、予が冠辭考補遺にいふべし。天之御蔭《アメノミカゲ》の、天は、天皇を申す也。天皇を天にたとへ奉る事は、天皇、天子などかけるにてもしるべし。こゝの意は、宮殿などを高く知り領じます、天皇の御蔭の、うつる水こそはといへる也。考の説、たがへり。
 
(186)天知也《アメシルヤ》。日之御蔭《ヒノミカゲ》。
天知《アメシル》は、天を知り領じませるをいふにて、本集三【五十八丁】に、久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレソ》云々と見えたり。さて、この天知也てふ語も、日といはん枕詞なるを、冠辭考にもらされしは、いかゞ。枕詞に、さひづるやから、あまとぶやかるなどいふ、やもじと、こゝの高知也《タカシルヤ》、天知也《アメシルヤ》などの、やもじと、同格なるを見ても、枕詞なるをしるべし。これらの事、くはしく冠辭考補遺にいふべし。日は、天を知り、領しますなれば、かくはつゞけし也。御蔭といふにて、かげの水にうつることをこめたり。又祈年祭祝詞に、天御蔭日御蔭《アメノミカゲヒノミカゲト》、隱坐※[氏/一]《カクリマシテ》云々なども見えたり。
 
常爾有米《ツネニアルラメ・トキハニアラメ》。
舊訓、ときはにあらめとあるも、さることながら、常の一字を、ときはとよみし例なし。古事記上卷に、常堅を、ときはかきはとよめれど、こはまへに、石の字あれば、それにゆづりて、二つながらはぶけるなれば、この例とはなしがたし。考に、とこしへならめとも、つねにあるらめとも、二樣によまれしかど、つねにあるらめの方に、したがふべし。本集五【九丁】に、余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカノツネニアリケル》、遠等呼良何《ヲトメラカ》云々などあるにても思ふべし。
 
御井之《ミヰノ》清水《マシミヅ・キヨミヅ》。
舊訓、きよみづとあり。僻案抄には、しみづはとよみ、考に、ましみづとよまれつ。今は、考の訓にしたがふ。眞は、例のほむる詞。しみづは、すみ水のつゞまり、すみの反、しなれば也。書紀には好井、古事記には清水、寒泉などを、しみづとよめり。天文本和名抄、水土類に、日本紀私記云、妙美井【之美豆】石清水【以波之三豆】云々と見えたり。
 
(187)短歌。
短歌とあるは、疑はしけれど、しばらく本のまゝにて、おきつ。拾穗本には、反歌とあり。さて、考云、今本、こゝに短歌と書て、左の歌を、右の長歌の反歌とせしは、歌しらぬものゝわざて(ぞ?)。左の歌は、必、右の反歌にはあらぬなり。これは、この所に、別に端詞のありしが落たるか、又は亂れたる一本に、短歌とありしを以て、左の歌をみだりにこゝに引付しにもあるべし。故、左は別歌とす。
 
53 藤原之《フヂハラノ》。大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。安禮《アレ》衝哉《ツガム・セムヤ》。處女之友者《ヲトメガトモハ》。之吉《シキ》召《メセル・メス》賀聞《カモ》。
 
大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。
本集十三【五丁】に、内日刺大宮都加倍《ウチヒサスオホミヤツカヘ》云々とも見えたり。宮中につ、かうまつる也。今いふ所と同じ。
 
安禮《アレ》衝哉《ツガム・セムヤ》。
この句より下、誤脱ありとおぼしくて、心得がたし。されど、心みに諸説あげて論ず。衝哉を、舊訓、せんやとあれど、いかゞ。衝は、本集七【卅八丁】に、廣瀬川袖衝許淺乎也《ヒロセカハソテツクハカリアサキヲヤ》云々。十一【廿八丁】に、須蘇衝河乎《スソツクカハヲ》云々。二【卅九丁】に、夜者裳氣衝明之《ヨルハモイキツキアカシ》云々などあるにても、つくとよまんこと論なし。考云、衝は借字にて、生繼者《アレツケハ》にや也。卷十三に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツキクレハ》、人多爾國《ヒトサハニクニ》には滿《ミチ》てで云々。卷十五に、八千年爾阿禮衝之乍《ヤチトセニアレツカシツツ》、天の下しろしめしけん云々といへるたぐひ也云々といはれつるは、さる事ながら、哉の字は、いかに心得られしにか。このやもじを、ば(188)やの意の、やとする時は、下に結び詞なし。さればこの哉もじは、次にあげたる宣長の説のごとく、武の誤りなる事しるし。よりて、今はむとよめり。宣長云、哉字は武の誤り也。この字、誤れる例、これかれあり。さて結句は、田中道磨が、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》を誤れる也といへる、よろし。又六の卷に、長歌に云々、八千年爾安禮衝之乍《ヤチトセニアレツカシツヽ》、天下所知食跡《アメノシタシロシメサント》云々。この二つの安禮衝といふ言は、安禮は、類聚國史に、天長八年十二月、替2賀茂齋内親王1其辭曰云々、皇大神乃阿禮乎止賣爾、内親王齡毛云々、代爾時子女王乎、卜食定弖、進状乎云々。三代實録三十にも、貞觀十九年二月二十四日、賀茂神社齋内親王を、定めたまへる告文に、敦子内親王乎卜定天、阿禮乎度女爾進状乎云々とあるは、賀茂齋王を、阿禮乎止女と申せるにて、この阿禮と同くて、奉仕をいへる言也。賀茂の祭を、御阿禮といふも、奉仕る意なるべし。衝は、神功紀に、撞賢木《ツキサカキ》、嚴之御魂《イツノミタマ》とある、撞と同くて、伊都伎の伊を省ける言なり。されば、安禮衝武處女とは、藤原宮にして、持統天皇に奉仕いつきまつる女官をいへる也。かの阿禮乎止女と思ひ合すべし。友はともがら也。乏《トモシ》は、うらやましき也。然るに、この言を生繼《アレツク》と解たるは、いみじきひがごと也。生繼といふこと、この歌によしなく、且繼と衝とは、久の清濁も異なるを、いかでか借用ひん。さて、六の卷なるは、天下所知食とつゞきたれば、此詞、天皇の御うへの事を申せるさまなれども、一の卷なるを思ふに、天皇の御うへの事に申すべき言にあらず。必、宮づかへする人のうへをいへる言なれば、これも八千年までも、百宮(官?)奉仕《ツカヘ》、いつきまつりて、天下をしろしめさんといふ意によめろにこそ。衝之《ツカシ》は、都伎《ツキ》を延たるなり云々。この説いとたくみにて、いかにもさる事ときこゆれど、本集四【十二丁】に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツキクレハ》、人多國爾波滿而《ヒトサハニクニニハミチテ》云々と正しく生繼《アレツク》とさへあれば、阿禮衝は生繼(189)の借字ならんとおぼゆ。借字は清濁にかゝはらざる例なること、上にもところ/”\にいへるがごとし。(頭書、再考、阿禮衝哉《アレツケヤ》ともよまんか。)
 
處女之友者《ヲトメガトモハ》。
をとめが友は、書紀神武紀に、宇介譬俄等茂《ウカヒガトモ》云々。本集六【廿六丁】に、丈夫之伴《マスラヲノトモ》云々。十六【十九丁】に、佞人之友《ネジケヒトノトモ》云々などある、ともてふ言と同じく、ともがらといふなり。
 
之吉《シキ》召《メセル・メス》賀聞《カモ》。
召は、舊訓、めすとのみよみつれど、考にめせるとよまれしにしたがふ。之吉《シキ》は、古事記中卷に、頻をしきてとよみ、本集八【四十三丁】に、布將見跡吾念君者《シキテミムトワカモフキミハ》云云。十一【廿六丁】に、敷而毛君乎將見因母鴨《シキテモキミヲミムヨシモカモ》云々などある、しきと同じく、重なる意也。しきめる(す?)は、重ねてめせる也。考云、之吉は、重々《シキ/\》也。さてこの大宮づかへにとて、少女がともがらの多く生れ續けばにや、頻に召たてらるゝよと云也。媛天皇におはせば、女童を多くめす事ありけんを、それにつけて、よしありて、この歌はよめるなるべし。かゝれば、必、右の反歌ならず云々。この説も、さる事ながら、哉《ヤ》の字になづめり。かへす/”\も、哉は武の誤りなるべし。
 
右歌。作者未詳。
 
右歌とさせるは、短歌のみにあらず。まへの御井の長歌をもいへるなり。思ひまがふべからず。
 
(190)大寶元年。辛丑。秋九月。太上天皇。幸2于紀伊國1時歌二首。
 
大寶元年。
大寶元年は、文武天皇元年也。續日本紀には、大寶元年、九月丁亥、天皇幸2紀伊國1云々とのみありて、太上天皇御幸の事なし。いづれをか正しとせん。可v考。
 
太上天皇。
こは、持統天皇を申す。天皇御位をしりぞかせ給ひて後の尊號なり。太上天皇の尊號、この持統天皇よりはじまれり。濫觴抄云、持統天皇、十一年丁酉八月一日甲子、讓2位於太子1【年十五】號2太上天皇1、新皇文武天皇也云々と見えたり。さて、漢書高帝紀注に、太上極尊の稱云々と見えて、當帝をたゞ天皇とのみ申せば、先帝を尊稱して、太上天皇とは申す也。洛陽伽藍記、卷二に、天下號v父、爲2秦太上公1、母爲2秦太上君1云々とも見えたり。又史記秦始皇紀云、二十六年、初并2天下1、追2尊莊襄王1、爲2太上皇1云々とも見えたり。
 
二首。
印本、この二字なし。今、目録と集中の例によりて補ふ。
 
54 巨勢山乃《コセヤマノ》。列々椿《ツラ/\ツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。見乍《ミツヽ》思《オモハ・オモフ》奈《ナ》。許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》。
 
巨勢山《コセヤマ》。
考云、藤原の京より、巨勢路をへて、木の國へゆく也云々といはれしがごとく、紀の國へゆくみちにて、巨勢山にてよめる也。巨勢山は、大和高市郡也。この地の事は、上【攷證卅丁】にいへり。
 
(191)列々椿《ツラ/\ツハキ》。
つら/\椿は、つらなり、つらなる椿といふなり、なるを略ける也。本集十九【二十丁】に、小船都良奈米《ヲフネツラナメ》云々とある|を《(マヽ)》、つらね並《ナベ》の、ねをはぶける也。又、十五【十三丁】に、小船乘都良々爾宇家里《ヲフネノリツラヽラニウケリ》云々とも見えたり。皆列なる意也。椿は、和名抄木類云、唐韻云椿【勅倫反和名豆波木】木名也、楊氏漢語抄云海石榴【和名上同本朝式等用v之】云々。また本草和名、新撰字鏡にもいでたり。本集二十【五十五丁】に、夜都乎乃都婆吉《ヤツヲノツバキ》、都良都良爾美等母安加米也《ツラツラニミトモアカメヤ》云々と見えたり。列々《ツラ/\》つばきつら/\と、詞をかさねていへる也。書紀垂仁紀に究、欽明紀に熟をつら/\とよめり。遊仙窟に、一々細、熟などをよみ伊呂波字類抄にも倩、熟などをよめり。いまの語にいふ所の、つら/\と同じ。
 
見乍《ミツヽ》思《オモハ・オモフ》奈《ナ》。
乍《ツヽ》は、韻會に、廣雅暫也、蒼頡篇乍兩辭也、増韻初也、忽也、※[獣偏+卒]也、甫然也云々と見えたり。このつゝは、ての意。おもはなは、おもへと下知の詞にて、つらつら見ておもへといへる也。この句、印本見つゝおもふなとよめるは、いかゞ。宣長も、おもふなとよみて、なもじは助字の奈と定めしかど、助字の奈は、古くは皆、んの字より、うくる詞にて、外の字よりうけたる事なし。さてこゝの、おもふなの、なは、本集八【卅二丁】に、紐解設奈《ヒモトキマケナ》云々。九【卅二丁】に、爾保比天去奈《ニホヒテユカナ》云々。又【十丁】家者夜良奈《イヘニハヤラナ》云々などある、なと同じ。この奈もじ、集中いと多し。宣長は、これらのなもじを、んの意也、定めしかど、これもくはしからず。下知の意なると、んの意なると、二つあり。よく/\考へ見てしるべし。
 
許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》。
許湍《コセ》は、巨勢也。巨勢の春の野をおもへと也。今の御行は、九月なれど、巨勢山につらなり並びである椿などを、つら/\見て、その椿の花などの(192)咲らん春のころの、野などをも思ひやれと、外の人々にいひて、今九月なれど、春を思ひやりてよめる歌なり。
 
右一首。坂門人足。
 
坂門人足、父祖不v可v考。新撰姓氏録卷三十に、坂戸、物部神饒速日命、天隆之時、從者坂戸天物部之後者不v見云々。又舊事記、天神本紀に、坂戸造と見えたり。坂門、坂戸、相通るか。本集十六【十六丁】に、美麗物何所不飽矣《ウマシモノイヅクアカヌヲ》、坂門等之角乃布久禮爾四具比相爾計六《サカトラガツヌノフクレニシグヒアヒニケム》云々。左注に、右時有2娘子1、姓|尺度《サカド》氏也云々とあるは、尺度を坂門とかきたり。續日本紀、天應元年六月條に、河内國尺度池あり。和名抄郷名に、河内、相摸、伯耆などに、尺度郷あり。又延喜諸陵式に、河内坂門原陵あり。和名抄郷名に、大和、常陸等に坂門郷あり。これら、この坂門氏によしある地名歟。可v考。
 
55 朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨイ》。木人乏母《キビトトモシモ》。亦打山《マツチヤマ》。行來跡見良武《ユキクトミラム》。樹人友師母《キビトトモシモ》。
 
朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨイ》。
きの一言へかゝる枕詞なり。舊訓、あさもよいとあれど、あをによしの例によりて、あさもよしとよむべき也。さてこの語、思ひ得ず。契冲、眞淵等の説、とき得られたりとも覺えず。くはしき論は、冠辭考補遺にいふべし。
 
(193)木人《キビト》。
紀伊人なり。いせ人、難波人などの類也。
 
乏母《トモシモ》。
集中、乏《トモシ》といふに三つあり。一つはうらやましき意なると、一つめづらしと愛する意なると、一つは實に乏《トモシ》くまれなる意なる也。めづらしと愛する意なるも、下【攷證二ノ中卅七丁】に、乏くまれなる意なるも、下【攷證三上五十七丁】にいふべし。こゝなる木人乏母《キヒトトモシモ》は、うらやしき也。宣長云、此歌の意は、まつち山のけしきのおもしろきを、見すてゝゆく事のをしきにつきて、この紀伊の國人の、つねに往來に見るらんが、うらやましといへる也。乏《トモシ》は、うらやまし也。其意によめる例は、五【廿二丁】に、麻都良河波多麻斯麻能有良爾《マツラガハタマシマノウラニ》、和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《ワカユツルイモラヲミラムヒトノトモシサ》云々。六【十八丁】に、島隱吾※[手偏+旁]來者乏毳《シマガクリワガコギクレハトモシカモ》、倭邊上眞熊野之船《ヤマトヘノホルマクマヌノフネ》云々。七【十九丁】に、妹爾戀余越去者《イモニコヒワガコエユケバ》、勢能山之妹爾不戀而有之乏左《セノヤマノイモニコヒズテアルガトモシサ》云々。また吾妹子爾吾戀行者《ワギモコニワガコヒユケバ》。乏雲並居鴨《トモシクモナラビヲルカモ》、妹與勢能山《イモトセノヤマ》云々。十七【廿七丁】に、夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久々鶯能《ヤマブキノシゲミトビクヽウクヒスノ》、許惠乎聞良牟《コヱヲキクラム》、伎美波登母之毛《キミハトモシモ》云々。これら思ひ合せてしるべし。又まつち山のけしきをおもしろき事によめるは、四【廿三丁】長歌に、眞土山越良武公者《マツチヤマコユラムキミハ》、黄葉乃散飛見乍《モミチハノチリトブミツツヽ》、親吾者不念《シタシクモワレハオモハズ》、草枕客乎便宜常《クサマクラタビヲヨロシト》、思乍公將有跡《オモヒツヽキミハアラムト》云々とあり云々。これをよしとす。母《モ》は添たる言にて意なし。
 
亦打山《マツチヤマ》。
印本。赤打山とあれど、拾穗本、楢山拾葉等に亦打山とあれば、赤は亦の誤りなる明らかなれば、亦に改む。亦打《マタウチ》の字、たうの反、つなれば、まつちとなるなり。さてまつち山は、舊説、大和といへど、本集四【廿三丁】に、麻裳吉木道爾入立《アサモヨシキヂニイリタチ》、眞土山越良武公者《マツチヤマコユラムキミハ》云々とあるにて、紀伊なること明らけし。大和と紀伊との堺なるよし代匠記にいはれつ。(頭書、まつち(194)山大和なる事、攷證四上四十三丁。)
 
行來跡見良武《ユキクトミラム》。
 
行くたび來るたびに、まつち山を見るらんが、うらやましとなり。本集九【卅六丁】に、葦屋之宇奈比處女之奧槨乎《アシノヤノウナヒヲトメノオキツキヲ》、往來跡見者哭耳之所泣《ユキクトミレハネノミシナカユ》云々とあるもおなじ。
 
右一首。調(ノ)首|淡海《アフミ》。
 
調首淡海は、書紀天武元年の紀に、見えたり。續日本紀云、和銅二年春正月丙寅、授2正六位上調連淡海從五位下1、同六年四月乙卯、授2從五位上1、養老七年正月丙子、授2正五位上1、神龜四年十一月己亥、太政官及八省各上v表奉v賀2皇子誕育1、並献2玩好物1、是日賜2宴文武百寮已下至v使部於朝堂1、五位已上賜v綿有v差、累世之家、嫡子身帶2五位已上1者、別加2※[糸+施の旁]十疋1、但五位上調連淡海、從五位上大倭忌寸五百足、二人年齡居v高、得v入2此例1焉云々と、調連とあるは、天武二年より和銅元年までの間に連の姓を賜はりしなるべし。新撰姓氏録卷二十二に、調連水海連同v祖、百濟國努理使主之後也、譽田天皇謚應神御世歸化、孫阿久太、男彌和次賀夜次麻利彌和、億計天皇謚顯宗御世、蠶織献2※[糸+施の旁]絹之樣1、仍賜2調首姓1云々と見えたり。
 
或本歌。
 
(195)56 河《カハ》上《ノベ・カミ》乃《ノ》。列々椿《ツラ/\ツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。雖見安可受《ミレドモアカス》。巨勢能春野者《コセノハルヌハ》。
 
河《カハ》上《ノベ・カミ》乃《ノ》。
舊訓、かはかみのとあれど、かはのべのとよむべし。古事記下卷に、迦波能倍邇淤斐陀弖流《カハノベニオヒダテル》、佐斯夫袁《サシフヲ》云々。本集十七【十九丁】に、秋風左無美曾乃加波能倍爾《アキカゼサムミソノカハノベニ》云々などあれば、かはのべとよまんこと論なし。皆川のほとり也。和名抄河内甲斐等の郷名に、井上【井乃倍】とあるにても、上はべとよむべきをしるべし。論語子罕篇に、子在2川上1云々とあるも、川のほとり也。これらをも考へ合すべし。○考云、こは春見てよめる歌にして、この度の事にあらず。後にこゝに注せしものなるを、今本大字に書しはひがごと也云々。
 
右一首。春日藏人老。
 
春日藏人老、父祖不v可v考。續日本紀云、大寶元年三月、壬辰、令d2僧弁紀1還俗u、代度一人、賜2姓春日倉首名老1、授2追大壹1云々。和銅七年正月甲子、授2正六位上春日椋首老從五位下1云々と見えたり。又、懷風藻に、從五位下常陸介春日藏首老、年五十二云々。本集三【廿三丁】左注に、右或云弁基者、春日藏首老之法師名也云々などもあり。さて春日は氏、藏首は姓、老は名也。春日氏は、新撰姓氏録に、春日眞人、春日部村主など見え、續日本紀に、天平神護二年三月丁亥、左京人從七位下春日藏※[田+比]登常麿等二十七人、賜2姓春日朝臣1云々と見えたり。藏首はくらびとゝよむべし。書紀天武紀に、次田倉人椹足云々。續日本紀十一に、河内藏人首麿。二十七に春日藏※[田+比]登常麿。二十九に白鳥椋人廣云々。姓氏録に、池上椋人、河原藏人、日置倉云々などあるにても、藏首は(196)くらびととよむべきをしるべし。
 
二年壬寅。冬十月。太上天皇。幸2于參河國1時歌。
 
冬十月。
この三字、印本なし。今集中の例と、續日本紀とによりて補ふ。續日本紀云、大寶二年十月甲辰、太上天皇、幸2參河國1、令d2諸國1無uv出2今年田租1云々。行所2經過1、尾張美濃伊勢伊賀等國郡司乃百姓叙v位、賜v禄各有v差云々と見えたり。太上天皇は、まへと同じく持統天皇を申す。
幸2于參河國1。
印本、于の字なし。集中の例に依て補ふ。
 
57 引馬野爾《ヒクマヌニ》。仁保布《ニホフ》榛《ハリ・ハギ》原《ハラ》。入《イリ》亂《ミダレ・ミダル》。衣爾保波勢《コロモニホハセ》。多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
 
引馬野《ヒクマヌ》。
仙覺抄よりして、參河國とすれどいかゞ。考別記の説の如く、遠江國とすべし。考別記云、遠江國敷智郡濱松の驛を、古へは引馬宿といふ。阿佛尼の記に見ゆ。そこの城を、近ごろまで、引馬の城といひ、城の傍の坂を引馬坂といひ、其坂の上をすこしゆけば、大野あり。そを古へは引馬野といひつと、所にいひ傳へたり。此野、今は三方が原といふ。さてこの度、三河國へ幸とありて、遠江の歌あるをいぶかしむ人あれど、集中には難波へ幸とて、河内和泉の歌もあり。紀には幸2伊豫温湯宮1とある、同じ度に、集には讃岐の歌もあり。其隣國へは、(197)次に幸もあり、又宮人のゆきいたる事もありしゆゑ也。いまもそのごとくなり云々。
 
仁保布《ニホフ》榛原《ハリハラ・ハギハラ》。
印本にも、考にも、榛をはぎとよめるは非。はりとよむべき也。この事は、上【攷證一上卅四丁】にいへり。仁保布《ニホフ》は、色のにほふ也。本集上【十四丁】に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》云々などありて、集中猶いとおほし。古今より後の歌にも多くよめり。
入《イリ》亂《ミダレ・ミダル》。
舊訓、いりみだるとあるはいかゞ。考に、入みだりとよみて、いりみだらしてふ事なるを、良志の約め、利なれば、みだりといふは古言の例ぞ云々といはれしも、いかゞ。こは、榛原に人のいりみだれて、衣をすりて、色ににほはせよといふ意なれば、かならずいりみだれといふべき所なるをや。
 
衣仁保波勢《コロモニホハセ》。
榛原に、自らも人も入みだれて、衣を榛にすりて、色ににほはせよと、下知の詞なり。さて、衣を榛に摺れるは、書紀天武十四年の紀に、蓁揩御衣三具云々。日本後紀延暦十八年の紀に、蓁揩衣云々。延喜四時祭式下の、鎭魂祭官人装束に、蓁摺袍云々。同踐祚大嘗會式の齋服に、榛藍摺錦袍一領云々。同縫殿式の鎭魂齋服に、榛摺帛袍十三領云々。本集七【十三丁】に、住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノトホサトヲヌノマハリモテスレルコロモノサカリスギユク》云々。また【十四丁】古爾有監人之※[不/見]乍衣丹摺牟眞野之榛原《イニシヘニアリケムヒトノモトメツヽキヌニスリケムマヌノハリハラ》。また【廿四丁】不時斑衣服欲香衣服針原時二不有鞆《トキナラヌマタラコロモヲキカホシカコロモハリハラトキナラストモ》云々。また【卅四丁】白管之眞野乃榛原心從毛不念君之衣爾摺《シラスケノマヌノハリハラコヽロユモオモハヌキミカコロモニソスル》云々。十【廿丁】に、思子之衣將摺爾爾保比乞島之榛原秋不立友《オモフコガコロモスランニニホヒコセシマノハリハラアキタヽストモ》云々。蓁とかけるは、小補韻會に、蓁本作v※[木+蓁]或作v榛云々とあるにて、蓁蓁同じきをしるべし。さてこ(198)の榛摺は、木の皮をもてすれるなるべし。さる證は上に引たる卷十の歌に、島之榛原秋不立友《シマノハリハラキタヽストモ》とあるを、この歌は十月幸の歌なれば、時節たがへり。これにても花ならで、木の皮をもてすれるをしるべし。この榛摺を萩が花ずりと同じことゝ考にはいはれしかど、別なることは上にいへるがごとし。萩が花ずりの事は下【攷證】にいふべし。さてこの歌、本集八【卅五丁】に、草枕客行人毛往觸者爾保此奴倍久毛開流芽子香聞《クサマクラタヒユクヒトモユキフレハニホヒヌベクモサケルハギカモ》云々とあるに似たり。
 
多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
榛原に人もわれも入みだりて、衣をにほはせよ。かく旅をして、かゝる榛原などにも、入みだりししるしにせんと也。この歌、たびのしるしにころもにほはせと、うちかへしで心得べし。考云、下に清江娘子が、長皇子に奉る歌にも、草枕たび行君としらませば、岸のはにふににほはさましをとよみて、旅には摺衣きる古へのならひ也。摺衣は、古への御狩、御遊、また旅に着る事見ゆ云々。
 
右一首。長忌寸奧麿。
 
長忌寸奧《ナガノイミキオキ》磨、父祖官位不v可v考。本集二【廿二丁】九【八丁】十六【十七丁】には、長忌寸意吉麿と見え、三【十八丁】には、こゝのごとく奧麿とあり。長《ナカ》の氏は、書紀皇極紀に、長(ノ)直、姓氏録に、長(ノ)公と見えたり。忌寸の姓は、書紀天武紀に、十三年冬十月、己卯朔、詔曰、更改2諸氏之族姓1、作2八色之姓1、以混2天下萬姓1云々、四曰2忌寸1云々と見え、續日本記に、天平寶字三年十月辛丑、天下諸姓着2君字1者、換(199)以2公字1、伊美吉以2忌寸1云々と見えたり。忌寸は、いみきとよむべし。
 
58 何所《イヅク・イツコ》爾可《ニカ》。船《フナ・フネ》泊爲良武《ハテスラム》。安禮乃崎《アレノサキ》。※[手偏+旁]多味行之《コギタミユキシ》。棚無小舟《タナヽシヲフネ》。
 
何所《イヅク・イツコ》。
舊訓にも、考にも、いづことあるはいかゞ。いづくとよむべき也。この事、上【攷證十五丁】にいへり。下みなこれにおなじ。船泊《フナハテ》を、舊訓ふねはてと訓つれど、かくつゞく時は、一つの語となる故に、ふなはてとよむべき也。本集十四【十四丁】に、布奈波之《フナハシ》云々。二十【十七丁】に、布奈可射里《フナカザリ》云々。また【廿六丁】布奈與曾比《フナヨソヒ》云々などあるにても思ふべし。さて船泊《フナハテ》は、字のごとく、船の泊《トマ》るをいふ。はては終《ハテ》の義也。本集五【卅一丁】に、多太泊爾美船播將泊《タヾハテニミフネハハテム》云々。七【十五丁】に、大御船竟而佐守布《オホミフネハテテサモラフ》云々。又【十七丁】舟盡可志振立而《フネハテヽカシフリタテヽ》云々。九【十四丁】に、吾船將梅《ワカフネハテム》云々などありて、猶いと多し。盡、竟、極などの字をよめるにて、はては終の義なるをしるべし。この訓よろし。ある人、船はたすらんとよむべしといへりしかど、しかよむべき事なし。
 
安禮乃崎《アレノサキ》。
仙覺抄、萬葉名所部類、楢山拾葉等に、參河國とす。この歌より外に、物に見えず。何をもて、參河とは定めしには(か?)。おぼつかなけれど、しばらくこれによるべし。ある人云、和名抄、美濃國不破郡郷名に、荒崎あり。これ也云々といへれど、美濃には海なきうへに、方角いとたがへり。
(200)※[手偏+旁]多昧行之《コギタミユキシ》。
※[手偏+旁]は、唐韻に、掉v船一歇也云々。小補韻會に、進v舟也云々と見えたり。多味は本集三【十九丁】に、礒前※[手偏+旁]手囘行者《イソノサキコギタミユケバ》云々。また【卅三丁】奧島※[手偏+旁]囘舟者《オキツシマコギタムフネハ》云々。また【四十丁】敏馬乃崎乎許藝廻者《ミヌメノサキヲコギタメバ》云々。十二【卅九丁】に、磯囘從水手運往爲《イソワヨリコギタミイマセ》云々などあり。集中猶多かり。考云、こぎめぐり行しなり。たみの言に、囘、又轉の字をもかきつ云々といはれしがごとし。十一【三丁】に、崗前多未足道乎《ヲカノサキタミタルミチヲ》云々とあるも、曲りめぐれる道也。又十七【四十六丁】に、伊麻布都可太未等保久安良婆《イマフツカダミトホクアラハ》云々とあるは、みと、にとかよひて、だにの意なり。こゝと同語にあらず。
 
棚無小舟《タナナシヲブネ》。
本集三【十九丁】に、島榜隱棚無小舟《シマコギカクルタナナシヲブネ》云々。六【十五丁】に、海未通女棚無小舟榜出良之《アマヲトメタナナシヲブネコギヅラシ》云々など見えたり。和名抄、居宅類に、棚閣【〓格二反和名多奈】云々と見えて、本物を置料のものなるを、こゝには借字して用ひしにて、※[木+世]《フナダナ》の事也。※[木+世]は和名抄舟具に、野王按※[木+世]【音曳字亦作v※[木+曳]和名不奈太那】大船旁板也云々とありて、大船の兩方の旁に付たる板にて、そのうへをあゆみもし、※[舟+虜]などをもたつる料の板也。小船には、その※[木+世]《フナダナ》なければ、たななし小舟とはいへる也。和歌童蒙抄五云、たなゝし小舟とはうらうへの舟ばたに、浮たる板をいふ。舷と書り。それもなき小舟といへるなり云々。
 
右一首。高市連黒人。
 
この人の事、上【攷證一丁】にいへり。印本、市の字を脱す。今目録と、上下の證によりて補ふ。
 
譽謝女王作歌。
 
(201)譽謝女王、父祖未v詳、續日本紀に、慶雲三年六月丙申、從四位下譽射女王卒云々とのみ見えたり。
 
59 流經《ナガラフル》。妻吹風之《ツマフクカゼノ》。寒夜爾《サムキヨニ》。吾勢能君者《ワガセノキミハ》。獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
 
流經《ナカラフル》。
考に、流は借字にて、長ら經《フ》る也。寢衣《ヨルノモノ》のすその長きをいふ云々といはれしは誤り也。流るといふは、物の水に浮て流るゝをもとにて、物を風のふきなびかすをも、物のそらに浮てたゞよふをも流るといへり。こゝなる、流經《ナカラフル》の經の字は、借字、らふの反、るなれば、ながるるとなる也。されば、ながるゝ妻《ツマ》といへるにて、衣のつまなどの、風にふきながさるゝをいふ。本集八【十四丁】に、沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アワユキカハダレニフルトミルマデニナカラヘチルハナニノハナゾモ》云々とある、流倍《ナガラヘ》も、らへの反、れなれば、ながれちるにて、雪の風にふきながされちるをいふ。又十【六丁】に、春霞流共爾《ハルガスミナガルヽムタニ》云々とあるも、霞のそらにたなびくを流るといへり。同【十丁】櫻花散流歴《サクラバナチリナガラフル》云々。また【四十四丁】に、二上爾黄葉流志具禮零乍《フタカミニモミヂバナガルシグレフリツヽ》云々などある流歴《ナガラフル》も、流《ナガル》も、風にちりながるゝにて、こゝの流經《ナガラフル》と同じ。土佐日記異本に、白散を、あるもの夜のまとて、舟やかたにさしはさめりければ、風にふきながさせて、海にいれて、えのまずなりぬ云々とあるも、こゝと同じ。さて又この世に生てあるを、ながらふといふも、流經にて、水にまれ、風にまれ、ながれてうきてあるがごとく、いまだたゞよひてありといふ意也。又名の流るといふも、風に花紅葉などのながるといふと、本は同じ意也。この事は、下【攷證二下七十一丁】にいへふべし。
 
(202)妻吹風《ツマフクカゼ》。
こは、衣のつまをふく風といへるにて、妻《ツマ》は端《ツマ》の借字なり。今の世にいふ衣のつまも、端の意なれど、古へはたゞはしといふ事にて、今の世のごとく、一所をいふにあらず。古今集戀五に、ひとりのみながめふるやのつまなれば云々。後撰集戀二に、つまにおふることなし草を云々。拾遺集雜賀に、文のつまをひきやりて云々などある、つまもみな端なり。(頭書、妻一本作v雪この方勝れり。)
 
吾勢能君者《ワガセノキミハ》。
吾夫《ワカセ》の君也。夫《セ》の事は、上【攷證上三丁】にいへり。
 
獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
考云、夫君の旅ねを、女君の京にありて、ふかく思ひやり給ふ心あはれなり。
 
長皇子御歌。從駕作歌。
 
長《ナガノ》皇子。
書紀天武紀云、大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1云々。持統紀云、七年春正月、淨廣貳授3皇子長與2皇子弓削1云々。續日本紀云、慶雲元年春正月丁酉、二品長親王、益2封二百戸1云々。和銅七年春正月壬戌、二品長親王、益2封二百戸1云々。靈龜元年六月甲寅、二品長親王薨、天武天皇第四皇子也云々と見えたり。さて、この御名の訓は、同書云、天平神護元年冬十月庚申、從三位廣瀬女王薨、二品那我親王之女也云々とあれば、ながのみことよむべし。
 
(203)御歌。
考には、御作歌と作の字をくはへられしかど非也。集中の例、端辭ある時は、御作歌と、なき時は御歌とのみかける例也。こは皇子のみの事なり。
 
徒駕作歌。
この四字、諸本なし。目録と次の歌の例によりて補ふ。まへの譽謝女王の歌は、京にとゞまり居て、思ひやりでよまれし歌なれば、たゞ作歌とのみしるせり。それにむかへて、これ從駕せし皇子の御歌なれば、ことさらにことわりて、從駕作歌とはしるせるなり。
 
60 暮相而《ヨヒニアヒテ》。朝面無美《アシタオモナミ・アサカホナシミ》。隱《ナバリ・カクレ》爾加《ニカ》。氣《ケ》長《ナガク・ナガキ》妹之《イモカ》。廬利爲里計武《イホリセリケム》。
 
暮相而《ヨヒニアヒテ》。
今、よひといふは、初夜の事にて、宵の字をよめり。古くは、たゞ夜の事をよひといへり。集中、夕、暮、初夜、三更、夜などを、よひとよめれど、字にはかゝはらず、みなたゞ夜の事なり。本集八【廿四丁】に、獨居而物念夕爾《ヒトリヰテモノオモフヨヒニ》云々。また【卅七丁】織女之袖續三更之五更者《タナハタノソテツクヨヒノアカツキハ》云々。十【廿七丁】に、夜不去將見妹當者《ヨヒサラズミムイモガアタリハ》云々。また【卅四丁】初夜不去《ヨヒサラズ》云々。十二【廿一丁】に、暮置而旦者消流白露之《ヨヒニオキテアシタハキユルシラツユノ》云々など見えたり。また九【十三丁】に、烏玉乃宵度月乃《ヌハタマノヨハタルツキノ》云々。廣雅釋詁四に、暮夜也云々。玉篇に宵思搖切夜也云々などあるにても、暮も宵も夜の事なるをしるべし。
 
朝面無美《アシタオモナミ・アサカホナシミ》。
仙覺抄云、この歌、古點にはよひにあひて、あしたおもなみと點ず云々とあるごとく、あしたおもなみとよむべし。本集八【卅五丁】に、暮相而朝面羞《ヨヒニアヒテアシタオモナミ》、隱野乃芽子者散去寸《カクレヌノハキハチリニキ》、黄葉早續《モミチハヤツゲ》也云々とも見えたり。又伊勢物語に、おもなくていへるなるべし云々。竹取物語に、かのはちをすてゝ、又いひけるよりおもなき事をば、はちをすつとぞいひける云々。中(204)務集に、心してあらましものを夢とてもいかでおもなく見えわたりけん云々。源氏紅葉賀卷に、おもなのさまやと見給ふも、にけ《(マヽ)》れど云々などもあり。みなおもはゆく、むづかしき意也。おもなみのみは、さにの意なり。この言の事は、上所々にいへり。夜る男にあひて、そのあした、はづかしさに、かくるとつゞけたるなり。
 
隱《ナバリ・カクレ》爾加《ニカ》。
考の説たがへり。隱はなばりとよむべし。伊賀國名張郡の地名にて、隱山《ナバリヤマ》、隱野《ナバリヌ》などと同所なり。なばりとは、かくる、といふ言の古言なり。さて、この歌の意は、夜る男に逢て、其あした、はづかしさに、かくれてあるといふを、なばりとはかくるといふ言の古言なるによりて、なばりにかとはつゞけし也。女はあらはなるをはぢて、かくれ居るをよしとする事、物語ぶみなどに多し。この隱を、なばりとよめる事は、上【攷證十五丁】にあげたる宣長の説のごとし。
 
氣《ケ》長《ナガク・ナガキ》妹之《イモガ》。
古事記下卷に、岐美賀由岐氣那賀久那理奴《キミガユキケナガクナリヌ》云々。本集四【卅九丁】に、不相見而氣長久成奴《アヒミズテケナガクナリヌ》云々。六【十八丁】に、客乃氣長彌《タビノケナガミ》云々。十【廿六丁】に、眞氣長戀心自《マケナガクコフルコヽロユ》云々。また戀敷者氣長物乎《コヒシケバケナガキモノヲ》云々などありて、集中猶多し。宣長云、けながくは、月日の長く也。氣《ケ》は來經《キヘ》のつゞまりたる言にて、來經《キヘ》は月日の經行こと也。十三卷【卅四丁】に、草枕此※[覊の馬が奇]之氣爾妻放《クサマクラコノタビノケニツマサカリ》とよめるなども、旅にして月日をふるほどを、旅の氣といへり。長くは久しく也云々。この説のごとし。さて、この句、舊訓にも、考にも、けながき妹がとよめれど、氣長《ケナガ》くは、次の句|廬利爲里計武《イホリセリケム》といふへかかる詞にて、妹へはかゝらぬ詞なれば、けながくいもがとよむべし。さてこゝの意は、隱《ナバリ》といふ所の名のごとく、かくれてや妹が月日長くその隱といふ所にいほりせりけん、このごろ久しく見え(205)ざるはと、いふ意によめるなり。
 
廬利爲里計武《イホリセリケム》。
本集三【十二丁】に、雷之上爾廬爲流鴨《イカツチノウヘニイホリスルカモ》云々。六【卅五丁】に何野邊爾廬將爲子等《イツレノヌベニイホリセンコラ》云々。又【卅八丁】河口之野邊爾廬而夜乃歴者《カハクチノヌベニイホリシテヨノフレバ》云々などありて、集中猶多し。旅にまれ、田家にまれ、かりそめなる家を廬とはいふ也。古へは、旅行せんにも、今のごと驛家も多からねば、たゞ野山などに、かり廬を作りて、やどれりし也。されば行幸の行宮などを、やがていほりといひし事あり。さて周禮地官書に、凡國野之道、十里有v廬、廬有2飲食1、三十里有v宿、宿有2路室1云々と見えたり。
 
舍人娘子《トネリノイラツメ》。從駕作歌。
 
舍人娘子、父祖不v可v考。舍人は氏なり。書紀天武紀に、舍人連糠蟲てふ人名見えたり。新撰姓氏録卷三十に、舍人、百濟國人利加志貴王之後也云々とあり。さて舍人は、とねりとよむべし。神樂篠歌、一本に、古乃佐々波伊津古乃佐々曾《コノサヽハイヅコノサヽゾ》、止禰利良加古之仁左加禮留止毛乎加乃佐々《トネリラガコシニサカレルトモヲカノサヽ》云々と見えたり。朝庭に仕奉る舍人の事は、下二【攷證二ノ下 丁】にいふべし。娘子はいらつめとよむべし。いらつめの、いらは、いろ也。人を親しみ愛して、いろ何々といへる、いろにて、つは助字、めは女也。娘子の子は、附たる字にて、女の名の下に、何子などかくも同じ。また集中、女郎、郎女などをも、いらつめとよめり。この事は、下【攷證二上十四丁】にいふべし。さて娘子を、いらつめとよむ事は、考別記に、娘子と書るも、氏の下にあるは、皆いらつめと訓こと也。何ぞといはゞ、古事記に【允恭】長(206)田大郎女とあるを、紀には【同紀】名形大娘皇女とかき、同記に【仁賢】春日大郎女とあるを、紀には、春日娘子と書たる類、いと多きをむかへて知ぬ。下の卷に、坂上大孃子をおほいらつめと訓も同じく、古事記には、某の郎女とあるを、紀には某の孃、又媛とも書たり.又集中に、未珠名娘子《スヱノタマナヲトメ》、眞間娘子《ママノヲトメ》、播磨娘子《ハリマノヲトメ》など、所の名の下に娘子とある類は、乎登免とよむべし。その末珠名娘子を、歌には、こしぼそのすがるをとめがとよみ、古事記に、丹波の出石の女を、伊豆志袁登賣《イヅシヲトメ》と假字にても有もて、このわかちを知ぬ。また卷二に、姫島松原見2孃子屍1、卷十三に三香(ノ)原に幸(セシ)時、得2娘子1、豐前國娘子|紐子《ヒモノコ》、其外贈2娘子1、思2娘子1などの類も、本よりをとめと訓て、右の珠名娘子よりこなたは、みな少女、處女など書とひとしく、若き女のことなり。(頭書、四下十一ウ可v考。)
 
61 丈夫之《マスラヲノ》。得物矢《サツヤ・トモヤ》手挿《タバサミ》。立向《タチムカヒ》。射流圓方波《イルマトカタハ》。見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
 
丈夫《マスラヲ》。
印本、丈を大に誤れり。今、意改。集中此誤りいと多し。
 
得物矢《サツヤ・トモヤ》。
舊訓、ともやとあるは誤れり。そは、仙覺抄に引たる伊勢風土記に、此歌をのせて麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤタバサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》云々あれば、こゝの得物矢も、さつやとよむべし。本集二【四十四丁】に、丈夫之得物矢手挿立向高圓山爾《マスラヲノサツヤタバサミタチムカフカタマトヤマニ》云々。六【十四丁】に、御※[獣偏+葛]人得物矢手挾《ミカリヒトサツヤタバサミ》云々など見えたり。これらも、舊訓誤れり。さて得物矢をさつやとよむべきよしは、古事記上卷に、海佐知、山佐知とあり。この海佐知も、山佐知も、海山の物を得る事にて、佐知《サチ》は幸《サチ》なり。されば、さちや、さち弓といふべきを、ちを、つにかよはしたる也。本集(207)五【九丁】に、都流岐多智許志爾刀利波枳佐都由美乎多爾伎利物知提《ツルキタチコシニトリハキサツユミヲタニキリモチテ》云々。二十【廿八丁】に、佐都夜奴岐《サツヤヌキ》云云なども見えたり。猶集中、獵人をさつ男、さつ人などいふも、このさつ矢、さつ弓のさつと同じく、幸《サチ》にて物を得る事なり。
 
手挿《タバサミ》。
こは、まへに引るごとく、手挾《タバサミ》とも書り。手に持る也。挿は、廣韻に、刺入也云々とあり。挾は、儀禮郷射禮注に、方持2弦矢1曰曰v挾云々とあるにて、手に持事なるをしるべし。この語、集中猶多し。
立向《タチムカヒ》。
本集二【四十四丁】に、立向高圓山爾《タチムカフタカマドヤマニ》云々。九【三十五丁】に、入水火爾毛將入跡立向競時爾《ミツニイルヒニモイラムトタチムカヒキソヘルトキニ》云々などありで、集中猶あり。的にたちむかふなり。
 
射流圓方波《イルマトカタハ》。
圓方は、仙覺抄に引たる伊勢風土記に、的形《マトカタノ》浦者、此浦地形似v的、故以爲v名也、今已跡絶、成2江湖1也云々。異本延喜神名式に、伊勢國多氣郡服部|麻刀方《マトカタ》神社云々とありて、伊勢の地名なるを的形《マトカタ》といふによりて、弓射る的にいひかけ、いるまとかたとはいへる也。此歌序にて、的形《マトカタ》といはんとて、上の句はおける也。さて圓方《マドカタ》とかくは、借字にて、的形ぞ正字なる。圓とかきて、まとゝよめるは、略訓也。この例、上にも所々にいへり。思ひ合すべし。また、圓をまとゝのみもいへり。加茂保憲女集に、うまのおもてまとにしも見えねば云々とあるも圓也。又和泉式部續集に、まつりの日、あるきんだちの、的のかたを車の輪につくりたるを見て、十つらの馬ならねども君がのる車もまとに見ゆる也けり云々とあるも、的に圓(208)をいひかけたり。
 
見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
まとかたの地は、見るに清らけしと也。さやけしの、さは、上におきたる助字のさの字、さはしり、さぬる、さよばひなどのさ也。この事、上【攷證上ノ卅四丁】にいへり。やけは、あけにて明也。ありやけ、ありあけと通ずるにてしるべし。さやかといふも、さあかの意にて明也。明らかなるは、いづれ見る清《キヨ》きものなれば、明らかなる意を轉じて、清き意にも用ひし事、集中いと多し。そは清の字を、さやともさやけとも訓るにて、しるべし。本集三【廿六丁】に、能登湍河音之清左《ノトセガハオトノサヤケサ》云々などありて、集中いと多し。皆同意にて、清らかなる也。
 
三野蓮。名闕。入唐時。春日藏首老作歌。
 
三野《ミヌノ》連。
父祖も名も不v詳。拾穗抄に國史を引て、大寶元年正月、遣唐使民部卿粟田眞人朝臣、以下百六十人、乘2船五隻1、小商監從七位下中宮小進美奴連岡麻呂云々とあり。萬葉集履歴には、この文を官本とて引。僻案抄、考等には、古本傍注とて引たり。略解には、誄聚國史に見えたりと云しかど、見えざるはいかゞ。續日本紀に、大寶元年正月丁酉、粟田朝臣眞人以下遣唐使を定めたまひて、翌年五月筑紫より出船せられしかど、風波によりて渡海する事を得ずして、翌年六月唐土にわたりて、慶雲元年七月歸朝せられしよし見えたれど、美奴連岡麿をのせず。拾穗抄に、國史と引たるは、なになるにかおぼつかなし。されどしばらくこれに從ふ。さて續日本紀に、靈龜二年正月壬午、授2正六位上美努連岡麿從五位下1云々と見えたり。新撰姓氏録卷十(209)九に、美努連、角凝魂命四世孫、天川田奈命之後也云々と見えたり。名闕の二字は、後人のしるせしなり。依て小字とす。
 
入唐。
考別記云、大内へまゐるを、入といふにならひて、さらぬ宮などへも、あがめて入と書しとおぼしき、集に一つ二つあり。然るに、から國へゆくを、入といふは、ひがごとなり。今の京となりて、意得られしにや。遣唐使と書し時も有し。凡史式などは、から文學びし人のかけば、みだりに他の國をたふとびて、入唐、大唐など書人あり。又延喜式には、入2渤海1使、入2新羅1使としも書しかば、入に心をもつけざりし人もありけん。此集の端詞は、みだりに他國たふとぴする人の文にならひて、おのづからしか書しもの也。ともあれ、から國の王の制をもうけぬ此國なるに、みだりに他を崇る時は、民うたがひおこりて、あが天皇の御|稜威《イツ》のおとるわざぞ。遣唐使をも、停給ひしこそ、めでたけれ。しか停められしかど、かれ何をかいふ。こゝに何のたらはぬ事かある云々。
 
春日藏首老。
上【攷證四十三丁】に、出たり。考云、此遣唐使、大寶元年正月、命有て、五月節刀を賜りて立ぬ。老は、もと僧にて、弁記といひしを、右同年三月に、春日藏首老と姓名を賜り、追大壹に叙せられて、臣となりし事、續日本紀に見ゆ。しかれば、此歌はかの三月より五月までによみし也。仍て、これは、右の大實元年九月とあるよりまへに入べき也。次の憶良の歌も、類によりてこれにつゞけのするは、この集の例也。
 
(210)62 在相良《アリネヨシ》。對馬乃渡《ツシマノワタリ》。渡中爾《ワタナカニ》。幣取向而《ヌサトリムケテ》。早還許年《ハヤカヘリコネ》。
 
在相良《アリネヨシ》。
この語、對馬《ツシマ》へかゝる枕詞とはきこゆれど、意は解しがたし。眞淵、宣長、みな誤字ならんといはれぬ。尤誤字なるべし。されど、その説々をもあげて、予が試みにいふ事をも出せり。さて、考云、今本に在根良と書て、ありねよしと訓しは、必あるまじき事なれば、二くさの考をしつ。その一つに、百船能《モヽフネノ》とするは卷十一【新羅への使人の歌】毛母布禰乃波都流對馬能安佐治山《モヽフネノハツルツシマノアサヂヤマ》とよみ、卷十五【みぬめの浦を】百船之泊停跡《モヽフネノハツルトマリト》、また卷二に、大船乃津守之占《オホフネノツモリノウラ》などあれば也。その字も、例の草の手より相まがふべき也。今一つは、百都舟《モヽツフネ》を誤りしにや。これも、つとつゞくるは、右に同じ。されど、猶上に依べし云々。宣長云、在根良は字の誤り也。布根竟《フネハツル》の誤りならん云々。略解云、在根良は布根盡《フネハツル》の誤りにて、ふねはつるならんか云々。久老云、在嶺《アリネ》よといふ言也。諸注、誤字とするは非也、云々。予試みに考ふるに、在根の在は借字にて、荒る意にて、荒磯《アリソ》といふと同じく、荒根《アリネ》にて、根は島根《シマネ》、岩根《イハネ》などの根にて、次に對馬といへば、こゝには島をはぶきて、たゞ、ねとのみいひて、島根の事とし、良《ヨシ》は吉にて、荒たる鳥根のけしきを、よしといへるならんか。
 
對馬乃渡《ツシマノワタリ》。
對馬《ツシマ》は、古事記上卷に、次生2津島1、亦名謂2天之狹手依比賣《アメノサテヨリヒメ》1云々とありて、書紀天智紀に、對馬島と見え、天武紀に對馬國と見えたり。又魏志倭人傳に、狗邪韓國七千餘里、始度2一海1、千餘里至2對馬國1、云々と見えたれば、對馬の字、中國より漢土方古し。されば思ふ。中國にても、いと古くより、對馬ともかきしなるべし。それを傳へて、漢土にては書(211)しならん。渡《ワタリ》は、海にまれ、川にまれ、わたりて行く所をわたりとはいへり。古事記中卷に、經《ヘ》2浪速之渡《ナミハヤノワタリヲ》1而云々。同卷に、知波夜夫流宇遲能和多理爾《チハヤフルウヂノワタリニ》云々。本楸六【四十五丁】に、泉川渡乎遠見《イツミカハワタリヲトホミ》云々など見えたり。又こまのわたり、難波わたり、さのゝわたりなどいふは、俗言にあたりといふ言にて、この渡とは別なり。
 
渡中爾《ワタナカニ》。
渡《ワタ》は、海をいふ。海を、わたつみといふも、わたるといふ意にていへる事、上【攷證上ノ廿六丁】にいへるがごとし。古事記上卷に、渡《ワタル》2海中《ワタナカ》1時云々本集七【四十二丁】に、名兒乃海乎朝※[手偏+旁]來者海中爾《ナゴノウミヲアサコギクレハワタナカニ》云々など見えたり。
 
幣取向而《ヌサトリムケテ》。
幣は、古事記中卷に、取2國之大奴佐《クニノオホヌサ》1而云々。本集三【廿四丁】に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》、妹乎目不離相見染跡衣《イモヲメカレズアヒミシメトゾ》云々。四【廿五丁】に、千磐破神之社爾我掛師幣者將賜《チハヤフルカミノヤシロニワガカケシヌサハタハラム》云々などありて、集中猶多し。土佐日記に、夜なかばかりより、舟をいだしてこぎくる道に、たむけする所あり、かぢとりしてぬさ奉らするに云々と見えたり。又、書紀允恭紀に、玉田宿禰、則畏v有v事、以2馬一疋1授2吾襲1爲2禮幣1云々。纂疏云、幣謂2束帛1也、謂2布帛紙之類1也云々、管子國畜篇に、以2珠玉1爲2上幣1、以2黄金1爲2中幣1、以2刀布1爲2下幣1云々なども見えたり。宣長云、ぬさは神に手向る物をもいひ、又祓にいだす物をもいふ。名義は祷布佐《ネギフサ》なり。ねぎふをつゞむれば、ぬとなる。事を乞祷《コヒネ》ぐとていだすよし也。祓のぬさも、其罪穢を除清《ノゾキキヨ》め給へと、祷《ネ》ぐ意をもて出すなれば、神に奉りてねぐと、こゝろばへ一つ也。さて布佐《フサ》は、麻也。古語拾遺に、好麻所v生、故謂2之總國1、古語麻謂2之總1也、今爲2上總下總二國1とあり云々。この説のごとし。取向《トリムケ》の取《トリ》(212)は、手に物をとるのとるにて、向《ムケ》は手向《タムケ》の手を略ける也。本集十三【六丁】に、山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而《ヤマシナノイハタノモリノスメカミニヌサトリムケテ》云々など見えたり。手向の事は、下三【攷證三上六十五丁】にいふべし。
 
早還許年《ハヤカヘリコネ》。
本集五【卅一丁】に、速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》云々。八【廿丁】に、早還萬世《ハヤカヘリマセ》云々などもありて、字のごとく、早くかへりこね也。こねの、ねの文字は、下知の意にて、よといふに同じ。本集二【十八丁】に、乞通來禰《コチカヨヒコネ》云々。十【卅七丁】に、此間爾落來根《コノマニチリコネ》云々などありて、集中猶多し。
 
山上臣憶良。在2大唐1時。憶2本郷1歌。
 
山上臣憶良《ヤマノヘノオクラ》。
父祖未v詳。續日本紀云、大寶元年春正月丁酉、以2守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人1、爲2道唐執節使1云々。无位山上憶良爲2少録1云々。和銅七年春正月甲子、授2正六位下山上臣憶良從五位下1云々。靈龜二年夏四月壬申、從五位下山上臣憶良爲2伯耆守1云々。養老五年春正月庚午、詔2從五位下山上臣憶良等1、退朝令v侍2東宮1焉云々と見えたり。又本集五【六丁】に、筑前守山上憶良と見え、六【卅二丁】沈v痾自哀文に、初沈v痾已來、年月稍多、是時年七十有四、鬢髪班白、筋力〓羸、不2但年老1、復加2斯病1、諺曰、痛瘡灌v鹽、短材截v端此之謂也云々など見えたり。さて山上の氏は、姓氏録卷五に、山上朝臣、大春日朝臣同祖、天足彦國忍人命之後也、日本紀合云々とあり。山上は、坂上の例によりて、やまのへとよむべし。への字濁るべからず。邊《べ》の意にあらず。
 
大唐。
書紀にも、大唐とかき給ひし所多けれど、この國よりかの國をさして、大唐とかゝんこと、いかゞ。たゞ唐とのみかくべきなり。
 
(213)憶《オモフ》2本郷《モトツクニヲ》1。
憶は、玉篇に、意不v定往來念也云々とあり。おもふとよむべし。本郷は、考にやまとゝよめり。憶良は、藤原の京の人、藤原の京は大和なれば、やまとゝよまんもさることながら、この本郷は、唐にありて、廣く日本の地をさしていへるなれば、もとつくにとよむべし。又本集十九【九丁】に、本郷をふるさとゝもよめり。
 
63 去來子等《イザコドモ》。早日本邊《ハヤクヤマトヘ》。大伴乃《オホトモノ》。御津乃濱松《ミツノハママツ》。待戀奴良武《マチコヒヌラム》。
 
去來子等《イザコドモ》。
去來は、いざと誘ひもよほす詞也。この言、上【攷證上ノ廿一丁】にいへり。子等《コドモ》の子は、吾兄子《ワガセコ》、吾妹子《ワギモコ》、またたゞ子ともいひて、人を親しみ稱していへる事にて、子等《コドモ》はこたちといはんがごとし。童をさして、こどもといふとは別也。おの|ふ《(マヽ)》(れ?)に、附從ふ子弟僕從などをいふ。古事記中卷に、伊邪古杼母《イザコドモ》、怒毘流都美邇《ヌビルツミニ》、比流都美邇《ヒルツミニ》云々。本集三【廿丁】に、去來兒等倭部早《イザコドモヤマトヘハヤク》云々。また【四十丁】、率兒等安部而※[手偏+旁]出牟《イザコドモアヘテコギデム》云々。六【廿二丁】に、去來兒等《イザコドモ》、香椎乃滷爾《カシヒノカタニ》、白妙之袖左倍所沾而《シロタヘノソデサヘヌレテ》、朝菜採手六《アサナツミテム》云々など見えたり。
 
早日本《ハヤクヤマト・ハヤヒノモト》邊《ヘ》。
舊訓、はやひのもとへとあれど、僻案抄、考等に、はやくやまとへとよまれしにしたがふ。やまとは、大和の事をいへるにはあらで、日本の地をいへる也。憶良唐土にありで、はやく日本へかへらんといへる也。そのかへらんといふ言をふくめたる也。書紀
 
欽明紀の歌に、柯羅倶※[人偏+爾]能基能陪※[人偏+爾]陀致底《カラクニノキノヘニタチテ》、於譜磨故幡比例甫※[口+羅]須母《オホバコカ(マヽ)ヒレフラスモ》、耶魔等陛武岐底《ヤマトヘムキテ》云々とある、やまとへむきても、から國に在て、日本へむきてひれふるにて、この歌の日本に同じ。まへに引る三の倭部早《ヤマトヘハヤク》の、やまとは、大和の事にで、日本にあらず。又舊訓、はやひのもとへとあるも、(214)すつべからず。このごろ、すでに、日本とかく字につきて、ひのもとゝもいひしならん。本集三【廿八丁】に、日本之山跡國乃《ヒノモトノヤマトノクニノ》云々と見えたり。この歌は、左注に高橋連蟲麿之歌集中に出といへり。蟲麿は、天平のころの人也。また續日本後紀卷十九、興福寺僧長歌に、日本野馬臺《ヒノモトノヤマトノクニヲ》云々ともあり。
 
大伴乃《オホトモノ》。
枕詞也。大伴《オホトモ》は、おほくの件をひきゐて、仕奉る官の名也。さてやがて、氏ともなれる也。本集三【五十九丁】に、大伴乃名負靭帶而《オホトモノナニオフユギオヒテ》云々。七【四丁】に、靱懸流伴雄廣伎大伴爾《ユキカクルトモノヲヒロキオホトモニ》云々。續日本紀、天平勝寶元年詔に、大伴佐伯宿禰天皇朝守仕奉《オホトモサヘキノスクネハツネモイハクスメラガミカドマモリツカヘマツル》云々などありて、武官也。大伴乃御津《オホトモノミツ》とつゞくるは、御津《ミツ》の御《ミ》は、伊とかよひて、伊都《イツ》也。いつは稜威《イツ》にて、雄々《ヲヽ》しく建《タケ》き意なれば、大伴の稜威《イツ》とはつゞけし也。その伊を、御にかよはせて、御津へはかけし也。この事、くはしくは、予が冠辭考補遺にいふべし。
 
御津乃濱松《ミツノハママツ》。
御津は、攝津なり。古事記下卷に、載2其御船1之御鋼柏、悉投2l棄於海1、故號2其地1謂2御津前《ミツノサキ》1也云々。書紀仁賢紀に、難波御津云々。齊明紀注に、難波三津之浦云々。本集下【廿七丁】大伴乃美津能濱爾有忘貝《オホトモノミツノハマナルワスレガヒ》云々。五【卅二丁】に、大伴御津松原《オホトモノミツノマツハラ》云々などありて、集中猶いと多し。さて御津といふは、もとよりの地名にはあらじ。古しへ、難波より發船するに、多く此津より舟にのれる事も、又此津に泊れる事も、集中いと多し。されば、御《ミ》はほむる詞にて、やがて地名にもなれる也。又唐土にわたるにも、かれよりこゝにかへるにも、古しへは、この難波へかゝりし事、あまた見えたり。されば、此歌にも、いざこどもわが日本の地へ、はやくかへらん。日本の地にて、まづ船をよする所なれば、御津の濱松も、待戀ぬらんとはよめる也。(215)そは、書紀欽明紀に、或人の、大葉子《オホバコ》がから國にあるをよめる歌に、柯羅倶爾能基能陪※[人偏+爾]陀々志《カラクニノキノヘニタヽシ》、於譜磨故幡《オホバコハ》、比禮甫羅須彌喩《ヒレフラスミユ》、那※[人偏+爾]婆陛武岐底《ナニハヘムキテ》云々とあるも、難波は日本の地にて、まづ船のつく所なれば、難波へむきでひれふる也。又、推古紀に、十六年六月丙辰、客等泊2于難波津1云々とあるも、客とは唐使をいへる也。これらにても、思ひ合すべし。猶これかれの書にも見えたれど、わづらはしければこゝに略す。
 
待戀奴良武《マチコヒヌラム》。
濱松待《ハママツマチ》と詞をかさねていへり。濱松にさへ待戀ぬらんといへるにて、妻子など思ひやるべし。
 
慶雲三年丙午。秋九月。幸2于難波宮1時。志貴皇子御作歌。
 
續日本紀云、慶雲三年九月丙寅、行2幸難波1、冬十月還宮云々と見えたり。さて、こゝに難波宮とあるは、仁徳天皇の難波高津宮をいへるか、孝徳天皇の難波長柄豐崎宮をいへるか、今知りがたし。書紀齊明天皇六年に、幸2于難波宮1とあるも、いづれにかしりがたし。
 
64 葦邊行《アシヘユク》。鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》。霜零而《シモフリテ》。寒暮夕《サムキユフヘハ》。和之《ヤマトシ》所念《オモホユ・ソオモフ》。
 
葦邊行《アシベユク》。
本集十二【廿七丁】に、葦邊往鴨之羽音之《アシベユクカモノハオトノ》云々。十三【卅四丁】に、葦邊往鴈之翅乎《アシベユクカリノツバサヲ》云云など見えたり。たゞ鴨といはん序のみに、うちみるさまをいへるなり。
 
(216)鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》。
考云、羽交なり。背をいふ云々といはれしがごとく、羽の右左り合ふ所を、はがひといへる也。本集二【卅九丁】に、大鳥羽易乃山《オホトリ云々、十【六丁】に、春日有羽買之山《カスカナルハカヘノヤマ》云々などあるを、こゝと同語とするは、いかゞ。こゝのはがひは、羽交也。二また十などのは羽のぬけかはるといふにて、羽替也。さて、はがひといふ語、こゝより外ふるきものに見えず。後のものなれど、散木集に、しほがまのけぶりにまがふはま千鳥、おのがはがひをなれぬとやなく。夫木集十六に、あしかものはがひのしもやおきぬらん、をのへのかねもほのきこゆ也云々など見えたり。
 
寒暮夕《サムキユフベハ》。
暮夕の二字を、ゆふべとよまんこと、誤り也とて、考には、夕の字をはぶかれしかどいかゞ。但し、集中、暮夕の二字を、ゆふべとよめる例、外には見えざれど、古昔の二字を、いにしへとよめるにて思へば、暮夕の二字をゆふべとよまん事、うたがふべからず。この文字を添て書る事は、下【攷證三上廿二丁】に、いふべし。さて、ある人、寒はさぶきと訓べし。不怜、不樂などの字を、さぶしと訓ると、本は同じ意也といへれど、しからず。本集七【四八丁】に、美奈刀可世佐牟久布久良之《ミナトカゼサムクフクラシ》。催馬樂飛鳥井歌に、美毛比毛左牟之《ミモヒモサムシ》云々とあるにてしるべし。
 
和之《ヤマトシ》所念《オモホユ・ソオモフ》。
和の字をやまとゝよめる事、續紀より後は、常の事なれど、この集のころまでは、あるべしともおぼえず。後、倭と和とかよはしかければ、原本|倭之所念《ヤマトシオモホユ》とありけんを、ふと倭を和にあらためしものなるべし。書紀崇神天皇六年の紀に、和大國魂二神とあるも、類聚國史に、倭大國魂二神とあるにて、和は倭の誤りなることしらる。考云、やまとの事に、和(217)の字をかゝれたるは、奈良の朝よりこそあれ、藤原朝までは、倭の字なる事、この下の歌どもにてもしれ。しかれば、この御歌に、和をやまとゝよむは、ひがごと也。仍て考るに、家の草を夕和二字に見なして、誤りたる也。此次の歌に、家之所偲とあるに同じこゝろことばなるをも見よ云々とて、家之所念《イヘシオモホユ》と直されしかど、あまりに遠き説なり。また和の字を、たすけいはゞ、田令に、大和攝津各三十町云々と見えたるうへに、和と倭と同韻の字なれば、相通はして用ふる歟。こは心みにいふのみ。さて、所念を、舊訓、ぞおもふとよめれど、本集七【廿丁】に、山跡之所念《ヤマトシオモホユ》云々、また、【廿二丁】敷布所念《シクシ(マヽ)オモホユ》云々など猶あまたあるにても、おもほゆとよまんこと明らけし。頭書、日本琴五ノ十一オ、七ノ廿二オ、倭琴七ノ十ウ、和琴十六ノ廿三オ。)
 
長皇子御歌。
 
65 霞打《アラレウツ》。安良禮松原《アラレマツハラ》。住吉之《スミノエノ》。弟日娘與《オトヒヲトメト》。見禮當不飽香聞《ミレトアカヌカモ》。
 
霞《アラレ》打《ウツ・フル》。
あられうつあられと、詞をかさねたる枕詞なり。舊訓、あられふるとよめれど、字のままにあられうつとよむべき也。尤、集中、あられうつとよめるは、こゝばかりなれど、古事記下卷に、佐々婆爾宇都夜阿良禮能多志陀志爾《サヽハニウツヤアラレノタシタシニ》云々などあるにても、あられうつとよむべきをしるべし。霰の、物をうつやうにふれるをいふなり。
 
安良禮松原《アラレマツバラ》。
考云、紀に【神功】烏智簡多能阿羅々摩菟麼邏《ヲチカタノアラヽマツバラ》、摩菟麼邏珥和多利喩祇※[氏/一]《マツバラニワタリユキテ》云々とあるは、山城の宇治川の彼方《ヲチ》に、あら/\と立たる松原のこと、こゝも住の江(218)の松原の疎々《アラ/\》と立たるさま也。あら/\を略きて、あらゝといふは、うら/\をうらゝ、つらつらをつらゝてふ類也云々といはれつるがごとく、あら/\と立たる松原也。もとはあらゝ松原なるを、良を禮に通はして、あられ松原とはいへる也。これを代匠記には、地名とせられしかど、誤り也。
 
住吉之《スミノエノ》。
考云、攝津國住吉郡也。住吉を和名抄にも、須三與之とあるは、そのころにはすでに誤りし也。奈良朝までは、假字には、須美乃要《スミノエ》とのみありて、吉字も古しへ多くはえといひしを、いかで古しへの事をたれもわすれにけん。近江の日吉も、古事記には日|枝《エ》と書、すなはち比えの山の神なれば、ひえなるを、後にひよしといふも、右と同じさまのひがごとぞ云云といはれつるがごとく、住吉はすみのえ、日吉はひえなるを、吉の字をよみ誤りて、中古よりはすみよし、日よしなどもいへり。されど、古今集より先は、この誤りなし。古今集雜上に、忠峯、すみよしとあまはつぐともながゐすな、人わすれ草おふといふ也云々。土佐日記に、すみよしのわたりをこぎゆく云々など見えたり。
 
弟日娘與《オトヒヲトメト》。
書紀賢宗紀云、倭者彼々茅原淺茅原弟日僕是也《ヤマトハソヽチハラアサチハラオトヒヤツコラマコレナリ》云々とある、弟日は兄弟のことをのたまふときこえたり。すべて、弟《オト》といふは、季子《スエノコ》の事をいふをもとにて、季子といふものは、父母にことに愛せらるゝものなれば、かならず季子ならねど、たゞ愛しうつくしみていふときも、弟何々といふことゝ見えたり。又それを轉じて、自ら名にもつきなどもせし也。古事記上卷に、淤登多那婆多能宇那賀世流《オトタナハタノウナカセル》云々とあるも、弟棚機《オトタナハタ》なり。また弟比賣命、弟橘比賣命などいふ御名の弟も、おなじ。さて、弟日何々といふ日は、そへたる字なし(り?)。そは(219)肥前國風土記に、弟日姫子といふ女見えたり。それをよめる歌には、意登比賣能古《オトヒメノコ》とあるにて、日はそへたる字なることしらる。弟日娘與の、ともじは、ともにといふ意なり。この事、下【攷證四上四十三丁】にいへり。
 
太上天皇。幸2于難波宮1時歌。
 
太上天皇。
太上天皇は、持統天皇を申す。考云、この下、五首も、右の大寶元年とあるより前に入べき事、かの美野連云々のごとし。かくて、この太上天皇はおりゐまして六年、大寶二年の十二月崩給ひき。然るを、右に慶雲三年と標したる下に載べきにあらず。是も亂れ本を、仙覺が校合せし時、よく正さゞるものなり。
 
幸2于難波宮。
この御幸の事、國史に見えず、續日本紀文武紀に、三年春正月癸未、幸2難波宮1云々とあり。これと同じ度に、御幸もありしか。可v考。
 
66 大伴乃《オホトモノ》。高師能濱乃《タカシノハマノ》。松之根乎《マツカネヲ》。枕宿杼《マキテシヌレド・マクラネヌトカ》。家之《イヘシ》所偲《シヌバ・シノバ》由《ユ》。
 
大伴乃。
枕詞なれば、くはしくは冠辭考にゆづれり。高師の濱とつゞくるは、上【攷證五十二丁】にもいへるがごとく、大伴は、雄々《ヲヽ》しく建《タケ》き氏なれば、大伴の建《タケ》しといふを、けをかにはたらかして、大伴乃高師とはつゞけしなり。
 
(220)高師能濱《タカシノハマ》。
和泉國大鳥郡なり。書紀持統紀に、河内國大鳥那高脚海と見えて、もとは河内國なりしかど、續日本紀に、靈龜二年春三月癸卯、割2河内國和泉日根兩郡1、令v供2珍奴宮1、夏四月甲子、割2大鳥和泉日根三郡1、始置2和泉監1焉云々。天平十二年八月甲述、和泉監并2河内國1焉云々。天平寶字元年五月乙卯、其能登安房和泉等國、依v舊分立云々など見ゆるがごとく、大鳥、和泉、日根の三部をわけて、和泉國をたてられしかば、今は和泉國なり。書紀垂仁紀に、三十五年秋九月、遣2五十瓊敷命于河内國1、作2高石池茅渟池1云々。延喜神名式に、和泉國大鳥郡高石神社云々。古今集雜上に、貫之、おきつ浪たかしのはまのはま松の名にこそ君をまちわたりつれ云々などあるも、みな當所なり。さるを、八雲御抄には、高師の濱、攝津としるし給へど、そはこの歌のはじめに、幸う于難波宮1時歌とあるにより給へる誤り也。難波宮に、御幸のをりの歌なれど、和泉國も隣國なれば、その序に御行もあり、又は御供の人などの、わたくしにゆきてよみなどもせし歌なるべし。この集、伊勢國行幸に、志摩三河などの歌もあり、三河國行幸に、遠江國の歌などもあるにて、この高師濱も、攝津にかぎらざるをしるべし。
 
枕《マキテシ》宿杼《ヌレド・ネヌトカ》。
この三字、舊訓、まくらねぬとかと訓るは誤れり。考に、まきてしぬれどゝよまれしに、しばらくしたがふ。宣長は、杼は夜の字の誤り也。松がねを枕にしてぬる夜は、物かなしくして、家を思ふ也。考に、まきてしぬれどとよみて、かく面白き濱の松がねを枕とまぎれてぬれど、猶故郷の妹が手枕は、戀しと也といはれつれど、この説いかゞ。面白き濱なればとて、松がねをまきてねんには、何の面白き心あらんといへり。この説はさることなれど、杼を夜に作りし本も見あたらねば、しばらく考にしたがへり。さて、まきてとは、字のごとく、枕にす(221)ることにて、纏《マト》ふ意也。古事記上卷に、多麻傳佐斯麻伎毛々那賀爾伊波那佐牟遠《タマテサシマキモヽナガニイハナサムヲ》云々とあるも、玉手を枕とする也。本集十【卅丁】に、君之手毛未枕者《キミカテモイマダマカネバ》云々。十一【廿五丁】に、枕手左宿座《マキテサネマセ》云々などあるを見ても思ふべし。
 
家之《イヘシ》所偲《シヌハ・シノハ》由《ユ》。
家之《イヘシ》の、し文字は、助字。所偲由を、舊訓しのばゆとあれど、しぬばゆとよむべし。集中は、もとより、古書みなしぬぶとかけり。偲は、假字玉篇に、したふともしのぶともよめり。すなはちしたふ意也。ゆは、るにかよふ言にて、しのぶるといふ意也。このゆ文字、集中いと多し。ねのみしなかゆ、きぬにすらゆな、わすらゆなどの類、皆るの意なり。
 
右一首。置始東人。
 
父祖官位不v可v考。置始の氏は、新撰姓氏録卷十二に、大椋置始瀲、縣犬貝同祖、河居大都命之後也云々と見えたり。書紀續紀等に、置始氏は皆瀲の姓なり。
 
67 旅爾之而《タヒニシテ》。物《モノ》戀《コフ・コヒ》之伎乃《シギノ》。鳴事毛《ナクコトモ》。不所聞有世者《キコエサリセハ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》。
 
旅爾之而《タヒニシテ》。
旅にてといふ意にて、之《シ》文字心なくそへたるのみ也。本集三【卅六丁】に、鴨曾鳴成山影爾之※[氏/一]《カモソナクナルヤマカケニシテ》云々。同【五十三丁】君無二四天《キミナシニシテ》云々などの類、集中猶多し。
 
(222)物戀之伎乃《モノコヒシキノ》。
舊訓、ものこひしきのとあるにつきて、考にも、※[(令/酉)+隹]《シキ》にいひかけたりといはれつ。さて、略解に、しぎのなくを、物戀てなくにいひなして、さてそのしぎのこゑをきけば、せめて旅の心をなぐさむといふ意也。ものこひしぎと訓たれど、かゝるいひかけざま、集中例なければ、ひがごとなるよし、宣長はいへりとて、ものこふしぎとよみ直しゝかど、集中云かけなしとはいかゞ。この卷【廿八丁】に、吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤云々とあるは、一首に二所まで云ひかけあり。されば、こゝももの戀しきを、※[(令/酉)+鳥]に云かけし也。和名抄羽族名に、※[龍/鳥]玉扁云※[龍/鳥]【音籠楊氏抄云之木一云田鳥】野鳥也云々と見えたり。(頭書、三【十九丁】に客爲而物戀敷爾《タヒニシテモノコヒシキニ》云々。)
 
鳴事毛《ナクコトモ》。不所聞有世者《キコエサリセハ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》。
旅といふものは、よろづものがなしきものなるを、せめて物戀などするしぎのなくこゑなどに、なぐさみて、うさをもわするゝを、そのこゑさへきこえざりせば、故郷をこひて、ほと/\しなま(し脱?)をとよめるなり。
 
右一首。高安大島。
 
父祖官位不v可v考。書紀天武紀、持統紀などに、大島といふ人見えたれど、姓氏ことなれば、別人なるべし。新撰姓氏録に、高安造、高安漢人、高安忌寸など見え、本集十九に、高安倉人種麿と見えたり。この大島は、いづれの姓の人ならん。可v考。さて、こゝを目録には、作主不詳歌、高安大島とせり。いづれをか是とせん。いとまぎらはしきかきざまなり。
 
(223)68 大伴乃《オホトモノ》。美津能濱《ミツノハマ》爾有《ナル・ニアル》。忘貝《ワスレカヒ》。家《イヘ》爾有《ナル・ニアル》妹乎《イモヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
 
大伴乃《オホトモノ》。
枕詞なり。上【攷證五十二丁】にいへり。
 
美津能濱《ミツノハマ》爾有《ナル・ニアル》。
美津の濱、攝津也。これも上【攷證五十二丁】にいへり。爾有の二字、舊訓に、あるとよめれど、にあり約、なゝれば、なるとよむべし。この事、上【攷證上ノ廿五丁】にもいへり。
 
忘貝《ワスレカヒ》。
わすれ貝とて、一種の貝あるにあらず。うつせ貝を、みぎはに浪のよせきて、わすれてのこしかへりぬといふ意にて、それをもとにて戀わすれ貝、人わすれ貝など、物によそへいへり。本集六【廿三丁】に、拾而將去戀忘貝《ヒロヒテユカムコヒワスレカヒ》云々。七【十二丁】に、住吉之岸因云戀忌貝《スミノエノキシニヨルトフコヒワスレカヒ》云々。十五【十四丁】に、和須禮我比與世伎弖於家禮於伎都之良奈美《ワスレカヒヨセキテオケレオキツシラナミ》云々などありて、猶いと多し。又本集十二【廿七丁】に、海處女潜取云忘貝《アマヲトメカツキトルトフワスレカヒ》、代二毛不忘妹之光儀者《ヨニモワスレシイモカスカタハ》云々とあるを見れば、海底にある貝をかづきとるごとく聞えて、わすれ貝の意とはたがへれど、こは貝といふからに、かづきとるともいひて歌をなせるもの也。さてこの歌、こゝまではわすれて思へやといふための序歌也。原本、貝を具に誤る。今意改。
 
家《イヘ》爾有《ナル・ニアル》妹乎《イモヲ》。
これも舊訓誤れり、いへなるいもをとよむべし。
 
(224)忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
おもへやの、やは、うらへ意のかへるてにをはにて、家なる妹を、わすれておもへや、わすれはせじといふ意也。本集十一【廿六丁】に、君之弓食之將絶跡念甕屋《キミカユツラノタエムトオモヘヤ》云々。十五【七丁】に比登比母伊毛乎和須禮弖於毛倍也《ヒトヒモイモヲワスレテオモヘヤ》云々などある類也。猶いと多し。
 
右一首。身入部王。
 
父祖不v可v考。むとべの王とよむべし。身の字も、武の假字に用ひし事多し。書紀齊明紀に、田身嶺【田身山名此云2大務1】云々。また古事記に、正身を、むざねとよみ、延喜諸陵式に、身狹《ムサ》桃花鳥坂上陵云々などあるにても、身をむとよめるをしるべし。されば、六人部王ともかけり。續日本紀に、和銅三年春正月甲子、授2無位六人部王從四位下1云々。養老五年春正月壬子、授2從四位下六人部王從四位上1云々。神龜元年二月壬子、授2正四位下六人部王正四位上1云々。天平元年春正月壬寅正四位上六人部王卒云々と見えたり。
 
69 草枕《クサマクラ》。客去君跡《タヒユクキミト》。知麻世婆《シラマセバ》。岸之埴布爾《キシノハニフニ》。仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
 
草枕《クサマクラ》。
枕詞也。上【攷證上ノ十一丁】にいへり。
 
客去君跡《タヒユクキミト》。
左注に、清江娘子《スミノエノヲトメ》進2長皇子1とありて、こゝに君とさせるは、長皇子也。清江《スミノエ》娘子は、まへの長皇子の御歌に、住吉之弟日娘《スミノエノオトヒヲトメ》とよみ給へる同人か。可v考。さて、(225)長皇子御供にて、くたらせ給ひて、こゝも旅なるに、また客去君とよめるを、うたがふ人あれど、住る所より、こと所にゆきて、歸るにも、いづれ旅をせでは、京にもかへられぬもの故、その道のほどをさして、旅とはいへる也。この例、集中、これかれあるが中に、四【廿四丁】の、太宰少式石川足人朝臣遷任、餞2于筑前國蘆城驛家1歌に、天地之神毛助與《アメツチノカミモタスケヨ》、草枕※[覊の馬が奇]行君之至家左右《クサマタラタビユクキミカイヘニイタルマテ》云云などあるにても、往にもかへるにも旅といへることをしるべし。
 
知麻世婆《シラマセバ》。
しりましかば也。宣長は、玉の緒に、ませばは、ましせばの約まりたるなりといはれしかど、ましせばといふ言あるべしともおぼえず。誤り也。こは、ましかばの、しかを約むれば、さとなるを、せにかよはして、ませばとはいへる也。さてませばといへる下は、必らず、ましといへり。さて下にましといはざる歌、集中にたゞ一首あり。本集十五【卅二丁】に、可久婆可里古非牟等可禰弖之艮末世婆《カクハカリコヒムトカネテシラマセバ》、伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《イモヲハミスソアルヘクアリケル》云々とあるのみ也。猶くはしくは、玉緒につきて見るべし。
 
岸之埴布爾《キシノハニフニ》。
岸は、住の江の岸也。埴は、和名抄塵土類に、埴稱名云土黄而細密曰v埴【常職反和名波爾】云々と見え、新撰字鏡に、埴【市力反黏土也波爾】云々など見えたり。古事記に、赤土、本集に赤土、黄土などかけり。布《フ》は生《フ》也。其もの多くある所を生《フ》といふ。埴生《ハニフ》は、埴の多くある所といふ事也。淺茅生《アサヂフ》、蓬生《ヨモギフ》、篠生《サヽフ》、芝生《シバフ》、園生《ソノフ》などいへるも、たゞ其ものゝ生《オヒ》たるをいふのみにあらず、其のものゝ多く生《オヒ》てある所といふ事也。本集十一【卅一丁】に、櫻生乃苧原之下草《サクラフノヲフノシタクサ》云々。十二【廿三丁】に、淺茅原茅生丹足蹈云々などありて、原の字をふとよめるも、其ものゝ多くある所と(226)いふ意也。さてはにふは、本集七【十二丁】に、住吉之岸之黄土於萬世見《スミノエノキシノハニフヲヨロツヨニミム》云々、など見えたり。猶次に多くあげたり。また十一【卅一丁】に、彼方之赤土少屋爾《ヲチカタノハニフノコヤニ》、※[雨/脉]霖零《コサメフリ》、床共所沾《トコサヘヌレヌ》、於身副我妹《ミニソヘワキモ》云々ともあるは、埴《ハニ》のうるほひたる土多かる所《(マヽ)》小屋といへるなり。
 
仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
にほはさましをとは、埴《ハニ》の色に、君が衣をにほはさましものをといへる也。色のうるはしきを、にほふとはいへり。本集上【十四丁】に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》云々。同【廿五丁】引馬野爾仁保布榛原《ヒクマヌニニホフハリハラ》、入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾《イリミタレコロモニホハセタヒノシルシニ》云々などありて、集中猶いと多し。さて、埴は、まへにもいへるがごとく、赤土、黄土などかきて、色あることはもとよりなれば、その色を衣につけて、旅ゆく君が衣を、にほはさましものをといへるにて、旅には摺衣を、もはらきるものなれば、旅の具にせんとはよめる也。埴《ハニ》を衣につくる事は、本集六【十五丁】に、住吉之岸黄土粉二寶比天由香名《スミノエノキシノハニフニニホヒテユカナ》云々。七【卅一丁】に、山跡之宇陀乃眞赤土左丹著者《ヤマトノウダノマハニノサニツカハ》云々。十一【卅五丁】に、三津之黄土色出而《ミツノハニフノイロニイデヽ》云々などあるがごとし。皆、黄土にふれて、その色のうつりそまるをいへり。(頭書、古事記に丹摺とあるも丹土にすれる也。)
 
右一首。清江《スミノエノ》娘子。進2長皇子1。姓氏未詳。
 
清江《スミノエノ》娘子、何人か、不v可v考。まへの長皇子の御歌に、住吉之弟日娘子《スミノエノオトヒヲトメ》とよみ給へると、同人か。可v考。清江は、住吉《スミノエ》なり。本集三【二十三丁】に、清江乃木笶松原《スミノエノキシノマツハラ》云々とあるにても、おもふべし。姓(227)氏未詳の四字、印本大字とす。今意改して小字とす。考別記云、右に長皇子の、住吉之弟日娘子とよみ給ひし、同じ娘子と思ひて、この注はなせるにや。こゝは亂れて、時代の前しりへに成たるよし、考にいへるがごとくなれば、是を大寶元年の幸としても、その後、慶雲三年の幸までは、六とせ經べきを、同じ娘子の、猶ありて、同じ皇子にめされんことおぼつかなし。注はおしはかりのわざか。
 
太上天皇。幸2于吉野宮1時。高市連黒人作歌。
 
太上天皇。
持統天皇を申す。考云、紀に大寶元年八月、吉野の幸の事見ゆれど、其度の歌とのみも定めがたし。此天皇、太上と申せしより、大寶元年の前、四年の間に、度度幸有つらんと思へば也云々。
 
高市黒人。
上【攷證一丁】にいへり。
 
70 倭爾者《ヤマトニハ》。鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。呼兒鳥《ヨフコトリ》。象乃中山《キサノナカヤマ》。呼曾越奈流《ヨヒソコユナル》。
 
倭爾者《ヤマトニハ》。
端詞に、幸2于吉野宮1云々とある、吉野も、大和國吉野郡、この歌によめる、象乃中山《キサノナカヤマ》も、同郡也。かく同じ大和國の中にして、ことさらに、倭《ヤマト》にはなきてかくらん(228)とよめるは疑はしきに似たれど、こゝに倭爾者《ヤマトニハ》とさせるは、大和國山邊郡大和郷といへるなるべし。大和一國を、やまとゝいへるも、この大和郷の郷名を、國中におほせしなるべし。そは考別記に、吾友なりし藤原常香てふ人は、大和國山邊郡大和郷は、古へ名高き郷也。【やまとの郷を、和名抄に於保夜末止とあるは、今京このかたの唱へか。紀などにはたゞ、夜萬登とのみ、其郷をいひたり。又同抄に、この郷を、城下郡に入しはいかに。山邊と城下とは、入交る故に、後にさは成しものと土人もいへり。大和神社は、式にも山邊郡に入たり。】この郷の名のひろまりて、一國の名となりつらん。諸の國に類ひありといひつ。眞淵考るに、こはたやすくして、よし多し。まづ駿河國に駿河郡駿河郷あるがごとく、出雲國その外にもこの類ひあり。又郡は他名《アダシナ》にて、國と郷の名の同きに、其郷より國の名となりぬるも見ゆ。後に國郡建らるゝにも、和泉、安房、加賀、其外郡名を、國の名とし、郷の名を郡の名とし給へる也。かくて、大和郷の事、神武天皇紀の定v功給ふ條に、道臣命を始めて、共にやまとの國内《クヌチ》の所々を賜れるが中に、珍彦《ウツヒコ》をば、爲2倭國造1とあり、釼根《ツルキネ》者爲2葛城國造1ともありて、葛城もとより同じ國内《クヌチ》なれば、倭は一國をいふならず、山邊郡の郷の事也。又崇神天皇紀に、市磯長尾市《イチシノナガヲチヲ》爲d祭2倭國魂神1之主uてふも、山邊郡大和に坐《マス》神を祭る也。又仁徳天皇紀に、皇后【磐之姫命】難波より葛城高宮へおはしぬる時の御歌に、山しろ川を川のぼり吾のぼれば、青によしならを過、鳥佗低夜莽苔烏輸疑《ヲダテヤマトヲスギ》、わが見がほし國は、かづらぎ高みやとよみ給ふ葛城へは、多くのさと/”\を經るに、たゞ奈良と夜麻登をのたまへるは、中にも大名《オホナ》なるをもて擧給ひしものなり。さて、その大名なるよしは、このまきの藤原御井歌に、日本乃青香具山といひ、又幸2吉野宮1時の歌に、倭《ヤマト》にはなきてかくらん呼子鳥《ヨフコトリ》象《キサ》の中山《ナカヤマ》喚《ヨヒ》ぞこゆなるといふも、共に大和の國内にして、さらにやまとゝいふからは、かく山邊郡のやまとを、隣郡の藤原郡あたりまでも、冠らせいひなれし事しるべし。かく意得ずば、(229)この二首のやまとてふ言を、何とかいはん。その頃は、攝津國の難波は、神名式によるに、もと東生郡の中の一つの名なるを、西生郡、住吉郡などかけて、難波ともいひ【卷十九に、難波にくだり住吉の御津に船のりとよみて、御津はもと住吉郡なるを、難波のみつといひならひ、西生郡の味原宮を、難波宮ともいへるは、難波は大名なるゆゑ也。】近江國の篠浪てふは、志賀郡の中の一つの名なるを、其郡の所々にひろく冠らせいひて、難波國、さゞなみの國など、古へいひしも、皆|大名《オホナ》なれば也。諸國にもあり、引むかへて見よ。然れば、大和國の名は、【古へ天皇專ら大和國に都し給へる故に、大和は大八洲の總名のごとくさへ、なりひろごりたり。かくて後には、日本の字をもやまとに書つ。然るを、立かへり大和一國をいふ所にも、日本とかきまして、かの郷をいふ所にも日本と書しは、餘りたる行かへりごとゝまづは見ゆれど、字は假初とする故にかゝはらず。】この郷名よりはじまれりとするこそ、ゆゑよし多けれ。かつ、諸の國も國魂《クニタマノ》神の坐《マス》所を本郷とすとおぼし。その中に、尾張國中島郡に、尾張大國|靈《ミタマ》神社、遠江國磐田郡に、淡海國玉神社、能登國能登郡に、能登|生國玉比古《イククニタマヒコノ》神社などあり。大和も、右にいふがごとし。難波の同東生郡に、難波|生國々魂《イククニクニタマ》神社のおはすも、これなり。【この東生、西生と郡を分しは、後也。本は生國てふ也。其後ひがしなり、にしなりといふは俗のわざぞ。】云々といはれつるがごとし。
鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。
大和郷には、今|呼子鳥《ヨブコトリ》の鳴てか來るらん。今この象の中山をよぶこ鳥のよびつゝこえゆくよと也。これをだに都のたよりといふも旅の情也。
 
呼兒鳥《ヨブコトリ》。
呼兒鳥は、漢名未v詳。説々さだかならざれど、予は眞淵の説にしたがはんとす。さて、諸書に見えたる所と、眞淵の説をのみあぐ。和名抄羽族名云、萬葉集云喚子鳥【其讀與不古止里】云々。本集八【十四丁】に、神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥《カミナヒノイハセノモリノヨブコトリ》、痛莫鳴吾戀益《イタクナナキソワカコヒマサル》云々。九【十三丁】に、瀧上乃三船山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥《タキノヘノミフネノヤマユアキツベニキナキワタルハタレヨブコトリ》云々。十【六丁】に、吾瀬子乎莫越山能喚子鳥君喚變瀬夜之不深刀爾《ワカセコヲナコセノヤマノヨフコトリキミヨヒカヘセヨノフケヌトニ》云々。又|春日有羽買之山從《カスカナルハカヒノヤマユ》、猿帆之内敝鳴往成者敦喚子鳥《サホノウチヘナキユクナルハタレヨフコトリ》云々。又|不答爾勿喚動曾《コタヘヌニナヨヒトヨメソ》、喚子鳥《ユフコトリ》、佐保乃山邊乎上下二《サホノヤマヘヲノホリクダリニ》云々。又【七丁】朝霧爾之怒々所沾而《アサキリニシヌヽヌニヌレテ》、喚子鳥《ヨフコトリ》、三船山從喧渡所見《ミフネノヤマユヨヒワタルミユ》云々。八【十九丁】(230)春雜歌に、尋常聞者苦寸喚子鳥《ヨノツネニキケハクルシキヨフコトリ》、音奈都炊時庭成奴《コエナツカシキトキニハナリヌ》云々。古今集春上に、よみ人しらず、をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこ鳥かな云々、後撰集春中に、よぶこ鳥をきゝてとなりの家におくり侍りける、春道つらき、わがやどの花になゝきそよぶこ鳥よぶかひありて君もこなくに云々。後拾遺春下に、法輪に道命法師の侍りける、とぶらひにまかりわたる夜に、よぶこ鳥のなき侍りければよめる、法圓法師、われひとりきくものならばよぶこ鳥二聲まではなかせざらまし云々。康資王母家集に、物思ひみだれるころ、よぶこ鳥のなくを、世の中をなぞやといふもよぶこ鳥わがなくこゑをこたふとやきく云々などあり。猶諸書に多かれど、うるさければはぶきつ。古今集餘材抄に、或抄裏書を引て、東野州古今傳受、箱内切紙説、呼子鳥はかつほう/\となく鳥の事也云々と見えたり。考別記云、この鳥は、集に專ら春夏よめり。そが中に、卷十二に坂上郎女の、世の常に聞はくるしき喚子鳥音なつかしき時にはなりぬとよめろは、三月一日佐保宅にてよめるとしるしつ。げに山の木ずゑ、やう/\青みたち、霞のけはひもたゞならぬに、これが物ふかく鳴たるは、なつかしくもあはれにも、ものに似ずおぼゆ。それより五月雨るゝころまでも、ことにあはれと聞ゆめり。さてなく聲の、ものをよぶに似たれば、よぶ子鳥といひ、又そのこゑ、かほう/\と聞ゆれば、集には容鳥ともよみたり。ゐ中人の、かつぽうどりといふ、即これ也。かんこ鳥てふも、喚子息のよこなはり言也。同じ鳥を、さま/”\に名づくるは、常の事ぞ。この鳥、萬葉に多く出て、何の疑もなきに、後の世人は、古今集の一つを守りて、ひがごといふめり。こはいづこの山|方《ベ》にもあれど、下つふさの國にては、何とかや藥にすとて、とれるを見しに、凡は鳩に似て、かしらより尾かけて、うす黒也。はらは白きに、いさゝか赤き氣あり(231)て、すゞみ鷹のはらざまなるかた有。くちばしは、鳩のごとくして、少しくながく、うす黒し。足はうす赤にて、はとよりも高し云々。(頭書、布穀の事)
 
象乃中山《キサノナカヤマ》。
大和志は、吉野郡象山喜佐谷村上方云々と見えたり。本集三【廿七丁】幸2吉野離宮1時、大伴卿の歌に、象乃小河《キサノヲカハ》云々。六【十三丁】に、三吉野乃象山際乃《ミヨシヌノキサヤマノマノ》云々とよめり。象は和名抄毛群名に、四聲字苑云象【祥兩反上聲之重字亦作v象和名岐佐】云々とありて、きさとよまんこと、論なし。さて中山としもいへるは、象《キサ》は其地の地名にて、その象《キサ》の地の中にある山といへる意也。書紀天武紀に、伊賀中山あり、又みをの中山、みをの山、吉備の中山、きびのを山などいへるにてもおもふべし。
 
呼曾越奈流《ヨヒソコユナル》。
呼子鳥と名付るからに、其こゑをも物をよぶやうに聞なして、今象の中山をよびつゝこえゆけば、大和の郷の方にはなきでか來るらんとなり。
 
大行天皇。幸2于難波宮1時歌。
 
大行天皇は、こゝには文武天皇を申奉る。天皇崩じまして、いまだ御謚を奉らぬほどを、大行天皇とは申奉る也。書紀持統天皇三年紀に、大行天皇と見えたり。風俗通卷 云、天子新崩、未v有2謚號1、故總2其名1、曰2大行皇帝1也云々。韻會引2漢書音義1云、禮有2大行人小行人1、主2謚號1、官韋昭曰、大行者不v在之辭、天子崩未v有2謚號1、故稱2大行1云々と見えたり。考云、こは文武天皇をさし奉る也。此崩まして、いまだ御謚を奉らぬ間に、前にありし幸の度の歌などもを傳へ聞し人、私の歌集に大行云々、しるしおきしを、後人の見てこゝの注とせしもの也。されば、此卷な(232)どに、大行と書べきにあらず、注なる事しるべし云々。考別記云、大行とは、天皇崩まして、いまだ御謚奉らぬ間に、申奉る事なれば、大行の幸といふ言はなき事也。然るを、こゝに慶雲三年と標せし條に、大行天皇幸2難波1とあるは、同四年六月天皇【文武】崩まして、十二月に御謚奉りたり。この六月より十一月までの間に、前年の幸の時の歌を傳へ聞たる人、私の歌集に大行云々としるし載しならん。さて其歌集を、この萬葉のうら書にしつるを、今本には表へ出して、大字にしも書加へし故に、かくことわりもなくは成しなりけり。こはとまれかくまれ、本文のならぬ事明らかなれば、今度の考には、小字にしるして分てり。これが次に、大行天皇幸2吉野1とあるも、右に准らへてしるべし云々。さてこゝより下五首を、裏書の歌の集中に亂れ入し也とて、改めて小字とせしは誤り也。そは因幡國なる、伊福吉部臣徳足比賣墓版銘に、藤原大宮御宇大行天皇御世、慶雲四年云々とありて、和銅三年十一月としるせり。これに大行天皇とあるも、文武天皇をさし奉れり。文武天皇崩じまして、御謚を奉りて三年をへて、猶大行天皇とし申せしを思へば、このころの人は、大行天皇とは先帝といふことのごとく心得て、かけりとおぼし。さればこの集にも、もとより大行天皇とはしるしゝならん。これこの集の本よりの誤りなり。
 
71 倭戀《ヤマトコヒ》。寐之《イノ》不所宿《ネラエヌ・ネラレヌ》爾《ニ》。情無《コヽロナク》。此渚崎爾《コノスノサキニ》。多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》。
 
倭戀《ヤマトコヒ》。
難波の幸の御ともにて、かの地にいたれど、故郷の大和をこふるなり。
 
(233)寐之《イノ》不所宿《ネラエヌ・ネラレヌ》爾《ニ》。
舊訓、いのねられぬにとあれど、いのねらえぬにとよむべし。本集十五【二十丁】に、伊母乎於毛比伊能禰良延奴爾《イモヲオモヒイノネラエヌニ》云々。又【廿二丁】欲乎奈我美伊能年良延奴爾《ヨヲナガミイノネラエヌニ》云々。又【廿三丁】伊能禰良要奴毛比等里奴禮婆可《イノネラエヌモヒトリヌレハカ》云々などあるにても思ふべし。ねらえぬの、えは、れの字にかよふ、えにて、本集五【十丁に】、可久由既婆比等爾伊等波延《カクユケハヒトニイトハエ》、可久由既婆比等爾邇久麻延《カクユケハヒトニニクマエ》云々。又【廿丁】美流爾之良延奴有麻比等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》云々。又【廿六丁】に、美夜故能提夫利和周良延爾家利《ミヤコノテフリワスラエニケリ》云々などある、みな同じ。集中多し。故郷の倭《ヤマト》の戀しさに、ねる事もねられぬなり。
 
此渚崎爾《コノスノサキニ》。
渚字は、知名抄にも、奈木左とよみて、今もしかなれど、集中|洲《ス》に用ひたり。本集六【卅丁】に、奧渚爾鳴成鶴乃《オキツスニナクナルタツノ》云々。十九【四十七丁】に、河渚爾母雪波布禮々之《カハスニモユキハフレヽシ》云々など見えたり。爾雅釋水に、小洲曰v渚云々とあるにて、すとよまん事論なし。
 
多津鳴倍思哉《タツナクベシヤ》。
多津は鶴也。和名抄羽族名に、唐韻云※[零+鳥]【音零楊氏抄云多豆今按倭俗謂v鶴爲2葦鶴1是也】鶴別名也云々と見えて、古事記中卷には、鵠をよめり。本集三【十九丁】にも、鵠をよめり。鵠《クヾヒ》、鸛《オホトリ》などの類をも、おしなべて、たづとはいふなるべし。さて、鳴倍思哉《ナクベシヤ》の、やは、うらへ意のかへるやにて、倭をこひてねるにもねられぬを、をりしも、この洲のさきに、鶴のなくべしや、なく事はあらじをといへる意なり。
 
右一首。忍坂部《オサカベ》乙麿。
 
(234)忍坂部乙麿、父祖官位不v可v考。忍坂部の氏は、古事記に刑部《オサカベ》、書紀に忍壁《オサカベノ》連、押坂部《オサカヘノ》史、刑部造などかけり。たゞ文字をいろ/\にかけるのみ。皆その本は、同じ。さて舊訓、おしさかべとあれど、おさかべとよむべし。そは古事記中卷に、忍坂大室《オサカノオホムロ》とあるを、歌には意佐加能意富牟廬夜爾《オサカノオホムロヤニ》云々とかき、和名抄郷名に、大和國城上郡忍坂を、於佐加とよめるにてもおさかべとよむべきをしるべし。姓氏録には刑部とのみかけり。
 
72 玉藻苅《タマモカル》。奧敝波不榜《オキヘハコカシ》。敷妙之《シキタヘノ》。枕之邊《マクラノアタリ》。忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
 
玉藻苅《タマモカル》。
枕詞也。意は明らけし。玉藻《タマモ》は、海には、いづこにも生るもの故に、奧《イキ》ともつゞけ、
本集三【十五丁】に、珠藻苅敏馬乎過《タマモカルミヌメヲスキテ》云々。六【十八丁】に、玉藻苅辛荷乃島爾《タマモカルカラニノシマニ》云々。十一【卅五丁】に、玉藻苅井提乃四賀良美《タマモカルヰテノシガラミ》云々などいづこにもつゞけし也。猶予が冠辭考補正にいふべし。
 
奧敝波不榜《オキヘハコガシ》。
奧の方へは榜いでじ、枕のほとりのけしきのおもしろきをわすれかねつと也。枕詞にて、冠辭考にくはし。敷妙《シキタヘ》の敷《シキ》は、借字にて、しげき意也。古事記上卷に、敷《シキ》山主神とあるも、敷は借字にて、しげき意也。妙は絹布の類をすべいふ名にて、織布の織めのしげきをいふ。冠辭考云、夜の物は、なごやかに身にしたしきを、用る故に、和らかなる服《キモノ》てふ意にて、敷栲の夜の衣といふより、袖就床ともつゞくるなり云々。
 
(235)枕之邊《マクラノアタリ》
枕のわたりといふにて、近き意をきかせたり。近きあたりといふがごとし。後世、枕の山、枕のみねなどいふも、みなちかき意也。
 
忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
わすれかねつもの、もの字は、そへたる字にて、意なし。この事は、上【攷證上四十九丁】にいへり。
 
右一首。式部卿藤原宇合。
 
藤原宇合卿は、續日本紀に、馬養とも書たれば、うまかひとよむべし。續日本紀云、室龜二年八月癸亥、正六位下藤原朝臣馬養、爲2遣唐副使1、己巳、授2正六位下藤原朝臣馬養從五位下1云々。養老三年春正月壬寅、授2正五位下藤原朝臣馬養正五位上1云々。同年秋七月庚子、常陸國守正五位上藤原朝臣宇合、管2安房上總下總三國1云々。同五年春正月壬子、五五位上藤原朝臣馬養正四位上云々。神龜元年夏四月丙申、以2式部卿正四位上藤原朝臣宇合1、爲2持節大將軍1云々。同二年閏正月丁未、詔叙2征夷將軍已下一千六百九十六人勲位1、各有v差、授2正四位上藤原朝臣宇合從三位勲四等1云々。同三年冬十月庚午、以2式部卿從三位藤原宇合1、爲2知造難波宮事1云々。天平三年八月丁亥、詔依2諸司擧1、擢2式部卿從三位藤原朝臣宇合1爲2參議1云々。同年十一月丁卯、始置2畿内惣管諸道鎭撫使1、以2一品新田部親王1爲2大惣管1、從三位藤原朝臣宇合爲2副惣管1云々。同四年八月丁亥、從三位藤原朝臣宇合、爲2西海道節度使1云々。同六年正月己卯、授2從三位藤原朝臣宇合正三位1云々。同九年八月丙午、參議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨、贈太政大臣不比等之第三子也云々と見えたり。懷風藻、公卿補任など、みな薨年四十四とあれば、持統天皇八(236)年の誕生也。されば、この慶雲三四年のころは、いまだ十三四にておはしたれば、御幸の御ともにてかゝる歌などよまれん事おぼつかなし。よく可v考。
 
長皇子御歌。
 
73 吾妹子乎《ワキモコヲ》。早見濱風《ハヤミハヤカセ》。倭有《ヤマトナル》。吾《ワヲ・ワガ》松椿《マツツハキ》。不吹有勿勤《フカサルナユメ》。
 
早見濱風《ハヤミハヤカセ》。
考云、豐後に速見郡あるがごとく、難波わたりにも、早見てふ濱ありて、しかつづけ給へるならん。或人集中に、濱行風のいやはやにてふ歌に依て、地名にあらずといへど、此歌、さては叶はず云々といはれしかど、いかゞ。早見《ハヤミ》は、わぎも子を、早く見んといふを、濱風の早きにいひかけたる也。本集四【五十六丁】に、今所知久邇乃京爾妹二不相久成《イマシラスクニノミヤコニイモニアハテヒサシクナリヌ》、行而早見奈《ユキテハヤミナ》云々などある、早見と同じく、又十五【十六丁】に、宇良末欲里許藝許之布禰乎《ウラマヨリコキコシフネヲ》、風波夜美《カセハヤミ》、於伎都美宇良爾夜杼里須流可毛《オキツミウラニヤトリスルカモ》云々とある、風早み|と《(ママ)》、わぎも子を早く見んといふを、濱風の早きにいひかけたり。早見の、み文字は、さにといふ意也。この事は上のところ/”\にいへり。
 
吾《ワヲ・ワガ》松椿《マツツハキ》。
この一句、誤脱ありや、おだやかならず。しひていはゞ、わぎも子が、われを待といふを、庭などにある松椿にいかかけたり。わをは、われといふに同じ。本集四【四十一丁】に、乞吾君人中言聞超名湯目《イテワキミヒトノナカコトキヽコスナユメ》云々。十一【十一丁】に、麾可宿濫和乎待難爾《ナヒキカヌラムワヲマチカテニ》云々などあるにても思ふべし。
 
(237)不吹有勿勤《フカサルナユメ》。
考に、われは妹を早く見まく思ひ、妹はわれを待らん、其間の便りとせんに、風だにつとめておこたらず吹かよへと、よみ給へるがごとし云々といはれしがごとし。この句を、ある人、ふかざれなゆめとよみ直しゝかど、勿は、みななかれといふ意の所の、なの字にのみ用ひて、たゞの、なの假字に用ひしこと例なし。勤は、集中、謹、忌なども書て、みな禁止の語也。勤とかけるも、つとめてつゝしめといふ意也。古事記下卷に、美夜比登々余牟《ミヤヒトヽヨム》、佐斗毘登母由米《サトビトモユメ》云々。本集三【十四丁】に、浪立莫動《ナミタツナユメ》云々。七【卅二丁】に、風吹莫勤《カゼフクナユメ》云々。十一【廿二丁】嘆爲勿謹《ナゲキスナユメ》云々などありて、集中猶いと多し。
 
大行天皇。幸2于吉野宮1時歌。
 
大行天皇と申すことは、上【攷證六十一丁】にいへり。こゝも文武天皇をさし奉れり。慶雲年中、吉野宮行幸の事なし。可v考。
 
74 見吉野乃《ミヨシヌノ》。山下風之《ヤマシタカゼノ》。寒久爾《サムケクニ》。爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》。我《ワカ・ワレ》獨宿牟《ヒトリネム》。
 
寒久爾《サムケクニ》。
さむけくには、さむきに也。けくといふ語は、すべて、きといふ意なると、くといふ意なると、二つあり。けくの約まり、くなれば、くといふ意なるは、もとより、又その、くを、きとはたらかして、きといふ意なるもあり。書紀神武紀に、多智曾縻能未廼那鷄句※[手偏+烏]《タチソバノミナケクヲ》云々。古今集雜下に、よみ人しらず、世の中のうけくにあきぬ、おく山のこの葉にかゝるゆ(238)きやけなまし云々などある、けくは、きの意也。又本集五【卅七丁】に、世間能宇計久都良計久《ヨノナカノウケクツラケク》云々。八【五十七丁】に、戀乃繁鷄鳩《コヒノシケケク》云々などあるは、皆くの意也。集中猶いと多し。
 
爲當也《ハタヤ》。
書紀欽明紀云、許勢臣問2王子惠1曰、爲當《モシ》欲v留2此|問《(マヽ)》1爲當《ハタ》欲v向2本郷1云々。本集十一【五丁】に、半手不忘《ハタワスラエス》、猶戀在《ナホコヒシカル》云々。六【廿一丁】に、當不粕將有《ハタアハサラン》云々。十五【卅三丁】に、和我由惠爾波太奈於毛比曾《ワカユヱニハタナオモヒソ》云々。十六【廿三丁】に、波多也波多《ハタヤハタ》云々。又【廿八丁】將見和之《ハタミテムワシ》云々など見えて、日本後紀にも、爲當、眞字伊勢物語に爲將をもよめり。將をはたとよめるごとく、まさにの意也。考別記云、こゝに爲當也と書しは、今夜も果して獨ねんやてふ意を得て、書たる也。故に、古しへより、この三字を、はたやと訓つ。然れば、波太《ハタ》は果しててふ言ぞとすめり。常に、はたと當るといふは、行はてゝ物に當る事にて、終にといふ(に脱?)ちかし。さて其果してを本にて、さし當る事にも、打つけにてふ事にも、轉じいへり。卷十五に、さを鹿の鳴なる山をこえゆかん日だにや君に當《ハタ》あはざらん。古今歌集に、わびぬれば今はた同じ、難波なる身をつくしてもあはんとぞ思ふ。是らは、果して也。今、十一に、命あらばあふこともあらん、吾ゆゑに波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》【當勿v念也】今(命?)だに經《ヘ》ば。古今歌集に、【郭公の初てなくをきゝて】ほとゝぎす鳴こゑきけばあぢきなくぬしさだまらぬ戀せらるはた。これらは、うちつけにと心得てきこゆ。同集に、ほとゝぎす人まつ山になくなればわがうちつけにこひまさりけ|る《(マヽ)》といへると、右のを合せ見よ云々といはれつ。さて、はたやの、や文字、疑のやにて、この吉野の山下風のさむき夜に、まさにや今夜も、われひとりねなんとの意也。
 
(239)右一首。或云。天皇御製歌。
 
考云、注に、或云天皇御製とあるは、誤り也。先、端に、其所へ幸とある下に、御製とかゝぬは、みな從駕の人の歌也。さて難波、吉野などへの幸は、御心のすさみの爲なる事、上の歌にも見ゆ。然るに、いかでこの歌のごとく、なけ給ふ事あらんや。又これを持統天皇御製といふ説もわろし。此姫天皇は、天武天皇崩じませし後、御|獨《ヒトリ》ね、もとよりの事なるべき也。
 
75 宇治間山《ウチマヤマ》。朝風寒之《アサカセサムシ》。旅爾師手《タヒニシテ》。衣應借《コロモカルベキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
 
宇治間山《ウチマヤマ》。
吉野の中なるべし。大和志吉野郡に、宇治間山在2池田莊千俣村1云々と見えたり。新撰六帖一に、しろたへの衣手寒し、うぢま山朝風ふきて秋は來にけり云々とあるも、この歌をとられし也。
 
衣應借《コロモカルヘキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
古しへ、男女ともに、衣を相かりて、きる事常の事也。本集十二【十九丁】に、吾妹兒爾衣借香之云々。後撰集雜三に、小野小町、いはの上にたびねをすればいと寒し、こけの衣をわれにかさなん、返し、遍昭、よをそむくこけの衣はたゞひとへ、かさねばうとし、いさふたりねん云々。大和物語に、男、女のきぬをかりきて、今のめのがり、いきて、さらに見えず、この衣をみなきやりて、返しおこすとて云々など見えたり。一首の意明らけし。
 
(240)右一首。長屋王。
 
長屋王は、續日本紀云、慶雲元年春正月癸巳、无位長屋王授2正四位上1云々。和銅二年十一月甲寅、以2從三位長屋王1爲2宮内卿1云々。同三年四月癸卯、以2從三位長屋王1爲2式部卿1云々。同七年春正月壬戌、從三位長屋王益v封一百戸云々。養老二年三月乙巳、以2正三位長屋王1、爲2大納言1云々。同五年春正月壬子、授2正三位長屋王從二位1、爲2右大臣1云々。同年三月辛未、勅給2右大臣從二位長屋王帶刀資人十人1云々。神龜元年二月甲午、授2從二位長屋王正二位1、爲2左大臣1云云。天平元年二月辛未、左京人從七位下漆部君足、无位中臣宮處連東人等、告v密、稱左大臣正二位長屋王、私學2左道1欲v傾2國家1、其夜遣3v使固守2三關1云々。將2六衛兵1、圍2長屋王家1云々。癸酉、令3王自盡2其室1云々。長屋王天皇【天武】之孫、高市親王之子也云々と見えたり。又此王の事は、同書天平十七年七月の條にも、懷風藻、日本靈異記、宋高僧傳等にも見えたれど、こと/”\くあぐるにいとまなし。(頭書、無實の罪なりしかの事。)
 
寧樂宮。
 
この三字、諸本こゝになくて、下和銅五年云々の歌の下にしるせり。されど、次に和銅元年云々とあれば、こゝより下は都を寧樂にうつし給ひし元明天皇の御代なれば、必らずこゝに此三字あるべき所なれば、眞淵のこゝに加へられしにしたがひて、加へつ。寧樂に、都をうつし給ひしは、和銅三年三月なるを、其まへ和銅元年の上に、かくあぐるをあやしぶ人あるべけれど、上【攷證上四(241)十三丁】に、藤原宮御宇天皇代とあるも、藤原に都をうつし給はぬまへをも、其天皇の御代となりてをば、みなその下にあげたるにても、後の事をまへにおよぼして、かくあぐる例なるをしるべし。又この外には、皆御宇天皇代の五字あるを、こゝにしるさゞるは、この寧樂宮は、當時の都なれば、あながちに御宇天皇代とことわるべきいはれもなく、二卷の末にも、この字なきによりてはぶきつ。考云、卷二も、和銅四年の所に、この標あれど、其上に、同元年の歌ある所にしるしつ。この卷には、同三年の歌どもありて、後に同五年と記せし下に、此標あるは何のよしともなし。亂れ本のまゝに、後人の書し事明らか也。仍て今こゝにしるしつ。且同三年この都へ遷ましゝより前、元年の歌の上にあぐるは、上の藤原宮の所にいへる例なり云々。(頭書、再考るに、寧樂宮の三字を、こゝに載るは誤り也。いかにとなれば、藤原宮までは、過さりし古都なれば、その所に都を遷給はぬまへをも、その天皇の御宇の歌をば、その宮の御宇天皇の下に、載べき事、尤さる事なれど、寧樂宮は、當代までの都なれば、當都よりは、年月をこまかにわけし也。されど、印本の如く、和銅五年の下に載るは、いかゞ。和銅五年の上に載べし。)
 
和銅元年戊申。天皇御製歌。【日本根子天津御代豐國成姫《ヤマトネコアマツミヨトヨクニナリヒメノ》天皇。】
 
天皇、御謚を元明と申。續日本紀云、日本根子天津御代豐國成姫天皇、小名阿閉皇女、天命開別天皇之第四皇女也、母曰2宗我嬪1、蘇我山田石川磨大臣之女也、適2日並知皇子尊1、生2天之眞宗豐祖父天皇1、慶雲三年十一月、豐祖父天皇不豫、始有2禅v位之志1、天皇謙讓固辭不v受、四年六月、豐祖父天皇崩、庚寅、天皇御2東樓1、詔召2八省卿及五衛督卒等1、告以d依2遺詔1攝2萬機1之状u、秋七(242)月壬子、天皇即2位於大極殿1云々と見えたり。さて考には、戊申の下に、冬十一月の四字を加へられつ。是甚しき誤り也。代匠記には、左の御歌に、楯立良思母とあるに、大嘗會の具に、神楯を建る事あるをもて、十一月大嘗會の時の御歌と定められつ。この説も誤りなれど、この説による時は、冬十一月の四字を加へんにも、よしありておぼゆれど、眞淵は、この説にもよられず、何をもて、かの四字をば加へられつるか、おぼつかなし。この御歌の事は、次にいふべし。たゞ月はしれざる御製と心得べし。
 
76 丈夫之《マスラヲノ》。鞆乃《トモノ》音《ト・オト》爲奈利《スナリ》。物《モノノ》部《ベ・フ》乃《ノ》。大臣《オホマヘツキミ・オホマウチキミ》。楯立良思母《タテタツラシモ》。
 
丈夫之《マスラヲノ》。
印本、誤りて大夫とす。今意改。この事は上【攷證上十一丁】にいへり。
 
鞆乃《トモノ》音《ト・オト》爲奈利《スナリ》。
舊訓、とものおとすなりとよめれど、かゝる所、音を、とゝのみよむべし。本集四【廿丁】に、梓弓爪引夜音之遠音爾毛《アツサユミツマヒクヨトノトホトニモ》云々。十四【十九丁】に、可是乃等能登抱
吉和伎母賀《カセノトノトホキワキモカ》云々。又【廿一丁】左努夜麻爾宇都也乎能登乃《サヌヤマニウツヤヲノトノ》云々などあるにても思ふべし。鞆は書紀神代紀に、臂著稜威之高鞆云々。【古事記に竹鞆と書り。借字なり。】延喜大神宮式に、鞆二十四枚【以2鹿皮1縫v之、胡粉塗以v墨畫v之、納檜麻笥二合徑一尺六寸五分、深一尺四寸五分、着緒一處、用紫革、長各一尺七寸廣二分】云々。同兵庫寮式に、熊革一條鞆料【長九寸廣五寸】牛革一條鞆手料【長五寸廣二寸】云々。又鞆袋、鞆緒紫組など見えたり。これらにて、製作おしはからる。この物、今は絶てなし。西宮記に、奉2御鞆1とあるを引て、そのころまではなべて用ひしものと見ゆと宣長いへり。さてこれを付るは、弦にふれて、鞆の音せんが爲なるべし。大神宮儀式帳に、弓矢鞆音不聞國《ユミヤトモトキコエヌクニ》云々とも見えた|れ《(マヽ)》。音(243)を專らとすと見えたり。今は弦の中に音金《オトカネ》といふ物を入て、弦をならす事あり。和名抄射藝具云、蒋魴切韻云※[旱+皮]【音旱、和名止毛、楊氏漢語抄、日本紀等用2鞆字1、俗亦用之本文未v詳】云々と見えたり。猶鞆の事は、書紀通證卷四、古事記傳卷七などにくはしく見えたり。さて鞆の字、漢土の書に見えず。書紀通證には、字彙補を引たれど、字彙補に出たるは、※[革+内]の字にて、鞆とはたがへり。字鏡集には鞆【トモ】といだせり。
 
物《モノノ》部《ベ・フ》乃《ノ》。大臣《オホマヘツキミ・オホマウチキミ》。
舊訓にも、考にも、ものゝふのおほまへつぎみとよみて、考に御軍の大將をのたまへり云々といはれつるは、誤り也。こは石上(ノ)麿公をのたまふなれば、ものゝべの大臣とよむべし。石上麿公は、書紀天武天皇十年の條までは、物部連麻呂とありて、持統天皇三年の條には、石上朝臣麿と見えたれば、天武天皇十年より、持統天皇三年まで、九年の間に、石上朝臣の姓氏をば賜はられし也。そは、舊事記天孫本紀に、饒速日尊十七世孫、物部連公|麻侶《マロ》、馬古連公之子、此連公、淨御原朝御世、天下萬姓、改2連公1賜2物部朝臣姓1、同朝御世、改賜2石上朝臣姓1云々とあるにてしらる。されば、麻呂公、もとは物部氏なりしかば、こゝにても、猶物部の大臣とはのたまふ也。麿公、和銅元年には、正二位左大臣にておはしぬ。この公の事は、上【攷證十六丁】にいへり。さてものゝべといふも、ものゝふといふ、もとは同語にて、物部《モノヽヘ》といへる氏も、武《タケ》き物士部《モノノフ》といふことなるが、やがて氏とはなれる也。集中、物部とかきて、ものゝふとよめる所も多かり。これにても、もとは一つなるをしるべし。大臣は、おほまへつぎみとよむべし。和名抄職名に、本朝式職員令云、太政大臣【於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美】職員令云左右大臣【於保伊萬宇智岐美】云々とある、おほまつきみも、おほいまうちきみも、もとはまへつぎみなれど、への字をはぶきてまつきみといひ、まうちぎみもまへつぎみの音便也。書紀景行紀に、阿佐志毛能瀰概能佐烏麼志《アサシモノミケノサヲバシ》、麼弊菟著瀰《マヘツギミ》、(244)伊和※[口+多]羅秀暮《イワタラスモ》、瀰開能佐烏麼志《ミケノサヲハシ》云々と見えたる、まへつぎみは、天皇の御前に仕奉る人といふことにて、たゞ臣下をおしなべていへる也。(頭書、本集三【三十五丁】石上乙磨卿をさせる歌に、物部乃臣之《モ/ヽヘノオミノ》壯士者云々と見えたり。)
 
楯立良思母《タテタツラシモ》。
楯は、和名抄征戰具に、兼名苑云楯【倉尹反上聲之重也和名太天】一名※[木+鹵]【音魯】云々と見えて、その製作の事は、延喜兵庫寮式に見えたり。さてこゝに、楯立良思母《タテタツラシモ》とある、循を、大嘗會の神楯の事として、代匠記には、和銅元年十一月大嘗會の時の御製といはれしかど、この御製を、大嘗會の時の御製とする時は、次の御|和《コタヘ》歌に、吾大王物其御念《ワカオホキミモノナオモホシ》とあるを、何とか解ん。されば、この御製は、官人どもが弓など射る鞆の音のきこゆるをきこしめして、御軍おこれるにや、さらば物部の大臣などが楯をや立らんと、こゝろならず、おぼしめして、よませ給へるを、御|和《コタヘ》歌に、吾大王さやうに物なおもほしそと、いさめ給へる也。考云、御軍の調練する時と見ゆれば、楯を立る事もとより也。さてこの御時、みちのく越後の蝦夷らが、叛きぬれば、うての使を遣さる。その御軍の手ならしを、京にてあるに、鼓吹のこゑ、鞆の音などかしがましきを、聞しめして、御位のはじめに、事あるを、なげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此大御歌に、さる事までは聞えねど、次の御こたへ歌と合せて、しるべき也云々といはれつるも、可也。猶考に、いと長き説もあれど、こゝに不用なればもらしつ。
 
御名部皇女。奉v和御歌。
 
(245)書紀天智紀云、次有2遠智娘弟1、曰2姪娘1、生3御名部皇女與2阿倍皇女1云々。續日本紀云、慶雲元年春正月壬寅、詔2御名部内親王1、益2封一百戸1云々と見えたり。薨年未v評。この皇女は、元明天皇同母の御姉なり。
 
77 吾大王《ワカオホキミ》。物莫御念《モノナオモホシ》。須賣神乃《スメカミノ》。嗣而賜流《ツキテタマヘル》。吾《ワレ》莫《ナケ・ナラ》勿久爾《ナクニ》。
 
吾大王《ワカオホキミ》。
天皇をさして申たまふ也。
 
物《モノ》莫御念《ナオモホシ・ナオホシソ》。
舊訓、ものなおぼしそとあれど、ものなおもほしとよむべし。かく莫《ナ》といひて、そもじを略く事、集中いと多し。そは、宣長云、二の句、ものなおもほしとよむべし。下の、そを略きて、かくいふ事、集中に例多し。そとよむはわろし。おもほしをおぼしといふ事、集中にはまた例なし。後の事也、といはれしがごとし。
 
須賣神乃《スメカミノ》。
集中に、皇神、皇祖神など書て、すめかみとよめるより、すめ神とは、皇統の神を申事ぞと心得るは誤り也。すめとは、神にまれ、人にまれ、尊稱していへる語なる事、古事記に須賣伊呂《スメイロ》、中日子《ナカツヒコノ》王、須賣伊呂杼《スメイロド》などありて、本集七【二十一丁】に、千磐破金之三崎乎過鞆吾者不忘牡鹿之須賣神《チハヤフルカネノミサキヲスクレトモワレハワスレスシカノスメカミ》云々。十三【六丁】に、山科之岩田之森之須賣神爾《ヤマシナノイハタノモリノスメカミニ》云々。二十【三十八丁】に、須美乃延能安我須賣可未爾《スミノエノアカスメカミニ》云々などあるにても、たゞ尊稱の語なるを知るべし。天皇をすめらみことゝ申すも尊稱なり。こゝにはたゞ尊き神とのたまふなり。
 
(246)嗣而賜流《ツキテタマヘル》。吾《ワレ》莫《ナケ・ナラ》勿久爾《ナクニ》。皇統たゆることなく、嗣々に神の依し賜ふ也。考に、こは言を上下にいふ體にて、三四の句を、吾大王の上へやりて、意得る也。これを隔句體といへり。集中はもとよりにて、古今歌集にもある體也、云々といはれつるは、いかゞ。この次の句の吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》とあるを、たすけんとての説なるべけれど、四五の句、詞つゞきたり。されど5の句、必らず誤字ありとおぼし。この事は次にいふべし。
 
吾《ワレ》莫《ナケ・ナラ》勿久爾《ナクニ》。
この一句、諸釋みなたがへり。略解に、宣長は、吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》の吾は、君の字の誤れるならんかといへり云々とあるぞよろしき。吾は必ず君の字の誤り也。かく見ざれば、一首の意解しがたし。莫勿久爾《ナケナクニ》は、本集四【十五丁】、に、吾背子波物其念《ワカセコハモノナオモホシ》、事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《コトシアラハヒニモミツニモワレナケナクニ》云々。十一【四十八丁】に、眞葛延小野之淺茅乎《マクスハフヲヌノアサチヲ》、自心毛人引目八面《コヽロユモヒトヒカメヤモ》、吾莫名國《ワレナケナクニ》云々。十五【三十三丁】に、多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎《タヒトイヘハコトニソヤスキ》、須久奈久毛伊母爾戀都々須敝奈家奈久爾《スクナクモイモニコヒツヽスヘナケナクニ》云々などありて、なけなくにの、けは、からの反、かなるを、けに通はしたるにて、なからなくにといふ言にて、無《ナキ》にあらずてふ意也。されば、一首の意は、わが大王よ、さやうに物なおもほしそ。皇統たゆることなく、嗣々に神の依《ヨサ》し給へる君なきにあらず。君かくていませば、天の下のうごくべき事はあらずと、和《コタヘ》申し給ふ也。さて、其勿久爾を、舊訓、ならなくにとよみつれど、十五に奈家奈久爾《ナケナクニ》とあると、上に引たる歌どもの意を解して、なけなくにとよむべきをしるべし。
 
和銅三年庚戌。春二月。從2藤原宮1。遷2于寧樂宮1時。御輿停2長屋原1。(247)廻2望古郷1御作歌。
 
春二月。從2藤原宮1。遷2于寧樂宮1。
續日本紀云、和銅三年三月辛酉、始遷2都于平城1云々とありて、都うつしは、三月なれど、この内親王は、その以前二月にうつり給ひしなるべし。考に、三月と直されしは、なか/\にさかしらなるべし。
 
御輿。
本集三【五十八丁】に、和豆香山御輿立之而《ワツカヤマミコシタヽシテ》云々。和名抄車類云、四聲字苑云※[與/車]【音餘字或作輿和名古之】云々と見えたり。
 
長屋原。
和名抄郷名に、大和國山邊郡長屋【奈加也】云々。大和志に、山邊郡長屋原長原村、萬葉集曰、御輿停2長屋原1即此云々と見えたり。
 
廻望。
廻、印本※[しんにょう+向]に作るは誤れり。今意改。邊讓章華賦云、登※[土+謠の旁]臺以廻望云々。李商隱板橋曉別詩云、廻望高城落曉河云々などあるも同じ。こゝは古郷を見かへりたまふなり。
 
御作歌。
御作歌とのみありて、作者の名なく、しかも御の字をさへそへたれば、前の端詞をうけて、御名部皇女の御歌なること明らけきを、次に一書云太上天皇御製とあるは、甚しき誤り也。
 
一書云。太上天皇御製。
 
(248)まへにいへるごとく、これ甚しき誤り也。ことにこのころ、太上天皇はおはしまさゞるをや。これらにても、古注は誤り多きをしるべし。さて是を、宣長は、これは飛鳥の云々の歌を、一書には持統天皇の御時に、飛鳥より藤原へ遷り給へる時の御製とするなるべし。然るを、太上天皇といへるは、文武天皇の御代の人の言る詞也。又、和銅云々の詞につきていはゞ、和銅のころは、持統天皇は、既に崩給へども、文武の御時に申ならへるまゝに、太上天皇と書る也。この歌のさまを思ふに、まことに飛鳥より藤原の宮へ、うつり給ふ時の御歌なるべし。然るを、和銅三年云云といへるは、傳への誤りなるべし云々わいはれつ。
 
78 飛鳥《トフトリノ》。明日香能里乎《アスカノサトヲ》。置而伊奈婆《オキテイナハ》。君之當者《キミカアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエスカモアラム》。【一云。君之當乎《キミカアタリヲ》。不見而香毛安良牟《ミステカモアラム》。】
 
飛鳥《トフトリノ》。
枕詞なり。冠辭考の説、誤れり。宣長云、この地の名を、飛鳥と書く由は、天武紀に、十五年改v元、曰2朱鳥元年1、仍名v宮、曰2飛鳥《トフトリノ》淨御原宮1とありて、大宮の名を飛鳥《トフトリ》云々といふから、其地名にも冠らせ、飛鳥《トフトリ》の、明日香《アスカ》といひ、つひに其枕詞の字を、やがて地名にも用ひて、書たるものにで、加須賀を春日とかく例に同じ云々といはれしがごとし。猶くはしくは、予が冠辭考補遺に云り。
 
(249)明日香能里乎《アスカノサトヲ》。
大和國高市郡なり。延喜神名式に、大和國高市郡に飛鳥坐神社、飛鳥山口坐神社、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社など見えたり。さて、この地名の事は、古事記下卷に、乃明日上幸、故其地謂2近飛鳥1也、上到2于倭1、詔之、今日留2此間1爲2祓禊1、而明日參出將v拜2神宮1、故號2其地1謂2遠飛鳥1也云々とあるがごとし。明日《アス》いでまさんと詔たまふより、あすかとはいへる也。
 
置而伊奈婆《オキテイナハ》。
おきていなばゝ、この明日香の里をおきて、寧樂へゆかば也。本集上【十六丁】に、倭置而《ヤマトヲオキテ》云々。又【二十一丁】京乎置而《ミヤコヲオキテ》云々などある、おきてとおなじ。
 
君之當者《キミカアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエスカモアラム》。
考云、藤原の都ならで、飛鳥の里(と脱?)のたまふは御陵墓につけたる御名殘か、又何ぞのみこなどの留りゐ給ふをおぼすか云々といはれつるにて、一わたりはきこえつれど、端辭にいへる、宣長の説にしたがふ時は、何のうたがひもなく、よく聞えたり。一云、君之當乎《キミカアタリヲ》、不見而香毛安良牟《ミステカモアラム》とあるも意明らけし。活本、此一云以下なし。
 
或本。從2藤原京1。遷2于寧樂宮1時歌。
 
考云、今本には、これをある本歌としるして、端詞によみ人の姓名もなし。然るを、此度本文として、小字にせざるよしは、大よそこの集の本文に載たる歌に、異なる所あるを、一本とて注せ(250)しは、重ねあぐべきにあらぬ事、もとより也。これは、今本にはなくて、或本にのみあるからは、今本には落失し事しらる、仍て、全くしるしつ云々とて、或本の二字をはぶかれしかど、いかゞ。尤、此容の歌前にはあら|ね《(マヽ)》、前の歌も、藤原宮より、寧樂宮へうつり給ふ時の御歌なれば、その類をもて、こゝにはのせし也。類をもて、外の歌をものする事、集中の例なり。
 
79 天皇《オホキミ・スメロキ》乃《ノ》。御命畏美《ミコトカシコミ》。柔備爾之《ニキビシニ》。家乎《イヘヲ》擇《ワカレテ・エラビテ》。隱國乃《コモリクノ》。泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》。船浮而《フネウケテ》。吾行河乃《ワカユクカハノ》。川隈之《カハクマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチス》。萬段《ヨロツタビ》。顧爲乍《カヘリミシツヽ》。玉桙乃《タマホコノ》。道行晩《ミチユキクラシ》。青丹吉《アヲニヨシ》。楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。佐保川爾《サホカハニ》。伊去至而《イユキイタリテ》。我宿有《ワカネタル》。衣乃上《コロモウヘ》從《ユ・ニ》。朝月夜《アサツクヨ》。清爾見者《サヤカニミレハ》。栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。磐床等《イハトコト》。川之氷《カハノヒ》凝《コヾリ・コリテ》。冷《サムキ・サユル》夜乎《ヨヲ》。息言《イコフコト・ヤムコトモ》無久《ナク》。通乍《カヨヒツヽ》。作家爾《ツクレルイヘニ》。千代二手《チヨマテニ》。來座多公與《キマセオホキミト》。吾毛通武《ワレモカヨハム》。
 
天皇《オホキミ・スメロキ》乃《ノ》。
天皇を、舊訓、すめろぎとよめるも、さる事ながら、かゝる所は、おほきみとよむべき也。おほきみとよむべき猶多しと、宣長もいへり。集中いと多し。さて久老が槻の落葉別記に、(以下空白)
 
(251)御命畏美《ミコトカシコミ》。
本集三【二十三丁】に、大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》云々などありて、集中いと多く、あぐるにいとまなし。仰をかゞふりて、其御言をかしこさにてふ意なり。其もとは、字のごとくかしこみおそるゝ意なれど、それを轉じて、承諾《ウヘナ》ふ意にもなれり。
 
柔備爾之《ニキビシニ》。
にきびにしは、本集三【五十九丁】に、白妙之手本矣別《シロタヘノタモトヲワケレ》、丹杵火爾之家從裳出而《ニキビニシイヘユモイテヽ》云々ともありて、こは荒備《アラビ》にむかへたる言にて、何にまれ、物のすたれたるを、荒《ア》るゝ、荒びともいふにむかへて、住なれて、萬とゝのひたるを、和備とはいひて、和《ニギ》と荒とは常にむかへいふ言なる事、和御魂《ニギミタマ》、荒御魂《アラミタマ》、和細布《ニキタヘ》、荒細布《アラタヘ》、和稻《ニキシネ》、荒稻《アラシネ》、和海布《ニキメ》、荒海布《アラメ》などいふにてしるべし。またにぎはす、にぎやかなどいふも、語の本は、これと一つ言也。されば、柔は和《ニキ》の意にて、こゝは住なれたるをいへる也。和《ニキ》たへ、和稻《ニキシネ》などのにぎと同じく、作りたてゝ物なれるをいへるなる事は、熟田津《ニキタツ》の熟を、にぎとよめるにてもしるべし。毛柔物《ケノニコモノ》などもよみ、靈異記中に、柔【爾古也可】とよめるも、よく熟しなれたるをいふにて、こゝの柔《ニキ》といふと、もとは同じ言也。さて、柔備《ニキビ》の備《ヒ》は、ものゝ荒るを、あらびとも、あらぶるともいひ、又神さびとも、神さぶるともいふ類にて、和《ニキ》ぶりにし家といへる也。こは、住なれ熟したる家といへる意なり。考に、藤原宮は、二御代平かに知しつれば、臣民の家々も、今は調和《ニキハヒ》ぬる時に、かくうつさるゝをなげく也けり云々とのみ、いはれつ|る《(マヽ)》くはしからす。
 
家乎《イヘヲ》擇《ワカレテ・エラビテ》。
舊訓、家をえらびてとあるも、誤れり。考に、家乎擇とあるは、乎は毛を誤り、擇は※[放の方が獣偏](放?)を択と見誤りしなり云々とて、家毛放《イヘヲモサカリ》と直されしも、甚しき誤り也。擇(252)は、呂覽簡選篇注に、擇(ハ)別云々とありて、別の意なれば、家をわかれてとよむべし。
 
隱國乃《コモリクノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。泊瀬《ハツセ》は、めぐり皆山にて、こもりたる國の、泊瀬とつづけしなる事、隱國とかける字のごとし。古しへは、必らず一國ならねど、國といへる事、初瀬の國、はつせを國、難波國、吉野國などいへるがごとし。(頭書、こもりく、上【攷證二十丁】)
 
泊瀬乃川《ハツセノカハ》。
上頭十【攷證二十丁】にいへり。
 
吾行河《ワカユクカハ》。
考云、この川、三輪にては、三輪川ともいへど、その源、初瀬なれば、大名を初瀬川と云しならん。さて、末は廣瀬の川合にて、落合ふなれば、そこまで舟にて下りて、河合よりは廣瀬川をさかのぼりに、佐保川まで引のぼすべし。然れば末にては人は陸にのぼりてゆく故に、陸の事もいへり云々。
 
川隈之《カハグマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチス》。
川隈は、川のすみ/”\、曲り/\といふこと也。上【攷證上三十二丁】に、道隈《ミチノクマ》とある所と、引合せてしるべし。八十阿の、八十は、何十《イクソ》といふ事にて、必らず八十と數のかぎりたる事にあらず。古事記上に、百不足八十※[土+囘]手隱而侍《モヽタラスヤソクマデニカクリテサモラヒナム》云云。本筆二【十九丁】に、此道乃八十隈毎《コノミチノヤソクマコトニ》、萬段顧爲騰《ヨロツタビカヘリミスレド》云々。十三【七丁】に、道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマゴトニ》云々などある、八十隈も、みな何十《イクソ》隈といふ事にて、數の多きをいふ。そは、八十神、八十|建《タケル》、八十|友緒《トモノヲ》、八十氏人、八十國、八十舟、八十島、八十(ノ)衢《チマタ》などの類の八十にて、やは彌のつゞまりたるや也。八雲(253)たついづもやへがきなどの、やのごとし。不落は、滿(漏?)さずといふ言なる事、上【攷證上十二丁】にいへるがごとし。こゝの意は、川の曲り/\、すみ/”\など、いく十《ソ》阿といふ事もなく、もらさずかへり見しつゝゆくといふ意也。さて阿は、楚辭少司命注に、阿(ハ)曲隈也云々など見えたり。
 
萬段《ヨロツタビ》。
萬度なり。本集二【十九丁】に、萬段顧爲騰《ヨロツタビカヘリミスレド》云々とありて、古事記上卷に、三段をみきだとよめり。段の字に、度の意はあらねど、説文に、分段也云々ともあれば、おのづからに、度の意はこもるなるべし。
 
顧爲乍《カヘリミシツヽ》。
顧は、玉篇に、瞻也囘v首曰v顧云々とありて、毛詩蓼莪箋に、顧旋視也云々、見えたり。乍《ツヽ》は、古事記上卷に、爲釣《ツリシツヽ》とよめり」。中あぐるにいとまなし。宣長云、すべて、つゝてふ辭は、この事をしながら、かの事を相まじへてするをいふ時におけり云々。この説のごとし。一切經音義卷十七に、蒼頡篇を引て、乍(ハ)兩辭也云々と見えたり。(頭書、乍、上四十一ウ。)
 
玉桙乃《タマホコノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉は、例の物をほむる詞にて、たゞ杵の身《ミ》と、みの一言へかゝりたる枕詞なり。
 
道行晩《ミチユキクラシ》。
こゝは、舟より陸にのぼりて、行く也。
 
(254)楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。
楢は、借字にて、和名抄木類に、唐韻云楢【音秋漢語抄云奈良】樫木也云々と見えたり。京師は、義訓なり。集中、京都、王都などをもしかよめり。京師は、公羊傳桓九年注に、京師天子之居云々と見えたり。
 
佐保川爾《サホカハニ》。
集中多くよめり。あぐるにいとまなし。書紀武烈紀に、逗摩御暮屡鳴佐〓嗚須疑《ツマコモロヲサホヲスギ》云々とあるも、この佐保也。こは大和國添上郡にて、大和志に、佐保川、源自2鶯瀧1、經2川上村1、納2佐保山水1、遶2南都西北1、經2大安寺1、至2辰市1、流2郡界1、曰2奈良川1、至2下三橋1、入2添下郡1云々と見えたり。こゝは佐保川のほとりにゆき至れるなり。いゆきいたりての、いは發語にて、心なし。發語の事は、上【攷證七丁二十丁】にいへり。
 
衣乃上《コロモウヘ》從《ユ・ニ》。
考には、衣の字、床の字に改めて、今本床を衣に書しは、誤り也といはれしぞ、さる事なる。從《ユ》は、よりの意なれば、衣と見る時は、衣の上より、朝月夜のさやかに見ればとは、何の事とも聞えず。床の上ならば、こゝはまだ假屋なれば、夜床の上より、月などの見えんこと、さもあるべし。さて又予が思ふには、衣乃上邇《コロモノウヘニ》とありし、邇《ニ》を從《ユ》に誤りしなるべし。しかいふ故は、印本、本文には、從の字を書たれど、假字をば、にとつけたり。これ文字は、後に誤りたれど、假字はもとのまゝま(に?)てありし也。さて、邇とする時は、下に夜之霜落《ヨルノシモフリ》といふにかゝりて、歌がらまされり。見ん人、考の説にまれ、予が説にまれ、心のひかん方にしたがふべし。
 
(255)朝月夜《アサツクヨ》。
考には、曉月也。曉より朝ともいふは例也云々といはれしがごとく、有明月ののこりたる也。本集九【廿四丁】に、朝月夜明卷鴦視《アサツクヨアケマクヲシミ》云々と見えたり。月夜はつくよと訓べし。十八【卅七丁】に、天禮流都久欲爾《テレルツクヨニ》云々。二十【四十七丁】に、伎欲伎都久欲爾《キヨキツクヨニ》云云。又【五十七丁】己與比能都久欲、可須美多流良牟云々などあればなり。
 
栲乃穗爾《タヘノホニ》。
たへは、栲《タヘ》、木綿《タヘ》、細布《タヘ》など書て、絹布を惣いふ名なる事、冠辭考|白妙《シロタヘ》の條にくはしければ、こゝにはもらせり。栲の字は、古書みなたへとも、たくともよみて、豐後風土記に、速見郡|柚富《ユフ》郷、此郷之中、栲樹多生、常取2栲皮1、以造2木綿《ユフ》1、因曰2柚富郡1云々とありて、穀《ユフ》の事也。此字、漢土の書にも見えたれど、爾雅釋木に、栲(ハ)山樗云々と注して、こゝに用ふる所と意別なり。されば、この字をたへとよみて、穀《ユフ》の事とするは、中國の製也。又【栲の異体字】とかける本もあれど、栲【栲の異体字】同字也。さてこの栲《タヘ》は木綿《ユフ》なれば、白き故に、本集十一【六丁】に、敷白《シキタヘ》云々、十三【廿八丁】に、雪穗《タヘノホ》云々など白または雪などの字をたへとよみ、又枕詞に、栲衾《タクブスマ》しらぎの國、しら山風、栲《タク》づぬのしろきたゞむき、しらぎの國、しらひげ、栲領巾《タクヒレ》のしらはま波、さぎさか山などつつくるも、栲の白きよりしかつゞけし也。されば、栲《タヘ》のほの如くに、夜の霜ふりとはよめる也。には、如くの意にて、本集三【四十六丁】に、花橘乎玉爾貫《ハナタチバナヲタマニヌキ》とある、にもじと同じく、自波穗乘天之羅摩船而《ナミノホヨリアメノカヽミノフネニノリテ》云々とある穗と、もとは同じくて、波穗《ナミノホ》は、書紀神武紀に、浪秀《ナミノホ》ともかきて、秀をほとよめるがごとく、いちじるくまづあらはるゝをいふ事にて、薄《スヽキ》の穗、稻の穗などもあらはれ見ゆるものなれば、ほとはいへる也。されば栲乃《タヘノ》穗もいろの白くあらはれ見ゆるをいへるにて、祈年祭祝詞に、赤丹穗《アカニノホ》云々、本集五【九丁】一書に、爾納保奈酒《ニノホナス》云々、十三【十三丁】に、秋付者丹之穗爾黄色《アキツケハニノホニモミヅ》云々などある(256)も、いろのあらはるゝを穗といへり。垣穗《カキホ》、石穗《イハホ》などのほも、これなり。波穗、すゝき、稻などの穗も、本は同じ。
 
夜之霜落《ヨルノシモフリ》。
夜の間の霜ふり也。落をふるとよめるは、義訓也。上【攷證上四十一丁】にもいでたり。
 
磐床等《イハトコト》。
床は、寢る所をも、居る所をも、床といへり。磐床等とは、磐の上の、居る所の如く、いと堅くこほれりといふ意にて、等は、如くてふ意也。本集八【四十六丁】に、玉跡見左右置有白露《タマトミルマテオケルシラツユ》云々。字津保物語俊蔭卷に、紅葉のしづくを、ちぶさとなめて云々などある、と文字と同じ格にて、皆何々と同じごとくにといふ意也。さて、磐床《イハトコ》は、本集十三【十五丁】に、石床根延門呼《イハトコノネハヘルカトヲ》云々など見えたり。
 
川之氷《カハノヒ》凝《コヾリ・コリテ》。
字のごとく、氷の岩のごとくに、凝《コ》れる也。磐がねのこゞしき山など、集中多くよめる、こゞしきも、凝々しき也。凝、印本疑に誤る。今、考によりてあらたむ。訓も考にしたがへり。
 
冷《サムキ・サユル》夜乎《ヨヲ》。
考には、さむき夜をとよまれしにしたがふ。集中、寒冷などの字、皆さむきとよめり。
 
息《イコフ》言《コト・コトモ》無久《ナク》。
舊訓、やむときもなくとあるは、誤れり。考に、いこふことなくとよまれしにしたがふ。靈異記上卷に、无v憩所v駈云々とある、憩を、訓釋に伊古不去止【この去止を今本止(257)云誤れり。】とよめり。玉篇に、憩息也云々とありて、憩も息む|同《(マヽ)》じければこゝと同じ。こは奈良の新京へ、家作るとて、日夜|息《イコフ》こともなく、かよへるさまをいへる也。さて、この息言無久を、山本明清は、やむときもなくと訓べしといひて、そは集中やむときもなくといへる語、いと多かる中にも、十一【廿七丁】に、宮材引泉之追馬喚犬二立民乃《ミヤキヒクイツミノソマニタツタミノ》、息時無戀渡可聞《ヤムトキモナクコヒワタルカモ》云々とあるは、序歌にて、泉の杣に立民のごとく、すこしもいこひ休む時もなく、戀渡るといへるなれば、語勢こゝと全く同じ。言をときとよむは、拾芥抄人名録に、言をときとよめり。論語了罕篇疏に、言者説也云々。荀子非相篇注に、言講説也云々などありて、物を解《トキ》さとす事にもなれば、こゝにも義訓にて、言をときとよむべしといへり。この説も、すてがたければあげつ。
 
千代二手《チヨマテニ》。
二手をまでとよめり。集中、諸手、左右手、左右などをも、までとよめり。この事は、上【攷證三丁】にいへり。本集三【十三丁】に、大宮之内二手所聞《オホミヤノウチマテキコユ》云々とも見えたり。さて、左右、二手などを、までとよめるは、何にまれ、物二つあるを、まとはいふなるべし。本集八【廿丁】に、二梶とあるをまかぢとよめるにても思ふべし。間《アヒダ》をまといふも、物二つあるが中なればなるべし。
 
來座多公與《キマセオホキミト》。
この一句、心得がたし。活字本には、與の字なし、考には、千代二手爾座牟公與《チヨマテニイマサムキミト》と直されて、今本千代二手來座多公與とありて、ちよまでにきませおほきみとゝ訓しは、理りもなく、字の誤りもしるければ、考るに、來は爾を誤れるもの、多は古本に牟とあり、仍て改めつ云々といはれつ。いかにもさる事ながら、みだりにあらたむべきならねば、(258)原本のまゝにておきつ。猶よく可v考。
 
吾毛通武《ワレモカヨハム》。
考云、この歌、初めには大御ことのまゝに、人皆所をうつろふ心をいひ、次に藤原より奈良までの、道の事をいひ、次に冬寒きほど家作りせし勞をいひ、末に事成て新家をことぶく言もて結べるは、よく調へる歌也。さて、こはよき人の家を、親しき人の事とり作りて、且その作れる人は、異所に住故に、吾もかよはんとよめるならん。又、親王、王たちの家も、即造宮司に取作らしむべければ、其司人の中に、よみしか云々といはれしがごとし。
 
反歌。
 
80 青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》。萬代爾《ヨロツヨニ》。吾母將通《ワレモカヨハン》。忘跡念勿《ワスルトオモフナ》。
 
忘跡念勿《ワスルトオモフナ》。
考に、今よりは長くしたしみ通はんに、うとぶる時ありとなおぼしそと也云々といはれしがごとし。
 
右歌作主不詳。
 
この六字、大須本になし。上下の例を考ふるに、古注ながらあるをよしとす。
 
(259)和銅五年壬子。夏四月。遣2長田王于伊勢齋宮1時。山邊御井作歌。
 
長田王。
續日本紀云、和銅四年夏四月、從五位上長田王、授2正末位下1云々。靈龜元年夏四月、正五位下長田王授2正五位上1云々。同二年春正月壬午、正五位上長田王、授2從四位下1云々。同年冬十月壬戌、以2從四位下長田王1、爲2近江守1云々。神龜元年二月壬子、從四位下長田王、授2從四位上1云々。天平元年三月甲午、從四位上長田王、授2正四位下1云々。同年九月乙卯、正四位下長田王、爲2衛門督1云々。同四年冬十月丁亥、正四位下長田王、爲2攝津大夫1云云。同六年二月癸巳朔、天皇御2朱雀門1、覽2歌垣1、男女二百四十餘人、五品已上、有2風流1者、皆交2雜其中1、正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等、爲v頭、以2本末1唱和云々。同九年六月辛酉散位正四位下長田王卒云々と見えて、三代實録、貞觀元年十月二十三日紀に、尚侍從三位廣井女王薨、廣井者、二品長親王之後也、曾祖(ハ)二世從四位上長田王、祖(ハ)從五位上廣川王、父(ハ)從五位上雄河王云々とあれば、長田王は長親王の御子なるべしとは思へど、續日本紀にのする所は、正四位下なるを、三代實録には從四位上とありて、位次たがへり。そのうへ、續日本紀に、天平十二年冬十月甲辰、從四位下長田王授2從四位上1云々とあるは別人なれば、いづれをかこゝの長田王とはせん。猶よく可v考。
 
伊勢齋宮。
齋宮は、豐鋤入姫命より始りしかど、伊勢國にうつり給ひしは、倭姫命をはじめとす。そは書紀垂仁紀云、二十五年三月丁亥朔丙申、離2天照大神於豐耜入姫命1、(260)託2于倭矩命1、爰倭姫命求d鎭2坐大神1之處u、而詣2菟田〓幡1、更還之、入2近江國1、東廻2美濃1到2伊勢國1時、天照大神誨2倭姫命1曰、是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也、欲v居2此國1、故隨2大神教1、其嗣立2於伊勢國1、因興2齋宮于五十鈴川上1、是謂2磯宮1、則天照大神、始自v天降之處也云々と見えたり。さてそれより、世々つぎ/\かはる/”\、立たまへり。されど、この和銅のころの齋宮不v詳。一代要記元明天皇の條に、神祇記を引て云、是時齋王不v定、田方内親王、多貴内親王各一度參入、次智努女王、次圓方女王、各一度參入云々と見えたり。
 
山邊御井。
こは、伊勢國鈴鹿郡山邊村なるよし、宣長いはれつ。考別記にも、いとながき論あれど、誤りなるよし、宣長が玉勝間卷三に辨ぜり。いづれもことながければ略す。本集十三【五丁】に、山邊乃五十師方御井者《ヤマヘノイシノミヰハ》とあると同所也。或人、書紀天智紀に、九年三月壬午、於2山御井傍1、敷2諸神座1、而班2幣帛1云々とあるを、こゝに引あてつれど、書紀なるは、近江國蒲生郡にて、こゝとは別所也。さて考ふるに、山の字の上に過《スクル》とか、覽《ミル》とか、又は外の字にても一字ありしを脱せしなるべし。さなくては、集中の例にもたがひ、語をもなさず。しかも見誤らば、人名とまがひぬべし。
 
81 山邊乃《ヤマノベノ》。御井乎見我※[氏/一]利《ミヰヲミガテリ》。神《カム・カミ》風乃《カセノ》。伊《イ》勢《セ・ノ》處女《ヲトメ》等《ドモ・ラ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》。
 
見我※[氏/一]利《ヲミガテリ》。
本集十七【十七丁】に、秋田乃穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミカテリ》云々などあり。又三【卅五丁】に、君待香光《キミマチカテリ》云云。七【十八丁】に、片待香光《カタマチカテリ》云々どある、香光《カテリ》を、舊訓は、がてらとよめれど、これら(261)もがてりとよむべし。さて、常には、がてらといへるを、らをりに通して、がてりとはいへる也。すべて、このがてら、がてりといふ語は、一つ物のあるうへに、又それに物をかぬる時の語にて、こゝは山邊の御井を見がてら、伊勢をとめを見んと思ひしに、果してあひみつるかなといへるなり。
 
神《カム・カミ》風乃《カゼノ》。
舊訓、かみかぜのとよみつれど、かむかぜのとよむべし。古事記中卷に、加牟加是熊伊勢能宇美能《カムカゼノイセノウミノ》云々。書紀神武紀に、伽牟伽筮能《カムカゼノ》云々などあれば也。さてこは神風の息《イキ》といふべきを略きて、いの一言にのみかけたる枕詞なり。猶冠辭考にくはし。
 
伊勢處女等《イセヲトメドモ》。
舊訓、いせのをとめらとよみたれど、難波女《ナニハメ》、泊瀬女《ハツセメ》など(の脱?)類なれば、間に、の文字をそへて、よむまじき所なれば、略解にいせをとめどもとよみしをよしとす。こは、齋宮の宮女などをいへなるべし。
 
82 浦佐夫流《ウラサブル》。情佐麻禰之《コヽロサマネシ》。久竪乃《ヒサカタノ》。天之四具禮能《アメノシクレノ》。流相《ナガラフ・ナガレアフ》見者《ミレバ》。
 
浦は借字にて、心といふこと也。佐夫流に、冷《スサマ》しき意也。これらの事は、上【攷證二丁】にいへり。考云。こは久しき旅ゐに、愁る心すさまじくして、なぐさめがたきをいふ也云々といはれしがごとし。
 
(262)情佐麻《コヽロサマ》禰《ネ・ミ》之《シ》。
佐麻禰之の禰を、印本|彌《ミ》に誤れり。眞淵の説によりて改む。本集十六【廿六丁】に美彌良久埼《ミヽラクノサキ》を美禰良久に誤る類也。佐麻禰之《サマホ(マヽ)シ》は、考に卷十八に、月重ね美奴日佐末禰美てふも、見ぬ日間なくにて、佐は發語也。この類、卷二、また卷十七にもあり。さて、しぐれのふるを見て、うらさぶる心のひま無といへり云々。宣長云、さまねしの、さは、發語にて、まねしは物の多き事にて、しげき意也。これはたゞさびしき心のしげき也。二【卅七丁】に、眞根久往從者人應知見《マネクユカハヒトシリヌベミ》云々。四【五十九丁】に、君之使乃麻値禰久通者《キミカツカヒノマネクカヨヘハ》云々。これらしげき意也。十七【卅七丁】多麻保許乃美知爾伊泥多知《タマホコノミチニイデタチ》、和可禮奈婆《ワカレナバ》、見奴日佐麻禰美孤悲之家牟可母《ミヌヒサマネミコヒシケムカモ》云々。又【四十六丁】矢形尾能多加乎手爾須惠《ヤカタヲノタカヲテニスヱ》、美之麻野爾可良奴日麻禰久《ミシマヌニカラヌヒマネク》、都寄曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》云々。十八【卅丁】に、月可佐禰美奴日佐末禰美《ツキカサネミヌヒサマネミ》、故敷流曾良夜須久之安良禰波《》云々。十九【十六丁】に、朝暮爾不聞日麻禰久《アサヨヒニキカヌヒマネク》、安麻射可流夷爾之居者《アマサカルヒナニシヲレハ》云々。又【廿三丁】不相日麻禰美念曾吾爲流《アハヌヒマネミオモヒゾワカスル》云々。これら日數の多きないへり。二【廿八丁】に、數多成塗《アマタナリヌル》云々。この外、數多と書るに、まねくと訓てよろしき所多し。今本の訓は、誤れり。さて、このまねくの意を、間無の意とするは、右の十七、十八、十九の歌どもにかなはず云々などいはれたり。宣長の説をよしとすべし。續日本紀、寶龜三年五月の詔に、一二遍《ヒトタビフタタビ》【能未仁】不在遍麻年發覺《アラスタヒマネクアラハレヌ》云々。又天應元年四月の詔に、天下【乎毛】亂己氏門【乎毛】滅人等麻禰在云々など見え、龍田風神祭祝詞に、一年二年不在《ヒトヽセフタトセニアラズ》、歳眞泥久傷故《トシマネクソコナヘルユヱニ》云々などあるも意同じ。
 
久堅乃《ヒサカタノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。天の形は、まろく虚《ウツ》ろなるものなれば、※[誇の旁+包]形《ヒサカタ》の天とつゞけしなり。集中久堅、久方などかけるは借字なり。
 
(263)天之四具禮能《アメノシグレノ》。
しぐれは、和名抄雲雨類に、孫※[立心偏+面]曰※[雨/衆]【音與v終同漢語抄云之久禮】小雨也云々と見え、新撰字鏡に、※[雨/沐]、雹〓などの字をよめり。天よりふるものなれば、あめのしぐれとはいへり。こは、露霜をあめのつゆじもといへる類なり。猶時雨の事は、下【攷證三下十三丁】にいふべし。
 
流相《ナガラフ・ナガレアフ》見者《ミレバ》。
ながらふは、ながるゝをつゞめたる語にて、しぐれのあめのながれふるをいへる也。このこと、上【攷證四十六丁】にいへり。一首の意は、そらよりしぐれの流れふりなどして、さびしきを見れば、心さびしくすさまじくおもふ心しげしとなり。下より、一二の句へうちかへして心得べし。
 
83 海底《ワタノソコ・ワタツミノ》。奧津白浪《オキツシラナミ》。立田山《タツタヤマ》。何時鹿越奈武《イツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》。
 
眞淵は、枕詞ならず、いはれしかど、枕詞なることしるし。尤枕詞ならぬも有。本集四【四十三丁】に、海底奧乎深目手《ワタノソコオキヲフカメテ》云々。五【十三丁】に、和多能曾許意枳都布可延乃《ワタノソコオキツフカエノ》云々。七【二十丁】に、綿之底奧己具舟乎於邊將因《ワタノソコオキコグフネヲヘニヨセム》云々。又【卅一丁】海底奧津白玉《ワタノソコオキツシラタマ》云々など見えて猶多し。奧は海の面をいふのみにあらず、深き事にもいへれば、海底《ワタノソコ》ふかきといふ意につゞけたるなり。(頭書、底《ソコ》は、そきとかよひて、奧をいふ也。されば、海の奧沖とつゞけし也。)
 
奧津白浪《オキツシラナミ》。
奧《オキ》は、古事記上卷に、訓v奧云2淤伎1、下效v之と見えたり。奧《オキ》は、奧と邊と對しいふ時は、海面の事なれば、深き意に用ふる所多し。眞淵云、奧墓を於枳都紀とい(264)ふは、深きをおきといへる也。澳放而を、おきさけてとよむは、後世と同じく、遠き方をいふ也云々といはれつるがごとぐ、尚書序釋文に、奧深也云々、文選陸士衡樂府塘上行 注に、奧猶v深也云々と見えたり。
 
立田山《タツタヤマ》。
奧津《オキツ》しら浪の立といふを、立田山にいひかけたり。一二の句、立田山といはんのみの序にて、こゝろなし。古今集雜下に、よみ人しらず、風ふけばおきつしら浪立田山よはにや君がひとりこゆらんとよめるも、同じ。考云、冠辭と序歌は、末の心にまどひなき事をいふもの故に、かく異なる事をもいへり。立田は、大和の平群郡にて、河内の界なれば、伊勢とは其方たがへり。(頭書、立田山、玉かつま五。)
 
何時鹿越奈武《イツカコエナム》。
本集、二【八丁】に、何時邊乃方二《イツベノカタニ》云々。三【廿一丁】に、何時毛將越《イツカモエム》云々などある、何時も、みな義訓にて、こゝと同じ。集中、猶多し。このいつかといへる語は、願ふ意の詞なり。
 
妹之當見武《イモカアタリミム》。
妹があたりを、はやく見まほしく思ふ意なれば、妹があたりを、はやく見んと思ふに、立田山をいつしかこえなんと句を上へうちかへして心得べし。
 
右二首。今案。不v似2御井所1v作。若疑。當v時誦之古歌歟。
 
(265)此注、尤さる事也。二首ともに、御井の歌にあらず。
 
長皇子。與2志貴皇子1。於2佐紀宮1。倶宴歌。
 
諸本、この長皇子の上に、寧樂宮の三字あり。これは亂れ入つるなれば、上、和銅元年の歌の上に、加へて、こゝにははぶけり。そのよしは、上、寧樂宮の所にいへり。
 
長皇子。
上【攷證四十七丁】に出たり。
 
志貴皇子。
上【攷證三十三丁】に見ゆ。
 
佐紀《サキノ》宮。
この宮、長皇子の宮なる事、考に、卷二の志貴皇子の薨給へる時の歌によるに、この皇子の宮は、高圓にあり。佐紀は、長皇子の宮にて、こはあるじの皇子のよみ給ふ也云々といはれつるがごとし。佐紀は、地名にて、大和國添下郡なり。古事記中卷に、狹木之寺間《サキノテラマノ》陵云々。書紀垂仁紀に、三十五年冬十月、作2倭狹城《ヤマトサキノ》池1云々。續日本紀に、寶龜元年八月丙午、葬2高野天皇於大和國添下郡|佐貴《サキノ》郷高野山陵1云々。延喜神名式、大和國添下郡佐紀神社云々。諸陵式に、狹城《サキノ》盾列池後陵、狹城盾列池上陵、在2大和國添下郡1二云々。和名抄郷名に、大和國添下郡|佐紀《サキ》云々など見えたり。本集十【十四丁】に、姫部思咲野爾生白管自《ヲミナヘシサキヌニオフルシラツヽジ》云々。又【卅五丁】佳人部爲咲野之芽子爾《ヲミナヘシアサキヌノハギニ》云々などある、をみなへしは、枕詞にて、咲野《サキヌ》は地名にて、こゝと同じ。さて、考には、こ(266)の端辭、集中の例と、目録によりて、長皇子與2志貴皇子1、宴2於佐紀宮1時、長皇子御作歌と直されたり。これ尤さる事ながら、左注に、右一首長皇子とさへ、ことわりたれば、古くより今のごとくありしとおもはるれば、みだりにあらたむべきにあらず。依てもとのまゝにしるしつ。
 
84 秋《アキ》去《サラ・サレ》者《バ》。今毛見如《イマモミルコト》。妻戀爾《ツアコヒニ》。鹿《シカ・カ》將鳴山曾《ナカムヤマソ》。高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》。
摘餌招彗競稠酢誓鋼齢帥欝露駁點椚雛椚酢髭いい
ハルサラバハナノサカリニ
あり。この事は上【攷證上廿九丁】にもいへり。(頭書、五【廿六丁】に、波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐宜多麻波禰《ハルサラハナラノミヤコニメサケタマハネ》云々。)
 
今毛見如《イマモミルコト》。
今こゝに見るごとく、秋にならば猶鹿のなかんやまぞといへるなり。
 
鹿將鳴山曾《シカナカムヤマソ》。
舊訓、かなかん山ぞとよめるは、しひて字數をあはせんとての誤り也。鹿はしかとよむべし。宣長云、すべて、集中に、鹿の字は、皆かと訓べし。しかと訓ては、いづれも文字あまりて調べわろし。しかには、必ず牡鹿と牡の字をそへてかけり。心をつくべし。鹿の一字をしかとよみて、よろしきは集中に、はつかに一つ二つなり。和名抄にも、鹿和名加とあり云々いはれつるは甚しき誤り也。集中、しかとよむべき所にも、鹿の一字をかけ(る脱?)所かぞへがたきまで多かるをや。いかに心得て、かゝる事をばいひ出られけん。
 
(267)高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》。
高野原《タカヌハラ》は、まへに引たる續日本紀に、佐貴郷高野山陵とあれば、佐紀宮のほとりなるべし。宇倍《ウヘ》は上にて、ほとりといふ意也。この事は、上【攷證廿七丁】にいへり。
 
右一首長皇子。
 
印本、この卷の末に、藤原重家卿、仙覺律師などの奧書をのせたれど、こは一部の終にのすべき例なれば、こゝにははぶけり。
 
去年の神無月、中の九日より、筆とりしかど、ことしきさらぎ朔日、家のやけぬるさわざに、やゝおこたりしを、四月朔日より、又さらにおもひおこして、この卷に考證しをはりしは、文政七とせといふとしの、五月中の三日になん。
                  岸本由豆流
                    (以上攷證卷一下冊)
 
(268)(追記。次の文は攷證第二卷中冊六丁オ柿本朝臣人磨從石見國別妻上來時歌の反歌、小竹之葉者云々の歌の條の附箋に書かれてあるが、これはもと第一巻上冊の終の攷證の一部であつたものを、後人が誤つて現在の場所に貼附したものと認められるから、今ここに附載しておく。)
○卷二に八すみしゝ吾大王の大み舟まちかこひなんしかのからさき云々。卷三に百しきの大宮人のまかりでてあそぶふねにはかぢさほもなくてさぶしもこぐ人なしに、などの類也。
○亦毛相目八毛。こも常いふ事なれど、一本の方、語ふるければ、ふるき方によるべし。さて水はかく淀むところもあれど過行世人はとゞまる事なきものを、今また昔人にあはんとおもはめや。舟まちかねしぞはかなかりけりと、今ぞ思ひしりたる也。
 
大正十三年十二月十二日印刷
大正十三年十二月十五日發行
 定價八拾錢
        著者 岸本由豆流
        校訂者 武田祐吉
  東京市外西大久保四五九番地
發行者 橋本福松
  東京市麹町區紀尾井町三番地
印刷者 福王俊禎
發兌元 東京市外西大久保四五九番地 古今書院
 
               2009年7月14日(火)午後4時15分、入力終了
 
(1)萬葉集卷第二
 
相聞《アヒキコエ》。
 
考に、後の世の歌集に、戀といふにひとし云々といはれつるはたがへり。相聞とは、思ふ事を相たがひに聞えかはす意なる故に、この卷にも戀の歌ならぬがいと多し。たゞ贈答歌、あるは答へはなくとも、いひやれる歌と心得べし。國語 語に、世同居少同游、故夜戰聲相聞、足2以不1v乖、晝戰目相視、足2以相識1云々。文選曹子建與2呉季重1書に、口授不v悉、往來敷相聞云云などある、相聞と云字も、一つの標目にはあらねど、たがひに聞えかはす事也。これらにても、相聞は戀にかぎらざるをしるべし。又わが友、狩谷望之が讀書筆記に、相聞とは、互に聞えかはすといふ事なり。欝岡齋法帖に載る、唐無名書月儀に、十二月朋友相聞書と題せる是也。この月儀は、こゝの往來といふものゝごとく、毎月贈答の文章を作りたるものにして、男女の情を通はしたる文にはあらず云々といへるがごとし。又和歌童蒙抄に、萬葉集に相聞往來歌類也。その歌どもは、多くは戀の心、或は述懷、※[覊の馬が奇]旅、悲別、問答にて、それとたしかにさしたる事はなし。たゞ花紅葉をもてあそび、月雪を詠ぜるにはあらで、おもふこゝろをいかさまにもいひのべて、人にしらする歌を、相きかする歌と名づけたるなるべし云々あるも、予が説にちかし。
 
難波高津宮御宇天皇代。大鷦鷯《オホサヽギノ》天皇。【天皇御謚を仁徳と申す。書紀本紀云、大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也、母曰2仲姫命1、五百城(2)入彦皇子之孫也云々。元年春正月、丁丑朔己卯、大鷦鷯尊、即2天皇位1、都2難波1、是謂2高津宮1云々と見え、古事記に、大雀命、坐2難波之高津宮1治2天下1也云々と見えたり。大鷦鷯尊と申す御名のよしは、書紀本紀に、初天皇生日、木菟《ツク》入2于産殿1、明旦、譽田天皇、喚2大臣武内宿禰1、語v之曰、是何瑞也、大臣對言、吉祥也、復當2昨日1、臣妻産時、鷦鷯《サヽギ》入2于産屋1、是亦異焉、爰天皇曰、今朕之子、與2大臣之子1、同日共産、兼有v瑞、是天之表焉、以d爲取2其島名1各相易名v子、爲c後葉之契u也、則取2鷦鷯名1、以名2太子1、曰2大鵜鶴《オホサヽギノ》皇子1、取2木菟名1、號2大臣之子1、曰2木菟《ツク》宿禰1云々とあり。鷦鷯は、和名抄羽屬名に、文選鷦鷯賦云鷦鷯【焦遼二音、和名佐々木】小鳥也、生2於蒿莱之間1、長2於藩籬之本1云々。新撰字鏡に、鷯【聊音鷦加也久支又佐々支】云々。古事記下卷に、佐邪岐登良佐泥《サザキトラサネ》云々とあり。さて大鷦鷯天皇の五字、印本大字、今小字とす。
 
磐姫皇后。思2天皇1。御作歌。四首。
 
磐姫皇后。
古事記下卷に、此天皇、娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣命1云々と見え、書紀仁徳紀に、二年春三月、辛末朔戊寅、立2磐之媛命1爲2皇后1云々。三十五年夏六月、皇后磐之媛命、薨2於筒城宮1云々と見えたり。さてこゝに磐姫と御名をしるせるを、令法にも背き、集中の例にもたがへりとて、考にたゞ皇后とせられしは、甚しき誤り也。この皇后、薨じ給ひて後、三十八年の正月、八田皇女を立て皇后とし給ひしかば、たゞ皇后とのみにては、いづれを申にか、わからざれば、御名をばしるせる也。元暦本にも、この二字をはぶけるは、さかしら也。(3)又何首の二字をも、考にははぶかれしかど、是も集中の例を考ふるに、あるをよしとす。
 
85 君之行《キミカユキ》。氣長成奴《ケナカクナリヌ》。山多都禰《ヤマタツネ》。迎加將行《ムカヘカユカム》。待《マチ・マツ》爾可將待《ニカマタム》。
 
この歌は、下の古注に、古事記を引たるがごとく、衣通王の、輕太子をこひまつりて、よめる歌なるを、こゝに、磐姫の皇后の御歌とするは誤り也。其うへ、時代もすこしたがへるをや。依て考には、この歌をばはぶかれたり。これもさる事ながら、諸本皆かくのごとくなれば、しばらく、本のまゝにておきつ。これ、この集の撰者の誤りか。又は後人のみだりに加へつるか。
 
君之行《キミカユキ》。
この歌、衣通王の歌なれば、君とは輕太子をさせる也。君之行《キミカユキ》は、體言にして、旅行《タビユキ》、御幸《ミユキ》などの、ゆきと同じ。本集三【卅一丁】に、吾行者久者不有《ワカユキハヒサニハアラス》云々。九【廿丁】に、吾去者七日不過《ワカユキハナヌカハスキシ》云々。十九【卅四丁】に、君之往者久爾有染《キミカユキモシヒサニアラハ》云々。廿【四十丁】に、和哉由伎乃伊伎都久之可婆《ワカユキノイキツクシカハ》云々など見えたり。宣長云、けながくなりぬは、月日長くなりぬなり。氣《ケ》は來經《キヘ》のつゞまりたる也。師の、褻なりといはれたるは、叶はず。又契沖が、息のことにいへるも非也。來經《キヘ》は、年月日の經行《ヘユク》こと也。十三【卅四丁】に、草枕此※[覊の馬が奇]之氣爾妻放《クサマクラコノタヒノケニツマサカリ》云々とよめるなども、旅にして月日を經《フ》るほどの旅の氣といへり。長くは久しく也云々といはれしがごとし。けながくといへる詞、集中いと多し。(頭書、本集四【十二丁】に、一日社人母待告長氣乎《ヒトヒコソヒトモマチツケナガキケヲ》云々。)
 
(4)山多都禰《ヤマタヅネ》。
古事記には、夜麻多豆能《ヤマタヅノ》とあるを、傳へ誤りて、山たづねとはせし也。されど、此集のごとく、山尋《ヤマタツネ》としても、意は聞えたり。君が行て、月日長く經にしかば、山べをたづねて、むかへにかゆかん、又たゞ待にかまちてあらんと也。
 
迎加將行《ムカヘカユカム》。
古事記には、牟加閉袁由加牟《ムカヘヲユカム》とあり。いづれにても、意はきこゆ。むかへにかゆかんと也。本集六【廿五丁】に、山多頭能迎參出六《ヤマタヅノムカヘマヰデム》云々など見えたり。
 
待《マチ・マツ》爾可將待《ニカマタム》。
古事記には、麻都爾波麻多士《マツニハマタジ》とあり。こゝも、いづれにても意はきこゆ。君を、山べなどたづねて、むかへにかゆかん。又は、たゞこゝにてまちにかまたんといふ意也。宣長は、結句まちにかまたんにては、上に叶はずとて、さとにかまたん|に《(マヽ)》直されしかどなか/\にたがへり。
 
右一首歌。山上憶良臣類聚歌林載焉。
 
上には、みな憶良大夫としるし、こゝにはじめて臣とせり。大夫とかけるも、臣とかけるも、みな稱していへる也。すべて、官位にまれ、姓にまれ、名の下に付ていふは、みな尊稱のことばとしるべし。
 
86 如此許《カクハカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》。高山之《タカヤマノ》。磐根四卷手《イハネシマキテ》。死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
 
(5)この御歌より下三首は、皇后の御歌なり。
 
如此許《カクハカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》。
考の説たがへり。こゝの意は、かくのごとく、戀つゝあらんよりはといふ意也。あらずばの、ずばは、んよりはといふ意に用ひたり。此卷下【十五丁】に、遺居而戀管不有者追及武《オクレヰテコヒツヽアラズバオヒシカム》、道之阿囘爾標結吾勢《ミチノクマワニシメユヘワガセ》云々。四【四十九丁】に、如是許戀乍不有者《カクハカリコヒツヽアラズバ》、石木二毛成益物乎《イハキニモナラマシモノヲ》、物不思四手《モノモハスシテ》云々などある、ずばといへる語も、皆同じ意也。この語、集中いと多し。猶くはしくは、宣長が、詞の玉の緒に見えたり。
 
高山之《タカヤマノ》。磐根四卷手《イハネシマキテ》。
考に、葬てあらんさまを、かくいひなし給へり云々といはれしがごとく、高山《タカヤマ》は、葬れる山をいへる也。本集三【四十六丁】石田王卒之時、丹生女王のよめる歌に、高山之石穗乃上爾君之臥有《タカヤマノイハホノウヘニキミカコヤセル》云々とある、高山も、葬れる所をいへり。さて、磐根四卷手《イハネシマキテ》の、しは助字、卷手《マキテ》は枕とする也。本集一【攷證一ノ下五十四丁】に、松之根乎枕宿杼《マツカネヲマキテシヌレド》云々とあると同じ。くはしく其所にいへり。
 
死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
かくのごとく、戀てのみあらんよりは、葬する高山の石根などまくらとして、死ましものをと、のたまへる也。考云、天皇の吉備の黒媛がもとへ幸し時など、かくまでは、待わび給へるにや。紀を見るに、これら、この后の御心にはありける云々。
 
(6)87 在管裳《アリツヽモ》。君乎者將待《キミヲハマタム》。打《ウチ》靡《ナヒク・ナヒキ》。吾黒髪爾《ワカクロカミニ》。霜乃置萬代日《シモノオクマテニ》。
 
在管裳《アリツヽモ》。
ながらへ在つゝ、君をば待んと也。本集三【廿九丁】に、在管裳不止將通《アリツヽモヤマスカヨハムj》云々。四【廿丁】に、在乍毛張之來者立隱金《アリツヽモハルシキタラハタチカクルカネ》云々。七m【廿八丁】に、有乍君來座《アリツヽモキミカキマサハ》云々などありて、集中猶多し。
 
打《ウチ》靡《ナヒク・ナヒキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。髪もなびく物ゆゑに、うちなびく髪とつゞけし也。本集十二m【廿二丁】に、待君常庭耳居者《キミマツトニハニノミヲレハ》、打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《ウチナヒクワカクロカミニシモソオキニケル》云々とも見えたり。さて、舊訓うちなびきとあれど、うちなびくとよむべし。五【十六丁】に、有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等《ウチナヒクハルノヤナキト》云々などあれば也。
 
霜乃置萬代日《シモノオクマテニ》。
考云、今本、此未を霜乃置萬代日《シモノオクマテニ》とあるは、此左に擧し或本歌に、居明而君乎者將待《ヰアカシテキミヲハマタム》、奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文《ヌハタマノワカクロカミニシモハフルトモ》云々。又卷五に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニノミヲレハウチナヒクワカクロカミニシモソオキニケル》云々とある歌などに、まがひて、古歌の樣よく意得ぬ人の、かき誤れるもの也。何ぞといはゞ、古歌に、譬言は多かれど、く樣に、ふと霜のおくといひて、白髪の事を思はするごとき事、上つ代の歌にはなし。又この句のさま、他歌の言のまがひ入し事、おのづからも見えぬるを、見しる人はしるべし云々とて、白久爲萬代日《シロクナルマテニ》と直されたり。これも、一わたりはさる事ながら、外にさる本もあらば、直しもしつぺし。自らの心一つもて、千歳のさきの歌を直さんは、あまりしき事也。これ、例の古書の改《(マヽ》》る僻也。さて本集七【八丁】に、烏玉之吾黒髪爾落名積《ヌハタマノワカケロカミニフリナツム》、天之露霜取者消乍《アメノツユシモトレハキエツヽ》云々。五【九丁】に、美奈乃和多迦具漏伎可美爾《ミナノワタカクロキカミニ》、伊都乃麻可斯毛乃布利家武《イツノマカシモノフリケムケム》云々。十七【十三丁】に、布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマテニ》云々などもありて、白髪を霜雪などに、たとふ(7)るは、つねの事なれば、ふと霜のおくまでにといひ出たりとも、何のうたがふ事かあらん。その上、かみしも何のかけ合せもなく、ふと物をいひ出るこそ、古歌のつねなれ。しかも、霜のおくまでにとしては、意の聞えぬ事あらば、これかれをたくらべて、直しもしつべけれど、もとのまゝにても、意はよく聞ゆるを、かくみだりに直さるゝは、罪多き事ならずや。萬代日は借音なるのみ。
 
88 秋之田《アキノタノ》。穗《ホノ》上《ヘ・ウヘ》爾《ニ》霧相《キラフ・キリアフ》。朝霞《アサカスミ》。何時邊乃方二《イヅベノカタニ》。我戀將息《ワカコヒヤマム》。
 
本集十【五十丁】に、秋田之穗上爾置白露之《アキノタホノヘニオケルシラツユノ》云々などある、上も、へとのみよむべし。五【十一丁】に、比等能比射乃倍《ヒトノヒサノヘ》、和我摩久良可武《ワカマクラカム》云々。又【十八丁】烏梅能波奈《ウメノハナ》、多禮可有可倍志《タレカウカヘシ》、佐加豆岐能倍爾《サカツキノヘニ》云々などある倍《ヘ》も、みなうへの略也。霧相《キラフ》は、上一【攷證一上四十八丁】に、霞立春日之霧流《カスミタツハルヒノキレル》云々とある所にいへるがごとく、くもれるをいへる也。本集六【四十四丁】に、天霧合之具禮乎疾《アマキラフシクレヲイタミ》云々ともありて、くもりあふ也。舊訓、きりあふとあれど、りあの反、らなれば、きらふとよむべし。
 
朝霞《アサカスミ》。
中古より、霞は春のものとのみなれれど、集中あきにもよめり。本集八【卅四丁】に、霞立天河原爾《カスミタツアマノカハラニ》、待君登《キミマツト》云々。十【五十三丁】秋相聞に、朝霞鹿火屋之下爾《アサカスミカヒヤカシタニ》云々などあり。十(ノ)卷なるは、枕詞ながら、秋によめれば、こゝにはひける也。猶下【攷證三下五十五丁】にも出たり。
 
(8)何時邊乃方二《イツベノカタニ》。
考に、何れの方といふ也。卷十九に、ほとゝぎす伊頭敝能山乎鳴《イツヘノヤマヲナキ》か越らんともあるもて、禮を邊に通はせいふをしる云々といはれしがごとし。
 
我戀將息《ワカコヒヤマム》。
わが戀のやむべきと也。秋の田の穗の上などに、くもりあふ朝がすみのごとく、はれぬ御思ひを、いづれの方にやりてか、わが御戀のやむべきとのたまへる也。上句は譬歌なり。
 
或本歌曰。
 
89 居《ヲリ・ヰ》明而《アカシテ》。君乎者將待《キミヲハマタム》。奴婆珠乃《ヌハタマノ》。吾黒髪爾《ワカクロカミニ》。霜者零騰文《シモハフルトモ》。
 
居《ヲリ・ヰ》明而《アカシテ》。
寐もねず、居あかして也。本集十八【十三丁】に、乎里安加之許余比波能麻牟《ヲリアカシコヨヒハノマム》云々などあり。すべてよるいねず、おきあかして居るを、をるといへり。この事は、宣長が玉勝間卷十四に辨せり。
 
奴婆珠乃《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。ぬば玉は、烏扇《カラスアフキ》の實《ミ》にて、このもの、野に生る故に、野《ヌ》とはいひ、その葉、羽に似たれば、羽といひ、其實、黒き玉のごとくなれば、ぬば玉とはいへる也。さて、その黒きよりして、黒き事はもとより、夜、月、夢其外いろ/\につゞくるなり。
 
(9)霜者零騰文《シモハフルトモ》。
さよふけて、髪の上などに霜はふりおけりとも、猶居あかして、君をばまたんと也。
 
右一首。古歌集中出。
 
右一首は、古き歌集の中に出たりと也。出の字、古の字の上にあるべき也。かくみだりがはしき書ざまなるにても、古注の誤り多きをしるべし。されど、いと古き人のしるしゝなれば、又とる所も多かり。
 
古事記曰。輕太子。※[(女/女)+干]2輕大郎女1。故其太子。流2於伊豫湯1也。此時。衣通王。不v堪2戀慕1。而追往時。歌曰。
 
古事記序云、惜2舊辭之誤忤1、正2先紀之謬錯1、以2和銅四年九月十八日1、詔2臣安萬侶1、撰2録稗田阿禮所v誦之勅語舊辭1、以献上者云々。和銅五年正月二十八日、正五位上勲五等、太朝臣安萬侶謹上云々とあり。
 
輕太子《カルノミコノミコト》。
古事記下卷云、男淺津間若子宿禰命、此天皇、娶2意富杼王之妹、忍坂之大中津比賣命1、生2御子木製之輕王、次長田夫郎女、次境之黒日子王、次穴穗命、次輕大郎女1云(10)云。書紀允恭紀云、二十三年春三月、甲午朔庚子、立2木梨輕皇子1、爲2太子1、容姿佳麗、見者自感、同母妹輕大娘皇女、亦艶妙也、太子、恒念v合2大娘皇女1、畏v有v罪、而黙v之、然感情既盛、殆將v至v死、爰以爲、徒非v死者、雖v有v罪、何得v忍乎、遂竊通、乃悒懷少息云々と見えたり。
 
※[(女/女)+干]《タハク》。
印本奸に作るは誤れり。今、古事記によりて改。新撰字鏡に、※[(女/女)+干]【亂也犯淫也多波久】云々と見えたり。たはくとよむべし。
 
輕大部女《カルノオホイラツメ》。
古事記云、輕大郎女、亦名衣通郎女、御名所v負2衣通王1者、其身之光、自v衣通出也云々と見えたり。
 
其太子。流2於伊豫湯1也。
本書を考ふるに、其字の下に輕の字あり。今脱せるか。又は、わざとはぶけるか。伊豫湯の事は、上【攷證一上十三丁】にいへり。さて、古事記には、太子を流し奉りしよしあれど、書紀には、太子是爲2儲君1、不v得v罪、則流2輕大娘皇女於伊豫1云々とあり。いづれをか是とせん。
 
追往。
追の字、印本遺に誤る。今本書と、活字本によりてあらたむ。さて、こゝに引たる古事記の文も、次にあげたる歌も、くはしく古事記傳によりて見るべし。
 
90 君之行《キミカユキ》。氣長久成奴《ケナカクナリヌ》。山多豆乃《ヤマタツノ》。迎乎將往《ムカヘヲユカム》。待爾者不待《マツニハマタジ》。【此云山多豆者。是今造木者也。】
 
本書には、岐美賀由岐氣那賀久那理奴《キミカユキケナカクナリヌ》、夜麻多豆能牟加閉袁由加牟《ヤマタツノムカヘヲユカム》、麻都爾波麻多士《マツニハマタジ》云々とあるを、こゝには、この集の書ざまに直しては、しるせる也。
 
山多豆乃《ヤマタツノ》。
枕詞にて、冠辭考、古事記傳などにくはし。されど宣長の釿《テヲノ》なりといはれしはたがへり。冠辭考にいはるゝごとく、鐇《タヅキ》なり。この物、今いふまさかりといふ物にて、木をうつ時には、刃をわが方にむかへて用ふ。故に山多豆乃迎《ヤマタツノムカヘ》とはつゞくる也。さて、この物、大神宮儀式帳に、立削《タツゲ》一柄云々。外宮儀式帳に、立削※[金+斧]《タツケヲノ》一柄云々などかけり。これ正字にて、たつげは字のごとく、立に削《ケツル》意なるを略して、たつげとはいへる也。又そのけを略して、たづとのみもいへり。分注十二字、印本大字とす。今本書によりて小字とす。
 
右一首歌。古事記。與2類聚歌林1。所v説不v同。歌壬亦異焉。因檢2日本紀1。曰。難波高津宮御字。大鷦鷯天皇。廿二年春正月。天皇語2皇后1。納2八田皇女1。將v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇。歌以乞2於皇后1云々。三十年。秋九月。乙卯朔乙丑。皇后遊2行紀伊國1。到2熊野岬1。即取2其處之御鋼葉1。而還。於v是。天皇。伺2皇后不1v在。而娶2八田皇(12)女1。納2於宮中1。時皇后。到2難波濟1。聞3天皇合2八田皇女1。大恨v之云云。亦曰。遠飛鳥宮御宇。雄朝嬬稚子宿禰天皇。二十三年春三月。甲午朔庚子。立2木梨輕皇子1。爲2太子1。容姿佳麗。見者自感。同母妹輕大娘皇女。亦艶妙也云々。遂竊通。乃悒懷少息云々。廿四年夏六月。御羮汁凝以作v氷。天皇異v之。卜2其所由1。卜者曰。有2内亂1。蓋親親相|姦《タハク》乎云々。仍移二2娘皇女於伊與1者。今案。二代二時。不v見2此歌1也。
 
語皇后。
本書、皇后の下、曰の字あり。
 
八田皇女。
書紀應神紀云、妃和珥臣祖、日觸使主之女、宮主宅媛、生2八田皇女1云々。仁徳紀云、三十八年春正月、癸酉朔戊寅、立2八田皇女1、爲2皇后1云々。舊事記卷八云、(13)履中天皇元年、春二月、壬午朔、尊2皇后1、曰2皇大后1云々。
 
妃。
古今韻會に、妃嬪御之貴者、次v於v后云々と見えたり。書紀に、妃、夫人、庶妃、嬪、女御など、みな、みめとよめり。御妻《ミメ》の義なり。
 
皇后云々。
云々の二字、印本之の一字に誤る。今元暦本によりて改む。書紀神代紀に、云々をしか/”\とよめり。史記汲黯傳に、上曰、吾欲云々。注に、云々猶v言2如v此如1v此也云々。文選阮元瑜書、張銑注に、云々謂2辭多略不1v能v載也云々と見えたり。
 
熊野(ノ)岬《ミサキ》。
熊野岬は、紀伊國牟婁郡なり。書紀神代紀上に、熊野之御崎とあるは、出雲國意宇郡にて、同名異所なり。古事記中卷に、廻幸到2熊野村1云々とあるは、紀伊國なり。和名抄山谷類に、唐韻云岬【古狎反日本紀私記云美佐岐】云々と見え、同書郷名に、紀伊國牟婁郡三前と見えたり。岬、印本※[山+卑]に誤る。今本書と元暦本によりて改む。
 
御鋼葉《ミツヌカシハ》。
本書に、御綱葉【葉此云箇始婆】云々とあり。書紀、古事記等に、字のまゝにみつなかしはとよめるは、いかゞ。みつぬかしはとよむべし。そは、下にあぐるがごとく、三津野柏、御角柏などかけるにても、しるべし。さて、大神宮儀式帳に、眞會酒釆女二人、侍御、角柏盛人別給云々。延喜造酒司式に、三津野柏二十把、長女柏四十八把云々などありて、豐明また神事などに、御酒を盛料の物と見ゆ。この柏は、葉三またにてさき尖《トカ》りたれば、三角の意の名なるべしと宣長いはれぬ。猶くはしくは、書紀通證、古事記傳、大神宮儀式帳解等に見えたり。
 
(14)於v是。
本書、是の字の下、日の字あり。
 
難波濟《ナニハノワタリ》。
本書云、皇后到2難波濟1、聞3天皇合2八田皇女1、而大恨v之、則其所v採御綱葉、投2於海1、而不2著岸1、故時人號2散v葉之海1、曰2葉《カシハ》濟1也云々と見えたり。又景行紀に、亦比v至2難波1、殺2柏濟《カシハノワタリ》之惡神1【濟此云2和多利1】云々とあり。攝津志に、柏濟、在2西成郡野里村1云云と見ゆ。古事記下卷に、難波之大渡とあるはこゝ歟。玉篇に、濟(ハ)渡也云々とあり。
 
遠飛鳥《トホツアスカノ》宮御宇。雄朝嬬稚子宿禰天皇。
古事記下卷云、男淺津間若子宿禰命、坐2遠飛鳥宮1治2天下1也云々と見えたり。遠飛鳥の事は、上【攷證一下六十八丁】にいへり。御下、印本膳の字あり。字、印本干に誤る。今意改。
 
御羮汁《ミアツモノノシル》。
羮は、和名抄葉羮類に、楚辭注云、有v菜曰v羮【音庚和名阿豆毛乃】無v菜臼v※[月+霍]【呼各反和名上同、今按是以2魚鳥肉1爲v羮也】云々と見え、汁は、祈年祭祝詞に、汁《シル》【爾母】穎【爾母】云々。延喜主計式に、汁漬坏。大膳式に、汁糟。九條殿年中行事に、汁物など見えたり。
 
内亂。
唐名例律に、十惡、十曰2内亂1、謂d姦2小功以上親父祖妾1、及與和者u云々。疏議に、左傳云女有v家、男有v室、無2相續1、易v此則亂、若有v禽2獣其行1、明2淫於家1、紊2亂禮經1、故曰2内亂1云々と見えたり。
 
(15)親親相姦。
公羊莊元年傳に、公子慶父、公子牙、通2于夫人1、以※[力三つ]v公、季子起而治v之、則不v得v與2于國政1、坐而視v之則親親、因v不v忍v見也、何体曰、親至親也云々、文選求v通2親親1表に、親親之義、宴在2敦固1云々。呂向注に、親親骨肉之義云々と見えたり。姦本書※[(女/女)+干]に作る。※[(女/女)+干]は姦の俗字也。
 
二代二時。不v見2此歌1也。
 
二代は、仁徳天皇と允恭天皇との二御代をいふ。二時は、仁徳天皇の八田皇女をめしたまへるを、皇后のうらみ給ひし事と、輕皇子の輕大娘皇女に通じ給ひし事とをいふ。不v見2此歌1とは、まへに檢2日本紀1云々とある文をうけてかけるにて、右二代の二時に此|君之行《キミカユキ》云々の歌、書紀には見えずといへる也。
 
近江大津宮御宇天皇代。天命開別天皇。
 
天皇、御謚を天智と申す。六年三月、都を近江にうつしたまへり。これらの事は、上【攷證一上廿七丁】にいへり。
 
天皇。賜2鏡女王1。御製歌。一首。
 
鏡女王。
印本、女王を王女とす。今考の説によりて改む。考別記云、此卷に、天皇賜2錦王女1云々。鏡王女奉歌とありで、鏡王女は、又曰2額田姫王1也と注せしは誤り也。卷十三に、額田王思2近江天皇1作歌、君待登吾戀居者《キミマツトワガコヒヲレバ》、吾屋戸之簾動之《ワカヤトノスダレウゴカシ》、秋風吹《アキノカセフク》云々。次に鏡王女作歌、風乎太爾戀流波乏之《カセヲタニコフルハトモシ》、風乎谷將來登時待者何香將嘆《カセヲタニコムトシマテハイカヽナケカム》云々。これ鏡王女、傍より、右の歌に和(16)よめる也。然れば、額田王と鏡王女は別なり。もしこれを和歌ならずと思ふ人有とも、かく並べあぐるに、同人の名をことに書ことやはある。とにもかくにも、別人なる證也。かゝるを、同女王ぞといへるは、紀に【天武】天皇、始|聚《(マヽ)》2鏡王女額田姫王1、生2十市皇女1とあるを、不意に見て、誤れるもの也。さてその意を立て、鏡女王とあるは、王女の誤りぞとて、さかしらに字を上下せし事あらは也。すべて、集中に、生羽が女、播麻の娘子などあるは、名のしられざる也。すでに、名のあらはなる額田姫王を、又は某女とは書べからず。仍て今改て、鏡女王とせり。さて、この此《(マヽ)》女王は、紀に【天武】幸2鏡姫王之家1、訊v病とあるは、御親き事しるべし。然れば、天智天皇も、おなじほどの御親みゆゑに、この大御歌をも、たまへるにて、こは常の相聞にはあらぬなるべし。額田姫王とする時は、こゝも次も、疑多き也云々と云れつるがごとく、印本、王女とあるは、女王の誤りなる事、明らけし。下皆同じければ改めつ。さて、この鏡女王は、額田王の姉にて、同じく鏡王の女也。この姉妹、ともに天智天皇にめされたりと見ゆ。其よし、宣長が玉勝間卷二にくはし。
 
御製歌。
 
印本、製の字なし。今集中の例によりて加ふ。
 
91 妹之家毛《イモカイヘモ》。繼而見麻思乎《ツキテミマシヲ》。山跡有《ヤマトナル》。大島嶺爾《オホシマミネニ》。家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。【一云。妹之當《イモカアタリ》。繼而毛見武爾《ツキテモミムニ》。一云。家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》。】
 
繼而見麻思乎《ツキテミマシヲ》。
つぎて見ましをは、つゞけたえず見んものをとのたまへる也。本集四【五十四丁】に、次相見六事計爲與《ツキテアヒミムコトハカリセヨ》云々。五【十丁】にヨルノイメニヲツキテミエコソ
 
云々。十一【十六丁】に、繼手志念者《ツキテシモヘハ》云々などありて、集中猶いと多し。皆つゞけての意なり。乎《ヲ》はものをといふ意也。
 
山跡有《ヤマトナル》。
大和也。和名抄を考ふるに、諸國に、額田《ヌカタ》といへる地名多かる中に、大和國平群郡にもあり。この鏡女王の姉、額田女王は、かの大和なる額田の郷に住たまひしかば、額田女王とはいへるか。古しへ、地名をもて名とする事、常の事也。されば、この鏡女王も、姉妹の縁につきて、同じく額田の郷には、住れしなるべし。されば、その里を見んに、大島みねに、家もあらましをと、のたまへる也。
 
大島嶺《オホシマミネ》。
大島嶺は、額田女王と、鏡女王と、ともに住たまへる額田郷のちかきほとり、平群郡の中なるべし。日本後紀に、大同三年九月、戊戌、幸2神泉苑1有v勅、令3從五位下平群朝臣賀是麿作2和歌1曰、伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可《イカニフクカゼニアレバカ》、於保志萬乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留《オホシマノヲバナノスヱヲフキムスヒタル》云々とある平群氏も、もと平群の地名より出たるなれば、この賀是麿も、その郡の人とおもはるれば、こゝによめる於保志萬《オホシマ》も平群郡なるべし。
 
家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。
家もあらましをは、家もあらんかしものをとのたまへるにて、すべて、まし|を《(マヽ)》いへる詞は、ましもの|を《(マヽ)》いへる意にて、願ふ詞也。さて、猿を、ましの假(18)字に用ふるは、猿を、古くはましともいひし也。古今集誹諧に、わびしらにましらなゝきそ、あし引の山のかひあるけふにやはあらぬ云々とある、ましらといへる事、たま/\翻譯名義集に、※[獣偏+爾]猴を摩斯※[口+託の旁]と訓するに、いさゝか叶へりとて、ましらは猿の梵語とするは非也。ましは猿の一名、らは等にて猿の多く群をなして居るをいへる也。字鏡集、伊呂波字類抄等に、猿をましとのみよめるにても、猿をましともいへるをしるべし。
 
一云。家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》。
この方まされり。大島峯に、家居してをらましものをと也。ましをは、上にいへるがごとし。本集十【卅九葉】に、山近家哉可居《ヤマチカクイヘヤヲルヘキ》云々。十二【五丁】に、里近家哉應居《サトチカクイヘヤヲルヘキ》云々。十九【廿六丁】に、伊敝波乎禮騰母《イヘハヲレトモ》云々など見えたり。
 
鏡女王。奉v和歌。一首。【鏡王女又曰2額田姫王1也。】
 
鏡女王、これも印本王女とあり。今改む。又、印本、歌の字の上、御の字あれど、集中の例、帝王、皇后、皇子、皇女の外は、御とはかゝざる例なれば、はぶけり。注に、鏡女王又曰額田姫王也とあるは。甚しき誤り也。そのよしは、上に引る、考別記にいはれしがごとし。
 
92 秋山之《アキヤマノ》。樹下《コノシタ》隱《カクリ・カクレ》。逝水乃《ユクミヅノ》。吾許曾益目《ワレコソマサメ》。御念從者《ミオモヒヨリハ》。
 
樹下《コノシタ》隱《カクリ・カクレ》。
隱を、舊訓かくれとあれど非也。かくりとよむべし。そは、古事記下卷に、美夜麻賀久理弖《ミヤマカクリテ》云々。書紀推古紀に、和餓於朋耆彌能※[言+可]句理摩須《ワカオホキミノカクリマス》云々。本集五【十六丁】に、許奴禮我久利弖《コヌレカクリテ》云々。十五【九丁】に、海原乎夜蘇之麻我久里《ウナハラヲヤソシマカクリ》云々。又【十二丁】久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》云々などあるにても、隱はかくりとよむべきをしるべし。
 
逝水乃《ユクミヅノ》。
印本、逝を遊に作る。元暦本には、道とせるうへに、集中遊とかける所なければ、今逝に改む。されど、遊とあるもすてがたし。毛詩板傳、淮南子原道 注などに、遊行也とあれど、多きにつき、逝に改む。乃《ノ》は、のごとくの意にて、秋は水かさまされるものなれば、秋山の木の下隱にゆく水のごとく、われこそ思ひまさらめとよまれし也。この歌、すべて序歌なり。
 
内大臣藤原卿。娉2鏡女王1時。鏡女王贈2内大臣1歌。一首。
 
こは鎌足公をいへり。本集一には、内大臣藤原朝臣とあり。こは天皇の詔し給ふ所にて、天皇にむかへて書るなれば、藤原朝臣とせり。こゝはたゞ鎌足公のうへをのみといふ所なれば、藤原卿とは書る也。これらの事、くはしくは、上【攷證一上廿七丁】にいへり。鎌足公の傳も、そこにあげたり。さて、卿は、集中、大臣、納言などを、多く何何の卿とかけり。そは、韻會に、秦漢以來、君呼v臣以v卿、凡敵體相呼、亦爲v卿、蓋貴v之也云云。漢書項籍傳注に、文穎曰、卿子時人相褒尊之稱、猶v言2公子1云々などありて、尊稱の字なり。
 
(20)娉。
考に、娉は古しへは、妻問といひ、後には懸想といふにあたる云云といはれしがごとし。又玉篇に、娉(ハ)娶也云々とも見えたり。
 
鏡女王。
こゝも、印本、王女に誤る。いま改。さて、この端辭、集中の例に異なりとて、考には贈2内大臣1の四字を、けづられたれど、諸本みな如v此なれば、しばらく、本のままにておきつ。
 
93 玉匣《タマクシケ》。覆乎安美《オホフヲヤスミ》。開而行者《アケテユカハ》。君名者雖有《キミカナハアレト》。吾名之惜毛《ワカナシヲシモ》。
 
玉匣《タマクシケ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉はほむる詞にて、匣《クシケ》は蓋を開くも、覆ひもするが、たやすき物なれば、おほふをやすみ、あけてゆかばとはつゞけたり。さて、この枕詞、あけ、ふた、みむろの山、あしきの川、おくなどもつゞけたり。匣《クシケ》は、櫛、鏡、また外の物を入る物也。この事は、下四【攷證四上卅一丁】にいふべし。【おほふは、本集十【七丁】に、梅花零覆雪乎《ウメノハナフリオホフユキヲ》云々。又【五十丁】に、雁之翅乃覆羽之《カリノツハサノオホヒハノ》云々。また【同丁】秋山霜零覆《アキヤマニシモフリオホヒ》云々などありて、物をおほひかくす意也。美《ミ》は、さにの意にて、夜あけて、君がかへり給はゞ、君が名もわが名もたちぬべし。名のたゝぬやうに、おほふはやすき事なれば、夜あけぬ中に、とくかへり給へと也。考に、匣のふたは、おほふ事もやすしとて、開るとつゞけたり。さて夜の明ることにいひかけたる序のみといはれつるは、くはしからず。
 
(21)開而行者《アケテユカハ》。
考云、この公の來て、夜ふくれどもかへり給はぬを、女王のわびていひ出せる歌なり云々。
 
君名者雖有《キミカナハアレト》。吾名之惜毛《ワカナシヲシモ》。
君は、男のことなれば、名のたつをもいとひ給ふまじければ、さてもあれど、われは、女の事なれば、名のたゝんがをしゝとなり。あれどといふ詞は、古今集大歌所に、みちのくはいづくはあれど、しほがまのうらこぐ舟のつなでかなしもとある、あれどと同じく、意をふくませたる詞也。さて略解に、按るに、君吾二字、互に誤りつらん。わがなはあれど、君がなしをしもとあるべし。六帖に、この歌を|わ名《(マヽ)》はあれど、君が名をしもとあり。巻四、吾名はも千名の五百名にたちぬとも、君が名たたばをしみこそなけとよめるをも思へ。宣長は、玉くしげは、開るへかゝれり。覆は、字の誤れるにやといへり云々とある千蔭の説は、いかにもさる事ながら、覆は字の誤れるにやといはれつるはうけがたし。
 
内大臣藤原卿。報《コタヘテ》2贈鏡女王1歌。一首。
 
考には、こゝをも、内大臣藤原卿和歌と直されしかど、本のまゝにておきつ。報は、韻會に、報答也とあれば、こたへてとよむべし。鏡女王、こゝも印本、鏡王女とあるを、改めつ。
 
94 玉匣《タマクシケ》。將見圓《ミムロノ・ミムマト》山乃《ヤマノ》。狹名葛《サナカヅラ》。佐不寐者遂爾《サネスハツヒニ》。有勝麻之目《アリカテマシモ》。【或本歌云。玉匣《タマクシケ》。三室戸山乃《ミムロノヤマノ》。
 
(22)將見圓《ミムロノ・ミムマト》山乃《ヤマノ》。
眞淵云、この將見圓山の四字は、みむろの山とよむべし。將見の二字は、にみんとはねて唱ふるを、はねずして、みとむと二つの假字に用ひたり。卷十二に、いなみの川を、將行乃河と書たるに似たり。圓は、まろとよむを、其まを略きて、ろのかなにせり。是は、大和國の三室山なり。今本に、みんまと山とよみたるは、誤れり云々。宣長云、圓の字は、まろの、まを略きて、ろの一言にとれるにはあらず。すべて、略きて取る例は多けれども、事による也。まろといふ意を、まを略く例はなし。これは、上に將見といふ、むとと通ふ音なる故に、おのづから、みまろといふやうにもひゞくから、圓の字を書る也云々。こ二つの説を合せて心得べし。さて、みむろ山は、集中、三諸《ミモロ》、三室《ミムロ》などかけり。むともとかよへればなり。されど三室《ミムロ》といふ方ぞ正しき。三室山は、三輪山の事にて、三輪の大神を祭り奉る故に、御室《ミムロ》の義也。三室山は、三輪山の事なりと云ふ證は、古事記中卷、書紀崇神紀等に出たれど、事長ければこゝにもらせり。この山は、大和國城上郡なり。
 
狹名葛《サナカツラ》。
古事記中卷に、佐那葛《サナカツラ》云々。本集十【五十七丁】に、山佐奈葛黄變及《ヤマサナカツラモミツマテ》云々。十二【廿五丁】に、狹名葛在去之毛《サナカツラアリユキテシモ》云々。十三【十七丁】に、在《・(マヽ)》奈葛後毛相得《サナカツラノチモアハムト》云々。又此卷【卅七丁】に、狹根葛後毛將相等《サネカツラノチモアハムト》云々。十一【十一丁】に、核葛後相《サネカツラノチモアハムト》云々とも見えたり。なとねと、音かよへば也。新撰字鏡に、藉【左奈葛】木防已【左奈葛一云神衣比】云々。醫潜心方和名部に、防已【和名阿乎加都良又佐禰加都良】云々。本草和名上卷に、立味和名佐禰加都良云々。和名抄葛類に、蘇敬本草注云、五味【和名作禰加豆良】皮肉甘酸、核中辛苦、都有2鹹味1、故名2五味1也云々などあり。新撰字鏡と、醫心方に、防已をよめれど、古事記中卷に、舂2l佐那葛(23)之根1、取2其汁滑1云々とありて、五味は葛も根も汁のなめらかなる物にて、今もその葛を、美男葛《ビナンカツラ》とて、水にひたしおきて、くしけづる用にすれば、さなかづらは、五味《(マヽ)》に防已をよめるは、誤れり。さてこの三の句までは、さねずばといはん序におけるのみ。
 
佐不寐者《サネスハ》。
さねずばの、さは發語にで、たゞねずばなり。さの發語の事は、上【攷證一上卅四丁】にいへり。古事記中卷に、佐泥牟登波阿禮波意母閇杼《サネムトハアレハオモヘト》云々。同下卷に、佐泥斯佐泥弖婆《サネシサネテハ》云々。本集此卷に、在宿夜者幾毛不有《サヌルヨハイクラモアラス》云々、三【六十丁】に、吾妹子跡在宿之妻屋爾《ワキモコトサネシツマヤニ》云々。八【五十二丁】に、袖指代而寐之夜也《ソテサシカヘテサネシヨヤ》云々などありて、集中いと多し。宣長は、さねは眞寐にて、多く男女|率《ヰ》てぬるをいへりといはれぬ。
 
有勝麻之目《アリガテマシモ》。
がては、難《カタ》き意にて、妹とつひにねずては、在難《アリガタ》からんと也。目《モ》は、音もくなるを、略して、もの假字に用ひたり。この、ましもの、もは助辭にて、意なし。書紀睾崇神に、多誤辭珥固佐麼《タコシニコサハ》、固辭介※[氏/一]務介茂《コシカテムカモ》云々。木集四【四十九丁】に、此月期呂毛有勝益士《コノツキコロモアリカテマシヲ》云々。十一【卅三丁】に戀乃増者在勝申目《コヒノマサレハアリカテマシモ》云々など見えたり。
 
三室戸山乃《ミムロノヤマノ》。
考云、或本歌云、玉匣、三室戸山乃といへるは、卷七に、珠くしげ見諸戸《ミモロト》山を行しかばてふ、旅の歌の中にありて、西の國の歌どもに交れゝば、備中國に、今もみむろどといふ所なるべし。こゝのは、大和の都にてよめれば、他國の地名をいふ事なかれ。古人は、よしなく遠き所を設てよむ事なかりし也。山城の宇治に、三室戸といふあれど、後の(24)事のみ云々といはれぬ。略解には、戸は乃の誤りにて、三室乃山乃《ミムロノヤマノ》ならんといへり。これらの説ども、いかゞ。本集八【五十四丁】に、黒木用造有室者迄萬代《クロキモテツクレルイヘハヨロツヨマテニ》云々。また、黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞《クロキモテツクレルイヘハヲレトアカヌカモ》云々と、並べのせて、室をも室戸をもいへとのみよめり。【舊訓やどとよめり】これは、一字と二字にかけるのみ。訓は同じく、室には必らず戸あるものなれば、室戸をいへとよめる事、書紀神代紀 に、無戸室を、うつむろとよめるにて、しらる。されば、こゝに三室戸山乃とあるも、みむろの山のとよむべき也。しかよむ時は、本書も、或本も、訓は同じきを、集中の例、訓の異なるをば、あぐれど、文字のみ異なるをばあげぬ例なるをと、疑ふ人もあるべけれど、古注の文は、眞淵もいはれつるがごとく、とるにたらざる事多く、誤りいと多きものなれに《(マヽ)》て、こゝも、本書の將見圓山とあるをば、舊訓と同じく、みんまと山とよみて、三室戸山とあるをば、訓たがへりと心得て、或本歌とてあげし也。また、考の説に、七卷なる三諸戸山を、備中國ならんといはれつるも、たがへり。この事はその所【攷證七中】にいふべし。
 
内大臣藤原卿。娶《メトリシ》2采女安見兒1時。作歌。一首。
 
娶。
娶は、めとるとよむべし。玉篇に、娶取v婦也とありて、女を取る義也。めとるとは、嫡妻を入るにのみかぎらず、妾を入るゝにもいへり。藤氏系圖を考ふる、鎌足公の男、不比等《フヒト》公の母は、車持國子君之女、與志古娘とあり。この采女安見兒と、いづれか嫡妻なりけん。
 
(25)采女《うねべ》。
うねべとよむべし。和名抄郷名に、伊勢國三重郡采女【宇禰倍】とあるがごとし。宣長云、常にうねめと唱ふるは、べを音便にしかいふ也。公卿《カンタチベ》を、かんたちめと唱ふるたぐひなり云々といはれつるがごとし。采女は、書紀孝徳天皇二年紀に、凡采女者、貢2郡少領以《(マヽ)》姉妹及子女、形容端正者1、【從丁一人從女二人】以2一百戸1、宛2采女一人粮1云々。後宮職員令、其貢2采女1者、郡少領以上、姉妹及子女、形容端正者、皆申2中務省1奏聞云々とありて、諸國より貢《タテマツ》れる事、續日本紀云、大寶二年夏四月、壬子、令d2筑紫七國及越後國1、簡2點采女兵衛1貢uv之云々。天平十四年五月、庚午、制云々。又采女者、自v今以後、毎v郡一人貢進之云々などありて、猶代々の史に見えたり。古事記に、三重※[女+采]《ミヘノウネヘ》、集中に豐島(ノ)采女、駿河采女、因幡八上采女、吉備津采女などあるも、皆その本國の地名をよべる也。また采女は、專ら陪膳の《(マヽ)》つかさとれる官也。この事は、下【攷證十六丁上】安積山影副所見《アサカヤマカケサヘミユル》の歌の下にいふべし。さて、この采女の事は、古事記(傳脱カ)卷四十二にくはし。
 
安見兒。
父祖不v可v考。○書紀舒明天皇八年紀に、三月、悉劾d※[(女/女)+干]2釆女1者u皆罪云々とありて、釆女ををかす事は、重き罪なれば、こゝにいへる安見兒は、前の釆女なりしか。又は公にはれて娶りしにもあるべし。
 
95 吾者毛也《ワレハモヤ》。安見兒得有《ヤスミコエタリ》。皆人乃《ミナヒトノ》。得難爾《エガテニ》爲云《ストフ・ストイフ》。安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》。
 
吾者毛也《ワレハモヤ》。
毛也《モヤ》は、助辭にて、意なし。籠毛與《タカマ《(マヽ)》モヨ》の、もよと同じ。やとよと音かよへり。古事記下卷に、意岐米母夜阿布美能淤岐米《オキメモヤアフミノオキメ》云々とあるもやを、書紀には於岐毎慕與《オキメモヨ》云(26)云とあるにても、もや、もよ同語なるをしるべL。書紀皇極紀に、伊弊母始羅孺母也《イヘモシラスモヤ》云々とあるも同じ。
 
安見兒得有《ヤスミコエタリ》。
釆女安見兒を、娶《メト》り得たりと也。古事記中卷に、伊豆志袁登賣(ノ)神坐也、故八十神雖v欲v得2是伊豆志袁登賣1、皆不v得v婚云々とある、得《ウル》と同じく、女をわがものになし得《ウル》をいへるなり。
 
得難爾《エガテニ》爲云《ストフ・ストイフ》。
がては、まへにいへるがごとく、難《カタ》き意にて、皆人ごとに得がたくすなる安見兒を、われこそ娶りえたれと也。がては、本集十一【廿一丁】に、名疑《・(マヽ)》衣今宿不膀爲《ナコリソイマモイネカテニスル》云々などありて、集中猶多し。云《トフ》は、舊訓といふとあれど、とふとよむべし。といふの意にて、いを略ける也。この事は、上【攷證一下四丁】にいへり。
 
久米禅師。娉2石川郎女1時歌。五首。
 
久米禅師。
父祖不v可v考。考云、久米は氏、禅師は名也。下の三方(ノ)沙彌も、これに同じ。すべて、氏の下にあるは、いかに異なるも、名としるべし。紀には、阿彌陀、釋迦などいふ名もありしを、禁《トヾ》め給ひし事見ゆ云々といはれつるがごとく、俗にて僧にあらず。されど禅師てふ字は、佛語なり。釋氏要覽卷上に、善住意天子所問經を引て、天子問2文殊1曰、何等比丘、得v名2禮師1、文殊曰、於2一切法1、一行思2量所v謂不生1、若如v此、知得v名2禅師1云々と見えたり。久米氏は、書紀に、來目物部、來目舍人造など見えたり。新撰姓氏録卷(以下空白)
 
(27)娉。
娉はつまどふと訓べし。この事は、下【攷證三中八十八丁】にいふべし。
 
石川(ノ)郎女。
石川氏は、書紀に、石川臣、石川朝臣など見えたり。新撰姓氏録、卷 父祖不v可v考。此卷下【十三丁】に、大津皇子、贈2石川郎女1御歌云々。また、日並知皇子尊、贈2石川女郎1御歌【女郎字曰大名兒】云々。また【十六丁】に、石川女郎、贈2大仲宿禰田主1歌云々。二十【五十七丁】左注に、藤原宿奈麿朝臣之妻、石川女郎云々などあり。いづれも別人なるべし。郎女は、考に郎女をいらつめといふ事は、紀に【景行】郎姫、此云2異羅菟※[口+羊]《イラツメ》1。また續紀に【廢帝】、藤原伊良豆賣ともあり云云いはれつるがごとし。郎女の字は、古事記中卷より見え、書紀天智紀に、道君伊羅都賣と見えたり。この下の歌五首を考ふるに、石川郎女が報《コタフ》る歌、又久米禅師が更贈歌もありて、本はそれぞれに端辭の有つらんが、落失たるなるべし。その落失たらんと思ふ文字は、その所々にいへり。下の三方沙彌が歌も、これに同じ。
 
五首。
これ、もとは一首ありつらんを、それ/”\の端辭の落失し後に、後人の五首とはしるしゝならん。
 
96 水《ミ》薦《スヾ・クサ》苅《カル》。信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》。吾引者《ワカヒカハ》。宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》。不言常將言可聞《イナトトイハムカモ》。 禅師。
 
水《ミ》薦《スヾ・クサ》苅《カル》。
枕詞にて、冠辭考に見えたれど、その説誤れり。考には、冠辭考にも、薦は篶の誤りとて、改められしは、例の古書を改るの僻なり。さて、水薦の水《ミ》は、借字にて、(28)眞《ミ》なる事、次の歌に三薦《ミスゞ》とかけるにてもしるべし。薦は、書紀神代紀上、一書に、五百箇野薦八十玉籤《イホツヌスヾヤソタマクシ》云々と見ゆ。韻會に、、薦(ハ)草之深厚者云々とありて、何となく草の生《オヒ》しげりたるを、いへる也。後世の歌に、すゞふく風、すゞわけて、すゞのしのやなどよめるも、もとはたゞ草の事なれど、後には一つの草の名となれる事、薄を、後には一つの草の名とするがごとし。薄は、和名抄草類に、爾雅云草聚生曰v薄【新撰萬葉集和歌云花薄波奈須々木、今案即厚薄之薄字也、見2玉篇1】辨色立成云、※[草冠/千]【和名上同今案※[草冠/千]音千草盛也見2唐韻1】云々と見えて、古事記下卷に、蚊屋野多在2猪鹿1、其立足者、如2荻原《ススキハラ》1、指擧角者如2枯樹《カラキ》1云々と、枯樹にむかへいへるにても、すゝきは古くは一つの名にはあらざりしをしるべし。後のものなれど、赤染街門集に、なでしこのすゝきになりたる見て云々とあるをも見よ。さて草のしげれるを、すゞといふも、すゝきといふも、かよひきこえたり。舊訓に、みくさとよめるもあしからねど、書紀に野薦《ヌスヽ》とよめるを見れば、こゝもみすゞとよめる方まされり。この枕詞は、みすゞ苅野とつゞけたるのみなり。
 
信《シナ》濃《ヌ・ノ》乃眞弓《ノマユミ》。
信濃は、古事記、書紀等に、科野《シナヌ》ともかけり。眞弓《マユミ》の眞は、例の物をほむる詞にて、たゞ弓なり。これを、檀《マユミ》の木もて作れる弓なれば、眞弓《マユミ》といへりと思ふは、非也。檀《マユミ》の木を、まゆみといへるも、弓に作る良材なる故に、名にはおへる所なり。古事記の中卷に、阿豆佐由美麻由美《アツサユミマユミ》云々とあるは、檀の木の事なれど、あづさゆみまゆみとつゞく
 
れば、眞弓をかねたり。本集七【卅二丁】に、陸奧之吾田多良眞弓《ミチノクノアタタラマユミ》云々。十【十六丁】に、白檀弓今春山爾《シラマユミイマハルヤマニ》云云。神樂弓歌に、安川佐由美萬由美川支由美志奈毛々止女須《アツサユミマユミツキユミシナモヽトメス》云々など見ゆ。さて、信濃國より、弓を奉りし事、續日本紀に、大寶二年三月、甲午、信濃國献2梓弓一千二張1、以充2大宰府1云々と見えて、又慶雲元年三月の紀にも見えたり。されば、信濃は、弓に名ある國なれば、しなぬの眞(29)弓とはいへり。
 
宇眞人佐備而《ウマビトサヒテ》。
宇眞人は、書紀神功紀に、宇摩比等破宇摩譬苔奴知《ウマヒトハウマヒトヾチ》、野伊徒姑幡茂伊徒姑奴池《ヤイツコハモイツコドチ》云々。仁徳紀に、于摩臂苔能多菟屡虚等太※[氏/一]《ウマヒトノタツルコトタテ》云々。本集五【廿丁】に、美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》云々などありて、書紀に、君子、※[手偏+晉]紳、良家子などを、うま人の子とよめり。皆貴人といふ事也。神名に、宇摩志阿斯※[立心偏+可]備比古遲《ウマシアシカビヒコヂノ》神とあるも、人名に宇摩志麻遲《ウマシマヂ》命、味師《ウマシ》内宿禰などあるも、また可怜小汀《ウマシヲバマ》、可怜御路《ウマシミチ》、可怜國《ウマシクニ》などあるうましも、みなほむる詞にて、うま人のうまと同語也。佐備《サビ》は、をとめさび、翁さびなどいふ、さびと同じく、俗語に、ぶりといふにあたりて、こゝのうま人さびては、うま人ぶりて也。又おとなび、みやこび、ひなびなどいふ、びも、このさびの、さを略けるにて、何ぶり、何めくなどいふ意なり。
 
不言常將言可聞《イナトトイハムカモ》。
いなは、諸書に、辭の字をよめる意にて、諾《ウベ》なはざる事なれば、不言の字の義をとりて、いなとよめる義訓也。集中、不聽、不許、不欲などの字をも、いなとよめるにてしるべし。さて一首の意は、みすゞかる信濃の眞弓といふまでは、わが引ばといはん序にて、わが石川の郎女を、引こゝろみば、わが身のいやしさに、郎女|貴《ウマ》人めかして、いなといはんか、いなといはましと也。かもの、もは助字なり。
 
禅師。
この二字、印本大字なれど、元暦本によりて小字とす。まへにもいへるがごとく、この贈答の歌も、下の三方沙彌が歌も、それ/”\に、端辭のもとはありつらんが、いつの世(30)にか、落失しを、さてはいづれ禅師の歌、いづれ郎女の歌とも、わからざれば、後人の注して、禅師、郎女など、それ/”\にしるせるなり。
 
石川郎女報贈歌。二首。〔八字□で囲む〕
 
まへにもいへるがごとく、こゝに端辭のありしが落失し事、明らかにて、かく有べき例なれば、かりに文字を補へるなり。考には、石川郎女和歌と補はれつるも、さる事ながら、上下のつゞきを考ふるに、報贈歌とあるべし。
 
97 三薦苅《ミスヾカル》。信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》。不引爲而《ヒカズシテ》。弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》。知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。 郎女。
 
三薦苅。
この三の字も、假字にて、眞の意なり。
 
弦作留《ヲハクル・シヒサル》行事乎《ワザヲ》。
印本、弦を強に誤りて、しひさるわざをとよめり。代匠記に、強は弦の字の誤りなり。と見えたり。作留は、はぐるとよむべし。日本紀に、矢作部といふ時、はぐとよめばなり云々といへるによりて改む。延喜神名式に、河内國若江郡|矢作《ヤハキ》神社云云。新撰姓氏録卷 に、矢作《ヤハキノ》連云々なども見えたり。又この次の歌に、梓弓都良絃取波氣《アヅサユミツラヲトリハゲ》云々。七【卅二丁】に、陸奧之吾田多良眞弓著絲而《ミチノクノアタタラマユミツルハケテ》云々。十四【十六丁】に、都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》云々。十六【卅一丁】に、牛爾己曾鼻繩波久例《ウシニコソハナナハハクレ》云々ともありて、弓に弦を張《ハル》を、はぐといへり。七に著の字をはぐとよめる意なり。考に、矢作《ヤハク》てふは、造るごとくなれど、こゝは左に、都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》といふ、即これにて、弓弦を懸るをはぐるといふ也云々といはれつるがごとく、もとは矢を作る事なれど、それに、作(31)の字をはぐとよめるによりて、こゝにて字を借て、作留《ハクル》とはかける也。また、いと後のものなれど、宇治拾遺卷一に、矢をはげていんとて云々、十二に、とがり矢をはげて云々などあるも、弦をはぐといふはぐに同じ。
 
知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。
考に、弓を引ぬ人にて、弦かくるわざをばしりつといふ事はなし。其如く、われをいざなふわざもせで、そらに、わがいなといはんをば、はかりしり給ふべからずといふ也云云といはれつるがごとし。
 
98 梓弓《アヅサユミ》。引者隨意《ヒカハマニ/\》。依目友《ヨラメドモ》。後心乎《ノチノココロヲ》。知勝奴鴨《シリガテヌカモ》。 郎女
 
梓弓《アヅサユミ》。
梓の《アヅサ》木をもて作るをいふ。古へ、弓に多くこの木を用ひしかば、何の木と、たゞの弓にも、常に梓弓といひなれたる事とおぼし。くはしくは、上【攷證一上七丁】にいへり。
 
引者隨意《ヒカハマニ/\》。
ひくにしたがひて也。隨意の字を、まに/\とよめるは、義訓也。本集三【卅五丁】に大王任乃隨意《オホキミノマケノマニ/\》云々。また十一に、任意《マニ/\》の字をもよみ、書紀神代紀に、須、隨、尋、依などの字をもよめり。さて、このまに/\を略して、まにまとも、たゞ、まにとのみもいへり。これらの事は、下【攷證 】にいふべし。引《ヒク》とは、心をさそひ引見る事をいへり。この事は、下【攷證三中九十五丁】にいふべし。
 
(32)依目友《ヨラメドモ》。
君が、われを引たまらば、君が意にしたがひて、たび《(マヽ)》きもしつべしといふを、弓の縁語にとりなしていへり。古今集戀に、春道つらき、梓弓ひけばもとすゑわが方によるこそまされ戀のこゝろは云々などあるもおなじ。
 
後心乎《ノチノココロヲ》。知勝奴鴨《シリカテヌカモ》。
君が引にしたがひて、なびきもしつべけれど、後の心のしりがたしと也。がてぬてふ詞は、此卷【卅丁】に、太寸御門乎入不勝鴨《タキノミカトヲイリガテヌカモ》云々。五【廿七丁】に、須疑加與奴可《スギガテヌカモ》、意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》云々。七【十丁】に、去不勝可聞《ユキカテヌカモ》云々。また【十七丁】過不勝鳧《スキカテヌカモ》云々。また【卅二丁】。出不勝鴨《イテカテヌカモ》云々などありで、みな奴《ヌ》もじに心なく、難き意也。略解に、かで《(マヽ)》といふも、かてぬといふも、古へ、同じ詞にて、またなくといひて、またんにといふ意になるがごとし云々といへるがごとし。
 
久米禅師更贈歌。二首。〔九字□で囲む〕
 
まへにいへるがごとく、こゝにもかくあるべき所なれば、かりに補へり。考には、久米禅師重贈歌とせられしかどあたらず。
 
99 梓弓《アツサユミ》。都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》。引人者《ヒクヒトハ》。後心乎《ノチノココロヲ》。知人曾引《シルヒトゾヒク》。 禅師
 
都良絃取波氣《ツラヲトリハゲ》。
本集十四【十六丁】に、美知乃久能安太多良末由美《ミチノクノアタタラマユミ》、波自伎於伎※[氏/一]《ハジキオキテ》、西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》、都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》云々ともありて、弦をつらといへるは、らとるとかよへば也。さねかづら、いはひづら、たはみづらなどいへるも、つらも蔓《ツル》にて、らをるに通はしたる也。小大君集に、あり所こまかにいかにしらうりのつらをたづねて、われならさなん云々と(33)あるも、蔓也。絃は、すなはち弦にて、弦の緒といへる也。取波氣《トリハゲ》は、まへに弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》とあると同じく、弓に弦を懸るないへり。
 
引人者《ヒクヒトハ》。
禅師自らを、引人によそへていへり。
 
後心乎《ノチノココロヲ》。知人曾引《シルヒトゾヒク》。
君は、後の心のしりがたしとはいへど、禅師、わか《(マヽ)》かでにわが後の心をよくしればこそ、君をば引見れとなり。
 
100 東人之《アツマトノ》。荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノサキノハコノ》。荷之緒爾毛《ニノヲニモ》。妹情爾《イモガココロニ》。乘爾家留香聞《ノリニケルカモ》。 禅師
 
東人之《アツマトノ》。
書紀景行天皇四十年紀に、日本式尊、毎有d顧2弟橘媛1之情u、故登2碓日嶺1、而東南望之・三歎曰、吾嬬者耶《アカツマハヤ》【嬬此云2菟摩1】故因號2山東諸國1、曰2吾嬬國1也云々とありて、東國をすべて、あづまとはいふ也。されば、義訓して、東の一字をも、あづまとはよめり。神代紀下に、東國の字をも、あづまとはよめり。人を、どとよめるは、ひとの略なり。天文本和名抄人倫部に、文選云〓眩邊鄙【師説邊鄙安豆末豆〓眩阿佐无岐加々夜加須】世説注云、東野之鄙語也【今案俗用東人二字其義近矣】云々とある。あづまづは、ととつと通へば、あづまどの轉れる也。西國は、貢物を船にて送り奉り、東國は船のかよはぬ所も多かれば、馬にて送り奉る也。されば荷向《ノサキ》のはこの荷の緒といはんとて、言わきて東人《アツマト》のとはいへる也。
 
向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノサキノハコノ》。
考別記云、東の國々より、今年なせる※[糸+旨]布を先として、木綿、麻、山海の物までも、始めに公へ御調奉るを、荷前といふ。さて、そを陸路より奉るには、※[しんにょう+(竹/夾)]に納め、(34)緒もて馬につくる故に、祈年祭祝詞にも、荷前《ノサキハ》者云々、自v陸往道《クガユユクミチハ》者、荷緒縛竪弖《ニノヲユヒカタメテ》といへり。且、ここには、荷向《ノサキ》と書しかど、右の祝詞、其外にも、荷前《ノサキ》とあるを正しとす。前《サキ》ははじめの意にて、新稻に、初穗といふにひとしければ也。荷を、乃と唱ふるは、紀に【神功】、肥前國の荷持田村を、荷持此云2能登利《ノトリ》1てふ類也云々といはれつるがごとく、諸國よりはじめて奉れる貢物を、荷前とはいふ也。それを、神にも、諸陵墓にも、奉らしめ給ふ也。これ、荷前《ノサキノ》使といふ。止由氣宮儀式帳九月例に、以2十三日1、多氣郡度會郡二神郡、國々所々神戸人夫、常所v進御調荷前進奉云々。職員令義解に、十二月奉2荷前幣1云々。續日本紀卷九に、歳竟分綵曰2荷前1云々。又卷十に、自2去年1以往兩年間荷前 乃 使、輙 久 陵戸人 爾 付奉v遣 【志與理】云々。清和天皇實録に、天安二年十二月九日丙申、詔定2十陵四墓1、献2年終荷前之幣1云々。十五日壬寅、分2遣公卿已下侍從已上於諸山陵墓1、献2荷前幣1云々。江次第裏書に、謂荷前者、四方國進2御調|荷前《ハツホ》1取奉、故曰2荷前1云々などあるにて、事明らけし。其儀式は、西宮記、北山抄等にくはしく見えたり。さて、諸書みな荷前と書るを、この集にのみ荷向とかけり。向は、字鏡集に、さきと訓ぜり。篋、印本※[しんにょう+(竹/夾)]に誤れり。今元暦本によりで改む。篋は、玉篇に笥也、箱也云々とあり。
 
荷之緒爾毛《ニノヲニモ》。
荷の緒は、結ふ緒也。さて、それを給付るになして、情《コヽロ》にのるとはいへり。これ縁語なり。荷の緒|爾毛《ニモ》のにも、の如くにもの略にて、如く意こもれる事、上一【攷證一下七十一丁】に、栲乃穗爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》云々とある、爾《ニ》もじに同じ。緒、印本結に誤る。今、仙覺抄、拾穗抄等によりてあらたむ。
 
(35)妹情爾《イモガコヽロニ》。乘爾家留香問《ノリニケルカモ》。
妹が事の、常にわが心にかゝる也。それを、貢物を入たる荷前の篋を、馬に結ひ乘たる緒のごとくにとたとへたり。さて、この四の句を、考には、いもはこゝろにと、訓直されしかど、宣長が、妹はこゝろにとよむはわろし。はもじおだやかならず。本のまゝに、妹がと訓べし。我心に、殊が乘る也。かならずがといふべき語の例也云々といはれしにしたがふべし。さて、心にのるといへる語は、本集四【四十五丁】に、百礒城之大宮人者雖多有《モモシキノオホミヤヒトハオホカレト》、情爾乘而所念妹《ココロニノリテオモホユルイモ》云々。七【四十丁】に船乘爾乘西意《フネノリニノリニシコヽロ》、常不所忘《ツネワスラエス》云々。十【十三丁】に、春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレハシタリヤナキノトヲヲニモイモガココロニノリニケルカモ》云々。十二に、是川瀬々敷浪布々妹心乘在鴨《コノカハノセヽノシキナミシク/\ニイモカココロニノリニケルカモ》云云などありて、猶多し。また、後撰集秋下に、藤原忠房朝臣、秋ぎりの立野のこまを引時は、心にのりて君ぞこひしき云々。同離別に、伊勢、おくれずぞ心にのりて、こがるべき、浪にもとめよ、舟見えずとも云々なども見えたり。この歌を、考には、妹に贈る意に|なら《(マヽ)》ず、禅師がひとり思ふ歌なれば、別に端詞のありしが落たるにやといはれしかど、かゝる贈答に、つきなき歌、集中にも多し。これ古歌の常なり。
 
大伴宿禰。娉2巨勢郎女1時歌。一首。
 
大伴宿禰。
元暦本に、大伴宿禰、諱曰2安麿1也、難波朝右大臣長徳卿之第六子、半城朝任2大納言兼大將軍1薨也云々とあり。集中の例、いとみだりがはしく、定れる事もあらねど、一二の卷は、公卿をば、諱をかゝざる例なれば、さだかにはしりがたけれど、元暦本に、安麿卿と注したるに、しばらくよるべし。考には、これかれを論じて、大伴御行卿と定められし(36)も、さる事ながら、安麿卿としても、時代たがへるにあらず。さて、安麿卿は、和銅七年五月朔日、薨じられぬ。その年齡はしりがたけれど、七十までも、生《イキ》給ひたらましかば、大津宮の御時は、二十より三十までのあひだなるべし。この卿の事は、書紀天武天皇元年紀に、遣2大伴連安麻呂等於不破宮1、令v奏2事状1、天皇大喜之云々。十三年紀に、小錦中大伴連安麿云々。朱鳥元年紀に、直廣參大伴宿禰安麿云々。續日本紀に、大寶元年三月甲午、授2直大壹大伴宿禰安麿從三位1云々。二年正月乙酉、以2從三位大伴宿禰安麿1、爲2式部卿1云々。五月丁亥、勅2從三位大伴宿禰安麿1、令v參2議朝政1云々。六月庚申、爲2兵部1卿云々。慶雲二年八月戊午、爲2中納言1云々。十一月甲辰、爲2兼太宰帥1云々。和銅元年三月丙午、爲2大納言1云々。七年五月丁亥朔、大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麿薨、帝深悼之、詔贈2從二位1、安磨難波朝右大臣大紫長徳之第六子也云々と見えたり。大伴氏は、新撰姓氏録卷十一云、大伴宿禰、高皇産靈尊五世孫、天押日命之後也云々とあり。姓は、はじめ連にて、書紀に連とも書たれど、天武天皇十三年紀に、大伴連云々、五十氏、賜v姓曰2宿禰1云々とありて、これより宿禰とはせられたり。
 
巨勢《コセノ》郎女。
元暦本に、即近江朝大納言、巨勢人卿之女也云々とあり。しばらく、これによるべし。巨勢は姓、人は名也。書紀に、巨勢人臣、また巨勢臣|比等《ヒト》などもかけり。さて、この卿の事は、書紀天智天皇十年紀に、正月癸卯、以2巨勢人臣1、爲2御史大夫1云々。天武天皇元年紀に、巨勢臣、及子孫云々配流云々と見えたり。巨勢氏は、新撰姓氏録卷四に、巨勢朝臣、石川同氏、巨勢雄柄宿禰之後也云々。書紀天武天皇十三年紀に、巨勢臣云云、五十二氏賜v姓曰2朝臣1云々と見えたり、郎女の事は上にいへり。
 
(37)101 玉葛《タマカツラ》。實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》。千磐破《チハヤブル》。神曾著常云《カミゾツクトフ》。不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》。
 
玉葛《タマカツラ》。
冠辭考に、玉とは、實なる物なればいふといはれしはたがへり。代匠記に、玉かづらとは、惣じてかづらのたぐひをほめていふ詞也といへるごとく、玉は美稱のことばなり。
 
實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》。
考に、葛《カツラ》は子《ミ》のなるもの故に、次の言をいはん爲に冠らせしのみ也。且|子《ミ》のなるてふまでにいひかけて、不成《ナラヌ》の不《ヌ》まではかけぬたぐひ、集に多し云云といはれつるは、たがへり。一言二言へいひかけて、下へつゞくる事、集中いと多かれど、ことにこそよれ。こゝは、葛は、實の不成《ナラヌ》ものに云なして、そのかづらのごとく、實不成木《ミナラヌキ》にはといひつゞけし事、次の報歌に、玉かづら花のみさきてならざるはと、よめるにても明らかなるをや。さて、葛《カツラ》は、蔓《ツル》ある草を惣べいふ名なれば、蔓草の中にも、實のなるも、ならざるもあるべければ、考の説のごとく、必らず實のなるものとのみも、定めがたきをや。本集八【十九丁】に、實爾不成吾宅之梅乎《ミニナラヌワキヘノウメヲ》云々ともよめり。梅は、必らず實のなるものなるを、それすら實不成《ミナラヌ》ものにいひなしたり。これらにて、考の説のたがへるをしるべし。さて、實ならぬ木にはといへるは、戀のなるならざるを、草木の實の、なるならざるにいひよせたり。このたぐひ多し。本集三【四十一丁】に、妹家爾開有花之梅花《イモカヘニサキタルハナノウメノハナ》、實之成名者左右將爲《ミニシナリナハカモカカクモセム》云々。四【廿六丁】に、山管《ヤマスケノ》(菅?)乃實不成事乎《ミナラヌコトヲ》、吾爾所依言禮師君者《ワレニヨリイハレシキミハ》、與孰可宿良牟《タレトカヌラム》云々。七【五十六丁】に、吾妹子之屋前之秋芽子《ワキモコカニハノアキハキ》、自花者實成而許曾戀益家禮《ハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》云々。集中、猶いと多し。古今集、大歌所に、をふのうらにかたえさしおほひなる梨のなりもならずもねてかたらはん云々などあるにても、戀のなりならぬに、實のなりならぬをいひよせたるをしる(38)べし。
 
千磐破《チハヤブル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。いちはやぶる神てふを、語をはぶきてつゞけしなり。
 
神曾著《カミソツク》常云《トフ・トイフ》。
實の成べき木に、實のならざるをも、女の年たくるまで、男をももたで、やもめなるをも、神の領し給ふといふ諺の、古へありしなるべし。その二つを、ここにいひよせたる也。大物主の神の、丹塗矢《ニヌリヤ》になりて、勢夜陀多良比賣《セヤダタラヒメ》のもとにおはし、また活玉依比賣《イクタマヨリヒメ》が、三輪の神の故事など、このたぐひなるべし。神曾著《カミソツク》といふ、つくは身に物の付といふ、つくに同じ。本集十四【廿七丁】に、多可伎禰爾久毛能都久能須《タカキネニクモノツクノス》、和禮左倍爾伎美爾都吉奈那《ワレサヘニキミニツキナヽ》、多可禰等毛比底《タカネトモヒテ》云々。また十九【卅丁】に、意伊まめ久安我未《オイツクアカミ》云々とあるも、老付吾身なり。神の付、狐の付など、いまもいふ事也。太平記卷二十九に、臆病神の付たるほど、見ぐるしきはなし云々なども見えたり。
 
不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》。
實のならぬ木ごとに也。實の成ぬ木を、郎女にたとへたり。
 
巨勢郎女。報贈歌。一首。
 
102 玉葛《タマカツラ》。花耳開而《ハナノミサキテ》。不成有《ナラサル・ナラスアル》者《ハ》。誰戀《タカコヒ》爾有目《ナラメ・ニアラメ》。吾孤悲《ワハコヒ》念《モフ・オモフ》乎《ヲ》。
 
(39)玉葛《タマカツラ》。
印本、葛を萬に誤れり。今意改。
 
花耳開而《ハナノミサキテ》。不成有《ナラザル・ナラスアル》者《ハ》。
右の歌に、實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》といはれしをうけて、花のみさきて、實のならぬてふ、その木はといへる也。ここにかくあるにても、まへにいへるがごとく、玉葛を、實のならぬやうにとりなしいへるをしるべし。
 
誰戀《タカコヒ》爾有目《ナラメ・ニアラメ》。吾《ワハ・ワカ》孤悲《コヒ》念《モフ・オモフ》乎《ヲ》。
この二句、舊訓誤れり。今考の訓にしたがふ。右の歌に、實不成木《ミナラヌキ》とのたまふは、誰《タガ》うへの戀ならん、われはかく君をこひしと思ふにと也。爾有目の三字は、ならめとよむべし。にあの反、ななれば也。この事は、下【攷證三中十六丁】にいふべし。さて、たがといひて、ならめと結べるは、てにをはたがへるに似たれど、本集三【四十一丁】に、不所見十方孰不鯉有米《ミエストモタレコヒサヲメ》云々。四【四十丁】に、奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》云々などありで、集中いと多し。これ、集中一つの格也。吾をわとのみよむ事は、上【攷證一上三丁】にいへり。
 
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟名原瀛眞人天皇。
 
天皇、御謚を天武と申す。この天皇の御事も、この大宮の事も、上【攷證一上卅七丁】にいへり。印本、渟を停に誤れり。上文と、書紀によりてあらたむ。
 
天皇。贈2藤原夫人1御製歌。一首。
 
(40)藤原夫人。
書紀天武天皇二年紀に、夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟、五百重娘、生2新田部皇子1云々とありて、二夫人ながら、鎌足公の女にて、姉妹なり。ここに、藤原夫人とあるは、この姉妹のうち、何れならん。さだめがたけれど、左の御製に、大原乃古爾之郷《オホラノフリニシサト》とよみ給ひて、本集八【廿二丁】に、藤原夫人とあ 古注に、字曰2大原大刀自1、即新田部皇子之母也云々とあれば、ここなる藤原夫人は、五百重(ノ)娘の御事なるべし。しか分る時は、二十【五十四丁】に、藤原夫人とあるは、古注に字曰2氷上大刀自1也云々とありて、氷上(ノ)娘なるべし。さて夫人といへることは、禮記曲禮下に、天子有v后、有2夫人1云々。疏に、有夫人者夫扶也、言扶2持於王1也云々。後宮職員令に、妃二員、右四品以上、夫人三員【保己一校本この間に右三位以上の五字あるは非也今集解によりてはぶけり。】嬪四員、右五位以上云々。集解に、漢書を引て、天子妾稱2夫人1云々と見えて、妃よりも下なるを、宣長が詔詞解に、きさきとよまれしは誤也。書紀反正紀に、皇夫人また夫人をもきさきとよめるも誤り也。【この事は別に考へあり。】尤、續日本紀に、神龜六年八月戊辰、詔立2正三位藤原夫人1、爲2皇后1云々とあり。こは光明皇后の御事にて、后に立給はぬほどなれば、夫人とはいへる也。かつ夫人を、考別記には、みやす所とよまれしかど、これもいかゞ。ただ字音のまゝによむべき也。猶考別記の説をも考へ合すべし。
 
御製歌。
印本、製の字なし。今集中の例によりて補ふ。
 
103 吾里爾《ワカサトニ》。大雪落有《オホユキフレリ》。大原乃《オホハラノ》。古爾之郷爾《フリシニサトニ》。落卷者後《フラマクハノチ》。
 
(41)天皇、すみ給へる飛鳥清御原宮のほとりをのたまふなり。
 
大雪落有《オホユキフレリ》。
此卷【卅四丁】に、大雪乃亂而來禮《オホコキノミタレテグレ》云々。十九【四十七丁】に、布禮留大雪《フレルオホユキ》云々など見えたり。今もいへるごとく、いたくふれる也。
 
大原乃《オホハラノ》。古爾之郷爾《フリシニサトニ》。
考に、大原は、續日本紀に、紀伊へ幸の路をしるせしに、泊瀬と小治田の間に、大原といふあり。今も、飛鳥の西北の方に、大原てふ所ありて、鎌足公の生給へる所とて、杜あり。これ、大方右の紀にかなへり。ここを、本居にて、夫人の下りて、居給ふ時の事なるべし云々といはれしがごとし。本集十一【廿一丁】に、大原《オホハラノ》、古郷妹置《フリニサトニイモヲオキテ》云々。四【十七丁】に、大原之此市柴乃《オホハラノコノイチシバノ》云々など見えたり。
 
落卷者後《フラマクハノチ》。
ふらんは後也。天皇、わがすみ給ふ里には、いたく雪ふれり。君がすめる大原の古郷に、ふらんは、この後ならんと也。まくといふ語、んといふを、のべたる言にて、まくの反、むなれば、見まくは、見ん、きかまくは、きかん、ちらまくは、ちらんの意也。宣長が、まくは、むといふと同意にて、ましと一つ詞なるを、下に語をつゞけんとて、まくとはたらかしいふ也。べしなども、下へつゞく時は、べくといふと、同格也云々といはれつるがごとし。
 
藤原夫人。奉v和歌。一首。
 
(42)104 吾崗之《ワガヲカノ》。於可美爾言而《オカミニイヒテ》。令落《フラセタル》。雪之摧之《ユキノクダケシ》。彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
 
於可美爾言而《オカミニイヒテ》。
於可美《オカミ》は、古事記上卷に、次集2御刀之手上1血、自2手俣1漏出、所v成神、名|闇於加美《クラオカミノ》云々とある、これにて、書紀神代紀上一書に、伊弉諾尊、拔v釼斬2軻遇突智《カグツチ》1、爲2三段1、其一段是爲2高※[靈の巫が龍]《タカオカミニ》1、【此云2於箇美1音力丁反】云々。仙覺抄に、豐後風土記を引て、有2地※[靈の巫が龍]1、謂2於箇美《オカミ》1云々と見えたり。※[靈の巫が龍]は、玉篇に※[靈の巫が龍]【力丁切龍也又作v靈神也】※[靈の巫が龍]【同上】とありて、龍をおかみといへる也。さて、おかみは、龍にて、龍は水をつかさどるものなれば、雨をも、雪をも、ふらすめり。されば、わが岡にすめる※[靈の巫が龍]《オカミ》にいひつけて、雪をふらせしと也。龍の水をつかさどれる事は、水經注卷云、交州丹淵、有2神龍1、毎v旱邨人以2繭草1、置2淵上1、流魚則多死、龍當時大雨云々。後魏書云、波知國有2三池1、傳云、大池有2龍王1、次者龍婦、又次者龍子、行人設v祭乃得v過、不v祭多遇2風雨1云々など見えて、この外、諸書にいと多かれど、あぐるにいとまなし。
 
雪之摧之《ユキノクダケシ》。
之《シ》は過去のしにて、しがといふ意に心得べし。
 
彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
わがすめる岡にゐる※[靈の巫が龍]《オカミ》にいひつけて、ふらしめたる、雪の摧《クダ》けしが、そこの御里にはふりけんと也。右の御製に、大原のふりにしさとに、後《ノチ》にふらんとのたまへるに、たはぶれこたへ奉れるにて、はやくわがすめる里には、雪のふれりしが、その雪のくだけしが、君があたりにやふりけんといへる意也。塵《チリ》は借字にて散なり。
 
(43)藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇。
 
天皇、御謚を持統と申す。この天皇の御事も、この大宮の事も、上【攷證一上四十三丁】にいへり。印本、高天原廣野姫天皇の八字を、天皇謚曰2持統天皇1の八字とす。今元暦本と、集中の例によりてあらたむ。
 
大津皇子。
書紀天武天皇二年紀に、納2皇后姉大田皇女1爲v妃、生3大來皇女與2大津皇子1云云。持統紀、朱鳥元年紀に、十月己巳、皇子大津、謀反發覺、逮2捕皇子大津1云云。庚午、賜2死皇子大津於譯語田舍1、時年二十四、妃皇女山邊、被髪徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷、皇子大津、天渟中原瀛眞人天皇第三子也、容止墻岸、音辭俊朗、爲2天命開別天皇所1v愛、及v長辨有2才學1、愛2文筆1、詩賦之興、自2大津1始也云々と見えたり。
 
竊下2於伊勢神宮1上來時。
竊は、しのびて也。ひそかに伊勢神宮に下り給ふ也。こは、御姉大伯皇女の、伊勢齋宮におはしませば、その御もとに、くだらせたまふ也。考別記云、天武天皇は、十五年九月九日崩ましぬ。さて、大津皇子、この時皇太子にそむき給ふ事、其十月二日にあらはれて、三日にうしなはれたまへりき。こ(44)の九月九日より、十月二日まで、わづかに二十日ばかりのほどに、大事をおぼし立ながら、伊勢へ下り給ふいとまはあらじ。且大御喪の間といひ、かの事おぼすほどに、石川郎女をめしたまふべくもあらず。仍て思ふに、天皇御病おはすによりて、はやくよりおぼし立ことありて、その七八月のころに、彼大事の御祈、または御姉の齋王に聞えたまはんとて、伊勢へは下り給ひつらん。さらば清御原宮の條に載べきを、其天皇崩ましてより後の事は、本よりにて、崩給はぬ暫まへの事も、崩後にあらはれし故に、持統の御代に入しならん云々といはれつるがごとし。伊勢神宮の事は、上【攷證一上卅七丁】にいへり。
 
大伯《オホクノ》皇女。
又、大來皇女ともかけり。書紀齊明天皇七年紀に、正月甲辰、御船到2于|大伯《オホクノ》海1、時大田姫皇女産v女焉、仍名2是女1、曰2大伯皇女1云々と見えたり。大伯海は、備前國にて、和名抄國郡部に、備前國邑久郡邑久【於保久】とある、これ也。さて、この皇女は、天武天皇の皇女にて、大津皇子の御姉なる事、上、大津皇子の下に引たる、天武天皇紀の文に見ゆるがごとし。同紀に、白鳳二年四月己巳、欲v遺v侍2大來皇女于天照大神宮1而、令v居2泊瀬齋宮1、是先潔v身、稍近2神之所1也云々。三年十月乙酉、大來皇女、自2泊瀬齋宮1、向2伊勢神宮1云々。持統天皇紀に、朱鳥元年十一月壬子、奉2伊勢神祠1皇女大來、還2至京師1云々。續日本紀に、大寶元年十二月乙丑、大伯内親王薨、天武天皇之皇女也云々と見えたり。
 
二首。
この二字、印本なし。集中の例によりて補ふ。
 
(45)105 吾勢枯乎《ワカセコヲ》。倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》。佐夜深而《サヨフケテ》。鷄鳴露爾《アカツキツユニ》。吾立所霑之《ワカタチヌレシ》。
 
吾勢枯乎《ワカセコヲ》。
御弟を親しみ給ひて、わがせことはのたまへる也。古事記に、天照大御神の、須佐能男《スサノヲノ》命をさして、我那勢《アカナセノ》命とのたまへるも、これに同じ。さて、男を、兄《セ》とも、兄子ともいふ事、上【攷證一上三丁】にくはし。
 
佐夜深而《サヨフケテ》。
佐《サ》は、發語にて、たゞ夜ふけて也。集中いと多く、あぐるにいとまなし。書紀仁徳紀歌に、瑳用廼虚烏《サヨドコヲ》云々とあるも、ただ夜床《ヨドコ》なり。
 
鷄鳴《アカツキ・アカトキ》露爾《ツユニ》。
書紀仁徳紀にも、鷄鳴をあかつきとよめり。毛詩鄭風に、女曰鷄鳴、士曰昧旦と見えたり。鷄鳴露《アカトキツユ》は曉がたの露なり。本集八【四十七丁】に、高圓之野邊乃秋芽子《タカマトノヌベノアキハギ》、比日之曉露爾開兼可聞《コノコロノアカトキツユニサキニケムカモ》云々。十【四十四丁】に、比日之曉露丹《コノコロノアカトキツユニ》云々。また【四十七丁】比者之五更露爾《コノコロノアカトキツユニ》云々など見えたり。(島嶼、曉を、あかつきといふは、やゝ後の事也。集中、假字に書る所は、みなあかときとのみあり。新撰字鏡にさへ、※[日+出]旭※[日/各]などを、阿加止支とよめり。明時の意なり。)
 
吾《ワガ・ワレ》立所霑之《タチヌレシ》。
わがせこを、大和へかへしやるとて、夜ふかくおきいでて、たゝずめば、曉がたの露にぬれねと也。舊訓、われたちねれしとあれど、わがとよむべし。たちぬれしの、しは、過去のしにて、わがの、がの結び詞也。わがといへる詞は、われがの略にて、わがのがは、てにをは也。古事記中卷歌に、和賀布多理泥斯《ワカフタリネシ》云々。本集此卷【十三丁】に、我二人宿之《ワカフタリネシ》(46)云々など、あるにても、しは、がの結び詞なるをしるべし。
106 二人行杼《フタリユケト》。去過難寸《ユキスキガタキ》。秋山乎《アキヤマヲ》。如何君之《イカニカキミガ》。獨越武《ヒトリコユラム》。
二人行杼《フタリユケド》。去過難寸《ユキスギガタキ》。秋山乎《アキヤマヲ》。
たとへ、道づれありて、二人してゆくとも、秋は物がなしきをりなるうへに、しかも山路なれば、さびしきを、まして獨こゆらん君をおもひやれりと也。大津皇子、たとへしのびて下らせ給ふなりとも、御身がら、御供も多く侍りけめど、かくのたまふは、歌のつねなり。
獨越武《ヒトリコユラム》。
武の上、らの字ありつらんが、落し也。らの字なきによりてか、考に、ひとりこえなんとよみ直されしかど、叶はず。本集十二【卅九丁】に、見乍可君之山路越良無《ミツツカキミカヤマチコユラム》云々。また獨可君之山道將越《ヒトリカキミカヤマチコユラン》云々などあるにても、こゆらんとよむべきをしるべし。
この二首の御歌、御弟大津皇子の、大事をおぼしたち給ふをりの御別なれば、またの御對面も、おぼつかなく、あはれなる意、おのづからにこもれり。
大津皇子。贈2石川郎女1御歌。一首。
父祖、不v可v考。上に、久米禅師娉2石川郎女1とあると、同人か、別人か、しりがたし。猶その所の攷證、考へ合すべし。
 
(47)107 足日木乃《アシヒキノ》。山之四付二《ヤマノシヅクニ》。妹待跡《イモマツト》。吾立所沾《ワレタチヌレヌ》。山之四附二《ヤマノシツクニ》。
足日木乃《アシヒキノ》。
枕詞也。宣長云、足引城之《アシヒキキノ》なり。足は、山の脚《アシ》、引は長く引はへたるを云。城《キ》は、凡て、一かまへなる所をいひて、此は即山の平らなる所をいふ。その周《メグリ》に、かぎりありて、おのづから一かまへなれば也。引城《ヒキキ》を、ひきといふは、同音の重なる言は、一つはぶきてもいふ例にて、旅人をたびといへる類也。されば、足を引たる城の山といふつゞき也云々といはれしにしたがふべし。猶、予が冠辭考補遺にくはし。
 
山之四附二《ヤマノシヅクニ》。
この句は、四の句の、われたちぬれぬといふへかゝれり。しづくは、雨露などの、木末に《(マヽ)》、草葉にまれ、たまれるをいふ。本集十九【卅一丁】に、足日木之山黄葉爾四頭久相而《アシヒキノヤマノモミチニシツクアヒテ》云々ともよめり。諸書、みな雫の字をかけり。この字、字鏡集に出せれど、訓注をはぶけり。また、龍龕手鑑にも出たれど、字注なし。案に、中國の作字なるべし。
 
吾立所沾《ワレタチヌレヌ》。
ぬるゝに、まへには霑の字、こゝには沾の字をかけり。沾は、正字通に、漬也、濡也、別作v霑と見えたり。一首の意明らけし。
 
石川郎女奉v和歌。一首。
 
108 吾《ア・ワレ》乎待跡《ヲマツト》。君之沾計武《キミカヌレケン》。足日木能《アシヒキノ》。山之四附二《ヤマノシツクニ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》。
 
(48)吾《ア・ワレ》乎待跡《ヲマツト》。
吾は、あとのみよむべし。古事記上卷の歌に、阿波母與賣爾斯阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》云々。本集十二【十九丁】に、吾妹兒哉安乎忘爲莫《ワキモコヤアヲワスラスナ》云々。十四【十九丁】に、安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》云々などありて、猶多し。これらにて、吾はあとのみ|よ《(マヽ)》べきをしるべし。こは、誰《タレ》をたとのみいへる類也。この事は、下【攷證十二下】にいふべし。一首の意は明らけし。頭書、吾を、あとのみも、わとのみもいひし事、集中共にいと多かれば、いづれとも定めがたし。追て可v考。)
 
大津皇子。竊|婚《ミアヒマシヽ》2石川女郎1時。津守連通。占2露《ウラヘアラハシシカバ》其事(ヲ)1。皇子御作歌一首。
 
石川女郎。
父祖不v可v考。まへに石川郎女とあるとは別人なるべし。考別記に、今本に女郎とある、多かれど、そは、皆後世人、なま心得して誤れり。皇朝の古書に、女郎てふ字は見えず。まして、氏の下にしか書べきならぬを、大伴旅人卿の妻、大伴郎女を、卷十三に、大伴女郎とあるは、必らずひがごとなるをもて、惣てをしるべし云々とて、女郎とあるをば、皆郎女と改められしかど、郎女、女郎と、わかちかけるも、故ある事とおもは|れ《(マヽ)》るば、しばらくもとのまゝにておきつ。猶後案をまつのみ。
 
婚。
婚は、書紀にみあひますとよめるにしたがひて、みあひましゝとよむべし。白虎通嫁娶篇に、婚者昏時行v禮、故曰v婚云々と見えたり。
 
(49)津守連通。
父祖不v可v考。續曰本紀に、和銅七年正月甲子、授2正七位上津守連通從五位下1云々。十月丁卯、爲2美作守1云々。養老五年正月甲戌、詔曰、文人武士、國家所v重、醫卜方術、古今期v崇、宜d於百僚之内、優2遊學業1、堪v爲2師範1者、特加2賞賜1、勘2勵後生u、因賜2陰陽從五位上大津連首從五位下津守連通各※[糸+施の旁]十疋絲十※[糸+句]、布二十端鍬二十口1云々。七年正月丙子、授2從五位上1云々と見え、津守氏は、新撰姓氏録卷十八に、津守宿補、火明命八世孫、大御目足尼之後也云々。卷二十に、津守連、天香山命之後也云々と見えたり。又書紀天武天皇十三年紀に、十二月己卯、津守連、五十氏、賜v姓曰2宿禰1云々とあるのちも、連とかけるは、姓氏録にあげたるがごとく、後は津守の氏二つにわかれたるか。この通《トホル》ぬしは、宿禰の姓をたまはらざる津守氏なるべし。このぬし、卜占の道に勝れたりし事は、續紀の文にて明らけし。
 
占露。
この二字は、うらへあらはしゝかばとよむべし。うらへは、古事記に卜相とかき、書紀に卜合とかける意にて、うらあへの、あを略《ハブ》ける也。いまうらなふといふに同じ。この事くはしくは、下【攷證十三中 】にいふべし。露は、玉篇に露見也云々。集韻に、彰也云々。後漢書※[至+おおざと]※[立心偏+軍](ノ)傳注に、露顯也云々とあるにて、あらはるゝ意なる事明らけし。
 
109 大船之《オホフネノ》。津守之占爾《ツモリノウラニ》。將告登波《ツケムトハ》。益爲爾知而《マサシニシリテ》。我二人宿之《ワカフタリネシ》。
 
大船之《オホフネノ》。
枕辭にて、冠辭考にくはし。大船のよる津とつゞけし也。さて代匠記に、大舟の入津とつゞけて、住吉に、つもりのうらあれば、通が氏よりうらなひまでにかけたま(50)へり云々といへるがごとく、占《ウラ》を、浦にとりなして、ことばのあやをなせる也。本集十一【六丁】に、百積船潜納《モヽサカノフネカツキイル》、八占刺母雖問《ヤウラサシハヽハトフトモ》、其名不謂《ソノナハイハシ》云々とあるも、占に浦をかけたり。これにても思ふべし。
 
津守之占爾《ツモリカウラニ》。
津守は、津守連通をのたまふ也。うらは、うらへといふは、下へ相の字を付たるにて、占《ウラ》とのみいふぞ、本語なる。本集十一【十三丁】に、占正謂妹相依《ウラマサニイヘイモアヒヨルト》云々。十四【七丁】に麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名《マサデニモノラヌキミカナ》、宇良爾低爾家里《ウラニデニケリ》云々と見えて、猶多し。
 
將告登波《ツケムトハ》。
この句を、考には、のらんとはと訓直されしは誤り也。告の字は、のるとよむべき所も、つぐとよむべきもあり。ここなどは、必らずつぐとよむべき所也。たゞ物をいふをいへる所には、のるといひ、物をいひきかせて知らしむる所には、つぐといへり。このわかちを、よく心得べし。そは、本集三【四十八丁】に、吾毛見都人爾毛將告《ワレモミツヒトニモツケム》云々。七【廿三丁】に、花開在我告乞《ハナサキタラバワレニツケコソ》云々。十七【廿一丁】に、白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣都流《シラクモニタチタナヒクトアレニツケツル》云々。また【四十丁】伊末太見奴比等爾母都氣牟《イマタミヌヒトニモツケム》云々。二十【五十三丁】に、美也古乃比等爾都氣麻久波《ミヤコノヒトニツケマクハ》云々などあるにても、思ふべし。集中いと多く、あぐるにいとまなし。
 
益爲爾知而《マサシニシリテ》。
益爲《マサシ》は、借字にて、正し也。本集十一【十三丁】に、占正謂妹相依《ウラマサニイヘイモニアヒヨラム》云々。古今集離別に、なにはのよろづを、相坂の關しまさしきものならば、あかずわかるゝ君をとゞめよ。戀四に、よみ人しらず、かくこひんものとはわれも思ひにき、心のうらぞまさしかりける。後選集戀一に、するが、まどろまぬかへにも人を見つるかな、まさしからなん、春のよ(51)のゆめ云々などあるも、皆意同じ。正《マサ》しを、まさしきとも、まさともいへるは、久しきを、ひさしきとも、ひさともいへる類也。また本集十四【七丁】に、麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名字良爾低爾家里《マサデニモノラヌキミガナウラニデニケリ》云云とあるは、眞定《マサダ》の、たを、てにかよはしたるにて、後世さだかといふ意なれば、こゝとはたがへり。この事は、その所にいふべし。
 
我二人宿之《ワカフタリネシ》。
わがふたりねしの、しは、過去のしにて、わがの、がの結び詞也。この事は上にいへり。さて一首の意は、君とわれと通じをる事を、津守の通が、うらなひあらはして、告《ツゲ》んとは、かへりてこの方は、正しくしりてありながらも、戀にえたへがたくて、かく二人宿しぞと也。かくのたまへるは、この皇子の、ひそかに石川女郎にあひたまはんとせし始より津守の通がしるよしありて、しりゐたらんと見えたり。
 
日並斯《ヒナメシ》知(ノ)皇子尊。贈2賜《オクリタマハスル》石川女郎1御歌。一首。【女郎字曰2大名兒1也。】
 
日並斯知皇子尊。
文武天皇の御父、草壁皇子を申奉る。尊號を、岡宮天皇とし申奉れり。この御事は、上【攷證一下廿四丁】にくはし。さて、印本、所知の二字を脱せり。續日本紀には、日並知皇子とあり。元暦本には、所知とあり。所の字は、すべて添てかける字なれば、所知とあるぞ、古本のまゝなる。よりてあらたむ。(頭書、大和志十五【六丁ウ】。)(頭書、而考、大和國十市郡粟原寺寶塔露盤銘に、奉d爲2淨見原天皇御宇日並春宮1、造2修u土伽藍1云々ともあれば、所知の二字なきをよしとす。)
 
(52)女郎字曰2大名兒1也。
字は、あざなとよむべし。字鏡集、伊呂波字類抄に、あざなとよめり。書紀孝徳紀に、大伴長徳【字馬飼】蘇我臣日向【字身刺】云々。文徳實録卷十に、山田連春城卒、春城字連城云々。宇津保物語祭使卷に、學生あざな、とうゑいさく、な、すゑふさ云々。源氏物語をとめの卷に、あざなつくる事は、ひんがしの院にてしたまふ云々など見えたり。宣長が玉勝間卷二に、あざなといふもの、かの文琳、菅三、平仲などのたぐひのみにあらず。古へより、正しき名の外に、よぶ名を、字《アサナ》といへること多し。中むかしには、今のいはゆる俗名をも、字といへる事あり。其外にも、田地の字、何の字、くれの字などいふも、皆正しく定まれる名としもなくて、よびならへるをいへり。いづれも漢國の人の字とは、こと/\也。そが中に、今の俗名をいへるは、漢文の字とこゝろばへ似たり云々といはれつるごとく、漢土人の字とは、少しことなる所もあれど、字を付そめしは、漢土にならへる也。禮記曲禮に、男子二十、冠而字云々。郊特牲に、冠而字v之、敬2其名1也云々。冠義注に、字所2以相尊1也云々など見えたり。また大神宮諸雜事記に、字《アサナ》浦田山云々、字山里川原云々、字※[石+弖]鹿淵云々など地名にいふもつねによびならへる名といふ事也。(頭書、靈異記上卷に、其名未v詳、字曰2瞻保1云々。顯宗紀【七丁ウ】字《ミナ》。)さて、印本、大名兒也の四字を脱せり。いま元暦本によりて補なふ。こは石川女郎のつねの呼名を、大名兒といへりといふ意なり。
 
110  大名兒《オホナコヲ》。彼方野邊爾《ヲチカタヌヘニ》。苅草乃《カルカヤノ》。束間毛《ツカノアヒタモ》。吾忘目八《ワレワスレメヤ》。
 
(53)大名兒《オホナコヲ》。
考に、一本又目録に、女郎字曰2大名兒1也と注せり。こは、この歌の言もて、おしていふ也。今思ふに、又の名とも聞えず。其女を、あがめて、大名兒とのたまひつらん歟。名姉《ナネ》、名兄《ナセ》、また大名持など、名をもてほめことゝせしは、古へのつね也云々といはれつるは、たがへり。大名は、大きに名ありといふ意にて、名のきこえたるをいへる事、大名持の神と申すも、この神の御名、聞えたるを、稱して申すにてもしるべし。また、いと古くは、名《ナ》といふ言も、子《コ》といふ言も、人を親しみ尊みていふ言なれど、天智、天武などの御ころよりこなたは、やがて名ともなれる事、上【十一丁】に、釆女安見兒、十六【六丁】に、娘子字曰2櫻兒1、また娘子字曰2鬘兒1也などあるにても、兒は名に付る事にて、こゝの大名兒も、名なる事をしるべし。このごろよりすこし下りて、嵯峨淳和の御ころよりは、女の名の下に、なべて子《コ》の字を付る事とはなれり。これ、本は尊稱の詞なりしが、うつれる也。また中ごろ、女房の名にあこき、みやき、いぬき、あてき、なれき、こもきなど、きの字付るも、君の略にて、本は尊稱の詞なりしが、うつれる事、子の字を、名の下に付るが如し。この句は、五の句へかけて、心得べし。堀川百首に、基俊、おほなこが草かるをかのかるかやは、下をれにけり、しどろもどろに云々とよまれしは、この歌を心得誤られし也。
 
彼方《ヲチカタ》野《ヌ・ノ》邊爾《ヘニ》
本集下十一【卅一丁】に、彼方之赤土少屋爾《ヲチカタノハニフノコヤニ》云々。上四【四十三丁】に、彼此兼手《ヲチコチカネテ》云々など、彼の字を、をちとよめるごとく、彼の字の義にて、をちかた野べは、かしこの野べといふ意、をちこちはかしここゝといふ意也。さるを、七【廿九丁】に、遠近の字を、をちこちとよめるを見て、をちとは遠くの事ぞと、おもふは非也。こは遠近の字義もてかけるにて、か(54)しここゝといふ事也。
 
苅草乃《カルカヤノ》。
本集十一【卅九丁】に、紅之淺葉之野良爾苅草乃《クレナヰノアサハノヌラニカルカヤノ》、束之間毛吾忘渚菜《ツカノアヒダモアヲワスラスナ》云々ともあるがごとく、束間毛《ツカノアヒタモ》といはんとて、をちかた野べにかるかやのと、おけるにて、序歌也。さて、苅草《カルカヤ》は、十四【廿五丁】に、和我可流加夜能佐禰加夜能《ワカカルカヤノサネカヤノ》云々ともありて、かやは、すなはち草の事なる事は、上【攷證一上廿二丁】にいへるがごとくなるを、拾遺集物名に、草の名を多くあげたる所に、かるかやと出し、大中臣能宣集にも、物名に、かるかやをよめり。これらよりして、後世一種の草の名として、歌にもよめるは、甚しき誤り也。そは、本集一【十一丁】に、小松下乃草乎苅核《コマツカモトノカヤヲカラサネ》云々。四【五十八丁】に黒樹取草毛刈乍《クロキトリカヤモカリツヽ》云々。十六【卅一丁】に、茅草苅草苅婆可爾《チカヤカリカヤカレハカニ》云々などあるにても、かるかやとは、苅たる草の事なるをしるべし。
 
束間毛《ツカノアヒタモ》。
束間《ツカノマ》は、握《ツカ》の間にて、握は四の指をならべたる長さをいひて、みじかき事のたとへなり。古事記に、十擧劍《トツカツルギ》、八擧鬚《ヤツカヒゲ》などあるを、書紀には十握劍《トツカツルキ》、八握鬚《ヤツカヒゲ》ともかきて、拳も、握も、物をにぎる事にて、いまつかむといふも同じ。さて、こゝは、苅たる草のみじかく、一握《ヒトツカミ》ばかりなる、そのみじかき間もといふ意なる事、本集四【十四丁】に、夏野去小牡鹿之角乃束間毛《ナツヌユクヲシカノツヌノツカノマモ》、妹之心乎忘而念哉《イモカコヽロヲワスレテモヘヤ》云々。金葉集雜上に、源俊頼朝臣、なきかげにかけゝるたちもあるものを、さやつかのまにわすれはてぬる云々。新古今集戀一に、伊勢、なにはがたみじかきあしのつかのまもあはでこの世をすぐしてよとや云々などあると、まへに引たる、十一の歌とを合せ見て、心得べし。さて列氏 篇に、推干御也、齊2輯乎轡銜之際1、而急2緩唇吻之和1、正2度乎胸臆之中1、(55)而執2節乎掌握之間1、内得2于中心1、而外合2于馬志1云々とあるも似たり。
 
吾忘目八《ワレワスレメヤ》。
一の句の大名兒《オホナコヲ》とあるを、この句へかけて心得べし。つかのまの、みじかきほども、君をわれわすれめや、わすれはせじと也。
 
幸2于吉野宮1時。弓削皇子。贈2與額田王1御歌。一首。
 
弓削皇子。
書紀天武天皇二年紀に、次妃大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1云々。持統天皇七年紀に、正月壬辰、以2淨廣貳1、授3皇子長與2皇子弓削1云々。續日本紀に、文武天皇三年七月癸酉、淨廣貳弓削皇子薨、皇子天武天皇之第六皇子也云々と見えたり。
 
贈與《オクリアタヘタマフ》。
この二字、おくりあたへたまふとよむべし。周禮春官大卜注に、與(ハ)謂v予2人物1云々と見えたり。上【攷證一上十三丁】にくはし。
 
111 古爾《イニシヘニ》。戀流鳥鴨《コフルトリカモ》。弓絃葉乃《ユツルハノ》。三井能上從《ミヰノウヘヨリ》。鳴渡遊久《ナキワタリユク》。
 
古爾《イニシヘニ》。戀流鳥鴨《コフルトリカモ》。
○代匠記に、いにしへにこふるは、いにしへをこふる也云々といへるがごとく、いにしへにの、にもじは、をの意にて、君にこひ、妹にこひなどいふ、(56)にもじと同じ。いにしへをこふる鳥とは、次の歌によるに、郭公をのたまへりと見ゆ。さて書紀を考ふるに、弓削皇子の御父、天武天皇、まだ春宮におはしましゝほど、事あらん事をはかりしり給ひて、春宮を辭し給ひて、出家して、吉野宮にしばらくおはしましゝ事あり。いま持統天皇の、吉野宮に幸したまふ御供に、弓削皇子もおはしたるが、吉野宮にて、そのかみ御父天皇のおはしましゝ事を、おぼしいでゝ、みづからも、むかし戀しくおぼしのしゝをりから、時鳥のなきわたりしを、汝もいにしへをこふる鳥かもとは、よませたまへる也。額田王も、この天皇にめされ《(マヽ)》人にて、同じくこひ奉るぺければ、この御歌をよみて、おくり給ひし也、古今集夏に、はやくすみける所にて、郭公のなきけるをきゝてよめる、忠峯、むかしへや今も戀しき、ほとゝぎす、ふるさとにしもなきてきつらん云々とよめるも、似たり。ある人、蜀の望帝の故事をこゝに引つれどあたらず。
 
弓絃葉乃《ユツルハノ》。三井能上從《ミヰノウヘヨリ》。
三井の、三は、假字にて、御井なり。この御井は、大和志に、弓絃葉井、在v二、一在2池田莊六田村1、一在2川上莊大瀧村1、未v詳2孰名區1云々と見えたり。いまだゆきて見ざる所なれば、しりがたけれど、いづれにまれ、御井とあるからは、吉野の宮中の御井なるべし。本集一【廿三丁】に、藤原宮御井とあるを思ひ合すべし。また【卅丁】山邊御井とあるも、行宮の御井也。弓絃葉《ユツルハ》の事は、下【攷證十四丁】にいふべし。
 
鳴渡遊久《ナキワタリユク》。
元暦本、渡を濟に作れり。いづれにてもよし。一首の意明らけし。
 
(57)額田王奉v和歌。一首。
 
112 古爾《イニシヘニ》。戀良武鳥者《コフラムトリハ》。霍公鳥《ホトヽキス》。盖哉鳴之《ケタシヤナキシ》。吾戀其騰《ワカコフルコト》。
 
霍公鳥《ホトヽキス》。
霍公鳥の字、本集の外見ゆる所なし。或人云、ほとゝぎすを、郭公鳥と書は、郭と霍と同韻の字なるによりて、郭公を霍公と、文字を書かへたるのみ。郭公とかくと同じといへり。この説、一わたりはさる事ながら、誤れり。霍公鳥の、霍は、玉篇に、乎郭切鳥飛急也云々とありて、鳥のはやく飛ゆく事なるを、ほとゝぎすは、飛事のいと早きものなれば、霍の字は用ひ、公は鳥獣にまれ、何にまれ、その物を稱美しで付る字にて、鶯を黄公といひ、燕を杜公といひ、布穀を郭公といひ、※[盧+鳥]※[茲/鳥]を摸魚公といひ、猿を白猿公、また山公などもいひ、羊を長髯公といへるたぐひにて、霍公鳥の字を義訓して、ほとゝぎすとはよめる也。是中國製作の熟字なり。さて、ほとゝぎすは、菅家萬葉集よりこのかた、和名抄にも、郭公の字をあてつれど、郭公は、布穀の事にて、よぶこ鳥の事にて、ほとゝぎすにあらざる事、寂照谷響集卷一にくはしく辨ぜり。(頭書、本集八【廿八丁】に、霍公鳥吾如此戀常往而告社《ホトヽギスワレカクコフトユキテツケコソ》云々。)
 
盖哉鳴之《ケタシヤナキシ》。
けだしてふ語は、本集三【四十二丁】に、山守者蓋雖有《ヤマモリハケタシアリトモ》云々。四【四十四丁】に、蓋毛人之中言聞可毛《ケタシクモヒトノナカコトキケルカモ》云々。また【四十八丁】情蓋夢所見寸八《ココロハケタシイメニミエキヤ》云々。十五【卅丁】に、和我世故之氣太之麻可良婆《ワカセコカケダシマカラハ》云々。十七【四十六丁】に、氣太之久母安布許等安里也等《ケタシクモアフコトアリヤト》云々と見えて、集中猶いと多し。これらみなおしわたして考ふるに、けだしといふ語は、若《モシ》といふと、うたがふ意の詞也。そは禮記檀弓上疏に、(58)蓋是疑辭、また史記秦始皇本紀正義に、蓋者疑辭也と見えたり。元暦本、蓋を益に作りて、ましてやなきしよめりしかど、いかが。(頭書、蓋の字の事攷證四上廿五オ。)
 
吾戀其騰《ワガコフルゴト》。
其の字、元暦本、基に作れり。いづれにてもよろし。一首の意は、君がいにしへにこふる鳥かもとのたまへる、その古へを戀らん鳥は、ほとゝぎすならん。そのほとゝぎすは、もしやわが古へをこふるごとくなきしとなり。
 
從2吉野1。 祈2取|蘿生松柯《コケムセルマツカエ》1。遣時。額田王|奉入《タテマツレル》歌。一首。
 
蘿生松柯。
蘊はこけ、生はむすとよむべし。此卷下【四十三丁】に、子松之末爾蘿生萬代爾《コマツカウレニコケムスマテ二》云々。六【廿二丁】
オクヤマノイハニコケムシヒサシクミネハコケムシニケリ
に、奧山之磐爾蘿生《》云々。七【十九丁】に、久不見者蘿生爾家里【】云々などあり。この事は、上【攷證一上卅八丁】に、草武左受《コケムサス》とある所にもいへり。和名抄苔類云、唐韻云蘿【魯可反日本紀私記云蘿比加介】女蘿也、雜要決云、松蘿一名女蘿【和名万豆乃古介一云佐流乎加世】云々と見えたり。ここに蘿《コケ》とあるは、松蘿《ヒカゲ》にて、たゞの苔にはあらず。いかにとなれば、松蘿、山中の木の梢にのみ生る物にて、ここに松柯とあれば、ひかげのかゝれる松が柯也。子松がうれに、こけむすまでにとよめるも、この松蘿也。柯はえとよむべし。玉篇に、柯音歌、枝也云々と見えたり。
 
奉入歌。
たてまつれるうたとよむべし。考に、奉入をいれまつるとよまれしかど、いかゞ。古事記下卷に、還入とあるも、入の字に心なく、たゞかへる事、賜ふ事也。祝詞式(59)に、齋内親王奉入時云々とあるも、ただ奉るにて、入の字に心なし。さてこの端辭は、まへに幸2于吉野宮1時弓削皇子云々とあるをうけて、その吉野宮より、額田王のもとへ蘿《コケ》むせる松が枝を、折とり給ひて、弓削皇子のおくり給ひし時、額田王の弓削皇子に奉れる歌ぞと也。
 
113 三吉野乃《ミヨシヌノ》。玉松之枝者《タママツガエハ》。波思吉香聞《ハシキカモ》。君之御言乎《キミガミコトヲ》。持而加欲波久《モチテカヨハク》。
 
三吉野乃《ミヨシヌノ》。
三吉野の事は上【攷證一上四十一丁】にいへり。
 
玉松之枝者《タママツガエハ》。
こゝに、玉松之枝者とあるを、宣長が玉勝間卷十三に、萬葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とはよく似たる故也。二の卷に、三吉野乃玉松之枝者云々。十五の卷に、夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》ともあり。山は玉を誤れる事しるし。然るを、後の歌に、玉松とよめるは、この歌によれるにて、みなひがごと也。玉松といふ事は、ある事なし。又同じ二の卷に、人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍《ヒトハヨシオモヒヤムトモタマカツラカケニミエツヽ》云々。こは、山※[草冠/縵]は、日影葛《ヒカケノカツラ》のことにて、影の枕詞における也。山※[草冠/縵]日影とつゞく意にて、十四の卷に、あし引の山かづらかげとよめる、かげに同じ。十八の卷にも、かづらかげとあり。みなかげは、日影の事也。懸の意と心得たるは、ひがごと也。又十三の卷に、五十串立云々、雲聚玉蔭見者乏文。こは髻華に垂たる、日影※[草冠/縵]也。十六の卷に、足曳之玉縵之兒《アシヒキノヤマカツラノコ》とあるは、足曳之とあれば、山なる事論なし。即、ならべる歌には、山縵之兒とあり。さて、件の例どもによりて思へば、十一の卷に、玉久世清河原《タマクセノキヨキカハラニ》云々といふ歌も、(60)山城久世能河原《ヤマシロノクセノカハラニ》なりけんを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世といふことはあるべくもおぼえず云々といはれつる、玉※[草冠/縵]、玉蔭などの説は、いかにもさる事なれど、こゝの玉松之枝の玉は、山の誤りにはあらじ。この集にたゞ一所のみありて、古き書に見えずと、誤りとせんには、この集より、はじまれる事をば、みな誤りとせんや。たゞ一所のみにて、外に見えざる事ありとも、事のこゝろ、聞えたるは、用ふべき事つね也。さて、玉松の玉は、例のほむる詞也。にて《(マヽ)》、玉かづら、玉も、玉がつま、玉だすき、玉つるぎ、玉はゞきなどの類也。催馬樂高砂歌に、之良太萬川波支《シラタマツバキ》、太萬也名支《タマヤナギ》云々。また美乃山歌に、太萬加之波《タマガシハ》云々などあるも、椿柳柏などをほめて、玉何とはいへる也、これらにても、玉松の玉は、ほむる詞なる事をしるべし。
 
波思吉香聞《ハシキカモ》。
本集三【五十七丁】に、波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》云々。また【五十九丁】波之吉可聞皇子之命之安里我欲比《ハシキカモミコノミコトノアリガヨヒ》云々。十八【卅七丁】に波之伎故毛我母《ハシキコモガモ》云々。二十【十九丁】に波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》云々なども見えて、はしきは古事記にも、愛の字をよみ、本集六【廿八丁】に、愛也思《ハシキヤシ》云々と愛の字をよめり。こは。細《クハ》しき事にて、物を愛する意なり。またはしけやし、はしきよし、はしきやしなどいへるも、愛の字の意にて、やしも、よしも、助字也。この事は、下【攷證四下】にいふべし。
 
君之御言乎《キミガミコトヲ》。持而加欲波久《モチテカヨハク》。
御言乎持而《ミコトヲモチテ》は、この字の、御言をとりもちてかよふ故に、三吉野の玉松が枝は一しほ愛せらると也。本集五【卅一丁】に勅旨戴持弖《オホミコトイタタキモチテ》云々。十七【四十二丁】に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレバ》、美許登母知多知和可禮奈婆《ミコトモチタチワカレナバ》云々などあるも、意同じ。また、宰司などの字を、みこともちとよめるも、天皇の御言を持て、政《マツリコト》をとり行ふ故に、(61)やがて、そのつかさの名として、みこともちとはいへる也。加欲波久《カヨハク》は、かよふの、ふをのべて、かよはくといへるにて、はくの反、ふ也。本集十二【卅八丁】の一書に、君乎思苦止時毛無《キミヲオモハクヤムトキモナク》云々とある、おもはくも、思ふの、ふをのべたる言にて、こゝも同じ。また詔《ノリ》たまはくなどいふ、はくも、同じ。さて、かよふは、古事記に、往來の字をよめり。すなはち、この字の意にて、集中通の字をよめるも同じ。
 
但馬皇女。在2高市皇子宮1時。思2穗積皇子1御作歌。一首。
 
書紀天武天皇二年紀に、夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1云々。續日本紀に、和銅元年六月丙戌、三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也云々と見えたり。この皇女と、高市皇子、穗積皇子と、異母の兄弟にてましませり。そは次の故證に記せり。
 
高市皇子。
書紀天武天皇二年紀に、納2※[匈/月]形君徳善女尼子娘1、生2高市皇子命1云々。五年正月癸卯、高市皇子以下、小錦以上大夫等、賜2衣袴褶腰帯脚帶机杖1云々。十四年正月丁卯、高市皇子、授2淨廣貳位1云々。持統天皇四年紀に、七月庚辰、以2皇子高市1、爲2太政大臣1云々。五年正月乙酉、増2封皇子高市二千戸1、通v前三千戸云々。六年正月庚午、増2封皇子高市二千戸1、通v前五千戸云々。七年正月壬辰、以2淨廣壹1、授2皇子高市1云々。十年七月庚戌、後皇子尊薨云々など見えたるごとく、皇子尊と記されたれば、この皇子、一たび皇太子に立たまひたりとおぼし。(62)案に、皇太子草壁皇子、持統天皇三年四月に薨じ給ひぬれば、其のちに、この皇子皇太子に立給ひし事のありしを、書紀には脱されたるなるべし。そは、懷風藻葛野王傳に、高市皇子薨後、皇太后引2王公卿士於禁中1、謀v立2日嗣1云々とあるにて、この皇子薨じ給ひて、日嗣のかけたるをしるべし。またこの皇子、持統天皇十年に、薨じ給ひて、十一年に文武天皇を皇太子に立給ひしにても、草壁皇太子と文武天皇との間に、此皇子皇太子にましましゝをしるべし。
 
穗積皇子。
書紀天武天皇二年紀に、夫人蘇我赤兄大臣女大〓娘、生2一男二女1、其一曰2穗積皇子1云々持統天皇紀に、五年正月乙酉、増2封淨廣貳皇子穂積五百戸1云々。續日本紀に、慶雲元年正月丁酉、二品穗積親王、益2封各二百戸1云々。二年九月壬午、詔知2太政官事1云々。三年二月辛巳、季禄准2右大臣1給v之云々。靈龜元年正月癸巳、授2二品1云々。七月丙午、薨、遣2從四位下石上朝臣豐庭、從五位上小野朝臣馬養1、監2護喪事1、天武天皇之第五皇子也云々と見えたり。
 
御作歌。
印本、作の字を脱せり。目録によりて補ふ。
 
114 秋田之《アキノタノ》。穗《ホ》向《ムキ・ムケ》之|所縁《ヨレル・ヨスル》。異所縁《カタヨリニ》。君爾因奈名《キミニヨリナナ》。事痛有登母《コチタカリトモ》。
 
穗《ホ》向《ムキ・ムケ》之|所縁《ヨレル・ヨスル》。異所縁《カタヨリニ》。
本集十【五十一丁】に、秋田之穗向之所依片縁《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニ》、吾者物念《ワレハモノオモフ》、都禮無物乎《ツレナキモノヲ》云々。十七【十七丁】に、秋田之穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミカテリ》云々などあり。印本、ほむけの(63)よするとよみたれど、十七卷によりて、ほむきとよむべし。所縁は、おのづからに、穗のよれるなれば、よするとよむは誤り也。さてほむきとは、稻の實のりて、穗のしだれたるをいひて、そは必らず片方にのみしだれふすものなれば、そのほむきの風などによれるがごとく、かたよりに、君によりなんと也。異所縁を、かたよりとよめるは義訓なり。
 
君爾因奈名《キミニヨリナナ》。
君によりなんなり。名《ナ》は、んの意也。この事は、上【攷證一上十七丁】にいへり。
 
事痛有登母《コチタカリトモ》。
 
次の御歌に、人事乎繋美許知痛美《ヒトコトヲシケミコチタミ》云々。四【廿二丁】に、他辭乎繁言痛《ヒトコトヲシゲミコチタミ》云々。七【卅三丁】に、事痛者《コチタクハ》云々などありて、集中いと多し。代匠記に、こちたかりともは、此集に言痛と書て、こちたみとよめるを思へば、こといたみといふを、といの切は、ちなる故に、つゞめてこちたみとはいへり。と《(マヽ)》思ふに清少納言、源氏物語などには、たゞこと多くらうがはしき事にいへれば、言痛の心にあらざる歟。第四に、他辭乎繁言痛あはざりき、心あるごとおもふなわがせとよめるは、まさしく人の物いひの多ければ、その詞をいたみて、あはぬわがことなる心あるごとくな思ひそといふ事なれば、中ごろよりすこし用ひ誤れるにや云々といへるがごとく、人に言|甚《イタ》くいひさわがれぬとも、君が方によりなんとなり。
 
勅2穗積皇子1。遣2近江志賀山寺1時。但馬皇女御作歌。一首。
 
志賀山寺。
扶桑略記云、天智天皇七年、正月十七日、於2近江國志賀郡1、建2崇福寺1云々。伊呂波字類抄云、崇福寺、志賀寺是也云々。續日本紀云、大寶元年八月甲辰、太政官(64)處分、近江國志賀山寺封、起2庚子年1計滿2三十歳1云々。天平十二年十二月乙丑、幸2志賀山寺1禮v佛云々など見えて、崇福寺これ也。さて、穗積皇子を、この寺に遣はされし事は、國史にのせざれば、しりがたけれど、考に、左右の御歌どもを思ふに、かりそめに遣はさるゝ事にはあらじ。右の事、顯はれたるによりて、この寺へうつして、法師にしたまはんとにやあらん云々といはれしは、いかゞ。かみにこの皇子の傳にあげたるがごとく、持統文武の御代、たえずこの皇子の位を昇し、封をも益したまひし事ありしにて、法師にとて遣はされしにはあらぬをしるべし。案るに、造立の事か、またはさるべき法會などありて、勅使に遣はされしなるべし。
 
115 遺居而《オクレヰテ》。戀管不有者《コヒツヽアラズバ》。追《オヒ》及《シカ・ユカ》武《ム》。道之阿囘爾《ミチノクマワニ》。標結吾勢《シメユヘワガセ》。
 
居而《オクレヰテ》。
穗積皇子、勅によりて、近江の志賀山寺にゆきたまふに、京におくれゐてなり。
 
戀管不有者《コヒツヽアラズバ》。
戀つゝあらんよりはといふ意にて、あらずばの、ずばは、んよりはの意也。この事は、上【攷證一上三丁】にいへり。
 
追《オヒ》及《シカ・ユカ》武《ム》。
代匠記云、追及武を、おひゆかんと、かなの付たるは誤れり。及の字は、この集にも、日本紀等などにも、多く、しくとよめり。すなはち、およぶといふ心也。しく物ぞなき、しかじなどいふも、心はこのしくにて、およぶ物ぞなき、およばずなり云々。考云、紀に【仁徳】皇后の、筒城の宮へおはせし特、夜莽之呂珥伊辭※[奚+隹]苔利夜莽伊辭※[奚+隹]之※[奚+隹]《ヤマシロニイシケトリヤマイシケシケ》云々とよませ給へるに同(65)しく、ここはおひおよばんTふ意也云々といはれつるがごとく、古事記上卷に、亦云以2其|追斯伎斯《オヒシキシ》1而號2道敷大神1云々ともあれば、おひしかんとよむべし。意は、おひつがんといふに同じ。猶下【攷證四上十一丁】にもいふべし。
 
道之阿囘爾《ミチノクマワニ》。
囘、こゝは、みと訓べし。五【廿八丁】に、道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》云々とあれば也。囘《ミ》は、末《マ》と通ひて、間の意にて、道のくまのほとりといふ也。阿の事は、上【攷證一上卅二丁】道隈《ミチノクマ》とある所にいひ、囘の事は、【攷證一下十四丁】島囘とある所にいへり。この二つを、合せ見て、考ふべし。
 
標結吾勢《シメユヘワガセ》。
考に、山路などには、先ゆく人の、しるべの物を結《ユフ》を、ここにはいへり。この同言にて、繩引渡して、へだてのしるしとし、木などたてて、標とするもあり。事によりて、意得べし云々といはれつるは、いかが。ここの意は、おくれゐて戀つつあらんよりは、君をおひゆきなん。君は、それをうるさしとおぼすべし。さらば、道のくまぐまに、標引わたして、わがこすまじきやうに、へだてし給へと、すまひていへる意也。そは、此卷【廿三丁】に、大御船泊之登萬里標結麻思乎《オホミフネハテシトマリニシメユハマシヲ》云々。また【廿四丁】に爲誰可山爾標結《タカタメカヤマニシメユフ》云々。三【四十二丁】に、其山爾標結立而《ソノヤマニシメユヒタテテ》云々。また將結標乎人將解八方《ユヒテムシメヲヒトトカメヤモ》云々。四【廿丁】に、緘結師妹情者《シメユヒシイモカココロハ》云々などありて、集中いと多く、しめゆふとあるは、みなものの隔に、標《シメ》ゆひて、人のこすまじき料にする也。しめなは、しめさす、しめ野、しめし野などいふも、みな同意也。かの石屋戸のまへに、しりくめ繩を引はへしも、またかへりな入たまひそとて、隔てしにて、このしりくめ繩も、しめなはの事にて、この事は、古事記(66)傳にくはし。さて本集十八【廿二丁】に、大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハ》、之流久之米多底《シルクシメタテ》、比等能之流倍久《ヒトノシルヘク》云々とあるのみぞ、標繩のしめにはあらで、しるしの事にて、禮記投壺に、飲畢之後、司射請爲2勝者1樹v標云々とある、これ也。このしるしの標と、物を隔つる標とを、考には心得誤られしと見ゆ。この二つ、語の本、一つ言とは見ゆれど、用ひざまは別なり。
 
但馬皇女。在2高市皇子宮1時。竊|接《ミアヒマシヽ》2穗積皇子1事。既形而後御作歌。一首。
 
接《ミアヒマシヽ》。
接は、みあひまししとよむべし。廣韻に、接即葉切、交也、合也、會也云々と見えたり。
 
而後。
印本、後の字を脱せり。目録によりておぎなふ。
 
116 人事乎《ヒトゴトヲ》。繁美許知痛美《シゲミコチタミ》。己《オノ》母《モ・ガ》世爾《ヨニ》。未渡《イマタワタラヌ》。朝川渡《アサカハワタル》。
 
人事乎《ヒトゴトヲ》。
人事は、借字にて、人言也。世の人のいひさわぐ事の、繁《シケ》く甚しきに也。本集四【卅六丁】に、人事乃繁爾因而《ヒトコトノシケキニヨリテ》云々。十二【十一丁】に、人言乎繁三毛人髪三《ヒトコトヲシケミコチタミ》云々などありて、集中猶多し。
 
(67)繁美許知痛美《シケミコチタミ》。
二つの美《ミ》は、さにといふ意にて、しげさに、こちたさになり。この事は、上【攷證一上十丁】にいへり。
 
己《オノ》母《モ・ガ》世爾《ヨニ》。
舊訓、おのがよにと訓れど、母の《(マヽ)》を、がとよむべきよしなし。字のまゝに、おのもよにとよむべし。おのもよには、おのれも世になり。おのれといふを、おのとのみいふは、吾を、わとも、わがとも、われともいひ、己を、おのとも、おのがとも、おのれともいふと、同格の語にて、おのがつまといふを、本集四【廿四丁】に、自妻跡憑有今夜《オノヅマトタノメルコヨヒ》云々。十四【卅五丁】に、於能豆麻乎比登乃左刀爾於吉《オノヅマヲヒトノサトニオキ》云々といひ、また各を、おの/\とも、おのも/\ともいふも、語の本は、おのれも/\なり。これらにても、この句をば、おのもよにとよむべきをしるべし。さるを、代匠記に、おのがよにとよめるは、誤り也。母《モ》の字、我《ガ》の字の音、あるべきやうなし。これをば、いもせにとよむべし云々。考に、己|之《ガ》世に也。この母《モ》は、上の籠母與《カタマモヨ》の別記にいへるごとく、之《ノ》に通ひ、また君|之《ノ》代を、君が代ともいふ。しかれば、乃毛加《ノモカ》の三つは、言便のまに/\、何れにもいふ也云々。宣長の説に、己母世爾の、爾は、川か、河か、水かの字の誤りにて、いもせ川ならんか云々。略解に、母は我の誤りにて、おのがよにと有しか云々などいへる、諸説、皆誤れり。また元暦本には、母の字なしここは、おのがよにとよまんに、母の字ありてはいかがなれば、さかしらに、はぶけるなるべし。これらにても、元暦本は、さかしらをまじへしをしるべし。さて、おのも世にの、世は、本輯四【廿二丁】に、現世爾波人事繁《コノヨニハヒトコトシケミ》云々。また【五十三丁】生有代爾吾者未見《イケルヨニワレハマタミス》云々。五【廿九丁】に、伊可爾之都々可《イカニシツヽカ》、汝代者和多流《ナガヨハワタル》云云などある、世《ヨ》と同じく、この生《イケ》る世にといふ意也。
 
(68)未渡《イマタワタラヌ》。
いまだは、まだといふ意にて、まだは、いまだのいを略ける也。さて、男女の逢ふことを、河を渡るにたとへたる事多し。本集四【卅八丁】に、世間之女爾思有者吾渡瘡背乃河乎渡金目也《ヨノナカノヲトメニシアラハワカワタルイモセノカハヲワタリカネメヤ》云々。古今集戀三に、みはるのありすけ、あやなくてまだきなき名のたつた川、わたらでやまんものならなくに云々などありて、猶いと多かり。
 
朝川渡《アサカハワタル》。
本集一【十八丁】に、船並底旦川渡《フネナメテアサカハワタリ》、舟競夕河渡《フナキホヒユフカハワタル》云々。三【五十四丁】に、佐保河乎朝川渡《サホカハヲアサカハワタリ》、春日野乎背向爾見乍《カスカヌヲソカヒニミツヽ》云々ともありで、朝に川を渡をいふ。さて一首の意は、考に、河を渡るを、男女のあふことにたとへたる多ければ、ここも、おのが世に、はじめたる、いもせの道なるに、人言によりて、中たえゆけば、よにも淺き吾中かなと、なげき給ふよしなるべし。かかれば、朝は、淺の意也。又事あらはれしにつけて、朝明に、道ゆきたまふよしありて、皇女のなれぬわびしき事にあひ給ふを、のたまふか云々。この二つの説のうち、後のかたをよしとす。端辭に、事既形而後御作歌とあるがごとく、以前より通じ居給ひけんが、事あらはれていひさわがるる人言の繁《シケ》さに、甚しさに、君がわたりゆきけん川を、おのれもわたれり。おのれは女の事なれば、かかる事は世になれず。いまだ川などをわたりし事もなきに、しかも朝とく川をわたる事よとのたまふにて、事あらはれしかば、穗積皇子の、何方にかうつりたまひけん。それを追て、川をもわたりて、ゆきましし事ありしなるべし。かく見ざれば、繁美許知痛美《シケミコチタミ》の、二つの美《ミ》と、己母世爾《オノモヨニ》の母《モ》の字、いたづらなるべし。
 
舍人皇子。御作歌。一首。
 
(69)舍人皇子。
書紀天武天皇二年紀に、妃新田部皇女、生2舍人皇子1云々。持統天皇紀に、九年正月甲申、以2淨廣貳1授2皇子舍人1云々。續日本紀に、慶雲元年正月丁酉、益2封二百戸1云々。和銅七年正月壬戌、益2封二百戸1云々。養老二年正月庚子、詔授2一品1云々。三年十月、詔賜2内舍人二人大舍人四人衛士三十人1益2封八百戸1、通v前二千戸云々。四年五月癸酉、先v是、二品舍人親王、奉v勅修2日本紀1、至v是功成奏上、紀三十卷系圖一卷云々。八月甲申、詔知2太政官事1云々。神龜元年二月甲午、益2封五百戸1云々。天平七年十一月乙丑薨、遣d2中納言正三位多治眞人顯守等1、就v第宣uv詔、贈2太政大臣1、親王天渟中原瀛眞人天皇之第三皇子也云々。天平寶字三年六月康戌、詔臼、白v今以後、追2皇《(マヽ)》舍人親王1、宜d稱2崇道盡敬皇帝1、當麻夫人稱2大夫人1、兄弟姉妹悉稱u2親王1 止 宣云々と見えたり。
 
御作歌。
印本、作の字なし。いま集中の例によりて補ふ。さて、考には、舍人皇子の下に、贈2與舍人娘子1の六字を加へられたり。いかにもさるべき事ながら、さる本も見ざれば、しばらく本のままにておきつ。
 
117 大夫哉《マスラヲヤ》。片戀將爲跡《カタコヒセムト》。嘆友《ナゲケドモ》。鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》。尚戀二家里《ナホコヒニケリ》。
 
大夫哉《マスラヲヤ》。
印本、丈を大に誤れり。いま意改す。この事は、上【攷證一上十一丁】にいへり。
 
(70)片戀將爲跡《カタコヒセムト》。
上の、ますらをやの、やもじは、裏へ意のかへる、やはの意にて、ますらをやは、片戀せん、片戀すべき物にはあらぬをといふ意也。やはの意の、やの事は、上【攷證一下五十六丁】にいへり。片戀は、片方より戀るをいふ。本集【卅六丁】に、其鳥乃片戀耳爾《ソノトリノカタコヒノミニ》云々。八【廿四丁】に、片戀爲乍鳴日四曾多寸《カタコヒシツヽナクヒシソオホキ》云々。十一【四十二丁】に、獨戀耳年者經管《カタコヒノミニトシハヘニツヽ》云々など見えたり。
 
鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》。
しことは、物をのゝしりてもいひ、自ら卑下してもいへる詞也。本集四【五十丁】に、萱草吾下紐爾著有跡《ワスレクサワカシタヒモニツケタレト》、鬼乃志許草事二思安利家理《シコノシコクサコトニシアリケリ》云々。八【卅丁】に、志許霍公鳥《シコホトトギス》、曉之裏悲爾《アカツキノウラカナシキニ》、雖追雖追《オヘトオヘト》云々。十三【十四丁】に、鬼之四忌手乎指易而《シコノシキテヲサシカヘテ》云々。十七【四十五丁】に、多夫禮多流之許都於吉奈乃《タブレタルシコツオキナノ》、許太爾母《コトタニモ》云々などありて、書紀神代紀上・一書に、醜女此云2志許賣1とあり。鬼をしことよめるは、醜の偏を略きたるにて、醜とかける、正字也。文字の畫を略て、通ずる事は、吾友狩谷望之が、文字源流に、有2字畫省略者1、藜韓勅後碑作v※[草冠/(耕の左+勺)]、※[益+(横目/虫)]孔〓碑作v※[益+(横目/虫)]、爵婁壽碑作v※[艮+寸]、※[草冠/(耕の左+云)]石經論語作v耘、鞭劉寛碑作v鞭、皇朝古書、以v支爲v伎、以v寸爲v村、以v委爲v倭、亦此類云々といへるがごとくにて、鬼醜同じ意也。醜は、玉篇に尺久切貌惡也云々とありて、こゝに自らしこのますらをとのたまへるは、われ、かねては、丈夫《マスヲヲ》なりと思ひて、丈夫といふものは、片戀などすべきものにはあらぬを、わが方よりのみ、君を片戀せらるゝは、あはれしこのますらをかなと、自らののしりて、のたまへるなり。益卜雄は借字也。
 
舍人娘子奉v和歌。一首。
 
(72)この娘子の事は、上【攷證一下四十七丁】にいへり。
 
118 歎管《ナケキツヽ》。大夫之《マスラヲノコノ》。戀禮許曾《コフレコソ》。吾《ワカ》髪結《モトユヒ・ユフカミノ》乃《ノ》。漬而奴禮計禮《ヒチテヌレケレ》。
 
大夫之《マスラヲノコノ》。戀禮許曾《コフレコソ》。
印本、禮を亂に誤れり。いま拾穗本と、古本によりて改む。これにつきて、代匠記には、ますらをのこひみだれこそと訓直せるに、略解もしたがへり。印本、亂にれの暇字を付たるにても、亂は禮の誤りなる事明らけきをや。さて、ますらをとのみもいふを、ますらをのこといへるは、兄《セ》を兄子《セコ》といひ、をとめををとめ子ともいへる類にて、子は稱美の字也。それを、まさ《(マヽ)》らをとのみいひては、文字のたらざれば、子の字を
 
そへて、歌の調《シラヘ》をなせる也。本集九【卅三丁】に、古之益荒丁子各競《ニシヘノマスラヲノコノアヒキソヒイ》云々。十九【廿丁】に、念度知丈夫能許能久禮《オモフドチマスラヲノコノクレニ》云々など見えたり。戀禮許曾《コフレコソ》は、こふればこその、ばを略ける也。この事は、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
 
《ワカ》髪結《モトユヒ・ユフカミノ》乃《ノ》。
髪結の字を、もとゆひとよめるは、義訓也。舊訓、ゆふかみとよめるは誤れり。元暦本には、結髪とせり。こは、訓につきて、字を上下せるにて、例のさかしら也。さてもとゆひは、大神宮儀式帳に、紫本結糸一條【長四尺】云々。延喜大神宮式に、髪結紫絲二條【長四尺】云々。和名抄客飾具に、孫※[立心偏+面]切韻云※[髪の友が會]【音活和名毛度由比】以v組束v髪也云々。古今集戀四、よみ人しらず、君こずばねやへもいらじ、こむらさきわがもとゆひに霜はおくまで。拾遺集雜秋、中務のみこ、もとゆひにふりそふ雪の雫にはまくらの下に浪ぞたちける云々などありて、猶諸書に見えて、髪(72)を結べき料の、絲の事なるが、やがて、髻《モトドリ》の事ともなれる也。こゝも、わがもとゆひといひて、髻の事也。或人云、髪結とあるは、延喜式のごとく、髻結とありし、髻を髪に誤れる也。髪は、髻に改むべしといへれど、いかが。かく字を用ふる事、集中のつね也。
 
漬而奴禮計禮《ヒチテヌレケレ》。
すべて、ひづといふ語は、ひたし、ひたす、ひたり、ひたるなどいふを、つづめたるにて、ここは、ひたりてぬれけれ也。たりの反、ちなれば也。さて、一首の意は、まへの御歌に、ますらをや片戀せんとなげけどもとのたまへるごとく、ますらをが、なげきて、戀れば、その涙にやあらん、わが髻《モトドリ》のひぢてぬれぬと也。又案るに、このごろの諺に、人の戀らるれば、髻《モトドリ》のぬるといふ事のありしにもあるべ《(マヽ)》。考云、ひぢは、※[泥/土]漬《ヒヂツキ》をつづめたる言にて、本は、水につきて、ぬるるをいふよし、この卷の末の別記にいへり。さて、ここには轉じて、あぶらづきて、ぬる/\としたる髪をいふ。ぬれとは、たがねゆひたる髪の、自らぬる/\ととけさがりたるをいふ。この下に、多氣婆奴禮とよめる、これ也。且鼻ひ紐解などいへる類ひにて、人に戀らるれば、吾髪の綰《タガネ》の、解るてふ諺のあり《(マヽ)》、よめるならん云々。
 
弓削皇子。思2紀皇女1御作歌。一首。
 
紀皇女。
天武天皇二年紀に、夫人蘇我赤兄大臣女、大〓娘、生2一男二女1、其一曰2穗積皇子1、其二曰2紀皇女1云々とありて、この弓削皇子とは異母の兄弟也。
 
(73)御作歌。
印本作の字なし。いま集中の例によりて補ふ。
 
119 芳野河《ヨシヌカハ》。逝瀕之早見《ユクセノハヤミ》。須臾《シマラク・シハラク》毛《モ》。不通《ヨトム・タユル》事無《コトナク》。有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
 
逝瀕之早見《ユクセノハヤミ》。
流れゆく川の瀬の早さに也。見《ミ》はさにの意也。
 
須臾《シマラク・シハラク》毛《モ》。
舊訓、しばらくもとあれど、しばらく、しばしなどいふは、中古よりのことにて、古くは、みなしまらく、しましなどいへり。本集十四【廿一丁】に、思麻良久波禰都追安良牟乎《シマラクハネツヽアラムヲ》云々。續日本紀、天應元年二月丙午詔に、暫《シマラ》【久乃】間《マ》 毛 云々などあり。また、しましくといふも同じ。本集十五【七丁】に、之麻思久母比等利安里宇流《シマシクモヒトリアリウル》云々。又【十四丁】思未志久母見禰波古悲思吉《シマシクモミネハコヒシキ》云々。又【卅一丁】に、之末思久毛伊母我目可禮弖《シマシクモイモカメカレテ》云々などあり。ここも、須臾の字は、いづれにかよまん。しましくもとよまんもあしからねど、しばらく舊訓を殘して、しまらくもとはよめり。
 
不通《ヨドム・タユル》事無《コトナク》。
舊訓、たゆることなくとあれど、よどむことなくとよむべし。本集七【卅八丁】に、不絶逝明日香川之不逝有者《タエスユクアスカノカハノヨトメラバ》云々。十二【十七丁】に、今來吾乎不通跡念莫《イマクルワレヲヨトムトオモフナ》云々。又【十九丁】に、河余杼能不通牟心思兼都母《カハヨトノヨトマムコヽロオモヒカネツモ》云々とあるにても、思ふべし。さて、この歌は、しまらくもよどむことなくといはんとて、よしの川ゆくせの早みとはおけるにて、序歌なり。
ワカヘノソノニアリコセヌカモチトセイホ
 
有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
本集五【十五丁】に、和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛《ワカヘノソノニアリコセヌカモ》云々。六【卅七丁】に、千年五百歳有巨勢奴香聞《チトセイホトセアリコセヌカモ》云々。十【廿九丁】に、今之七夕續巨勢奴鴨《イマシナヽヨヲツキコセヌカモ》云々などあるも、同(74)じくこひ願ふ詞にて、こせといふも、ぬかもといふも同じく、願ふ詞也。このぬかもの事は、下【攷證六下十八丁】にいふべし。さて、一首の意は、しばらくもよどみたゆたふ事なく、あれかしといふ意也。
 
120 吾妹兒爾《ワキモコニ》。戀乍不有者《コヒツヽアラスハ》。秋芽之《アキハギノ》。咲而散去流《サキテチリヌル》。花《ハナ》爾《ナラ・ニアラ》有猿尾《マシヲ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。
戀つつあらんよりはにて、ずはは、んよりはの意也。
 
秋芽之《アキハギノ》。
芽《ハキ》は、秋を專らとする物ゆゑに、秋芽《アキハギ》とはいへるにて、春花《ハルバナ》夏葛《ナツグズ》などいへる類也。集中、芽とのみも、芽子ともかけり。子は、そへたる字也。和名抄草類云、鹿鳴草爾雅注云萩【且雷七肖二反音秋又焦】蒿也一名蕭【蘇條切、和名波岐、今案、牧名用2萩字1、萩倉是也、辨色立成。新撰萬葉集等、用2芽字1、唐韻芽語家反、草名也、國史用2芳宜草1、漢語抄云、又用v萩並本文不v詳】云々と見えたり。猶可v考。(頭書、 集中|芽子《ハギ》をいへる歌、百一首あるがうちに、茅と書るは、ここと六【廿四丁】に一處あるのみにて、誤りなる事明らかなれば改む。)
 
花《ハナ》爾《ナラ・ニアラ》有猿尾《マシヲ》。
舊訓、にあらましをとあれど、にあの反、ななれば、ならましをとよむべし。六帖にも、この歌をしか訓ぜり。ましをは、ましものをの意也。さて、一首の意は、吾妹子を、かくいたづらに、戀つつすぐさんよりは、秋はぎの、一度さきてとくちるごとく、ちりはてなましものをと、はぎの花にそへて、花といふものは、一度の榮はある物なれば、うらやみのたまへる也。この和歌、此卷はじめの此歌に、かくばかり戀つつあらずは、高山のいはねしまきて、しなましものをとのたまへると、おなじすがたなり。
 
(75)121 暮《ユフ》去《サラ・サレ》者《バ》。鹽滿來奈武《シホミチキナム》。住吉乃《スミノエノ》。淺香乃浦爾《アサカノウラニ》。玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
 
暮《ユフ》去《サラ・サレ》者《ハ》。
春さらば、秋さらばなどいふさらばと、同じ語にて、暮べにならばの意也。この事は、上【攷證一下七十六丁】にいへり。
 
住吉乃《スミノエノ》。淺香乃浦爾《アサカノウラニ》。
攝津住吉郡の中なれど、この外古く物に見えず。續後撰集戀二に、從三位行能、住吉のあさかのうらのみをつくし、さてのみ下にくちやはてなん云々とありて、この後は、あまたよめり。
 
玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
玉藻とは、藻をほめて、玉とはいへる也。てなの名《ナ》は、んの意也。この事は、上【攷證一上十七丁】にいへり。さて一首の意は、夕べにならば、しほ滿來ぬべし。しほのこぬ間に、玉もかりてんといふを、戀によせて、日ごろへば障《サハ》る事もあらんを、さはりなき中に、はやくあはんとのたまへる也。
 
122 大船之《オホフネノ》。泊流登麻里能《ハツルトマリノ》。絶多日二《タユタヒニ》。物《モノ》念《モヒ・オモヒ》痩奴《ヤセヌ》。人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
 
大船之《オホフネノ》。
字のごとく、大きなる船也。または、大は、例の物をほめたる言にてもあるべし。
 
泊流登麻里能《ハツルトマリノ》。
考に、船のゆきつきたるを、はつるといひ、そこにとまりやどるを、とまりといへり。されど、そを略きては、はつるといひて、とまる事をかねた(76)るぞ多き云々。泊の事は、上【攷證一下四十四丁】にいへり。
 
絶多日二《タユタヒニ》。
此卷【卅三丁】に、大船猶預不定見者《オホフネノタユタフミレハ》云々。十一【卅六丁】に、大船乃絶多經海爾重石下《オホフネノタユタフウミニイカリオロシ》云々。ともありて、また四【廿二丁】に、今者不相跡絶多比奴良思《イマハアハシトタユタヒヌラシ》云々。また【四十八丁】情多由多比不合頃者《コヽロタユタヒアハヌコノコロ》云々。七【五丁】に、海原絶搭浪爾《ウナハラノタユタフナミニ》云々。など、ただたゆたふともありて、舟の浪風にゆられ漂《タヽヨ》ふをも、またただためらひ、ただよふなをいへり。さて、上の二句は、ただにたゆたひといはん序にて、大船を泊りにはててあるが、浪風にゆられただよふごとく、ためらひただよふうちにと、のたまへる也。また七【卅四丁】に、吾情湯谷絶谷《ワカコヽロユタニタユタニ》云々。古今集戀一に、大ぶねのゆたのたゆたに云々とあるも、これと同じ。
 
物《モノ》念《モヒ・オモヒ》痩奴《ヤセヌ》。
本集四【四十九丁】に、念二思吾身痩奴《オモフニシワカミハヤセヌ》云々。十二【十五丁】に、戀可毛將痩相因乎無見《コヒカモヤセムアフヨシヲナミ》云々。十五【五丁】に、和我由惠爾於毛比奈夜勢曾《ワカユヱニオモヒナヤセソ》云々などありて、物思へば痩るもの也。文選 詩に、相去日已遠、衣帶日巳緩云々とあるも、このこころなり。
 
人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
皇女をいまだ得たまはぬほどなれば、他《ヒト》の兒とはのたまへる也。本集十一【三丁】に、海原乃路爾乘哉吾戀居《ウナハラノミチニノリテヤワカコヒヲラム》、大舟之由多爾將有人兒由惠爾《オホフネノユタニアルラムヒトノコユヱニ》云々などあるも、同じ。故爾《ユヱニ》は、なるものをといふ意にて、人づまゆゑになどいふ、ゆゑにといふ詞と同じ。この事は、上【攷證一上三十六丁】にいへり。一首の意は、人の子なるものを、思ひただよひてあるほどに、物思ひに(77)身もつかれて、身もやせぬと、句をうちかへして心得べし。
 
三方沙彌。娶2園臣生羽之女1。未v經2幾時1。臥v病作歌。三首。
 
三方沙彌。
父親不v可v考。考に、三方は氏、沙彌は常人の名なる事、上の久米禅師が下にいへり云々。この説、誤れり。書紀持統天皇紀に、六年十月壬申、授2山田史御形務廣肆1、前爲2沙門1、學2問新羅1云々とある、この人にて、三方は名、沙彌は僧なりしほどの官也。姓氏録、その外の書にも、三方といふ氏の見えざるにても、三方は氏ならざるをしるべし。また沙彌滿誓を、四【四十一丁】に、滿誓沙彌とかけるにても、三方は名なる事明らけし。さてこの人の事は、續日本紀に、慶雲四年四月丙申、賜2正六位下山田史御方布※[秋/鍬]鹽穀1、優2學士1也云々。和銅三年正月甲子、授2從五位下1云々。四月癸卯、爲2周防守1云々。養老四年正月甲子、授2山田史三方從五位上1云々。五年正月庚午、詔2三方等1、退v朝之《(マヽ)》、令v侍2春宮1焉云々。甲戊、賜2文章山田史御方※[糸+施の旁]六疋絲六約布十端鍬十口1云々。六年四月庚寅、詔曰、周防國前守、從五位上山田史御方、※[斬/足]《(マヽ)》臨犯v盗、理令2除免1、先經2恩降赦罪1已訖、然依v法備v贓、家無2尺布1、朕念御方負2笈遠方1、遊2學蕃國1、歸朝之後、傳2授生徒1、而文舘學士、頗解v屬v文、誠以不v矜2若人1、墮2斯道1歟、宜d特加2恩寵1、勿uv使v徴v贓焉云々など見えたり。
 
園臣生羽之女
本集六【三十七丁】左注に、三方沙彌、戀2妻苑臣1作歌云々ともありて、園臣生羽は、父祖官位不v可v考。新撰姓氏録に、園部、苑部首、園人首などいふ姓(78)氏は見えたれど、園臣は見えず。
 
三首。
是もとは一首とありつらんを、次の歌の端辭の落失し後に、後人の、三首とは直しゝなるべし。次の歌どもの、端辭の落失たらんと思はるるは、それ/”\に、かりに端辭を加へたり。上の、久米禅師の條と同例なれば、あはせ見るべし。
 
123 多氣婆奴禮《タゲバヌレ》。多香根者長寸《タガネバナガキ》。妹之髪《イモガカミ》。比來不見爾《コノコロミヌニ》。掻入《カキレ・ミダリ》津良武香《ヅラムカ》。【三方沙彌。】
 
多氣婆奴禮《タゲバヌレ》。多香根者長寸《タガネバナガキ》。
考に、あぶらつき、めでたき髪は、たがぬれば、ぬるぬると延垂《ノビタル》るものなるをいふ。多我《タガ》ぬればの、我奴《カヌ》の約、具《グ》にて、多具禮婆《タグレバ》とあるを、又その具禮《グレ》を約れば、牙《ゲ》となる故に、多《タ》氣波といへり云々とありて、ぬれを、ぬる/\也といはれしは、尤さる事なれど、多氣波《タゲバ》を、たがぬれば也といはれしは、たがへり。まづ、多氣波《タゲバ》とは、髪をたぐり揚《アグ》る事にて、たぐればの、ぐれの反、げなれば、多氣波《タゲバ》は、たぐれば也。本集九【卅五丁】に、髪多久麻庭爾《カミタグマデニ》云々。十一【十七丁】に、髪爾多久濫《カミニタグラム》云々とある、多具《タグ》は、たぐるの意にて、くるの反、く也。また十四【十九丁】に、古麻波多具等毛《コマハタグトモ》云々。十九【十一丁】に、馬太使由吉※[氏/一]《ウマタギユキテ》云々。などある、たぐともは、たぐるともの意、たぎゆきては、たぐりゆきてにて、くりの反、きなり。共に、馬の手綱《タヅナ》を、たぐるをいへり。また七【廿五丁】に、八船多氣《ヤフネタゲ》とあるを、本は鋼手《ヅナデ》をたぐる事なれど、それを轉じて、船を遣《ヤ》る事也。土佐日記に、ゆくりなく風ふき(79)て、たげども/\、しりへしぞきにしぞきて云々とあるも、本はたぐれども/\なれど、ここは綱手のおよぶまじき所にて、舟をやれどもやれどもの意也。これらを合せて、ここの多氣波《タゲバ》も、たぐり揚る意なるをしるべし。こは、中ごろより、髪あぐといふに同じ。奴禮《ヌレ》は、考の説のごとく、ぬる/\する事なる事は、本集十四【八丁】に、伊波爲都良比可婆奴流奴流《イハヰヅラヒカバヌルヌル》云々とあるを、また同卷【十三丁】に、伊波爲都良比可波奴禮都追《イハヰヅラヒカバヌレツヽ》云々とあるにても、奴禮は、ぬる/\の意なるを知るべし。多香根者《タガネバ》は、多氣《タゲ》と同じく、たぐりあげねばにて、ここの意は、髪をあぐれば、ぬる/\し、あげずうちたれおけて《(マヽ)》、髪の長くて、わづらはしと也。こは、髪の長きを、賞美したる意もこもりて、古へ、髪の長きをよしとせし事は、中ごろの物語ぶみにも、これかれ見えたり。さて、ちなみに、考別記の説をも、左にあげたり。考別記云、多氣婆《タゲバ》は、髪をたがねゆふをいへり。掻入《カキレ》といふも、同じ事也。凡、古への、女の髪のさま、末にも用あれば、くはしくいはん。そもそも、いときなきほどには、目ざしともいひて、ひたひ髪の、目をさすばかり生下れり。それ過て、肩《カタ》あたりへ下るほどに、末をきりて、はなちてあるを、放髪《ハナリガミ》とも、童放《ウナヰハナリ》とも、うなゐ兒ともいへり。八歳子《ヤトセゴ》と成ては、きらで長からしむ。それより十四五歳と成て、男うるまでも、垂てのみあれば、猶うなゐはなりとも、わらはともいへり。これらの事、卷三【今十三】に、歳八年乎斬髪之我何多乎過《トシノヤトセヲキリカミノワカカタヲスキ》云々。卷十八 今九 に、菟名負處女之《ウナヒヲトメノ》、八年兒之片生乃時從《ヤトセコノカタナリノトキユ》、小放爾髪多久麻庭爾《ヲハナリニカミタクマデニ》云々。卷十六に、橘寺之長屋爾吾率宿之《タチハナノテラノナカヤニワカヰネシ》、童女波奈理波《ウナヰハナリハ》、髪上都良武香《カミアゲツラムカ》云々などあり。かくて、そのゐねて後に、髪あげつらんかといへる、ここの沙彌が歌と似たり。【允恭天皇紀に、皇后曰妾自2結髪《カミアゲセシ》1陪2於後宮1、既經2多年1、かかれば、髪をあげて、内に參り給ひし也。】且、髪の事も、年のほどをもしるべし。後の事ながら、伊勢物語に、ふりわけ髪も肩すぎぬ、(80)君ならずしてたれかあぐべきてふも、是也。上つ代には、男の髪は、頂に、二處ゆひ、女は頂に一處にゆひつと見ゆ。【上つ代の髪の樣は、神代紀と、神功皇后紀、景行天皇紀などに、見ゆるを、よく考へてしるべし。こと繁ければ略けり。】そののちまでも、髪あげせしを、いと後に垂し事あるか。天武天皇紀に、髪を皆結せられし事ありて、又もとの如く、垂髪于背《スベシモトドリ》せよとの御|制《サタ》ありけり。さて、持統天皇の紀には、いかにともなくて、文武天皇の慶雲二年の紀に、令d天下婦女、自v非2神部齋宮人及老嫗1、皆|髻髪《カミアゲ》u【語在2前紀1至v是重制也】とあれば、其後すべてあげつらん。かくて、今京このかたの書には、ともかくも見えず。【卷四に、おほよそはたが見んとかも、 ぬば玉のわがくろ髪をなびけてあらんとよめるは、少女のかみあげせぬ前は、いと長く、こちたければ、私にまきあぐる事もある故にいふと見ゆ。たとはゞ、おちくぼ物語に、あこぎが一人して、よろづいそがしきに、髪をまきあげて、わざするに、主の前へ出るには、かきおろして出し事あるが如し。いせ物語の、高安の女の、髪をまき上て、家兒の飯もりしもこれ也。このくさ/”\をわけて、いはゞ、うるはしく髪上するは、はれ也。たれてをるは常也。まき上るといふは私なり。】物語ぶみらには、專ら垂たる樣を書たり。只《タヾ》續古事談てふ物に、高内侍、圓融院の御時、典侍辭しけれども、ゆるされざりければ、内侍所にこ屏風をたてて、さぶらひて、申す事ある時は、髪をあげて女官を多く具して、石灰壇にぞ候けると書り。後に垂る御制あらば、かくあらんや。あぐるこそ、後までも正しとせし事しるべし。うつぼ物語の、紀伊國吹上の卷に、女は、髪あげて、唐衣きでは御前に出ずといひ、國ゆづりにも、みな髪あげすと見えたり。かくて、そのあげたる形は、内宴の樣書たる古き繪に、舞妓の髪あげたる形と、御食まゐらする采女が髪あげたるひたひの樣、うなじのふくらなど大かたはひとしく、舞妓は寶髻をし、采女はさる※[金+芳]せぬ也。且和名抄に、假髪【須惠】以v假覆2髪上1也といひ、蔽髪【比多飛】蔽2髪前1也といへり。雅亮が、五節の事書るに、おきひたひ、すゑひたひといへるもこれ也。かの舞妓の、ひたひの厚く、中高きと、釆女がひたひのいと高からぬに、この二つの分ちあるべし。凡は、紫式部日記に、髪あげたる女房の事を、からの繪めきたりと樣に書(81)しもて、おもひはかるべし。
 
掻入《カキレ・ミダリ》津良武香《ツラムカ》。
舊訓、みだりつらんかとあれど、代匠記に、かきれつらんかとよみしによるべし。されど、六帖に、この歌をのせて、みだれつらんかとあれば、この訓も、いと古し。さて、掻人《カキレ》の、掻は、掻別《カキワケ》、掻《カキ》なで、かきはらひ、かきゝらしなどいふ、かきと同じく、次の語の意をつよくする詞にて、手して、物を掻《カク》事にあらず、入をれとのみいふは、かきの、きの引聲、いなれば、自らに、いははぶかるゝ也。袖にこきいるゝ事を、本集十八【廿八叮】に、蘇泥爾毛古伎禮《ソテコモコキレ》云々とある、同じ格なり。こは、髪をあげて、みだれたるを、掻いるゝ意にて、一首の意は、髪をあぐればぬる/\とし、あげざれば、髪の長くわづらはしかりし君が髪を、このごろ久しく病にふして見ざりし間に、髪あげして、その長かりし髪をも、かきいれつらんかといへる也。考に、このごろ病て、女のもとへ行で見ぬ間に、いかゞ髪あげしつらんか、あげまさりのゆかしてふ意なるべし。さて、童ざまに垂たりし髪を、あげをさむるを、かき入るといふべし云々。
 
三方沙彌。
この四字、印本大字なれど、元暦本によりて小字とす。上、久米禅師が歌の所にいへるがごとく、この三方沙彌が贈答の歌も、本はそれぞれに端辭のありつらんが、いつの世にか落失しを、さてはいづれ三方、いづれ娘子の歌とも、わからざれば、後人の注して、それ/”\に三方、娘子とはわきて、しるせる也。
 
(82)園臣生羽之女報贈歌。一首。〔園臣〜□で囲む〕
まへにもいへるがごとく、こゝに端辭のありしが落失し事、明らかにて、かく有べき例なれば、暇に文字を補へるなり。考には、園臣生羽之女和歌と補はれつるも、さる事ながら、上下のつゞきを考ふる《(マヽ)》、報贈歌とあるべき也。
 
124 人皆者《ヒトミナハ》。今波長跡《イマハナガシト》。多計登雖言《タゲトイヘド》。君之見師髪《キミガミシカミ》。亂有等母《ミダレタレドモ》。 娘子。
 
人皆者《ヒトミナハ》。
皆人はといふ意也。元暦本に、人者皆《ヒトハミナ》とあれど、例のさかしら也。そは本集五【廿一丁】に、
 
比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》云々。六【十三丁】に、人皆乃壽毛吾母《ヒトミナノイノチモワレモ》云々。また【十四丁】人皆之念人息而《ヒトミナノオモヒイコヒテ》云々。十一【十丁】に、人皆知吾裏念《ヒトミナシリヌワカシタオモヒ》云々。十二【二丁】に、人皆如去見耶《ヒトミナノユクナスミルヤ》云々などあるにてもおもふべし。
 
今波長跡《イマハナガシト》。
今は、年も男すべきほどに成たれば、髪もながしとて、みな人ごとに髪あげせよといへどゝ也。今波《イマハ》といふにて、この娘子、やう/\男すべきよはひなる事しらる。跡はとての意也。
 
君之見師髪《キミガミシカミ》。亂有等母《ミダレタレトモ》。
君ならずして、たれかわが髪をばあぐべき。されば、君に見え初しをりのすがたをば、わたくしにはかへじとて、髪はみだれてあれども、もとのまゝにておけりと也。どもといふに、萬《タリ》の意をふくめたり。伊勢物語に、くらべこしふりわけ髪もかたすぎぬ、君ならずしてたれかあぐべき云々といへるも、この歌に似たり。
 
(83)娘子
この二字、印本なし。元暦本によりて補ふ。
 
125 橘之《タチハナノ》。蔭履路乃《カケフムミチノ》。八衢爾《ヤチマタニ》。物乎曾念《モノヲソオモフ》。妹爾不相而《イモニアハステ》。 三方沙彌。
 
橘之《タチハナノ》。
和名抄菓類に、兼名苑云橘【居密反】一名金衣【和名太知波奈】云々と見えたり。田道間守が、常世國より、もてこし事などは、人皆しれる事なればいはず。書紀雄略天皇十三年紀に、餌香市邊橘本とありて、古へ都の大路市町に、樹を植給ひし事ありと見えて、本集三【廿五丁】に、門部王詠2東市之樹《ヒムカシノイチノキ》1作歌、東市之殖木乃木足左右《ヒムカシノイチノウヱキノコタルマテ》云々ともあり。古事記中卷の和歌に、和賀由久美知能迦具波斯波那多知婆那波《ワカユクミチノカクハシハナタチバナハ》云々。本集六【卅七丁】に、橘本爾道履《タチハナノモトニミチフミ》、八衢爾物乎曾念《ヤチマタニモノヲソオモフ》、人爾不所知《ヒトニシラレデ》云々などもあるにて、橘を道路に植し事をしるべし。橘のかげふむみちとは、橘の木かげをふみてゆく道也。(頭書、道路に菓樹を植る事、【攷證三上七十五丁】。六【卅七丁】に載たる歌は、をりに合せて、この歌を改め誦したる也。)
 
八衢爾《ヤチマタニ》。
古事記上卷に、居2天之|八衢《ヤチマタ》1、而上光2高天原1、下光2葦原中國1之神云々。本集十二【十二丁】に、海石榴市之八十衢爾《ツハイチノヤソノチマタニ》云々。道饗祭祝詞に、大八衢湯津磐村之如久塞座《オホヤチマタニユツイハムラノコトクフサカリマス》云々などありて、八《ヤ》は彌《イヤ》の略にて、ちまたの方々へ、ゆきわかれて、數多きをいふ。爾雅釋宮に、四達謂2之衢1云々と見えて、今いふ四ツ辻なれば、一方《ヒトカタ》ならず、物思ふといふ序に、おけるにて、こゝの意は、橘は、道のほとりに植てあるものなれば、其橘の木かげを、ふみつゝゆく道の、ちまたのかなたこなたに、わかれたるがごとく、一方ならず物を思ふと也。この下の句は、妹爾不相(84)而物乎曾思《イモニアハステモノヲソオモフ》と、句をうちかへして心得べし。(頭書、爾は如くの意也。この事、上【攷證一下卅八丁】にいへり。)
 
石川女郎。贈2大伴宿禰田主1歌。一首。
 
石川女郎。
上に石川郎女、石川女郎などあると、同人か別人、しりがたし。これらの事は、上に久米禅師娉2石川郎女1とある處にいへり。
 
大伴宿禰田主。
元暦本に、即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也とあり。佐保大納言は、安磨卿をいへり。
 
126 遊士《ミヤビヲ・タハレヲ》跡《ト》。吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》。屋戸不借《ヤトカサス》。吾乎還利《ワレヲカヘセリ》。於曾能《オソノ》風流士《ミヤヒヲ・タハレヲ》。
 
遊士《ミヤビヲ・タハレヲ》跡《ト》。
舊訓、たはれをとゝあるを、考には、みやびをとゝよみ直されしかど、宣長が、遊士、風流士を、考に、みやびとゝ訓れたるにつきて、猶思ふに、さては、宮人と聞えて、まぎらはし。然れば、みやをと《(マヽ)》よむべし。この稱は、男に限れり。八卷【十六丁】に、※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾遊士之※[草冠/縵]之多米等《ヲトメラカカサシノタメニミヤヒヲカカツラノタメト》云々。これ、をとめに對へて、いへれば、必男といふべき也、云々といはれしにしたがふ。みやびの、びは、ひなびなどいふ、びと同じく、ぶりの意にて、宮ぶりしたる男といふ也。本集五【十九丁】に、烏梅能波奈伊米爾加多良久《ウメノハナイメニカタラク》、美也備多流波奈等阿例母布《ミヤビタルハナトアレモフ》、左氣爾宇可倍許曾《サケニウカヘコソ》云々とありて、みやびの意は、本は宮ぶりなれど、そを轉じて、風流の字をよめる意にて、おもむきある事を、みやびとはいへる也。
 
(85)於曾能《オソノ》風流士《ミヤビヲ・タハレヲ》。
 
於曾《オソ》は、本集九【十九丁】に、常世邊可住物乎《トコヨヘニスムヘキモノヲ》、劍刀己之心柄《ツルキタチナカコヽロカラ》、於曾也是君《オソヤコノキミ》云々。十二【三丁】に、山城石田杜《ヤマシロノイハタノモリニ》、心鈍手向爲在《コヽロオソクタムケシタレハ》、妹相難《イモニアヒカタキ》云々などあり。又源氏物語蓬生卷に、さやうの事も、心おそくて云々。橋姫卷に、おどろかざりける心おそさよと云々などもありて、十二に、心鈍をこゝろおそくよめる意にて、にぶくおろかなるをいへり。さて一首の意は、遊士《ミヤヒヲ》なりと、かねてより聞わたりて、戀にたへずして、わがゆきつるを、宿かさずして、すげなくかへせるは、みやびをなりと、人にいはるゝにも似ず、情もおもむきもなく、物のあはれもしらぬ心おそきみやびを也と、たはぶれいへる也。また後に、おくるゝをおそしといへるも、心おくれたる意にて、もとは一つ言なり。
 
大伴田主。字曰2仲郎1。容姿佳艶。風流秀絶。見人聞者。靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1。恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書。未v逢2良信1。爰作2方便1。而似2賤嫗1。已提2鍋子1。而到2寢側1。※[口+更]音跼足。叩v戸諮曰。東隣貧女。將v取v火來矣。於v是。仲郎。暗裏非v識2冒隱之形1。慮外不v堪2拘接之計1。任v念取v火。就v跡歸去也。明後。女(86)郎。既恥2自媒之可1v愧。復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1。以贈謔戯焉。
 
字曰2仲郎1。
字の事は、上にいへり、仲は、中とも、次とも通じ、郎は、韻會に、男子之稱とありて、田主は、佐保大納言第二子とあれば、仲郎とは人のよべるなり。
 
雙栖之感。
雙栖は、劉庭芝詩に、與v君相向轉相親、與v君雙栖共一身云々。白居易詩に、夜妬燕雙栖云々などありて、ならび住事也。感はふかく思ふ意也。
 
獨守之難。
獨守は、群玉韻府、引2古詩1云、蕩子行不v歸、空牀難2獨守1云々とありて、獨つゝしみ守るをいひ、難はそのつゝしみまもる事のかたきをいへり。
 
良信。
良信は、韻會小補に、古者謂v使曰v信也、而今之流俗、遂以v遣2※[食+鬼]物1爲v信、故謂2之書信手信1、而謂前人之語、亦然、不3復知2魏晋以還、所v謂信者、乃使之別名1耳云々とありて、よきつかひなり。
 
方便。
翻譯名義集卷七、引2淨名疏1云、方是智所v詣之偏法、便是菩薩權巧用之能巧、用2諸法1隨v機利v物、故云2方便1云々と見えたり。
 
鍋子《ナベ》。
和名抄瓦器類に、辨色立成云、※[土+鍋の旁]【古禾反、奈閉、今案、金謂2之鍋1、瓦謂2之※[土+鍋の旁]1、字或相通】云々とありて、土にて造りたるを、※[土+鍋の旁]とかき、銅鐵などにて造りたるを、鍋とはかけり。子は、合子、瓶子、銚子などの子と同じく、付たる字なり。
 
(87)※[口+更]音。
※[口+更]は、字鏡集、假字玉篇等に、むせぶとよめり。韻會に、咽塞也と注せり。老人は、むせぶ物なれば、賤嫗に似せて、聲づくりする也。
 
跼足。
跼は、字鏡集、假字玉篇等、かゞまるとも、せぐゝまるともよめり。これも、老人の背かゞまりたるさま也。足はたゞ付たる文字也。※[口+更]の一字にても、むせぶ事なるを、下へ音の字を付たるにても思ふべし。さて、竹取物語に、こしもかゞまり、目もたゞれにけり。翁、今年、五十ばかりなりけれども、物思ひには、かた時になん、老になりにけり云々。源氏物語若紫卷に、老かゞまりて、むろのとにもまかでずと申たれば云々。扶木抄卷一に、仲正、かたくなや、しりへのそのに若菜つみ、かゞまりありく翁すがたよ云々などあるにても、老人の背かゞまりたる事をしるべし。
 
諮。
諮は、玉篇に、子詞切、問也、謀也とあり。はかるとよむべし。※[口+更]音跼足などして、老嫗に似せてはかる也。
 
冒隱之形。
冒は、玉篇に、亡到切、覆也とあり。こは、おほひかくれたるかたちをしらざる也。
 
拘接之計。
拘は、玉篇に、恭于切、説文止也とありて、接は、玉篇に、子葉切、交也とあり。女郎がすがたをかくして、賤嫗のさまをして、火を取にきたるをぐらさに、それとしらざれば、とゞめおきて、交り通ぜざりしなり。
 
(88)就v跡歸去。
就v跡は、戸を叩て、入來たるその跡よりいでゝかへりさりしなり。
 
謔戯。
謔、印本、諺に作るは誤り也。いま元暦本によりて改む。謔は、説文に戯也云々。玉篇に、喜樂也云々とあれば、二字にて、たはぶるゝ意也。この歌を作りて、そを以てたはぶれをいひおくれりとなり。
 
大伴宿禰田主。報贈歌。一首。
 
127 遊士《ミヤビヲ・タハレヲ》爾《ニ》。吾者有家里《ワレハアリケリ》。屋戸不借《ヤトカサス》。令還吾曾《カヘセルワレソ》。風流士《ミヤビヲ・タハレヲ》者《ニハ・ニ》有《アル》。
 
風流士者有《ミヤビヲニハアル・タハレヲニアル》。
舊訓、たはれをにあるとあれど、者の字あれば、みやびをにはあるとよむべし。一首の意は、君がおぞのみやびを也と、のたまへど、うちつけに、ゆくりなく來給ひつるには、あはで、かへしゝこそ、なか/\に心ある事にて、みやびをのするわざなれと、またたはぶれいひおくりしなり。
 
石川女郎。更贈2大件宿禰田主1歌。圍一首。
 
印本、石川女郎の上、同の字、田主の下、仲郎の二字ありて、宿禰の二字なし。いま目録によりてあらたむ。
 
(89)更。
左の歌を、まへの二首の贈答と、同し度の歌にあらずとて、考には、更の字をはぶかれしかど、更は、論語子張篇集解、國語越語注などに、更改也とありて、改むる意なれば、ここも別にあらためおくれる也。
 
128 吾聞之《ワガキヽシ》。耳爾好似《ミヽニヨクニハ》。葦若未乃《アシカビノ》。足《ア・アシ》痛吾勢《ナヘグワガセ》。勤多扶倍思《ツトメタブヘシ》。
 
吾聞之《ワカキヽシ》。耳爾好似《ミヽニヨクニバ》。
代匠記に、わかきくがごとくならば也云々といへるがごとく、本集十一【廿一丁】に、言云者三々二田八酢四《コトニイヘバミヽニタヤスシ》云々とあると同じく、耳は聞ことにて、わがきゝし、そのきゝしがごとくならばてふ意也。
 
葦若未乃《アシカビノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。葦かびは、葦の萠出しにて、則葦の苗《ナへ》なれば、葦かびの、葦苗《アシナヘ》と、詞を重ねたるを、轉じて、足痛《アナヘグ》とはつゞけし也。さて、印本、葦若未とあれど、宣長が、若未を、かびとは、訓がたし。卷十長歌に、小松之若末とあるは、うれとよめれば、こゝもあしのうれのとよみて、足痛はあなへぐとよまんか。蘆芽は、なゆるものにあらず。一本若生とあるによらば、かびとよむべし云々といはれしによりて、若生とあらたむ。未は、生の誤りなる事、明らかなれば也。又ある人、若未とよめるは、若《カ》は、わかの略訓、未《ビ》はもとよりの音にて、論なしといへれど、未をびの假字に用ひし事、古書に見えず。
 
(90)足《ア・アシ》痛吾勢《ナヘグワカセ》。
舊訓、あしなへぐわがせとよみ、考には、あしなへわがせと、よまれしかど、あなへぐわがせとよむべし。足をあとのみいふは、本集十四【卅丁】に、安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》云々とあるも、足なやむにて、足掻《アガキ》、足結《アユヒ》などいふたぐひ也。さて、足痛《アナヘグ》は、新撰字鏡に、※[馬+蹇]【才安反足奈戸久馬】云々。和名抄病類に、説文云蹇【音犬訓阿之奈閇此間云奈閇久】云々などありて、あしの病也。物の委《ナエ》たるといふとは、かなもたがひて別也。
 
勤多扶倍思《ツトメタフヘシ》。
考に、このつとめは、紀【推古】に、自愛の字を、つとめと訓しが如く、たぶべしは、給ふべし也。堪べしといふにあらず云々といはれしがごとく、病を自愛したまへといふ也。給ふを、たぶといふは、集中たまはるを、たばるといふ類也。この事は、下【攷證八下】にいふべし。さて、一首の意は、わがきゝしごとく、足の病ましまさば、わがせこよ、つとめて養生したまふべしといへるにて、前の二首の贈答の歌のつゞきにあらず。別におくりし也。
 
右依2中郎足疾1。贈2此歌1問訊也。
 
前には、仲郎とかき、こゝには中郎とかけり。仲と中と通ずる事は、まへにいへるがごとし。
 
大津皇子宮(ノ)侍《マカダチ》。石川女郎。贈2大伴宿禰宿奈麿1歌。一首。
 
(91)大津皇子。
この皇子の御事は、上にいへり。元暦本、津の字の傍に、朱にて伴一本としるせり。大伴皇子は、書紀には、大友とかきて、天智の皇子也。こゝは、いづれか是ならん。
 
侍。
侍、印本待に誤れり。いま目録と古本に依てあらたむ。さて、書紀神代紀に、侍者、遊仙窟に、侍婢などを、まかだちとよめるによりて、こゝもしかよむべし。こは、皇子の御前にて、つかはるゝ侍女なり。考には、大津皇子宮侍の六字を、はぶかれしかど、こは、まへの石川女郎とは、同名異人なるをしらしめんとて、かけるにて、こゝろあることゝおぼし。
 
石川女郎。
元暦本に、女郎字曰2山田郎女1也と注せり。また、本集二十【五十七丁】左注に、藤原宿奈麿朝臣之妻、石川女郎とあり。こは、藤原宇合卿の男、良繼公、はじめ、宿奈麿といはれしが、同名なるによりて、氏を誤れるなり。
 
大伴宿禰宿奈麿。
元暦本に、宿奈麿宿禰者、大納言兼大將軍之第三子也と注せり。こは、安磨卿をいへる也。さて、續日本紀に、和銅元年正月乙巳、授2從六位下大伴宿禰宿奈麻呂從五位下1云々。五年正月戊子、授2從五位上1云々。靈龜元年五月壬寅、爲2左衛士督1云々。養老元年正月乙巳、授2正五位下1云々。三年七月庚子、始置2按察使1、令d正五位下大伴宿禰宿奈麻呂管c安藝周防二國u云々。四年正月甲子、授2正五位上1云々。神龜元年二月壬子、授2從四位下1云々と見えたり。卒年不v詳。また同時に、大納言阿倍宿奈麻呂卿あり。また良(92)繼公の前名を、宿奈麻呂といへり。みな同名なるのみ。
 
129 古之《フリニシ・イニシヘノ》。嫗《オミナ・オウナ》爾爲而也《ニシテヤ》。如此許《カクバカリ》。戀爾將沈《コヒニシヅマン》。如手童兒《タワラハノゴト》。【一云。戀乎太爾《コヒヲタニ》。忍金手武《シヌヒカネテム》。 多和良波乃如《タワラハノコト》】
 
古之《フリニシ・イニシヘノ》。
考に、齡のふりし也。今本、いにしへのと訓しは、この歌にかなはず云々といはれつるがごとし。
 
嫗《オミナ・オウナ》爾爲而也《ニシテヤ》。
考云、紀に、老此云2於由1といひ、卷九に、意余斯遠波《オヨシヲハ》とあるは、老《オイ》しをば也。これに依に、嫗は、於與奈《オヨナ》とよむべし、此|與《ヨ》を、伊乎《イヲ》の約とする時は、於伊乎美奈《ヲイヲミナ》てふ言となれば也。和名抄に、嫗【於無奈】老女之稱也とあるは、例も見えず、言の意もおぼつかなし。思ふに、この無は、與を誤りしにやあらん云々。宣長云、嫗を、考におよなと訓れたるは、強事也。およなといふ稱あることなし。をみなに對へて、嫗をおんなといふ事は、和名抄のみならん(ずカ)、古書に、これかれ見えたる物をや云々。この二説誤れり。嫗をおよなといふことは、いふまでなき誤りにて、おんなといふも、おうなといふと、同じく、音便にくづれし也。新撰字鏡に、※[女+長]【於彌奈】とありて、※[女+長]の字、漢土の書に見えざれば、中國製作の字なるべけれど、字のさまを思ふに、老女のことゝこそ思はるれ。そのうへ、續日本紀卷五に、大伴宿禰御行之妻、紀朝臣音那とあるを、卷十三には、紀朝臣|意美奈《オミナ》とあれば、音那をも、おみなとよむべき事しらる。これらにつきて、嫗をも、おみなとよむべし。女を、古書に、多く乎美奈《ヲミナ》といふを、音便にをんなといふにても、和名抄に、於無奈《オムナ》とあるは、音便にて、正しくは、於美奈《オミナ》といふべきをしるべ(93)し。また、靈異記中卷に、嫗【於于那】とあるも、古けれど、音便なり。また、土佐日記に、童ごとにては何かはせん。おんなおきなにをしつべし云々。枕草子に、すさまじきもの、おうなのけさう云々とありて、猶おんなとも、おうなとも、これかれに見ゆるは、皆音便なり。さて爾爲而也《ニシテヤ》は、本集一【十八丁】に、此也是能倭爾四手者《コレヤコノヤマトニシテハ》云々とある、にしてと同じく、にての意也。集中猶多し。この事、下【攷證三上五十四丁】にもいへり。
 
如手童兒《タワラハノゴト》。
 
本集四【卅四丁】に、幼婦常言雲知久《タワヤメトイハクモシルク》、手小童之哭耳泣管徘徊《タワラハノネノミナキツツタモトホリ》云々ともありて、たわらはの、たは、發語にて、たもとほり、たばしる、たわすれ、たとほみ、などいふ類の、た也。是を、代匠記、考等に、母の手をはなれぬほどの、わらはなれば、たわらはとはいふよしいへるは、たがへり。さて、一首の意は、年ふりし嫗《オミナ》の身にて、ありながら、かくばかり、戀に思ひしづめるは、いかなる事ぞ。わらはなどの、物に思ひしづみて、なきいさつがごとしと也。
 
一云。戀《コヒ》乎太爾。忍金手武。多和良波乃如。
 
この十六字、印本大字。いま元暦本によりて小字とす。太を大に誤る。いま意改。良を郎に誤る。元暦本によりて改む。
 
長皇子。與2皇弟1御歌。一首。
 
(94)皇弟。
書紀天武天皇二年紀に、妃大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1云々とあり。こゝに、皇弟とあるは、弓削皇子をさし奉るなるべし。
 
130 丹生乃河《ニフノカハ》。瀬者不渡而《セハワタラズテ・セヲバワタラデ》。由久遊久登《ユクユクト》。戀《コヒ》痛《タム・イタム》吾弟《ワガセ》。乞通來禰《コチカヨヒコネ》。
 
丹生乃河《ニフノカハ》。
大和志云、吉野郡丹生川、源自2吉野山及赤瀧山1、經2河分長瀬1、達2丹生社前1、經2歴長谷西山貝原小古田河岸城戸河合黒淵大日川向加名生魚梁瀬和田江出老野等1、過2瀧村1、入2宇智郡1云々と見えたり。
 
瀬者不渡而《セハワタラズテ・セヲバワタラデ》。
舊訓、せをばわたらでとよめれど、者の一字を、をばとよむべきよしなし。今のごとくよむべし。
 
由久遊久登《ユクユクト》。
代匠記に、ゆく/\とは、第十二、十三などに、大舟のゆくら/\とよめる、おなじ。俗語に、ゆくりとしてといふも是也。ゆる/\とと、つねにいふ心なり云々とあるにしたがひて、略解にも、物思ひにおもひたゆたふ也といへれど、これらあまりに思ひすぐしたる説也。拾遺集別に、贈太政大臣、君がすむ宿のこずゑの、ゆく/\とかくるゝまでにかへり見しはや云々とあるは、菅家の御歌なれば、菅家は、この御歌の由久遊久等《ユクユクト》を、行行とと心得給ひしと見えたり。これによりて、こゝをば、行々とと心得べし。まへに、丹生の川、瀬はわたらずてといひくだしたるにては、行々の意なるをしるべし。
 
(95)戀《コヒ》痛《タム・イタム》吾弟《ワガセ》。
略解に、戀痛は、いと戀しきを、強くいふ詞也。愛するを、愛痛《メデタキ》といふがごとし云々といへるは、誤れり。戀痛《コヒタム》の、痛《タム》は、借字にて、船を※[手偏+旁]多武《コギタム》、※[手偏+旁]多味《コギタミ》【この事は上攷證一下四十五丁にいへり。】などいふ多武《タム》と同じく、また、本集十一【三丁】に、崗前多味足道乎《ヲカノサキタミタルミチヲ》云々ともありて、こは、集中囘轉などの字をも、よみて、ものなづみゆく意にいへり。されば、こひたむの、たむは、まへのゆく/\とへかゝりて、戀になづみて、行たむ意也。吾弟《ワガセ》の弟《セ》は、上【攷證一上三丁】にいへるがごとく、親しみ敬ふ意にて、男どもち、せといへり。この事は、下【攷證三上十四丁】に、くはしくいふべし。こは、略解に、わがせは親しみ敬ふ言實を以、弟の字を用ひたり。和名抄、備中賀夜郡、弟翳 勢 庭妹【爾比世】などもあり云々といへるがごとく、弟をせとのたまへる也。遊の字、印本※[しんにょう+(竹/夾)]に誤れり。今拾穗本に依て改む。
 
乞通來禰《コチカヨヒコネ》。
略解に、いでは、字のごとく、物を乞詞也。允恭紀二年云々、謂2皇后1曰云々、壓乞戸母云々。注に、壓乞此云2異堤《イデ》1、戸母此云2覩自《トジ》1とあり云々とて、いでかよひこねとよめりしは、いかゞ。舊訓のまゝ、こちとよむべし。そは本集七【六丁】に、吾勢子乎乞許世山登《ワカセコヲコチコセヤマト》云々とありて、また六【十二丁】七【十丁】十二【十五丁】などに、越乞《ヲチコチ》とも、かきたるにても思ふべし。さて、こちといふも、ねがふ意、禰といふも、下知の詞にて、何とぞ、こなたへかよひこよかしといふ意也。さて一首の意は、丹生の川の、瀬をばわたらずして、行くとて、行道に戀なづみたり。わがせの君よ。何とぞ、こなたへかよひこよかしと也。今世、此方といふを、こちといふも、これらよりうつりしなるべし。
(以上攷證卷二上册)
 
(96)柿本朝臣人麿。從2石見國1。別v妻上來時歌。二首并短歌四首。
 
妻。
考云、人萬呂の妻の事は、別記にいへるがごとく、くさ/”\の考へあり。こゝなるは、嫡妻にあらず云々。別記云、人まろが妻の事は、いとまどはしきを、心みにいはん。始め後かけて、四人か。そのはじめ、一人思ひ人、一人は妻なりけんを、共に死て、後に、又妻と思ひ人と有しなるべし。【始め二人の中に、一人は妻也。後二人も一人は妻と見ゆ。しかるを惣て妻と書しは、後に誤れるならん。】何ぞといはゞ、この卷の挽歌に、妻の死時、いためる歌二首、並載たるに、初一首は、忍びかよふほどに死たるを、悲しむ也。次の一首は、兒ある女の死を悲しむめれば、こゝは嫡妻なりけん。【これらは石見の任よりはいと前なり。】かくて、後に石見へまけて、任の中に京へ上る時、要に別るとて、悲しめる歌は、考にいふが如し。【石見に別れしは、久しく戀し女に、逢初たるころ故に、深き悲しみにありけん。嫡妻は、むつまじき事なれど、常のこゝちには、かりそめのわかれを甚しく悲しむべくもあらず。】然れども、考るに、こは妻といふにはあらで、石見にて、そのころ通ひそめし女ならん。其歌に、さぬる夜はいくばくもあらで、はふつたの別れしくればとよみたれば也。又その別れの歌についでゝ、人麿妻依羅娘子、與2人麿1別時歌とて、思ふなと君はいへども、あはん時いつと知てか、吾こひざらんとよみしは、載し次でによらば、かの石見にて別れしは、即この娘子とすべきを、下に、人まろの、石見にありて、身まからんずる時、しらずと妹がまちつゝあらんとよみ、そを聞て、かの娘子、けふ/\とわが待君とよみたるは、大和にありてよめるなれば、右の、思ふなと君はいへどもてふは、石見にて別るゝにはあらず。こは、朝集使にて、かりにのぼりて、やがて又石見へ下る時、むかひ女依羅娘子は、本より京に留りて、ある故に、かくよみつらん。【國の任に妻をばゐてゆかざるも集中に多し。】あはん時いつとしり(97)てかといふも、かりの別と聞えざる也。然れば、かの妻の死て後の妻は、依羅娘子なるを、任には、ゐてゆかざりしもの也。人まろ、遠き國に年ふれど、この娘子、他にもよらでありけんも、かりの思ひ人ならぬはしらる云々といはれつるが如し。されど、下に至りて本文を改められしは誤り也。古へは夫婦たがひにつまといひ、又かりそめにかよふ女をも、つまといへる事、常の事也。書紀貴行紀に、弟橘姫の事をいへる所に、日本武尊の妾とかゝれしを、後に日本武尊の、吾嬬者耶《アカツマハヤ》とのたまひ、これを古事記には、日本武尊の后とせり。かく定まれる事なく、いろ/\に書るを見ても、古へは、今の如くたしかに定れる事なきをしるべし。
 
上來時。
考云、この度は、朝集使にて、かりに上るなるべし。そは、十一月一日の官會にあふなれば、石見などよりは、九月の末、十月のはじめに立べし。仍て、この歌に黄葉の落をいへり。
 
四首。
この二字、原本なし。集中の例によりて補ふ。
 
131 石見乃《イハミノ》海《ミ・ウミ》。角《ツヌ・ツノ》乃浦回乎《ノウラワヲ》。浦無等《ウラナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。滷無等《カタナシト》。【一云。礒無登。】人社見良目《ヒトコソミラメ》。能咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者無友《ウラハナクトモ》。縱畫屋師《ヨシヱヤシ》。滷者《カタハ》【一云。礒者。】無鞆《ナクトモ》。鯨魚取《イサナトリ》。海邊乎《ウナヒヲ》(98)指而《サシテ》。和多豆乃《ニキタヅノ》。荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》。香青生《カアヲナル》。玉藻息津藻《タマモオキツモ》。朝羽振《アサハフル》。風社依米《カゼコソヨラメ》。夕羽振流《ユフハフル》。浪社來縁《ナミコソキヨレ》。浪之共《ナミノムタ》。彼縁此依《カヨリカクヨリ》。玉藻成《タマモナス》。依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》。【一云。波之伎余思。妹之手本乎。】露霜乃《ツユシモノ》。置而之來者《オキテシクレバ》。此道乃《コノミチノ》。八十隈毎《ヤソクマコトニ》。萬段《ヨロツタビ》。顧爲騰《カヘリミスレド》。彌遠爾《イヤトホニ》。里者放奴《サトハサカリヌ》。益《イヤ・マス》高爾《タカニ》。山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。夏草之《ナツクサノ》。念之奈要而《オモヒシナエテ》。志怒布良武《シヌフラム》。妹之門將見《イモガカドミム》。靡此山《ナビケコノヤマ》。
 
石見乃《イハミノ》海《ウミ・ミ》
考云、紀【神功】に、あふみの海を、阿布彌能彌《アフミノミ》とあれば、今も、うみのうを略きよむ也。下もならへ云々といはれつるが如し。
 
角《ツヌ・ツノ》乃浦回乎《ノウラワヲ》。
和名抄郷名に、石見國那賀郡都農【都乃】云々とある、これ也。されど、本集十七【八丁】に、角の松原を、都努乃松原《ツヌノマツハラ》とかき、古事記中卷に、角鹿を都奴賀《ツヌガ》とかきたれば、こゝもつぬのうらとよむべし。浦囘《ウラワ》は、島囘《シマワ》、磯囘《イソワ》などいふ、囘《ワ》と同じく、いりくまり、わだかまれる所をいへり。この事は、上【攷證一下十四丁】にいへり。
 
浦無等《ウラナシト》。
考云、浦は裏《ウラ》にて、※[さんずい+内]《イリ》江をいふ。こゝに、浦無といふは、設て、まづかくいふとするはわろし。次に、潟無といふは、北の海に、干潟てふ事のなきをもていふに、對(99)へし心なれば、これも、實もていふべし。然るを、この國の海に、よき湊ありといへり。右の理りもて思へば、其湊は、他にあるにて、角の浦には、古しへなかりしにや云々といはれつるがごとし。
 
人社見良目《ヒトコソミラメ》。
谷川士清云、社をこそとよむは、日本紀に見えたり。神社は、祈請の所なれば、乞の字義かよへり。姓の古曾部も、日本紀に社戸と書り。比賣古曾も、和名抄に姫社と書り。式、伊勢國奄藝郡に、大乃己所神社見ゆ。今、大古曾村といふ。三重郡に、小許曾神社あり。今小社といへり。多氣郡に、流田上|社《コソ》神社あり。近江上許曾神社に訓同し云々。この説のごとく、乞を、集中こそとよみて、もて願ふ意なれ《(マヽ)》、社を、義訓して、こそとはよめるなるべし。久老が説に、社をこそと訓は、木苑《コソ》の意、則卷十六、に死者木苑《シナバコソ》と書たりといへるは非也。見良目は、後世、見るらめ、見るらんなどいふと同じ。宣長云、見らん、見ともなど、是は、後世の格をもて思へば、見るらん、見るともの、るを略けるが如く聞ゆめれど、さにはあらず。すべて、萬葉には、みな、見らん、見ともとのふいひて、見るらん、見るともといへるは、一つもなし。これもとより、しかいふべき格の言なれば也。十の卷、十一のひらに、春の野のうはぎ、つみてにらしもといへる、にらしも同じ格にて、後世ならば、これもにるらしといふべきを、にらしといへり。見らんは、古今集の歌にもあり云々。
 
滷無等《カタナシト》。一云礒無登。
和名抄涯岸類云、文選海賦云、海溟廣潟【思積反與v昔同師説加太】云々。また玉篇に、潟【鹵亦反或滷字】云々とありて、潟、滷、義かよへり。干潟をいふ也。
 
(100)能咲八師《ヨシヱヤシ》。
本集十【二十七丁】に、吉哉雖不直《ヨシヱヤシタヾナラズトモ》云々。また【五十七丁】忍咲八師不戀登爲跡《ヨシヱヤシコヒシトスレド》云々。十一【四丁に】、吉惠哉不來座公《ヨシヱヤシキマサヌキミヲ》云々などありて、集中猶多し。また十一【十六丁】に、心者吉惠君之隨
意《コヽロハヨシヱキミカマニマニ》云々ともありて、よしゑやしの、ゑと、しとは、助字にてよ、しやといふを、のべていへる也。し文字の助字は、常のこと也。ゑもじの助字は、十四【十二丁】に、安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》云々。書紀天智紀、童謡に、愛倶流之衛《エクルシヱ》、奈疑納母騰《ナギノモト》、制利能母騰《セリノモト》、阿例播倶流之衛《アレハクルシヱ》云々などあるゑもじもおなじ。
 
浦者《ウラハ》無《ナケ・ナク》友《トモ》。
宣長云、無友、無鞆は、ともに、なけどもとよむべし。なけれどもの、れを略て、しかいふは、古言の例にて、集中に多し云々といはれつるが如く、なけどもとよむべし。次の或本歌に、雖無《ナケトモ》とかきたるにてもおもふべし。さて十三【三丁】に、隱來笶長谷之河者《コモリクノハツセノカハハ》、浦無蚊船之依不來《ウラナキカフネノヨリコヌ》、磯無蚊海部之釣不爲《イソナキカアマノツリセヌ》、吉咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモ》、吉畫矢志礒者無友《ヨシヱヤシイソハナクトモ》云々とよめるとよく似たり。
 
鯨魚取《イサナトリ》。
枕語也。久老云、萬葉二に、鯨魚取淡海《イサナトリアフミ》の海とある、いかに思ひても、湖水にして、鯨取とはいふまじく、又卷六に、いさなとり濱びをきよみとあるも、鯨魚取としては、いかにぞや、おぼゆる故、つら/\按に、師説に、伊佐利《イサリ》と、須奈杼利《スナドリ》は、同語にて、須奈杼利と、伊佐奈登利《イサナトリ》と通へば、同じといはれしは、あたれりといふべし。然れば、伊佐奈取は、漁《スナドリ》の本語にして、萬葉に、鯨魚、勇魚と書しは、すべて假字とすべし云々といへるによるべし。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
 
(101)海邊《ウミベ・ウナビヒ》乎指而《ヲサシテ》。
集中、海邊とあるを、舊訓にも、多くうなびとよみて、本集五【十七丁】に、乎加肥爾波宇具比須奈久母《ヲカビニハウグヒスナクモ》云々。また【三十一丁】大伴御津濱備爾《オホトモノミツノハマビニ》云々。十四【四丁】に、可須美爲流布時能夜麻備爾《カスミヰルフジノヤマビニ》云々。また【八丁】奈都蘇妣久宇奈比乎左之※[氏/一]等夫登利乃《ナツソヒクウナビヲサシテトフトリノ》云々ともあれば、こゝの海邊の字をも、うなびとよまんかとも思へど、邊を、ぴのかなに用ひし所もなく、十八【八丁】に、波萬部余里和我宇知由可波《ハマベヨリワガウチユカハ》、宇美邊欲利牟可倍母許奴可《ウミベヨリムカヘモコヌカ》云々とあれば、うみべをさしてとよむべし。考云、指てゆく也。これより十句餘は、海の事もて、妹がうへをいふ序とす云々。
 
和多豆乃《ニキタヅノ》。
考云、今は此名なしといへり。されども、國府より屋上までゆく間、北の海邊にて、即そこのありさまを、詞としつる歌なるからは、和たつてふ所、そのほとりにありし也。今、濱田といふは、もしにぎたの轉にや云々。宣長云、石見國那賀郡の海邊に、渡津村とて、今あり。こゝなるべし。されば、わたつのと、四言の句也。或本の歌、柔田津と書るは、和多豆を、にぎたづとよみ誤れるにつきて、出來たる本なるべし云々。この説もさる事ながら、或本の歌に、柔田津とさへあれば、しばらく考の説に、したがへり。さて本集一【十丁】に、熟田津とあるは、こゝとは別所にて、伊豫なり。その所【攷證一上十六丁】にくはしくいへり。
 
荒礒《アリソ・アライソ》乃上爾《ノウヘニ》。
字のごとく、荒き磯のうへに也。あらいその、らいの反、りなれば、ありそとよむべし。そは、本集九【十丁】に、在衣邊著而榜尼《アリソヘニツキテコクアマ》云々。十四【卅三丁】に、安里蘇麻爾於布流多麻母乃《アリソマニオフルタマモノ》云々。十七【廿一丁】に、古之能宇美乃安里蘇乃奈美母《コシノウミノアリソノナミモ》云々などあるにても思ふべし。
 
(102)香青生《カアヲナル》。
香青生《カアヲナル》の、かもじは、本集四【十七丁】に、香縁相者《カヨリアハヾ》云々。五【九丁】に、美奈乃和多迦具漏伎可美爾《《ミナノワタカクロキカミニ》云々などある、かと同じく、發語にて、意なし。たゞあをきをいふ。
 
玉藻息津藻《タマモオキツモ》。
玉藻は、藻をほめていへる事、上にいへるがごとし。息津藻は、書紀神代紀下に、憶企都茂播陛爾播譽戻耐母《オキツモハヘニハヨレドモ》云々。本集七【廿三丁】に、奧藻花開在《オキツモノハナサキタラハ》云々。祈年祭祝詞に、奧津藻菜邊津藻菜《ヲキツ《(マヽ)》モハヘツモハ》云々などありて、津《ツ》は助字にて、海の奧の藻なり。
 
朝羽振《アサハフル》。風社依米《カセコソヨラメ》。
朝は、字のごとく、羽振は、風波の發りたつを、鳥の羽を振にたとへたる也。本集六【四十六丁】に、朝羽振浪之聲※[足+參]《アサハフルナミノトサワキ》云々とありて、十一【卅六丁】に、風緒痛、甚振浪能云々。十四【三十二丁】に、奈美乃保能伊多夫良思毛與《ナミノホノイタフラシモヨ》云々などあるも、浪の起《タツ》を振《フル》といひ、古事記中卷に、振浪比禮《ナミフルヒレ》、振風比禮《カセフルヒレ》といふものあるも、浪を發し、風を發す比禮にて、相摸國風土記に、鎌倉郡見越崎、毎有2速浪1崩v石、國人名號2伊曾布利1、謂v振v石也云々。土佐日記に、いそふりのよするいそにはとし月をいつともわかぬ雪のみぞふる云々とあるも、みな浪の起を振といへり。さて、また本集十【六丁】に、尾羽打觸而※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ヲハウチフリテウグヒスナクモ》云々。十九【九丁】に、勿振鳴志藝《ハフリナクシギ》云々。和名抄鳥體部に、唐韻云※[者/羽]【之庶反亦作v※[者+羽]、文選射v雉賦云、軒者、波布留、俗云波都々。】飛也、擧貌也云々とあるは、鳥の羽振也。それを朝ふく風に浪の起にそへて、あさはふるとはいへる也。文選郭璞江賦に、宇宙澄寂、八風不v翔云云とあるも、風の起を鳥の翔《カケル》によせたり。夕羽振も、なぞらへてしるべし。風こそよらめは、風にこそよらめ也。
 
(103)浪社來縁《ナミコソキヨレ》。
これも、浪にこそきよれにて、藻のよりくるをいへり。
 
浪之共《ナミノムタ》
本集四【卅四丁】に、浪之共靡珠藻乃《ナミノムタナビクタマモノ》云々。六【四十六丁】に、鹽干乃共※[さんずい+内]渚爾波《シホヒノムタニイリスニハ》云々。九【卅三丁】に、銷易杵壽《ケヤスキイノチ》、神之共荒競不勝而《カミノムタアラソヒカネテ》云々。十五【十九丁】に、可是能牟多與世久流奈美爾《カセノムタヨセクルナミノ》云々。また【卅七丁】君我牟多由可麻之毛能乎《キミカムタユカマシモノヲ》云々などありて、みな字のごとく、ともにといふ意にて、浪とともに藻のよりくるをいへるなり。
 
彼縁此依《カヨリカクヨリ》。
本集此卷【卅一丁】に、玉藻成彼依此依《タママモナスカヨリカクヨリ》、靡相之嬬乃命乃《ナヒキアヒシツマノミコトノ》云々ともありて、彼と此とを相對したる語にて、古事記中卷に、迦母賀登《カモガト》、和賀美斯古良《ワガミシコラ》、迦久母賀登《カクモガト》、阿賀美斯古爾《アガミシコニ》云々。本集此卷【卅二丁】に、夕星之彼往此去《ユフツヽノカユキカクユキ》云々。四【卅六丁】に、鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》云々などあると、同格の語にて、こゝは、玉藻おきつもなどの、浪とともに、かれによりこれによるがごとく、何かにつけて、よりてねし妹をと、つゞけたるなり。
 
玉藻成《タマモナス》。
枕語にて、玉藻のごとくといふ也。上【攷證一下廿八丁】にいへり。
 
依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》。
藻の、浪とともよりくるがごとく、依そひてねしいもを也。古事記下卷に、余理泥弖登富禮云々とあるは、こゝとは別にて、倚偃而行去《ヨリネテトホレ》なり。
 
一云。波之伎余思《ハシキヨシ》。妹之手本乎《イモカタモトヲ》。
はしきよしは、はしけやしとも、はしきやしともいひて、はしきは、愛《ハシ》きにて、妹を愛していへる也。(104)この事は、下【攷證二下十二丁】にいふべし。さて、その愛《ハシ》き妹がもとを、露じものごとく、おきわかれてしくればとつゞく也。波の字、印本渡に誤れり。今古本によりてあらたむ。さて、集中、手本《タモト》とも、袂《タモト》ともかきたれど、手本と書たるも、手の本といふ意にて、專ら袖とことなることなし。そは、本集十六【七丁】に、結幡之袂著衣云《ユフハタノソデツケゴロモ》云々と、袂を、そでとも訓て、玉篇に、袂袖也とあるにても、しるべし。
 
露霜乃《ツユシモノ》。
枕詞也。露霜の置とつゞけし也。宣長玉勝間云、萬葉の歌に、露霜とよめる、卷々に多し。こは、後の歌には、露と霜とのことによめども、萬葉なるは、みなたゞ、露のこと也。されば、七の卷、十の卷などには、詠v露といへる歌によめり。多かる中には、露と霜と、二つと見ても、聞ゆるやうなるもあれど、それも、みなさにはあらず。たゞ露也。これにさま/”\説あれども、皆あたらず云々。この説のごとく、大かたは、たゞ露を露霜といふ所多かれど、又秋の末に至りて、はつかにおく霜を、つゆじもいふ所も見えたり。この事は、下【攷證四中四十一丁】にいふべし。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
 
置而之來者《オキテシクレバ》。
露霜のごとく、妹を石見におきてしくれば也。
 
八十隈毎《ヤソクマコトニ》。
八十は、物の數の多きを、彌《イヤ》十といふにて、必らず、八十とかぎりたる事にあらず。隈は、道のすみ/”\曲り/\といふことなり。この事は、上【攷證一下七十丁】にいへり。
 
(105)顧爲騰《カヘリミスレド》。
石見の國に妹を置てこし故に、その道のすみ/”\曲り/\などにては、もし妹があたりの見ゆるかとて、いく度ともなく、かへり見すれども、いや遠く、里をも山をもこえてきたれば、見えずと也。
 
里者放奴《サトハサカリヌ》。
本集三【五十七丁】に、離家伊麻須吾妹乎《イヘサカリイマスワキモヲ》云々。十三【七丁】に、里離來奴《サトサカリキヌ》云々。十四【十三丁】に、可奈師家兒良爾伊夜射可里久母《カナシケコラニイヤサカリタモ》云々など、猶多くありて、字のごとく離れわかるる意なり。
 
益《イヤ・マス》高爾《タカニ》。
考には、ましたかとよまれたり。されど、宣長云、この類の益の字を、ますとも、ましとも訓ずるは、皆誤り也。いやとよむべし。益を、いやとよむ證例は、此卷下【四十丁】に、相見し妹は益年《イヤトシ》さかる。七卷【廿三丁】に、益《イヤ》かはのぼる。十二卷【卅三丁】に、こよひゆ戀の益《イヤ》まさりなん云々とあり云々といはれしによるべし。また、十三【七丁】に、道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマコトニ》、嗟乍吾過往者《ナケキツヽワカスキユケハ》、彌遠丹里離來奴《イヤトホニサトサカリキヌ》、彌高二山文越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》云々とあるも、大かたこゝと同じつゞけがらなるに、彌《イヤ》をかさねたるにても、益は、いやとよむべきをしるべし。高は、遠き意也。この事、下【攷證四下卅二丁】高々《タカ/\》の解にいふべし。
 
夏草之《ナツクサノ》。枕詞にて、冠辭考にくはし。夏の日にあたりて、しをれて、草の萎《ナエ》ふすを、人の物思ひする時のさまにたとへて、なつ草のごとくにおもひしなえてと、つゞけし也。
 
(106)念之奈要而《オモヒシナエテ》。
下に書たる、この歌のある本に、思志萎而《オモヒシナエテ》と書て、又下【卅三丁】にも、念之萎而《オモヒシナエテ》とかき、十【五十七丁】に、於君戀之余要浦觸《キミニコヒシナエウラフレ》云々。十九【十五丁】に、宇知歎之余要宇良夫禮《ウチナケキシナエウラ》云々などもありて、しなえの、しは、そへたる字にて、草木のしをるゝも、本は折《ヲル》る事なるに、しもじをそへて、しをるといふがごとし。なえは、萎の字をよめるごとく、物のなゆるをいふ事にて、こゝの意は、戀しきおもひに萎《ナエ》くづをれてあるをいへり。さて、草木などの、たわむを、しなひ、しなふなどいへるとは、かなもたがひて別也。おもひまぎるゝことなかれ。
 
志怒布良武《シヌフラム》。
しのぶらん也。妹がわれを戀ふ思ひに、萎《ナエ》くづをれて、したひしのぶらん、妹が門見んに、この山ありて見えざれば、この山なびきふせよと也。
 
靡此山《ナビケコノヤマ》。
山などの、靡《ナビク》ものならねど、妹が門を見んに、この山なびきふせよと、をさなくい
へるは、歌のつね也。本集十二【卅五丁】に、惡木山木末悉《》、明日從者靡有社《アシキヤマコスヱコト/\アスヨリハナビキタレコソ》、妹之當將見《イモカアタリミム》云々。十三【七丁】に、奧十山三野之山《オキソヤマミヌノヤマ》、靡得人雖跡《ナビケトヒトハフメトモ》云々などあるにても思ふべし。また、文選呉都賦に、雖v有2石林之※[山/乍]※[山+愕の旁]1、請攘v臂而靡v之云々なども見えたり。
 
反歌
 
132 石見乃也《イハミノヤ》。高《タカ》角《ツヌ・ツノ》山之《ヤマノ》。木際從《コノマヨリ》。我振袖乎《ワカフルソテヲ》。妹見都良武香《イモミツラムカ》。
 
石見乃也《イハミノヤ》。
のやの、やは、地名の下へつけて、かろく添たる字にて、意なし。書紀繼禮紀に、阿符美能野《アフミノヤ》、※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクコイ》云々。本集十四【十八丁】に、美奈刀能也《ミナトノヤ》、安之我奈可那(107)流《アシカナカナル》云々。古今集大歌所に、あふみのや、かがみの山をたてたれば云々など見えたり。
 
高角山之《タカツヌヤマノ》。
高角山は、この外古書に見えざれば、郡は知ざれど、こゝに、かくよまれつるからは、國府のちかきあたりなるべし。下の或本歌には、打歌山とかけり。この事は、下にいふべし。
 
木際從《コノマヨリ》。
この句をば、下へつけて、わがこゝにて振《フル》袖《ソデ》を、高角山の木の間より、妹見つらんかと心得べし。
 
我振袖乎《ワカフルソテヲ》。妹見都良武香《イモミツラムカ》。
袖を振は、人と別るゝ時、又はかなしき時、戀しきにたへずしてする、古しへのしわざなるべし。集中、人にわかるゝ所に、多くよめり。本集二【卅八丁】人麿妻死之後歌に、妹之名喚而袖曾振鶴《イモカナヨビテソデヅフリツル》云々。六【廿三丁】に、太宰師《(マ」》大伴卿上v京時、娘子歌に、凡有者左毛右毛將爲乎《オホナラバトモカモセムヲ》、恐跡振痛袖乎忍而有香聞《カシコシトフリタキソデヲシヌヒテアルカモ》云々。倭道者雲隱有《ヤマトチハクモカクレタリ》、雖然余振袖乎無禮登母布奈《シカレトモワカフルソテヲナカレトモフナ》云々。七【四丁】に妹之當吾袖將振《イモガアタリワカソテフラム》、木間從出來月爾雲莫棚引《コノマヨリイテクルツキニクモナタナヒキ》云々。十【廿六丁】に、汝戀妹命者《ナカコフルイモノミコトハ》、飽足爾袖振所見都《アクマテニソテフルミエツ》、及雲隱《クモカクルマテ》云々。十一【十二丁】に、袖振可見限吾雖有《ソテフルヲミルヘキカキリワレハアレド》、其松枝隱在《ソノマツカエニカクレタリケリ》云々。高山岑行宍友衆袖不振來忘念勿云《タカヤマノミネユクシヽノトモヲオホミソデフラスコシワスルトモフナ》々などありて、猶いと多し。文選劉※[金+樂]擬古詩に、眇々陵2長道1、遙々行遠之、囘v車背2京里1、揮v手從v此辭云々とあるも似たり。
 
133 小竹之葉者《サヽノハハ》。三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》。亂《マガヘ・ミタレ》友《トモ》。吾者妹思《ワレハイモオモフ》。別來禮婆《ワカレキヌレハ》。
 
(108)小竹之葉者《サヽノハハ》。
古事記上卷に、訓2小竹1云2佐々1云々とありて、また書紀神功皇后元年紀に、小竹此云2之努1云々。本集一【八丁】に、しぬびつといふ所の借字にも、小竹櫃《シヌビツ》と書たれば、小竹を、さゝとも、しぬともよむ也。されば、こゝは、舊訓のまゝに、さゝの葉はと訓べし。和名抄竹類に、蒋魴切韻云篠【先鳥反、和名之乃、一云佐々、俗用2小竹二字1、謂2之佐々1】細竹也云々とも見えたり。
 
三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》。
みやまの、みは、例のほむる詞にて、眞也。古事記下卷に、美夜麻賀久理弖云云と見えたり。深山の意とするは誤れり。清爾《サヤニ》の、清《サヤ》は、借字にて、小竹葉の、風などに、さや/\と鳴るをいへり。古事記中卷に、久毛多知和多理許能波佐夜藝奴《クモタチワタリコノハサヤギヌ》云々。書紀神武紀に、聞喧擾之響焉、此云2左※[手偏+耶]霓利奈離《サヤゲリナリ》2云々。本集十【卅八丁】に、荻之葉左夜藝秋風之《ヲキノハサヤキアキカセノ》云々。二十【四十二丁】に、佐左賀波之佐也久志毛用爾《サヽガハノサヤグシモヨニ》云々などあるも、皆同じ。
 
亂《マガヘ・ミダレ》友《トモ》。
舊訓、みだれどもと訓る、いと誤りなり。考に、さわげどもとよまれしも、いかゞ。亂は、本集此卷【廿丁】に、黄葉乃散之亂爾《モミチハノチリノマガヒニ》云々。八【卅八丁】に、秋芽之落之亂爾《アキハキノチリノマガヒニ》云々。十【十丁】に、散亂見人無二《チリマガフラムミルヒトナシニ》云々。十三【廿三丁】に、黄葉之散亂有《モミチハノチリマガヒタル》云々など、多くまがふとよめば、こゝもまがへどもと訓べし。小竹《サヽ》の葉に、風などのふき、み山の物しづかなるも、さや/\と鳴さわぎて、物にまがへども、吾は愛する妹にわかれきぬれば、物にもまぎれず、こゝ一すぢに、妹をおもふとなり。
 
或本反歌。
 
(109)134 石見爾有《イハミナル》。高《タカ》角《ツヌ・ツノ》山乃《ヤマノ》。木間從文《コノマユモ》。吾袂振乎《ワカソテフルヲ》。妹見監鴨《イモミケムカモ》。
 
木間從文《コノマユモ》。
この間|從文《ユモ》の從は、よりの意、文《モ》は助字也。書紀神武紀に、伊那瑳能椰摩能虚能莽由毛《イナサノヤマノコノマユモ》云々とあると同じ。
 
袂振《ソテフル》。
袂は、今は、たもとゝのみよめど、玉篇に、袂彌鋭切、袖也とありて、袖と同じ。
 
135 角障經《ツヌサハフ》。石見之海乃《イハミノウミノ》。言佐敝久《コトサヘク》。辛乃崎有《カラノサキナル》。伊久里爾曾《イクリニソ》。深海松生流《フカミルオフル》。荒礒爾曾《アリソニソ》。玉藻者生流《タマモハオフル》。玉藻成《タマモナス》。靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》。深海松乃《フカミルノ》。深目手《フカメテ》思《モヘ・オモフ》騰《ト》。左宿夜者《サヌルヨハ》。幾《イクダ・イクバク》毛不有《モアラス》。延都多乃《ハフツタノ》。別之來者《ワカレシクレバ》。肝《キモ》向《ムカフ・ムカヒ》。心乎痛《コヽロヲイタミ》。念乍《オモヒツヽ》。顧爲騰《カヘリミスレト》。大舟之《オホフネノ》。渡乃山之《ワタリノヤマノ》。黄葉乃《モミチハノ》。散之亂爾《チリノマカヒニ》。妹袖《イモカソテ》。清爾毛不見《サヤニモミエス》。嬬隱有《ツマコモル》。屋上乃山《ヤカミノヤマ》【一云室上山。】乃《ノ》。自雲間《クモマヨリ》。渡相月乃《ワタラフツキノ》。雖惜《オシケドモ・ヲシメトモ》。隱比來者《カクロヒクレハ》。天傳《アマツタフ》。入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》。大夫跡《マスラヲト》。念有吾毛《オモヘルワレモ》。敷妙乃《シキタヘノ》。衣袖者《コロモノソテハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
 
(110)角障經《ツヌサハフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。角障經《ツヌサハフ》とかけるは、借字にて、つぬ、つな、つたとかよふ故、蘿這石《ツタハフイハ》とつゞけし也。さて、障の字、印本※[章+おおざと]に作れり。字書を考ふる《(マヽ〕》障※[章+おおざと]通ずる事なし。誤りなる事明らかなれば、本集三【廿一丁四十六丁】十三【廿八丁廿九丁】などの例に依てあらたむ。
 
言佐敝久《コトサヘク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。から人の言は、こゝの人の耳には、わかずさへぎてのみ聞ゆれば、ことさへぐ韓《カラ》といふを、辛《カラ》の埼とはつゞけしなり。また、ことさへぐ、百濟の原とつゞくるも意同じ。
 
辛乃崎有《カラノサキナル》。
辛の埼、この外ものに見えず。郡しりがたし。猶たづぬべし。
 
伊久里爾曾《イクリニソ》。
古事記下卷に、由良能斗能斗那加能《ユラノトノトナカノ》、伊久理爾布禮多都《イクリニフレタツ》、那豆能紀能《ナツノキノ》云々。本集六【十六丁】に、淡路乃野島之海子乃《アハチノヌシマノアマノ》、海底奧津伊久里二《ワタノソコオキツイクリニ》、鰒珠左盤爾潜出《アハヒタマサハニカヅキデ》云云とありて、いくりは、海の石をいふ也。宣長云、くりといふにつきて、栗を思ひて、小《チヒサ》き石をいふと云説は非也。海松《ミル》の生とよめるにても、小きに限らぬ事をしるべし。又海の底なる石をいふと云も非也。古事記の歌も、底なる石にては叶はず。六巻の歌に、海底とよめるは、たゞ奧《オキ》の枕詞にて、いくりへかゝれる言にはあらず。海底なるをも、又うへに出たるをもいひ、又小きをもいひ、大きなるをもいふ名也。云々といはれつるがごとし。又釋日本紀に、句離《クリ》謂v石也、伊《イ》助語也云々。この説のごとく、くりは石のこと、いは發語なるべし。
 
(111)深海松生流《フカミルオフル》。
本集六【十八丁】に、奧部庭深海松採《オキヘニハフカミルトリ》、浦囘庭名告藻苅《ウラワニハナノリソカリ》云々。十三【廿二丁】に、朝名寸二來依深海松《アサナギニキヨルフカミル》云々。延喜宮内式、諸國例貢御贄に、志摩深海松云々とありて、海松は、和名抄海菜類に、崔禹錫食經云、水松、状如v松而無v葉【和名美流】揚氏漢語抄云海松【和名上同俗用v之】云々と見えたり。
 
靡寐之兒乎《ナヒキネシコヲ》。
靡ねしとは、なよゝかに、物のうちなびきたるやうに、そひふしたるをいふ。本集一【廿一丁】に、打靡寐毛宿良目八方《ウチナヒキイモヌラメヤモ》云々とあり。猶その所にいへり。兒とは、男女にかぎらず、人を愛し親しみ稱していふことにて、子と書も、同じ。古事記下卷に、阿理岐奴能美幣能古賀《アリキヌノミヘノコガ》云々とあるは、三重采女が、自ら三重の子といへり。また同卷に、本陀理斗良須古《ホタリトラスコ》云々とのたまへるは、袁杼比賣《ヲドヒメ》をさしてのたまへる也。本集一【七丁】に、此岳爾菜採須兒《コノヲカニコナツマスコ》云々。四【廿丁】に、打日指宮爾行兒乎《ウチヒサスミヤニユクコヲ》云々、人之見兒乎吾四乏毛《ヒトノミルコヲワレシトモシモ》云々。五【十八丁】に、宇米我波奈知良須阿利許曾《ウメカハナチラスアリコソ》、意母布故我多米《オモフコカタメ》云々。七【四十二丁】に、薦枕相卷之兒毛《コモマクラアヒマキシコモ》云々などありで、猶いと多し。これらみな、女を親しみ愛して、子とはいへる也。兒は、玉篇に子、咨似切、兒也愛也云々とありて、子兒通用して、文選※[衣+者]淵碑文 注、引2孟子劉注1云、子通稱也云々。漢書武帝紀云、子者人之嘉稱也云々とあるにても思ふべし。さて、上【攷證二上廿八丁】にいへるがごとく、女の名の下に、兒《コ》の字を付るも、これらよりおこれる事なり。また、男を稱して子といふ事は、下【攷證】にいふべし。
 
深目手《フカメテ》思《モヘ・オモフ》騰《ド》。
本集十三【廿二丁】に、深海松乃深目師吾乎《フカミルノフカメシワレヲ》云々ともありて、こゝは、心をふかめておもへども也。
 
(112)左宿夜者《サヌルヨハ》。
さぬる夜はの、さは、さよばひ、さわたる、さばしり、さとほみ、さをどるなどの類、發語にて、意なし。たゞぬる夜はといへる也。集中いと多し。
幾《イクダ・イクバク》毛《モ》不有《モアラズ》。
舊訓、いくばくとよめるも、宣長が、いくらもとよまれしもいかゞ。こゝは、いくだもあらずとよむべし。そは、本集五【九丁】に、左禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》云々。十【廿七丁】に、左尼始而何太毛不在者《サネソメテイクダモアラネハ》云々などあるにても思ふべし。
 
延都多乃《ハフツタノ》。
屋上乃山《ヤカミノヤマ》【一云室上山。】乃《ノ》。自雲間《クモマヨリ》。渡相月乃《ワタラフツキノ》。雖惜《オシケドモ・ヲシメトモ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。葛《ツタ》の、かなたこなたへ、はひわかるゝがごとく、わかれしくればと、つゞけし也。さて、つたは、和名抄に、絡石をよみ、本草和名に落石をよめれど、一種をさしていへるにあらず。つたは、蔓草をすべいふ名也。この事は、冠辭考補遺にいふべし。
別之來者《ワカレシクレバ》。
考云、このぬる夜は、いくばくもあらで別るといふからは、こは國にてあひそめし妹と聞ゆ。依羅《ヨサミ》娘子ならぬ事しるべし。
 
肝《キモ》向《ムカフ・ムカヒ》。
枕詞なり。宣長云、かくつゞくる由は、まづ腹の中にある、いはゆる五臓六腑の類を、上代には、すべて皆きもと云し也。さて、腹の中に、多くのきもの相|對《ムカ》ひて集りありて、凝々《コリ/\》しと云意に、こゝろとはつゞくる也云々といはれしがごとし。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
 
心乎痛《コヽロヲイタミ》。
心をいたみは、心も痛きまで、いたましみ思ひこむ意にて、こゝろをいたさに也。この事は、下【攷證三下五十三丁】にいふべし。このいたみといふ語は、句をへだてゝ、顧すれど(113)といふへかけて心得べし。いたみ思ひつゝとはつゞかざる也。妹にわかれくれば、心をいたさに、妹を思ひつゝ、かへり見すれど、わたりの山の紅葉のちりまがふ故に、妹が袖のさやかに見えずときくべし。
 
大舟之《オホフネノ》。
枕詞なり。大は例の物をほめたることにて、舟の渡るとつゞけし也。意明らけし。
 
渡乃山之《ワタリノヤマノ》。
この外、古書に見えず。名寄にも、石見とせり。考に、府より東北、今道八里の所にありと云り。妹が振袖の見えずといふにかなへり云々といはれつ。
 
散之亂爾《チリノマガヒニ》。
まがひは、上にいへるごとく、まぎるゝ意にて、紅葉のちりまぎらかす故に、妹がふる袖の、さやかにも見えずと也。古今集春下に、よみ人しらず、このさとにたびねしぬべし、さくら花、ちりのまがひに家路わすれ(て脱カ)云々とよめるも、ちりのまぎれにの意也。
 
清爾毛不見《サヤニモミエズ》。
清爾《サヤニ》のさやは、上【攷證一下四十九丁】にいへるがごとく、さは、上におきたる助字、やは、やけ、やかなどの、下の字を略けるにて、明らかなる意也。十四【十一丁】に、勢奈能我素低母佐夜爾布良思都《セナノガソテモサヤニフラシツ》云々。二十【四十一丁】に、伊波奈流伊毛波佐夜爾美毛可母《イハナルイモハサヤニミモカモ》云々。古今集大歌所に、かひがねをさやにも見しか云々とあるにてもおもふべし。
 
嬬隱有《ツマコモル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。古しへは、妻をおく屋をば、あらたに建などもして、つまごみにやへがきつくるなどいへれば、こゝも、妻の隱りゐる屋とつゞけしな(114)り。さて宣長云、これをつまごもるとよむ事は、假字書の例あれば、うごかず。然るに、隱有と有の字をそへて書るは、いかゞ。有の字あれば、必らずこもれるとよむ例也。されば、有は留の字などの誤りにや云々。この説さる事也。猶可v考。
 
屋上乃山《ヤカミノヤマ》
冠辭考云、屋|山《(マヽ)》の山は、光仁紀和名抄等にも、因幡國に八上郡あるによりて、この人麿、石見より山陰道を經て上られしにやといふ人あり。道の事は、しか也。屋|山《(マヽ)》は、この歌によめる心も、詞も、妻に別れたる、其日より、其夜までの事也。然れば、因幡の八|山《(マヽ)》にはあらで、遠からぬ程の山ならん云々。この説當れり。さて、一云室上山の五字を、印本山の字の上に入たれど、集中の例によりて、山の字の下に入たり。この一書の室上も、訓は同じけれど、文字のかはれるによりて、あげたるなるべし。
 
自雲間《クモマヨリ》。
この自《ヨリ》は、をの意にて、古事記上卷に、箸|從《ヨリ》2其河1流下云々とあるも、その河を流れ下る也。また本集八【廿四丁】に、霍公鳥從此間鳴渡《ホトヽキスコヽユナキワタル》云々とある從《ユ》も、よりの略にて、こゝをの意也。古今集春下、詞書に、山川より花のながれけるを云々とある、よりもおなじ。
 
渡相月乃《ワタラフツキノ》。
わたらふの、らふは、るを延《ノベ》たるにて、らふの反、るなれば、わたる月といふ意也。本集十一【九丁】に、雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》云々とも見えたり。さて、夜わたる月、つきわたる、また郭公鴈などの鳴わたるなどいふも、みな過る意なると去意なるとの二つ也。そは、廣雅釋詁三に、渡(ハ)、過也云々。廣韻に、渡(ハ)、過也去也云々とあるにても思ふべし。ここなる渡相《ワタラフ》(115)月は、ゆく月と心得べし。宣長云、屋上の山のと切て、隱《カクロ》ひ來ればといふへつゞく也。惜《ヲシ》けども、屋上の山の、隱れて見えぬよし也。さて、雲間より、波らふ月のといふ二句は、たゞ雖惜《ヲシケドモ》の序のみ也。はつかなる雲間をゆくあひだの月は、をしきよしの序也。もし、この月を、この時の實の景物としては、入日さしぬれといふにかなはず。このわたりまぎらはし。よくわきまふべし云々。
 
雖惜《オシケドモ》。
舊訓、をしめどもと訓るも、考にをしけれどゝよまれしも、いかゞ。をしけどもとよむべし。をしけどもは、をしけれどもの、れを略ける也。そは、木集五【十丁】に、伊能知遠志家騰《イノチヲシケト》云々。十一【廿九丁】に、隱經月之雖惜《カクラフツキノヲシケドモ》云々。十七【廿三丁】に、伊乃知乎之家騰《イノチヲシケド》云々など見えたり。また、四【廿五丁】に、遠鷄跡裳《トホケドモ》云々。十五【卅一丁】に、由吉余家杼《ユキヨケト》云々。十七【卅三丁】に、等保家騰母《トホケドモ》云々などあるも、みな同格の語にて、れを略ける也。
 
天傳《アマツタフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。天路を傳ひゆく日とつゞけし也。下【攷證三下卅丁】をも考へ合すべし。
 
入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》。
上に、こそのかゝりなくして、れとうけたるは、集中長歌の一つの格也。そは、本集三【五十四丁】に、晩闇跡隱益奴禮《ユフヤミトカクリマシヌレ》云々。また【五十八丁】久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》云々。五【五丁】に、宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナヒキコヤシヌレ》云々などありて、集中いと多し。また、こそなくして、せとうけたるもあり。この事は、下【攷證五下】にいふべし。これらの、れ、せなどの下に、ばを加へて、れば、(116)せばなどと見れば、よく聞ゆと、宣長いはれぬ。
 
大夫跡《マスラヲト》。念有吾毛《オモヘルワレモ》。
本集一【八丁】に、丈夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》、草枕客爾之有者《クサマクラタヒニシアレハ》云々。四【四十九丁】に、丈夫跡念流吾乎《マスラヲトオモヘルワレヲ》。六【廿四丁】に、丈夫跡念在吾哉《マスラヲトオモヘルワレヤ》云々ともありて、猶多し。こゝは、自ら、われは丈夫なれば、をゝしと思へるわれも、妻を戀る故に、涙こぼれて、衣の袖とほりてぬれぬと也。
 
敷妙乃《シキタヘノ》。
枕詞なり上【攷證一下六十一丁】にくはし。
 
衣袖者《コロモノソデハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
 
本集十【十六丁】に、春雨爾衣甚將通哉《ハルサメニコロモハイタクトホラメヤ》云々。十三【十一丁】に、吾衣袖裳通手沾沼《ワカコロモテモトホリテヌレヌ》云々。十五【廿八丁】に、和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母《ワカソテハタモトトホリテヌレヌトモ》云々などありて、重ね著たる袖の、うらまで通りて、ぬれぬと也。
 
反歌二首。
 
136 青駒之《アヲコマノ》。足掻乎速《アカキヲハヤミ》。雲居曾《クモヰニソ》。妹之當乎《イモカアタリヲ》。過而來計類《スキテキニケル》。【一云。當者隱來計留。】
 
青駒之《アヲコマノ》。
和名抄牛馬類云、説文云※[馬+怱]【音聰、漢語抄云、聰青馬也、黄聰馬、葦花毛馬也。日本紀私記云、美太良乎乃宇萬。】青白雜毛馬也云々とある、是にて、實に眞青《マサヲ》なる毛の馬あるにあらず。本集十二【廿八丁】に、※[馬+総の旁]馬とあるも、(117)青き馬也。二十【五十八丁】に、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミツトリノカモノハノイロノアヲウマヲ》云々などあるにても、白き馬にはあらで、青き馬なるをしるべし。猶くはしくは、古事記傳卷十八、玉勝間卷十三などに見えたれば、こゝに略す。
 
足掻乎速《アカキヲハヤミ》。
 
○本集七【十二丁】に、赤駒足何久激《アカコマノアカクソヽキニ》云々。七【十四丁】に、赤駒之足我枳速者《アカコマノアカキハヤクハ》云々などありて、猶多し。こは、新撰字鏡に、※[足+宛](ハ)※[足+緤の旁]也踊也、馬奔走貌、阿加久云々とありて、馬のありくかたち也。鳥の羽掻《ハネカク》などいふもこれにおなじ。
 
雲居曾《クモヰニソ》。
上【攷證一下卅七丁】にいへるごとく、雲居は、天をいひて、天は遠きものなれば、遠きたとへにいへるなり。一首の意明らけし。
 
137 秋山爾《アキヤマニ》。落黄葉《オツルモミヂバ》。須臾者《シマラクハ》。勿散亂曾《ナチリマカヒソ》。妹之當將見《イモカアタリミム》。【一云。知里勿亂曾。】
 
須臾者《シマラクハ》。
舊訓、しばらくとあれど、しまらくとよむべし。そのよしは、上【攷證二上卅八丁】にいへり。
 
勿散《ナチリ》亂《マカヒ・ミタレ》曾《ソ》。
舊訓、みだれそとあれど、まがひそとよむべし。そのよしは、上にいへり。一首の意明らけし。
 
或本歌一首。并短歌一首。
 
(118)短歌一首。
この一首の二字、印本なし。いま集中の例によりて加ふ。
 
138 石見之海《イハミノウミ》。津之浦乎無美《ツノウラヲナミ》。浦無跡《ウラナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。滷無等《カタナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。吉咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者雖無《ウラハナケドモ》。縱惠夜思《ヨシヱヤシ》。滷者雖無《カタハナケドモ》。勇魚取《イサナトリ》。海邊乎指而《ウナヒヲサシテ》。柔田津乃《ニキタツノ》。荒礒之上爾《アリソノウヘニ》。蚊青生《カアヲナル》。玉藻息都藻《タマモオキツモ》。明來者《アケクレバ》。浪己曾來依《ナミコソキヨレ》。夕去者《ユフサレバ》。風己曾來依《カゼコソキヨレ》。浪之共《ナミノムタ》。彼依此依《カヨリカクヨル》。玉藻成《タマモナス》。靡吾寐之《ナヒキワカネシ》。敷妙之《シキタヘノ》。妹之手本乎《イモカタモトヲ》。露霜乃《ツユシモノ》。置而之來者《オキテシクレハ》。此道之《コノミチノ》。八十隈毎《ヤソクマコトニ》。萬段《ヨロツタヒ》。顧雖爲《カヘリミスレト》。彌遠爾《イヤトホニ》。里放來奴《サトサカリキヌ》。益高爾《イヤタカニ》。山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。早敷屋師《ハシキヤシ》。吾嬬乃兒我《ワカツマノコカ》。夏草乃《ナツクサノ》。思志萎而《オモヒシナエテ》。將嘆《ナケクラム》。角里將見《ツヌノサトミム》。靡此山《ナヒケコノヤマ》。
 
津之浦乎《ツノウラヲ》。
眞淵の説に、津能乃浦囘乎《ツノヽウラワヲ》の、能と囘を落し、無美は、まぎれてこゝに入たる也。其外、誤りいと多し。依て、この歌はとらず云々とあり。さもあるべし。
 
(119)明來者《アケクレバ》。
 
本集六【十一丁】に、閲來者朝霧立《アケクレバアサキリタチ》、夕去者川津鳴奈利《ユフサレハカハツナクナリ》云々。十【十八丁に、明來者柘之左枝爾《アケクレハツミノサエタニ》、暮去《ユフサレハ》、小松之若未爾《コマツカウレニ》云々。十五【十一丁】に、由布佐禮婆安之敝爾佐和伎《ユフサレハアシヘニサワキ》、安氣久禮婆於伎爾奈都佐布《アケクレハオキニナツサフ》云々などありて、集中猶いと多し。皆、夜があけつゞくればにて、あけゆけばなどいふに同じ。
 
風己曾來依《カゼコソキヨレ》。
浪己曾來依《ナミコツキヲレ》といふは、聞えたれ、風こそきよれといふは聞えず。風は、ふくとこそいへ、來依《キヨル》とはいふべからず。こは、本歌に風社依米《カセコソヨラメ》とあるを、誤りしなるべし。
 
敷妙之《シキタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上にもいへるがごとく、しきたへは、しげき栲といふことにて、袖、袂、衣、床、まくらなどつゞくを、こゝは、語を隔てゝ、妹之手本といふ、袂へつゞけしなり。枕詞の、語を隔てて下へつゞく例は、冠辭考補遺にいふべし。
 
妹之手本乎《イモカタモトヲ》。
手本《タモト》は、借字にて、袂なり。
 
早敷屋師《ハシキヤシ》。
はしきやしの、しは、よしゑやしの、しと同じく、助字也。はしきは、愛《ハシキ》にて、愛する意なれば、吾嬬の兒とはつゞけし也。屋《ヤ》は、よに通ひて、そへたる語也。猶くはしくは、下【攷證二下十二丁】にいふべし。
 
