入力者注、本文語句を大字にし、註釈を二行割にしているのを、改行して一行書きにした。頭書の二字を□で囲んでいるが、注記がわずらわしいので、凡例を除き、ただ「頭書、」とした。
(1) 新刊萬葉集攷證凡例
一、本書は、帝國圖書館所蔵の寫本によつて刊行した。而して便宜上、多少原本の體裁を改めたところがある。原本には、往々頭書があるが、これも本文中に收めて、初に頭書〔二字□で囲む〕と記すこととした。
一、原本は、萬葉集の本文を掲げ、さてその一二句づつを、別に註してゐるのだが、往々初の本文を、書かずに明けてあるところがある。これは新に補つて、括弧を加へておいた。その文は、別に註する爲に摘出した句に據り、それをも缺いた部分は、註釋の底本として用ゐたと認められるところの、校異本萬葉集によつた。
一、その外、すべて括弧の中にある文字は、刊行に際して校者の新に加へた文字である。
一、原本には、稀に句讀、濁點、返り點があつたが、今、讀者の便宜のために、全部に句讀、濁點、返り點を施した。原本に修正を施しであるものはその修正に從つた。
一、註釋中、萬葉集の本文を引用すること極めて多いが、その引用の所在を示すところの丁數は、すなはち校異本萬葉集によると認められるが、これは、寛永版本、寶永版本に於いても丁數は全く同じである。
また攷證中の他の部分との照應を出してゐるが、これは寫本に於ける丁數であつて、この刊本の頁(2)數を出しておくことが出來なかった。
一、註釋中、しばしば引用するところの、萬葉考に引ける萬葉集の本文の卷數は、賀茂眞淵の改定した卷數によるのであつて、現行本の卷數と一致しないものである。これは云ふまでも無いことであるが、一應ここに記しておく。因に眞淵は、現行本の卷第一、二、十三、十一、十二、十四、十、七、五、九、十五、八、四、三、六、十六、十七、十八、十九、二十の順序に、卷の順を改めてゐる。
(1) 新刊萬葉集攷證解題
萬葉集攷證は、萬葉集卷第一より六に至るまでの六卷の註解で、各卷の終にある識語によれば、岸本由豆流の著述である。この書は、いまだ刊行せられし事なく、寫本の傳本も極めて少く、帝國圖書館と岩崎文庫とに各一部あるを見たのみである。岩崎文庫所藏の本は、文學博士木村正辭氏の舊藏であるが、帝國圖書館所藏の本に依つて書寫したものと思はれるから、畢竟、この書は、帝國圖書館所藏の本があるによつて、傳つたともいふべきである。
帝國圖書館所藏本萬葉集攷證は、十五册より成り、今これを三册づつ五册に合畷してある。卷第一、五、六は各卷二册、卷第二、三、四は各三册である。版心下方に、「攷證閣」とある罫紙を用ゐてゐる。攷證閣は、すなはち著者の閣號であるから、この本は多分、著者家藏の本であつたらう。書中、往々、意外なる誤謬と思はれるものを見受けるから、著者自筆の稿本では無くして、他筆をして、草稿本を淨書せしめた本に屬するであらう。たとへば本書卷第一の九五頁一七七頁の如き、その書寫に際しての錯亂の一例と考へられる。
各卷の奧なる由豆流の識語によれば、本書は、文政六年十月十九日に稿を起し、文政十一年九月十二日に至つて、卷第六の攷證を終つた。彼の家は白銀町にあつたが、その間、文政七年二月一日、同十一年二月五日の二囘に火炎に遭つて、家が燒けた。また卷第五の下册の終には「つこもりの頃より(2)例の物狂しき人にかゝりて」著述のやゝ怠つたことを記してゐる。かゝる災禍の爲に、往々中絶することがあつたが、しかも勇氣を起して執筆を續けて行つたのである。今傳はるところは卷第六までであるが、なほ集全部の攷證を爲し、提要をも作る豫定であつたと見え、書中往々、末の卷の攷證と照應を附け、又は提要にいふべしなど見えてゐる。その末の卷の攷證との照應は、丁數の部分を空白のまゝに明けてあるのが多いけれども、中には本書卷第一の一五一頁一七七頁の如き、卷第七の攷證の丁數を明記したものもあつて、少くともその部分の攷證は出來てゐたものと考へられる。また第一册の禮紙に、
時代【なへての説は孝謙天皇の御宇左大臣橘諸兄公に勅して撰す書未成して諸兄公薨せられけれは其後平城天皇の御宇撰集成 天平寶字元年諸兄公薨本集廿に】
とあるもの、けだし提要の一部分を爲すものであらう。なほ「枕詞にて予が冠辭考補正(もしくは冠辭考補遺)に出せり」など見えてゐるから、彼に同名の著述があり、或は著述を爲す意があつたものと考へられる。以上の如き部分は、果して脱稿したものが存して居るか否かを知らない。卷第六までに就いていはば、その分量は、萬葉代匠記、萬葉集古義等の同卷までの分量と匹敵するものである。
攷證の底本とした萬葉集の本文は、橋本經亮、山田以文等の校異本萬葉集であることが、その字面によつて知られる。書中に用ゐてあるところの校異も、校異本から出たと思はれるものが多分である。本書の價値は、その書名にても知らるる如く、豐富博捜なる引例に在る。殊に漢籍を多く引き來つた(3)ことは、萬葉註釋書中隨一とも稱すべきであらうか。彼が文政八年九月より約一個年を費して、萬葉集の類字を爲したことも、その効果がよく本書中に現れてゐる。著者の見解は、おほむね穩健であつて、しかも創見も乏しく無い。難解の詞句に至つては、從來の説を列擧して、見む人の心に從ふべしと云つてゐるのも、危からざる態度である。
本書は傳本が少いために、從來あまり學者の顧る所とならなかつたが、木村博士はこの書の寫本を作つて所藏し、これによつて益せられた點も少くないやうである。殊に、岩崎文庫所藏の萬葉集美夫君志の稿本を見る者は、その影響の意外に多きに驚くであらう。
岸本由豆流は、伊勢の人朝田某の子であるが、幕府の弓弦師岸本讃岐の養子となつて、岸本大隅と稱した。國學は村田春海の門であつて、藏書三萬卷と稱せられ、國文學書の校合註解を爲すこと數十部である。家を攷證閣と稱した程あつて、その註解中、攷證を名となすもの多く、いづれも學者を益すること尠少ならざるものである。博覽索捜の勞によつて、詞句の典據を證明し、引例を豐富にして、文詞の理解を爲したものが、その大部分である。
由豆流は弘化三年閏五月十七日に年五十八で歿したといふから、萬葉集攷證はその壯年の著述である。しかしてこの書は、萬葉集註稱書中、重要なるものの一であつて、由豆流の著述中でも代表的のものであることを疑はない。
今のこの書は、帝國圖書館所藏の本によつて刊行した。本書の謄寫に際して便宜を與へられたる帝(4)國圖書館、ならびに同館司書村島靖雄氏の好意、蠅頭の細字で書かれてある原本から印刷原痛を作つた鈴木滿吉氏外數氏の努力、また書寫より印行に至るまでの古今書院主人の苦心は、本書の印行に際して深く感謝する所である。而して萬葉集叢書の一輯として本書を選擇し、印刷原稿作製の監督、ならびに原本との比校に當られたのは、實に久保田俊彦氏である。自分はただ、同氏多忙の故を以つて、新に句讀點、濁點、返り點等を補ひ、局部に就いて原本と重校を爲したに過ぎない。本書の刊行を希ふが故に、代つて事を執つた次第である。
大正十三年十一月
武田祐吉
萬葉集卷第一
雜歌。
雜歌は、くさ/”\のうたとよむべし。書紀神代紀上に品、天武紀に種々、持統紀に雜、本集十九【卅九丁】に種、大祓祝詞に雜々、これらみなくさ/”\とよめり。いづれも意同じ。又説文云、雜五彩相合也云々。楊子方言卷三云、雜集也云々。廣雅釋詁三云、雜聚也云々。國語鄭語注云、雜合也云々などあるにても、雜はこれかれまじはれる事なるをしるべし。眞淵云、行幸、王臣の遊宴、旅、このほかくさぐさのうたをのせしかばしかいふ。
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメノシタシラススメラミコトノミヨ》 大泊瀬稚武《オホハツセワカタケノ》天皇
書紀雄略紀云、大泊瀬幼武天皇、雄朝津間稚子宿禰天皇第五子也云々。十一月壬子朔甲子、天皇命2有司1、設2壇於泊瀬朝倉1、即2天皇位1、遂定v宮焉云々と見えたり。御宇は、あめのしたしらすとよむべし。古事記中卷には、治天下をあめのしたしろしめすとよみ、書紀神代紀に宇宙、神武紀に區宇、これをもあめのしたとよめり。又、孝徳紀に、御宇天皇とあるを、あめのしたしらす、すめらみことゝよめり。今はこの訓にしたがへり。靈異記上卷には、御【乎左女多比之】宇【阿米乃之多】とよみ、類聚名義抄、字鏡集等には宇をあめのしたとよめり。さて、尚書泰誓上傳云、御治也云々とあれば、古事記に治天下とある治の字も、御とかよへり。莊子庚桑篇云、四方上下曰v宇、古往今來(2)曰v宙云々など見えたり。大泊瀬稚武天皇、この七字印本大字にかけり。今、古本拾穗抄などによりて小字とせり。この御名、書紀には大泊瀬幼武天皇とし、古事記には大長谷若建命とせり。新撰姓氏録第廿四、秦忌寸條に、大泊瀬稚武天皇とあり。これ本集と同じ。眞淵云、この御名、後人の注なるを、今本に大字にせしは誤れり。今は古本によりて小字にせり。下同じ。此一二の卷にはかくのごとくその宮の名をあげて、その御代の歌をのせたり。
天皇御製歌。
眞淵云、御製歌はおほんうたと訓也。すべて天皇の御事をば、大御身、大御代、大御食、大御歌などかきて、かく訓こと、古事記をはじめて例おほし。
1 籠毛與《コモヨ・カタマモヨ》。
籠は、舊訓ことあれど、東麿眞淵等の、かたまとよまれしに、したがへり。書紀神代紀下に、無目籠《マナシカタマ》とあるを、同一書に無目堅間《マナシカタマ》とせしにても、籠はかたまとよまんこと論なし。古事記上卷に无目勝間《マナシカツマ》、本集十二【九丁卅四丁卅九丁】に玉勝間《タマカツマ》とあるも、たとつと音かよへば、かたまといふに同じ。また古今集戀五に、花かたみめならぶ人云々。和名鈔竹器類に、四聲字苑云※[竹冠/令]※[竹冠/青]【二音同與※[竹冠/令]青漢語抄云賀太美】小籠也云々とあるかたみも、まとみとかよへれば、かたまの轉りたる也。韻會に籠魯孔切竹器云々とあるをも見るべし。毛與《モヨ》は助辭なり。古事記上卷に阿波母與賣邇斯阿禮婆《アハモヨメニシアレハ》云々。書紀顯宗紀に恕底喩羅倶慕與《ヌテユラクモヨ》云々、於岐毎慕與《オキメモヨ》云々。本集五【七丁】に母智騰利乃可々良波志母與《モチトリノカカラハシモヨ》云々。十四【十六丁】斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》云々など見えたり。
美《ミ》籠《コ・カタマ》母乳《モチ》。
眞淵云、母乳《モチ》は持也。美《ミ》は眞《マ》にてほむる辭也。集中に三熊野《ミクマノ》とも眞熊野《マクマノ》ともあるにて、通はしいふをしれ。紀に【推古】まそがよそがのこら、古事記に美延《ミエ》しぬのえしぬなどある(3)も、眞《マ》と美《ミ》と通はしざま、語のかさねざまなどひとし。布久思毛與《フクシモヨ》。代匠記云、ふぐしとは鐵にてへらのやうにこしらへて、菜つむ女のもつ物にて、これにてその根などさしきりてとるなり。常にふぐせといへり。しとせと五音通ずればふぐせともいふなり。和名鈔造作具云、唐韻云※[金+讒の旁]【音讒一音※[斬/足]漢語抄云加奈布久之】犂鐵又土具也。この字也。すきの具にもこの字あり云々。略解云、ふくしは、ほるの約、ふにて、ほる串といふなるべし云々。由豆流按に、伊呂波字類抄雜物の條に、※[木+立]をフクシとよめり。こゝにいへるふくしこれなるべし。
美夫君志持《ミブグシモチ》。
考云、美《ミ》は右に同じ。みぶぐしとつゞけよむ故に、音便にてふる(を?)濁ることをしらせて、夫《フ》の字をかきつ。】
此岳爾《コノヲカニ》。【岳は、字書を按に、みな嶽と同字としてたけ也。されど伊呂波字類抄に岳ヲカとありて、また和名鈔山谷類、嶽字注に、嶽又作v岳、訓與v丘同云々ともあれば、岳はをかとよまん事論なし。考云、この天皇吉野三輪などへいでましし時、少女を召し事あり。今はいづこの岳にまれ、をとめのよろしきを見たまひてよみましゝものぞ。
菜採須兒《ナツムスコ・ナツマスコ》。
宣長云、なつむすこと訓るは誤なり。なつますことよむべし。つますは十七巻【二十七丁】乎登賣良我春菜都麻須等《ヲトメラカワカナツマスト》云々とあると同じくて、つむをのべたる詞なり。十巻【四十丁】山田守酢兒《ヤマタモルスコ》云々、これももるすことよめるは誤りにてもらすこなり。すべて、すこといへる稱はなき事也。七卷【二十七丁】小田苅爲子《ヲタカラスコ》、九卷【十九丁】伊渡爲兒《イワタラスコ》などあると同じ例也。思ひあはせてしるべし云々といはれつる(4)がごとし。さて兒とは、女にまれ男にまれ、親み愛していふことなり。この事は下【攷證二中八丁】にくはしくいふべし。
家吉閑《イヘキカム・イヘノラヘ》
略解云、吉閑一本告閑とあり。閑は閇の誤りにて、告閇《ノラヘ》とす。いへのらへは、住所を申せ也。告を、古しへのるといへり。のれを延てのらへといふなり云々。この説すでに考にもいでゝ、考には本文をも家告閇《イヘノラヘ》と直されたり。今按に、すべて古書に注釋くはへんには、おもふべきほどは、もとのまゝにて解すべき事也。されど、いかにかたぶきても解しがたき所をば、おのが意もて考へ直さんも、學者のつねなれば、そのよしそこにしるしたるうへに直すべきを、考のごとく、其ゆゑよしをもしるさずして、みだりに本文をさへあらためられしは、あまりなる事ならずや。
名告沙根《ナノラサネ》。
名告沙根《ナノラサネ》は、名をつげよ也。告《ノル》は、人に物を云きかすこと也。集中いと多し。五【七丁】奈何名能良佐禰《ナカナノラサネ》云々。九【十五丁】汝名告左禰《ナカナノラサネ》云々。十【三十八丁】己名乎告《オノカナヲノル》云々。猶あまた見えたり。沙禰《サネ》は、考云、二たび延《ノベ》たる音にて、まづ、なのれのれを延れば、名のらせとなるを、又そのらせの、せをのべて、沙根《サネ》といふ也云々。この説にしたがふべし。さねといふ言は、古事記下卷歌に和賀耶斗波佐泥《ワカナトハサネ》云々。本集一【十一丁】草乎苅核《クサヲカラサネ》云々。十四【十丁】爲禰※[氏/一]夜良佐禰《ヰネテヤラサネ》云々。この外猶多し。いづれも下知の語にて、せを延たる言なり。
虚見津《ソラミツ》。
考云、饒速日命、大そらをかけりて、そらより見て降りたまへるによりて、やまとに此言を冠らすること、紀【神武】に見ゆ。くはしくは冠辭考にいへり。
山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。
考云、跡は借字にて、山門《ヤマト》てふ事と見ゆ。そのくはしき事は、別記にいへり。さてこゝにやまとゝのたまふは、大和一國の事ぞ云々とあるごとく、こゝは大和國(5)一國をさしてのたまへるにて、日本の惣名にいへるやまとにあらず。猶くはしくは國號考にみえたればこゝにもらせり。
押奈戸手《オシナベテ》。押奈戸手《オシナヘテ》は、おしなびかせ也。びかせのつゞまり、べなリ。古事記下卷に、押靡をおしなびかすとよみ、本集一【二十一丁】禁樹押靡《シモトオシナヘ》云々、四能乎押靡《シノヲオシナヘ》云々。六【十七丁】淺茅押靡《アサチオシナヘ》云々。猶多し。みな靡をなべとよめり。これらにても思ひあはすべし。
吾許曾《ワレコソ》居師告《ヲラシツゲ・ヲレシキ》名倍手《ナベテ》。
宣長云、今本に、居師《ヲラシ》と師の字を上の句へつけて、をらしと訓るは誤りなり。是はをらしといひては語とゝのはず。又吉の字を告に誤りて、つげなべてのりなべてなどよむもいかゞ。のりなべといふ言心得ず。告はかならず吉の字を誤れるにて、師吉名倍手《シキナベテ》なり。しきは太數座《フトシキマス》、また敷ませるなどいへるしきなり云々。この説のごとく、考、略解等の訓あしゝ(ゝ衍?)。この句は、次の句のわれこそをれといふにむかへて、對をなせる句なれば、宣長の説のごとくよまでは、かなはざる句なり。この御歌、すべてはじめより對をとりてのたまへりしかば、こゝも對なる事明らけし。下にこのすがたなる歌多し。さて、しきは、本集十八【三十二丁】須賣呂伎能之伎麻須久爾能《スメロキノシキマスクニノ》云々。同【二十丁】伎美能御代々々之伎麻世流《キミノミヨミヨシキマセル》云々などあるがごとく、つぎかさなるをいへり。
吾許曾《ワレコソ》座《ヲラシ・マセ》。我許層《ワレコソハ・ワヲコソ》。
座を、舊訓にはをらしとよみ、考にはをれとよまれしかど、宣長の、われこそませとよむべしといへるにしたがへり。座はをるとよめる事も、(6)ますとよめる事も、集中に多し。許曾《コソ》は、諸本許者とあるを、こそはとよみ、考には許の下に曾の字のありしを脱せるなるべしとて、本文を許曾者《コソハ》とせられしかど、宣良が説に、者は曾の誤りならんとて、わをこそとよむべしといひしをよしとす。しかも許の一字を、こそとよめる例もなく、上の句にも吾許曾《ワレコソ》とありて、又下【十一丁】有許曾《アレコソ》云々、十四【二十四丁】奈乎許曾《ナヲコソ》云々、などあるによりて、者の字を曾にあらたむ。さて、われといふを、わとのみいへるは、本集十四【三十四丁】に和乎可麻都那毛《ワヲカマツナモ》云々、廿【廿七丁】に和波可敝里許牟《ワハカヘリコム》云々とありて、汝《ナレ》をなとのみもいひ、誰《タレ》をたとのみもいへるがごとし。
背齒告目《セナニハツケメ・セトシノラメ》。
背は、男の稱なり。書紀仁賢紀分注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹云々とあれど、集中に男どちせといひし事見えたれば、せはたゞ男の稱とのみ心得べし。本集四【四十四丁】將死與吾背《シナムヨワカセ》云々。六【三十六丁】吾背乃公《ワガセノキミ》云々。七【十九丁】妹與背之山《イモトセノヤマ》云々など見えたり。(頭書、兄の事別記一(ノ)廿二丁可v引。)齒は、考に、としとよまれしをよしとす。これ借字にて、としのしは助辭なり。本集四、絶年云者《タエントシハヽ》云々とあるも同語にて、年は借字なり。さて齒は齡《ヨハヒ》にて、年と通ぜり。(頭書、禮記坊記に齒年也云々。廣雅釋詁一に齒季也云々などあるを見ても、齒は年とかよひて、としの借字なるをしるべし。考の一説云、又背の下に登の字落たるか。然らば、せとはのらめと訓て事もなし云々とあるはいかゞ。
家乎毛名雄母《イオヘヲモナヲモ》。
考云、われをこそは夫《セ》として、住所《スミカ》をも名をも告しらすべきことなれと也。古しへの女は、夫《セ》とすべき人にあらでは、家も名もあらはさぬ例なる事、集中に多く見ゆ。故にとはせたまへど、もだし居つらんにつけて、かくはよみたまひけん。
(7)高市崗本《タケチヲカモトノ》宮御宇天皇代。 息長足日廣額《オキナカタラシヒヒロヌカノ》天皇
天皇御謚を舒明と申す。書紀舒明紀云、息長足日廣額天皇、渟中倉太珠敷天皇孫、彦人大兄皇子之子也云々。二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷2於飛鳥岡傍1、是謂2岡本宮1云々とあるがごとく、書紀には岡とせるを、本集には崗とせり。こは韻會に、岡説文本从v山、俗又加v山、作v崗非云々とあれば、崗は岡の俗字なり。岡本宮は大和國高市郡なれば、高市崗本宮とはいへり。和名抄國郡部云、大和國高市【多介知】云々と見えたり。息長足日廣額天皇、この八字印本大字、今古本拾穗本等によりて小子(字)とせり。
天皇登2香具《カグ》山1望v國|之《(マヽ)》御製歌。
香具山は、延喜神名式云、大和國十市郡|天香《アマノカグ》山云々。書紀神武紀云、香山此云2介遇夜縻《カグヤマ》1云々。釋日本紀卷七引2伊豫國風土記1云、伊豫郡、自2郡家1以東北在2天山、所v名2天山1由者、倭《ヤマト》在|天加具《アマノカグ》山、自v天天降時、二分而以2片端1者、天2降於倭國1、以2片端1者天2隆於此土1、因謂2天山1也云々とあるがごとく、たゞ香具《カグ》とも、天のかぐ山とも、集中多くよめり。考云、香具山は十市郡にあり。古しへ天上のかぐ山になぞらへて、崇みたまふ故に、天のかぐ山ともいふ云々。望國は、くに見とよむべし。古しへの天皇、高き所にのぼりまして、國中を見給ひし事まゝあり。そは百姓の貧富、または國中のよしあしを、專ら見たまふにて、たゞけしきのみを見給ふにあらず。書紀神式紀云、天皇|陟《ノボリ》2彼菟田高倉皿之|巓《イタヾキ》1、瞻2望|域《クニノ》中1時、國見嶽止則有2八十梟師1云々。三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸、因登2腋上※[口+兼]間丘《ワキカミホヽマノヲカ》1、而廻2望國状1云々。仁徳紀云四年春二月、詔2群臣1曰、朕登2高臺1(8)以遠望之、烟氣不v起2於域中1云々。古事記下卷云、爾登2山上1望2》國内1者云々。なほ集中にも國見《クニミ》したまひし事多く見えたり。下、國見《クニミ》の所にいふべし。望は見る事なり。孔子家語辨樂篇注に、望羊遠視也云々とあるがごとし。
2 山常庭村山有等《ヤマトニハムラヤマアレド》。
山常は、大和也。常《ト》は假字なり。庭は辭《コトバ》にて、借字也。本集二【二十五丁】福路庭《フクロニハ》云々とあるも、借字にて、こゝと同じ。村山の村《ムラ》も借字にて、群《ムラガ》り立る山也。むら鳥、むら竹などいふむらと同じ。考云、大和國は四方にむらがりて多くの山はあれどなり。
取與呂布《トリヨロフ》。
取與呂布《トリヨロフ》のとりは辭にて、よろふは物の具足してたらはぬ事なきをいへり。代匠記云、齊明紀に弓矢|二《フタ》具《ヨロヒ・ソナヘ》とかきて、ふたよろひとよめり。源氏物語に屏風ひとよろひといへるも、二帖を一具といへる也。これは具足したる儀なれば、峰谷岩木にいたるまでそなはりて、圓滿したる山とほめたまふ歟。日本紀に兵器をものゝぐとよみ、俗語によろひを具足といふも、小手すねあてまで取そなへてきるものなればいふにや云々といはれしがごとし。新撰字鏡に冑、和名抄に鎧をよろひとよめるも、代匠記の説のごとし。また考云、よろふは宜きてふに同じくて、此山の形の足《タリ》ととのへるをほめ給ふなり。
天之香具山《アマノカグヤマ》。
香具山の事は上にいへり。考云、この天はあめとよむなり。古事記に例も故もあり。(頭書、古事記云、比佐加多能阿米能迦具夜麻。)
(9)騰立國見乎爲者《ノボリタチクニミヲスレハ》。
騰立《ノボリタチ》は、古事記中卷云、故|登2立《ノボリタチ》其坂1云々。書紀繼體紀歌云、美母慮紆陪※[人偏+爾]《ミモロカウヘニ》、能朋梨陀致《ノホリタチ》、倭我彌細磨《ワカミセハ》云々。本集下【十九丁】云、高殿乎高知座而上立《タカトノヲタカシリマシテノボリタチ》云々などあるがごとし。(頭書、立は添たる言なり。)國見の事は、上にもいへり。本集下【十九丁】國見乎爲波《クニミヲスレハ》云々。三【三十八丁】國見爲筑羽乃山乎《クニミスルツクハノヤマヲ》云々。十【二十二丁】國見毛將爲乎《クニミモセンヲ》云々。この外猶あれどこゝにはもらせり。(頭書、傳三ノ五ウ可v考。)