(120)吾嬬乃兒我《ワカツマノコカ》。
わがつまのこがの、兒は、上に、靡寐之兒乎とある、兒と同じく、親しみ愛していへるなり。この事は上にいへり。
 
角里將見《ツヌノサトミム》。
角里《《ツヌノサト》は、角浦《ツヌノウラ》とある同所歟。高角山《タカツヌヤマ》といふも、角といふからは、こゝによしありて聞ゆ。角浦、高角山など、同所ならば、まへの歌のおもむきにては、國府より、妻に別れて、上る道のほどと聞ゆるを、こゝに、かくよめるは、角里に妻を置たりと見ゆ。いづれを是とせん、とは思へど、おそらく、この歌の方誤りなるべし。
 
反歌
 
139 石見之海《イハミノミ》。打歌山乃《ウツタノヤマノ》。木際從《コノマヨリ》。吾振袖乎《ワカフルソテヲ》。妹將見香《イモミツラムカ》。
 
打歌山乃《ウツタノヤマノ》。
考云、この打歌は、假字にて、次に、角か、津乃などの字落し事、上の反歌もてしるべし。今本に、うつたの山と訓しは、人わらへ也云々といはれつる、さもあるべし。
 
右歌體雖v同。句々相替三。因v此重載。
 
歌體。
元暦本、體を躰に作れり。いづれにてもあるべし。
 
(121)柿本朝臣人磨妻。依羅娘子。與2人麿1相別歌。一首。
 
依羅《ヨサミノ》娘子。
父祖不v可v考。こは、人磨の後妻なりし事、上にあげたる、考別記の説のごとし。この娘子は、人磨の後妻にて、人磨、石見國の任に赴ても、この娘子は、京に留り居しが、人磨さるべき事ありて、石見より、京へ仮に上りて、又石見へ下らんとせられし時、この娘子の、京にとゞまりてよめる歌也。さて、依羅《ヨサミ》は、もと攝津、河内などの地名なりしが、やがて氏とはなれる也。この地名の事は、下【攷證七下】にいふべし。依羅の氏は、新撰姓氏勒録卷八に、依羅宿禰、日下部宿禰同v祖、彦坐命之後也云々。卷十一に依羅連、饒速日命十二世孫、懷大連之後也云々。卷十四に、神饒速日命十世孫伊己布都大連之後也云々。卷廿八に、出v自2百濟國人素禰志夜麻美乃君1也云々と見えたり。猶、紀記の中に、この氏の人多く見えたれど、あぐるにいとまなし。この娘子ははいづれの末の人ならん。可v考。
 
與2人麿1相別。
考云、こは右の、假に上りて、又石見へ下る時、京に置たる妻のよめるなるべし。かの、かりに上る時、石見の妹がよめる歌ならんと思ふ人あるべけれど、さいひては、前後かなはぬ事あり云々。
 
140 勿念跡《オモフナト》。君者雖言《キミハイヘトモ》。相時《アハムトキ》。何時跡知而加《イツトシリテカ》。吾不戀有牟《ワカコヒサラム》。
 
(122)勿念跡《オモフナト》。
今別るゝ、そのわかれを悲しび思ふなと也。
 
君者雖言《キミハイヘドモ》。
舊訓、君はいふともとあれど、いへどもと訓むべし。雖の字を、書るにてしるべし。一首の意明らけし。
 
吾不戀有牟《ワカコヒサラム》。
牟の字、印本乎に誤れり。今意改。考云、拾遺歌集に、この歌を人まろとて、のせしは、あまりしきひがごと也。人まろの調は、他にまがふ事なきを、いかで分ざりけん。この端詞見ざりし也云々。
 
挽歌。
 
挽歌は晋書樂志に、挽歌、出2于漢武帝役人之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送終之禮1云々。崔豹古今注に、薤露蒿里、並喪歌也、出2田横門人1、横自殺、門人傷v之、爲2之悲歌1、言人命如3薤上之露易2※[日+希]滅1也、亦謂人死魂魄歸2乎蒿里1、故有2二章1、至2孝武時1、李延年乃分爲2二曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽柩者歌1v之、世呼爲2挽歌11云々とありて、古今注にいへるがごとく、もとは喪歌とも、悲歌ともいひしかば、此方の哀傷の歌に當れり。さてその歌の言の、あはれにはかなく悲しければ、柩《ヒツギ》を挽《ヒク》とき、うたはせしより、挽歌といへるなれば、その字を借用ひて、哀傷の歌をばのせし也。さて、左の山上臣憶良追和歌の左注に、右件歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、唯擬2歌意1、故以載2于挽歌類1焉云々とあるは、本《モト》のことをばしらずして、挽歌は柩を挽ときうたふ(123)歌ぞとのみ、心得たる人のしわざにて、とるにたらず。また古事記中卷に、是四歌者、皆歌2其御葬1也、故至v今、其歌者、歌2天皇之大御葬1也云々とあるにても、古くより、御葬に歌をうたひしをしるべし。
 
後崗本宮御宇天皇代。【天豐財重日足姫天皇。】
 
天皇、御謚を齊明と申す。皇極天皇重祚ましましゝ也。上【攷證一上十六渟】にくはしくしるせり。
 
有間皇子。自傷結2松枝1御歌。二首。
 
有間皇子。
書紀孝徳紀に、妃阿部倉梯麿大臣女、曰2小足媛1、生2有間皇子1云々。齊明紀に、四年十一月、庚辰朔壬午、留守官蘇我赤見臣、語2有間皇子1曰、天皇所v治政事、有2三失1矣、大起2倉庫1、積2聚民財1、一也、長穿2渠水1、損2費公糧1、二也、於v舟載v石、運積爲v丘、三也、有間皇子、乃知2赤兄之善1v己、而欣然報答之、曰、吾年始可v用v兵時矣、甲申、有間皇子、向2赤兄家1、登v樓而謀、夾腰自斷、於v是、知2相之不詳《(マヽ)》1、倶盟而止、皇子歸而宿之、是夜半、赤兄遣2物部朴井連鮪1、率2造宮丁1、圍2有間皇子於市經家1、便遣2驛使1奏2天皇所1、戊子、捉3有間皇子與2守君大石坂部連藥、鹽屋連※[魚+制]魚1、送2紀温湯1、舎人新田部米麻呂從焉、於v是、皇太子親問2有間皇子1曰、何故謀反、答曰天與2赤兄1知、吾全不v解、庚寅、遣2丹比小澤連國襲1、絞2有間皇子於藤(124)白坂1云々とあるがごとく、皇子の謀反あらはれ給ひて、天皇の紀温湯におはします御もとに、遣はされける道な 磐白にて、自傷給ひて、松枝を結び給ひし也。
 
自傷。
史記蘇秦傳に、出游數歳、大困而歸、兄弟嫂妹妻妾竊皆笑之、蘇秦聞之、而所自傷、乃閉v室不v出、出2其書1※[行人偏+扁]觀之云々とある、自傷と同じく、かなしむ意也。考に、かなしみてとよまれしもあたれり。
 
結2松枝1。
代匠記に、十一月十日に、磐代の濱をすぎ給ふとて、わが運命いまだ盡ずして、事の始終を申ひらき、それをきこしめしわけて、たすけたまはゞ、又かへりて、この松を見んと、神のたむけに、引むすびて、つゝがなからん事を、いのりて、よませ給へるなるべし云々といへるは、たがへり。松が枝を結び給ふは、御旅路なれば、道のしをりし給ひ、御よはひをちぎらせ給ふ心にて、何とぞ申ひらきて、かへりきて今一度この結びし松を見る事もがなとおぼして、結び給ふ也。すべて、しらぬ旅路などにては、木にまれ草にまれ、折かけ、又は結びなどして、道のしをりとする事、中古までのならはしにて、韻會栞字注に、謂d隨v所v行2林中1、斫2其枝1爲c道記識u也云々とあるも、全くこゝのしをりとこそ聞ゆれ。さて本集、一【十一丁】に、君之齒母《キミカヨモ》 吾代毛所知武《ワカヨモシラム》 磐代乃岡之草根乎《イハシロノヲカノクサネヲ》、去來結手名《イサムスヒテナ》云々。六【四十一丁】に、靈剋壽者不知《タマキハルイノチハシラス》、松之枝結情者《マツカエヲムスフココロハ》、長等曾念《ナカクトソオモフ》云々。七【十五丁】に、近江之海湖者八十《アフミノミミナトハヤソチ》、何爾加君之舟泊草結兼《イツクニカキミカフネハテクサムスヒケン》云々。十二【廿佐丁】に、妹門去過不得而草結《イモカヽトユキスキカネテクサムスフ》、風吹解勿《カセフキトクナ》、又將顧《マタカヘリミム》云々。廿【六十丁】に、夜知久佐能波奈波宇都呂布《ヤチクサノハナハウツロフ》、等伎波奈流麻都能左要太乎《トキハナルマツノサエタヲ》、和禮波牟須婆奈《ワレハムスバナ》云々などあるも、よはひをちぎり、またしるしにとて、木草をむす(125)べる也。これらを見ても思ふべし。
 
御歌。
印本、御の字を脱せり。今集中の例によりて加ふ。
 
141 磐白乃《イハシロノ》。濱松之枝乎《ハママツカエヲ》。引結《ヒキムスヒ》。眞幸有者《マサキクアラハ》。亦還見武《マタカヘリミム》。
 
磐白乃《イハシロノ》。
紀伊國日高郡也。上【攷證一上廿一丁】に出たり。
 
眞幸有者《マサキクアラハ》。
眞《マ》さきくの、眞《マ》は、添たる字にて、國のまほら、眞《マ》かなし、眞《マ》さやかなどいふ類の眞《マ》也。この類、猶多し。幸《サキク》は、字のごとく、福《サキハヒ》ありて、つゝがなくの意にて、こゝは、かの謀反の事を申ひらきて、つゝがなく幸ひにかへり來たらば、今この結びし松を、二たびかへり見んと也。さて、まさきくは、本集三【廿二丁】に、吾命之眞幸有者《ワカイノチノマサキクアラハ》、亦毛將見《マタモミム》云々。又【五十一丁】に、
、平間幸座與《タヒラケクマサキクマセト》、天地乃神祇乞祷《アメツチノカミニコヒノミ》云々。十三【十丁】に、言幸眞福座跡《コトサキクマサキクマセト》、恙無福座者《ツヽミナクサキクイマセハ》云々などありて、猶いと多し。
 
142 家有者《イヘニアレハ》。笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》。草枕《クサマクラ》。旅爾之有者《タヒニシアレハ》。椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
 
笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》。
笥は、和名抄木器類に、禮記注云笥【思史反和名介】盛v食器也云々とありて、玉篇に、笥盛v飯方器也云々、また書紀武烈紀に、※[木+(施の旁の也が巴)]摩該※[人偏+爾]播伊比佐倍母理《タマケニハイヒサヘモリ》云々とあ(126)る、たまけも、玉笥也。延喜四時祭式に、供御飯笥一合云々。齋宮式に、飯笥、藺笥各五合云々とあるにても、笥は飯を盛器なるをしるべし。
 
椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
椎は、新撰字鏡に、奈良乃木とよめり。されど、書紀神武紀に、椎根津彦《シヒネツヒコ》【椎此云辭※[田+比]】とありて、和名抄菓類に、本草云椎子【直追反和名之比】云々とあれば、しひとよむべし。考云、今も、檜の、葉を折敷て、強飯を盛事あるがごとく、旅の行方にては、そこに有あふ椎の小枝を打敷て、盛つらん。椎は、葉のこまかに、しごく平らかなれば、かりそめに物を盛べきもの也。さてあるがまゝに、よみ給へれば、今唱ふるにすら、思ひはかられてあはれ也云々。
 
長忌寸|意吉《オキ》麿。見2結松1哀咽歌。二首。
 
長忌寸|意吉《オキ》麿。
父祖官位、不v可v考。上【攷證一下四十四丁】に出たり。考云、意吉麿は、文武天皇の御時の人にて、いと後の歌なれど、事の次で、こゝには載し也。下の、人まろが死時の歌になぞらへてよめる、丹治眞人が歌を、其次に載たる類也 眞人は、人まろと同時なるやしらねど、擬歌などをならべ載たる例にとる也云々といはれつるがごとし。
 
哀咽。
哀は、かなしむ意、咽は、梁武帝七夕詩に怨咽雙念斷、悽悼兩情懸云々。陸雲書に、重惟痛恨言増哀咽云々。※[まだれ/臾]信麥積※[山+涯の旁]佛龕銘に、水聲幽咽、山勢※[山+空]※[山+囘]云々などあると同じくむせぶ意にて、哀《カナシミ》にたへずして、むせぶをいふ也。考に、この二字をかなしみてとよまれしも當れり。
 
(127)143 磐代乃《イハシロノ》。岸之松枝《キシノマツカエ》。將結《ムスヒケム》。人者反而《ヒトハカヘリテ》。復將見鴨《マタミケムカモ》。
 
磐代乃《イハシロノ》。岸之松枝《キシノマツカエ》。
まへの御歌には、濱松之枝といひ、こゝには岸といひ、次のには、野中に立るといへり。この松は、野につゞきたる濱岸にありしなるべし。
 
復將見鴨《マタミケムカモ》。
略解に、皇子の御魂の、結枝を、又見給ひけんかといふ也云々といへるは、たがへり。又みけんかもの、かもは、疑ひの、かの、下へ、もを添たるにて、本集此卷【十九丁】に、吾袂振乎妹見監鴨《ワカソテフルヲイモミケムカモ》云々。八【五十五丁】に、君之許遣者與曾倍弖牟可聞《キミガリヤラハヨソヘテムカモ》云々。十五【二十二丁】に、安伎波疑須々伎知里爾家武可聞《アキハキスヽキチリニケムカモ》云々などある、かもと同じく、こゝの意は、磐代の岸の松が枝を、結びけん君は、又かへりきて、二たびこの結びけん松を見けんか、いかにぞ。さる事もなく、やみ給ひしぞあはれなると、意をふくめたる也。
 
144 磐代乃《イハシロノ》。野中爾立有《ノナカニタテル》。結松《ムスヒマツ》。情毛不解《コヽロモトケスズ》。古所念《イニシヘオモホユ・ムカシオモホヘ》。
 
情毛不解《ココロモトケズ》。
こは、本集九【二十二丁】に、家如解而曾遊《イヘノコトトケテソアソフ》云々。十七【十七丁】に、餘呂豆代爾許己呂波刀氣底《ヨロツヨニコヽロハトケテ》、和我世古我都美之乎見都追《ワカセコカツミシヲミツツ》、志乃備加禰都母《シノヒカネツモ》云々。後撰集春下、兼輔朝臣、一夜のみねてしかへらば、ふちの花、心とけたるいろみせんやは云々。戀一、よみ人しらず、なきたむるたもとこほれるけさ見れば、心とけても君を思はず云々などあると同じくて、こゝの意(128)は、かの結び松を見れば、いにしへ思ひ出られて、かなしさに心むすぼゝれて、そゞろにものかなしと也。考云、この松、結ばれながら、大木となりて、此時までもありけん。
 
古所念《イニシヘオモホユ・ムカシオモホヘ》。
舊訓、むかしおもほへとあれど、考に、いにしへおもほゆとよまれしによるべし。さて、印本、こゝに未詳の二字あれど、かつて用なき事にて、こゝに亂れ入たる事、明らかなれば、今ははぶけり。
 
山上臣憶良。追和歌。一首。
 
追和歌。
本集四【十八丁】に、後人追同歌云々。五【十九丁】に、後追和梅歌云々。【廿一丁】後人追和之詩云云などありて、集中猶多し。皆、後の人の、追て添たる歌也。假字玉篇に、和をソヘルとよめり。この意也。答ふる意にあらず。
 
145 鳥翔《カケル・トリハ》成《ナス》。有我欲比管《アリカヨヒツヽ》。見良目杼母《ミラメドモ》。人社不知《ヒトコソシラネ》。松者知良武《マツハシルラム》。
 
鳥翔《カケル・トリハ》成《ナス》。
舊訓、とりはなすとあるは、いふにもたらぬ誤りにて、考に、つばさなすとよまれしもいかゞ。すべて、成《ナス》といふ語は、書紀にも本集にも、如の字をもよみて、如《ゴトク》の意なれば、つばさのごとく、ありがよひつゝとはつゞかず。つばさあるごとく、ありがよひつゝといはでは、意聞えず。さては、文字あまれば、さはよむべくもあらず。されば、案るに、かけ(129)るなすとよむべし。こは、有間皇子の御魂の、天がけりて、通《カヨ》ひつゝ見そなはす事をいへる所にて、集中、また祝詞にもあまがけりといふことありて、古事記中卷に、念自虎翔行《オモフヨリソラカケリユカント》云々。本集十七【四十五丁】に、久母我久理可氣理伊爾伎等《クモカクリカケリイニキト》云々と見えたり。さて成《ナス》といふ語は、すべて體語よりうくる語なれば、かけるなすとはよめり。
 
有我欲比管《アリカヨヒツヽ》。
古事記上卷に、佐用婆比爾阿理多々斯《サヨハヒニアリタヽシ》、用婆比爾阿理加用姿勢《ヨハヒニアリカヨハセ》云々。本集三
オホキミノトホノミカトヽアリカヨフシマトヲミレバカミヨシオモホユ
【廿四丁】に、大王之遠乃朝庭跡《》、蟻通島門乎見者《》、神代之所念《》云々。また【五十九丁】皇子之命乃安里我欲比《ミコノミコトノアリカヨヒ》云々。六【三十二丁】自神代芳野宮爾蟻通《カミヨヨリヨシヌノミヤニアリカヨヒ》云々などありて、集中猶多し。ありがよひのありは、集中、ありたゝし、ありまちなどいへる、有にて、こゝは、皇子の御魂の、今もありて、かよひつゝといへるなり。
 
見良目杼母《ミラメドモ》。
考云、皇子のみたまは、飛鳥の如く、天かけりて、見給ふらめど、と云也。紀【履中】に、有v如2風之聲1、呼2於大虚1、曰、鳥往來羽田之汝妹《トリカヨフハタノナニモハ》、羽狹丹葬立社《ハサニハフリタチイヌ》ともあり、云々といはれつるがごとし。さて、一首の意は、皇子の御たまの、天がけりつゝ見給ふらめども、人は凡夫なれば、知ざれども、かの結び松は、よくしりてあらんと也。
 
右件歌等。雖v不2挽v柩之時所1v作。唯擬2歌意1故。以載2于挽歌類1焉。
右の左注の事は、上挽歌の所にいへるがことく、いと誤りなり。
 
(130)大寶元年辛丑。秋九月。幸2于紀伊國1時。見2結松1歌。一首。
 
秋九月。
この三字、印本なし。集中の例によりて、續《(マヽ)》日本紀につ《(マヽ)》きにおぎなふ。
 
幸2于紀伊國1時。
續日本紀云、大寶元年、九月丁亥、天皇幸2紀伊國1、十月丁未車駕至2武漏温泉1云々とある度なり。さて、この端辭、時の字の下、作者の姓名ありしを脱せしか。又は、もとより作者不v知歌にてもあるべし。元暦本、こゝに小字にて柿本朝臣人麿歌集中出也の十一字あり。集中の例、左注にあぐべきなれば、こゝにはとらず。
 
146 後將見跡《ノチミムト》。君之結有《キミカムスヘル》。磐代乃《イハシロノ》。子松之宇禮乎《コマツカウレヲ》。又將見香聞《マタミケンカモ》。
 
君之結有《キミカムスヘル》。
印本、君の字を、若の字に誤れり。今意改。
 
子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》。
子は、借字にて、小松之|未《ウレ》なり。本集此卷【四十三丁】に、姫島之子松之末爾《ヒメシマノコマツカウレニ》云々。十【五丁】に、吾門之柳乃宇禮爾《ワカヽトノヤナキノウレニ》云々などありて、集中に猶いと多し。らとれと、音通ひて、小松が未《ウアラ》なり。字のごとく、すゑをいへり。さてこの歌は、皇子の御歌に、まさきくあらば、又かへり見んとのたまへるをうけて、後見ん爲ぞとて、かの皇子が結び給ひけん松を、又かへりきて、見給ひけんか、いかにぞ、うたがへる也。又、この歌を、考には、右の意寸《オキ》麿の磐代の岸の松が枝、結びけん人はかへりて又見けんかもといへる歌を唱へ誤れるを、後人、みだ(131)りに書加へしもの也とて、除かれつれど、本より別の歌とこそきこゆれ。
 
近江大津宮御宇天皇代。 天命開別《アマミコトヒラカスワケノ》天皇。
 
天皇、御謚を天智と申す。上【攷證一上廿七丁】に出たり。
 
天皇。聖躬不豫之時。太后奉御歌。一首。
 
天皇。
天智天皇を申す。
 
聖躬。
後漢書斑彪傳下注に、聖躬謂2天子1也云々と見えたり。すなはち、こゝは、天皇の御大身を申す也。躬は、説文に、※[身+呂]或从v弓、身也云々と見えたり。
 
不豫。
書紀天武紀に、體不豫を、みやまひとよめり。爾雅釋詁に、豫安也、樂也云々とありて、不豫は不安の意にて、天皇の御疾あるをいへり。
 
太后。
太后は、天智帝の皇后なり。本紀に、七年二月、丙辰朔戊寅、立2古人大兄皇女倭姫王1、爲2皇后1云々とありて、皇太后となり給ひし事は、紀にもらされしかど、神武帝の皇后、綏靖帝の皇太后と尊號し給ひしより、代々前の皇后をば、皇太后と申す例なれば、天智帝崩御の後皇太后の尊號ありし事明らけし。漢書外戚傳に、漢興因2秦之稱號1帝母稱2皇太后1祖母稱2太皇(132)太后1云々と見えたり。さて、考に、いまだ天皇崩まさぬ程の御歌なれば、今本、こゝを太后と書しは誤云々とて、皇后と直されしかど、すべて集中の例、官位にまれ、後の事を前《(マヽ)》およぼして書る例なれば、こゝも太后とありて論なし。
 
147 天原《アマノハラ》。振放見者《フリサケミレバ》。大王乃《オホキミノ》。御壽者長久《ミイノチハナカク》。天足有《アマタラシタリ》。
 
天原《アマノハラ》。
天のはらは、本集三【廿二丁】に、天原振離見者《アマノハラフリサケミレバ》云々とありて、集中猶いと多くて、すなはち天をいへる也。そを、あまのはらといふは、國原、海原 野原、河原などいふ、原と同じく、はてしなく廣きをいへる也。
 
振放見者《フリサケミレバ》。
集中いと多き詞にも《(マヽ)》、今も、ふりむく、ふりかへるなどいふ、振と同じく、ふりあふぎ見るないへる也。放《サケ》は、見さけ、問さけなどいふ、さけと同じく、遣《ヤル》意にて、見さけは、見やる意也。古事記上卷に、望の字を、眞淵が、みさけてとよまれつるも、あたれり。さて、このことは、止【攷證一上三十二丁】に、見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》とある所と、考へ合すべし。
 
御壽者長久《ミイノチハナガク・オホミイノチハ》。天足有《アマタラシタリ・ナガクテタレリ》。
考に紀【推古】に、吾大きみの隱ます天の八十蔭、いでたゝすみそらを見れば、萬代にかくしもがも云々てふ歌を、むかへ思ふに、天を御室《ミヤ》とします、天つ御孫命におはせば、御命も、長《トコシナ》へに、天足しなん。今御病ありとも、事あらじと、天を抑て、賀し給ふ也云々といはれつるがごとく、古事記上卷に、天神御子之|命《ミイノチ》、雖2雪零風(133)吹、怛《(マヽ)》如v石而常堅不v動坐云々ともありて、天皇はすなはち天つ神の御孫なれば、天原ふりさけ見ればとも、あまたらしたりとも、賀しのたまへる也。さて、天足《アマタラシ》とは、本集十三【十七丁】に、夢谷相跡所見社《イメニタニアフトミエコソ》、天之足夜于《アメノタリヨニ》云々ともありて、こゝは、天皇は、天神の御孫にましませば、天神のゆるし給へる御よはひにて、足みちたりといふ意にて、祝詞に、足幣帛、足日、足國、足御世、などいふ、足とおなじ。(頭書、本集三【五十五丁】に留不得壽爾之有者《トヽメエヌイノチニシアレハ》云々。者の字は助字なり。よむべからず。)
 
一書曰。近江天皇。聖體不豫。御病急時。太后奉獻御歌。一首。
 
この處、錯亂ありて、いとみだりがはし。左の、青旗乃木旗能上乎《アヲハタノコハタノウヘヲ》云々の歌は、天皇崩御の後の歌なれば、右の一書曰云々の端詞の御歌にあらず。されば、思ふに、こゝに、一書の、太后の御歌一首と、次の青旗乃《アヲハタノ》云々の歌の端詞のありしを脱せしなるべし。故に圍をいれてそのわかちを辨ず。
※[長い長方形の□あり]
右にいへるごとく、こゝに御歌一首ありしを脱せしなるべし。故に圍をいれたり。
※[長い長方形の□あり]
(134)右にいへるごとく、こゝに、左の青旗乃《アヲハタノ》云々の歌の、端詞ありしを脱せしなるべし。故に、圍をいれたり。考には、天皇崩時太后御作歌と、端詞を補はれしかど、わたくしに加へん事をはゞかりて、しばらく、本のまゝにておきつ。異本の出んをまつのみ。
 
148 青旗乃《アヲハタノ》。木旗能上乎《コハタノウヘヲ》。賀欲布跡羽《カヨフトハ》。目爾者雖視《メニハミレトモ》。直爾不相香裳《タヽニアハヌカモ》。
 
青旗乃《アヲハタノ》。
青旗は、考に白旗をいふとありて、又下にあげたるごとく、これかれを合せて、白旗なりととかれしかど、青馬、青雲などの、白馬白雲ならで、實に青き馬、青き雲なるにむかへ見れば、白旗にはあらで、實に青き旗なるべし。孝徳紀の、葬制に、帷帳などには白布を用るよし見えたれど、旗の事はなきを、これもて、旗をも白旗とは定めがたく、喪葬令に幡幾竿とのみありて、色をしるされずとて、必らず白幡とは定めがたきをや。まして、これらによりて、常陸風土記に、現に赤旗青幡とあるを、誤り也とは、いかでか定めん。そは、仙覺抄に引る、常陸風土記に、葬具儀、赤旗青幡、交雜飄※[風+場の旁]、雲飛虹張、瑩v野耀v路、時人謂之幡垂國云々とあるうへに、この集にも、青旗とあるを、いかでかすつべき。これらにても、下にあげたる、考の説の、誤りなるをしるべし。さて、枕詞に、あをはたの云々とあるも、冠辭考の説あやまれり。この事は、下【攷證四上】にいふべし。
 
木旗能上乎《コハタノウヘヲ》。
考に、今本は、小を木に誤りつ。同じことに、をの發語をおきて、重ねいふ古歌の文のうるはしき也。さがみ嶺《ネ》の小嶺《ヲミネ》、玉ざゝの小篠《ヲザヽ》、などの類、いと(135)多し云々とて、木《コ》を小《ヲ》に直されつ。この説一わたりはさる事ながら、よく/\考ふれば、誤り也。さがみ嶺《ネ》の小嶺《ヲミネ》、玉ざさの小篠《ヲザヽ》などの、小《ヲ》は發語にはあらで、小《チヒサ》き意にて、玉だれの小簾《ヲス》、小梶《ヲカヂ》小劔《ヲダチ》などの類也。また小菅《コスゲ》、小松《コマツ》などもいひて、小の字を、をとも、ことも、訓れど、皆|小《チヒサ》き意なれば、こゝの木旗《コハタ》の、木《コ》は、小《コ》の借字にて、小《チヒサ》き旗也。そは本集十六【九丁】に、死者木苑《シナハコソ》云々、また冬隱《フユコモリ》といふに、冬木成《フユコモリ》と多く書るにても、木は假字なるをしるべし。
 
賀欲布跡羽《カヨフトハ》。
考云、大殯宮に、立たる白旗どもの上に、今もおはすがごと、御面影は見へ《(マヽ)》させ給へど、正面《マサメ》に相見奉る事なしと歎給へり。この青旗《アヲハタ》を、殯宮の白旗ぞといふよしは、孝徳天皇紀の葬制に、王以下小智以上、帷帳等に白布を用ひよとあり。卷三挽歌に、大殿矣振放見者、白細布飾奉而《シロタヘニカサリマツリテ》、内日刺宮舍人者、雪穗麻衣服者《タヘノホノアサキヌキレハ》。また此卷にも、皇子の御門乎、神宮爾|装束奉而《カサリマツリテ》云々。かくて、喪葬命の錫紵は、細布なれば、大殯のよそひも、皆白布なるをしる。さて、旗は、右の書等に見えねど、喪葬令の、太政大臣旗二百竿とあるに、こゝの青旗云々をむかへて、御葬また大殯宮の白旗多きを知るべし。且成務天皇紀、神功皇后紀に、降人は素幡《シラハタ》を立て、參ることあるも、死につくよしなれば、これをも思へ。或抄に、常陸風土紀に、葬に五色の旗を立し事あるを引たれど、皇朝の上代にあるまじき事、まして孝徳の制より、奈良朝まで、王臣の葬に帷衣ともに白布を用ひ、白旗なる據こゝにしるせるごとくなるを、いかで色々用ひんや。令 葬旗に、集解にも色をいはぬは、白き故也。みだりにせば、違令の罪ぞ。風土記の浮説にまどはざれ云々。この説に、青旗を、白旗ぞといはれつるは、誤りなること、まへにい(136)へるがごとし。また喪葬令の、錫紵を白布也といはれしも誤り也。義解に、錫紵者細布、即用2淺黒染1也云々とあるを見られずや、いかに。また孝徳紀の葬制も、奢を禁じ儉約を專らとせよとの詔にて、王臣以下の事なれば、天皇の大殯には、などかいろ/\の旗をも用ひざらん。しかも考に引れたる令、また常陸風土記などの文の、本書とことなるは、いかに。一首の意は、考にとかれつるがごとし。
 
天皇崩之時。太后御作歌。一首。
 
天皇崩。
本紀云、十年九月、天皇寢疾不豫、十二月、癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉、殯2于新宮1云々と見えたり。印本、崩の下、御の字あれど、集中の例により略けり。また、太后の上に、倭の字あれど、まへにも太后とのみありて、目録に倭の字なきによりて略けり。
 
149 人者縱《ヒトハヨシ》。念息登母《オモヒヤムトモ》。玉※[草冠/縵]《タマカツラ》。影爾所見乍《カケニミエツツ》。不所忘鴨《ワスラエヌカモ》。
 
人者縱《ヒトハヨシ》。
縱の字、舊訓いざとあれど、代匠記に、よしとよみしにしたがふへし。そは、本集此卷【十八丁】に、縱畫屋師《ヨシヱヤシ》云々。六【三十五丁】に、不知友縱《シラズトモヨシ》云々ありて、延喜太政官式に、仰云縱【讀曰與志】云々ともあるを見べし。さて、このよしは、よしやといふ、よしと同じくて、集中猶多し。古今集、秋上、よみ人しらず、萩の露玉にぬかんととれはけぬ、よし見ん人は枝ながら見よ(137)云々とあるもおなじ。
 
玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》。
枕詞なり。玉かづらの、玉は、例の物をほめいふ言、※[草冠/縵]《カヅラ》は日蔭※[草冠/縵]《ヒカケカヅラ》の事にて、玉かづらかけとはつゞけし也。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。さて、この玉※[草冠/縵]の、玉は、山の誤り也と、宣長が古事記傳卷二十五、玉勝間卷十三にいはれつるは、上【攷證三上卅一丁】玉松之枝《タママツカエ》の所にあげたるがごとく、いかにもさる事ながら、貫之集に、かけて思ふ人もなけれど夕さればおもかげたえぬ玉かづらかな云々とあるは、全く此歌を本歌にとりて、よまれつるなれば、誤りながらいとふるければ、今さらあらたむべくもおぼえす。よりて、しばらく本のまゝにておきつ。
 
不《ワス》所《ラ・ラレ》忘鴨《エヌカモ》。
舊訓、わすられぬかもとあれ、わすらえぬかもとよむべし。かゝるは、れをえにかよはせて、えといふぞ、古言なる。そは、本集五【十丁】に、可久由既婆比等爾伊等波延《カクユケハヒトニイトハエ》、可久由既婆比等爾邇久麻延《カクユケハヒトニニクマエ》云々。また【廿丁】美流流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》云々。また【廿六丁】美夜故能提夫利和周良延爾家利《ミヤコノテフリワスラエニケリ》云々。十三【二十丁】に、暫文吾者忘枝沼鴫《シハシモワレハワスラエヌカモ》云々などありて、猶多し。これらを見ても思ふべし。さて一首の意は、天皇崩御のなげきを、人はよしやおもひやむとも、われたゞ天皇のましましゝ御面かげのみ、見ゆるやうにて、わすられずとなり。
 
天皇崩時。婦人作歌。一首。 姓氏未詳
 
婦人。
後宮職員令、義解に、宮人謂2婦人仕官者1之惣號也云々とあれば、こゝに婦人とあるは宮人をいへる也。父祖不v可v考。さて考には、天皇崩時の四字をはぶかれたり。これも(138)さることながら、しばらく本のまゝとす。
 
姓氏未詳。
この四字、印本大字とせり。今集中の例によりて小字とす。
 
150 空蝉師《ウツセミシ》。神爾不勝者《カミニタヘネハ》。離居而《ハナレヰテ》。朝嘆君《アサナケクキミ》。吾戀君《ワカコフルキミ》。玉有者《タマナラハ》。手爾卷持而《テニマキモチテ》。衣有者《キヌナラハ》。脱時毛《ヌグトキモ》無《ナク・ナミ》。吾《ワカ》戀《コヒム・コフル》。君曾伎賊乃夜《キミソキソノヨ》。夢所見鶴《イメニミエツル》
 
空蝉師《ウツセミシ》。
こは、借字にて、現《ウツ》し身也。うつせみしの、しは、助字也。さてこゝは、枕詞ならねど、冠辭考、うつせみの條にくはし。
 
神爾不勝者《カミニタヘネハ》。
考云、天つ神となりて、上り給ふには、わがうつゝにある身の、したがひ奉る事かなはで、離をると也云々、といはれつるがごとし。たへねばは、本集四【五十二丁】に、戀二不勝而《コヒニタヘステ》云々。十【五十五丁】に、不堪情尚戀二家里《タヘズコヽロニナホコヒニケリ》云々。十一【十一丁】に、人不顔面公無勝《ヒトニシヌヘハキミニタヘナク》云云などあると同じく、不勝の字をよめるは、かたれざるよしの義訓にて、意もかたれねばといふ也。
 
朝嘆君《アサナケクキミ》。
考云、下の、昨夜《キソノヨ》夢に見えつるといふを思ふに、そのつとめてよめる故に、朝といへるならん云々といはれつるがごとし。又本集三【六十丁】に、朝庭出立偲夕爾波入居(139)嘆會《アシタニハイデタチシヌヒユフベニハイリヰナゲカヒ》云々。十三【十五丁】に、朝庭丹出居而歎《アサニハニイテヰテナケキ》云々なども見えたり。
 
放《サカリ・ハナレ》居而《ヰテ》。
舊訓、はなれゐてとよめれど、放は集中さかりとのみよめれば、こゝもさかりゐてとよむべし。
 
玉有者《タマナラハ》。手爾卷持而《テニマキモチテ》。
本集三【四十九丁】に、人言之繁比日《ヒトコトノシケキコノコロ》、玉有者手爾卷以而《タマナラハテニマキモチテ》、不戀有益雄《コヒスアラマシヲ》云々。四【五十丁】に、玉有者手二母將卷乎《タマナラハテニモマカムヲ》、欝瞻乃世人有者《ウツセミノヨノヒトナレハ》、手二卷難石《テニマキカタシ》云々。十七【三十五丁】に、我加勢故波多麻爾母我毛奈《ワカセコハタマニモカモナ》、手爾麻伎底見都追由可牟乎《テニマキテミツツユカムヲ》、於吉底伊加婆乎思《オキテイカハヲシ》云々とあると、同じく、吾戀る君の、もし玉にてましまさば、手にまき持てはなたざらましものをと也。さて、古しへの風俗、手足頸などに、玉を卷事、まゝ見えたり。こはたゞ、服飾のみの事なるべし。そは、書紀神代紀下、一書に、手玉玲瓏織〓之少女《タダマモユラニハタオルヲトメ》云々。本集三【四十七丁】に、泊瀬越女我手二纏在玉者亂而《ハツセヲトメガテニマケルタマハミダレテ》云々。五【九丁】に、可羅多麻乎多母等爾麻可志《カラタマヲタモトニマカシ》云々。七【廿九丁】に、海神手纏持在玉故《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニ》云々。また【卅一丁】に照左豆我手爾纏古須玉毛欲得《テルサツカテニマキフルスタマモガモ》云々。十【卅丁】に、足玉母手珠毛由良爾《アシタマモタタマモユラニ》云々。十五【十三丁】に、和多都美納多麻伎納多麻乎《ワタツミノタマキノタマヲ》云々。延喜大神宮式に、頸玉手玉足玉緒云々などありて、又古事記上卷に、其御頸珠之玉緒《ソノミクヒタマノタマノヲ》母由良爾取由良迦志而云々。また淤登多那婆多能《オトタナハタノ》、宇那賀世流多麻能美須麻流《ウナカセルタマノミスマル》云々。書紀神代紀上、一書に、素戔嗚尊以2其|頸所嬰五百箇御統之瓊《クヒニウナケルイホツミスマルノタマ》云々。安閑紀に倫2取物部大連尾輿|瓔珞《クヒタマ》献2春日皇后1云々。本集十六【廿七丁】に、吾宇奈雅流珠乃七條《ワカウナケルタマノナヽツヲ》云々などあるは、頸《クヒ》玉なり。さて、この頸玉手玉足玉などの制は、いまはしりがたけれど、多く緒をいへるを見れば、玉をいくつも緒につらぬきて、まとひしものとおぼし。漢土に、環といふものあれど、 (140)そは一つの玉の中を、雕ぬきて、丸くなしたるものにて、この國なるとは別なり。頭書、四【四十三丁】眞玉付彼此兼手云々。こは枕詞ながら玉付る緒とつゞけたり。)
 
衣有者《キヌナラハ》。脱時毛《ヌクトキモ》無《ナク・ナミ》。
本集十【五十二丁】に、吾妹子者衣丹有南《ワキモコハキヌニアラナム》、秋風之寒比來下著益乎《アキカセノサムキコノコロシタニキマシヲ》云々。十二【十二丁】に、人言繋時《ヒトコトノシゲキトキニハ》、吾妹衣有裏服矣《ワキモコカコロモナリセハシタニキマシヲ》云々。また【十四丁】如此耳在家流君乎《カクシノミアリケルキミヲ》、衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《キヌニアラハシタニモキムトワカモヘリケル》云々などあると同じく、わが戀る君、もし衣にてましまさば、ぬぐ時もなく、きてあらましをと也。かくおよばざる事も云るも、歌のつねなり。無の字、舊訓なみとよみ、考になけんとよまれしかど、なくとよむべし。そのよしは次にいふべし。
 
吾戀《ワカコヒム》。
宣長云、無吾戀は右のごとく、なくわがこひんとよむべし。一つ所に居て、思ふをも戀るといふ意也。衣ならば、ぬぐ時もなく、身をはなたずて思ひ奉らん君といふ意也。この無の字を、なみとよめるは、わろし。又わが戀る君とよめるもわろし。上にも、わか戀る君とあれば也。同じ言を、ふたゝびかへしていふは、古歌の常なれども、この歌のさまにては、わが戀る君とは、二度いひてはわろし。又無の字、考にはなけんと訓れたれども、さては、いよ/\下の詞づかひにかなひがたし云々といはれつるがごとし。
 
君曾伎賊乃夜《キミソキソノヨ》。
伎賊《キソ》は、昨日也。本集十四【廿六丁】に、孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》、伎曾母許余比毛《キソモコヨヒモ》云々また【廿八丁】伎曾許曾波兒呂等左宿之香《キソコソハコロトサネシカ》云々などあるがごとし。また書紀允恭紀に、去※[金+尊]古曾椰主區波娜布例《コソコソヤスクハダフレ》云々とある、去※[金+尊]《コソ》も、こと、きと、音通ひて、伎曾《キソ》といふにおなじ。釋日本紀に、去※[金+尊]《コソ》如v謂2與倍《ヨベ》1云々としけるにてもおもふべし。
 
(141)夢《イメ・ユメ》所見鶴《ニミエツル》。
考云、こを、古しへは、いめといひて、ゆめといへることなし。集中に、伊米《イメ》てふ假字あり。伊《イ》は、寢《イ》なり。米《メ》は、目《メ》にて、いねて物を見るてふ意也。後世、いつばかりよりか、轉て、ゆめといふらん云々といはれつるがごとし。既に、延喜六年日本紀竟宴歌に、美流伊米佐女弖《ミルイメサメテ》云々と、このころまでも、いめとのみいへり。
 
天皇|大殯《オホアラキ》之時歌。二首。
 
大殯《オホアラキ》。
こは、天皇崩じまして、いまだ葬り奉らで、別宮におき奉るほどをいへるなり。皇子、皇女なども、これに同じ。大の字は、尊み敬ひ奉りて、しるせる也。さて、考には、おほみあかりとよまれしかど、おほあらきとよむべし。そのよしは、宣長が古事記傳卷三十に、くはしくとかれつるがごとし。こと長ければ、こゝには略せり。殯は、説文に、死在v棺、將v遷2葬柩1、賓2遇之1云々と見えたり。
 
151 如是有刀《カヽラムト》。豫知勢婆《カネテシリセハ》。大御船《オホミフネ》。泊之登萬里人《ハテシトマリニ》。標結麻思乎《シメユハマシヲ》。 額田王
 
豫知勢婆《カネテシリセハ》。
本集十【六十三丁】に、君無夕者豫寒毛《キミナキヨヒハカネテサムシモ》云々。十七【廿一丁】に、可加良牟等可禰底思理世婆《カカラムトカネテシリセハ》云々などあり。
 
標結麻思乎《シメユハマシヲ》。
考云、こゝの汀に、御舟のつきし時、しめ繩ゆひはへて、永くとゞめ奉らんものをと、悲しみのあまり、をさなく悔する也。古事記に、布刀玉命、以2尻(142)久米繩《シリクメナハ》1、控2度其後方1、白言、縦v此以内、不v得2還入1云々てふを、思ひて、よめるなるべし云々といはれつるがごとし。さて、標結《シメユフ》といへることは、上【攷證二上卅四丁】にいへり。
 
額田王。
この三字、印本なし。略解に引る官本、考異に引る古本、拾穗本などによりて加ふ。いづれも小字也。たゝ拾穗本のみ大字。
 
152 八隅知之《ヤスミシシ》。吾期大王乃《ワゴオホキミノ》。大御船《オホミフネ》。待可將戀《マチカコヒナム》。四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。  舍人吉年。
 
八隅知之《ヤスミシシ》。
上【攷證一上六丁】にいへり。
 
吾期大王《ワゴオホキミ》。
わがおほきみといふに同じ。このことは上【攷證一下卅五丁】にいへり。
 
四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。
近江國滋賀なり。上【攷證一上四十九丁】にいへり。一首の意、明らけし。さて、この二首は、天皇の近江の湖水、しがのほとりなどに、行幸ありしことを思ひいでゝよめるなるべし。考云、卷一に、大宮人のふねまちかねつと、柿本人麿のよみしは、これより年へてのち也。しかれども今をまねぶべき人ともおぼえず。おのづから似たるか云々。
 
舍人吉年。
新撰姓氏録書紀などにも、舍人の氏見えたれば、こゝの舍人吉年の舍人は、氏にて、女なり。この事下【攷證四上八丁】にいふべし。さて、この四字、印本なし。略解に引る官本、考異に引る古本、拾穗本などによりて加ふ。いづれも小字也。たゞ拾穗本のみ大字。
 
(143)太后御歌一首。
考云、これよりは、御新喪の程過て、後の事故に、またさらに太后の御歌をあぐ。
 
153 鯨魚取《イサナトリ》。淡海乃海乎《アフミノウミヲ》。奧放而《オキサケテ》。※[手偏+旁]來船《コキクルフネ》。邊附而《ヘニツキテ》。※[手偏+旁]來船《コキクルフネ》。奧津加伊《オキツカイ》。痛勿波禰曾《イタクナハネソ》。邊津加伊《ヘツカイ》。痛莫波禰曾《イタクナハネソ》。若草乃《ワカクサノ》。嬬之《ツマノ》。念鳥立《オモフトリタツ》。
 
鯨魚取《イサナトリ》。
いは、發語。さなとりは、すなとりと通ひて、漁《スナト》る海とつゞけし也。この事は上にいへり。
 
奧放而《オキサケテ》。
奧は、海のおきをいひ、放而は離《サカリ》てといふと同じく、奧はるかに遠ざかりてといふ意なり。
 
邊附而《ヘニツキテ》。
邊《ヘ》は、海ばたをいふ也。もとは、海邊《ウミベ》出邊《ヤマベ》などいふ、邊と同じ言なれど、語のはじめにいふ故に、清《スミ》ていへり。こは、古事記上卷に、奧疎神《オキサカルカミ》邊疎神《ヘサカルカミ》などあるごとく、奧邊《オキヘ》とむかへいふ言にで、邊は、すなはち海邊《ウミベ》也。本集此卷【四十一丁】に、奧見者跡位浪立《オキミレハアトヰナミタチ》、邊見者白浪散動《ヘヲミレハシラナミトヨミ》云々。九【十丁】に、在衣邊著而※[手偏+旁]尼《アリソベニツキテコクアマ》云々なども見えたり。さてこゝは、おき遠く、こぐ舟も、うみべにつきて、こぐふねもといふ意也。
 
(144)奧津加伊《オキツカイ》。
奧つの、つは、助字にて、奧榜舟《オキコグフネ》の櫂《カイ》なり。邊津加伊《ヘツカイ》は、邊《ヘ》を榜舟の櫂なり。この櫂といふものも、※[楫+戈]《カヂ》といふものも、古くは、一つ物にて、中古より、今も※[舟+虜]《ロ》といふものゝ事なり。今の世に、梶《カヂ》といふ物は、古しへは、※[舟+毎の毋が巴]《タイシ》といひし物なり。さるを、今の世には、かいも、かぢも、ろも、みな別物となりて、※[舟+毎の毋が巴]《タイシ》といふ名は、絶《タエ》たり。そを和名抄舟具に、釋名云、在v勞撥v水曰v櫂【馳效切、亦作v棹、楊氏漢語抄云加伊、】楫也、櫂2於水中1且進v櫂云々、釋名云、楫【才立切又子葉切和名加遲】使2v舟捷疾1行具也、兼名苑云、一名※[木+堯]【加昭切】小楫也云々、唐韻云、※[舟+虜]【郎古切與v櫓同】所2以進v船也云々と、おのおの別にあげられしは誤りなり。さて、これらのわかちを、くはしくいはん。まづ櫂《カイ》は、舟を掻遣《カイヤル》意にて、かき、かくとはたらきて、かい掃《ハク》、かいやるなどいふ、かいを、やがて物の名としつるなれば、かいの假字也。本集八【卅三丁】に、左丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲフネモカモ》、玉纏之眞可伊毛我母《タマヽキノマカイモカモ》云々。十七【卅七丁】に、阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマフネニマカチカイヌキ》云々。十九【卅九丁】に、小舶都良奈米眞可伊可氣伊許藝米具禮婆《ヲフネツラナメマカイカケイコキメクレハ》云々。また【卅九丁】に、等母爾倍爾眞可伊繁貫《トモニヘニマカイシヽヌキ》云々。二十【十八丁】に、大船爾末加伊之自奴伎《オホフネニマカイシジヌキ》云々などあるうちに、まかいしゞぬきとも、かいぬきともあるに、三【卅四丁】に、大舟爾眞梶貫下《オホフネニマカチヌキオロシ》云々。六【十八丁】に、眞梶貫吾榜來者《マカチヌキワカコギクレハ》云々。七【卅八丁】に、眞梶繁貫水手出去之《マカチシヽヌキコキテニシ》云々。十【卅二丁】に、船装眞梶繁拔《フナヨソヒマカチシヽヌキ》云々とあるごとく、全く同じつゞけざまなると、てらし見ても、櫂楫おなじものなるをしるべし。また、これを、中古より、艪ともいへり。そは、枕草子に、ろといふものおして、歌をいみじううたひたる、いとをかしう云々。夫木抄卷十二に、匡房卿、小夜ふけてうらにからろのおとすなり、あまのとわたるかりにやあるらん云々と見えたり。雁の聲は、實に※[舟+虜]《ロ》をおすごとくきこゆる也。古今集秋上に、菅根朝臣、秋風にこゑをほにあげてくるふねは、あまのとわたるかりにぞ有ける云(145)云とよめるも、※[舟+虜]《ロ》の音の似たる也。また漢土の書に、櫂《カイ》は、釋名に、在v旁撥v水曰v櫂、櫂濯也、濯2於水中1也、且言使2舟櫂進1也云々。楫《カチ》は、説文に、舟櫂也云々。玉篇に、行舟具、※[楫+戈]※[舟+揖の旁+戈]同云々。易繋辭に、刳v木爲v楫、舟楫之利、以濟2不通1云々。※[舟+虜]は、和名抄に、見ゆるがごとく、これら皆おなじさまなるにても、同物なるをしるべし。今の世にいふ梶《カチ》は、和名抄舟具云、唐韻云船※[舟+毎の毋が巴]【徒可反上聲之重字亦作舵】正v船木也、楊氏漢語抄云、柁【船尾也、或作v※[木+毎の毋が巴]和語多伊之、今案舟人呼2挾抄1爲2舵師1是】云々と見えて、柁は、玉篇に、正v船木也、設2於船尾1與v舵同、一※[木+毎の毋が巴]云々。釋名に、舟尾曰v※[木+毎の毋が巴]、※[木+毎の毋が巴]柁也、後見※[木+毎の毋が巴]、見※[木+毎の毋が巴]曳也、且弼2正船1、使3順v流不2他戻1也云々とある、これ也。古事記中卷に、倭武命の、吾足不v得v歩、成2當藝斯《タギシノ》形1云々とのたまへるも、この物にて、當藝斯《タギシ》といへるを、音便、に多伊之《タイシ》とはいへる也。さて櫂《カイ》楫《カチ》と、※[舟+虜]《ロ》と、一物なりとはいへど、少しけぢめはあり。まづ、※[舟+虜]《ロ》といふ名は、漢名にて、この物和名なし。こは、今の世にも、※[舟+虜]《ロ》》といひて、上下木をつぎて、こしらへたる物にて、手にておして、舟をやる具にて、これを、歌にからろといふ。からろは、漢※[舟+虜]《カラロ》にて、漢士《カラ》の製の※[舟+虜]といふ事也。櫂《カイ》楫《カチ》は、上下一つ木にて、直くこしらへ、水をかきで舟をやるもの也。この物、この江戸の舟には見およばざる物なれど、海邊の漁船などには、今もあり。これらのわかちをよく/\考へてしるべし。
 
痛勿波禰《イタクナハネソ》。
今の世の俗言にも、水のはねる、泥土《ドロ》のはねるなどいふ、はねると同じ。櫂《カイ》にて水を甚《イタ》くはねる事なかれと也。古事記下卷に、加那須岐母伊本知母賀母須岐婆奴流母能《カナスキモイホチモカモスキハヌルモノ》云々といへるも、はねるといへる也。
 
(146)若草乃《ワカクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。春のわか草は、めづらしく、うつくしまるゝ物なれば、それにたとへて、わか草のつまとはつゞけし也。
 
嬬之念鳥立《ツマノオモフトリタツ》。
考云、こゝは、夫《ツマ》と書べきを、こゝ《(マヽ)》音をとりて、字にかゝはらぬ古へぶり也。下にも多し。さて、紀にも、集にも、御妻は、天皇を、吾せこともよみしかば、こゝのつまもしか也。この鳥は、下の日並知皇子尊の、殯の時、島宮池上|有《ナル》放鳥、荒備勿行、君不座十方とよめる如く、愛で飼せ給ひし鳥を、崩じまして後、放たれしが、そこの湖に猶をるを、いとせめて、御なごりに見給ひて、しかのたまふならん云々といはれつるがごとし。宣長云このとぢめの句、本のまゝにても、聞えはすめれど、猶思ふに、嬬之命之《ツマノミコトノ》とありけんを、之の字重なれるから、命之二字を脱せるにや云々といはれつる、さもあるべし。
 
石川夫人歌。一首。
 
書紀天智紀云、七年二月、丙辰朔戊寅、納2四嬪1、有2蘇我山田石川麻呂大臣女1、曰2遠智娘1、生2一男二女1、其一曰2大田皇女1、二曰2鵜野皇女1、其三曰2建皇子1、次有2遠智娘弟1、曰2姪娘1、生3御名部皇女與2阿倍皇女1云々。この二妃のうちなるべし。夫人の事は、上【攷證二上廿一丁】藤原夫人の所にいへり。
 
154 神樂浪乃《サヽナミノ》。大山守者《オホヤマモリハ》。爲誰可《タガタメカ》。山爾標結《ヤマニシメユフ》。君毛不有國《キミモアラナクニ》。
 
(147)神樂浪乃《サヽナミノ》。
枕詞にて、上にも出たり。神樂浪《サヽナミ》の三字を、さゞなみとよむよしは、上【攷證一上四十七丁】にいへり。
 
大山守者《オホヤマモリハ》。
山守は、書紀應神紀に、五年秋八月、庚寅朔壬寅、令2諸國1、定2海人及山守部1云々。顯宗紀云、小楯謝曰、山官明v願、乃拜2山官1、改賜2山部連氏1、以2吉備臣1爲v副、以2山守部1爲v民云々。續日本紀に、和銅三年二月、庚戌、初充2守山戸1、令v禁v伐2諸山木1云々など見えたり。續紀に、初とあるは、この官、中ごろたえしを、又おかれしなるべし。本集三【四十二丁】に、山守之有家留不知爾《ヤマモリノアリケルシラニ》、其山爾標結立而《ソノヤマニシメユヒタテヽ》、結之辱爲都《ユヒノハチシツ》云々。また山王者蓋雖有《ヤマモリハケタシアリトモ》云々。六【二十丁】に、大王之界賜跡《オホキミノサカヒタマフト》、山守居守云山爾《ヤマモリスヱモルトフヤマニ》云々。七【廿五丁】に、山守之里邊通《ヤマモリノサトヘカヨヘル》云々。十三【二丁】に、三諸者人之守山《ミモロハヒトノモルヤマ》云々などもありて、竹木をきる事を禁じ、またはみだりに界をこえざるために、山守を居たまふ也。宣長云、大山守とよめる、大は、さゞなみの山は、大津宮の邊なる山にて、ことなるよしをもて、この山守をたゝへて、いふ也。大御巫などの大のごとし云々。
 
山爾標結《ヤマニシメユフ》。
こゝは、御山ぞとて、しめゆひて、人を入しめぬなり。標結《シメユフ》ことは、上【攷證二上卅四丁】にいへり。
 
君毛《キミモ》不有國《アラナクニ・マサナクニ》。
本集此卷【四十四丁】に、久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》云々。四【四十二丁】に、幾久毛不有國《イクヒサシクモアラナクニ》云々。また君爾不有國《キミニアラナクニ》云々などあるによりて、あらなくにとよむべし。さて、一首の意は、この山守は、天皇もましまさぬに、たがためにか、かく御山をばまもるらんとなり。
 
(148)從2山科御陵1。退散之時。額田王作歌。一首。
 
山科御陵。
山科御陵は、天智天皇の御陵なり。されど、この書紀に、この御陵に、葬奉る事をのせられず。たゞ天武天皇元年紀に(山陵を造らん《(マヽ)》せらるゝよしあり。その後、文武天皇三年紀に、十月甲午、欲v營2造越智山科二山陵1也と見えて、延喜諸陵式に、山科陵、近江大津宮御宇天智天皇、在2山城國宇治郡1、兆域東西十四丁、南北十四丁、陵戸六烟云々と見えたり。猶くはしくは、前王廟陵記、また蒲生秀實が山陵志などにつきて見るべし。さて、御陵は、みはかとよむべし。古事記に、御陵とあるは、眞淵、みなみはかとよまれき。書紀仁徳紀に、難波荒陵《ナニハノアラハカ》云々。源氏物語須磨卷に、院の御はか云々とあり。またみさゝぎとよまんも、あしからず。陵は、新撰字鏡に、凌同、力承反、大阜曰v陵、乎加又豆不禮、又彌佐々木云々。和名抄葬送具に、日本紀私記云、山陵【美佐々岐】云々など見えたり。されど既に前にも、みはかとよめれば、こゝもしかよむべし。
 
退散《アラケマカル》。
こは、御陵に葬り奉りて、しばしがほどは、常に仕奉りし人たちの、晝夜御陵に仕奉りてありしが、ほどへて退散するなる事、前に見ゆるがごとし。さて、退散は、考にあらけまかるとよまれしによるべし。あらくは、古事記下卷に退、書紀神代紀上下散去などをよみ、又舒明紀に散卒をあらけたるいくさとよみて、つどへる者のまかりちるをいへる也。土佐日記にけふ海あらけ、磯に雪ふり、浪の花さけり云々とあるも、岩などにふれて、浪の散るをあらけとはいへり。
 
(149)155 八隅知之《ヤスミシヽ》。和《ワ》期《ゴ・ガ》大王之《オホキミノ》。恐也《カシコキヤ》。御陵《ミハカ》奉仕流《ツカフル・ツカヘル》。山科乃《ヤマシナノ》。鏡山爾《カヽミノヤマニ》。夜者毛《ヨルハモ》。夜之盡《ヨノコト/”\》。晝者母日之盡《ヒルハモヒノコト/”\》。哭耳呼《ネノミヲ》。泣乍在而哉《ナキツヽアリテヤ》。百礒城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。去別南《ユキワカレナム》。
 
恐也《カシコキヤ・カシコミヤ》。
舊訓、かしこみやと訓。考には、かしこしやとよまれしかど、かしこきやとよむべし。このかしこしと云言は、本はかしこみおそるゝ意なれど、こゝは、かたじけなき意にいへるなり。集中、祝詞、宣命など、あぐるにいとまなし。さて、宣長云、恐也を、かしこみや、かしこしやなどゝよめるは、わろし。かしこきやとよむべし。やは添たる辭にて、かしこき御陵《ミハカ》といふ意也。廿卷【五十四丁】に、可之故伎也安米乃美加度乎《カシコキヤアメノミカトヲ》云々。この例也。また八卷【卅丁】に、宇禮多岐也志許霍公鳥《ウレタキヤシコホトヽキス》云々。これらの例をもおもふべし云々といはれつるがごとし。
 
御陵《ミハカ》奉仕流《ツカフル・ツカヘル》。
陵は、はかとよむべき事、まへにいへるがごとし。また廣雅釋邱に、陵冢也云云。後漢書光武帝紀注に、陵謂2山墳1云々。水經渭水注に、長陵亦曰2長山1也、秦名2天子冢1曰v山、漢曰v陵、故通曰2山陵1矣云々とあるがごとく、天子と庶人とを、たゞ文字のうへにてわけたるのみ。訓はたがふ事なし。さて、宣長云、奉仕流は、つかふるとよむべし、つかへると訓るは誤り也。
 
(150)山科乃《ヤマシナノ》。鏡山爾《カヽミノヤマニ》。
山城國宇治郡なり。和名抄郷名に、山城國宇治郡山科【也末之奈】云々と見えたり。鏡山は、山城に、在2御陵村西北1、圓峯高秀、小山環列、行人以爲v望云々と見たり。考云、近江豐前にも、同名の山あり云々。
 
夜者毛《ヨルハモ》。
四言の句也。毛は助字にてよるは也。
 
夜之《ヨノ》盡《コト/\・ツキ》。
考云、卷十三《今四》に、崗本天皇御製とて、晝波日乃久流留麻弖夜者夜之明流寸食《ヒルハヒノクルヽマテヨルハヨノアクルキハミ》とあるに依てよみね。こはいと古言にて、古言をば、古言のまゝ用る事、集中に多き例也云々といはれしは、いかゞ。夜之盡《ヨノコト/\》とよむべし。古事記上卷に、伊毛波和須禮士《イモハワスレジ》、余能許登碁登爾《ヨノコトゴトニ》云々とあるも、世の盡にて、世のかぎりといふ意なり。本集此卷【卅五丁】に、赤根刺日之盡《アカネサスヒノコト/”\》云々。三【五十四丁】に、憑之人盡《タノメリシヒトノコト/”\》云々。五【六丁】に、久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》云々。又【廿九丁】布可多衣安里能許等其等《ヌノカタキヌアリノコトゴト》、伎曾倍騰毛寒夜須良乎《キソヘトモサムキヨスラヲ》云々などある、こと/”\も、みな限りの意なり。これらの例をおして、こゝもこと/”\とよまんとしるべし。呂覽明理篇注に、盡は極とも見えたり。
 
晝者母《ヒルハモ》。
これも、母《モ》は助字にて、晝者《ヒルハ》也。
 
哭耳呼《ネノミヲ》。
哭は、音をたてゝ泣なり。集中皆おなじ。説文繋傳に、哭聲繁、故从2二口1、大聲曰v哭、細聲有v涕曰v泣云々とあるにてしるべし。
 
(151)百磯城乃《モモシキノ》。
枕詞也。上【攷證一上四十八丁】にいでたり。
 
去別南《ユキワカレナム》。
考云、葬まして、一周の間は、近習の臣より舍人までもろもろ、御陵に侍宿《トノイ》する事、下の日並知皇子尊の、御墓つかへする、舍人の歌にてしらる云々。
 
明日香清御原宮御宇天皇代。 天渟中原瀛眞人天皇。
 
天皇、御謚を天武と申す。この宮の事は、上【攷證一上卅七丁】に出たり。天渟中原瀛眞人天皇の九字、印本大字とす。今集中の例によりて、小字とせり。
 
十市皇女薨時。高市皇子尊御作歌。三首。
 
十市皇女。
天武天皇の皇女なり。上【攷證一上卅七丁】に出たり。書紀天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜v之、癸巳、食v卜、仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘與命v盖、以未v及2出行1、十市皇|卒《(マヽ)》然病發薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣、庚子、葬2十市皇女於赤穗1、天皇臨v之、降v恩以發v哀云々と見えたり。
 
高市皇子尊。
この皇子の御事は、上【攷證二上卅二丁】に出たり。皇太子に立給ひしかば、尊とはかけり。この時は、まだ皇太子には、おはしまさねど、すべて極官を書べき例なり。
 
(152)156 三諸之《ミモロノ》。神之神須疑《カミノカミスギ》。巳具耳矣自得見監乍共《・イクニヲシトミケムツヽトモ》。不寐夜叙多《ネヌヨソオホキ》。
 
三諸之《ミモロノ》。
三輪の大神を申せり。この事は、上【攷證二上十一丁】にいへり。
 
神之神須疑《カミノカミスギ》。
神は、一の句よりつゞきて、すなはち三輪の大神也。神須疑《カミスキ》は、本集四【四十八丁】に、味酒呼三輪之祝我忌杉《ウマサケノミワノハフリカイハフスキ》、手觸之罪歟《テフレシツミカ》、君二遇難寸《キミニアヒカタキ》云々。七【四十丁】に、三幣帛取神之祝我鎭齋杉原《ミヌサトルミワノハフリカイハフスキハラ》、燎木伐殆之國手斧所取奴《タキヽコリホト/\シクニテヲノトラレヌ》云々。十【十七丁】に、石上振乃神杉神佐備而《イソノカミフルノカミスキカミサヒテ》云々などありて、また書紀顯宗紀に、石上振之神※[木+温の旁]《カミスキ》、伐v本截v末云々ともあり。これ今の世にいふ神木なり。和名抄木類云、爾雅音義云、杉【音衫、一音※[糸+鐵の旁]、和名須木見2日本紀私記1、今案、俗用2※[木+温の旁]字1非也※[木+温の旁]字於粉反、桂也、唐韻云、似v松生2江南1、可3以爲2船材1矣、】云々と見えたり。
 
巳具耳矣自得見監乍共《・イクニヲシトミケムツヽトモ》。
この十字、誤字ありとおぼしく、心得がたし。考には、已免乃實耳爲見管本無《イメノミニミエツヽモトナ》を、草の手より誤りしものならんといはれしかど、なほ心ゆかず。ただ後人の考を待つのみ。略解に、具一本目、矣一本笑に作るとあり。
 
157 神山之《ミワヤマノ》。山邊眞蘇木綿《ヤマヘマソユフ》。短木綿《ミシカユフ》。如此耳故爾《カクノミユヱニ》。長等思伎《ナカクトオモヒキ》。
 
神山之《ミワヤマノ》。
三輪山也。三輪は、大和國城上郡也。考云、三諸も、神山も、神岳と三輪とにわたりて、聞ゆるが中に、集中をすべ考るに、三諸といふに、三輪なるぞ多く、神なび(153)の三室、また神奈備山といへるは、飛鳥の神岳也。然れば、こゝは二つともに、三輪か。されどこの神山を、今本に、押て、みわ山とよみしは、おぼつかなし云々とて、神山を、かみやまとよまれしかど、猶舊訓のまゝ、みわ山とよむべき也。さる故は、古事記中に、神君《ミワノキミ》とありて、その傳に、神の字、みわと訓り。そも/\、みわを、神と事故は、古へ大和國に、皇大宮敷坐《スメラオホミヤシキマセ》りし御代には、このみわの大神を、ことにあがめ奉らして、たゞ大神とのみ申せば、すなはちこの神の御事なりしから、つひに、その文字を、やがておほみわといふに用る事にぞ、なれりけん。さるまゝに、大をはぶきて云にも、また神字を用ひし也けり。和名抄に、大和國城上郡の郷名、大神於保無和。神名式にも、大神《オホミワ》としるされたり。既に、崇神紀八年の下に、大神之掌酒《オホカミノサカヒト》とも、令v祭2大神1ともあるは、みわの大神也云々など、宣長のいはれしにてもおもふべし。
 
山邊眞蘇木綿《ヤマヘマソユフ》。
山邊は、神山《ミワヤマ》之山邊とつゞきてすなはちみわ山のほとりにある、木綿《ユフ》といへる也。眞蘇木綿《マソユフ》の眞《マ》は、例の物をほむることばにて、蘇《ソ》は、佐乎《サヲ》の反、蘇《ソ》なれば、佐乎《サヲ》の意、佐は添ていふ語にて、乎《ヲ》は緒《ヲ》也。大祓祝詞に、管曾《スガソ》とあるも、菅佐乎《スガサヲ》にて菅の緒也・そは、本集九【卅四丁】に、直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヽモニハオリキテ》云々とあるにてもしるべし。木綿《ユフ》は豐後風土記に、速見郡|柚富《ユフ》郷、此郷之中、栲樹多生、常取2栲皮1、以造2木綿《ユフ》1、因曰2柚富《ユフ》郷1云々。寶基本記に、謂以2穀木1、作2白和幣1名號2木綿1云々とあるごとく、栲または穀などの皮をもて作れる布也。さてその皮を割《サキ》て、緒《ヲ》となして、織によりて、眞蘇木綿《マソユフ》とはいへり。麻を、乎いふも、割《サキ》て緒《ヲ》になして、用るもの故に、しか名づけし也。かくいふよしを、くはしくは、眞淵の祝詞考、宣長(154)の古事記傳卷八、大祓後釋などにつきて見るべし。
 
短木綿《ミジカユフ》。
考云、こは長きも短きもあるを、短きを設出て、この御命の短さによそへ給へり。後に、みじかきあしのふしの間も、とよめるも、この類也云々、いはれつるがごとし。
 
如此耳故爾《カクノミユヱニ》。
耳《ノミ》は、後世にいふ所と同じく、ばかりの意。故爾《ユヱニ》は、なる物をといふ意にてかくばかりなるものをと、のたまふ也。故爾といふ語のなるものをの意なる事は、上【攷證一上卅六丁】にいへり。さて、一首の意は、神山之山邊眞蘇木綿《ミワヤマノヤマヘマソユフ》といふまでは、短木綿《ミシカユフ》といはん序にて、短木綿の、みじかきを、御命のみじかきによせて、かくばかり、御命みじかゝりしものを、今までは、長くおはせよかしと、おもひきと、のたまふなり
 
158 山振之《ヤマフキノ》。立儀足《タチヨソヒタル・サキタル》。山清水《ヤマシミツ・ヤマノシミツヲハ》。酌爾雖行《クミニユカメト》。道之白鳴《ミチノシラナク》。
 
山振之《ヤマブキノ》。
集中、山振、山吹などをよめり。いづれも借字也。本草和名、和名抄等に、※[(ヒ/矢)+欠]冬をよめり。こは、今食物にする、ふきの事は《(マヽ)》、山振《ヤマフキ》に當られしは誤り也。また、新撰字鏡に、※[木+在]をよめり。こは漢土に見えぬ文字にて、中國の作字也。さて貝原篤信が大和本草に、棣棠を當たり。これしかるべし。くはしくは、本《(マヽ)》名につきてみるべし。
 
立儀足《タチヨソヒタル・サキタル》。
舊訓、さきたるとよめれに《(マヽ)》、代匠記に、たちよそひたるとよめるにしたがふべし。足は詞也。儀は、伊呂波字類抄、假字玉篇などに、よそふとよみて、また廣雅釋訓に、(155)儀儀容也云々ともあれば、よそひとよまん事、論なし。こゝは、山ぶきの容をよそひたるごとく咲とゝのひたるをのたまへり。さてこれを、宣長は、儀は灑などの誤りにて、立しなひたるとあるべし。卷廿に、多知之奈布《タチシナフ》きみがすがたを云々とよめり云々といはれしかど、古事記上卷に、束装立時《ヨソヒタヽストキ》云々。本集十四【廿九丁】に、水都等利乃多々武與曾比爾《ミツトリノタヽムヨソヒニ》云々ともあれば、などかたちよそふともいはざらん。
 
山清水《ヤマシミツ・ヤマノシミツヲハ》。
山の清水《シミヅ》也。山吹は、今も水邊に多くよめり。山吹の容をよそひたるごとく、咲とゝのひたるは、邊の清水などをよそふがごとし。そのよそひたる山のしみづを、くみにゆかめどもと也。
 
道之白鳴《ミチノシラナク》。
山の清水を、くみにゆかんとは思へど、道をしらずと也。道のゝ、の文字は、をの意也。さて、考云、葬し山邊には、皇女の、今も山ぶきの如く、姿とをゝに立よそひて、おはすらんと思へど、めゆかん道ししらねば、かひなしとおさなく思ふ《(マヽ)》給ふがかなしき也。(頭書、三【廿九丁】に、船乘將爲年之不知久《フナノリシケントシノシラナク》云々。九【十九丁】に問卷乃欲我妹之家之不知《トハマクノホシキワキモカイヘノシラナク》云々。)
 
天皇崩之時。太后御作歌。一首。
 
天皇崩。
書紀本紀云、朱鳥元年九月、丙午、天皇病遂不v差、崩2于正宮1、戊申、鮨發v哭、則起2殯宮於南庭1云々。持統紀云、三年十一月、乙丑、葬2于大内陵1云々と見えたり。
 
(156)太后。
後に、持統天皇と申す。書紀本紀云、高天原廣野姫天皇、少名鵜野讃良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰2遠智娘1、天豐財重日足姫天皇三年、適2天渟中原瀛眞人天皇1、爲v妃、天渟中原瀛眞人天皇二年、立爲2皇后1云々。四年春正月、戊寅朔、皇后即2天皇位1云々と見えたり。
 
159 八隅知之《ヤスミシシ》。我大王之《ワカオホキミノ》。暮去者《ユフサレハ》。召賜良之《メシタマフラシ》。明來者《アケクレハ》。問賜良之《トヒタマフラシ》。神岳乃《カミヲカノ》。山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》。今日毛鴨《ケフモカモ》。問給麻思《トヒタマハマシ》。明日毛鴨《アスモカモ》。召賜萬旨《メシタマハマシ》。其山乎《ソノヤマヲ》。振放見乍《フリサケミツツ》。暮去者《ユフサレハ》。綾哀《アヤニカナシミ》。明來者《アケクレハ》。裏佐備晩《ウラサヒクラシ》。荒妙乃《アラタヘノ》。衣之袖者《コロモノソテハ》。乾時文無《ヒルトキモナシ》。
 
召《メシ》賜《タマフ・タマヘ》良之《ラシ》。
宣長云、召賜良之《メシタマフラシ》、問賜良志《トヒタマフラシ》、二つながら、たまふらしとよむべし。十八【廿三丁】にみよしぬの、この大宮に、ありがよひ、賣之多麻布良之《メシタマフラシ》、ものゝふの云々。これ同じ格也。つねのらしとは、意かはりて、何とかや、心得にくきいひざま也。廿卷【六十二丁】に、大き(み脱か)のつぎて賣須良之《メスラシ》、たかまとの、ぬべ見るごとに、ねのみしなかゆ云々。このめすらしもつねの格にあらず。過しかたをいへる事、いまと同じ。これらの例によりて、今もたまふらしとよむべき事明らけし。本に、たまへらしと訓るは誤り也。考に、良は利に通ひて、給へり也と(157)あるも、いかゞ云々といはれつるがごとし。さて、この召賜《メシタマフ》の、召は、借字にて、米《メ》と美《ミ》と音かよへば、見之《ミシ》給ふにて、神岳のもみぢを見舊ふ也。この事は、上【攷證一下廿五丁】をも考へあはすべし。
 
明來者《アケクレハ》。
夜のあけゆけば也。この事上にいへり。
 
問賜良之《トヒタマフラシ》。
この問《トフ》は、人に物をとふ意にはあらで、訊《トフラ》ふ意にて、これも、神岳のもみぢをとぶらひ給ふらしと也。本集九【十九丁】に、問卷乃欲我妹之《トハマクノホシキワキモカ》云々。十【五十丁】に、誰彼我莫問《タレカレトワレヲナトヒソ》云々などありて、猶多し。皆、たづねとぶらふ意にいへり。玉篇に、問已糞切、訊也云々とあり。
 
神岳《カミヲカ・ミワヤマ》乃《ノ》。
舊訓、みわ山とよめれど、八雲御抄に、かみをかとよませ給へるしたがふべし。神岳は、三諸《ミモロ》の雷《イカツチノ》岳の事にて、雷は、奇しくあやしきものなれば、古くより、たゞ神とのみもいひ來れば、雷岳を、やがて神岳ともいひし也。そは書紀雄略紀に、雷をかみとよみて本集十二【十九丁】に、如神所聞瀧之白浪乃《カミノコトキコユルタキノシラナミノ》云々。十四【十四丁】に、伊香保禰爾可未奈那里曾禰《イカホネニカミナヽリソネ》云々」後撰集戀六に、よみ人しらす、ちはやぶる神にもあらぬわが中のくもゐはるかになりもゆくかな云々。拾遺集雜戀、端詞に、かみいたくなり侍りけるあしたに云々。伊勢物語に、神さへいみじうなり、雨もいたうふりければ云々などあるにても、しるべし。さて、この所は、書紀雄略紀に、七年秋七月、申戌朔丙子、天皇詔2少子部連※[虫+果]羸1曰。朕欲v見三諸岳神之形1、汝膂力過v人、自行捉來、※[虫+果]羸答曰、試往捉之、乃登2三諸岳1、捉2取大蛇1、奉v示2天皇1、天皇不2齋戒1、其雷※[兀+虫]々、目精赫々、天皇畏蔽v目不v見、却2入殿中1、使v放2於岳1、仍改賜v名爲v雷云々。この事を、靈異記上卷にものせて、雷(158)放2光明1※[火+玄]天皇見之恐偉進2幣帛1、命v還2落處1、今呼2雷岳1云々とあれど、其説ことなり。本集三【十二丁】に、天皇御2遊雷岳1之時、柿本朝臣人麿作歌、皇者神二四座者《オホキミハカミニシマセハ》、天雲之雷之上爾廬爲流鴨《アマクモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》云々。また【廿九丁】登2神岳1山部宿禰赤人作歌、三諸乃神名備山爾《ミモロノカミナヒヤマニ》云々。九【九丁】に、勢能山爾黄葉常敷《セノヤマニモミヂトコシク》、神岳之山黄葉者今日散濫《カミヲカノヤマノモミチハケフカチルラム》云々なども見えたり。これらにも、皆岳を、をかとよめり。岳は集韻に、嶽古作v岳云々とあれば、山獄と同字也。嶽は、たけとよみて、高山の事なれば、世のつね、丘岡などいふ所とは、大きにこと也。また和名抄山谷類に、蒋魴切韻曰、嶽高山名也、【五角反、又作v岳、訓與v丘同、未詳、漢語抄云美太介】周禮註云、土高曰v兵【音鳩、和名乎加、又用2岡字1、作v崗】とも見えたり。されば考ふるに、嶽は、高山の事、丘岡はひきく、平地のすこし高きをいひて、その所は、別なれど、訓は同じき也。訓の同じきにまかせて、一つ所ぞと思ひ誤る事なかれ。そは、古は山の峰をも、峰《ヲ》といひ、山の裔《スソ》をも尾《ヲ》といへど、所は、別なるにてもおもふべし。この事は下【攷證七 】にいふべし。
 
今日毛鴨《ケフモカモ》。
天皇のおはしまさば、今日もかも問たまはましあすもかもめしたまはましと心得べし。本集此卷【廿六丁】に、味凝文爾乏寸《ウマコリノアヤニトモシキ》云々。また【卅三丁】綾爾憐《アヤニカナシヒ》云々。六【十九丁】に決卷毛綾爾恐《カケマクモアヤニカシコク》云々などありて、集中猶いと多し。古事記上卷に、阿夜爾那古斐岐許志《アヤニナコヒキコシ》云々ともあり。綾《アヤ》文《アヤ》などかけるは、みな借字也。さるを、考に、綾文のごとく、とさまかくさまに、入たちてなげくなりといはれし《(マヽ)》たがへり。宣長云、阿夜《アヤ》は、驚て歎《ナゲク》聲なり。皇極紀に、咄嗟を夜阿とも、阿夜《アヤ》とも訓り。凡そ、阿夜《アヤ》、阿波禮《アハレ》、波夜《ハヤ》、阿々《アヽ》など、皆本は、同く歎くこゑにて、少しづゝのかはりあるなり。抑、歎くとは、中音よりしては、たゞ悲み愁ふることにのみいへども、然にあらず。(159)那宜伎《ナケキ》は、長息《ナカイキ》のつゞまりたる言にて、凡そ何事にまれ、心にふかく、おもはるゝ事あれば、長き息をつく。これすなはちなげき也。されば、うれしき事にも、歎はする事也。さて、そのなげきは、阿夜《アヤ》とも、阿波禮《アハレ》とも、波夜《ハヤ》とも、聲のいづれば、歎聲とはいへり。又|阿夜《アヤ》といひて、歎くべき事を阿夜爾《アヤニ》云々ともいへり。阿夜にかしこし、阿夜にこひし、あやにかなしなどの類也云々と、いはれつるがごとし。
 
裏佐備晩《ウラサビクラシ》。
裏《ウヲ》は、借字にて、心なり。佐備《サビ》は、集中、不樂、不怜などの字をもよみて、たのしまざる意にて、こゝは心のすさまじく、なくさまず、あかしくらすをのたまへり。このこと、くはしくは、上【攷證一下二丁】にいへり。
 
荒妙乃《アラタヘノ》。
枕詞に似て、枕詞にあらず。荒妙乃《アラタヘノ》衣とつゞきて、こは喪服なり。儀制令義解に、謂凶服者※[糸+衰]麻也云々とありて、※[糸+衰]衣は、和名抄葬送具に、唐韻云、※[糸+衰]【倉囘反、與v催同、和名不知古路毛】喪服也云々とありて、古今集戀三に、よみ人しらず、思ふどちひとり/\がこひしなば、たれによそへてふち衣きん云々とよめるも、かならず藤にて織たる布ならぬど、※[糸+衰]衣は、あら/\しきものなれば、藤衣の名をかりたる也。集中枕詞に、荒妙乃藤《アラタヘノフチ》とつゞくるにても、ふち衣はあら/\しきものなるをしるべし。
 
一書曰。天皇崩之時。太上天皇御製歌。二首。
 
(160)この天皇の御時、太上天皇おはしまするなし。されば考るに、こは持統天皇を申すなり。この時持統天皇は、いまだ天武帝の皇后にておはしましゝ事、まへに太后とあるがごとし。さて太上天皇の尊號は、持統帝より、はじまりしかば、ことさらに太上天皇とは申すなり。されどこゝは天武帝崩じましゝ所なれば、太后とかくべきを、太上天皇と書しは、この一書の誤り也。
 
160 燃火物《モユルヒモ》。取而※[裏に似た字]而《トリテツメミテ》。福路庭《フクロニハ》。入澄不言八面《・イルトイハスヤモ》。智男雲《・チヲノコクモ》。
 
燃火物《モユルヒモ》。
舊訓、ともしびもとあれど、燃の字、ともし火とよまんいはれなし。こは長流がもゆるひもとよめるに、したがふべし。廣韻に、燃俗然字云々。説文に、然燒也云々とあり。又本集十一【四十二丁】に、燒乍毛居《モエツヽモヲル》云々。十二【廿一丁】に、燒流火氣能《モユルケフリノ》云々など、燒をもゆるとのみよめるにても、こゝももゆるとよむべきをしるるべし。
 
福路庭《フクロニハ》。
福《フク》路は、借字にて、嚢なり。古しへは、何事にも、袋《フクロ》を用ひしことと見えたり。そは、古事記上卷に、於2大穴牟遲神1、負v※[代/巾]《フクロ》爲2從者1、率往云々。書紀雄略紀に、二2分子孫1、一分賜2茅渟縣主1、爲2負v嚢者1云々。續日本紀に大寶元年十二月、戊申、賜2諸王卿※[代/巾]樣1云々。靈龜二年十月、禁武官人者朝服之袋儲而勿v著云々。本集四【五十三丁】に、生有代爾吾者未見《イケルヨニワレハマタミス》、事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《コトタエテカククオモシロクヌヘルフクロハ》云々。この外集中、はり袋、すり袋なども見えたり。催馬樂庭生に、見也比《》止乃左久留不久呂乎於乃禮加介太利《ミヤヒトノサクルフクロヲオノレカケタリ》云々。靈異記中卷に、從2緋嚢1、出2一尺鑿1云々。清和實録貞觀十二年三月十六日紀に、納糒帶袋見えたり。この外とのいものゝふくろゑぶくろなどもいひ、猶諸書に見えたれどこと/\くあぐるにいとまなし。
 
(161)入澄不言八面智男雲《・イルトイハスヤモチヲノコクモ》。
この二句、いかによむべきかは、心得がたし。この二句の訓、思ひ得ざれば、一首の意も解しがたし。拾穗本には、智を知に作て、結句、おもしるなくもとよみ、代匠記にも、しかよめり。考異本に引る異本には、澄を登に作れり。これにても、猶解しがたし。されば、代匠記と考との説をあげたり。代匠記云、面智男雲をもちをのこくもと、和點を加へたる、後人のしわざなるべし。おもしるなくもとよむべし。智は、知の字なるべし。おもしるは、つねに、あひ見る顔をいふ也。第十二に、おもしる君が見えぬこのごろとも、おもしるこらが見えぬころかもともよめり。もゆる火だにも、方便をよくしつれば、ふくろにとりいれても、かくすを、寶壽かぎりまし/\て、とゞめ奉るべきよしなくて見なれ奉り給へるおもわの見えたまはぬを、こひ奉り給へる也云々。考には、智は知曰の二字を、一字に誤れるなるべしとて、入澄不言八面《イルトイハスヤモ》、知曰男雲《シルトイハナクモ》とよみて、八面を、やものかなとせしは、卷四にもあり。男雲は、借字にて、無毛也。後世も、火を食火を蹈わさを爲といへば、その御時ありし※[人偏+殳]小角がともがらの、火を袋につゝみなどする、あやしきわざをする事ありけん。さて、さるあやしきわざをだにすめるに、崩ませし君に、あひ奉らん術を知といはぬが、かひなしと、御なげきのあまりに、のたまへる也云々。この二説、いづれもかなへりともいひがたし。猶後人よく考ふべし。
 
161 向南山《キタヤマニ》。陣雲之《タナビククモノ》。青雲之《アヲクモノ》。星《ホシ》離《サカリ・ワカレ》去《ユキ》。月牟《ツキモ》離《サカリ・ワカレ》而《テ》。
 
(162)向南山《キタヤマニ》。
きた山とよむは、義訓也。名所にあらず。南に向ふは、北なれば、北方の山をのたまへり。顧瑛詩に、料應堂北梅花樹、今歳聞時向v南云々などあるにても、南に向ふは北なるをしるべし。
 
陣雲之《タナヒククモノ》。
陳は、義訓なり。玉篇に、陳除珍切、列也布也云々と見えて、たなびくとは、本集三【卅二丁】に、白雲者行憚而棚引所見《シラクモハユキハヽカリテタナヒケルミユ》云々。四【五十一丁】に、春日山霞多奈引《カスカヤマカスミタナヒキ》云々。この外、集中いと多く、輕引、霏※[雨/微]、桁曳などの字をも、よみて、そらに物など引はへたらんやうに、引わたし覆《オホ》ふをいふこと也。されは、陳の字をかける也。さて古事記上卷に、八重多奈雲云々。本集八【五十五丁】に、棚霧合《タナキラヒ》云々。十三【廿四丁】に、柳雲利《タナクモリ》云々などある、たなも、たなびくといふと同じ。
 
青雲之《アヲクモノ》。
宣長云、青雲といへる例は、祈年祭祝詞に、青雲能靄極《アヲクモノタナヒクキハミ》、白雲能墜坐向伏限《シラクモノオリヰムカフスカキリ》云々。萬葉十三【廿九丁】に、白雲之棚曳國之《シラクモノタナヒククニノ》、青雲之向伏國乃《アヲクモノムカフスクニノ》。十四【廿八丁】に、安乎久毛能伊※[氏/一]來和伎母兒《アヲクモノイテコワキモコ》云々。十六【廿九丁】に、青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲクモノタナヒクヒスラコサメソホフル》。そも/\青色の雲は、なきものなれども、たゞ大|虚空《ソラ》の、蒼《アヲ》く見ゆるを、しかいふ也云々といはれつるがごとし。史記伯夷傳に、青雲之士云々。南史 に、意在2青雲1云々。淮南子 に、志屬2青雲1云々などあるも、みな虚空をさして、青雲とはいへる也。
 
星《ホシ》離《サカリ・ワカレ》去《ユキ》。
宣長云、青雲之星は、青天にある星也。雲と星と、はなるゝにはあらず。二つの離は、さかりと訓て、月も星も、うつりゆくをいふ。ほ(163)どふれば星月も次第にうつりゆくを見たまひて、崩たまふ月日の、ほど遠くなりゆくを、かなしみ給ふ也云々といはれつるがごとく、王勃勝《(マヽ)》王閣詩に、物換星移幾度v秋云々。杜牧詩に、經2幾年月1換2幾星霜1云々などある、星の字も、年月の事なり。離を、さかりとよむ事は、上【攷證一上四十七丁】に見えたり。月牟《ツキム》の、牟は、毛の誤り也とて、考には月毛と直されたれど、牟《ム》と毛《モ》と音かよへば、牟を、もとよまん事論なし。
 
天皇崩之後。八年九月九日。奉v爲2御齋會1之夜。夢裏習賜《イメノウチニナレタマヘル》御歌。一首。
 
崩之後八年。
天武天皇、朱鳥元年崩じ給ひしかば、後八年は持統天皇七年にあたれり。
 
九月九日。
持統紀云、七年九月、丙申、爲2清御原天皇1、設2無遮大會於内裏1云々とあり。この月、丁亥朔なれば、丙申は十日に當れり。さるをこゝには、九日とせり。いづれをか正しとせん。
 
御斎會。
齋會は、書紀敏達紀に、大會設v齋とはあれど、蘇我馬子宿禰の家にての事にて、臣家の齋會なり。推古紀に、十四年四月、壬辰、丈六銅像坐2於元興寺金堂1、即日設v齋(164)於v是會集人衆、不v可2勝數1云々とあるも、元興寺の齋會なり。天武紀に、四年四月、戊寅、請2僧尼二千四百餘1、而大設v齋焉云々とある、宮中御齋會のはじめなり。持統紀に、二年二月乙巳、詔曰、自v今以後、毎v取2國忌日1、要v須v齋也云々と見えたり。後は、正月八日より十四日まで行はるゝよしなり。こははるかに後のことなり。
 
夢裏習賜《イメノウチニナレタマヘル》。
習賜は、目録になれたまふと訓るをよしとす。これを、考には、唱賜と直し、略解には、習は誦の誤かといへれど、いかが。漢書五行志、中之下に、習狎也とありて、狎は、なるゝ義なれば、こゝは、太后の御夢のうちに、天皇に親しく馴れ給ふさまを見たまひて、御いめの中ながら、この御歌をよませ給ふ也。さて、是は、天武帝崩給ひて後、八年にて持統帝七年の事なれば、この清御原宮御宇の條に、載べきにあらずとて、本文に略かれしかど、甚しき誤り也。年代はいかにまれ、こは、天武帝の御爲に、御齋會をまうけ給ひて、しかも多年を經ても、猶わすれかねさせ給ひて、御夢にさへ見奉りて、御歌をよませ給ふなれば、こゝに入べき事、論なきをや。また、こゝに、太后としるし奉らねど、こは、まへの天皇崩之時、太后御作歌とある端辭を、うけたるにて、御歌とさへあれば、太后の御歌なる事、明らけし。又代匠記に引る官に、小字にて、古歌集中出とあれど、集中の例、左注にあぐべきなれば、こゝにはとらず。
 
162 明日香能《アスカノ》。清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食之《シラシメシシ》。八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワカオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。何方爾《イカサマニ》。所念食可《オモホシメセカ》。神《カム・カミ》風乃《カセノ》。伊勢能國者《イセノクニハ》。奧津藻毛《オキツモモ》。靡足波(165)爾《ナヒキシナミニ》。鹽氣能味《シホケノミ》。香乎禮流國爾《カヲレルクニヽ》。味凝《ウマコリ》。文爾乏寸《アヤニトモシキ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之御《ヒノミコ》。
 
高《タカ》照《ヒカル・テラス》日之《ヒノ》皇子《ミコ・ワカミコ》。
高照《タカヒカル》は、枕詞。日之皇子《ヒノミコ》とは、天皇は、日之神の御末ぞと申意也。この事上【攷證一下十九丁】にいへり。ここは、わが大王《オホキミ》は、日の神の御末ぞと申す意なり。
 
何方爾《イカサマニ》。所念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。
本集一【十七丁】に、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、天離夷者雖有《アマサカルヒナニハアレト》、石走淡海國乃《イハヽシノアフミノクニノ》、樂浪乃大津宮爾《サヽサミノオホツノミヤニ》、天下所知食兼《アメノシタシラシメシケム》云々ともありて、食可《》は、めせばかの意にて、可《カ》は、疑ひの辭なれば、右に引る一卷の歌にて、所知食兼《シラシメシケム》と結べり。さて、こゝはいかさまにおぼしめせばか、この伊勢の國には、おはしますらんとのたまふ也。
 
神風乃《カムカセノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十四丁】にも出たり。
 
靡足波爾《ナヒキシナミニ》。
靡足《ナヒキシ》は、波へもかゝりて、波の風にふきよせられなどするを、なびくといひて、藻も、波も、なびく也。本集二十【六十三丁】に、阿乎宇奈波良加是奈美奈妣伎《アヲウナハラカセナミナヒキ》、由久左久佐都々牟許等奈久《ユクサクサツヽムコトナク》、布禰波々夜家無《フネハヽヤケム》云々とあるにても、波のなびくといふをしるべし。さて、足をしの假字用ひしは、略訓也。割をき、石をし、市をちの假字に用ふるたぐひ多し。或人、九【十九丁】に、片足羽河《タダシハカハ》とあるを、ここの略訓の例に引たれど、あしの、あの字は、かたのたの字の引聲にこもりて、おのづからにはぶかるゝ格なれば、こゝの例にあらず。
 
鹽氣能味《シホケノミ》。香乎禮流國爾《カヲレルクニヽ》。
鹽氣は、鹽の氣也。本集九【卅二丁】に、鹽氣立荒礒丹者雖有《シホケタツアリソニハアレト》云々。能味《ノミ》はばかりの意。この伊勢の國は、鹽氣のみ立みち(166)たる國なるを、いかにおぼしめしてか、この國にはおはすらんとの意也。香乎禮流《カヲレル》は、鹽氣のたちて、くもれるをいへり。書紀神代紀上、一書に、我所v生之國、唯有2朝霧1、而薫滿之哉、云々。神樂、弓立歌に、多久保乃計《タクホノケ》、以曾良加左支仁《イソラカサキニ》、加保利安不《カホリアフ》、於介於介《オケオケ》云々とあるは、こゝと同語なれど、假字たがへり、とあるにても思ふべし。さて、この所、必ず脱句あるべし。鹽氣能味香乎禮流國爾《シホケノミカヲレルクニニ》、味凝文爾乏寸《ウマコリノアヤニトモシキ》とはつづくべくもあらぬうへに、上に、何方爾所念食可《イカサマニオホシメセカ》とある、可もじの結びなし。されば、こゝに脱句ありて結び辭もうせしこと、明らけし。
 
味凝《ウマコリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。本集六【十一丁】に、味凍とかけるも、借字にて、美織《ウマクオリ》の綾とつづけしにて、くおの反、こなれば、うまごりとはいへりき。綾を詞のあやにとりなしてつづけし也。
 
文爾乏寸《アヤニトモシキ》。
文爾《アヤニ》は、借字にて、まへにいへるごとく、歎息の辭なり。乏寸《トモシキ》といふに、三つあり。一つは、めづらしと愛すると、一つは、うらやましき意なると、一つは、實に乏《トモシ》くまれなる意なると也。うらやましき意なるは、上【攷證一下四十一丁】ともしくまれなる意なるは、下【攷證三上五十七丁】にいへり。こゝなるは、めづらしと愛する意なる事、何にまれ、少くともしき物は、めづらしく思ふよりいへる也。そは、本集三【廿二丁】に、出來月乃光乏寸《イテクルツキノヒカリトモシキ》云々。四【廿丁】に、人之見兒乎青四乏毛《ヒトノミルユヲワレシトモシモ》云々。六【十一丁】に、味凍綾丹乏敷《ウマコリノアヤニトモシキ》云々。九【十五丁】に、吉野川音清左見二友敷《ヨシヌカハオトノサヤケサミルニトモシク》云々などありて、猶多し。さてこゝの意は、あやにともしくめづらしと思ひ奉る、日之皇子と、天皇をさして申給ふ也。この御歌一首は《(マヽ)》の意は、脱句あれば、解しがたし。また夢中の御詠なれば、おのづからにし(167)どけなきにや。またこの天皇、はじめよし野に入せ給ひしが、吉野より伊勢國へ幸ありし事あるをおぼしいでゝ、よみ給へるにもあるべし。
 
藤原宮御宇天皇代。高天原廣野姫天皇。
 
天皇、御謚を持統と申す。この宮の事は、上【攷證一上四十三丁】に出たり。高天原廣野姫天皇の九字、印本大字とす。今集中の例によりて、小字とせり。
 
大津皇子薨之後。大來《オホク》皇女。從2伊勢齋宮1上v京之時。御作歌。二首。
 
大津《オホツ》皇子薨。
天武帝の皇子也。朱鳥元年十月。薨給へり。上【攷證二上廿二丁】にもくはし。
 
大來《オホク》皇女。
天武帝の皇女、大津皇子同母の御姉なり。白鳳二年、齋宮になり給ひて、朱鳥元年十一月に、齋宮より、京にかへらせ給ひぬ。こは、大津皇子の御事によりてなるべし。この皇女、まへには、大伯皇女と見えたり。その所【攷證二上廿三丁】にくはし。
 
163 神風之《カムカセノ》。伊勢能國爾母《イセノクニニモ》。有益乎《アラマシヲ》。奈何可來計武《ナニシカキケム》。君毛不有爾《キミモアラナクニ》。
 
奈何《ナニシ》。
奈何は、集中、なぞ、などかなどもよめり。みな義訓なり。
 
(168)君不有爾《キミモアラナクニ》。
君は、大津皇子をさしたまへり。一首の意明らけし。
 
164 欲見《ミマクホリ》。吾爲君毛《ワカセシキミモ》。不有爾《アラナクニ》。奈何可來計武《ナニシカキケム》。馬疲爾《ウマツカラシニ》。
 
欲見《ミマクホリ》。
字のごとく、見んと欲する也。本集三【四十二丁】に、朝爾食欲見其玉乎《アサニケニミマクホリスルソノタマヲ》云々。四【廿六丁】に、生日之爲社妹乎欲見爲禮《イケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》云々などありて、猶いと多し。こゝは、わが見まくほりせし君もなう《(マヽ)》なくにと、上下して、心得べし。そは、七【十九丁】に、欲見吾爲里乃《ミマクホリワカスルサトノ》云々。また【廿六丁】見欲我爲苗《ミマクホリワカスルナヘニ》云々などあるもおなじ。
 
馬疲爾《ウマツカラシニ》。
略解には、うまつかるゝにと訓れど、舊訓のまゝ、うまつからしにとよむべし。わが見んと思ふ君も、いまはおはさぬものを、何しにか來にけん。たゞ馬をつからすのみぞと也。疲《ツカル》は、本集七【廿七丁】に、春日尚田立羸《ハルヒスラタニタチツカル》云々。十一【廿六丁】に、玉戈之道行疲《タマホコノミチユキツカレ》云々。靈異記中卷に、疲【都加禮爾弖】とありて、遊仙窟に、日晩途遙、馬疲人乏云々と見えたり。さて、こは、齋宮自ら、馬にのり給ふにはあらず。御供の人々の馬を、のたまふ也。そは、延喜齋宮式に、凡從行群官以下給v馬、主神司中臣忌部宮主各二疋、頭四疋、助三疋、命婦四疋、乳母并女嬬各三疋、輿長及殿守各一疋云々。凡齋王、還v涼者、其齋王衣服輿輦之類、官便附v使送v之、皆堺上而脱易【衣服之類、給2忌部1、輿輦之類、給2中臣1、又各加2鞍御馬一匹1】云々とあるにても、齋宮は御輿にて、從行の人は騎馬なるをしるべし。
 
移2葬大津皇子|屍《ミカハネ》。於葛城二上山1之時。大來皇女哀傷御作歌。二首。
 
(169)移葬。
假寧令集解に、改2移舊屍1、古記曰、改葬謂d殯2埋舊屍柩1改移v之類u云々とあれば、移葬は改葬といふに同じく、今まで殯してありつるを、墓所に移し葬るをいへり。
 
屍《ミカバネ》。
考に、屍をおきつきとよまれしは、甚しき誤り也。屍は、禮記曲禮に、在v牀曰v屍、在v棺曰v柩云々とありて、屍は 人死していまだ柩にも入ざるをいへる事、古事記中卷に、大山守命之骨者、葬2于那良山1也云々とある、骨も、みかばねとよむべきにてもしるべし。本集十八【廿一丁】に、海行者美都久屍《ウミユカハミツクカハネ》、山行者草牟須屍《ヤマユカハクサムスカハネ》云々とも見えたり。さて、おくつきは、墓の事なれば屍をよめるは誤り也。この事は、下【攷證三 】にいふべし。
 
葛城二上山。
いま葛城山は、大和國葛上郡、二上山は、葛下郡なり。葛城は、書紀神武紀に高尾張邑、有2土蜘蛛1、其爲v人也、身短而手足長、與2侏儒1相類、皇軍結2葛網1、而掩襲殺v之、因改號2其邑1、曰2葛城1云々とありて、いにしへは、葛上下二郡、おしなべて葛城とは云ひし也。和名抄國郡部に、大和國葛上【加豆良岐乃加美】葛下【加豆良木乃之毛】云々とありて、二郡とはわかれしかど、猶かつらぎといへり。されば、葛下郡の二上山をも、葛城二上とはいへる也。そは、延喜神名式に、大和國葛下郡、葛木二上神社云々とあるにても思ふべし。大和志に、葛下郡二上山墓在2二上山、二上神社東1云々と見えたり。猶この山は、集中の歌にも見えて、越中にも同名あり。
 
165 宇都曾見乃《ウツソミノ》。人《ヒト》爾有《ナル・ニアル》吾哉《ワレヤ》。從明日者《アスヨリハ》。二上山乎《フタカミヤマヲ》。弟世登吾將見《イモセトワレミム》。
 
(170)宇都曾見乃《ウツソミノ》。人《ヒト》爾有《ナル・ニアル》吾哉《ワレヤ》。
宇都曾美は、現身《ウツシミ》といふ意なる事、志《シ》と曾《ソ》と音かよへば也。これを、借字に、虚蝉《ウツセミ》、空蝉《ウツセミ》などかけるも、志《シ》と世《セ》と音かよひて、現身《ウツシミ》なり。この事は、冠辭考、うつせみの條にくはし。さて、こゝの意は、己れは現《ウツヽ》の身の人にはあれども、君を、二上山に葬りたるからは、明日よりは、その二上山を、いもせとは見んとなり。
 
弟世登吾將見《イモセトワレミム》。
弟を、いもせとよむは、妹の意にて、義訓なり。兄弟夫婦、おしなべて、いもせとはいへり。そは、書紀仁賢紀、分注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹《イモ》云々とありて、いもせは、男女の稱にて、兄弟夫婦ともに、男は女を、いもといひ、女は男を、せといひしより、こゝは兄弟を、いもせとはいへる也。本集六【卅二丁】に、不言問木尚妹與兄有云乎《モノイハヌキスライモトセアリトフヲ》、直獨子爾有之苦者《タヾヒトリコニアルカクルシサ》云々。十七【廿三丁】に、伊母毛勢母和可伎紀等毛波《イモモセモワカキコトモハ》云々。七【十九丁】に、人在者母之最愛子曾《ヒトナラハハヽノマナコソ》、麻毛吉木川邊之妹與背之山《アサモヨシキノカハノヘノイモトセノヤマ》云々。後撰集雜三に、はらからの中にいかなる事かありけん、つねならぬさまに見え侍りければ、よみ人しらず、むつまじきいもせの山の中にさへへだつるくものはれずもあるかな云々。宗于集に、はらからなる人の、うらめしきことあるをりに、君とわがいもせの山も秋くればいろかはりぬるものにぞありける云々。これら、みな兄弟をいへり。夫婦をいへるは、やゝ後のことなり。
 
166 礒之於爾《イソノウヘニ》。生流馬醉木乎《オフルツヽジヲ》。手折目杼《タヲラメト》。令視倍吉君之《ミスヘキキミカ》。在常不言爾《アリトイハナクニ》。
 
(171)礒之於爾《イソノウヘニ》。
磯《イソ》は借字にて、曾《ソ》と志《シ》と音かよへば、石なり。本集十一【十二丁】に、磯上立回香瀧《イソノウヘニタチマフタキノ》云云。十二【三丁】に、磯上生小松《イソノウヘニオフルコマツノ》云々などあるも、皆石なり。於《ウヘ》は、三【四十丁】に、玉藻乃於丹獨宿名久二《タマモノウヘニヒトリネナクニ》などもよみて、廣韻に、於居也とあれば、自らうへの意こもれり。
 
生流馬醉木乎《オフルツツシヲ》。
馬醉木を、考には、あしびと訓て、本集二十【六十二丁】に、安之婢《アシヒ》とあると、同物として、今いふ木瓜《ホケ》なりといはれしは、誤れり。そのよしを、くはしくいはん。まづ、馬醉木は、本集八【十五丁】十三【二丁】などには、馬醉木とかき、十【十丁十四丁十七丁】には、馬醉花とかけり。いづれも、この集の外、漢土の書にも見ゆる事なし。これこの集の義訓に、まうけて、嶼る字なれば也。本集十に、馬醉花とかける、三首の歌は、六帖第六、あせみの條に載て、みなあせみと訓り。こは、天暦の御時、梨壺の五人に詔して、この集を讀解しめ給ひしをりの訓なるべけれど、其後、仙覺がつゝじと訓せしぞさる事なりける。そもそも、つゝじを、馬醉木と書たる事、この集の外は、ものに見えざれど、和名抄木類に、陶隱居本草注云、羊躑躅【擲直二音、和名以波豆々之、一云毛知豆々之】羊誤食v之、躑躅燭而死、故以名v之云々とありて、本はつゝじを、羊躑躅といひしかど、やがて、羊の字をはぶきて、躑躅とのみもいひし事、漢土の書にも多くありて、今もしか也。躑躅とは、一切經音義卷八、引2字林1て、躑躅※[足+主]足不v進也云々。玉篇に、躑躅不v能v行云々とありて、ゆくことならざる意にて、羊の、つゝじを食へば、足すくみて、行ことならざる故に、つつじを、しか名づけしなれば、馬の醉《ヱヘ》るも、足すくみて、行ざるもの故に、馬の醉《ヱヘ》るは、躑躅する事、もとよりなれば、躑躅の意をとりて、つゝじに、馬醉木とはかける也。こは、謎《ナゾ》のごとき、字の用ひ(172)ざまなる事、集中、山下風を、あらしのかせとよみ、馬聲の二字を、いの假字とし、所聞多を、かしまとまみ、向南を、きたとよみ、八十一を、くゝとよみ、二五を、とをとよみ、十六を、しゝとよみ、義之を、てしとよめる類、かぞへがたし。この類としるべし。さで、馬醉木《アシヒ》も、安之婢《アシビ》も、前によめる所も、咲時も、大かたは同じければ、同物とせしも、ことわりなれど、上にいへるを見ても、同物ならぬをしるべし。(頭書、再考るに、馬醉木をつゝじとせしは非なりけり。大和本草本草啓蒙など※[木+浸の旁]木【アセホ】を當たるも非也。※[木+浸の旁]木は、食へば、馬の醉るもの故に、馬醉木の字にのみ付て、これを定めしなるべけれど、花小き白き花にて、房になりて咲て、正月の末にひらきて、見るにたらね花也。集中詠る所を、こゝにあげたれば、よくく考へて、これに|なら《(マヽ)》ぬをしるべし。七【十丁】に、安志妣成榮君之《アシヒナスサカエシキミカ》云々。八【十五丁】に、山毛爾咲有馬醉木乃《ヤマモセニサケルアシヒノ》、不惡君乎何時《ニクカラヌキミヲイツシカ》云々。十【十四丁】に、吾瀬子爾吾戀良久者《ワカセコニワカコフラクハ》、奧山之馬醉花之今盛有《オクヤマノアシヒノハナノイマサカリナリ》。また十七丁、春山之馬醉花之不惡《ハルヤマノアシヒノハナノニクカラズ》云々。十三【二丁】に、本邊者馬醉木花開《モトヘハアシヒハナサク》、末辺方椿花開《スヱヘハツハキハナサク》云々。二十【六十二丁】に、乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮姿安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《ヲシノスムキミカコノシマケフミレハアシヒノハナモサキニケルカモ》。また伊氣美豆爾可氣左倍見要底《イケミツニカケサヘミエテ》、佐岐爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈《サキキニホフアシヒノハナヲソテニコキレナ》。また伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆《イソカケノミユルイケミツ》、底流麻※[泥/土]爾左家流安之婢乃知良麻久乎思母《テルマテニサケルアシヒノチラマクヲシモ》などあるを、おしわたし考るに、あしびなす榮えし君とも、山も迫にさけるあしびとも、池水てるまでにともあれば、花やかに咲榮ゆるものとこそおもはるれ。今いふあせぼの如く、見るにもたらぬ花を、いかでか賞すべき。このあせぼといふ木、たま/\馬に毒する功ありとも、これとは定めがたき事、人に毒するもの一二種のみならねば、馬に毒するものもまた猶ありぬべきにてしるべし。されば、冠辭考にいはれたる如く、木瓜なるべし。木瓜の種類、いと多き中に(173)も、しどみと云ふものぞ、古しへのあしびなるべき。これを、中古よりは、あせみといへり。しとせと通ずればなり。堀川百首に【俊頼】とりつなげ玉田横野のはなれごま、つゝじのけたにあせみはなさくとよまれたれど、かのあせぼは、正月末、二月のはじめに咲て、つゝじに先だつ事、一月あまり也。又夫木抄卷廿九に、【光俊】おそろしや、あせみの枝を折たきて、南にむかひいのるいのりはとよまれしは、人を呪咀する護摩には刺ある木をたきて、南に向ひて祈るよしなれば、今の木瓜よく當れり。されば、中古よりは、木瓜と定めしなれば、今もこれに從ふべし。)
 
在當不言爾《アリトイハナクニ》。
このなくには、下へ意をふくめたるにて、一首の意は、今この二上山の、石の上に、生たるつゝじの花を、手をらめども、見すべき君が、ありともいはぬは、いとかなしと、悲しみ給へるなり。さて、考に、移はふりの日に、皇女もしたひゆきたまふ道のへに、この花を見て、よみ給へるもの也。上の歌に、あすよりはとあるからは、他《アタ》し日にあらず。さて、かゝる時に、皇子、皇女も、そこへおはする事、紀にも、集にも、見ゆ。古への心ふかさしるべし云々といはれつるがごとくなれば、左注に、不v似2移葬之歌1とあるは、非なり。
 
右一首。今案。不v似2移葬之歌1。盖疑。從2伊勢神宮1還v京之時。路上見2花盛1。傷哀咽作2此歌1乎。
 
(174)右の左注は、誤りなる事、まへにいへるがごとし。哀咽は、かなしみむせぶ意なる事、上に見2結松1哀咽歌とある所にいへるがごとし。さて、次の日並知皇子云々の端辭を、印本、この左注につづけしるせり。今、活字本、古本などによりて、別行とす。
 
日並所知皇子尊。殯宮之時。柿本朝臣人麿作歌。一首。并短歌二首。
 
日並所知《ヒナメシノ》皇子尊。
文武天皇の御父、草壁皇子を申奉る。尊號を、岡宮天皇と申奉れり。そのよしは、上【攷證一下廿四丁】にいへり。さて、所知の二字、印本なし。今、上の元暦本によりて補ふ。續日本紀には、日並知皇子とあり。所の字は、そへたるのみ。上【攷證二上廿七丁】考へ合すべし。(頭書、再考、所知の二字なきをよしとす。そのよしは上【攷證二上廿七丁】にいへり。)
 
殯宮之時。
考云、この集に、葬の後にも、殯の時とあるは、既葬奉りても、一周、御はか仕へする間をば、殯といひしのみ。天皇の外は、別に殯宮をせられねば也云々といはれつれど、この歌にも、眞弓乃岡爾《マユミノヲカニ》、宮柱太布座《ミヤハシラフトシキマシ》云々とありて、下の、明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮歌にも、木※[瓦+缶]宮乎、常宮跡定賜云々ともあれば、殯宮なしとはいひがたし。皇女すら、かくのごとし。まして、こゝは皇太子におはし奉れば、殯宮ありし事明らけし。今考ふるに、天皇は、さる事にて、皇子、皇女などは、別に殯宮をたてらるゝ事はなくて、御墓と定むべき所のかたはらに、殯宮をおかれし事とおぼゆ。そは、この歌、下の歌などを考へ合せて、しるべし。さて、書紀持統紀に、三年四月、乙未、皇太子草壁皇子尊薨云々と見えたり。
 
(175)柿本朝臣人麿。
印本、朝臣の二字なし。集中の例、姓をしるせれば、目録によりて補ふ。また、麿を、丸に作れど、これも又目録によりてあらたむ。麿を、丸とかくは、やゝ後のことにて、古今集眞字序に、人丸とあるも、古本にも、人麿とせり。
 
二首。
 
この二字も、印本なし。集中の例によりて加ふ。
 
167 天地之《アメツチノ》。初時之《ハシメノトキシ》。久堅之《ヒサカタノ》。天河原爾《アマノカハラニ》。八百萬《ヤホヨロツ》。千萬神之《チヨロツガミノ》。神《カム》集《ツトヒ・アツメ》。集《ツトヒ・アツメ》座而《イマシテ》。神分《カムハカリ》。分之時爾《ハカリシトキニ》。天照《アマテラス》。日女之命《ヒルメノミコト》【一云。指上《サシノホル》。日女之命《ヒルメノミコト》。】天乎波《アメヲハ》。所知《シラシ》食《メヌ・メサム》登《ト》。葦原乃《アシハラノ》。水穗之國乎《ミツホノクニヲ》。天地之《アメツチノ》。依相之《ヨリアヒノ》極《キハミ・カキリ》。所知行《シラシメス》。神之命等《カミノミコトト》。天雲之《アマクモノ》。八重掻別而《ヤヘカキワケテ》。【一云。天雲之《アマクモノ》。八重雲別而《ヤヘクモワケテ》。】神下《カムクタリ》。座奉《イマセマツリ・イマシツカヘ》之《シ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子波《ヒノミコハ》。飛鳥之《アスカノ》。淨之《キヨミノ・キヨメシ》宮爾《ノミヤニ》。神髄《カムナカラ・カミノマニ》。太布座而《フトシキマシテ》。天皇之《スメロキノ》。敷座國等《シキマスクニト》。天原《アマノハラ》。石門乎開《イハトヲヒラキ》。神《カム・カミ》上《アカリ》。上《アカリ》座《イマシ・マシ》奴《ヌ》。【一云。神登《カムノホリ》。座爾之可婆《イマシニシカハ》。】吾王《ワカオホキミ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》。天下《アメノシタ》。所知食世者《シラシメシセハ》。春花之《ハルハナノ》。貴《タフト・カシコ》(176)在等《カラムト》。望月乃《モチツキノ》。滿《タタ・ミチ》波之計武跡《ハシケムト》。天下《アメノシタ》【一云。食國《ヲスクニ》。】四方之人乃《ヨモノヒトノ》。大船之《オホフネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。天水《アマツミツ》。仰而待爾《アフキテマツニ》。何方爾《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。由縁《ツレ・ユヱ》母無《モナキ》。眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》。宮柱《ミヤハシラ》。太布座《フトシキマシ》。御《ミ》在《アラ・アリ》香乎《カヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。明言爾《アサコトニ》。御言《ミコト》不御問《トハサス・トハセス》。日月之《ヒツキノ》。數多《マネク・アマタニ》成塗《ナリヌル》。其故《ソコユヱニ》。皇子之宮人《ミコノミヤヒト》。行方不知毛《ユクヘシラスモ》【一云。刺竹之《サスタケノ》。皇子宮人《ミコノミヤヒト》。歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》。】
 
初時之《ハシメノトキシ》。
考には、之を、のとよまれしかど、しとよむべし。このしは助字のみ。
 
天河原爾《アマノカハラニ》。
安之河をいへる也。古事記上卷に、是以八百萬神、於2天安之河原《アメノヤスノカハラ》1、神集而《カムツトヘ/\テ》云々とあり。集中七夕の歌に、天の川原、また天川、安の川原などいへるは、漢土にいへる天漢に、中國の古への、安の川原を、合せていへるなり。
 
八百萬《ヤホヨロツ》。千萬神之《チヨロツカミノ》。
八百《ヤホ》は、彌百《イヤホ》にで、數多きい《(マヽ)》ふ。こゝは何百萬、何千萬神といへる也。
 
神《カム》集集《ツトヒツトヒ・アツメアツメ》座而《イマシテ》。
舊訓、かむあつめ、あつめいましてとあるは、いふにもたらぬことにて、考に、かむづまり、つまりいまして、とよめるもいかゞ。古事記にも、上に引(177)るごとくありて、大祓祝詞にも、高天原爾神留坐《タカマノハラニカムツマリマス》、皇親神漏岐神漏美乃命以弖《スメラカムツカムロキカムロミノミコトモチテ》、八百萬神等乎《ヤホヨロツノカミタチヲ》、神集々賜比《カムツトヘニツトヘタマヒ》、神議々腸※[氏/一]《カムハカリニハカリタマヒテ》とあり。されば、かむつどひ、つどひいましてとよむべし。こゝは千萬神の自らつどひ給ふ也。(頭書、古事記上卷に、訓v集云2都度比《ツドヒ》1。)
 
神分《カムハカリ》。分之時爾《ハカリシトキニ》。
分は、字鏡集に、はかるとよめり。古事記上卷に、八百萬神|議白之《ハカリテ》云々。大殿祭祝詞に、以|天津御量※[氏/一]事問之《アマツミハカリモテコトヽヒシ》云々とありて、まへに引る大祓祝詞にも、神議賜《カムハカリ》と見えたり。こは、神たち、はからひ定めたまふをいへる也。
 
天照《アマテラス》。日女之命《ヒルメノミコト》。
書紀神代紀上に、生2日神1號2大日〓貴1、【大日〓貴、云2於保比屡※[口+羊]能武智1、〓音力丁反、一書云、天照大神、一書云、天照大日〓尊、】此子光華明彩、照2徹於六合之内1云々とあり。これすなはち、日神にて、天照大神を申奉れり。
 
一云。指上《サシノホル》。日女之命《ヒルメノミコト》。
日月ともに、そらにさしのぼる故に、枕詞のごとく、さしのぼるひるめの命とつゞけし也。
 
天乎波《アメヲハ》。所知《シラシ》食《シメシヌ・メサム》登《ト》。
古事記上卷に、其頸珠之、玉緒毛由良邇、取由良迦志而、賜2天照大御神1而、詔v之、汝命者、所2知高天原1矣、事依而賜也云々とあるごとく、天をば、天照大御神のしろしめせば、いへるなり。
 
(178)葦原乃《アシハラノ》。水穗之國乎《ミツホノクニヲ》。
葦原《アシハラ》は、宣長云、葦原は、もと天つ神代に、高天原よりいへる號にして、この御國ながらいへる號にはあらず。さて、この號の意は、いと/\上つ代には、四方の海べたは、こと/”\く葦原にて、其中に國所はありて、上方より見下せば、葦原のめぐれる中に見えける故に、高天原より、かくは名づけたる也云々といはれつるがごとし。水穗國《ミツホノクニ》の、水は、借字にてみづ/\しき意、穗《ホ》は、稻穗にて、中國は、稻の萬國にすぐれたる國なれば、ことさらに、みづ穗國とはいへる也。これらの事は、宣長が國號考にくはしくいへり。さて、こゝは、古事記上卷に、天照大御神之命以、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝々速日天忍穗耳命之所知國、言因賜而、天降也云々とあるをとりて、よまれし也。
 
天地之《アメツチノ》。依相之極《ヨリアヒノキハミ》。
 
本集六【四十三丁】に、天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノキハミ》、萬世丹榮將往迹《ヨロツヨニサカエユカムト》云々。十一【四十一丁】こ、天地之依相極《アメツチノヨリアヒノキハミ》、玉緒之不絶常念妹之當見津《タマノヲノタエシトオモフイモカアタリミツ》云々などありて、また十一【九丁】に、天雲依相遠《アマクモノヨリアヒトホミ》云々なども見えたり。考に、すでに、天地の開わかれしてふにむかへて、又よりあはんかぎりまでといひて、久しきためしにとりぬ云々といはれつるがごとし。さて、極《キハミ》といふ言は、まりの反、みにて、きはまりてふ言にて、かぎりをいへり。本集四。(以下空白)(頭書、書紀神代紀下一書に寶祚之隆、當d與2天壌1無uv窮者矣。)
 
神之命等《カミノミコトト》。
こは、彦火瓊々杵命《ヒコホノニヽキノミコト》を申奉れり。て《(マヽ)》等《ト》もじは神下《カムクタシ》といふへかゝりて、こゝの意はこの葦原の中國は、天神の御子の、しろしめすべき國ぞとて、天の八重雲を、かきわけて、くだし奉り給ふとなり。
 
(179)天雲之《アマクモノ》。八重掻別而《ヤヘカキワケテ》。
古事記上卷に、押2分天之八重多那雲1而、伊都能知和岐知和岐弖《イツノチワキチワキテ》於2天浮橋1宇岐士摩理蘇理多々斯弖《ウキシマリソリタヽシテ》、天2降坐于|竺紫日向之高千穗之久士布流多氣《ツクシノヒムカノタカチホノクシフルタケニ》1云々。書紀神代紀下に、且排2分天八重雲1云々。大祓祝詞に、天之八重雲 乎、伊頭 乃 千別 爾 千別 弖 云々。本集十一【廿八丁】に、天雲之八重雲隱《アマクモノヤヘクモカクリ》云々などありで、八重《ヤヘ》の八は、例の彌の意にて、天の雲の、いくへともなく、重《カサ》なりたるを、かきわけ、天降し奉れりとなり。
 
神下《カムクタリ》。座奉之《イマセマツリシ・イマシツカヘシ》。
舊訓、かむくだりいましつかへしとあれど、さては、意聞えがたし。宣長云、十五卷【卅四丁】に、比等久爾々伎美乎伊麻勢弖《ヒトクニヽキミヲイマセテ》とあれば、いませまつりしとよむべし。いませは、令v坐の意也云々といはれしによるべし。意はまへにいへり。
 
日之皇子波《ヒノミコハ》。
賂解云、この日之皇子は、日並知皇子尊を申す也。この句にて、しばらく切て、天原云々といふへかゝる。この國土は、天皇の敷坐國也として、日並知尊は、天へ上り給ふといひなしたり。この時、天皇は持統天皇にて、淨御原宮におはしませり云々といへるがごとし。
 
飛鳥之《アスカノ》。淨之宮爾《キヨミノミヤニ》。
この天武帝の大宮なり。上【攷證一上卅六丁】にいへり。
 
神髄《カムナカラ・カミノマニ》。
かむながらと訓べし。神にましましまゝ《(マヽ)》にといへる意也。この事は、上【攷證一下八丁】にいへり。
 
(180)太布座而《フトシキマシテ》。
太《フト》は、ものをほめていふ詞、布《シキ》は借字にて、知り領し給ふをいふ言にて、本集一【廿一丁】に、高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》、神長柄神佐備世須登《カムナカラカムサヒセスト》、太數爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》云々ともありて、こは天武帝の御代しろしめすを申せり。さて、この事は、上【攷證一下十九丁】にいへり。
 
天皇《スメロキ》。
天皇は、集中すめろぎとも、おほきみとも訓たり。下【攷證三下四十五丁】考へ合すべし。
 
敷座國等《シキマスクニト》。
この國土は、天皇のしりまします國とて、日の皇子は、天をしらさんとて、こゝをさり給ひて、天にのぼり給ふと也。等《ト》もじに、心をつくべし。(頭書、しきますとは、知り領しますをいへる事。)
 
石門乎開《イハトヲヒラキ》。
古事記上卷に、天石屋戸。書紀神代紀下に、引2開天磐戸1とあるも、皆こゝに、石門とあると同じ。石《イハ》は、實の石にはあらで、たゞ堅固なる、たとへいへるにて、天之|石位《イハクラ》、天之|石靱《イハユキ》、天|磐船《イハフネ》などの類也。また、豐石窓《トヨイハマト》、櫛石窓《クシイハマト》などいふ、石《イハ》も同じ。こは天上にて、神のおはします所なれば、この皇子、薨じ給へるを、神上《カムアカリ》し給ふといへるに、かりに天原の石門を開て、のぼり給ふよしにいへる也。さて、この開の字を、宣長は、開は閇の誤りにて、たてとよむべし。三卷【四十五丁】に、豐國乃鏡山之石戸立《トヨクニノカゞミノヤマノイハトタテ》、隱爾計良思《コモリニケラシ》とある類也。開といふべきにあらず。石門を閇て、上るといひては、前後たがへるやうに思ふ人あるべけれど、神上は、隱れ給ふといふに同じ。天なる故に、上りとは申す也云々とて、開を閇に改められたり。こは、古(181)事記、舊印本に、開2天石屋戸1而、刺許母理《サシコモリ》坐也とあるは、聞は閇の誤りにて、既に古本には、閇とある例ともすべけれど、書紀に、引2開天磐戸1云々。大祓祝詞に、天津神 波 天磐門 乎 押披 ※[氏/一]《オシヒラキテ》云々などありて、門は、出るにも、入るにも、開くべきものなれ、本のまゝに、開として、何のうたがはしき事かあらん。閇に改むるは、なか/\に誤りなるべし。
 
神《カム・カミ》上《アカリ》。
古事記、書紀など、崩をかむあがりとよめり。こゝも、崩給ふをいへるにて、天皇にまれ、皇子にまれ、崩じ給ふを、神となりて、天に上り給ふよしにいへる事は、集中、皇子たちの薨じ給ふにも、天《アメ》を所知《シラス》よしにいへるにても思ふべし。そは、本集此卷【卅六丁】三【五十八丁】五【四十丁】など考へ合せてしるべし。
 
上《アカリ》座《イマシ・マシ》奴《ヌ》。
天へ上り行《ユキ》ましぬと也。この座《イマシ》はつねの居る事を、座《イマス》といふとは、少しことかはりて、行ます事をいへる也。そは、古事記中卷に、佐々那美遲袁《ササナミヂヲ》、須久須久登和賀伊麻勢婆《スクスクトワカイマセハ》云々。本集三【卅八丁】に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラシソノミチ》云々。四【卅二丁】に、彌遠君之伊座者《イヤトホニキミカイマサハ》云々。十五【四丁】に、大船乎安流美爾伊多之伊麻須君《オホフネヲアルミニイタシイマスキミ》云々。また【五丁】多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクフスマシラキヘイマス》云々。廿【四十四丁】に、安之我良乃夜敝也麻故要※[氏/一]伊麻之奈婆《アシカラノヤヘヤマコエテイマシナバ》云々などあるに同じ。一云に、神登座爾之可婆《カムノホリイマシニシカハ》とありては、意聞えがたし。
 
吾王《ワカオホキミ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》。
こは、日並知皇子を申奉る也。すべて皇太子をば、日並皇子尊、高市皇子尊など、皇子の下へ、尊といふ字を付て、尊稱すれど、こゝに皇子之命とあるは、それとは別にて、妹の命、嬬の命、父の命、母の命など、たゞも《(マヽ)》命の字を付て、尊稱する詞なる事、本集三【五十七丁】安積皇子の薨時の歌も、吾王御子乃命《ワカオホキミミコノミコト》云々とあるにて、(182)しるべし。此句よりは、日並知皇子の、天下をしろしめさば、めでたからんと思ふことのさまをいへり。
 
春花之《ハルハナノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。春の花は、めでたくうるはしきものなれば、貴《タフトシ》とは、つゞけしなり。之はごとくの意也。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
 
貴《タフト・カシコ》在等《カラムト》。
古事記上卷に、益2我王1而甚|貴《タフトシ》云々。また、斯良多麻能伎美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《シラタマノキミカヨソヒシタフトクアリケリ》云々。本集五【七丁】に、父母乎美禮婆多布斗斯《チチハハヲミレハタフトシ》云々。また【卅九丁】世人之貴慕《ヨノヒトノタフトミネカフ》云々。六【廿八丁】に、常磐爾座貴吾君《トキハニイマセタフトキワカキミ》云々。催馬樂安名尊歌に、安奈太不止《》、介不乃太不止左也《アナタフトケフノタフトサヤ》云々など見えたり。みなめでたくありがたきをいへり。宣長云、たふとからんとゝよむべし。たふときといふ言は、古へは、めでたき事にも多くいへり。貴の字に、かゝはりて、たゞこの字の意とのみ思ふべからず。この事、古事記傳にくはしくいへり。考に、貴とは、花にいふことばにあらずとて、賞の字に改められしは、中々にわろし云々といはれつるがごとし。さて、こゝの意は、わが皇子の命の、御代とならず(ばカ)、春の花のさきさかゆるがごとくめてたからんと、又望月のてりみちたるごとく、たゝはしけんと思ひしものをとなり。
 
望月乃《モチツキノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。望月のごとく、滿はしけんとつゞけし也。
 
滿《タタ・ミチ》波之計武跡《ハシケムト》。
舊訓、みちはしけんとゝよめるは、いふにもたらぬ誤り也。本集十三【廿八丁】に十五月之多田波思家武登《モチツキノタタハシケムト》云々とあるによりて、たゝはしけんとゝよむ(183)べし。また十三【十一丁】に、天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》云々。十九【四十一丁】に、韓國爾由伎多良波之※[氏/一]《カラクニニユキタラハシテ》云々などもあれば、たらはしともよむべけれど、枕詞よりのつゞけざまを思ふに、猶たゝはしよむ《(マヽ)》むかたまされり。さて、こゝは、十五夜の月のごとく、足そなはりとゝのひなんといへる也。
 
大船之《オホフネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは海上にては、たゞ大船を、たのもしきものに思ひたのむものゆゑに、しかつゞけしなり。
 
思憑而《オモヒタノミテ》。
わが皇子の命の、天下をしろしめさば、めでたく滿しからんと、天下の四方の人の、思ひたのみ奉りて、あふぎてまち奉りしものを、いかにおぼしめしてか、かく早く、世をさり給ひけんとなり。
 
天水《アマツミツ》。仰而待爾《アフキテマツニ》。
天水《アマツミツ》は、雨なり。ひでりの時、天をあふぎて、雨を待ごとく、君が御代をまちしとなり。本集十八【卅二丁】、小旱歌に、彌騰里兒能知許布我其登久《ミトリコノチコフガコトク》、安麻都美豆安布藝弖曾麻都《アマツミツアフキテソマツ》云々と見えたり。又史記晋世家に、孤臣之仰v君、如3百穀之望2時雨1云々ともあり。
 
何方爾《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ》。
いかにおぼしめせはかの意にて、可は、ばかの意也。この事は、上【攷證一上四十七丁】にいへり。
 
由縁《ツレ・ユヱ》母無《モナキ》。
宣長云、三巻【五十四丁】に、何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》、都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマヘニ》云々。十三巻【廿九丁】に、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、津禮毛無城上宮爾《ツレモナキキノヘノミヤニ》、大殿乎都可倍奉而《オホトノヲツカヘマツリテ》云々。これらによるに(184)こゝの由縁母無、また下【卅丁】なる所由無佐大乃岡邊爾《ツレモナキサタノヲカヘニ》云々などをも、つれもなきとよむべきこと也云々。この説によるべし。さて、これらの、つれもなきは、ゆかりもなきをいへるにて、また本集四【四十八丁】に、都禮毛無將有人乎《ツレモナクアルラムヒトヲ》云々。十【五十一丁】に、吾者物念都禮無物乎《ワレハモノオモフツレナキモノヲ》云々。十九【十九丁】に、都禮毛奈久可禮爾之妹乎《ツレモナクカレニシイモヲ》云々などあるは、今の世にもいふ所と同じく、心づよき意にて、つれなき人などもいひ、難面、強顔などの字をよむ意にて、こゝとは意たがへれども、もとは一つ語なり。
 
眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》。
延喜諸陵式に、眞弓丘陵、岡宮御宇天皇、在2大和國高市郡1、兆城東西二丁、南北二丁、陵戸六烟云々とあり。日並知皇子を追崇して、岡宮御宇天皇と申すよし、續日本紀、天平寶字二年八月戊申紀に見えたり。また續日本紀に、天平神護元年十月癸酉事駕過2檀山陵1、詔2陪從百官1、悉令2下馬1、儀衛卷2其旗幟1云々とあり。さて、この眞弓岡陵を、大和志に、皇極天皇の祖母の陵とするは誤れり。
 
御《ミ》在《アラ・アリ》香乎《カヲ》。
御在香は、御ありかの、りをらに通はしたるにて、すなはち宮殿なり。この事は、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
 
高知座而《タカシリマシテ》。
本集一【十九丁】に、高殿乎高知座而《タカトノヲタカシリマシテ》云々。また【廿二丁】都宮者高所知武等《ミアラカハタカシルラムト》云々など見えて、殿を高く知り領しますなり。この事は、上【攷證一下九丁】にいへり。
 
明言爾《アサコトニ》。
代匠記に、明言爾《アサコトニ》には、朝毎になり。物のたまふ事は、朝にかぎらざれども、伺候する人は、ことに朝とくより、御あたりちかくはべりて、物仰らるゝ也云々とある(185)がごとし。明言は借字なり。
御言《ミコト》不御問《トハサス・トハセス》。
考云、古へは、ものいふをこととふ、ものいはぬを、ことゝはずといへり。この次に、東のたぎの御門にさもらへど、きのふもけふもめすこともなしといへると、心同じ云々といはれつるがごとく、言問はものいふこと也。そは、古事記中卷に、是御子、八拳※[髪の友が耆]至2于心前1、眞事登波受《マコトトハズ》云々。本集四【廿一丁】に、明日去而於妹言問《アスユキテイモニコトトヒ》云々。また【卅三丁】外耳見管言將問縁乃無者《ヨソノミミツヽコトヽハムヨシノナケレハ》云々。また【五十七丁】事不問木尚《コトトハヌキスラ》云々。五【十一丁】に、許等々波奴樹爾波安里等母《コトヽハヌキニハアリトモ》云々などあるにても思ふべし。集中猶多し。
 
數多成塗《マネクナリヌル・アマタニナリヌ》。
宣長云、まねくなりぬると訓べし。まねくの事、一卷にいへるがごとし。塗、これをあまたになりぬと訓るはわろし。塗の字、ぬと訓べきよしなし云々といはれつるがごとし。猶上【攷證一下七十四丁】にくはし。
 
其故《ソコユヱニ》。
それゆゑにといふと同じ。すべて、中ごろよりの言に、それといふべきを、古くはそことのみいへり。そは、本集此卷下【卅一丁】に、所虚故名具鮫魚天氣留《ソコユヱニナクサメテケル》云々。三【五十六丁】に、曾許念爾※[匈/月]己所痛《ソコモフニムネコソイタメ》云々。四【十七丁】に、彼所毛加人之吾乎事將成《ソコモカヒトノワヲコトナサム》云々などありて、集中猶多し。みな、それといふ意也。さて、この句は、明毎爾御言不問、日月之數多(成脱カ)塗といふをうけて、それゆゑに、しか/”\といふ語を起すことば也。
 
(186)皇子之宮人行方不知毛《ミコノミヤヒトユクヘシラスモ》。
皇子の宮人は、春宮傅よりはじめて、舍人、馬部などまで、春宮の官人をおしなべていふ事ながら、專ら、舍人をいふとおぼし。その舍人等が、御墓仕へする日數へて、それ/”\逸散するを、ゆくへしらずとはいへる也。考云、下の高市皇子尊の殯時、この人のよめる長歌その外、この人の樣を、集中にて見るに、春宮舍人にて、この時もよめるなるべし。然れば、こゝの宮人は、もはら大舍人の事をいふ也。その舍人の輩、この尊の返ましては、つく所なくて、思ひまどへること、まことにおしはかられてかなし云々。
 
一云。刺竹之《サスタケノ》。皇子宮人《ミコノミヤヒト》。歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》。
刺竹之《サスタケノ》は、枕詞に、冠辭考にくはしく解れしかど、あたれりともおぼえず。とにかくに、思ひ得る事なし。さて、これも意は、本書とかはる事なけれど、句のつゞき、本書のかたまされり。
 
反歌二首
 
168 久堅乃《ヒサカタノ》。天見如久《アメミルコトク》。仰見之《アフキミシ》。皇子乃御門之《ミコノミカドノ》。荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
 
仰見之《アフキミシ》。
仰《アフク》は、すべて下より上を見る事なれば、下より、天皇、皇子などを見奉るにもいへり。御門などは、必らず、あふぎ見るものならねど、尊み敬ひて仰見之とはいへり。(187)されば、天見如久《アメミルコトク》とは、たとへし也。まへに、天水仰而待爾《アマツミツアフキテマツニ》とあるをも思ふべし。
 
荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
荒《アレ》んはをLもにて、もは助字也。まくは、んといふ意にかよへり。上【攷證二上廿一丁】にいへり。考云、こは高市郡、橘の島宮御門なり。さて、次の舍人等が歌どもにも、この御門の事のみを、專らいひ、下の高市皇子尊の殯の時、人まろの、御門の人とよみしを、むかへ見るに、人まろ、即舍人にて、その守る御門を申すなりけり。
 
169 茜刺《アカネサス》。日者雖照有《ヒハテラセレト》。烏玉之《ヌハタマノ》。夜渡月之《ヨワタルツキノ》。隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。
 
茜刺《アカネサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。集中、茜、赤根などかけるは、借字にて、あかねを約すれば、あけとなれり。あけは、赤にて、日はまづ赤くさすものなれば、しかつづけしなり。
 
夜渡月之《ヨワタルツキノ》。
渡るは、行意にて、夜ゆく月也。この事は、まへにいへり。
 
隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。
らくは、いと多く、あぐるにいとまなし。こは、るを延《ノベ》たる言にて、隱るをしも、云《イフ》をいはく、申すをまをさくなどいふ類なり。考云、これは、日嗣の皇子尊の、御事を、月にたとへ奉りぬ。さて、上の、日はてらせれどてふは、月のかくるゝをなげくを強《ツヨ》むる言のみ也。かくいへるこゝろ、詞の勢ひ、まことに及ぶ人なし。常のごとく、日をば天皇をたとへ申すと思ふ人あるべけれど、さてはなめげなるに似たるもかしこし。猶もいはゞ、この時天皇おはしまさねば、さるかたにもよくかなはざるめり云々。
 
(188)或本云。以2件歌1。爲2後皇子尊殯宮之時反歌1也。
 
右の左注、印本小字なれど、活字本によりて大字とす。又印本、尊を貴に誤れり。集中の例によりて改む。又印本、反歌を歌反とす。これ誤りなる事、明らかなれば、意改せり。さて、後皇子尊とは、高市皇子を申せる也。高市皇子の、皇太子に立たまひし事、書紀には見えざれど、持統天皇三年四月、皇太子日並知皇子薨じ給ひて、十一年に、文武天皇、皇太子に立給ひぬ。この三年より、十一年までの間、この高市皇子、皇太子に立給ひし事明らか也。この事は、上【攷證二上卅二丁】にくはしくいへり。されば、日並知皇子、薨じ給ひて、後の皇太子なれば、後皇子尊とは申なり。書紀持統紀に。十年七月庚戌、後皇子尊薨云云とあるも、この高市皇子の御事なり。
 
或本歌。一首。
 
170 島宮《シマノミヤ》。勾之池之《マカリノイケノ》。放鳥《ハナチトリ》。人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》。池爾不潜《イケニカツカス》。
 
島宮《シマノミヤ》。
島は、庭に池島など作りたるを、島といへば、その島を專らとし給ふ宮のよしにて、島宮とはいへる也。この島宮は、書紀天武紀のはじめに見えて、島宮の池は、天武天皇十年九月紀に見えたり。さて、庭石泉水、築山などを、島といへるは、この次、舍人等が二十三首の歌の中に、御立爲之島乎見時《ミタヽシヽシマヲミルトキ》云々、御立爲之島乎母家跡住鳥毛《ミタヽシヽシマヲモイヘトスムトリモ》云々などありて、集中猶多し。又(189)伊勢物語に、島このみ給ふ君なり云々などあるにても、思ふべし。さて、この事、くはしく宣長が玉勝間卷十三に見えたり。ひらき見てしるべし。この宮は、日並知皇子の、つねにおはしましし宮也。大和志高市郡の條に、島宮、島莊村、一名橘島、又名御島宮、天武天皇元年、便居2於此1、先v是、蘇我梅子、家2於飛鳥河傍1、乃庭中開2小池1築2小島於池中1、時人曰2島大臣1云々と見えたり。
 
勾之池之《マカリノイケノ》。
こは、御庭の中の池ながら、勾《マカリ》は地名也。安閑天皇の宮を、勾金箸《マカリノカナハシノ》宮と申す、こゝにて、大和國高市郡なり。大和志高市郡の條に、曲川《マカリカハ》、曲岐《マカリヲノ》宮、勾池などあり。皆同所なるべし。さて、書紀崇峻紀に、廣瀬勾原、和名抄郷名に、大和國廣瀬郡下勾などあれば、古へは廣瀬郡なりしが、隣郡なれば、後に高市郡とはなせるか。可v考。次の二十三首の中の歌にも、島宮池上有放鳥《シマノミヤイケノウヘナルハナチトリ》、荒備勿行《アラヒナユキソ》、君不座十方《キミマサストモ》云々とありて、こは放生の鳥にはあらで、池のうへ、また島などに放ち飼ふ鳥也。そは、次に島乎母家跡住鳥毛《シマヲモイヘトスムトリモ》云々。また鳥〓立飼之雁乃兒《トクラタテカヒシカリノコ》云々などよめるにても、思ふべし。また、奧儀抄に、後撰集を引て、かげろふに見しばかりにや、はなち鳥、ゆくへもしらぬ戀にまどはん云々。伊勢歌を引て、はなちどりつばさのなきをとぶからにいかでくもゐを思ひかくらん云々。六帖六に、はなち鳥ゆくへもしらずなりぬれば、はなれしことぞくやしかりける云々などあるは、放生の鳥にて、こゝとは別なり。
 
人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》。
人めにもの、爾《ニ》もじは、をの意にて、人めをこひて也。をの意の爾《ニ》もじの事は、上【攷證二上廿九丁】にいへり。さて人めは、人めもくさもかれぬと思へばなどい(190)ふ、人めと同じく、たゞ人を云て、皇子薨じ給ひて後は、人げもなくさびしければ、鳥さへも、たゞ人をのみこひて、池にもかづかずといふにて、考云、これは、必らず右の反歌にはあらず。次の歌どもの中に、入しものなるを、この所、亂れて、こゝにある也。仍て、こは捨べからず。さて本の意は、下の同じ言ある所にいふ。末は、なれし人めを、なつかしみて、水の上にのみ、うきゐて、底へかづき入ことをせずといひなせり云々。
 
池爾不潜《イケニカヅカズ》。
かづくとは、水中に入るにて、波をかづくよりいへるなり。人にも、鳥にも、いへり。古事記上卷に、初於2中瀬1降|迦豆伎而《カツキテ》、滌云々。書紀神功紀、歌に、齊多能和多利耳加豆區苔利《セタノワタリニカツクトリ》云々。本集四【五十丁】に、二寶鳥乃潜池水《ニホトリノカヅクイケミヅ》云々。六【十六丁】に、鰒球左盤爾潜出《アハヒタマサハニカヅキデ》云々などありて、集中猶いと多し。
 
皇子尊宮舍人等。慟傷作歌。二十三首。
 
考云、こは右の長歌につぎて、同じ御事を、同じ舍人のよめるなれば、端詞をはぶきて書しと見ゆ。職員令に、春宮の大舍人は、六百人あり。その人々、分v番て、宿直するに、今尊の薨ましゝ後も、島宮の外重を守ると、佐太(ノ)岡の御喪舍に侍宿するとある故に、こゝかしこにての歌どもある也云々といはれつるがごとし。さて、慟傷は、かなしみいたむ意にて、玉篇に、慟哀極也云々と見えたり。
 
(191)171 高《タカ》光《ヒカル》。我日皇子乃《ワカヒノミコノ》。萬代爾《ヨロツヨニ》。國《クニ》所知《シラサ・シラシ》麻之《マシ》。島宮婆母《シマノミヤハモ》。
 
高《タカ》光《ヒカル・テラス》。
高照と書と同じ。これ正字なり。
 
國《クニ》所知《シラサ・シラシ》麻之《マシ》。
舊訓、くにしらしましとあるに《(マヽ)》いふにたらぬ誤りにて、しらさましと訓べし。こは、この皇子尊の、この宮にまし/\て、天下をしらさんとこそ思ひつれと、この宮を見るにつけても、思ひいづるさま、さもあるべし。
 
島宮婆母《シマノミヤハモ》。
婆母《ハモ》といふ語は、下へ意をふくめたる詞にて、歎息のこゝろこもれり。母は、助字なり。そは、古事記中卷に、佐泥佐斯佐賀牟能袁怒邇《サネサシサカムノヲヌニ》、毛由流肥能本邦迦邇多知弖《モユルヒノホナカニタチテ》、斗比期岐美波母《トヒシキミハモ》云々。本集三【五十三丁】に、芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハキノハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》云々。また【廿一丁】阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《アヘノイチヽニアヒシコラハモ》云々。十【五十五丁】に、吾戀度隱妻波母《ワカコヒワタルコモリツマハモ》云々などあるにて思ふべし。集中猶多し。さて、こゝの意は、我皇子《ワカミコノ》尊の、こゝにおはしまして、天下をいくとせもしらさんと思ひし島の宮|波母《ハモ》、思ひの外に、君がかくれましゝかば、かく人げもなく、あれはてし事にて、歎息の意をこめたるなり。
 
172 島宮《シマノミヤ》。池上有《イケノウヘナル》。放敷鳥《ハナチトリ》。荒備勿行《アラヒナユキソ》。君不座十方《キミマサストモ》。
 
(192)池上有《イケノウヘナル》。
印本、上池有《ウヘノイケナル》とせり。誤りなる事明らかなれば、古本によりて改む。
 
荒傭勿行《アラビナユキソ》。
鳥の、放れて、散ゆくをいひて、この宮に、君がおはしまさずとも、放鳥の、おもひ/\に飛さりゆく事なかれと也。さて、この荒備《アラヒ》は、あらぶる事ながらつねに、あらぶる神などいふ、あらぶるとは、別にて、物の、疎く放りゆくをいへる也。そは、本集四【廿五丁】に、筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左《ツクシフネイマタモコネハカネテヨリアラフルキミヲミムカカナシサ》云々。十一【四十六丁】に、荒振妹爾戀乍曾居《アラフルイモニコヒツヽツソヲル》云々古今集戀四に、伊勢、ふるさとにあらぬものからわがために人の心のあれて見ゆらん云々などあるも、うとく遠ざかりゆくをいへる也。家、庭などのあるゝといふも、本は同語なり。
 
173 高《タカ》光《ヒカル・テラス》。吾日皇子乃《ワカヒノミコノ》。伊座世者《イマシセバ》。島御門者《シマノミカトハ》。不荒有益乎《アレサラマシヲ》。
 
島御門者《シマノミカドハ》。
考に、舍人の守る所なれば、專らといふ云々といはれつるはたがへり。この御門は、宮の事にて、島宮の宮殿をいへり。本集一【廿二丁】に、吾作日之御門爾《ワカツクルヒノミカトニ》云々。また【廿三丁】藤井我原爾《フチヰカハラニ》、大御門始賜而《オホミカトハシメタマヒテ》云々などありて、この前後にある御門も、みな宮殿をいへり。古事記下卷に、晝集2於|志毘門《シヒカカト》1云々とあるも、志毘が家也。一首の意は明らけし。
 
不荒有益乎《アレサラマシヲ》。
印本、益を蓋に作る。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
174 外爾見之《ヨソニミシ》。檀乃岡毛《マユミノヲカモ》。君座者《キミマセバ》。常都御門跡《トコツミカドト》。侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
 
(193)外爾見之《ヨソニミシ》。
外とかけるは、正字也。本集三【廿八丁】に、筑羽根矣《ツクハネヲ》 四十耳見乍《ヨソノミミツヽ》云々ともありて、集中猶いと多し。
 
檀乃岡毛《マユミノヲカモ》。
まへに、眞弓岡とあると同じ。和名抄木類に、唐韻云檀【音彈和名萬由三】木名也云々と見えたり。
 
常都御門跡《トコツミカドト》。
都は助字にて、常の宮といへる也。
 
侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
書紀雄略天皇十一年紀に、信濃國直丁與2武藏國直丁1、侍宿《トノヰシテ》相謂曰云々とありて天武紀には、直者をよめり。漢書地理志に、賓客相過、以v婦侍宿云々とあり。さて、このとのゐの假字の事は、宣長云、侍宿の假字を、考にとのいと定められたるはわろし。殿居の意にて、ゐの假字也。もし、宿の字によりて、いの假字なりとせば、とのねとこそいふべけれ。ねと、いとは、意異也。ねは、形につきいひ、いは睡眠のかたにいふ也。侍宿は、形につきて、殿にてぬるとはいふべけれど、殿にて睡眠するとはいふべき事にあらず。集中にも、宿の字はぬ、また、ねには書れども、いには宿の字はかゝず。とのゐは、居にて、夜殿に居といふ事也。晝を、とのゐとはいはざるは、晝は務に事ありて、たゞにはゐぬもの也。夜は、務事なくてたゞ居る故に、夜をとのゐとはいふ也。さて、務る事なき故に、寐もする事なれども、寐るを主とする事にはあらず。侍宿は殿に居るを主とする事なる故に、とのゐとはいふ也。眠るを主として、とのいといふべきよしなし云々。この説にしたがふべし。また、まへに引る雄略紀に、侍宿相語曰とあるも、殿に起居て、かたらふ也。寐てはかたらふ事なるまじきをや。また、源氏物語(194)桐つぼの卷、其外にも、とのゐまうしといふあるも、近衛司の時奏する事にて、眠る事なく、時奏する也。また新撰六帖一、とのもりのとのゐやつれの庭たちにすがたかしこき朝ぎよめかな云々とあるも、殿居して、寐ざれば、やつるゝ也。また、とのゐ装束、とのゐ衣などいへる、晝のほどは、官服にて、諸事を務るが、夜になれば、平生の服にきかゆる也。これらにても、宣長の説の是なるをしるべし。さて、一首の意は、今までは、たゞよそに見たりし檀の岡も、こたび君が陵として、君の久しきおはしまし所となりつれば、かく殿居するかなと、うちなげきける也。
 
175 夢爾谷《イメニダニ》。不見在之物乎《ミザリシモノヲ》。欝悒《オボホシク》。宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》。作日之隅囘乎《サヒノクマワヲ》。
 
欝悒《オボホシク》。
干禄字書に、欝鬱【上俗下正】とありて、欝は、鬱の俗字也。舊訓、おぼつかなとあれど、類林に、おぼほしくよめるよるべし。そは本集四【四十三丁】に、春日山朝居雲之蔚《カスカヤマアサヰルクモノオホヽシク》云々。此卷【四十二丁】に、玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武《タマホコノミチタニシラスオホホシクマチカコフラム》云々。五【二十八丁】に、意保々斯久伊豆知武岐提可《オホヽシクイツチムキテカ》云々。七【二十一丁】に、夜中乃方爾欝之苦呼之舟人《ヨナカノカタニオホヽシクヨヒシフナヒト》云々。十一【九丁】に、雲間從狹徑月乃於保々思久《クモマヨリサワタルツキノオホヽシク》云々などありて、集中いと多し。おぼ/\と、明らかならざる意也。おぼろ、おぼつかなし、などいふも、一つ語也。また、圖繪寶鑑に、常鬱悒不v樂云々。司馬遷報2任安1書に、是以獨鬱悒、而誰與語云々などみえたり。これらも、心すさまじきかたちなれば、こゝと意同じ。
 
宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》。
宮出は、宮を出るにて、殿居して、宮を出る時のさまをいへる也。
 
(195)作日之隅囘乎《サヒノクマワヲ》。
 
本集七【八丁】に、佐檜乃熊檜隈川之瀬乎早《サヒノクマヒノクマカハノセヲハヤミ》、君之手取者《キミカテトラハ》、將縁言毳《ヨルトイハムカモ》云々。十二【廿八丁】、左檜隈檜隈阿爾駐馬《サヒノクマヒノクマカハニコマトメテ》、馬爾水令飲吾外將見《コマニミツカヘワレヨソニミム》云々とありて、作日之隈《サヒノクマ》のさは、みな發語にて、たゞ檜隈なり。この檜隈も、大和國高市郡なれば、この島宮のほとりなるべし。この島宮を、宮出して出て、檜隈をたどるなるべし。隈囘《クマワ》は、くま/”\といはんがごとし。上【攷證二上卅四丁】に、道之阿囘爾標結吾勢《ミチノクマワニシメユヘワカセ》とある所、考へ合すべし。或人云、隅は、字躰の似たれば、隈の誤りならんと。この説、さることながら、隅は角なれば、おのづからに、隈の意こもれり。さて、一首の意は、かゝる事をば、夢にだに見ざりしものを、この檜隈《ヒノクマ》の、隅囘《クマワ》にまよひつゝ、宮を出て來たるが、おぼつかなしと也。宣長云、作日は、一本佐田とあるを用べし云々。
 
176 天地與《アメツチト》。共將終登《トモニオヘムト》。念乍《オモヒツヽ》。奉仕之《ツカヘマツリシ》。惰違奴《コヽロタカヒヌ》。
 
天地與《アメツチト》。
天地ばかり久しき物あらざれば、久しきたとへにとれり。出雲國造神賀詞に、大八島國天地日月等共知行牟《シヲシメサム》云々と見えたり。
 
共將終登《トモニオヘムト》。
君が代、天地と共にこそ、終らんと思ひつゝ、仕へ奉りし、その心たがへりと也。將終《ヲヘム》は、本集五【十四丁】に、烏梅乎乎利都々多努之岐乎倍米《ウメヲリツヽタヌアシキヲヘメ》云々と見えたり。
 
177 朝日弖流《アサヒテル》。佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》。群居乍《ムレヰツヽ》。吾等哭涙《ワガナクナミダ》。息時毛無《ヤムトキモナシ》。
 
朝日弖流《アサヒテル》。
考云、朝日夕日をもて、山岡、宮殿などの景をいふは、集中、また古き祝詞などにも多し。これにおよぶものなければ也、云々といはれつるがごとく、朝日(196)また夕日のさすをもて、その所をほむる事、古へのつね也。そは、古事記上卷に、朝日之直刺國、夕日之日照國也云々。下卷に、阿佐比能比傳流美夜《アサヒノヒテルミヤ》、由布比能比賀氣流美夜《ユフヒノヒカケルミヤ》云々。大神宮儀式帳に、朝日來向國夕日來向國《アサヒノキムカフクニユフヒノキムカフクニ》云々。龍田風神祭祝詞に、吾宮者朝日乃日向處夕日乃日隱處《ワカミヤハアサヒノヒムカフトコロユフヒノヒカクルトコロ》云々などあるにても、古くより日のさすをもて、その所を賞したるしるべし。
 
佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》。
考云、この前後に、日隈とも、佐大岡とも、眞弓岡ともよめるは、今よく見るに、檜の隈の郷の内に、佐太、眞弓は、つゞきたる岡也。さてこの、御陵の侍宿所は、右の二岡にわたりてある故に、いづれをもいふ也けり云々といはれつるがごとくなるべし。(頭書、吾等哭涙《ワガナクナミダ》。等は添字なり。そは、)
 
178 御立《ミタヽ》爲《シ・セ》之《シ》。島乎見時《シマヲミルトキ》。庭多泉《ニハタヅミ》。流涙《ナガルヽナミダ》。止曾金鶴《トメゾカネツル》。
 
御立《ミタヽ》爲《シ・セ》之《ヽ》。
御かり立《タヽ》し、在立《アリタヽ》しなどいふ、立しと同じく、そこにゆきましゝをいへる言にて、たゝしの、しは、敬ひていふ言也。この事は【攷證一下廿五丁】にいへり。考云、もとこの池島によりて所の名ともなりつらめど、こゝによめるは、所の名にはあらで、其いけ島なり。且、この下に、御立しゝ島に下居て、なげきつるかもてふは、下居を思ふに、宮の外にある池島なるべし云々とあり。まへにもいへるごとく、この島は、作り庭の池島也。宮の外にある、池島といはれしはいかゞ。
 
庭多泉《ニハタヅミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。雨水の庭にたまりて、ながるゝなれば、にはたづみながるゝとは、つゞけし也。また、古事記傳卷三十六にも見えたり。さて、こゝ、庭多(197)泉とかけるは、借字也。一首の意は、皇子の平生いでましゝ、池島などを、見るにつけて、涙のにはたづみのごとく、ながれいでゝとゞめかぬつと也。
 
179 橘之《タチハナノ》。島宮爾者《シマノミヤニハ》。不《アカ》飽《ヌ・ス》鴨《カモ》。佐田乃岡邊爾《サダノヲカヘニ》。侍宿爲爾往《トノヰシニユク》。
 
橘之《タチハナノ》。島宮爾者《シマノミヤニハ》。
橘は、島宮のある所の地名なるべし。大和志高市郡に、橘村あり。これなるべし。この島宮は、皇子の、平生おはしましゝ宮にて、眞弓の岡、佐太の岡は、皇子の陵のある所にて、檜隈郷なり、これらの地名、よくせずば、まぎれぬべし。予もゆきて見ざる所なれ《(マヽ)》さだかにはしりがたし。
 
不《アカ》飽《ヌ・ス》鴨《カモ》。
考云、とのいを爲不足《シタラヌ》朝也云々。この説のごとく、島の宮には、とのゐをしたらねばにやあらん、今はまた、陵所の佐田の岡へも、とのゐしにゆくことよと也。
 
180 御立爲之《ミタヽシヽ》。島乎母家跡《シマヲモイヘト》。住鳥毛《スムトリモ》。荒備勿行《アラヒナユキソ》。年替左右《トシカハルマデ》。
 
島乎母家跡《シマヲモイヘト》。
この池の島をも、放たる鳥は、おのが家としてすめる也。このともじは、としての意也。この事、下【攷證五下十七丁】にいへり
 
住鳥毛《スムトリモ》。
この毛の字に、心をつくべし。鳥もといふにて、人はさら也、鳥までもといふ意也
 
年替左右《トシカハルマテ》。
年替は、今年の來年とかはる也。月かはるといふにてもしるべし。左右《マテ》をまでとよめるは、義訓也。上【攷證一下三丁】にいへり。池島などを、家として住る鳥も、また人(198)も、今は君ましまさずとも、うとくなりゆく事なかれ、せめて年のかはるまでもと也。
 
181 御立爲之《ミタヽシヽ》。島之荒礒乎《シマノアリソヲ》。今《イマ・ケフ》見者《ミレバ》。不生有之草《オヒサリシクサ》。生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
 
島之荒礒乎《シマノアリソヲ》。
考云、御池に岩をたてゝ、瀧おとして、あらき磯の形、作られしをいふなるべし云々といはれつるがごとし。
 
不生有之草《オヒサリシクサ》。
君の、まし/\たりしほどは、草などをも苅はらふ人ありしかば、草も生ざりしかど、君うせ給ひて、今見れば、その生ざりし草も、かく生にけるは、いとあはれと也。考云、まことに、歎きつべし。卷十四、故太政大臣家の山池を赤人、むかし見しふるき堤はとしふるき池のなぎさに水草生にけり、ともよみつ云々。
 
生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
集中、來を、けり、ける、けれの假字に用ひたれ《(マヽ)》、來《ク》るといふ、くを、けに轉じたる也。書紀仁徳紀に、摩簡儒鷄麼虚曾《マカズケバコソ》云々とあるも、不v纏來者乞《マカスケバコソ》なり。本集十七【廿丁】に、使乃家禮婆《ツカヒノケレハ》などあるにても、くと、けと、かよふをしるべし。一首の意は、まへにいへり。
 
182 鳥※[土+(一/皿)]《トクラ》立《タテ・タチ》。飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》。栖立去者《スタチナバ》。檀崗爾《マユミノヲカニ》。飛反來年《トビガヘリコネ》。
 
鳥※[土+(一/皿)]《トクラ》立《タテ・タチ》。
※[土+(一/皿)]の字、字書に見えず。義訓に、鳥栖とかける、栖を※[土+(一/皿)]に誤るか。または、中國の作字歟。多度寺資財帳に、伊勢國桑名郡烏垣里云々とあり。これをも、とぐらの里(199)とよまんか。又は、とりがきの里とよまんか。こゝの鳥※[土+(一/皿)]も、もとは鳥垣とありしを、垣を草書に、垣と書しより、※[土+(一/皿)]には誤りしか。新撰字鏡に、※[木+桀]【巨列反鷄栖杖止久良】云々。和名抄羽族體云、孫※[立心偏+面]切韻云、穿v垣栖v鷄曰v塒【音時和名止久良】云々。本集十九【十一丁】に、鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可《トグラユヒスヱテソワカカフマシラフノタカ》云々。拾遺集雜春に、ひげこに花をこきいれて、さくらをとぐらにして、山すげを鶯にむすびすゑて云々。同雜賀に、元輔、松が枝のかよへる妓をとぐらにて、すだてらるべきつるのひなかな云々。宇津保物語國ゆづり上卷に、鳥のゐるおなじとぐらは、とひしかど、ふるすを見てぞとめずなりぬる云々など見えたり。さて、とぐらの、とは、鳥の略にて、鳥を、とゝのみいふは、鳥獵をとがり、鳥網をとなみ、鳥立をとだちなどいふ類也。くらは、本集十九に、鳥座とかける、正字にて、書紀神代紀上なる、千座置戸《チクラオキド》云々、大祓祝詞に、千座置座《チクラノオキクラ》云々ともありて、釋日本紀卷七に、座者、置v物之名也云々とあるにて、とぐらは、鳥を置所なるをしるべし。藏、倉などを、くらといふも、物を置よしの名にて、とぐらのくらと同じ。
 
飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》。
説文、除鉉曰、鴈通作v雁、別作v鴈云々とありて、雁鴈同字也。代匠記云、雁の兒は、かりの子をいふ。かるの子ともいふと、源氏物語の抄に見えたり。されども、いかにして、かりの子といふよしは見えず。細流は、逍遥院殿の御作なれど、只かものことのみのたまへり。源氏眞木柱に、かりの子の、いとおほかるを御らんじて、かんじ橘などやうにまぎらはして、わざとならず奉り給ふ云々。同橋姫に、春のうららかなる日かげに、水鳥どもの、はねうちかはしつゝ、おのがじじさへづるこゑなどを、つねははかなきことと見給ひ(200)しかども、つがひはなれぬを、うらやましくながめ給ひて、君だちに、御ことゞもを、をしへ聞え給ふ。いとをかしげにちひさき御ほどに、とり/”\かきならし給ふものゝ音ども、あはれにをかしくきこゆれば、なみだをうけ給ひて、うちすてゝつがひさりにし水鳥のかりのこの世にたちおくれけん云々。うつぼ物語藤原君に、宰相めづらしく出きたる。かりの子にかきつく。かひのうちにいのちこめたるかりのこは、君がやどにてかへさざらなん。兵衛、たまはりて、あて宮にすもりになりはじむるかりの子、御らんぜよとて奉れば、あて宮、くるしげなる御ものねがひかなと、のたまふ云々。枕草子に、あてなるもの、かりの子云々。またうつくしきもの、かりの子云々。これら、みなかもの子をいへり。このかもは家にかふ鴨の類ひの鷺にて、俗語にあひるといふなるべし。かもを、かるといふは、水にうくことの、かろきゆゑなるべし。鳧の類多きものにて、鴛をも、をしかもといひ、おほく水鳥の惣名なれば、鴈も水鳥にて、名さへ通ずるにや。後拾遺集秋下に、こしかたに思ふ人侍りける時に、貫之、秋のよにかりかもなきてわたるなり、わが思ふ人のことづてやせし云々。この歌、かりがねにやと思へど、むかしより、かもとのみあれば惣名をくはへてよめるなるべし。今案に、又一説あり、これは、鷹の兒を、鴈の兒と書誤れるにや。その故は、とぐらたてといふも、鷹と聞ゆ。第十九に、家持の、鷹をよまれたる長歌に、枕つくつまやつ《(マゝ)》まやうちに、鳥座《トクラ》ゆひすゑてぞわがかふ、ましらふのたかとよめり。かもならば、すなはち、まがりの池にかはせ給ふべし。また、まゆみの岡にとびかへりこねも似つかはしからず。下に、けごろもを春冬かたまけてみゆきせし、うだの大野はおもほえんかもとよめるは、鷹狩のみゆきと聞ゆ。第一に、日なめしのみこのみことの、馬なめて、みかりたゝしし時はきむか(201)ふともよめれば、御狩のために、鷹の子をかひおかせ給ふ間に、薨じたまへば、人となりて、はねもつよくなりなば、こゝろありて、このまゆみの岡に飛來よとよめるか。催馬樂に、たかの子はまろにたうばらん、手にすゑて、あはづのはらの、みくるすのわたりの、うづらとらせんや云々。玉篇云、雁【五諫切鳥也】※[まだれ/(人偏+隹)]【於薩切今作鷹】云々。※[まだれ/(人偏+隹)]を、いま鷹とかけども、猶やゝ似たれば、誤れる歟とおぼしき也云々と見えたり。この二説、いづれもとり/”\なれど、予は後の説にしたがひて、雁は※[まだれ/(人偏+隹)]の誤りにて、たかの子なるべしとおぼゆる也。
 
栖立去者《スダチナハ》。
玉篇云、栖音西、鳥栖宿也、又作v棲云々とありて、すだちなば、栖より出たちなば也。後撰集春上に、谷さむみいまだすだたぬ鶯の、なくこゑわかみ人のすさめぬ云々。源氏物語橋姫に、いかでかく、すだちけるぞと思ふにも、うき水鳥のちぎりをぞしる云々なども見えたり。一首の意明らけし。
 
183 吾御門《ワガミカド》。千代常登婆爾《チヨトコトハニ》。將榮等《サカエムト》。念而有之《オモヒテアリシ》。吾志悲毛《ワレシカナシモ》。
 
千代常登婆爾《チヨトコトハニ》。
千とせも、とこしなへに、久しく常盤《トキハ》にといへる也。とことはゝ、本集四【二十二丁】に、
、常不止通之君我《トコトハニカヨヒシキミカ》云々。佛足石歌に、己禮乃與波宇都利佐留止毛《コレノヨハウツリサルトモ》、止己止婆爾佐乃己利伊麻世《トコトハニサノコリイマセ》、乃知乃與乃多米《ノチノヨノタメ》云々など見えたり。
 
吾志悲毛《ワレシカナシモ》。
しの字、もの字、助字なり。吾君の大殿は、ちとせも、とこしへに、さかえんとおもひてのみありしが、かなしとなり。
 
(202)184 東乃《ヒムカシノ》。多藝能御門爾《タキノミカドニ》。雖伺侍《サモラヘド》。昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。召言毛無《メスコトモナシ》。
 
東乃《ヒムカシノ》。多藝能御門爾《タキノミカドニ》。
考云、池に瀧ある方の御門を、かく名づけられしならん云々といはれつるがごとく、瀧を、たぎといへるも、本はたぎる意にて、瀧《タキ》の宮子《ミヤコ》、多藝津河内《タキツカフチ》などいふも、瀧あるによりていへるなれば、このたぎの御門も、瀧ある方の御門なるをしるべし。
 
雖伺侍《サモラヘド》。
本集此卷【卅五丁】に、鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》、雖侍候《サモラヘト》、佐母良比不得者《サモラヒエネハ》云々。六【十八丁】に、風吹者浪可將立跡伺候爾《カセフケハナミカタヽムトサモラフニ》云々。七【十五丁】に、大御舟竟而佐守布《オホミフネハテヽサモラフ》云々。二十【卅四丁】に、安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等佐毛良布等《アサナキニヘムケコカムトサモラフト》云々などありて、古事記、書紀等に侍の一字をもよめり。
 
昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。
本集十五冊【卅七丁】に、伎能布家布伎美爾安波受弖《キノフケフキミニアハステ》云々。十七【四十六丁】に、乎等都日毛伎能敷母安里追《ヲトツヒモキノフモアリツ》など見えたり。三【五十三丁】に、愛八師榮之君乃伊座勢波《ハシキヤシサカエシキミノイマシセハ》、昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《キノフモケフモワレヲメサマシヲ》云々。今の歌に似たり。一首の意明らけし。
 
185 水《ミツ》傳《ツタフ・ツテノ》。礒乃浦回乃《イソノウラワノ》。石乍自《イハツツシ》。木丘開道乎《モクサクミチヲ》。又將見《マタミナム・マタモミム》鴨《カモ》。
 
水《ミツ》傳《ツタフ・ツテノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはしけれど、代匠記に、是は、嶋の宮に作らせたまへる庭の、泉水のあたりの事をよめり。水つたふとは、いそべは、水につきてつたひゆけばなり。山(203)海の體勢をまなびて、うつさるれば、さきの歌には、島の荒磯とさへよめり云々とあるによるべし。さて、この枕詞は、こゝより外、ものに見えず。
 
礒乃浦回乃《イソノウラワノ》。
島囘《シマワ》、磯囘《イソワ》などいふ、囘と同じ。浦の、いりくまり、わだかまれる所々をいふ。この事は、上【攷證一下十四丁】に、荒島囘《アラキシマワ》とある所にいへり。こゝは、池なれど、磯といへり。この事、下【攷證六上廿七丁】にいふべし。磯なる浦のほとり也。
 
石乍自《イハツツシ》。
本草和名に、羊躑躅、一名玉支、一名史光、和名以波都々之、又之呂都々之、一名毛知都々之云々とあり。和名抄、これに同じ。本集三【四十九丁】に、美保乃浦廻之白管仕《ミホノウラワノシラツツシ》云々。六【廿五丁】に、丹管士乃將薫時能《ニツヽシノニホハムトキノ》云々。七【十七丁】に、遠津之濱之石管自《トホツノハマノイハツヽシ》云々などあり。乍自《ツヽシ》、管仕《ツヽシ》などかけるも、皆借字なり。
 
木丘開道乎《モクサクミチヲ》。
宣長云、木丘《モク》は、茂く也。神代紀に、枝葉|扶疏《シキモシ》、應神紀に、芳草|薈蔚《モクシケク》、顯宗紀に、厥功|茂焉《モシ》などあり。また、森《モリ》といふ名も、木の生ひ茂りたるよし也。
六巻に、百樹盛山者木高之《モヽキモリヤマハコダカシ》。これも、盛はしげりといふことなり云々といはれつるごとく、應神紀に、薈蔚《モクシゲク》とある、薈は、玉篇に烏會切、草盛貌云々とありて、もくとよめるは、茂くなる事しるし。さればもくさく道は乍自《ツヽシ》のしげくさきたる道也。
 
又將見《マタミナム・マタモミム》鴨《カモ》。
皇子薨たまひしかば、今より後は、この宮にまゐる事もあらねば、御池のほとりの石つゝじの、しげくさきたる道をも、又と見なんものか、又とは見じと、なご(204)し《(マヽ)》をしめるなり。
 
186 一日者《ヒトヒニハ》。千遍參入之《チタヒマヰリシ》。東乃《ヒムカシノ》。太寸御門乎《タキノミカトヲ》。入不勝鴨《イリカテヌカモ》。
太寸御門乎《タキノミカトヲ》。
考云、今本、たきのとよみたれど、寸は假字也。假字の下に、辭を添るよしなし云々とて、おほきみかどをと、よまれたり。されど、人名、地名などにはまゝ見えたり。人名に、訓そゆる事は、上【攷證一下廿五丁】にいへり。地名に、訓そゆるは、古事記上卷に知※[言+可]嶋《チカノシマ》、多祁理宮《タケリノミヤ》などあるにても、思ふべし。こゝの大寸《タキノ》御門は、地名にはあらで、本、たぎのあるによりていへるなれど、御門の名としつれば、地名とかはる事なし。又前の歌にも、東乃多藝能御門ともあれば、こゝもたぎのみかどとよまんかたまされり。又思ふに、太寸の下に、乃、之、能などの字のありしを脱せるにもあるべし。
 
入不勝鴨《イリガテヌカモ》。
がてぬの、ぬもじにはこゝろなく、難《カタ》き意にて、こゝは、入がたきかも也。この事は、上【攷證二上一六丁】に、いへり。一首の意は、一日の中には、いくたびといふこともなく、まゐりたりしかど、皇子薨給ひしかば、この御門をも、いまは入がたきやうにおもはると也。
 
187 所由《ツレモ・ヨシモ》無《ナキ》。佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》。反居者《カヘリヰバ》。島御橋爾《シマノミハシニ》。誰加住舞無《タレカスマハム》。
 
(205)所由無《ツレモナキ・ヨシモナク》。
こゝも、つれもなきとよむべし。この事は、まへにいへり。
 
反居者《カヘリヰバ》。
考云、かへりゐるとは、ゆきかへりつゝ、分番交替してゐるをいふ。下、夜鳴かはらふとよめるも、これ也云々。
 
島御橋爾《シマノミハシニ》。
考云、橋は階也。舍人は御門と、御階のもとにも、さむらへば、かくいへり云々といはれつるがごとく、和名抄居宅具に、考聲切韻云、※[手偏+皆]土※[土+皆]也、一名階【古諧切、俗爲2※[土+皆]字1和名波之一訓之奈、】登v堂級道也云々とある、これ也。橋とかけるは、借字にて、宮中の階なり。舍人は、賤官なれば、階下に宿直せん事さもあるべし。
 
誰加住舞無《タレカスマハム》。
すまはんは、まはの反、まにて、すまんを延たる言也。こは、すまふ、すまひ、すまはんとはたらく語にて、本集四【廿九丁】に、天地與共久住波牟等《アメツチトトモニヒサシクスマハムト》云々。五【廿六丁】に、比奈爾伊都等世周麻比都々《ヒナニイツトセセスマヒツヽ》云々。木末爾住歴武佐左妣乃《コスエニスマフムサヽヒノ》云々などある、皆同じ。一首の意は、佐太の岡べは、ゆかりもなき所なれど、陵のある故に、宿直《トノヰ》もする也。さて、その佐太の岡に、又かへりて、とのゐせば、專ら宿直すべき御階の下には、たれかさむらはんとなり。
 
188 旦覆《アサクモリ》。日之入去者《ヒノイリユケハ》。御立之《ミタヽシヽ》。島爾下座而《シマニオリヰテ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
旦は、戰國策齊策注に、旦暮朝夕也云々。管子小匡篇に、旦夕猶2朝夕1也云々とあればあさとよまん事、論なし。覆は、釋名釋言語に、覆蓋蔽也云々とあるごとく、おほふ事(206)にて、空をおほふ意なれば、くもりとはよめるなり。
 
日之入去者《ヒノイリユケバ》。
考には、日之入去者《ヒノイリユケバ》を、日のくれゆく事ぞと心得て、初句を、天靄《アマクモリ》と直されしは、甚しき誤り也。日出入は、暮ゆく事にはあらで、日の雲に入をいへり。されば、初句に、あさぐもりとはいへるなり。はじめは、うすぐもりなる時は、雲の底に日のあるが見ゆれど、やうやくに、くもりかさなれば、日の見えずなりゆくを、入去《イリユク》とはいへるなるべし。また、心みにいふ説あり。日之入去者《ヒノカクロヘハ》とよまんか。入去を、かくろふとよめるは、義訓也。古事記上卷に、阿遠夜麻邇比賀迦久良姿《アヲヤマニヒガカクラハ》云々。龍田風神祭祝詞に、夕日乃|日隱《ヒカクル》處云々などありて集中月の雲隱といふいと多し。されば、日の、くもりたるくもにかくろひゆくを、旦ぐもり日のかくろへばとはよめるなるべし。
 
御立之《ミタヽタシヽ》、
考に、例に依て、爲を加ふ云々とて、御立爲之とせられしは、此卷の中上よりの例いかにもさる事ながら、爲の字なしとても、みたゝしゝとよまんに、何事かあらん。そは、本集三【十三丁】に、三獵立流《ミカリタヽセル》云々。十九【卅六丁】に、御立座而《ミタヽシマシテ》云々などあるにてもおもふべし。
 
島爾下座而《シマニオリヰテ》。
島は、池島の島なり。さて一首の意は、皇太子を、日にたとへ奉りて、この皇子の、はやく薨じたまひしは、朝日の雲にかくれたるがごとしとて、あまぐもり日のいりゆけといひて、さてそれゆゑに皇子の平生御立ましゝ御座に下居て、みななげきつるかなと也。
 
(207)189 且日照《アサヒテル》。島乃御門爾《シマノミカドニ》。欝悒《オボヽシク・オホツカナ》。人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》。眞浦悲毛《マウラカナシモ》。
 
且日照《アサヒテル》。
これも、島の御門に、朝日のてるを賞したる也。まへに、朝日弖流佐太乃岡邊《アサヒテルサタノヲカヘ》とある所にいへるがごとし。
 
眞浦悲毛《マウラカナシモ》。
眞は、誠《マコト》の意にて、本集十四【七丁】に、宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名《ウラヘカタヤキマサテニモノラヌキミカナ》云々。二十【卅一丁】に、多妣等弊等麻多妣爾奈理奴《タヒトヘトマタヒニナリヌ》云々などある、麻も、眞にて、誠の意也。物を賞《ホメ》て、眞何々といへる眞とは、別也。古事記中卷に、是御子|八拳鬚《ヤツカヒケ》至2于|心前《ムナサキ》1眞事登波受《マコトトハス》とあるを、たゞ物のたまはぬ事のよしに、宜長の注されしは、くはしからず。この皇子、物はのたまひけめど、たゞ何ともわかぬ、かた言のみ、のたまひて、眞《マコト》の事のたまはぬにて、眞は誠の意也。これを、書紀に、不言と書給ひしは、例の文字のうへにのみなづみて、古意を矢へる也。ある人、この御子を、唖《オフシ》ならんといへれど、書紀には、唖は唖と別にことわりたるを見れば、この御子實に唖ならば、そのよしことわらるべきを、たゞ不言とのみ書たまひしは、唖ならざる證也。されば、眞事登波受《マコトトハス》は、片言のみのたまひて、誠の言をのたまはぬなるをしるべし。さて浦悲《ウラカナシ》の、浦は、借字にて、心中|悲《カナシ》なり。そは本集八【卅丁】に、曉之裏悲爾《アカツキノウラカナシキニ》云々。十四【廿五丁】に、比等乃兒能宇良我奈之家乎《ヒトノコノウラカナシケヲ》云々。十五【卅四丁】に、波流乃日能宇良我奈之伎爾《ハルノヒノウラカナシキニ》云々などありて、猶多し。これら、心の中のかなしきにて、うらなけをる、うらこふ、うらまちなどいふうらとおなじ。さて、一首の意は、君のまさざれば、島の御門も、ものさびしく、すさまじく、人おともせざるを見れば、心の中のかなしと也。毛は助字のみ。
 
(208)190 眞木柱《マキハシラ》。太心者《フトキコヽロハ》。有之香杼《アリシカト》。此吾心《コノワカコヽロ》。鎭目金津毛《シツメカネツモ》。
 
眞木柱《マキハシラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。されど、眞木を檜也といはれしは、いかゞ。この眞は例の物をほむる詞にて、眞木とは、良材をいへる也。この事は、上【攷證一下廿丁】にくはしくいへり。柱は、太きを賞する故に、眞木ばしら、ふときとはつゞけし也。
 
太心者《フトキコヽロハ》。
太心は、すぐれてをゝしく、したゝかなる心といへる也。太は、すぐれたる意なり。廣韻に、太甚也、太也云々とあるにても、すぐれたる意なるをしるべし。
 
鎭目金津毛《シツメカネツモ》。
心を靜めかねつにて、毛は、助字也。書紀顯宗紀室壽詞に、築立柱者、此家長御心之鎭也云々。本集五【十三丁】に、彌許々呂遠斯豆迷多麻布等《ミコヽロヲシツメタマフト》云々など見えたり。一首の意は、われは、丈夫にて、太くをゝしき心なりしかども、今皇子の御喪に、わが心ながら、しづめかねつとなり。
 
191 毛許呂裳遠《ケコロモヲ》。春冬片設而《ハルフユカタマケテ》。幸之《イテマシシ・ミユキセシ》。宇陀乃大野者《ウタノオホヌハ》。所念武鴨《オモホエムカモ》。
 
毛許呂裳遠《ケコロモヲ》。
毛衣は、伊呂波字類抄に、褻をよめり。これ也。毛衣は、毛を以て織る衣、裘《カハコロモ》は皮衣とは別なり。皮衣の事は【攷證九】下にいふべし。さて、考云、古へ、御狩に、摺衣を着せ給ひしは、まれなる事にて、專ら、皮衣なる故に、しかよみしならん。今むかばきてふ物は、その遺なるべし云々といはれつるは、さる事ながら、毛衣、皮衣を一物とせら(209)れしはいかゞ。(頭書、毛許呂裳遠《ケコロモヲ》は枕詞也。たゞ衣を張《ハル》とつゞけしのみ也。古今集春上に、貫之、わがせこがころもはるさめふるごとに云々とある類なり。)
 
春冬片設而《ハルフユカタマケテ》。
片設《カタマケ》は、本集五に、烏梅能波奈知利麻我比多流乎加肥爾波《ウメノハナチリマカヒタルヲカヒニハ》、宇具比須奈久母波流加多麻氣弖《ウクヒスナクモハルカタマケテ》云々。十【九丁】に、鶯之木傳梅乃移者《ウクヒスノコツタフウメノウツロヘハ》、櫻花之時片設奴《サクラノハナノトキカタマケヌ》云々。また、秋田吾苅婆可能過去者《アキノタノワカカリハカノスキヌレハ》、鴈之喧所聞《カリカネキコユ》、冬方設而《フユカタマケテ》云々。また、【四十一丁】草枕客爾物念《クサマクラタヒニモノモフ》、吾聞者夕片設而鳴川津可聞《ワカキケハユフカタマケテナクカハツカモ》云々。十一【四丁】に、何時不戀時雖不有《イツシカモコヒヌトキトハアラネトモ》、夕方枉戀無乏《ユフカタマケテコヒハスヘナシ》云々。十五【十丁】に、伊蘇乃麻由多藝都山河多延受安良婆《イソノマユタキツヤマカハタエスアラハ》、麻多母安比見牟《マタモアヒミム》、秋加多麻氣※[氏/一]《アキカタマケテ》云々などあり。これらの、かたまけも、方儲《カタマケ》にて、皆その時を待まうけたる意也。こゝも同じ。片といふは、詞にて、意なし。片待などいふ片と同じ。さるを、考に、片設は、取設の誤りぞとて、直されしは、誤り也。かくのごとく、語例多きをや。
 
宇陀乃大野者《ウタノオホヌハ》。
書紀天武紀に、菟田郡、【中略】到2大野1云々とあるこゝ也。本集一【廿一丁】に、安騎乃大野とあるも、宇陀郡なれば、こゝなるべし。考云、上の卷に、宇陀の安騎野にて、日並斯皇子の、御狩たゝしし時は來向と、人まろのよみし、同じ御狩の事を、こゝにもいふ也云々。
 
所念武鴨《オモホエムカモ》。
考云、今よりは、このありし御狩の事を、常の言ぐさ思ひ種として、したひ奉らんかなと、なげきていふ也云々。(頭書、おもほえんかもといへるは、皆意をふくめたる語也。そは六【十二丁】ま【廿四丁】十七【三十五丁】などあるにしるべし。)
 
(210)192 朝日照《アサヒテル》。佐太力岡邊爾《サタノヲカヘニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。夜鳴變布《ヨナキカハラフ》。此年巳呂乎《コノトシコロヲ》。
 
鳴鳥之《ナクトリノ》。夜鳴變布《ヨナキカハラフ》。
鳴鳥之の、之もじは、如の意にて、舍人等の、かはる/”\宿直するが、嘆つゝ交替するを、この佐太の岡になく鳥にたとへて、その鳴鳥のごとく、夜る哭《ナキ》つゝ、かはる/”\交替と也。變布《カハラフ》とかけるは、借字也。本集十二【十一丁】に、吾兄子爾戀跡二四有四《ワカセコニコフトニシアラシ》、小兒之夜哭乎爲乍《ミトリコノヨナキヲシツツ》、宿不勝苦者《イネカテナクハ》云々。十九【十八丁】に、霍公鳥夜喧乎爲管《ホトヽキスヨナキヲシツヽ》云々など見えたり。
 
此年巳呂乎《コノトシコロヲ》。
考云、去年の四月より、今年の四月まで、一周の間、御陵づかへすれば、としごろとはいへり云々と、いはれつるがごとし。一首の意明らけし。(頭書、乎はよといたに似て、助辭也。この例、下【攷證七上十二丁】に出すべし。)
 
193 八多籠良家《ヤタコラカ》。夜晝登不云《ヨルヒルトイハス》。行路乎《ユクミチヲ》。吾者《ワレハ》皆悉《コト/”\・サナガラ》。宮路除爲《ミヤチトソスル》。
 
八多籠良家《ヤタコラカ》。
心得がたし。故に、諸説をあぐ。類林云、雜物を運送する、今俗|小荷駄《コニダ》馬といふ類と見えたり。はたごは、和名抄行旅具に、唐韻云〓【當侯反漢語抄云波太古俗用旅籠二字】飼馬籠也云々。かげろふ日記に、はたご馬云々。宇治拾遺に、はたご馬、かはご馬云々。これらを見るに、本は馬を飼ふ籠の名にて、乘馬ならぬ馬に、旅行のくさ/”\の物、食物などをつけて、(211)供するをいふ也。さる馬、それに付く馬子など、すべて、はたごらとよめる也。其宿する家を、はたごやといふ名のみ殘れり云々。代匠記、これに同じ。考云、奴等之《ヤツコラカ》なり。紀【神功】に、宇麻比等破于麻臂苔奴知《ウマヒトハウマヒトトチ》、野伊徒姑播茂伊徒姑奴池《ヤイツコハモイツコトチ》云々。このやいつこに同きを、こゝに八多とあるは、都と多と音通へば、やたこともいひしにや。もし又、豆を多に誤れるか云々。宣長云、やたこらと訓て、奴等とするも、さる事なれども、奴ならば、やつこといふべきを、やたこといへるも、いかゞなるうへに、籠の字を書んこといかゞなれば、かた/”\心ゆかず。故に思ふに、良は馬の誤りにて、はたごうまなるや。旅籠馬といふこと、蜻蛉日記にも見えたり云々。これらの説のうち、予はしばらく考の説にしたがはんとす。されど、考に、神功紀の歌を引て、于麻臂苔奴知野伊徒姑播茂《ウマヒトトチヤイツコハモ》云々とある野《ヤ》もじを、下につけて、やいつこと見られしはいかゞ。こは上につけて、うまひとゞちやとよむべき也。又考に、家、我の誤りとして、家を我に直されしも、いかゞ。家を、かの假字に用ひし事、外には見あたらねど、集韻に、家居牙切、音加云々。正字通に、居沙切音加云々とあれば、などかは加の假字にも用ひざらん。さて、この句をば、しばらく、奴等と見て下の解を下せり。
 
夜晝登不云《ヨルヒルトイハス》。
 
本集九【卅四丁】に、味澤相宵晝不云《アチサハフヨルヒルトイハス》、蜻※[虫+廷]火之心所燎管《カキロヒノコヽロモエツヽ》云々ともあり。夜るひると、そのわかちをもいはずとなり。
 
吾者《ワレハ》皆悉《コト/”\・サナカラ》。
皆悉は、考に、こと/”\とよまれしをよしとす。古事記に、悉の一字をも、こと/”\とよめり。こはかぎりといふ言にて、一首の意は、いやしき奴等が、夜ひる(212)となく、ゆきかよふ道のかぎりを、われは、この眞弓岡の御陵へ交替して、宿直する宮路とする事よといひて、おもひもかけぬ鄙の道をも、かよひて、務るよしを、かなしびにそへていへるなり。
 
右日本紀曰。三年己丑。夏四月。癸未朔乙未薨。
 
右の三年の上に、高天原廣野姫天皇とあるべき也。さなくては、いつの御代の三年かわかりがたし。こは持統天皇なり。
                  (以上攷證卷二中册)
 
(213)柿本朝臣人麿。獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首。並短歌。
 
この端詞、誤れりとおぼしくて、集中の例にもたがひ、事の意も不v詳。考には、左注に依て、葬2河島皇子於越智野1之時、柿本朝臣人磨、獻2泊瀬部皇女1歌と改られたり。これ、いかにもさる事ながら、みだりに意改せん事を、はゞかりて、しばらく本のまゝにておきつ。この端詞のまゝにては、何故に、泊瀬部皇女、忍坂部皇子に、歌を奉にか、そのよしもなく、泊瀬部皇女は、天武帝の皇女にで、川島皇子の妃におはしたりと見ゆれば、悲みの歌を奉るもよしあれど、忍坂部皇子は、泊瀬部皇女の御兄には《(マヽ)》、川島皇子とは、御いとこどしなるうへに、この歌に、專ら御夫婦の間の事をのみよまれしかば、この歌を、忍坂部皇子に奉るべきよしなし。まづこゝには、主とする、川島皇子の御事をいはん。そは、書紀天智紀云、有2忍海造小龍女1、曰2色夫古娘1、生2一男二女1、其二曰2川島皇子1云々。天武紀云、十四年、春正月戊申、授2淨大參位1云々。持統紀に、五年、春正月乙酉、増封淨大參皇子川島百戸、通v前五百戸云々。同年、九月丁丑、淨大參皇子川島薨。辛卯、以2直大貳1、贈《(マヽ)》2佐伯宿禰大目1、並贈2賻物1云々と見えたり。
 
泊瀬部《ハツセヘノ》皇女。
書紀天武紀云、宍人臣大麻呂女、擬媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬皇女1、其四曰2託基皇女1云々。續日本紀云、大寶元年、正月甲午、長谷部内親王、益2封一百戸1云々。天平九年、二月戊午、授2三品1云々。同十三年、三月己酉、天武天皇之皇女也云々と見えたり。泊瀬部、長谷部、同訓なり。
 
(214)忍坂部《オサカヘノ》皇子。
まへ、泊瀬部皇女の下に見えたり。忍壁、また刑部とかけるも、同訓也。書紀天武紀云、十四年、春正月戊甲、忍壁皇子授2淨大參位1云々。朱鳥元年、八月辛巳、加2封百戸1云々。續日本紀云、文武天皇四年、六月甲午、勅2淨大參刑部親王以下十六人1、撰2定律令1云々。大寶三年、春正月壬午、詔2三品刑部親王1、知2太政官事1云々。慶雲元年、春正月丁酉、益2封二百戸1云々。二年、夏四月庚申、賜2越前國野一百町1云々。同年、五月丙戌薨、遣v使監2護喪事1、天武天皇之第九皇子也云々と見えたり。
 
194 飛鳥《トフトリノ》。明日香乃河之《アスカノカハノ》。上《カミツ・ノホリ》瀬爾《セニ》。生玉藻者《オフルタマモハ》。下《シモツ・クタリ》瀬爾《セニ》。流觸《ナカレフラハ》經《ヘ・フル》。玉藻成《タマモナス》。彼依此依《カヨリカクヨリ》。靡相之《ナヒキアヒシ》。嬬乃命乃《ツマノミコトノ》。多田名附《タヽナツク》。柔膚尚乎《ニコハタスラヲ》。劔刀《ツルキタチ》。於身副不寐者《ミニソヘネヽハ》。烏玉乃《ヌハタマノ》。夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》【一云。阿禮奈牟《アレナム》。】所虚故《ソコユヱニ》。名具鮫魚天氣留《ナクサメテケル》。敷藻相《シキモアフ》。屋常念而《ヤトトオモヒテ》【一云。公毛相哉登《キミモアフヤト》。】玉垂乃《タマタレノ》。越《ヲチ・コス》乃大《ノオホ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。且露爾《アサツユニ》。玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒツチ》。夕霧爾《ユフキリニ》。衣者沾而《コロモハヌレテ》。草枕《クサマクラ》。旅宿鴨爲留《タヒネカモスル》。不相君故《アハヌキミユヱ》
 
飛鳥《トフトリノ》。
枕詞にて、上【攷證一下六十九丁】にいへり。
 
(215)明日香乃河之《アスカノカハノ》。
大和國高市郡なり。この地の事は、上【攷證一下六十九丁】明日香能里《アスカノサト》の所にていへり。
 
上瀬《カミツセ・ノホリセ》爾《ニ》。
かみつせと訓べし。古事記上卷に、上瀬者瀬速《カミツセハセハヤシ》、下瀬者瀬弱《シモツセハセヨワシ》云々。下卷に許母理久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》、賀美郡勢爾伊久比袁宇知《カミツセニイクヒヲウチ》、新毛都勢爾麻久比袁宇知《シモツセニマクヒヲウチ》云々など見えたり。
 
流《ナカレ》觸經《フラハヘ・フレフル》。
宣長云、この字を、ながれふれふるとよめるは、ひがごと也。考に、ふらへりとよまれたるも、心得ず。經の字は、へとか、ふるとかは訓べし。へり、へるなどは、訓べきよしなし。これは、ふらばへと訓べき也。古事記雄略の段の歌に、本都延能《ホツエノ》、延能宇良婆波《エノウラバハ》、那加都延爾《ナカツエニ》、淤知布良婆閇《オチフラハヘ》とあり云々といはれつるがごとく、こは、上つ瀬に生たる玉藻の流れ來て下つ瀬に觸《フレル》也。ふらばへは、ふれを延たる語也。
 
玉藻成《タマモナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉藻は、波のまに/\、彼により此により、なびくものなれば、玉藻のごとく、かよりかくより、なびきあひしとはつゞけしなり。
 
彼依此依《カヨリカクヨリ》。
本集此卷【十八丁】に、浪之共《ナミノムタ》、彼縁此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》云々。
また【廿一丁】浪之共《ナミノムタ》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、靡吾宿之《ナヒキワカネシ》云々など見えたり。
 
靡相之《ナヒキアヒシ》。
男女そひふすを、なびきぬるとはいへり。物のうちなびきたらんやうに、なよゝかに、そひふす意なり。この事は、【攷證一下廿二丁】にいへり。
 
(216)嬬之命乃《ツマノミコトノ》。
命は、父命、母命、弟《セナノ》命、妹《イモノ》命などいふ、命と同じく、親しみ敬ひて、いふ言にて、古事記上卷に、伊刀古夜能《イトコヤノ》、伊毛能美許等《イモノミコト》、【注略】和加久佐能《ワカクサノ》、都麻能美許登《ツマノミコト》云々。本集十八【廿三丁】に、波之吉餘之《ハシキヨシ》、都麻乃美許登能《ツマノミコトノ》云々など見えたり。
 
多田名附《タヽナツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはしけれど、いかゞ。和らかなる單衣などの、身にしたしく、疊《タヽナハ》り付を、妹が膚《ハタ》の和らかになびきたゝなはれるにたとへていへる也。猶くはしくは、古事記(傳脱カ)卷二十八に見えたり。
 
柔《ニコ・ヤハ》膚尚乎《ハダスラヲ》。
久老云、この柔膚を、師のやはゝだとよまれしは、非也。集中、柔の字は、卷二卷三に、柔備《ニキヒ》、卷十二に、柔田津《ニギタツ》と見え、假字には、卷十一に、蘆垣之中之似兒草《アシカキノナカノニコクサ》、爾故余漢《ニコヨカニ》云々。卷十四に、爾古具佐能《ニコクサノ》云々。卷七に、爾古具佐能《ニコクサノ》、爾古與可爾之母《ニコヨカニシモ》云々とあり。これらをもて、柔は、爾古《ニコ》とよむべきを明らめてよ云々といへるがごとく、柔膚《ニコハダ》は、若き女の、和らかに、にこよかなるをいへり。靈異記中卷に、柔【爾古也可二】とよめるにても思ふべし。尚《スラ》といふ詞を、考に、すらは、さながらてふ言を約めたるにて、そのまゝ、てふに同じく、又、摘ていはば、それを心得ても聞ゆ云々とて、別記にくはしく解れしかど、すべて當らず。この詞、集中いと多く、すらに、すらを、をすらなども、多く云ひて、なほかつなどいふ意に用ひたり。そが中にも、このすらをといふは、なほの意にて、詞を土下して、をすらと心得れば、よく聞ゆ。さて、尚の字を、すらとよめるは、玉篇に、尚且也、曾也云々。毛詩小辨箋に、尚猶云々などあり(217)て、すらは、なほかつなどいふ意なれ《(マヽ)》、この字を、義訓して、用ひし也。
 
劔刀《ツルキタチ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。刀は、人の身をはなたず、身にそへ持るものゆゑに、刀のごとく、身に副とつゞけし也。
 
於身副不宿者《ミニソヘネネハ》。
川島皇子薨じたまひてより、泊瀬部皇女、御ひとりねなるを、かくはいへり。(頭書、於は、義をもて、にの假字に用ひし也。この事、下【攷證七上廿七丁】にいふべし。)
 
烏玉乃《ヌハタマノ》。
印本、烏を鳥に誤れり。いま意改す。
 
夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》。
夜床は、夜のふし所なり。書紀仁徳紀に、瑳用廼處烏那羅倍務耆瀰破《サヨトコヲナラヘムキミハ》云々本集十八【廿三丁】に、奴婆玉乃夜床加多左里《ヌバタマノヨトコカタサリ》云々。など見えたり。荒良無《アルラム》は、上【攷證二中四十九丁】荒備勿行《アラヒナユキソ》とある所にいへるごとく、疎く遠ざかる意にて、家のあるゝ、庭のあるゝなどいふも同じく、こゝは、皇子おはしまさずして、夜の床も、疎くあれぬらんとなり。
 
一云。阿禮奈牟《アレナム》。
印本、阿を何に誤れり。今意改。
 
名具鮫魚天氣留《ナクサメテケル》。
この句、心得がたし。或人そこ故にこの歌を奉りて、君をなぐさめ奉ると心得べしといへりしかど、さては、下へのつゞき、おだやかなら(218)ず。久老云、魚は兼の誤り、留は田の誤りにて、なぐさめかねて、けだしくもと訓べし云々といへり。いかにも、こゝの所、名具鮫兼天《ナクサメカネテ》、氣田敷藻《ケタシクモ》、相屋常念而《アフヤトオモヒテ》云々とする時、下へのつゞきも、一云に、公毛細哉登とあるへも、よく叶へり。そのうへ、敷藻相《シキモアフ》といへる枕詞も、こゝより外、物に見えざれば、久老が説にしたがふべし。されど、みだりに本書を改るを憚りて、しばらく本のまゝにておきつ。鮫は、和名抄龍魚類に、陸詞切韻云鮫【音交和名佐米】云々と見えて、借字なり。
 
玉垂乃《タマタレノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉を垂るには、緒につらぬく故に、玉垂の緒と、をの一言へかけし也。
 
越《ヲチ・コス》乃大野之《ノオホヌノ》。
舊訓、こすの大野のとよめれど、反歌の一云に、乎知野《ヲチヌ》とありて、左注にも、越智野とあれば、こゝも、をちの大野とよむべし。考に、この越を、乎知《ヲチ》とよむは、次の或本、また卷五に、眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》云々、卷十三に、眞玉付彼此兼手《マタマツクヲチコチカネテ》云々などあれば也云々といはれつるがごとし。さて、この地は、延喜諸陵式に、越智崗上陵、皇極天皇在2大和國高市郡1云々。書紀天智紀に、小市《ヲチ》岡上陵云々。天武紀云、八年、三月丁亥、天皇幸2於越智1、拜2後岡本天皇陵1云々と見えたり。小市ともかけるにても、をちの假字なるをしるべし。この越野を、こすのとよめるが誤りなる事は、冠辭考、玉だれの條にとかれたり。
 
玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒツチ》。
玉藻の、藻は、借字にて、裳也。玉は、例の物をほむる詞也。※[泥/土]打《ヒツチ》の、打《チ》は、借字にて、漬《ヒチ》也。※[泥/土]の字は、書紀神代紀上、訓注に、※[泥/土]土此云2于毘尼《ウヒチ》1(219)云々。和名抄塵土類に、孫※[立心偏+面]云、泥土和v水也【奴※[人偏+弖]反、和名知利古、一云古比千】云々とありて、ひぢなるを、ちを、つに通はして、ひづといひ、打は、うちのうを略して、ちの假字に用ひたり。さてこのひづちは、本集三【五十八丁】に、展轉※[泥/土]打雖泣《コイマロヒヒツチナケトモ》云々。十五【廿四丁】に、安佐都由爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒツチ》、由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖《ユフキリニコロモテヌレテ》云々。十七【廿七丁】に、赤裳乃須蘇能《アカモノスソノ》、波流佐米爾爾保比比豆知底《ハルサメニニホヒヒツチテ》云々などありて、つちの反、ちなれば、ひちを延ていへる言にて、ひたす意なり。猶この言は、下【攷證此卷七十四丁】に出せる、考別記の説をも、考へ合すべし。
 
衣者沾而《コロモハヌレテ》。
越《ヲチ》の大野のといふより、こゝまでは、もしも君にあふやと思しめして、越野を、皇女のわけゆきたまふさまをいひ、その野の朝つゆに、御裳をひたし、夕ぎりに衣をぬらすらんといへる也。
 
旅宿鴨爲留《タヒネカモスル》。不相君故《アハヌキミユヱ》。
 
朝つゆ夕りどに、御衣や、御裳などもひたしぬらしつゝ、たづね給へども、不相《アハヌ》君ゆゑに、すなはちこの野に旅宿かもしたまふらんと、はかり奉れるなり。考云、古へは、新喪に墓屋を作りて、一周の間、人してまもらせ、あるじらも、をりをり行てやどり、或は、そこに住人もありし也。紀【舒明】に、蘇我氏諸族等、悉集爲2島大臣1造v墓、而次2于墓所1、爰摩理勢臣、壞2墓所之廬1云々。この外にも紀にあり云々。
 
反歌一首。
 
(220)195 敷妙乃《シキタヘノ》。袖易之君《ソテカヘシキミ》。玉垂之《タマタレノ》。越野過去《ヲチヌニスキヌ・コスノヲスキテ》。亦毛《マタモ》將相《アハメ・アハム》八方《ヤモ》。【一云。乎知野爾過奴《ヲチヌニスキヌ》。】
 
袖易之君《ソテカヘシキミ》。
本集三【五十九丁】に、白細之袖指可倍※[氏/一]靡寢《シロタヘノソテサシカヘテナヒキネシ》云々。四【廿四丁】に、敷細乃衣手易而《シキタヘノコロモテカヘテ》、自妻跡
 
憑有今夜《ワカツマトタノメルコヨヒ》云々。十一《六丁》に、敷白之袖易子乎忘而念哉《シキタヘノソテカヘシコヲワスレテオモヘヤ》云々などありて、集中猶多し。男女袖をかはしで寢るをいへるにて、羽をかはすなどいふも、同じ。こは、皇子皇女、御袖を易《カハ》し寢たまひしをいへり。
 
越野過去《ヲチヌニスキヌ・ヲチヌヲスキテ》。
この過去《スキヌ》は、皇子の薨じ給ひしをいへるなり。字のごとく、すぎさる意也。本集一【廿二丁】に、、黄葉過去君之《モミチハノスキニシキミノ》云々。三【五十五丁】に、過去人之所念久爾《スキニシヒトノオモホユラクニ》云々などありて、集中猶いと多し。これらにても思ふべし。
 
亦毛《マタモ》將相《アハメ・アハム》八方《ヤモ》。
舊訓、またもあはんやもとあれど、やもは、うらへ意のかへるやに、もの字そへたるにて、このやもといふ詞のうへは、んといふべき所も、必らずめといふべき格也。そは、本集一【十四丁】に、吾戀目八方《ワカコヒメヤモ》云々。また【廿一丁】に、寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》云々。四【五十四丁】に、不相在日八方《アハサラメヤモ》云々。七【卅四丁】に、造計米八方《ツクリケメヤモ》云々などありて、集中猶いと多し。皆同じ格なり。さて、一首の意は、御袖をかはし給ひし君も、越野に葬り奉りしかば、又もあひ給ふことはあらじとなり。
 
右或本曰。葬2河島皇子越智野1之時。獻2泊瀬皇女1歌也。日本紀曰。(221)朱鳥五年辛卯。秋九月己巳朔丁丑。淨太參皇子川島薨。
 
泊瀬皇女。
本集、書記等に依に、瀬の字の下、部の字を脱せる歟。
 
朱鳥五年辛卯。
辛卯の年は、持統天皇五年にで、先鳥元年よりは、六年にあたれり。この事は、上【攷證一下三丁】朱鳥四年とある所にいへり。
 
明日香皇女。木※[瓦+缶]殯宮之時。柿本朝臣人麿作歌一首。並短歌一首。
 
明日香皇女。
書記天智紀云、有2阿倍倉梯麿大臣女1、曰2橘娘1、生3飛鳥皇女與2新田部皇女1云々。續日本紀云、文武天皇四年、夏四月癸未、淨廣肆明日香皇女薨、遣v使弔2賻之1、天智天皇女也云々と見えたり。
 
木※[瓦+缶]殯宮。
考云、木※[瓦+缶]は式、和名抄など、廣瀬郡に出で、此次に、城上殯宮とあるも同じ云々といはれつるがごとく、きのべとよむべし。さて、※[瓦+缶]の字、物に見えず、案に、集韻に、缶或從v瓦作v※[缶+瓦]もあり。こゝの※[瓦+缶]の字は、※[缶+瓦]の扁傍を弄左右せる歟。偏傍を左右する事、字のうへに多し。これを隷行といへり。朗を、篆書に、※[月+良]とかき、※[隔の旁+瓦]を、靈異記中卷に、※[瓦+隔の旁]と書る類也。さて※[缶+瓦]は、缶と同字にて、缶は、土器の惣名にて、また土器の惣名をべともいへば、※[缶+瓦]を、べの假字に用ひしか。忌瓮《イハヒベ》、嚴瓮《イツベ》、また※[瓦+隔の旁]を、なべなどいへるにても、べは、土器にいふこ(222)となるをしるべし。また、新撰字鏡に、※[缶+瓦] 取戸《トリベ》 などあるをも思ふべし。この木※[瓦+缶]宮を、大和志には、高市郡に載て、在2羽内村1としるせるは、いかゞ。この端詞、考に、この長歌に、夫君のなげき慕ひつゝ、木のべの御墓へ往來したまふをいへるも、上の、泊瀬部皇女の、乎知野へ詣たまふと同じ旅也。然れば、この端に、そのかよはせける皇子の御名をあぐべきに、今は、こゝには落て、上の歌の端に入し也。他の端詞の例をも思ふに、疑なければ、かの所を除て、こゝに入たり云々とて、人麿の下に、獻2忍坂部皇子1の六字を加へられたり。これいかにもさる事ながら、みだりに改るを憚りて、しばらく本のまゝにておきつ。
 
二首。
 
この二字、印本なし。集中の例に依て加ふ。
 
196 飛鳥《トフトリノ》。明日香乃河之《アスカノカハノ》。上《カミツ・ノホリ》瀬《セニ》。石橋渡《イハハシワタシ》。【一云。石浪《イハナミ》。】下《シモツ・クタリ》瀬《セニ》。打橋渡《ウチハシワタシ》。石橋《イハハシ》。【一云。 石浪《イハナミ》。】 生靡留《オヒナヒケル》。玉藻毛叙《タマモモソ》。絶者生流《タユレハオフル》。打橋《ウチハシニ》。生乎爲禮流《オヒヲヽレル》。川藻毛叙《カハモモソ》。干者波由流《カルレハハユル》。何然毛《ナニシカモ》。吾王乃《ワカオホキミノ》。立者《タヽセレハ・タチタレバ》。玉藻之如《タマモノコトク》。許呂臥者《コロフセハ》。川藻之如久《カハモノコトク》。靡相之《ナヒキアヒシ》。宣君之《ヨロシキキミカ》。朝宮乎《アサミヤヲ》。忘《ワスレ》賜《タマヘ・タマフ》哉《ヤ》。夕宮乎《ユフミヤヲ》。背賜哉《ソムキタマフヤ》。宇都曾臣跡《ウツソミト》。念之時《オモヒシトキニ》。(223)春部者《ハルヘハ》。花折挿頭《ハナヲリカサシ》。秋立者《アキタテハ》。黄葉挿頭《モミチハカサシ》。敷妙之《シキタヘノ》。袖携《ソテタツサハリ》。鏡成《カヽミナス》。雖見不※[厭の雁だれなし]《ミレトモアカス》。三五月之《モチツキノ》。益《イヤ・マシ》目頬染《メツラシミ》。所念之《オモホエシ》。君與時々《キミトトキ/”\》 幸《イデマシ・ミユキシ》而《テ》。遊賜之《アソヒタマヒシ》。御食向《ミケムカフ》。木《キ》※[瓦+缶]《ヘ・カメ》之宮乎《ノミヤヲ》。常宮跡《トコミヤト》。定賜《サタメタマヒテ》 。味澤相《アチサハフ》。目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》。然《シカ》有《アレ・アル》鴨《カモ》。【一云。所己乎之毛《ソコヲシモ》。】 綾爾憐《アヤニカナシヒ》。宿兄鳥之《ヌエトリノ》。片《カタ》戀《コヒ・コフ》嬬《ツマ》。【一云。爲乍《シツヽ》。】朝鳥《アサトリノ》。【一云。朝霧《アサツユノ》。】往《カヨ》來爲《ハス・ヒシ》君之《キミカ》。夏草乃《ナツクサノ》。念之萎而《オモヒシナエテ》。夕星之《ユフツヽノ》。彼往此去《カユキカクユキ》。大船《オホフネノ》。猶預不定見者《タユタフミレハ》。遣悶流《オモヒヤル》。情毛不在《コヽロモアラス》。其《ソコ・ソノ》故《ユヱニ》。爲便知之也《スベシラマシヤ》。音耳母《オトノミモ》。名耳毛不絶《ナノミモタエズ》。天地之《アメツチノ》。彌遠長久《イヤトホナカク》。思《シヌヒ・オモヒ》將往《ユカム》。御名爾《ミナニ》懸《カヽ・カケ》世流《セル》。明日香河《アスカカハ》。及萬代《ヨロツヨマテニ》。早布屋師《ハシキヤシ》。吾王乃《ワカオホキミノ》。形見何此《カタミカコヽ》焉《ヲ・モ》。
 
石橋渡《イハハシワタシ》。
 
本集七【廿七丁】に、橋立倉椅川石走者裳《ハシタテノクラハシカハノイハハシハモ》、壯子時我度爲石走者裳《ヲサカリニワカワタリシイハノハシハモ》云々。また【十丁】に、明日香河湍瀬由渡之石走無《アスカヽハセヽユワタリシイハハシモナシ》云々。十【五十六丁】に、石走間々生有貌花乃《イハハシノマヽニオヒタルカホハナノ》云々などもありて、水中に石をならべて、人をわたすを、いははしとはいふ也。枕詞に、いはゝしの何々とつゞくるも、これ也。そは、冠辭考にくはし。さて、爾雅釋宮に石杜謂2之※[行人偏+奇]1、注に、聚2石水中1、以爲v歩(224)渡※[行人偏+勺]也、孟子曰、歳十一月、徒杠成、或曰、今之石橋云々とあるもこれ也。一云|石浪《イハナミ》とあるも、浪は借字にて、石並にて石をならべて橋とする也。
 
内橋渡《ウチハシワタシ》。
書紀神代紀下に、於2天安河1、亦造2打橋1云々。天智紀童謡に、于知波志能都梅能阿素弭爾《ウチハシノツメノアソヒニ》云々。本集四【十九丁】に、打橋渡須《ウチハシワタス》、奈我來跡念者《ナカクトオモヘハ》云々。七【十七丁】勢能山爾直向妹之山《セノヤマニタヽニムカヘルイモノヤマ》、事聽屋毛《コトユルセヤモ》、打橋渡《ウチハシワタス》云々。十【卅丁】に、、機※[足+搨の旁]木持往而《ハタモノヽフミキモチイキテ》、天河打橋度《アマノカハウチハシワタス》、公之來爲《キミカコムタメ》云々。十七【九丁】に可美郡瀬爾宇知橋和多之《カミツセニウチハシワタシ》云々。源氏物語夕顔に、うちはしたつものを、みちにてなん、かよひはべる。いそぎくるものは、きぬのすそを、ものにひきかけて、よろぼひたふれて、はしよりもおちぬべければ云々。枕草子に、道のほども、とのゝ御さるがふ事に、いみじくわらひて、ほと/\うちはしよりもおちぬべし云々などあり。宣長云、うちはしを、打渡す橋と心得るは、いかゞ。打渡さぬ橋やあるべき。故に思ふに、打は借字にて、うつしの約りたる也。こゝへもかしこへもうつしもてゆきて、時に臨て、かりそめにわたす橋なり云々といはれつるがごとし。
 
生《オヒ》靡留《ナヒケル・ナビカセル》。
石をならべて、わたせる、その間などに、生るをいへり。おひなびけるとよむべし。
 
玉藻毛叙《タマモモゾ》。
毛叙《モゾ》は、毛とぞ重なりたるにて、本集此卷【四十丁】に、好雲叙無《ヨケクモゾナキ》云々。十一【十八丁】に、立念居毛曾念《タチテオモヒヰテモゾオモフ》云々。十三【廿三丁】に、汝乎曾母吾依云吾※[口+立刀]毛曾汝丹依云《ナレヲゾモワレニヨルトフワレヲモソナレニヨルトフ》云々などある皆同じ格なり。中ごろよりのちは、この格なし。
 
(225)生乎烏禮流《オヒヲヲレル》。
印本、烏を爲に誤りて、おふるをすれるとよめり。考の説によるに、爲は烏の誤りなる事、明らかなれば、改めつ。猶、考と宣長の説をあげて、見ん人の心にしたがはしむ。考別記云、今本に、烏を爲と書しは誤り也。卷十五今六に、春部者花咲乎遠里《ハルヘハハナサキヲヽリ》、また春去者乎呼理爾乎呼里《ハルサレハヲヽリニヲヽリ》、【花の咲たをみたるを略きいふ。】卷七今十に、芽子之花開之乎烏入緒《ハキガハナサキノヲヽリヲ》【今本烏を再に誤。】卷十七に久爾能美夜古波《クニノミヤコハ》、春佐禮播花咲乎々理《ハルサレハハナサキヲヽリ》などは、正しき也。卷十四今三に、花咲乎爲里《ハナサキヲヽリ》、卷十二今八に、開乃乎爲里《サキノヲヽリ》【今本里を黒に誤りて、をすくろと訓しは笑ふべし。】卷十今九に、開乎爲流《サキヲヽル》などの爲の字は誤り也。その故は、乎乎里《ヲヽリ》てふ言の本は、藻も草も、木の枝も、みな手弱く、靡くてふを、略きて、たわみなびくといふ。そのたわみの、たわを重ね、みを略きて、たわ/\ともいふを、音の通ふまゝに、とを/\ともいひ、そのとを/\を又略きて、とをゝといふを、又略きて、乎々里《ヲヽリ》といふ。【里はみに通ひて、とをみてふ辭也。即右にいへるたわみのみに同じ。】この言の理りは、猶もあり。乎爲里といふべき據はすべて見えぬにても、爲は誤りなるをしれ云々。宣長云、この言を、考に、たわみなびく意として、とを/\を略きて、をゝりといふとあるは、いとむづかし。今案に、此言は、卷五【卅丁】に、みるのごとわゝけさがれる、八卷【五十丁】に、秋はぎのうれ和々良葉になどよめる、此わゝけ、わゝら葉は、俗語に髪がわゝ/\としてある故、髪がをわるともいふを、わるは、わゝるの通音にて、わゝけ、わゝらは、彼是と同意也。又木の枝のしげりて、こぐらきを、うちをわるといふも、わゝると通音也。然れば、をゝり、わゝりにて、わゝ/\としくて生たるをいふ也。花咲をゝりも、わゝ/\としげく花の咲事をいふ也云々
 
干者波由流《カルレハハユル》。
枯るれば生《ハユ》る也。本集六【十九丁】に、家之小篠生《イヘシシヌハユ》云々。こは借字ながら、はゆは生る也。和名抄木具に、蘖を比古波衣と訓るも、生るをいへり。又、曾丹集に(226)あらを田のこぞのふる根のふる蓬、今は春べとひこばえにけり。散木集に、をがみ川むつきにはゆるゑぐのうれをつみしたえてもそこのみためそ云々なども見えたり。さてこゝにかくいへるは藻などは絶れは生ひ、枯れる《(マヽ)》生えなどすれは、うせ給ひし君は、二たぴあふまじきをいへるなり。
 
何然毛《ナニシカモ》。
この、下の忘賜哉《ワスレタマフヤ》といふへかけて、上の藻などの生かはるを、うたがひて、さるを、何しかもわすれ給ふぞといへるなり。志は助辭也。
 
立者《タヽセレハ・タチタレハ》。
舊訓、たちたればとあるは、いふにもたらぬ誤りにて、考に、たゝすれば、よまれしも、いかゞ。たゝする、たゝすれといふ言なし。古事記上卷に、和何多々勢禮婆《ワカタヽセレハ》とあれば、こゝもたゝせればとよむべし。皇子、皇女の、立たまふをいへり。
 
許呂臥者《コロブセハ》。
此卷四十二丁に、荒床自伏君之《アラトコニコロフスキミガ》云々と、自伏をころふすとよめるより、ころふすとは、みづから伏ことばとのみ心得るは、いかゞ。許呂《コロ》は、伏さまをいへるにて今俗言に、ころりとふすといひ、物の、高き所より落るを、ころりと落るといへり。自ら倒るゝを、ころぶといふも、ぶはびと通ひて、ころぶりにて、都び、鄙びなどの、びと同じ。こゝの、ころ伏も、ころとふす意にて、本集十三【十八丁】に、根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロコロニ》云々とある、一伏三向を、ころと訓も、人の伏さまをいふより、義訓して、ころとはよめる也。いと後のものなれど、十訓抄卷 に、一伏三仰を月夜とよめる事を、わらはべのうつむきざいといふ物に、一つふして三つあふむけるを、月夜といふ也云々とあり。これ、うつむくは、ころぶ意なれば、十三卷なる一伏三向(227)もころぶ意にて、ころとよめるをしるべし。されば、こゝの許呂臥《コロフス》も、ころびふす意にて、びを略けるなるべし。
 
靡相之《ナヒキアヒシ》。
皇子皇女、御夫婦のなからひ、御むつまじく立たまふにも、ふし給ふにも、藻などの、水になびくがごとく、はなれたまはずなびき居給ひしと也。
 
宜君之《ヨロシキキミカ》。
書紀雄略紀、御歌に、擧暮利矩能《コモリクノ》、播都制能野磨播《ハツセノヤマハ》、伊底〓智能《イテタチノ》、與盧斯企夜磨《ヨロシキヤマ》云々。繼體紀、勾大兄皇子御歌に、奧盧志謎鳴《ヨロシメヲ》、阿〓等枳々底《アリトキヽテ》云々。本集三【廿一丁】に、宜奈倍吾背乃君之《ヨロシナヘワカセノキミカ》云々ともありて、よろしは物の足りそなはれるをいへる言なり。この事は、上【攷證一下卅七丁】にもいへり。
 
朝宮乎《アサミヤヲ》。
本集十三【四丁】に、朝宮仕奉而《アサミヤツカヘマツリテ》云々とあるは、あしたに宮仕へする也。こゝの朝宮は、夕宮にむかへたれば、朝夕常にまします宮といふを、朝宮夕宮といへる也。
 
忘《ワスレ》賜《タマヘ・タマフ》哉《ヤ》。
舊訓、わすれたまふやとあれど、わすれたまへやとよむべし。たまへやの、やは、ばやの意にて、ばを略ける也。そは、本集四十三丁に、眞野之浦乃與騰乃繼橋《マヌノウラノヨドノツキハシ》、情由毛思哉《コヽロユモオモヘヤ》、妹之伊目爾之所見《イモカイメニシミユル》云々とある、おもへやと同格也。されど、こゝのたまへやの、やは、結び詞なきがごとく聞ゆれど、こは、下の、目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》といふへかゝりて、奴《ヌ》と結びし也。常には、ぬるといふべきを、ぬとのみいへるは、變格也。さてこゝの意は、朝夕常におはしましゝ大宮をわすれ給へばや、又そむき給へや、この大宮をばすてゝ、薨給ひて、木※[瓦+缶]の宮を、常におはす宮とは、さだめつらんとなり。
 
(228)背賜哉《ソムキタマヘヤ》。
そむくは、背向《ソムク》の意に、物をうけひかざるをいへる也。拾遺集、秋に、よみ人しらず、秋風をそむくものから花すゝきゆくかたをなどまねくなるらんとあるも同意なり。
 
宇都曾臣跡《ウツソミト》。
そと、しと音通ひて、現身《ウツシミ》也。この事は、上【攷證二中卅九丁】にいへり。こゝの意は、皇女の、現《ウツヽ》におはしまししをりは、現身《ウツシミ》ぞと思ひ奉りし、その時には、春になれば、花を折かざし、秋になれば、紅葉をかざし給ひしと、こし方を思ひ出し也。
 
春部者《ハルヘハ》。花折挿頭《ハナヲリカザシ》。
春の方になれば、花を折てかざし、秋立ば、黄葉を折てかざしなどしたまひし、皇女の、御遊の、みやびたるをあげていへる也。さてこれらの事は、上【攷證一下十丁】に、春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理《ハルヘハハナカサシモチアキタテハモミチカサセリ》云々とある所にいへり。
 
袖※[携の異体字]《ソテタツサハリ》。
本集此卷【卅九丁】に、宇都曾臣等念之時《ウツソミトオモヒシトキニ》、※[携の異体字]手吾二見之《タツサハリワカフタリミシ》云々。四【五十丁】に、吾妹兒與携行而《ワキモコトタツサヒユキテ》云々。九【十八丁】に、細有殿爾《タヘナルトノニ》、携二人入居而《タツサハリフタリイリヰテ》云々。十【廿三丁】に、妹與吾携宿者《イモトワレトタツサハリネバ》云々。十七【卅七丁】に、於毛布度知宇麻宇知牟禮底《オモフトチウマウチムレテ》、多豆佐波理伊泥多知美禮婆《タツサハリイテタチミレハ》云々。二十苦に、之路多倍之蘇※[泥/土]奈岐奴良之《シロタヘノソテナキヌラシ》、多豆佐波里和可禮加弖爾等《タツサハリワカレカテニト》云々などありて、たづさはりは、立よりさはるといふが如し。※[携の異体字]は、玉篇に、弦※[奚+隹]切、提※[携の異体字]也、又連也、携俗〓字云々。廣雅釋詁四に、※[携の異体字]提也云々と見えたり。
 
(229)鏡成《カヽミナス》。
枕詞なり。予が冠辭考補遺にいふべし。鏡の如く見るとつゞけしなり。
 
雖見不※[厭の雁だれなし]《ミレドモアカズ》。
※[厭の雁だれなし]は玉篇に、足也飽也云々と見えたり。
 
三五月之《モチツキノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。望月は、影みちてめづらしくをかしきものなれば、望月のごとくめづらしとつゞけし也。さて、三五を、もちとよめるは、九々の數三五十五なれば、十五日の月の義にて、義訓せる也。こは、集中、八十一を、くゝとよみ、重二並二などを、しとよみ、十六を、しゝとよみ、二五を、とをとよめる類なり。樂天八月十五夜詩に三五夜中新月色云々。劉孝綽詩に、明々三五月、垂影當2高樹1云々など見えたり、和名抄天部に、釋名六、望月【和名毛知豆岐】月大十六日小十五日、日在v東月在v西、遙相望也云々とあり。
 
益《イヤ・マシ》目頬染《メツラシミ》。
益は、いやと訓べし。上【攷證二中五丁】にいへり。目頼染《メツラシミ》は、借字也。頬は、新撰宇鏡に頬【居牒反豆良】云々。和名抄頭面類に、野王按云頬【音狹和名豆良一云保々】面旁目下也云々などあり。染は、しみ、しめ、しむとはたらきて、本集三【廿四丁】に、相見染跡衣《アヒミシメトソ》云々。四【卅八丁】に、和備染責跡《ワビシミセムト》云々など訓り。これを、そめ、そむなどいふも、しとそかよへば也、さてめづらしは、書紀神功紀、訓注に、希見此云2梅豆邏志《メツラシ》1云々とある意にて、望月は、月に一度ならではなく、希に見る物にて、いとゞめづらしく思ふを、この皇女の御さまを、いつもめづらしく、あかず見奉り給ひしにたとへし也。また繼體紀に、女の名に目頬《メツラ》子といふありて、歌にも梅豆羅古と詠るも、女を愛しめづらしき意にて、名にも呼し也。また本集八【四十三丁】に、希相見《メツラシキ》云々、また【四十七丁】に、目頬布《メツラシキ》云々な(230)とありて、集中いと多く、靈異記上卷に、奇【女ツラシク又阿ヤシ支】云々なども見えたり。
 
君與時々《キミトトキ/\》。幸而《イテマシテ・ミユキシテ》。
考に、こゝに、君とさす人有からは、かの忍坂部皇子の事をしれ云々といはれるつるがごとく、君とは、皇子と皇女とを申す也。時々は、考には、をり/\と訓れしかど、中ごろより此方は、をりといふべきを、集中時とのみ書たれば、こゝにも、舊訓のまゝ、とき/”\とよむべし。
 
御食向《ミケムカフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは、御饌に供る物の名にいひかけたるにで、集中、いろ/\につゞけたり。こゝは、御食《ミケ》の料に備《ソナ》へ設る酒《キ》とつゞけし也。酒を、古語にきといふ事は、下【攷證六】にいふべし。
 
常宮跡《トコミヤト》。定賜《サダメタマヒテ》。
 
本集此卷【卅五丁】に、朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノヘノミヤヲ》、常宮高之奉而《トコミヤトタカクシマツリテ》云々。六【十二丁】に、安見知之《ヤスミシヽ》和期大王之《ワコオホキミノ》、常宮等仕奉流《トコミヤトツカヘマツレル》、左日鹿野由《サヒカヌユ》云々などあり。常《》は、ゆく末久しくとことは、かはる事なき宮と、賀し申せる也。この皇女、今までは、御夫の皇子と、とき/”\おはしまして、遊給ひし木※[瓦+缶]に、御墓を作りたれば、これぞ、久しくかはる事なき、大宮所なると也。さて、この常宮を、宣長は、古事記上巻に、次登由宇氣神、此者坐2外宮《トツミヤ》之度相1神者也云々。本集十三【四丁】に、三諸之山礪津宮地《ミモロノヤマノトツミヤトコロ》云々。二十【十二丁】に、東常宮などあるを引て、常の大宮の外に、別に建おかれて、をり/\御はしますべき離宮をいへるよし、いはれしかど誤り也。外宮、礪津宮などは、疑もなき離宮の事なれば、このほかは、離宮にあらず。まへに引る、六の卷【十二丁】の歌(231)は、神龜元年、紀伊國に行幸の時、赤人のよめる歌にて、左日鹿《サヒカ》野の行宮《カリミヤ》を、常宮《トコミヤ》といへるなれば、外宮《トツミヤ》の意ともきこゆれど、すべて、外宮といふは、その本宮《モトツミヤ》の近きほとりに在て、をり/\おはしますべき料なれば、今の別業といふものゝ類也。されば、都より遠き、紀伊國の行宮を、外宮といふべきよしなし。こは行宮なれど、ゆく末久しくあれかしと、祝し申せる事、しばしなりとも、天皇のおはしませる大宮なれば也。又二十の卷【十二丁】に、東常宮とあるを、續日本紀には御2東院1とあり。これ外宮ならば、幸とあるべきを、ほかの宮殿のなみに、御とあれば、内裏の中とこそ聞ゆれ。されば、この東常宮は、内裏の宮殿の名なるべし。これらにても、こゝの常宮は、外宮ならぬをしるべし。
 
味澤相《アチサハフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。味《アチ》は、あぢ鴨の事にて、この鳥、群《ムレ》ゆくものなれば、そのむれの反、めなれば、めの一言へかけて、味多經《アチサハフ》、群《ムレ》にて、經は、そらを飛經《トヒヘ》ゆく也。枕詞、あぢむらといへるにても、この鳥群るものなるをしるべし。
 
目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》。
本集四【四十四丁】に、海山毛隔莫國《ウミヤマモヘダヽラナクニ》、奈何鴨目言乎谷裳《ナニシカモメコトヲタニモ》、幾許乏寸《コヽタトモシキ》云々。十一【廿七丁】に、東細布從空延越《ヨコクモノソラユヒキコス》、遠見社目言踈良米《トホミコソメコトカルラメ》、絶跡間也《タユトヘタツヤ》などありて、目に見、口に言事を、めごととはいひて、ここは、皇女薨給ひしかば、目に見奉る事も、もの言奉る事もたえぬと也。さて、ここは、上の、朝宮をわすれ給へや、夕宮をそむき給へやといふ、やの結び詞なれば、ぬるといふべきを、ぬとのみいふは、變格也。ぬの下へ、るをそへてきくべし。
 
(232)然《シカ》有《アレ・アル》鴨《カモ》。【一云。所己乎之毛《ソコヲシモ》。】
しかあればかもの、ばを略ける也。十七【四十七丁】に、之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》とあると、同格也。さてここは、しかあれかもとありては、下へのつづきもあもく、意も聞えがたし。一云|所己乎之毛《ソコヲシモ》とあるかたをとるべし。
 
綾爾《アヤニ》憐《カナシヒ・カシコミ》。
綾は、借字にて、あや歎く聲也。この事は、上【攷證二中卅二丁】にいへり。
 
宿兄鳥之《ヌエトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。この鳥、妻ごひつつなくものなるぺければ、片攣とはつづけしなるべし。上【攷證一上十丁】にも出たり。
 
片《カタ》戀《コフ・コヒ》嬬《ツマ》。【一云。爲乍《シツヽ》。】片戀とは、皇女薨たまひしかば、皇子のみ片戀し給ふ也。舊訓、かたこひとあれど、ここは用語に、かたこふつまとよむべし。さてこゝは、片こふつまとありては、次へのつづきよろしからねば、一云|爲乍《シツヽ》とあるをとりて、片戀|爲乍《シツヽ》と心得べし。
 
朝鳥《アサトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。朝には、鳥のねぐらをいでゝ、遠く往かよふものなれば、あしたの鳥のごとく、かよひし君とつづけしなり。一云朝露とあるはいかが。
 
往來《カヨ》爲《ハス・ヒシ》君之《キミカ》。
この君は、皇子をさし奉りて、皇女のおはしまししほどは、皇子のかよひ給ひしかば也。
 
夏草乃《ナツクサノ》。念之萎而《オモヒシナエテ》。
上【攷證二中五丁】に、夏草之念之奈要而《ナツクサノオモヒシナエテ》とある所に、いへるがごとく、夏草の日にしをるるがごとく、思ひにしをれて、萎《ナエ》くづをれたるをいへり。
 
(223)夕星之《ユフツヽノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。長庚星《ユフツヽ》の、或は西、或は東と、ここかしこに、往來して、見ゆるを、皇女をしたひ給ひて、皇子、かしここゝに、ゆきさまよひ給ふにたとへて、夕星のごとく、かゆきかくゆきとはつづけし也。和名抄天部に、兼名苑云、大白星、一云長庚、暮見2於西方1、爲2長庚1【此間云2由不豆々1】と見えたり。
 
彼往此去《カユキカクユキ》。
本集十七【卅六丁】に、可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》とも見えたり。彼にゆき、此にゆきにて、彼依此依《カヨリカクヨリ》などいふ類也。
 
大船《オホフネノ》。猶預不定見者《タユタフミレハ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上卅九丁】に、大船之泊流登麻里能絶多日二《オホフネノハツルトマリノタユタヒニ》云々とある所にいへるがことく、船は、海上にうきて、ただよひたゆたふものなれば、大船のごとく、たゆたふとはつづけし也。ここは、皇女にわかれ給ひて、皇子の、かしこにゆきさまよひ、中ぞらにたゆたひ給ふをいへる也。尚預不定をよめるは義訓也。本集十一【卅一丁】に、妹者不相《イモニハアハス》、猶預四手《タユタヒニシテ》云々など見えたり。さて、猶預の字は、史記高帝紀云、諸呂老人、猶豫未v有v所v決、注云、猶豫二獣名、皆多v疑、故借以爲v喩とあり。玉篇云、豫或作v預とありて、豫預同字也。
 
遣悶流《オモヒヤル》。
上【攷證一上十一丁】にいへるごとく、心をやるといふに同じく、ここは、皇子の悲しみたまふさまを見るにつけても、われさへ、思ひを遣り失ふべき心なく、いとかなしと也。さて、遣悶の字は、會昌一品外集方士論云、宮中無事、以v此遣v悶耳云々。李群玉詩に、短篇纔遣v悶、小釀不v供v愁云々など見えたり。また説文に、悶煩也从v心云々。韻會に、煩懣心欝也云々(234)と見えたり。
 
其故《ソコユエニ・ソノユエヲ》。爲便《スベ》知之《シラマシ・モシラシ》也《ヤ》。
ましは、んかしの約り、やはうらへ意のかへるやにて、すべしらんかしや、すべをしらばと也。ここの意は、われさへ、思ひをやり失ふべき心さへあらずそれ故に、いかがすべきと、とふすべもしらずと也。宣長云、この一句は誤字あるべし。せんすべしらにとは、せんすべをなみとか、あるべき所也云々といはれつる、いかにもさることながら、しばらく、考の訓によりて解せり。
 
音耳母《オトノミモ》。名耳毛不絶《ナノミモタエス》。
本集十七【四十丁】に、於登能來毛名能未母伎吉庭《オトノミモナノミモキヽテ》云々ともあり。音は、皇女の御事をいふをきき、名は、皇女の御名をいふをいへるにてここは、今にかくせんすべもなければ、せめての事に、皇女の御事と、御名だにも年久しく思ひ奉らんと也。
 
天地之《アメツチノ》。彌遠長久《イヤトホナガク》。
天地のごとく、いや遠く、長く年久しく、わすれ奉る事なく、皇女の御事を思ひ奉りゆかんと也。本集三【四十六丁】に、延葛之彌遠永《ハフクスノイヤトホナカク》、萬世爾《ヨロツヨニ》云々。また【五十九丁】に、天地與彌違長爾《アメツチトイヤトホナカニ》、萬代爾《ヨロツヨニ》云々。續日本紀、天平十五年五月詔に、天地與共仕奉【禮等】云々など見えたり。
 
思《シヌビ・オモヒ》將往《ユカム》。
上【攷證一上十二丁】にいへるが如く、しぬぶといふ言に、四つありて、ここは、戀しぬぶ意にて、天地の如く、遠く長く、戀しぬびゆかんと也。さて、思をしぬぶと訓るは、義(235)訓也。本集三【五十六丁】に、見乍思跡《ミツヽシヌヘト》云々と見えたり。
 
御名爾《ミナニ》懸《カヽ・カケ》世流《セル》。
舊訓、みなにかけせるとあれど、かかせるとよむべし。本集十七【卅九丁】に、安麻射可流比奈爾奈可加須《アマサカルヒナニナカヽス》、古思能奈可《コシノナカ》云々とあれば也。名にかかせるとは、名に負ふといふと同じく、皇女の御名も、明日香《アスカノ》皇女と申、川の名も明日香《アスカ》川といへば、皇女の御名に、かからせる、あすか川とはいへり。十六【六丁】櫻兒をよめる歌に、妹之名爾繋有櫻《イモカナニカケタルサクラ》、花開者《ハナサカハ》云々とも見えたり。
 
及萬代《ヨロツヨマテニ》。
こは、下の、形見何此焉《カタミカコヽヲ》といふへかかりて、この皇女の御名にかかれる、川の名なれば、この川を、萬代までも、吾王の御かたみとは見んと也。
 
早布屋師《ハシキヤシ》。
こは、古事記中卷、御歌に、波斯祁夜斯和岐弊能迦多用《ハシケヤシワキヘノカタヨ》云々。これを、書紀には、波辭枳豫辭《ハシキヨシ》とし給へり。本集四【卅八丁】に、波之家也思不遠里乎《ハシケヤシマチカキサトヲ》云々。六【廿八丁】に、愛也思不遠里乃《ハシキヤシマチカキサトノ》云々。十二【卅三丁】に、波之寸八師志賀在戀爾《ハシキヤシシカアルコヒニ》云々などありて、集中猶多し。はしきは人を愛しうつくしむ意に、憂の字をよめ《(マヽ)》かごとし。やしの、しは、助字、やはよに通ひて、かろく添たる字也。これを、はしけやしといふは、けときと音通へば也。また二十【五十九丁】に、波之伎余之《ハシキヨシ》ともあるは、やとよと音通へば也。また十一【卅丁】に、級子八師《ハシコヤシ》ともあるは、きとこと音通へば也。さて、この事は、考別記、古事記傳卷二十八などにも、くはしく見えたり。
 
(236)形見何此焉《カタミカコヽヲ》。
形見は、形ち見の略なる事、上【攷證一下廿三丁】にいへるがごとし。宣長云、此焉《コヽヲ》といふを、考には、ここをばの意とあれど、をばにては、止の詞にかなはず。集中に、さる例なし。このをは輕くして、よといはんがごとし云々といはれつるは、いかが。此をの字は 上へうちかへしてきく意にて、ここを、わが大王の、かたみかと、詞をかへして心得べし、
 
反歌二首。
 
この反歌を、印本短歌とあれど、例によりて改む。この事は、上【攷證一下廿二丁】にくはしくいへり。
 
197 明日香川《アスカカハ》。四我良美渡之《シガラミワタシ》。塞益者《セカマセハ》。進留水母《ナカルヽミツモ》。能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》。【一云。水乃與杼爾加有益《ミヅノヨトニカアラマシ》。】
 
四我良美渡之《シガラミワタシ》。
四我良美《シカラミ》は、木にまれ、竹にまれ、からみわたして、水をせく料とするをしがらみといへり。しは添ていふ語にて、からみ也。しなゆ、しをるなどの、し文字も、これ也。さて、しがらみは、本集六【四十二丁】に、芽子之枝乎石辛見散之《ヘキカエヲシカラミチラシ》、狹男鹿者妻呼令動《サヲシカハツマヨヒトヨメ》云々。七【三十八丁】に、明日香川《アスカヽハ》、湍瀬爾玉藻者雖生有《セヽニタマモハオヒタレト》、四賀良美有者《シカラミアレハ》、靡不相《ナヒキアハナクニ》云々などありて、集中猶あり。
 
(237)塞益者《セカマセハ》。
集中、塞の字を、皆せくとよめり。この字を、今ふさぐとよめるも、ふせぐにて、せくといふに同じ。ませばは、ましせばの約りにて、本集三【五十六丁】に、出行道知末世波《イデヽユクミチシラマセバ》、豫妹乎將留塞毛置末思乎《カネテヨリイモヲトヽメムセキモオカマシヲ》。多くは、下を、ましと結べり。これに違へるは、集中ただ一首のみ。
 
進留水母《ナカルヽミヅモ。
進を、ながるとよめば義訓也。水のすすみゆくなれば、おのづからに流るる意也。
 
能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》。
能杼《ノド》は、中ごろより、のどかといふに同じ、本集十三【三十三丁】に、吹風母和者不吹《フクカセモノドニハフカス》云々。また【三十三丁】立浪裳箟跡丹者不起《タツナミモノドニハタヽス》云々。續日本紀、天平勝寶元年四月詔に、海行美豆久屍《ウミユカバミツクカハネ》、山行草牟須屍《ヤマユカバクサムスカハネ》、王幣【爾去曾】死《オホキミノヘニコソシナメ》、能杼【爾波】不死《ノトニハシナシトト》云々など見えたり。一首の意は、皇女の、御名に懸《カケ》たまへる、明日香川も、しがらみなどして、せかば、流るる水ものどかにゆく物を、皇女の御わかれをば、とどめ奉るによしなしと也。古今集哀傷に、壬生忠峯、瀬をせけば淵となりてもよどみけり、わかれをとむるしがらみぞなき云々とよめるも似たり。
 
一云。水乃與杼爾加有益《ミツノヨトニカアラマシ》。
 
本集三【廿九丁】に、明日香河川余騰不去《アスカカハカハヨトサラス》云々。四【五十七丁】に、苗代水乃中與杼爾四手《ナハシロミツノナカヨドニシテ》云々などありて、集中猶多し。これら、みなよどむ意にて、淀をよどといふも、水のよどめるよりいへる名也。このかたにても、一首の意は同じ。
 
(238)198 明日香川《アスカカハ》。明日谷《アスダニ》。【一云。左倍《サヘ》。】 將見等《ミムト》。念八方《オモヘヤモ》。【[一云。念香毛《オモヘカモ》。】吾王《ワカオホキミノ》。御名忘世奴《ミナワスレセヌ》。【一云。御名不所忘《ミナワスラエヌ》。】
  
念八方《オモヘヤモ》。
方は、助字、おもへばやの、ばを略けるにて、や疑ひのや也。ばを略ける事は、まへにいへり。やは、疑ひなるによりて、下を世奴《セヌ》とむすべり。一云、念香毛《オモヘカモ》とあるも同じ。
 
御名忘世奴《ミナワスレセヌ》。
御名をわすれざる也。一首の意は、皇女は、今薨たまひて、又と見奉る事はなるまじきを、それをばあすだにも見參らんと思へるにや、とにかくに、皇女の御名を、わすれかねつと也。一の句に、明日香川とおけるは、詞をかさねて、明日谷《アスダニ》といはん料にて、皇女の御名をも兼たり。
 
一云。御名不所忘《ミナワスラエヌ》。
考に、みなわすられずとよまれしは、いかが。上の、疑の、やをうけたれば、みなわすらえぬとよむべし。集中、すべてかく、れといふべき所を、えといへる事多し。この事は、上【攷證一下六十丁】にいへり。
 
高市皇子尊。城上殯宮之時。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌二首。
 
(239)城上殯宮。
前に、木※[瓦+缶]《キノベノ》殯宮とあるを、同所也と考にいはれつるがごとくなるべし。延喜諸陵式に、三立岡墓、高市皇子、在2大和國廣瀬郡1云々とありて、和名抄郷名に、大和國廣瀬郡|城戸《キノヘ》云々ともあれば、この陵は、廣瀬郡なる事、明らかなるを、大和志には、この陵をば、廣瀬郡とし、木※[瓦+缶]をば、高市郡として、別所とせり。猶可v考。
 
二首。
この二字、印本なし。今卷中の例によりて補ふ。○この歌は、高市皇子尊の薨給へる、悲み奉りて、よめるにて、この皇子の御事は、上【攷證二上卅二丁】にいへるがごとく、持統天皇三年四月、日竝知皇子の薨給ひし後、皇太子に立給ひT、同十年七月、薨給ひしを、惜み悲み奉るとて、この皇子、たゞの皇子におはしましゝ提、御父天武天皇と、大友皇子と、御軍のをり、この皇子、專ら軍事をとり給ひて、御功ありし事、其後太政大臣となり給ひて、政を申給ひし事まで、世に勝れましし事を、あげかぞへて、悲み奉れる也、左の歌を見んには、まづこれらの事をよく思ひたどりて見るべし。
 
199 挂文《カケマクモ》。忌之伎鴨《ユヽシキカモ》。【一云。由遊志計禮杼母《ユヽシケレドモ》。】言久母《イハマクモ》。綾爾畏伎《アヤニカシコキ》。明日香乃《アスカノ》。眞神之原爾《マカミノハラニ》。久堅能《ヒサカタノ》。天津御門乎《アマツミカドヲ》。懼母《カシコクモ》。定賜而《サダメタマヒテ》。神《カム・カミ》佐扶跡《サブト》。磐《イハ》隱《カクリ・カクレ》座《マス》。八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワカオホキミノ》。所聞《キコシ・キカシ》見爲《メス》。背友乃國之《ソトモノクニノ》。眞木《マキ》立《タツ・タテル》。不破山越而《フハヤマコエテ》。狛劔《コマツルギ》。和射(240)見我原乃《ワサミガハラノ》。行宮爾《カリミヤニ》。安母理座而《アモリマシテ》。天下《アメ|ノ《・カ》シタ》。治賜《ヲサメタマヒ》。【一云。拂賜而《ハラヒタマヒテ》。】食國乎《ヲスクニヲ》。定賜等《シツメタマフト》。鳥之鳴《トリカナク》。吾妻乃國之《アツマノクニノ》。御軍士乎《ミイクサヲ。喚賜《メシタマヒ》而《テ・ツヽ》。千磐破《チハヤフル》。人乎《ヒトヲ》和爲《ヤハセ・ナコシ》跡《ト》。不奉仕《マツロハヌ》。國乎治跡《クニヲヲサメト》。【一云。掃部跡《ハラヘト》。】皇子《ミコ》隨《ナガラ・ノマニ》。任賜者《マケタマヘハ》。大御身爾《オホミミニ》。大刀取《タチトリ》帶《ハカ・オナ》之《シ》。大御手爾《オホミテニ》。弓取持之《ユミトリモタシ》。御軍士乎《ミイクサヲ》。安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》。齊流《トヽノフル》。皷之音者《ツヽミノオトハ》。雷之《イカツチノ》。聲登聞麻低《コヱトキクマテ》。吹響流《フキナセル》。小角乃《クダノ・ヲツノ》音母《コヱモ》。【一云。笛之音波《フエノコヱハ》。】敵見有《アダミタル》。虎可叫吼登《トラカホユルト》。諸人之《モロヒトノ》。〓流麻低爾《オヒユルマデニ》。【一云。聞惑麻低《キヽマドフマデ》。】指擧有《ササゲタル・サシアガル》。幡之靡者《ハタノナビキハ》。冬木成《フユコモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。野《ヌ・ノベ》毎《ゴトニ》。著而有火之《ツキテアルヒノ》。【一云。冬木成《フユコモリ》。春野燒火乃《ハルヌヤクヒノ》。】風之共《カセノムタ》。靡如久《ナビクガゴトク》。取持流《トリモタル》。弓波受乃《ユハズノ》驟《サワギ・ウゴキ》。三雪落《ミユキフル》。冬乃林爾《フユノハヤシニ》。【一云。由布之林《フユノハヤシ》。】飄可母《ツムシカモ》。伊卷渡等《イマキワタルト》。念麻低《オモフマテ》。聞之恐久《キヽノカシコク》。【一云。諸人《モロヒトノ》。見惑麻低爾《ミマドフマテニ》。】(241)引放《ヒキハナツ》。箭繁計久《ヤノシゲケク》。大雪乃《オホユキノ》。亂而《ミダレテ》來禮《キタレ・クレ》。【一云。霰成《アラレナス》。曾知奈里久禮婆《ソチヨリクレハ》。】不奉仕《マツロハズ》。立向之毛《タチムカヒシモ》。露霜之《ツユシモノ》。消者消倍久《ケナバケヌベク》。去鳥乃《ユクトリノ》。相競端爾《アラソフハシニ》。【一云。朝霜之《アサシモノ》。消者消言爾《ケナバケトフニ》。打蝉等《ウツセミト》。安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》。】渡會乃《ワタラヒノ》。齋宮從《イツキノミヤユ》。神風爾《カムカセニ》。伊吹惑之《イフキマトハシ》。天雲乎《アマクモヲ》。日之目毛不令見《ヒノメモミセス》。常闇爾《トコヤミニ》。覆賜而《オホヒタマヒテ》。定之《シツメテシ》。水穗之國乎《ミツホノクニヲ》。神隨《カムナカラ・カミノマニ》。太敷座而《フトシキマシテ》。八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王之《ワカオホキミノ》。天下《アメノシタ》。申賜者《マヲシタマヘバ》。萬代《ヨロツヨニ》。然之毛將有登《シカシモアラムト》。【一云。如是毛《カクモ》。安良無等《アラムト》。】木綿花乃《ユフバナノ》。榮時爾《サカユルトキニ》。吾大王《ワカオホキミ》。皇子之御門乎《ミコノミカトヲ》。【一云。刺竹《サスタケノ》。皇子御門乎《ミコノミカトヲ》。】神宮爾《カムミヤニ》。装束《ヨソヒ・カザリ》奉而《マツリテ》。遣使《ツカハシヽ・タテマタス》。御門之人毛《ミカトノヒトモ》。白妙乃《シロタヘノ》。麻衣著《アサコロモキテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。門之原爾《ミカトノハラニ》。赤根刺《アカネサス》。日之《ヒノ》盡《コト/\・ツクルマテ》。鹿自物《シヽジモノ》。伊波比伏管《イハヒフシツヽ》。烏玉能《ヌバタマノ》。暮爾至者《ユフベニナレバ》。大殿乎《オホトノヲ》。振放見乍《フリサケミツヽ》。鶉成《ウツラナス》。伊波比廻《イハヒモトホリ》。雖侍候《サモラヘド》。(242)佐母良比不得者《サモラヒエネバ》。春鳥《ハルトリ・ウグヒス》之《ノ》。佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》。嘆毛《ナゲキモ》。未過爾《イマダスギヌニ》。憶毛《オモヒモ》。未不盡者《イマダツキネバ》。言左敝久《コトサヘグ》。百濟之原從《クダラノハラユ》。神《カム・タマ》葬《ハブリ》。々伊座而《ハブリイマシテ》。朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨヒ》。木《キ》上《ノベ・ウヘ》宮乎《ノミヤヲ》。常宮等《トコミヤト》。高《タカ》之《シリ・シ》奉而《タテヽ》。神隨《カムナガラ・カミノマニ》。安定座奴《シヅマリマシヌ》。雖然《シカレドモ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。萬代跡《ヨロツヨト》。所念食而《オモホシメシテ》。作良志之《ツクラシヽ》。香來山之宮《カグヤマノミヤ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。過牟登念哉《スキムトオモヘヤ》。天之如《アメノゴト》。振放見乍《フリサケミツヽ》。玉手次《タマダスキ》。懸而《カケテ》將偲《シヌバム・シノハム》。恐《カシコ》有《カレ・ケレ》騰文《トモ》。
 
挂文《カケマクモ》。
心にかけて、思奉んもゆゆしといへるにて、まくの反、むなれば、かけんといへる也。本集【五十七丁】に、掛卷母綾爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》、言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユユシキカモ》云々。六【五十六丁】に、繋卷裳湯々石恐石《カケマクモユユシカシコシ》云々などありて集中猶多し。
 
忌之伎鴨《ユヽシキカモ》。
ゆゆしは、忌々しにて、物を忌ていへる也。ここは、いやしき心にかけて、思ひ奉らんも、憚多しといへるにて、恐々忌憚る意也。古事記下卷、御歌に、由々斯伎加母《ユヽシキカモ》、加志波良袁登賣《カシハラヲトメ》云々。本集十【五十四丁】に、言出而云忌染《コトニイデヽイハヽユヽシミ》云々。十二【七丁】に、忌々久毛吾者歎鶴鴨《ユヽシクモワレハナゲキツルカモ》云々などありて、集中にも、中古にも、いと多し。鴨は、歎息の意こもりて、中ごろよりは、(243)かなといふべき所也。この類、集中にいと多し。
 
言久毛《イハマクモ》。
これも、まくの反、むにて、いはんも也。
 
綾爾畏伎《アヤニカシコキ》。
綾は、借字にて、歎聲なる事、【攷證二中卅二丁】にいへるごとく、畏伎《カシコキ》は、本はかしこみ恐るる意なれど、そを轉じて、ありがたか《(マヽ)》たじけなる意とせる事、これも【攷證二中廿九丁】にいへるがごとし。
 
眞神之原爾《マカミノハラニ》。
考云、是より下七句は、天武天皇の御陵の事を先いへり、さて、ここには、明日香の眞神原とよみたるを、紀には、大内てふ所と見え、式には、檜隈大内陵とあるは、もと明日香檜隈は、つづきてあり、大内は、その眞神原の小名と聞ゆ。然ればともに同じ邊にて、違ふにはあらず云々といはれつるがごとし。さてこの地名は、書紀崇峻紀に、元年、始作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1云々。本集八【五十四丁】に、大口能眞神之原爾《オホクチノマカミノハラニ》云々。また十三【十四丁】にもかくよめり。
 
天津御門乎《アマツミカドヲ》。懼母《カシコクモ》。定賜而《サダメタマヒテ》。
すべて、天皇、皇太子などの崩たまふを、神上りとも申、天しらしとも申て、天をしらすごとく申來れるによりて、ここも、天武帝の御陵を、眞神原に定め奉るを、天つ宮殿《ミアラカ》を、かたじけなくも定めたまふとは申せるなり。
 
(244)神佐扶跡《カムサブト》。
こは、神さびし給ふと、いへる事にて、天皇の神御心の、すさびし給ふ事なり。この事は、上【攷證一下八丁】に、安見知之吾大王《ヤスミシヽワカオホキミノ》、神長柄神佐備世須登《カムナカラカムサヒセスト》云々とある所にいへり。
 
磐《イハ》隱《カクリ・カクレ》座《マス》。
陵にまれ、墓にまれ、土を掘て築て作れる故に、磐隱座とはいへり。本集九【卅三丁】に、磐構作冢矣《イハカマヘツクレルツカヲ》云々とあるを見べし。鎭火祭祝桐に、石隱坐※[氏/一]《イハカクリマシテ》云々とも見えたり。さて、隱を、考にも、かくれとよまれしかど、かゝる所、皆かくり《(マヽ)》よむべき也。そは古事記下卷御歌に、美夜麻賀久理弖《ミヤマカクリテ》云々。書紀推古紀、歌に、夜須彌志斯和餓於朋吉彌能《ヤスミシヽワガオホキミノ》、※[言+可]句理摩須阿摩能椰蘇※[言+可]礙《カクリマスアマノヤソカゲ》云々などあるにても思ふべし。集中にもいと多し。
 
所聞見爲《キコシミス》。
こは、きこしめすといへると同じくて、きこしめすも、きこしをすも、きこしみすも、みなその國を聞し給ひ、見し給ふことにて、同意也。この事は、上【攷證一下六丁】に、所聞食天下爾《キコシヲスアメノシタニ》云々とある所と、考へ合せてしるべし。さて、こゝに、きこし見爲《ミス》とあるは、きこしめすの本語にはあれど、この外は、きこしめすとのみあれば、見と、めと、かよはせたるなり。そは、物を見給ふといへるを、みしたまふとも、めしたまふともいへると同格にて、本集一【廿三丁】に、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシミシタマヘハ》云々。六【卅二丁】に、我大王之見給《ワガオホキミノミシタマフ》、芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》云々。十九【卅九丁】に、見賜明米多麻比《ミシタマヒアキラメタマヒ》云々とありで、また此卷【廿五丁】に、召賜良之神岳乃山之黄葉乎《メシタマフラシカミヲカノヤマノモミチヲ》云々。十八【廿三丁】に、余思努乃美夜乎安里我欲比賣須《ヨシヌノミヤヲアリカヨヒメス》云々。二十【二十五丁】に、賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》云々とも(245)あるにて、みと、めと、かよふをしるべし。考に、こゝをも、きこしめすとよまれしは誤り也。さて、これよりは、天武天皇御代の事を、たちかへりいひて、かの大友皇子と、御軍の事をいへり。このまへに、吾大王と申せるは、天武帝をさし奉れり。
 
背友乃國之《ソトモノクニノ》。
考云、美濃國をいふ。大和よりは北、多くの山の背面なればなり云々といはれつるがごとし。そともの事は、【攷證一下卅七丁】にいへり。
 
眞木立《マキタツ》。
眞木は、一つの木の名にはあらで、その木を、眞とほめていへるなる事、【攷證一下廿丁】にいへるがごとし。こゝは、いろ/\なる良材どものたてる、不破山とつゞけし也。
 
不破山越而《フハヤマコエテ》。
美濃國不破郡の山也。こゝより下、御軍士乎喚賜而《ミイクサヲメシタマヒテ》といふまでは、天武天皇都をさけて、東國に入まして、御軍をおこし給ひしほどの事をいへるにて、考に、これは天皇はじめ吉野を出まして、伊勢の桑名におはしませしを、高市皇子の申給ふによりて、桑名より美濃の野上の行宮へ幸の時、この山を越ましゝをいふ云々。
 
狛劔《コマツルギ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし、外國の劔は、環を付たるものゆゑ、高麗劔《コマツルギ》環《ワ》と、わの一言へかけて、つゞけし也。高麗《コマ》を狛《コマ》とかけるは、借字也。
 
和射見我原乃《ワサミカハラノ》。
これも不破部なるべし。書紀天武紀に、高市皇子自2和※[斬/足]《ワサミ》1參迎云々とあるこゝ也。こは、天皇の、わざみが原の行宮へ、幸し給ひし也。考に、わざみに高市皇子のおはして、近江の敵をおさへ、天皇は、野上の行宮におはしませしを、その野上よりわざみへ度々幸して、御軍の政を聞しめしし事、紀に見ゆ云々といはれつるが如し。さて、この(246)地は、本集十【六十三丁】に、和射美能嶺往過而《ワサミノミネユキスキテ》云々。十一【卅五丁】に、吾麻子之笠乃借手乃和射見野爾《ワキモコカカサノカリテノワサミヌニ》云々など見えたり。
 
安母理座而《アモリマシテ》。
本集三【十六丁】に、天降付天之芳來山《アモリツクアメノカクヤマ》云々。十九【卅九丁】に、安母里麻之掃平《アモリマシハラヒタヒラケ》云々。二十【五十丁】に、多可知保乃多氣爾阿毛理之《タカチホノタケニアモリシ》、須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロキノカミノミヨヽリ》云々などありて、あもりは、天下《アマオリ》の釣り、まおの反、もなれば也。こは、天皇皇子などを神にたとへ奉りて、京より、この鄙に下り給へるを、天降ませりとは申せる也。こゝには、天皇の幸し給ひしを申せり。
 
天《アメ》(ノ・ガ)下《シタ》。治賜《ヲサメタマヒ》(・シ)。
考には、こゝを、下の治跡《ヲサメト》とあるをも、一云に、掃《ハラヒ》とあるを取れしかど、いかが。宣長云、この二つの治を、考には、一本をとりて、上を拂賜而《ハラヒタマヒテ》とし、下を掃部跡《ハラヘト》とせられて、治をば、わろきがごとく、いはれたれども、二つ共に、治にてもわろからず。又、下なるは、をさめとよみて、をさめよといふ意になる、古言の格也云々といはれつるがごとく、紀記にも、宣命にも、集中にも、治腸といへる事多かるをや。
 
一云。掃賜而《ハラヒタマヒテ》。
これもあしからず。書紀神代紀下に、撥平《ハラヒムケ》とも、撥2平《ハラヒムケ》天下1とも、駈除《ハラフ》ともありて、續日本紀、天平寶字八年十月詔に、朕謀【家利】《アレヲハラハムトハカリケリ》云々などもありて、まへに引る、本集十九【卅九丁】に、掃平《ハラヒタヒラケ》ともあるごとく、まつろはぬ人を、はらひ除く意もていへるなり。
 
(247)食國乎《ヲスクニヲ》。
天皇のしろしめす天の下を、おしなべていへる名也。この事は、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
 
定賜等《シツメタマフト》。
是を、考に、さだめ給ふとよみ直されしは、なかなかに誤り也。舊訓のまゝ、しづめ給ふとゝよむべし。こは、天皇のしろしめす國中の亂を靜め給はんとて、東國の兵士を召給ふといへるにて、必らずしづといはでは叶はざる所也。増韻に、定靜也云々。周書謚法に、大慮靜v民曰v定云々などあるにても、定は、靜の意なるをしるべし。また本集四【卅六丁】に、戀水定《ナミタニシツミ》云々とよめるにても、定をしづめとよめるをしるべし。
 
鳥之鳴《トリガナク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鳥は、鷄にて、鷄は、夜の明る時に鳴ゆゑに、鷄之鳴《トリガナク》明《アカ》とつゞけたるにて、あづまといふも、本は吾妻《アガツマ》の、かを略けるなれば、あの一言に、あかの意こもれるによりて、しかつづけし也。
 
吾妻乃國之《アツマノクニノ》。
東國を、すべてあづまといへり。こゝに、吾妻《アツマ》と書る正字也。集中、東の一字をもよめり。この事は、上【攷證二十七丁】にいへり。
 
御軍士乎《ミイクサヲ》。
古事記上卷に、黄泉軍《ヨモツイクサ》云々。書紀神武紀に、女軍《メイクサ》男軍《ヲイクサ》云々などありて、雄略紀、欽明紀などに兵士《イクサ》、崇峻紀に軍衆《イクサ》、齊明紀に兵馬《イクサ》などをよみ、本集六【廿五丁】に、千萬乃軍奈利友《チヨロツノイクサナリトモ》云々。二十【十八丁】に、伊佐美多流多家吉軍卒等《イサミタルタケキイクサト》なども見えて、いくさとは、もとは兵士をいひて、たゞ戰ふ事をいへるにあらず、こゝの御軍《ミイクサ》も、兵士をいひて、兵士を東國より召よし也。さ(248)るを、轉じてたゞ戰ふ事をも、いくさとはいひて、書紀持統紀に、射をいくさとよめり。考に、いくさとは、箭《ヤ》を射合《イアハス》てふ事なるを、用を體にいひなして、軍人の事とす云々といはれつるは、末には叶へれども、其もとにはたがへり。
 
喚賜《メシタマヒ》而《テ。ツヽ》。
考に、めしたまはしてとよまれたるは、しひて七言によまんとてのわざにて、いかゞ。めしたまひて六言よむべし。さてこゝは、考に、此度、いせ尾張などは、本よりにて、東海東山道の軍士をも、めしし事、紀に見ゆ云々、こゝまでは、天皇の天下を治め給はんとても、東國の兵士をめし給ふをいひて、さて、その兵士を、高市皇子に付給ひて、軍事を皇子に任給ふよし也。
 
千磐破《チハヤフル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。考云、これは、ちはやぶる人をいふ。神代にて、惡く荒き神をいへるに同じ云々といはれつるがごとし。
 
人乎《ジトヲ》和爲《ヤハセ・ナゴシ》跡《ト》。
和《ヤハ》すとは、荒びて從ひ奉らぬ人を、和《ヤハ》し平《タヒ》らぐる意に、こゝより、國乎治跡《クニヲヲサメト》といふまでは、高市皇子へ、天皇の詔給へる大御言のよし也。さて、和せは古事記、書紀等、みな和の字をよみて、本集二十【五十丁】に、知波夜夫流神乎許等牟氣《チハヤフルカミヲコトムケ》、麻都呂倍奴比等乎母夜波之《マツロヘヌヒトヲモヤハシ》云々。大殿祭祝詞に、言直言和志《コトナホシハヤシ》【古語云夜波之】座※[氏/一]《マシテ》云々。倭姫命世記に、夜波志志都米《ヤハシシツメ》云々など見えたり。
 
(249)不奉仕《マツロハヌ》。
こは古事記に、不伏、書紀に不順などの字を、まつろはぬとよめる字の意にて、天皇に、順ひ奉らざる國々をいへる也。さて、この言は、古事記中卷に、令v和2平其|麻都漏波奴《マツロハヌ》人等1云々。本集十八【廿丁】に、麻都呂倍乃牟氣乃麻爾麻爾《マツロヘノムケノマニマニ》云々。十九【廿七丁】に、大王爾麻都呂布物跡《オホキミニマツロフモノト》云々など見えたり、また、書紀雄略紀、御歌に、波賦武志謀《ハフムシモ》、飫〓枳瀰※[人偏+爾]摩都羅符《オホキミニマツラフ》云々とあるは奉仕る意にて、まつるを延て、まつらふといへるなれば、こゝとは別なり。
 
國乎《クニヲ》治《ヲサメ・ヲサム》跡《ト》。
舊訓、くにををさむとゝあれど、くにををさめとゝよむべし。よもじを略ける也。この事は、まへに、宣長いはれたり。さて、こゝは、高市皇子に、天皇の荒ぶる人をば和《ヤハ》せよ、まつろはぬ國をば平げ治めよと、詔給へるにて、こゝより下はその任《マケ》のまに/\、皇子の、御軍にたゝせ給ふ御さまを申せり。
 
皇子隨《ミコナカラ・ワカミコノマヽ》。
考云、こは、上に神隨《カムナカラ》とあるにひとしく、そのまゝ皇子におはしまして、軍の任給ふと也云々と、いはれつるがごとく、國史を考ふるに、將軍は、みな臣下の職なるを、こゝは、皇子ながらも、其將軍にまけたまふよしなり。
 
任賜者《マケタマヘハ》。
任は、まけとも、よざすとも、めすとも訓れど、こゝは、舊訓のまゝ、まけとよむべし。よざすは、事をその人に依任《ヨセマカ》せて、とり行はしむる意、めすは、その人を召上《メシアケ》て、官を授け給ふ意、まけは、その人に、その事をゆだねて、他に命罷《マカラセ》て、つかさどらしむる意にて、ここは、高市皇子に、軍事をゆだねまかせ給ひて、戰場に罷《マカ》らしめ給ふ所なれば、まけとよむべき(250)也。これらの事、宣長の説にしたがへり。宣長云、まけは、京より、他國の官に令罷《マカラスル》意にて、即ち、まからせを約めて、まけとは云ふなり。萬葉に、此言多し。みな、鄙の官になりて、ゆく事にのみいへり。心を付て見べし。又、史記南越傳に、天子|罷《マク》v參(ヲ)也とあり。この訓にて、まけは、まからせなることをさとるべし。然るを、京官の任をも、まけと訓は、みだりごと也。めすは、顯宗紀に、拜《メス》2山官(ニ)1、推古紀に、任《メス》2僧正僧都(ヲ)1天武紀に拜《メス》d造2高市大寺1司(ヲ)uなどあり。凡て、上代には、本居にある人を、京に召《メシ》て、官には任たまへりし故に、召といひし、その名目は、後までものこれり。古今集、雜部の詞書に、もろこしの判官にめされて云々とあるは、其國に遣すなればまけられてとあるべきを、めされてとあるは、遞へるに似たれども、かのころはまく、まけといふ名目は、たえて、凡て、めすといへりしなり。縣召《アカタメシ》といふも、これに同じ。又、いはゆる任大臣を後撰集、榮花物語などに、大臣|召《メシ》とあるは、古意によくかなへる名目也云々といはれつるがごとし。されの任《(マヽ)》を、命罷《マカラセ》の約り也といはれしは、いかゞ。任《マケ》は、其事を、その人にゆだね委《マカス》に意て、まかせの、かせをつゞむれば、けとなれり。これにても、まけはまかせの意なるを知るべし。さて、こゝは、書紀天武紀に、皇子、攘v臂按v劍奏言、近江群臣雖v多、何敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨、則臣高市、頼2神祇之靈1、請2天皇之命1、引2率諸將1、而征討、豈有v距乎、爰天皇譽v之、携v手撫v背曰、慎不v可v怠、因賜2鞍馬1、悉授2軍事1云々とある、これ也。
 
大御身爾《オホミミニ》。
即ち、高市皇子の大御身に也。
(251)大刀取《タチトリ》帶《ハカ・オバ》之《シ》。
舊訓にも、考にも、たちとりおばしと訓れど、大刀をおぶといふ言、物に見えず。靱《ユキ》、または鞆《トモ》、または箭《ヤ》、または袋《フクロ》などをば、おぶといひ、大刀をばはくといふぞ、古への常なる。佩《ハク》も、帶《オブ》も、みな身に付ることなれど、おぶは、したしく身に付る言、はくは、たゞかりそめに身に付る言と、いさゝかのけぢめあり。されど、專ら同じことのやうに聞えて、佩、帶などの字を、たがひに通はせて、所によりては、おぶとも、はくともよめり。そは、古事記上卷に、所2御佩《ミハカセル》1之|十拳《トツカ》劍云々。また、所2取佩《トサオハセル》1伊都之竹鞆云々。本集三【五十九丁】に、劔刀腰爾取佩《ツルギタチコシニトリハキ》云々。十三【卅四丁】に、公之佩具之投箭之所思《キミカオバシヽナグヤシゾオモフ》云々など、佩をはくとも、おぶともよみて、また帶を、おぶとよめるは、常のことにて、帶刀を、たちはきとよめるにても、帶をはくとも、おぶともよめるをしるべし。さて、書紀景行紀、日本武尊御歌に、多智波開摩之塢《タチハケマシヲ》云々。本集五【九丁】に、都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルギタチコシニトリハキ》云々。九【卅六丁】に懸佩之小劔取佩《カケハキノコタチトリハキ》云々。集中猶多し。又御刀をみはかしといふにても、大刀をば、必らずはくといふをしるべし。
 
安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》。
この語釋、未v詳。本集九【十四丁】に、足利思代※[手偏+旁]行舟薄《アトモヒテコキユクフネハ》云々。また【廿八丁】三船子呼阿騰母比立而《ミフナコヲヨヒタテヽ》、喚立而三船出者《ミフネイテナハ》云々。十七【卅七丁】に、阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマフネニマカチカイヌキ》、之路多倍能蘇泥布理可邊之《シロタヘノソテフリカヘシ》、阿登毛比底和賀己藝由氣婆《アトモヒテワカコキユケハ》云々。二十【十八丁】に、安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナキニカコトヽノヘ》、由布思保爾可知比岐乎里《ユフシホニカチヒキヲリ》、安騰母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコキユクキミハ》云々などありて、誘《イザナ》ひ催《モヨホ》す意をあともひとはいへりと聞ゆれど、語釋は、思ひ得ず。書紀雄略紀に、誘2率《アトヘタシヒテ》武彦於蘆城河1云々と誘の字を、あとへと訓るも、こゝの、あともひといふ言に、よしありて聞ゆ。廣韻に、誘(ハ)導也、(252)引也、進也云々と見えたり。また本集十【卅九丁】に、璞年之經往者《アラタマノトシノヘユケハ》、阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰《アトモフトヨワタルワレヲトフヒトヤタレ》云々十四【卅五丁】に、安杼毛敝可《アトモヘカ》、阿自久麻夜末乃由豆流波乃《アシクマヤマノユツルハノ》、布敷麻留等岐爾可是布可受可母《フヽマルトキニカセフカスカモ》云々などあるは、十四【八丁】に、和我世故乎安杼可母伊波武《ワカセコヲアトカモイハム》云々、また【十二丁】安杼加安我世牟《アトカアカセム》云々とあると同じく、何《ナニ》といへるを、あといふにて、こゝのあともひたまひとは、別なれば、思ひ誤る事なかれ。
 
齊流《トヽノフル》。
とゝのふとは、呼集《ヨヒアツ》むる意也。古事記中卷に、整《トヽノヘ》v軍雙v船|度幸《ワタリイテマス》云々。本集三【十二丁】に、網引爲跡網子調流海人之呼聲《アヒキストアコトヽノフルアマノヨフコヱ》云々。十【卅九丁】に、左男牡鹿之妻整登鳴音之《サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノ》云々。十九【卅九丁】に、物乃布能八十友之雄乎《モノヽフノヤソトモノヲヽ》、撫賜等登能倍賜《ナテタマヒトトノヘタマヒ》云々。集中猶あり。續日本紀、天平寶字八年十月詔に、六千乃兵等々乃《ムチノイクサヲオコシトヽノヘ》云々などあるにても思ふべし。玉篇に、齊整也と見えたり。
 
鼓之音者《ツヽミノオトハ》。
鼓は、軍鼓なり。鼓を鳴して、散たる兵士を齊《トヽノ》へ集めたまふ也。軍防令義解に、謂鼓者皮鼓也、鉦者金鼓也、所2以靜1v喧也云々と見えたり。書紀神功紀に、旌旗耀v日、鼓吹起v聲、山川悉振云々などもありて、貞觀儀式に、三月一日於2鼓吹司1、試2生等1儀式見えたり。さてこゝは、天武紀に、旗幟蔽v野、埃塵連v天、鉦鼓之聲、聞2數十里1、列努亂發、矢下如v雨云々とあるこれ也。
 
雷之《イカツチノ》。聲登開麻低《コヱトキクマテ》。
雷は、集中、神とのみも、なる神ともよめり。打たつる鼓の音の、おびたゞしきが、雷のこゑかときこゆるまで也となり。さて、いかづちは、本集十二丁に、雲隱伊加土山爾宮敷座《クモカクレイカツチヤマニミヤシキイマス》云々。佛足石御歌に、伊加豆知乃比加利乃期止岐《イカヅチノヒカリノゴトキ》云々。和名抄神靈類に、兼名苑云雷公、一名雷師【雷音力廻反和名奈流加美一云以賀豆知】云々などあり。
 
(253)吹響流《フキナセル》。
吹ならせるの、らを略ける也。書紀繼體紀歌に、須衛陞嗚磨《スヱベヲバ》、府曳※[人偏+爾]都倶利《フエニツクリ》、府企儺須《フキナス》云々。本集十一【廿六丁】に、時守之打鳴鼓《トキモリカウチナスツヽミ》云々。後撰集秋中に、よみ人しらず、秋のよは人をしづめて、つれ/”\とかきなすことの音にぞなかるゝ云々。これらもみな、らもじを略ける也。
 
小角乃音母《クダノコヱモ》。
小角は、代匠記に、くだと訓しによるべし。書紀天武紀に、十四年、十一月丙午、詔2四方國1曰|大角《ハラ》小角《クタ》鼓《ツヽミ》吹《フエ》幡旗《ハタ》及弩杖之類、不v應v存2私家1、咸收2于郡家1云々。軍防令に、凡軍團、各置2鼓二面大角二口小角四口1云々。和名抄征戰具云、兼名苑云角、楊氏漢語抄云大角【波良乃布江】小角【久太布江】本で2胡中1、式云呉越似象2龍吟1云々など見えて、こは軍器にて、この笛のふきざまは、貞觀儀式、鼓吹司試性等儀の所に、くはしく見えて、これも、軍衆をあつめ、進退せしむる具也。こは、漢土の書にも、演繁露卷に、〓尤率2魑魅1、與2黄帝1戰、帝命吹v角爲2龍鳴1禦之云々。唐書百官志に、節度使入v境、州縣築2節樓1、迎以2鼓角1、今鼓角樓始v此云々。王維從軍行に、吹v角動2行人1云々など見えたり。さて、こゝを、考には、今本に、小角乃音毛とある、母《モ》の辭、前後の辭の例に違ふ云々とて、一云|笛乃音波《フエノオトハ》とある方を、とられたり。笛の音波としても、あしきにはあらざれど、本書のまゝにても母《モ》の字は、まへの鼓之音者《ツヽミノオトハ》といふに對して、鼓《ツヽミ》の音は、雷のごとぐ、また小角《クダ》の音母《オトモ》虎のほゆるがごとし《(マヽ)》。對にいへる所なれば、母とありて、よく聞ゆるをや。
 
敵見有《アダミタル》。
散見《アダミ》は、新撰字鏡に、怏※[對/心]也、強也、心不v服也、宇良也牟、又阿太牟とありて、あだみ、あだむとはたらく言也。これを、敵を虎が見たる意とするは、誤り也。こは、(254)心不服v也と注したる意にて、虎のいかれるといふを、敵みたる虎とはいへる也。さて、これを本にて、敵《カタキ》も、吾をあだみて、あだする物故に、敵をも、やがて敵ともいへる也。本は、あだみ、あだむとはたらく語なるを、體語として、一つの名とはせる也。そは、本集六【廿五丁】に、賊守筑紫爾至《アダマモルツクシニイタリ》云々。二十【十八丁】に、筑紫國波安多麻毛流於佐倍乃城曾等《ツクシノクニハアダマモルオサヘノキソト》云々。伊勢集に、わがためになにのあだとて、春風のをしむとしれる花をしもふく云々。伊勢物語に、なにのあだにか思ひけん云々。拾遺集雜下に、八條おほい君、なき名をばたかをの山といひたつる、君はあたこの岸にやあるらん云々。落久保物語下卷に、いかばかりのあだがたきにて云々など見えたり。
 
虎可叫吼登《トラカホユルト》。
虎は、和名抄毛群名に、説文云虎【乎古反和名止良】山獣之君也云々と見えたり。叫吼《ホユル》は靈異記中卷に、叫【サケビ】とありて、叫は、さけぶ意、吼は、増韻に、※[旭の日が虎]聲とありて、虎のこゑなれば、この二字を、ほゆるとよめるは、義訓也。ほゆるは、本集十三【十六丁】に、犬莫吠行年《イヌナホエコソ》云々。靈異記上卷に、※[口+皐]吠【二合保由】云々。和名抄獣體に、玉篇云※[口+皐]【胡高反】虎狼咆聲也、唐韻云吼【乎後反亦作※[口+句]】牛鳴也、吠【〓〓反已上三字皆訓保由】犬鳴聲也云々と見えたり。
 
恊流麻低爾《オビユルマデニ》。
恊《オヒユ》は、靈異記上卷に、脅【オヒユ】云々。新撰字鏡に、恊※[立心偏+却]同、今作v脅、虚業反、怯於比也須云々などありて、康煕字典、引2正字通1云、恊同v※[立心偏+脅]、按比从v心、與2協字从v十者1不v同云々とあれば、恊脅※[立心偏+脅]三字通用して同字也。玉篇に、※[立心偏+脅]許※[去+立刀]切、以2威力1相恐也※[立心偏+脅]云々。廣雅釋詁二に、脅懼也ともあれば、おびゆとよまん事論なし。さて、この言は、源(255)氏物語若菜上に、人々おぴえさわぎて、そよ/\と、みじろきさまよふ云々。枕草子に、しれものはしりかかりたれば、おびえまどひて、みすのうちにいりぬ云々。榮花物語初花卷に、藤三位をはじめ、さべき命婦、藏人、ふた車にてぞまいりたる。ふねの人々おびえていりぬ云々などありて、ここは、吹立る小角の音、おびたゞしく、虎のほゆるごとくにて、諸人のおびゆるまで也となり。
一云|聞惑麻低《キヽマドフマテ》、これもあしからねど、本書の方まされり。
 
指擧有《サヽケタル・サシアクル》。
考に、さゝげたる、訓れしにしたがふ。しあの一反、さにて、さしあげたる也。
 
幡之靡者《ハタノナビキハ》。
幡は、軍防令義解に、幡者旌旗※[手偏+總の旁]名也、將軍所v載、曰2※[毒/縣]幡1、小隊長所v載、曰2隊幡1、兵士所v載、曰2軍幡1也云々とありて、旌旗をおしなべて幡とはいへる也。こゝ、その幡の、風などに靡たるが、おびたゞしく見ゆるを、春の野ごとに、付たる野火の、風とゝもになびくがごとしと也。さて、こゝに、幡のなびくを、火と見なしたる、思へば、この幡は、赤幡なりけん。赤幡は、古事記下卷云、物部之我夫子之《モノヽヘノワカセコカ》、取佩於大刀之手上《トリハケルタチノタカミニ》、丹畫著《ニカキツケ》、其緒者載亦幡《ソノヲハアカハタヲタチ》、立赤幡見者《アカハタタテヽミレハ》、五十隱山三尾之竹矣《イカクルヤマノミヲノタケヲ》、※[言+可]岐苅末押靡魚簀《カキカリスヱオシナヒカスナス》、如調八緒琴《ヤツヲノコトヲシラヘタルコト》、所治賜天下《アメノシタヲサメタヒシ》、伊邪本和氣天皇之御子《イサホワケノスメラミコトノミコ》云々とあるは、履中天皇、御軍に赤幡を立給ひし事有けん。それを、かくのたまへるなるべし。また、續日本紀云、天平十三年、十一月庚午、始以2赤幡1、班2給大藏内藏大膳大炊造酒主醤等司1、供御物前建以爲v標云々。延喜宮内式云、凡供奉雜物、送2大膳大炊造酒等司1者、皆駄擔上、竪2小緋幡1、以爲2標幟1云々。靈異記上卷云、栖輕奉v勅、從v宮罷出、緋※[草冠/縵]着v額、※[敬/手]2赤幡杵1(256)乘v馬云々など見えたり。かくいづれにも、赤幡を用ひ給ふは、赤きは、ことに目に付ものなればなるべし。或人云、赤幡は、軍事まれ、供物にまれ、官軍のしるしとせしなるべしといへど、天武天皇と、大友皇子と、この御軍のなりは、天皇まだ御位におはしまさざりしかば、赤幡を官軍の御しるしとも、さだめがたきをや。
 
冬木《フユコ》成《モリ・ナリ》。
冬は、萬物内にこもりてあるが、春になりて、はりいづるより、冬ごもりはるとはつづけし也。さて、こゝをも、考には、冬木盛と直されしかど、誤りなる事は、上にいへるがごとし。
 
野《ヌ・ノベ》毎《コトニ》。著而有火之《ツキテアルヒノ》。
野を、春專らと燒物故に、かくはよめり。そは本集、此卷【四十四丁】に、春野燒野火登見左右《ハルヌヤクヌヒトミルマテ》、燎火乎《モユルヒヲ》云々。七【卅二丁】に、冬隱春之大野乎《フユコモリハルノオホヌヲ》、燒人者《ヤクヒトハ》、燒不足香文《ヤキアカヌカモ》、吾情熾《ワカコヽロヤク》云々。集中猶あり。古今集、春上に、よみ人しらす、春日野はけふはなやきそ、わか草のつまもこもれり、われもこもれり云々。白居易詩に、野火燒不v盡、春風吹又生云々など見えたり。一云|冬木成春野燒火乃《フユコモリハルヌヤクヒノ》とあるも、あしからず。考には、この一本をとられしかど、本書、まゝにても、よく聞えたるをや。
 
風之共《カセノムタ》。
共《ムタ》は、字のごとく、ともにといふ意にて、こゝは、野火の風とゝもに、なびくがごとしと也。共《ムタ》てふ言は、上【攷證二中四丁】にいへり。
 
弓波受乃《ユハズノ》驟《サワギ・ウゴキ》。
弓波受《ユハズ》は、古事記中卷に、男弓端之調《ヲトコノユハスノミツキ》、女手未之調《ヲミナノタナスヱノミツキ》云々。本集十六【卅丁】に、吾爪者御弓之弓波受《ワカツメハミユミノユハズ》云々。和名抄征戰具に、釋名云弓末曰v〓【音蕭和名由美波數】云々と(257)ありて、弓の末を、はずとはいふ也。又、書紀神武紀、本集一【八丁】伊呂波字類抄等に、弭をはずとよめり。この弓弭《ユハズ》、今は角爪などを用る事はなけれど、本集十六の歌にて見れ、鹿の爪をも用るやうに見えたり。今、唐製の半弓などには、角爪等を用る事多し。上代の弓弭は、これにひとしき製なるべし。さて、ゆみはずといふべきを、ゆはずと、みの字を略きて、いへるは、弓※[弓+付]《ユミヅカ》をゆづか、弓腹をゆはら、弓上をゆずゑなどいふ類也。こゝに弓弭《ユハズ》をしも、まづ云るは、弭《ハス》は、弓の末の方にありて、人ごとに、弓をもてるが、その弭の方の、まづいちじるく見ゆれば、わきて弭をしもいへる也。この弭の、鳴《なり》さわぐを、弓はずのさわぎとはいへる也。驟を、舊訓、うごきとよめるは、いかゞ。集中、皆さわぐとのみよめり。
 
三零落《ミユキフル》。
三雪《ミユキ》の、みは眞也。この事は、上【攷證一下廿一丁】にいへり。雪、冬を專らとすれば、枕詞のごとく、雪ふる冬とつづけしのみ也。
 
冬乃林爾《フユノハヤシニ》。
人ごとに持る弓弭《ユハス》の、枯木のさわぐに似たれば、冬の林に、風のわたるがごとく、見なしたるなり。
 
飄《ツムシ・アラシ》可毛《カモ》。伊卷渡等《イマキワタルト》。
飄は、つむじとよむべし。書紀神功紀に、飄風《ツムシカセ》忽起、御笠隨v風云々。新撰字鏡に、※[風+火三つ]※[火三つ+風]※[風+云]※[(懽の旁+風)/(火+火)]四形作、※[人偏+卑]遙反、暴風豆牟志加世云々。和名抄風雨類云、文選詩云廻※[風+火三つ]卷2卷2高樹1【※[人偏+卑]遙反和名豆无之加世】兼名苑注云、※[火三つ+風]者暴風從v下而上也云々と見えて、文選長笛賦 注に、※[犬三つ]與v※[風+火三つ]同云々。禮記月令釋文に、※[犬三つ]本又作v飄云々とあれば、飄※[風+火三つ]※[犬三つ]三字通用せり。されば、新撰字鏡、和名抄等に、※[火三つ+風]をよめるにも、こゝに飄とあると、同じ。そは毛詩卷阿傳に、飄風廻風也云々ともありて、今もいふつむじかぜ也。宇津保物語俊蔭卷に、琴の(258)音を心みんとて、いでたつほどに、つじ風いできて三十の琴をおくる云々とある、つじ風も、つむじ風のむの字を略ける也。伊卷渡《イマキワタル》の、伊《イ》は發語にて、たゞ風の吹卷なり。まへに出でたる文選に廻※[風+火三つ]卷2高樹1とある卷もこれ也。つむじのまくといふは、今もいふことにて、後の歌なれど、新古今集に、藤原清輔朝臣、おのづからおとする物は、庭の面にこの葉ふきまく谷の夕かせ云々。萬代集に、前太政大臣、風のおとはみ山もさやに明るよのしぐれふきまくならの葉がしは云々などあるも、此卷と同じく、風のふきめぐらすをいへり。さて、こゝは、人ごとに持る、弓弭《ユハス》の多きが、鳴《ナリ》さわぐは、、枯木の林に、飄《ツムシ》のふきめぐらして、鳴さわがすが、きゝおどろくまでなりと也。
 
聞之恐久《キヽノカシコク》。
きくにかしこくといはんがごとく、この之《ノ》文字は、にの意也。そは、本集十【五丁】に
 
子等名丹開之宜《コラカナニカケノヨロシキ》云々。十七【卅六丁】に、見乃佐夜氣吉加《ミノサヤケキカ》云々。十八【十九丁】に、伎吉能可奈之母《キキノカナシモ》云々。廿【廿五丁】に、見之等母之久《ミノトモシク》云々などあると、同格の之文字也。
 
引放《ヒキハナツ》。箭繁計久《ヤノシゲケク》。
玉篇に、箭矢也とありて、矢とかくと同じ。けくの反、くにて、矢の繁く也。この事は、上【攷證一下六十三丁】にいへり。こゝは、人ごとに、引つゝはなつ矢のしげきが、大雪のふりくるごとく、亂れくと也。矢の羽は、白羽なりけん。されば、雪とは見なしたる也。古事記中卷に、射出之矢、如2葦《アシ》來散1云々。書紀欽明紀に、發箭如v雨云々など見えたり。
 
(259)大雪乃《オホユキノ》。亂而《ミタレテ》來禮《キタレ・クレ》。大雪は、いたくふれる雪也。この事は、上【攷證二上廿一丁】にいへり。こゝは白羽の矢の、しげく飛來るが、いたくふれる雪のごとくに、亂つゝ來ればと也。大雪乃の、乃もじは、如くの意也。さて、この句、まへに、こその詞なくして、來禮《キタレ》と、禮にてうけたるを疑ひて、考には、禮の下に、者《バ》の字の落たる物ぞといはれしは、誤り也。これ、集中長歌の一つの格にて、こその詞なき下を、れとも、せともうけたる所集中に多し。この事は、上【攷證二中十丁】にいへり。みな禮の下に、ばの字を添てきくべし。
 
一云。霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》。
これもあしからず。あられ成《ナス》の、成は、如の意、曾知の曾は、をと音通ひて、遠《ヲチ》なり。彼所《ソコ》此所《コヽ》、彼所《ソチ》此所《コチ》、遠《ヲチ》近《コチ》と對する語にて、今俗言に、彼方といふを、そちらといふもこれ也。蜻蛉日記に、西山に、例のものする事あり。そち物しなん、かの物忌はてぬさきにとて云々とも見えたり。さて、こゝは、人ごとに、引はなつ矢の、しげく霰のごとく、遠方よりくればと也。上に、大御身爾大刀取帶之《オホミミニテチトリハカシ》といふより、こゝまでは、高市皇子の、御軍を引率して、敵と戰ひたまふさまをいへり。
 
不奉仕《マツロハズ》。立向之毛《タチムカヒシモ》。
こゝより下、相競端爾《アラソフハシニ》といふまで、敵方の事をいひて、天武天皇にまつろひ奉らずして、立向ひしも、まけいろにて、露霜のごとくに消《キエ》なば消ぬべく、身命を輕じて、あらそひしと也。立向《タチムカ》ひは敵たふ意にて、本集九【卅五丁】に、入水火爾毛將入跡《ミツニイリヒニモイラムト》、丑向競時爾《タチムカヒアラソフトキニ》云々とも見えたり。
 
露霜之《ツユシモノ》。
枕詞也。露霜とはいへど、たゞ露のこと也。霜のごとくに、消《キユ》とつゞけし也。この事、上【攷證二中四丁】にもいへり。猶くはしくは、予が冠辭考補遺にもいふべし。
 
(260)消名消倍久《ケナバケヌベク》。
きえなばきえぬべくといふ也。本集十一【十丁】に、朝霧消々念乍《アサツユノケナバケヌヘクオモヒツ》云々。十三【十三丁】に、朝露之消者可消戀久毛《アサツユノケナバケヌヘタコフラクモ》云々など見えたり。
 
去鳥之《ユクトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし、群りてとびゆく鳥の、おのれおくれじと、あらそふにたとへて、ゆく鳥のごとくあらそふとはつゞけし也。
 
相競端爾《アラソフハシニ》。
相競の二字を、あらそふとよめるは義訓也。本集一【十一丁】に、諍競《アラソフ》、相格《アラソフ》、十【十丁】に相爭《アラソフ》などをもよめり。端《ハシ》を、はしとよめるは、借字にて、端《ハシ》は、間《ハシ》の意、あひだといふことにて、敵味方あらそふ間《アヒタ》に、神風ふき來りて、敵をまどはしゝと也。さて、はしといふ言を、あひだの意とするは、本集十九【十五丁】に、宇知歎之奈要宇良夫禮《ウチナケキシナエウラフレ》、之努比布都追有爭波之爾《シヌヒツヽアラソフハシニ》、許能久禮罷四月之立者《コノクレヤミウツキシタテハ》云々とある、あらそふはしも、あらそふ間也。また間人《ハシヒトノ》王、また氏に、間人《ハシヒトノ》宿禰とある、間をはしとよめるにても、はしといふは、あひだの意なるをしるべし。
 
一去。朝霜之《アサシモノ》。消者消言爾《ケナバケトフニ》。
こは、朝霜のごとく、消さ《(マヽ)》はきえよといふにといふ意と《(マヽ)》なれば、前後のつゞきここにかなはず。本書の方まされり。
 
打蝉等《ウツセミト》。安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》。
打蝉《ウツセミ》とかけるは、借字にて、上にいへるごとく、現《ウツヽ》の身てふ言、波之《ハシ》は、まへにいへるごとく、間の意にて、軍士たがひに、現の身なるが故に、相あらそふあひだにといへる也。これも本書のかたまされり。
 
渡會乃《ワタラヒノ》。齋宮從《イツキノミヤユ》。
渡會は、伊勢國郡名にて、大神宮儀式帳に、天照坐皇大神、伊勢國度會郡宇治里、佐古久志留伊須々乃川上御幸行坐時云々。和名抄郡名に(261)伊勢國度會【和多良比】云々とある、こゝ也。また伊勢國風土記に、夫所3以號2度會郡1者、畝傍橿原宮御宇、神日本磐余彦天皇、詔2天日別命1、覓v國之時、【中略】大國玉神、遣v使奉v迎2天日別命1、因令v造2其橋1、不v堪2造畢1、于v時到令d以2梓弓1爲uv橋而度焉、大國玉神資|彌豆佐々良比賣《ミツサヽラヒメ》命、參來、迎3相土橋郷岡本村1、【中略】度會焉、因以爲v名也云々と見えたり。齋は《イツキノミヤ》は、天照大御神をいつき奉る宮をいへるにて、齋内親王のおはします宮を、齋宮と申すとは別也。大神宮儀式帳に、美和御諸原造2齋宮1出奉齋始奉云々とある、齋宮も、崇神天皇六年、大御神を、宮中より、大和の笠縫邑に出し奉りて、齋祭奉りしを、又美和の御諸原に遷し奉りて、齋祭奉りしを申すなれば、これも齋《イツ》き祭る宮をいへるにて、齋内親王の御在所をいへるにあらず。いつくといふ言は、古事記上卷に、以伊都久神《モチイツクカミ》云々、また伊都伎奉《イツキマツル》云々。本集十九【卅五丁】に、春日野爾伊都久三諸乃《カスガノニイツクミモロノ》云々。また【卅六丁】住吉爾伊都久祝之《スミノエニイツクハフリガ》云々などありて、神にまれ、何にまれ、大切に敬めおくをいふことなり。さて、こゝは、敵味方たゝかひあらそふ間に、伊勢の神宮の方より、神風吹來りて、敵をまどはしゝと也。從《ユ》は、よりの意也。この御軍に、神風吹來りし事、紀には見えねど、この御軍の事を、しるしたる所に、於2朝明郡迹太川邊1、望2拜天照大神1とありて、大御神を祈らせ給ふ、しるく、この前後に雷雨ありし事も、黒雲天にわたりし事も、見えたれば、かく神風の吹來りし事もありつらんを、紀にはもらし給へるなるべし。
 
神《カミ・カム》風爾《カセニ》。
神風は神のふかしめ給ふにて、渡會の神宮より吹來りし也。比枕詞に、神風といふもこれ也。
 
(262)伊吹惑之《イフキマトハシ》。
伊吹の、伊は、假字にて、息吹《イキフキ》なり。神風に、息《イキ》を吹まどはし給ふ也。さて、いぶきとは、古事記上卷に、於吹棄氣吹之狹霧《フキウツルイフキノサキリニ》、所成神御名《ナリマセルカミノミナハ》、天津日子根《アマツヒコネノ》命云々。書紀神代紀上、一書に、我所v生之國、唯有2朝霧1而薫滿之哉、乃|吹撥《フキハラフ》之氣、化爲v神、號曰2級長戸邊《シナトヘノ》命1、亦曰2級長津彦《シナツヒコノ》命1、是風神也云々。大祓祝詞に、氣吹戸座須《イフキトニマス》、氣吹戸主止云神《イフキトヌシトイフカミ》、根國底之國爾《ネノクニソコノクニニ》、氣吹及※[氏/一]牟《イフキハナチテム》云々などありて、息を吹をいぶきとはいへり。枕詞に、神風の伊勢とつゞくるも、神風の息といふを、伊の一言へかけたる也。これらの事、冠辭考、かんかぜの條をも、考へ合すべし。
 
天雲乎《アマクモヲ》。
天雲は、天の雲なり。集中いと多く、あぐるにいとまなし。或人云、雲は天より外にあるまじきものなれば、天の雲といふべきよしなし。天は借字にて、雨雲なりといへれど誤り也、いかにも、重言なるやうなれど、空《ソラ》を、天のみそら、また天のしら雲などいへるにても、天雲は、天にたなびく雲なるをしるべし。
 
日之目毛不令見《ヒノメモミセス》。
日の見えんも見せずといふ也。目といふ言は、所見《ミエ》の約りたるにて、みえの反、めなれば、本集四【五十六丁】に、君之目乎保利《キミカメヲホり》云々といへるも、君が見えんを欲する也。十二【十九丁】に、妹之目乎見《イモカメヲミム》云々いへるも、妹が見えんを見ん也。これらを思ひ合せて、こゝの日之目の目も、見えの意なるをしるべし。
 
常闇爾《トコヤミニ》。
常闇は、書紀神代紀上に、六合之内、常闇而《トコヤミニシテ》、不v知2晝夜之相代1云々。また一書に、天下|恒闇《トコヤミニシテ》無2晝夜之殊1云々などありて、晝夜のわかちなく畫《ヒル》さへも闇になり(263)たるを、とこやみとはいへるなり。常闇《トコヤミ》の、常《トコ》は、常しへに久しき意にはあらで、たゞ晝夜のうちにのみいへるにて、夜の闇なるは、もとよりの事なれど、晝さへも、闇になりたりといふを、夜より引つゞくれば、晝までは久しき故に、常闇とはいへる也。本集十五【卅三丁】に、安波牟日乎其日等之良受《アハムヒヲソノヒトシラズ》、等許也未爾伊豆禮能日麻弖《トコヤミニイツレノヒマテ》、安禮古非乎良牟《アレコヒヲラム》云々なども見えたり
 
覆賜而《オホヒタマヒテ》。定之《シヅメテシ》。
上、齋宮從《イツキノミヤユ》といふ所より、こゝまでは、大御神の御意によりて、神宮より、俄に神風を吹出して、敵を惑し、天に雲たちて、日の目も見えぬまで、雲に覆ひて、晝さへも闇になしなどして、敵をなやまし、平らげて、神の御力も加はりて、しづめ給ひし天下ぞといへる也。
 
水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》。
水は借字にて、瑞々《ミヅ/\》しき意、穗は稻の事にて、中國は、稻の萬國にすぐれたる國なれば、それを賞して、中國の號を瑞穗《ミヅホ》の國ともいへるなり。この事は上【攷證二中四十三丁】にもいへり。
 
神髄《カムナガラ》。
こは、かんながらとよむべし。そのよしは、上【攷證一下八丁卅二丁】にいへり。また上【攷證二中】に、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》、神隨太布座而《カムナカラフトシキマシテ》云々ともありて、神隨は、神にましますまゝにといへる意にて、こゝに神とさせるは、天皇の御事にて、即ち天武帝より持統帝までを申すなり。
 
太敷座而《フトシキマシテ》。
太は、賞《ホメ》ていふ詞、敷《シキ》は知《シリ》領じますこと也。この事は、上【攷證一下六丁】にいへり。
 
(264)吾大王之《ワカオホキミノ》。天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘハ》。
吾大王とは、持統帝をさし奉り、持統帝の、しろしめす、天の下の政を、高市皇子の、申給へばといふ意也。こは、書紀天武紀に、十年二月甲子、立2草壁皇子尊1、爲2皇太子1、因以令v攝2萬機1云々。持統紀に、三年四月乙未、皇太子草壁皇子尊薨云々とありて、天武天皇十年より、持統天皇三年までは、天下の政を草壁皇子の執申給ひしを、この草壁皇子薨給ひて後、四年七月庚辰、以2皇子高市1爲2太政大臣1云々とあるより後、皇太子に立給ひても、天下の政をば、この皇子の執申給ひし也。さて、政を執給ふを、申給ふといふは、すべて、天下の政を、その/”\に聞行ひて、そのよしを、天皇に奏し申給ふよしにて、申賜《マヲシタマフ》とはいへる也。政をあづかり給ふ職を、關白と申すも、このよし也。古事記中卷に、大雀命、執2食國之政1以|白賜《マヲシタマヘ》云々。本集五【廿五丁】に、余呂豆余爾伊麻志多麻比提《ヨロツヨニイマシタマヒテ》、阿米能志多麻乎志多麻波禰《アメノシタマヲシタマハネ》、美加度佐良受弖《ミカトサラステ》云々。また【卅一丁】天下奏多麻比志家子等撰射多麻比天《アメノシタマヲシタマヒシイヘノコトエラミタマヒテ》、勅旨載持弖《オホミコトイタダキモチテ》云々など見えたり。さて、このまをすといふ言を、本集十八【十二丁】に、加波能瀬麻宇勢《カハノセマウセ》云々。また【二十丁】麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》云々。十五【廿三丁】に、波々爾麻于之弖《ハヽニマウシテ》云々。二十【卅八丁】に、伊能里麻宇之弖《イノリマウシテ》云々。また於夜爾麻宇佐根《オヤニマウサネ》云々など、まうすともあれど、古事記下卷歌に、母能麻袁須《モノマヲス》云々また御歌に、意冨麻敝爾麻袁須《オホマヘニマヲス》云々。本集五【廿五丁】に、意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》云々。二十【廿八丁】に、佐祁久等麻乎須《サケクトマヲス》云々。また【廿九丁】己等麻乎佐受弖《コトマヲサステ》云々など、まをすといふが本語なるを、まうすといふは、袁を宇に通はしたる音便にて、なべては、まをすといふべき也。
 
萬代《ヨロツヨニ》。然之毛將有登《シカシモアラムト》。
高市皇子の、天下の政を執申給ふも、萬代も、しかかはる事なくおはしまさんと見えて、榮えおはしましゝをいふ意にて、之毛《シモ》は(265)助字にて然《シカ》あらんとなり。一云|加是毛安良牟等《カクモアラムト》とあるも、あしからねど、本書のかたまされり。
 
木綿花乃《ユフハナノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。木綿は、上【攷證二中廿九丁】にもいへるが如く、穀または栲の木の皮をとりて、織れる布にて、木綿花は、その布もて作れる花なれば、今いふ作り花をいへるなるべし。實の花は、咲たるも盛り過ぬれば散ものなるを、作り花は、常しへに久しく散ことなきものなれば、いつもかはらず榮えまさんと思ふを、木綿花にたとへて、その水綿花のごとく、常しへに榮えまさんと思ひしをと、つゞけし也。さて、白綿花は、本集六【十丁】に山高三白木綿花落多藝追《ヤマタカミシラユフハナニオチタキツ》云々。また【十一丁】泊瀬女造木綿花《ハツセメノツクルユフハナ》云々。七【七丁】に、泊瀬川白木綿花爾墮多藝都《ハツセカハシラユフハナニオチタキツ》云々。十三【六丁】に、淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフミノミシラユフハナニナミタチワタル》云々なども見えたり。
 
榮時爾《サカユルトキニ》。
榮《サカユル》は、皇子のさかえ給ふを、木綿花にたとへて、木綿花のごとく、榮《サカユ》るといへるなれ、上につき、時爾さかえ給ふ、その時爾にといふなれば、下につく詞也。時爾の上に其《ソノ》といふ字を加へて、心得べし。本集六【卅丁】に、御民吾生有驗在《ミタミワレイケルシルシアリ》、天地榮時爾《アメツチノサカユルトキニ》、相樂念者《アフラクオモヘハ》云々。二十【廿五丁】に、母能其時爾佐可由流等岐登《モノコトニサカユルトキト》云々などあるも同じ。古事記上卷に、如2木花榮《サカユル》1、榮《サカユ》佐加延《サカエ》云々などもあり。
 
吾大王《ワガオホキミ》。皇子之御門乎《ミコノミカトヲ》。
上の、日並知皇子尊の、殯宮の時の歌にも、吾王皇子之命乃《ワカオホキミミコノミコトノ》云々とありて、吾大王《ワカオホキミ》とは、皇子を親しみ敬ひて、申すこと(266)也。皇子之御門とは、上の同じ歌の反歌に、皇子之御門之荒卷惜毛《ミコノミカトノアレマクヲシモ》云々ともありて、皇太子のおはします宮殿をいへる也。御門とかけるは借字にて、宮殿をみかどゝはいへる也。この事は、上【攷證二中五十丁】にいへり。一云|刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカトヲ》。これもあしからねど、本書の方まされり。
 
神宮爾《カムミヤニ》。
天皇にまれ、皇子にまれ、崩給ふを、神になりませるよしにいへるは、古への常なる事は、上【攷證二中四十四丁】日並知皇子尊殯宮歌に、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》、神上上座奴《カムアカリアカリイマシヌ》云々。下弓削皇子薨時歌に、神隨神等座者《カムナカラカミトイマセハ》云々などあるにても思ふべし。さてこゝは、皇子薨給ひしかば、其大宮をも、神宮として、宮のよそひをも、改給ふなり。
 
装束《ヨソヒ・カサリ》奉而《マツリテ》。
舊訓にも、考にも、装束を、かざりとよめれど、古事記書紀等、みな装束をば、よそひとよみて、本集三【五十八丁】安積皇子薨時歌に、白細爾舍人装束而《シロタヘニトネリヨソヒテ》云々、十二【卅丁】に、衣乎取服装束間爾《コロモヲトリキヨソフマニ》云々など、装束を、よそひとよめれば、こゝもよそひとよむべし。さてよそふといふも、かざるといふも、同意にて、殿にまれ、容《カタチ》にまれ、つくろひ立るをいひて、こゝは皇子薨じ給ひしかば、御殿をも、殯宮の装束にかへ奉る也。こは、下に引る、十三卷の歌にも白き細布を用るよし見えたるにても、思ひやるべし。また、こゝをかざりとよまんも、あしからず。そは、本集十三【廿八丁】挽歌に、大殿矣振放見者《オホトノヲフリサケミレハ》、白細布飾奉而《シロタヘニカサリマツリテ》、内日刺宮舍人方《ウチヒサスミヤノトネリモ》、雪穗麻衣服者《タヘノホノアサキヌキレハ》云々とありて、また、つねには、舟をよそふるを,ふなよそひとのみいふを、二十【十七丁】に、布奈可射里《フナカザリ》ともあればなり。この兩訓見ん人、心のひかん方にしたがふべし。
 
(267)遣使《ツカハシヽ・タテマダス》。
使を、印本便に誤れり。使を誤れる事しるければ、代匠記、考等の説によりて改む。舊訓、たてまだすとあるもいかゞ。こゝは、しかいふべき所ならねば、考に、つかはしゝとよまれしに從ふ。しは、給ふといふ意にて、この皇子の、つかひ給ひし人たちをいふ也。本集十三【廿九丁】に、朝者召而使《アシタニハメシテツカハシ》、夕者召使《ユフヘニハメシテツカハシ》、遣之舍人之子者《ツカハシヽトネリノコラハ》云々などあるにても思ふべし。
 
御門之人毛《ミカドノヒトモ》。
考云、卷十四に、みこの御門乃五月蠅《ミカトノサバヘ》なすさわぐ舍人はともよみしかば、專ら、御門守る舍人をいふ也。春宮舍人は、御階の下をも守なれど、薨まして後は、御門のみ守る事上に見ゆ云々といはれつるがごとし。
 
白妙乃《シロタヘノ》。麻衣著《アサコロモキテ・アサノコロモキ》。
妙《タヘ》は、※[糸+旨]布の惣名なる事、上【攷證一下二十六丁】にいへるがごとし。されば、白き麻衣をば、白妙の麻衣とはいへるにて、こゝは、舍人たちの御喪服をきるをいへり。本集三【五十八丁】に、安積皇子薨時の歌に、白細爾舍人装束而云々。また【五十九丁】天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナカニ》、萬代爾如此毛欲得跡《ヨロツヨニカクシモカモト》、憑有之皇子之御門乃《タノメリシミコノミカトノ》、五月蠅成驟騷舍人者《サハヘナスサワクトネリハ》、白栲爾服取着而《シロタヘニコロモトリキテ》云々。十三【廿八丁】挽歌に、大殿矣振放見者《オホトノヲフリサケミレハ》、白細布飾奉而《シロタヘニカサリマツリテ》、内日刺宮舍人者《ウチヒサスミヤノトネリハ》、雪穗麻衣服者《タヘノホニアサキヌキレハ》云々などあるもこゝと同じ。(頭書、書紀孝徳紀、大化二年詔に、其葬事、帷帳等用2白布1云々。)
 
埴安乃《ハニヤスノ》。御門之原爾《ミカトノハラニ》。
埴安《ハニヤス》は、大和國十市郡なり。この地の事は、上【攷證一下卅五丁】にいへり。御門之原《ミカトノハラ》は、藤井が原をいへるなるべし。いかにとなれば、本集一【廿三丁】
 
藤原宮御井歌に、八隅知之和期大王《ヤスミシヽワコオホキミ》、高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》、麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフチヰガハラニ》、大御門始腸而《オホミカトハシメタマヒテ》、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシメシタマヘハ》云々とある、和期大王《ワコオホキミ》は、持統天皇をさし奉り、日之皇子は、高市皇(268)子をさし奉りて、天皇、春宮、殿は別なるべけれど、地は同じ地におはしまして、同じ地なれば、いづれをもひろく藤原宮とはまをし、またこの地、香具山のほとりなれば、春宮をば、香具山の宮とも申しゝなるべし。藤井が原に、大御門始賜而とあるごとく、この原に、大御門を建給ひしかば御門の原ともいへるなるべし。すべて、この歌と、かの藤原宮御井歌とを、てらし合せて、この地の事をば考ふべし。
 
赤根刺《アカネサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中四十七丁】にも出たり。
 
日之《ヒノ》盡《コト/\・ツクルマデ》。
これを、考には、ひのくるるまでとよまれしかど、いかゞ。日のこと/”\と訓べし。日のこと/”\は、日の限りといふ意なり。そのよしは上【攷證二中廿八丁】に、夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコト/”\》、晝者母日之盡《ヒルハモヒノコト/”\》云々とある所にいへり。
 
鹿自物《シヽジモノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。自物《シモノ》といふ言は、書紀武烈紀歌に、斯々式貳暮能瀰逗矩陛御暮黎《シヽジモノミツクヘコモリ》云々とありで、集中、鹿兒自物《カコシモノ》、鳥自物《トリシモノ》、馬自物《ウマシモノ》、犬自物《イヌシモノ》、鴨自物《カモシモノ》、雪自物《ユキシモノ》などありて、皆、の如くといふ意也。この事は、上【攷證一下廿九丁】にもいへり。こゝは、獣などの如くに、匍伏《ハヒフス》とつゞ〃たるにて、伊波比の、伊は發語也。さて、鹿を、しゝと訓よしは、書紀神代紀下に、入v山覓v獣《シヽ》云々と、獣をしゝとよめる如く、すべて獣をしゝとはいひし也。そは獣は肉《シヽ》を専らと賞するものなれば、肉《シヽ》の意にて、しゝとはいひし也。今の世に、猪をさして、しゝといふも(269)これなり。
 
伊波比伏管《イハヒフシツヽ》。
伊波比《イハヒ》の、伊は發語にて、波比は匍《ハヒ》也。下に、伊波比廻《イハヒモトホリ》とあるも、同じ。古事記上巻に、化2八尋|和邇《ワニ》1而|匍匐委蛇《ハヒモコロヒキ》云々。本集三【十三丁】に、四時自物伊波比拜《シヽジモノイハヒヲロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》云々など見えたり。さて、こゝは、舍人などの、終日|匍伏《ハヒフシ》て、禮を亂さず侍らふをいへるにて、すべて、獣は、膝を祈て、伏もの故に、それにたとへて、いへる也。三【卅七丁】に、十六自物膝折伏《シヽシモノヒサヲリフセテ》云々などもいへり。書紀天武紀云、十一年九月壬辰、勅、自v今以後、跪禮匍匐禮、並止v之、更用2難波朝廷之立禮1云々とあるにても、匍匐《ハヒフス》は禮なるをしるべし。
 
鳥玉能《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上四丁】にもいへり。
 
暮爾至者《ユフベニナレバ》。
暮を、考に、よふべと訓れしは、甚しき誤りなるうへに、音便の假字さへたがへり。暮を、ゆふべとよむは、つねのことにて、本集五【卅九丁】に、夕皇乃由布幣爾奈禮婆《ユフツヽノユフベニナレバ》云々。十四【卅五丁】に、左牟伎由布敝思《サムキユフベシ》云々。廿【十三丁】に、須受之伎由布幣《スゞシキユフベ》云々などあるにてもよふべとよむまじきをしるべし。さて、本集四【五十八丁】に、昨夜者《ヨヘハ》云々とある昨夜を、よべとよむを、音便にようべともいひ、又それを音便にくづして、よんべともいへり。本集四【十八丁】に、咋夜雨爾云々とあるを、舊訓、よふへの雨にとよみ、この歌を、六帖五に取て、よんべの雨にとせり。土佐日記附注本に、よんべのうなゐもがな、ぜにこはん云々とあれど、よんべといふも、ようべといふも、中ごろよりの事にて、この集のころの音にあらず。ましてよふべと書ことは、すべてなき(270)事なり。
 
大殿乎《オホトノヲ》。
高市皇子尊のおはしましゝ春宮を申すなり。
 
振放見乍《フリサケミツヽ》。
ふりあふぎ見るをいふ也。この言は、上【攷證二中十八丁】にいへり。さて、大殿は、ふりあふぎ見るものならねど、上【廿八丁】にも、久竪乃天見如久仰見之《ヒサカタノアメミルコトクアフキミシ》、皇子乃御門之《ミコノミカトノ》云々とありて、天皇、皇子などをば、敬ひ尊み奉りて、ふりさけ見つゝとは申す也。
 
鶉成《ウヅラナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鶉の、草根をはひめぐれるがごとく、匍廻とはつゞけしなり。
 
伊波比廻《イハヒモトホリ》。
止に、伊波比伏管《イハヒフシツヽ》とある、伊波比と同じく、伊は發語にて、波比は匍《ハヒ》、延《モトホリ》は字のごとくめぐれる也。古事記中卷、御歌に、波比母登富呂布《ハヒモトホロフ》、志多陀美能《シタヾミノ》、伊波比母登富理《イハヒハヒモトホリ》云々。また匍2匐廻《ハヒモトホリ》其地之|那豆岐田《ナツキダ》1哭云々。本集三【十三丁】に、四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒヲロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒハヒモトホリ》、恐等仕奉而《カシコシトツカヘマツリテ》云々。績日本紀、神龜六年八月詔に、恐古士物進退匍匐廻保理白賜比《カシコシモノシゞマヒハヒモトホリマヲシタマヒ》云々など見えたり。また廻《メグ》るを、もとほるといへるは、本集三【五十三丁】に、若子乃匍匐多毛登保理《ミトリコノハヒタモトホリ》云々。四【十六丁】に、磐間乎射往廻《イハノマヲイユキモトホリ》云々などありて、集中猶いと多し。さて、こゝは、舍人たちの、せんすべしらで、夜になれば、大殿をあふぎ見ては、悲みにたへかねて、あるにもあられず、はひ廻り、ありきて、うちなげくさまをいへるなり。
 
(271)雖侍候《サモラヘト》。
大殿に伺候するをいへり。上【攷證二中五十五丁】にも出たり。
 
佐母良比不得者《サモラヒエネバ》。
皇子おはしまさねば、大殿にさもらへども、物さびしく、在つかぬこゝちすれば、さまよひたゞよふと也。宣長云、者の字は、草書のてをはに誤れるなるべし。必らず、かねてといはでは語とゝのはず。
 
春鳥《モヽトリ・ウクヒス》之《ノ》。
枕詞なり。舊訓には、うぐひすとよみ、考には、字のまゝに、はるとりとよまれつれど、いづれもいかが。鶯は、早春より來鳴て、春は、專らこの鳥を賞すること故に、是をうぐひすとよまんも、一わたりはさる事ながら、集中、春鳥と書る所は、音のみなくとも、さまよふとも、つゞけて、必らずうぐひすとよむべき所に、春鳥と書る所、一つなければ、うぐひすとよむまじき事しられたり。考に、はるとりとよみ、既に冠辭考にも、はるとりとして、のせられたれど、いかゞ。春來なくいろ/\のとりを、はる鳥といふことあらば、集中にまれ、外の書にまれ、はるとりと假字に書る所、一つばかりはありぬべきを、みな文字に、春鳥とのみ書て、外にはるとりといふこと見えざれば、はるとりともよむまじき也。されば、案に、もゝとりと訓べき也。いかにとならば、漢土にても、春鳥といふは、春來鳴くいろ/\の鳥のことにて中國に、もゝとりといふに、よく當れり。されば、集中、百鳥とあると、春鳥とあると、漢土にて春鳥といふ、この三つの例をあげたり。照し合せて、こゝも、もゝとりと訓べきをしるべし。まづ百鳥といふは、本集五【十七丁】七に、烏梅能波奈伊麻佐加利奈利《ウメノハナイマサカリナリ》、毛々等利能己惠能古保志枳波流岐(272)多流良斯《モヽトリノコヱノコホシキハルキタルラシ》云々。六【四十五丁】に、開化之色目列敷《サクハナノイロメツラシキ》、百鳥之音名束敷《モヽトリノコヱナツカシク》云々。十八【十八丁】に、山乎之毛佐波爾於保美等《ヤマヲシモサハニオホミト》、百鳥能來居弖奈久許惠《モヽトリノキヰテナクコヱ》、春佐禮婆伎吉能可奈之母《ハルサレハキヽノカナシモ》云々とありて、春鳥とあるは、九【卅四丁】に、葦垣之思亂而《アシカキノオモヒミタレテ》、春鳥能鳴耳鳴乍《モヽトリノネノミナキツヽ》云々。二十【卅七丁】に、春鳥乃己惠乃佐麻欲比《モヽトリノコヱノサマヨヒ》云々とあり。漢土に、春鳥といへるは、洛陽伽藍記卷 に、景林寺西有v園、多饒2奇果1、春鳥秋蝉、鳴聲相續云々。柳※[恐の心が言]陽春歌に、春鳥一囀有2千聲1、春花一叢千種名云々。薛濤詩に、春愁正斷絶、春鳥復哀吟云々など見えたり。之《ノ》文字は例の如くの意也。(頭書、新撰字鏡に、※[春+鳥]、宇久比須。)
 
佐麻欲此奴禮者《サマヨヒヌレハ》。
さまよふといふ言は、新撰字鏡に、※[口+屎]【詩伊反、出氣息心呻吟也、惠奈久又佐萬餘不、又奈介久】呻【舒神反、吟也、歎也、左萬與不、又奈介久】云々とありて、迷ひ歎く意にいへるにて、こゝは、春になれば、いろ/\の鳥來りて、さまよふにたとへて、舍人たちの、むなしき大殿に、なげきさまよふをいへるなり。宣長云、さまよひぬるにといふ意也。次の思ひもいまだつきねばも、つきぬにといふ意なると同じ古言の格なり。つねの、ぬればの意としては、下へかゝる所なし云々。
 
嘆毛《ナゲキモ》。未過爾《イマダスキヌニ》。
皇子薨まして、そのなげきもいまだすぎやらぬに、はや百濟の原に葬り奉りぬと也。ぬにといふ言は、神葬といふへかけてきくべし。
 
憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネバ》。
まへの、嘆毛未過爾《ナゲキモイマダスキヌニ》といふに對へたる語にて、皇子薨給ひし、歎の思ひも、いまだつきやらぬにといへる也。さて、このねばといふ言は、ぬにといふ意也。そは古事記上卷、八千矛神御歌に、於須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》云々。本集四【廿九丁】に、奉見而未時太爾不更者《ミマツリテイマタトキダニカハラネハ》、如年月所念君《トシツキノコトオモホユルキミ》云々。八【十七丁】に、霜雪毛未過者《シモユキモイマダスキネバ》、不思爾春日里爾梅花見都《オモハズニカスガノサトニウメノハナミツ》云々。
(273)ウノハナモイマタサカネハホトヽギスサホノヤマヘヲキナキトヨモスまた【廿五丁】に、宇能花毛未開者《》、霍公鳥《》、佐保乃山邊來鳴令響《》云々などありて、集中猶いと多し。古今集秋上に、友則、あまの川あさせしら浪たどりつゝわたりはてねばあけぞしにける云々。これらのねば、皆ぬにの意也。
 
言左敝久《コトサヘク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中七丁】にも出たり。印本、左を右に誤れり。今意改。
 
百濟之原從《クダラノハラユ》。
百濟の原は、大和國廣瀬郡なり。書紀舒明紀に、十一年秋七月、詔曰、今年造作大宮及大寺、則以2百濟川側1爲2宮處1云々。十二年冬十月、徙2百済宮1云々。天武紀に、繕2兵於百済家1云々。本集八【十六丁】に、百濟野乃芽古枝爾《タタラヌノハキノフルエニ》云々などあるも、みな同所なり。陽成實録、元慶四年紀に、大和國十市郡百濟川云々とあるは、大和志に、百濟川、自2高市郡1、流2於郡東界1、至2于河合1、入2廣瀬郡1云々とありて、この川、十市郡と、廣瀬郡との界を流るれば、十市郡ともすめれど、今は、大和志によりて、みな廣瀬郡とせり。また、この百濟てふ地名、攝津國、河内國などにも、同名あり。思ひまぎるべからず。從は、例の、よりの意にて、こゝは、この御葬送、十市郡藤原の京をいでて、廣瀬郡百濟より、同じ郡の城上殯宮にをさめ奉るなれば、從とは書るなり。
 
神葬《カムハブリ》。
天皇にまれ、皇太子にまれ、崩給ふを、神になりませるよしにいへるは、上に、神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》とある所に、いへるがごとくなれば、神葬《カムハフリ》とは申すなり。本集十三【廿八丁】に、朝(274)裳吉城於道從《アサモヨシキノヘノミチユ》、角障經石村乎見乍《ツヌサハフイハレヲミツヽ》、神葬葬奉者《カムハフリハフリマツレハ》云々とも見えたり。さて、葬をはふりといふよしは、宣長云、すべて、はふりとは、其儀をいふ也。しかいふ意は、古事記遠飛鳥宮段歌に、意富岐美袁斯麻爾波夫良姿《オホキミヲシマニハフラハ》、續紀卅一の詔に、彌麻之《ミマシ》大臣之家内|子等乎母《コトモヲモ》、波布理《ハブリ》不v賜、失不v賜、慈賜|波牟《ハム》などある、はふると本同言にて、放《ハブ》るなり。葬は、住なれたる家より出して、野山へ送りやるは、故《ハブラ》かし遣る意よりいへる也云々といはれつるが如し。猶くはしくは、古事記傳廿九に出たれば、ひらき見てしるべし。
 
葬伊座而《ハブリイマシテ》。
葬《ハブリ》は、今の世にては、土の下に埋め隱す事とのみ思へど、古へは、しからず。まへに、宣長のいはれつるがごとく、そのわざを、はふりとはいふ也。伊座は、往ますといふことにて、常にましますといふことを、いますといふとは別なり。そは、古事記中卷御歌に、佐々那美遲袁《サヾナミヂヲ》、須久須久登和賀伊麻勢婆夜《スクスクトワカイマセバヤ》云々。本集三【卅八丁】に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラキソノミチ》云々。四【卅二丁】に、彌遠君之伊座者《イヤトホニキミカイマサハ》云々。五【卅一丁】に、唐能遠境爾《モロコシノトホキサカヒニ》、都加播佐禮麻加利伊麻勢《ツカハサレマカリイマセ》云々などありて、集中猶多し。これら、みな往《ユキ》ますの意也。さてこゝは、皇子のおはしましゝ、藤原の京の、香具山の宮をいでて、百濟の原より、城上の御墓所に、行道のほどを、葬伊座《ハフリイマス》とはいへるなり。
 
朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨキ》。
上枕詞にて、冠辭考に出たり。上【攷證一下四十一丁】にも出たり。
 
木上宮乎《キノヘノミヤヲ》。
上に、木※[瓦+缶]殯宮、城上殯宮などあるも、こゝ也。そのよしは、その所にいへり。
 
(275)常宮等《トコミヤト》。
 
上、御食向木※[瓦+缶]之宮乎《ミケムカフキノベノミヤヲ》、常宮常定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》云々とある所にいへるごとく、今こゝに、御墓を作りをさめ奉りしかば、これぞ久しく、かはる事なき大宮なると申せる也。
 
高《タカ》之《シリ・シ》奉而《タテヽ》。
この一句、心得がたし。しひて思ふに、之と知と同韻の字なれば、借用ひたる歟。故に、之をしりとよめり。奉《タテ》は訓を略して、建の意に用ひたる也。そは本集六【四十三丁】に、宮柱太敷奉《ミヤハシラフトシキタテヽ》云々とあるにてしるべし。たかしりは、上【攷證一下九丁】にいへるごとく、大宮を高く知り領します意、奉《タテ》建にて、こゝは、木上殯宮を賞し申せる詞也。さて、こゝに諸説のあるをあげたり。見ん人、心のひかん方にしたがふべし。考云、今本、高之奉而とあるは、字誤れり。上の、殯宮の長歌にも、陵の事を、御在香乎高知座而《ミアラカヲタカシリマシテ》とあるなどによりて、改めつ云々とて、こゝをも高知座而と改められたり。宣長云、高之奉而は、定を高之の二字に誤れる也。上の長歌にも、常宮跡定賜《トコミヤトサタメタマヒテ》とあり。考に、高知座と改められつるは、字形遠し。略解云、高之奉而の、之の字、久の誤りにて、たかくまつりてとありしか云々などあれど、いづれも心ゆかず。
 
神隨《カムナカラ・カミノマニ》安定座奴《シツマリマシヌ》。
神隨《カムナカラ》は、上所所にいへるがごとく、神におはしますまゝにといへる也。安定を、しづまりと訓るは、義訓なり。書紀神代紀下に、平定をしづむとよめるが如し。さて、このしづまりますといふ言は、外へ遷行《ウツリ》まさずして、其所に永く留り給ふをいへるにて、まへに、木上宮を、常宮といへるにても、永きおはしまし所の意なるをしるべし。古事記に、鎭座をよみ、出雲風土記、祝詞等に、靜坐をよめり。この事古事記傳卷十一にくはしく解れたれば、ひらき見てしるべし。
 
(276)雖然《シカレドモ》。
この言は、上下へかゝりて、神隨安定《カムナガラシツマリ》ましぬ、しかはあれど、平生おはしましゝ、藤原の京の香具山の宮は、萬代過ぬとも、失んと思へやは、うせんとは思はざりしものをと也。
 
吾大王之《ワガオホキミノ》。
高市皇子をさし奉れり。
 
萬代跡《ヨロツヨト》。所念食而《オモホシメシテ》。作良志之《ツクラシヽ》。
この香來山の大宮を、萬代も、かくてあらんと、おぼしめして、作り給ひしとなり。
 
香來山之宮《カグヤマノミヤ》。
まへに、埴安乃御門之原《ハニヤスノミカトノハラ》とある所にいへるがごとく、この地は、大和國十市郡にて、香來山のほとりなれば、香具山の宮とも申しゝ也。本集一【廿三丁】藤原宮御井歌に、日本乃青香具山者《ヤマトノアヲカグヤマハ》、日經乃大御門爾《ヒノタテノオホミカトニ》、春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサヒタテリ》云々とあるにても、香具山のほとりなるをしるべし。
 
萬代爾《ヨロツヨニ》。過牟登念哉《スキムトオモヘヤ》。
萬代は、年久しきい《(マヽ)》へる也。過牟登念哉《スキムトオモヘヤ》の、過《スク》は、たゞ過《スキ》ゆく意にはあらで、いたづらにすぎんと思へや、いたづらに過んとは思はざりしをと也。この類ひの過《スク》といふ言は、本集三【廿九丁】に、明日香河《アスカカハ》、川余藤不去立霧乃《カハヨトサラスタツキリノ》、念應過孤悲爾不有國《オモヒスクヘキコヒニアラナク二》云々。四【四五丁】に、如此耳戀哉將度《カクシノミコヒヤワタラム》、秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《アキツヌニタナヒククモノスグトハナシニ》云々。また、家人爾戀過目八方《イヘヒトニコヒスキメヤモ》、川津鳴泉之里爾年之歴去者《カハツナクイツミノサトニトシノヘヌレハ》云々など有で、集中猶多し。これらの過といふもみないたづらに過る意也。念哉《オモヘヤ》の、やもじは、うらへ意のかへるやにて、おもへや、おもはざりしものをといふ意也。このうらへ意のかへるやもじの事は、上【攷證一下五十六丁】にいへり。
 
(277)天之如《アメノコト》。振放見乍《フリサケミツヽ》。
これも、大殿をふりあふぎ見る也。天は、ふりあふぎて見るもの故に、これを天にたとへて、天之如とはいへり。
 
玉手次《タマダスキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上十丁】にも出たり。
 
懸而《カケテ》將偲《シヌバム・シノバム》。
懸而《カケテ》は、心にかけて忍び奉らんと也。この事、上【攷證一上十二丁】にいへり。
 
恐《カシコ》有《カレ・ケレ》騰文《ドモ》。
恐有《カシコカレ》どもは、かしこくあれどもにて、かしこしといふ言は、上【攷證二中廿七丁此卷十六丁】にもいへるがごとく、本は、かしこみ恐《オソ》るゝ意なれど、そを轉じて、ありがたくかたじけなき意にて、こゝは、俗言にで、恐《オソ》れおほきといふこゝろとして、おそれおほけれども、心にかけて忍び奉らんとにて、この二句に、この長歌中の事をこめて、とぢめたり。かく見ざれば、さの《(マヽ)》とぢめの二句いたづらなるべし。
 
反歌二首。
印本、こゝをも短歌とせり。例によりてあらたむ。そのよしは上にいへり。
 
200 久堅之《ヒサカタノ》。天所知流《アメシラシヌル》。君故爾《キミユヱニ》。日月毛不知《ヒツキモシラス》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
天所知流《アメシラシヌル》。
天皇にまれ、皇子にまれ、崩給ふを、神となりて天をしろしめすことをいへり。上、日並知皇子の殯宮歌に、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキカムアガリアカリイマシヌ》、神上上座奴《》云々ともありて、本集三(278)【五十八丁】安積皇子薨時歌に、和豆香山御輿立之而《ワツカヤマミコシタタシテ》、久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》云々。また吾王天所知牟登《ワカオホキミアメシラサムト》云々などあるにても思ふべし。
 
君故爾《キミユヱニ》。
この故爾《ユヱニ》は、なるものをいふ意也。此事は、上【攷證一上卅六丁】にいへり。
 
目月毛不知《ヒツキモシラス》。
日も月もしらざるにて、皇子薨ませるを、なげきこひまどひて、月日の經ゆくをもしらざる也。一首の意は、皇子命は、今は天をしろしめして、神上したまひしものを、いかにおもへばにか、かく月日をもしらぬばかりに、戀奉るらんとなり。
 
201 埴安乃《ハニヤスノ》。池之堤之《イケノツヽミノ》。隱《コモリ・カクレ》沼乃《ヌノ》。去方乎《ユクヘヲ》不知《シラニ・シラズ》。舍人者迷惑《トネリハマトフ》。
 
埴安乃《ハニヤスノ》。池之堤之《イケノツヽミノ》。
本集一【廿三丁】に、埴安堤上爾在之《ハニヤスノツヽミノウヘニアリダヽシ》云々とあるこれなり。この地の事は、上【攷證一下卅五丁】にいへり。
 
隱《コモリ・カクレ》沼乃《ヌノ》。
舊訓、かくれぬのとよめれど、こもりぬのとよむべし。本集十四【卅二丁】に、須沙能伊利江乃許母理沼乃《スサノイリエノコモリヌノ》云々とあれば也。また、本集此卷【廿丁】に、嬬隱有屋上乃山乃《ツマコモルヤカミノヤマノ》云々。八【廿五丁】に、隱耳居者《コモリノミヲレハ》云々などあるにても、隱をこもりとよむべきをしるべし。隱沼《コモリヌ》とは、本集九【卅六丁】に、隱沼乃下延置而《コモリヌノシタハヘオキテ》云々。十二【廿丁】に絶沼之下從者將戀《コモリヌノシユハコヒム》云々。また去方無三隱有小沼乃下思爾《ユクヘナミコモレルヌマノシタモヒニ》など見えて、水の流るることなく、こもりてのみあるをいひて、ここは、池の堤を爲めぐらして、水の行方なきをいへり。されば、去方乎不知《ユクヘヲシヲニ》とはつゞけたる也。されど、古今集戀三に、友則、紅の(279)いろには出じ、かくれぬのしたにかよひて戀はしぬとも云々とあるを見れば、かくれぬとよめるもいと古けれど、こもりぬとよまん事、明らかなれば、今は改めつ。さて、沼の字は、古事記にもぬの假字に用ひ、本集十一【卅三丁】に、青山之石垣沼間乃水隱爾《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニ》云々ともありて、ぬともいひ、ぬまともいひし也。そは、本集十二【廿丁】に、小埼乃沼爾《ヲサキノヌマニ》云々。天文本和名抄水士類に、唐韻云沼【之少切和名奴】池沼也云々。これを、印本には、奴萬とあり。これらにて、沼をぬともぬまとも、いひしをしるべし。
 
去方乎《ユクヘヲ》不知《シラニ・シラズ》。
不知を、舊訓、しらずとよめれど、しらにとよむべし。しらにの、にもじはずの意にてしらずといふと同じ。この事は、上【攷證一上十一丁】にいへり。さて、この歌は、序歌にて、隱沼《コモリヌ》は、水のゆく所なく、こもりてのみあるをいひて、そのこもりぬのごとくゆく方をしらざれば、舍人はまどふといへる也。皇子薨まして、すべきかたなく、まどへるさまさもあるべし。(頭書、しらずといふことも、集中なきにあらず。そは、)
 
或書反歌一首。
 
考には、左注によりて、こゝを、檜隈女王作歌と直されしかど、例の、古書を改るの僻なればとらず。
 
202 哭澤之《ナキサハノ》。神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》。雖祷祈《イノレドモ》。我王者《ワカオホキミハ》。高日所知奴《タカヒシラシヌ》。
 
哭澤之《ナキサハノ》。
古事記上卷云、故爾|伊那那岐《イサナキ》命詔之、愛我那邇妹《ウツクシキワカナニモノ》命乎、謂d易2子之一木1乎u、乃匍2匐御枕方1、匍2匐御足方1而哭時、於2御涙1所v成神、坐2香山《カクヤマ》之畝尾木本1、名2泣澤女《ナキサハメノ》(280)神1云々とある、この神也。延喜神名式に、大和國十市郡、畝尾都多本神社云々ある、これなるべし。宣長云、むかし、かく、人のいのちを、この神にいのりけんよしは、伊邪那美神の崩ませるを、かなしみ給へる御涙より、なりませる神なればか云々。
 
神社爾《モリニ》。
集中、神社をも、社の一字も、もりとよめり。ともに義訓なり。そは本集七【卅三丁】に、卯名手之神社《ウナテノモリ》云々、九【一六丁】に、石田社《イハタノモリ》云々など見えたり。神社には、必らず木など植、その木をば、神木とて、手さへふれざれば、自らに生しげりて、森ともなるによりて、その事もて、この二字をもりとはよめる也。古今集※[言+非]諧に、さぬき、ねぎごとをさのみきゝけんやしろこそ、はてはなげきのもりとなるらめ云々。六帖五に、人づまはもりかやしろか、から國のとらふす野べか、ねてかたらはん云々など、もりと、やしろと、かけ合せよめるにても、もりもやしろも、おなじことなるをしるべし。又集中にも、新撰字鏡にも、社をもりとよめり。左氏昭十二年釋文に、社本作v杜とあれば、社とかけるも、杜と書るも同じ意なり。
 
三輪須惠《ミワスヱ》。
三輪《ミワ》は、神酒、須惠《スヱ》は居なり。和名抄祭祀具に、日本紀私記云神酒【和語云美和】云々。本集十三【四丁】に、五十串立神酒座奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルハフリヘカ》云々など見えて、枕詞に、うまざけみわとつゞくるも、このよし也。須惠は居にて、これは、神酒を甕《ミカ》に釀《カミ》たるまゝ、神にそなへ供する也。春日祭祝詞に、御酒者甕上高知《ミキハミカノヘタカシリ》、甕腹滿並《ミカノハラミチナラヘ》云々などあるがごとく、甕は、長高く大きなるものと見ゆれば、ことさらに、居とはいへるにて、たゞ供する事のみにはあらず。
 
(281)雖祷祈《イノレドモ》。
ある人、これを、こひのめどゝよめれど、舊訓のまゝ、いのれどもと訓べき也。本
 
集十三【廿四丁】に、天地乃神乎祷迹《アメツチノカミヲイノレド》云々。また神尾母吾者祷而寸《カミヲモワレハイノリテキ》云々などあるにてもおもふべし。
 
高日所知奴《タカヒシラシヌ》。
高は、上【攷證一下十九丁】高照る《タカヒカル》とある所にいへるがごとく、天といふと同じく、日といへるは、すべて、天皇の御未は、日の神の御末なれば、日之皇子とさへ申せるごとくにて、日にたとへまつれば、日の神のおはします天を、知り領しますとはいへる也。まへに、天所知流《アメシラシヌル》とも申せるごとく、皇子たちの薨ませるをば、神となりて、天を領じませるやうに申て、こゝも高日《タカヒ》しらしぬとは申せる也。さて、一首の意は、哭澤の神社に、大御酒を居奉て我大王の御命をいのり申奉れども、其かひなく、薨まして、今は天を知り領しましぬとなり。
 
右一首。類聚歌林曰。檜隈女王。怨《ウラムル》2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1曰。持統天皇。十年丙申。秋七月。辛丑朔庚戌。後皇子尊薨。
 
槍隈《ヒノクマノ》女王。
父祖不v詳。續日本紀に、天平九年二月、授2從四位下檜前王從四位上1云々と見えたり。この前後、女の叙位の所なれどは《(マヽl)》女王とはなけれど、女王なる事明らけし。こゝには、檜隈とありて、續紀には、檜前とあれど、集中、前をも、くまとよみて、同訓なれば、通はし書る也。さて、この高市皇子の薨給へる、持統天皇十年より、天平九年まで、四十(282)二年なれば、この女王、高市皇子の薨給へる時、二十歳なりとも、天平九年には、六十歳餘になられぬべけれど、續紀に見えたる檜前王と、この檜隈女王と同人なる事明らけし。
 
怨《ウラムル》2泣澤神社1。
この高市皇子の御事を、祈申されしかど、そのかひあらざりしかば、うらみ奉れるなり。
 
後皇子。
この高市皇子、草壁皇子薨給ひて後、皇太子に立給ひしかば、後皇子とは申也。この皇子の御事は、上【攷證二上卅二丁】に申せり。
 
但馬皇女薨後。穗積皇子。冬日雪落遙望2御墓1。悲傷流v涕御作歌一首。
但馬皇女。
天武帝の皇女也。上【攷證二上卅二丁】に申せり。續日本紀に、和銅元年、六月丙戌、三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也云々と見えたり。さて、皇女と、穗積皇子との御事、本集此卷【十四丁】に、但馬皇女、在2高市皇子宮1時、思2穗積皇子1御作歌云々。また【十五丁】但馬皇女在2高市皇子宮1時、竊接2穗積皇子1、事既形而後御作歌云々などあるがごとく、ひそかに通じおはしましければ、ことさらに悲しみたまへるなり。
 
穗積皇子。
天武帝の皇子なり。この御事も上【攷證二上卅二丁】にて申せり。
 
遙望2御墓1。
この御墓は、大和國宇田郡と、城上郡との堺にて、城上郡につきたる方なるべし。其よしは下にいへり。
 
(283)悲傷流v涕。
かなしみいたみ給ひて、涕をながしたまふなり。さて考には、この但馬皇女の上に、寧樂宮の三字の標目を加へられて、こゝより下をば、寧樂宮の御宇の歌とされたれど、印本のまゝ、下に載べきなり。そのよしは、上【攷證一下卅九丁】寧樂宮の所にいへり。
 
203 零雪者《フルユキハ》。安幡爾勿落《アハニナフリソ》。吉隱之《ヨナバリノ》。猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》。塞爲卷爾《セキナラマクニ》。
 
この安幡《アハ》は、必らず地名なるべし。考には安幡《アハ》の、安は、佐の誤とて、佐幡と改めて、雪の多くふる事なかれといふ意とし、宣長は、近江の淺井郡の人其あたりにては、淺き雪をば、ゆきといひ、深く一丈もつもる雪をば、あはといふと也。こゝによくかなへり。古今集の、雪のあはだつも、深く立意なるべしといへり。古言ゐ中に殘れる事もあればにやあらん。猶考ふべしといはれしかど、いづれも心ゆかず。されば考ふるに、安幡《アハ》は、穗積皇子の、おはします藤原の京より、但馬皇女の御墓のある、猪養の岡のほとりを、望給ふ間にて、この御墓へ往來する、道のほどの地名なるべし。書紀皇極紀の謡歌に、阿波努《アハヌ》とあるは、古く高市郡とすれど、もし、この安幡と同所にはあらざるか。大和志十市郡に、粟原てふ地、ところ/”\に見えたるは、もしこゝにはあらざるか。其所にゆきて、考へたらましかばとは思へど、すべて界をいでぬ身なれば、いかゞはせん。これを地名とする時は、一首のうへも、おだしく、前後の意も、よく聞ゆれば、地名なる事明らけし。猶、この地にくはしき大和人よ、よく考へてよかし。
 
(284)吉《ヨ》隱《ナバリ・ゴモリ》之《ノ》。猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》。
この地の事は、書紀持統紀に、九年十月乙酉、幸2菟田吉隱1云々。延喜諸陵式に、吉隱陵、在2大和國城上郡1云々などありて、城上郡なり。本集八【卅九丁】大件坂上郎女、跡見《トミ》田庄作歌に、吉名張乃猪養山爾伏鹿之《ヨナハリノヰカヒノヤマニフスシカノ》云々。十【四十四丁】に、吉魚張能浪柴乃野之《ヨナハリノナミシハノヌノ》云々などあり。この讀合せたる地名をも、大和志もて考ふるに、跡見《トミ》、猪養《ヰカヒ》、吉隱《ヨナバリ》、浪柴《ナミシバ》、みな城上郡にのせて、鳥見丘《トミノヲカ》、外山村方、東至2宇陀郡萩原村1云々とあれば、この吉隱之猪養乃岡《ヨナバリノヰカヒノヲカ》も、二郡の界にて、城上郡につきし方なるべし。書紀に、菟田吉隱とあるは、古へは、郡などの界は、今の如くはさだかならざりしなるべし。
 
塞爲卷爾《セキナラマクニ》。
塞は、字の如く、ふさぐ意にて、古事記上卷に、逆2塞上《セキアケ》天安河之水1而云々。本州三【五十六丁】に、妹乎將留塞毛置末思乎《イモヲトヽメムセキモオカマシヲ》云々などありて、集中猶多し。これらも、みなふさぐ意より出たるにて、關を、せきといふも、これ也。そは、四【四十一丁】に、石上零十方雨二將關哉《イソノカミフルトモアメニセカレメヤ》云々とよみて、また廣雅釋詁三に、關塞也云々とあるにても、おもふべし。さて、一首の意は、上にも、薨給ひし人の、御ゆかりも、又めしつかひ給ひし臣たちも、御墓へ往來する事見えたるごとく、この皇女の御墓へ、皇子も、その外の人も、ゆきかよはんに、ふる雪も、心してその道の安幡《アハ》といふ所になふりそ、雪ふらば、御墓所の、吉隱の猪養の岡に行かよふ道の關《セキ》となりで、かよひがたからんにとのたまへるなり。
 
弓削皇子薨時。置始連東人作歌一首。并短歌。
 
(285)弓刷皇子。
天武天皇の皇子。文武天皇三年七月、薨給へり。上【攷證二上廿九丁】にくはし。
 
置始連東人。
父祖官位不v可v考。上【攷證一下五十五丁】にも出たり。印本、連の字なし。書紀、姓氏録集中等を考ふるに、すべて、置始の氏は、みな姓連なれば、集中の例によりて、補ふ。さて考云、文武天皇紀に、三年七月過給ふとありて、右の但馬皇女の薨より、九年前也。この卷、年の次でを立しを、この年次の遞ふを始として、歌にも多く疑あり。仍て、後人の注なる事しるければ、小字にせり。そのうたがひどもの事、左に見ゆ云々とて、この歌、反歌をも、端辭をも、小字とせられしはいかゞ。いかにとなれば、この前に、明日香皇女殯宮の歌を、高市皇子殯宮の歌の前に載たり。高市皇子は、持統天皇十年に薨給ひ、明日香皇女は、文武天皇四年に薨たまひしかば、高市皇子よりは四年おくれ給へるを、上にのせたるなど、思ひても、こゝの年の次のたがへるを、あやしむ事なかれ。しひて、この年の次を正さんとすれば、高市皇子をはじめとし、次に弓削皇子、次に明日香皇女、次に但馬皇女と改たむべけれど、いかで古書をさまでに改むべき。されば、こゝ一所の年の、次のたがへるをのみ、あやしめるは誤りならずや。
 
作歌、
 
印本、作の字なし。一二の卷の例によりて補ふ。
 
204 安見知之《ヤスミシヽ》。吾王《ワガオホキミ》。高《タカ》光《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天宮爾《アメノミヤニ》。神隨《カムナカラ・カミノマニ》。神等座者《カミトイマセハ》。(286)其《ソコ・ソレ》乎霜《ヲシモ》。文爾恐美《アヤニカシコミ》。晝波毛《ヒルハモ》。日之《ヒノ》盡夜羽毛《ヨルハモ》。夜之《ヨノ》盡《コト/\・ツキ》。臥居雖嘆《フシヰナゲケト》。飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
 
天宮爾《アメノミヤニ》。
まへにも、所々にいへるごとく、皇子たちの薨ませるを、神上《カムアカ》りとも、天所知《アメシラス》とも高日《タカヒ》しらすとも、いひて、神となりて、天に上りませるよしに申せば、こゝも、神となりまして、天へ上りまして、おはします大宮なれば、天宮とは申せる也。
 
神隨《カムナガラ・カミノマニ》。神等座者《カミトイマセハ》。
これも、上所々にいへるがごとく、神隨《カムナガラ》は、神にましますまゝにといへる意也。神等座者《カミトイマセハ》は、神となりて、天の宮ましませばなり。
 
其《ソコ・ソレ》乎霜《ヲシモ》。
草をそれとよめれど、かゝる所は、みなそことよむべき例也。本集此卷【卅三丁】に、所己乎之毛綾爾隣《ソコヲシモアヤニカナシミ》云々。十七【卅七丁】に、曾己乎之母宇良胡悲之美等《ソコヲシモウラコヒシミト》云々などあるにても思ふべし。霜と書るは、借字にて助辭也。
 
文爾恐美《アヤニカシコミ》。
まへ、高市皇子尊殯宮歌に、言久母綾爾畏伎《イハマクモアヤニカシコキ》云々とある所にいへり。美はさにの意也。
 
晝波毛《ヒルハモ》。日之《ヒノ》盡夜羽毛《ヨルハモ》。
上【攷證二中廿七丁】に、夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコト/\》、畫者母日之盡《ヒルハモヒノコト/\》云々とある所にいへ乙が如く、ひるは日のかぎり、夜は夜のかぎりといふ意也。
 
(287)臥居雖嘆《フシヰナケヽド》。
本集十【一六丁】に、丈夫之伏居嘆而《マスラヲノフシヰナケキテ》云々とありて、伏てはなげき、居てはなげくなり。
 
飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
本集六【一五丁】に、今耳二秋足目八方《イマノミニアキタラメヤモ》云々。十【廿七丁】に、相見久※[厭の雁だれなし]雖不足《アヒミマクアキタラネトモ》云々などありて、集中猶多し。伏居なげけども、猶あきたらずと也。考云、これは古言をもて、いひつゞけしのみにして、わが歌なるべき事も見えず。そのつゞけに、言を略きたるところは、皆ことたらはずして、拙し。この撰みたる卷に、入べきにあらず。まして、右にあげいふ如く、年月の次の遞へるは、この一二卷にはかなはざる也。或人、これをも、よざまにいひなせれど、一つだにうべなることなし。よきはよき、あしきはあしと定めたらんこそ、わらはべの爲にもならめ云々。この説のごとく、みないひふるしたる言もて、つゞけたれど、難とすべき所もあらぬを、みだりに略きて、小字とせられしはあまりなる事なり。
 
反歌一首。
 
205 王者《オホキミハ》。神西座者《カミニシマセハ》。天雲之《アマクモノ》。五百重《イホヘ》之《ガ・ノ》下爾《シタニ》。隱《カクリ・カクレ》賜奴《タマヒヌ》。
 
神西座者《カミニシマセハ》。
神とは、皇子をさして申せり。皇子たちの薨給へるを、神になりませるよしにいへる事は、上、ところ/”\にいへるがごとし。又、天皇、また皇子たちの、現におはしますを、神と申せる事、集中いと多し。この事は、下【攷證三上】にいふべし。西《ニシ》は借字にて、にしの、しは、助辭なり。
 
(288)五百重《イホヘ》之《カ・ノ》下爾《シタニ》。
本集、此卷【廿七丁】に、天雲之八重掻別而《アマクモノヤヘカキワケテ》云々ともあるがごとく、雲の、いく重ともなく、重りたるを、八重とも、五百重ともいへり。さて、考には、下を上と直して、五百重之上爾《イホヘカウヘニ》とせられしかど誤り也。宣長云、考に、下を上と改られしは、ひがごと也。下は、裏にて、うちといふに同じ。上は、表なれば、たがへり。表に隱るゝといふことやあらん。上下の字にのみなづみて、表裏の節をわすれられし也といはれしが如く、本集十一【七丁】に、吾裏紐《ワカシタヒモヲ》云々、また【八丁】從裏鯉者《シタユコフレハ》云々、十二【二丁】に、裏服矣《シタニキマシヲ》云々など、裏をもしたとよめるにても、こゝの下《シタ》は裏《ウチ》の意なるをしるべし。さて一首の意は皇子は、あやしく神にしましませば、天雲のいくへともなくかさなれる、そのうちにかくれたまへりと也。この歌、本集三【十二丁】に、皇者神二四座者《オホキミハカミニシマセハ》、天雲之雷之上爾廬爲流鴨《アマクモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》云々といふによく似たり。
 
又反歌一首。
 
又とは、まへの、端辭の、弓削皇子薨時、置始連東人作歌とあるをうけて、又そのをりのといへる意、短歌は、まへの長歌にむかへいへるによりて、短歌とはしるせるにて、たゞの歌といふ意なれば、こゝを《(マヽ)》前の長歌の反歌といふにあらで、かの弓削皇子の薨給へる時、別によめるたゞの歌といふ也。されば、こゝこそ、まことに短歌とあるべき所なれ。さるを、考に、右二首、本文ならば、これは或本歌と書べし。右は、注なる故に、こゝは又とかき、且これには、短歌と書しも、別のふみの歌なることしるべしといはれしは、いかが。
 
(289)206 (神樂波之《サヽナミノ》。志賀左射禮浪《シガサヽレナミ》。敷布爾《シクシクニ》。常丹跡君之《ツネニトキミガ》。所念有《オモホセリ・オホシタリ》計類《ケル》。)
 
神樂波之《サヽナミノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。神樂浪は、さゞなみとよめるよしも、其所にいへり。
 
志賀左射禮浪《シガサヽレナミ》。
志賀は、近江國の郡名、滋賀《シガ》なり。左射禮浪《サザレナミ》は、本集四【十九丁】に、佐保乃河瀬之小浪《サホノカハセノサヽレナミ》云々。十三【三丁】に、沙邪禮浪浮而流《サヽレナミウキテナガルヽ》云々。十七【卅七丁】に、佐射禮奈美多知底毛爲底母《サヽレナミタチテモヰテモ》云々などもありて、小浪をもよめるが如く、小《チヒサ》き浪をいへる也。書紀允恭紀御歌に、佐瑳羅餓多爾之枳能臂毛弘《サヽラガタニシキノヒモヲ》云々とあるも、小紋形の錦の紐にて、らとれと通へば、さゝれとも、さゝらともいふ也。また本集十四【十八丁】に、佐左良乎疑《サヽラヲギ》云々とあるも、小荻也。また小竹、細竹などを、さゝとよめるにても さゝは小の意なるをしるべし。
 
敷布爾《シクシクニ》。
本集四【四十六丁】に、朝居雲之敷布二吾者戀益《アサヰルクモノシクシクニワレハコヒマス》云々。六【十五丁】に、邊津浪之益敷布爾月二異二《ヘツナミノイヤシクシクニツキニケニ》云々。十七【卅丁】に、安我毛布伎美波思久思久於毛保由《アカモフキミハシクシクオモホユ》云々。また【卅四丁】に、與須流奈《ヨスルナ》美伊夜思久思久爾《ミイヤシクシクニ》云々などありて、集中猶いと多し。このしくは、重《シク》にて、三【四十三丁】に、一日爾《ヒトヒニハ》波千爾浪敷爾雖念《チヘナミシキニオモヘトモ》云々などもいふしきも、同じく、物のいやがうへに重《カサ》なる意にて、しきりにといへる言も、この語の轉じたる也。さて、こゝまでは、序歌にて、しく/\といはんとて、さゞ浪のしがさゞれ浪とはいひて、その浪のしく/\に、よりきてかはる事なきがごとく、つねにかはらじと、君のおぼしたりと也。
 
(290)常丹跡君之《ツネニトキミガ》。所念有《オモホセリ・オホシタリ》計類《ケル》。
宣長云、常はつねとよむべし。結句は、おもほせりけるとよむべし。考に、とこかと君がおぼしたりけるとよまれしかど、おぼしといふ言は、集中に例なしといはれつるがごとし。
 
柿本朝臣人麿妻死之後。泣v血哀慟作歌二首。并短歌。
 
人麿妻。
人麿の妻の《(マヽ)》、上【攷證二中一丁】にあげたる考別記の説のごとく、前後四人の中に、二人は嫡妻、二人は妾とおぼしき也。こゝなる二首の歌の、前一首は妾、のちの一首は妻の、失たるをかなしまれし歌と見えたり。さて考に、この端詞を、柿本人麿、所竊通娘子死之時悲傷作歌と改られしは誤り也。いにしへは、おほどかにして、妻をも妾をも、おしなべてつまとはいひしなれば、こゝに、妻をも、妾ともに、妻と書て、二者の端詞を、一つにてもたしめしなり。これらの事は、上【攷證二中一丁】をも考へ合すべし。
 
泣v血。
中ごろよりいふ血の涙なり。毛詩 に、鼠思泣血、無言不疾云々。韓非子 篇に泣盡而繼v之以v血云々などありて、古今集哀傷に、素性法師、血の涙おちてぞたぎつしら川は、君が世までの名にこそありけれ云々。竹取物語に、おきな女、ちの涙をながしてまどへどかひなし云々。伊勢物語に、をとこ、ちの涙をながせどとゞむるよしなし云々など見えたり。本集十六【六丁】に、其兩壯士不v堪2哀慟1、血涙漣v襟云々とあるも、ちの涙なり。
 
(291)哀慟。
こは上【攷證二中四十九丁】慟傷とある所にいへるがごとく、かなしみなげく意也。
 
207 天飛也《アマトブヤ》。輕路者《カルノミチハ》。吾妹兒之《ワギモコノ》。里爾思有者《サトニシアレバ》。懃《ネモゴロニ》。欲見《ミマク》騰《ホシケド・ホリスト》。不止行者《ヤマズユカバ》。人目乎多見《ヒトメヲオホミ》。眞根久往者《マネクユカバ》。人應知見《ヒトシリヌベミ》。狹根葛《サネカヅラ》。後毛將相等《ノチモアハムト》。大船之《オホフネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。玉蜻《カギロヒノ》。磐垣淵之《イハカキブチノ》。隱《コモリ・カクレ》耳《ノミ》。戀管在爾《コヒツツアルニ》。度日之《ワタルヒノ》。晩去之如《クレユクカコト》。照月乃《テルツキノ》。雲隱如《クモカクルゴト》。奧津藻之《オキツモノ》。名延之妹者《ナビキシイモハ》。黄葉乃《モミヂバノ》。過伊《スギテイ》去《ニキ・ユク》等《ト》。玉梓之《タマツサノ》。使乃言者《ツカヒノイヘハ》。梓弓《アヅサユミ》。聲爾聞《オトニキキ》而《テ・ツヽ》。【一云。聲耳聞而《オトノミキヽテ》。】將言爲便《イハムスベ》。世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。聲耳乎《オトノミヲ》。聞而有不得者《キヽテアリエネバ》。【一云。名耳聞而《ナノミキヽテ》。有不得者《アリエネバ》。】吾《ワカ》戀《コフル・コヒノ》。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》。遣悶流《ナグサムル・オモヒヤル》。情毛《ココロモ》有《アレ・アル》八等《ヤト》。吾妹子之《ワキモコカ》。不止出見之《ヤマズイデミシ》。輕市爾《カルノイチニ》。吾立聞者《ワカタチキケハ》。玉手次《タマタスキ》。畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》。喧鳥之《ナクトリノ》。音母不所聞《オトモキコエス》。玉桙《タマボコノ》。道《ミチ》行《ユク・ユキ》人毛《ヒトモ》。獨谷《ヒトリダニ》。似之不去者《ニテシユカネバ》。爲便乎無見《スベヲナミ》。妹之名(292)喚而《イモカナヨヒテ》。袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。
 
天飛也《アマトフヤ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。天とぶ雁といふを、はたらかせて、輕の地名にいひかけたる也。也は、にほてるや、たかゆくや、たかしるや、おしてるや、さひづるやなど、枕詞に添へたるにで、これらみな助字なり。
 
輕路者《カルノミチハ》。
輕は、大和國高市郡の地名也。古事記に、輕之境岡宮、輕之酒折池、輕池など見え、延喜神名式に、大和國高市郡輕樹村坐神社などもあり。また本集四【廿三丁】に、天翔哉輕路從《アマトフヤカルノミチヨリ》、玉田次畝火乎見管《タマタスキウネヒヲミツツ》云々ともありて、この歌にも、畝火乃山を讀合せたれば、高市郡なる事明らけし。
 
里爾思有者《サトニシアレバ》。
吾妹子が住し里なればと也。その人の本居をさして、里といへり。物語ぶみに里ずみ、又里にてまかづるなどもいひ、今よめにまれ、聟にまれ、本家を里といふも、これ也。本集三【十八丁】に、吾背子我古家之里之《ワカセコガフルヤノサトノ》云々。十二【卅五丁】に、三雪零越乃大山《ミユキフルコシノオホヤマ》、行過而《ユキスキテ》、何日可我里乎將見《イツレノヒニカワカサトヲミム》などよめるもこれなり。
 
懃《ネモゴロニ》。
この語を、俗にいはゞ一方《ヒトカタ》ならず、ひとへになどいふに當れり。書紀神代紀に、慇懃、集四【廿九丁】に、懃、十一【五丁】に側隱、【十一丁】押伏、靈異記に慇、續日本後紀興福寺僧長歌に丁寧など
の字をよめり。みなひとかたならずの意也。また本集四【卅四丁】に、難波乃菅之根毛許呂爾《ナニハノスケノネモコロニ》云々。九【十五丁】に、川楊乃根毛居侶雖見《カハヤキノネモコロミレド》云々など見えたり。この言、多くは草木の根とかゝりたれど、草木の根(293)にかゝはりたる言にあらず。たゞ根《ネ》といはん序のみに、草木の名をおける也。(頭書、又はこまやかにの意にもあるべし。)
 
欲《ミマ》見騰《クホシケド・ホリスト》。
見まくはしけれどの、れを略ける也。この事は、上【攷證二中十丁】にいへり。こは、輕の路は、妹がすめる里なれば、一方ならず見まほしく思へども、やまずふだんにゆかば多き人目に立ぬべく、度々ゆかば、人の知りぬべしと也。こは、人めをしのびて、逢などせしなからひなるべし。
 
不止行者《ヤマスユカハ》。
不止は、やむ時なくといふにて、不斷の意也。本集三【廿九丁】に、在管裳不止將通《アリツツモヤマスカヨハム》云云。九【廿五丁】に、不息來益常玉橋渡須《ヤマスキマセトタマハシワタス》云々などありて、猶いと多し。
 
眞根久往者《マネクユカバ》。
しげく度々ゆかばの意也。眞根久《マネク》とは、類の多きをいふ言にて、この事は、上【攷證一下七十四丁】にいへり。
 
人應知見《ヒトシリヌベミ》。
べみといふ言は、集中にも、古ころ(古今カ)にも多くありて、皆、べき、それ故にといふ意也。こゝも、度々ゆかば、人しりぬべきそれ故に、のちにもあふことあらんと、思ひつゝある中にといへる也。この句は、下の隱耳戀管在爾《コモリノミコヒツツアルニ》といふへかけて心得べし。
 
狹根葛《サネカヅラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。葛《カツラ》は、長くはひわかれては、末の、またはひあへるものなれば、それにたとへて、さねかづらのごとく、また後にあはんとつゞけし也。さて、狹根葛は、本草和名に、五味和名佐禰加都良とありて、和名抄はこれに同じ。新撰字鏡には藉木、防已などを、佐奈葛《サナカツラ》としるせり。古事記にも、佐那葛《サナカツラ》とありて、集中には、さねかづら(294)とも、さなかづらともよめり。猶この事は、上【攷證二上十一丁】にもいへり。
 
後毛將相等《ノチモアハムト》。
また後にもあはんとゝなり。本集四【四十六丁】に、逝水之復毛將相今爾不有十方《ユクミツノノチモアヒナムイマナヲストモ》。また【五十二丁】後湍山後毛將相常念社《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソ》云々などありて、集中猶いと多し。
 
大船之《オホフネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中四十五丁】に、大船之思憑而《オホフネノオモヒタノミテ》とある所にもいへり。
 
玉蜻《カキロヒノ・カケロフノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは、石をうてば、火の出る故に、磐とはつゞけたりと見ゆといはれたり。猶玉蜻の事は、上【攷證一下廿一丁】にもいへり。
 
磐垣淵之《イハカキフチノ》。
考云、谷などに、岩の、垣の如く立めぐりたる、隱淵にたとへて、忍びかへしつつ、戀るをいふといはれつるがごとし。本集十【十三丁】に、玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]《カキロヒノイハカキフチノコモリタルツマ》云々。また【三十二丁】に、玉蜻石垣淵之隱庭《カキロヒノイハカキフチノコモリニハ》云々。また【卅三丁】青山之石垣沼間乃水隱爾《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニ》云々なども見えたり。
 
隱耳《コモリノミ》。
こは、上の不v止ゆかば、人目を多み、まねくゆかば、人しりぬべみをうけて、それ故に家に隱耳《コモリノミ》居て、戀つゝ在と也。さて、舊訓、かくれのみとあれど、隱はこもりとよむべき事、上、隱沼《コモリヌ》の所にいへるがごとし。
 
度日之《ワタルヒノ》。晩去之如《クレユクカゴト》。
日にまれ、月にまれ、空を行くことを、わたるとはいへり。この事はまへにいへり。さてこゝは、過にし妹がことをいはんとて、天を(295)ゆく日の晩になりて、入るがごとく、てらせる月の、雲にかくるゝがごとくに、わが思ふ妹は、過にきと、使來りていへりとなり。
 
奧津藻之《オキツモノ》。名延之妹者《ナヒキシイモハ》。
藻は浪と共にうち靡くものなれば、奧に生たる藻の如く、なよよかに靡き伏て、共にねし、妹はといへるなり。本集此卷【卅一丁】に、玉藻成彼依此依《タマモナスカヨリカクヨリ》、靡相之嬬乃命乃《ナヒキアヒシツマノミコトノ》云々。また【卅二丁】川藻之如久靡相之《カハモノコトクナビキアヒシ》云々。十一【四十一丁】に、奧藻之名延之君之《オキツモノナヒキシキミカ》云々なども見えたり。
 
黄葉乃《モミヂハノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證一下廿三丁】にも出たり。
 
過伊《スキテイ》去《ニキ・ユク》等《ト》。
舊訓、すぎていゆくとあるも、考に、すぎていにしとよまれしも、いかが。すぎていにきととよむべし。にきといはざれば、とゝうくるてにをはたがへり。去を、にきとよめるは、本集九【卅二丁】に、黄葉之過去子等《モミチハノスキニシコラ》云々などあるにても思ふべし〕さて、ここは、黄葉は、散て過去ものなれば、失にし人を、それにたとへて、かの隱し妻は、黄葉のちり失るがごとくに、過ゆき給ひしと、大和より、使來りて告しなり。
 
玉梓之《タマヅサノ》。
枕詞なり。玉はほむる詞ときこゆれど、梓の字解しがたし。代匠記、考などに、説あれど、よしとも思はれず。後人よく考へてよ。しばらく書かよはす使の事に、冠らせたる枕詞として、ありぬべし。集中いと多し。宣長《小琴》云(以下空白)
 
(296)使乃言者《ツカヒノイヘバ》。
使は、大和より來たる使にて、かの隱し嬬の失しをしらせんとて、こしなるべし。言者は、かの女の失にしよしを告るなり。
 
梓弓《アツサユミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。弓を引くには、必らず音するものなれば、おとゝつづけしなり。
 
聲爾聞《オトニキヽ》而《テ・ツツ》。
集中、聲と音と通はし署る事、常の事也。こは、女の失にし事を、告來りし使のいふ言をききて也。さて、舊訓、而をつゝとよめり。いかにもつゝとよまゝほしき所なれど、集中、而をつつと訓る例なければ、しばらく、てと六言によめり。一云|聲耳聞而《オトノミキキテ》とあるかた、いたくまされり。されば、考には、これを取れたり。
 
將言爲便《イハムスヘ》。世武爲便不知爾《セムスヘシラニ》。
女の失にし事を、使來りて告しかば、あきれまどひてたゞ歎にのみしづみて、何をいはんすべも、何とせんすべもしらずといへる也。爲便を、すべと訓ことは、まへにいへり。本集三【卅一丁】に、將言爲便將爲便不知《イハムスヘセムスヘシラニ》云々。この外、集中いと多し。不知爾《シラニ》の爾もじは、皆ずの意なり。
 
聲耳乎《オトノミヲ》。聞而有不得者《キキテアリエネバ》。
女の失にしよしを、告來りつれば、歎にのみしづみて、何といはんすべも、何とせんすべもしらず。されど、そのたよりをきゝては、かくてのみはあらねばといふ意にて、思ひかねたるさま、さもあるべし。
 
一云。名耳聞而《ナノミキキテ》。有不得者《アリエネバ》。
印本、この十字、こゝになくて、この、歌の末に、或本|有謂之名耳聞而《アリテイヒシナノミヲキキテ》、有不得者《アリエネバ》句。この十四字をのせたり。(297)こは誤りなる事明らかなれ、拾穗抄によりて、こゝにはくはへたり。
 
吾《ワガ》戀《コフル・コヒノ》。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》。遣悶流《ナクサムル・オモヒヤル》。
吾戀は、わが戀ふる心のといふ意なれば、わがこふると訓べし。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》は、戀ふる心のしげきをたとへて、たとはばわが戀ふる心の、千重にかさなりたるものならば、そのうち一重だにもなぐさむやとてといふ意也。遣悶の字は、まへの、明日香皇女の殯宮歌にもいでて、おもひやるとよめり。こゝをも、舊訓、おもひやるとあれど、本集四【十六丁】に、吾戀流千重乃一隔母《ワカコフルチヘノヒトヘモ》、名草漏情毛有哉跡《ナクサモルコヽロモアレヤト》、家當吾立見者《イヘノアタリワカタチミレバ》云々。六【廿三丁】に、吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國《ワカコヒノチヘノヒトヘモナクサマナクニ》。七【十九丁】に、吾戀千重一重名草目名國《ワカコフルチヘノヒトヘモナグサメナクニ》云々などあるにても、なぐさむるとよむべきをしるべし。また、十三【十五丁】に、吾戀《ワガコフ》流千重乃一重母人不令知《ルチヘノヒトヘモヒトシレス》云々とも見えたり。さて、これを、宣長は、なぐさもるとよまれしかど集中にも、なぐさむるとも、なぐさもるともありて、なぐさむるは、本語、なぐさもるは傳語なれば、本語につきて、なぐさむるとよまん方まされり。
 
情毛《コヽロモ》有《アレ・アル》八等《ヤト》。
舊訓、あるやと訓れども、宣長の、あれやとよまれしによるべし。あれやのやは、添たる文字にて意なし。本集六【十八丁】に、水鳥二四毛有哉《ウニシモアレヤ》、家不念有六《イヘモハサラム》七【卅六丁】に、雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》、時乎思將待《トキヲシマタム》云々などある類ひのや也。さてこゝの意は、吾戀わたるこゝろの、千が一つも、なぐさむる方もやあるとて、輕の市にて立きくぞとなり。
 
不止出見之《ヤマズイデミシ》。
不止を、考に、つねにとよまれしかど、やまずは、不斷の意なれば、舊訓のままにても聞ゆるをや。また、出を、考に、でてとよみて、でてといふ言、集(298)中泥而と、假字にてもあり、後世いでてとのみ訓こととするは、古へにたがへりといはれたれどでては出而《イテテ》の略にて、いかにも古言にはあれど、こゝには、而もじもなく、またいで、いづなどいふ言、古言になくばしらず、いでも、いづも、皆古言なれば、同じ古言の中にも、略語をばおきて、本語をとるべき也。こは、いでゆく、いでたつなどいふ出なれば、必らずいでと本語によむべき所なるをや。さてこゝは、吾妹子は、不斷たえずいでて見し、輕の市といふにて、市にて商人などが、物の賣買するを、不斷出て見しなるべし。こは、今の世にもあるさまなり。
 
輕市爾《カルノイチニ》。
輕の地の事は、まへにいへり。市は、其所にて、賣買する所をいへり。關市令に、凡市恒以2午時1集、日入前撃v皷三度散。義解に、謂日中爲v市、致2天下之民1是也と見えたり。
 
吾立聞者《ワカタチキケバ》。
その輕の市に立てきけばにて、もし、妹が事をいふ人もやあるときく也。戀しきにたへかねて、妹がつねに出て見たりし所なれとて、そこ立まよへるさま、さもあるべし。この句は、下の音母不聞《オトモキコエス》といふへかけて、心得べし。
 
玉手次《タマタスキ》。
枕詞にて、冠辞考にくはし。上【攷證一上四十五丁】にも出たり。
 
畝火乃山爾《ウネヒノヤマニ》。
大和國高市郡なれば、この輕の地の近き所なるべし。この山の事は、上【攷證一上廿四丁】にも出たり。
 
(299)喧鳥之《ナクトリノ》。
こは、音母不聞《オトモキコエス》といはん序にて、喧鳥之音《ナクトリノオト》とかけたるなり。畝火山は、この輕の地の近きほとりなれば、ことさらにこの山をばいへる也。
 
音母不所聞《オトモキコエズ》。
こゑといはまほしきを、おとゝいへれど、聲といふに同じ。そは本集五【十八丁】に、于遇比須能於登企久奈倍爾《ウグヒスノオトキクナベニ》云々。七【四十一丁】に、妹之音乎聞《イモカオトヲキク》云々。十【廿丁】に、霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《ホトトキスナクナルコヱノオトノハルケサ》云々。十七【卅五丁】に、保登等藝須奈久於登波流氣之《ホトトキスナクオトハルケシ》云々などあるにてもおもふべし。
 
玉桙《タマボコノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十丁】にも出たり。
 
道《ミチ》行《ユク・ユキ》人毛《ヒトモ》。
本集九【十七丁】に、玉桙乃道行人者《タマホコノミチユクヒトハ》、己行道不去《オノガユクミチヲハユカス》云々とありて、集中猶多し。舊訓、これらをも、みな、みちゆき人とよめれど、十五【十五丁】に、多妣由久比等乎《タヒユクヒトヲ》云々あると、同格の語なれば、みちゆく人とよむべし。されど、貫之集に、夏山のかげをしげみや玉ぼこのみちゆき人も立とまるらんとあれば、いとふるくよりの誤り也。こゝは、市に群行人をいへるなり。
 
獨谷《ヒトリダニ》。似之不去者《ニテシユカネバ》。
輕の市を群行人を見れども、ひとりだにも妹に似たるがゆかねばと也。せめての事に、似たる人をだに兒んと思へるさま、悲みの情さもあるべし。谷《タニ》は借字也。この例、上【攷證一上卅二丁】に出せり。
 
爲便乎無見《スベヲナミ》。
妹に似たる人だにゆかねば、せんすべをなさにと也。なみの、みもじは、さにの意也。この言は、上【攷證一上十丁四十丁】にも出たり。
 
(300)妹之名喚而《イモカナヨビテ》。袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。
 
あまりの悲しさにたへかねて、人めをもはぢず、妹が名をよびて、袖をふりぬと也。すべて袖をふるは、悲しみにまれ、人にわかるるにまれ、その事にたへかねしをりのわざる《(マヽ)》事、上【攷證二中六丁】にいへれば、引合せ考ふべし。
 
反歌二首。
 
これをも、印本、短歌とあれば、意改せり。そのよしは上にいへり。
 
208 秋山之《アキヤマノ》。黄葉乎茂《モミヂヲシケミ》。迷流《マトヒヌル》。妹乎將求《イモヲモトメム》。山道不知母《ヤマヂシラスモ》。【一云。路不知而《チシラズテ》。】
 
黄葉乎茂《モミチヲシケミ》。
秋の山は、黄葉のしげさにいとどまどひぬるなり。しげみのみは、さにの意也。まへにいへり。
 
山道不知母《ヤマヂシラスモ》。
妹たづねもとめん山路をしらざれば、秋山の黄葉のしげさにまどひつると、うちかへして心得べし。母は助辞なり。一云|路不知而《チシラステ》とあるは、路の上に、山の字あるなれども、山の字は、本書にあれば、略けるにて、山路不知而《ヤマチシラステ》なり。これにてもよく聞えたり。
 
209 黄葉之《モミヂバノ》。落去奈倍爾《チリユクナヘニ》。玉梓之《タマツサノ》。使乎見者《ツカヒヲミレバ》。相日所念《アヒシヒオモホユ》。
落去奈倍爾《チリユクナヘニ》。
なべは、並にて、ままにといふ意也。黄葉のちりゆくまゝになり。奈倍の言は、上【攷證一下廿七丁卅七丁】にいへり。
 
(301)相日所念《アヒシヒオモホユ》。
考には、あへるおもほゆとよまれ(し脱カ)かど、舊訓のまゝ、あへる日とよむ方まされり。さて一首の意は、この嬬と人麿と、黄葉のちれるころ、あはれし事ありしなるべし。それを思ひいでで、黄葉のちりゆくまゝに、大和より來たる使を見るにつけても、むかしあひし日の事を、思ひ出されぬと也。考には、こゝに、次の歌の端辭を、柿本朝臣人鹿妻之死後、悲傷作歌と加へられしかど、非なることはまへにいへるがごとし。
 
210 打蝉等《ウツセミト》。念之時爾《オモヒシトキニ》。【一云。宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》。】取持《タツサヒ・トリモチ》而《テ》。吾二人見之《ワカフタリミシ》。※[走+多]出之《ワシリテノ》。堤爾立有《ツヽミニタテル》。槻木之《ツキノキノ》。己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》。春葉之《ハルノハノ》。茂之知久《シゲキガゴトク》。念有之《オモヘリシ》。妹者雖有《イモニハアレト》。憑有之《タノメリシ》。兒等爾者雖有《コラニハアレド》。世間乎《ヨノナカヲ》。背之不得者《ソムキシエネハ》。蜻火之《カギロヒノ・カゲロフノ》。燎流荒《モユルアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。白妙之《シロタヘノ》。天領巾隱《アマヒレガクリ》。鳥自物《トリジモノ》。朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》。入日成《イリヒナス》。隱《カクリ・カクレ》去之鹿齒《ニシカバ》。吾妹子之《ワギモコガ》。形見爾置《カタミニオケル》。若兒乃《ミトリコノ》。乞泣毎《コヒナクゴトニ》。取與《トリアタフ》。物之無者《モノシナケレバ》。鳥穗自物《ヲトコシモノ》。腋挾《ワキハサミ》持《モテ・モチ》。吾妹子與《ワギモコト》。二人吾宿之《フタリワカネシ》。枕付《マクラツク》。嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》。晝羽裳《ヒルハモ》。浦《ウラ》不樂《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。夜(302)者裳《ヨルハモ》。氣衝明之《イキツキアカシ》。嘆友《ナゲケドモ》。世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。戀友《コフレトモ》。相因乎無見《アフヨシヲナミ》。大鳥《オホトリノ》。羽易乃山爾《ハガヘノヤマニ》。吾戀流《ワカコフル》。妹者伊座等《イモハイマセト》。人之云者《ヒトノイヘハ》。石根左久見手《イハネサクミテ》。名積來之《ナヅミコシ》。吉雲曾無寸《ヨケクモソナキ》。打蝉跡《ウツセミト》。念之妹之《オモヒシイモカ》。珠蜻《カギロヒノ・カゲロフノ》。髣髴谷裳《ホノカニタニモ》。不見《ミエヌ》思《オモ・オモヒ》者《ヘバ。》
 
打蝉等《ウツセミト》。念之時爾《オモヒシトキニ》。
上、明日香皇女の殯宮の歌に、宇都曾臣跡念之時《ウツセミトオモヒシトキノ》、春部者花所挿頭《ハルヘハハナヲリカサシ》云々とある所にいへるがごとく、しとせとそとは、音通へば、現《ウツ》し身にて、こゝは妻を現し身ぞと、思ひたりし時はといへる也。
 
一云。宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》。
これも、意はまへと同じ。時爾の二字をば、本書にゆづれるなり。
 
取持《タツサヒ・トリモチ》而《テ》。
舊訓、とりもちてと訓り。集中、取持《トリモツ》といふこともいと多かれど、皆物を手に持事か、政を取持所にのみいひて、かゝる所にとりもつといひしことなく、こゝをとりもちてと訓ては、前後へかけて意聞えがたければ、考に、下の或本に、携手《タヅサハリ》とあるをとりて、こゝをもたづさへてとよまれしにしたがへり。されど、たづさへてとよまれしはいかゞ。たづさへといふ時は、自《ミヅ》から妻をたづさへゆく事になれば、こゝに當らず。こゝは、たづさはりてといふ意なれば、たづさひてと訓べし。はりの反、ひなれば、たづさはりといふ言になる也。そは、本(303)集四【五十丁】に、吾妹兒與携行而《ワキモコトタツサヒユキテ》、副而將座《タグヒテヲラム》云々。九【十八丁】に、細有殿爾携二人入居而《タヘナルトノニタツサハリフタリイリヰテ》云々などあるにても思ふべし。集中猶いと多し。このたづさはるといふ言は、上【此卷九丁】敷妙之袖携《シキタヘノソテタツサハリ》云々とある所にいへるがごとく、たちよりさはるの意なり。
 
吾二人見之《ワカフタリミシ》。
妹とわれと、たづさはりつゝ、二人して見しとなり。
 
※[走+多]出之《ワシリデノ》。堤爾立有《ツツミニタテル》。
※[走+多]出は、走り出る意にて、走り出るばかりに近きをいへる也。書紀雄略紀、御歌に和斯里底能與廬斯企野磨野《ワシリデノヨロシキヤマノ》云々。本集十三【卅一丁】に、忍坂山者《オサカノヤマハ》、走出之宜山之《ワシリデノヨロシキヤマノ》、出立之妙山叙《イデタチノクハシキヤマゾ》云々などありて、玉篇に、※[走+多]走也とあるにても、走り出るばかり近きを、わしりでといへるをしるべし。さて、考には、是を、はしりでとよまれたり。走は、集中|石走瀧《イハハシルタキ》とつづけて、これを伊波婆之流多岐《イハバシルタキ》と、假字に書る所もありて、五【卅二丁】に、多知婆志利《タチバシリ》とあるを、九【十八丁】に、立走《タチハシリ》とかき、十【五十九丁】に、雹手走《アラレタハシリ》と書るを、二十【十一丁】に、安良禮多波之理《アラレタハシリ》と書たるを見れば、走は、はしりの假字なるを、まへに引る、雄略紀の和歌には、和斯里《ワシリ》とありて、允恭紀御歌に、斯※[口+多]媚烏和之勢《シタビヲワシセ》とあるも、下樋を令v走なれば、走を、わしりの假字とせり。これらを思ふに、はとわは、ことに近き音なれば、古へより、わしりとも、はしりとも、いひしならんと思はるれば、眞淵の、はしりとよまれしも誤りにはあらねど、雄略紀の御歌によりで、今は、わしりとよめるなり。立有《タテル》は、堤に、槻の木の立る也。營繕令に、凡堤内外並堤上、多殖2楡柳雜樹1、充2堤堰用1云々と見えたり。立るとは、植たる也。書紀神代紀下に植、此云2多(304)底婁」とあるにてしるべし。
 
槻木之《ツキノキノ》。
和名抄木類に、唐韻云槻【音規和名都岐之木】木名堪v作v弓者也とありて、古事記下卷に、天皇坐2長谷之百枝槻下1、爲2豐樂1云々。本集十三に、垣津田乃池之堤之《カキツタノイケノツツミノ》、百不足五十槻枝丹《モモタラスイツキカエタ〓》、水枝指《ミツエサシ》云々などあれば、この木、枝のしげきものと見えたり。されば、この歌にも、こち/”\の枝の、春のはのしげきが如くとはつゞけたり。
 
己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》。
己知碁知《コチゴチ》は、各々《オノ/\》といふに當りて、こゝは、槻の木の枝ごとに、春の若葉のしげきが如くといふ也。古事記下卷、御歌に、久佐加辨能許知能夜麻登《クサカヘノコチノヤマト》、多々美許母幣具理能夜麻能《タタミコモヘグリノヤマノ》、許知碁知能夜麻能賀比爾《コチゴチノヤマノカヒニ》云々。本集三【廿七丁】に、奈麻余美乃甲斐乃國《ナマヨミノカヒノクニ》、打縁流駿河能國與《ウチヨスルスルガノクニト》、己知其智乃國之三中從《コチゴチノクニノミナカユ》云々。九【廿一丁】に、許智期智乃花之盛爾《コチゴチノハナノサカリニ》云々見えたり。この事、猶くはしくは、古事記(傳脱カ)卷四十一に見えたり。
 
春葉之《ハルノハノ》。茂之知久《シゲキガゴトク》。
春は、若葉さして、葉の茂くなるものなれば、それにたとへて、妹を思ふ思ひのしげきをいへり。
 
念有之《オモヘリシ》。妹者雖有《イモニハアレド》。
春の若葉のごとく、しげくおもひたりし妹にはあれどもといふにて、この句と、次のたのめりしこらにはあれどゝいふ句をば、下の隱去之《カクレニシ》かばといふへかけて心得べし。
 
(305)憑有之《タノメリシ》。兒等爾者雖有《コラニハアレド》。
心に思ひたのみてありし妹にはあれどもと也。兒等は、妹といはんがことし。女にまれ、男にまれ、親しみ稱して子とはいへる也。この事、上【攷證二中八丁】にくはしくいへり。
 
世間乎《ヨノナカヲ》。背之不得者《ソムキシエネバ》。
生あるもの、死するは、世の中のならひ也。その世の中のならはしを、そむく事を得ざればと也。
 
蜻火之《カキロヒノ・カケロフノ》。
かぎろひは、上【攷證一下廿四丁】にいへるごとく、陽炎なり。中ごろより、これをかげろふとも、糸ゆふともいへり。蜻火と書るは、本草和名に、蜻蛉一名青※[虫+廷]、和名加伎呂布とありて、和名抄、醫心方などには、かげろふと見えたり。是蟲の名なれば、その訓を借用ひたるにて、こゝは借字也。火を添てかけるは、もと陽炎ともいひて、きらめくが、火の氣に似たれば、火は添てかける字也。さて、このもの、日のうら/\とてりて、のどかなるをりは、野ごとにたつものなれば、かぎろひのもゆるあら野とはつゞけし也。本集九【卅四廷】に、蜻※[虫+廷]火之心所燎管《カキロヒノココロモエツツ》云々なども見えたり。
 
燎流荒野爾《モユルアラヌニ》。
もゆるとは、陽炎の火の氣の如くきらめく故に、もゆるとはいへり。荒野《アラヌ》は上【攷證一下廿三丁】眞草苅荒野二者雖有《ミクサカルアラヌニハアレト》云々とある所にいへるがごとく、人氣なく、里はなれたる野をいへるなり。
 
(306)白妙之《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にも出たり。こゝは、字をへだてゝ領巾《ヒレ》とつづけしなり。
 
天領巾《アマヒレ》隱《カクリ・カクレ》。
天領巾の説、まち/\なり。まづ古き説をあげて、後に予が説をいはん。まづ考に、是も天雲隱れて遠きをいふ。雲をひれといふは、卷七に、秋風にふきたゞよはす白雲は、たなばたつめの天つ領巾かもともありといはれたるは、代匠記の説と同じ。宣長云、白たへの天ひれがくりは、葬送の旗をいふ。柩の前後左右に、旗をたて、持行さま也。これらの説、こゝろゆかず。考に引れたる、たなばたつめの天つ領巾かもといふ歌は、雲を假に領巾と見なしたるにて、雲の事を領巾といふにはあらざれば、證となしがたし。又宣長の、葬送の旗をいふといはれつるも、旗を領巾といひし事もなく、こゝは、旗を領巾と見なしたりとも聞えねば、この説もこゝろゆかず。されば考ふるに、領巾は、古事記下卷、御歌に、毛々志紀能淤富美夜比登波《モヽシキノオホミヤヒトハ》、宇豆良登理比禮登理加氣弖《ウツラトリヒレトリカケテ》云々。書紀崇神紀に、吾田媛密來之、取2倭香山土1、※[果/衣のなべぶたなし]3領巾頭1 
云々。欽明紀歌に、珂羅倶※[人偏+爾]能基能陪※[人偏+爾]陀致底《カラクニノキノヘニタチテ》、於譜磨故幡比例甫※[口+羅]須母《オホバコハヒレフラスモ》、耶魔等陛武岐底《ヤマトヘムキテ》云々天武紀に、十一年、三月辛酉、詔曰、膳夫釆女等之手襁肩巾、【肩巾此云2比例1】莫v服云々。續日本紀に、慶雲二年、四月丙寅、先v是、諸國釆女肩巾、依v命停v之、至v是復v舊焉云々。續日本後紀、興福寺僧歌に、天女來通天《アマツメノキタリカヨヒテ》、其後波蒙譴天《ソノノチハセメカヽフリテ》、※[田+比]禮衣著弖飛爾支度云《ヒレコロモキテトビニキトイフ》云々。本集五【廿三丁】に、麻都良我多佐欲比賣能故何比列布利斯《マツラガタサヨヒメノコカヒレフリシ》云々。八【卅三丁】に、天河原爾《アマノカハラニ》、天飛也領巾可多思吉《アマトブヤヒレカタシキ》、眞玉手乃玉手指更《マタマテノタマテサシカヘ》云々などありて、集中猶いと多し。これら、皆女の服也。和名抄衣服類云、領巾【日本紀私記云比禮】婦人頂上飾也と見えて、集中に多く、振ものゝやうにもよみ、紀に肩巾とも書るを見れば、肩《カタ》にかくるも(307)のとおぼし。この物の製作、今の世にてはしりがたけれど、大神宮儀式帳に、生絹御比禮八端【須蘇長各五尺弘二幅】止由氣宮儀式帳に、生※[糸+施の旁]比禮四具【長各二尺五寸廣隨幅】云々。延喜縫殿式、中宮春季御服に、領巾四條料、紗三丈六尺【別九尺】云々。北山抄内宴の條に、陪膳女藏人比禮料羅事、舊年仰2織部司1、人別一丈三尺云々など見えて、まへに引る本集八の歌にも、領巾《ヒレ》かたしきと見えたれば、幅も廣く、長も長きものと見ゆ。されば、こゝに、天領巾隱《アマヒレカクリ》といふは、すべて失し人は、天に上るよしにいへる事集中の常にて、こゝはいまだ葬りのさまなれども、はや失しかば、天女にとりなして、天つ領巾にかくるよしいへるにて、まへにもいへるが如く、領巾は、長も幅もゆたかなるものなれば、これを振おほはゞ、容もなかばはかくれぬべければ、天ひれがくりとはいへるなるべし。さて、白妙の天領巾とつゞくるは、枕詞に、栲領巾乃白濱浪《タクヒレノシラハマナミ》、細比禮乃鷺坂山《タクヒレノサキサカヤマ》などもつゞけて、この領巾てふものは、みな白きものなれば、白妙とはかぶらせたる也。又このもの、枕草子に、五月のせちのあやめの藏人、さうぶのかつら、あかひものいろにはあらぬを、領巾裙帶などして、くす玉を、みこたちかんたちめなどの、たちなみ給へるに奉るも、いみじうなまめかし云々とありて、北山抄にも見えたれば、中ごろまでは殘れりしものとは見ゆれど、古しへのごとく、おしなべてかくる事には、あらざりしなるべし。また、領巾の字、漢土にも見えたり。そは、楊雄方言卷四に、※[肩の月が巾]※[衣+表]謂2之被巾1、注云婦人領巾也とあり。さて、この領巾といふもの、まへにもいへるごとく、女の服なるを、大殿祭祝詞に、比禮懸伴緒《ヒレカクルトモノヲ》云々。大祓祝詞に、比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》云々などあるにつきて、男もかくるものぞと思ふ人もあるべけれど、伴緒、伴男とかける、緒も男も、借字にて、伴長《トモノヲ》の意なれば、祝詞に比禮かくるとあるは、女をいへる也。そは、古事記上卷に、五伴緒《イツトモノヲ》をいへる所(308)に、その中二柱は女神なるにても、伴長《トモノヲ》は男女にわたれるをしるべし。
 
鳥自物《トリジモノ》。
鳥自物は、鳥の、ごとく也。自物は、如くの意なる事、上【此卷廿八丁】にいへるがごとし。鳥は、ねぐらを朝とく出るものゆゑ、鳥のごとく朝立とはつゞけしなり。
 
朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》。
朝立行まして也。行を、いましといふ事は、上【此卷卅丁】にいへるがごとし。こゝは妻を葬りに、朝立ゆくをいへり。本集十三【十九丁】に、群鳥之朝立行者《ムラトリノアサタチユケハ》云々とあるもつゞけがら同じ。
 
入日成《イリヒナス》。隱《カクリ・カクレ》去之鹿齒《ニシカハ》。
入日のごとく隱りにしかば也。本集三【五十六丁】に、入日成隱去可婆《イリヒナスカクリニシカハ》云云とも見えたり。こゝは、妻がかくりにしかばといふ也。こは枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。
 
形見爾置《カタミニオケル》。
形見は、今もいふかたみとおなじ。この事は、上【攷證一下廿三丁】にいへり。
 
若兒乃《ミトリコノ》。乞泣毎《コヒナクゴトニ》。
若子を、みどりこと訓は、義訓也。本集三【五十三丁】に、若子乃匍匐多毛登保里《ミトリコノハヒタモトホリ》云々。また【五十九丁】緑兒乃哭乎毛置而《ミトリコノナクモヲ(マヽ)オキテ》云々。十二【十丁】に、緑兒之爲杜乳母求云《ミドリコノタメコソオモハモトムテヘ》云々。また【十七丁】小兒之夜哭乎爲乍《ミトリコノヨナキヲシツヽ》云々。十六【七丁】に、緑子之若子蚊見庭《ミドリコノワクコカミニハ》云々。十八【卅二丁】に、彌騰里兒能知許布我其登久《ミドリコノチコフガゴトク》云々。靈異記上卷云嬰【彌止利古】。新撰字鏡云、※[子+可]孩兒【彌止利子】。和名抄男女類云、嬰兒、(309)唐韻云孩【戸米反辨色立成云美都利古】始生小兒也など見えたるごとく、嬰兒をみどり子といへり。集中、若子と書たるに、みどりごと訓べき所と、わくごとよむべき所と、二つあり。みどりごとは、いたく小き小兒をいひ、わくごとは、すこしころだちたる兒をいへり。このわかちを、よく心得てよむべし。さて小兒を、みどり子としもいふは、いかにとなれば、緑子とかけるも、借字にて、みどりごは、瑞兒《ミツコ》にて、みづを延れば、みどるとなる。そのるを、りに轉じて、みどりごとはいへるなり。みづは、みづ/\しき意にて、瑞枝《ミツエ》、瑞山《ミツヤマ》などいふ、瑞《ミツ》と同じく、小兒は生さきこもりて、若くみづ/\しきものなれば、端子《ミヅコ》といふを延《ノベ》て、みどりごといふ也。色の緑の、みどりといふも、これと同じく、木の葉などは、みづ/\しきものなれば、みづといふを延て、みどりとはいふなり。松の芽《メ》出しを、みどりといふも、生さきこもりて、若くみづ/\しき意にて、こゝと同じ。乞泣毎《コヒナクコトニ》は、何にまれ、物を乞て泣たびごとにいふなり。
 
取與《トリアタフ》。物之無者《モノシナケレバ》。
宣長云、考に、物は人なりとあれど、いかゞ。兒を取與とはいふべからず。物は玩物にて、泣をなぐさめん料の物也といはれつるがごとく、泣子をなぐさめんにも、取あたへんもてあそびものなければといふ也。
 
鳥徳自物《ヲトコシモノ》。
こゝを、印本、鳥穗自物とありて、とりほじものと訓るは、いかなることとも心得へす《(マヽ)》。誤りなる事明らけし。次の或本の方には、こゝを男自物《ヲトコジモノ》とあるによりて、考に、鳥は烏、穗は徳の誤りとして、烏徳自物《ヲトコシモノ》と改められしは、いかにもさる事にて、よくも考へられたり。字形もいと近ければ、この説によりて改めたり。烏徳《ヲトコ》と書るは、借字にて、男なり。(310)自物《シモノ》は、鳥自物《トリシモノ》、鹿自物《シヽシモノ》などいふ、自物とは意別にて、こゝはをとこなるものをといふ意也。そ
ユフヘニハイリヰナゲカヒワキハサムコノイサツヲモヲトコシモノオヒミイタキミ
は本集三【五十九丁】高橋朝臣の妻死時の歌に、夕爾波入居嘆合《》、腋挾兒乃泣母《》、雄自毛能負見抱見《》云々
オモカケノワスルトナラハアツキナクヲトコシモノヤコヒツヽヲラム
十一【廿一丁】に、面形之忘戸在者《》、小豆鳴男士物屋《》、戀乍將居《》云々などあるにても、思ふべし。さて、この雄男などを、舊訓、をのことよめれば《(マヽ)》、をとこといふと、をのこといふは、意すこしたがへり。をとこといふは、本訓にて、また男を、たゞ、をとのみいへば、をのこといふは、男の子と《(マヽ)》意にて、子は兄子《セコ》、吾妹子《ワキモコ》などいふ子にて、例の親しみ稱したる言也。されば、これらの男雄などをば、をとことよむべきなり。
 
腋挾《ワキハサミ》持《モテ・モチ》。
腋挾《ワキハサミ》を、字のまゝに見れば、兒を腋の下に挾《ハサ》むごとく聞ゆれど、さにあらず。腋挾は、懷《イタ》く意なり。そは古語拾遺に、天照大神、育2吾勝損1、特甚鍾愛、常懷2腋下1、稱曰2腋子1云々とあるにて、こゝもたゞいだく事なるをしるべし。玉篇に、挾懷也とも見えたり。持を、舊訓、もちと訓れど、もてよむべし。もては、もちての略なり。このもてといふは、下の嬬屋之内《ツマヤノウチ》に、晝《ヒル》はも浦不樂晩之《ウラフレクラシ》といふへかけて心得べし。
 
吾妹子與《ワギモコト》。二人吾宿之《フタリワカネシ》。
こは、嬬屋といはんとて、吾妹子が生て有しほどは、二人ねたりしつまやのうちに、今はみなし子をいだきて、よるひる悲しみあかすよしをいへるなり。
 
(311)枕付《マクラツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。夫婦宿るには、たがひに枕の付によりて、まくらつく嬬とはつゞけしなり。
 
嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》。
嬬屋は、舊説に、かのやくもたつ、いづもやへがき、つまごみに云々の御歌、また本集此卷【廿丁】に、つまこもる屋上の山などあるを引て、嬬をおく屋なれば、つまやといふとあれど、いかゞ。嬬と書るは、借字にて、つまは端の意にて、衣のつまといふも、衣の端、つま木といふも木の端也。これらの事、上【攷證一下四十六丁】妻吹風之《ツマフカゼノ》云々とある所、考へ合すべし。また爪をつめといふも、手の端にあれば、つまを轉じて、つめといふ也せ。書紀神代紀に、拔2其手足|爪《ツメ》1云々とあるを、一書には、有2手端吉棄物足端凶棄物《タナスヱノヨシキラヒモノアナスヱノアシキラヒモノ》云々とあれば、爪《ツメ》も端《ツメ》の意にて、こゝのつまやも、端屋《ツマヤ》にて、家の端《ハシ》の方にある屋なるをしるべし。すべて、閏《ネヤ》などは、家の中央に作るべきものとも覺えねば、端屋《ツマヤ》といはんこそ心ゆきておぼゆれ。(頭書、再考るに、つまは端の意なる事、うづなけれど、端はいづれにまれ、小さきものなれば、こゝは細小なる謂にて、つま屋は小さ屋をいへる事、枕付といふにてしるべし。つま木などいふつまもこれなり。)
 
晝羽裳《ヒルハモ》。
裳は、助辭にて、晝はなり。夜者裳《ヨルハモ》の裳も肋辭也。
 
浦《ウラ》不樂《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。
この句、考に、うらさびくらしとよまれしを、宣長云、考にうらぶれとよむはわろしとあれと、卷々に浦觸、裏觸といへる多し。又五の卷【廿五丁】十七の卷【卅二丁】などに、假字にも、うらぶれとかければ、わろからずとて、舊訓に、うらぶれと訓るを、とられしかど、考にうらさびとよまれしを、よしとす。そは本集三【十六丁】に、梶棹毛無而不樂毛《カチサヲモナクテサブシモ》、(312)己具人奈四二《コクヒトナシニ》云々。四【廿九丁】に、從今者城山道不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》、吾將通常念之物乎《ワカカヨチハムトオモヒシモノヲ》云々など、不樂の字を、さぶしとよめるにても、こゝの浦不樂も、うらさびとよまでは、かなはざるをしるべし。うらさび、うらぶれ、さぶしなどいふも、本はみな一つ語にて、みな心|冷《スサ》まじく、なぐさめがたき意也。この事は、上【攷證一下二丁】にいへり。こゝは、むかしは、妹と二人して、入居たる嬬屋のうちに、今は一人をるのみかは、みなし子をさへいだきを《(マヽ)》、晝は心|冷《スサ》まじくなぐさむる事もなくて、日をくらし、夜るは母を乞て、夜泣などする兒に、もてなやみて、氣をつき明しなどすと也。本集此卷【廿五丁】に、暮去者綾哀《ユフサレハアヤニカナシミ》、明來者裏佐備晩《アケクレハウラサヒクラシ》云々なども見えたり。浦は、借字にて、心の意也。この事も上にいへり。
 
氣衝明之《イキツキアカシ》。
息をつきあかし也。悲みにまれ、何にまれ、心にふかく思ふ事のあるをりは、まづ歎息して、息をつかるゝものにて、こゝはみなし子をもてなやみて、息をつきあかす也。なげくといふも、長息の意にて、息をつくとこころおなじ。さていきづくといふは、
 
本集五【廿六丁】に、加久能未夜伊吉豆伎遠良牟《カクノミヤイキツキヲラム》云々。八【廿丁】に、穴氣衝之相別去者《アナイキツカシアヒワカレユケハ》云々。【卅八丁】に、水隱ミコモリ
 
世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。
せんすべしらにの、には、ずの意にて、しらずといふに同じ。この事は、まへにいへり。さてこゝは、夜一よ、息をつきあかして、なげゝどもいかにともせんすべをしらず、それゆゑに、戀れどもあふよしもなしと也。
 
(313)相因乎無見《アフヨシヲナミ》。
みは、さにの意にて、あふよしのなさにといふ意也。
 
大鳥《オホトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。羽のぬけかはるよしにて、羽易《ハガヘ》の山とつづけしなり。大鳥は、本草和名に、鸛和名於保止利云々。和名抄鳥名に、本草云鸛【古亂反和名於保止利】水鳥有2二種1、似v鵠而巣v樹者爲2白鸛1、曲頭者爲2烏鸛1云々など見えたり。
 
羽易乃山爾《ハカヘノヤマニ》。
本集十【六丁】に、春日有羽買之山從《カスカナルハカヘノヤマユ》云々とも見えたれば、大和國添上郡なり。考云、藤原の都べより、春日は、程近からねど、こゝの言ども近きほどの事とは聞えねば、かしこに葬りしならん。
 
吾戀流《ワカコフル》。妹者伊《イモハイ》座《マス・マセ》等《ト》。
この吾の字を、考には或本の方につきて、汝と改められたり。いかにもさる事ながら、吾とありても、意は聞えぬべし。吾戀流《ワカコフル》は人まろ自らいふ言にて、妹は伊ます等といふは、人のいふ言なれば、こゝは自らが鯉る妹は、羽易の山にいますと、人のいへばてふ意なり。
 
石根左久見手《イハネサクミテ》。
印本、手を乎に誤れり。いま古本によりて改む。さくみは、本集二十【五十丁】に、山河乎伊波禰左久美弖布美等保利云々。祈年祭祝詞に、磐根木根履佐久彌底《イハネコノネフミサクミテ》云々など見えて、こはさくみ、さくむ、さくめなどはたらく言にて、さくむの、くむを約むれば、くとなりて、さくは放にて、見放《ミサケ》、問放《トヒサケ》、語放《カタリサケ》などいふ、放と同じく、石根木の根のき(314)らひなく、ふみはなちゆく意也。
 
名積來之《ナツミコシ》。
名積《ナツミ》は、借字にて、勞する意也。古事記上卷に、堅庭者放2向股1蹈那豆美《フミナヅミ》云々。中卷歌に、阿佐士恕波良許斯那豆牟《アサジヌハラコシナヅム》云々などありて、猶紀記に見えたり。本集三【三十八丁】に、雪消爲山道尚矣名積叙吾來並二《ユキケスルヤマミチスラヲナツミソワカコシ》云々。四【四十六丁】に、不近道之間乎煩參來而《チカヽラヌミチノアヒダヲナヅミマヰキテ》云々などありて、集中猶いと多し。みな勞し煩ひ、とゞこほる意にて、こゝは石根をふみさくみ、なづみ煩ひつゝ、墓所に來りしとなり。(頭書、なづみは、行わづらふ意也。)
 
吉雲曾無寸《ヨケクモソナキ》。
よくもぞなきにて、けくは、くを延たる意也。この事は、上【攷證一下六十三丁】にいへり。さてこの句をば、下の不見思者《ミエヌオモヘハ》といふ下へつけて、山のこごしき石根など、ふみさけて、からうじて來つれども、妹がほのかにだにも見えざれば、それがよくもなく、いとわろしといふ意に見べし。
 
打蝉跡《ウツセミト》。念之妹之《オモヒシイモカ》。
打蝉は、まへにもいへるごとく、現身《ウツシミ》の意にて、平生は、うつゝの身なりと思ひたりし妹がといへる也。
 
珠蜻《カギロヒノ・カケロフノ》。
こゝは枕詞にて、冠辭考にくはし。珠蜻と書るは、玉蜻と書ると同じく、借字にて、玉は添たる字也。陽炎《カキロヒ》は、ちら/\と立て、さだかにも見えぬもの故に、かぎろひのほのかとはつづけし也。
 
(315)髣髴谷裳《ホノカニタニモ》。
ほのかは、さだかならざる意也。本集八【卅四丁】に、玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而《カキロヒノホノカニミエテ》云々など見えて、集中猶いと多し。文選班固幽通賦云、夢登v山而※[しんにょう+向]眺兮、覿2幽人之髣髴1云々。銑注云、不2分明1貌など見えたり。
 
不見思者《ミエヌオモヘハ》。
まへにもいへるごとく、この句より上へうちかへして、はのかにだにも見えぬをおもへば、よけくもぞなきと心得べし。考云、こゝは神代の黄泉《ヨモツクニ》の事を、下に思ひてよめる也。この人の歌には、神代の古事をとりし、すべて多かり。あらはならぬは、上手のわざなり。
 
反歌二首。
 
こゝをも、印本、短歌とあり。今意改せり。そのよしは上にいへり。
 
211 去年見而之《コゾミテシ》。秋乃月夜者《アキノツキヨハ》。雖照《テラセレト》。相見之妹者《アヒミシイモハ》。彌年放《イヤトシサカル》。
 
去年見而之《コゾミテシ》。
本集八【十六丁】に、去年之春相有之君爾《コソノハルアヘリシキミニ》云々。十【九丁】に去年咲之久木今開《コソサキシサクライマサク》云々。十八【卅一丁】に、許序能秋安比見之末々爾《コソノアキアヒミシマヽニ》云々などありて、又三【廿三丁】に、雨莫零行年《アメナフリコソ》など、こその假字に、行年とも書て、こぞとは去年のことなる事明らかなれど、訓義は思ひ得ず。書紀允恭紀御歌に去※[金+尊]去曾《コソコソ》とあるは、昨夜乞《コソコソ》にて、集中昨夜を伎曾《キソ》といへるも、皆音通にて、いづれも過し方をさしていへるなれば、去年を、こぞといへるも、本は同語とこそきこゆれ。
 
(316)月《ツク・ツキ》夜者《ヨハ》。
舊訓、つきよはとあれど、つくよはとよむべし。この事は、上【攷證一上廿六丁】にいへり。
 
彌年放《イヤトシサカル》。
彌《イヤ》は、かみ【攷證一下七丁】いにいへるがごとく、ます/\いよゝなどいふ意にて、いよ/\年をへだてゆく也。放《サカル》は、集中離をもよみて、はなれ遠さ《(マヽ)》る意也。こゝは、妻の失し明年の秋よめるにて、去年見てし秋の妹は、いよ/\年をへだたりゆくよとなり。
 
212 衾道乎《フスマヂヲ》。引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》。妹乎置而《イモヲオキテ》。山徑往者《ヤマヂヲユケバ》。生跡毛無《イケリトモナシ》。
 
衾道乎《フスマチヲ》。
枕詞にて、冠辭考に出たれど、おぼつかなきよしに解れたり。衾は、和名抄衣服類に、説文云衾【音金和名布須萬】大被也云々とある、これにて、道は借字にて、今も幟などの手を、ちといふごとく、衾の手《チ》といふにて、衾は引かづくものなれば、衾ぢを引とつづけたるなるべし。雅亮装束抄に、御ふすま【中略】くびのかたには、紅のねりいとをふとらかによりて、二すぢならべて、よこさまに三はりさしをぬふなり云々とあり。この紅のねりいとを、ちとはいふか。本集五【廿九丁】に、麻被引可賀布利《アサフスマヒキカヽフリ》云々とあるにても、衾手を引とつゞけたるなるべし。長歌に、大鳥羽易乃山爾《オホトリノハカヘノヤマニ》、吾戀流妹者伊座等《ワカコフルイモハイマセト》云々とあれば、この引手の山は、羽易の山の一名か。いかにまれ、羽易山は、大和國添上郡なれば、これも同郡なる事しるし。
 
(317)生跡毛無《イケリトモナシ》。
いきたるこゝちもなしと也。引手の山に、妹を置て、その山みちをわれひとりゆけば、いきたるこゝちもなく、かなしとなり。さて、生跡毛無を、宣長の玉勝間卷十三に、本集十九【十六丁】に、伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》とあるを引て、集中生ともなしとあるは、みな生利《イケルト》もなしにて、利は利心《トコヽロ》、心利《コヽロド》などの利にて、生る利心《トコヽロ》もなく、心のうつけたるよし也といはれつれども、すべてを考ふるに、とは、てにをはにて、生りともなき意とこそ聞ゆれ。宣長は、生りともの、と文字へ心をつけて、十九なるは、まへにそのや疑の詞なくて、るより、ととうけたれば、生利《イケルト》もならんと思はれしかど、かゝる事猶ありて、これ一つをもて、例とはなしがたし。この事は、十九の卷にいふべし。
 
或本歌曰。
 
213 宇都曾臣等《ウツソミト》。念之時《オモヒシトキ》。携手《タヅサハリ・タヅサヘテ》。吾二見之《ワガフタリミシ》。出《イテ》立《タチノ・タテル》。百兄槻木《モヽエツキノキ》。虚知期知《コチゴチニ》。枝刺有如《エダサセルコト》。春葉《ハルノハノ》。茂如《シゲキガゴトク・シゲレルガコト》。念有之《オモヘリシ》。妹庭雖在《イモニハアレド》。特有之《タノメリシイ》。妹庭雖有《モニハアレド》。世中《ヨノナカヲ》。背不得者《ソムキシエネバ》。香切火《カキロヒ・カケロフ》之《ノ》。燎流荒《モユルアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。白栲《シロタヘノ》。天領巾《アマヒレ》隱《ガクリ・ゴモリ》。島自物《トリジモノ》。朝立伊行而《アサタチイユキテ》。入日成《イリヒナス》。隱《カクリ・カクレ》西加婆《ニシカバ》。吾妹子之《ワギモコカ》。形見爾置有《カタミニオケル》。線兒之《ミドリコノ》。乞哭別《コヒナクコトニ》。(318)取委《トリマカス》。物之無者《モノシナケレバ》。男《ヲトコ・ヲノコ》自物《シモノ》。脅挿持《ワキハサミモチ》。吾妹子與《ワギモコト》。二吾宿之《フタリワガネシ》。枕附《マクラツク》。嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》。旦者《ヒルハ》。浦《ウラ》不怜《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。夜者《ヨルハ》。息衝明之《イキツキアカシ》。雖嘆《ナゲケドモ》。爲便《セムスベ》不知《シラニ・シラズ》。雖戀《コフレドモ》。相緑無《アフヨシヲナミ》。大鳥《オホトリノ》。羽易山爾《ハガヘノヤマニ》。汝戀《ナガコフル》。妹座等《イモハイマスト》。人云者《ヒトノイヘハ》。石根割見而《イハネサクミテ》。奈積來之《ナヅミコシ》。好雲叙無《ヨケクモソナキ》。宇都曾臣《ウツソミト》。念之妹我《オモヒシイモガ》。灰《ハヒ》而《ニテ・シテ》座者《マセバ》。
 
携手《タヅサハリ・タヅサヘテ》。
舊訓、たづさへてとあれば《(マヽ)》、しかよむまじきよしはまへにいへるがごとし。携手と、手もじを添て、書たれど、携の一字の中に、手の意もこもりて、携手と書る手もじは、物を手に持意にで、書なれば、二字にて、たづさはりとよむべし。そは、本集十【廿七丁】に、萬世携手居而《ヨロヅヨニタヅサハリヰテ》云々。十九【卅四丁】に鳴波多※[女+感]嬬《ナルハタヲトメ》、携手共將有等《タヅサハリトモニアラムト》云々。これらも、たづさひてとはよむまじきにても、こゝをたづさはりとよむべきをしるべし。また十七【卅七丁】に、於毛布度知宇麻宇知牟禮底《オモフドチウマウチムレテ》、多豆佐波理伊泥多知美禮婆《タツサハリイテタチミレハ》云々。このつゞけがらをも見べし。
 
出《イダ》立《タチノ・タテル》。
出立は、書紀雄略紀御歌に、擧暮利矩能播都制能野磨播《コモリクノハツセノヤマハ》、伊底〓智能與廬期企夜磨《イテタチノヨロシキヤマ》云々本集十三【卅一丁】に、忍坂山者走出之宜山之《オサカノヤマハハシリデノヨロシキヤマノ》、出立之妙山叙《イテタチノクハシキヤマゾ》云々。また【廿二丁】出立之清瀲爾《イテタチノキヨキナキサニ》云云などありて、これらは外へゆくとて、出《イテ》たつ道のはじめのよきをほめていへるなり。古今集序に、とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて云々とあるにても、出立は、道のはじめなる(319)をしるべし。さてこゝは、その道のはじめは、わが家よりは近き所なれば、其意もて、わが近きほとりの、百枝槻といふこゝろを、出立のとはいへるにて、出立は、近き邊と心得べし。
 
百兄槻木《モヽエツキノキ》。
兄は假字、枝にて、この枝のしげきものなれば、百枝槻といへるなり。この事は、本歌の槻木の所にいへり。
 
枝刺有如《エダサセルコト》。
こは今もいふ事にて、枝の生る意なり。
 
春葉《ハルノハノ》。茂如《シケキカゴト・シゲレルガゴト》。
本歌に、春葉之茂之如久とあるによりて、はるのはのしげきがごとくとよむべし。
 
朝立伊行而《アサタチイユキテ》。
伊行而《イユキテ》の、伊は、發語にて、心なく、行て也。本歌には朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》とあり。
 
取委《トリマカス》。
とりまかすは、その子をとりゆだぬるをいふ。任を、まけとよむも、その事をその人にまかするをいひて、まかせをつゞめて、まけとはいへるにて、意はこゝのまかすと同じ。左傳文六年注に、委任也とあるにても、おもふべし。
 
物之無者《モノシナケレバ》。
本歌に、取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》とある、物は、取あたふる品をいへれど、こゝの物之無者《モノシナケレバ》の物は、取まかせてゆだぬる人しなければ、といふ意にて、人をさしてものとはいへり。人をさして、ものといふは、古事記中卷に、問2其執v※[楫+戈]者1曰など見えたり。
 
(320)浦《ウラ》不怜《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。
浦不怜を、舊訓、うらぶれと訓しかど、本歌に浦不樂とあるごとく、うらさびとよむべし。そは、本集此卷【四十一丁】に、若草其嬬子者不怜彌可《ワカクサノソノツマノコハサブシミカ》云々。十【五十六丁】に、雖見不怜《ミレトモサブシ》云々などあるにても、思ふべし。言の意は、本歌にいへり。
 
汝戀《ナカコフル》。
本歌には、吾戀流《ワカコフル》とあり。汝がこふるは、なんぢがこふるには外《(マヽ)》人の、人まろをさしていへるなり。汝は、なんぢとも、なれともいひて、なとのみもいふ也。那兄《ナセ》、那禰《ナネ》、汝妹《ナニモ》、汝命《ナカミコト》、これらみな、汝をなとのみいへり。こは、吾《ワレ》を、わとのみいふと同じ。
 
灰《ハヒ》而《ニテ・シテ》座者《マセバ》。
本歌には、この一句なくて、珠蜻髣髴谷裳《カキロヒノホノカニタニモ》、不見思者《ミエヌオモヘハ》の三句あり。考云、或本に灰而座者とあるは、亂れ本のまゝなるを、或人、そを、はひれてませばと訓て、文武天皇の四年三月に、始て道昭を火葬せし後にて、これも火葬して、灰まじりに座てふ事かといへるは、誤りを助けて、人まどはせるわざ也。火葬しては、古へも今も、やがて骨を拾ひて、さるべき所にをさめて、墓とすめるを、此反歌は葬の明る年の秋まゐでゝよめるなるを、ひとめぐりの秋までも、骨を納めず捨おけりとせんかは。又この妻の死は、人まろのまだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞ、おぼえらる。さて、その灰の字を、誤りとする時は、これも本文のごとき心詞にて、珠蛉《(マヽ)》仄谷毛見而不座者《ホノカニタニモミエテマサネバ》とぞありつらんを、字おちしなるべし云々といはれして《(マヽ)》、例のしひて古書を改めんとするの僻にて、甚しき誤りなり。そのよしをくはしくいはん。右にいはれつるごとく、火葬は道昭より始れる事、續日本紀に、文武(321)天皇四年、三月己未、道昭和尚物化、火2葬於栗原1、天下火葬從v此而始也云々とありて、其後、俄に天下あまねく火葬を用ひし事、持統天皇の崩たまへるをさへ、大寶三年十二月、飛鳥岡にて火葬し奉れるにて、しられたり。この文武天皇四年より、大寶三年まで、はづか四年が間に、かくあまねくなりし也。されば、この人麻呂の妻の失しも、火葬始りてより後にて、人麿の世にあられし時、既に火葬の專らなりし事、本集三【四十七丁】に、土形娘子、火2葬泊瀬山1時、柿本朝臣人麿作歌云々、また【四十八丁】溺死出雲娘子、火2葬吉野1時、柿本朝臣人麿作歌云々などあるにてしらるれば、この妻をも、火葬せしにて、今は灰となりませばといふを灰而座者《ハヒニテマセハ》とはいへるなり。考に、一周の秋まで、骨を納めず捨おけりとせんかはといはれしは、こゝの文をいかに見られたるにか。こゝの文は、火葬して埋めしを、たゞ大どかに、灰になるとはいへるにて、火葬せしまゝ捨おかずして、埋めたりとも、一度火葬せしは灰ならずや。續日本紀、神護景雲三年十月詔に、禮方灰止共爾地仁埋利奴禮止《ミハハヒトトモニツチニウツモリヌレド》、名波烟止共爾天爾昇止云利《ナハケフリトトモニアメニノホルトイヘリ》云々などあるにても、埋みても仍灰とゝもにて灰にあるをしるべし。又考に、この妻の死は、人まろの、まだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞおぼえらるといはれしも、いかゞ。何をもて、若きほどの事とせらるゝにか。そは、この妻、失し時、若兒ありて、後にまた依羅《ヨサミ》娘子を妻とせられし故なるべけれど、男はたとへ五六十に及たりとも、子をも生せ、妻をもめとる事、何のめづらしき事かあらん。これらにても、考の説の誤りなるをしるべし。
 
反歌三首。
 
こゝをも、印本、短歌とあるを、今意改せり。そのよしは上にいへり。
 
(322)214 去年見而之《コゾミテシ》。秋月夜《アキノツクヨハ》。雖度《ワタレドモ》。相見之妹者《アヒミシイモハ》。去年離《イヤトシサカル》。
 
雖度《ワタレドモ》。
上に、度日《ワタルヒ》乃ともあるごとく、空を、月日のゆくを、わたるとは、いへり。この外、本歌にかはる事なし。一首の意は、本歌にいへり。
 
215 衾路《フスマヂヲ》。引出山《ヒキデノヤマニ》。妹置《イモヲオキテ》。山路念邇《ヤマヂオモフニ》。生刀毛無《イケリトモナシ》。
 
山路念邇《ヤマヂオモフニ》。
引出の山に妹を置てし來たれば、その妹が居る山路を思ひやるに、いけるこゝちもせずとなり。
 
216 家來而《イヘニキテ》。吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》。玉床之《タマトコノ》。外向來《ホカニムキケリ》。妹木枕《イモガコマクラ》。
 
家來而《イヘニキテ》。
嬬の墓にまうでて、さて家にかへりきて也。
 
吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》。
考に、吾は、もし妻の字にやといはれしも、さる事ながら、吾とても意はよくきこゆるをや。
 
玉《タマ》床《トコ・ユカ》之《ノ》。
玉床とは、愛する妹と宿し床なれば、玉とはほむる也。本集十【廿九丁】七夕の歌に、明日從者吾玉床乎打拂《アスヨリハワガタマトコヲウチハラヒ》、公常不宿弧可母寢《キミトイネステヒトリカモネム》云々など見えたり。舊訓床をゆかとよめるは、いかゞ。とことよむべき也。書紀神代紀下に、佐禰耐據茂阿黨播怒介茂卷譽《サネトコモアタハヌカモヨ》云々。本集五【卅九丁】に、敷多倍乃登許能邊佐良受云々。十四【四丁】に、伊利奈麻之母乃伊毛我乎杼許爾《イリナマシモノイモガヲドコニ》云々。また【卅二丁】に(323)伊毛我奴流等許乃安多理爾《イモガヌルロコノアタリニ》云々。二十【廿七丁】に、由等許爾母可奈之家伊母曾《ユトコニモカナシケイモゾ》云々など、皆とことあるにてもしるべし。さて考に、人まろの妻に似つかず。思ふに、こは死て臥たりし床なれば靈床《タマトコ》の意ならんといはれしはいかゞ。
 
外向來《ホカニムキケリ》。
家にかへり來て、わが屋を見れば、むかしは、わが方にむけて寢たりし、妹が枕の今はかたへにうちやられて、外ざまむきたりとなり。外は、集中多くよそとよめれどこゝはほかとよむべき也。本集十一【八丁】に、荒礒越外往波乃外心《アリソコエホカユクナミノホカコヽロ》云々とも見えたり。來をけりとよめるは、三【十八丁】に相爾來鴨《アヒニケルカモ》云々。十一【十丁】に浦乾來《ウラガレニケリ》云々。十三【廿四丁】に、戀云物者都不止來《コヒトフモノハスベテヤマスケリ》云々などありて、皆借字なり。こはよう來たりといふを、まうけりといふ時、來を、けり、ける、けれとよめる訓を借て書るなり。本集十七【廿丁】に、使乃家禮婆《ツカヒノケレハ》云々。續日本紀、神龜元年二月詔に、大瑞(ノ)物《モノ》顯|來理《ケリ》云々などあるにても、おもふべし。
 
妹木枕《イモガコマクラ》。
古へ、枕の製作、薦《コモ》枕、菅《スガ》枕などありて、薦、菅などにても造れり。木枕は、それならで、木にて造りたる枕也。集中、黄楊《ツゲ》枕あり。拾遺集に、沈の枕あり。これらおしなべて、木枕といふべし。本葉十一【廿五丁】に、吾木枕蘿生來《ワガコマクラニコケオヒニケリ》云々なども見えたり。さてこの歌を、考には、本歌の反歌とせられたれど、いかゞ。考云、去年死て、葬りやりしかば、又の秋まで、其床の枕さへ、そのまゝにてあらんこと、おぼつかなしと思ふ人有べし。このこと、上にもいへる如く、古へは、人死て、一周の間、むかしの夜床に、手をだにふれず、いみつゝしめる例(324)なれば、このたま床は、又の秋までかくてあるなりけり。たとへば、旅行人の、故郷の床の疊にあやまちすれば、旅にても、ことありとて、其疊を大事とする事、古事記にも、集にも見ゆ。これに依て、この歌と、上の、河島皇子を乎知野に葬てふに、ぬば玉の夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》とよめるなどを、むかへ見るに、よみ路にても、事なからん事を思ふは、人の情なれば、しかあるべき事也。こぬ人をまつとても、床のちりつもるとも、あるゝともいふ。これも、その床に、手ふるゝをいむ故なれば、この三つ、おなじ意に、わたる也云々といはれしが如し。
 
吉備津采女死時。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌。
 
吉備津釆女。
考云、この釆女の氏は、吉備津なり。大津、志我津などよめるは、近江の其所より來りし故なるべし。さるを、近江宮の時の釆女かといふは、ひがごとなり。こゝは、藤原宮のころなり。宣長云、吉備津を、考にこの釆女の姓なるよしあれど、すべて釆女は、出たる地をもて、よぶ例にて、姓氏をいふ例なし。其上、反歌に、志我津子とも、凡津子ともよめるを思ふに、近江の志我の津より出たる釆女にて、吉備と書るは、志我の誤りにて、志我津釆女の《(マヽ)》なるべし云々。この宣長の説によるべし。
 
217 秋山《アキヤマノ》。下《シタ》部《ブ・ヘ》留妹《ルイモ》。奈《ナ》用《ヨ・ユ》竹乃《タケノ》。騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》。何方爾《イカサマニ》。念居可《オモヒヲリテカ》。栲紲之《タクナハノ》。長命乎《ナガキイノチヲ》。露己曾婆《ツユコソハ》。朝爾置而《アシタニオキテ》。夕者《ユフベニハ・ユフベハ》。消等言《キエヌトイヘ》。霧已曾婆《キリコソハ》。夕立而《ユフベニタチテ》。明者《アシタニハ》。(325)失等言《ウセヌトイヘ》。梓弓《アヅサユミ》。音聞吾母《オトキクワレモ》。髣髴《オホニ・ホノニ》見之《ミシ》。事悔敷乎《コトクヤシキヲ》。布栲乃《シキタヘノ》。手枕纏而《タマクラマキテ》。劔刀《ツルギタチ》。身二副寢價牟《ミニソヘネケム》。若草《ワカクサノ》。其嬬子者《ソノツマノコハ》。不怜《サブシ・サビシ》彌可《ミカ》。念而寢良武《オモヒテヌラム》。悔彌可《クヤシミカ》。念戀良武《オモヒコフラム》。時不在《トキナラズ》。過去子等我《スギニシコラガ》。朝露乃如也《アサツユノゴトヤ》。夕霧乃如也《ユフギリノゴトヤ》。
 
秋山《アキヤマノ》。
枕詞なり。下部留《シタブル》は、次にいへるがごとく、黄葉の色のうるはしくにほへるを、女のうるはしき紅顔にたとへいへるにて、秋山のごとく、下部留とはつゞけし也。猶くはしく予が冠辭考補正にいふべし。
 
下《シタ》部《ブ・ベ》留妹《ルイモ》。
下部留《シタフル》は、古事記中卷に、秋山之下氷批夫《アキヤマノシタヒヲトコ》云々とある下氷と同じく、また本集十【五十丁】に、金山舌日下鳴鳥《アキヤマノシタヒカシタナクトリ》云々などある舌日も、借字にて、意同じく、皆黄葉の色の、うるはしきを、女のうるはしき紅顔にたとへて、下部留妹《シタブルイモ》とはいへる也。さてこの言は、したびしたぶると活用して、言の本は、朝備《アシタヒ》といふことにて、秋山のいろの、紅葉ににほへるが、赤根さす朝の天の如くなる由なりと、宣長いはれたり。さもあるべし。本集一【十四丁】に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘリモヲ》云々。十【廿五丁】に、吾等戀丹穗面《ワガコフルニノホノオモガ》云々。十三【廿四丁】に、都追慈花爾太遙越賣《ツヽジハナニホヘルヲトメ》云々などありて、集中猶多く、又枕詞に、あかねさす君、あからひくしきたへの子、あからひくはだなどつゞくるも、みな紅顔のうるはしきをいへり。
 
(326)奈《ナ》用《ヨ・ユ》竹乃《タケノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは本集三【四十五丁】に、名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》云々ともありてなよ竹は、なよ/\としなやかなる竹をいへるにて、とをゝにたわむ意もて、とをよるこらとはつゞけしなり。古事記上卷に、打竹之登遠々登遠々遍《サキタケノトヲヽトヲヽニ》云々など見えたり。さて舊訓、用をゆの假字としたれど、用はみな、よの假字にのみ用ひて、ゆと訓る事、例なければ、なよ竹とよめり。三の卷なるは、なゆたけと訓べし。ゆよ音通にて同じ。
 
騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》。
騰遠《トヲ》は、本集八【四十六丁】に、秋芽子乃枝毛十尾二降露乃《アキハキノエタモトヲゝニオクツユノ》云々。十【十三丁】に、爲垂柳十緒《シタリヤナキノトヲヽニモ》云々などありて、集中いと多く、とをむ、たわむ、とをゝ、たわゝと通はしいひて、みな枝の撓《タワ》む事にて、こゝの騰遠依《トヲヨル》の、とをも、女のすがたの、なよゝかにたわみたるをいへる也。すべて、女は、なよゝかに、しなやかなるをよしとする事、腰細《コシホソ》のすがるをとめなど、つゞくるにても思ふべし。依《ヨル》は、より靡意、子等は、集中子たちといふ所に、子等といへるも多かれど、こゝはたゞ、子といふにて、らは助辭也。本集十【卅丁】に、君待夜等者《キミマツヨラハ》云々。十四【廿三丁】に、安左乎良乎《アサヲラヲ》云々などある、らもじも、助辭にて、こゝとおなじ。
 
何方爾《イカサマニ》。念《オモヒテ》居可《ヲレカ・ヲリテカ》。
本集一【十七丁】二【廿七丁】などに、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》云々とあると、同じく、可は、ばかの意なれば、をれかとよむべし。さてこゝは、いかさまに思ひをればか、かく失つらん、夫のなげくらんになどいふ意をふくめたり。
 
(327)栲紲之《タクナハノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。栲の木の皮にてよりたる繩にて、その繩の如く長きとつゞけたる也。漢書王莽傳注に、紲繋也云々とありて、又説文に、紲糸也、或从v※[蝶の旁]作v※[糸+蝶の旁]云々。楊雄方言卷十に、※[糸+蝶の旁]緒也などもあれば、繩の意なり。さてこの栲の字を、たへとも、たくとも訓は、一物二名にあらず。たへといふは、この栲の木の皮とりて、織なして布としたるをいひて、既に布となりたるをいへるなる事、上【攷證一下七十二丁】栲《タヘ》の穗《ホ》の所、考へ合せてしるべし。たくといふは、栲の本名にて、物につくらぬさきをいへるにて、栲紲《タクナハ》は栲の皮してよりたる繩、栲衾《タクフスマ》は栲の皮して織たる衾てふ意也。栲《タク》ひれ栲《タク》づぬなどおしてしるべし。
 
長命乎《ナガキイノチヲ》。
いまだ若くして、末長き命を、いかに思ひてか、かく失ぬらんといふ意をふくめたり。
 
露己曾婆《ツユコソハ》。
こそはといふ言に、心を付て見るべし。露こそは、朝おきても、夕べはきえぬといへ、霧こそは夕べに立ても、明ぬればうせぬといへ、されども人はさはあらざるものをといふ意也。
 
梓弓《アツサユミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。弓は、引ば必らず音あるものなれば、音とはつゞけし也。梓の弓の事は、上【攷證一上七丁】にいへり。
 
音聞吾母《オトキクワレモ》。
音とは、かの釆女失にしといふ言をきゝし也。まへに、梓弓聲爾聞而《アツサユミオトニキヽテ》ともあり、くはしくは、その所にいへり。
 
(328)髣髴《オホニ・ホノニ》見之《ミシ》。
舊訓、ほのに見しとあれど、反歌に相日於保爾見敷者今叙悔《アヒシヒヲオホニミシカバイマソクヤシキ》云々とある、こゝとつゞけがらの全く同じきにても、こゝをもおほに見しとよむべきをしるべし。さておほとは、本集三【五十八丁】に、吾王天所知牟登不思者《ワカオホキミアメシラサムトオモハネハ》、於保爾曾見谿流《オホニソミケル》云々。また【五十九丁】朝霧髣髴爲乍《アサキリノオホニナリツヽ》云々。六【廿三丁】に、凡有者左毛右毛將爲乎《オホナラハトモカモセムヲ》云々。四【卅一丁】に、朝霧之欝相見之人故爾《アサキリノオホニアヒミシヒトユヱニ》云々などありて、猶多し。凡の字をよめるごとく、大方といふ意にて、こゝはかの釆女失し事を、きゝしわれさへも、釆女が生てありしほど、おほよそに見すぐしたる事の、くやしきを、かたらひて、そひ寢せし人は、いかならんとおしは(か脱カ)るなり。
 
事悔敷乎《コトクヤシキヲ》。
敷《シキ》は、借字にて、乎《ヲ》はものをの意なり。
 
布栲乃《シキタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下六十一丁】にも出たり。手のうち越て、枕とつゞけたるなり。文字を打こして、下へつゞくる例も冠辭考に出たり。
 
手枕纏而《タマクラマキテ》。
手枕は、手を枕とする也。古事記上卷歌に、多麻傳佐斯麻岐《タマテサシマキ》云々とある、これなり。纏而《マキテ》は、字の如く、まとふ意にて、何にまれ、枕とするをいへる言也。本集此卷【四十一丁】に、奧波來依荒礒乎《オキツナミキヨルアリソヲ》、色妙乃枕等卷而《シキタヘノマクラトマキテ》云々。三【四十四丁】に、家有者妹之手將纏《イヘナラバイモカテマカム》云々。四【廿一丁】に、敷細乃手枕不纏《シキタヘノタマクラマカズ》云々。又【卅丁】吾手本將卷跡念牟《ワカタモトマカムトオモハム》云々などありて、集中猶いと多し。
 
劔刀《ツルギタチ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。まへにも出たり。
 
(329)身二副寢價牟《ミニソヘネケム》。
こは、釆女とかたらひし人を云て、われさへも凡に見過しゝ事のくやしきを、まして身にそへて寐けん人は、いかならんとなり。
 
若草《ワカクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證中廿五丁】にも出たり。其といふ字をうちこして、嬬とつゞけし也。
 
其嬬子者《ソノツマノコハ》。
こは、釆女とかたらひし男をいへるにて、嬬は、文字を借てかけるのみ。男女たがひに、つまといへる事、上所々にいへるがごとし。子も、人を稱し、親しみていへる也。この事も上にいへり。本集十【卅二丁】に、稚草乃妻手枕迹《ワカクサノツマテマカムト》、大船乃思憑而《オホフネオモヒタノミテ》、榜來等六其夫乃子我《コキクラムソノツマノコカ》云々とあるも、男をいへり。
 
不怜《サブシ・サビシ》彌可《ミカ》。念而寢良武《オモヒテヌラム》。
不怜《サブシ》は、今もいふさびしといふ言にて、心冷まじくなぐさめがたき意也。まへに、浦不樂《ウラサビ》、浦不怜《ウラサヒ》などあるも、同じくさび、さぶ、さびし、さぶしとはたらく語にて、意同じ。本集四【十二丁】に、吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》、君二四不在者《キミニシアラネハ》云々。また【廿九丁】從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》云々。五【廿五丁】に、等乃斯久母佐失志計米夜母《トノシクモサフシケメヤモ》云々。十【五十六丁】に、雖見不怜《ミレトモサフシ》云々などありて、集中猶多し。彌《ミ》は、さにの意にて、さびしさにか、かの釆女の事を思ひつゝ、ねぬらんと也。さにの意の、みの事は、上【攷證一上十丁】にいへり。
 
悔彌可《クヤシミカ》。念戀良武《オモヒコフラム》。
この二句、印本なし。今、活字本、拾穗本によりて補ふ。釆女が失にし事の、くやしさにか、その事を思ひて、戀したふらんとなり。
 
時不在《トキナラス》。
釆女が、まだ若くして死べき時にもあらぬにといふ也。
 
(330)過去子等我《スギニシコラガ》。
 
本集一【廿二丁】に、黄葉過去君之《モミチハノスギニシキミガ》云々。此卷【卅七丁】に、黄葉乃過伊去等《モミチハノスギテイニキト》云々。三【五十五丁】に、過去之人之所念久爾《スキニシヒトノオモホユラクニ》云々などありて、猶いと多く、皆失し人を、過にしとはいへり。子等は、まへにいへるが如く、たゞ子といふ意にて、等は助辭にて、過にし妹などいはんが如し。
 
朝露乃如也《アサツユノゴトヤ》。夕霧乃如也《ユフギリノゴトヤ》。宣長云、如也は、ごとと訓べし。也の字は、焉の字などのごとく、たゞ添て書るのみ也。ごとやと訓ては、やもじととのはず。さてこの終りの四句は、子等が朝露のごと、夕霧のごと、時ならず過ぬと、次第する意也。かくのごとく見ざれば、語とゝのはざる也云々といはれしはいかゞ。也もじは、ごとくやなどいふにて、歎息の意のや也。さて、この四句は、まへに露こそは、霧こそはといふをくりかへしいひて、その朝つゆのごとくやな、夕きりのごとくやなと、うちなげきたる事なり。
 
反歌二首。
これも、印本、短歌とあれど、意改せり。そのよしは上にいへり。
 
218 樂浪之《サザナミノ》。志我津子等何《シガツノコラガ》。【一云、志我津之子我《シガノツノコガ》。】罷道之《マカリヂノ》。川瀬道《カハセノミチヲ》。見者《ミレバ》不怜《サブシ・サビシ》毛《モ》。
 
樂浪之《サヽナミノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。
 
志我津子等何《シガツノコラカ》。
志我は、近江の國滋賀郡也。この地の事は、上【攷證一上四十九丁】にいへり。そこの津を、志我津とはいふ也。志我の津といふ、のもじを略けるなり。吉野の山(331)吉野山ともいへる類にて、この類、地名にはつねのこと也。本集七【廿四丁】に、神樂浪之思我津乃白水郎者《サヽナミノシカツノアマハ》云々。また【四十丁】神樂聲浪乃四賀津之浦能《ササナミノシカツノウラノ》云々なども見えたり。子等《コラ》の、等《ラ》は、まへにいへる如く、助字にて、かの釆女を子とはいへり。
 
一云、志我津之子我《シカノツノコガ》。
印本、乃文字なし。乃もじなくては、異同にあぐべきやうなければ、今は拾穗本によりて補ふ。
 
罷道之《マカリヂノ》。
考云、葬送る道をいふ。紀【光仁】に、永手大臣の薨時の詔に、美麻之《ミマシ》大臣、罷道意太比念而《マカリチモオタヒニオモヒテ》、平罷止富良須倍之《タヒラケクサキクマカリトホラスヘシト》詔とあるは、黄泉の道をのたまへど、言は同じ云々といはれつるがごとし。罷は、玉篇に、罷、皮解切、休也、音疲、極也とあるにても、死てゆく道を罷道といふなるをしるべし。さてまかるとは、貴き所より賤き所へゆくをばいへるにて、中ごろより死る事を、身まかるといふも、これなり。まかるといふ言は、本集三【卅一丁】に、憶良等者今者將罷《オクララハイマハマカラム》云々。五【卅一丁】に、唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》云々。六【廿五丁】に、食國遠乃御朝庭爾《ヲスクニノトホノミカドニ》、汝等之如是退去者《イマシラカカクマカリナハ》云々などあるにても、貴き所より賤き所へゆく意なるをしるべし。こゝの事を、宣長云、道は邇の誤りなるべし。こゝには、まかりぢにてはわろしといはれつれどまかりぢにても、意はよく聞ゆるをや。
 
川瀬道《カハセノミチヲ》。
葬りゆく道をいへるにて、考に、大和國にても、何所の川か、さしがたしといはれたり。
 
(332)見者不怜毛《ミレバサブシモ》。
不怜は、まへにもいふごとく、心すさまじく、なぐさめがたき意にて、こゝはかの釆女を葬送して、ゆく道の川瀬などを見るにつけても、心をなぐさめがたしとなり。
 
219 天《ソラ・アマ》數《カゾフ》。凡《オホシ・オフシ》津子之《ツノコカ》。相日《アヒシヒヲ》。於保爾見敷者《オホニミシカバ》。今叙悔《イマソクヤシキ》。
 
天《ソラ・アマ》數《カソフ》。
枕詞也。天を、そらとよめるは、そらみつ大和といふ枕詞を、本集一【十六丁】に、天爾滿倭乎置而《ソラニミツヤマトヲオキテ》云々とあるにて思ふべし。何にまれ、天なる物を、かぞふるは、凡なるものなればそらかぞふ凡とはつゞけし也。猶くはしくは、予が冠辭考補正にいふべし。
 
凡津子之《オホシツノコガ》。
凡津は、近江國滋賀郡大津にて、大津宮といふも、こゝ也。そはいかにとなれば、書紀推古紀に、大河内直とあるを、天武紀に、凡河内直とかき、同紀に大海といふ氏なるを、姓氏録には、凡海とかけり。これらにても、大と凡の訓を通はし用ひたるをしるべし。是を、おほしとよむ事、いかになれば、續日本紀、延喜十年九月紀に、改2大押《オホシ》字1、仍注2凡直1云々とあるにて、凡はおほしとよまん事、明らけし。さるを、宣長、おふしとよまれたり。こは和名抄丹後國郷名に、凡海とあるを、於布之安萬と訓るにつきて、おふしとよまれしにはあれど、おふしけ、おほしの音便にくづれたるにて、しかも和名抄國郡部は、順の手にはならざりしものなる事、古本にはみな國郡部なきにてもしらるれば、續紀をすてゝ、和名抄國郡部の訓を用ふべき(333)いはれなきをや。すべて和名抄てふ書は、漢名あるにむかへたる書名なれば、國郡郷名に、漢名あるべきいはれなきにても、もとよりのものにあらで、後人の増補せしものなるをしるべし。この事は、わが友狩谷望之が和名抄の攷證に辨ぜり。
 
相日《アヒシヒヲ》。
かの釆女が、われにあひし日といふに、ものゝ序などありて、面會せしなるべし。
 
於保爾見敷者《オホニミシカハ》。今叙悔《イマゾクヤシキ》。
於保《オホ》は、まへの長歌に、髣髴見之《オホニミシ》とある所にいへりしがごとく、凡《オホヨソ》の意にて、こゝはかの志我《シガ》の大津の釆女にあひたりし心とめても見ず、たゞおほよそに見過しゝかば、失にし今ぞくやしく思ふといふにて、かく時ならず失ぬべしとしりたらば、心とめて見おかましものをといふ意をふくめたり。
 
讃岐狹岑島。視2石中死人1。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌。
 
狹岑《サミネノ》島。
略解云、讃岐國那珂郡に、さみ島ありといへり云々とあり。こゝなるか。考には、反歌に、佐美乃山とあるによりて、こゝをも、さみのしまの《(マゝ)》よまれしかど、山と島のたがひありて、別所なるもしりがたければ、しばらく舊訓のまゝに、さみねのしまとよむべし。
 
石中死人。
磯邊の小石などある中にありしなるべし。石窟などをいふにはあらじ。
 
(334)220 玉藻《タマモ》吉《ヨシ・ヨキ》。讃岐國者《サヌキノクニハ》。國柄加《クニカラカ》。雖見不飽《ミレトモアカヌ》。神柄加《カムカラカ》。幾許貴寸《コヽタタフトキ》。天地《アメツチ》。日月與共《ヒツキトトモニ》。滿《タリ・ミチ》將行《ユカム》。神乃御面跡《カミノミオモト》。次來《ツキテクル》。中乃水門從《ナカノミナトユ》。船浮而《フネウケテ》。吾榜來者《ワカコギクレバ》。時風《トキツカセ》。雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》。奧見者《オキミレハ》。跡位《シキ・アトヰ》浪立《ナミタチ》。邊見者《ヘヲミレハ》。白浪《シラナミ》散動《サワギ・トヨミ》。鯨魚取《イサナトリ》。海乎恐《ウミヲカシコミ》。行船乃《ユクフネノ》。梶引折而《カヂヒキヲリテ》。彼此之《ヲチコチノ》。島者雖多《シマハオホケト》。名細之《ナクハシ》。狹岑之島乃《サミネノシマノ》。荒礒面爾《アリソモニ》。廬作而見者《イホリシテミレバ》。浪音乃《ナミノトノ》。茂濱邊乎《シケキハマベヲ》。敷妙乃《シキタヘノ》。枕爾爲而《マクラニナシテ》。荒床《アラトコニ》。自伏君之《コロフスキミガ》。家知者《イヘシラバ》。往而毛將告《ユキテモツケム》。妻知者《ツマシラハ》。來毛問益乎《キテモトハマシヲ》。玉桙之《タマホコノ》。道太爾不知《ミチダニシラス》。欝悒久《オホヽシク》。待加戀良武《マチカコフラム》。愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
 
玉藻《タマモ》吉《ヨシ・ヨキ》。
枕詞なり。吉《ヨシ》の、しは助字にて、讃岐よりは多く海藻を出すよしにて、玉藻よ、さぬきとつゞけし也。冠辭考の説おぼつかなし。猶予が冠辭考補正にいふべし。
 
讃岐國者《サヌキノクニハ》。國柄加《クニガラカ》。
柄は、借字にて、詞也。この言は、上に詞を添て、のよき故に、のわろき故に、と云意の語にて、こゝは、讃岐の國は、國のよき故に(335)か、見れどもあかぬといふ意也。そは、本集三【廿六丁】に、芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》、山可良志貴有師《ヤマカラシタフトカルラシ》、水可良思清有師《ミツカラシキヨクアルラシ》云々。六【十丁】に、蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》、神柄香貴將有《カムカラカタフトカルラム》、國柄鹿見欲將有《クニカラカミガホシカラム》云々などあるにても思ふべし。集中猶多し。考には、神隨《カムナガラ》などいふ、ながらの、なを略けるにて、まゝの意のよしいはれしかど、いかゞ。
 
雖見不飽《ミレドモアカヌ》。
考には、あらずとよまれしかど、ぬは、まへの句の加の結び詞なれば、ぬとよむべし。
 
神《カム・カミ》柄加《ガラカ》。
この讃岐の國は、神の生また《(マヽ)》故にか、たふとかるらんといふ意也。まへにもいへる如く、此の柄といふ言は、上に詞をそへてきく意なる事、本集六【十丁】に、蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》 神柄香貴將有《カムカラカタフトカルラム》云々とあるも、この蜻蛉《アキツ》の宮は、神にまします天皇のおはしましゝ所なる故には、たふとかるらんといふ意、十七【卅四丁】に、布里佐氣見禮婆《フリサケミレハ》、可牟加良夜曾許婆多敷刀伎《カムカラヤソコハタフトキ》云々とあるも、二上山をよめる歌にて、この山は、神のまします山なる故にや、貴かるらんといふ意なるにても、この讃岐國は、神のうみましゝ故にか、貴かるらんといふ意なるをしるべし。この國は、古事記上卷に、次生2伊豫之二名島1、此島者身一而、有2面四1、毎v面有v名、故伊豫國、謂2愛比賣《エヒメ》1、讃岐國謂2飯依比古《イヒヨリヒコ》1云々とあれば、神の生ましゝ國也。さてこの句を、舊訓、かみがらかとよめれどまへに引る、十七卷に可牟加良夜《カムカラヤ》とあるによりて、神はかむとよむべし。
 
幾許貴寸《コヽダタフトキ》。
幾許《コヽダ》は、いかばかりといふ意にて、いかばかりたふときといふ也。この言は、古事記中卷歌に、許紀志斐惠泥《コキシヒヱネ》とも、許紀陀斐惠泥《コキダヒヱネ》ともありて、本集五【十八丁】に、伊(336)母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾《イモガヘニユキカモフルトミルマデニ》、許々陀母麻哉不烏梅能波奈可毛《コヽダモマカフウメノハナカモ》云々。十四【七丁】に、多麻河泊爾左良須※[氏/一]豆久利《タマカハニサラステヅクリ》、佐良左良爾奈仁曾許能兒乃己許太可奈之伎《サラサラニナニソコノコノコヽタカナシキ》云々なども見え、又十四【廿八丁】に、許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《コヽロニノリテコヽバカナシケ》云々なども見え、又十七【卅六丁】に、詐己婆久毛見乃佐夜氣吉加《コヽハクモミノサヤケキカ》云々なども見え、又十七【四十八丁】に、許己太久母之氣伎弧悲可毛《コヽタクモシケキコヒカモ》云々なども見え、又二【四十四丁】に、己伎太雲繁荒有《コキタクモシゲクアレタルカ》云々なども見え、又二十【廿五丁】に、己伎婆久母由多気伎可母《コキバクモユタケキカモ》云々なども見え、又九【一八丁】に、曾己良久爾堅目師事乎《ソコラクニカタメシコトヲ》云々など見え、又十七【卅四丁】に、可牟加良夜曾許婆多敷刀伎《カムカラヤソコハタフトキ》伎云々など見え、又二十【廿五丁】に、曾伎太久毛加藝呂奈伎可毛《ソキタクモカキリナキカモ》云々など見えて、かくさま/”\に轉じ、いづれもみな一つ言也。又四【卅七丁】に、幾許思異目鴨《イカハカリオモヒケメカモ》云々。八【五八丁】に、幾許香此零雪之《イクバクカコノフルユキノ》云々などあるにても、幾許《ココダ》はいかばかりの意なるをしるべし。また數多く、あまたの意とせるも、集いと多し。
 
天地《アメツチ》。日月與共《ヒツキトトモニ》。
舊訓、あめつちのと、のもじを添てよめるはいかゞ。天地とも、日月とも共にみち足《タリ》なんといふ意なれば、のもじを略きて、四言によむべし。本集十三【十一丁】に、天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》云々とあるも、足《タレ》る事を天地にたとへいへるなり。
 
滿將行《タリユカム》。神乃御面跡《カミノミオモト》。
天地日月は、滿《タリ》とゝのひたるものなれば、それにたとへて、その如く滿(リ)行んといへるにて、滿とは、足をかけると同じ。足《タリ》そなはりとゝのひたるをいへるにて、本集此卷【廿七丁】望月乃滿波之計武跡《モチツキノタヽハシケムト》云々。九【卅四丁】に、望月乃滿有面輪二《モチツキノタレルオモワニ》云々などありて、又續日本紀、天平神護二年十月詔に、大御形毛圓滿天《オホミカタチモタラハシテ》云々など見えたり。(337)神名に、面足《オモダルノ》命といふあるも、これ也。さて、こゝは、まへにもいへるごとく、四國は、神の生ませりといふ傳へにて、その國の年経つゝ、ひらけゆきて、足《タリ》とゝのひそなはれるを、神の御面の、そなはれるによせていへるなり。
 
次來《ツキテコシ》。
この國の足そなはり、とゝのひゆくを、この國はもと神のうみましゝ國にて、神の名さへある國なれば、神の御面の、足そなはりゆくと見つゝ、道を次て來るといふ意にて、次はつゞくといふ意也。そは、本集四【五十四丁】に、次相見六事計爲與《ツキテアヒミムコトハカリセヨ》云々、五【十丁】に、用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ヨルノユメニヲツギテミエコソ》云々などありて、集中猶いと多し。これらもつゞけてといふにて、こゝの次來といふも、これに同じく、道をつゞけてこしなり。
 
中乃水門從《ナカノミナトユ》。
考曰、讃岐に那何郡あり。そこの湊をいふならん云々といはれたり。さもあるべし。水門とかけるは、借字にて、湊なり。和名抄水土類云、説文云湊【音奏和名美奈度】水上人所v會也と見えたり。從《ユ》はまへにもいへるごとく、よりの意なり。
 
船浮而《フネウケテ》。吾榜來者《ワカコギクレバ》。
中の湊までは、陸路を來られしなるべし。ここより船うけて、吾こぎくればといふ也。
 
時風《トキツカゼ》。
つもじは、助辭にて、時風なり。こは思ひよらぬ時に、吹來る風をいへる也。本集六【廿二丁】に、時風應吹成奴《トキツカセフクヘクナリヌ》、香椎滷潮干浦爾玉藻苅而名《カシヒガタシホヒノウラニタマモカリテナ》とよめるは、思ひよらず風のふくべき(338)けしきになりぬ。風のふき來ぬさきに、潮干のうらにて、玉藻かりてんといふ意。七【十四丁】に、時風吹麻久不知《トキツカゼフカマクシラニ》、阿胡之海之朝明之鹽爾《アコノウミノアサケノシホニ》、玉藻苅奈《タマモカリテナ》とよめるは、思ひよらず風の吹き來らんもはかりしらず、早く、この潮に玉藻かりてんといへる意なれば、いづれも思ひよらぬ風を、ときつ風とはいへり、。こゝも船をうかべて、※[手偏+旁]くるほどに、風の思ひよらず吹來りて、海山かしこければ狹岑島に、船がかりせりといへる也。この時風を、考に、うなしほの滿くる時は、必らず風のふきおこるを、時つ風とはいへり云々といはれつるは、こゝに叶はず。この下に、海乎恐《ウミヲカシコミ》とも、梶引折《カチヒキヲリ》ともいひて、狹岑の島に船がゝりして、假廬をも造りて、風待せるさまをも思ひ合せて、思ひよらぬほどに吹來る風なるをしるべし。
 
雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》。
上【攷證一下卅七丁】にもいへるがごとく、天は雲の居るものなれば、雲居といひて、天の事とし、天は遠きものなれば、雲居といひて、遠きとせるにて、思ひよらぬ風ふき來りて、海原の澳かけて、いづこまでも、遠く風のふきわたるにといふ意也。次の句に奧見者《オキミレハ》とあるにても思ふべし。又本集一【廿三丁】に、雲居爾曾遠久有家留《クモヰニソトホクアリケル》云々、十二【卅八丁】に、雲居有海山越而《クモヰナルウミヤマコエテ》云々などあるにても、雲居は遠き意なるをしるべし。
 
跡位《シキ・アトヰ》浪立《ナミタチ》。
考云、跡居は、敷坐《シキヰル》てふ意の字なるを、借て書り。卷三今十三に、立浪母疎不立《タツナミモオホニハタヽス》、跡座浪之立塞道麻《シキナミノタチサフミチヲ》、その次の歌に、上には敷浪乃寄濱邊爾《シキナミノヨスルハマヘニ》とありて、其末に腫浪能恐海矣直渉異將《シキナミノカシコキウミヲタヽワタリケム》とあるも、共に重浪《シキナミ》てふ意なるに、敷とも、腫とも、書て、訓をしらせたるをおもふべしといはれつるがごとし。
 
(339)邊見者《ヘヲミレハ》。
これを、考に、へた見ればと訓れしは誤り也。へたといへる言も有ど奧《オキ》と對へいふ時は、必らずへとのみいふべき也。そは、古事記上卷に、奧疎《オキサカル》神、邊疎《ヘサカル》神云々。本集此卷【廿四丁】に、奧故而榜來船《オキサケテコキクルフネ》、邊附而榜來船《ヘニツキテコキクルフネ》、奧津加伊痛勿波禰曾《オキツカイイタクアナハネソ》、邊津加伊痛莫波禰曾《ヘツカイイタクナハネソ》云々などありて、祝詞に、奧津藻菜邊津藻菜《オキツモハヘツモハ》云々などあるにても、奧にむかへいふ時は、へとのみいふべきをしるべし。邊は、海邊《ウミベタ》をいふなり。
 
白浪《シラナミ》散動《サワク・トヨミ》。
舊訓には、散動の字を、とよみと訓。考には、さわぐと訓れたり。とよむと、さわぐとは、いとちかく、いづれも古言にて、いづれにても聞ゆるやうなれど、よく/\考れば、とよむは音につきていひ、さわぐは形につきていふとのわかち也けり。こゝはまへに、邊見者《ヘヲミレハ》とありて、形につきていふ所なれば、さわぐとよむべし。さてこのさわぐと、とよむとのわかちを、まづさわぐは、本集一【廿二丁】に、其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワクミタミモ》云々。六【十四丁】に、御※[獣偏+葛]人得物矢手挾散動而有所見《ミカリヒトサツヤタハサミサワキタルミユ》云々。また【十七丁】鮪釣等海人船散動《シヒツルトアマフネサワキ》云々。七【十六丁】に、奧津浪驂乎聞者《オキツナミサワクヲキケハ》云々。八【卅四丁】に、浮津之浪音佐和久奈里《ウキツノナミトサワクナリ》云々。九【十丁】に、阿渡河波者驟鞆《アトカハナミハサワケトモ》云々などありて、これらのうち聞とも音ともあれど、こはさわぐ音を聞といふにて、さわぐといふに、もとより音の意あるにはあらで、形につきていふことなり。とよむは、古事記中卷歌に、美夜比登登余牟《ミヤヒトトヨム》云々。本集四【廿八丁】に、野立鹿毛動而曾鳴《ヌニタツシカモトヨミテソナク》云々。八【廿四丁】に、霍公鳥鳴令響良武《ホトトキスナキトヨムラム》云々。十一【卅三丁】に、山下動逝水之《ヤマシタトヨミユクミツノ》云々などありて、集中猶いと多し。皆音につきていへるにて、とゞろきひゞく意の言なり。
 
(340)鯨魚取《イサナトリ》。
枕詞なり。上【攷證二中三丁】にいへり。猶予が冠辭考補正にいふべし。
 
海乎恐《ウミヲカシコミ》。
恐《カシコミ》は、まへにも度々いへる如く、恐み畏るゝ意にて、本集七【十六丁】に、荒磯超浪乎恐見《アリソコスナミヲカシコミ》云々。また【廿一丁】大海之波者畏《オホウミノナミハカシコシ》云々などもありて、これらはみなおそろしといふ意にて、みは、さにの意なり。土佐日記に、かいぞくむくいせんといふなる事を思ふうへに、海のまたおそろしければ、かしらもみなしらけぬ云々なども見えたり。
 
梶引折而《カチヒキヲリテ》。
梶は、今の船にいふ、梶といふものにはあらで、櫂といふものと同物也。この事上【攷證二中廿四丁】にくはしく辨ぜり。さてこゝは風浪あれて、海のかしこさに、梶さへも折て、せんすべなければ、狹岑の島に、船をよせて、こゝにて風のなほるをも、船つくろひもせし也。こゝの所、考の解は誤られたり。(頭書、再考、梶引折といふは、折るゝ事にはあらず。二十【十八丁】に、大船爾末加伊之自奴伎、安佐奈藝爾可故等登能倍、由布思保爾可知比伎乎里、安騰母比弖許藝由久伎美波云々とありて、又七【廿丁】に、吾舟乃梶者莫引云々、二十【廿五丁】に、安佐奈藝爾可治比伎能保里、由布之保爾佐乎佐之久太理云々などもある如く、梶を引たわめこぎゆくを、引折るとはいへるなるべし。)
 
彼此之《ヲチコチノ》。島者雖多《シマハオホケト》。
彼此を、をちこちと訓るは、義訓也。四【四十三丁】にも、彼此兼手《ヲチコチカネテ》云々とあり。さてをちこちとは、遠近《ヲチコチ》にて、道の遠近をいふが本なれど、そを轉じて、俗にあちこちといふ意にもいひ、行末今をもいひて、すべて彼《カレ》と此《コレ》とをむかへいふ言なり。こゝも俗に、あちこちといふ意也。この邊り、彼此かけて、いづこにも島はおほけれど(341)も、名の高き狹岑の島に、船をよせたりといふ意にて、多けれどの、れを略きて、おほけどとはいへるなり。この事は、上にいへり。
 
名細之《ナグハシ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下卅七丁】にも出たり。名ぐはしは、名のこまかにいたらぬ所なき、何々といふ意也。
 
狹岑之島乃《サミネノシマノ》。
まへにもいへるがごとく、近きほ(と脱カ)りなるものから、佐美の山とは別所なるべし。
 
荒礒面爾《アリソモニ》。
荒磯面《アリソモ》は、ありそのおもといふ、おを略けるにて、面は磯のおもてにて、川づら海づらなどいふつらと同じ。本集十四【五丁】に、安思我良能乎弖毛許乃母爾佐須和奈乃《アシカラノヲテモコノモニサスワナノ》云々とあるも、彼面此面《ヲチモコノモ》にて、面を、もといへり。こゝに、まへにもいへるごとく、風浪あらければ、せんすべなく、この狹岑の島に、船をよせて、風待するほど、荒磯の面に假廬を作りてをる也。さて考には、面を囘に改めて、ありそわにと訓れしかど、例の古書を改る僻にて、誤りなる事論なし。
 
廬《イホリ》作《シ・ツクリ》而見者《テミレハ》。
考云、古へ旅路には、かりほを作りて、やどれゝば、作とは書しのみにて、こゝの意は、廬入而《イホリイリシテ》を、略きいへる也云々といはれつるがごとく、古へは旅宿といふものも多くあらざりしかば、山野海岸にも、假廬を作りて、旅人のやどれりし也。そは本集三【十五丁】※[覊の馬が奇]旅歌に、野島我埼爾伊保里爲吾等者《ヌシマガサキニイホリスワレハ》云々。六【卅五丁】に、木綿疊手向乃山乎今日越而《ユフタヽミタムケノヤマヲケフコエテ》、何野邊爾廬將爲子等《イツレノヌベニイホリセムコラ》云々。七【十七丁】に、舟盡可志振立而廬利爲《フネハテヽカシフリタテヽイホリスル》、名子江乃濱邊過不勝鳧《ナコエノハマヘスキカテヌカモ》云々。七【廿二丁】に竹島乃阿戸白波者動友《タカシマノアトカハナミハトヨメトモ》、吾家思《ワレハイヘオモフ》、五百入※[金+色]染《イホリカナシミ》云々。九【九丁】に、山跡庭聞徃歟《ヤマトニハキコエモユクカ》、大我野之竹葉苅敷廬(342)爲有跡者《オホカヌノタカハカリシキイホリセリトハ》云々などありて、集中猶いと多し。又拾遺集戀四に、よみ人しらず、旅人のかやかりおほひつくるてふ、まろやは人をおもひわするゝなどあるにても、いづれにも雁廬をつくりて、やどれりしをしるべし。
 
浪音乃《ナミノトノ》。茂濱邊乎《シケキハマベヲ》。
吾こゝに廬てをれば、浪の音のしげき濱べにて、いをやすくも寐られぬものを、いかなればか、こゝの濱べをしも、枕としては寐ぬらんと、かの死人をさしていへるなり。本集一【廿一丁】に、泊瀬山者眞木立荒山道乎《ハツセノヤマハマキタテシアラヤマミチヲ》、石根禁樹押靡《イハカネノシモトオシナミ》云々とある、乎も、なるものをの意なり。
 
荒床《アラトコニ》。
あら山、あら野などいふ、あらと同じく、あれはてゝ、人げなきをいへるにて、濱べに、かの死人が伏たるを、床と見なしよめる也。
 
自伏君之《コロブスキミガ》。
ころぶすは、上【此卷八丁】明日香皇女の殯宮の歌に、許呂臥者川藻之如久《コロブセハカハモノコトク》云々とある所にいへるごとく、ころぴふす意也。考に、おのれと伏をいふといはれつるは、いかゞ
 
家知者《イヘシラハ》。往而毛將告《ユキテモツケム》。
かの死人の家所を、わがしらば、こゝに死てありといふことを、往てもつげんに、家をも、名をも、所をも、しらざれば、せんすべなしとなり。
 
妻知者《ツマシラハ》。來毛問益乎《キテモトハマシヲ》。
かの死人の妻が、この事をしらば、來てもとはましものをと也。
 
(343)玉桙之《タマボコノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十丁】にも出たり。
 
道太爾不知《ミチダニシラズ》。
かの死人がありかをたづねんに、その妻がいづことも道をだにしらざればと也。
 
欝悒久《オボヽシク》。
この言は、上【攷證二中五十一丁】にいへるがごとく、おぼ/\しく分明ならざる意にて、かの人の出さりて、かへらざるを、かく失ぬともしらで、おぼつかなく待か戀ふらんとなり。
 
愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
愛伎《ハシキ》は、字のごとく愛する意にて、人を愛しうつくしむ意の言也。この事は上【攷證二上卅一丁此卷十二丁】にもいへり。さてこゝは、かの人の愛する妻は、おぼつかなく待か戀ふらん。上へうちかへして聞意にて、妻等の、等もじは、などゝいふ意也。この事は、下【攷證三中廿六丁】にいふべし。
 
反歌一首。
 
221 妻毛有者《ツマモアラハ》。採《ツミ・トリ》而多宜麻之《テタゲマシ》。佐美乃山《サミノヤマ》。野上《ヌノベ・ノガミ》乃宇波疑《ノウハギ》。過去計良受也《スキニケラスヤ》。
 
採《ツミ・トリ》而多宜麻之《テタゲマシ》。
採而を、考に、つみてと訓れしによるべし。採は、集中多くつむとよめり。舊訓、とりてと有も、意は同じけれど、いかゞ。説文に、釆採取也、从2木爪1、徐曰會意、或从v手作v採云々ともあれば、とりても、つみても、意同じ。多宜麻之《タゲマシ》は、上【攷證二上四十二丁】に、、多氣婆奴禮《タケバヌレ》、多香根者長寸妹之髪《タカネハナカキイモガカミ》云々とある所にいへるがごとく、本はたぐりあぐる(344)意なれど、そをたゞあぐる事にも用ひて、こゝは取あぐる意にて、かの死人に妻あらば、來りて死屍をとりあげましをといへる也、たげ、たぐなどいふことは、土、多氣婆奴禮の所にいへり。
 
佐美乃山《サミノヤマ》。
こは、狹岑島中の、湊などの近きほとりな(る脱カ)べけれど、つまびらかならず。
 
野上《ヌノベ・ノガミ》乃宇波疑《ノウハギ》。
野上《ヌノベ》は、野の邊の意なる事、上【攷證一下四十二丁】河上乃列々椿《カハノベノツラ/\ツバキ》云々とある所にいへるが如し。本集六【四十丁】に、飽津之小野笶野上者《アキツノヲヌノヌノベニハ》云々。また【四十丁】多藝乃野之上爾《タキノヌノベニ》云々。八【十八丁】に、霞立野上乃方爾《カスミタツヌノベノカタニ》云々など見えたり。字波疑《ウハギ》は、本集十【十一丁】に、春野之菟芽子採而煮良思文《ハルヌノウハキツミテニラシモ》云々。本草和名に、薺蒿菜和名於波岐云々。和名抄菜類に、七卷食經云、薺蒿菜一名莪蒿【家音鵝下呼高反和名於波岐】崔禹曰、似v艾而香、作v羮食v之云々と見えて、この物、今、よめ菜とも、野菊ともいふものなるべし。本草和名に、菊花和名加波良於波岐といふも、菊の花の、この薺蒿に似たれば、かはらおはぎとはいふ也。うと、おと、音かよへば、うはぎといふも、おはぎといふも同じ。
 
過去計良受也《スキニケラズヤ》。
過《スク》は、かの薺蒿《ウハギ》を採べきとき過るにて、一首の意は、かの死人を薺蒿《ウハキ》にたとへて、うはぎをつむべき時すぎゆけど、つむ人もなしといふ意にて、死人がかくてあれど、とりあげて葬り埋る人もなしとはいへるにて、妻だにもあらばとりあげましものをとなり。
 
222 奧浪《オキツナミ》。來依荒磯乎《キヨルアリソヲ》。色妙乃《シキタヘノ》。枕等卷而《マクラトマキテ》。奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
 
(345)奧浪《オキツナミ》。來依荒磯乎《キヨルアリソヲ》。
長歌に、邊見者白波散動《ヘヲミレバシラナミサワキ》云々とあるごとく、奧より浪うちよせて、かくさわがしき荒礒を枕として、寐てをるはいかにぞといへるなり。
 
枕等卷而《マクラトマキテ》。
まへ、吉備津釆女死時歌に、布栲乃手枕纏而《シキタヘノタマクラマキテ》云々とある所にいへるが如く、卷《マク》はまとふ意にて、こゝはまくらとなしてといふ意なり。
 
奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
奈世流《ナセル》は、なとねと音通ひて、寐せるといふ也。古事記上卷歌に、多麻傳佐斯麻岐《タマテサシマキ》、毛々那賀爾伊波那佐牟遠《モヽナガニイハナサムヲ》云々とあるも、寐者將v宿にて、本集五【八丁】に夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》云々。十四【廿一丁】に、伊利岐弖奈左禰《イリキテナサネ》云々。十七【卅二丁】に、吾乎麻都等奈須良牟妹乎《ワヲマツトナスラムイモヲ》云々。十九【十八丁】に、安寢不令宿《ヤスイシナサズ》、君乎奈夜麻勢《キミヲナヤマセ》云々など見えたるも、みな寐るをなすといへる也。この言は、なぬねと通じて、ぬる、ねぬ、なすなど、みな一つ語也。さて、一首の意は、浪の音のさわがしき荒礒を枕として、寐たまふ君かもといひて、歎息せるなり。
 
柿本朝臣人麿、在2石見國1臨v死時。自傷作歌一首。
 
喪葬令云、凡百官身亡、親王及三位以上稱v薨、五位以上及皇親稱v卒、六位以下達2於庶人1稱v死とありて、こゝに臨死とかき、次に死時ともあれば、これにても、人麿は六位以下の人なりし事しらる。石見國は、中國なれば、このぬし、たとへ守なりとも、六位以下の官なり。
 
223 鴨山之《カモヤマノ》。磐根之卷有《イハネシマケル》。吾乎鴨《ワレヲカモ》。不知等妹之《シラニトイモカ》。待乍將有《マチツヽアラム》。
 
(346)鴨山之《カモヤマノ》。
考云、こは常に葬する山ならん云々といはれつるがごとく、人麿も死なば、この山に葬られん事の、かねて定めありしなるべし。
 
磐根之卷有《イハネシマケル》。
磐根を枕として、あるといふ意にて、卷ては、本はまとふ意なれど、それを轉じて、やがて枕とする事をもいへり。本集一【廿六丁】に、枕の字をまきてとよめるにてもしるべし。猶この事は、上【攷證一下五十四丁】にもいへり。
 
不知《シラニ・シラズ》等妹之《トイモガ》。
この等《ト》もじは、助字にて、しらず妹がといふ意なり。この助字の等《ト》もじの事は、下【攷證三上四丁】にいふべし。さて一首の意は、われ死なば、鴨山に葬られて、磐根を枕としてあらんをも、妹はしらずして、かへらん日をいつ/\とまちつゝあらんとなり。
 
柿本朝臣人麿死時。妻依羅娘子作歌二首。
 
この依羅娘子は、人まろの後妻なりし事、上【攷證二中十二丁】にいへるがごとし。
 
224 且今日且今日《ケフケフト》。吾待君者《ワガマツキミハ》。石水《イシカハノ》。貝爾《カヒニ》【一云|谷爾《タニニ》】交而《マジリテ》。有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
 
且今日且今日《ケフケフト》。
けふやかへる、けふやかへる、日ごとにまつ也。本集五【廿九丁】に、家布家布等阿袁麻多周良武《ケフケフトアヲマタスラム》云々。九【廿五丁】に、且今日且今日《ケフケフト》、吾待君之《ワカマツキミカ》云々などあり(347)て、集中猶多し。
 
石水《イシカハノ》。
こは鴨山のうちの川なるべし。人まろをば、この川の邊などに葬りしにや。水を、かはとよめるは、義訓也。書紀神武天皇元年紀に、縁《ソヒテ》v水《カハニ》云々。景行天皇十二年紀に、水上《カハノホトリ》云々。神功皇后五十二年紀に、水源《カハノカミ》云々。本集七【八丁】に此水之湍爾《コノカハノセニ》云々などもよめり。(頭書、雄略紀|久米水《クメカハ》。)
 
貝爾《カヒニ》【一云|谷爾《タニヽ》】交而《マジリテ》。
人まろを、この水の邊にや葬りつらん。されば、貝にまじりてとはいへり。今も、山中などを、堀に、地下より貝の出る事もあり、山川の底なるを、石とゝもに貝のながるゝ事もあれば、海岸ならずとて、貝なしともいひがたし。一云|谷爾《タニニ》とあるはいかゞ。
 
有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
この八方《ヤモ》は、うらへ意のかへる、てにをはにて、本集三に、隱口乃泊瀬越女我手二纏在《コモリクノハツセヲトメカテニマケル》、玉者亂而有不言八方《タマハミタレテアリトイハスヤモ》云々とあると同じくて、一首の意はけふかへり給ふか、けふかへり給ふかとて、わが待わたる君は、石川の貝にまじりて、おはせりといはずや、貝にまじりておはせりといへば、いまはひたぶるに、この世になしともいひがたしとなり。
 
 
225 直相者《タヽニアハヽ》。相不勝《アヒモカネテム》。石川爾《イシカハニ》。雲立渡禮《クモタチワタレ》。見乍《ミツヽ》將偲《シヌバム・シノハン》。
 
(348)直相者《タダニアハヽ》。
略解云、卷四に、夢之相者《イメノアヒハ》とよめれば、こゝもたゞのあひはとよまんよし、宣長いへり云々とあれどいかゞ。古事記中卷歌に、袁登賣爾多※[こざと+施の旁]爾阿波牟登《ヲトメニタヾニアハムト》云々。本集此卷【廿三丁】に、目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレトモタヽニアハヌカモ》。四【十四丁】に、心者雖念直不相鴨《コヽロハモヘドタヾニアハヌカモ》云々。五【十一丁】に、多陀爾阿波須阿良久毛於保久《タヾニアハスアラクモオホク》云々などありて、集中猶多く佛足石御歌にも、多太爾阿布麻弖爾《タヽニアフマテニ》云々ともあれば、舊訓のまゝ、たゞにあはゞとよむべし。たゞにあはゞ、たゞちにあはゞなり。
 
相不勝《アヒモカネテム》。
宣長云、本のまゝに、あひもかねてんとよむかた、おだやかにて、よくあたれり。不勝を、かねとよむ例も、おほくあり。考に、あひかてましをとよまれたるは、ましをの辭、こゝにかなはず云々といはれつるがごとし。本集三【廿四丁】に、凝敷山乎超不勝而《コヽシキヤマヲコエカネテ》云々。八【廿一丁】に、言持不勝而《コトモチカネテ》云々。また【四十九丁】留不勝都毛《トヽメカネツモ》云々など見えたり。
 
雲立渡禮《クモタチワタレ》。
川に、雲のたゝん事、いかゞなるやうなれど、これにても、石川は、かの鴨山の山中なる川としるべし。さて一首の意は、たゞにうつゝ《(マヽ)》あはんには、失にし人なればあひがたからん。せめての事に、かの墓所なる、鴨山の石川のほとりに、雲だにもたゝなん。それをだに形見とも見てしのばんとなり。
 
丹比眞人。【名闕。】擬2柿本朝臣人磨之意1。報歌一首。
 
丹比眞人。
名闕たればしりがたけれど、本集八【四十八丁】に、丹比眞人歌名闕、九【十五丁】に、丹比眞人歌などあるは、同人歟。この外、集中、丹比氏の人七人あり。いづれか不v可(349)v考。丹比眞人の姓氏は、(以下空白)
 
擬。
はかりてとよむべし。玉篇に、擬魚理切度也と見えたり。こは人まろが意をおしはかりて、人まろが心になりて、妻に報じよめるなり。
 
226 荒浪爾《アラナミニ》。縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》。枕爾《マクラニ》置《オキ・テ》。吾此間有跡《ワレココナリト》。誰將告《タレカツゲケム》。
 
立縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》。
玉は、すべて水中に多くあるよしいへり。そは本集一【十一丁】に、底深岐阿胡根能浦
乃珠曾不拾《ソコフカキアコネノウラノタマゾヒロハヌ》云々。六【廿丁】に、石隱加我欲布珠乎《イソガクリカガヨフタマヲ》云々。七【十九丁】に、奧津波部都藻纏持依來十方《オキツナミヘツモマキモチヨリクトモ》、君爾益有玉將縁八方《キミニマサレルタマヨラムヤモ》云々など見えたり。こゝはかの石川によりくる玉なり。
 
枕爾《マクラニ》置《オキ・テ》。
枕は、頭といふと同じく、伏たる枕のかたに、玉を置く也。古事記上卷に、匍2匐御枕方1、匍2匐御足方1云々。本集五【卅丁】に、父母波枕乃可多爾《チチハハハマクラノカタニ》、妻子等母波足乃方爾《メコトモハアトノカタニ》、圍居而《カクミヰテ》云々。古今集誹諧に、よみ人しらず、まくらよりあとより戀のせめくれば、せんかたなみぞとこなかにをるとある、これらみな、枕は頭の方をさしていへり。
 
吾此間有跡《ワレコヽナリト》。誰將告《タレカツゲヽン》。
一首の意は、石川の荒浪に、よりくる玉を、まくらのかたにおきて、吾こゝにありといふことを、妻にたれかつげゝん。妻が、いしかはの貝にまじりて有と、いはず八方といへるはとなり。まへにいへるがごとく、この石川の邊りに、葬り埋めたるなるべし。
 
(350)或本歌曰。
こゝに、或本歌曰とはあれど、左の歌は、人まろの妻の意にかはりてよめる歌也。その心して見るべし。
 
227 天離《アマサカル》。夷之荒《ヒナノアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。君乎置而《キミヲオキテ》。念乍有者《オモヒツヽアレハ》。生刀毛無《イケリトモナシ》。
 
天離《アマサカル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。
 
夷之荒《ヒナノアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。
夷は、都より遠き所をいへるにて、今|田舍《ヰナカ》といふも同じ。この事は、上【攷證一上四十七丁】にいへり。荒野は、人げなくあれはてたる野をいふ。この事も、上【攷證一下廿三丁】にいへり。この荒野は、鴨山をさせり。
 
念乍有者《オモヒツツアレハ》。
一首の意は、かの鴨山などの、すさまじき所に、君を置て、その事を念乍《オモヒツツ》、かくてあれば、いける心ちもせずと也。さてこの歌は、上に、人麿妻死之後、泣血哀慟歌の反歌に、衾道乎引手乃山爾妹乎置而《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテ》、山徑徃者生跡毛無《ヤマチヲユケハイケリトモナシ》云々といふによく似たり。
 
右一首歌。作者未v詳。但。古本。以2此歌1。載2於此次1也。
 
(351)寧樂宮。
 
この標目を、考には、上の但馬皇女薨後、穗積皇子云々の歌の上にあげられしかど、本のまゝに、こゝにあるべきなり。そのよしは、上【攷證一上六十四丁】にいへり。
 
和銅四年。歳次辛亥。河邊宮人。姫島松原。見2孃子屍1。悲歎作歌二首。
 
河邊宮人。
父祖官位不v可v考。この人、本集三【四十九丁】にも出たれど、そはこの端辭の亂れ入たるにて、こゝと同じ。さて、河邊氏は、新撰姓氏録卷四に、川邊朝臣、武内宿禰四世孫、宗我宿禰之後也云々。書紀天武紀に、十三年、十一月戊申朔、川邊臣賜v姓曰2朝臣1云々とありて、姓朝臣なるを、いかにしてか、ここには姓を脱しけん。本集六【廿七丁】十九【卅一丁】などに、河邊朝臣東人てふ人のあるは、かたのごとく、朝臣の姓を加へたり。
 
姫島松原。
攝津國西成郡なり。仙覺抄引2攝津風土記1云、比賣島松原者、昔輕島豐阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅國有2女神1、遁2去其夫1來、暫住2筑紫國伊岐比賣島1、乃曰d此島者猶不2是遠1、若居2此島1、男神尋來u、乃更遷來、停2此島1、故取2本所v住之地名1以爲2島號1云々とあり。古事記下卷云、一時、天皇、將v爲2豐樂1而、幸2行日女島1云々。書紀安閑紀云、二(352)年九月丙申、勅2大連1云、宜v放3午於難波大隅島與2媛島松原1云々。續日本紀云、靈龜二年、二月己酉、令3攝津國罷2大隅媛島二牧1、聽2佰姓佃食1v之云々など見えたるも、みなこゝなり。
 
孃子。
これを、考にをとめとよまれたるがごとく、少女の意なり。韻會、娘少女之號、通作v孃云々とあるにて、しるべし。
 
228 妹之名者《イモカナハ》。千代爾將流《チヨニナガレム》。姫島之《ヒメシマノ》。子松之末爾《コマツガウレニ》。蘿生萬代爾《コケムスマテニ》。
 
妹之名者《イモガナハ》。千代爾將流《チヨニナガレム》。
妹が名は、ゆく末千年も流程經《ナガレヘ》なんと也。流《ナガル》といふ言は、上【攷證一下四十五丁】にいへるごとく、風に花紅葉にまれ、霞雪にまれ、流經《ナガラフ》といふと、本は同語にて、流れて天にまれ、年月にまれ、經《フル》意にて、この世に生てあるを、ながらふといふも、流經《ナガレフ》る意也。名の流といふも、とゞまる事なく、後の世までも流經《ナガレフ》る意もていへる也。そは、本集十八【廿一丁】に、丈夫乃伎欲吉彼名乎《マスラヲノキヨキソノナヲ》、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾《イニシヘヨイマノヲツヽニ》、奈我佐敝流於夜能子等毛曾《ナカサヘルオヤノコドモゾ》云々。續日本紀、神護景雲三年十月詔に、善名乎遠世爾流傳天牟《ヨキナヲトホキヨニナガサヒテム》云々などあるにても、思ふべし。奈我作敝流《ナガサヘル》は、さへの反、せにて、ながせるの意、流傳天牟《ナカサヒデム》は、さひの反、しにて、ながしてんにて、こゝと意同じ。
 
子松之末爾《コマツガウレニ》。
末は、字のごとくすゑ也。この事は、上【攷證二中十七丁】にいへり。
 
蘿生萬代爾《コケムスマデニ》。
和名抄苔類に、雜要決云松蘿、一名女蘿【和名萬豆乃古介一云佐流乎加世】と見えたり。生《ムス》は、字のごとく生る也。この事は、上【攷證一上卅八丁】ににいへり。萬代は、字にかゝわり《(マヽ)》てよ(353)ろづ代などの字にあらず。音を借て、たゞ假字にかけるのみ。さて一首の意は、かの孃子をさして、君が名は千年の末までも、流經《ナカレヘ》なん。こゝにある小松の、老木となりて、蘿のむさんまでにたゆる事はあらじと也。本集三【十六丁】に、何時間毛神左備祁留鹿《イツノマモカミサビケルカ》、香山之鉾※[木+温の旁]之未爾薛生左右二《カクヤマノホコスキノウレニコケムスマテニ》云云。古今集賀に、よみ人しらず、わが君は千世に八千世にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまでなどあるも似たり。
 
229 難波方《ナニハガタ》。潮干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》。沈之《シツミニシ》。妹之光儀乎《イモガスガタヲ》。見卷苦流思母《ミマククルシモ》。
 
難波方《ナニハガタ》。
方は、借字にて、潟なり。集中滷をよめり。新撰字鏡に、洲【州渚加太】とあるがごとく、洲渚をいへり。
 
潮干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》。
鹽干は、今もいふごとく、潮の干る也。本集四【廿丁】に、難波方鹽干之名凝《ナニハカタシホヒノナコリ》云々。七【十四丁】に、難波方鹽干丹立而《ナニハカタシホヒニタチテ》云々。九【十五丁】に、難波方塩干爾出而《ナニハガタシホヒニイテヽ》云々など見えたり。曾禰《ソネ》の禰《ネ》は、下知の言にて、潮干なありそ、潮ひる事なかれといふに、禰と下知したる也。本集此卷【四十四丁】に、野邊乃秋芽子勿散禰《ヌヘノアキハキナチリソネ》云々。七【廿六丁】に、柴莫苅曾尼《シハナカリソネ》云々。九【九丁】に、雨莫零根《アメナフリソネ》云々など有て、猶多し、皆ねは下知の言、さね、せねなどのねと同じ。さるを、玉の緒にさねのねは、添たる字也といはれしは、いかゞ。さねの事は、上【攷證一上二丁】にいへり。せねの事は、下【攷證九】にいふべし。
 
(354)妹之光儀乎《イモガスガタヲ》。
光儀をすがたとよめるは、義訓也。本集八【五十丁】に、今毛見師香妹之光儀乎《イマモミテシカイモガスガタヲ》云々。十【五十二丁】に、見管曾思努布君之光儀乎《ミツヽソシヌブキミガスカタヲ》云々などありて、集中猶多し。文選禰衡鸚鵡賦に、背2蠻夷之下國1、侍2君子之光儀1云々と見えたり。猶書紀にも集にも、容儀をも、すがたとよめり。
 
見卷苦流思母《ミマククルシモ》。
卷は、借字にて、辭なり。上【攷證二上廿一丁】に、落卷者後《フラマクハノチ》とある所にいへる如く、まくの反、むにて、ふらまくは、ふらん、きかまくはきかん、みまくは見んの意也。苦流思母《クルシモ》の母は、助辭にて、心ぐるしき意也。集中いと多し。さて一首の意は、この難波潟は、鹽の干るといふ事なかれ。鹽ひなば、沈みておぼれ死たりし、妹がすがたの、見えなん。それを見んが、いたはしく、心くるしければ、鹽の干る事なかれと也。
 
靈龜元年。歳次乙卯。秋九月。志貴親王薨時作歌一首。并短歌。
 
志貴親王薨。天智天皇の皇子也。この御事は、上【攷證一下卅三丁】にくはし。續日本紀に、靈龜二年八月甲寅、二品志貴親王薨云々とあるを、こゝには靈龜元年とありてしかも干支をさへ、たしかに紀したるは、いとあやしきに似たれど、よく/\考れば、こゝに靈龜元年九月とあるぞ正しかりける。いかにとなれば、この元年九月は、元正天皇御即位の事ありて、さわがしく、しかもいまはしき事をば忌はゞかるをりなれば、實はこの元年九月、薨給ひしなるべけれど、翌年八月まで薨奏延して、翌八月薨奏せしかば、その日を以て、紀にはしるされたるも(355)のにて、こゝに元年九月とあるは、實に薨給ひし時也。これらにても、この集は、貴くかたじけなき古書なるをしるべし。さてこの集、こゝまでは、皇子とのみしるして、親王としるせる事なく、こゝに至りて、はじめて親王としるせり。そのよしを、くはしくいはん。まづ古事記には、命または王などのみしるし、書紀には、皇子皇女また王ともしるしたれど、親王といふ事はなく天武天皇四年紀に至りて、親王、諸王、及諸臣といふ文、はじめて見えたれど、親王と云を、御名の下につけ、其親王某内親王など申ことは、すべて書紀には見えず。その後、續日本紀に至りても、文武天皇四年四月までは、皇子皇女とのみあるを、六月甲午、勅2淨大參|刑部《オサカヘ》親王以下1、撰2定律令1云々とある所より以下は、みな親王、内親王とのみしるされたり。かく二三ケ月の中に改りしをもて、思ふに、繼嗣令に、凡皇兄弟皇子、皆爲2親王1とあれば、この時、皇子と申すを、皆親王と改められし也。され(ば脱カ)この本集にも、こゝまでは、この制なき以前のこと、こゝは靈龜元年にて、この制改りし後なれば、わきて親王とはかける也。そは、續日本紀、文武天皇四年四月までは、皇子皇女と書れしを、六月より改めて、親王内親王としるして、同書の中ながら、その時世の制によりて、例を改められし事、この集と同例なるをも思ふべし。かくのごとく、事明らかなるものを、この端辭を、靈龜二年丙辰、秋八月、志貴皇子薨時云々と、改められしは、よくも考へざるうへに、例の古書を改むるの僻、誤りなる甚し。さてこの歌、作者をしるさゞるは、作者未詳歌なるべし。
 
230 梓弓《アツサユミ》。手取持而《テニトリモチテ》。丈夫之《マスラヲノ》。得物《サツ・トモ》矢手挿《ヤタバサミ》。立向《タチムカフ》。高圓山爾《タカマトヤマニ》。春《ハル》野《ヌ・ノ》燒《ヤク》。野《ヌ・ノ》火(356)登見左右《ビトミルマテ》。燎火乎《モユルヒヲ》。何如問者《イカニトトヘバ》。玉桙之《タマホコノ》。道來人乃《ミチクルヒトノ》。泣涙《ナクナミダ》。※[雨/沛]霖《ヒサメ・コサメ》爾落者《ニフレバ》。白妙之《シロタヘノ》。衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》。立留《タチトマリ》。吾爾語久《ワレニカタラク》。何《ナニシ・イヅレ》鴨《カモ》。本名言《モトナイヘル・モトノナイヒテ》。聞者《キケバ・キヽツレバ》。泣耳師《ネノミシ》所哭《ナカユ・ソナク》。語者《カタレバ・カタラヘバ》。心曾痛《コヽロゾイタキ》。天皇之《スメロギノ》。神之《カミノ》御子《ミコ・オホミコ》之《ノ》。御駕之《イテマシノ》。手火之光曾《タビノヒカリソ》。幾許照而有《コヽタテリタル》。
 
梓弓手取持而《アツサユミテニトリモチテ》。
こゝより立向《タチムカフ》といふまでは。高圓山《タカマトヤマ》といはん序にて、圓《マト》を的《マト》にとりなしたり。
 
丈夫之《マスラヲノ》。
こゝをも丈夫とせり。意改するよしは、まへにいへり。
 
得物《サツ・トモ》矢手挿《ヤタバサミ》。
得物矢《サツヤ》を、さつやとよむべきよしは、上【攷證一下四十八丁】にいへり。こは、幸矢にて、※[獣偏+葛]せん料の矢なり。手挿《テハサミ》は、手に持意。この事も、上、得物矢《サツヤ》の所にいへり。
 
高圓山爾《タカマトヤマニ》。
大和國添上郡にて、春日のほとりといへり。この志貴親王の陵は、延喜諸陵式に田原西陵、春日宮御宇天皇、在2大和國添上郡1云々とありて、追號を春日宮御宇天皇と申も、陵の春日にあればなるべし。されば、春日にをさめ奉らんとて、御葬送の、この高圓山をすぎしなるべし。
(357)春野燒《ハルヌヤク》。野火登見左右《ヌヒトミルマテ》。上、高市皇子尊殯宮の歌に、冬木成春去來者《フユコモリハルサリクレハ》、野毎著而有火之《ヌコトニツキテアルヒノ》云々とあると同じく、春は、專らと、野をやくものなればなり。
 
燎火乎《モユルヒヲ》。何如問者《イカニトトヘバ》。
高圓山をのぞみ見れば、春の野を燒ごとく、もゆる火の見ゆるを、道くる人に、あれはいかにととへばと也。
 
道來人乃《ミチクルヒトノ》。
道を往來する人にて、この人に、かの高圓山にもゆる火を、あれはいかにと問しなり。本集十三【十六丁】に、玉桙乃道來人之《タマホコノミチクルヒトノ》、立留何常問者《タチトマリイカニトトヘハ》、答遺田付乎不知《コタヘヤルタツキヲシラニ》云々。十九【廿八丁】に、玉桙之道來人之《タマホコノミチクルヒトノ》、傳言爾吾爾語良久《ツテコトニワレニカタラク》云々とも見えたり。
 
泣涙《ナクナミダ》。※[雨/沛]霖《ヒサメ・コサメ》爾落者《ニフレバ》。
泣涙の大雨《ヒサメ》のごとくにふればといふにて、かの道來人《ミチクルヒト》に、燎火《モユルヒ》を何ぞと問しかば、その人の涙を流して答へしを、大雨のごとしといふ也。書紀垂仁紀云、天皇枕2皇后膝1而晝寢、於v是皇后、既無2成事1而空思v之、兄王所v謀、適是時也、即眼涙流之、落2帝面1、天皇則寤之、語2皇后1曰、朕今日夢矣、銀色小蛇繞2于朕頸1、復|大雨《ヒサメ》從2狹穗1發而來之濡v面、是何祥也云々とあるも、涙を大雨にたとへたる也。古事記に、冰雨《ヒサメ》、書紀に大雨、甚雨など、みなひさめとよめり。和名抄風雨類云、文字集略云※[雨/沛]大雨也、日本紀私記云大雨【比佐女】雨氷【上同今案俗云比布流】とありて、大雨をひさめといふは、氷のごとき雨といふ意にて、いま霰雹など、氷零《ヒフル》とすれば、雨の甚しきを、氷にたとへたる也。霖は添てかけるなるべし。さてこの※[雨/沛]霖を、宣長は(358)※[雨/脉]霖の誤りとして、舊訓のまゝ、こさめとよまれたり。そは和名抄風雨類に、兼名苑云※[雨/脉]霖、一名細雨【小雨也和名古散女】とありて、※[雨/脉]霖と改ためん方、いとまさりたれど、しばらく原本にしたがふのみ、
 
白妙之《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にも出たり。
 
衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》。
泣涙の、雨のごとくふりおつるを、衣をひたしぬらしつゝ、その人、立とまりて吾に語らくと也。※[泥/土]漬を、ひづちてと訓よしは、考別記云、この言を、集中に※[泥/土]打と書し多かれど、打は借字にて、この卷の未に、※[泥/土]漬と書たるぞ正しきなる。且この二字を比豆知《ヒヅチ】と訓ことは、下に假字にてあるなり。言の意は、物の※[泥/土]《ヒヂ》に漬《ツキ》てぬるゝを、本にて、雨露泪などにぬるゝにもいへり。かくて、比豆知は、右の※[泥/土]漬の字のごとく、比治都伎《ヒヂツキ》也。その比治都伎の、治《ヂ》と豆《ヅ》は、音通ひ、都伎《ツキ》の約は、知《チ》なれば、比豆知《ヒヅチ》といふ。又その豆知を約れば、治《チ》となる故に、比治《ヒヂ》とばかりもいふなり、云々といはれつるがごとし。この言は、上【攷證此卷三丁】にも出たり。考へ合すべし。
 
立留《タチトマリ》。吾爾語久《ワレニカタラク》。
らくは、るを延たる言にて、かの人、立とまりて、われにかたるにはといへる也。
 
何鴨《ナニシカモ》。本名言《モトナイヘル》。
宣長云、言はいへる、聞者はきけば【三音の句】語者はかたればと訓べし。さて、本名《モトナ》といふ言は、いづれもみな、今の世の俗言に、めつたにといふと同じ。めつたには、みだりにといふと同意にて、みだり、めつた、もとな、皆通音にて、もと同意也。さて、集中にて、もとなといふは、實にみだりなるにはあらざれども、其事をいとふ心より、みだ(359)りなるやうに思ひていふ言也。こゝの歌にては、言《イハ》ば、聞《キカ》ば、音のみなかれ、心いたきものを、何ぞみだりにいへるといふ意也云々といはれつるがごとし。本名《モトナ》は、借字《(マヽ)》に、辭なり。この言は本集三【卅二丁】に、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》、夕不離川津鳴瀬之清有良武《ユフサラズカハヅナクセノサヤケカルラム》云々。四【卅丁】に、不相見者不戀有益乎《アヒミズバコヒザラマシヲ》、妹乎見而《イモヲミテ》、本名如此耳戀者奈以將爲《モトナカクノミコヒバイカニセム》云々などありて、集中いと多し。意は、宣長のいはれつるが如し。(頭書、契沖はよしなしといふ意也といへり。本づく所なき意なればこれも叶へり。)
 
聞者《キケバ》。泣耳師所哭《ネノミシナカユ》。
こゝよりは、かの道來る人の答へ言へる詞にて、かの高圓山に見ゆる火のゆゑよしを、われもきけて《(マヽ)》、音をのみぞなかるゝといふにて、ゆは、るの意なり。
 
語者《カタレバ》。心曾痛《コヽロゾイタキ》。
その事、語り聞するにも、心にいたましみ思ふといふにて、心曾痛《コヽロゾイタキ》は、上【攷證二中九丁】にもいへるがごとく、心も痛きまで、いたましみ思ふといふ意也。
 
天皇之《スメロキノ》。神之御子之《カミノミコノ》。
天皇を、すめろぎと申奉る事は、上【攷證一上四十八丁】にいへり。神之御子とは、天皇の皇子を申す也。天皇を、神と申す事は、上ところ/”\に云るが如し。
 
御駕《イデマシ・オホウマ》之《ノ》。
考に、いでましとよまれしによるべし。駕は、上【攷證一下十六丁】ににいへるがごとく、行の意なれば、こゝは親王の御葬送を、いでましとはいへるなり。行幸をも、いでましと(360)はいへど、天皇のみにかぎらず。いでましは、出座《イテマス》といふ意なれば、皇子其外貴人にはいふべし。そは、書紀天智紀童謠に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアゾビニイテマセコ》云々とあるにても思ふべし。
 
手火之光曾《タヒノヒカリソ》。
手火は、御葬を送り奉る人の、手ごとに持たる火にて、今ついまつ、たいまつなどいふもの也。書紀神代紀上云、陰取2湯津爪櫛1、牽2折其雄柱1、以爲2秉炬1而見v之云々。訓注云、秉炬此云2多妣《タヒ》1云々。釋日本紀卷六、引2私記1云、秉炬猶如v云2手火1云々とありて、新撰字鏡云、炬苣同巨音亟也、太比、又止毛志火云々とも見えたり。集韻に、炬束v葦燒也。これらを合せ考へて、今いふ、たまつなるをしるべし。かの高圓山にもゆる火を、何ぞとゝへば、御葬のたいまつの火の、あまたてらせるなりとなり。
 
231 幾許照而有《コヽタテリタル》。
幾許《コヽタ》は、數多いへる事は、まへ、狹岑島の條にいへるがごとし。
 
反歌二首。
 
こゝを、印本、短歌とせるを、今意改せり。そのよしは、まへにいへり
 
高圓之《タカマトノ》。野《ヌ・ノ》邊秋芽子《ベノアキハギ》。徒《イタツラニ》。開香將散《サキカチルラム》。見人無爾《ミルヒトナシニ》。
 
高圓之《タカマドノ》。野邊秋芽子《ヌヘノアキハギ》。
高圓山御葬りにゆく道なる事、本歌にいへるがごとし。芽子は萩なり。この事は、上【攷證二上卅九丁】にいへり。
 
徒《イタヅラニ》。
印本、徒を從に誤れり、誤りなる事、明らかなれば、古本、拾穗本などによりて改む。いたづらは、無用の意也。この事は、上【攷證一下卅三丁】にいへり。
 
(361)見人無爾《ミルヒトナシニ》。
咲も散もすらんといふにて、一首の意は、今は親王おはしまさゞれば、高まとの野べの秋はぎも、無用に咲て、將《(マヽ)》ぬらん。見る人もなくといへるなり。
 
232 御笠山《ミカサヤマ》。野《ヌ・ノ》邊往道者《ベユクミチハ》。己伎太雲《コキダクモ》。繁《シゞニ・シゲク》荒有可《アレタルカ》。久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》。
 
御笠山《ミカサヤマ》。
これも、大和國添上郡高圓山のほとりにて、春日のうちなる事、春日なるみかさの山とよめるにてもしるべし。
 
己伎太雲《コキタクモ》。
上、狹峯島の歌に、幾許《コヽタ》とある所にいへるがごとく、こきだくとも、こきぱくとも、こゝだくとも、こゝばくとも、こゝだとも、こきだとも、いろ/\にいへど皆一つ言にて、數の多きをいへり。印本、太を大に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
繁《シヽニ・シゲク》荒有可《アレタルカ》。
舊訓、繁を、しげくと訓つれど、しゞにとよむべし。本集三【廿九丁】に、五百枝刺繁生有都賀乃樹乃《イホエサシシヽニオヒタルツガノキノ》云々。また【卅七丁】竹玉乎繁爾貫垂《タカダマヲシヽニヌキタレ》云々などありて、猶繁をしゞとよめる、集中いと多し。又六【十二丁】に、越乞爾思自仁思有者《コエカテニシジニモヘレバ》云々。四【十六丁】に、打靡四時二生有莫告我《ウチナヒキシジニオヒタルナノリソガ》云云。十三【十八丁】に、竹珠呼之自二貫垂《タカダマヲシゞニヌキタレ》云々など、假字に書る所も多し。これらにても、しゞとよむべきをしるべし。可は、かもの意にて、歎息の詞也。一かたならず、しげくあれたるかもといへる也。さて己伎大雪繁荒有可《コキタクモシゝニアレタルカ》とあるを、重言なりとて、考には、或本に、己伎太久母荒爾計類鴨《コキタタモアレニケルカモ》(362)とあるを取れしかど、こきだくは、數多き意にて、一かたならずといふに當りたれば、重言にはあらず。そは本集十七【四十八丁】に、許己太久母之氣伎孤悲可毛《コヽダクモシケキコヒカモ》云々あるにても、おもふべし。
 
久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》。
久しくといふを、ひさとのみいへるは、本集十五【七丁】に、和可禮弖比左爾奈里奴禮杼《ワカレテヒサニナリヌレド》云々。十七【十六丁】に、美受比佐奈良婆《ミズヒサナラバ》云々。十八【卅二丁】に、美受比左爾云々など見えたり。この句を以て思ふに、この歌は、かの親王を葬り奉りて、後、御墓詣などしてよめるなるべし。されど同じ度の歌なれば、反歌には加へつらん。さて一首の意は、三かさ山の野をゆく道は、其後いまだいくばくをも經ざるに、一かたならずしげくあれたるものかなといへるなり。考には、右の反歌二首を、反歌の趣にあらずとて、端辭を加へて、別の歌とせられたり。これもさる事ながら反歌としても聞ゆまじきならねば、改むる事なし。
 
右歌。笠朝臣金村歌集出。
 
父祖官位不v可v考。集中、養老神龜より、天平のはじめまでの歌、見えたり。このころの人なるべし。笠の氏は、古事記中卷云、若日子建吉備津日子命者【吉備下道臣笠臣祖。】書紀天武紀云、十三年十一月、戊申朔、笠臣賜v姓、曰2朝臣1云々。新撰姓氏録卷五云、孝靈天皇皇子、稚武彦命之後也、應神天皇、巡2幸吉備國1、登2加佐米山1之時、飄風吹2放御笠1、天皇怪v之、鴨別命、言d-神祇欲2奉天皇1、故其状爾u、天皇欲v知2其眞僞1、令v獵2其山1、所v得甚多、天皇大悦、賜2名賀佐1云々など見えたり。
 
(363)或本歌曰。
 
233 高圓之《タカマトノ》。野《ヌ・ノ》邊乃秋芽子《ベノアキハギ》。勿散禰《ナチチソト》。君之形見爾《キミガカタミニ》。見管思奴幡武《ミツヽシヌバム》。
 
勿散禰《ナチチソト》。
ちることなかれといふに、禰と下知したる也。この事は、まへに鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》とある所にいへり。一首の意は、君が陵のほとりなる、高圓山の野べの秋萩よ、ちる事なかれ。過給ひし君が、御形見と見つゝ、しのび奉らんにとなり。
 
234 三笠山《ミカサヤマ》。野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》。己伎太久母《コキダクモ》。荒爾計類鴨《アレニケルカモ》。久爾有名國《ヒサニアラナクニ》。
 
野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》。
從は、よりの意にて、野べよりゆく道なり。一首の意は本歌とおなじ。
 
萬葉集卷第二
 
(364)一の巻を考證しをはりつる、文政七とせといふ年の、五月中の三日を、きのふといふ日より、筆を取て、此卷をかきをはりつるは、同じ年の十一月二十日あまり七日になん。
                     岸本由豆流
                     (以上攷證卷二下冊)
萬葉集叢書第五輯
 
大正十四年四月五日印刷
大正十四年四月八日發行
 定價参圓五拾錢
        著者 岸本由豆流
        校訂者 武田祐吉
  東京市外西大久保四五九番地
發行者 橋本福松
  東京市麹町區紀尾井町三番地
印刷者 福王俊禎
發兌元 東京市外西大久保四五九番地 古今書院
              振替東京三五三四〇番
 
         〔2010年1月15日(金)、10時3分、入力終了〕
 
 
(1)萬葉集卷第三
 
雜歌。
雜歌の事は、卷一のはじめにいへるがごとし。さて、この卷の事は、考云、この卷より下、おほくは家々に集めたる歌どもにて、そが中に、この卷らは、大伴家持ぬしの家の歌集なり。さて、初は、雜歌、譬喩歌、挽歌とついでゝ、時代の次を心して、一二の卷の拾遺めきてせられたるを、その體もはたさず、人のいへるを聞がまゝに、おひ/\に書載しかば、みだりになりぬ。後に正すべかりしを、をこたりしまゝに、傳れるなるべし。そのみだりなる事は、大伴旅人卿の事を、上に大納言大伴卿とありて、下に中納言なる時の歌をのせ、上に春日藏首老とありて、下にこの人まだ僧にて、辨基といひし時の歌ものり、藤原の宮人を下に、奈良の宮人を上にあげし類、又旅、相聞、俳歌など、所さだめず入。この外みだりにて、撰める卷にあらず。この卷に、古へのよき歌多くのせつ。こゝろをやりて見よ云々といはれし、一わたりはさる事ながら、提要にもくはしくいへるがごとく、この卷より下は、いとみだりがはしく、撰び集めたるものとも見えず。時代のたがへる、ことの前後せるなど、そのあやしみをかぞへんには、いたづらに筆をわづらはすのみにて、何の益もあらざれば、舊本のまゝにておきつ。一二の卷と、例のたがへるをあやしむ事なかれ。
 
(2)天皇。御2遊|雷岳《カミヲカ》1之時。柿本朝臣人麿作歌一首。
 
天皇。
持統天皇を申すなるべし。一二卷は、其宮御宇天皇代として、さて天皇としるせしかば、たしかにその天皇としらるゝを、こゝより下は、その標目をあげざれば、たしかにはしりがたけれど、この歌の作者人麿をば、一二卷に、みな藤原宮の下に出せしかば、この天皇も、持統天皇とこそしらるれ。但し、人麿は、奈良の京までわたりし人とはおもはるれど、一二の卷の例もて、藤原宮御宇の人とすべし。
 
雷岳《カミヲカ》。
これを、久老は、左の歌につきて、いかづちのをかとよみ、岳を丘と改めしは誤り也。考に、こゝをも、かみをかとよまれしをよしとす。そのよしは、上【攷證二中卅一丁】にくはしくいへり。
 
235 皇《オホキミ・スメロギ》者《ハ》。神二四座者《カミニシマセバ》。天雲之《アマグモノ》。雷之上爾《イカヅチノウヘニ》。廬《イホリ》爲《セ・ス》流鴨《ルカモ》。
 
皇者《オホキミハ・スメロギハ》。
舊訓、すめろぎはとあれど、考に、おほきみはとよまれしによるべし。そのよしは、長上【攷證一下六十九丁】に出せる、久老が説のごとし。
 
神二四座者《カミニシマセバ》。
天皇は、たゞ人とは別にて、神にてましませばといへる也U。天皇を神と稱し申す事は、上【攷證一上四十八丁一下八丁十一丁】にいへるが如し。
 
(3)天雲之《アマグモノ》。雷之上爾《イカツチノウヘニ》。
雷は、雲中にあれば、本集七【三十六丁】に、天雲近光而響神之《アマクモニチカクヒカリテナルカミノ》云々。十一【二十八丁】に、天雲之八重雲隱鳴神之《アマクモノヤヘクモカクリナルカミノ》云々。十九【三十三丁】に、天雲乎富呂爾布美安多之鳴神毛《アマクモヲホロニフミアタシナルカミモ》云々などよめり。さて、雷は、集中、神とも、なる神ともよみ、又いかづちとよめり。そのよしは、上【攷證二下二十丁】にいへり。上《ウヘ》は、雷山の上なり。久老が、上は山の誤りにやといへるは、いかゞ。
 
廬《イホリ》爲《セ・ス》流鴨《ルカモ》。
廬《イホリ》は、假廬をいへるにて、いづこにも行幸し給ふ所には、行宮《カリミヤ》を作りておはしませば、それを申也。たゞ人も、旅には假廬を作りて居る事、上で【攷證二下六十五丁】にいへるが如し。一首の意は、天皇は神にてましませば、奇《クス》しくあやしき御しわざありて、人力のおよぶまじき雷の上に、いほりを作り給へるかなと申すにて、雷山を、實の雷にとりなしてよめるは、歌の興なり。本書十三【四丁】に、月日攝友久經流三諸之山礪津宮地《ツキヒモアラタマレドモヒサニフルミモロノヤマノトツミヤコロ》云々とあれば、この雷山に行宮ありし事しるし。さて、爲流を、舊訓、すると訓れど、せると訓べし。そは、久老が別記に、後世、勢流《セル》と須流《スル》とを、ひとつ言と心得て、せると訓べき所を、すると訓るも多し。今よく考るに、須流《スル》は、現在より末をかけていふ言、世流《セル》は、志多流《シタル》をつゞめたる言にて、過去より現在までをいふ言也。その例をあぐるに、集中いと多くて、わづらはしければ、日本紀、古事記にあると、集の一二の卷をいはんに、世流《セル》は、神武紀に、※[さんずい+于]奈餓勢屡《ウナガセル》云々。繼體紀に於婆細屡《オバセル》云々。推古紀に許夜勢流云々。古事記【景行の條】に、那賀祁勢流《ナカケセル》云々。また和賀祁勢流《ワカケセル》云々。又【雄略の條】に、佐々加勢流《サヽガセル》云々。集には、卷一【十九】に、頭刺理《カザセリ》。また二十五丁、廬利爲利計武《イホリセリケム》云々。卷二【三十三丁】に、御名爾懸世流《ミナニカヽセル》。また【三十九丁】(4)枝刺流如《エダサセルゴト》。また【四十二丁】奈世流君香聞《ナセルキミカモ》云々。この外、卷々にいと多き、皆同じ意なり。これらの例をもてしるべしといへるがごとし。くはしくは、本書につきて見るべし。
 
右或本云。獻2忽忍《オサカヘ》皇子1也。其歌曰。
 
忍壁皇子は、天武帝の皇子なり。上【攷證二下一丁】に出たり。
 
王《オホキミハ》。神座者《カミニシマセバ》。雲《クモ》隱《ガクル・ガクレ》。伊加土山尓《イカヅチヤマニ》。宮敷座《ミヤシキイマス》。
 
王《オホキミハ》。神座者《カミニシマセバ》。
久老云、王とは、皇子諸王を申事なれど、こゝも天皇には皇とかき、皇子には王と書て、別てりと思ふ人あるべけれど、さにあらず。皇も王も、おほきみと訓て、ひとつ事なるよしは、卷十九に、壬申年之亂平定以後歌と標して、皇者神爾之《オホキミハカミニシ》ませば、赤駒之《アカゴマノ》はらばふ田爲《タヰ》を京師《ミヤコ》となしつ。大王神爾之《オホキミハカミニシ》ませば、水とりのすだくみぬまを皇都となしつとあり。この大王は、王とのみありて、同じ事なれば、天皇と皇子とを別てるにはあらず云々といへるがごとし。
 
雲《クモ》隱《ガクル・ガクレ》。
 
本集十一【二十八丁】に、天雲之八重雲隱鳴神之《アマクモノヤヘクモガクリナルカミノ》云々とつゞけたるごとく、こゝはいかづちとつゞけたり。
 
伊加土山尓《イカヅチヤマニ》。
これを、久老が槻の落葉に、雷山と改めしは、いかなる事ぞや。いかづちといふ言の本訓は、こゝと、佛足石の御歌とのみに殘れるものをや。
 
(5)宮敷座《ミヤシキイマス》。
敷座《シキマス》は、本集一【十八丁】に、宮柱太敷座波《ミヤハシラフトシキマセバ》云々とある敷座と同じく、知り領します意也。此卷【十七丁】に、日之皇子茂座大殿於《ヒノミコノシキマセルオホトノヽウヘニ》云々。また【二十八丁】皇神祖之神乃御言乃敷座國之盡《スメロギノカミノミコトノシキマセルクニノコト/”\》云々などあると、同語なるにても思ふべし。この事上【攷證一下七丁】にくはしくいへり。一首の意は、本歌と同じ。さて、この歌を、考云、皇子に申さん事にはあらず。端詞の誤りしもの也云々といはれつるが如く、皇子に献れる趣にあらず。思ふに、皇子につけて、天皇に奉りしにもあるべし。
 
天皇。賜2志斐嫗《シヒノオミナ》1御製歌一首。
 
天皇。
代匠記云、さきの天皇も、ともに持統天皇なるべし。その故は、老女にさる物語などせさせて、きこしめしけると見ゆれば、女帝に似つかはしき故なり云々。この説、さもあるべし。
 
志斐嫗《シヒノオミナ》。
代匠記云、志斐嫗の、志斐は氏なり云々。さもあるべし。續日本紀、養老五年正月紀に、算術正八位上志斐連三田次といふ人見えたり。新撰姓氏録卷十九云、志斐連、大中臣朝臣同v祖、天兒屋命之後也と見えたり。又考ふるに、右の御製にものたまへるごとく、この嫗、強言《シヒゴト》を強《シヒ》て申すによりて、字《アザナ》して志斐《シヒ》の嫗とはのたまへるにて、志斐は氏にはあらざるべし。姓氏録卷二に、阿倍志斐連、大彦命八世孫、稚子臣之後也、孫自v臣人世孫名代、謚天武御世、献2之楊花1、勅曰、何花、名代奏曰2辛夷《コブシ》花1也、群臣奏曰是楊花也、名代猶強奏2辛夷花1、因腸2阿倍志斐連姓1也云々とあるも、楊花を強《シヒ》て辛夷花なりと奏しゝによりて、阿倍志斐といふ氏をば賜ひしなれば、こゝと似たる事なり。嫗は、おみなとよむべし。そのよしは、上【攷證二上四十八丁】にくはしく(6)いへり。
 
御製歌。
印本、製の字なし。集中の例によりて補ふ。
 
236 不聽跡雖云《イナトイヘド》。強流志斐能我《シフルシヒノガ》。強語登《シヒゴトト》。比者不聞而《コノゴロキカデ》。朕戀爾家里《ワレコヒニケリ》。
 
不聽跡雖云《イナトイヘド》。
不聽を、いなとよめるは、義訓也。いなきかじといへどゝなり。この言の事は、上【攷證二上十五丁】にいへり。
 
強流《シフル》。
流《シフ》るは、俗言に、しひるといふと同じく、しひて語り聞しめ奉る也。本集四【四十三丁】に、不欲常云者將強哉吾背《イナトイハバシヒムヤワカセ》云々。九【二十八丁】に、四臂而有八羽《シヒニテアレヤハ》云々。十二【十四丁】に、吾將強八方《ワレシヒメヤモ》云々。十七【四十七丁】に、之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》云々なども見えたり。
 
志斐能我《シヒノガ》。
考云、志斐女之《シヒナガ》也。今本、那を能に誤云々といはれしは誤りなり。志斐能我《シヒノガ》の能《ノ》は、本集十四【十一丁】に、勢奈能哉素低母《セナノガソデモ》云々。また【二十九丁】伊毛能良爾毛乃伊波受伎※[氏/一]《イモノラニモノイハズキテ》云々。十八【十四丁】に、之奈射可流故之能吉美能等《シナサカルコシノキミノト》云々などある能《ノ》もじと同じく、助字にて、志斐《シヒ》がとのたまふ也。さて久老が、この能は、したしみ呼ぶに、添いふ言のよしいひて、十四卷なる伊毛能良《イモノラ》は、同卷に妹奈呂《イモナロ》とあると同言にて、勢奈《セナ》、手兒奈《チコナ》などいふ奈も、この能に同じかるべしといへるは、いかゞ。十四卷【十八丁】なる妹奈呂《イモナロ》の奈《ナ》は、能《ノ》と通ひて、助字、呂《ロ》もらと通ひて、等《ラ》也。(7)そは、同卷【二十四丁】に、伊毛呂乎《イモロヲ》云々と、奈の字を略きいへるにても、奈《ナ》は助字、呂《ロ》は等《ラ》なるをしるべし。
 
強語登《シヒゴトト》。
印本、登もじなくて、しひごとをとよめり。今は元暦本によりて補ふ。登もじは、助字にて、心なし。されど、かゝる所に、登もじをおくは、古言の一つの格なり。そは
 
古事記中卷歌に、宇迦迦波久斯良爾登《ウカガハクシラニト》、美麻紀伊理毘古波夜《ミマキイリヒコハヤ》云々。本集二【四十二丁】に、不知等妹之待乍將有《シラニトイモガマチツヽアラム》云々。此卷【四十六丁】に、逆言之狂言等可聞《サカゴトノマガコトヽカモ》云々。四【二十三丁】に、爲便乎不知跡立而爪衝《スベヲシラニトタチテツマツク》云々。また【十二丁】寢宿難爾登阿可思通良久茂《イネガテニトアカシツラクモ》云々。十九【三十八丁】に、公之事跡乎負而之將去《キミガコトトヲオヒテシユカム》云々などある、ともじも、みな助字也。この助字のともじの事は、下【攷證四上三丁】にもいへり。さて、この登もじを、久老が別記には、切《セチ》にいひきはむるとき添る言のよしいひて、例を多くあげたれど、その例たしかならざれば、登もじは、たゞ助字とのみ心得べし。
 
比者不聞而《コノコロキカデ》。
印本、比を此に誤れり。今は、拾穗本古本などによりて改む。久老は、比日と改めつれど、比者にても、このごろとよまん事論なし。
 
朕戀爾家里《ワレコヒニケリ》。
一首の意は、いなきかじとのたまひつれど、強《シヒ》て語り聞せ奉りし、志斐の嫗は、強語《シヒゴト》をうるさくおぼしめしつれど、このごろ久しく聞たまはざれば、さらに戀しきこゝちせりとのたまへるなり。
 
志斐嫗奉v和歌一首。 嫗名未v詳。
 
(8)和は答へにて、答へ奉る歌なり。この事は、上【攷證一上三十一丁】にいへり。嫗名未詳の四字、印本大字とせり。今、集中の例によりて、小字とす。
 
237 不聽雖謂《イナトイヘド》。話禮話禮常《カタレカタレト》。詔《ノラセ・ノレバ》許曾《コソ》。志斐《シヒ》伊《イ・テ》波奏《ハマヲセ》。強話登言《シヒゴトノル》。
 
話禮話禮常《カタレカタレト》。
爾雅釋詁、廣雅釋詁四などに、話言也とあれば、かたるとよまん事論なし。
 
詔《ノラセ・ノレバ》許曾《コソ》。
のらせは、のりませばといふにて、のるとは、紀記集中、告の字を多くよめるごとく、人にものを告《ツグ》る意にて、名告といふも、詔《ミコトノリ》といふも、この告《ノル》也。こゝは、天皇なれば、詔の字をば、書る也。そは、廣韻云、詔上命也、秦漢以下、天子獨稱v之と見えたり。さて、詔古曾《ノラセコソ》は、のらせばこその、ばを略ける也。ばの字を略ける事は、上【攷證一下二十七丁】にも、所々にいへるを引合せ心得べし。
 
志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》。
志斐伊《シヒイ》の伊《イ》は、斐の引聲を延《ノペ》たる言にて、本集此卷【五十九丁】に、不絶射妹跡《タエシイイモト》云々とあると、同じ言にて、伊にはこゝろなく、たゞしひてはまをせといふ意也。
 
又書紀繼體紀歌に、※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》、輔曳府枳能朋樓《フエフキノボル》云々。本集四【二十三丁】に、木乃關守伊將留鴨《キノセキモリイトヾメテムカモ》云云。九【三十六丁】に、菟原壯夫伊《ウナビヲトコイ》、仰天《アメアフキ》云々。十二【三十五丁】に、家有妹伊《イヘナルイモイ》、將欝悒《イフカシミセム》云々。續日本紀、神龜六年八月詔に、藤原朝臣麻呂|等伊《ライ》云々。天平勝寶元年四月詔に、百濟王敬福伊云々。天平寶字元年七月詔に、奈良磨古麿等伊《ナラマロコマロライ》云々などあるは、伊《イ》と與《ヨ》と音通すれば、若子《ワクゴ》よ、關守よ、麻呂等《マロラ》よなど、(9)呼《ヨビ》かくる、よと同じ言なれば、志斐伊波《シヒイハ》の伊とは、さらに別なれば、思ひ誤る事なかれ。さて、これらの伊《イ》は、語の上に添ていふ、發語の伊もじとも別也。奏は、天皇に申す所なれば、奏とは書る也。
 
強話登言《シヒゴトノル》。強冨
この句を、久老が強語登云とあらためて、しひごとゝちふとよめるは誤り也。本のまゝにても、よく聞ゆるをや。話は、まへにあげたるごとく、言也といふ字註あれば、ことゝよまん事論なく、言を、のるとよめるは、義訓にて、明らか也。さて、一首の意は、わが御物語申あげでも、強ごと也とのたまふ故は、いな語り奉らじといへど、強て語れ/\とのり給へばこそ、志斐ては語り申すなれ。それを又しひごとゝはのり給ふなりと、たはぶれ和へ奉るなり。
 
長忌寸意吉麻呂。應v詔歌一首。
 
長忌寸意吉麻呂は、上【攷證一下四十四丁】に出たり。應v詔は、詔に答へ奉る也。國語晋語注、國策齊策注などに、應答也とあるにても思ふべし。さて應v詔とあるからは、何ぞ詔のありしなるべけれど、こゝにしるさゞれば、しりがたし。左注に、右一首とのみあるは、この下に詔の事ありしを脱せしにもあるべし。或る人、この詔は、まへの志斐嫗に給へる御歌をうけて、それに應ずる歌にて、海人に尼をかけて、この志斐嫗は尼なるべしといへれど、この集のころ、さる事あらんやは。案るに、こは下にあげたる久老の説のごとく、行幸などのをり、從駕してよめる歌なるべし。
 
(10)238 大宮之《オホミヤノ》。内二手所聞《ウチマデキコユ》。網引爲跡《アヒキスト》。網子調流《アコトゝノフル》。海人之呼聲《アマノヨビコヱ》。
 
内二手所聞《ウチマデキコユ》。
二手を、までとよめるは、義訓也。この事は、上【攷證一下七十二丁】にいへり。
 
網引爲跡《アヒキスト》。
網引は、字の如く、網をひく也。網を、あとのみ訓るは、略訓也。本集四【二十九丁】に、網引爲難波壯士乃《アヒキスルナニハヲトコノ》云々。七【十七丁】に、網引爲海子哉見《アヒキスルアマトカミラム》云々。十一【二十七丁】に、住吉乃津守網引之《スミノエノツモリアヒキノ》云々など見えたり。
 
網子調流《アゴトゝノフル》。
網子《アゴ》は、網ひく人夫をいふ事、水手をかこ、舟人を舟子といふにてしるべし。調流《トヽノフル》は、本集二十【十八丁】に、安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナキニカコトヽノヘ》云々ともありて、呼集むる意なり。この事は、上【攷證二下二十丁】にくはしくいへり。
 
海人之呼聲《アマノヨビコヱ》。
漁人《アマ》は、漁人をいへり。この事、上【攷證一上十二丁卅九丁】にいへり。呼聲《ヨビコヱ》は、友を集めんとてよばふ聲の、宮中まできこゆる也。久老云、この歌、大和に海なければ、かならず難波にての歌なるべしと、契沖いへり。まことにしかり。難波は、仁徳孝徳の皇居なりしに、天武紀、十二年詔曰、凡都城宮室、非2一處1、必造2兩參1、故先欲v都2難波1とありて、文武天皇三年正月、幸2難波宮1とあるも、この宮なるべければ、さるをりつかふ《(マヽ)》まつりて、よめるなるべし云々といへり。この説、さもあるべし。
 
(11)右一首。
 
まへにもいへるごとく、この下にことのよしありつらんを脱せしなるべし。
 
長皇子。遊2獵獵路池1之時。柿本朝臣人麿。作歌一首。并短歌。
 
長《ナガノ》皇子。天武天皇の皇子也。この御事は、上【攷證一下四十六丁】に申せり。
 
遊獵。
印本、この獵の字を脱せり。いま活字本によりて補ふ。遊獵は、かりし給ふ也。
 
獵路《カリチノ》池。
大和志云、十市郡獵路小野、鹿路村舊屬2高市郡1とあり。本集二【三十七丁】に、天飛也輕路者《アマトフヤカルミチハ》云々とよめる輕路も、高市郡なれば、りとると通じて、こゝと同所か、可v考。さて左の歌には、獵路小野《カリヂノヲヌ》と見え、十二【二十七丁】に、遠津人獵道之池爾住鳥之《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノ》云々とも見えたれば、この野に池もありて、野にもいけにも名づけしなるべし。されば、久老が考に、この獵路池を、強て獵路野と改めしは非なり。
 
239 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高《タカ》光《ヒカル・テラス》。吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》。馬並而《ウマナメテ》。三獵立流《ミカリタヽセル》。弱《ワカ》薦《コモ・クサ》乎《ヲ》。(12)獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》。十六社者《シヽコソハ》。伊波比《イハヒ》拜目《ヲロガメ・フセラメ》。鶉己曾《ウヅラコソ》。伊波比囘禮《イハヒモトホレ》。四時自物《シヽジモノ》。伊波比《イハヒ》拜《ヲロガミ・フセテ》。鶉成《ウヅラナス》。伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》。恐等《カシコシト》。仕奉而《ツカヘマツリテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天見如久《アメミルゴトク》。眞十鏡《マソカガミ》。仰而雖見《アフキテミレド》。春草之《ワカクサノ》。益《イヤ・マシ》目頬四寸《メツラシキ》。吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》。
 
八隅知之《ヤスミシヽ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上六丁】にも出たり。
 
吾大王《ワガオホキミ》。
集中、吾王、我王などあるをも、すべて、久老は、わごおほきみと訓つれど、舊訓のまゝ、わがとよむべし。そのよしは、上【攷證一上七丁】にいへり。さて、この吾大王は、天皇をさし奉れり。
 
高光《タカヒカル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上にも多く出たり。
 
吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》。
吾は、吾大王《ワガオホキミ》と申吾と同じく、親しみ奉りて申す詞にて、吾兄、吾妹などいふと同じ。日之皇子は、上【攷證一下十九丁】にいへるがごとく、日之神の御末の御子と申す意也。こゝは、長皇子をさし奉れり。さて、久老が考には、皇子乃の乃もじを略きつれど、本集二【二十七丁】に、高光我日皇子乃萬代爾《タカヒカルワガヒノミコノヨロヅヨニ》云々ともありて、乃もじは、つけてもはぶきてもいふ(13)言なれば、あるもあしからず。
 
馬並而《ウマナメテ》。
馬を乘|並《ナラ》べてなり。この事は、上【攷證一上九丁】にいへり。
 
三獵立流《ミカリタヽセル》。
三は借字にて、御なり。立流《タヽセル》は、立ませるといふ意にて、枕詞をへだてゝ、獵路乃小野《ノカリチヲヌ》爾につゞく也。本集一【二十二丁】に、馬副而御獵立師斯《ウマナメテミカリタヽシヽ》とも見えたり。
 
弱《ワカ》薦《コモ・クサ》乎《ヲ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。若菰を苅とつゞけし也。弱をわかとよめるは、義訓也。左傳、文十二年注に、弱年少也とあれば、おのづから若き意也。薦を、こもとよめるは、借訓にて、菰なり。薦は和名抄坐臥具に、唐韻云薦【作甸反、和名古毛】席也とありて、しきものゝ事なれど、訓の同じきまゝに、借用ひたる也。菰は和名抄草類に、本草云菰、一名蒋【上音孤、一音將、和名古毛】云々と見えたり。
 
獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》。
まへにいへるごとく、高市郡にて、この野に池もありしなるべし。されば野とも池ともいへるならん。
 
十六社者《シヽコソハ》。
十六を、しゝとよめるは義訓也。本集六【十四丁】に、十六履起之《シヽフミオコシ》云々と見えたり。こは、重二、並二などを、しの假字に用ひ、八十一をくゝとよみ、二五をとをとよみ、二十をはたと訓る類也。社を、こそと訓るも義訓也。この事は、上【攷證二中二丁】にいへり。
 
(14)伊波比拜目《イハヒヲロガメ》。
伊波比《イハヒ》は、上【攷證二下二十八丁】伊波比伏管《イハヒフシツヽ》とある所にいへるがごとく、伊は發言にて心なく、波比《ハヒ》は這《ハヒ》にて、畏《カシコ》みおそれ伏《フス》をいへり。拜目《ヲガメ》の目《メ》は、まへの社《コソ》の結び也。拜目《ヲロガメ》は、書紀推古紀歌に、烏呂餓彌弖菟伽陪摩都羅武《ヲロガミテツサカヘマツラム》云々。釋日本紀卷五、引公望私記云、謂拜爲2乎加無《ヲガム》1、言是|乎禮加々旡《ヲレカヾム》也などありて、おそれ伏《フス》をおろがむとはいへるにて、神佛にぬかづくをおがむといふも、これ也。こゝは、鹿猪《シヽ》などの膝を折伏《エオチフシ》てつゝしみかしこまるをいへる事、本集二【三十二丁】に、鹿白物伊波比伏管《シヽジモノイハヒフシツヽ》云々。此卷【三十七丁】に、十六白物膝折伏《シヽジモノヒザヲリフセ》云々などあるにてもおもふべし。さて、この拜を、をろがむとよめるは、宣長のよまれし也。
 
鶉己曾《ウヅラコソ》。
鹿猪《シヽ》も鶉も、獵に專らするものなれば、對へいへる也。本集二【三十五丁】に鹿自物伊波比伏管《シヽジモノイハヒフシツヽ》【中略】鶉成伊波比廻《ウズラナスイハヒモトホリ》云々とも見えたり。
 
伊波比囘禮《イハヒモトホレ》。
伊波比は、まへにいへるごとく、伊は發語にて、波比は這也。こゝは、うづらの飛もやらでめぐりありくをいへるにて、囘《モトホル》とは、めぐれる事也。この事は、上【攷證二下廿九丁】にくはしくいへり。さて、こゝまでは、皇子の御獵にいでましゝかば、鹿猪《シヽ》鶉さへも敬ひ奉りて、走りも飛もやらで、あるは這伏《ハヒフシ》、あるは這囘《ハヒメグリ》などするさまをいひて、こゝより下は、その鹿猪《シヽ》鶉《ウヅラ》などの如、人麿自らも奉仕るさまをいへり。
 
四時自物《シヽジモノ》。伊波比《イハヒ》拜《ヲロガミ・フセテ》。鶉成《ウヅラナス》。伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》。
こは、まへの詞をうけて、をの猪鹿《シヽ》のごとく、這伏《ハヒフシ》、その鶉のごとく、這(15)囘《ハヒメグリ》りで、敬ひ仕へ奉るさまをいへり。
 
恐等《カシコシト》。仕奉而《ツカヘマツリテ》。
かしこしとて、仕へ奉りてといへる也。本集七【三十二丁】に、奧山之於石蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》、恐常思情乎《カシコシトオモフコヽロヲ》云々と見えたり。こゝを、久老は、かしこみとゝ訓たれど、そは七卷なる、恐常をよみ誤れるより、こゝをも誤れるにて、非也。但し、本集十五【三十一丁】に、加思故美等能良受安里思乎《カシコミトノラズアリシヲ》云々ともあれど、こは、かしこさにとて言《ノラ》ずありしものをといふ意なれば、こゝの訓とはなしがたし。
 
久堅乃《ヒサカタノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十五丁】にも出たり。
 
天見如久《アメミルゴトク》。
本集二【二十八丁】に、久竪乃天見如久《ヒサカタノアメミルゴトク》、仰見之《アフギミシ》、皇子乃御門之荒卷惜毛《ミコノミカドノアレマクヲシモ》とあると同じ。天を見るごとくに、あふぎ見るといふを、枕詞をへだてゝ、次へつゞけたり。
 
眞十鏡《マソカヾミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは眞清《マスミ》の鏡といふをつゞめて、まそかゞみとはいひて、鏡は見るものなれば、仰《アフグ》といふ字をへだてゝ、雖見《ミレド》とつゞけたる也。これらの事は、予が冠辭考補正にくはしくいふべし。
 
仰而雖見《アフギテミレド》。
あふぐとは、ふりあふむく事にて、皇子をあふむき見奉らん事、いかゞなるやうに思ふ人も、あるべけれど、天皇にまれ、皇子にまれ、高き《(マヽ)》たとへまつれば、下(16)より上を見る意にて、あふぎて見れどとはいへる也。そは、まへに引る、二卷の歌に、仰兒之皇子乃御門之《アフギミシミコノミカドノ》とよめるにても思ふべし。
 
春草之《ワカクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。春草をよめるは義訓にて、若草はめづらしきものなれば、若草のいやめづらしきとはつゞけし也。これを、久老は、文字のまゝに、はるくさとよむべしといへれど、いかが。そは、いかにとなれば、わかくさのつま、若草のにひ手枕、若草の思ひつきにしなど、つゞくるも、みな、めづらしき意もていへるなれば、こゝも、わかくさとよむべし。
 
益目頬四寸《イヤメヅラシキ》。
益は、いやとよむべし。この事は、上【攷證二中五丁】にいへり。目頬《メツラ》と書るは、借字也。この事は、上【攷證二下九丁】にいへり。こゝは、皇子を、、わか草のごとく、あかずめづらしく見奉るにて、本集二【三十二丁】に、鏡成雖見不厭《カヾミナスミレトモアカズ》アカズ、三五月之益目頬染《モチヅキノイヤメツラシミ》云々とも見えたり。
 
吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》。五芸
長皇子をさし奉りて、めづらしくあかず見奉る君かなと也。
 
反歌一首。
 
240 久堅乃《ヒサカタノ》。天歸月乎《アメユクツキヲ》。網爾刺《アミニサシ》。我大王者《ワガオホキミハ》。蓋爾爲有《キヌガサニセリ》。
 
(17)天歸月乎《アメユクツキヲ》。
歸を、ゆくとよめるは、義訓也。本集四【二十八丁】に、遊而將歸《アソビテユカム》云々。九【三十六丁】に、伊歸集《イユキアツマリ》云々ともありて、集中猶多し。廣雅釋詁一に、歸往也とあれば、ゆくとよまん事、論なし。
 
網爾刺《アミニサシ》。
眞淵、宣長、久老など、みな網《アミ》は鋼《ツナ》の誤りとして、つなにさしと訓れたれど、皆非也。まづ、これらの説をあげて、後に予が説をいはん。考云、鋼《ツナ》にて、月を刺取《サシトリ》て、蓋《キヌガサ》となしたまへりと也。この鋼《ツナ》を、今本には、網《アミ》とあるによりて、説々いへど、かなはず。蓋をば、鋼《ツナ》つけてひかへるものなれば、かく譬へし也。伊勢大神宮式の、蓋の下に、緋|綱《ツナ》四條とある、これ也。後撰集に、てる月をまさきのつなによりかけてともよみつ云々。宣長の説は、これに同じ。久老云、今本、網《アミ》とあるは、鋼《ツナ》の誤りにて、蓋には鋼《ツナ》ありて、そをとるものを綱取《ツナトリ》といふと、契沖いへり。まことにさる事にて、江次第などにも、その事見えたり。さるを、おのれ疑《ウタガヒ》けるは、鋼《ツナ》には、さすといふ言の、集中にも何にも見えぬに、網《アミ》には、さすといふ言のありて、卷十七に、ほとゝぎす夜音《ヨゴヱ》なつかし、安美指者《アミサヽバ》。おなじ卷に、二上乃乎底母許能母爾《フタカミノヲテモコノモニ》、安美佐之底《アミサシテ》、安我麻都多可乎《アカマツタカヲ》とも見え、端書に、張2設羅網1とあれば、刺とは、あみをはる事にて、こゝも今本の字のまゝに、蓋に網《アミ》をはるにやと思へりしかど、蓋に網《アミ》はさらによしなければ、猶|鋼《ツナ》の誤りとすべき也云々。これらの説、みな非也。予案るに、本集十七【十二丁】に、保登等藝須夜音奈都可思《ホトヽギスヨゴヱナツカシ》、安美指者花者須具等毛《アミサヽバハナハスグトモ》、可禮受加奈可牟《カレズカナカム》とあるは、ほとゝぎすの、夜る鳴聲のなつかしき故に、網《アミ》を張《ハリ》て、外へ飛《トビ》ゆかざるやうに留《トヾ》めおかば、花は散て過ぬとも、いつもなかましといへる意(18)にて、安美指者《アミサヽバ》は、網《アミ》を張《ハリ》て、ほとゝぎすの外へ飛行を留《トヾ》むる意なれば、こゝも網を張《ハリ》て、天《ソラ》往《ユク》月を留《トゞ》めて、君が蓋《キヌガサ》にしたまへりといふ意にて、網爾刺《アミニサシ》は、天《アメ》歸《ユク》月を留めん料にのみいへるにて蓋《キヌガサ》へかけていへるにはあらざる事、天歸《アメユク》月のゆくといふ言に心をつけて、往《ユク》を留《トヽ》めんがために、網《アミ》を張る意なるを、十七卷の、ほとゝぎすを留めんとて、網《アミ》をさせるに思ひ合せてしるべし。かくのごとく見る時は、本のまゝにて、やすらかに聞ゆるを、先達やゝもすれば、文字を改めんとのみして、古書をたすくるわざをはからざるは、いかなる事ぞや。こは、よくも思ひたどらざるより、いでくるわざなるべし。
 
蓋爾爲有《キヌガサニセリ》。
蓋は、天皇、皇子など、外にいでますに、御上にさしかざすもの也。職員令に、主殿寮、頭一人、掌2供御輿輦|蓋笠《キヌガサ》※[糸+散]扇經帳湯沐洒掃殿庭及燈燭松柴炭燎等事1云云。儀制令に、凡、蓋《キヌガサ》、皇太子紫表蘇方裏頂及四角覆v錦垂v總、親王紫大纈云々。大神宮儀式帳に、大神宮司人垣仕番人等召集即|衣垣《キヌガキ》衣笠《キヌガサ》刺羽《サシバ》等令v持云々。平野祭祝詞に、進神財御弓御大刀御鏡鈴|衣笠《キヌガサ》御馬引並※[氏/一]云々。延喜大神宮式に、蓋二枚、淺紫綾表緋經裏頂及角覆v錦、垂2淺紫組總1、緋鋼四條云々。和名抄、服玩具に、兼名苑注云、華蓋【和名岐沼加佐】黄帝征2豈(※[山/ノ/一虫]カ)尤1時、當2帝頭上1有2五色雲1、因2其形1所v造也など見えたるにて、このものゝ製作を大方にしるべし。また、本集十九【廿四丁】に、吾勢故我捧而持流保寶我之婆《ワガセコガサヽゲテモタルホヽガシハ》、安多可毛似加青蓋《アタカモニルカアヲキキヌガサ》云々ともよめり。さてこの歌、月を蓋《キヌガサ》に見なしたれば、蓋は圓《マド》かなるものと見ゆるを、右に引る儀制令、大神宮式などには、四角なるよしに見えたり。されば案るに、いと古くは圓なりしを、令のころより四角にはなりつらん(19)か。また圓なるも、方なるも、取交へ用ひたるにもあるべし。周禮冬官考工記に、輪人爲v蓋、以象v天云々。晋書天文志に、天圓如2倚蓋1云々。器物總論に、蓋之爲v言、覆也、形圓象v天、※[木+燎の旁]二十八、以象2經星斗1、圍三寸長二尺、柄圍六寸長八尺云々などあれば、漢土の製は、圓《マド》かなるのみとおぼし。さて一首の意は、天を行すぐる月を、網《アミ》をはりてさしとゞめて、吾大王は蓋になし給へりといふにて、皇子を神隨《カムナガラ》なども申すごとく、神の御末にましませば、あやしき御しわざありて、月をさへ蓋になし給へりと申す也。この句の、爲有《セリ》を、久老がことわりもなく、爲利《セリ》と改めつるは、いかなる事ぞや。本のまゝにてもくまなきものを。(頭書、葢、攷證四上二十五オ、二上三十オ。)
 
或本。反歌一首。
 
241 皇《オホギミ・スメロギ》者《ハ》。神爾之坐者《カミニシマセバ》。眞木之立《マキノタツ》。荒山中爾《アラヤマナカニ》。海成《ウミナセル・ウミヲナス》可聞《カモ》。
 
皇《オホギミ・スメロギ》者《ハ》。神爾之坐者《カミニシマセバ》
皇は、おほぎみと訓べき事、上に出せる久老が説のごとし。こゝに皇とかけりとても、天皇を申すと心得る事なかれ。文字は借たるにて、長皇子をさし奉れり。
 
眞木之立《マキノタツ》。荒山中爾《アラヤマナカニ》。
眞木《マキ》の眞《マ》は、例のものをほめて付る言、荒山中《アラヤマナカ》は、人氣なく世ばなれたる山中をいふ也。本集一【廿一丁】に、眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》云々と見(20)えたり。これらの事は、その所【攷證一下廿丁】にくはしくいへり。
 
海成《ウミナセル・ウミヲナス》可聞《カモ》。
考にも、久老の考にも、舊訓のまゝ、うみをなすかもと訓て、この獵路池を作らしゝ事とするは、非なり。成といふは、紀記にも、集中にも、みな如《ゴト》くといふ意にのみ用ひて、こゝも、かの獵路池の廣らかなるを、海の如くといふにて、一首の意は、吾大王は神の御末にまし/\て、神におはしませば、そのいでませる所には、かゝる荒山中にも、海の如くなるものありと申すにて、右の反歌なる事、明らかなるを、結句を訓《(マヽ)》れるから、いろ/\なる論いできて、右の歌の反歌めかずともいひ、池を作らしゝをりの歌ぞともいふは、みな誤り也。本集十三【五丁】に、水戸成海毛廣之《ミナトナスウミモユタケシ》云々とあるにても、うみなせるは、海のごとくなるといふ意なるをわきまふべし。
 
弓削皇子。遊2吉野1之時御歌一首。
 
弓削皇子。
天武天皇の皇子也。上【攷證二上二十九丁】に出たり。
 
吉野。
大和國吉野郡なり。みな人しれる所なれば、さらにいはず。
 
之時。
之の字、印本なし。いま目録によりて補ふ。
 
(21)242 瀧《タキノ》上《ベ・ウヘ》之《ノ》。三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。居雲乃《ヰルクモノ》。常將有等《ツネニアラムト》。和我不念久爾《ワガオモハナクニ》。
 
瀧《タキノ》上《ベ・ウヘ》之《ノ》。
瀧は、本集一【十八丁】幸2吉野宮1時の歌に、瀧之宮子波《タギノミヤコハ》云々。また【十九丁】芳野川多藝津河内爾《ヨシヌカハタギツカフチニ》云々などあるが如く、吉野に瀧あればしかいへり。上は、べと訓て、邊の意なる事、河上《カハノベ》、野上《ヌノベ》などの上《ベ》と同じ。この事は、上【攷證一下四十二丁】にいへり。こゝは、瀧の邊《ベ》の三ふねの山といへる也。
 
三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。
大和志に、吉野郡御船山、在2菜摘村東南1、望v之如v船、坂路甚險とあり。本集六に、瀧上之御舟乃山爾《タギノベノミフネノヤマニ》云々とありて、同卷【十一丁】九【十三丁】などにも見えて、皆吉野離宮に行幸のをり《(マヽ)》歌なれば、吉野宮の近きほとりなるべし。
 
居雲乃《ヰルクモノ》。
雲は、起《タチ》もし、行《ユキ》もするものなるが、行ずして同じ所に居《ヲ》るを、居《ヰル》とはいへる也。古事記中卷、御歌に、宇泥備夜麻比流波久毛登韋《ウネビヤマヒルハクモトヰ》云々とあるも、雲と居也。集中猶いと多し。のは、如くの意也。
 
常將有等《ツネニアラムト》。
居る雲のごとくに、常にかくてあらんとゝのたまふ也。本集五【九丁】に、余乃奈迦野都禰爾阿利家留遠等呼良何《ヨノナカノツネニアリケルヲトメラガ》云々ともあり。
 
和我不念久爾《ワガオモハナクニ》。
わがおもはぬにと、意をふくめたる也。一首の意は、久老云、吉野にあそび申すに、御心にいとおもしろくおもほしめして、つね見まほしくおもほ(22)すにつきて、現し身のつねなきを、さらになげきます意也。卷六に、人みなの壽《イノチ》もわれもみよし野の瀧の床盤《トコハ》のつねならぬかもとあるも、同じ意也といへるがごとし。
 
春日王。奉v和歌一首。
 
春日王は、紀に三人見えたり。書紀持統紀に、三年四月甲辰、春日王薨云々。續日本紀に、文武天皇三年六月庚戌、淨大肆春日王卒云々。天平十七年四月乙卯、散位正四位下春日王卒云々と見えたり。この中、文武天皇三年卒られしは、紹運録にも出で、志貴親王の御子にて、この卒られし文武天皇三年は、弓削皇子も薨給ひし年なれば、この皇子と、ことに時代近ければ、この王とすべし。本集四【四十二丁】に出たる春日王は、別人なり。(頭書、本集四【四十二丁】元暦本古注に、志貫皇子之子、母曰2多紀皇女1也と見えたり。)
 
243 王者《オホキミハ》。千歳爾麻佐武《チトセニマサム》。白雲毛《シラクモモ》。三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》。
 
千歳爾麻佐武《チトセニマサム》。
歳を、とせといふは、年經《トシヘ》の約り也と、宣長いはれたり。本集五【二十六丁】に、伊都等世《イツトセ》云々。廿【十三丁】に、知登世爾母我母《チトセニモカモ》云々などあり。
 
絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》。
やは、うらへ意のかへる、やはの意にて、絶日《タユルヒ》あらじかといふにて、一首は、皇子の御身の常なきを、雲によそへてのたまふに、和《コタヘ》奉りて、しかのたまへども、吾王は、千年にかはる事なく、まし/\なん。御船の山に、白雲のたゆる日あらめや。たゆる日のなきがごとくにとなり。
 
(23)或本。歌一首。
 
244 三吉野之《ミヨシヌノ》。御船乃山爾《ミフネノヤマニ》。立雲之《タツクモノ》。常將在跡《ツネニアラムト》。我思莫苦二《ワガオモハナクニ》。
 
三吉野之《ミヨシヌノ》。御船乃山爾《ミフネノヤマニ》。
御船乃山は、吉野の中なれば、三よしぬのみふねの山ともいへり。三は眞なり。
 
我思莫苦二《ワガオモハナクニ》。
こは、まへの弓削皇子の御歌の、或本なり。一首の意は、本歌と同じ。
 
右一首。柿本朝臣人麿之歌集出。
 
この左注は非也。右の御歌のやうを考ふるに、吉野宮にあそび給ひしにて、春日王と贈答のさまなど思ふ《(マヽ)》、皇子の御歌ならで、人麿の歌なるべきいはれなし。
 
長田王。被v遣2筑紫1。渡2水島1之時歌二首。
 
長田王。
長親王の御子なり。上【攷證一下七十三丁】に出たり。
 
被v遣2筑紫1。
何故に筑紫へつかはされしにか。もしは朝集使などにはあらざるか。可v考。筑紫は、筑前、筑後をすべいふ名にて、後にわかれて、二國はなれり。豐前、豐(24)後を豊國といひ、肥前、肥後を肥國といへるが如し。
 
水島。
肥後國葦北郡の海上なるべし。和名抄を考ふるに、同國菊地郡に、水島といふ郷名あれど、菊地郡は、海岸にあらざれば、こゝにかなはず。この地の事は、書紀景行紀に、十八年春三月、天皇將v向v京、以巡2狩筑紫國1。【中略】夏四月壬申自2壬申、自2海路1泊2於葦北小島1、而進食時、召2山部阿弭古之祖小左1、令v進2冷水1、適2是時1、島中無v水、不v知2所爲1、則仰之祈2于天神地祇1、忽寒泉從2崖傍1涌出、乃酌以獻焉、故號2其島1曰2水島1也、其泉猶今在2水島崖1也云々とありて、仙覺抄、引2肥後風土記1云、球磨乾七里、海中有v島、稍可2七十里1、名曰2水島1、島出2寒水1、逐v潮高下云々なども見えたり。さて、景行天皇の、この島泊《(マヽ)》ましゝは、前年日向國に行幸まし/\て、それより京にかへりません《(マヽ)》とて、こゝらをも巡狩し給ふなれば、御道の次もたよりあれど、この長田王、京より筑紫に遣はさるゝに、肥後國にかゝらん事、たよりなし。しかも、地圖もて考ふるに、葦北部は、薩摩國との界なるをや。されば、案るに、この王、京より太宰府に至り給ひて、それより名高き所なれば、この島をば、遊覽せられしなるべし。よりて大貳少貳などもつぎて參りし也。
 
245 如聞《キヽシゴト》。眞貴久《マコトタフトク》。奇《クスシク・アヤシク》母《モ》。神《カム・カミ》左備居賀《サビヲルカ》。許禮能水島《コレノミヅシマ》。
 
如聞《キヽシゴト》。
景行天皇、この島に泊まして、奇《クス》しく寒泉の出し事など、聞傳へられしなるべし。久老云、ある人きくがごとゝよみたるは、消去之如久《ケヌルガゴトク》ともあれば、さもよむべけれど、卷廿(25)に、於毛比之其等久《オモヒシゴトク》とある例によらば、きゝしごとゝよむべきなり。
 
眞貴久《マコトタフトク》。
眞《マコト》とは、虚言そらごとゝいふに對へたる言にて、俗に、まことに、實になどといふ意也。こゝは聞しがごとく、實にたふとしと也。本集四【五十一丁】に、眞毛妹之手二所纏牟《マコトモイモガヲニマカレナム》云々。十四【九丁】に、麻許登可聞《マコトカモ》云々。二十【二十二丁】に、麻許等和例《マコトワレ》云々などありて、集中猶あり。
 
奇《クスシク・アヤシク》母《モ》。
コヽヲシモアヤニクスシミクスハシキコトヽイヒツギ
本集十八【三十四丁】に、許己乎之母安夜爾久須之彌《》云々。十九【二十六丁】に、久須婆之伎事跡言繼《》云云。大殿祭祝詞に、奇護言、古語云2久須志伊波比許登《クスシイハヒコト》1などありて、めづらしき意なり。この祝詞の訓注にても、奇はくすしと訓べきをしるべし。
 
神《カム・カミ》左備居賀《サビヲルカ》。
神佐備《カムサビ》は、上【攷證一下八丁】にいひしごとく、神すさびなれど、そを轉じて、ものふるびたる事にも、専らいへり。神は、古へまし/\しなるは、神めきたりといふ意にて、この島のふるびあれたるをいへり。この言、上にも下にも所々に出たると思ひ合すべし。賀《カ》はかもの意也。
 
許禮能水島《コレノミヅシマ》。
佛足石御歌に、己禮乃與波宇都利佐留止毛《コレノヨハウツリサルトモ》云々。また己禮乃徴波《コレノミハ》云々。本集廿【四十丁】に、安賀弖等都氣呂許禮乃波流母志《アカデトツケロコレノハルモシ》云々などありて、このといふを、これのといへり。一首の意は、わが兼て聞傳へたるごとく、まことく《(マヽ)》貴くめづらしく、神めき、ふるびも居るかな、この水島はとなり。
 
(26)246 葦北乃《アシキタノ》。野《ヌ・ノ》坂乃浦從《サカノウラユ》。船出爲而《フナデシテ》。水島爾將去《ミヅシマニユカム》。浪立莫勤《ナミタツナユメ》。
 
葦北乃《アシキタノ》。野《ヌ・ノ》坂乃浦從《サカノウラユ》。
葦北《アシキタ》は郡名にて、和多抄郡名に、肥後國葦北【阿之木多】と見えたり。この郡の中なる野坂浦といふにて、從《ユ》はよりの意也。
 
浪立莫勤《ナミタツナユメ》。
ゆめ/\浪立ことなかれといふにて、勤《ユメ》は、この字の意のごとく、つとめてつゝしめといふ意なる事、上【攷證一下六十二丁】にいへるがごとし。一首の意は明らけし。
 
石川大夫【名闕】和歌一首。
 
石川大夫は、名闕たれば、其人はしりがたけれど、こゝにかくあるからは、大貳、少貳の人なるべし。大夫は、一位より五位までの稱也。この事は、下【攷證三中四十五丁】にいふべし。さてこの石川大夫を、代匠記には、宮麻呂と定め、考には足人と定められたり。この二人、大貳、少貳を經し人なれば、いづれとも定めがたし。依て二人の鈿をあぐ。宮麻呂の鈿は、次の左注の攷證にあぐべし。足人は父祖しれず。續日本紀に、和銅四年四月壬午、授2正六位下石川朝臣足人從五位下1云々。神龜元年二月壬子、授2從五位上1云々とのみありて、太宰府の官に任ぜられし事は見えざれど、本集四【二十四丁】に、神龜五年戊辰、太宰少貳石川足人朝臣遷任、餞2于筑前國蘆城驛家1歌云々。六【廿一丁】に、太宰少貳石川朝臣足人歌云々など見えたれば、少貳に任られし事明らけし。名闕の二字、印本一首の下にありて、大字とせり。今、集中の例によりて、歌の上に加へて、小字とせり。(頭書、石川朝臣の姓の事。)
 
(27)247 奧浪《オキツナミ》。邊浪雖立《ヘナミタツトモ》。和我世故哉《ワガセコガ》。三船乃登麻里《ミフネノトマリ》。瀾立目八方《ナミタヽメヤモ》。
 
奧浪《オキツナミ》。邊浪雖立《ヘナミタツトモ》。
邊《ヘ》は、海邊にて、奧にも邊にも浪たつともいへる也。奧と邊と對へ云る事は、上【攷證二下六十四丁】に云り。ある人、こゝを、おきつ浪へつ浪たてどゝよめりしかど、本集十五【四丁】に、於伎都奈美知敞爾多都等母佐波里安良米也母《オキツナミチヘニタツトモサハリアラメヤモ》云々ともあれば、舊訓のまゝ、おきつなみへなみたつともとよむべし。
 
和我世故哉《ワガセコガ》。
石川大夫、長田王さして、わがせことはいへり。男を稱してせといふ事は、上【攷證一上三丁】にいへるがごとし。女より男に對して、兄《セ》とも兄子《セコ》ともいふは、常のことにて、こゝは男どち、わがせことはいへり。この例、集中多かり。そは本集二【十八丁】長皇子與2皇弟1御歌に、戀痛吾弟《コヒタムワガセ》云々。八【十五丁】山部宿禰赤人歌に、吾勢子爾令見常念之梅花《ワカセコニミセムトオモヒシウメノハナ》云々。十七【三十九丁】内藏忌寸繩麿と家持卿と贈答の歌に、繩麿、和我勢古我久爾弊麻之奈婆《ワガセコガクニヘマシナバ》云々。家持卿、安禮奈之等奈和備和我勢故《アレナシトナワビワガセコ》云々。また【四十二丁】家持卿、大伴宿禰池主に贈歌に、波之伎與之和我世乃伎美乎《ハシキヨシワガセノキミヲ》云々。これに和る池主歌に、和賀勢故乎見都追志乎禮婆《ワガセコヲミツヽシヲレバ》云々。二十【五十九丁】中臣清麿朝臣、家持卿をさして、和我勢故之可久志伎許散婆《ワガセコガカクシキコサバ》云々などあるにて、男どちも、親しみ稱して、わがせとも、わがせこともいへるをしるべし。(頭書、五【十二丁】六【三十七オ】)
 
三船乃登麻里《ミフネノトマリ》。
三は借字にて、御也。登麻里は泊にて、泊り宿るをいへり。本集二【十六丁】に、大船之泊流登麻里能云々なども見えたり。
 
(28)瀾立目八方《ナミタヽメヤモ》。
瀾は、玉篇に、瀾力安切、大波曰v瀾とあれば、なみとよまん事論なし。八方《ヤモ》の方《モ》は助字、八《ヤ》はうらへ意のかへる、やはの意のやにて、一首の意は、奧の浪も邊の浪も立さわぐとも、君が御船のとまりたらん泊りには、波たゝじと也。
 
右今案。從四位下石川宮麻呂朝臣。慶雲年中任2大貳1。又正五位下石川朝臣|吉美侯《キミコ》。神龜年中任2少貳1。不v知3兩人誰作2此歌1焉。
 
從四位下石川宮麻呂朝臣。
續日本紀云、慶雲二年十一月甲辰、以2大納言從三位大伴宿禰安麻呂1、爲2兼太宰帥1。從四位下石川朝臣宮麻呂、爲2大貳1云々。和銅元年三月丙午、爲2大辨1云々。四年四月壬午、授2正四位下1云々。六年正月丁亥、授2從三位1云々。十二月乙未、右大辨石川朝臣宮麻呂薨、近江朝大臣大紫連子之第五男也云々とありて、長田王にさきだつ事、二十四年なり。さて名の下に姓を書は、公式令に、四位先v名後v姓、五位先v姓後v名云々とありて、今從四位なれば、かくはかける也。されど、集中これらの事みたりがはしく、通例とはなしがたし。
 
正五位下石川朝臣|吉美侯《キミコ》。
此卷【二十丁】に、石川少郎とありて、左注に、石川朝臣君子號曰2少郎子1也とあるは誤りなる事、其所にいふべし。(29)この人、父祖卒年末v詳。續日本紀云、和銅六年正月丁亥、授2正七位上石川朝臣君子從五位下1云云。靈龜元年五月壬寅、爲2播磨守1云々。養老四年正月甲子、授2從五位上1云々。十月戊子、爲2兵部大輔1云々。末年六月辛丑、爲2侍從1云々。神龜元年二月、授2正五位下1云々。三年正月庚子授2從四位下1云々などのみありて、少貳に任られし事見えざれど、紀には漏たる事も多ければ、紀に見えずとても、疑ふべきにあらず。
 
又。長田王作歌一首。
 
右と同じ度によまれしなれば、又とはかける也。
 
248 隼人乃《ハヤビトノ》。薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》。雲居奈項《クモヰナス》。遠毛吾者《トホクモワレハ》。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
 
隼人乃《ハヤビトノ》。
枕詞、冠辭考にくはし。隼人《ハヤヒト》とは、大隅、薩摩の國人をいひて、それが住る國なれば、隼人乃薩摩とはつゞけし也。
 
薩摩乃迫門乎《サツマノセドヲ》。
宣長云、國名の薩摩と改まりしは、大寶より靈龜までの間なるべし。其故は、大寶二年の紀には、唱更《ハヤビトノ》國とありて、養老元年の紀に、始て大隅薩摩二國隼人とある、この薩摩は、すでに國名なれば也云々といはれしが如く、いと古くは、隼人の國とのみいひしかど、この歌のころは、はやく國名となりて、こゝも國名なるべし。迫門《セド》を、考に、(30)和名抄に、薩摩國出水郡に勢度郷あり、こゝの海門ならん云々といはれしは、非也。迫門《セド》は、せばき門《ト》といふにて、門《ト》は、水門《ミナト》、島門《シマト》なども、又たゞ門《ト》とのみもいひて、みな船の出入する所を門《ト》とはいへるにて、水門《ミナト》は、本集十三【五丁】に、水門成海毛廣之《ミナトナスウミモユタケシ》云々などいひて、水門は廣きをいへるにて、それにむかへて、迫《セマキ》を迫門《セド》とはいへる也。本集六【廿二丁】に、隼人乃湍門乃磐母《ハヤビトノセドノイハホモ》云々。十二【三十六丁】に室之浦之湍門之崎有《ムロノウラノセドノサキナル》云々。十六【廿七丁】に、角島之迫門乃稚海藻者《ツヌシマノセトノワカメハ》云々など見えたり。迫《セマキ》をせとのみいへるは、山もせ、國もせなどの、せと同じく、十【四十九丁】に、高松之此峯迫爾《タカマノコノミネモセニ》云々とあるにても、迫門《セド》のせは、せまき意なるをしるべし。さて海に門《ト》といへるは、古事記下卷歌に、由良能斗能斗那加能伊久理爾《ユラノトノトナカノイクリニ》云々とある、斗も門《ト》也。本集此卷【三十九丁】に、座待月開乃門從者《ヰマチツキアカシノトユハ》云々。七【廿一丁】に、度中乃方爾《トナカノカタニ》云々などありて、この外、水門《ミナト》、島門《シマト》、大門《オホト》などいふは、その所々にいふべし。
 
雲居奈須《クモヰナス》。
奈須《ナス》は如くの意にて、雲居《クモヰ》は遠きをいへる事、本集一【廿四丁】雲居爾曾遠久有家留《クモヰニゾトホクアリケル》云々とある所【攷證一下三十七丁】にいへり。
 
遠毛吾者《トホクモワレハ》。今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》。
地圖もて考ふるに、肥後國葦北郡は、薩摩國にとなりて、海もひとつなれば、この葦北郡の海に船出すれば、薩摩がた、はるかに見やらるゝによりて、遠もわれは、けふ見つるかもとはよまれし也。
 
柿本朝臣人麻呂。※[羈の馬が奇]旅歌八首。
 
(31)※[羈の馬が奇]旅は、周禮地官遺人注に、※[羈の馬が奇]旅過行寄止者云々とありて、たびの歌なり。
 
249 三津埼《ミツノサキ》。浪矣恐《ナミヲカシコミ》。隱江乃《コモリエノ》。舟公《フネコグキミガ》。宣奴島爾《ノルカヌジマニ》。
 
三津埼《ミツノサキ》。
三は、借字にて、難波の御津也。この地の事は、上【攷證一下五十一丁】にいへり。古事記下卷に、載2其御船1之|御鋼柏《ミツナガシハ》、悉投2棄於海1、故號2其地1謂2御津前《ミツノサキ》1也云々と見えたり。
 
浪矣恐《ナミヲカシコミ》。
本集二【四十一丁】に、海乎恐《ウミヲカシコミ》云々とある恐《カシコミ》と同じく、畏るゝ意にて、荒き浪のおそろしさにといふなり。
 
隱江乃《コモリエノ》。言
隱江《コモリエ》は、隱沼《コモリヌ》、隱津《コモリツ》などゝ同じく、四方皆陸にてつゝまれこもりたる江をいへり。この三津の埼の海は、國圖もて考ふるに、和泉、攝津、淡路にてつゝめる江なれば、こもり江とはいふ也。この事、上【攷證二下三十三丁】隱沼《コモリヌ》の所、考へ合すべし。
 
舟公《フネコグキミガ》。宣奴島爾《ノルカヌシマニ》。
この二句、よく考ふれば、本のまゝにて、こともなく明らかによく聞ゆるを、種々の説あり。まづ先達の説をあげて、後に予が説をいはむ。考云、こゝは舟令寄敏馬埼爾《フネハヨセナムミヌメガサキニ》、かくやありけん。今の本に、こゝの二句を、舟公宣奴島爾とありて、ふねこぐ君がゆくかぬじまにと訓たるは、字も誤り、訓もひがわざ也。この歌に、舟こぐ君といふ言あるべきや。宣も、ゆくと訓べきや。このぬしの歌のしらべをも、古歌のつゞけをもしらぬ人の強ごと也。こは、手をつくべきよしもなけれど、後の考への下にもとて、右の如くは、字も訓(32)もなし試るのみ。猶よく意得たらん人、正せかし云々。宣長云、この二句は、舟八々何時寄奴島爾《フネハヤイツカヨセムヌシマニ》とあるべし。八々を公に誤り、何時を落し、寄を宣に誤りたり。八々《ハヤ》は早《ハヤ》にあらず。者《ハ》やの意也云々。久老云、こは脱誤ありと見えて、よみ得ぬを、わが藏本古本には、嶋の下に一字の闕字あり。故、考るに、舟公は、舟はもとありしを誤りしものか。古くは、もの草假字を、んと書たり宣は、不通の二字誤りしものか。しからば、ふねはもゆかずとよむべし。さて嶋の下に、埼の字を脱せるなるべし。猶よく考ふべし云々。これらの説、古書をたすけんとはせで、例の古書を改めんとのみはかるにて、皆非なり。予案るに、舟公は、舊訓のまゝ、ふねこぐきみがとよむべし。こぐといふ言をよみ添るを、かたぶく人もあるべけれど、そは本集十【二十五丁】に、天漢水左閉而照舟竟舟人妹等所見寸哉《アマノガハミヅサヘニテルフナワタリフネコグヒトニイモトミエキヤ》云々とある、舟人を、ふねこぐひとにとよめるにてしるべし。こは、集中、添訓の一つの格なり。この事、くはしくは、下【攷證四上三十一丁】にいふべし。さてこゝは、人まろと同じごとく、舟をならべゆく旅人を、公《キミ》とはさせるにて、舟こぐ君とはいへど、その人自ら舟をこぐにはあらず。そは、本集九【二十八丁】に、其津於指而君之己藝歸者《ソノツオサシテキミカコキイナバ》云々。廿【十八丁】に安騰母比弖許藝由久伎美波《アトモヒテコキユクキミハ》云々とあるも、君とさせる人、自ら舟をこぐにはあらで、人にこがしむるをも、こぎゆくといへるにて、こゝもこがしめゆく君がといへるなるをしるべし。宣は、言をのるに、のりたまふといふ字にて、のるといはん事論なく、こゝに書るは借字にて、乘《ノル》なり。奴島爾《ヌシマニ》の爾もじは、上【攷證二上廿九丁二中四十八丁】にもいへる、をの意の爾もじ、宣《ノル》かの、かは、かもの意にて、奴島を乘かもといへる也。奴島《ヌシマ》は、淡路なり。一首の意は、三津の埼は、浪の高く荒くかしこさに、舟を榜《コガ》しめゆく君が、奴島の方を乘《ノレ》るかもといへる也。
 
(33)250 珠藻苅《タマモカル》。敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》。夏草之《ナツクサノ》。野島之埼爾《ヌシマガサキニ》。舟近著奴《フネチカヅキヌ》。
 
珠藻苅《タマモカル》。
枕詞なり。海邊には、いづこにもつゞけし也。この事は上【攷證一下六十二丁】にいへり。
 
敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》。
攝津志を考ふるに、菟原郡に載て、連2亘八部郡海濱1といへり。集中多く出たり。仙覺抄引2攝津國風(土脱カ)記1云、美奴賣松原、今稱2美奴賣1者神名、其神本居2能勢郡美奴賣山1。昔息長足比賣天皇、幸2于筑紫國1時、集2諸神祇於川邊郡内神前松原1、以述2禮福1、于v時、此神亦同來集曰、吾亦護治、仍諭v之日、吾所v住之山有2須義乃木1、各宜v材、採爲v吾造v船、則乘2此船1而可2行幸1、當v有2幸福1。天皇乃隨2神教1、遣2命作1v船、此神船逐征2新羅1還之時、祠2祭此神於斯浦1、并留v舶以献、亦名2此地1曰2美奴賣1云々とあり。
 
夏草之《ナツクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。夏草は萎伏《ナエフス》ものなれば、夏草のなゆといふを、なゆの反、ぬなれば、奴《ヌ》の一言へかけてつゞけしなり。
 
野島之埼爾《ヌシマガサキニ》。
野島《ヌシマ》は、淡路なる事、次の歌に、粟路之野島之埼乃《アハヂノヌシマノサキノ》とあるにて論なし。敏馬は、菟原郡より八部郡にわたりて、向へる所、淡路なれば、敏馬の浦を過て、淡路の奴島が埼に、舟ちかづきぬとはよめる也。
 
一本云。處女乎過而《ヲトメヲスキテ》。夏草乃《ナツクサノ》。野《ヌ・ノ》島我埼爾《シマガサキニ》。伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》。
 
(34)處女乎過而《ヲトメヲスギテ》。
眞淵、宣長、久老など、みな、處女は敏女の誤りとして、十五の卷なるも、新羅への使人の誦し誤りなるよしいはれたり。いかにもさる事ながら、本集十五【八丁】に、多麻藻可流乎等女乎須疑※[氏/一]《タマモカルヲトメヲスギテ》、奈都久佐能野島我左吉爾伊保里須和禮波《》ナツクサノヌシマガサキニイホリスワレハ。左注に、柿本朝臣人磨歌曰、敏馬乎須疑※[氏/一]《ミヌメヲスキテ》、又曰|布禰知可豆伎奴《フネチカツキヌ》。かくたしかに、乎等女《ヲトメ》と假字にさへ書たれば、別に處女《ヲトメ》といふ地名ありしなるべし。宣長は、葦屋のをとめ塚のある所のよし、契沖がいへるは誤り也といはれしかど、この葦屋のをとめ塚も、敏馬と同郡なれば、もしこの處女塚を、やがて地名とせるにはあらざるか。處女塚の事は、下【攷證九下】にいふべし。
 
伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》。
旅の假廬なり。この事は、上【攷證二下六十五丁】にいへり。
 
251 粟《アハ》路《ヂ・ミチ》之《ノ》。野《ヌ・ノ》島之前乃《ジマガサキノ》。濱風爾《ハマカゼニ》。妹之結《イモガムスビシ》。※[糸+刃]吹返《ヒモフキカヘス》。
 
粟《アハ》路《ヂ・ミチ》之《ノ》。
粟とかけるは、借字にて、淡路國なり。阿波國へわたる路にある故に、淡路とはいへるよし、宣長いへり。さもあるべし。この句は、あはぢのと四言よむべし。集中并古歌、四言の句、擧てかぞへがたし。
 
野《ヌ・ノ》島之前乃《ジマガサキノ》。
前《サキ》は埼也。古事記に、笠沙之御前《カサヽノミサキ》、御津前《ミツノサキ》など、前の字を用ひたり。埼《サキ》を、さきといふも、海にさし出たる所なれば、前《サキ》の意なり。
 
(35)妹之結《イモガムスビシ》。※[糸+刃]吹返《ヒモフキカヘス》。
古へのならはし、夫婦しばしもわかるゝには、互《タガヒ》に下紐《シタヒモ》をむすぴかはして、又逢ふまで、外の人に解《トカ》せじと契りかたむる事、常の事也。そは、本集八【四五丁】に、神佐夫等不許者不有《カムサブトイナニハアラズ》、秋草乃結之※[糸+刃]乎解者悲哭《アキクサノムスビシヒモヲトカバカナシモ》云々。九【三十丁】に、吾妹兒之結手師※[糸+刃]乎將解八方《ワキモコガユヒテシヒモヲトカメヤモ》、絶者絶十方直二相左右二《タエバタユトモタヾニアフマデニ》云々。十一【十一丁】に、管根惻隱君結爲我※[糸+刃]緒解人不有《スガノネノネモゴロキミガムスヒテシワガヒモノヲヽトクヒトハアラジ》云々。十二【九丁】に、二爲而結之※[糸+刃]乎一爲而吾者解不見直相及者《フタリシテムスヒシヒモヲヒトリシテワレハトキミジタヾニアフマデハ》云々などありて、集中猶いと多し。結を、宣長はむすべると訓れしかど、こゝは過去し事をいへるうへに、まへに引る歌にも、結爲《ムスビシ》、結之《ムスビシ》など書れば、舊訓のまゝ、むすびしと訓べし。さて一首の意は、野島が埼の濱風のはげしさに、古郷にて妹が結びたりし結(紐カ)を、ふきかへすことよといへるにて、旅にては解じと手をだにふれざりしものを、風のふきかへすことよといへる也。(頭書、※[糸+刃]は紐の誤りか。集中※[糸+刃]と書る所、いと多し。※[糸+刃]紐同字にあらず。※[糸+刃]も説文に※[さんずい+單]繩也、玉篇に繩縷也、展而續之とあれば、義をもて、ひもとも訓まじきにあらず。)
 
252 荒栲《アラタヘノ》。藤江《フヂエ》之《ノ・ガ》浦爾《ウラニ》。鈴寸鉤《スゞキツル》。白水郎跡香將見《アマトカミラム》。旅去吾乎《タビユクワレヲ》。
 
荒栲《アラタヘノ》。
枕詞にで、冠辭考にくはし。上【攷證一下二十六丁】にも出たり。
 
藤江《フヂエ》之《ノ・ガ》浦爾《ウラニ》。
播磨國也。和名抄郷名に、播磨國明石郡葛江【布知衣】とある、こゝにて、地圖もて考ふるに、この明石郡は、淡路國と、ことにちかく向へる所なり。本集六(36)【十七丁】に、藤江乃浦爾船曾動流《フヂエノウラニフネゾサワゲル》云々。十五【八丁】に、之路多倍能藤江能宇良爾《シロタヘノフヂエノウラニ》云々など見えたり。また六【十七丁】に、荒妙藤井乃浦爾《アラタヘノフチヰノウラニ》とあるを《(マヽ)》、江を井に誤れる也。
 
鈴寸鉤《スヾキツル》。
鈴寸《スヾキ》と書るは、借字にて、鱸なり。古事記上卷訓注に、訓v鱸云2須受岐《スゞキ》1と見えたり。本集十一【三十七丁】に、鈴寸取海部之燭火《スゞキトルアマノトモシビ》云々ともよめり。
 
白水郎跡香將見《アマトカミラム》。
白水郎をあまとよめる事は、上【攷證一上三十九丁】にいへり。將見《ミラム》は見るらんといふ意也。集中、見らん、見らめなどのみいへり。この事は、上【攷證二中二丁】にいへり。
 
旅去吾乎《タビユクワレヲ》。
 
本集七【二十二丁】に、鹽早三磯囘荷居者《シホハヤミイソワニヲレバ》、入潮爲海人鳥屋見濫《カツキスルアマトヤミラムタビユクワレヲ》、多比由久和禮乎《》とあると、下句おなじ。一首の意は、旅をゆくとて、舟をこがしめゆくを、すゞきつる海人とや人の見るらんと也。この歌、十五【八丁】にも重出せり。
 
一本云。白栲乃《シロタヘノ》。藤江能浦爾《フヂエノウラニ》。伊射利爲流《イサリスル》。
 
白栲乃《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にもいへるがごとく、栲は※[糸+旨]布をすべいへる名にて、藤とつゞくるは、葛《フヂ》もて織れる布の意にて、しろたへのふぢとつゞくる事、荒栲《アラタヘ》の葛《フヂ》とつゞくるがごとし。この事は、予が冠辭考補正にくはしくいふべし。
 
(37)伊射利爲流《イサリスル》。
いさりは磯狩《イソガリ》の意、そがの反、さなりと、谷川士清いへり。さもあるべし。本集六【十七丁】に、奧浪邊波安美射去爲登《オキツナミヘナミシヅケミイサリスト》云々。十二【三十六丁】に、釣爲海部之射去火《ツリスルアマノイサリビ》云々。十五【十一丁】に、伊射里須流安麻能等毛之備《イサリスルアマノトモシビ》云々などありて、集中猶いと多し。さてこゝには、かく伊射利《イサリ》と假字に書たれば、論なけれど、集中、いさりとも、あさりともいへり。この事は、下【攷證三中四十六丁】にいふべし。
 
253 稻日野毛《イナビヌモ》。去過勝爾《ユキスギガテニ》。思有者《オモヘレバ》。心戀敷《コヽロコヒシキ》。可古能島所見《カコノシマミユ》。【一云|湖見《ミナトミユ》。】
 
稻日野毛《イナビヌモ》。
和名抄郡名に、播磨國印南【伊奈美】とある、こゝの野なる本集一【十二丁】に、伊奈美國
ナクハシキイナミノウミノイナビツマウラミヲスギテ
波良《イナミクニハラ》云々。此卷【二十四丁】に、名細寸稻見乃海之《ナクハシキイナミノウミノ》云々。四【十六丁】に、稻日都麻浦箕乎過而《イナビツマウラミヲスギテ》云々などありて、集中猶多し。かくいなみと、いなびといひしなり。ひとみは、音かよへば、いづれにもいひしなり。さてこの八首の歌の地名もて、道の次を考ふるに、はじめ難波の御津の《(マヽ)》、
 
去過勝爾《ユキスギガテニ》。
勝《カテ》は、上【攷證二上十二丁】ににいへるがごとく、難《カタ》き意にて、この稻日野のまへの海を、船にてゆくに、そのけしきのおもしろさに、行過がたく思ひて見ればといふ意也。こゝは、船にて行也。陸をゆく事と、心得誤る事なかれ。
 
心戀敷《コヽロコヒシキ》。
心に戀しく思ひたりし可古の島の見ゆると也。本集一【十一丁】に、吾欲之野島波見世追《ワガホリシヌシマハミセツ》云々とある類にて、日ごろ戀しく思ひたりしと也。
 
(38)可古能島所見《カコノシマミユ》。
可古能島《カコノシマ》は、播磨國の郡名、賀古郡にて、島にはあらねど、船にありて海上より望見て、島のごとく見ゆれば、島といへる事、この下に、大和國を倭島《ヤマトシマ》といへるにしるべし。さて、この可古の島を、久老は、阿古能島の誤りとして、説あれど、例の古書を改めまほしくするの誤りなれば、用ふべからず。書紀應神紀、一書に、播磨|鹿子水門《カコノミナト》とあるもこゝなり。
 
一云|湖見《ミナトミユ》。
印本、湖を潮に誤れり。今は考異に引る阿州本によりて改む。こは可古能湖見《カコノミナトミユ》とするにて、書紀にも、鹿子水門とあれば、こゝも湖とあらん方まされり。本集、此卷【十九丁】に、枚乃湖《ヒラノミナト》云々。七【十七丁】に、居名湖《ヰナノミナト》云々などあるにても思ふべし。この一云湖見の四字、印本大字とせり。今集中の例によりて、小字とす。(頭書、潮にてあるべし。十一【十丁ウ】に二所あり。義訓也。)
 
254 留火之《トモシビノ》。明《アカシノ》大門《オド・ナダ》爾《ニ》。入日哉《イラムヒヤ・イルヒニヤ》。榜將別《コギワカレナム》。家當不見《イヘノアタリミズ》。
 
留火之《トモシビノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。燈火《トモシビ》の明《アカ》しとつゞけし也。さて是を、久老云、留を、ともしとよむは、事遠し。とまりといふ訓を借たらば、ともり火とよむべし。母《モ》と麻《マ》とは、通はしいふ例多し云々とて、ともりびと訓つれど、語の活用《ハタラキ》にうときにて、非也。いかにとなれば、留の訓はとみ、とむ、とめと活用《ハタラキ》て、まの字よりは、良行にうつりて、とまら(39)ん、とまり、とまる、とまれと活用《ハタラキ》、もの字よりは、左行にうつりて、ともさん、ともし、ともす、ともせと活用《ハタラク》故に、留を、ともしとよむべき事、論なく、ともり火といふ事あるべからず。さて本集十五【十一丁】に、安麻能等毛之備《アマノトモシビ》云々。また【十七丁】於伎敝爾等毛之伊射流火波《オキヘニトモシイサルヒハ》、安可之弖登母世《アカシテトモセ》云云。また【廿丁】欲流波火等毛之《ヨルハヒトモシ》云々。十八【十丁】に、登毛之備乎都久欲爾奈蘇保《トモシヒヲツクヨニナゾヘ》云々。また【十八丁】等毛之火能比可里爾見由流《トモシヒノヒカリニミユル》云々などあるにても、ともしびとよまんをしるべし。
 
明《アカシノ》大門《オド・ナダ》爾《ニ》。
明《アカシ》は、和名抄郡名に、播磨國明石【安加志】とある、こゝにて、名高き明石の浦こゝ也。大門《オド》の門《ト》は、上【攷證此卷十六丁】にいへる、迫門《セト》の門《ト》と同じく、船の出入する所をいへる水門《ミト》の門《ト》なり。廣く大きなるを、大門《オホト》ともいひ、水門《ミナト》ともいへる也。迫《セマ》く小《チヒサ》きを、小門《オト》とも迫門《セト》ともいへるに對へてしるべし。古事記に、橘小門《タチバナノヲト》とあるも、小《チヒサ》き水門をいへる也。さて大門を、おどゝよむは、略解に、卷十三【七丁】に、奧十山三野之山《オキソヤマミヌノヤマ》とある、おきそも、大吉蘇を略たる也。また大父、大母を、おぢおばといふも、例とすべし云々といへるによりてなり。
 
入日哉《イラムヒヤ・イルヒニヤ》。
宣長云、いらんひやとよむべし。明石の門《ト》に入らぬ前には、海上なれば、大和の家の方も見えしが、この門へ入ては、見えぬやうになりなんといふ也。こぎわかるゝとは、今まで見えたる方の見えずなるを、別るといふ也。家のあたり見ずは、四の句の上へうつして見べし云々。
 
家當不見《イヘノアタリミズ》。
家は、大和の京の家なれば、大和の方の見えぬといふ也。實に海上にありては、いづこも遠く望《ノゾ》まるゝを、水門に入れば、みな見えずなるべし。一首の意は、今(40)かく海上にありては、大和なる家の方も遠く望み見らるゝを、あかしの大門にいらんとする日には、家のあたりも見えず、こぎわかれなんと也。さて略解云、この歌までは、西へゆく度の歌にして、次の二首は、かへる時の歌也。又下に、人麿筑紫へ下る時の歌とてのせたるは、この時も同じ度なるを、後に聞て、別に書入たるにや、又こと時にや、しられず。
 
255 天離《アマサカル》。夷之長道從《ヒナノナガヂユ》。戀來者《コヒクレバ》。自明門《アカシノトヨリ》。倭島所見《ヤマトシマミユ》。
 
天離《アマサカル》。
上枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。
 
夷之長道從《ヒナノナガヂユ》。
夷《ヒナ》は、都より遠き所をすべいふ名にて、今|田舍《ヰナカ》といふと同じ。この事も、上【攷證一上四十七丁】にいへり。道從《ナガヂ》は、字のごとく、長き道をいへるにて、都よりはるばる長き道をへて、夷に來りしを、夷の長道とはいへり。從《ユ》は、よりの意也。さて久老は、集中、道之永手《ミチノナガテ》、道乃奈我※[氏/一]《ミチノナガテ》などのみありて、ながぢと假字に書る所なしとて、こゝをも、ながてとよめり。いかにもさる事ながら、道は、集中、ぢとのみよめるうへに、ながぢとしてもよく聞ゆれば、猶舊訓のまゝに、ながぢとよむべき也。この歌を、十五【八丁】に重出して、比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》云々。二十【廿丁】に、道乃長道波《ミチノナガヂハ》云云なども見えたり。
 
戀來者《コヒクレバ》。
大和の京を戀つゝくればといふなり。
 
(41)自明門《アカシノトヨリ》。
宣長云、倭島は、すべて大和の方をかくいふ也。別に此島ありといふ説はとらず。さて、大和の方をさして倭島といふは、船にまれ、浦にまれ、海をへだてゝ、あなたにある時にいふ稱也。十五【十七丁】の、新羅への使人が、豐前國分間浦にてよめる歌に、海原のおきへにともしいさる火は、あかしてともせ、夜麻登思麻見無《ヤマトシマミム》などよめるも、しか也。二十【五十丁】に、天地のかためし國ぞ、やまとしまねはとよめるは、大八洲をすべていへれば、別事也云々といはれつるがごとく、此卷【廿四丁卅五丁】の下に、山跡島根とあるも、倭島嶺にて、大和國をいへる也。一首の意は、今旅に居て、故郷の大和を戀ひつゝ、都はなれたる夷の長き船路より、船を榜《コガ》しめ來れば、明石の水門より、大和の方見ゆとなり。
 
一本云。家門當見由《イヘノアタリミユ》。
 
家門の二字を、いへとよめるは、義をもて、門の字をば添てかける也。こは、いでましといふを、幸とも、行幸ともかき、ゆきといふを、雪とも、白雪ともかき、うつろふといふを、移とも、變とも、移變とも書、おぶといふを、佩とも、佩具とも書る類にて、集中猶いと多し。字をも、訓をも、添も略きもして書る事、集中の常なるを、宣長が、この門の字は、乃の誤り也といはれしは非也。これも十五卷【八丁】なるをこゝにあげしなり。
 
256 飼飯海乃《ケヒノウミノ》。庭好有之《ニハヨクアラシ》。苅薦乃《カリコモノ》。亂出《ミダレイヅ・ミダレテイデ》所見《ミユ》。海人釣船《アマノツリブネ》。
 
(42)飼飯海乃《ケヒノウミノ》。
越前國敦賀郡に、笥飯《ケヒ》といふ地名見えて、書紀持統紀、延喜神名式、雜式などに出たれど、右七首によめる地名、次もて見るに、こゝに越前國地名あるべきいはれなし。されど、考には、一本の武庫之海《ムコノウミ》とあるを取、久老は淡路に銅飯野といふ地ありと、吾友度會正柯いへり。さては、この飼飯は、越前にはあらぬにや云々といへり、予思ふに、名所同名ある事は、常の事なれば、攝津、播磨など、同名あるにもあるべし。又試にいへる事あり。いかにとなれば、和泉國日根郡に、吹飯浦《フケヒノウラ》あり。こは名高き所にて、吹飯《フケヒ》と、飼飯《ケヒ》と、となへもちかく本集十二【四十丁】に、飼飯之浦と、吹飯乃濱との歌を並べ載たるを見れば、飼飯《ケヒ》、吹飯《フケヒ》、同所にはあらざるか。この上の歌よりの海路の次も、歸路に和泉國へかゝるまじきにもあらねば、路の次もたよりありておぼゆる也。されど、こゝろみにいふのみ。さて、飼をけの假字用《(マヽ)》るは、玉篇に、飼同v※[食+人]、※[食+人]食也とありて、食をけと訓る事、大御食《オホミケ》、御食向《ミケムカフ》、食永《ケナガキ》などの例あれば、飼は食の意に、けの假字には用ひしなるべし。又考ふるに、二字通續する時は、旁を増事、一つの格なれば、笥飯《ケヒ》を飼飯とは書るにもあるべし。そは、孫叔敖碑に、泉源を※[さんずい+和泉]源に作り、郭輔碑に、※[女+交]麗を※[女+交]孃に作り、麒麟鳳凰稗に、鳳皇を鳳凰に作り、集中、可怜を※[立心偏+可]怜に作り、感嬬を※[女+感]嬬に作れる類なり。また、俳諧を誹諧に作るも同じ。この二説、見ん事心《(マヽ)》のひかん方にしたがふべし。
 
庭好有之《ニハヨクアラシ》。
こは、今も海邊などの人はいふ言にて、海上浪たゝず、おだやかに平らかなるを
ニハキヨミ
いへり。本集此卷【四十丁】に、安倍而榜出牟爾波母之頭氣師《アヘテコギイデムニハモシヅケシ》云々。十一【三十七丁】に、庭淨奧方榜出海舟乃《ニハキヨミオキベコギイヅルアマフネノ》云々などあるも同じ。こゝは、庭よくあらんかしといふ也。言の意は、いまだ思ひ得ず。
 
(43)苅薦乃《カリコモノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。まへにもいへる如く、薦《コモ》は菰《コモ》にて、苅て束ねざるほどは、亂れやすければ、苅菰のみだれとはつゞけしなり。
 
亂出《ミダレイヅ・ミダレテイデ》所見《ミユ》。海人鉤船《アマノツリフネ》。
かくの如くよむべし。そは、この歌を、十五【八丁】に重出して、美太禮底出見由《ミタレテイツミユ》云々とあればなり。一首は《(マヽ)》明らけし。
 
一本云。武庫乃海《ムコノウミノ》。舶《フナ・フネ》爾波有之《ニハナラシ》。伊射里爲流《イサリスル》。海部乃鉤船《アマノツリフネ》。浪上從所見《ナミノウヘユミユ》。
 
武庫乃海《ムコノウミノ》。
和名抄郡名に、攝津國武庫【無古】とある、この郡の海にて、今兵庫なりといへり。
 
舶《フナ・フネ》爾波有之《ニハナラシ》。
宣長云、ふなにはならしと訓べし。舟庭とは、舟を海上へ榜出すに、よき日よりをいふなるべし云々。いはれしが如し。ふね何といふと、ふな何といふとのわかちは、上【攷證一下四十四丁】にいへり。玉篇に、舶大船と見えたり。
 
浪上從所見《ナミノウヘユミユ》。
從《ユ》は、よりの意にて、一首の意は、武庫の海の日よりよくして、けふは船を出すによき日ならんかし。いさりをする海人の鉤船どもの、浪の上より見ゆと也。さて、こゝの八首の中に、云云とて載たる歌は、十五【八丁】に重出したると、たがふ事なきを、この一本のみ、十五の卷と少したがへり。故にその歌をあぐ。十五【八丁】に、武庫能宇美能爾波余(44)久安良之《ムコノウミノニハヨクアラシ》云々。この下おなじ。
 
鴨君足人。香具山歌一首。并短歌。
 
鴨君足人は、父祖官位不v可v考。鴨君姓氏は、姓氏録卷八に、鴨君、日下部宿禰同v祖、彦坐命之後也云々とありて、續日本紀に、天平寶字三年十月辛丑、天下諸姓、著2君字1者、換以2公字1云云と見えたり。
 
257 天降付《アモリツク》。天《アメ・アマ》之芳來山《ノカグヤマ》。霞《カスミ》立《タツ・タチ》。春《ハル》爾至《ニシナレ・ニイタレ》婆《バ》。櫻花《サクラバナ》。木晩茂爾《コノクレシゲニ》。松風爾《マツカゼニ》。池浪立而《イケナミタチテ》。奧邊《オキベ》(・ニ)波《ハ》。鴨妻喚《カモメヨビ》(ヒ・テ)。邊津《ヘツ》方《ベ・カタ》爾《ニ》。味村左和伎《アヂムラサワギ》。百磯城之《モヽシキノ》。大宮人乃《オホミヤビトノ》。退《マカリ》出《デ・イデ》而《テ》。遊船爾波《アソブフネニハ》。梶棹毛《カヂサヲモ》。無而《ナクテ》不樂《サブシ・サビシ》毛《モ》。己具人奈四二《コグヒトナシニ》。
 
天降付《アモリツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上三丁】に引る、伊豫國風土記の説の如く、天の香具山は、天上より二つにわかれて、天降て、大和國と伊豫國にあるよしなれば、あもりつく天のかぐ山とは、つゞけしにて、付《ツク》は下つ國に着《ツク》よしなり。
 
(45)天《アメ・アマ》之芳來山《ノカグヤマ》。
大和國十市郡なり。この山の事も、あめのと訓べき事も、上【攷證一上三十四丁】にいへり。芳來を、かぐとよめるは、玉篇に、芳、香氣貌云々。儀禮土冠禮注に、芳香也云々ともあれば、本集二【三十五丁】に、香具山と書ると同じ。
 
霞《カスミ》立《タツ・タチ》。
枕詞にて、予が冠辭考補正に出せり。上【攷證一上九丁】にも出たり。つゞけがら明らけし。
 
春《ハル》爾至《ニシナレ・ニイタレ》婆《バ》。
舊訓も、久老が考も、はるにいたればとよみたれど、いたるといふ言は、本集四【二十四丁】に、※[覊の馬が奇]行君之至家左右《タビユクキミガイヘニイタルマデ》云々。七【二十六丁】に、妹家爾早將至《イモガイヘニハヤクイタラム》云々。十一【十七丁】に、不念丹到者妹之歡三跡《オモハヌニイタラバイモガウレシミト》云々。十三【十四丁】に、還爾之人家爾到伎也《カヘリニシヒトイヘニイタリキヤ》云々。十四【八丁】に、等夫登利乃伊多良武等曾與《トブトリノイタラムトゾヨ》云々などありて、また古今集春下に、よみ人しらず、春のいろのいたりいたらぬ里はあらじ、さけるさかざる花の見ゆらん云々。土佐日記に、守の館よりよびに、文もてきたれり。よばれていたりて云々などありて、行《ユク》意にのみいへれば、こゝを、はるにいたればと訓、聞えがたし。されば、春にしなればと訓。至をなるとよめるは義訓にて、本集二【廿五丁】に、暮爾至者《ユフベニナレバ》云々とありて、又十二【十丁】に、夜爾至者《ヨルニシナラバ》云々とあるも、こゝ同じ書ざまにて、また六【四十二丁】に、炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナラバ》云々とあるも、同語なるにても思ふべし。さてこゝの、にしの、しもじ、よみ添たるにて、假字の下に字を訓添る例なし、古人は云つれど、本集二【四十丁】に、宇都曾臣念之妹我《ウツソミトオモヒシイモガ》云々。十二【十丁】に、夜爾至者《ヨルニシナレバ》云々。十九【二十丁】に、許能久禮繁思乎《コノクレノシゲキオモヒヲ》云々とありて、人名、地名などには、字を添てよめる事、常の事なり。そは、上【攷證一下廿四下二中五十六丁】にいへり。これらにても思ふべし。
 
(46)櫻花《サクラバナ》。木晩茂爾《コノクレシゲニ》。
集中、こゝに至て、はじめ櫻花《(マヽ)》見えたり。木晩茂爾《コクグレシゲニ》は、木暗《コグラ》く生しげりたるにて、本集六【四十二丁】に、櫻花木晩罕《サクラバナコノクレガクリ》云々。八【二十六丁】に、木晩乃如此成左右爾《コノクレノカクナルマテニ》云々。十八【九丁】に、多胡乃佐伎許能久禮之氣爾保登等藝須《タゴノサキコノクレシゲニホトヽキス》云々。十九【二十丁】に、許能久禮繁思乎《コノクレノシゲキオモヒヲ》云々などありて、集中猶多し。櫻は、花も葉も一度に出るもの故に、櫻花このくれしげにとはいへる也。さて印本、この二句を、松風爾池波立而《マツカゼニイケナミタチテ》の二句の下に置たれど、さてはつゞけがら前後したる上に、或本の方に、春去來者《ハルサリクレバ》、櫻花木晩茂《サクラバナコノクレシゲニ》、松風丹池波※[風+炎]《マツカゼニイケナミタチテ》、邊都返者《ヘツベニハ》云々ともありて、ここは錯亂なる事、明らかなれば、考に、置かへられしによりて、今もおきかへたり。(頭書、木晩《コノクレ》と書るは借字、木闇《コノクレ》の意にて、木闇《コクラ》く茂りたるをいへり。)
 
松風爾《マツカゼニ》。
今もいへるがごとく、松ふく風なり。本集八【二十一丁】に、屋戸在櫻花者《ヤドニアルサクラノハナハ》、今毛香聞松風疾《イマモカモマツカゼハヤミ》、地爾落良武《ツチニオツラム》云々とも見えて、後世いと多し。
 
池浪立而《イケナミタチテ》。
こは、香具山のほとりの池にて、本集一【七丁】天皇登2香具山1望國之時の御製に、海原波加萬目立多都《ウナハラハカマメタチタツ》云々とよませ給へるも、この池也。考には、これを埴安《ハニヤスノ》池なりといはれたり。さもあるべし。二【三十三丁】高市皇子尊城上殯宮の時の歌にも、埴安と香具山とをよみ合せたるにても思ふべし。
 
奧邊波《オキベハ》。
沖の方はにで、例の奧とへとを對へいひたり。久老は、邊《ヘ》はへに假字に用ふと云つれど、邊津方爾といふに對へたれば、四言によむべし。
 
鴨妻喚《カモメヨビ》(ヒ・テ)。
鴨妻【カモメ》は、鴎也。本集一【七丁】に、加萬目《カマメ》とあるも、まとめと音通ひて、かもめ也。喚《ヨバヒ》はよびを延《ノベ》たる言にて、五【卅一丁】に、寢屋度麻弖來立呼比奴《ネヤドマデキタチヨバヒヌ》云々とも見えたり。さて久(47)老は、鴨妻喚《カモメツマヨビ》と訓て、按に、燕を、つばとも、つばめともいふ類にて、鴨に、めの言をそへて、かもめつまよびと訓べきなり云々と云つれど、燕をつば、雀をすゞとのみいふ事もなければ、この説うけがたし。
 
味村左和伎《アヂムラサワギ》。
味村《アチムラ》は、借字にで、この鳥|群飛《ムレトブ》もの故に、あぢむらとはいへるにて、鶴村《ツルムラ》、群鳥《ムラトリ》などのむらと同じ。そは本集十一【卅八丁】に、味乃住渚沙乃入江之《アヂノスムスサノイリエノ》云々など、味《アチ》とのみもいへるにてしるべし。さてこの鳥は、鳧の一種にて、むれとぶものなるによりて、さわぎとはいへる也。四【十二丁】に、山羽爾味村騒《ヤマノハニアヂムラサワギ》云々。十七【卅六丁】に、奈藝左爾波安遲牟良佐和伎《ナギサニハアヂムラサワギ》云々。二十【廿五丁】に、安治牟良能佐和伎々保比弖《アチムラノサワギヽホヒテ》云々などありて、本草綱目、時珍云、鳧數百爲v羣、晨夜蔽v天、而飛聲如2風雨1云々とあるにても、群飛ものなるをしるべし。
 
百磯城之《モヽシキノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十八丁】にも出たり。
 
大宮人乃《オホミヤビトノ》。
集中いと多し。天皇又は皇子などの、大宮に仕へ奉る人たちをいふ也。
 
退《マカリ》出《デ・イデ》而《テ》。
退《マカリ》とは、貴き所より賤き所へゆくといへる言なる事、上【攷證二下六十丁】にいへるが如く、こゝは大宮人の宮中をまかり出て、この香具山のほとりなる、埴安の池に船あそびするをいへる也。さて、出而を、舊訓いでゝと訓つれど、でゝと訓べし。出をでとのみ訓は、書紀に、火々出見《ホヽデミノ》尊と書るを、古事記には、穗々手見《ホヽデミノ》命とかき、參出《マヰデ》といふを、本集十八【廿七丁】に、麻(48)爲泥許之《マヰデコシ》云々とかき、船出《フナデ》を、十七【七丁】に、敷奈底《フナデ》云々とかき、今も退《マカ》り出《イツ》るを、まかで、まかづなどいへるにてもしるべし。本集七【三丁】に、百師木之大宮人之《モヽシキノオホミヤビトノ》、退出而遊今夜之月清左《マカリデヽアソブコヨヒノツキノサヤケサ》などもよめり。
 
遊船爾波《アソブフネニハ》。
こは、香具山のほとりなる埴安の池に、大宮人の遊ぶ料の船をつなぎおかしめ給ひしが、今は藤原の京もあれはてゝ、その船にも梶《カヂ》棹《サヲ》もなくなりしを見て、悲しみて詠るにて、遊船爾波《アソブフネニハ》といへるは、あそぶべき船にはといふ意也。しかきかざれば、こゝに叶はず。これを久老が、遊びし船にはといふ意に解るは非也。さて、香具山は、藤原の宮の近きほとりなる事、本集一【廿三丁】藤原宮御井歌にてしらる。
 
梶棹毛《カヂサヲモ》。
梶《カヂ》は、今のかぢといふ物にはあらで、櫂と同物なる事、上【攷證二中廿四丁】にいへるが如し。棹《サヲ》は、和名抄舟具に、唐韻云、※[木+(竹/高)]【音高字亦作※[竹/高]和名佐乎】棹竿也、、方言云、刺v船竹也とある、これにて、古事記中卷に、不v乾2船腹1、不v乾2※[木+施の旁の也が巴]※[楫+戈]《サヲカヂ》1云々。祈年祭祝詞に、青海原有棹柁不干《アヲウナバラハサヲカヂホサス》云々。本集十【三十二丁】に、吾隱有※[楫+戈]棹無而《ワガカクセルサヲカヂナクテ》云々なども見えたり。
 
無而《ナクテ》不樂《サブシ・サビシ》毛《モ》。己具人奈四二《コグヒトナシニ》。
不樂《サブシ》は、心すさまじく、なぐさめがたき意にて、字のごとく、たのしまざる意也。集中、不樂、不怜などの字を、さぶしとも、さびともよめり。一つ語也。この事は、上【攷證二下五十丁五十四丁六十丁】にいへり。本集十五【三十二丁】一云に、左必之佐《サビシサ》と、たゞ一所のみ、さびしとあれど、こは一書なるうへに、集中みなさぶし(49)とあれば、今もさぶしとはよめる也。こゝの意は、大宮人の、宮中をいでゝ、あそばん料に、つなぎおかしめ給ひし船も、いまは竿《サヲ》梶《カヂ》もなく、榜《コグ》人《ヒト》さへもなく、いたづらにすたれたるを見れば、心すさまじく、なぐさめがたしと也。
 
反歌二首。
 
258 人不榜《ヒトコガズ》。有雲知之《アラクモシルシ》。潜《カヅキ・イサリ》爲《スル》。鴦與高部共《ヲシトタカベト》。船上住《フネノヘニスム》。
 
人不榜《ヒトコガズ》。
長歌に、船に梶《カヂ》竿《サヲ》もた《(マヽ)》くすたれたる事をいひ、己具人奈四二《コグヒトナシニ》ともいひて、それをくりかへして、その船の人も、こがずして、ただあるをいへり。
 
有雲知之《アラクモシルシ》。
雲《クモ》は、借字にて、あるもといふ《(マヽ)》、延て、あらくもとはいへる也。見るを延て見らく、語るを延てかたらく、戀るを延て戀らくなどいふ類也。知之《シルシ》は、齋明紀御製に、倶謨娜尼母《モ(マヽ)モタニモ》、旨屡倶之多々婆《シルクシタヽハ》云々。本集八【四十二丁】に、來之久毛知久《コシクモシルク》、相流君可聞《アヘルキミカモ》云々。十一【九丁】に、雲谷灼發《クモダニモシルクシタヽバ》云々。十七【四十八丁】に、比奈等毛之流久《ヒナトモシルク》云々などありて、集中猶いと多く、十一巻に、灼をしるくとよめる意にて、玉篇に、灼(ハ)明也とあるごとく、しるくは、明白なるをいひて、いちじるき也。
 
潜《カヅキ・イサリ》爲《スル》。
潜は、集中、かづくとのみよめれば、かづきするとよむべし。かづくは、水中に入事にて、浪をかづくよりいへる也。この事、上【攷證二中四十九丁】にいへり。
 
(50)鴦與高部共《ヲシトタカベト》。
鴦《ヲシ》は、本草和名に、鴛鴦和名乎之とありて、みな人しれるをし鳥也。高部《タカべ》は借字にて、新撰字鏡に、鳧【太加戸】云々。和名抄鳥名に、爾雅集注云、※[爾+鳥]【音彌一音施漢語抄云多加閉】一名沈鳧、貌似v鴨而小、背上有v文と見えて、本集十一【四十三丁】に、高山爾高部左波《タカヤマニタカベサワタリ》云々。風俗鴛鴦歌に、乎之太加倍《ヲシタカベ》、加毛佐戸木爲流《カモサヘキヰル》、波良乃伊介能《ハラノイケノ》云々なども詠り。これも鳧の一種なるべし。共は、ともにと訓べき字なれど、とゝのみよめるは義訓也。本集四【四十四丁】に、吾共咲爲而《ワレトヱマシテ》云々とも見えたり。
船《フネノ》上《ヘ・ウヘ》住《ニスム》。
考に、ふなのへの《(マヽ》訓たれど、いかゞ。そは久考(老カ)云、卷十八に、布奈乃倍《フナノヘ》と見えたるは、船之舳《フナノヘ》也。ふなよそひ、ふな棚、ふな庭《ニハ》、ふなのりなどいふは、下へ語のつゞく故、ふな何といふべけれど、こゝは、ふねのと、語のきるゝ言にて、たゞに船をいふ言なれば、ふな何とはいふべからず云々といへるが如し。一首の意は、舟のすたれたるまゝにて、榜人もなくてあるも、いちじろく明らけし。水中に、かづきあさる、をし鳥、※[爾+鳥]《タカベ》などの、船の上を住所とするにて、久しくこぐ人もなかりし事、いちじろしと也。さて、住の字、活字本には、位の字に作れり。位はをると訓べし。これもあしからねど、住《スム》にても聞ゆれば、本のまゝにておきつ。
 
259 何時間毛《イツシカモ》。神《カム・カミ》左備祁留鹿《サビケルカ》。香山之《カグヤマノ》。鉾椙之《ホコスギノ》末《ウレ・モト》爾《ニ》。薛生左右二《コケムスマデニ》。
 
何時間毛《イツシカモ》。
考に、いつのまもに訓れしより、久老、千蔭なども、それに從て、いつのまにかもといふ意也と、解りしかど、毛の字一字にて、しか聞べきよしなければ、舊訓の(51)まゝ、いつしかもとよむべし。いつしかもは、之《シ》も、毛も、助字にて、いつかといふ意也。さて神左備祁留鹿《カムサビケルカ》の祁留《ケル》は、いつの結び詞、鹿《カ》は疑ひのかにて、詞の切たる下におきて、疑ひながら切る格也。そは、本集一【廿丁】に、珠裳乃須十二《タマモノスソニ》、四寶三都良武香《シホミツラムカ》云々。また、榜船荷妹乘良六鹿《》、荒島囘乎《アラキシママヲ》云々。八【二十六丁】に、雨打零者將移香《コグフネニイモノルラムカ》】云々。これらのかと同じ格にて、香山の鉾椙が末に、こけのむすまでに、いつしかも神さびけるかと、かもじにて切るてにをはなるを、こゝの解、諸説みなたがへり。さて、何時間毛《イツシカモ》の間を、かの假字なり、思ふ人もあるべけれど、間の字を、かの假字に用ひし事、集中に例なく、間は、義を以て添てかける字也。この添て書る文字の事は、上【攷證此卷廿二丁】に、家門を、いへとよめる所にいへるがごとし。これらの事ども、よく/\思ひたどらずば、まぎれぬべし。
 
神左備祁留鹿《カムサビケルカ》。
神左備《カムサビ》は、上【攷證一下八丁】にいへるが如く、神すさびなれど、そを轉じて、ふるびたる意にいへる也。この事は、まへにもいへり。こゝは、この鉾椙《ホコスギ》の古びたるをいへる事、まへに、神左備居賀許禮能水島《カムサビヲルカコレノミツシマ》とあると同じ。祁留《ケル》は、いつの結び詞、鹿は疑ひの詞にて、切るてにをはなり。
 
香山之《カグヤマノ》。
こゝまでは、香具山、香來山などのみかきて、こゝに至りて、香山とのみ書り。これ文字を、添もはぶきもして書る也。書紀神武紀、訓注に、香山、此云2介遇夜※[麻/糸]《カグヤマ》1云々。本集十一【九丁】に、香山爾空位桁曳《カグヤマニクモヰタナビキ》云々など見えたり。官本、香の下に久の字あり。さかしらなるべし。
 
(52)鉾椙之《ホコスギノ》末《ウレ・モト》爾《ニ》。
諸本、末《ウレ》を本《モト》に作りて、もとゝ訓り。本集二【四十三丁】に、子松之末爾蘿生萬代爾《コマツカウレニコケムスマデニ》云々とあると、全く同じ書ざまなるうへに、こゝに、薛《コケ》といふは、松蘿《ヒカゲ》の事にて、ひかげは、樹木の梢にのみ生て、木の本には生ざるものなれば、これかれを思ふに、字體近きまゝに、末を本に誤れる事、明らかなれば、考に改められしによりて、こゝにも改めたり。さて、鉾椙は、※[木+温の旁]の若木の形ち矛《ホコ》の如くなるをいひて、こは若木なる事、まへに引る小松がうれにこけむすまでにといへるにむかへてしるべし。是を鉾椙としもいふは、古事記中卷に、天皇以2三宅連等之祖、名|多遲麻毛理《タヂマモリ》、遣2常世國1、令v求2登岐士玖能迦玖能木美《トキジクノカクノコノミ》1、故|多遲摩毛理《タチマモリ》、遂到2其國1、採2其木實1、以2縵八縵矛八矛《カゲヤカゲホコヤホコ》1將來云々。本集十八【廿七丁】に、田道間守《タヂマモリ》、常世爾和多利《トコヨニワタリ》、家保許毛知《ヤホコモチ》、麻爲泥許之登吉《マヰデコシトキ》、時支能香久乃菓子乎《トキジクノカクノコノミヲ》、可之古久母《カシコクモ》、能許之多麻敝禮《ノコシタマヘレ》云々。延喜内膳式に、橘子四蔭《タチバナヨカゲ》、桙橘子十枝《ホコタチバナトエダ》、※[綴の糸が手偏]橘子《ヒロヒタチバナ》一斗云々とある、古事記の、縵八縵《カケヤカゲ》、矛八矛《ホコヤホコ》とあるも、橘の事にて、縵《カゲ》は借字にて、内膳拭に、橘子四|蔭《カゲ》とある蔭と同じく、橘の、葉ありて蔭しげりたる枝の事、矛八矛《ホコヤホコ》も、橘の事にて、桙橘子十枝《》とあると同じく、橘の葉なき枝の、矛《ホコ》の如くなるをいへる事、綴橘【ヒVヒ》子は、※[綴の糸が手偏]《ヒロ》ひたる橘子にて、これのみには、蔭とも枝ともかゝずして、一斗と舛目にて書るなど、むかへてしるべし。これらを合せ見ても、鉾椙は、椙の若木の、末《スヱ》尖《トガ》りて、鉾の形ちに似たるをいふなるをしるべし。鉾は、和名抄征戦具に、揚雄方言云、戟【居逆反和名保古】或謂2之干1、或謂2之戈1。釋名云、手戟曰v矛【音謀亦作v鉾和名天保古】入所v持也云々と。天保古《テホコ》とはあれど、てぼこといふ名、古くものに見えず。相通はして、ほことのみもいへる事、矛をほこといへるにてしるべし。椙は、古事記上卷に亦其身生2蘿《コケ》及|檜《ヒ》椙《スギ》1云々。出雲風土記に、杉【字或作v椙】云々。伊呂波字類抄に、杉【スギ】椙【俗用之】とありて、(53)和名抄木類に、爾雅音義云、杉【音衫、一音〓、亦作v〓、和名須岐、見2日本紀私記1今案俗用2椙字1非也。椙字於粉反、桂也】とあれど、まへに引るごとく、いと古くより、椙の字を書來れば、中國の作字なるも、知るべからざれば、改むる事なし。又書紀顯宗紀、訓注に、※[木+温の旁]此云2須擬《スキ》1とありて、字鏡集に、※[木+温の旁]【スギノキ】とあれど、椙も、※[木+温の旁]も、漢土の書に見えず。集韻に、※[木+温の旁]鴉昆切、音温、杉也とあれば、椙も、※[木+温の旁]の誤りにもあるべけれど、誤れるもいと古ければ、古きに依て改むる事なし。
 
薛生左右二《コケムスマデニ》。
薛は、字鏡集、假字玉篇など、こけとよめり。こけは、松蘿にて、ひかげをいへる事、上【攷證二上三十丁二下七十一丁】にいへるが如し。さて、一首の意は、鉾のごとくなりし杉の若木の、いつのほどにか、かくのごとく梢に蘿《ヒカゲ》のかゝれるまで、ふるびけるにかあらんといへるにて、香具山の杉を、若木にて見たりしが、おもひのほかに、生ひなれるをよめるなり。
 
或本歌云。
 
260 天降就《アモリツク》。神乃香山《カミノカグヤマ》。打靡《ウチナビク》。春去來者《ハルサリクレバ》。櫻花《サクラバナ》。木晩《コノクレ》茂《シゲニ・シゲミ》。松風丹《マツカゼニ》。池波※[風+火三つ]《イケナミタチテ》。邊都返《ヘツベ》者《ハ・ニ》。阿遲村動《アヂムラサワギ》。奧邊《オキベ》者《ハ・ニ》。鴨妻喚《カモメヨバヒ》(・テ)。百式乃《モヽシキノ》。大宮人乃《オホミヤビトノ》。去出《マカリデヽ・ユキイデヽ》。榜《コギ》來《ケル・コシ》舟者《フネハ》。竿梶母《サヲカヂモ》。無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》。榜與《コガムト》雖思《モヘド・オモヘド》。
 
(54)神乃香山《カミノカグヤマ》。
神の鎮座《シヅマリマシ》ます、かぐ山といふ也。延喜神名式に、天香山坐、櫛眞命神社と見えたり。神は、天降ましまして、こゝに居付まします故に、あもりつくとはつゞけたり。
 
打靡《ウチナビク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。春は、草木のわかく、なよゝかになびくものなれば、しかつゞけし也。
 
春去來者《ハルサリクレバ》。
春になりくれば也。この事は、上【攷證一上廿九丁】にいへり。
 
池波※[風+火三つ]《イケナミタチテ》。
※[風+火三つ]を、略解には、さわぎと訓たれど、本歌と、舊訓のまゝ、たちてと訓べきなり。いかにとなれば、※[風+火三つ]は、下にいへる如く、暴風にて、波に風あれば立ゆゑに、たちてとよまん方まされり。※[風+火三つ]は、玉篇に、※[火三つ+風]、※[人偏+卑]遙切、暴風也とある※[火三つ+風]を、※[風+火三つ]とかけるは、扁傍を左右せる也。この事は、上【攷證二下五丁】にいへり。※[風+火三つ]をさわぐとよめるは、義訓なり。
 
阿遲村動《アヂムラサワギ》。
この動をも、略解には、とよみと訓たれど、本歌と、舊訓のまゝに、さわぎとよむべし。いかにとなれば、本歌の、あぢむらの所に引るが如く、集中、みな、あぢむらのさわぎとのみつゞけたれば也。さて、さわぐと、とよむとのわかちは、上【攷證二下六十四丁】にいへるが如し。
 
去出《マカリデヽ・ユキイデヽ》。
舊訓、ゆきいでゝと訓つれど、行出《ユキイヅ》といふことあるべくもおぼえねば、本歌によりて、まかりでゝと訓べし。去を、ゆくと訓る事は、常なれど、義を取て、まかりとも訓べし。(55)禮記禮運注に、去罪退之也云々ともあれば、去に退の意もこもれり。
 
榜《コギ》來《ケル・コシ》舟者《フネハ》。
來は、けると訓べし。來を、けるとよまん事は、上【攷證二中五十三丁二下五十六丁】にいへり。こゝは、大宮人の宮中をまかり出て、榜などしける舟も、今はすたれはてゝ、竿梶さへなきを見れば、心すさまじくて、われこの舟をこがんと、竿梶もなければ、なぐさめがたしとなり。
 
右今案。遷2都寧樂1之後。怜v舊作2此歌1歟。
 
提要にもいへるが如く、左注は、後人の加へつるなれど、是などは、實にさる事也けり。寧楽に都をうつし給ひしは、和銅三年三月なる事、上【攷證一下六十四丁】にいへるがごとし。
 
柿本朝臣人麻呂。獻2新田部《ニタベ》皇子1歌一首。并短歌。
 
新田部皇子は、書紀天武紀に、夫人氷上娘、弟五百重娘、生2新田部皇子1云々。續日本紀に、文武天皇四年正月丁巳、授2新田部皇子淨廣貳1云々。慶雲元年正月丁酉、三品新田部親王、益2封一百戸1云々。和銅七年正月壬戌、二品新田部親王、益2封二百戸1云々。養老三年十月辛丑、詔曰、舎人新田部二親王、百世松桂、本枝合2於昭穆1、萬雉城石、維磐重2乎國家1【中略】其賜2二品新田部親王内舍人二人大舍人四人衛士二十人1、益2封五百戸1、通v前一千五百戸云々。四年八月甲申、詔、知2五衛及授刀舍人事1云々。神龜元年二月甲午、授2一品1云々。天平三年十一月丁卯、始置2畿内(56)惣管諸道鎭撫使1、以2一品新田部親王1、爲2大惣管1云々。七年九月壬午、一品新田部親王薨、親王天渟中原瀛眞人天皇之第七皇子也云々と見えたり。さてこの皇子に歌を献れるは、何のよしにてかしられざれど、右の歌もて思ふに、八釣山に大殿を作り給ひしをり、奉れるなるべし。
 
261 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》(・ノ)。高《タカ》輝《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》(・ノ)。茂座《シキマセル・シケクマス》。大殿於《オホトノノウヘニ》。久方《ヒサカタノ》。天傳來《アマツタヒクル》。白雪仕物《ユキジモノ》。往來乍益《ユキキツヽマセ》。乃常世《トコヨナルマテ》。
 
吾大王《ワガオホキミ》(・ノ)。
新田部皇子をさし奉れり。
 
高《タカ》輝《ヒカル・テラス》。
高照、高光などかけるも同じ。たかひかると訓べし。この事は、上【攷證一下十九丁】にいへり。
 
日之皇子《ヒノミコ》(・ノ)。
これも新田部皇子をさし奉りて、日の神の御末の御子と申す也。この事も、上【攷證一下十九丁】にいへり。
 
茂座《シキマセル・シケクマス》。
舊訓、しげくますと訓るは、いふにもたらぬ誤りにて、茂は、しげき意なれば、借字して、茂座とはかけるにて、敷座と書るに同じく、敷座は知《シ》り領します意にて、大殿を知《シ》り領しますと申す也。この事は、上【攷證一下十九丁】にいへり。
 
(57)大殿於《オホトノノウヘニ》。
大殿の上に也。於の字を、うへとよめる事は、上【攷證二中四十丁】にいへり。
 
天傳來《アマヅタヒクル》。
天傳《アマツタヒ》は、雪にまれ、雨にまれ、空《ソラ》を傳ひて降來るもの故に、天つたひくるとはいへるにて、枕詞に、本集二【廿丁】に、天傳入日刺奴禮《アマツタヒイリヒサシヌレ》云々。七【十六丁】に、天傳日笠浦《アマツタフヒカサノウラニ》云々などつゞくるも、日は天路を傳ひゆく故にて、また十三【十一丁】に、天傳日之闇者《アマツタフヒノクレヌレバ》云々。十七【七丁】に、天傳日能久禮由氣婆《アマツタフヒノクレユケバ》云々などつゞくるも同じく、また古事記中卷御歌に、波麻都知登理《ハマツチドリ》、波麻用波由迦受《ハマヨハユカズ》、伊蘇豆多布《イゾヅタフ》云々とある、伊蘇豆多布《イソヅタフ》も、礒傳にて、同卷に、自2尾張國1傳《ツタヒテ》、以追2科野國1云々。下卷に、自2其島1傳而《ツタヒテ》、幸2吉備國1云々。本集此卷【四十丁】に、島傳敏馬乃埼乎許藝廻者《シマツタヒミヌメノサキヲコキタメバ》云々。廿【四十八丁】に、傳《ツタヒ》2幸於難波宮1云々とあるにてもおもふべし。
 
白雪仕物《ユキジモノ》。
印本、白を自に誤りて、天傳來自雪仕物《アマツタヒコシユキシモノ》と訓れど、活字本に、白雪とあるによりて改む。ゆきといふに、白雪と書るは、例の文字を添て書るにて、文字を添て書事は、まへ【攷證此卷廿二丁】に、家門をいへと訓る所にいへるが如し。仕物《ジモノ》は、上【攷證一下廿九丁二下廿八丁】にいへる、如くの意なるとは別にて、たゞ助字の如く、添ていへる言にて、續日本紀神龜六年八月詔に、恐古士物《カシコジモノ》、進退匍匐廻保理《シヾマヒハラバヒモトホリ》云々。また天平勝寶元年七月詔に、畏自物受賜理《カシコジモノウケタマハリ》云々などある、自物と同じいひざまにて、集中には見えず。さて、こゝは、往來《ユキヽ》といはんとて、天傳來白雪仕物《アマヅタヒクルユキジモノ》と、序をおけるにて、雪《ユキ》、往《ユク》と詞を重ねいへるなる事、本集六【四十一丁】に、零雪乃行者不去《フルユキノユキニハユカジ》云々とあるにて思ふべし。
 
(58)往來乍益《ユキキツヽマセ》。
往《ユキ》かよひつゝましませと申すにて、本集一【廿四丁】に、行來跡見良武《ユキクトミラム》云々など見えたり。こゝは皇子の矢釣山の大宮にゆきかよひつゝましませと申す也。益を、ませとよめるは、借字にて、座との意也。そは、本集四に、君之不來益《キミガキマサヌ》云々とあるにて思ふべし。さて、久老は、この益を次の句へつけて、益及座世《イヤシキイマセ》と、文字をも改めて訓りしかど、例の古書を改むるの僻なれば、とらず。
 
乃常世《トコヨナルマテ》。
上【攷證一下三十丁】にいへるごとく、常世《トコヨ》といふに二つあり。一つは、常世の國をいひ、今一つは、文字の如く、常《トコ》とはにしてかはらぬ世といふ意に用ひたり。こゝなるも常《トコ》とはにかはらで、久しくなれるまでにといふ意にて、常世なるまでとはいへり。そは、書紀神功紀に、區之能伽瀰等虚豫珥伊麻輸《クシノカミトコヨニイマス》云々。本集一【廿二丁】に、我國者常世爾成牟《ワガクニハトコヨニナラム》云示。此卷【五十二丁】に、天木香樹者常世有跡《ムロノキハトコヨニアレド》、見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》云々などあるは、常《トコ》とはにかはらぬをいふなれば、これらにても思ふべし。猶上にいへるをも考へ合すべし。さてかく本のままにて、こともなくやすらかにきこゆるを、考には、常を萬と改めて、よろづよまでにとよみ、久老は、まへいへるごとく改めしは、例の僻也。但し、なるといふ字をよみ添るを、あやしむ人もあるべけれど、文字をよみ添る事は、まへ【攷證此卷十七丁】にいへるがごとく、集中例多かるをや。また、及をまでとよめるは、義訓にて、この事は、上【攷證二下十二丁】に出たり。
 
反歌一首。
 
262 矢釣山《ヤツリヤマ》。木立不見《コダチモミエズ》。落《フリ・チリ》亂《マカフ》。雪《ユキモ》驪《ハダラ・ハダレ》(ニ)。朝樂毛《マヰデクラクモ》。
 
矢釣山《ヤツリヤマ》。
大和志に、高市郡八釣村、上八釣村上方云々と見えたり。書紀顯宗紀に、近飛鳥八釣宮云々。本集十二【三丁】に、八釣河水底不絶《ヤツリガハミナソコタエズ》云々などあるも、皆ここ也。さてこの長歌短歌もて考ふるに、新田部皇子の別莊、ここにありしなるべし。續日本紀に、天平寶字七年五月戊申、大和上鑒眞物化、【中略】施2新田部親王之舊宅1、以爲2戒院1、今招提寺是也云々とある、招提寺は、添下郡なれば、この皇子の本宮は、添下郡にて、この八釣山なるは別宮なるべし。
 
木立不見《コダチモミエズ》。
立る木も見えず也。書紀舒明紀歌に、于泥備椰摩虚多智于須家苫《ウネビヤマコタチウスケト》云々。本集此卷【五十八丁】に、木立之繁爾《コダチノシヾニ》云々など見えたるも、立る木をいへるなり。
 
落《フリ・チリ》亂《マカフ》。
落は、集中、ふるとも、ちるともよめれど、雨雪にはふるといひ、花にはちるといふ事、常なれば、ここはふるとよむべし。亂をまがふとよめるは、義訓也。この事は、上【攷證二中六丁】にいへり。
 
雪《ユキモ》驪《ハダラ・ハダレ》(ニ)。
活字本、驪を※[麗+鳥]に作りたれど、※[麗+鳥]は鶯の事にて、さらにここに由なし。又考にも、久老が考にも、驪を※[足+麗]に改めて、ゆきにきほひてとよまれつれど、例のわたくし事なれば、用ひがたく、よくよく考ふれば、猶、印本に、驪とあるぞ、正しかりける。いかにとなれば、字鑑集に、驪【カラスマダラノウマ】とよみて、はだれと、まだらと、一つ言なれば、驪は、はだれの借字なる事、(60)明らけし。そも/\、はだれ、まだら、はらら、この三つ、皆一つ言にて、まづ、はらゝといふ言は、書紀神代紀に、若2沫雪1以蹴散、蹴散此云2倶穢簸邏々筒須《クヱハラヽカス》1とあるは、土を雪のちれる如くに、けちらかすといふを、くゑはらゝかすといへれば、はらゝかすとは、散《チラ》すことにて、本集二十【二十五丁】に、安麻乎夫禰波良々爾宇伎弖《アマヲブネハララニウキテ》云々とあるも、海士小舟《アマヲブネ》の散たる如くに、浮たるをいひ、新撰字鏡に、毳浪良介志《ハハ(マヽ)ラケシ》、又|知留《チル》とあるにても、はらゝかすは、散《チラ》すことなるをしるべし。俗言に、物の離々《ハナレバナレ》なるを、ばらばらといふも、同言にて、散離《チリハナレ》たるをいへる也。またはだれといふ言は、本集十【三十七丁】に、薄垂霜零寒此夜者《ハタレシモフリサムシコノヨハ》云々。また【六十二丁】小竹葉爾薄太禮零覆《ササノハニハタレフリオホヒ》云々。八【十四丁】に、沫雪香薄大禮爾零登見左右二《アワユキカハダレニフルトミルマデニ》、流倍散波何物花其毛《ナガラヘチルハナニノハナゾモ》云々。十九【九丁】に、吾園之李花可《ワガソノノスモヽノハナカ》、庭爾落波太禮能未遺有可母《ニハニチルハタレノイマタノコリタルカモ》云々とありて、斑《マダラ》なる意なれど、まだらなるも、散々《チリチリ》に雪霜花などの散《チリ》たるをいふにて、もとは、はらゝと一つ言なる事、らとたと、らとれと、音通ふ故に、はらゝを、はだれともいひ、まとはと、れとらと、音通ふ故に、はだれを、まだらともいふ也。さて、ここは雪をも、まだらにふみちらして、八釣山の別宮にまゐる意なる事、まへにいへる事どもを考へ合せて、しるべし。
 
朝樂毛《マヰデクラクモ》。
これを、考にも、略解にも、あしたむぬ《(マヽ)》しもとよまれつるは、甚しき誤り也。本集七【四十一丁】に、朝蒔君之所思而《マヰデマクキミガモハレテ》云々ともありて、爾雅釋言に、陪朝也。注に、臣見v君曰v朝とあれば、朝參の義もて、朝をまゐでくとは訓る也。是を、久老が、まゐりくと訓しも非也。本集十八【二十七丁】に、麻爲泥許之《マヰデコシ》云々。二十【三十二丁】に、麻爲弖枳麻之乎《マヰデキマシヲ》云々などあるにても、まゐでとよ(61)むべきをしるべし。こは、中ごろより、音便に、まうでき、まうでくなどいふと同じく、皇子の別宮にまうづる也。樂《ラク》は借字にて、るを延たる言、毛《モ》は助字にて、一首の意は、皇子の別宮のある、矢釣山の木立さへ、見えぬばかりに、道もふりまがへる大雪を、まだらなるまでふみちらして、宮にもうできつる也と申すなり。
 
刑部垂《オサカベノタリ》麿。從2近江國1上來時。作歌一首。
 
これを、印本には、上下して、從2近江國1上來時、刑部垂麿作歌とあれど、集中の例に叶はざれば、目録によりて改む。刑部垂麿は、父祖官位不v可v考。刑部の氏の事は、上【攷證一下六十一丁】にいへり。
 
263 馬莫疾《ウマナイタク》。打莫行《ウチテナユキソ》。氣並而《ケナラベテ》。見※[氏/一]毛和我《ミテモワガ》歸《ユク・コム》。志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》。
 
馬莫疾《ウマナイタク》。
疾を、久老は、はやくとよめり。疾は、本集此卷【廿三丁】に、風乎疾奧津白浪高有之《カゼヲイタミオキツシラナミタカカラシ》云々。六【廿七丁】に、佐保風者疾莫吹《サホカゼハイタクナフキソ》云々。八【廿一丁】に、松風疾《マツカゼハヤミ》云々など、いたみとも、はやみとも訓て、ここも、いづれにても聞ゆれど、猶舊訓のまま、いたくとよむべし。いたくてふ言は、集中、甚、大、極などの字をも訓たる如く、甚しくといふ意にて、馬を甚しく打てなゆきそといへる也。
 
打莫行《ウチテナユキソ》。
打とは、本集十四【卅丁】に、安加胡麻乎宇知※[氏/一]左乎妣吉《アカコマヲウチテサヲヒキ》云々。十七【十九丁】に、馬並底伊射宇知由可奈《ウマナメテイザウチユカナ》云々などありて、鞭にて馬を打行也。馬は、打ば早くあゆむもの故に、早く(62)といはでも、馬を打て早く行ことなかれといふ意となれり。
 
氣並《ケナラベ・イキナメ》而《テ》。
 
氣は、本集二【八丁】に、氣長成奴《ケナガクナリヌ》云々とある氣と同じく、來経《キヘ》の約りにて、日數のふるをいへるにて、この氣並而《ケナラベテ》は、日數を經ならべてといふ意也。この事、くはしくは、上【攷證二上二丁】に引る、宣長の説に出たり。竝而《ナラベテ》は、本集六【十一丁】に、茜刺日不並二《アカネサスヒナラベナクニ》云々。八【十五丁】に、山櫻花日並而如是開有者《ヤマザクラバナヒナラベテカクサキタラバ》云々。十一【廿八丁】に、夜並而君乎來座跡《ヨナラベテキミヲキマセト》云々。二十【四十五丁】に、比奈良倍弖安米波布體杼母《ヒナラベテアメハフレドモ》云々などありて、日にまれ、夜にまれ、並《ナラ》べ重ねる意なり。
見※[氏/一]毛和我《ミテモワガ》歸《ユク・コム》。
毛は助字。歸をゆくと訓る、義訓也。この事は、上【攷證此卷九丁】にいへり。
 
志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》。
志賀《シガ》は地名にて、近江國滋賀郡、志賀のから崎などの志賀なり。安良七國《アラナクニ》は、あらぬにといふにて、一首の意は、從者などにいへる意にて、馬を甚しく打はやめゆく事なかれ。日數をかさねて、宿りゐて、見てゆく、この志賀にはあらぬにといへるにて、この志賀のけしきのおもしろさに、しばしだに、馬をとゞめて見てゆかんものをといへる也。
 
柿本朝臣人麻呂。從2近江國1上來時。至2宇治川河邊1而歌一首。
 
(63)本集一【十六丁】に、人まろ、近江荒都を過る歌あり。同じ度か、しりがたし。宇治川は、山城國宇治郡にて、名高き所なれば、皆人よくしれり。
 
264 物乃部能《モノノフノ》。八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》。阿白木爾《アジロギニ》。不知代經浪乃《イサヨフナミノ》。去邊白不母《ユクヘシラズモ》。
 
物乃部能《モノノフノ》。
枕詞也。この枕詞、上【攷證一下廿八丁】にも出て、その所に出せる、宣長の説の如し。もののふは、氏々多きものなれば、八十氏とつゞけし也。
 
八十氏河乃《ヤソウヂカハノ》。
これも、上【攷證一下廿八丁】にいへるが如く、たゞ宇治川にて、別に八十氏川といふあるにあらず。宇治川といはんとて、宇治を氏にとりなして、物の部は、氏多きものなれば、八十氏とはつづけしにて、八十《ヤソ》は彌十《イヤソ》にて、ただ數の多きをいへり。
 
阿白木爾《アジロギニ》。
集中、阿白《アジロ》、足代《アジロ》など書るは、借字にて、延喜内膳式に、山城國、近江國、氷魚|網代《アジロ》各一處、其氷魚始2九月1迄2十二月三十日1貢之云々とある、これにて、網代と書るぞ正字なる。こは、今は絶にたるものなれど、木をいくつも、ゐぐひにうちて、それに割竹をしがらみて、氷魚を取ものゝよし、契沖いへり。網《アミ》をあとのみよむは、略訓也。こは、網引《アビキ》、網子《アゴ》などいふと同じ。まへにいへり。
 
不知代經浪乃《イサヨフナミノ》。
不知を、いざとよめるは、本集四【十二丁】に、烏籠之山有不知哉川《トコノヤマナルイサヤカハ》云々。六【四十六丁】に、不知魚取《イサナトリ》云々。この外猶ありて、いざしらずといふ言のあるをもて訓(64)るなれば、義訓也。そは、不聽、不言などを、いなとよめる類也。さて、いざよふといふ言は、古事記中卷に、宇美賀波伊佐用布《ウミガハイザヨフ》云々。本集此卷【卅六丁】に、雲居奈須心射左欲比《クモヰナスココロイザヨヒ》云々。また【四一丁】山之末爾伊狹夜歴月乎《ヤマノハニイザヨフツキヲ》云々。また【四十八丁】に、山際爾伊佐夜歴雲者《ヤマノマムニイザヨフクモハ》云々。六【卅二丁】に、山之葉爾不知世經月乃《ヤマノハニイザヨフツキノ》云々などありて、集中猶多く、みなゆかんとしてゆかず、進《スヽ》みかねてためらひをるをいふにて、猶豫《タユタフ》といふに似たり。ここは、打よする浪の、網代木にかゝりて、こえかねてたゆたひをるをいへるにて、乃は如くの意也。
 
去邊白不母《ユクヘシラズモ》。
 
本集七【十三丁】に、大伴之三津之濱邊《オホトモノミツノハマベニ》、打曝因來浪之《ウチサラシヨリクルナミノ》、逝方不知毛《ユクヘシラズモ》とあるごとく、あじろ木に、うちよせては、こえかねいざよひて、そのまゝきゆるがごとく、人の身もゆくへしらず、はかなきものぞといふを、浪によせていへる也。
 
長忌寸奧麻呂歌一首。
 
奧麿は、上【攷證一下四十四丁】に出たり。右の歌は、何故によめるにかしられず。熊野などに詣しをりよめるにもあるべし。
 
265 苦毛《クルシクモ》。零來雨可《フリクルアメカ》。神《カミ・ミワ》之埼《ノサキ》。狹《サ》野《ヌ・ノ》乃渡爾《ノワタリニ》。家裳不有國《イヘモアラナクニ》。
 
苦毛《クルシクモ》。
くるしくもとは、上【攷證二下七十二丁】にいへる如く、心くるしくもといふ也、
 
(65)零來雨可《フリクルアメカ》。
可は、かもの意也。集中いと多し。
神之埼《ミワノサキ》。
こは、紀伊國牟漏郡也。そのよしは、下にいふべし。神の字を、舊訓みわとよめり。和名抄郷名に、大和國城上郡大神【於保無和】、和泉國大鳥郡上神【加無都美和】ともあれば、こゝをも、みわのさきとよまんかとも思ひしかども、よくよく考ふれば、文字のまゝに、かみと訓べき也。いかにとなれば、まへにもいへるが如く、和名抄國郡部は、順ぬしの手にはならざりしものなる上に、たとへ順ぬしの手になれるものなりとも、三輪山を神山と書て、神をみわとよめるにつきて、外をも、神をばみわと訓べき事ぞ心《(マヽ)》得て、ここの神之埼をも、大和、和泉などの郷名をも、みわとはよめるにて、非也。神をみわとよめるは、神山《ミワヤマ》に限りたる事なる事は、上【攷證二中廿九丁】にいへるを考へ合せてしるべし。しかも本集二【廿五丁】に、神岳《カミヲカ》、此卷【廿九丁】に、神名備山《カミナビヤマ》、六【卅七丁】神之小濱《カミノヲハマ》、九【卅二丁】に、神之三坂《カミノミサカ》、十三【卅二丁】に、神之渡《カミノワタリ》、十五【七丁】に、神島《カミシマ》などある、神をも、かみとのみよみて、みわとは訓ざるにても、ここをも、かみのさきと訓べきをしるべし。さて、この歌を、萬葉名所部類、楢山拾葉などには、三輪山の下にあげたれど、七【廿一丁】に、神前荒石毛不所見浪立奴《カミノサキアリソモミエズナミタチヌ》云云と、ありそともよめるに、大和には海なきにても、三輪とは別なるを思ふべし。この地は、代匠記に、ある僧、紀州と縁ありて、たび/\まかりけるが、かたれるは、熊野にちかき海べに、神の崎といふ所ありて、それにとなりて、佐野といふ所あり。家もあまたある所也と申き。これによりて思ふに、七の卷に、神前とよめる歌のまへに、あまた紀の國の名所をつゞけよみて、さてその歌につゞきたれば、かのある僧のかたりし、神崎なるべし云々といへり。書紀神武紀に、(66)遂越2狹野《サヌ》1、到2熊野神邑1云々とあるもここ也。(頭書、上【攷證二中廿九呈】神山《ミワヤマ》の下にいへるが如く、いにしへ三輪といふに、神の字を書なれしからに、ここに大和の三輪にはあらぬものから、三輪の埼とよべば、やがて大和なる三輪の例もて、神之埼とはかける也。)
 
狹《サ》野《ヌ・ノ》乃渡爾《ノワタリニ》。
佐野は、宣長云、佐野村といふありて、神之埼のつゞき也云々といはれたる、代匠記の説にあへり。ここなるべし。渡は、ある人、俗言にあたりと云意也といへり。そは、催馬樂山城歌に、也末之呂乃《ヤマシロノ》、己末乃和大利乃《コマノワタリノ》、宇利川久利《ウリツクリ》云々。伊勢物語に、東の五條わたりに云々など見えて、中ごろよりは、おしなべていふ言なれど、集中この例なければ、うけがたし。今案るに、この神の埼、佐野の渡は、相ならびたる所にて、舟渡りする所なれば、わたりとはいへるなるべし。
 
家裳不有國《イヘモアラナクニ》。
家もあらぬにといふ意也。一首の意は、今ゆく神の埼、佐野の渡などには、雨やどりすべき家もあらぬを、心くるしくもふりくる雨かなといへる也。定家卿の歌に、駒とめて袖うちはらふかげもなし、さののわたりの雪の夕ぐれとよまれつるは、この歌を本歌にとられつる也。
 
柿本朝臣人麻呂歌一首。
 
淡海乃海《アフミノミ》。夕浪千鳥《ユフナミチドリ》。汝鳴者《ナガナケバ》。情毛思努爾《ココロモシヌニ》。古所念《イニシヘオモホユ》。
 
(67)266 淡海乃《アフミノ》海《ミ・ウミ》。
ウミは、舊訓うみとよめれど、かゝる所は、みとのみ訓べき事、上【攷證二中二丁】にいへるが如し。
 
夕浪千鳥《ユフナミチドリ》。
夕べの浪に立さわぐ千鳥を、やがて一つの語として、夕浪千鳥《ユフナミチドリ》とはいへる也。さて千鳥は、古事記上卷歌に、和何許々呂宇艮須能登理叙《ワガココロウラスノトリゾ》、伊麻許曾婆知杼理爾阿良米《イマコソハチドリニアラメ》云々。書紀、神代紀御歌に、播磨都智耐理譽《ハマツチトリヨ》云々。本集此卷【卅六丁】に、河原之乳鳥汝鳴者《カハラノチドリナガナケバ》云々。七【廿三丁】に、佐保河爾鳴成智鳥《サホガハニナクナルチドリ》云々などありて、集中猶いと多し。こは千鳥とて、一つの鳥の名にはあらで、小き鳥の、いくつともなく群とぶをいへるにて、春來なく、いろいろの鳥をさして、百千鳥《モヽチドリ》といへるが如し。さるを、一つの鳥の名の如くするは、いと後の事也。これを、宣長が、新撰字鑑、和名抄などにのせずとて、疑はれしはいかゞ。一つの鳥の名にあらざれば、もとより載ざるいはれなるをや。
 
汝鳴者《ナガナケバ》。
汝を、なとのみもいひ、なれともいふは、吾を、わとも、われとも、あれともいふが如く、れを略きたるにて、集中いと多く、かぞへがたし。汝兄《ナセ》、汝姉《ナネ》、汝奴ナニモ》などいふも、これと同じく、親しみて汝《ナ》とはいへる也。
 
情毛思《ココロモシ》努《ヌ・ノ》爾《ニ》。
こは、心もしなゆるばかりにといふ意【しなゆるのしなは、添たる字にて、本集二に、念之奈要而《オモヒシナエテ》とある、しもじとおなじ。】にて、爾《ニ》は、ばかりにといふ意也。本集八【卅八丁】に、暮月夜心毛思努爾《ユフツクヨココロモシヌニ》云々。十一【四十一丁】に、心裳四怒爾所念鴨《ココロモシヌニオモホユルカモ》云々【この外、集中いと多し。】などありて、思ひに委《ナエ》くづをるゝばかりに思ふをいへるにて、なゆるの反、ぬなれば、思怒《シヌ》とはいへる也。本集二【十九丁】に、夏草之念之奈要而志怒布良武《ナツクサノオモヒシナエテシヌフラム》云々。(68)十【五十七丁】に、於君戀之奈要浦觸吾居者《キミニコヒシナエウラブレワレヲレバ》云々。十九【十五丁】に、宇知歎之奈要宇良夫禮之怒比都追《ウチナゲキシナエウラフレシヌビツヽ》云々などあるも、いひざまの似たるにても、ここと同じ言なるをしるべし。
 
古所念《イニシヘオモホユ》。
天智帝の大宮ありで、大津の都のさかりなりしほどを、いにしへとはさせるにて、一首の意は、近江の海に、夕ぐれがた、千鳥のあはれげになくを聞て、その鳴千鳥よ、汝がなくこゑに催されて、いにしへを思ひやれば、いとゞあはれにて、心もなえくづをるゝばかりに思ふぞと也。花鳥風月につけて、心をうごかし、あはれを催すは、歌人の常なり。
 
志貴皇子御歌一首。
 
267 牟佐々婢波《ムサヽヒハ》。木《コ》末《ヌレ・ズヱ》求跡《モトムト》。足日木乃《アシヒキノ》。山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》。相爾來鴨《アヒニケルカモ》。
 
牟佐々婢波《ムサヽヒハ》。
こは、今も山中などには、多く居るものにて、蝙蝠の形ちの、大きなるものにて、俗に、野衾《ノブスマ》ともいふもの也。本集六【卅八丁】に、天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時、小獣泄2走堵里之中1、於是、適値2二勇士1、生而見v獲、即以2此獣1、献2上御在所1、副歌一首【獣名俗曰牟射佐妣】丈夫之高圓山爾迫有者《マスラヲノタカマトヤマニセメタレバ》、里爾下來流牟射佐妣曾此《サトニオリケルムサヽビゾコレ》云々。七【三十六丁】に、三國山木末爾住歴武佐左妣乃《ミクニヤマコヌレニスマフムサヽビノ》云々。和名抄獣名云、
本草云※[鼠+田三つ]鼠【上、力水反、又力追反、和名毛美、俗云旡佐佐比。】兼名苑云、※[鼠+吾]鼠【上、午胡反、或作v※[吾+鼠]。】一多飛生、状如v猿而肉翼似2蝙蝠1、大如2鴟鳶1、毛紫色、暗夜行飛、生能從v高而下、不v能2從v下而上1、常食2火烟1、聲如2小兒1者也と見えて、新撰字鏡には、猶豫を、牟佐々比と訓ぜり。
 
(69)木《コ》末《ヌレ・ズヱ》求跡《モトムト》。
これを、考に、末は未の誤りとして、このみもとむとゝ訓て、木の實を求むるよしに解れしは、誤り也。大末は、舊訓にこずゑと訓て、六帖にも、ここをこずゑとして、この歌を載たり。こずゑとよまんも、あしからねど、集中、こずゑと假字に書る所なく【假字に書ける所なしとて、舊訓をはぶくにはあらねど、末は小松之末爾《コマツカウレニ》など、うれとのみよみて、木ぬれといふも、のうの反、ぬにて、木のうれの意なれば、木ぬれとよまん方まされり。】末は、みなうれとのみよみたれば、ここもこぬれとよむべし。そは本集三【十六丁】に、許奴禮我久利弖《コヌレカクリテ》、宇具比須曾奈岐弖伊奴奈流《ウグヒスゾナキテイヌナル》云々。十三にに、樹奴禮我之多爾※[(貝+貝)/鳥]鳴母《コヌレガシタニウクヒスナクモ》云々。十七【二十一丁】に、山能許奴禮爾《ヤマノコヌレニ》、白雲爾多知多奈妣久等《シラクモニタチタナビクト》云々などありて、集中猶いと多し。これら、みな木末をいへる也。求《モトム》とは、たづぬる事にて、※[鼠+吾]鼠は、六【卅六丁】に、木末爾住歴武佐左妣乃《コヌレニスマフムサヽビノ》云々とも訓る如く、木末にすめるものなれば、その住所をもとむる也。本集七【廿八丁】に、江林次完也物求吉《エハヤシニヤトルシヽヤモモトメヨキ》云々。また【十四丁】古爾有監人之《イニシヘニアリケムヒトノ》、覓乍衣丹摺牟眞野之榛原《モトメツヽキヌニスリケムマヌノハリハラ》云々。十【六丁】に、春之在者《ハルサレバ》、妻乎求等《ツマヲモトムト》、※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》、木末乎傳鳴乍本名《コヌレヲツタヒナキツヽモトナ》云々。十四【十三丁】に多禰物得米家武《タネモトメケム》云々などあるも、みなたづぬる意也。(頭書、再考ふるに、木末は、こずゑと訓べし。五【十六丁】六に、波流佐禮婆《ハルサレバ》、許奴禮我久利弖《コヌレカクリテ》、宇具比須曾奈岐弖伊奴奈流《ウグヒスソナキテイヌナル》、烏梅我志豆延爾《ウメカシツエニ》とあり。これ梅が下枝といひたれば、許奴禮は木末にはあらざる證也。)
 
足日木乃《アシヒキノ》。
枕詞なり。上【攷證二上廿四丁】に引る宣長の説のごとし。
 
山能佐都雄爾《ヤマノサツヲニ》。
山に狩する男をいへり。本集十【三十九丁】に、山邊爾射去薩雄者雖大有《ヤマノベニイユクサツヲハオホカレド》、山爾文野爾文沙小牡鹿鳴母《ヤマニモヌニモサヲシカナクモ》云々。また【四十丁】山邊庭薩雄乃禰良比恐跡《ヤマベニハサツヲノネラヒカシコケド》云々。神樂弓(70)歌に、佐川乎良加《サツヲラガ》、毛多世乃末由美《モタセノマユミ》、於久也未耳《オクヤマニ》、美加利須良志毛《ミカリスラシモ》、由美乃破須美由《ユミノハズミユ》云々など見えて、又十【五丁】に、佐豆人之弓月我高荷《サツヒトノユツキガタケニ》云々ともありて、佐都雄《サツヲ》の佐都《サツ》は、幸《サチ》にて、古事記に海佐知《ウミサチ》、山佐知《ヤマサチ》とあると同じく、物を得る事を、幸《サチ》とはいへり。雄《ヲ》は男にて、狩する人をいふ也。さつ人といふも同じ。また、さつ矢、さつ弓などいふも、この意也。猶上【攷證一下四十八丁】得物矢《サツヤ》の所、考へ合すべし。
 
相爾來鴨《アヒニケルカモ》。
來を、けると訓るよしは、上【攷證二中五十三丁二下五十六丁】にいへり。一首《(マヽ)》意は、※[鼠+吾]鼠《ムサヽヒ》の、おのが住べき木末をたづね求むとて、飛あるきて、山に狩する狩人にあひにけるかなと、のたまふにて、何ぞを、むさゝびにたとへまして、故ありげるなる御歌なれど、端詞なければしりがたし。
 
長屋王。故郷歌一首。
 
長屋王は、高市皇子の御子也。上【攷證一下六十四丁】に出たり。
 
268 吾背子我《ワガセコガ》。古家《フルヘ・イニシヘ》乃里之《ノサトノ》。明日香庭《アスカニハ》。乳鳥鳴成《チドリナクナリ》。師待不得而《キミマチカネテ》。
 
吾背子我《ワガセコガ》。
こは、志貴皇子をさしてのたまふなるべし。いかにとなれば、古家乃里之明日香とある、明日香も、河内國の地名、志貴も、志紀郡の地名にて【この事は次にいふべし】志貴皇子(71)と申御名も、この志紀郡によしある御名なる事、延喜式神名帳に、河内國志紀郡、志貴縣主神社、志疑神社、志紀長吉神社などあるにても思ふべし。されば、志貴皇子のおはしまし所も、この飛鳥の里にありしに、この長屋王の住給ふ所も、そこにありて、そこより大和の京なる、志貴皇子の御許におくり給ひしなるべし。さて、男どちも、わがせこといふ事は、上【攷證此卷十四丁】にいへり。
 
古家《フルヘ・イニシヘ》乃里之《ノサトノ》。明日香庭《アスカニハ》。
予はじめ思ふには、古家乃里《フルヤノサト》は、河内志を考ふるに、志紀郡の村名に、古室といふ有、こゝなるべし。【室をやと訓るに、本集此卷二十五丁に、三穗乃石室《ミホノイハヤ》とあるにてもしるべし。】いかにとなれば、本集十六【十八丁】に、虎爾乘《トラニノリ》、古屋乎越而《フルヤヲコエテ》、青淵爾《アヲフチニ》、鮫龍取將來《ミツチトリコム》、釼刀毛我《ツルギタチモガ》云々。神樂釼歌に、以曾乃加美《イソノカミ》、不留也遠止古乃《フルヤヲトコノ》、多知毛可奈《タチモカナ》、久美乃遠志夫々《クミノヲシデヽ》、美也知加與波牟《ミヤヂカヨハム》【この歌に、いそのかみふるやをとことつゞけたれど、大和の石の上の布留にあらず。本は石上も、ふるも、同じ所の地名にて、枕詞ともせしにはあれど、本集四に、いそのかみふるともあめにさがらめや云々ともつゞけ、古今集夏に、いそのかみふるき都のなどもつゞけて、たゞふるといふ事の枕詞としつるなれば、この古屋は、河内の地名にはあれど、その所にかゝはらず、ただふるくつゞけしのみ也。そは、とぶとりのあすかとつゞくる飛鳥も、明日香も、大和の地名なれど、やがて飛鳥とかきて、あすかと訓ことゝなりたるからに、河内國なる、あすか山をも、書紀履中紀に、飛烏山とかゝれつるなど、思ひ合せて考ふべし。】とあるも地名にて、こゝと同所とこそおもはるれ。不留也遠止古《フルヤヲトコ》といふも、古屋の里の男といふ意なる事、集中、難波男、血沼《チヌ》男、菟原《ウナビ》男、泊瀬女、大和女などあるにても、わきまふべし。これらを思ひ合せて、古屋は地名なる事をしるべし。【ある人、家をやと訓ることなしといへれど、宮をみやといふも、御家の意にて、古事記中卷御製に、夜邇波母美由《ヤニハモミユ》云々とあるも、家庭も見ゆなれば、家をやと訓は、正しき訓なるをしるべし。】さて、明日香は、大和國高市郡の明日香にはあらで、河内國安宿郡にて、古事記下卷に、明日上幸、故號2其地1謂2近飛鳥1也云々とある、近飛鳥《チカツアスカ》、こゝ也。書紀履中紀に、自2大阪1向v倭、至2于飛鳥山1云々。延喜式神名帳に、河内國安宿郡、飛鳥戸神社云々などある、こゝなるべし《(マヽ)》、思ひしは、よく/\考ふは《(マヽ)》非なりけり。再考ふるに、本集十二【十一丁】に、人事乎繁跡《ヒトゴトヲシゲシト》、君乎鶉鳴人之古家爾相語而遣都《キミヲウヅラナクヒトノフルヘニカタラヒテヤリツ》云々と(72)もあれば、古家は、地名にはあらで、古き家をいふにもあるべし。さらば、ふるへと訓て、君が古き家のある、飛鳥の里にはといふ意なるべし。さらば、明日香は、大和の飛鳥なるべし。見ん人、この二説、こゝろのひかん方にしたがふべし。
 
乳鳥鳴成《チドリナクナリ》。
乳鳥と書るは、借字にて、千鳥なり。
 
師待不得而《キミマチカネテ》。
印本、島待不得而《シママチカネテ》とあるを、考には、島は君の誤りとして、君と改められつれど、例のわたくし事也。今は、考異本に引る異本に、島を師に作りたるに依て改む。さて、師は後漢書傳〓傳注に、師即君也とあれば、きみとよまん事、論なし。不得を、かねと訓るは、義葷也。本集七【四十丁】に、忘不得裳《ワスレカネツモ》云々。十二【卅四丁】に、吾之待不得而《ワヲマチカネテ》云々などありて、集中猶多し。さて、一首の意は、君が古郷の明日香の里には、里もあれはてゝ、今は千鳥さへ來なく也。君を待かねてといへる也。伊勢物語に、野とならば、鶉となりて鳴をらん、かりにだにやは君がきまさぬとよめるたぐひなり。
 
右今案。從2明日香1遷2藤原宮1之後。作2此歌1歟。
 
この左注による時は、明日香は、大和なるあすか也。されど、提要にいへるがごとく、左注は、後人のかけるなれば、ひたすらには、用ひがたし。藤原宮にうつり給ひしは、持統天皇四年なり。
(73)この事は、上【攷證一上四十三丁】にいへり。
 
阿倍女郎。屋部坂歌一首。
 
阿倍女郎。
父祖不v可v考。阿倍の氏は、新撰姓氏録卷二云、阿倍朝臣、孝元天皇皇子、大彦命之後也と見えたり。本集四【十七丁】に、中臣朝臣東人、贈2阿倍女郎1歌云々。八【五十三丁】に、大伴宿禰家持贈2安倍女郎1歌云々とあり。中臣東人は、和銅四年紀より、天平五年まで見えたる人、家持卿は、天平十五年にはじめて見えて、延暦四年みまかられし人なれば、年代はるかにたがへれば、この女郎も、同名異人なるべし。女郎とかける事は、上【攷證二上廿五丁】にいへり。
 
屋部坂。
陽成實録、元慶四年十月紀に、大和國高市郡夜部村云々とあり。こゝにや。さて、右の歌は、この屋部坂にてよめる歌といふにて、この坂をよめるにあらず。まへの長屋王の、故郷歌も、故郷にてよめる歌也。この女郎、何ぞ、さるべき事ありて、ものへゆくに、この坂を過ぎて、こゝにてよめる也、
 
269 人不見者《ヒトミズバ・シノビニハ》。我袖用手《ワガソデモチテ》。將隱乎《カクサムヲ》。所燒《モエ・ヤケ》乍可將有《ツヽカアラム》。不服而來來《キズテキニケリ》。
 
人不見者《ヒトミズバ・シノビニハ》。
文字のまゝに、人見ずばとよむべし。しかよまざれば、一首の意聞えがたし。
 
(74)將隱乎《カクサムヲ》。
見る人なかりせば、わが袖を以て、もゆる思ひのけぶりをも、かくさんものをといふ意にて、乎《ヲ》は、ものをの意なり。この事は、上【攷證二下六四丁】にいへり。
 
所燒《モエ・ヤケ》乍可將有《ツヽカアラム》。
こは、心の思ひにもゆるをいひて、本集五【卅八丁】に、見乍阿禮婆心波母延農《ミツヽアレバコヽロハモエヌ》云々。九【卅四丁】に、宵晝不云《ヨルヒルイハズ》、蜻※[虫+廷]火之心所燎管《カギロヒノコヽロハモエツヽ》、悲悽別焉《ナゲクワカレヲ》云々。十一【卅二丁】に、吾妹子爾相縁乎無《ワギモコニアフヨシヲナミ》、駿河有不盡乃高嶺之《スルガナルフジノタカネノ》、燒管香將有《モエツヽカラム》云々。十七【廿三丁】に、弧布流爾思情波母要奴《コフルニシコヽロハモエヌ》云々。また【四六丁】に、心爾波火佐倍毛要都追《コヽロニハヒサヘモツヽ》、於母比孤悲《オモヒコヒ》云々などいへると同じ。また七【卅二丁】に、冬隱春乃大野乎燒人者《フユコモリハルノオホヌヲヤクヒトハ》、燒不足香文吾情熾《ヤキタラヌカモワガコヽロヤク》云々。十二【廿一丁】に、吾妹兒爾戀爲便名鴈※[匈/月]乎熱《ワギモコニコフスベナカリムネヲヤキ》云云。十三【一四丁】に、我情燒毛吾有《ワガコヽロヤクモワレナリ》、愛八師君爾戀毛我之心柄《ハシキヤシキミニコフルモワガコヽロカラ》云々などもあれば、舊訓のまゝ、やけつゝとよまんもあしからねど、もえつゝとよまん方、しらべまされり。
 
不服而來來《キズテキニケリ》。
一首の意は、心に物をふかく思ひて、やる方なきを、思ひにもゆといふより、火も見え、けぶりも立るものゝ如く、いひなして、見る人のなかりせば、わが袖を以て、もゆる思ひのけぶりをかくしてんものを、今は、人もしりにたれば、もゆるまゝにてかあらん、しかも、その袖もてかくすべき服をさへ、多くきずしてきにければ、いかにともせんかたなしと也。この歌は、さるべきよしありて、ものへゆくとて、屋部坂を越しに、故郷に思ふ事ありて、それを思ふ思ひに、むねもこがるゝなり。さて、よく/\考ふれば、かくの如く、事もなくきこゆるを、代匠記よりはじめて、考にも、久老が考にも、この歌心得がたしとて、あるは訓誤り、あるは文字を改めなどせられしは、いかなる事ぞや。略解は、いふまでもなし。
 
(75)高市連黒人。※[羈の馬が奇]旅歌八首。
 
高市通黒人は、父祖不v可v考。この人の事は、上【攷證二上一丁】高市連古人の下にいへり。
 
270 客爲而《タビニシテ》。物戀敷爾《モノコヒシキニ》。山《ヤマ》下《シタ・モト》(ノ)。赤乃曾保船《アケノソホフネ》。奧《オキ》(ベ・ニ)榜所見《コグミユ》。
 
客爲而《タビニシテ》。物戀敷爾《モノコヒシキニ》。
客は、義訓にて、旅なり。すべて旅てふものは、よろづもの悲しく、もの戀しきものなれば、本集一【廿七丁】に、旅爾之而物戀之伎乃《タビニシテモノコヒシキノ》云々なども見えたり。さて久老が考には、こゝをたびにゐてと訓て、すなはち別記に論あれど、本集一【廿八丁】に、旅爾師手《タビニシテ》云々。十五【廿八丁】に、多婢爾之弖《タビニシテ》云々などもあれば、舊訓のまゝ、たびにしてと訓べし。爲をしとよめるは、四【四四丁】に吾共咲爲而《ワレトヱマシテ》云々。六【十四丁】に、廬爲而《イホリシテ》云々。十一【四十丁】に、不縫爲而《ヌハズシテ》云々などありて、集中猶いと多し。これらにても思ふべし。
山《ヤマ》下《シタノ・モトノ》。三
宣長云、やましたのと訓べし。こは、赤の枕詞なり。さる故は、古事記に、春山の霞壯士《カスミヲトコ》、秋山の下氷壯士《シタビヲトコ》と見え、集中十卷【五十丁】に、金山舌日下《アキヤマノシタビガシタニ》云々ともありて、冠辭考に、したぴは、黄葉のよしいはれしが如し。しかれば、山したび赤とつゞく意也。猶又十五卷【廿七丁】に、安之比奇能山下比可流毛美智葉能《アシビキノヤマシタヒカルモミヂバノ》云々とよめるも同じ。又十八卷【十一丁】に、多知婆奈能之多泥流爾波《タチバナノシタテルニハ》云々。六【四十四丁】に、春部者《ハルヘハ》、巖者《イハホニハ》、山下耀《ヤマシタヒカリ》、錦成花咲乎呼里《ニシキナスハナサキヲヲリ》云々。これらも、下は借字にて、赤き也。この二首をもて見れば、たゞ黄葉のみにはかぎらず。赤く照ること也。こゝの歌も、字の如(76)く、山の下としては、この言、船によしなく、おく《(マヽ)》にこぐとさへあれば、山の下にては、いよいよよしなし云々といはれつるが如し。されど、山もとゝいふ言なきにはあらず。古事記上卷に、宇迦能《ウカノ》山之山本云々とありて、同卷に、香山之畝尾木本《カグヤマノウネヲノコノモト》云々。黄泉比良坂之坂本《ヨモツヒラサカノサカモト》云々とある本も、山本の本と同じく、根本をいへるにて、山本は山のすそをいへば、この歌も、この山の下《モト》に海ありて、その渚より、奧かけて船を榜出す意に聞ても、きこゆれど、猶宣長の説にしたがはんこゝちす。されど、後案のたよりにもとて、おどろかしおく也。
 
赤乃曾保船《アケノソホフネ》。
赤《アケ》を、あけといふは、酒を、さけとも、さかともいひ、竹を、たけとも、たかともいふ格にて、あかき事なれど、のとうくる故に、あけとはいふは《(マヽ)》。曾保《ソホ》は、赤き色の事にて、【語釋は思ひ得ねど、後世人、蘇芳の意とするは、非也。字音を用ふべきにあらず。】書紀神代紀下に、赭を、そほにとよめるも、赤き色の土《ニ》といふ也。本集十三【廿二丁】に、引登赤曾朋舟《ヒキノボルアケノソホフネ》、曾朋舟爾綱取繋《ソホフネニツナトリカケテ》、引豆良比《ヒキヅラヒ》云々とあるは、こゝと全く同じく、赤くあか色にぬりたる舟をいへるにて、十四【廿三丁】に、麻可禰布久爾布能麻曾保乃伊呂爾低※[氏/一]《マカネフクニフノマソホノイロニデヽ》云々といへるも、土生《ニフ》の、そほ土の如く、いろに出といふ也。古事記上卷に、含2赤土1唾出者、其大神、以爲d咋2破|呉公《ムカデ》1唾出u而云々とあるも、赤き色の土なり。こゝの赤乃曾保船《アケノソホフネ》は、赤く曾保土《ソホニ》を塗たる舟にて、十【卅二丁】に、曾穗船乃艫丹裳舳丹裳《ソホフネノトモニモヘニモ》云々。八【卅三丁】に、佐丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲフネモガモ》云々。十六【廿五丁】に、奧去哉赤羅小船爾《オキユクヤアカラヲフネニ》云々などあるも同じ。さて、この赤く塗たる船は、官船のしるしなるべし。そは、久老が別記に、營繕令云、凡官私船、毎v年具顯2色目勝受斛斗破除見在任不1、附2朝集使1申v省。義解云、謂※[木+温の旁]樟之類、是爲v色也。船艇之類、是爲v目也云々とあるを、集解に、或人古記を引て、公船者以v朱漆之といへり、是は義解の説にもどりて、却て(77)色目の解を誤れるものなるべけれど、官私の船、彩色によりて、分別ある事、且官船は朱漆なる事、この古記にて知られたり。則卷十六に、赤羅小船とあるは、公船なるよしは、その左注に見えたり。又同卷に、奧國領君之染屋形《オキツクニシラスルキミガソメヤカタ》、黄染乃屋形《キゾメノヤカタ》、神乃門渡《カミノトワタル》とあるは、配流の人などは、黄染の船にのれるにや。この歌、怕物《オソロシキモノ》歌と題せるは、隱岐の國に、はふりやらるゝ人の、黄染の船にのりて、かしこき神の海門《ウナト》をわたりゆくを、おそろしむ意によめるなるべし。これらの歌にて、船に彩色の品ありて、公私の分別ある事、いよゝ明らか也。卷八、卷九、卷十三に、左丹漆乃小船《サニヌリノヲブネ》とよめるは、官船に准《ナズラ》へて、いへる美言《ホメコト》也。則|玉纏《タマヽキ》の小棹《ヲカヂ》などつゞけて、あやをなせり云々といへるが如し。
 
奧《オキ》(ベ・ニ)榜所見《コグミユ》。
本集六【廿九丁】小船乘而奧部榜所見《ヲフネニノリテオキベコグミユ》云々とあれば、こゝもおきべこぐ見ゆとよむべし。さて一首の意は、旅てふものは、すべてもの悲しく、もの戀しきものにて、いとゞ都の戀しきをりしも、赤のそほ舟の、奧の方に見ゆるは、國の官人などの、都へかへるにもあるべしと、うらやまるゝ意也。
 
271 櫻田部《サクラダヘ》。鶴鳴渡《タヅナキワタル》。年魚市方《アユチガタ》。鹽干二家良進《シホヒニケラシ》。鶴鳴渡《タヅナキワタル》。
 
櫻田部《サクラダヘ》。
この櫻田を、萬葉名所部類、楢山拾葉などに、紀伊國とするは、非なり。和名抄郷名に、尾張國愛智郡作良とある、この作良《サクラ》の郷の田也。催馬樂、櫻人歌に、左久良比止曾乃不禰知々女《サクラビトソノフネチヾメ》、之末川太乎止末知川久禮留《シマツダヲトマチツクレル》、見天加戸利己牟《ミテカヘリコム》云々とある、さくら人も、作良の郷の人、しまつだは島つ田なれば、いよゝこゝによしあり。部《ヘ》は詞にて、櫻田の方へといふなり。
 
(78)鶴鳴渡《タヅナキワタル》。
鶴を、たづと訓べき事は、本集一【八丁】に、鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》云々と書るにてしるべし。たづを、こゝに鶴とは書たれど、つるのみに限らず、鵠《クヾヒ》、鸛な《オホトリ》などの類をも、おしなべで、たづとはいふなり。そのよしは、上【攷證一下六十一丁】にいへり。
 
年魚市方《アユチガタ》。
年魚市は、尾張國郡名にて、和名抄郡名に、尾張國愛智【阿伊知】とよめるは、伊と由と音通る故にて、古くは、あゆちといひし事、書紀神代紀上に、尾張國|吾湯市《アユチノ》村とあるにてしるべし、本集七【十四丁】に、年魚市方鹽干家良思《アユチガタシホヒニケラシ》、知多乃浦爾朝榜舟毛《チタノウラニアサコグフネモ》、奧爾依所見《オキニヨルミユ》云云。十三【十一丁】に、小治田之年魚道之水乎《ヲハリダノアユチノミヅヲ》云々などあるも、こゝ也。さて、年魚市方《アユチカタ》の、年魚も、方も、借字にて、年魚は、和名抄龍魚類に、蘇敬曰鮎魚【上音奴兼反、和名安由】本草云、※[魚+夷]魚【上音夷】楊氏漢語抄云、銀口角、又名2細鱗魚1、崔禹錫食經云、貌似v鱒而小、有2白皮1無v鱗、春生夏長、秋衰冬死、故名2年魚1也とある訓を借たるにて、方も借字にて、潟なり。潟は洲をいへり。
 
鹽干二家良進《シホヒニケラシ》。
一首の意は、櫻田の方へかけて、鶴の鳴わたるは、愛智郡の潟や、鹽干て、干潟となりにけんかしといふに、おしかへして、鶴鳴渡《タヅナキワタル》といふは、歌の調也。さて、この櫻田、年魚市潟は、ほど近きなるべし。
 
272 四極山《シハツヤマ》。打越見者《ウチコエミレバ》。笠縫之《カサヌヒノ》。島榜隱《シマコギカクル》。棚無小舟《タナナシヲブネ》。
 
(79)四極山《シハツヤマ》。
これを、考に攝津國也といはれしはいかゞ。【書紀雄略紀に、爲2呉客道1、通2磯齒津《シハツ》路1、名2呉坂1云々。本集六、難波宮行幸の時の歌に、從千沼囘雨曾零來《チヌワヨリアメソフリクル》、四八津之泉郎《シハツノアマ》、網手綱乾有《アミツナホセリ》、沾將堪香聞《ヌレテタヘムカモ》云々などあるは、攝津國にて、こゝとは別なり。】和名抄郷名に、參州國幡豆郡磯伯【伯は泊の誤りなるべし。】之波止とよめり。つと、とと、音通ずれば、これしはつにて、書紀孝徳紀に、河邊臣|礒泊《シハツ》といふ人名あるも、こゝによしありておぼゆ。さて、この※[羈の馬が奇]旅の歌八首を、考ふるに、この黒人は、東國の官人にて、任國より都へのぼる道のほどの歌にて、まへに尾張の地名をよみ、後に近江の地名をよめれば、こゝもその近國にて、參河ならん事、明らけし。その黒人は、參河の國の官人ならんとおぼしき事あり。そは、下にいふべし。この歌を、古今集卷二十に、しはつぶりとてのせられたり。猶契沖餘材抄に説あり。可v考。
 
笠縫之《カサヌヒノ》。島榜隱《シマコギカクル》。
これをも、考に、攝津國とせられしはいかゞ。尾張參河のうちなるべし。書紀崇神紀に、笠縫邑とあるは大和、延喜齋宮式に、笠縫とあるも、攝津なれば、こゝとは別なり。十六夜日記に、笠縫の驛、笠縫の里などあるも、美濃にて、海なき國なれば、島といふに叶はず。別所なる事明らけし。
 
棚無小舟《タナナシヲブネ》。
小き舟には、※[木+世]《フナダナ》なければ、棚なし小舟とはいへり。その事、上【攷證一下四十五丁】にくはし。一首の意、明らけし。
 
273 礒前《イソノサキ・イソザキヲ》。榜手囘行者《コギタミユケバ》。近江海《アフミノミ》。八十之湊爾《ヤソノミナトニ》。鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》。
 
礒前《イソノサキ・イソザキヲ》。
 
古事記上卷御歌に、宇知微流斯麻能佐岐邪岐《ウチミルシマノサキザキ》、加岐微流伊蘇能佐岐淤知受《カキミルイソノサキオキチズ》云々。本集六【卅六丁】に依賜將礒乃埼前《ヨリタマハムイソノサキザキ》云々。十九【卅六丁】に、佐之與良牟礒乃崎々《サシヨラムイソノサキザキ》云々などありて、字の如(80)く、礒《イソ》の前《サキ》をいへる也。崎を、さきといふも、海に出はりたるを所《(マヽ)》をいひて、前《サキ》の意なり。又本集十一【三丁】に、崗前多味足道乎《ヲカノサキタミタルミチヲ》云々。十三【六丁】に、八十島之島之埼邪伎《ヤソシマノシマノサキザキ》云々。十四【十丁】に、乎豆久波禰呂能夜麻乃佐吉《ヲツクバネロノヤマノサキ》云々など有も、礒《イソ》の前《サキ》の前と同じ。
 
榜手囘行者《コギタミユケバ》。
榜手囘《コギタミ》は、こきめぐらしゆくなり。この事は、上【攷證一下四十五丁】にいへり。
 
八十之湊爾《ヤソノミナトニ》。
こは、八十《ヤソノ》湊とて、一つの所の名にあらず。八《ヤ》は、彌《イヤ》の意にて、近江の海廣くして、いく十《ソ》といふ事なく、湊あるをいへり。そは、本集七【十五丁】に、近江之海湖者八十《アフミノミミナトハヤソヂ》、何爾加君之舟泊《イツクニカキミガフネハテ》、草結兼《クサムスビケム》云々。十三【六丁】に、近江之海泊八十有《アフミノミトマリヤソアリ》、八十島之《ヤソシマノ》云々などあるにてもおもふべし。
 
鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》。
鵠も、鶴も、ともにたづとよむべき事は、上【攷證一下六十一丁】にいへるが如し。莊子天運篇釋文に、鵠本作v鶴とあれば、漢土にも、鵠、鶴、通じかけるをしるべし。一首の意は、近江の海の、礒のさき/”\を、舟をこぎめぐらしゆけば、いく十《ソ》ともなく多かる湊ごとに、鶴の多くむれゐて、鳴よとなり。印本、この歌の下に、大字にて、未詳の二字あれど、亂れ入し事明らかなれば、今ははぶけり。
 
274 吾舟者《ワガフネハ》。枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》。榜將泊《コギハテム》。奧部莫避《オキヘナサカリ》。左夜深去來《サヨフケニケリ》。
 
(81)枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》。
印本、枚を牧に作れり。誤なる事明らかなれ、《(マヽ)》考異本に引る古本、拾穗本などによりて改む。枚をひらと訓るは借訓に丁、本集十一【卅七丁】に、枚浦乃《ヒラノウラノ》云々などもかけり。和名抄郷名に、河内國讃良郡枚岡【比良乎加】とも見えたり。紙を、一ひら二ひらなどいふも、枚なり。さて、こは近江國滋賀郡の地名にて、上【攷證一上十六丁】にいでたり。(頭書、湖をみなとゝよめるは、義訓也。集中いと多し。)
 
奥部莫避《オキヘナサカリ》。
部は、詞にて、奧の方へなさかりそといふ、そもじを、略けるなり。この格、集中多かり。本集五【卅九丁】に、父母毛《チヽハヽモ》、表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》云々。七【十八丁】に、從奧莫離《オキユナサカリ》云々。また【四丁】に、雲莫棚引《クモナタナビキ》云々。十七【卅九丁】安禮奈之等奈和備和我勢故《アレナシトナワピワガセコ》云々などありて、猶いと多し。
 
左夜深去來《サヨフケニケリ》。
左は、發語にて、たゞ夜のふけし也。去來の二字を、にけりとよめるは、借字にて、本集十【廿六丁】に、夜深去來《ヨハフケニケリ》云々。また年序經去來《トシゾヘニケル》云々など見えて、去の一字を、にの假字にも用ひたり。そは二【四十三丁】に、過去計良受也《スギニケラズヤ》云々とあり。來を、けり、けるとよめる事は、上【攷證一下五十六丁】にいへり。さて、一首の意は、今夜よもはや深にければ、人の舟は、いざしらず、わが舟は、ひらの湊にこぎ泊て、とまらんと思へば、奧の方へこぎはなれゆく事なかれと也。本集七【廿一丁】に、吾舟者明旦石之潮爾榜泊牟《ワガフネハアカシノハマニコギハテム》、奧方莫放狹夜深去來《オキヘナサカリサヨフケニケリ》と有は、この歌を重出せる也。
 
275 何《イヅク・イヅコ》處《ニカ》。吾將宿《ワレハヤドラム・ワガヤドリセム》。高島乃《タカシマノ》。勝《カチ》野《ヌ・ノ》原爾《ノハラニ》。此日暮去者《コノヒクレナバ》。
 
(82)何《イヅク・イヅコ》處《ニカ》。
舊訓、いづことあれど、いづくと訓べきよしは、上【攷證一下十五丁】にいへるがごとし。
 
吾將宿《ワレハヤドラム・ワガヤドリセム》。吉
この歌を、六帖四に載て、われはやどらんとよめり。尤しかよむべきなり。
 
高島乃《タカシマノ》。勝《カチ》野《ヌ・ノ》原爾《ノハラニ》。
 
本集七【十五丁】に、大御舟竟而左守布《オホミフネハテヽサモラフ》、高島之三尾勝野之奈伎左思所念《タカシマノミヲノカチヌノナキサシオモホユ》云云とありて、和名抄郷名に、近江國高島郡三尾【美乎】とあれば、この勝野は、高島郡三尾の郷のうちなり。
 
此日暮去者《コノヒクレナバ》。
去は、本集二【廿九丁】に、栖立去者《スタチナバ》云々。十二【卅四丁】に、明日香越將去《アスカコエナム》云々など、なの暇字に用ひたり。集中、去をなにぬの假字に用ひたるは、みな義訓なり。さて、まへの歌には、船にありて、こゝは高島郡などより、陸にのぼりて、こゝは陸をゆくさまなり。一首の意、明らけし。
 
276 妹母吾母《イモモワレモ》。一有《ヒトリナレ・ヒトツナル》加母《カモ》。三河有《ミカハナル》。二見自道《フタミノミチユ》。別不勝鶴《ワカレカネツル》。
 
一有《ヒトリナレ・ヒトツナル》加母《カモ》。
一を、考にも、久老が考にも、ひとつと訓て、久老は、相思ふ心のひとつなればかも也といひ、略解には、妹と吾身の二つならぬこゝちするを、ひとつなればかもといふ也とと《(マヽ)》いひしは、誤れり。一は、ひとりとよむべし。わかれなば、妹も吾も互に一人となればかも、別れかねるならんといふ意也。次の一本に、獨可毛將去《ヒトリカモユカム》とあるをも思ふべし。さて(83)一を、ひとりとよめるは、字を略きて書るにて、本集此卷【五十丁】に、荒有家爾一宿者《アレタルイヘニヒトリネバ》云々。九【十丁】に、衣片敷一鴨將寐《コロモカタシキヒトリカモネム》云々。十【四十九丁】に、一之宿者《ヒトリシヌレバ》云々などあるにても思ふべし。有加母《ナレカモ》は、なればかもの、はを略ける也。はを略ける事は、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
 
三河有《ミカハナル》。二見自道《フタミノミチユ》。
二見は、いづくなるにか。この外ものに見えざれば、郡をしりがたし。自《ユ》は、字の如く、よりの意にて、從の字をかけるも同じ。
 
別不勝鶴《ワカレカネツル》。
不勝を、かねと訓る例は、上【攷證一下六十九丁】にあげたり。さて、この歌をもて考ふるに、黒人は、參河國の官人にて、故ありて京にゆくに、妻をば任國にのこしおける、そのわかれなるべし。人磨、石見の任國に、妻をのこしおきたるなど、思ひ合すべし。一首の意は、今かく相わかれなば、妹も吾も、互に一人となる故にかも、任國の三河國なる、二見の道よりわかれて、京におもむきがたく思ふらんとなり。この歌、一《ヒトリ》といひ、三河といひ、二見といひて、文をなせりとおぼし。古歌には、めづらしき體なり。
 
一本云。水河乃《ミカハノ》。二見之自道《フタミノミチユ》。別者《ワカレナバ・ワカルレバ》。吾勢毛吾文《ワガセモワレモ》。獨可文將去《ヒトリカモユカム》。
 
水河乃《ミカハノ》。
水をみの假字用《(マヽ)》ひしは、借字にて略訓也。本集二【十一丁】に、水薦苅《ミスヾカル》云々。四【廿一丁】に、水空往《ミソラユク》云々などある類にて、集中猶多し。
 
獨可文將去《ヒトリカモユカム》。
考に、これは妻のこたへたる歌なり云々といはれつるが如く、まへの歌の答也。この句もて考ふるに、妻と共に、京へのぼれるが、道のほどは、わかれわ(84)かれに、京へのぼれるなるべし。一首の意、明らけし。
 
277 速《ハヤ・トク》來而母《キテモ》。見手益物乎《ミテマシモノヲ》。山背《ヤマシロノ》。高槻《タカツキ》村《ノムラ・ムラノ》。散去奚留鴨《チリニケルカモ》。
 
速《ハヤ・トク》來而母《キテモ》。
久老、速きを、とくといふ事、集中になしとて、速はやと訓り。いかにも、さる事にて、さて、はや、《(マヽ)》はやくといふ、くを略けるにて、はやくよりきても見てましものをといふ意也。速をば、はやとよめるは、本集五【卅一丁】に、速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》云々。十【八丁】に、速立爾來《ハヤタチニケリ》云々など見えたり。また十五【廿二丁】に、波夜伎萬世《ハヤキマセ》云々。十八【六丁】に、之保能波衣悲波《シホノハヤヒバ》云々などあるにて、はやくを、はやとのみいへるをしるべし。
 
山背《ヤマシロノ》。高槻《タカツキ》村《ノムラ・ムラノ》。
山背は、古事記に山代とかき、書紀に山背とかけり。日本紀略に、延暦十三年十一月丁丑、詔曰【中略】此國山河襟帶、自然作v城、因2斯形勝1、可v制2新號1、宜d改2山背國1爲c山城國u云々。これより、山城とはかけり。高槻村は、山城名勝志に、花2山崎南二里許1、水無瀬已下、高槻村已上、攝津國嶋上郡なり。しかるを、上古は、山城國の内にてもありけるか。その實をしらず云々とありて、攝津志には、島上郡にのせたり。思ふに、古へは、山城國乙訓郡の中なりしが、隣郡なる故に、後に攝津國島上郡の中とはなれるなるべし。さる《(マヽ)》久老が考に、高く槻の木の生たる木群《コムラ》をいふなるべし云々といへるは、いかゞ。
 
(85)散去奚留鴨《チリニケルカモ》。
略解に、古へは、某の村と、みな之をそへていへる例也。その村のもみぢの散たりといふを、かくいへり。下に、春日の山は咲にけるかもなど、其外、花もみぢといはずして、咲ちるといへる類多し云々といへるが如し。
(頭書、六【卅四丁】に、春去者乎呼理爾乎呼理《ハルサレバヲヽリニヲヽリ》、鶯之鳴吾島曾《ウグヒスノナクワガシマソ》、不息通爲《ヤマスカヨハセ》。)
 
石川少郎歌一首。
 
少郎心得がたし。左の歌を見るに、全く女の歌なれば、少は女の誤りなるべし。字體よく似たり。石川女郎の事は、上【攷證二上四十七丁】にいへり。さるを、左注に、右今案石川朝臣君子、號曰2少郎子1也とあるは、君子と子の字付たる故に、女ぞと思ひ誤れるより、しるしたる也。これらにても、左注は後人のわざなるをしるべし。又考異本に引る異本、考に引れたる古本などに、少を水に作れるは、歌に然之海人者《シカノアマハ》とあるを見て、さかしらに、水郎と改めつるにて、いよ/\誤りをかさねしものなり。
 
278 然之海人者《シカノアマハ》。軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》。無暇《イトマナミ》。髪梳《クシゲ・ツゲ》乃少櫛《ノヲグシ》(・ヲ)。取毛不見久尓《トリモミナクニ》。
 
然之海人者《シカノアマハ》。
然と書るは、借字にて、資※[言+可]《シカ》也。資※[言+可]《シカ》は、筑前國糟谷郡の地名にて、釋日本紀に、筑前國風土記を引て、粕谷郡資※[言+可]島、昔時氣長足姫尊、幸2か新羅1之時、御船夜時來泊2此嶋1、有d陪從名云2大濱小濱1者u、使勅2小濱1、遣2此嶋1、覓v火得早來、大濱問云、近有v家耶、小濱答云、此嶋與2打昇濱1、近相連接、殆可v謂2同地1、因曰2近《チカノ》嶋1、今訛謂2之|資※[言+可]《シカ》嶋1と見(86)えて、また書紀神功妃に、磯鹿海人名草《シカノアマナクサ》とあるも、こゝの海人也。また延喜式神名帳に、筑前國糟谷郡、志賀海神社云々。和名抄郷名に、筑前國糟谷郡|志※[言+可]《シガ》【印本※[言+可]を阿に誤れり】などあるも、こゝ也。さて、海人をよめるは、本集七【廿三丁】四可能白水郎乃釣船之《シカノアマノツリスルフネノ》云々。十二【廿四丁】に、志賀白水郎之潮燒衣《シカノアマノシホヤキコロモ》云々などありて、猶いと多きは、こゝの海人は、紀にも見えて、殊に海人に名ある所なればなるべし。今この歌に、海人とよめるは、海人をとめなり。男にあらず。
 
軍布苅《メカリ》。
軍布の軍は、葷の略體なり。さるを、代匠記には、軍昆音相近ければ、昆布などにやといひ、考には、軍布は、荒海布《アラメ》をいふか、又昆布の字を誤りしかといひ、久老が考には、今本、軍布とあり。類聚抄、草に作れり。けだし、葷の誤りなるべく思ひて、私になほしつ云々などいへるは、みな誤りにて、中國にも、漢土にも、文字を略し書る事あるをしらざるなり。そは、石經論語に、※[草がんむり/耘]を耘に作り、婁壽碑に、爵を※[爵の下半]に作り、干禄字書に、蕪樵【上俗下正】※[病垂/土]荘莊【上俗中通下正】これらにても、字畫を省略する事あるをしるべし。又集中、樹を寸とかき、伎を支とかき、起を已とかけるも、この類也。されば、軍は葷の略體にて、葷は葷菜などつゞくる字にて、説文徐鉉注に、葷臭菜也云々。文選養生論注、薫與v葷同云々ともありて、菜類の句ひあるものをいひ、布は、昆布《ヒロメ》、和布《ニキメ》、荒布《アヲメ》など、すべて海藻にて《(マヽ)》付る字にて、海藻は、幅廣きをよしとする故に、布の字をば書るにて、海藻は、すべて匂ひあるものなれば、葷布とはかけるなるべし。こは、葷布とて、一種ものあるにあらで、海藻は、くさ/”\あれど、めといふは、すべての名なれば、こゝも文字にかゝはらず、たゞ海藻といへる意なる事、集中、海藻の二字をも、めと訓るにてしるべし。
 
(87)鹽燒《シホヤキ》。
 
本集、此卷【四十四丁】に、須麻乃海人之塩燒衣乃《スマノアマノシホヤキキヌノ》云々。十二【十四丁】に、塩燒海部乃藤衣《シホヤクアマノフヂコロモ》云云などありて、集中猶多し。塩か燒は、あまがしわざなる故に、かくいへり。
 
髪梳《クシゲ・ツゲ》乃少櫛《ノヲグシ》。
髪梳の字は、古事記中卷に、如2童女之髪1、梳2垂《ケヅリタレ》其結御髪1云々とありて、また仙覺抄に引る、大隅國風土記に、大隅郡|串卜《クシラノ》郷、昔者造國神、勤v使者(ヲ)遣2此村、令2消息1、使者|報道《イハク》有2髪梳《クシゲ》神1云、可v謂2髪梳村1、因曰2久四良《クシラノ》郷1、【髪梳者、隼人俗語、久四良、今改曰2串卜1。】とあるは、髪梳をば、くしげといふべきを、隼人《ハヤヒト》の俗語に、くしらといへりといふことなれば、これ、髪梳を、くしげと訓べき證なり。さて、くしげは、集中、匣《クシゲ》とかき、和名抄に、櫛匣とかきて、けは笥にて、櫛をいるゝはこにて、こゝは匣《クシゲ》のうちなる、小櫛をとりてだに見ずといへる也。匣《クシゲ》に、髪梳の字を用ひたるは、義訓也。そは本集九【卅四丁】に、髪谷母掻者不梳《カミダニモカキハケヅラズ》云々。新撰字鏡に、※[手偏+流の旁]【所於反、加之良介豆留】とありて、【梳は、古事記と字鑑には手偏に書、本集と、風土記には、木偏にかけり。木偏手偏草冠竹冠などは、通はし書る事、古書の常なれば、敢て改むべからず。】髪を、くしけづる事なるを、
やがて櫛笥《クシケ》の意には用ひし也。さて、この髪梳の字を、宣長は、田中道麻呂が説とて、ゆすると訓べきよし、いはれたり。髪をけづる具に、※[さんずい+甘]坏《ユスルツキ》といふものは、貞觀儀式、西宮記などに見えて、中ごろの物語などには、髪を梳る事を、ゆするまゐる《(マヽ)》、いひし事もあれど、古くは見えざれば、こゝの訓には、とりがたし。小櫛の、小を、印本、少に誤れり。今は、考異本に引る異本によりて改む。
 
取毛不見久尓《トリモミナクニ》。
取てだにも見なくにといふ意にて、一首の意は、石川女郎、わが身を海人《アマ》をとめによせて、海人がしわざの、軍布《メ》かり鹽やきなどして、いとまのな(88)さに、櫛笥の申なる櫛をもさしかざらん事は、もとより、手に取てだにも見ずと也。この歌、何ぞ思ふ下心あるべし。伊勢物語に、あしのやのなだのしほやきいとまなみつげのをぐしもさゝず來にけりとあるは、この歌をとれるなり。
 
右今案。石川朝臣君子。號曰2少郎子1也。
 
この左注の誤りなる事は、まへにいへり。石川君子の傳は、上【攷證此卷十五丁】に出たり。
 
高市連黒人歌二首。
 
印本、市を高に誤れり。誤りなる事、明らかなれば、諸本によりて改む。
 
279 吾妹兒二《ワギモコニ》。猪名《ヰナ》野《ヌ・ノ》者令見都《ハミセツ》。名《ナ》次《スキ・ツギ》山《ヤマ》。角《ツヌ・ツノ》松原《ノマツバラ》。何時可將示《イツカシメサム》。
 
吾妹兒二《ワギモコニ》。
こゝに吾妹兒《ワギモコ》といへるは、まへに載る、黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首の中に、一本云とて、女の答へたる歌を載たる、同人にて、この妻と共に、任を《(マヽ)》を出て、京に登るに、黒人はさるべき用ありて、參河の二見の道よりわかれて、尾張、近江などの國をめぐりて登るに、妻は、用なき爲に、ただに登りて、攝津國などに待あひて、それ共に登るとて、攝津國の所々な(89)ど、いざなひ見ありきしなるべし。
 
猫猪名《ヰナ》野《ヌ・ノ》者令見都《ハミセツ》。
猪名野は、延喜武神名帳に、攝津國豐島郡、爲那都比古神社とありて、和名抄郷名に、攝津國河邊郡爲奈とも見えたり。攝津志には、猪名を、豐島、河邊の二郡に載たれば、二郡にわたれる地名なるべし。
 
名《ナ》次《スキ・ツギ》山《ヤマ》。
次を、つぎ、つぐなどよめるは、常のことにて、集中、玉手次《タマタスキ》といふに、次をすきと訓、和名抄郡名に、阿波國美馬郡三次【美須木】と、地名には、すきとよめれば、こゝもなすぎ山と訓べし。さてこの山は、延喜神名帳に、攝津國武庫郡名次神社とありて、攝津志にも、武庫郡の所に載たり。(頭書、書紀、天武天皇五年紀に、齋忌此云2踰既1、次此云2須岐1也。)
 
角《ツヌ・ツノ》松原《ノマツバラ》。
 
本集十七【八丁】に、海未通女伊射里多久火能於煩保之久都努乃松原於母保由流可聞《アマヲトメイサリタクヒノオボヽシクツヌノマツバラオモホユルカモ》とありて、こゝをも、攝津志武庫郡にのせたれば、名次山の近きあたりなるべし。
 
何時可將示《イツカシメサム》。
何時を、いつとよめるは、義訓也。將示《シメサム》は、本集此卷【卅三丁】に、家妹之濱裹乞者何矣示《イヘノイモガハマツトコハバナニヲシメサム》云々。四【五十丁】に、君爾吾戀情示方禰《キミニワガコフコヽロシメサネ》云々。五【十三丁】に、世人爾斯※[口+羊]斯多麻比弖《ヨノヒトニシメシタマヒテ》云々。十五【卅六丁】に、可多美乃母能乎比等爾之賣須奈《カタミノモノヲヒトニシメスナ》云々などありて、人に物をゆびざして、これぞそれなると、をしへさとす意なる事、玉篇に、示、以v事告v人曰v示とあるにてしるべし。こゝは、こゝぞ名次山、角松原といふ所なると、ゆびざして、いつか妹にをしへしめさんといふにて、一首の意は、吾麻子を、ともにいざなひて、もはや猪名野をば見せたり。これよりは、名次山、(90)角松原などをも見すべきが、いつか、その所々を、こゝぞとて、いひをしへしめさんと也。さてこの句を、久老が考に、卷十三に、何時可將待《イツシカマタム》とあるは、こゝの示と、待の字の、かはれるのみなれば、みせんとはよめるぞとて、いつしか見せんと訓るは、非也。何時は、本集一【卅丁】に、何時鹿越奈武《イツカコエナム》云々。二【八丁】に、何時邊乃方二《イツベノカタニ》云々など、いつとよめるにても、こゝはいつかしめさんと訓べきをしるべし。
 
280 去來兒等《イザコドモ・イザヤコラ》。倭部早《ヤマトヘハヤク》。白菅乃《シラスゲノ》。眞《マ》野《ヌ・ノ》乃榛原《ノハリハラ》。手折而將v歸《タヲリテユカム》。
 
去來兒等《イザコドモ・イザヤコラ》。
去來《イザ》は、いざと、いざなひ催す詞なり。この事は、上【攷證一上廿一丁】にいへり。兒等《コドモ》の兒《コ》は、人を親しみ稱していへるにて、附從ふ人どもを、子たちといへる也。童をさして、こどもといふとは別也。この事、くはしくは、上【攷證一下五十一丁】に、去來子等早日本邊《イザコドモハヤクヤマトヘ》云々とある所にいへり。
 
倭部早《ヤマトヘハヤク》。
倭は、大和にて、倭の京へ早くゆかんといふ也。結句に、將歸《ユカム》といふを、こゝへめぐらして聞べし。
 
白菅乃《シラスゲノ》。
枕詞なり。白菅は、一種の菅なるべし。眞野は、木集十一【四十丁】に、眞野浦之小菅乃笠乎《マヌノウラノコスゲノカサヲ》云々。また、眞野池之小菅乎笠《マヌノイケノコスゲヲカサニ》云々などありて、菅に名ある所なれば、しらすげの眞野とはつゞけしなり。猶くはしくは、予が冠辞考補正にいふべし。
 
(91)眞野乃榛原《マヌノハリハラ》。
眞野は、攝津志を考ふるに、矢田部郡に、眞野浦【在2西池尻村1】眞野池【在2東池尻村1】とあればこゝらの野をいふなるべし。榛原を、考に、はぎはらと訓て、榛は、芽子《ハギ》の借字なるよしいはれたれど、誤りにて、榛は舊訓のまゝ、はりにて、今いふ、はしばみといふ木也。そのよしは、上【攷證一上卅四丁】にくはしくいへり。本集七【十四丁】に、衣丹摺牟眞野之榛原《キヌニスリケムマヌノハリハラ》云々。また【卅四丁】に、白菅之眞野乃榛原《シラスゲノマヌノハリハラ》云々などもよめり。
 
手折而將v歸《タヲリテユカム》。
榛は、上【攷證一下四十三丁】にもいへるがごとく、古へ、專ら衣に摺れる事、集中の歌にも多く見えて、こゝも、衣を摺ん料にとて、旅づとに榛を手をりゆくなるべし。一首の意は、いざ子たちよ、大和の京に早くいたらんに、この眞野の榛原をも、手をりて旅づとにせんと也。さて、この結句を、久老は、たをりてゆかなと訓つれど、將の字は、みな、むの所にのみ書る例なれば、舊訓のまゝ、ゆかんと訓べし。
 
黒人妻答歌一首。
 
黒人妻は、父祖姓氏不v可v考。まへの黒人※[羈の馬が奇]旅歌八首の中に、妹も我もとよめる妹も、また一本とて、答歌をよめる女も、この妻なるべし。
 
281 白管乃《シラスゲノ》。眞《マ》野《ヌ》之《ノ》榛《ハリ・ハギ》原《ハラ》。往左來左《ユクサクサ》。君社見良目《キミコソミラメ》。眞《マ》野《ヌ》之《ノ》榛《ハリ・ハギ》原《ハラ》。
 
(92)往左來左《ユクサクサ》。
本集九【卅六丁】に、往方毛來方毛舶之早兼《ユクサモクサモフネノハヤケム》云々。二十【六十三丁】に、由久左久左都々牟許等奈久《ユクサクサツヽムコトナク》云々などありて、また此卷【五十二丁】に、去左爾波二吾見之《ユクサニハフタリワガミシ》云々とのみも見えたり。さは、さまの略にて、ゆくさま、くるさま也と、契沖、眞淵などいはれたり。また久老が考に、このさは、あふさ、きるさ、かへるさなどいひて、その時を專らといふに添る言也。くる時、かへる時などいはんが如し。さて、このさは、せより轉れる言と見えて、古事記に、落《オチ》苦瀬《ウキセニ》1而云々と見え、後の歌に、あふせ、こゝをせにせんなどいへるせと、ひとしかりけり云々といへり。この久老が説も、さる事ときこゆれど、まへに引る九に、往方來方《ユクサクサ》と、方をさと訓るを見れば、舊説の如く、さはさまの略言なるこゝちせり。
 
君社見良目《キミコソミラメ》。
見良目《ミラメ》は、後世見るらめといふ意也。この事は、上【攷證二中二丁】にいへり。こゝの意は、われは、女の身なれば、かくおもしろき所をも、今見るがはじめてにて、又と見る事も、難きわざなるを、君こそは、大和の京への往來に、ゆく時も、かへる時も、見給ふらめと、うらやめる意にて、この眞野の榛原をと、同じ言をうちかへしいふも、古歌の一つの格なり。
 
春日藏首老歌一首。
 
父祖不v可v考。このぬしの事も、この姓氏の事も、上【攷證一下四十二丁】にいへり。
 
(93)282 角《ツヌ・ツノ》障經《サハフ》。石村《イハレ・イハムラ》毛不過《モスギズ》。泊瀬山《ハツセヤマ》。何時毛將超《イツカモコエム》。夜者深去通都《ヨハフキエニツヽ》。
 
角《ツヌ・ツノ》障經《サハフ》。
枕詞にて、冠辞考にくはし。上【攷證二中七丁】にも出たり。
 
石村《イハレ・イハムラ》毛不過《モスギズ》。
石村は、大和國十市郡にて、書紀神武紀に、大軍集而|滿2於《イハメリ》其地1、因改v號爲2磐余《イハレ》1云々とある、盤余《ィハレ》にて、石村をいはれとよめるは、書紀用明紀に、館2於|磐余《イハレ》1名曰2池邊雙槻《イケノベノナミツキ》宮1云々とある宮を、續日本紀、和銅四年十二月紀に、石村《イハレ》池邊宮とありて、書紀に、盤余と書る所を、古事記に、伊波禮《イハレ》と書るにて、石村をいはれと訓べきをしるべし。村はむれといふを、石村《イハレ》と訓は、本集十三【十八丁】に、石相穿居《イハヒホリスヱ》云々とよめる類也。また古事記下卷に、石寸掖上《イハレノワキノベ》云々。祈年祭祝詞に、飛鳥《アスカ》石寸《イハレ》忍坂《オサカ》云々。延喜式神名帳に、山城國十市郡、石村《イハレ》山口神社などある、石寸《イハレ》の寸は、村の略體にて【文字の偏字を略る事は、此卷のはじめにいへるがごとし。】樹を寸、伎を支など書る類にて、
 
石村と書ると同じ。猶、本集此卷【四十六丁】に、角障經石村之道乎《ツヌサハフイハレノミチヲ》云々。十三【廿八丁】に、角障經石村乎見
乍《ツヌサハフイハレヲミツヽ》云々なども見えたり。
 
泊瀬山《ハツセヤマ》。
大和國城上郡なり。上【攷證一下廿丁】に出たり。
 
何時毛將超《イツカモコエム》。
泊瀬山を、いつかこえなんといふにて、何時は、いつかと、かもじを訓添べきを、久老は、何時を、いつしとのみよむ事と心得て、いつしもこえんと訓りし(94)は、誤り也。
 
夜者深去通都《ヨハフケニツツ》。
考に、深去《フケニ》のには、ふけいにの略也云々といはれしはいかゞ。まへにもいへるごとく、集中、去の字は、なにぬの假字に用ひて、こゝはふけぬといふを、つゝとうくる故に、ふけにつゝとはいへる也。この事、宣長が詞の玉の緒卷六に、くはしければ、ひらきみて考ふべし。さて、考云、老は、もと僧なりしを、大寶元年に官人となり給へば、こは藤原の都より出て行か、又奈良の都となりての事か、さても暮過るほどの道にあらず。まして藤原よりはちかし。よしありておそく出て暮ぬるにや。又藤原よりも、奈良よりも、初瀬をこえて宇多の方へゆかんには、石村《イハレ》をへん事まはり遠くや。とかくにおぼつかなし。もしいまだ、僧の時の事なりしを、後にきゝて姓名をしるしたるか。さる例多き也云々といはれたり。予、この地理にうとければ、この説の是非をしらず。
 
高市連黒人歌一首。
 
283 墨吉乃《スミノエノ》。得名津爾立而《エナツニタチテ》。見渡者《ミワタセバ》。六兒乃泊從《ムコノトマリユ》。出流船人《イヅルフナビト》。
 
墨吉乃《スミノエノ》。
攝津國住吉郡なり。この地の事は、上【攷證一下五十三丁】にいへり。
 
(95)得名津爾立而《エナツニタチテ》。
得名津は、和名抄郷名に、攝津國榎津【以奈豆】とあるこゝ也。榎津を以奈豆《イナツ》と訓じたるは、以《イ》と延《エ》と音通ひて、榎は本集六【二十七丁】佐佐良壯子《ササラエヲトコ》云々。和名抄木類に、榎【和名衣】など、えとのみよめれば、榎津はえなづなり。
 
六兒乃泊《ムコノトマリ》從《ユ・ヲ》。
六兒は、和名抄郷名に、攝津國武庫郡武庫【無古】とある、こゝ也。集中、むこの浦、むこの海なども、よめり。泊は、舟を止むるをいへる事なれど、やがてその所をも、泊とはいふなり。從《ユ》は、よりの意也。一首の意、明らけし。
 
春日藏首老歌一首。
 
284 燒《ヤキ・ヤイ》津邊《ツベニ》。吾去鹿齒《ワガユキシカバ》。駿河奈流《スルガナル》。阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》。相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》。
 
燒《ヤキ・ヤイ》津邊《ツベニ》。
駿河國益頭郡なり。書紀景行紀云、是歳日本武尊、初至2駿河1【中略】入2野中1而覓v獣、賊有2殺v王之情1、及v火燒2其野1、王知v被v欺、則以v燧出v火之、向燒而得v免、王曰、殆被v欺、則悉焚2其賊衆1而滅v之、故號2其處1、曰2燒津1云々と見えて、延喜式神名帳に、駿河國益頭郡、燒津神社ともあれば、こゝなる事明らけし。さて、舊訓、やいづと訓れど、かく、きといふべき所を、いといふは、皆音便にくづれたるにて、中ごろよりの言なり。本集十八【十七丁】に、夜岐多知乎《ヤキダチヲ》云々ともあれば、こゝは、やきつと訓べし。和名抄田園類に、※[田+謬の旁]【也以八太】云々。厨膳具に、串(96)【和名夜以久之】云々とあるも、音便にくづれし也。さて、考云、和名抄に、駿河國益津郡も、益津郷も、萬之都と訓てあれど、神名式に、この郡に、燒津神社あるもて思ふに、益津はもと也以豆《ヤイヅ》てふ言にあてし字也。和名抄のころ、すでに誤りしなり云々といはれたる、げにさもあるべし。
 
吾去鹿齒《ワガユキシカバ》。
久老云、去をゆきしと訓て、鹿は加の假字に用ひしのみ也。鹿を、しかと訓にはあらじ。卷四に、何時鹿《イツシカ》とあるも、同例也。集中、しかには牡鹿と書、鹿の一字は、多くは、かとのみよみたり云々。この説のごとし。
 
阿倍乃市道爾《アベノイチヂニ》。
考云、和名抄に、この國の阿倍郡に、國府あり。また、今の府中の西のはてに、阿倍川といふ川あり。しかれば、阿倍市は、すなはち今の府中なりけり。燒津は、府より南の海邊にあり云々。この説のごとくなるべし。
相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》。
兒等《コラ》の等《ラ》は、助字なる事、上【攷證二下五十七丁】にいへり。兒《コ》とは、人をさして親しみ稱していへるにて、たゞ子《コ》とも、こらともいひて、女の事とする事、集中かぞへがたく、いと多かり。こゝも、女をいへる也。羽裳《ハモ》の裳《モ》は、助字にて、下へ意をふくめてとぢめたるにて、歎息の意こもれり。この事は、上【攷證二中四十九丁】にいへり。一首の意は、さるべきよしありて、駿河なる燒津のほとりにゆきしを、阿倍の市の道にで、ほのかにあひ見し女はも、いかになりぬらんと、意をふくめたる也。久老が考に、老は懷風藻に、常介《(マヽ)》年五十二とあれば、その下(97)れるをりの歌なるべし云々といへり。さもあるべし。
 
丹比眞人笠麻呂。往2紀伊國1。超2勢能《セノ》山1時作歌一首。
 
丹比眞人笠麻呂。
父祖、官位、不v可v考。丹比眞人の姓氏の事は、上【攷證二下六十九丁】にいへり。これを、久老が考に、沙彌滿誓が俗名也といへるは、誤り也。滿誓の俗名は笠朝臣麻呂にて、この丹比眞人笠麿とは別人なり。
 
勢能山《セノヤマ》。
紀伊國伊都郡也。上【攷證一下四丁】に出たり。
 
285 栲領巾乃《タクヒレノ》。懸卷欲寸《カケマクホシキ》。妹《イモ》(ノ・ガ)名乎《ナヲ》。此勢能山爾《コノセノヤマニ》。懸者《カケバ》奈何《イカニ・イカヾ》將有《アラム》。
 
一云。可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》。
 
栲領巾乃《タクヒレノ》。
枕詞にて、冠辞考にくはし。栲《タク》は木の名にて、この木の皮をもておれる布を、たへとも、ゆふとも、いへるにて、たへといふは、布になりたるうへをいひ、たくといふは、この木の本名にて、布になさゞる前をいふなる事、上【攷證二下五十八丁】にいへるがごとし。されば、たくひれは、この栲の皮もておれる布の領巾《ヒレ》てふことにて、領巾《ヒレ》は肩にかくるものなれば、(98)たくひれのかけとはつゞけし也。領巾《ヒレ》の事は、上【攷證二下四十七丁】にくはしくいへり。
 
懸卷欲寸《カケマクホシキ》。
懸るとは、心詞などに、人のうへをかくるをいへるにて、本集一【八丁】に、家在妹乎《イヘナルイモヲ》 懸而小竹櫃《カケテシヌヒツ》云々。二【三十三丁】に、御名爾懸世流明日香河《ミナニカヽセルアスカガハ》云々。四【四十六丁】に、吾聞爾繋莫言《ワガキヽニカケテナイヒソ》云々。七【四十一丁】に、蜻野※[口+立刀]人之懸者《アキツヌヲヒトノカクレバ》云々。八【五十一丁】に、妹乎懸管不戀日者無《イモヲカケツヽコヒヌヒハナシ》云々。十二【九丁】に、妹曰者無禮恐《イモトイハバナメシカシ》、然爲蟹懸卷欲言爾有鴨《シカスガニカケマクホシキコトニアルカモ》云々。十四【六丁】に、伎美我名可氣※[氏/一]安乎禰思奈久流《キミガナカケテアヲネシナクル》云々。十六【六丁】に、妹之名爾繋有櫻《イモガナニカケタルサクラ》云々などあるも、皆人のうへを、心詞物の名にかけていへるにて、こゝと同じ。かけまくもかしこしなどいへるも同じ。こゝは、詞にかけていはまほしき妹が名をといへる也。卷《マク》は、んの釣り《(マヽ)》なるを、下へつゞけんとて、まくとはいへる也。この事、上【攷證二上廿一丁】にいへり。
 
妹名乎《イモノナヲ》。
わが女を、妹といふ。その妹てふ名を、勢《セ》の山とならび居る妹《イモ》山によせていへるに《(マヽ)》、妹山、背山は、本集七【十七丁】に、勢能山爾直向妹之山《セノヤマニタヾニムカヘルイモノヤマ》云々。また【十八丁】に、木國之妹背之山二《キノクニノイモセノヤマニ》云々。また【十九丁】に、木川邊之妹與背之山《キノカハノベノイモトセノヤマ》云々などありて、集中猶多し。
 
懸者《カケバ》奈何《イカニ・イカヾ》將有《アラム》。
この一句は、老へ問かけたる詞也。されば、老も和する歌をばよめる也。さて、一首の意は、詞にかけてだにい《(マヽ)》まほしき妹といふ名を、この背の山にかけて、妹背の山としたらば、いかにあらんと、問かけたる也。考云、これは、紀の國へ幸の度ならん。さて、笠まろも、老も、從駕にて、この山越る時、故郷の妹が事は、さらでも戀しき(99)に、若この勢てふ名をかへて、妹てふ名を此上にかけて呼ば、いかなるこゝちせんつ《(マヽ)》らんとふ意に思へる事を問なり云々といはれたり。さもあるべし。
 
一云。可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》。
この一云の方による時は、一首の意、この勢の山てふ名を、妹山とかへたらば、妹と共に居るこゝちして、うれしからん。そはいかにぞと、問かくる意となりて、この一云の方まされり。
 
春日藏首老。即和歌一首。
 
即の字、印本、郎に誤れり。今考異に引る異本によりて改む。即和は、即時に和する意なり。
 
286 宜奈倍《ヨロシナヘ》。吾背乃君之《ワガセノキミガ》。負來爾之《オヒキニシ》。此勢能山乎《コノセノヤマヲ》。妹者《イモトハ》不喚《ヨバジ・ヨバム》。
 
宜奈倍《ヨロシナヘ》。
本集一【廿三丁】に、青菅山者《アヲスガヤマハ》、背友乃大御門爾《ソトモノオオミカドニ》、宜名倍神佐備立有《ヨロシナヘカミサビタテリ》云々。六【三十二丁】に、見者貴久《ミレバタフトク》、宜名倍見もの清之《ヨロシナヘミレバサヤケシ》、此山乃《コノヤマノ》云々。十八【二十八丁】に、神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》、與呂之奈倍《ヨロシナヘ》、此橘乎《コノタチバヲ》、等伎自久能《トキジクノ》、可久能木實等《カクノコノミト》、名附家良之母《ナツケケラシモ》云々などありて、宜《ヨロシ》とは、ものゝ、たりととのひたる事、奈倍《》は、助字の如くにて、たゞよろしき、よろしくなど云意也。この事、上【攷證一下三十七丁】にもいへり。考へ合すべし。
 
(100)吾背乃君之《ワガセノキミガ》。
老より、笠まろをさして、わがせの君とはいへり。男どちも、しかいふ例は、上【攷證此卷十四丁】にあげたり。
 
負來爾之《オヒキニシ》。此勢能山乎《コノセノヤマヲ》。
吾|背《セ》の君を、背《セ》といふ。その背《セ》てふ名を、むかしよりおひきにし、この勢の山をといふ意也。
 
妹者《イモトハ》不喚《ヨバジ・ヨバム》。
不喚を、舊訓よばんと訓るは、いふまでもなき誤りにて、よばじとよまん事、論なし。さて、一首の意は、笠まろが、いかにあらんと問かけしに答ふるにて、何ごともよろしく、足とゝのひたる君を、わが背と云ふ。その背てふ名を、むかしより名におひ來にし、この勢の山なれば、今さら其名をかへて、妹山とはよばじと答ふるなり。
 
幸2志賀1時。石上卿作歌一首。名闕。
志賀は、近江國滋賀郡をいへり。さて、久老云、この幸の事は、左注にも不審のよしいへり。今按に、續紀、養老元年九月戊申、行2至近江國1觀2望淡海1とあれば、この時のにやとおもふに、さては石上卿は、豐庭を申べけれど、豐庭ならば、卿とのみいひて、名をいはぬは、集中の例に違ひ、理もなし。故に、この石上卿を、麻呂公とすべけれど、公は、この行幸よりまへに、薨じ給へり。【麻呂公は、養老元年三月に薨じ給へり。】かた/”\いぶかしくて、尚考ふるに、同紀、大寶二年、太上天皇【持統】、三河より美濃に幸の事あれば、そのをりや、近江にもいでましけん。さては、麻呂公として叶へり。後に、官位の高くおはしまししかば、あがまへて、名いはぬなるべし云々。この説の如し。
 
(101)石上卿。
まへにあげたる久老が説の如く、麻呂公なり。麻呂公の傳は、上【攷證一下十六丁】にあげたり。さて、この麻呂公を、本集一【廿丁】には、石上大臣とありて、こゝには石上卿とあるなど、集中の例、すべて、みだりがはし。印本、一首の下に、大字にて名闕の二字あれど、集中の例によりて、小字とす。
 
287 此間爲而《コヽニシテ》。家八方伺處《イヘヤモイヅク》。白雲乃《シラクモノ》。棚引山乎《タナビクヤマヲ》。超而來二家里《コエテキニケリ》。
 
此間爲而《コヽニシテ》。
久老は、爲をゐとよみて、こゝにゐてとよめり。これもさる事ながら、本集十四【卅丁】に、和波己許爾思天《ワハコヽニシテ》云々。十九【二十五丁】に、此間爾之※[氏/一]曾我比爾所見《コヽニシテソガヒニミユル》云々などもあれば、舊訓のまゝ、こゝにしてとよむべし。こは本集一【二十七丁】に、旅爾之而物戀之伎乃《タビニシテモノコフシキノ》云々。四【廿七丁】に、家二四手雖見不飽乎《イヘニシテミレドアカヌヲ》云々。七m【廿二丁】に、面白四手古昔所念《オモシロクシテムカシオモホユ》云々などある、してと同じく、し文字は助字の如くにで、意なく、こゝにてといふ意也。さて、爲をしと訓るは、本集二【十八丁】に、古之媼爾爲而也《イニシヘノオミナニシテヤ》云々。此卷【十九丁】に、客爲而《タビニシテ》云々。また【四十一丁】面影爲而《オモカゲニシテ》云々などありて、集中猶いと多し。これらにてもおもふべし。
 
家八方伺處《イヘヤモイヅク》。
方《モ》は助字、何處《イヅク》は、いづくと訓べき事、上【攷證一下十五丁】にいへり。此間《コヽ》とさせるは、志賀にて、この志賀にては、大和の京の家の方は、いづくぞといふ意也。本集四【廿八丁】に、此間在而筑紫也何處《コヽニアリテツクシヤイヅク》、白雲乃棚引山之方西有良思《シラクモノタナビクヤマノカタニシアルラシ》とあるも同じくて、意は明らけし。棚引《タナビク》は、物など引わたしたらんや(102)うに覆ふをいへり。この事は、上【攷證二中三十五丁】にいへり。
穗積朝臣老歌一首。
 
穂積朝臣者は、父祖不v詳。續日本紀に、大寶元年正月甲子、遣2正八位上穗積朝臣老于山陽道1、巡2省政績1、申2理冤※[手偏+王]1云々。和銅二年正月丙寅、授2從六位下穗積朝臣老從五位下1云々。三年正月壬子朔、天皇御2大極殿1受v朝、隼人蝦夷等亦在v列、左將軍正五位上大伴宿禰旅人、副將軍從五位下穗積朝臣老等陳列云々。六年四月己卯、授2從五位上1云々。養老二年正月庚子、授2正五位上1云々。九月庚戌、爲2式部大輔1云々。六年正月壬戌、正五位上穗積朝臣老、坐v指2斥乘輿1、處2斬刑1、而依2皇太子奏1、降2死一等1、配2流於佐渡嶋1云々。天平十二年六月庚午、勅大赦【中略】。流人穗積朝臣老等五人、召令v入v京云々。十六年二月丙申、大藏大輔正五位上穗積朝臣老五人、爲2恭仁宮留守1云々など見えたれど、卒年不v詳。左の歌を、左注に、右の幸2志賀1時の同じ度の歌とせしはいかゞ。そのよしは、下にいふべし。
 
288 吾命之《ワガイノチシ》。眞幸有者《マサキクアラバ》。亦毛將見《マタモミム》。志賀乃大津爾《シガノオホツニ》。縁流白浪《ヨスルシラナミ》。
 
吾命之《ワガイノチシ》。
之《シ》は、助字なり。
 
(103)眞幸有者《マサキクアラバ》。
眞幸《マサキク》の眞《マ》は、そへたる字にて、吾命の幸《サキハヒ》ありて、つゝがなくあらばといふ意也。
 
このこと、本集二【廿二丁】有間皇子の結松の御歌に、磐白乃濱松之枝乎引結《イハシロノハママツガエヲヒキムスビ》、眞幸有者《マサキクアラバ》、亦還見武《マタカヘリミム》とある所【攷證二中十四丁】にいへり。
 
志賀乃大津《シガノオホツ》。
近江國志賀郡大津なり。さて、この歌は、まへに引る續紀に出たるが如く、この老のぬし、天平六年、佐渡國に流されし時、奈良の京より佐渡國にゆくに、近江國を經しをり、よめるなるべし。されば、一首の意は、わが命の、幸《サキ》く全くあらば、もし召かへさるゝ事もありて、今ゆき過る志賀郡大津の濱べによするしら浪をも、又見るよしあらんと、こゝのけしきのおもしろさに、よめる也。そは本集十三【七丁】長歌の反歌に、天地乎歎乞祷《アメツチヲナゲキコヒノミ》、幸有者又反見《サキクアラバマタカヘリミム》、思我能韓埼《シガノカラサキ》とある、左注に、但此短歌者、或書云、穗積朝臣老、配2於佐渡1之時作歌也とあると、同じをりによめるなる事、明らけし。さるを、まへの幸志賀時の同じ歌とするは誤れり。
 
右今案。不v審2幸行年月1。
 
この左注は、まへの石上卿の歌にとりては、さる事ながら、後の老のぬしの歌にとりては、誤りなる事、まへにいへるが如し。
 
間人《ハシヒト》宿禰大浦。初月歌二首。大浦紀氏見2六帖1。
 
(104)間人《ハシビト》宿禰大浦。
父祖、官位、不v可v考。間人の氏は、新撰姓氏録卷二に、間人宿禰、仲哀天皇皇子譽屋別命之後也云々。又卷十二に、神※[云/鬼]命五世孫、玉櫛比古命之後也云々と見えたり。間人は、はしびとゝよむべし。上【攷證二下廿四丁】にいへるが如く、物の間《アヒダ》を、はしといへるによりて也。これを、六帖に、はしうどゝよめるは、例の音便にくづれし也。さて、大浦紀氏見六帖の七字、印本、大字とせり。いま集中の例によりて、小字とす。しかも、この七字、いかなる事にか、心得がたし。こは代匠記に、見の字、紀氏の上にあるべきを、誤て紀氏の下に加へし也云々とあるが如く、見2紀氏六帖1といふ事なり。六帖は、袋草子に、貫之女子所爲、故號2紀家六帖1云々とあれど、今すこし下りたるものとおぼしきを、こゝ、かくしるせるは、後人みだりに書加へしもの也。六帖の時代の事は、山本明清が、六帖標注の提要にくはしくいへり。
 
初月。
初月は、目録にみかづきと訓るが如く、三日月をいふ也。そは、本集六【廿九丁】初月歌に、月立而直三日月之《ツキタチテダヾミカヅキノ》云々。また振仰而若月見者《フリサケテミカヅキミレバ》云々などあるにても、初月は三日月なるをしるべし。盧思道詩に、初月正加v鉤、懸光入2綺樓1云々。杜甫詩に、初月出不v高、衆星尚爭v光云々などあるも、三日ごろの月をいふなるべし。
 
289 天原《アマノハラ》。振離見者《フリサケミレバ》。白眞弓《シラマユミ》。張而懸有《ハリテカケタリ》。夜路者將吉《ヨミチハヨケム》。
 
天原振離見者《アマノハラフリサケミレバ》。
天原《アマノハラ》は天なり。振離見者《フリサケミレバ》は、ふりあふぎ見れば。これらの事、くわしくは、上【攷證二中十八丁】にいへり。
 
(105)白眞弓《シラマユミ》。
シラマユミユキトリオヒテシラマユミヒキテカクセルツキヒトヲトコ
本集九【三十五丁】に、白檀弓靱取負而《》云々。三【廿九丁】に、白檀挽而隱在月人壯子《》云々などありて、白木のまゆみをいへるなり。眞弓の眞は、例の物をほむる詞にて、眞弓の事は、上【攷證二中十四丁】にいへり。
 
張而懸《ハリテカケ》有《タリ・タル》。
三日月の形の、弓を張たる如くなれば、かくいへり。上弦下弦を、弓張月といふもこれなり。有を、舊訓、たると訓れど、こゝは、たりといひ切べき所なり。
 
夜路者將吉《ヨミチハヨケム》。
考異本に引る異本に、吉を去に作れり。【吉と去は、古く向字ならんか。口とムとを通はし書る事、字の上に多し。干禄字書を考ふるに、〓單、〓鉛、弘〓、〓〓、〓或などを通はし書るにても思ふぺし。こは心みにいふのみ。】將去は、ゆかんと訓て、これもあしからねど、もとのまゝにても、よく聞えたり。一首の意は、そらをふりあふぎ見れば、三日月のかげの、白眞弓など張て、かけたらんやうにで、かゝれば、夜路をゆくとも、ゆきよからんといへるなり。
 
290 椋橋乃《クラハシノ》。山乎高可《ヤマヲタカミカ》。夜隱爾《ヨゴモリニ》。出來月乃《イデクルツキノ》。光乏寸《ヒカリトモシキ》。
 
椋橋乃《クラハシノ》。山乎高可《ヤマヲタカミカ》。
椋橋山は、大和國十市郡なり。古事記下卷に、爾速總別王、女鳥王、共逃避而騰2于倉椅山1、於v是、總絡別王歌曰、波斯多弖能久良波斯夜麻袁《ハシダテノクラハシヤマヲ》云々とあるも、こゝにて、同記に、倉椅柴垣宮云々。書紀天武紀に、竪2齋宮於倉梯河上1云々。三代實録、貞觀十一年七月八日紀に、大和國十市郡椋橋山、河岸崩裂高二丈云々などありて、集中多くよめり。
 
(106)夜隱爾《ヨゴモリニ》。
こは、本集四【四十二丁】に、戀々而相有物乎《コヒ/\テアヒタルモノヲ》、月四有者《ツキシアレバ》、夜波隱良武《ヨハコモルラム》、須曳羽蟻待《シバシハアリマテ》云々。十九【十五丁】に、四月之立者《ウツキシタテバ》、欲其母理爾鳴霍公鳥《ヨゴモリニナクホトトギス》云々などありて、いまだ夜にこもりて、明やらぬほどをいふ也。夜ごもりに出くる月とあれば、この歌、初月の歌にあらぬ事、明らけし。さるを、端詞に、初月歌二首とあるは、いといぶかし。
 
光乏寸《ヒカリトモシキ》。
乏寸は、集中三つあり。一つは、うらやましき意なると、【この事、攷證一下十一丁にいへり。】一つは、めづらしと愛する意なると、【この事、攷證二中卅七丁にいへり。】一つは、實に乏しくまれなる意なるとにて、こゝは、即ちともしくまれなる意なり。さて、國圖もて考ふるに、椋橋山は、藤原の京の東に當りて、月切出んにさはらん事、もとよりなれば、今この歌は、藤原の京にてよめる事明らけし。一首の意の《(マヽ)》、二十日あまりの月の、深夜に出るをよめるにて、椋橋の山の高さにかあらん、夜をこめて出る月の、いとおそくてらせる故に、その光のいとゞあかずめづらしと《(マヽ)》もしくおぼゆと也。宣長云、この歌、九卷【廿四丁】にも出て、かれは、たゞ月の歌にて、いまだ出ぬをよめれば、論なし。こゝには、初月の歌とあれば、心得がたし。實は、初月の歌にはあらざるか。しかれども、しばらく初月にして、しひていはば、四の句の來の字を、こしと訓て、ひるより早く出し月の、夜にいれば、早く隱れて、光りの乏しき也。かく見る時は、椋橋山を、西方にして、この山の高き故に、早く隱るゝ歟の意也。さて夜隱《ヨゴモリ》とは、夜の末の長く殘りて多き也。後の物語書に、年わかき人を、世ごもれるといふも、末の長くこもりて多き意なれば、それと同意也。いまだ、夜の末は長く殘りて多きに、早く山へ入て、わづかの程ならでは見えぬよし也云々。この説うけがたし。また或人の説に、夜隱は、地名の吉隱《ヨナハリ》の借字ならんといへれど、吉隱《ヨナハリ》は城上郡にて、方角もたが(107)ひたれば、とるにたらず。
 
小田事主。勢能山歌一首。
 
小田事主は、父祖、官位、不v可v考。諸本、主の字なくて、印本目録には、事をつかふと訓たれど、左の歌を、六帖第二にのせて、をだのことぬしとあれば、古本には、主の字ありし事しるければ補ふ。小田の氏は、姓氏録には見えざれど、續日本紀に、天平勝寶元年四月甲午朔紀に小田臣根成、五年二月辛卯紀に小田臣枚床など見えたれば、この氏、奈良朝よりはじまれるなるべし。姓は臣にて、一二卷の例もていはゞ、姓をもしるすべきを、この卷より末は、すべてみだりがはしく、姓をしるさゞるもまじり、氏をさへしるさゞるもあれば、敢て改る事なし。勢能山は紀伊國伊都郡なり。上【攷證一下四丁】に出たり。
 
291 眞木葉乃《マキノハノ》。之奈布勢能山《シナフセノヤマ》。之奴波受而《シヌバズテ》。吾超去者《ワガコエユケバ》。木葉知家武《コノハシリケム》。
 
眞木葉乃《マキノハノ》。
眞木は※[木+皮]なり。眞木といふに二つありて、一つは木の名、一つは木をほめて眞《マ》といへるとなり。こゝなるは、木の名也。これらの事は、上【攷證一下廿丁】にいへり。
 
之奈布勢能山《シナフセノヤマ》。
之奈布《シナフ》は、※[木+皮]《マキ》の葉の生しげりて、なよ/\としなひたるをいへるにて、本集十一【三丁】に、誰葉野爾立志奈比垂菅根《タカハヌニタチシナヒタルスガノネノ》云々。十三【五丁】に、春山之四名比盛(108)而《ハルヤマノシナヒサカエテ》云々。二十【四十四丁】に、多知之奈布伎美我須我多乎《タチシナフキミガスガタヲ》云々などあるも同じ。これを、考に、しなび、しなぶと、濁音によまれしはいかゞ。こは、しなひ、しなふ、しなへと活く語にして、中ごろより、今も、草木のしなふといふも、これなれば、必らず、清音にいふべきなり。
 
之奴波受而《シヌバズテ》。
考云、こは故郷の事をおもふに、得しぬぶに堪ずしてといふ也。卷四【今十一】に、わぎも子を聞つが野べの靡合歡《シナヒネフ》、われは隱不得間無念者《シヌバズマナクオモヘバ》云々。是、上にしなひといひて、下にしぬばずといひ、且隱不得と書しなどもて、こゝと同じ意なるをしれ云々といはれつるがごとし。
 
木葉知家武《コノハシリケム》。
わが心を、木の葉もしりけんといふにて、本集七【廿九丁】に、天雲棚引山隱有吾忘木葉知《アマクモノタナビクヤマノコモリタルワレワスレメヤコノハシリケム》云々とも見たり。一首の意は、吾ふるさと戀しぬぶに堪ずして、勢の山をこえゆけば、その心をや、木の葉もしりたりけん。眞木の葉も、物おもはしげに、かたぶきしなひたるはといふなり。
 
角麻呂歌四首。
 
角麻呂、こゝろ得がたし。姓氏を脱したるにて、角麻呂は名歟。また、角は氏、麻呂は名にて、姓を脱したる歟。いづれにまれ、傳考へがたし。角の氏は、姓氏録卷二に、角朝臣、紀朝臣同v祖、紀角宿禰之後也云々と見えたり。代匠記に、是は續日本紀に見えたる、角(ノ)兄麻呂の兄を脱せるなるべし。目録にも、さなきには、さきにいへる如く、目録は、後の人の、集のまゝに拾ひあげた(109)る故に、集に誤り、或は脱すれば、目録またそれにしたがへり。續日本紀、元正紀云、養老五年正月甲戌、詔曰、文人武士國家所v重、醫卜方術、古今期v崇、宜(乙)擢d於百僚之内、優2遊學業1、堪v爲2師範1者u、特加2賞賜1、勸(甲)2勵後生1。因賜2【中略】陰陽從五位下角(ノ)兄麻呂等、各※[糸+施の旁]十疋絲十※[糸+旬]布二十端鍬二十口1云々。聖武紀云、神龜元年五月辛未、從五位下都能兄麻呂【印本を考ふるに、都の字なきを、かく契沖の引れたるは、古本に都の字ある本ありしか、疑らくはさかしらなるべし。そのよしは下にいふべし。】賜2姓羽林連1云々。四月十二日丁亥、先v是遣2使七道1、巡2檢國司之状迹1、使等至v是復命【中略】其犯v法尤甚者、丹後守從五位下羽林連兄麻呂處v流云々。この代匠記の説も、さる事ながら、角兄麻呂は、續日本紀に、大寶元年八月壬寅、勅2僧惠《(マヽ)》還俗復2本姓1、代度一人、姓録名兄麻呂云々とありて、氏は録《ロク》なるを、通雅に、角古音録ともありて、録角音通なれば、角兄麻呂とも書るにて、角《ロク》はろくと訓べし。神龜元年紀に、今本能兄麻呂とあるは、録を能に誤れるなるべし。そを代匠記に、都能《ツノ》兄麿を、都の字を加へて、引れつるは、さかしらなるべし。角を假字に都能とはかくまじき事、まへにいへることゞも考へ合すべし。
 
292 久方乃《ヒサカタノ》。天之探女之《アマノサグメガ》。石船乃《イハフネノ》。泊師高津者《ハテシタカツハ》。淺爾家留香裳《アセニケルカモ》。
 
天之探女之《アマノサグメガ》。
古事記上卷云、故爾鳴女自v天降到、居2天若日子之門湯津楓上1而言、委曲如2天神之詔命1、爾|天佐具賣《アマノサグメ》、聞2此鳥言1而語2天若日子言1云々。書紀神代紀訓注に、天探女、此云2阿麻能左愚謎《アマノサグメ》l云々など見えたり。この神、記紀による時は、國つ神とおもはるれど、この歌に、天降れるよしよみて、名にも天の探女と、天の字をさへ冠らせたれば、(110)天神なる事明らけし。さて探女といふ名は、書紀通證に、探女探2他心1多2邪思1也といへるがごとし。和名抄神靈類に、日本紀私記云、天探女【阿萬乃佐久女】とも見えたり。
 
石船乃《イハフネノ》。
書紀神武紀に、甞有2天神之子1、乘2天磐船1自v天降止、號曰2櫛玉饒速日命1云々とありて、石は、堅き意もていへるにて、神武紀に、天磐※[木+豫]樟船といふも、この意也。また本集(十九脱カ)【卅九丁】に、天婁爾磐船浮、等母爾倍爾眞可伊繁貫云々ともよめり。
 
泊師高津者《ハテシタカツハ》。
泊は、舟を留る也。さて、天探女が、天磐船にのりて、天降たりし事、ものに見えね、いにしへ、さる一つの傳へありしかば、かくはよめるなるべし。代匠記に、津國風土記云、難波高津は、天稚彦天くだりし時、天稚彦に屬て下れる神、天探女、磐船にのりて、こゝに至る。天磐船の泊る故に、高津と號云々と引れたる、風土記は、何に引たるをとられしにか。出所つまびらかならねば、おぼつかなく、しかも假字に改めて引れたれば、いよゝたしかならねど、天磐舟の泊し故に、高津と云とあるは、天を高といへるなれば、【天を高といふ事、高光、高飛などの類にて、いと古し。この事は、上攷證一下十九丁にくはしくいへり。】そのこゝろは、いと古く、後世の意にあらず。この風土記も、この歌と同じく、古へ、一つの傳へ也。さて高津は、難波高津宮の高津にして、今の大坂の近きほとりのよしにて、みな人よくしれる所なれば、くはしくいはず。
 
淺爾家留香裳《アセニケルカモ》。
淺は、水の涸《カル》る意にて、古事記中卷御歌に、麻都理許斯美岐叙《マツリコシミキソ》、阿佐受袁勢佐々《アサスヲセサヽ》云々とあるも、御酒を不《ズ》v令《サ》v涸《アサ》飲《ヲセ》といへるにて、本集十六【廿四丁】に、(111)淵者淺而瀬二香成良武《フチオハアサビテセニカナルラム》云々とあるも同じく、新撰字鏡に、※[土+冉]土〓土※[さんずい+甘]二反、崩岸也、久豆禮、又阿須とあるも、淺くなる意にて、こゝと同じ。さて、いと古くは、この高津まで舟のいりけんをはやくこのころ、あせしなるべし。一首の意は明らけし。
 
293 鹽《シホ》干《ヒ・ガレ》乃《ノ》。三津之海女乃《ミツノアマメノ》。久具都持《クヾツモチ》。玉藻將苅《タマモカルラム》。率行見《イザユキテミム》。
 
鹽《シホ》干《ヒ・ガレ》乃《ノ》。
久老云、しほがれといふ言、集中にも何にもなし。必らず、しほひのと四言によむべし。卷九に、難波がた、鹽干に出て玉藻かる、あまをとめども汝が名のらさね。卷十七に、之保悲思保美知《シホヒシホミチ》など見えたり云々との説の如し。
 
三津之海女乃《ミツノアマメノ》。
三津は、難波の御津なり。上【攷證一下五十一丁】に出たり。あまは、海人、海士、海子など書を、海の一字を書るは、文字を略せるなり。上【攷證一上十二丁】にいへり。蜻※[虫+廷]を、あきつとよむを、蜻※[虫+廷]一字づゝにても、あきつとよめるが如し。
 
久具都持《クヾツモチ》。
袖中抄卷二に、世にくゞつ目と申すは、籠の目のつまりたるを云り。和語抄云、くゞつとは、かたみを云歟云々。和歌童蒙抄卷四に、くゞつとは、かたみをいふ也云々などありて、たしかならず。宇津保物語嵯峨院卷に、きぬあやを糸のくゞつにいれて云々とあれば、籠の如くあみたるものにて、何にまれ、物をいるゝ料のものなるべし。
 
(112)率行見《イザユキテミム》。
いざは、集中、去來《イサ》を訓も同じく、上【攷證一上廿一丁】にいへるがごとく、いざと誘ひ催す詞にて、率の字を訓るは義訓にて、玉篇に、率將領也云々ともあればなり。さて一首の意は明らけし。
 
294 風乎疾《カゼヲイタミ》。奧津白浪《オキツシラナミ》。高有之《タカヽラシ》。海人釣船《アマノツリブネ》。濱※[眷ノ目が日]奴《ハマニカヘリヌ》。
 
風乎疾《カゼヲイタミ》。
風の甚しさに也。本集十五【六丁】に、於伎都風伊多久奈布吉曾《オキツカゼイタクナフキソ》云々。十八【廿丁】に、安由乎伊多美可聞《アユヲイミカモ》云々など見えたり。
 
濱※[眷ノ目が日]奴《ハマニカヘリヌ》。
諸注、※[眷ノ目が日]を眷と改めしは非也。古俗、目と日を通じ書る事多し。そは、干禄字書に、耆を〓、着を〓とかき、五經文字に、督を〓と書る事あるにても思ふべし。さて廣雅釋言に、眷(ハ)顧也とありて、かへり見ると訓べき字なれば、かへりの借字には用ひしなり。本集十【十三丁】に、※[眷ノ目が日]益間《カヘリマスマモ》云々ともかけり。一首の意明らけし。
 
295 清江乃《スミノエノ》。木笶松原《キシノマツバラ》。遠神《トホツカミ》。我王之《ワガオホキミノ》。幸行《イデマシ・ミユキシ》處《トコロ》。
 
清江乃《スミノエノ》。
住吉なり。本集一【廿七丁】の左注にもかく書り。
 
木笶松原《キシノマツバラ》。
本集七【一四丁】に、住吉之岸之松根《スミノエノキシノマツガネ》云々。古今集雜上に、われ見ても久しくなりぬ、住の江のきしの姫松いくよへぬらん云々などもよめり。さて笶は、集中、のゝ假(113)字にのみ用ひたれば、笶の上に志の字などのありけんを脱したるか。本集十【五十九丁】に、卷向之木志乃子松二《マキムクノキシノコマツニ》云々など見えたり。又考ふるに、笶は、和名抄に、夜《ヤ》と訓て、矢の俗字にて、矢は皆篠を以て製する事、本集七【卅四丁】に、八橋乃小竹乎不造矢而《ヤハセノシヌヲヤニハガデ》云々などあるが如くなれば、その意もて笶をしのゝ假字に用ひしにもあるべし。久老が説に、古本に木の上に野の字ありとて、それをとりて、こゝを野木笶松原《ヌノマツハラ》と改めつれど、例の奇説なれば、用ひがたし。
 
遠神《トホツカミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上十丁】にも出たり。
 
幸行《イデマシ・ミユキシ》處《トコロ》。
難波に幸行ありし事、紀にあまた見えて、その近きほとりなれば、住吉にも幸行ありし事明らけし。幸行はいでましとよむべき、《(マヽ)》本集一【八丁】に、遠神吾大王乃行幸能《トホツカミワガオホキミノイデマシノ》云云とある所【攷證一上九丁】にいへり。さて、一首の意は、清江の岸の松原などのけしきのおもしろさに、うべしこそ、こゝは世々の帝のいでまし所なれといへるなり。
 
田口益人大夫。任2上野國司1時。至2駿河國淨見埼1作歌二首。
 
田口益人。
父祖不v詳。續日本紀云、慶雲元年正月癸巳、授2從六位下田口朝臣益人從五位下1云々。和銅元年三月丙午、爲2上野守1云々。二年十一月甲寅、爲2右兵衛率1云云。靈龜元年四月丙子、授2正五位上1云々と見えたり。
 
(114)大夫。
この人、五位なれば、大夫と書る也。大夫の事は、上【攷證一上十三丁】にいへり。
 
淨見埼《キヨミノサキ》。
駿河名勝志を考ふるに、廬原郡にて、清見關、清見潟などよめるも、皆こゝ也。名高き所なれば、さらに云はず。
 
296 廬原乃《イホバラノ》。清見之埼乃《キヨミノサキノ》。見穗乃浦乃《ミホノウラノ》。寛見《ユタケキミ・ユタニミエ》乍《ツヽ》。物《モノ》念《モヒ・オモヒ》毛奈信《モナシ》。
 
廬原乃《イホバラノ》。
和名抄郡名に、駿河國廬原【伊保波良】とある、こゝ也。國造本紀に、廬原國造、志賀高穴穗朝代、以2池田坂井君祖吉備武彦命兒思加部彦命1、定2賜國造1云々。姓氏録卷五に、廬原公、笠朝臣同v祖、稚武彦命之後也、孫吉備建彦命、景行天皇御世、被v遣2東方1、伐2毛人及鬼神1、到2于阿倍廬原國1、復命之日、以2廬原國1給v之云々とあるもこゝ也。
 
見穗乃浦乃《ミホノウラノ》。
延喜式神名帳に、駿河國廬原郡御穗神社とありて、三保の松原といふも、こゝ也。こゝも名高き所なれば、さらにいはず。
 
寛見《ユタケキミ・ユタニミエ》乍《ツヽ》。
本集二十【廿六丁】に、海原乃由多氣伎見都々《ウナハラノユタケキミツツ》、安之我知流奈爾波爾等之波倍努倍久於毛保由《アシガチルナニハニトシハヘヌベクオモホユ》云々とあれば、こゝもゆたけき見つゝと訓べし。こは、ゆたかに廣くのびやかなるをいへり。また八【四十九丁】に、大乃浦之其長濱爾縁流浪《オホノウラノソノナガハマニヨスルナミ》、寛公乎念比日《ユタケキキミヲオモフコノゴロ》云々。十三【五丁】に、水門成海毛廣之《ミナトナスウミモユタケシ》云々などあるにても思ふべし。またこれをはぶきて、ゆたにとのみもいへり。この事は、下【攷證十一】にいふべし。
 
(115)物《モノ》念《モヒ・オモヒ》毛奈信《モナシ》。
本集十五【卅八丁】に、毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》云々ともあれば、ものもひもなしと訓べし。一首の意は、廬原郡なる清見が埼、見穗の浦かけて、海のゆたけくひろらかなるを見つゝあれば、旅のうさをさへわすれて、なにも物思ひもなしと也。
 
297 晝見騰《ヒルミレド》。不飽田兒浦《アカヌタゴノウラ》。大王之《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》。
 
田兒浦《タゴノウラ》。
駿河國廬原郡なり。續日本紀云、天平勝寶二年三月戊戌、駿河守從五位下楢原造東人等、於2部内廬原郡多胡浦濱1、獲2黄金1献v之云々とあり。こゝも名高き所なれば、さらにいはず。
 
命恐《ミコトカシコミ》。
命は借字にて、御言なり。天皇の仰をかゞふりて、其御言を、かしこさにてふ意也。この事は、上【攷證一下七十丁】にいへり。
 
夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》。
國司、任におもむくに、夫馬を賜はる事、政事要略に見えて、和名抄國郡部に、駿河國【國府在2安部郡1行程上十八日下九日】とある如く、行程にも限りありて、厩放令に、凡諸道須v置v驛者、毎2三十里1置2一驛1云々【この三十里と云ふは、今の六丁斗なり。】ともありて、驛の間も遠ければ、公事には、道のたよりによりて、夜をかけても行事、勿論なり。されば、一首の意は、田ごの浦のけしきのおもしろさは、晝見るともあかぬ所なるを、天皇の任給ふ御言のかしこさに、物のあやめも見えぬ夜る見つゝ行事よといへるにて、ひる見てさへあかぬ所を、そのけしきをだに見ず、夜るゆく(116)事よと、うちなげきたる也。
 
弁基歌一首、
 
春日藏首老の、僧なりし時の名にて、傳は上【攷證一下四十二丁】に出せり。上には、皆、春日藏首老とのみありて、こゝに至りて、はじめて弁基とせるはいぶかし。この集の書ざま、例の未體なればなるべし。續日本紀に、老の僧名は、弁紀とあるを、こゝに弁基とあるは、別人なるもしるべからず。猶可v考。
 
298 亦打山《マツチヤマ》。暮越行而《ユフコエユキテ》。廬前乃《イホザキノ》。角太河原爾《スミダガハラニ》。獨可毛將宿《ヒトリカモネム》。
 
亦打山《マツチヤマ》。
これを八雲御抄に、駿河と注させ給へるは、御誤り也。宣長が玉勝間に、まつち山は、大和國の堺にて、紀の國伊都郡也。角田川は、まつち川のことなるべし。此川、みなもとは、葛城山のうちより出て、北隅田庄を流れて、きの川におつる也云々といはれしが如くなるべし。本集一【廿四丁】に、朝毛吉木人乏母《アサモヨシキヒトトモシモ》、亦打山行來跡見良武《マツチヤマユキクトミラム》、樹人友師母《キヒトトモシモ》云々。四【廿三丁】に麻裳吉木道爾入立《アサモヨシキヂニイリタチ》、眞土山越良武公者《マツチヤマコユラムキミハ》云々などありて、集中猶多し。上【攷證一下四十一丁】にも出たり。
 
廬前乃《イホザキノ》。
こは、ものに見えざれど、かくつゞけしかば、角田川のほとりなる事しるべし。
 
(117)角太河原爾《スミダカハラニ》。
これも駿河なるよし、古くよりいへど、誤り也。そは、考に、或人、この角田川を駿河に有といへるは、清見が崎の歌に並びのせて、廬原、廬前、名の近きになづみて、弁基が僧俗の時代をもおもはで誤りし也云々といはれしが如くにて、こは、まへに引る宣長の説の如く、紀伊にて、まつち山のちかきはとりなる事明らけし。また宣長云、この角太川、説々あれども、皆誤り也。亦打山云々とあれば、廬前も、角太河も、紀伊國也。この角太河を、古へより、すみだ川と心得たるもひがごと也。角を、古へ、すみと訓る例なし。すみには、隅の字をのみ用ひたり。然れば、こゝは、つぬだか、つねほ《(マヽ)》かなるべし云々といはれたり。この説、いかにもさる事ながら、角の字は、易晉卦に、晉2其角1疏に、西南隅也云々。後漢書郎※[豈+頁]傳注に、角隅也云々ともありて、隅の字と通れば、外に例なくとも、すみと訓まじきにあらず。されば、舊訓のまゝ、すみだ川とは訓り。さて古今集※[羈の馬が奇]旅に、むさしの國と、しもつふさの國との中にある、角田川のほとりにいたりて云々。六帖第二に、出羽なるあをとの關のすみだ川、ながれても見ん、水やにごるとなどあるも、同名なれば、思ひまがふべからず。
 
獨可毛將宿《ヒトリカモネム》。
毛《モ》は助字にて、ひとりかねんと、旅のひとりねをいためる也。一首の意、明らけし。
 
右或云。弁基者。春日藏首老之法師名也。
 
こゝに、或云と書るは、續紀には弁紀とありて、こゝと文字違へればなるべし。さて、この左注、印本には小字なれど、集中の例、大字なれば、活字本によりて大字とす。
 
(118)大納言大伴卿歌一首。未詳。
 
大伴宿禰旅人卿なり。集中の大臣、大納言には、大かたは諱をかゝざる例なれば、こゝにも諱を書ざる也。この大納言大伴卿を、旅人卿也と定むるは、本集此卷【五十三丁】に、天平三年辛未、秋七月、大納言大伴卿薨之時云々とある年月、續紀と合るにて明らけし。續日本紀云、和銅四年正月壬午、正五位上大作宿禰旅人、授2從四位下1。七年十一月庚戌、爲2左將軍1。靈龜元年正月癸巳、授2從四位上1。五月壬演、爲2中務卿1。養老二年二月乙巳、爲2中納言1。三年正月壬寅、授2正四位下1。九月癸亥、爲2山背國攝官1。四年三月丙辰、爲2征隼人持節大將軍1。五年正月壬子、授2從三位1。三月辛未、勅給2資人四人1。神龜元年甲午、授2正三位1。天平三年正月丙子、授2從二位1。七月辛未、大納言從二位大伴宿禰旅人薨、難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈從二位安麻呂之第一子也云々とありて、大納言太宰帥などに任ぜられし年月を漏せり。されど此卷【五十一丁】に、天平二年庚午、冬十二月、太宰帥大伴卿、向v東上v道之時、作歌云々。四【廿一丁】に、太宰帥大伴卿、被v任2大納言1、臨2入v京之時1云々とありて、公卿補任に、天平二年十月一日、任2大納言1云々とあれば、これかれを合せ考ふるに、太宰帥を經て、大納言に昇られし事明らけし。さて旅人の訓は、續日本紀神龜元年紀に、大伴宿禰多比等云々。本集五【十一丁】に、大伴|淡等《タビト》云々とあれば、たびとゝ訓べし。未詳の二字は、後人みだりに書入しにて、よくも考へざる誤りなり。
 
299 奧山之《オクヤマノ》。菅葉《スガノハ》凌《シヌギ・シノギ》。零雪乃《フルユキノ》。消者將惜《ケナバヲシケム》。雨莫零行年《アメナフリコソ》。
 
(119)菅葉《スガノハ》凌《シヌギ・シノギ》。
集中、菅《スゲ》といふに二種あり。一つは山菅を、すげとのみいへり。一つは水草にて、笠に縫すげ也。こゝなるは、山菅をすげとのみよめるにて、古事記下に、夜多能《ヤタノ》、比登母登須宜波《ヒトモトスゲハ》、古母多受《コモタズ》云々。本集此卷【四十四丁】奧山之磐本菅根深目手《オクヤマノイハモトスゲヲネフカメテ》々。四【廿九丁】に、足引乃山爾生有菅根乃《アシヒキノヤマニオヒダルスガノネノ》云々などあるも、皆山すげにて、集中猶いと多し。山すげは、本草和名に、麥門冬、和名也末須介云々と見えたり。菅を、すげとも、すがともいふは、竹を、たけとも、たかともいふ類と聞ゆるを、竹は、たかのといふことはなけれど、菅は、本集二十【四十八丁】に、須我乃根能《スガノネノ》云々とあるにて、すがのといふべきをしるべし。さて凌《シヌグ》は、本集八【四十八丁】に、秋芽子師努藝鳴鹿毛《アキハギシヌギナクシカモ》云々。また【五十七丁】高山之菅葉之努藝零雪之《タカヤマノスガノハシヌギフルユキノ》云々。十九【卅七丁】に、秋芽子之努藝馬竝《アキハギシヌギウマナメテ》云々などあれば、しぬぎと訓べし。また六【卅三丁】に、奥山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシヌギフルユキノ》云々。十【五丁】に、木葉凌而霞霏※[雨/微]《コノハシヌギテカスミタナビク》云々。また【卅二丁】天川白浪凌落沸速湍渉《アマノカハシラナミシヌギオチタギツハヤセワタリテ》云々などありて、この言は、久老が、しぬぐといふ言の意を考るに、自《ミツカラ》堪《タヘ》忍ぶを、しのび、しのぶといひ、他のたへがたきを、是よりおしてするを、しのぎ、しのぐといふ。神代紀に、凌2奪《シヌギウバフ》吾高天原1とある、しぬぎ、即これにて、凌礫の字意也。されば、こゝも、菅の葉をおしなびけて降雪といふ意となれり云々といへるがごとし。
 
消者將惜《ケナバヲシケム》。
本集十【六十二丁】に。小竹葉爾薄多禮零覆消名羽鴨《サヽノハニハタレフリオホヒケナバカモ》云々ともあれば、けなばをしけんと訓べし。これを、久老が、今本に、けなばをしけんとあるも、きえの約め、けなれば、さもよむべけれど、なと訓字のなければ、きえばをしけんと訓たり云々といへるは、誤り也。本集二【卅四丁】に、消者消倍久《ケナバケヌベク》云々。四【卅五丁】に、消者消香二《ケナバケヌカニ》云々などありて、この外の言にも、(120)文字を訓つくる事、集中の常なるをや。
 
雨莫零行年《アメナフリコソ》。
本集七【卅一丁】に、風莫吹行年《カゼナフキコソ》云々。十【廿一丁】に、雨莫零行年《アメナフリコソ》云々。十三【十六丁】に、犬莫吠行年《イヌナホエコソ》云々など見えたり。これらをも、宣長は、皆そねと訓て、さて云、これらの行年を、今の本には、みな、こそと訓ども、他に、こそを行年と書る例なく、又上に、なといひて、こそと結べる例も、他になければ、此行年は、決て、こそにはあらず。外にも出たる、そねの格と全く同じければ、これらもかならす、そねと訓べき也。行は、もし所の字などの誤りにもやあらん。文字の事は、未いかに共思ひ得ずなん云々。このい《(マヽ)》はれたり。まことにさる事ながら、外にそねといふ所に、行年を書る例もなく、年をねと訓事は、さる事なれど、行をその假字に用ひん事あるべからず。こゝともに四所まで行年と書れば、文字の誤りとも思はれず。本集二【卅九丁】八【十六丁】十【九丁】などに、去年をこぞと訓れば、其意もて、こそといふに、行年とは書るならん。されば、しひて思ふに、こそは願ふ意のこそにはあらで、こそのこは來《コ》、そは莫《ナ》をうけたる詞にて、雨のふり來る事なかれといふ意ならんか。猶よく可v考。さて一首の意は、おく山の菅の葉などをも、おしなびけてふる雪の、おもしろきが、きえなばをしからんに、雨のふりくる事なかれといふなり。
 
長屋王。駐2爲寧樂山1。作歌二首。
 
長屋王は、高市皇子の御子也。上【攷證一下六十四丁】に出たり。寧樂山は、大和國添上郡にて、奈良の京のほとり也。上【攷證一上四十七丁】に出たり。
 
(121)300 佐保過而《サホスギテ》。寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》。置幣者《オクヌサハ》。妹乎目不離《イモヲメガレズ》。相見染跡衣《アヒミシメトゾ》。
 
佐保過而《サホスギテ》。
集中、佐保山、佐保川などよめり。これも添上郡にて、奈良の京のほとり也。上【攷證一下七十一丁】に出たり。
 
寧樂乃手祭爾《ナラノタムケニ》。
寧樂は、即なら山なり。手祭《タムケ》と書るは、義訓にて、たむけは、宣長云、手祭とは、こえゆく山の坂路の、登り極たる所をいふ。其所にては、神に手向をする故に、いふ也。今の世に、これを峠《タウゲ》といふは、手向《タムケ》を訛れる也。寧樂《ナラ》の手祭《タムケ》は、手向山といふこれ也云々といはれつるが如く、本集四【廿六丁】に周防在磐國山乎將超日者《スハウナルイハクニヤマヲコエムヒハ》、手向好爲與《タムケヨクセヨ》、荒其道《アラキソノミチ》云々。十二【卅二丁】に、倭路度瀬別手向吾爲《ヤマトヂノワタルセゴトニタムケワガスル》云々。十三【七丁】に、近江道乃相坂山丹手向爲吾越往者《アフミヂノアフサカヤマニタムケシテワガコエユケバ》云々。十五、【卅一丁】に、美故之治能多武氣爾多知弖《ミコシヂノタムケニタチテ》云々。十七【四十四丁】に、刀奈美夜麻多牟氣能可味爾奴佐麻都里《トナミヤマタムケノカミニヌサマツリ》云々などありて、古へは、旅ゆく山にも、海川にも、こゝとある所には、道の神に幣を奉りて、旅路または故郷にも、つゝがなからん事をいのる也。さて、その手向する所を、たむけとはいへる也、和名抄神靈類に、唐韻云※[示+易]【音觴、漢語抄云多旡介乃加美】道祭一曰2道神1也云々と見えたり。猶たむけの事は、上【攷證一下三丁】にもいへり。(頭書、手向山の事、下【攷證六下十五丁】にいへり。)
 
置幣者《オクヌサハ》。
幣《ヌサ》の事は、上【攷證一下五十丁】にいへるが如く、神に奉ル物を、すべていへること也。さて幣《ヌサ》をおくとは、本集十三【六丁】に、相坂山丹手向草絲取置而《アフサカヤマニタムケグサイトトリオキテ》云々。二十【四十一丁】に、阿米都之乃可未爾奴佐於伎伊波比都々《アメツシノカミニヌサオキイハヒツヽ》云々ともありて、手向する所に、幣を奉り置て、吾は越ゆく故に、おく幣とはいへる也。
 
(222)妹乎目不離《イモヲメカレズ》。
離を、印本、雖に作れり、考異本に引る古本に、雖とあるうへに、本集九【十七丁】十一【十一丁】などに、かるといふ、《(マヽ)》離の字をかければ、雖は字體もちかく、離の誤りなる事、明らかなれば、改めつ。目不離メガレズヅ》とは、本集十一【廿七丁】に、遠見社目言疎良米《トホミコソメコトカルラメ》云々。十四【六丁】に、目許曾可流良米《メコソカルタメ》云々。十五【卅丁】に、伊母吾目可禮弖《イモガメカレテ》云々。二十【十八丁】に、波々我目可禮弖《ハヽガメカレテ》云々。古今集春上に、貫之、くるとあくとめかれぬものを、うめの花いつの人まにうつろひぬらん云々などありて、見る事の、かれゆくを、めがれといへば、こゝは見る事かれず、いつも/\妹を見んといふ意也。すべて、かるといふは、物のうとくなりゆく事にて、本集九【十一丁】に、袖可禮而一鴨將寐《コロモデカレテヒトリカモネム》云々。十九【十九丁】に、都禮毛奈久可禮爾之妹乎《ツレモナクカレニシイモヲ》云々などもありて、夜がれなどいふもこれ也。また水の涸《カル》、草木の枯といふも、本は一つ語なり。
 
相見染跡衣《アヒミシメトゾ》。
染を、しめと訓事は、上【攷證二下九丁】にいへるが如く、借字にて、令《シメ》の意也。中古よりの言もていはゞ、見せしめといふ格なるを、略きていふは、古言也。本集十四【十二丁】に、伊射禰志米刀羅《イサトシメトラ》云々。廿【十丁】に、山人乃和禮爾依志米之《ヤマビトノワレニエシメシ》云々。これらも、させなどの言を略けるに似たり。さて、あひ見しめといふ、めもじは、下知の意にて、これも中古よりの言もていはゞ、あひ見しめよといふ格なるを、よもじを略せるは、古言也。そは、二【卅四丁】に、千磐破人乎和爲跡《チハヤフルヒトヲヤハセト》、不奉仕國乎治跡《マツロハヌクニヲヲサメト》云々などあると同格にて、猶あり。さて、一首の意は、長屋王さるべき事ありて、ものへゆかれしが、馬を奈良山にてとゞめて、よまれつるにて、佐保の路をすぎて、奈良山の手向すべきに、幣をおきて、神に手向して祈れるは、道のつゝがなきをねがふ(123)のみにあらず、いつも目かるゝ事なく、妹をあひ見せしめ給へといふ事ぞとなり。
 
301 磐金之《イハガネノ》。凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》。超不勝而《コエカネテ》。哭者泣友《ネニハナクトモ》。色爾將出八方《イロニイデメヤモ》。
 
磐金之《イハガネノ》。
金は借字にて、磐之根《イハガネ》の也。磐根といふも同じ。
 
凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》。
本集此卷【四十四丁】に、足日木能石根許其思美《アシビキノイハネコヽシミ》云々。七【十丁】に、神左振磐根己凝敷《カムサブルイハネコゴシキ》云々。また【卅二丁】石金之凝木敷山爾《イハガネノコゴシキヤマニ》云々。十三【十五丁】に、石根乃興凝敷道乎《イハガネノコゴシキミチヲ》云々。十七【四十一丁】に、許其志可毛伊波能可牟佐備《コヽシカモイハノカムサビ》云々などありて、石根の凝《コリ》たる如く嶮岨なるを、こゞしとはいふにて、一【廿九丁】に、磐床等川之氷凝《イハトコトカハノヒコゴリ》云々とあるも、同じ語なり。
 
哭者泣友《ネニハナクトモ》。
音にたてゝなくともといふ也。この事は、上【攷證二中二十八丁】に云り。
 
色爾將出八方《イロニイデメヤモ》。
本集四【四十二丁】に、足引之山橘乃色丹出而《アシビキノヤマタチバナノイロニイデテ》云々。また【四十四丁】紅之色莫出曾念死友《クレナヰノイロニナイデソオモヒシヌトモ》云々。八【四十五丁】に、消者雖消色出目八方《ケナバケヌトモイロニイデメヤモ》云々などありて、集中猶いと多し。皆、心に思ふ事の色にあらはるゝ也。八方のもは、助字にて、やは、うらへ意のかへるやにて、一首の意は、戀の歌にて、この奈良山をこゆるに、石根のこゞしきによそへて、さて音にはなきつとも、色にはあらはさじとなり。
 
(124)中納言安倍廣庭卿歌一首。
 
續日本紀云、慶雲元年七月乙巳、右大臣從二位阿倍朝臣御主人、功封百戸、四分(ノ)一傳2子從五位上廣庭1。和銅二年十一月甲寅、正五位下阿倍朝臣廣庭、爲2伊豫守1。四年四月壬午、授2正五位上1。靈龜元年五月壬寅、從四位下阿倍朝臣廣庭、爲2宮内卿1。養老二年正月庚子、授2從四位上1。五年六月辛丑、以2正四位下阿倍朝臣廣庭1、爲2左大井1。六年二月壬申、參2議朝政1。三月戊申、知2河内和泉事1。七年正月丙子、授2正四位上1。神龜四年十月甲戌、以2從三位阿倍朝臣廣庭1、爲2中納言1。天平四年二月乙未、中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨、右大臣從二位御主人之子也云々と見えたり。阿倍の氏は、上【此卷卅九丁】に出たり。
 
302 兒等之家道《コラガイヘヂ》。差間遠烏《ヤヽマドホキヲ》。野干玉乃《ヌバタマノ》。夜渡月爾《ヨワタルツキニ》。競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》。
 
兒等之家道《コラガイヘヂ》。
兒等《コラ》の等は、上【攷證二下五十七丁】にいへるが如く、助字にて、兒とは、男女にかぎらず、人を親しみ稱していへる言也。この事も、上【攷證二中八丁】ににいへり。家道は、家へゆく道なり。
 
差間遠烏《ヤヽマトホキヲ》。
韻會に、差較也とあれば、やゝとよまん事、明らけし。やゝといふ言は、本集四【五十五丁】に、八也多八如是爲而後二《ヤヽオホハカクシテノチニ》云々。七【廿七丁】に、吾爲裁者差大裁《ワガタメタヽバヤヽオホニタテ》云々などありて、(125)俗言に、よほどといふに當れり。また五【四十丁】に、漸々可多知都久保里《ヤヽ/\ニカタチツクホリ》云々ともありて、やゝ/\といふも、やゝとのみいふも、詞を重ねたると、重ねざるとにて、やうやうの意なれど。こゝなどは、そを轉じたるなり。間遠《マトホキ》は、本集十四【十七丁】に、麻等保久能久毛爲爾見由流《マトホクノクモヰ〓ミユル》云々。また【廿丁】麻等保久能野爾毛安波奈牟《マトホクノヌニモアハナム》云々。また【廿八丁】奈伎由久多豆乃麻登保久於毛保由《ナキユクタヅノマトホクオモホユ》云々などもありて、字の如く、其間の遠きにて、よほど間の遠きをといへる意也。さてこの句を、久老は、差母遠焉《ヤヽモトホキヲ》と、二字まで改めつるは、いかなる心ともしられねど、誤り也。烏を、をの假字に用る事は、常の事にて、間遠といふ事も、よく聞えたるをや。
 
野于玉乃《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上四丁】にも出たり。野干と書るは、冠辭考にいはれたる如く、ぬば玉は烏易扇《カラスアフギ》の事にて、和名抄草類に、本草云射干【上音夜】一名烏扇【和名可良須阿不岐】とありて、獣名に、考聲切韻云、狐、獣名射干也、關中呼爲2野千1、語訛也云々ともあれば、射干、野干通ずるに依て、野干玉を、ぬば玉とはよめるなり。
 
夜渡月爾《ヨワタルツキニ》。
渡《ワタル》とは、行《ユク》事にて、夜渡月とは、夜ゆく月といふ也。この事は、上【攷證二中十丁】にいへり。木集二【廿八丁】に、烏玉之夜渡月之隱良久惜毛《ヌバタマノヨワタルツキノカクラクヲシモ》云々なども見えたり。
 
競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》。
競といふ語は、木集一【十八丁】に、船並旦川渡《フネナメテアサカハワタリ》、舟競夕河渡《フナキホヒユフカハワタリ》云々。八【五十六丁】に、今日零之雪爾競而《ケフフリシユキニキホヒテ》、我屋前之冬木梅者《ワガニハノフユキノウメハ》、花開二家里《ハナサキニケリ》云々。九【卅三丁】に、古之益荒丁子《イニシヘノマスラヲトコノ》、各競妻問爲祁牟《アヒキホヒツマトヒシケム》云々。また【卅五丁】須酒師競相結婚《スヽシキホヒテアヒヨバヒ》云々。十【四十七丁】に、龍田山四具禮爾競色付爾家里《タツタヤマシグレニキホヒイロツキニケリ》云云。二十【二十五丁】に、佐和伎々保比弖《サワギキホヒテ》、波麻爾伊泥弖《ハマニイデヽ》云々。また【五十二丁】和多流日能加氣爾伎保比弖多豆(126)禰弖奈《ワタルヒノカゲニキホヒテタヅネテナ》云々。菅家萬葉集に、鴈之聲者風丹競手過禮鞆《カリカネハカゼニキホヒテスグレドモ》云々。宇津保物語、吹上卷に、花はいろをつくし、たゞいまさかりなり。風にきほひてちりかひ云々。源氏物語、若菜卷上に、あまになりなんとおぼしたれど、かゝるきほひには、したふやうに心あはたゞしと、いさめ給ひて云々などあるも、皆同じ語にて、あらそひ乘じてといふ意にて、月に乘じてゆくとも、妹が家道の間遠なれば、路のほどに月も入て、きほひあへむか、きほひあへじかしといふ意にて、かもの、かは、うらへ意のかへる詞、もは助字也。さて、敢《アヘ》んといふ語は、本集十【卅丁】に、公之御衣爾縫將堪可聞《キミガミケシニヌヒアヘムカモ》云
ワガヌルヨラヲコヨミモアヘムカモオクツユシモニアヘズシテミヤコノ
々。十三【十五丁】に、吾睡夜等呼讀文將敢鴨《》云々。十五【廿六丁】に、於久都由之毛爾安倍受之弖《》、京師乃山波伊呂豆伎奴良牟《ヤマハイロツキヌラム》云々。十八【十七丁】に、爾奈比安倍牟可母《ニナヒアヘムカモ》云々などありて、堪の字をもよめるが如く、其事にあたりて、其事に堪《タヘ》ざるをいへるにて、敢の字をも書たるは、たゞ訓を借たるのみなれば、この字になづみて、敢の字と思ふ事なかれ。さて、こゝは、月に乘じてゆくとも、月のいらば競ひたへじとなり。
 
柿本朝臣人麻呂、下2筑紫國1時。海路作歌二首。
 
303 名細寸《ナクハシキ》。稻見乃海之《イナミノウミノ》。奧津浪《オキツナミ》。千重爾《チヘニ》隱《カクリ・カクレ》奴《ヌ》。山跡島根者《ヤマトシマネハ》。
 
名細寸《ナクハシキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下卅七丁】にも出たり。久老が別記の説はいかゞ。
 
(127)稻見乃海之《イナミノウミノ》。
播磨國|印南《イナミ》郡の海なり。大和より筑紫に下らるゝに、播磨國を過られしなり。
 
千重爾《チヘニ》隱《カクリ・カクレ》奴《ヌ》。
舊訓、かくれぬとあるは、いかゞ。本集十五【十二丁】に、久毛爲可久里奴《クモヰガクリヌ》云々とあるにても、かくりぬと訓べきをしるべし。久老云、かくりぬと訓ては、沖つ波のかくるゝ事ときこゆれば、かくしねと訓べきにやと思へど、さてはいやし。千重に立へだつ沖つ波に、倭島根《ヤマトシマネ》はかくりぬといふ意なれば、かくりぬと訓べき也。卷五に、許奴禮我久利底《コヌレガクリテ》とあり云々。この説の如し。
 
山跡島根者《ヤマトシマネハ》。
本集此卷【卅五丁】に、懸而之努櫃日本島根乎《カケテシヌビツヤマトシマネヲ》云々などありて、此卷【十六丁】に、自明門倭島所見《アカシノトヨリヤマトシマミユ》云々とあるも、同じく海上より、大和の方の、遠く島の如く見ゆるを、大和島とはいへるにて、島根の根は、高根などのねと同じく、嶺《ネ》の意也。猶上【攷證此卷廿二丁】倭島の所、考へ合すべし。さて、一首の意は、人まろ、筑紫へ下らるゝ海路にて、印南の海より、大和の方を見めぐらせば、奧つ浪の、いくへともなく立重れるに、ふるさとの大和の方はかくれぬとなり。(頭書、別記あり。)
 
304 大王《オホキミ・スメロキ》之《ノ》。遠乃朝庭跡《トホノミカドト》。蟻通《アリガヨフ》。島門乎見者《シマドヲミレバ》。神代之《カミヨシ》所念《オモホユ・ゾオモフ》。
 
大王《オホキミ・スメロキ》之《ノ》。
大王とは、天皇より皇子までを申す稱にて、こゝは天皇をさし奉れり。されど、是を、舊訓、すめろぎと訓るは、いかゞ。天皇と書るをさへ、おほきみと訓べき所おほ(128)かるをや。
 
遠乃朝庭跡《トホノミカドト》。
 
遠乃朝庭《トホノミカドト》とは。木集五【五丁】に、大王能等保乃朝庭等《オホキミノトホノミカドト》、斯良農比筑紫國爾《シラヌヒツクシノクニニ》云々。六【廿五丁】天皇賜2酒節度使等1御製に、食國遠乃御朝庭爾《ヲスクニノトホノミカドニ》、汝等之如是退去者《イマシラガカクマカリナバ》云々。十五【廿丁】天平八年六月、新羅へ遣はさるゝ使人等が、筑紫國志麻郡にて作歌に、於保伎美能等保能美可度登《オホキミノトホノミカドト》、於毛敝禮杼《オモヘレド》云々。また【廿三丁】須倍呂伎能等保能朝庭等《スメロギノトホノミカドト》、可良國爾和多流和我世波《カラクニニワタルワガセハ》云云。【こは、唐國も、中國にまつろひ奉るよしにて、この國人の、唐國にて居る所をさしていへるなり。十七【四四丁】に、大王乃等保能美可度曾《オホキミノトホノミカドゾ》、美雪落越登名爾於弊流《ミユキフルコシトナニオヘル》云々。十八【廿九丁】に、於保伎見能等保能美可等々《オホキミノトホノミカドト》、末伎太末不官乃末爾未《マキタマフツカサノマニマ》、美由伎布流古之爾久太利來《ミユキフルコシニクダリキ》云々。二十【一八丁】に、天皇乃等保能朝廷等《オホキミノトホノミカドト》、之良奴日筑紫國波《シラヌヒツクシノニハ》、安多麻毛流於佐倍乃城曾等《アタマモルオサヘノキゾト》云々などありて、太宰府、または外をも、國府をさして、遠の朝廷といへるにて、遠は、都より遠きよし、朝庭《ミカド》とは、もと御門の意にて、天皇の大御門をいふ事なれど、それを轉じて、天皇をさしても、みかどと申し、【帝をみかどゝ申す事は、攷證廿 に云べし。】たゞ、宮中をもみかどといひ、また政を取行ふ所をも、みかどゝいへば、太宰府も、外の國府も、みな、その國々の政を取行ふ所にて、天皇より建おかるゝ館舍ゆゑに、これらをもおしなべて、みかどとはいふ也。さて朝庭の庭は、廷と書べきなれど、※[刀のノが斜め上がりの一]遒墓誌に、朝庭とかき、文選東京賦注に、庭朝廷云々とありて、古事記眞福寺」(本脱カ)には、みな朝庭とのみ書て、集中にも、胡庭と書る所多ければ、古俗しか書りと見ゆ。依て改る事なし。跡は、とての意也。上【攷證二上四十三丁】考へ合すべし。
 
(129)蟻通《アリガヨフ》。
蟻は借字、在にて、昔より人々の行かよふをいへる也。この事は、上【攷證二中十六丁】にいへり。
 
島門乎見者《シマドヲミレバ》。
島門《シマト》の門は、水門《ミナト》、追門《セド》、大門《オホト》などいふ、門と同じく、舟の出入する所をいへるにて、島門は、島にて、舟のかゝり居るべき所をいふ也。この事、上【攷證此卷十六丁】にもいへり。さて、この島門は、いづことも、所をしりがたし。考の説はたよりなし。
 
神代之《カミヨシ》所念《オモホユ・ゾオモフ》。
久老云、神代とは、遠き神の御代をさして申は、勿論なれど(卷十八、・家持卿の吉野行宮の歌に、可美乃みことの、かしこくもはじめたまひて云々とよめるは、雄略の御代を申せるなるべく、橘の歌に、神乃大御世爾田道間守《カミノオホミヨニタチマモリ》云々とあるは、垂仁の御代をさせり。されば、こゝの神代も、はじめて太宰府を置れたる御代をいふ也。さて、太宰の號は、推古紀十七年に、はじめて見えたれば、そのころ、府はおかれけるにや。また、續紀天平十五年十二月、始置2築紫鎭西府」と見えたるは、人まろの時よりは後也云々。この説の如し。一首の意は、筑紫太宰府は、天皇の遠き朝廷ぞとて、行かよふ島門《シマト》など見るにつけても、かの府をおかれし御代を思ふと也。
 
高市連黒人。近江舊都歌一首。
 
黒人の事は、上【攷證一下一丁】にいへり。近江舊都は、大津の京なり。この端辭を、略解に、近の上、見の字、歌の上、作の字脱しか云々といへるは、非也。こは、此卷【十八丁】に、長屋王故郷歌云々。ま(130)た【十九丁】阿倍女郎屋部坂歌云々。また【卅四丁】笠朝臣金村鹽津山作歌云々などの類にて、間に、にてといふ言を付て、聞意にて、この類、集中いと多し。
 
305 如是故尓《カクユヱニ》。不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》。 樂浪乃《サヾナミノ》。舊都乎《フルキミヤコヲ》。令見乍本名《ミセツヽモトナ》。
 
如是故尓《カクユヱニ》。
集中、かくしこそ、かくのみ、かくしてなどあるも、かくといへるは、皆かくのごとくといふ意にて、こゝも、かくの如くなる故にといふ也。
 
不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》。
この云を、久老が、いひしと訓しも、さる事ながら、下に令見乍《ミセツヽ》とあれば、云をいふと訓ても、過去の意はこもれり。
 
令見乍本名《ミセツヽモトナ》。
本名《モトナ》は借字にて、上【攷證二下七十五丁】にいへるが如く、よしなしといふ意にて、一首の意は、大津の舊郡を見なば、昔の事ども心にうかびて悲しからん。それ故に、見じといふものを、しひて人の誘ひゆきて、よしなく舊都を見せつる故に、かくの如くうらがなしと也。
 
右謌。或本曰 小辨作也。未v審2此小弁者1也。
 
謌。
謌は、玉篇に、謌亦作v歌とありて、歌と同じ。
 
小弁。
父祖、時代、僧俗も考へがたし。この人、本集九【十六丁】に、小辨歌云々とありて、小辨、小弁、小辯とあるも、弁辨辯三字通用して、同じ。そは、釆女氏冢地碑に、大弁官云々(131)とありて、吾友狩谷望之が、古京遺文に、弁亦作2辨字1、建2多胡郡1辨官苻碑、亦用v之。國策齊貌辨、呂覽作2劑貌辯1、古今人表作2※[日/比]辨1、元和姓纂作2昆弁1、則知、辨弁辯、古通用也云々といへるが如し。
 
幸2伊勢國1之時。安貴王作歌一首。
 
幸2伊勢國1。
この幸は、續日本紀云、天平十二年十月壬午、行2幸伊勢國1云々ありて、聖武天皇の行幸なり。この行幸の事、久老が別記に、いと長き論あれど、こゝには不用なれば、あげず。
 
安貴王。
安貴王は、紹運録を考ふるに、施基《シキ》皇子の孫にて、春日王の子なり。續日本紀云、天平元年三月甲午、授2旡位阿紀王從五位下1云々。十七年正月乙丑、授2從五位下阿貴王從五位上1云々と見えたり。
 
306 伊勢海之《イセノウミノ》。奧津白浪《オキツシラナミ》。花爾《ハナニ》欲得《モガ・モガモ》。※[果/衣]而妹之《ツツミテイモガ》。家※[果/衣]爲《イヘヅトニセム》。
 
奧津白浪《オキツシラナミ》。
奧津《オキツ》の津《ツ》津は、助字にて、浪を花に見なしたるは、あぐるにいとまなし。欲得を、もがと訓るは、義訓にて、もがは、願ふ意の詞にて、古事記中卷御製に、阿波志斯袁美那《アハシヽヲミナ》、迦母賀登和賀美斯古良《カモガトワガミシコラ》、迦久母賀登阿賀美斯古邇《カクモガトアガミシコニ》云々。本集五【卅八丁】に、千尋爾母何等慕久良志都《チヒロニモガトネガヒクラシツ》云々。また【卅九丁】千年爾母何等《チトセニモガト》云々。八【廿丁】に、公之三舶乃(132)梶柄母我《キミガミフネノカチカラニモガ》云々。十【卅丁】に、惜有君者明日副裳欲得《ヲシカルキミハアスサヘモガモ》云々などありて、集中猶多し。皆願ふ意にて、下へもの字を添て、もがもといふも同じくて、こゝは、白浪の花の如く見ゆるを、まことの花にもあれかしと願ふなり。
 
※[果/衣]而妹之《ツヽミテイモガ》。
※[果/衣]《ツツミ》は、本集此卷【廿丁】に、※[果/衣]持將去《ツヽミモテユカム》云々ともありて、※[果/衣]持意なり。
 
家※[果/衣]爲《イヘヅトニセム》。
※[果/衣]《ツト》は、本集此卷【卅三丁】に、家妹之濱※[果/衣]乞者《イヘノイモガハマツトコハバ》云々。七【十八丁】八に欲得※[果/衣]登乞者令取《ツトモガトコハバトラセム》云々。八【卅五丁】に、玉桙乃道去※[果/衣]跡《タマボコノミチユキヅトト》云々。十五【十三丁】に、伊敝都刀爾伊毛爾也良牟等《イヘツトニイモニヤラムト》云々。また【廿八丁】伊敝豆刀爾可比乎比里布等《イヘツトニカヒヲヒリフト》云々などありて、集中猶多く、俗にいふ土産《ミヤゲ》の意にて、つとゝいふは、※[果/衣]の字を訓る如く、つゝむの轉じたるなり。古しへ、何によらず、※[果/衣]て、人におくりりし也。そは、此卷【卅丁】に、※[果/衣]乾鰒、四【卅五丁】に※[果/衣]鮒などあるにてしるべし。考云、つとゝは、藁※[果/衣]《ワラツト》、薦※[果/衣]《コモツト》などいひて、物を包みたる事也。海山のものをば、さる物につゝみて、人にも贈り、家へも持て來る故に、つとゝはいへり。それを轉じて、つゝまぬ花などをもいふ事となりぬ。集中には、山づと、濱づと、旅づと、道ゆきづとゝもよみつ云々といはれつるが如し。一首の意は明らけし。
 
博通法師。往2紀伊國1。見2三穗石室《ミホノイハヤ》1。作歌三首。
 
博通法師。
ものに見えざれば、傳考へがたし。
 
(133)三穗石室《ミホノイハヤ》。
宣長云、三穗石室は、紀伊國日高郡三尾村の、廿五町ばかり東南の海べにあり。岩屋の中に、石の觀音の像あり。熊野道のうち、日高川、鹽屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原ありて、和田の松原といふ。この岩屋は、その西の際なり云々。この説によるべし。右の歌に、久米能若子我伊座家留《クメノワクゴガイマシケル》云々とある、久米の若子を、書紀顯宗紀に、弘計天皇【更名來目稚子】とありて、この天皇、亂を播磨國に避給ひし事あるに、引あてゝ、この三穗石室を、播磨國とする説もあれど、非なり。いかにとなれば、大和の京より、紀伊へゆかんに、播磨へかゝらん事、道の次いたくたがへるうへに、端辭に、往2紀伊國1見2三穗石室1とあるにても、宣長のいはれつる如く、紀伊國なる事、論をまたず。猶次にもいへり。
 
307 皮爲酢寸《ハタスヽキ》。久米能《クメノ》若《ワク・ワカ》子我《ゴガ》。伊座家留《イマシケル》。【一云。家牟《ケム》】。三穗乃石室者《ミホノイハヤハ》。雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。【一云。安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》。】
 
皮爲酢寸《ハタスヽキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下廿四丁】にもいへる如く、皮《ハタ》は借字にて、薄《スヽキ》の、旗《ハタ》の如く靡くを、旗薄《ハタスヽキ》とはいへる也。薄は、穗に出ぬまへは、穗の隱《コモリ》たるものなれば、隱《コメ》といふべきを、こを、くにかよはせて、くめとつゞけたるなり。そは、尻久米繩《シリクメナハ》といふも尻隱繩《シリコメナハ》の意なるもて、こめと、くめと、通ふをしるべし。さて、皮を、はたと訓るは、玉篇に、膚皮也とある、膚《ハダ》の意もて、皮を、はたとはよめる也。ある人、膚の意もて、書たれば、たを濁るべしといへれど、すべて借字に、清濁にかゝはらざる例にて、本集一【廿一丁】に、旗須爲寸《ハタスヽキ》云々。(134)書紀神功紀に、幡荻《ハタスヽキ》云々など書たるにても、たは清べきをしるべし。
 
久米能《クメノ》若《ワク・ワカ》子我《ゴカ》。
この久米《クメ》は、氏か、地名か、さだかならねど、書紀神武紀歌に、瀰都瀰都志倶梅能固邏餓《ミヅミヅシクメノコラガ》云々とあるは、氏也。この久米《クメ》の氏は、古事記上卷に、天津久米命【此者久米直等之祖也。】とありて、書紀神代紀下に、來目部遠祖、天※[木+患]津大來目云々と見え、姓氏録卷七に、久米臣、柿本同v租、天足彦國押人命五世孫、大難波命之後也云々。卷十四に、久米直、神魂命八世孫、味日命之後也云々など見えたり。久米てふ地名は、和名抄郡名に、伯耆國久米郡、美作國久米郡、伊豫國久米郡、郷名に、大和國高市郡久米、伊勢國員辨郡久米、遠江國磐田郡久米、周防國都濃郡久米、伊豫國喜多郡久米、筑前國志摩郡久米など見えたり。いづれならん。また書紀武烈紀歌に、思寐能和倶吾嗚《シミノワクゴヲ》云々。【こは鮪《シミ》臣にて、しみは名なり。】繼體紀歌に、阿※[竹/府]美能野《アフミノヤ》、※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》云々。【この※[立心偏+豈]那は毛野臣にて名なり。】これらは、名の下に、わくごと付たり。本集十四【廿丁】に、等能乃和久胡我《トノヽワクゴガ》云々とあるは、殿の若子にて、たゞ良人をいへりと聞えたり。されば、この久米の若子は、名か、姓か、地名か、いよゝさだかならざれど、本集此卷【四十九丁】に、見津見津四久米能若子我《ミツミツシクメノワクゴガ》云々とあると、まへに引る、神武紀の歌と、つゞけざまの全く同じきに、かの歌なるは、久米氏をよめるにむかへ見れば、こゝの久米も、多くは氏なるべくぞおもはるゝ。さるを、宣長の説に【この説は、はじめの説にて玉小琴に出たり。後には、非也とおもはれけるよし、古事記傳卷四十、意冨祁《オホケ》王の下にいはれたり。】この歌は、下【卅三丁】に生石村主眞人が歌に、大汝小彦名乃將座志都乃石室者《オホナムチスクナヒコナノイマシケムシツノイハヤハ》、幾代將經《イクヨヘニケム》と云ふ歌と、上の句の入ちがひたるにて、紀の國の三穗の石室に座せしは、大汝少彦名神にて、播磨國の志都の石室に座せしは、久米若子也。其故は、日本紀に、弘計天皇(135)更名來目稚子と見え、又此御兄弟、播磨國にかくれいましゝ事も見えたれば也。又かの歌の、作者の姓の生石《オホシ》は、播磨の國の地名と聞えたり。かの志都の石室は、今ある、石の寶殿といふものにて、其前に、社ありて、生石子《オホシコ》といふと也。さて、億計天皇、更名大石尊、また大爲《オホシ》、大脚《オホシ》などあるも、生石と一つにて、播磨に座せし時、その國の地名をとれる御名の《(マヽ)》聞えたり云々といはれつるは、非なり。いかにとなれば、この歌の上の句を、大汝小彦名乃將座《オホナムチスクナヒコナノイマシケム》と入かへ見る時は、次の二首の歌に、住家類人曾《スミケルヒトゾ》、常無里家留《ツネナカリケル》。また昔人乎相見如之《ムカシノヒトヲアヒミルゴトシ》などいふべくもあらず。また久米若子を、弘計天皇の御事とするも非也。天皇を申奉るならば、御位に即たまはぬまへの事なりとも、住ける人、むかしの人など、なめげには申すべからず。これにても、久米の若子は、久米氏の人なるべきをしるべし。さて若子は、まへに引る、書紀、集中の歌にも、假名に書る例ありて、若き人といへるにて、子は例の人を親しみ稱していふ言なり。集中、緑子をさし、若子ともいへど、こゝとは別也。おもひまがふべからず。
 
伊座家留《イマシケル》。
一云、家牟《ケム》とあるかた、まされるこゝちす。
 
三穗乃石室《ミホノイハヤ》。
まへにいへるごとく、紀伊國日高郡にて、本集此卷【四十九丁】に、加座※[白+番]夜能美保乃浦廻《カザハヤノミホノウラワノ》云々。また七【廿一丁】に、これと同じつゞけなるをも、こゝと同所なりと久老いへり。さもあるべし。さてこの三穗の石室の事、久米の若子の事など久老が別記にくはしく辨ぜり。その説いとよし。ひらき見てしるべし。さて石室《イハヤ》は、實の石室ならでも、たゞ山の側(136)など堀て、居るべき所としたるをも、いはやとはいふべし。和名抄居宅類に、説文云、窟【和名伊夜波】土屋也、一云堀《(マヽ)》v地爲v之と見えたる、これ也。書紀神武紀に、堀2※[うがんむり/倍ノ旁]於忍坂1云々。綏靖紀に、手研耳命於2片丘大※[うがんむり/倍ノ旁]中1、獨臥2于大牀1云々とある、※[うがんむり/倍ノ旁]は、説文に※[うがんむり/倍ノ旁]地室也とあれば、古へ、土を堀すめりし事多くありと見えたり。易繋辭に、上古穴居而野處云々。毛詩大雅箋に、未v有2寢廟1故覆v穴而居とあれば、中國も漢土も、古への俗は、おなじかりしなり
 
雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。
これも、一云|安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》とある方、まされるこゝちす。一首の意は、明らけし。さて、この歌につきて、こゝろみにいへる事あり。そは、書紀神武紀に、顧勅2道臣命1、汝宜dv師2大來目部1作2大室於忍坂邑1、盛設2宴饗1、誘v虜而取uv之、道臣命、於v是奉2密旨1、堀2※[うがんむり/倍ノ旁]於忍坂1、而選2我猛卒1與v虜雜居云々とある※[うがんむり/倍ノ旁]《ムロ》は、まへにもいへる如く、窟《イハヤ》の事にて、大來目部《オホクメベ》とあるも、こゝによしあれば、この歌に、久米の若子といふは、この大來目部にて、三穗の石室は、この忍坂の※[うがんむり/倍ノ旁]の傳へ異れるにはあらざるか。忍坂は、大和國城上郡なれば、この歌には叶はざれど、古へは、傳への異る事めづらしからで、書紀、古事記など、正しき歴史さへ、傳の異なる事、すくなからざれば、まして歌には、土俗のいふ事を、そのまゝによめる事も、歌のつねは《(マヽ)》傳へを誤る事、なかるべきにあらずとこそおぼゆれ。こは、必らず非なるべけれど、事の似たれば、たゞおどろかしおくのみ。
 
308 常磐成《トキハナス》。石室者今毛《イハヤハイマモ》。安里家麗騰《アリケレド》。住家類人曾《スミケルヒトゾ》。常無里家留《ツネナカリケル》。
 
(137)常磐成《トキハナス》。
常盤《トキハ》は、木集六【十三丁】に、タキノトコイハノツネナラヌカモ
 
云々とある床磐《トコイハ》と同じきを、こいの反、きなれば、つゞめて、ときはともいひて、磐は、いつもかはる事なきものなれば、ときはとはいへり。五【十丁】に、等伎波奈周迦久斯母等《トキハナスカクシモト》云々とありて、又七【十一丁】に、時齒成吾者通《トキハナスワレハカヨハム》云々ともあれば、ときはなすと訓べし。成《ナス》は如の意也。
 
住家類人曾《スミケルヒトゾ》。
こは、久米若子をさせり。
 
常無里家留《ツネナカリケル》。
常とは、かはる事なく、常に在をいひて、一首の意は、常磐にかはることなき石室は、千歳の後の今も、かはる事なく、むかしのまゝにて、かくありけれども、この石室に住ける久米若子は、いつのむかしか、失にたれば、その住ける人は、常にあるといふ事はなしと也。
 
309 石室戸爾《イハヤドニ》。立在松樹《タテルマツノキ》。汝乎見者《ナヲミレバ》。昔人乎《ムカシノヒトヲ》。相見如之《アヒミルゴトシ》。
 
石室戸爾《イハヤドニ》。
石室戸の戸を、宣長は、字のまゝに、戸なりといひ、久老は、外《ト》の意也といへれど、いづれもいかゞ。考に、戸は門也といはれつる如く、戸は借字にて、門《ト》の意也。いかにとなれば、古事記上卷に、天照大御神 見畏閉2天石屋戸《アメノイハヤト》1而、刺許母理《サシコモリ》坐也云々とあるも、石屋門なる證は、同卷の下に、稍自v戸出而臨坐之時云々とある、戸の門の意なるにても、石室戸は、石室門なるをしるべし。戸《ト》をとゝいふも、門に立るものなれば、いふにぞありける。本集十二【八丁】に、屋戸閉勿勤《ヤドサスナユメ》とあるも、屋門《ヤド》なり。
 
(138)汝乎見者《ナヲミレバ》。
汝《ナ》とは、松をさしていへり。なれといふを、なとのみいへるは、われをわとのみもいへる類也。上【攷證二下五十四丁】にもいへり。
 
昔人乎《ムカシノヒトヲ》。
これも、久米若子をさせる也。一首の意はくまなし。
(頭書、再考るに、如之をごとしと訓るは誤也。ごとしといふことなし。されば、如之の之もじは、添て書る字なる事、本集三【廿二丁】四【卅一丁】吾命《ワガイノチ》之云々。八【五十五丁】君《キミ》之云々。九【卅六丁】吾《ワレ》之云々。十六【十九丁】鬚無如之《ヒゲナキガゴト》云々。この外にも、猶多し。これらにより、こゝは、之もじをば、助字として、ごとゝのみ訓べし。)
 
門部王。詠2東市之樹1。作歌一首。
 
門部王。
紹運録を考ふるに、長親王の孫、川内王の子とせり。續日本紀に、和銅三年正月戊午、授2旡位門部王從五位下1。【また六年正月丁亥、授旡位門部王從四位下とあるは、亂れたるなるへし。】養老元年、授2從五位上1。三年七月庚子、始置2按察使1、令3伊勢國守從五位上門部王管2伊賀志摩二國1。五年正月壬子、授2正五位下1。神龜元年二月壬子、授2正五位上1。五年五月丙辰、授2從四位下1。天平三年正月丙子、授2從四位上1など見えて、卒年末v詳。また同紀に、天平十四年四月戊戌、授2從四位下大原眞人門部從四位上1。十七年四月庚戌、大藏卿從四位上大原眞人門部卒とあるは、別人なるべし。元暦本、また考異本に引る古本など、一首の下に、後賜大原眞人氏也の八字あるは、後人、續紀によりて加へたるさかしらなるべし。
 
(139)東市之樹。
古へ、京の東西に市を置れたる、その東なるを、東市とはいへり。職員令に、束市司正一人、掌d財貨交易器物眞僞度量輕重賣買估價、禁2察非違1事u云々。和名抄職官部に、東市司【比牟加之乃以知乃官】云々と見えたり。類聚三代格に、弘仁十二年夏四月丙戌、太政官符、一應v禁3制※[石+斤]2損路邊樹木1事、右得2大和國解1※[人偏+爾]、道邊之木、夏垂v蔭爲2休息處1、秋結v實民得v食焉云々。延喜左右京式に、凡道路邊樹、當司當家栽v之云々。また雜式に凡諸國驛、路邊植2菓樹1、令3往還人得2休息1云々などありて、古へ都鄙の道路に、樹を植さしめ給ひしかば、市にもあるべき事、もとより也。古事記中卷御歌に、和賀由久美知能《ワガユクミチノ》、迦具波斯波那多知婆那波《カクハシハナタチバナハ》云々。書紀雄略紀に、餌香市邊橘本云々。木集二【十六丁】に、橘之蔭履路乃八衢爾《タチバナノカゲフムミチノヤチマタニ》云々などあるも、道路の菓樹なり。目録には、之を中に作り、樹を木に作れり。
 
作歌。
略解に、作の字、衍文かといへるは、上に詠の字ある故にて、いかにもさる事なり。本集六【卅九丁】左注に、詠2思泥埼1作歌ともあれど、左注なれば、取て例とはなしがたし。またある人、この作の字を助んとて、上の詠字を、託《ヨセテ》の誤りとする説もあれど、わたくし事なればとりがたし。
 
310 東《ヒムガシノ》。市之殖木乃《イチノウヱキノ》。木足左右《コタルマデ》。不相《アハデ・アハズ》久美《ヒサシミ》。宇倍《ウベ》吾戀《コヒ・ワレコヒ》爾家利《ニケリ》。
 
東《ヒムガシノ》。
これを、ひんがしと訓べき語例は、上【攷證一下廿四丁】にいだせり。
 
(140)市之殖木乃《イチノウヱキノ》。
市に木をうゝる事は、まへにいへるがごとし。殖木は本集九【十二丁】に、殖木實成時《ウヱシキノミニナルトキ》云々。二十【五十九丁】に、宇具比須波宇惠木之樹間乎奈伎和多良奈牟《ウグヒスハウヱキノコマヲナキワタラナム》云々など見えたり。
 
木足左右《コダルマデ》。
本集十四【十六丁】に、可麻久良夜麻能許太流木乎《カマクラヤマノコタルキヲ》云々ともありて、木の年ふりて枝の垂るを、木垂とはいへるにて、植たる木の、枝葉しげりてたるゝまでは、久しきものなれば、久しき事のたとへとせり。
 
不相久美《アハデヒサシミ》。
この歌、下は戀の歌なるを、かの市之樹によそへて、いへるにて、この句は、妹にあはで、久しさにといふにて、美はさにの意也。
 
宇倍《ウベ》吾戀《コヒ・ワレコヒ》爾家利《ニケリ》。
宇倍は、承諾する言にて、紀記の歌に多く見え、集中、後世にも、いと多かり。集中、諾の字をよめるにても、意は明らけし。吾戀の吾の字、あまれるにつきて、代匠記にいへる説もあれど、非也。また久老が考に、古本には、いづれも吾の字なしとて、吾の字をけづれるもいかゞ。實に、さる本ありや、おぼつかなし。實は、ありとも、後の人のさかしらめきたり。また略解に、吾は衍文と定めしもいかゞ。吾の字は、義を以て、添て書る字にて、此卷【十六丁】に、家門をいへと訓、また【十七丁】白雪をゆきとよみ、また【廿六丁】昔者
 
(141)訓、十九【卅九丁】に、秋時をあきとよみ、又【四十二丁】平安をたひらけくと訓るなど、みな義を以て、文字を添書るにて、集中添字の一つの格なり。されば、吾戀の二字を、こひとのみ訓べし。さるを、宣長が、久美宇倍《クミウヘ》は、茱※[草がんむり/更]《クミ》と郁子《ウヘ》となり。和名抄※[草がんむり/(瓜+瓜)]類に、郁子、和名牟閇、これ也。※[草がんむり/(瓜+瓜)]類に入たれども、本菓なり。さて、不相《アハズ》は、いまだ實のなる時にあはざる也。戀にけりは、實のなるを待戀る也云々とて、不相久美宇倍《アハズクミウヘ》、吾戀爾家利《ワレコヒニケリ》と訓れつれど、茱※[草がんむり/更]も、郁子も、行路などにうゝべきものともおぼえず。奇説なれば、用ひがたし。一首の意は、殖たる木は、繁茂する事のおそきを、その木の年をへてしげりて、枝葉たるゝまでといふを、久しきたとへとして、その如く久しくあはざる故に、うべ戀にけり、戀しく思ふもうべなりと也。
 
※[木+安]作村主《クラツクリノスクリ》益人。從2豐前國1上v京時。作歌一首。
 
※[木+安]作村主益人は、父祖、官位、考ふべからず。※[木+安]作は氏、村主は姓なり。※[木+安]作の氏は、書紀には、みな鞍作とのみ書、續日本紀には、本集の如く、※[木+安]作と書り。思ふに、※[木+安]は鞍の俗字歟。または、椋垣、椋人などの氏に、椋をくらと訓ば、※[木+安]は椋の誤りならんもしるべからず。村主は、和名抄郷名に伊勢國安濃郡村主【須久利】とあれば、すぐりと訓べし。この人、本集六【卅一丁】に、内匠寮大屬※[木+安]作村主益人と見えたり。またこの人、いかなるよしありて、豐前國よりのぼれるにか、しりがたし。
 
311 梓弓《アヅサユミ》。引豐國之《ヒクトヨクニノ》。鏡山《カヾミヤマ》。不見久有者《ミズヒサナラバ》。戀敷牟鴨《コヒシケムカモ》。
 
(142)梓弓《アヅサユミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。梓弓の事は、上【攷證一上七丁】にいへり。梓弓引音《アツサユミヒクト》とつゞけしなり。
 
引豐國之《ヒクトヨクニノ》。
冠辭考には、弓を引とをむるよしにて、引とよむとつゞけしなるよし、いはれつれど、とをむを、とよむといひし例なけれ、《(マヽ)》とりがたし。久老が梓弓引音《アヅサユミヒクト》とつゞけしなるよしいへるにしたがふべし。そは、本集二【四十一丁】に、梓弓音聞吾母《アヅサユミオトキクワレモ》云々。四【廿丁】に、梓弓爪引夜音之遠音爾毛《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモ》云々などある如く、音を專らと訓るにても、音とつゞけたるをしるべし。さて豐國とは、豐前豐後をおしなべて、いふ號なり。和名抄國名に、豐前【止與久邇乃美知乃久知】豐後【止與久邇乃美知乃之利】とありて、豐後風土記に、大足彦天皇、詔2豐國直等祖菟名手1、遣v治2豐國1【中略】即勅2菟名手1云、天之端物、地之豐草、汝之治國、可v謂2豐國1、重賜v姓曰2豐國直1、因曰2豐國1云々と見えたり。
 
鏡山《カガミヤマ》。
本集此卷【四十五丁】に、豐國乃鏡山乎《トヨクニノカヾミヤマヲ》云々ともありて、楢山拾葉に、田河郡とせり。
 
不見久有者《ミズヒサナラバ》。
見ず久しくならばといふを、ひさとのみいへり。この事は、上【攷證二下七十六丁】にいへり、鏡山といふより、見るといひかけたり。
 
戀敷牟鴨《コヒシケムカモ》。
戀しからんといふを、からの反、かなるを轉じて、戀しけんとはいへり。本集四【五十三丁】に、雖見如不見申戀四家武《ミレドミヌゴトマシコヒシケム》云々とありて、また四【廿九丁】に、城山道者不樂牟《キノヤマミチハサブシケム》云々。八【五十六丁】辞に、消者惜家牟《ケナバヲシケム》云々。九【廿九丁】に、船之早兼《フネノハヤケム》云々。十【卅六丁】に、散惜兼《チラバヲシケム》云々などある、けんも、皆からんの意也。この格、集中猶いと多し。さて一首の意は、今までは、をりふしごとに、この(143)鏡山を見つれど、今京へ上りて、久しく見ずあらば、戀しからんといふにて、裏に、戀の心をこめたりと見ゆ。
 
式部卿藤原宇合卿。被v使改2造難波堵1之時。作歌一首。
 
式部卿藤原宇合卿。
この卿の傳は、上【攷證一下六十一丁】にいだせり。卿と書るは、三位に至られしなれば也。
 
被v使改2造難波堵1。
續日本紀に、神龜三年十月庚午、以2式部卿從三位藤原宇合1、爲2知造難波宮事1云々と見えたり。されば、難波堵は、難波宮といふことゝ心得る人もあるべけれど、本集一【十七丁】に、高市古人、感2傷近江舊堵1作歌とある所【攷證一下一丁】にいへるが如く、堵は都の意なれば、こゝは難波の都を、あらため造らしめ給ふ也。さて續紀によるに、こは神龜三年のことにて、奈良の京、聖武天皇の御宇にて、奈良の宮におはしましゝ御時なれど、このころ、かりそめに都を遷されし事、たび/\あり。そは、續日本紀に、天平十二年十月壬午、行2幸伊勢國1云々。十二月戊午、從2不破1發、至2坂田郡横川頓宮1、是日、右大臣橘宿爾諸兄、在v前而發、經2略山背國相樂郡恭仁郷1、以擬v遷v都故也。丙寅、從2木津1發、到2山背國相樂郡玉井頓宮1。丁卯、皇帝在v前、幸2恭仁宮1。始作2京都1矣。太上天皇皇后、在v後而至云々。十三年正月癸未朔、天皇始御2恭仁宮1受v朝云々。十六年閏正月乙丑朔、詔喚2會百官於朝堂1、問曰、恭仁難波二京、何定爲v都、各言2其志1、於v是陳2恭仁宮便宜1者、五位已上二十三人、六位已下百五十七人、陳2難波京便宜1者、五位已上二十三人、六位已下百三十人。戊辰、遣2從三位巨勢(144)朝臣奈※[氏/一]麻呂、從四位上藤原朝臣仲麻呂1、就v市問2定v京之事1。市人皆願d以2恭仁京1爲uv都。但有d願2難波1者一人、願2平城1者一人u云々。二月庚申、左大臣宣、勅云、今以2難波宮1定爲2皇都1、宜v知2此城京戸百姓任v意往來1云々などありて、神龜のころ、難波に都を遷されし事は、見えざれど、既に上に引る、天平十六年紀に、恭仁難波二京とさへあれば、はやくより、そのまうけありて、難波の都、修造せられし事、左の歌に、今者京引《イマミヤコヒキ》云々とよめるにてもしらる。さて、古く難波宮は、仁徳天塁、孝徳天皇などの都なりしを、修造せらるゝ也。故に、改造とは書るなり。
 
312 昔者社《ムカシコソ》。難波居中跡《ナニハヰナカト》。所言奚米《イハレケメ》。今者京引《イマミヤコヒキ・イマハミヤコビト》。都《ミヤコ》備仁《ビニ・ソナハリ》鷄里《ケリ》。
 
昔者社《ムカシコソ》。
昔者の、者の字は、例の添て書る字にて、下の今者の二字を、いまとよめるも同じ、この添て書る字の事は、まへにいへり。玉篇に、者助語也云々とも見えたり。
 
難波居中跡《ナニハヰナカト》。
居中は、假字にて、田舍の意也。書紀垂仁紀一書に、黄牛負2田器1將2往|田舍《ヰナカ》1云々。和名抄男女類に、楊氏漢語抄云。田舍人【井奈加比度】云々。順集に、ゐなか家にをんなにものいふをとこあり云々。伊勢物語に、むかしゐなかわたらひしける人の子ども云々など見えたり。考云、居中は、田居之所《タヰノカ》といふ言也。田を略き、奈は之に通ひ、かは所をいふ在所《アリカ》のかに同じ。さて田居とは、里人の常住る里より、田所は大かた遠ければ、秋はその田所に、假庵を作り居て、稻を苅干とりをさめ終りてのち、本の里へはかへりぬ。この秋をる所を、田居といふ也。是ぞ鄙人の專らなる故に、都の外の田居の所といふ也云々。この説の如くなるべし。既に、舊本今昔物語卷廿七に、かく人離れたる田居中なれば云々とも見えたり。
 
(145)今者京引《イマミヤコヒキ・イマハミヤコヒト》。都《ミヤコ》備仁《ビニ・ソナハリ》鷄里《ケリ》。
この二句を、いまみやこひき、みやこびにけりと訓るは、代匠記の訓なり。これによるべし。まへにもいへる如く、このころ都を難波に遷したまはんの御催しありて、難波の古京を修造し給ひし事ありしを、かくは詠れつるにて、いまこゝに都を引給ひしかば、はや都めきたりと也。さて、京引の引は、物をかしこよりこゝに移《ウツ》す意にて、本集十九【廿丁】に、山振乎屋戸爾引植而《ヤマブキヤドニヒキウヱテ》云々。出雲風土記に、三自之綱打挂而《ミツヨリノツナウチカケテ》、霜黒葛閉々那々爾《シモツヾラヘナヘナニ》、河船之毛々曾々呂々爾《カハフネノモソロモソロニ》、國々來々引來縫國者《クニククニクトヒキヽヌヘルクニハ》云々などある引も、移す意なり。また水を引、家を引などいふも、これ也。さてこの都の字の下に、印本一字の闕字あり。こは必らず誤りなるべし。こゝに文字なくても、意は聞えたり。都備《ミヤコビ》の備《ビ》は、神《カミ》び、鄙《ヒナ》び、田舍《ヰナカ》びなどのびと同じく、ぶりのつゞまり也。一首の意は、昔こそは、この難波を田合なりとて、おとしめいひけめ。今こゝに京を引移し給ひしかば、はや都めきたりとなり。(頭書、六【四十三丁】悲寧樂京郷歌に、皇之引乃眞爾眞爾《スメロギノヒキノマニマニ》云々とあるも、都を遷さるゝ也。)
 
土理宣命《トリセムリヤウ》歌一首。
 
土理は氏、宣令は名なり。この人、父祖、考ふべからず。續日本紀に、養老五年正月庚午、詔2從七位下刀利宣令等1、退朝之令v侍2束1焉云々。懷風藻に、正七位上伊預椽刀利宣令【年五十九】云々。本集八【廿三丁】に、刀利宣令歌など見えたり。刀利の氏は、姓氏録に見えざれども、續紀、懷風藻などに、刀利康嗣といふ人も見えたり。考云、このころは、字音のまゝにいひし名も多く、その中に、(146)陽候史令珍、同く令珪などは、必らず音に喚と見ゆれば、いましばらく從へり云々といはれつるが如し。さて印本、宜を宣に作れり。いま續紀、懷風藻、本集八などに依て改む。
 
313 見吉《ミヨシ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。瀧乃白浪《タギノシラナミ》。雖不知《シラネドモ》。語之告者《カタリシツゲバ》。古所念《ムカシオモホユ》。
 
瀧乃白浪《タギノシラナミ》。
吉野の瀧の事は、上【攷證一下七丁】にいへり。離宮のほとりなるべし。
 
雖不知《シラネドモ》。
いまだ、むかしの事を、くはしくもしらねどもといふにて、白浪しらねどもと、詞を重ねて、歌をなせり。
 
語之告者《カタリシツゲバ》。
告は假字にて、繼なり。本集此卷【廿七丁】に、語告言繼將去《カタリツギイヒツギユカム》云々。六【四十七丁】に、語嗣偲家良思吉《カタリツギシヌビケラシキ》云々などありて、集中いと多し。之《シ》は助字なり。
 
古所念《ムカシオモホユ》。
むかしと、《(マヽ)》この吉野に行幸などありし時をさせるなるべし。本集九【十五丁】に、古之賢人之遊兼《イニシヘノカシコキヒトノアソビケム》、吉野川原《ヨシヌノカハラ》、雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》などもよめり。一首の意は、古への事をばくはしくもしらざれど、この吉野の瀧を見るにつけて、古の事のおもはるとなり。
 
波多朝臣|少足《ヲタリ》歌一首。
 
父祖、官位、考ふべからず。波多の氏は、書紀天武紀に、十三年三月戊申朔、波多臣賜v姓曰2朝臣1云々。姓氏録卷四に、八多朝臣、石川朝臣同v祖、武内宿禰命之後也云々と見えたり。
 
(147)314 小浪《サヾレナミ》。礒越道有《イソコセヂナル》。能登湍河《ノトセガハ》。音之清左《オトノサヤケサ》。多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》。
 
小浪《サヾレナミ》。
字の如く、小さき浪をいへる也。このことは、上【攷證二下卅八丁】にいへり。
 
礒越道有《イソコセヂナル》。
浪の礒を越《コス》といふ、巨勢道《コセヂ》にいひかけたり。本集一【廿二丁】に、不知國依巨勢道從《シラヌクニヨリコセヂヨリ》云云。七【六丁】に、吾勢子乎乞許世山登《ワガセコヲコチコセヤマト》云々。十【六丁】に、吾瀬子乎莫越山能《ワガセコヲナコセノヤマノ》云々など詠る類なり。巨勢は、大和國高市郡なり。この事は、上【攷證一下卅丁】にいへり。
 
能登湍河《ノトセガハ》。
本集十二【十九丁】に、高湍爾有能登瀬乃河之《コセナルノトセノカハノ》云云ともあれば、巨勢の郷のうちなるべし、
 
多藝通瀬毎爾《タギツセゴトニ》。
多藝通《タギツ》は、たぎる意にて、瀧をたぎといふも、たぎるよし也、一首の意は明らけし。
 
暮春之月。幸2芳野離宮1時、中納言大伴卿奉v勅作歌一首。并短歌。 未v※[しんにょう+至]2奏上1歌。
 
幸2芳野離宮1。
續日本紀に、神龜元年三月庚申朔、天皇幸2芳野宮1。甲子、車駕還v宮云々と見えたる、この時にて、聖武天皇の行幸なり。さて離宮は、晉書天文志に(148)離宮六星天子之別宮云々とあるが如く、別宮也。
 
中納言大伴卿。
旅人卿なり。旅人卿は、まへ【廿三丁】に、大納言大伴卿とありて、極官大納言に至られ、集中皆極官をしるす例なれば、旅人卿を中納言としるすべきよしなけれど、この行幸のをり、中納言にておはしたりしかば、その當官を書るなるべし。この卷より末々は、かくのごと定らざる事多し。又まへ【廿四丁】に、中納言安倍廣庭卿とあるごとく、中納言には諱を書る例なれど、旅人卿は大納言に至られしかば、こゝにも諱を略けるなるべし。この諱をはぶけるにつきて、この卷より下は、家持卿の筆記にて、旅人卿は父なれば、諱を略けるよしいへる説あれど、おぼつかなし。さて、この前後、養老、神龜より、天平のはじめまで、公卿に大伴氏の人、旅人卿の外にあらざるにても、こは旅人卿なるをしるべし。この卿の事は、上【攷證此卷六十三丁】に出たり。
 