國原波《クニハラハ》。
考云、廣く平らけき所をすべてはらといふ云々。本集【十二丁】伊奈美國波良《イナミクニハラ》云々など見えたり。
煙立龍《ケムリタチタツ》。
煙立龍《ケムリタチタツ》の龍の字を、印本籠に作るによりて、考にはけふりたちこめとよまれしかど、次の句の加萬目立多都《カマメタチタツ》とあるにむかへたる句なれば、こゝもたちたつとよまゝほしき所なり。されば元暦校本に龍に作れるによりてあらたむ。さて、此御歌、けふりたちたつといへる所、仁徳天皇の故事に似たるこゝちす。書紀仁徳紀云、七年夏四月辛未朔、天皇居2臺上1而遠望之、烟氣多起、是日語2皇后1曰、朕既富矣、豈有v愁乎、皇后對諮、何謂v富焉、天皇曰、烟氣滿v國、百姓自富歟【中略】今百姓貧乏、則朕貧也、百姓富之、則朕富也云々。元慶六年日本紀竟宴歌云、多賀度能兒《タカトノニ》、乃保利天美禮波《ノホリテミレハ》、安女能之多《アメノシタ》、與母爾計布理弖《ヨモニケフリテ》、伊萬蘇渡美奴留《イマソトミヌル》云々などあると、こゝのさまよく似たり。
海原波《ウナハラハ》。
海原《ウナハラ》は、本集五【二十五丁】に宇奈波良《ウナハラ》云々。同【三十一丁】に宇奈原《ウナハラ》云々。十四【二十五丁】に宇奈波良《ウナハラ》云々とあるによりてよむべし。和名抄河海類に、滄溟【阿乎宇三波良】云々とあれど、うみはらとよまんは非なり。(10)さて、この御歌は、大和の香具山にてよませ給ふなれば、このほとりに海のあるべきやうなけれど、ふるくより湖水をも海といへば このほとりの湖水をみそなはして、海とはのたまひしなり。そは、本集三【廿七丁】詠2二不盡山1長歌に、石花海跡名付而有毛《セノウミトナツケテアルモ》、彼山之堤有海曾《ソノヤマノツヽメルウミソ》云々とよめる、せの海は鳴澤の事なり。この海の事、三代實録、貞觀七年十二月の條に、※[踐の旁+立刀]《セノ》海と見えたり。これ湖水を海といへる證なり。又後の歌なれど、あふみの海、すはの海、ふせの海などいへる、いづれも湖水なり。また大般若經音義、引2顧野王1云、海大水也云々とあるにても思ふべし。又考云、香《カク》山の北麓の埴安《ハニヤスノ》池は、いとひろらに見ゆるを、海原とはよみませしなり。大水を海ともいへる例あるが中に、卷十四|獵路《カリチ》池にて、人麿、すめろぎは神にしませば、眞木の立あら山中に海成可聞《ウミヲナスカモ》とよめるこれなり。同卷に、香山歌とて池波さわぎておきべには鴨妻喚《カモメヨバヒ》とあるもこのさまなり。その埴安池の大きなりしよしなど別記にいふ。
加萬目立多都《カマメタチタツ》。
加萬目は、まともとかよへば、鴎《カモメ》と同じ。和名抄羽族名云、唐韻云鴎【烏侯反和名加毛米】水鳥也、兼名苑云一名江※[燕の烈火が鳥]云々。かもめのめは、すゞめつばめなどのめと同じく、群《ムレ》の意にて、むれの反、めなり。また新撰字鏡に※[虫+都]【豆比又加萬女】云々とあるはむし歟。(頭書、かもめ池鳥ならざる事。)
※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニソ・ウマシクニソ》。
考云、こは、神代紀に可怜小汀をうましをはまと訓に依ぬ。※[立心偏+可]怜は、紀にも集にも、あはれとも訓しかば、今本のごとく、おもしろきとよむもあしからねど、猶右を用云云といはれしがごとく、神代紀下に、可怜、此云2于麻師《ウマシ》1また可怜御路《ウマシミチ》などあるによるべし。さて、何怜の字は、三【四十四丁】四【五十三丁】同【五十五丁】七【四丁四十一丁四十二丁】九【二十三丁】などにあはれとよめれど、猶こゝは、うましとよめる(11)かたまされり。※[立心偏+可]怜は、印本怜※[立心偏+可]とあれど、書紀また集中などの例に依てあらたむ。(頭書、※[立心偏+可]怜下【攷證三下二丁】可v考。うましはものをほゆ(む?)る事。)
蜻島。八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
蜻《アキツ》は、書紀神武紀に、三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸、因登2腋上※[口+兼]間丘1、而廻2望國状1曰、研哉乎、國之獲矣、雖2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國1、猶如2蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメ》1焉、由v是、始有2秋津洲《アキツシマ》之號1也云々とある、蜻蛉にて、あきつとよむべし。書紀には、蜻蛉の二字をしかよめれど、本集には蜻の一字をよめり。蜻の一字にて蜻蛉の意なり。呂覽精諭篇注に、蜻蜻※[虫+廷]小蟲、細腰四翅、一名白宿云々とあるがごとし。考云、紀に【神武】天皇ほゝまのをかにのぼりまして、やまとの國形を見さけたまひて、蜻蛉《アキツ》のとなめせる如とのりたまひしより、やまとの國の名ひとつの名となりたり云々とありて、猶くはしきは宣長が國號考に見えたり。事ながければこゝにのせず。八間跡《ヤマト》は假字《カナ》にて大和國也。あきつしまやまとゝつゞけし事は、書紀仁徳紀御歌に、阿耆豆辭莽《アキツシマ》、椰莽等能區珥々《ヤマノクニヽ》云々。雄略紀御歌に、婀岐豆斯麻野麻登《アキツシマヤマト》云々。本集十三【九丁】蜻島倭之國者《アキツシマヤマトノクニハ》云々。又【三十一丁】秋津島倭雄過而《アキツシマヤマトヲスギテ》云々どあるがごとし。猶十九【三十九丁】二十【五十丁】にも見えたり。考云、古は長歌の末を五七七とのみは、いひとぢめず。句はたらはぬごとくなる類、此下にもあり。うたがふことなかれ。
天皇。遊2獵内野1之時。中皇命。依d2間人連老1u上歌。并短歌。
天皇。
天皇は右に同じく舒明天皇を申す。
(12)遊獵。
書紀崇峻紀に、遊獵をかりすと訓ず。遊獵の字は、史記呂后妃、漢書司馬相加傳などに見えたり。さて此天皇、内野にみかりし給ひし事、紀に見えず。元暦本獵※[獣偏+葛]、下同。
内野。
内は、借字とおぼしくて、宇智郡の野なるべし。續日本紀云、大寶三年二月丁酉、車駕幸2内野1云々とあり。和名抄國郡部に、大和國宇智郡云々。延喜神名式に大和國宇智郡有智神社云々。諸陵式に有智陵云々。又大和志宇智郡の條に、内大野をのせて、本集を引たり。さて歌枕名寄よりして、名所類諸書に内野を山城國とす。非なり。新後拾遺集慶賀に、後採草院少將内侍、九重の内野の雪にあとつけてはるかにちよの道を見るかなとあるは、この内野にあらず。勝地吐懷篇云、内野は宇智郡なるべし。もしは、高市郡に、大内の丘といふ所、日本紀に見えたれば、そこにや云々。
中皇命。
考別記云、こは、舒明天皇の皇女間人皇女におはすと、荷田大人のいひしぞよき。さてまづ御乳母の氏に依て、間人《ハシヒト》を御名とするは例也。それをまた、中皇女と申せしならんよしは、御兄葛城皇子と申す。葛城は御乳母の氏によりたまひ、それを中大兄とも申すは、今一つのあがめ名なり。御庶兄を古人大兄と申せしなど、古しへの御子たちの御名のさま、此外にもかゝる類あり。こゝに、間人連老てふもて、御歌を奉らせ給ふも、老は御乳母の子などにて、御睦き故としらる。かゝれば、後に孝徳天皇の后に立ましゝ間人《ハシヒト》皇女は、すなはちこの御事なり。【中大兄命と間人皇女は御兄弟たる事もとより紀に見えたり。】かくて、岡本宮などより、次々に皇太子をば、日並知《ヒナメシ》皇子命、高市皇子命と申しき。中皇女命は、後に皇后に立ましゝ故に、崇て命と申せり。仁徳天皇の御母|仲《ナカツ》(13)姫命と紀にあるは、后《(マヽ)》大后なればなり。允恭天皇の皇后の御名も、忍坂《オサカ》大中姫命と紀にあり。そのころ既に、皇太子の外には、命としるせるなきを思ふに、共に后に立ませし故に、たふとみて申す例なりけり云々。また考云、この皇女、下にも出たるに、御歌とあり。かた/”\以て、こゝに女と御の字を補ひつ云々とて、本文を中皇女命御歌と直されしは、なか/\に誤りなるべし。中皇命は、この下にも出、又目録にも諸本にも女の字なきを、おしあてにいかで直し正すべき。又御の字を加へられしは、この歌を、中皇命のみづからの御歌と心得られしよりいでたる誤りなり。下に出たるは、中皇命のみづからの御歌なれば、御の字をかけるなり。今この歌は、中皇命間人連老に命じて、歌をよましめて奉らせ給ふにて、間人連老が歌なれば、御の字をばかゝざるなり。この歌、もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名を、ことさらにかくべきよしなきをや。命の字の事は下【攷證下ノ廿五丁】にいふべし。
間人連老《ハシヒトノムラシヲユ(オユ)》。
書紀孝徳紀に、小乙下中臣間人連老【老此云2於喩1】云々とある、この人なり。父祖不v可v知。さて、この姓は、推古紀、齊明紀、天智紀、天武紀などに、皆間人連とのみあるを、新撰姓氏録に、間人宿禰、間人造などのみありて、間人連といふなきは、いかなる事にか。
并短歌。
并は、玉篇に、并併也云々。儀禮射禮注に、並併也云々とあれば、并並併この三字共に通ず。平他字類抄、和玉篇などに、并をならぶとよめり。並に通ずる故なり。本集三【十七丁】六【十一丁】八【十五丁】九【十七丁】十一【廿八丁】などに、並をならぶと訓ぜるを見ても思ふべし。短歌は、長歌にむかへたる名なり。古今集雜體に、短歌とあるは、長歌の事なり。この事は、古今集標注附録(14)にいへり。さて、諸本、并短歌の三字なし。今目録と集に多かる例とによりておぎなふ。下皆准之。
3 八隅知之《ヤスミシヽ》。我大王乃《ワカオホキミノ》。朝庭《アシタニハ》。取撫賜《トリナテタマヒ》。夕庭《ユフヘニハ》。伊縁立之《イヨリタヽシ》。御執乃《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈加弭乃《ナカハスノ》。音爲奈利《オトスナリ》。朝獵爾《アサカリニ》。今立須良思《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフカリニ》。今他田渚良之《イマタヽスラシ》。御執能《ミトラシノ》。梓能弓之《アツサノユミノ》。奈加弭乃《ナカハスノ》。音爲奈里《オトスナリ》。
八隅知之《ヤスミシヽ》。
こは安見之爲《ヤスミシヽ》なり。くはしくは、冠辭考、古事記傳【廿八】等に出たれば、ひらき見て知るべし。二書の説、いふべき所もなくいとよしとは見ゆれど、本集にあまたところ八隅《ヤスミ》と出たるを見れば、八隅をしろしめす意もいさゝかこもれりやとも思はるれば、八隅てふ字の、出所をば下にしるせり。されどこは必ひがごとなるべし。釋日本紀、和歌釋云、八隅知也、言治2四海八※[土+廷]1也云々。抱朴子云、其曠則籠2罩乎八隅1云云。山海經云、崑崙之墟、白神之所v在、在2八隅之巖、赤水之際1云々。
我大王乃《ワカオホキミノ》。
我大王は、天皇を敬ひ親しみて申奉るなり。わがおほきみといふ語、集かぞへがたし。古事記中卷に、我大神《ワカオホカミ》云々。本集廿【三十八丁】安我須賣可未爾《アカスメカミニ》云々などあるも、敬ひしたしみて申すなり。わがせこなどいふも同じ。さて本集二【廿二丁】三【四十五丁】十【三十三丁】などにも、大王をおほきみと訓じ、二【三十三丁】十一【廿九丁】十六【廿五丁】などには、王の一字をおほきみと訓ぜり。大の字は、美稱(15)して申奉るなり。大御神、大御身、大御食、大殿、大御門などのたぐひなり。さて、集中假字に書る所は、和其《ワコ》、和期《ワコ》などのみあるによりて、久老はすべてわごおほきみとのみよみつれど、紀記によりてわがとはよめり。
朝庭《アシタニハ》。
この句を、考には、古事記下卷に、夜須美斯志《ヤスミシヽ》、和賀淤富岐美能《ワカオホキミノ》、阿佐計爾波《アサケニハ》、伊余理陀多志《イヨリタタシ》、由布計爾波《ユフケニハ》、伊余理陀多須《イヨリタヽス》云々とあるを引て、あさけにはとよまれしかど、誤りなり。古事記に、阿佐計云々、由布計云々とあるは、斗を計に誤れるにて、朝戸夕戸なるよし、傳に辨ぜり。こゝは、たゞ朝夕といへる所なれば、もとのまゝに、あしたにはゆふべにはとよむべし。祈年祭祝詞に、朝御食夕御食《アシタノミケユフヘノミケ》云々。古事記中卷に、朝夕之大御食《アシタユフヘノオホミケ》云々。本集四【二十八丁】旦夕爾《アシタユフヘニ》云々などあるがごとく、いづれもあしたゆふべといへり。但し、古事記、本集などにあさけといふも、あしたの事なれど、こゝはゆふべにむかへたる言なれば、あしたとよむべし。(頭書、庭は借字の事。)
取撫賜《トリナテタマヒ》。
考云、神武天皇、天つ璽《シルシ》とし給ひしも、只弓矢也。こを以て、天下治め知ます故に、古の天皇、これを貴み、めでます事かくなり云々といはれしは、餘りに考へすぎられしやうなり。さまでふかき事にもあらで、たゞこゝはあさゆふ手ならし給ふ事を、つよくのたまひしなるべし。とりは御手にとらしますをいふ。撫は、そのものをふかく愛し給ふをいへり。書紀神代紀に、中間置2一少女1、撫《ナテヽ》而哭之云々。本集六【廿五丁】掻撫曾禰宜賜、打撫曾禰宜賜云々。十九【十二丁】可伎奈泥見都追《カキナテミツヽ》云々。これみな物を愛するなり。猶この外あまたあり。
(16)伊《イ》縁立之《ヨリタヽシ・ヨセタテヽシ》。
伊は發語にて、こゝろなし。古事記中卷に、伊由岐多賀比《イユキタカヒ》云々。下卷に伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》云々。本集二【三十五丁】伊波比廻《イハヒモトホリ》云々。十七【三十四丁】伊由伎米具禮流《イユキメクレル》云々。これらの伊もじ、皆發語にて猶多し。又漢土とこゝとは別のことなれど、爾雅釋詁に伊維也。注に發語辭云云ある(に)似たり。縁立之《ヨリタヽシ》は、古事記下卷に、伊余埋陀多志云々。本集十七【三十一丁】に余理多々志《ヨリタヽシ》などあるによりて、よりたゝしとよみつ。こゝの意は、朝には御弓を取撫愛したまひ、夕には御弓によりて立せ給ひなどして、つかの間もはなち給はず、手ならし給ふといふ意なるを、考にはよせたゝしとよみて、よせたゝしてふは、夜の間もおろそけ(かり?)にせさせ給はぬ意なりといはれしは誤りなり。しかよむ時は、御弓をものによせて立おく意にて、意いたくたがへり。
御執乃《ミトラシノ》。
御執《ミトラシ》は、御令取なり。本集二【四十四丁】梓弓手取持而《アツサユミテニトリモチテ》云々。十三【二十八丁】刺楊根張梓矣《サシヤナキネハルアツサヲ》、御手二所取賜而《オホミテニトラシタマヒテ》云々などあるも、弓をとるといへり。これを轉じて、やがて弓のことゝもせり。書紀雄略紀に弓、春日祭祝詞に御弓などを、みたらしとよめるも、みとらしのとを轉じて御弓の事とせるなり。古事記上卷に、御刀をみはかしとよめるも、刀は佩《ハ》くものなれば、やがてその名として、みはかしといへる事、みたらしのごとし。また儀禮郷射禮に、左執v弓、右執2一个1云々。毛詩執競箋に、執持也云々などあるも思ひ合すべし。
梓弓之《アツサノユミノ》。
梓は、本草和名に、梓和名阿都佐乃岐云々。和名抄これに同じ。新撰字鏡に、梓【阿豆佐】云々と見えたり。梓弓は、梓の木もて作るによりて、いへるなり。櫨弓、槻弓など、皆その作る木もていへり。古事記中卷に、阿豆佐由美麻由美《アツサユミマユミ》云々。續日本紀に、大寶二年三月甲午、信濃献2梓弓一千二十張1云々など見えたり。集中あぐるにいとまなし。
(17)奈加弭乃《ナカハスノ》。
奈加弭《ナカハス》、心得ず。中弭《ナカハス》歟。弭は、書紀神武紀に、皇弓弭《ミユミノハス》云々。伊呂波字類抄に弭【ユミハス】とありて、釋名釋兵に、弓末曰v※[竹冠/肅]、又謂2之弭1云々。文選呉都賦劉注に、弭弓末云々ともありて、弓の末なるを中弭《ナカハス》といはん事いかゞ。考には、加は留の誤りなりとて、奈留弭《ナルハス》と直し、宣長は、加は利の誤りなりとて、奈利弭《ナリハス》と直して、弭《ハス》の鳴事と注されつ。本集二【三十四丁】取持流弓波受乃驟《トリモテルユハスノサワキ》云々ともあれば、弭は鳴るものとも思はれ、今も弦に音金《オトカネ》といふものを入て、弭をならす事あり。されど、留も利もたとへ草體なればとて、加と字體まがふべくもおもはれず。されば、今試みに考ふるに、弭は※[弓+付]の誤りにて、奈加※[弓+付]《ナカツカ》ならん。弭と※[弓+付]と眞草ともに字體よく似たり。※[弓+付]は和名抄征戰具に、弓末曰v※[弓+肅]【音蕭和名由美波數】中央曰v※[弓+付]【音撫和名由美都加】云々。延喜主税式上に、※[弓+付]鹿《ユツカ》革云々。兵庫式に※[弓+付]角附革などありて、今いふ弓の握りといふ所にて、弓の中なり。されば、中※[弓+付]《ナカツカ》ともいふべし。本集七【三十二丁】立檀弓束級《タツマユミツカマクマテニ》云々。十一【四十七丁】梓弓弓束卷易《アツサユミユツカマキカヘ》云々。又(十四)【三十四丁】安都佐能由美乃由都可爾母我毛《アツサノユミノユツカニモカモ》云々など見えて、釋名釋兵に、弓中央曰v※[弓+付]、※[弓+付]撫也、人所v撫也云々。廣雅釋器に、※[弓+付]柄也云々、などあるをも思ふべし。
音爲奈利《オトスナリ》。
弭の音する事は、上にいへり。考云、卷六に安豆佐由美須惠爾多麻末吉《アツサユミスヱニタマヽキ》、可久須酒曾《カクススソ》云々とよみたるを思ふに、古へは弓弭に玉をまき、鈴をかけつれば、手にとるごとにも鳴からに、鳴弭ともいふべし云々。又考ふるに、弭は附《(マヽ)》にても弓を引てはなつ時などには音すべし。
朝獵爾《アサカリニ》。今立須良思《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフカリニ》。
こは、朝獵暮獵といひて、辭の對をなせるのみなり。本集三【五十八丁】麻獵爾鹿猪踐起《アサカリニシヽフミオコシ》、暮獵爾鶉雉履立《ユフカリニトリフミタテヽ》云々。十(18)七【四十五丁】麻※[獣偏+葛]爾伊保都登里多底《アサカリニイホツトリタテ》、暮※[獣偏+葛]爾知登理布美多底《ユフカリニチトリフミタテ》云々などあると同じ。今立須良思《イマタヽスラシ》は今たゝすらんかし也。らんかしの約り、らし也。
御執能《ミトラシノ》。
諸本能字なし。今、元暦本と上句とによりて補ふ。
反歌。
反は毛詩※[言+民]箋云、反覆也云々。論語述而疏云、反猶v重也云々などあるがごとく、かへりかさなる意にて、反歌は、まへにあることをかへしかさねてもいひ、またのこれることをも、なが歌の意をかへしいふ也。反歌を、音にとなふる人もあれど、考にいはれしがごとく、かへしうたとよむべし。古事記下卷に、志都歌之返《シツウタノカヘシ》歌也云々とあるも、こゝとは少し意別なれど、かへしうたふ也。古今大歌所に、かへしものゝ歌とあるも、これなるべし。書紀神功紀に答歌、應神紀に報歌などあるを、かへしうたとよめるは、答ふる歌にて別なり。考云、長歌に短歌を添ふる事は、古事記にも集にも、よつ代には見えずして、こゝにあるは、此しばし前つころよりやはじまりつらん。
4 玉刻春《タマキハル》。内乃大《ウチノオホ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。馬數而《ウマナメテ》。朝布麻須等六《アサフマスラム》。其草深《ソノクサフケ》野《ヌ・ノ》。
玉刻春《タマキハル》。
玉刻春《タマキハル》は、枕詞にて、冠辭考、古事記傳【卅七】等に出たり。見ん人心のひかん方にしたがふべし。予は、宣長が説にしたがふ。さる時は、玉《タマ》は正字なり。刻《キ》は略訓也。集中足をあの假字とし、割をきの假字とし、大をおの假字とせるがごとし。此類猶多し。春は借字にて、本集十【十五丁】に靈寸春《タマキハル》云々とあるがごとし。
(19)内乃大野《ウチノオホノ》。
内野に、大の字を加へし也。大はその物美稱してつくること也。あたの大野、あきの大野などのたぐひ也。
馬數而《ウマナメテ》。
馬數而《ウマナメテ》は、馬を並べて也。本集六【十九丁】友名目而遊物月馬名目而《トモナマテアソハンモノヲウマナメテ》云々。七【七丁】馬並而《ウマナメテ》云々などあるがごとく、猶多し。數をなめとよめるは、義訓なり。本集十二【十三丁】袖不數宿《ソテナメスヌル》云々などあるをも見るべし。
朝布麻須等六《アサフマスラム》。
あさふますは、獵し給ふとて、朝とく草ふかき所などをふみありき給ふ也。上に引たる、本集三に、あさかりにしゝふみおこし、夕かりにとりふみたてゝ云々などあると、意同じ。六をむの假字に用ひたるは、略訓なり。本集三【廿一丁】六兒乃泊《ムコノトマリ》云々。十一【四十六丁】八重六倉《ヤヘムクラ》云々などあるがごとし。
其草深野《ソノクサフケヌ》。
考云、深きを約轉して下へつゞくる時、夜ふけ行といひ、田の泥深きをふけ田といふがごとし。言は、加岐《カキ》の約は伎《キ》なるを、氣《ケ》に通はして、下へつゞくるなり。
幸《イテマシヽ》2讃岐國|安益《アヤ》郡1之時。軍王。見v山作歌。并短歌。
幸《イテマシ》。
幸は、蔡※[災の火が邑]獨斷上云、天子所v至曰v幸云々。後漢書光武紀注云、天子所v行、必有2恩幸1、故稱v幸云々などあるがごとく、天皇行幸といふに同じければ、こゝもいでますとよむべし。いでましの事は、下にいふべし。
(20)讃岐國|安益《アヤ》郡。
安益郡は、あやのこほりとよむべし。和名抄國郡部に、讃岐國安野【綾】と見えたり。又書紀景行紀に、讃岐綾君とあるも、こゝよりいでたる姓なるべし。
軍王《イクサノキミ》。
古事記書紀等に、將軍をいくさのきみとよみしによりて、こゝもしかよむべし。この人姓氏不v可v考。
并短歌。
此三字、例によりて補ふ。
5 霞立《カスミタツ》。長春日乃《ナカキハルヒノ》。晩家流《クレニケル》。和豆肝之良受《ワツキモシラス》。村肝乃《ムラキモノ》。心乎痛見《コヽロヲイタミ》。奴要子鳥《ヌエコトリ》。卜歎居者《ウラナケヲレハ》。珠手次《タマタスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》。遠神《トホツカミ》。吾大王乃《ワカオホキミノ》。行幸《イテマシ・ミユキ》能《ノ》。山《ヤマ》越《コス・コシノ》風乃《カセノ》。獨座《ヒトリヲル》。吾衣手爾《ワカコロモテニ》。朝《アサ》夕《ヨフ・ユフ》爾《ニ》。還比奴禮婆《カヘラヒヌレハ》。丈夫登《マスラヲト》。念有我母《オモヘルワレモ》。草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タヒニシアレハ》。思遣《オモヒヤル》。鶴寸乎白土《タツキヲシラニ》。網能浦之《アミノウラノ》。海處女等之《アマヲトメラカ》。燒鹽乃《ヤクシホノ》。念曾《オモヒソ》所燒《モユル・ヤクル》。吾《ワカ》下《シツ・シタ》情《コヽロ》。
(21)霞立《カスミタツ》。
枕詞にて、予が冠辭考補正に出せり。つゞけがら明らけし。和名抄雲雨類云、唐韻云霞赤氣雲也【胡加反和名加須美。】
長春日乃《ナカキハルヒノ》。
長春日《ナカキハルヒ》は、本集十【十六丁】菅根乃長着日乎《スカノネノナカキハルヒ》云々。十七【四十八丁】奈我伎波流比毛和須禮底於毛倍也《ナカキハルヒモワスレテオモヘヤ》云々など見えたり。
晩家流《クレニケル》。
こは長き春の日もくれぬと也。本集十【十一丁】朝霞春日之晩者《アサカスミハルヒノクレハ》云々などあるがごとし。
和豆肝之良受《ワツキモシラス》。
こは、代匠記に、これはわきもしらずといふに、つもじの中にそはれるにや。わきをわつきといへること、いまだ見およばざれど、古語にはその例あれば、いふなり。十一卷に、王垂小簾之可鷄吉仁《タマタレノヲスノスケキニ》云々とよめるは、すきなり。十四卷に安左乎良乎遠家爾布須左爾《アサヲラヲヲケニフスサニ》云々。十四卷は東語ながら、ふすさは、ふさにて、多きなり。これらに准じていふなり云々といはれしがごとく、豆《ツ》文字は助字と見るべし。考にわつきもは、分《ワカ》ち著《ツキ》も不知也。手著《タツキ》てふに似て、少し異るのみ云々といはれしは、なか/\に非なり。代匠記の説のごとく、別《ワキ》もしらずと見るべし。そは、本集十一【十六丁】年月之在覽別毛不所念鳧《トシツキノユクランワキモオホホエヌカモ》云々。十二【十一丁】出日之入別不知《イツルヒノイルワキシラス》云々などあると同じ。
村肝乃《ムラキモノ》。
枕ことばなり。冠辭考にゆづる。
心乎痛見《コヽロヲイタミ》。
こは心も痛きまで思ひこむ意なり。本集二【十九丁】肝向心乎痛《キモムカフコヽロヲイタミ》云々。八【三十一丁】吾情痛之《ワカコヽロイタシ》云々など猶多し。いたみの、みは、さにといふ意にかよふ詞也。集中いと多し。末(22)に考ふべし。(頭書、イタミ考別可v考。)
奴要子鳥《ヌエコトリ》。
ぬえは、新撰宇鏡に、鵺※[夜+鳥]※[易+鳥]などを奴江とよみ、和名抄羽族名に、唐韻云※[空+鳥]【音空漢語抄云沼江】恠鳥也云々などありて、集中にも多くいでたり。こは枕詞なれば、冠辭考にゆづる。
卜歎居者《ウラナケヲレハ》。
卜は借字にて心の中といふ也。古人、うらは心なりと斗いひ來れど、くはしからず。うらといふに二つあり。一つは、たゞ心をいひ、一つは、心の中といふ意にいへり。うらこふ、うらまちなどいへるうらと、こゝのうらなけといふと、同じくて、心の中なり。歎《ナケ》は、なげきのき、はぶけるにて、なげき也。これを考には、うらなきをればとよまれしかど、本集十七【三十二丁】に、奴要鳥能宇良奈氣之都追云々とあるによりて、しかよめり。又十【二十五丁】奴要鳥之裏歎座《ヌエトリノウラナケマシヌ》云々。また【二十七丁】奴延鳥浦嘆居《ヌエトリノウラナケヲルト》云々なども見えたり。(頭書、又考ふるに、うらは集中多く裏の字を訓る意にて、裏に難(歎)くなれば、おのづからに心の中の意となる也。うらまち、うらこふ、うらかなしなどいふも、皆裏に何々といふ意なり。うらわかみといふも、本は裏わかき意なれど、又それを轉じて内實の意と聞えたり。木草の末をうらといふも、本は同じ語なり。)
珠手次《タマタスキ》。
こは枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。手次《タスキ》は借字なり。本集二【三十五丁】七【三十二丁】など猶多くしかかけり。
(23)懸乃宜久《カケノヨロシク》。
本集二【三十五丁】に、玉手次懸而將偲《タマタスキカケテシヌハン》云々。四【四十六丁】吾聞爾繋莫言《ワカキヽニカケテナイヒソ》云々。十【六丁】君乎懸管《キミヲカケツヽ》云々など猶多くありて、心または詞などにかくるをいふなり。考云、懸《カケ》は言にかけて申すをいふ。懸まくもかしこきの懸に同じ。宜《ヨロシ》てふ言は、たゞよきことをいふのみにあらず。萬の事の足備れるをほむる言なり。くはしくは下の宜奈倍《ヨロシナヘ》てふ言の別記にいへり。(頭書、書紀天武天皇五年九月紀、訓注に次此云2須岐1也。)
遠神《トホツカミ》。
こは、本集三【二十三丁】遠神我王之幸行處《トホツカミワカオホキミノイテマシトコロ》云々などもありて、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。意は人に遠くして崇也と考にいはれぬ。
行幸《イテマシ・ミユキ》乃《ノ》。
行幸は、書紀天智紀童謡に、伊提麻志《イテマシ》云々。本集八【廿丁】伊而麻左自常屋《イテマサシトヤ》云々などあるによりて、いでましとよむべし。古事記上卷幸行、書紀神代紀に遊幸などみなしかよめり。
山《ヤマ》越《コス・コシノ》風乃《カセノ》。
こは舊訓やまこしのかぜのとありて、下の反歌にも山越乃風乎時自見《ヤマコシノカセヲトキシミ》云々ともあれど、本集九【十六丁】に石越浪乃《イハコスナミノ》云々。十一【三十四丁】井提越浪之《ヰテコスナミノ》云々などあるによりて、山こす風のとよむべし。
獨座《ヒトリヲル》。
舊訓、ひとりをるとあるを、考にはひとりゐると直されしかど、いかゞ。本集十一【四十七丁】に渚座船之《スニヲルフネノ》云々とあるにても座はをるとよまん事論なし。
(24)吾衣手爾《ワカコロモテニ》。
略解云、衣手は袖也。衣を古語そといへり。されば、衣の手にて、そでと同じ語なり。
朝《アサ》夕《ヨヒ・ユフ》爾《ニ》。
朝夕を、舊訓あさゆふとあれど、あさゆふと云ことは、後のことにて、本集のころまではなし。あしたといへば、ゆふべといひ、あさといへばよひといふ事、古語の定り也。本集十七【四十丁】に安佐欲比其等爾《アサヨヒコトニ》云々。十八【二十六丁】安沙余比爾【アサヨヒニ】云々。二十【五十四丁】安佐欲比爾《アサヨヒニ》云々などあるにても思ふべし。又十九【二十六丁】安志多爾波可度爾伊※[氏/一]多知《アシタニハカトニイテタチ》、由布敝爾波多爾乎美和多之《ユフヘニハタニヲミワタシ》云々とあるにて、あしたといへば、ゆふべといふ事をしるべし。
還比叡禮婆《カヘラヒヌレハ》。
らひの約、りなれば、かへりぬればにて袖のかへるなり。考云、山風の、常にかへる/\、わが袖に吹來つゝ、春寒きに獨居る人の妹戀しらをますなり。
丈夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》。
書紀、神代紀上下、并集中、丈夫はみなますらをとよめり。丈夫は、男子を稱する詞にて、雄々《ヲヽ》しきをいふ。こゝは、みづからわれは丈夫《マスラヲ》ぞと思ひはげませど、たよりなき旅にしあれば、すゞろにものがなしと也。本集三【五十三丁】に丈夫之心振起《マスラヲノココロフリオコシ》云々。五【九丁】に麻周羅遠乃遠刀古佐備周等《マスラヲノヲトコサヒスト》、都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルキタチコシニトリハキ》云々。六【廿八丁】に燒刀之加度打放丈夫之《ヤイタチノカトウチハナスマスラヲノ》云々。六【三十二丁】に益荒夫乃去能進爾《マスラヲノユキノスヽミニ》云々。十一【二丁】に健男《マスラヲ》云々などあるにても、をゝしき男といふことなるを知るべし。さて、丈夫は、周易上經に、係2小子1失2丈夫1云々。公羊傳定八年注云、丈夫大人之稱也云々などあるを見ても思ふべし。丈、印本大に誤る。今意改。下皆准之。
(25)草枕《クサマクラ》。
まくら詞なれば、冠辭考にくはし。旅にては草引むすびなどして、枕ともする故に枕詞とはせしなり。
客爾之有者《タヒニシアレハ》。
客は、義訓にて、旅なり。本集十【十八丁】客爾爲而妻戀爲良志《タヒニシテツマコヒスラシ》云々。同【五十一丁】吾客有跡《ワレタヒナリト》云々。十九【三十八丁】客別度知《タヒワカルトチ》云々など見えたり。玉篇云、客口格切、客旅云々。字鏡集云、客【タヒヒト】などあるにても思ふべし。爾之有者《ニシアレハ》云々の、し文字は助字なり。
思遣《オモヒヤル》。
こは思を遣るなり。心をやるといふに同じ。本集九【三十一丁】戀日之累行者思遣田時乎白土《コフルヒノカサナリユケハオモヒヤルタトキヲシラニ》云云。二【三十七丁】遣悶流情毛有八等《オモヒヤルココロモアルヤト》云々などあるがごとし。考云、心の思をやり失ふべき手よりをしらずと也。思遣は、卷二に、遣悶と出たる意なり。
鶴寸乎白土《タツキヲシラニ》。
鶴は、和名抄羽族名に、唐韻云※[零+鳥]【音零揚氏抄一多豆今案倭俗謂v鶴爲1葦鶴1是也。】鶴別名也云々とあるがごとし。たづとよめれば鶴寸《タツキ》と借字に用ひたる也。たづきもしらには、手よりもしらずといはんがごとし。そは本集四【三十四丁】雖念田付乎白土《オモヘトモタツキヲシラニ》云々。同【四十一丁】田付不知毛《タツキシラスモ》云々などあるがごとく、猶多し。又たどきともいへり。つと、とと音かよへば也。十二【六丁】思遣爲便乃田時毛吾者無《オモヒヤルスヘノタトキモワレハナシ》云々などありて、これも猶多し。白土《シラニ》、これも借字にて、不知の意にて、しらにのには、ずの意なり。この事くはしくは下【攷證三中四丁】にいふべし。考別記云、たづきをしらにてふ言の本は、手著《タツキ》を不知にて、手寄《タヨリ》もしらずといふに同じ。そを、この歌には、久しく旅の獨居の思ひをやるべきわざをも覺えぬ事にいへり。又何にても事のより所なきをもいふめり。この言、集中にいと多きを見(26)わたしてもしれ。(頭書、しらに、考別記頭書。)
網能浦之《アミノウラノ》。
考には、網《アミ》を綱《ツナ》に改ためて云、神祇式に、讃岐國鋼丁、和名抄に、同國鵜足郡に津野郷あり。その浦なるべし。綱をつのと云は古言なり。今本に網浦とありて、あみの浦と訓しかど、より所も見えず云々といはれ(脱字?)なか/\に誤りなるべし。網丁の網は、地名にあらず。こは船の網にかゝはりたる丁《ヨホロ》なる事、主税式下に、水脚若干人、網丁若干人、帆料薦若干枚云々などあるがごとし。又和名抄同國に津野郷ありとて、郡もたがひたれば、これ一つもて本文を直すべくも思はれず。されば思ふに、本集十一【三十七丁】或本歌に、中々爾君爾不戀波留鳥浦之海部爾有益男珠藻刈々《ナカ/\ニキミニコヒスハアミノウラノアマニアラマシヲタマモカル/\》云々とある、國はしれざれど、正しくあみの浦とあれば、こゝと同所なるべし。さればこゝもあみの浦とよまん方まされり。
海處女等之《アマヲトメラカ》。
こは、海の一字をあまとよむに似たり。あまをとめといふ時は、かゝる例ままあり。本集三【廿三丁】海女《アマメ》、七【十三丁】海未通女《アマヲトメ》云々など猶あまたあり。處女をとめとよめる事いと多く、處女の字は、史記戰國策にはじめて見えたり。
燒鹽乃《ヤクシホノ》。
やくしほのの、の文字はのごとくといふ言をふくめたる也。この例、集中いと多し。一つ二つをいはゞ、四【二十三丁】天雲之外耳見管《アマクモノヨソノミミツヽ》云々。九【二十九丁】羣鳥之群立行者《ムラトリノムラタチユケハ》云々などある、の文字のごとし。古今戀一、よしの川いは浪たかくゆく水のはやくぞ人を思ひそめてし。又、夕づくよさすやをかべの松の葉のいつともわかぬ戀もするかな云々などあるも同じ格なり。
(27)念曾《オモヒソ》所燒《モユル・ヤクル》。
所燒は、舊訓やくるとあれど、もゆるとよむべし。そは本集十一【三十二丁】布仕能高嶺之燒乍渡《フシノタカネノモエツヽワタル》云々。十二【二十一丁】若山爾燒流火氣能《ワカヤマニモユルケムリノ》云々。九|心波母延農《コヽロハモエヌ》云々などあり。
吾《ワカ》下《シツ・シタ》情《コヽロ》。
考云、下つ心をしづ心といふは下枝《シツエ》下鞍《シツクラ》などいふがごとし。後撰歌集にも、下《シツ》心かなとよめり云々。いはれつるごとくなれど、後撰とは誤り也。拾遺雜春に、春はをしほととぎすはたきかまほし思ひわづらふしつ心かな云々と見えたり。
反歌
6 山越乃《ヤマコシノ》。風乎時自見《カセヲトキシミ》。寐夜不落《ヌルヨオチス》。家在妹乎《イヘナルイモラ》。懸而小竹櫃《カケテシヌヒツ》。
山越乃《ヤマコシノ》。
古今大歌所かひ歌、かひがねのねこし山こしふく風を人にもがもやことづてやらん。
時自見《トキシミ》。
時自見《トキシミ》は、書紀垂仁紀に、非時香菓《トキシクノカクノコノミ》云々とあるがごとく、非時といふ言にて、こゝは風の時ならず不斷ふきて、わびしきといふ也。本集下【十六丁】時自久曾雪者落等言《トキシクソユキハフルトフ》云々。四【十三丁】時自異目八方《トキシケメヤモ》云々。八【五十一丁】非時藤之目頬布《トキシクフチノメツラシク》云々などあるにても思ふべし。猶下【攷證三中六十五丁】にくはしくいふべし。ときじみのみは、上【攷證十丁】に心乎痛見とある見《ミ》のごとく、さにの意なり。
寐夜不落《ヌルヨオチス》。
不落《オチス》は、漏《モラ》さずといふがごとし。古事記上卷に、伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチス》云々。續日本紀、神龜六年八月詔に、一二乎|漏落事《モラシオトスコト》母在【牟加止】云々。祈年祭祝詞に、島之八十島墜(28)事無《シマノヤソシマオツルコトナク》云々。本集下【二十九丁】川隈之八十阿不落《カハクマノヤソクマオチス》云々。十二【二丁】一夜不落夢見《ヒトヨモオチスイメニミエケリ》云云。十三【十七丁】眠夜不落《ヌルヨオチス》云々、などあるにて思ふべし。集中猶多し。
懸而小竹櫃《カカエテシヌヒツ》。
懸而《カケテ》は、上【攷證十丁】に懸乃宜久《カケノヨロシク》云々などありし所にいへるがごとく、心詞などにかけて、思ふなり。こゝは心にかけて思ひ忍ぶ意なり。本集三【三十五丁】に玉手次懸而將偲《タマタスキカケテシヌハン》云々。九【二十九丁】に留有吾乎懸而小竹葉背《トマレルワレヲカケテシヌハセ》云々。十二【十五丁】犬馬鏡懸而偲《マソカヽミカケテシヌヒツ》云々などあるがごとし。小竹櫃《シヌヒツ》は借字なり。印本、小竹櫃《シノヒツ》とよめれど、本集三【三十五丁】に珠手次懸而之努櫃《タマタスキカケテシヌヒツ》云々とあるのみならず、しぬゝにぬれて、こゝろもしぬに、などもあれば、しぬびつとよめり 二【三十五ウ】。小竹《シヌ》は、和名抄竹類云、蒋魴切韻云篠【先鳥反和名之乃一云佐々俗用2小竹二字1謂2之佐々1】細細竹也云々。櫃は同書木器類云、蒋魴切韻云櫃【音與v貴同和名比都】似v厨向上開v闔器也云々と見えたり。さて、しぬぶといふ言は、宣長の古事記傳卷十四にいはれつる如く、戀しぬぶと、堪しぬぶと、隱《カクレ》しぬぶと、三つありて、外に又たゞ物をめづる意なると、合せて四つあり。こゝなるは、戀しぬぶ意なり。餘の三つの事はつぎ/\にいふべし。
右檢2日本書紀1。無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰。紀曰。天皇十一年己亥。冬十二月己巳朔壬午。幸2于伊豫|温湯《ユノ》宮1云々。一書云。是時宮前在2二樹木1。此之二樹。班鳩《イカルカ》此(29)米《シメ》二鳥大集。時勅多掛2稻穗《イナホ》1。而養v之。乃《スナハチ》作歌云々。若疑從2此便1幸v之歟。
檢。
檢は、假名玉篇カンカフと見えたり。
日本書紀。
續紀元正紀云、養老四年五月云々、先v是、一品舍人親王、奉v勅、修2日本紀1、至v是功成奏上、紀三十卷系圖一卷云々。
山上憶良。
下【攷證下五十一丁】に出す。
大夫。
公式令云、於2太政官1、三位以上稱2大夫1、四位稱v姓、五位先v名後v姓、其於2寮以上1、四位稱2大夫1、五位稱v姓、六位以下稱2姓名1、司及中國以下、五位稱2大夫1云々とあり。また、和名抄位階の條に、四位五位【已上爲2大夫位階1】云々と見えたるは誤りにて、一位以下五位以上の稱なり。憶良從五位下なりしかば、大夫とはかけるなり。書紀崇神紀、皇極紀等に、大夫をまちきみとよめりしかど、こゝは音もてよむべし。猶大夫の事は、下【攷證三中四十五丁】にくはしくいふべし。
類聚歌林。
今傳はらず、をしむべし。仁和寺書目外録に、類聚歌林百卷、山上憶良撰在2平等院1云々、通憲説也云々、とあれど、この外録といふものうけがたきもの(30)なり。
紀曰。
紀、印本作v記、今意改。紀は舒明紀なり。
伊豫|温湯宮《ユノミヤ》。
伊豫の温泉は、古事記下卷に、故輕太子者、流2於|伊余湯《イヨノユ》1也云々。和名抄國郡部に、伊豫國温泉郡云々などあるは地名なれど、温泉のあるよりしかいへる也。延喜神名式に、湯神社あり。これも同じ。釋日本紀卷十四、引2伊豫國風土記1云、湯郡云々、凡湯之貴奇不2神世時耳1、於2今世1、染2※[病垂/令]痾1萬生、爲2除v病存v身奇藥1也、天皇等、於v湯幸行降坐五度也云々など見えたり。温湯宮は、天皇ゆあみまさんとて、そのほとりに行宮《カリミヤ》をつくらせ給ふ也。本紀十年の條に、有間温湯宮なども見ゆ。猶いよの湯は、本集三、赤人の歌にも見えたり。その所【攷證三中九丁】にもいへり。
一書云。
是を代匠記には、風土記なるべしといはれしかど、風土記の文といたくたがへり。ここにあぐるを見てしるべし。仙覺抄卷五、引2伊豫國風土記1云、湯郡、天皇等於v湯幸行降坐五度也【中略】、以2岡本天皇并皇后二躯1、爲2一度1、于v時、於2大殿戸1、有v椹、云2臣木1、於v其集v上鵤、云2比米鳥1、天皇爲2此鳥1、枝繋2穂等1養賜也云々などあるにても、一書と云は風土記ならざることしらる。
(31)班鳩《イカルカ》。
和名抄羽族名云、崔禹錫食經云鵤【胡岳反和名伊加流加】貌似v※[合+鳥]而白喙者也、兼名苑注云、斑鳩【和名上同見2日本紀私記1】觜大尾短者也云々、禽經云、斑鳩辨※[鞠の旁+鳥]班次序也云々。また本集十三【六丁】中枝爾伊加流我懸《ナカツエニイカルカカケ》、下枝爾此米乎懸《シツエニシメヲカケ》云々とあるも、斑鳩と此米とをよめり。
此米《シメ》。
風土記には、比米とあれど、上に引たる本集十三に、斑鳩《イカルカ》と此米《シメ》とを一首の中によめるにても、こゝは此米なる事しらる。和名抄羽族名云、孫※[立心偏+面]切韻云※[旨+鳥]【音脂漢語抄云之女】小青雀なり云云とあるこれなり。此注、後の人のわざなる事提要にいへり。
明日香川原《アスカノカハラ》宮御宇天皇代 天豐財重日足姫《アマツトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
天皇、御謚を齊明と申す。皇極天皇の重祚ましましたる也。書紀皇極紀云、天豐財重日足姫天皇、渟中倉太珠敷《ヌナクラフトタマシキノ》天皇曾孫、押坂彦人大兄《オシサカノヒコヒトノオホエノ》皇子|茅渟《チヌノ》王女也云々。本紀云、元年春正月壬申潮甲戌、皇祖母尊、即2天皇位於飛鳥坂蓋宮【中略】、是冬、災2飛鳥板蓋宮1、故還2居飛鳥川原宮1云々。明日香《アスカ》とかくも飛鳥と書も同じ。大和國高市郡なり。集中多く明日香とかけり。宣長云、凡て川原といふは、今の世にいふ川原のみにあらず。川近き地をいへり。さてこのあすかの川原は、やがて地名にもなれるか。川原寺といふも、この川の邊也云々。天豐財重日足姫天皇、この九字、印本大字、今元暦本古本などによりて、小字とせり。下皆これに同じ。
額田王作歌。未詳
額田王は、額田女王とありし、女の字を脱せる歟。集中七所出たる、皆女の字なけれど、本集四【十三丁】額田王思2近江天草1作歌一首とて、相聞の歌(32)あるを思へば、女王なること明らけし。書紀天武紀に、天皇初娶2鏡王女【印本無女字今意改】額田姫王1、生2十市皇女1云々とある額田姫王は、こゝなる額田王と同人歟。これを同人とする時は、集中鏡王女とあるは、額田王の兄弟なるべし。次に考と略解との説をあげたれば、見ん人、心のひかん方にしたがふべし。考云、紀に云々とありて、天武天皇いまだ皇太子におはしゝ時の夫人なり。かくて、集中に額田王とてあげたるは、皆女の歌なり。しかれば、此王に姫の字落し事定かなる故に、今加へつ。たゞ、額田王とありては、男王をいふ例にて、その歌どもにかなはねばなり云々。略解云、猶考ふるに、額田王は鏡王の女にて、鏡女王の妹なるべし。はじめ、天智天皇にめされたる事、卷四に思近江天皇といへる歌あるにてしるべし。さて、天武天皇は太子におはしましゝ御時より、この額田王に御心をかけ給ひし事、以下の紫草のにほへるいもを云々の御歌にてしらる。天智天皇崩給ひし後、天武天皇にめされて、十市皇女を生給へり云々。さて額田は地名より御名には付しなるべし。書紀顯宗紀に、山邊郡額田邑とあるは、大和なり。和名抄國郡部に、大和國平郡(群)郡額田【奴加多】云々とあるにても思ふべし。又額田氏は、古事記、書紀、姓氏録等に見えたり。(頭書、玉二ノ二十八丁。女王に女の字なきは、古事記下、衣通王。)未詳、この二字、印本大字、今元暦本によりて小字とせり。
7 金野乃《アキノヽノ》。美草《ヲハナ・ミクサ》苅茸《カリフキ》。屋杼禮里之《ヤトレリシ》。兎道乃宮子能《ウチノミヤコノ》。借《カリ》五百※[火+幾]所念《ほしおもほゆ・イホシソオオモフ》。
金野《アキノヽノ》。
金をあきとよめるは、本集十【三十四丁】に露枯金待難《ツユニシヲレテアキマチカタシ》云々。同【五十丁】に金山舌日下《アキヤマノシタヒカシタニ》云々などあるがごとし。五行を四季に配する時は、金は秋なればなり。そは禮記月令正義云、案2(33)此秋1云、其帝少※[白+皐]、在2西方金位1云々。春秋繁露五行逆順篇云、金者秋殺氣之始也云々。文選張景陽雜詩云、金風扇2素節1、丹霞啓2陰期1云々。李善注云、西方爲v秋、而主v金、故秋風曰2金風1也云云などあるにても知るべし。
美草《ヲハナ・ミクサ》。
美草は、印本みくさと訓ぜれど、元暦本にをばなとよめるうへに、又此歌を新勅撰にも、をばなとしてのせられたるをよしとす。本集八【四十一丁四十二丁】十六【十五丁】などに草花を、をばなとよめるなど思ふべし。また八【五十四丁】は波太須珠寸尾花逆葺《ハタススキヲハナサカフキ》云々。十【五十六丁】※[虫+廷]野之尾花苅副《アキツノヽヲハナカリソヘ》、秋芽子之花乎葺核君之借廬《アキハキノハナヲフカサネキミカカリホニ》云々とあるにても尾花を葺事しらる。宣長云、美草は、をばなとよむべし。貞觀儀式大甞祭の條に、次黒酒十缶云々、以2美草1餝v之。また次倉代十輿云々、餝以2美草1と見えて、延喜式に同じく見ゆ。然れば必一種の草の名也。古へ、薄を美草とかきならへるなるべし。もし眞草の意ならんには、式などに美草の字を似《(マヽ)》字かくべきよしなし云々。この説にしたがふべし。
屋杼禮里之《ヤトレリシ》。
こは宿るなり。
兎道乃宮子《ウチノミヤコ》。