未v※[しんにょう+至]2奏上1歌。
※[しんにょう+至]は、此卷の未【五十五丁】左注にも、※[しんにょう+至]2數紀1とありて、考異本に引る異本には、ともに逕に作れり。廣韻に※[しんにょう+至](ハ)走貌と見え、玉篇に逕(ハ)路徑也とあれば、いづれにても、奏上を不v經意とはきこゆれど、※[しんにょう+至]逕經、字體近ければ、經の誤りなるべし。さて、この五字は、後人ゆくりなく、かくしるさんやうもなければ、もとよりこの歌にかくしるしありしを、そのまゝにこの集に載つるにもあるべし。(頭書、六【卅八丁】に未奏云々。古板書紀、卷十二【二十ウ】に徑を※[人偏+至]に作る。)
 
315 見吉《ミヨシ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。芳《ヨシ》野《ヌ・ノ》乃宮者《ノミヤハ》。山可良志《ヤマガラシ》。貴有師《タフトカルラシ》。水可良思《カハガラシ》。清有師《サヤケカルラシ・イサギヨカラシ》。天地(149)與《アメツチト》。長《ナガク》久《ヒサシク・ヒサシキ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。不改將有《カハラズアラム》。行幸《イデマシ・ミユキシ》之宮《ノミヤ》。
 
山可良志《ヤマカラシ》。
可良といふ語は、すべて詞を添てきく意にて、こゝは、山のよき故にかといふ意なり。この事は、上【攷證二下六十二丁】にくはしくいへり。志は助字也。
 
貴有師《タフトカルラシ》。
本集二【四十一丁】に、讃岐國者《サヌキノクニハ》、國柄加雖見不飽《クニガラカミレドモアカヌ》、神柄加幾許貴寸《カムガラカコヽダタフトキ》云々などありて、集中猶多し。
 
水可良思《カハカラシ》。
水を、印本、※[なべぶた/水]に作れり。誤りなる事明らかなれば、考異本に引る異本によりて改む。この水の字を、代匠記に、みづとよめるは、いかゞ。水は、かはと訓べし。山にむ(か脱カ)へいへるにても、川の意なるをしるべし。水の字を、かはとよめる事は、上【攷證二下六十八丁】にいへり。さて、こゝは、水の清き故にかてふ意にて、思《シ》は助字なり。
 
天地與《アメツチト》。
與は、ともにといふ意にて、本集一【廿六丁】に、弟日娘與見禮常不飽香聞《オトヒヲトメトミレドアカヌカモ》云々。十九【四十五丁】に、天地與久萬※[氏/一]萬代爾《アメツチトヒサシキマデニヨロツヨニ》云々などある與もじと同じ。さて、天地は、久しきものなれば、たとへにとりて、それと共に、久しく長く、萬代にもかはらずあらんとはいへり。
 
行幸《イデマシ・ミユキシ》之宮《ノミヤ》。
こは、離宮をいへるにて、離宮は行幸あるべき料なれば、行幸之宮とはいへり。行幸を、いでましと訓べき事は、上【攷證一上十丁】にいへり。本集十三【七丁】に、日向爾行靡闕矣《ヒムカヒニイデマシノミヤヲ》、有登聞而《アリトキヽテ》云々とも見えたり。さて、考異本に引る異本に、宮を處に作れり。此卷【廿三丁】に、我王之幸行處《ワカオホキミノイデマシドコロ》云々ともあれば、これもあしからねど、もとの方まされり。一首の意は明らけし。
 
(150)反歌。
 
316 昔見之《ムカシミシ》。象乃小河乎《キサノヲガハヲ》。今見者《イマミレバ》。彌清《イヨヽサヤケク・イヨ/\キヨク》。成爾來鴨《ナリニケルカモ》。
 
昔見之《ムカシミシ》。
考云、奈良へうつりましては、吉野の幸の稀にて、大み供も久しくしたまはざりし也けり。下に、帥の時に、吾命毛常有奴可《ワガイノチモツネニアラヌカ》、昔見之象小河乎《ムカシミシキサノヲガハヲ》、行見爲《ユキテミムタメ》云々とよまれしは、これよりのちなり云々。
 
象乃小河乎《キサノヲガハヲ》。
吉野のうち也。この地の事は、上【攷證一下五十九丁】にいへり。
 
彌清《イヨヨサヤケク》。
いよゝとは、本集五【四丁】に、伊與余麻須萬須《イヨヽマスマス》云々。二十【五十一丁】に、伊與餘刀具倍之《イヨヽトグベシ》云々などありて、事の次第にまさりゆくことにて、こゝは、この象の小河を、今見れば、むかし見しにもまさりて、さやけしとなり。一首の意は明らけし。
                     (以上攷證卷三上冊)
 
(151)山部宿禰赤人。望2不盡山1歌一首。并短歌。
 
山部宿禰赤人。
父祖、官位、考ふべからず。本集六【十一丁】に、神龜元年甲子冬十月五日、幸2于紀伊國1時、山部宿禰赤人作歌云々とありて、六【卅一丁】天平六年甲戌春三月、幸2于難波宮1之時歌六首のうちに、赤人の歌あれば、このころの人と見えたり。山部の氏は、書紀顯宗紀に、夫前播磨國司來目部小楯、求v仰擧v朕、厥功茂焉、所2志願1勿v難v言。小楯謝曰、山官宿所v願。乃拜2山官1、改賜2姓山部連氏1云々。天武紀に、十三年十二月己卯、山部連賜v姓曰2宿禰1云々など見えたり。山邊と書るは別也。
 
不盡《フジ》山。
都良香富士山記云、富士山者在2駿河國1。峯如2削成1、直聳屬v天、其高不v可v測。歴2覽史籍所1v記、未v有d高2於此山1者u也。其聳峯欝起、見在2天際1、臨2瞰海中1、觀3其靈基所2盤連1、亘2數千里間1。行旅之人、經2歴數日1、乃過2其下1、去v之顧望、猶v在2山下1、盖神仙之所2遊萃1也。【中略】古老傳云、山名2富士1、取2郡名1也云々。和名抄郡名に、駿河國富士【浮志】とありて、郡名をとれる也。
 
317 天地之《アメツチノ》。分時從《ワカレシトキユ》。神《カム・カミ》左備手《サビテ》。高貴寸《タカクタフトキ》。駿河有《スルガナル》。布士能高嶺乎《フジノタカネヲ》。天原《アマノハラ》。振放見者《フリサケミレバ》。度日之《ワタルヒノ》。陰毛隱比《カゲモカクロヒ》。照月乃《テルツキノ》。光毛不見《ヒカリモミエズ》。白雲母《シラクモモ》。伊去波代加(152)利《イユキハヾカリ》。時自久曾《トキジクゾ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。語告《カタリツギ》。言繼將往《イヒツギユカム》。不盡能高嶺者《フジノタカネハ》。
 
天地之《アメツチノ》。分時從《ワカレシトキユ》。
天地開闢の時よりといふにて、書紀神代紀に、古天地未v剖、陰陽不v分、渾沌如2※[奚+隹]子1、冥※[さんずい+幸]而含v牙、及d其清陽者薄靡而爲v天、重濁者淹滯而爲uv地云々。淮南子※[人偏+叔]眞訓に、天地未v剖、陰陽未v判云々なども見えたり。本集八【卅六丁】に、天地之別時由《アメツチノワカレシトキユ》云々などあるもおなじ。
 
神《カム・カミ》左備手《サビテ》。
神さびは、本は神すさびの意なレど、そを轉じて、ものゝふるびたる事にもとりなして、こゝは、不盡山の、天地開闢より今にいたるまで、かはる事なく、ふるびあるをいへり。この事は上【攷證三上十三廿七丁】にもいへり。
 
布士能高嶺乎《フジノタカネヲ》。
高嶺は、字のごとく、高きねといふ事にて、峯をみねといふも、眞嶺《ミネ》也。和名抄山石類に、祝尚丘曰v峯。【敷容切。和名美禰。又用2岑嶺二字1。岑音尋、嶺音領。】山尖高處也とあるにてもおもふべし。
 
振放見者《フリサケミレバ》。
天をふりあふぎ見る也。この事は、上【攷證二中十八丁】にいへり。
 
度日之《ワタルヒノ》。
わたるとは、そらを行ことにて、天を行日といへるなり。この事は、上【攷證二中十丁】にいへり。
 
(153)陰毛隱比《カゲモカクロヒ》。
かくろひは、かくりを延たる言にて、富士山の高さに、天を行月日のかげもかくり、光も見えずとなり。
 
伊去波代加利《イユキハヾカリ》。
代は伐の俗字なるべし。千禄字書に、戒を〓に作れる類也。諸本、皆、代なるを、拾穗本のみ伐に作れるは、さかしらなるべし。伊は發語にて、こゝろなく、山の高さに、雲だにも、すぐには行やらで、高嶺にゆきとゞこほる也。本集此卷【廿八丁】に、
 
天雲毛伊去羽計《アマクモモイユキハヾカリ》云々とも見えたり。また書紀天智紀童謠に、阿箇悟馬能以喩企婆婆箇屡麻矩儒播邏《アカゴマノイユキハヾカルマクズハラ》云々。本集二十【廿七丁】に、阿良志乎母多志夜波婆可流不破乃世伎《アラシヲモタシヤハヾカルフハノセキ》云々などあるも、とゞこほる意にて、こゝとおなじ。
 
時自久曾《トキジクゾ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。
本驟一【十六丁】に、三芳野之耳我山爾時自久曾雪者落等言《ミヨシヌノミヽガノヤマニトキジクゾユキハフルトイフ》云々ともありて、時自久は、集中、非時をもよみて、時ならずといふ意也。この事は、上【攷證一上四十二丁】にいへり。今も見るごとく、富士の嶺は、雪のきゆる時もあらねば、かくはいへる也。
 
語告《カタリツギ》。言繼將往《イヒツギユカム》。
本集五【卅一丁】に、言靈能佐吉播布國等加多利繼伊比都賀比計里《コトタマノサキハフクニトカタリツギイヒツカヒケリ》云々ともありて、こゝは、この富士の嶺の高く貴く、日月のかげもかくし、雲も行はゞかり、雪も時となくふれることゞもを、後の世にもかたり次、また見ぬ人にもいひつがんといふにて、往《ユク》は後々までもかたりゆかんといふ意也。この二句をもて、一首をとぢめて、下にまた不盡能高嶺者《フジノタカネハ》とくりかへしいひて、歌をなせり。告をつぎとよめるは、けをきに通はして、字を借たるなり。
 
(154)反歌。
 
318 田兒之浦從《タゴノウラユ》。打出而見者《ウチイデヽミレバ》。眞白衣《マシロニゾ》。不盡能高嶺尓《フジノタカネニ》。雪波零家留《ユキハフリケル》。
 
田兒之浦從《タゴノウラユ》。
この歌、新古今集に取られ、百人一首にえらばれしより、名高くなりにたれど、いたく訓誤られたり。そのよしは、次にあげたる考の説のごとし。さて考云、こは、まづ、打出て田兒の浦より見ればと心得べし。かく言を上下にしていふ事、集にも、古今歌集にも多し。さて、駿河の清見崎より東へ行ば、今、さつた坂といふ山の崖の下なる渚づたひに道あり。これ、古の大道也。其ほとりより、向ひの伊豆の山もとまでの入海を、すべて田兒の浦といへり。かくて、右の岸陰を行はつれば、東北へ入たる海のわたの所より、富士の嶺はじめて見ゆ。故に、打出て田兒の浦より見ればてふ意にて、かくつゞけたるをしる也。東路は、いづこはあれど、こゝにあふぎ見るにしくはあらず云々。
 
打出而見者《ウチイデヽミレバ》。
本集十三【六丁】に、相坂乎打出而見者淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフサカヲウテイデヽミレバアフミノミシラユフバナニナミタチワタル》云々ともありて、打《ウチ》は詞にて、うち見る、うちはへなどいふうちと同じ。
 
眞白衣《マシロニゾ》。
眞の《(マヽ)》例のみの意にて、付ていふ詞にて、物の至り極れるをいふなり。
 
雪波零家留《ユキハフリケル》。
考云、後世は、この初句を、たごの浦に、三の句を、しろたへの、五の句を、ふりつゝとかへて、それにつきて意をとくは、いかにぞや。さては、心高きこ(155)の人の歌にあらずなりぬ。眞白にぞとて、末を何の事もなく、ふりけるといひとぢめたるにこそ、この嶺をふと見放たる時のさま、しられて、傳るなれ云々。
 
詠2不盡山1歌一首。并短歌。
 
この歌、作者をしるさゞるを、拾穗本に、笠朝臣金村としるせるは、さる本ありしか、又は何ぞによりて定めつるにか、おぼつかなし。
 
319 奈麻余美乃《ナマヨミノ》。甲斐乃國《カヒノクニ》。打縁流《ウチヨスル》。駿河能國與《スルガノクニト》。己知其智乃《コチコチノ》。國之《クニノ》三中《ミナカ・サカヒ》從《ユ》。出立有《イデヽシアル》。不盡能高嶺者《フジノタカネハ》。天雲毛《アマクモモ》。伊去波代加利《イユキハバカリ》。飛鳥毛《トブトリモ》。翔毛不上《トビモノボラズ》。燎火乎《モユルヒヲ》。雪以《ユキモテ》滅《ケチ・キヤシ》。落雪乎《フルユキヲ》。火用《ヒモテ》消《ケチ・ケシ》通都《ツヽ》。言不得《イヒモエズ》。名不知《ナヅケモシラズニ・ナヲエシラセズ》。靈母《アヤシクモ》。座神香聞《イマスカミカモ》。石花海跡《セノウミト》。名付而有毛《ナヅケテアルモ》。彼《ソノ・ソガ》山之《ヤマノ》。堤有海曾《ツヽメルウミゾ》。不盡河跡《フジカハト》。人乃渡毛《ヒトノワタルモ》。其山之《ソノヤマノ》。水之《ミヅノ》當《タギチ・アタリ》焉《ゾ》。日本乃《ヒノモトノ》。山跡國乃《ヤマトノクニノ》。鎭十方《シヅメトモ》。座祇可聞《イマスカミカモ》。寶十方《タカラトモ》。成有山可聞《ナレルヤマカモ》。駿河有《スルガナル》。不盡能高峯者《フジノタカネハ》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
 
奈麻余美乃《ナマヨミノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。よとゆと通ずれば、生弓《ナマユミ》のかへりとつゞけしなり。へりの反、ひにて、かへりを約むれば、かひとなる也。
 
(156)打縁流《ウチヨスル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。本集二十【廿一丁】に、宇知江須流須流河乃禰良波《ウチエスルスルガノネラハ》云々ともありて、うちよするといふも、うちえするといふも、正しき本語にはあらで、實は打※[さんずい+甘]《ウチユス》る※[さんずい+甘]《ス》る髪《ガ》てふ意につゞけたりといはれたり。この説よしともおぼえねど、外に思ひ得し事もあらねば、しばらくしたがふのみ。
 
己知其智乃《コチコチノ》。
こち/\は、各《オノ/\》といふに當れり。この事は、上【攷證二下四十六丁】にいへり。
 
國之三中從《クニノミナカユ》。
甲斐國と駿河國との眞中よりといふにて、三《ミ》は例の眞の意也。書紀神代紀上訓注に、誓約之中、此云2宇氣譬能美難箇《ウケビノミナカ》1とある中も同じ。
 
出立有《イデヽシアル》。
之《シ》は助字にて、富士の嶺は甲斐駿河の二國の中《マナカ》より出てありと也。さて、考にも、久老が考にも、略解にも、之を立に改めて、出立有《イデタテル》と訓れしかども、出立《イデタチ》といふは、山にまれ、海にまれ、外へゆくに、先立出る足もとをいふ語なれば、こゝに叶ひがたし。されば、舊訓によるべき也。この出立《イデタチ》の事は、上【攷證二下五十三丁】にいへるを見て、こゝに叶はざるをしるべし。
 
飛鳥毛《トブトリモ》。翔毛不上《トビモノボラズ》。
山の高さに、鳥だにも飛ののることあたはざる也。説文に、岱山高峻、鳥飛不v越云々と見えたり。
 
燎火乎《モユルヒヲ》。雪以《ユキモテ》滅《ケチ・キヤシ》。
燎火とは、富士山の燎る火にて、古へより、あるはもえ、あるはきえつる事たび/”\あり。そは、續日本紀に、天應元年七月癸亥、駿河國言、富士山下雨v灰、灰之所v及木葉彫萎云々。日本紀略に、延暦十九年六月癸酉、駿河國言、自2去三月十四日1迄2四月十八日1、富士山巓自燒、晝則烟氣暗瞑、夜則火光照v天、其聲如v雷、灰下(157)如v雨、山下川色皆紅色也云々。三代實録に、貞觀六年七月十七日、甲斐國言、駿河國富士大山、忽有2暴火1、燒2碎崗巒1云々。古今集序云、今はふじの山も煙たゝずなり、ながらのはしもつくるなりと云々。更科日記に、富士の山はこの國なり。【中略】山のいたゞき、すこしたひらぎたるより、けぶりは立のぼる。夕ぐれは、火のもえたつも見ゆ云々。源光行海道記に、囘きつるふじのけぶりは、そらにきえて、くもに名ごりのおもかげぞたつ云々。十六夜日記に、ふじの山を見れば、けぶりもたゝず。むかし、ちゝの朝臣にさそはれて、いかになるみの浦なればなどよみしころ、とほつあふみの國までは見しかば、ふじのけぶりのすゑも、あさゆふたしかに見えしものを、いつのとしよりかたえしと問へば、たしかにこたふる人だになし云々などありて、ちかくも、寶永のころ、もえ出し事ありとぞ。さて、以《モテ》は、もたん、もち、もつ、もてとはたらく言にて、本集十五【三十一丁】に、奈爾毛能母※[氏/一]加《ナニモノモテカ》云々など見えたり。滅は、けち、けす、けせ、けし、けさんとはたらく言にて、けちは、自らけす意也。新撰字鏡に燼【火餘木也火介知】と見えたり。こゝは、いつも/\たゆる事なき雪をもて、燎る火をばけし、零る雪をば、また火もてけすといひて、歌をなせり。こは、あやしきしわざなれば、下のあやしくもいます神かもといふへかけて心得べし。
 
言不得《イヒモカネ・イヒカネテ》。名不知《ナヅケモシラニ・ナヲモシラセズ》。
言に出しても言かね、名づけんすべもしらぬばかり、くすしく、あやしき山ぞとなり。不得《カネ》をよめるは義訓にて、本集七【四十丁】に、忘不得裳《ワスレカネツモ》云々。十一【七丁】に、汝念不得《ナヲオモヒカネ》云々。十二【卅四丁】に、吾之待不得而《ワレマチカネテ》云々など見えたり。名の一字を、なづけもと訓るは、訓を添る格にて、この事は、上【攷證三上十七丁】に、舟公《フネコグキミ》云々とある所にもいひ、下【攷證四上卅一丁】に(158)も、くはしくいふべし。さて、不知を、しらにと訓る、にもじは、ずの意にて、ぬのはたらきなり。しらにといふ語は、古事記中卷歌に、宇迦々波久斯良爾登《ウカヽハクシラニト》云々。書紀崇神紀歌に、農殊末句志邏珥《ヌスマクシラニ》。本集一【八丁】に、鶴寸乎白土《タツキヲシラニ》云々。此卷【四二丁】に、有家留不知爾《アリケルシラニ》云々。十三【一六丁】に、田付乎白粉《タツキヲシラニ》云々。十五【十二丁】に、由久敝乎之良爾《ユクヘヲシラニ》云々などありて、猶多し。みな、にもじは、ずの意にて、書紀天智紀童謠に、倶伊播阿羅珥茹《クイハアラニゾ》云々。本集十七【九丁】に、見禮登安可爾氣牟《ミレドアカニケム》云々などある、にもじも、ぬのはたらきにて、ずの意なれば、こゝと同じ格なり。
 
靈母《アヤシクモ》。
これを、久老が考に、くすしくもよ《(マヽ)》めるは、いかゞ。あやしと、くすしは、いとよく似たる語なれば(どカ)、よく考ふれば、あやしは、あやしみかたぶく意、くすしは、めづらしき意なれば、こゝは、必らず、あやしと訓べき所なり。くすしといふ言は、上【攷證三上十三丁】に出たり。あやしといふ言は、本集七【卅六丁】に、恠毛吾袖者干時無香《アヤシクモワガコロモデハヒルトキナキカ》云々。九【十八丁】に、恠常所許爾念久《アヤシトソコニオモハク》云々。十四【六丁】に、阿波奈久毛安夜思《アハナクモアヤシ》云々など見えたり。こゝは、富士山を、あやしき山ぞと、かたぶくなり。
 
座神香聞《イマスカミカモ》。
この神とは、すなはち富士山をさせるにて、すべて、あやしき功あるものをば、何によらず、神とはいへり。雷を神といふも、あやしく鳴とゞろく故にいへるにて、虎、狼などをも神といへる事、書紀、集などに見えたり。【このあやしき功あるものを神といへる事は、古事記傳卷三にくはしく解れたれば、ひらき見てしるべし。】(頭書、石をさして神といふ。五ノ十三ウ。)この富士山も、まへにいへるごとく、そらゆく雲も行とゞこほり、飛鳥ものぼる事あたはずして、常に火も燎、そのもゆる火を雪もて消ち、またその雪をもゆる火もて消ちなどする、あやしき功ある故に、神とはいへるにて、本集九【廿二丁】登2筑波(159)山1歌に、衣手常陸國二並筑波山乎欲見君來座登《コロモテノヒタチグニノフタナミノツクバノヤマヲミマクホリキミキマセリト》、【中略】男神毛許賜女神毛千羽日給而《ヲノカミモユルシタマヒヒメカミモチハヒタマヒテ》云々。また【廿六丁】三諸乃神能於婆勢流泊瀬河《ミモロノカミノオバセルハツセガハ》云々。十六【廿九丁】越中國歌に、伊夜彦乃神乃布本《イヤヒコノカミノフモトニ》云々などあるも、山をさして神とはいへり。そは、禮記祭法に、山林川谷邱陵能出v雲爲2風雨1、見2怪物1皆曰v神云々。文選東都賦に、山靈護v野屬2御方神1云々などあるにても思ふべし。また富士山記に、山有v神名2淺間大神1云々。延喜神名帳に、駿河國富士郡淺間神社云々などあるは、こゝに神とさせるにはあらず。思ひまがふべからず。
 
石花海跡《セノウミト》。
石花の二字を、せの假字に用ひしは借字也。印本、和名抄龜貝類に、崔禹食經云、厖蹄子【和名勢】貌似2犬蹄1、而附v石生者也。兼名苑注云、石花二三月皆舒2紫花1、附v石而生、故以名v之云々とあり。これを古本和名抄に、和名世伊とあるは非也。いかにとなれば、本集十二【十六丁】に、馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イブセクモアルカ》云々と、石花の二字を、せの假字に用ひたるにても、石花は、せとのみいふべき事、論なきうへに、三代實録に、貞觀七年十二月九日、駿河國富士大山西峯、忽有2※[火+織の旁]火1、燒2碎巖谷1。【中略】遣2使者1檢察、埋2※[賤の旁+立刀]《セノ》海1千許町云々とある※[賤の旁+立刀]海も、せのうみと訓べき事、※[賤の旁+立刀]は、唐韻に初限切、集韻に楚限切とありて、せんの音なれば、せの假字に用ひし也。安をあ、雲をう、遠ををの假字に用ふる類也。さて、この石花《セ》の海の事は、次にいふべし。湖水を海といふ事をば(以下空白)
 
名付而有毛《ナヅケテアルモ》。
石花の海と名づけて、その山にある池もといへるにて、もの字は、不盡河にむかへたるなり。
 
(160)彼《ソノ・ソガ》山之《ヤマノ》。堤有海曾《ツヽメルウミゾ》。彼を、舊訓、そがと訓るは、いかゞ。集中、彼所の二字を、そことよめる所多ければ、こゝは、そノと訓べし。そのといふ言は、それをといふ言にて、そを、そがなどいふも皆同言也。こゝの意は、石花《セ》の海と名付てある湖も、この富士山にありて、この山につゝまれたる海ぞと也。されば、こゝに富士山のつゝめる海ぞとあるになづみて、考に、嶺の上に、又峯あまた立たる中に、めぐり、今の道一里ばかりの湖あり。ゆゑに、其山のつゝめる海とはいふ也云々。略解に、せの海とは、鳴澤の事也云々とあるは、いかゞ。富士のなる澤は、本集十四【四丁】に、布自能多可禰乃奈流佐波能其登《フジノタカネノナルサハノゴト》云々とありて、富士山記に、頂上有2平地1、廣一許里、其頂中央窪下、體如2炊甑1、甑底有2神池1、池中有2大石1、石體驚奇、宛如2蹲虎1。亦其甑中、常有v氣蒸出、其色純青、窺2其甑底1、如2湯沸騰1云々とある、これ鳴澤の事にて、こは山頂に今もありて、方十町ばかりの穴なりといへり。石花の海は、まへに引る如く、埋2※[賤の旁+立刀]海1一千町とありて、また三代實録に、貞觀六年五月二十五日、駿河國言、富士郡【中略】大山西比有2本栖水海1、所v燒巖石、流埋2海中1、遠三十許里、廣三四里云々とあるも、石花の海をいへるなるべく、かくいと廣き湖はれば、鳴澤とはいたくたがへり。この湖、日本紀略に、承平七年十一月、甲斐國言、駿河國富士山神火埋2水海1云々ともありて、かくたび/\に埋れて、今はありと聞えねど、こは富士山の中ばにありとおぼし。
 
不盡河跡《フジカハト》。
書紀皇極紀に、三年七月東國不仁河邊人云々。三代實録に、貞觀六年十二月十日癸亥、富士郡蒲原驛遷2立於富士河東野1云々。富士山記に、有2大泉1、出v自2腹(161)下1、遂成2大河1云々などある、これにて、富士山より落る水なり。更科日記に、ふじ川といふは富士の山より落くる水なり云々と見えたり。こは、今も東海道蒲原と吉原との間にありて、皆人よくしれる所なれば、さらにいはず。跡《ト》は、とての意也。
 
人乃渡毛《ヒトノワタルモ》。
この川こそ、富士山より流れ落る川にて、富士川なれとて、人のわたるもといへる也。
 
水之《ミヅノ》當《タギチ・アタリ》焉《ゾ》。
富士川とて人のわたる川、この富士山よりたぎちおつる水ぞと也。當の一字を、たぎちと訓るにつきて、宣長が、當を、師は、たぎちと訓れたり。然らば、知の字脱たる歟。當麻などの例によるに、たぎとは訓べし。たぎちとは訓がたからん云々とて、水乃當烏《ミヅノタギケリ》と訓れつるは、いかにもさる事にて、本集十【四十一丁】に、瀬呼速見落當知足《セヲハヤミオチタギチタル》云々ともあれば、當の下、知の字脱たるなるべし。また考ふるに、七【八丁】に瀧至《タギチユク》と、瀧の一字を、たぎちと訓るを見れば、當も、本より、たきと訓べき字なれば、瀧の意もて、たぎちと訓しにもあるべし。さて、たぎちといふ言は、上【攷證一下九丁】にもいへるが如く、たぎち、たぎつとはたらく語にて、水のたぎる意なれば、瀧をたぎといふも、たぎる意もていへる也。六【廿九丁】に、石走多藝千流留泊瀬河《イハヽシリタギチナガルヽハツセガハ》云々。十一【卅四丁】に、高山之石本瀧千逝水之《タカヤマノイハモトタギチユクミヅノ》云々。十九【十二丁】に、山下響墮多藝知《ヤマシタトヨミオチタギチ》云々など見えたり。焉を、印本、烏に作り、久老が考には、古本によれりとて、曾に改めたり。曾の字とすれば論なけれど、久老がさかしらならんもしりがたければ、したがひがたし。印本、烏とある烏の字も、そと訓がたきを、こゝは、まへに彼山之堤有海曾《ソノヤマノツヽメルウミゾ》云々とあるに對へたる對句なれば、必らず、たぎちぞといはでは(162)叶はざる所なれば、拾穗本によりて改めつ。焉は、玉篇に、矣連切、語已之詞也、是也とありて、何は何ぞといふ、ぞもじも、たしかにいひことわる意にて、語のをはりにおく、てにをはなれば、その意を得て、焉の字をばかけるにて、これ義訓なり。四【五十八丁】七【廿六丁】などにも、焉を烏に誤り、十一【十六丁】には、焉を鳥に誤れり。九【卅四丁】には、正しく焉とかけり。焉を烏に誤れる例は、下【攷證此卷八十七丁】助字の焉の字の所、考へ合すべし。
 
日本乃《ヒノモトノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。わが中國は、東のはてにて、書紀推古紀に、十六年九月漢土におくり給ふ書に、東天皇敬白2西皇帝1云々とありて、また日出處天子致2書日没處天子1ともかゝれし論を、善隣國寶記にのせたり。されば、日本とは、日の出る本つ國といふ意にて、山跡は日本をすべいふ名なる事、上【攷證一下五十一丁】にいへるが如く【大和の一國をやまとゝいふとは別なり。】なれば、日本《ヒノモト》の山跡《ヤマト》とはつゞけしにて、春日《ハルヒ》をかすがの國、飛鳥《トブトリ》のあすかの里などつゞくる格なり。續日本後紀卷十九、興福寺の僧の奉る長歌に、日本乃野馬臺乃國遠《ヒノモトノヤマトノクニヲ》云々とつゞけしも、こゝと同じ。
 
山跡國乃《ヤマトノクニノ》。鎭十方《シヅメトモ》。
山跡と書るは借字、日本といへるにて、大和一國の《(マヽ)》さしていへるにはあらず。中國をすべいふ名なる事、上にいへるが如し。國《クニ》の鎭《シヅメ》とは、國の守《マモリ》といはんが如し。續日本紀天平寶字八年十月詔に、國乃鎭【止方】《クニノシヅメトハ》皇太子乎|置定《オキサダメ》天云々ともありて、こは、しづまり、しづめ、しづむとはたらく語にて、鎭座《シヅマリマス》といふは、自《ミヅカ》らしづまる意にて、外へ遷《ウツ》る事なく留《トヾマ》り座《マス》事なるよし、上【攷證一下卅一丁】にいへるが如く、しづめとは、此方《コナタ》より彼方《カナタ》をしづむる意なれば、守り安ずる意とはなるなり。されば、この富士山は、たぐひなき高山にて、うご(163)きなくこゝにありて、日本の守りともなれるよしにはいへり。すべて、大山をば、漢土にても國の鎭とはいへり。そは、毛詩序韓奕箋に、梁山于2韓國之山1最高大、爲2國之鎭1云々。文選東京賦に、大室作v鎭□。注に、大室嵩高別名、言以2嵩高之嶽1、爲2國之鎭1云々。周禮大司樂注に、四嶺山之重大者、謂2揚州之會稽、青州之※[さんずい+斤]山、幽州之醫無閭、冀州之霍山云々など見えたり。
 
座祇可聞《イマスカミカモ》。
まへに靈母座神香聞《アヤシクモイマスカミカモ》とあると同じく、神とは、富士山をさしていへり。この神の字を、活字本、祇に作れり。いづれにてもありなん。
 
寶十方《タカラトモ》。成有山可聞《ナレルヤマカモ》。
説文に寶珍也とありて、何にまれ、めづらしく貴きものをさして、寶とはいへるにて、人民をさして大御寶といふも、また寶の子らなどいふも、うつくしみのあまりにいへるにて、この富士山も、たぐひなき高山にて、しかも、けしきさへとゝのひたる山なれば、わが中國の寶ともなれる山かもとはいへる也。
 
雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。
かくいろ/\の靈《アヤ》しき事さへありて、けしきもとゝのひたる山なれば、かく見つゝあれども、あかれぬかもとなり。
 
反歌。
 
320 不盡嶺尓《フジノネニ》。零《フリ》置《オケル・オク》雪者《ユキハ》。六月《ミナヅキノ》。十五日消者《モチニケヌレバ》。其夜布里家利《ソノヨフリケリ》。
 
六月《ミナヅキノ》。
六月を、みなづきといへる事、たしかに假名に書る例は見えねど、拾遺集賀に、みなづきのなごしのはらへ云々ともあれば、六月を、みなづきとよまんこと論なし。古今集の(164)端詞に、みなづきのつごもり云々ともあれば、こは詞にて、六月とありしを、草假名あらためたらんもはかりがたければ、證とはなしがたし。この訓義はおもひえず。類林に、此訓、水無にはあらず。なの字は添たる也。水《ミナ》月といはんがごとし云々。考別記に、六月をみなづきといふは、神鳴《カミナリ》月てふこと也。加と利を略けり。この月は、專ら雷のなれゝばいふにて、神無月てふに對たる名也云々などいはれつるは、おぼつかなし。
 
十五日消者《モチニケヌレバ》。
十五日を、もちとよめるは、義訓なり。本集十二【十八丁】に、十五日出之月乃《モチノヒニイデニシツキノ》云々。十三【廿八丁】に、十五月之多田波思家武登《モチヅキノタヽハシケムト》云々など見えたり。猶、上に、三五月を、もち月と訓る所【攷證二下九丁】考へ合すべし。さて、この富士山は、いまも實に雪たゆる事まれにて、仙覺抄に、富士の山には雪のふりつもりてあるが、六月十五日に、其雪のきえて、子の時より下には、又ふりかはると、駿河國の風土記に見えたりといへり云々とあるごとく、古くより、かゝる説のありしなるべし。一首の意はくまなし。
 
321 布士能嶺乎《フジノネヲ》。高見恐見《タカミカシコミ》。天雲毛《アマクモヽ》。伊去羽計《イユキハヾカリ》。田莱引物緒《タナビクモノヲ》。
 
高見恐見《タカミカシコミ》。
見は假名にて、さにの意也。この事は、上【攷證一上十丁】にいへり。こゝは、富士の嶺を、高さに、恐さに、わがえのぼらずと、意をふくめたる也。
 
伊去羽計《イユキハヾカリ》。
まへにいへるが如く、伊は發語。行憚るにて、行とゞこほる意也。
 
(165)田莱引物緒《タナビクモノヲ》。
莱を、考異本に引る古本に、菜に作れり。莱は、なと訓べきいはれなく、莱菜、字體の近きまゝに誤れる事、明らかなれば、菜に改むべし。されど説文に、菜草之可v食者とありて、毛詩小雅疏に、莱草名、其葉可v食とあれば、いづれも食料のもの也。されば、莱を菜の義にかりて用ひしも、しりがたければ、しばらく改むる事なし。田莱引《タナビク》とは、そらに引わたし、なびける也。このことは、上【攷證二中卅四丁】にいへり。物緒《モノヲ》を、考に、ものよといふ意に解れしはたがへり。ものをは、上へかへるてにをはにて、一首の意は、この富士の峯に、天雲だにも行はゞかりつゝもたなびくものを、この山の高さに、かしこさに、われはえのぼらずと、上へかへりて、意をふくめたるてにをはなり。
 
右一首。高橋連蟲麻呂之歌中出焉。以v類載v此。
 
右一首とは、右の布士能嶺乎高見恐見《フジノネヲタカミカシコミ》云々といふ歌一首は、蟲麻呂の歌集の中に出たりといふにて、長歌と短歌は、むしまろにあらず。さて、この人、父祖、官位、考ふべからず。本集六【廿四丁】に、天平四年壬申、藤原宇合卿遣2西海道節度使1之時、高橋連蟲麻呂作歌云々とあれば、このころの人と見えたり。高橋氏は、姓朝臣なると、連なると、二つあり。朝臣なるは皇別なり。連なるは、姓氏録卷十四に、高橋連、神饒速日命七世孫、大新阿命之後也云々。卷十六に、饒速日命十二世孫、小前宿爾之後也云々。卷十九に、饒速日命十四世孫、伊己布都大連之後也云々など見えたり。このむしまろは、いづれの末ならん。さて、歌の字の下、集の字を脱たる歟。本集九【廿四丁廿八丁卅六丁】に、三所まで集の字あり。よく可v考。
 
(166)山部宿禰赤人。至2伊豫温泉1作歌一首。并短歌。
 
伊豫温泉の事は、上【攷證一上十三丁】にいへり。書紀天武紀に、十三年十月壬辰、建2于人定1大地震。【中略】伊豫湯泉没而不v出云々とありで、この時、すでにほろびしと見ゆれど、赤人は、神龜、天平のころの人なれば、その後、また温泉わき出ぬと見えたり。
 
322 皇神祖之《スメロギノ》。神乃御言乃《カミノミコトノ》。敷《シキ》座《マセル・マス》。國之《クニ》盡《ノハタテニ・シシ》。湯者霜《ユハシモ》。左波爾雖在《サハニアレドモ》。島山之《シマヤマノ》。宜國跡《ヨロシキクニト》。極此《コゴシ》疑《カモ・キ》。伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》。射狹庭乃《イサニハノ》。岡爾立而《ヲカニタヽシテ》。歌思《ウタオモヒ。ウタフオモヒ》。辭思爲師《コトオモハシシ・イフオモヒセシ》。三湯之上乃《ミユノウヘノ》。樹村乎見者《コムラヲミレバ》。臣木毛《オミノキモ》。生繼爾家里《オヒツギニケリ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。音毛不更《コヱモカハラズ》。遐代爾《トホキヨニ》。神《カム・カミ》左備將往《サビユカム》。行幸《イデマシ・ミユキシ》處《ドコロ》。
 
皇神祖之《スメロギノ》。
遠祖の天皇をさして、すめろぎとは申せり。この事は、上【攷證一上四十八丁】にいへり。本集一【十七丁】七に、天皇之神之御言能大宮者《スメロギノカミノミコトノオホミヤハ》云々。二【廿七丁】に、天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》云々。六【四十二丁】に、皇祖乃神之御代自敷座流國爾之有者《スメロギノカミノミヨヨリシキマセルクニヽシアレバ》云々などありて、猶いと多し。
 
(167)神乃御言乃《カミノミコトノ》。
神は天皇を申。御言は借字にて、命なり。この事も、上【攷證一上四十八丁】にいへり。
 
敷《シキ》座《マセル・マス》。
知り領しませるといふ也。この言は、上【攷證二中四十四丁】にも出たり。印本、座を※[座の三画目なし]に作れど、板のかけたる事しるければ、改む。
 
國之《クニ》盡《ノハタテニ・シシ》。
舊訓は云までもなき誤りにて、代匠記、考などに、くにのこと/”\と訓れしも、いかが。盡は、上【攷證二中二十八丁】にいへるが如く、こと/”\とも訓べき字なれど、集中、くにのこと/”\とつゞけたる所なし。久老が考云、卷八に敷座流國乃波多弖爾開爾※[奚+隹]類櫻花能《シキマセルクニノハタテニサキニケルサクラノハナノ》云々とあるを、卷七に舟盡可志振立而《フネハテヽカシフリタテヽ》云々とある盡の字に、相むかへて考れば、こゝも、はたてとよみて、國の極《ハテ》をいふ言、聞えたり云々といへる、この説まことにさる事也。これによるべし。古今集戀一に、夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふ、あまつそらなる人をこふとてとあるも、雲のかぎりにいふ意にて、【この雲のはたての解、諸抄みなたがへり。この事は、古今集標注にいふべし。】こゝも、くにのかぎりにといふ意なり。
 
湯者霜《ユハシモ》。
霜は借字にて、助字也。集中いと多し。この助字の事は、宣長が、詞の玉の緒卷五に、くはしく辨ぜり。
 
左波爾雖在《サハニアレドモ》。
佐波は多也。この事は、上【攷證一下六丁】にいへり。こゝの意は、代々の天皇の、しろしめせる國のかぎり、いづこにも、温泉は多くあれどもと也。
 
島山之《シマヤマノ》。
伊豫の國は、四國のうちにて、島國なれば、その國の山を島山とはいへり。既に古事記上卷に、次生2伊豫之二名島1云々とも見えたり。本集十一【八丁】に、淡海奧島山《アフミノミオキツシマヤマ》云(168)云などあるも、島の山をさしていへり。
 
宜國跡《ヨロシキクニト》。
よろしとは、飽ぬ所なく、足りとゝのひたるをいへるなる事、上【攷證一下卅七丁、二下八丁】にいへるが如し。跡もじは、下に射狹庭乃崗爾立之而《イサニハノヲカニタヽシテ》といふへかゝりて、とての意なり。久老が考に、跡は添ていふ言なるよしいへるは、いかゞ。
 
極此《コゴシ》疑《カモ・キ》。
舊訓、こゞしきと四言に訓れど、代匠記に、はじめて、こゞしかもとよまれしによるべし。極はごくの音なるを、くをこに轉じて、借用ひし也。そは、甘甞備をかみなび、雜豆蝋をさにづらふ、鐘禮をしぐれなど訓ると同例なり。疑《カモ》は、こゝなるは歎息の詞なれど、常にうたがふ意に用る事多き詞なれば、その義もて、疑の字をば書る也。本集十【卅八丁】に、※[雁/鳥]宿宥疑《カリネタルカモ》云々なども書たり。さて、この詞は、常には、こゞしきかもといふべる(きカ)詞なるを、きを略きていへるは古言也。五言、久夜斯可母可久斯良摩世婆《クヤシカモカクシラマセバ》云々。十七【四十一丁】に、許其志可毛伊波能可牟佐備《コヾシカモイハノカムサビ》云々などあるにても思ふべし。さて、こゞしてふ詞は、上畑【攷證三上六十六丁】にいへるが如く、岩根の凝《コリ》重りて、嶮岨なるをいへるなり。
 
伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》。
久老が考云、今、石鐵山といふと西村重浪いへり云々とある、これか。いかにまれ、温泉のほとりなる事明らけし。
 
射狹庭乃《イサニハノ》。岡爾立而《ヲカニタヽシテ》。
射挾庭乃《イサニハノ》崗は地名なり。延喜神名帳に、伊豫國温泉郡伊佐爾波神社云々。仙覺抄に、伊豫國風土記を引云、以2上宮聖徳(169)皇子1、爲2一度1、及侍高麗惠慈僧葛城臣等也、立2湯岡側碑文1、其立2碑文1處、謂2伊社邇波之岡1也。所2以名2伊社邇披1者、當土諸人等、共碑文欲v見、而伊社那比來、因謂2伊社邇波1本也。云云、以2岡本天皇并皇后二躯1、爲2一度1、于v時於2大殿戸1、有v椹、云2臣木1、其上集2鵤比米1。天皇爲2此鳥1、繋2稻穗1、養賜也云々とありて、またこの風土記を、釋日本紀卷十四にも引、その碑文をも載たれど、こゝに用なければ、もらせり。立之而《タヽタシテ》は、考云、風土記に、景行天皇より後の岡本天皇まで、五度の幸ありしといへり。【聖徳皇子もこの中也。】しかれば、何れをも申すべけれど、次の句をおもふに、聖徳皇子、また岡本天皇を、こゝには申すか云々といはれつれど、こゝは正しく、岡本天皇をのみさし奉れる也。いかにとなれば、かの風土記に載たる臣木、比米鳥などの事を、この下詠るにても、岡本天皇をさし奉れる事明らけし。
 
歌思《ウタオモヒ。ウタフオモヒ》。辭思爲師《コトオモハシシ・イフオモヒセシ》。
舊訓は、いふにもたらぬ誤りにて、考には、うたしぬび、ことしぬびせしとよまれたり。思もじを、しぬぶ訓《(マヽ)》るは、集中例ありて、さる事ながら、代匠記に、うたおもひ、ことおもはしゝと訓れしによるべし。【宣長もこの訓をとられたり。】こゝは、かの岡本天皇の、こゝに行幸ありて、この眞湯《ミユ》の岡の上にたゝして、御歌、御詞などを思ひめぐらし給ひし事のありて、思ひいでしなるべし。爲師を、せしと訓るは誤りて《(マヽ)》、爲もじは、集中、しすせの假名にはたらかし用ひし所、常多かり。
 
三湯之上乃《ミユノウヘノ》。
三は眞《ミ》にて、例のほめて添たる言なり。
 
(170)樹村乎見者《コムラヲミレバ》。
樹村は木群にて、木の群がり茂りたるをいへり。あぢむら、むら鳥などのむらと同じ。和名抄木具云、纂要云、兩樹枝相交、陰下曰v※[木+越]【音越禹月反和名古無良】云々と見えたり。
 
臣木毛《オミノキモ》。
今いふ樅《モミ》の木なり。和名抄木類に、爾雅云、松葉栢身曰v樅【七容反、和名毛美】とある、これ也。また、書紀神武紀に、初|孔舍衛《クサヱ》之戰有v人隱2於大樹1、而得v免v難。仍指2其樹1、曰恩如v母。時人因號2其地1、曰2母木邑1。今云2飫悶廼奇《オホノキ》1訛也云々とあるも同物也。おみ、おも、もみ、皆音通なれば也。さて、考云、かの岡本天皇より五御代の後、清見原天皇の十三年十月に、大になひ(ゐカ)ふりて、この湯の所、うづもれ失て、涌出ずと紀に見ゆ。其後、六御代を經て、赤人の見たる時は、むかし聞えし臣木は失て、後に仕繼て、それもよろしき程にて立るなるべし云々。
 
生繼爾家里《オヒツギニケリ》。
まへにあげたる考の説の如く、昔の臣木は失て、又、後に生つぎにけりとなり。
 
鳴鳥之《ナクトリノ》。音毛不更《コヱモカハラズ》。
鳴鳥とは、まへに引る風土記に見えたる鵤比米【風土記に比米とあるは、此米の誤り也、この事は、上攷證一上十三丁にいへり。】などをさしていへり。これらの鳥などのなく音までも、むかしにかはらずと也。
 
遐代爾《トホキヨニ》。神《カム・カミ》左備將往《サビユカム》。
遐代とは、今よりゆく末をいひて、かの風土記に載たる如く、今までも五度の行幸ありて、今も猶何ごとも昔にかはらざれば、是よりゆく末も、猶今の如く、遠き代までもかはらず、古くなりゆかん。こゝぞ天皇の行幸し給ふべき所ならんと也。神左備は、まへにも所々にいへるがごとく、物のふりぬるをいへるなり。
 
(171)反歌。
 
323 百式紀乃《モヽシキノ》。大宮人之《オホミヤビトノ》。飽田津爾《ニギタヅニ》。船乘將爲《フナノリシケム》。年之不知久《トシノシラナク》。
 
百式紀乃《モヽシキノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十八丁】にも出たり。式を、しの假字に用ひしは略言也。
 
飽田津爾《ニギタヅニ》。
こは伊豫の地名にて、温泉のほとり也。この地の事は、上【攷證一上十六丁】にいへり。略解に、飽は饒の誤りなるべしといへれど、玉篇に饒飽也とありて、相通ずれば、飽にても、にぎたづとよまんに、何ごとかあらん。また久老が考に、西村重波は、としのはに、かの國に下りて、よくその地をしれるに、饒田津《ニギタヅ》といふ所も、飽田津《アキタツ》といふ所も、今猶ありて、ともに津なるべき所也といへり云々とて、あきたづと訓たれど、おぼつかなし。實にさる所ありとも、この歌につきて、好事のものゝ、別に名づけしにはあらざるか。この歌、本集一【十丁】額田王の歌に、※[就/れっか]田津爾船乘世武登月待者《ニギタヅニフナノリセムトツキマテバ》云々の歌をとりてよまれたりとおぼしければ、いよゝ、にぎたづといはでは、かなはざるをや。また仙覺抄に引る伊豫國風土記に(後岡本天皇御歌曰、美枳多頭爾波弖丁美禮婆《ミギタヅニハテヽミレバ》云々とあるも、てとにとは通ふ音なれば、にぎたづといふと同じく、こゝと同所なり。
 
船乘將爲《フナノリシケム》。
まへに引る額田王の歌に、にぎたづにふなのりせんと月まてば云々といふ歌にむかへて、その舟のりしけん年は、いつにかありけん、しりがたしと也。實に年月(172)もたしかにしれたれど、かくおぼめかしいふは、歌の常也。さて、この長歌には、岡本天皇のここに行幸ありしをりの事をいひ、反歌には、其のち、後岡本天皇の行幸ありしをりの歌をとりてよまれたり。長歌も反歌も、同時の事をよめりと思ひ誤る事なかれ。印本、乘を垂に誤れり。誤字なる事明かなれば、考異本に引る異本に依て改む。
 
年之不知久《トシノシラナク》。
年之《トシノ》の之もじは、をの意也。なくの反、ぬにて、年をしらぬといへる意也。これらの事は、上【攷證二中三十丁】にいへり。一首の意は、まへにいへるが如し。
 
登2神岳1。山部宿禰赤人作歌一首。并短歌。
 
神岳の事は、上【攷證二中三十一丁】にくはしくいへり。この端辭、集中、外の例にならはゞ、山部宿禰赤人登2神岳1作歌とあるべきなれど、まへにもいへるがごとく、かくいろ/\に定らざる事、集中いと多し。
 
324 三諸乃《ミモロノ》。神名備山爾《カミナビヤマニ》。五百枝刺《イホエサシ》。繁生有《シジニオヒタル》。都賀乃樹乃《ツガノキノ》。彌継嗣爾《イヤツギツギニ》。玉葛《タマカヅラ》。絶事無《タユルコトナク》。在管裳《アリツヽモ》。不止將通《ヤマズカヨハム》。明日香能《アスカノ》。舊京師者《フルキミヤコハ》。山高三《ヤマタカミ》。河登保志呂之《カハトホシロシ》。春日者《ハルノヒハ》。山四見容之《ヤマシミガホシ》。秋夜者《アキノヨハ》。河四清之《カハシサヤケシ》。旦雲二《アサグモニ》。多頭羽亂《タヅハミダレ》(・テ)。夕霧丹《ユフギリニ》。河津者驟《カハヅハサワグ》。毎見《ミルゴトニ》。哭耳所泣《ネノミシナカユ・ネニノミナカル》。古《イニシヘ・ムカシ》思者《オモヘバ》。
 
(173)三諸乃《ミモロノ》。神名備山爾《カミナビヤマニ》。
三諸は、すなはち神岳のことにて、大和國高市郡にて、三輪山を三諸山といふとは別なり。思ひまがふべからず。書紀雄路紀、靈異記などに、天皇、少子部連※[虫+果]に詔して、三諸岳の神を捉へしめ給ひて、その神をまた岳に放給ひしより、こゝを雷《カミ》岳といふよし、のせたるにても、三諸も神岳も同所なるをしるべし。神名備山も同じ所にて、本集十三【三丁】に、神名備能三諸之山《カミナビノミモロノヤマ》ともよめり。さて神名備山といふは、このころ既に地名となりたれど、もと神名備といふことは、神の森《モリ》といふことにて、【この事、祝詞考出雲國造神壽の解にくはし。】いづこにも、神社をおくべき所をいへるなる事、出雲國造神壽詞に、倭大物主櫛※[瓦+肆の左]玉命、大御和神奈備坐、己命御子阿遲須伎高彦根御魂葛木神奈備坐、事代主命御魂宇奈提神奈備坐、賀夜奈流美命御魂飛鳥神奈備坐云々などあるにても、神奈備といふは、もとは地名ならざりしをしるべし。されど、この集のころより、既に地名となりて、後々神なびの森といふも、この高市郡なるをいへり。また、三諸といふも、御室《ミムロ》の義なれば、かたがた神社によしあるをおもふべし。日本紀略に、天長六年三月己丑、大和國高市那賀美郷|甘南備《カムナビ》山飛鳥社遷2同郡同郷鳥形山1、依2神託宣1也云々ともある如く、この山に、いと古くより神社ありしかば、御諸とも神奈備ともいひし也。三輪を御諸といふも、三輪の大神のまします故なるをも思ひ合すべし。
 
五百枝刺《イホエサシ》。
五百《イホ》は、たゞ敷多きをいひて、五百萬《イホヨロヅ》、五百津御就《イホツミスマル》、五百代小田《イホシロヲダ》などの五百も同じ。こゝは樛《ツガ》の木の枝繁く、いくらともなく類の多きをいへり。
 
繁生有《シジニオヒタル》。都賀乃樹乃《ツガノキノ》。
繋生有《シゞニオヒタル》は、字の如く、枝のしげく生たる也。この事は、上【攷證二下七十六丁】にいへり。都賀《ツガ》の木の事も、上【攷證一上四十六丁】にいへり。さて、こゝは、(174)都賀乃木乃は枕詞ながら、上よりこの語へかけていひつゞけたり。これ集中一つの格なり。
 
彌継嗣爾《イヤツギツギニ》。
これも上【攷證一上四十六丁】にいへるが如く、人の代々つぎ/\にといへる意なり。
 
玉葛《タマカヅラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉は、例の物をほめて付る詞。葛《カツラ》は蔓草の惣名にて、蔓あるものは、長くはひひろごりて、其つる、絶る事なければ、しかつけし也。
 
在管裳《アリツヽモ》。
在立之《アリタゝシ》、在通《アリカヨ》ふなどいふ在と同じく、絶る事なく、いつもかく在つつ、やまずかよはんとの意也。在立之《アリタヽシ》の事は、上【攷證一下卅五丁】にいへり。
 
明日香能《アスカノ》。舊京師者《フルキミヤコハ》。
飛鳥は、考云、小治田宮より、清御原宮まで、六の御代の古郷なり云々といはれつるが如くなれど、こゝは專はら清御原宮をさせりとおぼし。
 
山高三《ヤマタカミ》。
山高三《ヤマタカミ》の三は添ていふ言にて、さにの意にあらず。この格、集中猶あり。この三《ミ》、もしくは、くといはんが如く、山高くの意也。本集此卷【四十四丁】に、引者難三等標耳曾結《ヒカバカタミトシメノミゾユフ》云々とあるは、難しといふ意。十五【廿九丁】に、故非之美伊母乎《コヒシミイモヲ》云々とあるは、戀しきといふ意なるにて思へば、し、き、くと、活らきにはたらかし用ふる美なり。
 
河登保志呂之《カハトホシロシ》。
本集十七【四十四丁】に、安麻射可流比奈爾之安禮婆《アマサカルヒナニシアレバ》、山高美河登保之呂思《ヤマタカミカハトホジロシ》、野乎比呂美久佐許曾之既吉《ヌヲヒロミクサコソシゲキ》云々と見えたるも、こゝと同じつゞけ也。考云、神(175)代紀に、大小魚の三字を、とほじろくさきいをと訓じ、即古言にて、とほじろきは、何にても大きなる事、さきはちひさき事をいふ也。【代匠記も大かたこれに同じ。】宣長云、とほしきし《(マヽ)》は、あざやかなる事也。續世繼に、大納言の御車の紋こそきらゝかに、とほじろく侍りけれとあり。中ごろまでもいひし言にて、古への意と同じ云々。久老云、灼然をいちじろしといふをむかへて、このとほじろしの言を考るに、いちと、とほとは、その言相近し。いちとは、あるが中にぬきいでゝいふ言にて、俗にいツち、至てなどいふ言にて、いたりのたりをつゞめて、いちとはいふなるべし。さては、とほも遠《トホ》るの意にて、達と至とはやゝ近し。いづれ、白きはあざやかなるをいへば、さやけしといふに同じ云々。見る人、こゝろのひかん方にしたがふべし。
 
春日者《ハルノヒハ》。山四見容之《ヤマシミガホシ》。
山四の四は助字にて、見容之《ミカホシ》は借字、欲見の意也。古事記下卷御歌に、和賀美賀本斯久爾波迦豆良紀多迦美夜《ワガミガホシクニハカツラキタカミヤ》云々。書紀顯宗紀歌に、野麻登陛※[人偏+爾]彌我保指母能婆《ヤマトヘニミガホシモノハ》云々。本集此卷【卅八丁】に、儕立之見※[日/木]石山跡《トミタテノミカホシヤマト》云々。六【四十三丁】に、山見者山裳見貌石《ヤマミレバヤマモミガホシ》云々。十一【十四丁】に、見我欲君我《》云々。十七【三十四丁】に、夜麻可良夜見我保之加良武《ヤマカラヤミカホシカラム》云々などありて、集中猶見えたり。
 
河四清之《カハシサヤケシ》。
これも河四《カハシ》の四《シ》は助字にて、清之《サヤケシ》は清く明らかなる也。この事、上【攷證一下四十八丁】にいへり。さて、こゝの意は、飛鳥の舊都は、山河近くして、春にあれば山の見まほしく、秋になれば河など清くすゞしと也。春秋をもて、對になして、春秋見所あるをいへり。
 
(176)旦雲二《アサグモニ》。多頭羽亂《タヅハミダレ》。
旦雲は、必らず朝ゐる雲にのみかぎらざれど、旦夕をもて、對になせるにて、朝には、雲ゐに鶴の飛亂といへる也。亂《ミダレ》は、いくつともなく群飛せるをいへるなり。
 
夕霧丹《ユフギリニ》。河津者驟《カハヅハサワグ》。
旦と夕と鶴と蛙とを對に取て、文をなしたり。河津と書るは借字にて、蝦蟇なり。蛙と同じ。和名抄蟲名に、蝦蟇、唐韻云、蛙【烏蝸反。古文作2〓〓二字1。和名、加閇流。】云々とありて、【又胡〓反。今の人、蝦蟇といふは、ひきがへるにて、かはづは蛙也と思ふは非也。ひきがへるは蟾蜍也。これらの事、本草によりてしるべし。】本草和名に、〓和名加倍留云々。新撰字鏡に、※[虫+罪]【加比留】などのみありて、かはづといふ名、物産の書に見えざれど、かへるといふは、※[土+卑]雅に、蝦蟇懷土、雖3取以置2遠郊1、一夕復還2其所1云々とありて、外にうつして、本の所にかへるよしにて、名づけたる名なれば、これ一名にて、本名はかはづなるべし。さて集中、かはづと詠るは、皆、山川の清き所にのみ詠れば、今、田家にあるかはづとは、一種別なるものなり。そは、長明無名抄に、井手のかはづと申ことこそ、やうある事にて侍れ。世の人思ひて侍るは、たゞかへるは、みな、かはづといふぞと思ひて侍るめり。それもたがひ侍らず。されど、かはづと申かへるは、ほかにはさらに侍らず。たゞこの井手河にすみ侍る也。いろくろきやうにて、いとおほきにもあらず。世の常のかへるのやうに、あらはに、おどりありく事なども、いとも侍らず。つねには水にのみすみて、夜ふくるほどに、かれがなきたるは、いみじく心すみ、物あはれなるこゑにてなん侍る云々とある、これ集中にかはづと詠るこれ也。されど、井手にのみかぎらず、山水の清き所には、いづこにもあるものなり。猶この事、久老が別記にくはしく見えたり。
 
(177)毎見《ミルゴトニ》。哭耳所泣《ネノミシナカユ・ネニノミナカル》。
舊訓、ねにのみなかると訓るはいかゞ。ねのみしなかゆと訓べし。そは、本集五【卅八渟】に、禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》云々。十五【十三丁】に、禰能未之奈可由《ネノミシナカユ》云々などあるにても思ふべし。さて毎見《ミルゴト》は、上にいへる、鶴の亂れ飛る、またかはづのさはぐなどを見るにつけても、飛鳥の舊都の、かくあれはてざりし古へを思へば、音にのみなかるとなり。
 
反歌。
 
325 明日香河《アスカガハ》。川余藤不去《カハヨドサラズ》。立霧乃《タツキリノ》。念應過《オモヒスグベキ》。孤悲《コヒ》爾不有《ナラナ・ニアラナ》國《クニ》。
 
川川余藤不去《カハヨドサラズ》。
川余藤《カハヨド》は川淀にて、本集此卷【卅六丁】に、夏實之河乃川金杼爾《ナツミノカハノカハヨドニ》云々とも見えたり。すべて、淀《ヨド》といふは、水のよどみたる所をいへる也。この事、上【攷證二下十三丁】にいへり。
 
立霧乃《タツキリノ》。
乃《ノ》は、の如くの意にて、こゝまでは、念應過《オモヒスグベキ》といはん序なり。
 
念應過《オモヒスグベキ》。
本集此卷【四十六丁】に、杉村乃思過倍吉君爾有名國《スギムラノオモヒスグベキキミニアタナクニ》云々。四【四十二丁】に、白雲之可思過君爾不有國《シラクモノオモヒスグベキキミナラナクニ》云々。九【廿六丁】に、神依板爾爲杉乃念母不過戀之茂爾《カミヨリイタニススルギノオモヒモスギズコヒノシゲキニ》云々。十【廿七丁】に、念可過戀奈有莫國《オモヒスグベキコヒナラナクニ》云々。また【五十四丁】鳴鶴之念不過戀許増益也《ナクタヅノオモヒハスギズコヒコソマサレ》云々。十七【四十丁】に、多都奇利能於毛比須疑米夜《タツキリノオモヒスギメヤ》云々などもありて、念過《オモヒスグ》とは、思ひを過《スグ》し遣《ヤ》る意にて、こゝは、思ひを過《スグ》し遣《ヤ》るべき戀にはあらなくにと也。また四【四十五丁】に、多奈引雲能過跡者無二《タナビククモノスグトハナシニ》云々。十一、岑朝霧過兼鴨《ミネノアサキリスギテケムカモ》云々などあるもこれ也。
 
(178)孤悲《コヒ》爾不有《ナラナ・ニアラナ》國《クニ》。
代匠記云、此歌、新千載ニ、戀ニ入ラレタル事オボツカナシ。此戀ト云ハ、故都ヲ戀ル感慨ナリ云々といはつれつるが如く、玉篇に、戀慕也云々。易小畜釋文に、戀思也云々ともありて、集中、男女の間の戀のみに限らず、何ごとにまれ、戀慕《コヒシタ》ふをも戀といへる事多く、こゝもそれにて、飛鳥の舊都のあれたるを見て、古へを戀慕ふなり。さて、一首の意は、明日香川の川淀に、いつも晴過《ハレスグ》る事なく、立居る霧の如く、思ひを遣《ヤ》り過《スグ》すべき戀にはあらず、一方ならず、戀慕はるとなり。さて、爾不有國《アラナクニ》は、にあの反、ななれば、ならなくにと訓べし。本集一【廿三丁】に、神隨爾有之《カムナガラナラシ》云々。二【十二丁】に、誰戀爾有目《タガコヒナラメ》云々などありて、十【廿七丁】に、念可過戀奈有莫國《オモヒスグベキコヒナラナクニ》云々とも書たり。また二十【廿三丁】に、志麻奈良奈久爾《シマナラナクニ》云々。又【四十六丁】伎美奈良奈久爾《キミナラナクニ》云々などもあるにて思ふべし。また十八【七丁】に、宇良爾安良奈久爾《ウラニアラナクニ》云々ともあれば、にあらなくにと訓るも、あしからねど、今は多き例につきて、ならなくにと訓ん方まされり。
 
門部王。在(テ)2難波1。見2漁父燭光1作歌一首。
 
門部王。
上【攷證三上七十四丁】に出たり。
 
在2難波1。
攝津國難波なり。門部王、難波に在りし事、ものに見えざれど、こゝにかくあるからは、さるべき事ありて、しばらく難波に滯留せらし事ありしなるべし。
 
漁父燭光。
漁父は海士《アマ》也。燭光は、いさりする火の光り也。集中、かゝる所、みな字音に訓べし。和名抄漁獵類に、漁父【無良岐美】云々とありて、宇津保物語吹上卷に、むら君め(179)して、大あみひかせなどしたまふ云々ともあれど、この訓、用ひがたし。このころ、既に何ごとも、みな漢文にうつされし世なれば、かゝる所、皆、字音によまんこそ古意なるぺけれ。
 
326 見渡者《ミワタセバ》。明石之浦爾《アカシノウラニ》。燒《トモス・タケル》火乃《ヒノ》。保爾曾出流《ホニゾイデヌル》。妹爾戀久《イモニコフラク》。
 
明石之浦爾《アカシノウラニ》。
明石は播磨國なり。上【攷證三上廿二丁】にいでたり。難波の浦より見わたせば、播磨の海かけて見ゆれば、かくは詠れし也。
 
燒《トモス・タケル》火乃《ヒノ》。
神樂弓立歌に、伊世之末乃安末乃止禰良可太久保乃計《イセシマノアマノトネラガタクホノケ》云々。伊勢物語に、はるゝ夜のほしか、川邊のほたるかも、わがすむかたのあまのたく火か云々。本集十七【八丁】に海未通女伊射里多久火能《アマヲトメイサリタクヒノ》云々などもあれば、たける火のと訓んもあしからぬど、本集十一【卅七丁】に鈴寸取海部之燭火《スゞキトルアマノトモシビ》云々。十二【卅六丁】に、釣爲燭有射去火之《ツリニトモセルイサリビノ》云々。十五【十七丁】に、宇奈波良能於伎敞爾等毛之伊射流火波《ウナバラノオキベニトモシイサルヒハ》云々。また【十一丁】伊射里須流安麻能等毛之備《イサリスルアマノトモシビ》云々。十九【廿九丁】見2漁夫火光1歌に、鮪衛等海人之燭有伊射里火之《シビツクトアマノトモセルイサリビノ》云々などもあれば、多きにつきて、ともす火のと訓べし。乃は如くの意なり。
 
保爾曾出流《ホニゾイデヌル》。
ほにいづとは、外へあらはるゝことにて、稻にまれ、薄にまれ、穗をほといふも、今まで包まれたりし物の顯はれ出るよりいへるにて、名の意はこれに同じ。書紀神功紀に、答曰|幡荻穂で吾也《ハタスヽキホニイデシワレハ》々。本集九【廿六丁】に、振乃早田乃穂爾波不出《フルノワサダノホニハイデズ》云々。十【五十五丁】に、花野乃爲酢寸穗庭不出吾戀度《ハナヌノスヽキホニハイデズワガコヒワタル》云々。十四【廿六丁】に、波太須酒伎穗爾※[氏/一]之伎美我《ハタスヽキホニデシキミガ》云々。十九【廿九丁】(180)に、伊射里火之保爾可將出吾之下念乎《イサリビノホニカイデナムワガシタモヒヲ》云々。古今集秋上に、藤原管根、あき風にこゑをほにあげてくる舟は、天のとわたる雁にぞありける云々。戀五に、業平朝臣、花すゝきわれこそ下に思ひしか、ほにいでゝ人に人に《(マヽ)》むすばれにけり云々。大和物語に、たまさかにとふ人あらば、わだの原なげきほにあげていぬとこたへよ云々などあるを合せ考ふべし。
 
妹爾戀久《イモニコフラク》。
らくは、るを延《ノベ》たる言にて、戀久《コフラク》は、戀るといふ意なり。この事は、上【攷證二中卅七丁】にいへり。さて、一首の意は、門部王、難波の浦にて、播磨なる明石の浦かけて見わたして、その明石の浦に、海士どもが、いさりすとて、ともせる火の、あらはに、いちじろく見ゆるが如く、故郷の妹を戀る思ひの、穗にあらはれぬと也。
 
或娘子等。賜2裹乾鰒1。戯請2通觀僧之咒願1時。通觀作歌一首。
 
この端醉、諸本かくの如し。こは目録に、或娘子等、以2裹乾鰒1、贈2通觀僧1、戯請2咒願1之時、通觀作歌一首とあるぞ正しかるべき。目録は古本のまゝにつたへしを、本書をば後人誤れるものなるべし。娘子等より、物を贈《オク》れるを、賜《タマフ》と書べきよしなし。賜とは、上より下に物を予《アタフ》るをいふ事なれば、こゝに叶はず。これにつきて、久老が説あれど、用ひがたければ略けり。
 
褒裹乾鰒《ツヽメルホシアハビ》。
こは乾鰒を物に裹たる也。延喜内膳式に、御取鰒四百五十九斤五裹。短鰒五百十八斤十二裹。薄鰒八百五十五斤十五裹。陰鰒八十六斤三裹。羽割鰒三十九斤一裹。火燒鰒三百三十五斤四裹云々とあるにてしるべし。和名抄龜貝類に、四聲字苑云、鰒魚名、似v蛤、偏著v石、肉乾可v食【和名阿波比】云々と見えたり。
 
(181)咒顔。
代匠記云、咒願ハ僧家ノ祝言也。十誦律云、佛言應爲施主種々讃歎咒願。若上座不能、即次座能者作云々といはれつるがごとし。こゝには、今俗に云、まじなひなり。
 
通觀僧。
父祖不v可v考。僧とは、いま法師と書と同じ。さて、この端辭の意は、娘子《ヲトメ》がたはぶれに、裹乾鰒を通觀におくりて、これにまじなひを請しなり。されば、左の如くなる歌をばよめり。
 
327 海若之《ワダツミノ》。奧爾持行而《オキニモチユキテ》。雖放《ハナツトモ》。宇禮《ウレ》牟《ム・モ》曾此之《ゾコレガ》。將死還生《ヨミカヘリナム・シニカヘリイカム》。
 
海若之《ワダツミノ》。
楚辭□篇に、海若舞2馮夷1。注に、海若、海神名也云々。文選西京賦に、海若游2于玄渚1。薛注に、海若、海神云々とありて、海若とは海神の名なるを、こゝには、たゞ海の事に借用ひたり。本集九【十八丁廿九丁】にも、この字をかけり。和名抄神靈類に、文選海賦云、海童於是宴語【海童即海神也。日本紀私記云、和名和多豆美。】云々と見えたり。さて、海をわだつみといふ事は、上【攷證一上廿六丁】にいへり。
 
宇禮《ウレ》牟《ム・モ》曾此之《ゾコレガ》。
代匠記云、宇禮牟曾《ウレムゾ》ハ、今按ニ、ウレムゾト讀ベキカ。第三、人丸集ノ歌ニ、平山子松未有廉波《ナラヤマノコマツガウレノウレムゾハ》云々。コレヲ、ナラヤマノコマツガウレニアレコソハト點ジタレド、コトヨムベキ字ナシ。今按ニ、彼モ、コマツガウレノウレムゾハト讀ペキニヤト存ズ云々。宣長云、いかんぞ、なんぞ、などいふ詞か。外に見えずと契沖いへり。師も同意也。今考るに、十一巻に、平山子松末有廉叙波我思妹不相止者《ナラヤマノコマツカウレノウレムゾハワカオモフイモニアハズヤミナム》云々。この第三の句、んぞはと訓べし。子松がうれのうれと重ねたる歌なり云々。これらの説のごとし。
 
(182)將死還生《ヨミガヘリナム・シニカヘリイカム》。
考に、よみがへりなんと訓れしによるべし。考云、よみがへるは、黄泉《ヨモツクニ》よりかへるにて、生かへるといふ云々いは《(マヽ)》れつるが如し。何にまれ、死すれば黄泉に行よし、中國、いにしへよりの傳へなり。黄泉の事は、古事記傳卷六に、くはしく辨じたれば、こゝには略けり。新撰字鏡に、※[禾+魚]※[魚+禾]【東孤反。甦字同。更生也。與彌還】云々と見えたり。また靈異記上卷訓釋云、蘇【左米】甦【イヽタリ】とあれば【イヽタリは、いきたり也。古への片假字ヽをきに用ひたり。】この訓によらんもたよりあれど、さては、歌のしらべよからねば、用ひがたし。さて、一首の意は、通觀法師、法術驗ありて、たとへ死たるものをも、生すてふ聞えありけるなるべし。されば、戯れに、裹乾鰒をおくりて、これに咒願を乞し返しにて、この乾鰒を、たとへ大海の澳にもちゆきて、はなつとも、いかにぞ、これがよみがへりなん、よみがへるべき事はあらずと、こたへたるなり。
 
太宰少式小野老朝臣歌一首。
 
太宰少式。
職員令義解云、太宰府、帥一人、掌d祠社戸口簿帳字2養百姓1、勸2課農桑1、糺2l察所部1、貢擧、孝義、田宅、良賤、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器仗、皷吹、郵驛、傳馬、烽候、城牧、過所、公私馬牛、闡遣雜物、及寺僧尼名籍、蕃客歸化、饗讌事u。大貳一人、掌同v帥。少貳二人、掌同2大貳1云々《(マヽ)》見えたり。
 
小野老朝臣。
父祖、考へがたし。續日本紀に、養老三年正月壬寅、授2正六位下小野朝臣老從五位下1云々。四年十月戊子、爲2右少辨1云々。天平元年三月甲午、授2從五(183)位上1云々。三年正月丙子、授2五位下1云々。五年三月辛亥、授2正五位上1云々。六年正月己卯、授2從四位下1云々。九年六月甲寅、太宰大貳從四位下小野朝臣老卒云々とありて、少貳に任せられし事は見えざれど、本集五【十四丁】天平二年正月十三日、太宰帥大伴卿宅宴梅花歌三十二首の中に、少貳小野大夫とあるからは、このころ五位にて、少貳なりし事、疑ひなし。後に四位に登られしかば、名の下に朝臣とは書るなり。名の下に朝臣と書る事は、上【攷證三上十五丁】にいへり。
 
328 青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》。咲花乃《サクハナノ》。薫如《ニホフガゴトク》。今盛有《イマサカリナリ》。
 
吉青丹吉《アヲニヨシ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上卅一丁】にも出たり。
 
寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》。
寧樂の都は、元明天皇、和銅三年三月、藤原の京より奈良の京にうつり給ひて、七御代を經て、桓武天皇、延暦三年十一月、山城國長岡京に都を遷し給ひ、其後、延暦十三年十月、今の平安城にうつり給へり。かの七御代のうち、聖武天皇、天平十三年、山城國恭仁京にうつし給ひ、また十六年三月、攝津國難波京にうつし給ひし事あれど、ほどなく、同年五月、もとの奈良の京にかへらせ給ひぬ。さて、この老朝臣のころは、まだ奈良の京のはじめのほど也。
 
薫如《ニホフガゴトク》。今盛有《イマサカリナリ》。
考云、よく譬なしたり。この都の盛を、今も見るが如し。さて、薫は、まづは香氣に用うれど、日影、花などの色の赤く照るにもいへば、こゝに、に(184)ほふと訓しも、色の方に取べし。下に茵花香君之《ツヽジバナニホヘルキミガ》とも、また卷六に、丹管士能將薫時能《ニツヽジノニホハムトキノ》などある也云々といはれつるが如し。一首の意は明らけし。
 
防人司祐《サキモリツカサノスケ》大伴|四繩《ヨツナ》歌二首。
 
防人司祐。
防人は、書紀天智紀に、三年是歳於2對馬壹岐筑紫國等1置2防《サキモリ》與1v烽云々。持統紀に、三年二月丙申、詔2筑紫|防人《サキモリ》1滿2年限1者替云々と訓て、本集十四【卅四丁】防人歌に、佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾《サキモリニタチシアサケノカナトデニ》云々。二十【卅六丁】陳2防人悲別之情1歌に、島守爾和我多知久禮婆《サキモリニワガタチクレバ》云々。【島守を、さきもりと訓べき事は、下攷證七の中□にいふべし。】また【四十一丁】防人使掾安曇宿禰三國歌に、佐伎母利爾由久波多我世登刀布比登乎《サキモリニユクハタハセトトフヒトヲ》云々などあるにて、防人を、さきもりと訓べきをしるべし。この防人といふものは、職員令義解に、太宰府【中略】防人正一人、掌2防人名帳戒教※[門/免]及食料田事1。佑一人、掌同v正云々。軍防令に、凡兵士、向v京者名2衛士1、守v邊者名2防人1云々。續日本紀に、天平寶字元年閏八月壬申、勅曰、太宰府防人、頃年差2坂東諸國兵士1發遣。由v是路次之國、皆苦2供給1。防人産業、亦難2辨濟1。自今已後、宜d差2西海道七國兵士合一千人1充2防人司1依v式鎭戍u。其集v府之日、便習2五教1、事具2別式1云々。天平神護二年夏四月壬辰、太宰府言、防v賊戍v邊、本資2束國之軍1、持v衆宣v威、非2是筑紫之兵1。今割2筑前等六國兵士1、以爲2防人1、以2其所1v遺分v番、上下人非2勇健1、防守難v濟。望請東國防人依v舊配戍云々とありて、異國の寇を防《フセ》ぎ守る役夫なり。司《ツカサ》は、その防人をあつめ掌る官にて、祐《スケ》は、その司の正《カミ》を助《タス》けつとむる官なり。さて、祐を、職員令、國史等、みな、佑とあるにつきて、諸法みな祐は佑の誤りと定むれど、易旡妄釋文に、佑本作v祐云々。毛(185)詩小明箋釋文に、祐本作v佑云々。一切經音義卷一に、祐古文※[門/右]佑二形云々とありて、祐佑二字相通ずれど(ばカ)、祐の字にても、誤りとはいひがたし。
 
大伴四繩。
父祖、考へがたし。續日本紀、寶龜八年正月紀に、大伴宿禰眞綱といふ人あり。これ四繩の子か。諸注、みな、大伴の下に、宿禰の姓を脱せりとす。されど、この人、本集四【廿八丁卅六丁】などにも出たるに、皆、姓を漏せるうへに、集中姓を略きてしるせる例も多かれば、こゝに脱せりとも定めがたし。四繩を、目録にも、四【廿八丁卅六丁】にも、四綱としるせり。繩綱同字にはあらねど、いづれも、つなと訓て、訓の同じきまゝに、交へかける也。さて、この人の、本集八【廿八丁】なる歌を、六帖第六に載て、大伴のよつなとしるせり。この訓にしたがひて、よつなと訓べし。
 
329 安見知之《ヤスミシヽ》。吾王乃《ワガオホキミノ》。敷座在《シキマセル》。國《クニノ》中《ウチ・ナカ》者《ニハ》。京師《ミヤコ》(・シ)所念《オモホユ》。
 
安見知之《ヤスミシヽ》。
枕詞にて、上【攷證一上六丁】に出たり。
 
吾王乃《ワガオホキミノ》。
こゝには天皇をさして申奉れり。上【攷證一上七丁】に出たり。
 
敷座在《シキマセル》。
敷座在は、知り領します意也。この事は、上【攷證一下六丁】に弁ぜり。
 
(186)國《クニノ》中《ウチ・ナカ》者《ニハ》。
舊訓、くにのなかにはとあるは、いかゞ。中《ナカ》といふは、古事記中卷御歌に、美都具理能曾能那迦都邇袁《ミツグリノソノナカツニヲ》云々。本集五【卅九丁】に、三枝之中爾乎禰牟登《サキクサノナカニヲネムト》云々。九【廿二丁】に、三栗乃中爾向有《ミツグリノナカニムキタル》云々。また葦原中國《アシハラノナカツクニ》などいふ中《ナカ》も、みな中央の意にのみいへば、こゝには叶ひがたし。また久老は、國のまほらはとよめり。國のまほらといふ事は、書紀景行紀御歌に、夜摩苫波區珥能摩保邏摩《ヤマトハクニノマホラマ》云々。本集五【七丁】に、企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》云々。九【廿二丁】に、言借石國之眞保良乎委曲爾示賜者《イブカリシクニノマホラヲツバラカニシメシタマヘバ》云々。十八【十八丁】に、伎己之乎須久爾能麻保良爾山乎之毛佐波爾於保美等《キコシヲスクニノマホラニヤマヲシモサハニオホミト》云々などありて、國のかぎりといふ意なれば、こゝに叶ひてもきこゆれど、本集五【六丁】に、久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》云々。十七【卅九丁】に、古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自爾安禮登毛《コシノナカクヌチコトゴトヤマハシモシジニアレドモ》云々などある久奴知《クヌチ》も、くにのうちといふを約めたる言にて、古事記下卷に、天皇登2高山1、見2四方之國1、詔之於2國中《》1、烟不v發【これをも、宣長は、ぬnちと訓れしかど、歌ならぬ文は、大方は約めたる語を用ひざれば、くにのうちと訓べし。】云々とあるも、同じく國のかぎりの意なれば、これらを合せ考へて、くにのうちにはと訓べきをしるべし。
 
京師《ミヤコ》(・シ)所念《オモホユ》。
久老云、今本に、みやこしと訓るはあしゝ《(マヽ)》。京師の二字、上既にみやこと訓たり云々といへるが如し。さて、一首の意は、吾天皇の知り領しまします國はしも、多にありて、多かれども、その國の中にも、京師は、何ごともたらはぬ事なく、にぎはしければ、ことに京こそ戀しけれといふ意にて、四綱、太宰府にありて、故郷を戀る歌なり。
 
330 藤浪之《フヂナミノ》。花者盛爾《ハナハサカリニ》。成來《ナリニケリ》。平城京乎《ナラノミヤコヲ》。御念八君《オモホスヤキミ》。
 
(187)藤浪之《フヂナミノ》。
なみといふに意なく、たゞ藤をいへる也。古人の説には、藤の花は、咲たる所、浪のうちよせたるに似たれば、字のごとく、藤浪の意也といひ、久老が説には、藤の花は靡《ナビ》き咲もの故に、藤靡《フヂナミ》の意といひ、ある人の説には、藤の花は並《ナラ》びて咲もの故に、藤並《フヂナミ》の意といへり。されど、いづれもよしともおぼえず。後人考べし。
 
平城京乎《ナラノミヤコヲ》。
平城の二字を、ならと訓るは、上【攷證一上四十七丁】にいへるが如く、平の一字を、ならすの意に、ならと訓ると同じく、城の字を、この地、皇都となれるによりて、添て書る字にて、本集六【廿九丁】に、青丹吉平城之明日香乎《アヲニヨシナラノアスカヲ》云々ともありて、續紀に多く平城と書り。
 
御念八君《オモホスヤキミ》。
おもほすは、本集十五【卅二丁】に、於毛保之賣須奈《オモホシメスナ》云々。また【卅六丁】於毛保世和伎母《オモホセワギモ》云々。十七【十八丁】に、於毛保須良米也《オモホスラメヤ》云々などありて、中古より、おぼしめすといふに同じ。八《ヤ》は疑て問かくる意也。この事、下【攷證四中卅四丁】にいふべし。代匠記に、君ト指セルハ大伴卿ナリ。次ノ歌、コレニ和ス心ト見エタリ。第十ニ、春日野ノ藤ハ散ユキテトヨメリ。若ハ、大伴卿ノ奈良ノ宅ニ藤ノ有ケルヲ、筑紫ニテ、藤サクコロ、カクヨメルカ。第六ニ、少貳石川足人ガ、佐保ノ山ヲバ思フヤモ君トヨミテ、大伴卿ニ贈レル、今ノ歌ニ似タリ云々といはれつるが如く、藤の花の吹たる《(マヽ)》つきて、今藤の花は盛りになりにけり、この花を見るにつけても、奈良の京の事をおぼしいづるや、君いかにぞ、と問かけたる也。
 
帥大伴卿歌五首。
 
(188)こは大伴宿禰旅人卿なり。これを旅人卿と定むるよしは、大伴氏にて、太宰帥に任ぜられし人、この卿より外になく、この卿の事は、上【攷證三上六十三丁】に出せれば、ひらき見て、こゝも旅人卿なるをしるべし。さて、この五首の歌は、まへの大伴四繩の歌を和せるに似たれど、こゝに、いかともしるさゞれば、よくは定めがたし。
 
331 吾盛《ワガサカリ》。復《マタ》將變八方《ヲチメヤモ・カヘレハモ》。殆《ホト/\ニ》。寧樂京師乎《ナラノミヤコヲ》。不見歟將成《ミズカナリナム》。
 
吾盛《ワガサカリ》。
盛は壯年なるをいへり。本集五【十八丁】に、和我佐可理伊久久多知奴《ワガサカリイククダチヌ》云々。十九【廿七丁】に、惜身之莊尚《ヲシキミノサカリヲスラニ》云々。また【廿八丁】珠緒之惜盛爾《タマノヲノヲシキサカリニ》云々など見えたり。
 
復《マタ》將變八方《ヲチメヤモ・カヘレハモ》。
舊訓、誤れり。またをちめやもと訓べし。をちは、若《ワカ》がへるをいへる也。そは、久老云、本居氏の説に、將變の字を、袁知《ヲチ》と訓べき也。卷五【十八丁】に、わが盛いたくくだちぬ、雲に飛、藥はむとも、また遠知米也毛【ヲチメヤモ】【若きにかへらめやもといふ意。】雲に飛、藥はむよは【食《ハマ》んよりはといふ意。】都見ば、いやしき己が身、また遠知《ヲチ》ぬべし。【若きにかへりぬべしといふ意。】この二首の歌を證とすべしといへり。この説を相あまなひて、猶よく考るに、卷十三【八丁】長歌に、月夜見乃持有越水《ツキヨミノモテルヲチミヅ》、伊取來而《イトリキテ》、公奉而越得之牟物《キミニマツリテヲチエテシモノ》。【今本、牟を早に誤り、且訓も誤れり。】反歌に、あめなるや月日のごとく、わがもへる君が日にけに老らくをしもとあり。この長歌の、二つの越の字も、袁知《ヲチ》と訓て、若《ワカキ》に變《カヘ》らしめんと願へる也。さる意は、反歌にて明らか也。又、卷二十【四十五丁】に、わがやどに咲るなでしこ、幣《マヒ》はせん、ゆめ花ちるな、いや乎知《ヲチ》にさけとあるも、盛りにかへるをいひて、乎知は同言也云々といへり。この説によるべし。さて、久老は、變の字の下、必らず若の字あるべしとて、加へつれど、文字を略きも(189)し、添もして書る事、集中の常なるをや。されば、もとのまゝにてありなん。
 
殆《ホト/\ニ》。
考には、果々《ハテ/\》てふ意とし、久老は、はた/\にといふ意とし、略解には、邊々《ホトリ/\》の意と解せり。これら、皆あたらず。考ふるに、韻會に、殆危也、一曰近也、又將也云々とある將の意にて、まさにといふに當れり。本集八【四十八丁】に、吾屋戸乃一村芽子乎念兒爾不令見殆令散都類香聞《ワガヤドノヒトムラハギヲオモフコニミセズホト/\チラシツルカモ》云々。十【廿三丁】に、保等穂跡妹爾不相來爾家里《ホトホトイモニアハズキニケリ》云々。十五【卅七丁】に、保等保登之爾吉君登於毛比弖《ホトホトシニキキミカトオモヒテ》云々。これら、まさにといふ意にとりて聞ゆ。又、源氏物語花宴卷に、翁もほと/\まひ出ぬべきこゝちなんし侍りし云々。又、紅葉賀卷に、女あがきみ/\とむかひて、手をするに、ほと/\わらひぬべし云々などあるも、いさゝか意は異なれど、大かたは同じく、この語の轉じたる也。また、ほと/\しといふ語あり。こは、かの危き意にて、これとは、意たがへり。思ひまがふべからず。この事は、下【攷證七下□】にいふべし。
 
不見歟將成《ミズカナリナム》。
一首の意は、吾、今は老はて、若き盛の、又とかへりくべきよしもあらねば、まさに奈良の京をふたゝび見ずして、このまゝに太宰府にくちかはてなんと悲しまるゝ意にて、旅人卿、年齡はしれざれど、薨年の一年まへまで、太宰帥にておはしたりとおぼしければ、この時、既に高年なりしなるべし。
 
332 吾命毛《ワガイノチモ》。常有奴可《ツネニアラヌカ》。昔見之《ムカシミシ》。象小河乎《キサノヲガハヲ》。行見爲《ユキテミムタメ》。
 
(190)常有奴可《ツネニアラヌカ》。
このぬかといふ詞は、かろく願ふ意にて、もよりうくる格也。そは、本集四【十八丁】に、久堅乃雨毛落糠《ヒサカタノアメモフラヌカ》云々。また【十九丁】苦労間之來夜者年爾母有糠《コマノクルヨハトシニモアラヌカ》云々。七【三十七丁】に、吾待月毛早毛照奴賀《ワガマツツキモハヤモテラカ》云々。八【四十四丁】に、遊今夜者不開毛有奴香賓《アソブコヨヒハアケズモアラヌカ》云々。十【十一丁】に、念共來之今日者不晩毛荒糠《オモフドチキタリシケフハクレズモアラヌカ》云々などあるにてしるべし。(頭書、ぬかは、ねを延たる言にて、下知の詞也。ぬかもといふも、このぬかへ、もを添たる也。)
 
象小河乎《キサノヲガハヲ》。
吉野のうち也。この地の事は、上【攷證一下五十九丁】にいへり。一首の意は、吾いのちも、何も、常にあれかし。むかし、御幸などの度ごとにも、みたりし象の小川のおもしろきけしきを、又も行て見んためにといふにて、これも、故郷をしたはるゝ歌也。さて、この卷、上【廿七丁】におなじ卿の歌に、昔見之象乃小河乎今見者彌清成爾來鴨《ムカシミシキサノヲカハヲイマミレバイヨヽサヤケクナリニケルカモ》と詠給ひしは、中納言にておはしゝほどにて、これよりはまへなり。
 
333 淺茅原《アサヂハラ》。曲曲《ツバラツバラ・トザマカクザマ》二《ニ》。物念者《ッモノオモヘバ》。故郷之《フリニシサトノ》。所念可聞《オモホユルカモ》。
 
淺茅原《アサヂハラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし、本集八【十九丁】に、茅花拔淺茅之原乃《ツバナヌクアサヂガハラノ》云々ともありて、茅の花を、つばなといへば、淺茅原《アサヂハラ》つばなといひかけたる、なをらに轉じて、つばらとつゞけし也。淺はあさきよし也。さて、茅は、和名抄草類に、大清經云、茅一名白羽草【和名知】とありて、人のよくしれる物なれば、さらに解ず。
 
(191)曲曲《ツバラツバラ・トザマカクザマ》二《ニ》。
代匠記云、第二ノ句ハ、今按ニ、ツバラ/\ニト讀ベシ。舒明紀云、仍曲《ツハビラケク》擧《アグ》2山背大兄語1。コレニヨルニ、ツマビラカト云ニ同ジ。此集第十八【十二丁】ニ、可治能於登乃都波良都婆良爾《カヂノオトノツバラツバラニ》。十九【十一丁】ニ、八峯乃海石榴都婆良可爾《ヤツヲノツバキツバラカニ》。コレ、皆、同意ナリ云々などいはれしがごとく、つばらつばらには、つまびらかにといふを重ねたる詞也。又、委曲の字をも、つばらとよめり。この事は、上【攷證一上卅二丁】にいへり。さて、一首の意は、つまびらかに、殘る所もなく、物を思ひめぐらせば、たゞ故郷のみ戀しくおぼゆるかなと也。
 
334 萱草《ワスレグサ》。吾※[糸+刃]二付《ワガヒモニツク》。香具山乃《カグヤマノ》。故去之里乎《フリニシサトヲ》。不忘之爲《ワスレヌガタメ》。
 
萱草《ワスレグサ》。當
和名抄草類云、兼名苑云、一名忘憂【漢語抄云、和須禮久佐】令2人好歡無1v憂草也云々。毛詩衛風云、焉得2※[言+爰]艸1、言樹2之背1云々。傳云、※[言+爰]草令2人忘1v憂。釋文云、※[言+爰]本又作v萱云々。文選、※[(禾+尤)/山]康叔夜養生論云、合歡※[益+蜀]v忿、萱草忘v憂、愚智所2共和1也云々などありて、集中にも、其外にも、多く見えたり。
 
吾※[糸+刃]二付《ワガヒモニツク》。
奈良の京のころの衣服の製作、つばらにはしりがたければ、紐といふも、いかな《(マヽ)》製にかしれざれど、集中、紐といふは、多くは下紐なれば、こゝも下紐なるべし。下紐は、下に結ぶ紐、上結《(マヽ)》はその上に結びて、その上に帶を結ぶことゝおもはる。この紐てふもの、衣の左右につけて、中にて結べるものなるべし。そは、本集十一にに、狛錦※[糸+刃]片叙床落邇祁留《コマニシキヒモノカタヘゾトコニオチニケル》云々とあるにてしらる。また四【五十丁】に、萱草吾下紐著有跡鬼乃志許草事二思安利家里《ワスレグサワガシタヒモニツケタレドシコノシコクサコトニシアリケリ》云々。
十二【廿四丁】に、萱草吾紐爾著時常無念度者生跡文奈思《ワスレグサワガヒモニツケムトキトナクオモヒワタレバイケリトモナシ》などもありて、古への諺に、この事あり(192)しなるべし。
 
香具山乃《カグヤマノ》。故去之里乎《フリニシサトヲ》。
旅人卿の故郷、香具山のほとりに在しなるべし。考に、天武天皇元年紀に、大伴氏の家居、百濟にありと見え、又神武天皇二年に、大伴氏の遠祖、道臣命に賜はりし宅地、築坂《ツキザカ》邑てふも、共に同じ所なるべし。皆、香具山の下にありと見ゆれば也。築坂は、諸陸式に、高市郡|身狹桃花鳥《ムサノツキ》坂と見え、その身狹《ムサ》を訛て、今は三瀬村といひて、香具山近き也。また卷二挽歌に、百濟の原は香具山の下と見ゆ。かくて、天武紀に、大伴|馬來田《ウマクタ》と、弟吹負のぬしたちの家、百濟の地にあること見えしを合せしるべし云々といはれつるが如し。(頭書、六【廿一丁】太宰少貳石川朝臣足人の大伴卿に對して詠る歌に、刺竹之大宮人乃家跡住佐保能山乎者思哉毛君《サスタケノオホミヤビトノイヘトスムサホノヤマヲハオモフヤモキミ》とあるを見れば、この卿の家佐保のほとりにありともおもはる。また六【卅四丁】大件卿在寧樂家思故郷二首の一歌に、須更去而見牡鹿《シバラクモユキテミテシカ》、神名火乃淵者淺而《カミナヒノフチハアサヒテ》、瀬二香成良武《セニカナルラム》。指進乃栗栖乃小野之芽花將落時爾之行而手向六《サシスミノクルスノヲヌノハキノハナチラムトキニシユキテタムケム》などもあり。いづれがまことの故郷ならん。猶、下【攷證六上四十一丁】にもいふべし。
 
不忘之爲《ワスレヌガタメ》。
宣長云、この結句、わすれぬやうにといへる如く聞ゆる故に、さる意もてとける説あれど、ひがごと也。わすれぬ故にといはんが如し。しかれば、わすれぬ故に、いかにしてわすれんとて、萱草を紐に付る也云云といはれしが如し。一首の意は明らけし。
 
(193)335 吾行者《ワガユキハ》。久者不《ヒサニハラ》有《ズ・ジ》。夢《イメ・ユメ》乃和太《ノワタ》。湍《セニ・セト》者不成而《ハナラズテ》。淵有毛《フチニテアルカモ・フチトアリトモ》。
 
吾行者《ワガユキハ》。
吾行《ワガユキ》は、ゆくといふを體にして、下へつゞけたり。この事は、上【攷證二上二丁】にいへり。こゝは、吾旅行といふに同じく、師(帥カ)の任にて太宰府に下りしかど、任も限りあれば、吾この旅中も久しくはあらずと也。
 
夢《イメ・ユメ》乃和太《ノワダ》。
宣長云、夢のわたは、吉野にある事、七の卷【十一丁】の歌にてもしるべし。又、懷風藻に、吉田連宜が從2駕吉野宮1の詩にも、夢淵と作れり云々といはれつるが如し。夢は、中ごろより、ゆめとのみいへど、古へは、いめとのみいへり。この事は、上【攷證二上廿三丁】にいへり。さて、和太《ワタ》は、これを懷風藻に、夢淵と書けるにて、淵の事なる事しらる。集中、志賀の大和太などいふ和太は、波津海《ワタツミ》の和太にて、渡《ワタ》るの意なれば、こゝとは別なり。思ひまがふべからず。
 
。湍者不成而《セニハナラズテ》。
和名抄水土類に、唐韻云、湍【他端反、一音專。和名勢】急水也。説文云、瀬【音頼】水流2於砂上1也云々と見えて、湍瀬通用せり。さて、舊訓、せとはとあれど、本集六【廿四丁】に、神名火乃淵者淺而瀬二香成良武《カミナビノフチハアサビテセニカナルラム》云々とあれば、せにはと訓べし。
 
淵有毛《フチニテアルカモ》。
代匠記云、落句、今ノ點、意得ズ。有ノ下ニ、也カ八ナドノ字脱タルカ。フチニアレヤモナルベシ云々。考云、毛は毳《カモ》の略と見ゆ。上には、殆寧樂京師乎不見歟將成《ホト/\ニナラノミヤコヲミズカナリナム》(194)と思ひ、又さりとも、今は、かへらんも久にはあらじ。もと見し淵瀬も、かはらずあらんかなど、年經て遠き境にあれば、さまざまと思はるゝ事を、あはれに、いひつゞけられつ。卷六に、同卿、しばらくも行て見てしか、神なびの淵はあさびて瀬にかなるらんともよめり云々などいはれつ。宣長は、契沖の説にしたがひ、久老は、ふちにてあれもと訓て、ふちにてあれと願ふ意の、下知の詞に、毛は添たる言と解り。今、予は考の説にしたがはんとす。いかにとなれば、本集四【十四丁】七【十六丁】十【五十二丁】などに、毳をかもと訓て、五經文字に、※[鹿三つ]千奴反、相承作v麁、及蟲字作v虫之類云々とある如く、漢土にて、※[鹿三つ]を麁、蟲を虫とせるも、省字なれば、毛も中國製造の毳の省字なるべくおもはるれば也。さて一首は、旅人卿、われこの任にありて、旅にあらんも久しくはあらず、わが歸らんまで、故郷近き吉野なる夢のわたも、瀬とはならずして、もとの如くふちにてあるか、いかゞあらんといふへ、もと添たるなり。
 
沙彌滿誓。詠緜歌一首。
 
沙彌。
釋氏要覽云、沙彌、此始落髪後之稱謂也。梵音訛也。此譯爲2息慈1。謂安息在2慈悲之地1。故又此人息2世染之情1、以v慈濟2群生1。故又云、初入2佛法1、多存2俗情1、故須2息v惡行1v慈也云々とある如く、出家したるはじめを、沙彌とはいふなり。この滿誓、晩年の僧なりしかば、こゝに沙彌とはかけるなり。
 
滿誓。
俗名、笠朝臣麻呂なり。父祖、考へがたし。續日本紀に、慶雲元年正月癸巳、正六位下笠朝臣麻呂授2從五位下1。三年七月辛酉、爲2美濃守1。和銅二年九月己卯、賜2美濃守從(195)五位上笠朝臣麻呂、當國田二十町、穀二百斛、衣一襲1、美2其政績1也。四年四月壬午、授2正五位上1。七年閏二月戊午朔、賜2美濃守從四位下笠朝臣麻呂、封七十戸田六町1、以v通2吉蘇路1也。靈龜二年六月甲子、爲2兼尾張守1。養老元年十一月癸丑、授2從四位上1。三年七月庚子、始置2按察使1、令3美濃國守從四位上笠朝臣麻呂管2尾張參河信濃三國1。四年十月戊子、爲2右大辨1。五年五月戊午、右大辨從四位上笠朝臣麻呂請奉2爲太上天皇1出家入道、勅許v之。七年二月丁酉、勅2僧滿誓1、【俗名從四位上笠朝臣麻呂】於2筑紫1令v造2觀世音寺1云々とありて、卒年しりがたし。
 
詠v緜《ワタ》。
玉篇云、彌然切、新絮也。今作v綿とありて、緜は綿なり。
 
一首。
印本、首を前に誤れり。誤りなる事明らかなれば、目録並に古本によりてあらたむ。
 
336 白縫《シラヌヒ》(・ノ)。筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》。身著而《ミニツケテ》。未者伎禰杼《イマダハキネド》。暖所見《アタヽカニミユ》。
 
白縫《シラヌヒ》(・ノ)。
枕詞にて、冠辭考にくはし。不知火《シラヌヒ》の意也。さてこの枕詞、考にいはれしが如く、四言に訓べし。
 
筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》。
筑紫は、古事記上卷に、次生2筑紫島1、此島者身一而有2面四1、毎v面有v名、故筑紫國謂2白日別1、豐國謂2豐日別1、肥國謂2建日向日豐久士比泥別1、熊曾國謂ニ2建日別1云々とありて、いと古くは、筑紫、豐國、肥國、熊曾國の四國を、すべて筑紫島といひしを、四國に別れて後、また筑紫を二國にわかちて、筑前、筑後といへど、こゝに筑紫といふは、筑前(196)をさせり。そは、續紀に見ゆるが如く、滿誓、筑前觀音寺にありて、よまれたりとおぼしければ也。和名抄國郡部に、筑前【筑紫乃三知乃久知】筑後【筑紫乃三知乃之里】云々と見えたり。綿は筑紫の名産なる事、續日本紀云、神護景宴三年三月乙未、始毎年運2太宰府綿二十萬屯1、以輸2京庫1云々。延喜民部省式云、太宰府毎年調絹三千疋附2貢綿使1進v之云々。雜式云、凡太宰貢2綿穀1、船者擇2買勝v載二百五十石以上三吉石以下1、不v著v※[木+施の旁の也が巴]進上云々。江家補2次侍從1次第云、上古以v預2節會1爲2大望1、多依v給2禄綿1也。件綿本太宰府所v進也。而近代帥大貳申2色代小1、綿三百兩代絹一疋、仍無d望v預2節會1人u云々などあるにてしるべし。さて、一首の意は明らかなれど、この歌、譬喩の歌にて、滿誓、女など見られて、たはぶれに詠れたるにて、かの綿を積かさねなどしたるが、暖げに見ゆるを、女によそへられたるにもあるべし。
 
山上臣憶良 罷v宴歌一首。
 
罷v宴は、酒宴を辭してかへる意也。故に、罷はまかると訓べし。さて、廣雅釋詁二に、罷歸也云々。同語呉語に、遠者罷耐未v至云々などあるにても、罷は歸り去意にて、まかると訓べきをしるべし。また、罷の字の事は、上【攷證二下六十丁】にもいへり。
 
337 憶良等者《オクララハ》。今者將罷《イマハマカラヌ》。子將哭《コナクラム》。其彼《ソモソノ・ソノカノ》母毛《ハヽモ》。吾乎將待《ワヲマツラム・ワレヲマタム》曾《ゾ》。
 
(197)憶良等者《オクララハ》。
等者《ラハ》は、などはといふ意也。古事記中卷に、令v服2其衣褌|等《ラ》1云々。本集二【四十二丁】に、愛伎妻等者《ハシキツマラハ》云々などある類にて、集中いと多し。さて、この時は、宴會のをりにて、外に人も多くあるべければ、自ら名をさしていへる也。
 
其彼《ソモソノ・ソノカノ》母毛《ハヽモ》。
久老云、その子も其母もといふを、上に、子なくらんとあれば、今は子の言を省けり。今本の訓にては、其彼の文字、いづれ一つ衍れり。まして彼の字は、集中そのとよみて、かのと訓例なし云々。此説尤さる事なれば、この訓にしたがへり。
 
吾乎將待曾《ワヲマツラムゾ・ワレヲマタムゾ》。
本集十八【十四丁】に、奴波多麻能欲和多流都奇乎伊久欲布等《ヌバタマノヨワタルツキヲイクヨフト》、余美都追伊毛波《ヨミツヽイモハ》、和禮麻都良牟曾《ワレマツラムゾ》云々ともあれば、こゝも、わをまつらんぞと訓べし。吾をわとのみいへるは、汝《ナレ》をなとのみもいひ、誰をたとのみもいへる類也。この事は、上【攷證一上三丁】にいへり。ぞは、下に添たる詞也。一首の意は、明らけし。憶良、ことに妻子を愛せられし事は、五の卷の歌に、多くいでたるなど、思ひ合すべし。
 
太宰帥大伴卿。讃v酒歌十三首。
 
こは旅人卿なり。旅人卿の事は、上【攷證三上六十三丁】に出たり。讃酒は酒をほむる意也。玉篇に、讃發2揚美徳1也と見えたり。
 
(198)338 驗無《シルシナキ》。物乎不念者《モノヲオモハズハ》。一坏乃《ヒトツキノ》。濁酒乎《ニゴレルサケヲ》。可飲有良師《ノムベクアラシ》。
 
驗無《シルシナキ》。
何のしるしもなきにて、無益といふに同じ。本集十一【廿二丁】に、驗無戀毛爲鹿《シルシナキコヒヲモスルカ》云々なども見えたり。この事は、下【攷證此卷四十四丁】にいふべし。
 
物乎不念者《モノヲオモハズハ》。
物を思はんよりはの意也。この事は、上【攷證二上三丁】にいへり。
 
一坏乃《ヒトツキノ》。
さかづきに、たゞ一つの也。久老が、こゝに、延喜式に等呂須伎とあるを引て、こゝをも、ひとすきと訓るは非也。古へ、酒坏《サカツキ》、筥坏《ハコツキ》、平《ヒラ》坏、高《タカ》坏、短女《ヒキメ》坏、窪《クボ》坏の類、猶多かれど、皆、つきとのみいひて、すきといふ事なし。されば舊訓のまゝ、ひとつきのと訓べし。そは、本集五【十八丁】に、烏梅能波奈多禮可有可倍志《ウメノハナタレカウカベシ》、佐加豆岐能倍爾《サカツキノヘニ》云々。新撰字鏡に、觚【角乃佐加豆支】※[角+黄]※[角+光]【佐加豆支】云々。和名抄瓦器類に、兼名苑云、盃【字亦作v杯】一名※[梔の旁]【音支、佐加豆木】云々などあるにても思ふべし。さて、杯は、玉篇、瓦未v燒云々と見えたり。
 
濁酒乎《ニゴレルサケヲ》。
濁酒は、延喜四時祭式に、清酒五升、濁酒六斗五升云々。齋宮式に、清酒濁酒各二升云々。造酒式に、※[齊の下半が韮の下半]酒五升【五月七月九月十一月各一斗】濁酒五升【十一月一斗五月七月一斗九月不v供】云々。古老口實傳に、濁酒一瓶子云々。伊呂波字類抄に、醪※[酉+(央/皿)]※[酉+(密の山が皿)]【已上三字ニゴリザケ】とありて、廣韻に、醪濁酒云々。説文に、※[酉+(央/皿)]、濁酒也云々。玉篇に、※[酉+(密の山が皿)]、濁酒云々など見えたる、醪も、※[酉+(央/皿)]も、※[酉+(密の山が皿)]も、皆にごり酒なれば、延喜造酒式に、醴齊※[酉+(央/皿)]齊清酒各二斗云々とある※[酉+(央/皿)]齊も、濁酒なる事しらる。されば、この物の製を考ふるに、同式に、醴齊【こは今いふあま酒てふもの也。】以2白米一斗八升1爲v粉、以2九升1爲v麹。※[酉+(央/皿)]齊以2黒米一斗三升1(199)爲v粉、以2六升1爲v麹。清酒五升加v汁、並前v祭四日造備供奉とあるにて思へば、今のにごり酒とはすこし異なれど、大かたは同じもの也。和名抄藥酒類に、玉篇云、醪【刀刀切。漢語抄云、濁醪毛呂美】汁滓酒也と見えたり。これ、汁《シル》も滓《カス》も、ともに飲もの故に、もろみとは名づけたる也。また文選、※[(禾+尤)/山]康與2山巨源1絶交書に、今但願守2陋巷1、教2養子孫1、時與2親舊1叙2離濶1、陳2説平生1、濁酒一盃、彈琴一曲、志願畢矣云々。北史、李元忠傳に、會齊神武東出、元忠便乘2露車1載2素筝1、濁酒以奉2迎神武1、聞2其酒客1未2即見1v之、元忠下v車、獨坐酌v酒、※[辟/手]v脯食之云々なども見えたり。
 
可飲有良師《ノムベクアラシ》。
本集此卷【十六丁】に、庭好有之《ニハヨクアラシ》云々などもあれば、こゝも舊訓のまゝ、のむべくあらしとよむべし。あらしは、あらんかしの意也。一首の意は、何の益なき物思ひをせんよりは、たゞ一坏の濁酒をだに飲べからんといふに、戀をせんよりはといふ意こもれり。
 
339 酒名乎《サケノナヲ》。聖跡《ヒジリト》負師《オハシシ・オヒシ》。古昔《イニシヘノ》。大聖之《オホキヒジリノ》。言乃宜左《コトノヨロシサ》。
 
酒名乎《サケノナヲ》。聖跡《ヒジリト》負師《オハ|セ《(マヽ)》シ・オヒシ》。號而芸
考の訓にしたがへり。藝文類聚、引2魏略1云、太祖禁v酒、而人竊飲v之、故難v言v酒、以2白酒1爲2賢者1、清酒爲2聖人1云々とある故事をとりて詠れつる也。聖の字の事は、上【攷證一上四十五丁】にいへり。
 
大聖之《オホキヒジリノ》。
酒を聖人と名づけし人もしれず、その人も大聖にはあらねば、旅人卿、酒をみづからこのまるゝ故に、その人をさへほめて、大聖と詠れし也。さて、一首の意は、酒(200)の名をも、聖人とおはせつる、昔しの人の、その言は、うべよろしかりけりとなり。
 
340 古之《イニシヘノ》。七賢《ナヽノカシコキ》。人《ヒト》等《ドモ・トラ》毛《モ》。欲爲物者《ホリスルモノハ》。酒西《サケニシ》有《ア・アル》良師《ラシ》。
 
七賢《ナヽノカシコキ》。人《ヒト》等《ドモ・トラ》毛《モ》。
こは、竹林(ノ)七賢なり。晋書※[(禾+尤)/山]康傳に、康所2與神交1者、惟陳留阮籍、河内山濤、豫2其流1者、河内向秀、沛國劉伶、籍兄子咸、琅邪王戎、遂爲2竹林之遊1。世所v謂竹林七賢也云々。太平廣記卷二百三十五引2世説1云、陳留阮籍、※[言+焦]國※[(禾+尤)/山]康、河内山濤三人、年相比。預2此契1者、沛國劉伶、陳留阮咸、河内向秀、琅邪王戎七人、常集2于竹林之下1、肆意酣暢。世謂2之竹林七賢1云々など見えたり。賢人は、古事記中卷に、又科d賜百濟國若有2賢人1者貢上u云々。本集九【十五丁】に、古之賢人之遊兼《イニシヘノカシコキヒトノアソビケム》云々。十六【九丁】に、古部之賢人藻《イニシヘノカシコキヒトモ》云々などありて、古人を尊み敬ひていふこと也。かしこしといふ語は、もと畏《カシコ》み恐《オソ》るゝ意なれど、そを轉じて、かたじけなき意に用る也。また、書紀仁徳紀訓注に、賢遺此云2左河之能※[草がんむり/呂]里《サカシノコリ》1云々。古事記上卷御歌に、佐加志賣遠阿理登岐加志弖《サカシメヲアリトキカシテ》云々ともあれば、こゝをも、さかしき人と訓んかとも思へど、さては、次の歌の賢跡物言從者《カシコシトモノイフヨリハ》とある賢の字の訓、下しがたければ、猶舊訓にしたがへり。等の字は、どもと訓べし。本集一【廿六丁】三【廿丁】六【廿三丁】などに、却來子等《イザコドモ》とありて、古事記中卷に、伊邪古杼母《イザコドモ》云々とあれば、等はどもと訓べき事しられたり。人等《ヒトドモ》は、人たちといはんが如し。
 
酒西《サケニシ》有《ア・アル》良師《ラシ》。
西《ニシ》のし文字は助字也。有良師は、まへにいへるが如くあらしと訓べし。さて、一首の意は、古への七人の賢人たちすら、酒をこのまれしかば、己がど(201)ちの好むも、うべなりと也。
 
341 賢跡《カシコシト》。物言從者《モノイフヨリハ》。酒飲而《サケノミテ》。醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》。益《マサリ》有《タル・テアル》良之《ラシ》。
 
賢跡《カシコシト》。物言從者《モノイフヨリハ》。
跡は、上【攷證二上四十三丁】にいへる、とての意のともじ也。われかしこしとて、ものいふよりはと也。
 
醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》。
醉哭は、醉て哭なり。續日本後紀、承和十年三月丙辰紀に、文室朝臣秋津【中略】在2飲酒席1、似v非2大夫1、毎至2酒三四坏1、必有2醉泣之癖1故也云々。大和物語に、人々もよくゑひたるほどにて、醉なき、いとになくす云々。紫式部日記に、おほいとの、あはれさき/\の行を、などて、めいぼくありと思ひ給へけん。かゝりける事も侍りけるものをと、ゑひなきし給ふ云々などありて、猶、源氏物語、榮花物語などにも見えたり。爲師《スルシ》のしは助字のみ。さて、一首の意は、われかしこしとて、かしこげに、ものいはんよりは、酒をのみて、醉なきせんこそ、まさりたらめとなり。
 
342 將言爲便《イハムスベ》。將爲便不知《セムスベシラニ》。極《キハメタル・キハマリテ》。貴《タフトキ・カシコキ》物者《モノハ》。酒西《サケニシ》有《ア・アル》良之《ラシ》。
 
將爲便不知《セムスベシラニ》。
本集二【卅七丁】に、將言爲便世武爲便不知爾《イハムスベセムスベシラニ》云々ともあれば、せんすべしらにと訓べし。しらにのには、ずの意なり。
 
(202)極《キハメタル・キハマリテ》。
考には、きはみたると訓、略解には、きはまりてと訓たれど、久老が、きはめたると訓る、《(マヽ)》したがへり。本集廿【五十一丁】に、伎波米都久之弖《キハメツクシテ》云々とあればなり。
 
貴《タフトキ・カシコキ》物者《モノハ》。
貴は、たふときと訓べし。たふとしとは、めでたき意也。この事は、上【攷證二中四十五丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
343 中々二《ナカ/\ニ》。人跡不有者《ヒトトアラズハ》。酒壺二《サカツボニ》。成(・ニ)而師鴨《ナリテシガモ》。酒二染嘗《サケニシミナム》。
 
中々二《ナカ/\ニ》。
本集四【卅三丁】に、中々煮黙毛有益呼《ナカ/\ニモダモアラマシヲ》云々。十七【十六丁】に、奈加奈可爾之奈婆夜須家牟《ナカナカニシナバヤスケム》云々などありて、集中いと多し。今の世にいふ所も同じ。
 
人跡不有者《ヒトトアラズハ》。
人跡《ヒトト》の跡《ト》もじは、にの意にて、本集五【卅丁】に、和久良婆爾《ワクラバニ》、比等等波安流乎《ヒトトハアルヲ》云云。また【卅九丁】何時可毛比等等奈利伊弖天《イツシカモヒトトナリイデテ》云々。十二【廿七丁】に、中々二人跡不在者桑子爾毛成益物乎玉之緒許《ナカ/\ニヒトトアラズバクハコニモナラマシモノヲタマノヲバカリ》云々などあると同じく、集中猶見えたり。多武峯少將物語に、はらはらの君たちは、皆ころとおはしませば云々などあるも同じく、中古までも、多く見えたり。あらずはゝ、あらんよりはの意なり。この事は、上【攷證二上三丁】にいへり。
 
酒壺二《サカツボニ》。
酒壺は、大神宮儀式帳に、酒壺三口云々。止由氣宮儀式帳に、酒※[土+壺]三口、甕二口、神酒缶十口云々。延喜四時祭式に、酒壺二口【祭日納酒料】云々。内匠式に、酒壺一合【受一斗五升】料銀大七斤八兩云々。書紀、敏達天皇二年紀に、錦織壺之女【壺此云2都符1。】云々。和名抄漆器類に、周禮注云、壺【音古、和名豆保】所2以盛1v飲也。兼名苑云、壺一名〓【音謹】唐韻、以v瓢爲2酒器1也云々など見えたり。
 
(203)成(・ニ)而師鴨《ナリテシガモ》。
この句、なりてしがもと六言に訓べし。舊訓、なりにてしとあれど、すべて、にて、にし、にき、にたる、などいふ、てにをはゝ、皆過去をこむる詞なれば、こゝには叶ひがたし。
 
酒二染嘗《サケニシミナム》。
染は、舊訓、しみと訓るを、いかに心得てか、久老は、そみとあらためたれど、舊訓のまゝ、しみと訓べき也。そは、古事記上卷御歌に、曾米紀賀斯流邇斯米許呂母遠《ソメキガシルニシメコロモヲ》云々とありて、本集二【卅二丁】に、益目頬染《イヤメヅラシミ》云々。三【廿四丁】に、相見染跡衣《アヒミシメトゾ》云々。四【卅八丁】に、和備染責跡《ワビンミセムト》云々など、しみてふ語の借字に、染の字を用ひたるにても、こゝは、しみと訓べきをしるべし。また廿【四十一丁】に、世奈我許呂母波曾米麻之乎《セナガコロモハソメマシヲ》云々。神樂前張歌に、佐伊波里仁古呂毛波所女旡《サイバリニコロモハソメム》云々とありて、廿【四十五丁】に、之美爾之許己呂《シミニシココロ》云々。古今集夏に、はちすばのにごりにしまぬ心もて云々など、そむとも、しむともいへど、物の染るをば、そむといひ、おのづからしみつく意なるは、しむといふ、わかちありとおぼし。甞を、なむとよめるは借字也。さて、一首の意は、なまなかに、人とうまれてあらんよりは、酒壺になりてだに、あくまで酒にしみなんといふ意にて、呉志□傳に、鄭泉字文淵、性嗜v酒。臨v卒謂2同類1曰、必葬2我陶家之側1。庶百歳後、化而成v土、取爲2酒壺1、實獲2我心1矣云々とある故事を取て、よまれつるなり。
 
344 痛醜《アナミニク》。賢良乎爲跡《サカシラヲスト》。酒《サケ》不飲《ノマヌ・ノマヂ(モトノマヽ)》。人乎《ヒトヲ》※[就/火]見《ヨクミ・ニクム》者《バ》。猿二鴨《サルニカモ》似《ニム・ニル》。
 
(204)痛醜《アナミニク》
痛を、あなと訓るは義訓にて、痛は、いたしともよみて、甚しき意なれば、あなとは訓る也。本集四【廿八丁】に、痛多豆多頭思《アナタツタヅシ》云々。七【五丁】に、痛足河《アナシガハ》云々などもありて、あなてふ語は、歎息の詞にて、古語拾遺に、事之甚切皆稱2阿那《アナ》1云々と見え、かの、あなにやしえとのたまひし、あなもこれ也。書紀神武紀訓注に、大醜此云2鞅奈瀰邇句《アナミニク》1と見えたり。玉篇に、醜、貌惡也とありて、今、見にくしとも、見ぐるしともいふと同じ。
 
賢良乎爲跡《サカシラヲスト》。
さかしらは、本集此卷【卅八丁】に、思家登情進莫《イヘオモフトサカシラナセソ》云々。十六【廿五丁】に、情出爾行之荒雄良《サカシラニユキシアラヲラ》云々。古今集俳諧歌に、さかしらに夏は人まねさゝのはのさやぐ霜夜をわがひとりぬる云々。宇津保物語、俊蔭卷に、さかしらに人有と見て人のうかゞひなどするに云々。源氏物語、關屋卷に、あいなのさかしらやなどぞ侍るめる云々などありて、皆、物に先だちて、さし出がましきをいへり。跡は、とての意なり。
 
人乎《ヒトヲ》※[就/火]見者《ヨクミバ・ニクムハ》。
※[就/火]は熟の異體なり。本集一【十丁】※[就/火]田津《ニギタヅ》とも書たり。これを、よくと訓るは義訓也。
 
猿二鴨《サルニカモ》似《ニム・ニル》。
集中、猿、申などの字を、ましといふ語の借字に用ひて、さると假字書る例なけれど、書紀、天武天皇十年十二月紀に、柿本臣※[獣偏+爰]といふ人あるを、續日本紀、和銅元年四月紀に、柿本朝臣佐留とあるにて、猿(※[獣偏+爰]カ)をさるといふべきをしるべし。また、※[獣偏+爰]田彦大神、※[獣偏+爰]女君など、みな、さるとのみいふを思ふべし。本集十【六丁】に、猿帆之内《サホノウチ》云々と、猿をさと訓る、略(205)訓ながら、これも、さるといふ訓あるによりて也。和名抄獣名に、※[獣偏+爰]【于元反。亦作※[虫+爰]。俗作猿。和名佐流】と見えたり。さて、一首の意は、酒のめば、さかしらする物ぞとて、酒をのまざる人をよく見なば、かへりて、酒をのまざる人こそ、猿に似たらめ、あな見にくのわざやと、下戸をのゝしらるゝ也。
 
345 價《アタヒ・アタヘ》無《ナキ》。寶跡言十方《タカラトイフトモ》。一坏乃《ヒトツキノ》。濁酒爾《ニゴレルサケニ》。豈益目八方《アニマサラメヤ》。
 
價《アタヒ・アタヘ》無《ナキ》。寶跡言十方《タカラトイフトモ》 書紀、延喜式など、價を、皆、あたへとよめり。價《アタヘ》は、古言梯に、當易《アテカヘ》の意とせり。當易の意ならば、あたへと訓べし。さて、この價無寶《アタヘナキタカラ》と、は、法華經、受記品に、以2無價寶珠1、繋2其衣裏1云々。尹文子に、魏田父有d耕2于野1者u。得2寶玉徑尺1、弗v知2其玉1也、以告2鄰人1。鄰人盗v之、以献2魏王1。魏召2玉工1相v之。王問v償。玉工曰、此無2價以當1v之。魏王立賜2献v玉者千金1云々などあるをとりて、よまれつるにて、價の無ばかり、たふとしといふなり。
 
豈益目八方《アニマサラメヤ》。
代匠記云、紀州本、八下有v方。紀州本ニヨルニ、次ノ歌ノ下ノ、一云ハ、此下ニアルベキカ。其故ハ、八目《ヤモ》、八方《ヤモ》、同事ナレバ、次ノ歌ニ用ナシ云々とあり。この説さもあるべし。これによらば、あにまさめやもと訓べし。いづれにても意は同じ。一首の意は明らけし。豈《アニ》といふは、かつてといふ意也。くはしくは、下【攷證四中九丁】にいふべし。
 
346 夜光《ヨルヒカル》。玉跡言十方《タマトイフトモ》。酒飲而《サケノミテ》。惰乎遣尓《コヽロヲヤルニ》。豈若目八方《アニシカメヤモ》。【一云。八方。】
 
(206)夜光《ヨルヒカル》。玉跡言十方《タマトイフトモ》。
夜光玉の事は、史記□云、隋公祝元暢因之v齊、道上見2一蛇將1v死、遂以v水洒摩、傳2之神藥1而去。忽一夜、中庭皎然有v光、意謂有v賊、遂案v劔視v之、廼見2一蛇1、※[口+卸]v珠在v地而往。故知、前蛇之感報也。以2珠光能照1v夜、故曰2夜光1云々。抱朴子、※[衣+去]惑篇云、凡探2明珠1、不2於合浦之淵1、不v得2驪龍之夜光1也云々。述異記云、南海有v珠、即鯨目瞳、夜可2以覽1、謂2之夜光1云々。續博物志卷八云、魏田父置2玉於室1、其光燭v夜云々など見えたり。
 
情乎遣尓《ココロヲヤルニ》。
思ひを遣るといふに同じく、心に思ふ事どもをやる也。
 
豈若目八方《アニシカメヤモ》。【一云。八方。】
この一云は、文字の異同のみをあげしが、前の歌の代匠記の説のごとく、前の歌にありしが、こゝに亂入たるにもあるべし。一首の意は明らけし。
 
347 世間之《ヨノナカノ》。遊道爾《アソビノミチニ》。怜者《タヌシキハ・マシラハヾ》。醉泣爲爾《ヱヒナキスルニ》。可有良師《アリヌベカラシ》。
 
遊道爾《アソビノミチニ》。
すべて、遊《アソビ》といふは、歌舞、管絃はさら也、漁獵、また酒宴など、すべてあそぴとはいへる事、古事記上卷に、何由以天宇受女者|爲樂《アソビシ》、亦八百萬神諸咲云々。又云、日八日夜八夜以遊也云々。又云、爲2鳥遊取魚1而往2御大之前1云々。又下卷御歌云、夜須美斯志和賀意富岐美能阿蘇婆志斯志斯能夜美斯志能《ヤスミシシワガオホキミノアソバシシシシノヤミシシノ》云々。續日本紀、天平十五年五月詔云、今日行腸布熊乎(207)見行八直遊止乃味爾波不在之※[氏/一]《ケフオコナヒタマフワザヲミソナハスレバタヾニアソビトノミニハアラズシテ》云々。本集五”に、阿迦胡麻爾志都久良宇知意伎波比能利提阿蘇比阿留伎斯余乃奈迦野《アカコマニシツクラウチオキハヒノリテアソビアルキシヨノナカノ》云々。また【十七丁】家布能阿素毘爾《ケフノアソビニ》云々などありて、集中いと多し。道《ミチ》は術といはんが如し。久老云、道といふ事、から國には、こちたくいへれど、吾御國には、何のみち、くれの道などいひて、たゞそのすぢをいふ言也。(頭書、後撰集雜一に、兼輔朝臣、人のおやの心はやみにあらねども、子を思ふみちにまよひぬる哉。)
 
怜者《タヌシキハ・マシラハヾ》。
印本、怜を冷に誤れり。考異本に引る異本に怜とありて、宣長の説に、冷は怜の誤りにて、たぬしきはと訓べし。さぶしを、不怜とも、不樂とも通はして書れば、たぬしきに、怜の字をも書べき也といはれしと、よく合つれば、改めぬ。集韻に、怜、靈年切、喜連與v憐刷とあれば、たぬしとよまん義も、こもれり。たぬしは、古事記下卷御歌に、多怒斯久母阿流迦《タヌシクモアルカ》云々。本集五【十四丁】に、多努之岐乎倍米《タヌシキヲヘメ》云々。また【十七丁】多努斯久阿流倍斯《タヌシクアルベシ》云々など、集中にも猶いと多かれど、皆たぬしとのみあるを、古語拾遺に、阿那多能志《アナタノシ》【言伸v手而舞、今指2樂事1謂2之多能志1此意也】云々とあるのみ、たのしとあれど、多きにつきて、たのしと訓べし。さて、一首の意は、世の中の遊びの道は多かる中にも、まづ第一に樂しきは、酒のみて、醉なきなどするにあるべからんとなり。
 
348 今代爾之《コノヨニシ》。樂《タヌシク・タノシク》有者《アラバ》。來生者《コムヨニハ》。蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》。吾羽成奈武《ワレハナリナム》。
 
今代爾之《コノヨニシ》。
本集四【廿二丁】に、現世爾波人事繁來生爾毛將相吾背子今不有十方《コノヨニハヒトゴトシゲシコムヨニモアハナワガセコイマナラズトモ》云々。佛足石御歌に、己乃世波乎閇牟《コノヨハヲヘム》云々などありて、現世をいふなり。また、久老は、この句を、(208)いまのよにしとよめり。これもあしからねど、來世にむかへいへるなれば、このよと訓んかた、まされり。爾之《ニシ》の之《シ》文字は助字のみ。
 
來生者《コムヨニハ》。
後世をいふ也。佛足石御歌に、乃知乃與乃多米麻多乃與乃多米《ノチノヨノタメマタノヨノタメ》云々ともあれば、のちのよはとか、またのよはとか、よまんかとも思ひつれど、まへに引る四【廿二丁】の歌に、むかへ見るに、猶、舊訓のまゝに、こんよにはと訓べき也。さて、一首の意は、現世のほどだに、酒のみて、樂しく世をすぐさば、たとへ來世は蟲鳥などにうまるとも、悔あらじといふにて、一首の表に、酒の事はいはれざれど、樂有者《タヌシタアラバ》といふに、酒の事こもれり。この歌、佛説によりて、よまれたりとおぼし。そは、薩遮尼乾子經偈云、飲酒多2放逸1、現世常愚癡、忘2失一切事1、常被2智者呵1、來世常闇鈍、多失2諸功徳1云々などある意にてもあるべし。
 
349 生《イケル》者《モノ・ヒト》。遂毛死《ツヒニモシヌル》。物爾有者《モノナレバ》。今在間者《コノヨナルマハ》。樂乎有《タヌシクヲアラ・タノシクアレ》名《ナ》。
 
生《イケル》者《モノ・ヒト》。遂毛死《ツヒニモシヌル》。物爾有者《モノナレバ》。
生者の者の字、諸訓、みな、ひとゝ訓つれど、字のまゝに、ものと訓べき也。人をさして、ものといへる事、上【攷證二下五十四丁】にいへり。こゝに、鳥獣、虫魚までも、生あるものは、必らず死する故に、ひろく者《モノ》といへる也。本集此卷【五十四丁】に、生者死云事爾不免《イケルモノシヌトイフコトニマヌカレヌ》云々とも見えたり。史記孟甞君傳云、馮驩曰、生者必有v死、物之必至也云々。さて、この歌も、佛説によりて、よまれつる也。そは、増壹阿含經四意斷品偈云、一切行無常、生者當v有v死、不v生不2復滅1、此滅最第一云々などある意にてもあるべし。
 
(209)樂乎有《タヌシクヲアラ・タノシクアレ》名《ナ》。
乎は助字なり。そは、有名《アラナ》の名《ナ》もじは、下知の詞にて、よといはんが如し。この下知の意の名の事は、上【攷證一下四十丁】にいへり。さて、一首の意は、世の中に、生としいけるもの、遂に死せざるものなければ、この世にあらんかぎりは、われも人も酒のみて、樂しくあれかしと也。
 
350 黙然居而《モダヲリテ・タヾニヰテ》。賢良爲者《サカシラスルハ》。飲酒而《サケノミテ》。醉泣爲爾《ヱヒナキスルニ》。尚不如來《ナホシカズケリ》。
 
黙然居而《モダヲリテ・タヾニヰテ》。
黙然は、舊訓、たゞにと訓つれど、もだと訓べし。本集四【廿三丁】に、黙然得不在者《モダエアラネバ》云々。また【卅三丁】黙毛有益呼《モダモアラマシヲ》云々。七【廿四丁】に、黙然不有跡《モダアラジト》云々。十七【卅一丁】に、母太毛安良牟《モダモアラム》云々など見えたり。たゞいたづらにをるをいふ也。この句を、考にも、略解にも、もだしゐてと訓つれど、もだし、もだすなどいふ事、古書に見えざれば、用ひがたし。さて、この黙《モダ》といふ事、中古より、なほといふに當れり。伊勢物語に、みやづかへのはじめに、たゞなほやはあるべき云々。源氏物語、花宴卷に、なほあらしに云々などありて、本集七【廿四丁】なる、黙然不有跡《モダアヲジト》とある歌を、河海抄花宴卷に引れたるには、なほあらじとあれど、十七卷に、正しく假字に書る例あれば、論なし。一首の意は、たゞ無言にて居て、よからぬさかしらごとなどするは、酒をのみて、醉なきするには猶しかずとなり。
 
尚不如來《ナホシカズケリ》。
集中、ずけり、ずける、ずけん、ずけれなどいふは、みな、ざりけり、ざりける、ざりけん、ざりけれの意也。この事、下【攷證四中七丁】にいふべし。
 
(210)沙彌滿誓歌一首。
 
滿誓の事は、上【攷證此卷廿五丁】にいへり。印本、首を前に誤れり。誤りなる事明らかなれば、目録、并古本によりて改む。
 
351 世間乎《ヨノナカヲ》。何物爾將譬《ナニニタトヘム》。旦開《アサビラキ》。榜《コギ》去師《ニシ・イニシ》船之《フネノ》。跡無如《アトナキガゴト》。
 
何物爾將譬《ナニニタトヘム》。
なにといふに、何物と書る物の字は、例の添たる也。この添て書る字の事は、上【攷證三上廿三丁】にいへり。本集八【一四丁】に、何物花其毛《ナニノハナゾモ》云々とも見えたり。
 
旦開《アサビラキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。朝に舟出するを、あさびらきとはいふ也。さて、この歌を、拾遺集哀傷に載て、この句を、あさぼらけと訓たれど、朝ぼらけといふ事は、古今集冬に、朝ぼらけ有明の月と見るまでにともよみて、あさびらきとは別也。思ひまがふべからず。
 
榜《コギ》去師《ニシ・イニシ》船之《フネノ》。
舊訓、こぎいにしとあれど、本集廿【卅丁】に、己枳爾之布禰乃《コギニシフネノ》云々ともあれば、こぎにしと訓べし。去は、本集三【四十二丁】に、過去計良受也《スギニケラズヤ》云々。此卷【十九丁】に、左夜深去來《サヨフケニケリ》云々などありて、にき、にしなどの假字にも用ひたる事、集中にいと多し。さて、一首の意は、滿誓出家の後、筑紫の海邊にて、舟によせて、無常のこゝろをよまれし也。
 
若湯座王歌一首。
 
(211)この王、父祖、考へがたし。湯座は、書紀、神代紀下に、彦火々出見尊取2婦人1、爲2乳母《チオモ》湯母《ユオモ》及|飯嚼湯坐《イヒカミユヱ》1、凡諸部備行、以奉v養焉云々。古事記中卷に、取2御母1定2大湯坐若湯坐1、宜2日足奉1云々などありて、【大と若とは、大小といはんがごとし。】兒に湯を浴《アム》する女の事なるを、後に氏ともなれる事、書紀、天武天皇十三年紀に、若|湯人《ユエ》連賜姓曰2宿禰1云々。續日本紀、養老三年五月紀に、若湯坐連家主云々。神龜五年五月紀に、若湯坐宿禰小月云々。【この氏の人、この外、紀中いと多し。】新撰姓氏録卷十一に、者湯坐宿禰、石上同祖云々。また卷十九に、若湯坐連、膽杵磯丹穗命之後也云々などあるにてしるべし。さて、これを、ゆゑと訓るよしは、書紀、雄略天皇三年紀訓注に、湯人此云2臾衛《ユヱ》1云々とある湯人、湯坐と、かの氏に交へ書るにてしるべし。
 
352 葦邊波《アシベニハ》。鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》。湖風《ミナトカゼ》。寒吹良武《サムクフクラム》。津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》。
 
湖風《ミナトカゼ》。
湖を、みなとゝ訓るは義訓也。この事は、上【攷證三上廿丁】にいへり。本集十七【四十八丁】に、美奈刀可世佐牟久布良之《ミナトカゼサムクフクラシ》云々なども見えたり。代匠記に引る官本に、湖を潮に作れり。非也。
 
津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》。
津乎能埼《ツヲノサキ》は、仙覺抄に、伊豫國野間郡とせるは、何ぞより所ありや、おぼつかなし。和名抄郷名に、都宇《ツウ》とある、もしこゝの埼ならんもしりがたし。羽毛は、下へ意をふくめたる詞にて、歎息の意こもれり。この事は、上【攷證二中四十九丁】にいへり。この歌は、旅に行たる人など思ひやりて、よまれつるなるべし。一首の意は明らけし。
 
釋通觀歌一首。
 
(212)通觀は、父祖、考へがたし。上【攷證此卷十七丁】にも出たり。釋とは、出家の人の姓のごとし。正字通に、釋又姓、悉達太子成道姓釋、今佛家皆稱2釋氏1云々と見えたり。
 
353 見吉野之《ミヨシヌノ》。高城乃山尓《タカギノヤマニ》。白雲者《シラクモハ》。行憚而《ユキハヾカリテ》。棚引《タナビケル・タナビキテ》所見《ミユ》。
 
高城乃山尓《タカギノヤマニ》。
この外、ものに見えず。大和志に、高城山在2吉野山東1、有2壘址1、云々と見えたり。
 
行憚而《ユキハヾカリテ》。
行憚は、上【攷證此卷二丁】にいへるが如く、行とゞこほる意也。猶、上ところ/”\に出たり。一首の意くまなし。
 
日置少老《ヒキノスクナオユ》歌一首。
 
この人、父祖、考へがたし。姓を略ける事、まへにもいへるが如く、集中多かり。日置氏は、新撰姓氏録卷五に、日置朝臣、應神天皇皇子大山守王之後也云々。この外、日置造、日常藏人、日置部などもあり。こゝなるは、いづれならん。姓をしるさゞれば、定めがたし。この氏の訓は、和名抄郡名に、伊勢國一志郡日置【比於木。】能登國珠洲郡日置【比岐】と、ひきとも、ひおきとも訓つれど、古事記中卷に、是大山守命者、土形君、幣岐《ヘキ》君、榛原君之祖とあると、まへに引る姓氏録と合つれば、幣岐は日置と【比と幣と音通ふ事常なり。】同じくて、置は、古くは、おきを略して、きとのみ訓し事、明らかなればひきと訓べし。少老は、すくなおゆと訓べし。
 
(213)354 繩乃浦尓《ナハノウラニ》。鹽燒火氣《シホヤクケブリ》。夕去者《ユフサレバ》。行過不得而《ユキスギカネテ》。山爾棚引《ヤマニタナビク》。
 
繩乃浦尓《ナハノウラニ》。
久老云、師説に、今本に、繩と書るも、なはとよめるも、共に誤り也といへり。上、黒人の歌に、名次山角乃松原《ナスキヤマツヌノマツバラ》とよめる、同所にて、攝津國武庫郡と見えたり。下、赤人の歌にも、綱《ツヌ》の津の歌と、武庫の浦の歌と相並べり云々とて、繩を綱に改めしは非也。こは、略解云、風俗歌に、奈末不利《ナマフリ》。【袖中抄繩振。】奈波之川不良衣乃波留奈禮波可須見天見由留奈波乃川不良衣《ナハノツブラエノハルナレバカスミテミユルナハノツブラエ》。これを、ある人、遠江にありといへれど、この國によしなし。名寄に、顯昭、雪ふればあしのうらばも浪こえて、なにはもわかぬ、なはのつぶら江とよめれば、攝津にて、則このなはの浦か云々とあるによるべし。又、考ふるに、本集此卷【卅丁】に、大伴四繩とあるを、目録には四綱と書、四【廿八丁卅六丁】にも、四綱とかき、又八【廿八丁】には、四綱と書るを見れば、集中、繩、綱のわかちなく、まじへ書りとおぼゆ。されば、こゝを、つぬのうらと訓んも、たよりなきにはあらず。こは、心みに、おどろかしおくのみ。
 
鹽燒火氣《シホヤクケブリ》。
火氣を、けぶりと訓るは義訓也。久老云、卷五、卷十一、卷十二に、火氣をけぶりと訓たり。催馬樂に、阿萬《アマ》の鹽燒屋《シホヤクヤ》のほの氣《ケ》とあれば、いづれも、ほのけと訓べく思へど、卷七に、しかのあまの鹽燒煙風《シホヤクケブリカゼ》をいたみ、たちはのぼらで、山《ヤマ》に棚引《タナビク》とあるは、この歌とひとしければ、是を證として、火氣の二字、いづくにあるも、けぶりと訓べき也云々といへるがごとし。
 
(214)行過不得而《ユキスギカネテ》。
不得を、かねと訓るは義訓也。集中いと多し。一首の意くまなし。
 
生石村主眞人《オホシノスクリマヒト》歌一首。
 
この人、父祖、考へがたし。續日本紀に、天平勝寶二年正月乙巳、授2正六位上大石村主眞人外從五位下1云々と見えたり。この氏、本は大石にて、おほしと訓しを、音便に、おふしといひしより、文字に生石とも書る也。こは、上【攷證二下六十丁】凡津子《オホツノコ》の解にいへる、大と凡と通ふ例と同じ。村主は、すくりと訓べき事、上【攷證三上七十六丁】にいへり。
 
355 大汝《オホナムチ》。小彦名乃《スクナヒコナノ》。將座《イマシケム》。志都乃石室者《シヅノイハヤハ》。幾代將經《イクヨヘヌラム》。
 
大汝《オホナムチ》。
古事記上卷に、天之|冬衣《フユキヌノ》神此神娶2刺國大《サシクニオホノ》神之女、名|刺國若比賣《サシクニワカヒメ》1、生2子|大國主《オホクニヌシノ》神1。亦名謂2大穴牟遲《オホナムチ》神1、亦名謂2葦原色許男《アシハラシコヲノ》神1、亦名謂2八千矛《ヤチホコノ》神1、亦名謂2宇都志國玉《ウツシクニタマノ》神1、并有2五名1云々。この御名の訓義も、この神の御事も、古事記傳卷九にくはしければ、こゝにはもらせり。
 
小彦名乃《スクナヒコナノ》。
古事記上卷に、故大國主神坐2出雲之御大之御前1時、自2波穗1乘2天之羅摩船1、而内2剥鵝皮1薄、爲2衣服1、有2歸來神1。爾雖v問2其名1不v答。且雖v問2所從之諸神1、皆白v不v知。爾多邇具久白言、此者久延毘古必知之。即召2久延毘古1問時、答2白此者神産巣日神之御子、少名毘古那神1。故爾白3上於2神産巣日御祖命1者、答d告此者實我子也於2子之中1、自2(215)我手俣1久岐斯子也。故與2汝葦原色許男命1爲2兄弟1、而作2u堅其國1。故自v爾大穴牟遲與2少名毘古那1二柱神相並、作2堅此國1。然後者、其少名毘古那神者、度v于2常世國1也云々とありて、この神の御名のよしも、かの傳卷十二にくはしければ、こゝにはもらせり。書紀神代紀上に、大己貴命與2少彦名命1、戮v力一v心、經2營天下1云々と見えたり。
 
志都乃石室者《シヅノイハヤハ》。
さだかならず。出雲か紀伊のうちなるべし。宣長の説に、この歌、上【廿五丁】の三穗石室《ミホイハヤ》の歌と、上の句の入かはりたるならんといはれたり。【この説のちには非也とおもはれしよし、古事記傳卷四十にいはれたり。】されど、この説用ひがたし。久老が別記云、此志都の石室は、大汝、小彦名の神の大座といふ傳へのあれば、きはめて、出雲國か紀伊國かにあるべき也。出雲風土記に、飫郡に志都徑【シツミチ】あり。和名抄、石見國安濃郡郷名に、靜間《シヅマ》あり。延喜式、神名帳、紀伊國名草郡|靜火《シヅヒノ》神社あり。かく、志都といふ地名の、出雲にも、紀伊にもあれば、いづれ、そこに石室はありて、大汝、少彦名の神まし/\しといふ傳へのありけるなるべし。石見國人何某云、石見國邑智郡岩屋村に、いと大なる窟ありて、古老相傳へて、大汝、少彦名の二神の住給へる窟にて、本の號は、志都の石室といふを、今はたゞ岩屋とのみいへりと也。この所、濱田より廿里ばかり、極山中邊鄙なれば、萬葉の歌によりて附會すべき所にあらず。この岩屋、出雲、備後の堺に近き所なりといへり。これや、まことの志都の石屋ならん。風土記に出たる飫郡|志都徑《シヅミチ》といふの方角には叶はぬにや。よく/\その國にたづぬべし云々といへり。猶くはしくは、上【攷證三上七十三丁】三穗の石室の條と、かの別記とを考へ合すべし。さて、このこ神は、上に引る神代紀に經2營天下1とありて、出雲風土記に、飯石郡多禰郷、所2造天下1大神(216)大穴持命與2須久奈比古命1、巡2行天下1時、稻種墮2此處1云々とも見え、集中にも、この二神の所所を造り給へるよし多く見えれば、いづこの國にも住給ふべく、されば此志都の石室も、實はいづことも定めがたきをや。一首の意はくまなし。
 
上古麻呂歌一首。
 
この人、父祖、官位、考へがたし。上は氏なり。これも姓をしるさず。上の氏は、姓氏録に、上村主廣階連同v祖、陳思王之後也云々と見えたり。
 
356 今日可聞《ケフモカモ》。明日香河乃《アスカノカハノ》。夕不離《ユフサラズ》。川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》。清有《サヤケカル・キヨクアル》良武《ラム》。【或本歌。發句云。明日香川《アスカガハ》。今毛可毛等奈《イマモカモトナ》。】
 
今日可聞《ケフモカモ》。
略解に、今の下の日は、目の誤りか云々といひ、久老も日を目に改めて、共にいまもかもと訓べしといへり。この説、一わたりはさる事ながら、よく考ふれば、この歌、今日《ケフ》と明日《アス》とをむかへて文をなせるにて、本集十六【卅一丁】に、今日今日跡飛鳥爾到《ケフケフトアスカニイタリ》云々とある類也。そのうへ、今のまゝにても、意はきこゆるをや。
 
明日香河乃《アスカノカハノ》。
この乃(ノ)文字は、にの意也。本集六【廿五丁】に、丹管士乃將薫時能櫻花將開時爾《ニツヽジノニホハムトキノサクラバナサキナムトキニ》云々とある能文字と同じ。この格、集中猶おほし。
 
(217)夕不離《ユフサラズ》。
本集七【卅七丁】に、夕不去目庭雖見《ユフサラズメニハミレドモ》云々とありて、又、此卷【卅六丁】に、朝不離雲居多奈引《アササラズクモヰタナビク》云々などもありて、これらの不離《サラズ》は、字の如くはなれざる意にて、朝毎に夕毎にといふ意となる也。また集中、枕不離《マクラハナレズ》、床邊不離《トコノヘサラズ》などといふも、はなれずの意にて、こゝと同じ。
 
清有《サヤケカル・キヨクアル》良武《ラム》。
清を、舊訓、きよくと訓つれど、さやけと訓べし。清は、さやとも、さやけとも訓る事、集中いと多し。この事は、上【攷證一下四十八丁】にいへり。さて、一首の意は、明日香川にゆふべごとに、かはづなくなる、その瀬には、今も猶、きよく、さやけかるらんと、おしはからるゝ意也。
 
或本歌。發句云
發句は、はじめの句といふ也。
 
今毛可毛等奈《イマモカモトナ》。
毛等奈《モトナ》は、本名《モトナ》とも書て、集中いと多し。こは上【攷證二下七十四丁】にいへるが如く、めつたに、みだりになどいふと同じく、或本の方にては、一首の意、明日香川に今も猶むかしのごとく、夕毎に、みだりに川づのなくらん、その川瀬の、さぞ清くさやけからんと也。
 
山部宿禰赤人歌六首。
 
357 繩浦從《ナハノウラユ》。背向爾所見《ソガヒニミユル》。奧島《オキツシマ》。榜廻舟者《コギタムフネハ》。釣《ツリ》爲《セス・ヲス》良下《ラシモ》。
 
(218)繩浦從《ナハノウラユ》。
まへに出たると同じく、攝津國なるべし。
 
背向爾所見《ソガヒニミユル》。
背向は、本集此卷【五十四丁】に、春日野乎背向爾見乍《カスガヌヲソガヒニミツヽ》云々。四【十六丁】に、粟島乎背爾見管《アハシマヲソガヒニミツヽ》云々。六【十二丁】に、左日鹿野由背上爾所見奧島《サヒカヌユソガヒニミユルオキツシマ》云々。七【四十一丁】に、辟竹之背向爾宿之久《サキタケノソガヒニネシク》云々。十四【十丁】に、筑波禰爾曾我比爾美由流安之保夜麻《ツクバネニソガヒニミユルアシホヤマ》云々などありて、集中、猶いと多く、背向とも、背上とも、背とのみもかける、字の如く、後の方といふ意也。
 
奧島《オキツシマ》。
地名にあらず。つは助字にて、沖の島をいふ也。十八【廿四丁】に、於伎都之麻伊由伎和多里弖《オキツシマイユキワタリテ》云々と見えたり。
 
榜囘舟者《コギミルフネハ》。
字の如く、舟をこぎめぐらしゆく也。この事は、上【攷證一下四十五丁】にいへり。代匠記に引る幽齋本、囘を廻に作れり。囘廻同字也。
 
釣《ツリ》爲《セス・ヲス》良下《ラシモ》。
爲の字は、集中、し、せ、すの假字に轉じ用ひて、するとも、せるとも訓る事多し。せるは、したるといふ意の言也。この事は、上【攷證一下十二丁】にいへり。下《シモ》は、借字にて詞、もは助字也。一首の意は、なはうらより、後の方に見ゆる、沖の島を榜めぐれる舟は、釣を爲して居るならんと也。
 
358 武庫涌乎《ムコノウラヲ》。榜轉小舟《コギタムヲブネ》。粟島矣《アハシマヲ》。背爾見乍《ソガヒニミツヽ》。乏小舟《トモシキヲブネ》。
 
武庫涌乎《ムコノウラヲ》。
攝津國也。上【攷證三上五十一丁】に出たり。
 
(219)粟島矣《アハシマヲ》。
粟島は、古事記上卷に、次生2淡島1、是亦不v入2子之例1云々。下卷に、欲見2淡道《アハヂノ》島1、而幸行之時、坐2淡道島1、遙望歌曰、淤志弖流夜那爾波能佐岐用《オシテルヤナニハノサキヨ》、伊傳多知弖《イデタチテ》、和賀久邇美禮婆《ワガクニミレバ》、阿波志摩《アハシマ》、淤能碁呂志摩《オノコロシマ》、阿遲摩佐能志摩母美由《アヂマサノシマモミユ》、佐氣都志摩美由《サケツシマミユ》云々。本集四【十六丁】丹比眞人笠麻呂下2筑紫國1時歌に、淡路乎過粟島乎背爾見管《アハヂヲスギテアハシマヲソガヒニミツヽ》云々。七【十九丁】に、粟島爾許枳將渡等思鞆赤石門波未佐和來《アハシマニコギワタラムトオモヘドモアカシノトナミイマダサワゲリ》云々などあるを合せ、地圖もて考ふるに、淡路の北に當りて、播磨との間にある島なるべし。さるを、本集四の仙覺抄に、讃岐國屋島北去古歩許有v島、名曰2阿波島1とあるは心得ず。攝津國の海より、讃岐の海の見ゆべきよしなきをや。この外、あは島といふ、所々にあれど、こゝとは別なり。
 
乏小舟《トモシキヲブネ》。
乏《トモシ》といふにこつあり。めづらしき意なると、うらやましき意なると也。こゝらは、うらやましき也。この事は、上【攷證一下四十一丁】にいへり。さて、一首の意は、赤人、さるべきよしありて、旅にゆくに、粟島を背《ウシロ》になして、大和の古郷の方へ、榜めぐらし行小舟のうらやましき意にて、われも、とく都へかへりてしがなと思ふ意こもれり。
 
359 阿倍乃島《アベノシマ》。宇乃住石爾《ウノスムイソニ》。依浪《ヨルナミノ》。間無比來《マナクコノゴロ》。日本師所念《ヤマトシオモホユ》。
 
阿倍乃島《アベノシマ》。
考へがたし。まへ二首の、繩の浦、武庫の浦など、攝津なれば、これも同國歟。既に、八雲御抄には、攝津國とし給へり。長流が萬葉名所、楢山拾葉など、皆、攝津とせり。書紀、仲哀天皇八年紀に、阿閇島とあるは、通證にも、筑前糟屋郡と注して、こゝとは別也。
 
(220)宇乃住《ウノスム》石《イソ・イシ》爾《ニ》。
鵜の任磯に也。和名抄鳥名に、辨色立成云、大曰2※[盧+鳥]※[茲/子]1【日本紀私記云、志麻都止利】小曰2鵜※[胡+鳥]1【俗云宇】と見えたり。石《イソ》は磯の借字、下の歌に、石轉《イソワ》とありて、集中なほあり。
 
日本師所念《ヤマトシオモホユ》。
日本と書るは借字にて、大和也。この事は、上【攷證一下十六丁】にいへり。師は助字也。この歌、序歌にて、一首の意は、今こゝなる阿倍の島の、鵜などが住る礒に、よする浪の間無きが如く、この日ごろ、間なく時なく、故郷の大和のみ戀しくおもほゆと也。
 
360 鹽于去者《シホヒナバ》。玉藻苅藏《タマモカリツメ》。家妹之《イヘノイモガ》。濱※[果/衣]裹乞者《ハマツトコハバ》。何矣示《ナニヲシメサム》。
 
苅藏《カリツメ》。
宣長云、卷十六【廿二丁】に、荒城田乃子師田乃稻乎倉爾擧藏而《アラキダノシシダノイネヲクラニツミテ》と書り。藏を、つむと訓は、倉に物を積おく意也云々。是にしたがふべし。考の訓も、久老の訓も、たがへり。
 
家妹之《イヘノイモガ》。
古へは、わが物いふ女をも、またたゞの女をも、おしなべて、妹といふ故に、妻にまれ、妾にまれ、吾家にあるをば、言別て家の妹とはいへり。本集四【十五丁】に、家妹爾物不語來而《イヘノイモニモノイハズキテ》云々。六【廿六丁】に、在家妹之待將問多米《イヘナルイモガマチトハムタメ》云々などありて、集中猶いと多し。
 
濱※[果/衣]裹乞者《ハマツトコハバ》。
濱※[果/衣]《ハマヅト》は、旅※[果/衣]《タビヅト》、山裹《ヤマヅト》、道行※[果/衣]《ミチユキヅト》などいふと同じく、濱邊の※[果/衣]《ツト》也。今俗に、土産《ミヤゲ》といふに同じ。この事は上【攷證三上七十一丁】にいへり。
 
何矣示《ナニヲシメサム》。
示《シメス》といふ言は、その物をさして、これぞ、それなると、をしへしめす意也。この事は、上【攷證三上四十八丁】にいへり。さて、一首の意は、鹽の干なば、玉藻を苅積《カリツメ》よ、外に何も(221)物のなき濱邊なれば、家なる妹が濱※[果/衣]《ハマヅト》をこひなば、これぞ、はまづとなると、示《シメス》べきものなければ、玉藻を苅て、つみおくべしと也。
 
361 秋風乃《アキカゼノ》。寒朝開乎《サムキアサケヲ》。佐《サ》農《ヌ・ノ》能岡《ヲカ》。將超公尓《コユラムキミニ》。衣借益矣《キヌカサマシヲ》。
 
寒朝開乎《サムキアサケヲ》。
朝開《アサケ》は、本集七【十三丁】に、奈呉乃海之朝開之奈凝《ナゴノウミノアサケノナゴリ》云々。また【十四丁】朝開之鹽爾《アサケノシホニ》云々。八【卅六丁】に、今朝乃旦開※[雁/鳥]之鳴寒《ケサノアサケカリガネサムク》云々。また【四十七丁】頃者之朝開爾聞者《コノコロノアサケニキケバ》云々。十四【卅四丁】に、佐伎母理爾多知之安佐氣乃《サキモリニタチシアサケノ》云々。十七【十八丁】に、氣佐能安佐氣秋風左牟之《ケサノアサケアキカゼサムシ》云々などありて、猶、集中いと多く、朝明《アサアケ》の略言也。さの引聲、あなる故に、あはさのうちにこもりて、おのづから、あさけとなる也。あしたといふに同じ。乎《ヲ》は、古事記下卷御歌に、淤富佐迦邇阿布夜袁登賣袁美知斗閇婆《オホサカニアフヤヲトメヲミチトヘバ》云々。書紀、仁徳紀歌に、和例烏斗波輸儺《ワレヲトハスナ》云々。本集十五【廿四丁】に、伊豆良等和禮乎等婆波伊可爾伊波牟《イツラトワレヲトハバイカニイハム》云々などある乎もじと同じく、にの意也。この類、集中猶あり。
 
佐《サ》農《ヌ・ノ》能岡《ヲカ》。
上【攷證三上卅五丁】に、狹野乃渡《サヌノワタリ》とあると同所にて、紀伊なるべし。くはしくは、かしこにいへり。さて、一首の意は、くまなけれど、この歌と、次の歌は、※[羈の馬が奇]旅の歌にあらで、この歌は、紀伊などにゆきし人を思ひやりて、家にてよめる歌也。故に、端辭に、たゞ赤人歌六首とのみしるせり。六首ながら、※[羈の馬が奇]旅の歌ならば、まへの人まろの歌の如く、※[羈の馬が奇]旅歌六首としるすべきを、さもしるさゞるは、外の歌のまじりたる故也。されば、この二首、まへの四首とたがひて、※[羈の馬が奇]旅の歌ならぬを、あやしぶ事なかれ。
 
(222)362 美砂居《ミサゴヰル》。石《イソ》轉《マ・ワ》爾生《ニオフル》。名乘藻乃《ナノリソノ》。名者告志弖余《ナハノラシテヨ》。親者知友《オヤハシルトモ》。
 
美砂居《ミサゴヰル》。
和名抄鳥名に、爾雅注云、雎鳩【上且余切、※[目+鳥]亦作v雎。和名美佐古】※[周+鳥]屬也。好在2江邊山中1、亦食v魚者也。日本紀私記云、覺駕鳥【加久加乃止利。公望案、高橋氏文云、水佐古】云々とありて、本集十一【卅七丁】ニ、水沙兒居奧麁礒爾《ミサゴヰルオキツアリソニ》云々。十二【四十丁】に、三沙呉居渚爾居舟之《ミサゴヰルスニヲルフネノ》云々などあれば、こゝも、沙の下に、この字の落たるにやと思はるれど、和名抄巖石類に、砂【和名、以左古又須奈古、】云々とありて、玉篇に、砂俗沙也と見え、沙砂同字なれば、沙も、いさごとよまるゝを、訓を略して、さごの假字に用ひしなるべし。
 
石《イソ》轉《マ・ワ》爾生《ニオフル》。
石は、いそと訓て、礒の意なる事、まへにいへるが如し。轉は、まと訓は、本集十二□に、湖轉爾《ミナトマニ》云々ともありて、島囘《シママ》、礒囘《イソマ》など、囘をまと訓|意《(マヽ)》にて、ほとりの意也。さてこの時の字をも、囘の字をも、久老は、みと訓て、多囘《タミ》たる道など書る例あれば、美と訓べき也といへれど、多囘《タミ》と書る事おぼえず。こは、本集十二【三丁】に、多未足道乎《タミタルミチヲ》云々とあるを、心得誤れるなるべし。この島囘、いそまなどの事は、上【攷證一下十四丁】にいへり。
 
名乘藻乃《ナノリソノ》。
書紀、允恭天皇十一年紀に、時人號2濱藻1謂2奈能利曾毛《ナノリソモ》》1也云々。和名抄藻類に、本朝式云、莫鳴菜【奈乃利曾、漢語抄云、神馬藻。今按、本文未詳。但、神馬莫騎義也。】とありで、集中多くよめり。
 
名者告志弖余《ナハノラシテヨ》。
諸本、弖を五に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。干禄字書に、〓※[氏/一]上通下正と見え、漢隷字源に引る城※[土+具]碑に、※[氏/一]を弖に作る。故に〓と(223)も、弖ともかけるが、五と字體近ければ、誤れる也。てよは願ふ意にて、名をば告げよとなり。
 
親者知友《オヤハシルトモ》。
親の知りて、よしや放《サク》るともいふ意にて、古へ、男女あふ事、中國の風俗にて、はじめのほどは、人にはさら也、親にもしらさず、相かよひてのちに、親にも人にも告て、夫婦となる事とこそ見ゆれ。そは、古事記中卷なる、三輪大神の活玉依毘賣《イクタマヨリヒメ》のもと|の《(マヽ)》通はせ給ふ所にも、又母怪2其妊身之事1、問2其女1曰、汝者自妊、無v夫何由妊身乎。答曰、有2麗美壯夫1、不v知2其姓名1、毎夕到來供住之間、自然懷妊云々とありて、本集十一【十三丁】に、吾名謂※[女+麗]恃《ワガナハノラムツマトタノマバ》云々。また【卅二丁】。責而雖問汝名者不告《セメテトフトモナガナハノラジ》云々などありて、集中猶いと多く、中古までも、この風俗のこりて、女を娶るも、まづ男の方より行て、後に、所あらはしとも、露顯ともいひて、人にしらしむる事あり。この撰集、家集、物語などにも、こゝの證とすべき事多かれど、こと/”\くあぐるにいとまなし。さて、この歌、序歌にて、名乘藻《ナノリソ》の名告《ナノル》といひかけたるのみにて、上の句は意なく、下の句は、名をば告給へ、よし親は知て、放《サク》るともと也。この歌、こゝに入べき、すがたならず。十二卷なる、寄v物陳v思歌百五十首の中に再出せり。
 
或本歌曰。
 
363 美沙居《ミサゴヰル》。荒磯爾生《アリソニオフル》。名乘藻乃《ナノリソノ》。吉名者告世《ナノラバノラセ・ナノリハツゲヨ》。父母者知友《オヤハシルトモ》。
 
(224)告名者告世《ナノラバノラセ・ナノリハツゲヨ》。
名告《ナノリ》給ふ心ならば、告《ノリ》給へといふにて、世は下知の詞也。この歌を、十二【廿六丁】に再載て、三佐呉集荒礒爾生流勿謂藻乃吉名者不告《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラジ》、父母者知鞆《オヤハシルトモ》云々とあるに付て、略解には、告名の告は、吉の誤りにて、よしなはのらせなるべしといへる事は、うらうへの誤り也。こゝを、よし名はのらせと訓ては、上よりのつゞきも、一首の意も、聞えがたし。十二卷に、吉名とある吉こそ、告の誤りにて、名のりはのらじと訓べき意なるをや。
 
父母者知友《オヤハシルトモ》。
父母を、おやと訓るは義訓也。一首の意は、くまなし。さて、この歌を、印本、本書のなみにしるしたれど、集中の例によりて、改たむ。
 
笠朝臣金村。鹽津山作歌二首。
 
金村は、上【攷證二下七十七丁】に出たり。鹽津山は、延喜神名式に、近江國淺井郡鹽津神社云々。和名抄郷名に、近江國淺井郡鹽津【之保津】とある、こゝなるべし。
 
364 丈夫之《マスラヲノ》。弓上振起《ユズヱフリオコシ》。射都流失乎《イツルヤヲ》。後將見人者《ノチミムヒトハ》。語繼金《カタリツグガネ》。
 
丈夫之《マスラヲノ》。
こゝをも、印本、大夫に誤れり。意改するよしは、上【攷證一上十一丁】にいへり。
 
弓上振起《ユズヱフリオコシ》。
本集七【三丁】に、丈夫之弓上振起《マスラヲノユスヱフリオコシ》云々。十二【十六丁】に、梓弓末者師不知《アヅサユミスヱハシシラズ》云々。十四【廿四丁】に、安豆左由美須惠爾多麻末吉《アヅサユミスヱニタママキ》云々。また安豆佐由美須惠波余里禰牟《アヅサユミスヱハヨリネム》云々。十九(225)【十四丁】に、梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》云々など、上とも末とも書て、弓の《ハズ》を、すゑとはいふ也。書紀神代紀上に、振2起弓|※[弓+肅]《ユハズ》云々と見えたり。さて、ある人、古事記上卷に、弓腹振立而云々とあるによりて、こゝをも、ふりたてと訓りしかど、上に引る十九の歌に、假字に書る例あれば、論なし。
 
語繼金《カタリツグガネ》。
上【攷證此卷二丁】に、語告言繼將往《カタリツギイヒツギユカム》云々ともありて、人より人に語りつぐ也。金《ガネ》は借字にて、詞。上【攷證一上廿丁】にいへるが如く、それが料に設る意にて、その爲にといはんが如し。さて、一首の意は、後にこの山を過らん人の、見て語りつがん爲にとて、丈夫《マスラヲ》が、をゝしく弓はずふりおこして射つる矢なるを、この矢よ、後にまでも殘りてあれかしとやうに、上へかへりて、意をふくめて、とぢめたる歌にて、中古より、しをりといふものゝ如く、此山を過つるしるしにとて、木などに矢を射立おきしなるべし。久老が、この歌を、いぶかりて、古本に從へりとて、四の句を得將見人者《エテミムヒトハ》と改めつるは非なり。
 
365 〓津山《シホツヤマ》。打越去者《ウチコエユケバ》。我乘有《ワガノレル》。馬曾爪突《ウマゾツマヅク》。家戀良霜《イヘコフラシモ》。
 
〓津山《シホツヤマ》。
玉篇に〓塩也とあり。〓、鹽、塩、三字同字なり。
 
馬曾爪突《ウマゾツマヅク》。
本集七【十七丁】に、瀬速見吾馬爪衝家思良下《セヲハヤミワガウマツマヅクイヘモフラシモ》云々。また、白栲爾丹保布信士之山川爾吾馬難家戀良下《シロタヘニニホフマツチノヤマカハニワガウマナツムイヘコフラシモ》云々。十一【七丁】に、※[糸+參]路者石蹈山無鴨《クルミチハイシフムヤマノナクモカモ》、吾待公馬爪盡《ワガマツキミガウマヅツマヅク》云々などあ(226)りて、こゝも、七卷なるも、馬の躓《ツマヅキ》て行ざるは、馬さへも家を戀しく思ふならんといひて、我はさらなる意をふくめたるにて、楚辭、離騷經に、忽臨2睨夫舊郷1、僕夫悲余馬懷兮、蜷〓顧而不v行云々とあるに、よく似たり。我はさら也、馬さへも家をのみ戀しく思ひて、心も心ならざらんとおしはかるにて、本集四【廿三丁】に、爲便乎不知跡立而爪衝《スベヲシラニトタチヲツマツク》云々ともありて、心も身につかざれば、つまづく也。淮南子、原道訓に、九人之志各有v所v在、而神有v所v繋者其行也。足※[足+責]※[走+朱]※[土+陷の旁]、頭抵2植木1、而不2自知1也、招v之而不v能v見也、呼v之而不v能v聞也、其目去v之也云々とも見えたり。さて、考にも、略解にも、家人の戀れば馬の爪づくといふ諺の有しなるべしと解るは非也。しか聞時は、家に戀らしもと、に文字なくては、さは聞えがたし。この歌にも、七卷の二首にも、にもじなきにても、さる諺のなかりしをしるべし。もしさる諺のあらば、十一卷の歌に、石ふむ山のなくもがな、吾待君が馬ぞつまづくとはいふべからず。吾戀しく思ふ心の通じて、君が馬の爪づけとこそいふべきをや。
 
家戀良霜《イヘコフラシモ》。
しものもは助字にて、霜と書るは借字也。一首の意は、まへにいへり。
 
角鹿《ツヌガ》津乘v船時。笠朝臣金村作謌一首。并短歌
 
角鹿津。
書紀垂仁紀一書云、御間天皇之世、額有v角人、乘2一船1、泊2于越國笥飯浦1、故號2其處1曰2角鹿1也云々。古事記中卷云、亦其入鹿角之鼻血※[自/死]、故號2其浦1謂2血浦1、今(227)謂2都奴賀《ツヌガ》1也云々。延喜神名式に、越前國敦賀郡角鹿神社云々。和名抄郡名に、越前國敦賀【都留我】とありて、つるがといふは、つぬがを訛たるなり。後撰集、別に、われを君思ひつるがの越《コシ》ならば、かへるの山はまどはざらましとも見えたり。
 
作謌。
謌は、干禄字書に、歌、謌、並正。多用2上字1とあり。同字なり。
 
366 越海之《コシノウミノ》。角鹿乃濱從《ツヌガノハマユ》。大舟爾《オホブネニ》。眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》。勇魚取《イサナトリ》。海路爾出而《ウミヂニイデヽ》。阿倍寸管《アヘギツヽ》。我榜行者《ワガコギユケバ》。丈夫乃《マスラヲノ》。手結我浦爾《タユヒガウラニ》。海未通女《アマヲトメ》。鹽燒炎《シホヤクケブリ》。草枕《クサマクラ》。客之有者《タビニシアレバ》。獨《ヒトリ》爲《ヰ・シ》而《テ》。見知師無美《ミルシルシナミ》。綿津海乃《ワタツミノ》。手二卷四而有《テニマカシタル》。珠手次《タマタスキ》。懸而之努櫃《カケテシヌビツ》。日本島根乎《ヤマトシマネヲ》。
 
越海之《コシノウミノ》。
和名抄國名に、越前【古之乃三知乃久知】越中【古之乃三知乃奈加】越後【古之乃三知乃之利】とありて、この三國、いづれをも、こしといふ也。古事記中卷に、高志前之《コシノマヘノ》角鹿云々と見えたり。
 
角鹿乃濱從《ツヌガノハマユ》。
從は、よりの意也。
 
(228)眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》。
梶《カヂ》と書るは借字にて、※[楫+戈]《カヂ》なり。※[楫+戈]《カヂ》は櫂《カイ》と同物にて、水をかきで舟を遣《ヤ》る具なり。今の世に、※[舟+虜]《ロ》といふものゝ如し。これら、わかちは、上【攷證二中廿四丁】にいへり。眞《マ》は、例のその物を賞《ホム》る詞。貫下《ヌキオロシ》は、舟の旁に※[楫+戈]をぬきおろす也。本集此卷【三十五丁】に、大船二眞梶繁貫《オホフネニマカヂシヾヌキ》云々。六【十八丁】に、眞梶貫吾榜來者《マカヂヌキワガコギクレバ》云々。七【卅八丁】に、眞梶繋貫水手出去之《マカヂシゞヌキコギデニシ》云々などありて、集中猶いと多し
 
勇魚取《イサナトリ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中三丁】にも出たり。
 
阿倍寸管《アヘギツヽ》。
和名抄病類に、喘息、唐韻云、※[端の旁+頁]【昌苑切、亦作v喘。阿倍岐】口氣引貌也云々とあるは、病名なれど、あへぐ事のつよき病をいふなれば、こゝは、たゞ息をせはしくつくをいひて、俗にぜい/”\いふなどいふ意也。新撰字鏡に、※[口+單]【馬勞也。阿波久】とあるは、はと、へと、通ひたるにて、あへぐと同じ。枕草子に、土御門にいきつきぬるにぞ、あへぎまどひて、おはして、まづこの車のさまをいみじくわらひ給ふ云々なども見えたり。さて、本集此卷【四十丁】に、安倍而榜出牟《アヘテコギデム》云々。九【八丁】に、敢而榜動《アヘテコギトヨム》云々などあるは、あながちにといふ意にて、こゝとは別、思ひまぎるべからず。
 
我榜行者《ワガコギユケバ》。
こは我《ワガ》みづから榜行《コギユク》ごとくきこゆれど、さにあらず。まへの阿倍寸《アヘギ》つゝも、舟人のあへぐをいへるにて、こゝは、我令榜《ワガコガセ》ゆけばといふ意なり。この事は、上【攷證三上十七丁】舟公《フネコグキミガ》云々とある下にいへり。
 
丈夫乃《マスラヲノ》。
これも、印本、大夫に誤れり。意改するよしは、まへにいへり。こは枕詞にて、冠辭考にくはし。武具に、手結とも、手纏とも【一物二名】いふものゝあれば、ますらをの手(229)結とつゞけし也。この手結の事は、古事記傳卷六にも見えたり。
 
手結我浦爾《タユヒガウラニ》。
延喜神名式に、越前國敦賀郡田結神社とある、こゝなるべし。
 
海未通女《アマヲトメ》。
未通女を、をとめと訓るは、本集六三十【十五丁】十一【二丁】にもありで、廣雅釋詁一に、通※[女+謠の旁]也云々。公羊、莊二十七年傳注に、通者婬通云々とあれば、いまだ男に會《アハ》ざる女といふ意にて、少女とかけると同じく、義訓なり。
 
塩燒炎《シホヤクケブリ》。
灸は、火氣と書ると同じければ、けぶりとよまん事、論なけれど、催馬樂弓立歌に、伊世之末乃安末乃止禰良可太久保乃計《イセシマノアマノトネラガタクホノケ》ともあれば、ほのけとも訓べけれど、猶けぶりと訓べし。
 
草枕《クサマクラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上十一丁】にも出たり。
 
客之有者《タビニシアレバ》。
客を、たびと訓るは義訓也。これも上【【攷證一上十一丁】に出たり。之《シ》は助字のみ。
 
獨《ヒトリ》爲《ヰ・シ》而《テ》。
舊訓、爲をしと訓り。爲の字を、志《シ》、須《ス》、世《セ》の假字に轉じ用ひたる事、本よりの事なれど、本集七【三丁】に、獨居而見驗無暮月夜鴨《ヒトリヰテミルシルシナキユフツキヨカモ》とあるは、全くこゝと同じつゞけなれば、(230)こゝも、ひとりゐてと訓べし。又十四【十二丁】に、比等理能未思※[氏/一]《ヒトリノミシテ》云々ともあれば、舊訓のまゝにてもありぬべけれど、猶、ゐてと訓んかた、まされり。さてこの爲而《ヰテ》と、爲而《シテ》と訓んわかち、集中さだかならねど、とにもかくにも、例にしたがふべき也。これらの例は、久老が別記に、多くあげたれど、猶さだかならず。
 
見知師無美《ミルシルシナミ》。
本集十五【廿一丁】に、秋野乎爾保波須波疑波佐家禮杼母《アキノヌヲニホハスハギハサケレドモ》、見流之留思奈之《ミルシルシナシ》、多婢爾師安禮婆《タビニシアレバ》云々ともありて、故郷ならば、妹《イモ》または思ふどちと共に見るべきを、客《タビ》なれば、吾ひとりして見れば、何のかひなしといふ意にて、すべて、しるしなしといふは、かひなく、無益なる意也。此卷【卅一丁】に、驗無物乎不念者《シルシナキモノヲオモハズバ》云々。また【四十三丁】に、後雖悔驗將有八方《ノチニクユトモシルシアラメヤモ》云々。四【四十三丁】に、後爾雖云驗將在八方《ノチニイフトモシルシアラメヤモ》云々などありて、集中猶いと多し。みな、かひなき意とすべし。無美《ナミ》の美《ミ》は、さにの意にて、下の懸而之努櫃《カケテシヌビツ》といふへかけて、見るかひなさに、心にかけて、日本島根をしぬびつと聞べし。
 
綿津海乃《ワタツミノ》。
こは海神をいふ。古事記上卷に、次生2海神1、名|大綿津見《オホワタツミノ》神云々。和名抄神靈類に、文選海賦云、海童於是宴語【海童即海神也。日本紀私記云、和名、和多豆美。】と見えて、本集此卷【卅九丁】に、海若者靈寸物香《ワタツミハアヤシキモノカ》云々。七【廿丁】に、方便海之神我手渡《ワタツミノカミガテワタル》云々。九【廿九丁】に、海若之何神乎《ワタツミノイツレノカミヲ》云々。十九【廿九丁】に、和多都民能可味能美許等乃《ワタツミノカミノミコトノ》云々などある、皆、海神也。
 
手二卷四而有《テニマカシタル》。
この二句は、珠手次《タマダスキ》といはん序のみに置たり。本集七【廿九丁】に、海神手纏持玉故《ワタツミノテニマキモテルタマユヱニ》云々。また、海神持在白玉《ワタツミノモタルシラタマ》云々などもありて、古への風俗、神も人(231)も、手玉、足玉とて、手にも、足にも、玉をまとひし事ある也。これらの事は、上【攷證二中廿二丁】にいへると、考へ合すべし。
 
珠手次《タマタスキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上十丁】にも出たり。
 
懸而之努櫃《カケテシヌビツ》。
懸而《カケテ》は心にかけて、之努櫃《シヌビツ》は思ひ忍ぶ意にて、したふこゝろ也。櫃は借字にて、詞なり。これらの事は、上【攷證一上十二丁】にいへり。
 
日本島根乎《ヤマトシマネヲ》。
大和國をいへる也。この事は、上【攷證三上六十八丁】にいへり。大和は、則、古郷なれば、旅にありて古郷を忍ぶ也。日本島根をかけてしぬぴつと、句をうちかへして心得べし。
 
反歌。
 
367 越海乃《コシノウミノ》。手結之浦矣《タユヒノウラヲ》。客爲而《タビニシテ》。見者乏見《ミレバトモシミ》。日本《ヤマト》思《シヌ・オモ》櫃《ビツ》。
 
客《タビニ》爲《ヰ・シ》而《テ》。
これも、たびにゐてと訓べし。そのよしは、長歌にいへり。(頭書、再考、爲は、してと訓べし。)
 
見者乏見《ミレバトモシミ》。
乏《トモシ》は、上【攷證一下四十一丁】にいへるが如く、めづらしき意なると、うらやましき意なると、二つあるが中に、こゝは、めづらしき意にて、この手結《タユヒ》の浦のけしきを見れば、め(232)づらしく、おもしろきに、古郷の人とともに見たらましかばと、大和を忍ばるゝなり。こは、長歌に、獨爲而見知師無美《ヒトリヰテミルシルシナミ》といひて、懸而之努櫃日本島根乎《カケテシヌヒツヤマトシマネヲ》といへると同じ意也。一首の意はくまなし。
 
石上大夫歌一首。
 
石上朝臣乙麻呂卿なり。續日本紀に、神龜元年二月壬子、授2正六位下石上朝臣乙麻呂、從五位下1。天平四年正月甲子、授2從五位上1。九月乙巳、爲2丹波守1。八年正月辛丑、授2正五位下1。九年九月癸巳、授2正五位上1。十年正月壬午、授2從四位下1。乙未、爲2左大辨1。十一年三月庚申、石上朝臣乙麻呂坐v※[(女/女)+干]2久米連若賣1、配2流土左國1。若賣配2下總國1焉。【乙麻呂卿、歸京の事は、紀に見えざれど、天平十五年五月の敍位に見えたれば、この以前、歸京ありし事論なし。天平十二年六月の大赦に若賣は京にかへされたれど、この卿は赦されざりしよし見えたれば、十三年九月の大赦に歸京ありし事、明らけし。】十五年五月癸卯、從四位下石上朝臣乙麻呂授2從四位上1。十六年九月甲戌、爲2西海道巡察使1。十八年四月乙酉、爲2常陸守1。癸卯、授2正四位下1。九月己巳、爲2右大辨1。二十年二月己未、授2從三位1。天平勝寶元年七月、爲2中納言1。二年九月丙戌朔、中納言從三位兼中務卿石上朝臣乙麻呂薨、左大臣贈從一位麻呂之子也云々とありて、中納言從三位に至られし人なるを、大夫と稱する事、いかにと、かたぶく人もありぬべければ、くはしくいはん。まづ公式令に、於2太政官1、三位以上稱2大夫1、四位稱v姓、五位先v名後v姓、其於2寮以上1、四位稱2大夫1、五位稱v姓、六位以下稱2姓名1、司及中國以下、五位稱2大夫1。義解云、謂一位以下通用2此稱1云々。集解云、一位以下五位以上、通稱耳。古記云、問五位以上惣稱2大夫1云々などありて、大夫とは、一位より五位までの人の通稱なるを、和名抄位階條に、四位五位【已上爲2大夫位階1】とあるは誤られし也。【和名抄の職官國郡の部、順ぬしの手には成ざりしもの也。そは古本には、この二部なきにてしるべし。】そは本集四【十八丁】に、藤原宇合大夫とある宇合卿(233)は、正三位參議に至られし人、また【同丁】藤原大夫とあるは、麻呂卿にて、從三位參議に至られし人、九【廿六丁】に大神大夫とあるは、高市麻呂卿にて、從三位中納言と記せる人【この卿の官位に論ある事は、上攷證一下十七丁にいへり。】なるを、みな大夫と稱せるにて、四位五位のみの稱にはあらざるをしるべし。されば、ここをば、乙麻呂卿と定むべし。廣雅釋詁一に、大夫、君也とあるも、當れるこゝちす。
 
368 大船二《オホフネニ》。眞梶繋貫《マカヂシヾヌキ》。大王之《オホキミノ》。御命恐《ミコトカシコミ》。礒廻爲鴨《アサリスルカモ》。
 
眞梶繋貫《マカヂシヾヌキ》。
本集七【卅八丁】に、大船爾眞梶繁貫水手出去之《オホフネニマカヂシジヌキコギデニシ》云々。十【卅二丁】に、船装眞梶繁拔《フナヨソヒマカヂシジヌキ》云々。十五【九丁】於保夫禰爾麻可治之自奴伎《オホフネニマカヂシヾヌキ》云々などありて、しじは、上【攷證二下七十六丁】にいへるが如、繁《シゲ》き意にて、※[楫+戈]《カヂ》をいくつも貫おろして、舟を榜なり。
 
大王之《オホキミノ》。御命恐《ミコトカシコミ》。
天皇の御言かしこさにといふ意也。この事は、上【攷證一下六十九丁】にいへり。さて此歌は、まへに引たる續日本紀に見えたる如く、乙麻呂卿、久米の若女を犯して、土佐國に配流せられし時の歌にて、本集六【卅六丁】石上乙麻呂配2土左國1之時歌三首とある中の歌に、王命恐天離夷部爾退《オホキミノミコトカシコミアマサカルヒナベニマカリ》云々と同時の歌なる事、こゝろ詞の似たるにてもしるべし。
 
礒廻爲鴨《アサリスルカモ》。
礒廻の字を、あさりと訓るは義訓也。本集六【十八丁】に、島囘爲流《アサリスル》 水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》云々。七【八丁】に、島囘爲等礒爾見之花《アサリストイソニミシハナ》云々。また【十四丁】鳴鶴之音遠放礒囘爲等霜《ナクタヅノオトトホサカルアサリスラシモ》云々。十九【廿四丁】に、藤奈美乎借廬爾造灣廻爲流《フヂナミヲカリホニツクリアサリスル》などある類なれば、必らず、あさりとか、いさりとか訓べき所なるを、久老が、六卷【十八丁】なる島囘と、十九卷【廿四丁】なる灣廻との二つを引て、島囘《シマミ》、灣廻《ウラミ》(234)と訓、こゝをも礒囘《イソミ》と訓て、いそべに舟がゝりするをいふ言なりと解るは非也。そは、七卷【八十四丁】なるは、二首ともに、島廻《シマミ》とも、礒囘《イソミ》とも訓がたきにてもしるべし。さて、集中、あさりと、いさりと、二つなるを、なべての人の思ふには、あさりは求食《アサル》【四ノ廿八丁】の字をも訓て、人にまれ、鳥獣にまれ、食を求る方にいひ、いさりは、漁獵の方にいふ言とのみ思ふは非也。あさりは、本集五【廿丁】に、阿佐里須流阿末能古等母等《アサリスルアマノコドモト》云々。七【十五丁】に、朝入爲等礒爾吾見之莫告藻乎《アサリストイソニワガミシナノリソヲ》云々。また【十七丁】朝入爲流海未通女等之《アサリスルアマヲトメラガ》云々などありて、いさりは、此卷【十五丁】に、伊射利爲流白水郎跡香將見《イサリスルアマトカミラム》云々。六【十六丁】に、奧浪邊波安美射去爲登《オキツナミヘナミシヅケミイサリスト》云々。十二【卅七丁】に、射去爲海部之※[楫+戈]音《イサリスルアマノカヂノト》云々など見えたり。されば、二つのわかちなく、いづれも漁獵をいへる言也。されど、鳥獣にいふは、皆食を求る意也。また、いさりといふ時は、海の澳《オキ》、邊《ヘ》、ともにかけていひ、あさりといふ時は、邊にのみ限りたるならはし也。見ん人、よく心をつくべし。さて、こゝは、必らず漁獵をするにはあらねば、配所にやらるとて、海岸にのみ泊居るを、海人めきたりといふ意にて、一首の意は、天皇の大御言のかしこさに、配所に退《マカ》るとて、海岸にのみ居つゝ、海人めかしく、いさりをなせるかもと也。
 
右今案。石上朝臣乙麻呂。任2越前國守1。盖此大夫歟。
 
乙麻呂卿、越前國守に任ぜられし事、紀に見えず。紀にも漏たる事の多ければ、この左注の、誤りとも定めがたけれど、この歌を、その時の歌とする、非也。まへにいへるが如く、かの配流のをりの歌なるをや。
 
(235)和歌一首。
 
369 物《モノ》部《ノベ・フ》乃《ノ》。臣之《オミノ》壯士《ヲトコ・タケヲ》者《ハ》。大王《オホキミノ》。任乃隨意《マケノマニ/\・ヨサシノマニマ》。聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》。
 
物《モノ》部《ノベ・フ》乃《ノ》。
舊訓にも、考にも、略解にも、皆、ものゝふのと訓たれど、いかゞ。いかにとなれば、こは乙麻呂卿をさせるにて、石上氏は、本は物部《モノノベ》氏なりしかば、こゝに、もののべの臣といふ也。そは、上【攷證一下六十六丁】物部乃大臣とある所に、くはしくいへり。
 
臣之《オミノ》壯士《ヲトコ・タケヲ》者《ハ》。
書紀二(仁カ)徳紀御歌に、瀰儺曾虚赴淤瀰能烏苔※[口+羊]烏《ミナソコフオミノヲトメヲ》云々。雄略紀歌に、飫瀰能古簸《オミノコハ》云々などある類にて、こゝの臣之壯士者《オミノヲトコハ》とは、乙麻呂卿をさせる也、さて、壯士の字を、舊訓、たけをと訓て、たけをといふ事は、本集十九【四十一丁】に、麻須良多家乎爾《マスラタケヲニ》云々とあれど、たけをといふは、武《タケ》き事の用ある所にいへる事なれば、こゝには用ひがたきうへに、古事記上卷訓注に、訓2壯夫1云2袁等古《ヲトコ》1とありて、壯、壯子など、みな、をとこと訓つれば、こゝも、をとこと訓べし。
 
任乃隨意《マケノマニ/\・ヨサシノマニマ》。
 
本集十三【十九丁】九に、天皇之遣之萬々《オホギミノマケノマニマニ》云々。十七【廿丁】に、大王能麻氣乃麻爾麻爾《オホギミノマケノマニマニ》云々とありて、集中いと多く、天皇の任《ヨサシ》給ふまゝにと云ふ意也。隨意の字を、まに/\とよめるは義訓也。この事は、上【攷證二上十六丁】にいへり。考異本に引る異本に、任を言に作れり。これによらば、ことのまに/\と訓べけれど、非也。
 
(236)聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》。
聞は、今の世の俗言に、人のいふ言を聞《キク》などいふ聞と同じく、諾《ウベナ》ひ從《シタガ》ふ意にて、本集四【四十一丁】に、汝乎與吾乎人曾離奈流《ナヲトワヲヒトゾサクナル》、乞吾君《イデワギミ》、人之中言聞起名湯目《ヒトノナカゴトキヽコスナユメ》云々。十二【四丁】に、人言之讒乎聞而《ヒトゴトノヨコスヲキヽテ》、玉桙之道毛不相常云吾妹《タマホコノミチニモアハジトイヘルワギモコ》云々などある、聞も同意也。さて、一首の意は、君に仕へて、臣たるものは、生死をも君にまかせたるものなれば、今かく配流せられ給ふとも、天皇の御言のまに/\諾《ウベナ》ひ從《シタガ》ふこそ、臣たるものゝ道なれ。そを、御命恐《ミコトカシコミ》あさりするかもなど、わび給ふべからずと、こたへはげます意也。
 
右作者。未v審。但笠朝臣金村之歌中出也。
 
略解に、歌の下、集の字を脱せりといへり。さもあるべし。
 
安倍廣庭卿歌一首。
 
この卿の侍は、上【攷證三上六十七丁】に出たり。
 
370 雨不零《アメフラデ》。殿雲流夜之《トノクモルヨノ》。潤《ヌレ》濕跡《ヒヅト・ヒテド》。戀乍居寸《コヒツヽヲリキ》。君待香《キミマチガ》光《テリ・テラ》
 
雨不零《アメフラデ》。
宣長云、零は霽の誤りにて、あめはれず也。集中、とのくもるといふには、必らず雨ふるよしを皆よめり。十二卷【十九丁】十三卷【十三丁】十七卷【四十五丁】十八卷【卅三丁】の歌をも考ふ(237)べし云々。略解云、雨不の二字、※[雨/沐]の字の誤りにて、こさめふりならん。卷十六に、青雲のたな引日すら※[雨/沐]曾保零《コサメソホフル》とあり云々。この二説、いづれもよしともおぼえず。雨不零《アメフラデ》は、空《ソラ》曇て雨のふるべきそらなれど、ふらざる也。されば、とのくもるとつゞくるも、さる事にて、何の疑ひかあらん。土佐日記に、十二日雨ふらず云々とあるも同じ意也。
 
殿雲流夜之《トノクモルヨノ》。
本集十二【十九丁】に、登能雲入雨零河之《トノクモリアメフルカハノ》云々。十三【十三丁】に、登能陰雨者落來奴《トノクモリアメハフリキヌ》云云。十七【四十五丁】に、等乃具母利安米能布流日乎《トノクモリアメノフルヒヲ》云々。十八【卅三丁】に、等能具毛利安比弖安米母多麻波禰《トノクモリアヒテアメモタマハネ》云々と見え、また十三【廿四丁】に、柳雲利雪者零來奴《タナクモリユキハフリキヌ》、左雲理雨者落來《サクモリアメハフリキヌ》云々ともありて、とのといふも、たなと同音の字にて、同じく棚引《タナビク》、棚霧合《タナギラヒ》などいふ棚にて、空《ソラ》に引わたし覆《オホ》ふ意也。この事は上【攷證二中卅五丁】陳雲《タナビククモ》とある條、考へ合すべし。之《ノ》もじは、まへ【攷證此卷卅七丁】にいへる、にの意の之もじ也。代匠記には、之《シ》と訓れたれど、猶こゝろゆかず。
 
潤《ヌレ》濕跡《ヒヅト・ヒテド》。
代匠記に、かく訓れしに、したがふべし。これ義訓也。濕《ヒヅ》は、本集此卷【卅六丁】に、霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》云々。四【卅三丁】に、袖漬左右二《ソデヒヅマデニ》云々などありて、古今集春上に、袖ひぢてむすびし水の云々。同夏に、わが衣手のひづをからなん云々などあるも、同じく、ひたす意也。この語上にひづちとあると同語なれば、その所【攷證二下三丁七十四丁】考へ合すべし。跡は、とての意なり。上所々にいでたり。
 
戀乍居寸《コヒツヽヲリキ》。
居りといふは、いぬる事なく、居《ヲリ》あかすをいふなる事、上【攷證二上四丁】ににいへるが如くにて、こゝは、人を戀つゝ、家に居あかしたりけりといふ意也。
 
(238)君待香《キミマチガ》光《テリ・テラ》。
光は照《テ》ル意もて、てりとも、てるとも訓ん事、論なく、香光と書ルは借字也。コの語は、本集一【卅丁】に、山邊乃御井乎見我※[氏/一]利《ヤマノベノミヰヲミガテリ》云々。十七【十七丁】ニ、穗牟伎見我底利《ホムキミガテリ》云々。十八【七丁】に、可多麻知我底良《カタマチガテラ》云々。十九【十二丁】に、可多見我底良等《カタミガテラト》云々など、がてらとも、がテりともいへど、らとりと通ずれば、意は同じけれど、光は、てり、てるといふ語なれば、こゝは、がてりと訓べし。七【十八丁】に、片待香光《カタマチカテラ》云々。十二【卅六丁】に、月待香光《ツキマチカテリ》云々など見えたり。すべて、このがてらとも、がてりともいふ語は、二つにわたりて、その事をなしがてら、是をするといふにて、こゝは、君を待がてら、宿に戀つゝをりきといふ意也。さて、一首の意は、雨はふらねど、雨ふりぬべく曇りたる夜に、さすがにまだ雨ふらずとて、君がもとに出て行て、その道にて、もし雨ふりなば、吾身のぬれひたる事もやとて、君が此方にくるをまちがてら、雨づゝみして、君を戀つゝ居あかしけりと也。この歌の解、諸注みなたがへり。
 
出雲守門部王。思v京歌一首、
 
この王の傳は、上【攷證三上七十四丁】に出せり。されど、出雲守に任ぜられし事、紀に見えざれど、本集四【廿一丁】にも、この王の飫宇浦の歌見えて、左注に、右門部王任2出雲守1時云々とあれば、出雲守に任ぜられしは、實なれど、紀には漏たるなるべし。
 
371 (〓《オホ・オウ》海乃《ノウミノ》。河原之乳鳥《カハラノチドリ》。汝鳴者《ナガナケバ》。吾佐保河乃《ワガサホガハノ》。所念國《オモホユラクニ》。)
 
(239)〓《オホ・オウ》海乃《ノウミノ》。
五音篇海に、〓與v飫同とありて、飫は書紀にも、皆、於《オ》の假字のみに用ひたるを、おほとよめるよしは、玉篇に、飲食過多とある意をもて、おほの借字に用ひたるなるべし。こは出雲國の地名にて、風土記にも、和名抄にも、意宇《オウノ》郡とある、この郡の海をいひて、また本集四【廿一丁】同王歌に、飫宇能海之《オウノウミノ》云々とある左注に、右門部王任2出雲守1時云々とあれば、ここも、飫の下、宇を脱したるにて、おうの海と訓んかとも思ひつれど、二十【五十二丁】安宿奈杼麿の歌に、於保吉美乃美許等加之古美《オホキミノミコトカシコミ》、於保乃宇良乎曾我比爾美都々美也古敝能保流《オホノウラヲソガヒニミツヽミヤコヘノボル》。分注、和名抄國郡部に、出雲國國府在2意宇郡1とありて、國の官人、みな意宇郡の國府に居ば《(マヽ)》、こゝに於保乃宇良《オホノウラ》とあるは、意宇郡の海なる事、明らけしとあれば、飫を多の意をもて、おほの假字に用ひしなるべければ、今は飲海《オホノウミ》と訓り。されば、おうと、おほと、假字の違へるに似たれど、上【攷證二下六十丁此卷卅五丁】にいへる、大津と凡津と、大石と生石と、通へる類ひなれば、いづれをも、誤りとはなしがたし。
 
河原之乳鳥《カハラノチドリ》。
海《ウミ》といひて、河原《カハラ》といはん事、いかゞなるやうにきこゆれど、出雲風土記に、意宇郡、意宇川、北流東折入2于海1とありて、猶この郡に川か(あカ)るが、皆海に入とあれば、川の流れて、海に入る所の川原をいふなるべし。予、一とせ、千鳥をきゝに下總に行しに、利根川の流れの海に出る所に、千鳥多く居たり。このたぐひなるべし。乳鳥と書るは借字にて、千鳥の事は、上【攷證三上卅六丁】にいへり。
 
(240)吾佐保河乃《ワガサホガハノ》。
佐保川は、上【攷證一下七十一丁】にも出て、一名、奈良川ともいひて、奈良の京のほとりなれば、わがさほ川とはいへる也。吾國《ワガクニ》、吾大王《ワガオホキミ》、吾妹子《ワギモコ》、吾兄子《ワガセコ》などいふ吾《ワガ》と同じ。乃《ノ》文字は、をの意なり。この事は、上【攷證二中卅丁】にいへり。
 
所念國《オモホユラクニ》。
集中、らくに、なくに、などいふ詞は、みな、らく、なくといふへ、にもじを付たるにて、にもじは意をふくめたる詞にて、なくには、俗言に、ないのに、らくには、るのにといふ意なれば、こゝは、おもほゆるのにといふ意也。さて、一首の意はくまなし。
 
山部宿禰赤人。登2春日野1作歌一首。并短歌。
 
登2春日野1とあるを、たれも疑ふ事なれど、大和人に聞に、春日野とて別にあるにあらず、春日山のふもと、春日の社のほとりかけて、皆かすが野ともいふよしいへり。されば、山かたつきたる野にて、高き所なれば、登ともいふべし。本集此卷【四十二丁】に、千磐破神之社四無有世伐《チハヤフルカミノヤシロシナカリセバ》、春日之野邊粟種益乎《カスガノヌベニアハマカマシヲ》云々。四【十八丁】に、春日野之山邊道乎《カスガヌノヤマベノミチヲ》云々などあるにても思ふべし。(頭書、本集二十【十丁】に、二三大夫等、各提2壺酒1、登2高圓野1云々。)
 
372 春日乎《ハルヒヲ》。春日山乃《カスガノヤマノ》。高座之《タカクラノ》。御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》。朝不離《アササラズ》。雲居多奈引《クモヰタナビキ》。容鳥(241)能《カホトリノ》。間無數鳴《マナクシバナク》。雲居奈須《クモヰナス》。心射左欲比《コヽロイザヨヒ》。其鳥乃《ソノトリノ》。片戀耳二《カタコヒノミニ》。畫者毛《ヒルハモ》。日之《ヒノ》盡《コト/”\・ツキ》。夜者毛《ヨルハモ》。夜之《ヨノ》盡《コト/”\・ツキ》。立而居而《タチテヰテ》。念會吾爲流《オモヒゾワガスル》。不相兒故荷《アハヌコユヱニ》。
 
春日乎《ハルヒヲ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。春日《ハルヒ》の霞といふ、轉じて、かすがとつゞけしなり。乎は、のゝ意にて、本集十一【七丁】に、處女等乎袖振山云《ヲトメラヲソデフルヤマノ》々などつゞけし類なり。
 
春日山乃《カスガノヤマノ》。
和名抄郷名に、大和國添上郡春日【加須加】とありて、書紀開化紀訓注に、春日此云2箇酒鵝《カスガ》1とあり。春日の字を、かすがと訓るよしは、かすがといふ地名に、春日《ハルヒ》のといふ冠辞を冠らせなれて、やがて、唯、春日の字を、かすがと訓事とはなれるにて、飛鳥の字を、あすかと訓るが如し。
 
高座之《タカクラノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。高座は、すなはち、高御座にで、御即位、または朝賀、蕃客拜朝などの時、天皇高御座にましませば、必らず蓋《キヌガサ》ある故に、高座之御笠《タカクラノミカサ》とはつゞけし也。
 
御笠乃山爾《ミカサノヤマニ》。
春日山のうち也。皆人よくしれゝば、さらにいはず。
 
朝朝不離《アサヽラズ》。
夕さらずといふも同じく、朝不離《アサヽラズ》は、朝ごとにといふ意也。この事は、上【攷證此卷卅七丁】夕不離の條、考へ合すべし。
 
(242)雲居多奈引《クモヰタナビキ》。
天はいつも雲の居るものなれば、天をさして雲居《クモヰ》といふとは少しかはりて、こゝに雲居《クモヰ》といふは、たゞ雲とのみいふと同じ。古事記中卷御歌に、久毛韋多知久母《クモヰタチクモ》云々。(本集脱カ)七【五丁】に、由槻我高仁雲居立良志《ユツキガタケニクモヰタツラシ》云々。十一【九丁】に、香山爾雲位桁曳《カグヤマニクモヰタナビキ》云々。十七【四一丁】に、由布佐禮婆久毛爲多奈※[田+比]吉《ユフサレバクモヰタナビキ》云々などあるも同じ。
 
容鳥能《カホトリノ》。
この鳥、定めがたし。本集六【四十二丁】に、春日山御笠之野邊爾櫻花木晩※[穴/牛]貌鳥者間無數鳴《カスガヤマミカサノヌベニサクラハナコノクレカクリカホトリハマナクシバナキ》云々。十【六丁】は、來鳴※[日/木]鳥《キナクカホトリ》云々。また【十三丁】容鳥之間無數鳴春野之《カホトリハマナクシバナクハルノヌノ》云々。十七【廿九丁】に、夜麻備爾波佐久良婆奈知利可保等利能麻奈久之婆奈久春野爾《ヤマビニハサクラバナチリカホトリノマナクシバナクハルノヌニ》云々などありて、また伊勢集に、おとは山、木の下かげにかほ鳥の見えかくれせしこゑの戀しき。元眞集に、まどひつゝ、いくよへぬらん、かほ鳥の見えし山路の猶ぞはるけき。六帖六に、かほ鳥、夕されば野べになくてふかほ鳥のかほに見えつゝわすられなくに。源氏物語、寄生卷に、かほ鳥のこゑもきゝしにかよふやと、しげみをわけて、けふぞたづぬるなど見えたり。是を考には、呼子鳥の一名としるされたれど、證もなければ、用ひがたく、古き抄物にも、あるは雉とし、あるは翡翠《ソニトリ》とし、あるははる來なくいろ/\のうるはしき鳥をいへるよしあれど、いづれもたしかならず。既に八雲御抄にも、たしかならざるよしのたまひて、現存六帖に、ありとても、まだ見もしらぬかほ鳥のいとゞ霞にそらかくれつゝとあるも、この鳥、古くより、しれざりし證とすべし。能は如くの意也。
 
間無數鳴《マナクシバナク》。
數鴫は、本集六【十四丁】に、千鳥數鳴《チドリシバナク》云々。また【十八丁】妹目不數見而《イモガメシバミズテ》云々。十【廿五丁】に、色妙子數見者《シキタヘノコヲシバミレバ》云々などありて、しば/\といふに同じく、間もなく、しぱ/\鳴なり。
 
(243)雲居奈須《クモヰナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。天は物のたゆたひ、いざよふものなれば、それた《(マヽ)》とへて、つゞけたるにて、奈須《ナス》は如くの意也。さて、この枕詞をいはんとて、まへに婁居たな引とはいへり。
 
心射左欲比《コヽロイザヨヒ》。
中ぞらに、心のたゆたひて居る也。すべて、いざよふといふ詞は、進み兼てためらひをる意也。この事は、上【攷證三上卅四丁】にいへり。
 
其鳥乃《ソノトリノ》。
容鳥をさしていひて、乃は如くの意なり。
 
片戀耳二《カタコヒノミニ》。
容鳥は、必らず片戀するものにもあらざらめど、本集二【卅三丁】に、宿兄鳥之片戀嬬《ヌエトリノカタコフツマ》云々。八【廿四丁】に、霍公鳥片戀爲乍《ホトトギスカタコヒシツヽ》云々などある如く、鳥はおほく片戀といへり。
 
畫者毛《ヒルハモ》。日之盡《ヒノコト/”\》。
毛は助字、盡は限りといふ意にて、晝は日のかぎり、夜は夜のかぎりといふ意也。この事は、上【攷證二中廿八丁】にいへり。
 
立而居而《タチテヰテ》。
本集此卷【四十三丁】に、立而居而後雖悔《タチテヰテノチニクユトモ》云々とあるも、俗に、立たり居たりしてといふ意也。
 
不相兒故荷《アハヌコユヱニ》。
兒は、女をさして、愛《ウツク》しみていふ言。上【攷證二上四十丁】にも出たり。故荷は、上【攷證一上卅六丁】ににいへるが如く、なるものをといふ意にて、吾に不相女なるものを、立たり居たりして、念《オモヒ》ぞわがするといふ意也。さて、この歌、專ら戀の歌にて、春日山は、たゞよそへたるのみなるを、こゝに入たるは、實に春日野にて、女を思ひいでゝ詠れたれば、こゝに入たるにて、(244)これ雜歌たるいはれなるべし。集中、かく未定なる事かぞへがたきを、一々に疑ふは、この集をしらざるものなり。
 
反謌。
 
373 高※[木+安]之《タカクラノ》。三笠乃山爾《ミカサノヤマニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。止者繼流《ヤメバツガルヽ》。戀喪爲鴨《コヒモスルカモ》。
 
高※[木+安]之《タカクラノ》。
※[木+安]と書るは借字にて、前に出たる高座也。
 
鳴鳥之《ナクトリノ》。
長歌にいへる容鳥也。
 
止者繼流《ヤメバツガルヽ》。
鳴鳥の一つが、鳴止《ナキヤメ》ば、一つが鳴繼《ナキツグ》ごとくに、やうなく《(マヽ)》思ひ止《ヤメ》ば、又思ひ出して、思ひ繼るゝ戀をもするかなと也。本集十一【卅丁】に、君之服三笠之山爾居雲乃立者繼流戀爲鴨《キミガキルミカサノヤマニヰルクモノタテバツガルヽコヒモスルカモ》とあるは、この歌の傳へのかはれるなるべし。
 
戀喪爲鴨《コヒモスルカモ》。
印本、喪を哭に作りたれど、字體の近きまゝ、誤れる事、明らかなれば、拾穗本によりて改む。一首の意はくまなし。(頭書、再考に、哭を喪に改るは非也、この事、下【攷證六下四十四丁】にいへり。)
                  (攷證卷三中冊未完)
 
大正十四年七月五目印刷
大正十四年七月八日發行
 著者  岸本由豆流
 校訂者 武田祐吉
        古今書院
 
(1)石上乙麻呂朝臣歌一首。
 
乙麻呂卿は、中納言從三位に至られし人なれば、卿としるすべきを、朝臣としるせるは、この集の未定なる也。かゝる事、集中かぞへがたく、公卿を朝臣、大夫など書る所いと多し。
 
374 雨零者《アメフラバ》。將蓋《キム・サヽム》跡念有《トオモヘル》。笠乃山《カサノヤマ》。人爾《ヒトニ》莫令蓋《ナキセソ・サヽスナ》。霑者漬跡裳《ヌレバヒヅトモ》。
 
將蓋《キム・サヽム》跡念有《トオモヘル》。
舊訓、さゝんと思へると訓るは、いかゞ。この歌を、六帖二にのせて、この句を、きんと思へると訓、四の句を、人になきせそと訓るに從ふべし。本集六【廿八丁】に、妹之著三笠山爾《イモガキルミカサノヤマニ》云々。十一【十三丁】に、君之服三笠之山爾《キミカキルミカサノヤマニ》云々。また笠毛不著出乍其見之《カサモキズイデツヽゾミシ》云云。この外、みな、著るとのみ詠たり。義は、漢隷字原に引、堂邑令費鳳碑に、蓋を盖に作りたり。盖は蓋の隷省にて、蓋と同字也。史記楚世家索隱に、蓋者覆也とありて、覆《オホ》ふ意なれば、雨を覆《オホ》ふ意もて、この字を、著《キ》るといふ所に、義訓して用ひたる也。さて、後撰集戀六に、さしてこと思ひしものを、三笠山かひなく雨のもりにけるかなと詠るは、こゝの笠とは別にて、※[竹/登]《オホカサ》【今いふからかさとは猶別也。】をいへるにて、※[竹/登]は、延喜齋院式に、大笠二枚加2平文柄1云々。雜式に、凡大※[竹/登]聽2妃以下三位已上及大臣嫡妻1云々。和名抄行旅具に、史記音義云、※[竹/登]、【音登、俗云2大笠1也。於保加作。】笠有v柄也云々などあるを、今の傘の古名と思ふ人あれど、よく/\考ふれば、こは大神宮儀式帳に、菅笠一柄【口徑五尺五寸金餝】緋覆一領【長四尺弘四幅】同柄【長八尺漆幅】云々。長暦官符に、菅大笠一枚、口徑四尺五寸、餝金柄長八尺とある、これにて、大きなる菅笠に、柄をさして、鋼してひかへて、さしかざすものと見ゆ。これつねの笠より大き(2)ければ、大笠とは云るなるべし。又、是らより、すこしくだりて、落久保物語に、男大かささゝせて云々。榮花物語御裳着卷に、おきな、いとあやしき衣き、やれたる大がささして、ひもときて、あしだはきたり云々などあるは、いやしきものゝうへにいへば、今のからかさをさしていふとおぼし。今の傘といふ物を、和漢三才圖會に、堺納屋助左衛門、文政三年自2呂宋1還來、献2土産傘蝋燭1、今傘制乃是也云々といへるは、甚しき誤り也。傘の圖は、既に建保職人歌分の繪にも見えて、公任卿集に、雪の山をいとたかう作りて、煙をたてたるに、雪のいたうふれば、からかさを、おほひて、たてたりければ云々。承久合戰記に、からかささゝせ、いくさの下知して云々。中務内侍日記に、御馬は、御からかさ、おどろきや候らん云々などもありて、平家物語に、かさ張といふあるも、傘を張ものとおぼゆれば、これもいとふるくより有しもの也。これらは、こゝの注に用なき事なれど、因にいふにのみ。又、本集十六【卅丁】に、吾角者御笠乃波夜詩《ワカツヌハミカサノハヤシ》云々とあるは、鹿の角を、かの※[竹/登]のかざりとせし事のありしなるべし。この事は、その所【攷證十六下□】にいふべし。
 
笠乃山《カサノヤマ》。
こは、三笠《ミカサ》山の三《ミ》を略けるにて、三は眞《マ》の意。吉野をみよし野とも、よし野ともいふ類なるべし。これを、大和志に、城上郡に載て、笠山笠村、巒峯如v笠、因名2其野1曰2淺茅原1とあるは、神樂殖舂歌に、可左乃安左知可波良耳《カサノアサヂカハラニ》云々とあるより出たりとおぼしければ、取がたし。
 
人爾《ヒトニ》莫令蓋《ナキセソ・サヽスナ》。
これも、かく訓べき事、まへにいへり。さて、この歌、譬喩歌にて、笠の山を女などにたとへて、人のいかやうにいふとも、從ふ事なかれといふ意を、(3)雨ふらば、わがきんと思ひてある笠を、人にきする事なかれ、たとへ、ぬれ漬るともといへる也。
 
湯原王。芳野作歌一首。
 
日本後紀に、建暦二十四年十一月丁丑、大納言正三位兼彈正尹壹志濃王薨。詔贈2從二位1。壹志濃者、田原天皇之孫、湯原親王之第二子也云々と、湯原親王とあるを、こゝに王としるせるは、紹運録を考ふるに、湯原王は、光仁天皇の御弟、田原天皇【又春日宮天皇とも申す。施基皇子なり。】の御子にて、光仁天皇、寶龜元年十月即位ましまして、十一月甲子の詔に、御父施基皇子を追尊して、春日宮御宇天皇と申し、兄弟姉妹も親王としたまふよし、續日本紀に見えて、これより湯原親王とす也。この集は、其以前のものなれば、たゞ湯原王とのみしるせり。
 
375 吉《ヨシ》野《ヌ・ノ》爾有《ナル》。夏實之河乃《ナツミノカハノ》。川余杼爾《カハヨドニ》。鴨曾鳴成《カモゾナクナル》。山影爾之※[氏/一]《ヤマカゲニシテ》。
 
夏實之河乃《ナツミノカハノ》。
大和志に、吉野川源自2大臺原山1流、經2鹽葉伯母谷、和田、多古、白川渡、人知、大瀧1、至2束河1。舊名遊副川、古人所2詠題1也。歴2國栖、樫尾1、至2菜摘村1、曰2菜摘川1云々あれば、吉野川の下流なり。本集九【十七丁】に、大瀧乎過而夏箕爾傍爲而淨河瀬見河明沙《オホタキヲスギテナツミニソヒテヰテキヨキカハセヲミルガサヤケサ》とも見えたり。
 
川余杼爾《カハヨドニ》。
川の水のよどみたる所をいふ。まへに出たり。
 
(4)山影爾之※[氏/一]《ヤマカゲニシテ》。
爾之※[氏/一]《ニシテ》は、にてといはんが如く、しもじ、心なし。本集此卷【五十三丁】に、君無二四天《キミナシニシテ》云々。四【五十七丁】に、中與杼爾四手《ナカヨドニシテ》云々などある類にて、集中、猶多し。一首の意はくまなし。
 
湯原王。宴席歌二首。
 
宴席は、酒宴の席なり。席の下に、にてと付て聞べし。この類、集中いと多し。まへにも多かり。
 
376 秋津羽之《アキツハノ》。袖振妹乎《ソデフルイモヲ》。珠〓《タマクシゲ》。奧爾念乎《オクニオモフヲ》。見《ミ》賜吾君《タマヘワギミ・タベワガキミ》。
 
秋津羽之《アキツハノ》。
秋津と書るは借字にて、蜻蛉のことなる事、上【攷證一上五丁】にいへるが如し。蜻蛉の羽は、至て薄きものなれば、衣服のなよ/\とうすらかなるを、かれが羽にたとへて、のたまふ也。本集十【五十八丁】に、秋都葉爾爾寶敝流衣吾者不服《アキツバニニホヘルコロモワレハキジ》云々などありて、十三【廿六丁】に、蜻領巾《アキツヒレ》云々とあるも、この意也。海物異名記に、泉女織v紗、輕如2蝉翼1、名2蝉紗1云々とあるも同じく、また毛詩□に、蜉蝣之羽衣裳楚々云々とあるも、この類なり。
 
袖振妹乎《ソデフルイモヲ》。
久老が、家妓を出して舞せるにやといへるは非也。こは、女の、其席にありて、取まかなふとて、立ありくが、袖のなよ/\として、ありくにしたがひて、振《フレ》などする(5)を賞していへるにて、すべて、袖振とは、【人に別るゝ時、袖ふるといふは、こことは別也。】女の立ありくさまの、なよ/\とをかしげなるをいふ言也。この事は、上【攷證一上卅五丁】にいへり。
 
珠〓《タマクシゲ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上十丁】ににも出たり。〓は干禄字書に、〓匣、上通下正と見えたり。點なき文字に、點を加ふるは常のことなり。
 
奧爾念乎《オクニオモフヲ》。
おくに思ふとは、深く思ふといふ意にて、本集十七【八丁】に、大海乃於久可母之良受《ワタツミノオクカモシラズ》云々とあるも同じく、尚書序釋文に奧深也とも見えたり。また、集中、行末《ユクスヱ》といふを、おくといへる事あり。この事は、下【攷證四中四十五丁】にいふべし。
 
見《ミ》賜吾君《タマヘワギミ・タベワガキミ》。
吾は、あとも、わとも訓字なれば、こゝは、わぎみと訓んか、あぎみと訓んか、定めがたければ、しばらく考の訓によるのみ。いづれにまれ、舊訓は非なる事、明らけし。さて、一首の意は、湯原親王、宴席にて、客人に向ひて、のたまふにて、この袖ふりありく女は、わがふかく思ふなるを、君見給へといふ意にて、親しみのあまり、自らの女を人にほこり給ふ也。これ、古への雅情なり、諸注の解、皆たがへり。
 
377 青山之《アヲヤマノ》。嶺乃白雲《ミネノシラクモ》。朝爾食爾《アサニケニ》。恒見杼毛《ツネニミレドモ》。目頬四《メヅラシ》吾君《ワギミ・ワガキミ》。
 
青山之《アヲヤマノ》。
地名にあらず。青々としげりたる山也。本集一【廿三丁】に、青山跡之美佐備立有《アヲヤマトシミサビタテリ》云々。古事記上卷に、青山如2枯山1泣枯云々。また御歌に、阿遠夜麻爾奴延波那伎《アヲヤマニヌエハナキ》云々な(6)どありて、集中にもいと多し。
 
朝爾食爾《アサニケニ》。
本集此卷【四十二丁】に、朝爾食爾欲見其玉乎《アサニケニミマクホリスルソノタマヲ》云々。八【卅丁】に、朝爾食爾出見毎《アサニケニイデミルゴトニ》云々。十二【七丁】に、裳引之容儀朝爾食爾將見《モヒキノスガタアサニケニミム》云々などもありて、食《ケ》と書るは惜字、日《ケ》の意にて、朝《アシタ》も日《ヒル》もといふ意也。日を、けといふ事は、本集此卷【五十八丁】に、弥日異榮時爾《イヤヒケニサカユルトキニ》云々。四【卅一丁】に、彌日異者念益十方《イヤヒニケニハオモヒマストモ》云々などあるは、日々にといふ意。また六【十五丁】に、益敷布爾月二異二日々雖見《イヤシクシクニツキニケニヒヾニミルトモ》云々あ《(マヽ)》るは、月日にといふ意なるにても思ふべし。また、古事記中卷、倭武命の御歌に、迦賀那倍弖用邇波許々能用比邇波登袁加袁《カガナベテヨニハコヽノヨヒニハトヲカヲ》と《(マヽ)》、加賀那倍弖《カヾナベテ》も、日々並而《カヾナベテ》の意にも(てカ)、加《カ》と計《ケ》と通ひたる也。二日《フツカ》、三日《ミカ》、四日《ヨカ》など、日をかといふもこれ也。これらをおして、朝爾食爾《アサニケニ》は、朝に日になるをしるべし。
 
目頬四吾君《メヅラシワギミ》。
目づらしは、あかずめづらしき意。目頬四と書るは借字。これらの事は、上【攷證二下九丁】にいへり。この歌、序歌にて、一首の意は、この宴席の客人をさして、青く茂りたる山に、しろ/”\と白雲のたな引たる如く、朝も晝も、常に見れども、君こそ、いとめづらしくあかずおぼゆれとなり。
 
山部宿禰赤人。詠2故太政大臣藤原家之山池1歌一首。
 
故太政大臣。
赤人は、神龜より天平のころまでの人にて、このころ故太政大臣とさせるは、不比等《フビト》公【謚は淡海公】より外なし。【又は史《フビト》とかくも同じ。】太政大臣は、この公の贈官なれば、故の(7)下に贈の字の脱たる歟とも思へど、木集十九【卅三丁】に、この公の事をしるせる所にも、贈の字なく、續日本紀、天平二年九月丙子、勝寶七年十月丙午、實字元年五月丁卯などの紀にも、故太政大臣とのみありて、贈の字なきによりて思へば、この公、朝庭に殊に重じ給ひ、聖武、孝謙二帝の御外戚にさへおはしければ、自らたゞ太政大臣とのみいひても、この公の御事とはなれるなるべし。さて、この公の事は、書紀持統紀に、三年二月己酉、以2直廣肆藤原朝臣史1爲2判事1。十年十月庚寅、假2賜資人五十人1云々。續日本紀に、文武天皇二年八月丙午、詔曰、藤原朝臣所賜之姓、宜v令2其子不比等承1v之。四年六月甲午、勅2淨大參刑部親王直廣壹藤原朝臣不比等【以下十五人】等1、撰2定律令1。大寶元年三月甲子、授2正三位1爲2大納言1。慶雲元年正月丁酉、益2封八百戸1。和銅元年正月乙巳、授2正二位1三月丙午、爲2右大臣1。養老四年三月甲子、有v勅、加2授刀資人三十人1。八月辛巳朔、右大臣正二位藤原朝臣不比等病、賜2度三十人1、詔曰、右大臣正二位藤原朝臣、※[病垂/尓]疾漸留、寢膳不v安。朕見2疲勞1、惻2隱於心1、思2其平復1、計無v所v出、宜d大2赦天下1以救uv所v患。壬午、令2都下四十八大寺1、一日一夜讀2藥師經1、免2官戸十一人1爲v良、除2奴婢一十人1從2官戸1、爲v救2右大臣病1也。癸未、右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。帝深悼惜焉、爲v之廢朝、擧2哀内寢1、特有2優勅1、弔2賻之1、禮異2于群臣1。大臣、近江朝内大臣大織冠鎌足之第二子也。十月壬寅、詔遣2大納言正三位長屋王、中納言正四位下大伴宿禰旅人1、就2右大臣第1、宣v詔贈2太政大臣正一位1。天平二年九月丙子、遣v使以2渤海郡信物1、令v献2山陵六所1、并祭2太政大臣藤原朝臣墓1。天平寶字元年八月甲子勅曰、子以v祖爲v尊、祖以v子亦貴、此則不易之〓式、聖主之善行也。其先朝、太政大臣藤原朝臣者、非3唯功高2於天下1、是復皇家之外戚、是以先朝贈2正一位太政大臣1。斯實依2我令1已極2官位1、而准2周禮1、猶(8)有2不足1。竊思勲績蓋2二於宇宙1、朝賞未v允2人望1、宜d依2太公故事1追以2近江國十二郡1封爲u2淡海公1。餘官如v故。以2繼室從一位縣狗養橘宿禰1、贈2正一位1、以爲2大夫人1などあるにても、朝庭ことに重じ給ひしをしるべし。
 
藤原家。
藤原は地名にあらず。諱をしるすべき例ならねば、氏の下に家の字をそへて、尊稱としたる也。今の世にも、氏の下に家の字をそへて、何家といふは、皆、尊稱の詞なり。
 
山池。
山池は、庭の假山泉水なり。南齊書劉悛傳に、車駕數幸2悛宅1、宅盛治2山池1、造2甕※[片+(戸/甫)]1云々とあるにて、しるべし。
 
歌一首。
目録、歌の上に作の字あれど、こゝになきをよしとす。上に門部王詠2東市之樹1作歌とあるも、衍字ならんもしりがたし。この事は、上【攷證三上七十五丁】にいへり。
 
378 昔者之《イニシヘノ》。舊堤者《フルキツヽミハ》。年《トシ》深《フカミ・フカキ》。池之瀲爾《イケノナギサニ》。水草生家里《ミクサオヒニケリ》。
 
昔者之《イニシヘノ》。
宣長云、者は省の誤りにて、むかし見し也と田中道まろいへり。然なり云々。略解にも、久老が考にも、この説に從ひしは誤り也。上にも所々にいへるが如く、文字を添もし、略きもして書る事、集中のつねにて、者の字は添てかける也。そは本集七【六丁】に、昔者之事波不知乎《イニシヘノコトハシラヌヲ》云々とありて、また此卷【廿六丁】昔者社難波居中跡所言奚米《ムカシコソナニハヰナカトイハレケメ》云々とあるも同じ。
 
舊堤者《フルキツヽミハ》。
庭なる池の堤なり。
 
(9)年《トシ》深《フカミ・フカキ》。
この歌を、六帖第三にのせて、この句を、としふかみと訓り。これに從ふべし。みは例のさにの意にて、としふるをいへり。この事、下【攷證四□】にいふべし。
 
池之瀲爾《イケノナギサニ》。
文選西征賦□注に、瀲波際也とあれば、なぎさとはよめる也。さて一首の意は、淡海公のおはしましゝほどに、造らせ給ひ(し脱カ)御庭の、薨去の後、あれたるを見て、うち歎て、昔造り給ひてし池の堤などの、年經たれば、あれはてゝ、その池の瀲にも、水草など生しげりたりと也。
 
大伴坂上郎女。祭v神歌一首。并短歌。
 
大伴坂上郎女。
本集四【十九丁】左注に、右郎女者、佐保大納言【大伴安麻呂卿】卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1、被v寵無v儔。而皇子薨之後時、藤原麻呂大夫娉之郎女焉。郎女家2於坂上里1、仍族氏號曰2坂上郎女1也云々とありて、また同卷【五十四丁】左注に、坂上大孃は大伴宿奈麻呂卿の女にて、母は坂上郎女なるよしあれば、麻呂卿の後、また宿奈麻呂卿の後妻となりしなるべしとあるにて、明らけし。藤原夫人の大原に住給ふによりて、大原大刀自とも申すごとく、この郎女、坂上里に住るによりて、坂上郎女とはいひて、坂上は地名、大伴は氏なり。
 
祭v神歌。
神を祭とは、男など戀て、その人にあはんとて祭るよし、右の歌にてしらる。神は、左注に、大伴氏の氏神なるよしあり。戀によりて、氏神を祭らん事、おぼつかなけれど、しばらく、これによりて解けり。
 
(10)379 久堅之《ヒサカタノ》。天原從《アマノハラヨリ》。生來《アレキタル》。神之命《カミノミコト》。奧山乃《オクヤマノ》。賢木之枝爾《サカキノエダニ》。白香付《シラガツク》。木緜取付而《ユフトリツケテ》。齋戸乎《イハヒベヲ》。忌穿居《イハヒホリスヱ》。竹玉乎《タカダマヲ》。繁爾貫垂《シヾニヌキタレ》。十六自物《シヽジモノ》。膝折伏《ヒザヲリフセテ》。手《タ》弱《ワヤ・ヲヤ》女《メ》之《ノ・ガ》。押《オス・アフ》日取懸《ヒトリカケ》。如此谷裳《カクダニモ》。吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》。君爾不相可聞《キミニアハジカモ》。
 
久堅之《ヒサカタノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十五丁】にも出たり。
 
天原從《アマノハラヨリ》。生來《アレキタル》。
古事記上卷に、故其天忍日命【此者大伴連等之祖】とあり。これ、大伴の氏神にて、則、天神なれば、天原從生來《アマノハラヨリアレキタル》とはいふ也。生《アレ》は生産《アレマス》、生繼《アレツグ》などいふ生《アレ》と同じく、字の如く、うまるゝ意也。
 
神之命《カミノミコト》(・ハ)。
まへにいへるが如く、祭神を大伴の氏神とせば、天忍日命なり。
 
賢木之枝爾《サカキノエダニ》。
古事記上卷に眞賢木、書紀神代紀上に眞坂樹など書るも、皆、借字也。新撰字鏡に、杜【毛利、又左加木】榊※[木+祀]※[木+定]【三字、佐加木】龍眼【佐加木】と見え、本草和名に、龍眼、和名佐加岐乃美と見え、和名抄木類に、日本紀私記云、天香山之眞坂樹【佐加木。漢語抄、榊字、本朝式用2賢木二字1。】とありて、この木、さだかにしりがたし。諸説、皆したがひがたし。下【攷證四上廿七丁】にもいへり。たゞ、久老が別記に、古へのさか木といふものは、今の樒《シキミ》なるよしありて、伊勢神宮にては、今も樒をさか木といへるよしいへるは、より所ある心ちす。くはしく《(マヽ)》、かの別記につきて見るべし。
 
白香付《シラガツク》。
枕詞、冠辭考に出たれど、久老が、師説はうけがたく、思ふ事あれど、今考ふる所なし。卷十九【孝謙御製】に、白香付朕裳裙爾鎭而將待《シラカツクワカモノスソニイハヒテマタム》と御詠ませる大御歌は、白き帛の御裳を着まして、齋戒したまふさまと聞ゆれば、白香付《シラカツク》とは、たゞ白きをいふ言とおもへど、香付《カツク》の言は、いかなる意とも考へず。卷十二に、白香付木綿者花物《シラカツクユフハハナモノ》とよめるも、白きゆふの、花の如きをいへるなるべければ、かた/”\、白香付《シラカツク》は、たゞ白きをいふ言とこそおぼゆれ云々といへるをよしとす。
 
木緜取付而《ユフトリツケテ》。
緜は、綿と同字なる事、まへにいへるが如く、木綿の事も、上【攷證二中廿九丁】にいへり。
 
齋戸乎《イハヒベヲ》。
古事記中卷に、於2針間冰《ハリマノヒノ》河之前1、居2忌瓮《イハヒベ》1、而針間爲2道口1、以|言2向和《コトムケヤハシ》吉備國1也云々。また於2丸邇坂1、居2忌瓮1而云々。本集此卷【五十一丁】に、帶乳根乃母命者《タラチネノハヽノミコトハ》、齋忌戸
 
乎前坐置而《イハヒベヲマヘニスヱオキテ》、一手者木綿取持而《ヒトテニハユフトリモチテ》、一手者和細布奉《ヒトテニハニキタヘマツリ》云々。十三【十八丁】に、齊戸乎石相穿居竹珠乎無間
 
貫垂天地之神祇乎曾吾祈《イハヒベヲイハヒホリスヱタカダマヲマナクヌキタレアメツチノカミヲゾワガノム》云々。十七【十五丁】に、久佐麻久良多妣由久吉美乎佐伎久安禮等伊波比倍須惠都安我登許龍弊爾《クサマクラタビユクキミヲサキクアレトイハヒベスヱツアガトコノベニ》云々。二十【十九丁】に、伊波比倍乎等許敝爾須惠弖《イハヒベヲトコベニスヱテ》云々などありて、齊《イハヒ》とは忌淨《イミキヨ》まはる意の言にて、【忌とは、もろ/\の穢らはしき事などを忌さけて、?を慎しみ淨まはるをいひて、忌つゝしむ意なり。】書紀神代紀下に、此時齋主神號2齊之大人《イハヒノウシ》1云々。訓注に、齋主此云2伊幡※[田+比]《イハヒ》1云々。神武紀に、時勅2道臣命1、今以2高皇産靈尊1、鎭親作2顯齋《ウツシイハヒ》1云々。訓注に、顯齋此云2于圖詩怡破※[田+比]《ウツシイハヒ》1云々。本集七【四十丁】に、神之祝我鎭齋杉原《ミワノハフリカイハフスギハラ》云々。十四(12)【廿丁】に、爾布奈未爾和家世乎夜里※[氏/一]伊波布許能戸乎《ニフナミニワガセヲヤリテイハフコノトヲ》云々などあると同じ。戸《ベ》と書るは假字、瓮《ベ》にて、瓮は瓦器をすべいふ名にて、書紀神武紀、訓注に、嚴瓮此云2怡途背《イヅベ》1云々。仁賢紀、訓注に、瓮此云v倍《ベ》云々など見えたり。【鍋をなべといふも、菜瓮の意。罐をつるべといふも、水を釣上る器にて、釣瓮の意なり。】されば、齋瓮は神を祭るに用る器にて、酒などいれて奉る器なり。さて、齊は、毛詩釆蘋釋文に、齊本作v齋とありて、經典、齊濟相通じて書る事、あげてかぞへがたし。さるを、諸注みな齊は齋の誤りとしたるは、甚しき誤り也。
 
忌穿居《イハヒホリスヱ》。
この忌《イハヒ》も、いみ淨まはる意にて、かの齋瓮《イハヒベ》を、吾身も忌《イミ》淨まはりて、土を穿《ウガチ》て堀居《ホリスウ》てふ意也。忌をいはひとよむべきは、まへに引たる古事記に、いはひべを忌瓮と書るにてもしるべし。さて、穿を、ほりと訓るは、土をうがつ意もて書るにて、義訓也。この物、ことさらに穿居《ホリスウ》といへるは、これを今もたま/\土中より堀出たる見るに、口《クチ》せばく、後《シリ》まろくして、たゞに置《オケ》ば、たふるゝ物なるは、土を堀て居る料にて、たゞに置ときは、必らず下に物をおきて、そのうへに居るものと見えたり。
 
竹玉乎《タカダマヲ》。
本集此卷【四十六丁】に、吾屋戸爾御諸乎立而枕邊爾齋戸乎居竹玉乎無間貫垂《ワガヤドニミモロヲタテヽマクラヘニイハヒベヲスヱタカダマヲマナクヌキタレ》云々。九【卅丁】に、竹珠乎密貫垂齋戸爾木綿取四手而《タカタマヲシジニヌキタレイハヒベニユフトリシデテ》云々などもありて、竹玉は、仙覺抄に、陰陽家に問侍りしかば、昔は竹を玉のやうにきざみて、神供の中にかけて、かざれる事ありとなん申す。さて、それをば、たかだまといひけるかと問侍りしかば、たかだまといふと侍りし也云々とあるにて思ひ合すれば、まれ/\古墳より堀出る玉に、管玉《クダタマ》といひて、其色緑にて、長は五六分ばかりにて、管《クダ》の如くなる玉ありて、【今の世にも、好古の人は持る人多かり。】實に細き竹をふつ/\と切たらんやうなるあり。(13)これ、古への竹玉にて、其形の竹に似たるによりて、竹玉とはいひけるなるべし。そを、やがて、實の竹を切て、玉にかへて、中古より神事に用るを、仙覺抄にはいへるなるべし。木綿《ユフ》といふも、古へは織たる布なるを、中古よりは、紙を切て木綿にかへつるなど思ひ合すべし。(頭書、神代紀、八十玉ぐし、可v考。)
 
繁爾貫垂《シヾニヌキタレ》。
繁《シヾ》は、字の如く、しげき意にて、まへに引る本集此卷【四十六丁】に、無間貫垂《マナクヌキタレ》とあるも同じ。貫は、緒につらぬけるなるべし。
 
十六自物《シヽジモノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下廿八丁】にもいへり。獣は膝《ヒザ》を折て伏もの故に、鹿《シヽ》の如く膝折伏とつゞけし也。さて、十六を、しゝと訓るは義訓にて、集中、重二、並二などを、しの假字に用ひ、八十一をくゝ、二五をとを、二十をはたなど訓る類なり。
 
膝折伏《ヒザヲリフセテ》。
獣は、居に必らず膝を折て伏もの故に、今、神に額づくを、そへ《(マヽ)》にたとへいへり。本集此卷【十三丁】に、四時自物伊波比拜《シヽジモノイハヒヲロガミ》云々とあるも同じ。
 
手《タ》弱《ワヤ・ヲヤ》女《メ》之《ノ・ガ》。
本集十五【卅四丁】に、多和也女能於毛比美多禮弖《タワヤメノオモヒミダレテ》云々。類聚國史卷七十五に引る延暦十四年の歌に、多和也米和禮波《タワヤメワレハ》云々などあるによりて、たわやめと訓べし。【よわとわやと、おのづから通ひて、たゞ、よわき女といふ也。たは發語にて、童をれわらはといふに同じ。】釋日本紀卷十六に、古事記、凡呼2女人1者稱2手弱女1、言女人者、是手力劣弱之人也とあるは非也。たゞ、よわく、なよ/\としたる意にて、古事記中卷御歌に、多和夜賀比那《タワヤガヒナ》云々とあるも、【手弱肘《タワヤガヒナ》なり。】本集此卷【四十五丁】に、石戸破手力毛欲得《》、手弱寸女有者爲便乃不知苦《イハトワルタヂカラモガモタヨワキメニアレバスベノシラナク》とあるも、皆、たゞ、よわき意也。手弱女とかけるは、古事記上卷にいでゝ、集中いと(14)多かり。さて、これを、たをやめといふは、和名抄男女類に、日本紀私記、手弱女人【多乎夜女】とあれど、こは後に訛れるにて、古く、たをやめといへる事なし。
 
押《オスヒ・アフヒ》日取懸《トリカケ》。
押日《オスヒ》と書るは借字、おすひは服の名にて、男女ともに、表《ウヘ》に着る淨服とはおぼゆれど、この服、九百年あまり【九百年とさせるよしは下にいへり。】前なり、人のうへには絶にたれば、さだかにはしりがたし。古事記上卷御歌に、多知賀遠母伊麻陀登加受弖淤須比遠母伊麻陀登加泥婆《タチガヲモイマダトカズテオスヒヲモイマダトカネバ》。【男なり。】中卷美夜受比賣《ミヤズヒメ》歌に、和我祁勢流意須比能須蘇爾都紀多知邇祁理《ワガケセルオスヒノスソニツキタチニケリ》。【女なり。】下卷歌に、波夜夫佐和氣能美淤須比賀泥《ハヤブサワケノミオスヒガネ》。【男なり。】大神宮儀式帳に、帛御|意須比《オスヒ》八端。【長各二丈五尺弘二幅。】止由氣宮儀式帳に、大物忌、無位神主※[四/正]成女【中略】薯2明衣1木綿手次前垂懸弖天押比蒙弖《ユフタスキマヘタレカケテアメノオスヒカヽフリテ》洗v手|不v干《ホサス》之弖二所大神乃|朝大御饌夕大御饌乎《アシタノオホミケユフヘノオホミケヲ》日別齋敬供奉云々などあるをもて合せ考ふるに、表の衣のうへに、また冠《カゞフ》るものとおぼし。寛平熱田縁記に、かの美夜受比賣《ミヤスヒメノ》歌を、意須比乃宇閇爾阿佐都紀乃其止久都紀多知爾祁流《オスヒノウヘニアサツキノコトクツキタチニケル》と傳へ違《タガ》へて、衣裙此云2意須比《オスヒ》1と注したるは、歌を傳へ誤りたるより、たがへるにて、誤り也。かく誤れるからは、寛平のころ、既にこの服、しれざりしものと見えたり。また、その後の延喜大神宮式にも、帛|意須比《オスヒ》八條とあれど、こは神の御料なれば、人のうへには傳らざりしなるべし。取懸といふも、かづくものなれば、衣のうへに取かくといへる也
如此谷裳《カクダニモ》。、
谷《ダニ》と書るは借字にて、詞也。久老云、かくだにもといふ言、集中に出たるを、おしわたし考ふるに、俗言に、かひもなう、このやうにといふ意と心得て聞ゆめり云々。この説のごとし。
 
(15)吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》。
印本、所を折に作りて、われはをらなんと訓たれど、字體の近きまゝに、祈を【祈の字を、こふと訓は、常の事にて、神に物をいのるは、乞ふ意なれば、この字をばよめる也。】折に誤りつる事、明らかなれば、意改して、こひなむとよめり。【諸説おなじ。】奈牟《ナム》は、代匠記に、ナムト、ノムト、音モ意モ通ズレバ、祈祷《コヒノム》ト云ンガ如シ云々といはれつるに從ふべし。諸注も皆これに從ひたり。既に反歌にも、吾者乞甞君爾不相鴨《ワレハコヒナムキミニアハジカモ》と見えたり。さて、祈は神に物|乞《コ》ふ意、奈牟余《ナム》はのむと通じて祷《イノ》る意也。この事、くはしくは、下【攷證此卷下卅二丁】にいふべし。
 
君爾不相可聞《キミニアハジカモ》。
この可聞《カモ》は、裏へ意のかへる意にて、君にあはじかも、かくまでに祈祷《コヒノメ》ば、君にあはざる事はあらじといふ意になる也。本集廿【廿七叮】に、多知波奈乃之多布久可是乃可具波志伎郡久波能夜麻乎古比須安良米可毛《タチバナノシタフフクカゼノカグハシキツクバノアマヲコヒズヤラメカモ》とある可毛《カモ》も、こゝと同じく、【これらのかもは、やもといふに同じく、すべて、やと、かは、ことに近くして、つかひざま同じき事、古より、いまも、かはる事なし。さるによりて、結び詞も專ら同じき也。これらの事は、てにをはの書につきて、くはしくしるべし。】裏へ意をかへしてきく意なり。さて、この句の解、諸注みなたがへり。なづむ事なかれ。
 
反謌。
 
380 木綿疊《ユフタヽミ》。手取持而《テニトリモチテ》。如此谷母《カクダニモ》。吾波乞甞《ワレハコヒナム》。君爾不相鴨《キミニアハジカモ》。
 
木綿疊《ユフタヽミ》。
木綿《ユフ》を疊《タヽミ》て、神に奉らんとて、手に取持なり。これ、古へは、木綿の布を長きまゝにて、神に奉りし證なり。延喜四時祭式に、切木綿と見えて、中ごろよりは、切て(16)も奉りし也。こゝは枕詞ならねど、この語は、枕詞にも用ひて、冠辭考に出たり。一首の意は、長歌とかはる事なし。
 
右歌者。以2天平五年冬十一月1。供2祭大伴氏神1之時。聊伸2此謌1。故曰2祭神歌1。
 
いかなるよしありて、天平五年、大伴の氏神を祭れるにか、しりがたし。戀によりて、ことさらに氏神を祭らん事、おぼつかなし。大伴の氏神は、古事記上卷に、天忍日命、此者大伴連等之祖云々とある天忍日命にて、三代實録に、貞觀十五年十二月廿日、授2河内國正六位上天押日命神從五位下1。【此者、神名式に、志紀郡伴林氏神社とある社なるべしと宣長いはれたり。】續日本後紀に、承和元年正月、山城國葛野郡上林郷地方一町、賜2伴宿禰等1、爲d祭2氏神1處u。【伴宿禰は、類聚國史に、弘仁十四年四月壬子、改2大件宿禰1、爲2伴宿禰1、觸v諱也とあれば、伴は大伴とおなじ。】延喜神名式に、信|膿《(マヽ)》國佐久郡大伴神社とも見えたり。
 
筑紫娘子。贈2行旅1歌一首。
 
筑紫娘子。
父祖、姓氏、考へがたし。代匠記に引る官本、この下に、娘子曰2字兒島1の六字あり。この注によれば、本集六【廿四丁】に、太宰帥大伴卿上v京時、娘子に和る歌に、日本道之吉備乃兒島乎過而行者《ヤマトヂノキヒノコシマヲスギテユカバ》、筑紫乃子島所念香裳《ツクシノコジマオモホエムカモ》云々。左注に、右太宰帥大伴卿兼2任大納言1向v京上v道。此日馬駐2水城1、顧2望府家1。于v時送v卿府吏之中、有2遊行女婦1、其字曰2兒島1也と(17)あると同人なれど、疑らくは、こゝの注は、六卷の左注によりて、いと後の人の加へつるなるべし。
 
行旅《タビビト》。
こは、たびゞ|と《(マヽ)》訓べし。すなはち、行旅といひて、旅行人といふ意なり。孟子染惠王篇に、商賈皆欲v藏2於王之市1、行旅皆欲v出2於王之塗1云々とあるも、旅行人をいへり。
 
381 思家登《イヘオモフト》。情進莫《サカシラナセソ・コヽロスヽムナ》。風俟《カゼマチテ》。好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》。荒其路《アラキソノミチ》。
 
思家登《イヘオモフト》。
考にも、其外にも、いへもふとゝ訓たれど、本集廿【卅四丁】に、伊弊於毛負等《イヘオモフト》云々とあれば、いへおもふとゝ訓べし。
 
情進莫《サカシラナセソ・コヽロスヽムナ》。
舊訓のまゝに、こゝろすゝむなと訓ても、意はきこゆれど、本集十六【廿五丁】に、情進爾行之荒雄良奧爾袖振《サカシラニユキシアラヲラオキニソデフル》とあるは、必らず、さかしらと訓べきをもて思へば、こゝも、さかしらと訓べきなり。【代匠記より下、諸注、皆、さかしらと訓り。】さて、情進の字をよめるは、人|情《コヽロ》の進《スヽ》む時は、必らず、さかしらするもの故に、義訓せる事、また十六【廿五丁】に、情出爾行之荒雄良《サカシラニユキシアラヲラ》とも書るにてしるし。さかしらとは、上【攷證此卷卅丁】にいへるが如く、物に先だちて、さし出がましき意にて、こゝは、家にとく/\と思とても、さかしらだちて、人に先だつ事なかれ。舟路はあやふきものなれば、よく風をまもりて、平らかに、おはしませといふ意なり。
 
風俟《カゼマチテ》。
俟は、本集十【廿九丁】に、年爾社候《トシニコソマテ》云々。また【卅三丁】時候跡《トキヲシマツト》云々【玉篇に、俟候也とありて、俟、候、通字なり。】などよみて、電話靜女傳、儀禮士昏禮注、穀染莊八年傳などに、俟待也などもあれば、こ(18)の句を、かぜまちてと訓んこと、論なけれど、考に、かぜまもり【略解、久老が考など、この訓によれり。】とよまれしも捨がたし。本集七【四十九丁】に、淡海乃海浪恐登風守年者也將去榜者無二《アフミノミナミカシマシトカゼマモリトシハヤヘナムコグトハナシニ》。また【四十丁】島傳足速乃小舟風守年者也經南相常齒無二《シマツタフアシハヤノヲフネカゼマモリトシハヤヘナムアフトハナシニ》などありて、釋名釋言語に、候護也、司2護諸事1也と見え、本集七【卅丁】に大海候水門《オホウミノマモルミナトノ》云々ともあれば、この句を、かぜまもりと訓んも、あしからず。されば、いづれをとらんかと、たゆたはるれど、しばらく舊訓によれり。見ん人、心のひかん方にしたがふべし。意は、いづれにても、ことなる事なし。さて、考、略解、久老が考など、皆、俟は候の誤りとて改められしは非也。俟、候、通ずるものをや。
 
好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》。
好爲而《ヨクシテ》は、風待わざなどを、好成《ヨクナシ》て行ませといふ意にて、伊麻世は、行《ユキ》ませの意也。この事は、上【攷證二下卅一丁】にいへり。
 
荒其路《アラキソノミチ》。
荒《アラキ》は、浪のあらき意。其道は、海路をいふ也。本集四【廿六丁】に、周防在磐國山乎將超日者手向好爲與荒其道《スハウナルイハクニヤマヲコエムヒハタムケヨクセヨアラキソノミチ》とあるは、山路なれど、意はことなることなし。一首の意は、まへにいへり。
 
登2筑波岳1。丹比眞人國人。作歌一首。并短歌。
 
筑波岳《ツクバネ》。
常陸國風土記に、筑波郡筑波岳高秀2于雲1、最頂西峰※[山+爭]※[山+榮]、謂2之雄神1、不v令2登臨1。但東峰四方|盤《(マヽ)》石、昇降決屹。其側流泉、冬夏不絶。自坂已東、諸國男女、春花開時、秋葉(19)黄節、相携駢圓、飲(食、脱カ)齎賚、騎歩登臨、遊樂栖遲。其唱曰、都久波尼爾阿波牟等伊比志古波《ツクバネニアハムトイヒシコハ》云云とありて、古事記中卷、倭建命御歌に、邇比婆理都久波袁須疑弖伊久用加泥都流《ニヒバリツクバヲスギテイクヨカネツル》云々とよませ給へるもこゝ也。岳は嶺とは別なれど、本集九【廿二丁】に、筑波嶺《ツクバネ》とかきて、十四に筑波禰《ツクバネ》とあるうへに、かの風土記にも、筑波岳とあるを、歌には都久波尼爾《ツクバネニ》とあれば、こゝも、岳をねと訓ん事、論なし。】
 
丹比眞人國人。
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平八年正月辛丑、授2正六位上丹治比眞人國人從五位下1。十年閏七月癸卯、爲2民部少輔1。天平勝寶三年正月己酉、授2從四位下1。天平寶字二年六月壬辰、爲2攝津大夫1。七月庚戌【中略】又遣v使追2召遠江守丹治比國人1、勘2問所1v疑、亦同配2流於伊豆國1と見えたり。この姓氏の事は、上【攷證二下六十九丁】にいへり。さて、この國人の訓の事を、代匠記に、國人ヲ或點ニトキヒトヽアルハ、後嵯峨院ノ御諱邦仁ナレバ、憚テナルベシ。然ラバ、クニヒトヽ讀ベシ云々といはれつるは非なり。凡、諱を避る事は、續日本紀に、延暦四年五月丁酉、詔曰、臣子之禮、必避2君諱1。比者先帝御名及朕之諱、公私觸犯、猶不v忍v聞、自今以後、宜2並改避1云々。職員令義解に、諱避也。言皇祖以下名號、諱而避v之也などありて、皇祖父より當今に至るまでの御諱を避べき制なるを、今の代に居て、遠き後嵯峨院の御諱を避べきいはれなく、中國は西土とかはりて、神代より皇統かはらせ給ふ事なき國なるを、遠き天皇の御諱までを避奉らんには、百億萬歳後は、みだりにいひ出べき詞もなき理りなるをや。
 
(20)382 ※[奚+隹]之鳴《トリガナク》。東國爾《アヅマノクニニ》。高山者《タカヤマハ》。左波爾雖有《サハニアレドモ》。朋神《フタカミ・アキツカミ》之《ノ》。貴《タフトキ・カシコキ》山乃《ヤマノ》。濟《ナミ・トモ》立乃《タチノ》。見※[日/木]石山跡《ミガホシヤマト》。神代從《カミヨヨリ》。人之言嗣《ヒトノイヒツギ》。國見爲《クニミスル》。築羽乃山矣《ツクハノヤマヲ》。冬木《フユコ》成《モリ・ナリ》。時敷時跡《トキジクトキト》。不見而往者《ミズテイナバ》。益而戀石見《マシテコヒシミ》。雪消爲《ユキゲスル》。山道尚矣《ヤマミチスラヲ》。名積敍吾來並二《ナヅミゾワガコシ》。
 
※[奚+隹]之鳴《トリガナク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下十八丁】にも出たり。
 
東國爾《アヅマノクニニ》。
字の如く、東國を、すべて、あづまとはいふ也。この事は、上【攷證二上十七丁】にいへり。
 
高山者《タカヤマハ》。左波《・(マヽ)》爾雖有《サハニアレドモ》。
高山は、字の如く、高き山にて、東國に高き山は多《サハ》にあれどもと也。本集一【十八丁】に、國者思毛澤二雖有《クニハシモサハニアレドモ》云々とあると、同じいひざまなり。
 
朋神之《フタガミノ・アキツカミノ》。
印本には、明神とありて、あきつかみと訓り。古しへ、明神《アキツカミ》といふ事は、書紀、孝徳天皇大化元年紀に、明神御宇《アキツニカミトアメノシタシロシメス》日本天皇云々。二年紀に、現爲明神御八島國《アキツカミトヤシマクニシロシメス》天皇云々。天武天皇十二年紀に、明神御大八洲日本根子《アキツカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコノ》天皇云々。公式令詔書式に、明神御宇日本天皇詔旨、明神御宇天皇詔旨、明神御大八洲天皇詔旨云々。本集六【四十三丁】に、明津神吾皇之《アキツカミワガスメロギノ》云々。出(21)雲國造神賀詞に、明御神大八島國所知食天皇命大御世云々など見えて、こは皆|現《ウツツ》におはします天皇を申奉る事にて、【天皇をば、神にたとへまつりて、神と申すことは、攷證一上四十八にいへり。】續日本紀宣命に、現御神《アキツミカミ》大八島國所知天皇云々と、おほくあるも、おなじく神をさして、明神《アキツカミ》といふ事、物に見えず。日本後紀、弘仁五年九月紀に、奉2幣明神1報2豐稔1也云々。續日本後紀、承和十五年三月紀に、勅奉充2山城國乙訓郡山崎明神御戸代田二町1云々。また嘉祥元年冬十一月紀に、隱岐國伊勢命神預2明神例1、縁3屡有2靈驗1也云々などある明神は、名と明と普通へば、明の字を借用ひたるにて、名神【名神とは、名ある神といふ意にて、廷喜神名式に、名神大とあるも、名ある神にて、大社なりといふよし也。】と書と異なる事なきは、續日本後紀、承和十年四月紀に、山崎神預2之名神1云々とあるを、同紀【まへに引たる三月紀なり。】承和十五年に、山崎明神ともあるにてしるべし。その後、三代實録、仁和三年三月十四日紀に、賀茂明神、春日明神とあるも、土佐日記に、住吉の明神とあるも、あきつ神といふ意にはあらざる事、久安三年二月廿二日台記にさへ、春日祭大名神四座とあるにてしらる。されば、今の世までも、明神と書るは、皆、名神の意にて、名ある神といふ意なれば、こゝを明神として、あきつかみと訓べきよしなし。是は、考に、今本、こゝを明神と書くは誤り也とて、朋神と改めて、ふたかみのと訓れしは、まことにさる事なりけり。されば、この説によりで改む。【明と朋と、字躰ことに近けれぱなり。】さて、朋神《フタカミ》【毛詩椒聊注、廣雅釋詁三などに、朋比也と見え、周易損卦注に、朋黨也とも見えたれば、朋を二つの意として、ふたと訓ん事、論なし。】とは、常陸風土記【くはしくは、前に引たり。】に、筑波岳西峯※[山+爭]※[山+榮]、謂2之|雄神《ヲノカミ》1云々とありて、女神はいはざれども、雄あるからは、雌ある事、論なければ、略けるにて、本集九【廿二丁】登2筑波山1歌に、男神毛許賜《ヲノカミモユルシタマヒ》、女神毛千羽日給而《メカミモチハヒタマヒテ》云々ともありて、この大江戸にては、この山、角田川の水上の方に望まるゝに、二峯相並びで立てるを、男體山、女體山ともいへば、男女二つの神といふ意にて、朋(22)神《フタカミ》とはいへる也。
 
貴山乃《タフトキヤマノ・カシコキヤマノ》。
たふとき山とは、めでたき山といはんがごとし。この事は、上【攷證二中四十五丁】にいへり。二神並びましませば、たふとしとなり。
 
濟《ナミ・トモ》立乃《タチノ》。
代匠記に、なみたちのと訓れしに從ふべし。儕は、禮記曲禮注、左氏※[人偏+喜]廿三年傳注などに、儕等也とありて、儕立《ナミタチ》は、並び立意なる事、本集九【廿二丁】に、二並筑波乃山乎《フタナミノツクバノヤマヲ》云々ともあるにてしるべし。こは二峯並び立るをいへり。
 
見※[日/木]石山跡《ミガホシヤマト》。
※[日/木]石《カホシ》の二字は借字、欲見《ミガホシ》の意にて、上【攷證此卷十四丁】にいへり。こゝは、この筑波の岳を見まほしき山ぞと、神代より人の言つぎ來れりと也。
 
神代從《カミヨヨリ》。
集中、神代といふ事多く見えたるが、神代、皇代と分ちて、その神代をさして神代といふにはあらず。神代はさら也、たゞ古しへの世といふを、神代といへり。【神左備《カムサヒ》といふに、たゞ古び意なる意なるがあるにても思ふべし。】本集六【卅二丁】に、自神代芳野宮爾蟻通《カミヨヨリヨシヌノミヤリカヨヒ》。【こは、代々の天皇、この離宮に行幸ありしをいへり。】また【四十二丁】に、日本國者皇祖乃神之御代自敷座流國爾之有者《ヤマトノクニハスメロキノカミノミヨヨリシキマセルクニニシアレバ》。【こは、神武天皇よりいへり。】また【四十六丁】八千桙之神之御世自《ヤチホコノカミノミヨヨリ》。【こは大己貴命を申す。】十八【廿七丁】に、皇神祖能可見能大御世爾《スメロキノカミノオホミヨニ》【こは、垂仁天皇の御代を申す。】などあるも、みな廣く古しへをさして神代とはいへり。
 
國見爲《クニミスル》。…
國見とは、高き所より國中を望視るをいへり。天皇、皇子、官人などの、國見したまふは、けしきのみにあらで、國中のよしあしなどをも見給ふなれど、こゝは、た(23)ゞ人々の、この岳に登りて、國中を見るをいへり。これらの事は、上【攷證一上卅四丁】にいへり。
 
冬木《フユゴ》成《モリ・ナリ》。
冬ごもりは、集中、冬木成、【この字を、ふゆごもりと訓べきよしは、上攷證二上廿九丁にいへり。】冬隱などありて、皆、春といはん枕詞【この事も、上攷證一上廿九丁に云り。】にで、下に 雪消爲《ユキゲスル》【雪消は、みな、春にのみいへる事、下にいふべし。】とさへあれば、必らず、此間、春の事ありしが、二句ばかり脱せるものならん。されば、契沖は、春去來跡白雪乃《ハルサリクレドシラユキノ》と補はんといはれ、久老は、春爾波雖有零雪能《ハルニハアレドフルユキノ》と補はんといへり。これらの説、いかにもさる事なり。必らず脱句あるぺけれど、私には補ひがたし。
 
時敷時跡《トキジクトキト》。
時じくといふ言は、書紀垂仁紀にも、集中にも、非時の字を訓るが如く、時ならずといふ意なるを、またそれを轉じて、時といふこともなく、不斷にといふ意にも用ひたり。この二つの例をいはゞ、本集四【十三丁】に、何時何時來益我背子時自異目八方《イツモイツモキマセワガセコトキジケメヤモ》。【こは、時ならずといふ事あらめやもといふ意也。】八【五十一丁】に、非時藤之目頬布《トキジクフヂノメツラシク》。【こは、六月に咲たれば、時ならぬ藤なり。】十八【廿七丁】に、時支能香久乃菓子乎《トキジクノカグノコノミヲ》云々きあるは、非時の意也。また一【八丁】に、山越乃風乎時自見寐夜不落《ヤマコシノカゼヲトキジミヌルヨオチズ》云々。また【十六丁】三芳野之耳我山爾時自久曾雪者落等言《ミヨシヌノミヽガノヤマニトキジクゾユキハフルトイフ》。【こは、或本歌にて、本歌には、時無曾雪者落家留《トキナクゾユキハフリケル》とあるにても、不斷の意なるをしるべし。】此卷【廿七丁】に、時自久曾雪者落家留《トキジクゾユキハフリケル》。【こは、不盡山の歌也。】十三【十一丁】に、小治田之年魚道之水乎間無曾人者※[木+邑]云時自久曾人者飲云《ヲハリダノアユチノミヅヲヒマナクゾヒトハクムトイフトキジクゾヒトハノムトイフ》云々などあるは、みな、時といふこともなく、不斷にといふ意也。おしわたして、外をしるべし。さて、こゝなるは、たゞ非時の意にて、かの風土記に、筑波岳【中略】諸國男女、春花開時、秋葉黄節、相携駢圓、飲食齎賚、騎歩遊樂云々とある如く、花紅葉のをりにこそ登るべきを、かく雪も消はてぬを、時(24)ならずとて、登らずして過なば、後にくやしからんとて、雪消の道をもいとはで、吾登り來たりといふ意につゞけたる也。跡はとての意也。
 
益而戀石見《マシテコヒシミ》。
益而《マシテ》は、今までさへ戀しきに、こゝをたゞに過なぼ、後には、今にまさりて、戀しかるべければといふ意にて、見《ミ》は、さの意なり。
 
雪消爲《ユキゲスル》。
雪消《ユキゲ》のげは、きえの約りにて、ゆきゝえの意也。こゝに雪消とあるにて、この歌は、正月の末より二月ごろの歌なる事しらる。雪消は、皆春にのみ詠り。本集十【七丁】に、爲君山田之澤惠具採跡雪消之水爾裳裾所沾《キミガタメヤマダノサハニエクツムトユキゲノミヅニモノスソヌレヌ》云々。十八【廿六丁】に、南吹雪消益而《ミナミフキユキケマサリテ》云々。また【卅丁】射水河雪消溢而《イミツカハユキヽエミチテ》云々などよめる、皆、春なり。
 
山道尚矣《ヤマミチスラヲ》。
尚矣《スラヲ》は、上【攷證二丁】にいへるが如く、をすらとうちかへして聞意にて、すらは、なほかつなどいふ意なれば、こゝは、山道をなほといふ意也。なほは、俗言に、やはりといふにちかし。
 
名積敍吾來並二《ナヅミゾワガコシ》。
名積と書るは借字にて、上【攷證二下五十一丁】にいへるが如く、勞し煩ふ意にて、こゝは、わが勞しつゝ來りといふ意也。さて、印本、並を前に作れり。本集六【十丁】に、如是二二知三《カクシシラサム》云々。又【十九丁】生友奈重二《イケリトモナシ》云々など、二二《シ》、重二《シ》などを、しと訓るを見れば、前と並と字體近ければ、誤りなる事、明らかなるによりて、改む。【諸注、みな、おなじく、考異本に引る古本にも並とあり。】集中、十六をしゝ、二五をとを、八十一をくゝなど訓る格なり。
 
(25)反歌。
 
383  筑波根矣《ツクバネヲ》。四十耳見乍《ヨソノミミツヽ》。有金手《アリカネテ》。雪消乃道矣《ユキゲノミチヲ》。名積《ナヅミ》來有《ケル・キタル》鴨《カモ》。
 
四十耳見乍《ヨソノミミツヽ》。
よそにのみ見つゝと、にもじを加へて聞意也。本集四【廿三丁】に、天雲之外耳見管《アマグモノヨソノミミツヽ》云々。十二【卅六丁】に、吾妹兒乎外耳哉將見《ワギモコヲヨソノミヤミム》云々。十九【十六丁】に、立雲乎余曾能未見都追《タツクモヲヨソノミミツヽ》云々などあるも、みな、にもじをくはへて聞べし。
 
名積《ナヅミ》來有《ケル・キタル》鴨《カモ》。
來有《ケル》を、けると訓るは、詞にあらず。來而有《キテアル》鴨の意にて、本集十七【廿丁】に、多麻豆左能使乃家禮婆【こは來而有者の意なり。】とあるも同じ。また書紀仁徳紀御歌に、辭漏多娜武枳麻痼儒※[奚+隹]麼虚曾《シロタダムキマカズケハコソ》とあるも、白き臂《タヾムキ》を不纏來者《マカズケハ》こその意なれば、こゝと同じ。同紀に、來朝、來歸、參來などの字を、まうけりと訓るもこれ也。一首の意はくまなし。
 
山部宿禰赤人歌一首。
 
384 吾屋戸爾《ワガヤドニ》。幹藍《カラアヰ》種生《マキオホ・ツミハヤ》之《シ》。雖干《カレヌレド・カレヌトモ》。不懲而亦毛《コリステマタモ》。將蒔登曾念《マカムトゾオモフ》。
幹藍《カラアヰ》種生《マキオ|フ《(マヽ)》・ツミハヤ》之《シ》。
 
幹藍《カラアヰ》は、※[奚+隹]冠草なるを、【こは、今の※[奚+隹]頭花なり。これを、からあゐとするよしは、下にくはしくいふべし。】考、略解、久老が考なども、みな呉藍《クレナヰ》【紅花なり。】のことゝして、宣長が玉勝間に、そも/\くれなゐ(26)といふは、この物もと呉《クレ》の國より渡りまうで來たるよしにて、呉《クレ》の藍《アヰ》といふをつゞめたる名なるを、そは韓國《カラクニ》よりつたへつる故に、又|韓藍《カラアヰ》ともいへるなりといへる説のごとし。但し、からといふは、西の方の國々のなべての名なれば、これは呉國をさしていへるにて、呉藍といふと同じことにもあるべし。さるを、萬葉の十一には、※[奚+隹]冠草《カラアヰ》とも書るにつきて、鴨頭草《ツキクサ》也とも、※[奚+隹]頭花也ともいふ説どものありて、まぎらはしきやうなれども、つき草とも、※[奚+隹]頭花ともいふは、みな、ひがごとにて、紅花《クレナヰ》なること疑ひなし。されば、からあゐ、すなはち紅花也。ついでにいはん。七の卷に、秋さらば移《ウツ》しもせんとわがまきしからあゐの花をたれかつみけん。移《ウツ》すとは、おろして染るをいふ。この移の字を、本に影に誤れり云々。この説、非なり。※[奚+隹]冠草をからあゐと訓るよしをも解れざるは、詳らかならざる事也。されば、代匠記に、幹藍ハ※[奚+隹]頭花ナルベシといはれつるにしたがふべし。いかにとなれば、本集十一【四十一丁】に、隱庭戀而死鞆三苑原之※[奚+隹]冠草花乃色二出目八方《シヌビニハコヒテシヌトモミソノフノカラアヰノハナノイロニデメヤモ》とありて、本草和名に、※[奚+隹]冠草、和名加良阿爲とあるにて、論はたえたるをや。※[奚+隹]冠草は、今いづこにもある※[奚+隹]頭花にて、この草數品ありて、花も葉もみな紅にて、いろ/\に咲みだるゝものなれば、色に出ともいひ、其なかに一種花の形の※[奚+隹]冠に似たるあれば、※[奚+隹]冠草ともいへるにて、この草、種より生るものにて、古根よりは生ざるもの故に、まき生すともいへる也。但し、本集十【五十五丁】に、辛藍花乃色出爾來《カラアヰノハナノイロニデニケリ》とありて、また四【四十四丁】に、紅之色莫出曾念死友《クレナヰノイロニナイデソオモヒシヌトモ》云々。十【廿四丁】に、紅乃末採花乃色不出友《クレナヰノスヱツムハナノイロニイデズトモ》などよめるが、全く同じさまなれば、猶うたがふ人もあるべけれど、四【四十二丁】に、山橘乃色丹出而《ヤマタチバナノイロニイデゝ》云々。八【四十六丁】に、秋芽子乃枝毛十尾二降露乃消者雖消色出目八方《アキハギノエダモトヲゝニオクツユノケナバケヌトモイロニイデメヤモ》云々など、外のものにも、色爾出といへるにて、いろにいづといふは、紅韓藍のみにはかぎらざるをしるべ(27)し。さて、考には、幹は韓の誤りとし、略解、久老が考などには、一本、韓に作るをよしとすとあれど、集韻に、韓亦作2〓幹1とありて、同字なれば、改むべきにあらず。
 
不懲而《コリズテ》。
本集四【十八丁】に、雨障常爲公者久堅乃咋夜雨爾將懲鴨《アマツヽミツネスルキミハヒサカタノヨウベノアメニコリニケムカモ》云々。十一【廿丁】に、雖打不寒戀之奴《ウテドモコリズコヒノヤツコ》云々などありて、玉篇に、懲畏也と見えたり。又、古今集戀二に、たのめつゝあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人はしらなんとも見ゆ。さて、この歌は、比喩の歌にて、女を韓藍にたとへたりとおぼし。一首の意はくまなし。
 
仙柘枝歌三首。
仙は、やまひとゝ訓べし。本集二十【十丁】に、安之比奇能山行之可婆《アシビキノヤマユキシカバ》、山人乃和禮爾依志米之夜麻都刀曾許禮《ヤマヒトノワレニエシメシヤマツトヅコレ》云々、釋名釋長幼に、老而不v死曰v仙。仙遷也、遷入v山也。故其制字。人傍作v山也と見えたり。柘枝は、仙女の名なり。つみのえと訓べし。柘は、新撰字鏡に、※[厭/木]【於點反。山桑豆彌。】柘【之石反。〓字同捨也。豆美乃木】云云。和名抄木類に、毛詩云、桑柘【之夜反。亦作v〓。漢語抄云、豆美】蠶所v食之葉也云々など見えたり。猶くはしくは、下にいふべし。さて、この仙女の事は、懷風藻、續日本後紀の長歌などに見えたり、この事は、下、味稻《ウマシ》の注にいふべし。こは、吉野山の仙女也。さて、この歌の左注をもて考るに、歌は吉野人味稻が歌なれば、この端辭の詠2仙柘枝1歌とあるべきを、詠の字、脱たるにもあるべし。次に載たる吉志美我高嶺《キシミガタケ》の歌は、この仙女を詠る體にあらず、別の歌なるべし。そのよしは、下の注にいふべし。
 
385 霰《アラレ》零《フリ・フル》。吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》。險跡《サカシミト》。草取可《クサトリカ》奈和《・ナヤ》。妹手乎取《イモガテヲトル》。
 
(28)霰零《アラレフリ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。集中、霰零鹿島《アラレフリカシマ》ともつゞけて、かしまと、きしみと通へば、こゝも、かしましき意もて、つゞけしなり。
 
吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》。
仙覺抄に引る肥前風土記に、杵嶋郡縣南二里、有2一孤山1、從v坤指v艮
三峯相連、是名曰2杵島1。坤者曰2比古神1、中者曰2比賣神1、艮者曰2御子神1。閭士女、提v酒抱v琴、毎歳春秋、携手登望、樂飲歌舞、曲盡而歸。歌詞云、阿羅禮布縷耆資熊加多※[土+豈]塢嵯峨紫彌占區縒刀理我泥底伊母我堤鴎刀縷《アラレフルキシマガタケヲサカシミトクサトリカネテイモガテヲトル》。【今傳はれる肥前風土記には、この條なし。これも古書には相違なけれど、疑らくは抄本なるべし。】かくあるに依て、こゝの吉志美我高嶺《キシミガタケ》を、諸注、みな、肥前國とするは、いかにもさる事ながら、この歌を、端辭によりて柘《ツミ》の仙女を詠る歌とせば、仙女も鰺稻《ウマシネ》も吉野の人なれば、【吉野の人なりといふよしは、左注の注にあげたり。】吉志美が嵩も、吉野山の中なるべくおもはるれど、この歌、すべて、かの仙女を詠る體にあらず。されば、思ふに、今の端辭も、左注も、次の歌のにて、この歌には、何ぞ端辭のありつらんが、脱うせて、次の歌の端辭と、左注が、この歌の前後に亂れ入たるなるべく、この吉志美が嵩は、肥前の國なる事、疑ひなし。【与はじめに思へるに、この歌は】仙女に與へたる歌にて、古事記の速總別王の御歌を、すこしかへたるにて、かの御歌は、女鳥王と共ににげ退給ふ所にて、女鳥王は女なれば、くらはし山のさかしきにたへずして、男の御手にとりつきて登らせ給ふ意なれば、さもあるべき事也。こゝは、山のさかしさに、草に取つきかねて、女の手に取つかん事、理にたがへるは、女は仙女なれは、山路のさかしきをも、たやすくのぼる意にてよめるなれば、一首のうへに、仙女におくれるよしは見えされど、これをもて、仙女におくれる證とすべく思ひしは、猶あしかりけり。
 
(29)險跡《サガシミト》。
古事記下卷和歌に、佐賀志美登《サガシミト》云々とあると同じく、さかしさにといふ意也。新撰字鏡に、※[山+省]【嶮也、嵯也、峨也。佐我志。】※[山/則]※[山/力]【山峻嶮之貌、佐加志。】と見えたり。
 
草取可《クサトリカ》奈和《・ナワ》。
まへに引る肥前風土記に、この歌を載たるにも、この句を區縒刀理我泥底《クサトリカネテ》として、古事記下卷、速總別王《ハヤフサワケノミコ》御歌に、波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登《ハシタテノクラハシヤマヲサガシミト》、伊波迦伎加泥天《イハカキカネテ》、和賀天登良須母《ワガテトラスモ》とあるも、この歌と全く同じ調《シラベ》の歌なるが、加泥天《カネテ》とあるは、こゝも必らず草取《タサトリ》可ねてとありつらん事、疑ひなけれど、その文字しりがたければ、改むる事あたはず。又、宣長の説に、今本、和をやと訓は、ひがごと也。わと訓べし。誤字とするもわろし。可奈和《カナワ》といふ言、心得がたきが如くなれど、もと、この歌は、古事記の速總別王《ハヤフサワケノミコ》の御歌の轉じたるもの也。然れば、草取かなわとは、かの歌の、岩かきかねてとは、山路の嶮《サカシ》きに、巖へ掻付てのぼらんとすれども、登りかねて、わが手へとり付てのぼるといふ意也。されば、こゝも、草にとり付ても、とりかねて、妹が手にとりつくといふ意也。但し妹が手をとるといふは、意をかへて戀の心にもあるべし。されど、四の句の意は、古事記の歌と同じくて、可奈は不得《カネ》の意なり。哉《カナ》にはあらず。さて、和《ワ》は下に付たる詞にて、日本紀に、いざわ/\とあるも、いざ/\と、さそふ意なるに同じ。此集十三卷【三十四丁】にも、率和《イザワ》とある也。右の古事記の四の句を、妹は來かねての誤りなりと師はいはれたれど、そはひが言也。さて、この歌を、柘枝の歌とするは、柘枝がよめるとにはあらで、柘枝にあたへたる歌といふ事か。しからざれば、妹が手をとるといふ事かなはず。とにかくに、この一首は、柘枝の事にはあらじを、傳への誤れるなるべし云々と見えたれど、猶こゝろゆかず。一首の意は明らけし。
 
(30)右一首。或云。吉野人|味稻《ウマシネ》。與2柘枝《ツミノエノ》仙媛1歌也。但見2柘枝傳1。無v有2此歌1。
 
柘枝の仙媛と、吉野の味稻の事は、懷風藻、藤原朝臣史遊2吉野1詩に、
漆姫控v鶴擧、柘媛接莫v通云々。また、紀朝臣男人遊2吉野川1詩に、
欲v訪2鍾池越潭跡1、留連美稻逢v槎洲云々。また 丹※[土+穉の旁]眞人廣成遊2吉野川1詩に、栖v心佳野域、尋問美稻津云々。また吉野之作に、鍾池越越潭異2凡類1、美稻逢v仙同2洛洲1云々。高向朝臣諸兄從2駕吉野宮1詩に、在昔釣魚士、方今留2鳳公1、彈v琴與v仙戯、投v江將v神通、柘歌泛2寒渚1、霞景飄2秋風1、誰謂姑射嶺、駐v蹕望2仙宮1云々など見えて、續日本後紀に、嘉祥二年三月乙卯朔庚申、興福寺大法師等、爲奉v賀3天皇寶算滿2于四十1。【中略】更作2浦嶋子1、暫昇2雲漢1而、得2長生1。吉野女眇通2上天1而來、且去等像、副2之長歌1奉献。其長歌詞曰、帝之御世萬代爾《キミノオホミヨヨロヅヨニ》、重飾奉命榮度《カサネカサリテサカエシメタテマツラムト》、柘之枝乃由求禮波《ツミノエノヨシモトムレバ》、佛許曾願成志多倍《ホトケコゾネガヒナシタベ》。【中略】三吉野爾有志熊志禰《ミヨシヌニアリシクマシネ》、天女來通天《アマツメノキタリカヨヒテ》、其後波蒙譴天《ソノノチハセメカヽフリテ》、※[田+比]禮衣著弖飛爾支度云《ヒレゴロモキテトビニキトイフ》、是亦此嶋根乃人爾許曾有伎度云那禮《コレモマタコレノシマネノヒトニコソアリキトイフナレ》云々などもあるに、この下の二首の歌を合せ見れば、かの柘枝傳は、今の世につたはらねど、ことのよしの、大かたには、しらるゝ也。まづ、この味稻といふ者は、漁人にて、吉野川に梁《ヤナ》うち、釣などしてありつるは、一日|柘《ツミ》の枝流れ來りて、梁にかゝりたる、取あげたれば、かの古事記に見えたる丹塗矢《ニヌリヤ》の男に成たらんやうに、その柘の枝の女になりたれば、これと契りつるが、竹取のかぐや姫の如く、後に天上よりせめを蒙りて、天衣を著て飛去しを、味稻かなしみて、歎(31)にしづみつることなどのありし昔物語の傳へありけるなるべし。かの浦嶋子のことなどの類なるべし。さて、味稻の訓は、これを懷風藻には、美稻とありて、書紀神代紀訓注に、可美此云2于|麻時《マシ》1とあれば、味も、美も、うましと訓ん事、明らかなれど、かの續日本後紀の長歌に、熊志禰【今本、禰の字を脱せり。今、類聚國史を以て補ふ。】とあるは、和名抄祭祀具に、離騷經注云、※[米+楫の旁]米【和名久萬之禰。】精米所2以享1v神也とありて、これも神に供するもの故に、美稻の意なるべければ、うとくと通へるなるべし。稻を之禰《シネ》といふは、廣瀬大忌祭祝詞に、和稻《ニギシネ》、荒稻《アラシネ》云々。和名抄稻穀類に、粳米【宇流之禰。】※[米+造]米【加知之禰。】※[禾+舌]【乃古利之禰。】などある類なり。
 
386 此《コノ》暮《ユフベ・クレニ》。柘之左枝乃《ツミノサエダノ》。流來者《ナガレコバ》。梁者不打而《ヤナハウタズテ》。不取香聞將有《トラズカモアラム》。
 
柘之左枝乃《ツミノサエダノ》。
柘は、既に引る新撰字鏡、和名抄などにも見えて、和名豆美なる事明らけく、この物、大和本草には、野桑《ノクハ》といふよし見え、本草啓蒙には、山桑《ヤマクハ》といふよし見えたり。説文に、柘桑屬とあれば、いづれにまれ、桑の類なる事明らけし。今も山野にあるものなるべけれど、予、本草にうとければ、しらず。周禮考工記に、弓人取v幹之道柘爲v上云々とも見えたり。左枝《サエダ》は小枝也。集中、小竹をさゝ、小石をさゝれ、小網をさで、などよめるにてしるべし。
 
梁者不打而《ヤナハウタズテ》。
梁は、書紀神武紀訓注に、梁此云2揶奈《ヤナ》1云々。和名抄漁釣具に、毛詩注云、梁【和名野奈】魚梁也。唐韻云、籍【土角切夜奈須】取魚※[竹/伯]也と見え、本集十一【三十二丁】に、安太人(32)乃八名打度瀬速《アダヒトノヤナウチワタスセヲハヤミ》云々なども見えたり。さて、梁を作るを打《ウツ》といふは、古き説に、竹木を杙《クヒ》にうちて、それに竹をしがらみて作るもの故に、打といふよしいへり。さもあるべし。
 
不取香聞將有《トラズカモアラム》。
今の世に、柘枝傳つたはらざれば、この歌も、次の歌も、一首の意さだかにしりがたけれど、既にいへる如く、おしあてに思ふに、かの仙女と、味稻とちぎりたるは《(マヽ)》、仙女天上にかへりて後、味稻かなしみて、歎にしづみし事などやありけん。されば、この夕べに、吉野川より柘の小枝の流れ來りとも、梁を打ずし《(マヽ》、その枝をとらずかあらん。もし取なば、かの味稻が如く、後の歎あらんかといふ意なるべし。諸注の解、皆こゝろゆかず。宣長が、不取《トラズ》を、魚を取らぬ意と見られしも、たがひぬべし。
 
右一首。此下無v詞。諸本同。
 
此下無詞諸本同の七字は、左注の注にて、いと後の人の書加へし也。考異本に引る古本には、この七字は無よし也。是とす。集中、左注に右何首とのみ出たる多し。
 
387 古爾《イニシヘニ》。梁打人乃《ヤナウツヒトノ》。無有世伐《ナカリセバ》。此間《イマ・コヽ》毛有益《モアラマシ》。柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》。
 
此間毛有益《イマモアラマシ》。
此間毛の三字を、宣長は、こゝにも訓《(マヽ)》れしかど、こは義訓して、いまとよむべき也 上に、古《イニシヘ》とあるにむかへたる語あれば、心らず、いまといはでは聞えがたし。集中に、今代をこのよ、今夜、今夕、此夕などを、こよひとも訓て、今と此とを通はしけるにても、こゝは、いまもあらましと訓べきをしるべし。
 
(33)柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》。
羽裳《ハモ》は詞也。この語は、下へ意をふくめて、歎息の意こもれる詞也。もは助詞也。この事は、上【攷證二中四十九丁】にいへり。さて、この歌も、かの傳のつたはらざれば、さだかにはしりがたけれど、おしあてに思ふに、いにしへ、梁を打て、流れ來たる柘の枝を取たる人【味稻をさせり。】のなかりせば、今も、その柘の枝のあらましものと《(マヽ)》いふ意にて、下へ意をふくめたる也。
 
右一首。若宮|年魚《アユ》麻呂作。
 
この人、父祖、官位、時代、みなしりがたし。若宮の氏も、姓氏録に見えざれど、三代實録、貞觀三年七月十四日紀に、若宮臣秀雄といふ人見えたれば、姓は臣なり。年魚は、古事記にも見えたり。あゆと訓べし。この事、下【攷證三下□】にいふべし。
 
※[羈の馬が奇]羈旅歌一首。并短歌。
 
388 海若者《ワタツミハ》。靈寸物香《アヤシキモノカ》。淡路島《アハヂシマ》。中爾立置而《ナカニタテオキテ》。白浪乎《シラナミヲ》。伊與爾囘之《イヨニメグラシ》。座《ヰ》待《マチ・マテ》月《ツキ》。開乃門《アカシノト》從《ユ・ニ》者《ハ》。暮去者《ユフサレバ》。鹽乎令滿《シホヲミタシメ》。明去者《アケサレバ》。鹽乎《シホヲ》令干《ヒシム・ホサシメ》。鹽左爲能《シホサヰノ》。浪乎恐美《ナミヲカシコミ》。淡路島《アハヂシマ》。礒隱居而《イソガクリヰテ》。何時鴨《イツシカモ》。此夜乃將明跡《コノヨノアケムト》。待從《サモラフ・マツヨト》爾《ニ》。寢乃《イノ》不《ネ・ネ》(34)勝宿《ガテネ・ラレネ》者《バ》。瀧《タキノ》上《ベ。ウヘ》乃《ノ》。淺野之《アサヌノ》雉《キヾシ・キギス》。開去歳《アケヌトシ》。立《タチ》動《トヨム・サワグ》良之《ラシ》。率兒等《イザコドモ》。安倍而榜《アヘテコギ》出《デ・イデ》牟《ム》。爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》。
 
海若者《ワタツミハ》。
海若《ワタツミ》とは、海神の名なる事、上【攷證此卷十七丁四十四丁】に。いへるが如く、こゝも海神にて、海神てふものは、奇しきものぞと也。
 
靈寸物香《アヤシキモノカ》。
上【攷證此卷五丁】不盡山の歌に、燎火乎雪以滅《モユルヒヲユキモテケチ》、落雪乎火用消通都《フルユキヲヒモテケチツヽ》、言不得名不知《イヒモエズナツケモシラニ》、靈母座神香聞《アヤシクモイマスカミカモ》云々ともある如く、海に潮の滿干などありて、あやしきも、皆この海神のしわざなるべければ、神てふものはあやしきものかなと、かに歎息の意こもれり。さて、靈を、久老は、くすしと訓たれど、あやしと、くすしとは、意すこし異なり。この事は、上【攷證此卷五丁】にいへり。
 
淡路島《アハヂシマ》。
書紀神代紀に、於v是陰陽始、※[しんにょう+構えの旁]合爲2夫婦1、及v至2産時1、先以2流路洲1爲v胞、意所v不v快、改名v之曰2淡路洲1云々。應神紀に、二十二年九月丙戌、天皇狩2于淡路島1、是島者横v海、在2難波之西1、峯巖紛錯、陵谷相續、芳艸薈蔚、長瀾潺湲、亦麋鹿鳥鷹多在2其島1、故乘輿屡遊v之云々などありて、いと古くは、一つの島なりしが、やがて一國とはなれる也。集中いと多く見えたり。
 
(35)中爾立置而《ナカニタテオキテ》。
淡路國は、紀伊、和泉、攝津、播磨と、四國との海の眞中にある故に、かくはいへり。立置而《タテオキテ》は、海神の、この島を、こゝに立おくやうにいへり。これ歌のうへなればなり。
 
伊與爾囘之《イヨニメグラシ》。
伊與は伊豫なり。この歌に、白浪を伊豫にめぐらし、又、明石の門より潮の滿干するよしよめるも、實景を見て詠る歌なれば、違ひはあらざるべし。予、地理にうとければ、地圖もて考へても、くはしくはしれがたし。されば、考の説をあぐ。考云、紀伊と阿波の間よりさし入る潮は、淡路の南と北より、西へさす也。其南なるは、西の方、伊豫を回りてやみ、北なるは、備中にてとゞまりぬ。それより西は、西の海の潮の向ひ來て、相せく也云々と見えたり。本集六【十五丁】に、四良名美乃五十開囘有住吉能濱とあるは、浪のたゞめぐれるにて、こゝとは別也。さて、囘之を、久老は、もとほしと訓て、もとほしは、めぐらしの古言なり云々といへるはいかが。めぐるといふ事、古言になきにあらず。そは佛足石歌に、由伎米具利《ユキメグリ》云々。本集十七【卅四丁】に、伊由伎米具禮流《イユキメグレル》云々など見えて、かの神代紀に、二神の國柱をめぐり給ふをば、もとほり給ふとはいふまじきをや。但し、もとほるといふ言も、上【攷證二下廿九丁】にいへるが如く、古言にはあれど、もとほると、めぐるとは、少したがへり。そのわかちを、ちかくいはゞ、もとほるとは、必らず周《メグリ》と囘《メグ》ることにはあらで、俗言に、あちこちするといふに當り、めぐるといふは、必らず物を囘《マハ》りめぐる意なり。
 
座待月《ヰマチツキ》。
枕詞にて、冠辭考に出たれど、こは、後にいふなる、十八夜の事ならんといはれしは、いかゞ。後世に、十六夜をいざよひ、十七夜をたちまち、十八夜をゐまち、十(36)九夜を【一説に、廿日なるよしいへど、非也。この事、予、別に考へあり。】ふしまち、など、定めいへる事、奈良の代にあるべき事にあらず。もしこの定めあらば、中ごろの歌にも、多くあるべきを、源氏物語よりまへにはなし。六帖第五、まつ人といふ題の歌に、君をのみおきふし待の月なれば、やちよもこゝに有明をせよとあるを、ふし待月の證とすれど、この歌は、君をのみおきふし待《マツ》といふを、松《マツ》の月にいひかけたる事、八千代を八千夜にとりなしたる、松の縁語なるにてしるべし。さて、有明とは、八千夜もこゝに有て明せといふ意につゞけたるなれば、ふし待月をよめるにはあらず。されば、この枕詞は、座《ヰ》とは居《ヲル》といふと同じく、居《ヲル》とは、上【攷證二上四丁】にいへるが如く、不寢《イネズ》して夜を居明《ヰアカ》す意なれば、こゝの座待《ヰマチ》も不寢《イネズ》して居明《ヰアカ》し、月を待意にて、さて、夜を明《アカ》すを、地名の明石《アカシ》にとりなして、つづけたるにて、何日ともかぎらず、有明の月をいふなるべし。
 
開乃門從者《アカシノトユハ》。
開《アカシ》と書るは借字、播磨國明石郡の海なり。門《ト》は水《ミナト》の門と同じく、出(物カ)の出入する所をさして、門とはいへり。これらのことは、上【攷證三上廿一丁】にいへり。從《ユ》はよりの意にて、集中いと多し。
 
鹽乎《シホヲ》令滿《ミタシメ・ミチ》。
夕べになれば、鹽をみたしめなり。
 
明去者《アケサレバ》。
明を義訓して、あさとよまんも、さる事ながら、本集十九【廿五丁】に、安氣左禮婆《アケサレバ》、榛之狹枝爾《ハリノサエダニ》、暮左禮婆《ユフサレベ》、藤之繁美爾《フヂノシゲミニ》云々ともあれば、あけさればとよむべし。
 
(37)鹽乎《シホヲ》令干《ヒシム・ホサシメ》。
宣長云、鹽をひしむとよみ切て、上の、あやしきものかといへるを結ぶなり。さて、ほさしむとよまずして、ひしむと訓故は、本、ほすといふは令《ス》v干《ホ》なり。ほとひと通音にて、同言の活ける也。さて、ほさしむといふとき、さは、ほすのすの活けるなれば、令の意なり。然るを、又、しむといひては、令《シム》v令《サ》v干《ホ》と、令重言なる也云々。この説に從ふべし。鹽の滿干《ミチヒ》とはいへど、命滿《ミタシメ》、令干《ホサシメ》とはいはず。本集十七【七丁】に、荒津乃海之保悲思保美知時波安禮登云々などあるにても思ふべし。
 
鹽左爲能《シホサヰノ》。
わきの約り、ゐにて、潮《シホ》さわぎの意也。この事、上【攷證一上十四丁】にいへり。
 
浪乎恐美《ナミヲカシコミ》。
美は、さにの意にて、浪のかしこく、おそろしさにといふ也。
 
礒《イソ》隱《ガクリ・ガクレ》居而《ヰテ》。
隱は、かくりと訓べき事。上【攷證二上九丁】にいへるが如し。こゝは、浪のかしこさに、流路島に船を泊て、礒囘に鹽まちして居る也。
 
何時鴨《イツシカモ》。
こは待願ふ意の詞にて、かものもは助字也。本集四【十七丁】に、此市柴乃何時鹿跡吾念妹爾《コノイチシバノイツシカトワガモフイモニ》云々。八【廿五丁】に、何時毛珠貫倍久其實成奈武《イツシカモタマニヌクベクソノミナリナム》云々などありて、集中いと多し。
 
待從《サモラフ・マツヨト》爾《ニ》。
宣長云、從を、契沖は、からとよめれど、わろし。從は候の字の誤りにて、まち、まつにと訓べし。又、二字を、さもらふとも訓べし云々。この、さもらふとよまれは《(マヽ)》、さることなれど、從を候の誤りとせられしはいかゞ。本集十一【十三丁】にも、侍從時爾《サモラフトキニ》ともありて、官名に、侍從といふがあるも、天皇の御前に、侍《ハベ》り從ふ意なる事、職員令を見てしるべし。さて、(38)さもらふとは、上【攷證二中五十五丁】にいへるが如く、集中、伺侍、伺候、侍候などの字をも訓、古事記、書紀などに、侍の一字をも訓て、本は、伺候し居る意なれど、そを轉じて、物や伺《ウカゞ》ひ待《マツ》意にも用ひたり。こゝはそれ也。そは本集六【十八丁】に、風吹者《カゼフカバ》、波可將立跡伺候爾《ナミカタヽムトサモラフニ》、都多乃細江爾浦隱往《ツタノホソエニシマカクリユク》云々。七【十五丁】に、大御舟竟而佐守布《オホミフネハテヽサモラフ》云々。八【三十四丁】に、天漢伊刀河浪者多々禰杼母伺候難之近此瀬乎《アマノカハイトカハナミハタヽネドモサモラヒカタシチカキコノセヲ》云々。二十【三十四丁】に、安佐奈藝爾《アサナギニ》、倍牟氣許我牟等《ヘムケコガムト》、佐毛良布等和我乎流等伎爾《サモラフトワガヲルトキニ》云々などあるにてしるべし。さて、略解、久老が考など、待は侍の誤りとすれど、禮記雜記注に、待或爲v侍。荘子田子方釋文に、待本作v侍などありて、通じて書る字あれば、誤りとはなしがたし。(頭書、連字の事、攷證三下二丁、六上廿九ウ)
 
寢乃《イノ》不勝宿《ネガテ・ネラレ》者《ネバ》。
寢《イ》も寢《ネ》がてねばにて、俗に寢《ネ》るも寢られねばといふ意也。かてねといふ語は、がてぬといふと同じく、がてぬのぬにこゝろなきが如く、【この事は、上攷證中二五十六丁にいへり。】がてねのねにも心なく、たゞ、がてといふにて、がては難き意なれば、こゝは、寢《イネ》がたければといふに同じ。
 
瀧上乃《タギノベノ》。
代匠記云、瀧上乃淺野トハ、瀧上之三舟山爾トヨメルハ、吉野ノ瀧ノ上《ウヘ》ニアル故ト聞ユレド、野ノ下ニ瀧ハ有マジキ理ナレバ、是ハ瀧ノ水上ノ淺ケレバ、淺野トイハン料ナルベキカ。又、高野、吉野ト云モ、皆山ナレバ、瀧アル上ノ淺野山ニヤ云々。この説、いかが。瀧上は上《ウヘ》といふ意にはあらで、河上《カハノベ》、野上《ヌノベ》などいふ上《ベ》と同じく、邊《ベ》の意にて、ほとり也。この事は、上【攷證三上十一丁】にいへり。さて、こゝは、この淡路島に舟がかりして居たりけんその所に、瀧ありしなるべし。されば、瀧の上の淺野とはいへり。
 
(39)淺《アサ》野《ヌ・ノ》之《ノ》雉《キヾシ・キヾス》。
淺野は、淡路の地名歟。又は、たゞ、淺き野にてもあるべし。下に開去《アケヌ》ともあれば、淺は借字にて、朝野かとも思へど、この字を朝の借字に用ひたる事、集中に例なければ、定めがたし。雉は、古事記上卷御歌に、佐怒都登理岐藝斯波登與牟《サヌツトリキゞシハトヨム》云々。書紀皇極紀謠歌に、阿婆努能枳々始騰余謀作儒《アハヌノキヾシトヨモサズ》云々。本集十四【七丁】に、武藏野乃乎具奇我吉藝志《ムサシヌノヲグキカキヾシ》云々などあれば、きゞしと訓べし。和名抄鳥名に、※[矢+鳥]【和名岐枳須。一云、岐之。】とあれど、きゞすといふこと、いと古くはきこえず。
 
開去歳《アケヌトシ》。
開は、まへに明石の借字に用ひたるが如く、去は、集中、な、に、ぬの假字に轉じ用ひたり。いなん、いに、いぬの意をもかけり。本集一【十八丁】に、年乃經去良武《トシノヘヌラム》とも見えたり。歳《トシ》と書るは借字、詞にて、としのしは助字なり。
 
立《タチ》動《トヨム・サハグ》良之《ラシ》。
動を舊訓さわぐとよめり。さわぐと、とよむとは、いとちかく、いづれにても聞ゆるやうなれど、よく考ふれば、さわぐは形につきい《(マヽ)》ひ、とよむは音につきていへり。この事は、上【攷證二下六十四丁】に辨ぜり。こゝは、夜の明けぬとて、雉の飛たち鳴とよむ意にて、とよむは、音につきていふ所なれば、とよむと訓べし。
 
率兒等《イザコドモ》。
いざとは、誘ひ催す詞。こどもとは、舟子、僕從などをいへり。この事は、上【攷證一上五十一丁】にいへり。
 
安倍而榜《アヘテコギ》出《デ・イデ》牟《ム》。
あへてといふ言は、本集九【八丁】に、礒浦蓑乎敢而榜動《イソノウラミヲアヘテコキトヨム》云々。十七【廿丁】に、伊麻許曾婆敷奈太那宇知底安倍底許藝泥米《イマコソハフナタナウチテアヘテコギデメ》云々。濱松中納言物語に、かいばみ(40)うかゞへど、あへてさやうなる人見えず云々。榮花物語、淺緑卷に、故殿の御心おきてのまゝにては、あへておぼしかくべきにはあらねど云々などありて、みな、あながちにといふ意に聞て、よく心得らるゝ也。さて、代匠記よりして、諸注、みな、此卷【三十四丁】に、阿倍寸管我榜行者《アヘギツツワガコギユケバ》云々とある阿倍寸《アヘギ》と、敢てを、一つなる語として、こゝをも、あへぎて榜出る意と見しは非也。この事は、上【攷證此卷四十三丁】にいへり。また本集此卷【二十四丁】に、競敢六鴨《キソヒアヘムカモ》云々。十三【十五丁】讀文將敢鴨《ヨミモアヘムカモ》【この外にも猶あり。】など、あへんといふに、敢の字を用ひたれど、こは訓を借たるのみなれば、同じ語なりと思ふ事なかれ。この事も、上【攷證三上六十八丁】にいへり。
 
爾波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》。
海上、浪たゝず、靜なるをいふ。この事は、【攷證三上廿三丁】上にいへり。
 
反歌。
 
389 島傳《シマツタヒ》。敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》。許藝廻者《コギタメバ》。日本戀久《ヤマトコヒシク》。鶴左波爾鳴《タヅサハニナク》。
 
島傳《シマツタヒ》。
本集七【四十丁】に、島傳足速小舟《シマツタフアシハヤノヲフネ》云々。八【廿丁】に、島傳伊別往者《シマツタヒイワカレユカバ》云々。廿【三十七丁】に、之麻豆多比伊己藝和多利弖《シマツタヒイコギワタリテ》云々などありて、島より島をつたひてゆく也。
 
敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》。
攝津國兎原郡なり。上【攷證三上十八丁】に出たり。
 
(41)許藝廻者《コギタメバ》。
榜《コギ》めぐらせば也。この事も、上【攷證一下四十五丁】に出たり。
 
日本戀久《ヤマトコヒシク》。
日本と書るは借字にて、大和なり。この事は、上【攷證一下十六丁】にいへり。こゝは大和戀しく思ふにといへる也。さて、本集此卷【十六丁】に、自明門倭島所見《アカシノトヨリヤマトシマミユ》とありて、播磨の海よりさへ、大和の方の見ゆれば、このみねめの埼よりも、大和の方の見ゆるによりて、いとゞ戀しく思ふにもあるべし。
 
鶴左波爾鳴《タヅサハニナク》。
鶴さへ多く鳴よと也。一首の意、くまなし。
 
右歌。若宮年魚磨誦v之。但未v審2作者1。
 
考に、これは、家持卿の注なるべしといはれしかど、左注に、是は家持卿の注、これは後人の注、などいふわかちあるべくもなし。これも、後人の注にて、この歌、作者を載ざるに、前の注に年魚麻呂とあれば、それによりて、同人の誦る歌とせるなるべし。
 
譬喩謌。
 
譬喩は、物によそへて思ひをさとす意にて、たとへうた也。此下に、戀の歌をば載たれど、物にたとへたるなれば、たゞ相聞といふとは別なり。考、略解などに、相聞也とのみ解れしは、くはし(42)からず。さて、この譬喩謌は、毛詩子夏序に、故詩有2六義1焉。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。上以風2化下1、下以風2刺上1、主文而譎諫、言v之者無v罪、聞v之者足2以自戒1、故曰v風云々。李善注云、譎風化風刺皆謂2喩譬不1v片v言也云々とある風に當れり。古今集序に、その六くさの一つには、そへ歌とあるも、よそへ歌の意にて、かの六義の風なり。
 
紀皇女御歌一首。
 
天武天皇の皇女なり。上【攷證二上三十八丁】に出たり。
 
390 輕池之《カルノイケノ》。納囘往轉留《ウラワユキメグル・イリエメグレル》。鴨尚爾《カモスラニ》。玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》。獨宿名久二《ヒトリネナクニ》。
 
輕池之《カルノイケノ》。
大和國高市郡なり。輕路《カルノミチ》、輕市《カルノイチ》などいふも、こゝ也。上【攷證二下四十丁】に出たり。書紀應神紀に、十一年十月作2輕池1云々。
 
納囘往轉留《ウラワユキメグル・イリエメグレル》。
納囘を、舊訓、いりえと訓つれど、囘はゑの假字にて、假字さへ違へれば、誤りなる事いふまでもなく、略解、久老が考など、うらと、訓るはよけれど、納は※[さんずい+内]の誤りとて、改めしは非也。本集六【二十二丁】に、潮干※[さんずい+内]爾《シホヒノウラニ》云々。また【四十六丁】納渚爾波《ウラスニハ》云々など、※[さんずい+内]とも納ともありて、毛詩七月箋、儀禮郷、射禮注などに、納内也。左氏莊四年傳注に、※[さんずい+内]内也。尚書禹貢鄭注に、※[さんずい+内]之言内也など、納も※[さんずい+内]も内の意にて、玉篇に、内は裏也とある意もて、うらと訓るなれば、納、※[さんずい+内]、いづれをも、うらと訓べきなり。池にうらともいふは、本集二【三十丁】に、(43)勾の池を、水傳礒乃浦囘乃《ミヅツタフイソノウラワノ》云々と見えたり。こゝは、鴨の浦間を行めぐれるなり。
 
玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》。
玉藻の玉は、例の物をほむる詞にて、たゞ、藻なる事、上【攷證一上卅九丁】にいへり。於を、うへと訓るは義訓也。この事も、上【攷證二中四十丁】にいへり。さて、一首の意は、皇女、輕の池に鴨の居るを見給ひて、かの鴨さへも、雌雄ともに居て、獨寝る事はなきをと、みづからの御思ひを、よそへたまへる也。
 
造筑紫觀世音寺別當。沙彌滿誓歌一首。
 
筑紫觀世音寺は筑前國太宰府にありて、郡は御笠郡なり。續日本紀に、大寶元年八月甲辰、太政官處分、觀世音寺、筑紫尼寺、封起2大寶元年1、計滿2五歳1、停2止之1云々。和銅二年二月戊子、詔曰、筑紫觀世音寺、淡海大津宮御宇天皇奉d爲2後岡本宮御宇天皇1誓願u所v基也。雖v累2年代1、迄v今未v了。宜d太宰商量充2駈使丁五十許人1、及遂2閑月1、差2發人夫1、専加2※[手偏+僉]校1、早令u2營作1云々。養老七年二月丁酉、勅1僧満誓1、【俗名、從四位上笠朝臣麻呂】於2筑紫1令v造2觀世音寺1云々などありて、猶この後食封を施し給ひし事も、修造せられし事もありて、今の京となりても、猶盛なりしよし、延喜式にてしらる。されど、年經て、いつしか荒はてし事、宗祇筑紫道記に、文明十二年中略觀音寺に入る。この寺は天武天皇の御願なり。白鳳年中の草創なり。講堂、塔婆、囘廊、みなあともなく、名のみぞむかしのかたみとは見え侍る。觀音の御堂は、今に廢せる事なし。さては阿彌陀佛のおはします堂、又は戒壇院、かたの如くあり云々とあるにてしらる。されど、その後、寛永、元禄(44)のころ、度々に修造せしよし、見原篤信が筑前國續風土記に見えたり。さて、左の歌は、專ら戀の歌にて、觀音寺の事に要なければ、こゝに造筑紫觀音とあるは、滿誓出家の後の官名の如くなればなり。
 
391 鳥總立《トブサタテ》。足柄山爾《アシカラヤマニ》。船木伐《フナギキリ》。樹爾伐《キニキリ》歸《ユキ・ヨセ》都《ツ》。安多良船材乎《アタラフナギヲ》。
 
鳥總立《トブサタテ》。
枕詞にて、冠辭考に出たれど、其論うけがたし。久老が別記の説に、鳥總《トブサ》と翅《ツバサ》と音通へば、とぶさは、つばさの意。立《タテ》はたゝせの意にて、足柄《アシガラ》を足輕《アシカル》の意にとりなして、つゞけたるよし、いへり。これに從ふべし。そのよしは、かの別記につきて、くはしくしるべし、代匠記に、相模國風土記ニ、足柄山ノ杉ヲ伐テ舟ニ造リケルニ、其舟ノ足ノ輕カリケレバ、山ノ名トセルトカヤ云々とあるなど思ふべし。猶くはしくは、予が冠辭考補正にいふべし。
 
足柄山爾《アシガラヤマニ》。
和名抄郡名に、相模國足上【足辛乃加美】足下【准v上】とある、この二つながら、今本には、足の下に柄の字あれど、活字本によりて略けり。すべて、諸國郡郷の名、必らず二字に書べき例なれば也。さて、この山は、古事記中卷に足柄之坂本ともありて、集中にも多く出たり。(頭書、あしがら小舟。)
 
船木伐《フナギキリ》。
書紀、推古天皇二十六年紀に、舶材《フナキ》ともありて、船にすべき料の木也。十七【四十九丁】に、船木伎流等伊布能登乃島山《フナギキルトイフノトノシマヤマ》ともあり。
 
(45)樹爾伐《キニキリ》歸《ユキ・ヨセ》都《ツ》。
宣長云、歸は、集中、ゆくとのみよめる例也。さて、きにきりゆきつは、舟木にといふべきを、上にゆづりて、舟の言を略ける也。あたら舟木を、よそへ、舟木に伐てゆきつといふ也云々。この説の如し。歸をゆくと訓る事は、上【攷證三上九丁】ににいへり。
 
安多良船材乎《アタラフナギヲ》。
あたらは、あたらし、あたらしくとも活らく言にて、古事記上卷に、又離2田之阿1埋v溝者、地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラントコソ》、我那勢之《アガナセノ》命、爲v如v此登、詔雖v直云々。下卷御歌に、夜多能比登母登須宜波古母多受《ヤタノヒトモトスゲハコモタズ》、多知迦阿禮那牟《タチカアレナム》、阿多良須賀波良《アタラスガハラ》、許登袁許曾須宜波良登伊波米《コトヲコソスガハラトイハメ》、阿多良須賀志賣《アタラスガシメ》云々。書紀雄略紀歌に、阿〓雁陀倶彌※[白+番]夜《アタラタクミハヤ》云々。また婀〓羅斯枳偉儺謎能陀倶彌《アタラシキヰナベノタクミ》云々などありて、集中にもいと多し。皆、惜む意にて、今俗言に、あつたら物、あつたらこと、などいふも、これ也。さて、一首の意は、戀の歌にて、滿誓僧、思ひかけたりし女のありけんが、それに人のかよひける事などありしを、船木によそへて、わが船木にすべき、あたら船木を、人の船木に切ゆきつとなるべし。
 
太宰大監。大伴宿禰百代。梅歌一首。
 
太宰大監。
職員令云、太宰府大監二人、掌d糺2判府内1、審2署文案1、勾2稽失1、察c非違u云々と見えて、大貳、少貳につゞく官也。官位令を考ふるに、正六位下の官なり。
 
大伴宿禰百代。
本集五【十四丁】天平二年正月十三日の梅花歌三十二首の中に、このぬしの歌ありて、大監としるしたれば、このころの官なりしとおぼゆ。續日本紀に、天(46)平十年閏七月癸卯、以2外從五位下大伴宿禰百世1、爲2兵部少輔1。十三年八月丁亥、爲2美作守1。十五年十二月辛卯、始置2筑紫鎭西府1、以2大伴宿禰百世1、爲2副將軍1。十八年四月癸卯、授2從五位下1。九月己巳、爲2豐前守1。十九年正月丙申、授2正五位下1云々など見えたり。
 
392 烏珠之《ヌバタマノ》。其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》。手忘而《タワスレテ》。不折來家里《ヲラズキニケリ》。思之物乎《オモヒシモノヲ》。
 
烏珠之《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上四丁】にも出たり。其の字をへだてゝ、夜とつゞけし也。この格、いと多かり。冠辭考につきて、しるべし。
 
手忘而《タワスレテ》。
手《タ》を、諸注、みな、發語とすれど、手放《タバナシ》、手挿《タバサシ》、手握《タニギリ》などの類、手《テ》の意にて、梅を折事を、手にわすれし也。
 
思之物乎《オモヒシモノヲ》。
をらんと思ひしものをといふ意にて、一首の意は、心ある女を梅によそへて、一夜見たりし梅を、手折べかりしを、はからず、わすれて、折ずして、この太宰府に下りて來にけり。手折んと思ひしものを、といへる也。
 
滿誓沙蒲。月歌一首。
 
(393 不所見十方《ミエズトモ》。孰不戀有米《タレコヒザラメ》。山之末爾《ヤマノハニ》。射狹夜歴月乎《イザヨフツキヲ》。外見而思香《ヨソニミテシガ》。)
 
(47)不所見十方《ミエズトモ》。
宣長云、この十方は、雖《トモ》の意にはあらず。と〔右○〕にも〔右○〕の助字を添たる也。上二句の意は、すべて、月は出るをまちかぬるものにて、いまだいでぬほどは、たれかは戀ざらん。いまだ見えぬ事かなと、たれも、みな、まちかぬるといふ意也。さて、出たらんを、よそながらも早く見まほしきと也云々。この説のごとし。
 
孰不戀有米《タレコヒザラメ》。
疑ひたる詞の下を、米《メ》とうくる事、集中、一つの格にて、いと多く、てにをはたがへるにあらず。この事は、上【攷證二上廿丁】にいへり。牟《ム》といふに同じ。
 
山之末爾《ヤマノハニ》。
末をはと訓るは、玉篇に、末端也とある、端《ハシ》の意もて書るにて、本集四【十二丁】に、山羽爾味村騷《ヤマノハニアヂムラサワギ》云々。六【三十二丁】に、山之葉爾不知世經月乃《ヤマノハニイサヨフツキノ》云々。十一【十丁】に、山葉追出月《ヤマノハニサシイツルツキノ》云々などあり。集中、山末とあるは、皆、やまのはと訓べき也。さて、こゝを、久老は、やまのまにと訓り。末をまと訓るは常の事にて、本集十【九丁】に、山間《ヤマ/マ》ともありて、集中、山際と書るも、やまのまと訓べきなれば、【この事は上攷證一上卅一丁にいへり。】こゝを、しかよまんも、あしからねど、舊訓と假字書の例あるによれり。
 
射狹夜歴月乎《イザヨフツキヲ》。
いざ土ふとは、進まんとして進みかね、たゆたふ意なる事、上【攷證三上卅四丁】にいへるが如く、こゝは、月の山の端にほのかに出たるをいへり。さて、印本、狹を※[狹の旁が來]に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
外見而思香《ヨソニミテシガ》。
外を、よそと訓るは義訓也。而思香《テシガ》は、願ふ意の詞にて、香《ガ》は濁るべし。【中ごろより、てしがなといふ意なり。】本集九【三十五丁】に、見而師香跡《ミテシガト》、悒憤時之《イブセキトキシ》云々。續日本紀、天(48)平神護元年閏十月詔に、奉仕之米天志可等《ツカヘマツラシメテシガト》【これを、印本には、志可天とあれど、今、卜部家の本によれり。】などあるも同じく、古今集春下に、思ふどち春の山べにうちむれて、そこともいはぬたびねしてしが、とあるも、これ也。さて一首の意は、滿誓僧、戀しく《(マヽ)》女を月によそへて、月は見えずとて、たれか戀ざらん。出ぬ先さへ戀しく思ふもの也。いかで、山の端にいざよふかげを、よそにだに見てしがなと戀らるゝ意なり。この歌、三、四、二、一、五と、句をうちかへしてきくべし。
 
金明軍歌一首。
 
父祖、考へがたし。金は氏、明軍は名なり。本集此卷【五十三丁】大伴旅人卿薨時歌の左注に、右五首、仕人金明軍不v勝2犬馬之慕心中之感緒1作歌とあれば、旅人卿の資人なりし事しらる。【書紀、其外にも資人を、つかひびとと訓ずれば、仕人と書るも、資人と書るも、同じ資人の事、下攷證三下□にいふべし。庶人よりもなるものゝよし、古く見えたり。】さて、金てふ氏は、姓氏録に見ざれど、續日本紀、大寶三年十月甲甲戌紀に、僧隆觀還俗、本姓金名財云々。和銅元年正月乙巳紀に、授2旡位金上元從五位下1云々。二年十一月甲寅紀に、金上元爲2伯耆守1云々。神龜元年五月辛未紀に、從六位上金宅良、金元吉、並賜2姓國看漣1云々。天平五年六月丁酉紀に、武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人、依v請爲2金姓1云々などあるにて、古くより、この氏ありしをしるべし。また、久老は、この金の字を、活本に依て余に改たり。余氏も姓氏録には見えざれど、續日本紀、養老五年正月甲戌紀に、賜2正六位上余泰勝〓十疋云々。養老七年正月丙子紀に、授2正六位上金仁軍從五位下1。【この余を、古本には金とあり。金氏ならば、こゝの金明軍に似たる名なり。】天平勝寶二年六月甲辰紀に、從六位下余益人賜2百濟朝(49)臣姓1云々などありて、古くよりありし氏なれど、こゝを改むるは非なり。
 
394 印結而《シメユヒテ》。我定《ワガサダメ》義《テ・コ》之《シ》。住吉乃《スミノエノ》。濱乃小松者《ハマノコマツハ》。後毛吾松《ノチモワカマツ》。
 
印結而《シメユヒテ》。
しめゆふとは、標繩《シメナハ》など引延《ヒキハヘ》て、みだりに人のこすまじき料にする事にて、こゝは、是より内は吾ものと標《シメ》領する意也。この事、上【攷證二上三十四丁】標結吾勢《シメユヒワガセ》とある所、見合すべし。さて、標《シメ》と書るも、しるしの意なれば、こゝに印と書るも、同じ意もて書る也。
 
我定《ワガサダメ》義《テ・コ》之《シ》。
宣長云、義之は、てしと訓べし。この外、四卷【四十一丁】に、言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》云々。七卷【卅一丁】に、結義之《ムスビテシ》云々。十【三十丁】に、織義之《オリテシ》云々。また逢義之《アヒテシ》云々。十一卷【廿丁】に、觸義之鬼尾《フレテシモノヲ》云々。十二卷【廿丁】に、結義之《ムスビテシ》云々。これら、みな、てしと訓べき事、明らけし。さて、これを、てしと訓は、義字をての假字に用ひたるにはあらず。故に、義之とつゞけるのみにて、義《テ》とのみいへるは一つもなし。義は、皆、羲の字の誤りにて、から國の王羲之といふ人の事也。この人、書に名高き事、古今にならぴなし。皇國にても、古へより、この人の手跡をば、殊にたふとみ賞する故に、手師の意にて書る也。書の事を手といふは、いと古き事にて、日本紀にも、書博士を、てのはかせとも、てかきとも訓たり。さて、又、七卷【卅一丁】十一卷【廿二丁】に、結大王《ムスビテシ》云々。十卷【三十三丁】に、定大王《サダメテシ》云々。十一卷に、言大王物乎《イヒテシモノヲ》云々。これらの大王も、てしと訓て、義明らか也。古くは、かく訓べき事をしらずして、いたく誤りよめり。これも、かの王羲之が事にて、同じく手師の意也 その(50)故は、羲之が子の王献之といへるも、手かきにてありければ、父子を大王小王といひて、大王は羲之が事なれば也。これは、かの義之と大王とを相照して證して、ともに、てしと訓べき事をも、また王羲之なるをも、思ひ定むべし。師の説には、義之をてしと訓は、篆の誤り也といはれしかど、篆を假字に用ひたる例なし。又、義之といひけるのみにて、義とはなしかける所もなければ、義之と二字つゞきたる意なる事、うたがひなし。又、大王《テシ》を天子の意なりといはれしかど、天子の字音をとりて、訓に用ふべきにあらず。又、其意ならば、直に天子と書る所もあるべく、天皇などゝも書る所もあるべきに、いづこも、たゞ大王とのみ書るは、決て其意にはあらずとしるべし云々。この説、實にさる事なり。これ從ふべし。王羲之の書に名ある事は、今の世にもかくれなく、晋書の本傳にも明らかなれば、さらにいはず。さて、書を手《テ》といふは、漢書郊祀志に、天子識2其手1。注に、手謂2所v書手跡1云々とありて、中ごろの書に、手本、手ならひ、手かきなどあるも、これ也。さて、宣長の、義は羲の誤りといはれしは、いかゞ。荘子、馬蹄篇釋文に、義本作v羲とありて、義、羲、通用せり。
 
後毛吾松《ノチモワガマツ》。
金明軍、契る女を松によそへて、標ゆひて、わがものと定めてし、この住吉の濱の小松は、この後いつまでも、わがものぞと也。いと若き女などゝや、ちぎりけん。
 
笠女郎。贈2大伴宿禰家持1歌三首。
 
笠女郎。
父祖、考へがたし。笠氏の女なるべし。集中多く出でたるが、皆、家持卿におくれる歌也。されば、家持卿、ふかく契られし女なるべし。
 
(51)大伴宿禰家持。
續日本紀云、天平十七年乙丑、授2正六位上大伴宿禰家持從五位下1。十八年三月壬戊、爲2宮内少輔1。六月壬寅、爲2越中守1。天平勝寶元年四月甲午朔、授2從五位上1。六年四月庚午、爲2兵部少輔1。十一月辛酉朔、爲2山陰道巡察使1。天平寶字元年六月壬辰、爲2兵部大輔1。二年六月丙辰、爲2因幡守1。六年正月戊子、爲2信部大輔1。八年正月己未、爲2薩摩守1。慶雲元年八月丙午、爲2太宰少貳1。寶龜元年六月丁未、爲2民部少輔1。九月乙亥、爲2左中辨兼中務大輔1。十月己丑朔、授2正五位下1。二年十一月丁未、授2從四位下1。三年二月丁卯、爲2兼式部員外大輔1。五年三月甲辰、爲2相模守1。九月庚子、爲2左京大夫兼上總守1。六年十一月丁巳、爲2衛門督1。七年三月癸巳、爲2伊勢守1。八年正月庚申、授2從四位上1。九年正月癸亥、授2正四位下1。十一年二月丙申朔、爲2參議1。甲辰、爲2右大辨1。天應元年四月壬寅、爲2兼春宮大夫1。癸卯、授2正四位上1。五月乙丑、爲2左大辨1、春宮大夫如v故。十一月己巳、授2從三位1。延暦元年正月壬寅、解2見任1。【こは氷上川繼が謀反の事に座してなり。】五月己亥、爲2春宮大夫1。六月戊辰、爲2兼陸奧按察使鎭守將軍1。二年七月甲午、爲2中納言1、春宮大夫如v故。三年二月己巳、爲2持節征東將軍1。四年八月庚寅、中納言從三位大伴宿禰家持死。祖父大納言贈從二位安麻呂、父大納言從二位旅人。家持死後二十餘日、其屍未v葬。大伴繼人竹良等殺2種繼1事發覺下獄。案2驗之1、事連2家持等1、由v是追除名。其息永手等、並處v流焉云々。日本後紀云、大同元年三月辛巳、勅縁2延暦四年事1配流之輩、先已放還。今有v所v思、不v論2存亡1、宜v叙2本位1。復2大伴宿禰家持從三位1云々など見えたり。
 
395 託馬《ツクマ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。生流紫《オフルムラサキ》。衣爾染《キヌニソメ》。未服而《イマダキズシテ》。色爾《イロニ》出《デニ・イデ》來《ケリ》。
 
(52)託馬《ツクマ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。
文徳實録云、仁壽二年二月甲戌、授2近江國筑摩神從五位下1云々。伊勢物語に、あふみなるつくまの祭とくせなん、つれなき人のなへのかず見んなど見えたり。地圖もて考ふるに、坂田郡の湖によりたる所に、筑摩といふ所あり。ここなるべし。さて、託をつくとよめるは、物に言|託《ツク》るもて、書るなり。
 
生流紫《オフルムラサキ》。
紫草の事は、上【攷證一上三十六丁】にいへり。
 
衣爾染《キヌニソメ》。
紫を衣に染て也。さて、染は、古くより、しむるとも、そむるともいへど、こゝは、そめと訓べし。そのよしは、上【攷證此卷廿九丁】酒二染甞《サケニシミナム》とあるところ、考へ合すべし。
 
色爾《イロニ》出《デニ・イデ》來《ケリ》。
本集十【五十五丁】に、色出爾來《イロニヂニケリ》とあれば、いろに出にけりと訓べし。さて、一首の意は笠女郎、家持卿と契りたるが、まだ相《アハ》ざるうち、人のしりたるに、男を紫によそへて、その紫を衣にそめて、いまだきもせぬほどに、はやく、いろに出て、人にしられぬとなり。
 
396 陸奧之《ミチノクノ》。眞《マ》野《ヌ・ノ》乃草原《カヤハラ》。雖《トホ》遠《ケドモ・ケレド》。面影爲而《オモカゲニシテ》。所見《ミユ》云《トフ・トイフ》物乎《モノヲ》。
 
陸奧之《ミチノクノ》。
本集十四【十六丁】に、美知乃久能安太多良末由美《ミチノクノアダヽラマユミ》云々。十八【廿丁】に、美知能久乃小田在山爾《ミチノクノヲダナルヤマニ》云々などあり。和名抄國名に、陸奧【三知乃於久】とあれど、おはのゝ引聲にこもりたれば、みちのくといふべき也。
 
(53)眞《マ》野《ヌ・ノ》乃草原《カヤハラ》。
眞野は、和名抄郷名に、陸奧國行方眞野とあり。こゝなるべし。草をかやと訓る事は、上【攷證一上廿二丁】にいへり。かやとは、たゞ草の事にて、後世のごとく、かやとて、一種の草あるにあらず。
 
雖《トホ》遠《ケドモ・ケレド》。
とほけれどもの、れを略ける也。このれを略ける事は、上【攷證二中十丁】にいへり。
 
面影爲而《オモカゲニシテ》。
おもかげとは、本集四【卅二丁】に、言問爲形面景爲而《コトヽハスサマオモカゲニシテ》云々。また【五十四丁】面影二三湯《オモカゲニミユ》云々。十九【三十丁】に、於毛可宜爾毛得奈民延都々《オモカゲニモトナミエツヽ》云々などありて、集中いと多く、字の如く、面《オモテ》のかげの如く見ゆるを本にて、たゞそのけしきなどの、そらにうかぶをもいへり。にしては、にてといふ意也。さて、一首の意は、男の遠く住て、間どほなるを、眞野のかや原によそへて、かの眞野のかや原は、いと遠けれども、面かげにのみは見ゆるものを、いかで、かげをだに、見せ給はぬといふ也。
 
397 奧山之《オクヤマノ》。磐本管乎《イハモトスゲヲ》。根深目手《ネフカメテ》。結之情《ムスビシコヽロ》。忘不得裳《ワスレカネツモ》。
 
磐本管乎《イハモトスゲヲ》。
磐の本に生たる菅也。本集十一【卅九丁】に、奧山之石本菅乃根深毛所思鴨吾念妻者《オクヤマノイハモトスゲノネフカクモオモホユルカモワガモフツマハ》云云などありて、また【十一丁】三室山石穗菅《ミモロノヤマノイハホスゲ》云々。四【五十九丁】に、奧山之磐影爾生流菅根乃《オクヤマノイハカゲニオフルスガノネノ》云々なども見えたり。さて、菅は、和名抄草類に、唐韻云、菅【音※[(女/女)+干]。字或作v簡。和名須介】茅屬草也とあり。
 
(54)根深目手《ネフカメテ》。
本集十三【廿三丁】に、深海松之深目思子等遠《フカミルノフカメシコラヲ》云々とあると同じく、こゝに根ふかめてといはんとて、上の二句はおける也。
 
結之情《ムスビシコヽロ》。
本集此卷【五十九丁】に、玉緒乃不絶射妹跡結而石事者不果《タマノヲノタエジヤイモトムスビテシコトハハタサズ》云々。九【十八丁】に、言成之賀婆加吉結常代爾至《コトナリシカバカキムスビトコヨニイタリ》云々。十六【九丁】に、死藻生藻同心跡結而爲友八違《シニモイキモオナジコヽロトムスビテシトモハタガハジ》云々などありて、みな、契《チギル》といふを結《ムスブ》といへり。こゝは、草を結ぶに、契をむすぶをかけたり。
 
忘不得裳《ワスレカネツモ》。
裳《モ》は助字也。さて、一首の意は、男を菅によそへて、ふかく契てし心を、わすれかねつとなり。
 
藤原朝臣八束。梅歌二首。
 
眞楯卿の先名なり。集中には、八束とのみしるせり。續日本紀云、天平神護二年三月丁卯、大納言正三位藤原朝臣眞楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。眞楯、度量弘深、有2公輔之才1。起v家春宮大進、稍遷至2正五位下式部大輔兼左衛門督1。在v官公廉、慮不v及v私。感神聖武皇帝、寵遇特渥、詔特令v參2奏宣1。吐納明敏有v譽2於時1。從兄仲滿、心害2真能1、眞楯知v之、稱v病家居、頗翫2書籍1。天平末出爲2大和守1。勝寶初授2從四位下1、拜2參議1、累遷信部卿兼2太宰帥1。于v時渤海使揚承慶、朝禮云畢、欲v歸2本蕃1、眞楯設2宴餞1焉。承慶甚稱2歎之1。寶字四年授2從三位1、更賜2名眞楯1。本名八束。八年至2正三位勲二等兼授刀大將1。神誰二年拜2大納言1、兼2式部卿1。薨時年五十二。賜以2大臣之葬1云々と見えたり。
 
(55)398 妹《イモガ》家《ヘ・イヘ》爾。開有梅之《サキタルウメノ》。何時毛何時毛《イツモイツモ》。將成時爾《ナリナムトキニ》。事者將定《コトハサダメム》。
 
妹《イモガ》家《ヘ・イヘ》爾。
舊訓、家をいへと訓つれど、本集五【十八丁】八に、伊母我陛邇由岐可母不流登《イモガヘニユキカモフルト》云々。十四【十七丁】に、伊毛我敝爾伊都可伊多良武《イモガヘニイツカイタラム》云々などあれば、いもがへと訓べし。へはいへの略也。また、十四【十四丁】に、伊毛賀伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》云々。また【三十一丁】安我毛布伊毛賀伊敝乃安多里可聞《アガモフイモガイヘノアタリカモ》云々ともあれど、こは七言の句にて、こゝは五言の句なれば、いもがへと訓むべし。
 
何時毛何時毛《イツモイツモ》。
集中、いつも/\といふは、皆、いつにてもといふ意也。本集四【十三丁】に、何時何時來益我背子時自異目八方《イツモイツモキマセワガセコトキジケメヤモ》云々。十一【四十丁】に、何時毛何時毛人之將縱言乎思將待《イツモイツモヒトノユルサムコトヲシマタム》などある、皆同じ。
 
將成時爾《ナリナムトキニ》。
草木の實《ミ》のなるを、戀の叶ふによそへていへり。この事は、上【攷證二上十九丁】にいへり。さて、この二首の歌は、いひよりたるばかりにて、いまだ戀のならざるほどに、よめるにて、戀ふる心を梅によそへて、わが戀のいつにても叶ひたらん時に、ゆく末の事はさだめてんとなり。
 
399 妹家《ヘ・イヘ》爾《ニ》。開有花之《サキタルハナノ》。梅花《ウメノハナ》。實之成名者《ミニシナリナバ》。左右將爲《カモカクモセム》。
 
開有花之《サキタルハナノ》。
花はすなはち梅にて、さきたる花の、その梅の花といひて、歌をなせり。
 
(56)左右將爲《カモカクモセム》。
本集十四【八丁】に、可毛可久母伎美我麻爾末爾《カモカクモキミガマニマニ》云々。十七【卅八丁】に、可毛加久母伎美我麻爾麻等《カモカクモキミガマニマト》云々などありて、中古より、ともかくもといふに同じ。左右をよめるは義訓也。また、本集二【十八丁】に、彼縁此依《カヨリカクヨリ》。また【卅三丁】彼往此去《カユキカクユキ》。四【卅四丁】に云々《カニカクニ》。また【卅六丁】鹿※[者/火]藻闕二毛《カニモカクニモ》。五【七丁】に可爾迦久爾《カニカクニ》。六【廿三丁】に、左毛右毛將爲乎《カモカモセムヲ》。十六【十九丁】に左毛右毛《カニモカクニモ》などあるも、彼と此とを對しいへるにて、本は皆同じ語也。さて、この歌も、まへの歌も同じく、戀を梅によそへて、戀の叶ひたらん後は、ともかくもせんをとなり。
 
大伴宿禰駿河麻呂。梅歌一首。
 
駿河麻呂卿、父、考へがたし。大日本史本傳に、系圖一本曰、參議道足之子。續日本紀補任不v載。今無v所v考としるし給へり。本集四【卅九丁】左注に、坂上郎女者、佐保大納言卿女也。駿河麻呂、此高市大卿之孫也。兩卿兄弟之家、女孫姑姪之族。是以題歌送答、相2問起居1とあるも、さだかならず。【そのよしは下攷證四中□にいふべし。】さて、續日本紀云、天平十五年五月癸卯、授2正六位上大伴宿禰駿河麻呂從五位下1。十八年九月癸亥、爲2越前守1。天平寶字元年八月甲午、【中略】賊臣廢2皇子道祖1、大伴駿河麻呂【以外十人】等、稟性兇頑、昏心轉虐、不v顧2君臣之道1、不v畏2幽顯之資1、潜結2逆徒1、謀傾2宗社1。悉受2天嘖1、咸伏2罪〓1。實龜元年五月庚午、爲2出雲守1。十月己丑朔、授2正五位下1。二年十一月丁未、授2從四位下1。三年九月丙午、爲2陸奧按察使1。仍勅、今聞、汝駿河麻呂、辭年老身衰、不v堪2仕奉1。然此國者、元來擇v人、以授2其任1、駿河麻呂宿禰、唯稱2朕心1、是以任爲2按察使1、宜v知v之。即日授2正四位下1。四年八月甲午、爲2陸奧國鎭守將軍1、按察使及守如v故。六年九月戊午、爲2参議1。十一月乙巳、遣(57)2使於陸奧國1。宜v詔夷俘等忽發2逆心1、侵2桃生城1、鎭守將軍大伴宿禰駿河麻呂等奉2承朝委1、不v顧2身命1、計2治叛賊1、懷柔歸服、勤勞之重、實合2嘉尚1。駿河麻呂已下一千七百九十餘人、從2其功勲1、加2賜位階1。授2正四位下大伴宿禰駿河麻呂正四位上勲三等1。七年七月壬辰、參議正四位上陸奧按察使兼鎭守將軍勲三等大伴宿禰駿河麻呂卒。贈2從三位1、賻2※[糸+施の旁]三十疋布一百端1と見えたり。
 
400 梅花《ウメノハナ》。開而落去登《サキテチリヌト》。人者雖云《ヒトハイヘド》。吾標結之《ワガシメユヒシ》。枝《エダ》將有《ナラメ・ニアラム》八方《ヤモ》。
 
開而落去登《サキテチリヌト》。
こは、女にあひてのち、心かはれるを、よそへたり。
 
枝《エダ》將有《ナラメ・ニアラム》八方《ヤモ》。
この歌を、六帖□にのせて、この句を、えだならめやもとあり。これに從ふべし。さて、この歌は、次々の歌どもをもて考ふるに、駿河麻呂、田村の大孃【大伴宿奈麻呂卿の女。母は大伴坂上郎女にて、大伴坂上大孃は、この田村大孃の妹也。】に逢し事ありしに、又外の女に住し事などありしをり、かの田村大孃をば、わすれやし給ひしなど、人のいひつる事ありしなるべし。こは、その時のこたへ歌にて、女を梅によそへて、一たびは時めきて咲つる梅の花の、いまは、ちりぬと人はいへども、そはわがしめゆひて、わが物とせし枝にはあらじ。外の木のうへなるべしといへる也。
 
大伴坂上邸女。宴2親族《ウガラヲ》1之日。吟《ウタフ》歌一首。
 
大伴坂上郎女の傳はまへに出たり。親族は、うがらと訓べし。書紀神代紀上訓注に、不v負2於族1、些云2宇我邏磨概茸《ウガラマケジ》1とありて、本集此卷【五十四丁】に、親族兄弟無國爾《ウカラハラカラナキクニヽ》云々。九【卅六丁】に、親族共射歸集《ウカラトモイユキアツマリ》(58)云々など見えたり。さて、この此卷なるをも、九なるをも、舊訓は、やからと訓つれど、やからといふ言、古くものに見えず。されば、正しき書紀の訓注を證として、うからと訓べし。吟はうたふと訓べし。戰國策秦策注に、吟歌吟也とあれば、うたふと訓べき事論なし。さて、吟を、久老は、によふと訓り。吟は、壘聚名義抄、字鏡集、伊呂波字類抄などにも、によふと訓ば、しか訓ん事論なく、しかも、によふといふ語は、いと古く、靈異記訓釋に、呻爾與フと見えて、竹取物語に、によふ/\になはれて、家にいり給ひぬる云々。宇治拾遺卷六に、あるひはしに、あるひはによふこゑす云々。卷十三に、人のうめくこゑす。大きにあやしみて、又こと所をきけば、によふこゑす云々などあるが、靈異記よりはじめて、皆、苦《クル》しみうなる聲をいへば、こゝには叶ひがたく、たゞ歌を吟ずるを、によふとは、いふべからず。
 
401 山守之《ヤマモリノ》。有家留不知爾《アリケルシラニ》。其山爾《ソノヤマニ》。標結立而《シメユヒタテヽ》。結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》。
 
山守之《ヤマモリノ》。
山守とは、山を守る人にて、みだりに竹木を伐る事を禁じ、または界をこゆる事をいましめなどする爲に、むかしは、居おきし也。この事は、上【攷證二中廿六丁】にいへり。
 
標結立而《シメユヒタテヽ》。
立《タテ》は詞にて、意なし。この例、下【攷證七上卅丁】に出せり。
 
結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》。
結之《ユヒノ》の之もじは、用語よりうけて、たゞの乃《ノ》もじとは別なり。こは本集四【廿三丁】に、吾背子之從乃萬々《ワガセコガユキノマニ/\》云々。また【廿五丁】に、大船乎榜乃進爾《オホフネヲコギノスヽミニ》云々。九【卅三丁】に、(59)益荒夫乃去能進爾《マスラヲノユキノスヽミニ》云々。また【卅三丁】父母賀成乃任爾《チヽハヽガナシノマニ/\》云々。十八【十九丁】に、伎吉能可奈之母《キヽノカナシモ》云々。二十【廿五丁】に、夜麻美禮姿見能等母之久可波美禮姿見乃佐夜氣久《ヤマミレバミノトモシクカハミレバミノサヤケク》云々などある乃もじと同じく、これ一つの格也。中古にも、この乃《ノ》もじあり。(頭書、かきのよろしも、かけのよろしきなどいふ、のもじも、これにて、俗言にいはゞ、たるといふに當れり。)さて、この歌は、坂上郎女宴2親族1時に、駿河麻呂卿も大伴家の一族なれば、この宴席に在ん事、もとよりにて、この卿、大伴家の一女、田村の大孃に相れしかば、母坂上郎女、わが娘の男におくれるにて、駿河麻呂卿、このごろ外の女にかたらひつき給ひし聞えありしなるべし。されば、外の女を山守によそへて、この山に山守のありともしらずして、わが聟ぞと標ゆひて、心やすく思ひしを、今となりて、標ゆひたりと思ひしが、はづかしゝとなり。
 
大伴宿禰駿河麻呂。即和歌一首。
 
402 山主者《ヤマモリハ》。蓋雖有《ケダシアリトモ》。吾妹子之《ワギモコガ》。將《ユヒ》結《ケム・テム》標乎《シメヲ》。人將解八方《ヒトトカメヤモ》。
 
山主者《ヤマモリハ》。
この歌を、六帖第□に載て、この句を、山ぬしはと訓つれど、玉篇に、主守也とあれば、山もりとよまん事論なし。四【四十丁】に、玉主爾珠者授而《タマモリニタマハサヅケテ》云々ともあり。
 
蓋雖有《ケダシアリトモ》。
けだしといふ語を、集中、おしわたし考ふるに、もしといふに意をふくめたるにて、こゝは、山もりは若《モシ》ありともといふ也。この事は、上【攷證二上卅丁】にいへり。この歌は、ま(60)への和歌にて、吾にやまもりはもしありとも、わが妹が結びてし標を、人とかめやも、解人はあらじとなり。
 
大伴宿禰家持。贈2同坂上家之大孃1歌一首。
 
坂上家之大孃は、本集四【五十四丁】左注に、田村大孃、坂上大孃、并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者、母居2坂上里1仍曰2坂上大孃1とある如く、大伴坂上郎女の娘にて、田村大孃の妹也。家持卿と久しくかたらひたりと見えて、集中、贈答の歌多く見えたり。
 
403 朝爾食爾《アサニケニ》。欲見《ミマクホリスル》。其玉乎《ソノタマヲ》。如何爲鴨《イカニシテカモ》。從手不離有牟《テユサケザラム》。
 
朝爾食爾《アサニケニ》。
朝《アサ》に日《ケ》にゝて、朝も日《ヒル》もといふに同じ。この事は、上【攷證此卷五十五丁】にいへり。
 
其玉乎《ソノタマヲ》。
女にまれ、男にまれ、思ふ人を玉にたとへたる事、集中いと多し。上【攷證二中廿二】考へ合すべし。こゝは女をたとへたり。
 
從手不離有牟《テユサケザラム》。
不離有を、考にも、略解にも、かれざらんと訓り。集中、離の字をば、かるとも、さくとも訓て、いづれにても聞ゆるやうなれど、猶、舊訓のまゝに、さけざらんと訓べし。そは本集四【四十丁】に、殊放者奧從酒甞湊自邊瀦經時爾可放鬼香《コトサケバオキユサケナメミナトヨリヘツカフトキニサクベキモノカ》云々などありて、集中いと多く、皆、はなるゝ意にて、こゝは手よりはなさゞらんといふにて、この歌は、女(61)を玉によそへて、時となく、朝も日《ヒル》も見まぼしき玉を、いかにしてかも、手より離さず、持るわざのあらんとなり。
 
娘子。報2佐伯宿禰赤磨1。贈歌一首。
 
娘子、考へがたし。この前に、何の娘子に赤麻呂の贈れる歌ありつらんが、この集にもらされたるなるべし。佐伯宿禰赤麿、これも父祖、官位、時代、考へがたし。續日本紀天平八年正月より下、所々に、佐伯宿禰淨麻呂といふ人あり。これを清麻呂と書る所もあり。淨、清と、赤と、殊に意近ければ、いづれをも、あかまろと訓て、同人か。この人ならば、天平勝寶二年十一月己丑、正四位下左衛士督にて、みまかりし人なり。さて、この姓氏は、書紀天武紀に、十三年十二月己卯、佐伯連賜v姓曰2宿禰1と見えて、姓氏録卷十一に、佐伯宿禰、大伴宿禰同v祖、道臣命七世孫、室屋大連公之後也と見えたり。この訓は、和名抄郡名に、安藝國佐伯【佐倍木】とありて、伯《ハク》を轉じて、へきの假字に用ひしなり。
 
404 千磐破《チハヤフル》。神之社四《カミノヤシロシ》。無有世伐《ナカリセバ》。春日之野邊《カスガノヌベニ》。粟種益乎《アハマカマシヲ》。
 
千磐破《チハヤフル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上廿丁】にも出たり。
 
神之社四《カミノヤシロシ》。
四《シ》は助辭にで、社は春日の神社なり。延喜神名式に、大和國添上郡春日祭神四座【并名神大月次新嘗】と見えたり。
 
(62)粟種益乎《アハマカマシヲ》。
粟は、本草和名に、白梁米、和名、之呂岐阿波。粟米、和名、阿波乃宇留之禰と見えて、續日本紀、靈龜元年十月乙卯詔に、凡粟之爲v物、支久不v敗、於2諸穀中1、※[うがんむり/取]是精好、宜d以2此状1、遍告2天下1、盡v力耕種、莫uv失2時候1。自餘雜穀、任v力課v之。若有2百姓、輸v粟轉v稻者1聽v之云々など見えたり。さて、この歌は、赤麻呂に妻あるを、神社によそへて、これなくば、吾が妻にもならんといふ意にて、この春日野に神社のなかりせば、粟をまかましものをと也。
 
佐伯宿禰赤麿。更贈歌一首。
 
更贈は、又改めておくるといふ也。この事は、上【攷證二上四十六丁】にいへり。
 
405 春日野爾《カスガヌニ》。粟種有世伐《アハマケリセバ》。待《マダス・マタム》鹿爾《ガニ》。繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》。社師怨焉《ヤシロシトヾムル》。
 
待《マダス・マタム》鹿爾《ガニ》。
この句を、考にも、略解にも、待鹿爾《マツシカニ》と訓て、鹿《シカ》の待食《マチハム》意に解れしは、いかゞ。さては、一首の意、聞がたし。こは、久老が、またすがにと訓るに從ふべし。待《マタス》は、立《タヽ》す、聞《キカ》す、見《ミ》すなどいふと、同じく、待《マタ》せるといふ意にて、鹿爾《ガニ》は、【鹿をかの假字に用ひしは、集中いと多し。がにといふ語は、必らず濁音の字を用ひるよし、宣長はいはれつれど、清濁のわかちは、たしかに定まれる事なし。其よしは提要にいへり。】詞にて、宣長の説に、がには、がねにといふことにて、ねにをつゞめて、にといへるなり。がねと專ら同じ意也云々といはれつるが如く、爲《タメ》に、故《ユヱ》になどいふに當れり。そは本集八【卅九丁】に、雁鳴寒霜毛置奴我二《カリガネサムシシモヽオキヌガニ》云々。十四【一九丁】に、於毛思路伎野乎婆(63)奈夜吉曾布流久左爾仁比久佐麻自利於非波於布流我爾《オモシロキヌヲバナヤキソフルクサニニヒクサマジリオヒハオフルガニ》云々。四【卅一丁】に、吾屋戸之暮陰草乃白露之消蟹本名所念鴨《ワガヤドノユフカゲグサノシラツユノケヌガニモトナオモホユルカモ》云々などありて、集中猶多し。おしわたして、しるべし。こゝは、またす故にといふ意に聞べし。
 
社師怨焉《ヤシロシトヾムル》。
印本、焉を烏に誤りて、社師留烏《ヤシロハシルヲ》と訓り。かくては、一首の意、聞えがたければ、今意改せり。そもそも、集中、焉を烏に誤れる所多し。そは、本集此卷【四十四丁】に、標耳曾結《シメノミゾユフ》烏云々。四【卅五丁】に、不卅夜多《アハヌヨオホキ》烏云々。十【十二丁】に、※[(貝+貝)/鳥]鳴《ウグヒスナキヌ》烏云々。また【卅五丁】吾毛悲《ワレモカナシモ》烏云々。また【四十八丁】月夜清《ツクヨサヤケシ》烏云々などある、これらの烏の字も、皆、焉の誤りにて、焉の字は、玉篇に、焉、語已之詞也と見えて、漢文にも多く助字に置る字なれば、歌の下に、訓にも意にもかゝはらずして、たゞ置る也。そは本集四【五十一丁】に、行乎欲焉《ユカマクヲホリ》云々。九【卅四丁】に、悲悽別《ナゲクワカレヲ》焉云々。十【卅九丁】に、戀許増益《コヒコソマサレ》焉云々。また【四十丁】妻之眼乎欲《ツマノメヲホリ》焉云々。また不見者乏《ミネバトモシミ》焉云々。十二【十三丁】に、心慰《コヽロハナギヌ》焉云々などあるにて、こゝなるも、外なるも、烏は焉の誤りなるをしるべし。さて、上にぞのや疑の詞なきを、やしろしとゞむると訓んは、てにをはたがへるに似たれど、本集九【八丁】に、風莫乃|濱之白浪徒於斯依久流見人無《ハマノシラナミイタヅラニコヽニヨリクルミルヒトナシニ》云々。十【四十三丁】に、秋田苅借廬乎作吾居者衣手寒露置爾家留《アキタカルカリホヲツクリワガガヲレバコロモテサムクツユオキニケル》云々。十八【十九丁】に、保登等藝須伊登禰多家口波橘能播奈治流等吉爾伎奈吉登余牟流《ホトヽギスイトネタケクハタチバナノハナチルトキニキナキトヨムル》云々などあると同じ格にて、今の世にいふ變格といへるもの也。さて、又、考異本に引る異本、久老が考に引る古本などに、社師怨《ヤシロシウラメシ》焉とあるよしなり。これによれば、こともなく、よく聞ゆれど、今本のまゝにて、よまるゝだけは、訓べくおぼゆれば、敢て改る事なし。さて、この歌は、娘子が春日の野べに粟まかましをといへる(64)に答へおくれるにて、さゝはる事あるを、社によそへて、妹がわれをまち給はんゆゑに、春日野に粟をまき給はゞ、たゆる事なく、つゞきても往かよはましを、社ある故に、粟をまき給はぬなれば、社のわれをとゞむるにことならずとなり。
 
娘子。復報歌一首。
 
406 吾祭《ワガマツル》。神者不有《カミニハアラズ》。丈夫爾《マスラヲニ》。認有神曾《トメタルカミゾ》。好應祀《ヨクマツルベキ》。
 
吾祭《ワガマツル》。神者不有《カミニハアラズ》。
君が社《ヤシロ》し留《トゞム》るとのたまふは、吾祭れる神にはあらずとなり。宣長云、この初句を、わがまつると訓るは、ひがごとなり。わはまつると訓べし。吾はそなたの祭るべき神にはあらずの意なり。さて、二の句より下は、そなたに、本よりつきたる神を、よくまつり給ふべきことなりといふ也云々。この説、當れりともおぼえず。
 
丈夫爾《マスラヲニ》。
この爾もじは、をの意にて、ますら男をといふ也。をの意の爾もじの事は、上【攷證二上廿九丁】にいへり。丈夫、印本、大夫に作れり。今、意改するよしは上にいへり。
 
認有神曾《トメタルカミゾ》。
字鏡集、認トム、ツナグなど訓たれば、とむとよまん事、論なし。神とは、赤麻呂の妻をさせり。
 
好應祀《ヨクマツルベキ》。
この歌は、また前の歌の答歌にて、君が社しとゞむるとのたまふ、その社の神は、わが祭れる神にはあらず。君をとゞめし神は、君が方にあるべければ、その君をと(65)どめし神をよくまつり給へとなり。
 
大伴宿禰駿河麻呂。娉2同坂上家之二孃1歌一首。
 
娉《ツマドフ》。
娉は、説文に、娉問也、娉訪也とありて、とぶらふ意なれば、つまどふと訓べし。つまどふといふ言の事は、下【攷證三下廿一丁】にいふべし。玉篇に、娉娶也とあれど、こゝは娶《メト》る事にはあらず、たゞよばふ意也。
 
同坂上家之|二孃《フタリノヲトメ》。
同の字は、二孃へわたりて、書るにて、かの二人の孃《ヲトメ》を、同じく娉《ツマトフ》といふ意也。さて、坂上家之二孃を、諸注に、坂上之大孃とするは非也。こは田村大孃、坂上大孃、二人をさして二孃とはいへるにて、後に姉田村大孃をば駿河磨卿の得給ひ、妹坂上大孃をば家持卿の得給ひし事、集中の歌にてしらる。さて、こゝは、かの二孃の、まだいと若きほどに、二孃のうち、いづれなりとも得んとて、かの母のもとに、駿河麻呂卿のいひいれられし事ありしを、まだいと若しとて、諾《ウベ》なはざりし事ありしを、又ほどへて、いひおくらるるなるべし。かく見ざれば、左の歌の意、聞えがたし。さて、孃は韻會に、娘同v孃、少女之號とあれば、をとめと訓べし。また四【廿九丁】に、坂上家之大娘とあるにても、大孃、大娘、一つなるをしるべし。
 
407 春霞《ハルガスミ》。春日里之《カスガノサトニ》。殖子水葱《ウヱコナギ》。苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》。柄者指尓家牟《エハサシニケム》。
 
(66)春霞《ハルガスミ》。
枕詞にて、春霞幽《ハルガスミカスカ》とつゞけし也。猶くはしくは、予が冠辭考補正にいふべし。
 
春日里之《カスガノサトニ》。
拾穗本、并考異本に引る古本に、爾を之に作りたれど、春日《カスガ》の里に殖子水葱《ウヱコナギ》といひては、語をなさずと思ひて、古くより改めつる、さかしらなるべし。本集十四【十三丁】に、可美都氣努伊可保乃奴麻爾宇惠古奈宜《カミツケヌイカホノヌマニウエコナギ》、可久古非牟等夜《カクコヒムトヤ》、多禰物得米家武《タネモトメケム》云々とあるにて、爾《二》とあるかた、是なる事、論なきをや。さて、この爾もじは、殖《ウヱ》といふへのみかゝりて、子水葱《コナギ》といふまでへはかゝらず。また、この歌を、六帖第□にのせて、五の句を、うゑしなぎとあれど、是も爾もじになづみて、子をしと訓るなれば、取がたし。
 
殖子水葱《ウヱコナギ》。
水葱《ナギ》は、本草和名に、※[草がんむり/(角+斗)]菜、一名水※[草がんむり/公/心]、和名奈岐云々。和名抄藻類、水※[草がんむり/公/心]、唐韻云 ※[草がんむり/穀]【胡谷反。楊氏云、水葱奈岐。一云2※[草がんむり/穀]菜1】菜生2水中1、可v食者也云々。南方草木状に、水葱、花葉皆如2鹿葱花1、色有2紅黄紫三種1云々など見えたり。こは食料のものにて、本集《(マヽ)》【十八丁】に、吾爾勿2所見1《ワレニナミセソ》1、水葱乃煮物《ナギノアツモノ》とも見えたり。子は借字、小にて、殖たる小水葱なり。
 
苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》。
新撰字鏡に、苗、奈倍とありて、説文に、凡草初生亦曰v苗ともありて、草の若きを、おしなべて、なへとはいへる事、本集十一【四十八丁】に、三島菅未苗在《ミシマスゲイマダナヘナリ》云々とあるにてしるべし。さて、考異本に引る古本に、云を三に作りて、三師《ミシ》とあり。こゝは、いづれにしても聞ゆれど、云師《イヒシ》とあるかた、すこしまされるこゝちす。
 
柄者指尓家牟《エハサシニケム》。
柄は枝の借字、指《サシ》は枝の生るをいへり。本集此卷【廿九丁】に、五百枝刺繁生有都賀乃樹乃《イホエサシシジニオヒタルツガノキノ》云々とありしにてもしるべし。考異本に引る異本に、柄を枝に(67)作れ与。いづれにてもあるべし。また久老が考に引る古本に、家牟を家里に作れり。こは非也。さて、この歌は、まへにもいへるが如く、田村、坂上の二孃の、いまだいと若かりし時、母のもとへ、いづれにても得んといひおくれるを、いまだ若しとて諾なはざりし後に、ほどへておくれるにて、二孃を水葱《ナギ》によそへて、いまだ苗なりといひしが、いまは、はや、枝もさすばかりに生長しつらんとなり。
 
大伴宿禰家持。贈2同坂上家之大孃1歌一首。
 
408 石竹之《ナデシコノ》。其花爾毛我《ソノハナニモガ》。朝旦《アサナサナ》。手取持而《テニトリモチテ》。不戀日將無《コヒヌヒナケム》。
 
石竹之《ナデシコノ》。
大觀本草引2日華子1云、瞿麥催生、又名2社母草※[草がんむり/燕の烈火が鳥]麥※[崙の山が竹]1、又云2石竹1云々とありて、新撰字鏡に、瞿麥、奈※[氏/一]之古云々。和名抄草類に、本草云、瞿麥、一名大蘭【和名奈天之古。一云2止古奈豆1。】とあれど、とこなつといひしは、古今集にはじめて見えて、この集には、みな、なでしことのみいへり。
 
其花爾毛我《ソノハナニモガ》。
毛我は、上【攷證三上七十一丁】にいへるが如く、願ふ意の詞にて、こゝは、なでしこの花にてもあれかしといふ意也。
 
朝旦《アサナサナ》。
本集十七【四十四丁】に、奈泥之故我波奈爾毛我母奈《ナデシコガハナニモガモナ》、安佐奈佐奈見牟《アサナサナミム》云々。二十【四十二丁】に、阿佐奈佐奈《アサナサナ》、安我流比婆理爾《アガルヒバリニ》云々などありて、あさなあさなといふべきを、なの引聲に、あ(68)はこもれる枚に、あを一つはぶきて、あさなさなとはいへるにて、朝旦と書るは、集中、直多し。さて、この言は、あさなゆふなといふなど《(マヽ)》同じく、なほ爾の轉じたるにて、あさな/\《(マヽ)》、朝に朝にの意、あさなゆふなは、朝に夕にの意なる事、集中には、朝爾食爾《アサニケニ》とあるを、古今集離別歌には、あさなけに見べき君としたのまねば云々と、爾をなに轉じたるにてもしるべし。さて、この歌を、なでし子によそへて、吾妹子は石竹の花にてあれかし、朝ごとに手に取て持て居なば、不戀日のなからん、こひぬも《(マヽ)》あらんをといふ意也。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首。
 
409 一日尓波《ヒトヒニハ》。千重浪敷爾《チヘナミシキニ》。雖念《オモヘドモ》。奈何其玉之《ナドソノタマノ》。手二卷難寸《テニマキガタキ》。
 
千重浪敷爾《チヘナミシキニ》。
本集九【十六丁】に、石越浪乃敷弖志所念《イソコスナミノシキテシオモホユ》云々。十【四十九丁】に、一日千重敷布我戀《ヒトヒニハチヘシク/\ニワガコフル》云々。十一【八丁】に、五百重浪千重敷々戀渡鴨《イホヘナミチヘシク/\ニコヒワタルカモ》云々。十三【十丁】に、五百重浪千垂波敷爾言上爲吾《イホヘナミチヘナミシキニコトアゲスワレ》云々などありて、千重は、たゞ數の多きをいひ、その浪の如く、しきりにといふ意にで、敷と書るは借字、しきりにの意なる事、上【攷證二下卅九丁】にいへるが如し。
 
手二卷難寸《テニマキガタキ》。
こは、玉を手に卷事をいへるにて、古へ、この風俗ありし也。この事は、上【攷證二中廿二丁】にいへり。さて、この歌は、女を玉によそへて、一日には千たびも百たびも、しきりに思へども、いかにしてか、その玉を吾手に卷がたきといふにて、こは女の諾なはざるほどなるべし。玉は海中にあるもの故に、浪といふより、其玉といひて歌をなせり。
 
(69)大伴坂上郎女。橘歌一首。
 
略解に、こゝに橘の歌とせるは、後人のわざなるべし云々といへるは誤り也。前に、梅花月歌などあるをも見よ。それ/\の題をいひて、さて、それによそへたる歌といふ意とする、これ譬喩歌たるいはれなるをや。
 
410 橘乎《タチバナヲ》。屋前《ニハ・ヤド》爾殖生《ニウヱオホシ》。立而居而《タチテヰテ》。後雖悔《ノチニクユトモ》。驗將有八方《シルシアラメヤモ》。
 
橘乎《タチバナヲ》。
醫心方に、橘柚、和名、多知波奈、又由云々。和名抄果※[草がんむり/(瓜+瓜)]部に、兼名苑云、橘一名金衣【和名、太知波奈。】と見えて、集中にも多くよめり。
 
屋前《ニハ・ヤド》爾殖生《ニウヱオホシ》。
屋前は、集中、皆、やどゝ訓たれど、屋《ヤ》の前《マ(》は庭なれば、其意をもて書る字なれば、皆、にはと訓べし。宿《ヤド》といふに、集中、屋外《ヤト》、屋戸などは書たれど、屋前の字をやどゝ訓べきよしなし。玉篇に、庭、堂階前也とあるにて、屋前は、にはと訓べきをしるべし。生は、本集十八【廿九丁】に、奈泥之故乎屋戸爾末枳於保之《ナデシコヲヤドニマキオホシ》云々。二十【十二丁】に、夜麻夫伎波奈※[泥/土]都々於保佐牟《ヤマフキハナデツヽオホサム》云々。また【四十六丁】伎美我於保世流奈弖之故我《キミガオホセルナデシコガ》云々などあるにて、おほしと訓べきをしるべし。さて、宣長の説により、諸注、みな、生を、おほせと訓たれど、さては、一首の意たがへり。そのよしは、下にいへる事を考へて、しるべし。
 
(70)立而居而《タチテヰテ》。
立たり居たりしてといふ意也。この事は、上【攷證此卷五十一丁】に出たり。
 
驗將有八方《シルシアラメヤモ》。
こは、驗なしといふにて、しるしなしといふは、かひなく無益なる意なる事、上【攷證此卷四十四丁】にいへるが如し。さて、この歌は、大伴坂上郎女が、わが娘を橘によそへて、娘の男のもとに贈れるにて、わが娘なれば、謙退して、わが娘の如く、ふつゝかなるものを、君のもとに呼《ヨビ》とり給ひなば、後に、立つ居つして悔給ふとも、後には、かひあらじかしといふ意也。この歌を、かく見ざれば、次の歌と、贈答の意、聞えがたし。この歌の解、諸注みなたがへり。
 
和歌一首。
 
略解に、この男は家持卿にや、駿河麻呂にや、和歌とのみあるは、この卷、家持卿の集と見ゆれば、名を略きしならんか云々といへるは、いかゞ。既に、この卷にも、家持卿の名多く出たるものをや。
 
411 吾妹兒之《ワギモコガ》。屋前《ニハ・ヤド》之橘《ノタチバナ》。甚近《イトチカク》。殖而師故二《ウヱテシユヱニ》。不成者不止《ナラズバヤマジ》。
 
甚《イト》近《チカク・チカシ》。
甚を、いとゝよめるは義訓也。近は、宣長の、ちかくと訓れしに從ふべし。
 
殖而師故二《ウヱテシユヱニ》。
故二《ユヱニ》は、ものをといふ意なりと、宣長のいはれつるは、いかゞ。故にといふにこつありて、一つは、なるものをといふ意、【この事は、上攷證一上卅六丁、二上四十丁、二中卅丁、二下卅二丁などにいへり。】(71)一つは、たゞ俗言にもいふ所と同じ事なり。こゝは、なるものをといふ意にはあらで、たゞの故になり。
 
不成者不止《ナラズバヤマジ》。
事の成就するを、橘の實のなるによそへていへり。この事は、上【攷證二上十九丁】にいへり。さて、この歌は、まへの歌に、わが娘の如く、ふつゝかなるものを、向へとり給ひなば、後の悔あらんといへるに答へて、女を橘によそへて、君が庭にある橘に、いと近しくなつれつる故に、そがわすれがたければ、呼向へずては、いかであらんといふを、實のなるによそへたるなり。
 
市原王歌一首。
 
田原天皇【志貴皇子】の御孫、安貴王の男也。續日本紀に、天平十五年五月癸卯、授2旡位市原王、從五位下1。天平勝寶元年四月丁未、授2從五位上1。二年十二月癸亥、授2正五位下1。天平寶字七年正月壬子、爲2攝津大夫1。四月丁亥、爲2造東大寺長官1云々などありて、卒年考へがたし。本集六【廿八丁】に、市原王宴祷父安貴王歌云々。續日本紀に、天應元年二月丙午、三品能登内親王薨。内親王天皇女也。適2正五位下市原王1、生2五百井女王、五百枝王1云々など見えたり。
 
412 伊奈太吉爾《イナダキニ》。伎須賣流玉者《キスメルタマハ》。無二《フタツナシ》。此方彼方毛《カニモカクニモ・コナタカナタモ》。君之隨意《キミガマニマ/\》。
 
(72)伊奈太吉尓《イナダキニ》。
伊奈太吉《イナダキ》は、書紀神代紀上に、髻鬘を、みいなたきと訓る、これにて、髻《モトドリ》といふ也。新撰字鏡に、髻、〓、〓、【三同、古活反。結髪伊太々支。】とあるも、たとなと音通は《(マヽ)》同言也。源氏物語、若菜卷下に、いむ事のちからもやとて、御いたゞき、しるしばかりはさみて云々とあるも、髪をきる事なるを思ふべし。されば、いたゞきとは、本は髻《モトドリ》をいふ言なれど、髻はかならず頂にあるもの故に、頂を、やがて、いたゞきとはいひ、又それよりうつりて、頭《カシラ》に物を捧《サヽ》ぐる事をも、頭に物を置事をも、いたゞくとはいふ也。また、山の上をいたゞきといふも、これよりうつりたる也。
 
伎須賣流玉者《キスメルタマハ》。
考云、伎《キ》はくゝりの約りにて、絞也。須賣流《スメル》は統《スベル》也。かくて、神代紀に、御統《ミスマル》の玉てふに同じく、頭を飾る數々の玉の緒を、くゝり統《スブ》る所に、一つの大玉あり。それを二つなしといへり云々。この説いかゞ。宣長云、伎《キ》は笠をきるなどのきるに同じく、頂におくをいふ。すめるは統《スベル》にて、二つなしとは、玉の數をいふにはあらず、統たる玉のたぐひなきよしにて、たぐひなしといはんが如し云々。この説に從ふべし。されど、めるは詞にて、令著《キス》めるの意なるべくおもはる。さて、玉を頂の飾とする事は、書紀神代紀上に、乃結v髭爲v髻、縛v裳爲v袴、便以2八坂瓊之五百箇御統1纏2其髻及腕1云々。本集二十【廿九丁】に、阿母刀自母多麻爾母賀母夜《アモトシモタマニモガモヤ》、伊多太伎弖美都良乃奈可爾《イタダキテミヅラノナカニ》、阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》とありて、玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》といふも頂のかざりなり。
 
無二《フタツナシ》。
宣長の説の如く、たぐひなしといふ意にて、無雙といふに同じ。土佐日記に、まなこもこそ、ふたつあれ。たゞひとつある鏡を奉るとて云々などあるも同じ意也。
 
(73)此方彼方毛《カニモカクニモ・コナタカナタモ》。
宣長の訓に從へり。この字をかく訓るは、彼往此去《カユキカクユキ》、彼依此依《カヨリカクヨリ》などの例なり。
 
君之隨意《キミガマニ/\》。
隨意を、まに/\と訓るは、義訓也。この事は、上【攷證二上十八丁】にいへり。さて、この歌は女を玉によそへて、頂に著する玉は、又なく貴とし、それが如く、又なく愛しみ思ふ君なれば、とにもかくにも、われは君が心のまに/\なりてんと也。さて、代匠記には、本集六【卅二丁】に市原王悲2獨子1歌とあるをこゝに引て、無二《フタツナシ》とは獨子をいへるよしに解れつるは非也し。かの六卷なるは、市原王、親の爲に、獨子にて、兄弟のなきをかなしめる歌なる事、まへのこの王の傳に出たる如く、この王には、五百井女王、五百枝王、二人の子あるにてしるべし。
 
大〓公人主《オホヨサミノヒトヌシ》。宴吟歌一首。
 
この人、父祖、官位、時代、考へがたし。〓は綱の俗字なれば、おほつなと訓べけれど、續日本紀に、この氏の人出たるに、大綱《オホツナ》とも、大網《オホアミ》とも書たるは、何れをか是とせん、定めがたけれど、しばらく代匠記の説によりで、おはよさみと訓めり。姓氏録卷三云、大〓臣、上毛野朝臣同v祖、豐城入彦命六世孫、下毛君奈良弟眞若君之後也云々。代匠記云、今按、和名抄云、攝津國住吉郡大羅【於保與佐美】コレ大依羅ナルヲ、養老年中ノ勅ニ、國郡等ノ名二字ニ限故ニ、依ノ字ヲ省キナガラ讀付タリ。依羅ヲ依〓トモ書ケバ、大〓ヲモ於保與佐美トヨムベキニヤ云々。
 
413 須麻乃海人之《スマノアマノ》。鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》。藤服《フヂゴロモ》。間遠之有者《マドホニシアレバ》。未著穢《イマダキナレズ》。
 
(74)須麻乃海人之《スマノアマノ》。
須麻は攝津國八田部郡の海邊にて、名高き所なれば、さらにいはず。
 
塩燒衣乃《シホヤキギヌノ》。
こは、塩燒衣とて、別にさる衣のあるにあらず。塩燒あまが著る衣などは、いたく穢たるものなるべければ、穢《ナル》といはん料也。本集六【十九丁】に、爲間乃海人之塩燒衣乃奈禮名者香《スマノアマノシホヤキギヌノナレナバカ》云々。十一【廿四丁】に、志賀乃
白水郎之塩燒衣雖穢《シガノアマノシホヤキギヌノナルレドモ》云々など見えたり。
 
藤服《フヂゴロモ》。
本集十二【十四丁】に、塩燒海部乃藤衣穢者雖爲《シホヤクアマノフヂゴロモナレハスレドモ》云々ともありて、藤衣はいやしき者の服なり。さて、藤といふは、紫の花咲藤のみに限らず。玉篇に、藤、草木蔓生者總名とありて、蔓を生ずるものゝ總名なるが、藤の花は、ことにうるはしく人に愛せらるゝもの故に、一つの物の名とはなれゝど、こゝに藤服といふは、藤の蔓もて織るのみにあらず、葛《クズ》にても、何にても、草の蔓をもて織れるを、ひろくさして、ふぢごろもとはいふ也。本集七【卅三丁】に、媛押生澤邊之新田葛原何時鴨絡而我衣將服《ヲミナヘシオフルサハベノマクズハライツカモクリテワカキヌニキム》云々。毛詩周南云、葛之※[潭の旁]兮、施2子中谷1、維葉莫々、是刈是護、爲v※[糸+奇]爲v絡、服v之無v〓云々。〓雅云、葛生柔仞、蔓生可衣、女事煩辱者云々などあるは、葛《クス》もて織れるなれど、葛も蔓生するものなれば、これも藤《フヂ》衣といふべし。又(今カ)の世にも、葛布とて、あらあらしき布あり。是この遺製なるべし。又、喪服《フヂゴロモ》に※[糸+?]《(マヽ)》衣といふあり。こは別なるものから、本は素服とて、麻布、葛布など用ひしよりいへる也。
 
間遠之有者《マドホニシアレバ》。
本集十四【十七丁】に、麻等保久能久毛爲爾見由流伊毛我敝爾《マトホクノクモヰニミユルイモケヘニ》云々ともありて、ほど遠きを、葛もて織れる布の織目のあらく間遠きによそへたり。古今集戀五(75)に、すまのあまのしほやき衣をさをあらみ、まどほにあれや、君がきまさぬとあるも、この歌をとりて詠るなるべけれど、をさをあらみは、則、織目のあらきをいへる也。
 
未著穢《イマダキナレズ》。
本集七【三十丁】に、下服而穢爾師衣乎《シタニキテナレニシキヌヲ》云々。九【卅丁】に、丸寐乎爲者吾衣有服者奈禮奴《マロネヲスレバワガキタルコロモハナレヌ》云々。十五【十二丁】に、奈禮其呂母蘇弖加多思吉※[氏/一]《ナレゴロモソデカタシキオテ》云々。十八【廿七丁】に、都流波美能奈禮爾之伎奴爾《ツルハミノナレニシキヌニ》云々。後撰集戀三に、いせの海に塩やくあまのふぢ衣、なるとはすれど、あはぬ君かな云々などもありて、衣のなるとは、穢の字を書る如く、俗言に、よごれるといふに同じきを、來馴《キナル》るによそへたり。さて、この歌は、人主が自ら詠る歌にはあらで、宴に古歌を吟《ウタ》へるにて、女の家の遠きを、葛《フ》布の、織目のあらく間遠なるによそへて、ほど遠き故に、女のもとに、いまだ來馴《キナレ》ずといへる也。
 
大伴宿禰家持歌一首。
 
414 足日木能《アシビキノ》。石根許其思美《イハネコゴシミ》。菅根乎《スガノネヲ》。引《ヒカ・ヒケ》者難三等《バカタミト》。標耳曾結焉《シメノミゾユフ》。
 
足日木能《アシビキノ》。
枕詞にて、上【攷證二上廿四丁】に出たり。是は山にかゝる枕詞なれど、そを、やがて、山の事として、さて石根とはつゞけたる也。本集【卅丁】に、足檜乃下風吹夜者《アシビキノアラシフクヨハ》云々とつゞけたるも同じ。ぬは玉といひて、月とも、いめとも、つゞくる類なり。
 
(76)石根許其思美《イハネコゴシミ》。
石根の、凝たる如く、嶮岨なるをいふ。この事は、上【攷證三上六十六丁】にいへり。美は、さにの意也。
 
菅根乎《スガノネヲ》。
菅の根は、長く延もの故に、すがのねの長き春日などもつゞけて、本集此卷【四十一丁】に、磐本管乎根深目手《イハモトスゲヲネフカメテ》云々などもいへり。されば、こゝに、引とはいへる也。
 
引《ヒカ・ヒケ》者難三等《バカタミト》。
引者《ヒカバ》は、岩根のこゞしさに、菅の根を引つゝ登るに、女の心をさそひて、引見
サラニヒク
るをかねたり。本集二【十一丁】に、梓弓引者隨意依目友《アヅサユミヒカバマニ/\ヨラメトモ》云々。十一【四十七丁】に、更雖引君之髓意《サラニヒクトモキミガマニ/\》云々。また【四十八丁】眞葛延小野之淺茅乎自心毛人引目八面吾莫名國《マクズハラヲヌノアサヂヲコヽロユモヒトヒカメヤモワレナケナクニ》云々。十四【六丁】に、波布久受能比可判與利己禰《ハフクズノヒカバヨリコネ》云々。十九【廿九丁】に、麻須良乎能比伎能麻爾麻爾《マスラヲノヒキノマニマニ》云々などあるも、皆これ也。難三等《カタミト》の三《ミ》もじは、さにの意にあらず。難しといはんが如し。さて、みの字には、し、き、くの所に用ふる格なる一種あり。こゝは、しの意也。この事は、上【攷證此卷十四丁】にいへり。
 
標耳曾結焉《シメノミゾユフ》。
標《シメ》ゆふとは、上【攷證二上卅四丁此卷七十九丁】にいへるが如く、領する意也。印本、焉を烏に誤れり。こゝは、たゞ添たる字にて、焉の字なる事、明らかなれば、改めつ。この例は、上【攷證此卷八十七丁】にいへり。さて、この歌は、女を菅根によそへて、女をさそひ心見るとも、たやすくは、うけひくまじきけしきなれば、たゞ人のこすまじきやうに、標のみを結ふぞと也。
                    (以上攷證卷三中册)
 
(77)挽歌。
 
中古よりいふ哀傷の歌なり。この事は、上【攷證二中十三丁】にいへり。
 
上宮聖徳皇子。出2遊竹原井1之時。見2龍田山死人1。悲傷御作歌一首。
 
上宮聖徳皇子。
書紀用明紀云、元年正月壬子朔、立2穴穗部間人皇女1、爲2皇后1。生2四男1。其一曰2廐戸皇子1。【更名、耳聰聖徳、或名2豐聰耳法大王1、或云2法主王1。】是皇子、初居2上宮1、後移2斑鳩1云云。推古紀云、元年四月己卯、立2厩戸豐聰耳皇子1、爲2皇太子1。仍録2攝政1、以2萬機1悉委焉。橘豐日天皇第二子也。母皇后、曰2穴穗部間人皇女1。皇后懷姙、開胎之日、巡2行禁中1、監2察諸司1、至2于馬官1、乃當2廐戸1、而不v勞忽産v之。生而能言、有2聖智1。及v壯一聞2十人訴1、以勿v失能辨。兼知2未然1、且習2内教於高麗僧惠|茲《(マヽ)》、學2外典於博士覺※[加/可]1、兼悉達矣。父天皇愛v之、令v居2宮南上殿1、故稱2其名1、謂2上宮廐戸豐聰耳太子1云々。二十九年二月癸巳半夜、廐戸豐聰耳皇子命薨2于斑鳩宮1。是時、諸王諸臣及天下百姓、悉長老如v失2愛兒1、而鹽酢之味在v口不v甞。少幼者、如v亡2慈父母1、以哭泣之聲滿2於行路1。乃耕夫止v耕、舂女不v杵、皆2曰2日月失v輝、天地既崩、自今以後、誰恃或1。是月葬2上宮太子於磯長陵1。當2是時1、高麗僧惠慈、聞2上宮皇太子薨1、以大悲v之、爲2皇太子1請v僧而設v齊。仍親説v經之日、誓願曰、於2日本國1有2聖人1、曰2上宮豐聰耳皇子1。固天攸v縱、以2玄聖之徳1、生2日本之國1云々。谷川士清云、今按、聖徳之號出2于此1。令集解以(78)爲v謚是也。神皇正統記爲v諱者誤といへる如く、上宮は宮の號、聖徳は御諱なり。猶、この太子の御傳、くはしくは、聖徳法王帝説、延暦僧録、平氏太了傳などにつきてしるべし。
 
竹原井。
續日本紀云、養老元年二月壬午、天皇幸2難波宮1。丙戌、自2難波1、至2和泉宮1。庚寅、車駕還至2竹原井頓宮1云々。天平十六年十月庚子、太上天皇行2幸〓努及竹原井離宮1。寶龜二年二月庚子、車駕幸2交野1。辛丑、進到2難波宮1。戊申、車駕取2龍田道1、還到2竹原井行宮1云々など見えたる、こゝ也。河内志を考ふるに、大縣郡竹原井、在2高井田村1。有2石井在2水涯1云々とありて、名井あるによりて、やがて、其所をも竹原井とはいふ也。
 
龍田山。
大和志云、平群郡龍田山、在2立野村上方1。形勢雄偉、巨川※[しんにょう+堯]v麓流、山麗水潔云々と見え、集中にも多く出て、名高き所なれば、さらにいはず。
 
415 家有者《イヘナラバ》。妹之手將纏《イモガテマカム》。草枕《クサマクラ》。客爾《タビニ》臥有《コヤセル・フシタル》。此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》。
 
妹之手將纏《イモガテマカム》。
將纏は、まくらとせんといふ也。この事は、上【攷證一下五十四丁】にいへり。
 
客爾《タビニ》臥有《コヤセル・フシタル》。
臥有を、舊訓、ふしたるとあれど、こやせると訓べし。その故は、この歌は、書紀推古紀に、二十一年十二月庚午朔、皇太子遊2行於片岡1時、飢者臥2道垂1。仍問2姓名1、而不v言。皇太子視v之。與2飲食1、即脱2衣裳1、覆2飢者1而言、安臥也。則歌v之曰、斯那提流箇多烏箇夜摩爾伊比爾惠弖許夜勢屡諸能多比等阿波禮《シナテルカタヲカヤマニイヒニヱテコヤセルソノタビトアハレ》、於夜那斯爾那禮奈理鷄迷夜《オヤナシニナレナリケメヤ》、佐須陀氣能(79)枳彌波夜那祇《サスタケノキミハヤナキ》、伊比爾鷄弖許夜勢留諸能多比等阿波禮《イヒニヱテコヤセルソノタビトアハレ》云々とある歌の傳への異なるなれば、必らず、こゝも、こやせると訓べき事明らけし。さて、こやせるとは、臥《フス》をいふ古言にて、古事記下卷御歌に、都久由美能許夜流許夜理母阿豆佐由美多弖理多弖理母《ツクユミノコヤルコヤリモアヅサユミタテリタテリモ》云々。本集五【五丁】に、宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》云々。九【卅五丁】に、奧津城爾妹之臥勢流《オクツキニイモガコヤセル》云々など見えたり。
 
此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》。
旅人は、たびとゝ訓べき事、大伴旅人卿を、本集五【十一丁】に、大伴|淡等《タビト》と書るにてしるべし、※[立心偏+可]怜《アハレ》は歎息する詞にて、古事記下卷御歌に、淤母比豆麻阿波禮《オモヒツマアハレ》云云。書紀崇神紀歌に、佐微那辞珥阿波禮《サミナシニアハレ》云々。景行紀歌に、比苔兎麻兎阿波例《ヒトツマツアハレ》云々。武烈紀歌に、柯碍比謎阿婆例《カゲヒメアハレ》云々。本集四【五十五丁】に、吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》云々。七【四丁】に、夜渡月乎※[立心偏+可]怜《ヨワタルツキヲアハレトテ》云々。また【四十一丁】秋山黄葉※[立心偏+可]怜《アキヤマモミヂアハレト》云々など見えたり。さて、※[立心偏+可]怜は、可怜なるべきを、下の字の篇を、上の字へ及ぼしたる也。こは、孫叔敖碑に、泉源を※[さんずい+泉]源に作り、張手子碑に、蕭條を蕭※[草がんむり/條]に作り、益州大守碑に、鬼方凶※[獣偏+僉]を※[獣偏+鬼]※[獣偏+方]※[獣偏+僉]に作れる類にて、集中、感嬬を※[女+感]嬬と書るに同じ。一首の意はくまなし。(頭書、※[糸+包]綿《キヌワタ》五ノ卅八ウ。)
 
大津皇子。被v死之時。磐余池般《イハレノイケノツツミニテ》。流v涕御作歌一首。
 
大津皇子。
この御事は、上【攷證二上廿二丁】に出たり。書紀持統紀に、朱鳥元年十月己巳、皇子大津謀反發覺、逮2捕皇子大津1。庚午、賜2死皇子大津於譯田舍1、時年二十四云々と見えたり。
 
(80)磐余池般《イハレノイケノツヽミ》。
磐余の地の事は、上【攷證三上五十丁】にいへるが如く、大和國十市郡なり。この池の事は、書紀履中紀に、二年十一月、作2磐余池1云々。三年十一月辛未、天皇泛2兩枝船于磐余市磯池1云々とあれば、磐余池、すなはち市磯池なるべし。大和志に、十市郡市磯池在2池内村1、而|石寸《イハレ》掖上山亦隣2于此1と見えたり。般はつゝみと訓べし。目録には、陂《ツツミ》とありて、史記孝武紀集解に、漢書音義を引て、般水涯堆也とある、よく陂《ツヽミ》に當れば、その意もて、陂に般の字は書る也。諸注、目録によりて、般は陂の誤りとするは非なり。さて、持統紀には、譯田舍《ヲサタノイヘ》とある譯田も、大和國城上郡の地名にて、十市郡の隣郡なれば、いづれにまれ、近きあたりなるべし。
 
416 百傳《モヽヅタフ》。磐余池爾《イハレノイケニ》。鳴鴨乎《ナクカモヲ》。今日耳見哉《ケフノミミテヤ》。雲《クモ》隱《ガクリ・ガクレ》去牟《ナム》。
 
百傳《モヽヅタフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。百傳《モヽヅタフ》五十《イ》と、いはれの一言へかけて、つゞけしなり。
 
雲《クモ》隱《ガクリ・ガクレ》去牟《ナム》。
古しへ、死しては天へ行よしいへる一つの傳あれば、死する事を、雲隱ともいふ也。本集此卷【五十丁】に、時爾波不有跡雲隱座《トキニハアラネドクモガクリマス》云々。また【五十五丁】家從者出而雲隱去寸《イヘユイイデヽクモガクリニキ》云々などあるにても思ふべし。また二【卅七丁】に、王者神西座者天雲之五百重之下爾隱賜奴《オホキミハカミニシマセバアマクモノイホヘガシタニカクリタマヒヌ》とあるも同じ。隱をば、かくりと訓べき事、上【攷證二上九丁】にいへる如し。一首の意は、くまなし。さて、懷風藻に、大津皇子臨終一絶、金島臨2西舍1、鼓聲催2短命1、泉路無2賓主1、此夕誰家向とあるは、同じをりの御作なるべし。
 
(81)右藤原宮。朱鳥元年冬十月。
 
このよしは、まへにいへり。
 
河内王。葬2豐前國鏡山1之時。手持女王作歌三首。
 
河内王。
書紀天武紀に、朱鳥元年正月、爲v饗2新羅金智淨1、遣2淨廣肆川内王【以外四人】等、于筑紫1。九月甲子、淨廣肆河内王誄2左右大舍人事1云々。持統紀に、三年閏八月丁丑、以2淨廣肆河内王1、爲2筑紫太宰帥1。八年四月戊午、以2淨大肆1、贈2筑紫太宰※[巒の山が十]河内王1、并賜2賦物1云々など見えたる如く、太宰府にて薨ぜられしかば、近國の豐前國には葬れる也。この王、紹運録を考ふるに、長親王の御子とせり。又、續日本紀、和銅七年正月、天平九年九月、寶龜元年十月紀などに、同名の人、三人見えたれど、皆、別人なり。
 
鏡山。
楢山拾葉に、田河郡とせり。上【攷證三上七十六丁】にも出たり。
 
手持《タモチノ》女王。
考へがたし。河内王の妻なるべしと代匠記にいはれたり。さもあるべし。
 
417 王之《オホギミノ》。親魄相哉《ムツタマアヘヤ》。豐國乃《トヨクニノ》。鏡山乎《カガミノヤマヲ》。宮登定流《ミヤトサダムル》。
 
(82)親魄相哉《ムツタマアヘヤ》。
親《ムツ》は、書紀孝徳紀、白雉元年二月詔に、今我親神祖之所知宍戸國《イマワガムツカムロギノシラスシシドノクニ》云々とある親《ムツ》と同じく、祝詞に皇親神漏岐神漏美乃《スメラガムツカムロギカムロミノ》命など、多くあるも、皆、むつまじき意にて、書紀、神功紀に交親、推古紀に斷金などを、むつまじとよみ、舒明紀に相善をむつぶとよめるなど、皆、意同じ。本集四【卅三丁】に、親吾者不念《ムツマジクワヲバオモハズ》云々とあるもこれ也。また、續日本紀、天平元年八月戊辰詔に、常事爾波不有|武都事止《ムツゴトヽ》思坐故云々。古今集誹諧歌に、むつごともまだつきなくにあけぬめり云々などあるむつごとも、むつまじ言の意也。魄相《タマアフ》とは、本集十二【十七丁】に、靈合者相宿物乎《タマアヘバアヒヌルモノヲ》云々。十三【十六丁】に、玉相者君來益八跡《タマアヘバキミキマスヤト》云々。十四【十丁】に、多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》云々などありて、心の合《アフ》事にて、こゝは、王の御心に、この鏡の山をむつまじくおぼして、御心に合《アヘ》ばやといふ意にて、やはばやの意也。この事は、上【攷證二下八丁】にいへり。
 
豐國乃《トヨクニノ》。
豐前、豐後、おしなべて豐國とはいふ也。この事は、上【攷證三上七十六】にいへり。
 
宮登定流《ミヤトサダムル》。
本集二【卅二丁】明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時の歌に、御食向木※[瓦+缶]之宮乎常宮跡定賜《ミケムカフキノベノミヤヲトコミヤトサダメタマヒテ》云々とあると同じく、うせたまひしかば、今はこの鏡の山を宮所と定め給ふといふにて、實は、御墓也。さて、一首の意は、王の御心に、この鏡の山を、むつまじくおぼして、御心に叶へばや、鏡の山を、永き宮所の、御墓と定むるならんとなり。
 
418 豐國乃《トヨクニノ》。鏡山之《カヾミノヤマノ》。石戸立《イハトタテ》。隱《カクリ・カクレ》爾計良思《ニケラシ》。雖待不來座《マテドキマサズ》。
 
(83)石戸立《イハトタテ》。
御墓を石戸とはいへり。本集二【廿七丁】日竝皇子尊殯宮之時の歌に、天原石門乎開神上上座奴《アマノハライハトヲヒラキカムアガリアガリイマシヌ》云々とある所【攷證二中四十四丁】いもいへるが如く、石戸は堅固なる意をもかねて、御墓は地下にをさむるもの故に、石戸とはいへるにて、戸を立は、戸を閉といふに同じ。
 
隱《カクリ・カクレ》爾計良思《ニケラシ》。
本集二【卅四丁】に、神佐扶跡磐隱座《カムサブトイハガクリマス》云々。十六【十丁】に、小泊瀬山乃石城爾母隱者共爾《ヲハツセヤマノイハキニモコモラバトモニ》云々などあるも同じく、地下にをさむるを隱とはいへり。さて、一首の意は、わが王の、までども來まさぬは、かの山の石戸をたてゝ、隱給ひにけんと也。かくをさなくよめるも、歌のつねなり。
 
419 石戸破《イハトワル》。手力毛《タヂカラ》欲得《モガモ・ガナ》。手弱寸《タヨワキ》。女《ヲミナ・ヲトメ》有者《ニシアレバ》。爲便乃不知苦《スベノシラナク》。
 
手力毛《タヂカラ》欲得《モガモ・ガナ》。
手力は、字の如く、手の力なり。本集十七【廿四丁】に、乎里底加射佐武多治可良毛我母《ヲリテカザヽムタヂカラモガモ》云々とも見えたり。こゝは、かの王の、岩戸を立て、かくり給ひしかば、岩戸をわりて、出しまつらんに、いかで手力もがもと願ふ意也。
 
手弱寸《タヨワキ》。
四言の句也。さて、手弱女を多和也女《タワヤメ》とかく例もていはゞ、たわやきと訓べけれど、かれは一つの物の名、こゝは詞にて、弱はよわしといふが本語なるべければ、たよわきと訓べし。新撰字鏡に、※[肉+柔]於毛與和志と見えたり。
 
(84)爲便乃不知苦《スベノシラナク》。
すべをしらぬといふ意也。この事は、上【攷證二中卅丁三中十二丁】にいへり。一首の意はくまなし。
 
石田《イハタノ》王。卒之時。丹生《ニブノ》女王作歌一首。并短歌。
 
石田《イハタノ》王。
父祖、官位、考へがたし。この王は、藤原宮のころの人なるべし。しかいふよしは、この次の山前王の長歌に、石村之道乎朝不離將歸人乃《イハレノミチヲアササラズユキケムヒトノ》とあるにて、この王の家、磐余《イハレ》のほとりにありて、藤原の京へ、朝毎に出仕せられし事しらる。しかする時は、丹生女王は、勝寶四年まで見えたる人なれば、少し時代たがへるやうなれど、この女王のいとわかゝりし時の事にて、藤原宮のころの事なる事、養老七年に卒せられたる山前王の歌によまれしにてしらる。
 
丹生《ニブノ》女王。
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平十一年正月丙午、授2從四位下丹生女王、從四位上1。天平勝寶二年八月庚申、授2正四位上1と見えたり。さて、印本、女王の二字を脱せり。目録には、王のありて、女の字を脱せり。古く、女王をたゞ王とのみいふ事もあれど、本集四【廿四丁】八【四十八丁】など、皆、丹生女王とあれば、いま女王の二字を補へり。和名抄郡名に、越前國丹生【爾不】と見えたり。
 
420 名湯竹乃《ナユタケノ》。十縁皇子《トヲヨルミコ》。狹丹頬相《サニツラフ》。吾大王者《ワガオホキミハ》。隱久乃《コモリクノ》。始瀬乃山爾《ハツセノヤマニ》。神《カム・カミ》(85)左備爾《サビニ》。伊都伎座等《イツキイマスト》。玉梓乃《タマヅサノ》。人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》。於余頭禮可《オヨヅレカ》。吾聞都流《ワガキヽツル》。枉《タハ・マガ》言加《ゴトカ》。我聞都流母《ワガキヽツルモ》。天地爾《アメツチニ》。悔事乃《クヤシキコトノ》。世間乃《ヨノナカノ》。悔言者《クヤシキコトハ》。天雲乃《アマグモノ》。曾久敝能極《ソクヘノキハミ》。天地乃《アメツチノ》。至流左右二《イタレルマデニ》。杖策毛《ツヱツキモ》。不衝毛去而《ツカズモユキテ》。夕衢占問《ユフケトヒ》。石卜以而《イシウラモチテ》。吾屋戸爾《ワガヤドニ》。御諸乎立而《ミモロヲタテヽ》。枕邊爾《マクラベニ》。齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》。竹玉乎《タカダマヲ》。無間貫垂《マナクヌキタレ》。木綿手次《ユフダスキ》。可此奈爾懸而《カヒナニカケテ》。天《アメ》有《ナル・ニアル》。左佐羅能小《ササラノヲ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。七《ナヽ》相《フ・ニ》菅《スゲ》。手取持而《テニトリモチテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天川原爾《アメノカハラニ》。出立而《イデタチテ》。潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》。高山乃《タカヤマノ》。石穗乃上爾《イハホノウヘニ》。伊《イ》座《マセ・マシ》都流香物《ツルカモ》。
 
名湯竹乃《ナユタケノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下五十七丁】にも出たり。
 
十縁皇子《トヲヨルミコ》。
十縁と書るは借字、このことも上【攷證二下五十七丁】にいへるが如く、とをゝに依《ヨリ》なびく意にて、こゝは、石田王の御身の、若く、なよゝかなりしをいへり。こは、諸王なれ(86)ば、皇子とは書まじき理りなれど、集中、すべて文字の意にかゝわる事すくなく、こゝは、皇子の字にはかゝはらずして、皇子は御子の意もて、みこといへば、その訓を用ひんが爲に、字をば借てかける也。古しへ、古事記、書紀などに、皇子、諸王のわかちなく、王《ミコ》と書き、集中にも、天皇、皇子、諸王をも、おしなべで、大王《オホキミ》とかけるなど、すべて文字になづまざるをしるべし。
 
狹丹頬相《サニツラフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。この枕詞は、いも、をとめ、きみなどもつゞけて、顔のつやゝかに、ほのめきて、うるはしきをいへるにて、西土の書に、紅顔といへる意也。この事、くはしく、予が冠辭考補正にいふべし。
 
吾大王者《ワガオホキミハ》。
こは石田王をさせり。
 
隱久乃《コモリクノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下廿丁】にも出たり。
 
始瀬乃山爾《ハツセノヤマニ》。
大和國城上郡なり。上【攷證一下廿丁】に出たり。
 
神《カム・カミ》)左備爾《サビニ》。
上【攷證一下八丁】にいへるが如く、神《カム》すさびにといふ意也。宣長云、爾は而《テ》か※[氏/一]《テ》の誤り也云々。この説いかゞ。
 
伊都伎《イツキ》座《マセリ・イマス》等《ト》。
諸注、みな、舊訓のまゝにて、何ともいはざるは、いぶかし。いつきいますとは、外より云言にで、かの王の、こゝにいつかれまします事にはあらざれば、(87)こゝに叶ひがたし。されば、いつきませりとゝ訓べし。こは、人ありて、かの王を、泊瀬山に御墓を造りて、齋《イツ》きまさしめたりといふ意なるべし。又、考ふるに、本集十三【三丁】に、三諸之山丹隱藏杉《ミモロノヤマニイハフスギ》【こゝも、四の四十八丁、七の四十丁なるをも、久老は、いつく杉と訓つれど、いかゞ。そのよしは、攷證四の□にいふべし。】と、隱藏の字を、いはふとよみて、いはふと、いつくとは、大かたは同じ言なる事、齋の字を、いはふとも、いつくとも、よめるにて、しらるれば、こゝも伊都伎坐等《イツキイマスト》といひて、隱藏《カクリ》まします意なるか。見ん人、心のひかん方に、したがふべし。
 
玉梓乃《タマヅサノ》。
上【攷證二下四十二丁】にも出て、使《ツカヒ》の枕詞なるが、そを、やがて、使のことゝしたる也。こは、あしびきといひて、山の事とし、ぬばたまといひて、夜の事としたるたぐひなり。
 
人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》。
こは使の人なり。
 
於余頭禮可《オヨヅレカ》。
書紀天智紀に、九年正月戊子、禁2斷|誣妄妖僞觸《タハコトオヨヅレゴト》1云々。天武紀に、四年十一月癸卯、有v人登2宮東岳1、妖言《オヨヅレゴト》而自刎死云々。本集此卷【五十八丁】に、逆言之枉言登加聞《オヨヅレノタハコトトカモ》云云。七【四十一丁】挽歌に、枉語香逆言哉隱口乃泊瀬山爾庵爲《タハコトカオヨヅレコトカコモリクノハツセノヤマニイホリセリトフ》云々。十七【廿一丁】哀傷の歌に、於餘豆禮能多婆許登等可毛《オヨヅレノタハコトトカモ》云々。十九【廿八丁】挽歌に、枉言哉人之云都流逆言乎人之告都流《タハコトカヒトノイヒツルオヨヅレカヒトノツゲツル》云々。續日本紀、寶龜二年二月己酉、左大臣永手薨時詔に、於與豆禮加母多波許止乎加母云《オヨヅレカモタハコトヲカモイフ》云々。天應元年二月丙午、三品能登内親王薨時詔に、於與豆禮加毛年毛高久成多流朕乎置弖罷麻之奴止《オヨヅレカモトシモタカクナリタルワレヲオキテマカリマシヌト》云々などあるを、おしわたし思ふに、人のうせたりといふは、若は何ぞまちがひたる言かとうたがふ意也。反歌に、逆言と書きたるも、さかしま言といふ意にて、書たれば、同じく、およづれと訓べし。つゞけが(88)らも、こゝと同じければなり。
 
枉《タハ・マガ》言加《ゴトカ》。
これを、舊訓、まがごとゝ訓り。御門祭祝詞に、惡事古語云2麻我許登《マガゴト》1とはあれど、まへにおほく引たるに見ゆるが如く、およづれといふにむかへては、必らず、たはごとゝのみいへば、こゝも、たはごとゝ訓べし。たはごとゝは、論語顔淵篇疏に、枉邪也とあれば、よこしま言といふ意なり。さて、宣長の説に、枉は狂の誤りにて、たはごとゝ訓べし云々といはれつれど、是もまへに引たるに見ゆるが如く、集中、皆、枉言とのみあるを、いかで改めんや。また、集中、すべて、字を借て書る事常なれば、もとのまゝにてもたはごとゝ訓んに、何ごとかあらん。又、思ふに、古碑などに、木篇と※[獣偏]篇を通はし書る事多ければ、枉とあるも、狂の字ならんも、しるべからず。
 
我聞都流母《ワガキヽツルモ》。
この母《モ》の字は、添たる字にて、意なし。本集四【五十一丁】に、何如爲常香彼夕相而事之繁裳《ナニストカソノヨヒアヒテコトノシゲキモ》云々。十五【廿三丁】に、奈曾許己波伊能禰良要奴毛《ナゾコヽバイノネラエヌモ》云々。十七【十九丁】に、多禮賀思良牟母《タレカシヲムモ》云々などある類にて、猶いと多し。さて、こゝまでの意は、かの王の、はつせ山に神左備ましまして、人にいつかれましますと人のいひつるは、何ぞのまちがひたる言か、又は人のそらごとする、よこしまごとかと、わが聞つるといふ意なり。
 
天地爾《アメツチノ》。悔事乃《クヤシキコトノ》。
天地の間に、くやしき事のかぎりはといふ意也。くやしといふ言は、本集五【六丁】に、久夜斯可母《クヤシカモ》云々。十一【卅丁】に、吾其悔寸《ワレゾクヤシキ》云々。十二【卅八丁】に、安萬(89)田悔毛《アマタクヤシモ》云々などありて、後悔する意にて、今もいふ所に同じ。
 
世間乃《ヨノナカノ》。悔言者《クヤシキコトハ》。
これも、世の中の間に、くやしき事のかぎりはといふ意にて、言は借字、事なり。さて、この下の潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》といふへかけて聞べし。
 
天雲乃《アマクモノ》。曾久敝能極《ソクヘノキハミ》。
本集四【廿五丁】に、天雲乃遠隔乃極遠鷄跡裳《アマクモノソキヘノキハミトホケドモ》云々。九【卅三丁】に、天雲乃退部乃限此通矣《アマクモノソキヘノカギリコノミチヲ》云々。十七【廿四丁】に、山河乃曾伎敝乎登保美《ヤマカハノソキヘヲトホミ》云々。十九【卅七丁】に、天雲能曾伎敝能伎波美《アマクモノソキヘノキハミ》云々などあるも、きとくは同音の字なれば、同じ。さて、曾伎敝《ソキヘ》とは、底方《ソキヘ》の意にて、何にまれ、物の至りきはまる所を底《ソコ》といふも、そき、そこ、音通なる事、十五【卅四丁】に、安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》云々ともあると、六【廿五丁】に、山乃曾伎野之衣寸見世常《ヤマノソキヌノソキミセト》云々とを照して、そき、そこ、同じ言なるを知るべし。【また、これを轉じて、離れ放る事をも、そきとも、そくともいへり。これも本一つ言なり。この事は、下□にいふべし。しりぞくといふ言も、後退の意なり。】されば、天雲乃底方乃極《アマクモノソキヘノキハミ》といふにて、こゝは、天雲のそこのかぎりといふ意にて、遠きかぎりをいへり。(頭書、枕詞に、わたのそこ、おきとつゞくるも、海の底をいへり。)
 
天地乃《アメツチノ》。至流左右二《イタレルマデニ》。
至流《イタル》といふ言は、古事記上卷に、下照比賣之哭聲、與v凰響到v天云々。本集十【卅一丁】に、呼音之不至者疑《ヨブコヱノイタラザレバカ》云々などありて、行とゞくをいふ言なれば、こゝも、天地の行とゞく所の遠きかぎりまでにといふ意なるを、前の句に、極《キハミ》とあれば、こゝに、かぎりとも、きはみともいはで、まへの言にてもたせたるは、歌なれば、重言を略ける也。左右をまでと訓るは義訓也。この事は、上【攷證一下三丁】にいへり。
 
(90)杖策毛《ツヱツキモ》。不衝毛去而《ツカズモユキテ》。
本集十三【廿七丁】に、杖衝毛不衝毛吾者行目友《ツヱツキモツカズモワレハユカメドモ》云々ともあり。杖は、和名抄行旅具にも載て、遠き所へゆくには、必らずつくものゆゑに、天雲のおく、天地のはてなど、遠き所までも、杖をつきても、又は杖をつかずしても行てといふ意也。さて、策の字は、つくと訓べき義はあらざれど、莊子□篇に、大王杖v策而去之云云。淮南子道應訓に、杖v策而去、民相連而從v之云々と云ことあり。この策は、馬の※[竹/垂]《ムチ》にて、策《ムチ》を杖につきて去といふ意なれど、杖策と云字のある故に、こゝ借《(マヽ)》りて、つゑつくとは、よませたる也。策に、つくといふ意ありと思ふべからず。
 
夕衢占問《ユフケトヒ》。
本集四【五十一丁】に、月夜爾波門爾出立夕占問足卜乎曾爲之行乎欲焉《ツクヨニハカドニイデタチユフケトヒアウラヲゾセシユカマクヲホリ》云々。十一【十三丁】に、事靈八十衢夕占問《コトダマノヤソノチマタニユフケトヒ》云々。また【廿五丁】不相爾夕卜乎問常《アハナクニユフケヲトフト》云々。十四【廿一丁】に、由布氣爾毛許余比登乃良路《ユフケニモコヨヒトノラロ》云々。十七【卅二丁】に、可度爾多知由布氣刀比都追《カドニタチユフケトヒツヽ》云々などありて、集中猶多し。拾遺集戀三に、ゆふけとふうらにもよくあり云々。後拾遺集戀二に、男のこんといひ侍りけるを、まちわづらひて、ゆふけをとはせけるに、よにこじとつげ侍りければ云々なども見え、この占は、顯昭拾遺抄注に、ユフケトハ、ユフベニ辻ニ立、モシハ門ナドニ立テ、人ノ言事ヲ聞ヲ、トフウヲ也。萬葉ニハ、夕占ト書タリ。又、ユフぺ、ヤソノチマタニ、ユフケトフトモヨメリ。ミチウラ、ツジウラト云、同事也。二人ノ言ヲ聞ヲ、ウラスル也トモカキタルモノモアリ云々。袋草子ニ、問2夕食1歌、フナドナヘ、ユフケノカミニ、モノトハヾ、ミチユクヒトヨ、ウラマサニセヨ云々。拾芥抄に、兒女子云、持2黄楊櫛1女三人、向2三辻1問v之、又午歳女、午日問v之。今案、(91)三度誦2此歌1、作v堺散v米、鳴2櫛齒1三度、後、境來人答、爲2内入1、言語聞推2吉凶1云々などあるが如く、中ごろまでは、この術のありし也。これらを合せ見て、この術のさまをしるべし。さて、こゝに衢占と書るは、この術、ちまたに立てする事故に、衢の字を添ては書る也。
 
石卜以而《イシウラモチテ》。
この術、今は傳はらざれど、書紀、景行天皇二十七年紀に、石占横立といふ人名見え、姓氏録卷二十六に、石占忌寸といふ氏見え、續日本紀、天平十二年十一月乙巳紀に、伊勢國桑名郡石占頓宮とあるは、地名ながら、石うらてふ事の、古くよりありし據とすべし。夫木抄卷三十六に、從二位行家卿、ゆふけとふ石うらもちてあふことのかたき戀とは思ひしりにきとよまれしは、全くこの歌によりて詠れしと見ゆれば、證とはなしがたし。さて、久安六年御百首に、中納言公徳卿、石神のうらにをとはん、このくれに山ほとゝぎすきやくきかずやとあるにて思へば、石と石神、同事なるべし。されば、石神といふは、金葉集戀下に、あふことをとふ石神のつれなさに、わがこゝろのみうごきぬるかな。丹後守爲忠百首に、あふことは、とふ石神のゆるがねば、見がたき戀とそらにしらるゝなどありて、塵添※[土+蓋]嚢抄卷四に、サイノ神トテ、小社ニ丸キ石ヲ置ハ、石神歟。道祖神也。此神ニ祈テ事ノ實否ヲ問時、石ニツケテ輕重ヲ定ルガ、路行人ヲ護ル神也。石ハ路頭ニ便宜ノ物ナレバ、仕始ムルナルベシ云々などあるを合せ考ふるに、こは石の輕重によりて、物の吉凶を定むる術なるべし。書紀、景行天皇十二年十月紀に、天皇初將v討v賊、次2于柏峽大野1、其野有v石、長六尺、廣三尺、厚一尺五寸。天皇祈v之曰、朕得v滅2土蜘蛛1者、將蹶2茲石1、如2柏葉1而擧焉。因蹶v之則如v柏、上2於大虚1。故號2其石1曰2蹈石1也云々と(92)あるも、石にてうらなひ給ひし也。又、日吉社神道秘密記に、尊神比叡辻ヘ着給テ、石占井ヘ登リ給フ。於2此處1女人爲2占手1。尊神對2女人1問曰、求2我鎭座之勝地1、有2何方1否。女人占曰、從v此當2山下1、有2勝地1、可2尋往給1云々。以2此處井水1、洗2尊神之御足1給、號2石占井1云々。これも、石占の事によしありて聞ゆ。さて、村田春郷の説に、この下に二句ばかりありしが落たるならんといへり。これも、さることなれど、こゝは夕占を問《トヒ》、石卜を以て、御諸を立べき所を、問定めて、さて、御諸を吾宿に立而と聞ても聞ゆるをや。
 
御諸乎立而《ミモロヲタテヽ》。
御諸《ミモロ》と御室《ミムロ》と音通にて、御室とは、神社をいふ。古事記下卷御歌に、美母呂能伊豆加斯加母登《ミモロノイツカシガモト》云々とあるは、三諸山の事なれど、かの山をしかいふも、三輪の神社あるよりいへるなれば、みもろといふは、もとは神社をいふ言にて、本集十九【卅五丁】に、春日野爾伊都久三諸乃梅花《カスガヌニイツクミモロノウメノハナ》云々とあるも、神社をみもろとはいへり。されば、みもろとは、神社のことなれど、こゝに吾屋戸爾御諸乎立而《ワガヤドニミモロヲタテヽ》とあるは、俄に宿に神社を立べき理りなきをもて思へば、ろもろといふは、神社をもとにて、それよりうつりて、神のよりたまはん料に、榊《サカキ》を立るをも、神のおはします所てふ意もて、みもろとはいへりと思はるゝは、まへの【此卷卅七丁】大伴坂上郎女祭神歌に、賢木之枝爾白香付木綿取付而齋戸乎忌穿居竹玉繁爾貰垂《サカキノエダシラガツクユフトリツケテイハヒベヲイハヒホリスヱタカタマヲシヾニヌキタレ》云々とあると、こゝのつゞけがらと、大かたは似たるをもてしるべし。
 
枕邊爾《マクラベニ》。
古事記上卷に、乃匍2匐|御枕方《ミマクラベ》1、匍2匐|御足方《ミアトベ》1而哭云々。書紀、神代紀上訓注に、頭邊此云2摩苦羅陛《マクラベ》1とあり。枕の方をいふなり。本集五【卅丁】に、父母波枕乃可多爾妻子(93)等母波足乃方爾《チヽハヽハマクラノカタニメコドモハアトノカタニ》云云とも見えたり。
 
齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》。
上【攷證三中五十八丁】に、くはしくいへり。
 
竹玉乎《タカダマヲ》。
これも上【攷證三中五十九丁】にくはしくいへり。
 
無間貫垂《マナクヌキタレ》。
まへには、繋爾貫垂《シヾニヌキタレ》とあり。されば、こゝをも、しゞにぬきたれと訓んかとも思へど、集中、無間《マナク》といふ言も多かれば、舊訓のまゝにてあるべし。いづれにても意はおなじ。
 
木綿手次《ユフダスキ》。
書紀、允恭天皇四年紀に、於v是諸人著2木綿手繦《ユフダスキ》、而赴v釜探湯。【手繦を、たすきと訓るは、神代紀上訓注に、手繦此云多須枳とありて、新撰字鏡に、繦負兒帶也、須支とあれば、繦をすきの假字に用ひられたるなり。】に、木綿手次肩荷取懸忌戸乍齋穿居《ユフダスキカタニトリカケイハヒベヲイハヒホリスヱ》云々。十九【卅四丁】に、木綿手次肩爾取掛倭文幣乎手爾取持而《ユフダスキカタニトリカケシツヌサヲテニトリモチテ》云々などありて、木綿の布もて作りたる、たすきなり。五【卅九丁】に、志賂多倍乃多須吉乎可氣《シロタヘノタスキヲカケ》云々とも見えたり。
 
可此奈爾懸而《カヒナニカケテ》。
可此奈《カヒナ》は、新撰字鏡に、〓古弘反、臂也、肩、加比奈云々とと見えて、古事記中卷御歌に、多和夜賀比那遠麻迦牟登波阿禮波須禮杼《タワヤカヒナヲマカムトアレハスレド》云々などもあり。手次は、今も肩より肱《ヒヂ》にかけてかくるものゆゑに、かひなにかけてともいへる也。但し、字鏡に、〓肩也とある注は、こゝろえず。
 
(94)天有《アメナル・アメニアル》。左佐羅能小《ササラノヲ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。
天有《アメナル》は、四言|訓《(マヽ)》べし。左佐羅能小野《サヽラノヲヌ》は、本集【卅一丁】に、天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤサヽラノヲヌニチガヤカリ》云々ともありて、天上にかくいふ野のありといふ傳へのありしなるべし。天上に山も川もあなる事は、神代紀によりてしるべし。こは、下の天川原と對になしたる也。
 