宇道宮子《ウチノミヤコ》は、山城國宇治なり。宮子は借字にて、都なり。さて、この宇道の都に、三つの説あり。其一つは宇治に行幸ありし事、この天皇の紀には見えざれど、外の所々に行幸ありしその次に、宇治にも立よらせ給ひし行宮のありし所を、宇治の都とはいへるか。すべて天皇のおはします所を都とはいへり。そは本集六【十五丁】に、幸2于難波宮1時、笠朝(34)臣金村の作れる長歌の反歌に、荒野等爾里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿《アラノラニサトハアレトモオホキミノシキマストキハミヤコトナリヌ》とあるも、行《カリ》宮をみやこといへり。又唐韻引2帝王世紀1云、天子所宮曰v都云々。釋名釋州國云、國城曰v都、都者國君所v居、人所2都會1也云々などあるにても思ふべし。又考ふるlこ、應神天皇六年の紀に、近江國に行幸し給ひしをり、菟道にて和歌よませ給ひし事見え、天智天皇十年の紀に、天武天皇東宮におはしましゝ時、佛道脩行し給はんとて、吉野に入せ給ふに、大臣宇道まで送り奉りし事見えたるをおもへば、このころの通路なりしなるべし。其二つは、兎道若《ウチノワキ》郎子のおはしましゝかば、しかいふか。詞林釆葉引2山城國風土記1云、謂2宇治1者、輕島明宮御宇天皇之子、宇治若郎子、造2桐原桁日宮1、以因2御名1號2宇治1、本名曰2評之國1矣、彼是宇治都無2子細1者乎、稚郎子崩御ノ御事ヲヨミ給ヒケルニヤ云々。皇子おはします所をみやこといへるは、禮記考工記注云、都四百里外、距2五百里1、王子弟所v封云々。周禮夏官序官注云、都王子弟所v封、及三公衆釆地也云々などあるがごとし。其三つは、天皇皇子などおはしまさずとも、たゞにぎはしき所を都とはいふか。十八【十七丁】に、安麻射可流比奈能都夜故爾《アマサカルヒナノミヤコニ》云々【この事は其所にいふべし。】とあるたぐひ也。そは、穀梁僖十六年傳云、民所v聚衆曰v都云々。後漢書東平王蒼傳注云、人所v聚曰v都云々などあるがごとし。○考云、幸の時、山城の宇治に造りたる行《カリ》宮をいふ。さて離宮所《トツミヤトコロ》とも行宮所《カリミヤトコロ》を略《ハフ》きてみやこといへり云々。又云、是に兎道のみやことあるは、近江へ幸の時の行宮をいふなり。さて紀には、此時はなくて、後岡本宮の時、近江の幸の事あれど、この御代の紀は誤多し。此集によるべし。
借《カリ》五百磯所念《ホシオモホユ・イホシソオモフ》。
考云、五百は訓をかり、磯は助辭、行宮をかり廬《ホ》といふは、下にも類あり。今本、かりほしぞおもふとよみしも、下に妹乎師曾於母布《イモヲシソオモフ》ともあれば、さ(35)てもあるべきを、かく所念と書しをば、惣ておもほゆとよむ例なり。下も是によれ。○磯、印本※[火+幾]、今依2拾穗本1改。
右檢2二山上憶良大夫類聚歌林1。曰。一書曰。戊申年。幸2比良宮1大御歌。但紀曰。五年春正月己卯朔辛巳。天皇至v自2紀温湯1。三月戊寅朔。天皇幸2吉野宮1。而|肆宴焉《トヨノアカリシタマフ》。庚辰。天皇幸2近江之平浦1。
一書曰戊申年。
考別記云、飛鳥川原宮におはしゝは、齊明天皇重祚元年、乙卯の冬より二年丙辰の冬までにて、此御時に戊申の年はなし。此注例のよしなし。
比良宮。
上に幸2近江之平浦1とある行宮なるべし。本集下【十七丁】の一云比良乃大和太云云。九【十三丁】平山云々などあると、同所か。同所ならば近江國滋賀郡なり。
五年。
考別記云、此五年は、後岡本宮におはしませば、川原宮にかなはず。ことに三月なれば、こゝに秋野とあるにそむけり。
紀温湯。
こゝは、下に、幸2于紀温泉1之時額田王作歌とあると同所なるべし。
吉野宮。
書紀應神紀云、十九年冬十月、戊戌朔、幸2吉野宮1云々とあるをはじめにて、古事記、書紀、集中いと多し。下々に出るを見るべし。
(36)肆宴《トヨノアカリ》。
書紀雄略紀に、命v酒兮|肆宴《トヨノアカリス》云々と見えたり。古事記に豐明、豐樂、書紀に宴樂、宴會、宴饗など皆とよのあかりとよめり。この事、くはしくは本集十九【攷證】にいへり。あはせ見てしるべし。
庚辰。
印本、庚辰日とあり。今、書紀によりて日の字をはぶけり。元暦本、庚辰其日とあり。これも誤りなる事論なし。
平浦。
本紀云、平浦【平此云2毘羅1】とあり。まへの比良宮と同所なるべし。
後崗本宮御宇天皇代。天豐財重日足姫天皇、位後即2位後崗本宮1。
天皇、御謚を齊明と申す。上には明日香川原宮御宇天皇として、こゝには後崗本宮御宇天皇とせるは、書紀本紀云、元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、即2天皇位於飛鳥板蓋宮1、【中略】是冬、災2飛鳥坂蓋宮1、故遷2居飛鳥川原宮1云々。二年、是歳於2飛鳥岡本1、更定2宮地1、【中略】遂起2宮室1、天皇乃遷、號曰2後飛鳥岡本宮1云々とあるがごとし。崗本宮の事は上【攷證三丁】にいへり。活本、位後以下八字なし。
額田王歌。
上【攷證十四丁】にいへり。
(37)8 熟田津爾《ニキタツニ》。船乘世武登《フナノリセムト》。月待者《ツキマテハ》。潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝乞菜《イマハコキコナ》。
熟田津《ニキタツ》。
熟田津は、書紀齊明紀云、七年春正月【中略】庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1【熟田津此云2※[人偏+爾]枳陀豆1】云々(と)見えて、本集三【二十八丁】山部赤人至2伊豫温泉1てよめる長歌の反歌に、百式紀乃大宮人之飽田津爾船乘將爲年之不知久《モヽシキノオホミヤヒトノニキタツニフナノシシケントシノシラナク》云々。十二【四十丁】柔田津爾舟乘將爲跡《キニ(ニキ)タツニフナノリセント》云々などあるもこゝなり。二【十八丁】人麿の長歌に和多豆《キニ(ニキ)タツ》とあるは石見國なり。
月待者《ツキマテハ》。
舟にのらんとて月を待ば也。
潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。
潮は、常はうしほとよめど、書紀神代上、字鏡集などに、しほとよみ、新撰字鏡、假名玉篇等には、しほみつとよめり。うしほといふも、いとふるし。古事記上卷、書紀齊明紀御歌などに見えたり。かなひぬは、心にかなふ意にて、滿足したりといふほどの言なり。書紀垂仁紀、一書に合、神功紀に有v志無v從とある從などを、かなふとよみ、續日本紀天平神護二年の詔に、應なしかよめるにても思ふべし。しほもかなひぬの、もの字に心をつくべし。月を待ば、月も出、潮もみちたりといふなり。又こゝろみに考ふるに、潮もかなひぬは、潮のみち盛りて、しばしとゞまれるをいふか。新撰字鏡に、逗を加奈不とよめり。逗は、史記韓長孺傳索隱に、逗留止也云々。後漢書張衡傳注に、逗止也云々などあるをも見るべし。
(38)今者許藝乞菜《イマハコキコナ》。
こは、月もいで潮もみちたれば、今は舟こぎ來らんとなり。考云、集中に乞をこそとよみて、即|乞《コヒ》願ふ意也。有乞《アリコソ》、見えこそ、又にほひ乞《コセ》、妻よしこせねなどもよめり。共に乞意なり。然ればこゝも今は時のかなひたれば、御船こぎいでよと乞給ふなり云々とて、訓をさへ今はこぎこそなと直されしは誤り也。乞の字を古《コ》のかなに遣しを疑ふ事、いかゞ。集中、音訓をつゞめもし、はぶきもして、遣へる事、常の事なれば、乞の字を古《コ》の假字《カナ》につかふ事の、などかはなからん。そは上【攷證八丁】にいへるがごとく、刻をき、足をあ、猿をさの假字に遣へるたぐひにて、訓を略せるなり。乞菜の菜は借字にて、來んの意也。んの意にかよふなもじ、集中いと多し。其一二をいはゞ、二【一六丁】玉藻苅手名《タマモカリテナ》云々。四【五六丁】行而早見奈《ユキタハヤミナ》云々。五【一六丁】阿素※[田+比]久良佐奈《アソヒクラサナ》云々などあるがごとし。考云、外蕃の亂をしづめ給はんとて、七年正月、筑紫へ幸ついでにこの湯宮に御船泊給へる事紀に見ゆ。額田姫王も、御ともにて、此歌はよみ給ひし也けり。さて、そこよりつくしへ向ます御船出の曉月を待(給脱?)ひしなるべし。
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1。曰。飛鳥岡本宮御宇天皇。元年己丑。九年丁酉。十二月己巳朔壬午。天皇大后。幸2于伊豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇。七年辛酉。春正月丁酉朔壬寅。御船西征始就2于海路1。庚(39)戌。御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1。天皇御2覧昔日猶存之物1。當時忽起2感愛之惰1。所以因製2歌詠1。爲2之哀傷1也。即此歌者。天皇御製焉。但額田王歌者。別有2四首1。
元年己丑。
考別記云、この元年、何の用ともなし。又舒明天皇より齊明天皇まで元年に己丑もなし。
幸2于伊豫湯宮1。
考別記云、舒明天皇紀に、九年この事なし。十年十月にあり。伊豫風土記に、崗本天皇并皇后二躯爲2一度1とあるを、こゝにはいふと見ゆ。然れどもこゝは後岡本宮と標せれば、右は時代異にて用なし。
馭宇。
こは、御宇といふに同じ。荀子王覇篇注云、馭與v御同云々。玉篇云、馭魚據切古御字云々とあるがごとし。
七年。
こゝより下、行宮といふ字まで、書紀の文にてまへの歌に用あり。
石湯。
石湯といふ事は、釋日本紀卷十四、引2伊豫國風土記1云、湯郡、大穴持命、見悔耻而、宿奈※[田+比]古那命欲v活而、大分速見湯自2下樋1持度來、以2宿奈※[田+比]古奈命1而、浴漬者、暫間有(40)活起居、然詠曰、眞暫寢哉、踐建跡處今在2湯中石上1也云々とある、ふみたけびましゝ跡の、湯の中の石にのこれるによりて、石湯とはいへるならん。郡を湯郡といふも温泉のあるよりつけし名なるべし。
行宮《カリミヤ》。
行宮は、天皇の行幸ましますさき/\の假の宮をいふ。書紀神武紀云、乙卯年、春三月甲寅朔己未、徒2(徙?)入吉備國1、起2行宮1以居v之云々。天文本和名抄居宅類云、日本紀私記云、行宮【戸雄切室也中也人所v居也加利美夜】今案、俗云頓宮是也云々。文選呉都賦、李善注云、天子行所v立名曰2行宮1云々とあるにて事明らけし。
天皇御2覽昔日猶存之物1。
考別記云、此天皇と申より下は、又注にて、甚誤れり。こゝに製2歌詠1といふは、右の歌をさすに、其歌の何の處に感愛の意ありとするにや。思ふに、むかし天皇と御ともにおはしましゝ時のまゝに萬はありて、天皇のみおはしまさぬを悲しみ給ふ御心より、むかしの御船のこぎ來れかしとよみ給へりと思ふなるべし。こは今はこぎ乞《コソ》など訓べき、乞の字の例をもしらでこぎこなと訓誤りて、よしなき事に取なせるものぞ。乞は集中に多くこそと訓て、願ふ意なり。且、月まてば汐もかなひといふからは、今は船こぎ出こそといふより外に意なし。古言をも古歌をもしらぬものゝ、憶良の名をかりて人をまどはすなり。
別有2四首1。
考別紀云、別に四首あらば、何の書とも何の歌ともいふべし。右にいふごとくのひが心よりは、何歌をか見誤りていふらん。上の軍王の歌よりはじめて古注多(41)かれど、わづらはしくて、さのみは論ぜず。これらをおして知れ。
幸2于紀温泉1之時。額田王作歌。
紀。
書紀神代紀には、紀伊國とかき、古事記上卷には、木國とかけり。古くはかくのごとく、一字にも二字にもかきて定りたる事はなかりしを、續紀元明紀云、和銅六年五月甲子、畿内七道諸國郡郷名、著2好字1云々とありしより事定れることゝおぼし。(頭書、紀の下伊の字目録に依て加ふべし。)
温泉。
書紀齊明紀云、四年冬十月、庚戌朔甲子、幸2紀温湯1云々とある度なるべし。同紀、三年の條に、牟婁温湯とあると同ならば、今いふ熊野の温泉なるべし。
9 莫囂圓隣之《・ユフツキノ》。大相七兄爪謁氣《・アフキテトモヒシ》。吾瀬子之《ワカセコガ》。射立《イタヽ》爲《ス・セル》兼《ガネ》。五可新何本《イツカシガモト・イツカアハナム》。
この歌、一二の句解しがたし。おのれ思ひ得る事あらねば、たゞ故人の説をのみあぐ。見ん人心のひかん方にしたがふべし。いづれも心ゆきてもおぼえねど、予はしばらく久老か春海が説によらんとす。
莫囂圓隣之。大相七兄爪謁氣。
代匠記云、この歌のかきやう、難文にて心得がたし。しひて第一の句を案ずるに、莫は禁止の詞に(42)て、なかれなれども、たゞなしともよめり。囂は左傳杜預注に喧※[口+花]也といへり。堯の時、老人ありて、日出而起、日入而息といひ、又陶淵明が詩に、日入群動息と作れり。されば、陰氣に應じて、くるれば靜かになる心にて、莫囂を夕とはよめるか。圓隣とは、十日過るころは、月もやう/\まろに見ゆれば、七八日の月は、それにとなりつれば、かくはかけるにや。第二の句は、かきやうよみやうひたすら心得ず云々。考別記云、今本に、莫囂圓隣之、大相七兄爪謁氣とあるのみを守りで、強たる説どもあれど、皆とらず。何ぞといはゞ、諸の本に、字の違多きを見ず、古言に本づきて訓べきものともせず、後世の意もていふ説どもなればなり。仍て年月に多くの本どもを集へ見るに、まづ古本に、莫囂國隣之とあり。古葉略要に奠器國隣之とす。又一本に莫哭國隣之とす。今本と四本。かゝるが中に、古本ぞ正しかりき。二の句は、古本に大相云兄爪謁氣とあり。古葉略要に大相土兄瓜湯氣とす。一本に大相七咒瓜謁氣とす。又今と四本なり。是を考るに、七も土も、古の草より誤り、謁は湯なり。これを合せもて、大相古兄※[氏/一]湯氣となす時は、言やすく意通れり云々。考云、莫囂國隣乃《キノクニノ》、こはまづ、神武天皇紀に依に、今の大和國を内つ國といひつ。さてその内つ國を、こゝに囂《サワキ》なき國と書たり。同紀に、雖邊土未清餘妖尚梗而中州之地無風塵《トツクニハナホサヤケリトイヘトモウチツクニハヤスラケシ》てふと、同意なるにて、知ぬ。さてその隣とは、此度は紀伊國をさす也。然れば、莫囂國隣之の五字は紀《キ》の久爾《クニ》のと訓べし。又右の紀に、邊土と中州を對云しに依ては、此五字を外《ト》つ國のともよむべし。然れども、云々の隣と書しからは、遠き國はもとよりいはず、近きをいふなる中に、一國をさゝでは、此歌にかなはず。次下の歌に、三輪山を綜麻形とかきなせし事など、相似たるによりても、猶上の訓をとるべし。大相《ヤハ(マヽ)》やまなり。古兄※[氏/一]湯氣《コエテユケ》越てゆけなり云々。宣長が玉勝間云、(43)萬葉一の卷に、莫囂國隣之《カマヤマノ》、霜木兄※[氏/一]湯氣《シモキエテユケ》とあり。莫囂は加麻《カマ》と訓べし。加麻《カマ》をかく書るよしは、古へに人のものいふを制して、あなかまといへるを、そのあなをはつ(はぶ?)きて、かまとのみもいひつらん。そは、今の世の俗言に、囂《カマヒス》しきを制して、やかましといふと同じ。やかましは、囂《カマヒス》しといふことなれば、かまといひて、莫《ナカレ》v囂(シキコト)といふ意なり。さて、かま山といふは、神名帳に、紀伊國名草郡、竈山神社、諸陵式に、同郡竈山墓と見えたるこれ也。此御墓は、神武天皇の御兄、五瀬《イツセノ》命の御墓にて、古事記書紀にも見えたり。神社も、御墓も、古への熊野道ちかき所にて、今もあり。國隣は、夜麻《ヤマ》とよむべし。山は隣の國の堺なるものなれば、かくも書くべし。國の字は、本には圓とあるを、一本に國とある也。霜の字、本に大相とあるは、霜の草書を、大相の二字と見て誤れる也。そも/\、この事は、書紀、齊明天皇卷に、四年冬十月、庚戌朔甲子、幸2紀温湯1とありて、十一月までも、かの國にとゞまりませりしさま見えたれば、霜のふかくおくころ也。木兄※[氏/一]は、本には木(ノ)字を、七に誤り、或本には土にも云にも誤り、※[氏/一]ノ字は爪に誤れり。又湯の字を謁に誤れるを、そは一本に湯とある也。久老が信濃漫録云、莫囂圓隣の歌、師の考に、初句をきのくにのとよまれしは、いかゞ也。紀の國行幸に、きのくにの山こえてゆけとは、いふべきにあらず。紀の山をこえて、いづくにゆくにや。また第二句の、大相を、やまとよまれしも、いかなる意とも心得がたし。これはもと、大相土の三字を、やまとはよまれしものならんを、その土の字を、古の誤字として、次の句にとられしより、しひて大相の二字をやまとよみおかれしものとこそおぼゆれ。宣長、これをよみあらためて、初句をかま山とよみしもいかゞなり。物語ぶみに、あなかまと手かくなどいへるは、あゝやかましと制する言にて、かまはすなはち囂の字(44)にあたれば、かまとよまんに、莫の字|衍《アマ》れり。弟二句を、霜木兄※[氏/一]湯氣《シモキエテユケ》と改めよめるも、いかゞ也。又霜の、橋上、野面などにおきわたしたらんこそ、歌にもよみならひつれ。山上の霜、いかにぞや。雪にてありたし 雪はふみわけがたければ、消てのちゆけともいふべけれど、霜はさるものにしもあらねば、いかゞなり。とまれ、かくまれ、この第二句の訓は、たれもいかゞに思ふべかめるを、別に考出べき才力《チカラ》なきゆゑに、もだをるならん。己《オノレ》が考は、囂《カマヒスシキ》ことなきは、耳なし山なり。圓《ツブラ》は山の形にて、倭姫命世記に、圓《ツブラ》【奈留】有2小山1【支】、其所【乎】都不良《ツブラ》【止】号《ナツケ》【支】と見えたれ《(マヽ)》。しかれば、莫囂圓は耳なし山なり。耳無山に隣れるは、香具山なれば、莫囂圓隣之は、かぐ山のとよむべし。大相土は、書經洛誥に、大相2東土1とあるによるに、大に相《ミル》v土《ツチヲ》は國見なるべし。兄爪謁氣の兄は、一本无につくれゝば、爪謁の二字は、靄の一字を誤れるものにて、无靄氣はさやけきなれば、第二句をは、くに見さやけみとよむべきなり云々。春海云、大相土の三字にて、やまとよむべし。さらば大相土見乍湯氣にて、やま見つゝゆけとよまんか。一本に兄を見に作りたるもあれば、今、見に作れるを用て、爪を乍の誤りとなさんか云々。
吾瀬子之《ワカセコカ》。
吾せこは、集中いと多く見えて、親しみ敬ひていふ言なり。こゝにわがせことあるは、此行幸に供奉し給ふ皇太子【天智】をさしてのたまへるなるべし。吾せこは、古事記上卷に、我夫子《ワカセコ》云々。本集十六【十五丁】に吾兄子《ワカセコ》云々などあるがごとし。又|兄《セ》とのみいふも同じ。下にいふべし。
射立《イタヽ》爲《ス・セル》兼《カネ》。
いたゝすのいは發語にて、心なし。上【七丁】にいへるがごとし。がねといふ詞は、集中いと多かり。古事記下卷に、波夜夫佐和氣熊《ハヤブサワケノ》、美游須比賀泥《ミヲ(マヽ)スヒカネ》云々。本集三【三十四丁】(45)に、後將見人者語繼金《ノチミンヒトハカタリツグガネ》云々などあるがごとく、皆その料にといふ言なり。中古の書にきさきがね、坊がね、むこがねなどいへるもこゝと同じく、その料にまうくるなり。
五可《イツカ》新河本《シカモト・アハナン》。
この訓、説々あれど、眞淵、宣長などの説によりて、いづかしがもとゝよめり。されど、其注くはしからねば、今くはしくいはん。古事記下卷に、美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイヅカシガモト》云々。書紀垂仁紀一書に、天照大神、鎭2坐於|磯城嚴橿之本《シキノイヅカシカモト》云々。倭姫世記に、倭國|伊豆加志本宮云《イヅカシガモトノミヤ》々などあるいづは、垂仁紀に嚴橿《イヅカシ》とかけるがごとく、嚴の意なり。嚴《イヅ》は書紀神武紀に、嚴瓮、此云2怡途背《イヅヘ》1云々。同紀に、嚴咒詛、此云2怡途能伽辭離《イヅノカジリ》1云々。神功紀に、嚴之御魂《イヅノミタマ》云々などある嚴にて、忌清《イミキヨ》まはりて、齋《イツ》く意なり。嚴は古事記に、伊都とかきたるに、またこゝに五の字をかりてかければ、清《スム》べきかとも思へど、書紀に嚴を怡途《イヅ》とよみ、倭姫世記に伊豆とかけるにても、濁るべき事明らか也。さて五の字を濁音の所にかりて書るは、うたがはしきやうなれど、五手船を本集廿【十九丁】に伊豆手夫禰とかけるにても思ふべし。すべて、借字の例、清濁にかゝはらざること、前の句にがねといふ所に、兼金などかけるにてもしるべし。可新《カシ》は假にて橿なり。和名抄木類に、唐韻云橿【音薑和名加之】萬年木なり云々とあるがごとし。本《モト》は大祓祝詞に、彼方之繁木本《ヲチカタノシケキカモト》云々などあるがごとく、木の下なり。そは、説文に木下曰v本云々。山海經西山經注に、本根也云々などあるがごとし。
中皇命。往《イマセル》2于紀伊温泉1之時。御作歌。
(46)中皇命。
上【五丁】にいへり。
往《イマス》。
いますは、古事記中卷に、罷往《マカリイマス》云々。同卷に和賀伊麻勢波夜《ワカイマセハヤ》云々。下卷に追往《オヒイマス》云々とあるによりていませりとよめり。この言、集中いと多し。
御作歌。
印本、作の字を脱す。今、集中の例によりて加ふ。
10 君之齒母《キミカヨモ》。吾代毛《ワカヨモ》所知哉《シラム・シレヤ》。磐代乃《イハシロノ》。岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》。去來結手名《イサムスヒテナ》。
君之齒母《キミカヨモ》。
こゝに、きみとさせる事は、御兄中大兄皇子にいざなはれてやおはしけんと、考にいはれし、さもあるべし。齒《ヨ》は、齡にて、君がよはひもわがよはひもなり。齒の字は、禮紀文王世子篇に、古者謂2年齡1、齒亦齡也云々。國語晋語注に、齒年壽也云々とあるにても、よとよみてよはひなるをしるべし。
所知哉《シラム・シレヤ》。
この言心得がたし。舊訓のごとく、しれやとよむ時は、しれと物に下知する言にて、やは添たるやなり。本集六【十八丁】水烏二四毛有哉家不念有六《ウニシモアレヤイヘモハサラム》云々とある、同格のやなり。されは、下に、去來結手名《イサムスヒテナ》とありては、一首の意きこえがたし。こは宣長が、哉は武の誤りにて、所知武《シラム》なるべくやといへるによりて、訓をばあらたむ。考には所知哉《シルヤ》とよまれしかど、さても意きこえがたし。
(47)磐代乃《イハシロノ》。
岩代は、紀伊國日高郡なり。本集二七などにも見えたり。
草根《クサネ》。
草は、集中くさともかやとも多くよみて、大須本にはこゝもかやねとよみつれど、結ぶとあれば、こゝは草《クサ》とよむべし。そは本集七【十五丁】君之舟泊草結兼《キミカフネハテクサムスヒケン》云々。十二【二十三丁】妹門去過不得而草結《イモカカトユキスキカナテクサムスフ》云々などあるにて、くさとよむべき事を知るべし。
去來結手名《イサムスヒテナ》。
去來は借字に、いざと誘《イサナ》ひもよほす詞なり。書紀履中紀に、去來此云2伊弉《イザ》1とあるがごとし。古事記中卷に、伊邪古杼母《イサコトモ》云々。本集下【二十六丁】に、去來子等《イサコトモ》云云などあると思ひあはすべし。結は、すべて草にまれ木にまれ、むすびて、後のしるしとするよしなり。また上に引たる本集七、十二などの歌も、思ひ合すべし。さて、此磐代の岡にて、草を結びますを、略解に本集二【廿二丁】の有間皇子の磐代の松を結び給ひしに、引あてたるは、いかゞ。この歌に、君が代もわがよもしらんなどよはひをちぎらせ給ふに、いかでかいまし(衍?)はしき磐代の松の故事を引いて(脱字?)手名《てな》はてん也。んにかよふなの事、上【攷證十七丁】にとけり。あはせ見てしるべし。考云、松を結びて、よはひをちぎるにひとしければ、此草は山菅をさしてよみ給ふならん。さて卷五に山草とあるを、山すげとよむによりて、こゝの草を山すげのことゝしるべき也云々。
11 吾勢子波《ワカセコハ》。借《カリ》廬《ホ・イホ》作良須《ツクラス》。草無者《カヤナクハ》。小松《コマツ》下《カモト・シタ》乃《ノ》。草《カヤ・クサ》乎苅核《ヲカラサネ》。
(48)借《カリ》廬《ホ・イホ》作良須《ツクラス》。
借廬《カリホ》は、上【印本九丁】に借五百《カリホ》とかけるも、借字にて、假のいほりなり。印本、かりいほと訓しかど、かりほとよむべきなり。そは本集十五【廿五丁】に、波都乎花可里保爾布伎弖《ハツヲハナカリホニフキテ》云々などあるがごとし。考云、古へは、旅ゆく道のまに/\、假庵作りて、宿れりし也。この事下【攷證二下六十五丁】にもいへり。
草《カヤ》。
草は、舊訓のまゝかやとよむべし。かやとは、草の事にて、後世のごとくかやとて一種の草あるにあらざる事、屋根を葺料の草にかぎりたる事、古事記上卷に鹿屋野比賣《カヤヌヒメノ》神と書たるを、書紀神代紀上には草野姫《カヤヌヒメ》と書たるにても、思ふべし。猶集中いと多し。
小松《コマツカ》下《モト・シタ》乃《ノ》。
小松下《コマツカモト》の、下を、印本したとよみつれど、元暦本に、もとゝよめるによるべし。上【攷證二十丁】に、五可新何本《イツカシカモト》とある所にいへるがごと、説文に、木下曰v本とあるにても思ふべし。
苅《カラ・カリ》核《サネ》。
舊訓、かりさねとあれど誤り也。此詞、集中いと多くて、みなからさね、のらさね、ゆかさねなど、からせ、のらせ、ゆかせといふをのべていふ言なれば、必からさねとよまではかなはぬ所也。さねといふ言の事は、上【攷證二丁】にいへり。核《サネ》とかけるは、借字なるのみ。和名抄菓具に、核を佐禰とよめり。さて、苅の字、字書に見えず。こは、釆女の釆を※[女+采]に作り、鞍作の鞍を按に作れる類にて、中國附會の文字なるべし。
(49)12 吾欲之《ワカホリシ》。野島波見瀬追《ヌシマハミセツ》。底深伎《ソコフカキ》。阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》。珠曾不拾《タマソヒロハヌ》。
吾欲之《ワカホリシ》。
欲は、字のごとし。本集二【廿六丁】に、欲見吾爲君毛《ミマクホリワカセシキミモ》云々などあると、同意にて、常に見まくほしと思ひし野島を、けふこそ君が見せつれと也。また、書紀武烈紀に、婀我褒《アカホ》屡※[木+施の旁]摩能《アカホルタマノ》云々。釋日本紀引2私記1て、古歌謂v欲爲2保留1云々などあるも見るべし。
野島波見世追《ヌシマハミセツ》。
野島は、淡路にも同名あれど、こゝにいへるは紀伊國なり。そは、宣長が玉勝間に、野島阿胡根浦は、日高郡鹽屋の浦の南に野島の里あり。その海べをあこねの浦といひて、貝の多くより集る所也云々とあり。見世追《ミセツ》は、人のわれに見せつ也。はじめにもいふごとく、中皇命御兄、大兄皇子などにいざなはれおはしましけんなれば、つね/”\紀の國へゆきかひし人々などにきゝて見まくほしと、おぼしわたりし野島を、此度|誘《イサナ》ひおはして、われに見せしめ給へりと、よろこびのたまへるなるべし。本集三【二十丁】に吾妹兒二猪名野者令見都《ワキモコニヰナヌハミセツ》云々とあり。考には、この一句或本の歌をとりて、子島羽見遠《コシマハミシヲ》と直されしかど、いかゞ。そは、いかにしても心得がたき所をば、意をもて改むるも、學者の常なれど、もとのまゝにて心得らるるだけは、そのまゝにありたきわざなるを、かくみだりにあらためなどせらるゝは、罪おほきわざならずや。
阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》。
考云、これも紀伊にあるべし。さて、聖武天皇、此國へ幸有て、若浦の字をあらためて、明光《アカノ》浦とせさせ給ひしは、和加と阿加と言の通へばか。又そ(50)のころ、若浦とは書ども、本は阿加浦と唱へし故にもあるべし。こを思ふに、其始は阿古根の浦と云しを、後に阿加の浦といひしにやあらん。胡根のつゞめ、氣《ケ》なれば、おのづから、阿加とも和加ともなりぬべし。集中に吾大君《ワカオホキミ》を阿期大君《アコオホキミ》ともいひ、志摩國の安呉《アゴ》の浦を、吾浦と書しを、後に若の浦と誤り、又阿波宇美を阿布美と唱ふるごとき約言も、多ければなり。そのうへ、この命のいましけんころに、わかの浦てふ名あらば、これにもれじやともおぼえ、玉拾はんも同じ浦によしあり。
珠曾不拾《タマソヒロハヌ》。
阿胡根《アコネ》の浦は、底深きにより、珠ばかりぞひろはぬとなり。珠は海底にあるものなれはしかいへり。そは本集七【三十一丁】に、海底沈白玉《ワタノソコシツクシラタマ》、風吹而海者雖荒《カセフキテウミハアルトモ》、不取者不止《トラスハヤマシ》云々。また大海之水底照之《オホウミノミナソコテラシ》、石著玉《シツクタマ》、齋而將採《イハヒテトラン》、風莫吹行年《カセナフキソネ》云々などあるがごとく、集中いと多かり。また初學記引2禮斗威儀1云、其政年徳至2淵泉1、則江海出2明珠1云々とあるにても、海中より出ることを知るべし。さて、玉を拾ふといへるは、本集七【十三丁】に、住吉之名兒之濱邊爾《スミノエノナコノハマヘニ》、馬立而《ウマテテヽ》、玉拾之久《タマヒロヒシク》、常不所忘《ツネワスラレス》云々。また雨者零《アメハフル》、借廬者作《カリホハツクル》、何暇爾吾兒之鹽干爾王者將拾《イツノマニアコノシホヒニタマハヒロハン》云々などあるがごとし。(頭書、催馬樂紀伊州可v考。)
或云。吾《ワカ》欲《ホリシ・ホリ》。子《コ・シ》島者《シマハ》見《ミシ・ミツル》遠《ヲ》。
或云。
印本、或頭云とせり。元暦本に、頭の字なきにしたがふ。集中、或本歌、一書、一云、一本云などかく例なるを、或頭云とはいかなることぞや。又考るに、或頭書云とあり(51)し、書の字を脱せる歟。又は、或歌云とありし、歌の字を頭に誤れるか。
子島羽見遠《コシマハミシヲ》。
子島きの國にありや、不v知。みしをとあるは、本書よりまされり。されば、考にはとられつるなり。
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1。曰。天皇御製歌云々。
集中の例もておすに、右三首とか、右一首とかありしを、脱せしなるべし。右とのみありては、三首か一首か不v詳。
中大兄。近江宮御宇天皇。三山御歌一首。并短歌二首。
中大兄。
中大兄は、天智天皇の御諱なり。皇胤紹運録云、天智天皇、諱葛城、又中大兄皇子、又號2天命開別尊1云々。書紀皇極紀云、四年春正月庚戌、讓2位於輕皇子1、立2中大兄1、爲2皇太子1云々。本紀云、天命開別天皇、息長足日尋額天皇太子也、母曰2天豐財重日足姫天皇1云云。十年冬十二月、癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1云々、などあるがごとし。さて考には、皇太子を申す例なりとて、命の字を加へて、中大兄命とせられしかど、皇極紀をはじめにて、つぎつぎの紀にも多く見えさせ給へど、命、尊などの字なく、皆中大兄とのみあれば、こゝも本のまゝに、命の字なきをよしとす。近江宮御宇天皇、この七字、印本大字にかけり。今、元暦本、仙覺抄などによりて、改て小字とせり。
(52)三山。
三山は、御歌に見えたる香山、畝火、耳成の三つの山也。さて、この山のあらそひし事は、仙覺抄引2播磨國風土記1云、出雲國阿菩大神、聞2大和國畝火、香山、耳梨三山相闘1、以v此歌(欲)v諫v山、上來之時、到2於此處1、乃聞2闘|山《(マヽ)》1、覆2其所v乘之船1、而坐之、故號2神集之形覆1云々と見えたり。考云、これはかの三の山を見まして、よみ給へるにはあらず。播磨國印南郡に往ましし時、そこの神集てふ所につけて、古事のありしを聞してよみ給へるなり。
御歌。
この御の字印本なし。目録と集中の例とによりて補ふ。
并短歌二首。
この五字も印本なし。これも目録と集中の例とによりて補ふ。さて次の御歌の、反歌二首の中、後の歌は、まへの反歌にはあらじと思へど、目録に二首とあるにしばらくしたがふのみ。
13 高山波《カクヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネヒヲヽシト》。耳梨與《ミヽナシト》。相諍競伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カクニアルラシ・カヽルニアラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカニアレコソ》。虚蝉毛《ウツセミモ》。嬬乎《ツマヲ》。相格《アラソフ・アヒウツ》良思吉《ラシキ》。
高山《カグヤマ》。
高山をかぐ山とよむにつきで、考に、高は香の誤り也とて、本文をさへ香山と改められしは甚しき誤りなり。又代匠記に、かぐ山を高山とかきて、しかよむ事は、神代より名高(53)き山にて、他の山にことなれば(意)をもてかけりといはれしも、又誤りなり。香山とかきて、かぐ山とよむも、かう〔右○〕のう〔右○〕をく〔右○〕に轉じて、音を用ふる借字なれば、高山とかくと同じ。高も、かうの音なればなり。和名抄に、越後國の郷名、勇禮を、以久禮《イクレ》とよみ、上總國の郡名望陀を、本集十四【九丁】に宇麻具多とあるにても、う〔右○〕をく〔右○〕に轉じたる地名の例をしるべし。又代匠記の説もいかが。名高き山ぞとて、高山とかゝんには、高山とかくべき山、いくらもあらんをや。さらば富士などをも高山とかくべきにや。
雲根火《ウネビ》。
古事記中卷に、畝火之白檮原宮《ウネヒノカシハラノミヤ》云々。同卷に宇泥備夜麻《ウネヒヤマ》云々。書紀神武紀に、畝傍山、此云2宇禰麋夜麻《ウネヒヤマ》1云々などありて、大和國高市郡也。集中いと多し。
雄男志等《ヲヽシト》。
をゝしは、書紀綏靖紀に雄拔《ヲヽシキ》、崇神紀に雄略《ヲヽシキ》、武烈紀に雄斷《ヲヽシキタハカリ》、天智紀に雄壯《ヲヽシ》などあるがごとく、をとこ/\しきなり。物語書などに、めゝしといふ言あるにむかへてしるべし。源氏葵卷に、をゝしくあざやかに心はづかしきさましてまゐり給へり云々。枕草子に、漢書の御屏風はをゝしくぞ聞えたる云々と見えたり。さてまた、代匠記云、第一の句は、かぐ山をばと心得べし。畝火のをゝしき山と、耳なし山とが、おの/\かぐ山の女山をわれえんとあらそふ也と見えたり。又このこと、木下幸文といふ人の説に、雲根火、雄男志は、雄々しの義にはあらで、雲根火を愛《ヲシ》との意也。さて畝火を、女山として、かぐ山と耳梨の二男山いどめる意とすれば、いとやすらか也といひしをよしとは思へど、雄男志とかきたる文字を見れば、舊説もまたすてられず。先、此集、借字を專らとすれど、猶こゝなどは、文字の意もとりたらんここちす。
(54)耳梨。
まへに引たる播磨風土記に、耳梨とかけり。本集十六【七丁】に無耳《ミヽナシ》の池あり。これ同所なるべし。古今集雜體に、みゝなしの山のくちなしえてしがな、思ひのいろのしたぞめにせん云々なども見えたり。考云、香山と耳梨は、十市郡、畝火は高(市)郡なれど、各一里ばかり間有て、物の三足のごとし。
相諍競伎《アヒラソヒキ》。
あひあらそふのあひは、詞にて、俗言にたがひになどいふに當れり。集中に、あひいふ、あひのまん、あひうづなひなどいふたぐひなり。諍競は、諍の一字にてあらそふとよむべきを、競の字を付たるは、本集十九【廿六丁】に、名平競爭登云々などありて、又漢土にも爭競といふ熟字もあれば、二字にてしかよまんこと論なし。考云、あひあらそひの言は、相諍二字にて、これに競をそへしは、奈良人のくせなり。字に泥むことなかれ。
神代從《カミヨヨリ》。
マデに引たる播磨風土記に、この三山のあらそひし事ありしは、神代のこと也。今そを思しいでゝ、かくのたまへるなり。
如此爾有良之《カクナルラシ・カヽルニアラシ》、.
かくなるらしとよむべし。考には、しかなるらしとよまれしかど、如此の字をしかとよみし事、物に見えず。必らずかくとよむべき字也。そは、古事記中卷に、如此之夢《カクノイメ》云々。續紀卷一詔に、如此之状《カクノサマ》云々。本集二【八丁】如此許《カクハカリ》云々などあるがごとし。集中猶多し。爾有良之《ナルラシ》の、爾有の二字、舊訓、にあるとよめれど、こはなるらしとよむべきなり。にあの約まり、な也。次に、然爾有許曾とあるも、同じ。下【廿七丁】にもこの語見えたり。可v考。
(55)古昔母《イニシヘモ》。
こは、上に神代よりとある神代をさし給へり。さて、古か昔か一字にても、いにしへとよまんを、かく書るは、上に諍競の二字をあらそふとよめるたぐひ也。本集三【四十八丁】に、古昔爾有家武人之《イニシヘニアリケムヒトノ》云々とあるがごとし。
然《シカ》爾有《ナレ・ニアレ》許曾《コソ》。
考には、しかなれこそと訓直されしにしたがふべし。集中、すべて爾有と書るは皆なるなり。なれとつゞめて訓べき也。そはなれこそは、にあればこそといふ、ばの字をはぶける也。この訓下【廿二丁】天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアリコソ》云々とあり。その所【攷證一ノ下廿七丁】にいへり。
虚蝉毛。
枕詞也。冠辭考に現《ウツヽ》の身といふことなりとあるに、しばらくよるべし。
嬬乎《ツマヲ》相格《アラソフ。アヒウツ》良思吉《ラシキ》。
相格は、舊訓あひうつとあれど、あらそふとよむべき也。宣長云、相格はあらそふとよむべし。二卷【卅四丁】相競《アラソフ》、十卷【十丁】相爭《アラソフ》など、相の字をそへて二字にかける例なり。又格の字をあらそふと用るは、十六卷【六丁】に有2二壯士1、共挑2此娘1、而捐v生格競などもあり。嬬をあひうつといひては、理り聞えがたし云々とあるをよしとす。さて、格は汲家周事武稱解注に、格闘也とあるにても、こゝはあらそふとよまん事、論なし。良思吉《ラシキ》は、こその結び詞のらしに、きをそへたるなるべし。考云、紀【推古】おほきみのつかはす羅志枳《ラシキ》。また卷十六|偲家良思吉《シヌヒケラシキ》とあるも同じ。後世はこれを上下して、けるらしといへり云々。また、代匠記云、つまをあらそへる事は、この末に見えたる縵子《カツラコ》、櫻兒《サクラコ》、あしやのうなゐをとめなどのたぐひなり(56)云云。
反歌。
14 高山與《カクヤマト》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》。相之時《アヒシトキ》。立見爾來史《タチテミニコシ》。伊奈美國波良《イナミクニハラ》。
相之時《アヒシトキ》。
略解云、畝火は爭ひまけて、かぐ山と耳梨と逢し也。立て見にこしは、かの阿菩大神の來り見し事をのたまへり云々。この説の中に、立て見にこしを、阿菩大神とするはいかゞ。この御歌どもは、考にもいはれしがごと、天皇、播磨國印南郡に行幸ましましゝ時、そこにてよみ給ひし御歌也。しかも、この三山のあらそひの事、かの國の風土記にものりて、神集《カンツメ》といふ地もあれば、この印南郡ぞ、其山どもの相《アヒ》しを、かたはらに立て見たらんとの意なるべし。さて又木下幸文説云、二つの男山の、あらそひ、相向ひ戰ふ事をいへる也。さてこそ、出雪國阿菩大神、諍ひを諫めんとおぼして、この所まで出ませりとある、播磨風土記のおもむきにも、いとよくかなひたれ。
伊奈美國波良《イナミクニハラ》。
和名抄國郡部云、播磨國印南【伊奈美】云々。考云、伊奈美国ははりまの郡の名也。古へは、初瀬國、吉野國ともいへるごとく、一郡一郷をも、國といへり。この事は、下【攷證三下卅三丁】にもいふべし。原とは、廣く平らかなるを惣ていふ云々。
(57)15 渡津海乃《ワタツミノ》。豐旗雲爾《トヨハタクモニ》。伊埋比沙之《イリヒサシ》。今夜乃《コヨヒノ》月《ツク・ツキ》夜《ヨ》。清明《アキラケク・スミアカク》己曾《コソ》。
渡津海《ワタツミ》。
こは枕辭な|ら《(マヽ)》ねの冠辭考にくはし。集中、綿津海《ワタツミ》、方便海《ワタツミ》など書れど、渡津海とかける正字也。山にはこゆといひ、海には渡るといへれば、渡つ海の義にて、つは助字、みは海の略なり。そはつの引聲うなれば、うをはぶけるなり。本集下【廿六丁】に對馬乃渡渡中爾《ツシマノワタリワタナカニ》云々とあるにても、わたは渡る事なるをしるべし。
豐旗雲《トヨハタクモニ》。
豐はた雲の豐は、物をほめもし祝しもする詞にて、豐葦原《トヨアシハラ》、豐明《トヨノアカリ》、豐榮上《トヨサカノホリ》、豐御酒《トヨミキ》、豐泊瀬道《トヨハツセチ》、豐年《トヨノトシ》などいふ豐と、おなじ言にて、ものゝ大《オホ》きく多《サハ》にて、足滿饒《タリミチユタカ》なる意也。そは、周易※[掾の旁]下傳に、豐大也云々。國語周語注に、豐厚也云々。毛詩湛露傳に、豐茂也云々。文選東京賦、李周翰注に、豐饒也云々。廣雅釋詁一に、豐滿也云々などあるがごとし。旗雲は、雲の旗のごとく、長くなびきたるをいふなるべし。文徳實録云、天安二年六月庚子、早旦、有2白雪、自v艮亘v坤、時人謂2之旗雲1云々。八月丁未、夜有v雲竟天自v艮至v坤、人謂2之旗雲1云々。袖中抄卷一に、無名抄云、とよはた雲といふは、雲のはたてといふも同じこと也。日いらんとする時に、西の山ぎはに、あかくさま/”\なるくもみゆるが、はたのあしの、風にふかれてさわぐに似たる也云々などあるがごとし。古今集戀一に、夕ぐれはくものはたてに物ぞ思ふ、あまつそらなる人をこふとて云々とあるも、袖中抄の説のごとく、旗手なり。又懷風藻、大津皇子遊獵詩に、月弓輝2谷裏1、雲旌張2嶺前1云々とあるを(も?)、雲のはたのごとくなるをのたまへり。
(58)伊理比沙之《イリヒサシ》。
入日のさせるなり。
月夜《ツクヨ・ツキヨ》。
月夜は、舊訓つきよとあれど、つくよとよむべき也。そは、本集十八【十丁】に、登毛之備乎都久欲爾奈蘇倍《トモシヒヲツクヨニナソヘ》云々。廿【四十七丁】に、伎欲伎都久欲爾《キヨキツクヨニ》云々などあるがごとし。
清明《アキラケク・スミアカク》己曾《コソ》。
清明の二年を、舊訓、すみあかくこそとよめれど、考に、今本、清明の字を、すみあかくと訓しは、萬葉をよむ事を得ざるものぞ。紀にも、清明心をあきらけき心と訓し也云々といはれつるごとし。さて、己曾は、下へ意をふくめて、とぢめたるてにをは也。こそあらめといふごとく、詞をつけてきくべし。○考云、此一首は、同じ度に、印南の海べにてよみましつらん。故に右につぎてのせしなるべし。下に類あり云々。
右一首歌。今案不v似2反歌1也。但。舊本。以2此歌1載2於反歌1。故今猶載v此歟。亦紀曰。天豐財重日足姫天皇。先四年乙巳。立2天皇1爲2皇太子1。
載此歟亦。
元暦本、載の下に、朱をもて如の字あり。歟亦の二字を、次立に作れり。活本、歟字を次に作れり。されど此本まされり。
(59)天豐財重日足姫天皇。
御謚、皇極天皇と申す。後に重祚ましまして、齊明と申す。上にくはし。
立2天皇1爲2皇太子1。
書紀、皇極紀云、四年六月庚戌、譲2位於輕皇子1、立2中大兄1爲2皇太子1云々。印本、立の字の(下脱?)に、爲の字あり。今、元暦本に依てはぶけり。
近江大津宮御宇天皇代。天命開別《アマツミコトヒラカスワケノ》天皇
天皇御謚を天智と申す。書紀本紀云、天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也、母曰2天豐財重日足姫天草1云々。六年春三月、辛酉朔己卯、遷2都于近江1云々。十年冬十二月、癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1云々と見えたり。大津宮といひし事、書紀に見えず。はじめて續日本紀に見えたり。そは、天平神護二年正月詔に、掛《カケマクモ》畏岐|淡海《アフミ》乃大津宮仁、天下所知行《シロシメシ》之、天皇我御世爾云々とあると、下の人麿の歌に出たるや、はじめならん。
天皇詔2内大臣藤原朝臣1。競2燐春山萬花之艶。秋山千葉之彩1時。額田王。以v歌判v之歌。
内大臣。
書紀孝徳紀云、以2大錦冠1、授2中臣鎌子連1、爲2内臣1云々。天智紀云、八年冬十月、丙午朔庚申、天皇遣2東宮大皇弟於藤原内大臣家1、授3大織冠與2大臣位1、仍賜v姓爲2藤原(60)氏1、自v此以後、通曰2藤原大臣1云々。職原抄云、孝徳天皇御宇、以2中臣鎌子連1、始爲2内臣1、天智朝擧爲2内大臣1、賜2藤原朝臣姓1、此時其位在2左右大臣上1云々とあるごとく、内大臣の官はこの鎌子公はじめなり。
藤原朝臣。