七《ナヽ》相《フ・ニ》菅《スゲ》。
相を、代匠記には、相《アヒ》の略として、ひとよみ、考には、まと訓れしかど、こは略訓の例にて、ふの假字に用ひしなれば、なゝふすげと訓べし。本集一【一八丁】に、花散相《ハナチラフ》云々。二【廿丁】に、渡相月乃《ワタラフツキノ》云々など、正しく、ふの假字に用ひしを思ふべし。この七相菅は、久老が考云、按に、卷十四【廿八丁】に、麻乎其母能布能未知可久※[氏/一]《マヲゴモノフノミチカクテ》。武烈紀の御歌に、於彌能姑能耶賦能之魔柯枳《オミノコノヤフノシマガキ》。古歌に、みちのくのとふのすがごもなゝふにはなどいへるは、節の意なれば、なゝふすげと訓べし。七節《ナヽフ》としもいふは、そのたけの長ければ也云々。この説に從ふべし。
 
手取持而《テニトリモチテ》。
こは、七相菅《ナヽフスゲ》を手に取もつにて、下の潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》といふへかゝる詞なり。さて、みそぎは、則ち祓《ハラヘ》にて、本集六【十九丁】に、其佐保川丹石二生菅根取而之努布草解除而益乎《ソノサホカハニイハニオフルスガノネトリテシヌフクサハラヘテマシヲ》云々。大祓祝詞に、天津菅曾乎本苅斷末苅切※[氏/一]《アマツスガソヲモトカリタチスヱカリキリテ》云々。堀川百首に、八百萬神もなごしになびくらん、けふすがぬきのみそぎしつれば、などあるにて、菅も祓の具なるをしるべし。
 
天川原爾《アマノカハラニ》。
これも天上にある川也。古事記、書紀などに、天安河とある、これなるべし。集中いと多く、あぐるにいとまなし。
 
潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》。
潔身《ミソギ》は、身の穢、あるは身の罪とが、あるは身のさゝはりなど、身を滌淨《ソヽギ》まはる意にで、上古より、いまにいふ所と同じ。麻之乎《マシヲ》は、ましものをと(95)いふ意にて、こゝまでの意は、王を惜み、戀ひ思ふあまりに、難き事どもをいひならべて、天雲の奧、天地のはてまでも、杖をつき、つかずても、行て尋ね奉り、又は夕占、石卜など問て、吾宿に御諸を立奉るべき所を定めて、いろ/\のわざをなし、又とり得る事かたき、天上なるさゝらの小野の菅を取て、祓へつ物とし、至りがたき天の川原に至りてだにも、身そぎして、王の御身のさゝはりをはらへすてゝ、うせたまふばかりの禍なからしめんものを、天地世の中の間に、くやしき事はこれなり、といふ意にて、上の天地爾悔事乃世間乃悔言者《アメツチニクヤシキコトノヨノナカノクヤシキコトハ》といふを、この下にめぐらしてきくべし。
 
高山乃《タカヤマノ》。
本集二【八丁】に、高山之磐根四卷手死奈麻死物乎《タカヤマノイハネシマキテシナマシモノヲ》とある所【攷證二上三丁】にいへるが如く、高山は葬所をいふ也。
 
伊《イ》座《マセ・マシ》都流香物《ツルカモ》。
こは、墓所を定めましまさしむるをいへり。宣長の説に、座は、ませと訓べし。令座の意也。ましと訓ては、みづからゆきたまひし意になるを、ここは、みづから行給ひし意にてはわろし。いははの上に、令座奉りし意也。
 
反歌。
 
421 逆言《オヨヅレ・サカゴト》之《ノ》。枉《タハ・マガ》言等可聞《ゴトヽカモ》。高山之《タカヤマノ》。石穗乃上爾《イハホノウヘニ》。君之《キミガ》臥有《コヤセル・フシタル》。
 
(96)逆言《オヨヅレ・サカゴト》之《ノ》。枉《タハ・マガ》言等可聞《コトヽカモ》。
これも、長歌とつゞけがらの同じければ、およづれのたはごとゝかもと訓べし。そのよしは、長歌にいへり。言等《コトヽ》の等《ト》は助字にて、意なし。この事は、上【攷證3上四丁】にいへり。
 
君之《キミガ》臥有《コヤセル・フシタル》。
臥有は、こやせると訓べし。そのよしは、まへにいへるが如く、伏たるの古言なり。一首の意は、くまなし。
 
422 石上《イソノカミ》。振乃山有《フルノヤマナル》。杉村乃《スギムラノ》。思遇倍吉《オモヒスグベキ》。君《キミ》爾有《ナラ・ニアラ》名國《ナクニ》。
 
石上。
和名抄郷名に、大和國山邊郡石上【伊曾乃加美】とありて、これも地名、布留《フル》も地名なるを、石上の郷のうちの、振の山といふ意につゞけたる也。こゝは、さゞ浪のしがとつゞくる類にて、枕詞にあらず。
 
振乃山有《フルノヤマナル》。
石上郷のうち也。延喜神名式に、大和國山邊郡石上坐布留御魂神社云々。姓氏録卷七、布留宿禰條下に、依2社地名1改2布瑠宿禰姓1云々など見えたり。さて、この石田王の墓は、城上郡泊瀬山にて、家は十市郡|磐余《イハレ》のほとり【この事は次の山前王の長歌にて知られたり。】とおぼしきを、かけはなれたる地名、石上布留をこゝによまれしは、丹年女王のよしある所か、又は、かくかけはなれたる地名をよめる事、集中に例もあれば、ゆくりなく、よまれしにもあるべし。
 
(97)杉村乃《スギムラノ》。
村は群《ムラ》にて、杉群《スギムラ》なり。さて、こゝまでは、思過倍吉《オモヒスグベキ》といはん料にて、序なり。
 
思過倍吉《オモヒスグベキ》。
この事は、上【攷證三中十五丁】にいへるが如く、思ひを過しやるべき君ならなくに、思ひをすぐしやるべき君にはあらず。とことはに、戀ひしたはるとなり。一首の意くまなし。
 
同石田王卒之時。山前王。哀傷作歌一首。
 
山前王は、天武天皇の皇子忍壁親王の御子也。續日本紀に、慶雲二年十二月癸酉、旡位山前王授2從四位下1。養老七年十二月辛亥、散位從四位下山前王卒と見え、天平寶字五年三月己酉、芽原王坐以v刀殺v人。賜2姓龍田眞人1、流2多〓島1。芽原王者、三品忍壁親王之孫、從四位下山前王之男云々と見えたり。懷風藻に、從四位下刑部卿山前王一首ともあり。さて、前はくまと訓べし。本集十三【七丁】に、道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマゴトニ》云々。和名抄郷名に、大和國高市郡檜前【比乃久末】。但馬氣多郡樂前【佐々乃久萬】などあればなり。
 
423 角《ツヌ・ツノ》障經《サハフ》。石《イハ》村《レ・ムラ》之道乎《ノミチヲ》。朝《アサ》不離《サラズ・カレズ》。將歸《ユキケム・ヨリケム》人乃《ヒトノ》。念乍《オモヒツヽ》。通計萬四波《カヨヒケマシハ》。霍公鳥《ホトヽギス》。鳴五月者《ナクサツキニハ》。菖蒲《アヤメグサ》。花橘乎《ハナタチバナヲ》。玉爾貫《タマニヌキ》【一云。貫交《ヌキマジヘ》。】 ※[草冠/縵]爾將爲登《カツラニセムト》。九月能《ナガツキノ》。四具禮能時者《シグレノトキハ》。黄葉乎《モミヂバヲ》。折《ヲリ》插頭《カザサム・テカザス》跡《ト》。延葛乃《ハフクズノ》。彌遠永《イヤトホナガク》【一云。田葛根乃《クズノネノ》。彌遠長爾《イヤトホナガニ》。】 萬世爾《ヨロヅヨニ》。不絶(98)等念而《タエジトオモヒテ》【一云。大船之《オホフネノ》。念憑而《オモヒタノミテ》。】。將通《カヨヒケム》。君乎婆明日從《キミヲバアスユ》【一云。君乎從明日者《キミヲアスユハ》。】外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》。
 
角《ツヌ・ツノ》障經《サハフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中七丁】にも出たり。
 
石村之道乎《イハレノミチヲ》。
石村《イハレ》は、大和國十市郡にで、磐余《イハレ》なり。石村を、いはれと訓事も、この地の事も、上【攷證三上五十丁】にいへり。
 
朝《アサ》不離《サラズ・カレズ》。
朝毎にといふ意也。この事、上【攷證三中五十丁】にいへり。
 
將歸人乃《ユキケムヒトノ》。
ゆきけんは、藤原京へゆきけんにて、この石田王の家、磐余のほとりにありて、それより毎朝、藤原の朝廷へ、磐余の道を過て、出仕せられしなるべし。又は、或本、反歌に、泊瀬越女《ハツセヲトメ》とあれば、泊瀬のほとりに、この王の思ひ人などありて、そこへかよはれたる歟。
 
念乍《オモヒツヽ》。
こは、次々にいへる、五月になれば、菖蒲、橘などを※[草冠/縵]《カツラ》にせんと思ひ、九月になれば、黄葉を折てかざさんと思ひつゝといへる詞にて、この句をば、二つのともじの下へ付て心得べし。
 
通計萬四波《カヨヒケマシハ》。
ましは、すべて、むかしの約りたるなれば、こゝは、かよひけんかしはといふ意也。久老は、活本によりて、四を口に改めて、通計萬口波《カヨヒケマクハ》とよめり。こ(99)れもあしからず。まくといふ語は、むを延たるにて、かよひけんはといふ意になれば、いづれにても意は同じ。本集十八【廿六丁】に、可多里家末久波《カタリケマクハ》云々とあるも、かたりけんはの意なり。
 
霍公鳥《ホトヽギス》。
ほとゝぎすとよめる事、上【攷證二上廿九丁】にいへり。
 
鳴五月者《ナクサツキニハ》。
本集十八【廿八丁】に、保等藝須奈久五月爾波《ホトトギスナクサツキニハ》云々とあり。また十【廿三丁】に、霍公鳥來鳴五月之《ホトトギスキナクサツキノ》云々。十七【卅八丁】に、保等登藝須奈可牟佐郡奇波《ホトトギスナカムサツキハ》云々なども見ゆ。
 
菖蒲《アヤメグサ》。
和名抄草類に、養性要集云、菖蒲【上尺良反。下補胡反。】一名、臭蒲【和名、阿夜女久左。】と見えたり。あやめのかつらの事は、次にいふべし。
 
花橘乎《ハナタチバナヲ》。玉爾貫《タマニヌキ》。
玉爾《タマニ》の爾もじは、の如くにといふ意にて、本集一【廿九丁】に、栲乃穗爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》云々とある爾もじと同じく、菖蒲、又橘の花をも、實をも、玉の如く緒に貫て、かつらとなせる也。そは本集七【卅三丁】に、紫絲乎曾吾搓足檜之山橘乎將貫跡念而《ムラサキノイトヲゾワガヨルアシビキノヤマタチバナヲヌカントオモヒテ》云々。八【廿五丁】に、吾屋前之花橘乃何時毛珠貫倍久其實成奈武《ワガニハノハナタチバナノイツシカモタマニヌクベクソノミナリナム》。また【廿七丁】蒲草玉爾貫日乎《アヤメクサタマニヌクヒヲ》云々。十【廿一丁】に、香細寸花橘乎玉貫《カグハシキハナタチバナヲタマニヌキ》云々。十七【十一丁】に、多知花乃多麻奴久月之《タチバナノタマヌクツキシ》云々。また【卅三九丁】保登等藝須奈可牟佐都奇波多麻乎奴香佐禰《ホトギスナカムサツキハタマヲヌカサネ》云々。また【卅九丁】和我夜度能花橘乎波奈其米爾多麻爾曾安我奴久《ワカヤトノハナタチバナヲハナゴメニタマニゾアガヌク》云々。十八【六丁】に安夜賣具佐加豆良爾勢武日《アヤメクサカツラニセムヒ》云々。また【廿四丁】保登等藝須伎奈久五月能安夜女具佐波奈多知波奈爾奴吉麻自倍可頭良爾世餘等《ホトトギスキナサツキノアヤメクサハナタチバナニヌキマジヘカツラニセヨト》云々。また【卅三】保止々支須支奈久五月能安夜女具佐余母疑可豆良伎《ホトトギスキナクサツキノアヤメクサヨモギカツラキ》云々。十九【十五丁】に、菖蒲花橘乎※[女+感]嬬良我珠貫麻泥爾《アヤメグサハナタチバナヲヲトメラガタマヌクマデニ》云々などあるにて、そのさまは、大かたにしるゝめり。菖蒲と橘を貫まじへて縵とせる也。是を菖蒲縵《アヤメノカツラ》といふ。續日本紀に、天平十九年五月庚辰、(100)太上天皇詔曰、昔者五日之節、常用2菖蒲1爲v縵。比來已停2此事1。從v今而後、非2菖蒲縵1者、勿v入2宮中1云々。三代實録に、貞觀七年五月五日、別勅賜2大使已下録事已上續命縷、品官已下菖蒲縵1云々。大神宮儀式帳、五月例に、五日節菖蒲蓬等供奉。【中略】菖蒲縵藥酒直會被v給畢云々。延喜太政官式に、凡五月五日、【中略】内外群官皆着2菖蒲鬘1、諸司各供2其職1云々。西宮記、五月五日行事に、着2菖蒲縵1、如2日景縵1云々などありて、縵《カヅラ》とあるからは、頭の飾にかくるもの也。さて、代匠記にも、久老が考にも、是を藥玉なりといはれたれど、非也。藥玉は、貞觀儀式五月五日節儀に、續命縷【此間謂藥玉】とありて、續命縷と藥玉は一つものなれど、菖蒲縵とはさらに別物なる事は、まへに引たる三代實録に、二樣にあげたるにてもしるべし。いづれも、五月五日用るもの故に、かくもまがふべけれど、そのわかちは、まへに引る書どもにてもしらるべし。かの續命縷の事は、下□にいふべし。
 
一云。貫交《ヌキマジヘ》。
これ、まへに引る本集十八【廿四丁】なると、同じつゞけなり。この方、まされるこゝちす。
 
※[草冠/縵]爾將爲登《カツラニセムト》。
是、菖蒲、橘を、玉の如くに緒に貫て、かつらにせんといふ意にて、こは菖蒲縵《アヤメノカツラ》なる事は、上にいへるが如し。さて、※[草冠/縵]の字、西土の書に見えず。考ふるに、菖蒲鬘《アヤメノカツラ》、花鬘《ハナカツラ》などいふは、頭の飾りにて、頭にかくるものなれど、これをかつらといふも、かの蔓草の蔓《ツル》の如く、垂下りたるもの故に、その形につきて、名付たるにて、本は葛《カツラ》の意なれば、其意をもて、鬘は玉にまれ、草にまれ、糸にて貫て垂るもの故に、蔓に糸を添たる二合の字にて、中國の製字なるべし。
 
(101)四具禮能時者《シグレノトキハ》。
しぐれは、中古よりは、專ら初冬にふる雨をいへど、集中には、八九月のころより十月ごろまでにいへり。そは、本集六【四十四丁】に、左壯鹿乃妻呼秋者天霧合之具麗乎疾《サヲシカノツマヨブアキハアマキラフシグレヲイタミ》云々。十【四十一丁】に、長月乃鐘禮乃雨丹《ナガツキノシグレノアメニ》云々。また【三十三丁】秋芽子鐘禮零丹《アキハギノシグレノフルニ》云々。十二【四十一丁】に、十月鐘禮乃雨丹《カミナヅキシグレノアメニ》云々などあるにてしるべし。猶、上【攷證一下七十六丁】にもいへり。
 
折《ヲリ》插頭《カザヽム・テカザス》跡《ト》。
挿頭《カザシ》とは、頭にさゝげ持をいふ也。この事は、上【攷證一下十丁】にいへり。上の念乍《オモヒツヽ》といふを、この下へうつし心得べし。さて、こゝは、※[草冠/縵]《カツラ》と挿頭《カザシ》とを向へて、對になせり。本集八【十六丁】に、※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾遊士之※[草冠/縵]之多米等《ヲトメラガカザシノタメニミヤビヲノカツラノタメト》云々とも見えたり。
 
延葛乃《ハフクズノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。葛は、延《ハヒ》ひろごるもの故に、それが如く、彌遠永《イヤトホナガ》くとつゞけし也。
 
彌遠永《イヤトホナガ》。
この言は、上【攷證二下十一丁】にも出て、彌遠く永く、萬代ふとも、たえず、藤原の大宮に通ひて、仕へ奉らんと思ひけんとなり。
 
一云。田葛根乃《クズノネノ》。彌遠長爾《イヤトホナガニ》
本集七【卅三丁】に、眞田葛原《マクズハラ》云々。十【廿三丁】に、眞田葛延《マクズハフ》云々。また【五十七丁】田葛原《クズハラ》云々。この外にも、たゞ、くずとのみいふ所に、田葛と田の字を添てかける事、集中いと多し。田字をば、いかにしてそへたるにか、心得がたし。古しへ、田の字は、水ある田のみにあらで、書紀神代紀下に、粟田《アハフ》、豆田《マメフ》云々和名抄田園類に、日本紀私記云、粟田【阿波不】豆田【末米布】云々など、生《フ》の意に田の字をかくを思へば、こゝも、ただ葛の生たる意にて、田の字をば添て書るか。また廣雅釋詁二に、田陳也とあれば、葛は蔓生して(102)延陳《ハヒツラナル》もの故に、其意をもて、田の字をば添て書るか。猶よく考ふべし。
 
萬世爾《ヨロヅヨニ》。不絶等念而《タエジトオモヒテ》。
このかよふ事は、萬代ふとも、たえじと思ひて、ゆきかよひけんとなり。
 
一云。大船之《オホフネノ》。念憑而《オモヒタノミテ》。
このつゞけ、上【攷證二中四十五丁】にも出て、之《ノ》は如くの意にて、大船は、ゆたかに、たのもしきものなれば、それが如くに、思ひたのみてと、つゞけし也。
 
君乎婆明日從《キミヲバアスユ》。
君とさせるは、石田王。從《ユ》は、よりの意也。
 
一云。君乎從明日者《キミヲアスユハ》。
者を、印本、香に誤れり。考異本に引る紀本によりて改む。君を、明日よりはといふ意也。
 
外爾可聞見牟《ヨソニカモミム》。
萬代ふともたえじとおぼして、磐余の道を、朝ごとに通ひ給ひし君なれど、今かく卒し給ひしかば、明日よりは、たゞ外にのみ見てかあらんとなり。
 
右一首。或云。柿本朝臣人麻呂作。
 
かくいふ古き傳へのありけるなるべし。されど、考云、こは人まろの歌しらぬものゝ注也。人まろの歌に似るべきものにあらず云々といはれつるが如し。
 
(103)或本。反歌二首。
 
424 隱口乃《コモリクノ》。泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》。手二纏在《テニマケル》。玉者亂而《タマハミダレテ》。有《アリト》不言《イハズ・イハジ》八方《ヤモ》。
 
泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》。
泊瀬は、大和國城上郡の地名にて、かく地名の下に、直につゞけて、何をとめ、何をとこなどいふは、皆、間に、のもじある意也。古事記中卷御歌に、美知能斯理古波陀袁戸賣波《ミチノシリコハダヲトメハ》云々。下卷御歌に、由々斯伎加母加志波良袁登倍《ユゝシキカモカシハラヲトメ》云々。書紀仁徳紀御歌に、兎藝泥赴揶摩之呂謎能《ツギネフヤマシロメノ》云々。允恭紀御歌に、阿摩〓霧箇留〓等賣《アマダムカルヲトメ》云々。本集四【廿九丁】に、網引爲難波壯夫乃《アビキスルナニハヲトコノ》云々。六【十一丁】に、泊瀬女造木綿花《ハツセメノツクルユフバナ》云々。十四【十五丁】に、美知能久乃可刀利乎登女乃《ミチノクノカトリヲトメノ》云々。また【十九丁】夜麻登女乃比射麻久其登爾《ヤマトメノヒザマクゴトニ》云々などあるも同じ。さて、越女を、をとめと訓るは、十三【廿四丁】に、爾太遙越賣《ニホヘルヲトメ》云々ともありて、越は呉音をつなるを、つととと音通へば、をつを、をとの假字に用ひしなり。こゝに、ことさらに、はつせをとめといへるは、石田王の思ひ人などの、このはつせにありけるにもあるべし。
 
手二纏在《テニマケル》。
古への風俗、貴賤男女ともに、手足に玉を卷し也。この事は、本集二【廿三丁】に、玉有者手爾卷持而《タマナラバテニマキモチテ》云々とある所【攷證二中二十二丁】に、くはしくいへり。
 
有不言八方《アリトイハズヤモ》。
この八方《ヤモ》は、うらへ意のかへるてにをはにて、本集二【四十二丁】に、且今日且今日吾待君者石水貝爾交而有登不言八方《ケフケフトワガマツキミハイシカハノカヒニマジリテアリトイハズヤモ》とあると同じく、一首の意は、泊瀬の里な(104)るをとめが、手に卷たる玉は、玉の緒たえて、亂れながらもありといはずや。ありといふに、いかで、わが王は、この世におはさぬといへる也。
 
425 河風《カハカゼノ》。寒長谷乎《サムキハツセヲ》。歎乍《ナゲキツヽ》。公之阿流久爾《キミガアルクニ》。似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》。
 
寒長谷乎《サムキハツセヲ》。
長谷は、泊瀬《ハツセ》といふと同じ。和名抄郷名に、大和國城上郡長谷【波都勢】と見えたり。こゝに、河風のさむきとあるからは、はつせ川のほとりなるべし。
 
公之阿流久爾《キミガアルクニ》。
本集五【九丁】に、阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》云々。十四【六丁】に、安之我良乎夫禰安流吉於保美《アシガラヲフネアルキオホミ》云々。十六【廿四丁】に、雖行徃安久毛不有《アルケトモヤスクモアラズ》云々。十八【卅五丁】に、佐刀其等邇天良佐比安流氣騰《サトゴトニテラサヒアルケド》云々などありて、今の世の言にもいふ如く、歩行する也。靈異記訓釋に、行【安留支】。新撰字鏡に、※[足+奚]【徑也。徂行也。往來也。阿留久。】なども見えたり。これを、中ごろよりは、ありくとのみいへど、古くは、あるくとのみいへる也。
 
似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》。
やは、うらへ意のかへるやにて、一首の意は、公《キミ》とさせるは、まへにもいへる石田王の思ひ人なるべく、それがなげきつゝ、長谷のほとりを、あるくにも、かの王に似たる人もあへやは、あふ事はあらじと也。本集二【廿八丁】に、玉桙道行人毛獨谷似之不去者《タマボコノミチユクヒトモヒトリダニニテシユカネバ》云々とあるに似たり。
 
右二首者。或云。紀皇女薨後。山前王。代2石田王1作v之也。
 
(105)紀皇女。
天武天皇の皇女なり。上【攷證二上卅八丁】に出たり。
 
山前王。
印本、王の字を脱せり。上文と考異本に引る異本によりて補ふ。さて、左注による時は、前の二首の意、いたく異なれど、かくいへる傳へもありけるなるべし。されど、この鈿へは非なるべし。
 
柿本朝臣人麻呂。見2香具山(ノ)屍《カバネ》1。悲慟《カナシミテ》作歌一首。
 
屍《カバネ》。
續日本紀、神護景雲三年五月丙申詔に、根可婆禰《ネカバネ》云々とあるは、姓尸《ウヂカバネ》のかばねなれど、尸をかばねといふ、屍《カバネ》より出たる名なる事、姓氏録序に、人民|氏骨《ウヂカバネ》云々とあるにてしらる。されば、正しく假字に書るなれば、かの詔を證とすべし。さて、こゝは、死屍をいふ也。本集十八【廿一丁】に、海行者美都久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、山行者草牟須屍《ヤマユカバクサムスカバネ》云々など見えたり。
 
悲慟《カナシミテ》。
この二字、かなしみてと訓べし。
 
426 草枕《クサマクラ》。※[覊の馬が奇]宿爾《タビノヤドリニ》。誰嬬可《タガツマカ》。國忘有《クニワスレタル》。家待莫國《イヘニマタナクニ》。
 
誰嬬可《タガツマカ》。
嬬と書たれど、夫《ツマ》の意にて、男なるべし。集中、すべて、文字にかゝはる事なく、嬬と書たるに、男なるも多し。そのよしは、上【攷證二中廿五丁】にあげたる考の説に見えたり。
 
(106)國忘有《クニワスレタル》。
故郷をさして國といへり。本集十五【卅三丁】に、久爾和可禮之弖《クニワカレシテ》云々。十【卅三七丁】に、吾屋戸爾鳴之雁哭雲上爾今夜喧成國方可聞《ワガヤドニナキシカリガネクモノウヘニコヨヒナクナリクニツカタカモ》云々。十九【九丁】に、雁之鳴者本郷思都追書隱喧《カリガネハクニオモヒツヽクモガクリナク》云々。十七【卅三八丁】に、和我勢古哉久爾弊麻之奈婆《ワガセコガクニヘマシナバ》云々などあるも、みな故郷を國とはいへり。今も田舍人はしかなり。
 
家待莫國《イヘニマタナクニ》。
宣長云、師の説に、莫は眞の誤りとして、家またまくになりといはれき。十一卷【廿丁】に將戀年月久家莫國《コヒムトシツキヒサシケナクニ》。この莫も、一本に眞とあれば、師説、論なく、よろしきが如くなれども、十四卷【十丁】に、乎都久婆乃之氣吉許能麻欲多都登利能《ヲツクバノシゲキコノマヨタツトリノ》、目由可汝乎見牟《メユカナヲミム》、左禰射良奈久爾《サネザラナクニ》。これも、さねざるにの意也。十五卷【三十三丁】に、於毛波受母麻許等安里衣牟也《オモハズモマコトアリエムヤ》、左奴流欲能伊米爾毛伊母我美延射良奈久爾《サヌルヨノイメニモイモガミエザラナクニ》。これも、見えざるに也。十七卷【廿二丁】に、庭爾敷流雪波知敝之久思加乃未爾於母比底伎美乎安我麻多奈久爾《ニハニフルユキハチヘシクシカノミニオモヒテキミヲアガマタナクニ》。これもわがまつに也。(頭書、このなくには、んにの意也。んの意のぬ、攷證三中二十三丁ウラ。)この外もあれど、右なるは、ことに論なき例なり。又がてといふも、がてぬといふも、同じ意におつるをも思ふべし。いねがてといふも、いねがてぬといふも、同じきが如し。然れば、またなくにといひて、またんにといふ意になるべき也。中昔の物語などにも、この格あり。おぼろげならぬといふべきを、おぼろげとのみいへるが如し。後世の語にも例あり。けしかるといふべきを、けしからぬといひ、はしたといふべきを、はしたなしといふが如し云々。この説に從ふべし。さて、考異本に引る異本に、莫を眞に作りたれど、こは、さかしらなるべくおもはる。一首の意は、かの死屍を見て、この人は、いづこの女の夫ならん。この人、旅に出て、所々宿れるうちに、わが故郷をわすれたるにか。家に妻のまたんにといへる也。
 
(107)田口廣麿。死之時。刑部垂麻呂作歌一首。
 
田口廣麿。
父祖、官位、考へがたし。喪葬令に、几百官身亡者、親王及三位以上稱v薨。五位以上及皇親稱v卒。六位以下達2於庶人1稱v死とあるに、こゝに死とあれば、六位より下の人なるべし。卜部家本、續日本紀に、慶雲二年十二月癸酉、授2從六位下田口朝臣廣麻呂、從五位下1とあれど、こは印本に、廣の字なきを是として、別人なるべし。
 
刑部垂麻呂。
父祖、官位、考へがたし。上【攷證三上卅三丁】にも出たり。
 
427 百不足《モゝタラズ》。八十《ヤソ》隅《クマ・スミ》坂爾《ザカニ》。手向爲者《タムケセバ》。過去人爾《スギニシヒトニ》。蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》。
 
百不足《モゝタラズ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。つゞけがら、明らけし。
 
八十《ヤソ》隅《クマ・スミ》坂爾《ザカニ》。
古事記上卷、大國主神の中國を避たまふ所の御言に、僕者於2百不足八十※[土+囘]手《モヽタラズヤソクマデ》1隱而侍云々と見えたり。これによりて、考に、隅坂は隈路《クマヂ》の訓《(マヽ)》り也といはれつるに、諸注、みな從ひつれど、非也。隅は、廣雅釋邱に、隅、隈也とありて、隅、隈、義通ずれば、隅のまゝにて、くまと訓んに、何ごとかあらん。坂は黄泉平坂《ヨモツヒラザカ》の坂にて、黄泉國にも坂あるよしなれば、これも坂にてありぬべし。さて、こゝに百不足八十隅坂爾手向爲者《モヽタラズヤソクマサカニタムケセバ》といへるは、かの古事記に、百不足八十※[土+囘]手《モヽタラズヤソクマテ》とあるも、黄泉國をさし給へるにて、死たる人は、必らず黄泉國へ行よ(108)しの傳へあれば、廣麿も、みまかりて、黄泉國に至りつらん。されば、その道まで至りて手向せば、あふよしもあらんといへる意にて、八十《ヤソ》は、たゞ數の多きをいひ、隅《クマ》は隅々《スミ/”\》をいへる事なる事、上【攷證一下七十丁】川隈八十阿不落《カハクマノヤソクマオチズ》とある所にいへるが如く、坂は古事記、書紀、祝詞などに見えたる黄泉平《ヨモツヒラ》坂にて、こは黄泉國とこの國の堺なるよしなれば、そこまで至りて手向せんと也。手向といふも、坂は縁あれば、かた/”\につけても、隅坂《クマザカ》とあるぞ、よろしかるべき。
 
手向爲者《タムケセバ》。
手向とは、山にまれ、海にまれ、その所の神に、幣を奉り祈る事なる事、上【攷證三上六十五丁】にいへるが如く、こゝは、この坂にたちて、こゝにて手向して、かの廣麿にあふべきよしをいのらばといふ意也。
 
盖相牟鴨《ケダシアハムカモ》。
蓋《ケダシ》といふ言は、若《モシ》といふに意をふくめたる意なる事、上【攷證二上三十丁三中八十五丁】にいへるが如し。さて、一首の意は、黄泉國の堺なる八十隅坂《ヤソクマサカ》に至りて、手向していのらば、身まかりし人に、もしもあはんかと也。
 
土形娘子《ヒヂカタノイラツメ》。火2葬泊瀬山1時。柿本朝臣人麻呂作歌一首。
 
土形娘子。
父祖、考へがたし。土形は氏にて、古事記中卷に、是大山守命者、土形君、弊岐榛原君等之祖と見えたり。この氏、姓氏録に見えず。和名抄郷名に、遠江國城飼(109)郡土形【比知加多】とあり。
 
火葬。
火葬の事は、上【攷證二下五十四丁】にいへり。
 
428 隱口能《コモリクノ》。泊瀬山之《ハツセノヤマノ》。山《ヤマノ》際《マ・ハ》爾《ニ》。伊佐夜歴雲者《イザヨフクモハ》。妹鴨有牟《イモニカモアラム》。
 
山際爾《ヤマノマニ》。
山際は、やまのまと訓べき事、上【攷證一上卅一丁】にいへるが如く、山の間の意也。
 
伊佐夜歴雲者《イザヨフクモハ》。
いざよふとは、進まんとして進みかね、たゆたふ意なる事、上【攷證三上卅四丁】にいへるが如く、こゝは、火葬の煙を雲と見なして、その雲は妹ならんといへり。本集此卷【五十一丁】に、昨日社公者在然《キノフコソキミハアリシカ》、不思爾濱松之上於雲棚引《オモハヌニハママツノヘニクモニタナビク》云々。七【四十一丁】に、隱口乃泊瀬山爾霞立棚引雲者妹爾鴨在武《コモリクノハヅセノヤマニカスミタチタナビククモハイモニカモアラム》云々。十三【廿九丁】に、角障經石村山丹白栲懸有雲者皇可聞《ツヌサハフイハレノヤマニシロタヘニカヽレルクモハワガオホキミカモ》云々などあるも、みな、うせにし人を雲とよそへたり。この類、集中、猶多し。一首の意はくまなし。
 
溺死|出雲娘子《イツモノイラツメ》火2葬吉野1時。柿本朝臣人麿作歌二首。
 
出雲娘子、父祖、考へがたし。出雲國の娘子といふ意か。又、出雲は氏か。姓氏録卷十二に、出雲宿禰、天穂日命子、天夷鳥命之後也と見えたり。
 
(110)429 山《ヤマノ》際《マ・ハ》從《ユ》。出雲兒等者《イヅモノコラハ》。霧有哉《キリナレヤ》。吉野山《ヨシヌノヤマノ》。嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》。
 
山《ヤマノ》際《マ・ハ》從《ユ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。山間より出る雲とつゞけたる也。猶、予が冠辭考補正にいふべし。
 
出雲兒等者《イヅモノコラハ》。
兒等《コラ》は、たゞ兒《コ》とのみいへる意にて、等の字には心なし。この事は、上【攷證二下五十七丁】にいへり。
 
霧有哉《キリナレヤ》。
これも、火葬の煙を霧と見なしたり。
 
嶺霏※[雨/微]《ミネニタナビク》。
※[雨/微]、もと、※[雨/徽]に作れり。※[雨/徽]の字、ものに見えず。誤りなる事、明らかなれば、本集九【十二丁】に、霏※[雨/微]麻天爾《タナビクマデニ》云々とあるによりて改む。霏※[雨/微]を、たなびくとよめるは義訓也。さて、一首の意は、火葬の煙を霧に見なして、かの出雲の娘子は、霧なればにやあらん、吉野山の嶺、煙の霧の如くたなびけりとなり。
 
430 八雲刺《ヤクモサス》。出雲子等《イヅモノコラガ》。黒髪者《クロカミハ》。吉《ヨシ》野《ヌ・ノ》川《ノカハノ》。奧名豆颯《オキニナヅサフ》。
 
八雲刺《ヤクモサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは、やくもたつといふに同じく、さすと、たつと、同じき事は、本集六【卅六丁】に、刺並之國爾出座《サシナミノクニニイデマス》云々とある刺並《サシナミ》は、たちならぶ意。九【十七丁】に、指並隣之君者《サシナラプトナリノキミハ》云々とあるも 立ならぶ意なるにて、しるべし。さて、やくもたつとは、彌雲立《イヤクモタツ》の意にて、出る雲とつゞけしなり。
 
(111)奧名豆颯《オキニナヅサフ》。
なづさふといふ言は、古事記中(下(ノ)誤)卷歌に、美豆多麻宇岐爾宇岐志阿夫良於知那豆佐比《ミヅタマウキニウキシアブラオチナヅサヒ》云々。本集四【十六丁】に、浦箕乎過而鳥自物魚津左比去者《ウラミヲスギテトリジモノナヅサヒユケバ》云々。此卷【五十一丁】に、牛留鳥名津匝來與《ヒクアミノナヅサヒコムト》云々。六【卅五丁】に、海原之遠渡乎遊士之遊乎將見登莫津左比曾來之《ウナハラノトホキワタリヲミヤビヲノアソブヲミムトナツサヒゾコシ》云々。九【廿一丁】に、暇有者魚津柴比渡《イトマアラバナヅサヒワタリ》云々。十二【十二丁】に、爾保鳥之奈津柴比來乎《ニホトリノナツサヒコシヲ》云々。十五【十一丁】に、安麻能等毛之備於伎爾奈都佐布《アマノトモシビオキニナヅサフ》云々などありて、集中猶多し。こは、宣長の説に、なづさふといふ言、あまた所に見えたり。昔より、この詞を解たる説、みなあたらず。今、その歌どもを、あまねく考へあはするに、或は、海川などにうかべる事、あるは、船よりわたることなどにいひ、枕詞にも、引網の鳥じもの、にほどりの、などいひて、いづれも/\、水につく事にのみいへり。水によらぬは一つもなし。集中の歌どもを心みてしるべし云々といはれつるが如く、こゝは、水に浮《ウカ》べる意にて、この言の語釋は思ひ得ねど、馴親《ナレムツ》ぶ意なるも、なづむ意なるもあり、ときこえたり。さて、颯は唐韻に蘇合切とありて、さふの音なれば、こゝに借用ひたる也。この歌、一首の意は、かの娘子が死屍の、水に浮て、黒髪の流れたるを見て、詠るにて、吉野の川の奧にうかべりと也。この二首の歌を、略解に、溺死の歌ありて、さで、火葬の歌あるべきを、この二首前後せり云々といへれど、同じをりの歌なれば、いづれにてもあるべし。
 
過2勝鹿眞間娘子《カツシカノマヽノイラツメノ》墓1時、山部宿祢赤人作歌一首。并短歌。
 
勝鹿
和名抄郡名に、下總國葛餝【加止志加】とある、こゝにて、つと、とと、音通へば、かとしかともいひしなるべし。こゝは、集中の歌にも多く見えて、この大江戸なる隅田川の東、み(112)な葛餝郡也。
 
眞間娘子《マヽノイラツメ》。
父祖、考へがたし。眞間は地名にて、今も葛餝郡市川驛の北、國府のほとりに、眞間といふ所あり。これにて、集中の歌にも多く見えたり。さて、この娘子の事は、本集九【卅四丁】の長歌にくはしく見えて、十四【九丁】にも歌によめり。さて、拾穗本短歌の下に、東俗語曰、可豆思賀能麻末能※[氏/一]胡《カツシカノマヽノテコ》と、十四字の分注ありて、古本にも、この注ある本あり。こは、後人の書入たるなれど、後に用あれば、こゝにしるせり。
 
431 古昔《イニシヘニ》。有家武人之《アリケムヒトノ》。倭文幡乃《シヅハタノ》。帶解替而《オビトキカヘテ》。廬屋立《フセヤタテ》。妻問爲家武《ツマドヒシケム》。勝牡鹿乃《カツシカノ》。眞間之手兒名《マヽノテゴナ》之《ノ・ガ》。奧《オク・オキ》槨乎《ツキヲ》。此間登波聞杼《コヽトハキケド》。眞木葉哉《マキノハヤ》。茂有《シゲリタル・シゲクアル》良武《ラム》。松之根也《マツガネヤ》。遠久寸《トホクヒサシキ》。言耳毛《コトノミモ》。名耳母吾者《ナノミモワレハ》。不《ワス》所《ラエ・ラレ》忘《ナクニ》。
 
有家武人之《アリケムヒトノ》。
こは、眞間娘子をさせり。本集九【卅四丁】に、古昔爾有家留事登至今不絶言來勝牡鹿乃眞間乃手兒奈我《イニシヘニアリケルコトヽイマヽデニタエズイヒコシカツシカノマヽノテコナガ》云々とも見えたり。下の句に、遠久寸言耳毛《トホクヒサシキコトノミモ》とあれば、赤人の時さへ、むかしがたりなりけん。
 
(113)倭文幡乃《シヅハタノ》。
倭文《シヅ》は、書紀武烈紀歌に、於褒枳瀰能瀰於寐能之都波〓夢須寐陀黎《オホキミノミオビノシヅハタムスビタレ》云々。本集十一【廿五丁】に、去家之倭文旗帶乎結垂《イニシヘノシヅハタオビヲムスビタレ》云々と見えて、倭文を、しづと訓るは、書紀神代紀下訓注に、倭文神、此云2斯圖梨俄未《シヅリガミ》1とあるにてしるべし。この倭文《シヅ》といふものは、古語拾遺に、天羽槌雄【倭文遠祖也。】織2文布1とあるにて、文ある布なる事しられ、【文ある布を倭文と書るは、中國 この奈良の京のころよりは、專ら倭と和と通はし用れば、文をまじへたる布といふ意にて、倭文とは書るたるべし。】また、延喜四時祭式の祭具に、倭文一尺、倭文纏2刀形1云々。大神宮式、度會宮装束に、倭文裳一腰云々と見えて、神にも奉り、まへに引る武烈紀の歌にも、おほぎみのみおびのしづはたとあれば、賤《イヤ》しきものとはおもはれぬを、本集四【四三丁】に、倭文手纏數二毛不有《シヅタマキカズニモアラヌ》云々。九【卅五丁】に、倭文手纏賤吾之故《シヅタマキイヤシキワレユヱ》云々など、枕詞としてつゞけたるは、いにしへ、手纏には玉を餝れるが多かりし【この事は、上攷證二中廿二丁にいへり。】を、その中に、倭文布にてしたる手纏は、きはめて賤しかるべければ、賤しとつゞけしは、手纏につきていへる言にて、倭文をいやしといふにはあらず。【この事は、予が冠辭考補正にくはしくいふべし。】また、古今集雜上に、いにしへの、しづのをだまき、いやしきも、よきも、さかりはありしものなりとよめるは、賤《シヅ》の苧卷子《ヲダマキ》の意なれば、この倭文手纏《シヅタマキ》の倭文《シヅ》を、賤《シヅ》の意に、おもひ誤りて、よめるなるべく、これより後は、いふまでもなし。これらは、こゝに用なき事なれど、ちなみにいふのみ。されば、倭文《シヅ》は文《アヤ》ある布《ハタ》をいひ、幡は機の意にて、織たる物をいふなれば、倭文《シヅ》にて織たる帶といふ意也。これを、十一に、いにしへのしづはた帶ともつゞけしは、この手兒名の事にて、この歌をとりてよめるなるべし。さて、倭文の文を、集中、みな、父に作れり。誤りなる事、明らかなれば、意改せり。
 
(114)帶解替而《オビトキカヘテ》。
替而《カヘテ》は、本集四【廿四丁】に、敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜《シキタヘノコロモテカヘテオノヅマトタノメルコヨヒ》云々。二【卅二丁】に、敷妙乃袖易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》云々。五【九丁】に、多麻提佐斯迦閉佐禰斯欲能《タマテサシカヘナネシヨノ》云々。十【廿七丁】に、手枕易寐夜《タマクラカヘテネタルヨハ》云々などある、かへてと同じく、かはしてといふにて、こゝは、帶をときかはしてといふ意也。されば、この手兒名、男にあへりしよしなるを、九【卅四丁】に、この手兒名の事を、くはしくよめる長歌には、よばふ人あまたある故に、いづれにもあはで、水に入てうせけるよしいへるは、傳への異なるにか。また、こゝの帶解替而廬屋立妻問爲家武《オビトキカヘテフセヤタテツマドヒシケム》とある句のつゞけあしきを思ふに、この帶解替而の下に、二人してねんとて、ますらをが、などいふ意の句の、二句ばかりありしを、脱せるにもあるべし。
 
廬屋立《フセヤタテ》。
これを、枕詞として、冠辭考に載られつれど、枕詞にあらず。こは、妻どひせん料に、まづ家を建るにて、古しへは、娶らんとするに、まづ家を作りし也。そは、伊邪那岐、伊邪那美の二神の、まづ八尋殿を建給ひ、須佐之男命の須賀宮をたてゝ、やくもたつの歌をよみ給ひし事、また、「出雲國風土記、神門郡八野郷の條に、八野若日女命坐之、爾時所2造天下1大神、大穴持命將2娶給1爲而、令v造v屋給、故云2八野1てあるなど思ひ合すべし。さて、ふせやとは、本集五【卅丁】貧窮問答歌に、布勢伊保能麻宜伊保乃内爾直土爾藁解敷而《フセイホノマゲイホノウチニヒタツチニワラトキシキテ》云々。九【卅五丁】見2菟原處女墓1歌に、宇奈比壯士乃廬八燎須酒師競相結婚《ウナヒヲトコノフセヤタキススシキソヒテアヒヨバヒ》云々。八【四十五丁】に、田廬爾居者京師所念《タフセニヲレハミヤコシオモホユ》云々。十六【十五丁】に、田廬乃毛等爾《タフセノモト〓》云々などありて、古しへは、高殿を高知まして大殿をふりさけ見つゝなど、すべて家は高きよしとするに對へて、賤しき家をば、ひきく地に伏たる意もて、ふせ屋とはいふ也。さて、廬をふせと訓は、本集十六【十五丁】訓注に、田廬者|多夫世《タブセ》也とありて、荀子正名篇注に、(115)廬草屋也とある意もて、賤しき屋といふ意にて、ふせやとはよめる也。
 
妻問爲家武《ツマドヒシケム》。
妻問《ツマドフ》といふ事は、古事記下卷に、都麻杼比之物《ツマドヒノモノ》と見えて、本集四【卅七丁】に、嬬問爾余身者不離《ツマドヒニワガミハサラジ》云々。九【卅丁】に、秋芽子乎妻問鹿許曾《アキハギヲツマドフカコソ》云々。また【卅三丁】古之益荒丁子各競妻問爲祁牟《イニシヘノマスラヲトコノアヒキソヒツマトヒシケム》云々。十【卅三丁】に、天人乃妻問夕叙《ヒコホシノツマトフヨヒゾ》云々。十八【卅四丁】に、氣奈我伎古良河都麻度比能欲曾《ケナガキコラカツマトヒノヨゾ》云々などありて、集中、猶あり。こは、女を問さだむる意にて、よばふといふにあたれり。
 
勝牡鹿乃《カツシカノ》。
牡を、印本、壯に誤れり。本集九【卅四丁卅五丁】に、勝牡鹿《カツシカ》とありて、六□に、去而見牡鹿《ユキテミテシカ》云々。九□に、吾越來牡鹿《ワガコエコシカ》云々などあれば、必らず、牡の字なる、明らかなれば、改めつ。この牡の字は、添て書る也。
 
眞間之手兒名《マヽノテゴナ》之《ノ・ガ》。
手兒名《テコナ》は、考云、今も、上總、下總などには、最弟子《マナオトゴ》を、てごといへり。遠江にては、それを、ほての子といふ。果の子てふこと也。是を合せ思ふに、はての子の、はを略きて、てことはいふ也。すべて、略言多き國也。名は、をみなを略きていふ、常のことぞ云々。宣長云、手兒は妙《タヘ》子か、貴《アテ》子かの意なるべし。ほめたる稱なり。名もほめていふ也。又、いとけなき兒を、人の手に抱かれてある意にて、手兒といふは、是とは別也云々。久老云、手兒は、ある人、妙《タヘ》子とも、貴子ともいへれど、父母の手にある處女をいふ言なるべし。卷十四に、哭乎曾《ネヲゾ》なきつる手兒《テコ》にあらなくに、とよめるは、いはけなきをいへれど、手兒の意は同じかるべし。同卷に、たらちねの母が手放《テハナリ》とあるを思へ。さて、名《ナ》は、妹なね、世奈能《セナノ》(116)などいへる名にて、したしむ意に添ることばなり云々。これらの説のうち、久老が説よし。名は親しみ添ていへる言なる事、本集十四【廿二丁】に、宇倍兒奈波和奴爾故布奈毛《ウヘコナハワヌニコフナモ》云々。二十【廿四丁】に、和努等里都伎弖伊比之古奈波毛《ワヌトリツキテイヒシコナハモ》云々などある奈にて、六【廿六丁】に、父公爾吾者眞名子叙《チヽキミニワレハマナコソ》云々などある眞名子の名も、これと同じ。
 
奧槨乎《オクツキヲ》。
奥は、本集此卷【卅七丁】に、奧爾念乎《オクニオモフヲ》云々などある奧とおなじく、深き意にて、地下に深く埋むをいひ、つは、天つそら、わだつみなどののつと同じく、助字。槨《キ》は、書紀孝徳紀に、棺槨をきとよみ、和名抄葬送具に、野王曰槨【和名於保土古】周v棺者也とありて、棺をいるゝものゝ名なり。されば、奧槨とは墓をいふ也。書紀天智紀に、丘墓をおくつきと訓み、本集此卷【五十七丁】に、吾妹子之奧槨常念者波之吉佐寶山《ワギモコガオクツキトオモヘバハシキサホヤマ》云々。九【卅三丁】に、葦屋乃菟名日處女乃奧城矣《アシノヤノウナヒヲトメノオクツキヲ》云々などありて、集中猶多し。
 
眞木葉哉《マキノハヤ》。
眞木は※[木+皮]也。この事は、上【攷證一下廿丁】にいへり。こゝのつゞけ、本集一【十七丁】に、大殿者此間等雖云春草之茂生有《オホトノハコヽトイヘドモハルクサシシゲクオヒタリ》云々《(マヽ)》あるに似たり。
 
松之根也《マツガネヤ》。
この也《ヤ》もじ、心得ず。宣長の説に、也《ヤ》は之《ノ》の誤りにて、ねのならんとあり。この説、尤さる事にて、必らず、のといはでは叶はざる所なり。そは、本集十三【十一丁】に、松根松事遠《マツガネノマツコトトホシ》云々。十九【四十二丁】に、松根能絶事奈久《マツガネノタユルコトナク》云々などあるにて思ふべし。さて、也は之の誤りとして、こゝは、松の根は遠く延《ハヘ》るものなれば、それが如くに遠久寸《トホクヒサシキ》とつゞけしなり。又思ふに、松之根也の下、二句ばかり、脱たるにはあらざるか。
 
(117)言耳毛《コトノミモ》。名耳母吾者《ナノミモワレハ》。不《ワス》所《ラエ・ラレ》忘《ナクニ》。
耳《ノミ》は、今の意にいふも同じく、ばかりといふ意にて、本集二【卅三丁】に、音耳母名耳毛不絶天地之彌遠長久思將往《オトノミモナノミモタエズアメツチノイトトホナガクシヌビユカム》云々。十七【四十丁】に、於登能未毛名能未母伎吉底登母之夫流我禰《オトノミモナノミモキヽテトモシフルガネ》云々などあると同じつゞけ也。これらをもて思ふに、名耳母《ナノミモ》の下に、聞而《キヽテ》とか、不絶《タエズ》とかいふ字のありしを脱せるにて、その次は、吾者不所忘《ワハワスラエズ》と訓べき所なるべし。不所忘の字を、わすらえなくにとは訓がたけれど、しばらく原本に從ふのみ。さて、こゝの意は、むかし手兒奈がありしことゞもを、いふ言ばかり、名ばかりをきゝても、吾はわすられぬを、まして、その代の人は、いかならんといへる也。
 
反歌。
 
432 吾毛見都《ワレモミツ》。人爾毛將告《ヒトニモツゲム》。勝壯鹿之《カツシカノ》。間々能手兒名《ママノテコナ》之《ノ・ガ》。奧《オク・オキ》津城處《ツキドコロ》。
 
吾毛見都《ワレモミツ》。
長歌に、墓をたづぬるよしをいひて、こゝに至りて、たしかに見しよしをいふ也。
 
人爾毛將告《ヒトニモツゲム》。
本集十七【四十丁】に、伊末太見奴比等爾母都氣牟《イマダミヌヒトニモツゲム》云々ともあり。こゝは、かの墓を、われは、からうじて、たづね見たれば、こゝといふ事を、いまだ見ぬ人につげんと也。一首の意、くまなし。
 
(118)433 勝牡鹿乃《カツシカノ》。眞々乃入江尓《マヽノイリエニ》。打靡《ウチナビク》。玉藻苅兼《タマモカリケム》。手兒名志《テコナシ》所念《オモホユ・ゾオモフ》。
 
眞々乃入江尓《マヽノイリエニ》。
このほとり、海ちかくして、殊に大河にのぞみたれば、入江ともいふべし。
 
玉藻苅兼《タマモカリケム》。
實に、玉藻を苅しにはあらで、入水したるを、かくとりなしつるなるべし。一首の意、くまなし。
 
和銅四年辛亥。河邊宮人。見2姫島松原美人屍1。哀慟作歌四首。
 
この端辭は、本集二【四十三丁】に、全く出て、實にかの女をかなしめる歌あるを、この下の四首は、さらに別の歌にて、地名なども、かた/”\あはざる事のみにて、しかも、下の二首などは、挽歌ならで、戀の歌なり。されば、端辭も、歌も、みだれて、ここに入けん。いかにして、かくまでは、みだれつるにか。
 
434 加座※[白+番]夜能《カザハヤノ》。美保乃浦《ミホノウラ》廻《マ・ワ》之《ノ》。白管仕《シラツヽジ》。見十方《ミレドモ》不怜《サブシ・サビシ》。無人念者《ナキヒトオモヘバ》。
 
加座※[白+番]夜能《カザハヤノ》。
契沖、久老などの説に、美保の浦は、風の早き所なれば、かざはやのとは冠らせしなるべきよしいはれつるは、いかゞ。こは、さゞなみのしが、いそのかみふる、などつゞくる類にて、三保の浦のほとりの地名なるべし。この枕詞を、冠辭考には、もらされたり。猶くはしくは、予が冠辭考補正にいふべし。和名抄郡名に、伊予國風早。【加佐波夜。】郷名に(119)安藝國高田郡風速【加佐波也。】などあるは、別所なれど、かくいふ地名ある例にあぐるのみ。印本、座を麻に作りて、訓は、かざはやとあり。されば、麻は座の誤りなる事しるし。よりて意改せり。
 
美保乃浦《ミホノウラ》廻《マ・ワ》之《ノ》。
本集此卷【廿五丁】博通法師往2紀伊國1見2三穗石堂1歌に、皮爲酢寸久米能若子我伊座家留三穗乃石室者雖見不飽鴨《ハタスヽキクメノワクゴガイマシケルミホノイハヤハミレドアカヌカモ》とある三穗は、論なく、紀伊國なる事、その所【攷證三上七十二丁】にいへるが如く、こゝなる三保の浦も、次なる歌に、久米能若子をさへ詠たれば、博通法師が歌と同じく、紀伊國なる事明らけし。廻は、まと訓べき事、上【攷證一下十四丁】にいへるが如くにて、間《マ》の意也。
 
白管仕《シラツヽジ》。
管仕《ツヽジ》と書るは借字にて、躑躅也。上【攷證二中五十五丁】に出たり。
 
見十方《ミレドモ》不怜《サブシ・サビシ》。
さぶしは、さびしく、なぐさめがたきをいふ言なるよし、上【攷證二下五十九丁】にいへるが如し。不怜の字を訓るは義訓也。
 
無人念者《ナキヒトオモヘバ》。
無人《ナキヒト》とさせるは、誰にか。端詞たがひたれば、しりがたし。一首の意は、くまなし。
 
或云。見者悲霜《ミレバカナシモ》。無人思丹《ナキヒトオモフニ》。
 
こゝに、霜《シモ》と書るは借字にて、しものもは助字なり。
 
(120)435 見津見津四《ミヅミヅシ》。久米能《クメノ》若《ワク・ワカ》子我《ゴガ》。伊觸家武《イフレケム》。礒之草根乃《イソノクサネノ》。干卷惜裳《カレマクヲシモ》。
 
見津見津四《ミヅミヅシ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。若く健《スクヤカ》なる人をほめて、みづ/\しとつゞけし也。今も、物のわかくうつくしきを、みづ/\しといふに同じ。さて、宣長は、みづ/\し、古事記にも、書紀にも、都の字をかきて、清書の字なれば、みつ/\しと訓て、こは久米氏の人の、目の圓く大きにて、滿々《ミツ/\》しの意なるよしいはれつれど、あまりに物遠き説なれば、とりがたし。提要にもいへりしが如く、清濁てふものは、たしかならざる物なれば、それによりて、意をば解しがたし。猶、予が冠辭考補正に、くはしくいふべし。
 
久米能《クメノ》若《ワク・ワカ》子我《ゴガ》。
久米は氏か、地名か、たしかには、しりがたけれど、久米氏の人ならんと思ふよしは、上【攷證三上七十二丁】にいへり。書紀神武紀歌に、瀰都瀰都志倶梅能固邏餓《ミヅミヅシクメノコラガ》云々とある、くめも、氏なり。
 
伊觸家武《イフレケム》。
伊は例の發語にて、觸は、本集七【卅九丁】に袖耳觸而《ソデノミフレテ》云々、八【卅五丁】に往觸者《ユキフレバ》云々、十一【廿丁】に君之手枕觸義之鬼尾《キミガタマクラフレテシモノヲ》云々などあると同じく、たづさはる意也。
 
干卷惜裳《カレマクヲシモ》。
印本、惜を情に作りたれど、訓には、かく《(マヽ)》まくをしもとあれば、惜の誤りなる事明らかなるよりて、考異本に引る古本、拾穗本などにつきて、あらたむ。さて、干卷の卷は借字にて、むを延たる言、裳は添たる言にて、かれんがをしゝと也。一首の意はくまなし。
 
(121)436 人言之《ヒトゴトノ》。繁比日《シゲキコノゴロ》。玉有者《タマナラバ》。手爾卷以而《テニマキモチテ》。不《コヒ》戀有《ザラ・ズアラ》益雄《マシヲ》。
 
人言之《ヒトゴトノ》。繁比日《シゲキコノゴロ》。
世の人のいひさわぐ言のしげき、このごろといふ也。上【攷證二上卅五丁】にも出たり。比日を、このごろと訓るは、玉篇に比並也とあれば、並日の意もて義訓せる也。
 
手爾卷以而《テニマキモチテ》。
古しへの風俗、玉を緒に貫て、手にも卷し故に、かくいへり。本集二【廿三丁】に、吾戀君玉有者手爾卷持而《ワガコフルキミタマナラバテニマキモチテ》云々とある所【攷證二中廿二丁】に、くはしくいへり。さて、一首の意は、人のいひたつる言の、いとしげきこのごろ、わが思ふ人の、もし玉にありせば、手に卷て持て居て、戀ふる事もなく、身にそへてあらましものをといへるにて、全く戀の歌なれば、この挽歌の部に入べきならぬを、いかゞして、こゝにはみだれ入けん。次の歌もしかなり。
 
437 妹毛吾毛《イモモワレモ》。清之《キヨミノ・キヨメシ》河乃《カハノ》。河岸之《カハギシノ》。妹我可悔《イモガクユベキ》。心者不持《コヽロハモタジ》。
 
清之《キヨミノ・キヨメシ》河乃《カハノ》。
代匠記に、按、第二ニ、日並皇子殯宮ノ時ノ歌こ、飛鳥之淨之宮爾トアルヲ、アスカノキヨメシミヤト點セルヲ、キヨミノミヤト讀ベシト申ツル如ク、是モ、キヨミノカハトヨムベシ。大井川下ハカツラト忠岑ガヨメルヤウニ、飛鳥川ヲ淨御原ノホトリニテハ、キヨミノカハトモ申ベシ。男女ノ中ノ、互ニ二心ナキヲ、水ノスメルニ喩ル故ニ、二心アルヲバ、(122)六帖ニモ、トネ川ハ底ハ濁テ上清テ、ナドヨメリ。サレバ、今二心ナキヲ、川ノナニヨセテ云ナリ云々。これに從ふべし。諸注も、みな、是に從へり。妹も吾も心清くちぎれりといふを、清みの川の川の名にいひかけたり。
 
妹之可悔《イモガクユベキ》。
本集十四【六丁】に、可麻久良乃美胡之能佐吉能伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《カマクラノミコシノサキノイハクエノキミガクユベキコヽロハモタジ》とある如く、川岸の崩《クユ》るを、悔《クユ》るにいひかけたる也。本集十【五十八丁】に、雨零者瀧都山川於石觸君之摧情者不持《アメフレバタキツヤマカハイハニフリキミガクダカムコヽロハモタジ》とあるも、意似たり。さて、一首の意は、君もわれも、心清く契りてしかば、この後は、君が後にくやしと思ふばかりの、あだなる心はもたじ、といふにて、全く戀の歌也。
 
右。案2年紀并所處1。乃娘子屍作歌人名。已見v上也。但歌辭相違。是非難v別。因以累2載於茲次1焉。
 
これも、いふまでもなく、後人の注ながら、右の端辭の卷二に見えて、こゝに載たる歌のたがへるよしを、ことわれるなり。
 
神龜五年戊辰。太宰帥大伴卿。思2戀故人1歌三首。
 
(123)太宰帥大伴卿は、旅人《タビト》卿なる事、上【攷證三上六十三丁、三中廿一丁】に、くはしく、いへり。歌を、印本、郷に作るは誤り也。さて、こゝに故人とあるは、旅人卿の妻のうせにしをさせり。
 
438 愛《ウツクシキ》。人之纏而師《ヒトノマキテシ》。敷細之《シキタヘノ》。吾手枕乎《ワガタマクラヲ》。纏人將有哉《マクヒトアラメヤ》。
 
愛《ウツクシキ》。
略解には、うるはしきと訓つれど、書紀孝徳紀歌に、于都供之伊母我《ウツクシイモガ》云々。斉明紀御歌に、于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》云々。本集【卅二丁】有都久之波波爾《ウツクシハハニ》云々などあれば、舊訓のまゝ、うつくしきと訓べし。こは、この字の意にて、人を愛しいふ言也。さて、このうつくしといふ言を(とカ)、うるはしと(いふ、脱カ)言とは、專ら同じ意の言にて、いづれによまんか、この訓をば定めかねたり。この事は、下【攷證四中四十五丁】にいふべし。
 
人之纏而師《ヒトノマキテシ》。
本集二【四十一丁】に、手枕纏而《タマクラマキテ》云々とある字の如く、纏《マキ》は、ま(く、脱カ)といふ意なるを、こゝは、やがて枕とするをいへり。この事は、上【攷證二下五十八丁】にいへり。
 
吾手枕乎《ワガタマクラヲ》。
手枕は、手を枕とするにて、この歌、端辭に、故人とあるは、本集八【廿三丁】左注に、神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿之妻、大作郎女、遇v病長逝焉とあるによらば、大伴郎女にて「旅人卿の妻なるが、帥の任のうちに、太宰府にてうせられし也。されば、一首の意は、妻をかなしみて、吾|愛し《ウツク》みし人の枕としけん、「わがかひなをば、又枕とせん人はあらめや、あらじかし、といはるゝにて、あだし女にあはじといふ意也。
 
(124)右一首。別去而經2敷旬1作歌。
 
説文に、十日爲v旬とあれば、經2敷旬1は、ほどへしをいふ也。
 
439 應還《カヘルベキ》。時者成《トキニハナリ》來《ク・ヌ》。京師爾而《ミヤコニテ》。誰手本乎可《タガタモトヲカ》。吾將《ワガマクラ》枕《カム・セム》。
 
應還《カヘルベキ》。時者成《トキニハナリ》來《ク・ヌ》。
續日本紀に、寶龜十一年八月庚申、太政官奏曰、筑紫太宰遠居2邊要1、當d警2不虞1、兼待2審客u。已所2執掌1異2諸道1。而官人相替、限以2四年1。【中略】増爲2五年1云々とありて、これよりは、五年となりしかど、旅人卿の時は、まだ四年なり。されば、四年の任限はてがたになりたるによりて、かへるべき時にはなりくといはる也《(マヽ)》。この卿、天平二年十月、大納言に任ぜられて、十二月京に登られしかば、これよりすこしまへの歌なるべし。さて、この二句を、代匠記には、かへるべく時はなりけりと訓れしかど、こゝろゆかず。
 
吾將《ワガマクラ》枕《カム・セム》。
本集五【十一丁】に、比等能比射乃倍和我摩久良可武《ヒトノヒザノベワガマクラカム》云々。十九【十四丁】に、妹之袖和禮枕可牟《イモガソデワレマクラカム》云々とあれば、こゝも、わがまくらかんとよむべし。枕將纏《マクラマカム》の略言なり。一首の意は、もはや任限はてがたにて、京にかへるべき時には、妻のうせしかば、京にかへりても、誰が袂をか、わがまくらとせんとなり。
 
440 在京師《ミヤコナル》。荒有家爾《アレタルイヘニ》。一宿者《ヒトリネバ》。益旅而《タビニマサリテ》。可辛苦《クルシカルベシ》
 
(125)荒有家爾《アレタルイヘニ》。
こは、今もいふ言にて、荒野、荒山などいふも同じく、人氣うとく、すたれたるをいふ。
 
一宿者《ヒトリネバ》。
一を、ひとりと訓るは、文字を略て書る也。上【攷證三上四十四丁】にいへり。この歌も、京にかへらんとせらるゝ時の歌にて、下に還入2故郷家1即作歌三首とある中にも、このこころをよまれたり。一首の意は、くまなし。さて、この後の二首は、京にかへらんとせらるゝ時に、天平二年の冬の歌なるを、神龜五年の歌の中に加へしは、いかにぞやおもはるれど、同じく妻をかなしめる歌なれば、類をもて、こゝに加へしにもあるべし。
 
右二首。臨2近向v京之時1作歌。
 
まへにもいへるが如く、天平二年の冬、京にかへらるゝ時の歌とて、かくはしるせる也。
 
神龜六年己巳。左大臣長屋王。賜v死之後。倉橋部女王作歌一首。
 
神龜六年。
こは天平元年としるすべきを、長屋王の御事は、二月にて、改元以前の事なれば、かくはしるせるにか。されど、後よりして、前の事をしるせる例なれば、改元ありし年號を用ふべきなり。
 
(126)長屋王。
この御事は、上【攷證一下六十四丁】に出たり。
 
倉橋部女王。
父祖、考へがたし。本集八【四十九丁】に、賀茂女王歌云々。分注に、長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也云々。左注に、右歌、或云、椋橋部女王。或云、笠縫女王作云々と見えたり。猶考ふべし。
 
441 大皇《オホギミ・スメロギ》之《ノ》。命恐《ミコトカシコミ》。大荒城乃《オホアラキノ》。時爾波不有跡《トキニハアラネド》。雲《クモ》隱《ガクリ・ガクレリ》座《マス》。
 
大皇《オホギミ・スメロギ》之《ノ》。
古しへ、天皇をさして、大王とも書き奉り、いづれをも、おほぎみと訓べき由、上【攷證二中六十九丁】にいへるが如し。集中、多くは、大皇とありて、太皇と書るはすくなけれど、西土にても、大、太、通はし用ふれば、いづれにてもありなん。(頭書、本集此卷【五十四丁】に、太皇之敷座國爾《スメロギノシキマスクニニ》云々。)
 
大荒城乃《オホアラキノ》。
こは、大殯《オホアラキ》と書ると同じことなる事、上【攷證二中二十三丁】にいへるが如く、うせ給ひて、いまだ葬り奉らぬまへを、殯《アラキ》とは申せるなり。
 
雲《クモ》隱《ガクリ・ガクレリ》座《マス》。
死する事を、雪隱ともいふよしは、上【攷證此卷三丁】にいへるが如し。この歌は、長屋王の死を賜りしを、なげきてよめるにて、一首の意は、天皇の詔のかしこさに、かの王いまだ天命の終るべき御年にもあらず、殯宮などすべき時にはあらねど、王命のかしこさに、天命をも終り給はで、みまかり給ひぬと也。
 
(127)悲2傷|膳部《カシハデノ》王1歌一首
 
膳部王、父祖、考へがたし。續日本紀に、神龜元年二月壬子、授2旡位膳夫王從四位下1云々。天平元年二月癸酉、令3王【長屋王也】自2盡其室1。二品吉備内親王、及【印本、及を男に作りたれど、誤りたる事明らかなれば、一本によりて攻む。】從四位下膳夫王、旡位桑田王、葛水王、鈎取王等、同亦自縊云々とありて、長屋王の事に座して、自縊せられし也。これ、同じ時の事にで、同じ作者なれば、こゝに作者の名をしるさゞるを、下の左注に作者未詳とあるは、いかゞ。倉橋部女王の歌なる事、明らかなるをや。
 
442 世間者《ヨノナカハ》。空物跡《ムナシキモノト》。將有登曾《アラムトゾ》。此照月者《コノテルツキハ》。滿闕爲家流《ミチカケシケル》。
 
空物跡《ムナシキモノト》。
この跡《ト》もじは、にの意にて、世の中てふものは、むなしくはかなき物にあらんとてぞといふ意也。にの意の、ともじの事は、上【攷證三中廿九丁】にいへり。本集五【四丁】に、余能奈可波牟奈之伎母乃等志流等伎之伊與余麻須萬須加奈之可利家利《ヨノナカハムナシキモノトシルトキシイヨヽマスマスカナシカリケリ》ともよめり。増壹阿含經、利養品に、一切所v有、皆歸2於空1、無v我無v人、無v壽無v命、無v土無v天、無v形無v像、無v男無v女云々とあるこゝろなり。
 
將有登曾《アラムトゾ》。
登《ト》は、とての意にて、あらんとてぞといふ也。とての意の、ともじの事は、上【攷證二上四十三丁】にいへり。
 
(128)滿闕爲家流《ミチカケシケル》。
月の盈食《ミチカケ》するを、世の中の常なく、盈《ミツ》るものはかくるならひあるによそへて、長屋王の、正二位左大臣にて、いみじかりし勢ひあるにつけて、それに親しむ人まで勢ひありしが、それも、いまは、むなしくなりぬるを、かの月の盈食するが如しと也。さて、本集七【二十六丁】に、隱口乃泊瀬之山丹照月者盈※[日/仄]爲焉人之常無《コモリクノハツセノヤマニテルツキハミチカケスルゾヒトノツネナキ》云々。十九【十三丁】に、俗中波常無毛納等語續奈我良倍伎多禮天原振左氣見婆照月毛盈※[日/仄]之家里《ヨノナカハツネナキモノトカタリツギナガラヘキタレアマノハラフリサケミレバテルツキモミチカケシケリ》云々など見えて、周易下彖傳に、日中則※[日/仄]、月盈則食。天地盈虚、與v時消息。而況於v人乎、況於2鬼神1乎ともあるにて思ふべし。
 
右一首。作者 未v詳。
 
この注は、誤りなる事、まへにいへり。
 
天平元年己巳。攝津國班田史生。丈部龍麿。自經死之時。判官大伴宿禰三中作歌一首。并短歌。
 
攝津國班田史生。
班田とは、書紀孝徳紀に、白雉三年二月、自正月至是月、斑田既訖云々。續日本紀に、天平元年十一月癸巳、任2京及畿内斑田司1云々。田令に、凡田六年一班、若以2身死1應v退v田者、毎v至2班年1即從2收授1云々などありて、百姓に、作るべき田を、班給《アガチタマフ》をいひて、班田司とは、この事を掌る官なり。史生とは、職員令に、太政(129)官、史生十人、掌d繕2寫公文1行署c文案u。餘史生准v此と見え、いづれの官にも史生ありて、文書の事を掌る役なり。延喜左右京職式に、班田使祗承屬一人、史生三人、書生十四人云々と見えたり。こゝには、班田司史生とあるべきを、司の字を略けるは、中務省の卿を中務卿とし、中宮職大夫を中宮大夫とし、織部司正を織部正といふがごとし。
 
丈部龍麿。
父祖、考へがたし。丈部の氏は、姓氏録卷三に、丈部、天足彦國押人命孫、比吉意祁豆命後也云々と見えたり。この氏の訓は、和名抄郷名に、安房國長狹郡丈部【波世豆加倍。】とあるによりて、はせつかべと訓べし。さて、續日本紀に、寶龜元年七月戊寅、常陸國那賀郡人、丈部龍麻呂獲2白烏1云々とあるは、同名異人なり。まどふべからず。
 
自經死《ミヅカラクビレマカレル》。
新撰字鏡に、縊絞也、經也、久比留とあれば、くびれと訓べし。書紀垂仁紀に經、皇極紀に自經を、わなぐと訓たれど、正しく假字に書る例あるかたによるべし。この龍麻呂の自經死けるは、罪ありでかとも思はるれど、歌に何方爾念座可《イカサマニオモホシマセカ》とあれば、罪にはあらで、さるべきよしありし事なるべし。絞罪の事は、唐律疏議に、絞興2周代1云々とありて、中國の律にも、多く見えたり。
 
判官。
判官は、和名抄職名に、判官、本朝職員令、二方品員等所載、神祇官曰v祐、省曰v丞、彈正曰v忠、勘解由曰2判官1。【餘史准v此。】職曰v進、寮曰v允、司曰v佑、内膳曰2典膳1、近衛曰2將監1、兵衛衛門四府曰v尉、内侍曰2掌侍1、太宰府曰v監、鎭守府曰2軍監1、國曰v椽、郡曰2主政1、家曰v從【皆、萬豆利古止比止】とありで、其官によりて、職名は異なれど、これら、いづれも判官也。職員令に、(130)神祇官大祐一人、掌d糺2判官内1、審2署文案1、勾2稽失1、知c宿直u、餘判官准v此とあるにてしるべし。右に引る和名抄に、勘解由曰2判官1【餘使准v此】とある如く、こゝは班田使なれば、判官とはいへる也。
 
大伴宿禰三中。
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平九年正月辛丑、道新羅使等入v京。副使從六位下大伴宿禰三中、染病不v得2入京1。三月壬寅、遭新羅副使、正六位上大伴宿禰三中等四十人、拜朝。十二年正月庚子、授2外從五位下1。十五年六月丁酉、爲2兵部少輔1。十六年九月甲戌、爲2山陽道巡察使1。十七年六月辛卯、爲2少貳1。拾八年四月壬辰、爲2長門守1。癸卯、授2從五位下1。十九年三月乙酉、爲2刑部大判事1など見えたり。
 
443 天雲之《アマクモノ》。向伏國《ムカブスクニノ》。武士登《モノノフト》。所云人者《イハレシヒトハ》。皇祖《スメロギノ》。神之御門爾《カミノミカドニ》。外重爾《トノヘニ》。立《タチ》候《サモラヒ・マチ》。内《ウチ》重《ノヘ・ハ》爾《ニ》。仕奉《ツカヘマツリ》。玉葛《タマカヅラ》。彌遠長《イヤトホナガク》。祖名文《オヤノナモ》。繼往物與《ツギユクモノト》。母父《チヽハヽ・ハヽチヽ》爾《ニ》。妻爾子等爾《ツマニコドモニ》。語而《カタラヒテ》。立西日從《タチニシヒヨリ》。帶乳根乃《タラチネノ》。母命者《ハヽノミコトハ》。齋忌戸乎《イハヒベヲ》。前座置而《マヘニスヱオキテ》。一手者《ヒトテニハ》。木綿取持《ユフトリモチ》。一手者《ヒトテニハ》。和細布奉《ニギタヘマツリ・ヤマトホソヌノマツロフ》。平《タヒラケク・ヲ》。間幸座與《マサキクマセト》。天地乃《アメツチノ》。神祇乞祷《カミニコヒノミ》。何在《イカナラム》。歳月日香《トシノツキヒカ》。茵花《ツヽジバナ》。香君之《ニホヘルキミガ》。牛留鳥《ヒクアミノ》。名津匝來與《ナヅサヒコムト》。立居而《タチテヰテ》。待監人者《マチケムヒトハ》。王(131)之《オホギミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。押光《オシテル・オシテルヤ》。難波國爾《ナニハノクニニ》。荒玉之《アラタマノ》。年經左右二《トシフルマデニ》。白栲《シロタヘノ》。衣《コロモ》不干《ヽホサズ・カハカズ》。朝《アサ》夕《ヨヒニ・ユフニ》。在鶴公者《アリツルキミハ》。何方爾《イカサマニ》。念座可《オモホシマセカ・オモヒマシテカ》。欝蝉乃《ウツセミノ》。惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》。露霜《ツユジモノ》。置而《オキテ》往《イニ・ユキ》監《ケム》。時《トキ》爾不在《ナラズ・ニアラズ》之天《シテ》。
 
向伏國《ムカブスクニノ》。
こは、遠き限りをいふ言にで、本集五【七丁】に、許能提羅周日月能斯多波《コノテラスヒツキノシタハ》、阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマクモノムカブスキハミ》、多爾具久能佐和多流伎波美《タニクヽノサワタルキハミ》、企許斯遠周久爾能麻保良叙《キコシヲスクニノマホラゾ》云々。十三【廿九丁】に、青雲之向伏國乃天雲下有人者《アヲクモノムカブスクニノアマクモノシタナルヒトハ》云々。祈年祭祝詞に、天納壁立極《アメノカベタツキハミ》、國能退立限《クニノソキタツカギリ》、青雲能靄極《アヲクモノタナビクキハミ》、白雲能墜坐向伏限《シラクモノオリヰムカブスカギリ》云々など見えたり。代匠記に、遠ク望メバ、天雲モ地ニ落チタルヤウニ向ヒ伏テ見ユルナリ云々といはれつるが如し。さて、この丈部龍麿の國はしれざれど、こゝに天雲之向伏國武士登所云人者《アマクモノムカブスクニノモノヽフトイハレシヒトハ》とあるからは、遠國の人なる事、明らけし。和名抄郷名に、伊勢國朝明郡杖部。【鉢世都加倍。】安房國長狹郡丈部。【波世豆加倍。】美濃國不破郡丈部。下野國河内郡丈部などありて、本集二十の、諸國の防人の歌にも、丈部氏の人多く見えたれば、龍麻呂も都に登りて仕へ奉りし人也。
 
武士登《モノノフト》。
建《タケ》く勇ある人を、ものゝふといへるにて、こは、今もいふ所と同じ。この事は、上【攷證一下廿八丁】にいへり。
 
皇祖《スメロギノ》。
すめろぎとは、遠祖の天皇より、今の天皇をさして申せる事、上【攷證一上四十八丁、三中九丁】にいへるが如く、こゝは、當代の天皇を申す也。皇祖と書るは借字なり。
 
(132)神之御門爾《カミノミカドニ》。
神は天皇をさして申せる事、上【攷證一上四十八丁、一下八丁】にいへるが如く、こゝも、天皇の御門を申すなり。
 
外《トノ》重《ヘ・ハヘ》爾《ニ》。
四言によむべし。宮城の外がまへをいふ。古今集、雜體、忠峯長歌に、みかきよりとのへもる身のみかきもり、をさ/\しくもおもほえず云々ともよめり。
 
立《タチ》候《サモラヒ・マチ》。
本集二【卅丁】に、東乃多藝能御門爾雖伺侍《ヒムガシノタキノミカドニサモラヘド》云々。また【卅五丁】雖侍時佐母良比不得者《サモラヘドサモラヒエネバ》云々。十一【廿三丁】に、常如是耳志候者《ツネカクノミシサモラヘバ》云々などありて、伺候するをいへり。
 
内《ウチノ・ウチハ》重爾《ヘニ》。
本集九【十八丁】に、海若神之宮乃内隔之細有殿爾《ワタツミノカミノミヤノウチノヘノタヘナルトノニ》云々ともありで、すなはち、禁中をいふ也。延喜□□式に、凡中重庭者、須d令2諸司1毎v晦掃除uとも見えたり。
 
仕奉《ツカヘマツリテ》。
龍麿、遠き國よりいでゝ、禁中の内外に仕へ奉りし勞をいふ也。
 
玉葛《タマカツラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三中十三丁】にも出たり。
 
祖名文《オヤノナモ》。繼往物與《ツギユクモノト》。
本集十八【廿一丁】に、人子者祖名不絶大君爾麻郡呂布物能等《ヒトノコハオヤノナタヽズオホキミニマツロフモノト》云々。二十【五十一丁】に、於夜乃名多都奈大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母《オヤノナタツナオホトモノウヂトナニオヘルマスラヲノトモ》などありて、續日本紀に、天平十五年五月癸卯詔に、祖名乎戴持而天地與共爾長久遠仕奉禮等《オヤノナヲイタゞキモチテアメツチトトモニナガクトホクツカヘマツレト》云々。天平寶字八年九月甲寅詔に、夫人止之天己我先祖乃名乎廣繼比呂米武止不念阿流方不在《ソレヒトヽシテオノガトホツオヤノナヲオコシツギヒロメムトオモハズアルモアラズ》云々などもあるが如く、こゝに祖《オヤ》とさせるは、先祖の意にて、朝庭に仕へ奉るは、先祖の名跡をもうけつぎて、絶さぬわざなりとてといふ意也。
 
(133)母父《チヽハヽ・ハヽチヽ》爾《ニ》。
母父を、舊訓には、字のまゝ、はゝちゝと訓たれど、はゝちゝとく《(マヽ》る事、外に見えず。集中、文字を上下に書る事ありて、此卷【十八丁】に白不《シラズ》、六【卅六丁】に賜將《タマハム》など書るも、訓はつねの如くなれば、こゝも文字の上下にはよらで、ちゝはゝと訓べし。そは、佛足歌に、知々波々賀多米《チヽハヽガタメ》云々。本集九【三十三丁】に、父母賀成乃任爾《チヽハヽガナシノマニ/\》云々。二十【廿丁】に、知々波々江已波比弖麻多禰《チヽハヽエイハヒテマタネ》云云とのみあれば也。また、略解には、母父《オモチヽ》と訓り。おもちゝといふ事は、廿【卅五丁】に、伊波負伊能知波意毛知々我多米《イハフイノチハオモチゝガタメ》云々。また【廿九丁】阿母志々爾己等麻乎佐受弖《アモシヽニコトマヲサズテ》云々などもあれど、これらは、皆、國ぶりの歌にて、方言ならんもしりがたければ、こゝには、とりがたし。さて、はゝをさして、おもといふ事も、古くあれど、そは、兒を育《ヒタ》し養《ヤシナ》ふ方につきていふ事なれば、かた/”\、こゝには叶ひがたし。
 
妻爾子等爾《ツマニコドモニ》。
かく爾もじを重ねて、父母にも、妻にも、于どもにもといふ意也。
 
語而《カタラヒテ》。
こゝは、かたりてといふ、りを延て、かたらひといふ也。また、語合《カタリアフ》を略きて、かたらふといふも、集中に多し。猶下【攷證四中五十一丁】にいふべし。
 
立西日從《タチニシヒヨリ》。
今もいふ如く、發足するを立《タツ》といへり。本集【廿八丁】に、山跡邊君之立日乃近者《ヤマトベニキミガタツヒノチカヅケバ》云々。また【卅丁】妻戀爲乍立而可去哉《ツマコヒシツヽタチテイヌベシヤ》などありて、集中、猶多し。
 
帶乳根乃《タラチネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。母はよく兒を育《ヒタ》し養ふ故に、日足根《ヒタラシネ》の母といふを、日を略き、志《シ》と知《チ》と通はせ、禰といふ言をそへて、たらちねの母とはつゞくる也。
 
(134)母命者《ハヽノミコトハ》。
命といふは、尊稱の詞なり。古事記上卷御歌に、夜知富許能迦微能美許登波《ヤチホコノカミノミコトハ》云々。本集五【五丁】に、字良賣斯企伊毛乃美許等能《ウラメシキイモノミコトノ》云々。九【廿七丁】に、垂乳根乃母之命乃《タラチネノハヽノミコトノ》云々。また【卅三丁】箸向弟乃命者《ハシムカフナセノミコトハ》云々。十八【廿三丁】に、波之吉餘之都麻乃美許登能《ハシキヨシツマノミコトノ》云々。十九【十四丁】に、知智乃實乃父能美許等《チヽノミノチチノミコト》云々などありて、集中、猶多し。
 
齋忌戸乎《イハヒベヲ》。
齋忌戸《イハヒベ》の事は、上【攷證三中五十八丁】にいへり。
 
木綿取持《ユフトリモチ》(・テ)。
木綿の事は、上【攷證三中廿九丁】にいへり。これも、神を祭る料也。
 
和細布奉《ニギタヘマツリ・ヤマトホソヌノマツロフ》。
祈年祭祝詞に、御服者明妙照妙和妙荒妙爾《ミゾハアカルタヘテルタヘニギタヘアラタヘニ》云々ともありて、和《ニギ》と荒《アラ》とむかへたる言にて、和妙《ニギタヘ》は織の細《クハ》しを《(マヽ)》いひ、荒妙《アラタヘ》は織の荒《アラ》きをいへる事、和稻《ニギシネ》、荒稻《アラシネ》などもいふにむかへて、しるべし。細布《タヘ》は、絹布《タヘ》の類を惣いふ名なる事、上【攷證一下廿六丁】荒妙《アラタヘ》の條にいへるが如し。されば、こゝには、織《クハ》の細しき細布《タヘ》といふ意にて、是も神を祭る料にて、幣を、にぎてといふも、同じ意なるよし、古事記傳卷八に、くはしく解れたり。
 
平《タヒラケク》。
これを、印本、乎に誤りて、をと訓たれど、必らず平の誤りなる事、明らかなれば、考の説によりて改む。本集十【廿丁】に、好去而安禮可幣里許牟平人伊波比底待登《ヨクユキテアレカヘリコムタヒラケクイハヒテマテト》云々とありて、續日本紀、寶龜二年己酉詔に、心母意太比爾念而《ココロモオタヒニオモヒテ》、平久幸久罷止富良須倍之止《タヒラケクサキクマカリトホラスベシト》云々とあるは、こゝと同じつゞけなるにても思ふべし。
 
(135)間幸座與《マサキクマセト》。
間は眞《マ》にて、添たる詞。幸《サキク》は、幸《サキハヒ》ありて、つゝがなくの意なる事、上【攷證二中十四丁】にいへるが如し。
 
天地乃《アメツチノ》。神祇乞祷《カミヲコヒノミ》。
乞《コヒ》は願ふ事を乞《コフ》意。祷《ノミ》は、字の如く、祈る事にて、本集五【四十丁】に、
 
天神阿布藝許比乃美地祇布之弖額拜《アマツカミアフギコヒノミクニツカミフシテヌカツキ》云々。十三【十八丁】に、天地之神祇乎曾吾祈《アメツチノカミヲゾワガノム》云々。十七【四十六丁】に、神社爾底流鏡之都爾等里蘇倍己比能美底《カミノヤシロニテルカガミシヅニトリソヘコヒノミテ》云々。二十【五十八丁】に、受米都知乃可未乎許比能美奈我久等曾於毛布《アメツチノカミヲコヒノミナカクトゾオモフ》云々など見えたり。さて、こゝまでの意は、龍麿、朝庭へ仕へ參りて、先祖の名跡をも繼興さんと、そのよしを、父母妻子にもつげて、家を出立て、京へのぼりし日より、家に殘りたる母は、わが子が都にても、つゝがなく朝庭にも仕へ奉らんやうにと、天神地祇を祈乞なり。旅行の留主にで、神を祈る事、集中いと多し。
 
何在《イカナラム》。歳月日香《トシノツキヒカ》。
何の年、何の月、何の日か、かへりこんと待意なり。
 
茵花《ツヽジバナ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。つゝじは赤白あれど、赤きを專らとする故に、にほへる君とはつゞけしにて、顔のうるはしく、つやゝかなるを、紅顔ともほめいふ如く、面のほのめくを、つゝじの花の如く、紅に匂ふとはいふ也。こは、あから引はだとつゞけ、さにづらふといふに、君とも、いもとも、をとめとも、つゞくるが如し。和名抄木類に、本草云、菌芋【因于二音。和名、爾豆々之。一云、乎加豆々之。】と見えたり。
 
(136)香君之《ニホヘルキミガ》。
にほへるとは、顔のにほふをいへり。この事は、上【攷證一上卅六丁】に、紫草能爾保敝類妹乎云々とある所にいへり。
 
牛留鳥《ヒクアミノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。なづさふといふ言は、上【攷證此卷十九丁】にいへるが如く、こゝは、なづむ意にて、網を引に、あみてふもの、とくもよりこず、そろ/\となづみつゝより來るもの故に、牛留鳥《ヒクアミ》の如く、なづさふとはつゞけし也。さて、考にも、略解にも、久老が考にも、牽の字を、之牛の二字に誤れりといへるは、いかゞ。牛は、必らず綱にて引もの故に、その意もて、牛の字をひくとは義訓せるにて、集中、丸雪をあられ、所聞多をかしま、向南をきた、義之をてし、などよめる類なれば、あやしぶにたらず。又、説文牽字注に、引前也、从v牛象2引v牛之縻1也とありて、牽を引といふ意とする、牛に從ふ故なれば、かた/”\につきて、牛をひくとよまん事、論なし。留鳥を、あみと訓るも、鳥を留むるは網なるによりて、義訓せるにて、本集十一【卅七丁】に、留鳥浦之《アミノウラノ》云々とも見えたり。
 
名津匝來與《ナヅサヒコムト》。
なづさふといふ言は、まへにもいへるが如く、なづむと同意にて、こゝは、そろ/\とゝいはんが如く、遠き道を、漸にかへり來らんと待意也。さて、匝をさひと訓は、韻會に、※[市の一画目無し]通作v匝とありて、※[市の一画目無し]は、廣韻に、子答切とありて、さふの音なるを轉じて、さひとはよめる也。
 
立居而《タチテヰテ》。
立たり居たりして、といふ意なり。上【攷證三中五十一丁】に出たり。
 
(137)待監人者《マチケムヒトハ》。
こは、龍麿をさして、父母妻子のまちけん、その人はといふ也。人者の者もじ、下の在鶴公者《アリツルキミハ》といふ者もじと重なりて、聞にくきやうなれど、待監人者《マチケムヒトハ》、在鶴公者《アリツルキミハ》と、同じ事々重ねていひて、さて、何方爾念座可《イカサマニオモホシマセカ》とうけたる也。
 
王之《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。
こは、班田使の史生に任《マケ》給ふ王のみことのかしこさにといふ也。
 
押光《オシテル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。難波《ナニハ》といふも、浪速《ナミハヤ》の訛言なるよし、書紀神武紀に見えたり。されば、押光と書るは借字にて、襲立《オソヒタテ》る浪速《ナミハヤ》といふ意もてつゞけし也。(頭書、押光。久老別記の説によるべし。)
 
難波國爾《ナニハノクニニ》。
古しへは、一郡、一郷をさしても、國といへりし也。集中、吉野國、初瀬國なども見え、古事記に、下菟上國《シモツウナカミノクニ》、石城《イハキノ》國なども見えたり。この事、上【攷證一上廿六丁】にもいへり。
 
荒玉之《アラタマノ》。
枕詞にて、冠辭考に出たれど、いかゞ。荒玉と書るは借字にて、阿多良阿多良麻《アタラアタラマ》の約りたる言なり。安多良《アタラ》とは、年月日のうつりゆくをいへる言《(マヽ)》になれば、年とも、月とも、來經《キヘ》とも、つゞくる也。こは、宣長の説にて、古事記傳卷二十八にくはし。
 
年經左右二《トシフルマデニ》。
田令に、凡應v班v田者、毎2班年1、正月三十日内2申太政官1。起2十月一日1、京國官司、預校勘造v薄、至2十一月一日1※[手偏+總の旁]集、應v受v之人、對共給授。二月三十日内(138)使訖とありて、義解に、謂斑田之事、既斂2延兩年1、恐以2兩年1、※[手偏+總の旁]爲2班田年1と見え、班田使、其國に至りて、今年の十一月より明年の二月までに、百姓に田を班をはれば、其國にて年を越によりて、難波の國に年ふるまでにとはいへり。
 
白栲《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にも出たり。
 
衣《コロモ》不干《ヽホサズ・カハカズ》。
こは、長き旅なるうへに、朝夕に、班田に立て、衣もほさぬまでに、勤勞するをいへり。又、思ふに、衣の下、手もじを脱せるにあらざるか。
 
朝《アサ》夕《ヨヒニ・ユフニ》。在鶴公者《アリツルキミハ》。
舊訓、あさゆう《(マヽ)》とあれど、古くは、みな、あさよひとのみいへりし事、上【攷證一上十丁】にいへるが如し。さて、こゝは、三中も龍麿と同寮の人なれば、朝夕に見なれしを、あさよひにありつるきみ、とはいへり。
 
何方爾《イカサマニ》。念座可《オモホシマセカ・オモヒマシテカ》。
本集一【十七丁】に、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》云々。二【廿六丁】に、何方爾所所食可《イカサマニオモホシメセカ》云々。また【二十七丁】何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》云々などあるも、皆、同じく、おもほしめせばかといふ意なれば、こゝも、龍麿の、いかに思ひませばか、死すべき時にもあらぬを、自ら經死しけんといふ也。
 
欝蝉乃《ウツセミノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十丁】に出たり。こゝは、句を隔てゝ、世とつゞけし也。
 
(139)露霜《ツユシモノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中四丁】にも出たり。
 
置而《オキテ》往《イニ・ユキ》監《ケム》。
置而《オキテ》は、をしむべきこの世をさて除《オキ》て、いかに思ひてか、うせけんといふ意にて、置は除《オク》の意也。本集五【廿九丁】に、安禮乎於伎弖人者安良自等《アレヲオキテヒトハアラジト》云々。十【八丁】に、除雪而梅莫戀《ユキヲオキテウメヲナコヒソ》云々。十一【廿九丁】に、公乎置者待人無《キミヲオキテハマツヒトモナシ》云々などあるにて、しるべし。古事記上卷御歌に、那遠岐弖遠波那志《ナヲキテヲハナシ》、那遠岐弖都麻波那斯《ナヲキテツマハナシ》云々とあるも、除而《オキテ》の意なれど、汝をおきての、おを略けるにて、日置をひき、玉置をたまき、といふと同じ。
 
時《トキ》爾不在《ナラズ・ニアラズ》之天《シテ》。
こは、死すべき時ならずしてといふにて、天命を終らぬをいへり。まへの歌に、大荒城乃時爾波不有跡《オホアラキノトキニハアラネド》云々とあるをも思ふべし。
 
反歌。
 
444 昨日社《キノフコソ》。公者在然《キミハアリシカ》。不思爾《オモハヌニ・オモハズニ》。濱松之上《ハママツノヘ》(ノ・ニ)。於雲棚引《クモニタナビク》。
 
公者在然《キミハアリシカ》。
然《シカ》は社《コソ》の結び詞。しかどもの意にて、きのふこそ、君はありしかども、といふ也。かを清て訓べし。本集九【廿丁】に、昨日己曾吾越來牡鹿《キノフコソワガコエコシカ》云々。十【八丁】に、昨日社年者極之賀《キノフコソトシハハテシカ》。古今集秋に、きのふこそさなへとりしか云々などあるも、皆同じ。
 
(140)不思爾《オモハヌニ・オモハズニ》
本集五【卅九丁】に、於毛波奴爾《オモハヌニ》云々とあれば、おもはぬにと訓べし。又、八【十七丁】に、霜雪毛未週者不思爾春日里爾梅花見都《シモユキモイマダスギネバオモハヌニカスガノサトニウメノハナミツ》云々。十【四十八丁】に、不念爾四具禮乃雨者零有跡《オモハヌニシグレノアメハフリタレド》云云。十一【十七丁】に、不念丹到者殊之歡三跡《オモハヌニイタラバイモガウレシミト》云々などあるも、同じく、おもひもよらぬにといふ意也。
 
於雲棚引《クモニタナビク》。
雲にの、にもじは、との意にて、雲となりて、たなびくといふ也。この歌をもて見れば、屍をば、火葬せしなるべし。火葬の煙を見て、きのふまでは、ありし人の、おもひもよらず、煙となりて、松の上に、雲とたなびくよとなり。火葬の煙を、雲と見なしたる事は、上【攷證此卷十八丁】にいへり。
 
445 何時然跡《イツシカト》。待牟妹爾《マツラムイモニ》。玉梓乃《タマヅサノ》。事太爾不告《コトダニツゲズ》。往《イニシ・イヌル》公鴨《キミカモ》。
 
何時然跡《イツシカト》。
こは、待願ふ意の詞なる事、上【攷證三中七十三丁】にいへるが如し。
 
玉梓乃《タマヅサノ》。
こは、使《ツカヒ》といふへかくる枕詞なるを、やがて、使のことゝしたる事、上【攷證此卷六丁】にいへるが如し。
 
事太爾不告《コトダニツゲズ》。
事は借字、言にて、使をやりて、その言をだに、つげずして、うせし人かもと、歎息したる也。一首の意は、くまなし。
 
天平二年庚午冬十二月。太宰帥大伴卿。向v京上v道之時。作歌五首。
(141)この大伴卿は、旅人卿にて、この卿の事は、上【攷證三上六十三丁】に出たるが如く、太宰府にありしほど、天平二年十月一日大納言に任ぜられしかば、十二月になりて、京へ登らるゝ也。まへにも、この卿の失にし妻を悲しまるゝ歌ありて、そは太宰府にて失られしかば、京へかへるにも、その事を、まづ思ひいでらるゝ也。
 
446 吾妹子《ワギモコ》之《ノ・ガ》。天木香樹者《ムロノキハ》。常世有跡《トコヨニアレド》。見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》。
 
見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》。
鞆浦は、地圖もて考ふるに、備後國沼隈郡の海邊なり。この所は、人もよくしれる所なれば、さらにいはず。
 
天木香樹者《ムロノキハ》。
新撰字鏡に、※[木+聖]、程三同、諸貞反、楊類。加波也奈支。又、牟呂乃木云々。本草和名に、赤※[木+聖]、一名※[木+聖]乳【木中脂也】和名、牟呂乃岐云々とあれば、むろの木は、※[木+聖]にて、※[木+聖]は、陸機詩疏に、※[木+聖]生2水旁1、皮赤如v※[糸+峰の旁]、枝葉如v松云々。文選南都賦注に、※[木+聖]似v柏而香、今※[木+聖]中有v脂、號2※[木+聖]乳1云々とありて、こは今もいづこにもありて、柏子といふ木に似、また杉の木にも似たるものゝよし、宣長の玉勝間に見えたり。さて、天木香樹とかけるは、本集十六【十八丁】にお、端詞に、天未香【印本木を水に誤れり。】とありて、歌には室乃樹《ムロノキ》とよめり。この天木香(以下、原本一葉落丁。岩崎文庫本ニモ無シ)
 
(142)449(與妹來之《イモトコシ》。敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》。還左爾《カヘルサニ》。獨而見者《ヒトリシテミレバ》。涕具末之)毛《ナミダグマシモ》。
 
敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》。
敏馬は、攝津國菟原郡なる事、上【攷證三上十八丁】にいへり。
 
還左爾《カヘルサニ》。
左は、さまの略言なる事、上【攷證三上四十九丁】にいへるが如く、ゆくさ、くさ、といふさも、これに同じ。本集十五【十丁】に、可敞流散爾伊母爾見勢武爾《カヘルサニイモニミセムニ》云々。また【廿八丁】可反流左爾見牟《カヘルサニミム》云々など見えたり。
 
涕具末之毛《ナミダグマシモ》。
古事記下卷歌に、阿賀勢能岐美波那美多具麻志母《アガセノキミハナミダグマシモ》云々とありて、具末之《グマシ》は、葦の角ぐむ、萠《メ》ぐむなどいふ、ぐむと、おなじ言にて、物の萠《キザ》しもよほすをいひて、こゝは、涙のきざすをいへり。後撰集戀四に、いにしへの野中のしみづ見るからに、さしぐむものはなみだなりけり、とも見えたり。一首の意は、妹と共に來つる、その敏馬の浦を、いまかへるとて、今はわれ獨にて見れば、妹と二人來つる事を思ひいでゝ、涙のもよほさるとなり。
 
450 去左爾波《ユクサニハ》。二吾見之《フタリワガミシ》。此埼乎《コノサキヲ》。獨過者《ヒトリスグレバ》。惰悲喪《コヽロカナシモ》。【一云。見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》。】
 
二吾見之《フタリワガミシ》。
二を、ふたりと訓るは、字を略きてかけるにて、一をひとりとよめるがごとし。
 
(143)此埼乎《コノサキヲ》。
敏馬の埼をいへり。
 
惰悲喪《コヽロカナシモ》。
活本に、哀を喪に作り、考異本に引る古本に、裳に作れり。これらも、あしからねど、今の如く、悲哀とありても、かなしもとよまるべし。さて、本集十五【十五丁】に、
 
許己呂我奈之久伊米爾美要都流《ココロガナシクイメニミエツル》云々。十九【四十八丁】に、情悲毛比登里志於母倍婆《ココロカナシモヒトリシオモヘバ》云々などありて、心のかなしき也。
 
一云。見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》。
見も不放《サケズ》して來ぬといふ意にて、見さけは、見|遣《ヤル》意なる事、上【攷證一上卅二丁】にいへるが如く、こゝは、妻の失たる悲しさを、又さらに思ひいでゝ、悲しさに、所のよきけしきをも、見もやらずして、こゝまでは來りぬと也。本書にても、一云にても、一首の意は、くまなし。
 
右二首。過2敏馬埼1日。作歌。
 
これも、右の歌によりて、後人のしるせるなるべし。
 
還2入故郷家1。即作歌三首。
 
故郷を、久老が考に、古今集以來は、本郷をふるさとゝいへれど、集中、ふるさとゝいふは、帝都のあとをいふ言にて、本郷は、すべて國といふ例也云々とて、くにに訓たれど、この説非なり。(144)いかにも、本郷をさして國といふ事は、上【攷證此卷十六丁】にいへるが如くなれど、本集四【四十九丁】大伴坂上郎女、從2跡見庄1、贈2賜留v宅女子大孃1歌に、如是許本名四戀者古郷爾此月期呂毛有勝益士《カクバカリモトナシコヒバフルサトニコノツキコロモアリガテマシヲ》云々とある古郷も、全く本郷をさしていひて、こは、ふるさとゝよまんより外、訓べき方なきにて、かの説の非なるをしるべし。されば、こゝの古郷も、ふるさとゝ訓べし。京の家をさしていへる也。さて、このはじめに、太宰府にありて、亡妻をかなしみ、それより京へのぼる道のほどにても、かなしみ、又、家にかへりても、かなしまるゝ歌あるに、思ひのせちなりし事しらる。かの貫之ぬしの土佐日記に、府にありても、道にいでゝも、家にかへりても、失にし子をかなしめるさま、これに似たり。この卿の古郷は、いづこにか、たしかにはしりがたけれど、本集六【廿四丁】に、大納言大伴卿、在2寧樂家1、思2故郷1歌によめる神名火《カミナビ》は高市郡、栗栖《クルスノ》小野は忍海郡にて、この二郡、隣たる郡なれば、この二郡のうちなるべし。
 
451 人毛奈吉《ヒトモナキ》。空家者《ムナシキイヘハ》。草枕《クサマクラ》。旅爾益而《タビニマサリテ》。辛苦有家里《クルシカリケリ》。
 
空家者《ムナシキイヘハ》。
まへに、この卿の太宰府にての歌に、みやこにてあれたる家にひとりねば旅にまさりてくるしかるべし、とよまれたると同じく、かねて思ひしが如く、妹なくして、なむしき家は、旅にまさりて、くるしかりけりと也。
 
辛苦有家里《クルシカリケリ》。
まへの歌には、くるしかるべしとおしはかり、こゝに至りて、おしはかりしがごとく、くるしきよしをいひて、歌をなせり。
 
(145)452 與妹爲而《イモトシテ》。二作之《フタリツクリシ》。吾《ワガ》山齋《ヤド・ヤマ》者《ハ》。木高繁《コダカクシゲク》。成家留鴨《ナリニケルカモ》。
 
吾《ワガ》山齋《ヤド・ヤマ》者《ハ》。
この歌を、六帖第四にのせて、この句を、わがやどはと訓るに從へり。齋は、韻會に、燕居之室曰v齋とありて、家の事なれば、山齋を、やどゝはよめり。南史謝擧傳に、擧宅内山齋捨以爲v寺云々とあるにてもしるべし。すべて、やどゝいふは、皆、家の事なれど、本集此卷【三十八丁】に、吾屋戸爾幹藍種生之《ワガヤドニカラヰマキオホシ》云々。四【五十八丁】に、吾屋戸之草上白久《ワガヤドノクサノヘシロク》云々など、この外にもいと多く、家より庭をもおしなべて、やどゝはいふ也。されば、こゝに木高繁《コダカクシゲタ》とはつゞけたり。又、二十【六十二丁】屬2目山齋1作歌と題して、池島などをのみよめるにても、山齋は、やどゝはよめども、庭をかけていふなるをしるべし。
 
木高繁《コダカクシゲク》。
こは、庭のあれはてしをいひて、土佐日記に、家にかへりたる時、庭のあれはてしをいへる所は、こゝな《(マヽ)》をやとりてかゝれ《(マヽ)》、すがた似たり。さて、一首の意は、むかし妹と吾と二人して、かしこはかくやせん、こゝはとやせんとて、二人語り合て作らせし吾庭は、かの太宰帥の任にありしほどに、たれとても苅拂ふものもなく、ましてつくろふものもあらねば、庭の木立の木高くしげりで、あれはてたるものかなと歎息して、見るものごとに、過にし妻を思ひ出らるゝよし、いとあはれなり。
 
453 吾妹子之《ワギモコガ》。殖之梅樹《ウヱシウメノキ》。毎見《ミルゴトニ》。情咽都追《コヽロムセツヽ》。涕之流《ナミダシナガル》。
 
(146)情咽都追《コヽロムセツヽ》。
本集四【廿三丁】に、情耳咽乍有爾《コヽロノミムセツヽアルニ》云々。また【卅八丁】に、心爾咽飯哭耳四所流《コヽロニムセビネノミシナカユ》云々。二十【卅八丁】に、麻蘇※[泥/土]毛知奈美太乎能其比牟世比都々《マソデモチナミダヲノゴヒムセビツヽ》云々など見え、新撰字鏡に、〓、〓也、牟須とありて、こは、思ひのせちなるをいひて、今の世にいふ所と同じ。
 
涕之流《ナミダシナガル》。
之は助字なり。一首の意は、妻の植たる梅の木を見るたびごとに、うゑつる人を思ひ出て、泣んとするにもなかれず、心にのみ、むせかへらるとなり。
 
天平三年辛未秋七月。大納言大伴卿薨之時。作謌六首。
 
薨去の年月、續日本紀とよく合り。作の字、印本脱せり。今、目録に依て補ふ。
 
454 愛八師《ハシキヤシ》。榮之君乃《サカエシキミノ》。伊座勢波《イマシセバ》。昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。吾《ワ・ワレ》乎召麻之乎《ヲメサマシヲ》。
 
愛八師《ハシキヤシ》。
はしきは愛する意、やはよに通ひて、かろく添たる詞、しは助字也。この事は、上【攷證二下十二丁】にいへり。
 
榮之君乃《サカエシキミノ》。
 
本集七【十丁】に、安志妣成榮之君之《アシビナスサカエシキミノ》云々とも見えたり。
 
吾《ワ・ワレ》乎召麻之乎《ヲメサマシヲ》。
吾をわとのみいふは、汝《ナレ》をな、誰《ダレ》をた、此《コレ》をこ、彼《カレ》をか、とのみもいふ類にて、これらの、れもじは、略きてもいふ例也。本集十一【十一丁】に、和乎待難(147)爾《ワヲマチガテニ》云々。十四【卅四丁】に、和乎可麻都那毛《ワヲカマヅナモ》云々。二十【廿七丁】に、和波可敝里許牟《ワハカヘリコム》云々などありて、集中猶多し。さて、この歌は、左注に資人金明軍がよめるよしあるが如く、いかにも資人がよめる歌にて、本集二【卅丁】日並皇子尊の殯宮の時、舍人等がよめる歌に、東乃多藝能御門爾雖伺待昨日毛今日毛召言毛無《ヒムガシノタギノミカドニサモラヘドキノフモケフモメスコトモナシ》とあるに似たり。一首の意は、くまなし。
 
455 如是耳《カクノミニ・カクシノミ》。有家類物乎《アリケルモノヲ》。芽子花《ハギノハナ》。咲而有哉跡《サキテアリヤト》。問之君波母《トヒシキミハモ》。
 
如是耳《カクノミニ・カクシノミ》。
本集十六【十一丁】に、如是耳爾有家流物乎《カクノミニアリケルモノヲ》云々とあれば、かくのみにと訓べし。こは、此卷【五十七丁】に、加是耳有家留物乎妹毛吾毛如千歳憑有來《カクノミニアリケルモノヲイモモワレモチトセノゴトモタノミタリケル》ともありて、この、かくのみにありけるものをといふ詞は、みな、下へ意をふくむる詞にて、この下なるは、かくばかりに、はかなくありけるものをといふ意。十六卷なるは、かくばかりに、形のかはりてありけるものをといふにて、こゝなるは、かくばかりに、萩の花は咲てありけるものをといふ意也。この薨去の時は、七月なりしかば、萩の花尤咲てあるべし。
 
咲而有哉跡《サキテアリヤト》。
萩の花の咲たりやなど、問れし事、ありしなるべし。
 
問之君波母《トヒシキミハモ》。
波母《ハモ》といふ詞は、上【攷證二中四十九丁】にいへりしが如く、下へ意をふくめて、歎息の意こもれる詞にて、一首の意は、萩の咲たるを見て、かくばかりに咲にしものを、萩の花はさきたりやなど、問給ひし君はも、今はおはしまさずといふ意にて、はかなき草木につけても、君を思ひ出るなり。この歌、五の句を、一二の句へ、うちかへして聞べし。
 
(148)456 君爾戀《キミニコヒ》。痛《イタ・イト》毛爲便奈美《モスベナミ》。蘆鶴之《アシタヅノ》。哭耳所泣《ネノミシナカユ・ネノミナカルヽ》。朝夕四天《アサヨヒニシテ》。
 
君爾戀《キミニコヒ》。
君にこひ、妹にこひ、などいふ、にもじは、をの意にて、君をこひ、妹をこひ、といふ意なる事、上【攷證二上廿九丁】にいへるが如し。
 
痛《イタ・イト》毛爲便奈美《モスベナミ》。
本集十三【卅丁】に、伊多母爲便無見《イタモスベナミ》云々。十五【卅九丁】に、伊多母須敝奈之《イタモスベナシ》云々。十七【卅二丁】に、伊多母須敝奈美《イタモスベナミ》云々。二十【卅丁】に、伊刀母須弊奈之《イトモスベナシ》云々などあれば、多き方につきて、いたもすべなし《(マヽ)》と訓べし。こゝに痛の字を書るは借字にて、こは古事記下卷御歌に、伊多那加婆比登斯理奴倍志《イタナカバヒトシリヌベシ》云々とある伊多《イタ》と同じく、いたくといふ意にて、こゝは、君を戀ても、ひたぶるに、一向すべなきにといふ意也。四【卅一丁】に、君爾戀痛毛爲使無見楢山之小松下爾立嘆鴨《キミニコヒイタモスベナミナラヤマノコマツノモトニタチナゲクカモ》とあるも同じ意也。
 
蘆鶴之《アシタヅノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。鶴の如く、音になくとつゞけし也。さて、鶴をあしたづといふは、本集四【廿八丁】に、草香江之入江二求食蘆鶴乃《クサカエノイリエニアサルアシタヅノ》云々。六【廿二丁】に、湯原爾鳴蘆多頭者《ユノハラニナクアシタヅハ》云々などありて、集中猶多し。こは、十一【四十七丁】に、葦鴨之多集池水《アシガモノスダクイケミヅ》云々とあるも、たゞ鴨をいひ、十六【卅丁】に、葦河爾乎《アシガニヲ》云々とあるも、たゞ蟹をいふなれば、これら、みな、葦邊に住るによりて、その住所のものを名におほせて、鶴をさして、あしたづとはいふ也。和名抄羽族名に、四聲字苑云、鶴【和名、豆流。】唐韻云、※[零+鳥]【音零。楊氏抄一、多豆。今案倭俗謂v鶴爲2葦鶴1是也。】鶴別名也と見えたり。
 
朝夕四天《アサヨヒニシテ》。
にしては、上【攷證三中五十四丁】にいへるが如く、にてといふ意也。さて、一首の意は、君に戀ても、一向そのたよりもなさに、あしたづのごとく、朝夕につけて、音のみな(149)かる也。さて、久老が考に、四を、類聚抄に、西に作れりとあり。
 
457 遠長《トホナガク》。將仕物常《ツカヘムモノト》。念有之《オモヘリシ》。君師不座者《キミシマサネバ》。心神《ココロド・タマシヒ》毛奈思《モナシ》。
 
遠長《トホナガク》。
遠く長く、いつまでも、この君に仕へ奉らんと思へりしとなり。
 
心神《ココロド・タマシヒ》毛奈思《モナシ》。
こゝろとゝいふことは、本集此卷【五十七丁】に、離家伊麻須吾妹乎停不得山隱都禮情神毛奈思《イヘサカリイマスワギモヲトヾメカネヤマガクリツレコヽロトモナシ》云々。十一【十五丁】に、吾情利乃生戸裳名寸《ワガコヽロトノイケリトモナキ》云々。十二【廿三丁】に、吾心神之頃者名寸《ワガコヽロトノコノコロハナキ》云々。十三【十五丁】に、戀茂二情利文梨《コヒノシゲキニコヽロトモナシ》云々。十七【廿七丁】に、伎彌爾故布流爾許己呂度母奈思《キミニコフルニコヽロトモナシ》云々。十九【十七丁】に、吾情度乃奈具流日毛無《ワガコヽロトノナグルヒモナシ》云々などありて、こは十一【六丁】に、利心及失念戀故《トコヽロノウスルマデモフコフラクユヱニ》云々。十三【七丁】に、我胸者破而摧鋒心無《ワガムネハワレテクダケテトコヽロモナシ》云々。二十【五十四丁】に、夜伎多知能|刀其己呂毛安齡波於母比加禰都毛《トコヽロモアレバオモヒカネツモ》云々とある、とごゝろと同じく、このともじは、利とかける正字にて、大祓祝詞に燒鎌乃敏鎌以※[氏/一]《ヤキガマノトガマモテ》云々とある敏《ト》も、同じく利《ト》き意にて、利《ト》きは早きをいふ言なれば、心利《コヽロト》は、心のさとり早《ハヤ》きをいひて、さとき意なる事、十二【八丁】に、丈夫之聰神毛今者無《マスラヲノサトキコヽロモイマハナシ》云々ともあるにてしるべし。されば、利心《トコヽロ》もなし、心利《コヽロト》もなしなどいふは、思ひあるにしづみて、心もほれて、さとき心もうせはてたるよし也。さて、心神を、舊訓、たましひと訓たれど、神はこゝろとも訓たるが如く、心を神ともいへば、まへに引る例どもをおしわたして、心神も、こゝろどゝ訓べきをしるべし。一首の意は、遠く長く仕へ奉らんと思ひたりし君の、おはせざれば、そのなげきにしづみて、今(150)は聰《サト》き心もなく、ほれまどへりとなり。
 
458 若子乃《ミドリコノ》。匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》。朝夕《アサヨヒニ》。哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》。君無二四天《キミナシニシテ》。
 
若子乃《ミドリコノ》。
若子を、みどりこと訓るは、義訓也。この事は、上【攷證二下四十九丁】にいへり。乃は如くの意也。
 
匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》。
匍匐《ハフ》は這にて、本集十六【七丁】に、平生蚊見庭《ハフコガミニハ》云々とある如く、嬰兒は這《ハヒ》めぐるものなれば、それが如く、這《ハヒ》たもとほりとは、つゞけしにて、たもとほりのたは發語、もとほりは廻《モトホ》りにて、立めぐりさまよひ徘徊するを、はひてとは、せんすべなき時のわざ也。この事、上【攷證三下廿九丁】伊波比廻《イハヒモトホリ》とある所にいへり。さて、こゝは、嬰兒が親をしたひて這《ハヒ》めぐる如くに、君をしたひて徘徊するをいへり。一首の意は、くまなし。
 
右五首。仕人金明軍。不v勝2犬馬之慕1。心中感緒作歌。
 
仕人。
仕人は、仕へ奉る人をいふ也。續日本紀に、養老五年三月辛未、勅給2中納言從三位大伴宿禰旅人、帶刀資人四人1云々とある、帶刀資人などをさして、仕人とはいふなるべし。さて、代匠記に引る官本、考異本に引る異本なども、仕人を資人に作るは、よきに似たれど、さかしらならんもしりがたし。資人の事は、軍防令に見えたり。
 
(151)金明軍。
金は氏、明軍は名なり。上【攷證三中七十九丁】に出たり。
 
不v勝《タヘ》2犬馬之|慕《オモヒニ》1。
犬や馬の、主人をしたふが如くなる思ひにたへずしてといふ意也。史記三王世家に、臣竊不v勝2犬馬心1云々。文選、曹子建上2責v躬應v詔詩1表に、不v勝2犬馬戀v主之情1云々など見えたり。
 
心中感緒。
感緒は、廣雅釋詁二に感※[立心偏+易]也と見え、楚辭渉江注に緒餘也とあれば、卿のうせ給ひしを、したひ奉りて、心中にいたむあまりに作る歌てふ意なるべし。代匠記の説に、心の上に述の字を脱せるなるべしといひ、久老の説に、中は申の誤りとて、不v勝2犬馬慕心1、申《ノベテ》2感緒1作歌とせり。猶可v考。
 
459 見禮杼不飽《ミレドアカズ》。伊《イ》座《マシ・マセ》之君我《シキミガ》。黄葉乃《モミヂバノ》。移伊去者《ウツリイヌレバ》。悲喪有香《カナシクモアルカ》。
 
黄葉乃《モミヂバノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。黄葉《モミヂバ》の過《スグ》とつゞくるが如く、黄葉は、日をふれば、うつろふものなれば、うつるとつゞけし也。本集四【卅丁】に、月草之徙安久《ツキクサノウツロヒヤスク》云々。五【九丁】に、散久伴奈能宇都呂比爾家里《サクハナノウツロヒニケリ》云々。六【四十三丁】に、春花乃遷日易《ハルハナノウツロヒカハリ》云々などつゞくるたぐひなり。
 
移伊《ウツリイ》去《ヌレ・ユケ》者《バ》。
本集二【卅七丁】に、黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》云々とあると、同じつゞけなれば、うつりいぬればと訓べし。一首の意は、くまなし。
 
(152)右一首。勅2内禮正縣犬養宿禰人上1。使3檢2l護卿病1。而醫藥無v驗。逝水不v留。因v斯悲慟。即作2地歌1。
 
内禮正。
職員令に、内禮司正一人、掌3宮内禮儀禁2察非違1云々と見えたり。
 
縣犬養宿禰人上。
父祖、考へがたし。縣犬養の氏は、書紀天武紀に、十三年十二月己卯、縣犬養連賜v姓曰2宿禰1云々。姓氏録卷十二に、縣犬養宿禰、神魂命八世孫、阿居大都命之後也と見えたり。
 
逝水不v留。
ゆく水のとゞまる事なきに、人命のとゞむべからざるをよそへて、薨去の事をいへり。論語□(子罕カ)篇に、子在2川上1曰、逝者如v斯夫、不v舍2晝夜1云々。鮑照詩に、客行惜2日月1、奔波不v可v留云々など見えたり。
 
悲慟。
玉篇に、慟、哀極也とありて、悲慟は、かなしみなげく意也。
 
七年乙亥。大伴坂上郎女。悲2嘆尼埋願死去1。作歌一首。并短歌。
 
(153)大伴坂上郎女。
安麻呂卿の女にて、後に藤原麻呂卿の妻となれり。上【攷證三中五十七丁】に出たり。
 
尼理願。
傳、考へがたし。新羅の國人なるよし、左の歌と左注に見えたり。
 
460 栲《タク》角《ツヌ・ツノ》乃《ノ》。新羅國從《シラギノクニユ》。人事乎《ヒトゴトヲ》。吉跡《ヨシト》所聞《キコシ・キカシ》而《テ》。問放流《トヒサクル》。親《ウ・ヤ》族兄弟《ガラハラカラ》。無國爾《ナキクニニ》。渡來座而《ワタリキマシテ》。太皇之《スメロギノ》。敷座國爾《シキマスクニニ》。内日指《ウチヒサス》。京思美彌爾《ミヤコシミミニ》。里家者《サトイヘハ》。左波爾雖在《サハニアレドモ》。何方爾《イカサマニ》。念鷄目鴨《オモヒケメカモ》。都禮毛奈吉《ツレモナキ》。佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》。哭兒成《ナクコナス》。慕來座而《シタヒキマシテ》。布細乃《シキタヘノ》。宅乎毛造《イヘヲモツクリ》。荒玉乃《アラタマノ》。年緒長久《トシノヲナガク》。住乍《スマヒツヽ》。座之物乎《イマシシモノヲ》。生《イケル》者《モノ・ヒト》。死《シヌ》云《トフ・トイフ》事爾《コトニ》。不免《マヌカレヌ》。物爾之有者《モノニシアレバ》。憑有之《タノメリシ》。人乃盡《ヒトノコト/”\》。草枕《クサマクラ》。客有間《タビナルホド・タビニアルマ》爾《ニ》。佐保河乎《サホガハヲ》。朝川渡《アサカハワタリ》。春日野乎《カスガヌヲ》。背向爾見乍《ソガヒニミツヽ》。足氷木乃《アシヒキノ》。山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》。晩闇跡《ユフヤミト》。隱《カクリ・カクレ》益去禮《マシヌレ》。將言爲便《イハムスベ》。將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》。徘徊《タモトホリ・タチトマリ》。直獨而《タヾヒトリシテ》。白細之《シロタヘノ》。衣(154)袖不干《コロモデホサズ》。嘆乍《ナゲキツヽ》。吾泣涙《ワガナクナミダ》。有間山《アリマヤマ》。雲居輕引《クモヰタナビキ》。雨爾零寸八《アメニフリキヤ》。
 
栲《タク》角《ツヌ・ツノ》乃《ノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。栲《タグ》は木の名にて、角《ツヌ》は借字、布にて、栲の木の皮にて織たる布なり。これを、細布《タヘ》とも、木綿《ユフ》ともいへり。こは、きはめて白きものなれば、新羅《シラギ》を、白き意にいひかけたり。栲の白き事は、上【攷證一下七十一丁】にいへり。
 
新羅國從《シラギノクニユ》。
宣長云、或人、新羅は斯良《シラ》と訓べし。岐《ギ》は、具爾《グニ》の約りたるにて、斯良岐《シラギ》は新羅國《シラグニ》の謂なれば、斯良岐《シラギ》の國とはいふべきにあらずといへり。これも、一わたり、いはれたることなり。斯良、新良などもかき、漢籍に斯盧國ともいへれば、斯良といはん事、さもあるべし。しかれども、皇國の言に、正しく斯良と云る例を未だ見ず。また、百濟、高麗を、久陀良岐《クダラギ》、古麻岐《コマギ》といへる例もなければ、斯艮のみ、國を岐《ギ》といはんも、いかゞなり。しかれば、岐《ギ》は、たとひ本は國の謂にもあれ、久陀良《クダラ》、古麻《コマ》とならべて、斯良岐《シラギ》といひ來つれば、斯良岐《シラギ》の國《クニ》といはんに、なでふ事かあらん。國の名の、淡海は即|淡海《アハウミ》なれども、其海をば、あふみの海《ミ》といへるに非ずや云々といつはれつるが如し。さて、この新羅國は、書紀、仲哀天皇八年紀に、有v神託2皇后1而誨曰、天皇何憂2熊襲之不1v服、是※[旅/肉]之空國也、豈足2擧v兵伐1乎。愈2爰國1、而有2寶國1、譬如2美女之〓1、有2向津國1、眼炎之金銀彩色多在2其國1、是謂2栲衾《タクブス》新羅國1焉云々と、こゝに、はじめて見えて、この國の中國に朝貢する事は、人もしれる如く、神功皇后にはじまりて、今、猶たゆることなし。南史新羅國傳に、新羅在2百濟東南五十餘里1、其地東濱大海、南北與2勾(155)麗百濟1接。魏時曰2新盧1、宋時曰2新羅1、或曰2斯羅1云々と見たり。從は、よりの意なり。
 
人事乎《ヒトコトヲ》。
人事は借字にて、人言なるよしは、上【攷證一上卅五丁】にいへり。こは、人のいふ言を、よしときこしていふにて、新羅の國にて、この國の事を、人の噂するを、よき所ぞと、きこしてといふ意也。
 
吉跡《ヨシト》所聞《キコシ・キカシ》而《テ》。
吉は好也。聞而《(マヽ)》は、舊訓、きかしてとあるも、誤りならず。古事記上卷御歌に、佐賀志賣遠阿理登岐加志弖《サカシメヲアリトキカシテ》、久波志賣遠阿理登伎許志弖《クハシメヲアリトキコシテ》云々と同じ言を、きかしてとも、きこしとも、いへば、こゝも、いづれにでもよけれど、書紀應神紀歌に、枳虚之茂知塢勢《キコシモチヲセ》云々。【こは、食することも、きこしめせといふ意なれど、語の本は一つ言なれば、ここに引たり。】古事記上卷御歌に、阿〓爾那古斐岐許志《アヤニナコヒキコシ》云々。下卷御歌に、意富岐彌斯與斯登岐許佐婆《オホキミシヨシトキコサバ》云々。【これらのきこすは、のたまふをいふなれば、語の本は一つなれば、こゝに引たり、】などありて、集中にも多かれば、多きにつきて、きこしとよむべし。
 
問放流《トヒサクル》。
この放流《サクル》は、見放《ミサケ》、語放《カタリサケ》などいふ、さけと同じく、問遣《トヒヤ》る意にて、思ふ事を、問つかはす、親族もなきくにゝといふ意也。この放《サク》といふ詞の事は、上【攷證一上卅二丁】にいへり。
 
親族兄弟《ウガラハラカラ》。
親族は、うからと訓べき事、上【攷證三中八十四丁】にいへり。兄弟を、はらからといふは、續日本紀、天平寶字三年六月庚戌詔に、朕私父母波良何良爾至麻※[氏/一]爾《ワガワタクシノチヽハヽハラカラニイタルマテニ》云々。新撰字鏡に、曰比波良加良と見えたり。うからは氏別《ウヂワカレ》、やからは家別《ヤワカレ》、兄弟《ハラカラ》は腹別《ハラワカレ》、ともがらは黨別《トモワカレ》の意なるべし。
 
(156)渡來座而《ワタリキマシテ》。
中國に歸化せるをいへり。
 
太皇之《スメロギノ》。
これを、考、略解、久老が考など、皆、天皇と、改めつれど、非也。太皇と書るは、まへ、倉橋部女王の歌にも見えて、集中、太皇、大皇などかけるを、すめろぎとも、おほぎみとも訓たり。本集二【廿七丁】に、天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》云々。十八【卅二丁】に、須賣呂伎能之伎麻須久爾能《スメロギノシキマスクニノ》云々。十九【十一丁】に、大王之敷座國者《オホギミノシキマスクニハ》云々ばなど、すめろぎとも、大王《オホギミ》ともあれば、こゝは、舊訓につきて、すめろぎと訓べし。
 
敷座國爾《シキマスクニニ》。
敷座《シキマス》は、知《シリ》座といふに同じく、知り領します意也。この事、上【攷證一上二丁、二下九丁、十九丁】所々にいへるを、合せ見てしるべし。こゝは、天皇の知り領します國の中にはといふ意なり。
 
内日指《ウチヒサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。麗《ウツクシ》き日のさす宮とつゞけし也、といはれたり。猶可v考。
 
京思美彌爾《ミヤコシミミニ》。
思美禰《シミミ》は、上【攷證一上廿九丁】にいへるが如く、茂《シゲ》きを、しみといへる、そのしみを、繁々《シミ/\》と重ねたるにて、かく語を重ねる時は、下の語を一つ略く例なる事、あさなあさなを、あさなさなといひ、とをとをといふを、とをゝといひ、たわたわといふを、たわわといふにてしるべし。さて、この言は、本集十【卅七丁】に、枝毛思美三荷花開二家里《エダモシミミニハナサキニケリ》云々。十一【十六丁】に家人者路毛四美三荷雖來《イヘビトハミチモシミミニキタレドモ》云々などありて、集中猶多し。皆、繁き意也。
 
(157)里家者《サトイヘハ》。
里も家もといふ意也。
 
何方爾《イカサマニ》。念鷄目鴨《オモヒケメカモ》。
いかに思ひけんかもと疑ふなり。上【攷證此卷卅四丁】にいでたり。これ、何方《イカサマ》とうたがひて、目とうけたり。この事、上【攷證四中廿九丁】にいふべし。
 
都禮毛奈吉《ツレモナキ》。
ゆかりもなきといふ意也。この事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。
 
佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》。
佐保は、上【攷證一下七十一丁】に出て、大和國添上郡にて、奈良のほとりなるよし也。さて、この大伴坂上郎女の父、安麻呂卿を、佐保大納言ともいへるは、佐保の地に住給ふによりていへるなれば、安麻呂卿薨給ひて後も、後室石川命婦【石川命婦は、安麻呂卿の室坂上郎女の母たる事、此の歌の左注と、本集四の四十二丁の左注とを合せ見てしるべし。】こゝに住れけるなるべし。この歌の左注に依に、この石川命婦、有間温泉に往し間に、尼理願がうせたれば、坂上の里に住る娘の坂上郎女、母の家に來りて、萬の事をとりまかなひて、そのよしを、有間の温泉に居る母のもとに、いひおくれる歌なれば、佐保は坂上郎女の父母の宅地なり。
 
哭兒成《ナクコナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。嬰子《ミドリコ》のなきて母をしたふが如く、したひ來ましてとつゞけし也。
 
布細乃《シキタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下六十一丁】にも出たり。こは、よるんp衣とつゞくるより、一たびうつりて、夜床につゞけ、二たびうつりて、常に所宿《ヌル》家《イヘ》にもいひかけたる也(158)といはれたり。
 
宅乎毛造《イヘヲモツクリ》。
こは、理願が、佐保の安麻呂卿の家にしたひ行て、そのほとりに、おのが住べき家をも造りしなり。
 
荒玉乃《アラタマノ》。
枕詞也。上【攷證此卷卅三丁】に出たり。
 
年緒長久《トシノヲナガク》。
本集四【卅丁】に、荒珠年之緒長吾毛將思《アラタマノトシノヲナガクワレモオモハム》云々。九【廿七丁】年緒長憑過武也《トシノヲナガクタノミスギムヤ》云々。十【卅二丁】に、年緒長思來之《トシノヲナガクオモヒコシ》云々などありて、集中猶多し。續日本紀、神龜六年八月壬午詔に、年緒長久皇后不坐事母《トシノヲナガクオホキサキイマサヾルコトモ》云々。【この緒を、印本、諸に作れり。今は一本によれり。】また、寶龜八年四月癸卯詔に、遠天皇御世御世年緒不落《トホスメロギノミヨミヨトシノヲオチズ》云々などもありて、こは、年のいくとせともなく續《ツヾ》く意にて、凡て物の續《ツヾ》きて絶ざるを、袁といひて、緒を袁といふも、物を續《ツナ》ぎて緒(絶カ)ざらしむるものなれば、いへるなるべし。魂《タマ》の緒《ヲ》といふも、魂《タマ》を放《ハフ》らさず、たもち續《ツヾ》くるよしにていひ、氣《イキ》の緒《ヲ》といふも、氣《イキ》を續《ツナ》ぐよしにていへるなれば、この年の緒と同じ。
 
住乍《スマヒツヽ》。
すまひは、すみを延たる言にて、すみつゝ也。本集五【廿六丁】に、比奈爾伊都等世周麻比都々《ヒナニイツトセスマヒツツ》云々と見えたり。
 
生《イケル》者《モノ・ヒト》。死《シヌ》云《トフ・トイフ》事爾《コトニ》。不免《マヌカレヌ》。
舊訓、者をひとゝ訓たれど、こは鳥獣蟲魚、すべて生あるものは、必らず死するよしにて、ひろく、ものとはさせるなれば、(159)ものと訓べし。本集此卷【卅二丁】に、生者遂毛死物爾有者《イケルモノツヒニモシヌルモノナレバ》云々とあるに同じく、生者必滅のことわりあるをいへり。不免《マヌカレズ》のまは、例の添ていふ言にて、不遁《ノガレズ》なるべし。書紀神代紀上に、無v由2脱免1を、のがるゝよしなしと訓り。拾遺集雜戀に、あめのしたのがるゝ人のなければや云々とも見えたり。久老が考に、卷五、令反惑情歌に、遁路得奴兄弟親族遁路得奴老見幼見《ノガロエヌハラカラウカラノガロエヌオイミヲサナミ》【この四句は、今本に脱せり、古本にあり。】とあり。この二つの得の字は、心得がたけれど、卷十三に都追慈花爾太遙越賣《ツヽジバナニホエルヲトメ》、卷十九に春花乃爾太要盛而《ハルハナノニホエサカエテ》とある、えにて、のがれ得ね意。にほえるも、艶《ニホヒ》を得《ウル》よしなるべし云々とて、不免《ノガロエヌ》とよめりしかど、おぼつかなし。
 
物爾之有者《モノニシアレバ》。
この句に、かの尼が失にし事をこめて、生る者は、死といふ事をまぬがれざるものにて、いつ何時といふ事なきものなれば、平生たのみわたりし人たちの、留主の間にさへ、失けるよしをいひて、人生たのみがたき事をしめしたり。
 
憑有之《タノメリシ》。人乃盡《ヒトノコト/”\》。
憑有之《タノメリシ》は、理願が平生たのめわたりしをいひ、人之盡《ヒトノコト/”\》は、あるじの石川命婦をはじめにて、召仕はるゝ女房、從者まで、みな、主人の供をして、有馬の温泉に行たるをいへり。盡といふは、限りといふ意なる事、上【攷證二中廿八丁】にいへるが如し。
 
草枕《クサマクラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上十一丁】にも出たり。
 
(160)客有間《タビナルホド・タビニアルマ》爾《ニ》。
間は、ほどゝ訓べし。本集十一【十二丁】に眞※[楫+戈]繁拔榜間《マカヂシヾヌキコグホドモ》云々、十六【卅丁】に五月間爾藥獵《サツキノホドニクスリガリ》云々などあるにて思ふべし。久老は、これを、はしと訓り。はしといふ言も、上【攷證二下廿四丁】にいへるが如く、間《アヒダ》の意なれど、猶こゝは、ほどゝよまん方、まされり。さて、こゝまでは、石川命婦が、留主のほどに、理願が失たる事をいひて、こゝよりは、その葬に行さまをいへり。
 
佐保河乎《サホガハヲ》。
これよりは、葬にゆくさまをいへり。
 
朝川渡《アサカハワタリ》。
朝に川を渡るをいへり。上【攷證二上卅五丁】に出たり。
 
春日《カスガ》野《ヌ・ノ》乎《ヲ》。背向爾見乍《ソガヒニミツヽ》。
背向《ソガヒ》は、上【攷證三中卅七丁】にいへるが如く、後の方といふ意にて、春日野を後の方に見つゝ、山邊の方に葬りゆくさまをいへり。
 
晩闇跡《ユフヤミト》。
本集四【四十七丁】に、夕闇者路多豆多頭四《ユフヤミハミチタヅタヅシ》云々。十【十九丁】に、木晩之暮闇有爾霍公鳥何處乎家登鳴渡良武《コノクレノユフヤミナルニホトヽギスイヅクヲイヘトナキワタルラム》云々などありで、こゝは、ゆふやみの、小ぐらく、物の見えぬ如くに、隱りましぬといふ意にて、跡は、如くの意也。さて、この晩闇を、宣長は、くらやみと訓べきよしいへりと略解に見えたれど、こは朝川渡《アサカハワタリ》といふにむかへたる言なれば、必らず、ゆふやみと訓べき也。(頭書、佛足石歌に、伊波乃宇閇乎都知止布美奈志《イハノウヘヲツチトフミナシ》云々。)
 
隱益去禮《カクリマシヌレ》。
かみに、こその詞なくして、れといへる、集中、長歌の一つの格也。上【攷證二中十丁】にいへり。こは、れの下へ、ばの字を添て聞べし。
 
(161)將言爲便《イハムスベ》。將爲須敝不知爾《セムスベシラニ》。
かの尼がうせにしに、萬とりまかなふもの、みづから一人なれば、何といはんたよりも、何とせんたよりもしらずと也。この語、上【攷證二下四十二丁】にもいでたり。敝を、印本、〓と書たれど、誤字なる事明らかなれば、改む。
 
徘徊《タモトホリ・タチトマリ》。
たもとほりの、たは發語、もとほりは、立めぐりさまよふ意にて、せんすべなき時のわざなる事、上【攷證此卷四十一丁】にいへり。さて、本集六【十六丁】に、徘徊吾者衣戀流《タモトホリワレハゾコフル》云々。十一【十七丁】に徊徘徃箕之里爾《タモトホリユキミノサトニ》云々。この字、西土の書にも多く見えて、あぐるにいとまなし。
 
衣袖不干《コロモデホサズ》。
こは、涙に袖の干ざる也。この句を、久老が考に、衣袖不干《コロモソデヒズ》と訓て、白妙の衣は喪服なるべしといへるは非也。本集此卷【五十一丁】に、衣不干《コロモヽホサズ》云々。九【十四丁】に、衣手沾干兒波無爾《コロモデヌレヌホスコハナシニ》云々。十【五十二丁】に、衣袖所沾而《コロモデヌレテ》云々などある、ぬるゝも、かわかぬも、一つ意の言なるに、衣袖をころもでと訓る例もあるによりて、久老が訓の非なるをしるべし。また、白妙の衣は喪服なるべしといへるも非也。喪服に白衣を服る事、上【攷證二下廿七丁】にいへるが如くなれど、あるは君、あるは親族の喪にこそ、喪服はきぬべけれ。いかにしたしく、とりまかなひたりとも、他人の喪に、喪服をきべき理り、さらになし。この白細《シロタヘ》は、枕詞なる事、本集四【卅三丁】相聞歌に、白細之袖漬左右二《シロタヘノソデヒヅマデニ》云々。九【八丁】行幸の時の歌に、白栲之我衣手者所沾香裳《シロタヘノワガコロモデハヌレニケルカモ》云々。十二【十三丁】正述2心緒1歌に、白妙之我衣袖之干時毛奈吉《シロタヘノワガコロモデノヒルトキモナキ》云々などあるにでしるべし。集中猶多し。
 
(162)吾泣涙《ワガナクナミダ》。
こは、下の雨爾零寸八《アメニフリキヤ》といふへかけて、わがなく涙は、そなたに雨となりて、ふりたらん、ふりきやといふ意也。本集五【六丁】に、大野山紀利多知和多流《オホヌヤマキリタチワタル》、和何那宜久於伎蘇乃可是爾紀利多知和多流《ワガナゲクオ》キソノカゼニキリタチワタル》とあるも似たり。
 
有間山《アリマヤマ》。
攝津志に、有馬郡有馬山在2湯山町上方1、即爲2武庫山西面1、又名2鹽原山1、山間有2鹽湯1、因以爲v名、又有2落葉山、愛宕山、躑躅山等名1と見えたり。こゝの山の温泉に石川命婦をらるゝ故に、歌をおくれる也。
 
雲居輕引《クモヰタナビキ》。
輕引を、たなびくと訓るは義訓也。本集四【五丁九丁】に、春霞輕引時二《ハルガスミタナビクトキニ》云々とも見えたり。
 
雨爾零寸八《アメニフリキヤ》。
わがなく涙の、そなたの有馬山には、雨とふりきや、いかにと問かくる意也。
 
反歌。
 
461 留不得《トヾメエヌ》。壽爾之在者《イノチニシアレバ》。敷細乃《シキタヘノ》。家從者出而《イヘユハイデヽ》。雲《クモ》隱《ガクリ・ガクレ》去寸《ニキ》。
 
留不得《トヾメエヌ》。
人命てふものは、留とも、とゞむべからざるものなればと也。
 
(163)壽爾之在者《イノチニシアレバ》。
壽を、いのちと訓るは義訓也。本集二【廿三丁】に、御壽者長久《ミイノチハナガク》云々と見えたり。
 
家從者出而《イヘユハイデヽ》。
從《ユ》は、よりの意也。こは、家より葬り出したるなれど、理願が、みづから、とゞめ得ざる命なりとて、家より出て、雲隱たるよ(やカ)うにいへるは、歌のうへなれば也。一首の意は、くまなし。
 
右新羅國尼。名曰2理願1也。遠感2王徳1。歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1。既※[しんにょう+至]2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1。忽沈2運病1。既趣2泉界1。於v是大家石川命婦。依2餌藥事1。往2有間温泉1。而不v會2此喪1。但郎女獨留。葬2送屍柩1既訖。仍作2此歌1。贈2入温泉1。
 
名。
この字、印本なし。代匠記に引る官本、考異本に引る古本によりて補ふ。
 
歸2化聖朝1。
歸化は、南史※[顧の頁が見]※[王+深の旁]傳に、文帝宴會有2歸化人1在2座上1云々。唐所百官志に、職方郎中員外郎各一人、掌2地圖城隍、鎭戍烽候、防人道路之遠近、及四夷歸化(164)之事1云々。高僧傳に、感v徳歸化者十有七八焉云々と見え、聖朝は、舊唐書禮儀志に、聖朝垂v則※[なべぶた/水]2播於芳規1、螢燭末v光増輝2於日月1云々。馮衍説郡禹書に、聖朝享2堯舜之榮1、將軍荷2稷契之烈1云々など見えて、中國にまうでこしをいへり。
 
大納言大將軍大伴卿。
安麻呂卿なり。この卿の傳は、上【攷證二上十八丁】に出たり。本集四【卅九丁】左注に、坂上郎女者、佐保大納言卿女也云々とある如く、佐保大納言といへるは、佐保の地に家ありて、住るゝによりて也。
 
※[しんにょう+至]2敷紀1。
※[しんにょう+至]は經の誤りなるべきよし、上【攷證三上八十丁】にいへり。紀は、尚書畢命に、既歴2三紀1。傳に十二年曰v紀とありて、遙※[しんにょう+至]2數紀1とは、數歳を經しよしなり。
 
趣2泉界1。
泉界は、黄泉の界といふにて、死したるをいへり。
 
大家。
後漢曹大家傳に、和帝數召2入宮分1、皇后貴人師事焉、號曰2大家1云々。離騷經注に、婦謂2之家1云々とあれば、大家は大室といはんが如し。本集四【十八丁】石川郎女の下に、代匠記に引る官本に、即佐保大伴大家也とあり。
 
石川命婦。
父祖、考へがたし。本集四【四十二丁】左注に、大伴坂上郎女之母、石川命婦とあれば、安麻呂卿の妻にて、坂上郎女の母なる事しらる。命婦は官名也。職員令義解に、(165)謂3婦人帶2五位以上1、曰2内命婦1也。五位以下曰2外命婦1也云々と見えたり。禮記祭義に、卿大夫相v君、命婦相2夫人1云々とあり。
 
依2餌藥事1。
唐書成訥傳に、晩好術士餌藥、瀕死而蘇云々。顔氏家訓□に、凡欲2餌藥1陶隱居太清方中總録甚備、但須2精審1、不v可2輕服1云々など見えたり。こゝは、病を療せんが爲にといふ意也。
 
有間温泉。
この温泉の事は、書紀舒明紀に、三年九月乙亥、幸2于攝津國有馬温湯1云々。孝徳紀に、三年十月甲子、天皇幸2有馬温湯1。左右大臣、群卿、大夫從焉云々などありて、このつぎ/\も行幸ありし事、紀に見ゆ。攝津國風土記に、有馬郡又有2鹽之原山1。此近有2鹽湯此邊1、因以爲v名。久牟知川、右因v山爲v名、山本名2功地山1。昔難波長樂豐前宮御宇天皇世、爲3車駕幸2湯泉1、作2行宮於湯泉1云々など見えたり。
 
不v會2此哀1。
代匠記に引る官本、哀を喪(に、脱カ)作れり。いづれにても聞えたり。
 
葬2送屍柩1。
禮記曲禮下に、在v棺曰v柩云々とありて、こゝには、たゞ葬送するをいへり。さて、印本、柩を枢に作りたれど、誤りなる事明らかなれば、改む。
 
十一年己卯夏六月。大伴宿禰家持。悲2傷亡妻1作歌−首。
 
(166)亡妾、考へがたし。古しへ、文字にかゝはる事なく、妻妾のわかちなしとはいへど、こゝは、正しく妾とありて、儀制令にも、妻と妾とのわかちを、くはしくせられたれば、この亡妾は、實の妾なりしなるべし。拾穗本には、亡婦とあり。
 
462 從今者《イマヨリハ》。秋風寒《アキカゼサムク》。將吹烏《フキナムヲ》。如何獨《イカニカヒトリ》。長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》。
 
將吹烏《フキナムヲ》。
烏は、活字本、古本などに焉に作れるは、誤れり。
 
長夜乎將宿《ナガキヨヲネム》。
秋になれば、夜の長き也。一首の意は、明らけし。
 
弟大伴宿禰書持。即和歌一首。
 
大伴書持は、こゝに弟とありて、家持卿の弟なれば、旅人卿の男也。この人、續日本紀に見えざるは、早世せられし故なるべし。そは本集十七【廿丁】に、哀2傷長逝之弟1歌とありて、左注に、右天平十八年秋九月二十五日、越中守大伴宿禰家持、遙聞2弟喪1感傷作v之也とあるにて、卒年をもしるべし。
 
463 長夜乎《ナガキヨヲ》。獨哉將宿跡《ヒトリヤネムト》。君之云者《キミガイヘバ》。過去人之《スギニシヒトノ》。所念久爾《オモホユラクニ》。
 
(167)過去人之《スギニシヒトノ》。
過にし人をといふ意にで、之《ノ》もじは、をの意也。この事、上【攷證二中卅丁】にいへり。さて、拾穗本、去の下、之《シ》の字あり。いづれにてもよろし。
 
所念久爾《オモホユラクニ》。
らくは、るを延《ノベ》たる言にて、おもほゆるにといふ意。にもじは、下へ意をふくめたる言にて、こゝを、俗言にいはゞ、おもほゆるのにといふ意也。この事は、上【攷證三中四十九丁】にいへり。さで、一首の意は、君が長き夜を、今より、ひとりやねなんなどのたまへば、われさへ、過にし人を思ひ出して、かなしければ、あまりに、さな戀給ひそといふ意なり。
 
又家持。見2砌上瞿麥花1。作歌一首。
 
又とおけるは、前のつゞきにて、同じ思ひによまれしかば、おける也。砌は、和名抄居宅具に、考聲切韻云、※[土+皆]土※[土+皆]也。一名階。【古諧切、俗爲2※[土+皆]字1。和名、波之。一訓、之奈。】登v堂級道也。級、階級也。又次第也。兼名苑云、砌【千計切。訓美岐利。】階砌也と見え、上は、ほとりといふ意にて、河の上《ベ》、井の上《ベ》などの上と同じ。この事は、上【攷證一下四十二丁】にいへり。瞿麥は、なでしこなり。
 
464 秋去者《アキサラバ》。見乍《ミツツ》思《シヌベ・オモヘ》跡《ト》。妹之殖之《イモガウヱシ》。屋前之石竹《ニハノナデシコ》。開家流香聞《サキニケルカモ》。
 
見乍《ミツツ》思《シヌベ・オモヘ》跡《ト》。
上【攷證一上十二丁】にいへるが如く、しぬぶといふ言に四つあるが中に、こゝは、たゞ、めづる意也。本集七【二十三丁】に、見偲奧藻花開在《ミツヽシヌバムオキツモノハナサキタラバ》云々。十九【廿丁】に、安里我欲比見都追思努波米《アリガヨヒミツヽシヌバメ》云々。二十【十四丁】に、左加牟波奈乎之見都追思努波奈《サカムハナヲシミツヽシヌバナ》云々などあるも、皆、めづる意也。さて、思を、しぬべとよめるは義訓也。二【廿三丁】に、思將往《シヌビユカム》云々と見えたり。
 
(168)開家流香聞《サキニケルカモ》。
こは、はかなき草花を見るにつけても、過にし人を思ひ出る也。一首の意、くまなし。
 
移v朔而後。悲2嘆秋風1。家持作歌一首。
 
移朔とは、月をこゆる事にて、晦日より朔日にうつるをいふ。前に六月とありて、こゝに移朔とあれば、六月より七月にうつりてといふ意也。文選、王儉※[衣+者]淵碑に、泰始之初、入爲2侍中1、曾不v移v朔、遷2吏部尚書1云々と見えたり。
 
465 虚蝉之《ウツセミノ》。世者無常跡《ヨハツネナシト》。知物乎《シルモノヲ》。秋風寒《アキカゼサムミ》。思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》。
 
枕詞にて、冠辭考にくはし。現《ウツ》し身代とつゞけし也。活本に、乎《ヲ》を者に作れるは非也。
 
思努妣都流可聞《シヌビツルカモ》。
このしぬびは、戀しぬぶ意にて、一首の意は、この世の中てふものは、かねてより、常なきものとはしるものを、秋風などのさむさに、物がなしくて、猶過にし人の戀しのばるゝかもとなり。
 
(169)又家持作歌一首。并短歌。
又とおけるは、これも、前とおなじ思ひの歌なればなり。
 
466 吾屋前爾《ワガヤドニ》。花曾咲有《ハナゾサキタル》。其乎見杼《ソヲミレド》。情毛不行《コヽロモユカズ》。愛《ハシキ・ヨシエ》八師《ヤシ》。妹之有世婆《イモガアリセバ》。水鴨成《ミカモナス》。二人雙居《フタリナラビヰ》。手折而毛《タヲリテモ》。令見麻思物乎《ミセマシモノヲ》。打蝉乃《ウツセミノ》。借有《カレル・カリノ》身在者《ミナレバ》。霜《ツユ・トケ》霑乃《シモノ》。消去之如久《ケヌルガゴトク》。足日木乃《アシヒキノ》。山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》。入日成《イリヒナス》。隱《カクリ・カクレ》去可婆《ニシカバ》。曾許念爾《ソコモフニ》。※[匈/月]己所痛《ムネコソイタメ》。言毛不得《イヒモカネ》。名付毛《ナヅケモ》不知《シラニ・シラズ》。跡無《アトモナキ》。世間《ヨノナカ》爾有《ナレ・ニアレ》者《バ》。將爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》。
 
花曾咲有《ハナゾサキタル》。
花とのみいへど、秋草の花也。本集七【廿九丁】譬喩寄花歌に、是山黄葉下花矣我小端見反戀《コノヤマノモミヂノシタノハナヲワガハツ/\ニミテカヘルコヒシモ》とよめるも、秋の草花也。
 
其乎見杼《ソヲミレド》。
それを見れどゝいふ意也。この事は、上【攷證一下廿八丁】にいへり。
 
(170)情毛不行《コヽロモユカズ》。
こは、心を遣《ヤル》といふにむかへたる言にて、花など見て、心を遣《ヤレ》ども、心ゆかずと也。
 
妹之有世婆《イモガアリセバ》。
妹がこの世にありせばといふ也。
 
水鴨成《ミカモナス》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。水と書るは借字、眞《ミ》の字にで、眞薦《ミスヾ》を水薦《ミスヾ》と書ると同じく、眞《マ》とも眞《ミ》ともいふ詞にて、眞雪《ミユキ》、眞籠《ミカタマ》などの眞と同じ。本集十四【廿八丁】に、於吉都麻可母能《オキツマカモノ》云々とあるも、眞鴨《マガモ》也。さて、この枕詞は、鴨など、水鳥は、雌雄はなれず、必らずならび居るものなれば、それが如くに、並び居《ヰ》とつゞけしにて、五【五丁】に、仁保鳥能《ニホトリノ》布多利那良※[田+比]爲《フタリナラビヰ》云々とつゞけしもおなじ。
 
二人雙居《フタリナラビヰ》。
妹と吾とならびゐて也。
 
手折而毛《タヲリテモ》。
前にいへる、秋草の花を手折ても也。活本、手を乎に作れるは、非なり。
 
令見麻思物乎《ミセマシモノヲ》。
妹に見せましものをと也。
 
打蝉乃《ウツセミノ》。
打蝉と書るは借字、現《ウツ》し身のといふ意なる事、冠辭考、うつせみの條にくはし。上【攷證一上廿五丁】にも出たり。
 
(171)借有《カレル・カリノ》身在者《ミナレバ》。
印本、訓は、かりとありて、借を惜に作りたれば、誤りなる、明らか也。されば元暦本、拾穗本、考異本に引る古本などによりで改む。さて、本集二十【五十二丁】に、美都煩奈須可禮流身曾等波之禮々抒母《ミツホナスカレルミゾトハシレヽドモ》云々ともありて、この身は假たるものゝ如くなる身なれば、常なき事、さもあるべしと也。淨名經に、是身無v強無v力、如2聚沫芭蕉電陽※[火+餡の旁]1。乃至是身不v實、四大爲v家云々など、はかなき事を、しめしたる意也。
 
霜《ツユ・トケ》霑乃《シモノ》。
舊訓、とけしも(と、脱カ)あるは、本集五【廿八丁】、等計自母能宇知許伊布志提《トケシモノウチコイフシテ》云々とあるを、とれるなるべけれど、この計《ケ》もじは許《コ》の誤り、等許自母能《トコジモノ》にて、床の如くといふ意なれば、こゝの訓例とは、なしがたし。霑は、本集此卷【卅六丁】に、霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》云々と、ぬれとも訓て、玉篇に霑濡也、漬也とありて、ぬるゝ意なれば、霜にぬるゝよしにて、霜霑と書たれば、義訓して、つゆじもと訓べき事、論なし。考にも、略解にも、久老が考にも、つゆじもとは訓たれど、露霜と改めつるは、例の古書を改る僻にて、誤り也。さて、つゆじもとはいへど、たゞつゆの事なる事、上【攷證二中四丁】にいへるが如し。また、この霜霑を、代匠記に引る官本、拾穗本、考異本に引る異本などに、霑霜に作れり。霜霑とつゞけるは、沈約九日詩に、霜霑2玉樹1、鴈動2輕瀾1云々と見え、霑霜とつゞけるは、梁書武帝紀に、庶夜哭三魂斯慰、霑v霜之骨有v歸云々とありて、いづれにもつゞくれば、こゝも、いづれにてもありなん。さて、こゝは枕詞にて、上【攷證二下廿四丁】にも出たり。
 
消去之如久《ケヌルガゴトク》。
こは、失にし人を、つゆじも、きえぬるが如くに、きえぬといふにて、こゝにて、うせにし事をいへり。
 
(172)山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》。
前の尼理願死去の歌に、山邊乎指而晩闇跡隱益去禮《ヤマベヲサシテユフヤミトカクリマシヌレ》云々とある如く、こゝも、これよりは、葬りゆきて、山べにをさむるをいへり。
 
入日成《イリヒナス》。
枕詞なり。上【攷證二下四十八丁】に出たり。
 
隱《カクリ・カクレ》去可婆《ニシカバ》。
こは、葬りかくしゝをいへり。
 
曾許《ソコ》念《モフ・オモフ》爾《ニ》。
それを思ふにといふ意也。中ごろよりの言に、それといふを、古くは、そことのみいへり。この事は、上【攷證二上四十六丁】にいへり。
 
※[匈/月]己所痛《ムネコソイタメ》。
本集八【五十二丁】に、許己念者胸許曾痛《コヽモヘバムネコソイタメ》云々。十五【卅六丁】に、安我牟禰伊多之古非能之氣吉爾《アガムネイタシコヒノシゲキニ》云々。竹取物語に、翁むねいたき事なのたまひそ、うるはしきすがたしたる便にも、さはらじとねたみをり云々。蜻蛉日記に、いとむねいたきわざかな。世に道しもこそあれ、などいひのゝしるに云々。源氏物語、帚木卷に、いとわかなきをおぼすに、いとむねいたし云云などありて、物をつよく思へば、むねのいたきこゝちするをいへり。
 
言毛不得《イヒモカネ》。名付毛《ナヅケモ》不知《シラニ・シラズ》。
あともなく、はかなき世の中なれば、いふにもいはれず、何と名づけんやうもしらずと也。この二句のつゞけ、上【攷證三中四丁】にも出たり。合せ見てしるべし。
 
(173)跡無《アトモナキ》。
本集此卷【卅二丁】に、世間乎何物爾將譬旦開傍去師船之跡無如《ヨノナカヲナニニタトヘムアサヒラキコギニシフネノアトナキガゴト》ともありて、世の中てふものは、すぎさるものごとに、あとものこらぬものなれば、かくはいへり。
 
將爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》。
かくの如く、はかなき世の中なれば、何とせんやうもなしと也。
 
反歌。
 
467 時者霜《トキハシモ》。何時毛將有乎《イツモアラムヲ》。情哀《コヽロイタク》。伊《イ》去《ヌル・ユク》吾味可《ワギモカ》。若子乎置而《ミドリコヲオキテ》。
 
時者霜《トキハシモ》。何時毛將有乎《イツモアラムヲ》。
霜は借字、詞にて、助字也。こゝは、時はいつにてもありなんを、といふ意にて、本集四【卅丁】に、出而將去時之波將有乎《イデヽイナムトキシハアラムヲ》云云。十七【廿一丁】に、奈爾之加母時之波安良牟乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》云々などあるも、同じ意なり。
 
情哀《コヽロイタク》。
情哀と書るは義訓にて、こは心にいたましむ也。本集二【廿丁】に、肝向心乎痛念乍《キモムカフコヽロヲイタミオモヒツヽ》云々。また【四十四丁】語者心曾痛《カタラヘバコヽロゾイタキ》云々。十一【十二丁】に、心哀何深目念始《コヽロイタクナニヽフカメテオモヒソメケム》云々。十三【九丁】に、念戸鴨※[匈/月]不安戀列鴨心痛《オモヘカモムネヤスカラヌコフレカモコヽロノイタキ》云々。また【廿五丁】曾許思爾心之痛之《ソコモフニコヽロシイタシ》云々などあるも同じ。集中猶多し。
 
伊《イ》去《ヌル・ユク》吾味可《ワギモカ》。
可はかも意《(マヽ)》にて、歎息の意、こもれり。
 
(174)若子乎置而《ミドリコヲオキテ》。七画
若子は、わくごとよまん方、歌のしらべはよけれど、みどりごとよまんも、あしからねば、舊訓にしたがへり。みどりごとは、いたく幼き嬰兒(を、脱カ)いひ、わくごとは、すこし、ころたちたるをいふべし。このわかちは、上【攷證二下四十八丁】にいへり。て、一首の意は、妹が死すべき時は、まだもありなんものを、嬰兒をのこしおきて、わが心をいたまして、過いぬる妹かも、と歎息せる也。
 
468 出行《イデヽユク》。道知末世波《ミチシラマセバ》。豫《カネテヨリ》。妹乎將留《イモヲトドメム》。塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》。
 
道知末世波《ミチシラマセバ》。
ませばは、ましせばの約りなり。この事は、上【攷證二下十二丁】にいへり。
 
豫《カネテヨリ》。
是を、宣長も、久老も、あらかじめと訓て、本集二【廿三丁】に、如是有刀豫知勢婆《カヽラムトカナテシリセバ》云々。四【廿五丁】に、豫荒振公乎見之悲左《カネテヨリアラブルキミヲミムガカナシサ》云々。また【四十丁】豫人事繁《カネテヨリヒトゴトシゲシ》云々。六【卅四丁】に、豫公來座武跡知麻世婆《カネテヨリキミキマサムトシラマセバ》云々。九【十七丁】に、預己妻離而《カネテヨリオノツマカレテ》云々などあるをも、四より以下をば、皆、あらかじめと訓たれど、あらかじめといふ言、正しき訓例もなく、寛弘、長和のころまでの書には見えず。二【廿三丁】に豫知勢婆《カナテシリセバ》十【六十三丁】に豫寒毛《カネテサムシモ》などあるは、豫の字を、かねてと訓る、まさしき訓例なれば、例なきをすて、例あるに從ひて、皆かねてよりと訓べし。また、六【十九丁】に、豫兼而知者《カネテヨリカネテシリセバ》とあるを、かねてよりかねて、と訓ては、重言なりと、久老はいひつれど、かく重言なる事、集中多かれば、これになづむ事なかれ。
 
(175)塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》。
塞《セキ》はふさぎ留る意にて、關をせきといふも、これなる事、上【攷證二下卅六丁】にいへるが如し。關といふものは、關市令に見ゆるが如く、みだりに人を通さゞる料なれば、この歌、妹が失にしを、家を出るよしにいひなして、妹が出てゆかん道を、しらましかば、かねてより關をすゑおきて、そこにて妹をとゞめましものをといへる也。
 
469 妹之見師《イモガミシ》。屋前爾花《ヤドニハナ》咲《サキ・サク》。時者經去《トキハヘヌ》。吾泣涙《ワガナクナミダ》。未干爾《イマダヒナクニ》。
 
屋前爾花《ヤドニハナ》咲《サキ・サク》。
宣長云、はなさきと訓べし。花咲るまで時へぬる也。花さく時にはあらず。花さく時はへねと訓ては、花の時過ぬる意になれば、長歌に、花ぞ咲たるとあるに叶はず。時はへぬは、死てより、月日のへたるをいふ也云々といはれしによるべし。
 
未干爾《イマダヒナクニ》。
涙もいまだ干ぬにといふにて、一首の意は、妹が見し宿に花咲て、月日はへぬ。失にし人を戀て、吾なく涙は、いまだかわきもせぬに、といふ意也。
 
悲緒未v息。更作歌五首。
 
こは、悲みの端《ハシ》、いまだやすまらずして、又よめる歌といふ也。謝靈運長歌行に、覽v物起2悲緒1、顧v己謝2憂端1云々。李白詩に、草木結2悲緒1云々など見えたり。
 
470 如是耳《カクノミニ》。有家留物乎《アリケルモノヲ》。妹毛吾毛《イモモワレモ》。如千《チトセノ》歳《ゴトモ・ゴトク》。憑有《タノミタリ》來《ケリ・ケル》。
 
(176)如是耳《カクノミニ》。
こは、この下へ意をふくめて聞意にて、かくばかりに、はかなくありけるものを、といふ意也。この事、上【攷證此卷四十丁】にいへり。
 
如千《チトセノ》歳《ゴトモ・ゴトク》。
千とせもかはらぬものゝ如くも、たのみてありける、はかなさよといふ意也。
 
471 離家《イヘサカリ》。伊麻須吾妹乎《イマスワギモヲ》。停《トヾミ・トヽメ》不得《カネ》。山《ヤマ》隱《カクリ・カクレ》都禮《ツレ》。情《コヽロト・タマシヒ》神毛奈思《モナシ》。
 
離家《イヘサカリ》。伊麻須吾妹乎《イマスワギモヲ》。
伊麻須《イマス》は往《ユキ》ますといふ也。この事、上【攷證二下卅一丁】にいへり。こゝは、家を離れて往ます妹を、とゞめかねといふ意也。
 
停《トヾミ・トヾメ》不得《カネ》。
本隼五【九丁】に、等伎能佐迦利乎等々尾迦禰周具斯野利都禮《トキノサカリヲトヾミカネスグシヤリツレ》云々。また【十丁】等等尾可禰都母《トドミカネツモ》云々。また【廿五丁】由久布禰遠布利等騰尾加禰《ユクフネヲフリトドミカネ》云々などあれば、とゞみかねと訓べし。みと、めと、音通へば、とゞめといふに同じ。不得《カネ》を、かねと訓るは義訓也。こゝは、妹を留めかねてといふ也。
 
山《ヤマ》隱《カクリ・カクレ》都禮《ツレ》。ミ
上に、こそのかゝりなくして、れとうけくるは、集中一つの格なれど、短歌には、これのみにて、いとめづらし。この事、上【攷證二中十丁】にいへり。皆、れの下へ、ばを添て聞意也。
 
情《コヽロト・タマシヒ》神毛奈思《モナシ》。
精神は、こゝろとゝ訓べき事、【攷卷四十一丁】にいへり。其所にいへるが如く、歎きにしづみて、聰《サト》き心もなしといへるにて、一首の意は、失たるを、家を出るに、(177)いひなして、家を出て、はなれゆく妹を、とゞめんとすれども、とゞめ得ずして、妹が葬られて、山に隱つれば、その歎にほれまどひて、聰《サト》き心も、うせはてゝ、なしとなり。
 
472 世間之《ヨノナカノ》。常如此耳跡《ツネカクノミト》。可都知跡《カツシレド》。痛《イタキ・イタム》情者《コヽロハ》。不《シヌビ・シノビ》忍都毛《カネツモ》。
 
世間之《ヨノナカノ》。
この之《ノ》もじは、をの意にて、世の中をといふ意也。をの意の之《ノ》もじの事は、上【攷證二中卅丁此卷五十丁】にいへり。さて、略解に、之をしと訓て、助字としたれど、非也。
 
可都知跡《カツシレド》。
宣長云、かつは、この事をなしながら、かの事をもし、あるは、この事のあるに、かの事もまじはるやうの所につかふ詞也云々といはれつるが如く、こゝは、世の中をば、常に、かくばかり、はかなきものなりとは、しれどもといふ意也。
 
痛《イタキ・イタム》情者《コヽロハ》。
まへに、こゝろいたくとあると、上下にいひたるのみにて、同じく、いたましみ思ふこゝろはといふ也。
 
不《シヌビ・シノビ》忍都毛《カネツモ》。
代匠記に、不ノ字ノ下ニ得ノ字ヲ脱セルカといはれつるが如く、此まゝにては、しぬびかねつもとは訓がたければ、必らず、不の下、得の字あるべし。諸注、みな、しかり。都毛《ツモ》の毛《モ》は添たるも也。さて、一首の意は、世の中てふものは、常に、かくばかり、はかなきものぞとは、かねてより、しりつれども、やはり、いたましみ思ふ心は堪がたしとなり。
 
473 佐保山爾《サホヤマニ》。多奈引霞《タナビクカスミ》。毎見《ミルゴトニ》。妹乎思《イモヲオモヒ》出《デ・デヽ》。不泣日者無《ナカヌヒハナシ》。
 
(178)多奈引霞《タナビクカスミ》。
こは、霞を見て、火葬の煙を思ひ出し也。さて、霞は專ら春のものなるを、こゝは秋なるに、よめり。集中、秋にも霞をよめる事、上【攷證二上四丁】にいへり。
 
妹乎思《イモヲオモヒ》出《デ・デヽ》。
書紀仁徳紀御歌に、望苫弊破瀰烏於望臂泥《モトベハキミヲオモヒデ》、須惠弊破伊暮烏於望比泥《スヱベハイモヲオモヒデ》云々とあれば、こゝも、いもをおもひでとのみよむべし。さて、仁徳の御時より、天平年中までは、四百余年をへたれば、古事記にまれ、書紀にまれ、いとふるき所をもて、天平のころまでの訓例とはなしがたし。歌のしらべも、かはりたるを、と思ふ人もあるべし。尤さる事なれど、本集十七【廿六丁】に、可奈之家口許己爾思出《カナシケクコヽニオモヒデ》、伊良奈家久曾許爾思出《イラナケクソコニオモヒデ》云々とあるも、おもひいでゝとはよむまじければ、これにて、こゝも、しかよまんをしるべし。一首の意は、くまなし。
 
474 昔許曾《ムカシコソ》。外爾毛見之加《ヨソニモミシカ》。吾妹子之《ワギモコガ》。奧《オク・オキ》槨當念者《ツキトモヘバ》。波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》。
 
外爾毛見之加《ヨソニモミシカ》。
之加《シカ》は、こその結び詞、しかどもの意なれば、加を清て訓べし。この事、上【攷證此卷卅四丁】にいへり。
 
波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》。
はしきは、愛の字をもよみて、愛する意也。この事、上【攷證二上卅一丁】にいへり。さて、一首の意は、佐保山を、むかしこそは、よそにも見しかども、今は吾麻子が墓どころぞと思へば、愛せらるゝこゝちすと也。
 
十六年甲申春二月。安積皇子薨之時。内舍人大伴宿禰家持。作歌六(179)首。
 
安積《アサカノ》皇子。
續日本紀に、天平十六年閏正月乙亥、実積親王縁2脚病1、從2櫻井頓宮1還、丁丑薨、時年十七。遣2從四位下大市王妃朝臣飯麻呂等1、監2護葬事1。親王、天皇之皇子也。母夫人正三位縣犬養宿禰廣刀自、從五位唐之女也とありて、閏正月なるを、こゝに二月とあるは、誤り也。和名抄郡名に、陸奧國安積□あれば、あさかと訓べし。
 
内舍人。
職員令に、中務省、内舍人九十人、掌d帶v刀宿衛、供2奉雜使1、若駕行、分c衛前後u云々。軍防令に、凡五位以上子孫、年二十一以上、見無2役任1者、毎年京國官司勘※[手偏+僉]知v實、限2十二月一日1并身送2式部1、申2太政官1、※[手偏+僉]2簡性試總敏儀容可1v取、宛2内舍人1云々など見えたり。
 
歌六首。
集中の例もていはゞ、歌二首并短歌とあるべきを、かくあるは誤りなるべし。目録もおなじ。
 
475 掛卷母《カケマクモ》。綾爾恐之《アヤニカシコシ》。言卷毛《イハマクモ》。齋忌志伎可物《ユヽシキカモ》。吾王《ワガオホキミ》。御子乃命《ミコノミコト》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。食賜麻思《メシタマハマシ》。大日本《オホヤマト》。久邇乃京者《クニノミヤコハ》。打《ウチ》靡《ナビク・ナビキ》。春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》。山邊爾波《ヤマベニハ》。花咲乎烏里《ハナサキヲヲリ》。河湍爾波《カハセニハ》。年魚小狹走《アユコサバシリ》。彌日異《イヤヒケニ》。榮時爾《サカユルトキニ》。逆言《オヨヅレ・サカゴト》之《ノ》。枉《タハ・マガ》言登加聞《ゴトトカモ》。(180)白細爾《シロタヘニ》。舍人装束而《トネリヨソヒテ》。和豆香山《ワヅカヤマ》。御輿立之而《ミコシタヽシテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天所知奴禮《アメシラシヌレ》。展轉《コイマロビ》。※[泥/土]打《ヒヅチ》雖泣《ナケドモ・ナゲケド》。將爲須便毛奈思《セムスベモナシ》。
 
掛卷母《カケマクモ》。
本集二【卅三丁】に、挂文忌之伎鴨《カケマクモユヽシキカモ》、言久母綾爾畏伎《イハマクモアヤニカシコキ》云々。六【十九丁】に、決卷毛綾爾恐《カケマクモアヤニカシコキ》、言卷毛湯々敷有跡《イハマクモユヽシカラムト》云々などあると、こゝのつゞき同じ。かけまくもは、心詞にかけんも、あやにかしこしといふ意なる事、上【攷證二下十六丁】にいへるが如し。
 
綾爾恐之《アヤニカシコシ》。
綾は借字、あやと歎ずる意。かしこしは、ありがたく、かたじけなき意なる事、上【攷證二下十六丁】にいへるが如し。
 
言卷毛《イハマクモ》。
言にいでゝいはんもといふ也。
 
齋忌志伎可物《ユヽシキカモ》。
ゆゝしきとは、忌憚《イミハヾカル》意なる事、上【攷證二下十六丁】にいへるが如くなれば、齋忌とはかける也。忌々《ユヽシ》ともかけるにて、しるべし。
 
吾王《ワガオホキミ》。御子乃命《ミコノミコト》。
吾王とは、親しみ稱し奉る言。皇子乃命の命は、父の命、母の命、嬬の命、妹の命などの類にて、たゞ尊稱の詞也。皇太子をさして、皇子尊と申すとは別なる事、上【攷證二中四十五丁】にいへるが如し。
 
(181)食賜麻思《メシタマハマシ》。
めし、は見しと同言にて、めしたまふとは、見し給ふといふ言なる事、上【攷證一下廿七丁】にいへるが如く、こゝは、たゞ、見たまはんといふ意なり。
 
大日本《オホヤマト》。久邇乃京者《クニノミヤコハ》。
久邇乃《クニノ》京の事は、下にいふべし。久邇の京は、山城國相樂郡|恭仁《クニ》郷なるを、續日本紀、天平十三年十一月紀にも、號爲2大養徳恭仁《オホヤマトクニノ》大宮1とありて、大日本《オホヤマト》と書るも、大養徳《オホヤマト》と書るも、同じく、皆、この六十余州をおしなべていふ言にて、大《オホ》は大八島《オホヤシマ》といへる大と同じく、西土にて、大唐、大宋、大明などある大も、これにて、皆、稱してつくる言也。されば、大日本久邇乃京《オホヤマトクニノミヤコ》とつゞくるは、大日本六十余(州、脱カ)をしろしめす久邇の京といふよし也。大和國の外をも、やまとゝいふよしは、宣長の國號考に、くはしく見えたり。さて、この久邇の京の事は、續日本紀に、天平十二年十月壬午、行2幸伊勢國1。十二月戊午、從2不破1發、至2坂田郡横川頓宮1。是日、右大臣橘諸兄在v前而發、經2略山背國相樂郡恭仁郷1。以v擬v遷v都也。丙寅、從2禾津1發、到2山背國相樂郡玉井頓宮1。丁卯、皇帝在v前幸2恭仁宮1、始作2京都1矣。太上天皇、皇后、在v後而至。十三年正月癸未朔、天皇始御2恭仁宮1、受v朝、宮垣未v成、繞以2帷帳1。十一月戊辰、右大臣橘宿禰諸兄奏。此間朝庭以2何名號1傳2於萬代1。天皇勅曰、號爲2大養徳恭仁大宮1也と見えて、この後、十六年二月に難波京にうつり給ひ、同年五月、また恭仁京へかへり給ひて、その年の十二月、もとの奈良京へかへらせ給ひしかば、この恭仁京は、わづかに三年の間、都なりしなり。
 
打《ウチ》靡《ナビク・ナビキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上三丁】にも出たり。春は、草木ともに、若くなよ/\と、うちなびくものなれば、かくはつゞくる也。
 
(182)春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》。
春になりぬればといふ意也。この事、上【攷證一上廿九丁】にいへり。
 
花咲乎烏里《ハナサキヲヲリ》。
印本、烏を爲に作れるは、誤りなる事、上【攷證二下七丁】にいへるが如く、集中、烏を爲に誤れる所多し。さて、をゝりとは、考には、手よわく靡く意とし、宣長は、わゝり/\と花のしげくさく事をいふよしいはれたり。この事も、同じ所に、くはしくせり。
 
年魚小狹走《アユコサバシリ》。
年魚は、上【攷證三上四十二丁】にいでたり。小は子にて、春は、まだ年魚のちひさければ、年魚子とはいへる也。狹走《サバシリ》のさは發語にて、さよばひ、さぬる、さわたるなどの、さと同じ。本集五【廿一丁】に、波流佐禮婆《ハルサレバ》、和伎覇能佐刀能加波度爾波《ワギヘノサトノカハトニハ》、阿由故佐婆斯留吉美麻知我弖爾《アユコサバシルキミマチガテニ》云々。十九【十二丁】に、河瀬爾年魚兒狹走《カハノセニアユコサバシリ》云々など見えたり。
 
彌日異《イヤヒケニ》。
 
本集四【卅一丁】に、彌日異昔念益十方《イヤヒニケニハオモヒマストモ》云々。六【十五丁】に、月二異二日々雖見《ツキニケニヒヾニミレドモ》云々。十一【廿二丁】に、戀也度月日殊《コヒヤワタラムツキニヒニケニ》云々。十二【五丁】に、彌日異者思益等母《イヤヒニケニハオモヒマストモ》云々。二十【六十丁】に、伊也比家爾伎末勢和我世古《イヤヒケニキマセワガセコ》云々などもありで、彌《イヤ》は物のいやがうへに重なる意、異《ケ》は借字にて、上【攷證三中五十五丁】朝爾食爾《アサニケニ》とある所にいへるが如く、日といふことにて、こゝは彌日々爾《イヤヒヾニ》といふ意也。さて、異を、けと訓るは、集中いと多く、殊を、けと訓るに同じ。
 
逆言《オヨヅレ・サカゴト》之《ノ》。
逆言は、およづれと訓べき事、上【攷證此卷六丁】にいへるが如く、こは、何ぞの言のたがひか、といふ意也。
 
(183)枉《タハ・マガ》言登加聞《ゴトトカモ》。
枉言《タハコト》とは、邪言《ヨコシマゴト》といふ事なる事、上【攷證此卷七丁】にいへるが如し。言登《コトト》の登は助字にて、心なし。この事も、上【攷證三上四丁】にいへり。
 
白細爾《シロタヘニ》。舍人装束而《トネリヨソヒテ》。
喪儀には、奉仕の人、白き衣を著する事、上【攷證二下廿七丁】にいへり。装束を、よそひとよめる事も、同じ所にいへり。
 
和豆香山《ワヅカヤマ》。
太平記卷二に、和束ノ鷲峰山云々。山城名勝志に、相樂郡和束、在2圓原郷東南瓶原東1云々と見えたり。この皇子、恭仁の京にて、うせ給ひにしかば、その近き所の、わづか山に葬奉るなり。
 
御輿《ミコシ》立《タヽ・タテ》之而《シテ》。
こは葬送の御輿なり。靈異記上卷訓釋に、※[擧の手が車]、去之。和名抄葬送具に、喪禮圖云、香輿【俗云、香乃古之。】※[革+葛]燭輿。【今案、俗云。火乃古之。】など見え、立之而《タヽシテ》は在立之《アリタヽシ》などいふ立と同じく、そこに立やすらふをいひて、こゝは、輿をとゞむる也。今も、駕《カゴ》をとゞむるを、立《タツ》るといふに同じ。さて、こゝにいぶかしき事あり。書紀孝徳紀に、大化二年三月甲申、詔曰、葬者藏也。欲2人之不1v得v見也。廼者、我民貧絶、專由v營v墓。爰陳2其制1、尊卑使v別。夫王以上之墓、其内長九尺、濶五尺。其外域方九尋、高五尋、役一千人七日使v訖 其葬、帷帳等、用2白布1、有2轜車1。上臣之墓、其内長濶及高皆准2於上1。其外域方七尋、高三尋、役五百人五日使v訖。其葬時、帷帳等、用2白布1、擔而行之。【蓋此以v肩擔v輿而送v之乎、】云々とありて、皇子以上には轜車【この轜車といふものは、喪葬令義解に、謂方相者蒙熊皮、黄金四日、玄衣朱裳、執v戈揚v楯、所3以導轜車1者也。轜車葬也云々。續日本後紀、承和九年七月太上皇遺詔に、挽柩者十二人云々などあれば、人して引かしむる車なり。】を用ひ、臣下には輿を用る、この時の制なり。また、喪葬令に、凡親王一品方相轜車各一具。【中略】二品三品四品並准2一品1。諸臣一(184)位及左右大臣、皆准2二品1。二位及大納言准2三品1、唯除楯車。三位轜一具云々とありて、令の定めは、親王はさら也、大臣までも轜車を用る制なれば、こゝも轜車にて送り奉るべきを、輿とあるはこゝろ得ず。されば、思ふに、葬送の儀は、儉約を專らとすべきよしの詔、國史のうちにも多く見えて、喪葬令に、几喪葬不v能v備v禮者、貴得v同v賤、賤不v得v同v貴ともあれば、御身、皇子におはしませど、臣下のなみに、輿にて送り奉りしにもあるべし。
 
天所知奴禮《アメシラシヌレ》。
皇子のうせ給ふをも、神となりて、天をしろしめすよしにいへり。本集二【廿六丁】高市皇子尊殯宮の時の歌に、久堅之天所知流君故爾日月毛不知戀渡鴨《ヒサカタノアメシラシヌルキミユヱニヒツキモシラズコヒワタルカモ》と見えたり。さて、こゝも、奴禮《ヌレ》の下へ、ばと付て心得べし。
 
展轉《コイマロビ》。
本集九【十九丁】に、立走叫袖振反側足受利四管《タチハシリサケビソデフリコイマロビアシズリシツヽ》云々。また【廿八丁】反側戀香裳將居《コイマロビコヒカモヲラム》云々。十【五十四丁】に、展轉戀者死友《コイマロビコヒハシヌトモ》云々。十三【廿九丁】に、展轉土打哭杼母《コイマロビヒヅチナケドモ》云々など、展轉、反側などの字をよめるは、義訓也。こいは、五【廿八丁】に、等許自母能宇知許伊布志提《トコシモノウチコイフシテ》云々。十二【十二丁】に、門出而吾反側乎《カドニイデヽワガコイフスヲ》云々。十七【廿三丁】に、宇知奈妣吉等許爾許伊布之《ウチナビキトコニコイフシ》云々などある、こいと同じく、伏ことにて、こやる、こやせるなどいふも、こいの活用たる也。まろびは、今の言にもいふ所と同じく、催馬樂、總角歌に、比呂波加利也止宇止宇左加利天禰太禮止毛萬呂比安比介利《ヒロバカリヤトウトウサカリテネタレドモマロヒアヒケリ》云々。拾遺集、戀二に、竹の葉におきゐる霜のまろびあひて、ぬるとはなしに、たつわがなかな、など見えたり。こゝは、ふしまろびて歎くさま也。さて、展轉の字は、毛詩周南に、悠哉悠哉、輾轉反側云々と見えて、集韻に、(185)轉通作v展と見えたり。
 
※[泥/土]打《ヒヅチ》雖泣《ナケドモ・ナゲヽド》。
印本、※[泥/土]を泥土の二字に作りたれど、誤りなる事しるければ、代匠記に引る幽齋本によりて改む。そは本集二【卅一丁】に、玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒヅチ》云々。また【四十四丁】衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》云々などあるにても思ふべし。さて、※[泥/土]打《ヒヅチ》とかけるは借字にて、こは、ねれ漬《ヒタ》ることなる事、上【攷證二下三丁】にいへり。こゝは、ふしまろびて、涙に衣をひたし泣《ナケ》ども、せんかたもなしといへる也。
 
反歌。
 
476 吾王《ワガオホギミ》。天《アメ》所知《シラサ・シラレ》牟登《ムト》。不思者《オモハネバ》。於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》。和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》。
 
天《アメ》所知《シラサ・シラレ》牟登《ムト》。
これも、薨給へる事を、天しらすといへり。
 
於保爾曾見谿流《オホニゾミケル》。
凡《オホヨソ》に見けるといふ意也。この事は、上【攷證二下五十八丁】にいへり。
 
和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》。
和豆香《ワヅカ》は、前の和豆香山にて、蘇麻とは、材木となるべき木ある所をいへば、この山、木多かる山なるべし。蘇麻は、和名抄山石類に、杣功程式云、甲賀杣田上杣【讀2曾万1出v出未v詳。但、功程式者、修〓師山田福吉、弘仁十四年所2撰上1。】とありて、本集七【卅四丁】に、眞木柱作蘇麻人云々。十【廿七丁】に、宮材引泉之追馬喚犬二《ミヤギヒクイヅミノソマニ》云々など見えたり。一首の意は、吾王の、かく失たまひて、(186)このわづか山に葬奉らんとはおもはざりし故に、今までは、わづか山をも、おほよそ見たりきといふなり。
 
477 足檜木乃《アシビキノ》。山左倍光《ヤマサヘヒカリ》。咲花乃《サクハナノ》。散去如寸《チリユクゴトキ》。吾王香聞《ワガオホキミカモ》。
 
山左倍《ヤマサヘ》光《ヒカリ・テリ》。
こは、いろ/\の花の咲さかえて、山さへ色ににほふばかりなるを、皇子のさかえおはしましゝにたとへて《(マヽ)》、光は、てるとも訓べけれど、本集十五【廿七丁】に、安之比奇能山下比可流毛美知葉能《アシビキノヤマシタヒカルモミチバノ》云々とあるによりて、ひかると訓べし。
 
又、六【四十四丁】に、山下耀錦成花咲乎呼里《ヤマシタヒカリニシキナスハナサキヲヽリ》云々なども見えたり。
 
散去如寸《チリユクゴトキ》。
去は、つねに、ゆくとも、にしとも、ぬるとも訓る字にて、こゝも、ちりゆくとも、ちりにしとも、ちりぬるとも、いづれによみても、意きこゆれば、さだめがたし。されば、舊訓に從ふのみ。一首の意は、くまなし。
 
右三首。二月三日作歌。
 
こゝに、かくあるにても、端辭に二月とあるは、誤りなるをしるべし。
 
478 掛卷毛《カケマクモ》。文爾恐之《アヤニカシコシ》。吾王《ワガオホキミ》。皇子之命《ミコノミコト》。物乃負能《モノノフノ》。八十伴男乎《ヤソトモノヲヽ》。召《メシ》集《ツドヘ・アツメ》 (187)率比賜比《イザナヒタマヒ》。朝獵爾《アサガリニ》。鹿猪踐起《シヽフミオコシ》。暮獵爾《ユフガリニ》。鶉雉履立《トリフミタテヽ》。大御馬之《オホミマノ》。口《クチ》押駐《オシトヾドメ・オサヘトメ》。御心乎《ミコヽロヲ》。見《ミ》爲《シ・セ》明米之《アキラメシ》。活道《イクヂ・イクメヂ》山《イクヂヤマ》。木立之繁爾《コダチノシヾニ》。咲花毛《サクハナモ》。移爾家里《ウツロヒニケリ》。世間者《ヨノナカハ》。如此耳奈良之《カクノミナラシ》。丈夫之《マスラヲノ》。心振起《コヽロフリオコシ》。釼刀《ツルギタチ》。腰爾取佩《コシニトリハキ》。梓弓《アヅサユミ》。靱取負而《ユギトリオヒテ》。天地與《アメツチト》。彌遠長爾《イヤトホナガニ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。如此毛欲得跡《カクシモガモト》。憑有之《タノメリシ》。皇子之御門乃《ミコノミカドノ》。五月蠅成《サバヘナス》。驟騷舍人者《サワグトネリハ》。白栲爾《シロタヘニ》。服取着而《コロモトリキテ》。常有之《ツネナリシ》。咲比《ヱマヒ》振《フリ・フル》麻比《マヒ》。彌日異《イヤヒケニ》。更經見者《カハラフミレバ》。悲呂可毛《カナシキロカモ》。
 
物乃負能《モノノフノ》。
枕詞にて、上【攷證一下廿八丁】に出たり。
 
八十伴男乎《ヤソトモノヲヽ》。
八十は數の多きをいひ、件は黨《トモガラ》の意、男は長《ヲサ》の意なる事、古事記傳卷十五【十九丁】に、くはしくいはれたるが如くにて、こゝは、仕へ奉る人どもを、多く召つどへて、獵に出給ひし事のありしをいへり。
 
(188)召《メシ》集《ツドヘ・アツメ》。
集聚は、古事記上卷に、訓v集云2都度比1とあるによりて、つどへと訓べし。本集十八【廿四丁】に、思良多麻能伊保都都度比乎《シラタマノイホツツトヒヲ》云々。二十【十七丁】に、夜蘇久爾波那爾波爾都度比《ヤソクニハナニハニツドヒ》云々。また【廿九丁】に、佐伎毛利都度比《サキモリツドヒ》云々など見えたり。
 
率比賜比《イザナヒタマヒ》。
本集十七【四十九丁】に、麻須良乎能登母伊射奈比底《マスラヲノトモイザナヒテ》云々。十八【廿丁】吾大王能毛呂比登乎伊射奈比多麻比《ワガオホキミノモロビトヲイザナヒタマヒ》云々。續日本紀、天平神護元年三月丙申詔に、人仁毛伊佐奈方禮須人乎毛止毛奈方須之天《ヒトニモイザナハレズヒトヲモトモナハズシテ》云々。また、惡友爾所引率流物在《アシキトモニイザナハルゝモノニアリ》云々などあれば、こゝをも、字のまゝに、いざなひたまひと訓べき事、論なきを、考より以下の毛呂注、あともひたまひと、訓るは、しひて訓を改めんとするにて、非也。
 
朝獵爾《アサガリニ》。
 
本集一【八丁】に、、朝獵爾今立須良思《アサガリニイマタヽスラシ》、暮獵爾今他田渚良之《ユフガリニイマタヽスラシ》云々。六【十四丁】に、朝獵爾十六履起之《アサガリニシヽフミオコシ》、夕狩爾十里〓立《ユフガリニトリフミタテヽ》云々などあると同じく、朝獵、暮狼を、對になして、詞をかざれり。
 
鹿猪踐起《シシフミオコシ》。
しゝといふは、上【攷證二下廿八丁】にいへるが如く、獣の惣名なれば、鹿猪の字を、しゝとはよめる也。
 
鶉雉履立《トリフミタテ》。
とりといふは、禽の惣名にて、野の獵には、鶉雉など專らとする故に、鶉雉を、とりとはよめる也。獣も、禽も、草にかくれたるを、ふみおこし、ふみたてつ(189)つ、かる也。
 
大御《オホミ》馬《マ・ウマ》之《ノ》。
大御は、大御食《オホミケ》、大御門《オホミカド》、大御盃《オホミサカヅキ》などの大御と同じく、貴人の御馬なれば、しかいふ也。さて、馬をまとのみいふは、本集五【廿五丁】に、美麻知可豆加婆《ミマチカヅカバ》云々とあるも、御馬近付ばにて、驛馬《ハユマ》といふも同じく、皆、うまの略なる事、馬をまの假字に用ふるにてもしるべし。
 
口《クチ》押駐《オシトヾドメ・オサヘトメ》。
本集六【卅一丁】に、馬之歩押止駐余《ウマノアユミオシテトドメヨ》云々ともあれば、おしてとどめよと訓べし。馬の口づらを、おさへてとゞむる也。
 
御心乎《ミコヽロヲ》。見《ミ》爲《シ・セ》明米之《アキラメシ》。
本集十八【廿丁】に、美知能久乃小田在山爾金有等麻宇之多麻敝禮《ミチノクノヲタナルヤマニクガネアリトマウシタマヘレ》、御心乎安吉良米多麻比《ミコヽロヲアキラメタマヒ》云々。十七【卅八丁】に、可久之許曾美母安吉良米《カクシコソミモアキラメ》云々。十九【廿丁】に、繁思乎見明良米情也良牟等布勢乃海爾《シゲキオモヒヲミアキラメコヽロヤラムトフセノウミニ》云々。また、【卅九丁】吾大皇秋之我色々爾見賜明米多麻比《ワガオホキミハアキノハナシガイロ/\ニミタマヒアキラメタマヒ》云々。また【四十三丁】如是許曾見爲安伎良米《カクシコソミシアキラメヽ》云々。廿【廿五丁】に、母能其等爾佐可由流等伎等賣之多麻比安伎良米多麻比《モノコトニサカユルトキトメシタマヒアキラメタマヒ》云々などあるも、皆、同じく、明《アキ》らむとは、殘る所なく明らかに見て、心をはらす意にて、こゝは、御馬をとゞめて、この所のさまを見給ひて、御心をはらしやり給ふ意也。續日本紀、寶龜二年二月己酉詔に、山川淨所者孰供加母見行阿加良閇賜牟《ヤマカハノキヨキトコロヲバダレトトモニカモミソナハシアカラヘタマハム》云々とあるも、伎《キ》を加《カ》に通はしたるにて、こゝと同じ意なり。
 
活道《イクヂ・イクメヂ》山《イクヂヤマ》。
本集六【四十一丁】に、天平十六年正月十一日登2活道岡1、集2一株松下1、飲歌二首とて、市原王、家持卿などの歌あり。これ、恭仁京の時なれば、京近き所と見ゆれば、活道(190)山は山城の中なる事明らけく、長流が萬葉名所考にも、郡はしるさゞれど、山城國とせり。されど、山城志、山城名勝志等に載ざるは、其所さだかならざるなるべし。さて、代匠記に、活道山ヲ、八雲御抄ニハ、イクチト載サセタマヘド、此本、諸點及ビ袖中抄ニモ、同ジク、イクメヂト云リ。活目道ナドニテ有ケムヲ、養老年中ヨリ、地ノ名二字ニ限ルペキヨシ定メサセ給テヨリ、目ノ字ハ省キナガラ、猶讀ツケ來レルヲ、點セル人、其由ヲ知テ、カクハアルニヤ。初ノ反歌ノ四ノ句、イクメデトヨマザレバ、歌ト成ガタシ云々といはれたり。又、宣長の説に、いくめぢ山と訓るは心得ず。これは、活目といふ地名もある故に、思ひまがへるなるべし。たゞ、いくぢと訓べし。八雲御抄にも、いくぢ山、山城とあれば、古本には、いくぢとよめりけんを、仙覺のさかしらに、いくめぢと改めつる也。尾張國知多郡にも生道村といふありて、式外伊久智神社あり。尾張本國帳に載たり。すべて、地名は諸國に同じきが多きものなれば、いくぢといふ例とすべし。反歌の第四の句は、見しゝいくぢのと訓てよろし。見しを、見しゝといふは古言也。長歌に、見しあきらめしとよめる見しも、たゞ、見あきらめ也云々ともあり。予は宣長の説に從ひたり。見ん人、こゝろのひかん方に、したがふべし。
 
木立之繁爾《コダチノシヾニ》。
木立は、書紀舒明紀歌に、于泥備椰摩虚多智于須家苔《ウネビヤマコダチウスケド》云々。本集五【廿三丁】に、志滿乃己太知母可牟佐飛仁家理《シマノコダチモカムサビニケリ》云々。十七【五十丁】に、今日見者許太知之氣思物《ケフミレバコダチシゲシモ》云々などありて、字の如く、木のしげく立たるをいへり。
 
(191)咲花毛《サクハナモ》。
咲花も、うつろひにけりといひて、世の中のはかなき事をしめしたり。毛の字に心を付べし。
 
如此耳奈良之《カクノミナラシ》。
かくばかりならんかしといふ意にて、世の中てふものは、かくばかりに、あはれに、はかなきものならんかしといひて、しばらく句を切たり。
 
大夫之《マスラヲノ》。
印本、丈を大に誤れり。改むるよしは、上ところ/”\にいへり。
 
心振起《コヽロフリオコシ》。
この振は、本集七【十七丁】に、可志振立而《カシフリタテヽ》云々。十九【十四丁】に、梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》云々などいひ、又、ふりさけ見るなどいふ、ふりと同じく、しひて催す意にて、こゝよりは、皇子の世におはしましゝほど、仕へ奉りしさまをいへり。
 
釼刀《ツルギタチ》。
釼《ツルギ》と、刀《タチ》と、二つにはあらず。つるぎとは、古事記上卷に、都牟刈之大刀《ツムガリノタチ》とある都牟刈《ツムガリ》と同じく、刀の利《ト》きをいへるなる事、古事記傳卷九【卅五丁】にいはれつるが如くなれば、つるぎたちとは、物を切る事の利き刀をいふ也。本集五【九丁】に、都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルギタチコシニトリハキ》、佐都由美乎多爾伎利物知提《サツユミヲタニギリモチテ》云々。十九【十四丁】に、釼刀許思爾等理波伎《ツルギタチコシニトリハキ》云々など見えたり。
 
腰爾取佩《コシニトリハキ》。
和名抄身體類に、説文云、〓【或作v腰。古之。】身中也云々と見えたり。取佩《トリハキ》とは、腰にとり付る也。この事、上【攷證二下十九丁】にいへり。
 
梓弓《アヅサユミ》。
梓の木にて作りたる弓也。上【攷證一上七丁】に出たり。
 
(192)靱取負而《ユキトリオヒテ》。
靱は、古事記上卷に、曾毘良邇者負2千人之靱1云々。書紀、推古天皇十一年紀訓注に、靱此云2由岐《ユキ》1云々。和名抄征戰具に、釋名云、歩人所v帶曰v靱【初牙反。和名由岐。】以v箭入2其中1云々とありて、こは、中古より、うつぼといふものゝ事にて、内に矢をいれて、背に負《オフ》ものなれば、古事記にも、この集にも、負《オフ》とはいへり。猶、このものゝ製作は、延喜大神宮式にくはしく見えたるが、大かたは、今とたがふ事なし。本集九【卅五丁】に、白檀弓靱取負而《シラマユミユギトリオヒテ》云々。二十【十九丁】に、麻須良男能由伎等里於比弖伊田弖伊氣婆《マスラヲノユキトリオヒテイデヽイケバ》云々なども見えたり。
 
天地與《アメツチト》。彌遠長爾《イヤトホナガニ》。
與《ト》は、ともにの意にて、天地とともに、いやがうへに、遠く長くといふ意也。ともにといふ意のともじの事は、上【攷證三上八十丁】にいへり。
 
如此毛欲得跡《カクシモガモト》。
がもは願ふ意の詞にて、もはそへたる言也。この事、上【攷證一上卅八丁】にいへり。こゝは、かくのごとくに、遠く長く、萬代も仕へ奉りてしがなと、思ひたのめりしと也。本集六【十三丁】に、玉葛絶事無萬代爾如是霜願跡《タマカヅラタユルコトナクヨロヅヨニカクシモガモト》云々とも見えたり。
 
皇子之御門乃《ミコノミカドノ》。
御門は、たゞ門のみをいふにはあらで、宮中までをいふなる事、上【攷證二中五十丁】にいへるが如し。御門乃《ミカドノ》の乃《ノ》もじは、爾の意也。この事、上【攷證三上卅七丁】にいへり。
 
五月蠅成《サバヘナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。五月を、さと訓るは義訓也。さて、五月は蠅のむらがりさわぐ時なれば、五月の蠅の如く、さわぐとつゞけし也。
 
驟騷舍人者《サワグトネリハ》。
驟騷の字を、さわぐよめるは義訓也。玉篇に、驟〓也、騷動也と見えたり。
 
(193)白栲爾《シロタヘニ》。服取着而《コロモトリキテ》。
まへの歌にもいへるが如く、喪儀には、奉仕の人、白き衣を著する也。この事、上【攷證二下廿七丁】にいへり。
 
常有之《ツネナリシ》。
にあの反、なにて、つねにありし也。本集五【九丁】に、余乃奈迦野都禰爾阿利家留遠等※[口+羊]良何《ヨノナカノツネニアリケルヲトメラガ》云々とも見えたり。
 
咲比《ヱマヒ》振《フリ・フル》麻比《マヒ》。
 
咲比《ヱマヒ》は、本集四【四十八丁】に、妹之咲※[人偏+舞]乎夢見而《イモガヱマヒヲイメニミテ》云々。五【九丁】一云に、都禰奈利之惠麻比麻欲毘伎散久伴奈能宇都呂比爾家里余乃奈可件可久乃未奈良之《ツネナリシヱマヒマヨビキサクハナノウツロヒニケリヨノナカハカクノミナラシ》云々。十七【四十五丁】に、於毛比保許里底惠麻比都追《オモヒホコリテヱマヒツヽ》云々などありて、ゑみを延たる言也。振麻比は、書紀安康紀に威儀、遊仙窟に容儀、擧止などを、ふるまひとよみ、古今集、墨滅歌に、わがせこがくべきよひなり、さゝがにのくものふるまひ、かねてしるしもともあれど、この語意を考ふるに、振は、まへにいへる如く、もとめて催す詞にて、振放見《フリサケミル》、振延《ブリハヘ》などいふ、ふりと同じ言と聞ゆれば、必らず、ふりまひといはでは叶はざる也。この外に、ふる何といふ言のなきにてもしるべし。源氏物語、野分卷に、にほふそらも、からのけぶりも、ふればひ給へる御けはひにやと云々とあるも、ふりまひの轉じたる也。さて、このゑまひは、ゑみ榮るをいひ、ふりまひは、立ふるまひをいひて、こゝは、皇子のおはしましゝほどは、よろづめでたく、舍人どもゝ、ゑみさかえて、立ふるまひしをいふ。
 
彌日異《イヤヒケニ》。
いやひゞにいふ意なる事、まへにいへるが如し。
 
(194)更經見者《カハラフミレバ》。
かはらふは、かはるを延たる言にて、日々にかはりゆくを、なげく也。
 
悲呂可毛《カナシキロカモ》。
印本、呂を召に作りて、かなしめしかもと訓るは、誤りなる事、明らかなれば、元暦本によりて改む。この呂の字は助字にて、古事記中卷御歌に、宇斯呂傳波袁陀弖呂迦母《ウシロテハヲダテロカモ》云々。下卷御歌に、淤富岐美呂迦母云々。他賀多泥呂迦母《タガタネロカモ》云々。また歌に、登母志岐呂加母《トモシキロカモ》云々。書紀、仁徳紀御歌に、箇辭古耆呂箇茂《カシコキロカモ》云々。本集五【十三丁】に、多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》云々などあると同じ格也。また、ろかもとつゞけずして、助字なる呂も多かり。そは、四【五十四丁】に、夜之穗杼呂《ヨノホドロ》、出都追來良久《イデツヽクラク》云々。十四【三丁】に、加奈思吉兒呂我《カナシキコロガ》云々などありて、十四の卷には、ことに、いと多かり。
 
反歌。
 
479 波之吉可聞《ハシキカモ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》。安里我欲比《アリガヨヒ》。見之活道《ミシヽイクヂ・ミシイクメジ》乃《ノ》。路波荒爾鷄里《ミチハアレニケリ》。
 
波之吉可聞《ハシキカモ》。は
はしきは愛する意、かもは歎息の意こもりて、こゝは、なつかしきかもといはんが如し。この事は、上【攷證二上卅一丁】にいへり。
 
安里我欲比《アリガヨヒ》。
ありは、ありたゝし、ありまちなどいふ、ありと同じく、こゝに在て、かよはせ給ひしをいふ。この事、上【攷證二中十六丁】にいへり。
 
(195)見之活道乃《ミシヽイクヂノ・ミシイクメヂノ》。
まへにあげたる宣長の説によりて、見しゝいくぢのと訓べし。見しゝといふ見しのしは、過去のしにはあらず、見しといひて、たゞ見ることとなれり。下のしは、過去のしにて、見たまひしといふ意也。こは、安見之《ヤスミシシ》といふと同じ格の語にて、まへの長歌に、見爲明米之《ミシアキラメシ》とある見しも、本集一【廿三丁】に、在立《アリタヽシ》、見之賜者《ミシタマヘバ》云々とある見しも、たゞ見る意なるにてしるべし。本集十九【卅九丁】に、國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》云々。また【四十二丁】豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云々とあるもおなじ。
 
路波荒爾鷄里《ミチハアレニケリ》。
今は獵におはします事もたえにたれば、その道もあれにけりと也。一首の意は、なつかしと思ひ奉る皇子の、世におはしましゝほど、御獵のたびごとに、かよはせたまひつゝ、見たまひし活道山の道も、あれはてたりと也。
 
480 大伴之《オホトモノ》。名負靱帶而《ナニオフユキオビテ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。憑之心《タノミシコヽロ》。何所(・ニ)可將寄《イヅクカヨセム》。
 
大伴之《オホトモノ》。名負靱帶而《ナニオフユキオビテ》。
大伴は氏也。これを、大件といへるよしは、大は多の意、伴は黨《トモガラ》の意にて、多くの伴を率て、朝廷に仕へ奉る氏なれば、大伴とはいひて、この氏人、ことに建くして、朝廷の御かためともなりて、武を專らとせしかば、大伴之名《オホトモノナ》におふ靱おひてとはいへる也。そは、古事記上卷に、故爾天忍日命、天津久米命、二人、取2負天之石靱1、取2佩頭椎之大刀1、取2持天之波士弓1、手2挾天之眞鹿兒矢1、立2御前1而仕奉。故其天忍日命、【此者、大伴連等之祖。】天津久米命、【此者、久米直等之祖也。】云々。書紀景行紀に、日本式尊、至2甲斐國1、居2于酒折(196)宮1。【中略】居2是宮1、以2靱部1、賜2大件連之遠祖武日1也云々。孝徳紀に、大伴長徳連、帶2金靱1、立2於壇右1云々。本集七【四丁】に、靱懸流伴雄廣伎大伴爾《ユキカクルトモノヲヒロキオホトモニ》云々。二十【五十一丁】家持卿歌に、大伴乃宇治等名爾於敝流麻須良乎能等母《オホトモノウチトナニオヘルマスラヲノトモ》云々。續日本紀、天平勝寶元年四月詔に、大伴《オホトモ》、佐伯宿禰波《サヘギノスクネハ》、常母云久《ツネニモイハク》、天皇朝守仕奉事《スメラカミカドマモリツカヘマツルコト》、顧奈伎人等爾阿禮波《カヘリミナキヒトヾモニアレバ》、汝多知乃祖止母乃云來久《イマシタチノオヤドモノイヒクラク》、海行波美豆久屍《ウミユカバミヅクカバネ》、山行波草牟須屍《ヤマユカバクサムスカバネ》、王乃幣爾去曾死米《オホキミノヘニコソシナメ》、能杼爾波不死《ノドニハシナジ》、止云來流人等止奈母聞召須《トイヒクルヒトドモトナモキコシメス》云々。姓氏録卷十一に大伴宿禰、高皇産靈尊五世孫、天押日命之後也。初天孫彦火瓊々杵尊、神駕之降也、天押日命、大來目部、立2御前1、隆2于日向高千穗峯1。然後、以2大來目部1、爲2天靱負部1、天靱負之號、起2於此1也。雄略天皇御世、以2天靱負1、賜2大連公1。【こは大伴室屋大連をいひて、これより靱負部は大伴氏の職となりしなり。】奏曰、衛門開闔之務、於v職已重。若一身難v堪、望與2愚兒語1、相伴奉v衛2左右1。勅依v奏。是大伴、佐伯二氏、掌2左右開闔1之縁也云々などあるにて、この氏の、ことに建く、靱負《ユゲヒ》の名あるをしるべし。さて、この靱てふもの、大かたは背に負《オフ》ものなれど、腰に帶《オブ》る製もあるもの故に、帶《オビ》てとはいへるにて、佩《ハク》といふと、大かたは同じき事、上【攷證二下十九丁】を考へ合せてしるべし。
 
何所(・ニ)可將寄《イヅクカヨセム》。
今よりしては、心をいづかたにかよせんといふにて、一首の意は、大伴の氏は武官にて、靱負《ユキオフ》職ぞと名におへる、その職を帶《オブ》る内舍人にて、かくをゝしきわざをして、萬代も、この君に仕へ奉らんとたのみわたりし心を、今よりして、いづくにかよせんといふ意なれば、この時、家持卿、この皇子の内舍人なりきとおぼし。
 
右三首。三月二十四日作歌。
 
(197)これ、六十日ほども過てよめる歌にて、長歌の中に、彌日異更經見者《イヤヒケニカハラフミレバ》とあるにて、ほど過し事しられたり。
 
悲2傷死妻1。高橋朝臣作歌一首。并短歌。
 
高橋朝臣、名を脱たれば、傳、考へがたし。この氏は、姓氏録二に、高橋朝臣、阿倍朝臣同v租。大稻輿命之後也。景行天皇巡2狩東國1、供2献大蛤1。于v時天皇喜2其奇美1、賜2姓膳臣1。天渟中原瀛眞人天皇、謚天武十二年、改2膳臣1、賜2高橋朝臣1云々と見えたり。
 
481 白細之《シロタヘノ》。袖指可倍弖《ソデサシカヘテ》。靡寢《ナビキネシ》。吾黒髪乃《ワガクロガミノ》。眞白髪爾《マシラカニ》。成極《ナルキハミマデ・ナリキハマリテ》。新世爾《アラタヨニ》。共將有跡《トモニアラムト》。玉緒乃《タマノヲノ》。不絶《タエジ》射《イ・ヤ》妹跡《イモト》。結而石《ムスビテシ》。事者不果《コトハハタサズ》。思有之《オモヘリシ》。心者不遂《コヽロハトゲズ》。白妙之《シロタヘノ》。手本矣別《タモトヲワカレ》。丹杵火爾之《ニキビニシ》。家從裳出而《イヘユモイデテ》。緑兒乃《ミドリコノ》。哭乎毛置而《ナクヲモオキテ》。朝霧《アサギリノ》。髣髴爲《ホノニナリ・ホノメカシ》乍《ツヽ》。山代乃《ヤマシロノ》。相樂《サガラカ・サガラノ》山乃《ヤマノ》。山際《ヤマノマニ》。往過奴禮婆《ユキスギヌレバ》。將云爲便《イハムスベ》。將爲便不知《セムスベシラニ》。吾妹子跡《ワギモコト》。左宿之妻屋爾《サネシツマヤニ》。朝庭《アサニハニ》。出立《イデタチ》偲《シヌビ・シノヒ》。夕爾波《ユフベニハ》。入居嘆合《イリヰナゲカヒ》。(198)腋挾《ワキバサム》。兒乃泣母《コノナクゴトニ》。雄《ヲトコ・ヲノコ》自毛能《ジモノ》。負見抱見《オヒミイダキミ》。朝鳥之《アサトリノ》。啼耳哭管《ネノミナキツヽ》。雖戀《コフレドモ》。効矣無跡《シルシヲナミト》。辭不問《コトトハヌ》。物爾波在跡《モノニハアレド》。吾妹子之《ワギモコガ》。入爾之山乎《イリニシヤマヲ》。因鹿跡叙念《ヨスカトゾオモフ》。
 
白細之《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にも出たり。衣といふより、袖ともつゞけたり。
 
袖指可倍弖《ソデサシカヘテ》。
本集二【卅二丁】に、敷妙乃袖易之君《シキタヘノソデカヘシキミ》云々。八【五十二丁】に、白細之袖指代而佐寐之夜也《シロタヘノソデサシカヘテサネシヨヤ》云々などありて、袖をさしかはすをいへり。五【九丁】に、多麻提佐斯迦閉佐禰斯欲能《タマデサシカヘサネシヨノ》云々。十三【十四丁】に、鬼之四忌手乎指易而《シコノシキテヲサシカヘテ》云々。十五【十一丁】に、之路多倍乃波禰左之可倍※[氏/一]《シロタヘノハネサシカヘテ》云々などある、さしかへも同じく、さしは詞にて、さしまき、さしはき、さしよる、さしいづるなどいふ、さしと同じ。
 
靡寢《ナビキネシ》。
上【攷證二中八丁】にいへるが如く、なよゝかに、物のうちなびきたるやうに、ゆたかに寢るを、なびきぬるとはいふを、こゝは、それに髪のなびくをかねて、わが黒髪とはつゞけたり。本集二【八丁】に、打靡吾黒髪爾《ウチナヒクワガグロカミニ》云々とも見えたり。
 
眞白髪爾《マシラカニ》。
眞《マ》は眞《ミ》ともかよひて、例の添たる言にて、こゝは、たゞ白髪《シラカ》をいふ。髪を、かとのみいふは、かみの略也。さて、假字に、しらかと書る例なければ、定めがたけ(199)れど、延喜式に多志良加《タシラカ》といふ器を、手白髪《タシラカ》とも書たれば、かは清てよむべし。
 
成極《ナルキハミマデ・ナリキハマリテ》。
極《キハミ》とは、上【攷證二中四十三丁】にいへるが如く、きはまりといふ事にて、こゝは、黒き髪の、年よりて白髪になりきはまるまでといふ意なれば、必らず、までといふ言を添ざれば叶はざる所也。そは、本集七【四十一丁】に、福何有人香黒髪之白成左右妹之音乎聞《サキハヒノイカナルヒトカクロカミノシロクナルマデイモガオトヲキク》云々。十一【廿二丁】。黒髪白髪左右跡結大王心一乎今解目八方《クロカミノシロカミマデトムスビテシコヽロヒトツヲイマトカメヤモ》云々。十七叩二に、布流由吉乃之路髪麻泥爾大皇爾都可倍麻都禮婆貴久母安流香《フルユキノシロカミマデニオホキミニツカヘマツレバタフトクモアルカ》云々など、行末をかけていふ所には、必らず、までといふ言あるにて、こゝも、までと訓そふべきをしるべし。さて、この訓を添る事は、上【攷證三上十七丁】にいへるが如し。
 
新世爾《アラタヨニ》。
上【攷證一下三十一丁】にいへるが如く、あらたに、めづらしき世といふ事にて、御代をほめ祝したる也。
 
共將有跡《トモニアラムト》。
妹とゝもに、いつまでも、この代にあらんといふ意也。
 
玉緒乃《タマノヲノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは、手玉にまれ、足玉にまれ、玉を貫たる緒をいひて、緒といふより、絶《タユ》とはつゞけたるにて、集中、ながきとも、みじかきとも、みだれとも、あひだとも、うつしとも、つゞけたり。中古より、玉の緒といふを、命のこととしたるも、この轉じたる也。
 
不絶《タエジ》射《イ・ヤ》妹跡《イモト》。
舊訓、射をやと訓たれど、射をやとよめるは、藐姑射山《ハコヤノヤマ》といふ時より外は見えざれば、常の如く、不絶射《タエジイ》と訓べし。さて、この射《イ》は、じの引聲を延《ノベ》たる(200)にて、本集此卷【十二丁】に、志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》云々とある、いもじと同じく、たゞ、そへたるのみにて、こゝろなければ、こゝは、たゞ、たえじと契りむすべるをいへる也。
 
結而石《ムスビテシ》。
結ぶは、契りを結ぶ也。この事、上【攷證三中八十二丁】にいへり。
 
事者不果《コトハハタサズ》。
事は借字、言にて、こゝまでの意は、吾黒き髪の、年よりて白髪となる、きはまるり《(マヽ)》までこのめでたき世の中に、共ありなん、中はたえじと契り結びてし言をばはたさず、心をばとげずとなり。
 
心者不遂《コヽロハトゲズ》。
言と心を對になして、思ひし心をもとげずとなり。本集四【卅三丁】に、何爲跡香相見始兼不遂爾《ナニストカアヒミソメケムトゲヌトナシニ》云々なども見えたり。
 
手本矣別《タモトヲワカレ》。
手本は、手の本といふ意に、かく書たれば、袖といふと、專らことなることなき事、上【攷證二中四丁】にいへるが如く、まへに、袖さしかへてといへるが如く、さしかはしなどしたる袖を、わくるをいひて、たゞわかるゝ意なるをも、かくいへるは、別なれば也。本集四【卅八丁】に、白妙之袖可別日乎近見《シロタヘノソデワカルベキヒヲチカミ》云々。十一【廿三丁】に、妹之袖別之日從《イモガソデワカレシヒヨリ》云々。十二【卅八丁】に、白妙之袖之別者雖惜《シロタヘノソデノワカレハヲシケドモ》云々なども見えたり。
 
丹杵火爾之《ニキビニシ》。
住なれて、にぎはゝしく、萬たりとゝのひたるをいへるなる事、上【攷證一下七十丁】にいへるが如し。
 
(201)家從裳出而《イヘユモイデテ》。
家よりも出てといふにて、裳《モ》は哭乎毛置而《ナクヲモオキテ》の毛と向へて、かくの如く、住なれたる家をさへもいでゝといふ意也。
 
朝霧《アサギリノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。朝霧の如く、おほとつゞけし也。
 
髣髴爲《ホノニナリ・ホノメカシ》乍《ツヽ》。
おほは、上【攷證二下五十八丁】にいへるが如く、凡の意にて、霧をへだてゝ物を見れば、たしかには見えで、大方に見ゆるものなる故に、その如く、おほになりつゝとはつゞけて、葬りゆくを見送るに、次第に遠く、おぼゝしくなりゆくをいへり。本集四【卅一丁】に、朝霧之欝相見之人故爾《アサギリノオホニアヒミシヒトユヱニ》云々とも見えたり。
 
相樂《サガラカ・サガラノ》山乃《ヤマノ》。
古事記中卷に、到2山代國之相樂1時、取2縣樹枝1兩欲v死。故號2其地1、謂2縣木《サガリキ》1。今云2相樂《サガラカ》1云々と見え、和名抄郡郷名に、山城國相樂郡【佐加良加。】相樂郷【佐加良加。】とあれば、さがらか山とよむべし。
 
山際《ヤマノマヲ》。
山の間をの意也。上【攷證一上卅一丁】に出たり。
 
往過奴禮婆《ユキスギヌレバ》。
こは葬り行て、相樂山乃山際を行すぐるをいへり。
 
左宿之妻屋爾《サネシツマヤニ》。
左宿之《サネシ》の左《サ》は、上【攷證二上十二丁】にいへるが如く、發語にて、たゞ寢《ネ》しといふ也。妻屋《ツマヤ》は喘《ツマ》屋の意にて、母屋の端にある閨をいふよしは、上【攷證二下五十丁】にいへる(202)如し。さて、この歌は、本集二【卅九丁】人麿妻死時の歌に、吾妹子之形見爾置若兒乃乞泣毎取與物之無者《ワギモコガカタミニオケルミドリコノコヒナクゴトニトリアタフモノシナケレバ》、烏徳自物脇挾持《ヲトコジモノワキバサミモチ》、吾妹子與二吾宿之枕付嬬屋内爾《ワギモコトフタリワガネシマクラツクツマヤノウチニ》、晝者裳浦不怜晩之《ヒルハモウラサヒクラシ》、夜者裳息氣衝明之《ヨルハモイキツキアカシ》云々とある歌をとりてよめりとおぼし。
 
朝庭《アサニハニ・アシタニハ》。出立《イデタチ》偲《シヌビ・シノビ》。夕爾波《ユフベニハ》。入居嘆合《イリヰナゲカヒ》。
久老が考云、朝庭の爾波《ニハ》は助辭《テニハ》にあらず。卷十三【十五丁】に、朝庭丹出居而嘆《アサニハニイデヰテナゲキ》。卷十七【廿一丁】に、安佐爾波爾伊泥多知奈良之《アサニハニイデタチナラシ》と見えたり。されば、下の夕爾汝も、庭なるべく、卷十七【廿一丁】に、暮庭爾敷美多比良氣受《ユフニハニフミタヒラゲズ》とあるに、卷十三【卅丁】に、朝庭出居而嘆夕庭入居戀乍《アサニハニイデヰテナゲキユフニハニイリヰコヒツヽ》とさへあれば、いよゝ爾波《ニハ》は、てにをはならじとおもへれど、同卷【十五丁】に、同じ歌の出たるには、朝庭爾《アサニハニ》云々夕庭《ユフニハ》云々と書て、上には爾《ニ》の字をそへ、下には爾《ニ》の字なきに、こゝも、上は庭と書て、爾《ニ》のてにをはゝ、よみつくべく、下は爾波《ニハ》と假字書《カナガキ》にて、爾《ニ》のてにをはなきを、相照して考れば、出立《イデタチ》云々は嬬屋《ツマヤ》の庭にといふ意、入居《イリヰ》云々はつま屋の内にといふ意也。故、《(マヽ)》二つの庭《ニハ》は、正字と、てにをはとにて、上下たがへり。依て上はあさにはにとよみ、下はゆうべにはとよみたり。右にいふ卷十七のは、上に芽子花邇保敝流屋戸爾《ハギノハナニホヘルヤドニ》とあれば、上下ともに屋前《ヤド》の庭《ニハ》なるべく、卷十三のは、上に石床《イハトコ》の根延門爾《ネハヘルカドニ》とあれば、上は門の庭をいひ、下はその門より寢所へ入居といふ意なれば、こゝと同じき也。ようせずは、まざれなん。よく考へて、分つべし云々。この説、いかにもさることなれば、これに從ふべし。さて、印本、合を舍に作りて、嘆舍《ナゲクヤ》と訓たれど、舍、合、字體近ければ、誤りなる事明らかなるによりて、意改せり。久老は、古本によれりとて、嘆會《ナゲカヒ》と改めたり。それもあしから(203)ねど、合の方近きこゝちせり。この嘆合《ナゲカヒ》といふ言は、かひの反、きにて、なげきといふを延《ノベ》たる言也。本集五【卅八丁】に、晝波母歎加比久良志《ヒルハモナゲカヒクラシ》、夜波母息豆伎阿可志《ヨルハモイキヅキアカシ》云々。九【卅三丁】に、行因射立嘆日《ユキヨリヰノタチナゲカヒ》云々。十七【廿六丁】に、隱居而念奈氣加比《コモリヰテオモヒナゲカヒ》云々など見えたり。
 
腋挾《ワキハサム》。
こは、たゞ懷をいふ也。上【攷證二下四十九丁】に出たり。
 
兒乃泣母《コノナクゴトニ》。
印本、毎を母に作りて、泣母《ナカシメバ》と訓たれど、訓も字も誤りなる事しるし。こは、まへにもいへるが如く、此歌の本歌の如くなる卷二【卅九丁】の人麿の歌に、若子乃乞泣毎《ミドリコノコヒナクゴトニ》とあるを取たるにて、毎と母と字體近ければ、毎を母に誤れる事明らかなれば、意改せり。
 
雄《ヲトコ・ヲノコ》自毛能《ジモノ》。
こは、をとこじものと訓て、をとこなるものをといふ意なる事。上【攷證二下四十九丁】にいへり。
 
負見抱見《オヒミイダキミ》。
二つの見は、本集十二【十六丁】に、梓弓引見從見思見而《アヅサユミヒキミユルシミオモヒミテ》、既心齒因爾思物乎《スデニコヽロハヨリニシモノヲ》。後撰集、冬に、神無月ふりみふらずみさだめなきしぐれぞ冬のはじめなりける、などある、みと同じく、俗言に、たりといふ意にて、こゝは、背《セ》に負《オヒ》たり、前《マヘ》に抱《イダイ》たりといふ意也。
 
朝鳥之《アサトリノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。朝は萬の鳥のなくもの故に、かくはつゞけし也。
 
(204)効矣無跡《シルシヲナミト》。
しるしなしといふは、かひなく、無益なる意にて、こゝは、戀れどもそのかひもなさにとゝいふ意也。この事、上【攷證三中四十四丁】にいへり。無《ナミ》のみは、さにの意也。
 
辭不問《コトトハヌ》。
ことゝはぬとは、ものいはぬといふが如し。この事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。
 
物爾波在跡《モノニハアレド》。
かの妹が入にし山は、ものいはぬ物なれどゝいふにて、物とは、山をさしていふ也。本集三【廿八丁】に、言不問木雖在《コトトハヌキニハアレドモ》云々とあると同じ。
 
入爾之山乎《イリニシヤマヲ》。
葬りし所、相樂山をいふなり。
 
因鹿跡叙念《ヨスカトゾオモフ》。
因鹿《ヨスカ》は、佛足石歌に、乃利乃多能與須加止奈禮利《ノリノタノヨスカトナレリ》云々。本集十六【廿四丁】荒雄を悲しめる歌に、志賀乃山痛勿伐荒雄良我余須可乃山跡見管將偲《シガノヤマイタクナキリソアラヲラガヨスカノヤマトミツヽシヌバム》などありて、因《ヨス》は心をよするを、鹿《カ》は、住《スミ》か、隱《カク》れか、在《アリ》か、奥《オク》か、などいふ、かと同じく、所といふ意にて、皆、かもじを清てよめれば、こゝもかもじを清て訓べし。さて、こゝは、吾妹子が入にし山を、これさへなつかしければ、心のよる所とぞ思ふといふ意にて、俗言に、たよかとおもふといふに近し。
 
反歌。
 
482 打背見乃《ウツセミノ》。世之事《ヨノコト》爾在《ナレ・ニアレ》者《バ》。外爾見之《ヨソニミシ》。山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》。因香跡思波牟《ヨスカトオモハム》。
 
(205)打背見乃《ウツセミノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上、所々に出たり。
 
世之事《ヨノコト》爾在《ナレ・ニアレ》者《バ》。
世之事《ヨノコト》は、本集五【十丁】に、金能許等奈禮婆等登尾可禰都母《ヨノコトナレバトドミカネツモ》とあると同じく、世の中のことわりなればといふ意也。
 
因香跡思波牟《ヨスカトオモハム》。
印本、跡を爾に作りながら、訓はよすかと思はんとあれば、爾は跡の誤りなる事しるし。されば、代匠記に引る校本、拾穗本、考異本に引る異本などに依て改む。この歌を、六帖第四に載て、うつせみの世の事なれば、よそに見し山をや今はよすがと思はん、とあるにても思ふべし。さて、一首の意は、生るものゝ死する事は、世の中のことわりなれば、今までは、よそに見たりし相樂山をも、いまよりは、妹が墓を思へば、心のより所と思はんといふにて、なつかしき意也。山とは相樂山をさせり。
 
483 朝鳥之《アサトリノ》。啼耳《ネニノミ・ネノミヤ》鳴六《ナカム》。吾妹子爾《ワギモコニ》。今亦更《イママタサラニ》。逢因矣無《アフヨシヲナミ》。
 
啼耳《ネニノミ・ネノミヤ》鳴六《ナカム》。
舊訓、ねのみやなかんとあれど、やの字なければ、いかゞ。には、常によみそふる、てにをはなれば、ねにのみなかんと訓べし。宣長云、鳴六は之鳴の誤りにて、ねのみしなかゆか。なかんといふべき所にあらず云々といはれつるは、心得ず。なかんと訓ても、一首の意、きこゆまじきにあらず。
 
逢因矣無《アフヨシヲナミ》。
無《ナミ》のみは、さにの意にて、一首の意は、今は、又さらに、妹にあふよしのなければ、ねにのみなかん、ねにのみなきつべしとなり。
 
(206)右三首。七月二十日。高橋朝臣作歌也。名字未v審。但云2奉膳之男子1焉。
 
考に、名の字より以下十二字を、後人の筆とせり。さもあるべし。又は、かくいふ傳への、古くよりありしも、しるべからず。この高橋朝臣といふは、名はつまびらかならざれども、奉膳の男子なりきといへりといふ意也。さて、奉膳とは官名也。職員令に、内膳司、奉膳二人、掌d惣2知御膳1、進食先嘗事uと見えて、高橋氏は、世々|膳《カシハデ》の職なる事は、はじめに引る姓氏録にも見え、續日本紀に、天平寶字三年十一月丁卯、從五位下高橋朝臣子老、爲2内膳奉膳1云々。神護景雲二年二月癸巳、勅准v令、以2高橋安曇二氏1任2内膳司1者、爲2奉膳1、其以2他氏1任v之者、宜2名爲1v正云々。延喜大甞會式に、内膳司、高橋朝臣一人、【執2鰒汁漬1】安曇宿禰一人、【執2海藻汁漬1】云々などあるにてしるべし。
 
(207)二の卷を考證しをはりつる、文政七年十一月甘七日を、きのふといふ日より、筆をとりしかど、同じく八年正月の末つかたより、家を作ることにかゝづらひて、筆をおきしかど、五月中ばのほどに、家を作りはてしかば、又思ひおこして、此卷ををはりつるは、なが月の九日になん。
                  岸本由豆流
                    (以上攷證卷三下册)
 
(1)萬葉葉卷第四
 
相聞。
 
相聞とは、きこえかはす意にて、何にまれ、人に贈る歌をも、答る歌をもいひて、戀の歌のみにはあらざる事、上【攷證二上一丁】にいへるが如し。
 
難波天皇(ノ)妹。奉d上在2山跡1皇兄u。御謌一首。
 
難波天皇。
仁徳天皇を申す。この帝の御事は、上【攷證二上一丁】に出たり。さて難波に都をしめ給ひしは、この後、孝徳天皇もおはしませど、岳本天皇【舒明】の前に載奉れば、こゝは仁徳帝なる事明らけし。
 
妹。
仁徳天皇は應神天皇の御子にましまして、古事記中卷應神天皇の段に、此天皇之御子等并二十六王【男十一女十五】と見え、書紀應神紀に、凡是天皇男女并二十五王也とありて、皇兄弟姉妹いと多くましませば、この殊は、いづれの皇女を申すにか、しりがたし。宇萬伎説に、妹の上、皇の字あるべしといへれど、こゝは天皇妹とあれば、皇の字なくても聞えたり。
 
(2)皇兄。
皇兄とは、天皇の御兄といふ事にて、まへにもいへるが如く、皇兄弟いとおほかれば、いづれともしりがたけれど、大和にましますよしなれば、額田大中彦皇子を申すか。その故は、書紀應神紀に、二年三月壬子、立2仲姫1爲2皇后1。后生2荒田皇女、大鷦鷯天皇、根鳥子1。先v是天皇以2皇后姉高城入姫1爲v妃、生2額田大中彦皇子1云々とあれば、これ御兄なるべし。しかも、額田と申す御名も、大和によしある事、和名抄郷名に、大利國平群郡額田【奴加多】とありて、また書紀仁徳紀に、六十二年、是歳、額田大中彦皇子獵2于|闘鷄《ツゲ》1云々とある闘鷄も、大和國山邊郡の地名にて、平群郡ととなれる郡なれば、この皇子、かた/”\、大和によしあるにても思ふべし。
 
484 一日社《ヒトヒコソ》。人母《ヒトモ》待《マチ・マツ》告《ツゲ》。長氣乎《ナガキケヲ》。如此《カク》所待《・マタルレ》者《バ》。有《アリ》不得勝《ガテナクニ・エタヘズモ》。
 
人母《ヒトモ》待《マチ・マツ》告《ツゲ》。
告《ツゲ》と書るは借字、繼《ツグ》にて、言繼《イヒツグ》、語繼《カタリツグ》などいふ繼と同じく、まちつゞくるにて、こゝは、一日ばかりこそは、朝より夕べまでも、まちつゞくれといふ意也。
 
長氣乎《ナガキケヲ》。
氣《ケ》は來經《キヘ》のつゞまりにて、上【攷證二上二丁】にいへるが如く、月日の長く來經往《キヘユク》を長氣《ナガキケ》とはいひて、こゝは、長く來經《キヘ》ゆく月日をといふ意也。
 
如此《カク》所待《・マタルレ》者《バ》。
所待の二字、心得がたし。舊訓のまゝにては、一首のうへ、聞えがたし。宣長の説に、所は耳の誤りにて、如此耳待者《カクノミマテバ》とありしならん云々といはれたり。この説、いかにもさる事なれば、これに依て解べし。されど、私には改めがたければ、しばらく本のまゝにておきつ。
 
(3)有《アリ》不得勝《ガテナクニ・エタヘズモ》。
不得勝を、がてなくともよめるは義訓也。がてなくのなくには意なく、たゞ在難《アリガタ》きにといへる意也。この事、上【攷證二上十六丁三下十六丁】二所にいへるを考へ合せてしるべし。さて一首の意は、一日ばかりこそは、朝より夕べまでも待つゞけてもありぬべけれ、長き月日を、かくの如くにのみ待つゞけてあらんには、はては身もいたづらになりぬべければ、かくばかりに待てのみえあられじ、とのたまひ送れるにて、大和より久しく見えたまはざるを、うらみたまふなり。
 
岳本天皇御製一首。并短歌。
 
舒明天皇を申す。この帝の御事は、上【攷證一上三丁】に出たり。さて、一二の卷の例もていはゞ、岳本宮天皇とあるべきなれど、八【卅一丁】にも宮の字を略きてしるし、此卷に天智天皇を近江天皇ともしるしたれば、宮の字を略きても書る也。また、製の字の下、歌の字を脱せりと眞淵いはれたり。いかにもさる事ながら、しばらく原本のまゝにておけり。
 
485 神代從《カミヨヨリ》。生繼來者《アレツギクレバ》。人多《ヒトサハニ》。國爾波滿而《クニニハミチテ》。味村乃《アヂムラノ》。去來者行跡《イザトハユケド》。吾戀流《ワガコフル》。君爾之不有者《キミニシアラネバ》。晝波《ヒルハ》。日乃久流麻弖《ヒノクルルマデ》。夜者《ヨルハ》。夜之明流寸食《ヨノアクルキハミ》。念乍《オモヒツヽ》。寐宿《イネ・イモネ》難爾登《ガテニト》。阿可思通良久茂《アカシツラクモ》。長此夜乎《ナガキコノヨヲ》。
 
(4)神代從《カミヨヨリ》。
こは、必らず神代にのみかぎらず、廣く古しへをさして神代とはいへり。この事、上【攷證三中六十四丁】にいへり。
 
生繼來者《アレツギクレバ》。
こは字の如く、生繼《ウマレツギ》々々することにて、いと古くより人のうまれつぎすれば、今は人多く國に滿たりと也。この事、上【攷證一下四十丁】にもいへる事あり。引合せ考ふべし。本集五【卅一丁】に、人佐播爾滿弖播阿禮等母《ヒトサハニミチテハアレドモ》云々。十三【九丁】に、式島之山跡之土丹人多滿而雖有《シキシマノヤマトノクニニヒトサハニミチテアレドモ》云々。二十【十八丁】に、聞食四方國爾波比等佐波爾美知弖波安禮杼《キコシヲスヨモノクニニハヒトサハニミチテハアレド》云々などあるも同じ。書紀神武紀歌に、比苔瑳披而異離烏利苔毛《ヒトサハニイリヲリトモ》云々とも見えたり。
 
味村乃《アヂムラノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。味《アヂ》は鳥の名にて、この鳥、群《ムレ》て行ものなれば、人の去來《イザ》といざなひゆくさまに、たとへて、つゞけしなり。
 
去來者行跡《イザトハユケド》。
去來《イザ》はいざなひ催す詞なる事、上【攷證一上廿一丁】にいへるが如く、こゝは、都の大路など、人のうち群て、いざといざなひゆくさまなれど、吾戀わたる君にあらざれば、晝のほどは日の暮るまで、夜は夜の明るかぎり、いも寐たまはず、思ひこがれさせ給ふとなり。
 
寐宿《イネ・イモネ》難爾登《ガテニト》。
この登の字を、眞淵の説に、登は死弖《シテ》の二字の誤りか、又は管の誤りにてもあるべしといはれつるに、略解は從ひつれど、誤り也。さて、この登《ト》もじは助辭にて、本集七【十二丁】に、所沾之袖者雖凉常不干《ヌレニシソデハホセレトトヒズ》云々。二十【卅七丁】に、多豆佐波里和可禮加弖爾等比伎等騰米《タヅサハリワカレガテニトヒキトドメ》云々。また【四十二丁】伊※[泥/土]弖登阿我久流《イデテトアガクル》云々などある、ともじの格也。この助辭の、ともじの(5)事は、上【攷證三上四丁】にもいへり。引合せ考ふべし。宣長云、去來、いざとはと訓ては聞えず。かよひはゆけどゝよまんか。さて、いねがて爾と、登の言の間に、六言脱たるなるべし。試に補はゞ、いねがてにして君戀登《キミコフト》など歟云々。此説、用ひがたし。
 
阿可思通良久茂《アカシツラクモ》。
良久《ラク》は、るを延たる言。茂《モ》は助字にて、こゝろなく、たゞ、あかしつるといへる也。さて、この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて、人多くいざなひ群《ムラガ》りて行《ユケ》ども、吾おぼしめす人にあらざれば、御心のゆく事なく、ひるも夜もおぼしつゞけて、長き夜もいねかねて、戀あかさせたまふとなり。
 
反歌。
 
486 山羽爾《ヤマノハニ》。味村騷《アヂムラサワギ》。去奈禮騰《ユクナレド》。吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》。君二四不在者《キミニシアラネバ》。
 
山羽爾《ヤマノハニ》。
山羽《ヤマノハ》は、山の端をいふ。上【攷證三中七十八丁】に出たり。
 
味村騷《アヂムラサワギ》。
本集三【十六丁】に、邊津方爾味村左和伎《ヘツベニアヂムラサワギ》云々など見えたり。さて、この騷の字を、仙覺抄、拾穗抄、考異本に引る古本など、みな驂に作て、あぢむらこまと訓るは非也。騷、驂、まがふべくもあらず。
 
(6)吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》。
惠は助辭にて、本集十一【十六丁】に、心者吉惠君之隨意《コヽロハヨシヱキミガマニマニ》云々。十四【十二丁】に、安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》、許登之許受登母《コトシコズトモ》云々などある惠と同じ。宣長云、よしゑやし、しゑやなどのゑも、この同じゑ也。日本紀歌に、ゑくるしゑと重ねてもいへり云々。
 
君二四不在者《キミニシアラネバ》。
四《シ》は助辭なり。一首の意は、かの味《アヂ》の群鳥《ムラトリ》は、うち連、たちさわぎ、きほひて、こゝろよげに行《ユケ》ども、吾は君とは違ひて、誘《サソ》ふ人もあらざれば、いとさびしとのたまふにて、君は定めて誘ふ人もあまたありぬべしとの御心を、味村の飛ゆくさまをみそなはして、つゞけ給へる也。また長歌にも、味村をよませ給へれば、こゝも、それをうけ、よませ給へる也。
 
487 淡海路乃《アフミヂノ》。鳥籠之山有《トコノヤマナル》。不知哉川《イサヤガハ》。氣乃己呂其侶波《ケノコロゴロハ》。戀乍裳將有《コヒツヽモアラム》。
 
鳥籠之山有《トコノヤマナル》。不知哉川《イサヤガハ》。
 
本集十一【卅三丁】に、狗上之鳥籠山爾有不知也川《イヌカミノトコノヤマナルイサヤカハ》、不知二五寸許須余名告奈《イサトヲキコスワガナノラスナ》とあるを見れば、この山も川も犬上郡なる事論なく、犬上郡は、和名抄郡名に、近江國犬上【以奴加三】と見えたり。書紀天武紀に、時近江命2山部王、蘇賀臣果安、巨勢比等1、率2數萬衆1、將v襲2不破1、而軍2于犬上川濱1云々。戊戌男依等、討2近江將秦友足於鳥籠山1云々などあり。されば、不知哉《イサヤ》川は、この犬上川をいへるか。又地圖もて案るに、犬上郡に、犬上川、善利川と、二つの川あり。いづれか、いさや川ならん。いづれにまれ、其源、鳥籠山より出(7)るをもて、とこの山なるいさや川とはつゞけ給ひしならん。さて、これを古今集墨滅の歌に、いぬかみのとこの山なるなとり川云々、又、六帖第五に、いさゝ川として載たるも、皆誤りなれば、思ひまどふべからず。
 
氣乃己呂其侶波《ケノコロゴロハ》。
氣《ケ》は氣長《ケナガク》、氣並《ケナラベ》などいふ氣と同じく、來經《キヘ》の約りにて、日の重なるをいふ。この事、上【攷證二上二丁三上卅三丁】にいへり。己呂其侶《コロゴロ》は、たゞ比《コロ》とのみもいふを、重ねて強《ツヨ》くいへるなり。何にても強くいふに、重ねいへる事、ゆめといふをゆめ/\、さぞといふをさぞ/\、いとゝいふをいと/\などいひ、集中にも、ねもころとのみもいひ、ねもころごろと重ねてもいふにても、こゝのころ/”\も、たゞ、ころとのみいふ意なるをしるべし。これを、宣長の説に、呂は乃の誤りにて、己乃其侶《コノゴロ》はなるべしといはれしは、例の古書をあらためんとするにて、とりがたし。本のまゝにても、よく聞ゆる|おや《(マヽ)》。されば、こゝは、日數の重なりたるこのごろは、たゞ戀つゝもあらんといふ意にて、かの天皇のおぼしめす女の、近江の古郷などに、かりそめに行たるを戀したはせ給ひて、女を其所の地名によそへて、のたまひ(し脱カ)也。さるを、宣長の説に、上句は序にて、川の氣といふつゞきは、潮氣《シホケ》などいふ類ひにて、川の水の氣にて、即ち霧をいふべし【契沖も同説也】といはれつるは、あまりしきこゝちす。さて、一首の意は、女の意をばいさしらずとおぼしめすを、即ちその地名なれば、いさや川によそへて、女のことにとりなしたまひて、さて、その女の近江へまかりてより、日數の重なりたれば、たゞこのごろは、せんすべなさに、たゞ戀つゝ在ぬべしとのたまふ也。
 
(8)右今案。高市岳本宮。後岡本宮。二代二帝。各有v異焉。但稱2岡本天皇1。未v審2其指1。
 
高市岡本宮は舒明天皇、後岡本宮は齊明天皇にて、舒明帝の大宮をば、書紀にも、たゞ岡本宮とのみしるし、齊明帝の大宮をば、後飛鳥岡本宮としるされしかば、こゝにおしはなして、岡本宮とのみ申すは、舒明帝なる事明らけきうへに、齊明帝は女帝にまし/\て、はじめ舒明帝の皇后にまし/\たるを、まへの和歌は、もはら人をしたはせ給ふ御歌なれば、かたく齊明帝ならざる事論なきを、かくしるせるは、後人のわざなればなり。
 
額田王。思2近江天皇1作歌一首。
 
額田王は女王なり。そのよしは上【攷證一上十三丁】にいへり。さて、この女王、はじめ天智帝にめされしが、そのころ、天武帝、皇太子におはしましゝほどより、御心をかけ給ひし事、卷一【十三丁】の御歌にてしらる。近江天皇は天智帝なり。上【攷證一上廿七丁】に申す。
 
488 君待登《キミマツト》。吾戀居者《ワガコヒヲレバ》。我屋戸之《ワガヤドノ》。簾動之《スダレウゴカシ》。秋風吹《アキノカゼフク》。
 
簾動之《スダレウゴカシ》。
和名抄屏障具に、野王曰、簾【音廉。和名、須太禮】編v竹帳也と見えたり。
 
秋風吹《アキノカゼフク》。
この歌を卷八【四十八丁】にも載て、この句を秋之風吹《アキノカゼフク》と書たれば、かくよまん事論なし。さて、一首の意は、天皇の今や來ませる(と、脱カ)まち渡る心より、簾の風にうごくさへ、君が入來ませるかと、おもはるゝよし也。代匠記云、官本、朱ヲ以テ注シテ云ク、此歌入第八卷秋相聞初、可尋。但、讃州本、江本、梁園御本、孝言本、宇治寶藏本等、皆有之。次歌ノ頭ニ、同前ト注セルモ、此注ヲ承タリ。
 
鏡女王。作歌一首。
 
印本、こゝも鏡女王とあり。されど、王女は必らず女王の誤りなる事、上【攷證二上八丁】にいへるが如し。その所にいへるが如く、鏡女王と額田王とは姉妹にて、二人ながら天智帝にめされたり。さて、妹額田王、前の歌をよまれて、和してこの歌をばよまれし也。そのよしは、次に解る一首の意にてしるべし。
 
489 風乎太爾《カゼヲダニ》。戀流波乏之《コフルハトモシ》。風小谷《カゼヲダニ》。將來登時待者《コムトシマタバ》。何香《ナニカ・イカガ》將嘆《ナゲカム》。
 
戀流波乏之《コフルハトモシ》。
乏之《トモシ》といふに二つあり。一つは、うらやましき意、一つは、めづらしと愛する意なり。うらやましき意なるも上【攷證一下卅二丁】愛する意なるも上【攷證二中卅七丁】にいへ(10)り。こゝなるは、うらやましき意なり。
 
伺香《ナニカ・イカガ》將嘆《ナゲカム》。
なにか嘆くべきといふ也。この歌は、前の額田王の歌を聞て、和しよまれしにて、一首の意は、其所《ソコ》には、簾を動す風をも、君が入來ませるかとおぼすは、君が來ませる事あるによりて也。我方には、君がおはします事も絶に|なれ《(マヽ)》ば、其所《ソコ》にては、そらだのめなりとて、嘆き給ふべけれど、風をだに、それかと聞て、待戀給ふは、こゝにてはいとうらやまし。我方にても、風をだに、君が入來せるかと、聞おどろくばかりならば、何に(かカ)は嘆くべき。我方には、君がおはします事も絶にたれば、風ふきても、それかともおもはぬが、返りて嘆かはしといふ意也。この歌、諸抄の解、皆よろしからず。かくきかざれば、意味深長ならず。さて、卷八に、この歌を、前の歌と並べ載て、たがふ事なし。
 
吹黄刀自《フキトジ》歌二首。
 
刀自《トジ》は、老女の稱なるによりで、古くより、この吹黄刀自を女とすれど、こは男にて、大伴氏の人なり。そのよしは、上【攷證一上卅七丁】にくはしくいへり。
 
490 眞《マ》野《ヌ・ノ》之浦乃《ウラノ》。與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》。情由毛《コヽロユモ》。思《オモヘ・オモフ》哉妹之《ヤイモガ》。伊目爾之所見《イメニシミユル》。
 
眞《マ》野《ヌ・ノ》之浦乃《ウラノ》。
眞野てふ所は陸奥にもあれど、こゝをば、諸抄、みな、攝津國としたれば、これに從ふ。攝津志に、矢田部郡眞野浦在2西尻池村1と見えたり。
 
(11)與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》。
與騰《ヨド》は淀にて、水のよどめる所をいふ。繼橋は、本集十四【九丁】に、可都思加乃麻末乃都藝波思夜麻受可欲波牟《カツシカノマヽノツギハシヤマズカヨハム》ともありて、この繼橋てふ橋は、代匠記に、繼橋トハ、常ノ橋ニアラデ、橋代ヲ立置テ、水ノヨノツネナル時ハ坂ヲ波シ、水カサノマサル時ハ引ナドスルヤウニ、カマヘ置タルヲ云ベシ云々。眞淵の説に、今の瀬田の橋の如く、中に地ありて、それより左右へかけ繼たるをいふといはれしかど、心ゆかず。こゝに出たるよどの繼橋はしらねど、下總國なる眞間は、江戸近き所なれば、行ても見たりしが、古しへとても、川中に洲ありしとおぼしき所も見えず。もし又、眞淵の説の如くならば、瀬田の橋をも、瀬田の繼橋ともいふべき。さもいはざれば、いよいよ心ゆかず。和名抄にも、橋の類多く出たれど、繼橋を載ず。されば、案るに、類林に、繼橋といふは、農人業作の通路にかけたる橋は、はし柱に横にうて木を結付て、その上に板をかけ渡したる也。これ、まさしくつぎ橋也とあるが如く、材木などを繩又は葛などにてつなぎて、その上に板をならべ、上に浮居る橋を繼橋といひ、舟をつなぎ合せて、それに板を渡したるを浮橋【この事くはしく下攷證十七□】とはいふなるべし。この繼橋と浮橋とは似たるものとおぼし。
情由毛《コヽロユモ》。
繼橋《ツギハシ》といふより、情由毛《コヽロユモ》とつゞきたる、いかゞなるやうに聞ゆれば、こは略解に、繼橋といふを、やがて繼《ツギ》て思ふ意にとりなしたりといへるが如し。由は從《ヨリ》の意也。
 
思哉妹之《オモヘヤイモガ》。
思へばやといふ意なるを、ばを略ける也。この事、上【攷證二下八丁】にいへり。
 
伊目爾之所見《イメニシミユル》。
伊目は夢也。眞淵云、夢《イメ》は寢目《イメ》なり。目《メ》はみえの約りたるにて、眠たるほどに見ゆる也云々といはれしが如し。本集五【十丁】に、用流能伊昧仁越《ヨルノイメニヲ》、都伎(12)提美延許曾《ツキテミエコソ》。また【十九丁】烏梅能波奈伊米爾加多良久《ウメノハナイメニカタラク》云々など見えたり。さて、一首の意は、序歌にて、繼て思ふよしをこめて、うはべのみならで、心より妹を思へばや、かく夢に見ゆることよと也。
 
491 河上《カハノヘ・カハカミ》乃《ノ》。伊都藻之花乃《イツモノハナノ》。何時何時《イツモイツモ》。來益我背子《キマセワガセコ》。時《トキ》自異《ジケ・ワカ》目八方《メヤモ》。
 
河上《カハノヘ・カハカミ》乃《ノ》。
舊訓、かはかみのと訓たれど、川上《カハカミ》といふは、古事記の肥河上《ヒノカハカミ》をはじめにて、本集五【廿丁】
 
に、多麻之未能許能可波加美爾《タマシマノコノカハカミニ》云々。十一【四十八丁】に、河上爾洗若葉《カハカミニアラフワカナ》之云々などある、皆|上《カミ》に用ある所にのみいへり。こゝは、さらに上《カミ》に用なき所なれば、かはのへと訓べし。さて、かはのへは河《カハ》の上《ウヘ》の意にて、河《カハ》の邊《ベ》の意にあらず。思ひまがふべからず。上《ウヘ》を略して、ヘとのみいへる也。この事、上【攷證二上四丁】にいへり。
 
伊都藻之花乃《イツモノハナノ》。
伊都藻《イツモ》は、藻の名とはきこゆれど、この物しりがたし。さて、仙覺抄には、神武紀なる嚴瓮《イヅヘ》を始て、種々の物に嚴《イヅ》何々と名付させ給ふ所を引て、こゝも嚴藻《イヅモ》なるべきよし釋し、眞淵は、五百津藻《イホツモ》の略にて、多く生たる藻なるべしといはれつれど、さだめがたし。
 
來益我背子《キマセワガセコ》。
上【攷證三上十四丁】に、くはしくいへるが如く、男どもも、我背子《ワガヒコ》、我背《ワガセ》などいふ事多かれば、この歌をも、吹黄刀自の歌として意はよく聞ゆれど、一首のうへに付て見るに、全く女の歌と聞ゆれば、こは、何ぞ端辭のありしが、脱たるなるべし。
 
(13)時《トキ》自異《ジケ・ワカ》目八方《メヤモ》。
上【攷證一上十二丁三中六十五丁】にいへるが如く、時自久《トキジク》といふは、非時《トキジク》とも書て、時ならざることにて、八方《ヤモ》は反語なれば、この句の意は、時ならずといふ事なくといふ也。本集十八【卅八丁】に、牟都奇多都波流能波自米爾可久之都追《ムツキタツハルノハジメニカクシツヽ》、安比之惠美天姿等枳自家米也母《アヒシヱミテハトキジケメヤモ》とも見えたり。さて、一首の意は、序歌にて、時ならずといふ事なく、いつも/\來ませよといへる也。
 
田部《タベノ》忌寸|櫟子《イチヒコ》。任2太宰1時。歌四首。
 
父祖、官位、考へがたし。櫟子とありて、四首の中、一首は正しく女の歌なるによりて、この櫟子を、もしは女かとも思ふ人もあるべけれど、女の名に、おしなべて、子の字を付る事は、やゝ後のことにて、このころはまれまれなるうへに、このころ男の名にも子の字を付る事、續日本紀に【藤原鎌子、石川君子などの類猶多かり。】多く見えたれば、この櫟子も男なる事論なし。田部は、和名抄、長門國、筑前國などの郷名に、田部【多倍】とあれば、これに依て訓べし。この氏の人、書紀、舒明紀、天武紀等に出れど、姓は連、續日本紀卷二十五、二十六、二十八、二十九、三十、三十一などにも出たれど、姓は、宿禰、直などにて、【姓氏録には見えず。】忌寸の人なし。櫟は和名抄菓類に、崔禹錫食經云、櫟子【上音歴。和名、以知比】相似而大2於推子1者也と見えたれば、いちひとよむべし。任2太宰1とは、太宰の官人に任ぜられしなるべし。これを、代匠記に、任2太宰1トノミ云ヘルハ帥ナリ。後《(本ノマヽ)》ナリ。後ノ集ニ、能登ニテ下ル賀ニナリテナドカケルハ、皆ソノ守等ナルガ如シといはれしは誤れり。太宰帥は、官位令を考ふるに、(14)從三位の官にて、代々公卿の職なるうへ、權帥だに公卿より任ずるものをや。されば、こゝは、たゞ、ひきゝ官人なるべし。さて、こゝに四首とあるは、皆ながら櫟子が歌とにはあらで、太宰の官人に任ぜられし時の歌にて、女の歌もまじれる事、時(ノ)歌とあるにてしるべし。
 
492 衣手爾《コロモデニ》。取等騰己保里《トリトヾコホリ》。哭兒爾毛《ナクコニモ》。益有吾乎《マサレルワレヲ》。置而如《オキテイカ》何《ニ・ガ》將爲《セム》。舍人吉年。
 
取等騰己保里《トリトドコホリ》。
取は取携《トリスガル》意にて、袖にとりすがり、引とゞめなどするさま也。等騰己保里《トヾコホリ》は、本集二十【卅四丁】に、伊※[泥/土]多知加弖爾等騰己保里《イデタチガテニトヾコホり》、可弊里美之都々《カヘリミシツヽ》云々ともありて、ものゝ速《スミヤカ》ならざるをいふ。
 
哭兒爾毛《ナクコニモ》。
集中多く泣兒成《ナクコナス》といへるが如し。本集二十【卅五丁】に、可良己呂茂須曾爾等里都伎奈苦子良乎《カラコロモスソニトリツキナクコラヲ》云々などもあり。一首の意は、櫟子、太宰の任所へ下るに、女の別れを惜みてよめるにて、これ女の歌也。舍人吉年の四字、印本なし。今、代匠記に引れたる官本、考異本に引る古本、拾穗本などに(よりて、脱カ)補ふ。元暦本に舍人千年とあれど、千は吉の誤りなるべければ、從ひがたし。さて、この舍人は氏にて、吉年は名なり。舍人の氏は、書紀天武紀に、舍人造糠蟲といふ人見え、類聚國史多産部に、舍人臣福長女といふ女見え、姓氏録卷二十に、舍人百濟國人利加、志貴王之後也など見えたり。吉人(年カ)は名にて、正しく女也。いかにとなれば、この次の歌は、吉年の歌に答へたる歌と見ゆるに置而行者妹將戀可聞《オキテユカバイモコヒムカモ》云々などよめるに依て、正し(15)く女とは定めし也。既に作主履歴にも女の部に載たり。吉年てふ名、いかにも男めきたる名なれど、古しへ、かゝる名、女にも多かりし事は、國史ども見たらん人は、いはずともしりぬべし。
 
493 置而《オキテ》行《ユカ・イカ》者《バ》。妹將戀可聞《イモコヒムカモ》。敷妙乃《シキタヘノ》。黒髪布而《クロカミシキテ》。長此夜乎《ナガキコノヨヲ》。【田部忌寸櫟子】
 
置而《オキテ》行《ユカ・イカ》者《バ》。
前の歌に置而如何將爲《オキテイカニセム》といふに答へて、おきてゆかばとはいへり。これ、前の答へ歌なる證也。
 
敷妙乃《シキタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。眞淵云、敷細乃黒髪布而《シキタヘノクロカミシキテ》云々といふは、末の意、みな夜床のさまなれば、惣てへ冠らせて、敷たへの語を置たるものにて、敷たへの家とつゞけたる類也云々といはれつるが如し。
 
黒髪布而《クロカミシキテ》。
本集十一【廿五丁】に、夜玉之黒髪色天長夜※[口+立刀]手枕之上爾妹待覽蚊《ヌバタマノクロカミシキテナガキヨヲタマクラノウヘニイモマツラムカ》。十三【十五丁】に、野干玉黒髪布而人寐味眠不睡而《ヌバタマノクロカミシキテヒトノヌルウマイハネズテ》云々などもありて、黒髪を床の上(に脱カ)しきて寐る也。こは櫟子が歌にて、前の女の歌にこたへたる也。一種の意くまなし。さて、田部忌寸櫟子の六字、印本なし。今、元暦本、代匠記に引る紀州本、拾穂本などに依て補ふ。
 
494 吾妹兒矣《ワギモコヲ》。相《アヒ》令知《シラシメシ・シラセケム》。人乎許曾《ヒトヲコソ》。戀之益者《コヒノマサレバ》。恨三念《ウラメシミオモヘ》。
 
相令知人《アヒシラシメシヒト》とは、媒せし人をいふ。今となりて、かく戀のまされば、はじめに媒せし人をさへ、中々にうらめしく思ふよと也。これ、櫟子が歌也。
 
(16)495 朝日影《アサヒカゲ》。爾保敝流山爾《ニホヘルヤマニ》。照月乃《テルツキノ》。不※[厭の雁だれなし]《アカザル・アカズカ》君乎《キミヲ》。山越爾置手《ヤマゴシニオキテ》。
 
爾保敝流山爾《ニホヘルヤマニ》。
朝日のさし出んとして、東の空のほの/”\いろづきわたるを、にほへるといひて、月も、猶、中ぞらに殘りて、てらせるをいへるなり。こは、櫟子、旅中の朝明《アサケ》などに、實景を見てよよめ(めるカ)ものながら、不※[厭の雁だれなし]《アカザル》といはん序にて、照月乃《テルツキノ》の乃は、如くの意也。
 
不※[厭の雁だれなし]《アカザル・アカズカ》君乎《キミヲ》。
説文に、※[厭の雁だれなし]飽也と見えたり。
 
山越爾置手《ヤマゴシニオキテ》。
本集十一【卅二丁】に、山越爾置代宿不勝鴨《ヤマゴシニオキテイネガテヌカモ》ともありて、山のあなたに置てといふ也。この歌、序歌にて、置てのてもじへ意をふくめて、不飽妹乎《アカザルイモヲ》山のあなたに置て、別し(れカ)來たれば、かく戀らるゝことよといふ也。
 
柿本朝臣人麻呂歌四首。
 
496 三熊《ミクマ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。浦乃濱木綿《ウラノハマユフ》。百重《モモヘ》成《ナス・ナル》。心者雖念《コヽロハモヘド》。直不相鴨《タヾニアハヌカモ》。
 
三熊《ミクマ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。
紀伊國牟婁郡なる熊野と定む。集中、三熊野《ミクマヌ》といへる、三處出たれど、皆別所なるべし。本集六【十八丁】に、過2辛荷島1時、山部宿禰赤人作歌とある長歌の反歌三首の中に、(17)島隱吾榜來者乏毳《シマカクリワガコギクレバトモシカモ》、倭邊上眞熊野之船《ヤマトヘノボルミクマヌノフネ》とあるは、神龜三年九月、播磨國へ行幸の時の歌にて、前後の歌に、稻見野《イナミヌ》、辛荷島、都多乃細江など、みな播磨の地名をよめる上に、紀州熊野の舟の、大和の方へ上《ノホ》るが、播磨の海より見ゆべきやうあらねば、これは播磨にも熊野といふ地名あるをよめる
 
なるべし。又同じ卷【卅九丁】に、家持作歌二首の中に、御食國志麻乃海部有之《ミケツクニシマノアマナラシ》、眞熊野之小舟爾乘而奧部榜所見《ミクマヌノヲフネニノリテオキヘコグミユ》とあるは、天平十二年十月、藤原廣嗣が亂によりて、伊勢國へ行幸したまふ時の歌なれば、志麻は志摩國なる事明らかなれば、この熊野は、伊勢、志摩、兩國の中なるべし。されば、三處ながら、みな別處なるを、童蒙抄、袖中抄には伊勢國とし、采葉抄には志摩國としつるは誤り也。和名抄、丹後國郡名、但馬國郷名などにも、熊野といへるあるにても、一處ならざるをしるべし。さて、増基熊野紀行に、庵主熊野おのづからといへば、浦のはまゆふといらふるに云々。後拾遺集雜一に、道命法師熊野へまゐるとて、人のもとにいひつかはしける、わするなよ、わするときかばみくま野の浦のはまゆふうらみかさねんなど、濱ゆふを讀合せたるは、みな紀州にて、今、現にも、紀州人のもとより濱木綿をおこせる事あれば、こゝなる三熊野は紀州とは定めしなり。
 
浦乃濱木綿《ウラノハマユフ》。
綺語抄云、はまゆふは、芭蕉葉に似たる草の、はまに生るなり云々。童蒙抄卷七云、はまゆふとは眞熊野の浦に生る也。莖の皮の薄くて、多くかさなれる也。大饗の時は、鳥の足をつゝむ料に、伊勢國へめすといふ云々。袖中抄卷七云、濱木綿は葉の重なりたる也。多く重なりたれば、八重とも百重ともよむ也。その數定まらず云々など見えたり。宣長の玉勝間卷十二云、芝原春房が語りけるは、濱木綿は、或人もいへるが如く、今の世に濱おもとゝいふ物なるべし。このはまおもとゝいふ物、本立は芭蕉のごとくにて、土より四五寸ば(18)かり上より、おもとゝいふ物に似たる葉の、いくへも重なりて生出たる葉の長さ、二尺三四寸ばかりもありぬべし。但し、これは、おのが見たるをもていふ也。猶長きも、みじかきもあらんか。あまた見ざれば、よくはしらず。つねに潮をそゝげば、よく榮ゆといへり。霜をいたくおそるゝものにて、冬は葉の末半はかるゝを、春になれば、また新なるが生出て重る也。七月のころ花さくを、その色白くて垂《タリ》たるが、木綿《ユフ》に似たるから、濱木綿とはいひけるにや。今も紀の國の熊野の浦、又その近きわたりの浦々にも有て、須賀島といふ處には殊に多くありといへり云々。予が見たるも、專ら是に同じ。これなるべし。
 
百重《モモヘ》成《ナス・ナル》。
成《ナス》は、玉藻成《タマモナス》、つばさ成《ナス》、入日成《イリヒナス》、なく兒成などの成《ナス》と同じく、の如くといふ意にて、濱木綿《ハマユフ》の百重も重なれるが如くにといふ意なり。
 
直不相鴨《タヾニアハヌカモ》。
たゞちにあはぬかもといへるにて、本集二【廿三丁】に、目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレドモタヾニアハヌカモ》十一【卅二丁】に、意者雖念直不相鴨《コヽロハオモヘドタヾニアハヌカモ》などもあり。一首の意は、序歌にて、心には百重千重に思へども、たゞに逢がたしと也。
 
497 古爾《イニシヘニ》。有兼人毛《アリケムヒトモ》。如吾歟《ワガゴトカ》。妹爾戀乍《イモニコヒツヽ》。宿不勝家牟《イネガテニケム》。
 
古しへにありけん人とは、次の歌と、二首まで、かくいへれば、何ぞさせる人ありとおぼしけれど、しりがたし。如吾歟《ワガゴトカ》は、わがごとやといはんが如し。本集七【九丁】に、古爾有險人母如吾等架《イニシヘニアリケムヒトモワガゴトカ》、彌和(19)乃檜原爾挿頭折兼《ミワホヒバラニカザシヲリケム》。童蒙抄に、せりつみしむかしの人もわがごとやこころにものゝかなはざりけんなどあるも同じ。一首の意、明らか也。
 
498 今耳之《イマノミノ》。行事庭不有《ワザニハアラズ》。古《イニシヘノ》。人曾益而《ヒトゾマサリテ》。哭左倍鳴四《ネニサヘナキシ》。
 
行事を、わざとよめるは、義訓也。上【攷證二上十五丁】にも出たり。さて、この歌にも、古しへの人といへるは、何ぞさせる人ありとおぼし。前後三首ともに戀の歌なれば、これも戀の歌なるべし。一首の意は、かく戀に心をくるしむるは、今の世のみのわざにはあらず、古人ぞ、今の世にもまさりて、音にたてゝさへ泣しと也。
 
499 百重二物《モヽヘニモ》。來及《キタリシケ・キオヨベ》毳常《カモト》。念鴨《オモヘカモ》。公之使乃《キミガツカヒノ》。雖見不飽有哉《ミレドアカザラム》。
 
來及《キタリシケ・キオヨベ》毳常《カモト》。
舊訓きおよべかもとゝ訓れど、及《オヨブ》といふ言、古く見えざれば、宣長のかく訓れしに從ふ。されど、宣長は來及毳《キタリシケカモ》、常念鴨《トオモヘカモ》と、常《ト》もじを次の句へ付て訓れつれど、【後の世に、おくり句といふもの也。】かゝる例、集中になければ、常もじは二の句へ付て、八言に訓べし。さて、しく、しけといふ事、古こ《(マヽ)》ろよりは及《オヨブ》といふ意にて、物の繼《ツガ》るゝ意也。本集二【十五丁】に、追及武道之阿囘爾《オヒシカムミチノクママニ》云云。六【廿二丁】に、尚不及家里《ナホシカズケリ》云々。十四【五丁】に、阿敝良久波多麻能乎思家也《アヘラクグハタマノヲシケヤ》云々。十九【十八丁】に、霍公鳥鳥伊也之伎喧奴《ホトトギスイヤシキナキヌ》云々。また【卅三丁】鳴鷄者彌及鳴杼《ナクトリハイヤシキナケド》云々などあるも、みな繼《ツク》意なり。荀子、儒|效《(マヽ)》篇注に、及、繼也云々。後漢書、宋宏傳注に、及、猶v繼也などあるにてもしるべし。この事、上【攷證二上卅四丁】にもいへり。毳《カモ》はねがふ意也。毳を、かもと訓るは、借訓也。和名抄坐臥具に、氈和名賀毛とあり(20)て、周禮、天官掌皮に、共2其毳毛1爲v氈云々とある如く、毳も氈も同じ類とすれば、その意もて、かもとはよめる也。
 
念鴨《オモヘカモ》。
おもへばかもといふ意なるが、例のばを略ける也。さて、及《シケ》は繼《ツグ》意にT、百重にも何重にもかさなりて、君が使の來|繼《ツゲ》よかしと、おもへばかもといふ意なり。
 
雖見不飽有哉《ミレドアカザラム》。
印本、武を哉に作りたれど、訓は、むと付たり。されば、誤りなる事明らかなるに依て、代匠記に引る官本、考異本に引る古本などに依て改む。さて、一首の意は、君が使の、何度も、いくたびも來り繼《ツゲ》よとおもへばかも、公が使の見れどあかざらんとなり。
 
碁壇越。往2伊勢國1時。留妻作歌一首。
 
代匠記云、奇異ナル姓名ナリ。系譜等未詳。第九ニ、碁帥歌ト載タルモ此人歟。還俗ノ僧ナドノ、在家ノ沙彌ニテ有ケルニヤ。三方沙彌、久米禅師ナド、一類ノ名ナリ。唐ニ、羅漢、維摩ナド名ヅケ、王右丞ガ、名ハ維、字ハ摩詰トツケルニ似タリ。檀越ハ、舊譯ノ梵語、新譯ハ檀那ナリ。共ニ翻スレバ布施ナリといはれつるが如く、碁は氏、檀越は名歎。卷九【十六丁】に、碁師歌と載たる、同人にて、碁は碁を善する人といふ事にてもあるべきか。僧尼令に、凡僧尼作2音樂1及博戯者、百日苦使。碁琴不v在2制限1とあるにて、中國、碁ある事、既に久しきをしるべし。さて、目録に、碁を基に作るは誤れり。碁、棊、同字なるに依て、棊基を基に誤れるもの也。
 
(21)500神風之《カムカゼノ》。伊勢乃濱荻《イセノハマヲギ》。折伏《ヲリフセテ》。客宿也將爲《タビネヤスラム》。荒濱邊爾《アラキハマベニ》。
 
伊勢乃濱荻《イセノハマヲギ》。
長明無名抄云、萬葉のいせの濱をぎとよめるは、荻にはあらず。葦《アシ》を、かの國には濱荻とはいひならはせり云々などあるよりこのかた、芦を、伊勢にて、はま荻といふことゝ心得るは誤り也。これ、長明のころより、ふと出來たる俗説なり。大治三年九月、住吉社歌合に、兼昌入道、よさのうらに一むら立る濱荻のまたたぐひなき戀もする哉。神武伯顯仲判歌に、汀なるしほあしにまがふ濱荻はよしとぞ見ゆるよさのうら人云々など、塩芦にまがへる濱荻は、芦《ヨシ》の如く見ゆるよし、よまれたるにても、この大治のころまでは、一物とはせざりしをしるべし。されば、たゞ渚に生たる荻を濱荻とはいふなり。これ、濱の松をはまゝつといへる類也。本集【卅八丁】に、葦邊在荻之葉左夜藝《アシベバルヲギノハサヤギ》云々とよめるをも見るべし。さて、荻は、和名抄草類云、野王案云、荻【音狄。字又作適和名乎岐】與v※[草がんむり/亂]相似而非2一種1矣と見えたり。一首の意は、くまなし。
 
林本朝臣人麻呂歌三首。
 
501 未通女等之《ヲトメラガ》。袖振山乃《ソデフルヤマノ》。水垣之《ミヅガキノ》。久《ヒサシキ》時從《トキユ・ヨヨリ》。憶寸吾者《オモヒキワレハ》。
 
未通女等之《ヲトメラガ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。少女等《ヲトメラ》が袖を振といふを、大和の布留へいひかけたる也。
 
(22)袖振山乃《ソデフルヤマノ》。
大和國山邊郡石上郷、布留神社のまします山にて、上【攷證三下十一丁】に出たり。をとめらが袖をふるといふを、布留山にいひかけたり。振山乃《フルヤマノ》の乃《ノ》もじは、水垣《ミヅガキ》といふへかけていへり。
 
水垣之《ミヅガキノ》。
枕詞なり。水《ミヅ》と書るは借字にて、書紀崇神紀に瑞離《ミヅカキノ》宮と書れたるを、古事記には水垣宮と書れたり。さて瑞《ミヅ》【この字を書るも猶借字なり。】とは、みづ枝さしなどもいへる、みづと同じく、若く、みづ/\しき意なるより、物を賞《ホム》る詞として、【みづのみあらかなどもいふ。】神垣をほめて、みづがきとはいへり。さて、このみづ垣は、則ち布留の神宮の御垣をいひて、この神社は【布留神社の事は、古事記傳卷十八にくはし。】いと古くよりまし/\しかば、久しといはんとて、この神の御垣をいひて、さて、久してふ詞には冠らせたる也。こは枕詞ながら、一二の句より書下したれば、序歌のすがた也。猶くはしく、予が冠字考補正にいふべし。
 
久《ヒサシキ》時從《トキユ・ヨヨリ》。
久は古きをいふ。從《ユ》はよりの意にて、一首の意は、序歌にて、古くより吾は君を思ひたりきと也。この歌、卷十一【七丁】にも出たり。
 
502 夏《ナツ》野《ヌ・ノ》去《ユク》。小牡鹿之《ヲジカノ》角《ツヌ・ツノ》乃《ノ》。束間毛《ツカノマモ》。妹之心乎《イモガコヽロヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
 
小牡鹿之《ヲジカノ》角《ツヌ・ツノ》乃《ノ》。
禮記月令に、仲夏之月鹿角解とありて、夏は角落て生かはる故に、後より生たる角はまだ短かければ、束の間といはん序とはせられつるか。又は、(23)さまでの事にはあらで、獣類、冬は山中にこもりて、人にも見えざるが、夏は野にも出る故に、たゞ、ふと、夏野ゆくとはつゞけられしにて、小き鹿は自らに角も短かゝるべければ、小じかの角とはよまれつるか。
 
束間毛《ツカノマモ》。
上【攷證二上廿八丁】にいへるが如く、短かき事のたとへにいへり。
 
忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
哉《ヤ》は、うらへ意のかへるやにて、わすれて、《(マヽ)》妹が心を思ひわすれずと也。一首の意は、序歌にて、しばしがほども、妹が心をばわすれずといふ也。
 
503 珠衣乃《タマギヌノ》。狹藍左謂《サヰサヰ》沈《シヅメ・シヅミ》。家妹爾《イヘノイモニ》。物不語來而《モノイハズキテ》。思金津裳《オモヒカネツモ》。
 
珠衣乃《タマギヌノ》。
枕詞なり。本集十四【廿三丁】未勘國相聞往來歌百十二首の中に此歌を載て、安利伎奴乃佐惠佐惠之豆美《アリキヌノサヱザヱシヅミ》、伊敝能伊母爾《イヘノイモニ》、毛乃伊波受伎爾※[氏/一]《モノイハズキニテ》、於毛比具流之母《オモヒクルシモ》と見え、古事記下卷、本集十五【卅三丁】、十六【八丁】にも、ありきぬといふ枕詞あるによりて、冠辭考には、こゝの珠衣をも、ありきぬとよまれしかど、外はいかにまれ、珠衣をありきぬとよむべき事、かつてなければ、文字のまゝに、たまきぬとよむべし。さて、珠衣の珠は、例の物を賞《ホム》る詞にて、玉裳《タマモ》、玉手《タマデ》、玉|勝間《カツマ》、玉の小琴などいふ類にて、新しき衣をほめていへる也。さて、新らしさ衣は鳴《ナリ》さやめくものなれば、さや/\といふを、さゐさゐと轉じてつゞけたりとおぼし。猶、予が冠辭考補正にくはしくいふべし。
 
(24)狹藍左謂《サヰザヰ》沈《シヅメ・シヅミ》。
十四には佐惠佐惠之豆美《サヱザヱシヅミ》とあり。これ國風歌なれば、方言にとなへしなり。さゐ/\は、眞淵の説に、この狹藍左謂《サヰザヰ》は佐惠々々てふ語にて、【物の音のさやぐは、やはゆの假字なれば。この歌に佐惠《サヱ》とも佐謂《サヰ》ともあるは、他の意ならんと思ふ人あるべけれど、やいゆえよと、わゐうえをは、相まじへ用る例なれば、嫌なし。】夫の遠き旅に出たつとき、妻がなげきさやめくを、しづめんとて、ものをしもえいはで別れ來て、今さらに思ひたへがたしとよめり云云といはれつるが如くならん。沈《シヅメ》は、十四に之豆美《シヅミ》とありて、舊訓もしづみとあれど、こは令定《シヅメ》の意なれば、しづめといふぞ本語なるべし《(マヽ)》。集中、十四、二十の卷は國風の歌にて、其國にて唱へしまゝにしるしたるなれば、こと/”\くに詞の例とはなしがたし。こゝもしづめといふ意なるを、しづみとは唱へしなり。そは、十四【卅四丁】に、加米爾於保世牟《カメニオホセム》云々とあるは、神に令負の意なれば、みをめに轉じたる也。また、二十【十六丁】に、伊牟奈之爾志弖《イムナシニシテ》云々とあるは、妹無にしての意なれば、もをむに轉じたる也。また【廿一丁】於米加波利勢受《オメカハリセズ》云々とあるは、面變せずの意なれば、もをめに轉じたる也。また、【卅二丁】由美乃美仁《ユミノミニ》云々とあるは、夢耳にの意なれば、いをゆに轉じ、めをみに轉じたる也。これらを見ても、方言の外の例とはなしがたきをしりて、こゝも、しづめと訓べきをしるべし。但し留《トドメ》といふを、とゞみともいふ事あり。しづめ、しづみ、とゞめ、とゞみ、專ら同じはたらきの語にて、五【十丁】に、等登尾可禰都母《トヾミカネツモ》云々、十九【十三丁】に、等騰米可禰郡母《トヾメカネツモ》など、二やうに書たれど、とゞめといふ方、本語なれば、本語につきてよむべし。
 
物不語來而《モノイハズキテ》。
云おくべき事をもいはずてこしかば、思ひにたへかねぬと也。本集十四【廿九丁】に、水都等利乃多々武與曾比爾《ミヅトリノタヽムヨソヒニ》、伊母能良爾《イモノラニ》、毛乃伊波受伎爾底《モノイハズキニテ》、於毛比可(25)禰都毛《オモヒカネツモ》。
 
思金津裳《オモヒカネツモ》。
思ひ兼るといふ、皆、思ひに堪かぬる意なり。本集十二【七丁】に、山科強田山馬雖在《ヤマシナノコハタノヤマヲウマハアレド》、歩吾來《カチユワレキヌ》、汝念不得《ナヲオモヒカネ》。また【廿九丁】暮月夜曉闇夜乃朝影爾《ユフツクヨアカトキヤミノアサカゲニ》、吾身者成奴《ワガミハナリヌ》、汝乎念金《ナヲオモヒカネ》。また【四十三丁】念友念毛金津足檜之山鳥尾之永此夜乎《オモヘドモオモヒモカネツアシヒキノヤマトリノヲノナガキコノヨヲ》。十四【卅三丁】に、古非都追母乎良牟等須禮杼《コヒツヽモヲラムトスレド》、遊布麻夜萬《ユフマヤマ》、可久禮之伎美乎於母比可禰都母《カクレシキミヲオモヒカネツモ》。拾遺集、冬、貫之、思ひかねいもがりゆけば冬の夜の川かぜさむみちどりなくなりなどあるにて思ふべし。さで、一首の意は、好《ヨ》き新らしき衣のさやさやとなる如く、さやめきわたりて歎きつるを、とりしづめんと、それのみに心うつりて、云おくべき事をもいはで來にければ、いとゞ猶思ひに堪かねつといふにて、裳は助辭也。
 
柿本朝臣人麻呂妻歌一首。
 
人麿の妻は上【攷證二中一丁】にあげたる別記の説の如く、前後四人なるが、こゝなるは、いづれとも定めがたし。
 
504 君家爾《キミガイヘニ》。吾住坂乃《ワレスミザカノ》。家道乎毛《イヘヂヲモ》。吾者不忘《ワレハワスレジ》。命不死者《イノチシナズハ》。
 
君家爾《キミガイヘニ》。
こは人麿の家をさしていへり。
 
(26)吾住坂乃《ワレスミザカノ》。
君が家にわれ住《スム》といふを、墨《スミ》坂にいひかけたり。集中、云かけたる歌のすくなからざる事は、上【攷證一下五十六丁】に多く例をあげたるにてしるべし。住坂は、大和志は、宇陀郡墨坂在2萩原村西1とある、こゝにて、書紀神武紀に、天皇陟2彼菟田高倉山之嶺1、瞻2望域中1時、國見嶽上則有2八十梟師1、又於女坂置2女軍1、男坂置2男軍1、墨坂置2※[火+赤]炭1、其女坂男坂墨坂之號由v此而起也云々。崇神紀云、九年三月天皇夢有2神人1、誨v之曰、以2赤盾八枚赤矛八竿1、祠2墨坂神1云々。雄略紀云、七年七月天皇詔2少子部連〓〓1曰、朕欲v見2三諸岳神之形1。或云、菟田墨坂神也云々。天武紀云、將軍吹負爲2近江1、所v敗以獨〓2一二騎1走之。逮2于墨坂1云々など見えたり。この墨坂てふ地名を、男の家に女の住《スム》にいひかけたり。いと古くより中ごろまでは、妻を娶るに、まづ男の方より女の家に行て、さて程へて女をも共にゐてかへりて、男の家に住事なれど、女も古郷の家をばもとのまゝにておくならはし也。されば君が家とさせるは、人麿の家にて、それに女の住《スム》を、墨坂にいひかけつ。さて、住坂は女の家ある處にて、女の、わが家と、人麿の家とにかよひて、住けるなるべし。されば、その通ひ路の家路をば、よしや君が【人まろをいふ。】おはさずとも、わがいけらんかぎりは、わすれじといへるなるべし。伊勢物語に、男すまずなりにけり云々とあるよりして、中ごろの書に、男の女にいひ付《ツク》を、住といひならはしたれど、こゝにはあたらず。さて、宣長の説に、この歌、君が家に吾といふまでは、たゞ住といはん序のみ歟。又は坂は誤字ならんか。かにかくに宇陀の墨坂とは思はれず。彼地は大和の東の邊地にて、京人のつねに行通るべき處にあらず云々。この説、當れりともおぼえず。
 
(27)命不死者《イノチシナズバ》。
不死《シナズ》てあらばといふ也。一首の意は、君が家に吾|住《スム》といふを、わが古郷の墨坂にいひかけて、よしや君が旅などに行給ひても、わがいけらんかぎりは、その家路もわすれず行通はんとなり。
 
安倍女郎歌二首。
 
安倍女郎、集中二人あり。この事、上【攷證三上卅九丁】にいへり。こゝなる、いづれとも定めがたし。目録には阿部女郎とあり。安倍、阿部、同氏にあらず。
 
505 今更《イマサラニ》。何乎可將念《ナニヲカオモハム》。打《ウチ》靡《ナビク・ナビキ》。情者君爾《コヽロハキミニ》。縁爾之物乎《ヨリニシモノヲ》。
 
打《ウチ》靡《ナビク・ナビキ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。心は人のまに/\なびくもの故に、かくはつゞけし也。うちなびくわがくろかみ、くさかの山、はるの柳、春さりくればなどつゞくるも同じ。猶、冠辭考補正にいふべし。さて、舊訓なびきと訓たれど、本集十七【卅七丁】に、宇知奈妣久許己呂毛之努爾《ウチナビクコヽロモシヌニ》云々とあるにて、なびくと訓べきをしるべし。
 
縁爾之物乎《ヨリニシモノヲ》。
本集十二【十六丁】、梓弓末乃多頭吉波雖不知《アヅサユミスヱノタツキハシラネドモ》、心者君爾因之物乎《コヽロハキミニヨリニシモノヲ》。十五【卅五丁】に許己呂波伊毛爾與里爾之母能乎《コヽロハイモニヨリニシモノヲ》などもあり。一首の意は、今さらに、何か外心をば思ふべき。かねてより心は君によりてのみあるものをと也。
 
(28)506 吾背子波《ワガセコハ》。物《モノ》莫念《ナオモホシ・ナオモヒソ》。事之有者《コトシアラバ》。火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》。吾莫七國《ワレナケナクニ》。
 
物《モノ》莫念《ナオモホシ・ナオモヒソ》。
舊訓わろし。莫《ナ》といひて、そを略ける事いと多し。この事、上【攷證一下六十七丁】にいへり。
 
事之有者《コトシアラバ》。
 
本集七【卅丁】に、大海候水門事有《オホウミノマモルミナトニコトシアラバ》、從何方君番率陵《イヅクユキミガワヲヰシヌガム》。また、橡衣人者事無跡曰師時從欲服所念《ツルハミノキヌキシヒトハコトナシトイヒシトキヨリキホシクオモホユ》。十六【十一丁】に、事之有者小泊瀬山乃石城爾母隱者共爾莫思吾背《コトシアラバヲハツセヤマノイハキニモコモラバトモニナオモヒワカセ》などあるも、こゝと同じく、いで大事ある時にはといふ意也。續日本紀、天平寶字八年十月詔に、事止之云方王乎奴止成止毛《コトヽシイハヾオホキミヲヤツコトナストモ》、奴乎王止云止毛汝乃爲牟末仁末仁《ヤツコヲオホキミトイフトモイマシノセムマニ》云々とあるも、いで大事ある時にはとのたまふ意也。
 
火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》。
本集九【卅五丁】に、入水火爾毛將入跡立向競時爾《ミヅニイリヒニモイラムトタチムカヒアラソフトキニ》云々。史記、孫子列傳云、於v是孫子使v使報v王曰、兵既整齊、王可2試下觀1v之、唯王所v欲用v之、雖v赴2水火1猶可也云々。劉向新序云、昭奚恤對2秦使1曰、趨2湯火1、蹈2白刃1、出2萬死1、不v顧2一生1云々などあるも、こゝろおなじ。
 
吾《ワレ》莫《ナケ・ナラ》七國《ナクニ》。
本集一【廿九丁】に、吾大王物莫御念須賣神乃嗣而賜流吾莫勿久爾《ワカオホギミモノナオモホシスメカミノツギテタマヘルワレナケナクニ》とあると專ら同じしらべなり。なけなくには、なからなくにの意なり。この事、上【攷證一下六十七丁】にくはし。一首の意は、吾せこよ、物をおもほす事なかれ。もし大事の事あらば、われ火にも水にもいらんにといふ意にて、男を思ふあまりに、身をもすつべきよしいひて、心をふかめたり。
 
(29)駿河※[女+采]女歌一首。
 
駿河國より貢りし釆女なり。父祖、考へがたし。卷八【十四丁】にも出たり。さへ(てカ)、うねへは、釆女なるを、※[女+采]女と書り。玉篇に※[女+采]釆女也とありて、※[女+采]釆通ずれど、さまでふかき意もて書るにもあるべからず。采女は女なる故に、女篇(偏カ)をば添しなるべし。そは刈《カル》は草を刈《カル》事なるに依て、草冠を加へて苅に作り、【本集一十一丁】鞍は木にて作るもの故に、※[木+安]に作り、【本集三廿五丁】經《フル》は道を經《フ》る意なるをもて、逕に【本集三廿六丁】作れる類なるべし。
 
507 敷細乃《シキタヘノ》。枕《マクラ》從《ユ・ヲ》久久流《クグル》。涙二曾《ナミダニゾ》。浮宿乎思家類《ウキネヲシケル》。戀乃繁爾《コヒノシゲキニ》。
 
敷細乃《シキタヘノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證一下六十一丁】に出たり。
 
枕《マクラ》從《ユ・ヲ》久久流《クグル》。
從はよりの意にて、まくらよりくゞるなり。本集十四【卅二丁】に、伊毛我
 
奴流等許乃安多理爾伊波具久留《イモガヌルトコノアタリニイハクヾル》、水都爾母我毛與《ミヅニモカモヨ》、伊里底禰末久母《イリテネマクモ》。
 
浮宿乎思家類《ウキネヲシケル》。
本驟七【廿二丁】に、水鳥之浮宿也應爲《ミヅトリノウキネヤスベキ》云々。十五【六丁】に、海原爾宇伎禰世武夜者《ウナバラニウキネセムヨハ》云々など、水に浮て宿るをいへり。涙をつよくいひて、浮宿もすべくいふは、歌のうへなれば也。古今集戀に【よみ人しらず】涙川枕ながるゝうきねにはゆめもさだかにみえずぞありける。一首の意明らけし。
 
(30)三方沙彌歌一首。
 
僧なり。上【攷證二上四十丁】に出たり。
 
508 衣手乃《コロモデノ》。別《ワカル・ワク》今夜《コヨヒ》從《ユ・ヨリ》。妹毛吾母《イモモワレモ》。甚《イタク》戀《コヒム・コヒシ》名《ナ》。相因乎奈美《アフヨシヲナミ》。
 
衣手乃《コロモデノ》。別《ワカル・ワク》今夜《コヨヒ》從《ユ・ヨリ》。
本集十八【廿三丁】に、許呂毛泥乃和可禮之等吉欲《コロモデノワカレシトキヨ》、奴婆玉乃夜床加多左里《ヌバタマノヨトコカタサリ》云々と見え、また三【五十九丁】に、白妙之手本矣別《シロタヘノタモトヲワカレ》云々、此卷【卅八丁】に、白妙乃袖可別日乎近見《シロタヘノソデワカルベキヒヲチカミ》云々などもありて、袖携《ソデタヅサハリ》、手携《テタヅサハリ》などもいふごとく、男女の二人たづさはりて居るが、それを別るゝよしにて、袖、袂、衣手などの別るとはいへる也。從はよりの意也。
 
甚《イタク》戀《コヒム・コヒシ》名《ナ》。
名は添たる字にて、意なし。此卷【廿四丁】に、吾者將戀名《ワレハコヒムナ》云々。九【二十七丁】に、吾波弧悲牟奈《ワレハコヒムナ》云々。十【四十丁】に、和備鳴將爲名《ワビナキセムナ》云々。また【六十二丁】市白兼名《イチシロケムナ》云々。これらと同じ格なり。集中、猶いと多し。一首の意は、旅立などせんとにか、何にまれ、永く別るゝをりの歌にて、今までは携《タヅサハ》り居しかども、その衣手を別れて行今夜よりは、妹もわれも、甚しく戀ぬべし。相べきよしのなさにといへる也。
 
丹比眞人笠麻呂。下2筑紫1時。作歌一首。并短歌。
 
(31)父祖、官位、考へがたし。上【攷證三上五十二丁】に出たり。
 
509 臣女《・マウトメ》乃《ノ》。匣爾乘有《クシゲニノレル》。鏡成《カヾミナス》。見津乃濱邊爾《ミツノハマベニ》。狹丹頬相《サニヅラフ》。紐解不離《ヒモトキサケズ》。吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀乍《コヒツヽ》居《ヲレ・ヰ》者《バ》。明晩乃《アケグレノ》。旦霧隱《アサキリコモリ》。鳴多頭乃《ナクタヅノ》。哭耳之所哭《ネノミシナカユ・ナキノミゾナク》。吾戀流《ワガコフル》。千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》。名草《ナグサ》漏《モル・ムル》。情毛《コヽロモ》有《アレ・アリ》哉跡《ヤト》。家當《イヘノアタリ》。吾立見者《ワガタチミレバ》。青旗乃《アヲハタノ》。葛木山爾《カツラキヤマニ》。多奈引流《タナビケル》。白雲《シラクモ》隱《ガクリ・カクレ》。天佐我留《アマサカル》。夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》。直向《タヾムカフ》。淡路乎《アハヂヲ》過《スギ・スギテ》。粟島乎《アハシマヲ》。背爾見管《ソガヒニミツヽ》。朝名寸二《アサナギニ》。水手之《カコノ》音《コヱ・オト》喚《ヨビ》。暮名寸二《ユフナギニ》。梶之《カヂノ》聲《ト・オト》爲乍《シツヽ》。浪上乎《ナミノウヘヲ》。五十行左具久美《イユキサククミ》。磐間乎《イハノマヲ》。射往廻《イユキモトホリ》。稻日都麻《イナヒツマ》。浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》。鳥自物《トリジモノ》。魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》。家乃島《イヘノシマ》。荒礒之宇倍爾《アリソノウヘニ》。打靡《ウチナビキ》。四時二生有《シジニオヒタル》。莫告我《ナノリソカ》。奈騰可聞妹爾《ナドカモイモニ》。不告《ノラズ・ツゲズ》來二計謀《キニケム》。
 
(32)臣女《・マウトメ》乃《ノ》。
この訓、下しがたし。故に、諸説をあげて、其當らざるよしと(をカ)いふ。まづ代匠記云、臣女ハ官女ヲ云ヘル歟。今案ルニ、申ヲマウストモ、マヲストモヨミ、芭蕉《バセウ》ヲバセヲトモヨメバ、臣女ハ眞處女《マヲトメ》ナルベキニヤ、云々。是舊訓を助けての説なれど、眞處女《マヲトメ》といふ事も外に見えず。臣女をしかよむべきよしもなければ、從ひがたし。宣長、眞淵に問て云、臣女といふ事おぼつかなし。白《マヲ》すを、麻袁須とも、麻宇須ともかよはしていへば、眞處《マヲト》女を借ていへるか。されども、臣をまうとゝ訓ん事、猶いかゞ。もしは、臣の字誤か。又、古事記の歌に美那曾々久淤美能袁登賣《ミナソヽクオミノヲトメ》。仁徳紀、御歌に、瀰儺曾虚赴於瀰能烏苔※[口+羊]烏《ミナソコフオミノヲトメヲ》。これらも臣《オミ》の處女と聞えたり。たゞし、二ともに魚《オ》とつゞく意なれば【魚は宇袁なるを、淤といふは、上の曾々久の久のひゞき宇にて、長く引てうたへば久宇淤となる。その宇淤は淤とつゞまれば、おのづからに魚《オ》ときこゆるなり。】於《オ》と袁《ヲ》とたがへるやうなれど、上に宇をおぶる音は於《オ》なり。そのうへ、古事記には、泓《ヲ》の字を假字に用ひたる例なし。すべて古事記の假字に遠《トホ》き文字はなし。こゝにのみ泓《ヲ》の字かくべきやうなければ、いよゝ臣《オミ》の處女とおぼゆる也。さればこゝの臣女も、於美乃賣《オミノメ》などもやよむべからん。それも猶聞つかぬこゝちす。いかゞ侍らん。眞淵答云、古事記、日本紀ともに、臣の處女と見たるはいかにぞや。紀に、弘を於に誤る類あり。古事記にも於とのみかゝで、淤とも書くは泓と有まじきにあらず。且、下の語に、太陀理登良須母《タヽリトラスモ》てふも、麻績《ヲミ》の女より出たる語なり。又、みなそゝぐてふ冠辭を、鮪臣《シヒノオミ》に冠らせしをのみ魚の事として、同じ冠辭をこゝには別とすべからねばとて、宇袁《ウヲ》を於《オ》と書し例もなきをや。また萬葉の歌に、臣《オミ》の女《メ》と訓て何の用かある。この臣は必誤字と見えたれば、たをやめのてふ語とこそせめ。さらば、そのたをやめによしある字を考ふべきにこそ云々。この問答、いづれも當らざるよしをいはん。まづ眞淵の答に、古事記の淤美(33)能袁登賣《オミノヲトメ》の淤《オ》の字を、泓《ヲ》とあるまじきにあらずといはれしはいかが。仁徳紀の御歌、正しく同じつゞけなるに、たしかに淤《オ》の字を書たれば、宣長の淤に改ためられしこそうべなれ。また、かの古事記の歌のつゞきに、太陀理《タヽリ》とらすもてふも、麻績《ヲミ》の女より出たる語なりといはれしもいかゞ。いかにも、諸本、太陀理《タヽリ》とあらば、麻績《ヲミ》によしあれど、太陀理とあるは延佳本のみにて、諸本みな本陀理《ホダリ》とあるものをや。また、宣長の、こゝの臣女をおみのめと訓れしは、眞淵のいはれつる如く、おみのめとよみて、こゝに何の用かある。臣《オミ》といふこと、こゝにはさらに用なきをや。略解云、この二字は姫の字の誤れるにて、たをやめとよまんか。又、臣女みやびめとも訓べし。宣長は、臣は少の誤りにて、をとめの歟といへり云々。この説も、何の故ありて、臣女をたをやめ、みやびめなど訓べきにか。しかも、たをやめといふこと、この萬葉のころは、かつてなし。和名抄に、はじめて、太乎夜米とあれど、こは手弱女《タワヤメ》をよみ誤られし也。宣長の説に、臣は少の誤りにて、をとめと訓べき歟といはれつるは、少しはよしあれど、さる本もなければ、猶したがひがたし。とにかくに臣女の二字よみがたし。何ぞの誤りなるべし。後人よ(く脱カ)考ふべし。予はじめに思ひし説あり。そは、十五【十二丁】に、安佐散禮婆《アサヽレバ》、伊毛我手爾麻久《イモガテニマク》、可我美奈須《カヾミナス》、美津能波麻備爾《ミツノハマビニ》云々とあると、大かたは同じつゞけなるに、伊毛《イモ》といへば、こゝの臣女も、わぎもことよまんか。臣の字は、漢書高帝紀上注に、古人相與語多自稱v臣云々とあれば、われともよまるゝなり。されば、義訓の字にて、わぎもことよまんかとも思ひしかど、集中みな、わぎもこがとのみいひて、わぎもこ乃《ノ》といへる一つもなく、その上、わぎもこといへるに、義訓、借訓などの字を用ひし事、集中に例なければ、これも猶あしかりけり。
 
(34)匣爾乘有《クシゲニノスル》。
匣は櫛笥也。こは鏡成といはんとて、枕詞の序に置たり。
 
鏡成《カヾミナス》。
枕詞にて、見《ミ》の一言へつゞけたり。上【攷證二下九丁】に出たり。
 
見津乃濱邊爾《ミツノハマベニ》。
見津は難波の三津にて、大和の京より筑紫へ下るに、こゝより舟にのる處なり。上【攷證一下五十二丁】に出たり。本集十五【十二丁】に、安佐散禮婆《アササレバ》、伊毛我手爾麻久可我美奈須《イモガテニマクカヾミナス》、美津能波麻備爾《ミヅノハマヒニ》云々。
 
狹丹頬相《サニヅラフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三下六丁】にも出たり。
 
紐解不離《ヒモトキサケズ》。
 
本集五【卅二丁】に、紐解佐氣弖多知婆志利勢武《ヒモトキサケテタチハシリセム》云々。十二【卅四丁】に、客夜之久成者左丹頬合紐開不離戀流比日《タビノヨノヒサシクナレバサニツラフヒモトキサケズコフルコノゴロ》。十四【廿丁】に、巨麻爾思吉比毛登伎佐氣底《コマニシキヒモトキサケテ》云々などありて、さけずは不開《アケズ》といふと同じく、十一【六丁】に、狛錦紐解開《コマニシキヒモトキアケテ》云々。二十【十丁】に、比毛等伎安氣奈《ヒモトキアケナ》、多太奈良受等母《タヽナラズトモ》とも見えたり。古しへのならはし、男女の間、その人ならでは、みだりに紐を解ざるならはしなれば、かくはいへる也。この事、上【攷證三上十九丁】にもいへり。
 
戀乍居者《コヒツヽヲレバ》。
こは、上の見津乃濱邊爾《ミツノハマベニ》とあるをうけて、みつのはまべに戀つゝをればといふ意也。
 
(35)明晩乃《アケグレノ》。
本集十【卅七丁】に、明闇之朝霧隱《アケグレノアサキリコモリ》云々。拾遺聚雜上に【左大將濟時】あさぼらけひぐらしのこゑきこゆなり、こやあけぐれと人のいふらん。顯昭注云、あけぐれとは、あかつきにあけぬるやうにて、又くらくなるをいふなり云々。毛詩古訓に、昧旦の字をよめる、よくあたれり。
 
旦霧隱《アサギリコモリ》。
略解には、あさぎりがくりと訓つれど、猶、舊訓のまゝ、こもりと訓べき也。本集十五【廿丁】に、安可等吉能安左宜理其問理可里我禰曾奈久《アカトキノアサギリコモリカリガネゾナク》とあり。
 
鳴多頭乃《ナクタヅノ》。
乃は如くの意也。
 
哭耳之所哭《ネノミシナカユ・ナキノミゾナク》。
木集五【卅八丁】に、奈具佐牟留心波奈之爾《ナグサムルコヽロハナシニ》、雲隱鳴往鳥乃《クモガクリナキユクトリノ》、禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》とあれば、ねのみしなかゆとよむべし。
 
吾戀流《ワガコフル》。
この句より下八句は、木集二【卅七丁】の人麿の妻のうせたる時よまれ長歌に似たり。もし、笠まろ、人まろの歌をとりてよまれつるか。この意は、かくの如く、わが戀る心の千重あるものならば、そのうち、一重も心をなぐさむるよしもあるかとて、三津の濱邊に立出て、大和の家の方をわが立見ればといふ意なり。
 
名草《ナグサ》漏《モル・ムル》。
集中、暇字に書たる處は、皆なぐさむるとのみあり。むと、もは、ことに近く、轉用せれば、こゝも、なぐさむるとよまんかとも思へど、本集十【五十丁】に、何處漏香《イヅクモリテカ》云々とも書たれば、なぐさもるとよむべし。こは、三室《ミムロ》山とも三諸《ミモロ》山と(も脱カ)いふに同じ。
 
(36)情毛《コヽロモ》有《アレ・アリ》哉跡《ヤト》。
情《コヽロ》もあれと願ふ意なるに、哉《ヤ》は添たるてにをは也。この事、上【攷證二下四十三丁】にいへり。
 
家當《イヘノアタリ》。
こは、難波の海邊に立出て、大和の京の家のあたりを望み見ればといふ也。
 
青旗乃《アヲハタノ》。
印本、旗を※[弓+其]に誤れり。今、仙覺抄、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。こは枕詞にて、難波の海邊より、はるかに大和の方を望めば、葛木山のあを/\と青旗《アヲハタ》のなびきたらんやうに見ゆるを、あをはたのかつらぎ山とはつゞけし也。さるを、冠辭考に※[弓+其]は楊の誤とて、青楊《アヲヤギ》のかつらぎ山とつゞけしよしにせられしはいかゞ。但し、十一に、春楊かつらぎ山とつゞけしもあれど、※[弓+其]と楊と字體も近からぬうへに、まへに引る異本どもにも、正しく旗とあれば、いよ/\從ひがたし。猶くはしくは、予が冠辭考補正にいふべし。
 
葛木山爾《カツラキヤマニ》。
大和志云、葛城山連2亘葛上忍海葛下三郡西1、嶺西隷2河州1。第一峯曰2高天山1、又呼2金剛山1。高三百丈、山頂有v寺。山脈東出、又有2高天村高天山1と見ゆ。書紀神武紀に、高尾張邑有2土蜘蛛1、其爲v人也、身短而手足長、與2侏儒1相類。皇軍結2葛綱1而掩襲殺v之。因改2號其邑1曰2葛城1云々。
 
白雲隱《シラクモカクリ》。
こは家當吾立見者《イヘノアタリワガタチミレバ》といふを、その家も白雲かくりぬといふ意也。
 
天佐我留《アマザカル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。眞淵説に、かの詞、濁音の字用ひたる例なし。我は柯の字などの誤れるにや云々。この説、さる事ながら、集(37)中の清濁、すべてたしかならざれば、もとのまゝにてもありぬべし。
 
夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》。
こは難波をさせり。
 
直向《タヾムカフ》。
古事記中卷御歌に、袁波理邇多陀邇牟迦幣流袁都能佐岐那流比登都麻都《ヲハリニタヾニムカヘルヲツノサキナルヒトツマツ》云々。本集六【十八丁】に、御食向淡路乃島二直向三犬女乃浦乃《ミケムカフアハヂノシマニタヾムカフミヌメノウラノ》云々。七【十七丁】に、勢能山爾直向妹之山《セノヤマニタヾニムカヘルイモノヤマ》云々などもありて、直向《マムカヒ》なるをいへり。淡路は難波の浦のまむかひなればなり。
 
粟島乎《アハシマヲ》。
こは淡路の北にあたりて、播磨との間にある島なるべし。この事、上【攷證三中卅八丁】にいへり。
 
背爾見管《ソガヒニミツヽ》。
そがひは後《ウシロ》に見つゝといはんが如し。この事も上【攷證三中卅七丁】にいへり。本集三【卅三丁】に、武庫浦乎榜轉小舟《ムコノウラヲコギダムヲブネ》、粟島矣《アハシマヲ》、背爾見乍《ソガヒニミツヽ》、乏小舟《トモシキヲフネ》。
 
朝名寸二《アサナギニ》。
朝海の平らかなるを、あさなぎ(と脱カ)はいへり。名寸《ナギ》は和《ナギ》の意也。本集六【十五丁】に、朝名寸二千重浪縁《アサナギニチヘナミヨリ》、夕菜寸二五百重波因《ユフナギニイホヘナミヨル》云々。十三【卅三丁】に、旦名伎爾水子之音爲乍《アサナギニカコノトシツヽ》云々などありて、集中いと多し。こは、此卷【五十三丁】に、須臾戀着奈木六香登《シバシモコヒバナギムカト》云々。十一【廿丁】に、念《》之情今曾水葱少熱《オモヒシコヽロイマゾナギヌル》。八【五十二丁】に、情奈具夜登《コヽロナグヤト》云々などある、なぎ、なぐといふ語も、本は同じ語にて、皆心の和らぎ平らぐをいへり。
 
(38)水手之《カコノ》音《コヱ・オト》喚《ヨビ》。
水手をかこといふ事は、書紀應神紀一云、天皇幸2淡路島1、而遊獵之。於v是天皇西望之。數十麋鹿浮v海來之。〓入2于播磨鹿子水門1。天王謂2左右1曰、其何麋鹿也、泛2巨海1多來。爰左右共視而奇。則遣v使令v察。使者至見。見皆人也。唯以2著角鹿皮1爲2衣服1耳。問曰、誰人也。對曰、諸縣君牛是年耆之、雖2致仕1不v得v忘v朝。故以2已女髪長媛1、而貢上矣。天皇悦v之、即喚命v從2御船1。是以時人號2其著v岸之處1、曰2鹿子水門1也。凡水手曰2鹿子1、盖始2于是時1也と見えたり。本集十五【十一丁】に、由布奈藝爾加古能古惠欲妣宇良末許具可母《ユフナギニカコノコヱヨビウラマコグカモ》。また【十三丁】安左奈藝爾布奈弖乎世牟等《アサナギニフナテヲセムト》、船人毛鹿子毛許惠欲妣《フナビトモカコモコヱヨビ》云々などもありて、こゝの意は、朝なぎのよくなぎたるに、舟を出して、水手のよぴかはしゆくさま也。
 
五十行左具久美《イユキサグヽミ》。
 
五十《イ》は發語也。左具久美《サグクミ》は、本集二十【十八丁】に、奈美乃間乎伊由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサグクミ》云々。六【廿五丁】に、五百隔山伊去割見《イホヘヤマイユキサグミテ》云々などありて、さぐみといふも、さぐゝみといふも同意也。こは行放《ユキサタ》る意なる事、上【攷證二下五十二丁】にいへるがごとし。
 
射往廻《イユキモトホリ》。
射《イ》は發語。廻《モトホリ》は字の如く、めぐれる意なる事、上【攷證二下廿九丁】いはひもとほりの處にいへるが如く、こゝは、磐の間などを行めぐれるなり。
 
稻日都麻《イナヒツマ》。
本集六【十八丁】に、淡路乃野島毛過《アハヂノヌシマモスギヌ》、伊奈美嬬《イナミツマ》、辛荷乃島之島際從《カラニノシマノシマノマユ》、吾宅乎見者《ワギヘヲミレバ》云々。十五【六丁】に、和伎母故我可多美爾見牟乎《ワギモコガカタミニミムヲ》、印南都麻《イナミツマ》、之良奈美多加彌《シラナミタカミ》、與曾爾可母美牟《ヨソニカモミム》。略解云、いなひつまは、播磨國印南郡につげる海中の島なるべし云々。この説の如くなるべし。さて、卷六、卷十五には、いなみつまとありて、こゝには、いなひつまとあれど、みと、ひ(39)は、ことに近く通ずる字なればなり。
 
浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》。
本集九【八丁】に、白神之磯浦箕乎敢而榜動《シラカミノイソノウラミヲアヘテコギトヨム》。十一【卅六丁】に、住吉之城師乃浦箕爾布浪之《スミノエノキシノウラミニシクナミノ》云々などもありて、このみの字は、五【廿八丁】に、道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》云々。十七【卅四丁】に、須賣加未能須蘇未乃夜麻能《スメカミノスソミノヤマノ》云々。二十【十五丁】に、多可麻刀能宮乃須蘇未乃《タカマトノミヤノスソミノ》云々。これらのみの字と同じく、浦末《ウラマ》、礒末《イソマ》、島廻《シママ》などの末を美に轉じたるにて、浦箕《ウラミ》はうらのほとりをいふ也。さるを眞淵の説に、浦箕《ウラミ》は海邊《ウミベ》を海備《ウナヒ》といふに同じく、浦備《ウラビ》なるを、ひとみは通へれば、うらみといへり云々とあるは心得ず。邊《ベ》といふを備《ビ》といひしは、集中をおしわたし考ふるに、海邊(備カ)《ウナビ》、岡備《ヲカビ》、濱備《ハマビ》、山備《ヤマビ》、川備《カハビ》などのみこそいへ、浦備《ウラヒ》、阿備《クマヒ》などはいはれざれば、未《ミ》は末《マ》の轉なる事しるし。
 
鳥自物《トリジモノ》。
鳥のごとくといふ也。上【攷證二下四十八丁】に出たり。
 
魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》。
こは、なづみゆく意也。上【攷證三下十九丁】にくはしくいへり。代匠記に引る校本に、魚を莫に作れり。いづれにてもよし。
 
家乃島《イヘノシマ》。
本集十五【十三丁】に、柔保等里能奈豆左比由氣婆《ニホトリノナヅサヒユケバ》、伊敝之麻婆久毛爲爾美延奴《イヘシマハクモヰニミエヌ》云々。また【廿九丁】に、囘2來筑紫海路1入v京、到2播磨國家島1之時作歌、伊敝之麻波奈爾許曾安里家禮《イヘシマハナニコソアリケレ》云々などあり。國圖もて考ふるに、揖保郡の沖に家島といふ、今、猶あり。こゝなるべし。延喜神名帳に、播磨國揖保郡家島神社と見えたり。
 
(40)四時二生有《シジニオヒタル》。
繁爾生有《シヾニオヒタル》なり。上【攷證三中十三丁】に出たり。
 
莫告我《ナノリソガ》。
なのりそは、濱菜なり。上【攷證三中四十丁】に出たり。さて、宣長云、我《ガ》の字は茂の誤りにて、なのりそもと訓べし云々。この説心得ず。書紀にこそ奈能利曾毛《ナノリソモ》と見えたれ、集中には、なのりそとのみいひて、毛《モ》の字ある、一つもなし。この我《ガ》の字は、正しく乃といふべき處にて、乃の意也。そは本集五【十六丁】に、烏梅我志豆延爾《ウメガシツエニ》。また【十七丁】※[さんずい+于]米何波奈佐久《ウメガハナサク》。二十【卅五丁】に、都氣之非毛我乎多延爾氣流可母《ツキシヒモガヲタエニケルカモ》などある我と一つ格なり。こは次の句に、妹爾不告《イモニノラズ》といはんとて、序におけるなり。
 
不告《ノラズ・ツゲズ》來二計謀《キニケム》。
莫告《ナノリソ》の不告《ノラズ》と詞を重ねきたれば、のらずと訓べし。こは、旅のさまを、などかも妹にかたらず來にけんとなり。
 
反歌。
 
510 白妙乃《シロタヘノ》。袖解更而《ソデトキカヘテ》。還來武《カヘリコム》。月日乎數《ツキヒヲヨミ・ホドヲカゾヘ》而《テ》。往而來猿尾《ユキテコマシヲ》。
 
白妙乃《シロタヘノ》。
枕詞にで、冠辭考にくはし。上【攷證三下六十七丁】にも出たり。代匠記に、妙を細に作れり。いづれにてもありなん。
 
袖解更而《ソデトキカヘテ》。
略解云、袖は紐の誤りにて、ひもときかへてなるべし云々。この説、心得ず。但し、本集十【卅三丁】に、狛錦細解易之《コマニシキヒモトキカハシ》云々ともあれど、白たへの紐とつゞけし事、例な(41)きうへに、袖と紐と字體も近からす。されば考ふるに、三【五十九丁】に、白細之袖指可倍※[氏/一]《シロタヘノソデサシカヘテ》云々。八【五十二丁】に、白細乃袖指代而《シロタヘノソデサシカヘテ》云々などあれば、こゝも解の字誤りにて、そでさしかへてならんかとも思ひつれど、猶一首のうへ、おだや《(マヽ)》ならざれば、あしかりけり。こは、宣長の説に、本のまゝにて、袖《ソデ》解《トキ》かへでとは、袖を解はなして、男女互に形見としてゆく也云々といはれしに從ふべし。本集此卷【卅七丁】、八【五十一丁】などに、衣を形見におくりし事あれば、袖をも形見としつぺし。
 
月日乎數而《ツキヒヲヨミテ・ホドヲカゾヘテ》。
古事記上卷に、吾蹈2其上1走乍|讀度《ヨミワタラム》云々。本集七【卅九丁】に、所打沾浪不敷爲而《ウチヌラサレヌナミヨマズシテ》云云。十一【廿六丁】に、時守之打鳴鼓敷見者《トキモリノウチナスツヾミヨミミバ》云々。十三【十五丁】に、吾睡夜等呼讀文將敢鴨《ワガヌルヨラヲヨミモアヘムカモ》。また【十三丁】吾寢夜等者數物不敢鴨《ワカヌルヨラハヨミモアヘムカモ》。十七【卅三丁】に、月日餘美都追伊母麻都良牟曾《ツキヒヨミツヽイモマツラムゾ》。十八【十四丁】に、伊久欲布等余美都追伊毛波《イクヨフトヨミツヽイモハ》云々。また【廿四丁】伊泥※[氏/一]許之月日余美都追《イデヽコシツキヒヨミツヽ》云々。古今集、大歌處、君が代はかぎりもあらじ、なが濱のまさごのかずはよみつくすともなどもありて、敷ふる事をよむといへり。一首の意は、互に袖など解かはして、形見として、又かへり來べき月日をかぞへて、妹にも其よしをもよくいひて、さて筑紫へ往て來ましものをといふ也。
 
幸2伊勢國1時。當麻麻呂大夫妻。作歌一首。
 
511 吾背子者《ワガセコハ》。何處《イヅク・イヅチ》將行《ユクラム》。已津物《オキツモノ》。隱《ナバリ・カクレ》之山乎《ノヤマヲ》。今日歟超良武《ケフカコユラム》。
 
(42)この歌、端詞ともに、卷一【廿丁】に出たり。その處【攷證一下十五丁】に注す。
 
草孃歌一首。
 
父祖、考へがたし。くさのいらつめとよまん歟。略解に、草の下、香を落せしか。しからば、くさかのいらつめと訓べし云々。この説の如く、草香《クサカ》孃としても、傳しりがたければ、無用の説なり。或人、かやのいらつめと訓つれど、草《クサ》をかやといふ事は、屋葺《ヤネフク》ことに用ゐる處のみの事なれば、こゝにはさは訓がたし。さて、孃は、韻會に、娘同v孃、少女之號とあれば、いらつめと訓べし。
 
512 秋田之《アキノタノ》。穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》。香縁相者《カヨリアハバ》。彼所毛加人之《ソコモカヒトノ》。吾乎事將成《ワヲコトナサム》。
 
穗田乃刈婆加《ホダノカリバカ》。
穗田《ホダ》は、本集八【卅六丁】に、秋田乃穗田乎鴈之鳴《アキノタノホダヲカリガネ》云々。十【四十三丁】に、白露者置穗田無跡《シラツユハオクホダナシト》云々などもありて、秋に至りて、穗の出たる田をいふなり。刈婆加《カリバカ》は、十【卅八丁】に、秋田吾苅婆可能過去者《アキノタノワガカリバカノスギヌレバ》、鴈之喧所聞冬方設而《カリガネキコユフユカタマケテ》。十六【卅一丁】に、天爾有哉《アメナルヤ》、神樂良能小野爾茅草苅《サヽラノヲヌニチガヤカリ》、草苅婆可爾《カヤカリバカニ》、鶉之立毛《ウヅラシタツモ》などありて、こは、宣長の説に、刈ばかとは、田を植るにも、刈にも、其外にも、一はか二はかなどいふ事あり。男女相まじはりて、そのはかをわけて、植も刈もする也。かよりあふとは、その一はかのうちのものは、よりあひならぴて物する故に、かくつゞけいへり。はかの事は、今の世にもいふことにて、たとへば、一つ田を三つにわけて、一はか、二はか、三はかと立て、一はかより植はじめ刈はじめて、二はか三はかと植をはり刈をはる事(43)也云々。この説よしあり。今の世にも、物の速に成れるを、はかのゆくといへるなども、これなるべし。さるを、代匠記の説に、婆《バ》ハ場ナルベシ。如ハ、アリカ、スミカノ如ク、所ト云意ナルベシ云々。この説いかゞ。場《バ》といふことは、場《ニハ》の訛れる言にて、古言にあらず。【この事、古事記傳卷二十五、大廷の條にくはし。】また、類林に、刈ばかは、かりしほといふ意也云々。略解に、刈ばかは、刈計の略にて、稻の刈程になれるをいふなるべし云々。これらの説は、一首のうへにては、叶でもきこゆれど、さる證なければ、從ひがたし。
 
香縁相者《カヨリアハバ》。
香は發語にて、依あはゞといふ也。
 
彼所毛加人之《ソコモカヒトノ》。
中ごろよりは、それといふを、古くは、そことのみいへり。この事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。本集七【卅七丁】に、山跡之宇陀乃眞赤土左丹著者《ヤマトノウタノマハニノサニツカバ》、曾許裳香人之吾乎言將成《ソコモカヒトノワヲコトナサム》ともありて、こゝの意は、それをもてかといふなり。
 
吾乎事將成《ワヲコトナサム》。
本集七【卅丁】に、紅之深染之衣下著而《クレナヰノコソメノコロモシタニキテ》、上取著者事將成鴨《ウヘニトリキバコトナサムカモ》。又【卅二丁】陸奧之吾田多良眞弓《ミチノクノアタヽラマユミ》、著絲而引者香人之吾乎事將成《ツラハゲテヒカバカヒトノワヲコトナサム》。十四【十九丁】に、宇都世美能夜蘇許登乃敝波思氣久等母《ウツセミノヤソコトノヘハシゲクトモ》、安良蘇比可禰底《アラソヒカネテ》、安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》などあり。この歌、一二の句は序にて、一首の意は、もしわれら二人よりあはゞ、それをもてか人のいひ事となして、いひさわがんとなり。
 
志貴皇子御歌一首。
 
(44)上【攷證一下卅三丁】に出給へり。天智帝第七の皇子なり。
 
513 大原之《オホハラノ》。此市柴乃《コノイツシバノ》。何時鹿跡《イツシカト》。吾念妹爾《ワガオモフイモニ》。今夜相有香裳《コヨヒアヘルカモ》。
 
大大原之《オホハラノ》。
大和なり。上【攷證二上廿一丁】に出たり。
 
此市柴乃《コノイツシバノ》。
本集八【五十五丁】に、天霧之雪毛零奴可《アマギラシユキモフラヌカ》、炊然此五柴爾零卷乎將見《イチシロクコノイツシバニフラマクヲミム》。十一【四十丁】に、道邊乃五柴原能《ミチノヘノイツシバハラノイツモイツモ》、何時毛何時毛人之將縱言乎思將待《ヒトノユルサムコトヲシマタム》などありて、いつ柴、未詳。諸説みな櫟柴《イチシバ》の意とすれど、たしかなる證なければ、定めがたく、これを六帖には、いちしば(と脱カ)訓て、略解にもしか訓たれど、いつしか、いつも/\などつゞけたれば、舊訓のまゝ、いつしば(と脱カ)訓べきなり。さて、この歌を、六帖卷六いちしの花の部に載たれど、心得ず。また、本集十二【廿二丁】に、御獵爲雁羽之小野之櫟柴之奈禮波不益戀社益《ミカリスルカリハノヲヌノナラシバノナレパマサラズコヒコソマサレ》と、正しく櫟の字は書たれど、奈禮波不益《ナレハマサラズ》とつゞけたれば、猶ならしばと訓て、このいつ柴とは別物也。さて、此《コノ》といへる、此所《コヽ》なるといはんが如し。
 
何時鹿跡《イツシカト》。
いつしかといへる詞は、上【攷證三中七十三丁】にいへるが如く、物を待願ふ意にて、こゝは、いつしか相ことのあらんと待願ふ也。さて、拾穗本、略解などに、庶を鹿に改めたれど、さかしらなるべし。庶は、玉篇に、庶冀也とありて、願ふ意なるに、いつしかといふ詞も願ふ意なれば、義訓して書るなり。そは、集中、冀、願などの字を、がもといふ願ふ詞に用ひ、(45)疑の字を、うたがふ意のかに用ひなどせし、一つ類なり。さて、一二の句は序にて、一首の意(明脱カ)らけし。
 
阿倍女郎歌一首。
 
上【攷證三上卅九丁】こいへるが如く、安倍女郎とは別人なり。
 
514 吾背子之《ワガセコガ》。盖《ケ・キ》世流衣之《セルコロモノ》。針目不落《ハリメオチズ》。入爾家良《イリニケラシ》之《モ・ナ》。我情副《ワガコヽロサヘ》。
 
盖《ケ・キ》世流衣之《セルコロモノ》。
古事記中卷、御歌に、那賀祁勢流意須比能須蘇爾都紀多知邇祁理《ナガケセルオスヒノスソニツキタチニケリ》とある、けせると同じく、けせるは、著《キ》たるといふことにて、世流は、立《タヽ》せる、知《シラ》せる行《ユカ》せるなどの類にて、詞也。本集十五【廿丁】に、和我多妣波比左思久安艮思《ワガタビハヒサシクアラシ》、許能安我家流《コノアガケル》、伊毛我許呂母能《イモガコロモノ》、阿可都久見禮婆《アカツクミレバ》とあるも、著るといふにて、きとみと近く通ずれば也。さて、盖は、九經字樣蓋字注に、玄宗皇帝御注孝經、石台亦作v蓋、今或相承作v蓋者、乃從2行書1とありて、蓋の俗字にて、説文に、蓋公害反。唐韻に、蓋古太切。五經文字に、蓋戸答反。かい、かふなどの音はあれば、けとも訓べし。
 
針目不落《ハリメオチズ》。
和名抄裁縫具、陸詞切韻云、鍼【職荏反。亦作v針。和名波利。】縫v衣具とありて、本集十一【十六丁】に、寸戸我竹垣編目從毛《キヘカタケカキアミメユモ》云々。十二【十四丁】に、衣乃縫目見者哀裳《キヌノヌヒメヲミレバカナシモ》などある、めと同じく、(46)こは今もいふ言なり。不落《オチズ》は、上【攷證一上十二丁】にいへるが如く、不漏《モラサズ》といふ意なり。
 
入爾家良《イリニケラシ》之《モ・ナ》。
略解に、良之の下、毛《モ》か奈の字か落たる也云々。この説のごとく、必らず脱なるべし。假字の下に訓を添る事は、をさくなき事なれど、本集十一【卅五丁】に、無名乎吾者負香《ナキナヲワレハオヘルカ》云々。十九【廿丁】に許能久禮繁思乎《コノクレノシゲキオモヒヲ》云々などあるは、假字の下に訓を添たり。されど、これらも落字ならんもしりがたければ、たしかに例とはなしがたし。
 
我情副《ワガコヽロサヘ》。
集中、多く、副をさへと訓るは、義訓也。玉篇に、副貳也とある意もて訓る事、共、並、兼などの字をも、さへと訓るにてしるべし。一首の意は、我思ふ心のあまねければ、君が著給ふ衣の、針目をももらさず、わが心の、君が身のうちにさへ思ひいりにけんとなり。
 
中臣朝臣東人。贈2阿倍女郎1歌一首。
 
中臣朝臣東人は、中臣氏系圖もて考ふるに、中納言意美麻呂卿の一男、母は大織冠藤原内大臣女、斗賣娘なり。續日本紀に、和銅四年四月壬午、正七位上中臣朝臣東人授2從五位下1。養老二年九月庚戌爲2式部少輔1。同四年十月戊子爲2右中弁1。神龜元年二月壬子授2正五位下1。同三年正月庚子授2正五位上1。天平四年十月丁亥爲2兵部大輔1。五年三月辛亥授2從四位下1とありて、この後、紀に見えず。みまかられしなるべし。さて、中臣の氏は(以下、原本餘白ナリ)
 
(47)515 獨宿而《ヒトリネテ》。絶西紐緒《タエニシヒモヲ》。忌見跡《ユヽシミト》。世武爲便不知《セムスベシラニ》。哭耳之曾泣《ネノミシゾナク》。
 
絶西紐緒《タエニシヒモヲ》。紐のたゆるは、忌よしの諺ありしなるべし。本集九【卅丁】に、吾妹兒之結手細紐乎將解八方《ワギモコガユヒテシヒモヲトカメヤモ》・絶者絶十方《タエバタユトモ》、直二相左右二《タヾニアフマデニ》。十二【十五丁】に、針者有杼《ハリハアレド》、妹之無者將著哉跡吾乎令煩《イモシナケレバツケメヤトワレヲナヤマシ》、絶紐之緒《タユルヒモノヲ》などもあり。紐緒《ヒモヲ》は紐の緒にて、緒《ヲ》は、てにをはにあらず。紐の緒といふを、常の事にて、乃《ノ》の字を略きていふも、九【卅二丁】に、白細乃紐緒毛不解《シロタヘノヒモヲモトカズ》云々とも見えたり。
 
忌見跡《ユヽシミト》。
ゆゝしは、物を忌《イメ》る事なる事、上【攷證二下十六丁】にいへるが如し。見《ミ》はさにの意。跡《ト》は助辭なり。
 
世武爲便不知《セムスベシラニ》。
しらには、しらずといはんが如し。上に多く出たり。一首の意は、こは旅などにゆきて、久しく逢ざりしをりの歌にて、一人のみねて、絶たるひものゆゝしさに、せんすべもなく、たゞ音《ネ》にのみなきぬとなり。
 
516 吾以在《ワガモタル》。三相二搓流《ミツアヒニヨレル》。絲用而《イトモチテ》。附手益《ツケテマシ》物《モノ・モノヲ》。今曾悔寸《イマゾクヤシキ》。
 
三相二搓流《ミツアヒニヨレル》。
糸三すじして、三つ合せによれる糸なり。書紀孝徳紀に、始我遠皇祖之世、以2百濟國1爲2内官家1。譬如2三絞之網1。【三絞は、漢書賈誼傳集注に糾絞なりとあり。説文に、糾繩三合也とあるを見て、三絞も三つ合せの綱なるを知るべし。】出雲風土記に、三|自《ヨリ》之鋼打挂而云々など見えたるも、三つ合せによれる綱にて、こはきはめて強きをいふ也。さて、搓は、新撰字鏡に、搓、七何反、與留とありて、此卷【五十五丁】に、玉(48)緒乎沫緒二搓而《タマノヲヲアワヲニヨリテ》云々。十【廿四丁】に、片搓爾糸叫曾吾搓《カタヨリニイトヲゾワガヨル》云々など見えて、猶多し。
 
附手益《ツケテマシ》物《モノ・モノヲ》。
物は、舊訓、ものをと訓たれど、ものとのみ訓ても、ものをの意也。古事記中卷【履中】御歌に、多都碁母母母知※[氏/一]許麻志母能《タツコモモモチテコマシモノ》云々。また【雄略】御歌に、加那須岐母伊本知母賀母須岐婆奴流母能《カナスキモイホチモカモスキバヌルモノ》云々。本集五【廿五丁】に、阿摩等夫夜等利爾母賀母夜《アマトブヤトリニモガモヤ》、美夜故摩堤《ミヤコマデ》、意久利摩遠志弖《ヲクリマヲシテ》、等比可弊流母能《トヒカヘルモノ》などあるも、ものをの意也。さて、一首の意は、まへの歌の答へ歌なれば、君が、今遠き處にありて、獨寢し給ふとて、わび給ふが、吾日ごろ持て居る三つ搓のつよき鋼をもつけて置て、遠き處へやらずおかましものを、さもせざりしが、今ぞくやしきといふ也。
 
大納言兼大將軍。大伴卿歌一首。
 
こは大伴安麻呂卿なり。この卿の事は上【攷證二上十八丁】に出たり。
 
517 神樹爾毛《サカキニモ》。手者觸云乎《テハフルトフヲ》。打細丹《ウツタヘニ》。人妻跡云者《ヒトヅマトイヘバ》。不觸物可聞《フレヌモノカモ》。
 
神樹爾毛《サカキニモ》。
新撰字鏡に、杜【毛利、又、佐加木。】榊※[木+祀]〓【三字、佐加木】龍眼【佐加木】和名秒木類に、日本紀私記云、天香山之眞坂樹【佐加木、漢語抄、榊字。本朝式用2賢木二字。本草云。龍眼。一名益智。佐賀岐乃美。】と見えたり。さて、宣長の説に、神樹は、かみきと訓べし。さかきとては、たゞ、山にあるさかきにまがひて、この歌に叶はず云云。この説心得ず。まづ、さか木てふ木は、至ての上古には、しか名づけし木もありけんかしらね(49)ど、すこし下りては、榮木《サカエキ》の意もて、常葉木の、神祭に用うべきものを、【今はしき□せなどにても用うるよし、久老が考に見え、既に、御師より、御さかきとおくれるを見るに、皆しきてなり。この事、上攷證三中五十八丁にいへり。】さかきとはいへりとおぼゆ。されば、さか木てふ木は、神祭にのみ用うるやうにやう/\なりゆきてより、其意もて、神木の二字を合せて榊字を作り、祀木の二字を合せて※[木+祀]の字を作れる也。されば、こゝの神樹をもさかきと訓べき事論なく、しかも、一首のうへにても、神の御木なる事しるきをや。さて、又、榊の字は、類聚國史卷八【弘仁十四|十一《(マヽ)》月大甞會條】に、唯標者以v榊造之云々とあるは、日本後紀の文にて、今は傳はらざれど、既に日本後紀に榊の字あれば、いと古くよりありしなるべく、このごろ、あらたに作りいづべきよしなし。榊の字をさか木と訓るうへは、其意もて、神樹をさかきと義訓せん事、うたがふべからず。
 
手者觸云乎《テハフルトフヲ》。
此卷【四十八丁】に、味酒三輪之祝我忌杉《ウマサケヲミワノハフリガイハフスキ》、手觸之罪歟《テフレシツミカ》、君二遇難寸《キミニアヒカタキ》。七【四十丁】に、三幣帛取《ミヌサトル》、神之祝我鎭齋杉原《ミワノハフリガイハフスギハラ》、燎木伐殆之國手斧所取奴《タキヽコリホトホトシクニテヲノトラエヌ》。重之集に、ちはやふるいつしの宮の神のこま、ゆめなのりそや、たゝりもぞするなどもありて、すべて神の物に觸る事を憚るならひなるが、その神木なるさか木にも、手をばふるといふものをといふ意也。云の字は、とふとも訓べけれど、舊訓のまゝ、といふと訓。そのよしは、上【攷證一下五丁】にいへり。乎《ヲ》は、ものをの意也。この事も、上【攷證二上九丁】にいへり。
 
打細丹《ウツタヘニ》。
本集此卷【五十七丁】に、打妙爾前垣乃酢堅欲見云々。十【九丁】に、打細爾鳥者雖不喫《ウツタヘニトリハハマネド》云々などもありて、打細、打妙など書るも借字にて、偏《ヒトヘ》にといふ意なり。土佐日記に、うつたへにわすれなんとにはあらで云々。忠見集に、春雨はふりそめしかどうつたへに山をみどりになさんとや見し。濱松中納言物語に、うつたへにかうておはすらんと思ひよらんやは云々なども見えたり。
 
(50)人妻跡云者《ヒトツマトイヘバ》。
人の妻といへばといふなり。
 
不觸物可聞《フレヌモノカモ》。
拾穗本、聞《モ》を波《ハ》に作れり。いづれにてもよろし。一首の意は、神木たるさか木にも手を觸ることはあるを、人の妻といへば、ひとへに手をもふれぬものかも。榊にさへ手をふるれば、人妻といへども、ふれざるべきにあらずといふ也。
 
石川郎女歌一首。【即。佐保大件大家也。】
上【攷證二上十四丁】に出たり。即佐保大伴大家也の八字、印本なし。今、代匠記に引る官本、元暦(本脱カ)などに依て加ふ。これに依ば、この石川女郎は大伴安磨卿の室なり。本集三【五十五丁】尼理願が死去を悲める歌の左注に、大伴卿【安麻呂】大家石川命婦と見えたり。大家は婦人の稱なり。この事も上【攷證三下四十八丁】にいへり。
 
518 春日野之《カスガヌノ》。山邊道乎《ヤマベノミチヲ》。與曾理無《ヨソリナク》。通之君我《カヨヒシキミガ》。不所見許呂香裳《ミエヌコロカモ》。
 
與曾理無《ヨソリナク》は、本集十四【十二丁】に、和爾余曾利《ワニヨソリ》、波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》云々。また【廿一丁】奈爾與曾利※[奚+隹]米《ナニヨソリケメ》云々。また【廿七丁】伊佐欲布久母能余曾里都麻波母《イザヨフクモノヨソリツマハモ》などもある、よそりと同言か。こゝのよそりなくは、よるべき便もなくといふ意也。さて、元暦本に、與を於に作れり。さらば、恐《オソ》りなくの意なれど、古葉略類聚抄にも今の如くあれば、恐らくは元暦本のさかしらなるべし。一首の意、明らけし。
 
(51)大伴女郎歌一首。【今城王之母也。今城王後賜2大原眞人氏1也。】
 
大伴女郎は大伴郎女なるべし。女郎と書るは、集中こゝばかり也。小字十七字、印本なし。今、元暦本に依て加ふ。この注によれば、はじめ今城【大原眞人今城は日本紀天平寶字元年より寶龜三年の紀まで見えたれど、父祖は考へがたし。】の父に嫁して、今城を生みて、その父みまかりなどせしのち、旅人卿に嫁れし也。そは、本集八【廿三丁】石上堅魚朝臣歌の左注に、右神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉、于時勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣太宰府弔喪並賜物色云々とあるにてしらる。大伴郎女といへるからは、もとより大伴一家の女なるべけれど、たしかにはしりがたし。もしは御行公の女にはあらざる歟。(頭書、大伴女郎は大伴坂上郎女ならんか。今城王は穗積皇子の男か。この事、下【攷證此卷四十一丁】可v考。)
 
519 雨障《アマサハリ》。常爲公者《ツネスルキミハ》。久堅乃《ヒサカタノ》。昨夜《キノフ・ヨムベ》雨爾《ノアメニ》。將懲鴨《コリニケムカモ》。
 
雨障《アマサハリ》。
本集八【四十一丁】に、雨障出而不行者《アマサハリイテヽユカネバ》云々ともありて、雨にさはりて出ざるをいふ。
 
昨夜《キノフ・ヨムベ》雨爾《ノアメニ》。
昨夜は、きのふと訓べし。よむべといふ事、古言にあらず。代匠記に、ようべと訓れしかど、それも、よべを音便に、ようべと唱へしなれば、用ひがたし。
 
將懲鴨《コリニケムカモ》。
不懲《コリズ》といふ事、上【攷證二中六十七丁】に出たり。一首の意は、平日雨さはりをし給ふ君なれば、昨夜かへり給ふをりの雨にこりはてゝ、もはやおはします事もあらじと、すまひお(52)くれるなべし。
 
後人追同歌一首。
 
同は和を誤れるなるべし。既に、拾穗本、考異本に引る古本などには、和歌とあり。されど禮記樂記注に、同和合也。また、禮運注に、同猶v和也ともあれば、この意もて同と書りしもしるべからず。
 
520 久堅乃《ヒサカタノ》。雨毛落糠《アメモフラヌカ》。雨乍見《アマツヽミ》。於君副而《キミニタグヒテ》。此日令晩《コノヒクラサム》。
 
雨毛落糠《アメモフラヌカ》。
ぬかといふ詞は、上【攷證三中廿二丁】にいへるが如く、毛《モ》をうけたる、願ふ意の詞にて、こゝは、雨もふれかしといふ意なり。糠と書るは借字なり。
 
雨乍見《アマツヽミ》。
本集十一【卅一丁】に、笠無登人爾者言手《カサナシトヒトニハイヒテ》、雨乍見《アマツヽミ》、留之君我容儀志所念《トマリシキミガスガタシオモホユ》。十八m【卅八丁】に、夜夫奈美能佐刀爾夜度可里《ヤフナミノサトニヤドカリ》、波流佐米爾《ハルサメニ》、許母埋都追牟等《コモリツヽムト》、伊母爾郡宜都夜《イモニツゲツヤ》などありて、こは、雨を恐《オソ》れ慎《ツヽ》しむ意なり。また、旅の歌に、つゝみなく、つゝむことなくなどいへる、つゝみも、元はこれと一つ言にて、慎《ツヽ》しみ恐るゝ事なくといふ意にて、後世、つゝがなくといふも、この轉じたる也。この事は、下【攷證五□】にいふべし。一首の意は、まへの歌をうけて、今は雨のふれかし、君にそひて、雨つゝみをして、けふをくらさましと也。
 
於君副而《キミニタグヒテ》。
副而《タグヒテ》といふことは、集中をおしわたし考ふるに、皆|副《ソフ》といふ意也。この事は、下【攷證此卷卅九丁】にいふべし。
 
(53)藤原宇合大夫。遷任上v京時。常陸娘子。贈歌一首。
 
宇合卿は上【攷證一下六十一丁】に出たり。こゝは、宇合卿、常陸守にて五位なりしかば、大夫とは既にかける也。【大夫の事は、上攷證三中四十五丁にくはしくいへり。】續日本紀に、養老三年七月庚子常陸國守正五位上藤原朝臣宇合管2安房上總下總三國1云々とあり。かくて、外の任によりて京に上らるゝ時、常陸國なる娘子のわかれによめるなり。
 
521 庭立《ニハニタツ》。麻乎刈干《アサデカリホシ》。布《シキ》慕《シヌブ・シノブ》。東女乎《アヅマヲミナヲ》。忘賜名《ワスレタマフナ》。
 
庭立《ニハニタツ》。
立は、書紀神代紀下訓注に、植此云2多底婁《タテル》1とありて、草木につきて、立《タツ》、立有《タテル》などいふは、皆|植《ウワ》りてある意にて、こゝも、庭にうゑである麻手といふ也。さるを、略解に、庭にたちは、麻の事にはあらで、おのれ庭におり立て麻を刈をいふ云々とて、訓をさへ、にはにたちと改めしは誤れり。そは、本集十四【十九丁】に、爾波爾多都《ニハニタツ》、安佐提古夫須麻《アサデコフスマ》云々とあるも、こゝと同じつゞけなるにても思ふべし。
 
麻乎刈干《アサデカリホシ》。
本集九【卅二丁】に、小垣内之麻矣引于《ヲカキツノアサヲヒキホシ》云々とあり。これに依て、略解に、手は乎の誤り也。麻手小ぶすまとは、事異也云々とて、こゝをも、あさを刈ほしとよまれつるは、例のみだりに文字を改めんとする僻なり。まへに引る十四の卷の歌と、專ら同じつゞけなるに、かれも國風《クニフリ》歌にて、方言をまじへたる歌、これも常陸國の娘子の歌なれば、そのころ、東(54)國にては、麻《アサ》を麻手《アサデ》ともいひけんを、方言のまゝに歌にもよめるなるべし。すべて、十四、廿の卷の國風歌には、雅言にあてゝは心得がたき言多かる事をば、集中をよく見たらん人は、おのづからにしりぬべし。かの十四、廿の歌ならずとも、その國人の歌には、方言まじるまじきにあらず。されば、この歌に、麻手とあるも、常陸國にて、麻をいふ方言なるべし。さるを、古説に麻の葉は人の手の如き形ちなれば、麻手とはいふよしいへるは、あまりにおしあて也。麻ならずとも、手の如き形ちの葉はいと多かるをや。又、略解の説に、十四の卷なる安佐提古夫須麻《アサデコフスマ》を、こゝの麻手とは別也として、かれは麻布《アサタヘ》の小衾《コフスマ》也、たへの反てなり、といひしもいかゞ。こゝと同じつゞけなるにて、同じ言とこそきこゆれ。しかも、こゝの歌も、常陸の國人の歌ならずや。されば、十四の卷なるも、麻にて織たる衾を、あさて小衾とはいへるにて、こゝの麻手と同じ言なる事論なし。
 
布《シキ》慕《シヌブ・シノブ》。
麻を刈ほして、敷|並《ナラ》ぶるを、繼重《ツギカサ》ねて、しぬぶにいひかけたり。布と書るは借字にて、布而將見《シキテミム》、しく/”\、しきて戀ふなどいふ、しきと同じく、皆繼重なる意なり。及の字を、しきとよめるも同意也。後世、頻《シキリ》にといふ言あるも、この轉じたる也。慕《シヌブ》は、集中、志乃布《シノブ》とある處二處あるのみ、外は皆|志奴布《シヌブ》とあれば、多きにつきて、しぬぶと訓べし。
 
東女乎《アヅマヲミナヲ》。
娘子、自らをさして、東をとめといへり。束を、あづまとよめるは、義訓なり。あづまの事は、上【攷證二上十七丁】にいへり。一首の意明らけし。
 
京職大夫藤原麻呂大夫。贈2大伴郎女1歌三首。
 
(55)京職大夫。
職員令云、左京職、右京職、准v此。大夫一人、掌d左京戸口名籍、字2養百姓1、糺2審所部1、貢擧孝義、田宅雜徭、良賤訴訴訟、市廛度量、倉廩租調、兵士器仗、道橋過所、闌遺雜物、僧尼名籍事u云々。和名抄官職部云、左京職【比多利乃美佐止豆加佐】右京職【美岐乃美佐止豆加佐】と見えたり。
 
藤原麻呂大夫。
麻呂の二字、印本なし。目録に依て補ふ。續日本紀に、養老元年十一月癸丑、授2正六位下藤原朝臣麻呂從五位下1。同五年正月壬子授2從四位上1。同年六月辛丑爲2左右京大夫1。神龜三年正月庚子授2正四位上1。天平元年三月甲午授2從三位1。同年八月癸亥詔曰【中略】京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等伊負圖龜一頭献止奏賜不爾云々。同三年八月丁亥爲2參議1。同年十一月丁卯、始置2畿内惣管諸道鎭撫使1、從三位藤原朝臣麻呂爲2山陰道鎭撫使1。同九年七月乙酉、參議兵部卿從三位藤原朝臣麻呂薨、贈2太政大臣1。不比等之第四子也と見えたり。大夫は五位以上の稱なり。まへにいへり。
 
贈2大伴郎女1。
印本、贈を賜に作り、郎を良に作れり。今、目録に依て改む。大伴郎女は、下の左注に依るに、大伴坂上郎女にて、大伴郎女とは別人也。坂上の二字を脱せしなるべし。この坂上郎女は安麻呂卿の女にて、はじめ穗積皇子にめされしが、皇子薨去の後、藤原麻呂卿にあひ、その後、大伴宿奈麻呂に《(マヽ)》田村大孃、坂上大孃をうめり。これらの事、上【攷證三中五十七丁】にもいへり。
 
(56)522 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。珠篋有《タマクシゲナル》。玉櫛乃《タマグシノ》。神家《カムサビ・メツラシ》武毛《ケムモ》。妹爾阿波受有者《イモニアハズアレバ》。
 
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。
※[女+感]嬬の字を、をとめと訓る事は、上【攷證一下十三丁】にいへるが如く、感嬬に嬬の字の篇を及ぼして、※[女+感]嬬とは書る也。
 
珠篋有《タマクシゲナル》。
珠は例の物を賞《ホム》る詞。篋は、玉篇に、篋笥也、箱也と見えたり。本集三【廿丁】に、髪梳乃小櫛取毛不見久爾《クシゲノヲグシトリモミナクニ》ともあり。和名抄容飾具に、唐櫛匣【賀良玖師介。】
 
玉櫛乃《タマグシノ》。
これも、玉はほむる詞にて、たゞ櫛なり。こは、神さびといはん序にて、櫛の垢つきふりたるをいへり。本集十一【十三丁】に、朝月日向黄楊櫛雖舊《アサツクヒムカフツゲグシフリヌレド》、何然公見不飽《ナニシカキミガミレドアカレヌ》。源氏物語若菜卷下(上ノ誤)に、さしながらむかしをいまにつた(ふ脱カ)れは玉の小ぐしぞ神さびにけるなども見えたり。
 
神家《カムサビ・メツラシ》武毛《ケムモ》。
神は、契沖の神さびとよまれしによるべし。神さびてふ言は、上【攷證三上十三丁】にいへるが如く、ものゝふるびたるをいへり。毛は添たる言にて、意さ(なカ)し。神の一字を、かむさびとよめるも、集中一つの格にて、添訓の例なり。そは、本集三【十五丁】に、舟公《フネコグキミガ》云々、また【廿七丁】名付知《ナヅケモシラニ》云々、二【卅九丁】に吾二見之《ワガフタリミシ》云々、七【二十八丁】に然刈《シカナカリソ》云々、十【十二丁】に舊之《フリヌルノミシ》云々、また【廿五丁】舟人《フネコグヒトノ》云々、十一【六丁】に有《アルモノヲ》云々、また【九丁】念《オモヒシモノヲ》云々、十三【廿九丁】に皇可聞《ワガオホキミカモ》云々、十九【廿八丁】に爪夜音之《ツマヒクヨトノ》云々などあるにてしるべし。さて、この歌、序歌にて、妹に久しくあはざれば、其中にわれも古びたらんといふ也。
 
(57)523 好渡《ヨクワタル》。人者年母《ヒトハトシニモ》。有云乎《アリトイフヲ》。何時《イツノ》間《マニ・マヽ》曾毛《ゾモ》。吾戀爾來《ワガコヒニケル》。
 
好渡《ヨクワタル》。
こは、本集十三【十三丁】に、年都麻弖爾毛人者有云乎《トシワタルマデニモヒトハアリトイフヲ》、何時之間曾母吾戀爾來《イツノマニゾモワガコヒニケル》とあると、大かた同じ歌にて、また、十七【四十一丁】に、多知夜麻爾布里於家流由伎能《タチヤマニフリオケルユキノ》、等許奈都爾氣受底和多流波《トコナツニケズテワタルハ》、可無奈我良等曾《カムナガラトゾ》とある、わたると同じく、在渡《アリワタル》意にて、こゝは、戀によく堪しのびて在わたる人は、一年あはでもありといふものをといふ意也。
 
人者年母《ヒトハトシニモ》。有云乎《アリトイフヲ》。
年にといふは、本集十【廿八丁】に、年有而今香將卷《トシニアリテイマカマクラム》云々。また【廿九丁】公之舟出者年爾社候《キミガフナデハトシニコソマテ》。十一【十二丁】に、大船眞※[楫+戈]繁拔榜間《オホフネニマカヂシヾヌキコグホドモ》、極太戀《イタクナコヒソ》、年在如何《トシニアラバイカニ》。十二【廿五丁】に、令蔓之有者年二不來友《ハヘテシアラバトシニコズトモ》。十五【十八丁】に、等之爾安里弖《トシニアリテ》、比等欲伊母爾安布《ヒトヨイモニアフ》、比故保思母《ヒコホシモ》云々などありて、集中猶あり。これら、みな、一年間ありてといふ意にて、こゝは、一年の間《アヒダ》も堪《タヘ》しのびてありといふものを、といふ意也。一首の意は、戀をよく堪忍びて在わたる人は、一年の間も堪忍びでありといふものを、われは逢て程もなきを、又いつのまにか戀しと思ふ心のつきたりといふ意にて、曾毛《ゾモ》の毛は助辭なり。
 
何時間曾毛《イツノマニゾモ》。
何時《イツ》と疑ひて、下を、ると結べる中に、ぞとあるぞもじは、加の意也。この事、下【攷證四下三丁】にいふべし。
 
524 ※[蒸の草がんむり無し]被《ムシブスマ》。奈胡也我下丹《ナゴヤガシタニ》。雖臥《フセレドモ》。與妹不宿者《イモトシネヽバ》。肌之寒霜《ハダシサムシモ》。
 
(58)※[蒸の草がんむり無し]被《ムシブスマ》。
古事記上卷【須勢理毘賣命】歌に、牟斯夫須麻爾古夜賀斯多爾《ムシフスマニコヤカシタニ》、多久失須麻佐夜具賀斯多爾《タタフスマサヤクカシタニ》云々ともありて、※[蒸の草がんむり無し]は、新撰字鏡に、※[火+交]※[蒸の草がんむり無し]也。也久、又、牟須、又、火太久と見え、和名抄菓菜類に、禮記注云、渫【私別切。師説、旡之毛乃】蒸也。野王曰、蒸【之繩切。亦作v※[蒸の草がんむり無し]】火氣上行也と見えたり。されば、※[蒸の草がんむり無し]《ムス》とは物を暖《アタヽ》むることにて、こゝはあたゝかなる被《フスマ》をいふ也。今の世に、暑き事を、むすといふも、古言の遺れるなり。被《フスマ》は、和名抄衣服類に、説文云、衾【音金。和名、布須萬】大被也。四聲字苑云、被衾別名也と見え、毛詩小星傳疏に、今名曰v被、古者曰v衾。論語謂2之寢衣1也とありて、今いふ夜着《ヨギ》といふもの也。書紀神代紀下一書に、以2眞床覆衾1、※[果/衣]2天津彦國光彦火瓊々杵尊1云々。本集五【廿九丁】に、富己呂倍騰寒之安禮波麻被引可賀布利《ホコロヘトサムクシアレバアサフスマヒキカヾフリ》云々。十四【四丁】に、伎倍比等乃萬太良夫須麻爾和多佐波大伊利奈麻之母乃伊毛我乎杼許爾《キヘヒトノマタラフスマニワタサハダイリナマシモノイモガヲトコニ》なども見えたり。略解に、※[蒸の草がんむり無し]は蒸の誤也云々といへるは、いかに。※[蒸の草がんむり無し]、蒸、同字なるものをや。
 
奈胡也我下丹《ナゴヤガシタニ》。
まへに引る如く、古事記には爾古夜賀斯多爾《ニコヤガシタニ》とあり。爾《ニ》と奈《ナ》は近く通ふ音にて、同言也。こは、なごやかなるよしにて、柔《ヤハ》らかなるふすまをいひて、その和《ヤハ》らかにあたゝかなる被を覆ひて寢たれどもといふ也。さて、六月祓を、なごしのはらへといふも、荒ぶる神を和《ナゴ》すよしにて、こゝと同言。又、毛柔物《ケノニコモノ》、毛麁物《ケノアラモノ》などいふ柔《ニコ》も、和細布《ニギタヘ》の和《ニギ》も、奈古《ナゴ》、爾古《ニコ》、爾伎《ニギ》とかよひて、いづれも本は同言なり。
 
雖臥《フセレドモ》。
眞淵は、こやせれどと訓。略解には、ふしたれどゝよめり。いづれにてもあしからねば、舊訓のまゝにておけり。
 
(59)與妹不宿者《イモトシネヽバ》。
本集二十【廿二丁】に、多比己呂母夜豆伎可佐禰弖伊努禮等母《タビゴロモヤツキカサネテイヌレドモ》、奈保波太佐牟志《ナホハダサムシ》、伊母爾志阿良禰婆《イモニシアラネバ》とあると、こゝろ同じ。十一【十五丁】に、刈薦能一重※[口+立刀]敷而紗
眠友《カリコモノヒトヘヲシキテサヌレドモ》、君共宿者《キミトシヌレバ》、冷雲梨《サムケクモナシ》とあるは、こゝろうらうへ也。一首の意(明、脱カ)らけし。
 
大伴郎女。和歌四首。
 
これも、郎女の上、坂上の二字を脱せり。そのよしは、まへにいへり。
 
525 狹穗河乃《サホカハノ》。小石踐渡《サヾレフミワタリ》。夜干玉之《ヌバタマノ》。黒馬之來夜者《コマノクルヨハ》。年爾母有糠《トシニモアラヌカ》。
 
狹穗河乃《サホカハノ》。
大和國添上郡なり。上【攷證一下七十二丁】に出たり。
 
小石踐渡《サヾレフミワタリ》。
本集十四【十一丁】に、知具麻能河泊能左射禮思母《チクマノカハノサヾレシモ》、伎彌之布美※[氏/一]婆《キミシフミテバ》云々。また【卅一丁】佐射禮伊思爾《サザレイシニ》、古馬乎波佐世※[氏/一]《コマヲハサセテ》云々。新撰宇鏡に、硝、左々良石、又小石云々。和名抄山石類に、説文云、礫【音歴。和名、佐佐禮以之】水中細石也と見えたり。踐渡《フミワタリ》は、男のふみわたり來るをいへり。
 
夜干玉之《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上四丁】にも出たり。常に野干玉《ヌバタマ》と書れば、夜と野と音通なるに依て、夜干玉とも書る也。集中いと多し。こは句をへだてゝ、夜と(60)つゞけしなり。
 
黒馬之來夜者《コマノクルヨハ》。
宣長云、黒の字は、こくの音をとれるなり。烏梅《ウメ》と書る烏の字の如し云々。この説のごとし。こは、男の馬に乘て來るをいへり。
 
年爾母有糠《トシニモアラヌカ》。
年にといふことは、上にいへるが如く、一年の間といふ意。糠と書るは、借字にて、ぬかといふ言も、上【攷證三中廿二丁】にいへるが如く、母《モ》をうけたる願ふ意にて、一首の意は、君【麻呂卿をさせり。】が駒に乘て、狹穗川のさゞれ石をふみ渡りて來る夜は、一年の間の一度もあれかしといふなり。
 
526 千鳥鳴《チドリナク》。佐保乃河瀬之《サホノカハセノ》。小浪《サヾレナミ》。止時毛《ヤムトキモ》無《ナク・ナシ》。吾戀爾《ワガコフラクニ》。
 
千鳥鳴《チドリナク》。
千鳥は、上【攷證三上卅五丁】にいへるが如く、一つの鳥の名にはあらで、いろ/\の鳥をいへり。川邊などには、晝も夜も、いろ/\の鳥の囀るものなれば、かくはつゞけたり。
 
小浪《サヾレナミ》。
字の如く、小き浪をいへる也。上【攷證二上卅八丁】に出たり。
 
吾戀爾《ワガコフラクニ》。
戀《コフ》らくのらくは、るを延たる言にて、語《カタ》るを語《カタ》らく、來《ク》るを來らく、在《ア》るを在らくなどいふ類也。さて、爾を、元暦本、また代匠記、宇麻伎本、考異本などに引る紀州本など、皆、者《ハ》に作れり。又、この歌を、六帖卷六に載て、二の句を、わがこふらくはと訓り。されば、者《ハ》とあるかた【こゝを、こふらくはとよまば、四の句を、やむ時もなしと訓べし。】まされるこゝちすれど、今の如く、爾とありても(61)きこゆれば、改る事なし。さて、一首の意は、序歌ながら、其邊りの佐保川をよみて、さて、その川のさゞれ浪の如く、止《ヤム》ときもなく吾戀るに、君がおはせる事もなしなどいふ意なるを、爾もじに意をふくませたるなり。
 
527 將來云毛《コムトイフモ》。不來時有乎《コヌトキアルヲ》。不來云乎《コジトイフヲ》。將來常者不待《コムトハマタジ》。不來云物乎《コジトイフモノヲ》。
 
來んと、たのめいひてし人さへも、來ぬ時のあるものを、まして、來じといふ人をば、來らんとは待まじ、來らじといふものをとなり。
 
528 千鳥鳴《チドリナク》。佐保乃河門乃《サホノカハトノ》。瀬乎廣彌《セヲヒロミ》。打橋渡須《ウチハシワタス》。奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》。
 
佐保乃河門乃《サホノカハトノ》。
河門は、川にて舟の出入する處をいひて、水門《ミナト》、大門《オト》、迫門《セト》、小門《ヲト》、島門《シマト》などの門と同じ。本集五【廿一丁】に、加波度爾波《カハトニハ》、阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》云々。九【十七丁】に、夏身之河門《ナツミノカハト》、雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。十【廿八丁】に、天漢門爾《アマノカハトニ》、波立勿謹《ナミタツナユメ》など見えたり。
 
打橋渡須《ウチハシワタス》。
打橋は、うつし橋の略にて、是より彼へうつす意にて、かりそめにわたせる橋なる事、上【攷證二下六丁】にいへり。
 
奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》。
奈《ナ》は汝《ナ》なり。一首の意は、佐保の川門の瀬の度(廣カ)さに、君がわたりわび給ふべければ、打橋をわたせり。これは、君がき給ふと思へばなりといふ(62)意にて、實に橋をわたすまでにはあらずとも、せちに思ふ心のほどをいへり。
 
右郎女者。佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1。被v寵無v儔而皇子薨之後時。藤原麻呂大夫娉2之郎女1焉。郎女家2於坂上里1。仍族民號曰2坂上郎女1也。
 
佐保大納言。
大伴安麻呂卿なり。集中、皆、佐保大納言といへり。
 
穗積皇子。
天武帝の皇子也。上【攷證二上卅二丁】に出たまへり。
 
皇子薨。
靈龜元年七月丙午薨。
 
娉。
娉は、つまどふと訓べき事、上【攷證三中八十八丁】にいへり。
 
坂上里。
延喜諸陵式に、春日率川坂上陵、春日率川宮御宇開化天皇、在2大和國添上郡1とある坂上は、こゝの坂上里と同處か。佐保と同郡なれば也。下【攷證四下卅三丁】にも出たり。
 
(63)又。大伴坂上郎女歌一首。
 
又といふは、前の四首は、麻呂卿の歌に和《コタ》へたる歌にて、この歌は、同人の歌ながら、別の歌なれば、又とはあげし也。こゝに、又とあるにても、前の贈答は坂上郎女にて、坂上の二字を脱せしなるをしるべし。
 
529 佐保河乃《サホガハノ》。涯之官能《キシノツカサノ》。小歴木莫刈烏《シバナカリソ》。在乍毛《アリツヽモ》。張之來者《ハルシキタラバ》。立隱金《タチカクルガネ》。
 
涯之官能《キシノツカサノ》。
玉篇に、涯水際也とあり。官《ツカサ》と書るは借字にて、つかさとは、高き處をいふ也。官司をつかさといふも、庶人より見れば、高き故にいふなり。古事記下卷一【大后】御歌に、夜麻登能許能多氣知爾古陀加流伊知能都加佐《ヤマトノコノタケチニコタカルイチノツカサ》云々。本集十【四十六丁】に、高松野山司之《タカマトノヌヤマヅカサノ》云々。十七【十一丁】に、山谷古延※[氏/一]野豆可佐爾《ヤマタニコエテヌツカサニ》云々。二十【十五丁】に、多可麻刀能宮乃須蘇未乃努都可佐爾《タカマトノミヤノスソミノヌツカサニ》云々などあるつかさも同じ。
 
小歴木莫刈烏《シバナカリソ》。
歴木は、古事記下卷、書紀景行紀などにいでゝ、みな、くぬぎとよみ、新撰字鏡に、櫪、櫟、久奴木、又、久比是と見え、和名抄木類に、本草云、擧樹【和名久沼木。】曰本紀私記云、歴木と見えたり。されば、古訓には、この小歴木を、わかくぬぎと訓るを、【六帖にも、わかくぬぎとよめり。】仙覺の、しばなかりそと改められたるよし、抄に見えたり。いかにもさる事にて、(64)わかくぬぎと訓へ(てカ)は、歌の調をなさず。さて、歴木《クヌキ》の小《チヒサ》きは、柴に刈べければ、義訓して、しばなかりそと訓べし。さて、印本、焉を鳥に誤れり。この事は、上【攷證三中八十七丁】にいへるが如く、しるき誤りなれば、今改めつ。
 
在乍毛《アリツヽモ》。
ながらへ在つゝもなり。この事、上【攷證二上三丁】にいへり。
 
張之來者《ハルシキタラバ》。
張《ハル》と書るは借字、春にて、之《シ》は助辭なり。
 
立隱金《タチカクルガネ》。
がねといふ詞は、上【攷證一上廿丁】にいへるが如く、その料にといふ詞にて、一首の意は、佐保川の岸の、こ高き處にある柴を刈事なかれ。かくてながらへありて、春の來りてしげりたらば、その陰に立かくれぬべき料にせんといふに、君と二人立かくれんといふ、戀の意をふくめたりとおぼし。さて、この歌、旋頭歌なり。
 
天皇。賜2海上《ウナカミノ》女王1。御歌一首。
 
天皇は、代匠記に、聖武帝なるよしいへり。さもあるべし。聖武天皇は、續日本紀に、天璽國押開豐櫻彦天皇、天之眞宗豐祖父天皇之皇子也。母曰2藤原夫人1、贈太政大臣不比等之女也。和銅七年六月立爲2皇太子1。神龜元年二月甲午受v禅、即2位於大極殿1と見えたり。海上女王は、次の歌の右注、并紹運録を考ふるに、志貴皇子の女とせり。續日本紀に、養老七年正月丙子、海上女王授2從四位(65)下1。神龜元年二月丙申授2從三位1と見えたり。さて、眞淵云、歌の下、製の字を落せり云々。さもあるべし。
 
530 赤駒之《アカコマノ》。越馬《コユルウマ》柵《ゼ・オリ》乃《ノ》。緘結師《シメユヒシ》。妹情者《イモガコヽロハ》。疑毛奈思《ウタガヒモナシ》。
 
越馬《コユルウマ》柵《ゼ・オリ》乃《ノ》。
馬柵は馬塞《ウマセキ》の略にて、田畠苑中に馬の入ざるやうにする垣なるべし。本集十四【卅丁】或本歌に、宇麻勢胡之《ウマゼコシ》、牟伎波武古麻能《ムギハムコマノ》云々とあり。【この歌、本歌には、久敝胡之爾とあり。くへも垣なる事、その處にいふべし。】されば、うまぜと訓べし。さて、柵は、新撰字鏡に、柵、堅木曰v柵、佐須、又、不奈太奈。和名抄墻壁類に、説文云、柵編2堅木1爲v欄也。一切經音義卷十四に、通俗文を引て、木垣曰v柵などありて、垣なれば、こゝには借て書るなり。乃《ノ》は如くの意也。さて、ませまがきなどいふも、この馬柵の類にて、みだりに野がひの馬を越ざらしむる爲のものなる事、下【攷證四下四十三丁】※[竹/巴]の條を考へ合せてしるべし。
 
緘結師《シメユヒシ》。
唐韻に、緘封也とあれば、この意もて、しめとはよめるなり。これにても、馬柵は、うまを越しめざる垣なるを知るべし。一首の意は、赤駒のこえんとする處に、馬柵を結たるが如く、わがしめゆひし妹なれば、二心あるべき疑もなしとなり。
 
右。今案。此哥擬古之作也。但以2往當便1。賜2期歌1歟。
 
(66)哥。
謌の古宇なり。略字にあらず。
 
擬古之作。
擬古、心得ず。文選の中に擬古の詩多くあれど、そは古に象《カタド》り比《ナズラフ》る詩にて、さらに、こゝに叶はず。されば、考ふるに、擬は、漢書公孫宏傳集注に、擬疑也とありて、疑と通ずれば、こゝは、擬《ウタガフ》らくはと訓んか。猶よく考ふべし。
 
往當便。
この三字も心得ず。略解に、源道別云、擬は疑の誤り、往は時の誤にて、當時と有しが轉倒したるならん。さらば、疑(ラクハ)古之作也。但以2當時便1云々とありしなるべし。卷十八、以2古人之跡1代2今日之意1。また、卷十五、當所踊2詠古歌1などいへる類也云々。この説さる事ながら、例の文字を改る説なれば、たゞこゝにあぐるのみ。この左注、すべて心得ず。
 
海上女王。奉v和歌一首【志貴皇子之女也。】
 
志貴皇子之女也の七字、印本なし。今、元暦本に依て加ふ。
 
531 梓弓《アヅサユミ》。爪引夜音之《ツマヒクヨトノ》。遠音爾毛《トホトニモ》。君之《キミガ》御幸《・ミユキ》乎《ヲ》。聞之《キカクシ・キクハシ》好毛《ヨシモ》。
 
爪引夜音之《ツマヒクヨトノ》。
本集十九【廿八丁】に、梓弧爪夜音之遠爾毛《アヅサユミツマヒクヨトノトホトニモ》、聞者悲彌《キケバカナシミ》云々ともありて、こは、代匠記に、隨身ノ夜ノ陣ニテ弦打スル音ナリ云々といはれつるが如し。こは、(67)遠音《トホト》といはんとてのての序なり。
 
遠音爾毛《トホトニモ》。
本集十九【廿八丁】に、遠音毛君之痛念跡聞都禮婆《トホトニモキミガナゲクトキヽツレバ》云々ともありて、遠き音にもといふ也。
 
君之《キミガ》御幸《・ミユキ》乎《ヲ》。
略解に、幸は事の誤りならん。御事《ミコト》と訓べし。事は借字にて、御言なり云々といはれしが如く、みゆきとしては、いかにも心得がたし。ことに、字體も近ければ、必ず事の誤りなるべけれど、さる本も見ざれば、改る事なし。されど、一首の意は、御言としてとけり。こは、前の御製を人傳などに聞てよめるなるべし。
 
聞之《キカクシ・キクハシ》好毛《ヨシモ》。
かくの反、くなれば、かくは、くを延たる言にて、本葉十【四十八丁】に、清瀬音乎聞師吉毛《キヨキセノトヲキカクシヨシモ》。十三【七丁】に、行靡闕矣《ユキナビカフヲ》云々。十四【廿四丁】に、之牙可久爾《シケカクニ》云々。また【廿九丁】由可久之要思毛《ユカクシエシモ》云々。十七【四十三丁】に、奈氣可久乎《ナケカクヲ》云々などある、かくといふ言と同じ。さて、一首の意はこの歌序歌にて、まへの御製を人傳などに聞て、たとへ遠くにても、君が御言を聞はよろしく思はるといふにて、毛は助辭なり。
 
大伴宿奈麻呂宿禰歌二首。
 
宿奈麻呂は、安麻呂卿の三子なり。上【攷證二上四十八丁】に出たり。上には姓を先にしるして、名を後にしるし、こゝには、名を先に、姓を後にしるしたれど、集中、かくざまに、首尾あはざる事いと多か(68)り。さて、名を先に、姓を後にするは、このぬし、四位なれば也。そは、公式令に、四位先v名後v姓と見えたり。
 
532 打日指《ウチヒサス》。宮爾行兒乎《ミヤニユクコヲ》。眞悲見《マガナシミ》。留者苦《トムレバクルシ》。聽去者爲便無《ヤレバスベナシ》。
 
打日指《ウチヒサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三下四十五丁】にも出たり。
 
宮爾行兒乎《ミヤニユクコヲ》。
兒は、上【攷證二中八丁】にいへるが如く、女を親しみ稱していふ言にて、宮爾行《ミヤニユク》とは、宮仕へしにゆく也。そは、十四【十九丁】に、宇知日佐須美夜能和我世波《ウチビサスミヤノワガセハ》、夜麻登女乃《ヤマトメノ》、比射麻久其登爾《ヒサマグゴトニ》、安乎和須良須奈《アヲワスラスナ》とあるも、宮仕へするを、みやのわがせといひ、十六【八丁】に、打氷刺宮尾見名《ウチヒサスミヤヲミナ》、刺竹之舍人壯裳《サスタケノトネリヲトコモ》云々とあるも、宮仕へをみなといふなるをもおもふべし。
 
眞悲見《マガナシミ》。
眞は誠の惠なる事、上【攷證二中五十七丁】に、眞浦悲毛《マウラカナシモ》とある處にいへるがごとし。さて、十四【六丁】に、麻可奈思美佐禰爾和波由久《マガナシミサネニワハユク》云々。また【卅四丁】於伎※[氏/一]伊可婆伊毛婆麻可奈之《オキテイカバイモハマカナシ》云々などありて、集中猶多し。さて、この悲《カナシ》といふ言は、すべて三つあり。實に悲しめると、愛する意なると、あはれぶ意なると也。されど、いづれも語の本は一つにて、こゝは悲歎する事をもとにて、そを轉じて、深く愛する意にいへり。こゝなる眞悲見《マカナシミ》もこれにて、女を愛していふ言なり。そは、まへに引る十四の卷なるにても思ふべし。集中猶いと多し。見は、さにの意也。
 
聽去者爲便無《ヤレバスベナシ》。
聽去を、やると訓るは、義訓也。一首の意は、宮仕へしにとて出ゆく妹が、飽ずなつかしさに、その出ゆくをとゞめおかば、人ぎゝ心ぐるしく、さら(69)ばとて、出しやれば、せんすべなく、なつかしとなり。
 
533 難波方《ナニハガタ》。鹽干之名凝《シホヒノナゴリ》。飽左右二《アクマデニ》。人之見兒乎《ヒトノミルコヲ》。吾四乏毛《ワレシトモシモ》。
 
難波方《ナニハガタ》。
難波潟なり。上【攷證二下七十二丁】に出たり。
 
鹽干之名凝《シホヒノナゴリ》。
なごりといふ言は、六【廿六丁】に、難波方潮干乃奈凝委曲見《ナニハガタシホヒノナゴリマクハシミ》云々。七【十三丁】に、奈呉乃海之朝開之奈凝《ナコノウミノアサケノナゴリ》 、今日毛鴨《ケフモカモ》、磯之浦囘爾亂而將有《イソノウラマニミダレテアラム》。十一【廿一丁】に、多去者公來座跡待夜之《ユフサレバキミキマサムトマチシヨノ》、名凝衣今宿不勝爲《ナゴリゾイマモイネガテニスル》などもありて、今もいふなごりをしきなどいふ處と同じく、餘興ある事をいへり。催馬樂紀伊州歌に、加世之毛不伊太禮婆《カゼシモフイタレバ》、名己利之毛太天禮婆《ナゴリシモタテレバ》云々とあるは、餘浪をなごりといひて、もとは一つ語也。されば、文選、海賦、江賦などの古訓にも、皆、餘波をなごりと訓り。さて、この一二の句は、飽までにといはん序にて、かの塩干のなごりは、そのけしきのおもしろさに、人の飽まで見まくほしみするものなれば、つゞけしなり。
 
人之見兒乎《ヒトノミルコヲ》。
人はあく見て《(マヽ)》る妹をといふにて、一首の意は、見る事もまれなる女に思ひをかけて、人はあくまでも見つべきを、たゞ、われのみ見る事の少く、ともしきよしにて、吾四乏毛《ワレシトモシモ》の四《シ》も毛《モ》も助辭なり。
 
(70)安貴王謌一首。并短歌。
 
安貴王は春日王の子なり。上【攷證三上七十丁】に出たり。
 
534 遠嬬《トホヅマノ》。此間不在者《コヽニアラネバ》。玉桙之《タマボコノ》。道乎多遠見《ミチヲタトホミ》。思空《オモフソラ》。安莫國《ヤスカラナクニ》。嘆虚《ナゲクソラ》。不安物乎《ヤスカラヌモノヲ》。水空往《ミソラユク》。雲爾毛欲成《クモニモガモナ》。高飛《タカトブ》。鳥爾毛欲成《トリニモガモナ》。明日去而《アスユキテ》。於妹言問《イモニコトトヒ》。爲吾《ワガタメニ》。妹毛事無《イモモコトナク》。爲妹《イモガタメ》。吾毛事無久《ワレモコトナク》。今裳見如《イマモミルゴト》。副而毛欲得《タグヒテモガモ》。
 
遠嬬《トホヅマノ》。
 
遠嬬は、所を遠くへだてたるつまをいふ。七【廿八丁】に、朝月日向山月立所見《アサツクヒムカヒノヤマニツキタテルミユ》、遠妻持在人看乍偲《トホヅマヲモタラムヒトヤミツヽシヌバム》。八【卅三丁】に、吾遠嬬之事曾不通《ワガトホヅマノコトゾカヨハヌ》などありて、集中猶多し。この歌の左注によるに、こは八上釆女をさせり。
 
ミ道乎多遠見《ミチヲタトホミ》。
多《タ》は發語にて、たゞ道の遠さにといふ也。本集十七【廿丁】に、多麻保許能道乎多騰保美《タマボコノミチヲタトホミ》、山河能弊奈里底安禮婆《ヤマカハノヘナリテアレバ》云々などあり。
 
思空安莫國《オモフソラヤスカラナクニ》。
八【卅二丁】に、意空不安久爾《オモフソラヤスカラナクニ》、嘆空不安久爾《ナゲクソラヤスカラナクニ》云々。九【卅一丁】に、吾念情安虚歟毛《ワガオモフコヽロヤスキソラカモ》。十三【十五丁】意空不安物乎《オモフソラヤスカラヌモノヲ》、嗟空過之不得物乎《ナゲクソラスグシエヌモノヲ》云々などありて、集中猶多く、こ(71)は、今の世にもいふ、何々のそらなしなどいふそらにて、古今集戀二【躬恒】あき霧のはるゝ時なき心には、たちゐのそらもおもほえなくに。濱松中納言物語に、そらおそろし云々。源氏物語御幸卷に、こゝろのそらなくものし給ひて云々などあるそらも同じ。
 
水空往《ミソラユク》。
水《ミ》は借字、眞にて、例の添たる詞なり。
 
雲爾毛欲成《クモニモガモナ》。
欲成を、がもなとよめるは義訓也。こは、がもといふ願ふ意の詞に、なもじを添たる也。十四【廿七丁】に、美蘇良由久君母爾毛我母奈《ミソラユククモニモガモナ》、家布由伎※[氏/一]《ケフユキテ》、伊母爾許等杼比《イモニコトトヒ》、安須可敝里許武《アスカヘリコム》とも見えたり。
 
高飛《タカトブ》。
高は、上【攷證一下十九丁】にいへるが如く、天《ソラ》をいひて、鳥は天を飛もの故に、そらをとぶ鳥にもあれかしといふ也。
 
明日去而《アスユキテ》。
たしかに明日といふにはあらず。近き程の事を明日とはいふに、俗に、じ《(マヽ)》きにゆきて來んなどいふが如し。【昨日といふも、たしかに昨日の事ならで、過しほどの近きをいふが如し。】本集此卷【五十八丁】に、板盖之ケフユキテアスハ
黒木乃屋根者山近之《イタブキノクロキノヤネハヤマチカシ》、明日取而《アスシモトリテ》、持將參來《モチマヰリコム》。五【廿四丁】に、家布由伎弖《ケフユキテ》、阿須波吉奈武遠《アスハキナムヲ》云々。九【十八丁】に、如明日《アスノゴト》、吾來南登《ワレハキナムト》云々などありて、集中猶多し。
 
於妹言問《イモニコトトヒ》。
言問とは、上【攷證二中四十六丁】にいへるが如く、ものいふことにて、こゝは、いもにものいひ、かたらひてといふ也。
 
(72)妹毛事無《イモモコトナク》。
事無は、さはる事なき也。此卷【廿五丁】に、事毛無生來之物乎《コトモナクアレコシモノヲ》云々。五【卅七丁】に、事母無裳無母阿良牟遠《コトモナクモナクモアラムヲ》云々。十一【卅九丁】に、有管雖看《アリツヽミレド》、事無吾妹《コトナキワギモ》。十九【卅九丁】に、手拱而事無御代等《タムダキテコトナキミヨト》等云々などあるにてしるべし。上【此卷攷證十六丁】ことしあらばとある處、考へ合すべし。さて、印本、事々と二つ重ねたれど、一つは衍字なる事明らかなれば、はぶけり。略解に、吾毛事無久《ワレモコトナク》の下、五言一句落たるか。但、この體も集中に多ければ、もとよりかくありしか云々といへり。されど、五言一句なしとても、よく聞えたり。
 
今裳《イマモ》見《ミシ・ミル》如《ゴト》。
宣長云、京に在し時見し如く、今もといふ意也云々。この説のごとし。
 
副而毛欲得《タグヒテモガモ》。
副而《タグヒテ》といふは、そひ居てといふ意也。そは、此卷【十八丁】に、於君副而此日分晩《キミニタグヒテコノヒクラサム》。また【五十丁】携行而副而將座《タツサヒユキテタグヒテヲラム》。八【卅二丁】に、鴈爾副而去益物乎《カリニタグヒテユカマシモノヲ》。十五【十一丁】可母須良母《カモスラモ》、都麻等多具比弖《ツマトタグヒテ》云々などありて、集中猶多し。皆、そひてといふ意也。
 
反歌。
 
535 敷細乃《シキタヘノ》。手枕不纏《タマクラマカズ》。間置而《ヘダテオキテ》。年曾經來《トシゾヘニケル》。不相念者《アハヌオモヘバ》。
 
手枕不纏《タマクラマカズ》。
妹が手を枕とせずして也。この事、上【攷證二下五十八丁】に出たり。
 
(73)間置而《ヘダテオキテ》。
略解には、あひだおきとよめり。間は、集中、へだつとも、あひだとも、多くよめる字なれど、一首の上にて考ふれば、舊訓のまゝ、へだておきてと訓べきなり。かの女は、長歌に、遠嬬とさへよまるゝ如く、遠き國の釆女なれば、必らず、へだておきてと訓べし。こは、女を遠境にへだておきてといふ意也。一首の意は、妹が手まくらをまかず、遠き境にへだておきて、あはざるほどを思へば、いつしか年もへにけり(と脱カ)なり。
 
右安貴王。娶2因幡八上釆女1。係念桓甚。愛情尤盛。於v時勅2斷不敬之罪1。退2却本郷1焉。于v是王意悼怛。聊作2此歌1也。
 
因幡八上釆女。
和名抄郡名に、因幡國八上【夜加美】とあり、この郡より貢りし釆女なるべし。釆女の事は、上【攷證二上十二丁】にいへり。
 
不敬之罪。
不敬は、釆女へかゝるべし。安貴王は、三世の王にさへおはせば、賤しき女を娶るべきにあらず。されば、罪、王には及ばずして、釆女のみへかゝりて、本郷へかへされしなるべし。(頭書、書紀、允恭天皇四十二年紀に、新羅人、釆女を犯よし聞えて、禁固せられし事あり。)
 
悼怛。
玉篇に、悼傷也、怛悲也とあれば、いたみかなしむ意也。
 
(74)門部王。戀歌一首。
 
門部王は、河内王の男なり。上【攷證三上七十四丁】に出たり。さて、こゝに至りて、はじめて戀歌あり。
 
536 飫宇能海之《オウノウミノ》。塩干乃滷之《シホヒノカタノ》。片念爾《カタオモヒニ》。思哉將去《オモヒヤユカム》。道之永手呼《ミチノナガテヲ》。
 
飫宇能海之《オウノウミノ》。
出雲國意宇郡の海なり。上【攷證三上七十四丁】同王の歌に出たり。
 
道之永手呼《ミチノナガテヲ》。
此卷【五十八丁】に、吾乎還莫《ワレヲカヘスナ》、路三長手呼《ミチノナガテヲ》。五【廿六丁】に、國遠伎路乃長手遠《クニトホキミチノナガテヲ》云々。十五【卅丁】に、君我由久道乃奈我※[氏/一]乎《キミガユクミチノナガテヲ》云々などありて、集中猶多し。手《テ》と道《チ》と通ずれば、長道《ナガヂ》といふと同じかるべし。今の世に、直なる道を繩手といへり。この手も同じかるべし。さて、一首の意は、王、出雲國より京へかへらるゝ時などの歌にて、片念爾といはんとて、一二の句は序におきて、妹は吾をわすれはてたるべけれど、われは片念にて、遠き道をも、妹を思ひつゝゆかんとなり。
 
右門部王。任2出雲守1時。娶2部内娘子1也。未v有2幾時1。既絶2往來1。累月之後。更起2愛心1。仍作2此歌1。贈2致娘子1。
 
(75)門部王、出雲守に任ぜられし事、紀に見えざれど、三【卅六丁】に、出雲守門部王と見えたれば、紀に漏されたりしなるべし。部内娘子とは、わが司どる國の中の娘子といふ也。戸令に、太宰部内云々。晋書慕容※[皇+光]載記に、※[まだれ/鬼]卒嗣位以2平北將軍行平州刺史1督2攝部内1云々と見えたり。
 
高田女王。贈2今城王1歌六首。
 
高田女王は、紹運録を考るに、天武帝より五世の王にで、高安王の女とせり。本集八【十八丁】右注にも、高安王之女也とあり。さて、この女王、紀に見えず。續日本紀に、天平神護元年正月己亥、無位高向女王授2從五位下1とある、向は田の誤りにて、もしこの女王にはあらざる歟。今城王は上【此卷十八丁】大伴女郎【この下に大伴郎女とあるに、大伴坂上郎女の坂上を脱せるにて思へば、これも大伴坂上の郎女なるべし。そは、この左注に、右郎女者、佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1とあり。されば、穗積皇子に嫁して今城王を生るか。さらば、今城王は穗積皇于の男なり。】の古注に、今城王之母也。今城王後賜2十原眞人氏1也とあるによれば、大原眞人今城と同人か。大原眞人今城は、續日本紀に、天平寶字二年五月丁卯、授2正六位上大原眞人今木【また今城ともかけり。】從五位下1。同年六月壬辰爲2治部少輔1。同七年正月壬子爲2左少辨1。同年四月丁亥爲2上野守1。同八年正月乙巳授2從五位上1。寶龜二年七月丁未爲2兵部少輔1。同三年九月庚子爲2駿河守1と見えたり。
 
537 事清《コトキヨク》。甚毛莫言《イトモナイヒソ・イタクモイハジ》。一日太爾《ヒトヒダニ》。君伊之《キミイシ》哭者《・ナケバ》。痛寸取物《・イタキヽスソモ》。
 
(76)この歌、四五の句、誤字ありとおぼしく、解しがたし。舊訓のごとくにては、文字のあたらず、意も聞えがたし。猶よく考《(マヽ)》。事清《コトキヨク》は言《コト》清くなるべし。君伊之《キミイシ》の伊は、きみのみの字の引聲にて、意なく、たゞそへたる言也。この事は、上【攷證三上五丁】にいへり。
 
538 他辭乎《ヒトコトヲ》。繁言痛《シゲミコチタミ》。不相有寸《アハザリキ》。心在如《コヽロアルゴト》。莫思《ナオモヒ・オモフナ》吾背子《ワガセ》。
 
繁言痛《シゲミコチタミ》。
人のいひさわぐ言のしげさに、こちたさにの意也。この事、上【攷證二上卅五丁】にいへり。
 
心在如《コヽロアルゴト》。
こゝろに子細のあるごとく思ふなとなり。
 
莫思《ナオモヒ・オモフナ》吾背子《ワガセ》。
なおもひわがせと訓。なお(も脱カ)ひそといふ、そもじを略ける也。この事は、上【攷證三上四十三丁】にいへり。一首の意は、人のいひさわぐ言のはの繁きによりて、このごろは、久しく君にあはざりき。わが心に子細あることゝおもほす事なかれとなり。
 
539 吾背子師《ワガセコシ》。遂當云者《トゲムトイハバ》。人事者《ヒトゴトハ》。繁有登毛《シゲクアリトモ》。出而相麻志呼《イデテアハマシヲ》。
 
吾背子師《ワガセコシ》。
師は助辭なり。
 
(77)人事者《ヒトゴトハ》。
事は借字にて、言なり。一首の意は、まへの歌に、人のいひさわぐ言の繁きによりてあはずといふは、もと君が心を見定めざる故也。君もし末かけて、相|遂《トゲ》んと思ふ心あらば、何しに人目をもいとふべき。よしや、人言はしげく、いひさわぐとも、出てあひなんをと也。
 
540 吾背子爾《ワガセコニ》。復者不相香常《マタハアハジカト》。思墓《オモヘバカ》。今朝別之《ケサノワカレノ》。爲便無有都流《スベナカリツル》。
 
思墓《オモヘバカ》。
印本、墓を基に作りながら、訓は、はかとよめり。されば、誤りなる事明らかなるに依て、墓に改む。
 
爲便無有都流《スベナカリツル》。
せんすべなきなり。一首の意は、くまなし。
 
541 現世爾波《コノヨニハ》。人事《ヒトゴト》繁《シゲシ・シゲミ》。來生爾毛《コムヨニモ》。將相吾背子《アハムワガセコ》。今不有十方《イマナラズトモ》。
 
三【卅二丁】に、今代爾之樂有者《コノヨニシタヌシクアラバ》、來生者《コムヨニハ》、蟲爾鳥爾毛《ムシニトリニモ》、吾羽成奈武《ワレハナリナム》とあるも、現世、後世をかけていへり。一首の意は、くまなし。
 
542 常不止《ツネヤマズ・トコトハニ》。通之君我《カヨヒシキミガ》。使不來《ツカヒコズ》。今者不相跡《イマハアハジト》。絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》。
 
たゆたふは、ためらふ意にて、一首の意は、常に、たえず往來せし今(君カ)が使の、このごろ見えた(ざカ)るは、君が心かはりて、今はあはじとて、ためらひおはすにやとなり。
 
(78)神龜元年甲子冬十月。幸2紀伊國1之時。爲v贈2從駕人1。所v誂《アツラヘラレテ》2娘子1。笠朝臣金村。作歌一首。并短歌。
 
この行幸の事、續日本紀にも見えて、十月辛卯とあり。所誂《アツラヘラレテ》は、あつらへられてと訓べし。書紀、垂仁天皇四年紀に、誂を、古訓に、あとらへと訓て、古事記【傳廿四廿七】續日本紀、宣命などにある誂の字を、宣長も、あとらへと訓れしかども、たしかに、あとらへと訓べき證なし。されば、古今集春下に、吹風にあつらへつくるものならば云々。貫之集に、あつらへてわするなと思ふ心あらば云々など、たしかに、あつらへとあれば、この集より見れば、後の書ながら、これにつきて、あつらへと訓べし。【但し、新撰字鏡に、詫、阿止戸とあれど、誂とは、更に別の字なり。】さて、説文に、誂、相呼誘也とありて、今の世にいふ處と同じ。
 
543 天皇之《スメロギノ》。行幸乃隨意《イデマシノマニ・ミユキノマヽニ》。物部乃《モノヽフノ》。八十件雄與《ヤソトモノヲト》。出去之《イデユキシ》。愛夫者《ウツクシツマハ》。天翔哉《アマトブヤ》。輕路從《カルノミチヨリ》。玉田次《タマダスキ》。畝火乎見管《ウネビヲミツヽ》。麻裳吉《アサモヨシ》。木道爾入立《キヂニイリタチ》。眞土山《マツチヤマ》。越良武公者《コユラムキミハ》。黄葉乃《モミチバノ》。散飛見乍《チリトブミツヽ》。親《ムツマシキ》。吾《ワヲ・ワレ》者不念《バオモハズ》。草枕《クサマクラ》。客乎《タビヲ》便宜《ヨロシ・タヨリ》常《ト》。思乍《オモヒツヽ》。公(79)將有跡《キミハアラムト》。安蘇蘇二破《アソヽニハ》。且者雖知《カツハシレドモ》。之加須我仁《シカスガニ》。黙然得不在者《モダエアラネバ》。吾背子之《ワガセコガ》。往乃萬萬《ユキノマニマニ》。將追跡者《オハムトハ》。千遍雖念《チタビオモヘド》。手嫋女《タワヤメノ》。吾身之有者《ワガミニシアレバ》。道守之《ミチモリノ》。將問答乎《トハムコタヘヲ》。言將遣《イヒヤラム》。爲便乎不知跡《スベヲシラニト》。立而爪衝《タチテツマヅク》。
 
行幸乃隨意《イデマシノマニ・ミユキノマヽニ》。
行幸は、いでましと訓べき事、上【攷證一上十丁】にいへり。隨意は、まにと訓べし。續日本紀、天平寶字八年九月詔に、己可欲末仁行止念天《オノガホシキマニオコナハムトオモヒテ》云々とありて、本集六【卅九丁】に、天皇之行幸之隨《スメロギノイデマシノマニ》、吾妹子之手枕不卷月曾歴去家留《ワギモコガタマクラマカズツキゾヘニケル》ともあり。こは、まに/\とも、まにまともいふを、略きて、たゞ、まにとのみいふにて、意は、まに/\にいふとおなじ。
 
物部乃《モノヽフノ》。
枕詞にて、上【攷證一下廿八丁三下六十一丁】に出たり。
 
八十件雄與《ヤソトモノヲト》。
八十は數の多きいひ、伴は黨《トモガラ》の意、雄は長《ヲサ》の意なる事、上【攷證三下六十八丁】にいへるがごとし。與《ト》もじは共《トモ》にの意にて、一【二十六丁】に、弟日娘與見禮常不飽香聞《オトヒヲトメトミレドアカヌカモ》。三【廿六丁】に天地與長久萬代爾《アメツチトナガクヒサシクヨロヅヨニ》云々などある、與《ト》もじとおなじ。
 
愛《ウルハシ・ウツクシ》夫者《ツマハ》。
この愛の字は、下【攷證四中四十五丁】にいへるが如く、うるはしと訓んか、うつくしと訓んか、定めがたけれど、この愛夫は、うるはしつまと訓べし。そは、古事記中卷【仁徳天皇】御歌(80)に、阿賀波斯豆摩邇《アガハシツマニ》云々とありて、本集二【四十二丁】に愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。此卷【四十一丁】に、愛妻之兒《ハシキツマノコ》。二十【卅三丁】に、波之伎多我都麻《ハシキタガツマ》などあるも、みな、うるはしき妻といふを略きいへるなれば也。また、唯、はしきといふも、はしきよし、はしけやしなどいふも、みな、うるはしきを略きいへる也。猶、この下、愛妻とある三處【十三十五丁、廿三丁、十九卅四丁】あるも、みな、うるはしつまと訓べし。
 
天翔哉《アマトブヤ》。
枕詞、冠辭考にくはし。上【攷證二下四十丁】に出たり。
 
輕路從《カルノミチヨリ》。
大和國高市郡なり。上【攷證二下四十丁】に出たり。
 
玉田次《タマダスキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。襷を纏《ウナゲル》とつゞけしなり。
 
畝火乎見管《ウネビヲミツヽ》。
これも高市郡にて、上【攷證一上廿四丁】に出たり。
 
麻裳吉《アサモヨシ》。
枕詞なり。上【攷證一下四十一丁】に出たり。
 
木道爾入立《キヂニイリタチ》。
木道は紀伊國へゆく道なり。道《ヂ》といふは、必らずその國の中のみに限らず、いづくにもまれ、それにゆく道をいへり。そは、此卷【廿四丁】に、山跡道之島乃浦廻爾《ヤマトヂノシマノウラマニ》云々とよめる島の浦、筑前なれど、筑紫より京に上る道なれば、大和道といへるにてしるべし。また、六【二十四丁】に、日本道乃吉備乃兒島乎《ヤマトヂノキビノコジマヲ》云々ともあり。入立《イリタチ》のたちは、旅に出發《イデタツ》などいふた(81)つと同じく、その始《ハジメ》をいふ言なり。御獵立之《ミカリタヽシ》といふも、御獵に立出|初《ソム》るをいひ、月立《ツキタツ》といふも、月のはじめて出來るをいふ言なるを思ひ合すべし。
 
眞土山《マツチヤマ》。
新古今雜上に、能宣朝臣、大和國まつち山ちかくすみ侍りける女のもとに、夜ふけてまかりて、あはざりけるをうらみ侍りければ【よみ人しらず。】たのめこし人をまつちの山のはに、さよふけしかば、月も入にきとありて、大和志に、宇智郡眞土山在2上野村1とあれば、大和國と紀伊國との堺にありて、大和國につけるなるべし。されば、古説に、或は紀伊國ともいへるならん。宣長が玉勝間に、まつち山は大和國の堺にて、紀伊國伊都郡也といはれしは心得ず。
 
越良武公者《コユラムキミハ》。
九【九丁】に、朝裳吉《アサモヨシ》、木方従君我《キヘユクキミガ》、信土山《マツチヤマ》、越濫今日曾《コユラムケフゾ》、兩莫零根《アメナフリソネ》。
 
散飛見乍《チリトブミツヽ》。
もみぢ葉の、風にちりとぶを見つゝといふにて、こは、けしきの、あかず、おもしろきをいへり。
 
親《ムツマジキ》。吾《ワヲ・ワレ》者不念《ヲバオモハズ》。
こは、經へ《(マヽ)》ゆく道のけしきのおもしろきに、こゝろうつりて、日ごろむつまじかりし吾をおもはじといふ也。
 
客乎《タビヲ》便宜《ヨロシ・タヨリ》常《ト》。
便宜は、よろしと訓べし。【略解同説。】しかよまでは、聞えがたし。客のけしきのおもしろさに、日ごろむつまじかりしわれをば、うちわすれて、客をのみよろしきものなりと思ひて、君はあるらんとなり。
 
(82)安蘇蘇二破《アソヽニハ》。
こゝより外、物に見えざる詞なれば、語意たしかにはしりがたけれど、眞淵の説に、あさあさなるべしといへり。さと、そとは、近き音なれば、いかにも、あさ/\にはといふ意なるべし。あさ/\の下のあを略ける也。そは、仙覺抄に、和語のならひ、重點をいふには、後には上の字を略す也。たとへば、きら/\といふを、きらゝといひ、はらはらといふを、はらゝといひ、とを/\といふを、とをゝなどいふ類也云々といはれつるが如く、こゝの意は、君が心を、うす/\には、かつはしれどもといふ也。
 
之加須我仁《シカスガニ》。
しかの反さなれば、しかすがには、さすがにといふ言也。集中いと多く、あぐるにいとまなし。
 
黙然得不在者《モダエアラネバ》。
黙然をよめるは義訓也。このもだといふ言は、上【攷證三中廿三丁】にいへるが如く、無用《イタヅラ》なる意にて、君が心をうすうすはしれども、さすがに、いたづらにして在えねば、君が行給はん道のまゝに、追ゆかんとは、千たび、もゝたびおもへどもといふ也。
 
往乃萬萬《ユキノマニマニ》。
從乃《ユキノ》の乃《ノ》もじは、用語よりうけて、かろく添たる字なり。この事は、上【攷證三中八十五丁】にいへり。まにまに、俗|字《(マヽ)》に、ままにといふ意也。この事、上【攷證二上十六丁】にいへり。さて、萬を、まにの假字に用ひたるは、干、旱、漢などの字を、かにの假字に用ひ、君をくに、散をさに、難をなに、など用ひたる類にて、んをにに轉じたるなり。
 
手嫋女《タワヤメノ・タヲヤメノ》。
上【攷證三中五十九丁】に出たり。こは、君が行給はん道のまゝに、追ゆかんとは、千たび百たびおもへども、女の身にしあれば、道守が、いづこへゆくぞと問ん時に、こたへんす(83)べもしらざれは、たゞ立さまよひてある(れカ)ば、爪づきなどせらるとなり。
 
道守之《ミチモリノ》。
こは、公より、たしかに守衛の人をさして、道路の往還を改るにはあらで、たゞ京中その處々に守る人あるをいふべし。今の世にても、女などの、あわたゞしく、人のあとなど追ゆかんをば、とがむ|へ《(本ノマ、)》也。書紀、神代紀上一書に、泉守道者《ヨモツチモリ》白云云々とあるも、道を守る人なるべし。又、氏に道守臣といふがあるも、道を守りしより出たる氏か。また、延喜京職式に、宮城邊、量v便立v鋪、兵士二十人、爲v審守衛云々とあるも、大路を守る人々とは見ゆれど、かくまで、こと/”\しき事にはあるべからず。
 
爲便乎《スベヲ》不知《シラニ・シラズ》跡《ト》。
跡は助詞なり。二【四十二丁】に、不知等妹之待乍將有《シラニトイモガマチツヽアラム》とある、ともじと同じ。この助詞の、ともじの事は、上【攷證三上此卷三丁】にいへり。
 
立而爪衝《タチテツマヅク》。
爪衝は、心も心ならざる意もてといふ事、上【攷證三中四十二丁】にいへるが如し。十三
 
【十六丁】に、馬自物立而爪衝《ウマジモノタチテツマヅキ》、爲須部乃田付乎白粉《セムスベノタヅキヲシラニ》云々なども見えたり。
 
反歌。
 
544 後居而《オクレヰテ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。木國乃《キノクニノ》。妹背乃山爾《イモセノヤマニ》。有益物乎《アラマシモノヲ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。
戀つゝあらんよりはの意なり。この事、上【攷證二上三丁】にいへり。
 
(84)妹背乃山爾《イモセノヤマニ》。
背山は、紀伊國伊都郡にて、書紀にも見えたる事、上【攷證一下四丁】にいへるが如し。又、妹背山、妹の山、背の山などよみたる歌も、集中に、これかれ見ゆれど、背の山といふ名あるにむかへて、妹の山とも、妹背山ともいひて、歌の對をなして、詞のあやとしたるのみにて、實に、妹山といふが、たしかにあるにはあらざる事、宣長が玉勝間卷九にくはしくいはれたるが如し。
 
一首の意、明らか也。
 
545 吾背子之《ワガセコガ》。跡履求《アトフミモトメ》。追去者《オヒユカバ》。木乃關守伊《キノセキモリイ》。將留鴨《トヾメテムカモ・トヾメナムカモ》。
 
木乃關、所をしらず。關守は、軍防令に、凡置v關應2守固1者、竝置2配兵士1、分2番上下1云々とありて、この關を守る者をいふ。關守伊《セキモリイ》の伊は、與とかよひて、呼かくる意也。この事は、上【攷證三上五丁】にいへり。さて、一首の意は、明らけし。
 
二年乙丑春三月。幸2三香原離宮1之時。得2娘子1。笠朝臣金村。作歌一首。并短歌。
 
この行幸、續日本紀に見えずて、神龜四年五月乙亥、幸2甕原離宮1とあり。是を誤れるか。されど、千支をさへ、たしかに記したれば、紀にもらされたるにもあるべし。三香原離宮は、山城志に、(85)甕原宮、相樂郡瓶原郷岡崎井平尾二村間、又、布當宮謂之離宮1。和銅六年六月幸2于瓶原離宮1とあり。得2娘子1は、娘子に通ずる事を得たる也。本集二【十一丁】に、吾者毛也《ワレハモヤ》、安見兒得有《ヤスミコエタリ》云々とある得なり。笠朝臣金村は、父祖、官位、考へがたし。上【攷證二下六十七丁】に出たり。さて、印本、笠朝臣金村の六字を別行したり。誤りなる事、明らかなれば、目録によりて、作歌の上に加ふ。
 
546 三香之原《ミカノハラ》。客之屋取爾《タビノヤドリニ》。珠桙乃《タマボコノ》。道能去相爾《ミチノユキアヒニ》。天雲之《アマグモノ》。外耳見管《ヨソノミミツヽ》。言將問《コトトハム》。縁乃無者《ヨシノナケレバ》。情耳《ココロノミ》。咽乍有爾《ムセツヽアルニ》。天地《アメツチノ》。神祇辭因而《カミコトヨセテ》。敷細乃《シキタヘノ》。衣手易而《コロモデカヘテ》。自《オノ・ワガ》妻跡《ヅマト》。憑有今夜《タノメルコヨヒ》。秋夜之《アキノヨノ》。百夜乃長《モヽヨノナガサ》。有與宿鴨《アリコセヌカモ》。
 
道能去相爾《ミチノユキアヒニ》。
道に行合しなり、十二【十二丁】に、玉桙之道爾行相而《タマボコノミチニユキアヒテ》、外目耳毛《ヨソメニモ》、見者吉子乎《ミレバヨキコヲ》、何時鹿將待《イツトカマタム》。
 
天雲之《アマグモノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。之(ノ)は、如くの意にて、雲は、よそにのみ見るもの故に、雲のごとく、よそにのみ見つゝとつゞけし也。
 
外耳見管《ヨソノミミツヽ》。
よそにのみと、にもじを加へて聞意也。この事、上【攷證三中六十六丁】にいへり。
 
言將問《コトトハム》。
上【攷證二中四十六丁】にいへるが如く、ことゝふとは、物いふことにて、こゝは、ものいはんよしのなければといふ也。
 
(86)情耳《ココロノミ》。
これも、こゝろにのみと、にもじを加へて、きくべし。すべて、耳といふには、上ににもじを加へて聞え《(マヽ)》なるが多き也。
 
咽乍有爾《ムセツヽアルニ》。
悲しみむせぶ也。上【攷證三下卅九丁】に出たり。
 
神祇(・ニ)辭因而《カミコトヨセテ》。
十八【廿六丁】に、天地能可美許等余勢天《アメツチノカミコトヨセテ》、春花能佐可里裳安良多之家牟等《ハルハナノサカリモアラタシケムト》云々ともありて、神の言をよせさせ給ひてといふ意なれば、俗言にいはゞ、神の引合せにてといふ意也。
 
衣手易而《コロモデカヘテ》。
衣手は、上【攷證一下廿七丁】にいへるが如く、袖のことにて、易而《カヘテ》は、かはしてといふなり。この事も、上【攷證二下四丁】にいへり。さて、こゝは、男女たがひに袖をさしかはして寢るをいへり。
 
自《オノ・ワガ》妻跡《ヅマト》。
己《オノ》が妻とゝいふ也。九【一七丁】に、己妻離而《オノヅマカレテ》、不乞爾《コハナクニ》、鎰左倍奉《カキサヘマダシ》云々。十四【卅五丁】に、於能豆麻乎比登乃左刀爾於吉《オノヅマヲヒトノサトニオキ》云々などありて、集中猶多し。
 
憑有今夜《タノメルコヨヒ》。
己がつまぞと、たのもしく思ふ今夜といふ。たのめといふ事は、上【攷證二下四十七丁】にいへり。
 
秋夜之《アキノヨノ》。百夜乃長《モヽヨノナガサ》。
集中にも、其外にも、皆、秋の夜は永きよしにいひならひて、その長き秋の夜を、百夜ばかりよせたるほどの長さにあれかしといふに(87)て、わくらはに、女にあひたる夜なれば、いたく長からん事をおもふ也。伊勢物語に、秋の夜の千よを一夜になずらへて、八千夜しねばや、あく時のあらん。
 
有與宿鴨《アリコセヌカモ》。
こせといふも願ふ詞、ぬかといふも願ふ詞にて、ありこせぬかもは、あれかしといふ意なる事、上【攷證二上卅八丁】にいへるが如し。さて、與は、乞の誤りなるよし、略解にいへる、いかにも一わたりは、さる事ながら、こせ、こそといふに、與の字を書る處、集中いと多かるを、皆ながら誤りとはいひがたし。されば、考ふるに、論語公治長疏、國語晋語注、漢書司馬傳注などに、與許也とあれば、ゆるせといふ意もて、こせといふに、與とは書るならん。
 
反歌。
 
547 天雲之《アマグモノ》。外從見《ヨソニミシヨリ》。吾妹兒爾《ワギモコニ》。心毛身副《コヽロモミサヘ》。縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》。
 
心毛身副《コヽロモミサヘ》。
心さへ、身さへもといふ意也。
 
縁西鬼尾《ヨリニシモノヲ》。
鬼を、ものと訓るは、集中、七處ありて、皆、義訓なり。そは、和名抄神靈類に、日本紀私記云、邪鬼【安之岐毛乃】とありて、漢書、東平思王宇傳注に、物亦鬼。また郊祀志上注に、物謂2鬼神1也とあるにて、鬼を、ものと訓べきをしるべし。さて、このものをといふは、皆、意をふくめたる詞にて、一首の意は、君をよそながら見し其時より、わが心さへも、身(88)さへも、君によりそひたる心ちせしものを、まして、かく相そめてよりて(はカ)、いかならんとやうに意をふくめたり。
 
548 今夜之《コノヨラノ》。早《ハヤク》開者《アケナバ・アクレハ》。爲使乎無三《スベヲナミ》。秋百夜乎《アキノモヽヨヲ》。願鶴鴨《ネガヒツルカモ》。
 
今夜之《コノヨラノ》。
よらのらは、たゞ添たる字にて、十【卅丁】に、君待夜等者不明毛有寢鹿《キミマツヨラハアケズモアラヌカ》。また【四十八丁】此夜等者沙夜深去良之《コノヨラハサヨフケヌラシ》云々。十三【十五丁】に、吾睡夜等呼讀文將敢鴨《ワガヌルヨラヲヨミモアヘムカモ》などありて、集中猶多し。また、この外に、此卷【四十九丁】に物悲良爾《モノカナシラニ》云々。五【卅七丁】に、病遠等加弖阿禮婆《ヤマヒヲラクハヘテアレバ》云々。六【十五丁】に、荒野等丹《アラヌラニ》云々。九【卅二丁】に、服寒等丹《コロモサムラニ》云々などある、らもじも、こゝと同じく皆、添たる字にて、これも、猶、集中いと多し。
 
秋百夜乎《アキノモヽヨヲ》。
こは、長歌にもいひて、夜の長からん事を欲するなり。一首の意くまなし。
 
五年戊辰。太宰少貳石川足人朝臣遷任。餞《ウマノハナムケセシ》2于筑前國|蘆城驛家《アシキノウマヤ》1歌三首。
 
石川足川(人カ)父祖、考へがたし。續日本紀に、和銅四年四月壬午、授2正六位下石川朝臣足人從五位下1。神龜元年二月壬子授2從五位上1とあるのみにて、少貳に任ぜられし事も、この遷任の事(89)も、紀に見えざれど、本集六【廿一丁】に、このぬしと、帥大伴卿と、太宰府にて贈答の歌も見えたれば、太宰の任は、たしかに、しられたり。蘆城驛家は、筑前續風土記に、蘆城驛は宰府の南にあり。むかし、宰府より都へゆく馬次の處なり。蘆城より米の山といふ處を通りしと也云々とありて、御笠郡なり。驛家は、うまやと訓べし。和名抄道路具に、驛【音譯。和名旡末夜】とありて、本集十四【十七丁】に、須受我禰乃波由馬宇罵夜能《スヾガネノハユマウマヤノ》云々とも見えたり。餞は、うまのはなむけと訓べし。新撰字鏡に、餞【馬乃波奈牟介】とありて、土佐日記に、舟路なれど、うまのはなむけす云々。古今集離別端詞に、さだときのみこの家にて、藤原きよふが、あふみのすけにまかりける時に、うまのはなむけしける夜云々とあり。玉篇に、餞送v行設v宴也。
 