こは鎌足公をいへり。藤原は氏、朝臣は姓なり。傳は下にあぐるを見るべし。さてこゝに、考并別記にも、いと長き論あり。そは皆誤りなれど、見ん人のまどひをとかんために、こゝに論ぜり。よく/\考へてしるべし。さてまづ、考云、これはいまだ、後岡本宮にての事と見ゆれば、内臣中臣連鎌足と本は有つらんを、後より崇みて、かく書たる也云云。この説誤れり。何によりて、後岡本宮にての事とは定られしにか。此次の歌を、左注の説に、都を近江にうつされし時の歌也とある、その歌より前にのせたれば、後岡本宮の時なるべしとは定られしならん。はじめより、考には、この集の左注并類聚歌林をも、うけがたきものゝよしにて、すてられしならずや。それを又とらるゝは、首尾あはざる事也。さて、この歌は、近江大津宮にての事也。さる證は、天智天皇六年、都を近江にうつされしよし、前に引たる本紀に見えて、そのころ、鎌足公、内大臣におはしたりとおぼしければ、この歌を、大津宮にての事とするに、なにのうたがひかあらん。又考云、今本に朝臣の姓《カバネ》をさへ書しは、ひがごとなれば、除きて下の例によりて卿とす云々。この説、又誤り也。鎌足公、藤原の氏を給はりし時、朝臣の姓をも、共に一度にたまはられし也。尤、天智紀に、賜v姓爲2勝原氏1とのみありて、朝臣の事はあらざれど、氏ばかりを賜はりしならば、賜v氏爲2藤原1などあるべし。賜v姓とあるからは、その時、一(61)度に、氏姓ともに賜はりし也。しかいふ證は、大織冠鎌足公傳に、授2大織冠1、以任2内臣1、改v姓爲2藤原朝臣1云々。扶桑略記に、八年十月十三日、内臣鎌足、任2内大臣1、改2中臣姓1、賜2藤原朝臣1云々。職原抄に、天智朝、擧爲2内大臣1、賜2藤原朝臣姓1云々とあるごとく、一つならず、三つまで、姓氏共一度に賜はりしをしるせるうへに、此集にもかくあれば、合せて四部の書どもに、符合せり。さるにても、姓氏一度にたまはりしなしるべし。但し、書紀の書ざま、いとまぎらはしければ、書紀のみを見ん人は、疑はんもうべなり。又考云、下の例によりて卿とす云々。これ又誤り也。尤、下に内大臣藤原卿、贈左大臣北卿などあれど、そは、其人のうへをのみ、かく時の例也。こゝは、天皇にむかへ奉りて、かけるうへに、こゝは詔し給ふ所なれば、姓のみかは、諱をかくとも、何のはゞかりあらじをや。さる證は、續日本紀に、養老四年八月辛巳朔、詔曰、右大臣正二位藤原朝臣、疹疾漸留、寢膳不v安云々。本集十七【十三丁】に、左大臣橘宿禰、應v詔歌云云。鎌足公傳に、遣2宗我舍人臣1、詔曰、内大臣某朝臣云々などあるがごとく、詔の例也。又考別記云、朝臣のかばねは、天武天皇十三年に至て、賜て、鎌足公の時は、中臣連なりしかど、惣て、後によりてしるすからは、姓もしかあるべきかと思ふ人有べけれど、此集の例にたがふ事、右にいふごとくなれば、とらず云々。此説又誤り也。右のごとくいはれしは、新撰姓氏録卷十一に、藤原朝臣云々、内大臣大織冠 中臣連鎌子、天命開別天皇、謚天智八年、賜2藤原氏1、男正一位贈太政大臣、不比等、天渟中原瀛眞人天皇謚天武十三年、賜2朝臣姓1云々とあるによりてなるべけれど、書紀天武紀、十三年に、朝臣の姓を賜はりし五十二氏の中に、藤原氏はなきを思へば、天智紀に、賜v姓爲2藤原氏1とまぎらはしく、しるし給へりしを、姓氏録にも、見誤り給ひ(62)しなるべし。されば、姓氏録といへども、誤りなしとは定めがたし。たゞ多くの書にあるを、まことゝはすべし。くれ/”\も、朝臣の姓は、鎌足在世に賜はりしなれば、こゝに藤原朝臣とあるも、誤りならず。○鎌足公傳云、内大臣、諱鎌足字中郎、大和國高市郡人也、其先出v自2天兒屋根命1、世掌2天地之祭1、相2和人神之間1、仍命2其氏1曰2中臣1、美氣古卿之長子也、母曰2大件夫人1云々。
萬花。
萬花は、いろ/\の花をいへり。杜甫詩に、紫萼扶2千蕊1、黄鬚照2萬花1云々。儲嗣宗、晩眺2延福寺1詩に、片水明在v野、萬花深見v人云々など見えたり。
艶《ニホヒ》。
にほふとよむべし。本集十【十丁】開艶者《サキニホヘルハ》云々。左氏桓元年傳注云、美色曰v艶云々とあるがごとし。
千葉。
千葉は、いろ/\の紅葉をいへり。魏收詩に、神山千葉照、仙草百根香云々。杜甫詩に、終然※[手偏+長]撥損、得※[女+鬼]千葉黄云々など見えたり。
判《コトワル》。
ことわるとよむべし。書紀繼體紀に、天恩|判《コトワリタマヘ》云々。假名玉篇に判コトワル云々などあり。○右端辭に、競憐とあるは、天皇と内大臣と春秋のあはれをきそひあらそひ給ふ也。さて、春秋をあらそふ事は、拾遺集雜下に、ある所に春秋いづれかまされるととはせ給ひけるに、よみて奉れる、貫之、はる秋に思ひみだれてわきかねつ、時につけつゝうつる心は云々。元良のみこ、承香殿のとしこに、春秋いづれかまさるととはせ侍りければ、秋もをかしう侍りといひければ、おもしろき櫻を、これはいかにといひて侍りければ、おほかたの秋に心はよせしかど花見る時はい(63)づれともなし云々。よみ人しらず、春はたゞ花のひとへにさくばかりものゝあはれはあきぞまされる云々などありて、又伊勢物語、更科日記、新古今集、源氏物語、その外これかれに見えたれど、この集ぞはじめなりける。されど、古事記中卷に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタヒヲトコ》と、春山之霞壯夫《ハルヤマノカスミヲトコ》と、伊豆志《イツシ》をとめをいどみし事あり。これこゝによしありてきこゆ。又漢土にも、春秋をくらべし事あり。そは侯鯖録卷四に、元祐七年正月、東坡先生、在2汝陰州1、堂前梅花大開、明色鮮霽、先生|王《(マヽ)》夫人曰、春月色勝2如秋月色1、秋月色令2人悽慘1、春月色令2人和悦1云々などあり。
16 冬《フユ》木成《コモリ・キナリ》。春去來者《ハルサリクレハ》。不喧有之《ナカサリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不聞有之《サカサリシ》。花毛佐家禮杼《ハナモサケレト》。山乎《ヤマヲ》茂《シミ・シケミ》。入而毛不取《イリテモトラス》。草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミス》。秋山乃《アキヤマノ》。木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉《モヅ・モミヂ》乎婆《ヲハ》。取而曾思奴布《トリテソシヌフ》。青乎者《アヲキヲハ》。置而曾歎久《オキテソナケク》。曾許之恨之《ソコシウラメシ》。秋山吾者《アキヤマ(・ソ)ワレハ》。
冬《フユ》木成《コモリ・キナリ》。
舊訓、誤れり。ふゆごもりとよむべきなり。冬ごもりとは、考に、冬は、萬の物内に籠りて、春を得てはりいづるより、此詞はあり云々と、いはれしがごとく、冬こもりたりしかど、春にしなれば、冬のほどなかざりしも鳥もなき、さかざりし花もさけりと也。さて考に、今本に、冬木成と書て、ふゆごもりと訓しは、言の例も、理りもなし。そは、盛の草は、※[盛の草書]とかくを、※[成の草書]と見誤りて、成と書なしたるものなり。故に古意と例によりて、改めつ云々、とて、冬木盛と改められしは、甚しき誤りなり。そは本集二【卅四丁】に、冬木成《フユコモリ》、春去來者《ハルサリクレハ》云々。三【卅八丁】(64)冬木成《フユコモリ》、時敷時跡《トキシクトキト》云々とあるのみならず、集中みな冬木成と、成の字をかけるうへに、釋名釋言語に、成盛也云々。禮記考工記注に、盛之言成也云々。周禮掌蜃注に、盛猶v成也云々などあるにて、成と盛と通ずること明らかなれば、冬木成を、冬ごもりとよまん事、論なきをや。すべて、考には、この歌の端辭の朝臣を卿と直し、又こゝの成を盛と直されしごとく、よくたゞしもせで、みだりに直されし事おほきは、古書をそこなへる罪すくなからず。その誤りを、又略解にもうけたれば、考も略解も、古書のまゝならず。心して見るべき書なり。(頭書、冬木成は枕詞なる事。)
春去來者《ハルサリクレハ》。
集中いと多き詞也。春されば、秋されば、ゆふさればなどいふと同じ。さて、考に、去は借字にて、春になりくればてふ言也。になの約は、ななるを、さに轉じて、さりといへり云々といはれつるがごとく、春さらば、秋さらば、春さりぬればなどいふも、春にならば、秋にならば、春になりぬればの意なり。
不喧有之《ナカサリシ》。
こはなかずありしといふをつゞめて、なかざりしといへる也。されば、有の字はかけるなり。假名玉篇に、喧【サヘツル・ナク】云々とあり。
山乎茂【ヤマヲシミ】。
こは、考に、よまれしごとく、やまをしみとよむべL。しみは、繁き言にて、こゝの意は、山の草木を繁さに、入ても花をたをらずと也。しみは本集下【廿三丁】春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサヒタテリ》云々。九【卅一丁】茂立嬬待木者《シミタテルツママツノキハ》云々。十七【九丁】に烏梅乃花美夜萬等之美爾《ウメノハナミヤマトシミニ》云々とあるも同じく、しげき意也。古事記下卷に、多斯美陀氣《タシミダケ》とあるも、立繁竹にてこゝのしみと同じ。
執手母不見《トリテモミス》。
この訓を、考には、たをりても見ずと直されしかど、舊訓のまゝに、とりても見ずと訓べき也。すべて、集中文字のまゝによみては、言をなさゞる所は、(65)其字の義によりて、訓もし、又は字の音訓をかりても訓べき事なれども、文字のまゝによみて、其義通ずる所は、其まゝにおくべき也。その上、執の字は、本集十九【十九丁】に山吹乃花執持而《ヤマフキノハナトリモチテ》云々とあるにて、こゝもとりてとよまん事論なし。
黄葉乎婆《モミヅヲバ》。
考云、丹出《モミヅル》をば、折取て見|愛《メヅ》るをいへり。此しぬぶは、慕ふ意にで、其黄葉に向ひて、めでしたふなり。古歌に、花などに向ひて、をしと思ふと云は、散るを惜むにはあらで、見る/\愛《メヅ》る事なると心ひとし。毛美豆《モミヅ》は、赤《モミ》出るを略きいへり。これを毛美治婆《モミヂバ》といふは、萬曾保美出《マソホミイツ》るてふ言なり。何ぞといはゞ、毛《モ》は、萬曾保《マソホ》の、その萬《マ》は眞《マ》とほむる言、曾保《ソホ》はもと丹土《ニツチ》の名なるを、何にも赤きいろある物には、借ていふ也。美《ミ》は、萬利《マリ》の約、眞朱《マソホ》萬利也。染をそまり、赤きをあかまりと云類也。治《ヂ》は出《イヅ》るを略《ハブ》き轉じ、婆《バ》は葉也云々といはれしがごとくあれば、もみぢ、もみだす、もみでる、もみづるとはたらく語なれば、こゝは、もみづをばといひて、もみいづるをばといふ言なり。次の句の、青乎者《アヲキヲバ》といふにむかへてしるべし。さて、本集八【五十二丁】吾屋前之芽子乃下葉者《ワガニハノハキノシタハヽ》、秋風毛未吹者《アキカセモイマタフカネハ》、如此曾毛美照《カクソモミテル》云々。十四(十)【四十三丁】に、春日山乎令黄物者《カスカノヤマヲモミタスモノハ》云々。十四【廿五丁】に和可加敝流※[氏/一]能毛美都麻手《ワカカヘルデノモミヅマテ》云々などあるにても、はたらく語なるを知るべし。
思奴布《シヌフ》。
前の句の考の説のごとく、黄葉を折取て、愛ししたふ意にいへり。
(66)置而曾歎久《オキテソナケク》。
こはいまだ、そめもやらぬ木の葉は、木におきて、とくそめぬをなげきうらみませるなり。
曾許之恨之《ソコシウラメシ》。
宣長云、恨字は怜の誤りなり。そこし、おもしろしと訓也。うらめしにては聞えず云々。この説いかゞ。集中、※[立心偏+可]怜の二字をこそ、おもしろしとも、あはれとも、よみつれ。怜一字を、しかよみし例なし。さて思ふに、曾許之の之文字は、助字ながらも、その所の意をつよくして、そこぞなどいふごとく聞ゆるなり。この例、本集三【廿九丁】に春日者山四見容之《ハルヒニヤマシミカホシ》、秋夜者河四清之《アキノヨハカハシサヤケシ》云々。同【卅丁】に、欲爲物者酒西有良師《ホリスルモノハサケニシアルラシ》云々。四【廿六丁】三笠杜之神思知三《ミカサノモリノカミシシラサン》云々などある、し文字と、同じ格の助字にて、その所の意をつよくし、そこにかぎりたる所につかふ例なり。集中猶多し。さてこゝの意は、春秋とくらべ見れば、秋の方は、山野などにも入よくて、黄葉などをも、とりて見などよろづをかしけれど、そめもやらぬ木の葉をば、木におきて、とくそめぬことをなげくが、そこのみぞうらめしきといふ意也。上に引たる、し文字の格を、引合せ考ふべし。さて、中ごろよりの言に、それといふを、古くはそことのみいへり。この事は、下【攷證二中四十六丁】にいふふべし。
秋山《アキヤマ》(・ゾ)吾者《ワレハ》。
考には、秋山曾吾者と、曾文字を加へられしかど、なくても意聞えたり。さて、こゝの意は、宣長が説に、あき山われはとよむべし。それがおもしろければ、吾は秋山なりといふ意なり。秋山曾と、ぞをそへては、なか/\におとれり云々といへるがごとく、吾は秋山に心ひけり、吾は秋山なりといふごとく、語をうらうへにかへして聞くべし。
(67)額田王。下2近江國1時作歌。井戸王即和歌。
この端辭、いと疑はし。考に、大海人皇子命、下2近江國1時御作歌と直されしごとくする時は、意よく聞ゆれど、みだりに直すべきならねば、疑ひながらもさておきつ。さてその疑はしき故は、こゝの端辭の趣にては、額田王近江に下りし時、歌をよみし、その歌を井戸王が和せる歌なり。額田王は、上【十四丁】にいへるがごとく、女王なるを、この歌の反歌二首めの歌に、和我勢とあるを見れば、男の歌を和せる體也。集中男どち、兄《セ》といひし事はあれど、女どち、又は男より女をさして、兄《セ》といふべきいはれなき事は、書紀仁貿紀注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄、男以v女稱v妹云々とあるにて明らけし。
下2近江國1時。
こは、天智天皇六年三月、都を近江に遷されし時、御供に下られしなるべし。又は外の度歟。
井(ノ)戸《ヘノ》王。
書に見えず。考ふるに、書紀孝徳紀二年の條に、井上君といふ人あり。上も戸もへとよめば、訓かよへり。されば井上も、井戸も、訓同じかるぺければ、こゝによしありて聞ゆ。又井戸は氏にも見えず。
和歌。
こは考によまれしがごとく、こたへ歌とよむべし。集中、皆答報する所にいへり。後にかへし歌といふと同じ。書紀神代紀上、一書に陰神後和v之曰云々。列子周穆王篇注に、(68)和答也云々などあるにても、思ふべし。さてこゝの意は、額田王のよまれし歌に、答へられし歌なれど、そのもとの歌をば、あげずして、答へ歌のみをあげたる也。考に、和歌の字を端詞につづけて書しを、例なしとて疑はれしかど、さのみうたがふべくもあらず。(頭書、五ノ廿五ウ倭歌。)
17 味酒《ウマサケ》。三輪乃山《ミワノヤマ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良能山乃《ナラノヤマノ》。山《ヤマノ》際《マニ・ハニ》。伊隱萬代《イカクルマテ》。道隈《ミチノクマ》。伊積流萬代爾《イツモルマテニ》。委曲《ツハラニ・ツフサ》毛《モ》。見管行武雄《ミツヽユカムヲ》。數數毛《シハ/\モ》。見《ミ》放武《サケム・サム》八萬雄《ヤマヲ》。情無《コヽロナク》。雲乃《クモノ》。隱障倍之也《カクサフヘシヤ》。
味酒《ウマサケ》。
枕辭なれば、冠辭考にゆづれり。印本、うまさけのとよめど、の文字なく、四言によむべし。そは書紀崇神紀に宇磨佐開瀰和能等能々《ウマサケミワノトノヽ》云々などあるがごとし。
三輪乃山《ミワノヤマ》。
三輪山は、大和國城上郡なり。考云、飛鳥岡本宮より、三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里あまりありて、その中平らかなれば、奈良坂こゆるほどまでも、三輪山は見ゆる也。さて、その奈良山こえても、猶山の際よりいつまでも見放んとおは(ぼ?)しこゝかしこにて、かへり見したまふまに/\、やゝ遠ざかりはてゝ、雲のへだてたるを恨みて末未どもはある也。
(69)青丹吉《アヲニヨシ》。
枕ことばなれば、冠辭考にゆづれり。宣長云、青土《アヲニ》よし也。青土は、色青きつち也。よしのよは、呼《ヨヒ》出すことばにて、しは助辭なり。このよしは、眞菅よし、玉藻よしなどの類也。くはしくは古事記傳三十六にいへり。
奈良能山《ナラノヤマ》。
大和國添上郡なり。下【攷證四十七丁】に出。
山際《ヤマノマニ》。
山際は、山刀まにとよむべし。そは本集六【十三丁】象山際乃《キサヤマノマノ》云々。同【四十三丁】に、鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》云云。七【十丁】山際爾霞立良武《ヤマノマニカスミタツラン》云々などあるがごとく、際は間、または界などの意なり。字鏡集に、際【アヒタ】小爾雅に、際界也云々などあり。考云、山際の下に、從《ユ》の字落しか。
伊隱萬代《イカクルマデ》。
伊は發語にて、たゞかくるゝまで也。古事記下卷に、伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》云々などあるがごとし。
道隈《ミチノクマ》。
みちのくまは、みちのすみ/\、曲りなどをいへり。本集二【十五丁】に、道之阿囘爾《ミチノクマワニ》云々。同十九【十九丁】に、此道乃八十隈毎爾《コノミチノヤソクマコトニ》云々、など見えたり。又隈は、後漢書班彪傳注に、隈山曲なり云々などあり。
伊積流萬代爾《イツモルマテニ》。
伊は發語にて、たゞ數のかさなりつもるをいへり。
(70)委曲毛【ツハラニモ・ツフサニモ】。
つばらは、つまびらかにといへる也。曲の字を、假名玉篇に、つまびらかとも、つぶさともよめるに、本集三【三十丁】に曲々二《ツバラ/\ニ》云々などあると、思ひあはせて、つまびらかの意なるをしるべし。又本集九【廿二丁】に、國之眞保良乎委曲爾《クニノマホラヲツハラカニ》云々。十九【十一丁】に、八峯乃海石榴都婆良可爾《ヤツヲノツハキツハラカニ》云々など見えたり。さて、委曲の字は、毛詩箋、史記、禮書などに見えたり。
數數毛《シハ/\モ》。
しば/\は、たび/\などいはんがごとし。考には、一本によれりとて、數を一字はぶかれしかど、集中一字にても、二字にてもよめれば、いづれにてもありなん。そは十【十六丁】に、數君麻《シハ/\キミヲ》云々。十二【三丁】に有數々應相物《アラハシハ/\アフヘキモノヲ》云々などあるがごとし。
見《ミ》放《サケ・サ》武八萬雄《ンヤマヲ》。
見放武八萬雄《ミサケンヤマヲ》は、見やらん山を也。古事記上卷に、望の字をみさけとよめるごとく、見遣《ミヤル》意なり。本集一【五十二丁】一云|見毛左可受伎濃《ミモサカスキヌ》云々。十九【十一丁】に語左氣見左久流人眼《カタリサケミサクルヒトメ》云々などあるがごとし。又三【五十四丁】に問放流親族兄弟《トヒサクルウカラハラカラ》云々。續紀寶龜二年二月詔に、誰《タレ》爾加母我語《アカカタラ》比佐氣《サケ》牟孰《タレ》爾加母我問《アカト》比佐氣《サケ》牟止云々などあるも、こゝと同じくて情《コヽロ》を遣る意なり。
情無《コヽロナク》。
なさけなくなどいはんがごとし。
隱障倍之也《カクサフヘシヤ》。
隱障と、字をば書たれど、障は借字にて、かくすべしや也。さふの約り、す〔右○〕なれば、かくすとなれり。本集二十【五十一丁】に、加久佐波奴安加吉許己呂乎《カクサハヌアカキコヽロヲ》云々(と)あるも、さはの約り、さ〔右○〕なれば、かくさぬ也。又十一【八丁】に奧藻隱障浪《オキツモヲカクサフナミノ》云々とあるも、こゝと同語同字也。さてべしやのや文字は、うらへ意のかへるやにて、かくすべしや、かくさじをとい(71)へるなり。
反歌。
18 三輪山乎《ミワヤマヲ》。然毛隱賀《シカモカクスカ》。雲谷裳《クモタニモ》。情有南武《コヽロアラナム》。可苦佐布倍思哉《カクサフヘシヤ》。
然毛隱賀《シカモカクスカ》。
然毛《シカモ》は、俗言に、此やうにもといへる意也。本集二【卅五丁】に、萬代然之毛將有登《ヨロツヨニシカシモアラント》云云。四【五十六丁】に、然曾將待《シカソマツラン》云々などあるも同じ語也。かくすかの、か文字は、かなの意のか〔右○〕にて、かくすものかなといふやうに、歎息の意こもれり。さて、か〔右○〕は清めてよむべきを、濁音の賀の字をつかひしは、いぶかしけれど、集中、可河などの字を、清濁ともにまじへ遣ひし例なるべし。
雲谷裳《クモタニモ》。
雲谷の谷は、借字にて、本集二【卅三丁】。に明日谷將見等《アスタニミムト》云々。九【卅二丁】に今谷裳《イマタニモ》云々などあるがごとし。
情有南武《コヽロアラナム》。
心なき雲だにも、心して、わが見んと思ふ山を、かくさずもあれよと也。印本、武を畝に誤れり。今、古寫一本に依て改む。
可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》。まへに隱障倍之也《カクサフベシヤ》とあるに同じ。
(72)右二首歌。山上憶良大夫類聚歌林曰。遷2都近江國1時。御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰。六年丙寅。春三月。辛酉朔己卯。遷2都于近江1。御2覽三輪山1御歌。
考云、是に御覽、又御歌とあるをもて思ふに、すべて、集にも、歌林にも、天皇に御覧、また大御歌、皇太子と皇子には、御歌、王には歌とかけり。又御覽とは、天皇、皇太子にかくべく、皇子、王には書しことなし。
19 綜麻形《ミワヤマ・クマカタ》乃《ノ》。林始《シケキカモト・ハヤシハシメ》乃《ノ》。狹野《サヌ》榛《ハリ・ハキ》能《ノ》。衣爾著成《キヌニツクナス・コロモニキナシ》。目爾都久和我勢《メニツクワカセ》。
綜麻形《ミワヤマ・クマカタ》乃《ノ》。
綜麻形の三字、舊訓には、くまかたとよみ、代匠記には、そまかたを(と?)よまれしを、僻案抄にみわた(みわ?)山とよみしは、感ずべきこと也。さて、是をみわ山とよめる故は、古事記中卷に、活玉依毘賣《イクタマヨリヒメ》、其容姿端正、於v是有2神壯夫1、其形姿威儀、於v時無v比、夜半之時、倏忽到來、故相感共婚、供住之間、未v經2幾時1、其美人妊身、爾父母怪2其妊身之事1、問2其女1曰、汝者自妊、無v夫何由妊身乎、答曰、有2麗美壯夫1不v知2其姓名1、毎夕到來、供住之間、自然懷妊、是以、其父母、欲v知2其人1、誨2其女1曰、以2赤土1、散2床前1、以2閇蘇紡麻《ヘソヲヽ》1、貫v針、刺2其衣襴1、故如v教、而旦時見者、所v著v針麻者、自2戸之鉤穴1、控通而出、唯遺麻者|三勾《ミワ》耳、爾即知d自2鉤穴1出之状u、而從v糸尋行者、至2美和山1而留2神社1、故知2其神子1、故因2其|麻之三勾遺《ヲノミワノコルニ》1、而名2其地1、謂2美和《ミワ》1(73)也云々とあるがごとく、麻の三勾のこれるによりで、みわ山とはいへる也。さて閇蘇《ヘソ》は、假字にて、正字は綜麻《ヘソ》なる事は、仙覺抄に引たる、土佐國風土記に、以2綜麻1貫v針、及2壯夫之暁去1也、以v針貫v襴、及v旦也着之云々とあるにてしるべし。されば、上の故事によりて、綜麻の二字をみわとはよめる也。それに、形の字を附たるは、形の字をやまとよむべき爲也。いかにぞなれば、和名抄織機具に、楊氏漢語抄云、卷子【閇蘇今按本文未詳但閭※[菴の中が巳]所傳續v麻圓卷名也】云々とあるがごとく、綜麻の形は圓《マト》かなるものなれば、形の字をやまとはよめる也。山はまどかなるものゝよしは、上【攷證十九丁】の莫囂圓隣の久老が説にいへるがごとし。
林始《シケキカモト・ハヤシハシメ》乃《ノ》。
こは、僻案抄に、しげきがもとのとよみしぞよき。林は、木の繁きものなれば、しげきとよみ、始はものゝ本なれば、始をもとゝよまん事、理りにもかなひて、いかにもさる事ながら、證なくてはいかゞ。さて、その證は林をしげきとよむ事は、字鏡集に、林【シケシ】云々。淮南子説林篇注に、木叢生曰v林云々などあるがごとし。始をもとゝよむ事は、書紀神代紀上に元、下に本などを、はじめとよみ、荀子王制篇注に、始猶v本也云々など見えたり。さてこゝの語は、大祓詞に、彼方之繁木本乎《ヲチカタノシケキカモトヲ》云々なども見えたり。
狹野《サ》榛《ヌハリ・ノハキ》能《ノ》。
狹野《サヌ》の狹《サ》は、假字にて、發語也。狹の字をかきたる故に、せばき野の事と思ふ人あるべけれど、さにあらず。發語のさの字の例、さはだ、さばしる、さぬる、さわたる、さよばひなどの類、さの字みな發語にて意なし。榛《ハリ》は、考別記に、いと長き説あれど、わづらはしければしるさず。さて、その説に、芽子《ハギ》と一物なるよしいはれしがごとく、いかにも(74)榛と芽子とまがはしき歌ども多かれど、榛《ハリ》と芽子《ハキ》と、一物とするは、甚しき誤り也。そは、古事記下卷に、天皇畏2其|宇多岐《ウタキ》1登2坐|榛上《ハリノキ》1、爾歌曰云々とて、のせたる大御歌に、波埋能紀能延陀《ハリノキノエダ》とありて、本集七【二十四丁】に、衣服針原《コロモハリハラ》云々。十四【十三丁】蘇比乃波里波良云々などあるにても、芽子《ハキ》とは一物ならで、榛ははりとよまん事、論なきをや。さて、この木を衣に摺《スル》よしは、下【攷證一ノ下四十四丁】に、引馬野津爾仁保布榛原《ヒクマノニニホフハリハラ》云々とある所にいふべし。又此木を、宣良は今の世に、はんの木といふもの也といへりしかど心得ず。さる故は、延喜大學寮式、釋奠の供物に、榛子人《ハリノミノサネ》云々。宮内式、諸國例貢御贄に、大和|榛子《ハリノミ》云々。大膳式上、釋奠祭料に、榛人《ハリノサネ》云々。同下、諸國貢進菓子に、大和國榛子《ハリノミ》云々などあるを見れば、榛の實は食するものと見えたり。そのうへ、人といふは核《サネ》の事にて、核をさへ供するはあまり小き實の物とは見えず。又、周禮※[竹冠/邊]人に、※[食+貴]食之※[竹冠/邊]、其實棗〓桃乾〓榛實云々。注に榛似v栗而小云々ともあれば、漢土にても食する物也。今はんの木にも實はあれども、なか/\食料の物にあらず。されば、榛の木、今の名はいかにいふかしれがたきものなり。猶本草にくはしき人にとふべし。(頭書、今云はしばみなる事あぐべし。)
衣爾著成《キヌニツクナス・コロモニキナシ》。
こは、衣につくごとくといふ意也。すべて、なすといふ語は、みなごとくといふ意なること、書紀神代紀下、一書に、如2五月蠅《サハヘナス》1云々とあるに明らけし。また、本集下【廿二丁】に、玉藻成浮倍流禮《タマモナスウカヘナカレ》云々。二【廿二丁】に、鳥翔成有我欲比管《ツハサナスアリカヨヒツヽ》云々。同【卅八丁】に、入日成隱去之鹿齒《イリヒナスカクレニシカハ》云々などありて、集中猶いと多し。
目爾都久和我勢《メニツクワカセ》。
目に付なり。この歌序歌にて、榛の木を衣にすりて、そのいろの衣につくごとく、君がみかたちの、わが目につけりと也。めにつくは、本(75)集七【廿九丁】に、斑衣服面就《マタラコロモハメニツキテ》云々などあるがごとし。さて、考には、この歌の前に、額田姫王奉v和歌と、端辭をいれられたり。いかにも、左ありたき所なれど、みだりに加ふべきならねばはぶけり。
右一首歌。今案。不v似2和歌1。但。舊本載2于此次1。故以猶載焉。
この左注、こゝろ得ず。端辭分明ならざれば、右の歌、和する歌にかなへりともかなはずともしれがたきをや。右の歌どもを考の説のごとく見る時は、いとよくきこえたれば、この注なほ/\こころ得ず。
天皇遊2獵蒲生野1時。額田王作歌。
遊獵
書紀本紀云、七年夏五月五日、天皇縱2獵於蒲生野1、于v時、皇豐弟諸王内臣及群臣、皆悉從焉云々。
蒲生野。
和名抄郡名云、近江國蒲生【加萬不】云々。書紀本紀云、九年春二月云々、于v時、天皇、幸2蒲生郡遺邇野1而觀2宮地1云々。
20 茜草指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキノユキ》。標野行《シメノユキ》。野守者不見哉《ノモリハミスヤ》。君之袖布流《キミカソテフル》。
茜草指《アカネサス》。
こは枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。あかねさすは、赤き氣のさすなれば、紫も赤きけのあるものなれば、しかつゞけたるなり。和名抄染色具に、東名苑注云茜【蘇見反和(76)名阿加禰】可2以染1v緋者也云々。延喜縫殿式、深緋綾一疋、茜大四十斤、紫草卅斤云々。また古事記上卷に、阿多※[尸/工]都伎《アタネツキ》云々とあるも茜也。
武良前野逝《ムラサキノユキ》。
紫野行也。紫野は、山城國愛宕郡に同名あれば、こゝは地名にあらず。蒲生野のうちにて、紫の生たる所をのたまへる事、次の御歌に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》云々などあるがごとし。本草和名に、紫草和名无良佐岐云々。さて逝は、行なり。爾雅釋詁に、逝往也云々。廣雅釋詁一に、逝行なり云々などあるがごとし。
標野行《シメヌユキ》。
標野《シメノ》は、御獵し給はん料にまれ、草などつみ給はん料にまれ、人を入ず、標《シメ》おかしめ給ふ野也。そは、本集七【卅四丁】に、我標之野山之淺茅《ワカシメシヌヤマノアサチ》云々。八【十五丁】に、春菜將抹跡標之野爾《ワカナツマントシメシヌニ》云々。同【卅一丁】に、吾標之野乃《ワカシメシヌノ》云々などあるがごとし。猶下【攷證二上卅四丁】にもいへり。
野守《ノモリ》。
野守は、山守、關守のごとく、野に人をすゑて守らしめ給ふ也。古今春上、よみ人しらず、春日野のとぶ火の野守いでて見よいまいくかありてわかなつみてん云々とある野守も同じ。
君之袖布流《キミカソテフル》。
袖ふるとは、男にまれ、女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよ/\とをかしげなるをいふ事にて、そは、本集二【十九丁】に、我振袖乎妹見都良武香《ワカフルソテヲイモミツラムカ》云々。八【卅四丁】に、袖振者見毛可波之都倍久《ソテフラハミモカハシツヘク》云々などありて、猶多し。さて、この歌の意は、むらさき野、しめ野などを、ゆかせ給ふ君が、袖ふり給ふを、野守は見ずや、いかにとい(77)へるのみ也。さて、この哉は、疑て問かくるやなり。この事【攷證四中卅四丁】にいふべし。代匠記などに、いろ/\によそへたりといふ説あるはいかゞ。
皇太子答御歌。明日香宮御宇天皇。
皇太子は、天武天皇を申す。書紀本紀云、天渟中原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也、幼曰2大海人皇子1云々。天命開別天皇元年、立爲2東宮1云々。元年、是歳、營2宮室於崗本宮南1、即冬遷以居焉、是謂2飛鳥淨御原宮1云々。考云、皇太子をば、此集には、日並知皇子命、高市皇子など書例なるを、こゝにのみ、今本に皇太子と書しは、いかにぞや。思ふに、こゝの端詞みだれ消たるを、仙覺が補へるか。或本にかくありしに依しか。
21 紫草能《ムラサキノ》。爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。爾苦久有者《ニクヽアラバ》。人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》。吾戀目八方《ワカコヒメヤモ》。
紫草《ムラサキ・アキハキ》能《ノ》。
紫草は、本草和名に、紫草和名无良佐岐云々。和名抄染色具に、本草云紫草【和名無良散岐】云云とあるうへに、まへの歌にも、武良前野《ムラサキノ》とあるを、舊訓に、あきはぎとよめるは、いかなることぞや。代匠記に、むらさきとよまれしをよしとす。さて、紫草能《ムラサキノ》の、能文字は、のごとくといふ意なること、あまぐものたゆたふ心、あき山のしたべるいもなどのたぐひの、乃もじなり。
(78)爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。
こゝは本集十一【四十一丁】に、山振之爾保敝流妹之《ヤマフキノニホヘルイモカ》云々。十三【廿四丁】に都追慈花爾太遙越賣《ツツシハナニホヘルヲトメ》云々などあるがごとく、にほへるは、うるはしき意にのたまふ也。本集十【十丁】に艶の字をにほふとよめるにてもおもふべし。
爾苦久有者《ニクヽアラバ》。
憎《ニク》からば也。本集七【四十丁】に、海之玉藻之憎者不有乎《ウミノタマモノニクヽハアラヌヲ》云々。八【十五丁】に、吹有馬醉木乃不惡君乎何時《サケルアセミノニクカラヌキミヲイツシカ》云々。十【十七丁】に、夜哉將間二八十一不在國《ヨヲヤヘテンニクヽアラナクニ》云々などあるも同じ。
人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》。
人づまは、本集(九)【廿三丁】に、他妻《ヒトツマ》とかけるごとく、他人の妻をいふ。さて、集中|故爾《ユヱニ》といふに二つあり。一つは、今俗言にもいふ意、一つはなるものをといふ意也。こゝの人づまゆゑにも、人づまなるものをといふ意なり。そは、本集十【廿五丁】に、人妻故吾可戀奴《ヒトツマユヱニワカコヒヌヘシ》云々。十一【三丁】に人妻故玉緒之念亂而《ヒトツマユヱニタマノヲノオモヒミタレテ》云々。十二【廿八丁】に人妻※[女+后]爾吾戀二來《ヒトツマユヱニワレコヒニケリ》云々などあるゆゑに、皆ものをの意也。集中猶多し。
吾戀目八方《ワカコヒメヤモ》。
めやもといへる語は、裏へ意のかへるや〔右○〕文字に、も〔右○〕の字はただそへたるにて、意なし。本集四【五十五丁】に、不相在目八方《アハサラメヤモ》云々。七【卅八丁】に、人二將言八方《ヒトニイハメヤモ》云々。十【五十二丁】に、吾戀目八面《ワカコヒメヤモ》云々などあるがごとく、猶いと多し。さて、一首の意は、紫草《ムラサキ》の如く、うるはしき妹を、にくゝあらば、人づまなるものを、わがかく戀はせじを、にくからぬによりてこそ、(79)かくは戀ふれといふ意なり。
紀曰。天皇。七年丁卯。夏五月五日。縦2獵於蒲生野1。于v時。大皇弟諸王内臣。及群臣。皆悉從焉。
丁卯。
本紀を考ふるに、七年は戊辰なり。又集中、左注の例に依に、卯の下に天皇の二字あるべし。
五月五日。
書紀推古、本集十六等に、五月藥獵する事見えたり。五月五日とあれば、こゝもその藥獵したまふか。猶藥獵の事は、十六【攷證十六下ノ丁】にいふべし。
獵。
本紀、獵作v※[獣偏+葛]。
大皇弟。
印本、天皇とあれど、誤なる明らかなれば、本紀によりて改む。
明日香清御原宮御宇天皇代。天渟中原瀛眞人天皇。
天皇御謚を、天武と申す。書紀本紀云、天渟中原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也、幼曰2大海人皇子1云々。天命開別天皇、元年、文爲2東宮1云々。元年、是歳、營2宮室於崗本宮南1、即冬遷(80)以居焉、是謂2飛鳥淨御原宮1云々と見えたり。印本、御宇の二字を脱す。今、集中の例によりで補ふ。猶下【攷證下六十九丁】を見合すべし。
十市皇女。參2赴於伊勢神宮1時。見2波多横山巖1。吹黄刀自作歌。
十市皇女。
書紀天武紀云、天皇初娶2鏡王女額田媛王1、生2十市皇女1云々。四年春二月、丁亥、十市皇女、阿閇皇女、參2赴於伊勢神宮1云々。七年夏四月、丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜v之、癸巳食v卜、仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘與命v盖、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣云々とあるにて思へば、此皇女の伊勢神宮におはしましゝは、齋宮になりて下り給ひしにかともおもはるれど、齋宮記には、阿閇皇女をのみのせたり。そのうへ、二人一度に齋宮になり給はんいはれなければ、こゝはたゞ伊勢に下りおはしたりと見るべし。
伊勢神宮。
延暦儀式帳云、天照坐皇大神乃、伊勢國度會郡宇治里、佐古久志留伊須々乃川上爾、御幸行坐時儀式、磯城島瑞離宮御宇、御間城天皇御世以往、天皇同殿御坐而、同天皇御世爾、以2豐耜入婦命1、爲2御杖代1出番支云々。猶古事記、書紀、其外みな人のしれる事なればひかず。
波多横山《ハタノヨコヤマ》。
考云、神名式に、伊勢國壹志郡波多神社。和名抄に、同郡に八太郷あり。こは、伊勢の松坂里より、初瀬越して、大和へゆく道の、伊勢のうちに、今も八太里あ(81)り。その一里ばかり彼方に、かいとうといふ村に、横山あり。そこに、大なる巖ども、川邊にも多し。これならんとおぼゆ。飛鳥藤原宮などのころ、齋王群行は、この道なるべしと、その國人はいへり。猶考てん。(頭書、書紀推古紀に羽田といふ地あれど、これにはあるべからず。)
吹黄刀自《フキトシ》。
こは考に、同じ氏は卷十三にも出。さて天平七年紀に、富紀朝臣てふあり。今はこれを訓の假字にて、吹黄と書るか。されど猶おぼつかなし云々といはれしがごとく、いかにもしれがたけれど、試みにいふ説あり。書紀天武紀、元年の條に、大伴連馬來田、弟吹負、並見2時否1、以稱v病退2於倭家1、然知d其登2嗣位1者、必所2居吉野1大皇弟u矣云々とある、吹負と、吹黄刀自と、同人なるべし。さる故は、吹《フキ》も吹黄《フキ》も、一字と二字にかけるのみ。訓は同じ事也。負と、刀自と、又同じかる證は、和名抄老幼類に、劉向列女傳云、古語謂2老母1爲v負【今案和名度之俗用刀自二字者誤也】云々とありて、又字鏡集にも、負をとじとよめれば也。しかする時は、この吹黄刀自は男也。又男也といふ證もあり。そは本集四【十三丁】に、この吹黄刀自が歌に、眞野之浦乃與騰乃繼橋《マノヽウラノヨトノツキハシ》、情由毛思哉妹之伊目爾之所見《コヽロユモオモヘヤイモカイメニシミユル》云々。この歌に、妹といふ言あり。男どちは、かたみに、せことも、せともいひし事、集中にあれど、女どち妹といふべき事なし。(頭書、女どち妹といふ事、四ノ五十四オウ三所、同五十八ウ一所。)されば、この吹黄刀自は、男なること明らけし。或人難じて云、吹黄刀自と吹負と同人とする時は、書紀に、大伴連馬來田(ガ)弟吹負とあれば、姓大伴連なる人也。集中の例、姓氏をしるさずして、名ばかり書たる例ありや、いかに。答云、あり。本集九【十三丁】に元仁歌、【十四丁】に島足歌、【十五丁】に磨歌、【十六丁】に宇合卿歌、【十七丁】伊保麿歌云々などあり。これらを(82)見ても、思ふべし。
22 河上乃《カハカミノ》。湯都盤村二《ユツイハムラニ》。草《クサ・コケ》武左受《ムサズ》。常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。常處女煮手《トコヲトメニテ》。
湯都盤村二《ユツイハムラニ》。こは、古事記上卷に、湯津石村《ユツイハムラ》云々、祈年祭祝詞に、湯津磐村能如《ユツイハムラノコトク》、塞座※[氏/一]《フサガリマシテ》云々などある、湯津も、湯津爪櫛《ユツツマクシ》、湯湯杜樹《ユツカツラノキ》などあるも、同じく、ものゝ繁き意なり。盤《イハ》は、古事記に、石《イハ》ともかけるがごとく、端辭にある巖なり。村《ムラ》は、書紀崇神紀の歌に、伊辭務邏《イシムラ》とあるも、石群にて、物の群《ムラ》がる事也。そは、木むら、竹むらなどいふむらと同じ。さて、諸本、盤の字を書けるを、考と略解に、磐に改めしは、さかしらなり。そは爾雅釋山釋文に、磐本作v盤云々あるにても、通ずる事明らけし。
草《クサ・コケ》武左受《ムサズ》。
こは、諸本くさむさずとよめれど、こけむさずとよむべき也。集中、苔むすと多くよめり。そは六【廿二丁】に、奧山之盤爾蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》云々。七【卅二丁】に、奧山之於石蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》云々。十三【三丁】に、石枕蘿生左右二《イハマクラコケムスマテニ》云々。古今賀に、よみ人しらず、君がよは千代にやちよにさゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで云々などあるがごとく、皆石には、こけむすといへり。また本集十八【廿一丁】山行者草牟須屍《ヤマユケハコケムスカハネ》云々とある所のみ、草とかきたれど、これもこけとよむべき也。さてむすは生也。上に引る集中の歌に、生をむすとよめるにてもしるべし。(頭書、再考、草武左受《クムサス》と訓べし。草《クサ》ムス、續紀天平勝寶元年詔、本集十八【廿一丁】。)
(83)常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。
この句の訓、考にはとこにもがもなとよま(れ字脱?)しかど、かゝる所に常といふ字を、とことよめるは誤り也。舊訓のまゝ、つねとよむべきなり。次の句に、常處女《トコヲトメ》とあるは、とこをとめとよむべし。さて、つねと訓と、とことよむとのわかちは、俗言に、平生、不斷《フダン》などいふ所に、つかへるは、つねとよみ、こしかた、行すゑ久しき事にかけて、とことはなどいふ所は、とことよむべき也。これらの證、こゝにあぐるごとし。本集五【廿七丁】に、常斯良奴國乃意久迦袁《ツネシラヌクニノオクカヲ》云々。三【五十七丁】に、世間之常加此耳跡《ヨノナカノツネカクノミト》云々。七【廿六丁】に、盈※[日/仄]爲烏人之常無《ミチカケスルソヒトノツネナキ》云々。十【廿八丁】に、如常哉吾戀居牟《ツネノコトクヤワカコヒヲラン》云々などあるは、みな平生、不斷などいふ意にて、猶いと多し。又二【卅二丁】に、常宮跡定賜《トコミヤトサタメタマヒテ》云々。七【十一丁】に、彌常敷爾吾反將見《イヤトコシキニワカカヘリミン》云々などありて、久しきをかけていへり。猶多し。冀名《カモナ》は、願ふ意の詞にて、がとのみいひても、願ふ意なるに、もをそへたるなり。又、それに、なもじをそへたる、願ふ意なるによりて、冀の字をばかける也。本集四【廿一丁】に、鳥爾毛欲成《トリニモカモナ》云々。六【十三丁】に、加此霜願跡《カクシモカモト》云々。十七【四十四丁】に、奈泥之故我波奈爾毛我母奈《ナテシコノハナニモカモナ》云々などあるがごとし。
常處女煮手《トコヲトメニテ》。
常處女《トコヲトメ》とは、常しへに久しく、いつも處女にてましませといふ意也。お《(マヽ)》とめは、書紀に少女、童女、娘子などをよめるがごとく、少女をいへる也。にてと、とめたるは、下へ、にてましませといふ意を、ふくめたる也。こゝは、吹黄刀自が、十市皇女を祝し申して、いつもわかく、少女のごとくましませといへる也。
吹黄刀自未v詳也。但紀曰。天皇四年乙亥。春二月。乙亥朔丁亥。十(84)市皇女。阿閉皇女。參2赴於伊勢神宮1。
書紀を考ふるに、阿閇皇女とす。閇と閉と同字なり。
麻績王。流2於伊勢國伊良虞島1之時。人哀傷作歌。
麻績王。
この王、父祖不v可v考。下の左注に、引たるごとく、天武紀四年の條に見えたるのみ。印本、績を續に作る。今書紀によりて改む。(頭書、諸本續。)
伊勢國伊良虞島
下の左注に引るがごとく、天武紀には、麻績王、有v罪流2于因播1とあるによりて、考には、伊勢國の三字を、後人の加へたるなりとて、はぶかれしかど、いかゞ。書紀と、此集と、事のたがへるありとて、いづれをかは誤りと定めん。見よ見よ、書紀と古事記と、傳へのたがへるところ/”\のあるを。古事記を古しとて實ともしがたく、書紀を正史也とて實ともしがたきをや。されば、古事記は古事記、書紀は書紀、此集は此集の傳へのまゝにてあるべき也。本集下【廿丁】に、幸2于伊勢國1時、留v京柿本朝臣人磨作歌とてのせたる、三首の中に、この島をよめる歌あり。されば、伊勢ならんを、歌枕名寄より始めて、名所部類の諸書には、皆志麻國とせり。可v考。又考にも、説あり。よしとも思はねど、すつべくもあらねば下にあげたり。(頭書、時下時字を脱歟。)(頭書、著聞。)
(85)23 打麻乎《ウチソヲ》。麻績王《ヲミノオホキミ》。白水郎有哉《アマナレヤ》。射等籠荷四間乃《イラコガシマノ》。珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
打麻《ウチソ・ウツアサ》乎《ヲ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。麻は水にひたし、打てそれを又さきて、績《ウム》物なれば、うちそを麻みとつゞけし也。
白水郎《アマ》。
白水郎を、あまとよみしは、書紀允恭紀に見え、本集には多く見えたり。其外古事記には海部、本集には海人、海女、海夫、磯人などをよめり。和名抄漁獵類に、辨色立成云、白水郎【和名阿馬今按云日本紀云用2漁人二字1一云用2海人二字1】云々などもあるがごとし。さて白水は、漢土の地名なり。楚辭注に、白水出2崑崙之山1、飲v之不v死云々。文選東京賦云、龍飛2白水1、鳳翔2參墟1云々などあるがごとし。郎は、韻會に男子の稱、又婦謂v夫爲v郎云云など見えたり。されば白水郎をあまとはよめり。
珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
本集【廿丁】に、大宮人之玉露苅良武《オホミヤヒトノタマモカルラム》云々とありて、集中猶いと多し。玉藻、考云、玉藻の玉をほむる詞といふはわろし。玉とほむるも、物にこそよれ。凡、草木に玉といふに、子《ミ》こそ多けれ。藻に眞の白玉の如き子《ミ》多きを、豐後の海よ持來て見せし人有(と脱?)いはれつれど、玉は藻をほめていへるなる事は、下【攷證二上卅一丁】玉松之枝の條にいへり。
麻績王。聞v之。感傷和歌。
24 (空蝉乃《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》。浪爾《ナミニ》所濕《ヌレ・ヒテ》。伊良處能島之《イラコノシマノ》。玉藻苅《タマモカリ》食《ヲス・マス》。)
(86)空蝉乃《ウツセミノ》。
枕詞なれば、.冠辭考にゆづれり。現《ウツ》し身の命とつゞけたるなり。
命乎惜美《イノチヲヲシミ》。
惜の字、印本、情に作れり。されど、本集五【十丁】に、多摩枳波流、伊能知遠志家騰云々。十七【廿三丁】多摩伎波流伊乃知乎之家騰云々ともあれば、惜を情に誤れる事明らかなれば、意もてあらたむ。惜美《ヲシミ》の、み文字は、さにといふ語にかよふ言也。【攷證十丁】に、心乎痛見《コヽロヲイタミ》云々とあると同じ。末々いと多し。
所濕《ヌレ・ヒテ》。
舊訓、ひでとあれど、本集九【廿五丁】に、雨不落等物裳不令濕《アメフラストモモヌラサス》云々とあるに依て、ぬれとよむべし。
苅《カリ》食《ヲス・マス》。
食を、舊訓、ますとあれど、しかよむべき理りなく、書紀神代紀上、一書に、灌2于天(ノ)渟《ヌ》名井、亦名|去來之眞名《イサノマナ》井1、而|食《ヲス》v之云々。靈異記上、訓釋に、食國【久爾乎師ス】云々ともあれば、こゝはかりをすとよむべし。
右案2日本紀1曰。天皇四年乙亥。夏四月。甲戌朔辛卯。三品麻績王。有v罪。流2于因幡1。一子流2伊豆島1。一子流2血鹿島1也。是云v配2于伊勢國伊良處島1者。若疑後人縁2歌辭1。而誤記乎。
(87)甲戌朔辛卯。