549 天地之《アメツチノ》。神毛助與《カミモタスケヨ》。草枕《クサマクラ》。※[羈の馬が奇]行君之《タビユクキミガ》。至家左右《イヘニイタルマデ》。
 
天神地祇も助力して、君が家に至るまで、海陸つゝがなく、事なあらせそとなり。
 
550 大船之《オホフネノ》。念憑師《オモヒタノミシ》。君之《キミガ》去《イナ・イネ》者《バ》。吾者將戀名《ワレハコヒムナ》。直相左右二《タダニアフマデニ》。
 
大船之《オホブネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中四十五丁】にも出たり。
 
吾者將戀名《ワレハコヒムナ》。
名《ナ》は添たる字にて、意なし。この事は上【攷證此卷十七丁】にいへり。
 
(90)直相左右二《タヾニアフマデニ》。
此卷【五十三丁】に、直相左右者《タヾニアフマデハ》、吾將脱八方《ワレヌガメヤモ》云々。九【卅丁】に、絶者絶十方《タエハタユトモ》、直二相左右二《タヾニアフマデニ》などありて、集中猶多し。みな、たゞちにあふまでにといふ意にて、一首の意は、日ごろ思ひたのみわたりし君が、今立ていなば、この後、たゞちにあふまでは、われは戀ぬべしとなり。
 
551 山跡道之《ヤマトヂノ》。島乃浦《シマノウラ》廻《マ・ワ》爾《ニ》。縁浪《ヨルナミノ・ヨスルナミ》。間無牟《アヒダモナケム・アヒダナケムニ》。吾戀卷者《ワガコヒマクハ》。
 
山跡道之《ヤマトヂノ》。
道といふは、いづくにまれ、それにゆく首(道カ)をいふなる事、まへにいへるが如し。
 
島乃浦《シマノウラ》廻《マ・ワ》爾《ニ》。
島乃浦は、筑前の國の中なるべけれど、郡はしりがたし。略解に、島乃浦は、筑前志摩郡志摩郷あれば、そこの浦なるべし云々といへれど、地圖もて考ふるに、志摩郡は太宰府よりはるかに西によりて、京に上る道にあらざれば、大和道とはいふべからず。筑前續風土記にも見えず。猶考ふべし。
 
吾戀卷者《ワガコヒマクハ》。
まくは、んを延たる言にて、わが戀んはなり。十五【廿二丁】に、伎美乎於毛比《キミヲオモヒ》、安我古非萬久波《アガコヒマクハ》云々とあり。この歌、その國の地名をいひながらも、序歌にて、よする浪の間もなきが如く、わが君を戀んは、間もなからんと也。
 
右三首。作者未詳。
 
(91)大伴宿彌三依歌一首。
 
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平二十年二月己未。授2正六位上大伴宿禰御依從五位下1。天平勝寶六年七月丙午爲2主税頭1。天平寶字六年六月壬辰爲2參河守1。同三年五月壬午爲2仁部少輔1。同六月庚戌授2從五位上1。同年十一月丁卯爲2遠江守1。同六年四月庚戌朔爲2義部大輔1。天平神護元年正月己亥授2正五位上1。同二年十月庚寅爲2出雲守1。寶龜元年十月己丑授2從四位下1。同五年五月癸亥、散位從四位下大伴宿禰御依卒とあり。
 
552 吾君者《ワガキミハ》。和氣乎波死常《ワケヲバシネト》。念可毛《オモヘカモ》。相夜不相夜《アフヨアハヌヨ》。二走良武《フタユキヌラム》。
 
和氣乎波死常《ワケヲバシネト》。
和氣《ワケ》といふは、人をすこしいやしめて、たはぶれいふ詞なり。まづ、外に見えたる意を解て、後にこゝの意を解べし。此卷【五十八丁】に、黒木取草毛刈乍仕目利《クロキトリカヤモカリツヽツカヘメト》、勤和氣登將譽十方不在《イソシキワケトホメムトモアラズ》【この和を、印本、知に誤れり。今、眞淵の取られしに依り。】とあるは、自ら、わけといへるやうなれど、この歌の意、黒木を取、あるは草をも刈て、宮仕へすべけれど、汝はいそしきもの也と、ほめんやうにもあらずといふなれば、猶、人よりいふ言を、自らとりなしていへり。又、八【廿一丁】紀女郎贈2大件宿禰家持1歌二首のはじめの歌に、戯奴《ワケ》【變云和氣】之爲吾手母須麻爾《ガタメワガテモスマニ》、春野爾拔流茅曾《ハルノヌニヌケルツバナゾ》、御食而肥座《メシテコエマセ》とあるは、家持卿をさして和氣といへり。家持卿を、紀女郎より、いやしめいはん事、いかゞなるやうに思ふ人もあるべけれど、今の世にも、親しき中には、戯れて、人をいやしむる(92)事もあるごとく、これも、戯れに和氣といへるなる事は、自注に、戯奴を變云和氣とあるにてしるべし。次の歌に、晝者咲《ヒルハサキ》、夜者戀宿《ヨルハコヒヌル》、合歡木花《ネブノハナ》、吾耳將見哉《ワレノミミムヤ》、和氣佐倍爾見代《ワケサヘニミヨ》【吾を、印本、君に誤れり。君とありては、一首のうへ聞えがたければ、宣長の説によりてあらたむ。】とあるも、同じく家持卿をさして、戯れて、わけとはいへり。この二首の歌を、家挿卿の和せる歌に、吾君爾《ワガキミニ》、戯奴者戀良思《ワケハコフラシ》、給有茅花乎雖喫《タマヒタルツバナヲハメド》、彌痩爾夜須《イヤヽセニヤス》とあるは、紀女郎が家持卿をさして、和氣《ワケ》とたはぶれいへるにすがりて、君がわけとたはぶれのたまふ和氣は、君に戀る故にかあらん、君がたまはせたる茅花をくへども、猶痩るはといへるにて、たゞならば、吾妹子などいふべきを、わざと、吾君とも、給有なども、たはぶれて、ことさらに女を尊稱していはれしにても、こなた、かなた、たはぶれかはせるをしるべし。されば、こゝの和氣乎波死常念可毛《ワケヲバシネトオモヘカモ》といへるも、かの家持卿の和せる歌と同じくて、君が和氣【汝といはんがごとし。】をは死よと思へばかもといふ意にて、和氣は、人よりいふ詞を、それにつきて、自ら、わけとはいへるにて、これも、たはぶれなる事は、この歌にも、女をさして、吾君など、ことの外に尊稱してたはぶれいへるをもてしるべし。また、皇子の名に、何|別《ワケノ》皇子、姓に何の別《ワケ》などいふ事あれど、この和氣とはさらに異なり。思ひまがふべからず。さて、この和氣といふことの説、宣長の玉勝間卷八にくはしくいはれたれど、予が説とは、すこしたがへり。
 
二走良武《フタハシルラム》。
逢夜と、あはぬ夜と、二つの經行《ヘユク》をいひて、このゆくは、古事記上卷に、高天原皆暗、草原中國悉闇、因v此而|常夜往《トコヨユク》云々。書紀神功紀に、晝暗如v夜、己經2多日1。時人曰2常夜行《トコヨユク》1之也云々とある行と同じく、月日の經行をいひて、本集此卷【五十二丁】に、空蝉乃代也毛二行《ウツセミノヨヤモフタユク》云々。七【四十一丁】に、世間者信二代者不往有之《ヨノナカハマコトフタヨハユカザラシ》云々。九【九丁】に、常之倍爾夏冬往哉《トコシヘニナツフユユケヤ》。十四【廿九丁】に、安(93)我許己呂布多由久奈母等《アガココロフタユクナモト》云々などあるゆくも、こゝと同じ。走を、ゆくと訓るは、義訓也。さて、一首の意は、君が思ふには、和氣《ワケ》よ死《シネ》とてのことにかあらん。あふ夜と、あはぬ夜と、二つの經《ヘ》ゆくは、かくの如く、あふ夜、あはぬ夜ありては、心もちゞにくだかれて、はては死もしつぺしとなり。
 
丹生女王。贈2太宰帥大伴卿1歌二首。
 
丹生女王は、上【攷證三下五丁】に出たり。太宰帥大伴卿は、旅人卿なり。上【攷證三上六十三丁】にいでたり。
 
553 天雲乃《アマグモノ》。遠隔乃極《ソキヘノキハミ・ヘダテノキハメ》。遠鷄跡裳《トホケドモ》。情志《コヽロシ》行《ユカ・ユケ》者《バ》。戀流物可聞《コフルモノカモ》。
 
遠隔乃極《ソキヘノキハミ・ヘダテノキハメ》。
遠隔を、そきへと訓るは、義訓也。こは、底方《ソキヘ》の極の意にて、はてかぎりなきをいふ。この事、上【攷證三下七丁】にいへり。
 
遠鷄跡裳《トホケドモ》。
遠けれどもといふ、れを略けり。この事は、上【攷證二中十丁】にいへり。
 
情志《コヽロシ》行《ユカ・ユケ》者《バ》。
心の君が方までも、ゆきとゞかばといふなり。心に物の足るを、心ゆくといふとは別也。さて、一首の意は、筑紫と京とは、はてかぎりもなく遠けれども、君が方まで心のゆきとゞかば、戀るといふ事もあらじを、行とゞかざる故にこそ、かくは戀れといふ意也。
 
(94)554 古《イニシヘノ》。人乃《ヒトノ》令食有《ヲサセル・ノマセル》。吉備能酒《キビノサケ》。痛者《ヤメバ・ヤモハヽ》爲便無《スベナシ》。貫簀《ヌキス》賜《タバラ・タマハ》牟《ム》。
 
古《イニシヘノ》。人乃《ヒトノ》令食有《ヲサセル・ノマセル》。
古人とは、旅人卿をさせり。旅人卿は、天平三年に薨ぜられし人、丹生女王は、天平十一年の紀より見えたる人にて、旅人卿はるかに高年なれば、古人とはいへる也。食《ヲサ》せるは、飲せるといはんが如し。古事記中卷、息長帶日賣命の待酒を釀給ふ御歌に、阿佐受袁勢佐々《アサスヲセサヽ》とある袁勢《ヲセ》も、令飲《ヲセ》の意。また、同卷|國主《クス》人の歌に、迦美斯意富美岐宇麻良爾岐許志母知袁勢《カミシオホミキウマラニキコシモチヲセ》とある袁勢《ヲセ》も、令飲の意なり。本集十二【四十二丁】に、妹食序念《イモヲシゾオモフ》と、食ををしの借字に用ひたるにても、令食有《ヲサセル》は、をさせると訓べきをしるべし。さて、こゝの意は、旅人卿、女王のもとに吉備酒を送られしを、令食《ヲサセ》るとはいへる也。さて、この卿、酒をこのませらるゝ事は、三卷に出たる讃酒十三首の歌にてもしられたり。
 
吉備能酒《キビノサケ》。
吉備《キビ》は、和名抄國名に、備前【吉備乃美知乃久知】備中【吉備乃美知乃奈加】備後【吉備乃美知乃之利】とありて、この三國をすべいふ名なり。この國の名産の酒を吉備の酒とはいふなり。そは、賦役令義解に謂服食者服讀如2服餌之服1如2吉備※[酉+倍の旁]【※[酉+倍の旁]は、玉篇に、未※[さんずい+庶]酒也とあれば、今いふ、もろみの酒なり。】耽羅脯1之類是也とあり。
痛者《ヤメバ・ヤモハヽ》爲便《スベ》無《ナシ・ナ》。
酒に醉てなやむなり。遊仙窟古訓、伊呂波字類抄などに、※[酉+呈]をさかやまひと訓り。玉篇に、病酒也、醉未v覺と見えたり。さて、痛者を、やめばと訓るは、説文に、痛病也とあれば也。さるを、略解に、痛は病の誤りといへるは、例の誤りなり。
 
(95)貫簀賜牟《ヌキスタバラム》。
貫簀は、代匠記に、簀ヲ編テ、盥《タラヒ》ノ上ニカケテ、手アラフ時ナド、ソノ水ノトバシリカヽラヌ用意ニスルモノナリ云々といはれたり。延喜齋宮寮式に、手洗一口、※[木+泉]一合、貫簀一枚云々。伊勢物語に、女の手あらふ處に、ぬきすをうちやりて、たらひのかげに見えけるを云々。宇津保物語菊宴卷に、御手水の調度、しろがねの手つきたる御たらひ、ぢんをまろにけづりたる貫簀、しろがねの※[木+泉]云々など見えたり。賜牟《タバラム》は、たまはらんのまを略ける也。本集八【五十丁】に、玉爾貫不令消賜良牟《タマニヌキケタズタバラム》云々。十八【卅七丁】に、波里夫久路己禮波多婆利奴《ハリフクロコレハタバリヌ》云々などありて、集中猶多し。一首の意は、君が令飲《ノメ》とて給はりたる吉備の酒ながら、飲て酒やまひせば、せんすべもなく、定めて嘔吐《クダリ》すべし。其料に、實簀をも給はらんと、戯れいひおくらるゝなり。
 
太宰帥大伴卿。贈2大貳丹比縣守卿遷2任民部卿1歌一首。
 
大伴卿は、旅人卿なる事まへにいへり。丹比縣守卿は、續日本紀に、慶雲二年十二月癸酉、授2多治比眞人縣守從五位下1。和銅四年四月壬午授2從五位上1。靈龜元年正月癸巳授2從四位下1。同年五月壬寅爲2造宮卿1。同二年八月癸亥爲2遣唐押使1。養老二年十二月壬申自2唐國1至。同三年正月壬寅授2正四位下1。同年七月庚子、管2相模、上野、下野、三國1。同四年九月戊寅爲2持節征夷將軍1。同五年正月壬子授2正四位上1。同年六月辛丑爲2中務卿1。天平元年二月壬申、以2太宰大貳正四位上多治比眞人縣守1、權爲2參議1。同年三月甲午授2從三位1。三年八月丁亥爲2參議1。十一月丁卯爲2山陽道鎭撫使1。四年正月甲子爲2中納言1。八月丁亥爲2山陰道節度使1。六年正月已卯授2正三位1。九年六月丙寅、中納言正三位多治比眞人縣守薨。左大臣正二位島之子也云々と見えたり。大貳に(96)任ぜられし事も、艮部卿に遷任の事も、紀にはもらされたり。さて、印本、縣を※[系+貝]に誤れり。今、目録に依てあらたむ。
 
555 爲君《キミガタメ》。釀之待酒《カミシマチザケ》。安野爾《ヤスノヌニ》。獨哉將飲《ヒトリヤノマム》。友無二思手《トモナシニシテ》。
 
釀之待酒《カミシマチザケ》。
釀《カム》とは、酒を造ることなり。古事記中卷【應神天皇】御歌に、須々許理賀迦美斯岐邇《スヾコリカカミシキニ》、和禮惠比邇祁理《ワレヱヒニケリ》云々。また、古事記中卷、又於2吉野之白檮上1、作2横臼1、而於2其横臼1釀2大御酒1、献2其大御酒1之時、撃2口鼓1爲v伎、而歌曰、加志能布邇余久須袁都久理《カシノフニヨクスヲツクリ》、余久須邇加美斯意富美岐《ヨクスニカミシオオミキ》云々。書紀崇神紀【活日】歌に、於明望能農之能介瀰之瀰枳《オホモノヌシノカミシミキ》云々。新撰字鏡に、釀、造酒也、佐介加无と見えたり。待酒は、外より來る人に飲しめん料に、かねて造りおきて、その人を待よしの名なり。古事記中卷に、於v是還上坐時、其祖息長帶日賣命釀2待酒1以献云々とありて、本集十六【十三丁】に、味飯乎水爾釀成《ウマイヒヲミヅニカミナシ》、吾待之代者曾無《ワガマチシシルシハゾナキ》、直爾之不有者《タヾニシアラネバ》とあるも、夫の外へ行たるあとにて、妻のよめるよしなれば、正しく待酒なり。こは、縣守卿の、京より、又おはすやとて、大伴卿のまたるゝなり。
 
安《ヤスノ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。
筑前風土記に、安野は、夜須郡の東小田村、四三鳴村、鷹場村、この三村の間、七板原といふ廣き原あり。方一里あり。これ、則、安野也といへり。書紀神功紀、仲哀天皇九年三月辛卯、至2層増岐野1即擧v兵、撃2羽白熊鷲1而滅v之。謂2左右1曰、取2得熊鷲1、我心則安、故號2其處1曰v安也とあり。これ夜須郡なり。
 
(97)友無二思手《トモナシニシテ》。
にしてといふは、皆、にてといふ意なる事、上【攷證一下五十五丁三中五十四丁】にいへるが如し。さて、一首の意は、縣守卿の、京より又かへりおはすこともやとて、酒をかみて待わたれど、又と見えざれば、むかへにも立いづべき安野にて、この酒を、友もなく、たゞ一人やのまんとなり。
 
賀茂女王。贈2大伴宿禰三依1謌一首。
 
賀茂女王、紀に見えず。本集八【四十九丁】古注に、長屋王之女、母曰2阿倍朝臣1也と見えて、紹運録もこれに同じ。大伴宿禰三依はまへに出たり。
 
556 筑紫船《ツクシブネ》。未毛不來者《イマダモコネバ》。豫《カナテヨリ・アラカジメ》。荒振公乎《アラブルキミヲ》。見之悲左《ミルガカナシサ》。
 
筑紫船《ツクシブネ》。
熊野舟、松浦(舟、脱カ)などの類にて、筑紫の舟なり。
 
未毛不來者《イマダモコネバ》。
毛は助詞にて、こねばのねばゝ、ぬにといふ意也。この事は、上【攷證二下卅丁】にいへり。
 
荒振公乎《アラブルキミヲ》。
略解には、舊訓のまゝ、あらかじめとよめれど、かねてよりと訓べき也。この事は、上【攷證三下五十四丁】にいへり。
 
荒振公乎《アラブルキミヲ》。
荒振《アラブル》は疎《ウト》く遠ざかりゆくをいへり。この事は、上【攷證二中四十九丁】にいへり。さて、一首の意は、三依、太宰の任などにゆかんせら《(マヽ)》れしをりの歌にて、筑紫より、迎への舟(98)も未來らざるを、その以前より、かねて疎く遠ざかりゆく君を見るがかなしきとなり。
 
土師《ハニシノ》宿禰|水通《ミミチ》。從2筑紫1上v京海路。作歌二首。
 
父祖、官位、考へがたし。五【十四丁】天平二年正月十三霏萃2于帥老之宅1申2宴會1ときの歌三十二首の中に、このぬしもありて、土師氏御通とあれば、太宰の官人なりし也。又、十六【廿一丁】左注に、有2大舍人1土師宿禰水道、字曰2志婢麻呂1也とも見えたり。土師宿禰の姓は、姓氏録卷十四に、土師宿禰、天穗日命十二世孫、可美乾飯根命之後也。光仁天皇天應元年、改2土師1贈2菅原氏1、有v勅改賜2大枝朝臣姓1也と見えたり。さて、土師は、はにしと訓べし。和名抄、和泉國大鳥郡郷名、上野國緑野郡郷名などに、土師を波爾之と訓たれば、この訓によるべし。
 
557 大船乎《オホフネヲ》。榜乃進爾《コギノスヽミニ》。磐爾觸《イハニフレ》。覆者覆《カヘラバカヘレ》。妹爾因而者《イモニヨリテハ》。
 
榜乃進爾《コギノスヽミニ》。
乃《ノ》もじは、用語よりうけて、かろく添たる字也。この事、上【攷證三中六十五丁】にいへり。
 
妹爾因而者《イモニヨリテハ》。
 
而者《テハ》の者《ハ》は、清て訓べし。此卷【五十一丁】に、名之惜雲《ナノヲシケクモ》、吾者無《ワレハナシ》、妹丹因者《イモニヨリテハ》、千遍立十方《チタビタツトモ》。十一【十三丁】に、劔刀諸刃利足蹈《ツルギタチモロハノトキニアシフミテ》、死死公依《シニヽモシナムキミニヨリテハ》。また【廿一丁】石根蹈夜道不行念跡妹依者忍金津毛《イハネフミヨミチユカシトオモヘレトイモニヨリテハシヌビカネツモ》。十三【十八丁】に、吾念有妹爾縁而者言之禁毛無在乞常《ワガオモヘルイモニヨリテハコトノイミモナクアレコソト》云々などあるも、皆、はを清て訓べし。てばとばと濁てよむ時は、たらばの意となりて、一首のうへに叶ひがたし。てば(99)とばを濁るは、七【卅三丁】に、事痛者左右將爲乎石代之野邊之下草吾之刈而者《コチタクハカモカモセムヲイハシロノヌベノシタクサワレシカリテバ》。九【十九丁】に、此筥乎開而見手齒《コノハコヲヒラキテミテバ》云々。十五【十八丁】に、伎美我美布禰能都奈之等理弖婆《キミガミフネノツナシトリテバ》。これらは、てばといひて、たらばの意なり。されば、こゝの、妹により而者《テハ》の而者とは別なり。このけぢめ、よくせずば、まぎれぬべし。既に、略解にも、誤りて、こゝをも、たらばの意と解り。さて、一首の意は、京へ早くかへりて、よく妹に逢んの心にて、いそぎて舟を榜しむるはづみに、その船、岩にふれて、よしやかへればかへれ、妹にとくあはんと思ふによりては、舟の覆へるとも、くるしからずとなり。
 
558 千磐破《チハヤブル》。神之社爾《カミノヤシロニ》。我掛師《ワガカケシ》。幣者將賜《ヌサハタバラム》。妹爾不相國《イモニアハナクニ》。
 
千磐破《チハヤブル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上廿丁】にも出たり。
 
我掛師《ワガカケシ》。
掛師《カケシ》とは、木の枝にまれ、何にまれ、幣をかけて、神に奉るなり。古事記上卷に、賢木の枝に、玉、鏡、和幣など掛て、神に奉りし事あるをもおもふべし。
 
幣者將賜《ヌサハタバラム》。
幣は、上【攷證一下五十丁】にいへるが如く、神に奉る物を惣いふ名なり。こゝは、その奉りし幣を、かへしたまはらんといふにて、一首の意は、海路に日數をふる事をなげきてよめるにて、いかで、とく京にかへりて、妹にもとくあはんと思ひて、そのよし神に祈り申て、幣をも奉りしに、かく海路おだやかならで、日數をふるは、そのしるしなきに似たり。されば、その奉りし幣をかへしたまはらんと、心いられしていふ也。この歸路の海あれて、おだやかならざりしなるべし。
 
(100)太宰大監大伴宿禰百代。戀歌四首。
 
大伴百代、上【攷證三中七十七丁】に出たり。
 
559 事毛無《コトモナク》。生《アレ・アリ》來之物乎《コシモノヲ》。老奈美爾《オイナミニ》。如此戀于毛《カヽルコヒニモ》。吾者遇流香聞《ワレハアヘルカモ》。
 
事毛無《コトモナク》。
障る事なくの意なり。この事、上【攷證此卷卅九丁】にいへり。
 
生《アレ・アリ》來之物乎《コシモノヲ》。
生《アレ》は、字の如く、うまるゝにて、何の思ふ事もなく、生れ來つるものをといふにて、毛詩兎妥に、我生之初、尚無爲。我生之後、逢2此百罹1云々とあるに似たり。
 
老奈美爾《オイナミニ》。
この句 俗言にいはゞ、年よりのくせにといふ意なり。されば、この奈美《ナミ》は、人なみ、山なみ、川なみなどのなみと同じく、老に列《ナラビ》をりてといふ意なり。一首の意は、思ふ事もなく、たゞ無爲にて生れ來つるものを、年よりし今に至りて、かゝるくるしき戀にあへるかなと歎息したる也。
 
560 孤悲死牟《コヒシナム》。後者何爲牟《ノチハナニセム》。生日之《イケルヒノ》。爲社妹乎《タメコソイモヲ》。欲見爲禮《ミマクホリスレ》。
(101)一首の意、くまなし。十一【廿二丁】に、戀死後何爲《コヒシナムノチハナニセム》、吾命生日社見幕欲爲禮《ワガイノチイケルヒニコソミマクホリスレ》とあると、おほかたは似たり。また、遊仙窟に、生前有v日2但爲1v樂、死後無v春2更着1v人。※[禾+※[氏/一]]可v倡2佯一生意1云々とあるも似たり。
 
561 不念乎《オモハヌヲ》。思當云者《オモフトイハヾ》。大野有《オホヌナル》。三笠杜之《ミカサノモリノ》。神思《カミシ》知三《シラサム・シルラム》。
 
大野有《オホヌナル》。三笠杜之《ミカサノモリノ》。
大野は、筑前國御笠郡の郷名にて、和名抄に出たり。三笠森も同郡にて、續風土記に、御笠森は山田村の境内なり。雜餉の隈の東處の邊にあり。大道より二町ほどあり。【中略】神功皇后、羽白熊鷲をうたんとて、うつの宮より松峽宮にうつり給ふ時、道にて、御笠を飄風のためにふき落され給ひ、この森にかゝりける故に、御笠森と名付るともいふ云々と見えたり。
 
神思《カミシ》知三《シラサム・シルラム》。
この神、神名帳にも見えざれど、古しへは、森といへば必らず神のおはしますよしにいひならへる事、上【攷證二下卅三丁】にいへるが如くなれば、こゝは、たしかに、何の神とさせるにはあらで、杜といふより、神とはいへる也。十二【廿八丁】に、不想乎想常云者眞鳥住卯名手乃杜之神思將御知《オモハヌヲオモフトイハゞマトリスムウナテノモリノカミシシラサム》とあるは、地名の異なるのみ、全く同じ。神思《カミシ》のしは助辭なり。一首の意くまなし。
 
(102)562 無暇《イトマナク》。人之眉根乎《ヒトノマユネヲ》。徒《イタヅラニ》。令掻乍《カヽシメツヽモ》。不相妹可聞《アハヌイモカモ》。
 
人之眉根乎《ヒトノマユネヲ》。
人と書るは借字、他《ヒト》の意にて、眉根を掻といふことは、六【廿九丁】に、月立而直三日月之眉根掻《ツキタチテタヾミカヅキノマユネカキ》、氣長戀之君爾相有鴨《ケナガクコヒシキミニアヘルカモ》。十一【六丁】に、眉根削鼻鳴紐解待哉《マユネカキハナヒヒモトキマタムカモ》、何時見念吾君《イツカモミムトオモフワガキミ》。また【廿丁】希將見君乎見常衣左手之執弓方之眉根掻禮《マレニミムキミヲミムトゾヒダリテノユミトルカタノ》。また【廿三丁】眉根掻《マユネカキ》、下言借見思有爾《シタイフカシミオモヘルニ》、去家人乎相見鶴鴨《イニシヘビトヲアヒミツルカモ》。また眉根掻誰乎香將見跡思乍《マユネカキタレヲカミムトオモヒツヽ》、氣長戀之妹爾相鴨《ケナガクコヒシイモニアヘルカモ》。また【四十四丁】眉可由見思之言者君西在來《マユカユミオモヒシコトハキミニシアリケリ》。十二【七丁】に、薄寸眉根乎徒令掻管不相人可母《ウスキマユネヲイタヅラニカヽシメツヽモアハヌヒトカモ》などあるを、おしわたし考るに、古しへ、眉根を掻は、思ふ人にあはるゝとも、また人に思はるれば眉のかゆきよしにもいへる諺のありしなるべし。遊仙窟に、昨夜眼皮〓、今朝見2好人1。【この〓の字を、古訓には、かゆかりきと訓つれど、〓は下にいへるが如く、かゆき意にあらず。】物類相感志に、人或目〓有2吉凶不1v常、若他人思v己則動云々などある〓は、説文に、目動也とありて、目のかゆき事にはあらざれど、事の似たるまゝに引つ。さて、眉は、集中にも、まゆとのみも、まゆねともいへば、眉根といふ根は本の意の《(マヽ)》にて、眉のもとといふ意なり。
 
徒《イタヅラニ》。
本集一【廿三丁】に、無用の字をよめるが如く、無用の意也。一首の意は、明らけし。
 
大伴坂上郎女歌二首。
 
563 黒髪二《クロカミニ》。白髪交《シロカミマジリ》。至耆《オユルマデ・オイタレド》。如是有戀庭《カヽルコヒニハ》。未相爾《イマダアハナクニ》。
 
(103)白髪交《シロカミマジリ》。
十七【十三丁】に、之路髪麻泥爾《シロカミマデニ》云々とあれば、しろかみと訓べし。
 
至耆《オユルマデ・オイタレド》。
舊訓よしなし。おゆるまでと訓べし。一首の意くまなし。
 
564 山菅乃《ヤマスゲノ》。實不成事乎《ミナラヌコトヲ》。吾爾《ワレニ》所依《ヨセ・ヨリ》。言禮師君者《イハレシキミハ》。與孰可宿良牟《タレトカヌラム》。
 
山菅乃《ヤマスゲノ》。
本草和名に、麥門冬、和名、也末須介【和名抄これにおなじ。】とありて、こは、いづくにもある草にて、俗に、りうのひげといへり。
 
實不成事乎《ミナラヌコトヲ》。
上【攷證二上十九丁】にいへるが如く、戀のなるならざるを、草木の實のなりならざるによそへたる事、集中いと多く、こゝも、戀のならざるをいへり。さて、山菅といふは、實の一言へかけていひて、不成《ナラヌ》といふまでへはかゝらず。そは、本草に、麥門冬、陶隱居云、冬月作v實、如2青珠1とありて、よく實のなるものなればなり。集中、實のなるものをもがくつゞけたる處多し。そは、皆、實の一言へかけたるなり。この事も上【攷證二上十九丁】にいへり。一首の意は、吾にことよせて、戀のなりもせざる事を、人にいひさわがれし君は、誠は、たれとか、ともに寢らんといふにて、われは、たゞ、名の立しのみぞと、うらむる意をこめたり。
 
賀茂女王歌一首。
 
(104)565 大伴乃《オホトモノ》。見津跡者不云《ミツトハイハジ》。赤根指《アカネサシ》。照有《テレル》月《ツク・ツキ》夜爾《ヨニ》。直相在登聞《タヾニアヘリトモ》。
 
見津跡者不云《ミツトハイハジ》。
見津は、難波の御津を、人を見るよしにいひかけたり。古今集戀三に【よみ人しらず】君が名もわが名もたてじ、難波なるみつともいふな、あひきともいはじとあるも、この歌をとれりとおぼし。御津の事は、上【攷證一下五十一丁】にいへり。
 
赤根指《アカネサシ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上卅五丁】にも出たり。月夜も明《アカ》きものなれば、日とも、晝《ヒル》ともつゞくるごとく、明きよしにて、つゞけしなり。
 
照有《テレル》月《ツク・ツキ》夜爾《ヨニ》。
月夜は、つくよと訓べき事、上【攷證一下七十一丁】にいへるが如し。一首の意は、月夜は、いかばかり明くとも、晝《ヒル》の如くはあらざれば、月夜に相たりとも、見つとはいはじといふなり。
 
太宰大監大伴宿禰百代等。贈2驛使1。歌二首。
 
驛使は、次の左注によるに、稻公胡麻呂などをいへり。
 
566 草枕《クサマクラ》。※[羈の馬が奇]行君乎《タビユクキミヲ》。愛見《ウツクシミ》。副而曾來四《タグヒテゾコシ》。鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》。
 
(105)愛見《ウツクシミ》。
二十【四十丁】に、和我世奈乎都久之倍夜里弖宇都久之美《ワガセナヲツクシヘヤリテウツクシミ》云々ともありて、愛夫《ウツクシツマ》、愛《ウツクシキ》人などいふうつくしと同じく、人を愛しいひて、見《ミ》は、さにの意なり。さて、この愛の字の訓、うつくしとよまんか、うるはしとよまんか、定めかねたり。この事、下【攷證四中四十五丁】にくはしくいふべし。
 
副而曾來四《タグヒテゾコシ》。
副而《タグヒ鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》。
テ》といふことは、上【攷證此卷卅九丁】にいへるが如く、そひてといふ意にて、こゝは、君にそひて來りとなり。
 
鹿乃濱邊乎《シカノハマベヲ》。
鹿乃濱は、筑前國糟谷郡なり。この事、上【攷證三上四十六丁】に、いへり。乎の字は、五【十八丁】八に、那我岐波流卑乎可謝勢例杼《ナガキハルヒヲカザセレド》云々。十五【六丁】に、久夜之久妹乎和可禮伎爾家利《クヤシクイモヲワカレキニケリ》。二十【廿二丁】に、多良知禰乃波波乎和加例弖《タラチネノハハヲワカレテ》云々などある乎の字と同じく、にの意にて、一首の意は、今、又旅立して、京にかへる君を思ふ故に、遠く送りて、しかの濱べまで、そひてぞ來つるといふ也。
 
右一首。大監大伴宿禰百代。
 
この左注は、右の端辭に、百代等とある、等の字につきて、しるしたる也。
 
567 周防在《スハウナル》。磐國山乎《イハクニヤマヲ》。將超日者《コエムヒハ》。手向好爲與《タムケヨクセヨ》。荒其道《アラキソノミチ》。
 
(106)周防在《スハウナル》。
和名抄國名に、周防【須波宇】とあり。字音をそのまゝに訓る國名は、これのみなり。されば、眞淵は、すはとよまれたり。いかにもさる事ながら、正しく、しか訓べき例をも見ざれば、從ひがたし。
 
磐國山乎《イハクニヤマヲ》。
和名抄郷名に、周防國玖珂郡石國とあり。こゝなるべし。こは、安藝國によりたる處にて、太宰府より陸路を京へかへるには、必らず、こゆべき山なり。
 
手向好爲與《タムケヨクセヨ》。
手向《タムケ》とは、海にまれ、山にまれ、かしこき處にては、幣にても、何にても、その處の神に奉りて、旅路のつゝがなからん事を祈るなり。この事、上【攷證一下三丁三上六十五丁】にくはしくいへり。
 
荒其道《アラキソノミチ》。
三【卅八丁】に、風候好爲而伊麻荒其道《カゼマモリヨクシテイマセアラキソノミチ》ともありて、海にても、山にても、かしこき處をいへり。一首の意くまなし。
 
右一首。少典山口忌寸若麻呂。
 
小典は、職員令に、太宰府大典二人、掌d受v事上抄、勘2署文案1、檢2出稽失1、讀c申公文u。少典二人、掌同2大典1と見えたり。山口忌寸若麻呂、父祖、考へがたし。紀に見えず。山口忌寸の姓は、姓氏録卷廿三に、山口宿禰、後漢靈帝四世孫、都黄直之後也と見え、續日本後紀に、承和十四年三月庚辰、山口忌寸【中略】等五人、並改2忌寸1、賜2朝臣1焉云々と見えたり。
 
(107)以※[止/舟]天平二年庚午夏六月。帥大伴卿忽生2瘡脚(ヲ)1。疾苦2枕席(ニ)1 。因v此馳v驛上奏。望2請庶弟稻公姪胡麻呂欲1v語2遺言1者。勅2右兵庫助大伴宿禰稻公。治部少丞大伴宿禰胡麻呂兩人1。給v驛發遣。令v看2卿病1。而※[しんにょう+至]2數旬1。幸得2平復1。于時稻公等。以2病既療1。發v府上v京。於v是大伴宿禰百代。少典山口忌寸若麻呂。及卿(ノ)男家持等。相2送驛使1。共到2夷守驛家1。聊飲悲v別。乃作2此歌1。
 
以※[止/舟]。
唐韻に、※[止/舟]、古文前字とあれば、以前なり。
 
帥大伴卿。
旅人卿なり。この卿の事は、上【攷證三上六十三丁】に出たり。
 
馳v驛上奏。
帥大伴卿の疾のよしを上奏する也。この例、選叙令にくはしく見えたり。
 
(108)庶弟。
唐韻に、庶は、嫡庶、嫡子一人、餘爲v庶云々と見えたり。
 
稻公《イナキミ》。
庶弟とあれば、安麻呂卿の男にて、旅人卿、坂上郎女などの弟なり。續日本紀に、天平十三年十二月丙戌、從五位下大伴宿禰稻君爲2因幡守1。十五年五月癸卯授2從五位上1。天平勝寶元年四月甲午朔授2正五位下1。同年八月辛未爲2兵部大輔1。六年四月庚午爲2上總守1。天平寶字元年五月丁卯授2正五位上1。同年八月庚辰授2從四位下1などありて、この後、同二年二月己巳紀に、大和守のよし見えたり。
 
姪《ヲヒ》。
儀禮士昏禮注に、姪兄之子云々。左氏襄十九年傳注に、兄子曰v姪云々と見えて、姪は、をひとも、めひとも訓て、男女をおしわたしいふ也。姪はめひ、甥はをひと、わけていふはやゝ後のさた也。
 
胡麻呂《コマロ》。
姪とあれば、道足か田主の男なるべし。紀には、皆、古麻呂とのみあり。されば、こまろと訓べし。續日本紀に、天平十七年正月乙丑、授2正六位上大伴宿禰古麻呂從五位下1。天平勝寶元年八月辛未爲2左少弁1。二年九月己酉爲2遣唐副使1。三年正月己酉授2從五位上1。四年閏三月丙辰授2從四位上1。六年正月癸卯、入唐副使大伴宿禰古麻呂來歸。四月庚午爲2左大弁1。壬申授2正四位下1。天平寶字二年六月壬辰、爲2兼陸奥鎭守將軍1、爲2陸奥按察使1。甲辰、從四位上山背王、復皆2橘奈良麻呂1、備2兵器1謀v圍2田村宮1。正四位下大伴宿禰古麻呂亦知2項情1。(109)七月庚戌窮問杖下死云々と見えたり。
 
右兵庫助。
職員令に、兵庫助一人云々と見えたり。稻公、兵庫助に任ぜられし事見えず。紀にもれたるなるべし。
 
治郎少丞。
職員令に、治部省大丞一人、少丞二人云々と見えたり。胡麻呂治部少丞に任ぜられし事も、紀に見えず、もれたるなるべし。さて、印本、丞を※[蒸の草がんむりなし]に作れり。誤りなる事しるければ、意改せり。
 
給v驛。
こは、驛傳馬を給ふなり。公式令に、凡給2驛傳馬1、皆依2鈴傳符尅數1云々と見えたり。
 
※[しんにょう+至]2數旬1。
説文に、十日爲v旬とありて、こゝは、たゞ、あまた日を經しをいへり。
發v府上v京。
太宰府を立て、京に上る也。
 
驛使。
稻公、胡麻呂の二人をさせり。
 
夷守驛家。
書紀景行紀に、十八年三月、天皇巡2狩筑紫國1、始到2夷守1云々。延喜兵部式に、筑前國驛馬、夷守十五疋とあり。
 
(110)太宰帥大伴卿。被v任2大納言1。臨2入v京之時1。府官人等。餞2卿(ヲ)筑前國蘆城驛家1。歌四首。
 
大伴卿は、旅人卿にて、この卿の事は上【攷證三上六十三丁】にいへるが如く、大納言に任ぜられし年月、紀にもらされたれど、薨去の處に大納言從二位とありて、公卿補任に、天平二年十月一日任大納言と見えたり。蘆城驛はまへに出たり。
 
568 三埼《ミサキ》廻《マ・ワ》之《ノ》。荒礒爾縁《アリソニヨスル》。五百重浪《イホヘナミ》。立毛居毛《タチテモヰテモ》。我念流吉美《ワガオモヘルキミ》。
 
三埼《ミサキ》廻《マ・ワ》之《ノ》。
三崎《ミサキ》は、書紀、繼體紀訓注に、謂2海中島曲碕岸1也。俗云2美佐祁1と見えたれば、海中の埼をいへるにて、地名にはあるべからず。されど、書紀、安閑天王二年紀に、豐國|湊碕《ミサキノ》屯倉といふありて、この外も、處々に、みさきといふ地名あれば、こゝも地名ならんもしりがたし。廻《マ》は、まと訓て、ほとりの意なる事、上【攷證一下十四丁】にいへるが如し。
 
五百重浪《イホヘナミ》。
五百《イホ》は、たゞ數の多きをいへり。六【十五丁】に、朝名寸二千重浪縁《アサナギニチヘナミヨリ》、夕菜寸二五百波因《ユフナギニイホヘナミヨル》云々。十一【八丁】に、五百重浪千重敷々《イホヘナミチヘシク/\ニ》云々などあり。
 
立毛居毛《タチテモヰテモ》。
立居につけて、忘れざるをいへり。一首の意くまなし。
 
(111)右一首。筑前掾門都連石足。
 
父祖、考へがたし。門部氏は、姓氏録卷十七に、門部連、牟須比命兒、安牟須比命之後也と見えたり。
 
569 辛人之《カラヒトノ》。衣染云《コロモソムトイフ》。紫之《ムラサキノ》。惰爾染而《コヽロニシミテ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
辛人之《カラヒトノ》。
辛と書るは借字にて、加羅人なり。加羅といふは、書紀垂仁紀一云、御間城天皇之世、額有v角人、乘2一船1、泊2于越國笥飯浦1、故號2其處1曰2角鹿1也。問v之曰、何國人也。對曰、意富加羅國王之子、名2都怒我阿羅斯等1。【中略】是時遇2天皇崩1、便留之仕2活目天皇1逮2于三年1。天皇詔2阿羅斯等1曰、汝不v迷v道必速詣之、遇2先皇1而仕歟。是以改2汝本國名1追負2御間城天皇御名1、便爲2汝國名1、故號2其國1謂2彌摩那國1、其是之縁也云々とありて、任那《ミマナノ》國の本名なるが、任那國は、崇神天皇六十五年にはじめて朝貢して、中國に通ずる事、他の外國よりいと早かりしかば、加羅としいへば、なべて外國の事とはなれるなり。されば、漢土《モコロシ》をも、三韓をも、おしなべて加羅とはいへり。書紀繼體紀、目頬子初到2任那1時、在2彼卿家等1賜、歌曰、
柯羅屡※[人偏+爾]嗚以柯※[人偏+爾]輔居等所《カラクニヲイカニフコトゾ》云々とあるは任那をいへり。また、欽明紀大葉子歌に、柯羅倶爾能基納倍※[人偏+爾]陀致底《カラクニノキノベニタチテ》云々とあるは、新羅をいへり。本集五【十三丁】に、可良久爾遠武家多比良宜弖《カラクニヲムケタヒラゲテ》云々。十五【廿六丁】に、可良久爾能可良久毛己許爾《カラクニノカラクモコヽニ》云云とあるも、新羅をいへり。十九【十一丁】に、漢人毛※[楫+戈]浮而遊《カラヒトモフネヲウカベテアソブトフ》云々。また【卅五丁】此吾子乎韓國邊遣《コノアコヲカラクニヘヤル》云々。また【四十一丁】韓國爾由伎多良波之※[氏/一]《カラクニニユキタラハシテ》云々などあるは、漢(112)土をいへり。これらにても、いづくを加羅といへるをしるべし。こゝの辛人は、漢土をいへり。そのよしは次にいふべし。さて、印本、辛人をアラヒトと訓じたれど、こは、書寫の誤りなる事いふまでもなし。また、略解に、辛は※[淑の異体字]の誤にて、よき人か。宣長は、辛は宇万二字かといへり云々。この説もさる事ながら、本のまゝにても聞えたるをや。
 
衣染云紫之《コロモソムトイフムラサキノ》。
衣服の色の事は、衣服令に、諸臣禮服、一位禮服、冠深紫、衣牙笏白、袴※[糸+條]帶深縹、紗褶錦、襪烏皮※[潟の榜]。三位以上、淺紫衣云々とありて、中國にも、紫に染る事、無にはあらざれど、かの令の定めも、專ら唐制にならひ給ひしとおぼしき事は、唐令は傳はらざれど、唐書輿服志にてしらる。されば、中國の定めも、唐の制に出たれば、から人の衣そむといふ紫のとは、つゞけしなるべし。さて、旅人卿、この時、正三位なれば、紫衣なるによりで、卿を紫によそへて、さて、こゝろにしむとはいへるなり。
 
情爾染而《コヽロニシミテ》。
こは、別れの悲しさの心にしみておぼゆる也。一首の意くまなし。
 
570 山跡邊《ヤマトベニ》。君之立日乃《キミガタツヒノ》。近者《チカヅケバ》。野立鹿毛《ヌニタツシカモ》。動而曾鳴《トヨミテゾナク》。
 
山跡邊《ヤマトベニ》。
京邊《ミヤコベ》などいふべと同じく、方の意なり。
 
近付者《チカヅケバ》。
元暦本、代匠記に引る官本などには、近の下に付の字あり。また、考異本に引る古本には、者を付に作れり。よく/\考ふれば、これら、皆、中古の人のさかしらなるべし。(113)近者を、ちかづけばと訓るは、集中、添訓の一つの格なり。この事、上【攷證此卷卅一丁】にくはしくいへり。さるを、略解には、元暦本によりて、近の下に付の字を加へしは、さかしらにまどひて、古書を誤てり。されば、なまなかなる人の校合せし本には、古本といへども、かゝるさかしら多きものなれば、ひたぶるには信じがたきもの也。そも/\、古書をよまんとするに、書寫の誤りはわきまへやすく、校合に崩れしは惑はしきものなれば、よく/\心すべし。この事は、こゝに用なき事なれど、因《チナミ》にいひて、書好む若人たちを、おどろかしおくのみ。
 
動而曾鳴《トヨミテゾナク》。
動《トヨム》は、音に鳴て、とよむ也。この事、上【攷證二下六十四丁】にいへり。一首の意は、吾のみかは、野に立鹿さへも、鳴とよむは、君がわかれのかなしきにやあらんとなり。
 
右二首。大典麻田連陽春。
 
大典は、太宰の大典なり。まへに出たり。續日本紀に、神龜元年五月辛未、正八位上答本陽春賜姓麻田連。【今本、田を呂に誤れり。本集懷風藻などに依て改む。】天平十一年正月丙午、授2正六位上麻田連陽春、外從五位下1とありて、懷風藻に、外從五位下石見守麻田連陽春と見えたり。陽春は音に訓べし。
 
571 月《ツク・ツキ》夜吉《ヨヨシ》。河音清之《カハオトキヨシ》。率此間《イサココニ》。行毛《ユクモ》不去《ユカヌ・トマル》毛《モ》。遊而《アソビテ》將歸《ユカナ・ユカム》。
 
行毛《ユクモ》不去《ユカヌ・トマル》毛《モ》。
行は、大伴卿をいひ、不去は府の官人等をいへり。
 
(114)遊而《アソビテ》將歸《ユカナ・ユカム》。
將歸と書たれど、ゆかなとよむべし。なは、んの意也。六【十五丁】に、二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》。九【十丁】に、宿而往奈《ヤドリテユカナ》云々。十【廿六丁】に、紐解往名《ヒモトキユカナ》などありて、集中いと多し。一首の意は、くまなし。
 
右一首。防人佐大伴四綱。
 
この官の事も、この人の事も、上【攷證三中十九丁】にいへり。さて、佐は、令その外にも、みな、佑とあれば、佐は誤りなるべけれど、佐も、佑も、玉篇に、助也とあれば、誤りとも定めがたし。
 
太宰帥大伴卿。上v京之後。沙彌滿誓。贈v卿歌二首。
 
沙彌滿誓は、笠朝臣麻呂の法名なり。上【攷證三中廿五丁】に出たり。
贈の字、印本、賜に誤れり。いま、目録に依てあらたむ。
 
572 眞十鏡《マソカヾミ》。見不飽君爾《ミアカヌキミニ》。所贈哉《オクレテヤ》。旦夕爾《アシタユフベニ》。左備乍將居《サビツヽヲラム》。
 
眞十鏡《マソカヾミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三上八丁】にも出たり。見の一言へかけていへり。
 
所贈哉《オクレテヤ》。
贈は借字にて、後なり。十二【卅八丁】に、白銅鏡手二取持而見常不足《マソカヾミテニトリモチテミレドアカヌ》、君爾所贈而生跡文無《キミニオクレテイケリトモナシ》ともあり。
 
(115)旦夕爾《アシタユフベニ》。
朝夕に也。十五【卅六丁】に、多麻之比波安之多由布敝爾多麻布禮杼《タマシヒハアシタユフベニタマフレド》云々ともあり。
 
左備乍將居《サビツヽヲラム》。
左備は、うらさびといふさびと同じく、二【卅九丁】に不樂、また【四十丁】不怜などの字を、さびと訓るが如く、なぐさめがたきをいひて、神左備の左備とは別なり。一首の意は、いつ見ても、めづらしく、あかずおぼえし君におくれ居て、朝夕に、心すさまじく、なぐさめがたくやをらんとなり。
 
573 野干玉之《ヌバタマノ》。黒髪《クロカミ》變白髪《シロクカハリ・カハリシラケ》手裳《テモ》。痛戀庭《イタキコヒニハ》。相時有來《アフトキアリケリ》。
 
野干玉之《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上四丁】にも出たり。野干玉と書る事も、上【攷證三上六十七丁】にいへり。
 
黒髪《クロカミ》變白髪《シロクカハリ・カハリシラケ》手裳《テモ》。
これ、略解の訓なり。白髪をしろくと訓るは、髪の事なればなり。
 
痛戀庭《イタキコヒニハ》。
上ところ/”\にいへるが如く、痛《イタ》くといふは甚しき意にて、一首の意は、滿誓、老に至りて、黒髪の白髪とかはりて、男女の道はおもひ絶たれど、猶かゝる甚しき戀にもあふ時ありけりといひて、大伴卿を戀るなり。
 
大納言大伴卿。和歌二首。
 
(116)574 此間在而《コヽニアリテ》。筑紫也《ツクシヤ》何處《イヅク・イヅコ》。白雲乃《シラクモノ》。棚引山之《タナビクヤマノ》。方西有良思《カタニシアルラシ》。
 
此間在而《コヽニアリテ》は、次の歌に、河内の草香江をよまれつるをもて思へば、いまだ京には入ずして、その道なる、河内にありしほどの歌と見ゆれば、河内にて、筑紫を思ひやりて、よまれつるにて、一首は《(マヽ)》、くまなし。さるを、略解に、京にかへりて後の歌とするはいかゞ。
 
575 草香江之《クサカエノ》。入江二求食《イリエニアサル》。蘆鶴乃《アシタヅノ》。痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》。友無二指天《トモナシニシテ》。
 
草香江之《クサカエノ》。
河内志に、河内郡草香嶺在2伊駒山1、今曰2暗嶺1、御所池在2日下《クサカ》村1。古事記曰、印色入彦命造2日下高津池1、即此。一名|日下衛《クサカヱノ》入江とある、こゝにて、この入江は、このほとり海なき處にて、池の入江なる事、古事記下卷赤猪子が歌に、久佐迦延能伊理延能波知須波那婆知須《クサカエノイリエノハチスハナハチス》云々と、蓮をよめるにてもしらる。こゝは、筑紫より奈良京へ上る道にて、難波より陸路を上りて、草香山をこえて、奈良の京に入なれば、大伴卿、京にいらぬさき、この日下《クサカ》にて、かの池を見てよまれつる也。本集六【廿六丁】超2草香山1時、神社忌寸老麻呂の歌に、難波方潮干乃奈凝委曲見《ナニハガタシホヒノナゴリヨクミテナ》、在家妹之待將問多米《イヘナルイモガマチトハムタメ》。また直超乃此徑爾師弖《タヾコエノコノミチニシテ》、押照哉難波乃海跡名附家良思裳《オシテルヤナニハノウミトナヅケケラシモ》とあるも、難波へ下るとて、草香山をこえしにて、こゝと同じ道の序なれば、こゝの草香江も河内國河内郡にて、奈良路なる事明らかなり。古事記中卷に、日下之蓼津《クサカノタデツ》とあるも、書紀神武紀に、河内國草香邑とあるも、今は和泉國大鳥郡【靈龜二年四月、河内國の大鳥、和泉、、三郡を割て、始て和泉國を置れたれば、其まへは、みな河内國なり。】なるよし、くは(117)しく古事記傳卷十八に弁ぜられしが如く、同國なる物から、處は別なり。さて、まへに引る古事記に造2日下高津池1とあるを、書紀にこは高石池とありて、和泉國大鳥郡に高石神和【式内】高石莊、高師濱などいふがあれば、古事記に高津池とある津は、師の誤りにて、高師池にて、書紀に高石池とあると同じく、和泉の日下なるべきよし、宣長はいはれつれど、書紀に高石池とあるこそ、同じ日下《クサカ》といふ地名あるによりての誤りなるべけれ。【書紀に誤り多き事は學者のしる處なり。】奈良京より難波へ下るにも上るにも、和泉の大鳥郡の地へかゝるべきいはれなければ、こゝの草香江は、河内なる事いちじるし。されば、かの高津池も、赤猪子が歌の久佐迦延《クサカエ》も、河内の日下《クサカ》なる事明らけし。
 
入江二求食《イリエニアサル》。
求食を、あさりとよめるは、義訓なり。七【十四丁】に、求食爲鶴《アサリスルタヅ》云々ともありて、このあさりといふは、鳥獣のうへにいふ時は、食を求る事、人のうへにいふ時は、漁獵する事なり。これらのわかち、上【攷證三上四十六丁】にくはしくいへり。
 
痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》。
痛を、あなと訓るは、義訓なり。上【攷證三中卅丁】に出たり。多豆多頭思《タヅタヅシ》は、此卷【四十七丁】に、夕闇者路多豆多頭四《ユフヤミハミチタヅタヅシ》云々。十一【十二丁】に、飛鶴乃多頭多頭思鴨君不座者《トブタヅノタヅタヅシカモキミシマサネバ》。十五【十二丁】に、多都我奈伎安之敝乎左之弖等妣和多類《タヅガナキアシベヲサシテトビワタル》、安奈多頭多頭志《アナタヅタヅシ》、比等里佐奴禮婆《ヒトリサヌレバ》。十八【十二丁】に、奈都乃欲波美知多豆多都之《ナツノヨハミチタヅタヅシ》云々などありて、つと、ととは、近く通ふ音なれば、たど/\しといふと同じく、源氏物語藤裏葉卷に、なか/\をりやまどはんふぢの花、たそがれ時のたど/\しきに。狹衣物語三下に、たそがれ時のたど/\しきほどにまゐりたまひて云々な(118)どありて、たづ/\しも、たどたどしも、皆、おぼつかなき意也。
 
友無二指天《トモナシニシテ》。
にしてのしもじには心なく、にてといふ意也。この事、上【攷證一下五十五丁】にいへり。一首の意は、その處の地名ながらいひ下して、序歌にて、いまだ旅なれば、友となすべき人もなく、あなおぼつかなといひて、筑紫にて、滿誓など、友とせられし事を、心にこめてよまれたり。
 
太宰帥大伴卿。上v京之後。筑後守葛井連大成。悲嘆作歌一首。
 
葛井連大成、父祖、考へがたし。續日本紀に、神龜五年五月丙辰、授2正六位上葛井連大成、外從五位下1とありて、外に見えず。葛井連の姓は、續日本紀に、養老四年五月壬戌、改2白猪史氏1、賜2葛井連姓1とあり。姓氏録に、葛井宿禰の姓は見えたれど、葛井連は見えず。葛井の訓は、和名抄播磨國郷名に、葛江【布知江】とあれば、ふぢゐと訓べし。
 
576 從今者《イマヨリハ》。城山道者《キノヤマミチハ》。不樂《サブシ・サビシ》牟《ケム》。吾將通常《ワガカヨハムト》。念之物乎《オモヒシモノヲ》。
 
城山道者《キノヤマミチハ》。
城山は、五【十五丁】に、太宰帥大伴卿宅宴梅花歌に、烏梅能波奈知良久波伊豆久《ウメノハナチラクハイヅク》、志可須我爾《シカスガニ》、許能紀能夜麻爾由布波布理都々《コノキノヤマニユキハフリツヽ》。八【廿四丁】大伴坂上郎女思2筑紫大城山1歌に、今毛可聞大城乃山爾《イマモカモオホキノヤマニ》云々とありて、三代實録に、貞觀八年二月十四日、太宰府司於2城山四王院1轉2讀金剛般若經三千卷1云々とあるもこゝ也。筑前續風土記に、御笠郡城山、太宰府の坤の方、(119)山口村の南る高山なり。俗に坊中山といふ。いにしへ、僧坊多かりし故なるべし。日本紀、天智天皇四年八月、筑紫に城を築せ給ふよし見えたり。城の山といふも、城ありし故に名付しならん云々といへり。
 
不樂牟《サブシケム・サビシケム》。
さぶしといふ事は、上【攷證二下五十九丁】にいへるが如く、心すさまじく、なぐさめがたき意也。
 
吾將通常《ワガカヨハムト》。
筑後守、國府の館より、太宰府なる大伴卿のもとに、ゆきかよはんと思ひしものを、京に上り給ひしと也。一首の意は明らけし。
 
三の卷を考證しをはりつる、文政八年九月九日を、きのふといふ日より、本集一部を類字する事にかゝりて、しばらく筆を置つるが、ことし文政九年八月朔日に、類字終りつれば二日より筆を取て、此卷【四上】を終りつるは、九月十二日になん。
                    岸本由豆流
                      (以上攷證卷四上册)
 
(120)大納言大伴卿。新袍贈2攝津大夫高安王1。歌一首。
 
新袍は、あたらしきうへの衣なり。和名抄衣服類に、袍、和名宇倍乃岐沼。一云2朝服1と見えたり。攝津大夫は、職員令に、攝淨職、大夫一人云々とあり。高安王は、紹運録を考ふるに、長親王の孫にて、川内王の子なり。續日本紀に、和銅六年正月丁亥、授2旡位高安王、從五位下1。養老元年正月授2從五位上1。三年七月庚子始置2按察使1、令3伊豫國守從五位上高安王管2阿波、讃岐、土佐、三國1。五年正月壬子授2正五位下1。神龜元年二月壬子授2正五位上1。四年正月庚子授2從四位下1。天平四年十月丁亥爲2衛門督1。九年九月己亥授2從四位上1。十一年四月甲子、詔曰、省2從四位上高安王等、去年十月二十五日表1、具知2意趣1。王等謙冲之情、深懷v辭v族、忠誠之至、厚在2慇懃1、顧思所v執、志不v可v奪。今依v所v請、賜2大原眞人之姓1。十二年十一月甲辰授2正四位下1。十四年十二月庚寅大原眞人高安卒とあり。
 
577 吾衣《ワガキヌヲ》。人莫著曾《ヒトニナキセソ》。網引爲《アビキスル》。難波壯士乃《ナニハヲトコノ》。手爾者雖觸《テニハフルトモ》。
 
吾衣《ワガキヌヲ》。
わがおくりし衣を也。
 
難波壯士乃《ナニハヲトコノ》。
難波の男にて、漁父をいへり。ちぬをとこ、うなひをとこ、はつせをとめ、あづまをとめなどの類なり。一首の意は、今、わがおくる衣を、みだりに、(121)人にきする事なかれ。御心にかなはで、よしや、そのほとりの賤き漁父の手にわたしたまふとも、といふにて、謙退の意こもれり。さて、宣長は、雖の下、不の字脱たるか。しからば、てにはふれずとも(と、脱カ)訓べし。三四の句は、高安王をたはぶれていへる也云々。この説のごとくすれば、一首のうへ、いとおもしろけれど、今は、まゝにても聞ゆまじきにあらず。
 
大伴宿禰三依。悲別歌一首
 
上【攷證四上四十九丁】に出たり。悲別は、家をわかるゝをりの悲別なり。
 
578 天地與《アメツチト》。共久《トモニヒサシク》。住波牟等《スマハムト》。念而有師《オモヒテアリシ》。家之庭羽裳《イヘノニハハモ》。
 
天地與《アメツチト》。
限りなく久しきをいへり。二【廿九丁】に、天地與共將終登念乍《アメツチトトモニオヘムトオモヒツヽ》、奉仕之情違奴《ツカヘマツリシコヽロタガヒヌ》とあるも、天地を久しきたとへにとれり。
 
住波牟等《スマハムト》。
すまんといふを延たる言也。上【攷證二中五十六丁】に出たり。
 
家之庭羽裳《イヘノニハハモ》。
こゝに、家とあるは、京の家にて、外吏になりて任所へ往に、家のわかれををしめるなるべし。略解に、太宰の任中の屋の庭を、上京の時よめるか云々といひしは、たがへり。いづくの任にまれ、任は限りあるものにて、そのかぎりの中さへ、故郷の父母妻子に、とくあはんと思ひて、かへらまほしく思ふは、人情の常にて、集中の歌にも、そ(122)のよしよめるが多かるものを、いかに、任所に、天地とゝもに久しくあらん事を願ふものあるべき。されば、この家といふは、京の家なる事明らけし。羽裳《ハモ》は詞、もは助字にて、はとのみいひて、下へ意をふくめたる也。この事、上【攷證二中四十九丁】にいへり。さて、一首の意は、限りなく久しく住はんと、常は思ひて住わたりしものを、他國の任にあたりて、今わかれゆくが、そのあとにて、家も庭も、いかにあれゆくらん。人世不定なるものなれば、又かへりて見ん事も、たのまれずといふ意也。
 
金明軍。與2大仲宿禰家持1歌二首。
 
金は氏、明軍は名なる事、上【攷證三上七十九丁】にいへり。この金明軍は、三【五十三丁】大伴【旅人】卿薨時の歌の左注に仕人金明軍とあれば、家持卿の父、旅人卿へ、公より給はりたる仕ひ人にて、家持卿より見れば、賤しき者なるが、歌を家持卿へ贈るを、與《アタフ》とはいふべからず。されば、思ふに、眞淵の考の別記にくはしくいはれつるが如く、この四の卷も、家持卿の書集められしものなれば、われより賤しきものゝ贈りしをも、自らのうへなれば、與ふとかゝれつるならん、と思ひしは猶あしかりけり。この下に、人より家持卿に贈りしを、贈としるしたる所もいくらもありて、家持卿より人に贈らるゝを與と書し所もあれば、たゞ、尊卑のわかちなく、贈とも與ともしるしゝものと見えたり。されど、與といふは、二【卅九丁】に、若兒乃乞泣毎取與物之無者《ミトリコノコヒナクゴトニトリアタフモノシナケレバ》云々。爾雅釋詁注に、與、猶v予也。荀子富國篇注に、與謂2賜與1などありて、必らず、吾より下ざまにいふことなれば、こゝには叶ひがたし。
 
(123)579 奉見而《ミマツリテ》。未時太爾《イマダトキダニ》。不更者《カハラネバ》。如年月《トシツキノゴト》。所念君《オモホユルキミ》。
 
奉見而《ミマツリテ》。
見たてまつりてといふ意にて、たてまつるを、まつるとのみいへる事、上【攷證一下九丁】にいへり。
 
不更者《カハラネバ》。
ねばは、上【攷證下卅丁】にいへるが如く、ぬにの意にて、一首の意は、君を見奉りて、いまだ時もかはらぬに、年月をへしごとく、戀しく思はるゝ君かもといふ也。
 
580 足引乃《アシビキノ》。山爾生有《ヤマニオヒタル》。菅根乃《スガノネノ》。懃見卷《ネモゴロミマク》。欲君可聞《ホシキキミカモ》。
 
菅根乃《スガノネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくわ《(マヽ)》し。菅の根は、繁く凝たるものなれば、根も凝《コリ》の意につゞけしなり。集中、蘆松楊などより、ねもころとつゞけしも、皆この意なり。
 
懃見卷《ネモゴロミマク》。
懃といふことは、上【攷證二下四十二】にいへるが如く、一方《ヒトカタ》ならずといふ意にて、一首の意は、序歌にて、一方ならず、見まくほしき君かもといへる也。
 
大伴坂上家之大娘。報2贈大伴宿彌家持1歌四首。
 
大伴坂上家之大娘は、下【五十四丁】の左注に、右田村大孃、坂上大孃、并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1、號曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者、母居2坂上里1、仍曰2坂上大孃1とありて、母は坂上郎女なり。姉田村大孃は、駿河麻呂の得られて、妹坂上大孃は、家持卿の得られし事、集中の歌にてしらる。さて、集中、坂上大孃とのみありて、大娘とあるはこゝのみ也。韻會に、娘(124)同v孃、少女之號とあれば、いづれにてもありなん。既に目録には、こゝも大孃とあり。
 
581 生而《イキテ》有《アラ・アレ》者《バ》。見卷毛不知《ミマクモシラズ》。何如毛《ナニシカモ》。將死與妹常《シナムヨイモト》。夢所見鶴《イメニミエツル》。
 
生而《イキテ》有《アラ・アレ》者《バ》。
生きてながらへあらばの意也。
 
見卷毛不知《ミマクモシラズ》。
この不知を、略解には、しらにと訓り。不知を(とカ)書るをも、必らや、しらにと訓べきことゝのみ心得るは、くはしからず。こゝの如く、いひ切る所をば、しらずと訓べき例なり。そは一【八丁】に、晩家流和豆肝之良受《クレニケルワヅキモシラズ》云々。五【五丁】に、世武須弊斯良爾《セムスベシラニ》、石木乎母刀比佐氣斯良受《イハキヲモトヒサケシラズ》云々。二十【十丁】に、情母之良受《コヽロモシラズ》云々。また【四十三丁】由久左伎之良受《ユクサキシラズ》云々などあるにてしるべし。
 
將死與妹常《シナムヨイモト》。夢所見鶴《イメニミエツル》。
この與《ヨ》もじは、呼出すことばにて、此卷【四十四丁】に、今者吾波將死與吾背《イマハワハシナムヨワガセ》云々。十二【四丁】に、今者吾者將死與吾妹云《イマハワハシナムヨワギモ》々などありて、この與もじ、集中にも、後の歌にも、いと多し。さて、一首の意は、代匠記【流布の本】に、いまこそ逢がたけれ、かたみにながらへてあらば、又あひみんもしられぬを、などか吾夢に君が入來て、かくあはであらんよりは、こひしなんと、見えつらんとよめり云々といはれつるが如し。
 
(125)582 丈夫毛《マスラヲモ》。如此戀家流乎《カクコヒケルヲ》。幼婦《タワヤメ・タヲヤメ》之《ノ》。戀情爾《コフルコヽロニ》。比有《タグヘラ・ナラバラ》目八方《メヤモ》。
 
如此戀家流乎《カクコヒケルヲ》。
かくのごとく戀けるものをといふ意にて、乎《ヲ》は、ものをの意也。この事、上【攷證三上九丁】にいへり。
 
幼婦《タワヤメ・タヲヤメ》之《ノ》。
たわやめとは、よわく、なよ/\としたる事にて、女はつよからぬをよしとする故、人よりもいひ、みづからもいふ也。この事、上【攷證三中五十九丁】にいへり。幼婦と書るは義訓也。下【卅四丁】にも見えたり。
 
比有《タグヘラ・ナラバラ》目八方《メヤモ》。
十七【卅一丁】に、妹毛吾毛《イモモワレモ》、許己呂波於夜自《コヽロハオヤシ》、多具敝禮登《タグヘレド》云々ともありて、この(前カ)歌に、夢に見えて死んよいもとゝいひしを受てよめるか。又は、いたく戀るよし、いひおくられしをり、よめるか。いづれにまれ、一首の意は、丈夫だにも、しかのたまふ如く、戀けるものを、まして、女の思ふ心はいかならん。とても、とても、女の思ふ心には、類およびたまはじといふ也。
 
583 月草之《ツキクサノ》。徙安久《ウツロヒヤスク》。念可母《オモヘカモ》。我念人之《ワガオモフヒトノ》。事毛告不來《コトモツゲコヌ》。
 
月草之《ツキクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。月草と書るは借字にて、本草和名に、鴨頭草、和名、都岐久佐とあり。この花、朝咲て夕べはしぼみ、また、衣に摺つけても、色のうつ(126)ろひやすきものなれば、人の心の移ろひやすきにたとへたり。之《ノ》は如くの意なり。
 
徙安久《ウツロヒヤスク》。
印本、徙を徒に誤れり。誤りなる事、明らかなれば、意改せり。説文に、徙移也と見えたり。こは、心のうつりやすきをいふ。ろひの反りなり。
 
念可母《オモヘカモ》。
おもへばかもといふ意なるが、例のはを略ける也。君は心のうつりやすへ(くカ)おもほせかば(ばかカ)、おとづれもなく、何ごとをも告きたらずとなり。
 
584 春日山《カスガヤマ》。朝立雲之《アサタツクモノ》。不居日無《ヰヌヒナク》。見卷之欲寸《ミマクノホシキ》。君毛有鴨《キミニモアルカモ》。
 
朝立雲之《アサタツクモノ》。
春日山より、朝ごとに立出るくものといふ也。
 
見卷之欲寸《ミマクノホシキ》。
この之《ノ》もじは、用語よりうけて、かろく添たるにて、一つの格なり。上【攷證三中八十五丁】にいへり。十【十五丁】に、見卷之欲君之容儀香《ミマクノホシキキミガスガタカ》。廿【四十六丁】に、美麻久能富之伎吉美爾母安流加母《ミマクノホシキキミニモアルカモ》などありて、集中、猶あり。一首の意は、春日山に、朝立出る雲のたなびき居ぬ日なきが如く、日ごとに見まくほしき君かもといへるなり。
 
大伴坂上郎女歌一首。
 
585 出而將去《イデテイナム》。時之波將有乎《トキシハアラムヲ》。故《コトサラニ》。妻戀爲乍《ツマコヒシツヽ》。立而可去哉《タチテイヌベシヤ》。
 
(127)時之波將有乎《トキシハアラムヲ》。
之《シ》は助辭也。おのれ、はじめに思ふには、下【攷證此卷】にいへるが如く、集中、之のを訓で、たゞ助字におく事あれば、こゝも、之もじをのぞきて、ときはあらんをと訓んかとも思ひしはあしかりけり。十七【廿一丁】に、奈爾之加母時之波安良牟乎《ナニシカモトキシハアラムヲ》云々ともあれば、之もじ訓べき事明らけし。乎は、ものをの意也。
 
故《コトサラニ》。
遊仙窟にも、故を、ことさらにと訓り。本集十【卅五丁】に、事更爾衣者不摺《コトサラニコロモハスラジ》云々ともありて、俗にいはゞ、もとめてといふ意なり。
 
妻戀爲乍《ツマコヒシツヽ》。
妻とは、男のうへにつきて、自らをいへり。一首の意は、男の遠き所なへて(どへカ)出たつ時の歌にて、出て行べき時もこそあれ、今、われを思ひ、戀ふといひつゝ、もとめて出立べしやは、出立べきにはあらずと也。
 
大伴宿禰稻公。贈2田村大孃1歌一首。
 
稻公、まへに出たり。田村大孃は、大伴宿奈麿卿の女にて、坂上大孃の姉なり。上【攷證此卷三丁】に出たり。
 
586 不相見者《アヒミズバ》。不戀有益乎《コヒザラマシヲ》。妹乎見而《イモヲミテ》。本名如此耳《モトナカクノミ》。戀者《コヒバ》奈何《イカニ・イカヾ》將爲《セム》。
 
本名と書るは借字にて、この言は、上【攷證二下七十五丁】にあげたる宣長の説の如く、みだりにといふ意にて、一首の意は、はじめよりあひ見ずば、かくの如く戀ざらましものを、君を見そめてよく、(り(128)カ)みだりに、かくばかり戀ば、行末いかにかせましといふ也。
 
右一首。姉坂上邸女作。
 
この左注、いかなる事ぞ。略解に、首は云の誤りなるべし云々といへり。猶心得ず。いかにとなれば、姉はあね也。坂上郎女は、宿奈麿卿の後妻なれば、田村大孃のためには、繼母か、實母かは、しりがたけれど、いづれにまれ、母なるを、姉と書るは誤り也。されば、この左注などは、とるにもたらぬ後人のしるしたるなり。(頭書、又考るに、姉は稻公の姉といふことか。さらばよしされど、歌は專ら戀の歌にて、男より女におくれるなり。)
 
笠女郎。贈2大伴宿禰家持1歌廿四首。
 
笠女郎、父祖、考へがたし。三【四十一丁】にも、家持卿へ贈る歌見えたり。その所【攷證三中八十丁】にいへり。
 
587 吾形見《ワガカタミ》。見管之《ミツヽシ》努《ヌ・ノ》波世《バセ》。荒珠《アラタマノ》。年之緒長《トシノヲナガク》。吾毛將思《ワレモオモハム》。
 
見管之《ミツヽシ》努《ヌ・ノ》波世《バセ》。
世は、せよと云ふ意にて、下知也。上【攷證一下四十三丁】にいへり。
 
(129)年之緒長《トシノヲナガク》。上【攷證三四十五丁】に出たり。たゞ、年長くといふ意也。こは、何ぞ形見のものを贈りたるをりの歌にて、一首の意は、このわが形見を見つゝ思ひたまへ。われも、年長く、かはる事なくおもはんと也。
 
588 白鳥能《シラトリノ》。飛羽山松之《トナヤママツノ》。待乍曾《マチツヽゾ》。吾戀度《ワガコヒワタル》。此月比乎《コノツキゴロヲ》。
 
白鳥能《シラトリノ》。
枕詞なり。つゞけがらは冠辭考にいは(れ脱カ)しが如く、白鳥の飛《トブ》といふ、ぶをばに轉じて、飛羽《トバ》とはつゞけしなり。さて、白鳥《シラトリ》は、九【十丁】に、白鳥鷺坂山《シラトリノサギサカヤマ》云々ともつづけ、毛詩振鷺傳に、鷺白鳥也。疏に、言亦斯客則義取2潔白1。故云2白鳥1也云々。後漢書蔡〓傳注に、鷺白鳥也云々。本草綱目鷺釋名に、鷺鶯絲禽雪客春鋤白鳥ともあれば、鷺をいふなる事明らかなり。書紀、仲哀天皇元年紀に、詔2群臣1曰、朕未v逮2于弱冠1、而父王既崩之。乃神靈化2白鳥1上v天、仰望之情、一日勿v息。是以冀獲2白鳥1養2之於陵|城《(マヽ)》之池1。因以覩2其鳥1、欲v慰2顧情1。則令2諸國1、俾v貢2白鳥1。閏十一月乙卯朔戊午、越國貢2白鳥四隻1云々とあるも、陵の域の池に養ふなどあれば、鷺なるべし。さて、この日本武尊の白鳥となりて飛去たまふ事を、古事記には、於是化2八尋|白智鳥《シラチトリ》1翔v天、而向v濱飛行云々とありて、この時の后御子たちの御歌にも、波麻都知登理《ハマツチドリ》云云とありながら、陵の名をば白鳥御陵とありて、また出雲國造神賀詞に、白鵠乃生御調《シラトリノイクミツキ》とある鵠は、くゞひといふ鳥にて、今これを俗に白鳥《ハクテウ》ともいへば、これ、かれ、まぎらはしき故に、宣長も定めかねられつれど、上にいへるが如く、漢土にまでも明らかなる證、これ、かれ、あるうへ(130)は、白鳥は鷺と定めんに、何ごとかあらん。されば、白鳥といふは鷺の名なれども、千鳥【ちどりは一つの鳥の名ならざる事、攷證三上三十六丁にいへり。】の中にも白きが多く、鵠は本より白き鳥なれば、これらをも、その色につきて、しらとりとはいふなるべし。
 
飛羽山松之《トバヤママツノ》。
大和志に、添上郡鳥羽山、奈良坂村北、鳥羽谷上方、山連溪淺、還有2幽致1とある、こゝなり。
 
此月比乎《コノツキゴロヲ》。
此卷【四十九丁】に、此月期呂毛有勝益士《コノツキゴロモアリガテマシヲ》云々。八【卅九丁】に、此月其呂波落許須莫湯目《コノツキゴロハチリコスナユメ》云々などありて、一首の意は、今、目前の地名をいひながら、序歌にて、いまや君が來ますと、この月ごろを待つゝ戀わたるかもとなり。
 
589 衣手乎《コロモデヲ》。打《ウチ》廻《マ・ワ》乃里爾《ノサトニ》。有吾乎《アルワレヲ》。不知曾人者《シラズゾヒトハ》。待跡不來家留《マテドコズケル》。
 
衣手乎《コロモデヲ》。
枕詞にて、冠辭考にくわし。衣をうつとつゞけしなり。
 
打《ウチ》廻《マ・ワ》乃里爾《ノサトニ》。
眞淵は、打廻の里は、大和の神なびの邊りかといはれつれど、一首のうへにて見るに、名所にあらず。宣長云、打廻里の打は折の誤りにて、をりたむさとゝ訓べし。をりたむとは、道を折まはれば至る里にて、いと近きよし也。乃の字は、訓を誤りて、傍につけたるが、本文になれるならん。十一の卷の、打廻前も同じく、打は折の誤りにて、(131)をりたむくまなるべし云々といはれつれど、この説も、例の文字を改る説なれば、みだりにはうけがたし。予案るに、打は借字にて、内の意。内は外に向へていふ言なれば、おのづからに、近き意あり。廻は、まと訓て、ほとりの意なる事、上【攷證一下十四丁】にいへるが如くなれば、この打廻の里は、近きほとりの里といふ意なるべし。また十一【卅四丁】に、神名火打廻前乃石淵《カミナビノウチマノクマノイハフチノ》云々とあるも、神名火の近きほとりの阿といふ意として、きこえたり。
 
待跡不來家留《マテドコズケル》。
集中、ずける、ずけり、ずけん、ずけれなどいふは、みな、ざりける、ざりけり、ざりけん、ざりけれなどの意なり。そは、三【卅二丁】に、醉泣爲爾尚不如來《ヱヒナキスル〓ナホシカズケリ》。此卷【卅七丁】に、寢不所宿家禮《イネラエズケレ》。十【卅七丁】に、未開家類《イマダサカズケル》。十七【四十七丁】に、母等米安波受家牟《モトメアハズケム》などありて、集中猶いと多し。さて、一首の意は、この近きほとりの里に、わがありといふ事をもしらでぞ、人はまでども、こざりけんとなり。
 
590 荒玉《アラタマノ》。年之經《トシノヘ》去《ヌレ・ユケ》者《バ》。今師波登《イマシハト》。勤與吾背子《ユメヨワガセコ》。吾名《ワガナ》告《ノラ・ツケ》爲莫《スナ》。
 
今師波登《イマシハト》。
師は助辭なり。此卷【五十四丁】に、今時者四《イマシハシ》云々とあるしもじも、二つながら助辭なり。
 
勤與吾背子《ユメヨワガセコ》。
勤《ユメ》は禁止する詞にて、つとめて、つゝしめといふ意もて、勤と書る事、上【攷證一下六十二丁】にいへるが如し。與は呼出す詞なる事、まへにいへり。一首の意は、(132)たがひに、かく逢そめてより、もはや年のへぬるに、心ゆるみで、今は人にいふとも、さはりあらじなど思ひて、みだり(に、脱カ)人にうちあくる事なかれ。つとめて、吾名をのたまふ事なかれとなり。
 
591 吾念乎《ワガオモヒヲ》。人爾令知哉《ヒトニシラセヤ》。玉匣《タマクシゲ》。開阿氣津跡《ヒラキアケツト》。夢西所見《イメニシミユル》。
 
人爾《ヒトニ》令知《シラセ・シラス》哉《ヤ》。
人にしらせばやといふ意なるが、ばを略けるにて、おもへや、こふれやなどのやと同じ。
 
玉匣《タマクシゲ》。
玉は、例のものほむる詞。匣は櫛笥也。上【攷證四上卅一丁】に出たり。
 
夢西所見《イメニシミユル》。
櫛笥を開くと夢に見れば、戀のあらはるゝよしの傳へ、ありしなるべし。この下に、劔太刀身爾取副常夢見津《ツルギタチミニトリソフトイメニミツ》、何如之怪曾毛《ナニノサカゾモ》、君爾相爲《キミニアハムタメ》とあるも、この類なり。漢土にも、占夢官を置れし事、周禮に見え、また、何を夢に見れば、何の兆なりといふ事、夢書に定めあれば、中國のみの事にあらず。さて、一首の意は、わがこひ思ふ心を、君が人にしらせやしつらん。夢に匣をひらきあけたりと見つるは、といふ也。
 
592 闇《ヤミノ・クラキ》夜爾《ヨニ》。鳴奈流鶴之《ナクナルタヅノ》。外耳《ヨソニノミ》。聞乍可將有《キキツツカアラム》。相跡羽奈之爾《アフトハナシニ》。
 
(133)闇夜爾は、やみのよにと訓べし。二十【四十三丁】に、夜未乃欲能由久佐伎之良受《ヤミノヨノユクサキシラズ》云々とあり。一首の意は、闇夜に鳴鶴のかたちは見えずして、聲のみ聞ゆるが如く、たゞに相ことはなくて、よそにのみ聞つゝかあらんとなり。
 
593 君爾戀《キミニコヒ》。痛《イタ・イト》毛爲便無見《モスベナミ》。楢山之《ナラヤマノ》。小松《コマツガ》下《モト・シタ》爾《ニ》。立嘆鴨《タチナゲクカモ》。
 
痛毛爲便無見《イタモスベナミ》。
いたもすべなみと訓べき事、上【攷證三下四十丁】にいへり。痛と書るは借字、甚の意にて、いたくもすべなさにといふ也。
 
楢山之《ナラヤマノ》。
楢と書るは借字、奈良也。こは奈良の京近きほとりなり。上【攷證一上四十七丁】に出たり。
 
小松下爾《コマツガモトニ》。
下を、したと訓るは非なり。もとゝ訓べし。そは、一【十一丁】に、五可新何本《イツカシガモト》云々。六【卅七丁】に、橘本爾道履《タチバナノモトニミチフミ》云々。十六【十八丁】に、棗本《ナツメガモト》云々。また【卅丁】伊智比可本爾《イチヒガモトニ》云々などあるにて、しるべし。
 
立嘆鴨《タチナゲクカモ》。
代匠記に引る幽齋本、考異本に引る異本などに、鴨を鶴に作るもあしからねど、鴨《カモ》にても聞ゆ。一首の意は、君に戀て、いたくもせんかたなさに、近きほとりの、奈良山の、小松がもとに、立てなげくぞとなり。
 
(134)594 吾屋戸之《ワガヤドノ》。暮陰草乃《ユフカゲクサノ》。白露之《シラツユノ》。消蟹本名《ケヌガニモトナ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
暮陰草乃《ユフカゲクサノ》。
こは、一つの草の名。水陰草の類にて、物の陰に生たる草也。白露といはんとて、陰草とはいへるにて、物の陰に生たる草は、露のひるまもあるまじきに、まして夕は露けきものなれば、暮陰草とはいへるにて、ゆふべの陰草なり。夕影の草にはあらず。【暮陰とは、日のくれんとするかげ也。この事に下攷證八下□□にいふべし。】十【四十一丁】に、影草乃生夕屋戸之暮陰爾《カゲクサノオヒタルヤドノユフカゲニ》、鳴蟋蟀者雖聞不足可聞《ナクコホロギハキケドアカヌカモ》など、暮陰といひて、また影草ともいへるにて、陰草の陰は、夕影の影とは別なるをしるべし。また、十【廿六丁】に、天漢水陰草《アマノカハミヅカゲクサノ》云々、十二【三丁】に、山河水影生山草《ヤマカハノミカゲニオフルヤマクサノ》云々などもあり。
 
消蟹本名《ケヌガニモトナ》。
消《ケ》ぬは、露の消《キユ》るによそへて、いのち死《シナ》ん事をいへり。この例、集中にもいと多く、あぐるにいとまなし。蟹《カニ》と書るは借字にて、詞なり。こは、上【攷證三中八十七丁】にいへるが如く、爲に、故などいふ意にて、こゝは、爲にといふ意なり。本名は、上【攷證二下七十五丁】にいへるが如く、みだりにといふ意にて、一首の意は、序歌にて、吾やどの物のかげに生る草に、夕べになれば、いとゞ、猶、露のおける、その露の消るが如く、命も消うせぬべく、みだりにも、君をおもほゆるかもといふ意なり。
 
595 吾命之《ワガイノチノ》。將全幸限《マタケムカギリ》。忘目八《ワスレメヤ》。彌日異者《イヤヒニケニハ》。念益十方《オモヒマストモ》。
 
將全幸限《マタケムカギリ》。
この訓、定めがたし。契沖は、まさけんかぎりと訓れたり。まさけんと訓るは、三【廿二丁】に、吾命之眞幸有者《ワガイノチノマサキクアラバ》云々とあるによりて、全幸の幸の字を主とする也。ま(135)たけんと訓るは、十二【六丁】に、信吾命全有目八目《マコトワガイノチマタカラメヤモ》。十五【卅三丁】に、伊能知乎之麻多久之安良婆《イノチヲシマタクシアラバ》云々とあるによりで、全の字を主とする也。かくの如く、いづれにも證あれば、定めがたけれど、元暦本に、幸を牟に作りたるを見れば、またけんとよまん方まされり。
 
彌日異者《イヤヒニケニハ》。
上【攷證三下五十八丁】にいへるが如く、彌は、ものゝいへ(やカ)がうへに重なる意。日異《ヒニケニ》は、日々にといふことにて、一首は、吾命の全くつゝがなくあらんかぎりは、わするることはあらじ。日をへつゝ、いやがうへに思ひまさるとも、わするゝことはあらじといへる也。
 
596 八百日往《ヤホカユク》。濱之《ハマノ》沙《マナゴ・マサゴ》毛《モ》。吾戀二《ワガコヒニ》。豈不益歟《アニマサラメカ》。奧島守《オキツシマモリ》。
 
八百日往《ヤホカユク》。
八百の八は、彌《イヤ》の意にて、八百萬神などいふ八百と同じく、たゞ數の多きをいへり。漢土にて、十日に行道を十日行といひ、百日に行道を百日行といへると同じく、こゝは、いく百日も經て行ばかり長き濱をいへり。
 
濱之《ハマノ》沙《マナゴ・マサゴ》毛《モ》。
沙を、諸訓、みな、まさごとよみ、拾遺集にも、六帖にも、まさごとして載られつれど、まさごといふは、古今集序に、濱のまさごはよみつくすともとあるより古くは、物に見えず。書紀孝照(昭カ)紀に、畝傍山南繊沙谿上陵とあるを、古事記には、御陵在2畝火山之眞名子谷上1也とあれば、繊沙を、まなごと訓べき證なり。本集七【卅九丁】に、名高浦之愛(136)子地《ナタカノウラノマナゴチニ》云々。十四【七丁】に、余呂伎能波麻乃麻奈胡奈須《ヨロキノハマノマナゴナス》云々。和名抄巖石類に、繊沙、萬奈古とあれば、沙は、まなごと訓べし。
 
豈不益《アニマサラメ》歟《カ・ヤ》。 
書紀、仁徳紀御歌【皇后】に、阿珥豫區望阿羅孺《アニヨクモアラズ》。本集三【卅二丁】に、獨酒爾豈益目八《ニゴレルサケニアニマサラメヤ》。また情乎遣爾豈若目八目《ココロヲヤルニアニシカメヤモ》。十六【十丁】に、豈藻不在自身之柄《アニモアラズオノガミノカラ》云々。續日本紀、天平寶字八年九月詔に、政乎行仁豈障倍岐物仁方不在《マツリコトヲオコナフニアニサハルベキモノニハアラズ》云々など見えたり。こは、唐韻に、豈、曾也とある意にて、かつてといふ意也。さて、不益歟を、略解には、まさらじかと訓り。いかにも文字につきて訓ときかば、しか訓べきなれど、さては、一首の意、解がたし。こは、不益歟《マサラメカ》、まさりはせずといふ意もて書る所なれば、不益の字をまさらめと訓べし。歟は、問かくるやと同じく、島守に疑ひて問ふ詞なり。
 
奧島守《オキツシマモリ》。
島守は、野守、山守の類にて、島を守り預る人をいふ。七【廿五丁】二十【卅六丁】などに、島守とあるは、筑紫の防人《サキモリ》をいひて、さきもりと訓べきなれば、こゝのしまもりは、すこし異なり。わが戀のしげきを、島守に問ふなど、歌のうへなれば也。さて、一首の意は、日を經て行ばかり長き濱の沙《マナゴ》の數のしげさも、わが戀のしげさには、かつてまさりはせじを、島守はいかに見るぞと問かくる意にて、土佐日記に、わがゝみの雪と、いそべのしらなみと、いづれまされり、おきつしまもり、かぢとりいへ云々とあるも似たり。
 
597 宇都蝉之《ウツセミノ》。人目乎繁見《ヒトメヲシゲミ》。石《イハ・イシ》走《バシノ》。間近君爾《マヂカキキミニ》。戀度可聞《コヒワタルカモ》。
 
(137)石走《イハバシノ》は、枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】に出たり。一首の意は、人目のしげさに、間近き所にある君にも、戀わたるかもといひて、間近ものから、相がたきをいへり。
 
598 戀爾毛曾《コヒニモゾ》。人者死爲《ヒトハシニスル》。水瀬河《ミナセガハ》。下從吾痩《シタユワレヤス》。月日異《ツキニヒケニ》。
 
戀爾毛曾《コヒニモゾ》。
毛曾は、もとその重なりたる也。この事、上【攷證二下七丁】にいへり。
 
人者死爲《ヒトハシニスル》。
死爲《シニスル》は、十二【十丁】に、各寺師人死爲良思《オノガジヽヒトシニスラシ》云々。十六【廿三丁】に、海哉死爲流《ウミヤシニスル》、山哉死爲《ヤマヤシニスル》云々などありて、死る意也。しにせめ、しにせんなどいふも同じ。
 
水瀬河《ミナセガハ》。
略解に、水の下、無の字の落たるか云々といへれど、水底《ミナソコ》、水沫《ミナハ》、水霧相《ミナキラフ》、水戸《ミナト》などの例あれば、水を、みなと訓ん事、論なし。さて、このみなせ川は、地名にあらず。十一【卅四丁】に、言急者中波余騰益水無河絶跡云事乎有超名湯目《コチタクハナカハヨトマシミナセガハタユトイフコトヲアリコスナユメ》。【この水無河とあるをば、みなしがはと訓べきよし、宣長いはれつれど、まへに度々いへるが如く、集中、添訓の例めれば、瀬はそへてよむべし。】また【四十五丁】浦觸而物者不念《ウラブレテモノハオモハジ》、水無瀬川《ミナセガハ》、有而毛水者逝云物乎《アリテモミヅハユクトイフモノヲ》。古今集戀二【友則】ことにいでゝいはぬばかりぞ、みなせ川、下に通ひて戀しきものを。また、戀五【よみ人しらず】に、あひみねば戀こそまされ、みなせ川、なにゝふかめて思ひそめけん。また【よみ人しらず】みなせ川ありてゆく水なくばこそ、つひにわが身をたえぬとおもはめなどありて、宣長の玉勝間に、いにしへ、みなせ川といひしは、一つの川の名にはあらず。いづれにまれ、水のなき川といふことにて、あるは、砂の下を水はとほりて、うはべには水なき川をもいへり。しかるに、山崎のあなたなるは、古へは山崎川とも立田川ともいへりしにて、みなせ川といふは、古今集などのころよりは後の名(138)也。そは、類聚國史に、延暦、弘仁のころ、天皇、水成野《ミナシノ》に遊獵有し事、たび/\見えて、水成《ミナシ》村ともあり。すなはち、今の水無瀬なり。然れば、この地名によりて、後に、かの川の名にもなれるなりけり云々といはれつるが如し。
 
下從吾痩《シタユワレヤス》。
十一【八丁】に、隱沼從裏戀者《コモリヌノシタユコフレバ》云々。また【卅五丁】埋木之下從其戀《ウモレギノシタユゾコフル》云々。十二【廿丁】に、隱沼之下從者將戀《コモリヌノシタユハコヒム》云々。十五【廿八丁】に、之多婢毛能思多由故布流爾《シタヒモノシタユコフルニ》云々。十七【十六丁】に、故母利奴能之多由孤悲安麻里《コモリヌノシタユコヒアマリ》云々など見え、また古事記下卷【黒比賣】歌に、許母理豆能志多用波閇都々《コモリヌノシタヨハヘツヽ》云々とあるも、從《ヨ》v下《シタ》延乍《ハヘツヽ》にて、こゝの意は、うはべには見えず、人しれぬ思ひに戀やするをいひて、從はよりの意也。
 
月日異《ツキニヒニケニ》。
此卷【四十六丁】に、吾者戀益月二日二異二《ワレハコヒマスツキニヒニケニ》。十一【廿二丁】に、戀也度月日殊《コヒヤワタラムツキニヒニケニ》ともありて、日異《ヒニケニ》は、上【攷證三下五十八丁】にいへるが如く、日々にといふ意にて、こゝ《(マヽ)》月々日々にといふ意也。一首の意は、うはべは人に見えざれど、人しれぬ思ひに戀やせて、月々日々に、おとろへゆきぬ。戀にも人は死るものなれば、われも死かもせんといふ意也。
 
599 朝霧之《アサギリノ》。欝相見之《オホニアヒミシ》。人故爾《ヒトユヱニ》。命可死《イノチシヌベク》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
欝相見之《オホニアヒミシ》。
上【攷證二下五十八丁】にいへるが如く、欝は、おほにと訓べし。欝には、おほよそ、大方などいふ意也。
 
(139)人故爾《ヒトユヱニ》。
故爾は、なるものをといふ意なる事、上【攷證一上卅六丁】にいへるが如く、一首の意は、朝ぎりのごとく、たゞ大かたに見し人なるものを、命もしぬべきばかり戀わたるかもといふ意なり。
 
600 伊勢海之《イセノウミノ》。礒毛動爾《イソモトヾロニ》。因流浪《ヨスルナミ》。恐人爾《カシコキヒトニ》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
 
礒毛動爾《イソモトヾロニ》。
古事記上卷に、蹈登杼呂許志《フミトドロコシ》云々。本集六【廿丁】に、宮毛動々爾《ミヤモトドロニ》云々。また【四十三丁】山裳動響爾《ヤマモトドロニ》云々。十一【卅四丁】に、瀧毛響動二《タキモトドロニ》云々。十四【九丁】に、奈美毛登杼呂爾《ナミモトドロニ》云々などありて、集中いと多く、みな、鳴響《ナリヒヾク》をいへり。
 
恐人爾《カシコキヒトニ》。
かしこしといふことは、上にもところ/”\にいへるが如く、本は恐みおほるゝ意なるを、轉じて、かたじけなき意にもいひ、また、こゝなどは、わが思ふあまりに、その人をおそろしきまでに思ふ意にて、浪はかしこきものなれば、上はかしこしといはん序にて、一首の意は、われを思ひなやましむるおそろしき人をも、かくこひわたるかもといへるなり。
 
601 從惰毛《コヽロユモ》。吾者不念寸《アハモハザリキ・ワレハオモハズ》。山河毛《ヤマカハモ》。隔莫國《ヘダヽラナクニ》。如是戀常羽《カクコヒムトハ》。
 
一首の意は、山川もへだゝらず、近き所に居る者なれば、常に逢見んとこそ思ひつれ。山川などへだてたる如く、逢見る事もまれにて、常にかく戀んとは、はじめ、心よりも、おもはざりけり(140)といふにて、不念寸《オモハザリキ》は、中ごろより、おもひきやといふ意也。下にも、この歌と同じすがたなるあり。
 
602 暮去者《ユフサレバ》。物念益《モノオモヒマサル》。見之人乃《ミシヒトノ》。言《コト》問爲形《トフスガタ・トヒシサマ》。面景爲而《オモカゲニシテ》。
 
言《コト》問爲形《トフスガタ・トヒシサマ》。
略解には、ことゝはすさまと訓つれど、宣長の、ことゝふすがたと訓れしによるべし。十一【四十一丁】に、翼酢色乃赤裳之爲形夢所見管《ハネズイロノアカモノスガタイメニミエツツ》とあればなり。ことゝふとは、上【攷證二中四十六丁】にいへるが如く、ものいふことなり。
 
面景爲而《オモカゲニシテ》。
代匠記に引る幽齋本、考異本に引る阿州本など、景を影に作れり。いづれにてもよろし。一首の意は、君が物いふすがたの、おもかげに見えて、夕ぐれにしなれば、もの思ひのまさるとなり。
 
603 念《オモフ・オモヒ》西《ニシ》。死爲物爾《シニスルモノニ》。有麻世波《アラマセバ》。千遍曾吾者《チタビゾワレハ》。死變益《シニカヘラマシ》。
 
念西《オモフニシ》。
にしのしは助辭なり。
 
有麻世波《アラマセバ》。
ませばは、ましかばの約りなる事、上【攷證一下五十八丁】にいへるが如し。
 
(141)死變益《シニカヘラマシ》。
十一【五丁】に、戀爲死爲物有者我身千遍死反《コヒスルニシニスルモノニアラマセバワガミハチタビシニカヘラマシ》とあるは、專らこの歌と同じ。このしにかへるといふ言は、宇都保物語樓上卷に、しにかへり、思ひそめにし世の中のあかぬことこそあはれなりけれ。源氏物語夕顔卷に、しにかへり、思ふ心はしり給へりや云々。狹衣物語二卷に、しにかへり、まつにいのちぞたえぬべき、なか/\なにゝたのめそめけんなどもありて、きえかへり、わきかへり、しみかへりなどいふ、かへりと同じく、みな、その事の甚しきをいふことにて、たとはゞ、物を染るに、一入そめしはうすく、いく度もかへし染れば、その色濃きが加く、死かへりは、死ては生、死ては生て、いく度も生かへり死かへりするをいへり。されば、千遍曾吾者《チタビゾワレヘ》とはつゞけし也。さて、一首の意は、もし人を戀思ふにも死る物ならましかば、千遍も死かへり、生かへり、しなましとなり。
 
604 釼太刀《ツルギタチ》。身爾取副常《ミニトリソフト》。夢見津《イメニミツ》。何如之《ナニノ》怪《シルシ・サトシ》曾毛《ゾモ》。君爾相爲《キミニアハムタメ》。
 
釼太刀《ツルギタチ》。
こゝは枕詞にあらず。劔太刀とは、劔の太刀といふ意にて、つるぎとは、刃の利《ト》きをいふ言なる事、古事記傳卷九にくわ《(マヽ)》しくいはれつるが如く、つるぎたちといふ名は、たゞ利《ト》き太刀といふ意なり。
 
何如之《ナニノ》怪《シルシ・サトシ》曾毛《ゾモ》。
怪を、略解には、さがと訓り。一首の調《シラベ》は、さがと訓る方よろしけれど、かゝる所を、さがといへるは、後の世の言にて、古くは、みな、しるしとい(142)ひし也。されば、しるしと訓べし。しかいふ故は、書紀垂仁紀のはじめに、因2夢祥1以立爲2皇太子1云々。また五年紀に、天皇則寤之語2皇后1曰、朕今日夢矣、銀色小蛇、繞2于朕頸1。復大雨從2狹穗1發、而來之濡v面。是何祥也云々などある祥をも、さがと訓つれど、この書紀の文を、古事記には、天皇驚起問2皇后1曰、吾見2異夢1、從2沙本《サホ》方1、暴雨零來、急洽2吾面1。又錦色小蛇、纏2繞我頸1。如v此之夢、是有2何表1也云々とありて、表の字は、本集十九【廿七丁】に、乎等女等之後能表跡云々と、しるしと訓るにて、書紀の祥も、しるしと訓ん事明らかなるうへは、正しく夢祥《イメノシルシ》といふ語例いで來にたれば、こゝをも、なにのしるしぞもと訓べし。さて、このしるしといふに、怪の字を書るは、莊子庚桑楚篇釋文に、祥怪也とあれば、祥の意も《(マヽ)》書るにて、禮記中庸疏に、吉凶先見皆曰v祥とあれば、俗にいふ前表なり。夢を占事は、まへの玉匣《タマクシゲ》の歌の下にいへり。さて、曾毛《ゾモ》の曾は問かくる意にて、毛は添たるなり。本集八【十四丁】に、何物花其毛《ナニノハナゾモ》。十【五十七丁】に、何情曾毛《ナニココロゾモ》などありて、中古より後にも多かり。一首の意は、刀を身に副ると夢に見つるは、何のしるしぞ。こは君にあはん爲の前表ならんといふにて、げにも、太刀は男の具なれば、男に逢べきしるしならん。六帖五に、うちなびき獨しぬれば、ます鏡とると夢みつ、妹にあはんかもとよめるは、鏡は女の具なれば、女にあはんしるしとすべし。この歌とは、男女のちがひはあれど、こゝろは同じ。
 
605 天地之《アメツチノ》。神理《カミシコトワリ》。無者社《ナクバコソ》。吾念君爾《ワガオモフキミニ》。不相死爲目《アハズシニセメ》。
 
神しのしは助辭なり。理《コトワリ》は、書紀舒明紀に、我豈餐2天下1、唯顯2聆事1耳。則天神地祇共證v之云云とある證を、ことわりたまへと訓。また、推古紀憲法十七條に、聽※[言+獻]を、ことわりまうすとよ(143)み、制を、たゞ、ことわりとよみ、また、孝徳紀に、處分をもよめり。源氏物語明石卷に、今なにのむくいにか、こゝらよこざまなる波風にはおぼれ給はん。あめつち、ことわり給へ云々ともありて、こゝは、神のものゝわきまへなくばこそといふにて、集中にも、たゞ、ことわりといふとは、すこしたがへり。さて、一首の意は、いかで君にあはんと思ふより、天地の神をいのり來つるが、その神のものゝわきまへなく、わが祈る事をもきゝ給ふ事なくばこそ、つひに君にあはずて、死もすらめど、神のものゝわきまへあるかぎりは、むなしく死すべき事はあらじとなり。
 
606 吾毛念《ワレモオモフ》。人毛《ヒトモ》莫忘《ナワスレ・ワスルナ》。多奈和丹《オホナワニ》。浦吹風之《ウラフクカゼノ》。止時無有《ヤムトキナカレ》。
 
多奈和丹《オホナワニ》。
この語、解しがたし。仙覺抄に、おほなわには、大かたといふ也云々。代匠記云、今案ニ、第八、第十一ニ、アフサワト云詞アリ、大方ニト云意ト聞ユレバ、コノオホナワニト同ジ詞歟。其故ハ、源氏ニ、オホナ/\ト云詞アリ。彼抄ニ、伊勢物語ノ、アフナアフナト同ジ詞ト云ヘバ、彼ニ准ズルニ、此モ、アトオト、フトホト通ジ、サトナト同韻ニテ通ズレバナリ云々。宣長云、多奈和丹ハ、旦爾祁丹の誤りにて、あさにけにならんか云々。これらの説、みな、あたれりともおぼえず。もしは、丹は乃の誤りにて、多奈和は地名にはあらざるか。こは、たゞ、試みにいふのみ。とかくに心得がたし。猶可v考。
 
(144)止時無有《ヤムトキナカレ》。
無有《ナカレ》は、なくあれといふにて、下知の詞なり。一首の意は、吾も思ふぞよ、人もわするゝ事なかれ。浦ふく風の止時なきがごとくにといふ也。
 
607 皆人乎《ミナヒトヲ》。宿與殿金者《ネヨトノカネハ》。打禮杼《ウツナレド》。君乎之念者《キミヲシオモヘバ》。寢不勝鴨《イネガテヌカモ》。
 
宿與殿金者《ネヨトノカネハ》。
殿も金も借字にて、殿は辭なり、金は鐘なり。代匠記に、ネヨトノカネハ、亥ノ時ノ鐘ナリ。天武紀云、十三年冬十月己卯朔壬辰、逮2于|人定《ヰノトキ》1大地震。コレ同ジ日本紀こ、日没ヲ酉ノ時、昏時ヲ戌ノ時ナドヨメルゴトク、亥ノ時ニ人ノ寐テ定マレバ、カクハ義訓セリ。延喜式第十六、陰陽寮式云、諸時撃v皷。子午各九下。丑末八下。寅申七下。卯酉六下。辰戌五下。巳亥四下。並鐘依2刻數1トアリ云々といはれつるがごとし・六百番歌合に【顯昭】入あひのおとにつけてもまたれしを、ねよとのかねにおもひよわりぬと見えたり。和名抄伽藍具》に、鐘、俗云2於保加彌1とあり。
 
打禮杼《ウツナレド》。
古葉略類聚抄に、打の下、奈の字あるをよしとて、さて、後拾遺集釋教に【和泉式部】さなくてもねられぬものを、いとゞしく、つきおどろかす鐘の音かななど、中ごろよりは、鐘を突とのみいへれど、古くは、打とのみいへり。職員令に、守辰丁二十人、掌d伺2漏尅之節1以v時撃c鐘皷uと見えたり。
 
寢不勝鴨《イネガテヌカモ》。
不勝《ガテヌ》のぬもじには心なく、難き意なる事、上【攷證二上十六丁】にいへるが如く、一首の意は、皆人を、いまは寐よとうつ亥の時の鐘はきこゆれど、われは君を思ふによりて、い(145)ねがたしとなり。
 
608 不相念《アヒオモハヌ》。人乎思者《ヒトヲオモフハ》。大寺之《オホテラノ》。餓鬼之後爾《ガキノシリヘニ》。額衝如《ヌカヅクガゴト》。
 
餓鬼之後爾《ガキノシリヘニ》。
代匠記に、第十六ニモ、寺々之女餓鬼申久《テラ/”\ノメガキマヲサク》トヨメリ。昔ハ、伽藍トアル所ニハ、慳貪ノ惡報ヲ示サムタメニ、餓鬼ヲ作リ置ケルナルベシ云々といはれつるが如し。後《シリヘ》は後方《シリヘ》の意也。書紀齋明紀に、蝦夷名に、後方羊蹄此云2斯梨敝之《シリヘシ》1と。本集二十【十六丁】に、等能々志利弊乃《トノヽシリヘノ》云々などあり。
 
額衝如《ヌカヅクガゴト》。
額衝とは、額《ヒタヒ》を地につけて禮拜するをいひて、ぬかとは、即ちひたひのことなり。和名抄郷名に、額田を奴加多とよめるが多きにても、額をぬかと訓るをよ(しカ)るべし。本集五【四十丁】に、天神阿布藝許比乃美《アマツカミアフギコヒノミ》、地祇布之弖額拜《クニツカミフシテヌカヅキ》云々。熊野紀行に、ぬかづき、陀羅尼よむもあり云々。枕草子に、聽聞すると、立さわざ、ぬかづくほどにもなくて云々など見えたり。和名抄蟲類に、叩頭蟲、和名、沼加豆木無之とあるも同じ。一首の意は、下の句は、かひなき事も《(マヽ)》喩にて、佛菩薩にこそ禮拜すべけれ。餓鬼の、しかも後の方に向ひて、禮拜せんは、何の益なきわざなれば、それをたとへに取て、たがひに相おもはぬ人を、此方よりのみ思ふは、いとかひなきわざなりといふなり。
 
609 從情毛《コヽロユモ》。我《ワ・ワレ》者不念寸《ハオモハザリキ》。又更《マタサラニ》。吾故郷爾《ワガフルサトニ》。將還來者《カヘリコムトハ》。
 
(146)故郷は、集中、ふるさとゝも、ふりにしさとゝも、多く讀て、皆、本居をいふなり。この歌、下の左注にいへるが如く、別れて後に贈れるにて、はじめ、家持卿の家に共に在つるが、別れて故郷にかへりてよめるにて、今かく別れて、二たび故郷に歸らんとは、おもはざりけりといふなり。
 
610 近有者《チカクアレバ》。雖不見在乎《ミネドモアルヲ》。彌遠《イヤトホニ》。君之《キミガ》伊座者《イマサバ・イマシナハ》。有不勝目《アリガテマシモ・アリテモタヘジ》。
 
雖不見在乎《ミネドモアルヲ》。
近き邊りに在ば、見ずとも、それになぐさみてあらるゝをといふ意也。
 
君之伊座者《キミガイマサバ》。
伊座《イマサ》ばは、往まさばの意なる事、上【攷證二下卅一丁】にいへるが如し。
 
有不勝目《アリガテマシモ・アリテモタヘジ》。
在難《アリガタ》からんといふ意なる事、上【攷證二上十二丁】にいへるが如く、目《モ》は助辭なり。目を、印本、自に作れり。二【十一丁】に、有勝益目《アリガテマシモ》。十一【卅三丁】に、存勝申目《アリガテマシモ》などあれば、誤りなる事明らかなるに依て、意改せり。この歌は、今わかれんとする時の歌なるを、左注に、別れし後の歌とせるは誤りなり。さて、一首の意は、近きほとりにあれば、それになぐさみに《(マヽ)》、相ずにもあらるゝを、いと遠き所に君が往かば、かくては在がたからんといふ也。
 
右二首。相別後。吏來贈。
 
(147)この左注、いかゞ。はじめの一首は、いかにて(も、カ)別れて後の歌と聞ゆれど、後の一首は、今別れんとする時の歌なり。されば、この左注は、いと後の人わざなるべし。
 
大伴宿禰家持。和歌二首。
 
この和《コタヘ》歌は、まへの二十四首みなゝがらへ答へたるにはあらで、別れて後に、こたへ遣りしなり。
 
611 今更《イマサラニ》。妹爾將相八跡《イモニアハメヤト》。念可聞《オモヘカモ》。幾許吾※[匈/月]《コヽダワガムネ》。鬱悒將有《イブセカルラム・イブカシカラム》。
 
念可聞《オモヘカモ》。
おもへばかもの意也。このばを略ける格の事は、上ところ/\にいへり。
 
幾許吾※[匈/月]《コヽダワガムネ》。
こゝだは、いかばかりといふ意なる事、上【攷證二下六十二丁】にいへるが如し。
 
鬱悒《イブセ・イブカシ》將有《カルラム》。
欝悒の字は、上【攷證二中五十一丁】には、おぼゝしくと訓つれど、こゝは、いぶせと訓べし。そは、此卷【五十六丁】に、直獨山邊爾居者欝有來《タヾヒトリヤマベニヲレバイブセカリケリ》。八【廿五丁】に、隱耳居者欝悒《コモリノミヲレバイブセミ》云々。また【四十丁】、雨隱情欝悒《アマコモリココロブセミ》云々。十【五十三丁】に、煙寸吾告※[匈/月誰乎見者將息《イブセキワガムネタレヲミバヤマム》。十八【廿九丁】に、比毛等可須未呂宿乎須禮婆移夫勢美等《ヒモトカズマロネヲスレバイブセミト》云々などもありて、集中、猶多く、みな、心はれやらぬをいひて、こゝは胸のはれやらぬをいへり。さて、一首の意は、一たび別れたれば、今さら又相こともなしがたさに、今は逢じとおもへばかも、吾むねの、いかばかりか、はれやらで、くるしかるらんといふ意にて、(148)別れて後にこたへしなり。
 
612 中々煮《ナカ/\ニ》。黙毛有益呼《モダモアラマシヲ》。何爲跡香《ナニストカ》。相見始兼《アヒミソメケム》。不遂爾《トゲヌトナシニ・トゲザラナクニ》。
 
中々煮《ナカ/\ニ》。
煮を、印本、者とせるは、※[れっか]の脱したる事明らかなれば、意改せり。拾穗本には、煮とあるは、意改せしならん。代匠記に引る六條本には、爾とあれど、字體近からねば、從ひがたし。中々にといふことは、上【攷證三中廿九丁】にいへるが如く、今の世にいふ所と同じ。
 
黙毛有益呼《モダモアラマシヲ》。
黙は、上【攷證三中卅二丁】にいへるがごとく、たゞいたづらにといふ意也。
 
何爲跡香《ナニストカ》。
この語、集中いと多し。俗に、なにしにといふ意也
 
不遂爾《トゲヌトナシニ・トゲサラナクニ》。
爾を、印本、等に作るは、省文に爾を尓に作り、等を〓に作りて、尓〓字體近ければ、誤れるなるべし。されば、代匠記に引る幽齋本、拾穗本などに依て改む。さて、この句を、舊訓、とげざらなくにとあるに、略解も從ひつれど、とげざらなくには、遂《トゲ》るにといふ意となれば、この歌にかなはず、されば、とげぬとなしにと訓べし。一首の意は、なか/\に、たゞいたづらにもあらましものを、なにしにか、相見そめつらん、末もとげざるにといふ意にて、これも、別れて後にこたへしなり。
(149)山口女王。贈2大伴宿禰家持1歌五首。
 
山口女王、父祖、考へがたし。
 
613 物念跡《モノオモフト》。人爾《ヒトニ》不見《ミエジ・ミセシ》常《ト》。奈麻強《ナマジヒニ》。常念幣《ツネニオモヘ》利《ド・リ》。在曾金津流《アリゾカネツル》。
 
奈麻強《ナマジヒニ》。
躬恒集に、あら玉の年の四とせを、なまじひに、身を捨がたみ、わびつゝもへぬともありて、今、俗言に、なまじとも、なまなかともいふ、同じ意なり。このなまは、大和物語に、なまくらきをり云々。宇津保物語に、なま女。源氏物語に、なま人わろし、なま女房、なまねたし、なまわづらはし。大鏡に、なまさぶらひなどある、なまと同じく、ものゝ中ばなるをいへり。古事記中卷に、取2依其御琴1而|那摩那摩邇控坐《ナマナマニヒキマス》云々とある那麻も同じ。字鏡集、伊呂波字類抄などに、〓をなまじひとよめり。
 
在曾金津流《アリゾカネツル》。
一首の意は、なまなかに、人に物思ふとは見えじと、常に思へども、忍びては、在かねつとなり。
 
614 不相念《アヒオモハヌ》。人乎也本名《ヒトヲヤモトナ》。白細之《シロタヘノ》。袖漬左右二《ソデヒヅマデニ》。哭耳四《ネノミシ》泣《ナカ・ナク》裳《モ》。
 
人乎也本名《ヒトヲヤモトナ》。
この也もじ、聞つかぬこゝちすれど、よく考ふれば、常の疑のやにて、哭耳四泣裳《ネノミシナカモ》と、んの意のもにて結びたり。重き格の辭を、んの意にもせよ、もに(150)て結ばん事を、かたぶく人もありぬべけれど、八【五七丁】に、消跡可曰毛《ケヌトカイハモ》とあるは、かをもと結びたり。二【廿三丁】に、美弖夜和多良毛《ミテヤワタラム》云々とあるは、やを結びたり。十四【十四丁】に、伊麻波伊可爾世母《イマハイカニセモ》とあるは、何を結びたり。これらにてしるべし。乎は、なるものをの意。本名は、上【攷證二下七十四丁】にいへるが如く、みだりにといふ意なり。
 
袖漬左右二《ソデヒヅマデニ》。
漬《ヒヅ》は、ひたすのつゞまりなる事、上【攷證二上三十七丁】にいへるがごとし。
 
哭耳四《ネノミシ》泣《ナカ・ナク》裳《モ》。
裳は、んの意なる事、まへにいへり。一首の意は、此かたばかり思ひて、彼方よりは思はね人なるものをや、みだりに、袖をひたすまでに、音のみしなかんといふなり。
 
615 吾背子者《ワガセコハ》。不相念跡裳《アヒオモハズトモ》。敷細乃《シキタヘノ》。君之枕者《キミガマクラハ》。夢爾見乞《イメニミエコソ》。
 
乞《コソ》は願ふ意の詞なれば、その意もて、乞を義訓せるなり。五【十丁】に、都伎提美延許曾《ツキテミエコソ》云々。また【十八丁】知良須阿利許曾《チラズアリコソ》云々。七【十九丁】に、吾耳見乞《ワレニミエコソ》。十一【十三丁】に、夢所見與《イメニミエコソ》。また【廿一丁】夢所見乞《イメニミエコソ》などありて、集中、猶いと多し。一首の意明らけし。
 
616 釼太刀《ツルギタチ》。名惜雲《ナノヲシケクモ》。吾者無《ワレハナシ》。君爾不相而《キミニアハズテ》。年之經去禮者《トシノヘヌレバ》。
 
(151)釼太刀《ツルギタチ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。劔には、聚雲草薙など名あるものなれば、名とはつゞけしなり。
 
名惜雲《ナノヲシケクモ》。
けくは、くを延たる言なる事、上【攷證下六十三丁】にいへり。一首の意は、今までは、人にいひさわがれん名を惜みて、逢ざりしかど、逢ずして久しく年のへぬれば、今は思ひに堪かねて、名のたゝんもいとはずといふ也。十二【十六丁】に、劔太刀名之惜毛吾者無《ツルギタチナノヲシケクモワレハナシ》、比來之間戀之繁爾《コノゴロノマノコヒノシゲキニ》とあると似たり。
 
617 從蘆邊《アシベヨリ》。滿來塩乃《ミチクルシホノ》。彌益荷《イヤマシニ》。念《オモヘ・オモフ》歟君《カキミ》之《ノ・ガ》。忘金鶴《ワスレカネツル》。
 
彌益荷《イヤマシニ》。
十二【卅五丁】に、湖轉爾浦來塩能《ミナロマニミチクルシホノ》、彌益二戀者雖剰《イヤマシニコヒハマサレド》、不所忘鴨《ワスラエヌカモ》。十七【卅四丁】に、由敷奈藝爾美知久流之保能《ユフナギニミチクルシホノ》、伊夜麻之爾多由流許登奈久《イヤマシニタユルコトナク》云々。十八【八丁】に、於伎敝欲里美知久流之保能伊也麻之爾《オキヘヨリミチクルシホノイヤマシニ》、安我毛布伎見我彌不根可母加禮《アガモフキミガミフネカモカレ》などありて、集中、猶多し。
 
念《オモヘ・オモフ》歟君《カキミ》之《ノ・ガ》。
念歟《オモヘカ》は、例のばを略けるにて、おもへばかの意也。之もじを、がと訓は、いかが。こゝは、をの意なれば、のと訓べし。六【廿七丁】に、照有月夜乃見者悲沙《テレルツキヨノミレバカナシサ》。九【卅丁】に、冬夜之明毛不得啼《フユノヨノアカシモカネテ》云々。廿【五十五丁】に、牟可之能比等之於毛保由流加母《ムカシノヒトノオモホユルカモ》などある、のもじも、をの意にて、こゝと同じ。この歌、一二の句は、序歌にて、一首の意は、いやます/\にふかく思へばか、君をわすれかねつるといふ也。
 
(152)大神《オホミワ》女郎。贈2大伴宿禰家持1歌一首。
 
大神女郎、父祖、考へがたし。續日本紀に、大神朝臣豐嶋社女妹、また、大神宅女東女などいふ女の名見えたり。このうちにはあらざる歟。大神の氏は、姓氏録卷十七に、大神朝臣、素佐能雄命六世孫、大國主之後也。初大國主神娶2三嶋溝杭耳之女玉櫛姫1、夜未v曙去。未2曾晝到1。於v是玉櫛姫、績苧《ウミヲ》係v衣、至v明、隨v苧尋覓。經2於茅渟縣陶邑1、直指2大和國御諸山1。還視2苧遺1、唯有|三※[螢の虫が糸]《ミワ》1。因v之號2姓大|三※[螢の虫が糸]《ミワ》1とあるにて、大神は、おほみわと訓べきをしるべし。又この事、上【攷證二中廿九丁】神山《ミワヤマ》の下にもいへり。
 
618 狹夜中爾《サヨナカニ》。友喚千鳥《トモヨブチドリ》。物念跡《モノオモフト》。和備居時二《ワビヲルトキニ》。鳴乍本名《ナキツツモトナ》。
 
和備《ワビ》居《ヲル・タル》時二《トキニ》。
和備《ワビ》は、宣長説に、せんかたなく、さしせまりたる意なり云々といはれつるが如し。古事記上卷に、故其日子遲神|和備弖《ワビテ》、自2出雲1、將v上2坐倭國1而云云。本集此卷【卅八丁】に、絶常云者和備染責跡《タユトイハヾワビシミセムト》云々。また、今者吾羽和備曾四二結類《イマハワハワビゾシニケル》云々。また【卅九丁】丈夫之思和備乍《マスラヲノオモヒワビツツ》云々などありて、集中、猶多し。續日本紀、寶龜二年二月詔に、悔備賜比和備賜《クヤヒタマヒワビタマ》云々。倭姫命世記に、宮處覓佗賜比天《ミヤトコロマキワビタマヒテ》、其處平和比野止號支《ソコヲワビヌトナヅケキ》云々。靈異記中卷訓釋に、佗※[人偏+祭]【二合ワビテ】と見えたり。
 
鳴乍本名《ナキツツモトナ》。
本名は、まへ所々にいへるが如く、みだりにといふ意にて、一首の意は、いとゞさへ思物ふとで、わびしきをりしも、夜中に千鳥のみだりがはしく鳴とよみて、(153)あはれをそへぬとなり。
 
大伴坂上郎女。怨恨歌一首。并短歌。
 
大伴坂上郎女の傳は、上【攷證三中五十七丁】に出せるが如く、はじめ、穗積皇子にめされしが、皇子薨たまひて後、藤原麻呂にあひて、その後、大伴宿奈麻呂卿の後妻となりて、坂上大孃を生るよしなれば、こゝに怨恨歌とあるは、いづれをうらむるにか。歌に、まそ鏡とぎし心をゆるしてし云々とあるを思へば、皇子薨じたまひて後、節操を守らんと思ひしを、ゆるしゝといふ意なるべく思はるれば、こゝにうらむは麻呂卿なるべし。
 
619 押照《オシテル》。難波乃菅之《ナニハノスゲノ》。根毛許呂爾《ネモゴロニ》。君之聞四乎《キミガキコシテ》。年深《トシフカク》。長四云者《ナガクシイヘバ》。眞十鏡《マソカガミ》。磨師情乎《トギシココロヲ》。縱手師《ユルシテシ》。其日之極《ソノヒノキハミ》。浪之共《ナミノムタ》。靡珠藻乃《ナビクタマモノ》。云《カニ・トニ》云《カクニ》。意者不持《ココロハモタズ》。大船乃《オホブネノ》。憑有時丹《タノメルトキニ》。千磐破《チハヤブル》。神哉《カミヤ》將離《サケヽム・カレナム》。空蝉乃《ウツセミノ》。人歟《ヒトカ》禁《サフ・イム》良武《ラム》。通爲《カヨハシヽ》。君毛不來座《キミモキマサズ》。玉桙之《タマボコノ》。使母不所見《ツカヒモミエズ》。成奴禮婆《ナリヌレバ》。痛《イタ・イト》毛爲便無三《モスベナミ》。夜(154)干玉乃《ヌバタマノ》。夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》。赤羅引《アカラヒク》。日母至闇《ヒモクルヽマデ》。雖嘆《ナゲケドモ》。知師乎《シルシヲ》無《ナ・ナシ》三《ミ》。雖念《オモヘドモ》。田付乎白二《タヅキヲシラニ》。幼婦《タワヤメ・タヲヤメ》當《ト》。言雲知久《イハクモシルク》。手小童之《タワラハノ》。哭耳泣管《ネノミナキツヽ》。徘徊《タモトホリ》。君之使乎《キミガツカヒヲ》。待八兼手六《マチヤカネテム》。
 
押照《オシテル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三下卅三丁】にも出たり。
 
難波乃菅之《ナニハノスゲノ》。
十一【四十五丁】に、難波菅笠《ナニハスゲガサ》云々ともよめれば、菅に名あるところなるべし。
 
根毛許呂爾《ネモゴロニ》。
上【攷證二下四十一丁】にいへるが如く、一方ならずといふ意なり。
 
君之聞四乎《キミガキコシテ》。
五【七丁】に、企許斯遠周《キコシヲス》云々。十三【十九丁】に、母寸巨勢友《ハヽキコセトモ》云々。二十【五十九丁】に、可久志伎許散婆《カクシキコサバ》云々などあると同じく、きこしめしでの意也。さて、印本、手を乎に誤れり。誤なる事、明らかなれば、宣長の説によりて改む。
 
年深《トシフカク》。長四云者《ナガクシイヘバ》。
年深《トシフカク》は、三【卅七丁】に、昔者之舊堤者年深池之瀲爾水草生家里《イニシヘノフルキツヽミハトシフカミイケノナギサニミクサオヒニケリ》。六【四十一丁】に、一松幾代可歴流吹風乃聲清者年深香聞《ヒトツマツイクヨカヘヌルフクカゼノコヱノスメルハトシフカミカモ》。十九【十三丁】に、年深有之神佐備爾(155)家里《トシフカカラシカムサビニケリ》などありて、みな、年經るをいへり。されば、こゝまでの意は、吾身のうへを、一方ならず、君がきこしめ(し脱カ)で、年經てゆく末かけて、長くいひわたりたまへばといふ也。
 
眞十鏡《マソカヾミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鏡は麿《トグ》ものなれば、つゞけしなり。
 
磨師情乎《トギシコヽロヲ》。
此卷【四十三丁】大伴坂上郡女歌、眞十鏡麿師心乎縱者後爾雖云驗將在八方《マソカヾミトギシコヽロヲユルシテバノチニイフトモシルシアラメヤモ》。十三【廿九丁】に、劔刀麿之心乎天雲爾念散之《ツルギタチトギシコヽロヲアマクモニオモヒハフラシ》云々。二十【五十一丁】に、都流藝多知伊與餘刀具倍之《》云云などもありて、みな心を麿清《トギキヨ》めて、勵《ハゲマ》まし、勤る意也。こは、郎女、穗積皇子におくれしころの事にて、また男はもたじと思ひたりしほどの事なるべし。
 
縱手師《ユルシテシ》。
縱《ユルス》は許容するをいひて、こゝは戀を諾《ウベ》なふ也。七【十七丁】に、事聽屋毛打橋渡《コトユルセヤモウチハシワタス》。十一【四十丁】に、人之將縱言乎思將待《ヒトノユルサムコトヲシマタム》。十二【卅八丁】に、思亂而赦鶴鴨《オモヒミダレテユルシツルカモ》。十三【十八丁】に、心者縱公之隨意《コヽロハユルスキミガマニ/\》などありて、集中、猶多し。靈異記中卷訓釋に、脱【ユルス】とよめり。
 
其日之極《ソノヒノキハミ》。
極といふことは、きはまりの意にて、かぎりといふことなる事、上【攷證二中四十三丁】にいへるがごとし。こゝは、其日をかぎりて、それよりといふ意なり。十七【廿丁】に、可多良比底許之比乃伎波美《カタラヒテコシヒノキハミ》云々。また【卅二丁】に、別來之曾乃日乃伎波美《ワカレコシソノヒノキハミ》云々などあるも、こゝと同じ意なり。
 
浪之共《ナミノムタ》。
共《ムタ》は、字の如く、ともにといふ意なる事、上【攷證二中四丁】にいへり。
 
(156)靡珠藻乃《ナビクタマモノ》。
乃は如くの意にて、この二句は、かにかくにといはん序也。
 
云云《カニカクニ・トニカクニ》。
云々を、かにかくに|も《(マヽ)》訓るは義訓にて、かにかくにもといふも同じ意也。此卷【五十二丁】に、云云人者雖云《カニカクニヒトハイヘドモ》云々。五【七丁】に、可爾迦久爾保志伎麻爾麻爾《カニカクニホシキマニマニ》云々。また【卅八丁】可爾可久爾思和豆良比《カニカクニオモヒワヅラヒ》云々。十一【廿七丁】に、云云物者不念《カニカクニモノハオモハズ》云々。續日本紀、天平寶字八年十月丁丑詔に、可仁可久仁止念佐末多久事奈久之天《カニカクニトオモヒサマタクコトナクシテ》云々などありて、いづれも、いろ/\にといふ意なり。さて、云云の字は、漢書汲黯傳注に、云云猶v言2如此如此1也と見えたり。
意者不持《コヽロハモタズ》。
磨師情乎《トギシココロヲ》といふより、こゝまでの意は、自ら思ひ勵《ハゲ》まして、又男はもたじと思ひたりしかど、年久しく、末かけてのたまふことの、もだしがたさに、君がこゝろに任せて、諾ひしその日より、いろ/\に、定らぬ心をばもたず、たゞ一すじに、おもひたのめりとなり。
 
神哉將離《カミヤサケナム》。
吾中を、神のあやしきわざもてか離《サケ》つらんと也。
 
人歟禁良武《ヒトカサフラム》。
禁《サフ》は、ささへる意にて、禁をよめるには義訓なり。十一【五丁】に、早敷哉誰障鴨玉桙路見遺公不來座《ハシキヤシタガサフレカモタマボコノミチミワスレテキミガキマサヌ》とありて、また十一【廿五丁】十二【十八丁】などに、禁をさへと訓るも、障《サヽヘ》る意もて義訓せる也。こゝは、わが中を人か障つらんといふ也。
 
(157)通《カヨハ》爲《シヽ・セシ》。
略解には、かよはせると訓つれど、こは過去し事をいへる所なれば、かよはしゝといはでは叶はず。
 
痛《イタ・イト》毛爲便無三《モスベナミ》。
いたもすべなみと訓べき事、上【攷證三下四十丁】にいへり。いたくもすべなさにの意なり。
 
夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》。
十三【十四丁】に、赤根刺晝者終爾野干玉之夜者須柄爾《アカネサスヒルハシミラニヌバタマノヨルハスガラニ》云々。また【廿一丁】夜者酢辛二眠不睡爾《ヨルハスガラニイモネズニ》云々。十五【卅一丁】に、欲流波須我良爾禰能未之奈加由《ヨルハスガラニネノミシナカユ》。十七【廿七丁】に、此夜須我浪爾伊母彌受爾《コノヨスガラニイモネズニ》云々。十九【十五丁】に、夜者須我良爾曉月爾向而《ヨルハスガラニアカツキノツキニムカヒテ》云々などあり。みな、終夜の意也。續日本後紀、嘉祥二年三月長歌に、終日須加良爾《ヒルモスガラニ》云々とも見えたり。
 
赤羅引《アカラヒク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。赤き氣の引日とつゞけしなり。赤羅《アカラ》のらは、明《アカリ》のりを轉じたる也。
 
知師乎無三《シルシヲナミ》。
知師《シルシ》と書るは借字、驗にて、しるしなしといふは、みな、かひなく、無益なる意也。この事、上【攷證三中四十四丁】にいへり。無美《ナミ》の美は、さにの意也。
 
田付乎白二《タヅキヲシラニ》。
田付は、たどきともいひて、便《タヨリ》といふ也、この事、上【攷證一上十一丁】にいへり。白二《シラニ》は、しらずといふ也。この事も、上【攷證三中四丁】にいへり。
 
幼婦《タワヤメ・タヲヤメ》當《ト》。
幼婦と書るは義訓にて、まへにも出たり。上【攷證三上五十九丁】にいへるが如く、たわやめとは、よわく、なよ/\としたる意もて、いへること也。
 
言雲知久《イハクモシルク》。
言雲と書る雲は借字にて、いはくもは、はく反くにて、いふ|と《(マヽ)》延たる言也。そは集中、通《カヨ》ふを延てかよはく、思ふをおもはく、忍ぶをしぬばく、などいふ類なり。(158)知久《シルク》も借字にて、いちじるき意也。この事、上【攷證三上廿六丁】にいへり。
 
手小童之《タワラハノ》。
たは發語にて、たゞ小童をいふ也。上【攷證二上四十八丁】にいへり。之《ノ》は如くの意なり。
 
徘徊《タモトホリ》。
たは發語に(て、脱カ)意なく、もとほりは、立めぐりさまよふ意にて、せんすべなき時のわざなる事、上【攷證三下四十丁。四十七丁】にいへり。さて、印本、徘徊を俳※[人偏+回]に作れり。古體の字かとも思へど、三【五十四丁】六【十六丁】十一【十七丁】など、みな徘徊とありて、干禄字書に、俳徊、上俳優、字音排。下徘徊、字音裴とありて、俳※[人偏+回]もとより別字なれば、こゝに俳※[人偏+回]に作るは、書生の誤りなる事しるきによりて改む。
 
待八兼手六《マチヤカネテム》。
意者不持《コヽロハモタズ》といふよりこゝまでの意は、いろ/\にうつりかはれる心をば持ず、たゞ一すぢに、君をのみ思ひたのみわたれるをりしも、君と吾が中を、神や放《サケ》たまひけん。人やさゝへけん。常に通ひたまひし君の、今はきまさす。それのみならず、使さへも見えずなりぬれば、たゞ、せんすべなさに、夜は夜ひとよ、晝は日のくるゝまでも、なげきくらせど、何のかひもなく、また君がことを思へども、そのたよりさへもしらざる故に、人の女をさして、手弱女《タワヤメ》といふごとく、いふかひなき女のことなれば、たゞ、童《ワラハ》べなどのやうに、音にたてゝ泣つゝ、立さまよひぬ。たゞこのうへは、君は見えずとも、使だにも來らんを待かねてのみやあらんといふ也。
 
(159)反歌。
 
620 從元《ハジメヨリ》。長謂管《ナガクイヒツヽ》。不念恃者《タノメズバ》。如是念二《カヽルオモヒニ》。相益物歟《アハマシモノカ》。
 
從元《ハジメヨリ》。
説文に、元始也と見えたり。
 
不念恃者《タノメズバ》。
たのめといふは、みな、たのましめの意は《(マヽ)》、此卷【五十二丁】に、吾乎令憑而不相可聞《ワレヲタノメタハザラメカモ》。十一【六丁】に、年功及世定恃《トシキハルヨマデサダメテタノメヌル》云々。十四【十五丁】に、安禮乎多能米※[氏/一]《アレヲタノメテ》云々などありて、中ごろにもいと多し。さて、代匠記に、今案ニ念ハ令ヲ誤レリ。不令恃者ト改ムベシ云々。校異本に引る古本に、念を令に作れり。これいとよろしけれど、上【攷證三上七十六丁】にいへるが如く、集中一つの、格にて、義を似て文字を添る、添字の例あるうへは、念恃の二字を、たのめと訓ん事、論なし。これも、念《オモ》ひ恃《タノ》ましめずばといふ義をもて、念の字をば添て書るなり。
 
相益物歟《アハマシモノカ》。
この歟は、うらへ意のかへる、かはの意にて、集中にも、中ごろにも、いと多く、あはましもか、あひはせじをといふ意也。さて、一首の意は、はじめより、行末かけて長くたのましめずば、かくて念ひわぶる事もあらざらましを、人のそらごとによりて、かゝるくるしき思ひにあふことよといふなり。
 
西海道節度使判官。佐伯宿禰東人妻。贈2夫君1歌一首。
 
(160)續日本紀に、天平四年八月丁亥、正三位藤原朝臣房前爲2東海東山二道節度使1。從三位多治比眞人縣守爲2山陰道節度使1。從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1。道別、判官四人、主典四人、醫師一人、陰陽師一人。丁酉、西侮道節度使判官佐伯宿禰東人授2外從五位下1と見えて、東人は、この外に見えず。父祖、考ふべからず。節度使は、唐書百官志に、節度使掌總2軍旅1※[端の旁+頁]2誅殺1初授2具帑1抹2兵仗1詣兵部辭見、觀察使亦如之云々。また宰相事無v不v統、故不v以2一職名1。時方v用v兵則爲2節度使1、時崇2儒學1則爲2大學士1、時急2財用1則爲2鹽鐵轉運使1、其甚則爲2延資庫使1など見えたり。佐伯宿禰の姓は、姓氏録卷十一に、佐伯宿禰、大伴宿禰同v祖、道臣命七世孫、室屋大連公之後也とあり。
 
621 無間《ヒマモナク》。戀爾可有牟《コフレニカアラム》。草枕《クサマクラ》。客有公之《タビナルキミガ》。夢爾之所見《イメニシミユル》。
 
無間《ヒマモナク》。
これを、略解には、あひだなくと訓り。これもあしからねど、この訓、定めがたし。問の字、一【十五丁】に、間無曾雨者雰計類《ヒマナクゾアメハフリケル》、其雪乃時無如《ソノユキノトキナキガゴト》、其雨乃間無如《ソノアメノヒマナキガゴト》云々。七【卅九丁】に、間守爾所打沾《ヒマモルニウチヌラサレヌ》云々。十三【十一丁】に、間無曾人者※[手偏+邑]《ヒマナクゾヒトハクムトイフ》云々などあるは、正しく、ひまと訓べき也。また二【十四丁】に、束間毛《ツカノアヒダモ》云々。此卷【二十四丁】に、縁浪間無牟《ヨルナミノアヒダモナケム》云々、また【四十六丁】道之悶乎《ミチノアヒダヲ》云々。六【十四丁】に、有之間爾《アリシアヒダニ》云云などあるは、正しくあひだと訓べき也。かく、定めがたければ、しばらく舊訓によれり。
 
戀《コフレ・コフル》爾可有牟《ニカアラム》。
こふれにかあらんと訓べし。例の、こふればかのばを略く格にて、こふれこそ、こふれぞ、こふれやなどの類也。さて、一首の意は、ひまもなく、君を(161)戀ればにかあらん、旅なる人の夢に見ゆるよと也。略解に、夫が戀ればにかあらんといふ意に解るは、たがへり。さては、和歌に、莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》といへる、いたづらなり。
 
佐伯宿禰東人。和歌一首。
 
622 草枕《クサマクラ》。客爾久《タビニヒサシク》。成宿者《ナリヌレバ》。汝《ナ・ナレ》乎社念《ヲコソオモヘ》。莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》。
 
汝《ナ・ナレ》乎社念《ヲコソオモヘ》。
汝は、なれとも、なとのみもいへる事、上【攷證二下五十四丁】にいへり。こは妻をさしていへり。
 
莫戀吾妹《ナコヒソワギモ》。
戀事なかれ吾妹といふにて、一首の意は、われ旅に居る事久しくなりぬれば、よろづに憂ことのみありて、わが方より汝をこそおもへ、君は都にとゞまり居て、さのみうき事もあるまじければ、夢に見る斗吾を戀る事なかれといふ也。
 
池邊王。宴誦歌一首。
 
續日本紀に、神龜四年正月庚子、授2旡位池邊王從五位下1。天平九年十二月壬戌、爲2内匠頭1とありて、この後に見えず。また、延暦四年七月庚戌、淡海眞人三船卒。三船、大友親王之曾孫也。祖、葛野王正四位上式部卿。父、池邊王從五位上内匠頭とあれば、池邊王は、大友皇子の孫にて、葛野王の男也。紹運録もこれに同じ。宴誦は、宴席にて歌を誦したるにて、古歌を誦したるか、自(162)詠を誦したるか、考へがたし。いづれにまれ、思ふよしありて、左の歌をばうたへるなるべし。
 
623 松之葉爾《マツノハニ》。月者由移去《ツキハユツリヌ》。黄葉乃《モミヂバノ》。過哉君之《スギヌヤキミガ》。不相夜《アハヌヨ》多焉《オホキ・オホク》。
 
月者由移去《ツキハユツリヌ》。
由移去《ユツリヌ》は、中ごろよりは、うつるといふを、古言には、ゆつるといへりとおぼし。十一【廿九丁】に、清月夜之湯徙去者《キヨキツキヨノユツリナバ》云々。また夜渡月之湯移去者《ヨワタルツキノユツリナバ》云々などあり。さて、これらは、みな、影の移るをいへるにて、物の移變《ウツリカハ》る方にいふ時は、集中にも、みな、うつるといひて、ゆつるといへる事なし。このわかちをよく思ふべし。たゞ、十四【四丁】に、等伎由都利奈波《トキユツリナバ》云々とあるのみ、移變《ウツリカハ》る意なるを、ゆつりとはいひたれど、こは國風の歌なれば、證とはなしがたし。既に、二十【五十五丁】なる家持卿の歌には、宇都里由久時見其登爾《ウツリユクトキミルゴトニ》云々とありて、この外、宇都呂比《ウツロヒ》、宇都呂布《ウツロフ》などあるが、いと多けれど、みな移變《ウツリカハ》る意にいへり。されば、影の移るをば、必らず、ゆつりといふべきをしるべし。
 
黄葉乃《モミヂバノ》。
こゝは枕詞にあらず。
 
過哉君之《スギヌヤキミガ》。
この哉もじは、句の中ばに置たれど、切る詞よりうけて、切るやなり。
 
不相夜多焉《アハヌヨオホキ》。
多《オホキ》のきもじは、君之《キミガ》の之《ガ》の結び也。過哉《スギヌヤ》の哉の結びにあらず。この歌、てにをは、いとむつかしければ、よくせずば、まぎれぬべし。さて、焉を、印本、鳥に誤れり。(163)集中焉の字を、訓にも、意にも、かゝはらで、たゞ助字に置るが多ければ、こゝも、鳥は焉の誤りなる事しるきによりて、意改せり。この事くはしくは上【攷證三中八十七丁】にいへり。一首の意は、この歌、戀の歌にて、この宴席に、わが思ふ女の外、心つきたるなどやありけん、それによそへてうたはれつるにて、女を月、みづからを黄葉、ほかの男を松によそへて、今は黄葉は散すぎにたれば、月は松の葉の方に影をうつしとゞめぬ。黄葉ばの散すぎにたるが如く、君が心も、今はうつろひぬらん。われにはあはぬ夜の多しと也。
 
天皇。思2酒人女王1。御製歌一首。【女皇者。穗積皇子之孫女也。】
 
天皇は、いづれの天皇を申すにか、正しくしりがたけれど、古注に、酒人女王は、穗積皇子之孫女也とありて、穗積皇子は、知太政官事一品までになりたまひて、靈龜元年に薨たまへり。酒人女王はこの御孫なれば、これより五六十年もおくれたまふべし。されば、時代、聖武の御代の壯年なるべければ、こゝに天皇とあるは、聖武天皇なるべし。聖武天皇は、下【攷證八□】に申奉るが如く、和銅七年に、御年十四にて皇太子に立せたまひ、神龜元年に、御年二十四にて御位に即せたまひ、天平勝寶元年に、御位を孝謙天皇にゆづりたまひて、同八年御年五十六にて崩たまへりしかば、酒人女王、同時代といふべし。さて、この酒人女王を、光仁天皇の皇女と注したるは誤り也。光仁天皇の皇女、酒人内親王は、續日本紀に、寶龜元年十一月甲子、授2從四位下酒人内親王三品1。三年十一月己丑、以2酒人内親王1爲2伊勢齋1云々。日本紀略に、天長六年八月丁卯、二品酒人内親王薨。廣(光カ)仁天皇之皇女也。薨時七十六とありて、聖武天皇崩御の年は、はづか三(164)歳なりしかば、この酒人内親王は、酒人女王と同名異人なる事明らかなるをや。
 
624 道相而《ミチニアヒテ》。咲之《ヱマシシ・ヱミセシ》柄爾《カラニ》。零雪乃《フルユキノ》。消者消香二《ケナバケヌガニ》。戀《コフ》云《トイフ・テフ》吾妹《ワギモ》。
 
咲之柄爾《ヱマシシカラニ》。
からにといふ語、その所によりて、いろ/\なる意に聞えたり。こゝなるは、故にといふ意也。そは、五【六丁】に、加久乃未可良爾之多比己之《カクノミカラニシタヒコシ》云々。六【四十丁】に、一重山越我可良爾念曾吾世思《ヒトヘヤマコユルガカラニオモヒソワガセシ》。七【廿四丁】に、咲之柄二妻常可云也《ヱマシヽカラニツマトイフベシヤ》。九【卅三丁】に、語繼可良仁文幾許戀布矣《カタリツグカラニモコヽダコヒシキヲ》云々。十四【卅丁】に、爾波爾多知惠麻須我可良爾《ニハニタチヱマスガカラニ》云々。二十【廿三丁】に、和我可良爾奈伎之許己呂乎《ワガカラニナキシコヽロヲ》云々などあり。これら、みな、故にの意なり。この外、まゝにといふ意なるも、間にといふ意なるもあり。これらの事は、下【攷證此卷卅二丁七上四十一丁】にいふべし。さて、代匠記に、この句を、ゑますがからにと訓り。これも、十一に、こゆるがからに云々。十四に、ゑますがからに云々など例はあれど、そは、皆、現在の事をいふ所、こゝは過去の事をいふ所なれば、必らず、ゑましゝとよまでは叶はず。
 
零雪乃《フルユキノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。つゞけがら、明らけし。
 
消者消香二《ケナバケヌガニ》。
香二《ガニ》は、上【攷證三中八十七丁此卷七丁】にいへるが如く、爲に、故になどいへる意にて、こゝは、爲にの意にて、零雪のきゆるが如く、命も消なばきゆるばかりにといふ也。
 
(165)戀《コフ》云《トイフ・テフ》吾妹《ワギモ》。
代匠記に、戀云ノ詞、意得ガタシ。今按、去ノ字ノ誤リニテ、コヒユクニヤ云々。宣長云、云は念の誤りにて、こひおもふわぎもならん云々。これらの説のごとく、云の字、いかにも心得がたけれど、いかにまれ、この句は妹を戀るよしにのたまへるなれば、一首の意は、道に相し時、君が咲たまひし故に、それよりふかく思ひこみて、命も消なばきゆるばかりに、妹を思ふぞとのたまふなり。
 
高安王。※[果/衣]鮒贈2娘子1歌一首。
 
高安王は、上【攷證此卷一丁】に出たり。※[果/衣]鮒は、鮒を物に※[果/衣]たるか、又は鮒の※[果/衣]燒か。※[果/衣]燒は、和名抄魚鳥類に、※[包/烈火]和名豆々三夜木とありて、※[果/衣]燒は西宮記、北山抄など、大饗の條に見えたり。これも、鮒の※[果/衣]燒ならんとおもはるゝは、類聚雜要集、大饗の條に、鮒※[果/衣]燒とあればなり。猶、鮒の※[果/衣]燒は、宇治拾遺卷十五、新撰六帖卷三にも見えたり。
 
625 奧幣往《オキベユキ》。邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》。爲妹《イモガタメ》。吾漁有《ワガスナドレル》。藻臥束鮒《モフシツカフナ》。
 
奧幣往《オキベユキ》。
奧邊往《オキベユキ》なり。十七【卅六丁】に、於伎弊許藝《オキベコギ》、邊爾己伎見禮婆《ヘニコギミレバ》云々とあるも、同じつゞけなり。
 
邊去伊麻夜《ヘニユキイマヤ》。
邊《ヘ》は、海濱《ウミヘタ》をいふことにて、こゝは鮒につきていへば、海にはあらざれど、池にも常いへり。伊麻夜《イマヤ》の夜《ヤ》は、助辭のやなり。五【十七丁】に、奈久夜※[さんずい+于]隅比須《ナクヤウグヒス》云(166)云。十三【廿丁】に、如何有哉人子故曾《イカナルヤヒトノコユヱゾ》云々などあるやと同じ。
 
吾漁有《ワガスナドレル》。
和名抄に、漁訓須奈度利とあり。
 
藻臥束鮒《モブシツカブナ》。
藻臥は、藻の中に臥よしにていへるならん。和名抄に、いしふしといふ魚の名あるも、石に臥意もて名づけしなるべし。田中道麻呂の説に、應神天皇の御陵、川内惠賀之裳伏岡といふ所にあり。この、もぶしつか鮒の藻臥も、この地名にて、こゝより出る鮒をいへるにはあらじか云々といへり。これ奇に過たる説なれど、この歌主、高安王の父を川内王といへば、父よりして河内國に住れしにはあらざるか。さらば、河内の地名も、よしありてはおぼゆれど、奇説なれば、取がたし。束鮒は、小さき鮒をいへるなるべし。束の間といふも、短かき間をいへるなればなり。また、十拳劍《トツカツルギ》、八拳鬚《ヤツカヒゲ》、七拳脛《ナナツカハギ》などいふ拳《ツカ》も、一束《ヒトツカ》、二束《フタツカ》と、搏《ツカミ》て物の丈をはかるにて、この束と同じ。堀川百首に【公實】ますらをがもぶしつか鮒ふしつけし、かひやが下にこほりしにけり。一首の意くまなし。
 
八代《ヤシロ》女王。獻2天皇1歌一首。
 
八代女王、父祖、考へがたし。續日本紀に、天平寶字八年十二月丙午、毀2從四位下矢代女王位記1、以v被v幸2先帝1而改v志也とある先帝は、廢帝を申せば、こゝに天皇と申も廢帝をさし奉るか。又(167)は聖武天皇をさし奉るか。廢帝をば、本集二十【五十六丁】に、廢帝を皇太子としるし奉りたれど、廿卷の未に、天平寶字三年正月までの歌をのせたれは、廢帝をも天皇と申まじきにあらず。さて、八代の訓は、和名抄肥後國郡名に、八代【夜豆志呂】とあれば、やつしろとも訓べけれど、紀に矢代とあれば、やしろと訓べし。
 
626 君爾因《キミニヨリ》。言之繁乎《コトノシゲキヲ》。古郷之《フルサトノ》。明日香之河爾《アスカノカハニ》。潔身爲爾去《ミソギシニユク》。
 
明日香之河爾《アスカノカハニ》。
あすか川は、大和國高市郡なる事、上【攷證一下六十九丁】にいへり。こゝに、古郷のあすかの川とあれば、この女王、このほとりに住れしなるべし。
 
潔身爲爾去《ミソギシニユク》。
潔身は、身の穢、或は身の罪とが、或身のさゝはりなど、身を滌《ソヽギ》きよまはりて、祓へすつるわざなる事、上【攷證三下十丁】にいへるが如く、こゝは、人の妬などうけたるを、はらへすてんとてのことなるべし。一首の意は、くまなし。
 
一尾云。龍田超《タツタコエ》。三津之濱邊爾《ミツノハマベニ》。潔身四二由久《ミソギシニユク》。
 
一尾云。
一は、一《アル》本の意。尾は歌の末をいひて、この歌の尾《スヱ》、一本にはといふよし也。
 
龍田超《タツタコエ》。
三津の濱は、難波の三津にて、奈良より難波へ下るには、龍田山を越て、河内國を經ても下り、暗峠【いこま山なり】を越ても下る也。こゝは、龍田山を越てゆく也。書紀神武紀(168)に、戊午年四月丙申朔甲辰、皇師勒v兵、歩趣2龍田1。而其路狹嶮、人不v得2竝行1、乃還更欲d踰2膽駒山1、而入c中洲u云々とあるも、難波より大和に入らんとしたまひて、龍田路にかゝらせたまひしかど、その路狹かりしかば、いこま山の道を越させたまひし也。本集六【廿五丁】宇合卿、西海道節度使になりて下らるゝ時の歌に、龍田山乃露霜爾色附時丹《タツタヤマノツユシモニイロヅクトキニ》、打越而《ウチコエテ》、客行公者《タビユクキミハ》、五百隔山《イヒヘヤマ》、伊去割見《イユキサクミ》、賊守筑紫爾至《アタマモルツクシニイタリ》云々とよめるも、筑紫に至らんとて、奈良の京より、まづ龍田山を超て、難波に下りて、それより船にのりて筑紫には至る也。さて、龍田山は、上【攷證一下七十五丁】にいへるが如く、大和國平群郡なり。
 
娘子。報2贈佐伯宿禰赤麻呂1歌一首。
 
娘子、たれとも考へがたし。赤麻呂も、父祖、官位、考へがたし。上【攷證三中八十六丁】に出たり。さて、報は答《コタ》へにて、報贈とは、こたへておくれるなれば、この先、赤まろより娘子におくりたる歌ありしを、この集には漏しゝなるべし。三【四十二丁】に、娘子報2佐伯宿禰赤麻呂1贈歌とあるも同じく、先の歌をばもらされたるには(てカ)、娘子はこゝと同じ娘子なるべし。
 
627 吾手本《ワガタモト》。將卷跡念牟《マカムトオモハム》。大夫者《マスラヲハ》。戀水定《ナミダニシヅミ》。白髪生二有《シラガオヒニタリ》。
 
將卷跡念牟《マカムトオモハム》。
將と書るは借字にて、まくとは、枕とする事也。この事、上【攷證一下五十四丁】にいへり。
 
(169)丈夫者《マスラヲハ》。
印本、丈を大に誤れり。今、意改せり。そのよしは、上【攷證一上十一丁】にいへり。
 
戀水定《ナミダニシヅミ》。
戀水を、なみだと訓るは、義訓也。次の歌にもよめり。定《シヅミ》をしづみと訓るよしは、上【攷證二下十八丁】にいへり。こは、思ひにしづむ、ふししつむ、なげきにしづむなどいへる、しづむと同じく、もとは、定《シヅマ》る意にて、こゝは、なみだのみながれて、外の事をなさず、しづまり居るをいへり。
 
白髪生二有《シラガオヒニタリ》。
こは、戀に心を勞したるによりて、白髪の生たりといふにて、人の勞する時は白髪となるよし、古くよりいへり。土佐日記に、海賊むくいせんといふなる事を思ふうへに、海のまたおそろしければ、かしらもみなしらけぬ云々とありて、漢書蘇武傳に、武留2匈奴1凡十九年、始以v彊出、及v還須髪盡白云々。南齊書謝超宗傳に、武帝收2謝超宗1、付2延尉獄1、一宿髪白云々。世説巧藝篇に、韋仲將能v書。魏明帝起v殿欲v安v榜、使d仲將登v梯題u之。既下、頭鬢皓然。因勅3兒孫勿2復學1v書云々。※[土+卑]雅に、養生經を引て、魚勞則尾赤、人勞則髪白云々などあるにてしるべし。さて、宣長云、この歌は、三、一、二、四、五と、句をついでゝ見る也。さて、四の句のかしらへ、我はといふことをそへて心得べし云々。この説のごとく、一首の意は、丈夫《マスラヲ》とは赤麻呂をさして、君はわがたと(一字衍カ)もとを枕として、そひ寢せんと思ひたまふべけれど、われはこのごろ涙にしづみはてゝ、白髪の生にたれば、かたちも老にたりといふ也。
 
(170)佐伯宿彌赤麻呂。和謌一首。
 
628 白髪生流《シラガオフル》。事者不念《コトハオモハズ》。戀水者《ナミダヲバ》。鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》。求《モトメ・サダメ》而將行《テユカム》。
 
拾穗本に、求を定に作るは非なり。こは本のまゝにて、もとめと訓べし。さて、一首の意は、まへの歌をうけて、君は白髪生たりとはのたまへど、君が白髪の生しことはおもはず、戀水定《ナミダニシヅミ》とのたま|れ《(マヽ)》、戀水《ナミダ》を求めゆきて、かにもかくにも逢てんといふなり。
 
大伴四綱。宴席歌一首。
 
大伴四綱、父祖、考へがたし。上【攷證三中十九丁】に出たり。
 
629 奈何鹿《ナニストカ・ナニシニカ》。使之來流《ツカヒノキツル》。君乎社《キミヲコソ》。左右裳《カニモカクニモ・トニモカクニモ》。待難爲禮《マチガテニスレ》。
 
左右裳を、かにもかくにもとよめるは義訓なり。九【廿一丁】に左右君之三行者《カニカクニキミガミユキハ》云々。十六【十九丁】に、左毛右毛佞人之友《カニモカクニモネジケビトノトモ》云々などあり。これら、みな、舊訓には、とにもかくにもとよみつれど、古言にとにかくといへる事なし。さて、この歌、この宴に來りて、障あるよしいひこしたる人におくれるにて、一首の意は、何にせよとてか使の來つらん、とにもかくにも、君をこそ待かぬるまでに(171)待わたれといふ也。
 
630 初花之《ハツハナノ》。可散物乎《チルベキモノヲ》。人事乃《ヒトゴトノ》。繁爾因而《シゲキニヨリテ》。止息《ヨドム・トマル》比者鴨《コロカモ》。
 
人事乃《ヒトゴトノ》。
人事は借字にて、人言なり。上【攷證二上卅五丁】に出たり。十四【廿丁】に、比等其等乃之氣吉爾餘里※[氏/一]麻乎其母能於夜自麻久良波和波麻可自夜毛《ヒトゴトノシゲキニヨリテマヲコモノオヤシマクラハワハマカジヤモ》。
 
止息《ヨドム・トマル》比者鴨《コロカモ》。
止息を、よどむと訓るは義訓也。十二【卅丁】に、慇懃憶吾妹乎《ネモゴロニオモフワギモヲ》、人言之繁爾因而《ヒトゴトノシゲキニヨリテ》、不通比日可聞《ヨドムコロカモ》云々とあり。この不通の字を、よどむとよめるは、十二【十七丁】に、湊入之葦分小船《ミナトイリノアシワケヲブネ》、障多《サハリオホミ》、今來吾乎不通跡念莫《イマコシワレヲヨドムトオモフナ》。また【十九丁】河餘杼能不通牟心《カハヨドノヨドマムコヽロ》云々などあるにて思ふべし。これかれを相てらして、止息の字を、よどむと訓べきをしるべし。このよどむといふ言は、水の不往して、よどめるがごとく、たゆたふ意にて、一首の意は、女を花によそへて、初花といへども、しばしもみざる中には、散ぬべきものをといひて、女の外心つかんを、花の散によそへたり。さて、しばしがほども見ざるまに花の散ごとく、女も外心つきぬべきものを、われは人ごとのしげさによりて、女のもとへもゆかずして、たゆたふころかもといふ也。さて、比者の二字を、ころとよめるは、七【六丁】に、昔者《イニシヘ》の字を、いにしへと訓るが如く、者の字は、そへて書るなり。
 
湯原王。贈2娘子1歌二首。
 
(172)湯原王は、田原天皇【施基皇子】の皇子にて、後に湯原親王と申、上【攷證三中五十三丁】に出たまへり。考異本に引る古本に、小字にて、志貴皇子之子也の七字あり。また、この御歌を、袖中抄卷□に引て、志貴皇子女也と注したるは心得ず。女は子を誤れるなるべし。
 
631 宇波弊無《ウハベナキ》。物可聞人者《モノカモヒトハ》。然許《シカバカリ》。遠家路乎《トホキイヘヂヲ》。令還《カヘス》(・ト)念者《オモヘバ》。
 
宇波弊無《ウハベナキ》。
此卷【四十五丁】に、得羽重無妹二毛有鴨《ウハベナキイモニモアルカモ》、如此許人情乎令盡念者《カクバカリヒトノコヽロヲツクストオモヘバ》ともありて、こは表邊無《ウハベナキ》の意にて、心の中はともあれ、うはべばかりのなさけだになきをいふにて、俗に追從《ツヰシヨウ》の無《ナイ》といふ意なり。源氏物語帚木卷に、たゞうはべばかりのなさけにて云々とあり。
 
然許《シカバカリ》。
然《シカ》といふ、みな、此加《カク》といふ意にて、こゝは、かくばかりといはんが如く、このやうにといふ意なり。一首の意は、人とは、娘子をさして、遠き所などより人の來たらんには、追從《ツヰシヨウ》にも、とゞむべきを、わがかくばかり遠き家路を來たるを、たゞにかへせるを思へば、君は追從なきものにもあるかもといふにて、追從にもとゞめよとのたまふ也。さて、この次々、娘子と贈答の歌もて考ふるに、湯原王、外吏などになりて、旅にゆきたまひしをり、この娘子を率てゆかれしにて、この娘子を、旅館よりはなれし所に住しめて、より/\そこに通はせたまひしなるべし。この意もて見ざれば、この次々の贈答、解しがたき事おほかり。この二首の歌は、戀のいまだ叶はざる時の御歌にて、京にての事なるべし。
 
(173)632 目二破見而《メニハミテ》。手二破不所取《テニハトラレヌ》。月内之《ツキノウチノ》。楓如《カツラノゴトキ》。妹乎奈何責《イモヲイカニセム》。
 
月内之《ツキノウチノ》。楓如《カツラノゴトキ》。
月中の桂は、初學記に、虞喜安天論に、俗傳、月中仙人桂樹、今視2其初生1、見2仙人之足漸已成1v形、桂樹後生云々。酉陽雜卷一に、舊言、月中有v桂、有2蟾蜍1。故異書言、月桂高五百丈、下有2一人1、常斫v之、樹創隨合、人姓呉名剛、西河人、學v仙有v過、謫令v伐v樹。釋氏書言、須彌山南面、有2閻扶樹1、日過v樹、影入2月中1。或言、月中蟾桂地影也。空處水影也。此語差近云々。詞林釆葉抄に、兼名苑を引て、月中桂二百五十丈、月轉内有v之、下有v河、此木秋北開云々などありて、古今集秋上に、【忠峯】久かたの月のかつらも秋は猶もみぢすればやいろまさるらん。本集十【四十六丁】に、黄葉爲時爾成良之《モミヂスルトキニナルラシ》、月人楓枝乃色付見者《ツキヒトノカツラノエダノイロヅクミレバ》など見えたり。また七【卅五丁】に、若楓木《ワカヽツラノキ》など、楓をかつらとよめり。本草和名に、楓木、一名※[木+聶]、一名格※[木+巨]、和名加都良。和名抄木類に、楓和名乎加豆良。桂和名女加豆良などあり。月中のかつらは、漢土にては、みな、桂の字を書たれど、楓もかつらなれば、こゝには借て書るなり。さて、楓は、かへでのことなりと常人思ひたれど、かへでは、和名抄木類に、※[奚+隹]冠木賀倍天乃木とある、これには(て、カ)楓とは別なり。楓は、今、唐かへでといふものにて、これもよく黄葉する木なり。
 
妹乎奈何責《イモヲイカニセム》。
責は借字にて、將爲《セム》なり。一首の意は、女を目には見ながら、たやすく逢がたきを、月中のかつらの、目には見ゆれど、手には取がたきにたとへて、そのかつらの如くなる妹をばいかにせんとのたまふなり。
 
(174)娘子。報贈歌二首。
 
633 幾許《イカバカリ・イクソバク》。思異目鴨《オモヒケメカモ》。敷細之《シキタヘノ》。枕片去《マクラカタサリ》。夢所見來之《イメニミエコシ》。
 
幾許《イカバカリ・イクソバク》。
宣長の、いかばかりと訓れしに從ふべし。五【廿五丁】に、伊加婆加利故保斯苦阿利家武《イカバカリコホシクアリケム》云々とありて、こは、もと、數の多きをいふことなれど、そを轉じて、こと甚しきをいひて、こゝは、いかほどかといふ意也。
 
思異目鴨《オモヒケメカモ》。
幾許《イカバカリ》と疑ひたれば、けんといふべきを、異目《ケメ》といひて、かもとうけたり。これ、集中一つの格なり。一【十七丁】に、何方所念計米可《イカサマニオモホシケメカ》云々。三【五十四丁】に、何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》云々などあるにてしるべし。この事、上【攷證一上廿丁】にもいへり。
 
枕片去《マクラカタサリ》。
眞淵云、卷五に、麻久良佐良受提《マクラサラズテ》いめにし見えんと有を思へば、こゝも、片は不の字にて、まくらさらずてならん云々。宣長云、卷十八に、夜床加多古里《ヨドコカタコリ》とあるも、古は左の誤りにて、夫の他に在ほどは、床を片避てぬる也云々。この宣長の説によるべし。一首の意は、君がおはしまさゞる夜、枕を片わきによせて、わが獨寢たるをりしも、君が夢に見えたまひしは、わがいかばかりに君を思ひけるにかあらんと、夜るの夢に君が見ゆるばかりに思ふはといふ也。まへの湯原王の御歌、戀のいまだ叶はざる時の御歌なるを、この歌は、既に相てのち(175)の歌なり。次の歌も、客に出てよりの歌なり。されば、報贈とはあれど、王の御歌よりは、はるかに後の事也。
 
634 家二四手《イヘニシテ》。雖見不飽乎《ミレドアカヌヲ》。草枕《クサマクラ》。客毛妻與《タビニモツマト》。有之乏左《アルガトモシサ》。
 
家二四手《イヘニシテ》。
にしてのしは、心なく、にてといふ意なる事、上【攷證一下五十五丁】にいへり。
 
客毛妻與《タビニモツマト》。
この妻は借字、夫《ツマ》にて、湯原王をさせり。男女かたみにつまといふ事、集中にもいと多し。與は共《トモ》にの意なり。
 
有之乏左《アルガトモシサ》。
乏《トモシ》といふは、上【攷證一下四十二丁】にいへるが如く、二つの意ありて、めづらしと愛する意なると、うらやむ意なるとありて、こゝは、めづらしと愛する意にて、家にて見るにもあかれぬを、旅にさへも夫と共に在るが、めづらしくうれしといふ也。
 
湯原王。亦贈歌二首。
 
635 草枕《クサマクラ》。客者嬬者《タビニハイモハ》。雖率有《ヰタレドモ》。匣内之《クシゲノウチノ・ハコノウチナル》。珠社所念《タマトコソオモヘ》。
 
客者嬬者《タビニハイモハ》。
嬬は妻なれば、いもと訓ん事論なし。十【廿五丁】に、吾戀嬬者知遠《ワガコフルイモハシレルヲ》云々ともあり。
 
(176)雖率有《ヰタレドモ》。
率はゐの假字なり。そは、十六【十六丁】に、吾率宿之《ワガヰネシ》云々とあるを、十四【十丁】爲禰※[氏/一]夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》。また【卅一丁】爲禰※[氏/一]己麻思乎《ヰネテコマシヲ》云々とあるにてしるべし。こゝは、率《ヰ》て行たれどといふなり。
 
匣内之《クシゲノウチノ・ハコノウチナル》。珠社所念《タマトコソオモヘ》。
玉は、手にも卷、服のかざりともするものなるを、匣の中に藏んは益なきわざなれば、それをたとへに取れり。七【卅一丁】に、白玉乎手者不纏爾匣耳置有之人曾玉令泳流《シラタマヲテニハマカズニハコニノミオケリシヒトゾタマオボラスル》などありて、論語子罕篇に、有2美玉於斯1※[韋+媼の旁]※[匡の王が賣]而藏云々ともあり。文選石崇王明君辭に、昔爲2匣中玉1、今爲2糞上英1云々とある匣中玉は、愛せらるゝ意にて、こゝとは別なり。さて、一首の意は、かくの如く旅までも君をば率て來たれども、よしありて、心のまゝにあふ事もかなはず、さておくは、匣の中に玉をかくしおくに(がカ)如くおもはると也。略解に、或人云、三の句、ゐたらめどゝよむべし。率て來てあるべけれども、匣の中の玉の如き妻にて、いざなひ來りがたしといふ也云々。この説いかゞ。こは嬬を客に率て來りとしては、次のわが衣かたみにまたすといふに合ず、と思ひていへるなれど、さては前後かなはざる事多かり。
 
636 余《ワガ》衣《コロモ・キヌヲ》。形見爾《カタミニ》奉《マツル・マタス》。布細之《シキタヘノ》。枕不離《マクラカラサズ》。卷而左宿座《マキテサネマセ》。
 
形見爾《カタミニ》奉《マツル・マタス》。
形見は、上【攷證一下廿三丁】に出たり。奉は、まつると訓べし。十七【四十四丁】に、多牟氣能可味爾奴佐麻都里《タムケノカミニヌサマツリ》云々。十八【卅二丁】に、萬調麻都流都可佐等《ヨロツツキマツルツカサト》云々。二十【卅五丁】に、賀美乃(177)美佐賀爾怒佐麻都里《カミノミサカニヌサマツリ》云々などもありて、みな、たてまつるといふ意也。古事記上卷に、立奉《タテマツル》とあるも、奉は、まつると訓べき事をしらせて、立の字を添て書る也。これらにても、奉は、まつると訓べきをしるべし。さて、奉を舊訓またすとあるに、宣長も從はれつ。またすと言も古言とは聞ゆれど、正しく假字書の例なければ、例あるかたによりて、奉をまつるとよめるなり。書紀に、奉遣《タテマタス》とも、遣《マタス》ともいふ訓多く見えたれど、書紀の訓は、ひたぶるには信がたきもの也。また、累聚國史、天長四年十一月告2柏原山陵1詞に、差使天奉《サシツカハシテ》出須|止申賜布状乎《トマヲシタマフサマヲ》云々。同五年八月祭2北山神1詞に、禮代乃幣乎《イヤシロノミテクラヲ》令《シメ》2捧齎《サヽケモタ》1天《テ》奉出|事乎《コトヲ》云々。同八年五月宣命に、奉出|状乎《サマヲ》云々。同六月宣命に、泰出此状乎云々などありて、此後の史どもに、奉出とあるをも、みな、宣長はたてまたすと訓て、こゝの訓例とせられしかど、かの奉出の字は、本集十五【卅六丁】に、麻布里太須可多美乃母能乎《マツリダスカタミノモノヲ》云々とあるを例として、みな、まつりだすと訓べければ、こゝの訓例とはなしがたくこそ。
 
枕不離《マクラカラサズ》。
離《カル》といふは、上【攷證三上六十五丁】にいへるが如く、離《ハナ》れうとくなる意にて、こゝは、枕に放《ハナ》たずといはんがごとし。
 
卷而左宿座《マキテサネマセ》。
卷而《マキテ》は、纏《マキ》ての意にて、纏《マト》ふ意なる事、上【攷證二下五十八丁】にいへるが如し。左宿座《サネマセ》の左は、上【攷證二中八丁】にいへるが如く、發語にて、宿座《ネマセ》は、ねたまへといふ意にて、この御歌は、湯原王、娘子を旅に率て行たまひしが、そこより外へしばし旅行したまふか、又はさるべきよしありて、かりそめに京へのぼらるゝ事などありしをり、衣を形見におくられし歌にて、一首の意は、わが衣を形見に奉れり、わが留守のほどは、これをだに、枕にはなたずまとひて、寢たまへとのたまふなり。
 
(178)娘子。復報贈歌一首。
 
637 吾背子之《ワガセコガ》。形見之衣《カタミノコロモ》。嬬問爾《ツマドヒニ》。余身者不離《ワガミハサケジ》。事不問友《コトトハズトモ》。
 
嬬問爾《ツマドヒニ》。
こは、上【攷證三下廿一丁】にいへるが如く、嬬を問さだむる意にて、よばふといふが如し。
 
余身者不離《ワガミハサケジ》。
離とは、はなつといふにて、此卷二十に、汝乎與吾乎人曾雖奈流《ナヲトワヲヒトゾサクナル》云々。十四【十四丁】に、於也波左久禮騰和波左可禮賀倍《オヤハサクレドワハサカレガヘ》などありて、集中、猶多し。こゝの不離《サケヌ》は、はなたずといふ意なり。
 
事不問友《コトトハズトモ》。
事は借字にて、言なり。ことゝふとは、物言ことなる事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。この歌は、まへの御歌にこたへ申にて、一首は、句を、一、二、四、三、五とついでゝきく意にて、君が形見にとは賜はせる衣を、吾身を離つことはあらじ。君が嬬どふとて、おはしたるに、なずらへて見んに、よしや物いはずともといふ也。
 
湯原王。亦贈歌一首。
 
638 直一夜《タヾヒトヨ》。隔之可良爾《ヘダテシカラニ》。荒玉乃《アラタマノ》。月歟經去跡《ツキカヘヌルト》。心遮《オモホユルカモ》。
 
(179)隔之可良爾《ヘダテシカラニ》。
可良爾《カラニ》は、まへにいへるが如く、間《アヒダ》にといふ意、なる故にといふ意なるもありて、こゝは、間《アヒダ》にといふ意也。九【廿一丁】に、一夜耳宿有之柄二《ヒトヨノミネタリシカラニ》云々。十八【十三丁】に、比登欲能可良爾《ヒトヨノカラニ》、古非和多流加母《コヒワタルカモ》などあるも、間にの意なり。
 
心遮《オモホユルカモ》。
この二字、おもほゆるかもと訓べき義、さらになけれど、遮は、玉篇に、遮斷也とあれば、心遮は心斷にて、心を裁《タツ》ばかりに思ふといふ意もて、心遮とは書るならん。十二【十三丁】に、繼而之聞者心遮焉《ツキテシキケハコヽロハナギヌ》とあれど、こゝをしか訓ては、一首の意聞えがたし。されば、舊訓のまゝおもほゆるかもと訓べき也。さて、代匠記に、心不遮トアリテ、コヽロハナガズト訓タリケムヲ、不ノ字ヲ脱タルナルベシ云々。略解に、心はながずとよまんかと契冲いへり。しかれども、ながずといふ詞なし。古點のごとく、おもほゆるかも有べき歌なり。道別云、所思毳などありしが、かく心遮の二字に誤りたるならんといへり云々。これらの説あたれりともおぼえず。一首の意は明らけし。毛詩□に、一日不見如2三秋1とあるに似たり。
 
娘子。復報贈歌一首。
 
639 吾背子我《ワガセコガ》。如是戀禮許曾《カクコフレコソ》。夜干玉能《ヌバタマノ》。夢所見管《イメニミエツヽ》。寐不《イネラ》所《エ・レ》宿家禮《ズケレ》。
 
如是戀禮許曾《カクコフレコソ》。
戀ふればこその、ばを略ける也。この事、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
 
(180)夜干玉能《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。夜とつゞけしより、いめともつゞくるにて、夢は夜見ゆるものなればなり。
 
寐不《イネラ》所《エ・レ》宿家禮《ズケレ》。
られといふべきを、らえといへる事は、上ところ/\にいへり。ずけれは、ざりけれの意なる事、上【攷證此卷七丁】にいへり。一首の意は、まへの和歌をうけていへるにて、明らけし。
 
湯原王。亦贈歌一首。
 
640 波之家也思《ハシケヤシ》。不遠里乎《マヂカキサトヲ》。雲居爾也《クモヰニヤ》。戀管將居《コヒツヽヲラム》。月毛不經國《ツキモヘナクニ》。
 
波之家也思《ハシケヤシ》。
この言は、はしきやしとも、はしきよしと(も脱カ)いへる、みな同じことにて、こゝの、はしけのけは、きに通ひて、愛《ハシキ》の意。也はよの意。思は助辭にて、愛《ハシキ》よといふ意なる事、上【攷證二下十二丁】にいへり。
 
不遠里乎《マヂカキサトヲ》。
不遠《マヂカキ》を、まぢかきとよめるは義訓なり。六【廿八丁】に、愛也思不遠里乃《ハシキヤシマヂカキサトノ》云々ともありて、此卷【卅一丁】に、間近君爾《マヂカキキミニ》云々とある、正字なり。乎《ヲ》は、なるものをの意なり。まへにもいへるが如く、湯原王、この娘子を率て下りたまひて、旅館の近きほとりに住しめたまひしなるべし。されど、常には相がたきよしありしなるべし。
 
(181)雲居爾也《クモヰニヤ》。
爾《ニ》は如くの意なる事、上【攷證一下卅八丁】にいへり。雲居は遠きことのたとへにおけるなり。
 
月毛不經國《ツキモヘナクニ》。
一首の意は、愛き妹は間近き里に居るものを、雲居の如くにや、間遠にのみ戀つゝやあらん。逢てより、まだ月もへざるにといふ也。
 
娘子。復報贈歌一首。
 
印本、贈の下に和の字あり。和は、答へ歌なる事、上【攷證一上卅一丁】にいへるが如くなるに、報も答ふる意なれば、報と和と重言なり。されば、和の字は衍なる事明らかなれば、目録によりてはぶけり。
 
641 絶常《タユト》云《イハ・イヘ》者《バ》。和備染責跡《ワビシミセムト》。燒太刀乃《ヤキダチノ》。隔付經事者《ヘツカフコトハ》。幸《ヨケク・ヨシ》也《ヤ》吾《ワ・ワガ》君《ギミ》。
 
和備染責跡《ワビシミセムト》。
和備は、上【攷證此卷十七丁】にいへるが如く、せん方なき意。染《シミ》も責《セム》も借字にて、詞なり。染《シミ》のみは、十二【廿九丁】に、吾曾益而伊布可思美爲也《ワレゾマサリテイブカシミスル》。十七【四十四丁】に、奈都可之美勢余《ナツカシミセヨ》」十八【十八丁】に、宇流波之美須禮《ウルハシミスレ》などある、みと同じく、くといふべき意にて、しりぬべみ、なりぬべみ、などいふ、べみのみと同じ。
 
燒太刀乃《ヤキタチノ》。
枕詞にて、冠辞(考脱カ)にくはし。太刀は燒刃作るものなれば、燒太刀とはいへる事、大祓祝詞に、燒鎌乃敏鎌《ヤキカマノトカマ》云々ともあるにてしるべし。さて、太刀は、鞘《サヤ》を隔て、身に付てはくもの故に、隔付經《ヘツカフ》とはつゞけしなり。
 
(182)隔付經事者《ヘツカフコトハ》。
隔を、へと訓は、此卷【十六丁】に、千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》云々。九【十八丁】に、内隔之細有殿爾《ウチノヘノタヘナルトノニ》云々などありて、みな、へだてを略きて、へとのみいへり。付經《ツカフ》は、十【五十一丁】に色付相《イロツカフ》云々。十六【八丁】に、丹津蚊經色丹《ニツカフイロニ》云々などありて、みな、付《ツク》を延たる言にて、隔付經《ヘツカフ》は、へだて付《ツク》といふにて、娘子住る所は隔《ヘダ》たりてあれど、旅までも王に付居《ツキヲ》るをいへり。さて、七【四十一丁】に、湊自邊著經時爾《ミナトヨリヘツカフトキニ》云々とある、へつかふは、濱《ヘ》に舟《フネ》の著《ツク》意なれば、こゝのへつかふとは、さらに別なり。
 
幸也吾《ヨケクヤワ・ヨシヤワガ》君《ギミ》。
説文に、幸、吉而免v凶也とあれば、よけくと訓べし。けくは、くを延たる言にて、そのくを、きに轉じて、こゝは、よきといふ意也。この事、上【攷證一下六十三丁】にいへり。也《ヤ》は疑て問かくりる意にて、一【十三丁】に、、野守者不見哉《ヌモリハミズヤ》、君之袖布流《キミガソデフル》。三【卅丁】に、平城京乎御心也君《ナラノミヤコヲオモホスヤキミ》。また【五十四丁】雨爾零寸八《アメニフリキヤ》。十一【卅三丁】に、不飽八妹登問師公羽裳《アカズヤイモトトヒシキミハモ》などあると同じ格なり。一首の意は、まへの御歌に戀管將居《コヒツヽヲラム》とのたまふをうけて、しかのたまふは、うはべのみの事にて、内心には、もはや絶はてんとおもほすらん。されど、絶んといはゞ、吾《ワガ》【娘子】わびしくおもはんとて、かりそめながらも、戀るよしをばのたまふならん。さるを見れば、住所は隔《ヘダ》たりながらも、君に付そひ奉らんとす。その付そひ奉る事は、君が御心には、よしとおぼしめすや、いかに吾君といふ也。
 
湯原王歌一首。
 
642 吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀《コヒ》而亂在《ミダレタリ・テミダレヽ》。久流部寸二《クルベキニ》。懸《カケ》而縁《テヨセム・テシヨシ》與《ト》。余戀始《ワガコヒソメシ》。
 
(183)戀《コヒ》而亂在《ミダレタリ・テミダレヽ》。
而の而、訓べからず。こは訓にかゝはらずして、助字に置る也。そは、十一【卅九丁】に、卜思而心《ウラモフコヽロ》云々とありて、玉篇に而語助也とあるにてしるべし。在、有などの字は、集中、常に、たり、たるなどよめる字なれば、この句、こひみだれたりと訓べし。かくのごとく本のまゝにて、事もなく訓るゝを、略解に、この句を、こひてみだればと訓て、在は者の誤りなるべしといへるは、例の、やゝもすれば、文字を改めんとはかるの僻にて、とろにたらず。
 
久流部寸二《クルベキニ》。
和名抄蠶絲具に、反轉久流閉枳とありて、毛詩斯干に、乃生2女子1、載寢2之地1、載衣2之※[衣+易]1、載弄2之瓦1とある瓦を、古訓くるべきとよめり。傳に、瓦紡磚也とあり。されば、瓦も、糸を紡《ヨル》具にて、反轉と同じ。これをくるべきといふは、この物を囘《マハ》して糸を紡《ヨル》に、めぐりくるめくより名づけしにて、本は詞なるを、その用る形によりて、その器の名とはなせる也。眩を、和名抄に、めくるめくやまひと訓るも、目の囘《マハ》るよしにて、宇治拾遺卷九に、いそぎくるめくがいとをしければ云々とあるも、囘《マハ》るをいへり。このくるめくのくるは、物の囘《マハ》る意なる事、車をくるまといふも、くるは囘る意。まはわと通ひて、輪《ワ》の意。戸にくるゝ戸といふがあるも、囘る意なるにてしるべし。俗言に、ぐる/\まはるなどいふ言のあるをも思ふべし。めくは、なまめく、あだめく、色めく、春めく、時めく、きらめくなどいふ、めくと同じくて、詞なり。さて、枕草子に、稻《イネ》といふものおほく取いでゝ、わかき女どもの、きたなげならぬ其わたりの家のむすめ、おんななど、ひきゐてきて、五六人して、こがせ、見もしらぬ、くるべきもの、二人してひかせて、歌うたはせなどするを、めづらしくしてわらふに云々とあるは、(184)反轉とは別にて、稻をこがせて、さて、くるべきものを引するよしなれば、籾を摩《スル》臼《ウス》の囘るを見て、くるべきものとはいへるにて、都には無もの故に、見もしらぬ、くるべきものとはいへる也。こは、見もしらぬ、まはるものといふにて、このくるべきは、一つの器の名にはあらざる事、ものといふことを付ていふにてしるべし。
 
懸《カケ》而縁《テヨセム・テシヨシ》與《ト》。
反轉《クルベキ》は、糸を引て寄《ヨ》せ合す具なれば、隔たりで居る妹を、くるべきにかけて、引よせんとはいふ也。
 
余戀始《ワガコヒソメシ》。
そめしのしは、わがのがの結び也。一首の意は、吾妹子に、われは戀みだれてあり、君が住る所の隔たりてあれば、かの反縛《クルベキ》にかけて、糸を引よするが如く、君を吾もとに引よせんと思ひて、はじめより戀始にたりとのたまふにて、端辭は別なれど、これも、まへの贈答ありし娘子を思ひたまふなるべし。
 
紀女郎。怨恨歌三首。【鹿人大夫之女。名曰2小鹿1。安貴王之妻也。】
 
十六字の古注は、元暦本、代匠記に引る官本などによりて加ふ。此卷の下【五十五丁五十八丁】古注に、二所まで、女郎名曰2小鹿1也とありて、八【五十六丁五十八丁】にも、二所まで、紀小鹿女郎とあれば、古注にいへるが如くなるべし。鹿人は、續日本紀に、天平九年九月己亥、授2正六位上紀朝臣鹿人外從五位下1。十二月壬戌、爲2主殿頭1。十二年十一月甲辰、授2外從五位下(上カ)1。十四年八月丁亥、爲2大炊頭1。など見えたり。安貴王は上【攷證三上七十丁】に出たり。
 
(185)643 世間之《ヨノナカノ》。女《ヲミナ・ヲトメ》爾思有者《ニシアラバ》。吾渡《ワガワタル》。痛背乃河乎《アナセノカハヲ》。波金目八《ワタリカネメヤ》。
 
女《ヲミナ・ヲトメ》爾思有者《ニシアラバ》。惟瀾
にしのしは助辭にて、女にあらばなり。
 
吾渡《ワガワタル》。
吾《ワガ》は他《ヒト》をさしていふ歟。今の俗言にも、人をさして、われ、わがなどいふことあり。宣長云、吾君の誤りにて、きみがわたるなるべし云々といはれたり。
 
痛背乃河乎《アナセノカハヲ》。
痛を、あなとよめるは義訓也。集中いと多し。この痛背乃河《アナセノカハ》は、しとせと常に通ふ音なれば、痛足《アナシ》川なるべし。あなし川は、七【五丁】に、痛足河河浪立奴卷目之由槻我高仁雲居立有良志《アナシカハカハナミタチヌマキモクノユツキガタケニクモヰタテルラシ》。また【六丁】卷向之病足之川由往水之《マキモクノアナシノカハユユクミヅノ》云々。十二【卅二丁】に、纏向之痛足乃山爾雲居乍《マキモクノアナシノヤマニクモヰツヽ》云々などありて、大和志に、城上郡纏向山在2三輪山東北1、即纏向溪上方峯曰2弓月嶽1、南曰2檜原山1、北曰2穴師山1と見え、代匠記に、穴師川ハ三輪山ト穴師山トノ間ヨリ、西ヘ出テ、北ニ折タリ云々といはれたり。さて、眞淵の説に、痛は瘡の誤りにて、瘡背川《イモセガハ》なるべしといはれつれど、集中、妹背山は多く詠たれど、川とはよめる事なく、また、瘡を、いもといへる事、中ごろより上にはなきことなれば、用ひがたし。略解に、集中、まきむくの痛足川とよめれば、背は足の誤りにて、あなしか。又は廣背の誤りにて、ひろせか。廣背川は、卷七によめり云々といへるは、よしありてきこゆ。さて、この歌を、代匠記に、歌ノ意ハ、尋常ノ女ノ如ク、離別ヲサシモ重ク思ハズバ、夫ニ送ラレテ親ノ許ヘ歸ルニ、痛背川ヲ渡カネムヤ。我渡リカヌルハ、人コソ心カハリテツラケレ、年月馴コシ恩愛ノ忘ガタケレバナリトヨメル意ナリ云々といはれつるは、(186)吾渡《ワガワタル》といふにはよく叶ひたれど、次の二首の歌は、男の旅に出立時の歌のさまなるに叫はず。されば、按に、この歌も、男の旅に出立んする時の歌にて、一首の意は、吾も世のつねの女の如く、こゝろつよくありせば、君があとおひゆきて、君がわたりゆく痛背の川をわたりかねまじきに、われは心よわく、いふかひなき心なれば、せんかたなしといふなるべし。
 
644 今者《イマハ》吾《ワ・ワレ》羽《ハ》。和備曾四二結類《ワビゾシニケル》。氣乃緒爾《イキノヲニ》。念師君乎《オモヒシキミヲ》。縱與思者《ユルストオモヘバ》。
 
和備曾四二結類《ワビゾシニケル》。
和備《ワビ》は、上【攷證此卷十七丁】にいへるが如く、せんかたなく、さしせまりたる意にては、今、吾は、せん方なく、さしせまりたりといふ也。
 
氣乃緒爾《イキノヲニ》。
此卷【四十四丁】に、中々爾絶年云者《ナカナカニタエムトシイハヾ》、如此許氣緒爾四而《カクバカリイキノヲニシテ》、吾將戀八方《ワガコヒメヤモ》。七【卅五丁】に、氣緒爾念有吾乎《イキノヲニオモヘルワレヲ》云々。八【廿丁】に、氣緒爾吾念公者《イキノヲニワガオモフキミハ》云々。十一【四十一丁】に、生緒爾念者苦《イキノヲニオモヘバクルシ》云々。十二【廿一丁】に、思將度氣之緒爾爲而《オモヒワタラムイキノヲニシテ》云々。十八【卅四丁】に、伊吉能乎爾奈氣加須古良《イキノヲニナゲカスコラ》云々。十九【四十六丁】に、君乎曾母等奈伊吉能乎爾念《キミヲソモトナイキノヲニオモフ》などありて、集中、猶多く、玉篇に、氣息也と見え、淮南子原道訓に、氣者生之充也云々。素問刺禁論注に、氣者生之原云々などありて、生物すべて氣《イキ》ありて生居《イキヲ》るものなれば、氣の緒は、氣の續《ツヾ》く意にて、年の緒、魂の緒などの緒と同じき事、上【攷證三下四十五丁】年緒《トシノヲ》の注にいへるがごとし。
 
縱與思者《ユルストオモヘバ》。
印本、與を左に作りて、ゆるさくおもへばとよめり。さくは、すを延たる言にて、ゆるすおもへばといふ意になれば、これもあしからねど、左の一字をさくと訓ん(187)よしなく、与を略きて與と書が、左と近ければ、誤りなる事明らか也。されば、代匠記に引る別校本によりて改。また、代匠記に引る或本に縱久思者《ユルサクオモヘバ》とあり。又、考異本に引る異本に縱左久思者《ユルサクオモヘバ》とあれど、與の方まされり。さて、縱《ユルス》とは、上【攷證此卷十九丁】にいへるが如く、諾《ウベ》なふ意にて、こゝは、男の旅に行かんといふを許遣《ユルシヤル》意にいへり。十二【卅八丁】に、白妙之袖之別者雖惜《シロタヘノソデノワカレハヲシケレド》、思亂而赦鶴鴨《オモヒオミダレテユルシツルカモ》とあるも同じ意なり。一首の意は、生《イノチ》を續《ツナ》ぐよすがにも、思ひわたりし君なれて(どカ)、旅に出たゝんといふを、とゞむるによしなく、ゆるしやると思へば、今は、われはせんかたなくおもひわびたりといふ也。
 
645 白妙乃《シロタヘノ》。袖可別《ソデワカルベキ》。日乎近見《ヒヲチカミ》。心爾咽飲《コヽロニムセビ》。哭耳四所流《ネノミシナカユ》。
 
袖可別《ソデワカルベキ》。
三【五十九丁】に、白妙之手本矣別丹杵火爾之家從裳出而《シロタヘノタモトヲワカレニキヒニシイヘユモイデヽ》云々。十一【廿三丁】に、妹之袖別之日從白細之衣片敷戀管曾寐留《イモガソデワカレシヒヨリシロタヘノコロモカタシキコヒツヽゾヌル》。十二【卅八丁】に、白妙之袖之別者《シロタヘノソデノワカレハ》云々。また【四十一丁】に、白妙乃袖之別乎難見爲而《シロタヘノソデノワカレヲカタミシテ》云々。十五【七丁】に、妹我素弖和可禮弖比左爾奈里奴禮杼《イモガソデワカレテヒサニナリヌレド》云々などありて、袖さしかへ、袖たづさはりなどもいふごとく、夫婦袖をつらぬるを、別るゝなれば、袖別とはいへるにて、たゞ別といふに同じ。
 
日乎近見《ヒヲチカミ》。
見は、さにの意なり。
 
(188)心爾咽飲《コヽロニムセビ》。
咽飲を、むせびと訓るは義訓也。上【攷證三下三十九丁】にいへり。元暦本に、飲を飯と作れるもあしからず。飯は、三【十六丁】に、飼飯海《ケヒノウミ》云々。此卷【五十六丁】に、得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》云々など、け(ひノ誤カ)の假字に用ひたり。こは、悲しむよしをつよくいへる也。一首の意は、君と別るべき日の近づくまにまに、心にむせび悲しみて、音のみを泣るといふなり。
 
哭耳四所流《ネノミシナカユ》。
印本、泣を流に作れり。流は、ながると訓ること、常なれば、この訓を借略して、所流《ナカユ》とよまんもことわりなきにはあらざれど、三【二十九丁五十三丁】九【卅六丁】十三【廿五丁卅四丁】十九【廿八丁】など、みな、哭《ネ》のみし所泣《ナカユ》とありて、又、二【四十四丁】此卷【十六丁】などには、ねのみし所哭《ナカユ》と見え、この外は、みな、假字にて、ねのみし奈可由《ナカユ》とのみありて、外の書ざまなる一つもなく、泣と流と體も近ければ、誤りなる事明らかなるによりて、代匠記に引る官本、考異本に引る中本、拾穗本などに依て改む。この歌も、男の旅に出たゝんとするをうらめるなり。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首。
 
646 大夫之《マスラヲノ》。思和備乍《オモヒワビツヽ》。遍多《タビマネク・アマタヽビ》。嘆久嘆乎《ナゲクナゲキヲ》。不負物可聞《オハヌモノカモ》。
 
遍多《タビマネク・アマタヽビ》。
たびまねくと訓べし。此卷【五十四丁】に、遍多數成者吾胸《タビマネクナレバワガムネ》云々。十九【卅九丁】に、從古昔無前之瑞多婢末禰久《イニシヘユナカリシミヅモタボマネク》、申多麻比奴《マヲシタマヒヌ》云々。續日本紀、寶龜三年五月の詔に、一二遍能味仁不在《ヒトタビフタタビノミニアラズ》、遍麻年久發覺奴《タビマネクアラハレヌ》などありて、みな、數の多き意にて、あまたたびといはんが如し。猶、上【攷證一下七十四丁】に、まねくとある所も考へ合すべし。
 
(189)不負物可聞《オハヌモノカモ》。
負《オフ》とは、十一【卅五丁】に、無名乎吾者負香《ナキナヲモワレハオヘルカ》云々とあるも、又、名を負などいへるも同じく、みな、吾身にうくる事にて、後撰集戀一に【よみ人しらず】こがらしの杜の下草風はやみ、人のなげきは、おひそひにけりとあるも、歎に木をかね、生《オヒ》に負《オヒ》をかねたり。また、詞花集雜上に【和泉式部】あしかれと思はぬ山のみねにだにおふなるものを人のなげきは、とあるも同じ。また、伊勢物語に、むくつけき、こと人ののろひごとは、おふものにやあらん、おはぬものにやあらん。いまこそは見めとぞいふなる。源氏物語桐つぼの卷に、うらみをおふつもりにやありけん云々などあるも、こゝと同じ。一首の意は、わがかくのごとく歎くなげきのむくいを、おはぬものにやはある。必らず負ぬべしといふにて、つらかりける女におくられしにて、この女は坂上郎女なるべし。そのよしは次にいへり。
 
大伴坂上郎女歌一首。
 
647 心者《コヽロニハ》。忘日無久《ワスルヽヒナク》。雖念《オモヘドモ》。人之事社《ヒトノコトコソ》。繁君《シゲキキミ》爾阿禮《ナレ・ニアレ》。
 
爾阿禮は、爾有と書るを、なり、なる、なれなど訓る例もて思へば、なれと約めて訓べき也。この事、上【攷證一上廿五丁】爾有《ナレ》の條、考へ合せてしるべし。事は借字にて、言也。一首の意は明らけし。さてこの歌とまへの歌とは、端辭には、いかにともあらざれど、正しく贈答なるべし。駿河麻呂卿と坂上邸女とは、次の左注にいへるが如く、姑《ヲバ》姪《ヲヒ》のつゞきにて、しかも、駿河麻呂卿は坂上郎女の(190)まゝ娘、田村の大孃と通じ居られしかど、この郎女とも、ひそかに通じられたるがおもはるゝは、この下の歌どもにてしらる。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌一首。
 
648 不相見而《アヒミズテ》。氣長久成奴《ケナガクナリヌ》。比日者《コノゴロハ》。奈何《イカニ》好去《サキヽ・ヨシユキ》哉《ヤ》。言借吾妹《イブカシワギモ》。
 
氣長久成奴《ケナガクナリヌ》。
上【攷證一上二丁】にいへるが如く、氣は來經《キヘ》の約りにて、月日の來經長くなりぬるをいへり。
 
奈何《イカニ》好去《サキヽ・ヨシユキ》哉《ヤ》。
好去哉を、舊訓によしゆきやとよめるは、いふまでもなく、略解に、よけくやと訓るも誤れり。流布本代匠記に、齊明紀に好在と書て、さきくはへりやとよめり。もし、今の去の字は、在の字の誤りなるか。好在ならば、さくあれやと訓べし云々。この説も誤れり。こは、九【卅丁】に、吾思吾子眞好去有欲得《ワガオモフワコマサキクアレコソ》とあるにて、こゝの好去哉も、さきゝやと訓べき事明らかなり。また七【十六丁】に、好去而|亦還見六丈夫乃手二卷持在鞆之浦囘乎《マタカヘリミムマスラヲノテニマキモタルトモノウラマヲ》。十七【廿丁】に、好去而|安禮可弊里許牟《アレカヘリコム》云々。二十【卅四丁】に、好去而|早還來等《ハヤカヘリコト》云々などある好去而も、みな、まさきくてと訓べき也。そも/\好去の字をさきくとも、まさきくとも訓るは義訓なるよしは、好は吉《ヨキ》意なる事論なく、去に常にゆくと訓る字にて、こゝの好去哉は、よく月日を經往《ヘユク》やと【行といふに、月日を經往く意なるがある事は、上攷證四上五十丁にいへり。】いふ意なれば、まさきゝやといふ意によく當れり。また、七、十七、二十などの好去而も、九の眞好去も、旅に行をりの事なれば、よく行てかへりこんといふ意もて書(191)るなれば、これらも、まさきゝといふに當れり。杜甫送3張參軍赴2蜀川1詩に、好去張公子、通家別恨添とあるも意同じ。さて、この句、奈何《イカニ》といひて、好去哉《サキヽヤ》といふ哉《ヤ》もじ、てにをは違へるがごと聞ゆれど、こは、八【卅丁】に、言告遣之《コトツゲヤリシ》、何如告寸八《イカニツゲキヤ》とあると同じ格にて、哉は問かくる意にて、いかにといひ切意なれば、てにをはたがへるにあらず。
 
言借吾妹《イブカシワギモ》。
言借《イブカシ》とかけるは借字にて、九【廿二丁】に、言借石國之眞保良乎委曲爾示賜者《イブカリシクニノマホラヲマツバラニシメシタマヘバ》云々。十一【廿三丁】に、下言借見思有二《シタイブカシミオモヘルニ》云々。十二【廿九丁】に、吾曾益而伊布可思美爲也《ワレゾマサリテイブカシミスル》などありて、みな、心もとなき意也。一首の意は、相見ずして、月日久しくなりぬ。いよゝ平らかに、幸《サキ》くいませりや、こゝろもとなし。吾妹子、このごろは、いかにわたらせたまふぞととはるゝなり。
 
大伴坂上郎女歌一首。
 
649 夏葛之《ナツクヅノ》。不絶使乃《タエヌツカヒノ》。不通有《ヨドメレ・カヨハネ》者《バ》。言下有如《コトシモアルゴト》。念鶴鴨《オモヒツルカモ》。
 
夏葛之《ナツクヅノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。宣長云、夏は蔓の誤りにて、はふくずのならん云々といはれたり。三【四十六丁】に、延葛乃彌遠永《ハフクズノイヤトホナガク》云々。十六【十九丁】に、延田葛乃後毛將相跡《ハフクズノノチモアハムト》云々。二十【六十一丁】に、波布久受納多要受之努波牟《ハフクズノタエズシヌバム》云々などあれば、宣長の説當れるに似たれど七【廿六丁】に、釼後鞘納野邇葛引吾妹《タチノシリサヤニイルヌニクズヒクワギモ》、眞袖以著點等鴨《マソデモテキセテムトカモ》、夏葛苅母《ナツクズカルモ》。【この夏葛の葛を、印本、草に誤れゝど、一本によりて改し。】とありて、又、毛詩葛※[譚の旁]注に、盛夏之時、葛既成矣、於是治以爲v布而服之云々とありて、葛は夏刈をさむるもの故に、夏を專らとすれば、夏葛といふなるべし。さて、葛は、引とも絶ざるものなれば、(192)たえぬとはつづけし也。
 
不通有《ヨドメレ・カヨハネ》者《バ》。
舊訓の如く、かよはねばと訓ても、意は聞ゆれど、有の字を添て書たれば、よどめればと訓べし。不通の字を、よどむと訓るは義訓也。十二【十七丁】に、今來吾乎不通跡念莫《イマクルワレヲヨドムトオモフナ》。また【十九】不通牟心思兼都母《ヨドマムコヽロオモヒカネツモ》などあり。こは、此卷【卅六丁】に、止息の字をもよめるが如く、たゆたふ意なり。
 
言下有如《コトシモアルゴト》。
下は借字にて、詞也。こは障《サヽハ》る事ある如くといふ意也。上【攷證四上十六丁】事之有者《コトシアラバ》とある所、考へ合すべし。さて、この歌も、端詞には何ともあらざれど、正しく贈答にて、まへの歌は(にカ)、このごろは好去《サキク》いませりや、奈何と、問はれしに答へたるにて、一首の意は、常に絶ざりし使の、このごろ、よどみて來ざれば、何ぞさはる事にてもあるやうに念ひつるぞと也。
 
右。坂上郎女者。佐保大納言卿女也。駿河麻呂。此高市大卿之孫也。兩卿兄弟之家。女孫姑姪之族。是以題v歌送答。相2間起居1。
 
佐保大納言。
大伴安麻呂卿なり。上【攷證四上三十四丁】に出たり。
 
(193)高市大卿。
拾穗抄に、高市皇子なるよし注したるは、いふまでも(なく脱カ)誤りにて、略解に、高市麻呂卿と注したるも誤れり。こは、大伴御行卿をいへり。この卿を、高市大卿といふよしは、しりがたけれど、次に兩卿兄弟之家とあれば、御行卿なる事明らけし。御行卿は、續日本紀に、大寶元年正月己丑、大納言正廣參大伴宿禰御行薨。詔贈2正廣貳右大臣1。御行難波朝右大臣大紫長徳之子也とありて、安麻呂卿と兄弟なり。
 
兩卿兄弟之家。
兩卿は御行卿と安麻呂卿をいふなり。
 
女孫。
女孫とは、御行卿より、駿河麻呂卿をさしていふ也。駿河麻呂卿の父は、上【攷證三中八十二丁】にいへるが如く、たしかには知がたけれど、その父は安麻呂卿の男にて、坂上郎女の兄弟なるが、御行卿の女を嫁りで、駿河麻呂卿を生りしかば、こゝに女孫とはいふ也。(頭書、女は安麻呂卿の女、孫は御行卿の孫といふ意か。)
 
姑《ヲバ》姪《ヲヒ》之族。
姑は、和名抄伯叔類に、姑和名乎波と見え、爾雅釋親に、父之姉妹爲v姑とありて、坂上郎女をさせり。姪は、上【攷證四上五十八丁】にいへるが如く、兄弟の子を男女ともに、おしわたしていふことにて、姪はめひ、甥はをひとわかちいふは、やゝ後のさた也。こゝには、駿河麻呂卿をさせり。
 
起居。
禮記儒行篇に、起居猶2擧事動作1と見えたり。
 
(194)大伴宿彌三依。離復相歡。歌一首。
 
大伴三依は、上【攷證四上四十九丁】に出たり。歡、印本、歎に作れり。いま、元暦本と目録に依て改む。歡は懽と同字にて、國策秦策注に、懽猶v合也とあれば、相合といふ意もて書るなるべし、
 
650 吾妹兒者《ワギモコハ》。常世國爾《トコヨノクニニ》。住家良思《スミケラシ》。昔見從《ムカシミシヨリ》。變若《ヲチ・ワカエ》益爾家利《マシニケリ》。
 
常世國爾《トコヨノクニニ》。
集中、常世といふに二つあり。一つは、常とはにして、かはらぬ意なるあり。この事は、上【攷證一下卅丁三上卅一丁】にいへり。今一つは、常世の國をいへり。この常世國といふは、もと海外の國をいひて、たやすくは至りがたく、遠き國をいふ事なるが、【たゞ遠き國をさして常世國といふ事は、攷證四下十七丁にいふべし。】漢土にていふかの蓬莱山も、いと遠く至りがたき國なれば、これをも常世國とはいふ也。こゝなる常世國は即ち蓬莱山をいへり。蓬莱山を常世國といふ證は、書紀雄略紀に、二十二年七月、丹波國餘社郡管川人水江浦島子乘v舟而釣、遂得2大龜1、便化爲v女、於v是浦島子感以爲v歸、相逐入v海、到2蓬莱山1、歴2覩仙衆1とありて、浦島子傳、丹後風土記など、みな、蓬莱に至るよししるせるに、本集九【十八丁】八浦島子を詠る歌には、常世に至るよしあるにて、蓬莱山すなはち常世國なるをしるべし。また、本集五【廿三丁】和松浦仙媛歌に、伎彌乎麻都麻都良乃于良能越等賣良波《キミヲマツマツラノウラノヲトメラハ》、等己與能久爾能阿麻越等賣可忘《トコヨノクニノアマヲトメカモ》とあるも、正しく蓬莱をいへり。さて、蓬莱は、史記封禅書に、使3v人入v海求2蓬莱1。方丈瀛洲此三神山者、其傳在2渤海中1、去v人不v遠、患且至則船風引而去。葢嘗有2至者1、諸僊人及不死之藥皆在焉云々。列子湯問篇に、渤海之東、不v知2幾憶萬里1。有2大(195)壑1焉。實惟無v底之谷、其下無v底、名曰2歸墟1。八※[糸+廣]九野之水、天漢之流、莫v不v注、而無v増無v減焉。其中有2五山1焉、一曰2岱輿1、二曰2員※[山+喬]1、三曰2方壺1、四曰2瀛洲1、五曰2蓬莱1。其山高下周旋三萬里、其頂平處九千里、山之中間相去七萬里、以爲2隣居1焉。其上臺觀皆金玉、其上禽獣皆純縞、珠※[王+干]之樹皆〓生、華〓皆有2滋味1、食v之皆不v老不v死、所v居之人皆仙聖之種云々。なほ、山海經、十洲記などに見えたり。この蓬莱のうちに不老不死の藥なれ《《(マヽ)》》ば、昔見從變若益爾家里《ムカシミシヨリヲチマシニケリ》とはいへり。
 
變若《ヲチ・ワカエ》益爾家利《マシニケリ》。
變若を、舊訓わかえと訓るは誤れり。をちと訓べき事は、上【攷證三中廿一丁】にいへるが如く、をちとは若がへる事にて、この歌は、別れてよりほど經、また相るをりの歌にて、一首の意は、吾妹兒は、常世の國にや住けん、また不老不死の藥などをや食つらん。昔見たりしよりは、若がへりまされりといふなり。(頭書、若ゆといふ事も古し。出雷國造神賀詞に、彌若叡爾御若叡坐《イヤワカエニミワカエマシ》云々とありて、古今集にも、六帖にも見えたれど、こゝをわかえと訓ては、文字あまりて、歌の調よからねば、猶、をちましにけりと訓べき也。)
 
大伴坂上郎女歌二首。
 
651 久堅乃《ヒサカタノ》。天《アメ・アマ》露霜《ノツユジモ》。置二家里《オキニケリ》。宅《イヘ》有《ナル・ニアル》人毛《ヒトモ》。待戀奴濫《マチコヒヌラム》。
 
天《アメ・アマ》露霜《ノツユジモ》。
題霜は、七【八丁】に、天之露霜取者消乍《アメノツユジモトレバキエツヽ》。十一【五丁】に、天露霜沾在哉《アメノツユジモヌレニタルカモ》などありて、天より降ものなれば、あめのつゆじもとはいへるにて、時雨《シグレ》を、あめのしぐれともいへる(196)類なり。さて、露霜は、上【攷證三中四丁】にあげたる宣長の説に、おしなべて、たゞ、露をつゆじもいへるよしいはれたれど、まれ/\には、秋の末、冬のはじめなどに、霜のうすきを、つゆじもといへるもあり。そは、六【廿五丁】に、龍田山乃露霜爾色附時丹《タツタノヤマノツユジモニイロヅクトキニ》云々。八【四十四丁】に、露霜爾逢有黄葉乎手折來而《ツユジモニアヘルモミヂヲタヲリキテ》云々などあるは、正しく霜の方を專らにいへり。こゝなる露霜も、霜のかたを專らとせり。さて、こは、能因歌枕に、露霜とは秋の霜をいふ云々。契冲雜紀に、露霜といふに二つ有。一つには、霜と露となり。常のごとし。二つには、萬葉第七、第十に詠露といふ題に、露霜とよみ、その外、露霜さむみなど、あまたよめるは、秋の末に至りて、露のこりて霜となる程の名也云々とある、これらの説も、ひたぶるには捨がたし。
 
宅《イヘ》有《ナル・ニアル》人毛《ヒトモ》。
こは、誰をさせりとも知がたけれど、おしはかり思ふに、坂上郎女、まゝ娘田村大孃を、駿河麻呂卿に合せたれば、この宅有人《イヘトルヒト》は、田村大孃をいふか。一首の意は、このごろは、露霜の置ばかりに日數を經にたれ、家なる人も待戀らんといへり。毛の字に心を付べし。
 
652 玉主爾《タマモリニ》。珠者授而《タマハサヅケテ》。勝且毛《カツガツモ》。枕與吾者《マクラトワレハ》。率二將宿《イザフタリネム》。
 
玉主爾《タマモリニ》。
これを、略解に、玉ぬしにと訓かへたるは誤れり。三【四十二丁】に、山主者蓋雖有《ヤマモリハケダシアリトモ》云々とありて、玉篇に、主守也とあるにて、主はもりと訓るをしるべし。
 
勝且毛《カツガツモ》。
古事記中卷【神武】御歌に、加都賀都母伊夜佐岐陀弖流延袁斯麻加牟《カツガツモイヤサキダテルエヲシマカム》ともありて、宣長云、こは事のいまだ慥《タシカ》ならず、はつ/\なるをいふ詞なり。たとへば、かつがつ見ゆと(197)は、いまださだかには見えず、はつ/\に見え初るをいふ。そは、たしかに見ゆると、いまだ見えざるとの中間なる故に、かつ見え、かつ未見えずといふ意にで、かつ/”\と重ねいふなるべし。こゝは、かつ/”\も、玉主に玉をば授てといへるにて、末うけばりて、授をはりぬるにはあらざれども、まづはつ/\に授そめたる意なり云々といはれつるが如し。後撰集戀三に【よみ人しらず】あひみてもわかるゝことのなかりせば、かつ/”\ものは、おもはざらまし。拾遺集賀に【能宣】君がへん八百萬代をかぞふれば、かつ/”\けふぞ七日なりける。大和物語に、いかなればかつ/”\物を思ふらん、なごりもなくぞわれはかなしき、など見えたり。さて、この歌は、まへにもいへるがごとく、坂上郎女と駿河麻呂卿、姑《ヲバ》姪《ヲヒ》の續ながら、ひそかに通じ居られし事ありとおぼしくて、玉主《タマモリ》は、まゝ娘、田村大孃をさし、玉は駿河麻呂卿をさせりとおぼしくて、一首の意は、駿河麻呂卿をば娘に授つれば、今よりは、枕と二人に(て、脱カ)いざ寢なんといへるなるべし。賂解に、玉は女《ムスメ》をた(と脱カ)へ、玉主は駿河麻呂をたとへたりといへるは、くはしからねこゝちす。
 
大伴宿禰駿河麻呂歌三首。
 
653 情者《コヽロニハ》。不忘物乎《ワスレヌモノヲ》。儻《タマサカニ・タマ/\モ》。不見日數多《ミザルヒマネク・ミヌヒカズオホク》。月曾經去來《ツキゾヘニケル》。
 
儻《タマサカニ・タマ/\モ》。
儻を、たまさかと訓るは義訓なり。儻は、莊子天地篇に、儻乎若v行而失v道也云々などある意もて書るならん。舊訓、たま/\と訓り。たま/\も、たまさかも、意は專ら同じこ(198)となれど、たま/\といふこと、中古より古くものに見えず。類聚名義抄に、儻を、タマサカとも、タマ/\ともよみ、平他字類抄に、偶タマ/\。以呂波字類抄に、儻偶タマ/\。字鏡集、和玉篇など、儻タマ/\と訓り。かくの如く、儻は、たま/\とも、たまさかとも訓る字にて、たまさかといふ言は、本集七【十八丁】に、邂爾伊計藝※[走+多]相《タマサカニイコキワタラヒ》云々。十一【六丁】に、玉坂吾見人《タマサカニワガミシヒト》云々などありて、靈異記上卷訓釋に、邂逅タマサカ。中卷訓釋に、偶、多眞佐可爾などありて、いと古言なれば、こゝも、たまさかにと訓べし。意は、たま/\といふに同じ。
 
不見日數多《ミザルヒマネク・ミヌヒカズオホク》。
數多は、まねくと訓べき事、上【攷證一下七十四丁二中四十六丁】にいへるが如く、數の多き意にて、十七【四十六丁】に、矢形尾能多加乎手爾須惠美之麻野爾可良奴日麻禰久都奇曾倍爾家流《ヤカタヲノタカヲテニスヱミシマヌニカラヌヒマネクツキゾヘニケル》などあるも、こゝと同じつゞけなり。一首の意は、情にはわすれざれども、たま/\見ざる日の多く、月さへ經ぬるのみなりといふにて、これより下三首も坂上郎女と贈答なり。
 
654 相見者《アヒミテハ》。月毛不經爾《ツキモヘナクニ》。戀《コフト》云《イハ・イヘ》者《バ》。乎曾呂登吾乎《ヲソロトワレヲ》。於毛保寒毳《オモホサムカモ》。
 
乎曾呂登吾乎《ヲソロトワレヲ》。曾ソ
仙覺抄に、をそろとは、そらごとゝいふことなり。【奥儀抄同説。】ともるが如く、乎曾《ヲソ》とは、虚言をいひて、呂は助辭なり。十四【廿八丁】に、可良須等布於保乎曾杼里能麻左低爾毛伎麻左奴伎美乎許呂久等曾奈久《カラストフオホヲソトリノマサテニモキマサヌキミヲコロクトゾナク》とあるも、烏の鳴聲のころくと聞ゆるを、子等來《コラク》と聞なして、正しくも來まさぬ君を、子等來《コラク》と鳴は、大きなる僞《イツハリ》鳥なりといふにて、乎曾杼里《ヲソトリ》の乎曾《ヲソ》も、僞言をいふ也。助字の呂もじの事は上【攷證三下六十四丁】にいへり。
 
(199)於毛保寒毳《オモホサムカモ》。
寒を、さむと訓るは借字なり。十【四十四丁】に、手折可佐寒《タヲリカザサム》とあり。一首の意は、相見てよりいまだ月も經ざるに、戀るよしいはゞ、吾をそら言いふとおもほさんかといふ也。
 
655 不念乎《オモハヌヲ》。思常云者《オモフトイハバ》。天地之《アメツチノ》。神祇毛知寒《カミモシルガニ》。邑禮左變《・サトレサカハリ》。
 
神毛知寒《カミモシルガニ》。
知寒《シルガニ》の寒《ガニ》は借字にて、爲《タメ》に、故《ユヱ》になどいふ意なる事、上【攷證三中八十七丁】にいへるが如し。略解には、この句を神毛知寒《カミモシラサム》とよめり。これもあしからねど、五句、訓がたければ、この訓を改むべきたよりなし。
 
邑禮左變《・サトレサカハリ》。
この一句心得がたし。必らず誤字なるべし。代匠記に、左變ノ左ハ、例ノ添タル字ニテ、カハリハ心ノカハレルナリ。歌ノ意ハ、我、今、君ニ誓フ所、モシ思ハヌヲ思フトイフ物ナラバ、天神地祇ヨク知タマハム。然バ、ワレニオキテアシクカハリタル事アルベシ。サレドモ、吾マコトヲ神ノ知シメシテ、カハリタル事サラニアラジ。今ヤガテソレヲ試ミテ、思フ所ノ僞ナラヌコトヲサトレトナリ。サトレハ、唯シレナリ。宇津保物語ノ歌ノ題ニ、春ヲサトレル草トアルガゴトシ云々。眞淵の説に、試みにいはゞ、歌飼名齋《ウタカフナユメ》ならんか云々。これらの説、當れりともおぼえず。この句、解しがたければ、一首の意もときがたけれど、此卷【廿六丁】に、不念乎思常云者《オモハヌヲオモフトイハヾ》、大野有三笠杜之神思知三《オホヌナルミカサノモリノカミシシラサム》とあるに似たり。
 
(200)大伴坂上郎女歌六首。
 
656 吾耳曾《ワレノミゾ》。君爾者戀流《キミニハコフル》。吾背子之《ワガセコガ》。戀云事波《コフトイフコトハ》。言乃名具左曾《コトノナグサゾ》。
 
言乃名具左曾《コトノナグサゾ》は、言の慰《ナグサメ》ぞなり。七【廿四丁】に、黙然不有跡事之名種爾云言乎聞知良久波少可者有來《モダアラジトコトノナグサニイフコトヲキヽシレラクハスクナカリケリ》。
十【十七丁】に、狹野方波實爾雖不成花耳開而所見社戀之名種爾《サヌカタハミニナラズトモハナニノミサキテミエコソコヒノナグサニ》。十二【廿四丁】に、淺茅原小野爾標結空言毛將相跡令聞戀之名種爾《アサチハラヲヌニシメユフソラコトモアハムトキコセコヒノナグサニ》。十八【廿四丁】に、奈氣久良牟心奈具佐余《ナケクラムコヽロナグサヨ》云々。又、和伎母故我許己呂奈具左爾夜良無多來於伎郡之麻奈流之良多麻母我毛《ワキモコカコヽロナグサニヤラムタメオキツシマナルシラタマモガモ》などある、これら、みな、慰めの意也。これより六首もまへの歌どもと贈答にて、この歌は、まへの相見者月毛不經爾戀云者《アヒミテハツキモヘナクニコフトイハバ》云々の歌にこたへて、君が戀といふは、吾心をなぐさめんとてのわざぞ。君は戀給ふ事はあらじ。たゞ、吾ばかりぞ、君には戀るといふ也。
 
657 不念常《オモハジト》。曰手師物乎《イヒテシモノヲ》。翼酢色之《ハネスイロノ》。變安寸《ウツロヒヤスキ》。吾意可聞《ワガコヽロカモ》。
 
翼酢色之《ハネスイロノ》。
翼酢と書る、借字也。書紀天武紀に、十四年七月庚午、初定2明位已下進位已上之朝服色1。淨位已上並著2朱華1【朱華此云波泥孺】とありて、本集八【廿六丁】大伴家持唐棣花歌に、夏儲而開有波禰受久方乃雨打零者將移香《ナツマケテサキタルハネスヒサカタノアメウチフラバウツロヒナムカ》。十一【四十一丁】、山振之爾保敝流妹之翼酢色乃赤裳之爲形夢所見管《ヤマフキノニホヘルイモカハネスイロノアカモノスカタイメニミエツヽ》。十二【十五丁】に、唐棣花色之移安情有者年乎曾寸經事者不絶而《ハネスイロノウツロヒヤスキコヽロアレバトシヲソキフルコトハタエステ》など見えたり。天武紀に、(201)はねずと訓る朱華は、文選、阮籍詠懷詩に、朱華振2芬々1云々。曹植公讌詩に、朱華冒2緑池1云々。李善注に、夫蓉也とありて、本集に訓る唐棣は、爾雅釋木に、常棣棣唐棣移云々。陸※[王+幾]毛詩唐棣疏に、唐棣奧李也、一名雀梅、亦曰2車下李1。所在山中、皆有2其花1、或白或赤云々などあり。今の世には何といへりや。猶、可考。一首の意は、今より後は、君が事をば思はじといひてしものを、はねずいろの如く、心もうつろひやすく、いつしか又君が事を思ひ出せりと也。
 
658 雖念《オモヘドモ》。知僧裳無跡《シルシモナシト》。知物乎《シルモノヲ》。奈何《ナゾ》幾許《コヽタクモ・カクバカリ》。吾戀渡《ワガコヒワタル》。
 
知僧裳無跡《シルシモナシト》。
しるしもなしとは、上【攷證三中四十四丁】にいへるが如く、かひなく、無益なる意也。さて、僧の字を、しの假字に用ひたるは、玉篇に、師教v人以v道者之稱也。また、僧師僧などありて、僧も道を以て人を教化するものなれば、師の意もて、僧をしとは訓るにて、羲之を、てしの假字とせし類なるべし。略解に、僧は信の誤なるべしといへるは、例の文字を改めんとする説にて、とりがたし。又、代匠記に、ソトシトヲ相通シヲカケル歟云々といはれしも、いかゞ。
 
奈何《ナゾ》幾許《コヽタクモ・カクバカリ》。
幾許は、こゝたくとよみて、あまたの意なる事、上【攷證二下六十二丁】にいへり。一首の意は、君がことを思へども、何の益なしとはしりつゝも、なぞ、かくのごとく、あまたにわが戀わたる事ぞとなり。
 
(202)659 豫《カネテヨリ》。人事繁《ヒトゴトシゲシ》。如是有者《カクシアラバ》。四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》。奧裳何如荒海藻《オクモイカガアラメ》。
 
豫《カネテヨリ》。
略解に、あらかじめと訓直しつれど、舊訓のまゝ、かねてよりと訓べし。そのよしは、上【攷證三下五十四丁】にいへり。
 
四惠也吾背子《シヱヤワガセコ》。
四惠也《シヱヤ》といふ言は、五【十五丁】に、余能奈可波古飛斯宜志惠夜《ヨノ0ナカハコヒシキシヱヤ》、加久之阿良婆《カクシアラバ》、烏梅能波奈爾母奈良麻之勿能惡《ウメノハナニモナラマシモノヲ》。十【十七丁】に、春山之馬醉花之不惡公爾波思惠也所因友好《ハルヤマノアシビノハナノニクカラヌキミニハシヱヤヨリヌトモヨシ》。また【卅六丁】秋芽子戀不盡雖念《アキハギニコヒツクサジトオモヘドモ》、思惠也安多良思又將相八方《シヱヤアタラシマタアハメヤモ》。十一【十五丁】に、奥山之眞木乃坂戸乎押開思惠也出來根後者何將爲《オクヤマノマキノイタドヲオシヒラキシヱヤイデコネノチハナニセム》。また【廿八丁】靈治波布神毛吾者打棄乞四惠也壽之〓無《タマチハフカミモワレヲハウツテコソシヱヤイノチノオシケクモナシ》。十二【四丁】に、我背子之將來跡語之夜者過去《ワガセコガコムトカタリシヨハスギヌ》、思咲八更々思許理來目八面《シヱヤサラサラシコリコメヤモ》など見えたり。代匠記に、シヱヤハ、ヨシヤナリ云々といはれつれど、當らず。宣長は、歎息の聲なりといはれたり。しばらく、これによるべし。
 
奧裳何如荒海藻《オクモイカガアラメ》。
奥は末をいへり。十四【十二丁】に、多胡能伊利野乃於久母可奈思母《タコノイリヌノオクモカナシモ》。また【十三丁】禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《ネモゴロニオクヲナカネソマサカシヨカハ》。また【廿四丁】に、宿奈莫那里爾思於久乎可奴加奴《ネナナナリニシオクヲカヌカヌ》などあるも、みな、行末をいひて、末《ハテ》の意なり。また、集中、奥《オキ》をふかめて、【この事は此卷五十六丁にいふべし。】奥《オク》まへて、【この事は下攷證六にいふべし。】奧《オク》かもしらず、【この事は下攷證五下廿六丁にいふべし。】などいふも、みな、末をいひて、すべて、奥といふ。家のおくも、海のおくも、山のおくも、みな、その深きをいひて、末をいふも、意は同じこと也。荒海藻の三字を、あらめと訓るは借字也。和名抄海藻類に、滑海藻(203)阿良女俗用2荒布1と見えたり。この句、如何《イカヾ》と疑ひて、めと結びたるてにをは、たがへるに似たれど、これ、集中、一つの格なり。この事は上【攷證二上廿丁】にいへり。さて、一首の意は、いまよりして、君とわが中の事を、人の言しげくいひさわぐが、いまよりかくのごとくなれど、はて/\は、いかゞあらんといふ也。
 
660 汝乎奧吾乎《ナヲトワヲ》。人曾離奈流《ヒトゾサクナル》。乞吾君《イデワギミ》。人之中言《ヒトノナカコト》。聞起名湯目《キヽタツナユメ》。
 
汝乎奧吾乎《ナヲトワヲ》。
汝乎《ナヲ》の乎は助辭なり。この助辭の乎もじの事は、上【攷證三中卅二丁】にいへり。
 
乞吾君《イデワギミ》。
乞を、いでと訓るは義訓にて、乞の字を書るが如く、乞《コフ》意ある詞也。書紀允恭天皇二年紀に、壓乞戸母《イデトシ》其蘭一莖焉【壓乞此云異提戸母此云覩自】とありて、本集十一【六丁】に、伊田何極太甚《イデイカニイトモハナハダ》云々。十二【六丁】に、乞如何吾幾許戀流《イデイカニワガコヽタコフル》云々。また【卅五丁】乞吾駒早去欲《イデワガコマハヤクユキコソ》云々などあるも、みな、乞《コフ》意なり。また、古今集戀一に【よみ人しらず】いでわれを人なとがめそ、大舟のゆたのたゆたに、もの思ふころぞ、とあるも同じく、猶、中ごろのものにもいと多かり。この外に、事をいひ發す詞に、いでとも、いでやともいふ多かれど、これとは別なり。吾君《ワギミ》は、上【攷證三中五十五丁】に出たり。
 
人之中言《ヒトノナカゴト》。
此卷【四十四丁】に、蓋毛人之中言聞可聞《ケダシクモヒトノナカゴトキケルカモ》云々ともありて、今の世にもいふ所と同し。
 
聞起名湯目《キヽタツナユメ》。
言立《イヒタツ》、耳に立、目に立などの立と同じくて、こゝは、中言をきゝて、それを用る事なかれといふ也。考異本に引る異本に、起を越に作れり。これによら(204)ば、きゝこすなゆめと訓べし。この方、いとまさりたれど、六帖卷五に、この歌を載たるにも、聞たつなゆめとあれば、みだりには、あらためがたし。一首の意は、君と吾中を、とにかくに、人の放《サケ》んとすれば、何とぞ、人の中言いふを聞て、取用る事なかれといふ也。
 
661 戀戀而《コヒ/\テ》。相有時谷《アヘルトキダニ》。愛寸《ウツクシキ》。事盡手四《コトツクシテヨ》。長常念者《ナガクトオモハバ》。
 
愛寸《ウツクシキ》。
これを、略解には、うるはしきと訓り。これもあしからず。いづれにまれ、字の如く、愛する意にて、この愛の字の訓は、うつくしとよまんか、うるはしとよまんか、實に定めかねたれば、舊訓のまゝlこておくべき也。されば、その二つの例を出して、定めかねたるよしを證《コト》わらん。まづ、うつくしといふは、書紀孝徳紀【川原史滿】歌に、于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》云々。齊明紀【天皇】御歌に、于都供之枳阿餓倭柯枳古弘《ウツクシキアカワカキコヲ》云々。本集五【七丁】に、妻子美禮婆米具斯宇都久志《メコミレバメグシウツクシ》云々。十四【廿五丁】に、己許呂宇都久志《コヽロウツクシ》云々。二十【卅二丁】に、有都久之波々爾《ウツクシハヽニ》云々。また【卅九丁】宇都久之氣麻古我弖波奈禮《ウツクシケマコガテハナレ》云々。また【四十丁】和我世奈乎都久之倍夜里弖宇都久之美《ワガセナヲツクシヘヤリテウツクシミ》云々などあり。うるはしといふは、古事記中卷【倭建命】御歌に、夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》。また【太子】御歌に、宇流波志美意母布《ウルハシミオモフ》。また下卷【太子】御歌に、宇流波斯登佐泥斯佐泥弖婆《ウルハシトサネシサネテハ》云々。本集五【十一丁】に、宇流波之吉伎美我手奈禮能《ウルハシキキミカタナレノ》云々。十五【卅一丁】に、宇流波之等安我毛布伊毛乎《ウルハシトアカモフイモヲ》云々。十八【十八丁】に、伊末能麻左可母宇流波之美須禮《イマノマサカモウルハシミスレ》などありて、猶十五【廿六丁卅四丁】十七【卅丁】二十【四十六丁六十丁】などにも見え、また伊勢物語に、むかし、男、いとうるはしき友ありけり云々。また、梓弓まゆみつき弓年をへて、わがせしがごと、うるはしみせよ、などあれば、(205)定めかねたり。いづれにても、意は同じくて、こゝは睦《ムツマジ》き意にいへり。
 
事盡手四《コトツクシテヨ》。
事は借字にて、言也。四《ヨ》は不知のよなり。
 
長常念者《ナガクトオモハバ》。
長くかはらじと念はゞといふ也。一首の意は、こひ/\て、わくらはに逢る時だにも、うるはしく、むつまじき言をつくして、われをなぐさめたまへ、長くかはらじと思ひたまはゞといふ也。
 
市原王歌一首。
 
安貴王の男なり。上【攷證三中九十二丁】に出たり。
 
662 網兒之山《アゴノヤマ》。五百重隱有《イホヘカクセル》。佐堤乃埼《サデノサキ》。左手繩師子之《サデハヘシコガ》。夢二四所見《イメニシミユル》。
 
網兒之山《アゴノヤマ》。
網を、あとのみ訓る事は、上【攷證三上五丁】にいへり。網兒之山は、上【攷證一下十二丁】に出たる嗚呼兒乃浦と同所にて、志摩國英虞郡の山なるべし。
 
五百重隱有《イホヘカクセル》。
五百は、たゞ數の多きをいひて、あごの山の立かさなりて、いく重ともなく隱せりといへる意也。十【廿七丁】に、白雲五百遍隱雖遠《シラクモノイホヘカクリテトホケドモ》云々ともあり。
 
(206)佐堤乃埼《サデノサキ》。
佐堤乃埼《サデノサキ》、考へがたし。本集六【卅九丁】幸2伊勢國1時の歌に、後爾之人乎思久四泥能埼《オクレニシヒトヲオモハクシデノサキ》云々とある四泥《シデ》の埼と同所か。さとしと殊に近き音なれば、さでの埼を、しでの埼ともいふまじきにあらず。八雲御抄には、あごの山をも、さでの埼をも、共に伊勢としるしたまへり。宣長云、神名帳伊勢朝明郡に、志※[氏/一]神社あり。今も、しで埼といふ。さて、こゝの佐堤の佐は、信か詩の誤りにて、こゝも、しでの埼なるべし。
 
左手繩師子之《サデハヘシコガ》。
左手は、上【攷證一下十一丁】にいへるが如く、魚を取る具にて、今も、さでといふものなり。蠅師《ハヘシ》と書るは借、延《ハヘ》しにて、繩《ナハ》を延《ハヘ》るといふ延にて、さしわたす意也。一【十九丁】に、下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタシ》云々とあると同じ意也。子は、女を親しみ愛しみていふことなり。この事、上【攷證二中八丁】にいへり。さて、この歌は、市原王、いかなるよしにて伊勢に下られしにか、そのよしはしりがたけれど、左手はへて、魚など取たらん女を見て、よまれつるにて、さでの埼、さではへし子と詞を重ねて、歌のしらべをなせり。一首の意は、明らけし。
 
安部宿彌年足歌一首。
 
目録には、安部宿禰年之とあり。いづれか是ならん。ともに、父祖、官位、考へがたし。さて、安部氏は、みな、姓朝臣なるを、宿禰とあるは、いとめづらし。されど、續日本紀神護景雲二年七月辛丑紀に、安部宿禰豐島といふあれば、安部氏に宿禰の姓なきにしもあらず。安都氏は、續日本紀、寶龜二年十一月丁未紀に、阿刀宿禰眞足とあるを、同三年四月庚申、延暦元年六月辛未紀な(207)どには、阿都宿禰眞足とあれば、あとと訓べし。この氏は、姓氏禄卷十一に、阿刀宿禰、神饒速日命之後也と見えたり。再案るに、こゝに阿部《(マヽ)》とあるは、目録に阿都《(マヽ)》とあるかたよろしく、目録に年之とあるは、こゝに年足とあるかたよろしくて、阿都宿禰年足なるべし。しかいふ故は、紀中、安都氏の人に、何足と足の字を付るがいと多ければ也。
 
663 佐穗度《サホワタリ》。吾家之上二《ワギヘノウヘニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。音夏可思吉《コヱナツカシキ》。愛《ハシキ・オモヒ》妻之兒《ツマノコ》。
 
佐穗度《サホワタリ》。
佐穗《サホ》は、集中、佐保山とも、佐保川とも、多くよみて、大和國添上郡にて、奈良のほとり也。上【攷證一下七十二丁】に出たり。度《ワタリ》は邊《ホトリ》の意なり。十一【四丁】に、見度近渡乎《ミワタセバチカキワタリヲ》云々。催馬樂山城歌に、也末之呂乃己末乃和多利乃《ヤマシロノコマノワタリノ》云々などあるも同じ。
 
吾家之上二《ワギヘノウヘニ》。
吾家《ワギヘ》は、吾妹子《ワギモコ》と同じく、かいの反、きなれば、わが家の約なり。五【十八丁】に、和企弊能曾能爾《ワギヘノソノニ》云々。また【廿一丁】和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》云々などありて、集中、猶いと多し。
 
鳴鳥之《ナクトリノ》。
之は如くの意なり。代匠記云、鳥ハ、※[(貝+貝)/鳥]、郭公ナドノ、面白キニ聞アカヌ聲ヲヨソフル歟。今、按、第八ニ、坂上郎女ガ歌ニ、ヨノツネニ聞ハ苦キ喚子鳥、音ナツカシキ、トキニハナリヌ。此歌注云、右一首、天平四年三月一日、佐保宅作。又、第十二ニ、春日ナル、羽買山ユ、サホノウチヘ、鳴行ナルハ、誰喚子島。答ヘヌニ、ナヨビトヨミソ、喚子鳥、(208)サホノ山ベヲ、上リ下リニ。ナドヨメルヲ思フニ、佐保山ハ、コトニ喚子鳥ノ鳴所ニテ、今、鳴鳥トヨメルモ、ソレヲ指テ、喚子鳥ノ名ニ付テ、殊ニヨソフル歟。
 
音夏可思吉《コヱナツカシキ》。
五【十八丁】に、伊野那都可之岐烏梅能波那可母《イヤナツカシキウメノハナカモ》。六【四十五丁】に。百鳥之音名束敷《モヽトリノコヱナツカシク》云云。集中、猶いと多し。なつかしは、したしく、むつまじき意なり。
 
愛《ハシキ・オモヒ》妻之兒《ツマノコ》。
愛《ハシキ》は、字の如く、人を愛する意なる事、(上脱カ)上【攷證二上卅一丁】にいへるが如く、こゝはわが愛する妻といふにて、兒は女を親しみ稱していふことなる事、上【攷證二中八丁】にいへり。さて、一首の意は明らけし。
 
大伴宿禰像見歌一首。
 
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平寶字八年十月庚午、授2正六位上大伴宿禰形見從五位下1。神護景雲二年三月戊寅爲2左大舍人助1。寶龜三年正月甲申授2從五位上1と見えたり。
 
664 石上《イソノカミ》。零十方雨二《フルトモアメニ》。將關《セカレメ・サハラメ》哉《ヤ》。妹似相武登《イモニアハムト》。言義《イヒテ・チギリ》之鬼尾《シモノヲ》。
 
石上《イソノカミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。石上は大和國山邊郡の郷名。布留もこの郷のうちの地名なれば、地名のふるを、零《フル》になして、つゞけしにて、津の國のなにはおもはず、山城のとはにあひ見んなどつゞけし類なり。
(209)將關《セカレメ・サハラメ》哉《ヤ》。
集中、塞を、せくとも、せきとも訓る事、上【攷證二下卅六丁】にいへるが如く、せくとは、ふせぐ事にて、こゝは塞とゞめられめやはといふ意にて、今の世に、男女の間をせくといふも、これ也。哉《ヤ》は、やはの意なり。
 
言義《イヒテ・チギリ》之鬼尾《シモノヲ》。
義之を、てしと訓る事は、上【攷證三中七十九丁】にいへり。鬼尾を、ものをと訓る事も、上【攷證四上四十七丁】にいへり。この歌は、雨のふれるをりに、女のもとへ行たるをり、この雨によくこそ來させ給へりしなどいひし時の歌にて、一首の意は、かねてより、けふは妹にあはんとちぎりおきつるものを、雨のふるにも塞《セキ》とめられめやは、せきとめられはせじといふなり。
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首。
 
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平九年九月己亥授2正七位上阿倍朝臣蟲麻呂外從五位下1。十二月壬戌爲2皇后宮少進1。丙寅授2從五位下1。十年閏七月爲2中務少輔1。十二年十一月甲辰授2從五位上1。十三年閏三月乙卯授2正五位下1。八月丁亥爲2播磨守1。十五年五月癸卯授2正五位上1。天平勝寶元年八月辛未爲2兼大忠【紫微】1。三年正月己酉授2從四位下1。四年三月甲午、中務大輔從四位下安倍朝臣蟲麻呂卒と見えたり。
 
665 向座而《ムカヒヰテ》。雖見不飽《ミレドモアカヌ》。吾妹子二《ワギモコニ》。立離往六《タチワカレユカム》。田付不知毛《タヅキシラズモ》。
 
(210)向座而《ムカヒヰテ》。
十五【卅五丁】に、牟可比爲弖《ムカヒヰテ》、一日毛於知受《ヒトヒモオチズ》、見之可杼母《ミシカドモ》、伊等波奴伊毛乎《イトハヌイモヲ》、都奇和多流麻弖《ツキワタルマデ》ともあり。
 
田付不知毛《タヅキシラズモ》。
便もしらずといふにて、毛は助辭なり。この歌は、蟲まろ、旅などに出立るゝをりの歌にて、一首の意は、くまなし。
 
666 不相《アヒミ》見《ヌ・デ》者《ハ》。幾久毛《イクバクヒサモ・イクヒサシサモ》。不有國《アラナクニ》。幾許吾者《コヽバクワレハ》。戀乍裳荒鹿《コヒツヽモアルカ》。
 
幾久毛《イクバクヒサモ・イクヒサシサモ》。
幾は教の多きをいひて、八【五八丁】に、幾許香《イクバクカ》、此零雪之懽有麻思《コノフルユキノウレシカラマシ》。十一【廿一丁】に、不相見而《アヒミズテ》、幾久毛不有爾《イクバクヒサモアラナクニ》、如年月所思可聞《トシツキノゴトオモホユルカモ》。また【四十八丁】幾多毛不零雨故《イクバクモフラヌアメユヱ》云々。十二【八丁】に、幾不生有命乎《イクバクモイケラヌイノチヲ》云々など見えたり。或人難云、いくばくといふ言、古書、假字書る例を見ず。されば、いくひさゝにもと訓べしといへり。この説いかゞ。古書に假字書の例あるをのみ古言とせば、古言いとすくなく、古書を讀事あたはざるをや。假字書の例なしとも、これとかれとを合せ考ふる時は、古言はいちじるきもの也。されば、いくぱくのいくは、いくだ、いくら、いく日《カ》、いく世などの、いくにて、數の限りなきをいひ、ばくは、こきばく、こゝばくなどの、ばくにて、添れる詞なれば、いくばくといふ事、古言なる事、論なし。しかも、久しさといふことを、ひさゝといひし例こそなけれ。さて、また、古今集誹諧に【敏行】いくばくの田を作ればか、ほとゝぎす、しでの田長を朝な/\よぶ。伊勢物語に、いくばくもなくして、もて來りぬ云々なども見えたり。こゝばくも、數の多きことにて、上【攷證二下六十二丁】に出たり。
 
(211)戀乍裳荒鹿《コヒツヽモアルカ》。
鹿《カ》は、かもの意にて、あひ見ざるは、いくばく久しくもあらぬに、いかなれば、われは、かく、あまた戀つゝある事ぞといふ也。
 
667 戀戀而《コヒ/\テ》。相有物乎《アヒタルモノヲ》。月四有者《ツキシアレバ》。夜波隱良武《ヨハコモルラム》。須臾《シマシ・シバシ》羽蟻待《ハアリマテ》。
 
夜波隱良武《ヨハコモルラム》。
いまだ夜のうちにて、明やらぬをいへり。上【攷證三上五十七丁】に出たり。
 
須臾《シマシ・シバシ》羽蟻待《ハアリマテ》。
舊訓、しばしと訓つれど、假字に書る所は、しましとのみあれば、しましと訓べし。十五【卅九丁】に、安比太之麻思於家《アヒダシマシオケ》云々。十八【六丁】に、布禰之麻志可勢《フネシマシカセ》云云。十九【廿五丁】に、馬之末之停息《ウマシマシトメ》など見えたり。蟻待《アリマテ》の蟻は借字、在の意にて、在立之《アリタヽシ》、在通《アリカヨヒ》、在乍《アリツヽ》などの在と同じく、七【十七丁】に、令而有待《フヽミテアリマテ》。九【八丁】に、幸有待《サキクアリマテ》云々。十【卅二丁】に、渡守舟將借八方《ワタリモリフネカサメヤモ》、須臾者有待《シマシハアリマテ》。十三【廿九丁】に、有雖待不召賜者《アリマテドメシタマハネバ》云々。二十【廿七丁】に、久自我波波佐氣久阿利麻弖《クジカハヽサケクアリマテ》云々などあり。一首の意は、戀々て、今夜わくらはに逢たるものを、さばかり、かへりをいそぎ給ふ事なかれ。まだ月のあれば、夜のうちならんを。しばしは、かくて待給へとなり。
 
右。大伴坂上郎女之母。石川内命婦。與2安倍朝臣蟲滿之母。安曇外命婦1。同居姉妹。同氣之親焉。縁v此郎女蟲滿相見不v疎。相談既※[うがんむり/登の豆が山]。(212)聯作2戯歌1。以爲2間答1也。
 
石川内命婦。
父祖、考へがたし。上【攷證三下四十八丁】に出たり。命婦の事も、その所にいへり。
 
安曇外命婦。
父祖、考へがたし。安曇の氏は、姓氏録卷十五に、安曇宿禰、海神綿積豐玉彦神子、穗高見命之後也。また、卷十九に、安曇連、綿積神命兒、高見命之後也と見えたり。この訓は、和名抄信濃國郡名に、安曇、安都三【印本、三を之に誤れり。一本によりて改む。】とありて、曇はドムの音なるを、ヅミに轉じたる也。この例、宣長の地名字音轉用例によりてしるべし。
 
同氣之親。
周易乾卦文言に、同聲相應、同氣相求とありて、姉妹同氣相求の親《シタシミ》ありて、同居せるをいへり。
 
既※[うがんむり/登の豆が山]《スデニヒソカナリ》。
集韻に、密、俗作※[うがんむり/登の豆が山]とあり。ひそかなりと訓べし。伊勢物語に、みそかなる所なれば云云ともありて、中古よりは、みそかともいへど、靈異記上卷訓釋に、宴〓ヒソカニシテ。中卷訓釋に、〓ヒソカニなどありて、新撰字鏡に、〓比曾可己止とあれば、ひそかといふ方、古言なるをしるべし。又、ひそむ、ひそまる、ひそやかなどいふも、本は一つ語也。
 
戯歌。
戯歌といひて、別に一つの歌の體あるにあらず。こゝは、たゞ、たはぶれにこの歌をおくれる也。
 
厚見王歌一首。
 
(213)父祖、考へがたし。續日本紀に、天平勝寶元年四月丁未授2无位厚見王從五位下1。七年十一月丁巳遣2少納言從五位下厚見王1、奉2幣帛于伊勢大神宮1。天平寶字元年五月丁卯授2從五位上1と見えたり。
 
668 朝爾《アサニ》日《ケ・ヒ》爾《ニ》。色付山乃《イロヅクヤマノ》。白雲之《シラクモノ》。可思過《オモヒスグベキ》。君《キミ》爾不有國《ナラナクニ・ニアラナクニ》。
 
朝爾《アサニ》日《ケ・ヒ》爾《ニ》。
この言は、上【攷證三中五十五丁】に、朝に日《ヒル》にといふ意にて、ここは、朝に日《ヒル》に、次第/\に、いろづくをいへり。
 
色付山乃《イロヅクヤマノ》。
こは、黄葉のいろづくをいへり。集中いと多し。
 
白雲之《シラクモノ》。
雲は、たゞに行過るものなれば、詞をへだてゝ、過とつゞけしなり。
 
可思過《オモヒスグベキ》。
三【四十六丁】に、石上振乃山有杉村乃《イソノカミフルノヤマナルスギムラノ》、思過倍吉君爾有名國《オモヒスグベキキミナラナクニ》ともありて、この事は、上【攷證三中十五丁】にいへるが如く、思ひを過《スグ》し遣《ヤ》るべき君ならぬにといふ意也。
 
君《キミ》爾不有國《ナラナクニ・ニアラナクニ》。
これを、君ならなくにと訓べき事も、上【攷證三中十六丁】にいへり。この歌は、序歌ながら、上の句にも意ありて、女を見あかぬを、黄葉の色づく山のおもしろく見あかざるにたとへて、さて、その山に立るしら雲の如く、思ひを遣りすぐすべき君ならずといふ意也。
 
春日王歌一首。【志貴皇子之子。母曰2多紀皇女1也。】
 
(214)續日本紀中、春日王、三人あり。この事、上【攷證三上十一丁】上にいへり。さて、志貴皇子之子。母曰2多紀皇女1也り十三字の古注、印本なし。今、元暦本、考異本に引る古本などによりで加ふ。
 
669 足引之《アシビキノ》。山橘乃《ヤマタチバナノ》。色丹出而《イロニイデヽ》。語言繼而《カタラヒツギテ》。相事毛將有《アフコトモアラム》。
 
山橘乃《ヤマタチバナノ》。
七【卅三丁】に、紫絲乎曾我搓《ムラサキノイトヲゾワガヨル》、足檜之山橘乎將貫跡念而《アシビキノヤマタチバナヲヌカムトオモヒオテ》。十一【四十丁】に、足引乃山橘之色出而《アシビキノヤマタチバナノイロニイデテ》、吾戀南雄《ワガコヒナムヲ》、八目難爲名《ヤメカタミスナ》。十九【卅一丁】に、此雪之消遺時爾去來歸奈《コノユキノケノコルトキニイザユカナ》、山橘之實光毛將見《ヤマタチバナノミノテルモミム》。二十【五十二丁】に、氣能己里能由伎爾安倍弖流安之比奇之夜麻多知波奈乎都刀爾通彌許奈《ケノコリノユキニアヘテルアシビキノヤマタチバナヲツトニツミコナ》などありて、また、古今集戀三に【友則】わが戀を忍びかねては、あし引の山たちばなのいろにいでぬべし。延喜造酒司式、大嘗祭供神料に、山橘子、袁等賣草、各二擔とも見えたり。こは、今いふ藪柑子《ヤブカウジ》といふものに(て、脱カ)、本草啓蒙に、紫金牛を當たるをよしとす。本草、紫金午。集解に、葉如2茶葉1、上緑下紫。結v實圓紅、色如2丹朱1。根微紫色と見えたり。また、大和本草に、平地木を當たるもよし。平地木すなはち紫金牛なり。さて、本草和名に、牡丹、和名、布加美久佐。一名、也末多知波奈とあるは、牡丹の一名にて、ここの山橘にあらず。思ひまがふべからず。
 
色丹出而《イロニイデヽ》。
戀を色にいだす也。上二句、いろに出でゝといはん序なり。
 
語言繼而《カタラヒツギテ》。
語言《カタラヒ》のらひは、りを延たる言にて、語《カタ》りといふ意也。そは、三【五十一丁】に、母父爾妻爾子啓爾語而《チヽハヽニツマニコトモニカタラヒテ》、立西日從《タチニシヒヨリ》云々。五【卅九丁】に、愛久志我可多良倍婆《ウツクシクシカカタラヘバ》云々。十一【十七丁】に、(215)吾戀之事毛語名草目六《ワガコヒノコトモカタラヒナグサメム》云々などありて、集中、猶多し。皆、かたりのりを延て、らひといひし也。この列、語合《カタリアフ》を略きて、かたらふといふ言あれど、それとも別なり。思ひまがふべからず。さて、こゝに、語合《カタラヒ》と言の字を添て書るは、上【攷證三上七十五丁】にいへる集中添字の格なり。これも、語言《カタリイヒ》の格にはあらず。思ひまがふべからず。こは、媒などもて言つぐをいへり。
 
相事毛將有《アフコトモアラム》。
この歌、一二の句は、色に出てといはん序にて、一首の意は、今までは色にもいださゞれど、これよりは、色に出して、媒などをも戀るよしを語り繼《ツガ》ば、逢こともありなんといはるゝなり。
 
湯原王歌一首。
 
670 月讀之《ツクヨミノ》。光二來益《ヒカリニキマセ》。足疾乃《アシビキノ》。山乎隔而《ヤマヲヘダテヽ》。不遠國《トホカラナクニ》。
 
月《ツク・ツキ》讀之《ヨミノ》。
こは、月神の御名にて、書紀神代紀上に、次生2月神1。一書云、月弓尊、月夜見尊、月讀尊とあり。眞淵の説に、夜を專らつか(さ脱カ)どりたまふ神なれば、月夜持《ツクヨモチ》の意なりといはれたり。さもあるべし。されば、つくよみと訓べし。月夜は、つくよと訓べき事、上【攷證一上廿六丁】にいへり。猶、この神の事は、古事記傳卷六にくはしく解れたり。さて、月讀とは、月神の御名なるを、こゝは、やがて月の事としたり。集中、猶いと多し。
 
(216)足疾乃《アシビキノ》。
枕詞にて、上【攷證一下廿四丁】に出たり。足疾と書るは義訓にて、足に疾《ヤマヒ》あれば、足を引もの故に、これをあし引とはよめるなり。七【廿五丁】に、足病之《アシビキノ》と書るも同じ意なり。
 
山乎隔而《ヤマヲヘダテヽ》。不遠國《トホカラナクニ》。
十五【廿五丁】に、山川乎奈可爾倣奈里※[氏/一]《ヤマカハヲナカニヘナリテ》云々。十七【廿六丁】に、安之比紀能夜麻伎弊奈里底《アシビキノヤマキヘナリテ》云々などありて、敝奈里《ヘナリ》といふも、隔《ヘダツ》といふと專ら同じ意の語なれば、こゝも、山をへなりてと訓んかとも思ひつれど、此卷【卅二丁】に、山川毛隔莫國《ヤマカハモヘダヽラナクニ》云々。また【四十四丁】海山毛隔莫國《ウミヤマモヘダヽラナクニ》云々。五【廿三丁】に、志良久毛能智弊仁邊多天留《シラクモノチヘニヘダテル》云々。十八【卅三丁】に、夜洲能河波奈加爾敝太弖々《ヤスノカハナカニヘダテヽ》云々などもあれば、猶へだてゝと訓べし。一首の意は、月の光に乗じて來たまへ、山を隔て遠き所にもあらぬとなり。
 
和歌一首。【不v審2作者1。】
 
こは、誰ともしれざれば、名をしるさゞる也。不審作者、四字の古注、印本なし。今、元暦本、代匠記に引る官本、考異本に引る古本などに依て加ふ。
 
671 月《ツク・ツキ》讀之《ヨミノ》。光者清《ヒカリハキヨク》。雖照有《テラセレド・テラセドモ》。惑情《マドフコヽロハ》。不堪念《タヘジトゾオモフ・タヘズオモホユ》。
 
光者清《ヒカリハキヨク》。
この句を、略解には、ひかりはさやにと訓直したり。これも、あしとにはあらねど、調もよく、意も明らかに、例もたしかなるをば、舊訓のまゝにておくべきなり。八【五十九丁】に、久方乃月夜乎清美《ヒサカタノツキヨヲキヨミ》云々。十【十ウ】暮三伏一向夜不穢照良武《ユフヅクヨキヨクテルラム》云々。十五【七丁】に、月余美能比可里乎伎欲美《ツクヨミノヒカリヲキヨミ》云々などあるにて、舊訓もあしからぬをしるべし。
 
(217)惑情《マドフコヽロハ》。
この句をも、略解には、まどへるこゝろと訓直しつれど、改るに及ず。舊訓のまゝにても、よく聞えたるをや。
 
不堪念《タヘジトゾオモフ・タヘズオモホユ》。
たえずといふ語は、上【攷證二中廿一丁】にいへるが如く、集中、不勝の字をも、たへずと訓て、かたれざる意なるを、轉じて、俗言にいはゞ、こらへられぬ意也。さてこの歌は、まへの御歌に、月よみのひかりに來ませとあるに和《コタヘ》て、一首の意は、月の光は清くてらせれども、吾戀にまどへるこゝろは、月のさやかなるにも勝ことあたはず、心のやみにくれまどひなんといふ也。
 
安倍朝臣蟲麻呂歌一首。
 
672 倭文手纏《シヅタマキ》。數二毛不有《カズニモアラヌ》。壽持《ミヲモチテ・イノチモテ》。奈何《ナゾ》幾許《コヽバクニ・カクバカリ》。吾戀渡《ワガコヒワタル》。
 
倭文手纏《シヅタマキ》。
枕詞にて、冠辭考に出たれど、其説いかゞ。倭文《シヅ》の事は、上【攷證三下廿丁】にいへるが如く、賤しきものならねど、手纏は、玉などにてしたるが尊く、倭又布《シヅヌノ》などにてしたるは賤しければ、数にはあらぬとも、いやしともつゞけしにて、賤しとは、手纏に付ていへる事にて、倭文をいやしといふにはあちず。猶、くはしくは、冠辭考補正にいふべし。さて、倭文の文の字を、集中、皆、父に誤れり。意改せるよしは上にいへり。代匠記に引る幽齋本には倭文とあり。
 
數二毛不有《カズニモアラヌ》。
吾身を卑下して、もの數ならぬよしいふ也。五【卅九丁】に、倭文手纏《シヅタマキ》、數母不在身爾波在等《カズニモアラヌミニハアレド》云々。十五【卅一丁】に、知里比治能可受爾母安良奴和禮由惠爾《チリヒヂノカズニモアラヌワレユヱニ》云々な(218)どもあり。宇萬伎の説に、二もじを数の重點と見て、かず/\もあらぬと訓り。こは、次の句の壽持《イノチモテ》といふにはよく叶ひたれど、正しく、かずにもあらぬといふ例もあるうへに、集中、重點に二もじを用ひし例もあらねば、從ひがたし。
 
壽持《ミヲモチテ・イノチモテ》。
壽は命なれば、舊訓の如く、いのちと訓べき字なれど、この句、いのちもてと訓ては、いかにしても、一首のうへ聞えがたし。壽を身《ミ》と訓るたしかなる證もなけれど、(頭書、此卷五十八丁に、置露乃壽母不有惜《オクツユノミモヲシカラズ》云々。)まへに引る五【卅九丁】十五【卅一丁】などの歌に、身《ミ》とも和禮《ワレ》ともつゞけたれば、こゝも必らず、みをもちてと訓べき所なれば、しかよめり。代匠記に、壽ハ内典ニ一期爲v壽、連持爲v命ト釋スル如ク、身ト云意ナリといはれたり。略解に、壽は身の草書より誤れるにて、みをもちてならん。又、吾身二字の誤りにて、わがみもてにてもあるべしといへり。
奈何《ナゾ》幾許《ココバクニ・カクバカリ》。
幾許は、まへにもいへるが如く、あまたの意にて、一首の意は、吾もの數ならぬ身なれば、吾戀を君は諾《ウベナ》ひたまふことはあるまじきもの(を脱カ)、いかなれば、かくあまたに思ひみだれて、わが戀渡ることぞとなり。
 
大伴坂上郎女歌二首。
 
673 眞十鏡《マソカヾミ》。磨師心乎《トギシココロヲ》。縱者《ユルシテバ》。後爾雖云《ノチニイフトモ》。驗將在八方《シルシアラメヤモ》。
 
(219)眞十鏡《マソカヾミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鏡は磨《トグ》ものなれば、つゞけしなり。
 
磨師心乎《トギシココロヲ》。縱者《ユルシテバ》。
このつゞけ、上【攷證此卷十九丁】にも出て、磨清《トギキヨ》めし心を縱諾《ユルシウベナ》ひたらばといふ意也。てばといふ詞は、集中にも、後の歌にも、いと多くありて、皆、たらばといふ意也。一首の意は、磨清《トギキヨ》めし心をも、君がいふ言のせちなるによりで、一度ゆるしうべなひて相たらば、後にうとくなりし時に、後悔して、かゝらましとしりせば、あはざらましをなどいふとも、さらにかひあらじといふなり。
 
674 眞玉付《マタマツク》。彼此兼手《ヲチコチカネテ》。言齒五十戸常《イヒハイヘド》。相而後社《アヒテノチコソ》。悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》。
 
眞玉付《マタマツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。孟上【攷證二中廿二丁】にいへるが如く、古しへ、手玉、足玉、頸手卷の玉など、すべて、玉をば、いく(つ脱カ)ともなく緒に貫て、身の飾としたるなれば、こゝも、玉付る緒とつゞけしにて、この枕詞は、をの一言へかけたり。
 
彼此兼手《ヲチコチカネテ》。
彼此《ヲチコチ》と書るは義訓也。こは、上【攷證二下六十五丁】にいへるが如く、本は道の遠近をいふ言なるを、轉じて彼《カレ》と此《コレ》とを對へいふ時の語として、俗に、あちこちと(いふ脱カ)意にも用ひ、また、行末今をいふ言と|ゝ《(マヽ)》もしたり。こゝも、行末今をかねてといふ意にて、十二【十五丁】に、眞玉就越乞兼而結鶴言下紐之所解日有米也《マタマツクヲチコチカネテムスビツルワガシタヒモノトカルヒアラメヤ》とあるも、行末今をいへり。
 
(220)言齒五十戸常《イヒハイヘド》。
これを、略解には、ことはいへどと訓直したれど、舊訓のまゝにても難なくよく聞えたるをや。こは、男のいひはいへどなり。
 
相而後社《アヒテノチコソ》。
逢て後はせんすべなければいふ也。
 
悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》。
略解に、二の字は衍字かといへれど、二もじありても聞ゆまじきにあらず。一首の意は、君は行末今をかねて、ながくかはるまじとはのたまへども、一度あひし後は、せんすべなく、後悔する事あるもの也と人もいへりといふなり。
 
中臣女郎。贈2大件宿禰家持1歌五首。
 
中臣女郎、父祖、考へがたし。中臣氏の事は上【攷證四上廿五丁】にいへり。
 
675 娘子部四《ヲミナヘシ》。咲澤二生流《サクサハニオフル》。花勝見《ハナカツミ》。都毛不知《カツテモシラヌ》。戀裳摺可聞《コヒモスルカモ》。
 
娘子部四《ヲミナヘシ》。
をみなへしは、七【卅三丁】に、姫押。八【卅四丁】に、娘部思。十【十四丁】姫部思。また【卅五丁】佳人部爲。また【卅六丁】美人部師。また【五十五丁】女郎花。十一【四十丁】美妾など書て、みな、借訓、義訓など也。十七【十七丁、十八丁、十九丁。】二十【十一丁、十五丁】などには、乎美奈敝之と假字にて書り。和名抄草類に、女郎花、乎美都閉之。今案、花如2蒸粟1也。所v出未v詳とありて、漢名知がたきものなり。さる(221)を、本草啓蒙に、敗醤、一名苦齋菜。種樹《ウヱキ》家ニ多ク、黄花ノモノヲ栽ユ《(マヽ)》。即、女郎花ナリ。又、山中ニ自生モアリ。【中略】救荒本草ノ地花菜ナリ。時珍説トコロノモノハ白花ノモノヲ指ス。即、男郎花《オトコメシ》ナリ云々とありて、敗醤は、本草敗醤圖經に、敗醤生2江夏川谷1、今江東亦有v之、多生2崗嶺間1、葉似2水莨及薇※[草がんむり/御]1叢生、花黄、根紫色、似2柴胡1、作2陳敗豆醤氣1、紋以爲v名云々と見えたれば、形容全く女郎花には似たれど、本草和名に、敗醤、和於保都知、一名知女久佐と見え、醫心方諸藥和名に、敗醤、和名於保都知、又、久知女久佐、又、加末久佐と見え、和名抄草類に、敗醤、和名知女久佐とあり。本草啓蒙にいへるが如く、敗醤、即、女郎花ならば、和名抄に別にあげらるゝ事はあるべからず。されば、女郎花は別物にて、啓蒙にいふ所非也。
 
咲澤二生流《サクサハニオフル》。
十【十四丁】に、姫部思咲野爾生白管自《ヲミナヘシサクヌニオフルシラツヽジ》云々。また【卅五丁】佳人部爲咲野之芽子爾《ヲミナヘシサクヌノハギニ》云々などもありて、こは、十二【廿三丁】に、垣津旗開澤生菅根之《カキツハタサクサハニオフルスガノネノ》云々とある類に(て、脱カ)女郎花い咲る澤邊に生るといふ也。七【廿三丁】に、姫押生澤邊之眞田葛原《ヲミナヘシオフルサハベノマクズハラ》云々などもあり。さるを、契冲、宣長など、皆、この咲野をも、咲澤をも、さきぬ、さきさはと訓て、地名としたり。大和國添下郡に佐紀郷ありて、この郷に狹木之寺間陵【古事記中卷】狹城池【書紀垂仁紀】佐妃山【本集十十二丁】佐紀神社【神名式】などいふもあれど、集中、咲、開などの字をのみ用ひたる【集中、借字專らなりといへど、又、文字にて事の意をしらせたるも多かり。】うへに、まへに引る七【卅三丁】なる歌を見ても、地名ならざる事しらる。
 
花勝見《ハナカツミ》。
多説あり。まづ諸書に見えたるあらましをあげて、後に説を解べし。古今集戀四に【よみ人しらず】みちのくのあさかのぬまの花かつみ、かつみる人に戀やわたらん。千載集夏に【顯仲】(222)さみだれにあさゝはぬまの花かつみ、かつみるまゝに、かくれゆくかな。玄玉集に【平康頼】さみだれにかつみが葉ずゑ水こえて、家路にまどふみつの里人。信明集に、花かつみかつ見る人のこゝろさへ、あさかのぬまになるぞわびしき。金葉集秋に【攝政左大臣】あしねはひかつみもしげき沼水に、わりなくやどる、よはの月かな。散木集雜に、はなかつみといへる事を、ある人のよみたりけるを、いかにいふことぞと尋ければ、ようもしらぬ事をしりがほにいふと聞えければ、心のうちに思ひける。鴫のゐる玉江におふる花かつみ、かつよみながらしらぬなりけり。また、長歌に、花かつみかつ見るさまはまこもにて、名をかへけるもうらやまし云々。堀川院御百首に【公實】花かつみまじりにさけるかきつばた、たれしめさして衣にするらん。古事談卷二に、實方經2廻奥州1之間、彼國依v無2菖蒲1、五月五日、水草ハ同事トテ、カツミヲ被v葺ケリ。其後、國習ヲ令v如v斯云々。和歌童蒙抄卷七に、奧陸《(マヽ)》國ノ風俗ニテ、カツミトハ、コモヲ云ナリ。昔、アヤメノナカリケレバ、五月末日ニハ、カツミフキトテ、コモヲフクナリ。橘爲仲ノ任ニ、コモヲフキケレバ、腹立テ、見行テフカセケル在廳ノ者ヲ召出シヲ見レバ、年老、カシラシロキモノニテアリ。イカデ、トシノミヨリテ、カヽルコトハ、セサスルゾトイマシメケレバ、中將ノ御館ノ御時ニ、菖蒲ヤサブラハザリケム、アサカノヌマノカツミヲフクベキヨシ候ケレバ、其後、カク例ニナリテ仕ルナリト云ケレバ、爲仲ハヂテ入ニケリ云々。俊頼無名抄、これに同じ。奥俵抄異名部に、薦かつみ、花かつみ云々。能因歌枕に、かつみとはこもをいふ。菰花を花かつみといふ云々。綺語抄に、はなかつみとは芦の花をいふ。又、菰のはなをいふともいへり云々。これらの説のごとく、かつみとは菰《コモ》の一名にて、花かつみとは菰の花咲たるをいふべし。本草啓蒙にも、菰米に當たるをよしとす。(223)さるを、略解に、花かつみは、和名抄酢漿【加太波美】是と同じ類にて、水に生るもの也。四ひらにて、葉すなはち花の如くなれば、花かつみといふならんと翁はいはれき。されど、花といふべくもなき物なり。陸奥にて、今、花菖蒲に似て、花四ひらなるものを、かつみといへり。これぞまことのものなるべき云々といへるは、證もなく、をさなき説なり。かの、水に浮て生て、葉の四ひらある酢漿に似たるものは、蘋《ウキクサ》の類にて、田字草といひて、俗に、たの字藻とも、かたばみ藻ともいふもの也。花菖蒲に似て、花の四ひらなるものは、陸奥に限らず、いづくにもあり。予、花を愛する僻ありて、花菖蒲なども多く相見るに、四ひらなるものも、まゝあり。こは、たま/\花菖蒲の異名なるのみにて、さらに別種のものにあらず。さて、こゝまでは、都毛不知《カツテモシラヌ》といはん序のみにおけるなり。
 
都毛不知《カツテモシラヌ》。
都は、すべてとも訓るゝ字なれど、こゝに花勝見都毛不知《ハナカツミカツテモシラヌ》と詞を重ねて云下したれば、これ、かつてと訓べき正しき證なり。十【十九丁】に、木高者曾木不殖《コダカクハカツテキウヱジ》云々。十三【廿四丁】に、戀云物者都不止來《コヒトフモノハカツテヤマズケリ》などありて、俗にいはゞ、一向にといふ意なり。
 
戀裳摺可聞《コヒモスルカモ》。
摺と書るは借字、爲《スル》の意也。古今集戀一に【よみ人しらず】ほとゝぎすなくや五月のあやめぐさ、あやめもしらぬ戀もするかなとあるも似たり。さて、この歌、上の句は序にて、一首の意は、いまだかゝる戀をばならはず、ふつにしらざる戀をもすることよといふ也。
 
(224)676 海底《ワタノソコ》。奧乎深目手《オキヲフカメテ》。吾念有《ワガオモヘル》。君二波將相《キミニハアハム》。年者經十方《トシハヘヌトモ》。
 
海底《ワタノソコ》。
枕詞なり、上【攷證一下七十六丁】に出たり。
 
奧乎深目手《オキヲフカメテ》。
奥《オキ》は、行末をいへることなる事、上【攷證此卷四十五丁】にいへるが如く、こゝは、行末はなほ/\思ひまされるを、海の奥の深きになずらへて、奥をふかめてとはいへる也。十一【四十一丁】に、海底奥乎深目手生藻之《ワタノソコオキヲフカメテオフルモノ》云々。十六【十一丁】に、猪名川之奥乎深自而吾念有來《イナカハノオキヲフカメテワガモヘリケル》。十八【廿六丁】に、那呉能宇美能於伎乎布可米天佐度波世流伎美我許己呂能《ナコノウミノオキヲフカメテサトハセルキミガココロノ》云々など見えたり。
 
年者經十方《トシハヘヌトモ》。
物のさはりありて、よしや年をば經ぬともといふにて、一首の意は、行末をかけて、なほ/\ふかく思へる君には、さゝはりありて、よしや年をば經たりとも、果は必らず相てんといふなり。
 
677 春日山《カスガヤマ》。朝居雲乃《アサヰルクモノ》。鬱《オボホシク》。不知人爾毛《シラヌヒトニモ》。戀物香聞《コフルモノカモ》。
 
朝居雲乃《アサヰルクモノ》。
この一二の句は、おぼゝしくといはん序なり。十一【九丁】に、香山爾雲位桁曳於保保思久《カグヤマニクモヰタナビキオボヽシク》云々。また【九丁】雲間從狹徑月乃於保保思久《クモマヨリサワタルツキノオボホシク》云々などあり。
 
鬱《オボホシク》。
上【攷證二中五十一丁】に出たり。おぼつかなき意なり。欝の一字をよめるは、十【十五丁】に、欝妹乎相見《オボヽシクイモヲアヒミテ》云々とあり。
 
(225)不知人爾毛《シラヌヒトニモ》。
この次の歌もて見るに、中臣女郎、家持卿を見ずして、音にのみきゝて戀るなるべし。されば、しらぬ人にもとはいへる也。一首の意は明らけし。
 
678 直相而《タダニアヒテ》。見而者耳社《ミテバノミコソ》。靈尅《タマキハル》。命向《イノチニムカフ》。吾戀止眼《ワガコヒヤマメ》。
 
直相而《タダニアヒテ》。
上【攷證一下六十八丁】にいへるが如く、たゞちに逢ばの意なり。
 
見而者耳社《ミテバノミコソ》。
而者《テバ》は、まへにもいへるが如く、たらばの意にて、耳社《ノミコソ》の耳《ノミ》には意なく、社《コソ》とのみいへる意也。六【卅二丁】に、此山乃盡者耳社《コノヤマノツキバノミコソ》、此河乃絶者耳社《コノカハノタエバノミコソ》、百師紀能大宮所止時裳有目《モヽシキノオホミヤトコロヤムトキモアラメ》。古今集四に【よみ人しらず】津の國のなにはおもはず、山しろのとはにあひ見んことをのみこそ。これらも、のみといふに意なく、こゝと同じ格なり。また、この外に、ばかりこそといふ意の耳社《ノミコソ》、集中にも、後の歌にもあり。
 
靈尅《タマキハル》。
枕詞なり。上【攷證一上八丁】に出たり。
 
命向《イノチニムカフ》。
?【廿丁】に、玉切命向戀從者《タマキハルイノチニムカヒコヒムユハ》云々。十二【十五丁】に、眞十鏡直目爾君乎見者許曾《マソカガミタダメニキミヲミテバコソ》、命對汽戀止目《イノチニムカフワガコヒヤマメ》などもありて、こは、命と等しき意にて、俗にいはゞ、命とつりがへなるといふ意也。
 
吾戀止眼《ワガコヒヤマメ》。
眼は借字也。一首の一意は、たゞちに逢て、まのあたり君を見たらば、命とつりがへなるばかりに思ふ吾戀なれど、少しはこゝろの和《ナグ》る事もあらんといふにて、前(226)の歌に、不知人爾毛《シラヌヒトニモ》示々とある如く、この女郎、まだ家持卿を見ずして、音にのみきゝ戀るなるべし。
 
679 不欲常云者《イナトイハバ》。將強哉吾背《シヒメヤワガセ》。菅根之《スガノネノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。戀管母將有《コヒツヽモアラム》。
 
不欲常云者《イナトイハバ》。
不欲を、いなと訓るは義訓也。此卷【五十四丁】に、不欲者不有《イナニハアラズ》云々ともありて、この言は、上【攷證二上十五丁】にもいへるが如く、物を諾なはざる意也。
 
菅根之《スガノネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證此卷二丁】に、根《ネ》も凝《コロ》ともつゞけしが如く、菅の根は繁きものなれば、詞を隔てゝ、亂《ミダレ》とつゞけし也。さて、一首の意は、はじめより、君が諾《ウベ》なはず、不許《イナ》とのたまはゞ、強てはいはじ。たゞ、吾ばかり思ひみたれて、戀つゝあかしくらさんものをとなり。
 
大伴宿彌家持。與2交遊1別久。歌三首。
 
交遊は、禮記曲禮に、交遊稱2其信1也云々。戰國策□策注に、遊猶v友也とあれば、交友《マジハレル》の意なり。さて、印本、別の下、久の字を脱せり。いま、目録、並諸本によりて補ふ。
 
680 蓋毛《ケダシクモ》。人之中言《ヒトノナカゴト》。聞可毛《キケルカモ》。幾許雖待《コヽダマテドモ・コヽタクマテド》。君之不來益《キミガキマサヌ》。
 
蓋毛《ケダシクモ》。
十二【廿九丁】に、蓋雲吾戀死者《ケダシクモワガコヒシナバ》云々。十七【四十六丁】に、氣太之久毛安布許等安里也等《ケダシクモアフコトアリヤト》云々などありて、こは、若《モシ》もと疑ふ意の詞なる事、上【攷證二上卅丁】にいへり。蓋の字の事もそのところに(227)いへり。
 
人之中言《ヒトノナカゴト》。
この語、上【攷證此卷四十五丁】にもあり。一首の意は、このごろ、あまた待ども、君が來まさざるは、もしも人の中言などいふさかしら言をきゝて、吾をよろしからずおぼしたるにやあらんといふなり。
 
681 中々爾《ナカナカニ》。絶《タエム・タエネ》年云者《トシイハバ》。如此許《カクバカリ》。氣緒爾四而《イキノヲニシテ》。吾將戀八方《ワガコヒメヤモ》。
 
中々爾《ナカナカニ》。
この語、上【攷證三中廿九丁】に出たり。
 
絶《タエム・タエネ》年云者《トシイハバ》。
(【原本、コヽ空白ナリ。】)
 
氣緒爾四而《イキノヲニシテ》。
この事、上【攷證此卷卅六丁】にいへるが如く、息《イキ》の續《ツヅ》く意にて、生て居るよすがにしてといふ意也。一首の意は、中々に交を絶んといはゞ、かくばかりに君を戀るを、吾生居るよすがにして戀わたらめやは。絶交せんともいはざるに、故にかく戀るものを、いかにさばかりはつれなきぞといふ也。
 
682 將念《オモヒナム》。人爾有莫國《ヒトニアラナクニ》。懃《ネモゴロニ》。情盡而《コヽロツクシテ》。戀流吾毳《コフルワレカモ》。
 
(228)將念《オモヒナム》。
代匠記に引る官本、幽齋、別校本、宇萬伎が校本に引る水戸本、阿野本など、將を相に作れり。これによらば、あひおもふと訓べし。これいとよろしけれど、今のまゝにても意は聞ゆれば、改めがたし。
 
懃《ネモゴロニ》。
上【攷證二下四十一丁】にいへるが如く、一方《ヒトカタ》ならずの意にて、一首の意は、吾を思ひなん君にはあらぬに、その人を、わが方よりは、一方ならずおもふかもといふ也。
 
大伴坂上郎女歌七首。
 
683 謂言之《イフコトノ》。恐《カシコキ・サガナキ》國曾《クニゾ》。紅之《クレナヰノ》。色莫出曾《イロニナイデソ》。念死友《オモヒシヌトモ》。
 
恐《カシコキ・サガナキ》國曾《クニゾ》。
舊訓に、さがなき國ぞとあるは、いかゞ。さがなしといふ言は、古事記、書紀などにも、不良、不詳などの字を訓て、みな、不善《ヨカラヌ》意にのみ用ひたれば、こゝには叶はず。恐の字は、集中にも、他の古書にも、みな、かしこしと訓つれば、こゝも、かしこき國ぞと訓べし。かしこしといふ言は、集中、いろ/\の意に用ひて、或は忝《カタジケ》なき意にも、或は物を諾《ウベ》なふ意にもしたれば、語の本は、みな、恐るゝ意より轉じたるにて、こゝは、恐るゝ意也。二【卅四丁】に、飄可毛伊卷渡等念麻低聞之恐久《ツムジカモイマキワタルトオモフマデキヽノカシコク》云々。三【十五丁】に、三津崎浪矣恐《ミツノサキナミヲカシコミ》云々。六【卅一丁】に、奧浪恐海爾《オキツナミカシコキウミニ》云々などありて、猶いと多く、これら、みな、おそろしき意也。國とは、一國をさしていふにはあらず、その所をいふにて、古しへ、一郡一郷をも國といひし事、上【攷證一上廿六丁三下卅三丁】にいへるが如(229)く、こゝは人の物いふことのおそろしき所ぞといふ意にて、集中、人ごとをしげみこちたみなどもいひ、拾遺集雜秋に【遍昭】こゝにしもなにゝほふらん、をみなへし、人のものいひさがにくき世にともいへり。
 
紅之《クレナヰノ》。
之《ノ》は、如くの意にて、紅花は色に出るものなれば、くれなゐのごとく色に出とつゞけしなり。和名抄染色具に、紅藍【久禮乃阿井】とありて、本集十【廿四丁】に、紅乃末採花乃色不出友《クレナヰノスヱツムハナノイロニイデズトモ》とも見えて、今も紅花《ベニバナ》といふもの也。一首の意は、たとへ思ひにこがれ死ぬとも、色に出して人にしらるゝ事なかれ。このほとりは、人言しげく、かしこき所なればといふ也。
 
684 今者《イマハ》吾《ワ・ワレ》波《ハ》。將死與吾背《シナムヨワガセ》。生十方《イケリトモ》。吾二可縁跡《ワレニヨルベシト》。言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》。
 
將死與吾背《シナムヨワガセ》。
この語、上【攷證此卷三丁】に出たり。與は呼出すことばなり。
 
言跡云莫苦荷《イフトイハナクニ》。
宣長云、いふといはなくには、すべて、云、思などいふ言を添ていふ例多し。こゝも、しかり。たゞ、われによるべしといはぬに也。集中、思ふを添ていふ例は、わすれておもへやといふも、たゞ、わすれんやといふ也。又、雖の字を、いへども、いふともなど訓も、たゞ、ともにて、いふ(は脱カ)添たる詞のみ也云々。この説の如し。一首の意は、吾生てありとも、吾方に君がよるべしともいはぬによりて、生てをるかひもなければ、今は吾は、思ひ死に、しぬべしといふ也。
 
(230)685 人事《ヒトゴトヲ》。繁哉君乎《シゲミヤキミヲ》。二鞘之《フタサヤノ》。家乎隔而而《イヘヲヘダテテ》。戀乍將座《コヒツヽヲラム》。
 
二鞘之《フタサヤノ》。
こは、家乎隔而而《イヘヲヘダテヽ》といふへかゝる枕詞なるを、冠辭考にはもらされたり。さて、二鞄とは、今の世に、刀を、二腰、三腰などいふが如く、鞘に入たる刀二つをいひて、鞘をば室《イヘ》ともいへば、刀二つながら鞘を隔居る意もてつゞけしなり。説文に、鞘刀室也。史記刺客列傳索隱に、室謂鞘也と見えたり。鞘は、和名抄弓釼具に、鞘和名佐夜とあり。さて、また、書紀神功皇后五十二年紀に、献2七枝刀一口、七子鏡一面1云々とある七枝刀を、ナヽツサヤノタチと訓り。こは、履中天皇三年紀、兩枝船をフタマタフネと訓る如く、枝《マタ》の七つある刀なれば、自らに鞘も七つあるいはれなればなり。されば、こゝの二鞘とは、さらに別なり。思ひまがふべからず。また、六帖第五刀の歌に、あふことのかたなさしたるなゝつこのさやかに人の戀らるゝかな。鞘の歌に、なゝのこのさやのくち/\つどひつゝ、われをかたなにさしてゆく也などあるも、かの七枝刀をよめるにて、さやのくち/\つどひつゝといへるも、刀の本は一つにて、末の七|枝《マタ》に別れたるに、鞘を著すれば、鞘の口の本の方に集へるをいへる也。また、或人、古事記下卷仁徳天皇御歌に、文漏邪夜能麻佐豆古和藝毛《モロサヤノマサツコワキモ》云々とあるを引て、こゝの二鞘を、もろさやと訓つれど、かの御歌は誤字ありとおぼしく、解しがたき御歌なれば、訓例とはなしがたし。宣長は、かの御歌を、久漏邪伎能《クロサキノ》の誤りとしつれど、猶解しがたし。
 
家乎隔而而《イヘヲヘダテテ》。
たとはゞ、刀二腰をならべ置ば、おの/\室《イヘ》を隔てゝ有が如く、君と吾と家を隔居てといふにて、一首の意は、人のいひさわぐ言の繁さにや、一つ所にも居ず、(231)かくの如く家を隔居て戀つゝ居るならんと也。
 
686 比《コノゴロ》者《ハ・ニ》。千歳八往裳《チトセヤユキモ》。過與《スギヌツト》。吾哉然念《ワレヤシカオモフ》。欲見鴨《ミマクホリカモ》。
 
千歳八往裳《チトセヤユキモ》。
十一【十七丁】に、相見者千歳八去流《アヒミテハチトセヤイヌル》、否乎鴨《イナヲカモ》、我哉然念《ワレヤシカオモフ》、待公難爾《キミマチガテニ》ともありて、あはぬ間を千歳の如くに思ふ也。往裳《ユキモ》の往は、上【攷證四上五十丁】にいへる月日の經行よし也。
 
吾哉然念《ワレヤシカオモフ》。
吾心からにや、しかおもふといふにて、然念といふは、さやうにおもふといふ意なり。
 
欲見鴨《ミマクホリカモ》。
この語、集中いと多く、二十【十三丁】に、花爾奈蘇倍弖見麻久保里香聞《ハナニナゾヘテミマクホリカモ》ともありて、一首の意は、このごろ、すこしの間逢ざるを、千年も往過ぬるやうに思ふは、吾心からしか思ふならん。そは、君をいつもいつも見まくほしと思ふ故にやあらんといふ也。
 
687 愛《ウルハシ・ウツクシ》常《ト》。吾念《アガモフ・ワガオモフ》情《ココロ》(・ハ)。速河之《ハヤカハノ》。雖《セキ・セク》塞塞友《トセクトモ》。猶哉將崩《ナホヤクヅレム》。
 
愛《ウルハシ・ウツクシ》常《ト》。
愛の字は、うつくしと訓んか、うるはしと訓んか、定めかねたるよし、上【攷證此卷四十五丁】にいひつれど、こゝは、うるはしと訓べし。そは、十二【二丁】に、與愛我念妹《ウルハシトワガモフイモヲ》云々。十五【卅一丁】に、(232)宇流波之等安我毛布伊毛乎《ウルハシトアガモフイモヲ》云々。十七【卅丁】に、宇流流之等安我毛布伎美波《ウルハシトアガモフキミハ》云々などあるにでしるべし。猶いと多し。
 
速河之《ハヤカハノ》。
七【卅八丁】に、早川之瀬者立友《ハヤカハノセニハタツトモ》云々。十三【十六丁】に、速川之往文不知《ハヤカハノユクヘモシラズ》云々などありて、水の流の早きをいへり。
 
雖《セキ・セク》塞塞友《トセクトモ》。
このともじは、にの意のともじの、また一つの格にて、古今集戀五に【よみ人しらす】秋風のふきとふきぬるむさし野は、なべで草ばのいろかはりけり。後撰集雜三に【貫之】かざすともたちとたちなん、なき名をば、ことなし草のかひやなからんなどある、ともじと同じ。さて、塞《セク》とは、水を塞《セキ》止る意なる事、上【攷證二下十二丁】にいへり。
 
猶哉將崩《ナホヤクヅレム》。
新撰字鏡に、崩、久豆留とあり。また、三【四十九丁】に、河岸之妹我可悔心者不持《カハギシノイモガクユベキコヽロハモタジ》とあるも、崩《クユ》るに悔《クユ》るをいひかけたり。十四【六丁】に、伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《イハクエノキミガクユベキコヽロハモタジ》とあるも同じ。一首の意は、君を吾うるはしく親《ムツ》ましと思ふ心は、早川を堤など築きて塞《セケ》ども崩るゝが如く、思ひ止んと思へども、その心の猶崩て、思ひとゞまりがたしと也。
 
688 青山乎《アヲヤマヲ》。横※[殺の異体字]雲之《ヨコギルクモノ》。灼然《イチジロク》。吾共《ワレト》咲《ヱマ・ヱミ》爲而《シテ》。人二《ヒトニシラ》所《ユ・ル》知名《ナ》。
 
青山乎《アヲヤマヲ》。
地名にあらず。たゞ青々としたる山也。上【攷證三中五十五丁】に出たり。
 
横※[殺の異体字の烈火なし]雲之《ヨコギルクモノ》。
※[殺の異体字の烈火なし]の字は、説文を考るに、殺の古文、※[傲の旁]に作れば、※[傲の旁]の誤か。また、廣韻に、殺の俗字を※[殺の異体字]に作れば、※[殺の異体字の烈火なし]は※[殺の異体字]の省文か。然を省て※[然の烈火なし]に作れる類なるべし。また、(233)殺を孫叔※[傲の旁]碑陰に、〓に作れば、この省文か。いづれにまれ、殺の字の異體なる事明らけし。これを、きると訓るは義訓也。十二【廿一丁】に、殺目山《キリメヤマ》云々とよめり。さて、よこぎるといふは、詞花集秋に【顯輔】あまの川よこぎるくもや、たなばたのそらたきものゝけぶりなるらん。薪古今集秋上に【道因法師】山のはにくものよこぎるよひのまは、出ても月ぞ猶またれけるなどありて、こは、さへぎる、よぎるなどいふと同じ類にて、よこぎる(とは、脱カ)、よこの(にカ)ゆく意なり。
 
灼然《イチジロク》。
灼然をよめるは義訓也。集中十三所あり。靈異記下卷訓釋に、灼然移知シルクとよめり。さて、この語は、本集十【五十二丁】に、市白霜吾戀目八百《イチジロクシモワレコヒメヤモ》。十六【十三丁】に、痛吾身曾伊知白苦《イタキワガミゾイチジロク》云云。十七【十六丁】に、伊知之路久伊泥奴比登乃師流倍久《イチジロクイデヌヒトノシルベク》などありて、猶いと多し。みな、分明なる意なり。中古よりは、みな、いちじるしといへり。意はたがふ事なし。
 
吾共咲爲而《ワレトヱマシテ》。
十一【卅九丁】に、爾故余漢我共咲爲而人爾所知名《ニコヨカニワレトヱマシテヒトニシラユナ》などもありて、われとのともじは、とみづからと詞をそへて聞|え《(マヽ)》にて、これ一種のと也。七【五丁】に、今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾吾共所沾者《ケフノコサメニワレトヌルレバ》。十二【廿四丁】に、見乍座而吾止偲爲《ミツヽイマシテワレトシヌバセ》などある、ともじと同じ格にて、後の歌にもいと多かり。
 
人二《ヒトニシラ》所《ユ・ル》知名《ナ》。
ひとにしらゆなと訓べし。七【卅三丁】に、衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》とあり。このるに通ふゆもじの事は、上【攷證一下五十五丁】にいへり。さて、一首の意は、この歌、序歌にて、青き山を、白き雲のゆく如く、いちじるく、人にしらるゝことなかれ、吾とみづからひとりゑみしてといふにて、戀にまれ、何にまれ、うれしく喜ばしき事あれば、ひとりゑみせらるゝをいへり。
 
(234)689 海山毛《ウミヤマモ》。隔莫國《ヘダヽラナクニ》。奈何鴨《ナニシカモ》。目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》。幾許乏寸《コヽタトモシキ》。
 
奈何鴨《ナニシカモ》。
しもじは助辭なり。この語、上【攷證二下七丁】に出たり。
 
目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》。
上【攷證二下十丁】にいへるが如く、目に見、口にいふことを、目言とはいへり。
 
幾許乏寸《コヽタトモシキ》。
幾許《コヽタ》はあまたの意。乏寸《トモシキ》は、ともしくまれなる意也。この事は、上【攷證三上五十七丁】にいへり。一首の意は、海山を隔たらぬに、いかにしてかも、見る事も、ものいふ事もすくなく、まれなるぞといふ也。
 
大伴宿禰三依。悲v別歌一首。
 
父祖、考へがたし、上【攷證四上四十九丁】に出たり。
 
690 照日乎《テレルヒヲ》。闇爾見成而《ヤミニミナシテ》。哭涙《ナクナミダ》。衣沾津《コロモヌラシツ》。干人無二《ホスヒトナシニ》。
 
十二【四十丁】に、久將在君念爾《ヒサニアラムキミヲオモフニ》、久堅乃清月夜毛闇夜耳見《ヒサカタノキヨキツクヨモヤミニノミミユ》ともありて、この歌も、今、別のかなしさに、照日をも闇の如くに見なして、わが哭なみだに衣はぬれたれ(ど脱カ)も、干《ホス》人もなしといふ(235)にて、干人は女をさせり。闇爾の爾もじは、如くの意也。この事【攷證一下卅七丁】にいへり。さて、宣長は、日は月の誤りにて、てるつきをなるべしといはれたり。さもあるべし。一首の意は明らけし。
 
ことし文政九年なが月の、名にしおふ月も、雨をやみだになく、書の中みちをゆきたどるには、なか/\に心ひかさるゝくまもなければ、この夜よりかゝりて、此卷を終りつるは、同じ神無月の廿日なれば、猶もしぐるゝころなりけり。
                      岸本由豆流
                      (以上攷證卷四中册)
 
(236)大伴宿禰家持。贈2娘子1歌二首。
 
娘子は誰とも知がたし。
 
691 百礒城之《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤビトハ》。雖多有《オホカレド》。情爾乘而《コヽロニノリテ》。所念妹《オモホユルイモ》。
 
百礒城之《モヽシキノ》。
枕詞なり。上【攷證一上四十八丁】に出たり。
 
大宮人者《オホミヤビトハ》。
集中いと多し。こゝは宮中の女官をいへり。
 
情爾乘而《コヽロニノリテ》。
十三【十六丁】に、思妻心乘而《オモヒツマココロニノリテ》云々。十四【廿八丁】に、許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《ココロニノリテコヽハカナシケ》などありて、この語、猶、上【攷證二上十八丁】にも出たり。こは、心にかゝるをいへり。さて、此歌は、宮中の女官などを思ひてよまれしにて、一首の意は、宮中に仕まつれる女官はいと多かれども、その中に、心にかゝりておぼゆるは、君のみなりといふ也。
 
692 得羽重無《ウハベナキ》。妹二毛有鴨《イモニモアレカモ》。如此許《カクバカリ》。人情乎《ヒトノコヽロヲ》。令盡念者《ツクストオモヘバ》。
 
得羽重無《ウハベナキ》。
この上【攷證四中廿八丁】にも出て、上べのなさけもなきにて、俗に追從のなきといふに當れり。
 
(237)令盡念者《ツクストオモヘバ》。
盡さすと思へばといふ意也。さすの反、さなれば、つくさすと(をカ)つゞめて、つくすといへる也。一首の意は、君は上べばかりのなさけだになきものにもあるかも、かくばかりに人に心を盡さするを思へばと也。
 
大伴宿禰千室歌一首。未詳
 
父祖、官位、考へがたし。二十【十一丁】天平勝寶六年正月四日、氏族人等賀2集于少納言大伴宿禰家持之宅1、宴飲歌三首の中に、左兵衛督大伴宿禰千里とあるを、代匠記に引る水戸本、官本などには、千室とあれば、こゝと同人なり。續日本紀に、天平五年三月辛亥、授2正六位上大伴宿禰小室外從五位下1。十月丙申外從五位下大伴宿禰小室爲2攝津亮1とあり。これ、いづれか誤りにて、同人にはあらざるか。未詳の二字、原本大字なり。今、集中の例に依て小字とす。
 
693 如此耳《カクノミニ・カクシノミ》。戀哉將度《コヒヤワタラム》。秋津野爾《アキツヌニ》。多奈引雲能《タナビククモノ》。過跡者無二《スグトハナシニ》。
 
如此耳《カクノミニ・カクシノミ》。
これを、かくのみにと訓べき事は、上【攷證三下四十丁】にいへり。かくばかりにの意なり。
 
秋津野爾《アキツヌニ》。
吉野の中なり。上【攷證一下六丁】に出たり。これ、高き所なれば、たなびく雲とはいへり。
 
(238)過跡者無二《スグトハナシニ》。
こは、此卷【四十一丁】に、朝爾日爾色付山乃白雲之《アサニケニイロツクヤマノシラクモノ》、可思過君爾不有國《オモヒスグベキキミニアラナクニ》とあると同じ意にて、雲は、たゞに行過るものなれば、過とつゞけたり。こゝも、思ひを遣《ヤ》り過すとはなしにといへる意にて、一首の意は、思ひを遣り過すとはなく、かくばかりに君を戀やわたらん。
 
廣河女王歌二首。【穗積皇子之孫女。上道王之女也。】
 
右十三字の古注、印本なし。作者履歴に引る官本、考異本に引る古本などに依て加ふ。續日本紀に、天平寶字七年正月壬子、授2無位廣河王從五位下1とあり。これ、男王の列を離れて、内親王の下女王の列に入たれば、王の字の上、女の字を脱せるにて、この廣河女王なる事疑ひなし。
 
694 戀草呼《コヒグサヲ》。力車二《チカラクルマニ》。七車《ナヽクルマ》。積而戀良苦《ツミテコフラク》。吾心柄《ワガコヽロカラ》。
 
戀草呼《コヒグサヲ》。
戀草は草の名にあらず。手向草、めざまし草、かたらひ草などの類にて、草と書るは借字、種《クサ》にて、種《タネ》の意なり。千載集戀二に【藤原顯家】世とゝもにつれなき人を戀草の露こぼれます秋の夕ぐれ。堀川院御百種(首カ)に、たのめおきしことの葉による戀草や、ひとまつむしのすみかなるらん。源頼政集に、もえいでゝ、まだふた葉なる戀草の、いくほどなきに、おける露かな。狹衣物語四に、なゝ車つむともつきじ、おもふにも、いふにもあまる、わがこひぐさはなどあるも、戀種を草によそへたり。
 
力車二《チカラクルマニ》。
力車は、狹衣物語四に、道のほどに、戀草つむべきれうにやと覺ゆる力車どもゝ、あまた、おしやり、つゞけ、ゆきちがふ云々。榮花物語疑ひの卷に、大路のかたを見れば、力車にえもいはぬ大木どもに、つなをつけて、さけびのゝしり、ひきもていき云々。同、鳥の舞の卷に、力車といふもの、ふたつならべて、一佛おはしまさせたまふ。けふは、その車のうへに、大きなる蓮花の坐つくらせたまひて、おはしまさせたまふ云々。散木集九に、なげきつむ力車の輪をよわみ、たちめぐるべきこゝちこそせねなどあるをもて、この力車といふものゝさまを考ふるに、今の大八車といふものゝ如く、米穀、材木、何によらず積て運送する車にで、きはめて力つよき車なれば、名にもおへるにて、これ民用の車なるべし。漢土にては、大車とも、※[異/車]ともいふ車なり。さて、或人、主税《チカラ》車の意にて、貢物を積送るよりいへるならんといへど、もの遠き説なり。
 
七車《ナヽクルマ》。
七は、たゞ數の多きをいひて、八を大數とするに同じ。古事記中卷に七媛女《ナヽヲトメ》とありて、上卷には八稚女《ヤヲトメ》と見え、中卷に七拳脛《ナヽツカハギ》といふ人名見えたるも、脛《ハキ》の長き人にて、七拳はその長さの凡をいふなる事、書紀孝徳紀、越後國風土記などに、八掬脛《ヤツカハギ》といふ人名あるにてしるべし。また、古事記上卷、日八日《ヒヤカ》夜八夜《ヨヤヨ》と見え、書紀神后紀に、七日七夜云々。鎭火祭祝詞に、夜七夜晝七日云々など、同じさまにいへり。また、本集此卷【五十二丁】に、吾戀者千引乃石乎七許頸二將繋母神之諸伏《ワガコヒハチビキノイシヲナヽハカリクビニカケムモカミノモロフシ》。九【十八丁】に、及七日家爾毛不來而《ナヌカマデイヘニモコズテ》云々。また【廿丁】吾去者七日不過《ワガユキハナヌカハスギジ》云々。十【十六丁】に、七日四零者《ナヌカシフラバ》、七夜不來哉《ナヽヨコジトヤ》。十一【八丁】に、妹所云《イモガリトイハバ》、七日越來《ナヌカコエコム》。十三【廿三丁】に、河瀬乎七湍渡而《カハノセヲナヽセワタリテ》云々。十九【四十丁】に、吾大王波七世申禰《ワガオホキミハナヽヨマヲサネ》などありて、後撰集夏に【よみ人しらず】たなばたは、天のかはらを、なゝかへ(240)り、のちの晦日を、みそぎにはせよ。六帖四に、なぬかゆく、はまのまさごと、わが戀と云々。後拾遺集※[羈の馬が奇]旅に【西宮左大臣】なぬかにもあまりにけりな、たよりあらば、かぞへきかせよ、沖つしまもり。金葉集雜下に【俊頼】よものうみのなみにたゞよふみくづをも、なゝへのあみに引なのらしそなどありて、猶いと多し。これらみな七を凡の數にいへり。(頭書、七瀬の淀といへるも、名所にあらで、七は大數をいへる事、下【攷證五下六丁】にいふべし。)
 
積而戀良苦《ツミテコフラク》。
らくは、るを延たる言なる事、上【攷證二中四十七丁】にいへるが如く、こゝも、つみて戀るといふ也。
 
吾心柄《ワガコヽロカラ》。
柄《カラ》と書るは借字、からは、中ごろよりは、よりともいひて、こゝは、わがこゝろよりといふ意也。そは、十【十九丁】に、霍公鳥宇能花邊柄鳴越來《ホトトギスウノハナヘカラナキテコエキヌ》。十一【廿四丁】に、直道柄吾者雖來《タヾチカラワレハクレドモ》云々。十二【廿丁】に、君爾戀良久吾情柄《キミニコフラクワガコヽロカラ》。十七【十八丁】に、乎加備可良秋風吹奴《ヲカヒカラアキカゼフキヌ》云々などありて、猶、集中にも、中ごろの歌にも、いと多し。さて、一首の意は、戀のしげきを戀種といひて、さて、わが心より、戀くさをば力車にいく車ともなく積ばかりに戀るぞとなり。
 
695 戀者今葉《コヒハイマハ》。不有常吾羽《アラジトワレハ》。念乎《オモヒシヲ》。何處《イヅク・イヅク》戀其《ノコヒゾ》。附見繋有《ツカミカヽレル》。
 
何處《イヅク・イヅコ》戀其《ノコヒゾ》。
伺處は、いづくと訓べき事、上【攷證一下十五丁】にいへり。さて、其《ゾ》もじは、上に何處《イヅク》と疑ひたれば、疑て問かくるぞの如く聞ゆれど、下を、ると結べる中にあれば、さに(241)あらず。こは、宣長が詞の玉緒にいふ、かの意のぞにて、中ごろよりの歌には、皆、かといへる所なるを、ぞといへるは、集中、一つの格なり。そは、此卷【四十七丁】に、何妹其幾許戀多類《イヅレノイモソコヽタコヒタル》。五【八丁】に、伊豆久欲利|枳多利斯物能曾《キタリシモノゾ》、麻奈迦比爾母等奈可々利提《マナカヒニモトナカヽリテ》、夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》。十【二十八丁】に、何事在曾《ナニゴトアレゾ》、紐不解在牟《ヒモトカザラム》。十三【十三丁】に、年渡麻弖爾毛人者有云乎《トシワタルマデニモヒトハアリトフヲ》、何時之間曾毛吾戀爾來《イツノマニゾモワガコヒニケル》などありて、集中猶多し。上【攷證二上卅一丁】にも出たり。
 
附見繋有《ツカミカヽレル》。
こは、今の世の俗言に、掬《ツカ》み附《ツク》といふが如し。十六【十五丁】に、戀乃奴之束見懸而《コヒノヤツコノツカミカヽリテ》ともありて、附見と書るも、束見と書るも借字なり。新撰字鏡に、抄強取v物也。〓也。鈔同不彌太、又、豆加牟。掴攫、豆加禰波兎とあり。一首の意は、戀といふ戀のかぎりをつくしつれ(ど脱カ)も、殘れる戀は今はあらじと思ひしもの、いづくにのこりし戀なればか、吾につかみかゝれるといへるにて、つかみかからるゝばかりに戀しきをいへり。
 
石川朝臣廣成歌一首。
 
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平寶字二年八月庚子朔、授2從六位上石川朝臣廣成從五位下1。四年二月壬寅、從五位下石川朝臣廣成賜2姓高圓朝臣1。辛亥、從五位下高圓朝臣廣成爲2文部少輔1。五年五月壬辰、從五位下高圓朝臣廣世爲2攝津亮1。【これより後、みな、廣世とのみあり。この天平寶字四年二月より五年五月までの内に、名をも替られしにて、これ同人たる事、下に引る姓氏録の文にてもしらる。】十月壬子朔爲2尾張守1。六年四月庚戌朔爲2山背守1。八年正月乙巳授2從五位上1。己(242)未爲2播磨守1。神護景雲二年正月癸巳爲2周防守1。三年六月乙巳爲2伊豫守1。寶龜元年甲寅授2正五位下1とあり。本集八【四十八丁】にも、内舍人石川朝臣廣成とあるにて、上【攷證三中八十二丁】にいへるが如く、この集、天平寶字四年より以前のものなるをしるべし。姓氏録卷五に、高圓朝臣出v自2正五位下高圓朝臣廣世1也。元就2母氏1、爲2石川朝臣1と見えたり。この高圓は、たかまどと訓べき事、本集二十【十一丁】登2高圓野1歌に、多加麻刀能野《タカマドノヌ》とあるにてしるべし。石川朝臣の姓の事は、上【攷證三上十四丁】にいへり。
 
696 家人爾《イヘビトニ》。戀過目八方《コヒスギメヤモ》。川津鳴《カハヅナク》。泉之里爾《イヅミノサトニ》。年之歴《トシノヘ》去《ヌレ・ユケ》者《バ》。
 
家人爾《イヘビトニ》。
家人は、九【十一丁】に、家人使在之《イヘビトノツカヒナルラシ》云々。十一【十六丁】に、家人者路毛四美三荷雖來《イヘビトハミチモシミヽニキタレドモ》云々などありて、集中いと多く、父母妻子にかぎらず、奴婢までも、みな、家に居るを家人といひて、こゝも父母妻子をいふべし。爾は、をの意にて、家に殘り居る妻を戀る也。このにもじの事は、上【攷證二上廿九丁】にいへるが如く、君にこひ、妹にこひなどいふ、にもじとおなじ。
 
戀過目八方《コヒスギメヤモ》。
この過目八《スギメヤ》は、おもひ過《スグ》べき、おもひ過めや【これらの事は攷證三中十九丁にいへり。】などいふ過と同じく、こゝは、戀る心を遣《ヤ》りすぐさめやもといへる意にて、八《ヤ》はうらへ意のかへるてにをは、方《モ》はそへたる詞なり。
 
川津鳴《カハヅナク》。
こは、泉といはん料にて、かはづなく、かみなび川、よしぬの川などつゞけし類なり。
 
(243)泉之里爾《イヅミノサトニ》。
こは、泉川と同所にて、山城國相樂郡なる事、上【攷證一下卅一丁】にいへり。こゝにしも、年を經るまで居られしは、天平十三年に、山城國相樂郡|恭《ク》仁郷に【これを恭仁京といふ。この事、攷證三下五十八丁に出たり。】都を遷されしかば、この恭仁京の近きわたりなる泉の里には居られしにて、この京、まだ人も住つかざれば、妻子をばもとの奈良京にとゞめおきて、われのみ在しなるべし。さて一首の意は、この遷都の從駕に仕へ奉りて、泉の里に年の經ぬれば、家なる人を戀る心は、遣《ヤ》り過すべき方なく戀しとなり。
 
大伴宿禰像見謌三首。
 
父祖、考へがたし。上【攷證四中四十八丁】に出たり。
 
697 吾聞爾《ワガキヽニ》。繋莫言《カケテナイヒソ》。刈薦之《カリゴモノ》。亂而念《ミダレテオモフ》。君之直香曾《キミガタヾカゾ》。
 
吾聞爾《ワガキヽニ》。
略解に、これを、わがきくにと訓つれど、次の繋莫言《カケテナイヒソ》は、この聞にかゝりて、名にかくる、心にかくるなどの類なれば、必らず、きゝにと訓べし。
 
繋莫言《カケテナイヒソ》。
名にかくる、心にかくる、言にかくるなどいふ、かくると同じく、引かくる意にて、こゝは、わが聞に引かけて、ないひそといふにて、吾に聞《キカ》しむるやうに、君がうへの事をいふ事なかれといふなり。
 
(244)刈薦之《カリコモノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三上廿三丁】にも出たり。
 
君之直香曾《キミガタヾカゾ》。
直香《タヾカ》と云事は、宣長の玉勝間に、萬葉に見えたる多太加といふ言と、麻佐加といふ言と、まぎらはしきが如し。されど、このけぢめは、その言のつゞきざま、歌の意にて、いとよくわかれて、まぎるゝことはなきを、今の本、訓を誤れる所あるによりて、まぎらはしきやうに思ふめり。中略。正香と書るを誤りて、麻佐加と訓るから、まぎらはしき也。正香は、麻佐加にあらず、多太加なること、いひざまの例をわきまふべし。さて、多太加とは、君また妹を直《タヾ》にさしあてゝいへる言にて、君、妹とのみいふも同じことに聞ゆる也。麻佐加とは、行末にむかへて、今さしあたりたる時をいへり。集中によめる歌共を考へわたりてしるべし。その中に、由理《ユリ》といふにむかへていへるあり。由理も後といふ意にて、今にむかひたる言なり。さて、今の俗言に、まさかの時といふ言あるも、このまさかにて、意のうつりかはりたるなり云々といはれしが如し。たゞかといふ言は(九脱カ)【卅丁】に、吾齒曾戀流《ワレハゾコフル》、妹之直香仁《イモガタヾカニ》。十三【廿丁】に、彼雪不時如間不落吾者曾戀《ソノユキノトキジクガゴトヒマモオチズワレハゾコフル》、妹之正香爾《イモガタヾカニ》。また【廿三丁】不聞而黙然有益乎《キカズシテモダモアラマシヲ》、何如文《ナニシカモ》、公之正香乎人之告鶴《キミガタヾカヲヒトノツゲツル》。十七【四十四丁】に、波之家夜之吉美賀多太可乎《ハシケヤシキミガタヾカヲ》云々などありて、君がたゞかは、君が有樣《キミガアリサマ》、妹がただかは、妹が有樣《アリサマ》といふ意なれば、たゞかは有さまの意の古言なるべし。まさかといふ言は、十二【十六丁】に、梓弓末者師不知《アヅサユミスヱハシシラズ》、雖然《シカレドモ》、眞坂者君爾縁西物乎《マサカハキミニヨリニシモノヲ》。十四【十一丁】に、安我古非波麻左香毛可奈思《アガコヒハマサカモカナシ》、久佐麻久良多胡能伊利野乃於久母可奈思母《クサマクラタゴノイリヌノオクモカナシモ》。また【十三丁】伊香保呂能蘇比乃波里波良禰毛己呂爾於久乎奈加禰曾麻左可思余加婆《イカホロノソヒノハリハラネモコロニオクヲナカネソマサカシヨカハ》。また【廿四丁】安都佐由美須惠波余里禰牟《アヅサユミスヱハヨリネム》、麻左可許曾《マサカコソ》、比等目乎於保美(245)奈乎波思爾於家禮《ヒトメヲオホミナヲハシニオケレ》。十八【十八丁】に、左由理波奈由利毛安波牟等於毛倍許曾《サユリハナユリモアハムトオモヘコソ》、伊末能麻左可母宇流波之美須禮《イマノマサカモウルハシミスレ》などありて、さし當りたる所といふ意なり。君がうへの事を、吾に聞しむるやうにいふ事なかれ。こゝろも、かたちも、うちみだれて戀る君がありさまなるぞといふ意なり。
 
698 春日《カスガ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。朝居雲之《アサヰルクモノ》。敷布二《シク/\ニ》。吾者戀益《ワレハコヒマス》。月二日二異二《ツキニヒニケニ》。
 
朝居雲之《アサヰルクモノ》。
春日野は、三【卅六丁】に、登2春日野1とある如く、高き所なれば、雲をいへり。この二句は、しく/”\にといはん序なり。
 
敷布二《シク/\ニ》。
しく/\は、いやがうへに、をり重なる意なる事、上【攷證三中卅九丁】にいへり。
 
月二日二異二《ツキニヒニケニ》。
ひにけにといふ事は、上【攷證三中五十五丁三下五十八丁】にいへるが如く、日々にといふことにて、この歌は、目前の春日野をよみながら、序歌にて、一首の意は、いやがうへに、吾は月に日に從ひて戀まされりと也。
 
 
699 一瀬二波《ヒトセニハ》。千遍障良比《チタビサハラヒ》。逝水之《ユクミヅノ》。後毛將相《ノチニモアハム・ノチモアハナム》。今《イマ》爾不有《ナラズ・ニアラズ》十方《トモ》。
 
千遍障良比《チタビサハラヒ》。
良比は、りを延たる言なる事、上【攷證一上十一丁】にいへるが如く、こゝは、一つ瀬を流れゆく水も、一つ瀬のうちに、いろ/\の石などに障りゆくをいへり。
 
(246)逝水之《ユクミヅノ》。
こゝまで三句は、後にもあはんといふ序にて、詞花集戀上に【新院御製】瀬をはやみ岩にせかるゝ瀧川のわれても末にあはんとぞ思ふとよませたまへるが如く、これかれに障りて、隔たりゆく水も、後には一つ所に流れ合如くといふにて、之は如くの意なり。
 
後毛將相《ノチニモアハム・ノチモアハナム》。
一首の意は、今はさはる事ありて相がたけれど、今ならずとも、後にもあはんといふ也。
 
大伴宿彌家持。到2娘子之門1。作歌一首。
 
700 如此爲而哉《カクシテヤ》。猶八《ナホヤ》將退《マカラム・カヘラム》。不近《チカヽラヌ》。道之間乎《ミチノアヒダヲ》。煩《ナヅミ》參來《マヰキ・マヰリ》而《テ》。
 
猶八《ナホヤ》將退《マカラム・カヘラム》。
如此爲而哉《カクシテヤ》の哉と、猶八《ナホヤ》の八と、二つのやもじを、將退《マカラム》と一つに結びたるは、集中、一の格なり。そは、七【卅四丁】に、如是爲而也尚哉將老《カクシテヤナホヤオイナム》、三雪零大荒木野之小竹爾不有九二《ミユキフルオホアラキヌノシヌナラナクニ》。十一【四十八丁】に、如是爲哉猶八成牛鳴《カクシテヤナホヤナリナム》、大荒木之浮田之杜之標爾不有爾《オホアラキノウキタノモリノシメナラナクニ》などあると同じ。退《マカル》は、字の如く、しりぞくといふ也。
 
煩《ナヅミ》參來《マヰキ・マヰリ》而《テ》。
煩《ナヅミ》と訓るは義訓也。この語の事は、上【攷證二下五十一丁】にいへるが如く、勞し煩《ワヅラ》ひとゞこほる意也。參來《マヰキ》は、まゐきと訓べし。古事記下卷【仁徳天皇】御歌に、岐伊理麻韋久禮《キイリマヰクレ》云々。本集二十【十一丁】に、安禮婆麻爲許牟《アレハマヰコム》云々などあり。端詞にいへるが如く、娘子が門にいたりてよまれしにて、かくの如く來りて、猶やまかりかへらんか、いと遠き道のほどを、勞しわづらひ、ま(247)うできてといへる也。
 
河内百枝娘子。贈2大件宿禰家持1歌二首。
 
父祖、考へがたし。河内は氏か、國名か。百枝は、名か、その住る所の地名か。すべて考へがたし。
 
701 波都波都爾《ハツハツニ》。人乎相見而《ヒトヲアヒミテ》。何將有《イカナラム》。何日二箇《イヅレノヒニカ》。又外二將見《マタヨソニミム》。
 
波都波都爾《ハツハツニ》。
七【廿九丁】に、小端見反戀《ハツ/\ニミテカヘルコヒシモ》。十一【十丁】に、端々妹見鶴《ハツ/\ニイモヲゾミツル》云々。十四【卅丁】に、波都波都爾安比見之兒良之《ハツハツニアヒミシコラシ》云々などありて、また堀川院御百首に【仲實】石ぶみのけふのせば布はつ/\に、あひ見ても猶あかぬけさかな。大蔵卿行宗卿集、はつかに見る戀の歌に、うちつけにはつかの月のはつ/\に、見しそらもなき戀もするかなとも見えたる、みな、はつかの意にて、はつか/\の、か略《(マヽ)》きしなり。
 
何將有《イカナラム》。
三【五十一丁】に、何在歳月日香《イカナラムトシノツキヒカ》云々。十二【七丁】に、何日之時可毛《イカナラムヒノトキニカモ》云々などあり。一首の意は明らけし。
 
702 夜干玉之《ヌバタマノ》。其夜乃月夜《ソノヨノツクヨ》。至于今日《ケフマデニ》。吾者不忘《ワレハワスレズ》。無間思念者《マナクシオモヘバ》。
 
(248)夜干玉之《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上四丁】にも出たり。こゝは、其の字を隔て、夜とつゞけし也。
 
其夜乃《ソノヨノ》月《ツク・ツキ》夜《ヨ》。
其夜《ソノヨ》、其日《ソノヒ》など、皆、さす所ありていへる也。一首の意は、前の歌にいへるが如く、はつ/\に見つる其夜の月夜なりしおもかげをさへ、われはわすられず。そは、君を間なく思ふによりてといへるなり。
 
巫部麻蘇娘子歌二首。
 
父祖、考へがたし。巫部は氏なり。姓氏録卷十四に、巫部宿彌、神饒速日命六世孫、伊香我色雄命之後也。また十六に、巫部連、饒速日命十世孫、伊巳布都乃連公之後也などありて、猶この氏の人は史におほく見えたり。さて、この巫の字は、祈年祭祝詞に、大御巫とあるを、延喜式の訓には、おほみかんなぎ訓《(マヽ)》るを、眞淵、宣長など、皆、おほみかんこと訓り。こは、大御神子の意なるべけれど、巫をかんこといへること、いまだ正しき訓例を見ざるうへに、荒木田經雅の大神宮儀式解にも、巫は、みな、かんなぎと訓るを見れば、伊勢の神宮にても、今に猶かんなぎといへるなるべし。そのうへ、靈異記下卷訓釋に、卜者、可三那支とある卜者も、本書に有2大神1名臼2伊奈婆1、託2卜者1言とあれば、專ら巫をいへるにて、新撰字鏡に、〓〓〓、三同、加牟奈支と見え、また和名抄にも、巫は加牟奈岐と訓つれば、巫部を、かんなぎべとよまん事、論なし。また、伊勢物語に、陰陽師かんなぎよびて、戀せじといふ祓の具してなんいきける。はらへけるまゝに云(249)云。源氏物語橋姫卷に、かんなぎやうのものゝ、とはずがたりするやうに云々など見えたり。さて、巫をかんなぎといふは、巫は神に仕奉るもの故に、神和《カムナゴシ》の意なるべし。麻蘇は名なるべし。
 
703 吾背子乎《ワガセコヲ》。相見之其日《アヒミシソノヒ》。至于今日《ケフマデニ》。吾衣手者《ワガコロモデハ》。乾時毛奈志《ヒルトキモナシ》。
 
この五の句、或人、ほす時もなしとよめり。これもあしからねど、この下の句、集中、五所出たるが、皆、ひる時もなしと訓つれば、猶舊訓に從ふべし。君をはじめて相見つるその日よりけふまでも、戀る涙に泣ぬらしたれば、わが衣手はひる時もなしと也。
 
704 栲繩之《タグナハノ》。永命乎《ナガキイノチヲ》。欲苦波《ホシケクハ》。不絶而人乎《タエズテヒトヲ》。見欲見社《ミマクホリコソ》。
 
栲繩之《タグナハノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下五十八丁】にも出たり。
 
欲苦波《ホシケクハ》。
欲きはといふ意也。けくといふ言を(一字衍カ)は、くを延たる言なるを、きに轉じたる也。この事、上【攷證一下六十三丁】にいへり。
 
見欲見社《ミマクホリコソ》。
社と書るは、上【攷證二中二丁】にいへるが(如く、脱カ)義訓にて、こは願ふ意の詞なる事も上【攷證四中十七丁】にいへり。さて、一首の意は、吾ながき命のほしきは、いつも/\絶ず君を見ん事を願ふによりてなれど、かく見る事も希なるには、長き命も何にかせんと也。
 
(250)大伴宿禰家持。贈2童女1歌一首。
 
705 葉根※[草冠/漫]《ハネカヅラ》。今爲妹乎《イマスルイモヲ》。夢見而《イメニミテ》。情内二《コヽロノウチニ》。戀度鴨《コヒワタルカモ》。
 
葉根※[草冠/漫]《ハネカヅラ》。
こは、七【八丁】に、波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三《ハネカヅライマスルイモヲウラワカミ》、去來率去河之音之清左《イザイザカハノオトノサヤケサ》。十一【廿五丁】に、波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦若見《ハネカヅライマスルイモガウラワカミ》、咲見慍見著四紐解《ヱミミイカリミツケシヒモトク》などありて、少女の髪の飾とする※[草冠/縵]とはしらるれど、そのものは詳ならず。仙覺抄に、はねかづらとは、はなかづら也。花をもつてかざりたるかづら也。なとねと同内相通なり云々。代匠記に、按ニ、集中、ハネカヅラ、今スル妹トツヾケヨメル歌、四首アリ。此外ハ、花カヅライマスルナドヨメル歌ナシ。花鬘ナラバ、唯ハナカヅラト詠ズベシ。サネカヅラヲ、サナカヅラトモ通ハシ云事ハアレド、イマダ、花ヲハネト通ハシイヘル例ナシ。此ハ、鬘ノ飾ニ、ハネタル物ナドノ著タルヲ、初テ簪スル女ノ懸ル歟ニテ、本ヨリハネカヅラト云一種ノ名ナルベシ。弟十二ニ、紫色ノ鬘ノ花ヤカニイマミル妹ヲ後コヒムカモ、トヨメルモ、若ハネカツラニヤ云々。これらの説、あたれりとも覺えず。いかにとも考へがたけれど、試みにいはゞ、今、世に少女の髪の飾とするものに、はね元結といふものあり。こは、いろ/\の色の紙をいと細く裁たるにて、鳥の羽などに似たりともいはるゝ物なり。されば、古しへ、鳥の羽などを少女の髪の飾としたるにて、羽《ハネ》かづらの意にはあらざる歟。散木集に、はねかつらあか裳(の脱カ)すそにくりためて、はなふく妹をふれずばやまじともあり。さて、集中、かづらといふには、皆、〓、※[草冠/縵]などの字をのみ書て、※[草冠/漫]と書るは一つもなければ、正しく※[草冠/縵]の誤り(251)なるべけれど、玉篇に、※[草冠/漫]草名とのみあれば、もし蔓の意ならんもしりがたければ、改めず。
 
今爲妹乎《イマスルイモヲ》。
まへに引る七【八丁】十一【廿五丁】などの歌にも、かくつゞけて、うら若みともあれば、かのはねかづらは、少女の、やゝ、ころだち始て、髪上などするをりの髪の飾とするなるべし。宣長云、今せしと訓べし。この今は、新たにの意にて、このごろ、はねかづらをせし也。今來《イマキ》、薪參《イママヰリ》などのいまの如し。又、今せんとも訓んか。さる時は、近きほどにせんの意也云々。この説もあしからず。さて、一首の意は、はねかづらを今するばかりいと若き妹を、夢に見たれど、君がまだいと若さに、云出さんも人ぎゝよろしからねば、たゞこゝろのうちにのみ戀渡るかもといへる也。
 
童女。來報歌一首。
 
目録には、處女和贈2大伴宿禰家持1、來報歌一首とありて、元暦本には、家持の二字なく、來報歌一首の五字、朱にてかけり。活字本は本書と違ふ事なし。これによるべし。來報は、童女みづから來りて報るなるべし。
 
706 葉根※[草冠/縵]《ハネカヅラ》。今爲妹者《イマスルイモハ》。無四乎《ナカリシヲ》。何《イヅレノ・イカナル》妹其《イモゾ》。幾許戀多類《コヽタコヒタル》。
 
(252)無四乎《ナカリシヲ》。
宣長云、四は物の誤なるべし。さらば、なきものをと訓べし云々。この説、さる事ながら、今のまゝにても聞ゆまじきにあらず。
 
何《イヅレノ・イカナル》妹其《イモゾ》。
この其《ゾ》もじも、上【攷證此卷三丁】にいへる、かの意なり。この歌は、前の歌に、はねかづら今する妹を戀るよしいはるゝを、吾事にはあらじといへるにて、いづれの妹をかさばかりあまた戀たるならんといふ也。この歌もて見れば、この童女は、はねかづらするよはひよりは、少しおとなびたるか、又そのよはひにおよばざるにてもあるべし。
 
粟田娘子。贈2大伴宿禰家持1歌二首。
 
粟田娘子、父祖考へがたし。續日本紀に、粟田朝臣諸妹【天平寶字二年八月庚子紀】廣刀自【寶龜六年正月戊戌紀】などいふ女見えたり。もし、これらにはあらざるか。
 
707 思遣《オモヒヤル》。爲便乃不知者《スベノシラネバ》。片※[土+完]之《カタモヒノ》。底曾吾者《ソコニゾワレハ》。戀成爾家類《コヒナリニケル》。
 
爲便乃不知者《スベノシラネバ》。
乃《ノ》もじは、をの意なり。この事、上【攷證二中卅丁】にいへり。
 
片※[土+完]之《カタモヒノ》。
貞觀踐祚大嘗會儀式に、片※[土+完]六十口云々。延喜四時祭式、供2神今食1料に、土片※[土+宛]二十口云々。主計式上に、片椀三十八口云々。大膳式上に、片椀十二口云々などありて、片とは蓋《フタ》なきをいふなる事、主計式上に、有蓋椀二十口ともあるにてしるべし。是を以て見れば、片|盤《サラ》、片|抔《ツキ》なども、みな、蓋なきをいふべし。※[土+完]《モヒ》は、書紀武烈紀【影媛】歌に、※[てへん+施の旁]摩暮比爾瀰(253)逗佐倍母理《タマモヒニミヅサヘモリ》云々。豐受宮儀式帳に、御水四毛比、御水六毛比云々。和名抄瓦器類に、※[怨の下が皿]。辨色立成云、末里。俗云、毛比【毛比といふは、いと古き名なるを、俗云とあるは非なり。】などありて、食器なるが、專ら水をいるゝものとおぼし。また催馬樂、飛鳥井歌に、美毛比毛左牟之《ミモヒモサムシ》云々とありて、主水司を、もひとりのつかさといへるも、水をも、ひといへり。こは、※[土+完]《モヒ》は水をいるゝ器なるからに、やがて、水をも、もひといへるにて、本は器より出たる名なり。さて、こゝに書る※[土+完]の字は、字書のうへにては、もひと訓べき義さらに見えざれど、既に上に引る貞觀儀式にも片※[土+完]とありて、字鏡集に、※[土+完]※[土+宛]同モヒとあれば、上古の※[土+宛]の俗字なるべし。集韻に、※[土+宛]與2※[怨の下が皿]※[怨の下が瓦]椀1同と見えたり。こゝは片※[土+完]《カタモヒ》に片念をかねたり。
 
底曾吾者《ソコニゾワレハ》。
底は限りの意にて、こゝは、ふかき意なるを、※[土+完]の底にいひかけたり。上【攷證三下七丁】にいへるが如く、底といふは、ものゝ至り極る所をいひて、こゝも戀のせちなる極りをいへり。十二【廿丁】に、大海之底乎深目而結義之《オホウミノソコヲフカメテムスビテシ》云々とあるもおなじ。さて、一首の意は、吾思ひを遣りうしなふべきよしをしらざれば、吾は戀の極りになりにたりとなり。
 
708 復毛將相《マタモアハム》。因毛有奴可《ヨシモアラヌカ》。白細之《シロタヘノ》。我衣手二《ワガコロモデニ》。齋留目六《イハヒトヾメム》。
 
因毛有奴可《ヨシモアラヌカ》。
ぬかといふ詞は、かろく願ふ意の詞にて、もよりうくる格なり。この事、上【攷證三中廿二丁】にいへり。
 
齋留目六《イハヒトヾメム》。
齋とは、上【攷證三中五十八丁】にいへるが如く、忌淨《イミキヨ》まはるを云ことにて、こゝは、代匠記に、又逢見ル由モアリネカシ。人ノ袖ヲ取持テ、絶ズ逢ベキマジナヒシテ、我袖ニイ(254)ハヒトヾメムト也。十五【三十八丁】狹野茅上娘子歌ニモ、之路多倍乃阿我許呂毛弖乎登里母知弖《シロタヘノアガコロモデヲトリモチテ》、伊波敝和我勢古《イハヘワガセコ》、多太爾安布末低爾《タヾニアフマデニ》トヨメリ云々といはれつるがごとく、いにしへさる事のありしなるべし。一首の意は明らけし。(頭書、齋《イハフ》は、また、齋《イツキ》まつる意もあり。)
 
豐前國娘子|大宅女《オホヤケメ》歌一首。未v審2姓氏1。
               
大宅女、父祖、考へがたし。大宅は氏にあらず、【大宅の氏は、古事記、書紀、姓氏録などにも多く見えたれど、こゝに用なければ引ず。】名なる事、國史、また東大寺奴婢籍帳、その外の古書にも、何|女《メ》とあるは皆名なるにてしるべし。大宅は、和名抄播磨國揖保郡郷名に、大宅、於保也介【この外、大和國、河内國、下野國などの郷名にもあれど、皆假字なし。】とあるによりて訓べし。未v審2姓氏1の四字、印本なし。いま、代匠記に引る官本、考異本に引る古本などによりて加ふ。本集六【廿七丁】には、娘子字曰2大宅1。姓氏未v詳也とあり。
 
709 夕闇者《ユフヤミハ》。路多豆多頭四《ミチタヅタヅシ》。待月而《ツキマチテ》。行《イマセ・ユカム》吾背子《ワガセコ》。其間爾母將見《ソノマニモミム》。
 
夕闇者《ユフヤミハ》。
夕べの闇なるをいへり。上【攷證三下四十六丁】に出たり。
 
路多豆多頭四《ミチタヅタヅシ》。
路のたど/\しく、おぼつかなき意なり。上【攷證四上六十三丁】にいへり。
 
(255)行《イマセ・ユカム》吾背子《ワガセコ》。
行《ユク》をいますといふ事は、上【攷證二下卅一丁】にいへり。いませのせは下知にて、三【卅八丁】に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラキソノミチ》ともあり。一首の意は、夕やみは、小ぐらく、路のたど/\しければ、月の出るを待て行せたまへ。しかとゞむるは、そのしばしが間にも君を見奉らんとおもへばなりといへる也。
 
安都扉《アツミノ》娘子歌一首。
 
父祖、考へがたし。安都扉《アツミ》は氏にて、安曇を假字に書る也。扉は、高韻に、甫微切とありて、非《ヒ》の音なれど、ひとみとはことに近く通へば、みの假字に轉じ用ひし也。(頭書、神名備を神名美ともいふ類なり。)
 
710 三空去《ミソラユク》。月之光二《ツキノヒカリニ》。直一目《タヾヒトメ》。相三師人之《アヒミシヒトノ》。夢西所見《イメニシミユル》。
 
三空去《ミソラユク》。
三は眞なり。上【攷證四上卅八丁】に出たり。
 
夢西所見《イメニシミユル》。
にしのしは助辭にて、みゆるのるは之《ノ》の結びなり。一首の意は明らけし。
 
丹波大娘子歌三首。
 
(256)父祖、考へがたし。丹波は氏か、國名か、考へがたし。代匠記に、丹波國ト云ザレバ、丹波ハ氏ナリ云々といはれつれど、國の字を略きて書る例も、河内百枝娘子、常陸娘子、筑紫娘子、對島娘子などあれば、代匠記の説もうけがたし。丹波の氏は、國史にも多く見えて、姓氏録卷二十一に、丹波史、後漢靈帝八世孫、孝日王之後也と見えたり。大娘子は、おほいらつめと訓べし。大は美稱の詞にて、娘子をいらつめと訓べき事は、上【攷證一下四十七丁】にいへり。さて、目録には、大の下に女の字あり。恐らく衍字なるべし。
 
711 鴨鳥之《カモトリノ》。遊此池爾《アソブコノイケニ》。木葉落而《コノハオチテ》。浮心《ウカベルコヽロ》。吾不念國《ワガオモハナクニ》。
 
鴨鳥之《カモトリノ》。
鴨は、たゞ、かもとのみもいふを、鳥の字を付ていふは、鴛鴦《ヲシ》ををし鳥、鳰《ニホ》をにほ鳥などいふ類也。催馬樂、何爲歌に、伊加爾世牟也乎之乃加毛止利《イカニセムヤヲシノカモトリ》云々とあり。
 
浮心《ウカベルコヽロ》。
こは、こゝろたゞよふをいへる言也。又は、うきたるこゝろとも訓べし。さて、この歌、上の句は、うかべるといはん序にて、一首の意は明らけし。
 
712 味《ウマ》酒《サケ・サカ》呼《ヲ》。三輪之祝我《ミワノハフリガ》。忌杉《イハフスギ》。手觸之罪歟《テフレシツミカ》。君二遇難寸《キミニアヒガタキ》。
 
味《ウマ》酒《サケ・サカ》呼《ヲ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上卅一丁】にくはし。
 
三輪之祝我《ミワノハフリガ》。
三輪は、大和國城上郡なる三輪神社なり。この事、上【攷證一上卅一丁、卅三丁、二中廿九丁】に出たり。祝《ハフリ》は、はふりと訓べき事は、和名抄山城國相樂郡の郷名に、祝園【これを印本に(257)波布曾乃と訓るは、利もじを脱したるなるべし。】とあるを、古事記中卷に、波布理曾能《ハフリソノ》とありて、又、和名抄上野國新田郡郷名に、祝人波布利とあるにてしるべし。さて、この祝といふものは、書紀欽明天皇十六年紀に、天皇命2神祇伯1、敬受2策於神祇1、祝者廼託2神語1、報曰云々。持統天皇八年紀に、賜d神祇官頭至2祝部等1一百六十四人※[糸+施の旁]布u云々。職員令に、神祇官伯一人、掌2神祇祭祀祝部神戸名籍1とある祝部の義解に、謂爲v祭主2賛辭1者也。其祝者、國司於2神戸中1簡定。即申2太政官1、若无2戸人1者、通取2庶人1也云々。祈年祭祝詞に、集侍神主祝部等諸聞食 登 宣云々などありて、神主禰宜などにつゞきて、神に仕へ奉る人をいふなり。説文に、祝祭主2賛詞1者云々。楚辭招魂篇注に、男巫曰v祝云々など見えたり。又、本集七【四十丁】に、三幣取神之祝哉鎭齋杉原燎木伐《ミヌサトルミワノハフリガイハフスキハラタキキコリ》云々。八【卅二丁】に、味酒三輪乃祝之山照秋乃黄葉散莫惜毛《ウマサケミワノハフリガヤマテラスアキノモミヂノチラマクヲシモ》。十【五十八丁】に、祝部等之齋經社之黄葉毛《ハフリラガイハフヤシロノモミヂハモ》云々。十二【十五丁】に、祝部等之齋三諸乃犬馬鏡《ハフリラガイハフミモロノマソカヾミ》云々。十九【卅六丁】に、住吉爾伊都久祝之神言等《スミノエニイツクハフリガカミコトト》云々などあり。
 
忌杉《イハフスギ》。
忌をよめるは義訓、いはふといふは、忌淨《イミキヨ》まはる意をもとにて、何にまれ、大切にかしづき置をいふことにて、こゝは、神の御山にある杉なれば、神木のよしにて、大切にする意也。十三【三丁】に、神名備能三諸之山丹隱藏杉《カミナビノミモロノヤマニイハフスギ》云々などもあり。
 
手觸之罪歟《テフレシツミカ》。
こは、神木に手を觸たる祟《タヽリ》なるか、君に相がたきといへるにて、神の物に觸《フル》るをはゞかる事は、上【攷證四上廿七丁】にいへるが如し。こゝは、ぬしある男などにけさうしたる事にて、男を神木によそへしにて、一首の意は明らけし。
 
(258)713 垣穗成《カキホナス》。人辞聞而《ヒトゴトキヽテ》。吾背子之《ワガセコガ》。情多由多比《コヽロタユタヒ》。不合頃者《アハヌコノゴロ》。
 
垣穗成《カキホナス》。
成は如くの意にて、こは、人の垣の如く立廻りて繁き意のたとへ也。九【卅一丁】に、垣穗成人之横辭繁香裳《カキホナスヒトノヨコゴトシゲキカモ》云々。また【卅五丁】垣廬成人之誂時《カキホナスヒトノトフトキ》云々。十一【六丁】に、垣廬鳴人雖云《カキホナスヒトノイヘドモ》云々などあるも、皆、繁き意なり。宇津保物語國讓卷に、宮たち垣のごとく|を《(マヽ)》はしまひし、よるは御めぐりおはしまさふめれば云々などもあり。さて、垣穗《カキホ》のほは、上【攷證一下七十二丁】にいへるが如く、あらはれみゆるものをいふことにて、稻の穗、薄の穗などのほと同じ。されば、垣秀《カキホ》の意にて、本は垣の上の方をいふことなれど、そを、やがて、たゞ垣の事とした|る《(マヽ》。古今集戀四に【よみ人しらず】あな戀し、いまも見てしか、山がつの垣ほにさけるやまとなでしこ。後撰集戀六に【よみ人しらず】冬なれど、君が垣ほとさきぬれば、うべとこなつに戀しかりけりなどあるも、專ら、たゞ垣をいへり。
 
人辞聞而《ヒトゴトキヽテ》。
人のいふさかしら言を聞てといふ也。辞は辭の俗字なり。
 
情多由多比《コヽロタユタヒ》。
多由多比とは、上【攷證二上四十丁】にいへるがごとく、ためらふ意にて、一首の意は、繁くいひさわぐ人ごとをきゝて、君が心にあはんか、あはじかと、ためらひ居て、このごろは久しくあはざりけりといふ也。
 
大伴宿禰家持。贈2娘子1歌七首。
 
(259)714 情爾者《コヽロニハ》。思渡跡《オモヒワタレド》。縁乎無三《ヨシヲナミ》。外耳《ヨソニノミ》爲《ヰ・シ》而《テ》。嘆曾吾爲《ナゲキゾワガスル》。
 
思渡跡《オモヒワタレド》。
上【攷證二中十丁】にいへるが如く、渡《ワタル》とは經過《ヘスグ》る意にて、こゝは、おもひて月日を過れどもといふ意なり。十二【四丁】に、不相而念渡者安毛無《アハズシテオモヒワタレバヤスケクモナシ》。また【廿二丁】思將度氣之緒爾爲而《オモヒワタラムイキノヲニシテ》などあり。
 
縁乎無三《ヨシヲナミ》。
逢よしをなさにの意なり。
 
外耳《ヨソニノミ》爲《ヰ・シ》而《テ》。
此卷【五十丁】に、外居而戀乍不有者《ヨソニヰテコヒツヽアラズバ》云々。また【五十四丁】外居而戀者苦《ヨソニヰテコフレバクルシ》云々などもあれば、よそにゐてとよむべし。一首の意は、こゝろには、わするゝ事なく思ひて、月日を過れども、逢べきよしのなさに、たゞよそにばかり居て、吾なげくぞとなり。
 
715 千鳥鳴《チドリナク》。佐保乃河門之《サホノカハトノ》。清瀬乎《キヨキセヲ》。馬打和多思《ウマウチワタシ》。何時《イツカ・イカニ》將通《カヨハム》。
 
此卷【十九丁】に、千鳥鳴佐保乃河門乃瀬乎廣彌《チドリナクサホノカハトノセヲヒロミ》、打橋渡須奈我來跡念者《ウチハシワタスナガクトオモヘバ》とあるに似たり。一首の意はくまなし。この娘子の家は、佐保川のあなたなりけん。
 
716 夜畫《ヨルヒルト》。云別不知《イフワキシラズ》。吾戀《ワガコフル》。情蓋《コヽロハケダシ》。夢所見寸八《イメニミエキヤ》。
 
夜畫《ヨルヒルト》。
よるひるといふわかちもなき意也。この語、上【攷證二中六十丁】に出たり。
 
(260)云別不知《イフワキシラズ》。
不知はしらにとも訓べけれど、上【攷證二下卅三丁】にいへるが如く、しらずといへるも、集中、多かれは、舊訓のまゝにておくべし。
 
情蓋《コヽロハケダシ》。
盖は、上【攷證二上卅丁】にいへるが如く、疑ふ意の詞にて、もしといふ意なり。一首の意は、よるひるといふわかちもなく、ひたすらに、わが戀る心の通ひて、もし夢にも見えつるや、いかにと問ふ意なり。
 
717 都禮毛無《ツレモナク》。將有人乎《アルラムヒトヲ》。獨念爾《カタオモヒニ》。吾《ワレ》(ハ・シ)念者《オモヘバ》。惑《ワビシク・マドヒ》毛安流香《モアルカ》。
 
都禮毛無《ツレモナク》。
こは、今世につれなしといふと同じく、心つよきをいへり。この事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。
 
獨念爾《カタオモヒニ》。
獨念を、かたおもひと訓るは義訓也。獨を、印本、狩に作れり。十【廿四丁】に、獨念爾指天《カタオモヒニシテ》。十一【四十二丁】に、獨戀耳《カタコヒノミ》。また獨念荷指天《カタオモヒニシテ》などもあれば、狩は、獨を略きて独と書より誤れる、明らか也。されば、代匠記に引る官本、考異本に引る古本などに依てあらたむ。
 
惑《ワビシク・マドヒ》毛安流香《モアルカ》。
惑は、九【卅三丁】に、惑人者《ワビビトハ》云々。十【五十七丁】に、惑者之《ワビビトノ》云々などもあれば、わびしとよむべし。これを、わびしと訓るは義訓也。説文に、惑亂也ともあれば、おのづからにその意あり。さるを、略解に、惑は〓の誤なるべしといへるは、例の改めんとするの僻にて、非なり。一首の意は、つれなき人を吾方よりのみ片おもひに思へば、吾はわびしくも(261)あるかもといへる也。
 
718 不念《オモハヌ・オモハズ》爾《ニ》。妹之咲※[人偏+舞]乎《イモガヱマヒヲ》。夢見而《イメニミテ》。心中二《コヽロノウチニ》。燎管曾呼留《モエツヽゾヲル》。
 
不念《オモハヌ・オモハズ》爾《ニ》。
思ひもよらぬにといふ意なる事、上【攷證三下卅四丁】にいへり。おもわぬ《(マヽ)》にと訓べき事も、その所にいへり。
 
妹之咲※[人偏+舞]乎《イモガヱマヒヲ》。
咲※[人偏+舞]《ヱマヒ》は、上【攷證三下六十四丁】にいへるが如く、ゑみを延たる言にて、こゝは、妹がゑめるすがたを夢に見てといふ意也。
 
燎管曾呼留《モエツヽゾヲル》。
この語は、上【攷證三上卅九丁】にも出て、心の思ひにもゆるをいへり。一首の意は、思ひもよらず、妹がゑめるすがたを夢に見てしより、こがれわたれど、さすがに人にはしのびて、たゞ、心の中にのみ思ひにも|ゑ《(マヽ)》つゝ居るとなり。
 
719 丈夫跡《マスラヲト》。念流吾乎《オモヘルワレヲ》。如此許《カクバカリ》。三禮二見津禮《ミツレニミツレ》。片思男責《カタオモヒヲセム》。
 
丈夫跡《マスラヲト》。念流吾乎《オモヘルワレヲ》。
このつゞけ、上【攷證二中十七丁】にも出て、こゝは、みづから、吾はますらなりと思ひて居る吾なるものを(と脱カ)いふにて、乎は、なるものをの意也。この事も、上【攷證四中卅三丁】にいへり。
 
(262)三禮二見津禮《ミツレニミツレ》。
十【廿一丁】に、香細寸花橘乎玉貫《カグハシキハナタチバナヲタマニヌキ》、將送妹者《オクラムイモハ》、三禮而毛有香《ミツレテモアルカ》とある三禮《ミツレ》も、全く同語なれば、誤りにはあらざれど、語意は解しがたし。代匠記に、日本紀ノ中ニ、羸ノ字ヲアツレト點セル所アリ。古點、阿ヲモ美ヲモ片假名アト書テ、紛ルヽ事多ケレバ、羸ハ阿豆禮カ、美豆禮カ、習傳タル人に尋ヌベシ。美豆禮ナラバ、云ニモ及バズ。彼ハ譬ヒ阿豆禮ナリトモ、今ノミツレモ思ヒニヤツレツカルヽ意ナリ云々といはれつれど、顯宗天皇元年紀に、羸弱をアツシレとよめるは、神代紀上に、靈運當遷をアツシレタマフと訓て、こゝとは、さらに別なるこゝちす。略解に、身やつれ|と《(マヽ)》約言也といへるも、また、或人の説に、もつれ轉《(マヽ)》じたる言といへるも、あたれりともおぼえず。とにかくに、考へがたし。後人の説をまつのみ。
 
片思男責《カタオモヒヲセム》。
責《セム》は借字にて、詞也。四の句の語意は解しがたけれど、一首の意は、吾はますらをなれば、めゝしく戀にくづをるゝ事はあらじと思ひたりしものを、かくばかりに、吾方のみに片思ひをせんものかはといへるなるべし。
 
720 村肝之《ムラギモノ》。情《コヽロ》摧《クダキ・クダケ》而《テ》。如此許《カクバカリ》。余戀良菩乎《ワガコフラクヲ》。不知香安類良武《シラズカアルラム》。
 
村肝之《ムラギモノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上十丁】に出たり。
 
情《コヽロ》摧《クダキ・クダケ》而《テ》。
印本、情を於に作る。於をこゝろと訓べき義、さらにあらさ(一字衍カ》す。誤りなる事明らかなれば、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。九【卅一丁】に、思遣田(263)時乎白土肝向心摧而《オモヒヤルタトキヲシラニキモムカフコヽロクダケテ》云々。十【五十八丁】に、君之推情者不持《キミガクダカムコヽロハモタズ》。十二【七丁】に、我胸者破而摧而鋒心無《ワガムネハワレテクダケテトコヽロモナシ》。十六【十三丁】に、伊知白苦身爾染保里村肝乃心碎而《イチシロクミニシミトホリムラギモノコロヽクダケテ》云々などあり。
 
余戀良菩乎《ワガコフラクヲ》。
らくは、るを延たる言也。この歌、如此許《カクバカリ》といふを、情摧而《コヽロクダキテ》の上にめぐらして心得べし。一首の意はくまなし。
 
獻2天皇1歌一首。【大伴坂上郡女。在2佐保宅1作也。】
 
この天皇、いづれを申にか、不詳。この歌の作者も不v詳ども、代匠記に引る官本傍注、考異本に引る古本などに、大伴坂上郎女、在2佐保宅1作也とありて、拾穗本にも、大伴坂上郎女とせり。この下、大伴坂上郎女の跡見庄の歌の次に、献2天皇1歌二首とあるも、代匠記に引る官本、考異本に引る古本、拾穗本など、皆、坂上郎女の歌として、二首の後の歌をば、六帖にも、坂上郎女として載たるを見れば、この注もいと古く、實に坂上邸女の歌なるべし。されば、かの十二字の古注をば、前に引る諸本に依て加へつ。さて、坂上郎女の歌とする時は、天皇は聖武天皇なるべし。さて、印本、天皇の上に闕字あれど、書籍には闕字を用ひざる事、上【攷證四上五十九丁】にいへるが如し。
 
721 足引乃《アシビキノ》。山二四居者《ヤマニシヲレバ》。風流《ミヤビ・ヨシヲ》無三《ナミ》。吾《ワガ・ワレ》爲類和射乎《スルワザヲ》。害目賜名《トガメタマフナ》。
 
風流《ミヤビ・ヨシヲ》無三《ナミ》。
風流をよめるは義訓。みやび、宮ぶりの意なる事、上【攷證二上四十四丁】にいへるが如く、こゝは、何の風情もなきにといへる意なり。
 
(264)吾《ワガ・ワレ》爲類和射乎《スルワザヲ》。
 
こは、木草を取て奉れるか。何にまれ、山里びたる手すさみして、奉れるなるべし。
 
害目賜名《トガメタマフナ》。
十二【八丁】に、人見而事害目不爲《ヒトノミテコトトカメセズ》云々。十八【卅五丁】に、比等毛登賀米授《ヒトモトカメズ》などもあり。この歌、する業の、みやびなきをいへるなれば、句を、一、二、四、三、五と次でて心得べし。されば、一首の意は、このごろ山里に居れば、手すさびに、吾これを爲て奉れるなり。この吾する業を、風情なしとて、とがめたまふべからずとなり。
 
大伴宿禰家持歌一首。
 
722 如如是許《カクバカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。石木二毛《イハキニモ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》。物不思四手《モノオモハズシテ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。
不有者《アラズハ》は、あらんよりはの意なる事、上【攷證二上三丁】ににいへり。
 
石木二毛《イハキニモ》。
伊勢物語に、いは木にしあらねば心ぐるしとや思ひけん云々。遊仙窟に、心非2木石1、豈忘2深恩1云々。白氏文集に、人非2木石1、皆有v情云々などあり。一首の意は、かくばかりに戀つゝあらんよりは、なか/\に、物思はぬ石木にもならましものをと也。(頭書、漢書司馬遷傳に、身非2木石1獨與2法吏1爲v伍云々。鮑朋遠文集卷八に、心非2木石1豈無v感、呑v聲躑躅不2敢言1云々。)
 
(265)大伴坂上郎女。從2跡見庄1。贈2賜留v宅女子大孃1歌一首。并短歌。
 
跡見《トミノ》庄。
八【卅九丁】大伴坂上郎女|跡見《トミノ》田庄作歌に、吉名張乃猪養山爾伏鹿之嬬呼音乎聞之登聞思佐《ヨナバリノヰカヒノヤマニフスシカノツマヨブコヱヲキクガトモシサ》とある吉名張乃猪養山《ヨナバリノヰカヒノヤマ》は、大和國城上郡なる事、上【攷證二下卅六丁】にいへるが如くにて、類聚三代格、宗像神社、元慶五年十月官符に、坐2大和國城上郡登美山1云々。延喜神名帳に、大和國城上郡|等彌《トミ》神社などあれば、この跡見庄も城上郡なり。書紀神武紀に、戊午年十有二月癸巳朔丙申皇師遂撃2長髓彦1、連戰不v能v取v勝。時忽然天陰而雨水。乃有2金色靈鵄1飛來止2于皇弓珥1。其鵄光※[日+華]U、状如2流電1。由v是長髓彦軍卒皆迷眩、不2復力戰1。長髓是邑之本號焉。因亦以爲2人名1。及皇軍之得2鵄瑞1也。時人仍號2鵄邑1。今云2鳥見1是訛也とあるもこゝなり。また、この外、添下郡にも迹見《トミ》といふ所あれど、こゝとは別也。思ひまがふべからず。庄は莊の俗字にて、草體の略なり。省文纂攷に、莊俗作v庄、愚按漢碑有2※[病垂/土]字1。漢隷字源云、凡从v※[まだれ]之字、多作v※[病垂]是也といへり。されど、懷素の草書に庄の字あれば、庄は草體の略なる事明らけし。さて、莊は、書紀崇神紀孝徳紀などに、田※[病垂/土]をたところとよめり。これ、田所の意にて、その領する所をいへるなり。
 
留v宅。
この宅は、坂上里の宅なる事、此卷【五十四丁】左注に、右田村大孃坂上大孃、并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1、號曰2田村孃1。但妹坂上大孃者、母居2坂上里1、仍曰2坂上大孃1とあるにてしるべし。
 
(266)女子大孃。
父は大伴宿奈麿卿に、て、母は坂上郎女なる事、上【攷證三中八十五丁】にいへり。
 
723 常呼二跡《トコヨニト》。吾行莫國《ワガユカナクニ》。小金門爾《ヲカナトニ》。物悲良爾《モノカナシラニ》。念有之《オモヘリシ》。吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》。野干玉之《ヌバタマノ》。夜晝跡不言《ヨルヒルトイハズ》。念二思《オモフニシ》。吾身者瘠奴《ワガミハヤセヌ》。嘆丹師《ナゲクニシ》。袖左倍沾奴《ソデサヘヌレヌ》。如是許《カクバカリ》。本名四戀者《モトナシコヒバ》。古郷爾《フルサトニ》。此月期呂毛《コノツキゴロモ》。有勝益士《アリガテマシヲ》。
 
常呼二跡《トコヨニト》。
上【攷證一下卅丁三上卅一丁四中四十丁】にいへるが如く、集中、常世といふに二つありて、一つは、常《トコ》とは不變《カハラヌ》意にいひ、一つは、いと遠く、たやすく至りがたき海外の諸國をいへり。【攷證四中四十丁にいへるが如く、蓬來山を常世國といふも、かの國も、いと遠く、たやすく至りがたき國なればいへるなり。】こゝなる常呼《トコヨ》は、即ち、たやすく至りがたき海外の國をいへるなり。そは、古事記上卷に、其少名毘古那神者度2于常世國1也云々。中卷に、多遲麻毛理遣2常世國1令v求2登伎士玖能迦玖能木實1云々などありて、續日本後紀卷十九興福寺僧長歌に、九重乃御垣之下爾常世鴈率連天《コヽノヘノミカキノモトニトコヨカリヒキヰツラネテ》云々。【この外、常に雁の往所を常世といふも、たゞ遠き國をさせり。】後拾遺集雜二に【清原元輔】いにしへの常世の國やかはりにし、もろこしばかり遠くみゆるはとよめるも、たゞ遠き國をいへり。こゝの意は、坂上郎女、坂上里の家より跡見庄に出立をりの事をいへるにて、遠き國などへわがゆくにもあらぬにといへる也。呼をよと訓るは、口、國などを、くと訓、足、石などをしと訓、苑をそと訓る類にて、略訓なるを、略解に、呼は與の誤りかといへるは非なり。
 
(267)小金門爾《ヲカナトニ》。
小《ヲ》は小《チヒ》さき意、金門《カナト》は、古事記下卷に、於v是穴穗御子興v軍、圍2大前小前宿禰之家1、爾到2其門1、時零2大冰雨1。故歌曰、意富麻幣袁麻幣須久泥賀加那斗加宜加久余理許泥阿米多知夜米牟《オホマヘヲマヘスクネカカナトカケカクヨリコネアメタチヤメム》とあるにて、たゞ門《カド》をいふなる事、正しくしられたり。門をかどゝいふも、この金門《カナト》の略なるべし。集中には、九【十八丁】に、金門爾之人乃來立者《カナトニシヒトノキタテバ》云々。また【廿七丁】我妹兒何家門近舂二家里《ワキモコガイヘノカナトニチカツキニケリ》。十四【廿九丁】に、兒呂家可奈門欲由可久之要思毛《コロカカナトヨユカクシエシモ》。また【卅三丁】可奈刀田乎安良我伎麻由美比賀刀禮婆《カナトタヲアラカキマユミヒカトレハ》。また【卅四丁】佐伎母理爾多知之安佐氣乃可奈刀低爾《サキモリニタチシアサケノカナトテニ》云々など見えたり。
 
物悲良爾《モノカナシラニ》。
良は添たる字なり。この事、上【攷證四上四十七丁】にいへり。古今集誹諧に【躬恒】わびしらに、ましらなゝきそ云々とよめるもおなじ。
 
吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》。
刀自は、和名抄老幼類に、劉向列女傳云、古語謂2老母1爲v負。今案、和名度之、俗用2刀貝二字1誤也とあるより、刀自《トジ》といふは、老女の稱とのみ思ふは非也。こゝに、既に、吾兒乃刀自《ワガコノトジ》ともありて、すべて、刀自といふは、人よりもいひ、自らもいひて、老幼おしなべての稱也。そは、書紀允恭天皇二年紀に、初皇后隨v母在v家、獨遊2苑中1、時闘※[奚+隹]國造從2傍徑1行之、乘v馬而莅v籬、謂2皇后1嘲v之曰、能作v園乎汝者也。且曰|壓乞戸母《イデトジ》其蘭一莖焉云々。分注云、壓乞此云2異提《イテ》1。戸母此云2覩自《トジ》1とあるも、皇后いまだいと若くおはしましたる時の御事にて、また東大寺奴婢籍帳に、婢黒刀自女、年二十一。古刀自女、年十二。廣刀自女、年二とあるにても、貴賤老幼おしなべての稱なるをしるべし。猶、刀自といふことは、書紀舒明紀に、夫人をオホトジと訓、本集八【廿二丁】古注に、藤原夫人を大原大刀自とまをし、二十【五十四丁】古注に、藤原夫人を氷上大刀自と申し、六【卅六丁】に、妣刀自爾吾者愛兒叙《ハヽトジニワレハマナゴゾ》云々。十六【十八丁】に、櫛(268)造刀自《クシツクルトジ》云々。また【廿九丁】母爾奉都也目豆兒乃負父爾献都也身女兒乃負《ハヽニマツリツヤメツコノトシチヽニマツリツヤミメコノトシ》。二十【廿一丁】に、已麻勢波波刀自於米加波刑勢受《イマセハヽトシオメカハリセズ》。また【廿九丁】阿母刀自母多麻爾母賀母夜《アモトジモタマニモガモヤ》云々などありて、靈異記上卷訓釋に、家屋二合、伊戸乃止之と見え、中ごろの書にも、これかれ見えたり。
 
念二思《オモフニシ》。
このしもじも、嘆丹師《ナゲクニシ》のしもじも、助辭なり。
 
袖左倍沾奴《ソデサヘヌレヌ》。
左倍《サヘ》といふにて、涙の多きをしらせたり。こゝまでの意は、いと遠き他國に、とても吾ゆかぬに、吾を送るとて、門に出立て、別れを物がなしげに思ひたりし吾兒のさまを思ひ出しつゝ、夜晝といふわかちもなく、思ひくらし、嘆あかしなどするに、吾身の痩るのみかは、涙にひまなければ、袖さへも沾通りぬとなり。
 
本名四戀者《モトナシコヒバ》。
本名《モトナ》は、上【攷證二上七十五丁】にいへるが如く、みだりなる意にて、四《シ》は助辭也。
 
古郷爾《フルサトニ》。
こは跡見庄をいへる也。かの庄は、郎女もとより知り領したる所なれば、古郷とはいへるなるべし。
 
有勝益士《アリガテマシヲ》。
勝《ガテ》は、上【攷證二上十二丁】にいへるが如く、難き意にて、士ををと訓るは、男の意也。こゝは、かくばかりに、みだりに戀ば、しばしがほども、この古郷に在難からんといふなり。
 
(269)反歌。
 
724 朝髪之《アサガミノ》。念亂而《オモヒミダレテ》。如是許《カクバカリ》。名姉之戀曾《ナネガコフレゾ・ナニノコヒゾモ》。夢爾所見家留《イメニミエケル》。
 
朝髪之《アサガミノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。こは、朝寐髪とも、寐くたれ髪ともいひ、寐ての朝は、髪の亂るゝによりて、詞を隔てゝ亂とつゞけしなり。この事は、冠辭考補正にくはしくいふべし。
 
名姉之戀曾《ナネガコフレゾ・ナニノコヒゾモ》。
古事記上卷に、愛我那邇妹命《ウルハシキアガナニモノミコト》云々。書紀履中紀訓注に、汝妹此云2儺邇毛《ナニモ》1云云とあるも、なのいもを約めて、なにもとはいふにて、古事記中卷に、神沼河耳命曰2其兄神八井耳命1、那泥汝命《ナネナガミコト》云々とあるは、御兄命をさしてのたまひ、本集九【卅二丁】に、妹名根之《イモナネガ》云々とも見えたれば、男女にかぎらず、人を親みいふ稱にて、名は、名兄《ナセ》、名弟《ナオト》、名母《ナハヽ》などいふ名。禰は、伊呂禰《イロネ》、宿禰《スクネ》などの禰と同じ。この外、阿夜※[言+可]志古泥神、天津日子根命など申す御名の禰《ネ》も、これに同じ。姉を禰《ネ》と訓るは略訓なり。戀曾《コフレゾ》は、戀ればぞの、ばを例のごとく略ける也。さて、一首の意は、吾思ひ亂れて戀る、如是ばかりに君も吾を戀ればぞ、吾夢に君が見えけるといふ也。
 
右歌報2賜大孃1歌也。
 
(270)この左注心得がたし。右の歌は、坂上大孃より母坂上郎女のもとに贈りし歌の報歌なりといふ意歟。孃の字の下に闕字あるも心得ず。代匠記に引る官本、考異本に引る古本など、闕字の所に進の字あるも、猶心得ず。こは、拾穗本、考異本に引る異本などに、この左注なきをよしとすべし。
 
獻2天皇1歌二首。【大伴坂上郎女。在2春日里1作也。】
 
この天皇も、作者も、不v詳事、上【攷證此卷十五丁】にいへるが如し。されど、代匠記に引る官本、考異本に引る古本、拾穗本など、皆、坂上郎女の歌として、この二首の後の歌をば、六帖にも、坂上郎女の歌として載たるをもて思へば、實に坂上郎女の歌なるべし。されば、かの十二字の古注をば、諸書によりて加へつ。さて、この歌を、坂上郎女の歌とする時は、天皇は聖武天皇なるべし。また、こゝにも、印本、天皇の上に闕字あれど、書籍には關字を用ひざる事、上【攷證四上五十九丁】にいへるが如し。
 
725 二寶鳥乃《ニホトリノ》。潜池水《カヅクイケミヅ》。情有者《コヽロアラバ》。君爾吾《キミニワガ》戀《コフ・コヒ》。情示左禰《コヽロシメサネ》。
 
二寶鳥乃《ニホトリノ》。
和名抄羽族名に、〓〓和名邇保。新撰字鏡に、〓〓鳰爾保とありで、楊子方言に、野鳧其小而好没2水中1者、南楚之外謂2之〓〓1、大者謂2之〓〓1とある、これにて、京にてはカイツブリといひ、江戸にてはムグツチヤウといふ鳥にて、小鴨よりも、すこしちひさく、よく水中に入るもの也。古事記中卷【忍熊王】歌に、邇本杼埋能阿布美能宇美邇迦豆岐勢那和《ニホトリノアフミノウミニカツキセナワ》とあ(271)りて、集中にもいと多く出たり。同卷【應神天皇】御歌に、美本杼理能迦豆伎伊伎豆岐《ミホトリノカヅキイキツキ》云々とあるも、美と爾とは通ふ音なれば同じ。
 
潜池水《カヅクイケミヅ》。
こは、池水の深き心あらばといふ意にて、鳰鳥のかづくばかり、深きをいへり。
 
情示左禰《コヽロシメサネ》。
示は、上【攷證三上四十八丁】にいへるが如く、人に物ををしへさとす意。左禰《サネ》も、上【攷證一上二丁】にいへるが如く、下知の詞にて、一首の意は、鳰鳥のかづくばかり深き池水よ、おのれさばかり深き心あらば、吾戀奉る心を天皇に知せ奉れといふ也。
 
726 外居而《ヨソニヰテ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。君之家乃《キミガイヘノ》。池爾住云《イケニスムトイフ》。鴨《カモ》二有《ナラ・ニアラ》益雄《マシヲ》。
 
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。
不有者《アラズハ》はあらんよりはの意なる事、上【攷證二上二丁】にいへるが如し。
 
池爾住云《イケニスムトイフ》。ま
禁中をさして家などはいふべからず。されば、思ふに、この二首の意は、天皇まだ皇太子におはしましゝほどに奉るにもあるべし。一首の意は、かくの如く、外に離居て戀つゝあらんよりは、なか/\に、君が家の池に住といふなる鴨にもあらんものをといふにて、戀しきあまりに、鳥をさへうらやみて、心の深さをしめしたり。
 
大伴宿禰家持。贈2坂上家大孃1歌二首。【雖v絶數年後會相聞往來。】
 
(272)坂上家大孃は、上【攷證三中八十八丁】に出たり。古注の後の字を、拾穗本、復に作るもあしからず。
 
727 萱草《ワスレグサ》。吾下紐爾《ワガシタヒモニ》。著有跡《ツケタレド》。鬼《シコ・オニ》乃志許草《ノシコクサ》。事二思安利家理《コトニシアリケリ》。
 
萱草《ワスレグサ》。
三【卅丁】に、萱草吾紐二付香具山乃故去之里乎不忘之爲《ワスレグサワガヒモニツクカグヤマノフリニシサトヲワスレヌガタメ》ともありて、この草、憂を忘らするものゝよし、多くいへり。この事、上【攷證三中廿三丁】にくはしくいへり。
 
鬼《シコ・オニ》乃志許草《ノシコクサ》。
醜《シコ》の醜《シコ》草なり。鬼をしこと訓べき事も、しこは醜の意なる事も、上【攷證二上卅六丁】にいへり。こゝは、萱草は憂を忘るゝものなりと聞て、下紐に付たれども、そのしるしなければ、その萱草をのゝしりて、醜の醜草なりとはいふなり。
 
事二思安利家理《コトニシアリケリ》。
事と書るは借字にて、言の意、思《シ》は助辭にて、言のみなりけりといふ意也。七【十一丁】に、夢乃和多事西在來寢毛見而來物乎念四念者《イメノワタコトニシアリケリウツヽニモミテコシモノヲオモヒシオモハバ》。また【十三丁】住吉爾往云道爾昨日見之戀忘貝事二四有家里《スミノエニユクトイフミチニキノフミシコヒワスレカヒコトニシアリケリ》。また【十八丁】手取之柄二忘跡礒人之曰師戀忘貝言二師有來《テニトリシカラニワスルトアマノイヒシコヒワスレカヒコトニシアリケリ》。また【十九丁】名草山事西有來吾戀千重一重名草目名國《ナクサヤマコトニシアリケリワガコヒノチヘノヒトヘモナクサメナクニ》などあるも同じ。十二【廿四丁】に、萱草垣毛繋森雖殖有鬼之志許草猶戀爾家利《ワスレグサカキモシミヽニウヱタレドシコノシコクサナホコヒニケリ》ともありて、一首の意は、萱草は物をわするゝものなりと聞て、吾戀のくるしさをもわすれんとて、下紐に付たれども、忘草といふは言葉のみにて、すこしも戀をわすれざれば、醜の醜草なりと萱草をのゝしりいへるなり。
 
(273)728 人毛無《ヒトモナキ》。國母有粳《クニモアラヌカ》。吾妹兒與《ワキモコト》。携行而《タヅサヒユキテ》。副而將座《タグヒテヲラム》。
 
國母有粳《クニモアラヌカ》。
ぬかといふ詞は、願ふ意にて、もをうくる詞なる事、上【攷證三中廿二丁】にいへるが如く、あらぬかは、あれかしの意なり。粳をぬかとよめるは、新撰字鏡に、※[禾+杭の旁]俗作v粳同、加衡反。不v黏稻也。與禰志良久、又、奴可とありて、借字なり。
 
携行而《タヅサヒユキテ》。
たづさひは、立よりさはりの意なる事、上【攷證二下九丁】にいへるが如く、こゝは連《ツレ》だちゆきての意なり。
 
副而將座《タグヒテヲラム》。
副而《タグヒテ》といふは、副而《ソヒテ》といふ意なる事、上【攷證四上卅九丁】にいへるが如く、一首の意は、此所には人言のしげゝれば、思ふまゝにも逢がたければ、人もなき國もあれかし。妹と連立行て、副《ソヒ》て居なんといふなり。
 
大伴坂上大孃。贈2大伴宿禰家持1歌三首。
 
729 玉有者《タマナラバ》。手二母將卷乎《テニモマカムヲ》。欝瞻乃《ウツセミノ》。世人《ヨノヒト》有《ナレ・アレ》者《バ》。手二卷難石《テニマキガタシ》。
 
手二母將卷乎《テニモマカムヲ》。
こは、手纏の玉をいへる也。古しへ、玉を手に卷る事は、上【攷證二中廿二丁】にくはしくいへり。
 
(274)欝瞻乃《ウツセミノ》。
瞻はセムの音なるを、轉じて、せみの假字に用ひたり。〓《カム》(廿カ)をかみ、南《ナム》をなみの假字とせる類也。欝も瞻も借字なり。一首の意は、君もし玉なりせば、手に纏て、はなたざらましを、世の中の人なれば、さはなしがたしと也。
 
730 將相夜者《アハムヨハ》。何時《イツモ・イツシカ》將有乎《アラムヲ》。何如爲當香《ナニストカ》。彼夕《ソノヨヒニ・カノヨニ》相而《アヒテ》。事之繁裳《コトノシゲキモ》。
 
何時《イツモ・イツシカ》將有乎《アラムヲ》。
乎は、ものをの意也。この事、上【攷證二上九丁】にいへり。
 
事之繁裳《コトノシゲキモ》。
裳《モ》は助辭にて、しげきのきは、之《ノ》の結び也。一首の意は、逢べき夜は、いつにてもありなんものを、なにとてか、人目しげきその夜にあひて、人にいひさはがるる事ならんといふ也。
 
731 吾名者毛《ワガナハモ》。千名之五百名爾《チナノイホナニ》。雖立《タチヌトモ》。君之名立者《キミガナタヽバ》。惜社泣《ヲシミコソナケ》。
 
吾名者毛《ワガナハモ》。
毛《モ》は助辭なり。
 
千名之五百名爾《チナノイホナニ》。
こは、名の立ことの繁きをいひ、千名のうへに、五百名立ともの意なり。七【廿九丁】に、千名人雖云《チナニハモヒトハイフトモ》云々などもあり。
 
(275)惜社泣《ヲシミコソナケ》。
をしみのみは、さにの意也。一首の意は、吾名は繁く立ぬとも、いとはざれど、君が名の立んをば、をしさにこそ、かくは泣《ナケ》といふなり。
 
又。大伴宿禰家持、和歌三首。
 
又の字、こゝには叶ひがたし。案るに、次に、又、家持和2坂上大孃1歌と二所ある又の字のうつれるにて、必らず衍字なるべし。されど、諸本かくの如くなれば、略きがたし。たゞ、拾穗本のみ、又の字なけれど、こはさかしらならんもしりがたければ、從ひがたし。
 
732 今時有四《イマシハシ》。名之惜雲《ナノヲシケクモ》。吾者無《ワレハナシ》。妹丹因者《イモニヨリテハ》。千遍立十方《チタビタツトモ》。
 
今時有四《イマシハシ》。
しもじ、二つながら助辭にて、今者の意也。諸本は者を有に作れど、誤りなる事、明らかなれば、意改せり。
 
名之惜雲《ナノヲシケクモ》。
けくは、くを延たる言にて、この歌は、まへの吾名者毛千名之五百名爾《ワガナハモチナノイホナニ》の歌を和たるにて、一首の意は、逢ざるほどは、名の立つことをもいとひしかども、今かく逢そめてよりは、吾は名のをしくもなし。妹ゆゑならば、千遍名の立ともをしからずとなり。
 
733 空蝉乃《ウツセミノ》。代也毛二行《ヨヤモフタユク》。何爲跡鹿《ナニストカ》。妹爾不相而《イモニアハズテ》。吾獨將宿《ワガヒトリネム》。
 
(276)代也毛二行《ヨヤモフタユク》。
也《ヤ》は、うらへ意のかへる、やはの意のや。毛《モ》は助辭。二行《フタユク》の行《ユク》は、上【攷證四上五十丁】にいへるが如く、經行《ヘユク》意にて、この世は、一たび死しては二度經行ものならずの意也。七【四十一丁】に、世間者信二代者不往有之《ヨノナカハマコトフタヨハユカザラシ》、過妹爾不相念者《スギニシイモニアハヌオモヘバ》とあるも同じ。
 
妹爾不相而《イモニアハズテ》。
而《テ》は、しての意にて、一首の意は、この世は、一度死して、二度經行ものならぬを、なにとてか、妹に逢ずして吾《ワガ》獨《ヒトリ》宿《ヌ》べき。獨宿べきものにはあらずといふ也。
 
734 吾念《ワガオモヒ》。如此《カク》而《テ・シテ》不有者《アラズハ》。玉二毛我《タマニモガ》。眞毛妹之《マコトモイモガ》。手二所纏牟《テニマカレナム》。
 
如此《カク》而《テ・シテ》不有者《アラズハ》。
不有者は、あらんよりはの意なる事、上【攷證二上二丁】にいへるが如し。
 
玉二毛我《タマニモガ》。
毛我《モガ》の我《ガ》は、願ふ意の詞なる事、上【攷證三上七十一丁】にいへるが如く、こゝは、玉にもあれかしの意なり。
 
眞毛妹之《マコトモイモガ》。
眞《マコト》は、上【攷證三上十三丁】にいへるが如く、實にといふ意。毛《モ》は添たる言にて、八【四十丁】に、鴈鳴者眞毛遠雲隱奈利《カリガネハマコトモトホククモカクルナリ》。十【五十五丁】に、眞毛久二成來鴨《マコトモヒサニナリケルカモ》。十一【四十四丁】に、眞毛君爾如相有《マコトモキミニアヘリシガゴト》などあり。さて、この歌は、まへの玉有者手二母將卷乎《タマナラバテニモマカムヲ》の歌を和せるにて、一首の意は、わが思ひのかくてあらんよりは、君がのたまふ如く、實に玉にてもあれかし。玉ならば、妹がまかれ(277)なんものをといふなり。
 
同坂上大孃。贈2家持1歌一首。
 
735 春日山《カスガヤマ》。霞多奈引《カスミタナビキ》。情具久《コヽログク》。照《テレル》月《ツク・ツキ》夜爾《ヨニ》。獨鴨念《ヒトリカモネム》。
 
情具久《コヽログク》。
こは、此卷【五十九丁】に、情八十一所念可聞《コヽログクオモホユルカモ》、春霞輕引時二事之通者《ハルガスミタナビクトキニコトノカヨヘバ》。八【十九丁】に、情具伎物爾曾有鷄類《コヽログキモノニゾアリケル》、春霞多奈引時爾戀乃繁者《ハルガスミタナビクトキニコヒノシゲキハ》。十二【廿三丁】に、淺茅原茅生丹足蹈《アサヂハラチフニアシフミ》、意具美吾念兒等之家當見津《コヽログミアガモフコラガイヘノアタリミツ》。十七【廿九丁】に、伎美麻郡等宇良呉悲次奈里《キミマツトウラゴヒスナリ》、己許呂具志《コヽログシ》、伊謝美爾由加奈《イサミニユカナ》、許等波多奈由比《コトハタナユヒ》。また【卅一丁】相見婆登許波都波奈爾《アヒミレバトコハツハナニ》、情具之《コヽログシ》、眼具之毛奈之爾《メグシモナシニ》、波思家夜之安我於久豆麻《ハシケヤシアガオクツマ》云々などありて、略解に、心ぐゝは、くゞもるにて、おぼつかなき事にいへりといへるによるべし。されば、心ぐしは、心のおぼつかなき意。めぐしは、目に見るがおぼつかなき意なり。霞はおぼ/\とたなびきて、物のさだか(なら脱カ)ず、おぼつかなきものなれば、霞よりもつゞけたり。
 
照《テレル》月《ツク・ツキ》夜爾《ヨニ》。
月夜は、つくよとままん事、上【攷證一上廿六丁】にいへり。この歌、一二の句は、情具久《コヽログヽ》といはん序にて、一首の意は、句をうちかへして、かくのごとくさやかに照る月夜に、心おぼつかなく、たゞ獨かも寐なんといふにて、念をねむと訓るは借字にて、將寐《ネム》なり。
 
(278)又。家持和2坂上大孃1歌一首。
 
736 月《ツク・ツキ》夜爾波《ヨニハ》。門爾出立《カドニイデタチ》。夕占問《ユフケトヒ》。足《ア・アシ》卜乎曾爲之《ウラヲゾセシ》。行乎欲焉《ユカマクヲホリ》。
 
夕占問《ユフケトヒ》。
今の辻占なり。上【攷證三下八丁】に出たり。
 
足《ア・アシ》卜乎曾爲之《ウラヲゾセシ》。
この足卜の術、今、傳はらざれば、くはしくはしりがたけれど、十二【十八丁】に、月夜好門爾出立足占爲而往時禁八妹二不相有《ツクヨヨミカドニイデタチアウラシテユクトキサヘヤイモニアハザラム》。續古今集離別に【權中納言定頼】ゆきゆかず、きかまほしきを、いづかたに、ふみさだむらん、あしうらの山などあるを合せ考ふるに、こは、物に行んとする時、行さきの吉凶、または何方にゆかんと思ふなり、往べき所を定むる卜にて、足を蹈て試る占なるべし。書紀神代紀下一書に、於v是兄著2犢鼻1、以v赭塗v掌塗v面、告2其弟1曰、吾汚v身如v是、永爲2汝俳優者1。乃擧v足蹈行、學2其溺苦之状1、初潮漬v足時則爲2足占《アシウラ》1、至v膝時則擧v足、至v股時則走廻、至v腰時則※[手偏+門]v腰、至v腋特則置2手於胸1、至v頸將擧v手飄裳。自v爾及v今曾無2廢絶1とある足占も、火酢芹命の溺《オボ》れ苦しみたまふさまを爲《ナシ》たまふ時、潮の足につく時、いづくにか避んとて爲したまふ事とおぼしければ、この足占も、こゝと同じ。さて、足卜は、あうらとよむべし。足をあとのみ訓べき事は、上【攷證二上四十七丁】にいへり。但し、書紀なるは、あしうらと訓べし。歌のうへには、延も約も略も添もして、調をとゝのふる事、常にて、文辭とは別なり。
 
(279)行乎欲焉《ユカマクヲホリ》。
宣長云、乎は卷の誤りにて、ゆかまくほしみならん云々。この(説、脱カ)誤れり。行の一字を、ゆかまくと訓るは【攷證四上卅一丁】にいへる添訓の格にて、集中一つの例なり。焉は、訓にも意にもかゝはらずして、たゞ置る助字なり。この事、上【攷證三中八十七丁】にいへり。一首の意は、月の夜などは、いとゞ心もすゞろにて、妹が方に行まくほしさに、門に出立つゝ、妹が方に行ても、逢はるべきか、逢るまじきか、夕占《ユフケ》をも問、足卜《アウラ》などをも爲《ナ》せりといふなり。
 
同大孃。贈2家持1歌二首。
 
737 云々《カニカクニ》。人者雖云《ヒトハイフトモ》。若狹道乃《ワカサヂノ》。後瀬山之《ノチセノヤマノ》。後毛將念君《ノチモアハムキミ》。
 
云々《カニカクニ》。
上【攷證四中廿丁】に出たり。
 
後瀬山之《ノチセノヤマノ》。
楢山拾葉に、若狹國遠敷郡とせり。六帖卷二に、わかさなるのちせの山の後もあはん、吾思ふ人にけふならずとも。
 
後毛將念君《ノチモアハムキミ》。
將念を、あはんと訓べきよしなし。念は合か會かの誤りなるべけれど、この二つのうち、定めがたければ、改むる事なし。或人の説に、まへに獨鴨念《ヒトリカモネム》ともあれば、將念はねんと訓べしといへれど、文字を助るも所にこそよれ。次の歌にも、後毛將相《ノチモアハム》とあれば、こゝも必らず、のちもあはん君と訓べき所なるをや。この歌、三四の句は、後もあは(280)んといはん序にて、一首の意はくまなし。
 
738 世間《ヨノナカ》之《シ・ノ》。苦物爾《クルシキモノニ》。有家良久《アリケラク》。戀二不勝而《コヒニタヘズテ》。可死《シヌベキ・シヌベク》念者《オモヘバ》。
 
世間《ヨノナカ》之《シ・ノ》。
この之もじは、必らず、しと訓ざれば叶はず。之《シ》は助辭なり。
 
有家良久《アリケラク》。
良久《ラク》は、るを延たる言也。
 
戀二不勝而《コヒニタヘズテ》。
不勝を、たへずと訓るは、勝《カタ》れざるよしの義訓にて、不堪《タヘズ》の意也。上【攷證二中廿一丁】に出たり。
 
可死《シヌベキ・シヌベク》念者《オモヘバ》。
十七【廿三丁】に、世間波加受奈吉物能可春花乃知里能麻可比爾思奴倍吉於母倍婆《ヨノナカハカズナキモノカハルハナノチリノマガヒニシヌベキオモヘバ》とあれば、今のごとく訓べし。一首の意は、戀に不堪して、しぬべきを思へば、まことに世の中はくるしきものなりけりとなり。
 
又。家持。和2坂上大孃1歌二首。
 
739 後湍山《ノチセヤマ》。後毛將相常《ノチモアハムト》。念《オモヘ・オモフ》社《コソ》。可死物乎《シヌベキモノヲ》。至今計毛《ケフマデモ》生有《イケレ・アレ》。
 
(281)念社《オモヘコソ》は、例のばを略けるにて、おもへばこその意也。この歌を、六帖卷二に載て、五句、けふまでもふるとあるは、社のてにをはを誤れり。さて、この歌は、まへの後瀬山の歌を和せるにて、一首の意はくまなし。
 
740 事耳乎《コトノミヲ》。後手相跡《ノチモアハムト》。懃《ネモゴロニ》。吾乎令憑而《ワレヲタノメテ》。不相《アハズアル・アハザラメ》可聞《カモ》。
 
事耳乎《コトノミヲ》。
事は借字にて、言なり。
 
後手相跡《ノチモアハムト》。
印本、毛を手に誤りながら、訓は、もとあれば、誤りなる事しるし。されば意改せり。
 
懃《ネモゴロニ》。
上【攷證二下四十一丁】にいへるが如く、こまやかにの意なり。
 
吾乎令憑而《ワレヲタノメテ》。
上【攷證四中廿一丁】にいへるが如く、たのめは、たのましめの約りなり。
 
不相《アハズアル・アハザラメ》可聞《カモ》。
舊訓、あはざらめかもと訓るは叶はず。こは、宣長云、結句、不相妹可聞とか不相有可聞とかありけんを、一字脱たる也云々。この説、いかにもさることながら、上【攷證四上卅一丁】にいへるが如く、集訓を添る格あるうへに、あはずあ(ずあハざノ誤カ)るは、あはざ(ざハずあノ誤カ)るを約めたる言なれば、不相の二字を、あはずあると訓まじきにあらず。さ(282)て、この歌も、まへの後瀬山の歌を和せるにて、一首の意は、後も逢んと、詞のうへにのみ、こまやかに、吾をたのましめて、さて、あはざるかもと恨めるなり。
 
更。大伴宿禰家持。贈2坂上大孃1歌十五首。
 
更とは、まへの數首の贈答の歌とは別なるをことわれる也。
 
741 夢之相者《イメノアヒハ》。苦有家里《クルシカリケリ》。覺而《オドロキテ》。掻探友《カキサグレドモ》。手二毛不所觸者《テニモフレネバ》。
 
夢之相者《イメノアヒハ》。
代匠記に、夢之相トハ、夢ニアフヲ、アヒト體ニナシテ云ナリ云々といはれしが如く、夢の中に相しはの意なり。
 
覺而《オドロキテ》。
古事記上卷に、故其所v寢大神聞驚而云々とある驚も、寢たるが覺《サム》る事にて、書紀垂仁紀に、寤を、おどろくと訓て、源氏物語若紫卷に、またおどろいたまはじな、いで御めさましきこえん云々などもあり。
 
掻探友《カキサグレドモ》。
十二【九丁】に、愛等《ウツクシト》、念吾妹乎夢見而《オモフワギモヲイメニミテ》、起而探爾《オキテサグルニ》、無之不怜《ナキガサブシサ》とありて、代匠記に、遊仙窟云、少時坐睡、則夢見2十娘1、驚覺攪v之、忽然空v手、心中悵怏、復何可v論。余因乃詠曰、夢中疑2是實1、覺後忽非v眞。第五、憶良ノ沈痾自哀文ニ、遊仙窟ヲ引レタルニ□□レバ、トク此國ニモ渡リ來テ、把翫ビタリト見ユレバ、遊仙窟ニヨリテヨメルナルベシ。文選長門賦云、(283)遂頽v思而就v牀、搏2芬若1以爲v枕兮、席2※[草がんむり/全]蘭1而※[草がんむり/臣?]香忽寢。寐而夢想兮、※[云/鬼]若2者之在1v傍。※[立心偏+易]寐覺而無v見兮、※[云/鬼]※[しんにょう+王]※[しんにょう+王]若v有v亡。同樂府云、夢見在2我傍1、忽覺在2他郷1云々と見えたり。一首の意はくまなし。
 
742 一重耳《ヒトヘノミ》。妹之《イモガ》將結《ムスバム・ムスビシ》。帶乎尚《オビヲスラ》。三重可結《ミヘムスブベク》。吾身者成《ワガミハナリヌ》。
 
帶乎尚《オビヲスラ》。
尚は、かつといふ意なる事、上【攷證二下二丁】にいへり。
 
三重可結《ミヘムスブベク》。
九【卅二丁】に、白細乃紐緒毛不解《シロタヘノヒモヲモトカズ》、一重結帶矣三重結《ヒトヘユフオビヲミヘユヒ》、苦侍伎爾仕事而《クルシキニツカヘマツリテ》云々。十三【十五丁】に、二無戀乎思爲者常帶乎三重可結我身者成《フタツナキコヒヲシスレバツネノオビヲミヘムスブベクワガミハナリヌ》などもありて、また十三【十二丁】に、※[木+若]垣久時從戀爲者吾帶緩朝夕毎《ミヅカキノヒサシキトキユコヒスレバワガオビユルブアサヨヒゴトニ》とあるも、戀の苦さに、身の痩るをいへり。この歌も、遊仙窟に、比目絶v對、雙鳧失v伴、日々衣寛、朝々帶緩とあるをとれるか。また、東方※[虫+軋の旁]王昭君歌に、胡地無2花草1、春來不v似v春、自然衣帶緩、非3是爲2腰身1。文選古詩に、相去日已遠、衣帶日已緩などもあり。一首の意は、さいつごろまで、妹が一重結びしたりし帶を、今はかつ三重に結ぶべく、吾身は戀に痩たりとなり。
 
743 吾戀者《ワガコヒハ》。千引乃石乎《チビキノイシヲ》。七許《ナヽバカリ》。頸二《クビニ》將繋《カケム・カケテ》母《モ》。神之諸伏《カミノモロブシ》。
 
(284)于引力石乎《チビキノイシヲ》。
古事記上卷に、爾千引石引2塞其黄泉比良坂1云々。また、五百引石取2塞其室戸1云々ともありて、こは、書紀に、千人所引磐石と書るが如く、千人して引ばかりの大石をいふ也。
 
七許《ナヽバカリ》。
七は大数をいふなること、上【攷證此卷二丁】にいへり。
 
頸二《クビニ》將繋《カケム・カケテ》母《モ》。
母は添たる言也。
 
神之諸伏《カミノモロブシ》。
この句、解しがたし。類林云、社を、みむろとら、みもろともいへば、もろといふ詞をいはんとて、神とはいへりと聞えたり。千引の石を、七つばかり、首に繩してかけたらんは、くるしかるべきを、さるにても、君ともろともに伏ばやの心なり。伊勢物語に、千はやふる神のいかきもこえぬべし、大みや人のみまくほしさに。この意にて、憚りおそるべき所なれども、われをかへり見ず、臥んとは、逢うれしさに也云々。略解に、眞淵云、神の依まして、共寢したまふをいふか。千引の石をあまた頸に結付たらん如くに、くるしき戀はすれども、神のともねしたまふ故に、逢がたしといふか。卷二、玉かつら實ならぬ木にはちはやふる神ぞつくとふ、ならぬ木ごとにといへるも、神の依まして、遂に男を得ぬ事にたとへいへり。古へさる諺ありしならん云々。まだしも、この眞淵の説によるべし。一首の意は、吾戀のくるしさは、千引の石をいくつともなく首にかけたらんやうに、戀わたれど、かく逢がたきは、神の付たまひ(285)て、もろぶししたまふ故にやあらむとなり。
 
744 暮《ユフ》去《サレ・サレ》者《バ》。屋戸開設而《ヤトアケマケテ》。吾將待《ワレマタム》。夢爾相見二《イメニアヒミニ》。將來云比登乎《コムトイフヒトヲ》。
 
屋戸開設而《ヤトアケマケテ》。
設而《マケテ》は、七【廿七丁】に、裏儲吾爲裁者差大裁《ウラマケテワガタメタヽバヤヽオホニタテ》。八【廿六丁】に、夏儲而開有波禰受《ナツマケテサキタルハネズ》云々。また【卅二丁】君來益奈利紐解設奈《キミキマスナリヒモトキマケナ》などありて、集中、猶多く、みな、字のごとく、まうけの意なる事、上【攷證二中五十八丁】にいへるが如く、こゝは、家の戸をあけ、まうけて待んとなり。
 
夢爾相見二《イメニアヒミニ》。
夢の中に相になり。この歌も、遊仙窟に、今宵莫v閉v戸、夢裏向2渠邊1云々とあるを取れるか。一首の意は、夢の中に、相に來らんと君がのたまふによりて、夕ぐれにならば、戸をさすことなく、開まうけおきて、まちてんとなり。
 
745 朝《アサ》夕《ヨヒ・ユフ》二《ニ》。將見時左倍也《ミムトキサヘヤ》。吾妹之《ワギモコガ》。雖見如不見《ミトモミヌゴト》。由戀四家武《ナホコヒシケム》。
 
朝《アサ》夕《ヨヒ・ユフ》二《ニ》。
こは、あさよひと訓べき事、上【攷證一上十一丁】にいへり。
 
由戀四家武《ナホコヒシケム》。
由は猶の義もて、なほとはよめる也。そは、孟子離婁篇音義に、由與v猶義同。左氏莊十四年傳疏に、古者由猶二字義得2通用1とあるにてしるべし。戀四家(286)武《コヒシケム》のけんは、からんの意也。この事、上【攷證三上七十六丁】にいへり。一首の意は、朝夕に吾妹兒を見る時さへや、見れども見ざる如く、猶、戀しからんを、まして、かくの如く、久しく相見ざるほどを思へかしといふ也。
 
746 生有代爾《イケルヨニ》。吾者未見《ワハマダミズ》。事絶而《コトタエテ》。如是《カク》※[立心偏+可]怜《オモシロク・アハレゲニ》。縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》。
 
事絶而《コトタエテ》。
事は借字にて、言也。絶て言にも述がたきをいへり。
 
如是《カク》※[立心偏+可]怜《オモシロク・アハレゲニ》。
※[立心偏+可]怜は、代匠記に、おもしろくと訓れしによるべし。※[立心偏+可]怜は、集中、多くあはれとよめる字にて、これを、あはれと訓るも、おもしろくと訓るも義訓なり。さて、おもしろしといふは、物を愛することにて、書紀齋明紀【天皇】御歌に、耶麻古曳底于瀰倭※[手偏+施の旁]留騰母於母之樓枳伊麻紀能禹智播倭須羅※[まだれ/臾]麻自珥《ヤマコエテウミワタルトモオモシロキイマキノウチハワスラユマシニ》。本集七【廿二丁】に、珠匣見諸戸山矣行之鹿齒面白四手古昔思念《タマクシゲミモロトヤマヲユキシカバオモシロクシテイニシヘオモホユ》。十四【十九丁】に、於毛思路伎野乎婆奈夜吉曾布流久左爾仁比久佐麻自利於非波於布流我爾《オモシロキヌヲハナヤキソフルクサニニヒクサマシリオヒハオフルカニ》。十六【八丁】に、春避而野邊尾回者面白見《ハルサリテヌベヲメグレバオモシロミ》云々など見え、新撰字鏡に、※[言+慈]、市貴反、※[立心偏+可]怜也。心樂也。於毛志呂志とありて、また、古語拾遺に、當2此之時1上天初晴、衆倶相見、而皆明白、伸v手歌舞、和與稱曰、阿波禮阿那於茂志呂と見えたり。
 
縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》。
古しへ、何事にも嚢を用ひし事、上【攷證二中卅三丁】にいへるが如く、この歌もさるべきよしありて、大孃のもとよりふくろを贈れるをよめるにて、一首の意は、絶て言に(287)も述がたきばかり、かく可愛ぬへる嚢をば、吾この世の中にいまだ見ずとなり。
 
747 吾味兒之《ワギモコガ》。形見乃服《カタミノコロモ》。下著而《シタニキテ》。直相左右者《タヾニアフマデハ》。吾將脱八方《ワレヌガメヤモ》。
 
形見の事は、上【攷證一下廿三丁】にいへり。下著而《シタニキテ》とは、なつかしみして、身にそふる也。この歌も、さるべきよしありて、衣を贈れるをよめるにて、一首の意は明らけし。
 
748 戀死六《コヒシナム》。其《ソコ・ソレ》毛同曾《モオナジゾ》。奈何爲二《ナニセムニ》。人目他言《ヒトメヒトゴト》。辭痛《コチタミ・コチタク》書將爲《ワガセム》。
 
其《ソコ・ソレ》毛同曾《モオナジゾ》。
其は、そこと訓べき事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。同曾《オナジゾ》は、十一【七丁】に、月見國同《ツキミレバクニハオナジゾ》云々ともありて、同じ事ぞの意也。同は、十五【卅七丁】に、於奈自許等於久禮弖乎禮杼《オナジコトオクレテヲレゾ》云云。十八【十五丁】に、於奈自久爾奈里《オナジクニナリ》云々。また【十六丁】於奈自伎佐刀乎《オナジキサトヲ》云々などありて、また、十四【廿丁】に、於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》云々。十七【卅一丁】に、許己呂波於夜自《コヽロハオヤジ》云々。また【四十二丁】於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》云々。十九【十一丁】に、此間毛於夜自等《コヽモオヤジト》云々と見え、書紀天智紀童謠に、於野兒弘※[人偏+爾]農倶《オヤジヲニヌク》云々ともあれば、おなじと訓んか、おやじと訓んか、定めかねたれば、しばらく舊訓のまゝにておけり。
 
奈何爲二《ナニセムニ》。
こゝは、なにしにの意也。 この詞の事、下【攷證五上十九丁】にいふべし。
 
辭痛《コチタミ・コチタク》書將爲《ワガセム》。
この歌を、六帖卷四にのせて、この句を、こちたみわがせんとあるによるべし。こちたみのみは、上【攷證四中卅三丁】にいへる、くの意也。辭痛《コチタミ》は、言甚《コトイタ》みの意な(288)る事、上【攷證二上卅三丁】にいへり。さて、一首の意は、戀しなん、そのくるしさも、人目人言しげく、言さわがれんくるしさも、同じことなるべければ、人目人言のしげく、甚しかりとも、なにせんに、それをくるしとも、わがおもはん。人目人言をも、われはいとはず、といふなり。
 
749 夢二谷《イメニダニ》。所見者社有《ミエバコソアラメ》。如此許《カクバカリ》。不所見《ミエズ》(シ・テ)有者《アルハ》。戀而死跡香《コヒテシネトカ》。
 
宣長云、四句の有の下に念の字落たるか、見えざるもへばとあるべし云々。この説も聞えたれど、今の如くにても聞ゆまじきにあらず。一首の意は、くまなし。
 
750 念絶《オモヒタエ》。和偏西物尾《ワビニシモノヲ》。中々爾《ナカ/\ニ》。奈何辛苦《ナニカクルシク》。相見始兼《アヒミソメケム》。
 
和偏西物尾《ワビニシモノヲ》。
和備は、上【攷證四中十八丁】にいへるが如く、せん方なく、さしせまりたる意也。
 
中々爾《ナカ/\ニ》。
上【攷證三中廿九丁】に出たり。この歌は、一度、中たえて、また逢たる後の歌にて、一首の意は、せん方なく思ひ絶はてしものを、なまなかに、また相見そめて、などて、かゝるくるし(き脱カ)思ひはなせるならんといふなり。
 
751 相見而者《アヒミテハ》。幾日毛不經乎《イクカモヘヌヲ》。幾許久毛《コヽタクモ》。久流比爾久流必《クルヒニクルヒ》。所念鴨《オモホユルカモ》。
 
(289)幾許久毛《コヽタクモ》。
上【攷證二下六十二丁】にいへるが如く、ここは數多くあまたの意なり。
 
久流比爾久流必《クルヒニクルヒ》。
狂《クルヒ》に狂《クルヒ》なり。こは、古事記中卷【息長帶日賣命】御歌に、須久那美迦微能加牟菩岐本岐玖流本斯登余本岐本岐母登本斯《スクナミカミノカムホキホキクルホシトヨホキホキモトホシ》云々とありて、くるふといふは物の定まり靜まらずして、いろ/\にうごきかはれるといふ言にて、こゝも、いろ/\に心うごきて、安き事なきをいへるにて、靈異記中卷訓釋に、託クルヘルとあるも、常にかはりて託し言意にて、新撰字鏡に、※[言+王]久留比毛乃伊不、※[言+匡]久留比天毛乃云々。住吉物語に、侍從にくるはかされてよ、ものふるまひどもしたまふもしらでと、つふやきゐたれば云々などもあり。一首の意は、逢見てよりは、いくばくの日をも經ぬを、吾は、いろ/\に、ものくるはしきまでにおもほゆるかもと也。さて、或人、くるひにくるひは、來日《クルヒ》に來日《クルヒ》ならんといへれど當らず。
 
752 如是許《カクバカリ》。面影耳《オモカゲニノミ》。所念者《オモホエバ》。何如將爲《イカニカモセム》。人目繁而《ヒトメシゲクテ》。
 
一首の意は、人目繁くして、逢こともまゝならぬ故に、直に逢こともなく、かくのごとく、面影のみ見ゆるやうに思ひてのみあれば、はて/\は、いかにかもせんといへるにて、この歌、五の句を、初句のはじめへめぐらして心得べし。
 
753 相見者《アヒミテハ》。須臾《シマシ・シバシ》戀者《モコヒハ》。奈木六香登《ナギムカト》。雖念彌《オモヘドイヨヽ》。戀益來《コヒマサリケリ》。
 
(290)須臾《シマシ・シバシ》戀者《モコヒハ》。
須臾は、しましと訓べき事、上【攷證四中四十九丁】にいへり。
 
奈木六香登《ナギムカト》。
和《ナギ》んかとなり。八【五十二丁】に、情奈具夜登高圓乃山爾毛野爾相打行而《コヽロナグヤトタカマドノヤマニモヌニモウチユキテ》云々。十一【廿丁】に、念之情今曾水葱少熱《オモヒシコヽロイマゾナギヌル》。十二【十三丁】に、心遮焉《コヽロハナギヌ》。十七【四十八丁】に、之氣伎孤悲可毛奈具流日毛奈久《シゲキコヒカモナグルヒモナク》などありて、集中、いと多し。
 
雖念彌《オモヘドイヨヽ》。
いよゝは、いよ/\の下の、いを略けるにて、これ、重言の例なり。五【四丁】に、伊與余麻須萬須加奈之可利家理《イヨヨマスマスカナシカリケリ》。十八【三十一丁】に、宇禮之家久伊余與於母比弖《ウレシケクイヨヽオモヒテ》云々。二十【五十一丁】に、都流藝多知伊與餘刀具倍之《ツルギタチイヨヽトグベシ》云々などあり。一首の意は相見たらば、しばしも戀の和なんかと思ひて逢たれど、いよ/\戀まさりけりとなり。
 
754 夜之穗杼呂《ヨノホドロ》。吾《ワガ》出《デ・イデ》而來者《ヽクレバ》。吾妹子之《ワギモコガ》。念有四九四《オモヘリシクシ》。面影二三湯《オモカゲニミユ》。
 
夜之穗杼呂《ヨノホドロ》。
八【三十六丁】に、秋田乃穗田乎鴈之鳴《アキノタノホタヲカリガネ》、闇爾《ヤミナルニ》、夜之穗杼呂爾毛鳴渡可聞《ヨノホドロニモナキワタルカモ》ともありて、呂《ロ》は助字なり。助辭のろもじの事は、上【攷證三下六十四丁】にいへり。さるを、宣長云、夜のほどろは、曉がた、うす/\と明る時をいふ。まだ、ほのぐらきうち也。ほどと、ほのと、同語也。あは雪のほどろ/\に|う《(マヽ)》りしけばとあるも、うす/\と降しくなり。このうた、まだほのぐらきうちに出てくればと云也云々。この説、うけがたし。あは雪のほどろ/\とあるほどろは、うす/\と雪の降れる事ながら、はだれの轉じたるなれば、夜のほどろのほどろとは別なり。(291)この事、くはしくは、下【攷證八下□】にいふべし。(頭書、夜のほどろ、ウツボ國ユヅリ下可考。)
 
吾《ワガ》出《デ・イデ》而來者《ヽクレバ》。
出は、でとのみ訓べし。二十【卅四丁】に、波呂波呂爾伊弊乎於毛比※[泥/土]《ハロハロニイヘヲオモヒデ》云々。また【卅八丁】和波己藝※[泥/土]奴等伊弊爾都氣己曾《ワハコギデヌトイヘニツゲコソ》【このまへ、十四卷十八丁廿五丁などにも、出をでとのみいへるあれど、國風歌なれば、たしかなる證とはなしがたし。】など見えたり。
 
念有四九四《オモヘリシクシ》。
四九《シク》は助辭にて、たゞおもへりしなり。助辭のしくは、古事記中卷【大雀命】御歌に、泥斯久圓斯叙母宇流波志美意母布《ネシクヲシソモウルハシミオモフ》とありて、本集七【七丁】に、今敷者見目屋跡念之三芳野之《イマシクハミメヤトオモヒシミヨシヌノ》云々。また【十三丁】玉拾之久常不所忘《タマヒロヒシクツネワスラエズ》。また【四十一丁】背向爾宿之久今思悔裳《ソガヒニネシクイマシクヤシモ》。八【四十二丁】に、來之久毛知久相流君可聞《コシクモシルクアヘルキミカモ》。十【二十六丁】に、戀敷者氣長物乎《コヒシクハケナカキモノヲ》云々など見えたり。一首の意は、妹が家を夜の程に出てくれば、なごりをしげに、吾妹子がおもへりしさまの面かげに見ゆとなり。(頭書、七【十一丁】に、彌常敷爾《イヤトコシクニ》云々。)
 
755 夜之穂杼呂《ヨノホドロ》。出都追來良久《イデツヽクラク》。遍多數《タビマネク・アマタタビ》。成者吾胸《ナレバワガムネ》。截燒如《キリヤクガゴト》。
 
出都追來良久《イデツヽクラク》。
良久は、るを延たる言なる事、上【攷證二中四十七丁】にいへり。
 
遍多數《タビマネク・アマタタビ》。
こは、たびまねくと訓べき事、上【攷證四中三十七丁】にいへるが如く、數の多きをいひて、あまたゝびの意なり。
 
(292)截燒如《キリヤクガゴト》。
この歌も、遊仙窟に、未2曾飲1v炭、腹熱如v燒、不v憶v呑v刃、腸穿似v割云々とあるを取れるか。一首の意は、人目のつゝましければ、明るをもまたで、まだ夜のほどより出つゝ來るが、かくくるしきことの、あまたゝび重れば、胸もきりやかるゝがごとき思ひなりとなり。
 
大伴田村家之大孃。贈2妹坂上大孃1歌四首。
 
756 外居而《ヨソニヰテ》。戀者苦《コフルハクルシ》。吾妹子乎《ワギモコヲ》。次相見六《ツギテアヒミム》。事計爲與《コトバカリセヨ》。
 
次相見六《ツギテアヒミム》。
次でつゞけての意にて、こゝは、繼で不絶逢見んの意也。この事、上【攷證二上九丁】にいへり。
 
事計爲與《コトバカリセヨ》。
十二【八丁】に、心安目六事計爲與《コヽロヤスメムコトバカリセヨ》。また【十二丁】事計吉爲吾兄子《コトバカリヨクセワガセコ》云々などあれ(りカ)て、その事をはかれといふ也。一首の意は、くまなし。女どちも、妹といふことは、上【攷證一上卅七丁】にいへり。
 
757 遠有《トホカラ・トホクアラ》者《バ》。和備而毛《ワビテモ》有《アラム・アル》乎《ヲ》。里近《サトチカク》。有常聞乍《アリトキヽツヽ》。不見之爲便奈沙《ミヌガスベナサ》。
 
有の一字を、あらんと訓るは、例の添訓の格なり。一首の意は、君が居る所の遠くあらば、せん方なく思ひ絶てもあらるゝものを、吾里の近きほとりにいませりときゝながら、相見る事のなき(293)は、せんすべなく悲しとなり。
 
758 白雲之《シラクモノ》。多奈引山之《タナビクヤマノ》。高々二《タカ/\ニ》。吾念妹乎《ワガオモフイモヲ》。將見因我母《ミムヨシモガモ》。
 
高々二《タカ/\ニ》。
高々は、眞淵云、たか/\は、たま/\也云々。宣長云、すべて、この言は、仰ぎ望む意よりいふ也。あふぎこひのみなどの、あふぎの意にて、こひ願ふ意あり。常に、物を願ふ事を望むといふも、高きを望むより出たり。卷十二、もちの日に出にし月の高々に君をいませて何をかおもはんとよめるも、望み願たる心の如く、君を待つけたるなり云々。これらの説、たがへり。高々は、遠く遙《ハルカ》なる意也。そは、十一【四十三丁】に、高山爾高部左渡《タカヤマニタカベサワタリ》、高高爾余待公乎待將出可聞《タカタカニワカマツキミヲマチイデムカモ》。十二【十七丁】に、石上振之高橋高々爾《イソノカミフルノタカハシタカタカニ》、妹之將待夜曾深去家留《イモガマツラムヨゾフケニケル》。また【四十二丁】豐國能聞乃高濱《トヨクニノキクノタカハマ》、高々二君待夜等者左夜深來《タカタカニキミマツヨラハサヨフケニケリ》。十三【卅二丁】に、母父毛妻毛子等毛高々二來跡待異六人之悲沙《オモチヽモツマモコトモモタカタカニコムトマチケムヒトノカナシサ》。十五【廿五丁】に、波之家也思都麻毛古杼毛母多可多加爾麻都良牟伎美也之麻我久禮奴流《ハシケヤシツマモコトモヽタカタカニマツラムキミヤシマカクレヌル》。十八【廿六丁】に、安乎爾與之奈良爾安流伊毛我多可多可爾麻都良牟許己呂之可爾波安良司可《アヲニヨシナラニアルイモカタカタカニマツラムコヽロシカニハアラシカ》などあるも、みな、遠《トホ》く遙《ハル》けく待意にて、十二【十八丁】に、十五日出之月乃高々爾君乎座而何物乎加將念《モチノヒニイデニシツキノタカタカニキミヲイマセテナニヲカオモハム》とあるも、十五日の月は、とく、中ぞらに高くすみ登れば、高くといはん序にて、遠く遙けく君を座《マサ》せては何をか思はん、たゞその事ばかりを思ふぞといふ意なる事、二【十九丁】に、益高爾山毛越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》云々。九【廿丁】に、遠妻四高爾有世婆《トホツマシタカニアリセバ》云々。二十【卅一丁】に、阿夜爾加奈之美於枳弖他加枳奴《アヤニカナシミオキテタカキヌ》などある、たかも、遠き意にて、十四【十四丁】に、多賀家可母多牟《タカケカモタム》とあるも、高《タカ》くか將待《マタム》にて、高は遠き意なるにてしるべし。(294)玉篇に、高遠也とあるにて、いよゝ論なし。
 
將見因毛我母《ミムヨシモガモ》。
我母《ガモ》は願ふ意の詞にて、この歌、一二の句は、雲のたな引山はいと高ければ、高々といはん序にて、一首の意は、遠くはるけく思ふ妹を、いかで見んよしもあれかしといふ也。
 
759 何《イカナラム》。時爾加妹乎《トキニカイモヲ》。牟具良布能《ムグラフノ》。穢《イヤシキ・ケガシキ》屋戸爾《ヤドニ》。入《イリ》將座《マサセナム・マサシメム》。
 
牟具良布能《ムグラフノ》。
むぐらは、十一【四十丁】に、八重六倉覆庭爾珠布益乎《ヤヘムグラオホヘルニハニタマシカマシヲ》、また、八重六倉覆小屋毛妹與居者《ヤヘムグラオホヘルコヤモイモトシヲラバ》。十九【四十四丁】に、牟具良波布伊也之伎屋戸母大皇之座牟登知者玉之可麻思乎《ムグラハフイヤシキヤドモオホキミノマサムトシラバタマシカマシヲ》などありて、本草和名に、葎草、和名毛久良、新撰字鏡に、〓、牟久良、〓〓、牟久良、醫心方に、葎草、牟久良。和名抄草類に、葎草、毛久良とあり。牟と毛はことに近く通ふ音なれば、むぐらとも、もぐらともいひしなるべし。本草葎草圖經に、生2故墟道傍1、今處々有v之、葉如2〓麻而小薄蔓生、有2細刺1、花黄白、子亦類2麻子1云々とあり。こは、今、かなむぐらとといふものゝよし、類林本草啓蒙などにいへり。今、むぐらといふものは、烏〓母、また五瓜龍ともいふものにて、葎草とは別なり。類に俗にむぐらといふは、救荒野譜に、猪殃々、猪食v之則病故名、春釆熟食これなり云々といへり。布《フ》は生なり。
 
(295)穢《イヤシキ・ケガシキ》屋戸爾《ヤドニ》。
まへに引る十九【四十四丁】に、牟具良波布伊也之伎屋戸母《ムグラハフイヤシキヤドモ》云々とあれば、いやしきやどにと訓べし。また、書紀神代紀上一書訓注に、不須也凶目汚穢此云2伊儺之居梅枳枳多儺枳《イナシコメキキタナキ》1とあれば、きたなきやどにと訓んも、あしからねど、集中の例をすてゝ、他の例によるべきいはれなし。さて、一首の意は、いかなる時にか君を吾賤しき家に入れ奉らんといふ也。
 
右田村大孃。坂上大孃。并是右大辨大伴宿奈麻呂卿之女也。卿居2田村里1。号曰2田村大孃1。但妹坂上大孃者。母居2坂上里1。仍曰2坂上大孃1。于v時姉妹諮問。以v歌贈答。
 
田村大孃。
この注の如く、宿奈麻呂卿の女にて、坂上大孃の姉なり。上【攷證三中八十八丁】に出たり。
 
坂上大孃。
これも宿奈麻呂卿の女にて、母は坂上郎女なり。上【攷證三中八十五丁】に出たり。
 
大伴宿奈麻呂。
上【攷證二上四十八丁】に出たり。
 
田村里。
姓氏録卷三【吉田連下】に、奈良京田村里云々とあれば、奈良のほとりなるべし。續日本紀天平勝寶四年四月紀に、藤原朝臣田村第云々などあるも同所なるべし。
 
(296)坂上里。
上【攷證四上卅四丁】に出たり。これも添上郡にて、奈良と同郡なり。
 
諮問《トヒトフニ》。
後漢書東平憲王蒼傳に、蒼少好2經書1、雅有2智思1、朝廷毎v有v疑v政、輙驛使諮問、蒼悉心以對、皆見2納用1云々。諸葛亮誡外生書に、忍2屈伸1去2細碎1、廣2諮問1除2嫌吝1云々などあり。
 
大伴坂上郎女。從2竹田庄1。贈2賜女子大孃1歌二首。
 
竹田庄は、大和志を考るに、十市郡竹田村あり。延喜神名帳に、大和國十市郡竹田神社と見えたり。姓氏録卷十三【竹田川邊連下】に、大和國十市郡刑坂川之邊有2竹田神社1云々。書紀神武天皇己未年紀に、又皇師立誥之處是謂2猛田《タケタ》1云々。二年紀に、又給2弟猾猛田邑1、因爲2猛田縣主1云々などあり。庄の字の事は、上【攷證此卷十六丁】にいへり。女子大孃は坂上大孃なり。
 
760 打渡《ウチワタス》。竹田之原爾《タケダノハラニ》。鳴鶴之《ナクタヅノ》。間無時無《マナクトキナシ》。吾戀良久波《ワガコフラクハ》。
 
打渡《ウチワタス》
眞淵は、枕詞なりとて、冠辭考に載られたれど、契沖、宣長などの、枕詞にあらずといはれしに依べし。こは、古事記下卷【仁徳天皇】御歌に、宇知和多須夜賀波延那須岐伊理麻韋久禮《ウチワタスヤカハエナスキイリマヰクレ》。古今集旋(頭脱カ)歌に【よみ人しらず】うちわたすをち方人にものまうすわれ、そのそこに、しろくさけるは、なにの花ぞもなどもありて、うちは詞にて、渡《ワタス》は見渡す意也。後撰集戀一に【よみ人しらず】うちわたしながきこゝろはやつはしのくもでに思ふことはたえせじとあるも、橋といふより、渡しとはいひて、すなはち、そのはしを見わたす意にいへり。
 
(297)鳴鶴之《ナクタヅノ》。
九【卅一丁】に、吾子羽※[果/衣]天乃鶴群《ワガコハクヽメアマノタヅムラ》ともありて、鶴は子を思ふよし、いひならはしたれば、こゝは、その鶴のごとくにといふなり。
 
吾戀良久波《ワガコフラクハ》。
良久《ラク》は、るを延たる言にて、一首の意は、今見わたさるゝ竹田の原になく鶴の、間も時もなきがごとくに、吾君を戀るはひまなしと也。
 
761 早河之《ハヤカハノ》。湍爾居鳥之《セニヰルトリノ》。緑乎奈彌《ヨシヲナミ》。念而有師《オモヒテアリシ》。吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》。
 
湍爾居鳥之《セニヰルトリノ》。
こは縁乎奈彌《ヨシヲナミ》といはん序にて、川の瀬には、草木もなく、鳥のより所とすべき所なればいふなり。
 
緑乎奈彌《ヨシヲナミ》。
より處なくといふ意にて、彌《ミ》はくの意也。この事、上【攷證四中卅四丁】にいへり。七【卅一丁】に、海之底奥津白玉縁乎無三《ワタノソコオキツシラタマヨシヲナミ》、常如此耳也《ツネカクノミヤ》、戀度味試《コヒワタリナム》ともあり。
 
吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》。
羽裳《ハモ》は、上【攷證二中四十九丁】にいへるがごとく、歎息の意こもれる言にて、裳は助辭なり。※[立心偏+可]怜も歎息の詞にて、上【攷證三下二丁】にいへるが如し。この歌、一二の句は序にて、一首の意は、母をはなれて、獨、古郷にとゞまりて、たよし(りカ)なげに思ひたりし吾兒よ、あはれなりとなり。
 
紀女郎。贈2大伴宿禰家持1歌二首。【女郎名曰2小鹿1也。】
 
紀女郎は紀鹿人の女にて、上【攷證四中卅五丁】に出たり。
 
(298)762 神左夫跡《カムサブト》。不欲者不有《イナニハアラズ》。八也多八《ヤヽオホハ》。如是爲而後二《カクシテノチニ》。佐夫之家牟可聞《サブシケムカモ》。
 
神《カム・カミ》左夫跡《サブト》。
こは、古びたるをいふ言なり。この事、上【攷證三上十三丁】にいへり。
 
不欲者不有《イナニハアラズ》。
不欲をいなと訓るは義訓也。上【攷證四中五十七丁】に出たり。こは物を諾なはざる也。
 
八也多八《ヤヽオホハ》。
八也は、上【攷證三上六十七丁】にいへるが如く、やうやうの意にて、こゝは、後の事をかけて、次第/\におほくの意なり。七【廿七丁】に、吾爲裁者差大裁《ワガタメタヽバヤヽオホニタテ》とあるは、同じ語なれど、衣の事をいへるにて、やゝ大きく裁といふ意なれば、こゝとは別なり。宣長云、八也多八《ヤヽオホハ》は、八多也八多《ハタヤハタ》とありしが、文字の脱、あるひは上下して誤れる也。卷十六、痩々もいけらばあらんを波多也波多《ハタヤハタ》とよめるを合せ見るべし云々。この説、げにもとは聞ゆれど、本のまゝにても聞ゆるものを、いかで文字を改る説をば思ふべからん。
 
佐夫之家牟可聞《サブシケムカモ》。
佐夫之《サブシ》は、上【攷證二下五十九丁】にいへるが如く、心|冷《スサ》まじく、なぐさめがたき意。家牟も【攷證三上七十六丁】にいへるが如く、からんの意なり。さて、この紀女郎は、家持卿よりは年たけたる女なるを、云よりける時の歌にて、一首の意は、吾年たけ古びたりとて、君がのたまふ事を、いなび諾なる(はカ)ざるにはあらざれど、如是《カク》逢そめ、のち/\おほくは、すさめられて、心すさまじく、なぐさめがたからんかもといへるにて、われ、年古びたれば、はじめほどはともあれ、のち/\すさめられん事を、かねてより思ひやりてよめる也。
 
(299)763 玉緒乎《タマノヲヲ》。沫緒二搓而《アワヲニヨリテ》。結有者《ムスベラバ》。在手後二毛《アリテノチニモ》。不相在目八方《アハザラメヤモ》。
 
沫緒二※[手偏+差]而《アワヲニヨリテ》。
沫を、あわと訓るは、書紀神代卷上一書に、沫蕩此云2阿和那伎1と見え、集中、多く、沫雪《アワユキ》と書るを、古事紀上卷に、阿和由伎《アワユキ》と書るにてしるべし。さて、この沫緒は、緒を堅からず和《ヤハ》らかに搓《ヨリ》たるにて、沫は弱きをいふなる事、釋日本紀述義に、私記を引て、沫雪是雪之脆弱者也。其弱如2水沫1、故云2沫雪1とあるにてしるべし。また、拾遺集雜春に【貫之】春くれば瀧のしら糸いかなれや、むすべどもなほあわに見ゆらん。枕草子に、うす氷あわにむすべるひもなれば、かざす日かげに、ゆるぶばかりをなどあるも、結びの堅からざるをいへるにて、こゝと同じ。搓をよると訓る事は、上【攷證四上廿六丁】にいへり。さて、これを、略解に、玉の緒をよりて、あわをに結びたればといふ也云々といへるは、誤りなる事、下の一首の解にてしるべし。
 
在手後二毛《アリテノチニモ》。
この《(マヽ)》在待《アリマチ》、在通《アリカヨヒ》、在乍《アリツヽ》などの在と同じく、ながらへ在《アル》をいへるにて、一首の意は、玉の緒を沫緒に弱《ヨワ》く搓《ヨリ》て結びたらば、緒の弱さに、たゞちに絶ぬべし。それが如く、君とわれとの中も、行末かけてよくもいひ堅めずして、相始つれば、中絶て、すさめらるゝ事もありぬべけれど、よしや一度は絶ぬとも、ながらへあらば、また後にもあはざらめやは。必らず相ぬべしといふを、玉の緒をくゝりよすれば、末は一つに相によそへたり。この歌、かく解ざれば、沫緒《アワヲ》といふ事、いたづらなるを、諸注皆たがへり。さて、この歌を、伊勢物語に(300)取て、下の句を、たえての後もあはんとぞ思ふとかへつれど、こは、よく意を得てかへつるなり。
 
大伴宿禰家持。和歌一首。
 
764 百年爾《モヽトセニ》。老舌出而《オイシタイデヽ》。與余牟友《ヨヽムトモ》。吾者《ワレハ》不厭《イトハズ・イトハジ》。戀者益友《コヒハマストモ》。
 
老舌出而《オイシタイデヽ》。
老人、齒の落れば、おのづからに舌の出るものなればいふ也。この二句、百年爾老《モヽトセニオイ》、舌出而《シタイデヽ》と、句を切て訓べし。和名抄鼻口頬に、舌、音切、之多と見えたり。
 
與余牟友《ヨヽムトモ》。
老人、齒落て、舌出れば、物いふにも、詞の漏て、よゝといふやうに聞ゆれば、それをいへるなるべし。六帖卷四に、君により、よゝよゝよゝと、よゝよゝと、ねをのみぞなく、よゝよゝよゝと、とありて、よゝと泣といふ事、物語ぶみに多かれど、泣聲のよゝと聞ゆると、このよゝむとは別なるべし。この歌は、まへの神左夫跡不欲者不有《カムサブトイナニハアラズ》の歌を和るにて、一首の意は、たとはゞ、君百千の老を積て、齒おち、舌いでゝ、物いふことのよゝみ聞ゆるまで老ぬとも、戀のまさる事こそあらめ、吾方には、いとふ世はなしといはるゝなり。
 
在2久邇《クニノ》京1。思d留2寧樂《ナラノ》宅1坂上大孃u。大伴宿禰家持。作歌一首。
 
久邇京の事は、上【攷證三下五十七丁】にいへるが如く、山城國相樂郡|恭仁《クニ′》郷にて、天平十三年正月、奈良京よりこゝに都を遷したまひしかど、この後、十六年二月難波京にうつりたまひ、同年五月また恭仁京(301)へかへらせたまひて、その年十二月、また、もとの奈良京へかへらせたまひしかば、この恭仁京は、わづか三年の間、都なりし也。されば、人もまだ住つかざれば、女などをは、もとの奈良京にとゞめおきて、たゞ、みづからの(み脱カ)久邇京へはうつられしなり。
 
765 一隔山《ヒトヘヤマ》。重成《ヘナレル・カサナル》物乎《モノヲ》。月《ツク・ツキ》夜好見《ヨヽミ》。門爾出立《カドニイデタチ》。妹可將待《イモガマツラム》。
 
一隔山《ヒトヘヤマ》。
六【四十丁】天平十五年、大伴宿禰家持、讃2久邇京1歌につゞきて、高丘河内連歌に、故郷者遠毛不有《フルサトハトホクモアラズ》、一重山越我可良爾《ヒトヘヤマコユルガカラニ》、念曾吾世思《オモヒゾワガセシ》ともありて、久邇京と奈良京とは、その間近く、山一重隔るばかりなればいへるにて、この一隔山は、地名にあらず。さるを、壬生二品集、爲尹千首などに、名所としよまれつるは誤り也。
 
重成《ヘナレル・カサナル》物乎《モノヲ》。
重成を、へなれると訓るは借訓也。へなれると(はカ)隔《ヘタヽ》るの古言也。十五【卅四丁】に、山川乎奈可爾敝奈里底《ヤマカハヲナカニヘナリテ》云々。十七【廿丁】に、山河能弊奈里※[氏/一]安禮婆《ヤマカハノヘナリテアレバ》云々。また【廿六丁】安之比紀能夜麻伎弊奈里底《アシビキノヤマキヘナリテ》云々などありて、集中、猶多し。一種の意は、この久邇京と、もとの奈良京とは、山一重へだゝりてあるものを、女はをさなければ、こよひの如く、月もくまなき夜には、もしやはくるとて、門などに出たち、妹が待らんとなり。
 
藤原郎女。聞v之即和歌一首。
 
(302)藤原郎女、父祖、考へがたし。こは久邇京にある人にて、右の歌を聞て、坂上大孃の心をくみて和せるなり。
 
766 路遠《ミチトホミ》。不來當波知有《コジトハシレル》。物可良爾《モノカラニ》。然曾將待《シカゾマツラム》。君之目乎保利《キミガメヲホリ》。
 
可良爾《モノカラニ》。
物可良《モノカラ》は、六【廿丁】に、見渡者近物可良《ミワタセバチカキモノカラ》云々。十【卅一丁】に、玉葛不絶物可良《タマカヅラタエヌモノカラ》云々。十一【十八丁】に、對面者面隱流物柄爾《ムカヘレバオモカクレヌルモノカラニ》云々。十四【廿七丁】に、比登彌呂爾伊波流毛能可良《ヒトネロニイハルモノカラ》云云。十九【十一丁】に、心爾波念毛能可良《コヽロニハオモフモノカラ》云々などありて、中ごろよりの歌にも多し。みな、ものながらの意なり。
 
然曾將待《シカゾマツラム》。
六【十二丁】に、神代從然曾尊吉《カミヨヨリシカゾタフトキ》云々などありて、然曾《シカゾ》は、さやうにぞの意なり。
 
君之目乎保利《キミガメヲホリ》。
五【廿七丁】に、意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》。十【四十丁】に、妻之眼乎欲《ツマガメヲホリ》焉。十一【卅丁】に、公之目乎欲《キミガメヲホリ》。十三【六丁】に、妹之目乎欲《イモガメヲホリ》。十五【五丁】に、伊毛我目乎保里《イモガメヲホリ》などありて、相見ん事を欲する也。この歌は、まへの歌を和るにて、一首の意は、奈良京と、久邇京とは、山一重を隔てゝ、さすがに道も遠ければ、來らじとはしれるものながら、君がのたまふごとく、さやうにぞ待侍るらん。君に相見ん事を欲する故にといふなり。
 
大伴宿禰家持。更贈2大孃1歌二首。
 
(303)大孃は坂上大孃をいふ也。印本、首の字を脱せり。今、集中の例に依て補ふ。
 
767 都路乎《ミヤコヂヲ》。遠哉妹之《トホミヤイモガ》。比來者《コノゴロハ》。得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》。夢爾不所見來《イメニミエコヌ》。
 
都路乎《ミヤコヂヲ》。
宮路《ミヤヂ》、家路《イヘヂ》などいふと同じく、久邇京へかよふ路をいふなり。
 
得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》。
得飼飯《ウケヒ》は、古事記上卷に、天照大御神詔、然者汝心之清明、何以知。於是速須佐之男命答白、各|宇氣比而《ウケヒテ》生v子云々。中卷に、曙立王食卜故科2曙立王1、令2宇氣比白1。因拜2此大神1、誠有v驗者、住2是鷺巣池之樹1鷺乎宇氣比落。如v此詔之時、宇2氣比其鷺1、墮v地死。又詔之宇氣比活爾者更活、又在2甜白檮之前1、葉廣熊白檮令2宇氣比枯1、亦令2宇氣比生1云々。書紀神代紀上訓注に、誓約之中此云2宇氣譬能美難箇《ウケヒノミナカ》1。また神功紀訓注に、祈狩此云2于氣比餓利《ウケヒカリ》1などありて、誓ふ事にも、祈る事にもいへり。本集十一【八丁】に、水上如數書吾命《ミヅノウヘニカズカクゴトキワガイノチ》、妹相受日鶴鴨《イモニアハムトウケヒツルカモ》。また【廿一丁】不相思公者在良思《アヒオモハズキミハアルラシ》、黒玉夢不見受旱宿跡《ヌバタマノイメニモミエズウケヒテヌレド》などあるは、祈る意。だた、十一【十一丁】に、核葛後相夢耳受日度年經乍《サネカヅラノチモアハムトイメニノミウケヒワタルニトシハヘニツヽ》とあるは、誓ふ意にて、今こゝに得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》とあるは、祈りてぬれどの意也。また、伊勢物語に、つみもなき人をうけへば、わすれ草おのがうへにぞおふといふなる。宇都保物語國讓下卷に、いきあつまりて、うけひのろひぞせんとて云々。源氏物語紅葉賀卷に、弘徽殿などのうけはしげにのたまふときゝしを云々などあるは、祈る意なるを轉じて、咒咀する意にいへり。されど、本は同じ語なり。さて飼飯の二字を、けひと訓るよしも、この字の(304)事も、上【攷證三上廿二丁】にいへり。一首の意は、奈良京よりこの久邇京までの道の遠さにやあらん、うけひ祈りて寢れども、このごろは、妹が夢にさへ見えこずといふにて、道の遠さに、夢にも見えずといふは、歌のうへなればなり。
 
768 今《イマ》所知《シラス・ゾシル》。久邇乃京爾《クニノミヤコニ》。妹二不相《イモニアハズ》。久成《ヒサシクナリヌ》。行而早見奈《ユキテハヤミナ》。
 
今《イマ》所知《シラス・ゾシル》。
六【四十丁】に、今造久邇乃王都者《イマツクルクニノミヤコハ》云々ともありて、所知《シラス》は、上【攷證一上四十六丁】にいへるが如く、知《シ》り領します義にて、こゝは、天皇の、今、新たに知りまします、この久邇京といへるなり。
 
行而早見奈《ユキテハヤミナ》。
奈《ナ》は、上【攷證一上十七丁】にいへるが如く、んの意にて、見奈《ミナ》は見んなり。一首の意は、くまなし。
 
大伴宿禰家持 報2贈紀女郎1歌一首。
 
報贈とあるからは、紀女郎より前に贈りし歌のありしを、この集にはもらせるなるべし。
 
769 久堅之《ヒサカタノ》。雨之落日乎《アメノフルヒヲ》。直獨《タヾヒトリ》。山邊爾居者《ヤマベニヲレバ》。欝有來《イブセカリケリ》。
 
(305)欝《イブセ》は、上【攷證四中十五丁】にいへるが如く、心はれやらぬ意にて、下の歌に、板盖之黒木乃屋根者山近之《イタブキノクロキノヤネハヤマチカシ》云云などもありて、久邇京は山のほとりならん。されば、この歌も、久邇京にてよまれつるなるべし。一首の意は明らけし。
 
大伴宿彌家持。從2久邇京1。贈2坂上大孃1歌五首。
 
770 人眼多見《ヒトメオホミ》。不相耳曾《アハザルノミゾ》。情左倍《コヽロサヘ》。妹乎忘而《イモヲワスレテ》。吾念莫國《ワガオモハナクニ》。
 
妹乎忘而吾念莫國《イモヲワスレテワガオモハナクニ》は、忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》といふと同じく、妹を思ひわすれぬにの意なり。この事、上【攷證一下五十七丁】にいへり。一首の意は、人目なくば、故郷にかよひても相見るべきを、人目の多さに、あはざるのみなり。心には妹を思ひわすれずといへるなり。
 
771 僞毛《イツハリモ》。似付而曾爲流《ニツキテゾスル》。打布《ウツシク・ウチシキ》裳《モ》。眞吾妹兒《マコトワギモコ》。吾爾戀目八《ワレニコヒメヤ》。
 
似付而曾爲流《ニツキテゾスル》。
十一【廿丁】に、僞毛似付曾爲《イツハリモニツキテゾスル》 何時從鹿不見人戀爾《イツヨリカミヌヒトコヒニ》、人之死爲《ヒトノシニスル》ともありて、僞も似つかはしくするものをの意也。
 
打布《ウツシク・ウチシキ》裳《モ》。
打布《ウツシク》と書るは借字にて、こは、書紀神代紀上一書に、顯見蒼生此云2宇都志枳阿烏比等久佐《ウツシキアヲヒトクサ》1。また、顯此云2于都斯《ウツシ》1。古事記下卷に、天皇於是惶畏而白、恐我大神有2宇(306)都志惠美《ウツシオミ》1者不v覺白而云々。續日本紀和銅元年正月詔に、天坐神地坐祇乃相于豆奈比奉《アメニマスカミクニヽマスカミノアヒウヅナヒマツリ》、福波倍奉事爾依而《サキハヘマツルコトニヨリテ》、顯久出多留寶爾在羅之止奈母《ウツシクイデタルタカラニアルラシトナモ》云々などありで、日本紀私記に、顯《ウツシキ》見者見在之義也とある如く、今現に在をいへるにて、うつせみ、現《ウツヽ》こゝろ、夢現《イメウツヽ》などいふ現《ウツ》も、みな、同じ意なり。
 
眞吾妹兒《マコトワギモコ》。
眞《マコト》は、上【攷證三上十三丁】にいへるが如く、實にといふ意にて、一首の意は、僞といふものも似つかはしくするものなるを、實に妹が今|現《ウツヽ》に吾に戀めやは、戀る事はあらじを、戀るよしいへるは似つかはしからぬ僞なりといへるなり。
 
772 夢爾谷《イメニダニ》。將所見常吾者《ミエムトワレハ》。保杼毛友《ホトケドモ》。不相志思《アヒシオモハネバ》。 諾不所見武《ウベミエザラム》。
 
保杼毛友《ホトケドモ》。
この語、解しがたし。後の書ながら、續古今集釋教に【權大納言教家】うしとても思ひほとけば夢の世をいとふは人のさめぬなりけりとあるは、全く同語とは聞ゆれど、この歌のほとけばさへ、さだかに解がたければ、いかゞはせん。また、新撰字鏡に、※[肉+享]許康反、※[肉+長]也、※[肉+工]※[肉+長]也。又分※[肉+長]也。波留《ハル》、又|布登留《フトル》、又|久太留《クタル》、又|保登去《ホトコ》とあるを、谷川士清は、物のほとぶる意にやといへり。いかにも、ほとぶるは、俗に、ふやけるともいひて、物のはり太《フト》ることなれば、よく叶へるやうには聞ゆれど、ほとぶを、ほとこといはん事、おぼつかなし。けとことは、常に近く通ふ音なれば、ほとこは、ほとけと同語にて、※[肉+享]は肉亨二合の字にて、亨は献《タテマツル》ともいふ義あれば、肉を献りて神を祭り祈る意もて、ほとけは祈る意の言にはあらざるか。こは、(307)たゞ試みにいふのみ。代匠記云、保杼毛友《ホトケドモ》ハ、是ニ三義アルベシ。一ツニハ、ホトコレドモト云心カ。ホトコルハ、ホトバシルナリ。文選潘岳寡婦賦云、涙横迸而霑v衣。コノ迸ノ字ヲ、ホトバシル、ホトコル、同樣ニヨメリ。又、踊、躍、コノ二字トモニ、ホトバシルトヨ(メ脱カ)リ。此集第十五ニ、カヘリケルヒトキタレリトイヒシカバ ホト/\シニキ君カトオモヒテ。是、胸ノホトバシル意ナリ。然レバ、胸ノホトバジルマデ思ヤレドモト云ヘルニヤ。二ツニハ、日本紀ニ、流、被、連、延、此字皆ホトコルトヨメリ。同ジクホトコルトヨム中ニ、是ハ水火ナドノヒロゴリテ、引テ外ヘモ及ブ意ナレバ、イカデ君ガ夢ニナリトモ入テ見エムト思ヒヤリテ、心ヲソコニ及ボセドモト云ヘルナルベシ。施ヲホドコスト訓ズルモ、カノ流被ナドノ和訓ト、本ハヒトツナルベシ。猶、水ニ漬レル物ノ、液《ホトブ》ト云モカヨフベシ。三ツニハ、日本紀こ、火熱ヲホトボルトヨメリ。胸ノホトボルバカリ思ヒヤルト云歟云々。宣長云、もしくは杼は邪の誤にて、ほざけどもにてもあらんか。神代紀に、祝を保佐枳《ホザキ》とあればなり云々。略解云、ほどけどもは、ひぼとけどもを略けるか。母と保の濁音は通へば、紐を略きて、ほといへるを、保を清て杼を濁は音便也。いま、常の言に、解事を、ほどくといふも、ひもとくといふ事なるべし。こなたの下紐を解てぬれば、かしこに夢に見ゆるといふ諺のありしなるべし云々。これらの説、みな當れりともおぼえず。後人、猶よく考ふべし。
 
不相志思《アヒシオモハネバ》。
略解云、不相志思の志は助辭なるを、かくかへりてよむ書ざまに、助辭のかなをおく例なし。志は衍文なるべし云々。これさる事ながら、志もじなき本もなく、(308)また、集中いろ/\に書る事、常なれば、外に例なしとて、衍文とも定めがたし。(頭書、再考、これ集中一つの例にて、文字を上下にかける也。この事は、下【攷證六下十九丁】にいふべし。)
 
諾不所見武《ウベミエザラム》。
元暦本、見の下、有の字あり。これもあしからねど、有の字なしとても訓にかゝはらざれば、改めず。この歌、三の句、解しがたければ、一首の意も、さだかならざれど、妹が夢にだに見えんと思へども、吾方ばかりの片思ひにて、たがひに思ひあはざれば、夢に見えざるもうべなりといふなるべし。
 
773 事不問《コトトハヌ》。木尚味狹藍《キスラアヂサヰ》。諸弟等之《モロチラガ》。練乃村戸二《ネリノムラトニ》。所詐來《アザムカレケリ》。
 
この歌と次の歌二首は、すべて解がたし。誤脱ありとも見えず。何ぞ、その時の諺などによりて、よまれつるか。眞淵、宣長も、手をつけられざりしかば、たゞ代匠記の説をあげて、後人の考へを助るのみ。
 
事不問《コトトハヌ》。
ことゝはぬは、上【攷證二中四十六丁】にいへるが如く、物いはぬ事にて、草木物いはざれば、ことゝはぬ木とはいへるならん。また、史記李廣傳に、桃李不v言云々とあれば、こゝに事不問木といへるは、桃李をさせるにはあらざるか。但し、五【十一丁】に、許等々波奴樹爾波安里等母《コトヽハヌキニハアリトモ》云々とあるは、桐をいへり。
 
狹藍《アヂサヰ》。
二十【四十六丁】五月十一日の歌に、安治佐爲能夜敝佐久其等久《アヂサヰノヤヘサクゴトク》、夜都與爾乎《ヤツヨニヲ》、伊麻世和我勢故《イマセワガセコ》、美都々思努波牟《ミツヽシヌバム》。右一首、左大臣、寄2味狹藍《アヂサヰノ》花1詠也。六帖卷六に、あかね(309)さすひるはこちたし、あぢさゐの花のよひらに、あひみてしがな。和名抄草類に、白氏文集律詩云、紫陽花、和豆佐爲などあり。ぢとづとは近く通ふ音なれば、あぢさゐとも、あづさゐともいひしなり。この花、今も多かるものにて、なべては一重なる花なるを、二十卷の歌に、八重さくとよまれつるは、この花、鞠の如く、いく重ともなくかさなりて咲るを、八重とはいはれつるなるべし。但し、まれ/\には、實に八重なるもあれど、そは異品にて、いと希なるものなり。
 
諸弟等之《モロチラガ》。練乃村戸二《ネリノムラトニ》。
この二句、解がたし。代匠記云、三四ノ句ハ、イカナル事ヲヨマレタルカ、知ガタシ。次ノ歌ニモ、諸茅等之《モロチラガ》、練乃言羽《ネリノコトハ》トアルハ、諸茅ハ人ノ名ニテ、味狹藍ヲ誑カシ欺キタルト云昔物語ナドノ有ケル歟。又、草木ノ物云ヒタル事、神世ニハ有ケレバ、諸茅トハ淺茅ナドヲ云ヒテ、ソレガ言ヲ巧ミテ、味狹藍ヲ誑シケルカ云々。印本、茅を第に誤れり。今は次の歌に依て改む。
 
所詐來《アザムカレケリ》。
五【四十丁】に、阿射無加受多太爾率去弖《アザムカズタヾニヰユキテ》云々とあり。この歌、三四の句、解がたけれど、一首の意は、物いはぬ木さへも詐むかるゝ事あるものを、ましてや、吾は妹にあざむかるべしといふ意なるべく、何ぞ事ありし時、ものにたとへし歌なるべし。
 
774 百千遍《モヽチタビ》。戀跡云友《コフトイフトモ》。諸茅等之《モロチラガ》。練之言羽志《ネリノコトバシ》。吾波不信《ワレハタノマジ》。
 
(310)羽の下、志の字、元暦本、者に作れり。いづれにてもありなん。不信をたのまじとよめるは義訓也。代匠記に、云友ヲ、イフトモトヨマバ、不信ヲ、タノマジトヨムベシ云々といはれしが如く、必らず、たのまじと訓べきなり。この歌も、三四の句、解しがたけれど、一首の意は、君が吾を戀るよし、百千たびいへりとも、その言葉はわれはたのまじと也。
 
大伴宿禰家持。贈2紀女郎1歌一首。
 
775 鶉鳴《ウヅラナク》。故郷從《フリニシサトユ》。念友《オモヘドモ》。何如裳妹爾《ナニゾモイモニ》。相縁毛無寸《アフヨシモナキ》。
 
鶉鳴《ウヅラナク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鶉は荒野に柄(棲カ)もの故に、野の如く荒たりといふ意もてつゞけしなり。
 
故郷從《フリニシサトユ》。
故郷とは、奈良の京をいふ。從は、よりの意。は《(マヽ)》この歌は久邇京にてよまれしにて、一首の意は、故郷の奈良京に在し時より、心をかけて思ひしかども、いかにしてか、妹に逢よしのなきといはるゝなり。
 
紀女郎。報2贈家持1歌一首。
 
776 事出之者《コトデシハ》。誰言爾有鹿《タガコトナルカ》。小山田之《ヲヤマダノ》。苗代水乃《ナハシロミヅノ》。中與杼爾四手《ナカヨドニシテ》。
 
(311)事出之者《コトデシハ》。
事は借字、言にて、始て言出《イヒイダ》しゝはの意也。十四【七丁】に、許知※[氏/一]都流可毛《コチデツルカモ》とあるも、方言の歌なれば、ことでを、こちでとはいふにて、といの反、ちなる故にはあらず。拾道集長歌に【東三條太政大臣】こゝのかさねのそのなかに、いつきすゑしも、ことでしも、たれならなくに、小山田を人にまかせて云々とよまれしも、この歌をとられし也。
 
誰言《タガコト》爾《ナル・ニアル》有鹿《カ》。
鹿《カ》はぞの意にて、誰《タガ》の結びなり。そは、十二【九丁】に、玉勝間相登云者誰有香《タマカツマアハムトイフハタレナルカ》、相有時左倍面隱爲《アヘルトキサヘオモカクレセス》とある香と同じ格なり。
 
小山田之《ヲヤマダノ》。
小山は、小野、小川などの類にて、小は添たる也。
 
苗代水乃《ナハシロミヅノ》。
こは、苗を植《ウヽ》る領《シロ》の水にて、苗領水なり。十二【卅五丁】に、奈波之呂乃古奈伎我波奈乎《ナハシロノコナキカハナヲ》云々とあり。こは、古事記上卷に、百取机代之物《モヽトリノツクヱシロノモノ》云々。書紀崇神紀訓註に、物實此云2望能志呂《モノシロ》1などある、しろと同じ。祝詞に、禮代幣帛とある代もこれなり。
 
中與杼爾四手《ナカヨドニシテ》。
與杼は、上【攷證二下十三丁】にいへるが如く、よどむ意。爾四手《ニシテ》の四は助辭なる事、これも、上【攷證一下五十六丁三中五十四丁】にいへるが如し。山川の早きながれを、山田(に脱カ)せきいるれば、しばしはよどむが如くといふにて、一首の意は、云出したまひし(は脱カ)誰が言なるぞ。君より言出したまひしならずや。それを、今、中ばにして、よどみたゆたひたまふは、いかなる心ぞといふ也。
 
(312)大伴宿禰家持。更贈2紀女郎1歌五首。
 
777 吾妹子之《ワギモコガ》。屋戸乃笆乎《ヤドノマガキヲ》。見爾往者《ミニユカバ》。盖從門《ケダシカドヨリ》。將返《カヘシ》却《ナム・テム》可聞《カヘシナムカモ》。
 
屋戸乃笆乎《ヤドノマガキヲ》。
史記張儀傳索隱に、今江南謂2葦籬1曰2笆籬1とあれば、笆をまがきとよまん事、明らけし。次の歌に、前垣と書れば、これ正字なるべくおもはるれど、和名抄墻壁類に、籬音離、字亦作v※[木+離]。和名末加岐、一云末世とありて、末世とは、上【攷證四上卅五丁】に出たる馬柵《ウマゼ》のうを略ける【馬のうを略きて、まとのみいふは、常の事にて、馬草をまぐさといふ類なり。】言なるをもて思へば、まがきは馬垣《マガキ》の意なるべし。古しへは、馬を野がひにせしこと多かれば、ませも、まがきも、馬柵《ウマゼ》の類にて、みだりに馬を越ざらしむる領なり。
 
盖從門《ケダシカドヨリ》。
盖《ケダシ》は若《モシ》と疑ふ意なる事、上【攷證二上卅丁】にいへり。一首の意は、君が家のまがきを見にゆかば、もし門よりかへしなんかといへるにて、こは、君がまがきを、たゞ見に行のみにはあらず。君を見にこそゆけと、次の歌にことわれり。
 
778 打妙爾《ウツタヘニ》。前垣乃酢堅《マガキノスガタ》。欲見《ミマクホリ》。將行常云哉《ユカムトイヘヤ》。君乎見爾許曾《キミヲミニコソ》。
 
打妙爾《ウツタヘニ》。
こは借字にて、ひとへにといふ意なる事、上【攷證四上廿七丁】にいへり。
 
(313)前垣乃酢堅《マガキノスガタ》。
酢堅は借字にて、姿也。
 
將行常云哉《ユカムトイヘヤ》。
哉はうらへ意のかへるやはの意にて、一首の意は、君が家のまがきのありさまを見まくほしさにゆかんといへやは、しかいふにはあらず、たゞひとへに、君を見にこそゆけといふにて、前の歌のこゝろを述たるなり。
 
779 板盖之《イタブキノ》。黒木乃屋根者《クロキノヤネハ》。山近之《ヤマチカシ》。明日取而《アスシモトリテ・アスモトリテバ》。持將參來《モチマヰリコム》。
 
板盖乃《イタブキノ》。
十一【廿七丁】に、十寸板持盖流板目乃不令相者《ソキイタモテフケルイタメノアハザラバ》云々ともありて、古しへ、かりそめなる家には板もて屋根を葺ける也。古しへの屋根のさまを考るに、檜皮《ヒハダ》を以て葺を第一とせし事は、大神宮儀式帳に、むねとある所は、みな、檜皮葺なるにてしらる。次に、瓦葺、板葺、草葺などなり。この板葺は、寶龜十一年西大寺資財帳に、板屋一宇、板葺甲倉一宇。(頭書、延暦二十年、多度寺資財帳に、板葺屋一間、板葺竈屋一間云々。)かく板屋と板葺とを別にあげたれば、別なるべし。まづ、檜皮とは、檜をへぎて、厚く葺たるをいひ、板葺とは、今の板葺の如く、檜の外の木にて葺たるをいひ、板屋とは、大きなる坂にて、そのまゝ屋根にしたるをいふなるべし。されど續日本紀に、神龜元年十一月甲子太政官奏言、上古淳朴、冬穴夏巣、後世聖人代以2宮室1、亦看2京師1、帝王爲v居、萬國所v朝、非2是壯麗1、何以表v徳。其板屋草舍、中古遺制、難v營易v破、空殫2民財1、請仰2有司1、令2五位已上及庶人堪v營者1構2立瓦舍1、塗爲2赤白1奏可v之(314)とある板屋は、板葺をも、たゞの板屋をも、すべて板屋としるされたりとおぼゆるは、これを瓦舍にせよとあるにてしるべし。源氏物語夕顔卷に、八月十五日夜くまなき月かげ、ひるおほかる板屋のこりなくもりきて云々。榊卷に、物はかなげなる小柴を、大垣にて、板やども、あたり/\、いとかりそめなめり云々。蓬生卷に、八月野わきのあらかりし年、廊どもゝたふれふし、しものやどものはかなき板ぶきなりしなどは、ほねのみはづかにのこりて、立とまるげすだになし云々。枕草子に、わびしげに見ゆるもの、ちひさき板屋の、くろう、きたなげなるが、雨にぬれたる云々。また、さわがしきもの、板屋のうへにて、からすのときのさはくふ云々。新撰六帖卷□に【信實】しどろなるねやのいたぶき音たてゝあらしをきくは所がらかもなどもよめり。さて、盖をふくと訓るは、覆《オホフ》意もて義訓せるなり。書紀皇極紀、齊明紀などに、飛鳥板蓋《アスカイタブキノ》宮とあり。盖は蓋の行體なる事、上【攷證四下廿五丁】にいへり。
 
黒木乃屋根者《クロキノヤネハ》。
黒木は、古事記中卷に、作2黒※[木+巣]《クロギノス》橋1、仕2奉假宮1云々。大神宮儀式帳に、御橋者、度會郡司、以2黒木1造奉云々。貞觀儀式正月上卯進御杖儀に、黒木三束云々。延喜中宮職式に、黒木八束云々。典藥式に、黒木案四脚云々などありて、猶、諸書にも見えて、黒木といふは、木を削りをさめずして、皮付たる丸木のまゝなるをいふ事、貞觀儀式踐祚大甞祭儀上に、神坐殿者、構以2黒木1用v萱倒葺。【中略】酒殿者、構以2白木1云々とある白木は、削りをさめたるを白木といふにむかへて、削りをさめざるを黒木とはいふ也。今の商人に、黒木賣といふあるもこれなり。屋根は、今もこふ所と同じく、屋《ヤ》の根なりといふ意なるべし。岩根、岸根などの根と同じく、根の本の意にて、そも/\人の家作りするは、專ら雨露をしのがんが爲なれば、(315)屋根は屋の本なればいへるなるべし。或人の説に、屋根の根は添たる言にて、屋根といふも、舍《ヤ》屋とのみいふも、同じ意なるよしいへるは、當らざるこゝちす。(頭書、又考るに、屋根をやねといふは、屋《ヤ》の上《ウヘ》の義なるべし。のうへの反、ねなればなり。本草和名に、屋遊、和名也乃宇倍乃古介とあるにてもしるべし。)さて、黒木乃屋根《クロキノヤネ》といふは、古畫卷どもに、邊鄙のさまを書る所はいふまでもなく、京のかたほとりのさま書る所にも、屋根は板葺なるうへに、ふしくれだち、或は木のはしくれの曲りくねりたる木どもを、短く切て載たる圖いと多し。これ、風に屋根をふきまかれざる爲なる事、今も江戸より二十里ばかりも離たる、風はげしき所には、屋根に木や石やなど載たるにてしらる。これ、皮付たる丸木のまゝにてのせたるなれば、正しく黒木のやね、これなるべし。次の句に、山近之《ヤマチカシ》、明日取而持將參來《アスシモトリテモテマヰリコム》などいはれたるなどにても、黒木は山などにある木のはしくれにて、屋根に載る料なる事しられ、次の歌に、里樹取《クロキトリ》、草毛刈乍《カヤモカリツヽ》などあるにても、この二首は、專ら屋根の事をいはれしにて、こは、久邇京へ遷都のころの事にて、人もまだ住つかず、家もかりそめにて、人ごとに、雨露をしのぎ、家作りする事にかゝづらひ居たりしさま、目のまへに見るが如し。
 
山近之《ヤマチカシ》。
こは久邇京にての歌にて、まへの歌に、直獨山邊爾居者《タヾヒトリヤマベニヲレバ》などいはれしによく合り。
 
明日取而《アスシモトリテ》。
明日といふは、必らず明日とのみかぎりたるにはあらず。近きほどの事をいへるなる事、昨日《キノフ》と云も、退去し方の近き程をいふことなるにてしるべし。宣長云、(316)取の上、伐の字脱たるか。あすきりとりてなるべし云々。この説いかゞ。既に次の歌にも、黒樹取《クロキトリ》、草毛刈乍《カヤモカリツヽ》とあるをや。もし、こゝを、明日伐取而《アスキリトリテ》とせば、次の歌も、黒樹伐《クロキキリ》、草毛刈乍《カヤモカリツヽ》とあらまほしきこと|は《(マヽ)》りならずや。取《トル》といふも、實は伐取《キリトル》事なるを、おほらかに、取とのみいへるは、古しへの歌のさまなるをや。さて、一首の意は明らけし。
 
780 黒樹取《クロキトリ》。草毛刈乍《カヤモカリツヽ》。仕目利《ツカヘメド》。勤知氣登《イソシキワケト》。將譽十方《ホメムトモ》不在《アラジ・アラズ》。【一云|仕登母《ツカフトモ》。】
 
草毛刈乍《カヤモカリツヽ》。
草《クサ》をかやといふは、屋根を葺料の草をいへるにて、草の名にあらざる事、上【攷證一上廿二丁】にいへるが如し。
 
仕目利《ツカヘメド》。
一云、仕登母《ツカフトモ》いづれにても聞えたり。
 
勤知氣登《イソシキワケト》。
今本、和を知に誤りて、ゆめしりにきととよめり。こは、眞淵説に、勤はいそしと訓べし。和を今本知に誤れるより、訓もよしなし云々といはれつる、まことにさる事なり。今これに依て改む。和と知と、ことに字體近ければなり。今本の如くにては、いかにとも解しがたし。さて、勤をいそしと訓る事は、續日本紀に、天平勝寶二年三月戊戌、駿河國守從五位下楢原造東人等、於2部内廬原郡多胡浦濱1、獲2黄金1献v之。於v之東人等、賜2勤臣姓1とありて、同年五月丙午紀に、伊蘇志臣東人と見え、また文徳實録仁壽二年二月乙巳紀に、大學頭兼博士正五位下楢原東人該2通九經1、號爲2名儒1。天平勝寶元年爲2駿河守1。于v時土出2黄金1。東人採而献v之、帝美2其功1曰、勤哉臣也。遂取2勤臣之義1賜2姓伊蘇志臣1とあるにてしるべし。勤《イソシ》(317)といふ言は、書紀仲哀天皇八年紀に、天皇即美2五十迹手1曰2伊蘇志1云々。續日本紀天平勝寶元年四月甲午朔詔に、祖父大臣乃殿門荒穢須事旡久守川々在自之事伊蘇之美宇牟賀斯美忘不給止自弖奈母孫等一二治賜夫《オホチオホオオミノトノカトアラシケカスコトナクマモリツヽアラシヽコトイソシミウムカシミワスレタマハズトシテナモヒコトモヒトリフタリヲサメタマフ》云々などありて、こは、さをの反、そなれば、功《イサヲシ》のつゞまれるにて、いさをしきなり。和氣《ワケ》は、上【攷證四上四十九丁】にいへるが如く、人をすこしいやしめ、たはぶれていふ言なるを、上なるも、こゝなるも、人より吾をいふ言にとりなしたり。
 
將譽十方不《ホメムトモアラ》在《ジ・ズ》。
玉篇に譽稱也とありて、譽の字を、常にほまれと訓も、ほめられの約りなれば、こゝを、ほめんと訓べき事、明らけし。二十【廿一丁】に、麻氣波之良寶米弖豆久禮留《マケハシラホメテツクレル》云々とあり。十方《トモ》は、とにもの意なり。この歌、一首の意は、まへの歌に黒木を明日取て持來らんといひ、さて、その黒木をとり、かやをも刈つゝ、君が奴の如く仕へ奉らめども、いさをしきものなりと、ほめんとにもあらじかしといひて、こゝろざしを見するかひなきよしを、たはぶれいひおくられしなり。
 
781 野干玉能《ヌバタマノ》。昨夜者令還《ヨベハカヘシツ・ヨウベハカヘル》。今夜左倍《コヨヒサヘ》。吾乎還莫《ワレヲカヘスナ》。路之長手呼《ミチノナガテヲ》。
 
昨夜者令還《ヨベハカヘシツ・ヨウベハカヘル》。
昨夜をよべとよめるは義訓にて、夜邊《ヨベ》の意なり。土佐日記に、夜部の菜を、そらごとをして、おきのりわざをして云々。雲州消息に、位記只今所2待來1也、夜部入眼云々などあり。これを、舊訓ようべとよめるも、書紀垂仁紀に、昨夕をよんべと訓るも、音便なれば、とるべからず。
 
(318)路之長手呼《ミチノナガテヲ》。
上【攷證四上四十丁】にいへるが如く、てとちと通へば、勝之長道《ミチノナガヂ》なり。一首の意は明らけし。
 
紀女郎。※[果/衣]物《ツト》贈v友歌一首【女郎名曰2小鹿1。】
 
※[果/衣]物は、つとゝ訓べし。三【廿五丁】に※[果/衣]而妹之家※[果/衣]爲《ツヽミテイモカイヘツトニセム》とある、その所【攷證二上七十二丁】にいへるがごとく、古しへ何によらず、つゝみて人にお|もり《(マヽ)》し|ゝ《(マヽ)》かば、※[果/衣]の字を、やがて、つとゝはよめり。物は添たる也。
 
782 風高《カゼタカミ》。邊者雖吹《ヘニハフケドモ》。爲妹《イモガタメ》。袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》。刈流玉藻焉《カレルタマモゾ》。
 
風高《カゼタカミ》。
みはくの意也。この事上【攷證四中卅三丁】にいへり。
 
邊者雖吹《ヘニハフケドモ》。
邊《ヘ》は海ばたないふ也。上【攷證二中廿四丁】にいへり。
 
袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》。
ぬれては、らしの反、りなるを、れに轉じたるにて、ぬらしての意也。この事、下【攷證六上卅三丁】にくはしくいふべし。
 
刈流玉藻焉《カレルタマモゾ》。
今本、焉を烏に誤りて、をとよめり。この事は、上【攷證三中七丁】にいへるが如く、誤りなる事しるければ、意改せり。一首の意は、海ばたにて、風高くふけども、君がためとて、袖をさへ浪にぬらして、かれる玉もなりといへる也。女どちも、妹といふ事は、上【攷證一上卅七丁】にいへり。
 
(319)大伴宿禰家持。贈2娘子1歌三首。
 
783 前年之《ヲトヽシノ》。先年從《サキツトシヨリ》。至今年《コトシマデ》。戀跡奈何毛《コフレドナゾモ》。妹爾相難《イモニアヒガタキ》。
 
前年を、をとゝしと訓べき事は、六【卅四丁】に、前日毛昨日毛今日毛《ヲトツヒモキノフモケフモ》云々と書るを、十七【十三丁】に、乎登都日毛昨日毛今日毛《ヲトツヒモキノフモケフモ》云々とあるにてしるべし。をとゝしは、遠《ヲチ》つ年の意。をとつ日は、遠《ヲチ》つ日の意にて、をとゝしは一昨年を、をとつ日は一昨日をいふなり。竹取物語に、さを《(マヽ)》とゝしのきさらぎの十日ごろに云々。源氏物語夕顔卷に、をとゝしの春ぞものしたまへりし云々などあり。さて、一首の意は、一昨年のそのまた先年より今年まで、戀わ(た脱カ)れども、いかなれば、かくのごとく、妹に逢がたきといひて、年久しく戀わたれ(る脱カ)よしをのべられたり。
 
784 打乍二波《ウツヽニハ》。更毛不得言《サラニモイハズ》。夢谷《イメニダニ》。妹之手本乎《イモガタモトヲ》。纏宿常思見者《マキヌトシミバ》。
 
打乍二波《ウツヽニハ》。
打乍と書るは借字、現にて、集中、寤現を多くよめり。五【十丁】に、宇豆都仁波安布余志勿奈子《ウツヽニハアフヨシモナシ》云々などあり。
 
更毛不得言《サラニモイハズ》。
得の字は、訓にかゝはらず、義をもて添て書る字也。これ、上【攷證三上七十五丁】にいへる添字の格なり。
 
纏宿常思見者《マキヌトシミバ》。
纏《マキ》は、まとふにて、枕とする意なる事、上【攷證二下五十八丁】にいへり。見者《ミバ》は、下へ意をふくめて留たるにて、一首の意は、現に逢ん事はいふもさら也、夢に(320)だにも、妹がたもとを枕として寢たりと見ば、いかにうれしからんといふ意也。
 
785 吾屋戸之《ワガヤドノ》。草上白久《クサノウヘシロク》。置露乃《オクツユノ》。壽《ミ・イノチ》母不有情《モヲシカラズ》。妹爾不相有者《イモニアハザレバ》。
 
壽は身の意にて、みと訓んよしは、上【攷證四中五十三丁】にいへり。五【廿七丁】に、朝露乃既夜須伎我身《アサツユノケヤスキワガミ》云々。十一【卅一丁】に、朝露之吾身一者《アサツユノワガミヒトツハ》云々など、露より身とつゞけし例あればなり。惜の字、印本、情に作れり。誤りなる事しるければ、代匠記に引る官本、考異本に引る古本、拾穗本などに依て改む。この歌、三の句までは序にて、妹に逢ざるほどならば、身もをしからずと也。
 
大伴宿禰家持。報2贈藤原朝臣久須麻呂1歌三首。
 
報贈とあるからは、久須麻呂より家持卿に贈りし歌もありつらんを、この集には載ざるなるべし。久須麻呂は、左大臣藤原朝臣武智麻呂公の孫にて、藤原惠美朝臣押勝の男にて、續日本紀に、天平寶字二年八月庚子朔、授2正六位下藤原朝臣久須麻呂從五位下1。三年五月壬午、藤原惠美朝臣久須麻呂爲2美濃守1。六月庚戌授2從四位下1。五年正月爲2大和守1。六年十二月乙巳爲2參議1。【この文、印本になし。異本公卿補任に依て補ふ。】七年四月丁亥爲2兼丹波守1左右京尹如v故。八年九月乙巳、太師藤原惠美朝臣押勝、逆頗泄。高野天皇遣2少納言山村王1、收2中宮院鈴印1。押勝聞v之、令2其男訓儒麻呂等1、※[しんにょう+激の旁]而奪v之。天皇遣2授刀少尉坂上刈田麻呂、將曹牡鹿島足等1、射而殺v之云々など見えたり。右、久須麻呂の年齡さだかにはしりがたけれど、其ころ勢ひいみじかりし押勝が男にてありながら、天平寶字二年に、(321)はじめて從五位下に叙られたるを見れば、この時まだ若年なり|なる《(マヽ)》べく、またこの歌より下、次次の贈答の歌は、上のくだり、久邇京に遷都のころの歌の下に序たれば、下れりとも天平の末の歌なるべく思はるれば、久須麻呂猶さら若年の時の事なるべし。さて、次々の贈答の歌もて考ふるに、家持卿の家の童女に、久須麻呂のいひよりしなり。そは、次々の歌の解にてしるべし。諸注、久須まろの家の童女に、家持卿の心かけられしよしいへるも、代匠記の一説に、若は、久須麻呂ノ美少年ナルニツカハサレタルカといはれしは當らず。
 
786 春《ハル》之雨《サメ・ノアメ》者《ハ》。彌布落爾《イヤシキフルニ》。梅花《ウメノハナ》。未咲久《イマダサカナク》。伊等若美可聞《イトワカミカモ》。
 
春《ハル》之雨《サメ・ノアメ》者《ハ》。
十【十一丁】に、春之雨爾有來物乎《ハルサメニアリケルモノヲ》云々とありて、春之雨と書る所は、集中、こゝと十卷と、たゞ二所のみにて、外は春雨とのみありて、十七【廿七丁】十八【卅八丁】には、波流佐米《ハルサメ》と假字に書り。されば、之の字にはかゝはらずして、はるさめと訓べし。さて、集中、訓にも意にもかゝはらずして、之文字を助字における事あり。そは、八【五十五丁】に、君之許遣者《キミガリヤラバ》云々。九【十三丁】に、百傳之八十之島廻乎《モヽツタフヤソノシマワヲ》云々。また【卅六丁】賤吾之故《イヤシキワレユヱ》云々。十【十四丁】に、平城之人《ナラナルヒトノ》云々。十二【四十二丁】に、雨之間毛不置《アママモオカズ》云々など也。禮記樂記疏に、之是助句辭也など見えたり。さて、はるあめを、はるさめといふは連聲也。
 
彌布落爾《イヤシキフルニ》。
布《シク》は、上【攷證四上十一丁】にいへるが如く、ものゝ繼重《ツギカサナ》る意にて、こゝは、春雨のいや繼々たえずふるにの意也。また、浪のしく/\になどいふ、これなり。この事は、上(322)【攷證二下三十九丁】にいへり。
 
伊等若美可聞《イトワカミカモ》。
伊等《イト》は甚也。若美の美は、さにの意にて、一首の意は、かの童女を梅によそへ、春雨のつぎ/\ふるを、久須まろの云もよほすによそへ、花の咲ざるを、女のけしきばまざるによそへて、そはいとわかさにかもといへる也。
 
787 如夢《イメノゴト》。所念鴨《オモホユルカモ》。愛八師《ハシキヤシ》。君之使乃《キミガツカヒノ》。麻禰久通者《マネクカヨヘバ》。
 
愛八師《ハシキヤシ》。
こは、妹とも、嬬とも、君ともつゞけて、愛《ハシキ》は人を愛する意。八《ヤ》はよにかよひて、かろく添たる言。師《シ》は助辭のし也。この事、上【攷證二下十二丁】にいへり。
 
麻禰久通者《マネクカヨヘバ》。
麻禰久《マネク》は、上【攷證一下七十四丁】にいへるが如く、ものゝ數多き事にて、繁き意なり。一首の意は、このころは、君が使のしげく通へば、うれしさに、うつゝともなく、夢の如く思ほゆるかもといはるゝにて、この使のまねく通ふは、かの童女の事を、久須麻呂がしきりにいひおくれるなり。
 
788 浦若見《ウラワカミ》。花咲難寸《ハナサキガタキ》。梅乎植而《ウメヲウヱテ》。人《ヒト》之《・ノ》事重三《ゴトシゲミ》。念曾吾爲類《オモヒゾワガスル》。
 
浦若見《ウラワカミ》。
この語は、七【八丁】に、波禰※[草冠/縵]今爲妹乎浦若三《ハネカヅライマスルイモヲウラワカミ》、去來率去河之音之清左《イザイザカハノオトノサヤケサ》。十一【廿五丁】に、波禰※[草冠/縵]今爲妹之浦若見《ハネカヅライマスルイモガウラワカミ》、咲見慍見著四紐解《ヱミミイカリミツケシヒモトク》。十四【卅五丁】に、乎佐刀奈流波奈多知波奈(323)乎比伎余知※[氏/一]《ヲサトナルハナタチバナヒキヨヂテ》、乎良無登須禮杼《ヲラムトスレド》、宇良和可美許曾《ウラワカミコソ》などありて、浦は借字、うらなけ、うらかなし、うら戀、うらまちなどいふ、うらと同じく、裏の意なるを、又轉じて、こゝは、内實はわかさにといふ意とせり。この事、上【攷證一上十丁】うら歎《ナゲ》とある所、考へ合せてしるべし。(頭書、うらわかみ、代匠記、略解の説、非なるをあぐべし。)
 
人《ヒト》之《・ノ》事重三《ゴトシゲミ》。
集中、人言の繁き意につゞけたる所、二十三所あるうち、人のと、のもじある、一つもなければ、この之もじも、まへにいへる助字の之もじと思はるれば、之もじ訓べからず。右の二十三所の外に、人之言社繁き君なれとつゞけし、此卷【卅九丁】と、十二【卅一丁】と、二所あるのみなれど、これも之の字は助字にて、人ごとこそはと訓んも、しりがたければ、證とはなしがたし。さて、一首の意は、内實は、いまだ若さに、花さきがたきといひて、女のいとわかきをよそへたり。されば、女はまだいと若を、久須麻呂が、しきりにしげくいひおくれる故に、くるしき思ひをなせる也。
 
又。家持。贈2藤原朝臣久須麻呂1歌二首。
 
789 情八十《コヽログク》。所念《オモホユルカモ》。春霞《ハルガスミ》。輕引時二《タナビクトキニ》。事之通者《コトノカヨヘバ》。
 
情八十《コヽログク》。
こゝろぐゝは、上【攷證此卷廿三丁】にいへるが如く、心におぼつかなき意也。八十一を、ぐくと訓るは、義訓なり。八【廿八丁】に、許乃間立八十一《コノマタチクヽ》云々。十一【十七丁】に、二八十一(324)不在國《ニクヽアラナクニ》。十三【七丁】に、八十一隣宮爾《クヽリノミヤニ》云々。また【卅丁】八十一里喚※[奚+隹]《クヽリツヽ》云々などありて、集中多く、九々の字を義訓に用る事は、上【攷證二下九丁三上七丁】にいへり。
 
事之通者《コトノカヨヘバ》。
事は借字にて、言也。一首の意は、霞のおぼろ/\と立こめて、物のあいろもさだかならざるをかしも、言をいひかよはせば、心におぼつかなくおぼゆるよし、たはぶれいひおくらるゝ也。
 
790 春風之《ハルカゼノ》。聲爾四出名者《オトニシイデナバ》。有《アリ》去《サリ・ユキ》而《テ》。不有今友《イマナラズトモ》。君之隨意《キミガマニ/\》。
 
春風之《ハルカゼノ》。
之《ノ》は如くの意にて、をりしも春なれば、聲《オト》といはん序とせり。
 
聲爾四出名者《オトニシイデナバ》。
聲を、おととよめるは義訓也。集中いと多し。四《シ》は助辭なり。
 
有《アリ》去《サリ・ユキ》而《テ》。
こは、十二【廿五丁】に、木綿疊田上山之狹名葛《ユフタヽミタナカミヤマノサナカヅラ》、在去之毛不在有十方《アリサリテシモアラシメズトモ》。十七【十六丁】に、阿里佐利底能知毛相牟等於母倍許曾《アリサリテノチモアハムトオモヘコソ》、都由能伊乃知母都藝都追和多禮《ツユノイノチモツキツヽワタレ》などありて、有は在待、在渡、在乍などの在と同じく、ながらへ在《アル》意にて、こゝは、ながらへ在て、年月を經去《ヘサリ》ての意也。一首の意は、かの童女が、聲に出して逢んといふころにならば、いまにあらずとも、年月を經去ても、君の心のまゝならんと也。
 
(325)藤原朝臣久須麻呂。來報歌二首。
 
791 奧山之《オクヤマノ》。磐影爾生流《イハカゲニオフル》。菅根乃《スガノネノ》。懃吾毛《ネモゴロワレモ》。不相念有哉《アヒオモハザレヤ》。
 
懃吾毛《ネモゴロワレモ》。
ねもごろは、上【攷證二下四十一丁】にいへるが如く、こまやかにの意也。
 
不相念有哉《アヒオモハザレヤ》。
哉《ヤ》は、うらへ意のかへるやはの意のやにて、この歌、三の句までは序にて、一首の意は、吾もこまやかにあひおもはざらんやは、相思ふぞといふなり。
 
792 春雨乎《ハルサメヲ》。待常二師有四《マツトニシアラシ》。吾屋戸之《ワガヤドノ》。若木乃梅毛《ワカキノウメモ》。未含有《イマダフヽメリ》。
 
含有《フヽメリ》は、七【十七丁】に、石管自迄吾來含而有待《イハツヽジワガクルマデニフヽミテアリマテ》。また【相五丁】咲有芽子者《サキタルハギハ》、片枝者《カタツエハ》、未含有《イマダフヽメリ》云々。十四【卅五丁】に、由豆流波乃布敷麻留等伎爾《ユヅルハノフヽマルトキニ》云々。十八【十六丁】に、佐具良波奈伊麻太敷布賣利《サクラバナイマダフヽメリ》云々などありて、集中、猶いと多し。こは、今の世の言に、心に物をたくはへおくを、含《フクミ》て居《ヲ》るといふごとく、咲んとして、いまだ咲ざるをいひて、俗言に、つぼむといふに同じ。さて、この歌は、自らを梅によそへて、吾もまだいと若く、花の含たるが如く、咲やらず居るは、春雨のふりて、そなたの梅の咲いづべきをりを待とならんといふなり。
 
(326)しぐれぬる神無月の廿一日より、この卷にかゝりて、雪ふりさゆる十二月の十日あまり一日にをはりつ。こは、文政といふ年の九年なり。
              岸 本 由 豆 流
                 (以上攷證卷四下冊)
 
大正十四年十一月五日印刷
大正十四年十一月八日發行
攷證第四巻 奧附
 定價参圓貳拾錢
        著者 岸本由豆流
        校訂者 武田祐吉
  東京市外西大久保四五九番地
發行者 橋本福松
  東京市麹町區紀尾井町三番地
印刷者 濱野英太郎
發兌元 東京市外西大久保四百五十九番地 古今書院
 
 
(1)萬葉集卷第五
 
雜歌。
 
太宰帥大伴卿。報2凶問1歌一首。
 
太宰帥大伴卿は、旅人卿なる事、上【攷證三上六十三丁三中二十一丁】にいへり。印本、太に點なし。集中皆點あれば、こゝも加へたり。報2凶問1は、凶事を問弔はれしに答ふるにて、この凶問とさせるは、下に神龜五年六月二十三日とある年月もて考ふるに、八【廿三丁】夏雜歌の中、石上堅魚朝臣歌に、霍公鳥來鳴令響《ホトヽギスキナキトヨモス》、宇乃花能共也來之登問麻思物乎《ウノハナノトモニヤコシトトハマシモノヲ》。この左注に、右神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇v病長(逝脱)焉。于v時勅使式部大輔石上朝臣堅魚、遣2太宰府1弔v喪并賜2物色1云々とありて、この歌に霍公鳥卯花などをよめるを思へば、妻大伴郎女のみまかりしは夏四五月のうちなるべし。さればこの凶事を都なる人のもとよりとぶらひし報へにて、かれは勅使なれば、事すみ|か《(マヽ)》に來り、これは私の使な|れ《(マヽ)》、事おくれて六月に至りしなるべし。この時のかなしみ歌、三卷に多かり。
 
(2)禍故重疊。凶問累集。永懷2崩心之悲1。獨流2斷腸之泣1。但依2兩君大助1。傾命纔繼耳。筆不v盡v言。古今所v歎。
 
禍故。
文選司馬相如諫獵書に、禍故多藏2於隱微1、而發2於人所1v忽者也云々。續日本紀、寶龜八年五月癸酉、弔2渤海王后喪1勅書に、禍故無v常、賢室殯逝云々などありて、禮記曲禮注に、故謂2災患喪病1とあれば、禍故はあやまちわざはひの意也。さて印本、禍を福に誤れり。いま、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。
 
重疊。
後漢書馬后傳に、常觀2富貴之家1、禄位重疊、猶2再實之木其根必傷1云々とありて、かさなる意なり。こゝに重疊とあるは、かの妻の喪の外にも凶事ありけるなるべし。そはしりがたし。
 
累集。
災かさなりて、そをとぶらふ事、かさね/\あつまる意なり。
 
崩心之悲。
心もくづるゝばかりのかなしみなり。
 
斷腸之泣。
白樂天詩に、大底四時心總苦、就中斷腸是秋天。爾雅翼に、巴峽諺曰、巴東三峽巫峽長、哀猿三聲斷2人腸1などもありて、腸もたゆるばかりにかなしみ泣をいへり。
 
(3)兩君大助。
こゝに兩君とさゝれしは、たれにかしりがたし。或説に、稻君胡麻呂をさせりといへど、このぬしたちの太宰府に下られ|は《(マヽ)》、大伴卿病めりし時の事にて、天平二年六月の事なれば、年代たがへり。この事は上【攷證四上五十八丁】に出たり。大助は大きなる助《タスケ》なり。
 
傾命纔繼。
傾命は旅人卿よはひかたぶきしをいひ、纔繼はかの兩君の、問なぐさむる大きなる助に依て、かたぶける命をわづかにつぎたりと也。印本、この下に三字の闕字あれど、文辭つゞきたれは闕字せず。
 
筆不v盡v言。古今所v歎。
筆にしるせども言を盡す事あたはず。こは古今の歎所なりといはるゝなり。易上繋辭に、子曰、書不v盡v言、言不v盡v意云云と見えたり。
 
793 余能奈可波《ヨノナカハ》。牟奈之伎母乃等《ムナシキモノト》。志流等伎子《シルトキシ》。伊與余麻須萬須《イヨヨマスマス》。加奈之可利家理《カナシカリケリ》。
 
牟奈之伎母乃等《ムナシキモノト》。
三【五十丁】に、世間者空物跡將有登曾《ヨノナカハムナシキモノトアラムトゾ》、此照月者滿闕爲家流《コノテルツキハミチカケシケル》ともよめり。
 
(4)志流等伎子《シルトキシ》。
子《シ》は助辭なり。一首の意は、今かゝる歎に逢て、世の中はむなしくはかなきものなりと、身にしるときし、いよ/\ます/\かなしかりけりといはるるなり。
 
神龜五年六月二十三日。
 
筑前守山上臣憶良。挽歌一首。并短歌。
 
この端辭、印本なし。いま目録并代匠記に引る官本、拾穗本などによりて加ふ。但し目録には、挽を悦に誤れり。いま他本に依て改む。憶良の傳は上【攷證一下五十一丁】に出たり。挽歌の事も、上【攷證二中十三丁】にいへり。さて集中の例もていはゞ、短歌の下、并序の二字を脱せる歟。
 
蓋聞。四生起滅。方夢皆空。三界漂流。喩2環不1v息。所以維摩大士。在2乎方丈1。有v懷2染疾之患1。釋迦能仁。坐2於雙林1。無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1。故知。二聖至極。不v能v拂2力負之尋至1。三千世界。誰能逃2黒闇之捜來1。(5)二鼠競走。而度v目之鳥旦飛。四蛇爭侵。而過v隙之駒夕走。嗟乎痛哉。紅顔共2三從1長逝。素質與2四徳1永滅。何圖。偕老違2於要期1。獨飛生2於半路1。蘭空屏風徒張。斷腸之哀彌痛。枕頭明鏡空懸。染※[竹/均]之涙逾落。泉門一掩。無v由2再見1。鳴呼哀哉。
 
四生起滅。
四生は。倶舍論分別世品に、有情類、卵生胎生濕生化生、是名爲2四生1とあり。起滅はおこりほろぶるにて、こゝには生死をいへり。
 
方夢皆空《マサニイメノゴトクニシテ》。
大般若經、初分縁起品に、於2諸法門1勝解觀察、如v幻如2陽※[陷の旁+炎]1、如v夢如2水月1、如v響如2空華1、如v像如2光影1、如2變化事1、如2尋香城1、雖2皆無1v實而現似v有云々といふに當れり。代匠記には。荘子齊物論に。方2其夢1也、不v知2其夢1也云々とあるを引れたれど、こゝに當らず。
 
三界漂流。
三界は、大寶積經善臂菩薩會に、三會所謂欲界色界無色界。云何欲界。地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人四天、王天、三十三天、夜摩天、兜率陀天、化樂天、他化自在天、【中略】云何色界。梵天、梵輔天、梵衆天、大梵天、光天、少光天、無量光天、光音天、淨天、少淨天、無豐淨天、※[行人偏+扁]淨天、果實天、少果天、廣果天、無量果天、無想天、無熱天、無悩天、善(6)見天、妙善見天、阿迦膩※[口+託の旁]天。【中略】云何無色界。空處天、識處天、無所有所天、非有想非無想天云々などあり。漂流は、たゞよひながるゝをいひて、三界を流轉する意なり。
 
喩2環不1v息。
史記田單傳に、大史公曰、兵以v正合、以v奇勝。奇正相生、如2環之無1v端などありて、漢土の環《タマキ》は、中國の環【この國の環は、小き玉をいくつともなく緒につらぬきてまとひしものなる事、攷證二中廿二丁にいへり。】とは別にて、一つ玉の中を雕ぬきて丸くなしたるものなれば、端《ハシ》なきをたとへにとれり。不息《ヤマズ》といふも、端なれば、止《トマリ》もなき意なれば、こゝは同じこと也。こゝは三界に流轉する事不v息を、環のとまりなきにたとへたり。
 
維摩大士。在2乎方丈1。有v懷2染疾之患1。
維摩詰所説經卷上に、維摩詰固以2身疾1廣爲2説法1とありて、釋氏要覽卷上に、方丈、蓋寺院之正寢也。始因d唐顯慶年中勅2差衛尉寺承李義表前融州黄水令王玄策1往u2西域1、充使至2※[田+比]耶黎城東北四里許1、維摩居士宅、示v疾之室遺v址、疊v石爲v之。王策躬以2手板1、縱横量v之、得2十笏1、故號2方丈1など見えたり。印本、丈を大に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
釋迦能仁。坐2於雙林1。無v免2泥※[さんずい+亘]之苦1。
釋迦能仁は、修行本起經上卷に、佛告2童子1、汝却後百劫當得v作v佛、名2釋迦文【此言2能仁1】如來1云々。翻譯名義集卷一に、釋迦牟尼、此云2能仁寂黙1云々とありて、釋迦牟尼といはんが如し。雙林泥※[さんずい+亘]は、涅槃經に、爾時世尊、娑羅林下、寢臥寶牀、於其中夜、入第四禅、寂然無聲。(7)於是時頃、便般涅槃、入涅槃已。其娑羅林、東西二雙、合爲一樹、南北二雙、合爲一樹、垂覆寶牀、葢覆如來。其樹即時、惨然變白、猶如白鶴、枝葉花菓、皮幹悉皆、爆裂墮落、漸々枯悴、摧折無餘。泥※[さんずい+亘]、梵語、此云2寂滅1、涅槃之訛耳云々とあり。
 
二聖至極。
二聖は、維摩、釋迦をいひ、至極は徳の至り極れる人といふ也。
 
不v能v拂2力負之尋至1。
莊子大宗師篇に、夫藏2舟於壑1、藏2山於澤1、謂2之固1矣。然而夜半有力者負v之而走。昧者不v知也云々。郭注に、方言2生死變化之不1v可v逃云々とある如く、生死の逃がたきを力者の負去んとて尋來るにたとへたり。
 
三千世界。
佛説樓炭經閻浮利品に、佛言、如3一日月旋照2四天下1。時爾所、四千天下世界、有2千日月、千須彌山1。王有四千天下、四千大海水、四千大龍宮、四千大金翅鳥、四千惡道、四千大惡道、七千種々大樹、八千種々大山、萬種々大泥犂、是名爲2一小千世界1。如一小千世界、爾所小千々世界、是名爲2中千世界1。爾所中千々世界是名爲2三千大千世界1云々とあり。
 
誰能逃2黒闇之捜來1。
黒闇は涅槃經聖行品に、復於2門外1、更見2一女1、其形醜陋、衣裳弊壞、多2諸垢膩1、皮膚※[峻の旁+皮]裂、其色艾白、見已問言、汝字何等、繋2屬誰家1。女人答言、我字黒闇。復問何故名爲2黒闇1。女人答言、我所2行處1、能令2其家、所v有財寶、一切衰耗1。【中略】主人還入、問2功徳天1、外有2一女1、云是汝妹、我與2此妹1、行住共倶、未v曾2相離1、隨(8)v所2住處1、我常作v好、彼常作v惡、我常利益、彼常衰損、若愛v我者、亦應v愛v彼。【中略】凡夫愚人、不v知2老病死等過患1、是政貪2愛生死二法1云々などありて、死をいへり。こゝには誰かよく死を逃れんといふ意也。
 
二鼠競走。
佛説譬喩經に、乃往過去於2無量劫時1、有2一人1、遊2於曠野1。爲2惡象所1v逐、怖走無v依。見2一空井1、傍有2樹根1、即尋2根下1潜v身。井中有2黒白二鼠1、互齧2樹根1。於2井四邊1、有2四毒蛇1、欲v螯2其人1。【中略】黒白二鼠、以喩2晝夜1、齧2樹根1者、喩−2念々滅1。其四毒蛇、喩2於四大1云々とありて、二鼠は晝夜のたとへ、競走は年月のうつり去る事の早きをたとへたり。
 
度v目之鳥旦飛。
文選張協雜詩に、人生2瀛海内1、忽如2鳥過1v目云々とありで、これも年月のうつりさる事の早きを、鳥の目のまへを過る事の早きにたとへたり。
 
四蛇爭侵。
四蛇は、まへ二鼠競走の注に出たる如く、四大をいふ。四大は、地水火風をいふ。人これを以て身を成し、又これが爲に侵さるゝ事あるを示したり。
 
過v隙之駒夕走。
史記留侯世家に、人世一世間、如2白駒過1v隙、何至自若如v此乎云々。禮記三年問に、三年之喪、二十五月而畢。若2駟之過1v隙云々などありて、この喩、中國にも古くよりいへり。書紀景行天皇四十年紀に、天命忽至、隙駟難v停云々などありて、中ごろよりの歌にも多し。
 
嗟乎。
あゝと訓べし。書紀神武紀に見えたり。呂覽知化篇注に、嗟歎辭也とあり。代匠記に引る官本、乎を呼に作るもあしからず。
 
(9)痛哉。
いたきかもと訓べし。これも歎息の詞なり。上【攷證一上十丁】に出たり。
 
紅顔。
應※[王+易]靜思賦に、夫何美女之※[女+間]妖、紅顔※[日+華]而流光云々とありて、顔の紅に匂ふをいひて、枕詞にさにづらふ妹、あからひく膚などつゞくるもこの意也。さればこゝには女の顔ばせをいへり。
 
共(ニ)2三從(ト)1。
禮記□に、婦人有2三從之義1、無2專用之道1、故未v嫁從v父、既嫁從v夫、夫死從v子云々とあり。(頭書、三儀禮喪服)
 
素質。
抱朴子□篇に、清醪芳醴、亂v性者也。紅華素質、伐v命者也云云とありて、こゝも紅顔に對へたるにて、白きすがたをいへり。
 
與(ニ)2四徳(ト)1。
禮記□に、古者婦人、教以2婦徳婦容婦言婦功1云々。後漢書皇后紀論に、夫人坐論2婦禮1、九嬪掌v教2四徳1云々などあり。
 
偕老。
毛詩繋鼓に、執2子之手1、與v子偕老云々とありて、倶《トモ》に老る也。印本、偕を階に誤れり。いま代匠記に引る官本に依て改む。
 
要期。
廣雅釋言に、要、約也。玉篇に、期、契約也とありて、ちかひ契る意なり。
 
獨飛。
漢書□李陵與2蘇武1詩に、雙鳧倶北飛、一鳧獨南翔云々。陶潜詩に、棲々失2羣鳥1、日暮猶獨飛などありて、鳥のひとりとぶによそへて、人のひとり別れゆくことをいへり。
 
(10)生(トハ)2於半路1。
韓愈詩に、散朝還不v夜、半路躅況歸云々とありて、半路は半途といはんがごとし。廣雅釋詁一に、生出也とあれば、半路に出んとはといふ意にて、半ばに別るゝをいへり。
 
蘭室屏風。
蘭室は、孔子家語□篇、與2善人1居、如v入2芝蘭之室1、久而不v聞2其香1云々。陸機詩に、※[しんにょう+毅の左]字列2綺窓1、蘭室接2羅幕1などありて、蘭は香ばしき意にて、こゝには婦人の閨房をいへり。屏風は、器物叢談に、屏風所2以障1v風、亦所2以隔1v形者也云々とありて、座右の具なれば、君なき閨に立たるを、いたづらに張とはいへり。
 
斷腸之哀彌痛。
斷腸は、まへに出たり。こゝははらわたもたゆるばかりのかなしみ、いよ/\甚しといへる也。
 
枕頭明鏡。
鏡は、專ら女の具にて、これも君なき閨にのこりたるを、枕のほとりなる明鏡、むなしくかゝれりとはいへるにて、鏡臺にかゝれる也。
 
染※[竹/均]之涙。
禮記禮器釋文に、※[竹/均]竹之青皮也とありて、染※[竹/均]とは、博物志卷□に、舜南巡不v返、葬2蒼梧之野1。堯二女蛾皇女英、追v之不v及、至2洞庭之山1、涙下染v竹、即斑妃死爲2湘水之神1とある故事なり。こゝは※[竹/均]をも染るばかりの涙、いよ/\おつといへる也。和名抄竹類に、兼名苑注を引て、※[竹/均]竹※[手偏+忽]名也云々。また兼名苑を引て、斑竹一名涙竹と見えたり。
 
泉門。
書紀神代紀上に、多く泉の一字をよみとよめり。こゝもこれに同じく、みな黄泉の略にて、泉門は黄泉の門也。左氏隱元年傳に、不v及2黄泉1無2相見1也云々。杜預注に地中之(11)泉曰2黄泉1云々とありて、書紀神代紀上に、泉門塞大神といふあり。
 
一掩。
韓愈詩に、獨宿門不v掩云々。文選沈休文學省2愁臥1詩注に、掩猶v閉也とありて、一掩は一たびとぢての意なり。
 
嗚呼。
玉篇に、嗚呼歎辭也とあり。あゝと訓べし。
 
愛河波浪已先滅。苦海煩悩亦無v結。從來厭2離此穢土1。本願託2生彼淨刹1。
 
愛河波浪已先滅。
順正理論に、愛者三界貪也。隨2所樂境1、轉能汨2没有情1、喩2之河1也云々とある如く、愛は溺るものゆゑに、これを河にたとへし也。
 
苦海煩悩亦無v結
華嚴經世主妙嚴品に、消2竭無窮諸苦海1、此離2垢塵1入2此門1云々。文殊所説最勝名義經下に、盡2諸煩悩結1、出2流轉苦海1云々とありて、これも世間の苦しきを、海にたとへしなり。
 
從來厭2離此穢土1。
從來は、遊仙窟にもとよりと訓る意、穢土はこの國土をさして、けがらはしきところといひ、厭離はいとひはなるゝにて、このけがらはしき(12)所をいとひはなれんといふ也。
 
本願託2生波淨刹1。
本願は、心に願ふ所をいひ、淨刹は淨土といひ、託生は寄《ヨリ》生るなり。印本、託を※[言+宅]に誤れるを、今意改せり。この詩、觀無量壽佛經に、韋提希見2佛世尊1、自絶2瓔珞1、擧v身投v地、號泣向v拂白言。世尊、我宿2何罪1、年2此惡子1。世尊、復有2何等因縁1、與2提婆達多1共2眷屬1。唯願世尊、爲v我廣説2無憂悩處1。我當2往生1、不v樂2闔浮提濁惡世1也。此濁惡處、地獄餓鬼畜生盈滿、多2不善聚1。願我未來、不v聞2惡聲1、不v見2惡人1。今向2世尊1、五體投v地、求v哀懺悔。唯願佛日教v我、觀2於清淨業處1。爾時世尊、放2眉間光1、其光金色、※[行人偏+扁]照2十方無量世界1、還住2佛頂1、化爲2金臺1、如2須彌山1、十方諸佛、淨妙國土、皆於v中現。或有2國土1、七寶合成、復有2國土1、純是蓮華、復有2國土1、如2自在天宮1、復有2國土1、如2玻※[王+黎]鏡1。十方國土、皆於v中現。有如v是等無量諸佛國土、嚴顯可v觀。令2韋提希見1。時韋提希白v佛言、世尊、是諸佛土、雖2復清淨1、皆在2光明1、我今樂v生2極樂世界阿彌陀佛所1。唯願世尊、教2我思惟1、教2我正受1云々とあるによれりとおぼし。
 
日本挽歌一首。
 
こは、右の詩と序文にむかへて、日本挽歌とはしるしゝなり。古今集序に、やまと歌はと書出し、後に歌をさして和歌とのみいへる類にはあらねども、猶この國の人、この國に居ての事なれば、(13)たゞ挽歌とのみあるべきことわりなるを、このころすら、やゝ漢土の事にのみなづみたれば、かくしるすまじきにあらず。
 
794 大王能《オホキミノ》。等保乃朝廷等《トホノミカドト》。斯良農比《シラヌヒ》。筑紫國爾《ツクシノクニニ》。泣子那須《ナクコナス》。斯多比枳摩斯提《シタヒキマシテ》。伊企陀爾母《イキダニモ》。伊摩陀夜周米受《イマダヤスメズ》。年月母《トシツキモ》。伊摩他阿良禰婆《イマダアラネバ》。許許呂由母《ココロユモ》。於母波奴阿比※[こざと+施の旁]爾《オモハヌアヒダニ》。宇知那比枳《ウチナビキ》。許夜斯努禮《コヤシヌレ》。伊波牟須弊《イハムスベ》。世武須弊期良爾《セムスベシラニ》。石木乎母《イハキヲモ》。刀此佐氣斯良受《トヒサケシラズ》。伊弊那良婆《イヘナラバ》。迦多知波阿良牟乎《カタチハアラムヲ》。宇良賣斯企《ウラメシキ》。伊毛乃美許等能《イモノミコトノ》。阿禮乎婆母《アレヲバモ》。伊可爾世與等可《イカニセヨトカ》。爾保鳥能《ニホトリノ》。布多利那良※[田+比]爲《フタリナラビヰ》。加多良比斯《カタラヒシ》。許許呂曾牟企弖《ココロソムキテ》。伊弊社可利伊摩須《イヘサカリイマス》。
 
等保乃朝庭等《トホノミカドト》。
遠の朝庭とは、太宰府をも、また外の國々の國府をも、政を執行ふ所をいふ。こゝ|にて《(マヽ)》こゝは太宰府をいへり。この上【攷證三上六十八丁】にいへり。朝庭の文字(14)の事も、等《ト》はとての意なる事も、その所にいへり。
 
斯良農比《シラヌヒ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三中廿五丁】にも出たり。印本、斯を期に作れるは、誤りなる事しるければ、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。
 
泣子那須《ナクコナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三下四十五丁】にも出たり。
 
伊企陀爾母《イキダニモ》。
息《イキ》だにも也、十七【廿二丁】に、安麻射加流比奈爾久太理伎《アマザカルヒナニクダリキ》、伊伎太爾毛伊麻太夜須米受《イキダニモイマダヤスメズ》、年月毛伊久良母阿良奴爾《トシツキモイクラモラヌニ》云々とあると同じつゞけ也。
 
伊摩陀夜周米受《イマダヤスメズ》。
未不息《イマダヤスメズ》の意也。
 
伊摩他阿羅禰婆《イマダアラネバ》。
未不有《イマダアラネバ》にて、ねばは、ぬにの意なる事、上【攷證二下卅丁】にいへり。
 
許許呂由母《ココロユモ》。
由はよりの意なり。集中いと多し。
 
於母波奴阿比※[こざと+施の旁]爾《オモハヌアヒダニ》。
集中、おもはぬに、おもはぬを、おもはぬものをなどいへるも、みな思ひがけぬ意にて、こゝも思ひがけぬそのあひだにといふにて、こゝも不慮なる事あらんとは、思ひかけざる間にの意也。
 
(15)宇知那比枳《ウチナビキ》。
なヨゝかに物の靡きたるやうに臥をいへり。上【攷證一下廿二丁】に出たり。
 
許夜斯努禮《コヤシヌレ》。
許夜斯《コヤシ》は、上【攷證三下二丁】にいへるが如く、臥をいふ古言にて、こゝは臥《フシ》ぬればといふ、ばを例の如く略けるにて、上にこそのかゝりなくして、禮《レ》と結べるは、集中一つの格なる事、上【攷證二中十丁】にいへり。さて略解に、禮の下姿の字落たるなるべしといへれど、七言の句を、五言にも六言にもいふ事、集中いと多し。こゝは臥といひて、すなはち失ぬる事かねたり。
 
世武須弊斯良爾《セムスベシラニ》。
斯良爾《シラニ》はしらずの意なる事、上【攷證一上十一丁】にいへり。
 
石木乎母《イハキヲモ》。
この乎もじは、爾の意にて、石木にもの意也。このにの意の乎もじの事は、上【攷證四上五十七丁】にいへり。
 
刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》。
三【五十四丁】に、問放流親族兄弟無國爾《トヒサクルウカラハラカラナキクニニ》云々ともありて、その所【攷證三下四十四丁】にいへるが如く、佐氣《サケ》は、語放《カタリサケ》、見放《ミサケ》などいふ放と同じく、問さけは、問|遣《ヤ》る意にて、こゝはいはんすべも、せんすべもしらざれば、かの婦人を葬りし山の石木にも、いづくぞと問やらんやうもしらずといふにて、問やりて思ひをはらす意なり。
 
伊弊那良婆《イヘナラバ》。
家に在ばの意にて、かの婦人の屍の家に在ばといふ意也。こは筑紫の館をいふ也。
 
(16)迦多知波阿良牟乎《カタチハアラムヲ》。
形は在んものをの意にて、かの屍の家に在ば、形はありなんものを、葬りたれば、その形だになしといふなり。
 
伊毛乃美許等能《イモノミコトノ》。
美許等《ミコト》は、上【攷證二下二丁】にいへるが如く、親しみ敬ひていふ意にて、古事記上卷【日子遲神】御歌に、伊刀古夜能伊毛能美許等《イトコヤノイモノミコト》云々。本集十【廿六丁】に汝戀妹命者《ナガコフルイモノミコトハ》云々などあり。
 
阿禮乎婆母《アレヲバモ》。
母は助辭にて、我をばなり。
 
爾保鳥能《ニホトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。三【五十六丁】に、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》云々とも、十八【廿六丁】爾保騰里能布多理雙坐《ニホトリノフタリナラビヰ》云々ともありて、水鳥の類、多く雌雄ならびをるものなれば、かくつゞけしなり。
 
許許呂曾牟企弖《コヽロソムキテ》。
末かけ長くいひ契りかたらひし心そむきでといふなり。
 
伊弊社可利伊摩須《イヘサカリイマス》。
三【五十七丁】家持悲2傷亡妾1歌の中に、離家伊麻須吾妹乎停不得《イヘサカリイマスワギモヲトヾミカネ》云々とあると同じく、こゝは家を離れて葬り行をいへり。行ますを、いますといへる事は、上【攷證二下卅一丁】にいへり。
 
(17)反歌。
 
795 伊弊爾由伎弖《イヘニユキテ》。伊可爾可阿我世武《イカニカアガセム》。摩久良豆久《マクラツク》。都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》。於母保由倍斯母《オモホユベシモ》。
 
摩久良豆久《マクラツク》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證二下五十丁】にも出たり。
 
都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》。
都摩夜《ツマヤ》は、端《ツマ》屋の意にて、家の端にある家をいへる事、上【攷證二下五十丁】にいへり。佐夫斯《サブシ》は、心すさまじく、なぐさめがたき意なる事、これも上【攷證二下五十九丁】にいへり。
 
於母保由倍斯母《オモホユベシモ》。
母《モ》は助辭なり。この歌は葬送してかへるをりの歌にて、家は筑紫の旅館をいへり。一首の意は明らけし。
 
796 伴之伎與之《ハシキヨシ》。加久乃未可良爾《カクノミカラニ》。之多比己之《シタヒコシ》。伊毛我己許呂乃《イモガココロノ》。須別毛須別那左《スベモスベナサ》。
 
(18)伴之伎與之《ハシキヨシ》。
上【攷證二下十二丁】にいへるが如く、伴之伎は愛《ハシキ》の意にて、與之《ヨシ》の之は助辭なり。さて印本、伎を枝に誤れり。この言、十七【廿一丁四十二丁】十九【廿八丁】二十【五十九丁】にも出たる伎《(マヽ)》もじを書たれば、誤りなる事しるし。されば代匠記に引る別校本、拾穗本などに依て改む。さて代匠記に、枝ハ伎ヲ誤レル歟。仁徳紀ニ、桑枝ヲクハノキト點ゼレバ、枚ヲモ木ト同ジク訓ズレド、此卷ノ例、ヤスラカニノミ書タレバ、枝ハ誤ナルベシ云々といはれたり。
 
加久乃未可良爾《カクノミカラニ》。
可良爾《カラニ》は上【攷證四中廿四丁】にいへるが如く、故にの意にて、こゝはかくばかりなる故にといふ意なり。
 
須別毛須別那左《スベモスベナサ》。
せんすべもせんすべなしと重ねいへる也。一首の意は、愛《ハシ》きよ、かくばかりはかなく失ぬる故に、この筑紫までしたひ來つる妹が心の、せんすべなくかなしと也。
 
797 久夜斯可母《クヤシカモ》。可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》。阿乎爾與斯《アヲニヨシ》。久奴知許等其等《クヌチコトゴト》。美世摩斯母乃乎《ミセマシモノヲ》。
 
久夜斯可母《クヤシカモ》。
悔しきかもの、きを略ける事、例あり。そは、六【十八丁】に、乏毳倭邊上眞熊野之船《トモシカモヤマトヘノボルミクマヌノフネ》。八【四十八丁】に、事乏可母《コトヽモシカモ》云々。十一【十二丁】に、多頭多頭思鴨《タヅタヅシカモ》云々。十七【四十一丁】(19)に、許其志可毛伊波能可牟佐備《コゴシカモイハノカムサビ》云々などある類なり。
 
可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》。
摩世婆《マセバ》は、ましかばの意なり。この事、上【攷證一下五十八丁】にいへり。
 
阿乎爾與斯《アヲニヨシ》。
この一句、心得がたし。代匠記に、アヲニヨシハ、ナラノ枕詞ヲ以テ、ナラトス。足引トノミイヒテ、山トスルニ同ジ云々。眞淵も同説なれど、長歌にもまへの歌にも、この婦人筑紫まで慕ひ來つるよし見えたれば、遙なる筑紫に居て、奈良の國中を見せましものをとよまるべきにあらず。その上、女なりとも、わが生國をば大方は見るべきことわりなれば、この阿乎爾與斯は、必らず筑紫をいへる事疑ひなけれど、ことの意は解しがたし。久老云、あをによしは、あなにやしと同言にやと、西村重波がいへり。故考るに、神代紀に、吾屋惶根《ヱヤカシコネノ》尊を、亦曰|青橿城根《アヲカシキネノ》尊といへり。又應神紀に、穴織《アナハトリ》とあるを、雄略紀には、漢織《アヤハトリ》ともあれば阿奈《アヤ》も阿袁《アヲ》もひとつ言にて、阿奈《アナ》は、古語拾遺に、事之甚切、皆稱2阿奈《アナ》1とありて、何事にまれ、切に思ふとき、歎の言なり。爾夜斯《ニヤシ》は、爾の助辭に夜斯《ヤシ》の言を添たるにて、よしゑやし、はしけやしなどいへる類也。その夜《ヤ》と與《ヨ》とは、常通ふ言なれば、あなにやしと、あをによしとは、全く同言也。さて契沖が説にも、師説にも、國内《クヌチ》は奈良の本郷をいへるにて、青丹吉那良《アヲニヨシナラ》といひなれて後に、うちつけに阿袁爾與之《アヲニヨシ》といひて、やがて奈良の事とせる也とあるは、うけがたくなん。これは、筑紫に下られて、間もなく身まかりたまへるよし、長歌に見えたれど、久奴知《クヌチ》は、太宰の府下をいへるにて、遠《トホ》の朝庭《ミカド》とさへいひて、遙々にしたひ來ませる國内《クヌチ》にしあれば、ことに切にお(20)もへる意にて、青丹吉《アヲニヨシ》の言を冠らせしにや。又は、はしきやしなどいへる類にて、一首のうへにかゝる歎息の言にて、あをによしとはいへるにや。いづれにまれ、この久奴知は、奈良をいへるにはあらずかし云々。この説いかにもさる事ながら、あをによしと、あなにやしと、通へりといへるはいかゞあらん。
 
久奴知許等其等《クヌチコトゴト》。
久奴知は、にうの反ぬなれば、国内の意也。十七【卅九丁】に、古思能奈可久奴知許登其等《コシノナカクヌチコトゴト》、夜麻波之母《ヤマハシモ》、之自爾安禮登毛《シジニアレドモ》云々と見えたり。この歌、十七【廿一丁】家持哀2傷長逝之弟1歌に、可加良牟等可禰底思理世婆《カカラムトカネテシリセバ》、古之能宇美乃安里蘇乃奈美母見世麻之物能乎《コシノウミノアリソノナミモミセマシモノヲ》とあると似たり。一首の意は明らけし。
 
798 伊毛何美斯《イモガミシ》。阿布知乃波那波《アフチノハナハ》。知利奴倍斯《チリヌベシ》。和何那久那美多《ワガナクナミダ》。伊摩陀飛那久爾《イマダヒナクニ》。
 
阿布知《アフチ》は、本草和名に、練實【音義作v楝音練】和名阿布知乃美とありて、和名抄木類に、楝阿布智とあり。こは今俗にせんだんといひて、よく人のしれるものなれば、さらにいはず。さてこの歌もて見れば、この婦人は、五月ごろうせたるなるべし。一首の意は明らけし。
 
799 大野山《オホヌヤマ》。紀利多知和多流《キリタチワタル》。和何那宜久《ワガナゲク》。於伎蘇乃可是爾《オキソノカゼニ》。紀利多知和(21)多流《キリタチワタル》。
 
大野山《オホヌヤマ》。
大野は、筑前國三笠郡の郷名なれば、この山、太宰府のほとりなるべし。されば太宰府にて、この山に霧の立わたるを望みて、よまれつるならん。四【廿六丁】に、大野有三笠杜之《オホヌナルミカサノモリノ》云々とあるも同所なり。
 
於伎蘇乃可是爾《オキソノカゼニ》。
袖中抄に、おきその風とは、息をばおきと訓なり。そはやすめ詞なり云々。宣長云、おきそは息嘯《オキウソ》なり。神代紀に嘯之時《ウソブクトキニ》迅風忽起とあり云云。この説によるべし。息《イキ》をおきといふは、おきながを息長と書、また枕詞に、にほ鳥のおきなが川とつゞくるも、にほ鳥の息長《オキナガ》の意なるにて、しるべし。そは嘯《ウソブク》の略言なるべし。神代紀下に、又兄入v海釣時、天孫宜在2海濱1、以作2風招1、風招即嘯也云々とありて、嘯は、玉篇に蹙v口而出聲と見えたり。さて息を霧にいひなせるは、神代紀上に、吹棄氣噴之狹霧《フキウツルイブキノサギリニ》云々。本集十五【四丁】に、君之由久海邊乃夜杼爾奇里多々婆《キミガユクウミベノヤトニキリタヽバ》、安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢《アガタチナゲクイキトシリマセ》。また【十丁】和我由惠仁妹奈氣久良之《ワガユヱニイモナゲクラシ》、風早能宇良能於伎敝爾奇里多奈妣家利《カザハヤノウラノオキベニキリタナビケリ》。また於伎都加是伊多久布伎勢波《オキツカゼイタクフキセバ》、和伎毛故我奈氣伎能奇里爾安可麻之母能乎《ワギモコガナゲキノキリニアカマシモノヲ》など見えたり。さて一首|の《(マヽ)》、大野山に霧の立わたるは、わがなげきて長くつく息の風に、霧の立わたるならんといふ也。
 
神龜五年七月二十一日。筑前國守山上憶良上。
 
(22)こは、憶良の妻身まかられし時作る歌を、人に見せらるゝをり、しるされしにて、右の歌の中に、伊毛《イモ》が見しあふちの花はともあれば、この妻の身まかりしは、五月のころなるべし。さてこの見せられける人は、しりがたけれど、ひそかに思ふに、大伴卿も同じ思ひに歎かるゝころなれば、かの卿に見せられけるなるべし。されば歌も並べ載たるならん。上と書たれば、見せられける人、必らず貴人なるべし。さるを氏の下に姓をしるさゞるはいぶかし。こは臣の字ありしを脱せるなるべし。又或人の説に、こは憶良の妻身まかりしにはあるべからず。こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、さる證もなければとりがたし。
 
令v反2惑情1歌一首。并序。
 
こは惑へるこゝろを、本情に反さしむるをいひて、左の序と歌の意をもて考ふるに、遁世せんなどいふ人を諷諫せし歌とおぼし。さてこの卷、すべて何の歌并序とのみありて、反歌をいはず。目録には、歌一首并短歌とありて、序をいはず。序は、孔安國尚書序に、序者所3以序2作者之意1云々と見えたり。この歌も同じく憶良の歌なれど、前のつゞきなれば、名しるさず。既に目録には名をしるせり。
 
或有v人。知v敬2父母1。忘2於侍養1。不v顧2妻子1。輕2於脱履1。自〓2畏俗(23)先生1。意氣雖v揚2青雲之上1。身體猶在2塵俗之中1。未v驗2修行得道之聖1。蓋是亡2命山澤1之民。所以指2示三綱1。吏開2五教1。遺v之以v歌。令v反2其惑1。歌曰。
 
或(ハ)有v人。
諷諫する所の人の名あるべけれど、たしかにいはず。おぼめかして、或(ハ)有v人としるせる也。拾穗本、有の字なし。
 
知v敬2父母1。忘2於侍養1。
父母といへば、たゞ尊敬する事のみをしりて、父母に從ひ養ふ事をわすれたる也。毛詩蓼莪疏に、民人勞苦、致v令2孝子不1v得3于父母終亡之時、而侍2養之1云々とあり。宣長の説に、知の上、不の字脱たるかといはれしは當らず。こゝは四言づゝに連ねし句なるをや。さて拾穗本、敬を有に作り、侍を孝に作れり。
 
不v顧2妻子1。輕2於脱履1。
妻子をかへり見ざる事、履《クツ》をぬぎすつるよりも輕しとなり。史記孝武本紀に、天子曰、嗟乎吾誠得v如2黄帝1、吾視v去2妻子1如2脱※[足+徙]1也云々。梁昭明太子陶靖節集序に、唐堯四海之主、而有2汾陽之心1、子晋天下之儲、而有2洛濱之志1、輕v之若2脱※[尸/徙]1、視v之若2鴻毛1云々などあり。※[足+徙]も※[尸/徙]も、玉篇に履也と見えたり。拾穗本、妻子を人倫に作り、履を※[尸/徙]に作れり。
 
(24)自〓2畏俗先生1。
畏俗は俗をおそるゝよしにて、假にたはぶれ名づけし也。先生の字は、文選三都賦李善注に、先生學人之通稱也云々と見えたり。〓は稱の隷體なり。代匠記に、今按、畏疑異魯魚カ。莊子云、刻意尚行、離世異俗、高論怨誹爲v亢而已矣、此山谷之士、非2世之人枯槁赴v淵者之所1v好也云々と見えたり。拾穗本、畏俗を離俗に作れり。離俗の字は、淮南子□篇に、單豹倍v世離v俗、巌居谷飲云々と見えたり。
 
意氣雖v揚2青雲之上1。
意氣は志をいふ。史記晏子傳に、晏子爲2齊相1出、其御之妻從v間而※[門/規]2其夫1、其夫爲2相御1、擁2大葢1策2駟馬1、意氣揚揚、甚自得也云々と見えたり。青雲は高きをいふ。史記范雎列傳に、須賈曰、賈不v意、君能自致2於青雲之上1云々。文選東方朔答2客難1文に、抗v之則在2青雲之上1、抑v之則在2深淵之下1云々など見えたり。
 
身體猶在2塵俗之中1。
塵俗は、ちりひぢに穢れたる世の中をいふ。文選任肪王文憲集序に、司徒袁粲有2高v世之度1、脱2落塵俗1云々。劉潜和2鍾山解講1詩に、雖2窮理遊盛1、終爲2塵俗喧1云々など見えたり。拾穗本、身體を心志に作り、塵俗を塵泥に作れり。塵泥も濁れる世の中をいふ。柴〓望2九華山1詩に、惆悵舊游無2復到1、會須3登v此出2塵泥1云々など見えたり。
 
未v驗2修行得道之聖1。
こは前文に、俗を畏れ意氣青雲の上に揚るといへども、身は俗中にありといふをうけて、これ行を修して、道を得たる人の如くな(25)れど、そのしるしなしといふ也。修業は、大乘起信論に、隨2順眞如1、修2行善業1云々と見え、得道は、無量清淨平等覺經卷下に、不v解v道者多、得v道者少云々と見えたり。
 
蓋是亡2命山澤1之民。
蓋、印本、盍に作れど、誤りなる事しるければ、代匠記に引る官本、拾穗本などによりて改む。けだしと訓べし。また韻會に、盍或作v蓋と見えたり。亡命は逃《ノガ》れ匿《カク》るゝをいふ。史記張耳列傳に、其少時及2魏公子母忌1爲v客、張耳甞亡命游2外黄1云々。索隱に、崔浩曰、亡無也、命名也、逃匿則削2除名籍1、故以v逃爲2亡命1とありて、文選楊雄解嘲文に、范雎魏之亡命也云々なども見えたり。
 
指2示三綱1
三綱は、漢書谷永傳に、勤2三鋼之嚴1修2後宮之政1云々。禮緯含文嘉に、君爲2臣綱1、父爲2子綱1、夫爲2妻綱1と見えたり。拾穗本、綱を徳に作れり。
 
更開2五教1。
五教は、尚書舜典に、汝作2司徒1、敬敷2五教1、在v寛云々。傳に、布2五常之教1云々。正義に、文十八年、左傳云、布2五教於四方1、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝、是布2五常之教1也云々と見えたり。
 
遺v之以v歌。
廣韻に、遺、贈也とあり。
 
800 父母乎《チヽハヽヲ》。美禮婆多布斗斯《ミレハタフトシ》。妻子美禮婆《メコミレバ》。米具斯宇都久志《メグシウツクシ》。余能奈迦波《ヨノナカハ》。(26)加久叙許等和理《カクゾコトワリ》。母智騰利乃《モチドリノ》。可可良波志母與《カヽラハシモヨ》。由久弊斯良禰婆《ユクヘシラネバ》。宇《ウ》既《ケ・キ》具都遠《グツヲ》。奴伎都流其等久《ヌギツルゴトク》。布美奴伎提《フミヌギテ》。由久智布比等波《ユクチフヒトハ》。伊波紀欲利《イハキヨリ》。奈利提志比等迦《ナリテシヒトカ》。奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》。阿米弊由迦婆《アメヘユカバ》。奈何麻爾麻爾《ナガマニマニ》。都智奈良婆《ツチナラバ》。大王伊麻周《オホキミイマス》。許能提羅周《コノテラス》。日月能斯多波《ヒツキノシタハ》。阿麻久毛能《アマクモノ》。牟迦夫周伎波美《ムカブスキハミ》。多爾具久能《タニグクノ》。佐和多流伎波美《サワタルキハミ》。企許斯遠周《キコシヲス》。久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》。可爾迦久爾《カニカクニ》。保志伎麻爾麻爾《ホシキマニマニ》。斯可爾波阿羅慈迦《シカニハアラジカ》
 
米具斯宇都久志《メグシウツクシ》。
米具斯《メグシ》は、九【廿三丁】に、今日耳者目串毛勿見《ケフノミハメグシモナミソ》云々。十一【十九丁】に、人毛無古郷爾有人乎《ヒトモナクフリニシサトニアルヒトヲ》、愍久也君之戀爾令死《メグヽヤキミガコヒニシナセム》。十七【卅一丁】に、情具之眼具之毛奈之爾《コヽログシメグシモナシニ》云々。十八【廿六丁】に、父母乎見波多布刀久《チヽハヽヲミレバタフトク》、妻子見波可奈之久米具之《メコミレバカナシクメグシ》、宇都世美能余乃許等和利止《ウツセミノヨノコトワリト》云々などありて、こは惰久之《コヽログシ》ともいふ久之《クシ》と同じく、米具斯は、目に見る事のおぼつかなき意、情久之は、心のおぼつかなき意なる事、上【攷證四下廿三丁】にいへるが如し。宇都久志《ウツクシ》は愛《ウツクシ》しにて、ここは妻子をあはれぶあまりに、おぼつかなきまで思はるゝ意にて、父母を見れば、貴くかたじけ(27)なきにむかへいへり。さて代匠記に引る官本、拾穂本など、この句の下、遁路得奴兄弟親族《ノガロエヌウカラハラカラ》、遁路得奴老見幼見《ノガロエヌオイミイトケミ》、朋友乃言問交《トモカキノコトヽヒカハシ》の二十二字あり。この卷の書體とも異にて、こゝのつゞきにも叶はざれば非なり。
 
加久叙許等和理《カクゾコトワリ》。
加此《カク》ゾ理《コトワリ》なるをいふ。その結びふくめたり。さてこゝまでの意は、序にいふ、不v顧2妻子1輕2於脱履1とある人をさして、父母を見れば崇めて孝養すべく、妻子見ればゆく未おぼつかなきまで愛し思ふ心あり。世の中は如此ぞことわりなるといふなり。
 
母智騰利乃《モチドリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。黐《モチ》は鳥を捕るものなれば、かかるとつゞけし也。和名抄畋獵具に、黐和名毛知とあり。
 
可可良波志母與《カヽラバシモヨ》。
思母《シモ》は助辭にで、加此有《カヽラ》ばよといふ也。略解に、かゝらはしもよは、黐《モチ》にかゝれる鳥の如く、立はなれがたく、親にかゝはりてのがれがたき理りをいふ云々といへるは非也。枕詞よりのつゞけは、鳥の黐に懸るとつゞけたれど、そを轉じて、如此有《カヽル》の意なる事、次にいへるにてしるべし。さて代匠記に、此間五字一句脱タルカ云々といはれつるが如く、枕詞一句脱たるなるべし。
 
由久弊斯良禰婆《ユクヘシラネバ》。
禰婆《ネバ》は、上【攷證二下卅丁】にいへるが如く、ぬにの意にて、こゝは行方しらぬにといふ也。さてこゝまでの意は、父母を見れば貴く思ひ、妻子を見(28)れば愛《ウツ》くしみ思ふは、世の中の理り也。如此有《カヽル》こゝろあらば、たとはゞ物に行んにも、行べき方もしらず思ひまどはれて、立はなれがたきものなるにといふ意にて、こゝより下は、それには違ひて、妻子をかへり見ざる事、履《クツ》を脱《ヌギ》すつるよりもかろくする人のうへをいへり。拾穗本、この句なし。
 
宇《ウ》既《ケ・キ》具都遠《グツヲ》。
既の字、書紀には、きの假字に用ひたれど、集中、みな、けの假字としたれば、けと訓べし。宣長云、こは穿沓《ウゲグツ》なり。是は沓の破れて孔《アナ》のあきたるをいひて、宇既は所穿《ウガマレ》の約りたる也云々といはれつるが如し。孟子□篇に、舜視v棄2天下1、猶v棄2敝※[足+徙]1云々と見えたり。活本、宇を乎に作るは非なり。
 
奴伎都流其等久《ヌギツルゴトク》。
脱棄如《ヌギツルゴトク》なり。宣長云、奴伎都流《ヌギツル》の都流は棄《スツル》なり。詞のつるにては叶はず云々。この説のごとく、書紀神代紀上に、吹棄、此云2浮枳于都屡《フキウツル》1とありて、古事記上卷【八千矛神】御歌に、敝都那美曾邇奴岐宇弖云々とあるも、股棄《ヌギウテ》にて、安行の字は略きてもいへれば、こゝはうを略きて、棄《ウツ》るを、つるとのみいへる也。そは、うまを、まとのみもいひ、潮《ウシホ》を、しほとのみいへるにてしるべし。磯《イソ》を、そとのみいひ、思《オモフ》を、もふとのみいへる類、猶いと多かり。
 
布美奴伎提《フミヌギテ》。
蹈脱《フミヌギ》てなり。蹈は足につけていへる言なり。
 
由久智布比等波《ユクチフヒトハ》。
智布は、といふの約り也。此卷【卅七丁】に、痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》、鹹鹽遠灌知布何其等久《カラシホヲソヽグチフガゴトク》云々。七【十五丁】に、雨曾零智否《アメゾフルチフ》云々。八【卅七丁】に、手爾將卷知布《テニマカムチフ》云(29)云。十八【廿四丁】に、可豆具知布安波妣多麻母我《カツグチフアハビタマモガ》云々などあり。さて、このひとは、かの妻子をかへり見ざる事、脱履よりも輕き人をさせり。
 
伊波紀欲利《イハキヨリ》。奈利提志比等迦《ナリデシヒトカ》。
木石こゝろなきものなれば、父母に孝養をわすれ、妻子をもかへり見ず、ものゝこゝろしらぬひとは、木石より産れ出たる人かといふなり。木石心なき事は、上【攷證四下十七丁】に出たり。さて奈利提《ナリデ》は、生れ出たるをいふこと、古事記には於2高天原1成神《ナリマセル》云々とあるを、書紀には高天原所生神云々とあるにてしるべし。
 
奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》。
汝が名を告《ノラ》せと云ふにて、佐禰は、せを延たる言にて、下知の詞なる事、上【攷證一上二丁】にいへり。
 
奈何麻爾麻爾《ナガマニマニ》。
汝が隨意にせよといふにて、上に多く出たる隨意をまに/\とよめる意なり。
 
都智奈良婆《ツチナラバ》。大王伊麻周《オホキミイマス》。
こは、普天之下莫v非2王土1の定めにて、天へ行くは汝が心のまに/\せよ、この地は皆王のいます所なれば、心のままに行かくるゝ所はあらじといふなり。
 
阿麻久毛能《アマクモノ》。牟迦夫周伎波美《ムカブスキハミ》。
三【五十一丁】に、天雲之向伏國《アマクモノムカブスクニノ》云々とある所【攷證三下卅丁】にいへるが如く、天雲の地に向ひ伏たるやうに見ゆるまで、(30)遠き極みをいへるなり。
 
多爾具久能《タニグクノ》。
多爾具久は、古事記上卷に、多邇具久【今本具を且に誤れり。】とありて、本集六【廿五丁】に、山彦乃將應極《ヤマビコノコタヘムキハミ》、谷潜乃狹渡極《タニグクノサワタルキハミ》、國方乎見之賜而《クニガタヲミシタマヒテ》云々とあるも、祈年祭祝詞に、谷※[虫+莫]能狹度極《タニグヽノサワタルキハミ》【今本この※[虫+莫]もがまとよめるは、蝦※[虫+莫]の字音なれば、いふまでもなき誤りなり。】とあるにて、蝦※[虫+莫]の事なる事しらる。蝦蟇の類、いと多かれば、こゝに谷ぐゝといふは、いづれをいへるにか、さだかには知がたけれど、こゝには幽谷にすめるものさしていへり。さてこの谷ぐゝといへる名の定は、六の卷に、谷潜と書る正字にて、このもの、木草のしげりたるもとの、さゝやかなる隅をも潜《クグリ》あるく故に、谷潜《タニクグリ》の意もて、たにくゝとはいへる事、本集【廿八丁】に許乃間立八十一霍公鳥《コノマタチグヽホトヽギス》云々。十七【廿七丁】に、之氣美登妣久久※[(貝+貝)/鳥]《シゲミトヒクヽウグヒスノ》云々など、潜る事、くゝとも、くきともいへるにてしるべし。さるを、宣長の説に、くゝは鳴聲によれる名なるよしいはれつるはあたらず。
 
佐和多流伎波美《サワタルキハミ》。
十【廿丁】に、霍公鳥鳴而左度《ホトヽギスナキテサワタル》云々。十一【九丁】に、雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》云々などもあり。佐は發語、和多流は經過《ヘスグ》る意なる事、上【攷證二中十丁】にいへるが如し。さてまへの阿麻久毛能牟迦夫周伎波美《アマクモノムカフスキハミ》は、遠き方の限りをいへるにむかへて、この多爾具久能佐和多流伎波美《タニグヽノサワタルキハミ》は、かの蝦蟇の谷かげの木草などしげりたる、ささやかなるくま/”\までも這あるく所をいへるにて、いさゝかなるくま/”\までも、皆天皇のしろしめす地なりといへるたとへなり。
 
(31)企許斯遠周《キコシヲス》。
知り領します意なり。上【攷證一下五丁】に出たり。
 
久爾能麻保良叙《クニノマホラゾ》。
この言は、古事記中卷【倭建命】御歌に、夜麻登波久爾能麻本呂婆《ヤマトハクニノマホロバ》【書紀には麻保邏摩《マホラマ》とあり。】とありて、こは宣長の國號考に、まはろばのまは眞、ろばは助辭にて、國のほなり。ほは、すべてものにつゝまれこもりたる所をいへる古言なり云々。これもさる事ながら、さては集中に見えたるに叶はず。本集九【廿二丁】大伴卿登2筑波山1歌に、男神毛許賜《ヲノカミモユルシタマヒ》、女神毛干羽日給而《メノカミモチハヒタマヒテ》、時登無雲居雨零《トキトナククモヰアメフリ》、筑波嶺乎清照《ツクバネヲサヤニテラシテ》、言借石國之眞保良乎《イフカリシクニノマホラヲ》、委曲爾示賜者《ツハラカニシメシタマヘバ》云々。十八【十八丁】に、高御座安麻能日繼登《タカミクラアマノヒツギト》、須賣呂伎能可未能美許登能《スメロギノカミノミコトノ》、伎己之乎須久爾能麻保良爾《キコシヲスクニノマホラニ》、山乎之毛佐波爾於保美等《ヤマヲシモサハニオホミト》云々などあるも、こゝもたゞ國の中をいへる言と聞えたれど、語の意は解しがたし。
 
保志伎麻爾麻爾《ホシキマニマニ》。
こは、上にかへりて、父母に侍養をわすれ、妻子をかへり見ざる事、脱履よりも輕くする人をさして、しかするわざは、とにかく、欲するまゝに、さはなせるならんといひて、斯可爾波阿羅慈迦《シカニハアラジカ》といへるは、そのわざを諫めいへる言どもをさして、さはあらざるかといへるなり。
 
反歌。
 
801 比佐迦多能《ヒサカタノ》。阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》。奈保奈保爾《ナホナホニ》。伊弊爾可幣利提《イヘニカヘリテ》。奈利乎(32)斯麻佐爾《ナリヲシマサニ》。
 
阿麻遲波等保斯《アマヂハトホシ》。
天路は遠しにて、こは長歌に、天《アメ》へ行《ユカ》ば汝がまに/\といひしをうけて、たとへ天へ行んと思ふとも、路の遠ければといへるなり。
 
奈保奈保爾《ナホナホニ》。
直々《タダ/\》の意なり。十四【六丁】に、波布久受能比可判與利己禰《ハフクズノヒカバヨリコネ》、思多奈保那保爾《シタナホナホニ》ともありて、伊勢物語に、父はなほ人にて、母なんふぢはらなりける云々。源氏物語花宴卷に、なほあらじに、弘徽殿のほそどのに立より給へれば云々などある、なほも、みな直《タヾ》の意なり。また空蝉卷に、なほ/\しくかたらひたまふ人の云々とあるは、こゝとは別なり。
 
奈利乎斯麻佐爾《ナリヲシマサニ》。
奈利は業なり。七【卅五丁】に、母之其業桑尚《ハヽノソノナルクハスラモ》云々。十六丁【卅五丁】に、荒雄良者妻子之産業乎婆不念呂《アラヲラハメコノナリヲバオモハズロ》云々。二十【廿六丁】に、佐伎牟理爾多多牟佐和伎爾《サキモリニタタヽムサワギニ》、伊敝能伊毛何奈流敝伎己等乎伊波須伎奴可母《イヘノイモガナルベキコトヲイハズキヌカモ》などある、みな産業《ナリハヒ》をなりとのみいへり。斯麻佐爾《シマサニ》は、しませの意。佐爾《サニ》は禰《ネ》と爾と通ひて、さねの意なるべし。略解に、爾は禰の誤りなるべしといへるもあしからず。さて一首の意は、この地は、皆王土なれば、さるわがまゝなるふるまひはなしがたければ、天へ上らんとすとも、道の遠ければ、たゞ/\家にかへりて、よく産業をしたまへと諫むるなり。
 
思2子等1歌一首。并序。
 
(33)釋迦如來。金口正説。等思2衆生1。如2羅※[目+候]羅1。又説。愛無v過v子。至極大聖。尚有2愛v子之心1。況乎。世間蒼生。誰不v愛v子乎。
 
金口正説。
拾言記卷下に、金口者、此是如來黄金色身、口業所v記云々とある如く、如來は金身なれば、金口とはかけり。
 
等思2衆生1。如2羅※[目+候]羅1。
羅※[目+候]羅は、釋尊の子なり。心地観經無垢性品に、世損大恩、無縁慈悲、憐2愍衆生1、如2羅※[目+候]羅1云々とあるによれり。
 
愛無v過v子。
雜阿含經卷三十六に、時彼天子而説偈言、辨v愛無v過v子云々と見えたり。
 
世間蒼生。
蒼生は人民をいふ。書紀神代紀に、あをひとくさと訓り。晋書王衍傳に、衍字夷甫、神情明秀、風姿詳雅、總角嘗造2山濤1、々嗟歎良久、既去目而送v之曰、何物老嫗、生2寧馨兒1、然誤2天下蒼生1者、未3必非2此人1也云々と見えたり。
 
802 宇利波米婆《ウリハメバ》。胡藤母意母保由《コドモオモホユ》。久利波米婆《クリハメバ》。麻斯提斯農波由《マシテシヌバユ》。伊豆久欲利《イヅクヨリ》。枳多利斯物能曾《キタリシモノゾ》。麻奈迦比爾《マナカヒニ》。母等奈可可利堤《モトナカカリテ》。夜周伊斯奈佐(34)農《ヤスイシナサヌ》。
 
宇利波米婆《ウリハメバ》。
 
宇利は瓜なり。こは今いふまくは瓜にて、大觀本草にいふ甜瓜これなり。本草和名、和名抄などに、熟瓜、和名保曾知とあるも同じ。波米婆は食者なり。
 
久利波米婆《クリハメバ》。
栗食者なり。和名抄菓類に、栗子、和名久利とあり。
 
麻斯提斯農波由《マシテシヌバユ》。
麻斯提は、益てなり。期農波由《シヌバユ》の由は、るの意なり。上【攷證一下五十五丁】に出たり。さてこの歌は、憶良筑前に在りて、京にとゞめおきたる子を思ふ歌にて、食物につけても思ひ出で、見るもの聞くもの《(マゝ)》つけても、しのばるゝ意をこめたり。
 
伊豆久欲利《イヅクヨリ》。枳多利斯物能曾《キタリシモノゾ》。
いかなる過去の宿線にて、吾子とはうまれこしものぞといふなり。
 
麻奈迦比爾《マナカヒニ》。
眼間《マナコアヒ》の意なり。こあの反かなればなり。こは子を思ふ心のせちなれば、眼《マナコ》の間《アヒダ》にかゝりて、寢んと思へども、いねられぬよしなり。或る人の説に、下【卅九丁】の男子古日を戀る歌にも、子を中に寢さするよしあれば、こゝも中に寢さするよしにて、眞中間《マナカアヒ》の意、可々利提《カヽリテ》、如此在《カヽリテ》の意なるべしといへれど、當らず。
 
母等奈可可利堤《モトナカカリテ》。
母等奈《モトナ》は、よしなくといふ意なること、上【攷證二下七十四丁】にいへり。可々利提《カヽリテ》、今の世の俗言にも、目にかゝるといふに同じく、心にかゝるのかゝ(35)るも同じ。
 
夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》。
安寢不令寢にて、やすくもいねしめざるなり。十二【卅六丁】に、安寢毛不宿爾戀渡鴨《ヤスイモネズニコヒワタルカモ》、十五【十四丁】に、夜須伊毛禰受弖安哉故非和多流《ヤスイモネズテアガコヒワタル》。十九【十八丁】に、鳴等余米安寢不令宿君乎奈夜麻勢《ナキトヨメヤスイシナサズキミヲナヤマセ》などあり。奈佐農《ナサヌ》は、不令寢の意にて、斯は助辭なり。寢る事を、なせる、なさぬなどいふことは、上【攷證二下六十七丁】にいへり。こゝのつゞき、上にぞのや何の詞なければ、なさずといふべきを、なさぬといふは變格にて、下にかもといふ意をこめたり。さてこゝまでの意は、よしなや眼にかゝりて、安くも寢しめずといふなり。
 
反歌。
 
803 銀母《シロガネモ》。金母玉母《クガネモタマモ》。奈爾世武爾《ナニセムニ》。麻佐禮留多可良《マサレルタカラ》。古爾斯迦米夜母《コニシカメヤモ》。
 
銀母《シロガネモ》。
本草和名に、銀屑、一名白銀、和名之呂加禰とあり。
 
金母《クガネモ》。
新撰字鏡、本草和名、和名抄など、みな古加禰とありて、今もしかいへど、本集十八【廿丁】に、久我禰とあれば、これによりて、くがねと訓べし。
 
奈爾世武爾《ナニセムニ》。
この詞、集中多かる中に、二つの意也《(マヽ)》。こゝはなにかせんの意なり。そは此卷【三十九丁】に、世人之貴慕七種之寶毛我波何爲《ヨノヒトノタフトミネガフヤヽクサノタカラモワレハナニセムニ》、和我中能産禮出有《ワガナカノウマレイデタル》、白玉之吾子(36)古日者《シラタマノワガコフルヒハ》云々とあると同じ。また四【五十三丁】に、戀死六其毛同曾《コヒシナムソコモオナジゾ》、奈何爲二《ナニセムニ》、人目他言《ヒトメヒトコト》、辭痛吾將爲《コチタミワガセム》。十一【二丁】に、何爲命本名永欲爲《ナニセムニイノチヲモトナナガクホリセム》云々。また【四丁】何爲命繼《ナニセンニイノチツギケン》云々。十六【卅丁】に、何爲牟爾吾乎召良米夜《ナニセンニワヲメスラメヤ》云々などあるは、なにしにの意なり。思ひまどふべからず。
 
古爾斯迦米夜母《コニシカメヤモ》。
夜はうらへ意のかへるや、母は添たる言にて、一首の意は、金銀珠玉もなにかせん、たゞまされる賢は、子に及《シカ》ずといふなり。
 
哀2世間難1v住歌一首。并序。
 
韻會に、住止也とあり。こゝは、世の中の止りがたく常なきをなげく歌なり。
 
易v集難v排。八大辛苦。難v遂易v盡。百年賞樂。古人所v歎。今亦及v之。所以因作2一章之歌1。以撥2二毛之歎1。其歌曰。
 
易v集難v排。八大辛苦。
玉篇に、排推排とありて、おしひらきのくる意なり。八大辛苦は、佛説五王經に、今粗爲2汝等1、略説2八苦1。何謂2八苦1、生苦、老若、病苦、死苦、恩愛別苦、所求不得苦、怨憎會苦、憂悲悩苦、是爲2八苦1也云々とあり。
 
(37)難v遂易v盡。百年賞樂。
代匠記に、賞樂ハ賞心樂事四美ノ中ニ、二ヲ擧テ餘ヲ兼云々とあり。爲遂《ナシトグ》る事は難くして、はやく盡やすきは百年のたのしみなりとなり。
 
二毛之歎。
禮記檀弓下注に、二毛、鬢髪斑白云々。周禮司儀注に、老者二毛故曰v毛云々。文選秋興賦に、晋十有四年、余春秋三十有二、始見2二毛1云々などありて、白髪黒髪交れるを二毛とはいへり。右の歌を作りて、老後の歎をはらふといふなり。
 
804 (世間能《ヨノナカノ》。周弊奈伎物能波《スベナキモノハ》。年月波《トシツキハ》。奈何流流其等斯《ナガルルゴトシ》。等利都都伎《トリツヾキ》。意比久留母能波《オヒクルモノハ》。毛毛久佐爾《モヽクサニ》。勢米余利伎多流《セメヨリキタル》。遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》。遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメサビスト》。可羅多麻乎《カラタマヲ》。多母等爾麻可志《タモトニマカシ》【或有2此句1云。之路多倍乃。袖布利可伴之。久禮奈爲乃。阿可毛須蘇毘伎。】余知古良等《ヨチコラト》。手多豆佐波利提《テタヅサハリテ》。阿蘇比家武《アソビケム》。等伎能佐迦利乎《トキノサカリヲ》。等等尾迦禰《トドミカネ》。周具斯野利都禮《スグシヤリツレ》。美奈乃和多《ミナノワタ》。迦具漏伎可美爾《カグロキカミニ》。伊都乃麻可《イツノマカ》。(38)斯毛乃布利家武《シモノフリケム》。久禮奈爲能《クレナヰノ》。【一云。爾能保奈酒。】意母提乃宇倍爾《オモテノウヘニ》。伊豆久由可《イヅクユカ》。斯和何伎多利斯《シワカキタリシ》。【一云。都禰奈利之。惠麻比麻欲毘伎。散久伴奈能宇。都呂比尓家利。余乃奈可伴。可久乃未奈良之。】麻周羅遠乃《マスラヲノ》。遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》。都流伎多智《ツルギダチ》。許志爾刀利波枳《コシニトリハキ》。佐都由美乎《サツユミヲ》。多爾伎利物知提《タニギリモチテ》。阿迦胡麻爾《アカゴマニ》。志都久良宇知意伎《シヅクラウチオキ》。波比能利提《ハヒノリテ》。阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》。余乃奈迦野《ヨノナカヤ》。都禰爾阿利家留《ツネニアリケル》。遠等呼良何《ヲトメラガ》。佐那周伊多斗乎《サナスイタドヲ》。意斯比良伎《オシヒラキ》。伊多度利與利提《イタドリヨリテ》。麻多麻提乃《マタマデノ》。多麻提佐斯迦閉《タマデサシカヘ》。佐禰斯欲能《サネシヨノ》。伊久陀母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》。多都可豆惠《タツカヅヱ》。許志爾多何禰提《コシニタガネテ》。可久由《カクユ》既《ケ・キ》婆《バ》。比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》。可久由《カクユ》既《ケ・キ》婆《バ》。比等爾邇久麻延《ヒトニニクマエ》。意余斯遠波《オヨシヲバ》。迦久能尾奈良志《カクノミナラシ》。多麻枳波流《タマキハル》。伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》。世武周弊母奈斯《セムスベモナシ》。)
 
(39)周弊奈伎物能波《スベナキモノハ》。
せんすべなきものはといふにて、せんかたなきをいへり。
 
奈何流流其等斯《ナガルヽゴトシ》。
文選孔融論2盛孝章1書に、歳月不v居、時節如v流云々とありて、こゝも年月のとゞまらざる事、水の流るゝがごとしといふなり。
 
等利都都伎《トリツヅキ》。
九【卅六丁】に、取次寸追去祁禮婆《トリツヾキオヒユキケレバ》云々ともありて、年月の流るゝごとく早く行すぐるに、とりつゞきて追來るものは、一いろ二いろならず、いくらも憂き事の重なりて、責寄來るといふなり。これこの一首の大意にして、これよりは、男女ともに盛りなりしが、おとろへ行くさまをいへり。
 
遠等※[口+羊]良何《ヲトメラガ》。遠等※[口+羊]佐備周等《ヲトメサビスト》。
佐備《サビ》は、上【攷證一下八丁】の神佐備《カムサビ》の所にいへるが如く、めかす意にて、神さびは、神めきたる意、こゝのをとめさびは、お《(マヽ)》とめめかす意なり。考に、進《スサミ》の意とせられしは當らず。さてこゝのつゞけ、政事要略卷二十七に、五節舞者、淨御原天皇之所v制也。相傳曰、天皇御2吉野宮1、日暮弾琴有v興、俄爾之間、前岫之下、雲氣忽起、疑如2高唐1、神女髣髴、應v曲面舞、獨入2天矚1、他人無v見、擧v袖五變、故謂2之五節1。其歌臼、乎度錦度茂《ヲトメトモ》、邑度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》、可良多萬乎《カラタマヲ》、多茂度邇麻岐底《タモトニマキテ》、乎度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》とあるに似たり。かの五節の舞の事は、天平十五年五月の紀にはじめて見えたるぞ、正しき説なるを、神女の舞つるよしあるは、とるにもたらざる事ながら、いと古き傳説なる事は、宣長の詔詞解卷二に辨ぜられつるが如し。さればかの乎度綿度茂《ヲトメトモ》の歌は、天平の時作らせ給べければ、この憶良の歌よりは後にて、もしはこの歌などゝりて作らせ給へるにはあらざるか。さて※[口+羊]の(40)字、二つながら、今本、呼に作れり。誤りなる事しるければ、意改せり。代匠記に引る幽齋本、別校本なども、※[口+羊]に作れり。
 
可羅多麻乎《カラタマヲ》。
韓玉也。實に韓のものならずとも、韓衣、韓錦などの類にて、韓などゝいひて、賞る言とはしたり。
 
多母等爾麻可志《タモトニマカシ》。
手本に爲纏《マカシ》にて、これ手玉なり。手玉の事、上【攷證二中廿二丁】にいへり。
 
或有2此句1云。
あるはこの間にこの句ありといふ也。
 
之路多倍乃《シロタヘノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】に出たり。
 
袖布利可伴之《ソデフリカハシ》。
たがひに袖をふりかはしたづさ(は脱カ)れるをいへり。印本、伴を佯に誤れり。今|活《(マヽ)》に依て改む。
 
阿可毛須蘇毘伎《アカモスソヒキ》。
裳は裾の長ければ、すそひくとよめる、いと多し。
 
余知古良等《ヨチコラト》。
十四【十七丁】に、許乃河泊爾安佐奈安良布兒《コノカハニアサナアラフコ》、奈禮毛安禮毛《ナレモアレモ》、余知《ヨチ》【この余知を印本知余に誤れり。今諸本に依て改む。】乎曾母※[氏/一]流《ヲソモテル》、伊低兒多婆里爾《イテコタハリニ》。十六【七丁】に、丹因子等何四千庭《ニヨレルコラガヨチニハ》、三名之綿蚊黒爲髪尾《ミナノワタカクロナルカミヲ》、借櫛持於是蚊寸垂《マクシモテコヽニカキタレ》云々などあるも、同語なれど、さだかには解しがたし。代匠記に、イヅレモヨクハ知ラレネド、イカサマニモ同ジ程ナル童子童女ノ間ニイヘル詞ト聞ユ云々。(41)宣長云、同じころほひの子等をいふ云々。久老云、吾郷の俚言に、小兒の面など拭ひやるを、よちするといへる、これ也。よろしきをいふ言也云々。これらの説、いづれも解得たりともおぼえねど、予はしばらく代匠記の説によりなん。
 
手多豆佐波利提《テタヅサハリテ》。
手を引あひなどして遊びゆくさま也。上【攷證二下九丁】袖携《ソデタヅサハリ》の所、考へ合すべし。八【五十二丁】に、妹與吾手携拂而《イモトワレテタヅサハリテ》、旦者庭爾出立《アシタニハニハニイデタチ》云々。十七【四十二丁】に、由布佐禮婆《ユフサレバ》、手多豆佐波利底《テタヅサハリテ》、伊美豆河波《イミヅガハ》、吉欲伎可布知爾《キヨキカフチニ》、伊泥多知底《イデタチテ》云々などあり。
 
等伎能佐迦利乎《トキノサカリヲ》。
十七【廿七丁】に、時盛乎《トキノサカリヲ》、伊多豆良爾《イタヅラニ》、須具之夜里都禮《スグシヤリツレ》云々。十八【廿六丁】に、春花能佐可里裳安良多之家牟等吉能沙加利曾《ハルハナノサカリモアラタシケムトキノサカリソ》云々などありて、若き時のさかりをいふ。
 
等等尾迦禰《トドミカネ》。
みとめと音通へば、とゞめかねてといふに同じ。上【攷證三下五十五丁】にいへり。
 
周具斯野利都禮《スグシヤリツレ》。
かくの如く、上にこそなくして、れとうくるてにをはの事は、上【攷證二中十丁】にいへり。みな、下にばをそへて聞意也。
 
美奈乃和多《ミナノワタ》。
枕詞なり。こは和名抄魚鳥類に、背腸者美奈和太也。或説云、謂v背爲v皆訛也【これ延喜主計式にも出たるものなり。】とあるものにて、色黒きものなれば、しかつゞけし也。ま(42)た十三【廿丁】に、蜷腸香黒髪丹《ミナノワタカグロキカミニ》云々とある、蜷は、新撰字鏡に、蜷爾奈【爾と美と音通也。】とありて、和名抄龜貝類に、河貝子、和名美奈、俗用2蜷字1非也云々とあるものにて、本草に蝸羸ともありて、こは今江戸にては、からす貝と呼て、長さ一寸ばかりにて、寄居子《ガウナ》に似て、川にも田にも多かる貝なれど、その形ち小さければ、その腸の色を以て枕詞とすべきものともおぼえず。されば十三の卷に、蜷《ミナノ》腸とあるは借字なるべし。猶予が冠辭考補正にいふべし。
 
迦具漏伎可美爾《カグロキカミニ》。
迦は發語なり。このつゞけ、集中五所【七、廿七丁。十三、廿丁。十五、十七丁。十六、八丁。】あり。
 
斯毛乃布利家武《シモノフリケム》。
白髪を霜にたとへし也。集中いと多し。
 
久禮奈爲能《クレナヰノ》。
丹著妹《ニツカフイモ》、赤根刺君《アカネサスキミ》、赤羅引子《アカラヒクコ》などいふ類にて、紅顔をいふ也。
 
爾能保奈酒《ニノホナス》。
これも意は右と同じつゞけにて、紅顔をいふ。爾は丹、保は秀にて、色にあらはるゝをいふなる事、上【攷證一下七十一丁】栲の穗の所にくはしくいへり。
 
伊豆久由可《イヅクユカ》。
由は從の意也。集中いと多し。
 
斯和何伎多利斯《シワカキタリシ》。
九【十九丁】に、若有之皮毛皺奴《ワカカリシカハモシワミヌ》云々。新撰字鏡に、〓、徂驟反、去縮也、麻同字、比太、又志和牟。和名抄肌肉類に、〓、和名之和とあり。代匠記に、(43)皺掻垂《シワカキタリ》シナリ。皺ト云モノヽ、イヅクニ有テカ、今面ニ出來テ、カキタルヽトナリ。カキハ詞ナリ。タルヽトハ、肉ノ薄ラギテ、皺ノイデクレバ、皮ノ垂リサガル意ナリ。何所《イヅク》ユカト云ヘバ、皺ガ來リシトモ意得ツベケレド、唯初ノ意ナルベシ云々といはれつるが如し。略解に、何をこゝは濁言にのみ用ひたれば、いづくゆか皺が來りLといふかともおぼゆれど、古語の體にあらず云々。この説のごとく、何は多く濁音に用ひたる字なれど、提要にいへるがごとく、清濁はさだかならざるものなれば、ひたすらなづむべからず。さてこゝまでは、女のうへをいひて、こゝより男のうへをいへり。
 
一云。
この一云の六句は、三【五十八丁】の卷の、安積皇子の薨給ひし時、家持卿の作られし長歌二首の、後の歌と似たる所多かり。家持卿、この歌をとられしにか。
 
惠麻比麻欲毘伎《ヱマヒマヨビキ》。
惠麻比《ヱマヒ》は、ゑみを延たる言、麻欲毘伎《マヨビキ》は、六【廿九丁】に、一目見之人之眉引所念可聞《ヒトメミシヒトノマヨビキオモホユルカモ》。十一【十七丁】に、歡三跡咲牟眉曳所思鴨《ウレシミトヱマムマヨヒキオモホユルカモ》。十二日に、再麻子
之咲眉引、面影懸而本名祈念可毛。十九【七丁】に、於吉都奈美等乎牟麻欲比伎《オキツナミトヲムマヨヒキ》云々などありて、書紀仲哀紀に、譬如2美女之※[目+碌の旁]1、有2向津國1。※[目+碌の旁]、此云2麻用弭枳《マヨビキ》1云々と見えたり。こは古事記中卷御歌に、麻用賀岐許邇加岐多禮《マヨカキコニカキタレ》云々。和名抄容飾具に、黛、和名萬由須美云々。説文に、騰畫眉也云々などあるが如く、古しへも、まゆずみして、眉を畫たるものにて、則その眉を引たるを、まよびきとはいふ也。さてこゝと十二卷なるとは、ゑめると眉を引たる顔ばせと、二つをいふなり。
 
(44)遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》。
こゝより下は、男のうへをいへり。佐備は、をとめさびと同じく、めかす意なり。さて、女のうへは、外をいひしかど、男は自らのうへをいへり。
 
都流伎多智《ツルギダチ》。
利き刀をいへる事、上【攷證三下六十三丁】にいへり。このつゞきも、三【五十九丁】の卷の、安積皇于薨時の長歌と似たり。この歌をとられつるか。
 
佐都由美乎《サツユミヲ》。
上【攷證一下四十八丁】得物矢《サツヤ》の所にいへるが如く、幸弓の意にて、物を得るよしの名なり。
 
多爾伎利物知提《タニギリモチテ》。
手把持而なり。二十【五十丁】に、波自由美乎多爾藝利母多之《ハジユミヲタニギリモタシ》云々ともあり。
 
阿迦胡麻爾《アカゴマニ》。
赤駒なり。集中いと多し。
 
志都久良宇知意伎《シヅクラウチオキ》。
志都久良は、和名抄鞍馬具に、※[革+薦]、和名之太久良とある、これにて、【猶このしづくらは類聚延喜式などにも見えたり。】後には切付といふものなり。下《シタ》をしづといふは、下枝をしづえといふ類にて、下《シタ》つ鞍《クラ》の略也。さてこゝに、下鞍をしも、わきいひ出しは、憶良貧窮問答の歌さへよまれたる如く、貧しかりしかば、馬具にも事かきて、下鞍のみおくよしの意にて、これきはめて乘あしきものなるべければ、匐騎《ハヒノル》とさへいはれつるなるべし。また或人の説に、賤鞍の意にて、いやしき鞍をいふならんといへり。舊本今昔物語二十五に、賤ノ鞍といふありて、(45)また二十九に賤ノ弓胡|録《(マヽ)》といふもあれど、猶こゝは下つ鞍の意なるべし。
 
余乃奈迦野《ヨノナカヤ》。
野を、のゝ假字に用ひし事、十八の卷【九丁、廿五丁】に二所あれど、こゝは必ず、やと訓べし。こは、やはの意のやにて、世の中や常にありける、常ならず、かはりゆくもの也といふ意にて、こゝにて句を切て、こゝより下は、盛りなりし時、女とかたらひしが、早く老ぬるよしをいへり。
 
佐那周伊多斗乎《サナスイタドヲ》。
佐《サ》は發語、那周《ナス》は鳴《ナラ》す事なる事、古事記上卷【八千矛神】御歌に、遠登賣能那須夜伊多斗遠《ヲトメノナスヤイタドヲ》、淤曾夫良比《オソブラヒ》、和何多々勢禮婆《ワガタヽセレバ》云々とあるにてしるべし。さて古しへは、専ら開戸にて、開るにも閉るにも音ある故にて、鳴《ナ》すといひて、やがて閉る事とはせしにて、こゝもをとめらが閉《サ》す板戸をといふ意なり。本集十一【廿四丁】に、奥山之眞木之板戸乎音速見《オクヤマノマキノイタドヲオトハヤミ》、妹之當乃霜上爾宿奴《イモガアタリノシモノヘニネヌ》。十四【廿一丁】に、眞木乃伊多度乎《マキノイタドヲ》、等杼登之※[氏/一]《トドトシテ》、和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》云々などあるにて、音あるをしるべし。
 
伊多度利與利提《イタドリヨリテ》。
伊は發語にて、たどり寄るなり。
 
麻多麻提乃《マタマデノ》。
摩《マ》は眞にて、玉は例の賞る言にて、女の手をいふ。八【卅三丁】に、眞玉手乃玉手指更、餘宿毛寐而師可聞云々などもあり。古事記上卷【沼河日賣】御歌に、麻多麻傳多摩傳佐斯麻岐《マタマデタマデサシマキ》云々ともあり。
 
(46)多麻提佐斯迦閉《タマデサシカヘ》。
上【攷證三下六十七丁】袖指|可倍※[氏/一]《カヘテ》とある所にいへるが如く、さしかはす意也。書紀繼體紀【勾大兄皇子】御歌に、莽紀佐具避能伊陀圖嗚《マキサクヒノイタドヲ》、飫斯毘羅枳《オシヒラキ》【中略】伊慕我提嗚倭例※[人偏+爾]魔佳※[糸+施の旁]毎《イモガテヲワレニマカシメ》、倭我堤嗚麼伊慕※[人偏+爾]魔柯※[糸+施の旁]毎《ワガテヲナイモニマカシメ》云々とあるに似たり。
 
佐禰斯欲能《サネシヨノ》。
佐は發語にて、寢し夜の也。集中いと多し。
 
伊久陀母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》。
伊久陀母《イクダモ》は、いくらもといふに同じ。上【攷證二中八丁】に出たり。禰婆《ネバ》は、ぬにの意なる事、上【攷證二下卅丁】にいへるが如く、こゝは寢し夜はいくらもあらぬにの意なり。
 
多都可豆惠《タツカツヱ》。
古事記に十拳劍《トツカツルギ》、書紀に十握劍《トツカツルギ》などの、拳も握も、搏《ツカム》をつかとのみいへば、多都可豆惠《タツカツヱ》も、手握杖にて、手束弓といふと同じ。手束弓《タツカユミ》は十九【四十丁】に見えたり。
 
許志爾多何禰提《コシニタガネテ》。
代匠記に、多《タ》ト都《ツ》ト通ズレバ、腰ニ束ネヲ支フルナリといはれつるが如くなるべし。多何禰といふ言、外に語例なければ、さだかには知がたし。
 
(47)可久由《カクユ》既《ケ・キ》婆《バ》。
彼往此去《カユキカクユキ》【二ノ卅三丁・十七ノ卅六丁】此方彼方毛《カニモカクニモ》【集中いと多し。】などいふ、かくと同じく、此方へゆけば人にいとはれ、また此方へゆけば人に惡まれなどすといふ也。
 
比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》。
延はれの意也。此卷【廿丁】に、美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》云々。また【廿六丁】和周良延爾家利《ワスラエニケリ》。十四【廿九丁】に、波伴爾許呂波要《ハハニコロハエ》などありて、集中猶多し。
 
意余斯遠波《オヨシヲバ》。
代匠記に、遠ハ助語ニテ、斯ト曾ト通ズレバ、オヨソハナリ。世間難v住、大※[既/木]如v斯ト云ハンガ如シ云々。略解に、およしをばは、老し人をばといふ也と翁はいはれつれど、猶おだやかならず。およそは也と契沖がいへるによらんか云々といへるが如し。
 
伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》。
命をしけれどの、れを略けり。このれもじを略ける事は、上【攷證二中十丁】にいへり。
 
反歌。
 
805 (等伎波奈周《トキハナス》。迦久斯母何母等《カクシモガモト》。意母閉騰母《オモヘドモ》。余能許等奈禮婆《ヨノコトナレバ》。等登尾可禰都母《トドミカネツモ》。)
 
等伎波奈周《トキハナス》。
奈周《ナス》は、如くの意にて、常磐成也。上【攷證三上七十四丁】に出たり。
 
(48)迦久斯母何母等《カクシモガモト》。
今本、何母の二字を脱せり。今、拾穗本に依て補ふ。さて何母《ガモ》は願ふ詞にて、如此あれかしとおもへどもといふ也。
 
余能許等奈禮婆《ヨノコトナレバ》。
世の中の理《コトワリ》なればの意也。上【攷證三下七十丁】に出たり。
 
等登尾可禰都母《トドミカネツモ》。
等登尾《トドミ》は、とゞめといふに同じ。まへの長歌に出たり。都母《ツモ》の母は助辭也。一首の意は、常磐の如く、いつも如此てあれかしと思へども、人世定りなきは世のことわりなれば、身をも命をもとゞめかねたりと也。
 
神龜五年七月二十一日。於2嘉摩郡1撰定。筑前國守山上憶良。
 
こは、まへの長歌反歌の左注也。嘉摩郡は、和名抄郡名に、筑前國嘉麻【加麻】とあり。撰定は、この歌を撰び定め作れりといふなり。
目録、この間に、太宰帥大伴卿相聞歌二首、答歌二首とあり。こゝにこの端辭のありしが、脱したるか。またもとより無にてもあるべし。
 
伏辱2來書1。具承2芳旨1。忽成2隔漢之戀1。復傷2抱梁之意1。唯〓。去留無v恙。遂待2披雲1耳。
 
(49)伏辱2來書1。
この書牘は、京人へ旅人卿よりの返簡なり。辱はかたじけなき意にて、書の來る事を、かたじけなしといふ也。
 
具承2芳旨1。
玉篇に、芳、香氣貌。旨、意思とありて、香はしき意といふにて、書を贈れる人に對して、仰を承はるをいふ也。
 
忽成2隔v漢之戀1。
隔漢とは、牽牛織女|銀漢《アマノカハ》を隔てゝ、常に戀居るを、吾海山を隔てゝ都人を戀らるゝにたとへたり。牛上士古駿賦に、疑2隔v漢之流星1、似2披v雲而出電1云云とあり。
 
復傷2抱v梁之意1。
莊手盗跖篇に、尾生與2女子1期2於梁下1。女子不v來、水至不v去、抱2梁下1而死云々。この故事をちぎりのわすれがたきにたとへたり。
 
唯〓。
〓は羨の俗體なり。隷辨に、説文、羨從v※[さんずい+欠]。※[さんずい+欠]讀若2涎碑1。譌從v次、今俗因v之と見えたり。さて玉篇に、羨、貪欲也とありて、こゝはたゞ欲るはといふにて、ねがふ意也。略解に、羨は冀の誤りかといへるはいかゞ。
 
無v恙《ツヽミ》。
爾雅釋詁に、恙、憂也。注に、今人云、無v恙謂v無v憂也云々とある如く、うれふる事なきを無v恙とはいふ也。さるを、神異經に、北方大荒中有v獣、唯v人則疾、名曰v※[獣偏+恙]。※[獣偏+恙]恙也。甞入2入室屋1、黄帝殺v之、人無v憂v疾、謂2之無1v恙云々。匡謬正俗に、風俗通を引て、恙噬v人蟲也云々などいふ説あれど、こは誤りなる事、輟耕録卷四に辨ぜり。さて、これを、(50)中古より、つゝがなしといひて、宇津保物語藏開卷に、いさゝかの足手のつゝがもあらば、朝臣のすると思はんと、いとせちにゑじたまへば云々。源氏物語匂宮卷に、我身につゝがあるこゝちする、たゞならず云々。また東屋卷に、つゝがなくて思ふ事みなさんと思ひ云々などあれど、古くはつゝみなくとのみいへり。この事、下【攷證五中四十六丁】にいふべし。
 
遂待2披雲1耳。
中論に、文王遇2姜公於渭陽1、灼然如3披v雲見2白日1云々とあるより、人に逢を尊みて、披雲とはいへり。
 
歌詞兩首。【太宰帥大伴卿。】
 
歌詞兩首は、歌二首といはんが如し。この二首は、小注にいへるが如く、旅人卿の歌なり。
 
806 (多都能馬母《タツノマモ》。伊麻勿愛弖之可《イマモエテシガ》。阿遠爾與志《アヲニヨシ》。奈良乃美夜古爾《ナラノミヤコニ》。由吉帝己牟丹米《ユキテコムタメ》。)
 
多都能馬母《タツノマモ》。
龍の馬も也。駿馬をいふ。延喜六年曰本紀竟宴、三善清行歌に、斗都惠阿末理夜都惠遠胡遊流《トツヱアマリヤツヱヲコユル》、多津能胡麻《タツノコマ》、幾美須佐米然婆《キミスサメネバ》、於伊波傳奴弊志《オイハテヌベシ》とありて、爾雅釋畜に、馬高八尺爲v龍とあり。さて龍をたつといふは、新撰字鏡に、龍膽、太豆乃伊久佐。和名抄龍魚類に、龍、和名太都とあり。
 
(51)伊麻勿愛弖之可《イマモエテシガ》。
可《ガ》は願ふ意の言也。上【攷證三中七十八丁】にいへり。一首の意は、いかで駿馬をいま得るわざもがな。奈良京にとく行て、とくかへらん、そのためにといふなり。
 
807 (宇豆都仁波《ウツヽニハ》。安布余志勿奈子《アフヨシモナシ》。奴波多麻能《ヌバタマノ》。用流能伊昧仁越《ヨルノイメニヲ》。都伎提美延許曾《ツギテミエコソ》。)
 
宇豆都仁波《ウツヽニハ》。
現には也。上【攷證四下四十七丁】に出たり。十一【十七丁】に、寤者相縁毛無《ウツヽニハアフヨシモナシ》、夢谷《イメニダニ》、間無見君《マナクミムキミ》、戀爾可死《コヒニシヌベシ》ともあり。
 
用流能伊昧仁越《ヨルノイメニヲ》。
越《ヲ》は助辭なり。この事上【攷證三中三十二丁】にいへり。
 
都伎提美延許曾《ツギテミエコソ》。
都伎提《ツギテ》は、繼而《ツヾキテ》の意、許曾《コソ》は願ふ意の詞にて、上【攷證四中十七丁】に出たり。十二【廿九丁】に、空蝉之人目繁者《ウツセミノヒトメシゲヽバ》、夜干玉之夜夢乎《ヌバタマノヨルノイメニヲ》、次而所見欲《ツギテミエコソ》ともあり。一首の意は、道の遠ければ、現に相よしなければ、せめて夢にだにもつゞきて見えよかしといふなり。
 
答歌二首。
 
(52)こは前の二首に答へたる歌也。作者、京人なるべけれど、誰とも知がたし。
 
808 多都乃麻乎《タツノマヲ》。(阿禮波毛等米牟《アレハモトメム》。阿遠爾與志《アヲニヨシ》。奈良乃美夜古爾《ナラノミヤコニ》。許牟比等乃多仁《コムヒトノタニ》。)
 
多仁は、爲爾《タメニ》のめを略せる也。續日本紀、天平勝寶元年四月詔に、種々法中爾波《クサ/\ノノリノナカニハ》、佛大御言之《ホトケノオホミコトシ》、國家護我多仁波《ミカドマモルガタニハ》、勝在止聞召《スグレタリトキコシメシテ》云々とあるも、ためにはの略にて、こゝと同じ。さるを、略解に、一本によれりとて、仁を米に改めつるは非なり。一首の意、明らけし。
 
809 多陀爾阿波須《タヾニアハズ》。(阿良久毛於保久《アラクモオホク》。志岐多閉乃《シキタヘノ》。麻久良佐良受提《マクラサラズテ》。伊米爾之美延牟《イメニシミエム》。)
 
阿良久毛於保久《アラクモオホク》。
良久は、るを延たる言、於保久《オホク》の久《ク》は之《シ》の誤りなるべしと宣長いはれたり。いかにもさる事なれど、さる本もあらざれば、しばらく改る事なし。
 
麻久良佐良受提《マクラサラズテ》。
枕不v離而《マクラサラズテ》なり。一首の意は、現に直に逢ずしてある月日の重なれば、せめて夢にだに枕さらずして、夜ごとに見えなんといふにて、まへの(53)歌に、夜るの夢にをつぎて見えこそとあるにこたへたり。
 
大伴淡等謹状。
 
これ旅人の文字を替たるのみにて、宇合卿を、馬養.馬飼など書る類なり。さるを、公卿補任に、大伴旅人、天平二年十月一日任2大納言1、改2名淡等1云々とあるは誤れり。旅人と書るも、淡等と書るも、文字のかはれるのみ、訓はかはらざるをや。さて旅人卿の事は、上【攷證三上六十三丁】に出たり。さて、これを、諸注、みな、まへの贈答の歌につけて見るによりて論あれど、こは日本琴歌のはじめに書るなれば、論もなきものをや。謹状は、書牘のはじめにも後にもしるす事、常の事なり。性靈集與2渤海王子1書、本朝文粹法皇賜2渤海裴遡1書、清慎公報2呉越王1書、右丞相贈2大唐呉越公1書など、みな謹状と書り。
 
梧桐日本琴一面。【對馬結石山孫枝也。】
 
梧桐。
大觀本草に、陶隱居云、桐樹有2四種1、青桐、葉皮青似v梧而無v子。梧桐、色白葉似2青桐1而有v子。【中略】禮云、桐始華者也。崗桐、無v子、是作2琴瑟1者云々。本草和名に、桐、和名岐利乃岐とあり。この木もて琴を作る事は、毛詩※[庸+おおざと]風に、椅桐梓漆、爰伐2琴瑟1云々。尚書禹貢傳に、〓山特生之桐中2琴瑟1云々。桓譚新論に、神農氏王2天下1、始削v桐爲v瑟云々。宇津保(54)物語俊蔭卷に、末はそらにつき、枝はとなりの國にさせるきりの木をたふして、わりご作るものあり。【中略】たふさるゝ木のかたはしをたまはりて、としごろらうせる父母に、ことの音をきかせて、そのむくいとなさんといふ時に云々。枕草子に、桐の花、紫にさきたるはなほをかしきを、葉のひろごりざまこそ、うたてこちたけれ。【中略】ことに作りて、さま/”\なるねの出くるなど、をかしとはよのつねにいふべくやはある云々などあり。
 
日本琴《ヤマトゴト》。
和名抄琴瑟類に、萬葉集云、梧桐日本琴一面、天平元年十月七日、大伴淡等附2使監1、贈2中將衛督房前卿1之書所v記也。體似v筝而短小、有2六絃1。俗用2倭琴二字1、夜萬止古止云々とある如く、集中和琴【七ノ十丁】とも、倭琴【十六ノ廿三丁】とも書る、皆おなじもの也。こは、筝、新羅琴などにむかへたる名也。
 
對馬結石山|孫枝《ひこばえ》也。
結石山は、郡、考へがたし。孫枝は、文選稽康琴賦に、乃斷2孫枝1、准2量所1v任、至人※[手偏+慮]v思、制爲2雅琴1云々。銑注に、孫枝側生枝也とある如く、かたはらに生たる枝をいへり。されば、ひこばえと訓べし。和名抄木具に、蘖、和名比古波衣とあり。孫生《ヒコバエ》の意也。新撰字鏡に、※[草がんむり/夷]、死木更生、比古波由、〓穀亦更生、比古波江ともあり。也の字、印本なし。今諸本によりて補ふ。
 
此琴夢化2娘子1(曰。余託2根遙島之崇※[亦/山]1。晞2〓九陽之休光1。長帶2煙(55)霞1。逍2遙山川之阿1。遠望2風波1。出2入鴈木之間1。 唯恐。百年之後。空朽2溝壑1。偶遭2良匠1。散爲2小琴1。不v顧2質麁音少1。恒希2君子左琴1。即歌曰。)
 
余託2根遙島之崇※[亦/山]1。
金は我なり。遙島は、對馬をいひて、はるかなる島といふ也。崇※[亦/山]は、重なる峯をいふ。何承天詩に、※[手偏+〓]2童幼1升2崇巒1云々とあり。こゝに※[亦/山]と書るは、蠻を蛮とかき、鸞を※[亦/鳥]と書る類にて、中國の省字なるべし。託根は生を寄るなり。文選呂安與2※[禾+(尤/山)]叔夜1書に、北土之性難2以託1v根云々とあり。さて、こゝの文、※[禾+(尤/山)]康琴賦に、惟椅桐之所v生兮、託2峻嶽之崇岡1云々とあるをとれり。
 
晞2〓九陽之休光1。
晞は乾《カハカス》なり。〓は幹の俗字なるべし。文選琴賦、李善注に、幹本也とあり。九陽は、琴賦翰注に、九陽數也、陽日也とあり。休光は、同賦良注に、休美也とありて、こゝは、幹《モト》を日の美《ヨキ》光に乾《カハカス》といふ也。さてこゝも、琴賦に、含2天地之醇和1兮、吸2日月之休光1、鬱紛々以獨茂兮、飛2英〓於昊蒼1、夕納2景于虞淵1兮、旦晞2幹於九陽1云々とあるをとれり。
 
(56)長帶2烟霞1。
長は久しき意。煙霞は、たゞ霞をいふ。煙烟同字なり。あぐるにいとまなし。
 
逍2遙山川之阿1。
阿は隈《クマ》なり。逍遙は、楚辭湘君篇注に、逍遙、遊戯也と見えたり。
 
出2入鴈木之間1。
鴈木は、莊子山木篇に、莊子行2於山中1、見2大木枝葉盛茂1。伐v木者止2其旁1、全不v取也。問2其故1、曰、無v所v可v用。莊子曰、此木以2不材1、得v終2其天年1。夫子出2於山1、舍2於故人之家1、故人喜命2豎子1、殺v鴈而烹v之。豎子請曰、其一能鳴、其一不v能v鳴、請奚殺。主人曰、殺2不v能v鳴者1。明日弟子問2於莊子1曰、咋日山中之木、以2不材1得v終2其天年1、今主人之鴈、以2不材1死。先生將2何處1。莊子笑曰、周將v處d夫材與2不材1之間u云々とある故事にて、用ゐらるゝと用ひられざるとの間にある事をいへり。南史檀道濟傳論に、道濟始因v録用、故得v忘v瑕、晩因2大名1、以至2顛覆1。韶祗克傳〓嗣2其木鴈之間1乎云云。本朝文粹江相公詩序に、如v臣者、久積2草螢之耀1、漸老2木鴈之間1云々なども見えたり。
 
空朽2溝壑1。
溝壑は、玉篇に、壑、深也、※[おおざと+亢]也、塹也とありて、こゝには、むなしく溝などに埋れ朽はてん事をいふ也。史記范雎列傳に、王※[禾+(尤/山)]謂2范雎1曰、使3臣卒然填2溝壑1、是事之不v可v知者云々。晋書皇甫謐傳に、年邁齒變、饑寒不v膽、轉2死溝1、其誰知乎云々などありて、猶諸書に多し。さて、今本、壑を〓に誤れり。今代匠記に引る官本、拾穂本などによりて改む。
 
偶遭2良匠1。散爲2小琴1。
たまれ(れ、衍カ)/\よき工に逢て、木づくりて和琴となれりと也。
 
(57)不v顧2質麁音少1。
質は性質をいふ。こはおのれ性質おろそかにして、且音少きをもかへり見ず、よき人のかたはらに在ん琴とならん事のねがはしと也。
 
恒希2君子左琴1。
古列女傳卷二に、左琴右書、樂亦在2其中1矣云々とあり。
 
810 伊可爾安良武《イカニアラム》。(日能等伎爾可母《ヒノトキニカモ》。許惠之良武《コヱシラム》。比等能比射乃倍《ヒトノヒザノヘ》。和我摩久良可武《ワガマクラカム》。)
 
日能等伎爾可母《ヒノトキニカモ》。
十二【七丁】に、何日之時可毛《イカナラムヒノトキニカモ》、吾妹子之裳引之容儀《ワギモコガモビキノスガタ》、朝爾食爾將見《アサニケニミム》ともありて、いかならん日の、いかならん時にかもといふ意なり。
 
許惠之良武《コヱシラム》。
聲をよく聞わくるをいふ。列子にいへる、伯牙よく琴をひき、鍾子期よく聞しれる類也。
 
比等能比射乃倍《ヒトノヒザノヘ》。
比射《ヒザ》は、和名抄手足類に、膝、比佐とあり。倍《ヘ》は上《ウヘ》の略也。この事、上【攷證二上四丁】にいへり。七【卅二丁】日本琴歌に、伏膝玉之小琴之《ヒザ〓フスタマノヲゴトノ》云々ともあり。
 
和我摩久良可武《ワガマクラカム》。
こは枕將纏《マクラマカム》の略言也。上【攷證三上廿六丁】に出たり。一首の意は明らけし。
 
僕報2詩詠1曰。
 
(58)僕は、われと訓べし。これを、遊仙窟に、やつがれと訓り。やつがれは、やつこわれのつゞまりなるべければ、こゝにもよく叶ひたれど、やつがれといふ言、古くものに見えざれば、とりがたし。代匠記に、歌ヲ詩ト云コト、此ヲ初ヲ下ニモ見エタリ。稱徳紀ニ、由義宮ニテノ歌垣ノ事ヲ載タル所ニ、歌一首ヲアゲテ後ニ云ハク、其餘四首並是古詩也、不2復煩載1トイヘルモ、歌ヲ詩ト云證ナリ云々といはれたるが如し。
 
811 許等等波奴《コトヽハヌ》。(樹爾波安里等母《キニハアリトモ》。宇流波之吉《ウルハシキ》。伎美我手奈禮能《キミガタナレノ》。許等爾之安流倍志《コトニシアルベシ》。)
 
許等等波奴《コトヽハヌ》。
ことゝはぬは、上【攷證二中四十六丁】にいへるが如く、物いはぬ事にて、四【五十七丁】に、事不問木尚味狹監《コトヽハヌキスラアヂサヰ》云々ともあり。草木ものいはざれば也。
 
宇流波之吉《ウルハシキ》。
親み愛する言なり。この事、上【攷證四中四十五丁】にいへり。
 
伎美我手奈禮能《キミガタナレノ》。
手奈禮《タナレ》は手馴なり。さて、印本、手を〓に誤れり。こは手の旁にテの假字を付たるを見まがへて、一字となせるにて、誤りなる事しるければ、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。一首の意は、君とさせるは娘子にて、うるはしき君が手ならす琴にてあらんといふ也。
 
(59)琴娘子答曰。
 
敬奉2徳音1。幸甚幸甚。片時覺。即感2於夢言1。慨然不v得2黙止1。故附2公使1。聊以進御耳。謹状不具。
 
敬奉2徳音1。
毛詩谷風に、徳音莫v違、及v爾同v死云々。禮記□に、天下大定、然後正2六律1、和2五聲1、弦歌詩頌、此之謂2徳音1云々などありて、こゝはまへの歌をさせり。
 
幸甚幸甚。
文選李少卿答2蘇武1書に、子卿足下、勤2宣令徳1策2名清明1、榮問休暢、幸甚幸甚云々とあり。猶、書牘にいと多し。皆さきはひはなはだし、さきはひはなはだしといへるにて、これまでは娘子の答る言、こゝより下は旅人卿の書牘の文なり。
 
片時覺。
こゝより下は、旅人卿書牘の文なり。
 
慨然。
玉篇に、慨、大息也とある如く、感ずる意にて、この夢さめて、娘子が言を感じて、たゞに止事を得ず、この事を公使のたよりに附て、しるしまゐらすといふ也。
 
聊以進御耳。
琴賦に、進2御君子1、新聲※[立心偏+樛の旁]亮云々。濟注に、御、用也、言d進2用於君子1則薪聲※[立心偏+樛の旁]亮u也云々とあるごとく、進用《スヽメモチフ》るにて、まゐらするをいふ也。
 
(60)謹状不具。
不具は、書牘の終りに書事にて、謙退の辭也。不備、不宣など書るも同じ。これらの事、翰墨全書にくはしくせり。さて、今本、この四宇を小字とせり。書牘の例、小字なるべきいはれなければ、今、意改して大字とせり。既に拾穗本には大字にて、不具謹状とあり。これもあしからず。すべてこの書牘の中なる二首の歌、もとは文中につゞけてしるしありけんを、この集は歌を專らとする故、歌は別行しるせしものなるべし。
 
天平元年十月七日。附v使進上。
 
謹通2 中衛高明閤下1。謹空。
中衛は、續日本紀に、神龜五年八月甲子勅、始【中略】置2中衛府1。大將一人【從四位上】少將一人【從五位上】將監四人【從六位上】將曹四人【從七位上】府生六人、番長六人、中衛三百人【號曰東舍人】使部已下、亦有v數。其職掌、常在2大内1、以備2周衛1、事並在v格とありて、この時、房前卿、中衛大將になられしなるべし。房前卿の傳は、下にあぐべし。日本紀略に、大同二年四月己卯、詔、近衛府者爲2左近衛1、中衛府者爲2右近衛1云云とありて、この時、中衛の職名を改められたり。さて、公卿補任に、藤原房前、天平二年月日、任2中衛大將1とあるは、この集とたがひて誤れり。高明は、高く明らかなりと、其人の徳を稱して、尊稱の詞也。閤下も同じく尊稱の詞なり。代匠記、略解など、閤は閣の誤りとせるは非也。こは、正字通に、今尊稱曰2閣下1。韓愈上2宰相1書、皆从v閤、由v此推v之、閤閣音義通也云々とあ(61)る如く、白氏文集、與2陳給車1書、答2戸部崔侍郎1書、性靈集與2福州觀察使1書など、みな閤下とあるにてしるべし。謹空は、賂解に、謹空は敬ふ時書事也。後世、左白など書て、書牘の末を白くあましおくを敬とする也。東寺にある空海の書牘などにも、すべてかく書り云々といへるが如し。代匠記に、本朝文粹、爲2晴慎公1報2呉越王1書ノ終ニ云、呉越殿下謹空トアリ。此ニ依ルニ謹堂ヲ空ニ誤レル歟。謹室ニテモ有ケルニヤ云々ともいへり。さて拾穗本には、こゝに謹空の二字なく、次の跪承2芳音1の上に、謹言の二字あり。さる本もありけるか、またさかしらならんも知がたければ用ひがたし。
 
跪承2芳音1。(嘉懽交深。乃知龍門之恩。復厚2蓬身之上1。戀望殊念。常心百倍。謹和2白雲之什1。以奏2野鄙之歌1。房前謹状。)
 
跪承2芳音1。
跪は、ひざまづく也。玉篇に、跪、拜也とあり。こゝよりは、房前卿の返書なり。
 
嘉懽交深。
玉篇に、嘉、善也、美也。懽、悦也とあり。
 
乃知龍門之恩。
後漢書、李膺傳に、膺獨持2風裁1、以2聲名1自高、士有d被2其容接1者u、名爲v登2龍門1云々。注に、龍門、河水所v下之口、在2今絳州龍門縣1。辛(62)氏三秦記曰、河津、一名龍門、水險不v通、魚鼈之屬莫2能上1。江海大魚薄集2龍門下1數千、不v得v上、上則爲v龍也云々。南史袁昂傳に、昂雅有2人鑒1、遊處不v雜、入2其門1者、號v登2龍門1云々などある故事をいひて、旅人卿より書通を取かはすを、李膺、袁昂などに容《イレ》らるゝにたとへたり。
 
復厚2蓬身之上1。
莊子逍遥遊篇に、夫子猶2有蓬之心1也云々。注に、蓬、非2直達者1也云云とありて、蓬は直からざる意にて、こゝは自ら卑下して、直からざる身の上にも、志を厚くし給へりといはるゝ也。
 
戀望殊念。常心百倍。
戀したひ思ふ事、常の心に百倍せりと也。
 
謹和2白雲之什1。
什は、文選宋書謝靈運傳論注に、詩毎2十篇1同v卷、故曰v什也とある如く、白雲は、穆天子傳に、天子觴2西王母于※[王+徭の旁]池之上1、西王母爲2天子謠1曰、白雲在v天、山陵自出云々とある、これを白雲之什とはいはれしなるべし。旅人卿の歌をよそへし也。略解に、雲は雪の誤りなるべしといへり。白雪は、文選宋玉對2楚王問1文に見えて、古しへの曲の名なり。
 
房前謹状。
房前公は、續日本紀に、慶雲二年十二月癸酉、授2正六位下藤原朝臣房前從五位下1。四年十月丁卯、爲2造山陵司1。和銅四年四月壬午、授2從五位上1。靈龜元年正(63)月癸巳、授2從四位下1。養老元年十月丁亥、參2議朝政1。三年正月壬寅、授2從四位上1。五年正月壬子、授2從三位1。神龜元年二月甲子、授2正三位1、益v封賜v物。天平元年九月乙卯、爲2中務卿1。四年八月丁亥、爲2東海東山二道節度使1。九年四月辛酉、參議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。送以2大臣葬儀1、其家固辭不v受。房前、贈太政大臣正一位不比等之第二子也。十月丁未、贈2正一位左大臣1、并賜2食封二千戸於其家1、限以2二十年1。天平寶字四年八月甲子、得2大師奏1※[人偏+爾]、故臣父及叔者、並爲2聖代之棟梁1、共作2明時之羽翼1。位已窮v高、官尚未v足、伏願廻2臣所v給大師之任1、欲v讓2南北兩左大臣1者、宜v依v所v請。南卿贈2太政大臣1、北卿轉贈2太政大臣1とあり。北卿は房前公なり。
 
812 許等騰波奴《コトトハヌ》。( 紀爾茂安理等毛《キニモアリトモ》。和何世古我《ワガセコガ》。多那禮之美巨騰《タナレノミコト》。都地爾意加米《ツチニオカメ》移《ヤ・イ》母《モ》。)
 
和何世古我《ワガセコガ》。
これ旅人卿をさせり。男どちも、わがせこといへる事、上【攷證三上十四丁】にいへり。
 
都地爾意加米《ツチニオカメ》移《ヤ・イ》母《モ》。
略解に、移は、神功紀、※[人偏+兼]人爾波移《シタガヘルヒトニハヤ》とありて、移の字の傍に、私記、野とせり。また欽明紀、官家を彌移居《ミヤケ》と書り。これら、移をやのかなに用ひたる證也云々といへるが如し。既に六帖第□に載て、この句を、つちにおかめやもとよめり。さて、この歌をもて見れば、かの琴をも書牘にそへて房前公に贈られたるにて、一首の(64)意は、物いはざる木にてありとも、君が手馴し給ひし御琴なれば、地におく事なく、さゝげもたらんといはるゝ也。
 
十一月八日。附2還使大監1。
 
還使は、京より太宰府にかへる使をいふ。大監は太宰大監なり。ここには大伴百代をさせり。大伴百代の傳は、上【攷證三中七十七丁】に出たり。
 
謹通2 尊門 記室1。
 
尊門は尊稱の詞、記室は、後漢書百官志一に、記室令史、主2上章表報書記1云々とありて、書記を主《ツカサ》どる役をいふ。旅人卿を直にさゝずして、書記までいひ通ずる由をもて禮とせり。
 
筑前國怡土郡深江村(子負原。臨v海丘上有2二石1。大者長一尺二寸六分。圍一尺八寸六分。重十八斤五兩。小者長一尺一寸。圍一|尺《(マヽ)》八寸。重十六斤十兩。並皆※[手偏+隋]圓。状如2鷄子1。其美好者。不v可v2勝論1。 所v謂徑尺璧是也。【[或云。此二石者。肥前國彼杵郡平敷之石。當v古而取v之。】去2深江驛家1。二十許里。近(65)在2路頭1。公私往來。莫v不2下v馬跪拜1。古老相傳曰。往者。息長足日女命。征2討新羅國1之時。用2茲兩石1。挿2著御袖之中1。以爲2鎭懐1。【[實是御裳中矣。】所以行人敬2拜此石1。乃作v歌曰。)
 
筑前國恰土郡。
和名抄郡名に、筑前國恰土【以止】とありて、書紀仲哀紀に、八年正月幸2筑紫1。【中略】
筑紫|伊覩《イト》縣主祖|五十迹手《イトテ》、聞2天皇之行1、拔2取五百枝賢木1、立2于船之舳艫1、上枝掛2八尺瓊1、中枝掛2白銅鏡1、下枝掛2十握劔1、參2迎于穴門引島1而献v之。因以奏言、臣敢所3以献2是物1者、天皇如2八尺瓊之勾1以曲妙御宇、且如2白銅鏡1以分明看2行山川海原1、乃提2是十握劔1平2天下1矣。天皇即美2五十迹手1、曰2伊蘇志1。故時人號2五十迹手本土1、曰2伊蘇國1。今謂2伊覩《イト》1者訛也云々と見えたる、こゝ也。さて、こゝより下、序文も歌も憶良の作なり。目録に山上臣憶良詠2鎭懷石1歌一首并短歌とあり。
 
深江村。
筑前續風土記に、藻鹽草に、深江郷とあり。和名抄には、恰土郡に深江郷なし。この村は、前原を去事、一里三十四町西に有て、海邊にある村なり。町あり、民家多し。前原の西の方には、この宿、馬驛なり。是より西は、肥前濱崎に馬驛あり。深江より濱崎へ三里二十二町あり。深江の海は古歌にもよめり云々。
 
(66)子負原。
釋日本紀に、筑紫風土記曰、逸都縣子饗虎、有2石兩顆1、一者片長一尺二寸、周一尺八寸、色白而便圓如2磨成1。俗傳云、息長足比賣命、欲v伐2新羅國1軍之際、懷娠漸動。時取2兩石1、挿2著裙腰1、遂襲2新羅1。凱旋之日、至2芋※[さんずい+眉]野1、太子誕生。有2此因縁1、曰2芋※[さんずい+眉]野1。【謂v産爲2芋※[さんずい+眉]1者風俗言詞耳。】俗間婦人、忽然娠動、裙腰挿v石、厭令v延v時、盖由v此乎。筑前國風土記曰、恰土郡兒饗野、【在郡西】此野之西有2白石二顆1、【一顆長一尺二寸、太一尺、重四十一斤。一顆長一尺一寸、太一尺、重四十九斤。】曩者氣長足姫尊、欲v征2伐新羅1到2於此村1。御身有v姙、忽當2誕生1。登時取2此二顆石1、挿2於御腰1、祈曰、朕欲2西堺1、來著2此野1、所v姙皇子、若此神者、凱旋之後、誕生其可v遂。定2西堺1還來、即産也。所謂譽田天皇是也。時人號2其石1、曰2皇子産石1。今訛謂2兒饗石1など見えたり。續風土記に、今、深江の町より五町ばかり西、大道の南の高き所に、里民子負原と云傳ふる所あり。又、荻の原といふ云々といへり。
 
長一尺二寸六分。
雜令に、凡度十分爲v寸、十寸爲v尺、一尺二寸爲2大尺一尺1、十尺爲v丈云々と見えたり。
 
重十八斤五兩。
雜令に、權衡廿四銖爲v兩、三兩爲2大兩一兩1、十六兩爲v斤云々と見えたり。
 
※[手偏+隋]圓状如2鷄子1。
※[手偏+隋]は、廣韻に、※[手偏+隋]、狹長云々。爾雅釋魚注に、※[手偏+隋]、狹長也、謂3長而去2四角1也云々とありて、※[手偏+隋]圓は今俗にいふ小判形《コバンナリ》といふ形にちかし。さて、今本、※[手偏+隋]を墮に誤れり。墮を※[土+隋]とも書故、※[手偏+隋]※[土+隋]いと近ければ、誤れるなるべし。墮圓といふ事あるべからざれば、意改せり。
 
(67)其美好者。不v可2勝論1。
美好は、うつくしき意にて、其うつくしき事、あげていふべからずとなり。
 
所v謂徑尺璧是也。
淮南子□篇に、聖人不v貴2尺之璧1、而貴2寸之陰1云々。文選魏都賦に、雖2明珠兼v寸尺璧有1v盈、曜v車二六、三傾2五城1云々などあり。徑はわたり也。
 
肥前國彼杵都平敷之石。
和名抄郡名に、肥前國彼杵【曾乃岐】とあり。平敷は地名なるべけれども、ものに見えず。古事記(傳脱カ)に、或人云、平敷といふ所は、いま長崎に近き浦上村平敷宿といふ所にて、今も赤石白石のうるはしきが多く出るを、火打石にも、又磨て、をじめといふものにもする也云々。
 
二十許里近在2路頭1。
續風土記に、萬葉集に、子負原は、深江をさる事、二十許里とあり。今、里民の子負原と稱る所は、深江の驛より五町ばかり西にあり。道の側、海にのぞめる丘なれば、萬葉集に載たる所これなるべし。これより西に子負原といふべき所なし。只路程の遠近同じからざる事、いぶかし、萬葉集の説、もしくは誤れる歟云々といへり。これに依て考るに、二十許里の十の字は、町の字を略書して丁と書く、この丁の字を十に誤れるにで、二丁許里近《ニチヤウバカリサトチカク》在2路頭《ミチノホトリ》1と訓べくおぼゆ。續風土記に五町ばかりとあるを、二丁許りとしては、猶實の路程にあはざれど、こゝの誤は下にしるせるが如く、建部牛麻呂がいへるを聞て、しるせるなれば、云誤りも聞誤りもあるべし。されど五町を二丁とは誤りもすべし。五町(68)を二十里とは誤るべからざれば、くれ/”\も二十は二丁の誤りなるべし。しかも、はじめに怡土郡深江村子負原とあるにて、子負原も深江村の中にて、一村の中六町一里なりとも、二十里はなるべからざるをしるべし。
 
息長足日女命。
書紀神功紀に、氣長足姫尊、稚日本根彦太日日天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。母曰2葛城高※[桑+頁]媛1。足仲彦天皇二年、立爲2皇后1云々とありて、後に神功皇后と申す。
 
征2討新羅國1。
神功皇后、新羅を征討したまふ事は、書紀本紀のはじめにくはしく見えたり。略v之。
 
用2茲兩石1。挿2著御袖之中1。以爲2鎭懷1。
古事記中卷【神功皇后の條】に、故其政未v竟之間、其懷姙臨v産、即爲v鎭2御腹1、取v石以纏2御裳之腰1、而渡2筑紫國1。其御子者阿禮坐故、號2其御子生地1、謂2宇美1也。亦所v纏2其御裳1之石者、在2筑紫國之伊斗村1也云々。書紀本紀に、適當2皇后之開胎1、皇后則取v石挿v腰而祈之曰、事竟還日、産2於茲土1。其石今在2于伊覩縣道邊1云々とあり。鎭懷は、歌に、彌許々呂遠斯豆迷多麻布等《ミココロヲシヅメタマフト》云々とある如く、御心を鎭め給ふよし也。
 
實(ハ)是御裳中矣。
御袖之中に挿著よしなれば、實は御裳の中にまとはれし也といふなり。是、古事記の傳へと合り。
 
(69)813 可既麻久波《カケマクハ》。(阿夜爾可斯故斯《アヤニカシコシ》。多良志比※[口+羊]《タラシヒメ》。可尾能彌許等《カミノミコト》。可良久爾遠《カラクニヲ》。武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》。彌許々呂遠《ミコヽロヲ》。斯豆迷多麻布等《シヅメタマフト》。伊刀良斯弖《イトラシテ》。伊波比多麻比斯《イハヒタマヒシ》。麻多麻奈須《マタマナス》。布多都能伊斯乎《フタツノイシヲ》。世人爾《ヨノヒトニ》。斯※[口+羊]斯多麻比弖《シメシタマヒテ》。余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》。伊比都具可禰等《イヒツグガネト》。和多能曾許《ワタノソコ》。意枳都布可延乃《オキツフカエノ》。宇奈可美乃《ウナカミノ》。故布乃波良爾《コフノハラニ》。美弖豆加良《ミテヅカラ》。意可志多麻比弖《オカシタマヒテ》。可武奈何良《カムナガラ》。可武佐備伊麻須《カムサビイマス》。久志美多麻《クシミタマ》。伊麻能遠都豆爾《イマノヲツツニ》。多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》。)
 
可既麻久波《カケマクハ》。阿夜爾可斯故斯《アヤニカシコシ》。
心詞などに、かけんも、かしこしといふ意なる、上【攷證三下五十七丁】にいへるがごとし。
 
可尾能彌許等《カミノミコト》。
命は尊稱にて、このつづけ、集中いと多し。
 
可良久爾遠《カラクニヲ》。
上【攷證四上六十丁】にいへるが如く、漢土を三《(マヽ)》韓をも、みな、から國といへる中にも、こゝは新羅をいへり。
 
(70)武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》。
武氣《ムケ》は、ことむけのむけに從がはざるものを、此方へ向しむる意也。むかせの約り、むけなるにてしるべし。多比良宜は、平げにて、背けるものを平定するをいへり。
 
伊刀良斯弖《イトラシテ》。
伊は發語、刀良斯弖《トラシテ》は取せたまひてなり。
 
伊波比多麻比斯《イハヒタマヒシ》。
伊波比は、上【攷證三中五十八丁】にいへるが如く、忌淨《イミキヨ》まはる事を本にて、齋まつる意にもいへり。この事上【攷證四下丁】我衣手二齋留目六《ワガコロモデニイハヒトドメム》とある所、考へ合すべし。こゝも、かの二つの石を取たまひて、御袖のうちに齋居《イツキスヱ》しめ給ひしをいへり。
 
麻多麻奈須《マダマナス》。
麻は眞、奈須《ナス》は如くの意にて、こゝは、玉の如き二つの石をといふ也。十三【十二丁】に、眞珠奈須我念妹毛《マダマナスワガモフイモモ》云々ともあり。
 
斯※[口+羊]斯多麻比弖《シメシタマヒテ》。
斯※[口+羊]斯《シメシ》は示にて、上【攷證三上四十八丁】にいへるが如く、物をさして、これぞそれなるを《(マヽ》しへさとす意にて、こゝは、二つの石を、これぞわが御こゝろをしづめ給ひし石なると示し給ひてといふ也。
 
伊比都具可禰等《イヒツグガネト》。
可禰《ガネ》は、上【攷證一上廿丁】にいへるが如く、その料にといふ意にて、こゝは言繼《イヒツグ》その料にといふ意也。
 
(71)和多能曾許《ワタノソコ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。海の底の奥深きとつゞけしなり。何にまれ、至りきはまる物のはてを底といふ事、上【攷證三下七丁】にいへるがごとし。
 
意枳都布可延乃《オキツフカエノ》。
意枳都《オキツ》は、奧《オキ》つにて、深江といはん序なり。深江はまへに出たる深江村なり。
 
宇奈可美乃《ウナカミノ》。
上總下總の郡名に、海上といふありて、集中の歌にもよめれど、こゝのうなかみは、地名にはあらじ。上をべと訓て、邊の意とする事は、上【攷證一下四十二丁】にいへるが如く、こゝも宇奈可美《ウナカミ》は海上にて、海《ウミ》の上《ホトリ》の意也。此卷【廿丁】に、許能可波加美爾伊返波阿禮騰《コノカハカミニイヘハアレド》云々。十四【廿五丁】に、可波加美能禰自路多可我夜《カハカミノネジロタカガヤ》云々などある、これら川上も、川の上《ホトリ》の意なるにてもしるべし。
 
故布乃波良爾《コフノハラニ》。
序に出たる子負原なり。
 
美弖豆加良《ミテヅカラ》。
七【廿七丁】に、君爲手力勞織在《キミガタメテヅカロレル》云々ともありて、身づから、心づからなどいふ、づからも、これにおなじ。
 
意可志多麻比弖《オカシタマヒテ》。
かの鎭懷石を、御手づから子負原に爲置《オカシ》たまひてなり。
 
可武奈何良《カムナガラ》。可武佐備伊麻須《カムサビイマス》。
可武家何良《カムナガラ》は、上【攷證一下八丁】にいへるがごとく、神におはしますまゝにといふ意。可武佐備《カムサヒ》も、上【攷證一下八丁】に(72)いへるがごとく、神めき古びたる意。伊麻須《イマス》は座《イマス》にて、かの石をさしていへり。かの石も、御心をしづめなどして、靈しき功あれば、神とはいへるにて、奇しきものを、何にまれ、神といふ事は上【攷證三中五丁】にいへるがごとし。
 
久志美多麻《クシミタマ》。
奇眞玉《クシミタマ》の意にて、これもかの石をさしていへるにて、これ奇《クス》しき眞玉といへる意なる事、まへに麻多麻奈須布多都能伊斯乎《マタマナスフタツノイシヲ》とあるにてしるべし。くすしを、くしとのみいへるは、すしの反、しなれば也。書紀神代紀上に、幸魂此云2佐枳彌多摩《サキミタマ》1、奇魂此云2倶斯美※[手偏+施の旁]摩《クシミタマ》1とあるは、おのづから別なり。
 
伊麻能遠都豆爾《イマノヲツツニ》。
遠都豆《ヲツツ》は、をとうと音通ひて現《ウツツ》なり。十七【卅四丁】に伊爾之敝由伊麻乃乎都豆爾《イニシヘユイマノヲツツニ》云々とありて、猶十八【卅一丁・卅二丁】などにもあり。
 
多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》。
呂は助辭なり。この事、上【攷證三下六十四丁】にいへり。一首の意は、心詞にかけて申奉らんもかしこきわざながら、息長足姫命の、新羅を平定して還らせ給ひしをり、御こゝろを鎭め給はんとて、取せ給ひて、御袖のうちに齋《イツキ》給ひけん、玉の如き二つの石を、これぞ、わが御こゝろを鎭め給ひし石なるを、末の瀬までも言繼ん爲にと、世の中の人にをしへさとし給ひて、深江村の海のほとりの子負原に、御手づから置せ給ひし、その石のくすしくあやしく、神にて在まに/\、神めき古びたる玉の如きその石を、今も現に見る事の貴きかもといへる也。
 
(73)814 阿米都知能《アメツチノ》。(等母爾比佐期久《トモニヒサシク》。伊比都夏等《イヒツゲト》。許能久斯美多麻《コノクシミタマ》。志可志家良斯母《シカシケラシモ》。)
 
この歌のまへに、反歌の二字ありけんを、脱ししなるべし。諸本、皆脱たれば、今補ふ事なし。
 
阿米都知能《アメツチノ》。
この能《ノ》の字は、との意にて、八【廿三丁】に、霍公鳥來鳴令響《ホトヽギスキナキトヨモス》、宇乃花能《ウノハナノ》、共也來之登問麻思物乎《トモニヤコシトトハマシモノヲ》とある、能もじと同じ格なり。
 
志可志家良斯母《シカシケラシモ》。
爲敷《シカシ》けらら(ら一字衍カ)しもの意也。二つの石を敷《シク》といはん事、いかがなるやうに聞ゆれど、玉といふより、敷《シク》といへるは、歌のうへなれば也。六【卅四丁】に、玉敷而待益欲利者《タマシキテマタマシヨリハ》云々。十一【四十六丁】に、覆庭爾珠布益乎《オホヘルニハニタマシカマシヲ》などあるにてしるべし。或人の説に然爲《シカシ》けらしもの意とせるは非也。一首の意は明らけし。
 
右事傳言。那珂郡伊知郷蓑島人建部牛麻呂。是也。
 
那珂郡。
和名抄郡名に、筑前國那珂とあり。
 
伊知郷。
和名抄郷名にも、續風土記にも見えず。可v考。
 
(74)蓑島。
續風土記に、那珂郡蓑島、住吉の南にある村の名也。今は住吉の枝村なり云々。檜垣嫗集に、ふらばふれみかさの山のちかければみの島まではさしてゆきなん。源重之集に、村雨とぬるゝ衣のあやなきに猶みの崎の名をやからましなどあるもこゝ也。
 
建部牛麻呂。
父祖考へがたし。建部氏は、姓氏録卷五に、建部公、犬上朝臣同祖、日本武尊之後也とあり。さてこの左注は、まへの鎭懷石の事は、この人の傳へ言へりといふ也。
 
梅花歌三十二首。并序。
 
天平二年正月十三日。(萃2于帥老之宅1。申2宴會1也。于v時初春令月。氣淑風和。梅披2鏡前之粉1。蘭薫2珮後之香1。加以。曙嶺移v雲。松掛v羅而傾v蓋。夕岫結v霧。鳥對v※[穀の左の禾が糸]而迷v林。庭舞2新蝶1。空歸2故鴈1。於v是蓋v天坐v地。促v膝飛v觴。忘2言一室之裏1。開2衿煙霞之外1。淡然自放。快(75)然自足。若非2翰苑1。何以※[手偏+慮]v情。請紀2落梅之篇1。古今夫何異矣。宜d賦2園梅1。聊成c短詠u。)
 
萃2于帥老之宅1。
帥老は。旅人卿をいふ。周禮地官序官の郷老の注に。老。尊稱也とあり。玉篇に。萃、集也とあり。帥、今本、師に誤る。今意改せり。代匠記に、此序發端ハ、義之カ蘭亭記ニ、永和九年歳在2癸丑1、暮春之初、會2于會稽山陰蘭亭1、修2禊事1也トカケルニ效ヘル歟。篇中ニ、彼記ノ詞モ見エタリ云々といはれたり。(頭書、略解に、此序は憶良の作れるならんと契沖いへり。さもあるべし。)
 
于v時初春令月。
儀禮士冠禮に、始加v視、曰令月吉日始加2元服1云々。後漢書明帝紀に、詔2驃騎將軍三公1曰、今令月吉日、宗2祀光武皇帝於明堂1、以配2於五帝1云々などありて、廣韻に、令、善也とある如く、善《ヨキ》月といふなり。
 
氣淑風和。
文選歸田賊に。仲春令月、時和氣晴云々。蘭亭記に、是日也天朗氣晴、惠風和暢云々などありて、説文に、淑、清湛也とあり。
 
梅披2鏡前之粉1。
梅のうるはしく咲たるを。美人の鏡の前にて紅粉をよそはひたるにたとへたり。宋書□に、壽陽公主、人日臥2含章殿1、簷下梅花落2公主額(76)上1、成2五出之花1、拂v之不v去。自v是後有2梅花粧1云々などある故事にもよれるか。
 
蘭薫2珮後之香1。
蘭は、本草和名に、蘭草、和名布知波加末とありて、今もしかいふもの也。これ香草なれば、かくはいへり。離騷經に、※[糸+刃]2秋蘭1以爲v佩云々とあるによれり。珮は佩と同字なり。
 
松掛v羅而傾v蓋。
羅は蘿の誤りながら、周禮委人釋文に、蘿本亦作v羅とありて、また、文選廬子諒贈2劉※[王+昆]1詩の李善注に、毛詩の蔦與女蘿の文を引たるにも、蘿を羅に作りたれば、古く草冠を略きても通はしかけりとおぼし。されば、この羅は蘿にて、玉篇に蘿托v松而生女蘿也とありで、和名抄苔類に、蘿、比加介。松蘿、和名萬豆乃古介、一云佐流乎加世とあるもの也。さて、この蘿の松にかゝりて緑なるを、蓋《キヌカサ》を傾るに見なしたり。蓋《キヌカサ》の事は、上【攷證三上九丁】にいへり。また考ふるに、傾蓋は偃蓋の誤りか。松に偃蓋といへる事、多く見えたり。そは抱朴子□篇に、大陵偃蓋之松、大谷倒生之柏云々。杜甫題2李尊師松樹障子1歌に、陰崖却承2雪幹1、偃蓋反走2※[虫+斗]龍形1云々などありて、猶多し。さて、今本、而を勿に誤れり。こは鳥對v※[穀の左の禾が糸]而迷v林といふ句の對なれば、而の字の誤りなる事しるし。依て意改せり。
 
夕岫結v霧。
岫は、爾雅釋山に、山有v穴爲v岫云々とあり。
 
(77)鳥對v※[穀の左の禾が糸]而迷v林。
文選子虚賦に、雜2繊羅1垂2露※[穀の左の禾が糸]1云々。神女賦に、動2霧※[穀の左の禾が糸]1以徐歩兮、拂v※[土+穉の旁]聲之珊々云々などありて、玉篇に、※[穀の左の禾が糸]、細纏也、紗※[穀の左の禾が糸]也とありて、織物をいへは、霧※[穀の左の禾が糸]は霧を紗《ウスモノ》に見なしていへる也。されば、こゝは、まへに結v霧とあるより、鳥對v※[穀の左の禾が糸]而迷v林とはいへる也。さて、印本、※[穀の左の禾が糸]を※[穀の左の禾が米]に作り、活本、穀に作れり。これら皆誤れり。今、拾穗本に依て改む。又、拾穗本、對を封に作れり。
 
庭舞2新蝶1。
鮑泉春日詩に、新燕始新歸、新蝶復新飛云々とあり。
 
空歸2故鴈1。
これ、庭舞2新蝶1に對したる句也。こゝまでは、その席のけしきをいひて、こゝより末は、今日の席上の事をいへり。
 
蓋v天坐v地。
天を以て覆《オホ》ひとして、地に坐すといへる也。淮南子□篇に、以v天爲v蓋、以v地爲v輿云々。文選劉伶酒徳頌上、幕v天席v地云々とあり。
促v膝飛v觴。
促膝は、梁昭明太子答2晉安王1書に、省覽拾環、慰同促膝云々。南史王膽傳に甞詣2劉彦節1、直登榻曰、君侯是公孫、僕是公子、引v滿促v膝、唯余二人云々などありて、廣雅釋詁三に、促近也云々とある如く、膝を近付るなり。飛觴は、李白宴桃李園序に、開2瓊筵1以坐v花、飛2羽觴1而醉v月云々とありて、觴《サカヅキ》をめぐらすと(をカ)いふ。こゝはたがひに近く坐して、酌かはし、さかづきをめぐらす意也。活本、促膝を位〓に作り、觴か觸に作るは非也。
 
(78)忘2言一室之裏1。
晉書山濤傳に、濤與2※[禾+(尤/山)]康呂安1善。後遇2阮籍1、便爲2竹林之交1、著2忘言之契1云々とありて、言ことをも忘るゝばかり、興あるをいへり。また莊子□篇に、言者所2以在1v意、得v意而忘v言云々ともあり。さて、こゝの文、蘭亭記に、悟2言一室之内1云々とあるをとれり。忘、今本、忌に作れり。誤りなる事明らかなれば意改せり。
 
開2衿煙霞之外1。
播岳西征賦に、開2襟乎清暑之舘1、遊2目乎五柞之宮1云々。謝※[月+兆]詩に、置v酒登2廣殿1、開v襟望v所v思云々などあり。爾雅□に、衿、交領、與v襟同とありて、衿襟同字也。されば、衿を開とは、うちとくる意にて、こゝろゆたかに遊ぶをいへり。
 
淡然自放。
仙覺抄に、淡然とは、しづかにしてといふ也云々。ここは、しづかにして、自らほしいまゝにする意也。
 
快然自足。
蘭亭記に、快然自足、曾不v知2老之將1v至云々とあるをとれるにて、こゝは、こゝろよくして、自ら事たれりといふ也。
 
若非2翰苑1何以※[手偏+慮]。
文選羽獵賦李善注に、韋昭曰、翰、筆也。翰林、文翰之多若v林也とありて、こゝは、この所、文筆の苑にあらずば、何を以かこゝろを述んと也。さて今本、※[翰の旁が兪]に誤れり。今は代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む、
 
請紀2落梅之篇1。
論衡書説篇に、著v文爲v篇云々とありて、こゝは席上の人に文を請て、梅の歌をしるせりと也。(頭書、樂府、梅華落曲。)
 
(79)古今夫何異矣。
こゝに古しへとさせるは、蘭亭記に、後之視v今、亦猶2今之視1v昔。悲夫、放列2叙時人1、録2其所1v述、雖2世殊事異1、所2以興1v懷、其致一也。後之覽者、亦將有v感2於斯文1とあるをさせるなるべし。
 
宜d賦2園梅1。聊成c短詠u。【短詠は、短歌をいふ。こゝは、園中の梅を賦て、短歌を作れりと也。】
 
815 武都紀多知《ムツキタチ》。(波流能吉多良婆《ハルノキタラバ》。可久斯許曾《カクシコソ》。烏梅乎乎利都都《ウメヲヲリツツ》。多努之岐乎倍米《タヌシキヲヘメ》。 大貳紀卿。)
 
武都紀多知《ムツキタチ》。
正月の立來る意也。六【廿九丁】に、月立而直三日月之《ツキタチテタヾミカツキノ》云々。八【五十丁】に、荒玉之月立左右二來不益者《アラタマノツキタツマデニキマサネバ》云々。十七【四十四丁】に、都奇多々婆等伎毛可波佐受《ツキタヽバトキモカハサズ》云々。十八【十三丁】に、宇能花能佐久都奇多知奴《ウノハナノサクツキタチヌ》云々。また【卅八丁】牟都奇多都波流能波自米爾《ムツキタツハルノハジメニ》、可久之都追《カクシツヽ》、安比之惠美天婆《アヒシヱミテバ》、等枳自家米也母《トキジケメヤモ》。十九【廿三丁】に、月立之日欲里乎伎都追《ツキタチシヒヨリオキツヽ》云々などありて、みなその月の來るをいへり。朔日ついたちといふも、これ月のはじめにて、月立の意也。また七【廿八丁】に、向山月立所見《ムカヒノヤマニツキタチテミユ》云々。十一【十四丁】に、三毛侶乃山爾立月之《ミモロノヤマニタツツキノ》云々などあるは、月の出るをいへれど、これも月のめぐり來りて出る意なれば、語のもとは一つなり。また古事記中卷【倭建命】御歌に、意須比能須蘇爾都紀多々那牟余《オスヒノスソニツキタタナムヨ》とよませたまへるは、女の月水をよませ給へるなれど、かれも月に一度づゝ(80)めぐり來るものなれば、おなじく一つ語なり。
 
可久斯許曾《カクシコソ》。
斯は助辭なり。
 
多《タ》努《ヌ・ノ》之岐乎倍米《シキヲヘメ》。
乎倍米《ヲヘメ》は、二【廿九丁】に、天地與共將終登念乍《アメツチトトモニヲヘムトオモヒツヽ》云々。十九【十七丁】に、春裏之樂終者《ハルノウチノタヌシキヲヘバ》云々などありて、一首の意は、正月になりて、春の來らば、かくの如く梅をかざしつゝ、樂しきかぎりをつくさんといふ也。代匠記に、古今集ニ、新シキ年ノ初ニカクシコソ千歳ヲ兼テ樂シキヲツメ。此モ今ノ歌ノ落句ト同ジカリケムヲ、假字ノヘノ字ト、つノ字ノ似タルヲ書タガヘルナルベシ云々。
 
大貳紀卿。
未v詳。賂解に、大貳は相當四位なれど、三位の人を任ぜし故、卿と書るならん云々。
 
816 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(伊麻佐家留期等《イマサケルゴト》。知利須義受《チリスギズ》。和我覇能曾能爾《ワガヘノソノニ》。阿利己世奴加毛《アリコセヌカモ》。【少貳小野大夫。】)
 
知利須義受《チリスギズ》。
散不v過なり。今本、義を蒙に誤れり。こは、義を隷體に、〓とも書より誤れる事、明らかなれば、代匠記に引る官本に依て改む。
 
(81)和我覇能曾能爾《ワガヘノソノニ》。
我家の苑に也。家をへとのみいふは、此卷【十八丁】に、伊呼我陛邇由岐可母不流登《イモガヘニユキカモフルト》云々。十四【十七丁】に、伊毛我敝爾伊都可伊多良武《イモガヘニイツカイタラム》云々などありて、いへのいを略ける也。いもじを略ける例は、御軍をみくさ【廿ノ廿七丁】物不言をものはず【廿ノ廿丁】妹をも【廿ノ卅一丁】とのみいへるにて思ふべし。
 
阿利己世奴加毛《アリコセヌカモ》。
この言、上【攷證二上卅八丁】にいへるが如く、阿利《アリ》は在《アリ》、己世《コセ》も奴加も願ふ意の言にて、一首の意は、梅の花の今盛りに咲るが如く散うせずして、我家の苑にいつまでも盛りにてあれかしといふ也。
 
少貳小野大夫。
小野老朝臣也。上【攷證三中十八丁】に出たり。
 
817 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(佐吉多流僧能能《サキタルソノノ》。阿遠也疑波《アヲヤギハ》。可豆良爾須倍久《カヅラニスベク》。奈利爾家良受夜《ナリニケラズヤ》。【少貳粟田大夫。】)
 
可豆良爾須倍久《カヅラニスベク》。
柳を※[草冠/縵]にする事は、十【八丁】に、霜千冬柳者《シモカレシフユノヤナギハ》、見人之※[草冠/縵]可爲《ミルヒトノカヅラニスベク》、目生來鴨《モエニケルカモ》。また【九丁】百礒城大宮人之※[草冠/縵]有《モヽシキノオホミヤビトノカヅラケル》、垂柳者《シダリヤナギハ》、雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。十八【十四丁】に、楊奈疑可豆良枳《ヤナギカヅラキ》、多努之久安蘇婆米《タヌシクアソバメ》。十九【四十八丁】に、青柳乃保都枝與治等理可豆良久波《アヲヤギノホツエヨチトリカヅラクハ》云々などあり。
 
(82)奈利爾家良受夜《ナリニケラズヤ》。
この夜《ヤ》は、うらへ意のかへる、やはの意にて、一首の意は、今梅の花の咲てある、この園中の柳も、かづらにすべく青みわたりたれば、※[草冠/縵]に爲べく成にけらずや。今は※[草冠/縵]にすべく成にければ、皆人も折て※[草冠/縵]にせよとなり。
 
少貳粟田大夫。
未v詳。但し官位令を考ふるに、少貳は、從五位の官なれば、この粟田大夫は、粟田朝臣人上か。續日本紀に、和銅七年正月甲子、授2從六位下粟田朝臣人上從五位下1。養老四年正月甲子、授2從五位上1。神龜元年二月壬子、授2從(正カ)五位下1。天平元年三月甲午、授2正五位上1。四年十月辛巳、爲2造藥師寺大夫1。七年四月戊午、授2從四位下1。十年六月戊戌、武藏守從四位下粟田朝臣人上卒とあり。(頭書、粟田氏。)
 
818 波流佐禮婆《ハルサレバ》。(麻豆佐久耶登能《マヅサクヤドノ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。比等利美都都夜《ヒトリミツツヤ》。波流比久良佐武《ハルビクラサム》。【筑前守山上大夫。】)
 
美都々夜《ミツヽヤ》の夜は、うらへ意のかへる、やはの意にて、一首の意は、春くれば、まづ咲いづる梅の花を、たゞひとり見つゝやは、春をくらすべき。さればこそ、みな人とともにこそ見るべけれといふ也。筑前守山上大夫は憶良なり。
 
(83)819 余能奈可波《ヨノナカハ》。(古飛斯宜志惠夜《コヒシキシヱヤ》。加久之阿良婆《カクシアラバ》。烏梅能波奈爾母《ウメノハナニモ》。奈良麻之勿能怨《ナラマシモノヲ》。【豐後守大伴大夫。】)
 
古飛斯宜志惠夜《コヒシキシヱヤ》。
志惠夜《シヱヤ》は、上【攷證四中四十四丁】にいへるが如く、歎息の詞なり。略解に、宜は濁音の假字なれば、企の誤りにて、戀しきならんと、翁はいはれき云々。この説さる事ながら、集中、清濁の假字たしかならざる事、提要にいへるが如くなれば、本のまゝにても宜《キ》と訓べし。宣長云、戀しげしゑや也云々といはれつれど、し文字は、みな下へつけて、しゑやといへる事まへにあげたる集中の例によりてしるべし。
 
加久之阿良婆《カクシアラバ》。
之《シ》もじは助辭なり。一首の意は、世の中てふものは、とかくに人戀しき物なるを、花をば人も打より見れば、かくの如くならば、梅の花にもならましものをといふ也。
 
豐後守大伴大夫。
未v詳。代匠記に、大伴三依ナルベシ云々といはれつるは誤れり。こゝは天平二年の事なるに、大伴三依は、上【攷證四上四十九丁】に出たるが如く、天平二十年にはじめて從五位下に叙られたる人なれば、こゝよりはるかに後の人也。
 
(84)820 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》。意母布度知《オモフドチ》。加射之爾斯弖奈《カザシニシテナ》。伊麻佐可利奈理《イマサカリナリ》。【筑後守葛井大夫。】)
 
意母布度知《オモフドチ》。
八【卅九丁】に、思人共相見都流可聞《オモフヒトドチアヒミツルカモ》。十七【卅六丁】に、於毛敷度知多乎里加射佐受《オモフドチタヲリカザヽズ》云々などありで、猶いと多し。思ふ人と共にの意也。
 
加射之爾斯弖奈《カザシニシテナ》。
弖奈《テナ》は、てんの意也。このんの意のなもじの事は、上【攷證一上十七丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
筑後守葛井大夫。
葛井連大成なり。上【攷證四上六十四丁】に出たり。
 
821 阿乎夜奈義《アヲヤナギ》。(烏梅等能波奈乎《ウメトノハナヲ》。遠理可射之《ヲリカザシ》。能彌弖能能知波《ノミテノノチハ》。知利奴得母與斯《チリヌトモヨシ》。【笠沙彌。】)
 
能彌弖《ノミテ》は、酒飲て也。一首の意は明らけし。笠沙彌は、略解に、俗人の名なるべしといへるは誤れり。こは、沙彌滿誓の事なり。いかにとなれば、滿誓の傳は、上【攷證三中廿五丁】にいへる如く、俗名笠朝臣麻呂にて、この人、筑紫の觀音寺を造る事に依て、久しく太宰府にありし事、國史にも見え、本集四【廿八丁】に、太宰帥大伴卿上v京之後、沙彌滿誓贈v卿歌あるにてしるべし。しかもこの三十二(85)首の作者、みな官と氏とをしるしたるに、これのみ笠沙彌とのみしるしたるにても、僧なるをしるべし。
 
822 和何則能爾《ワガソノニ》。(宇米能波奈知流《ウメノハナチル》。比佐可多能《ヒサカタノ》。阿米欲里由吉能《アメヨリユキノ》。那何列久流加母《ナガレクルカモ》。【主人。】
 
那何列久流加母《ナガレクルカモ》。
ながれくるとは、何にまれ、たゞよふをいへる事、上【攷證一下四十六丁】にいへるが如く、梅花の散て、雪の如く零くるをいへる也。加母は疑ふ詞なり。
 
主人。
こは旅人卿をさせり。
 
823 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(知良久波伊豆久《チラクハイヅク》。志可須我爾《シカスガニ》。許能紀能夜麻爾《コノキノヤマニ》。由企波布理都々《ユキハフリツヽ》。【大監大伴氏百代。】
 
知良久波伊豆久《チラクハイヅク》。
良久《ラク》は、るを延たる言にて、散《チル》は何所ぞといふ也。
 
志可須我爾《シカスガニ》。
しかの反、さなれば、さすがにといふを延たる也。上【攷證四上四十四丁】に出たり。
 
(86)許能紀能夜麻爾《コノキノヤマニ》。
筑前國三笠郡にて、太宰府のほとり也。上【攷證四上六十四丁】に出たり。一首の意は、梅の花の散たるはいづくぞ。春とはいへど、さすがにまだ寒ければ、こゝの城の山に、雪はふりつゝ、もし梅の散たるは、かの雪にはあらざるかといふ也。
 
大監大伴氏百代。
上【攷證三中七十七丁】に出たり。
 
824 烏梅乃波奈《ウメノハナ》。(知良麻久怨之美《チラマクヲシミ》。和我曾乃乃《ワガソノノ》。多氣乃波也之爾《タケノハヤシニ》。于具比須奈久母《ウグヒスナクモ》。【少監阿氏奧島。】)
 
和我曾乃乃《ワガソノノ》。
今本、我を家に誤れり。諸書に、家はけの假字にのみ用ひて、かの假字に用ひたる例なし。こは、我を草書に〓とかくを、家に誤れる事明らかなれば、代匠記に引る官本に依て改む。母《モ》は助辭なり。一首の意は、梅の花のちらんををしみてや、うぐひすのなくらんといふなり。(頭書、和家と書る所、こゝともに集中五所あり。この下、史氏大原の歌、高氏海人の歌と、また十四に二所【十丁廿丁】あり。みなゝがら誤りとも定めがたし。)
 
少監阿氏奧島。
未v詳。阿の字の付たる氏、いと多し。いづれにかあらん。小《(マヽ)》監は、職員令に、少監二人、掌同2大監1とあり。
 
(87)825 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(佐岐多流曾能能《サキタルソノノ》。阿乎夜疑遠《アヲヤギヲ》。加豆良爾志都都《カツラニシツツ》。阿素※[田+比]久良佐奈《アソビクラサナ》。【少監土氏百村。】)
 
これも、奈は、んの意也。一首の意は明らけし。少監土氏百村は父祖未v詳。士氏は土師氏ならん。續日本紀に、養老五年正月庚午、詔【中略】正七位上土師宿禰百村等、退v朝之、令v侍2春宮1焉とあり。
 
826 有知奈※[田+比]久《ウチナビク》。(波流能也奈宜等《ハルノヤナギト》。和家夜度能《ワガヤドノ》。烏梅能波奈等遠《ウメノハナトヲ》。伊可爾可和可武《イカニカワカム》。【大典史氏大原。】)
 
字《・(マヽ)》知奈※[田+比]久《ウチナビク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三上廿九丁】に出たり。
 
和家夜度能《ワガヤドノ》。
家のじの事、まへにいへり。一首の意は、柳と梅のおとり勝りを、いかにかわかたんとなり。
 
大典史氏大原。
大典は、職員令に、太宰府、大典二人、掌d受v事上抄、勘2署文案1、檢2出稽失1、讀c申公文u。少典二人、掌同2大典1、とあり。史氏、史部氏なるべし。
 
827 波流佐禮婆《ハルサレバ》。(許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》。宇具比須曾《ウグヒスゾ》。奈岐弖伊奴奈流《ナキテイヌナル》。烏梅(88)我志豆延爾《ウメガシヅエニ》。【少典山氏若麻呂。】)
 
許奴禮我久利弖《コヌレガクリテ》。
許奴禮《コヌレ》は、十三【二丁】に、樹奴禮我之多爾※[(貝+貝)/鳥]鳴母《コヌレガシタニウグヒスナクモ》。十七【廿一丁】に、安之比紀乃山能許奴禮爾《アシヒキノヤマノコヌレニ》、白雲爾多知多奈妣久等《シラクモタチタナビクト》云々。また【卅六丁】)之麻末爾波許奴禮波奈左吉《シマヽニハコヌレハナサキ》云々などありて、集中猶あり。皆|木闇《コノクレ》をいふ。のくの反、ぬなれば也。さて木《コ》の闇《クレ》とは、上【攷證三上廿五丁】にいへるが如く、木闇《コグラ》く茂りたるをいひて、木の間の茂みに鶯の飛かくるゝなり。
 
奈岐弖伊奴奈流《ナキテイヌナル》。
鳴《ナキ》て徃《イヌ》なる也。眞淵云、いぬなるの、いは發語、夜る宿《ヌ》るをいふ云々。この説うけがたし。
 
烏梅我志豆延爾《ウメガシヅエニ》。
志豆延《シヅエ》は下枝《シタエ》なり。九【廿丁】に、最末枝者落過去祁利《ホツエハチリスギニケリ》、下枝爾遺有花者《シヅエニノコレルハナハ》云云などありて、集中いと多し。一首の意は、鶯の幽谷に居たりしも、春くれば、木の茂みなどに飛隱れつゝ、やがて梅の下枝などに飛うつり徃となり。宣長云、こぬれは木末也。こぬれは、他の木の梢にて、梅の下枝にゐたる鶯の、他の梢へかくれていぬるをいふ云云。この説もうけがたし。
 
少典山氏若麻呂。
山口忌寸若麻呂也。未v詳。この人、四【廿七丁】の左注に出たる人なり。
 
828 比等期等爾《ヒトゴトニ》。(乎理加射之都都《ヲリカザシツツ》。阿蘇倍等母《アソベドモ》。伊夜米豆良之岐《イヤメヅラシキ》。烏梅(89)能波奈加母《ウメノハナカモ》。【大判事舟氏麻呂。】)
 
印本、岐を波に誤れり。今、活字本に依て改む。一首の意は明らけし。
 
大判事舟氏麻呂。
大判事は、職員令に、大判事一人、掌d案2覆犯状1、斷2定刑名1、判c諸爭訟u。小判事一人、掌同2大判事1とあり。舟氏麻呂、未v詳。活本、舟を丹に作る。丹治氏なるべし。いづれか是ならん。
 
829 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(佐企弖知理奈婆《サキテチリナバ》、佐久良婆那《サクラバナ》。都伎弖佐久倍久《ツギテサクベク》。奈利爾弖阿良受也《ナリニテアラズヤ》。【藥師張氏福子。】)
 
佐久良婆那《サクラバナ》。
今本、佐の字を脱せり。今、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て補ふ。一首の意、明らけし。
 
藥師張氏福子。
藥師は、職員令に、太宰府、醫師二人、掌2診候療v病とある、これなり。藥師の訓は、くすりしと訓べし。佛足石歌に、久須理師波《クスリシハ》、都禰乃母阿禮等《ツネノモアレド》、麻良比止乃《マラヒトノ》、伊麻乃久須理師《イマノクスリシ》、多布止可理家利《タフトカリケリ》とあるは、藥師佛ないへるなれど、藥師をくすりしといふ證也。和名抄職名部に、諸國醫師博士弩師、皆一分之類也。俗云、醫師久須之とあ(90)り。張氏福子、未v詳。張子(氏ノ誤カ)は音に訓べし。天平寶字八年十月庚午紀に、張禄滿といふ人名見えたり。同氏の人なるべし。
 
830 萬世爾《ヨロヅヨニ》。(得之波岐布得母《トシハキフトモ》。烏梅能婆奈《ウメノハナ》。多由流己等奈久《タユルコトナク》。佐吉和多流倍子《サキワタルベシ》。【筑前介佐氏子首。】)
 
得之波岐布得母《トシハキフトモ》は、年は來り經《フ》とも也。十二【廿五丁】に、年乎曾寸經事者不絶而《トシヲソキフルコトハタエズテ》ともあり。一首の意は明らけし。(頭書、婆は、代匠記に引る幽齋本、波に作るをよしとは思へども、下【十九丁】にも一所あれば、改る事なし。集中、婆の字を書るは、たゞ二所のみ也。)
 
筑前介(佐脱カ)氏子首。
未v詳。佐氏は佐もじを冠る氏多ければ、おしはかりにも考へがたし。子首は、こびとゝ訓べし。書紀天武紀に、三輪君子首、忌部首子首などいふ人名を、子人とも書たるにてしるべし。
 
831 波流奈例婆《ハルナレバ》。(宇倍母佐枳多流《ウベモサキタル》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。岐美乎於母布得《キミヲオモフト》。用伊母禰奈久爾《ヨイモネナクニ》。【壹岐守板氏安麻呂。】)
 
(91)岐美乎於母布得《キミヲオモフト》は、梅をさして君とはいへり。晋書王徽之傳に、竹をさして、何可3一日無2此君1耶云々といへりし類なり。一首の意は、今春にてあれば、うべこそ咲たれ。咲ぬほどは、待かねて、夜をだにやすくも寢《イネ》ざりしものをといふなり。
 
壹岐守板倉氏安麻呂。
未v詳。板氏は、板の字を冠れる氏多ければ、定めがたし。拾穗本には、榎氏とあり。これも多ければ、定めがたし。いづれか是ならん。
 
832 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(乎利弖加射世留《ヲリテカザセル》。母呂比得波《モロヒトハ》。家布能阿比太波《ケフノアヒダハ》。多努斯久阿流倍斯《タヌシクアルベシ》。【神司荒氏稻布。】)
 
一首の意明らけし。
 
神司荒氏稻布。
神司は、職員令に、太宰府、主神一人、掌2諸祭祠事1とある、これ也。荒氏稻布、未v詳。荒氏は、荒の字を冠れる氏多かれば、定めがたし。
 
833 得志能波爾《トシノハニ》。(波流能伎多良婆《ハルノキタラバ》。可久斯己曾《カクシコソ》。烏海乎加射之弖《ウメヲカザシテ》。多努(92)志久能麻米《タヌシクノマメ》。【大令史野氏宿奈麻呂。】)
 
得志能波爾《トシノハニ》。
毎年の意也。十九【十六丁】に、毎年謂2之|等之乃波《トシノハ》1とありて、いと多く、あぐるにいとまなし。
 
多努志久能麻米《タヌシクノマメ》。
樂しく酒を飲めなり。一首の意は、春の來らば、年ごとに梅をかざしつゝ、かくのごとく樂しく酒のみてあそばんといふ也。
 
大令史野氏宿奈麻呂。
大令史は、職員令に、大令及一人、掌v抄2l寫判文1。少令史一人、掌同2大令史1とあり。野氏宿奈麻呂、來未v詳。野氏は、野もじ付たる氏、いと多ければ、定めがたし。
 
834 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(伊麻佐加利奈利《イマサカリナリ》。毛毛等利能《モモトリノ》。己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》。波流岐多流良斯《ハルキタルラシ》。【少令史田氏肥人。】)
 
毛毛等利能《モモトリノ》。
百鳥にて、いろ/\の鳥をいふ。上【攷證二下廿九丁】に出たり。
 
己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》。
古保志枳《コホシキ》は、戀しき也。古事記下卷【袁祁命】御歌に、宇良胡本斯祁牟《ウラコホシケム》、志※[田+比]都久志※[田+比]《シヒツクシヒ》云々。書紀齊明紀【皇太子】御歌に、枳瀰我梅能姑〓之枳※[舟+可]羅※[人偏+爾]《キミガメノコホシキカラニ》(93)云々。本集此卷【廿五丁】に、伊加婆加利《イカバカリ》、故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》、麻都良佐欲比賣《マツラサヨヒメ》などあるも、皆同じ。一首の意、明らけし。
 
少令史田氏肥人。
未v詳。田氏も、田もじ付たる氏多かれば、定めがたし。肥人は、うまひとゝ訓べし。この事は下【攷證十一上□】にいふべし。
 
835 波流佐良婆《ハルサラバ》、(阿波武等母此之《アハムトモヒシ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。家布能阿素※[田+比]爾《ケフノアソビニ》。阿比美都流可母《アヒミツルカモ》。【藥師高氏義通。】)
 
家布能阿素※[田+比]爾《ケフノアソビニ》。
今日の宴會をいへり。續日本紀、天平十五年五月、群臣を内裏に宴し給ひて、皇太子五節を舞給ふ詔に、今日行賜布態乎《ケフオコナヒタマフワザヲ》、見行波《ミソナハセバ》、直遊止乃味爾波不在之弖《タヾニアソビトノミニハアラズシテ》云々とあるも、宴會をのたまへり。さて一首の意は、春の來らば、いつしか相んと思ひしに、梅の花のさかりに、今日の宴會のをりしもあへる事よといふなり。
 
藥師高氏義通。
未v詳。高氏の人、紀に多し。氏も名も音にとなふべし。
 
836 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(多乎利加射志弖《タヲリカザシテ》。阿蘇倍等母《アソベドモ》。阿岐太良奴比波《アキタラヌヒハ》。家布爾志阿利家利《ケフニシアリケリ》。【陰陽師礒氏法麻呂。】)
 
(94)家布爾志《ケフニシ》の志もじは助辭也。一首の意、明らけし。
 
陰陽師礒氏法麻呂。
陰陽師は、職員令に、太宰府、陰陽師一人、掌2占筮相1v地とあり。礒氏法麻呂、未v詳。礒氏は礒部氏なるべし。
 
837 波流能努爾《ハルノヌニ》。(奈久夜※[さんずい+于]隅比須《ナクヤウグヒス》。奈都氣牟得《ナツケムト》。和何弊能曾能爾《ワガヘノソノニ》。※[さんずい+于]米何波奈佐久《ウメガハナサク》。【※[竹/下]師志氏大道。】)
 
奈久夜※[さんずい+于]隅比須《ナクヤウグヒス》。
夜もじは助辭なり。この助辭のやもじの事は、上【攷證四中廿五丁】にいへり。
 
奈都氣牟得《ナツケムト》。
馴付《ナヅケ》んの意也。十九【十九丁】に、霍公鳥雖聞不足《ホトトギスキケドモアカズ》、網取爾稽※[行人偏+獲の旁]而奈都氣奈《アミトリニトリテナヅケナ》、可禮受鳴金《カレズナクガネ》ともあり。戀しき事を、なつかしといふも、この語のはたらきたる也。
 
和何弊能曾能爾《ワガヘノソノニ》。
これも我家の苑に也。一首の意は、春の野に鳴居る鶯を、なづけんとにや、梅のさくらんといふ也。
 
※[竹/下]師志氏大道。
※[竹/下]師は、職員令に、太宰府、※[竹/下]師一人、掌v勘2計物類1とあり。志氏大道、未v詳。志氏も、志もじ付たる氏おはかれば、定めがたし。
 
838 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(知利麻我比多流《チリマガヒタル》。乎加肥爾波《ヲカビニハ》。宇具比須奈久母《ウグヒスナクモ》。波流加(95)多麻氣弖《ハルカタマケテ》。【大隅目榎氏鉢麻呂。】)
 
知利麻我比多流《チリマガヒタル》。
麻我比《マガヒ》は、集中多く、亂の字を書り。この事、上【攷證二中六丁】にいへるが如く、紛《マギ》るゝといふも、紛《マガ》はしといふも、同語なり。
 
乎加肥爾波《ヲカビニハ》。
岡邊《ヲカビ》には也。ひとへと音通へば、肥は邊也。十七【十八丁】に、乎加備可良秋風吹奴《ヲカビカラアキカゼフキヌ》云々ともありて、集中、海備《ウナビ》、濱備《ハマビ》、山備《ヤマビ》、川備《カハビ》など多くよめり。皆|備《ヒ》は邊《ヘ》の意なり。
 
宇具比須奈久母《ウグヒスナクモ》。
母《モ》は助辭なり。
 
波流加多麻氣弖《ハルカタマケテ》。
加多麻氣《カタマケ》といふ言は、上【攷證二中五十八丁】にいへるが如く、皆その時を待儲《マチマウケ》たる意にて、一首の意は、春を待まうけて、梅の花の散亂たる岡べに、鶯の鳴よと也。
 
大隅目榎氏鉢麻呂。
大隅目は、職員令に、大國、大目一人、少目一人、掌d受v事上抄、勘2署文案1、檢2出稽失1、讀c申公文u。餘目准v此。上國、中國、下國、目一人とあり。職原抄を考るに、大隅國は中國なれば、目一人なり。複氏鉢麻呂、未v詳。榎氏まへに出たり。
 
(96)839 波流能能爾《ハルノノニ》。(紀利多知和多利《キリタチワタリ》。布流由岐得《フルユキト》。比得能美流麻提《ヒトノミルマデ》。烏梅能波奈知流《ウメノハナチル》。【筑前目田氏眞人。】)
 
波流能能爾《ハルノノニ》。
野は、古事記書紀、みなぬとのみいひて、集中も、大かたは、ぬとのみいへり。角《ツノ》、篠《シノ》、忍《シノブ》、陵《シノグ》、樂《タノシ》なども、古しへは、みな、つぬ、しぬ、しぬぶ、たぬしとのみいひて、今の如く、つの、しの、しのぶなどいふ事は、集中にはいとすくなし。されば、この集のころより、やう/\に、のといへる事はじまりて、後には、のとのみいへる事とはなれる也。六【廿八丁】に、大能備《オホノビ》爾云々とあるも、大野邊也。十四【三丁】に、須我能安良能爾《スガノアラノニ》云々。十八【廿九丁】に、夏能能之《ナツノノノ》云々などありで、又野もじを、のと訓るは、十八【九丁】に、安利蘇野米具利《アリソノメグリ》云々。また【廿五丁】に、須久奈比古奈野神代欲里《スクナヒコナノカミヨヨリ》云々などあり。されど、活字本、代匠記に引る官本など、能を努に作るをよしとす。
 
紀利多知和多利《キリタチワタリ》。
こは、中ごろよりいふ霧と別にて、たゞ天のきりふたがりて曇るをいへる事、上【攷證一上四十八丁】春日桐流《ハルヒノキレル》とある所、考へ合すべし。霧をきりといふも、きりふたがるよりいへる名なり。
 
烏梅能波奈知流《ウメノハナチル》。
梅のちれるを、雪と見なしたり。一首の意、明らけし。
 
(97)筑前目田氏眞人。
田氏眞人、未v詳。田氏、定めがたし。まへにも出たり。眞人を、活字本、眞上に作る。いづれか是ならん。
 
840 波流楊奈宜《ハルヤナギ》。(可豆良爾乎利志《カヅラニヲリシ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。多禮可有可倍志《タレカウカベシ》。佐加豆岐能倍爾《サカヅキノヘニ》。【壹岐目村氏彼方。】)
 
波流楊奈宜《ハルヤナギ》。
今本、奈の下に那《ナ》もじあり。衍字なる事、明らかなれば、拾穗本に依て略けり。さてこの句は、かづらに折しといはんとて、はるやなぎとはいへるに|は《(マヽ)》、枕詞なり。こは十一【九丁】に、春楊葛山發雲《ハルヤナギカツラギヤマニタツクモノ》云々ともありて、春の柳は、なよ/\として、※[草冠/縵]によければ、かくはつゞけし也。
 
多禮可有可倍志《タレカウカベシ》。
印本、有の下、可の字を脱せり。今、活字本、拾穗本などに依て加ふ。
 
佐加豆岐能倍爾《サカヅキノベニ》。
佐加豆岐《サカヅキ》は、新撰字鏡に、〓〓同、古横反、禮器也。角爵、佐加豆支。和名抄瓦器類に、盃盞、和名佐賀都木とあり。本集【五十八丁】に、酒杯爾梅花浮《サヅキニウメノハナウカベ》、念共飲而後者落去登母與之《オモフトチノミテノノチハチリヌトモヨシ》ともよ(め脱カ)り、すべて杯《ツキ》と(は、脱カ)食器の惣名にて、これ酒を盛ものなれば、酒杯とはいへり。倍《ヘ》は上《ウヘ》の略なり。一首の意は、かづらにせんとて折たりし梅花を、盃の上にたれかうかべつらんと也。
 
(98)壹岐目村氏彼方。
村氏彼方、未v詳。村氏は、村の字付たる氏多かれば、定めがたし。彼方はをちかたとよまんか。
 
841 于遇比須能《ウグヒスノ》。(於登企久奈倍爾《オトキクナベニ》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。和企弊能曾能爾《ワキヘノソノニ》。佐伎弖知留美由《サキテチルミユ》。【對馬目高氏老。】)
 
於登企久奈倍爾《オトキクナベニ》。
奈倍爾《ナベニ》は、上【攷證一下廿七丁】にいへるが如く、並《ナミ》にの意にて、こゝはそれに又といふ意なり。一首の意は、うぐひすのこゑの聞ゆるうへに、又梅花の咲てちれるも見ゆと也。
 
對馬目高氏老。
高氏老、未v詳。高氏はまへにも出たり。
 
842 和家夜度能《ワガヤドノ》。烏梅能之豆延爾《ウメノシヅエニ》。阿蘇※[田+比]都都《アソビツツ》。宇具比須奈久毛《ウグヒスナクモ》。知良麻久乎之美《チラマクヲシミ》。【薩摩目鷹氏海人。】)
 
和家夜度能《ワガヤドノ》。
家は我の草書より誤れるなるべけれど、改めがたきよしは、まへにいへり。
 
(99)知良麻久乎之美《チラマクヲシミ》。
美《ミ》はさにの意也。一首の意は明らけし。
 
薩摩目高氏海人。
未v詳。海人はあまと訓べし。
 
843 宇梅能波奈《ウメノハナ》。(乎理加射之都都《ヲリカザシツツ》。毛呂比登能《モロヒトノ》。阿蘇夫遠美禮婆《アソブヲミレバ》。彌夜古之叙毛布《ミヤコシゾモフ》。【土師氏御通。】)
 
彌夜古之叙毛布《ミヤコシゾモフ》。
之《シ》は助辭、毛布《モフ》はおもふ也。一首の意、明らけし。
 
土師氏御通。
四【廿五丁】に、土師宿禰水道とある、同人なり。その所【攷證四上五十二丁】にいへり。
 
844 伊母我陛邇《イモガヘニ》。(由岐可母不流登《ユキカモフルト》。彌流麻提爾《ミルマデニ》。許許陀母麻我不《ココダモマガフ》。烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》。【小野氏國堅。】)
 
伊母我陛邇《イモガヘニ》。
陛は家の略なり。まへに出たり。
 
(100)許許陀母麻我不《ココダモマガフ》。
幾許《コヽダ》も亂《マガフ》なり。一首の意、明らけし。
 
小野氏國堅。
未v詳。
 
845 宇具比須能《ウグヒスノ》。(麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》。宇米我波奈《ウメガハナ》。知良須阿利許曾《チラズアリコソ》。意母布故我多米《オモフコガタメ》。【筑前掾門氏石足。】)
 
知良須阿利許曾《チラズアリコソ》。
許曾は願ふ意の詞にて、ちらずあれかしの意也。
 
意母布故我多米《オモフコガタメ》。
故は兒にて、女を親しみいふ言也。上【攷證二上四十丁】に出たり。一首の意は、鶯さへもまちがてに思ひたりし、梅の花の、今は咲たれど、猶ちらずあれかし。思ふ人にも見せむが爲にといふ也。
 
筑前掾門氏石足。
職員令に、大國、大掾一人、掌d糺2判國内1、審2署文案1、勾2稽失1、案c非違u、餘掾准v此。上國、中國、下國、掾一人とあり。職原抄を考るに、筑前國は上國なれば、掾一人なり。門氏石足未v詳。四【廿七丁】に出たる門部連石足也。その所【攷證四上六十丁】にいへり。
 
(101)846 可須美多都《カスミタツ》。(那我岐波流卑乎《ナガキハルビヲ》。可謝勢例杼《カザセレド》。伊野那都可子岐《イヤナツカシキ》。烏梅能波那可毛《ウメノハナカモ》。【小野氏淡理。】)
 
那我岐波流卑乎《ナガキハルビヲ》。
乎は、にの意也。この事、上【攷證四上五十七丁】にいへり。印本、我の下、比の字あるは、衍字なる事、明らかなれば、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て略けり。活字本、岐を比に作るも誤り也。一首の意、明らけし。
 
小野氏淡理。
未詳。
 
員外思2故郷1歌兩首。
 
員外は、右の三十二首にむかへていへるにて、これもその宴席にての歌なるべし。おしはかり思ふに、この二首は、憶良の歌なるべし。目録には員外の二字なし。
 
847 和我佐可理《ワガサカリ》。(伊多久久多知奴《イタククダチヌ》。久毛爾得夫《クモニトブ》。久須利波武等母《クスリハムトモ》。麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》。)
 
(102)和我佐可理《ワガサカリ》。
我盛《ワガサカリ》也。壯年のほどをいふ也。古今集雜上に、【よみ人しらず】さゝの葉にふりつむ雪のうれをおもみ本くだちゆくわがさかりはもとよめるは、この歌をとれるなるべし。(頭書、四【卅丁】に、吾盛復將變八方《ワガサカリマタヲチメヤモ》、殆寧樂京師乎不見歟將成《ホト/\ニナラノミヤコヲミズカナリナム》。)
 
伊多久久多知奴《イタ○ククダチヌ》。
甚《イタ》く降《クダチ》ぬ也。六【廿七丁】に、夜者更降管《ヨハクダチツヽ》。七【三丁】に、與曾降家類《ヨソクダチケル》などありて、猶いと多し。皆|降《クダ》りおとろふるをいふ也。
 
久毛爾得夫《クモニトブ》。
こは、仙藥をいふ。神仙傳に、時人傳、八公安臨2去時1、餘藥器置在2中庭1、鷄犬舐2啄之1、盡得2昇天1、鷄鳴2天上1、犬吠2雲中1也とある故事をよめり。古今集長歌に、【忠峯】いにしへのくすりけがせるけだものの雲にほえけんこゝちして云々とよめるもこれなり。
 
久須利波武等母《クスリハムトモ》。
藥咋《クスリハム》ともなり。十二【廿九丁】に、※[木+巨]※[木+若]越爾麥咋駒乃《マセコシニムギハムコマノ》云々。十四【廿九丁】に、波流能野爾久佐波牟古麻能《ハルノヌニクサハムコマノ》云々などあり。
 
麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》。
宣長云、遠知《ヲチ》とは、初めの方へかへるをいふ言也。卷十七、鷹の長歌に、手放れも乎知もかやすきとは、鷹の本の手へ返り來るをいふ。卷二十、我やどに咲るなでしこ【中略】いや乎知《ヲチ》にさけ。是ははじめへかへり/\して、いく度もさけ也。又常に、ほとゝぎすの歌に、乎知かへり鳴といふも、はじめの方へまた返り來て鳴事也。さて老たる人の若がへるをいふも、はじめへかへる事也。今のまたをちめやもは、若がへるべきかはにて、次の歌のをちぬべしは、若がへるべし也云々。この説のごとし。猶上【攷證四中廿一丁】にもいへり。一首の(103)意明らけし。
 
848 久毛爾得夫《クモニトブ》。(久須利波牟用波《クスリハムヨハ》。美也古彌婆《ミヤコミバ》。伊夜之吉阿何微《イヤシキアガミ》。麻多越知奴倍之《マタヲチヌベシ》。
 
久須利波牟用波《クスリハムヨハ》。
用は、よりの意也。十四千に、之氣吉許能麻欲多都登利能《シゲキコノマヨタツトリノ》云々。また【十三丁】與曾爾見之欲波伊麻許曾麻左禮《ヨソニミシヨハイマコソマサレ》。十五【卅八丁】に、許欲奈伎和多流《コヨナキワタル》などありて、猶いと多し。
 
麻多越知奴倍之《マタヲチヌベシ》。
又若がへるべしといへるにて、一首の意は、雲にも昇るべき仙藥を咋んよりは、戀しき京師を見ば、いやしき我身は、若がへるべしといひて、都の戀しきよしをのべたり。
 
後追和梅歌四首。
 
後追とは、この宴會のをりならで、その後に追てよめりといふ也。この歌も憶良の歌ならんか。
 
(104)849 能許利多流《ノコリタル》。(由棄仁末自列留《ユキニマジレル》。烏梅能波奈《ウメノハナ》。半也久奈知利曾《ハヤクナチリソ》。由吉波氣奴等勿《ユキハケヌトモ》。)
 
氣奴等勿《ケヌトモ》は、消《キエ》ぬとも也。一首の意は明らけし。
 
850 由吉能伊呂遠《ユキノイロヲ》。(有婆比弖佐家流《ウバヒテサケル》。有米能婆奈《ウメノハナ》。伊麻左加利奈利《イマサカリナリ》。彌牟必登母我聞《ミムヒトモガモ》。)
 
一首の意、明らけし。金葉集夏に、【公實】雪のいろをうばひて咲るうの花に、小野の里人冬ごもりすなとよめるは、この歌をとれる也。
 
851 和我夜度爾《ワガヤドニ》。(左加里爾散家留《サカリニサケル》。牟梅能波奈《ウメノハナ》。知流倍久奈里奴《チルベクナリヌ》。美牟必登聞我母《ミムヒトモガモ》。
 
牟梅能波奈《ウメノハナ》。
牟梅《ムメ》と書るは、いといぶかし。梅《ウメ》をむめ、馬《ウマ》をむま、郁子《ウベ》をむべ、味《ウマシ》をむまし、孫《ウマコ》をむまごなどいふ事は、延喜のはじめまでは、をさ/\見えず。新撰(105)字鏡は、寛平の書なるを、みなうまとのみいへり。古今集物名に、【よみ人しらず】梅を、あなうめに常なるべくも見えぬかな、戀しかるべきかは匂ひつゝあ《(マヽ)》るも、うめといへり。その後、本(草脱カ)和名は延喜の末より後の書なるを、梅をばむめといひて、馬をばうまとも、むまとい《(マヽ)》ひ、郁子をばうべといへり。和名抄には、梅はうめ、郁子はむべ、馬はむまとあれど、物の名に馬何とつゞけたるは、うまとも、むまともあり。されば思ふに、延喜よりまへは、うとむの交れる事は、をさをさ/\なかりしを、延喜の末つかたより、やう/\にうとむと亂れはじめたれど、猶天暦のころまでは、うといふこともたえざりしを、その後は、なべて、むといふ事とのみなれる也。但し本集廿【廿七丁】に、馬を牟麻《ムマ》といへる所、一つあれど、こは國風の歌なれば、證とはなしがたし。さればここに牟梅とあるは、必らず誤りなるべけれど、諸本みなかくの如くなれば、改る事なし。たゞ代匠記に、校本のみ或牟作v宇とあれど、さかしらならんもしりがたし。一首の意明らけし。(頭書、再考ふるに、この卷の中、九國の法言をいへる事、これかれあれば、こゝも法言のまゝに、むめといへるにてもあるべし)この事、下【攷證五下廿三丁】にいふべし。)
 
852 烏梅能波奈《ウメノハナ》。(伊米爾加多良久《イメニカタラク》。美也備多流《ミヤビタル》。波奈等阿例母布《ハナトアレモフ》。左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》。)
 
伊米爾加多良久《イメニカタラク》。
良久は、るを延たるにて、夢に語ると也。
 
(106)美也備多流《ミヤビタル》。
おもむきある事をいへり。この事、上【攷證二上四十四丁】にいへり。
 
左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》。
許曾《コソ》は、上【攷證四中十七丁】にいへるが如く、願ふ意の詞にて、一首の意は、梅の花の、夢に見えて語るは、われながら、みやび花也と思へば、酒にうかべて見よといへりとなり。
 
一云。伊多豆良爾《イタヅラニ》。(阿例乎知良須奈《アレヲチラスナ》。左氣爾于可倍己曾《サケニウカベコソ》。)
 
伊多豆良《イタヅラ》は、不用也。上【攷證一下三十三丁】に出たり一首の意、明らけし。
 
文政九年十二月十二日より、この卷をはじめつれど、つごもりの頃より、例のものぐるはしき人にかゝりて、やゝおこたりつるが、あくる年の三月の末つかたより、また思ひおこして、この卷をはたしつるは、五月朔日になん。
                    岸 本 由 豆 流
                      (以上攷證卷五上册)
(107)遊2於松浦河1序。
松浦河は、肥前國松浦郡玉島河これ也。書紀神功紀、仲哀天皇九年四月甲辰、北到2火前國松浦縣1、而進2食於玉島里小河之側1。於v是皇后勾v針爲v鈎、取v粒爲v餌、抽2取裳糸1爲v緡、登2河中石上1、而投v鈎祈之曰、朕西欲v求2財國1、若有2成事1者、河魚飲v鈎。因以擧v竿、乃獲2細鱗魚1。時皇后曰、希見物也。【希見此云梅豆邏志】故時人號2其處1曰2梅都羅國1。今謂2松浦1訛焉云々と見えて、猶風土記にもあり。さて代匠記云、此序并ニ仙女ニ贈ル哥ヲ、古來憶良ノ作トス。今案、是ハ旅人卿ノ作ナルベシ。其故ハ、太宰|師《(マヽ)》ハ、九國二島ヲ管攝スル故ニ、都督ト號スレバ、所部ヲ檢察セムタメニ、何レノ國ニモ到ルベシ。此故ニ第六ニハ、薩摩ノ迫門モ吉野川ニシカズトヨマレタリ。是一ツ。憶良ハ、筑前守ニテ、輙ク境ヲ越テ、他國ニ赴ク事ヲ得ベカラズ。是二ツ。次ノ吉田連宜ガ状ニ、伏奉2賜書1ト云ヒ、戀v主之誠ト云ヒ、心同2葵※[草がんむり/霍]1ト云ヘルハ、同輩ニ報ズル文體ニ非ズ。憶良ハ從五位下、宜モ此時從五位上ナレバ、カヤウニハ書ベカラズ。是|師《(マヽ)》殿ヘノ返簡ナル證。是三ツ。又兼奉2垂示1、梅花芳席、群英※[手偏+離の左]v藻、松浦玉潭仙媛贈益トイヘルモ、師殿主人ナリケル故ニ、梅花芳席ト云ヘリ。是四ツ。又彼次下ノ憶良ノ書、并歌ニ、師殿典法ニ依テ、部下ヲ巡察セラルヽニ贈ラルヽ書尾、天平二年七月十一日トカヽレタル三首ノ歌、何レモ憶良ハ、終ニ松浦河ヲモ、領巾麾山ヲモ、見ラレタ(ザカ)ル事明ラカナリ。是五ツ云々といはれたるが如く、この序も歌も旅人卿の作なるべし。此序は、文選宋玉が高唐賦、神女賦などのおもむきによりてかゝれたり。
 
(108)余以暫往2松浦之縣1逍遥。(聊臨2玉島之潭1遊覽。忽値2釣v魚女子等1也。花容無v雙。光儀無v匹。開2柳葉於眉中1。發2桃花於頬上1。意氣凌v雲。風流絶v世。僕問曰。誰郷誰家兒等。若疑神仙者乎。娘等皆咲答曰。兒等者漁夫之舍兒。草菴之微者。無v郷無v家。何足2稱云1。唯性便v水。復心樂v山。或臨2洛浦1。而徒羨2王魚1。乍臥2巫峡1。以空望2煙霞1。今以邂逅。相2遇貴客1。不v勝2感應1。輙陳2歎曲1。而今而後。豈可v非2偕老1哉。下官對曰。唯唯。敬奉2芳命1。于v時日落2山西1。驪馬將v去。遂申2懷抱1。因贈2詠歌1曰。)
 
余以暫往2松浦之縣1逍遥。
神功紀にも、松浦縣とあれ、これ松浦郡をいふ。印本、逍を趙に誤れり。今活字本に依りて改む。
 
(109)臨2玉島之潭1。
玉島は、まへに引る神功紀に見えて、風土記に、玉島小河とあり。潭はふちなり。
 
忽値2釣v魚女子等1也。
神功紀に、故時人號2其處1、曰2梅豆羅國1。今謂2松浦1訛焉。是以其國女人、毎v當2四月上旬1、以v鈎投2河中1、捕2年魚1、於v今不v絶。唯男夫雖v釣、以不v能v獲v魚云々と見えたり。
 
花容無v雙。
色《ハナ》の容《カタチ》たぐひあらじといふ也。洛神賦に、華容婀娜、令2我忘1v餐云々とあり。
 
光儀無v匹。
光儀は、集中多くすがたと訓り。上【攷證二下七十二丁】に出たり。玉篇に、匹、輩也、二也とありて、すがた二つなしといふ也。
 
開2柳葉於眉中1。發2桃花於頬上1。
文鏡秘府論、六言句例に、訝2桃花之似1v頬、笑2柳葉之如1v眉云々とあり。
 
意氣凌v雲。風流絶v世。
意氣凌v雲は、史記司馬相如侍に、相如既奏2大人之頌1、天子大説、飄々有2凌v雲之氣1、似d遊2天地之間1意u云々とありて、意《コヽロ》の高きをいひ、風流絶世は、みやびなる事、世に絶たりといふ也。
 
誰郷誰家。
印本、郷を卿に誤れり。既に下にも、無v郷無v家とあれば、代匠記に引る官本に依て改む。
 
(110)唯性便v水。
下に、或臨2洛浦1、而徒羨2王魚1といはんとて、かくはいへり。
 
復心樂v山。
これも下に、乍臥2巫峽1、以空望2烟霞1といはんとて、かくはいへり。
 
或臨2洛浦1。而徒羨2王魚1。
洛神賦にいへる洛川の神女に、かの魚を釣れる女子を比したり。洛浦は、則ち洛川をいひて、漢土の地名也。唐書地理志に出たり。こゝはたゞ水邊に居るを、かの神女が洛川に居るにたとへたり。王魚、こゝろ得がたし。事物異名に、王魚といふは、今云|石首魚《イシモチ》なり。またかれひといふ魚を王餘魚ともいへど、これらはみな海産なれば、玉島河にして、これらをいふべきにあらず。されば、略解に、王魚は巨魚の誤り云々といへるをよしとすべし。巨魚は多くの魚をいふ。羨は玉篇に貪欲也とありて、むさぼる也。
 
乍臥2巫峽1。以空望2烟霞1。
これも、かの高唐賦にいへる、巫山の神女に、この釣する女子を比したり。巫峽は則ち巫山をいひて、漢土の名山なり。水經注に見えたり。こゝは、たゞ、山野に起臥するを、かの神女が巫山に居るにたとへたり。
 
今以邂逅。
毛詩鄭風、邂逅相遇。傳に、邂逅不v期而會とあるが如く、はからざるに相なり。
 
(111)不v勝2感應1。
切に思ふに堪へざるをいへり。
 
輙陳2款曲1。
印本、款を歎に作り、活字本、疑に作れり。誤りなる事明らかなれば、拾穗本に依りて改む。さて款曲は、後漢書光武本紀に、諸母相與語曰、文叔少時謹v言、譽v人不2款曲1、唯直柔耳云々。文選謝靈運酬2從弟惠連1詩に、辛2勤風波事1、※[疑の旁が欠]2曲洲渚言1云々などありて、思ひをのぶること也。
 
而今而後。
文選東京賦に、鄙夫寡v識、而今而後、乃知3大漢之徳馨咸在2於此1云々とあり。自今以後といはんがごとし。
 
豈可v非2偕老1哉。
毛詩撃皷に、執2子之手1、與v子偕老云々とありて、猶諸書に多し。倶に老るをいふ。
 
下官對曰。
下官は卑下の詞なり。遊仙窟には、みな、やつがれと訓り。
 
唯唯。
漢書司馬相如傳に、對曰、唯唯云々。注に唯唯、恭應之辭也云々あ《(マヽ)》るが如く、敬ひ答る詞也。文選神女賦に、玉曰唯唯云々ともあり。
 
敬奉2芳命1。
まへに、具承2芳旨1ともある類にて、香ばしき仰を承るよしなり。
 
于v時日落2山西1。驪馬將v去。
文選洛神賦に、日既西傾、車殆馬煩云々、また應※[王+據の旁]與2滿公※[王+炎]1書に、白日傾v夕、驪駒就v駕云々。また呂安(112)與2稽叔夜1書に、日薄2西山1、則馬首靡v託云々などある類にて、日の西に入れば、馬を催しでかへらんとする也。禮記檀弓注に、馬黒色曰v驪云々と見えたり。
 
遂申2懷抱1。
懷抱は、思ひをいだくにて、申2懷抱1とは、心中に思ふ事を述る也。王義之蘭亭序に、或取2諸懷抱1晤2言一室之内1云々とあり。
 
853 阿佐里須流《アサリスル》。(阿末能古等母等《アマノコドモト》。比得波伊倍騰《ヒトハイヘド》。美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》。有麻必等能古等《ウマビトノコト》。)
 
阿佐里須流《アサリスル》。
阿佐里は漁獵をいふ。この事、上【攷證三中四十六丁】にいへり。
 
美流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》。
延《エ》は、れの意也。この事、上【攷證五上廿五丁】にいへり。
 
有麻必等能古等《ウマビトノコト》。
こは良家の子をいふ。上上【攷證二上十五丁】にいへり。一首の(本ノママ)
 
答詩曰。
 
今本、詩を待に誤れり。今、代匠記の説に依て改む。歌を詩ともいへる事、上【攷證五上卅一丁】にいへり。
 
(113)854 多麻之末能《タマシマノ》。(許能可波加美爾《コノカハカミニ》。伊返波阿禮騰《イヘハアレド》。吉美乎夜佐之美《キミヲヤサシミ》。阿良波佐受阿利吉《アラハサズアリキ》。)
 
夜佐之《ヤサシ》は、此卷【卅觝】に、世間乎宇之等夜佐之等於母倍杼母《ヨノナカヲウシトヤサシトオモヘドモ》云々ともありて、恥かしき意也。古今集※[言+非]諧歌に、【よみ人しらず】なにをして身のいたづらに老ぬらん、年の思はんことぞやさしき。竹取物語に、あまたの人の心ざし、おろかならざりしを、むなしくなして、きのふけん帝のたまはん事につかん、人ぎゝやさしといへば云々。源氏物語槇柱卷に、心わろくて、そひものし給はんも、人ぎゝやさしかるべし云々。枕草子に、けしきばみ、やさしがりて、しらずともいひ、きゝもいれで云々などあるも、同じ意也。一首の意は、この玉島の川のほとりに家はあれども、恥かしさに、先に問給ひしをりに、あらはさずありけりと也。(頭書、靈異記下卷訓釋に、〓、夜左斯。)
 
蓬客等。更贈歌三首。
 
蓬客は、代匠記に、轉蓬旅客と云ふ意なり。文選潘安仁西征賦云、飄萍浮而蓬轉。注張銑曰、竟如2浮萍轉蓬1無v所2止託1云々。この説のごとく、蓬の轉て止る所なきを、旅客の止む所なきにたとへて、こゝは旅客といふ意にて、旅人卿自らをさせり。さて印本、客を容に誤れり。目録并代匠記に引る官本、拾穗本などに依てあらたむ。
 
(114)855 麻都良河波《マツラガハ》。(河波能世比可利《カハノセヒカリ》。阿由都流等《アユツルト》。多多勢流伊毛河《タタセルイモガ》。毛能須蘇奴例奴《モノスソヌレヌ》。)
 
河波能世比可利《カハノセヒカリ》。
こは、娘子がうるはしきを、川瀬も照るばかりにいひなせり。神代紀に、味耜高彦根神、光儀花艶、映2于二丘二谷之間1とある類なり。
 
多多勢流伊毛河《タタセルイモガ》。
爲立妹之《タタセルイモガ》なり。一首の意は明らけし。
 
856 麻都良奈流《マツラナル》。(多麻之麻河波爾《タマシマガハニ》。阿由都流等《アユツルト》。多多世流古良何《タタセルコラガ》。伊弊遲斯良受毛《イヘヂシラズモ》。)
 
こは、まへに家を告ざりしをいへり。毛は助辭也。一首の意、くまなし。
 
857 等富都比等《トホツヒト》。(末都良能加波爾《マツラノカハニ》。和歌由都流《ワカユツル》。伊毛我多毛等乎《イモガタモトヲ》。和禮許曾末加米《ワレコソマカメ》。)
 
(115)等富都比等《トホツヒト》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。遠き人を待《マツ》とつゞけし也。
 
和歌由都流《ワカユツル》。
若年魚釣《ワカユツル》なり。年魚を、ゆとのみいふは、あの字を、わかのかの字の引聲にある故に、略ける也。集中いと多し。
 
和禮許曾末加米《ワレコソマカメ》。
末加米は《マカメ》、將纒《マカメ》にて、枕とする意也。上【攷證二下五十八丁】にいへり。一首の意は、松浦川に年魚を釣て居る君が手本《タモト》を、吾こそは纒て寢なましと、たはぶれいはるゝ也。
 
娘等。更報歌三首。
 
858 和歌由都流《ワカユツル》。(麻都良能可波能《マツラノカハノ》。可波奈美能《カハナミノ》。奈美邇之母波婆《ナミニシモハバ》。和禮故飛米夜母《ワレコヒメヤモ》。)
 
奈美《ナミ》はおしなみに思はゞにて、十一【十丁】に、凡浪妹心吾不念《オシナミニイモガコヽロヲワレオモハズ》。古今集戀四に、【よみ人しらず】三吉野の大河のべの藤なみの、なみにしもはゞわがこひめやはなどあり。この歌も、上の句は序にて、一首の意は、世の中のなべてのなみに、君を思はゞ、我かくばかりにこひめや、こひはせじをといふにて、母は助辭也。
 
(116)859 波流佐禮婆《ハルサレバ》。(和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》。加波度爾波《カハトニハ》。阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》。吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》。)
 
和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》。
和伎覇《ワギヘ》は吾家也。上【攷證四中四十七丁】に出たり。
 
加波度爾波《カハトニハ》。
河門には也。上【攷證四上卅三丁】に出たり。
 
阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》。
佐は發語にて、年魚子の走る也。春はまだ年魚の小ひさければ、年魚子とはいへり。上【攷證三下五十八丁】に出たり。
 
吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》。
我弖《ガテ》は、難《ガテ》にて、九【十丁】に、三和山者未含《ミワヤマハイマダフクメリ》、君待勝爾《キミマチガテニ》。十一【十七丁】に、我哉然念《ワレヤシカオモフ》、待公難爾《キミマチガテニ》などありて、猶多し。一首の意は明らけし。
 
860 麻都良我波《マツラガハ》。(奈奈勢能與騰波《ナナセノヨドハ》。與等武等毛《ヨドムトモ》。和禮波與騰麻受《ワレハヨドマズ》。吉美遠志麻多武《キミヲシマタム》。)
 
奈奈勢能與騰波《ナヽセノヨドハ》。
七瀬の淀なり。中古よりこれを名稱とするは非也。七は大數をいへる事、上【攷證四下二丁】力車二七車《チカラグルマニナナクルマ》云々とある所にいへるが如し。そは、七(117)【卅六丁】に、明日香川七瀬之不行爾住鳥毛《アスカガハナヽセノヨドニスムトリモ》云々。また十三【廿三丁】に、河瀬乎七湍渡而《カハセヲナヽセワタリテ》云々などあるにても、名所ならざるをしるべし。
 
和禮波與騰麻受《ワレハヨドマズ》。
よどむはたゆたふ意なる事、上【攷證四中廿八丁】にいへり。
 
吉美遠志麻多武《キミヲシマタム》。
しは助辭なり。一首の意は、松浦川の多くの瀬には、たとへよどむとも、吾はたゆたふことなく、いつも/\君をまたんといふ也。
 
後人追和之詩三首。 帥老。
 
こは後に人追て和る歌にて、旅人卿ならざること、右三首の歌、いづれも松浦玉島を見ざる歌なるにてしるべし。歌を詩ともいへる事、まへにいへり。さて帥老の二字は、右の三首の歌をも、旅人卿の歌と思へる後人の、加へしなるべし。またこれを、印本には、都帥老の三字とせり。代匠記の説に、太宰帥を都督ともいへば、この都の字ならんともいはれつれど、しからず。この都の字は、印本、次の歌の五の句、可の下の都の字を脱せるを、傍に書おきしが、こゝに亂れ入し事、明らかなれば、今は活字本に依て略けり。
 
861 麻都良河波《マツラガハ》。(河波能世波夜美《カハノセハヤミ》。久禮奈爲能《クレナヰノ》。母能須蘇奴例弖《モノスソヌレテ》。阿由可都流良武《アユカツルラム》。)
 
(118)可の下、都の字を、印本、脱せり。今は活字本に依て加ふ。一首の意は、松浦川の川の瀬の流れの早さに、赤裳の裾もぬらしつゝ、年魚をつるらんといへるにて、その所を見ぬ人の、旅人卿の歌を聞て、おしはかりよめるなり。
 
862 比等未奈能《ヒトミナノ》。(美良武麻都良能《ミラムマツラノ》。多麻志末乎《タマシマヲ》。美受弖夜和禮波《ミズテヤワレハ》。故飛都都遠良武《コヒツツヲラム》。)
 
比等未奈能《ヒトミナノ》は、皆人といふ也。上【攷證二上四十三丁】に出たり。美良武《ミラム》は見るらん也。いと多し。故飛都々《コヒツヽ》は、君をこひつゝ也。一首の意くまなし。
 
863 麻都良河波《マツラガハ》。(多麻斯麻能有良爾《タマシマノウラニ》。和可由都流《ワカユツル》。伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》。比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》。)
 
等母斯《トモシ》は、こゝなるは、うらやましき意也。上【攷證一下四十一丁】にいへり。
 
宜啓。伏奉2四月十《(マヽ)》六日賜書1。(跪開2封凾1。拜讀2芳藻1。心神開朗。似v懷2(119)泰初之月1。鄙懷除v※[衣+去]。若v披2樂廣之天1。至v若d※[覊の馬が奇]2旅邊城1。懷2古舊1而傷v志。年矢不v停。憶2平生1而落uv涙。但達人安v排。君子無v悶。伏冀。朝宣2懷v※[擢の旁]之化1。暮存2放v龜之術1。架2張趙於百代1。追2松喬於千齡1耳。兼奉2垂示1。梅花芳席。群英|※[手偏+離の旁]v藻。松浦玉潭。仙媛贈答。類2杏檀各言之作1。疑2衡皐税駕之篇1。※[身+耽の旁]讀吟諷。感謝歡怡。宜戀v主之誠。誠逾2犬馬1。仰v徳之心。心同2葵※[草がんむり/霍]1。而碧海分v地。白雲隔v天。徒積2傾延1。何慰2勞緒1。孟秋膺v節。伏願2萬祐日新1。今因2相撲部領使1。謹付2片紙1。宜謹啓不次。)
 
宜啓。
宜は、吉田連宜、みづから名をいふ也。續日本紀に、文武天皇四年八月乙丑、勅2僧通徳、惠俊1、並還俗。代度、各一人。賜2通徳姓陽侯史名久爾曾1、授2勤廣肆1。賜2惠俊姓吉名(120)宜1、授2務廣肆1。爲v用2其藝1也。和銅七年正月甲子、授2正六位下吉宜從五位下1。神龜元年五月辛未、從五位上吉宜、從五位下吉智首、並賜2姓吉田連1。天平二年三月辛亥、太政官奏※[人偏+爾]、陰陽醫術及七曜頒暦等類、國家要道、不v得2廢闕1。但見2諸博士1、年齒衰老、若不2教授1、恐致2絶業1。望仰吉田連宜等七人、各取2弟子1、將v令習v業。其時服食料、亦准2大學生1。五年十二月庚申、爲2圖書頭1。九年九月己亥、授2正五位下1。十年閏七月癸卯、爲2典藥頭1とありて、懷風藻に、正五位下圖書頭吉田連宜とあり。篇海に啓同v啓とありて、啓は申上る意なり。活字本、宜を※[宜の一画目なし]に作るは非なり。
 
脆開2封凾1。
函は文書を納る※[櫃の旁]《ヒツ》をいひて、封函を開とは封じたる書函を開く也。今本、封を對に誤れり。今、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。
 
拜2讀芳藻1。
漢書叙傳注に、藻文辭也とありて、ここは芳《カウバ》しき文章を拜讀すといふなり。
 
心神開朗。
心神は、魏書釋老志に、其爲v教也、※[益+蜀]2去邪累1、澡2雪心神1云々とありて、たゞ心を云也。集中、心神【三ノ五十三丁十二ノ廿三丁】情神【三ノ五十七丁十一ノ十五丁】などを、こゝろどとよめり。ここは、こゝろひらけ、ほがらかなる意なり。
 
以v懷2泰初之月1。
泰初は太初なり。韻會に、説文を引て、泰古作v※[大/二]、亦省作v太とありて、泰太同字なり。されば、この故字は、世説容止篇に、時人目2夏侯太初1、朗朗如2日月之入1v懷云々とあるをいへるにて、こゝは、賜はりたる書牘を拜讀して、こゝろの朗《ホカラ》かなる事、かの魏の太初が月をいだくに似たりとなり。
 
(121)鄙懷除※[衣+去]。
鄙はいやしき思ひ、除※[衣+去]はのぞきしりぞくるなり。さて、印本、※[衣+去]を私に誤れり。活字本に依て改む。また拾穗本には除拂に作れり。
 
若v披2樂廣之天1。
この故事は、晋書樂廣傳に、尚書令衛〓朝之、耆舊逮d與2魏正始中諸名士1談論u、見v廣而奇v之曰、自2昔諸賢既没1、常恐2微言將1v絶、而今乃復聞2斯言於君1矣。命2諸子1造焉曰、此人之水鏡見v之、螢然若d披2雲霧1而覩c青天u也とある故事にて、こゝは鄙《イヤシ》き懷《オモヒ》除※[衣+去]《ノゾケシリゾケ》て、かの樂廣が青天を披《ヒラ》き望むがごとしといふ也。
 
※[覊の馬が奇]2旅邊城1。
邊は、邊鄙の意にて、邊城は太宰府をいふ。一本、城を域に作る。いづれにてもありなん。
 
懷2古舊1而傷v志。
古舊は、ふるき友をいひて、こゝは邊地にありて、ふるき友を思ひて、志を傷ましむる意にて、旅人卿のうへをいへり。
 
年矢不v停。
年月の往過る事早く、とゞまらざる事矢の如しといふ也。文選陸機長歌行に、年往迅2勁矢1、時來亮2急絃1云々。千字文に、年矢毎催云々などあり。
 
憶2平生1而落v涙。
旅人卿、都におはしゝ時の平生の事を思ひて、涙を落すとなり。
 
達人安v排。
達人は、左氏昭七年傳に、其後必有2達人1。注に、知能通達之人也とあり。安排は、莊子大宗師篇に、安v排而去v化。注に、排者推移之謂也。安2於推移1而與v化倶去云々とありて、こゝは物に通達せし人は、物とゝもに推移《オシウツ》りて安んじ居る意なり。
 
(122)君子無v悶。
易乾卦に、遯v世無v悶云々。説文に、悶、憊也とありて、こゝは、君子はわづらはしき思ひなしといふ也。
 
朝宣2懷v※[擢の旁]之化1。
こは後漢書魯恭傳に、建初七年郡國螟傷v稼。犬牙縁v界不v入2中牟1。河南尹袁安聞v之、疑2其不1v實、使2仁恕椽肥親1、往察v之。恭隨行2阡陌1、倶坐2桑下1。有v雉過止2其傍1。傍有2童兒1、曰兒何不v捕v之。兒言、雉方將v雛。親※[擢の旁]然而起。與v恭訣曰、所2以來1者、欲v察2君之政迹1耳。今蟲不v犯v境、此一異也。化及2鳥獣1、此二異也。竪子有2仁心1、此三異也云々とある故事にて、玉篇に、※[擢の旁]山雉云々。尚書大禹謨篇に、黎民懷v之。注に、歸v之也云々。化は徳化にて、こゝの意は、伏冀《フシテネカハク》は、魯恭が如く、※[擢の旁]《キジ》を懷《ナツク》るの徳化を宣《ノベ》たまへといふ也。
 
暮存2放v龜之術1。
こは晋書孔愉傳に、愉甞行經2餘不亭1、見d籠2龜於路1者u。愉買而放2之溪中1、龜中流左顧者數四。及v是鑄2侯印1、而印龜左顧、三鑄如v初。印工以告。愉乃悟、遂佩焉云々とある故事にて、孔愉が龜を放せるが如き仁術を存せりといふ也。
 
架2張趙於百代1。
文選孔徳璋北山移文に、籠2張趙於往圖1、架2卓魯於前※[竹/録]1云々。李善注に、漢書曰、張敬字子高、稍遷至2山陽太守1。又曰、超廣漢字子都、※[さんずい+豕]郡人也。爲2陽※[擢の旁]令1、以v化行尤異。遷2京輔都尉1云々とあり。
 
(123)追2松喬於千齡1耳。
後漢書馮衍傳に、觀2覽乎孔老之論1、庶2幾乎松喬之福1云々、注に、列仙傳曰、赤松子、神農時雨師也。服2水玉1能入v火不v燒。常止2西王母石室中1、能隨v風上下。王子喬、周靈王太子晋也。好吹v笙作2鳳鳴1、游2伊洛之間1、道人浮丘公接以上2嵩高山1遂v仙去也云々とあり。
 
梅花芳席、群英|※[手偏+離の旁]v藻。
かの旅人卿の太宰府の館の梅花宴に、諸人三十二首の歌を作りしを云ふ。藻は、まへにいへるが如く、文辭をいひ、※[手偏+離の旁]は舒《ノブ》る意なり。
 
松浦玉潭、仙媛贈答。
かのまへの、松浦の玉島川にて、娘子と贈答の歌をいふ。
 
類2杏檀各言之作1。
杏檀は、杏壇なり。經籍纂詁に、高彪碑〓昔〓檀壇通作v檀とありて、檀壇通る也。さて、こゝの故事は、荘子漁父篇に、孔子游2乎緇帷之林1、休2坐乎杏壇之上1、弟子讀v書、孔子絃歌皷v琴。奏v曲未v半、有2漁父者1、下v舶而來云々とありて、この漁父、孔子と論じて、格言をいふ事あり。されば、思ふに、各言は、格言の誤りなるべし。各言としては、こゝの意解しがたし。さて、この故事を、こゝにいへるは、旅人卿、漁父の兒にあへりしよし述られたるを、孔子が漁父にあひしに比したり。代匠記には、論語□篇に、顔淵季路傳。子曰、盍3各言2爾志1云々とあるを引たれど、當らず。
 
(124)疑2衡皐税駕之篇1。
こは文選洛神賦に、税2駕乎※[草がんむり/衡]皐1、※[禾+末]2駟乎芝田1云々とありて、洛川の神女にあひし事をいへる故事にて、この故事をこゝにいへるは、旅人卿、松浦の仙媛にあひし事を、洛川の神女にあひしに比したり。良注に、税舍也、※[草がんむり/衡]皐香草之澤也云々とあり。さて※[草がんむり/衡]皐を、衡皐と書るも、誤りならざる事、本草に、杜※[草がんむり/衡]を杜衡と書るにてしるべし。
※[身+耽の旁]讀吟諷。
 
耽《タノ》しみ讀吟《ヨミギム》じ誦《ズ》るなり。
 
感謝歡怡。
感じ謝して歡《ヨロコ》び怡《タノシ》むなり。さて、印本、感を戚に作る。誤りなる事しるければ、拾穗本に依て改む。
 
宜戀v主之誠。誠逾2犬馬1。
宜はみづからが名をいふなり。文選、曹植求2自試1表に、不2v勝犬馬戀v主之情1云々。また求v通v親v親表に、犬馬之誠不v能v動v人、譬人之誠不v能v動v天云々とあるをとれり。
 
仰v徳之心。心同2葵※[草がんむり/霍]1。
これも、求通親親表に、若2葵※[草がんむり/霍]之傾1v葉、太陽雖v不2爲v之廻1v光、終向v之者誠也云々とあるをとれり。良注に、葵※[草がんむり/霍]草也、傾2葉於日1云々。説文に、葵、常傾v葉向v日、不v令v照2其根1云々などあり。宜が旅人卿をしたふは、犬馬の主を戀 が如く、又徳を仰ぐ心は、葵※[草がんむり/霍]の日に向ひて、葉を傾くるがごとしといふ也。
 
(125)碧海分v地。白雲隔v天。
海にて、筑紫と京との地をわかち、雲にて天をへだてたりと也。
 
徒積2傾延1。
傾は葵※[草がんむり/霍]の日に傾くをいひ、延は引にて、犬馬の如く主に心引るゝをいふか。略解には、傾延は傾首延領の字を切用ひたるにや、詳ならず云々といへり。
 
何慰2勞緒1。
何《イカ》にして君が勞する心をなぐさめんとなり。
 
孟秋膺v節。
孟秋は初秋也。膺節は當v節也。毛詩※[門/必]宮傳に膺當也とありて、膺應相通ぜり。
 
伏願2萬祐日新1。
萬祐は、萬《ヨロヅ》につけて助《タス》くる事、日《ヒヾ》に新《アラタ》ならん事を伏て願ふとなり。
 
相撲部領使。
相撲は、角力とも、角觝ともいふ。中國には、垂仁天皇七年、當麻蹶速と野見宿禰とに始る。この事、皆人よくしれる所なれば、さらにいはず。漢土には、秦二世皇帝にはじまる。史記李斯傳に見えたり。相撲の字は、法華經安樂行品に出で、書紀天武紀に、十一年七月甲午、大隅隼人與2阿多隼人1、相2撲於朝庭1云々とありて、慧琳音義卷廿七に、通俗文を引て、爭倒曰v撲打也云々と見えたり。また三才圖會に、角觝今相撲也云々とあり。部領使は、ことりづかひと訓べし。事執《コトトリ》使の意也。こは相撲にのみ限らず。書紀推古紀に、十九年五月五日藥2獵於兎田野1。【中略】粟田細目臣、爲2前(ノ)部領《コトリ》1、額田部比羅夫連、爲2後(ノ)部領《コトリ》1云々とありて、本集二十に、防八部領《サキモリノコトリ》使多く見えたり。いづれも催し集る使なり。年中行事歌合に、方わけてことり使の(126)いそぎしはけふのぬき手のためと也けりともあり。さてこの相撲節は、天武紀をはじめとして、その後々も皆七月【持統天皇九年にのみ五月にあり】なれば、日は定まれる事なし。さればこゝは七月十日に筑紫を立て、その後、相撲節はありけるなるべし。この部領使の太宰府に來りしは、持統紀に、九年五月巳未、饗2隼人大隅1。丁卯觀2隼人相撲於西槻本1云々とある如く、古しへは多く隼人をめされし故に、九國には到りしなり。猶この相撲の節の事は、内裏式、貞觀儀式、類聚國史、延喜式、西宮記、北山抄、禮儀類典などにつきてくはしくしるべし。こゝは、この部領使の九國に下るに付てその序に書牘をおくりしなり。
 
不次。
翰墨全書に、不次謂3哀苦中言語即不2次序1也云々とあるが如し。
 
奉v和2諸人梅花歌1一首。
 
これ、まへの三十二首を和る也。これより四首、みな書牘にそへたる宜が歌なり。
 
964 於久禮爲天《オクレヰテ》。(那我古飛世殊波《ナガコヒセズハ》。彌曾能不乃《ミソノフノ》。于梅能波奈爾母《ウメノハナニモ》。奈良麻之母能乎《ナラマシモノヲ》。)
 
(127)那我古飛世殊波《ナガコヒセズハ》は、十二【卅九丁】に、玉勝間島熊山之暮霧爾《タマカツマシマクマヤマノユフキリニ》、長戀爲乍寢不勝可母《ナガコヒシヽイネガテヌカモ》とあると同じく、長戀《ナガコヒ》なり。殊波《ズハ》は、んよりはの意なる事、上【攷證二上二丁】にいへり。一首の、《(マヽ)》おくれ居て、いつまでも長く戀居らんよりは、なかなかに其所御苑生の梅の花にもならば、君を見奉る事もあらましものをといふにて、十一【卅七丁】に、中々二君二不戀者《ナカナカニキミニコヒズハ》、枚浦乃白水郎有申尾《ヒラノウラノアマナラマシヲ》、玉藻刈管《タマモカリツヽ》とあるに似たり。
 
和2松浦仙媛歌1一首。
 
865 伎美乎麻都《キミヲマツ》。(麻都良乃于良能《マツラノウラノ》。越等賣良波《ヲトメラハ》。等己與能久爾能《トコヨノクニノ》。阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》。)
 
等己與能久爾能《トコヨノクニノ》。
この常世國は、蓬莱山をいへり。この事、上【攷證四中四十丁】にくはしくいへり。
 
阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》。
天處女に《アマヲトメ》にあらず、海處女《アマヲトメ》なり。集中いと多し。一首の意明らけし。
 
思v君未v盡。重題二首。
 
866 波《ハ》漏《ロ・ル》婆《バ》漏《ロ・ル》爾《ニ》。(於忘《オモ》方《ハ・ホ》由流可母《ユルカモ》。志良久毛能《シラクモノ》。智弊仁邊多天留《チヘニヘダテル》。都久紫(128)能君仁波《ツクシノクニハ》。)
 
波《ハ》漏《ロ・ル》婆《バ》漏《ロ・ル》爾《ニ》。
遙々なり。書紀皇極紀謠歌に、波魯波魯爾渠騰曾枳擧喩屡《ハロバロニコトゾキコユル》云々。本集十五【五丁】に、波呂波呂爾於毛保由流可母《ハロバロニオモホユルカモ》云々。廿【卅四丁】に、波呂波呂爾伊弊乎於毛比※[泥/土]《ハロバロニイヘヲオモヒデ》云々などあり。
 
於忘《オモ》方《ハ・ホ》由流可母《ユルカモ》。
方もじは、集中、皆、はの假字にのみ用ひたれば、こゝも、おもはゆると訓べし。由は、るの意なる事、上【攷證一下五十五丁】にいへるが如く、こゝはおもはるゝかもの意也。
 
智弊仁邊多天留《チヘニヘダテル》。
隔たるをいふ意也。八【卅三丁】に、敝太而禮婆可母《ヘダテレバカモ》云々ともあり。一首の意、明らけし。
 
867 (枳美可由伎《キミガユキ》。氣那我久奈理努《ケナガクナリヌ》。奈良遲那留《ナラヂナル》。志滿乃己太知母《シマノコダチモ》。可牟佐飛仁家理《カムサビニケリ》。)
 
氣那我久奈理努《ケナガクナリヌ》。
氣は、來経のつゞまりにて、月日經ゆく事の長きをいへる事、上【攷證二上二丁】にいへるがごとし。
 
(129)志滿乃己太知母《シマノコダチモ》。
志滿は、大和志を考ふる、《(マヽ)》高市郡島莊あり。こゝなるべし。本集九【廿一丁】に、難波經宿、明日還來之時と、端辭ある歌に、島山乎射往廻流《シマヤマヲイユキメグレル》、河副乃丘邊道從《カハゾヒノヲカベノミチユ》云々。十【廿一丁】に、思子之衣將摺爾爾保比與《オモフコガコロモスラムニニホヒコセ》、島之榛原秋不立友《シマノハリハラアキタヽズトモ》とあるも同所にて、奈良へかよふ道なるべし。己太知《コダチ》は、木立にて、集中いと多し。(頭書、六【廿丁】に、韓衣服楢乃里之島待爾《カラコロモキナラノサトノシママツニ》、玉乎師付牟《タマヲシツケム》、好人欲得《ヨキヒトモガモ》。)
 
可牟佐飛仁家理《カムサビニケリ》。
可牟佐飛《カムサビ》は、上【攷證一下八丁三上十三丁】にいへるが如く。神めき古びたる意にて、一首の意は、君が筑紫へ行てより、月日の久しくなりぬれ、《(マヽ)》奈良の道なる島の木立なども、神めき古びたりといふ也。
 
天平二年七月十日。
 
こゝまでは吉田連宜が書牘なり。
 
憶良。誠惶頓首謹啓。
 
(憶良聞。方岳詣侯。都督刺史。並依2典法1。巡2行部下1。察2其風俗1。意(130)内多端。口外難v出。謹以2三首之鄙歌1。欲v寫2五藏之欝結1。其歌曰。)
 
憶良。誠惶頓首謹啓。
憶良は、山上臣億良自ら名をいふ也。誠惶誠惶(二字衍カ)も頓首も書牘の首尾にしるす言にて、誠惶は、おそれつゝしむ意、頓首は、拜する意にて、謹啓は、つゝしんで申上る意なり。
 
方岳諸侯。
尚書周官に、六年、王乃時巡考2制度于四岳1、諸侯各朝2于方岳1、大明2黜陟1云々とあるをとれり。傳に、覲2四方諸侯1、各朝2於方岳之下1、大明2考績黜陟之法1と見えたり。諸侯は國守をいひて、國守の國中を巡行するを、諸侯の方岳の下に朝するに比したり。文選于令升晋紀總論に、方岳無2鈞覲石之鎮1、關門無2結草之固1云々などあり。
 
都督刺史。
都督は、晋書職官志に、魏文帝黄初三年、始置2都督諸州軍事1、或領2刺史1云々とありて、こゝには、太宰帥に比したり。既に職原抄には、都督を太宰帥の唐名とせり。刺史は、後漢書百官志に、孝武帝初置2刺史十三人1、秩六百石。成帝更爲2牧二千石1。建武十八年復爲2刺史十二人1、各主2一州1、其一州屬2司隷校尉1云々とありて、こゝには太宰府の官人をいへり。職原抄には、刺史を國守の唐名とせり。印本、刺を判誤れり。今、代匠記に引る官本、拾穂本などに依て改む。
 
並依2典法1巡2行部下1。
都督刺史など、典法の定りあるに依て、太宰府の管國を巡行する事をいへり。太宰府にて、九國二島を管る事は、國《(マヽ)》に多く見(131)えたり。されば筑前國はいふまでもなく、肥前國も管國なれば、帥の巡行せらるゝに依て、鎭懷石の歌も松浦河の歌もある也。
 
欲v寫2五藏之欝結1。
五藏は、肝心脾肺腎なり。寫は玉篇に除也とありて、こゝは管國をめぐりて、その國の風俗をも考へ、政事こと多くして、心の中わつらはしけれど、口に出しがたきを察して、この三首の歌をもて、その心のむすぼふれたるを除かんとすといへる也。
 
868 (麻都良我多《マツラガタ》。佐欲比賣能故何《サヨヒメノコガ》。比列布利斯《ヒレフリシ》。夜麻能名乃美夜《ヤマノナノミヤ》。伎々都都遠良武《キヽツヽヲラム》。)
 
佐欲比賣能故何《サヨヒメノコガ》。
仙覺抄に引る肥前風土記に、松浦縣之東三十里、有2※[巾+皮]搖峯1。【※[巾+皮]搖此云2比禮府離1。】※[うがんむり/取]頂有v沼、計可2半町1。俗傳云、昔者檜前天皇之世、遣2大伴紗手比古1領2任那國1。于v時奉v命經2過2此墟1。於v是篠原村有2娘子1、名曰2乙等比賣1。容貌端正、孤爲2國色1。紗手比古、便娉成v婚。離別之日、乙等比賣、登2此峯1擧v※[巾+皮]招。因以爲v名云々とある故事をいへり。故は子にて、例の親しみ稱する言なり。
 
比列布利斯《ヒレフリシ》。
領巾振し也。領巾の事は、上【攷證二下四十七丁】にくはしくいへり。
 
(232)夜麻能名乃美夜《ヤマノナノミヤ》。
これ領巾振《ヒレフリノ》峯をいへり。一首の意は、君は行ても見たまひしかど、吾はたゞその山の名のみを聞つゝ居んといふ也。
 
869 多良志比賣《タラシヒメ》。(可尾能美許等能《カミノミコトノ》。奈都良須等《ナツラスト》。美多多志世利斯《ミタタシセリシ》。伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》。)
 
多良志比賣《タラシヒメ》。
息長足姫命なり。神功皇后を申す。皇后、松浦河にて年魚をつらせ給ひし事、はしめに引る本紀に見えて、また肥前風土記にも出たり。
 
奈都良須等《ナツラスト》。
魚爲釣《ナツラス》となり。魚を、なといふは、食科に用る時にいへることにて、菜の意なり。本集三【卅四丁】に、勇魚取《イサナトリ》云々。十一【四十二丁】に、朝魚夕奈《アサナユフナ》云々などありて、書紀持統訓注に、魚此云v儺とあり。
 
伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》。
伊志は石にで、神功紀に、登2河中石上1而投v鈎云々とある石をいへり。さてこの句、多禮と疑ひて、美吉と結べるは、中古よりの歌の例もていはゞ、てにをは違へれど、集中、てにをは、中古よりの格には合ざる事、提要にいへるがごとし。一首の意は、神功皇后の、魚を釣給はんとて、御立し給ひし石を、たれか見つらんといひて、君は見給ひつらめど、われは見ざるよしをいへり。
 
(133)一云。阿由都流等《アユツルト》。
 
これもあしからず。いづれにてもありなん。
 
870 毛毛可斯母《モヽカシモ》。(由可双麻都良遲《ユカヌマツラヂ》。家布由伎弖《ケフユキテ》。阿須波吉奈武遠《アスハキナムヲ》。奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》。)
 
毛毛可斯母《モヽカシモ》。
毛々可《モヽカ》は百日にて、日數の多きをいふ。斯は助辭なり。
 
奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》。
さやれるは、物の障《サハ》れる意也。此卷【卅八丁】に、周弊母奈久苦志久阿禮婆出波之利伊奈々等思騰許良爾佐夜利奴《スベモナククルシクアレバイデハシリイナヽトオモヘドコラニサヤリヌ》とあるも、意おなじ。又物に觸《フル》る事を、さはるといへり。古事記中卷【神武天皇】御歌に、宇陀能多加紀爾《ウダノタカキニ》、志藝和那波留《シギワナハル》、和賀麻都夜《ワガマツヤ》、志藝波佐夜良受《シギハサヤラズ》、伊須久波斯《イスクハシ》、久治良佐夜流《クヂラサヤル》云々とあるは、觸る事を、さやるといへれど、語の本は同じ意也。一首の意は、この太宰府と、松浦郡とは、百日かゝりて行ばかりの遠き堺にもあらず。たゞ今日行て、明日はかへり來ばかりの、近きほどなるを、かく行て見る事も叶はざるは、何の障りなるぞといへるにて、憶良は國政などありて、このとき行ざるをうらめる歌なり。
 
(134)天平二年七月十一日。筑前國司山上憶良謹上。
 
こは前の書牘と三首の歌との月日なり。
 
大伴佐提比古(郎子。特被2朝命1。奉2使藩國1。艤棹言歸。稍赴2蒼波1。妾也松浦【佐用嬪面】。嗟2此別易1。歎2彼會難1。即登2高山之嶺1。遥望2離去之船1。悵然斷v肝。黯然銷v魂。遂脱2領巾1麾v之。傍者莫v不2流v涕。因號2此山1。曰2領巾麾之嶺1也。乃作v歌曰。)
 
大伴佐提比古。
大伴金村の子也。書紀宣化紀に、二年十月壬辰朔、天皇以3新羅寇2於任那1、詔2大伴金村大連1、遣3其子磐與2狹手彦1、以助2任那1。是時磐留2筑紫1執2其國政1、以備2三韓1。狹手彦往鎭2任那1、加2救百濟1云々。欽明紀に、二十三年八月、天皇遣2大將軍大伴連狹手彦1、領2兵數萬1、伐2于高麗1。狹手彦乃用2百濟計1、打2破高麗1。其王踰v墻而逃。狹手彦遂乘v勝以入v宮、盡得2珍寶※[貝+化]賂七織帳鐵屋1還來云々などあり。猶肥前國風土記にもあり。
 
(135)奉2使藩國1。
藩國は屬國をいふ也。古書みな蕃と通ず。書紀繼體紀に、太后氣長足姫尊、與2大臣武内宿禰1、毎v國初置2官家1、爲2海表之蕃屏1云々。周禮大行人に、九州之外、謂2之蕃國1云々などあり。
 
艤v棹言歸。
玉篇に、艤整v舟向v岸也とありて、舟よそひするをいふ。陶翰、乘v潮至2漁浦1詩に、艤v棹乘2早潮1、潮來如2風雨1云々とあり。易師卦注に、言、語辭也とありて、歸はゆくなり。
 
稍赴2蒼波1。
蒼波は海をいふ。蒼海といはんが如し。
 
妾也松浦。
也は助字なり。
 
悵然斷v肝《キモ》。
説文に、悵、望恨也とありて、恨る意也。斷肝は斷腸といはんが如し。
 
黯然|銷《ケス》v魂。
唐韻に、黯然、傷別貌とありて、文選江淹別賦に、黯然鎖魂者、惟別而已矣云々とあるをとれり。さて、印本、黯を黙に誤れり。今、袖中抄卷八に引所に依て改む。
 
遂脱2領巾《ヒレ》1麾《マネク》v之。
領巾《ヒレ》の事は、上【攷證二下四十七丁】にいへり。麾は左氏隱十一年傳注に、麾招也とあり。
 
(136)領巾麾之嶺。
麾をふると訓るは、義訓也。風土記には、褶振峯とせり。さてこの文も歌も憶良の作なり。
 
871 得保都必等《トホツヒト》。(麻通良佐用比米《マツラサヨヒメ》。都麻故非爾《ツマゴヒニ》。比例布利之用利《ヒレフリシヨリ》。於返流夜麻能奈《オヘルヤマノナ》。)
 
一首の意明らけし。すべてこの佐用姫の歌、書紀欽明天皇二十三年紀に、調吉士伊企儺、【中略】其妻大葉子、亦並見v禽。愴然而歌曰、柯羅倶爾能《カラクニノ》、基能陛※[人偏+爾]陀致底《キノヘニタチテ》、於譜磨故幡《オホハコハ》、比例甫※[口+羅]須母《ヒレフラスモ》、耶魔等陛武岐底《ヤマトヘムキテ》とあるに似たり。
 
後人追和。
 
これより下は、作者、考へがたし。
 
872 夜麻能奈等《ヤマノナト》。(伊賓都夏等可母《イヒツゲトカモ》。佐用比賣何《サヨヒメガ》。許能野麻能閉仁《コノヤマノヘニ》。必例遠布利家無《ヒレヲフリケム》。)
 
(137)夜麻能奈等《ヤマノナト》の等もじは、としての意にて、二【廿九丁】に、島乎母家跡住良毛《シマヲモイヘトスムトリモ》云々とあると同じ。伊賓都夏等可母《イヒツゲトカモ》の等もじは、とての意也。集中いと多し。野麻能閉《ヤマノヘ》は山の上也。一首の意明らけし。
 
最《イト》後人追和。
 
唐韻に、最、極也とあり。いとゝ訓べし。
 
873 余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》。(可多利都夏等之《カタリツゲトシ》。許能多氣仁《コノタケニ》。比例布利家良之《ヒレフリケラシ》。麻通羅佐用嬪面《マツラサヨヒメ》。)
 
等之《トシ》の之《シ》は助辭なり。許能多氣《コノタケ》は、此嶽にて、嶽は高《タカ》き意也。一首の意くまなし。
 
最最《イト/\》後人。追和二首。
 
印本、人の字を脱せり。今目録と代匠記に引る官本とに依て補ふ。
 
874 宇奈波良能《ウナバラノ》。(意吉由久布禰遠《オキユクフネヲ》。可弊禮等加《カヘレトカ》。比禮布良斯家武《ヒレフラシケム》。麻都良(138)佐欲比賣《マツラサヨヒメ》。
 
布良斯家牟《フラシケム》は振《フリ》けんを延たる也。らしの反|き《(マヽ)》なれば也。一首の意くまなし。
 
875 由久布禰遠《ユクフネヲ》。(布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》。伊加婆加利《イカバカリ》。故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》。麻都良佐欲比賣《マツラサヨヒメ》。)
 
布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》。
布利《フリ》は、領巾《ヒレ》を振《フリ》なり。等騰尾《トドミ》は留《トヾメ》なり。上【攷證三下五十五丁】にいへり。
 
故保斯苦阿利家武《コボシクアリケム》。
故保斯苦《コボシク》は、戀しく也。上【攷證五上五十丁】にいへり。一首の意くまなし。
 
書殿餞酒日。倭歌四首。
 
書殿は、人を尊稱していふこと也。陸堅送3張説上2集賢學士1詩に、書殿榮花滿、儒門喜氣臨云云。劉禹錫献2斐侍中1留守詩に、兵符今奉2黄公略1、書殿曾隨2翠鳳翔1云々などあり。こゝには旅人卿をさして、この卿の事は、上【攷證三上六十三丁】にいへるが如く、天平二年十月、太宰帥より大納言になりて、京へ上らるゝ時の餞の歌なり。餞酒日とは、うまのはなむけする日といふ意也。餞宴に(139)は必らず酒のむ事のあるべければ、その意もて酒の字はそへて書る也。さてこゝに倭歌とあるは、やまと歌といへるにて、外に和歌とあるとは別なり。上【攷證一上卅一丁】にいへるが如く、集中和歌といへるは、皆|※[鷹の鳥が言]《コタ》へたる歌にて、古今集の序の如く、おしはなして、やまと歌といへる事なし。こゝは此餞宴の席にて、詩詠のありしなるべければ、その詩《カラウタ》にむかへて、日本《ヤマト》歌の意もて、倭歌とはいへる也。さる證は、この卷のはじめに、詩に對へたる挽歌を、日本挽歌といへるにてしるべし。しかも、上【攷證一下五十三丁】にいへるが如く、集中、日本の意に書るは、みな倭の字にて、和を日本の意に用ひたるは、集中、二所にすぎず。これも誤りならんとおぼゆる事は、その所にいへり。
 
876 阿摩等夫夜《アマトブヤ》。(等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》。美夜歌摩提《ミヤコマデ》。意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》。等比可弊流母能《トビカヘルモノ》。)
 
阿摩等夫夜《アマトブヤ》。
上【攷證三下四十丁】に出たり。夜《ヤ》は助字なり。
 
等利爾母賀母夜《トリニモガモヤ》。
賀母夜《ガモヤ》は、願ふ意のがもに、よの意のやを添たる也。二十【十六丁】に、波奈爾母哉母夜《ハナニモガモヤ》云々。また【廿九丁】多麻爾母賀母夜《タマニモガモヤ》云々などあり。
 
意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》。
この摩遠志弖は、奉りての意也。此卷【卅一丁】に、大御神等《オホミカミタチ》、船舳爾道引麻遠志《フナノヘニミチビキマヲシ》云々とあると同じ。
 
(140)等比可弊流母能《トビカヘルモノ》。
母能《モノ》は、ものをの意也。この事、上【攷證四上廿六丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
877 比等母禰能《ヒトモネノ》。(宇良夫禮遠留爾《ウラブレヲルニ》。多都多夜麻《タツタヤマ》。美麻知可豆加婆《ミマチカヅカバ》。和周良志奈牟迦《ワスラシナムカ》。)
 
比等母禰能《ヒトモネノ》。
心得がたし。誤字ならんか。代匠記には、もとむと音通へば、一棟ならんか。又は、みなと、もねと通ずれば、人皆ならんかといはれたり。宣長は、母禰は、彌那を下上に誤り、又那を母に誤れるなるべしといはれたり。いづれか是ならん。(頭書、再考ふるに、この卷にも國の法言をいへる事、これかれあれば、人皆の法言にてもあるべし。尚下【此卷二十三丁】にいふべし。)
 
宇良夫禮遠留爾《ウラブレヲルニ》。
うらぶれは、心佗る意也。七【九丁】に、徃川之過去人之《ユクカハノスギユクヒトノ》、手不折者《タヲラネバ》、裏觸立《ウラブレタテリ》、三和之檜原者《ミワノヒバラハ》。また【四丁一丁】浦触而入西妹者《ウラブレテイリンシイモハ》云々。十【卅九丁】に、於君戀浦触居者《キミニコヒウラブレヲレバ》云々。十七【卅二丁】に、思多戀爾於毛比宇良夫禮《シタコヒニオモヒウラブレ》云々。十九【十五丁】に、宇知歎之奈要宇良夫禮之努比都追《ウチナゲキシナエウラブレシヌビツツ》云々などありて、猶いと多し。古今集秋上に、【よみ人しらず】秋はぎにうらびれをればあし引の山したとよみしかのなくらんとあるも同じ。
 
(141)多都多夜麻《タツタヤマ》。
印本、夜の上に都の字あり。衍文なる事明らかなれば、活字本に依て略けり。龍田山は、上【攷證一下七十六丁】にいへるが如く、大和國平群郡にて、筑紫より奈良へ上る道なればなり。一首の意は、筑紫にては、かくのごとく君を戀奉りて、佗居るに、君はかへり上らせ給ふとて、筑紫を遠ざかりて、奈良近き龍田山に御馬の近付ば、この筑紫の事を忘れさせ給ひなんかといへるなり。
 
878 伊比都々母《イヒツヽモ》。(能知許曾斯良米《ノチコソシラメ》。等乃斯久母《トノシクモ》。佐夫志計米夜母《サブシケメヤモ》。吉美伊麻佐受期弖《キミイマサズシテ》。)
 
等乃斯久母《トノシクモ》。
代匠記云、一二ノ句ノ意ハ、出立セ給ハム別ノキハ、其後ノ事ヲモ今ヨリ相像ヲ云ヘドモ、誠ニハ、別テ後コソヲク知ラメナリ。三四ノ句ハ二義アルベシ。一ツニハ、毛ト乃ト同韻ニテ通ズレバ、トノシクモハ、乏シクモニテ、スクナクサビシカラムヤ、多クサビシカラムナリ。二ツニハ、孝謙紀云、寶字二年六月庚戌、詔曰、又此家自久呼、藤原乃卿等乎波、掛畏聖天皇御世重※[氏/一]、於母自岐人乃自門波、慈賜比上賜來流家奈利。コノ詔ノ中ニ、家シクモトアル類ニテ、帥殿ニテオハシマスガ、殿シケレバ、オハシマサヌモ、コト人ニ別タラムヨリハ、殿シクヨリ、所ヲ失ヒテ、サビシカラムヤトナリ云々。略解云、按に、乏しくをとのしくといへる例なし。等乃《トノ》の乃《ノ》は母《モ》の誤ならんか。又宣長云、或人説に、斯良米《シラメ》の斯《シ》は阿《ア》(142)の誤、等乃は志万《シマ》の誤にて、のちこそあらめしましくもと訓べし云々。これらの説、當れりともおぼえず。されば考るに、等乃は殿にて、太宰帥の館をいひ、斯久《シク》は助辭にて、殿もといへるならん。斯久《シク》といふ言の助辭なる事は、上【攷證四下卅丁】にいへり。
(頭書、再考ふるに、これも法言にて、乏しくなるべし。)
 
佐夫志計米夜母《サブシケメヤモ》。
佐夫志《サブシ》は、心|冷《スサ》まじく、なぐさめがたき意なる事、上【攷證二下二十九丁】にいへるが如し。計米夜母《ケメヤモ》は、うらへ意のかへるてにをは也。すべて米也《メヤ》といふも、米也毛といふも、みなうらへ意のかへるてにをはにて、疑ひのやにあらず。この歌は、句を五三四一二とうちかへして聞意にて、一首の意は、君座《キミイマサ》ずしても、殿の中もさびしけんやは、猶人々多かればさびしき事もあらじと、口にはいひつゝも、君ましまさずして實にさびしき事は、君が立せ給ひて後こそ、思ひしらめといふにて、たはぶれいへるなるべし。
 
879 余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》。(伊麻志多麻比提《イマシタマヒテ》。阿米能志多《アメノシタ》。麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》。美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》。)
 
麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》。
天下の政を執申給へといふにて、この言、上【攷證二下廿六丁】に出たり。活字本乎を干に作れり。まをしとも、まうしともいへる事も、上にいへり。禰《ネ》は下知の語なり。
 
(143)美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》。
美加度《ミカド》は、朝庭をいふ。一首は、君は萬代もおはしまして、朝庭を退《シリゾ》かずして、天下の政を執行ひ申たまへと、祝し申なり。
 
聊布2私懷1歌三首。
 
これも憶良の歌にて、まへの四首は、旅人卿を送別の歌、これはその時に自らが思ひをいへるなれば、私懷とはいへり。玉篇に、布、陳列也とありて、憶良自らの思ひをつらねて、旅人卿に愁へ申なり。
 
880 阿麻社迦留《アマザカル》。(比奈爾伊都等世《ヒナニイツトセ》。周麻此都都《スマヒツツ》。美夜故能提夫利《ミヤコノテブリ》。和周良延爾家利《ワスラエニケリ》。)
 
比奈爾伊都等世《ヒナニイツトセ》。
憶良、筑前守の任にて、五年太宰府にあるをいへり。國司の任限の事は、代々にたがへり。そは、續日本紀に、天平寶字二年十月甲子、勅【中略】頃年國司交替、皆以2四年1爲v限。斯則適足v勞v民。未v可2以化1。【中略】自今以後、宜d以2六歳1爲uv限云々。類衆三代格に、承和二年七月三日、太政官謹奏。諸國守介四年爲v歴事。右謹檢2選叙令1、初任已上長官遷代、皆以2六考1爲v限。慶雲二年二月十六日、改定2四年1。大同二年十月十九日、更據2令文1。弘仁六年七月十七日、復2慶雲格1。天長元年八月二十日、今介以上別處2六年之秩1。夫(144)吏者民之所v歸、民者吏之所v本。頃年良吏之風希聞、窮民之憂不v息。臣等以爲、善人三年尚可v勝v殘、四凶九載難2復致1v功。然則治之能否、非2年遠近1、代之清濁、賢將2不肖1。伏望、國司之歴、因2循慶雲1、一用2四年1。但陸奥出羽太宰府等、僻2在千里1、去來多v煩。寶龜十一弘仁七兩年格、事近2便宜1。不v可v改云々など見えたり。さてこの歌の下に、天平二年十二月とありて、こゝに夷《ヒナ》に五年《イツトセ》すまひつゝとあるを見れば、憶良、神龜三年に筑前守には任ぜられしなるべし。また同人、下の大伴熊凝が事をいへる文中に、天平三年とあれば、猶|六年《ムトセ》までもこの任にあられたりとおぼゆ。さればこのごろの任限は、四年なるを、六年に及ぶまで居られしは、いぶかしきに似たれど、まへに引る三代格に、奧陸《(マヽ)》出羽太宰府などは、遠く隔たりたれば、外の例にはあらざるよし見えたれば、疑ふべきにあらず。又考ふるに、五年とあるは、たゞ凡の任限をいふか。その故は、本集十八【廿九丁】家持卿の歌に、美由伎布流古之爾久太利來《ミユキフルコシニクタリキ》、安良多末能等之能五年《アラタマノトシノイツイトセ》、之吉多倍乃手枕末可受《シキタヘノタマクラマカズ》云々(と脱カ)あるは天平感寶【勝寶元年なり。】元年閏五月二十六日の歌にて、家持卿天平十八年六月越中守になりて下られてより、四年に當れり。また十九【卅八丁】家持卿の歌に、之奈謝可洗越爾五箇年住住而立別麻久惜初夜可毛《シナサカルコシニイツトセスミスミテタチワカレマクヲシキヨヒカモ》とあるは、天平勝寶三年七月十七日少納言になりて、八月四日餞別の歌にて、越中守になりて下られてより、六年に當れるを、猶五年といはるゝは、いといぶかし。されば五年といふは、任限の凡をいへるにてもあるべし。
 
周麻比都都《スマヒツヽ》。
住《スミ》つゝを延たるたり。
 
(145)美夜故能提夫利《ミヤコノテブリ》。
提夫利《テブリ》は、風俗をいへり。古事記に、歌をさして夷振《ヒナブリ》、宮人振、天田振などいひ、古今集に、近江ぶり、水莖ぶり、四極《シハツ》山ぶ(り脱カ)などいへるも、風俗なり。堀川百首に【公實】かへりこんほどをもしらぬ別路はみやこのてぶりおもひ出にけり。顯輔卿集に、うき身にはみやこのてぶりあきはてぬ、ひなへさそはんあづまづもがななどあるも、この歌をとれる也。
 
和周良延爾家利《ワスラエニケリ》。
延は、れの意也。上【攷證五上廿五丁】にいへり。一首の意はくまなし。
 
881 加久能未夜《カクノミヤ》。(伊吉豆伎遠良牟《イキヅキヲラム》。阿良多麻能《アラタマノ》。吉倍由久等志乃《キヘユクトシノ》。可伎利斯良受提《カギリシラズテ》。)
 
伊吉豆伎遠良牟《イキヅキヲラム》。
氣衝將居《イキヅキヲラム》なり。こは、物をふかく思ふ時のわざにて、何にまれ、歎息すれば、氣をつかるゝものなれば也。この事、上【攷證二下五十丁】にいへり。
 
吉倍由久等志乃《キヘユクトシノ》。
來經行年の也。きへともきふともいひて、皆年月の來り經るをいへり。上【攷證五上四十九丁】に出たり。一首の意は、來り經ゆく年のかぎりもしらず、いつまでか、かくばかり氣衝居らんといふにて、我身七十に及ぶまで、なり出る事もなきを愁へいへり。
 
(146)882 阿我農斯能《アガヌシノ》。(美多麻多麻比弖《ミタマタマヒテ》。波流佐良婆《ハルサラバ》。奈良能美夜故爾《ナラノミヤコニ》。※[口+羊]佐宜多麻波禰《メサゲタマハネ》。)
 
阿我農斯能《アガヌシノ》。
阿我は、吾君《アガキミ》、吾父、吾母、吾妹子《ワギモコ》などの吾と同じく、人を親しみいふ言也。農斯《ヌシ》は、主なり。略解に、紀に、君主、大人、同じく宇志と訓り。或人、ぬしは、何のうしと云べきを、乃宇の約、奴なれば、ぬしと云といへるはひがごと也。あがのがの詞、則|之《ノ》なれば、あがといひて、のうしとはいふべからず。ぬとうと通ひて、ぬし則うしと同じ語也云々といへるがごとし。
 
美多麻多麻比弖《ミタマタマヒテ》。
美多麻《ミタマ》は、宣長の説に、其|功徳《イサヲ》を稱《タヽ》へたるなり云々といはれつるがごとし。書紀神代紀訓注に、倉稻魂此云2宇介能美〓磨《ウカノミタマ》1云々。本集十八【廿丁】に、皇御祖乃御靈多須氣弖《スメロギノミタマタスケテ》、遠代爾可可里之許登乎《トホキヨニカカリシコトヲ》、朕御世爾安良波之弖安禮婆《ワガミヨニアラハシテアレバ》云々などあり。多麻比弖《タマヒテ》は、其御|功《イサヲ》を我に給ひてなり。
 
※[口+羊]佐宜多麻波禰《メサゲタマハネ》。
※[口+羊]佐宜《メサゲ》は、召上《メシアゲ》なり。しあの反、さなれば。一首の意は、外吏にてある事を愁て、我主の御功によりて、吾を申たまはりて、春の來らば都の中の官に、吾を召上《メシアゲ》たまへといふなり。
 
(147)天平二年十二月六日。筑前國司山上憶良謹上。
 
こは、前の大伴佐提比古郎子云々の文より、こゝまでの月日なり。
 
三島王。後追和2松浦佐用嬪面歌1一首。
 
三島王は、紹運録に、舍人親王の御子にて、廢帝の御弟とす。續日本紀に、養老七年正月丙子、授2旡位三島王從四位下1云々とあり。
 
883 於登爾吉岐《オトニキキ》。(目爾波伊麻太見受《メニハイマダミズ》。佐容比賣我《サヨヒメガ》。必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》。吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》。)
 
等敷《トフ》は、といふの略。吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》は、君待といふを、松浦山にいひかけたり。一首の意明らけし。
 
大伴君|熊凝《クマゴリ》歌二首。【大典麻田陽春作。】
 
大伴君熊凝傳は、下に見えたり。父祖考へがたし。大伴氏の姓は、宿禰、連などなるを、君とあるは、いとめづらし。物に見えず。麻田陽春は、上【攷證四上六十一丁】に出たり。
 
(148)884 國遠伎《クニトホキ》。(路乃長手遠《ミチノナガテヲ》。意保保斯久《オホボシク》。許布夜須凝南《コフヤスギナム》。己等騰比母奈久《コトドヒモナク》。)
 
國遠伎《クニトホキ》。
この國は、故郷をいへり。故郷をさして國といへる事、上【攷證三下十六丁】にいへり。
 
路乃長手遠《ミチノナガテヲ》。
長手は、長道といふに同じ。上【攷證四上四十丁】に出たり。
 
意保保斯久《オホボシク》。
おぼ/”\と、明らかならず、おぼつかなき意也。上【攷證二中五十一丁】に出たり。
 
許布夜須凝南《コフヤスギナム》。
戀《コヒ》や過なん也。まへにもいへるが如く、此卷の中にも、國の方言を用ひたる所、これかれあり。そは【十九丁】梅を牟梅《ムメ》といひ、【廿五丁】人皆を比等母禰《ヒトモネ》といひ、乏しくを等乃斯久《トノシク》などいへる類にて、許比夜《コヒヤ》といふべきを、許布夜《コフヤ》といへるは法言なり。そは十四【廿二丁】未勘國相聞の歌に、故布思可流奈母《コフシカルナモ》。二十【四十丁】防人の歌に、古布志氣毛波母《コフシケモハモ》などあるも、戀《コヒ》しといふべきを、方言に古布志《コフシ》といへるにて、こゝも方言なるをしるべし。陽春は都人なるものから、防人等が方言を聞て、わざとそのまゝにいへるなるべし。
 
己等騰比母奈久《コトドヒモナク》。
己等騰比は、言問にて、物いふ事也。この事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。一首の意は、熊凝、故郷を離れて、都に上りゆくとて、長き道すがらを、おぼつかなく、故郷を戀つゝや過ゆくらん、物いふ人もなくしてといへるなり。
 
(149)885 朝露乃《アサツユノ》。(既夜須伎我身《ケヤスキワガミ》。比等國爾《ヒトグニニ》。須疑加弖奴可母《スギカテヌカモ》。意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》。)
 
朝露乃《アサツユノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。露は、消やすきものなれば、つゞけたり。
 
比等國爾《ヒトグニニ》。
他國をいふ。爾《ニ》はをの意のにもじ也。上【攷證二中廿九丁】にいへり。
 
須疑加弖奴可母《スギカテヌカモ》。
がてぬは、ぬもじに心なく、がてといふと同じ意なる事、上【攷證二上十六丁】にいへるが如し。
 
意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》。
目《メ》は、みえの約りにて、ま見えん事を欲する意なる事、上【攷證四下卅七丁】にいへるが如し。一首の意は、熊凝が心になりて、生るもの、朝露の如く消易きものなれば、たゞ親に相見ん事のみ思はれて、他國を過るにも、過がたきかもといへる也。
 
筑前國司守山上憶良。敬和d爲2熊凝1。述2其志1歌u六首。并序。
 
敬和とは、陽春に對しいふ言也。これも熊凝が志になりてよまれたり。さて國司の下、守の字あるは、心得ず。こは固守と書る本のありつるを、異同を傍に付おきつるが、本文にまぎれ入つるなるべし。既に拾穗本には國守とあり。
 
(150)大伴君熊凝者。(肥後國益城郡人也。年十八歳。以2天平三年六月十七日1。爲2相撲使某國司官位姓名從人1。參2向京都1。爲v天不v幸。在v路獲v疾。即於2安藝國佐伯郡高庭驛家1身故也。臨v終之時。長歎息曰。傳聞。假合之身易v滅。泡沫之命難v駐。所以千聖已去。百賢不v留。况乎凡愚微者。何能逃避。但我老親。並在2菴室1。待v我過v日。自有2傷v心之恨1。望v我違v時。必致2喪v明之泣1。哀哉我父。痛哉我母。不v患2一身向v死之途1。唯悲2二親在v生之苦1。今日長別。何世得v覲。乃作2歌六首1而死。其歌曰。
 
肥後國益城郡人也。
和名抄郡名に、肥後國益城【萬志岐】とあり。さて今本、肥後を肥前に作るは、誤りなる事、明らかなれば、意改せり。代匠記に引る官本、拾穗本などにも肥後とあり。
 
(151)相樸使某國司官位姓名。
相樸使は、まへに出たり。某は、公羊宣六年傳注に、某者本有2姓氏1、記傳者失v之云々とありて、こゝは國名をしらざる也。熊凝、相樸人にさゝれて、京へ上りける也。さて印本、官を宮に誤れり。活字本に依て改む。
 
身故也。
禮記曲禮下注に、故謂2災患喪病1とありて、こゝには死をいへり。代匠記に、今按疑身下脱v物耶云々といはれしも、あしからず。釋名釋喪制に、漢以來謂v死爲2物故1、言其諸物皆就2朽故1也とあり。
 
假合之身。
維摩詰所説經、文殊師利問疾品に、四大合故、假名爲v身、四大無v主、身亦無v我云々とありて、四大は地水火風をいふ。この四大、假《カリ》に合て人身となれば、假合の身とはいへり。さて今本、合を令に誤れり。今代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。
 
泡沫之命。
大方等大集經、海慧菩薩品に、觀v色如v沫、受如2水泡1、想如2熱※[陷の旁+炎]1、行如2芭蕉1、識則如v幻云々とありて、人命消やすき事、泡沫の如くなれば、泡沫之命とはいへり。
 
千聖巳去。百賢不v留。
千聖も百賢も、たゞ數の多きをいふ。史記范雎傳に、且以、五帝之聖焉而死、三王之仁焉而死、五伯之賢焉而死云々とあるに似たり。
 
(152)必致2喪明之泣1。
禮記檀弓上に、子夏喪2其子1、而喪2其明1云々とあり。
 
二親在生之苦。
印本、親を説に誤れり。今、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。
 
886 宇知比佐受《ウチヒサス》。(宮弊能保留等《ミヤヘノボルト》。多羅知斯夜《タラチシヤ》。波波何手波奈例《ハヽガテハナレ》。常斯良奴《ツネシラヌ》。國乃意久迦袁《クニノオクガヲ》。百重山《モヽヘヤマ》。越弖須疑由伎《コエテスギユキ》。伊都斯可母《イツシカモ》。京師乎美武等《ミヤコヲミムト》。意母比都々《オモヒツヽ》。迦多良比遠禮騰《カタラヒヲレド》。意乃何身志《オノガミシ》。伊多波斯計禮婆《イタハシケレバ》。玉桙乃《タマボコノ》。道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》。久佐太袁利《クサタヲリ》。志婆刀利志伎提《シバトリシキテ》。等許自母能《トコジモノ》。宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》。意母比都々《オモヒツツ》。奈宜伎布勢良久《ナゲキフセラク》。國爾阿良婆《クニニアラバ》。父刀利美麻之《チヽトリミマシ》。家爾阿良婆《イヘニアラバ》。母刀利美麻志《ハヽトリミマシ》。世間波《ヨノナカハ》。迦久乃尾奈良志《カクノミナラシ》。伊奴時母能《イヌジモノ》。道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》。伊能知周疑南《イノチスギナム》。一云。和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》。)
 
(153)宇知比佐受《ウチヒサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三下四十五】に出たり。
 
宮弊能保留等《ミヤヘノボルト》。
これ宮仕へしに登れ(る脱カ)をいふ。この事、上【攷證四上卅七丁】にいへり。こゝは、相樸人にさゝれて京に登れるなり。
 
多羅知斯夜《タラチシヤ》。
枕詞にて、たらちねのはゝとつゞくると同意也。略解に、冠辭考に云、斯は禰の誤か。夜、一本、能に作れり。さらば、こゝも、たらちねのと訓べきよしあり。今按るに、卷十六に、垂乳爲《タラチシ》と書り。たらちは、日足《ヒタラシ》にて、育て日を足《タラ》しむる義にして、しやは助辭ともいふ|べお《(マヽ)》もはる云々といへるが如し。猶予が冠辭考補正にいふべし。
 
源波波何手波奈例《ハヽガテハナレ》。
二十【卅九丁】に、宇都久之氣麻古我弖波奈禮《ウツクシケマコガテハナレ》、之末豆多比由久《シマツタヒユク》ともあり。
 
國乃意久迦袁《クニノオクガヲ》。
意久迦《オクカ》は、十二【卅四丁】に、霞立春長日乎《カスミタツハルノナガヒヲ》、奥香無《オクカナク》、不知山道乎戀乍可將來《シラヌヤマヂヲコヒツヽカコム》。十三【廿八丁】に、雖嘆奥香乎無見《ナゲヽドモオクカヲナミ》云々。十二【廿丁】に、天雲之奥香裳不知《アマクモノオクカモシラズ》、戀乍曾居《コヒツヽゾヲル》。十七【八丁】に、大海乃於久可母之良受《オホウミノオクカモシラズ》云々などありて、上【攷證四中四十五丁】にいへるが如く、奥《オク》は末《ハテ》をいひ、迦はすみか、ありか、などのかと同じく、その所をいひて、こゝは國のはての所をといへる也。
 
百重山《モヽヘヤマ》。
山のいく重もかさなれるをいふ。十二【卅八丁】に、足檜乃山者百重雖隱《アシビキノヤマハモヽヘニカクストモ》云々ともあり。
 
迦多良比遠禮騰《カタラヒヲレド》。
同道の人と共に、いつしか早く都を見んと、まちたのしみてかたらひ|おれ《(マヽ)》どゝといふ也。
 
(154)伊多波斯計禮婆《イタハシケレバ》。
こはいとほしとも、いたはるとも活らきて、自らのうへをも、人のうへをもいふ言にて、こゝは病に苦しむをいへり。宇津保物語祭使卷に、いたはる所ものし給ふとなん、うけたまはる云々とあるも、病あるをいへり。
 
道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》。
まとみと通て、久麻尾《クマミ》は阿間《クママ》にて、こゝは道の阿のほとりの意也。上【攷證 上卅四丁】にいへり。今本、久の字を脱せり。今、代匠記に引る官本、拾穂本などに依て補ふ。
 
志婆刀利志伎提《シバトリシキテ》。
 
柴取敷てといふなり。こは旅寢のあはれなるをいへり。
 
等許自母能《トコジモノ》。
自母髄《ジモノ》は、上【攷證二下廿八丁】にいへるが如く、の如くの意にて、こゝは床《トコ》の如く臥《フス》とつゞけたる也。印本、許《コ》を計《ケ》に誤れるに付て、仙覺抄に、解霜《トケシモ》の意に注されつるは誤れり。十七【廿三丁】に、宇知奈妣吉等許爾許伊布之《ウチナビキトコニコイフシ》云々とあるにても、等計は啓許の誤りなるをしるべし。されば意改せり。
 
宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》。
宇知《ウチ》は詞、許伊布志《コイフシ》は、十二【十二丁】に、反側の字を訓るが如く、また許伊《コイ》も布志《フシ》も臥事にて、こいまろぶといふも同じ。この事、上【攷證三下五十九丁】にいへり。
 
(155)奈宜伎布勢良久《ナゲキフセラク》。
良久はるを延たる言なり。
 
父刀利美麻之《チヽトリミマシ》。
刀利《トリ》は、取負《トリオヒ》【十八ノ卅五丁】取置《トリオキ》【十一ノ二丁】取易《トリカヘ》【十一ノ四十七丁】取餝《トリカザリ》【十六ノ八丁】など、猶いと多く、これらの類にて、刀利《トリ》は意なく、たゞ詞なり。故郷にあらば、父母も見んものをといへるなり。(頭書、再考るに、次の短歌に、波々何刀利美婆《ハヽガトリミバ》云々ともありて、執《トリ》かへり見る意也。七【廿五丁】に、今年去新島守之麻衣《コトシユクニヒシマモリガアサゴロモ》、肩乃間亂者許誰取見《カタノマヨヒハタレカトリミム》。十四【廿三丁】に、都流伎多知身爾素布伊母乎等里見我禰《ツルギタチミニソフイモヲトリミカネ》、哭乎曾奈伎都流《ネヲゾナキツル》、手兒爾安良奈久爾《テコニアラナクニ》などあるも同じ。)
 
迦久乃尾奈良志《カクノミナラシ》。
かくばかりならんかしといふにて、世の中てふものは、かくばかりに、あはれにはかなきものならんかしといへる也。このつゞけ、上【攷證三下六十四丁】にも出たり。
 
伊奴時母能《イヌジモノ》。
伊奴は犬なり。時母能《ジモノ》は、上【攷證二下廿八丁】にいへるが如く、の如くの意にて、こゝは犬の如くといふ也。
 
伊能知周疑南《イノチスギナム》。
過は死るをいへり。一【廿二丁】に、黄葉過去君之《モミヂバノスギニシキミガ》云々。二【卅七丁】に、黄葉乃過伊去等《モミヂバノスギテイニキト》云々などある類にて、集中いと多し。さて一首の意は、京へ宮仕へしに登るとて、親の手をはなれて、心細くも、常に見しらぬ國のはてまでも、重なれる山々をこえて過行つゝ、いつしかもとく京を見んと、それを待樂しみつゝ、同じ人どち語らひ居れども、つ(156)ひに吾身の疾しさに、道のほとりに、柴草など床の如く折敷て、歎き伏つゝ、あはれ故郷に在ば、父母の見とりて、うつくしみかへり見る事もあらましものを、犬などの如く、道のほとりに伏て、命の失なんことよ。とにかくに、世の中てふものは、かくの如くあはれに、はかなきものならんかしといへるなり。
 
一云。和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》。
 
こは、本謌のはての句の一書なるが、又はいのちすぎなん、わがよすぎなんと句をかへしたるにて、佛足石の歌に、ちゝはゝがため、もろびとのため。いはにゑりつく、たまにゑりつく。わたしたまはな、すくひたまはななどの類の一體にもあるべし。このつゞきの短歌の一云もみなおなじ。
 
887 多良知《タラチ》渥《・シ》能《ノ》。(波波何目美受提《ハハガメミズテ》。意保々斯久《オホボシク》。伊豆知武伎提可《イヅチムキテカ》、阿我和可留良武《アガワカルラム》。)
 
多良知《タラチ》渥《・シ》能《ノ》。
遲は、ぢの假字なるを、かくあるは心得がたし。代匠記 引る官本には、多良知子《タラチシ》とありて、傍に、異本子作v遲とあり。拾穗本にも、多良知子とあり。略解には、遲は進《シ》の誤なるべしといへり。これもあしからず。いづれにまれ、誤字なるべし。
 
波波何目美受提《ハハガメミズテ》。
母にま見えざるをいふ。十一【七丁】に、君目不見苦有《キミガメミネバクルシカリケリ》。又、妹目不見吾戀《イモガメミズテワガコフラクモ》などあり。一首の意は、母にもま見えず、おぼつかなく、何方に向てか、(157)吾泉路に別れゆかんといふ也。
 
888 都禰斯良農《ツネシラヌ》。(道乃長手袁《ミチノナガテヲ》。久禮久禮等《クレクレト》。伊可爾可由迦牟《イカニカユカム》。可利弖波奈斯爾《カリテハナシニ》。一云。可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》。)
 
久禮久禮等《クレクレト》。
宣長云、くれ/\は、齊明紀【天皇】御歌に、于之盧母倶例尼《ウシロモクレニ》、飫岐底※[舟+可]庚※[舟+可]武《オキテカユカム》とある、くれなり。くれは、闇《クラ》き意にて、おぼつかなきさま也。今俗言にも、うしろぐらきなどいふ云々といはれつるが如し。十三【六丁】に、奧浪來因濱邊乎《オキツナミキヨルハマベヲ》、久禮久禮等獨曾我來《クレクレトヒトリゾワガクル》、妹之目乎欲《イモガメヲホリ》とあり。今俗言にくれ/”\と云ことあるは別なり。
 
可利弖波奈斯爾《カリテハナシニ》。
可利弖《カリテ》は、れひの反りにて、乾飯直《カレヒテ》の約り也。靈異記下卷訓釋に、糧、可里弖とありて、字鏡集に、※[米+長]、※[米+澤の旁]などの字を、カリテと訓り。さて、ては直《アタヘ》の意なる事、十二【五丁】に、得田直比來《ウタテコノコロ》云々と、直なてと借訓せるにてしるべし。また新撰萬葉に、郭公鳴立春之山邊庭《ホトトギスナキタツハルノヤマベニハ》、沓直不輸人哉住濫《クツテイタサヌヒトヤスムラム》とありて、西宮記、北山抄などに、碁手錢といふあるも、直《アタヘ》をいひて、俗言に酒代をさかてといふもこれ也。一首の意は、冥途の事をいひて、常に見しらざる永き道のべを、乾飯の直も持じ|し《(マヽ)》、いかにしてかゆかんといふ也。
 
一云。可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》。
可例比《カレヒ》は乾飯《カレヒ》也。伊勢物語に、かれいひのうへになみだおとしてほとびにけり云々。靈異記下卷訓釋に、餉、可禮意比。新(158)撰字鏡に、※[米+長]、加禮比。和名抄行旅具に、〓、加禮比計。餉、加禮比於久留とあり。かれひといふは、かれいひの約りなり。
 
889 家爾阿利弖《イヘニアリテ》。(波波可刀利美婆《ハハガトリミバ》。奈具佐牟流《ナグサムル》。許許呂波阿良麻志《ココロハアラマシ》。斯奈婆斯農等母《シナバシヌトモ》。一云。能知波志奴等母《ノチハシヌトモ》。)
 
刀利美婆《トリミバ》は、まへにいへるが如く、執《トリ》かへり見る意にて、一首の意は、家に在て、母が看病する事あらば、すこしなぐさむる事もあらましものを、よしや死ばしぬともといふ也。
 
890 出弖由伎斯《イデテユキシ》。(日乎可俗閉都都《ヒヲカゾヘツツ》。家布家布等《ケフケフト》。阿袁麻多周良武《アヲマタスラム》。知知波波良波母《チチハハラハモ》。一云。波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》。)
 
阿袁麻多周良武《アヲマタスラム》は、吾を待すらん也。波母《ハモ》の母は、助辭也。一首の意は、吾都に出て行し、その日より日をかぞへて、けふかへると、日ごとに吾を待給ふらん、父母らは、吾路にて失ぬる事をもしらずし|て《(マヽ)》、悲しめるなり。
 
891 一世爾波《ヒトヨニハ》。(二遍美延農《フタタビミエヌ》。知知波波袁《チチハハヲ》。意伎弖夜奈何久《オキテヤナガク》。阿我和加禮南《アガワカレナム》。(159)一云。相別南《アヒワカレナム》。)
 
一首の意は、親といふもの、一世に二たびと逢がたきものなるを、それを置て、吾長く別れなん事よと、悲しめるなり。
 
貧窮問答歌一首。并短歌。
 
問答とは、自問自答をいふ。左の歌に、われよりも貧人《マヅシキヒト》乃、【中略】伊可爾之都々可《イカニシツヽカ》、汝代者和多流《ナガヨハワタル》と問て、さて自らの貧しきこと/”\を答へたるもて、問答歌とはいへり。この歌、憶良自らのうへをいへるなれど、假に事をまうけて、自らを賤民になしていへり。そは下々に解るを見てしるべし。
 
892 風雜《カゼマジリ》。雨布流欲乃《アメノフルヨノ》。(雨雜《アメマジリ》。雪布流欲波《ユキフルヨハ》。爲部母奈久《スベモナク》。寒之安禮婆《サムクシアレバ》。堅塩乎《カタシホヲ》。取都豆之呂比《トリツツシロヒ》。糟湯酒《カスユザケ》。宇知須須呂比弖《ウチススロヒテ》。之可夫可比《シカブカヒ》。鼻※[田+比]之※[田+比]之爾《ハナヒシヒシニ》。志可登阿良農《シカトアラヌ》。比宜可技撫而《ヒゲカキナデテ》。安禮乎於伎弖《アレヲオキテ》。人者安良自等《ヒトハアラジト》。富己呂陪騰《ホコロヘド》。寒之安禮婆《サムクシアレバ》。麻被《アサフスマ》。引可賀布利《ヒキカガフリ》。布可多衣《ヌノカタギヌ》。安里能許等(160)其等《アリノコトゴト》。伎曾倍騰毛《キソヘドモ》。寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》。和禮欲利母《ワレヨリモ》。貧人乃《マヅシキヒトノ》。父母波《チヽハヽハ》。飢寒良牟《ウヱサムカラム》。妻子等波《メコドモハ》。乞弖泣良牟《コヒテナクラム》。此時者《コノトキハ》。伊可爾之都都可《イカニシツツカ》。汝代者和多流《ナガヨハワタル》。天地者《アメツチハ》。比呂之等伊倍杼《ヒロシトイヘド》。安我多米波《アガタメハ》。狹也奈理奴流《セバクヤナリヌル》。日月波《ヒツキハ》。安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》。安我多米波《アガタメハ》。照哉多麻波奴《テリヤタマハヌ》。人皆可《ヒトミナカ》。吾耳也之可流《アレノミヤシカル》。和久良婆爾《ワクラバニ》。比等等波安流乎《ヒトトハアルヲ》。比等奈美爾《ヒトナミニ》。安禮母作乎《アレモナレルヲ》。綿毛奈伎《ワタモナキ》。布可多衣乃《ヌノカタキヌノ》。美留乃其等《ミルノゴト》。和和氣佐我禮流《ワワケサガレル》。可可布能尾《カガフノミ》。肩爾打懸《カタニトリカケ》。布勢伊保能《フセイホノ》。麻宜伊保乃内爾《マゲイホノウチニ》。直土爾《ヒタツチニ》。藁解敷而《ワラトキシキテ》。父母波《チヽハヽハ》。枕乃可多爾《マクラノカタニ》。妻子等母波《メコドモハ》。足乃方爾《アトノカタニ》。圍居而《カクミヰテ》。憂吟《ウレヘサマヨヒ》。可麻度柔播《カマドニハ》。火氣布伎多弖受《ケブリフキタテズ》。許之伎爾波《コシキニハ》。久毛能須可伎弖《クモノスカキテ》。飯炊《イヒカシグ》。事毛和須禮提《コトモワスレテ》。奴延鳥乃《ヌエドリノ》。(161)能杼與比居爾《ノドヨヒヲルニ》。伊等乃伎提《イトノキテ》。短物乎《ミジカキモノヲ》。端伎流等《ハシキルト》。云之如《イヘルガゴトク》。楚取《シモトトル》。五十戸良我許惠波《サトヲサガコヱハ》。寝屋度麻※[人偏+弖]《ネヤドマデ》。來立呼比奴《キタチヨバヒヌ》。可久婆可里《カクバカリ》。須部奈伎物能可《スベナキモノカ》。世間乃道《ヨノナカノミチ》。)
 
風雜《カゼマジリ》。
八【十八丁】に、風交雪者雖零《カゼマジリユキハフレドモ》云々。十【七丁】に、風交雪者零乍《カゼマジリユキハフリツヽ》云々などもありて、こゝの四句は、きはめてものさびしく寒きけしきをいへり。さて印本、雜を離に作れり。既に次の句に、雨雜ともありて、離は雜の誤りなる事明らかなれば、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。また活字本に、下の雨雜の二字を、※[雨/離]の一字に誤れるにても、離は雜の誤なるをしるべし。
 
雨布流欲乃《アメノフルヨノ》。
この乃《ノ》もじに心をつくべし。風まじり雨のふるうへに、またその雨にまじりて、雪もふるよしをいへり。
 
堅塩乎《カタシホヲ》。
書紀欽明天皇二年紀訓注に、堅鹽此云2岐※[手偏+它]志1と有て、和名抄鹽梅類に、今按俗呼2黒鹽1爲2堅鹽1。日本紀私記云、堅鹽、木多師、是也とあれば、こゝもきたしをと四言に訓んかともおもはるれど、句のつゞきもて思ふに、猶文字のまゝに、かたしほをとよまんかたまされり。さてこのもの、延喜四時祭式に堅鹽一升、大學式に竪鹽五顆などありて、また大膳式上に石鹽十顆、下に堅鹽一千五百顆、雜式に石鹽五顆などあるをもて見れば、今の燒鹽といふものゝ如く、堅まりたるものなるべし。たゞ四時祭式にのみ、堅鹽一升とあれど、こはその(162)堅まりたるを、升もて量れるにてもあるべし。大和物語に、あるじすべきかたのなかりければ【中略】かたいしほさかなにして、酒のませて云々。
 
取都豆之呂比《トリツヾシロヒ》。
類聚名義抄、伊呂波字類抄など、※[口+幾]をつゞしると訓り。説文に、※[口+幾]、小食也とある意にて、すこしづゝ食ふをいへり。舊本今昔物語卷二十八に、鹽辛キ物共ヲツヾシルニ云々とありて、新撰字鏡に、※[酉+音]、左加奈豆々志留ともあるにてしるべし。こゝはまづしくして、肴の無さに、堅鹽を少しづゝくひかき/\して、酒のむをいへり。源氏物語帚木卷に、かげもよしなどつゞしりうたふほどに云々。末摘花卷に、御つゞしり歌のいとをかしきといへば云々などあるは、つゞけてもうたはずして、きり/”\にうたふ意と聞ゆれば、こゝとは別なるやうなれど、語の本は同意也。また江家次第卷七に、豆々志呂比御服とあるは、こゝとは別なるべし。
 
糟湯酒《カスユザケ》。
代匠記に、酒コソ寒氣ヲ防グ物ナレド、誠ノ酒モナケレバ、酒ノ糟ヲ湯ニ煮テ〓ルナリ。貧キコトノ有樣ナリ。越後國ニ、冬ノ夜ノ中ニモ寒キ夜、鮭ヲ取漁父等、酒ヲ飲ヲハ還テコヾユル由ニテ、寒クナレバ、幾度トナク、コノ糟湯酒ヲスヽリテ、業ヲナストゾ承ルといはれたり。予糟を煮て飲てためし見るに、味はなきものなれど、すこしは酒の氣ありて、いとよく暖まるものなれば、古しへの賤民、寒夜などにはこれを飲しなるべし。類林の一説に、〓《モロミ》酒ならんかともいへれど、とりがたし。
 
宇知須須呂比《ウチスヽロヒ》。
宇知は詞にて、須々呂比は〓《スヽリ》なり。呂比は、りを延たる也。
 
(163)之可夫可比《シカブカヒ》。
代匠記に、シハブキナリ。カトハト同韻ナレイ、シハブカヒト云ニ同ジ云々といはれつるが如く、横の韻に通はす事、いとおほし。代匠記に引る校本、拾穗本など、可を波に作れり。これに依る時は、事もなく明らかなれど、みだりには改めがたし。さて可比は、きを延たる言にて、しはぶきは、十七【四十五丁】に、可弊里伎底之波夫禮都具禮《カヘリキテシハブレヅクレ》云々。新撰字鏡に、嗽※[口+決の旁]、志波不支などあり。こゝは、ほこりかに、俗に、せきばらひなどするさま也。
 
鼻※[田+比]之※[田+比]之爾《ハナビシビシニ》。
この句解しがたし。類林に、十三【十四丁】に、此床乃比師跡鳴左右嘆鶴鴨《コノトコノヒシトナルマデナゲキツルカモ》。源氏夕※[貌の旁]卷に、こゝかしこのくま/”\しくおぼえ給ふに、ものゝ足おとひしひしとふみならしつゝうしろより來るこゝちす。また總角卷に、はかなきさまなる蔀などは、ひし/\とまぎるゝ音に、人のしのび給へるふるまひは、得聞つけたまはずと思ひて云々。糟の氣の鼻に入て、※[亥+欠]嗽〓咽《シハブキムス》るゆゑ、鼻柱いたむやうなる也。俗に鼻をはじくといへるやうならん云々。略解に、鼻ひし/\は嚔《ハナヒ》也。はなひし、はなひしと、重ねいふを略ていへり云々。これらの説、似つかはしからず。こゝの前後のつゞけざまを考るに、しはぶき髯をかき撫るなど、すべて誇りかなるさまなれば、こゝも必らずその意の言なるべきなり。
 
志可登阿良農《シカトアラヌ》。
今俗言にいふ所と同じく、こゝはしかともせぬ、すくなき髯をさへ、誇らはしげにかき撫るよし也。八【四十五丁】に、然不有五百代小田乎《シカトアラヌイホシロヲタヲ》云々とあれ|ば《(マ、)》、こは誤字なれば、例とはなしがたし。こはその所【攷證八下】にいふべし。
 
(164)比宜可技撫而《ヒゲカキナデテ》。
和名抄毛髪類に、髭、和名加美豆比介、鬚、髭、和名之毛豆比介云々。漢書高帝紀注に、師吉曰、在v頤曰v須、在v頬曰v髯云々とあり。こゝのつゞけ、劉伶酒徳頌に、銜v杯漱v醪、奮v髯※[足+其]踞、枕v麹藉v糟、無v思無v慮、其樂陶々云々とあるに似たり。枕草子に、また酒のみてあかき口をさぐり、ひげあるものはそれをなでゝ云々などもあり。すべで髯を撫るは、今も物に誇るさまにて、こゝもしか也。
 
安禮乎於伎弖《アレヲオキテ》。
於伎弖《オキテ》は、さて置てといふにて、除ての意也。上【攷證一上四十七丁】に出たり。
 
富己呂陪騰《ホコロヘド》。
呂倍《ロヘ》は、れを延たるにて、誇れど也。十七【四十五丁】に、許禮乎於伎底麻多波安里我多之《コレヲオキテマタハアリガタシ》、左奈良弊流多可波奈家牟等《サナラヘルタカハナケムト》、情爾波於毛比保許里底《コヽロニハオモヒホコリテ》云々ともあり。こゝまでの意は、雨雪に風さへまじりて、寒き冬の夜などに、衣さへうすくせんすべもなく寒きに、酒肴もあらざれば、鹽などを肴として、糟湯酒すゝりて、寒きを凌ぐさまなど、すべていとわびしけれど、志高く思ひ屈する事なく、清貧を樂しみて、我を除て又外に人らしき人はあらじ。猶誇りて居れども寒さに堪がたきよしをいへり。
 
麻被《アサブスマ》。
被は、上【攷證四上卅一丁】にいへるが如く、今いふ夜具の事にて、麻にて作りたるは賤しきものなれば、こゝにいへり。
 
引可賀布利《ヒキカヾフリ》。
俗言に引かぶるといふ意也。二十【十五丁】に、可之古伎夜美許等加我布理《カシコキヤミコトカガフリ》云々ともあり。冠をかがふりといふも、頭にかづきいたゞくものなれはいへるにて(165)これと同じ。
 
布可多衣《ヌノカタキヌ》。
代匠記に、布カタ衣ハ布ギヌノ短カクテ、肩バカリ掩フヤウナルヲ云ナリ。別ニ肩衣ト名ヅクル物ニハアラズ。アリノコト/”\ト云ニテ知ベシ云々といはれつるが如く、この下に、綿もなき布かた衣の、みるのごとわゝけさがれる、かゞふのみ肩にうちかけ云々とありて、また十六【七丁】に、平生蚊見庭《ハフコカミニハ》、結經方衣氷津裡丹縫服《ユフカタキヌヒツリニヌヒキセ》云々ともあるにて、今の如く別に肩衣と名付るものあるにはあらで、ただ袖なき肩ばかりの衣なるをしるべし。
 
安里能許等其等《アリノコトゴト》。
在とあるかぎり、悉くの意也。
 
伎曾倍騰毛《キソヘドモ》。
着装《キヨソヘ》どもの略也。略解には着襲《キオソヘ》どもの略としたり。襲《オソフ》とは、衣服に表襲《ウハオソヒ》、下襲《シタオソヒ》などいふものありて、專ら重ね着る事なれば、こゝに布かた衣ありのことごと、きそへども、寒き夜すらを云々とあるには、よく叶ひて聞ゆれど、十七【十二丁】家持卿四月五日の歌に、加吉都播多衣爾須里都氣《カキツバタキヌニスリツケ》、麻須良雄乃服曾比獵須流月者伎爾家里《マスラヲノキソヒカリスルツキハキニケリ》とある服曾比《キソヒ》と、全く同語なるにて思へば、こゝも着装《キヨソヘ》どもの略なる事しらる。装《ヨソフ》といふ言は、物を取つくろふ事なれば、こゝも衣の在かぎりを着て、寒さを防がん爲の取|繕《ツクロ》ひをすれども、猶寒きよしをいへるなれば、着装の意としてもよく聞えたり。さてかの十七の卷なる服曾比獵《キソヒカリ》を、競獵《キソヒガリ》の意とする説あれど、上より衣の事にて云下して、服の字【この服の字を、たゞのきのかなに用ひし例なし。】をさへ書たれば、かれも着装獵《キヨソヒカリ》の意(166)なる事論なし。この事、くはしくは、その所【攷證十七上】にいふべし。
 
寒夜須良乎《サムキヨスラヲ》。
このすらをといふ言は、をなほといふ意なる事、上【攷證二下二丁】にいへり。
 
飢寒良牟《ウヱサムカラム》。
飢は飲食をいひ、寒は衣服をいふ。
 
乞弖泣良牟《コヒテナクラム》。
印本、乞乞に作れり。下の乞は弖の誤りなる事、明らかなれば、意改せり。こは衣食を乞て泣らんといふ也。さて活字本、〓〓に作るも、拾穗本乞の字一字なきも、非なり。
 
汝代者和多流《ナガヨハワタル》。
是われより貧しき人に、かくの如く貧しき時は、いかにしつゝか汝が代はわたるぞと問て、さて天地はひろしといへど云々と答へたる、これ問答歌の趣意なり。
 
天地者《アメツチハ》。
文選應休※[王+連]與2廣川長岑文瑜1書に、宇宙雖v廣無v陰2以※[甜/心]1云々。
 
狹也奈理奴流《セバクヤナリヌル》。
狹はせばくと訓べし。十四【廿六丁】に、多爾世婆美《タニセバミ》云々とあり。
 
(167)安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》。
明しといへど也。二十【五十一丁】に、加久佐波奴安加吉許己呂乎《カクサハヌアカキココロヲ》云々とあり。
 
和久良婆爾《ワクラバニ》。
九【廿九丁】に、人跡成事者難乎《ヒトトナルコトハカタキヲ》、和久良婆爾成吾身者《ワクラバニナレルワガミハ》云々。古今集雜下に【行平朝臣】わくらばにとふ人あらば、すまのうらに、もしほたれつゝわぶとこたへよ云々などありて、たまたま幸にといふ意也。
 
比等等波安流乎《ヒトトハアルヲ》。
人とのともじは、にの意也。この事、上【攷證三中廿九丁】にいへり。
 
安禮母《アレモ》作《ナレル・ツクル》乎《ヲ》。
作は、眞淵のなれるとよまれしに依べし。そは毛詩天作傳に、作生也とあるにて、なれると訓べきをしるべし。こゝは人なみに吾も生れたるものをの意也。
 
美留乃其等《ミルノゴト》。
和名抄海菜類に、海松、和名美流とあり。衣服の破れちぎれさがりたるを、海松のかたちにたとへたり。
 
和和氣佐我禮流《ワワケサガレル》。
和々氣《ワヽケ》は、破れたるをいふなるべし。宇津保物語祭使卷に、こめの衣のわゝけしたる云々。同異本、吹上卷に、あしては、はりよりもほそくて、つきの布のわゝけたるつるはぎにて云々。夫木集卷三十六に【俊頼】くれなゐの袖にはつれしまみよりも、なれがつゞりのわゝけをぞおもふなどありて、伊呂波字類抄に、〓ワヽク、亦ソヽクとよめり。本集八【五十丁】に、秋芽子乃宇禮和和良葉爾置有白露《アキハギノウレワワラハニオケルシラツユ》とあるわゝら葉は、語の活用も別なれば、こゝとは別語也。
 
(168)可可布能尾《カカフノミ》。
可可布《カヽフ》は、宣長云、新撰字鏡に、※[巾+祭]先列反、殘帛也、也不禮加々不とあり云云。この説の如く、今俗にぼろといふものなるべし。袖中抄卷十四に、つゞりさせてふきり/”\すなくとは、世俗に、きり/”\すは、つゞりさせ、かゝはひろはんとなくといへり。かゝはとは、きぬ布のやれて、なにゝもすべくもなきをいふ也云々とある、かゝはは、ふとはと通へば、かがふの事なるべし。
 
肩爾打懸《カタニウチカケ》。
これ上に出たる布かた衣也。これにても、かた衣は肩をおほふばかりの衣なるべし。
 
布勢伊保能《フセイホノ》。
こは伏庵の意にて、賤がいやしき家をいへり。この事、上【攷證三下廿一丁】廬屋《フセド》の所にくはしくいへり。
 
麻《マ》宜《ゲ・キ》伊保乃内爾《イホノウチニ》。
代匠記に、今ノ點ヨカラズ、マゲイホト訓ベシ。※[手偏+王]レルイホナリ。柱ナド※[木+汚の旁]テ、ヨロボヒタル家ナリ云々。
 
直土爾《ヒタツチニ》。
直をひたと訓るは、義訓也。ひたといふ言は、神代紀下【これをひたつかひと訓るは同卷訓注に、頓丘此云2※[田+比]陀鳥1》とあるにてしるべし。】本集九【三十四丁】に、猶佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヲモニハオリキテ》云々。十三【廿丁】に、當土足迹貫《ヒタツチニアシフミナヅミ》云々。十八【十二丁】に、等能乃多知波奈比多底里爾之※[氏/一]《トノヽタチハナヒタテリニシテ》云々などありて、たゞ一すぢなるをいふ言にて、直土は外の物をまじへず、たゞ土のみといふ意也。
 
藁解敷而《ワラトキシキテ》。
新撰字鏡に、〓〓二字、和良、藁同とあり。わらは束ねたるものなれば、解敷てとはいへり。こゝまでの意は、吾賤しきあまりに、天地さへ狹く、日月さへ明ら(169)かならざるこゝちするは、人皆か、又はわればかりかくの如くなるか。吾もたま/\幸に人とは生れ來ぬるを、人並なるわざをもせずして、衣といへば、肩ばかりをおほふやうなるが、海松などの如くに破れさがりたるつゞれを肩にうちかけ、敷ものといへば、たゞ土のうへに藁を敷て居る事よといひて、父母は枕の方に、妻子は足の方に圍み居て、貧しきをうれへさまよへりと也。枕といひ、足といひて、尊卑を分てり。
 
足乃方爾《アトノカタニ》。
書紀神代紀上【一書】訓注に、脚邊、此云2阿度陛1とありて、古今集誹諧に、【よみ人しらず】まくらよりあとより戀のせめくれば、せんかたなみぞ、とこなかにをるなどあるにて、枕に對へて、足はあとゝ訓べきをしるべし。
 
圍《カクミ・カコミ》居而《ヰテ》。
圍はかくみと訓べし。書紀仁徳紀【大后】御歌に、箇區瀰夜〓利《カクミヤダリ》云々。本集二十【卅七丁】に、若草之都麻母古騰母毛《ワカクサノツマモコドモヽ》、乎知己知爾左波爾可久美爲《ヲチコチニサハニカクミヰ》云々などあり。
 
憂吟《ウレヘサマヨヒ》。
さまよふとは、歎きまどふ意なる事、上【攷證二下卅丁】にいへるが如し。此卷【卅八丁】に、月累憂吟比《ツキカサネウレヘサマヨヒ》云々ともあり。
 
可麻度柔播《カマドニハ》。
可麻度《カマド》は、竈所の意にて、度《ド》は所《ト》の略なる事、臥所《フシド》、立所《タチド》などの類にて知るべし。竹取物語に、かまどを三重にしこめて云々などありて、拾遺集連歌に、春はもえ秋はこがるゝかまど山霞も霧もけぶりとぞ見るとあるも、名所を竈によせたり。
 
(170)火氣布伎多弖受《ケブリフキタテズ》。
火氣なけぶりとよめるは、義訓也。集中いと多し。烟を立ざるをもて、貧しきよしをいへり。烟をもて貧富をいふ事は、仁徳天皇を詠奉る竟宴の歌にてもしるべし。
 
許之伎爾波《コシキニハ》。
和名抄木器類に、將魴切韻云、甑【音與勝同、和名古之岐。】炊飯器也とありて、こは今いふ蒸籠といふもの、古へ飯をば皆蒸たるものなり。
 
久毛能須可伎弖《クモノスカキテ》。
久毛は蜘蛛なり。甑は必らず簀《ス》あるものなれば、蜘蛛の網を簀に見なして、蜘蛛の簀かきてとはいへり。今の如く、蜘蛛の網をくものすといふにはあらず。いにしへは、皆くものいとのみいひし也。たゞ曾丹集に、秋かせはまだきなふきそ、我やどのあばらがくせる、くものすがきにとのみあれど、これも蜘蛛のいを簀に見なしたるにて、簀垣にの意なれば、こゝと同じ。
 
飯炊《イヒカシク》。
靈異記下卷訓釋に、炊カシガサルニとよみ、新撰字鏡に、※[火+單]炊也、伊比加志久とよめり。
 
奴延鳥乃《ヌエトリノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證一上十丁】にも出たり。
 
能杼與比居爾《ノドヨビヲルニ》。
冠辭考に、ぬえは梟などの類にて、夜る鳴ならん。かつ喉呼《ノドヨビ》とも云るは、隱聲なるにはあらで、から聲に鳴かたにていふ也けり云々といはれたれど、(171)能杼與比《ノドヨビ》をから聲に鳴ことゝしては、こゝのつゞきよろしからず。されば思ふに、前にもいへるが如く、此歌は貧しきに思ひ屈する事なく、清貧を楽しめる意もて詠れしなれば、こゝもその意にて、飯炊く事をもわするゝばかり貧しけれど、それにも屈する事なく、長閑《ノドカ》に呼かはし居るにの意なるべし。長閑《ノドカ》なるを能杼《ノド》とのみいへる事は、上【攷證二下十三丁】にいへり。與比《ヨビ》は妻子呼かはし居るに鳥のよせを云よせたり。さてこの鵺《ヌエ》てふ鳥は、鳴聲のいとかなしげにて、間を置て長閑《ノドカ》になく鳥なるべし。
 
伊等乃伎提《イトノキテ》。
この語は、此卷【卅七丁】に、伊等能伎提痛伎瘡爾波《イトノキテイタキキヅニハ》、鹹鹽遠灌知布何其等久《カラシホヲソヽグチフガゴトク》云々。十二【七丁】に、五十殿寸天薄寸眉根乎《イトノキテウスキマユネヲ》、徒令掻管《イタヅラニカヽシメツヽモ》、不相人可母《アハヌヒトカモ》。十四【卅二丁】に、奈流世呂爾木都能余翁須奈須《ナルセロニコツノヨスナス》、伊等能伎提可奈思家世呂爾《イトノキテカナシケセロニ》、比等佐敝余須母《ヒトサヘヨスモ》などあるを、おしわたし思ふに、いとゞといふ言意に當れり。語意は解しがたし。
 
短物乎《ミジカキモノヲ》。端伎流等《ハシキルト》。
これこのころの諺なるべし。下の沈v痾自哀文に、諺曰、痛瘡灌v鹽、短材截v端云々と見えたり。
 
楚取《シモトトル》。五十戸良《サトヲサ・イトラ》我許惠波《ガコヱハ》。
楚はしもとゝ訓べし。和名抄刑罸具に、笞、和名之毛度と見え、唐名例律疏議に、漢時笞則用v竹、今時則用v楚云云と見えたり。五十戸良は、いへをさと訓べし。戸令に、凡戸以2五十戸1爲v里、毎v里置2長一人1、掌d※[手偏+僉]2校戸口1、課2殖農桑1、禁2察非違1、催2駈u賦役1とありて、廣雅釋詁四に、良長也。爾雅釋詁に良首也とあるにて、良ををさと訓べきをしるべし。略解に、良は長の字の誤也といへるも、拾穂本等に作るも非なり。さて笞は五刑の一つにて、官家の刑具なるを、里長がみだりに取もたらん(172)もいかゞなるやうなれど、長《ヲサ》といふからに、楚を取て民を制しはたるやうに云なせるは、歌のうへなれば也。こは貧しくて、田租賦役などの未進あるを責はたらるゝさまをいへり。憶良は、はじめより官人にて、里長に責らるゝよしはあらねど、貧しき事を甚しくいはんとて、假に自らを賤民になしていへり。
 
寝屋度麻※[人偏+弖]《ネヤドマデ》。
これも、度は所の意にて、寢屋所までなり。
 
來立呼比奴《キタチヨバヒヌ》。
活字本、立を弖に作るは非也。こゝは里長が屋の戸に立て呼びはたるをいへり。
 
須部奈伎物能可《スベナキモノカ》。
せんすべなきものかといふにて、かはかもの意にて、歎息の意こもれり。物能の二字をものと訓るは、集中、添字の一格也。前にも多し。
 
世間乃道《ヨノナカノミチ》。
これぞ、世のなかの常の道理な|り《(マヽ)》と也。
 
世間乎《ヨノナカヲ》。(宇之等夜佐之等《ウシトヤサシト》。於母倍杼母《オモヘドモ》。飛立可禰都《トビタチカネツ》。鳥爾之安良禰婆《トリニシアラネバ》。)
 
宇之等夜佐之等《ウシトヤサシト》。
夜佐之《ヤサシ》は恥しき意也。上【攷證此卷四丁】に出たり。
 
飛立可禰都《トビタチカネツ》。
一首の意は、世の中てふものは、憂く恥しきものぞとは思へども、鳥ならねば、いづくへも飛たちのがるゝ事なりがたしと也。
 
(173)山上憶良。頓首謹上。
 
こは右の貧窮問答の歌を人に送らるゝ跋なり。人とは誰ともしりがたし。
 
好去好來歌。【反歌二首。】
 
こは、多治比眞人廣成卿の、天平四年八月遣唐大使になりて、五年四月船出せんとせらるゝ時、詠て贈らるゝ歌にて、好去《ヨクユキ》て好《ヨク》かへり來りませの意もて、好去好來歌とはかゝれし也。既に歌のとぢめに、さきくいまして、はやかへりませとはいはれたり。この題辭は、陶潜が歸去來辭をとられたりとおぼし。
 
894 神代欲理《カミヨヨリ》。(云傳介良久《イヒツテケラク》。虚見津《ソラミツ》。倭國者《ヤマトノクニハ》。皇神能《スメガミノ》。伊都久志吉國《イツクシキクニ》。言靈能《コトダマノ》。佐吉播布國等《サキハフクニト》。加多利繼《カタリツギ》。伊比都賀比計理《イヒツガヒケリ》。今世能《イマノヨノ》。人母許等期等《ヒトモコトゴト》。目前爾《メノマヘニ》。見在知在《ミタリシリタリ》。人佐播爾《ヒトサハニ》。滿弖播阿禮等母《ミチテハアレドモ》。高光《タカヒカル》。日御朝庭《ヒノミカド》。神奈我良《カムナガラ》。愛能盛爾《メデノサカリニ》。天下《アメノシタ》。奏多麻比志《マヲシタマヒシ》。家子等《イヘノコト》。撰多麻比天《エラビタマヒテ》。勅旨《オホミコト》。(174)【反云。大命《オホミコト》。】戴持弖《イタヾキモチテ》。唐能《カラクニノ》。遠境爾《トホキサカヒニ》。都加播佐禮《ツカハサレ》。麻加利伊麻勢《マカリイマセ》。宇奈原能《ウナバラノ》。邊爾母奥爾母《ヘニモオキニモ》。神豆麻利《カムヅマリ》。宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》。諸能《モロ/\ノ》。大御神等《オホミカミタチ》。船舳爾《フナノヘニ》。【反云。布奈能閉爾《フナノヘニ》。】道引麻遠志《ミチヒキマヲシ》。天地能《アメツチノ》。大御神等《オホミカミタチ》。倭《ヤマトノ》。大國霊《オホクニダマ》。久堅能《ヒサカタノ》。阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》。阿麻賀氣利《アマガケリ》。見渡多麻比《ミワタシタマヒ》。事了《コトヲハリ》。還日者《カヘラムヒハ》。又更《マタサラニ》。大御神等《オホミカミタチ》。船舳爾《フナノヘニ》。御手打掛弖《ミテウチカケテ》。墨繩袁《スミナハヲ》。播倍多留期等久《ハヘタルゴトク》。阿遲可遠志《アテカヲシ》。智可能《チカノ》岫《・クキ》欲利《ヨリ》。大伴《オホトモノ》。御津濱備爾《ミツノハマビニ》。多太泊爾《タダハテニ》。美船播將泊《ミフネハハテム》。都都美無久《ツツミナク》。佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》。速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》。
 
神代欲理《カミヨヨリ》。
神代とは、たゞ古きをいひて、こゝはいにしへよりといはんが如し。この事、上【攷證三上六十九丁三中六十四丁】にくはしくいへり。
 
云傳介良久《イヒツテケラク》。
たへの反、てにて、いひつたへけらくの意也。(頭書、代匠記に引る官本、介を久に作れり。これもあしからず。)
 
(175)皇《スメ・スベ》神能《ガミノ》。
上【攷證一下六十八丁】にいへるが如く、すめは尊稱の詞にて、尊き神といふ意なり。
 
伊都久志吉國《イツクシキクニ》。
靈異記下卷訓釋に、儼然イツクシクと訓り。この字の如く、嚴重なる意にて、こゝはこの倭の國は、尊き神たちの、嚴重に守らせ給ふぞといふ意にて、書紀に多く嚴の字をいづとよまれつるも、この意也。
 
言靈能《コトダマノ》。
十一【十三丁】に、事靈八十衢夕占問《コトダマノヤソノチマタニユフケトフ》、占正謂《ウラマサニイヘ》、妹相依《イモニアハンヨシ》。十三【十丁】に、志貴島倭國者《シキシマノヤマトノクニハ》、事靈之所佐國叙《コトダマノタスクルクニゾ》云々。續日本後紀、興福寺僧長歌に、日本乃倭之國波《ヒノモトノヤマトノクニハ》、言靈乃《コトダマノ》當|國度曾《クニトゾ》云云などありて、事と書るも借字にて、言の意にて、この日本國は、あやしく言に靈ありて、いまだ來らざる事をも云當る事もあり、また言もて鬼神の心を感ぜしむる事もあるよりいへるにて、こゝは遣唐使の出立を祝する歌にて、則この歌にも靈ありて、かく祝し申す、よりて恙なくかへりまさんの意也。
 
佐吉播布國等《サキハフクニト》。
幸《サキハ》ふ國といへるにて、言靈の幸へあらしむるよしにて、祝し申すをいへり。
 
伊比都賀比計理《イヒツガヒケリ》。
賀比《ガヒ》は、ぎを延たるにて、言繼《イヒツギ》けりなり。
 
見《ミ》在《タリ・マシ》知《シリ》在《タリ・マス》。
こは宣長の訓なり。見《ミ》て在《アリ》、知《シリ》て在《アリ》の意也。さてこゝまでの意は、吾|日本《ヤマト》の國は尊き神たちの、嚴くしく守らせ給ふ國にて、また言にも靈ありて、人をたすけ幸(176)はふる國なりと、古しへより語り繼《ツギ》、云繼《イヒツギ》來れるを、今の世の人もこと/”\く目前に見しりたる事也といふ意にて、今祝し申すこの歌にも靈ありて、必らず幸く平らかにかへりまさんといふ意をこめたり。
 
人佐播爾《ヒトサハニ》。
この日本國中には、人多に滿てはあれどもの意也。
 
高《タカ》光《ヒカル・テラス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下十九丁】にも出たり。
 
日御朝庭《ヒノミカド》。
たゞ朝廷をいふ。上【攷證一下廿九丁】に出たり。さて朝廷には、みな廷の字を書るを、庭と書るも誤りにはあらず。この事も、上【攷證三上六十九丁】にいへり。さて印本、御朝庭《ミカドニハ》と訓たれども、六【廿五丁】にも、この三字、みかどゝのみ訓たれば、みかどゝのみ五言に訓べし。
 
愛《メデ・メグミ》能盛爾《ノサカリニ》。
これを、宣長の、めでのさかりにと訓れしに依べし。續日本紀天平寶字元年八月庚辰詔に、此遍乃政、明淨久仕奉禮留爾依而、治賜人母在。又|愛盛爾《メデノサカリ》、一二人等爾、冠位上賜治賜久止宣云々。類聚國史天長四年詔に、御意乃愛盛爾、治賜人毛亦在云々などあると、同語なり。こは文字の如く、愛する事、盛なるに依ての意也。さてこの句は、次の撰多麻比天《エラビタマヒテ》といふへかけて心得べし。
 
(177)天下《アメノシタ》。奏《マヲシ・マウシ》多麻比志《タマヒシ》。
天下の政を執申賜ひしをいへり、上【攷證二下廿六丁】に出たり。まをしと書べき事も、その所にいへり。
 
家子等《イヘノコト》。
續日本紀に、天平十一年四月戊辰、中納言從三位多治比眞人廣成薨。左大臣正二位島之第五子也とある如く、左大臣島公の子なれば、天下まをしたまひしいへの子とはいへり。等は、とての意也。集中いと多し。
 
勅旨《オホミコト》。
天皇の命ぜらるゝ事なれば、大命の意もて訓り。印本、旨を肯に作れり。誤字なれば改む。
 
反云。大命《オホミコト》。
この下にも、反云といふあり。反切の意にて、訓注なり。活字本には、この四字なく、拾穗本に一云に作れり。これによれば、こともなけれど、さかしらならんもはかりがたし。
 
戴《イタヾキ・ノセ》持弖《モチテ》。
代匠記、略解などに、載は戴の誤りとすれど、釋名釋姿容に、載戴也、戴在2其上1也とありて、載戴通ずれば、もとのまゝにて、いたゞきもちてと訓べし。さていたゞきもちて、命冠《ミコトカヽフ》りなどいふと同じく、大命を頭に戴き持る意也。こゝまでの意は、むかしの朝廷の政を執行ひ申し給ひし、左大臣島公の子にてましませば、愛しおぼしめすあまりに、多くの人の中より、選び給ひて、授り給ひし大命を、頭に戴て、唐までもまかりいませばといへる也。(頭書、續日本紀天平勝寶元年七月詔に、天皇朝廷立賜都留食國乃政乎戴持而云々。)
 
(178)唐《カラクニ・モロコシ》能《ノ》。
唐をもろこしといへるは、常のことなれど、奈良の京のころ、もろこしといひしを見ず。書紀に、大唐、漢、西土などを、もろこしと訓つれども、書紀の訓は、ひたぶるにはうけがたきもの也。されば、このころは、唐玄宗の代にて、唐と改まりて百年に余りたれば、唐とさへいへば、西土《カラク〓》の事となるよりして、文字には唐と書たれど、猶からくにと訓べきなり。そは本集十九【卅五丁】勝原大后賜2入方使藤原清河1御歌に、大舶爾眞梶繁貫《オホフネニマカヂシヾヌキ》、此吾子乎韓國邊遣《コノアコヲカラクニヘヤル》、伊波敝神多智《イハヘカミタチ》。また【四十一丁】入唐副使に餞する歌に、韓國爾由伎多良波之※[氏/一]可敝里許牟《カラクニニユキタラハシテカヘリコム》、麻須良多家乎爾美伎多※[氏/一]麻都流《マスラタケヲニミキタテマツル》【韓をからと訓るは、韓衣韓藍など書るにてしるべし。】など、入唐使に贈れる歌にも、猶韓國とのみいへるにて、こゝの唐の字もからくにと訓べきを思ひ定むべし。
 
麻加利伊麻勢《マカリイマセ》。
麻加利は、退く意なる事、上【攷證二下六十丁】にいへるが如し。伊麻勢《イマセ》は、往意なる事、これも上【攷證二下卅丁】にいへるが如く、こゝはいませばのばを略ける也。ばを略ける事も、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
 
邊爾母奥爾母《ヘニモオキニモ》。
邊《ヘ》は海邊をいふ。この事、上【攷證二中廿四丁】にいへり。七【卅四丁】に、浮蓴邊毛奧毛依勝益士《ウキヌナハヘニモオキニモヨリカテマシヲ》。十二【卅五丁】に、白浪乃邊毛奧毛依者無爾《シラナミノヘニモオキニモヨルトハナシニ》などあり。
 
神《カム・カミ》豆麻利《ヅマリ》。
續日本紀天平勝寶元年七月詔に、高天原|神積坐《カムヅマリマス》皇親神魯伎神魯美命云々。祈年祭祝詞に、高天原爾|神髄坐《カムヅマリマス》云々【この外の祝詞にも多かり。】などあるも同じく、神|鎭《シヅマリ》の意也。この事、宣長が大祓後釋にくはしく解れたれば、こゝには略けり。さてこゝの意は、海原の海濱にも、沖の島々にも、鎭り領しまします神々を申す也。
 
(179)宇志播吉伊麻須《ウシハキイマス》。
知領し在《イマス》意也。古事記上卷に、汝之宇志波枳流葦原中國者、我御子之所知國言依賜云々。本集六【卅六丁】に、住吉乃荒人神《スミノエノアラヒトカミ》、船舳爾牛吐賜《フナノヘニウシハキタマヒ》云々。九【廿三丁】に、此山乎牛掃神之《コノヤマヲウシハクカミノ》云々。十七【卅九丁】に、須賣加未能宇之波伎伊麻須《スメカミノウシハキイマス》、爾比可波能曾能多知夜麻爾《ニヒカハノソノタチヤマニ》云々。十九【卅六丁】に、墨吉乃大御神《スミノエノワガオホミカミ》、舶乃倍爾宇之波伎座《フナノヘニウシハキイマシ》、舶騰毛爾御立座而《フナトモニミタヽシマシテ》云々などありて、また遷2却祟神1祭詞に、小川能清地爾遷出坐※[氏/一]、宇須波伎坐世止云々とあるも、志と須と通ずれば、同じ語也。この詞の事は、古事記傳卷十四にくはしく解れたれば、こゝには略けり。
 
諸能大御神等《モロ/\ノオホミカミタチ》。
諸は、神にまれ、人にまれ、惣《スベ》てをいふ言也。古事記上卷に、天神諸命以云々。木集二十【廿八丁】に、母呂母呂波佐祁久等麻乎須《モロモロハサケクトマヲス》云々。佛足石歌に、都止米毛呂毛呂《ツトメモロモロ》。また毛呂毛呂乎爲弖《モロモロヲヰテ》云々などあり。こゝは、海濱沖の島々などに、鎭り領します、惣ての大御神たちを申すなり。
 
船舳爾《フナノヘニ》。
和名抄船具に、兼名苑注云、船前頭謂2之舳1。【音逐。漢語抄云、舟頭制水處也、和語云v閉】とありて、舟の頭をいふ也。十八【廿二丁】に、布奈乃倍能伊波都流麻泥爾《フナノヘノイハツルマデニ》云々ともあり。
 
反云。布奈能閇爾《フナノヘニ》。
まへにもいへるが如く、これ訓注なり。
 
道引麻遠志《ミチビキマヲシ》。
印本、麻遠志を、麻志遠《マシヲ》に作れり。さてはこゝの意聞えがたければ、活字本に依て改む。こは道引奉る意也。麻遠志といふに、奉るといふ意なるがある事は、上【攷證此卷十九丁】にいへり。
 
(180)倭大國霊《ヤマトノオホクニミタマ》。
書紀崇神天皇六年紀に、日本《ヤマトノ》大國魂神云々。延喜神名帳に、山邊郡大和坐大國魂神社三座とある、これにて、この神の御事は、古事記傳卷十二にくはし。
 
阿麻能見虚喩《アマノミソラユ》。
喩は從《ヨリ》の意にて、天の眞虚從なり。十【六十丁】に、天三空者隱相管《アマノミソラハクモリアヒツヽ》。十二【十八丁】に、久竪之天水虚爾照日之《ヒサカタノアマノミソラニテレルヒノ》云々などあり。
 
阿麻賀氣利《アマガケリ》。
出雲國造神賀詞に、天能八重雲乎押別※[氏/一]、天翔國翔《アマカケリクニカケリ》※[氏/一]天下乎見廻※[氏/一]云々ともありて、天を翔て海原をもろこしかけて、見わたし給ひ|てい《(マヽ)》ふ也。
 
事《コト》了《ヲハリ・ヲヘテ》。還日者《カヘラムヒニハ》。
唐に遣はされて、遣唐使のはからふべき事をはへ(へ衍カ)りて、此土にかへらん日にはといふ也。書紀神功紀に、事竟還日産2於茲士1云々。十八【卅一丁】に、許登乎波里可敝利末可利天《コトヲハリカヘリマカリテ》云々などもあり。
 
御手打掛弖《ミテウチカケテ》。
打《ウチ》は詞にて、たゞ御手をかけてといふなり。
 
墨繩袁《スミナハヲ》。
書紀雄略紀歌に、偉儺謎能※[こざと+施の旁]倶彌柯該志須彌灘※[白+番]《ヰナメノタクミカケシスミナハ》云々。本集十一【廿七丁】に、斐太人乃打墨繩之直一通二《ヒダビトノウツスミナハノタヽヒトミチニ》。和名抄工匠具に、繩墨、和名須美奈波などありて、禮記□に、禮之于2正國1也、猶d衡之于2輕重1也、繩墨之于c曲直u也云々などもあり。
 
播倍多留期等久《ハヘタルゴトク》。
繩を引|延《ハヘ》たる如く、眞直にとゞこほる事なく、かへさしめたまへといふ也。
 
(181)阿庭可遠志《アテカヲシ》。
活字本、庭《テ》を遲《チ》に作れり。いづれにでも解しがたし。略解に、先人云、阿は問か聞の誤り、遠は邊の誤にて、もちかへしなるべし。御手うちかけてと有からは、持返しともいひしか云々。この説當れりともおぼえず。宣長云、あちかをしは、智可の枕詞と聞ゆ。あちか智可と言の重なる枕詞也。さて、あちかは、未考へず。をしは、よしといふに同じ云々。この説の如く、大伴御津《おほとものみつ》へ對へたる枕詞とは聞ゆれど、さらに考るよしなし。
 
智可能《チカノ》岫|欲利《ヨリ》。
岫を、印本、くきとよめれど、岫は、和名抄山谷類に、陸詞云、岫山穴似v袖【和名久木】とありて、地名に何々の岫《クキ》といへる(コノ間一二字不明)なし。さればここの岫は、岬の誤りにて、智可能岬《チカノサキ》なるべし。岬は和名抄に、三左木《ミサキ》とよめる字なり。さて智可は、肥前風土記に、松浦郡値嘉島【在郡西南之海中】昔者纒向日代宮御宇天皇巡幸之時、在2志式島之行宮1、御2覽西海1、海中有v島、煙氣多覆。勅遣2陪從阿曇連百足1、令v察v之。島有2八十餘1、就v中二島、島別有v人 第一島名2小近1、土蜘蛛大耳居v之。第二島名2大近1、土蜘蛛垂耳居。自餘之島、並人不v在。【中略】勅云、此島雖v遠、猶見如v近、可v謂2近島1、因曰2値嘉島1。【中略】西有2泊v船之停二處1、遣唐之使、從2此停1發云々とある、これにて、この文に、松浦郡の西海なるよしあるによりて、地圖もて考るに、今の平戸《ヒラド》五島《ゴタウ》などの島をいへるなるべし。猶この地の事は、三代實録貞觀十八年三月紀にくはしく見えたり。
 
大伴《オホトモノ》。
枕詞にて、上【攷證一下五十一丁】に出たり。
 
(182)御津濱《ミツノハマ》備《ビ・ベ》爾《ニ》。
難波の御津なり。いにしへ九州への往還、唐土への往來にも、まづ此御津より船におりのりせし事、一【廿六丁】山上憶良在2大唐1憶2本郷1歌の所【攷證一下五十一丁】にくはしくいへり。備《ビ》はべと通ひて、邊の意也。この事も上【攷證五上五十一丁】にいへり。
 
多太泊爾《タヾハテニ》。
太もじ、印本、大に作れり。古しへ、大太相通はして書來りたれば、いづれにてもあしからねど、集中|多太《タヾ》と書る所、こゝの外十二所あるが、みな太もじなれば、大は、太の誤りなる事しるきに依て改む。さてこゝの詞、たゞ行《ユキ》に行《ユク》、たゞ乘《ノリ》に乘《ノル》などいふと同じく、外へは觸もせずして、たゞ一すぢにその所に泊《ハツ》るをいへり。
 
都都美無久《ツヽミナク》。
これ中古より旅行人に、恙無《ツヽガナク》といふに同じ。十三【十丁】に、恙無福座者《ツヽミナクサキクイマサバ》云々。十五【四丁】に、大船乎安流美爾伊多之伊麻須君《オホフネヲアルミニイタシイマスキミ》、都追牟許等奈久波也可敝里麻勢《ツヽムコトナクハヤカヘリマセ》、二十【十九丁】に、安里米具里事之乎波良波《アリメグリコトシヲハラバ》、都々麻波受《ツヽマハズ》、可敝理伎麻勢登《カヘリキマセト》云々。また【卅八丁】多比良氣久於夜波伊麻佐禰《タヒラケクオヤハイマサネ》、都々美奈久都麻波麻多世等《ツヽミナクツマハマタセト》云々などあり。恙の字の事は、上【攷證五上廿七丁】にくはしくいへり。
 
佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》。
幸く座《イマシ》てなり。
 
速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》。
坐勢《マセ》は下知の詞にて、早くかへりましませといふ也。
 
(183)反歌。
 
895 大伴《オホトモノ》。(御津松原《ミツノマツバラ》。可吉掃弖《カキハキテ》。和禮立待《ワレタチマタム》。速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》。)
 
御津松原《ミツノマツバラ》。
難波の御津也。七【十七丁】に、三津乃松原浪越似所見《ミツノマツバラナミコシニミユ》ともあり。
 
可吉掃弖《カキハキテ》。
十六【十八丁】に、棗本可吉將掃爲《ナツメガモトヲカキハカムタメ》ともありて、可吉《カキ》は詞、掃《ハキ》ははらふ也。九【廿三丁】に、牛掃神《ウシハクカミ》云々とも借訓せり。一首の意は、君が御舟の、まづ着ぬべき御津の松原をも、掃《ハキ》清めて、待まゐらせんに、早くかへりたまへといふ也。
 
896 難波津爾《ナニハヅニ》。(美船泊農等《ミフネハテヌト》。吉許延許婆《キコエコバ》。紐解佐氣弖《ヒモトキサケテ》。多知婆志利勢武《タチバシリセム》。)
 
紐解佐氣弖《ヒモトキサケテ》。
書紀允恭紀【天皇】御歌に、佐瑳羅餓多邇之枳能臂毛弘等枳舍氣帝《サヽラガタニシキノヒモヲトキサケテ》云々ともありて、男女の間に紐を結《ムス》ぶとも、解《トク》ともいへるは、契りをかたむる意にて、常の事なるを、こゝの如く、男どちにいへるは、いとめづらし。さればこゝは紐《ヒモ》結《ユフ》までもなく、いそぎ立はしりまゐらんの意に|も《(マヽ)》、物もとりあへざるさまをいへり。紐の字の事は、上【攷證三上十九丁】にいへり。
 
多知婆志利勢武《タチバシリセム》。
九【十九丁】に、立走叫袖振《タチバシリサケビソデフリ》云々とも見えて、一首の意は、難波津まで、御舟の着ぬと聞え來らば、紐を結ぶまでもなく、いそぎ立はしりて、(184)御むかへにまゐらんと也。
 
天平五年三月一日。良宅對面。獻三日。山上憶良謹上。
 
良宅は貴宅などいふと同じく、人を尊みていふ歟。略解に、良は憶良の略云々といはれつれど、自ら名を略きていふは、無禮なるわざなれば、いかゞ。こは貴宅に於て對面して、この歌を獻るは三日也といふなり。
 
大唐大使卿記室。
 
大唐大使は、廣成卿をいへり。續日本紀に、和銅元年正月乙巳、授2從六位上多治比眞人廣成從五位下1。三月丙午、爲2下野守1。五年正月、授2從五位上1。七年十一月庚戌、爲2副將軍1。養老元年正月乙巳、授2從五位下1。三年七月庚子、始置2按察使1。越前守正五位下多治比眞人廣成、管2能登越中越後三國1。四年正月甲子、授2正五位上1。神龜元年二月壬子、授2從四位下1。天平三年正月丙子、授2從四位上1。四年八月丁亥、爲2遣唐大使1。五年閏三月癸巳、辭見、授2節刀1。四月己亥、遣唐四船、自2難波津1進發。六年十一月丁丑、來著2多禰島1。七年三月丙寅、自2唐國1至進2節刀1。辛巳、朝拜。四月戊申、授2正四位上1。九年八月庚申、爲2參議1。九月癸巳、爲2中納言1。授2從三位1。十一年四月戊辰、薨。左大臣島之第五子也とあり。記室は、書記を主る役人をいふ。上(185)【攷證五上卅五丁】に出たり。
 
沈v痾自哀文。山上憶良作。
 
玉篇に、痾同v※[病垂/可]、病也とあり。晋書樂廣傳に、客豁然意解、沈痾頓愈云々とあり。こゝは病に沈める事を、自らあはれぶ文なり。六【廿六丁】天平五年の歌の條に、憶良沈痾の時の歌あり。同じ度なるべし。
 
竊以。朝佃2食山野1者。猶無2※[うがんむり/火]害1而得v度v世。【謂常執2弓箭1。所v値禽獣。不v論2大小1。孕及不孕。並皆※[殺の異体字]食。以v此爲v業者也。】晝夜釣2漁河海1者。尚有2慶福1而全2經俗1。【謂漁夫潜女。各有v所v勤。男者手把2竹竿1。能釣2波浪之上1。女者腰帶2鑿籠1。潜採2深潭之底1者也。】况乎我從2胎生1迄2于今日1。自有2修善之志1。曾無2作惡之心1。【謂聞2諸惡莫作。諸善奉行之教1也。】所以禮2拜三寶1。無2日不1v勤。【毎日誦經發露懺悔也。】敬2重百神1。鮮2夜有1v闕。【謂敬2拜天地諸神等1也。】嗟乎※[女+鬼]哉。我犯2何罪1。遭2此重疾1。【謂未v知2過去所v造之罪。若是現前所v犯之過1。無v犯2罪過1。何獲2此病1乎。】初沈v痾已來。年月稍多。【謂經2十餘年1也。】(186)是時年七十有四。鬢髪斑白。筋力※[兀+王]羸。不2但年老1。復加2斯病1。諺曰。痛瘡灌v塩。短材截v端。此之謂也。四支不v動。百節皆疼。身體太重。猶v負2鈞石1。【二十四銖爲2一兩1。十六兩爲2一斤1。三十斤爲2一鈞1。四鈞爲2一石1。合一百二十斤也。】懸v布欲v立如2折翼之鳥1。倚v杖且v歩。比2跛足之驢1。吾以身已穿v俗。心亦累1v塵。欲v知2禍之所v伏。祟之所1v隱。龜卜之門。巫祝之室。無v不2往問1。若實若妄。隨2其所1v教。奉2幣帛1無v不2祈祷1。然而彌有2増苦1。曾無2減差1。吾聞前代多有2良醫1。救2療蒼生病患1。至v若2楡樹・扁鵲・華他・秦和緩・葛稚川・陶隱居・張仲景等1。皆是在v世良醫。無v不2除愈1也。【扁鵲。姓秦。字越人。勃海郡人也。割v※[匈/月]採2心腸1而置v之。投以2神藥1。即寤如v平也。華他。字元化。沛國※[言+焦]人也。若有d病2結積沈重1者u。在v内者。刳v腸取v病。縫復摩v膏。四五日差v之。】追2望件醫1。(187)非2敢所1v及。若逢2聖醫神藥1者。仰願割2刳五藏1。抄2探百病1。尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1。【肓※[隔の旁]也。心下爲v膏。攻v之不v可。達v之不v及v藥不v至焉。】欲v顯2二竪之逃匿1。【謂晉景公疾。秦醫緩視而還者。可v謂2爲v鬼所1v※[殺の異体字]也。】命根既盡。終2其天年1尚爲v哀。【聖人賢者。一切含靈。誰免2此道1乎。】何况生録未v半。爲v鬼枉殺。顔色壯年。爲v病横困者乎。在世大患。孰甚2于此1。)
 
窺以。
ひそかに思ひ見ればの意也。
 
朝夕佃2食山野1者。
印本、夕の字を脱せり。今、代匠記に引る官本に依て補ふ。晝夜釣2漁河海1者といふに對へたる文なれば、必らず朝夕とあるべきなり。易繋辭釋文に、取v獣曰v佃とありて、佃食は獵て食する意なり。
 
得2度世1。
かくの如く讀べし。こは下の全2經俗1の文へ對へたる文なれば也。
 
不v避2六齋1。
雜令に、凡月六齋日、公私皆斷2殺生1とありて、義解に、謂六齋、八日十四日十五日二十三日二一十九日三十日とあり。この本説は、起世經三十三天品、翻譯(188)名義集卷七などに、くはしく見えたり。
 
所v値。
印本、値を〓に作、活字本、位に作れり。〓に作るは、値は直と通ずる故に、直とありしを、字體似たるままに、〓に誤れる事明らかなれば、代匠記に引る官本に依て改む。
 
禽獣不v論2大小1。孕及不孕。並皆※[殺の異体字]食。
國語魯語に、鳥獣孕水、蟲成獣虞。於是乎、禁2置羅1※[予+昔]2魚鼈1、以v夏犒2助生阜1也。鳥獣成水、蟲孕水虞、於v是禁2置〓1麗設穽※[咢+おおざと]以實廟庖畜功用也。且夫山不v搓v蘖、澤不v伐v夭、魚禁2鯤緬1、獣長麑〓、鳥翼〓卵、蟲合〓〓、蕃〓物也云々とあり。
 
爲業。
業、印(本、脱カ)葉に作る。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
全2經俗1。
經俗は、管子重令篇に、朝有2經臣1、國有2經俗1。民有2經産1云々。注に經常也とある熟字なれば、かくの如く讀べし。
 
漁夫。
和名抄漁獵類に、漁父、無良岐美とあり。
 
潜女。
和名抄漁獵類に、潜女、和名加豆岐米とあり。
 
鑿籠。
鑿は、和名抄工匠具に、鑿、和名能美とありて、こは海底に潜きて、岩に付たる※[虫+包]などをはなつ具也。印本、鑿に作るは誤れり。籠も、印本、龕に誤れり。今、活字本に依て(189)改む。こは貝藻など取ていれん料なり。
 
潜採2深潭之底1者也。
印本、深を※[さんずい+采]に作る。誤りなる事明らかなれば、意改す。活字本、採なく、潭を澤に作るは非也。
 
諸惡莫作。諸善奉行。
これ法句經述佛品の偈の文なり。下の半偈は、自淨其意是諸佛教とあり。
 
三寶。
三寶は、佛法僧をいふ。過去現在因果經卷三に、於v是世間始有2六阿羅漢1、佛阿羅漢是爲2佛寶1。四諦法輪是爲2法寶1。五阿羅漢是爲2僧寶1。如是世間三寶具足、爲2諸天人第一福田1云々とあり。
 
毎日。
毎の字の上、謂の字を脱せるか。前後の注文、みな謂の字あり。
 
發露懺悔。
自らの罪咎を顯はして、懺悔するをいふ。菩薩藏經に、如v是一切諸惡、我今於2十方諸佛1發露懺悔云々とあり。
 
※[女+鬼]哉。
玉篇に※[女+鬼]慙也、亦作v愧とあり。はづかしきかなと訓べし。
 
謂v經2十餘年1也。
代匠記、略解など、余を餘に改られしは非なり。古しへより、余と餘と通用す。そは史記屈原賈生傳索隱に、楚辭餘並作v余とありて、呉仲山(190)碑に、父有2余財1と見え、隷辨に、按周禮地官委人、凡其余聚以待2頒賜1、金與v餘同とあるにてしるべし。さて拾穗本、はじめよりこゝまでの文なし。非なり。
 
是時。
拾穗本、是を惟に作る。いづれにてもありなん。
 
鬢髪斑白。
 
班は斑なり。魏孔羨碑、また〓閣頌などに、班と斑と通じ書り。辨辯相通るが如し。斑白は、禮記祭義注に、斑白髪雜色也とあり。さて活字本、この四字を髪白の二字とすれど非也。筋力※[兀+王]羸にむかへたる文なればなり。
 
※[兀+王]羸。
※[兀+王]羸は弱く痩たるをいふ。韓愈□文に、人固有2※[兀+王]羸而壽考1云々とあり。印本、※[兀+王]を※[瓦+王]に作るは誤字也。今意改す。
 
痛瘡灌v塩。短材截v端。
 
此卷【卅七丁】に、伊等能伎提《イトノキテ》、痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》、鹹鹽遠灌知布何其等久《カラシホヲソヽグチフガゴトク》云々。また【卅丁】伊等乃伎提《イトノキテ》、短物乎《ミヂカキモノヲ》、端伎流等云之如《ハシキルトイヘルガゴトク》云々ともありて、こ|の《(マヽ)》いひなれし諺なるべし。
 
四支。
 
易坤卦疏に、四支獨2人手足1とありて、こゝは左右の手足をいふ。
 
百節。
 
體の多くの節々《フシ/\》をいふ。文心雕龍□に、百節成v體、共資2榮衛1云々とあり。
 
(191)懸v布欲v立。
梁などに布をかけて、それにすがりて立んと欲すれどもといふ也。
 
跛足。
玉篇に、跛、跂足とありて、あしなへなり。
 
吾以身已穿俗。
穿俗は俗中を穿《ウガチ》て住るよしなるべし。出所つまびらかならず。
 
心亦累1v塵。
印本、亦を思に誤れり。今、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。累塵は、劉汲詩に、清泉便當v如2※[さんずい+黽]酒1、澆盡胸中累2却塵1とあり。
 
龜卜之門。
禮記曲禮に、龜爲2卜※[竹/夾]1爲v筮云々。周禮春官大卜注に、問v龜曰v卜云々とありて、こゝは卜者に問ふをいへり。
 
巫祝之室。
かんなぎはふりをいへり。
 
幣帛。
諸本、幣を弊に作れり。誤りなる事明らかなれば、意改す。
 
然而彌。
 
諸本、彌を禰に作れり。これも誤字なる事明らかなれば、意改す。
 
楡※[木+付]。
周禮疾醫注に、楡※[木+付]、黄帝時醫云々。史記扁鵲傳には、兪※[足+付]と書り。さて諸本、※[木+付]を樹に作れり。誤字なる事明らかなれば、意改す。
 
(192)扁鵲。
史記扁鵲傳に、扁鵲者、渤海郡鄭人也。姓秦氏、名越人云々とあり。
 
華他。
後漢書方術傳に、華他、字元化、沛國※[言+焦]人也云々とあり。
 
秦和緩。
泰の醫和、醫緩とて、二人の名なり。國語晋語に、平公有v疾。秦景公使d2醫和1視uv之云々。左氏成十年傳に、晋公疾病、求2醫于秦1。秦伯使d2醫緩1爲uv之。未至、公夢疾爲2二竪子1、曰彼良醫也、懼傷v我焉。逃v之。其一曰。居2肓之上膏之下1、若v我何。醫至曰。疾不v可v爲也。枉2肓之上膏之下1。攻v之不v可、達v之不v及、藥不v至焉、不v可v爲也。公曰、良醫也。厚爲2之禮1而歸v之云々とあり。
 
葛稚川。
晋書列傳に、葛洪、字稚川、丹楊句容人也。洪少好v學、家貧躬自伐v薪、以貿2紙筆1。夜輙寫v書誦習、以2儒學1知v名。【中略】兼綜2練醫術1云々とあり。諸本、葛を※[草がんむり/場の旁]に誤れり。意改す。
 
陶隱居。
梁書列傳に、陶弘景、字通明、丹陽秣陵人也。【中略】止2于句容之句曲山1。恒曰、此山下是第八洞宮、名2金壇華陽之天1、周囘一百五十里、昔漢有2咸陽三茅君1、得v道來掌2此山1、故謂2之茅山1。乃中山立v館、自號2華陽隱居1。【中略】尤明2陰陽五行風角星等、山川地理方圖産物醫術本草1云々とあり。
 
(193)張仲景。
漢書□に、張機、字仲景、南陽人也。受2業於同郡張伯祖1、善2於治療1。尤精2經方1。所v著有2傷寒論三十二篇1、爲2後世方脉之祖1云々とあり。
 
扁鵲。華他。
この四字、諸本、大字とす。誤りなる事明らかなれば、意改して注文に加ふ。
 
字元化。
諸本、元化を無他に作れり。元を旡に誤り、化を他に誤れる事明らかなれば、意改す。
 
願割2刳五藏1。抄2探百病1。
史記扁鵲傳に、臣聞、上古之時、醫有2兪※[足+付]1、治v病不v以2湯液醴漉※[金+讒の旁]石橋引案枕毒熨1、一撥見2病之應1、因2五藏之輪1、乃割v皮解v肌、訣v脈結v筋、搦2髄脳1※[手偏+緤の旁]v荒、爪v幕※[さんずい+前]2浣腸胃1、漱2滌五藏1、練v精易v形云々。後漢書華佗傳に、若疾發、結2於内1、針藥所v不v能v及者、乃令3先以v酒服2麻沸散1。既酔、無v所v覺。因刳2破腹背1、抽2割積聚1、若在2腸胃1、則斷截※[さんずい+前]洗、除2去疾穢1。既而逢合、傳以2神膏1、四五日創愈、一月之間皆平復云々などもあり。
 
尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1。
これ上に引る左傳の故事によれり。左傳注に、肓※[隔の旁]也。心下爲v膏と見え、説文に、肓心上※[隔の旁]下也とあり。※[こざと+奥]處はかくるゝ所なり。玉篇に※[こざと+奥]蔵也とあり。
 
欲v顯2二竪之逃匿1。
竪は豎の俗なり。唐韻に、豎、童僕之未v冠者とあり。逃匿は、のがれかくるゝなり。これも左傳の故事をいへり。
 
(194)一切含靈。
晋書桓靈寶傳論に、夫帝王者、功高2宇内1、道濟2含靈1云々とあり。一切諸物といはんが如し。
 
生録。
録は、禄の誤りか。また録禄相通はしても用ひたり。左氏□伝に、重耳之及2於難1也、晋人伐2諸蒲城1、蒲城人欲v戰重耳不v可、曰、保2君父之命1、而享2其生禄1。於v是乎得v人有v人而投、罪莫v大v焉。吾其奔也。遂奔v狄云々とありて、壽をいへり。死を不禄といふに封へ見るべし。(頭書、下に出たる志怪記の話を、捜神後記、法苑珠林、太平廣記などに載て、みな生録と書り。)
 
大患。
老子上篇に、吾所d以有2大患1者爲v吾有uv身云々とあり。
 
(志恠記云。廣平前太守北海徐玄方之女。年十八歳而死。其靈謂2馮馬子1曰。案2我生録1。當2壽八十餘歳1。今爲3〓鬼所2枉殺1。已經2四年1。此過2馮馬子1。乃得2更活1是也。内教云。瞻浮洲人壽百二十歳。謹案2此數1。非2必不1v得v過v此。故壽延經云。有2比丘1名曰2難達1。臨2命終時1。詣v佛請v壽。則延2十八年1。但善爲者。天地相畢。其壽夭者。業報所v招。(195)隨2其脩短1。而爲v半也。未v盈2斯※[竹/卞]1。而|※[しんにょう+端の旁]死去。故曰v未v半也。任徴君曰。病從v口入。故君子節2其飲食1。由v斯言v之。人遇2疾病1。不2必妖鬼1。夫醫方諸家之廣説。飲食禁忌之厚訓。知易行難之鈍情。三者盈v目滿v耳。由來久矣。抱朴子曰。人但不v知2其當v死之日1。故不v憂耳。若誠知d羽※[隔の旁+羽]可uv得2延期1者。必將v爲v之。以v此而觀。乃知我病蓋斯飲食所v招。而不v能2自治1者乎。帛公畧説曰。伏思自※[蠣の旁]。以2斯長生1。生可v貪也。死可v畏也。天地之大徳曰v生。故死人不v及2生鼠1。雖v爲2王侯1。一日絶v氣。積v金如v山。誰爲v富哉。威勢如v海。誰爲v貴哉。遊仙窟曰。九泉下人。一錢不v直。孔子曰。受2之於天1。不v可2變易1者形也。受2之(196)於命1。不v可2請益1者壽也。【見2鬼谷先生相人書1。】故知2生之極貴。命之至貴1。欲v言言窮。何以言v之。欲v慮々絶。何由慮v之。惟以人無2賢愚1。世無2古今1。咸悉嗟歎。歳月競流。書夜不1v息。【曾子曰。往而不v反者年也。宣尼臨v川之嘆亦是矣也。】老疾相催。朝夕侵動。一代歡樂。未v盡2席前1。【魏文惜2時賢1詩曰。未v盡西花夜。劇作2北望塵1也。】千年愁苦。更繼2座後1。【古詩云。人生不v滿v百。何懷2千年憂1矣。】若夫群生品類。莫v不d皆以2有v盡之身1。並求c無v窮之命u。所以道人方士。自負2丹經1。入2於名山1。而合v藥之者。養性怡v神。以求2長生1。抱朴子曰。神農云。百病不v愈。安得2長生1。帛出又曰。生好物也。死惡物也。若不幸而不v得2長生1者。猶以d生涯無2病患1者u。爲2福大1哉。今吾爲v病見v悩。不v得2臥坐1。向v東向v西。莫v知v所v爲。(197)無v福至甚。※[手偏+總の旁]集2于我1。人願天從。如有v實者。仰顧頓除2此病1。頼得2如平1。以v鼠爲v喩。豈不v愧乎。)
 
志恠記。
この書、今傳はらず。隋書經籍志に、志怪二卷祖台之撰、志怪四卷孔氏撰、志怪記三卷殖氏撰とあり。いづれならん。舊唐書經籍志には、志怪四卷祖台之撰と見え、唐書藝文志には、祖台之志怪四卷、孔氏志怪四卷とあり。この書、宋の代までは傳はれりと見えて、太平廣記には多く引たり。いま説郛百十七卷に、祖台之志怪録、唐陸勲志怪録の二種を載たれど、いづれも抄本なれば、取がたし。さてこゝより下、不能自治者乎といふ文までを、印本、一字下書たれど、そは誤りにて、本文なる事明らかなれば、今改書す。略解に、これを注文として、二行に細書したるは、ます/\誤れり。(頭書、これより下を、宣長は後人のしわざ也といへり。傳三十七ノ二十八ウ。)
 
徐玄方之女。
この話は、捜神後記卷四、法苑珠林卷九十二、太平廣記卷三百七十五に載たり。
 
遇2馮馬子1。
遇、印本、過に誤れり。今、代匠記に引る官本に依て改む。
 
〓鬼。
〓は妖の誤りか。この話を載たる諸書、皆、〓の字なし。
 
(198)内教云。
これ何經をいへるにか、考へがたし。
 
瞻浮洲。
義楚六帖に、南瞻部州、或云2閻浮提1。輕重不v同、從v樹立v名。此云2上勝1。在2須彌南天※[酉+咸]海中1。北廣南狹、形如2西方車相1云々とあり。
 
人壽百二十歳。
法苑珠林卷四に、閻浮提人、壽命不v定。有2其三品1、上壽一百二十五歳、中壽一百歳、下壽六十歳。其間中、夭者不v可2勝數1。且依2劫減1時説有2此三品1。若據2劫初1壽命無量、或至2八萬四千1。依2長阿含經1、閻浮提人、人壽百二十歳、中夭者多云々とあり。
 
壽延經云。
この經、大藏中になし。可v考。
 
善爲者。
代匠記、略解など、爲善の誤なるべしといへり。これもさる事ながら、善は治也といふ義もあれば、善爲にても聞えたり。
 
夭者。
印本、夭を〓に作る。誤りなる事明らかなれば、意改す。
 
修短。
文選洛神賦に、※[禾+農]※[糸+〓]得v中、修短合v度云々とあり。長短といはんが如し。(頭書、抱朴子對俗篇に、生死有v命、修短素定云々。)
 
未v盈2斯※[竹/卞]1。
諸本、※[竹/卞]を竿に作る。誤りなる事明らかなれば、意改す。
 
(199)任徴君。
後漢書黄憲傳に、黄憲を稱して徴君といひし事あり。文選江淹雜體詩に、許詢を許徴君といひ、陶潜を陶徴君といひ、王微を王徴君といへり。されば思ふに、徴君は稱る詞にて、任氏の人なるべし。略解には任※[日+方]字元昇が事とせり。さもあるべし。任※[日+方]が傳は、梁書、南史等の列傳に出たり。さて印本、徴を微に誤れり。今、活字本に依て改む。
 
病從v口入。
諸本、從を徒に作れり。意改す。
 
三者盈v目滿v耳。
三者は飲食聲色をいふなるべし。※[禾+(尤/山)]康養生論に、而世人不v察、惟五穀是見、聲色是耽、目惑2玄黄1、耳務2淫哇1、滋味煎2其府藏1、醴醪鬻2其腸胃1香芳腐2其骨髄1云々とあり。
 
抱朴子曰。
抱朴子は、晋の葛稚川の撰なり。こゝに引るは、内篇勤求篇の文なれど、今傳はる所の抱朴子とは、大同小異あり。其文には、人但莫v知2當v死之日1。故不2暫憂1耳。若誠知v之、而別※[鼻+立刀]之事、可v得2延期1者、必將v爲v之云々とあり。
 
羽※[隔の旁+羽]。
抱朴子極言篇に、導引改v朔、則羽※[隔の旁+羽]、參差則世間無2不v信v道之民1也云々。王褒贈2周處士1詩に、思v君化2羽※[隔の旁+羽]1、要v我鑄2金丹1云々などありて、道を得て飛行する事をいひて、こゝには仙を得し人をいへり。
 
(200) 帛公畧説。
この書、何人の撰にか。藝文志の類にも、目録の書の類にも見えず。可v考。
 
遊仙窟。
見在書目録に、遊仙窟一卷と載たり。張文成作とあり。文成は張〓が字なり。こゝに引る文、本書には、少府謂言、兒是九泉下人、明日在2外處1談道、兒一餞不v直云々とあり。
 
鬼谷先生相人書1。
この書、ものに見えず。見在書目録に、新撰相人經一卷と載す。もしこれにはあらざるか。鬼谷先生は蘇秦をいへり。舊唐書經籍志に、鬼谷子二卷蘇秦撰とあり。印本、谷を各に誤れり。今意改す。
 
魏文。
魏文帝か。西花夜、代匠記に引る官本、花を苑に作り、望を※[亡+おおざと]に作れり。
 
古詩云。
文選の古詩也。文選、人生を生年に作り、何を常に作り、年を歳に作れり。
 
抱朴子曰。
こゝに引るは、極言篇の文なり。
 
帛公又曰。
印本、公を出に作る。代匠記に引る官本に依て改む。
 
(201)生好物也。死惡物也。
左氏昭二十五年傳に、生好物也、死惡物也。好物樂也、惡物哀也云々。
 
人願天從。
尚書周書泰誓に、民之所v欲、天必從v之云々。
 
以v鼠爲v喩。
毛詩□に、相鼠有v度、人而無v儀、不v死何爲云々とあり。印本、已見上也の四字の小注あれど、こは後人の加へしにて、誤りなる事明らかなれば、活字本に依て略けり。
 
悲2歎俗道假含即離易v去難1v留詩一首。并序。
 
俗の道は、假に合ば、即ち離れなどして、たゞ易v去難v留を悲歎する意をいへり。
 
竊以。釋慈之示v教。(【謂釋氏慈氏。】先開2三歸【謂歸2依佛法僧1。】五戒1。而化2法界1。【謂一不※[殺の異体字]生。二不偸盗。三不邪淫。四不妄語。五不飲酒也。】周孔之垂訓。前張2三綱【謂君臣父子夫婦。】五教1。以齊2濟郡國1。【謂父義母慈兄友弟順子孝。】故知引導雖v二。得v悟惟一也。但以世旡2恒質1。所以陵(202)谷更變。人旡2定期1。所以壽夭不v同。撃目之間。百齡已盡。申臂之頃。千代亦空。且作2席上之主1。夕爲2泉下之客1。白馬走來。黄泉何及。隴上青松。空懸2信釼1。野中白楊。但吹2悲風1。是知世俗本無2隱遁之室1。原野唯有2長夜之臺1。先聖已去。後賢不v留。如有2贖而可1v兎者。古人誰無2價金1乎。未v聞d獨存。遂見2世終1者。所以維摩大士。疾2玉體于方丈1。釋迦能仁。掩2金容乎雙樹1。内教曰。不v欲2黒闇之後來1。莫v入2徳天之先至1。【徳天者生也。黒闇者死也。】故知生必有v死。死若不v欲。不v如v不v生。况乎縱覺2始終之恒數1。何慮2存亡之大期1者也。)
 
釋慈之示教。
釋は釋氏にて、釋伽をいひ、慈は慈氏にて、彌勒をいふ。翻釋名義集に、彌勒此翻2慈氏1とあり。
 
(203)三歸。
大寶積經郁伽長者會に、佛言、長者在v家、菩薩應2歸依佛、歸依法、歸衣僧1。以2此三寶功徳1、廻2向無上正眞之道1云々。
 
五戒。
増壹阿含經聲聞品に、世尊告2諸比丘1、自今已後、聽v授2優姿|寒《(マヽ)》五戒及三自歸1。若比丘、欲v授2清信士女戎1時、教便3露脚叉手合掌、教稱2姓名1。歸佛法衆、再三教v稱2姓名1。佛歸法衆、復更自稱、我今已歸v佛歸v法歸2比丘僧1、如2釋迦文佛1、最初五百賈客、受2三自歸1、盡形壽不v殺v不v盗不v婬不v欺不2飲酒1、若持2一戒1餘封2四戒1、若受2二戒1餘封2三戒1、若受2三戒1餘封2二戒1、若受2四戒1餘封2一戒1、若受2五戒1當2具足持1v之云々。
 
周孔之垂訓。
周公、孔子のをしへをいふ。
 
三綱五教。
上【攷證五上十四丁】に出たり。
 
以齊2濟郡國1。
代匠記に、官本、滅v齊。若依2此本1。化法界之上、當v有2脱等字1。郡、別本作v邦云々。
 
世旡2恒質1。
諸本、旡を元に誤れり。今、意改す。
 
陵谷更變。
毛詩十月之交に、高岸爲v谷、深谷爲v陵云々とあり。印本、谷を各に誤る。活字本に依て改む。
 
(204)人旡2定期1。
諸本、旡を元に誤れり。今、意改す。
 
撃目之間。
莊于田子方篇に、目撃而道存矣云々。
 
申臂之頃。
陸〓思田賦に、歴2四時于遊水1、馳2三稔于伸臂1云々とありて、少しの間を伸v臂の間にたとへたり。申伸同字也。印本、頃を項に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改す。
 
白馬走來。
白駒過v隙の喩也。上【攷證五上五丁】に出たり。
 
隴上青松。空懸2信劔1。
史記呉太伯世家に、季札之初使v北過2徐君1。徐君好2季札劔1。口弗2敢言1。季札心知v之。爲v使2上國1、未v献。還至v徐、徐君已死。於v是乃解2其寶劔1、繋2之徐君冢樹1而去。從者曰、徐君已死、尚誰予乎。季子曰、不v然、始吾心已許v之、豈以v死倍2吾心1哉云々とあり、この故事なり。
 
野中白楊。但吹2悲風1。
文選古詩に、古墓犂爲v田、松柏摧爲v薪、白楊多2悲風1、蕭々愁2殺人1云々をとれり。
 
長夜之臺。
心地觀經※[厭のがんだれなし]捨品に、方知夢想本非v眞、無明闇障如2長夜1云々とありて、墓所をいへり。
 
(205)可v免者。
印本、免を兎に作れり。今、活字本に依て改む。
 
内教曰。
これ、上【攷證五上四丁】に引たる涅槃經聖行品也。意を取て文は別なり。
 
不v如v不v生。
諸本、如を知に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
俗道變化猶2撃目1。(人事經紀如2申臂1。空與2浮雲1行2大虚1。心力共盡無v所v寄。)
 
文選曹植七啓に、耗2精神乎虚廓1、廢2人事之紀經1云々。良注に、紀經常理也云々。善注に、史記太史公曰、春秋上明2三王之道1、下辯2人事之經紀1云々とあり。
 
老身重病。經v年辛苦。及思2兒等1歌七首。【長一首。短六首。】
 
本集、外の例もていはゞ、歌并短歌とのみあるべきを、この次の戀2勇子名古日1歌にも如此書り。
 
897 靈剋《タマキハル》。(内限者《ウチノカギリハ》。【謂瞻浮州人壽一百二十年也。】。平氣久《タヒラケク》。安久母阿良牟遠《ヤスクモアラムヲ》。事母無《コトモナク》。裳無母(206)阿良牟遠《モナクモアラムヲ》。世間能《ヨノナカノ》。宇計久都良計久《ウケクツラケク》。伊等能伎提《イトノキテ》。痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》。鹹塩遠《カラシホヲ》。灌知布何其等久《ソヽグチフガゴトク》。益益母《マス/\モ》。重馬荷爾《オモキウマニニ》。表荷打等《ウハニウツト》。伊布許等能其等《イフコトノゴト》。老爾弖阿留《オイニテアル》。我身上爾《ワガミノウヘニ》。病遠等《ヤマヒヲラ》。加弖阿禮婆《クハヘテアレバ》。晝波母《ヒルハモ》。歎加比久良思《ナゲカヒクラシ》。夜波母《ヨルハモ》。息豆伎阿可志《イキヅキアカシ》。年長久《トシナガク》。夜美志渡禮婆《ヤミシワタレバ》。月累《ツキカサネ》。憂吟比《ウレヘサマヨヒ》。許等許等波《コトゴトハ》。斯奈奈等思騰《シナナトオモヘド》。五月蠅奈周《サバヘナス》。佐和久兒等遠《サワグコドモヲ》。宇都弖弖波《ウツテテハ》。死波不知《シナムハシラズ》。見乍阿禮婆《ミツヽアレバ》。心波母延農《コヽロハモエヌ》。可爾可久爾《カニカクニ》。思和豆良比《オモヒワヅラヒ》。禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》。)
 
靈剋《タマキハル》。
枕詞にて、冠辭考にも、古事記傳卷三十七にも出たり。こゝの如く、内とつゞけたるは、上【攷證一上八丁】に出たり。
 
内限者《ウチノカギリハ》。
うちは、うつしの約りにて、現《ウツ》し世の限りはの意也。内と書るは借字也。この事も、古事記傳卷三十七にくはし。
 
(207)裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》。
十五【廿五丁】に、和多都美能可之故伎美知乎《ワタツミノカシコキミチヲ》、也須家口母《ヤスケクモ》、奈久奈夜美伎弖《ナクナヤミキテ》、伊麻太爾母《イマダニモ》、毛奈久由可牟登《モナクユカムト》云々。また【廿九丁】多婢爾弖毛母奈久波也許登《タビニテモモナクハヤコト》云々などありて、災ひなきをいへり。伊勢物語に、女のさうぞくかづけんとす。あるじの男、歌よみて、裳のこしにゆひつけさす。出てゆく者がためにとぬぎつれば、われさへもなくなりぬべきかなとあるもおなじ。
 
宇計久都良計久《ウケクツラケク》。
十九【廿八丁】に、世間之厭家口都良家苦《ヨノナカノウケクツラケク》云云ともありて、けくは、くを延たる也。
 
伊伊等能伎提《イトノキテ》。
いとゞの意也。上に出たり。
 
痛伎瘡爾波《イタキキズニハ》。
このころの諺なるべし。上に諺曰痛瘡灌v鹽云々ともあり。
 
鹹塩遠《カラシホヲ》。
十六【廿九丁】に、小螺乎伊拾持來而《シタヽミヲイヒロヒモチキテ》、石以都追伎破夫利《イシモテツヽキヤブリ》、早川爾洗濯《ハヤカハニアラヒスヽキ》、辛鹽爾古胡登毛美《カラシホニコヽトモミ》云々.ともあり。鹹鹽とて別に一種の鹽あるにはあらず。たゞ辛き鹽をいふなるべし。
 
灌知布何其等久《ソヽグチフガゴトク》。
集中、激灑などをも、そゝぐと訓り。新撰字鏡に、淋灑以v水附2於物1之貌、散也、曾々久とあり。如布は、といふの約りなり。上【攷證五上十六丁】にいへり。
 
重馬荷爾《オモキウマニニ》。表荷打等《ウハニウツト》。
これも古への諺なるべし。後撰集賀歌に、【御製】年の數つまんとすなる重荷には、いとゞこづけをこりもそへなんとあるも同じ意也。(208)さて荷を打とは、釘を打、梁を打、墨を打などの打と同じく、皆かれにこれを付る事なり。
 
老爾弖阿留《オイニテアル》。
爾は助辭の如くにて、意なし。そは八【十六丁】に、去年之春相有之君爾戀爾手師櫻花者迎來良之母《コゾノハルアヒニシキミニコヒニテシサクラノハナハムカヘケラシモ》。十五【廿四丁】に、奈美能宇倍由奈豆佐比伎爾弖《ナミノウヘユナヅサヒキニテ》、安良多麻能月日毛伎倍奴《アラタマノツキヒモキヘヌ》云云などある類也。
 
病遠等《ヤマヒヲラ》。
等《ラ》は助辭なり。この事上【攷證四上四十七丁】にいへり。
 
歎加比久良思《ナゲカヒクラシ》。
加比《カヒ》は、きを延たる言なり。
 
憂吟比《ウレヘサマヨヒ》。
印本、吟を今に誤れり。今、活字本、拾穗本などに依て改む。さて、吟比《サマヨヒ》といふ言は、迷ひ歎く意也。上【攷證二下卅丁】に出たり。
 
許等許等波《コトコトハ》。
異事はの意也。代匠記に、異事ハ死ナムト思ヘドモナリ。異事トハ、子等ヲ思フ外ノ事也といはれつるが如し。
 
斯奈奈等思騰《シナナトオモヘド》。
奈は、んの意にて、死んと思へど也。んの意の奈もじは、上【攷證一上十七丁】に出たり。
 
五月蠅成《サバヘナス》。
枕詞也。上【攷證三下六十三丁】に由たり。
 
(209)宇都弖弖波《ウツテヽハ》。
ちすの反、つなれば、打棄《ウチステ》てはの意也。十一【廿五丁】に、古衣打棄人者《フルコロモウツテシヒトハ》云々。また【廿八丁】神毛吾者打棄乞《カミヲモワレハウツテコソ》云々などあり。
 
心波母延農《コヽロハモエヌ》。
心も燃《モユ》るばかりに思ふ也。四【四十八丁】に、心中二煙管曾呼留《コヽロノウチニモエツヽゾヲル》。十七【廿三丁】に、孤布流爾思情波母要奴《コフルニシコヽロハモエヌ》云々などあり。
 
思和豆良比《オモヒワヅラヒ》。
おもひなやむをいへり。拾遺集雜春に、【元輔】春はをし、ほととぎすはたきかまほし、おもひわづらふしづごゝろかな。
 
禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》。
由は、るの意にて、集中いと多し。一首の意、明らけし。歐陽建臨終詩に、上負2慈母恩1、痛酷摧2心肝1、下顧2所v燐女1、惻々心中酸、二子棄若v遺、念皆遘2凶殘1、不v惜2一身死1、惟v此如2循環1、執v紙五情塞、揮v筆涕※[さんずい+九]瀾とあるに似たり。
 
反歌。
 
898 奈具佐牟留《ナグサムル》。(心波奈之爾《コヽロハナシニ》。雲隱《クモガクリ》。鳴往鳥乃《ナキユクトリノ》。禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》。)
 
雲《クモ》隱《ガクリ・ガクレ》。
十七【四十五丁】に、久母我久理可氣理伊爾伎等《クモガクリカケリイニキト》云々ともあれば、くもがくりと訓べし。
 
鳴往鳥乃《ナキユクトリノ》。
乃《ノ》は、の如くの意なり。一首の意は明らけし。
 
(210)899 周弊母奈久《スベモナク》。(苦思久阿禮婆《クルシクアレバ》。出《イデ・イデヽ》波之利《ハシリ》。伊奈奈等思騰《イナヽトオモヘド》。許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》。)
 
出《イデ・イデヽ》波之利《ハシリ》。
いではしりと訓べし。印本の如く、いでゝはしりと訓るは、いふまでもなき誤り也。
 
伊奈奈等思騰《イナヽトオモヘド》。
これも奈は、んの意にて、いなんとおもへどなり。
 
許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》。
佐夜利《サヤリ》は、障る意なり。この事、上【攷證此卷十5丁】にいへり。一首の意は、病のうへに、子どもの事さへ思ひくはゝれば、せん方もなくくるしきに依て、出はしりて、いづこへも行かくれなんとさへ思へども、それさへも、子等を思ふ事のさはりとなりて、なしがたしと也。
 
900 富人能《トミビトノ》。(家能子等能《イヘノコドモノ》。伎留身奈美《キルミナミ》。久多志須都良牟《クタシスツラム》。※[糸+包]綿良婆母《キヌワタラハモ》。)
 
富人能《トミビトノ》。
この句、とむ人のとよまんかともおもへど、猶、舊訓のまゝにてあるべし。
 
伎留身奈美《キルミナミ》。
著身無《キルミナミ》にて、みはさにの意なり。この事、上【攷證一上十丁】にいへり。
 
(211)久多志須都良牟《クタシスツラム》。
令腐將捨《クタシスツラム》也。十九【廿九丁】に、宇能花乎令腐霖雨之《ウノハナヲクタスナガメノ》云々などあり。
 
※[糸+包]綿良婆母《キヌワタラハモ》。
※[糸+包]は袍の字なるべし。二字連續する時は、上下の扁旁によりて、扁旁を加へもし、改めもする事、上【攷證三下二丁】※[立心偏+可]怜の所にいへるがごとし。袍はうへの衣なれば、義を似てきぬと訓ん事、論なし。良《ラ》は、子等《コラ》、妻等《ツマラ》などの等《ラ》と同じく、などの意也。波母《ハモ》は、歎息の詞也。一首の意は、富る人は、絹綿なども、いと多からんを、その家の子等とても、體かぎりありて、皆ながら著るべき身の無さに、積おきて、いたづらに令腐《クタシ》捨らん。その絹や綿などはも、いかならん。吾が如く貧しく、布衣をだに著せかぬるものだにあるをといへる也。さてこの歌も、次の麁妙能《アラタヘノ》云々の歌、も、貧窮問答の反歌なりしが、こゝにまぎれ入たるなるべし。活字本、※[糸+包]を※[糸+施の旁]に作り、拾穗本、代匠記に引る官本など、※[糸+包]を絹に作るもあしからず。
 
901 麁妙能《アラタヘノ》。(布衣遠※[こざと+施の旁]爾《ヌノキヌヲダニ》。伎世難爾《キセガテニ》。可久夜歎敢《カクヤナゲカム》。世牟周弊遠奈美《セムスベヲナミ》。)
 
右の歌と、二首を合せて意を述たり。一首の意は明らけし。
 
902 水沫奈須《ミナワナス》。(微命母《モロキイノチモ》。栲繩能《タクナハノ》。千尋爾母何等《チヒロニモガト》。慕久良志都《シタヒクラシツ》。)
 
水沫奈須《ミナワナス》。
七【廿五丁】に、往水之三名沫如世人吾等者《ユクミヅノミナワノゴトシヨノヒトワレハ》。十一【八丁】に、是川水阿和逆纏《コノカハノミナアハサカマキ》云々などあり。奈須は、如くの意也。維摩詰所説經方便品に、是身如2聚沫1、不v可2撮摩1。是(212)身如v泡、不v得2久立1云々。
 
微命母《モロキイノチモ》。
微をもろきと訓るは、義訓也。書紀推古紀に危、平他字類抄、伊呂波字類抄などに脆を、もろしと訓り。さてこの句を、宣長は、あまきいのちもとも訓べしといはれたり。これもあしからず。あましといふ言は、脆くはかなき意の古言なる事、古事記傳卷十六に解れたるを見てしるべし。
 
栲繩能《タクナハノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下五十八丁】にも出たり。
 
千尋爾母何等《チヒロニモガト》。
千尋は、たゞ長き凡をいへり。八尋殿、八尋屋、八尋矛などもいへり。尋《ヒロ》とは、今もしかする如く、古しへより、兩の手を廣げ量りて、何尋と定るよりいへる事なり。漢土にては、小爾雅に、四尺謂2之仞1、倍v仞謂2之尋1、尋舒2兩肱1也云々。毛詩悶宮傳に、八尺曰v尋云々。史記張儀傳索隱に、七尺曰v尋云々といへり。何は願ふ意なり。一首の意明らけし。
 
903 倭文手纒《シヅタマキ》。(數母不在《カズニモアラナウ》。身爾波在等《ミニハアレド》、千年爾母何等《チトセニモガト》。意母保由留加母《オモホユルカモ》。【去神龜二年作v之。但以v類故更載2於茲1。】)
 
(213)倭文手纒《シヅタマキ》。
枕詞にて、上【攷證四中五十三丁】に出たり。文の字を、集中、皆、父に誤れり。改るよしもその所にいへり。
 
去神龜二年作v之。但以v類故更載2於茲1。
この注文は、右の倭文手纒のうた一首の注にて、この歌は、去神龜二年の作にて、はるかに先の事なれど、類なる故にこゝに載たりとなり。
 
天平五年六月丙申朔三日戊戌作。
 
こは、沈痾自哀文より右の長歌反歌まで、おしからめての年月なるべし。
 
戀2男子名古日1歌三首。【長一首。短一首。】
 
904 世人之《ヨノヒトノ》。貴慕《タフトミネガフ》。(七種之《ナヽクサノ》。寶毛我波《タカラモワレハ》。何爲《ナニセムニ》。和我中能《ワガナカノ》。産禮出有《ウマレイデタル》。白玉之《シラタマノ》。吾子古日者《ワガコフルヒハ》。明星之《アカホシノ》。開朝者《アクルアシタハ》。敷多倍乃《シキタヘノ》。登許能邊佐良受《トコノヘサラズ》。立禮杼毛《タテレドモ》。居禮杼毛《ヲレドモ》。登母爾戯禮《トモニタハブレ》。夕星乃《ユフツヽノ》。由布弊爾奈禮婆《ユフベニナレバ》。伊射禰余登《イザネヨト》。手乎(214)多豆佐波里《テヲタヅサハリ》。父母毛《チヽハヽモ》。表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》。三枝之《サキグサノ》。中爾乎禰牟登《ナカニヲネムト》。愛久《ウツクシク》。志我可多良倍婆《シガカタラヘバ》。何時可毛《イツシカモ》。比等等奈理伊弖天《ヒトトナリイデテ》。安志家口毛《アシケクモ》。與家久母見武登《ヨケクモミムト》。大船乃《オホブネノ》。於毛比多能無爾《オモヒタノムニ》。於毛波奴爾《オモハヌニ》。横風乃《・ヨコカゼノ》。爾母布敷可爾《・ニモシクシクカニ》。布敷可爾《・フクカニ》。覆來禮婆《オホヒキタレバ》。世武須便乃《セムスベノ》。多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》。志路多倍乃《シロタヘノ》。多須吉乎可氣《タスキヲカケ》。麻蘇鏡《マソカヾミ》。弖爾登利毛知弖《テニトリモチテ》。天神《アマツカミ》。阿布藝許比乃美《アフギコヒノミ》。地祇《クニツカミ》。布之弖額拜《フシテヌカヅキ》。可加良受毛《カヽラズモ》。可賀利毛神乃《カヽリモカミノ》。末爾麻仁等《マニマニト》。立阿射里《タチアザリ》。我例乞能米登《ワレコヒノメド》。須臾毛《シマシクモ》。余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》。漸々《ヤヽ/\ニ》。可多知都久保里《カタチツクホリ》。朝朝《アサナアサナ》。伊布許等夜美《イフコトヤミ》。霊剋《タマキハル》。伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》。立乎杼利《タチヲドリ》。足須里佐家婢《アシズリサケビ》。伏仰《フシアフギ》。武禰宇知奈氣吉《ムネウチナゲキ》。手爾持流《テニモテル》。安我古登婆之都《アガコトバシツ》。世間之道《ヨノナカノミチ》。)
 
(215)七種之寶《ナヽクサノタカラ》。
翻譯名義集七寶篇に、七種珍寶略引2四文1。佛地論云。一金、二銀、三吠琉璃、四頗※[月+※[氏/一]]迦、五牟呼婆羯洛婆、當※[石+車]※[石+渠]也。六遏濕摩掲婆、當瑪瑙、七赤眞珠。無量壽經云、金、銀、琉璃、頗梨、珊瑚、瑪瑙、※[石+車]※[石+渠]。恒水經云、金、銀、珊瑚、眞珠、※[石+車]※[石+渠]、明月珠、摩尼珠。大論云、有2七種寶1、金、銀、※[田+比]瑠、頗梨、※[石+車]※[石+渠]、瑪瑙、赤眞珠云々とあり。
 
和我中能《ワガナカノ》。
能《ノ》もじは、にの意なり。この事、上【攷證三中卅七丁】にいへり。
 
白玉之《シラタマノ》。
子を愛するあまり、玉に比していへり。土佐日記に、わすれ貝ひろひしもせじ、しら玉を戀るをだにもかたみと思はんとなんいへる、女兒のためには、親をさなくなりぬべし。玉ならずもありけんをと、人いはんや云々。述異記卷上に、越俗以v珠爲2上寶1、生v女謂2之珠娘1、生v男謂2之珠兒1云々とあり。
 
明星之《アカホシノ》。
枕詞なり。冠辭考にはもらされたり。詞を重ねていひかけたるのみ。和名抄景宿類に、明星此間云2阿加保之1とあり。
 
開朝者《アクルアシタハ》。
十五【卅六丁】に、安久流安之多《アクルアシタ》、安波受麻爾之弖《アハズマニシテ》云々とあり。
 
登許能邊佐良受《トコノヘサラズ》。
床の方、不離なり。十一【十三丁】に、床重不去夢所見與《トコノヘサラズイメニミエコソ》云々。
 
戯禮《タハブレ》。
新撰字鏡に、謔、戯也、亦喜樂也。太波夫留。古今集誹諧に、【よみ人しらず】あかぬやとこゝろみがてらあひみねば、たはぶれにくきまでぞ戀しきなどあり。さてこの戯禮《タハフレ》の上か下か(216)に、脱字ありとおぼし。
 
夕《ユフ》星《ツヽ・ホシ》乃《ノ》。
枕詞なり。冠辭考にはもらされたり。詞を重ねてつゞけたるのみ。上【攷證二下十一丁】に出たり。
 
表者奈佐我利《ウヘハナサカリ》。
表《ウヘ》は、宣長の説に、そのほとりをいふ也といはれつるがごとし。うへといふは、ほとりの意なる事、上【攷證一下廿六丁】藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》とある所にいへり。奈佐我利《ナサカリ》は、勿離《ナサカリ》にて、三【十九丁】に、奧部莫避《オキベナサカリ》云々とあり。こゝは古日がいへるには、父母もこのほとりをはなるゝ事なかれといふ意也。略解に、表者は、遠者の誤ならんか。とほくはなさかりと訓べしといへるは、非なり。我《ガ》の字濁音なれば、柯の字などの誤れるならんと、略解にいへれど、集中、清濁たしかならざる事多かり。
 
三枝之《サキクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは三つ枝あるものなれば、その如く、左右に父母を寢さして、中にねんとなり。さてこのさきくさは、古事記傳卷二十卷四十三などに解れたるが如く、百合をいへるなるべし。本草啓蒙に、蒼朮を當たるは非なり。
 
中爾乎禰牟登《ナカニヲネムト》。
乎は助辭なり。上【攷證三中卅二丁】に出たり。
 
愛久《ウツクシク・オモハシク》。
愛らしくといはんが如し。集中いと多し。
 
(217)志我可多良倍婆《シガカタラヘバ》。
志我《シガ》は、其之《シガ》也。すべて志我《シガ》といふは、上にいへる物をさして、其之《ソレガ》といふなり。そは書紀應神紀【天皇】御歌に、※[言+可]邏怒烏《カラヌヲ》、之褒珥榔枳《シホニヤキ》、之餓阿摩離《シガアマリ》、虚等珥兎句離《コトニツクリ》云々。雄略紀歌に、婀※[木+施の旁]羅斯枳《アタラシキ》、偉儺謎能陀倶彌《ヰナメノタクミ》、柯該志須彌灘※[白+番]《カケシスミナハ》、旨我那稽摩《シガナケバ》、※[木+施の旁]例柯柯該武豫《タレカカケムヨ》云々。古事記下卷【仁徳大后】御歌に、佐斯夫能紀《サシフノキ》、斯賀斯多邇《シガシタニ》、淤斐陀弖流《オヒタテル》、波毘呂由都麻都婆岐《ハヒロユツマツハキ》、斯賀波那能《シガハナノ》、弖理伊麻斯《テリイマシ》、芝賀波能《シガハノ》、比呂理伊麻須波《ヒロリイマスハ》云々。本集十八【廿一丁】に、老人毛女童兒毛《オイヒトモオヲミナワラハモ》、之我願心太良比爾《シガネガフコヽロタラヒニ》云々。十九【廿一丁】に、※[盧+鳥]河立取左牟安由能《ウガハタテトラサムアユノ》、之我婆多婆《シガハタハ》、吾等爾可伎無氣《ワレニカキムケ》云々。また【廿七丁】伊也遠爾思努比爾勢餘等《イヤトホニシヌビニセヨト》、黄楊小櫛之賀左志家良之《ツゲノヲグシシガサシケラシ》云々。また【卅九丁】秋花之我色々爾見賜《アキノハナシガイロ/\ミシタマヒニ》云々などあるにてしるべし。さるを代匠記に、シガハサガ也。集中兩樣ニイヘリ。之ト左ト五音通ズル故ナリ。己ノ字ヲサト訓タレバ、シガト云モ、オノガトイフ意アリ云云。この説誤れり。本集九【十九丁廿二丁】十三【六丁十四丁】十六【十二丁】などに、己之とあるを、舊訓さがと訓たれど、こは證もなく、いふまでもなき誤りにて、己之をしがと一つ言とするも又誤れり。己之とあるは、皆わがと訓べきにて、之我《シガ》とは別なり。
 
比等等奈理伊弖天《ヒトトナリイデヽ》。
人等《ヒトヽ》の等《ト》もじは、にの意なり。上【攷證三中廿九丁】に出たり。奈埋伊弖天《バリイデヽ》は、成出にて、成長しての意なり。
 
安志家口毛《アシケクモ》。
二つの家口《ケク》は、くを延たるにて、惡《アシ》くも善《ヨ》くも也。
 
於毛波奴爾《オモハヌニ》。
おもひもよらずの意なり。上【攷證三下卅四丁】に出たり。
 
(218)横風乃《・ヨコカゼノ》。爾母布敷可爾《・ニモシクシクカニ》。布敷可爾《・フクカニ》。
 
この十三字讀がたし。誤字衍文あるべし。拾穗本、布敷可爾の四字なし。代匠記に、横風乃、コノ下十一字句逗成ラズ。定テ有餘不足アルベシ。官本ニ、古本ニ後ノ四字ナシト注アルニ依ルニ、誠ニ衍文ナルベシ。依テ上ヲ試ニ讀ツヾクルニ、マヅ横風乃ヲヨコシマカゼノト讀ベシ。下ノ六字ヲ、可爾母布敷爾ト、地ヲ替テ、可ノ上ニ爾波ノ二字落タラムカ。然ラバヨコシマカゼノ、ニハカニモシク/\ニト讀ベシ云々。宣長云、横風乃の下、布敷は爾波の誤にて、爾母は亂て、横風乃の下へ入たり。下の布敷可爾は、一本になければ、衍文にて、横風乃|爾波可爾母《ニハカニモ》、覆來禮婆《オホヒキヌレバ》とありしなるべし云々。これらの説、見ん人心のひかん方に從ふべし。
 
多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》。
杼と都と、音通へば、たづきをしらにといふと同じく、便りを知らざる意也。九【卅一丁】に、思遣田時乎白土《オモヒヤルタドキヲシラニ》云々。十【卅三丁】に、立坐多士伎乎不知《タチテヰテタドキヲシラニ》云々。十二【五丁】に、立而居爲便乃田時毛今者無《タチテヰルスベノタトキモイマハナシ》云々などありて、集中猶いと多し。
 
志路多倍乃《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にも出たり。常に衣とも袖ともつゞく故に、手繦《タスキ》とつゞけしなり。
 
多須吉乎可氣《タスキヲカケ》。
神を祭るに、手繦《タスキ》をかくる事、常の事也。上【攷證三下九丁】に出たり。
 
麻蘇鏡《マソカヾミ》。
まそ鏡の事は、上【攷證三上八丁】にいへり。さて、神事に鏡を用る事は、かの岩屋戸の八咫鏡をはじめにて、常の事にて、祝詞などにも多かり。十一【十三丁】に、眞鏡手取以《マソカヾミテニトリモチテ》云云。(219)十九【廿二丁】に、※[女+感]嬬良我手爾取持有眞鏡《ヲトメラガテニトリモタルカシカヾミ》云々などもあり。
 
阿布藝許比乃美《アフギコヒノミ》。
阿布藝《アフギ》は、天神といふより、高きを仰ぐ意もていへり。上【攷證二中四十五丁】に出たり。許比乃美《コヒノミ》は、神に物を乞《コヒ》祈るにて、三【五十一丁】に、天地乃神祇乞祷《アメツチノカミヲコヒノミ》云々とあり。その所【攷證三下卅二丁】にいへり。
 
布之弖額拜《フシテヌカヅキ》。
布之弖《フシテ》は、地祇《クニツカミ》といふより、地に伏意もていへり。額拜《ヌカヅキ》は、禮拜するをいへり。上【攷證四中十四丁】に出たり。
 
可加良受毛《カヽラズモ》。
加此不有《カクアラズ》とも、如此有《カクアリ》ともいふを、くあの反、かなれば、かゝらずも、かゝりもとはいへるにて、こゝは天神地祇を祈りて、子の病の事を申せども、よしや如何《カク》あらで失るとも、また如此《カク》生てありとも、神のまに/\任せ奉るよしなり。これを神の惠みに、懸りも懸らずもの意とするは、非なり。
 
立阿射里《タチアザリ》。
この上、七言一句脱たりとおぼし。代匠記に、立アサリハ、俗ニアセルト云詞ニヤ。左ト世ト通ゼリ。アセルトハ、心イラレスルヤウノ意也云々といはれたり。予試みにいふ説あり。源氏物語夕顔卷に、思ひよらぬさまに、たゆまずあざれありけば、いかなる事にかとこゝろえがたく云々。紫式部日記に、なにかあざれがましとおもへば云々。枕草子に、かへしはえつかうまつりけがさじ。あざれたり。みすのまへにて人にもかたり侍らんとて、たちにき云々などある、あざれは、戯れ狂ふ意に聞えたれば、ここの立阿射里《タチアザリ》も立くるふ意にはあらざ(220)る歟。りとれとは常にかよふ音なればなり。射は清音の字なれど、集中、清濁たしかならざる事は、所々にいへるが如し。
 
我例乞能米登《ワレコヒノメド》。
略解に、我の下、今本、例の字あり。一本の無によれり云々とて、例もじを略きつるは、非也。いかにも活字本には例の無れど、かの本は脱字いと多かる本なれば、信がたし。我に例もじを添書るは、いとめづらしけれど、五【卅丁】に物能《モノ》、十四【卅一丁】に水都《ミヅ》、十六【十七丁】に來許武《コム》、十八【十七丁】に都夜故《ミヤコ》、二十【卅六丁】に我我《ワガ》など書る類にて、集中、添字の一つの格なれば、例を衍字とはいひがたし。またこの句、わがこひのめどゝいはん方、まされるこゝちすれど、わがといふべき所を、われといへる所、集中いと多し。
 
須臾《シマシク・シバラク》毛《モ》。
須臾は、上【攷證四中四十九丁】にいへりLが如く、しましと訓べし。十五【七丁十四丁卅一丁】十九【四十五丁】などに、しましくもとあり。
 
余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》。
家久《ケク》は、くを延たるにて、好《ヨ》くはなしにの意也。
 
漸々《ヤヽ/\ニ》。
眞淵のやゝやゝにとよまれしに依べし。七【十九丁】に、奧津梶漸々爾水手《オキツカヂヤヽ/\ニコゲ》【印本、爾水手か志夫乎に誤れり。改るよしはその所にいへり。】とありて、續日本紀天平寶字八年十月丁丑詔に、天乃授賜方牟所方《アメノサツケタマハムヒトハ》、漸々現奈武止念天奈毛《ヤヽ/\ニテアラハレナムトオモヒテ》、定不賜《サダメタマハヌ》云々など見えたり。漸々と重ね書るも、やゝ/\と重なる言なれば也。これをやうやくといふも、やうやうといふも、みな音便なり。(頭書、唐太宗詩に、岑雲漸々落、谿陰寸々生云々。)
 
(221)可多知都久保里《カタチツクホリ》。
形のおとろふる事とは聞ゆれど、語意も解しがたく、語例もなし。拾穗本に引る異本には、久都保里《クツホリ》とあり。代匠記に、都久ハ久都ノサカサマニウツサレテ、クヅホリニヤ云々。略解に、かたち久都保里《クヅホリ》、今本、都久とあるは誤り也。くづほる也。崩るといふも同じ言也云々などいはれつれど、くづをるといふ言は、源氏物語末摘花卷に、なごりなくくづをれて、なほ/\しき方に、さだまりなどするもあれば云々。須磨卷に、かくおぼしくづをれぬる御ありさまを、なげきをしみ聞えぬ人なし云々などあるを解し思ふに、朽折《クチヲレ》の意と聞ゆれば、久都保里《クツホリ》にては、假字たがへり。猶考ふべし。
 
朝朝《アサナアサナ》。
朝に朝にの意にて、毎朝といふに同じ。上【攷證三中九十丁】に出たり。十【四十二丁】十一【三丁十三丁】などにも朝々《アサナサナ》とかけり。
 
伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》。
上に、こその語なくして、れとうくるは、集中一つの格なり。この事上【攷證二中十丁】にいへり。
 
立乎杼利《タチヲドリ》。
立踊也。新撰字鏡に、〓、〓、〓跨、〓〓などを、乎止留とよめり。こゝは悲しみのあまりに、立さわぐをいへり。禮記檀弓に、辟踊哀之至也云々。疏に、拊v心爲v辟、跳躍爲v踊云々とあり。
 
足須里佐家婢《アシズリサケビ》。
九【十九丁】に、立走※[口+斗]袖振《タチハシリサケビソデフリ》、反側足受利四管《コイマロビアシヅリシツヽ》云々。また【廿八丁】反側戀香裳將居《コイマロビコヒカモヲラム》、足垂之泣耳八將哭《アシズリシネノミヤナカム》云々。伊勢物語に、やう/\夜もあけゆくに見れば、ゐ(222)てこし女もなし。あしずりをしてなけどもかひなし云々などありて、猶これかれに見えたり。今もいふことなり。佐家婢《サケビ》は、九【卅六丁】に、伊仰天※[口+斗]於良妣《イアフギテサケビオラヒ》、※[足+昆]他牙喫建怒而《アシスリシキカミタケビテ》云々ともありて、靈異記中卷に、※[口+斗]※[口+句]などをサケビとよみ、新撰字鏡に、〓、佐介不、又奈久とあり。
 
伏仰《フシアフギ》。
反歌に、布施於吉弖《フセオキテ》ともある如く、伏たり、仰たりしてなげくよし也。
 
武禰宇知奈氣吉《ムネウチナゲキ》。
まへに引る禮記の疏に、拊v心爲v辟とあるよしなり。心《ムネ》を撃《ウツ》ばかりに歎く也。集中、胸いたしとも、胸を截燒《キリヤク》とも、多くよめり。宇知《ウチ》は詞にあらず。
 
安我古登婆之都《アガコトバシツ》。
吾子飛しつ也。手に持たる鳥など飛したらんやうにおぼゆるなり。
 
世間之道《ヨノナカノミチ》。
愛別離苦の脱れ難き事、これぞ世間の常の道なりと也。
 
反歌。
 
905 和可家禮婆《ワカケレバ》。(道行之良士《ミチユキシラジ》。末比波世武《マヒハセム》。之多敝乃使《シタベノツカヒ》。於比弖登保(223)良世《オヒテトホラセ》。)
 
和可家禮婆《ワカケレバ》。
いわけなきをいへり。十七【廿三丁】に、伊母毛勢母和可伎兒等毛波《イモヽセモワカキコドモハ》云々ともあり。
 
末比波世武《マヒハセム》。
六【廿八丁】に、天爾座月讀壯子《アメニマスツキヨミヲトコ》、幣者將爲《マヒハセム》、今夜乃長者五百夜繼許増《コヨヒノナガサイホヨツギコソ》。九【廿二丁】に、幣者將爲遐莫去《マヒハセムトホクナユキソ》云々。十七【四十四丁】に、多麻保許能美知能可未多知《タマホコノミチノカミタチ》、麻比波勢牟《マヒハセム》、安賀於毛布伎美乎奈都何之美勢余《アガオモフキミヲナツカシミセヨ》。二十【四十五丁】に、和我夜度爾佐家流奈弖之故《ワカヤドニサケルナデシコ》、麻比波勢牟《マヒハセム》、由米波奈知流奈《ユメハナチルナ》、伊也乎知爾左家《イヤヲチニサケ》。古今集旋頭歌に、【よみ人しらず】春さればのべにまづさく見れどあかぬ花、まひなしにたゞ名のるべき花の名なれやなどありて、書紀に、幣、貨賂、賂物などを、まひとも、まひなひともよめるが如く、古しへは、神に奉る物をも、人に贈る物を、《(マヽ》おしなべて、まひとも、まひなひともいひて、後世の如く、正しからぬ贈り物をのみいふ事にあらず。これをまひとも、まひなひともいふは、卜《ウラ》をうらなひ、商《アキ》をあきなひなどといふ類なり。
 
之多敝乃使《シタベノツカヒ》。
下方使《シタベノツカヒ》にて、黄泉の使をいへり。黄泉を、書紀神代紀上に、底根國《ソコツネノクニ》といひ、大祓祝詞に、根之國底之國《ネノクニソコノクニ》云々といへるも、下方《シタベ》にある國なればにて、また鎭火祭祝詞に、吾名※[女+夫]能命波《アカナセノミコトハ》、上津國乎所知食倍志《ウハツクニヲシロシメスベシ》、吾波下津國乎所知牟止申※[氏/一]《アハシタツクニヲシラムトマヲシテ》、石隱給弖與美津枚坂爾至坐※[氏/一]《イハカクリタマヒテヨミツヒラサカニイタリマシテ》云々とあるにても、下方《シラベ》は黄泉なるをしるべし。
 
於比弖登保良世《オヒテトホラセ》。
良世は、れを延たるにて、下知の詞也。一首の意は、失たる吾子の、いまだいわけなければ、道をも知るべからねね、《(マヽ)》贈り物をば奉らんほ(224)どに、黄泉の使よ、負て通りたまへといふ意也。
 
906 布施於吉弖《フシオキテ》。(吾波許比能武《ワレハコヒノム》。阿射無加受《アザムカズ》。多太爾卒去弖《タダニヰユキテ》。阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》。)
 
布施於吉弖《フシオキテ》。
略解に、布施はぬさと訓べし。又たゞちにふせとも訓べき也。こゝに、乞のむといへるは、佛に乞にて、神に祈るとは事異なれば、幣《ヌサ》とはいはで、布施といへる也。施を※[糸+施の旁]の誤として、ふしおきてとよめるは、ひがこと也云々といへるぞ、かへりて誤りなりける。施をしの假字に用ひたるは、集中には例なけれど、書紀雄略紀【天皇】御歌、天智紀童謠などに、正しく、しの假字に用ひ、唐韻に、式支切とありて、しの音なれば、しの假字なる事論なきうへに、長歌に、天神阿布藝許比乃美《アマツカミアフギコヒノミ》、地祇布之弖額拜《クニツカミフシテヌカヅキ》云々とあるをうけていへる所なれば、必らず伏起《フシオキ》てといはでは叶はざる所なるをや。
 
阿射無加受《アザムカズ》。
四【五十七丁】に、練乃村戸二所詐來《ネリノムラトニアザムカエケリ》ともあり。
 
多太爾卒去弖《タヾニヰユキテ》。
直《タヾ》に率行《ヰユキ》て也。直にといふは、外の事をまじへず、たゞ一すぢにといふにて、俗言にいへる直《ヂキ》といふ意也。こゝは、外へ行ことなく、直《ヂキ》に天へ率(225)て行てといふなり。
 
阿麻治思良之米《アマヂシラシメ》。
天路可令知《アマヂシラシメ》にて、死したるもの、天へ行よしは、古しへの一つの傳へなる事、上【攷證二下卅二丁】にいへるが如し。思良之米《シラシメ》の米は、めよの意のよを略けるなり。この事、上【攷證二下十八丁】にいへり。一首の意は、あるは伏、あるは起など|はる《(マヽ)》ばかりさまざまに乞祈るに依て、誓をあやまつ事|を《(マヽ)》なく、すぐに天に率て行たまへ。されどまだいわけ|なれ《(マヽ)》ば、その道をもしるまじければ、天の路をもをしへしらしめたまへといふなり。
 
右一首。作者未v詳。但以3裁v歌之體。似2於山上之操1。載2此次1焉。
 
この左注も、後人のしるしゝ也。裁歌は歌を製る也。韻會に、裁製也とあり。操は、後漢書曹褒傳注に、操猶vレ曲也とあり。
 
(226)この巻のはじめを攷證をはりつる、五月朔日を、きのふといふ日より筆をとりしかど、この月の中ばより、寺島莊なる萩垣門を作る事によりて、おこたりがちなるものから、すてもおかざりしかば、つひにをへつるは、同じ年の神無月十七日になん。
                    岸 本 由 豆 流
                     (以上攷證卷五下册)
 
大正十五年二月廿二日印刷
大正五四年二月廿五日發行
攷證第五巻 奧附
 定價貳圓貳拾錢
        著者 故岸本由豆流
        校訂者 武田祐吉
  東京市外西大久保四五九番地
發行者 橋本福松
  東京市麹町區紀尾井町三番地
印刷者 濱野英太郎
發兌元 東京市外西大久保四百五十九番地 古今書院
 
 
(1)萬葉集卷第六
 
雜歌。
 
眞淵云、この卷、養老七年より神龜、次に天平十六年までの年號をあげたり。帥大伴卿をのみ、名をしるさねば、家持卿の家に集たる事しるべし。
 
養老七年癸亥夏五月。幸2于芳野離宮1時。笠朝臣金村。作歌一首。并短歌。
 
續日本紀に、養老七年五月癸酉、行2幸芳野宮1。丁丑車駕還v宮云々とあり。芳野離宮の事は、上【攷證一上十六丁】にいへり。笠朝臣金村は、父祖、官位、考へがたし。上【攷證二下七十七丁】に出たり。
 
907 瀧上之《タギノベノ》。(御舟乃山爾《ミフネノヤマニ》。水枝指《ミヅエサシ》。四時爾生有《シジニオヒタル》。刀我乃樹能《トガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。萬代《ヨロヅヨニ》。如是二二知三《カクシシラサム》。三芳野之《ミヨシノノ》。蜻蛉乃宮者《アキヅノミヤハ》。神柄香《カムガラカ》。貴將有《タフトカルラム》。國柄鹿《クニガラカ》。見欲將有《ミガホシカラム》。山川乎《ヤマカハヲ》。清清《キヨミサヤケミ・サヤケクスメリ》。諾之神代從《ウベシカミヨユ》。定家良思母《サダメケラシモ》。)
 
(2)瀧上之《タギノベノ》。御舟乃山爾《ミフネノヤマニ》。 
御舟の山は吉野の中の名所なり。瀧上之とは、瀧の邊の意也。ともに上【攷證三上十一丁】に出たり。
 
水枝指《ミヅエサシ》。
十三【二丁】に、百不足《モヽタラズ》、五十槻枝丹《イツキガエダニ》、水枝指《ミヅエサシ》云々ともありて、水《ミヅ》と書るは借字にて、若くみづ/\しき枝さすをいへり。十三【十二丁】に、※[木+若]垣《ミヅカキ》とかける※[木+若]の字も、木の若きよしにて、二合の字なり。【※[木+若]の字は、漢土にては、※[木+若]※[木+留]の事なれど、こゝには、この字の形につきて、若木の義とせり。】猶みづ/\しの所【攷證三下廿四丁】考へ合すべし。
 
四時爾生有《シジニオヒタル》。 
繁《シヾ》に生たる也。上【攷證三中十三丁】に出たり。
 
刀我乃樹能《トガノキノ》。 
都《ツ》と刀《ト》と音通ひ、都我《ツガ》の木と同じ。この事、上【攷證一上四十六丁】にいへり。
 
彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。
御代々々彌つぎ/\に也。この事も、上【攷證一上四十六丁】にいへり。
 
如是二二知三《カクシシラサム》。
二二を、しとよめるは、九々の假字也。この事、上【攷證三中六十五丁】にいへり。しは助辭也。知三《シラサム》は、しろしめさんにて、知り領しまさんの意也。この事、上【攷證一上四十六丁】にいへり。
 
蜻蛉乃宮者《アキヅノミヤハ》。
離宮、蜻蛉野にありしなるべし。この地の事は、上【攷證一下六丁】にいへり。
 
(3)神柄香《カムガラカ》。
神のまします故にか、貴かるらんの意也。この事、上【攷證二下六十二丁】にいへり。二【四十一丁】に、玉藻吉《タマモヨシ》、讃岐國者《サヌキノクニハ》、國柄加《クニガラカ》、雖見不飽《ミレドモアカズ》、神柄加《カムガラカ》、幾許貴寸《コヽダタフトキ》云々。三【廿六丁】に、見吉野之《ミヨシヌノ》、芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》、山可良志《ヤマカラシ》、貴有師《タフトカルラシ》、水可良思《ミヅカラシ》、清有師《サヤケカルラシ》云々などもあり。
 
見《ミガ・ミマ》欲將有《ホシカラム》。
見まくほしからんの意也。上【攷證三中十四丁】に出たり。
 
清清《キヨミサヤケミ・サヤケクスメリ》。
二つのみは、さにの意にて、きよさに、さやけさにの意也。眞淵云、清々、二字の中、一字は必らず誤字ならん。峻清などの誤れるならん。しからば、たかみさやけみとも訓べし云々。この説、うけがたし。眞淵又云、清々の下、一句たらぬは、古歌に例あり。されど、これは奈良の朝の歌なれば、句の落しにもあるべし云々。略解云、清清は、藤原濱臣云、※[山+青]清の誤なるべし。字鏡、※[山+青]〓深冥也。保良、又谷とあり。慧林一切經音義に、※[山+青]〓、深冥高峻也とあり。さらば、ふかみさやけみと訓べくや。又、高峻の意もて、たかみとも訓べしといへり。峻清の誤ならんと注しつれど、字も似よらず。※[山+青]の誤りとせんかた、しかるべし。さて、ふかみにては、字義にはよくかなへれど、この歌にては、たかみと訓べし。
 
諾之神代從《ウベシカミヨユ》。
神代とは、神代は勿論にて、たゞ古き代をさしても、神代といへり。この事、上【攷證三上六十九丁】にいへるが如く、こゝも、たゞ、古き代をいひて、さればこそ、神代より、こゝを大宮所と定めけらしといへる也。
 
定家良思母《サダメケラシモ》。
 
(4)反歌。
 
908 毎年《トシノハニ》。(如是裳見牡鹿《カクモミテシカ》。三吉野乃《ミヨシノノ》。清河内之《キヨキカフチノ》。多藝津白波《タギツシラナミ》。)
 
毎年《トシノハニ》。
字の如く、毎年の意也。上【攷證五上五十丁】に出たり。
 
清河内之《キヨキカフチノ》。
河内と書るは借字、はふの反、ふにて、河端《カハフチ》の意なり。
この事、上【攷證一下五丁】にいへり。一首の意、明らけし。
 
909 山高三《ヤマタカミ》。(白木綿花《シラユフハナニ》。落多藝追《オチタギツ》。瀧之河内者《タキノカウチハ》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。)
 
山高三《ヤマタカミ》。
三《ミ》は、さにの意なり。
 
白木綿花《シラユフハナニ》。
木綿花《ユフハナ》は、木綿《ユフ》もて作りたる花なるべし。上【攷證二下廿六丁】に出たり。七【七丁】に、泊瀬川《ハツセガハ》、白木綿花爾《シラユフハナニ》、墮多藝都《オチタギツ》云々。九【十七丁】に、山高見《ヤマタカミ》、白木綿花爾《シラユフハナニ》、落多藝津《オチタギツ》、夏身之河門《ナツミノカハト》、雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。十三【六丁】に、淡海之海《アフミノミ》、白木綿花爾《シラユフハナニ》、浪立渡《ナミタチワタル》など見えたり。にもじは、如の意也。この事、上【攷證一下卅八丁】にいへり。一首の意、明らけし。
 
或本。反歌曰。
 
(5)910 神《カム・カミ》柄加《ガラカ》。(見欲賀藍《ミガホシカラム》。三吉《ミヨシ》野乃ヌノ・ノノ。瀧乃河内者《タキノカフチハ》。雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。)
 
神柄加《カムガラカ》は、まへにもいへるが如く、神のまします故にかの意にて、一首の意は、この吉野の山は、神のうしはきまします故にか、いとゞ清き瀧の川の邊は、見れどあかずと也。活字本、瀧の下、之《ノ》の字あり。さらば、たぎのかふちはと訓べし。これもあしからず。さて、印本、この或本歌をも、外の歌の並に書たれど、集中の例もて、一字下しかけり。下、皆おなじ。
 
911 三吉野之《ミヨシヌノ》。(秋津乃川之《アキツノカハノ》。萬世爾《ヨロヅヨニ》。斷事無《タユルコトナク》。又還將見《マタカヘリミム》。)
 
秋津乃川は、蜻蛉野、蜻蛉宮などゝ同所なり。之《ノ》は如くの意也。一首の意は明らけし。
 
912 泊瀬女《ハツセメノ》。(造木綿花《ツクルユフハナ》。三吉野《ミヨシヌノ》。瀧乃水沫《タキノミナワニ》。開來受屋《サキニケラズヤ》。)
 
泊瀬女《ハツセメ》は、上【攷證三下十五丁】に、泊瀬越女とある所にいへるが如く、間にのもじありて、泊瀬の女の意也。さて、ここに、はつせめの造る木綿花としもいへるは、何ぞよしある事なるべけれど、考へがたし。開來受屋《サキニケラズヤ》は、さきにけらずやと訓べし。來を、けりとも、けるとも、けれとも、訓る事は、上【攷證二中五十三丁、二下五十六丁】にいへり。けらずやのやは、うらへ意のかへるやにて、一首の意は、はつせめが作れる木綿花は、瀧の水沫《ミナワ》の白きに、さもいとよく似たり。もし、この瀧の水沫は、かの木綿花の瀧の水沫となりて、白く咲出たるにはあらずやは。さながら木綿花の如しといふ也。
 
(6)車持朝臣千年。作歌一首。并短歌。
 
父祖、官位、考へがたし。印本、千を于に誤れり。今、下【十五丁廿一丁】に千年とあるに依て改む。車持の氏は、姓氏録卷三に、車持公、上毛野朝臣同v祖。豐城入彦命八世孫、射狹君之後也。雄略天皇御世、供2進乘輿1、仍賜2姓車持公1云々とありて、續日本紀に、天平九年正月辛酉、正八位下車持君長谷賜2姓朝臣1と見え、これより前にも、車持朝臣益といふ人も見えて、後には、皆、姓を朝臣とのみあり。さて、車持は、古來より、くらもちとのみいひ來れり。竹取物語にも、くらもちの御子とあり。るまの反、らなればなり。
 
913 味凍《ウマゴリノ》。綾丹乏敷《アヤニトモシク》。(鳴神乃《ナルカミノ》。音耳聞師《オトノミキヽシ》。三芳野之《ミヨシヌノ》。眞木立山湯《マキタツヤマユ》。見降者《ミクダセバ》。川之瀬毎《カハノセゴトニ》。開來者《アケクレバ》。朝霧立《アサギリタチ》。夕去者《ユフサレバ》。川津鳴奈辨《カハヅナクナベ》。紐不解《ヒモトカヌ》。客爾之有者《タビニシアレバ》。吾耳爲而《ワレノミシテ》。清川原乎《キヨキカハラヲ》。見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》。)
 
味凍《ウマゴリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中卅七丁】にも出たり。
 
綾丹乏敷《アヤニトモシク》。
綾と書るは借字にて、あなといふと同じく、歎息の辭なり。乏敷《トモシク》は、ともしく、めづらしき意なり。これらの事も、上【攷證二中卅七丁】にいへり。
 
(7)鳴神乃《ナルカミノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。音に聞とつゞけし也。
 
眞木立山湯《マキタツヤマユ》。
眞木は、上【攷證一下廿丁】にいへるが如く、眞《マ》とほむる詞にて、木の名にはあらず。眞木の立る山といふにて、名所にあらざる事、一【廿一丁】に、眞木立《マキタツ》、荒山道乎《アラヤマミチヲ》云々。二【卅四丁】に、眞木立《マキタツ》、不破山越而《フハヤマコエテ》云々などあるにてしるべし。又、十三【十九丁】に、三芳野之《ミヨシヌノ》、眞木立山爾《マキタツヤマニ》云々ともあり。
 
開來者《アケクレバ》。
上【攷證二中十二丁】にいへるが如く、夜のあけゆけばの意なり。
 
川津鳴奈辨《カハヅナクナベ》。
印本、辨の下、詳の字あれど、この字ありては、いかにとも讀べきやうなく、衍字なる事明らかなれ(ば脱カ)活字本、古葉略類聚抄などに依て略けり。さて、活字本には、辨を拜に作れり。こは、字體のいと近ければ、辨の誤りなる事明らけし。又、古葉略類聚抄には、辨を利に作れり。こは、いとよろしけれど、みだりには改めがたし。さて、奈辨《ナベ》といふ詞は、八【卅六丁】に、今朝乃旦開《ケサノアサケ》、雁之鳴寒《カリガネサムク》、聞之奈倍《キヽシナベ》、野邊能淺茅曾《ヌベノアサヂゾ》、色付丹來《イロヅキニケル》。また【四十一丁】雲上爾《クモノウヘニ》、鳴都流雁乃《ナキツルカリノ》、寒苗《サムキナベ》、芽子乃下葉者《ハギノシタバハ》、黄變可毛《ウツロハムカモ》。十【四十一丁】に、秋風之《アキカゼノ》、寒吹奈倍《サムクフクナベ》、吾屋前之《ワガヤドノ》、淺茅之本《アサヂガモトニ》、蟋蟀鳴毛《コホロギナクモ》。十二【四十丁】に、柔田津爾《ニギタヅニ》、舟乘將爲跡《フナノリセムト》、聞之苗《キヽシナベ》、如何毛君之《ナドカモキミガ》、所見不來將有《ミエコズアラマウ》。十八【十九丁】に、宇能花能《ウノハナノ》、開爾之奈氣婆《サクニシナケバ》、保等得藝須《ホトトギス》、伊夜米來豆良之毛《イヤメヅラシモ》、名能里奈久奈倍《ナノリナクナベ》。二十【廿六丁】に、櫻花《サクラバナ》、伊麻佐可里奈里《イマサカリナリ》、難波乃海《ナニハノウミ》、於之弖流宮爾《オシテルミヤニ》、伎許之賣須奈倍《キコシメスナベ》などありて、ままにといふ意なるも、それにまたといふ意なるもあり。こゝは、まゝにの意也。この事、上【攷證一下廿七丁】(8)奈戸二《ナベニ》とある所、考へ合すべし。この句は、下の吾耳爲而《ワレノミシテ》、清川原乎《キヨキカハラヲ》、見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》といふへつゞけて心得べし。
 
紐不解《ヒモトカヌ》。
上【攷證三上十九丁】にいへるが如く、古しへ、男女しばしわかるゝにも、かたみに下紐を結かはして、また逢まで、他し人には解せじとちぎりかたむる事、常のならはしなれば、旅には猶さらの事也。されば、ひもとかぬ旅にしあればとはつゞけたり。
 
見良久之惜蒙《ミラクシヲシモ》。
惜を、印本、情に誤れり。今、古葉略類聚抄、代匠記に引る別校本、拾穗本などに依て改む。良久《ラク》は、るを延たる言、之《シ》は助辭なり。
 
反歌一首。
 
914 瀧上乃《タキノベノ》。(三船之山者《ミフネノヤマハ》。雖畏《カシコケド》。思忘《オモヒワスルヽ》。時毛日毛無《トキモヒモナシ》。)
 
瀧《タキ》上《ノベ・ウヘ》乃《ノ》。
瀧の邊《ベ》の意也。この事、上【攷證一下四十二丁】にいへり。
 
雖畏《カシコケド》。
かしこけれどの、れを略ける也。この事、上【攷證二中十丁】にいへり。この歌もておもふに、千年、我より尊き人をおもふなるべし。宣長云、雖畏《カシコケド》にては聞えがたし。畏は見の誤りにて、見つれどもなるべし。下句は、故郷人をわすれぬ也。長歌の末の詞、また次なる反歌にてしるべし云々。
 
(9)或本。反歌曰。
 
915 千鳥鳴《チドリナク》。(三吉野川之《ミヨシノガハノ》。川音成《カハトナス》。止時梨二《ヤムトキナシニ》。所思公《オモホユルキミ》。)
 
川音成《カハトナス》の川の字、印本、脱せり。今、活字本に依て補ふ。古葉略類聚抄には、昔茂《オトシゲミ》とせり。非也。或は如くの意にて、上の一句、止時梨二《ヤムトキナシニ》といはん序のみ。
 
916 茜刺《アカネサス》。(日不並《ヒナラベナク・ヒヲモヘナク》二《ニ》。吾《ワガ》戀《コヒハ・コフル》。吉野之河乃《ヨシヌノカハノ》。霧丹立乍《キリニタチツヽ》。)
 
茜刺《アカネサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上卅五丁】にも出たり。
 
日不並《ヒナラベナク・ヒヲモヘナク》二《ニ》。
八【十五丁】に、足比奇乃《アシビキノ》、山櫻花《ヤマザクラバナ》、目並而《ヒナラベテ》、如是開有者《カクシサケラバ》、甚戀日夜裳《イタコヒメヤモ》。二十【四十五丁】に、比奈良倍弖《ヒナラベテ》、安米波布禮杼母《アメハフレドモ》云々。こゝは、日をも並《ナラ》べぬにの意にて、數日をも經ぬにといふ也。この行幸、續紀にも出たるが如く、癸酉より丁丑まで、わづかに五日の行幸なれば、かくはいへり。
 
吾《ワガ》戀《コヒハ・コフル》。
わがこひはと訓べし。
 
霧丹立乍《キリニタチツヽ》。
丹《ニ》は如くの意也。上【攷證一下卅八丁】に出たり。一首の意は、この行幸、はづかのほどにて、數日をも經ざるに、吾戀のしげさは、この吉野川の霧の如しと也。
 
(10)右年月不v審。但以2歌類1載2於此次1焉。或本云。養老七年五月。幸2于吉野離宮1之時作。
 
これも後人の左注なり。
 
神龜元年甲子冬十月五日。幸2于紀伊國1時。山部宿彌赤人。作歌一首。并短歌。
 
續日本紀に、神龜元年冬十月丁亥朔辛卯、天皇幸2紀伊國1。癸巳行至2紀伊國那賀郡玉垣勾頓宮1。甲午至2海部郡玉津島頓宮1、留十有餘日。戊戌造2離宮於岡東1。【中略】壬寅詔曰、登v山望v海、此間最好、不v勞2遠行1、足2以遊覽1、故改2弱濱名1、爲2明光浦1、宜置2守戸1、勿v令2荒穢1。春秋二時、差2遣官人1、奠2祭玉津島之神、明光浦之靈1。【中略】丁未行還至2和泉國取石頓宮1。己酉車駕至v自2紀伊國1云々とあり。
 
917 安見知之《ヤスミシヽ》。(和期大王之《ワゴオホキミノ》。常宮等《トコミヤト》。仕奉流《ツカヘマツレル》。左日鹿野由《サヒガヌユ》。背上爾所見《ソガヒニミユル》。(11)奥島《オキツシマ》。清波瀲爾《キヨキナギサニ》。風吹者《カゼフケバ》。白波左和伎《シラナミサワギ》。潮干者《シホヒレバ》。玉藻苅管《タマモカリツヽ》。神代從《カミヨヨリ》。然曾尊吉《シカゾタフトキ》。玉津島夜麻《タマヅシマヤマ》。)
 
常宮等《トコミヤト》。
とことはに、行末長く、かはる事なき宮と祝し申也。上【攷證二下九丁】に出たり。等《ト》は、とての意なり。
 
左日鹿野由《サヒガヌユ》。
雜賀野《サヒガヌ》なり。紀伊國海士郡に、小雜賀《コサヒガ》、雜賀《サヒガ》川、雜賀《サヒガノ》崎などあり。こゝなるべし。いづれも玉津島のほとり也。七【十七丁】に、木國之《キノクニノ》、狹日鹿乃浦爾《サヒガノウラニ》云々ともあり。さて、雜賀を、さひがといふは、和名抄に、播磨の郡名の揖《イフ》保を伊比保、大隅の郡名の姶《アフ》羅を阿比良、薩摩の郡名の給《キフ》黎を岐比禮などよめる類にて、ふをひに轉じたるなり。
 
背上爾所見《ソガヒニミユル》。
背上を、そがひとよめるは、義をもて上の字を添書る也。添字の事は、上【攷證三上七十五丁】にいへり。集中、背向を、背の一字をも、そがひとよめり。後の方をいふ。上【攷證三中卅七丁】にいへり。
 
玉津島夜麻《タマヅシマヤマ》。
これ紀伊國に名高き所なり。まへに引る續紀に、玉津鳥頓宮ともあり。さて、玉津島は、津を濁るべし。陽成實録、元慶五年十月の條に、紀伊國玉出島神とありて、宇津保物語吹上卷に、玉づしまにものしたまふほど、年をへて、なみのよるてふ、玉のをに、ぬきとゞめなん、玉いづるしま、などあるにてしるべし。
 
(12)反歌。
 
918 奥島《オキツシマ》。(荒磯之玉藻《アライソノタマモ》。潮《シホ》干滿《ホミチ・ミチテ》。伊隱去者《イカクレユカバ》。所念武香聞《オモホエムカモ》。)
 
潮《シホ》干滿《ホミチ・ミチテ》。
代匠記に、干潟トナレル所ヘ潮ノ滿クルヲイヘリ云々といはれつるが如し。
 
伊隱去者《イカクレユカバ》。
伊は發語なり。上【攷證一上卅二丁】に出たり。略解に、この句を、いかくろひなばとよめるは、なか/\にたがへり。
 
所念武香聞《オモホエムカモ》。
おもほえんかもといへるは、上【攷證二中五十九丁】にいへるが如く、皆、意をふくめたるしらべにて、一首の意は、礒に生る玉藻の、うちなびきなどするが、いとおもしろきを、潮みちきて、かくれゆかば、なごりをしくおもほえんかもといへるなり。
 
919 若浦爾《ワカノウラニ》。(塩滿來者《シホミチクレバ》。滷乎無美《カタヲナミ》。葦邊乎指天《アシヘヲサシテ》。多頭鳴渡《タヅナキワタル》。)
 
若浦は紀伊國海士郡にて、名高き所なれば、さらにいはず。滷《カタ》は干潟をいふ。美《ミ》はさにの意也。一首の意は明らけし。
 
右。年月不v記。但〓從2駕玉津島1也。因今檢2注行幸年月1。以載(13)v之焉。
 
〓は※[人偏+稱の旁]の異體なり。※[人偏+稱の旁]、稱、同字にて、稱を隷體に〓と書よりして、※[人偏+稱の旁]を〓と書しなるべし。
 
神龜二年乙丑夏五月。幸2于芳野離宮1時。笠朝臣金村。作歌一首。并短歌。
 
この行幸の事、續日本紀に見えず。可v考。
 
920 足引之《アシビキノ》。(御山毛清《ミヤマモサヤニ》。落多藝都《オチタギツ》。芳野河之《ヨシヌノカハノ》。河瀬乃《カハノセノ》。淨乎見者《キヨキヲミレバ》。上邊者《カミベニハ》。千鳥數鳴《チドリシバナク》。下邊者《シモベニハ》。河津都麻喚《カハヅツマヨブ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人毛《オホミヤビトモ》。越乞爾《ヲチコチニ》。思自仁思有者《シジニシアレバ》。毎見《ミルゴトニ》。文丹乏《アヤニトモシミ》。玉葛《タマカヅラ》。絶事無《タユルコトナク》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。如是霜願跡《カクシモガモト》。天地之《アメツチノ》。神乎曾祷《カミヲゾイノル》。恐有等毛《カシコケレトモ》。
 
(14)御山毛清《ミヤマモサヤニ》。
略解に、御山とは宮所あれば也云々といへるは、いとをさなし。御はたゞ假字に借もちひたるのみにて、御の義にはあらず。そは、二【十九丁】に、小竹之葉者《サヽノハハ》、三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》、亂友《マガヘドモ》云々。此卷【十四丁】に、御山者《ミヤマニハ》、射目立渡《イメタテワタシ》云々。十四【卅七丁】に、由布佐禮婆《ユフサレバ》、美夜麻乎左良奴《ミヤマヲラヌ》、爾努具母能《ニヌクモノ》云々。十七【九丁】に、烏梅乃花《ウメノハナ》、美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》、安里登母也《アリトモヤ》云々などあるにてしるべし。皆、眞山《ミヤマ》の意にて、眞はほむる言也。さやには、清と書るは借字にて、さや/\と鳴る音をいへり。これらの事、上【攷證二中六丁】にくはしくいへり。
 
上邊者《カミベニハ》。
この上邊《カミベ》、下邊《シモベ》は、上瀬《カミツセ》、下瀬《シモツセ》といはんが如し。
 
千鳥數鳴《チドリシバナク》。
數鳴《シバナク》は、しば/\鳴なり。この事、上【攷證三中五十一丁】にいへり。
 
越乞爾《ヲチコチニ》。思自仁思有者《シジニシアレバ》。
略解に、をちこちにの詞、解しがたし。翁は、乞兒を、かたゐといふより、越乞爾《コエガテニ》とよまん。こえがてには、從駕の外、在京の官人は、みだりに越來りがたきをいふなるべし、といはれつれど、ことわり聞えがたし。思自仁思有者《シヾニシアレパ》は、繁くあればといふ事にて、こゝにかなはず。古本、自の字なし。さらば、思仁思有者《モヒニモヘレバ》とよまんか。されど、猶おだやかならず。字の誤なるべし。猶考へてん云々といへるは、皆非なり。本のまゝにて明らかによく聞ゆるものをや。七【十一丁】十二【十五丁】などにも、越乞を、をちこちとよめり。こゝは、從駕の官人、行宮の遠近に立別れ侍ふが、繁《シヾ》にしあればの意にて、こは、千鳥、河津などのしげきに對へて、大宮人も遠近にしげくさぶらふをいへる事、大宮人毛の毛に(15)(て脱カ)しるべし。
 
文丹乏《アヤニトモシミ》。
印本、舟を舟に誤れり。今、元暦本に依て改む。乏はめづらしく愛する意なり。
 
玉葛《タマカツラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三中十三丁】にも出たり。
 
如是霜願跡《カクシモガモト》。
霜は借字にて、詞。願《ガモ》は願ふ意の詞なれば、義をもて願の字を書り。一【十四丁】に冀の字をかけるも同じ。
 
反歌二首。
 
921 萬代《ヨロヅヨニ》。(見友將飽八《ミトモアカメヤ》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。多藝都河内之《タキツカフチノ》。大宮所《オホミヤドコロ》。)
 
見友將飽八《ミトモアカメヤ》は、二十【五十五丁】に、都良都良爾《ツラツラニ》、美等母安加米也《ミトモアカメヤ》云々ともありて、見るともの意也。一首の意は明らけし。
 
922 人皆乃《ヒトミナノ》。(壽毛吾母《イノチモワレモ》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。多吉能床磐乃《タキノトコハノ》。常有沼鴨《ツネナラヌカモ》。)
 
人皆は皆人のといふに同じ。上【攷證二上四十三丁】に出たり。元暦本に、皆人乃とあるは、例のさかしらなるべし。床磐《トコハ》は、とこはと訓べし。常磐の意にて、ときはといふも同じ。こゝは、瀧のほとりの、(16)常にかはる事なき岩ほの如くといふにて、乃は如の意なり。常有沼鴨《ツネナラヌカモ》は、常にてあれかしといふ意也。このぬかもといふ言は、ぬかといふに、もを添たるにて、願ふ意の詞也。この事は、下【攷證六下十八丁】にいふべし。一首の意は、皆人のいのちも、わが命も、常にかはらぬいはほのごとく、常にてあれかし。かゝるおもしろき所を、ゆきかへりつゝ、又も見まほしきよしの意をふくめたるものなり。
 
山部宿彌赤人。作歌二首。并短歌。
 
923 八隅知之《ヤスミシヽ》。(和期大王乃《ワゴオホキミノ》。高知爲《タカシラス》。芳野離宮者《ヨシノノミヤハ》。立名附《タヽナヅク》。青墻隱《アヲガキコモリ》。河次乃《カハナミノ》。清河内曾《キヨキカフチゾ》。春部者《ハルベニハ》。花咲乎遠里《ハナサキヲヽリ》。秋去者《アキサレバ》。霧立渡《キリタチワタル》。其山之《ソノヤマノ》。彌益々爾《イヤマス/\ニ》。此河之《コノカハノ》。絶事無《タユルコトナク》。百石木能《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤビトハ》。常將通《ツネニカヨハム》。)
 
高知爲《タカシラス》。
宮殿を高く知り領しまします意也。上【攷證一下九丁】に出たり。
 
芳野離宮者《ヨシノノミヤハ》。
印本、宮の字無く、古葉略類聚抄、活字本、拾穗本など、離を宮に作れり。離と宮とはまかふべくもあらぬ字なるを以て思へば、印本には宮の字を脱し、別本には離の宮を脱せるものなる事疑ひなし。されば、今、宮の字を補へり。離宮の二字をみやと訓るは、例の義を以て文字を添書るなり。
 
(17)立名附《タヽナヅク》。
枕詞なり。上【攷證二下二丁】に出たり。十二【卅八丁】に、田立名付《タヽナヅク》、青垣山之《アヲガキヤマノ》云々ともありて、こは委《タヽナハ》り靡附《ナミツク》垣とつゞけしなり。
 
青墻隱《アヲガキコモリ》。
古事記中卷【日本武尊】御歌に、夜麻登波《ヤマトハ》、久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》、多々那豆久《タヽナヅク》、阿袁加岐夜麻碁母禮流《アヲガキヤマコモレル》、夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》云々。本集一【十九丁】に、疊付《タヽナヅク》、青垣山《アヲカキヤマ》云々ともありて、青き垣の如くめぐれる山に、つゝまれ隱りたる所ぞと、ほめたゝへいふ言なり。
 
河次乃《カハナミノ》。
此卷【四十三丁】に、山並之《ヤマナミノ》、宜國跡《ヨロシキクニト》、川次之《カハナミノ》、立合郷跡《タチアフサトヽ》云々。また【四十四丁】布當山《フタギヤマ》、山並見者《ヤマナミミレバ》云々ともあり。この山並も同じく、川次は川の續き並びたるをいふなり。
 
花咲乎遠里《ハナサキヲヽリ》。
乎遠里《ヲヽリ》は繁き意也。この事、上【攷證二下七丁】にいへり。
 
秋去者《アキサレバ》。
活字本、去を部に作れり。これもあしからねど、上に春部者とあれば、秋去者とある方まされり。
 
反歌二首。
 
924 三吉野乃《ミヨシヌノ》。(象山《キサヤマノ》際《マ・キハ》乃《ノ》。木末《コヌレ・コズヱ》爾波《ニハ》。幾許毛散和口《ココダモサワグ》。鳥之聲可聞《トリノコヱカモ》。)
 
象山《キサヤマノ》際《マ・キハ》乃《ノ》。
象《キサ》山は吉野のうち也。上【攷證一下六十丁】に出たり。際は間の意也。上【攷證一上卅一丁】に出たり。
 
(18)木未《コヌレ・コズヱ》爾波《ニハ》。
上【攷證三上卅七丁】にいへるが如く、木末はこぬれと訓べし。木《コ》の末《ウレ》の意なり。
 
幾許毛散和口《コヽタモサワグ》。
幾許《コヽタ》は、上【攷證二下六十二丁】にいへるが如く、いかばかりの意也。一首の意は明らけし。
 
925 烏玉之《ヌバタマノ》。(夜乃深去者《ヨノフケユケバ》。久木生留《ヒサギオフル》。清河原爾《キヨキカハラニ》。知鳥敷鳴《チドリシバナク》。)
 
久木《ヒサキ》は、十【九丁】に、去年咲之《コゾサキシ》、久木今開《ヒサギイマサク》、徒《イタヅラニ》、土哉將墮《ツチニオチメヤ》、見人名四二《ミルヒトナシニ》。【この歌、詠花うちにて、考へあり。そは下にいへり。】十一【卅八丁】に、浪間從《ナミマヨリ》、所見小島之《ミユルコジマノ》、濱久木《ハマヒサギ》、久成奴《ヒサシクナリヌ》、君爾不相四手《キミニアハズシテ》。詞花集冬に【曾根好忠】ひさぎ生る澤べの茅原、冬くればひばりの床ぞあらはれにこける。和名抄木類に、楸、漢語抄云、比佐木などあれど、不v詳。宣長云、十二【卅二丁】に、度會《ワタラヒノ》、大河邊《オホカハノベノ》、若歴木《ワカヒサキ》、吾久在者《ワガヒサナラバ》、妹戀鴨《イモコヒムカモ》。この上の句は、吾久《ワガヒサ》と詞をかさねん料の序なれば、歴木は、かならず、ひさぎなる事しるし云々。この説の如く、十二なる歴木は、必らずひさぎと訓ん事明らかなるにつきておもへは、古事記、書紀などに出たる歴木も、【歴木は櫪の意にて、くぬぎの事也。されど、くぬぎといふ名は、字鏡より古くは見えざる名なり。】ひさぎとよまんか。これをくぬぎと訓つれど、くぬぎてふ名は、字鏡より古くは見えざる名なれば、歴木《くぬぎ》を古くはひさぎといひしにて、くぬぎ、ひさぎ、同じ物か。くぬぎは、今も、くのぎといひて、いづくにも多かる木也。さて、上に引る十【九丁】なる久木は、詠花うちの歌なれば、必らず文字の誤りにて、久木にはあるべからず。一首の意は明らけし。
 
(19)926 安見知之《ヤスミシヽ》。(和期大王波《ワゴオホキミハ》。見吉野乃《ミヨシヌノ》。飽津之小野笑《アキツノヲヌノ》。野上者《ヌノベニハ》。跡見居置而《トミスヱオキテ》。御山者《ミヤマニハ》。射目立渡《イメタテワタシ》。朝獵爾《アサガリニ》。十六履起之《シヽフミオコシ》。夕狩爾《ユフガリニ》。十里※[足+榻の旁]立《トリフミタテヽ》馬並而《ウマナメテ》。御※[獣偏+葛]曾立爲《ミカリゾタタス》。春之茂野爾《ハルノシゲヌニ》。)
 
野上者《ヌノベニハ》。
野の邊《ヘ》にて、川の上《ベ》、瀧の上《ベ》などの上と同じ。上【攷證二下六十六丁】に出たり。
 
祉跡見居置而《トミスヱオキテ》。
代匠記に、跡見ハ、鹿ノ通フ跡ヲ見ル者ヲ以テ、假ニ名付ル|アリ《(マヽ)》。左傳曰、迹人來告【主迹禽獣者】曰、蓬澤有2介麋1焉。コノ迹人ト云名モ同ジ意ナリ云々といはれたり。されど、下に、朝獵爾十六履起之《アサカリニシヽフミオコシ》、夕狩爾十里※[足+榻の旁]立《ユフカリニトリフミタテ》云々と、鳥と獣とをわかちいへるを見れば、跡と書るは假字にて、鳥見の意なるべし。今も鳥見《トリミ》といふ役のあるが如し。鳥を、とゝのみいへるは、鳥狩《トガリ》、鳥網《トナミ》、鳥栖《トグラ》などいふにてしるべし。(頭書、再考るに、八【三十七丁】に、射目立而《イメタテヽ》、跡見乃岳邊之《トミノヲカベノ》云々とつゞけたるは、枕詞なれど、射目は鳥獣を射る者をいへるなれば、跡見は跡見《アトミ》の意なる事しらる。周禮地官迹人注に、迹之言v跡知2禽獣處1也とあり。)
 
御山者《ミヤマニハ》。
これも御は借字にて、眞山なり。
 
(20)射目《イメ》立渡《タテワタシ・タチワタリ》。
印本、目を固に作りて、射固《セコ》と訓、活字本、因に作るも、共に誤れり。こは、元暦本、代匠記に引る幽齋本に依て改む。八【三十七丁】に、射目立而《イメタテヽ》、跡見乃岳邊之《トミノヲカベノ》云々。九【十一丁】に、射目人乃《イメヒトノ》、伏見何田井爾《フシミカタヰニ》云々。十三【十六丁】に、高山之《タカヤマノ》、峯之手折丹《ミネノタヲリニ》、射目立《イメタテヽ》、十六待如《シヽマツガゴト》、床敷而《トコシキテ》、吾待公《ワガマツキミヲ》云々などあるにても、固は目の誤りなるをしるべし。さて、射目《イメ》とは、眞淵説に、目《メ》と部《ベ》と通ひて、その目《メ》は、むれの約りなれは、群《ムレ》ある事を、めとも、べともいへり云々。この説のごとく、射目《イメ》は射部《イベ》の意にて、【鳥の名に、すゞめ、つばくらめ、こがらめなどいふあるも、めは群の意なり。】獣の通ふべき所に伏《フセ》置て、射さしむる也。立渡は多く立つらぬるをいへり。
 
十六履起之《シヽフミオコシ》。
十六を、しゝとよめるは、例の九九の假字也。上【攷證三上七丁】に出たり。
 
馬並而《ウマナメテ》。
馬をのりならべて也。上【攷證一上九丁】に出たり。
 
御※[獣偏+葛]曾《ミカリゾ》立爲《タヽス・タテシ》。
立爲《タヽス》は狩立ましますの意なり。
 
反歌。
 
927 足引之《アシヒキノ》。(山毛野毛《ヤマニモヌニモ》。御※[獣偏+葛]人《ミカリヒト》。得物矢手挾《サツヤタバサミ》。散動而有所見《サワギタルミユ》。)
 
(21)得物矢は、さつやと訓べし。幸矢の意なり。この事、上【攷證一下四十八丁】に出たり。散動の字を、舊訓、みだれと訓、代匠記には、とよみとよまれつれど、こゝには、さわぎと訓べし。この事は、上【攷證二下六十四丁】にくはしくいへり。一首の意は明らけし。
 
右不v審2先後1。但以v便故載2於此次1。
 
右の安見知之《ヤスミシヽ》の歌は、この先後、いづれの行幸の時の歌か不v審ども、同人の歌なる便をもて、こゝに載たりとなり。
 
冬十月。幸二2難波宮1時。笠朝臣金村。作歌一首。并短歌。
 
續日本紀に、神龜二年冬十月庚申、天皇幸2難波宮1云々とあり。
 
928 忍照《オシテル》。難波乃國者《ナニハノクニハ》。(葦垣乃《アシガキノ》。古郷跡《フリニサトヽ》。人皆之《ヒトミナノ》。念《オモヒ》息《イコヒ・ヤスミ》而《テ》。都禮母無《ツレモナク》。有之間爾《アリシアヒダニ》。績麻成《ウミヲナス》。長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》。眞木柱《マキバシラ》。太高敷而《フトタカシキテ》。食國乎《ヲシクニヲ》。收賜者《オサメタマヘバ》。奧鳥《オキツトリ》。味經乃原爾《アヂフノハラニ》。物部乃《モノノフノ》。八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》。廬爲而《イホリシテ》。都成有《ミヤコトナセリ》。旅者安禮十方《タビニハアレドモ》。)
 
(22)忍照《オシテル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三下卅三丁】にも出たり
 
難波乃國者《ナニハノクニハ》。
古しへ、一郡一郷をも國といへり。この事、上【攷證一上廿六丁】にいへり。
 
葦垣乃《アシガキノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。いにしへ都なりし所もふるされ、民の住所となりて、葦垣などしてあるさまもて、ふるさとゝはつゞけしなり。
 
古郷跡《フリニサトト》。
眞淵は、これを、ふりぬるさとゝ訓かへられたれど、ふりにしと訓べし。二【十二丁】に、大原乃《オホハラノ》、古爾之郷爾《フリニシサトニ》云々。三【卅丁】に、香具山乃《カグヤマノ》、故去之里乎《フリニシサトヲ》云々などあるをも見べし。
 
念《オモヒ》息《イコヒ・ヤスミ》而《テ》。
眞淵の、おもひいこひてとよまれしに從ふべし。息《イコフ》といふ事の事は、上【攷證一下七十二丁】にいへり。こゝは、難波をば、たゞふりはてたる郷ぞとのみ思ひたゆみて、何のよしなき所なりと思ひて有るほどにといへるなり。
 
都禮母無《ツレモナク》。
ゆかりもなき意也。この事、上【攷證二中四十六丁】にいへり。さて、印本、無を爲に作れり。今、活字本、代匠記に引る官本などに依て改む。
 
績麻成《ウミヲナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。成は如の意にて、績たる麻の如く長とつゞけしなり。
 
長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》。
この長柄宮は、書紀孝徳紀に、白雉二年十二月、天皇從2於大郡1遷2居新宮1、號曰2難波長柄豐碕宮1云々とある、これにて、孝徳天皇の大宮なりしを、こゝ(23)に眞木柱《マキハシラ》、太高敷而《フトタカシキテ》とあるは、この神龜のころ、さらに修理など加へさせ給ひしなるべく、又、食國乎《ヲスクニヲ》、收賜者《ヲサメタマヘバ》とあるは、行幸ありて、しばしがほどにても、天皇のおはします宮なればにて、このころ、こゝに遷都などありしにはあらず。思ひまがふべからず。
 
眞木柱《マキバシラ》。
眞木は良材をいふ。この事、上【攷證二中五十八丁】にいへり。
 
太高敷而《フトタカシキテ》。
一【十八丁】に、宮柱《ミヤバシラ》、太敷座波《フトシキマセバ》云々ともありて、太《フト》は太《フト》きをいひ、高《タカ》は高《タカ》きをいひ、敷《シキ》は知《シリ》領しまします意なり。
 
奧鳥《オキツトリ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。味經乃原《アヂフノハラ》の味《アヂ》を、鳥の名のあぢにとりなして、つゞけたり。あぢは水鳥にて、集中にも多くよめり。
 
味經乃原爾《アヂフノハラニ》。
書紀孝徳紀に、白雉元年正月辛丑朔、車駕幸2味經宮1、觀2賀正禮1。【味經此云2阿膩賦1】是日車駕還v宮。二年十二月晦、於2味經宮1請2二千一百餘僧尼1、使v讀2一切經1。於v是天皇從2大郡1遷2居新宮1、號曰2難波長柄豐碕宮1とある、こゝにて、和名抄郷名に、攝津國東生郡味原とある、こゝ也。原をふと訓るは、原野は草の生る所なれば、生《フ》の意をもて、ふとはよめる也。此卷【四十六丁】に味原《アヂフノ》宮とあるにてもしるべし。さるを、攝津志に、島下郡、別府、味舌、二村即其故址といへるは誤れり。延喜典薬寮に、味原牧爲2寮牛牧1云々。續日本紀に、延暦四年正月庚戌、遣v使堀2攝津國神下梓江|鰺生《アヂフ》野1、通2于三國川1云々などあるもこゝ也。
 
(24)物部乃《モノヽフノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下廿八丁】にも出たり。
 
八十伴雄者《ヤソトモノヲハ》。
仕へ奉る多くの官人をいへり。上【攷證三下六十一丁】に出たり。
 
都成有《ミヤコトナセリ》。
こゝを、略解には、みやこなしたりと讀かへつれど、非也。をは、反歌に、大王之《オホキミノ》、敷座時者《シキマストキハ》、京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》とありて、十九【四十一丁】に、赤駒之《アカゴマノ》、腹婆布田爲乎《ハラバフタヰヲ》、京師跡奈都《ミヤコトナシツ》。また、水鳥乃《ミヅトリノ》、須太久水奴麻乎《スダクミヌマヲ》、皇都常成都《ミヤコトナシツ》などあるにておもふべし。
 
反歌二首。
 
929 荒野等丹《アラヌラニ》。(里者雖有《サトハアレドモ》。大王之《オホキミノ》。敷座時者《シキマストキハ》。京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》。)
 
野等《ヌラ》の等《ラ》は助辭なり。十一【卅九丁】に、淺葉乃野良爾《アサハノヌラニ》云々ともあり。さるを、和名抄林野類に、曠野、安良乃良とあるは、もとは助辭なりしを、やがて名とはせし也。さて、この歌は、里者荒野等丹雖有《サトハアラヌラニアレドモ》といふ意にて、一首の意は、荒野にはあれども、天皇のおはします時は、都となれりといふ也。
 
930 海未通女《アマヲトメ》。(棚無小舟《タナナシヲブネ》。榜出良之《コギイヅラシ》。客乃屋取爾《タビノヤドリニ》。梶音所聞《カヂノヲトキコユ》。)
 
(25)未通女を、をとめと訓るは義訓也。上【攷證三中四十三丁】に出たり。棚無小舟《タナナシヲブネ》は、※[木+世]《フナダナ》の無き小舟といふ也。これも、上【攷證一下四十五丁】に出たり。一首の意は明らけし。
 
車持朝臣千年。作歌一首。并短歌。
 
931 鯨魚取《イサナトリ》。(濱邊乎清三《ハマベヲキヨミ》。打靡《ウチナビク》。生玉藻爾《オフルタマモニ》。朝名寸二《アサナギニ》。千重浪縁《チヘナミヨセ》。夕菜寸二《ユフナギニ》。五百重波因《イホヘナミヨル》。邊津浪之《ヘツナミノ》。益敷布爾《イヤシクシクニ》。月二異二《ツキニケニ》。日日《ヒビニ》雖《ミル・ミレ》見《トモ》。今耳二《イマノミニ》。秋足目八方《アキタラメヤモ》。四良名美乃《シラナミノ》。五十開廻有《イサキメグレル》。住吉能濱《スミノエノハマ》)
 
鯨魚取《イサナトリ》。
枕詞なり。上【攷證二中三丁】に出たり。
 
朝名寸二《アサナギニ》。
名寸《ナギ》は和《ナギ》にて、海の面の和平らかなるをいふ。夕菜寸《ユフナギ》もこれに同じ。上【攷證四上廿丁】に出たり。
 
五百重波因《イホヘナミヨル》。
印本、五百を百五に誤れり。今、代匠記に引る官本に依て改む。
 
邊津浪之《ヘツナミノ》。
邊《ヘ》は海濱をいひ、津《ツ》は助辭にて、之《ノ》は如くの意なり。
 
(26)益《イヤ・マス》敷布爾《シクシクニ》。
益を、舊訓、ますと訓るは、いふにもたらぬ誤りなる事、十三【八丁】に、彼浪乃《ソノナミノ》、伊夜敷布二《イヤシクシクニ》云々。十七【卅四丁】に、與須流奈美《ヨスルナミ》、伊夜思久思久爾《イヤシクシクニ》云々。二十【廿八丁】に、波麻奈美波《ハマナミハ》、伊也之久之久二《イヤシクシクニ》云々などあるにてしるべし。敷布《シクシク》は重々の意なる事、上【攷證二下卅九丁】にいへり。
 
月二異二《ツキニケニ》。
異と書るは借字、月に日にといふ意なる事、上【攷證三中五十五丁】朝爾食爾《アサニケニ》とある所、考へ合すべし。四【卅一丁】に、下從吾痩《シタユワレヤス》、月日異《ツキニヒニケニ》とあるも同じ意也。十九【廿一丁】に、月爾日爾《ツキニケニ》、之可志安蘇婆禰《シカシアソバネ》云々ともありて、月々日々にの意也。
 
日日《ヒビニ》雖《ミル・ミレ》見《トモ》。
略解に、雖は欲の誤りにて、日々に見がほしならん。見るともとては、末へつゞかず云々といへるは、例の文字を改めんとするの僻なり。こゝは、月に日を經《へ》て、日々に見るとても、今の行幸の御供の度ばかりにては、飽たらめや。又もゆきかへりつゝ見てんといふ意なれば、見るともとても、よく聞えたるをや。
 
秋足目八方《アキタラメヤモ》。
秋と書るは借字にて、飽なり。
 
五十開廻有《イサキメグレル》。
五十《イ》は發語にて、開囘有《サキメグレル》は、浪の立散《タチチリ》めぐれるをいへり。十四【卅二丁】に、阿遲可麻能《アヂカマノ》、可多爾左久奈美《カタニサクナミ》云々。二十【十九丁】に、宇奈波良乃宇倍爾《ウナバラノウヘニ》、奈美那佐伎曾彌《ナミナサキソネ》などあるも、こゝと同じ。書紀神代紀下に、秀起浪穗之上《サキタツルナミノホノウヘニ》云々。訓注に、秀起此云2佐岐陀豆屡1【この豆は弖の誤りなるべし。】とあるもおなじ。
 
(27)住吉能濱《スミノエノハマ》。
印本、住を往に誤れり。今、活字本に依て改む。
 
反歌一首。
 
932 白浪之《シラナミノ》。(千重來縁流《チヘニキヨスル》。住吉能《スミノエノ》。岸乃黄土粉《キシノハニフニ》。二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》。)
 
岸乃黄土粉《キシノハニフニ》。
はにふは埴生《ハニフ》にて、埴の多かる所をいふ。この事、上【攷證一下五十八丁】にいへり、粉をふにの假字に用ひしは、漢、旱、干などをかに、君をくに、難をなにの假字に用ひし類也。
 
二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》。
にほふは色のにほふにて、黄土《ハニ》に衣を摺てゆかんといふにて、名は、んの意なり。一【廿七丁】に、草枕《クサマクラ》、客去君跡《タビユクキミト》、知麻世婆《シラマセバ》、岸之埴布爾《キシノハニフニ》、仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》とある所【攷證一下五十八丁】考へ合すべし。
 
山都宿禰赤人。作歌一首。并短歌。
 
933 天地之《アメツチノ》。(遠我如《トホキガゴトク》。日月之《ヒツキノ》。長我如《ナガキガゴトク》。臨照《オシテル》。難波乃宮爾《ナニハノミヤニ》。和期大王《ワゴオホキミ》。國(28)所知良之《クニシラスラシ》。御食都國《ミケツクニ》。日之御調等《ヒノミツギト》。淡路乃《アハミチノ》。野島之海子乃《ヌジマノアマノ》。海底《ワタノソコ》。奥津伊久利二《オキツイクリニ》。鰒珠《アハビタマ》。左磐爾潜出《サハニカヅキデ》。船並而《フネナメテ》。仕《ツカヘ》奉之《マツルガ・マツリシ》。貴《タフトキ・カシコミ》見禮者《ミレバ》。)
 
天地之《アメツチノ》。
二【卅三丁】に、天地之《アメツチノ》、彌遠長久《イヤトホナガク》云々ともありて、こゝは、天皇の天の下しろしめすを、天地日月の遠く長きにたとへたり。
 
國所知良之《クニシラスラシ》。
行末長く、こゝにて天の下をしろしめすらしと、行末をかけていふ也。
 
御食都國《ミケツクニ》。
眞淵云、御食都國とは、大御饌《オホミケ》の御贄を貢る國をいへり。食國《ヲスクニ》といふとは異なり云々といはれしが如く、此卷【卅九丁】に、御食國《ミケツクニ》、志麻乃海部有之《シマノアマナラシ》云々。十三【五丁】に、御食都國《ミケツク(ニ)》、神風之《カムカゼノ》、伊勢乃國者《イセノクニハ》云々などある【この外、此卷廿一丁、十八卷廿丁などに、御食國と書たるありて、舊訓にに、みけぐにと訓たれど、御の字は添て書るにて、をすぐにと訓べきなれば、こゝには引ず。】志麻、伊勢などの國々も、みな御贄を貢る國にて、こゝにいへる淡路國も、共に貢る國なる事、延喜内膳式に、これかれ見えたるにてしるべし。されば、御食都國とは、御食を貢る國といふにて、都《ツ》は助辭なり。
 
日《ヒ・ヒヾ》之御調等《ノミツギト》。
日次《ヒナミ》の御調をいふ。延喜内膳式に、凡諸國貢2進御厨御贄1、結番者和泉國【子巳】紀伊國【丑午酉】淡路國【寅未戌】近江國【卯】若狹國【辰申亥】毎v當2件日1依v次貢進、預計2行程1、莫v致2闕怠1云々とあり。
 
(29)野島之海子乃《ヌジマノアマノ》。
三【十五丁】に、粟路之野島之前乃《アハヂノヌジマガサキノ》云々ともあり。その所【攷證三上十八丁】にいへり。
 
海底《ワタノソコ》。
枕詞にて、上【攷證一下七十五丁】に出たり。奥《オキ》といふへのみかゝる枕詞なり。
 
奥津伊久利二《オキツイクリニ》。
伊久利《イクリ》は海中の石をいふ。上【攷證二中七丁】に出たり。
 
鰒珠《アハビダマ》。
略解に、鰒珠は、則、鰒の貝をいふ云々といへるは非也。書紀允恭紀に、十四年九月甲子、天皇※[獣偏+葛]2于淡路島1時、麋鹿猿猪、其々紛々、盈2于山谷1、※[火三つ]起蠅散。然終日以不v獲2一獣1。於v是※[獣偏+葛]止、以吏卜矣。島神祟v之曰、不v得v獣者、是我之心也。赤石海底有2眞珠1、其珠祠2於我1、則悉當v得v獣。爰更集2處々之白水郎1、以命v探2赤石海底1。海深不v能v至v底、唯有2一海人1。曰2男狹磯1。是阿波國長邑之海人也。勝2於諸海人1。是腰繋v繩、入2海底1、差頃之出曰、於2海底1有2大蝮1、其處光也。諸人皆曰、島神所v請之珠、殆有2是腹1乎。亦入探v之。爰男狹磯抱2大蝮1而泛出之、乃息絶、以死2浪上1。既而下v繩、測2海底1六十尋。則割v蝮實眞珠有2腹中1、其大如2桃子1、乃祠2島神1、而獲之多獲v獣也云々とありて、本集十三【廿六丁】に、木國之《キノクニノ》、濱因云《ハマニヨルトフ》、鰒珠《アハビタマ》、將拾跡云《ヒロハムトイヒテ》云々。十八【廿三丁】に、珠洲乃安麻能《スヽノアマノ》、於伎都美可未爾《オキツミカミニ》、伊和多利弖《イワタリテ》、可都伎等流登伊布《カツキトルトイフ》、安波妣多麻《アハビタマ》、伊保知毛我母《イホチモカモ》、【中略】保登等藝須《ホトヽキス》、伎奈久五月能《キナクサツキノ》、安夜女具佐《アヤメグサ》、波奈多知波奈爾《ハナタチバナニ》、奴吉麻自倍《ヌキマジヘ》、可頭良爾世餘等《カツラニセヨト》、都追美※[氏/一]夜良牟《ツヽミテヤラム》。また、反歌に、於伎都之麻《オキツシマ》、伊由伎和多里弖《イユキワタリテ》、可豆具知布《カツクチフ》、安波妣多麻母我《アハビタマモガ》、都々美弖夜良牟《ツヽミテヤラム》などあるにて、鰒珠とは、鰒の中にある眞珠をいへる(30)なる事、明らけし。こゝにも、十八卷にも、海人が潜出《カヅキイヅ》るよしあるは、鰒の貝ながら、潜《カヅキ》いづれば、真珠もおのづからにその中にある故に、眞珠《アハビタマ》をかづくとはいへる也。さて、眞珠は、大觀本草に、海藥云、謹按、正經云、眞珠生2南海1、石決明産出也云々とありて、石決明は鰒をいへる事、本草和名に、石決明、一名、鰒魚甲、和名、阿波比とあるにて論なきを、蘭山が本草啓蒙に、廣東新語を引て、諸書に眞珠を石決明の産なりといへるは非にて、あこや貝より出るものなるよしいへるは、心得ず。元暦本に、こゝの鰒珠を、あくやだまと訓るは、十八卷に安波妣多麻《アハヒタマ》と假字に書るをもしらで、さかしらに改められつるなるべし。また、眞珠を、中國には、しら珠ともいへり。この事は、下□にいふべし。
 
左磐爾潜出《サハニカヅキデ》。
左盤《サハ》は多にて、多く潜出るよし也。
 
仕《ツカヘ》奉之《マツルガ・マツリシ》。
こは、略解に、つかへまつるがとよまれしに依べし。
 
貴《タフトキ・カシコミ》見禮者《ミレバ》。
略解に、たふときは、めでたき意也。海人までが、かく勞をいとはで仕へ奉るを見れば、天地とゝもに久しく、御食國しろしめすらしといふ也云々といはれつるが如く、こゝより上へうちかへして心得べし。
 
反歌一首。
 
(31)934 朝名寸二《アサナギニ》。(梶音所聞《カヂノオトキコユ》。三食津國《ミケツクニ》。野島乃海子乃《ヌジマノアマノ》。船二四有良信《フネニシアルラシ》。)
 
梶音を、眞淵は、かぢのとゝ訓れつれど、いかゞ。舊訓のまゝ、かぢのおとゝ訓べし。集中、假字に書る所には、皆かぢのおとゝのみありて、かぢのとゝ假字に書る所、一つもなし。海子を、舊訓、あまこと訓るは、いふまでもなく非也。一首の意はくまなし。
 
三年丙寅秋九月十五日。幸2於幡磨國印南野1時。笠朝臣金村。作歌一首。并短歌。
 
續日本紀に、神龜三年九月壬寅【中略】以2一十八人1爲2造頓宮司1、爲v將v幸2播磨國印南野1。十月辛酉行幸。癸亥行還、至2難波宮1。癸酉車駕至v自2難波宮1云々とありて、扶桑略記には、十月辛亥日、行2幸于播磨國印南野1云々とあり。さて、はりまの國を、なべては播の字なるを、幡の字を書るは心得ず。元より音を假て書るなれば、いづれにでもありぬべけれど、こゝは必らず播の誤りなるべし。
 
935 名寸隅乃《ナキズミノ》。(船瀬《フナセ》從《ユ・ニ》所見《ミユル》。淡路島《アハヂシマ》。松帆乃浦爾《マツホノウラニ》。朝名藝爾《アサナギニ》。玉藻苅管《タマモカリツヽ》。(32)暮菜寸二《ユフナギニ》。藻塩燒乍《モシホヤキツヽ》。海未通女《アマヲトメ》。有跡者雖聞《アリトハキケド》。見爾將去《ミニユカム》。餘四能無者《ヨシノナケレバ》。大夫之《マスラヲノ》。情者梨荷《コヽロハナシニ》。手弱女乃《タワヤメノ》。念多和美手《オモヒタワミテ》。徘徊《タモトホリ》。吾者衣戀流《アレハゾコフル》。船梶雄名三《フネカヂヲナミ》。)
 
名寸隅乃《ナキズミノ》。
代匠記に、名寸隅《ナキズミ》ハ、八雲御抄ニ、播磨ト注セサセ給ヘリ。今按、本朝文粹第二ニ、三善清行、延喜十四年四月上2意見1十二條終云、重請d修2復播磨國魚住泊1事u云々。コノ魚住泊ハ今ノ名寸隅ニヤ云々といはれたり。
 
船瀬《フナセ》從《ユ・ニ》所見《ミユル》。
反歌に、舶瀬之濱《フナセノハマ》とあるからは、これも地名なるべけれど、據なし。土人に問べし。從《ユ》はよりの意也。
 
松帆乃浦爾《マツホノウラニ》。
こゝにかくあるからは、淡路なる事、論なけれど、郡はしりがたし。
 
藻塩燒乍《モシホヤキツヽ》。
眞淵云、もしほといふは、藻を苅集めて、それに潮を汲かけて、日にほしたるを、簀《ス》の上につみおきて、又さらに潮を汲かけてたるゝ故に、藻鹽といへり。藻は鹽木の代りに燒物とおもひ誤る事なかれ云々といはれたり。これは、漢土の製にも、中國の今の製にもあらざれど、古しへの一つの製なるべし。古今集雜下に【行平朝臣】わくらはに、とふ人あらば、す(33)まのうらに、もしほたれつゝ、わぶとこたへよ、とありて、中ごろの歌にはいと多し。
 
餘四能無者《ヨシノナケレバ》。
海路へだゝりたる上に、行幸の御ともなれば、見に行べきよしなしとなり。
 
丈夫之《マスラヲノ》。
印本、丈を大に誤れり。今、意改す。此事はところ/\にいへり。
 
手弱女乃《タワヤメノ》。
手弱女は、上【攷證三中五十九丁】にいへるが如く、弱《ヨワ》き女といふにて、乃は如くの意也。女は何事にも弱く、思ひたわむものなれば、丈夫のをゝしき心はなく、女などのやうに、思ひにたわめるよしをいへり。
 
念多和美手《オモヒタワミテ》。
多和《タワ》むといふは、新撰字鏡に、※[奇+立刀]、屈曲也。万加留、又、太和牟とありて、木草の枝などのしなふをもいへるを、もとにて、こゝは念を通すことなく、せん方なく、たゆ(た脱カ)ふをいへり。後拾遺集秋上に【橘則長】おく露に、たわむ枝だに、あるものを、いかでかをらん、やどの秋萩、などもあり。本集十【五十九丁】に、枝毛多和多和《エダモタワタワ》云々といへるも、このたわむ意にて、本は同じ言也。
 
徘徊《タモトホリ・タチトマリ》。
たもとほりのたは發語にて、立めぐり、さまよふ意也。この言、上【攷證三下四十七丁】に出たり。
 
(34)船《フネ・フナ》梶雄名三《カヂヲナミ》。
名三《ナミ》の三は、さにの意にて、淡路島なる松帆浦に渡りて、あまをとめどもをも見にゆかましものを、舟梶の無さに、女などのやうに、思ひくづをれて、立めぐり、さまよひて、吾は戀るぞとなり。
 
反歌。
 
936 玉藻苅《タマモカル》。(海未通女等《アマヲトメラヲ》。見爾將去《ミニユカム》。船梶毛欲得《フネカヂモガモ》。浪高友《ナミタカクトモ》。)
 
等は、どもと訓べし。欲得《ガモ》を、がもとよめるは義訓にて、願ふ意の言也。一首の意は明らけし。
 
937 往《ユキ》囘《メグリ・カヘリ》。(雖見將飽八《ミトモアカメヤ》。名寸隅乃《ナキスミノ》。船瀬之濱爾《フナセノハマニ》。四寸流思良名美《シキルシラナミ》。)
 
往《ユキ》囘《メグリ・カヘリ》。
文字のまゝに、ゆきめぐりと訓べし。
 
雖見將飽八《ミトモアカメヤ》。
見るとものるを略きていへるは、古言の常也。十【廿七丁】に、相見鞆《アヒミトモ》云々。二十【五十五丁】に、美等母安加米也《ミトモアカメヤ》云々。又【六十丁】之婆之婆美等母《シバシバミトモ》云々などあり。
 
四寸流思良名美《シキルシラナミ》。
四寸流《シキル》のしきは重《シキ》にて、しきふる、しきなら、しき鳴などいふ、しきと同じく、重《シキ》る白浪の意也。十二【四丁】に、思咲八更々《シヱヤサラ/\》、思許里來目八面《シコリコメヤモ》(35)とあるも、きとこと通ひて、同言也。中ごろより、物のいやがうへに重る事を、しきりにといふも、これ也。後撰集戀三【端辭】に、おもひいでゝ、しきりにいひおくりける返事に云々。後拾遺集雜四に【惠慶法師】住吉の浦風いたく吹ぬらし、岸うつなみのこゑしきる也。猶いと多し。一首の意、明らけし。
 
山邊宿禰赤人。作歌一首。并短歌。
 
938 八隅知之《ヤスミシシ》。(吾大王乃《ワガオホギミノ》。神随《カミノマニ》。高所知流《タカシラシヌル・タカクシラセル》。稻見野能《イナミヌノ》。大海乃原笶《オホウミノハラノ》。荒妙《アラタヘノ》。藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》。鮪釣等《シビツルト》。海人船《アマブネ》散動《サワギ・トヨミ》。塩燒等《シホヤクト》。人曾左波《ヒトゾサハ》爾有《ナル・ニアル》。浦乎吉美《ウラヲヨミ》。宇倍毛釣者爲《ウベモツリハス》。濱乎吉美《ハマヲヨミ》。諾毛塩燒《ウベモシホヤク》。蟻往來《アリカヨヒ》。御覽《ミマス・ミラム》母知師《モシルシ》。清白濱《キヨキシラハマ》。)
 
高所知流《タカシラシヌル・タカクシラセル》。
高知《タカシル》とは、宮殿を高く知り領しまします事なる事、上【攷證一下九丁】にいへるが如く、ここは宮殿の事をいはざれど、印南野《イナミヌ》の行宮の事なる事、論なし。行宮の事をいはざるは、歌のつゞけがらなれば也。】
 
(36)稻見野能《イナミヌノ》。
印南郡の野也。上【攷證三上廿丁】に出たり。
 
荒妙《アラタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下廿六丁】に出たり。
 
藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》。
反歌には、藤江乃浦とありて、三【十五丁】に、荒栲《アラタヘノ》、藤江之浦爾《フヂエノウラニ》【この歌、人まろ※[覊の馬が奇]旅歌にて、攝津、播磨などの地名をよめる所に出て、又この歌を、十五の八丁にも載て、藤江とあり。】ともあれば、井は江の誤りなる事、明らかなれど、諸本如v此なれば、みだりに改る事なし。藤江浦の事は、上【攷證三上十九丁】に出たり。
 
鮪釣等《シビツルト》。
しびといふ魚は、古事記下卷【袁祁命】御歌に、阿蘇毘久流《アソビクル》、志毘賀波多傳爾《シビガハタテニ》云々。また、意布袁余志《オフヲヨシ》、斯毘都久阿麻余《シビツクアマヨ》云々。本集十九【廿九丁】に、鮪衝等《シビツクト》、海人之燭有《アマノトモセル》、伊射里火之《イサリビノ》云々。和名抄魚類に、鮪、和名、之比とありて、今もあり。まぐろといふ魚に似て、大きなるもの也。漢土にて鮪といふ魚は、禮記月令疏に、鮪似v※[魚+壇の旁]、而青黒。頭小而尖、似2鐵兜※[務の力が金]1。口在2領下1。大者爲2王鮪1、小者爲2叔鮪1。肉白云々とありて、中國にて、しびといふものとは別也。されど、古事記に志毘臣とあるを、書紀【武烈紀】には鮪とありて、訓注にも鮪此云2茲寐1とあれば、鮪の字をしびに當たる事いと古し。
 
海人船《アマブネ》散動《サワギ・トヨミ》。
散動を、こゝはさわぎと訓べし。この事は、上【攷證二下六十四丁】にいへり。
 
(37)人曾左波《ヒトゾサハ》爾有《ナル・ニアル》。
爾有は、なると訓べし。
 
蟻往來《アリガヨヒ》。
存生《ナガラヘ》ありて、ゆきかよふをいへり。この事、上【攷證二中十六丁】にいへり。
 
御覽《ミマス・ミラム》母知師《モシルシ》。
御覽を、みらんと訓るも、あしくはあらねど、こゝは天皇の御事を申奉る所なれば、見らんとては、無禮に聞ゆれば、見ますと訓べし。この字をしかよめるは義訓にで、見坐の意也。五【卅一丁】に、目前爾《メノマヘニ》、見在知在《ミマシシリマス》云々。八【卅丁】に、見末世吾妹兒《ミマセワギモコ》云々などあり。知師《シルシ》は、明らかに、いちじるき意なる事、上【攷證三上廿六丁】にいへるが如し。こゝは、たび/\行幸ありて、天皇|見坐《ミマス》もいちじるく、よき所なりといへる也。
 
清白濱《キヨキシラハマ》。
此卷【四十七丁】に、白沙《シラマナゴ》、清濱部者《キヨキハマベハ》、還往《ユキカヘリ》、雖見不飽《ミレドモアカズ》、諾石社《ウベシコソ》、見人毎爾《ミルヒトゴトニ》、語嗣《カタリツギ》、偲家良思吉《シヌビケラシキ》、百世歴而《モヽヨヘテ》、所偲將往《シヌバエユカム》、清白濱《キヨキシラハマ》ともありて、眞沙地の白く清き濱といふなり。
 
反歌三首。
 
939 奧浪《オキツナミ》。(邊波安美《ヘナミシヅケミ》。射去爲登《イサリスト》。藤江乃浦爾《フヂエノウラニ》。船曾動流《フネゾサワゲル》。)
 
安美《シヅケミ》を、しづけみと訓るは義訓也。二【卅五丁】に、安定を、しづまりとよめるも同じ。美は、さにの意也。動流は、こゝも、さわげると訓べし。一首の意は明らけし。
 
(38)940 不欲見野乃《イナミヌノ》。(淺茅押《アサヂオシ》靡《ナベ・ナミ》。左宿夜之《サヌルヨノ》。氣長在者《ケナガクアレバ》。家之小篠生《イヘシシヌバユ》。)
 
不欲見野乃《イナミヌノ》。
印南野《イナミヌ》也。不欲をいなとよめるは、いなと物を諾《ウベ》なはざる意もて書るにて、義訓也。四【五十五丁】に、不欲常云者《イナトイハヾ》云々。また【五十五丁】に、不浴者不有《イナニハアラズ》云々などもあり。
 
淺茅押《アサヂオシ》靡《ナベ・ナミ》。
押廓《オシナベ》は、おしなべと訓べし。なべは、なびけの約也。この事、上【攷證一下廿丁】にいへり。
 
左宿夜之《サヌルヨノ》。
左《サ》は發語なり。上【攷證二中八丁】に出たり。
 
氣長在者《ケナガクアレバ》。
氣《ケ》は來經《キヘ》のつゞまりにて、來經《キヘ》は月日の來《キタ》り經《フ》るをいひて、こゝは月日の長くしあればといへる也。この事、上【攷證二上二丁】にいへり。
 
家之小篠《イヘシシヌ》生《バユ・ブル》。
しぬばゆは、しぬばるにて、ゆはるの意也。上【攷證一下五十五丁】に出たり。小篠生を、しぬばゆとよめるは借訓也。家之《イヘシ》の之《シ》もじは助辭也。一首の意は、行幸の御ともなれば、山野にも伏よしにて、印南野のあさぢなど、おしなびけて、そが上にねぬるよの多くかさなれば、いとゞわびしくて、家をしも戀しく忍ばるとなり。
 
941 明方《アカシガタ》。(潮于乃道乎《シホヒノミチヲ》。從明日者《アスヨリハ》。下咲異六《シタヱマシケム》。家近附者《イヘチカヅケバ》。)
 
明方《アカシガタ》。
赤石潟《アカシガタ》にて、播磨也。
 
(39)下《シタ》咲《ヱマシ・ウレシ》異六《ケム》。
下咲《シタヱマシ》の下《シタ》は、心の中をいひて、十一【廿三丁】に、下言借見《シタイブカシミ》云々。また【廿七丁】下粉枯《シタコガレ》云々。また、した思ひ、した戀などもいふ、したと同じ。上【攷證二中五十七丁】にいへる、心の中を裏といふも、これにて、下と裏とは專ら同じ意也。異六《ケム》は、からんの意也。この事、上【攷證三上七十六丁】にいへり。一首の意は、歸路におもむきて、心中のよろこばしきをいひて、やう/\に家の近づきなば、心の中にゑましからんといふ也。
 
過2辛荷島1時。山部宿禰赤人。作歌一首。并短歌。
 
仙覺抄に、播磨國風土記を引て、韓荷島、韓人破v船、所v漂之物、漂2就於此島1、故云2韓荷島1云々とあり。和名抄郷名に、播磨國餝磨郡辛室【可良牟呂】とあるは、こゝにはあるべからず。
 
942 味澤相《アヂサハフ》。(妹目不數見而《イモガメシバミズテ》。敷細乃《シキタヘノ》。枕毛不卷《マクラモマカズ》。櫻皮纒《カニハマキ》。作流舟二《ツクレルフネニ》。眞梶貫《マカヂヌキ》。吾榜來者《ワガコギクレバ》。淡路乃《アハヂノ》。野島毛過《ノジマモスギ》。伊奈美嬬《イナミヅマ》。辛荷乃島之《カラニノシマノ》。島際從《シママヨリ》。吾宅乎見者《ワガヤドヲミレバ》。青山乃《アヲヤマノ》。曾許十方不見《ソコトモミエズ》。白雲毛《シラクモモ》。千重成來沼《チヘニナリキヌ》。許伎多武流《コギタムル》。浦乃《ウラノ》盡《ハダテ・ハテマデ》。往隱《ユキカクル》。島乃埼埼《シマノサキザキ》。隈毛不置《クマモオカズ》。憶曾吾來《オモヒゾワガコシ》。客乃気長彌《タビノケナガミ》。 )
 
(40)味澤相《アヂサハフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下十丁】にも出たり。語をへだてゝ、目の一言へかけて、つゞけし也。
 
妹目不數見而《イモガメシバミズテ》。
數《シバ》は、しば/\の意なる事、上【攷證三中五十一丁】にいへるが如く、目《メ》とは見えの反にて相見る事をいへる也。そは、四【五十六丁】に、君之目乎保利《キミガメヲホリ》。八【卅九丁】に、妹目
乎《イモガメヲ》、始見之埼乃《ミソメノサキノ》云々。十二【十九丁】に、妹之目乎將見《イモガメヲミム》などもありて、こゝは、妹をしば/\相見ざる意也。眞淵云、數の字は衍文にて、妹目不見而《イモガメミズテ》とありしなるべし。宣長云、この句は、いもがめかれてとよまんか云々。
 
敷細乃《シキタヘノ》。
印本、敷を數に誤れり。今、活字本に依て改む。
 
櫻皮纒《カニハマキ》。
櫻皮《カニハ》は、本草和名に、櫻桃、和名、波々加乃美、一名、加爾波佐久良乃美云々。和名抄木具に、樺、和名、加波、又云2加仁波1、今櫻皮有之云々とある、これにて、今も人のしれるもの也。和名抄木類に、朱櫻、和名、波々加、一云2邇波佐久良1とあるは、本草和名によるに、邇の上、加を脱せる也。古今集物名に【貫之】かにはざくら、かづけども、浪のなかには、さぐられで、風ふくごとに、うきしづむ玉、とも見えたり。こは、今も、この皮もて萬の器物をも綴《ト》ぢ、刀の鞘などをも卷にて、本草綱目に、樺木皮、堪v爲v燭、※[果/衣]2鞍弓※[皮+登]1、匠家用※[木+親]2※[韋+華]裏1、及爲2刀※[革+巴]之類1。謂2之暖皮1云々とあり。こゝに舟を卷よしあるは、この皮を針にかへて、舟を綴《トヅ》るか。又、舳を今蕨繩して卷如く、この皮にて卷たるか。その製造さだかにはしりがたし。さて、(41)このかにはざくらといふものは、木は櫻の類なれど、花は異なるもの也。源氏物語にかはざくらといふは、今の淺黄櫻をいへりときこゆれば、このかにはざくらとは別也。思ひまがふべからず。
 
伊奈美嬬《イナミヅマ》。
上【攷證四上廿一丁】に出たり。
 
吾宅乎見者《ワガヤドヲミレバ》。
わぎへは、わがいへを延(約カ)たる也。上【攷證四中四十七丁】に出たり。
 
青山乃《アヲヤマノ》。
遠山の青々と見ゆるをいふ。乃は如くの意にて、遠山は、それともたしかに見えざるものなれば、そことも見えずとはつゞけたり。
 
許伎多武流《コギタムル》。
※[手偏+旁]囘《コギメグ》る意なる事、上【攷證一下四十六丁】にいへるが如し。
 
浦乃《ウラノ》盡《ハダテ・ハテマデ》。
盡の字を、舊訓、はてまでと訓るは、いふまでもなく、契沖、眞淵など、うらのこと/”\とよまれしも、いかゞ。こゝは、うらのはだてと六言に訓べし。はだては極《ハテ》の意也。この事、上【攷證三中九丁】にいへり。
 
往隱《ユキカクル》。
舟を※[手偏+旁]て、行かくるゝをいへり。
 
島乃埼埼《シマノサキ/\》。
此卷【卅六丁】に、付賜將《ツキタマハム》、島之埼前《シマノサキ/\》、依賜將《ヨリタマハム》、礒乃崎前《イソノサキ/\》云々。十三【六丁】に、八十島之《ヤソシマノ》、島之埼邪伎《シマノサキザキ》云々。十九【卅六丁】に、佐之與良牟《サシヨラム》、礒乃崎々《イソノサキ/\》云々などあり。
 
(42)隈毛不置《クマモオカズ》。
隅はくま/”\にて、不置《オカズ》は不除《オカズ》の意にて、一【十五丁】に、隈毛不落《クマモオチズ》云々といふに同じ。置といふに、除の意なるがある事、上【攷證一上四十七丁】にいへるが如し。八【廿七丁】に、雨間毛不置《アマヽモオカズ》云々とあると同じ。
 
客乃気長彌《タビノケナガミ》。
まへにもいへるが如く、氣は來經《キヘ》のつゞまりにて、客にての月日の長さにといへる也。
 
反歌三首。
 
943 玉藻苅《タマモカル》。(辛荷乃島爾《カラニノシマニ》。島囘爲流《アサリスル》。水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》。家不念有六《イヘオモハザラム》。)
 
島囘爲流《アサリスル》。
あさりは求食《アサリ》にて、島囘の字をよめるは義訓なり。これらの事、上【攷證三中四十六丁】にいへり。
 
水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》。
水烏《ウ》の字を、うとよめるは義訓也。鵜の形ちの烏に似て、水に住るものなれば、その意もて、水烏とは書り。十九【廿一丁】には、水鳥とかけり。字の誤りなるべし。拾穗本には、こゝをも水鳥とかけり。鵜も水鳥なれば、これもよしありとは見ゆれば(どカ)、さては外の水鳥との別ちなければ、水烏と書る方まされり。四毛《シモ》は助辭にて、有哉《アレヤ》は有《アレ》と願ふ詞に(て脱カ)、哉《ヤ》は添たる也。この事、上【攷證二下四十三丁】にいへり。一首の意は、吾家を戀しく思ふにつけて、鳥などの思ふことなげにあそべるを、うらやめるにて、鵜にてもあらば、かく家(43)を戀しとはおもはざらましといふ也。
 
944 島《シマ》隱《ガクリ・ガクレ》。(吾※[手偏+旁]來者《ワガコギクレバ》。乏毳《トモシカモ》。倭邊上《ヤマトヘノボル》。眞熊野之船《ミクマヌノフネ》。)
 
島《シマ》隱《ガクリ・ガクレ》。
しまがくりと訓べし。十五【九丁】に、夜蘇之麻我久里《ヤソシマガクリ》、伎奴禮杼母《キヌレドモ》云々とあり。
 
乏毳《トモシカモ》。
ともしきかもの、きを略けるなり。この事、上【攷證五上十丁】にいへり。乏《トモシ》はうらやましき意也。この事も、上【攷證一下四十一丁】にいへり。毳をかもと訓るは借訓也。この事も、上【攷證四上十一丁】にいへり。一首の意は、吾も都のみ戀しきをりしも、熊野舟の大和へのぼるが、うらやましと也。
 
眞熊野之船《ミクマヌノフネ》。
下【攷證六下廿八丁】にくはしくいふべし。
 
945 風吹者《カゼフケバ》。(浪可將立跡《ナミカタヽムト》。伺候《サモラフ・マツホド》爾《ニ》。都多乃細江爾《ツタノホソエニ》。浦《ウラ》隱往《ガクリイヌ・ガクレヰヌ》。)
 
伺候《サモラフ・マツホド》爾《ニ》。
伺候は、さもらふと訓べし。さもらふとは、物を伺《ウカヾ》ひ候《マツ》意也思。この事、上【攷證三中七十三丁】にいへり。こゝは、浪か立んと伺ひ居、和《ナギ》んを候《マツ》意也。
 
都多乃細江爾《ツタノホソエニ》。
飾磨《シカマ》郡にて、今は、津田、細江、二村となりて、その間の川をいへりと、播磨巡覽圖會にいへり。
 
(44)浦《ウラ》隱往《ガクリイヌ・ガクレヰヌ》。
舊訓、往をゐぬとよめるは、いふまでもなき誤り也。元暦本、拾穗本など、往を居に作れり。さらば、うらがくりをりと訓べし。これに依れば、いとよろしけれど、さかしらならんもはかりがたければ、みだりには改めがたし。一首の意は、風の吹ば、もし浪の立事もやあるとて、風の和《ナグ》るを伺ひ待によりて、都多の細江の方に舟をやりて、浦かゝり往ぬとなり。
 
過2敏馬《ミヌメノ》1浦1時。山部宿禰赤人。作歌一首。并短歌。
 
敏馬浦は攝津國菟原郡なり。上【攷證三上十八丁】に出たり。
 
946 御食向《ミケムカフ》。(淡路乃島二《アハヂノシマニ》。直向《タヾムカフ》。三犬女乃浦能《ミヌメノウラノ》。奧部庭《オキベニハ》。深海松採《フカミルツミ》。浦《ウラ》囘《マ・ワ》庭《ニハ》。名告藻苅《ナノリソカリ》。深見流乃《フカミルノ》。見卷欲跡《ミマクホシミト》。莫告藻之《ナノリソノ》。己名惜三《オノガナヲシミ》。間使裳《マツカヒモ》。不遣而吾者《ヤラズテワレハ》。生友奈《イケリトモナ》重二《シ・ヘニ》。)
 
御食向《ミケムカフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下九丁】にも出たり。淡を粟にとりなしてつゞけたり。
 
(45)直向《タヾムカフ》。
眞向《マムカヒ》なるをいへり。上【攷證四上廿丁】に出たり。
 
三犬女乃浦能《ミヌメノウラノ》。
犬をぬの假字に用ひしは略訓なり。
 
深海松採《フカミルツミ》。
深き所に生る海松なり。上【攷證二中八丁】に出たり。
 
浦《ウラ》囘《マ・ワ》庭《ニハ》。
うらまにはと訓べし。この事、上【攷證一下十四丁】にいへり。
 
名告藻苅《ナノリソカリ》。
莫鳴菜なり。上【攷證三中四十丁】に出たり。
 
間使裳《マツカヒモ》。
九【十一丁】に、家人《イヘヒトノ》、春雨須良乎《ハルサメスラヲ》、間使爾爲《マツイカヒニセリ》。十【六十二丁】に、市白兼名《イチシロケムナ》、間使遣者《マツカヒヤラバ》。十一【五丁】に、
 
妹不告《イモニツゲネバ》、間使不來《マツカヒモコズ》。十七【廿三丁】に、多麻保己能《タマホコノ》、美知乎多騰保彌《ミチヲタトホミ》、間使毛《マツカヒモ》、夜流余之母奈之《ヤルヨシモナシ》云々などありて、間々《アヒ/\》に行かよふ使をいへり。いま、奉公する人に小間使《コマツカヒ》といふがあるも、この言の遣れるなるべし。
 
生友奈《イケリトモナ》重二《シ・ヘニ》。
生たるこゝちもせぬよし也。この事、上【攷證二下五十二丁】にいへり。重二は、しと訓べし。上【攷證三中六十五丁】にいへるが如く、並二、二二などを、しと訓ると同じ。こは、十六をしゝ、八十一をくゝなどの假字に用ひし類なり。
 
(46)反歌一首。
 
947 爲間乃海人之《スマノアマノ》。(塩《シホ》燒《ヤキ・ヤク》衣乃《キヌノ》。奈禮名者香《ナレナバカ》。一日母君乎《ヒトヒモキミヲ》。忘而將念《ワスレテオモハム》。)
 
塩《シホ》燒《ヤキ・ヤク》衣乃《キヌノ》。
塩燒衣とは、さる衣の別にあるにはあらず。鹽やく海人が衣などは、穢《ナレ》ぬるものなれば、穢《ナル》といはん料にのみいへり。この事、上【攷證三中九十四丁】にいへるが如く、穢《ナル》とは、俗に、よごれるといふ意にて、人に馴《ナル》るを、衣の穢《ナル》るにかけていへり。
 
忘而將念《ワスレテオモハム》。
おもひわすれんといふ意にて、忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》といふに同じ。上【攷證一下五十六丁】考へ合すべし。この歌は、都にて、あたらしく逢そめたる女などに、ほどもなく別れて下りなどせしをよめるにて、一首の意は、君に近くあひ馴て後ならば、思ひわするゝ事もあらんを、いまだ馴ざれば、いとゞ戀しくて、一日もわするゝ事なしと也。
 
右。作歌年月未v詳也。但以v類故載2於此次1。
 
右の敏馬浦の歌は、いづれのをりの歌にか、たしかならざれど、類をもて、こゝに載たりとなり。
 
四年丁卯春正月。勅2諸王諸臣子等1。散2禁於授刀寮1時。作歌一首。并(47)短歌。
 
授刀寮は、續日本紀に、慶雲四年七月丙辰、始置2授刀舍人寮1とある、これにて、こゝにいふ諸王諸臣子等は、授刀舍人なるべし。この後、天平寶字三年十二月甲午、置2授刀衛1。また、天平神護元年二月甲子、改2授刀衛1、爲2近衛府1とあり。散禁は、獄令に、凡禁v囚、死罪枷※[木+丑]、婦女及流罪以下去v※[木+丑]、其杖罪散禁云々。義解に、謂不v關2木索1、唯禁2其出入1也云々とありて、散禁せらるゝ輕き罪にて、たゞその寮にとゞめて、外に出る事を禁ぜらるゝ也。こゝは左注にいへる罪に依て、散禁せられし也。
 
948 眞葛延《マクズハフ》。(春日之山者《カスガノヤマハ》。打靡《ウチナビク》。春去往跡《ハルサリユクト》。山上丹《ヤマノベニ》。霞田名引《カスミタナビキ》。高圓爾《タカマドニ》。※[(貝+貝)/鳥]鳴沼《ウグヒスナキヌ》。物部乃《モノノフノ》。八十友能壯者《ヤソトモノヲハ》。折木四哭之《カリガネノ・ヲリフシモシ》。來繼皆石此續《・キツギミナシコヽニツギ》。常丹有脊者《ツネニアリセバ》。友名目而《トモナメテ》。遊物尾《アソバムモノヲ》。馬名目而《ウマナメテ》。往益里乎《ユカマシサトヲ》。待難丹《マチガテニ》。吾爲春乎《ワガスルハルヲ》。决卷毛《カケマクモ》。綾爾恐《アヤニカシコク》。言卷毛《イハマクモ》。湯湯敷有跡《ユヽシカラムト》。豫《カネテヨリ・アラカジメ》。兼而知者《カネテシリセバ》。千鳥鳴《チドリナク》。其佐保川丹《ソノサホガハニ》。石二生《イソニオフル》。菅根取而《スガノネトリテ》。之努布草《シヌブグサ》。解除而益乎《ハラヒテマシヲ》。往水丹《ユクミヅニ》。潔而益(48)乎《ミソギテマシヲ》。天皇之《スメロギノ》。御命恐《ミコトカシコミ》。百礒城之《モモシキノ》。大宮人之《オホミヤビトノ》。玉桙之《タマボコノ》。道毛不出《ミチニモイデズ》。戀比日《コフルコノゴロ》。)
 
眞葛延《マクズハフ》。
葛は山に延もの故に、春日の山とつゞけしのみ也。
 
打靡《ウチナビク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三上廿九丁】にも出たり。
 
春去往跡《ハルサリユクト》。
春になりゆくとての意也。さて、大かたは、春去來者《ハルサリクレバ》とのみいふを、こゝと、この下【廿五丁】に、冬木成《フユゴモリ》、春去行者《ハルサリユカバ》云々とのみ、春去行といへり。來《クル》と、行《ユク》とは、いたく違へるやうにきゆれど、上【攷證一上廿九丁】にいへるが如く、春去《ハルサリ》、秋去《アキサリ》などいふは、みな春《ハル》に成《ナリ》、秋《アキ》に成《ナル》意にて、春去來《ハルサリクル》といふは、春に成來る意、春去往《ハルサリユク》といふは、春に成往意なれば、いづれにても同じ意なり。跡《ト》はとての意也。
 
山上丹《ヤマノベニ》。
上は野上《ヌノベ》などの上と同じく、邊《ベ》の意也。
 
高圓爾《タカマドニ》。
高圓山に(はカ)春日のほとり也。上【攷證二下七十三丁】に出たり。
 
(49)折木四哭之《カリガネノ・ヲリフシモシ》。
舊訓は、いふまでもなき誤り也。かりがねのと訓べし。十【卅八丁】に、月乎吉三《ツキヲヨミ》、切木四之泣所聞《カリガネキコユ》云々ともあり。これらの字を、かりがねと訓る古人の説多かり。まづ古人の説をあげて、後に解べし。代匠記云、所木モ、切木モ、苅ノ義ナレバ、雁ニ借テカケリ。折木ト切木ト義同ジ。四ノ字ハ、共ニ意得ガタシ云々。眞淵云、折木四を雁に假たるは、幹《ミキ》、蘖《ヒコバエ》。枝、葉の四つを、一手に切は、鎌もて苅とるばかりの小木也。こは例の戯書なり云々。略解云、或人云、折は斷の誤也。孟荘子造v鋸、截2斷木1器とあり。四は器の誤なるべし。鋸の音、かり/\ときこゆれば、かりの假字に用ひたるならん云々。これらの説、皆非なり。そもそも、折木四、切木四などを、かりの假字としたるは、和名抄雜藝類に、兼名苑云、樗蒲、一名、九采。【和名、加利宇知。】また、雜藝具に、陸詞云、※[木+梟]。【音軒。加利。】※[木+梟]子、樗蒲采名也とありて、古しへ、博戯の采の名を、かりと云し也。さて、漢土のいにしへの博戯に、五木とて、木の采を五つよせて爲るあり。その事は、五木經にくはしく見えたり。この五木を、四木として、采四つをよせて爲るもあり。この事、演繁露、樗蒲經略などに見えたり。されば、四木も博戯にて、中國にては、これをかりといふによりて、切木四、折木四など書るは、かの四木の采は小さき木を四つよせたるもの故、折木を四つよせたる意もて、これを義訓して、かりとはよめる也。折木、切木などは、おのづからに小さき木の意あれば也。さて、この説は、北氏の梅園日記の説也。くはしく、かの書によりて、しるべし。
 
來繼皆石此續《・キツギミナシコヽニツギ》。
この六字、讀がたし。必らず誤りあるべし。されば、諸説をあげて、後人の考へんたよりとするのみ。略解云、翁は、皆は春の誤にて、之來繼春石(50)五字を、しきつぎはるしとよむべし。さらば、鴈がねは、しきつぎといはん枕詞とせん意は、春の及次《シキツギ》つゝ在ものならばといふならんといはれき。契沖は、かりがねのしきつぎみなしと訓て、四の字心得がたけれど、折木、切木は、同じく苅といふ意に、鴈に用たるべし。さて、鴈は友をしたしみ戀るものなれば、其如く、おもふどち、皆、きたりつぎて、たえず常にありせばとつゞけたり。みなしのしは助辭也。正月の歌なれば、鴈のかへるころなるに、わたりくる時の心はかなはずやと難ずる人あらん。これは、たゞ友だちの思ひあへるを、鴈によせていふ也。時にかゝはるべからずといへり。今按に、古しへの歌は、鴈の秋來て春かへるものと、きはめてよめりとは見えず。卷十、秋の鴈をよめる歌多き中に、秋風にやまとへこゆる鴈がねは、いや遠さかる雲隱つつ。吾やどに鳴しかりがね、雲の上に今夜鳴なり、國へかもゆく、などよめるが中に、鴈がねきこゆ、いまし來らしもなどもよめるを見れば、古しへ人は、春秋をいはず、聲をしもきけば、行さまにも、來るさまにも、ひろくよめりし也。されば、こゝは、皆は比日二字を一字に誤、石は如の誤にて、來繼比日は、きつぎこのごろと訓、如此續は、かくつぎてと訓べし。宣長考も符合せり。さて、意は宣長のいへるごとく、鴈がねのは、來つぎといはん序にて、きつぎは、春の來つぎて、このごろの如く、かくつゞきて常に春なりせばといふ也。
 
往益里乎《ユカマシサトヲ》。
この乎の字も、吾爲春乎《ワガスルハルヲ》の乎の字も、ものをの意にて、馬なめて行んさとなるものを、吾待がてにする春なるものをの意也。
 
决卷毛《カケマクモ》。
心にかけて思ひ奉らんもといふ意なる事、上【攷證二下十七丁】にいへるが如し。さて、决は缺と通へば、借字して書る也。干禄字書に依に、决は決の俗字にて、集韻に、決音※[門/葵]、與(51)v缺同、或从v血作v※[血+缺の旁]、亦作v決とあるにてしるべし。
 
湯湯《ユヽ》敷有《シカラム・シクアラバ》跡《ト》。
ゆゝしは、上【攷證二下十六丁】にいへるが如く、忌々しき意にて、こゝは、心にかけて思ひ泰らんもかたじけなく、言に出て言んも忌々しき、かしこまりを、かうぶらんと、かねてよりしるものならばといふ意也。
 
豫《カネテヨリ・アラカジメ》。
こは、かねてよりと訓べし。この事、上【攷證一下五十四丁】にいへり。
 
千鳥鳴《チドリナク》。
集中、多く、ちどりなく佐保川とつゞけたり。こゝも、千鳥に用はなけれど、佐保川といはん料にのみいへり。
 
石二生《イソニオフル》。
石をいそと訓は、しとそと音通へば、いしといふに同じ。又、意も石《イシ》の上に生る意也。二【廿六丁】に、礒之於爾《イソノウヘニ》、生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》云々とある所【攷證二中四十丁】に、くはしくいへり。又、因にいふ、川にも、池にも、礒といへり。そは、九【十七丁】に、三重乃河原之礒裏爾《ミヘノカハラノイソノウラニ》云々とあるは、川にいひ、二【卅丁】に、水傳礒乃浦囘乃《ミヅツタフイソノウラマノ》云々とあるは、池にいへり。されば、海にのみいへりと思ふべからず。
 
菅根取而《スガノネトリテ》。
三【四十六丁】に、天有《アメナル》、左佐羅能小野之《サヽラノヲヌノ》、七相菅《ナヽフスゲ》、手取持而《テニトリモチテ》、久堅乃《ヒサカタノ》、天川原爾《アマノカハラニ》、出立而《イデタチテ》、潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》云々とある所【攷證三下十丁】にいへるが如く、菅も祓の具なれば、かく(52)いへり。この句は、解除而益乎《ハラヒテマシヲ》といふへかけて心得べし。
 
之努布草《シヌブグサ》。
垣衣をしのぶ草といふ事、本草和名、和名抄などに出て、中ごろの歌にも多くよみたれど、こゝにいへる之努布草《シヌブグサ》は、まことの草にあらず。手向草《タムケグサ》【一の十八丁】戀草《コヒグサ》【四の四十五丁】目不醉草《メサマシグサ》【十二の廿四丁】可多良比具佐《カタラヒグサ》【十七の四十丁】などの類にて、草と書るは借字、種《クサ》にて、種《タネ》の意也。拾遺集雜上に、【元輔】ゆくすゑのしのぶ草にもなるやとて、露のかたみも、おかんとぞ思ふ。重之集に、ことのはに、いひおく露もなかりけり、しのび草には、ねをのみぞなく、などあるも、こゝと同じく、まことの草にあらず。
 
解除而益乎《ハラヒテマシヲ》。
はらひは祓にて、書紀神代紀上にも、解除の字を訓て、身の罪、咎、過をも、神に祈りて拂棄《ハラヒスツ》る意也。
 
潔而益乎《ミソギテマシヲ》。
みそぎは、上【攷證三下十丁】にいへるが如く、身の罪、各、障る事をも、洗ひ滌《スヽギ》て、身を淨まはる意也。二つの益乎《マシヲ》は、ましものをの意にて、こゝまでの意は、忌々しく恐《カシコ》き罪をかうぶらんと、かねてより知るものならば、菅根など取て、祓物として、春の野山のおもしろきをしのぶ心をも拂ひ棄ましものを。又、川の邊にみそぎして、身の障りをて《(マヽ)》洗滌ましものをといふ也。
 
大宮人之《オホミヤビトノ》。
こは、散禁せられしわれたちをいへり。宮、印本、官に誤れり。今、活字本に依て改む。
 
(53)道毛不出《ミチニモイデズ》。
散禁せられしかば、大路にも出ず、授刀寮にこもり居る也。
 
戀比日《コフルコノゴロ》。
こもり居れば、山野のおもしろき、戀らるゝよし也。
 
反歌。
 
949 梅柳《ウメヤナギ》。(過良久惜《スグラクヲシミ》。佐保乃内爾《サホノウチニ》。遊事乎《アソビシコトヲ》。宮動々爾《ミヤモトロヾニ》。)
 
佐保乃内爾《サホノウチニ》。
内は境内をいふ。十【六丁】に、春日有《カスガナル》、羽買之山從《ハガヘノヤマユ》、猿帆之内敝《サホノウチヘ》、鳴往成者《ナキユクナルハ》、孰喚子鳥《タレヨブコドリ》。また【四十七丁】我門爾《ワガカドニ》、禁田乎見者《モルタヲミレバ》、沙穗内之《サホノウチノ》、秋芽子爲酢寸《アキハギスヽキ》、所念鴨《オモホユルカモ》。十一【卅丁】に、佐保乃内從《サホノウチユ》、下風之吹禮波《アラシフケレバ》云々。十七【廿一丁】に、作保能宇知乃《サホノウチノ》、里乎往過《サトヲユキスギ》云々などもあり。(頭書、書紀齋明紀御製に、於母之樓枳《オモシロキ》、伊麻紀能禹知播《イマキノウチハ》、倭須羅〓麻旨珥《ワスラユマジニ》。)
 
宮動々爾《ミヤモトロヾニ》。
元暦《(マヽ)》、動の下、重點なし。いかゞ。十三【四丁】にも、二所まで、動動と重ねてかけり。さて、とゞろは、上【攷證四中十一丁】にいへるが如く、鳴響《ナリヒヾ》く意にて、一首の意は、梅やなぎなどの盛りの過るが惜さに、遠くもあらぬ佐保の里の中にて遊たりし、その事を、宮中もとゞろくばかりに、人にいひさわがれて、はてには、かくかしこまりをかうぶれる事よといふ也。
 
右。神龜四年正月。(數王子及諸臣子等。集2於春日野1。而伸2打毬之(54)樂1。其日忽天陰雨雷電。此時宮中無2待從及侍衛1。勅行2刑罰1。皆散禁於授刀寮1。而妄不v得v出2道路1。于v時悒憤即作2斯歌1。作者不詳。)
 
打毬。
類聚國史に、弘仁十三年正月戊申、御2豐樂殿宴1、五位已上及蕃客奏2踏歌1、渤海國使王文矩等打毬。賜2綿二百屯1爲v賭云々。續日本後紀に、承和元年戊午、天皇御2武徳殿1、令2四衛府1馳2盡種々馬藝及打毬之態1云々。荊楚歳時記に、寒食禁火三日、打毬※[革+秋]※[革+遷]施鈎之戯云々。演繁露に、軍中打毬之戯、則以v杖拂v毬、使2之馳走1、而用2快馬1逐v之、尚存2鞠域之法1云々。和名抄雜藝類に、打毬、師説云、萬利宇知。蹴鞠、世間云2末利古由1云々などあるうち、續日本後紀、演繁露などに見えたるは、正しく今の打毬と同じく、馬上にてするわざ也。さるを、書紀皇極天皇三年紀に、中臣鎌子連附2心於中大兄1、疏然未v獲v展2其幽抱1。偶預2中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶1、而候2皮鞋隨v※[毛+菊]脱落1、取2置掌中1、前跪恭奉云々。史記驃騎傳正義に、※[就/足]鞠即今之打毬也云云などあるは、蹴鞠をいへり。されば、今こゝにいへる打毬は、いづれをいへるならん。考へがたし。
 
待從。
待從は侍從なり。されど、誤りにはあらず、上【攷證三下二丁】※[立心偏+可]怜《アハレ》の所にいへるが如く、二字連續する時は、上下の扁旁によりて、扁旁をかへもし、改めもする事、一つの例也。そは、集中、感嬬を※[女+感]嬬に作り、袍綿《キヌワタ》を※[糸+包]綿に作れる類なり。侍從を待從に作れるは、三【卅九丁】にもあり。
職員令に、中務省、侍從八人、掌2常侍規諫拾v遺補1v闕。内舍人九十人、掌3帶v刀宿衛供2奉雜(55)使1。若駕行分2衛前後1云々。
 
侍衛。
この授刀寮に散禁せられしは、前にもいへるが如く、授刀舍人にて、前に引る職員令に帶刀とある、則これ也。されば、令にいへるが如く、宮中に宿衛するよして《(マヽ)》にて、侍衛とはいへり。
 
悒憤。
うれへいきどほる意也。應〓報2※[麻垂/龍]惠恭1書に、悒憤不v逞、祇以増v毒云々とあり。
 
五年戊辰。幸2于難波宮1時。作歌四首。
 
この行幸の事、紀に見えず。印本、時の字なし。今、目録に依て補ふ。目録には、この四首の歌を、正しく千年の歌とせり。さて、この四首の歌を考るに、皆、相聞の歌にて、行幸のをりの歌には似つかはしからず。されど、御供にて人をおもひて、よめるにもあるべし。
 
950 大王之《おほきみの》。(界賜跡《サカヒタマフト》。山守居《ヤマモリヰ》。守云山爾《モルトイフヤマニ》。不入者不止《イラズバヤマジ》。)
 
界賜跡《サカヒタマフト》。
二【廿四丁】に、神樂浪乃《サヾナミノ》、大山守者《オホヤマモリハ》、爲誰可《タガタメカ》、山爾標結《ヤマニシメユフ》、君毛不有國《キミモアラナクニ》。三【四十二丁】に、山守之《ヤマモリノ》、有家留不知爾《アリケルシラニ》、其山爾《ソノヤマニ》、標結立而《シメユヒタテヽ》、結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》などもある如く、山守を居おきて、こ(56)こよりは公の料の御山ぞと、界をたてゝ守る也。跡はとての意也。書紀、成務紀、孝徳紀などに出たる、國、郡、山、川などの界を定るなど、こと/\しき事にはあらず。
 
山守《ヤマモリ》居《ヰ・スヱ》。
山もりゐと訓べし。すゑとよむ時は、公より山守を居しめ給ふなれば、四の句を守云山爾といひては意たがへり。
 
守云山爾《モルトイフヤマニ》。
云は、といふと訓んか、とふと訓んか、定めがたし。いづれも例多ければ也。この歌、喩歌にて、女を守る人のあるを、山守によそへて、たとへがたく、まもれりとも、いひよらではあらじといふ也。
 
951 見渡者《ミワタセバ》。(近物可良《チカキモノカラ》。石隱《イハガクリ・イソガクレ》。加我欲布珠乎《カヾヨフタマヲ》。不取不已《トラズバヤマジ》。)
 
近物可良《チカキモノカラ》。
上【攷證四下卅七丁】にいへるが如く、ものからは、ものながらの意也。
 
石隱《イハガクリ・イソガクレ》。
二【卅四丁】に、神佐扶跡《カムサブト》、磐隱座《イハガクリマス》云々ともあれば、いはがくりとよむべし。
 
加我欲布珠乎《カヾヨフタマヲ》。
十一【廿六丁】に、燈之《トモシビノ》、陰爾蚊蛾欲布《カゲニカヾヨフ》、虚蝉之《ウツセミノ》、妹蛾咲状思《イモガヱマヒシ》、面影爾所見《オモカゲニミユ》ともありて、かゞよふは、かゞやくといふに同じく、よふは、たゞよふ、いざよふなどいふと同じく、詞也。さて、この歌も、人を玉によそへたるにて、一首の意は、見わたせば、いと近きものながら、さすがに、さだかにありとも見えず。石《イハ》ほのかげにかくろひて、ち(57)ら/\とほのめきかゞやく玉を取得ではやまじといふにて、女などの近き所にありながら、さだかに見る事もかなはぬによそへたり。さて、このかゞよふ玉は、あはび玉をいふなるべし。
 
952 韓衣《カラゴロモ》。(服楢乃里之《キナラノサトノ》。島待爾《シママツニ》。玉乎師付牟《タマヲシツケム》。好人欲得《ヨキヒトモガモ》。)
 
韓衣《カラゴロモ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。奈良の里を、衣といふより、服穢《キナル》と詞を轉じてつゞけし也。
 
股楢乃里之《キナラノサトノ》。
こは、奈良の里なるを、韓衣といふより、服ならとはつゞけたり。十二【廿七丁】に、舊衣《フルコロモ》、著楢乃山爾【これも、印本には、戀衣とせり。改るよしは、その所にいへり。】ともありて、奈良の上へ服もじをつけて、つゞけしにて、布留川を、かきくらし雨ふる川とつゞけ、つが野を、吾妹子をきゝつが野べのとつゞけ、こせ山を、吾兄子を、こちこせ山などつゞけし類なり。
 
島待爾《シママツニ》。
松(待ノ誤カ)は借字にて、松なり。島は、代匠記に、島ハ所ノ名ナルベシ。第五ニ、奈良路ナル島ノ木立トヨメル歌ニ付テ云ガ如シ云々といはれつるが如し。この事、上【攷證五下十三丁】にいへり。
 
玉乎師付牟《タマヲシツケム》。
松が枝に玉を付るにて、木の枝に玉などを付てかざれるは、古しへ、人を迎ふる禮儀なりとおぼし。そは、古事記上卷、石屋戸の條に、天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而、於2上枝1取2著八尺勾瓊之五百津之御須麻流之玉1、於2中枝1取2渓八尺鏡1、於2下枝1取2垂白丹寸手青丹寸手1而云々。この外、書紀、景行天皇十二年紀、仲哀天皇八年紀な(58)どに、賢《(マヽ)》の枝に玉鏡劔などをかけて、天皇を迎へ奉る事あるにてしるべし。師《シ》は助辭なり。
 
好人欲得《ヨキヒトモガモ》。
好人《ヨキヒト》とは、上【攷證一上四十二丁】にいへるが如く、尊き人をいへり。管子、國畜篇に、以2珠玉1爲2上幣1、以2黄金1爲2中幣1、以2刀布1爲2下幣1云々とある如く、いにしへ、玉をもて寶とせしゆゑ、賓客を迎ふるに玉をいへる事多し。本集、此卷【卅四丁】に、豫《カネテヨリ》、公來座武跡《キミキマサムト》、知麻世婆《シラマセバ》、門爾屋戸爾毛《カドニヤドニモ》、珠數益乎《タマシカマシヲ》といへるもこれ也。この歌も、前後の歌と同じく、相聞の歌にて、一首の意は、わが奈良の里なる松が枝に、玉など付かざりて待奉らんほどに、わが思ふ尊き人もこよかしと願ふ意也。略解に、奈良の里に住る女のうるはしきを見て、うま人にめでさせまほしく思ふ意にや。宣長云、この卷の下に、吾やどの君松の樹にともよめれば、こゝも、島は君の誤にて、好は取の字の誤ならん。きならのさとのきみまつに云々。結句、とらん人もがと訓べし云云。これらの説、心得がたし。
 
953 竿牡鹿之《サヲシカノ》。(鳴奈流山乎《ナクナルヤマヲ》。越將去《コエユカム》。日谷八君《ヒダニヤキミガ》。當不相將有《ハタアハザラム》。)
 
竿牡鹿之《サヲシカノ》。
竿の字を書るは借訓にて、さは例の發語、をは雄にて、男鹿なり。此卷【四十二丁】に、狹男牡鹿者《サヲシカハ》、妻呼令動《ツマヨビトヨメ》云々。八【卅六丁】に、吾岳爾《ワガヲカニ》、樟牡鹿來鳴《サヲシカキナク》云々。十【卅三丁】に、竿志鹿之心相念《サヲシカノコヽロアヒオモフ》云々などありて、集中いと多し。和名抄、毛群名に、日本紀私記云、牡鹿、佐乎之加とあり。また此卷【四十四丁】に、左牡鹿乃《サヲシカノ》云々。十【卅九丁】に、左牡鹿鳴裳《サヲシカナクモ》など、牡鹿を、をしかとも訓つれ(59)ど、地名の葛飾を、三【四十八丁】九【卅四丁卅五丁】などに、勝牡鹿と書るにて、牡鹿を、しかとのみよめるをしるべし。
 
越將去《コエユカム》。
活字本、越の字なきは、脱せし也。
 
當不相將有《ハタアハザラム》。
當は、上【攷證一下六十三丁】にいへるが如く、まさにの意にて、一首の意は、さを鹿は多く妻戀して鳴ものなるを、そのさをしかの鳴なる山を越ゆく日さへも、吾は思ふ人にまさにあはずしてあらんかといふなり。
 
右。笠朝臣金村之歌中出也。或云。車持朝臣千年作之也。
 
代匠記云、金村ノ集ニハ載ナガラ、作者ヲ云ヌヲ、或人ハ、千年ガ歌ナリト云ト注スル意也。金村ノ集ニ他人ノ歌ヲ載ルニテ、人丸ノ集等モナズラヘテ知ベシ。問云、金村歌中出也ト云ヘルハ、金村ノ歌トスルニアラズヤ。答云、シカラズ。唯、是、金村ノ集ニ載テ、作者ヲシラヌ歌ナリ。金村ガ歌ナラバ、初端作ニ、幸2于難波宮1時、笠朝臣金村作歌四首ト云テ、此ニハ、右或云車持朝臣千年作之也トコソ異説ヲ擧ベケレ。
 
膳王歌一首。
 
(60)上【攷證三下廿八丁】に出たり。そこには膳部王とあり。こゝには部の字を脱せしなるべし。
 
954 朝波《アシタニハ》。(海邊爾安左里爲《ウナビニアサリシ》。暮去者《ユフサレバ》。倭部越《ヤマトヘコユル》。雁四乏母《カリシトモシモ》。)
 
うなびは、字(の脱カ)ごとく、うみべなり。四《シ》は助辭。乏《トモシ》はうらやましき意にて、この歌も、行幸の御ともなどにて、よめる歌にて、鴈などの、朝には、海べに出て求食《アサリ》しつゝ居れども、暮べになれ(ば、脱カ)大和の方へかへりかへりするが、うらやましといふなり。
 
右作歌之年不v審也。但以2歌類1。便載2二此次1。
 
右は、行幸の御供の歌めきて、同じ類なれば、作れる年月は不v審ども、こゝに載たりといふなり。
 
太宰少貳。石川朝臣足人歌一首。
 
上【攷證四上四十七丁】に出たり。
 
955 刺竹之《サスタケノ》。(大宮人乃《オホミヤビトノ》。家跡住《イヘトスム》。佐保能山乎者《サホノヤマヲバ》。思哉毛君《オモフヤモキミ》。)
 
(61)刺竹之《サスタケノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中四十七丁】に出たり。
 
大宮人乃《オホミヤビトノ》。
こゝには旅人卿をさせり。
 
家跡住《イヘトスム》。
跡は、としての意也。上【攷證五下十七丁】に出たり。
 
佐保能山乎者《サホノヤマヲバ》。
こゝにかくいへるを見れば、旅人卿の父、安麻呂卿の住れし佐保の家に續て、旅人卿住れしなるべし。安麻呂卿をば、集中、皆、佐保大納言といへるにてもしるべし。されど、この卿の古郷は、いと定めがたき事あり。そは、上【攷證三中廿三丁】にいへり。また、下【攷證此卷四十一丁】にもいふべし。
 
思哉毛君《オモフヤモキミ》。
君とは旅人卿をさせり。三【卅丁】に、藤浪之《フヂナミノ》、花者盛爾《ハナハサカリニ》、成來《ナリニケリ》、平城京乎《ナラノミヤコヲ》、御念八君《オモホスヤキミ》ともあり。一首の意は、久しくこの太宰府にましませば、家として住たまふ佐保の山を戀しく、おもほめ《(マヽ)》すやいかにとなり。
 
帥大伴卿。和歌一首。
 
956 八隅知之《ヤスミシゝ》。(吾大王乃《ワガオホキミノ》。御食國者《ヲスクニハ》。日本毛此間毛《ヤマトモコヽモ》。同登曾思《オナジトゾオモフ》。)
 
(62)御食國は、をすぐにと訓べし。御の字は添て書る也。十八【廿丁】に、御食國者《ヲスグニハ》、左可延牟物能等《サカエムモノト》云々ともあり。さて、をすぐにとは、天皇のしろしめす國を惣いふ事なる事、上【攷證一下五丁廿七丁】にいへるが如し。日本《ヤマト》は、もじには日本と書たれど、大和國なり。この事も、上【攷證一下十六丁】にいへり。一首の意は、まへの足人の歌に、佐保の山をばおもふやも君といへるに答へて、吾天皇のしろしめす國の中は、故郷の大和の國も、この太宰府も、同じ事なれば、何かやまとをのみ戀しとおもはんとなり。
 
冬十一月。太宰官人等。奉v拜2香椎廟1訖。退歸之時。馬駐2于香椎浦1。各述v懷作歌。
 
香椎廟は、書紀仲哀紀に、八年正月幸2筑紫1。【中略】己亥到2儺縣1、因以居2橿日宮1。【古事記には※[言+可]志比宮とあり。】神功紀に、仲哀天皇九年、皇后還詣2橿日浦1などある、この地にて、和名抄に、筑前國糟屋郡香椎、加須比とあるは、志を須に訛れる也。仙覺抄に引る筑前國風土記に、到2筑紫國1例先參2謁于※[加/可]襲宮1【可紫比也。】とあり。この御廟は、拾芥抄に、香椎、筑前。公卿宣云、件社或神功皇后廟、或猶仲哀天皇廟、無2一定1とあれど、下に引る國史に、新羅を伐んとしては、先この御廟に奏したまひ、大唐の貢物を奉りたまふよしあるをもて見れば、神功皇后を鎭祭奉る御廟なる事、疑ひなし。續日本紀に、天平九年四月乙巳、遣2使於伊勢神宮、大神社、筑紫住吉八幡二社、及香椎宮1、奉v幣以告2新羅无禮之状1。天平寶字三年八月己亥、遣2太宰帥三品船親王於香椎廟1、奏d應v伐2新羅1之状u。六年(63)十一月庚寅、遣2參議從三位式部卿藤原朝臣巨勢麻呂1、【中略】奉2幣于香椎廟1、以爲v征2新羅1、調2習軍旅1也。日本紀略に、大同二年正月辛丑、遣v使奉2大唐綵幣於香椎宮1などありて、この後の國史にも、延喜式にも、多く見えたり。猶この御廟の事は、筑前國續風土記、古事記傳などにくはしく見えたり。ひらき見てしるべし。
 
帥大伴卿歌一首。
 
957 去來兒等《イザコドモ・イザヤコラ》。(香椎乃滷爾《カシヒノカタニ》。白妙之《シロタヘノ》。袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》。朝菜採手六《アサナツミテム》。)
 
去來兒等《イザコドモ・イザヤコラ》。
去來《イザ》は、いざと催す詞。兒等《コドモ》は、必らず童ならでも、人を親しみいふ言にて、こゝは從者をいへり。この事、上【攷證一下五十一丁】にいへり。
 
香椎乃滷爾《カシヒノカタニ》。
香椎は香椎の浦にて、滷は干潟をいふ。
 
袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》。
ぬれては、ぬらしての意なり。四【五十八丁】に、風高《カゼタカク》、邊者雖吹《ヘニハフケドモ》、爲妹《イモガタメ》、袖左倍所沾而《ソデサヘヌレテ》、刈流玉藻焉《レルタマモゾ》。十二【卅七丁】に、若之浦爾《ワカノウラニ》、袖左倍沾而《ソデサヘヌレテ》、忘貝《ワスレガヒ》、拾跡妹者《ヒロヘドイモハ》、不所忘爾《ワスラエナクニ》。二【十四丁】に、安乎奈美爾《アヲナミニ》、蘇弖佐閉奴感禮弖《ソデサヘヌレテ》、許具布禰乃《コグフネノ》、可之布流保刀爾《カシフルホドニ》、左欲布氣奈武可《サヨフケナムカ》などあるも、みな、ぬらしての意也。左倍といふにて、裾はもとよりなるをしるべし。
 
朝菜採手六《アサナツミテム》。
朝菜は、朝食《アサケ》の料に、礒邊に海菜をつむ也。すべて、菜にまれ、魚にまれ、なといふは、食料のものなる故の名なり。十四【十七丁】に、許乃河泊爾《コノカハニ》、安佐奈(64)安良布兒《アサナアラフコ》云々。催馬樂、我門歌に、和加々止爾《ワガヽドニ》、宇波毛乃須曾奴禮《ウハモノスソヌレ》、之太毛乃須曾奴禮《シタモノスソヌレ》、安左名川美《アサナツミ》、由不名川見《ユフナツミ》云々などあり。一首の意は明らけし。
 
大貳小野老朝臣歌一首。
 
上【攷證三中十八丁】に出たり。
 
958 時風《トキツカゼ》。(應吹成奴《フクベクナリヌ》。香椎滷《カシヒガタ》。潮干《シホヒノ》※[さんずい+内]《ウラ・キハ》爾《ニ》。玉藻苅而名《タマモカリテナ》。)
 
時風《トキツカゼ》。
時ならず吹來る風をいふ。この事、上【攷證二下六十三丁】にいへり。
 
潮干《シホヒノ》※[さんずい+内]《ウラ・キハ》爾《ニ》。
※[さんずい+内]はうらと訓べし。この事も、上【攷證三中七十五丁】にいへり。苅而名《カリテナ》のなは、上【攷證一上十七丁】にいへる、んの意にて、一首の意は、おもひよらず、風のふき來りぬべきけしきになりぬれば、風の吹來ぬさきに、はやく潮干たる浦に玉藻かりてんといふ也。
 
豐前守。宇努首男人歌一首。
 
男人は、父祖、考へがたし。紀に見えず。政事要略卷廿二に、舊記云、養老四年、大隅日向兩國隼人發v亂、勅以2豐前守宇努首男人1爲2將軍1云々とあり。宇努氏は、姓氏録卷廿六に、宇奴首出(65)v自2百濟國男彌奈曾富意彌1也」また廿八に、宇努造、宇努首、同v祖。百濟人禰那子富意彌之後也。また卅に、宇努連、新羅皇子金庭奧之後也とあり。
 
959 往還《ユキカヘリ》。(常爾我見之《ツネニワガミシ》。香椎滷《カシヒガタ》。從明日後爾波《アスユノチニハ》。見縁母奈思《ミムヨシモナシ》。)
 
從明日後爾波は、あすゆのちにはと訓べし。さて、九國二島は太宰府の管國なれば、豐前守も、常に太宰府に往來せしをり/\、香椎廟を拜しなどせしが、今、任限來りぬれば、ゆきかへり、つねにわが見し香椎がたを、あすより後には、見んよしもなしといへるなるべし。
 
帥大伴卿。遙思2芳野離宮1。作歌一首。
 
960 隼人乃《ハヤビトノ》。(湍門乃盤母《セドノイハホモ》。年魚走《アユハシル》。芳野之瀧爾《ヨシノノタキニ》。尚不及家里《ナホシカズケリ》。)
 
隼人乃《ハヤビトノ》。湍門乃盤母《セドノイハホモ》。
三【十五丁】長田王、被v遣2筑紫1、渡2水島1之時歌に、隼人乃《ハヤヒトノ》、薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》、雲居奈須《クモヰナス》、遠毛吾者《トホクモワレハ》、今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》とあると同所なるべし。その所【攷證三上十六丁】にいへるが如く、いにしへ、薩摩を隼人の國ともいひしが、隼人をやがて薩摩のことゝしてつゞけたり。さて、薩摩も太宰府の管國なれば、帥の往て見られしなるべし。湍門は迫門也。この事も、おなじ所にいへり。盤は磐の誤りなるべけれと、周易屯卦釋文、爾雅釋山釋文などに、磐、本作v盤とありて、通じ書る字なれば、改る事なし。
 
(66)年魚走《アユハシル》。
吉野といはん料におけり。
 
尚不及家里《ナホシカズケリ》。
なほしかざりけりの意也。この事、上【攷證四中七丁】にいへり。一首の意は、薩摩の迫門のおもしろきけしきも、大和なる芳野の川のたぎつけしきには、猶およばずといふにて、故郷を戀る意をこめたり。
 
帥大伴卿。宿2次田温泉1。聞2鶴喧1。作歌一首。
 
次田は、和名抄郷名に、筑前國御笠郡次田とあり。すぎたと訓べし。次を、すぎと訓べき事は、上【攷證三上四十七丁】名次山の所にいへり。さて、この温泉は、筑前國續風土記、御笠郡部に、湯原は北谷村の北十町ばかり、野山のくぼき所にあり。民家はなし。昔この所に温泉ありしとて、その址すこしのこれり。或云、武藏村の湯《ユ》ある所を湯原といへるが、北谷の北なる所は山上なれば、鶴のとまるべき所にあらず。また湯町は武藏村の境内也。武藏寺より五町、宰府よりこの所までは二十九町あり。温泉四所にあり云々といへり。無題詩、釋蓮禅著2長門壇1即事に、一尋西府温泉地、治v病逗留及2兩年1とあるはこゝなり。
 
961 湯原爾《ユノハラニ》。(鳴蘆多頭者《ナクアシタヅハ》。如吾《ワガゴトク》。妹爾戀哉《イモニコフレヤ》。時不定鳴《トキワカズナク》。)
 
(67)湯原爾《ユノハラニ》。
まへに引る筑前國績風土記に、たしかならざるよしいへり。されど、御笠郡のうちなる事、明らけし。楢山拾葉に、大和或云攝津といへるは非也。
 
鳴蘆多頭者《ナクアシタヅハ》。
鶴をあしたづといふは、葦鴨《アシカモ》、葦蟹《アシカニ》などの類にて、葦邊に住るものゆゑに、名にはおはせたる也。この事、上【攷證三下四十丁】にいへり。
 
妹爾戀哉《イモニコフレヤ》。
こふれやは、こふればやの、ばを略ける也。この事、上所々にいへり。
 
時不定鳴《トキワカズナク》。
不定を、わかずとよめるは義訓也。十【六丁】に、朝井代爾《アサヰテニ》、來鳴杲鳥《キナクカホトリ》、汝谷毛《ナレダニモ》、君丹戀八《キミニコフレヤ》、時不終鳴《トキヲヘズナク》ともありて、一首の意は、鳴鶴も吾如くに妹にこふればや、時をもわかたず鳴よといはるゝにて、旅人卿の妻は、神龜五年にうせられしかば、それを思ひて、よまれつるなるべし。
 
勅遣2擢駿馬使。大伴道足宿禰1時。歌一首。
 
擢駿馬使は、廣雅釋詁三に、擢拔也とありて、駿馬を拔取《ヌキトル》使なり。いにしへは、九國にも公の御牧ありしなるべし。延喜馬寮式を考るに、九國に御牧なし。されば、國史を考るに、靈龜二年、新羅國の馬を献りし事見え、また、弘仁六年、馬を夷狄に求るを制禁せられし事あれば、もし、この擢駿馬使は、馬を三韓などにもとめたまふにはあらざるか。大伴道足は、續日本紀に、慶雲元年正月癸巳、授2從六位下大伴宿禰道足、從五位下1。和銅元年三月丙午、爲2讃岐守1。五年正月戊子、授2正五位下1。六年八月丁巳、爲2彈正尹1。養老四年正月甲子、授2正五位上1。十月戊子、(68)爲2民部大輔1。七年正月丙子、授2從四位下1。天平元年二月壬申、推爲2參議1。三月甲午、授2正四位下1。九月乙卯、爲2右大辨1。三年八月丁亥爲2參議1。十一月丁卯、爲2南海道鎭撫使1。七年九月庚辰、先v是美作守從五位下阿部朝臣帶麻呂等、故2殺四人1、其族人詣v官申訴。而右大辨正四位下大伴宿禰道足等六人、坐v不v理2訴人事1。於v是下2所司1、科斷承伏既訖。有v詔、並宥v之とありて、公卿補任に、天平十三年卒去とあり。また、續日本紀に、延暦元年二月丙辰、參議從三位大伴宿禰伯麻呂薨。祖馬來田贈内大紫、父道足、平城朝參議正四位下とありて、公卿補任には、大納言安麿一男記とあり。
 
962 奥山之《おくやまの》。(盤爾蘿生《イハニコケムシ》。恐毛《カシコクモ》。問賜鴨《トヒタマフカモ》。念不堪國《オモヒタヘナクニ》。)
 
盤爾蘿生《イハニコケムシ》。
盤は磐の誤りなるべし。されど、まへにいへるが如く、盤、磐、通はし書る字なれば、改る事なし。生を、むすとよめるは義訓也。上【攷證一上卅八丁】に出たり。この歌、一二の句は、恐《カシコシ》といはん序にて、七【卅二丁】に、磐疊《イハタヽミ》、恐山常《カシコキヤマト》、知管毛《シリツヽモ》云々。また、奥山之《オクヤマノ》、於石蘿生《イハニコケムシ》、恐常《カシコシト》、思情乎《オモフコヽロヲ》、何如裳勢武《イカニカモセム》とありて、また、十一【十四丁】常濟乃《トコナメノ》、恐道曾《カシコキミチゾ》云々ともある如く、蘿むしたる石などは、なめらかにて、そのうへを行が、かしこく、おそろしきものなれば、かくはつゞけしなり。
 
問賜鴨《トヒタマフカモ》。
左注によるに、歌よめと催さるゝをいへり。一首の意は、いまだおもひもあへぬに、歌よめと催したまふが、かしこしといふなり。
 
(69)右。勅使大伴道足宿禰。饗2于帥家1。此日。會集衆諸。相2誘驛使葛井連廣成1。言v須v作2歌詞1。登時。廣成應v聲即吟2此歌1。
 
驛使は、公式令に、凡驛使、在v路遇v患、不v堪v乘v馬者、所v在文書、令2同行人1送2前所1云々とありて、集解に、驛使謂d送2文書1使u也云々とあり。葛井連廣成は、續日本紀に、天平三年正月丙子、授2正六位上葛井連廣成、外從五位下1。六月丁酉爲2備後守1。七月庚子授2從五位下1。二十年二月乙丑、授2從五位上1。八月己未、車駕幸2散位從五位上葛井連廣成之宅1。延2群臣1宴飲、日暮留宿。明日授2廣成、及其室從五位下縣犬養宿禰八重、並正五位上1。是日還v宮。天平勝寶元年八月辛未、爲2中務少輔1とあり。拾穗本、登を之に作れり。活字本、登を冬に作れるは、いふまでもなき誤りながら、こは之を誤れるなるべし。應v聲即吟2此歌1とあれば、この時、廣成をりにかなひたる古歌を吟じたるやうにも聞ゆれど、右の歌のさまを見るに、この時とみに詠じたる自らの歌とおぼし。
 
冬十一月。大伴坂上郎女。發2帥家1上v道。超2筑前國宗形郡名兒山1之時。作歌一首。
 
(70)大伴坂上郎女は、上【攷證三中五十七丁】にいへるが如く、大伴安麿卿の女子にて、大伴宿奈麻呂の室なり。宿奈麻呂は、神龜元年より後の紀には見えざるをしておもへば、宿奈麻呂の卒後、兄旅人卿の帥の任所へゆきしなるべし。さて、旅人卿、天平二年の冬、大納言になりて京へ上られしかば、この郎女もともに上られしなるべし。名兒山は、筑前國續風土記に、宗像郡名兒山、田島の西の山なり。勝浦の方より田島へこす嶺なり。田島の方の東のふもとを名兄浦といふ。むかしは、勝浦潟より名兒山をこえ、田島より垂水越をして、内浦を通り、芦屋へゆきし也。これ、昔の上方へゆく大道なり。印本、郡を部に誤れり。今、意改せり。
 
963 大汝《オホナムチ》。(小彦名能《スクナヒコナノ》。神社者《カミコソハ》。名著始※[奚+隹]目《ナヅケソメケメ》。名耳乎《ナニノミヲ》。名兒山跡負而《ナコヤマトオヒテ》。吾戀之《ワガコヒノ》。千重之一重裳《チヘノヒトヘモ》。奈具左《ナグサ》末《マ・メ》七國《ナクニ》。)
 
大汝《オホナムチ》。小彦名能《スクナヒコナノ》。
上【攷證三中卅五丁】にいへるが如く、この神々、天下を經營したまひし神なれば、山をもこの神の名づけたまひしやうにいひなせり。
 
神社者《カミコソハ》。
社を、こそとよめるは義訓也。この事、上【攷證二中二丁】にいへり。
 
名兒山跡負而《ナコヤマトオヒテ》。
山の名の名兒《ナゴ》を、和《ナゴ》にとりなして、吾戀の和《ナグ》るかとおもへるよしいひて、歌の文《アヤ》をなせり。六月祓を、なごしのはらへといふも、神を令和《ナゴス》の意也。(71)この言は、なぎ、なぐともはたらきて、朝なぎ、夕なぎなどいふも、浪風のなぐるをいへるにてしるべし。
 
奈具左《ナグサ》末《マ・メ》七國《ナクニ》。
七【十九丁】に、名草山《ナグサヤマ》、事西在來《コトニシアリケリ》、吾戀《ワガコヒノ》、千重一重《チヘノヒトヘモ》、名草目名國《ナグサメナクニ》ともあり。略解に、舊訓、なぐさめなくにとあるからは、こゝも、末《マ》は米《メ》の誤なるべし云々。この説、實にさる事なり。既に拾穗本には米《メ》とあり。又、略解に、この歌、大汝の句の上に猶句ありしが落しにや。また反歌も侍らぬなるべし。
 
同。坂上郎女。海路見2濱(ノ)貝1。作歌一首。
 
目録、拾穗本など、海路の上、向v京の二字あり。また、印本、貝を具に誤れり。今、目録、拾穗本などに依て改む。
 
964 吾背子爾《ワガセコニ》((戀者苦《コフレバクルシ》。暇有者《イトマアラバ》。拾而將去《ヒロヒテユカム》。戀忘貝《コヒワスレガヒ》。)
 
戀者苦は、こふればくるしと訓べし。印本、拾を捨、忘を※[立/心]に誤れり。今、活字本、拾穗本などに依て改む。忘貝は、うつせ貝を、浪のよせ來て、殘しわすれたるよしの名なり。上【攷證一下五十六丁】に出たり。七【十二丁】に、暇有者《イトマアラバ》、拾爾將往《ヒロヒニユカム》、住吉之《スミノエノ》、岸因云《キシニヨルトフ》、戀忘貝《コヒワスレガヒ》ともあり。一頸の意は明らけし。
 
冬十二月。太宰帥大伴卿。上v京之時。娘子作歌二首。
 
(72)之もじ、印本、脱せり。今、目録に依て補ふ。集中の例、之もじあるべきなり。
 
965 凡有者《オホナラバ》。(左《カ・サ》毛《モ》右《カ・ト》毛將爲乎《モセムヲ》。恐跡《カノコシト》。振痛袖乎《フリタキソデヲ》。忍而有香聞《シノビテアルカモ》。)
 
凡有者《オホナラバ》。
字の如く、大方ならばの意なり。上【攷證一下五十八丁】にいへり。
 
左《カ・サ》毛《モ》右《カ・ト》毛將爲乎《モセムヲ》。
八【四十二丁】に、此岳爾《コノヲカニ》、小牡鹿履起《ヲシカフミオコシ》、宇加※[泥/土]良比《ウカネラヒ》、可聞可聞《カモカモ》【この下の聞の字を、今本、開に誤りて、くと訓り。開をくの假字に用ひたる例なく、聞の誤りなる事明らかたれば、意改せり。】爲良久《スラク》、君故爾許曾《キミユヱニコソ》とあるに依て、かも/\と訓べし。また、七【卅三丁】に、事痛者《コチタクバ》、左右將爲乎《カモカモセムヲ》云々とあるもおなじ。かもかくもといふにおなじ。
 
振痛袖乎《フリタキソデヲ》。
痛《タキ》と書るは借字、たきは、たしとも活きて、願ふ意の詞なり。袖振とは、上【攷證二中六丁】にいへるが如く、いにしへのしわざにて、人にわかるゝ時、または戀しきにたへざる時のわざにて、一首の意は、大方の人ならば、ともかくもせんものを、君は高官の人にて、かしこければ、袖を振てとゞめたくもおもへど、たへしのびてあるかもといへるにて、次の歌に、余振袖乎《ワガフルソデヲ》、無禮登母布奈《ナメシトモフナ》といへるもおなじ。
 
966 倭道者《ヤマトヂハ》。(雲隱有《クモガクリタリ》。雖然《シカレドモ》。余振袖乎《ワガフルソデヲ》。無禮登母布奈《ナメシトモフナ》。)
 
(73)無禮は、なめしと訓べし。十二【九丁】に、妹登曰者《イモトイハヾ》、無禮恐《ナメシカシコシ》云々ともありて、書紀、繼體紀、安閑紀などに、輕をなめしとよみ、續日本紀、天平寶字八年十月壬申詔に、汝乃多米仁《イマシノタメニ》、無禮之弖不從《ヰヤナクシテシタガハズ》、奈賣久在牟人乎方《ナメクアラムヒトヲバ》【この賣の字を、印本、壹に作れるは、誤りたる事明らかなれば、意改せり。】とありて、字の如く、無禮なる意にて、物語などに、なめげといふも同じ。一首の意は、大和道はいと遠くて、雲にかくれたりしかば、あれども見えずなるまでも、吾袖振て戀奉るを、なめげなりとおぼす事なかれといふ也。
 
右。太宰帥大伴卿。兼2任大納言1。向v京上道。此日。馬駐2水城1。顧2望府家1。于v時。送v卿府吏之中。有2遊行女婦1。其字曰2兒島1也。於v是。娘子傷2此易1v別。嘆2彼難1v會、拭v涕自2吟振v袖之歌1。
 
大伴卿、大納言に任ぜられし事、上【攷證四上五十九丁】にいへるが如く、紀には見えざれど、四【廿七丁】にも出、論なく明らか也。水城は、次の歌に、水城之上爾《ミツキノウヘニ》、泣將拭《ナミダノゴハム》ともありて、書紀、天智紀に、三年又於2筑紫1築2大堤1貯v水、名曰2水城1云々。續日本紀に、天平神護元年三月辛丑、少貳從五位下采女朝臣淨庭、爲d修2理水城1專知官u云々などありて、要害のため、水を貯へ置ところ也。水經注に、湖陂城亦謂2之水城1云々とある、これ也。筑前續風土記に、御笠郡水城、今、其堤を見るに、東の堤百五十六間、西の堤三百二十三間、東西の堤の間たえて、堤なき所一町ばかり、堤の(74)高さ五間、根盤二十七間。いづれの時にかありけん、是の内は田となりて、水をたくはへず。東西の間、堤なき所より、水は北の方に流る。誠に世にたぐひなき大堤なり云々とあり。遊行女婦は、遊女のたぐひなるべし。八【廿七丁】に、遊行女婦橘歌。十八【九丁】に、遊行女婦土師。また【廿六丁】遊行女婦佐夫流兒。十九【卅三丁】に、遊行女婦蒲生娘子などあり。和名抄微賤類に、遊女、楊氏漢語抄云、遊行女兒、和名、宇加禮女。又云、阿曾比とあり。曰の字、印本、日に作れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
大納言大伴卿。和歌二首。
 
おなじ旅人卿なれど、こゝは大納言に任ぜられし後なれば、かくはしるしたり。
 
967 日本道乃《ヤマトヂノ》。(吉備乃兒島乎《キビノコジマヲ》。過而行者《スギテユカバ》。筑紫乃子島《ツクシノコジマ》。所念香裳《オモホユルカモ》。)
 
日本道乃《ヤマトヂノ》。
日本と書るは借字にて、大和也。兒島は、筑紫より大和へ上る道なれば、大和道とはいへる也。この事、上【攷證四上四十四丁】にいへり。
 
吉備乃兒島乎《キビノコジマヲ》。
吉備は、備前、備中、備後を、おしなべていへるにて、筑前、筑後を、筑紫といふごとし。兒島は、古事記上卷に、然後還坐之時、生2吉備兒島1、亦名謂2建日方別1云々。日本紀纂疏に、子島即小島、在2備前國之海中1也云々。和名抄に、備前國兒島郡兒島とあり。一首の意は、遊女の字の兒島を、地名によせて、都に上るに、備前の兒島を(75)過て行ば、その名につきて、遊女の兒島の事をおもはんかといふ也。
 
968 丈夫跡《マスラヲト》。(念在吾哉《オモヘルワレヤ》。水莖之《ミヅグキノ》。水城之上爾《ミヅキノウヘニ》。泣將拭《ナミダノゴハム》。)
 
丈夫跡《マスラヲト》。
印本、丈を大に誤れり。意改するよしは、上、所々にいへり。
 
念在吾哉《オモヘルワレヤ》。
哉《ヤ》は疑ひのや也。四【四十九丁】に、丈夫跡《マスラヲト》、念流吾乎《オモヘルワレヲ》、如此許《カクバカリ》、三禮二見津禮《ミツレニミツレ》、片思男責《カタオモヒヲセム》ともあり。
 
水莖之《ミヅグキノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。水莖と書るは借字、みづ/\しき莖といふ意にて、詞を重ねて、みづ/\しき木とつゞけたり。この事、宣長、玉勝間卷一にくはしく解れたり。こは、七【廿一丁】に、水莖之《ミヅグキノ》、崗水門爾《ヲカノミナトニ》云々とある所【攷證七上五十一丁】にあぐべし。
 
泣將拭《ナミダノゴハム》。
二十【卅四丁】に、麻蘇※[泥/土]毛知《マソデモチ》、奈美太乎能其比《ナミダヲノゴヒ》云々ともありて、一首の意は、われはををしきますらをなりとおもへども、妹とわかれの悲しさに、道をゆきつゝも、水城のほとりなどにも、なみだをかのごはんといはゝ《(マヽ)》也。
 
三年辛未。大納言大伴卿。在2寧樂家1。思2故郷1歌二首。
 
(76)こゝに思2故郷1とある故郷は、いづれならん。左の歌に、神名火乃《カミナビノ》、淵者淺而《フチハアサビテ》云々とあるを見れば、神名火【大和國高市郡】のほとりならん【七、十丁、思2故郷1二首の歌に、清湍爾、千鳥妻喚、山際爾、霞立良武、甘南備乃里。年月毛、未經爾、明日香河、湍瀬由渡之、石走無などあるに、作者をばしるさゞれど、大伴卿の歌なるべし。明日香川も高市郡なり。】とおもはるれど、次の歌に、栗栖の小野とあるを見れば、栗栖【忍海郡】のほとりならんともおもはる。また、三【卅丁】帥大伴歌五首の中に、萱草《ワスレグサ》、吾紐二付《ワガヒモニツク》、香具山乃《カグヤマノ》、故去之里乎《フリニシサトヲ》、不忘之爲《ワスレヌガタメ》とあるを見れば、香具山【十市郡】のほとりならんともおもはる。また、此卷【廿一丁】太宰少貳石川朝臣足人歌に、刺竹之《サスタケノ》、大宮人乃《オホミヤビトノ》、家跡住《イヘトスム》、佐保能山乎者《サホノヤマヲバ》、思哉毛君《オモフヤモキミ》とあるに、帥大伴卿和歌に、八隅知之《ヤスミシヽ》、吾大王乃《ワガオホキミノ》、御食國者《ヲスグニハ》、日本毛此間毛《ヤマトモコヽモ》、同登曾念《オナジトゾオモフ》とあるを見れば、佐保【添上郡】のほとりならんともおもはる。いづれか是ならん。猶よく考ふべし。
 
969 須臾《シマシクモ・タヾシバシ》。(去而見牡鹿《ユキテミマシガ》。神名火乃《カミナビノ》。淵者淺而《フチハアサビテ》。瀬二香成良武《セニカナルラム》。)
 
須臾《シマシクモ・タヾシバシ》。
しましくもと訓べし。この事、上【攷證五下六十三丁】にいへり。
 
去而見牡鹿《ユキテミマシガ》。
牡鹿を、しかの假字に用ひしは借訓なり。てしがは願ふ意の詞にて、上【攷證三中七十八丁】に出たり。
 
淵者淺而《フチハアサビテ》。
淺《アサ》びは水|涸《カレ》て淺くなるをいへり。この事、上【攷證三上五十九丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
970 指《サシ》進《ズミ・スギ》乃《ノ》。(栗栖乃小野之《クルスノヲヌノ》。芽花《ハギノハナ》。將落時爾之《チラムトキニシ》。行而手向六《ユキテタムケム》。)
 
(77)指《サシ》進《ズミ・スギ》乃《ノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。進をすみと訓るは、すを一つ略したるにて、略訓の例也。されば、指進と書るは借字、指墨にて、※[竹/必]を墨ざしといへば、墨斗《スミツボ》なる墨を、さし墨ともいふべく、墨斗《スミツボ》には、墨繩を卷のぶる、くるめきのある故に、さしずみのくるとはつゞけし也。
 
栗栖乃小野之《クルスノヲヌノ》。
和名抄郷名に、大和國忍海郡栗栖とある、こゝなるべし。山城國郷名に、愛宕郡粟野【久留須】宇治郡小栗【乎久留須】などあれど、こゝにはあらざるべし。古事記下卷【雄略天皇】御歌に、比氣多能《ヒケタノ》、和加久流須婆良《ワガクルスハラ》云々とあるは、地名にはあらざるものから、栗栖をくるすと訓べき訓例なり。
 
芽花《ハギノハナ》。
印本、芽を茅に誤れり。集中、はぎをいへる歌、百一首あるが中に、茅に作れるは、二【十六丁】に一所と、こゝとのみにて、誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
行而手向六《ユキテタムケム》。
こは、故郷の神か、又は先祖の墓などへ手向んとなるべし。一首の意は、大伴卿、いま大納言にて、公務しげゝれば、とても盛ごろはゆく事あたはじ。せめて、ちらんころにだに、行てたむけんといはるゝなるべし。さて、この卿は、三【五十三丁】にも、續紀にも出たる如く、この年【天平三年】七月に薨たまひて、その時、仕人金明軍がよめる歌【三ノ五十三丁】の中に、加是耳《カクノミニ》、有家類物乎《アリケルモノヲ》、芽子花《ハギノハナ》、咲而有哉跡《サキテアリヤト》、問之君波母《トヒシキミハモ》とあるをもておもへば、この卿、ことに芽子を愛せられたりとおぼし。
 
四年壬申。藤原宇合卿。遣2西海道節度使1之時。高橋連蟲麿。作歌(78)一首。并短歌。
 
藤原宇合卿は、上【攷證一下六十一丁】に出たり。續日本紀に、天平四年八月丁亥、從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1とありて、懷風藻に、正三位式部卿藤原朝臣宇合五言、奉2西海道節度使1之作、往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1とあるも、このをり也。節度使は、上【攷證四中廿二丁】に出たり。高橋連蟲麿、父祖、官位、考へがたし。高橋連の姓は、姓氏録卷十四に、高橋連、神饒速日命七世孫、大新阿命之後也とありて、上【攷證三下六十六丁】に出たる高橋朝臣とは別なり。
 
971 白雲乃《シラクモノ》。(龍田山乃《タツタノヤマノ》。露霜爾《ツユジモニ》。色附時丹《イロヅクトキニ》。打超而《ウチコエテ》。客行公者《タビユクキミハ》。五百隔山《イホヘヤマ》。伊去割見《イユキサクミ》。賊守《アダマモル》。筑紫爾至《ツクシニイタリ》。山乃曾伎《ヤマノソキ》。野之衣寸見世常《ヌノソキミヨト》。伴部乎《トモノベヲ》。班遣之《ワカチツカハシ》。山彦乃《ヤマビコノ》。將應極《コタヘムキハミ》。谷潜乃《タニグヽノ》。狹渡極《サワタルキハミ》。國方乎《クニガタヲ》。見之賜而《ミシタマヒテ》。冬木成《フユゴモリ》。春去《ハルサリ》行《ユカ・ユケ》者《バ》。飛鳥乃《トブトリノ》。早御來《ハヤクキマサネ・ハヤミキタリテ》。龍田道之《タツタヂノ》。岳邊乃路爾《ヲカベノミチニ》。丹管士乃《ニツヽジノ》。將薫時能《ニホハムトキノ》。櫻花《サクラバナ》。將開時爾《サキナムトキニ》。山多頭能《ヤマタヅノ》。迎參出六《ムカヘマヰデム》。公之來盛者《キミガキマサバ》。)
 
(79)白雲乃《シラクモノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。白雲の立とつゞけしのみなり。九【廿丁、廿一丁】にも出たり。
 
龍田山乃《タツタノヤマノ》。
この山の事は、上【攷證一下七十六丁】にいへるがごとく、西國へもこゆる道なれば、かくはいへり。
 
露霜爾《ツユジモニ》。
このつゆじもは、秋の末、冬のはじめなどに、うすくおきそむる霜をいへり。この事、上【攷證四中四十一丁】にいへり。
 
伊去割見《イユキサクミ》。
伊は發語、割見《サクミ》と書るは借字にて、さくみは、問放《トヒサケ》、見放《ミサケ》などいふ放《サケ》と同じく、去《ユキ》さくみは踏放《フミハナチ》ゆくさまなり。この事、上【攷證二下五十一丁、四上二十一丁】にくはしくいへり。
 
賊守《アダマモル》。言
賊《アダ》は敵《テキ》なる事、上【攷證二下廿一丁】にいへるが如し。二十【十八丁】に、筑紫國波《ツクシノクニハ》、安多麻毛流《アタマモル》、於佐倍乃城曾等《オサヘノキソト》云々。書紀、天武紀に、栗隈王承v符、對曰、筑紫國者、元戍2邊賊之難1也。其峻v城深v隍、臨v海守者、豈爲2内賊1耶云々などもありて、太宰府は外國の寇を守る所なれば、かくはいへり。
 
筑紫爾至《ツクシニイタリ》。
こは、宇合卿の節度使にて筑紫に至るをいひ、山のそき、野のそき、見よと、伴部《トモノベ》をわかちつかはしとは、宇合卿、下知して、山野のはて/\までも、防人をわかちつかはしおくをいへり。
 
山乃曾伎《ヤマノソキ》。
曾伎は、きとこと音通ひて、底の意にて、海にまれ、山にまれ、はてかぎりを、そこといへる事、三【四十六丁】に、天雲乃《アマクモノ》、曾久敝能極《ソクヘノキハミ》云々とある所【攷證三下七丁】にいへるが(80)如く、こゝは山のはて、野のはての意也。略解、こゝの解たがへり。
 
野之衣寸見世常《ヌノソキミヨト》。
山のはて、野のはてまでも、見明らめよといふに(て脱カ)世《ヨ》は、宇合卿、防人に下知せらるゝ詞なり。
 
伴部乎《トモノベヲ》。
伴《トモ》は八十伴男《ヤソトモノヲ》の伴と同じく、多くのともがらをいひ、部《ベ》は群《ムレ》の意にて、紀記に某部《ナニベ》といふが多かるも、また爲2御子代1定2某部1、また爲2御名代1定2某部1などいふこと多かるも、みなその群を定むるにて、こゝの部と同じ。十四【十丁】に、筑波禰乃《ツクバネノ》、乎※[氏/一]毛許能母爾《ヲテモコノモニ》、毛利敝須惠《モリベスヱ》云々とあるも、守部居なり。
 
山彦乃《ヤマビコノ》。
八【廿八丁】に、霍公鳥《ホトヽギス》、山妣兒令響《ヤマビコトヨメ》、鳴麻志也其《ナカマシヤソモ》。九【廿四丁】に、足日木乃《アシヒキノ》、山響令動《ヤマビコトヨメ》、喚立鳴毛《ヨビタテナクモ》。十【十八丁】に、山彦乃《ヤマビコノ》、答響萬田《コタフルマデニ》、霍公鳥《ホトヽギス》、都麻戀爲良思《ツマコヒスラシ》云々などもありて、九に、山饗とも書るを見れば、山ひゞきの略なるべし。新撰字鏡に、※[虫+免]、山比古とよめるは、いかなるよしにか。
 
將應極《コタヘムキハミ》。
山彦は、いづくまでもひゞくもの故に、遠きたとへにとりて、かくはいへり。極は限りをいふ。
 
谷潜乃《タニグヽノ》。狹渡極《サワタルキハミ》。
五【七丁】に、阿麻久毛能《アマグモノ》、牟迦夫周伎波美《ムカブスキハミ》、多爾具久能《タニグクノ》、佐和多流伎波美《サワタルキハミ》云云とある所【攷證五上十六丁】にいへるが如く、たにぐゝは谷潜と書る正字にて、蝦蟇をいひ、狹《サ》は發語にて、蝦蟇は山谷の木草生しげりたる、さゝやかなるくま/”\までも這あるくもの故に、たとへにとりて、こゝは蝦蟇の這あるくさゝやかなるくま/”\までも、至らぬ所(81)なく、國の形を見あきらめたまひてといふなり。
 
國方乎《クニガタヲ》。
方と書る、借字にて、形なり。
 
見之賜而《ミシタマヒテ》。
之《シ》に意なく、見たまひて也。この事、上【攷證一下卅五丁三下六十五丁】にくはしくいへり。
 
冬木成《フユゴモリ》。
枕詞なり。上【攷證一上廿九丁】に出たり。
 
春去《ハルサリ》行《ユカ・ユケ》者《バ》。
春になりゆかばの意也。この事、上【攷證此卷廿六丁】にいへり。
 
飛鳥乃《トブトリノ》。
乃は如くの意にて、飛鳥の如く、早といはん序のみ。
 
早御來《ハヤクキマサネ・ハヤミキタリテ》。
舊訓は誤りなる事いふまでもなく、代匠記に、はやくみきたりと訓れしも、とりがたし。略解に、はやくきまさねと訓るに依べし。御は例の訓にかゝはらず、義をもて添て書る字にて、食國《ヲスグニ》を御食國《ヲスクニ》とも書る類也。ねは下知の詞にて、はやくかへりきたりたまへといふなり。
 
丹管士乃《ニツヽジノ》。
赤き躑躅《ツヽジ》なり。本草和名に、〓芋、和名、爾都々之、一名、乎加都々之【和名抄もこれと同じきは、この誤りをつたへたる也。】とあるは誤れり。〓芋は、本草圖經に、〓芋、春生v苗、高三四尺、(82)莖赤、葉似2石榴1而短厚、又似2石南1、華四月開、細白花云々とありで、躑躅の類とは、さらに別物なり。
 
將薫時能《ニホハムトキノ》。
能もじは、にの意にて、にははん時にといふ意也。この事、上【攷證三中卅七丁】にいへり。(頭書、再考るに、この能もじは、續日本紀、天平寶字二年八月庚子詔に、天下治賜君者、賢人乃能臣乎得弖之、天下乎婆、平久安久治物爾在良之止奈母云々とある、この乃もじと同じく、意なくして、丹つゝじの薫はん時、櫻花咲なん時といふ意なるべし。)
 
山多頭能《ヤマタヅノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證二上五丁】にも出たり。
 
迎參出六《ムカヘマヰデム》。
君がかへりきたまはゞ、その時御迎にまゐり侍らんといふ也。
 
反歌一首。
 
972 千萬乃《チヨロヅノ》。(軍奈利友《イクサナリトモ》。言擧不爲《コトアゲセズ》。取而可來《トリテキヌベキ》。男當曾念《ヲトコトゾオモフ》。)
 
千萬乃《チヨロヅノ》。
印本、千萬を干萬に作りて、そこぱくと訓り。若干とつゞく時は、數の多き義なれば、そきばくとも、こゝばくとも訓べけれど、干の一字にては、多き意にはならざれば、千萬を、そきばく、こゝばくなどは訓がたきうへに、集中、千を干に誤れる事、車持千年を干年に誤れる類多ければ、元暦本、拾穗本など、千萬とあるに依て改む。
 
(83)軍奈利友《イクサナリトモ》。
軍《イクサ》は兵士をいへる事、上【攷證二下十八丁】にいへるが如く、中ごろより、戰ふ事をいくさといふとはたがへり。
 
言擧不爲《コトアゲセズ》。
古事記中卷に、白猪逢2于山邊1、其大v牛、爾爲2言擧1而詔、是化2白猪1者、其神之使者云々。書紀神代紀に、興言【私記に古止安介とあり。】をみ、《(マヽ)》稱をも、言をもよめり。又、景行紀に、高言をもよめり。本集七【八丁】に、此小川《コノヲガハ》、白氣結《キリソムスベル》、瀧至《タキチユク》、八信井上爾《ハシリヰノウヘニ》、事上不爲友《コトアゲセネドモ》。この外、集中猶多く、みな、言にあげていふをいひて、こゝは俗にものいはずにといふ意也。
 
取而可來《トリテキヌベキ》。
古事記中卷に、詔之、西方有2熊曾建二人1、是不v伏无v禮人等、故取2其人等1而〓云々。また、取2伊服岐能山之神1幸行云々。下卷に、乃到2其兄黒日子王之許1曰、人取2天皇1云々などある取も、みな、殺ことに(て、脱カ)こゝも不伏人どもを討平《ウチタヒ》らげてきぬべき人なりといふ也。
 
男《ヲトコ・タケヲ》當曾念《トゾオモフ》。
宣長は、男を、舊訓のまゝ、たけをとよまれつれど、十九【四十一丁】二十【五十丁】にも、ますらたけをとつゞけて、たけをとのみいへる事なし。代匠記には、をのこ(と脱カ)訓れつれど、集中、皆、をとこといひて、をのこといへるは、二十【十八丁】にたゞ一所のみなれば、多きにつきて、をとこと訓り。さて、宇合卿をさして、をとこといはん事、无禮なるやうにきこゆれど、外に訓べきやうなければ、しばらく文字のまゝによめるのみ。一首の意は明らけし。
 
右。檢2補任文1。八月十七日。任2東山山陰西海節度使1。
 
(84)これ後人の注なり。こゝに補任文といへるは、さる記の別に在しか、公卿補任をいへるか、わかちがたし。續紀に依に、東山の上、東海の二字を脱せり。さて、長暦もて考るに、天平四年八月は辛未朔なれば、諸道の節度使を任ぜられし丁亥は、十七日なれば、この文とよく合り。
 
天皇。賜2酒節度使卿等1。御歌一首。并短歌。
 
天皇は聖武天皇を申す。この天皇の御事は、上【攷證四中廿三丁】に出たり。節度使卿等は、續日本紀に、天平四年八月丁亥、正三位藤原朝臣房前爲2東海東山二道節度使1。從三位多治比眞人縣守爲2山陰道節度使1。從三位藤原朝臣宇合爲2西海道節度使1云々とある、この人々に、禁中にて御酒をたまふなり。さて、御製をかくのごとく御歌と書るも、集中この外にも見ゆれど、天皇には御製歌としるし、皇子には御歌としるすぞ集中の正しき例なる。
 
973 食國《ヲスグニノ》。(遠乃御朝庭爾《トホノミカドニ》。汝《イマシ・ナレ》等之《ラガ》。如是退去者《カクマカリナバ》。平久《タヒラケク》。吾者將遊《ワレハアソバム》。手《タ》抱《ムダキ・ニギリ》而《テ》。我者將御在《ワレハイマサム》。天皇朕《スメラワガ》。宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》。掻撫曾《カキナデゾ》。禰宜賜《ネギタマフ》。打撫曾《ウチナデゾ》。禰宜賜《ネギタマフ》。將還來日《カヘリコムヒ》。相飲《アヒノマム》酒《キ・サケ》曾《ゾ》。此豐御酒者《コノトヨミキハ》。)
 
(85)遠乃御朝庭爾《トホノミカドニ》。
朝庭とは、政を取行ふ所をいへるにて、こゝの遠乃御朝庭《トホノミカド》は、國々の國府をのたまへり。この事、上【攷證三上六十七丁】にくはしくいへり。朝庭は朝廷と書べきなれど、今の如くもかける事、同じ所にいへり。さて、朝庭の二字にて、みかどゝ訓るを、御の字を添て書るは、例の義をもて添たる也。五【卅一丁】にも御朝庭とかけり。
 
汝《イマシ・ナレ》等之《ラガ》。
汝を、略解には、なむぢと訓り。汝を、なむぢとよまん事も、大穴牟遲《オホナムヂノ》神を、三【卅三丁】此卷【廿三丁】などに大汝《オホナムヂ》と書るを見れば、いと古き訓なれど、尚かゝる所は、いましとよまん方、歌の調もよくきこゆれば、いましと訓べし。十一【十四丁】に、伊麻思毛吾毛《イマシモワレモ》、事應成《コトナスベシヤ》。十四【五丁】に、伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》云々。續日本紀、天平寶字八年十月壬申詔に、天下方《アメノシタハ》、朕子伊麻之仁授給《ワガコイマシニサツケタマフ》云々などあり。
 
如是《カク》退去《マカリナ・イデヽシユケ》者《バ》。
去者を、なばとよめるは、上【攷證二中五十四丁】に出たり。いなばの略なり。
 
手《タ》抱《ムダキ・ニギリ》而《テ》。
十九【卅九丁】に、手拱而《タムダキテ》、事無御代等《コトナキミヨト》云々とありて、【淮南子、繆稱篇注に、拱抱也とあれば、手拱とかけるも同じ。】代匠記に、手抱而ハ、今ノ點アヤマレリ。タムダキテト讀ベシ。抱ノ字、常ニハ、イダクト、日本紀ニハ、ムダクト點セリ。又、懷ノ字ヲ、ウダクトモ點セリ。コレ皆同韻ニテ通ゼリ。タムダクハ、手ヲコマヌクナリ。書武成云、垂v衣而天下治。蔡注云、垂v衣拱v手而天下自治、コノ意ナリ云々といはれつるが如く、汝等が諸道に退ゆきて國々を治めなば、吾は手をも動かさずして、平らけくおはしまさんとのたまふにて、抱をむだくといふは、十四【十二丁】に、可伎武太伎《カキムダキ》、奴禮杼安加奴(86)乎《ヌレドアカヌヲ》云々とあるにてしるべし。
 
天皇朕《スメラワガ・キミノ》。
代匠記に、すめらわが|よま《(マヽ)》れしに依べし。天皇をば、常に、すめろぎと申せど、すめらとも申すこと、二十【廿七丁】に、須米良美久佐爾《スメラミクサニ》、和例波伎爾之乎《ワレハキニシヲ》。また【五十一丁】加久佐波奴《カクサハヌ》、安加吉許己呂乎《アカキコヽロヲ》、須賣良弊爾《スメラヘニ》、伎波米都久之弖《キハメツクシテ》云々などありて、續紀、天平勝寶元年四月甲午朔詔に、天皇羅我命《スメラガオホミコト》云々。神護景雲三年九月己丑詔に、天皇良我御命《スメラガオホミコト》云々などあるにてしるべし。また、和銅元年正月乙巳詔に、今皇朕御世爾當而坐者《イマスメラワガミヨニアタリテマセバ》云々。大殿祭祝詞に、皇我宇都御子《スメラワガウツノミコ》、皇御孫之命《スメミマノミコト》云々とあるは、専らこゝと同じ。さて、こゝに天皇朕《スメラワガ》と詔たまひ、また宇頭乃御手《ウツノミテ》とも、禰宜賜《ネギタマフ》とも、御自ら尊稱してのたまふは、古への例也。書紀、雄略紀、天皇御製に、野磨等能《ヤマトノ》、嗚武雄能※[こざと+施の旁]該※[人偏+爾]《ヲムラノタケニ》、之々符須登《シヽフスト》、※[手偏+施の旁]例柯擧能居登《タレカコノコト》、飫〓摩陛※[人偏+爾]《オホマヘニ》、摩嗚須《マヲス》、飫〓枳瀰簸《オホキミハ》、賊據嗚枳※[舟+可]斯題《ソコヲキカシテ》云々とあるも、御自ら尊稱してのたまへり。紀に多かる宣命も、みなこの例なり。
 
宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》。
宇頭《ウヅ》は貴《タフト》き意也。古事記上卷に、貴子とあるを、書紀には珍子とありて、珍此云2于圖《ウヅ》1と訓注ありて、玉篇に珍貴也とあるなど、合せ見て、うづは貴き意なるをしるべし。祝詞に多かる宇豆乃幣布《ウヅノミテグラ》の宇豆も同じ意也。
 
掻撫曾《カキナデゾ》。
掻《カキ》は、掻別《カキワケ》、掻掃《カキハキ》、掻數《カキカゾフ》などの掻にて、詞なり。撫は撫愛する意なり。十八【廿一丁】に、老人毛《オイヒトモ》、女童兒毛《ヲミナワラハモ》、之我願《シガネガフ》、心太良比爾《コヽロタラヒニ》、撫賜《ナデタマヒ》、治賜婆《ヲサメタマヘバ》云々。十九【十二丁】に、矢形尾乃《ヤカタヲノ》、(87)麻之路能鷹乎《マシロノタカヲ》、屋戸爾須恵《ヤドニスヱ》、可伎奈泥見都追《カキナデミツツ》、飼久之余志毛《カハクシヨシモ》。また【卅九丁】八十友之雄乎《ヤソトモノヲヲ》、撫賜《ナデタマヒ》、等登能倍賜《トトノヘタマヒ》云々。二十【廿一丁】に、知々波々我《チヽハヽガ》、可之良加伎奈弖《カシラカキナデ》、佐久安禮天《サクアレテ》云々。また【廿三丁】和我波々能《ワガハヽノ》、蘇弖母知奈弖※[氏/一]《ソデモチナデヽ》云々などあるも、みな愛する意にて、書紀、神代紀上に、有3一老公與2老婆1、中間置2一少女1、撫而哭云々。續紀卷首の詔に、天下乃《アメノシタノ》、公民乎《オホミタカラヲ》、恵賜比《メグミタマヒ》、撫賜牟止奈母《ナデタマハムトナモ》、隨神《カムナガラ》、所思行佐久止詔《オモホシメサクトノリタマフ》云々などある撫も同じ。
 
禰宜賜《ネギタマフ》。
二十【十八丁】に、伊佐美多流《イサミタル》、多家吉郡卒等《タケキイクサト》、禰疑多麻比《ネギタマヒ》云々ともありて、書紀雄略紀に、勞v軍をいくさをねぎらふともよめるが如く、かき撫で勞《イタハ》りたまふ意なり。
 
相飲《アヒノマム》酒《キ・サケ》曾《ゾ》。
これ、宣長の訓也。卿たちのかへり來らん時に、又共に酒を相のまんとのたまふ也。酒を、きといへる事は、黒酒、白酒を、くろき、しろきといひ、この事は【攷證十九□にいふべし。】御酒をみきといへるにてしるべし。
 
此豐御酒者《コノトヨミキハ》。
古事記上卷【須勢理毘賣命】御歌に、登與美岐多弖麻都良也《トヨミキタテマツラセ》云々。下卷【大后】御歌に、多加比加流《タカヒカル》、比能美古爾《ヒノミコノ》、登余美伎多弖麻都良勢《トヨミキタテマツラセ》云々。本集此卷【卅八丁】に、丈夫之《マスラヲノ》、祷豐御酒爾《ホグトヨミキニ》、吾醉爾家里《ワレヱヒニケリ》。十九【四十二丁】に、賜2酒入唐使1御歌に、平《タヒラケク》、早渡來而《ハヤワタリキテ》、還事《カヘリゴト》、奏日爾《マヲサムヒニ》、相飲酒曾《アヒノマムキゾ》、斯豐御酒者《コノトヨミキハ》などもありて、豐は豐葦原《トヨアシハラ》、豐明《トヨノアキラ》、豐年《トヨノトシ》などの豐と同じく、稱る詞也。
 
反歌一首。
 
(88)974 大夫之《ますらをの》。(去跡云道曾《ユクトイフミチゾ》。凡可爾《オホロカニ》。念而行勿《オモヒテユクナ》。大夫之伴《マスラヲノトモ》。)
 
去去跡云道曾《ユクトイフミチゾ》。
跡云を、略解には、とふと訓つれど、文字のまゝに、といふと訓べし。この事、上【攷證一上四十二】にいへり。この今節度使を遣はす諸國の道々は、丈夫の治《ヲサ》めに行道也と、人もいふ道也とのたまふ也。
 
凡可爾《オホロカニ》。
七【卅丁】に、凡爾《オホロカニ》、吾之念者《ワレシオモハヾ》云々。八【廿丁】に、此花乃《コノハナノ》、一與能内爾《ヒトヨノウチニ》、百種乃《モヽクサノ》、言曾隱有《コトゾコモレル》、於保呂可爾爲莫《オホロカニスナ》。十九【十四丁】に、於保呂可爾《オホロカニ》、情盡而《コヽロツクシテ》、念良牟《オモフラム》云々。二十【五十一丁】に、於煩呂加爾《オホロカニ》、己許呂於母比弖《コヽロオモヒテ》云々などもありて、おほよそにの意也。これを、中ごろよりは、おぼろけといへり。土佐日記に、おぼろげのねがひによりてにやあらん云々ともあり。一首の意は、この道々は、丈夫の治めに行といふ道なるぞ、丈夫のともがらよ、おほよそに思ひて行事なかれ。ゆめ、つゝしみて、功をとげかへるべし、とのたまはするにて、かく御心をつけたまふよしのたまひて、御うつくしみの厚きを示したまへり。
 
右御歌者。或云。太上天皇御製也。
 
太上天皇は元正天皇を申。續紀に、日本根子高瑞淨足姫天皇、天渟中原瀛眞人天皇之孫、日並知皇子尊之皇女也。靈龜元年九月庚辰、受v禅即2位于大極殿1。神龜元年二月甲午、天皇禅2於皇太(89)子1。天平二十年四月庚申、太上天皇崩2於寢殿1、春秋六十有九云々とあり。この左注、元暦本には小字とせり。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首。
 
この卿は、上【攷證三上六十七丁】に出たり。
 
975 如是爲菅《カクシツヽ》。(在久乎好叙《アラクヲヨミソ》。靈剋《タマキハル》。短命乎《ミジカキイノチヲ》。長欲爲流《ナガクホリスル》。)
 
菅は管の誤り也。されど、干禄字書を考るに、〓〓、〓第、〓〓、藉籍、〓〓の類、竹冠を俗に草冠に作る事もあれば、改る事なし。在久《アラク》は、らくの反、るにて、あるを延たる也。好《ヨミ》のみは、さにの意。靈剋は命といふへかゝる枕詞にて、上【攷證一上八丁】に出たり。一首の意は、かくの如き太平の御代に在が、かたじけなさに、人間短かき命を長かれと欲する事よと也。
 
五年發酉。超2草香山1時。神社忌寸老麿。作歌二首。
 
草香山は河内國河内郡日下なる事、上【攷證四上六十三丁】にくはしくいへるが如く、奈良より難波へかよふ道なり。八【十五丁】に、忍照《オシテル》、難波乎過而《ナニハヲスギテ》、打靡《ウチナビク》、草香乃山乎《クサカノヤマヲ》、暮晩爾《ユフグレニ》、吾越來者《ワガコエクレバ》云々ともあり。神社忌寸老麿は、父祖、官位、考へがたし。この氏、姓氏録にも見えず。續紀卷五に、神社忌寸河内といふ人、見えたり。神社は、かみこそとよむべし。社をこそとよめる事は、上【攷證二中二丁】にいへる(90)が如し。さて、この端辭、集中なべての例もていはゞ、神社忌寸老麿超2草香山1時作歌とあるべきを、かく上下に書るも、まれ/\には見えたり。この事も、上【攷證一上四十五丁】にいへり。
 
976 難波方《ナニハガタ》。(潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》。委曲見《ヨクミテナ》。在家妹之《イヘナルイモガ》。待將問多米《マチトハムタメ》。)
 
潮干乃奈凝《シホヒノナゴリ》。
奈凝《ナゴリ》は餘波にて、潮于潟になりて、遠くよする波のけしきをいへり。上【攷證四上卅七丁】に出たり。
 
委曲見《ヨクミテナ・マグハシミ》。
委曲は、一【十三丁】二【廿二丁】などに、つばらとよめる字なれど、こゝはしか訓べき所ならねば、略解に、よくみてなと訓るに依べし。委曲見は、つまびらかにくはしく見る意の字なれば、その義もて義訓せる也。十【十七丁】に、君之儀乎《キミガスガタヲ》、曲不見而《ヨクミズテ》云々と、曲の一字をも、よくと訓るに同じ。なほ、例のんの意にて、よく見てんの意也。さて、活字本、見の下、君の字あり。こは、名の字の誤りにて、委曲見名《ヨクミテナ》とありしを、活字本には君に誤り、印本には脱せしものなるべし。さて、一首の意は、草香山の道より、難波の海の遠く見ゆるを見て、難波に至らば潮干のおもしろきけしきをもよく見てまし。家なる妹が、吾かへるを待て、道の事などを問ん時の爲にといへる也。
 
977 直超乃《タヾコエノ》。(此徑爾師弖《コノミチニシテ》。押照哉《オシテルヤ》。難波乃海跡《ナニハノウミト》。名附家良思裳《ナヅケケラシモ》。)
 
直超乃《タヾコエノ》。
古事記下卷に、初大后坐2日下《クサカ》1之時、自2日下《クサカ》之直越道1、幸2行河内1云々とある、則ちこの直越道にて、宣長云、直越道は、大和の平群郡より伊駒山の内【南方】を越て、河(91)内国に至り、若江郡を經て、難波に下る道にして、此道近き故に直越とはいふ也云々といはれたり。直《タヾ》は、五【卅一丁】に、多太泊爾《タダハテニ》、美船播將泊《ミフネハハテム》云々。また【四十丁】多太爾率去弖《タダニヰユキテ》、阿麻治思良之米《アマチシラシメ》。十一【卅八丁】に、直乘爾《タダノリニ》、妹情爾《イモガコヽロニ》、乘來鴨《ノリニケルカモ》まどいへる直と同じく、外の事を交へず、眞直《マスグ》なる意なる事、七【廿四丁】に、春霞《ハルガスミ》、井上從直爾《ヰノベユタヾニ》、道者雖有《ミチハアレド》、君爾將相登《キミニアハムト》、他囘來毛《タモトホリクモ》とあるは、井上より、直一筋に道はあれども、君にあはんとて、外をまはりて來たりといふ意。また十一【廿四丁】に、月夜好三《ツクヨヨミ》、妹二相跡《イモニアハムト》、直道柄《タダチカラ》、吾者雖來《ワレハクレドモ》、夜其深去來《ヨゾフケニケル》とあるは、妹にあはんといそぎて眞直《マスグ》なる道を來つれども、月のよさに、それを見る/\夜のふけぬるよといへる意なるにてしるべし。直超といへるは、十二【卅九丁】に磐城山《イハキヤマ》、直越來益《タヾコエキマセ》云々。十七【四十九丁】に、之乎路可良《シヲチカラ》、多太古要久禮婆《タダコエクレバ》云々など見えたり。
 
此徑爾師弖《コノミチニシテ》。
玉篇に、徑、小路也とあり。爾師弖《ニシテ》は、師もじに意なく、にての意なる事。上【攷證一下五十五丁】にいへり。
 
押照哉《オシテルヤ》。
枕詞なり。上【攷證 下卅三丁】に出たる久老の説のごとし。
 
難波乃海跡《ナニハノウミト》。
押照哉《オシテルヤ》は枕詞なるものから、この歌にとりては、直超の道より、難波の海のはる/”\と押照《オシテリ》て見ゆるをいひ、灘波を和庭《ナギニハ》の【朝なぎ、夕なぎの類、海の和たるをいへる事、上、攷證四上廿丁にいへるが如く、庭も海の平らかにおだやかなるをいへる事、上、攷證三上廿三丁にいへるが如し、】意にとりなしていへり。一首の意は、直に超來るこの道にて、昔の人も、灘波の海をはる/”\と見やりて、押照《オシテリ》てのどかに和《ナギ》て、庭《ニハ》もよきをもて、和庭《ナギニハ》の意をと(92)りて、難波の海とは名付たるならんといふ也。
 
山上臣憶良。沈v痾之時。歌一首。
 
五【卅二丁】に、山上憶良、沈v痾自哀文も、天平五年の歌の下に出たれば、これと同じ度なるべし。
 
978 士也母《ヲトコヤモ・ヒトナレバ》。(空應有《ムナシカルベキ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。語續可《カタリツグベキ》。名者不立之而《ナハタヽズシテ》。)
 
士也母《ヲトコヤモ・ヒトナレバ》。
舊訓は、いふまでもなき誤りにて、代匠記に、ますらやもと訓れしも、略解に、をのこやもと訓るも、とりがたし。をとこやもと訓べし。母は添たる言にて、也は、うらへ意のかへる、やはの意のやなり。
 
空應《ムナシカル》有《ベキ・ベシ》。
むなしかるべきと訓べし。べしと訓ては、てにをはたがへり。一首の意は、男子といふものは、空しく朽はつるものにはあらず。萬代にも語繼べく、をゝしく武き名を立るぞ男子の本意なるを、吾は後世に語つぐべき名をも立ずして、病に沈みて、むなしくはてなんとする事よ、となげかるゝよしなる事、十九【十四丁】に、家持卿のこの歌に和らるゝ歌あり。その歌に、慕v振2勇士之名1歌とありて、知智乃實乃《チチノミノ》、父能美許等《チヽノミコト》、波播蘇葉乃《ハハソバノ》、母能美己等《ハヽノミコト》、於保呂可爾《オホロカニ》、情盡而《コヽロツクシテ》、念良牟《オモフラム》、其子奈禮夜母《ソノコナレヤモ》、大夫夜《マスラヲヤ》、無奈之久可在《ムナシクアルベキ》、梓弓《アヅサユミ》、須惠布理於許之《スヱフリオコシ》、投矢(93)毛知《ナグヤモチ》、千尋射和多之《チヒロイワタシ》、劔刀《ツルギタチ》、許思爾等理波伎《コシニトリハキ》、安之比奇能《アシビキノ》、八峯布美越《ヤツヲフミコエ》、左之麻久流《サシマクル》、情不障《コヽロサハラズ》、後代乃《ノチノヨノ》、可多刑都具倍久《カタリツグベク》、名乎多都倍志母《ナヲタツベシモ》。反歌、大夫者《マスラヲハ》、名乎之立倍之《ナヲシタツベシ》、後代爾《ノチノヨニ》、聞續人毛《キヽツグヒトモ》、可多里都具我禰《カタリツグガネ》と見え、この左注に、右二首、追2和山上憶良臣1作歌とあるを解して、しるべし。
 
右一首。山上憶良臣。沈v痾之時。藤原朝臣八束。使2河邊朝臣東人1。令v問2所v疾之状1。於v是憶良臣。報語已畢。有v須拭v涕悲嘆。口2吟此歌1。
 
藤原朝臣八束は眞楯卿の先名也。上【攷證三中八十二丁】に出たり。河邊朝臣東人は、續日本紀に、神護景雲元年正月己巳、授2從六位上川邊朝臣東人、從五位下1。寶龜元年十月辛亥、爲2石見守1と見えたり。川邊氏の事は、上【攷證二下七十丁】にいへり。代匠記に引る官本、拾穗本など、須を頃に作り、眞淵の説に、須の下、臾を脱たるかといはれたり。されど、須の一字にても、しばらくの意あり。
 
大伴坂上郎女。與2姪家持1。從2佐保1。還2歸西宅1。歌一首。
 
大伴坂上郎女は、上【攷證三中五十七丁】に出て、旅人卿のいもとなれば、家持卿をさして姪《ヲヒ》とはいへり。姪とは、いにしへは、男女をおしわたしていへる事、上【攷證四上五十八丁】にいへり。佐保は父安麻呂卿の住れし(94)佐保の宅なるべし。西宅はいづれならん、考へがたし。
 
979 吾背子我《ワガセコガ》。(著《ケセル・キタル》衣薄《キヌウスシ》。佐保風者《サホカゼハ》。疾莫吹《イタクナフキソ》。及家左右《イヘニイタルマデ》。)
 
吾背子我《ワガセコガ》。
上【攷證三上十四丁】にいへるが如く、男どちさへ吾背子といへば、夫婦のなかならずとも、吾背子といはん事、もとより也。こゝは姑姪の間にて、かくはいへり。
 
著《ケセル・キタル》衣薄《キヌウスシ》。
四【十七丁】に、吾背子之《ワガセコガ》、蓋世流衣之《ケセルコロモノ》、針目不落《ハリメオチズ》云々とある所【攷證四上廿五丁】にいへるがごとく、けせるは著《キ》たるといふに同じ。宣長は、こゝを、けるきぬうすしと訓れつれど、猶當れりともおぼえず。
 
佐保風者《サホカゼハ》。
明日香風《アスカカゼ》、泊瀬風《ハツセカゼ》、伊香保風《イカホカゼ》などの類にて、みな、その所の風をいへり。一首の意は明らけし。
 
安倍朝臣蟲麿。月歌一首。
 
上【攷證四中四十八丁】に出たり。
 
980 雨隱《アマゴモリ》。(三笠乃山乎《ミカサノヤマヲ》。高御香裳《タカミカモ》。月乃不出來《ツキノイデコヌ》。夜者更降管《ヨハフケニツヽ》。)
 
(95)雨隱《アマゴモリ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。雨にかくれこもる笠とつゞけし也。
 
夜者更降管《ヨハフケニツヽ》。
略解には、更降をくだちと訓たれど、非也。三【廿一丁】に、夜者深去通都《ヨハフケニツヽ》。七【三丁】に、夜者宮下乍《ヨハフケニツヽ》。また【四丁】夜者深去乍《ヨハフケニツヽ》などありて、また八【卅六丁】に、夜之更降去者《ヨノフケユケバ》ともあるを合せ見て、舊訓のまゝ、よはふけにつゝと訓べきをしるべし。深去《フケイニ》つゝの意也。一首の意は明らけし。
 
大伴坂上郎女。月歌三首。
 
981 ※[獣偏+葛]高乃《カリタカノ》。(高圓山乎《タカマドヤマヲ》。高彌鴨《タカミカモ》。出來月乃《イデクルツキノ》。遅將光《オソクテルラム》。)
 
※[獣偏+葛]高《カリタカ》は、七【三丁】に、大夫之《マスラヲノ》、弓上振起《ユズヱフリオコシ》、借高之《カリタカノ》、野邊副清《ヌベサヘキヨク》、照月夜可聞《テルツキヨカモ》ともありて、地名也。大和志に、添上郡獵高野在2鹿野苑村1とあり。高圓山も同郡なれば、石上ふるとつゞくる類なり。姓氏録卷廿四に、鴈高宿禰といふ姓あるは、この地名によしある姓なるべし。一首の意は明らけし。この歌、前の歌と似たり。
 
982 烏玉乃《ヌバタマノ》。(夜霧立而《ヨギリノタチテ》。不清《オボヽシク》。照有月夜乃《テレルツクヨノ》。見者悲沙《ミレバカナシサ》。)
 
不清《オボヽシク・スマザルニ》。
不清を、おぼゝしくとよめるは、義訓なり。おぼゝしくと言ふ言は、上【攷證二中五十一丁】にいへるが如く、おぼろ/\と分明ならざるをいひて、十一【九丁】に、雲間從《クモマヨリ》、狭徑月乃《サワタルツキノ》、於保々思(96)久《オボヽシクク》云々。十二【十八丁】に、夕月夜《ユフツクヨ》、五更闇之《アカトキヤミノ》、不明《オボヽシク》云々なども見えたり。
 
照有月夜乃《テレルツクヨノ》。
乃《ノ》はをの意なり。この事、上【攷證二中三十丁】にいへり。下【攷證七上卅四丁】にもいふべし。
 
見者悲沙《ミレバカナシサ》。
代匠記に、カナシトハ、アハレブナリ。悲愁ニハアラズといはれつるは、たがへり。上【攷證四上卅七丁】にいへるが如く、かなしといふに三つあれど、【一つは實に悲しむと、一つに愛する意なると、一つにあはれぶ意なるとなり。】こゝは、照ぬべき月夜の霧の立たる故に、おぼろなるを惜む意なれば、實に悲しめる也。一首の意は明らけし。
 
983 山葉《ヤマノハノ》。(左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》。天原《あまのはら》。門度光《トワタルヒカリ》。見良久之好裳《ミラクシヨシモ》。)
 
山葉《ヤマノハノ》。
葉と書るは假名にて、端の意也。
 
左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》。
月神は男神にまします故に、壯子《ヲトコ》と申す事、この下【廿八丁】に、月讀壯子《ツキヨミヲトコ》【七、三十八丁にも見えたり。】十【廿六丁】に、月人壯子《ツキヒトヲトコ》【十の廿八丁、廿九丁、四十八丁、十五の九丁などにも見ゆ。】なども申し、書紀、古事記などの本説に依てしるべし。さて、左佐良《ササラ》は、書紀、允恭紀【天皇】御歌に、佐瑳羅餓多《ササラガタ》、邇之枳能臂毛弘《ニシキノヒモヲ》云々。繼體紀【春日皇女】御歌に、裟佐羅能美於寢《ササラノミオビ》云々。本集十四【十八丁】に、佐左良乎疑《ササラヲギ》云々。また、さゞれ浪、さゞれ石などいふ、さゝら、さゞれ、同じくみな細小なる意にて、榎《エ》は書紀神代紀上に、妍哉《アナニヱヤ》、可愛少男《ヱヲトコ》とありて、訓注に、可愛、此云v哀とある可愛《エ》にて、愛する意也。月は日(97)にむかへ見れば、光の細小なる故に、細可愛男《サヽラエヲトコ》とはいふなるべし。
 
門度光《トワタルヒカリ》。
門は上【攷證三上十六丁】にいへるが如く、專ら海にいひて、そは船の出入する處をもとにて、やがて、たゞ海のひろらかなるをもいひ、それよりして、また大空の、海の如く限りなく廣きをもいひて、こゝも、空の海の如くなるをさして、門《ト》とはいへる也。天の門、天の岩門などの門とは別也。さて、とわたるといふ事は、古今集雜上に、【よみ人しらず】わがうへに、露ぞおくなる、天の川、とわたる舟の、かひのしづくか。又、秋上に、【藤原萱根】秋風に、こゑをほにあげて、くる舟は、天のとわたる舟にぞ有ける。【これらのとわたるを、谷川士清の説に、疾く渡る意とすれど、非也。石川雅望が雅言集覽も、これに從ひ、この説を助けて、新古今集秋上に、このゆふべ、ふりくる雨は、彦星の、とわたる舟の、かひのしづくか。この新古今の歌、赤人集には、とくこぐ舟のとあり。又、萬葉十には、早※[手偏+旁]船のかひのちるかもとあるを、かく改めいれられしにて、疾わたる意なるをしるべし。萬葉十に、彦ほしの川瀬をわたるさを舟の得行《エユキ》てはてん、川津しぞ思ふ、とある、とゆきても、速の意といへり云々といへるも非也。集中の歌を、撰集にとりいれられて、改めしをもて、この集の歌を解せんとせば、誤りすくなからずして、古今集にさへ、改め誤られしが見ゆれば、まして新古今集のころの人の改めしは、かつて證とはなしがたく、また本集十に得行而將泊とあるに、十二に旅宿得爲也《タビネハエスヤ》とあるを證として、えゆきてはてんと訓べきなれば、疾《ト》き事をとゝのみいへる證とはなしがたし。】などあるも、川門、海門の門にて、本集十六【卅一丁】に、染屋形《ソメヤカタ》、黄染乃屋形《キソメノヤカタ》、神之門渡《カミノトワタル》。十七【七丁】に、淡路島《アハヂシマ》、刀和多流船乃《トワタルフネノ》云々などあるも、海門也。さて、度《ワタル》とは行過る意なる事、上【攷證二下四十二丁】にいへるが如く、こゝは、大空を月の過ゆくをいへり。一首の意は、今、山の端をさし出る月の、澄のぼりて、空を過ゆく光のさやかなるを見るが、こゝろよしと也。
 
右一首歌。或云。月別名曰2佐散良衣壯士1也。縁2此辭1作2此歌1。
 
(98)或云とあるからは、後人の筆とは見ゆれど、この注にいへるがごとし。
 
豐前國娘子。月歌一首。【娘子字曰2大宅1。姓氏未v詳也。】
 
四【四十七丁】豐前國娘子大宅女とあり。同人なるべし。
 
984 雲《クモ》隱《ガクリ・カクレ》。(去方乎無跡《ユクヘヲナミト》。吾戀《ワガコフル》。月哉君之《ツキヲヤキミガ》。欲見爲流《ミマクホリスル》。)
 
雲隱は、くもがくり。無跡は、なみと。月哉は、つきをやと訓べし。この歌、月によそへたる戀の歌にて、たとはゞ旅などに行きたる人を、月によそへて、その人を、吾も外の人も戀るを、その戀る人におくれる歌などにて、一首の意は、雲がくれて去方なくなりし月を戀る如く、吾戀る人を、また君も見まくほりするならんといへる也。
 
湯原王。月歌二首。
 
上【攷證三中五十三丁】に出しまつれり。
 
985 天爾座《アメニマス》。(月《ツク・ツキ》讀壯子《ヨミヲトコ》。幣者將爲《マヒハセム》。今夜乃長者《コヨヒノナガサ》。五百夜繼許増《イホヨツギコソ》。)
 
(99)月《ツク・ツキ》讀壯子《ヨミヲトコ》。
七【卅七丁】に、三空往《ミソラユク》、月讀壯士《ツクヨミヲトコ》云々ともありて、月讀とは月神の御名なる事、上【攷證四中五十二丁】にいへり。壯子《ヲトコ》としも申すは、男神にまします故なり。この事もまへにいへり。
 
幣者將爲《マヒハセム》。
幣《マヒ》は賂物《マヒナヒ》の意にて、神に奉る物をも、人に贈るものをも、おしなべていへる事、上【攷證五下六十四丁】にいへるが如し。
 
今夜乃長者《コヨヒノナガサ》。
代匠記に、長者ノ者ハ音ヲ取レリ云々といはれしは非也。すべて、者をさの假字に用ひたる事なし。此卷【卅二丁】に若者《クルシサ》、八【卅八丁】に遙者《ハルケサ》、九【廿二丁】に樂者《タヌシサ》、十【四十九丁】に吉者《ヨサ》などある者の字も、みな助字に置たるにて、集中、焉、矣、也、之、而などの字を、助字に置る類な事、七【六丁】に昔者《イニシヘ》、四【卅六丁】に比者《コロ》など、者もじをそへて書るにてしるべし。また、七【七丁】に清也《サヤケサ》、八【十八丁】に悲也《カナシサ》、十三【三丁】に不怜也《サブシサ》など、さといふ所へ也の字の助字を置たるをも見てしるべし。
 
五百夜繼許増《イホヨツギコソ》。
許曾《コソ》は、上【攷證四中十七丁】にいへる|が《(マヽ)》、願ふ意の言なる事、集中、乞、欲などの字をよめるにてもしるべし。一首の意は明らけし。
 
986 愛《ハシキ・ヨシヱ》也思《ヤシ》。(不遠里乃《マヂカキサトノ》。君《キミ》來《コム・クヤ》跡《ト》。大能備爾鴨《オホノビニカモ》。月之照有《ツキノテラセル》。)
 
愛《ハシキ・ヨシヱ》也思《ヤシ》。
上【攷證二中十二丁】に出たり。四【三十八丁】に、波之家也思《ハシケヤシ》、不遠里乎《マヂカキサトヲ》云々とあるも、こゝと同じつゞけなり。
 
君《キミ》來《コム・クヤ》跡《ト》。
きみこんとゝ訓べし。これ、袖中抄の訓なり。
 
(100)大能備爾鴨《オホノビニカモ》。
この一句、解しがたし。袖中抄卷十六に、或書云、大のびにとは、ゆたかに、しづかなりといふ也。これ、江都督説也云々。略解に、大のぴ、諸説從がたし。誤あらんか。もし大野|方《ベ》の意か。考べし。宣長は、君來跡之《キミコトシ》、我待爾鴨《ワガマツニカモ》とありしが誤れるかといへり云々。これらの説、當れりともおぼえず。もし大能は大野にて、【野は、集中にも、大かたは、ぬといへど、のといへる所も、これかれあり。この事は、攷證五上五十二丁にくはしくいへり。】備《ビ》は、濱備《ハマビ》、山備《ハマビ》などの備《ビ》にて、邊の意ならんか。大野は地名にもあるべし。ことに多き地名なり。和名抄郡名には、美濃國、飛騨國、越前國、豐後國などに、大野郡あり。郷名には、山城國愛宕郡、參河國額田郡、駿河國志太郡、甲斐國山梨郡、上總國海上郡、常陸國信太郡、下野國那須郡、陸奥國菊多郡、加賀國石川郡、越中國礪波郡、佐渡國賀茂郡、丹後國丹波郡、因幡國巨濃郡、出雲國秋鹿郡、美作國英多郡、苫西郡、備後國深津郡、周防國玖珂郡、紀伊國名草郡、阿波國那賀郡、讃岐國香川郡、三野郡、土佐國吾川郡、筑前國御笠郡、怡土郡、豐前國築城郡、豐後國大野郡などに、大野郷ありて、かくの如く、諸國にいと多き地名なれば、猶この外にもあるべし。爾《ニ》は例のをの意のに也。この一二の句は、ありのまゝをいひて、意なく、一首の意は、君が來らん爲にとてか、大野の邊を月の照せるならんとのたまふなるべし。日月はいづくをわかず照ものなれど、かくさまにいへるは歌の常なり。
 
藤原八束朝臣。月歌一首。
 
眞楯卿の先名なり。上【攷證三中八十二丁】に出たり。
 
(101)987 待難爾《マチガテニ》。(余爲月者《ワガスルツキハ》。妹之著《イモガキル》。三笠山爾《ミカサノヤマニ》。隱《コモリ・カクレ》而有來《テアリケリ》。)
 
余爲月者《ワガスルツキハ》。
我待がてにする月はの意なり。
 
妹之著《イモガキル》。
笠といはん料にのみ、枕詞のやうに置たり。十一【卅丁】に、君之服《キミガキル》、三笠之山爾《ミカサノヤマニ》云々ともつゞけたり。
 
隱《コモリ・カクレ》而有來《テアリケリ》。
十一【二十九丁】に、夕闇之《ユフヤミノ》、木葉隱有《コノハコモレル》、月待如《ツキマツガゴト》。十五【廿丁】に、安可等吉能《アカトキノ》、安左宜理其問理《アサギリコモリ》、可里我禰曾奈久《カリガネゾナク》などあるを見て、こもりと訓べきをしるべし。一首の意は明らけし。
 
市原王。宴祷2父安貴王1。歌一首。
 
安貴王は、上【攷證三上七十丁】に出、市原王も、上【攷證三中九十二丁】に出て、安貴王の男也。祷は、玉篇に求福也とあれば、祝る意なり。次の歌に、祷豐御酒《ホグトヨミキ》と書るにてもしるべし。周禮、大祝注に、祷、賀慶言、福祚之辭云々とも見えたり。
 
988 春草者《ハルクサハ》。(後波落易《ノチハカレヤスシ》。巖成《イハホナス》。常盤爾座《トキハニイマセ》。貴吾君《カシコキワガキミ》。)
 
(102)春草者《ハルクサハ》。
代匠記に、今按、草ハモシ花ヲ誤レルカ。落易ヲ義訓セバ、枯ト同ジク讀マジキニアラネド、集中例ナシ。チルトハ數モナクヨミタレバ、春花ハ後ハチリヤスシトヨマレタル歟。春花モ集中多クヨメリ云々といはれたれど、この下【廿九丁】に、草木尚《クサキスラ》、春者生管《ハルハオヒツヽ》、秋者落去《アキハカレユク》ともあれば、落をかると訓んに何事かあらん。されば春草にてもよく聞えたり。
 
後波落易《ノチハカレヤスシ》。
略解には、落易の字を、うつろふと訓たれど、まへにいへるが如くなれば、舊訓のまゝ、かれやすしと訓べし。
 
巖成《イハホナス》。
諸注、嚴は巖の誤とすれど、毛詩、節南山釋文に、巖、本或作v嚴とあれば、嚴のまゝにて巖の意也。成は例の如くの意なり。
 
常盤爾座《トキハニイマセ》。
これも、路解には、盤は磐の誤とすれど、上【攷證此卷三十五丁】にいへるが如く、古しへ通はし書る字なれば、改むる事なし。一首の意は明らけし。
 
湯原王。打酒歌一首。
 
打酒解しがたし。諸本かくの如し。代匠記に、按ズルニ、酒ニウタルヽト點ベシ。打ハ痛《イタ》ク強ル意ト見ユレバ、今ハ強ラレテ醉ル意ナリ。伊勢ガ哥ニ、更ル夜ノ、行相ノ霜モ、ウテシカド。此類ノウテヽト云詞モ同意歟云々。宣長云、打は祈の誤りか。さらば、さかほがひと訓べし云々といはれたり。猶、考ふべし。
 
989 燒刀之《ヤキダチノ》。(加度打放《カドウチハナツ》。丈夫之《マスラヲノ》。祷豐御酒爾《ホグトヨミキニ》。吾醉爾家里《ワレヱヒニケリ》。)
 
(103)燒刀之《ヤキダチノ》。
上【攷證四中三十三丁】に出たり。こゝも枕詞か。又さにはあらざるか。二の句たしかには解しがたければ、こゝも定めがたし。
 
加度打放《カドウチハナツ》。
代匠記に、タチノカド打放トハ、俗ニ、シノギヲ削ルト云ナルベシ。或ハ敵ノ太刀ノ鋒ヲモ切テ落ス意歟云々。略解に、かどは稜《シノギ》をいふべし。今しのぎをけづるといふ事に似たり。つるぎは、つむがり《尖》の約なれば、かどともいふべし云々などいはれたり。さらば、刀之加度とは、刀の峯をいふか。打放とは、刀の峯もくだくるばかり戰ふ意か。又は燒刀《ヤキダチ》は枕詞にて、この王、敵の城門などうちやぶりし軍功ありしをいへるか。さだかには解しがたし。
 
祷《ホグ・ツグ》豐御酒爾《トヨミキニ》。
祷を、舊訓、つぐとあるは、いふまでもなき誤りにて、仙覺抄に、ねぐとよめるは、祈の意の《(マヽ)》なれど、これも取がたし。まへにいへるが如く、祷の字は祝る意なれば、ほぐと訓べし。
 
吾醉爾家里《ワレヱヒニケリ》。
古事記中卷【應神天皇】御歌に、須々許理賀《スヽコリガ》、迦美斯美岐爾《カミシミキニ》、和禮惠比邇祁理《ワレヱヒニケリ》ともあり。一首は《(マゝ)》明らけし。
 
紀朝臣鹿人。跡見茂崗之松樹歌一首。
 
印本、跡の字を脱せり。活字本に依て補ふ。跡見の地の事を(一字衍カ)は、上【攷證四下十六丁】にいへるが如く、大和國城上郡にて、この茂岡もそのほとりなるべし。これ奈良より泊瀬に至る道なる事、(104)この次に、同鹿人至2泊瀬河邊1作歌あるにてしるべし。さるを、大和志に、葛上郡重丘在2楢原村1。緑樹暢茂、林中有v祠とて、今の歌を引たるは誤れり。葛上郡は泊瀬へ至る道ならねば、この茂岡とは同名異所なるべし。紀朝臣鹿人は、父祖、考へがたし。續日本紀に、天平九年九月癸巳授2紀朝臣鹿人、外從五位下1。十二月壬戌、爲2主殿頭1。十二年十一月甲辰 授2外從五位上1。十三年八月丁亥、爲2大炊頭1とあり。本集八【三十七丁】に、典鑄正紀朝臣鹿人、至2衝衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄1、作歌一首とあるも、こゝによしありてきこゆ。
 
990 茂崗爾《シゲヲカニ》。(神佐備立而《カムサビタチテ》。榮有《サカエタル》。千代松樹乃《チヨマツノキノ》。歳之不知久《トシノシラナク》。)
 
神《カム・カミ》佐備立而《サビタチテ》。
神佐備は、上【攷證三上十三丁】にいへるが如く、神めきたりといふ意もて、たゞ古びたるをいへるにて、こゝは松の年久しく立るをいへり。
 
千代松樹乃《チヨマツノキノ》。
千代を待といふを、松にいひかけたり。下【四十一丁】に、君松樹爾《キミマツノキニ》云々。九【三十一丁】に、嬬待木者《ツママツノキハ》云々などあるも同じ。一首の意は明らけし。
 
同鹿人。至2泊瀬河邊1。作歌一首。
 
991 石《イハ・イシ》走《バシル》。(多藝千流留《タギチナガルル》。泊瀬河《ハツセガハ》。絶事無《タユルコトナク》。亦毛來而將見《マタモキテミム》。)
 
石《イハ・イシ》走《バシル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七丁】に出たり。
 
(105)多藝千流留《タギチナガルル》。
たぎち、たぎつとはたらく言にて、こゝは、たぎりながるゝ意也。一首の意は明らけし。
 
大伴坂上郎女。詠2元興寺之里1歌一首。
 
元興寺は、伊呂波字類抄に、元興寺有2本新兩寺1。推古天皇御願、建2立於大和國武智郡1、號2本元興寺1。元明天皇御願、建2立於奈良1。號2新元興寺1。共號2飛鳥寺1。格云、和銅三年、帝都遷2平城1之日、諸寺隨移。件寺獨留。朝庭更造2新寺1、備2其一不v移之闕1。所v謂元興寺是也。于v時初立2六宗1分業相傳。其後聖武天皇慨3法音之移2新京1云々。本元興寺四面在v額云々。寺家縁起云、崇峻天皇第二年己酉、聖徳太子與2蘇我馬子大臣1、高市郡飛鳥地建2法興寺1。本元興寺是也。元正天皇養老二年、破2本寺1。聖武天皇天平七年七月、造2末寺1。今元興寺是也。安2置彌勒像1。推古天皇時、世2入多田薗1矣とありて、書紀崇峻紀に、蘇我馬子宿禰、壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1、始作2法興寺1。此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1云々。續日本紀に、靈龜二年五月辛卯、始徙2建元興寺于左京六條四坊1云々など見えたり。こゝに元興寺之里といふは、則、飛鳥の里なり。
 
992 古郷乃《フルサトノ》。(飛鳥者雖有《アスカハアレド》。青丹吉《アヲニヨシ》。平城之明日香乎《ナラノアスカヲ》。見樂思好裳《ミラクシヨシモ》。)
 
飛鳥者雖有《アスカハアレド》。
これ、本元興寺をいふ。又は飛鳥寺ともいへばなり。こは大和國高市郡にて、名高き飛鳥の地也。印本、鳥を烏に誤れり。いま意改せり。
 
(106)平城之明日香乎《ナラノアスカヲ》。
奈良に、あすかと《(マヽ)》地あるにあらず。元興寺を飛鳥寺ともいふを、高市郡より奈良に移されしかば、その新元興寺をも、もとのまゝに、飛鳥寺といふによりて、そこをも假にあすかとはいふ也。この二つのあすかを、いづれも地名ぞと心得て、遠飛鳥《トホツアスカ》、近飛鳥《チカツアスカ》の二つなりと思ふは非也。遠飛鳥は高市郡の飛鳥なれど、近飛鳥は河内國なれば、さらに奈良のほとりにあらず。
 
見樂思好裳《ミラクシヨシモ》。
らくは、るを延たる言にて、思は助辭也。印本、好を奴に作れど、誤りなることしるければ、意改せり。一首は《(マヽ)》、今は古郷となり、飛鳥寺はさておきて、この奈良なる飛鳥寺を見るが、こゝろよしとなり。
 
同坂上郎女。初月歌一首。
 
左の歌に三日月とあるが如く、初月は三日月をいふ也。この事、上【攷證三上五十六丁】にいへり。
 
993 月立而《ツキタチテ》。(直三日月之《タダミカヅキノ》。眉根掻《マユネカキ》。氣長戀之《ケナガクコヒシ》。君爾相有鴨《キミニアヘルカモ》。)
 
月立而《ツキタチテ》
朔を、ついたちといふも、月立《ツキタチ》の音便にて、古しへ、すべて、月のはじめて天に登りて見ゆるを、月立《ツキタツ》といへり、七【二十八丁】に、向山《ムカヒノヤマ》、月立所見《ツキタチテミユ》云々。十【四十八丁】に、鴈鳴(107)乃《カリガネノ》、所聞空從《キコユルソラユ》、月立度《ツキタチワタル》。十一【十四丁】に、三毛侶刀山爾《ミモロノヤマニ》、立月之《タツツキノ》云々などある、これ也。さて、月のはじめになれば、月の天にあらはれそむるものなれば、朔をつきたちとはいへるにて、こゝの月立而もそれにて、俗にいはゞ、月あらたまりてといはんが如し。
 
直三日月之《タヾミカヅキノ》。
月立てより、たゞはつかに三日の月といひて、眉の細きを三日月によそへて、月之眉とはつゞけたり。文選、鮑照玩v月詩に、未v映東北塀 媚々似2蛾眉1云云。駱賓王詩に、蛾眉山上月如v眉云々などあるも、月を眉に比したり。(頭書、陳後主、有所思曲に、初月似2蛾眉1云々。)
 
眉根掻《マユネカキ》。
古しへの諺に、眉根を掻は、戀るに逢るゝよしいへりしなるべし。十一【六丁】に、眉根削《マユネカキ》、鼻鳴紐解《ハナヒヒモトキ》、待哉《マタムカモ》、何時見《イツシカミムト》、念吾君《オモヘルワキミ》。また【廿丁】希《メヅラシキ》、將見君乎見常衣《キミヲミムトゾ》、左手之《ヒダリテノ》、執弓方之《ユミトルカタノ》、眉根掻禮《マユネカキツレ》。また【四十四丁】眉可由見《マユカユミ》、思之言者《オモヒノコトハ》、君西在來《キミニシアリケリ》などありて、猶多し。
 
氣長戀之《ケナガクコヒシ》。
氣長《ケナガク》は、上【攷證二上二丁】にいへるが如く、月日の長く經行をいひて、こゝは久しく戀つるをいへり。この歌、月を見つゝ戀しき人に逢るをよろこべる歌にて、實は相聞の歌なり。略解に、これを初月歌と端書せるはいかにぞや云々といへるは、いかゞ。この類、集中猶あり。また、代匠記に、君トハ月ヲ指ヲ云ナリ云々といはれしも、いかゞ。月日長く月を戀るいはれやあるべき。一首の意は明らけし。
 
(108)大伴宿禰家持。初月歌一首。
 
994 振仰而《フリサケテ》。(若月見者《ミカヅキミレバ》。一目見之《ヒトメミシ》。人之眉引《ヒトノマヨヒキ》。所念可聞《オモホユルカモ》。)
 
振仰而《フリサケテ》。
振仰を、ふりさけとよめるは、義訓也。十一【十丁】に、振仰見《フリサケミツヽ》云々ともありて、字の如く、あふぎ見る也。
 
若月見者《ミカヅキミレバ》。芸
若月を、みかづきとよめるは、義訓也。十一【十丁】にもあり。
 
人之眉引《ヒトノマヨヒキ》。
眉引は、眉を黛《マユズミ》して引たるをいふ。この事、上【攷證五上二十四丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
大伴坂上郎女。宴2親族1歌一首。
 
三【四十二丁】にも、この郎女宴2親族1之吟歌あり。
 
995 如是爲乍《カクシツツ》。(遊飲與《アソビノミコソ》。草木尚《クサキスラ》。春者生管《ハルハオヒツヽ》。秋者落去《アキハチリユク》。)
 
遊飲與は、代匠記に、あそびのみこそと訓れしに依べし。こそは、上所々にいへるが如く、願ふ意の言也。略解に、與は、乞の誤ならんといはれしかど、集中、與をこそと訓る所の、四【二十四丁】十(109)【廿一丁、廿二丁、二十六丁】十一【四丁五丁】十二【二丁十三丁】などにもあれば、誤りとはいひがたし。この事は、上【攷證四上四十七丁】にいへり。生管《オヒツヽ》は、おひつゝと訓べし。落去《カレユク》は、かれゆくと訓べし。一首の意は、非情の草木すら、春は生出ても、秋に至れば枯るゝならひなれば、人間、まして定まれる事なし。されば、いつも/\かくの如く、遊び飲樂しむにしく事なしと也。
 
去年十月十八日より、この卷をひらきて、考證をはりつるは、あくる文政十一年正月二十八日、梅のこずゑはうつろひて、柳の糸はやゝいろそはるをりなりけれ。
                     岸 本 由 豆 流
                     (以上攷證卷六上册)
 
(110)六年甲戌。海《アマノ》犬養宿禰岡麿。應v詔歌一首。
 
岡麿、父祖、官位、考へがたし。海犬養氏は、書紀、天武紀に、十三年十二月己卯、海犬養連、賜2姓宿禰1云々。姓氏録卷十五に、海犬養、海神綿積命之後也などあり。海の一字を、あまと訓る事は、古事記に、海部《アマノ》直を、海直と、部の字を略きても書るにてしるべし。
 
996 御民吾《ミタミワレ》。(生有驗在《イケルシルシアリ》。天地之《アメツチノ》。榮時爾《サカユルトキニ》。相樂念者《アヘラクオモヘバ》。)
 
御民吾は、岡麿卑下して自らをいふ。和名抄微賤類に、人民、和名、比止久佐、一云於保多加良とあれど、こゝは、みたみと訓べし。一【廿二丁】に、散和久御民毛《サワグミタミモ》云々とあり。相樂念者は、あへらくおもへばと訓べし。一首の意は明らけし。
 
春三月。幸2于難波宮1之時。歌六首。
 
續日本紀に、天平六年三月辛未、行2幸難波宮1。戊寅、車駕發v自2難波1、宿2竹原井頓宮1。庚辰車駕還v宮云々とあり。難波宮は、上【攷證一下五十二丁】に出たり。
 
997 住吉乃《スミノエノ》。(粉濱之四時美《コハマノシジミ》。開藻不見《アケモミズ》。隱《コモリテ・シノビテ》耳哉《ノミヤ》。戀度南《コヒワタリナム》。)
 
(111)粉濱之四時美《コハマノシジミ》。
粉濱は住吉のほとりの地名なるべし。新撰字鏡に、蜆、小蛤之自彌とありて、今もおなじ。さて、この一二の句は、今眼前に見る所をいへるものから、開藻不見といはん序なり。蜆は、貝ながら煮て、貝を開きて食ふものなれば、その意もてつゞけたり。
 
開藻不見《アケモミズ》。
開《アケ》はうちあくるをいひ、不見《(マヽ)》は試る意にて、ここは、うちあけても、こゝろみざるをいへり。
 
隱《コモリテ・シノビテ》耳哉《ノミヤ》。
十一【三十四丁】に、隱而耳八《コモリテノミヤ》、吾戀居《ワガコヒヲラム》とあるに依りて訓べし。十七【二十九丁】に、己母理古非《コモリコヒ》、伊枳豆伎和多利《イキツキワタリ》云々ともあり。この歌、一二の句は序にて、一首の意は、うちあけても云こゝろ見ず、吾は心のうちにのみこめて、戀わたりなんといふに(て脱カ)、行幸の御供なる女などをおもひて、よめるなるべし。
 
右一首。作者不v詳。
 
998 如眉《マユノゴト》。(雲居爾所見《クモヰニミユル》。阿波乃山《アハノヤマ》。懸而榜舟《カケテコグフネ》。泊不知毛《トマリシラズモ》。)
 
如眉《マユノゴト》。
住吉の沖より、阿波の國なる山の遠く望まるゝが、少女の眉たら《(マヽ)》んやうなるをいへり。遠山を眉に比したるは、書紀、仲哀天皇八年紀に、愈2茲國1而有2寶國1、譬如2美女之|※[目+碌の旁]《マヨヒキ》1、有2向津國1云々。西京雜記に、文君※[女+交]好、眉色如v望2遠山1云々などあり。
 
(112)阿波乃山《アハノヤマ》。
地名にあらず。難波の海より、阿波國の山々の遠く望まるゝをいへり。
 
懸而榜舟《カケテコグフネ》。
懸而とは、上【攷證一上十二丁】にいへるが如く、心詞などに懸るをいひて、こゝは阿波の山を心にかけて、それを目當として榜ゆく舟をいへり。一首の意は明らけし。
 
右一首。船王作。
 
船王は舍人皇子の御子にて、廢帝の御弟なり。續日本紀に、神龜四年正月庚子、授2无位船王、從四位下1。天平十五年五月癸卯、授2授四位上1。十八年四月壬辰、爲2彈正尹1。天平寶字元年五月丁卯、授2正四位下1。二年八月庚子朔、授2從三位1。三年六月庚戌、詔曰【中略】自v今以後、追皇舍人親王、宜d稱2崇道盡敬皇帝1、當麻夫人稱2大夫人1、兄弟姉妹悉稱c親王u。【中略】授2三品1。四年正月丙寅、爲2信部卿1。六年正月癸未、授2二品1。八年十月壬申、高野天皇詔曰、船親王九月五日仲麻呂二人謀家良久、書作朝庭咎計將進家利。又、仲麻呂家物、計夫流爾、書中仲麻呂等《(マヽ)》家流文有。是以親王諸王隱岐國流賜云々とあり。
 
999 從千沼囘《チヌマヨリ》。(雨曾零來《アメゾフリクル》。四八津之泉郎《シハツノアマ》。網手綱乾有《アミタヅナホセリ》。沾將堪香聞《ヌレアヘムカモ》。)
 
從千《チヌ》沼《マ・ワ》囘《ヨリ》。
古事記上卷に、到2血沼海1、洗2其御手之血1、故謂2血沼海1也云々とある、こゝにて、書紀欽明紀に、河内國言、泉郡茅渟海云々と見え、續日本紀に、靈龜二年四月(113)甲子、割2大鳥、和泉、日根、三郡1、始置2和泉監1云々とある如く、古くは千沼は河内國なりしかど、かの三郡を割て、和泉國を立られてより後は、和泉國なり。集中、いと多し。本集七【十二丁】攝津作の歌の中に、爲妹《イモガタメ》、貝乎拾等《カヒヲヒロフト》、陳奴乃海爾《チヌノウミニ》、所沾之袖者《ヌレニシソデハ》、雖凉常不干《ホセレトトヒズ》ともあるは、和泉、攝津は並びたる國にて、この海、兩國にわたりたれば也。囘《マ》はほとりの意なること、上【攷證一下十四丁】にいへるが如し。
 
四八津之泉郎《シハツノアマ》。
四八津は、書紀、雄略紀に、十四年正月戊虎、身狹村主青等、共2呉國使1、將2呉所v献手末才伎、漢織、呉織、及衣縫兄媛弟媛等1、泊2於住吉津1。是月爲2呉客道1、通2磯齒津《シハツノ》路1、名2呉坂1云々とある、こゝにて、住吉のほとりなるべし。谷川士清が書紀通證には、佳吉浦の一名とせり。本集三【十九丁】に、四極《シハツ》山とあるは參河にて、こゝとは別なること、その所【攷證三上四十二丁】にいへるが如し。泉郎は海士をいふ。集中、多くは白水邸と書て、泉郎と書るは、こゝと七【二十三丁】と二所のみなり。されば、泉は白水の二字を合せて一字となせるにて、中國製造の二合字なるべし。二合字の事は夢溪筆談にいへり。
 
網《アミ》手綱《タヅナ・テナハ》乾有《ホセリ》。
代匠記に依て、手綱は文字のまゝに讀めり。漁獵の具に、さいふものあるなるべし。又は、鋼は繩の誤りにて、舊訓のまゝ、てなはとよまんか。九【二十丁】に、手綱の濱といふ地名あるも、この具によれる地名ならんとおぼゆ。眞淵の説に、網手綱は、あたづなとよまんか。網の大づななるべし、といはれつれど、おぼつかなし。
 
(114)沾《ヌレ》將《バ・テ》堪香聞《タヘムカモ》。
ぬればと訓べし。一首の意は、千沼の方より雨のふりくれば、海人が乾たる網手綱の沾て用るに堪じかしといへるなり。
 
右一首。遊2覽住吉濱1。還v宮之時。道上。守部王。應v詔作歌。
 
道上は道のほとりなり。守部王は舍人親王の御子也。紹運録を考ふるに、八男とせり。續日本紀に、天平十二年正月庚子、授2无位守部王、從四位下1。十一月甲辰、授2從四位上1云々。三代實録に、貞觀三年正月癸酉、清原眞人岑成卒。岑成、右京人贈一品舍人親王之後也。曾祖二世從四位上守部王。祖從五位下猪名王。父无位弟村王。岑成、是弟村王之子也云々とあり。さて、印本、王の下に、また王の字あり。衍字なる事明らかなれば、略けり。
 
1000 兒等之有者《コラガアラバ》。(二人將聞乎《フタリトキカムヲ》。奥渚爾《オキツスニ》。鳴成鶴乃《ナクナルタヅノ》。曉之聲《アカツキノコヱ》。)
 
兒等は、妹といはんが如く、女をいふ。男にまれ、女にまれ、親しみて子といへる事、【攷證二中八丁】にいへるが如し。之《ガ》は、しと訓て、助辭とせんかともおもひしかど、集中、子等之とつゞきたる所は、みな、こらがと訓る例なれば、舊訓のまゝにておきつ。一首の意はくまなし。
 
右一首。守都王作。
 
(115)まへの歌も同人の作なるを、こゝにかくしるせるは、まへのは、應v詔て作れる歌、これはたゞ自ら作れる歌なればなり。
 
1001 大夫者《マスラヲハ》。(御※[獣偏+葛]爾立之《ミカリニタヽシ》。未通女等者《ヲトメラハ》。赤裳須素引《アカモスソヒク》。清濱備乎《キヨキハマビヲ》。)
 
立之《タタシ》は爲立《タタシ》なり。須素引《スシヒク》はすそひくと訓べし。濱備《ハマビ》は濱邊なり。この歌、見るまゝをいへるにて、一首の意はくまなし。
 
右一首。山=部宿禰赤人作。
 
1002 馬之歩《ウマノアユミ》。(押止駐余《オシテトドメヨ》。住吉之《スミノエノ》。岸乃黄土《キシノハニフニ》。爾保比而將去《ニホヒテユカム》。)
 
馬之歩《ウマノアユミ》。
七【二十六丁】に、歩黒駒《アユメクロコマ》。十四【十七丁】に、安由賣安我古麻《アユメアガコマ》などあり。
 
押止駐余《オシテトドメヨ》。
三【五十八丁】に、大御馬之《オホミマノ》、口抑駐《クチオシトドメ》云々ともありて、押《オシ》は詞なり。さて、眞淵の説に、止は弖《テ》の誤りなるべしといはれたるは非也。駐一字にて、とゞむと訓る字なれど、止の字を添へて書るは、例の添字の格なり。この事、上【攷證三上七十五丁】にいへり。活字本、止を上に作れるも、止を誤れるなり。
 
岸乃黄土《キシノハニフニ》。
此卷【十五丁】に、白浪之《シラナミノ》、千重來縁流《チヘニキヨスル》。住吉能《スミノエノ》、岸乃黄土粉《キシノハニフニ》、二寶比天由香名《ニホヒテユカナ》とあると同じ。黄土は、はにとのみよめる字なれど、はにふとよめるは、例の添訓の格(116)也。一首の意は明らけし。
 
右一首。安倍朝臣豐繼作。
 
豐繼、父祖、考へがたし。續日本紀に、天平九年二月戊午、授2外從五位下阿部朝臣豐繼、從五位下1云々とあり。
 
筑後守外從五位下葛井連大成。遙見2海人釣船1。作歌一首。
 
大成、上【攷證四上六十四丁】に出たり。印本、位を倍、井を并に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
 
1003 海※[女+感]嬬《アマヲトメ》。(玉求良之《タマモトムラシ》。奥浪《オキツナミ》。恐海爾《カシコキウミニ》。船出爲利所見《フナデセリミユ》。)
 
玉求良之《タマモトムラシ》。
九【七丁】に、爲妹《イモガタメ》、我玉求《ワレタマモトム》云々ともあり。玉とは、貝をも、石をもいふ事あれど、こゝは鰒玉をいへるならん。
 
船出爲利所見《フナデセリミユ》。
中ごろよりならば、ふなでせる見ゆといふべきを、せり見ゆといへるは古言也。古事記下卷【顯宗天皇】御歌に、都麻多弖理美由《ツマタテリミユ》云々。本集十五【二十一丁】に、安麻能伊射里波《アマノイサリハ》、等毛之安敝里見由《トモシアヘリミユ》などあるにてしるべし。一首の意はくまなし。
 
(117)※[木+安]作村主益人歌一首。
 
益人、父祖、官位、考へがたし。上【攷證三上七十六丁】に出たり。
 
1004 不所念《オモハヌニ・オモホエズ》。(來座君乎《キマセルキミヲ》。佐保川乃《サホガハノ》。河蝦不令聞《カハヅキカセズ》。還都流香聞《カヘシツルカモ》。)
 
不所念《オモハヌニ》は、おもはぬにと訓べし。かゝる所、集中みなしかり。おもほえずと假字に書る所、一つもなし。この言、上【攷證三下三十四丁】に出たり。おもひかけずの意也。還都流香聞はかへしつるかも、不令聞はきかせずと訓べし。一首の意は明らけし。
 
右。内匠寮大屬。※[木+安]作村主益人。聊設2飲饌1。以饗2長官佐爲王1。未v及2日斜1。王既還歸。於v時益人。怜2惜不v※[厭のがんだれなし]之歸1。仍作2此歌1。
 
内匠寮大屬。
これ令外の官なり。續日本紀に、神龜五年八月甲午、始置2内匠寮1、頭一人、助一人、大允一入、小允二人、大屬一人、小屬二人、史生八人、使部已下雜色匠手各有v數云々とあり。屬はさくわんと訓べし。和名抄職官部に、本朝職員令、二方品員等所v載、神祇曰v史、省曰v録、弾正曰v疏、勘解由曰2主典1、職寮曰v屬【皆佐官】と見えたり。
 
(118)佐爲王。
續日本紀に、和銅七年正月甲子、授2無位佐爲王、從五位下1。養老五年正月壬子、授2從五位上1。庚午、詔2佐爲王等1【十六人】退v朝之令v侍2東宮1焉。神龜元年二月壬子、授2正五位上1。四年正月庚子、授2從四位下1。天平三年正月丙于、授2從四位上1。八年十一月壬辰、賜2姓橘宿禰1。九年壬寅朔、中宮大夫兼右兵衛率正四位下橘宿禰佐爲卒とありて、大屬は紀にもれたり。紹運録を考るに、敏達天皇四世、美奴王の男にて、橘諸兄公の弟なり。活字本、仍を時に作れり。これもあしからず。
 
八年丙子夏六月。幸2于芳野離宮1之時。山部宿禰赤人。應v詔作歌一首。并短歌。
 
續日本紀に、天平八年六月乙亥、行2幸芳野離宮1。七月庚寅、車駕還宮云々と見えたり。
 
1005 八隅知之《ヤスミシシ》。(我大王之《ワガオホキミノ》。見給《ミシタマフ》。芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》。山高《ヤマタカミ》。雲曾輕引《クモゾタナビク》。河速彌《カハハヤミ》。湍之《セノ》聲《ト・オト》曾清寸《ゾキヨキ》。神佐備而《カミサビテ》。見者貴久《ミレバタフトク》。宜名倍《ヨロシナヘ》。見者清之《ミレバサヤケシ》。此山之《コノヤマノ》。盡者耳社《ツキバノミコソ》。此河乃《コノカハノ》。絶者耳社《タエバノミコソ》。百師紀能《モヽシキノ》。大宮所《オホミヤドコロ》。止時裳有目《ヤmトキモアラメ》。)
 
(119)見《ミシ・ミセ》給《タマフ》。
みしたまふと訓べし。見たまふの意也。この事、上【攷證一下三十五丁三下六十五丁】にくはしくいへり。
 
湍之《セノ》聲《ト・オト》曾清寸《ゾキヨキ》。
集中、聲音を、こゑとも、おととも通はしよめる事、常の事也。上【攷證二下四十二丁】にも出たり。
 
宜名倍《ヨロシナヘ》。
名倍《ナヘ》は助辭の如くして、意なし。この事、上【攷證一下三十七丁】にいへり。
 
盡者耳社《ツキバノミコソ》。
耳《ノミ》に意なく、たゞこその意也。この事も上【攷證四中五十七丁】にいへり。
 
反歌。
 
1006 自神代《カミヨヨリ》。(芳野宮爾《ヨシヌノミヤニ》。蟻通《アリガヨヒ》。高所知《タカシラセル・タカクシレル》者《ハ》。山河乎吉三《ヤマカハヲヨミ》。)
 
自神代《カミヨヨリ》。
神代とはいへど、必らず神代にのみ限らず。たゞ遠き世てふ意にいへるも多かり。こゝもたゞ古き世といへる也。この事、上【攷證三上六十九丁】にいへり。
 
蟻通《アリガヨヒ》。
蟻と書るは借字、在にて、ながらへ在つゝ通ふ意なり。この事、上【攷證二中十六丁】にいへり。
 
高所知《タカシラセル・タカクシレル》者《ハ》。
宮殿を知り領じますを《(マヽ)》、この事も上【攷證一下九丁】にいへり。
 
(120)山河乎吉三《ヤマカハヲヨミ》。
山と川となり。長歌の山高河速彌《ヤマタカミカハハヤミ》をうけたり。一首の意はくまなし。
 
市原王。悲2獨子1歌一首。
 
市原王の傳は、上【攷證三中九十二丁】に出たり.こゝに獨子といへるは、父安貴王のために吾が獨子なるを悲しめるにて、吾子の二人ともなきを悲めるにはあらず。いかにとなれば、續日本紀に、天應元年二月丙午、三品能登内親王薨。内親王、天皇之女也。適2正五位下市原王1、生2五百井女王、五百枝王1。薨時年四十九云々とありて、史に載たる子だに二人あるをや。但し、能登内親王は天應元年四十九歳にて薨たまひしかば、この天平八年には、はつかに四歳にてまし/\ければ、市原王に適たまひしは、この歌よりははるかに後の事なり。されば、この天平八年のころは、市原王、前妻に子ひとりだになかりしを悲しめるなるべしとも助けいふべけれど、市原王は、天平十五年に、はじめて无位より從五位下に叙たまひし人なれば、この頃はいと若くこそおはしけめ。若ければ、ゆくさきいくらも子はいできぬべきを、若き身もて、子のすくなきをなげかるべきよしなきをや。されば、わが兄弟姉妹なきを悲しまるゝ歌なる事、歌に木尚妹與兄有云乎《キスライモトセアリトフヲ》云々といへるにてもしるべし。
 
1007 不言問《コトトハヌ》。(木尚妹與兄《キスライモトセ》。有云乎《アリトイフヲ》。直獨子爾《タダヒトリコニ》。有之苦者《アルガクルシサ》。)
 
(121)不言問《コトトハヌ》。
ものいはぬといはんが如し。この(事、脱カ)上【攷證二中四十六丁】にいへり。四【五十七丁】に、事不問《コトトハヌ》、木尚味狹藍《キスラアヂサヰ》云々ともあり。
 
木尚妹與兄《キスライモトセ》。
こゝは兄弟なきをいへり。いにしへは、專ら兄弟姉妹をいもせとはいへり。この事、上【攷證二中三十九丁】にいへるが如く、夫婦をのみ、いもせといへるは、やゝ後の事也。
 
有之苦者《アルガクルシサ》。
者は、さの假名に用ひしにはあらで、助字なり。この事、上【攷證六上五十四丁】にいへり。一首の意は、ものいはざる非情の草木さへ、兄弟あるを、まして人とありながら、たゞ獨子にて、親につかふまつるわざも、はかばかしからぬが、なげかはしとなり。略解云、木すらいもとせとは、人の子の中に兄弟ある如く、木にも蘖《ヒコバエ》などいひて、子孫といふべきものあれば、かくいへるか。宣長は、一本のみならず、同じ列らに、いく本も生立るをいふならんといへり。拾遺集、われのみや、子もたるてへば、高さごの、をのへにたてる、松も子もたり、ともよめり云云。
 
忌部首黒麿。恨2友※[貝+〓]來1歌一首。
 
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平寶字二年八月庚子朔、授2正六位上忌部首黒麿、外從五位下1。三年十二月壬寅、外從五位下忌部黒麿等七十四人、賜2姓連1。六年正月癸未爲2内史局助1とあり。(122)〓はおそくと訓べし。篇海に、凡人謂2遲緩1爲v〓とあり。
 
1008 山之葉爾《ヤマノハニ》。(不知世經月乃《イザヨフツキノ》。將出香常《イデムカト》。我待君之《ワガマツキミガ》。夜者更降管《ヨハフケニツヽ》。)
 
不知世經月乃《イザヨフツキノ》。
いざよふとは、進まんとして進みかね、たゆたふ意にて、月、山のはに、ほのめきて、いでやらぬをいへり。上【攷證三上三十四丁】に出たり。乃《ノ》は如くの意也。
 
夜者更降管《ヨハフケニツヽ》。
略解には、夜はくだちつゝと訓れしかど、舊訓のまゝ、ふけにつゝと訓べし。深去《フケイニ》つゝの意なり。この事、上【攷證六上五十一丁】にいへり。一首の意は、山の端にいざよひほのめく月の如く、とく來よかしと、わが待わたるほどに、はや夜は深去《フケイニ》つゝと、今目前に見る月によそへて、待人の來ることのおそさをいへり。(頭書、この歌、七【三丁】に、山末爾《ヤマノハニ》、不知與歴月乎《イザヨフツキヲ》、將出香登《イデムカト》、待乍居爾《マチツヽヲルニ》、與曾降家流《ヨゾフケニケル》とあると大同小異なり。)
 
冬十一月。左大辨葛城王等。賜2姓橘氏1之時。御製歌一首。
 
左大辨。
職員令に、左大辨一人、掌d管中務、式部、治部、民部1、受2付庶事1、糺2判官内1、署2文案1、勾2稽失1、知c諸司宿直、諸國朝集u。若右辨官不v在、則併行v之云々とあり。諸本、辨を臣に作れり。誤りなる事明かなれば、意改せり。目録には左大辨の三字なく、姓橘氏の三字を橘姓の二字に作れるは是也。
 
(123)葛城王。
續日本紀に、和銅三年正月戊午、授2无位葛木王、從五位下1。四年十二月壬寅、補2馬寮監1。養老元年正月乙巳、授2從五位上1。五年正月壬子、授2正五位下1。七年正月丙子、授2正五位上1。神龜元年二月壬子、授2從四位下1。天平元年三月甲午、授2正四位下1。九月乙卯、爲2左大辨1。二年九月丙子、任2催造司監1、本官如v故。三年八月丁亥、爲2參議1。四年正月甲子、授2從三位1。八年十一月丙戌、從三位葛城王、從四位上佐爲王等、上表曰、臣葛城等言、去天平五年、故知太政官事一品舎人親王、大將軍一品新田部親王宣v勅曰、聞道、親王等願d賜2臣連姓1供c奉朝廷u、是故召2王等1令v問2其状1者。臣葛城等本懐2此情1無v由2上達1、幸遇2恩勅1、昧死以聞。昔者輕堺原大宮御宇天皇曾孫建内宿禰、盡2事v君之忠1致2人臣之節1、創爲2八氏之祖1永遺2萬代之基1。自v此以來、賜v姓命v氏、或眞人或朝臣、源始v王流終2臣民1。飛鳥淨御原大宮御大八州天皇、徳覆2四海1威八荒。欽明文思經v天緯v地。太上天皇内脩2四徳1外撫2萬民1、化翼鱗澤被2草木1。復太上天皇無v改2先軌1守而不v違、卒立清淨、民以寧v一。于v時也葛城親母贈從一位縣犬養橘宿禰、上歴2淨御原朝廷1下逮2藤原大宮1、事v君致v命移v孝爲v忠、夙夜忘v勞累代竭v力。和銅元年十一月二十一日、供2奉擧國大甞1、二十五日御宴、天皇譽2忠誠之至1、賜2浮v杯之橘1、勅曰、橘者果子之長上、人所v好、柯凌2雪霜1而繁茂、葉経2寒暑1而不v彫、與2珠玉1共競v光、交2金銀1以逾美。是以汝姓者、賜2橘宿禰1也。而今無2繼嗣1者恐失2明詔1。伏惟、皇帝階下、光2宅天下1、充2塞八※[土+廷]1、紀被2海路之所1v通、徳蓋2陸道之所1v極、方船之貢府无2空時1、河圖之靈史不v絶v記。四民安v業、萬姓謳v衢。臣葛城、幸蒙2遭v時之恩1、濫接2九卿之未1、進以2可否1、志在v盡v忠。身隆2絳闕1妻子康v家。夫王賜v姓定v氏由來遠矣。是以臣葛城等、願賜2橘宿禰之姓1、戴2先帝之厚命1、流2橘氏之殊名1、萬歳無窮、千葉相傳。(124)壬辰詔曰、省2從三位葛城王等表1、因知2意趣1。王等情深2謙譲1、志在v顯v親。節2皇族之高名1、請2外家之橘姓1、尋2思所執1、誠得2時宜1。一依v表令v賜2橘宿禰1。千秋萬歳、相繼無v窮。九年九月己亥、從三位橘宿禰諸兄爲2大納言1。十年正月壬午、授2正三位1、拜2右大臣1。十一年正月丙午、授2從二位1。十二年五月乙未、天皇幸2右大臣相樂別業1。十一月甲辰、授2正二位1。十五年五月癸卯、授2從一位1、拜2左大臣1。十八年四月丙戌、爲2兼太宰帥1。天平勝寶元年四月丁未、授2正一位1。二年正月乙巳、賜2朝臣姓1。八年二月丙戌致仕。勅依v請許v之。天平寶字元年正月乙卯薨。遣2從四位上紀朝臣飯麿、從五位下石川朝臣豐人等1、監2護葬事1、所v須官給。大臣贈從二位栗隈王之孫、從四位下美努王之子也。
 
賜2姓橘氏1。
こゝの書きさま、姓と氏とまぎらはしきに依(似カ)たれど、氏といふは、源、平、藤、橘などの類、姓といふは、朝臣、宿禰、臣、連などの類なれど、姓といふときは、氏をもおしなべていひ、氏といふときは、氏のみをいひ《(マヽ)》る事也。されば、こゝに姓橘氏とあるも誤りならず。但し、目録に橘姓とのみあるかた、まされり。姓氏録卷二に、橘朝臣、甘南備眞人、同v祖。敏達天皇難波皇子男、贈從二位栗隈王男、治部卿從四位下美努王下。美努娶2從四位下縣犬養宿禰東人女、正一位縣犬養橘宿禰三千代大夫人1、生2左大臣諸兄、中宮大夫佐爲宿禰、贈從二位牟漏女王1。女王適2贈太政大臣藤原房前1、生2太政大臣永手、大納言眞楯等1。和銅元年十一月巳卯、大嘗會。二十五日癸未、曲宴。賜2橘宿禰姓於大夫人1。天平八年十二月甲午詔、參議從三位行左大辨葛城王賜2橘宿禰諸兄1云々。
 
(125)御製歌。
聖武天皇の御製なり。この天皇の御事は、上【攷證四中二十三丁】に出たり。
 
1009 橘花者《タチバナハ》。(實左倍花左倍《ミサヘハナサヘ》。其葉左倍《ソノハサヘ》。枝爾霜雖降《エダニシモオケド》。益《イヤ・マシ》常葉之樹《トキハノキ》。)
 
橘花者《タチバナハ》。
この御製は、花をよませたまへるにはあらざれど、こゝに橘花とあるは、例の如く、花の字を添て書るなり。
 
益《イヤ・マシ》常葉之樹《トキハノキ》。
益はいやと訓べし。集中みなしかり。續日本紀に、養老五年十月庚寅、太上天皇又詔曰、【中略】其地者皆殖2常葉之樹1云々ともありて、葉の字を書る、借字、いつもかはらざる木といふよしなり。さて、これを、略解には、とこはと訓れつれど、集中、ときはとも、とこはとも、いづれにもいへば、こゝも、いづれにてもあるべし、一首の意は、橘姓を祝し給へるにて、橘てふ木は、葉も實もときはにて、いつもかはらで榮るものなれば、その如く、いつもかはらで榮えよと、のたまへるなり。
 
右冬十一月(九日。從三位葛城王。從四位上佐爲王等。辭2皇族之高名1。賜2外家之橘姓1。已訖。於v時大上天皇皇后共在2于皇后宮1。以爲2肆宴1。而即御2製賀v橘之歌1。并賜2御酒宿彌等1也。或云。此歌一(126)首。太上天皇御歌。但天皇皇后御歌。各有2一首1者。其歌遺落。未v得2探求1焉。今檢2案内1。八年十一月九日。葛城王等願2橘宿禰之姓1上表。以2十七日1依2表乞1。賜2橘宿禰1。)
 
活字本、太上天皇皇后とある、皇后の上に、大上の二字あり。こは天皇を誤れるなるべし。肆宴は、とよのあかりと訓べし。書紀雄略紀にいでたり。太上天皇は元正天皇。續日本紀に、日本根子高瑞淨足姫天皇、天渟中原瀛眞人天皇之孫、日並知皇子尊之皇女也。神龜元年二月甲午、天皇禅2位於皇太子1。天平二十年四月庚申、太上天皇崩2於寢殿1。春秋六十有九とあり。さて、こゝに八年十一月九日とあれど、國史を考るに、丙戌とあり。この十一月は丙子朔なれば、丙戌は十一日にあたれり。こゝとたがへるは、自らに傳へのことなるべし。
 
橘宿禰奈良麿。應v詔歌一首。
 
續日本紀に、天平十二年五月乙未、天皇幸2右大臣相樂別業1、宴飲〓暢、授2大臣【諸兄】男、無位奈良麿、從五位下1。十一月、授2從五位上1。十三年七月辛亥、爲2大學頭1。十五年五月癸卯、授2正五位上1。十七年九月戊午、爲2攝津大夫1。十八年三月壬戌、爲2民部大輔1。十九年正月丙申、授2從四位下1。天平勝寶元年四月甲午朔、授2從四位上1。閏五月甲午朔、爲2侍從1。七月甲午、爲2參議1。四(127)年十一月乙巳、爲2但馬因幡按察使1。六年正月壬子、授2正四位下1。天平賢字元年六月壬辰、爲2左大辨1。乙未【中略】從四位上山背王復告d橘奈良麿備2兵器1謀cv圍田村宮u。正四位下大伴宿彌古麿、亦知2其情1。七月庚戌、【中略】奈良麿、古麿、使留2彼曹1、不v聞2後語1。勘問畢而自經云々。續日本後紀に、承和十年八月辛未、詔曰、無位橘朝臣奈良麿、宜d寛2典式1賁c幽憤u、可v贈2從三位1。十四年十月丁酉詔、贈大納言從三位橘朝臣奈良磨、更贈2太政大臣正二位1、云々などあり。
 
1010 奥山之《オクヤマノ》。(眞木葉凌《マキノハシヌギ》。零雪乃《フルユキノ》。零者雖益《フリハマストモ》。地爾落目八方《ツチニオチメヤモ》。)
 
眞木葉凌《マキノハシヌギ》。
眞木は※[木+皮]なる事、上【攷證一下廿丁】にいへるが如し。凌《シヌギ》は、おしなびくる意なること、これも上【攷證三上六十四丁】にいへり。印本、眞を直に誤れり。誤りなる事しるければ、意改せり。但し拾穗本には眞とせり、
 
地爾落目八方《ツチニオチメヤモ》。
地上におつるをいへり。一首の意は、かの國史に載たる、橘姓を賜はれる時の詔に、千秋萬歳、相繼無窮とあるに應じて、わが家の下る事はあらじといふを、※[木+皮]につもれる雪によそへていへり。
 
冬十二月十二日。歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等。集2葛井廣成家1宴歌二首。
 
(128)歌※[人偏+舞]所は雅樂寮をいふ也。和名抄職官部に、雅樂寮、宇多末比乃豆加佐とあり。諸王臣子等は、この寮にて歌※[人偏+舞]を習ふ諸王諸臣の子等をいふ。職員令に、雅樂寮、頭一人、助一人、大允一人、小允一人、大屬一人、小屬一人、歌師四人、歌人三十人、歌女一百人、※[人偏+舞]師四人、※[人偏+舞]生百人とあり。廣成は上【攷證六上三十七丁】に出たり。
 
比來古※[人偏+舞]盛興。(古歳漸晩。理宜d共盡2古情1。同唱c此歌u。故擬2此趣1。輙獻2古曲二節1。風流意氣之士。儻有2此集之中1。爭發v念心和2古體1。)
 
これ、この二首の歌の小序なり。古※[人偏+舞]とは、古しへよりの※[人偏+舞]をいふなるべし。中國のいにしへ、天岩屋戸にての神樂をはじめにで、五節※[人偏+舞]は天武の御代にはじまり、伎樂※[人偏+舞]《クレノウタマヒ》は推古の御代にわたれり。されば、中國、歌※[人偏+舞]ある事久し。古歳とは、いま十二月なれば、今年をいふ也。ふる年に春立けるなどいふが如し。古曲は古しへの曲に擬るなり。文選に、擬古の詩あるが如し。有は在の誤りか、またふと有の字をかけるにてもあるべし。
 
1011 我屋戸之《ワガヤドノ》。(梅咲有跡《ウメサキタリト》。告遣者《ツゲヤラバ》。來云似有《コチフニニタリ》。散去十方吉《チリヌトモヨシ》。)
 
(129)來云似有《コチフニニタリ》は、來よかしといふに似たりといふ意也。舊訓、云を、てふと訓て、古今集戀四に【よみ人しらず】月夜よし夜よしと人につけやらば來てふに似たりまたずしもあらず、とあれど、この萬葉のころ、てふと《(マヽ)》、詞なし。ちふとか、とふとか訓べし。ちふも、とふも、皆といふの約りにて、集中、いづれも多かれば、こゝも、ちふと訓んか、定めがたけれど、しばらく眞淵の訓にしたがへり。一首の意は、吾宿の梅の咲たりとて告やりたらば、來れかしといはずとも、來よかしといふ事と思ひて、必らずとぶらひ來べし。さて後には、花のちりぬともよしといへる也。
 
1012 春去者《ハルサレバ》。(乎呼理爾乎呼里《ヲヲリニヲヲリ》。※[(貝+貝)/鳥]之《ウグヒスノ》。鳴吾島曾《ナクワガシマゾ》。不息通爲《ヤマズカヨハセ》。)
 
乎呼理爾乎呼里《ヲヲリニヲヲリ》。
をゝりは、繁く咲たわみたること、上【攷證二下七丁】にいへるが如し。
 
鳴吾島曾《ナクワガシマゾ》。
島は庭をいふ。この事、上【攷證二中四十八丁】にいへり。この歌、梅をいはざれど、をゝりにをゝりといふにて、梅をきかせたり。集中、咲散とのみいひて、花紅葉をいはざる歌多し。この事も、上【攷證三上四十五丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
九年丁丑春正月。橘少卿。并諸大夫等。集2弾正尹門部王家1宴歌二首。
 
(130)少卿は、兄【諸兄公】にむかへていへる稱にて、佐爲王なるべし。これも、諸兄公と同じ時に、橘姓を賜はりし人なり。まへに出たり。門部王も上【攷證三上七十四丁】に出たり。
 
1013 豫《カネテヨリ》。(公來座武跡《キミキマサムト》。知麻世婆《シラマセバ》。門爾屋戸爾毛《カドニヤドニモ》。珠敷益乎《タマシカマシヲ》。)
 
豫を、略解には、あらかじめと訓たれど、舊訓のまゝ、かねてよりと訓べき事、上【攷證三下五十丁】にいへり。門爾屋戸爾毛《カドニヤドニモ》は、門にも宿にもの意なるを、もを一つ略ける也。珠敷益乎《タマシカマシヲ》は、上【攷證六上三十一丁】にいへるが如く、古しへ、賓客を迎ふる禮にて、十一【四十六丁】に、念人《オモフヒト》 將來跡知者《コムトシリセバ》、八重六倉《ヤヘムグラ》、覆庭爾《オホヘルニハニ》、珠布益乎《タマシカマシヲ》。十八【十丁】に、保里江爾波《ホリエニハ》、多麻之可麻之乎《タマシカマシヲ》、大皇乎《オホキミヲ》、美敷禰許我牟登《ミフネコガムト》、可年弖之里勢婆《カネテシリセバ》。十九【四十四丁】に、牟具良波布《ムグラハフ》、伊也之伎屋戸母《イヤシキヤドモ》、大皇之《オホキミノ》、座牟等知者《マサムトシラバ》、玉之可麻思乎《タマシカマシヲ》などあり。實に玉を敷べきやうはあらねど、きよくつくろひ立るを、よそへいへるなり。一首の意は明らけし。
 
右一首。主人門部王。【後賜2姓大原眞人氏1也。】
 
この九字の小注、諸本なし。後人のさかしらなる事、これも上【攷證三上七十四丁】にいへり。
 
1014 前日毛《ヲトツヒモ》、(昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。雖見《ミツレドモ》。明日左倍見卷《アスサヘミマク》。欲寸君香聞《ホシキキミカモ》。)
 
前日を、をとつひとよめるは義訓なり。十七【十三丁】に、乎登都日毛《ヲトツヒモ》、昨日毛今日毛《キノフモケフモ》、由吉能布禮々婆《ユキノフレレバ》。また【四十六丁】乎等都日毛《ヲトツヒモ》、伎能敷母安里追《キノフモアリツ》云々などありで、遠《ヲチ》つ日の意なるべし。中ごろよりは、(131)をとゝひといへり。今の世にも、しかいへり。一首の意は明らけし。
 
右一首。橘宿禰文成。【即少卿之子也。】
 
小注にいへる如く、佐爲王の子なるべけれど、橘氏系國に見えず。續日本紀に、天平勝寶三年正月辛亥、賜2文成王、甘南備眞人姓1云々とあるは、この人か。さらば、橘氏を再び改て賜はりしにもあるべけれど、一度姓を賜はりて後、猶、文成王としるされん事おぼつかなし。猶別人なるべし。
 
榎《ヱノ》井王。後追和歌一首。
 
續日本紀に、天平寶字六年正月癸未、授2無位榎井王從四位下1。六月戊辰卒云々。日本後紀に、大同元年四月丁巳、右大臣從二位神王薨。大臣者、田原天皇之孫、榎井親王之子也云々とあり。光仁天皇の御弟なれば、光仁御即位の後、寶龜元年十一月甲子詔ありて、これより親王と申す。
 
1015 玉敷而《タマシキテ》。(待益欲利者《マタマシヨリハ》。多鷄蘇香仁《タケソカニ》。來有今夜四《キタルコヨヒシ》。樂所念《タヌシクオモホユ》。)
 
多鷄蘇香仁《タケソカニ》、この詞、外に例なければ、考るによしなけれど、たまさかといふ詞にかよひて聞ゆ。たまさかといふ詞は、九【十八丁】に邂をよみ、十一【六丁】に玉坂をよみ、靈異記上卷に邂逅をよめり。代(132)匠記に、今按、タケハ、タケキニテ、ソカハ、オロソカ、オゴソカオ(ナカ)ド云ニモ添タル詞ニヤ云々。宣長云、岡部翁は、遠疎の意の遠きを、たけといへる例ありきとおぼゆといへり。されど、遠疎はこゝにかなへりともおぼえず。只かねて約する事もなく、俄にふと來たる意なるべければ、たまさかと同言かとおぼゆ。たまさかは、稀なることとのみおもふべけれど、邂逅の字にあたれり云々。略解云、たけは、集中、たかだかといへる詞に同じ。そかは、おろそかの意なるを、合せいふ詞也云々。今夜四《コヨヒシ》のしもじは助辭也。一首の意は、玉しける如く、清くかきはらひなどして待んをりに來たらんよりは、たまさかに、ゆくりなく來らんこそ、なかなかに興ありておぼゆとなり。
 
春二月。諸大夫等。集2左少弁巨勢宿奈麿朝臣家1宴歌一首。
 
左少弁。
職員令に、左中辨一人、掌同2左大辨1。左少辨一人、掌同2左中辨1云々とあり。弁は辨と通ず。河内國釆女氏冢地碑に大弁官、上野國多胡郡辨官符碑に左中弁などしるせり。この事、くはしくは、狩谷望之が古京遺文に出たり。
 
巨勢宿奈麻呂。
父祖、考へがたし。紀には少麿とも書り。續日本紀に、神龜五年二月丙辰、授2六位下巨勢朝巨少麻呂、外從五位下1。天平元年三月甲午、授2從五位下1。五年三月辛亥、授2從五位上1とありて、この後見えず。
 
(133)1016 海原之《ウナバラノ》。(遠渡乎《トホキワタリヲ》。遊士《ミヤビヲ・タワレヲ》之《ノ》。遊乎將見登《アソブヲミムト》。莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》。)
 
遊士《ミヤビヲ・タワレヲ》之《ノ》。
遊士は、みやびをと訓べき事、上【攷證二上四十四丁】にいへるが如し。
 
莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》。
馴親《ナレムツ》ぶ意なる事、上【攷證三下十九丁】にいへるが如し。略解云、莫はなとも訓べけれど、魚の誤りなるべし云々。この説さもあるべし。さて、この歌は、作者しれざれど、左注にいふ、蓬莱の仙媛が心になりて、たはぶれよめるにて、一首の意は、遊士たちの遊びたまふを見んとて、蓬莱より遠き海路を凌ぎてわたり來れりといへるにて、あるじがたの女房などの、たはぶれよめるならん。
 
右一首。書2白紙1。(懸3著屋壁1也。題云蓬莱仙媛所v作嚢※[草冠/縵]。爲2風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉。)
 
書2白紙1、懸2著屋壁1也は、詩を壁に題する類なり。詩を壁に題する事は、南史劉香傳、舊唐書王績傳などにも見えて、人を尊信して、その詩を題し、あるは自ら誇れるわざ也。こゝも、たはぶれに自らほこりて題せる事、下に斯凡客不v可2望見1と書るにてしるべし。菜は莱の誤り也。活字本に依て改む。蓬莱は神山にて、仙人のすみか也。山海經に、蓬莱山在2海中1。注に、上有2仙(134)人宮1、室皆以2金玉1爲v之。鳥獣盡日、望v之如v雲、在2勃海中1也云々。十洲記に、生洲在2東海丑寅之間1、接2蓬莱山1有2仙家數萬1云々など見えたり。活字本、所下作の字あり。これに依て補ふ。嚢※[草冠/縵]の二字心得ず。※[草冠/縵]《カツラ》はこゝに用なき所なり。略解云、契沖云 嚢は賚の誤り也といへり。字書に賚は賜也とあり。春海云、所の下、一本、作字あり。されば、嚢は焉の誤、※[草冠/縵]は謾の誤にて、仙媛所v作焉謾、爲2風流秀才之士1矣なるべし云々。いかにも、この村田翁の説のごとくなるべけれど、諸本かくのごとくなれば、しばらく改むることなし。
 
夏四月。大伴坂上郎女。奉v拜2賀茂神社1之時。便超2相坂山1。望2見近江海1。而晩頭還來。作歌一首。
 
賀茂神社。
延喜式神名帳に、山城國愛宕郡賀茂別雷神社、賀茂御祖神社、二座とある、これなり。
 
便。
印本、使に誤れり。今、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。すなはちと訓べし。
 
相坂山。
近江國志賀郡にて、山城との堺なり。書紀神功紀に、忍熊王知v被v欺、謂2倉見別五十狹茅宿彌1曰、吾既被v欺、今無2儲兵1、豈可v待v戰乎。曳v兵稍退。武内宿禰出2精兵1而追v之。適逢2于逢坂1以破。故號2其處1曰2逢坂1也云々とある、こゝにて、近江の湖水
 
にちかし。本集十三【六丁】に、相坂乎《アフサカヲ》、打出而見者《ウチイデテミレバ》、淡海之海《アフミノミ》、白木綿花爾《シラユフハナニ》、浪立渡《ナミタチワタル》ともあり。
 
(135)1017 木綿疊《ユフタタミ》。(手向乃山乎《タムケノヤマヲ》。今日越而《ケフコエテ》。何野邊爾《イヅレノノベニ》。廬將爲子等《イホリセムコラ》。)
 
木綿畳《ユフタタミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。木綿《ユフ》は神に手向る幣なれば、木綿を疊みて、手向《タムケ》とつゞけたり。
 
手向乃山乎《タムケノヤマヲ》。
名所にあらず。いづくにまれ、旅にゆくに、道《(マヽ)》たちして、まづこゆる山にて、手向するものなれば、そのはじめてこゆる山を、たむけの山とはいふ也。いかにとなれば、手向とは、上【攷證三上六十五丁】にいへるが如く、旅ゆく道にて、身のつゝがなからん事はもとより、古郷にもつゝがなからん事を祈て、しかるべき坂路、海中などにて、神に幣奉る事にて、こゝも、奈良より、山城なる賀茂の社へ詣る道なる、相坂山にて手向すとて、古くより人も手向する所なれば、やがてこゝを手向の山とはいへるなるべし。十三【七丁】に、王《オホキミノ》、命恐《ミコトカシコミ》、雖見不飽《ミレドアカヌ》、楢山越而《ナラヤマコエテ》、眞木積《マキツメル》、泉河乃《イヅミノカハノ》、逢瀬《ハヤセヲ》、竿刺渡《サヲサシワタリ》、千速振《チハヤフル》、氏渡乃《ウチノワタリノ》、多企都瀬乎《タキツセヲ》、見乍渡而《ミツヽワタリテ》、近江道乃《アフミヂノ》、相坂山丹《アフサカヤマニ》、手向爲《タムケシテ》、吾越往者《ワガコエユケバ》、樂浪乃《サザナミノ》、志我能韓埼《シガノカラサキ》、幸有者《サキクアラバ》、又反見《マタカヘリミム》云々とあるにて、相坂山はことに手向する所なるをしるべし。また十二【三十四丁】に、外耳《ヨソニノミ》、君乎相見而《キミヲアヒミテ》、木綿牒《ユフタタミ》、手向乃山乎《タムケノヤマヲ》、明日香越將去《アスカコエナム》とよめるも、旅にいでたゝんとする時の歌とおぼしければ、旅にいでたゝんとする時、まづこゆる山にて、手向する證とすべし。また、古今集、※[羈の馬が奇]旅歌に、朱雀院の奈良におはしましける時、たむけ山にてよめる。このたびは、ぬさもとりあへず、たむけ山、もみぢのにしき神のまにまに、と菅家のよませたまへる手向山を、ふるくより奈良なりといひ傳ふれど、そは、はし詞に、奈良におはしましける時とあるによりて、みだりにいへるにて、これも實は相坂山を、た(136)むけ山とはのたまへるなるべし。そは、この坂上郎女が、奈良より、山城なる賀茂社へ詣るも、今の京より奈良へおはしますも、道の次第はかはるべきよしなきにて、菅家のよせたまへる手向山も、相坂なるをしるべくこそ。
 
今日越而《ケフコエテ》。
代匠記に引る官本、拾穗本など、越を超に作れり。いづれにてもあるべし。
 
廬將爲子等《イホリセムコラ》。
等は助辭。たゞ子といふにて、こゝには從者などをいへり。今夜は、いづれの野べに廬せんぞと、子等に問かくる意也。活字本、代匠記に引る※[手偏+交]本など、子を吾に作れり。これもあしからず。これによらば、吾等《ワレ》と訓べし。等は添字なり。われとも、わがともいふに、等もじを添て書る所、二【二十九丁】、十【二十五丁、二十六丁、三十五丁】十一【七丁】十九【十二丁、二十一丁、三十三丁】などにもあり。十五【六丁】に、伊都禮乃思麻爾《イヅレノシマニ》、伊保里世武和禮《イホリセムワレ》とあると、同じつゞけ也。
 
十年戊寅。元與寺之僧。自嘆歌一首。
 
元興寺は、上【攷證六上五十七丁】に出たり。異本、嘆を賛に作れり。こゝは賛嘆する意なれば、いづれにてもあるべし。
 
1018 白珠者《シラタマハ》。(人爾不所知《ヒトニシラエズ》。不知友縱《シラズトモヨシ》。雖不知《シラズトモ》。吾之知有者《ワレシシレラバ》。不知友任意《シラズトモヨシ》。)
 
(137)不所知《シラエズ》は、しらえずと訓べし。れをえにいふは、古言のつね也。この事、上【攷證五上二十五丁】にいへり。縱《ヨシ》も任意《ヨシ》も、上【攷證二中廿丁】にいへるが如く、俗言に、まゝよといふ意也。任意をよめるは義訓なり。この僧、吾身の才を用ひられざるを賛嘆してよめるにて、水底の玉の人にしられざるにたとへたり。一首の意は明らけし。
 
右一首、或云。(元興寺之僧。獨覺多智、未v有2顯聞1。聚諸押侮。因v此僧作2此歌1。自嘆2身才1也。)
 
異本、こゝも嘆を賛に作れり。いづれにてもありなん。押侮は狎侮にて、あなどる意也。尚書、旅〓に、狎2侮君子1罔3以盡2人心1、狎2侮小人1罔3以盡2其力1云々。漢書、高帝紀に、爲2泗上亭長1廷中吏無v所v不2狎侮1云々などあり。こゝに押字に作るは、押、狎、通はしたる也。漢書、息夫躬傳集注に、押音狎、習之狎とありて、※[手偏]、※[獣偏]、通はし書る例すくなからず。
 
石上乙磨卿。配2土左國1之時。歌三首。并短歌。
 
乙麿卿の事は、上【攷證三中四十五丁】に出たり。配2土左國1は、續日本紀に、天平十一年三月庚申、石上朝臣乙麿、坐v※[(女/女)+干]2久米連若賣1、配2流土左國1、若賣配2下總國1焉とある、これ也。但し、紀には十一年なるを、こゝに十年の條に載たるはいぶかし。いづれか是ならん。懷風藻に、石上中納言者、左大臣第三子也。【中略】甞有2朝譴1、飄2寓南荒1臨v淵吟v澤、寫2心文藻1、遂有2銜悲藻兩卷1、今傳2於世1云(138)云ともあり。さて、この歌を見るに、はじめ二首は、その外人の悲しみてよめるにて、第三首は乙磨卿の自詠とおぼし。
 
1019 石上《イソノカミ》。(振乃尊者《フルノミコトハ》。弱女乃《タワヤメノ》。惑爾縁而《マドヒニヨリテ》。馬自物《ウマジモノ》。繩取附《ナハトリツケテ》。肉自物《シシジモノ》。弓笑圍而《ユミヤカクミテ》。王《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。天離《アマサカル》。夷部爾退《ヒナベニマカリ》。古衣《フルコロモ》。又打山從《マツチノヤマユ》。還來奴香聞《カヘリコヌカモ》。)
 
石上《イソノカミ》。振乃尊者《フルノミコトハ》。
石上振とつゞくる事は、上【攷證三上十一丁】にいへる如く、乙麿卿、石上氏なるからに、振の尊とはいへるにて、尊とは、父の命、母の命、妹の命、嬬の命などもいふ類にて、人を親しみ敬ていふこと也。
 
弱女乃《タワヤメノ》。
上【攷證三中三十六丁】にいへるが如く、女は強からぬをよしとすれば、手弱くなよなよしたる意もていへるなり。
 
惑爾縁而《マドヒニヨリテ》。
惑溺の意也。九【十七丁】に、人乃皆《ヒトノミナ》、如是迷有者《カクマドヘルハ》、容艶《カホヨキニ》、縁而曾妹者《ヨリテゾイモハ》云々などもあり。
 
馬自物《ウマジモノ》。
自物といふ詞は、上【攷證一下二十九丁】にいへるが如く、の如くの意にて、こゝは馬の如くといふ也。馬は手綱など付るものなれば、繩取附《ナハトリツケテ》といはん料なり。配流の人なりとて、官人に繩などつけんことは、あるまじき事なれど、こゝは歌のうへとのみ見べし。十三【十六丁】に、馬自物《ウマジモノ》、立而爪衝《タチテツマヅク》云々ともあり。
 
(139)肉自物《シシジモノ》。
上【攷證二下二十八丁】にも出たり。狩するには、弓矢などにて取かこみて、鹿追ものなれば、警固の嚴しきを、それによそへていへり。
 
弓笑《ユミヤ》圍《カクミ・カコミ》而《テ》。
かくみてと訓べし。二十【三十七丁】に、乎知己知爾《ヲチコチニ》、左波爾可久美爲《サハニカクミヰ》云々とあり。
 
王《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。
命と寄るは借字、御言の意にて、天皇の仰のかしこさにてふ意なり。
 
夷部爾退《ヒナベニマカリ》。
部《ベ》は邊なり。退を、略解には、まかると訓れしかど、枕詞をうちこして、又打山從《マツチノヤマユ》かへりこぬかもといふへかゝる言なれば、必らず、まかりと訓べき也。
 
古衣《フルコロモ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。衣(古カ)き衣は、たびたびあらひはりて、砧して打ゆゑに、又打《マタウツ》とつゞけしにて、たうの反、つなれば、まつち山へつゞけし也。
 
又打山《マツチノヤマ》從《ユ・ヨリ》。
まつち山は、上【攷證四上四十三丁】に出たり。從《ユ》は、よりの意也。
 
還來奴香聞《カヘリコヌカモ》。
かへりこよかしと願ふ意也。この奴香聞《ヌカモ》といふ詞は、ぬかといふに、もを添たるにて、願ふ意の詞なる事、此卷【十三丁】に、人皆乃《ヒトミナノ》、壽毛吾母《イノチモワレモ》、三吉野乃《ミヨシヌノ》、多吉能床磐乃《タキノトコハノ》、常有沼鴨《ツネナラヌカモ》。七【四丁】に、夜干玉之《ヌバタマノ》、夜渡月乎《ヨワタルツキヲ》、將留爾《トフォメムニ》、西山邊爾《ニシノヤマベニ》、塞毛有糠毛《セキモアラヌカモ》。八【四十九丁】に、九月之《ナガツキノ》、其始鴈乃《ソノハツカリノ》、使爾毛《ツカヒニモ》、念心者《オモフコヽロハ》、可聞來奴鴨《キコエコヌカモ》などあると、同じ格なるにて、しるべし。
 
1020 王《オホキミノ》。命恐見《ミコトカシコミ》。(刺並之《サシナミシ》。國爾出座《クニニイデマス》。吾背乃公矣《ワガセノキミヲ》。)
 
(140)宣長云、或人の説に、この王命恐云々は、次なる長歌のはじめ也。さて、出座《イデマス》の下に、文字脱たり。國爾出座《クニニイデマス》、□□□耶□《ハシキヤシ》、吾背乃君矣《ワガセノキミヲ》、繋卷裳《カケマグモ》云々とつゞく也。卷十九【三十六丁】長歌に、虚見都《ソラミツ》【中略】和我勢能君乎《ワガセノキミヲ》、懸麻久乃《カケマクノ》、由々志恐伎《ユユシカシコキ》云々とあるを合せ見て、しるべきよしいへり。この説、いとよし云々といはれたるが如く、もとのまゝにて、これをまへの長歌の反歌とする時は、出座耶《イデマスヤ》のやもじも、吾背《ワガセ》の君をのをもじも、聞えがたければ、宣長のいはれたる或人の説にしたがふべし。しかも反歌といふ事のなきにても、まへの長歌の反歌ならぬをしるべし。既に、活字本には、この歌と次の長歌とをつゞけてしるしたり。刺並之《サシナミノ》は、立並《タチナミ》のといはんが如し。三【四十八丁】に、八雲刺出雲子等者《ヤクモサスイヅモノコラハ》云々とあるも、常には八雲立《ヤクモタツ》といふを、やくもさすといひ、九【十七丁】に、指並《サシナラブ》、隣之君者《トナリノキミハ》云々とあるも、立並《タチナラブ》意なるをもて、刺と立と同じ意なるをしるべし。さて、土左の國をさして、刺並之國《サシナミノクニ》としもいへれば、この歌は、阿波の國などにて別るとてよめるならん。代匠記にも、略解にも、これを紀伊にての歌ならんよしいはれつれど、紀伊と土左とは、海をへだてゝさし向ひてこそあれ、刺ならぶとはいふべからず。並《ナラブ》といふは、みな皆横に並居《ナミヲ》る事にて、向ふとは別なるをもて、阿波國などにてよめる歌なるをしるべし。但し、七【十七丁】に、勢能山爾《セノヤマニ》、直向《タダニムカヘル》、妹之山《イモノヤマ》云々とあり。また【十九丁】並居鴨《ナラビヲルカモ》、妹與勢能山《イモトセノヤマ》ともあれば、向《ムカフ》と並《ナラブ》と同じ如くおもはるれど、本より妹山といふはなく、背の山といふがあるにむかへて、妹山てふもあるが如くいへるは、歌のうへなれば也。かくの如く、背の山といふ名につきて、かり設ていへる妹山なれば、歌のつゞけがらによりては、向《ムカフ》とも並《ナラプ》ともいはんこと、疑ふべきにあらず。妹背山の事は、上【攷證四上四十五丁】にいへるを見て、しるべし。
 
(141)1021 繋卷裳《カケマクモ》。(湯々石恐石《ユヽシカシコシ》。住吉乃《スミノエノ》。荒人神《アラヒトガミ》。船舳爾《フナノヘニ》、牛吐賜《ウシハキタマヒ》。付賜將《ツキタマハム》。島之埼前《シマノサキザキ》。依賜將《ヨリタマハム》。礒乃埼前《イソノサキザキ》。荒浪《アラナミノ》。風爾不令遇《カゼニアハセズ》。草菅見《クサツヽミ》。身疾不有《ヤマヒアラセズ》。急《スムヤケク・スミヤカニ》。令變賜根《カヘシタマハネ》。本國部爾《モトノクニベニ》。)
 
繋卷裳《カケマクモ》。
諸本、繋を繁に作れど、誤りなる事明らかなれば、拾穗本に依て改む。
 
湯々石恐石《ユヽシカシコシ》。
ゆゝしは、恐み憚る意なる事、上【攷證二下十六丁】にいへるが如し。
 
住吉乃《スミノエノ》。
古事記上卷に、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱神者、墨江之三前大神也云々。攝津風土記に、所3以稱2住吉1者、昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出而、巡2行天下1、覓2可v住國1時、到2於沼名椋之長岡之前1、【前者今神宮南邊是其地】乃謂、斯實可v住之國。遂讃2稱之1云2眞住吉國1、乃是定2神社1。今俗略v之、直稱2須美乃叡1云々とありて、この大神、專ら海路を守らせたまふ事は、神功紀にも出て、遣唐使時奉幣祝詞にも、まづこの大神を申し、本集十九【三十六丁】贈2入唐使1歌に、虚見都《ソラミツ》、山跡乃國《ヤマトノクニ》、青丹與之《アヲニヨシ》、平城京師由《ナラノミヤコユ》、忍照《オシテル》、難波久太里《ナニハクタリ》、住吉乃《スミノエノ》、三津爾舶能利《ミツニフナノリ》、直渡《タダワタリ》、日入國爾《ヒノイルクニニ》、所遣《ツカハサル》、和我勢能君乎《ワガセノキミヲ》、懸麻久乃《カケマクノ》、由々志恐伎《ユユシカシコキ》、墨吉乃《スミノエノ》、吾大御神《ワガオホミカミ》、舶乃倍爾《フナノベニ》、宇之波伎座《ウシハキイマシ》、船騰毛爾《フナトモニ》、御立座而《ミタタシマシテ》、佐之與良牟《サシヨラム》、礒乃崎々《イソノサキザキ》、許藝波底牟《コギハテム》、泊々爾《トマリトマリニ》、荒(142)風《アラキカゼ》、浪爾安波世受《ナミニアハセズ》、平久《タヒラケク》、率而可敝理麻世《ヰテカヘリマセ》、毛等能國家爾《モトノミカドニ》などあるにてしるべし。しかも、今の歌は、この歌と專ら同じつゞけなれば、全文をあげたり。
 
荒人神《アラヒトガミ》。
宣長云、荒人神《アラヒトガミ》と申は、荒《アラ》は現《アラ》にて、御形の人と現れませるよし也云々といはれしが如し。書紀、景行紀に、日本武尊【中略】對之曰、吾是現人神之子也。【これは、天皇をさして現人神と申せど、天皇ももとより神にてましませども、現れて人となりませるよしの謂なり。】また雄略紀に、四年二月、天皇射2獵於葛城山1、忽見2長人1來望2丹谷1、面貌容儀、相2似天皇1、天皇知2之神1、猶故問曰、何處公也。長人對曰、現人之神。先稱2王諱1、然後應v※[道/口]。天皇答曰、朕是幼武尊也。長人次稱曰、僕是一事主神也云々などあるもこれ也。住吉大神をしも、わきて申せるは、まへに引る攝津風土記に、昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出而巡2行天下1云々とあるにてしるべし。(頭書、和名抄神靈類に、現人神【和名、安良比止加美。】略解、あら人かみの説いかゞ。)
 
船舳爾《フナノヘニ》。
船の頭をいふ也。上【攷證五下四十丁】に出たり。
 
牛吐賜《ウシハキタマヒ》。
牛吐と書るは借字にて、この語は、その所を知り領する意なる事、これも上【攷證五下四十丁】にいへり。
 
付賜將《ツキタマハム》。
將の字を下に書るは、文字の上下せるに似たれど、この例、集中猶あり。そは四【五十七丁】に、不相志思《アヒシモハネバ》云々。十【廿丁】に、指春日而《カスガヲサシテ》云々。また【二十一丁】爲君御跡《キミガミタメト》云々。十三【三十三丁】に、在將《アラム》云々などかける類なり。
 
(143)島之埼前《シマノサキザキ》。
さきざきは埼々也。これも上【攷證六上二十二丁】に出たり。
 
草管見《クサツヽミ》。
眞淵は枕詞とせられて、冠辭考に、わづらひあらせずして、はやくかへしたまへてふ語に、旅の草むしろにありてふ蟲の名を冠らしめたり云々といはれつれど、宣長の説に、草つゝみといふ事聞えず。こは枕詞にはあらず。草は莫の誤にて、つゝみなく訓べ《(マヽ)》し云云といはれつるにしたがふべし。莫恙《ツヽガナク》の意なり。この事は、上【攷證五上二十七丁五下四十二丁】にくはしくいへり。
 
身疾不有《ヤマヒアラセズ》。
眞淵は、身疾を、やもひと訓れつれど、やもひといふは、和名抄病類に、若船、布奈夜毛非とあるのみ。この外は、みな、やまひとあれば、ここも、やまひと訓べし。
 
急《スムヤケク・スミヤカニ》。
これは、すむやけくと訓るは義訓也。十五【三十四丁】に、須牟也氣久《スムヤケク》、波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》云々ともあれば、すむやけくと訓べし。
 
本國部爾《モトノクニベニ》。
國部は國邊也。四【十六丁】に、夷乃國邊爾《ヒナノクニベニ》云々とあり。略解に、右の長歌二首の反歌は、落うせしなるべし。又左の大埼の神の小濱はといへる歌、舟路をいへれば、こゝの反歌にて、次歌の反歌落うせしもしられず。左の長歌は乙麿卿の歌也。されば、こゝに端詞あるべきを、これも落しゝならん云々とあれど、集中、反歌なき長歌もおほければ、疑ふべきにもあらず。
 
1022 父公爾《チヽキミニ》(吾者眞名子叙《ワレハマナゴゾ》。妣刀自爾《ハヽトジニ》。吾者愛兒叙《ワレハマナゴゾ》。參昇《マヰノボル》。八十氏人乃《ヤソウヂビトノ》。(144)手向爲《タムケスル》。恐乃坂爾《カシコノサカニ》。幣奉《ヌサマツリ》。吾者叙追《ワレハゾオヘル》。遠杵土左道矣《トホキトサヂヲ》。)
 
吾者眞名子叙《ワレハマナゴゾ》。
眞名子は、七【十九丁】に、人在者《ヒトナラバ》、母之最愛子曾《ハハノマナゴゾ》云々。十三【三十二丁】に、母父爾《チチハハニ》、眞名子爾可有六《マナゴニカアラム》云々。また【三十三丁】父母之《チチハハノ》、愛子母裳在將《マナゴニモアラム》云々とありて、名《ナ》は愛《ウツク》しみ添ていへる言、眞子は實の子といへるにて、いづれも親しみていふ事なり。名《ナ》は眞間之手兒名《ママノテゴナ》といへる名と同じ。この事、上【攷證三下二十一丁】にいへるを思ひ合すべし。また鎭火祭祝詞に、八百萬神等乎生給※[氏/一]、麻奈弟子《マナオトコ》爾火結神生給云々。出雲國造神賀詞に、伊射奈伎乃日眞名子加夫呂岐熊野大神云々なども見えたり。
 
妣刀自爾《ハヽトジニ》。
刀自《トジ》は、老幼おしなべての通稱なる事、上【攷證四下十七丁】にいへり。
 
愛兒叙《マナゴゾ》。
愛兒をも、まなごとよめるは、七【三十九丁】に、名高浦之《ナタカノウラノ》、愛子地《マナゴヂニ》【砂をまなごといふ事は下にいふべし。十二、三十七丁にも、愛子地をよめり。】とあるにてしるべし。さて、この愛兒を、眞淵は、めづことよまれたり。上【攷證五下三十九丁】愛能盛《メデノサカリ》云々とある所にいへるが如く、愛はめづとも訓べき字なれば、これもあしからねど、猶、舊訓のかた、まされるこゝちす。略解に、この下、猶句あるべきを落しゝなるべし云々といへり。もとも、さる事なり。
 
參昇《マヰノボル》。
京へのぼる也。諸の氏々の人の大宮仕へにとて京都に登るをいふ。
 
(145)手向爲《タムケスル》。
印本、爲の下、等の字ありて、たむけすと訓り。ここは、乙麿卿、配所にやらるゝ道にてよまれつるにて、諸國の氏々の人は、京へ大宮仕へに登るとて、手向を爲て行なる恐の坂に、吾はそれとはうらうへにて、遠き土左路にまへ《(マヽ)》るとて、この坂にて手向|爲《スル》事よと悲しまるゝ所なれば、等もじありては、前後の意聞えがたし。されば、衍字なる、明らかなれば活字本に依て略けり。等もじあるにつきて、宣長の説もあれど、當らざるうへに、こゝには不用なれば、もらせり。
 
恐乃坂爾《カシコノサカニ》。
書紀、天武紀に、遣2紀臣大音1、令v守2懼《カシコ》坂道1。於v是賊等退2懼坂1而居2大音之營1云々とある、ここ也。大和より河内へこゆる所の坂なりといへり。
 
幣奉《ヌサマツリ》。
乙麿卿、幣を奉らるゝ也。
 
吾者叙追《ワレハゾオヘル》。
土佐日記に、うら戸よりこぎ出て大湊をおふ云々とある、あふ《(マヽ)》と同じ。風に舟をおはする也。風のよきを、追手のよきともいひ、追風ともいふ、これ也。宣長説に、追は退の誤りにて、まかると訓べしといはれつるは心得ず。
 
反歌一首。
 
1023 大埼之《オホサキノ》。(神之小濱者《カミノヲバマハ》。雖《セバ・セマ》小《ケレド》。百舶純毛《モヽフナビトモ》。過迹云莫國《スグトイハナクニ》。)
 
(146)大埼之《オホサキノ》。神之小濱者《カミノヲバマハ》。
代匠記云、大埼ノ神ノ小濱ハ紀州ナルベシ。第十三ニモ、大埼ノアリソノワタリハフ葛トヨミタレド、ソレハ考ル所ナシ。第七ニ、鹽ミタバイカニセムトカ方便海《ワタツミ》ノ神ガ手渡ルアマノヲトメラ、トヨメル哥、紀州ノ名所ヲヨメル哥ノ間ニアリ。コレ、唯、海神トモ云ベケレド、又所ノ名ヲ兼タラムモ知ベカラズ。又第九ニ、白神ノ礒トヨメルモ紀州ナレバ、コレラニヤ。又第七ニ、神前ト書テ、ミワノサキトヨメルモ紀州ナレバ、今モミワノ小濱トヨミテ、其所ナラムモ又知ベカラズ云々。略解云、大埼、今紀伊にあり。神の字、みわと訓べきか。卷七、神前《ミワノサキ》ありそも見えず浪たちぬとよめり。これは紀伊に今かうざきととなふる所あり、そこなるべし。この小濱も同所ならんか。宣長云、大埼、みわ、ともに紀伊にあれど、土左への道とはいたくたがへり。考べし云々。
 
雖《セバ・セマ》小《ケレド》。
せばけれどと訓べし。十四【二十六丁】に、多爾世婆美《タニセバミ》云々とあり。小をよめるは義訓なり。
 
百舶純毛《モモフナビトモ》。
此卷【四十七丁】にも百船純乃《モモフナビトノ》云々とかけり。國語、晋語注に、純壹也云々。漢書、梅福傳に、一色成v體、謂2之純1云々ともあれば、一の意をもて、ひとゝは借訓せる也。
 
過迹云莫國《スグトイハナクニ》。
一首の意は、代匠記に、大埼ナル神ノ小濱ハセバキ所ナレド、見ルニアカズ面白キ所ナレバ、オホクノ舟人モ此ニ集テ過ヤラヌニ、我ハ遣責ヲ蒙レル身ナレバ、留マルベキヤウモナク、獨行テ行トナリ。
 
(147)秋八月二十日。宴2右大臣橘家1歌四首。
 
八【四十一丁四十二丁】に、この宴の歌七首あり。そは秋雜歌の中に載たり。ここはたゞ雜歌なれば、卷をわかちしにもあるべし。
 
1024 長門有《ナガトナル》。(奥津借島《オキツカリシマ》。奧眞經而《オクマヘテ》。吾念君者《ワガオモフキミハ》。千歳爾母我毛《チトセニモガモ》。)
 
奥津借島《オキツカリシマ》
地圖もて考るに、長府の奥にあたりて、かれ島といふあり。これなるべし。一二の句は、奧眞經而《オクマヘテ》といはん序のみ。
 
奧眞經而《オクマヘテ》。
十一【三十五丁】に、淡海之海《アフミノミ》、奥津島山《オキツシマヤマ》、奧間經而《オクマヘテ》、我念妹之《ワガモフイモガ》云々ともあり。奥は、上【攷證三中五十四丁】奧爾念《オクニオモフ》とある所にいへるが如く、深き意。まへは、めを述たる言にて、奥まへては、深めてといはんがごとし。一首の意はくまなし。
 
右一首。長門守巨曾倍對馬朝臣。
 
父祖、考へがたし。續日本紀に、天平四年八月丁酉、山陰道節度使判官巨曾倍朝臣津島授2外從五位下1云々とありて、この外に見えず。巨曾倍氏は、姓氏録卷二に、許曾倍朝臣、阿倍朝臣、同v祖。大彦命之後也とあり。
 
(148)1025 奥眞經而《オクマヘテ》。(吾乎念流《ワレヲオモヘル》。吾背子者《ワガセコハ》。千年五百歳《チトセイホトセ》。有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》。)
 
吾背子者《ワガセコハ》。
男どち、わがせとはいはれたり。この事、上【攷證三上十四丁】にいへり。
 
有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》。
あれかしと願ふ意也。この事、上【攷證二上三十八丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
右一首。右大臣和歌。
 
右大臣は主人諸兄公なり。
 
1026 百磯城乃《モモシキノ》。(大宮人者《オホミヤビトハ》。今日毛鴨《ケフモカモ》。暇無跡《イトマヲナミト》。里爾不去將有《サトニユカザラム》。)
 
暇無跡は、いとまをなみとゝ訓べし。とはとての意也。里は宮中にむかへて居所をいふ。禁中を離れたるを里内裏といひ、物語書に、宮仕へ人の禁中を退て私宅に居るを、里住といふも、これ也。一首の意は、この宴に來らざる人をよめるにて、大宮仕へする人は、けふさへも、暇なしとてや、今日の宴にも、大臣の里亭に來らざる事よといふ也。
 
右一首。右大臣傳云。故豐島采女歌。
 
(149)後に右大臣の傳へのたまふは、右の歌は故《モト》の豐島郡の采女が歌なりきと也。采女は諸國より貢れる事、【攷證二上十二丁】にいへるが如し。和名抄郡名に、攝津國豐島【手島】武藏國豐島【止志末】とあり。ここなるは、いづれの采女ならん。
 
1027 橘《タチバナノ》。本爾道履《モトニミチフミ》。(八衢爾《ヤチマタニ》。物乎曾念《モノヲゾオモフ》。人爾不所知《ヒトニシラエズ》。)
 
この歌を、左注によるに、二【十六丁】に載たる三方沙彌と園臣生羽之女と贈答の歌に、橘之《タチバナノ》、蔭履路乃《カゲフムミチノ》、八衢爾《ヤチマタニ》、物乎曾念《モノヲゾオモフ》、妹爾不相而《イモニアハズテ》とある歌を、諸兄公の氏橘にませて、二の句を本爾道履《モトニミチフミ》と改め、五の句、妹爾不相而《イモニアハズテ》を人爾不所知《ヒトニシラエズ》と改めて、かの采女が口吟したる也。そのをりに合せて、句を改め誦したるは、采女が才といふべし。
 
右一首。右大辨(高橋安麿卿語云。故豐島采女之作也。但或本云。三方沙彌。變2妻苑臣1作歌也。然則豐島采女。當時當所。口2吟此歌1歟。)
 
高橋安麿、父祖、考へがたし。續日本紀に、養老二年正月庚子、授2高橋朝臣安麿從五位下1。四年十月戊子、爲2宮内少輔1。神龜元年二月壬子、授2從五位上1。四月丙申、爲2持節副將軍1。二年閏正月丁未、授2正五位下勲五等1。天平四年九月乙巳、爲2右中辨1。九年九月己亥、授2正五位上1。十年正月壬午、授2從四位下1。十二月丁卯、爲2太宰大貳1とありて、この後見えず。これを豐島采女が(150)作なりといへるは非也。或本にいへるが如く、三方沙彌が歌なるを、采女がをりに合せて吟じたるなり。
 
十一年己卯。天皇遊2※[獣偏+葛]高圓野1之時。小獣泄走2堵里之中1。於v是適値2勇士1。生而見v獲。即以2此獣1。獻2上御在所1。副歌一首【獣名、俗曰2牟射佐妣1。】
 
この遊※[獣偏+葛]の事、紀に見えず。堵は都と通ず。この事、上【攷證一下一丁】にいへり。高圓は奈良都の近きほとりなれば、追せめられて、都の中まで泄てにげはしりしなるべし。六字《(マヽ)》の小注、活字本になし。牟射佐妣は、上【攷證三上三十六丁】に出たり。活字本、泄を迫に作り、堵を都に作れり。略本、泄を遁に作れり。
 
1028 大夫之《マスラヲノ》。(高圓山爾《タカマドヤマニ》。迫有者《セメタレバ》。里爾下來流《サトニオリケル》。牟射佐妣曾此《ムササビゾコレ》。)
 
下來流《オリケル》はおりけると訓べし。來を、けり、ける、などよめる事は、上【攷證二中五十三丁、二下五十六丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
右一首。大伴坂上郎女(作v之也。但未v※[しんにょう+至]v奏而、小獣死斃。因v此獻v歌停v之。)
 
(151)※[しんにょう+至]は經の意也。この事、上【攷證三上八十丁】にいへり。
 
十二年庚辰冬十月。依2太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發1v軍。幸2于伊勢國1之時。河口行宮内舍人大伴宿禰家持。作歌一首。
 
藤原朝臣廣嗣は、續日本紀に、天平九年九月己亥、授2藤原朝臣廣嗣從五位下1。十年四月爲2大養徳守1。十二月丁卯、爲2太宰少貳1。十二年八月癸未、太宰少貳從五位下藤原朝臣廣飼、上v表指2時政之得失1、陳2天地之災異1、因以v除2僧正玄※[日+方]師、右衛士督從五位下下道朝臣眞備1爲v言。九月丁亥、廣嗣遂起v兵反。勅、以2從四位上大野朝臣東人1爲2大將軍1、從五位上紀朝臣飯麻呂爲2副將軍1、軍監、軍曹、各四人、徴2發東海、東山、山陰、山陽、南海、五道軍一萬七千人1、委2東人等1持v節討v之。【中略】十一月丙戊、大將軍東人等言、進士无位安倍朝臣黒麿、以2今月二十三日丙子1、捕2獲賊廣嗣於肥前國松浦郡値嘉島長野村1。詔報、今覽2十月二十九日奏1、知v捕2得逆賊廣嗣1、其罪顯露、不v在v可v疑、宜2依v法處決、然後奏聞1。戊子、大將軍東人等言、以2今月一日1於2肥前國松浦郡1、斬2廣嗣、綱手1已訖。【中略】廣嗣式部卿馬養之第一子也云々と見えたり。この時、伊勢國に行幸の事は、同紀に、天平十二年十月壬申、任2造伊勢國行宮司1。壬午行2幸伊勢國1。【中略】是日到2山邊郡竹谿村堀越頓宮1。癸未、車駕到2伊賀國名張郡1。十一月甲申朔、到2伊賀郡安保頓宮1。乙酉、到2伊勢國壹志郡河口頓宮1、謂2之關宮1也。車駕停2御關宮1十箇日。乙未、從2河口1發、到2壹志郡1宿。丁酉、進至2鈴(152)鹿郡赤坂頓宮1。丙午、從2赤坂1發、到2朝明郡1。戊申、至2桑名郡石占頓宮1。己酉、到2美濃國當伎郡1。十二月癸丑朔、到2不破郡不破頓宮1。戊午、從2不破1發、至2坂田郡横川頓宮1。是日、右大臣橘宿禰諸兄、在v前而發。經2略山背國相樂郡恭仁郷1以擬2遷都1故也。己未、從2横川1發、到2犬上頓宮1。辛酉、從2犬上1發、到2蒲生郡1宿。壬戊、從2蒲生郡宿1發、到2野洲頓宮1。癸亥、從2野洲1發、到2志賀郡禾津頓宮1。丙寅、從2禾津1發、到2山背國相樂郡玉井頓宮1。丁卯、皇帝在2前幸恭仁宮1、殆作2京都1矣。太上天皇、皇后、在v後而至と見えたり。
 
1029 河口之《カハグチノ》。(野《ヌ・ノ》邊爾《ベニ》廬而《イホリシテ・イホリテ》。夜乃歴者《ヨノフレバ》。妹之手本師《イモガタモトシ》。所念鴨《オモホユルカモ》。)
 
野《ヌ・ノ》邊爾《ベニ》廬而《イホリシテ・イホリテ》。
文字を餘して、いほりしてと訓べし。二【四十二丁】に、荒礒面爾《アリソモニ》、廬作而見者《イホリシテミレバ》云々ともあるにてしるべし。
 
夜乃歴者《ヨノフレバ》。
まへに引るが如く、車駕停2御關宮1十箇日云々とある、これ也。夜を重ねたる也。一首の意はくまなし。
 
天皇御製歌一首。
 
天皇は聖武武天皇なり。左の御製も同じ行幸のをりの御うたなり。
 
1030 妹爾戀《イモニコヒ》。(吾乃《・ワカノ》松原《マツバラ》。見渡者《ミワタセバ》。潮干乃潟爾《シホヒノカタニ》。多頭鳴渡《タヅナキワタル》。)
 
(153)妹爾戀《イモニコヒ》。
枕詞にて、冠辭考に出たり。十七【七丁】に、和我勢兒乎《ワガセコヲ》、安我松原欲《アガマツバラヨ》、見度者《ミワタセバ》云々ともありて、松を待にとりなして、吾松とつゞけたり。
 
吾乃《・ワガノ》松原《マツバラ》。
舊訓の如く、わかのまつばらと訓ては、一の句とつゞかず。略解云、吾はあごと訓て、志摩|英虞《アゴ》郡也。あごを吾と書るは、吾王を、集中、和期吾期など書るが如しと、翁の説にて、冠辭考にもくはしくいはれたり。しかるを、宣長のいへらく、吾をあごといふは、吾王とつゞく時に限る事也。是は、おへつゞく故に、おのづから、ごといはるゝ也。たゞに吾をあごといふ事なし。こは吾自松原《ワガマツバラユ》とありしが、自《ユ》を乃《ノ》に誤れるにて、初句はまつへかゝる枕詞也。いづくにまれ、たゞ松原よりといふ也。地名にあらず云々とあり。この宣長の説にしたがふべし。この御製、たゞうち見るまゝをのたまはせたるにて、一首の意はくまなし。
 
右一首。今案。(吾松原在2三重郡1。相2去河口行宮1遠矣。若疑御2在朝明行宮1之時。所v製御歌。傳者誤v之歟。)
 
この左注誤れり。吾松原在2三重郡1とあるは實なりや。相2去河口行宮1遠矣といへるはいかゞ。河口行宮にての作は、家持卿の歌一首にこそあれ。この御製は同じ行幸のをりの御作といふのみにて、所はかぎらざる事、次なる、しでの埼の歌にてしるべし。朝明行宮にましましゝ事は、まへに引る紀に見えたり。
 
(154)丹比|屋主《ヤヌシ》眞人歌一首。
 
續日本紀に、神龜元年二月壬子、授2丹治比眞人屋主、從五位下1。天平九年二月戊|午《(マヽ)》。十七年正月乙丑、授2從五位上1。十八年九月己巳、爲2備前守1。十九年二月己未、授2正五位下1。天平勝寶元年閏五月甲午朔、爲2左大舍人頭1とありて、この後見えず。父親も考ふべからず。また丹治比眞人家主といふ人も紀に所々見えたれど、さらに別人也。左の歌もこの行幸の從駕にてよめるなり。
 
1031 後爾之《オクレニシ》。(人乎思久《ヒトヲオモハク》。四泥能埼《シデノサキ》。木綿取之泥而《ユフトリシデテ》。將住《・スマム》跡其念《トゾオモフ》。)
 
人乎思久《ヒトヲオモハク》。
はくは、ふを延たる言にで、九【十八丁】所許爾念久《ソコニオモハク》云云。十一【三十三丁】に、人乎念久《ヒトヲオモハク》云々などあると同じ。
 
四泥能埼《シデノサキ》。
略解云、卷四、あごの山いほへかくせる佐堤の埼、左手はへし子の夢にし見ゆるとある、思ふに、ともに英虞郡なるべきよし、翁の説なり。されど、神名帳、伊勢國朝明郡志※[氏/一]神社ありて、朝明は三重につゞければ、そこの埼をいへるなるべし云々。宣長云、志※[氏/一]神社もよし有て聞ゆれど、猶、志摩國にて、佐堤の埼と同所とおぼしきなり云々。
 
木綿取之泥而《ユフトリシデテ》。
木綿は、今、旅なれば、神にたむくるよし也。取之泥而《トリシデテ》は、古事記上卷に、於2下枝1、取2垂白丹寸手青丹寸手1而云々。訓v垂云2志殿1とありて、本集九【三十丁】に、齋戸爾《イハヒベニ》、木綿取四手而《ユフトリシデテ》、忌日管《イハヒツゝ》云々ともあり。垂は、しだれをつゞめたるにて、こは物に取かけしだらして、神に手向る意なり。
 
(155)將住《・スマム》跡其念《トゾオモフ》。
住の字、心得がたし。契沖は、住は待の誤りにて、將待《マタム》とぞ思ふにて、旅の留主に、家にて神に祈りて待意とせられたれど、宣長説に、住は往の誤りにて、將往とぞ思ふと訓べしといはれたるに、したがふべし。一首の意は、旅にありて、おくれたる家人を思ひて、留主にもつゝがなからんやうに、神にいのりてゆかんとぞ思ふといふ意なれば、しでの埼は、いよゝ志※[氏/一]神社のほとりなるべし。
 
右。案。此歌者(不v有2此行宮之作1乎。所2以然言1之。勅2大夫1從2河口行宮1還v京。勿v令2從駕1焉。何有d詠2思沼埼1作歌u哉。)
 
この左注もいとをさなし。此行宮とさせるは河口行宮なるべけれど、まへにもいへるがごとく、河口行宮にての作は、はじめの一首のみにこそあれ。下の二首は、みな別所にての事なるをや。この家主眞人を京にかへし給ひし事も、たしかにより所ありや。若、右の歌に將往跡其念《ユカムトゾオモフ》とあるを、心得誤れるにはあらざるか。よく心すべし。有は在の誤り、沼は泥の誤り也。
 
狹殘行宮。大伴宿禰家持。作歌二首。
 
代匠記云、聖武紀云、十一月乙酉、到2壹志郡河口頓宮1。乙未從2河口1發、到2壹志郡1宿。丁酉、進至2鈴鹿郡赤坂頓宮1。丙午、從2赤坂1發、到2朝明郡1。戊申、至2桑名郡石占頓宮1。己酉、至2美(156)濃國當伎郡1。コノ中ニ壹志郡河口ヨリ壹志郡ニ至リテ宿タマフト云ハ、若ハ到2壹志郡狹殘頓宮1宿ト有ケムヲ、狹殘頓宮ヲ脱シケルカ。今ノ歌ニ、志摩ノ海部ナラシトヨメルハ、赤坂ニ至ラセタマヒテ後ハ、ヨマルベカラネバナリ云々。宣長云、式に伊勢國多氣郡竹佐々夫江神社。これを倭姫命世記には、佐々牟江とあり。この所なるべし云々。
 
1032 天皇之《スメロギノ》。(行幸之隨《イデマシノマニ》。吾妹子之《ワギモコガ》。手枕不卷《タマクラマカズ》。月曾歴去家留《ツキゾヘニケル》。)
 
行幸《イデマシ・ミユキ》之《ノ》隨《マニ・ママニ》。
いでましのまにと訓べき事、上【攷證四上四十三丁】にいへり。隨《マニ》はまゝにの意也。この事も其所にいへり。
 
手枕不卷《タマクラマカズ》。
妹が手を枕とせずしての意也。この事、上【攷證二下五十八丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
1033 御食國《ミケツクニ》。(志麻乃海部有之《シマノアマナラシ》、眞熊野之《ミクマヌノ》。小船爾乘而《ヲブネニノリテ》。奧部榜所見《オキベコグミユ》。)
 
眞熊野之《ミクマヌノ》。小船《ヲブネ》。
略解に、志摩の浦、熊野の浦、海はつゞきたれど、いとへだゝりたるを、かくいへるは、故よしあらんか。猶考べし云々といへり。依て考るに、此卷【十八丁】に、島隱《シマガクリ》、吾※[手偏+旁]來者《ワガコギクレバ》、乏毳《トモシカモ》、倭邊上《ヤマトヘノボル》、眞熊野之船《ミクマヌノフネ》。【こは、赤人が播磨國辛荷島を過る時の作なり。】十二【三十六丁】に、浦囘※[手偏+旁]《ウラマコグ》、熊野舟泊《クマヌフネハテ》。【印本、熊を能、泊を附に誤れり。この歌は※[覊の馬が奇]旅發思と題したる歌なれど、攝津の地名をよめる歌の間にあり。】これらの歌、紀伊の熊野の舟としては、何のよしもなく聞えたり。日本紀纂疏に、伊豫國風土記を引て、昔野間郡有2一船1、名曰2熊野1。後化爲v石【これは、神代紀、熊野諸手船の注なれど、かの熊野は出雲國意宇郡の地名なれば、さらにこゝに用なし。】とあるは、船の名なれば、こゝもこの類か。船(157)に名ある事は、書紀に枯野、續紀に能登などいふもあれば也。また紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしの謂か。されば、それを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば、熊野舟といふならん。集中、松浦船、伊豆手船、足柄小船などいふあるも、みなこの類とすべし。これらの事はその所々に云べし。
 
奧部榜所見《オキベコグミユ》。
部は邊也。これもうち見るまゝをいはれつるにて、一首の意はくまなし。
 
美濃國多藝行宮。大伴宿禰東人。作歌一首。
 
和名抄郡名に、美濃國多藝【多岐】とありて、まへに引る續日本紀に、十一月己酉、到2美濃國當伎郡1とある、これ也。古事記中卷に、倭建命【中略】自2其處1發、到2當藝野上1之時、詔者吾心恒念2自v處翔行1、然今吾足不v得v歩、成2當藝斯形1、故號2其地1謂2當藝1也云々とあるも、こゝ也。
 
大伴宿禰東人。
父祖、考へがたし。天平寶字五年十月壬子朔、從五位下大伴宿禰東人、爲2式部少輔1。七年正月壬子、爲2少納言1。寶龜元年六月甲午、爲2散位助1。八月辛亥、爲2周防守1。五年三月甲辰、爲2彈正弼1とありて、この前後、紀に見えず。
 
1034 從古《イニシヘユ・ムカシヨリ》。(人之言來流《ヒトノイヒケル》。老人之《オイヒトノ》。變若《ヲツ・ワカユ》云水曾《トフミヅゾ》。名爾負瀧之瀬《ナニオフタギノセ》。)
 
(158)人之言《ヒトノイヒ》來《ケ・ク》流《ル》。
來流は、こゝも、けると訓べし。まへにも出たり。一首の意は明らけし。
 
變若《ヲツ・ワカユ》云水曾《トフミヅゾ》。
變若はをつと訓べし。この事は、上【攷證三中廿一丁、四中四十一丁】にいへるが如く、若がへる意なり。
 
名爾負瀧之瀬《ナニオフタギノセ》。
これ養老の瀧をいへり。續日本紀に、養老元年十一月癸丑、天皇臨軒詔曰、朕以2今年九月1、到2美濃國不破行宮1、留連數日、因覽2當耆郡多度山美泉1、自盥2手面1皮膚如v滑、亦痛處無v不2除愈1、在2朕之身1其驗1。又就而飲2浴之1者、或白髪反v黒、或頽髪更生、或闇目如v明、自餘痼疾、咸皆平兪。昔聞、後漢光武時、醴泉出、飲v之者、痼疾平癒。符瑞書曰、醴泉者美泉、可2以養1v老、盖水之精也。寔惟美泉、即合2大瑞1。朕雖v痛v虚、何違2天※[貝+兄]1、可v大2赦天下1。改2靈龜三年1、爲2養老元年1云々とある、これなり。さて、この瀧は、この地名の多藝をよめるにはあらざれど、名爾負といへるは、ここの地の名におへるといへるにて、歌のあやをなせり。
 
大伴宿禰家持。作歌一首。
 
1035 田跡河之《タトガハノ》。(瀧乎清美香《タキヲキヨミカ》。從古《イニシヘユ》。宮仕兼《ミヤツカヘケム》。多藝乃野之上爾《タギノヌノウヘニ》。)
 
跡河之《タトガハノ》。
ここにかくありて、まへに引る續日本紀にも、美濃國當耆郡多度山とあるからは、この川もその多度山より落る川にて、同郡なる事明らけし。さるを、同紀に、延(159)暦元年十月庚戌朔、叙2伊勢國桑名郡多度神、從五位下1【この後にもみな桑名郡とせり。】とあるは、いぶかしきに似たり。されば、考るに、この山、兩國の堺にありて、神社ある所は伊勢國にて、その奥は美濃國に屬せるなるべし。かの養老の瀧は美濃國なる事、みな人よくしれる所なり。
 
從古《イニシヘユ・ムカシヨリ》。
これも、いにしへゆと訓べし。
 
宮仕兼《ミヤツカヘケム》。
或人の説に、仕は作の誤りにて、宮作《ミヤツクリ》けんなるべしといへるは非也。宣長云、みやつかへのつは清て訓べし。宮を仕奉るといひて、即宮作る事にもなれり云々といはれしによるべし。そは十九【四十四丁】に、天地與《アメツチト》、相左可延牟等《アヒサカエムト》、大宮乎《オホミヤヲ》、都可倍麻都禮婆《ツカヘマツレパ》、貴久宇禮之伎《タフトクウレシキ》とあるにてしるべし。
 
多藝乃野之上爾《タギノヌノウヘニ》。
この地の事は、まへに出たり。上は舊訓のまへ(ゝカ)、うへと訓べし。ほとりの意也。この事、上【攷證一下二十六丁】にいへり。一首の意は、この田跡川の瀧【養老のたき也。】の清さによりてにか、いにしへより、多藝野のほとりに行宮を作りて、行幸もあるならんといへる也。
 
不破行宮。大伴宿禰家持。作歌一首。
 
まへに引る續日本紀に、十二月癸丑朔、到2不破郡不破頓宮1云々とある、これ也。和名抄郡名に、美濃國不破【不破】とあり。
 
(160)1036 關無者《セキナクバ》。(還爾谷藻《カヘリニダニモ》。打行而《ウチユキテ》。妹之手枕《イモガタマクラ》。卷手宿益乎《マキテネマシヲ》。)
 
關無者《セキナクバ》。
これ、不破關にて、三關の一なり。軍防令義解に、三關者、謂2伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛發1是也とありて、本集二十【二十七丁】に、阿良志乎母《アラシヲモ》、多志夜波婆可流《タシヤハバカル》、不破乃世伎《フハノセキ》、久江弖和波由久《クエテワハユク》云々ともあり。
 
還爾谷藻《カヘリニダニモ》。
代匠記に、カヘリニダニモトハ、俗ニ立ガヘリニ行テ來ムナド云詞ナリ。兼輔集ニ、方タガヘスル所ニ、枕イダシタリケルヲ、返ストテ書ツク。シキタヘノ枕ニ塵ノヰマシカバ立カヘリニゾ人ノトハマシ。此卷第十七ニ、同シ家持ノ長歌ニ、近在者《チカクアラバ》、加弊利爾太仁母《カヘリニダニモ》、宇知由吉底《ウチユキテ》、妹我多麻久良《イモガタマクラ》、佐之加倍底《サシカヘテ》、禰天蒙許萬思乎《ネテモコマシヲ》、多麻保己乃《タマホコノ》、路波之騰保久《ミチハシトホク》、關左閉爾《セキサヘニ》、弊奈里底安禮許曾《ヘナリテアレコソ》ナドヨマレタル、今ト同ジ云々といはれつるが如し。一首の意は明けし。
 
十五年癸未。秋八月十六日。内舍人大伴宿禰家持。讃2久邇京1歌一首。
 
久邇京の事は、上【攷證三下五十七丁】にいへるが如く、山城國相樂郡恭仁郷にて、天平十三年正月、奈良京よりこゝに都を遷したまひし也。その後、十六年二月、難波京にうつりたまひ、同年五月、また恭(161)仁京へかへらせたまひて、その年十二月、また奈良京へかへらせたまひしかば、恭仁京ははづかに三年の間都なりし也。
 
1037 今造《イマツクル》。(久邇乃王都者《クニノミヤコハ》。山河之《ヤマカハノ》。清見者《キヨキヲミレバ》。宇倍所知良之《ウベシラスラシ》。)
 
この久邇京、十三年正月に遷されしを、十五年の今に至りて、今造るといへるは、かの續紀遷都の條に、宮垣未v成、繞以2帷帳1とある如く、宮室もいまだ成ざるほどに、うつりたまひしかば、今に至りても猶造營はてざる也。清見者は、きよきを見ればと訓べし。所知良之は、しらすらしと訓べし。一首の意は明らけし。
 
高丘河内連歌一首。
 
續日本紀に、和銅五年七月甲申、播磨國大目從八位上樂浪河内、勤建2正倉1、能効2巧績1、進2位一階1、賜2※[糸+施の旁]一疋、布三十端1。養老五年正月庚午、詔正六位下樂浪河内等退2朝之1、令v侍2東宮1焉。神龜元年五月辛未、正六位下樂浪河内賜2姓高丘連1。天平三年正月丙子、授2正六位上高丘連河内、外從五位下1。九月癸酉、爲2右京亮1。十七年正月乙丑、授2外從五位上1。十八年五月、授2從五位下1。天平勝寶二年正月己酉、授2從五位上1。六年正月壬于、授2正五位下1。とありて、この後見えず。神護景雲二年六月庚子、内藏頭兼大外記遠江守從四位下高丘宿禰比良麻呂卒。其祖、沙門詠近江朝歳次癸亥、自2百濟1歸化、文學振。河内正五位下大學頭、神龜元年、改爲2高丘連1。比良麻呂少遊2大學1、渉2覽書記1、歴2任大外記1、授2外從五位下1。寶字八年、以v告2仲滿變1授2從四位下1。景雲元年(162)賜2姓宿禰1とあるを考ふるに、振の字の下、父の字を脱せるにて、父河内とありし事、明らけし。高丘氏は、姓氏録卷二十七に、高丘宿禰、出v自2百濟國公族大夫高侯之後、廣陵高穆1也とあり。
 
1038 故郷者《フルサトハ》。(遠毛不有《トホクモアラズ》。一重山《ヒトヘヤマ》。越我可良爾《コユルガカラニ》。念曾吾世思《オモヒゾワガセシ》。)
 
一重山《ヒトヘヤマ》。
名所にあらず。久邇京と奈良京はいと近く、山一重へだゝれるばかりなれば、かくいへり。四【五十五丁】に、在2久邇京1、思d留2寧樂宅1坂上大孃u、大伴宿禰家持歌に、一隔山《ヒトヘヤ》、重成物乎《カサナルモノヲ》、月夜好見《ツクヨヨミ》、門爾出立《カドニイデタチ》、妹可將待《イモカマツラム》とあるもおなじ。
 
越我可良爾《コユルガカラニ》。
可良爾《カラニ》は、故にといふ意なる事、上【攷證四中二十四丁】にいへるが如し。一首の意は、故郷なる奈良は、ここより何ばかり遠くもあらねど、山一重へだてをる故に、故郷のおぼつかなく戀しくおもはると也。
 
1039 吾背子與《ワガセコト》。(二人之居者《フタリシヲレバ》。山高《ヤマタカミ》。里爾者月波《サトニハツキハ》。不曜十方余思《テラズトモヨシ》。)
 
代匠記に、吾背子トハ、妻ヲサセリ云々といはれつるは誤り也。こゝは、友をいふ也。男どちもいへる事、上【攷證三上十四丁】にいへるが如し。山高《ヤマタカミ》のみは、さにの意也。一首の意は、君とたぐひて二人をれば、思ふ事のなくして、山の高さに、この里を月のてらさずともよしといふにて、よしは俗言にいふ、まゝよの意なる事、上【攷證二中廿丁】にいへるが如し。
 
(163)安積親王。宴2左少辨藤原八束朝臣家1之日。内舍人大伴宿彌家持。作歌一首。
 
安積親王、上【攷證三下五十六丁】に出たまへり。藤原八束朝臣は眞楯卿の先名也。上【攷證三中八十二丁】に出たり。
 
1040 久堅乃《ヒサカタノ》。(雨者零敷《アメハフリシク》。念子之《オモフコガ》。屋戸爾今夜者《ヤドニコヨヒハ》。明而將去《アカシテユカム》。)
 
雨者零敷《アメハフリシク》。
敷は、しくしく、ちへ浪しきになどいふ、しくと同じく、物のいやがうへに重なる意にて、ここは雨のを|た《(マヽ)》みだになくふり重なるをいへり。この事、上【攷證二下三十九丁】しくしくの所、考へ合せて、しるべし。八【五十四丁】に、沫雪《アワユキノ》、保杼呂保杼呂爾《ホドロホドロニ》、零敷者《フリシケバ》云々。十一【九丁】に、小雨零敷《コサメフリシキ》云々などありて、集中猶いと多し。
 
念子之《オモフコガ》。
あるじ八束朝臣をさせり。子とは、人を親しみいふことにて、男女にわたれり。男どちも子といふ事、九【二十六丁】に、大神大夫、任2筑紫國1時、阿倍大夫歌に、於久禮居而《オクレヰテ》、吾者哉將戀《ワレハヤコヒム》、稻見野乃《イナミヌノ》、秋芽于見都津《アキハギミツヽ》、去奈武子故爾《イナムコユヱニ》とあるにてしるべし。一首の意は明らけし。
 
十六年甲申。春正月五日。諸卿大夫。集2安倍蟲麿朝臣家1。宴歌一首。(164)作者不v審。
 
安倍蟲麿朝臣は上【攷證四中四十八丁】に出たり。作者不v審の四字、活字本、異本などになし。おもふに、後人のさかしら也。左の歌は主人蟲麿の歌なる事しるし。
 
1041 吾屋戸乃《ワガヤドノ》。(君松樹爾《キミマツノキニ》。零雪乃《フルユキノ》。行者不去《ユキニハユカジ》。待西將待《マチニシマタム》。)
 
君松樹爾《キミマツノキニ》。
君待といふを、松にいひかけたり。五【二十六丁】に、吉民萬通良楊滿《キミマツラヤマ》。此卷【二十八丁】に、千代松樹乃《チヨマツノキノ》云々。九【三十一丁】に、嬬待木者《ツママツノキハ》云々などある類也。
 
待西將待《マチニシマタム》。
印本、西を而に誤れり。既に假字にはニシとあれば、西の誤りなる事、明らけし。されば、拾穗本に依て改む。行者不去は、ゆきにはゆかじと訓べし。一首の意は、ここより訪にはゆかじ、たゞ待てあらんといふを、君まつの木といひかけ、ふるゆきの行と詞を重ねたるをもて、歌のあやをなせり。
 
同月十一日。登2活道《イクヂノ》岡1。集2一株松下1飲歌二首。
 
活道岡は、三【五十八丁】に、活道山《イクヂヤマ》、木立繁爾《コダチノシヾニ》云々とある、同所也。こは恭仁京の近きほとりなるべし。其所【攷證三下六十二丁】にくはしくいへり。
 
1042 一松《ヒトツマツ》。(幾代可歴流《イクヨカヘヌル》。吹風乃《フクカゼノ》。聲之清者《コヱノスメルハ》。年深香聞《トシフカキカモ》。)
 
(165)年深《トシフカキ》は年經るをいふ。この事、上【攷四中十九丁】にいへり。一首の意は、老松に風のわたるは、若木とはかはりて、聲の清て聞ゆれば、いく代かへたるといへる也。(頭書、古事記中卷に、到2坐尾津前一松之許1、先御食之時、所v忘2其地1、御刀不v失猶有。爾御歌曰、袁波理邇《ヲハリニ》、多陀過牟迦幣流《タタニムカヘル》、袁都能佐岐那流《ヲツノサキナル》、比登都麻都《ヒトツマツ》云々。)
 
右一首。市原王作。
 
上【攷證三中九十二丁】に出たり。
 
1043 靈剋《タマキハル》。(壽者不知《イノチハシラズ》。松之妓《マツノエヲ》。結情者《ムスブコヽロハ》。長等曾念《ナガクトゾオモフ》。)
 
壽を、いのちとよめるは義訓也。上【攷證三下四十八丁】に出たり。松は年ふるものなれば、それをむすぴて、よはひを契る也。この事、上【攷證二中十四丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
右一首。大伴宿禰家持作。
 
傷2惜寧樂京荒墟1。作歌三首。作者不v審。
 
荒墟はあれたる意也。漢書、王莽傳注に、墟故居也とありて、柳宗元詩に、行盡關山萬里餘、到時閭里是荒墟とあり。ここは都を恭仁京に遷されて、奈良京のあれたるを、いたみをしめる也。(166)作者不v審の四字は、これも後人の筆なるべし。
 
1044 紅爾《クレナヰニ》。(深染西《フカクシミニシ》。情可母《コヽロカモ》。寧樂乃京師爾《ナラノミヤコニ》。年之歴去倍吉《トシノヘヌベキ》。)
 
紅爾《クレナヰニ》は、深く染といはん序のみ。染はしみと訓べし。二十【四十五丁】に、之美爾之許己呂《シミニシコヽロ》云々とありて、二【三十二丁】に、益目頬染《イヤメヅラシミ》云々。四【三十八丁】に、和備染責跡《ワビシミセムト》云々など、しみといふに借用ひたるにてしるべし。一首の意は、としごろ住わたりつる奈良京の、ふかく心にしみてあればにや、かくあれはてたるを見れども、猶こゝに年をへて住まほしくおもはるゝはといへる也。
 
1045 世間乎《ヨノナカヲ》。(常無物跡《ツネナキモノト》。今曾知《イマゾシル》。平城京師之《ナラノミヤコノ》。移徙見者《ウツロフミレバ》。)
 
三【五十六丁】に、虚蝉之《ウツセミノ》、代者無常跡《ヨハツネナシト》、知物乎《シルモノヲ》云々。十九【十三丁】に、俗中波《ヨノナカハ》、常無毛能等《ツネナキモノト》、語續《カタリツギ》云々などもあり。これ、盛なりし都の、うつりかはりて、あれはてたるを見て、世の中つねなき事をしるなり。一首の意はくまなし。
 
1046 石綱乃《イハツナノ》。(又變若反《マタワカガヘリ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良乃都乎《ナラノミヤコヲ》。又將見鴨《マタモミムカモ》。)
 
石綱乃《イハツナノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。綱と書るは借字、葛《ツナ》にて、葛は蘿《ツタ》なり。蘿の類は、蔓《ツル》の延《ハヒ》わかれても、又延かへるものなれば、その意をもてつゞけたるなり。
 
(167)又變若反《マタワカガヘリ》。
先に【四ノ卅九丁此卷四十丁】變若の字をば、をち、をつ、とよめりしかど、こゝの變若反は、わかゞへりと訓べし。十一【三十一丁】に、雖老《オイヌトモ》、又若反《マタワカガヘリ》、君乎思將待《キミヲシマタム》ともあれば也。變若の二字にても、わかがへりと訓べきなれども、反の字を添たるは、例の添字也。諸本、若を著に誤れり。誤りなる事明らかなれば、仙覺抄、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。一首の意は、年へぬるとも、又わかがへりつゝ、永くながらへゐて、二たび奈良京に都をかへしたまはん世をも見んかといふ也。三【三十丁】に、吾盛《ワガサカリ》、復將變八方《マタヲチメヤモ》、殆《ホトホトニ》、寧樂京師乎《ナラノミヤコヲ》、不見歟將成《ミズカナリナム》とあるも、この類なり。
 
悲2寧樂京故郷1。作歌一首。并短歌。
 
印本、寧樂故京郷とあれど、この京故を誤りて上下したりとおぼゆれば、目録に依て改む。活字本、目録、拾穗本などに、京の字なきは、ます/\是なり。
 
1047 八隅知之《ヤスミシヽ》。(吾大王乃《ワガオホキミノ》。高敷爲《タカシカス》。日本國者《ヤマトノクニハ》。皇祖乃《スメロギノ》。神之御代自《カミノミヨヨリ》。敷座流《シキマセル》。國爾之有者《クニニシアレバ》。阿禮將座《アレマサム》。御子之嗣繼《ミコノツギツギ》。天下《アメノシタ》。所知座跡《シラシマサムト》。八百萬《ヤホヨロヅ》。千年矣兼而《チトセヲカネテ》。定家牟《サダメケム》。平城京師者《ナラノミヤコハ》。炎乃《カゲロフノ》。春爾之成者《ハルニシナレバ》。春日山《カスガヤマ》。御笠之野(168)邊爾《ミカサノヌベニ》。櫻花《サクラバナ》。木晩※[穴/干]《コノクレガクリ》。貌鳥者《カホトリハ》。間無數鳴《マナクシバナク》。露霜乃《ツユジモノ》。秋去來者《アキサリクレバ》。射駒山《イコマヤマ》。飛火賀塊丹《トブヒガクレニ》。芽乃枝乎《ハギノエヲ》。石辛見散之《シガラミチラシ》。狹男牡鹿者《サヲシカハ》。妻呼令動《ツマヨビトヨメ》。山見者《ヤマミレバ》。山裳見貌石《ヤマモミガホシ》。里見者《サトミレバ》。里裳住吉《サトモスミヨシ》。物負之《モノノフノ》。八十伴緒乃《ヤソトモヲノ》。打經而《ウチハヘテ》。思《・オモヒ》並敷者《ナミシケバ》。天地乃《アメツチノ》。依《ヨリ》會限《アヒノキハミ・アハムカギリ》。萬世丹《ヨロヅヨニ》。榮將往迹《サカエユカムト》。思煎石《オモヒニシ》。大宮尚矣《オホミヤスラヲ》。恃有之《タノメリシ》。名良乃京矣《ナラノミヤコヲ》。新世乃《アラタヨノ》。事爾之有者《コトニシアレバ》。皇之《スメロギノ》。引乃眞爾眞荷《ヒキノマニマニ》。春花乃《ハルハナノ》。遷日易《ウツロヒカハリ》。村鳥乃《ムラトリノ》。旦立往者《アサタチユケバ》。刺竹之《サスタケノ》。大宮人能《オホミヤビトノ》。踏平之《フミナラシ》。通之道者《カヨヒシミチハ》。馬裳不行《ウマモユカズ》。人裳往莫者《ヒトモユカネバ》。荒爾異類香聞《アレニケルカモ》。
 
高《タカ》敷爲《シカス・シキシ》。
敷爲《シカス》は知り領します意なる事、上【攷證一下六丁、九丁、十九丁】にいへるが如く、こゝは高く知り領します意也。
 
日本國者《ヤマトノクニハ》。
日本と書るは借字にて、大和國也。この事、上【攷證一下十六丁】にいへり。
 
(169)皇祖乃《スメロギノ》。
すめろぎとは、集中、天皇、皇神祖、皇祖神などをもよみて、今の天皇より、遠つ御祖の天皇をもおしなべ申せる事、上【攷證一上四十八丁】にいへるが如く、こゝは遠つ天皇をさし奉れり。二十【五十丁】に、比左加多能《ヒサカタノ》、安麻能刀比良伎《アマノトヒラキ》、多可知保乃《タカチホノ》、多氣爾阿毛理之《タケニアモリシ》、須賣呂伎能《スメロギノ》、可未能御代欲利《カミノミヨヨリ》云々ともあり。
 
神之御代自《カミノミヨヨリ》。
こゝには、都を奈良に遷されし、元明天皇の御代を申す。神代といふは、神代よりして、遠つ天皇の御代々々をも申せる事、上【攷證一下十一丁】にいへるがごとし。
 
敷座流《シキマセル》。
知り領しましますをいへり。この事、上【攷證二中四十四丁】にいへり。
 
阿禮將座《アレマサム》。
生《アレ》まさん也。この事も、上【攷證一上四十六丁】にいへり。活字本、座將とせり。この例、この卷上にもあり。
 
御子之嗣繼《ミコノツギツギ》。
生れ嗣《ツギ》、生れ嗣《ツギ》、天の下をしろしめすをいへり。二十【五十一丁】に、宇美乃古能《ウミノコノ》、伊也都藝都岐爾《イヤツギツギニ》云々ともあり。
 
所知座《シラシマサム・シラシメマセ》跡《ト》。
舊訓、誤れり。しらしまさんとゝ訓べし。
 
御笠之野邊爾《ミカサノヌベニ》。
御笠山の野也。二【四十四丁】に、御笠山《ミカサヤマ》、野邊行道者《ヌベユクミチハ》云々ともあり。
 
木晩※[穴/干]《コノクレガクリ》。
木晩は木闇《コノクレ》の意にて、木闇《コグラ》く生ひ茂りたるをいふなる事、上【攷證三上二十五丁】にいへるが如し。※[穴/干]をかくりと訓は、漢隷字源を考ふるに、孔耽神詞碑に、宇を※[穴/干]に作りて、隷辨に、(170)※[穴/干]即字、字碑變從v穴とあれば、※[穴/干]は宇の隷體にて、宇は國語晋語注に、宇、覆也とありて、覆《オホ》ふ意なれば、木の生茂りて覆《オホ》へば、隱《カク》るゝ謂なれば、その意を得て、※[穴/干]をかくりとは義訓せる也。さるを、略解に※[穴/牛]を※[穴/干]に誤るといへるは非也。※[穴/牛]の字は、かくりと訓べき義なし。また、活字本、罕に作るも、拾穗本、牢に作るも非也。
 
貌鳥者《カホトリハ》。
この鳥、考へがたし。そのよしは、上【攷證三中五十一丁】にくはしくいへり。
 
間無數《マナクシバ》鳴《ナキ・ナク》。
間もなく、しばしばなく也。この事も上【攷證三中五十一丁】にいへり。
 
露霜乃《ツユジモノ》。
枕詞なり。この事、上【攷證二中四丁、四中四十一丁】にくはしくいへり。こゝは、露霜のおく秋といふ意につゞけたる也。十七【四十五丁】に、露霜乃《ツユジモノ》、安伎爾伊多禮波《アキニイタレバ》云々ともあり。
 
射駒山《イコマヤマ》。
印本、駒を鉤に誤れり。今、活字本、代匠記に引る官本、拾穗本などに依て改む。さて、射駒山は、大和志に、平群郡|生駒《イコマ》山、生駒谷西、半跨2河州1とありて、河内志に、河内郡伊駒山、在2郡東1、跨2和州1とあれば、國圖もて考るに、大和國平群郡より、河内國河内郡に跨りたる山也。この山のほとりに、烽《トブヒ》を置れし事は、續日本紀に、和銅五年正月壬辰、廢2河内國高安烽1、始置2高見烽及大倭國春日烽1、以通2平城1也とありて、河内志に、河内郡高見在2峠村北1とあるにて、高見烽は伊駒山のほとりにて、こゝに、いこま山飛火がくれとは、高見烽なるをしるべし。さるを、代匠記、略解などに説あれど、皆、當らざれば、こゝにもらせり。
 
(171)飛火賀塊丹《トブヒガクレニ》。
飛火は烽にて、こは續日本紀に見えたる高見烽なる事、前にいへるが如し。さて、烽は、軍防令に、凡置烽、皆相去四十里、若布3山岡隔絶、須2遂v便安置1者、但使v得2相照見1、不3必要2v限四十里1とありて、四十里を隔て置べき御定なれど、伊駒山は、奈良より、はづかに今の道三里ばかりなるよしなれど、かの高安の地は、奈良よりは、志貴山、十三峠などを隔て、見えがたければ、ことさらに伊駒山にうつされしなるべし。これ又令の文にかなへり。中國、烽を置れし事は、書紀天智紀に、三年、是歳、於2對馬島、壹岐島、筑紫國等1、置2防與烽1云々とありて、史記、司馬相加傳索隱に、纂要云、烽、見v敵則擧、燧有v雜則焚、烽主v晝、※[火+逢]主v夜云々と見えたり。これをとぶひといふは、和名抄燈火類に、烽燧二音、度布比とあり。ここに書るが如く、飛火の義也。塊をくれと訓は、新撰字鏡に、塊、豆知久禮とあり。これを略して、くれの假字に用ひしにて、烽隱《トブヒガクリ》の意也。さて、このとぶ火がくりには、狹男鹿者《サヲシカハ》といふへかかりて、鹿の烽火臺などの陰か、またはその設けしたる小さき岡などのかげに、立かくれつゝ鳴をいふなるべし。
 
石辛見散之《シガラミチラシ》。
石辛見《シガラミ》は、上【攷證二下十二丁】にいへるが如く、しは發語、からむ義にて、こゝも鹿の立ならすとて、芽など押伏、からみありくをいへり 古今集、秋上に【よみ人しらず】秋萩を、しがらみふせて、なく鹿の、めには見えずて、おとのさやけさ。拾遺集、雜下に、【躬恒】さをしかの、しがらみふする、秋はぎは、下葉や上に、なりかへるらん、などあり。
 
妻呼令動《ツマヨビトヨメ》。
令動は、とよませを約めたる也。令の字を書いて、其の意しらせたり。
 
(172)山裳見貌石《ヤマモミカホシ》。
見貌石《ミカホシ》と書るは借字にて、見欲の意也。上【攷證三中十四丁】に出たり。
 
里裳住吉《サトモスミヨシ》。
此卷【四十五丁】悲2傷三香原荒墟1歌に、
住吉里乃《スミヨキサトノ》、荒樂苦惜喪《アルラクヲシモ》とあり。
 
打經而《ウチハヘテ》。
うちはへての、うちは詞、はへては延《ハヘ》てにて、うち續《ツヾ》きてといふ意也。古今集、秋上に【躬恒】たなばたに、かしつるいとの、うちはへて、年のをながく、こひやわたらん。後選集、夏に【よみ人しらず】あし引の、山ほととぎす、うちはへて、たれかまさると、音をのみぞなく。拾遺集、雜春に【貫之】松風の、ふかんかぎりは、うちはへて、たゆべくもあらず、さける藤なみ、などあり。本集十三【十四丁】に、打延而《ウチハヘテ》、思之小野者《オモヒシヲヌハ》云云とあるは、繩を延たるにて、こゝとは別也。
 
思《・オモヒ》並敷者《ナミシケバ》。
眞淵の説に、思は里の誤りにて、里なみしけばなりといはれたり。こゝは、八十伴男《ヤソトモノヲ》のうちつゞけて家居などして、にぎはふさまをいへる所なれば、いかにも里並敷者《サトナミシケバ》とあるべきなれども、諸本、みな思の字なれば、みだりに改る事なし。
 
依《ヨリ》會限《アヒノキハミ・アハムカギリ》。
天地と開け別れしが、またよりあはんきはみといふにて、遠く久しきためしとしたり。この事、上【攷證二中四十三丁】にいへり。限をきはみと訓るは義訓なり。
 
榮將往迹《サカエユカムト》。
活字本、迹を徳に作れり。これ略音ともいふべけれども、徳をとの假字に用ひし例なし。
 
(173)新世乃《アラタヨノ》。
あらたに、めづらしく、ふりせぬ代といふ意に、御世をほめいへる事なる事、上【攷證一下三十丁】にいへるがごとし。
 
引乃眞爾眞荷《ヒキノマニマニ》。
三【二十六丁】に、今者京引《イマミヤコヒキ》、都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》とある所【攷證三上七十八丁】にいへるが如く、引とは、物を引移すことにて、こゝは、天皇の都を引せたまふまゝにといふ也。
 
春花乃《ハルハナノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。花はうつろふものなれば、つゞけたり。
 
村鳥乃《ムラトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。村鳥は群鳥にて、鳥はねぐらより朝立出るものなれば、つゞけたり。
 
旦立往者《アサタチユケバ》。
こは、都を遷さるゝによりて、奈良京より久邇京へ、うちむれてうつりゆくさま也。
 
通之道者《カヨヒシミチハ》。
奈良京より久邇京へかよひし道也。これ、遷都よりほど經しかば、その道のあれたるよしをいへり。
 
人裳往莫者《ヒトモユカネバ》。
莫の字を、往の字の下に書るは、まへに出たる將の字を下に書る類也。
 
反歌二首。
 
(174)1048 立易《タチカハリ》。(古京跡《フルキミヤコト》。成者《ナリヌレバ》。道之志婆草《ミチノシバクサ》。長生爾異梨《ナガクオヒニケリ》。)
 
立易《タチカハリ》。
立かはるとは、是と彼と引かはることにて、こゝは、今までは三日原布當《ミカノハラフタギノ》離宮にて【三日原布當宮の事は、上攷證四上四十六丁にも出たり。猶下□にもいへり。】ありし地の、都と【恭仁京】なりて、今まで都なりし奈良の京の、故京なりしいへる事、此卷【四十六丁】悲2瘍三香原荒墟1歌に、咲花乃《サクハナノ》、色者不易《イロハカハラズ》、百石城乃《モモシキノ》、大宮人叙《オホミヤビトゾ》、立易去流《タチカハリヌル》とあるは、大宮人と里人とたちかはれるをいへるにてしるべし。九【三十一丁】に、立易《タチカハリ》、月重而《ツキカサナリテ》云々とあるも同じ。
 
道之志婆草《ミチノシバクサ》。
十一【四十一丁】に、疊※[草がんむり/焉]《タタミコモ》、隔編數《ヘダテアムカズ》、通者《カヨヒセバ》、道之柴草《ミチノシバクサ》、不生有申尾《オヒザラマシヲ》ともありて、しば草とは、名もなきいろ/\なる草どもの、生茂りたるをいふ也。そは、和名抄草類に、莱草、和名、之波とありて、禮記、王制注釋文に、草所v生曰v莱。毛詩、楚茨序、田莱多荒。釋文に、田廢生v草曰v莱などあるにてしるべし。こゝは、道のしば草長く生にけりといふにて、人も通はずして、道のあれたるをきかせたり。一首の意は明らけし。
 
1049 名《ナ》付《ヅキ・ヅケ》西《ニシ》。(奈良乃京之《ナラノミヤコノ》。荒行者《アレユケバ》。出立毎爾《イデタツゴトニ》。嘆思益《ナゲキシマサル》。)
 
名付西は、眞淵の、なづきにしと訓れしに依べし。馴付《ナレツク》の意也。新撰字鏡に、馴、奈豆久。狎、奈豆久。※[獣偏+虚]獣馴也、介毛乃々人爾奈豆久とありて、後撰集、戀五に【よみ人しらず】ほとゝぎす、なづきそ(175)めにし【夏來初に、馴付始をかねたり。】かひもなく、聲をよそにも、きゝわたるかな。又、雜四に【よみ人しらず】みちのくのをふちの駒も、野かふには、あれこそまされ、なづくものかは。拾遺集、戀四に【よみ人しらず】若草にとどめもあへぬ駒よりも、なづけわびぬる、人のこゝろか、などあり。嘆思益は、なげきしまさると訓べし。しは助辭なり。一首の意は、住馴にし奈良の京の、今はあれゆけば、外へ出たつとて、そのさまを見るごとに、嘆のまさるぞといふ也。
 
讃2久邇新京1歌二首。并短歌。
 
1050 明津神《アキツカミ》。(吾《ワガ》皇《オホギミ・スメロギ》之《ノ》。天下《アメノシタ》。八島之《ヤシマノ》中《ウチ・ナカ》爾《ニ》。國者霜《クニハシモ》。多雖有《オホクアレドモ》。里者霜《サトハシモ》。澤爾雖有《サハニアレドモ》。山並之《ヤマナミノ》。宜國跡《ヨロシキクニト》。川次之《カハナミノ》。立合郷跡《タチアフサトト》。山代乃《ヤマシロノ》。鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太敷奉《フトシキタテヽ》。高知爲《タカシラス》。布當乃宮者《フタギノミヤハ》。河近見《カハチカミ》。湍音叙清《セノオトゾキヨキ》。山近見《ヤマチカミ》。鳥賀鳴慟《トリガネトヨミ》。秋去者《アキサレバ》。山裳動響爾《ヤマモトヾロニ》。左男鹿者《サヲシカハ》。妻呼令響《ツマヨビトヨメ》。春去者《ハルサレバ》。岡邊裳繁爾《ヲカベモシジニ》。巖者《イハホニハ》。花開乎呼理《ハナサキヲヲリ》。痛※[立心偏+可]怜《アナタヌシ・イトアハレ》。布當乃原《フタギノハラ》。甚《アナ・イト》貴《タフト》。大宮處《オホミヤドコロ》。諾己曾《ウベシコソ》。吾大王(176)者《ワガオホキミハ》。君之隨《キミガマニ》。所聞《キコシ・キカシ》賜而《タマヒテ》。刺竹乃《サスタケノ》。大宮此跡《オホミヤコヽト》。定異等霜《サダメケラシモ》。)
 
明津神《アキツカミ》。
書紀、孝徳紀【大化元年】に、巨勢徳大臣詔2於高麗使1曰、明神《アキツカミト》御宇日本天皇詔旨云々。天武紀【十二年】に、詔曰、明神《アキツカミト》御大八洲日本根子天皇詔命云々。公式令詔書式に、明神御宇日本天皇詔旨。明神御宇天皇詔旨。明神御大八洲天皇詔旨云々。出雲國造神賀詞に、掛麻久毛畏岐明御神止大八島國所知食須天皇命乃《カケマクモカシコキアキツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラミコトノ》云々【この外、續日本紀、宣命などに、現神とあるも、あきつかみと訓べきなり。】などあるも、皆こゝに明津神とあるを證として、あきつかみと訓べき也。こは天皇をさし奉りて、今明らかに世におはします神とたゝへ申す也。天皇を神とも申す事、上所々にいへるが如し。
 
吾《ワガ》皇《オホギミ・スメロギ》之《ノ》。
わがすめろぎとつゞけし事、例なし。皇の字をも、おほぎみと訓べき也。この事、上【攷證一下六十九丁】にあげたる久老が別記の説の如し。
 
八島之《ヤシマノ》中《ウチ・ナカ》爾《ニ》。
中國をすべいふ名也。古事記上卷に、伊邪那岐命、伊邪那美命、御合生子、淡道之穗之狹別島、次生伊豫之二名島、次生隱伎之三子島、次生筑紫島、次生伊伎島、次生津島、次生佐度島、次生大倭豐秋津島。故因2此八島先所1v生、謂2大八島國1と見えたり。中と訓べし。うちと中とは同じ事の如くきこゆれども、なかといふ時はせばく、うちといふ時はひろし。このわかちをもて定むべし。
 
國者霜《クニハシモ》。
霜は助辭也。里者霜の霜もおなじ。
 
(177)山並之《ヤマナミノ》。
上【攷證六上五丁】にいへるが如く、山の並《ナラ》び續きたるをいふ。川次《カハナミ》も同じ。
 
立合郷跡《タチアフサトト》。
川の立めぐりて合をいふなるべし。跡はとての意也。郷を、印本、卿に誤れるを、活字本に依て改む。
 
山代乃《ヤマシロノ》。
山城也。
 
鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》。
山城國相樂郡にて、恭仁京の中なり。續日本紀に、十三年九月己未【中略】班2給京都【恭仁京也】百姓宅地1、從2賀世山西道1、以東爲2左京1、以西爲2右京1。十月癸巳、賀世山東河造v橋などある、こゝ也。際は間なり。この事、上【攷證一上三十一丁】にいへり。
 
太敷奉《フトシキタテヽ》。
太は柱をいひ、敷は知り領します意。奉を、たてゝとよめるは、訓を略して、建の意に用ひたる也。この事、上【攷證二下三十一丁】にいへり。
 
布《フ》當《タギ・タイ》乃宮者《ノミヤハ》。
これ、恭仁京の大宮也。布當は地名にて、布當川、布當山などあり。當を、たぎとよめるは、當麻を、たぎまといふ例にて、十【四十一丁】に、落當知《オチタギチ》云々。十一【八丁】に、當都心《タギツコヽロ》云々などもあるにて、しるべし。
 
鳥賀鳴慟《トリガネトヨミ》。
略解に、慟は動の誤なるべし云々といへるは誤れり。漢書、蕭望之傳集注に、慟、動也とあるにて、慟、動、通るをしるべし。動をとよむと訓る事は、上【攷證二下六十四丁】(178)にいへり。
 
山裳動響爾《ヤマモトヾロニ》。
動響を、とゞろとよめるは、義訓也。上【攷證四中十一丁】にいへるが如く、鳴響《ナリヒビク》をいふなり。
 
岡邊裳繁爾《ヲカベモシヾニ》。
印本、岡を罔に誤れり。今、活字本に依て改む。
 
花開乎呼理《ハナサキヲヲリ》。
乎呼理《ヲヲリ》は、上【攷證二下七丁】にいへるがごとく、咲たわみたるをいひて、こゝは巖のうへに花の咲かゝりたるさまをいへり。
 
痛※[立心偏+可]怜《アナタヌシ・イトアハレ》。
※[立心偏+可]怜を、眞淵は、にやしと訓れき。あなにやしえといふ言、古事記、神代のはじめに出て、あなは元より歎息の詞、にやしといふ言は喜《ヨロコ》ぶ意の言なれば、こゝにも叶ひてはきこゆれど、その言、古きに過て、こゝに似つかはしからず。舊訓に、※[立心偏+可]怜を、あはれと訓るも、あしからず。あはれも、をかしき事にまれ、歎息の詞なれば、これまたこゝに叶ひては聞ゆれど、これも、ここに似つかはしからず。されば、※[立心偏+可]怜は、たま(一字衍カ)ぬしと訓べし。怜をたぬしと訓る事は、上【攷證三中三十一丁】にいへるが如くにて、古語拾遺に、阿那多能志【言2伸v手而舞。今指2樂事1、謂2之多能志1此意也。】とあるにてしるべし。さて、※[立心偏+可]怜は可怜なるべきを、かく書る事は、上【攷證三下二丁】にいへり。
 
布當乃原《フタギノハラニ》。
まへに出たる布當宮と同じ所也。
 
(179)甚《アナ・イト》貴《タフト》。
甚を、あなとよめるは、義訓也。甚は、集中、常に、いととも、いたともよめる字にて、あなとよめる例なけれど、痛の字を、集中、あなとも、いととも、いたとも訓るに對して、甚をも、あなと訓べきをしるべし。催馬樂、安名尊歌に、安名太不止《アナタフト》、介不乃太不止左也《ケフノタフトサヤ》云々ともあり。
 
君之隨《キミガマニ》。
二の句は、大宮此跡《オホミヤコヽト》、定異等霜《サダメケラシモ》といふへつゞけて、君が御心のまにまに、大宮をこの所と定めたまひけらしといふ也。
 
所聞《キコシ・キカシ》賜而《タマヒテ》。刺竹乃《サスタケノ》。大宮此跡《オホミヤコヽト》。定異等霜《サダメケラシモ》。
所聞は、きこしと訓べき事、上【攷證三中四十四丁】にいへり。令v聞の意也。ここはよき所也ときこしめして、大宮所をこゝと定めたまひけんといふ也。
 
反歌二首。
 
1051 三日原《ミカノハラ》。(布當乃野邊《フタギノヌベヲ》。清見社《キヨミコソ》。大宮處《オホミヤドコロ》。定異等霜《サダメケラシモ》。)
 
三日原は相樂郡にて、恭仁京の地をいへり。布當《フタギ》のほとりなるべし。山城名勝志に、瓶《ミカノ》原在2木津渡東一里半許1。郷内廣、今有2九村1とあり。續日本紀【恭仁京へ遷都の條、天平十三年閏三月己未。】に、遣v使運2平城宮兵器於|甕《ミカノ》原宮1とあるもこゝ也。清見社《キヨミコソ》の見《ミ》は、さにの意也。代匠記に引る官本、一云|此跡標刺《ココトシメサス》の六字あり。こは結句の異同也。一首の意は明らけし。
 
1052 弓高來《ヤマタカク》。(川乃湍清石《カハノセキヨシ》。百世左右《モヽヨマデ》。神之《カムシ・カミノ》味將往《ミユカム》。大宮所《オホミヤドコロ》。)
 
(180)弓高來《ヤマタカク》。
略解は、弓は、山を草書に、〓と書より誤れる也とて、改められたり。これいかにもさる事ながら、諸本、皆同じく、古葉略類聚抄さへ同じければ、誤り來れる事いと久しとおもはる。されば、みだりに改むる事なし。されど、必らず誤りなるべし。
 
神之《カムシ・カミノ》味將往《ミユカム》。
代匠記に、神之味ハ、カムシミト讀テ、神ナビト同ジウ意得ベシといはれつるが如くなれど、外に語例なし。今の俗言に、何めきたるといふを、何じみたるといふも、これなるか。可v考。一首の意は、神さぶるまで、いつまでもかはる事なき大宮所ぞと申す也。
 
1053 吾《ワガオホ》皇《ギミ・ギミノ》。(神乃命乃《カミノミコトノ》。高所知《タカシラス》。布當乃宮者《フタギノミヤハ》。百樹成《モヽキナス》。山者木高之《ヤマハコダカシ》。落多藝都《オチタギツ》。湍音毛清之《セヲトモキヨシ》。※[(貝+貝)/鳥]乃《ウグヒスノ》。來鳴春部者《キナクハルベハ》。巖者《イハホニハ》。山下耀《ヤマシタヒカリ》。錦成《ニシキナス》。花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》。左牡鹿乃《サヲシカノ》。妻呼秋者《ツマヨブアキハ》。天《アマ》霧合《ギラフ・ギリアフ》。之具禮乎《シグレヲ》疾《イタミ・ハヤミ》。狹丹頬歴《サニヅラフ》。黄葉散乍《モミヂチリツヽ》。八千年爾《ヤチトセニ》。安禮衝之乍《アレツガシツヽ》。天下《アメノシタ》。所知食跡《シロシメサムト》。百代爾母《モヽヨニモ》。不可易《カハルベカラズ》。大宮處《オホミヤドコロ》。)
 
吾《ワガオホ》皇《ギミ・ギミノ》。
皇は、おほき(み脱カ)と訓べし。この事、まへにいへり。
 
(181)百樹成《モヽキナス》。
成は例の加の意にて、山の木高きを、百木の生たらんが如くといふ也。百は、たゞ數の多きをいふのみ。略解に、百樹成の成は、例(の脱カ)、如くといふ意なれど、ここに叶はず。宣長云、成は盛の誤也。もるは茂る事にて、森《モリ》の用語也云々。これ等の説、なかなかに心得ず。試みに宣長の説を助けいはゞ、呂覽先已篇に、松柏成而塗之人已蔭矣の注に、成茂とあれば、成を盛の誤りとせずとも、成のまゝにて、もるとも訓べし。
 
山者木高之《ヤマハコダカシ》。
木高之《コダカシ》は木《キ》の高き也。木は借字にて、小高《コダカ》きにはあらず。三【五十二丁】に、吾山齋者《ワガヤドハ》、木高繁《コダカクシゲク》、成家留鴨《ナリニケルカモ》。十【十九丁】に、木高者《コダカクハ》、曾木不殖《カツテキウヱジ》云々。十二【十八丁】に、足引之《アシビキノ》、山呼木高三《ヤマヲコダカミ》、暮月乎《ユフヅキヲ》、何時君乎《イツトカキミヲ》、待之苦沙《マツガクルシサ》などあるも、みな木の高きをいへり。
 
山下耀《ヤマシタヒカリ》。
下は、三【一九丁】に、山下《ヤマシタノ》、赤乃曾保船《アケノソホフネ》云々とある下と同じく、赤く照る意なる事、その所【攷證三上四十丁】を考へ合せてしるべし。十五【二十七丁】に、安之比奇能《アシヒキノ》、山下比可流《ヤマシタヒカル》、毛美知葉能《モミヂバノ》云々ともあり。こゝは、春になれば、錦の如く巖にまでも花咲かゝりて、山を照すばかりなるをいへり。
 
錦成《ニシキナス》。
成は、これも、如くの意也。
 
左牡鹿乃《サヲシカノ》。
印本、牡を壯に誤れり。集中、みな牡鹿とのみ書たれば、誤りなる事しるく、意改せり。異本、並拾穗本などにも、牡に作れり。また疑ふらくは、左の下、をの(182)字を脱せるか。集中、竿牡鹿【六ノ二十一丁】に棹牡鹿【八ノ三十六丁、四十二丁、四十六丁、十ノ四十丁】狹男牡鹿【六ノ四十二丁】狹尾牡鹿【八ノ四十七丁】狹小牡鹿【十ノ四十丁】など、みな、をの字を加へて書るを、をの字のなきは、こゝと十【三十九丁】と、集中たゞ二所のみ也。
 
天《アマ》霧合《ギラフ・ギリアフ》。
きらふは、きりあふの約りにて、そらもきりふたがりて、くもれるをいふ。この事、上【攷證一上四十八丁、二上四丁】にいへり。
 
之具禮乎《シグレヲ》疾《イタミ・ハヤミ》。
しぐれは、中古よりは、初冬にふる雨をのみいへど、集中には、八九月にもいへり。この事、上【攷證三下十三丁】にいへり。疾はいたみと訓べし。
 
狹丹頬歴《サニヅラフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三下六丁】にも出たり。
 
安禮衝之乍《アレツガシツヽ》。
御代々々、生れ嗣、生れ嗣したまふを申す也。上【攷證四上二丁】に出たり。
 
百代爾母《モヽヨニモ》。
御代のつぎつぎ、百代經たまふとも、かはるべからざる大宮所也と、ほめ申す也。文選枚乘、諫2呉王1上書に、臣願、王熟計、而身行v之、此百代不v易之道也とあり。
 
反歌五首。
 
(183)1054 泉川《イヅミガハ》。(往瀬乃水之《ユクセノミヅノ》。絶者許曾《タエバコソ》。大宮地《オホミヤドコロ》。遷往目《ウツロヒユカメ》。)
 
泉川、これも相樂郡にて、恭仁京のほとり也。山城志に、相樂郡木津川、本名輪韓川、又名|挑《イドミ》川、又泉川とあり。續日本紀に、天平十七年五月壬戌、車駕還2恭仁宮1。癸亥、車駕到2恭仁京泉橋1。于v時百姓遙望2車駕1、拜2謁道左1、共稱2萬歳1云々とある泉橋は、泉河の橋也。この川の事、上【攷證一下三十一丁】にも出たり。一首の意はくまなし。
 
1055 布當山《フタギヤマ》。(山並見者《ヤマナミミレバ》。百代爾毛《モヽヨニモ》。不可易《カハルベカラズ》。大宮處《オホミヤドコロ》。)
 
山並は、前の長歌に、山並のよろしき國とゝありて、こゝは山並のよろしきを見ればの意也。三の句より末は、後の長歌の《(マヽ)》さながら用ひたり。
 
1056 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。(續麻繋云《ウミヲカクトイフ》。鹿脊之山《カセノヤマ》。時之往者《トキノユケレバ》。京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》。)
 
※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。
※[女+感]嬬の字の事は、上【攷證一下十三丁】にいへり。
 
續麻繋云《ウミヲカクトイフ》。
十二【十六丁】に、※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》、續麻之多田有《ウミヲノタタリ》、打麻懸《ウチソカク》云々ともあり。
 
鹿脊之山《カセノヤマ》。
まへに出たる鹿脊山を、麻を卷かくる※[木+峠の旁]《カセ》にとりなして、つゞけたり。一二の句は、かせといはん序のみ。さて、※[木+峠の旁]は、大神宮儀式帳に、金銅加世比二枚云々。延喜(184)大神宮式に、金銅賀世比二枚、長各九寸六分、手長五寸八分云々とある、かせひをいひて、こは麻にまれ、糸にまれ、卷かくる具にて、今もあるもの也。新撰字鏡に、※[木+峠の旁]、力棟反、加世比とあり。これをかせとのみもいふは、續日本後紀【天長十年三月乙卯】に、山城國相樂郡※[木+峠の旁]山云々。類聚國史【百七】に、承和二年三月丁巳、山城國※[木+峠の旁]山云々など、この鹿脊山を※[木+峠の旁]山とあるにてしるべし。古語拾遺に、以2麻柄1、作v※[木+峠の旁]※[木+峠の旁]v之云々ともあり。一首の意は、時のゆきうつりぬれば、今まで山家なりし所も、都となりぬといふ也。
 
1057 鹿脊之山《カセノヤマ》。(樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》。朝不去《アササラズ》。寸鳴鳴響爲《キナキトヨマス》。※[(貝+貝)/鳥]之音《ウグヒスノコヱ》。)
 
繁三《シゲミ》の三《ミ》は、さにの意也。朝不去《アササラズ》は毎朝の意也。この事、上【攷證三中三十七丁】にいへり。一首の意は明らけし。
 
1058 狛山爾《コマヤマニ》。(鳴霍公鳥《ナクホトトギス》。泉河《イヅミガハ》。渡乎遠見《ワタリヲトホミ》 此間爾不通《コヽニカヨハズ》。)
 
狛山は、和名抄郷名に、山城國相樂郡大狛、下狛【之毛都古末】とありて、山しろの狛のわたりのうりつくり、とよめるもこゝ也。これ、恭仁京のほとりにて、泉川の隔たる所なるべし。山城名勝志に、大狛郷、今上狛村歟。在2平尾村南、木津渡北山際1。下狛郷、大津川西、祝園村西、飯岡南、有2下狛村1、上狛隔v川とあり。略解に、この一首は別の歌なるべし云々といはれたれど、狛山、泉河など、恭仁京の地名によく叶ひたるうへ、右の長歌に、春秋の事を專らいひたれば、こゝにほとゝぎすをいへりとても、疑ふべきにあらず。一首の意はくまなし。一云、渡遠哉《ワタリトホミヤ》、不通有武《カヨハザルラム》は下句(185)の異同也。
 
春日。悲2傷三香原荒墟1。作歌一首。并短歌。
 
荒墟はあれたる意なる事、前にいへるが如く、こゝは恭仁の京のあれたるをいへり。續日本紀に、天平十五年冬十二月己丑、始運2平城器仗1、收2置於恭仁宮1。辛卯、初壞2平城大極殿並歩廊1、遷2造於恭仁宮1、四2年於茲1、其功纔畢矣。用度所v費、不v可2勝計1。至v是更造2紫香樂宮1、仍停2恭仁宮造作1焉。十六年二月甲寅、運2恭仁宮高御座並大楯於難波宮1。庚申、左大臣宣v勅云、今以2難波宮1定爲2皇都1云々とありて、難波に都を遷したまひしかば、恭仁京はあれたる也。
 
1059 三香原《ミカノハラ》。(久邇乃京師者《クニノミヤコハ》。山《ヤマ》高《タカク・タカミ》。河之瀬《カハノセ》清《キヨミ・キヨシ》。在吉迹《アリヨシト》。人者雖云《ヒトハイヘドモ》。在吉跡《アリヨシト》。吾者雖念《ワレハオモヘド》。故去《フリニ・フルサレ》之《シ》。里爾四有者《サトニシアレバ》。國見跡《クニミレド》。人毛不通《ヒトモカヨハズ》。里見者《サトミレバ》。家裳荒有《イヘモアレタリ》。波之異耶《ハシケヤシ》□。如此在家留可《カクアリケルカ》。三諸著《ミモロツク》。鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》。開花之《サクハナノ》。色目列敷《イロメヅラシク》。百鳥之《モヽトリノ》。音名束敷《コヱナツカシク》。在杲石《アリカホシ》。住吉里乃《スミヨキサトノ》。荒樂苦惜哭《アルラクヲシモ》。)
 
(186)山《ヤマ》高《タカク・タカミ》。河之瀬《カハノセ》清《キヨミ・キヨシ》。
やまたかく、川のせきよみと訓べし。
 
在吉迹《アリヨシト》。
宣長云、或人の説に、後の在吉の在は、住の誤りなるべし。末に、ありかほし住よき里とあれば也云々。これもさることながら、今のまゝ、在吉にても、よくきこえたり。
 
故去《フリニ・フルサレ》之《シ》。
ふりにしと四言に訓べし。三【三十丁】に、香具山乃《カグヤマノ》、故去之里乎《フリニシサトヲ》、不忘之爲《ワスレヌガタメ》とあれば也。去を、にとのみよめるは、いにの略也。二【四十二丁】に、過去計良受也《スギ〓ケラズヤ》。三【十九丁】に、左夜深去來《サヨフケニケリ》などあるも、いにの意也。集中、猶多し。また、二【二十九丁】に、栖立去者《スタチナバ》云々と、なの假字としたるも、いなばの意なり。
 
里爾四有者《サトニシアレバ》。
四もじは助辭也。
 
波之異耶《ハシケヤシ》□。
耶の下、しの字を脱たる事、明らけし。拾穗本には之《シ》もじあり。この事は、愛《ハシキ》と愛する意なる事、上【攷證二下十二丁】にいへるが如し。こゝは、それを一轉して、愛し惜《ヲシ》む意としたり。略解に、はしけやしの下、二句斗句の脱たるか云々といはれたり。今のまゝにても、よくつゞきたるをや。
 
如此在家留可《カクアリケルカ》。
かくの如くも、あれたるものかもと、歎息したる意也。可《カ》はかもの意にて、歎息の詞也。この事、上【攷證二下七十六丁】にいへり。
 
三諸著《ミモロツク》。
三諸《ミモロ》とは、上【攷證三下九丁】にいへるが如く、神社を【三輪山を、みもろ山といへるも、三輪の大神のまします故なり。】いへることにて、七【六丁】に、三諸就《ミモロツク》、三輪山見者《ミワヤマミレバ》云々とあるも、三輪大神の社ある故に、みもろつ(187)くとはいへり。されば、この鹿脊山にも、さるべき神社ありで、かくはいへるか。鹿脊山に神社ある事、ものに見えざれば疑はし。活字本には、三を天に作りて、天諸著とあり。これによらば、あもりつくと【諸をもりと訓る例はなけれど、りとろとは音通へば、もりとも訓べし。】よまんか。三【十六丁】に、天降付《アモリツク》、天之芳來山《アメノカグヤマ》云々とあるは、上【攷證一上三丁】に、伊豫國風土記を引ていへるが如く、香具山は天上より降れるよしの傳へあれば、天降付《アモリツク》ともいふべけれど、この鹿脊山はさる傳へもきかぬを、あもりつくといはん事、これも疑はし、後人よく考べし。略解に、三諸著、一本、天諸著とあり。ともに誤れりと見ゆ。或説に、三諸は生緒の字の誤なるべし。さらば、うみをつく※[木+峠の旁]とつゞけたる也。生緒は積苧《ウミヲ》の借字也といへり。宣長は、著は繁の誤にて、うみをかくならんといへり云々。
 
在杲石《アリガホシ》。
ありがほしは、欲在《アリガホシ》の意なる事、欲見をみがほしといふにてしるべし。杲は、かほの假名に、音を借たる也。三【三十八丁】に、見杲石《ミガホシ》云々。十【六丁】に杲鳥《カホトリ》云々などもよめり。
 
住《スミ》吉《ヨキ・ヨシ》里乃《サトノ》。
舊訓、すみよしとあるは、甚しき誤り也。
 
荒樂苦惜哭《アルラクヲシモ》。
らくは、るを延たる言、もは添たる言にて、あるゝがをしといふ也。さて、略解に、哭、一本、喪に作るによる云々とて、改められしかど、三【三十六丁】に、戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》ともあれば、誤りにもあらじ。されば、思ふに、喪には必らず哭するものなれば、その義をもて、喪(哭ノ誤カ)を義訓して、もの假字に用ひたるか。説文に、喪、〓也。从v哭从v〓會意。〓亦聲とあり。
(頭書、七【十六丁】に悲哭《カナシモ》。)
 
(188)反歌二首。
 
印本、反歌三首とあれど、代匠記に引る官本に依て改む。
 
1060 三香原《ミカノハラ》。(久邇乃京者《クニノミヤコハ》。荒去家里《アレニケリ》。大宮人乃《オホミヤビトノ》。遷去禮者《ウツリイヌレバ》。)
 
遷去禮者《ウツリイヌレバ》は、難波宮へうつりいぬればといふにて、されば、この恭仁京はあれにけりといふ也。
 
1061 咲花乃《サクハナノ》。(色者不易《イロハカハラズ》。百石城乃《モヽシキノ》。大宮人叙《オホミヤビトゾ》。立易去流《タチカハリヌル》。)
 
立易は、まへにいへるが如く、引かはる意にて、咲花の色は今もかはらざれど、在し大宮人も今は見えずして、これぞ引かはれりといふ也。
 
難波宮。作歌一首。并短歌。
 
まへに引る續紀に、天平十六年二月庚申、以2難波宮1定爲2皇都1とある、これにて、これ味經《アヂフ》宮なる事、下にいへり。
 
1062 安見知之《ヤスミシシ》。(吾大王乃《ワガオホギミノ》。在通《アリガヨフ》。名庭乃宮者《ナニハノミヤハ》。不知魚取《イサナトリ》。海片就而《ウミカタツキテ》。玉拾《タマヒロフ》。濱邊乎近見《ハマベヲチカミ》。朝羽振《アサハフル》。浪之聲※[足+參]《ナミノオトサワギ》。夕薙丹《ユフナギニ》。櫂合《カヂ。カヽヒ》之聲所聆《ノオトキコユ》。曉《アカトキ・アカツキ》之《ノ》。寐覺(189)爾聞者《ネザメニキケバ》。海石之《・アマイシノ》。塩于乃共《シホヒノムタ》。納渚爾波《ウラスニハ》。千鳥妻呼《チドリツマヨビ》。葭部爾波《アシベニハ》。鶴《タヅ》鳴《ナキ・ガネ》動《トヨミ》。視人乃《ミルヒトノ》。語丹爲者《カタリニスレバ》。聞人之《キクヒトノ》 視卷欲爲《ミマクホリスル》。御食向《ミケムカフ》。味原宮者《アヂフノミヤハ》。雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》。)
 
名庭乃宮者《ナニハノミヤハ》。
名庭と書るは借字、難波にて、この宮は味經宮なる事、下に味原宮者《アヂフノミヤハ》、雖見不飽香聞《ミレドアカヌカモ》とあるにてしるべし。味經宮の事は、上【攷證六上十三丁】に出たり。
 
海片就而《ウミカタツキテ》。
片就《カタツキ》は片付にて、かたよりたるをいふ。十【八丁】に、除雪而《ユキオキテ》、梅莫戀《ウメヲナコヒソ》、足曳之《アシビキノ》、山片就而《ヤマカタツキテ》、家居爲流君《イヘヰスルキミ》。十九【二十五丁】に、谷可多頭伎※[氏/一]《タニカタツキテ》、家居有《イヘヰセル》云々などあり。
 
玉拾《タマヒロフ》。
濱といはん序のみ。
 
朝羽振《アサハフル》。
あしたに風たちて、浪の發るをいふ。この事、上【攷證二中三丁】にいへり。
 
浪之聲※[足+參]《ナミノオトサワギ》。
※[足+參]は躁の俗字也。干禄字書に、※[足+參]躁、上俗、下正とあり。拾穗本には躁に作れり。
 
夕薙丹《ユフナギニ》。
薙の字を書るは借訓也。書紀、神代紀に、草薙劔、此云2倶娑那伎能都留伎《クサナギノツルギ》1とあり。
 
(190)櫂合《カヂ。カヽヒ》之聲所聆《ノオトキコユ》。
代匠記に、櫂は※[女+燿の旁]の誤りにて、九【二十三丁】に出たる※[女+燿の旁]歌《カヾヒ》の事とせられしも、略解に、合を衍文とせられしも、いかゞ。合の字は、例の義をもて添て書る字なり。そは常に眞梶繁貫《マカヂシヾヌキ》ともいふごとく、櫂《カヂ》はいくつも立置て、水を掻て船を遣るものにて、多くの櫂を一度にはたらかすことなく、是と彼とを合せて、是をひけば彼をおし、彼をひけば是をおすやうに、互にそのわざを合せつゝこぐ意もて、添て書る字なる事明らけし。
 
曉《アカトキ・アカツキ》之《ノ》。
あかつきといふこと、このごろなし。あかときと訓べし。この事、上【攷證二上二十三丁】にいへり。
 
海石之《・アマイシノ》。
眞淵の説に、石は原の誤りにて、海原之《ウナバラノ》なるべしといはれたるが如く、石は原を誤りて、畫を脱したる事明らけし。
 
塩于乃共《シホヒノムタ》。
共は、字の如く、ともにといふ意なる事、上【攷證二中四丁】にいへり。
 
納渚爾波《ウラスニハ》。
略解に、納、一本、※[さんずい+内]に作るをよしとす。集中、多くうらと訓り云々といはれつれど、納のまゝにても、うらと訓べし。この事、上【攷證三中七十五丁】にいへり。浦洲の意也。
 
鶴《タヅ》鳴《ナキ・ガネ》動《トヨミ》。
たづなきとよみと訓べし。
 
語丹爲者《カタリニスレバ》。
語りぐさにすればの意也。このにもじは、十三【三十丁】に、吾背子之《ワガセコガ》、偲丹爲與得《シヌビニセヨト》云云。十八【八丁】に、介敷乃日婆《ケフノヒハ》、多奴之久安曾敝《タヌシクアソベ》、移比都伎爾勢牟《イヒツギニセム》などある、にもじ(191)と同じ。集中、猶あり。
 
御食向《ミケムカフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二下九丁】にも出たり。こゝは味《アヂ》とつゞけし也。
 
味原宮者《アヂフノミヤハ》。
この地の事は、上【攷證六上十三丁】にいへるが如く、攝津國東生郡なり。原をふと訓るは、原野は草の生る所なれば、生《フ》の意もて、ふとはよめるなり。
 
反歌二首。
 
1063 有通《アリガヨフ》。(難波乃宮者《ナニハノミヤハ》。海近見《ウミチカミ》。漁童女等之《アマヲトメラガ》。乘船所見《ノレルフネミユ》。)
 
有通は、在つゝ通ふ意なる事、上【攷證二中十六丁】にいへるが如し。海近見《ウミチカミ》のみは、さにの意也。漁童女を、あまをとめと訓るは義訓也。一首の意は明らけし。
 
1064 塩千者《シホヒレバ》。(葦邊爾※[足+參]《アシベニサワグ》。白鶴乃《シラタヅノ》。妻呼音者《ツマヨブコヱハ》。宮毛動響二《ミヤモトドロニ》。)
 
※[足+參]、これも拾穗本に躁に作れり。いづれにてもあるべし。白鶴は、舊訓、あしたづと訓り。白の字は、例の義をもて添て書る字かとも思へど、集中、あしたづといふは、もとより、たづといふにも、白の字を添て書るが一つもなきをもて思へば、こゝは、十六【十八丁】に、白鷺を、しらさぎと訓るを例として、しらたづのと訓べき也。さて、前の歌に、海近見《ウミチカミ》ともいへるが如く、海近き大(192)宮所なれば、葦邊にさわぐ鶴が音の、宮もとゞろに聞ゆるよしいへり。一首の意はくまなし。
 
過2※[敏/馬]《ミヌメノ》浦1時。作歌一首。并短歌。
 
※[敏/馬]は敏馬二合の字也。こは攝津國菟原郡也。上【攷證三上十八丁】に出たり。
 
1065 八千桙之《ヤチホコノ》。(神乃御世自《カミノミヨヨリ》。百船之《モヽフネノ》。泊停跡《ハツルトマリト》。八島國《ヤシマグニ》。百船純乃《モヽフナビトノ》。定而師《サダメテシ》。三犬女乃浦者《ミヌメノウラハ》。朝風爾《アサカゼニ》。浦浪左和寸《ウラナミサワギ》。夕浪爾《ユフナミニ》。玉藻者來依《タマモハキヨル》。白沙《シラマナゴ》。清濱部者《キヨキハマベハ》。去還《ユキカヘリ》。雖見不飽《ミレドモアカズ》。諾石社《ウベシコソ》。見人毎爾《ミルヒトゴトニ》。語嗣《カタリツギ》。偲家良思吉《シノビケラシキ》。百世歴而《モヽヨヘテ》。所偲將往《シヌバエユカム》。清白濱《キヨキシラハマ》。)
 
八千桙之《ヤチホコノ》。
大穴牟遲《オホアナムチノ》神の又の御名也。古事記上卷に、天之冬衣神娶2刺國大神之女、名刺國若比賣1、生子大國主神、亦名謂2大穴牟遲神1、亦名謂2葦原色許男神1、亦名謂2八千矛神1、亦名謂2宇都志國玉神1、并有2五名1とあり。上【攷證三中三十五丁】にいへるが如く、この神と少彦名の神と二柱して、この國を作り堅めたまへりと申す傳へなれば、こゝにこの神の御代より、こゝを泊と定めた(193)りと申す也。又は遠く久しき意もこもれり。
 
八島國《ヤシマグニ》。
大八島といふにて、中國を惣ていふ名なる事、まへにいへり。
 
百船純乃《モヽフナビトノ》。
純をひとゝよめるは借訓也。まへに出たり。
 
白沙《シラマナゴ》。
海邊のまさご地の白く見ゆるをいへり。沙を、まなごといふ事、上【攷證四中九丁】に出たり。
 
偲家良思吉《シヌビケラシキ》。
吉は、こその結びの、けらしに、輕く添たる也。この事、上【攷證一上二十五丁】にいへり。
 
所偲《シヌバエ・シノバレ》將往《ユカム》。
しぬばれを、しぬばえといふは、古言のつね也。たとへ百年を經ぬとも、猶しのばれんばかりのけしきなりといふ也。
 
反歌二首。
 
1066 眞十鏡《マソカヾミ》。(見宿女乃浦者《ミヌメノウラハ》。百船《モヽフネノ》。過而可往《スギテユクベキ》。濱有七國《ハマナラナクニ》。)
 
眞十鏡は枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證三上八丁】にも出たり。こゝは見《ミ》の一言へかけてつゞけしなり。一首の意は、この敏馬の浦は、けしきの見過しがたくて、多く船人もたゞには往過がたき所(194)なるに、吾はえとゞまりがたくて、往過る事よといふ也。
 
1067 濱清《ハマキヨミ》。(浦愛見《ウラウルハシミ》。神世自《カミヨヨリ》。千船《チフネノ》湊《ツドフ・トマル》。大和太乃濱《オホワダノハマ》。)
 
浦愛見《ウラウルハシミ》。
愛見は、うるはしみとよまんか、うつくしみとよまんか、定めかねたれば、しばらく、略解の訓にしたがへり。いづれにまれ、浦をうるはしと愛する言也。
 
神世自《カミヨヨリ》。
たゞ廣く、いにしへをさしていへり。
 
千船《チフネノ》湊《ツドフ・トマル》。
湊は、代匠記には、つどふと訓、略解には、はつると訓れたり。いづれも義訓にて、こゝによく叶ひたれば、いづれをとらんか、定めがたけれど、説文に、湊、水上人所v會也とありて、禮記、檀弓釋文に、湊、聚也とあれば、代匠記の訓をとれり。
 
大和太乃濱《オホワダノハマ》。
これを、攝津志に矢田部郡、これによるべし。代匠記に武庫郡とせられしは、いかゞ。そは、三善清行意見十二條に、臣伏見2山陽、西海、南海、三道、舟船海行之程1、自2※[木+聖]生泊1至2韓泊1一日行、自2韓泊1至2魚住泊1一日行、自2魚住泊1至2大輪田泊1一日行、自2大輪田泊1至2河尻1一日行。此皆行基菩薩計v程所2建置1也云々とあるをもて考るに、河尻は西成郡なれば、矢田部郡より一日行といふによく當れり。武庫郡より河尻までは一日行には當らざるをもて、こゝにはあらざるをしるべし。さて、この敏馬浦より大和田にかゝるを見れ(195)ば、この歌は西國などへ下るをりの歌なるべし。一首の意は明らけし。
 
右二十一首。田邊福麿之歌集中出也。
 
上、悲2寧樂京故郷1作歌といふよりこゝまで、二十一首あり。田邊福麿、父祖、考へがたし。十八【六丁】に、天平二十年春三月二十三日、左大臣橘家之使者、造酒司令史田邊福麿、饗2于守大伴宿禰家持館1。爰新歌并使v誦2古詠1、各述2心緒1とて、數首の歌を載て、田邊史福麿とあり。また九【三十一丁三十四丁】にも、この人の歌集に出る歌あるを見れば、そのころの歌人なりしなるべし。田邊史の姓は、姓氏録卷四に、田邊史、豐城入彦命四世孫、大荒田別之後也。また卷二十三に、田邊史、出v自2漢王之後知〓1也とあり。田邊はたのべと訓べし。福磨はさちまろと訓べし。
 
六の上卷に攷證しをはりつるは、ことし文政十一年正月二十八日なりけり。一日も筆をおく事なう、またあくる日より、此卷にかゝりしかど、その二月五日といふに、、家またやけぬ。思ひきや、五年も經ざるに、二たび家のやけなましとは。かうおそろしき市町の中には、いかで在へんと思へば、此度は寺島の庄にうつりて、こゝにあらんとす。されば、今までありし家に繼て家(196)作りす。大江戸なる、やけつる家も、又さらに作りて、公に仕へ奉る中やどりとす。これかれさわがしき事、すこしのどめて、八月はじめよりぞ筆をばとりつる。さて、このまきを終りつるは、長月中の二日、花の垣内に、月待わたるゆふべなりけり。
                 岸 本 由 豆 流
                    (以上攷證卷六下冊)
 
    新刊萬葉集攷證の奥に記す
 
 いま第六卷の發行を以つて、ひとまづ萬葉集攷證の刊行を終る。多分あつたであらうと思はれる第七卷以下の所在が知られないのは殘念であるが、第六卷までであつても、萬葉集註釋書中有數の大著であることは疑はれない。
 第一卷の初にも書いたやうに、萬葉集叢書の一輯として本書を選擇したのは、久保田俊彦氏である。氏みづから監督して、本書の書寫校合の事に當つたのは、大正十二年頃であつたらうと思ふ。大正十三年の夏に至つて、多忙のために、余に本書印行の衝に當らむことを委託せられた。かくて同年十二月第一卷を、十四年四月第二卷を刊行したが、この間余もまた身邊漸く多事となつて、本書の刊行も思ふやうには捗らなかつた。しかるに幸にして同學の俊豪安藤英方君の來り援けられるに會し、第三卷以下努力の分擔を請うて、續々と刊行することを得て、今日に至つて第六卷の刊行を見るに至つたのである。
 而して本書の出版を企畫した久保田氏は、最後の一册の刊行を見ずして、大正十五年三月二十七日病んで諏訪湖畔に歿した。死は何人にも來るものであつて、人麻呂も赤人も、憶良も蟲麻呂も死し去つた。しかも死に面して自傷の歌を傳へた人麻呂、憶良の死は、赤人や蟲麻呂の死よりも悼しい氣が(2)する。赤人、蟲麻呂は、ふとしては死ななかつた人では無いかとさへも思はれる。本書の刊行半にして久保田氏の死に接したことは、余をして、本書を見る毎に久保田氏を思ふ情を深からしめる。
 本書の著者岸本由豆流は、本書著作中五個年の間に二囘火災に遭つた。昔の江戸人は火災に慣れてゐたにしても、本書著作上の大いなる障害であつたには違ない。これに屈せずに著作を進めて行つた勇氣には、本書によつて益せられる後人として、特に感謝せねばならない。余が父も四個年の間に三同類燒したといふことであつて、これが爲に我が家の一層疲弊したことを考へると、富裕であつたらうとは思ふが、由豆流の心境にも同情の念を禁じ得ない。
 終に臨んで重ねて本書の刊行に關係した諸君に敬意を表する。近年文化の發達と共に諸種の大出版が續行せられるやうになつたので、本書の如きは分量に於いては大出版とは云ひ難いが、植字のかなり困難なるにも拘らず、これを遂行した印刷所の諸君に感謝する。今でこそ萬葉集叢書は、多大の光明を認め得たやうであり、他に同種の叢書の刊行を企つるものも出來たが、はじめにこの大部なる書物の刊行を決した古今書院主人の冒險にも感謝する。最初に書院主人の決心が附かなかつたら、本書の刊行は、なほ異日を待たねばならなかつたであらう。
    大正十五年六月        武田祐吉
 
萬葉集攷證原本丁數索引
 
この索引に、攷證の原本の何丁が、この刊本の何頁の何行目に始るかを、知らうとする爲の用である。原本とこの刊本とでは丁附(この本では頁附)を異にしてゐるので、本書の記事中に見える丁附では、この刊本に於ける所在を求め難いから、この索引を作つて添へたのである。
行數の数へ方に、大文字(三號活字)を標準として、すべて一頁を九行として數へた。
原本が空行に始る丁にあつては、その丁の最初の文字のある行を取つて、索引を作つた。
引き方に、例へば攷證一上三十丁とあるものが、本書の何處にあるかを求めようとならば、この索引に就いて、まづ原本卷一上册とある處を求め、その三十丁はこの刊本の第一卷の六四頁の七行中より始ることを知り、その卷のその頁を開いて、七行目の「山乎茂」云々の行の中から、原本の三十丁が始つてゐることを知る。
原本卷一上册
此本第一卷
丁数 此本頁數 行
 一   一  一
〔以下略〕
 
        〔2011年8月22日(月)午後8時30分、入力終了〕