印本、戊戌朔乙卯とあれど、本紀并長暦によりてあらたむ。
伊豆島。
書紀推古紀云、二十八年秋八月、掖玖人二口、流2來於伊豆島1云々。天武紀云、十三年冬十月、伊豆島西北二面、自然増2益三百餘丈1。更爲2一島1云々など見えたり。今云伊豆大島なるべし。
血鹿島。
肥前國風土記云、松浦郡條に、勅云、此島雖v遠、猶見知v近、可v謂2近島1、因曰2値嘉島1云々。本集五【卅一丁】に、阿庭可遠志智可能岬欲利《アテカヲシチカノサキヨリ》、大伴御津濱備爾《オホトモノミツノハマヒ〓》云々。和名抄國郡部に、肥前國松浦郡値嘉【知加】云々など見えたり。こゝに血鹿とかけるは假字のみ。
伊良處島。
考云、いらごが崎を、志摩國にありと思へるも、ひがごとぞ。こは參河國より、志摩の答志《タフシ》の崎の方へ向ひて、海へさし出たる崎故に、此下の伊勢の幸の時の事を、思ひはかりてよめる、人まろの歌にはある也。然れば、右の紀に違ふのみならず、いらごをいせの國と思へるもひがごと也。後の物ながら、古今著聞集に、伊與の國にもいらごてふ地ありといへり。因幡にも同名あるべし。
天皇御製歌。
(88)25 三吉野之《ミヨシヌノ》。耳我嶺爾《ミヽカノミネニ》。時無曾《トキナクソ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。間無曾《ヒマナクソ》。雨者零計類《アメハフリケル》。其雪乃《ソノユキノ》。時無如《トキナキカコト》。其雨乃《ソノアメノ》。間無如《ヒマナキカコト》。隈毛不落《クマモオチス》。思《オモヒ・モヒ》乍叙來《ツヽソクル》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
三吉野。
吉野は、いと古くは、古事記下卷御歌に、美延斯怒能袁牟漏賀多氣爾《ミエシヌノヲムロカタケニ》云々とあるがごとく、えしぬといへり。又書紀天智紀、童謡に、美曳之弩能曳之弩能阿喩云々ともあれば、こゝの三吉野も、みえしぬとよまんかとも思ひたりしかど、次の歌に芳野吉見與などもあれば、猶こゝはよしぬと訓べき也。和名抄郷名に、大和國吉野郡吉野【與之乃】云々と見えたり。さてみよしぬのみは、眞にて、ほむる詞なり。熊野をみくまぬといへるがごとし。
耳我嶺爾《ミヽカノミネニ》。
耳我嶺は、吉野山の中いづこをいふにかしれがたし。考并別記に説あり。よしとも思はれねど、外に考へ出せる事もなければ、しばらくそれによれり。さて考云、耳は借字にて、御缶《ミヽカ》の嶺也。卷三、此歌り同言なる歌に、御金高とあれど、金は缶の誤り也。ここに耳我と書しに合せてしらる。後世金の御嶽といふは、吉野山の中に勝れ出たる嶺にて、即、此大御歌のことばどもに、よくかなひぬ。然れば、古へもうるはしくは、御美我嶺《ミヽカネ》といひ、常には美我嶺《ミカネ》とのみいひけん。そのみかねをみ金《カネ》の事と思ひたる、後世心より、金嶽とはよこなはれる也けり。かの卷、三缶を金に誤りしも同じ後世人のわざなる事明らか也。
(89)。時無曾《トキナクソ》。
ときなくは、時ぞといふことなくといふ意也。本集九【廿二丁】に、時登無雲居雨零《トキトナククモヰアメフル》云々。十四【十四丁】に安我古非能未思《アカコヒノミシ》、等伎奈可里家利《トキナカリケリ》云々などあるがごとし。
雪者落家留《ユキハフリケル》。
本集十七【四十丁】に、等許奈都爾、由伎布理之伎底云々などあるも同意也。さて、落《フル》は二【十二丁】に大雪落有《ミユキフリタリ》云々、令落雪之摧之《フラセタルユキノクタケシ》云々などあるがごとし。
隈毛不落《クマモオチス》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
隈は上【攷證卅二丁】にいへるがごとく、すみ/”\曲りなどをいへるにて、こゝ、此山のくま/”\をも、もらさずをかしとみそなはしつゝ、この山をいでますと也。不落《オチス》は上【攷證十二丁】にいへるがごとク、漏《モラ》さずといふ意なり。
思乍叙來《モヒツヽソクル》。
思を、舊訓おもひとよめれど、本集四【四十七丁】に、爲便乃不知者片※[土+完]之《スヘノシラネハカタモヒノ》云々、同【四十九丁】に、片思男責《カタモヒヲセム》云々などもあれば、思はもひとよむべし。
或本歌。
26 三芳野之《ミヨシヌノ》。耳我山爾《ミヽカノヤマニ》。時自久曾《トキシクソ》。雪者落等言《ユキハフルトイフ》。無間曾《ヒマナクソ》。雨者落等言《アメハフルトイフ》。其雪《ソノユキノ》。不時《トキシクカ・トキナラヌ》如《コト》。其雨《ソノアメノ》。無間如《ヒマナキカコト》。隈毛不墮《クマモオチス》。思《モヒ・オモヒ》乍叙來《ツヽソクル》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
右。句々相換。因v此重載焉。
(90)耳我山《ミヽカノヤマニ・ミカネ》。
舊訓、みかねとあれど、本歌耳我嶺を、みゝがのみねとよめるがごとく、こゝもみゝがの山とよむべし。
時自久《トキジク》。
こは上【攷證十二丁】にいへるがごとく、非時といふ言也。則本集八【五十一丁】非時をときじくとよめるにてしるべし。
不時《トキジク・トキナラヌ》如《ガコト》。
舊訓ときならぬごととあれど、本歌も、時無《トキナク》といふ言をかさねていへる例によれば、この歌もまへに時自久《トキシク》とあれば、こゝもときじくがごとゝよむべし。本集七【二十四丁】に、不時班衣《トキシクニマタラコロモヲ》云々、十三【十二丁】。に、飲人之不時如《ノムヒトノトキシクカコト》云々などあるにて思ふべし。
天皇。幸2于吉野宮1時。御製歌。
前に、天皇御製歌とて、吉野をよませ給ふ御歌をのせて、又こゝに天皇幸2于吉野宮1時御製歌と、同天皇同吉野の御歌を、かく端辭を別にかけるは、故ある事なるべし。されば、考ふるに、前の吉野の御歌は、書紀天智紀に、十年冬十月壬午、東宮見2天皇1、請d之2吉野1脩2u行佛道1云々とある時、吉野にいらせ給ふ度の御歌にて、こゝに幸2于吉野宮1とあるは、本紀に、八年五月庚辰朔甲申、幸2于吉野宮1云々とある度の御歌なるべし。吉野宮は上【攷證十六丁】に出たり。
27 ※[さんずい+林?]人乃《ヨキヒトノ》。良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》。好常言師《ヨシトイヒシ》。芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四《ヨキヒトヨ》來三《クミツ・キミ》。
(91)よき人とは、むかしの尊き人とのたまへる也。佛足跡歌に、與伎比止乃、麻佐米爾美祁牟云々。また、與伎比止乃、伊麻須久爾々波云々などあるは、佛をのたまへるにて、尊き人の意也。文本葉、六【二十丁】に、好人欲得《ヨキヒトモカモ》云々なども見えたり。さて、※[さんずい+林?]の字をよきとよめるは、字彙に、※[さんずい+林?]與v淑同云々。爾雅釋詁に、淑善也云々。孝經注に、勸善也云々などあればなり。また、毛子※[こざと+鳥]鳩に、淑人君子、其儀一兮云々などあり。本集九【十五丁】に、古之賢人之遊兼《イニシヘノカシコキヒトノアソビケン》、吉野川原雖見不飽鴨《ヨシヌノカハラミレトアカヌカモ》云々とあるにも、この歌によしありてきこゆ。
芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四《ヨキヒトヨ》來三《クミツ・キミ》。
芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》とは、古しへのよくかしこき人の、吉野をよき所ぞと、よく見定めて、よき所なりといひし、その吉野の山はこゝなれば、人々もよく見よと、從駕の人々にのたまふ也。四來三の三字は、僻案抄に、よくみつとよみしに、したがふべし。舊訓のごとく、良人《ヨキヒト》よきみとよみては、一首の意きこえがたし。さてこゝの意は、吉野の山をよき所也といひし、むかしのよき人は、吉野の山をよく見定めしぞとなり。猶代匠記、僻案抄、考など可v考。また、此御歌を濱成式に引て、大異同あれど僞書なればとらず。
紀曰。八年己卯五月。庚辰朔甲申。幸2于吉野宮1。
右の左注の文、集中の例によるに、五月の上夏の字を脱せる歟。
(92)藤原宮御宇天皇代。 高天原廣野姫天皇。 【天皇御謚を持統と申す。書紀本紀云、高天原廣野姫天皇 少名※[盧+鳥]野讃良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰2遠智娘1云々。四年春正月、戊寅朔、皇后即2天皇位1云々。八年冬十二月、庚戌朔乙卯、遷2居藤原宮1云々と見えたり。また、藤原宮は、天智紀に、※[盧+鳥]野皇女、及v有2天下1、居2于飛鳥淨御原宮1、後移2宮于藤原1云々とも見えたり。さて、此下に藤原に都をうつし給はぬまへの歌をもあげたるを、こゝに藤原宮御宇天皇代と書るは、いぶかしきに似たれば、こは藤原宮に、あののしたしろしめす、天皇の御代歌といふことにて、後の字をまへにおよぼしてかける也。御代の代といふ字に心をつくべし。これ、集中の例也。猶この事は、下【攷證下六十五丁】にもいへる事あり。考へ合すべし。さて、この藤原宮は、大和國十市郡にて、鎌足公の本居の藤原とは別所也。思ひまがふべからず。この事は下【攷證一下廿六丁】にいふべし。
天皇御製歌。
28 春過而《ハルスキテ》。夏《ナツ》來良之《キタルラシ・キニケラシ》。白妙能《シロタヘノ》。衣《コロモ》乾有《ホシタリ・サラセリ》。天《アメ・アマ》之香來山《ノカクヤマ》。
春過而《ハルスキテ》。
こは、僻案抄に、夏きたるらしとよみしにしたがふべし。本集十【八丁】寒過暖來良思《フユスキテハルキタルラシ》云々。十九【十八丁】に、春過而夏向者《ハルスキテナツキムカヘハ》云々なども見えたり。
白妙能《シロタヘノ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。白は、色白きをいひ、妙は借字にて、※[糸+旨]布の總名なり。
(93)衣《コロモ》乾有《ホシタル・サラセリ》
乾有は、僻案抄に、ほしたるとよめるにしたがふべし。字鏡集に、乾ホスとよめり。本集二【廿五丁】に、衣之袖者乾時又無《コロモノソテハヒルトキモナク》云々なども見えたり。舊訓のごとく、さらせりとよむ
べき理りなし。
天之香來山《アメノカクヤマ》。
舊訓、あまのかぐ山とあれど、のとうくる時は、必ずあめの何々といふべき語格也。古事記中卷に、比佐迦多能、阿米能迦具夜麻云々、あるにても思ふべし。さて、かぐ山の事は、上【三丁】にいへるがごとく、かぐ山とも天のかぐ山とも、集中多く見えたり。天のかぐ山といへるは、天上に天のかぐ山あるになぞらへて、大和なるをも天のかぐ山とはいへるなるべし。又、上に引たる伊豫風土記の説のごとくにてもあるべし。考云、都とならぬ先に、鎌足公の藤原の家、大伴氏の家もこゝにあり。この外にも多かりけん。然れば、夏のはじめつころ、天皇埴安の堤の上などに幸し給ふ時、かの家々に、衣をかけほしてあるを見まして、實に夏の來たるらし、衣をほしたりと見ますまに/\のたまへる御歌也。なつはものうちしめれば、萬の物ほすは常のこと也。○集中に、言の下に、有在の字を書しは、らりるれろのことばにぞある。然るに、後世乾有をほすてふとよみしはあやまりなり。
過2近江荒都1時。柿本朝臣人麿作歌。并短歌。
天智天皇六年三月、後飛鳥岡本宮より、近江大津宮に都をうつし給ひ、十年十二月、近江宮に崩じ給ひし後、天武天皇元年、飛鳥淨御原宮にうつり給ひしかば、(94)はやく近江の都はあれはてしなり。其後、故都を過られしなり。
柿本朝臣人磨。
傳は、古今集目録、歌仙傳、人麿勘文等にいでたれど、いづれも分明ならざれば、こゝにあげず。又思ひ得る事もなければ、たゞ舊説をのみあぐ。さて僻案抄云、柿本朝臣人麿は、父親いまだ詳ならず。柿本は氏なり。朝臣は姓也。はじめの姓は臣《オミ》なり。天武天皇十三年、冬十月、己卯朔、詔ありて、更に諸氏の族姓をあらためて、八色の姓をつくる。十一月戊申朔に、五十二氏に朝臣の姓を給へる事、日本紀に見えたり。柿本も、その五十二氏の一つなり。これより後、柿本氏は朝臣の姓也。柿本氏の社(祖?)は、大春日朝臣同祖、天足差國押人命の後也。敏達天皇の御世、家門に柿樹ありしによりて、柿本氏とするよし、新撰姓氏録に見えたり。考別記云、この人麿の父親は、考ふべき物なし。紀に【天武】柿本朝臣|佐留《サル》とて、四位なる人見え、績紀には同氏の人かた/”\にいでゝ、中に五位なるもあり。されどいづれ近きやからか知がたし。さて、人麿は、後岡本宮のころにや、うまれつらん。藤原宮の、和銅のはじめのころに、身まかりしと見えたり。さて卷二、挽歌の但馬皇女薨後云々【此皇女和銅元年六月薨】の下、歌數のりて、此人在2石見國1死としるし、其次に、和銅四年としるして、他人の歌あり。【同三年奈良へ京うつされたり】すべて、この人の歌の載たる次でも、凡和銅のはじめまで也。齡はまづ、朱鳥三年四月、日並知皇子命の殯宮の時、この人の悼奉る長歌卷二にあり。蔭子の出身は、二十一|と《(マヽ)》齡よりなると、此歌の樣とを思ふに、この時わかくとも、二十四五にやありつらん。かりにかく定めおきて、藤原宮の和銅二年までを數ふるに、五十にいたらで、身まかりしなるべし。この人の歌、多かれど、老た(95)りと見ゆる言のなきにてもしらる。且、出身はかの日並知皇子命の舍人にて【大舍人也】其後に、高市皇子命の皇太子の御時も、同じ舍人なるべし。卷二の挽歌の言にてしらる。筑紫へ下りしは、假の使ならん。近江の古き都を悲み、近江よりのぼるなどあるは、これも使か。又近江を本居にて、衣暇田暇などにて下りしか。いと末に石見に任て、任の間に上れる、朝集使、税帳使などにて、かりに上りしもの也。この位には、もろ/\の國の司一人づゝ、九、十月に上りて、十一月一日の官會にあふ也。その上る時の歌に、もみぢ葉をよめる是也。即、石見へかへりて、かしこにて身まかりたる也。位は、其時の歌、妻の悲る歌の端にも、死と書つれば、六位より上にはあらず。三位以上に薨、四位五位に卒、六位以下庶人までに死とかく、令の御法にて、此集にも、この定のに書てあり。且、五位にもあらば、おのづから、紀にも載べく、又守なるは、必任の時を紀にしるさるゝを、柿本人麿は、惣て紀に見えず。然ば、此任は、掾目の間也けり。此外にこの人の事、考ふべきものすべてなし云々とて、古今序におほき三の位とある考をも、のせたれど、事ながければこゝにのせず。六【二十六丁】に、超2草香山1時神社忌寸老麿作歌云々。此端辭を、考には、柿本朝臣人麿、過2近江荒都1時作歌と直して、柿本云々の七字を、今の本に時の字の下へつけたるは、例にたがへり。古本によりてあらためつ云々といはれしかど、印本のごとく書し例、集中になしともいひがたし。そは、本集三【二十九丁】に、登2神岳1、山部宿禰赤人作歌云々。又、角鹿津乘v船時、笠朝臣金村作歌云々などあるを見ても思ふべし。集中猶多し。並短歌の三字、印本なし。今目録によりて補ふ。
(96)29 玉手次《タマタスキ》。畝火乏山乃《ウネビノヤマノ》。橿原乃《カシハラノ》。日知之御世從《ヒジリノミヨユ》。【或云。自宮《ミヤユ》】。阿禮座師《アレマシヽ》。神之《カミノ》書《ミコト・アラハス》。樛《ツカノ・トカノ》木乃《キノ》。彌繼嗣爾《イヤツキ/\ニ》。天下《アメノシタ》。所知《シラシ・シロシ》食之乎《メシシヲ》。【或云。食來《メシクル》。】天爾滿《ソラニミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山乎越《ナラヤマヲコエ》。【或云。虚見《ソラミツ》。倭乎置《ヤマトヲオキ》。 青丹吉《アヲニヨシ》。平山越而《ナラヤマコエテ》。】何方《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。【或云。所念計米可《オモホシケメカ》。】天離《アマサカル》。夷者雖有《ヒナニハアレト》。石《イハ》走《ハシメ(ノ)・ハシル》。淡海國乃《アフミノクニノ》。樂浪乃《サヽナミノ》。大津宮爾《オホツノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食兼《シラシメシケン》。天皇之《スメロキノ》。神之御言能《カミノミコトノ》。大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《コヽトハキケト》。大殿者《オホトノハ》。此間等雖云《コヽトハイヘト》。春《ハル・ワカ》草《クサ》之《シ・ノ》。茂生有《シケクオヒタリ》。霞《カスミ》立《タチ・タツ》。春日之霧流《ハルヒノキレル》。【或云。霞立《カスミタチ》。春日香霧流《ハルヒカキレル》。夏草香《ナツクサカ》。繁成奴留《シケクナリヌル》。】百磯城之《モヽシキノ》。大宮處《オホミヤトコロ》。見者悲毛《ミレハカナシモ》。【或云。見者左夫思母《ミレハサブシモ》。】
玉手次《タマタスキ》。
枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。上【攷證十丁】にも出たり。本集二【三十八丁】に、玉手次《タマタスキ》、畝火之山爾《ウネヒノヤマニ》、喧鳥之《ナクトリノ》云々などありて、猶多し。さて、玉手次畝火とつづくるは、襷《タスキ》をうなげるとつづけし也。
(97)橿原乃日知之御世從《カシハラノヒシリノミヨユ》。
橿原は、神武天皇の宮地なれば、橿原といひて、神武天皇を申奉るなり。書紀神武紀云、辛酉年春正月、庚辰朔、天皇即2帝位於橿原宮1、是歳爲2天皇元年1云々とあるごとし。さて、橿は、和名抄木類云、唐韻云橿【音薑和名加之】萬年木也云々と見えたり。日知之御世從とは、聖代と申す也。神武天皇は、人皇のはじめにさへましませば、御功もすぐれまします故に、聖代とは申す也。さて、日知《ヒシリ》は、考に、まづ月讀命は、夜之|食《ヲス》國を知しめせとあるにむかへて、日之食國を知ますは、大|日《ヒル》女の命也。これよりして、天つ日嗣しろしをす、御孫の命を、日知と申奉れり云々といはれしは、いかゞ。日知《ヒシリ》を、日の食國を知ます故也といはゞ、本集三【三十一丁】に、酒名乎聖跡負師《サケノナヲヒシリトオフシヽ》云々とある聖《ヒシリ》は、いかゞ解べきにか。されば、思ふに、日知と書しは、借字にて、正字は聖なり。ひじりといふは、聖の字の訓也。尚書大禹謨傳に、聖無v所v不v通云々。老子王注に、聖智才之善也云々。洪範五行傳に、心明曰v聖云云などあるがごとく、ものに勝れたるを、聖《ヒシリ》とはいふなり。さて、古事記下卷に、故稱2其御世1、謂2聖帝世1也云々。書紀神武紀云、己未年蕃三月、辛酉朔丁卯、下v命曰、【中略】苟有v利v民、何妨2聖造1云々。續日本紀、神龜六年八月癸亥詔に、天地八方、調賜事者、聖君止坐而云々。又、天平十五年五月癸卯詔に、飛鳥淨御原宮爾、大八洲所知志聖乃天皇命、天下乎治賜比、平賜比弖云々なども見えたり。從《ユ》はよりの意、集中いと多し。(頭書、或云、自宮《ミヤユ》とあれど、この本わろし。)
阿禮座師《アレマシシ》。
あれましゝは、生《アレ》ましゝ也。本集三【三十七丁】に、久堅之天原從生來神之命《ヒサカタノアマノハラヨリアレキタカミノミコトハル》云々。四【十二丁】。に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツキクレハ》云々。六【四十二丁】に、阿禮將座御子之嗣繼《アレマサンミコノツキ/\》云々などあるがごと(98)く、こゝの意も、神武天皇よりこなた、代々生つぎたまひて、天の下をしろしめすぞとなり。
神之《カミノ》書《ミコト・アラハス》。
舊訓、書をあらはす(と)よみしは、いかゞ。考に、かみのみことゝよまれしはよけれど、書の字、御言と二字に直されしは、誤りなり。書の字にて、みことゝよむべき也。そは、韓非子喩老篇に、書者言也云々とあるにて、書と言とかよふ事は論なし。されば、それを又借字して、命の訓には用ひし也。神といふからに、みの字は付てよめる也。さて書の字は、考に、一本に盡とありといはれしによりて、略解には、神之盡《カミノコト/\》と直しゝかど、共におぼつかなし。(頭書、代匠可v考。)
樛《ツガノ・トカノ》木乃《キノ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。さて、本集三【二十九丁】に、五百枝刺繁生有《イホエサシシヽニオヒタル》、都賀乃樹乃彌繼嗣爾《ツカノキノイヤツキ/\ニ》云々。六【十丁】に水枝指四時爾生有《ミツエサシシヽニオヒタル》、刀我乃樹能彌繼嗣爾《トカノキノイヤツキ/\ニ》云々。十七【四十二丁】に、多底流都我能奇《タテルツカノキ》、毛等母延毛《モトモエモ》云々。十九【四十二丁】に都我能木能伊也繼々爾《ツカノキノイヤツキ/\ニ》云々などあれば、樛はつがとよむべきか、とがとよむべきか、定めがたけれど、刀我《トガ》と書るは、集中一所のみ。外はみな都我と書れば、多きに依て、こゝをもつがとよめり。刀我乃樹とあるをも、眞淵はつがの木とよまれしかど、誤り也。さて、伊呂波字類抄に、※[木+〓]【トカノキ】とあるのみ。とがといふ木も、つがといふ木も和名の書に見えず。樛の字は、字書には見えたれど、木の名にあらず。字鏡集には、樛【マカキ・タカキ木】と見えたり。今材木につがといふ木あり。これなること明らかなれど、正字つまびらかならず。
(99)彌繼嗣爾《イヤツキ/\ニ》。
こは、上に引たる本集の中に、多く見えたるごとく、天皇代々つぎ/\、天の下しろしめしゝといへるなり。
所知食之乎《シラシメシヽヲ》。
考には、しろしめしと訓れしかど、舊訓のまゝ、しらしめしとよむべきなり。そは、本集十八【二十一丁】に、安麻久太利之良志賣之家流《アマクタリシラシメシケル》、須賣呂伎能《スメロキノ》云々。又【二十二丁】天下志良之賣師家流《アメノシタシラシメシケル》云々などあれば也。しらしめしゝは、しりましましゝをつゞめたるなり。りまの反、らにて、しらしましゝなるを、まをめに通はして、しらしめしゝとはいへる也。延喜祝詞式に、所知食、古語云2志呂志女須1とあれど、此集より後の物なれば、こゝにはとらず。或云|食來《メシケル》、これにてもしかるべし。
天爾滿《ソラニミツ》。
こは、枕詞にて、冠辭考に出たり。さて、考には、天爾滿《ソラニミツ》とあるは、例にたがへりとて、或云に、虚見《ソラミツ》とあるをとられしがごとく、天爾《ソラニ》の、爾文字、いかにもおだやかならず。古事記、書紀、本集の中に、爾の字あるは、こゝ一所のみなれば、爾の字は衍字なるべし。されど、そらに見つといひても、意はきこえたり。この枕詞、書紀神武紀に、及v至d饒速日命、乘2天磐船1、而翔2行u太虚1也、睨2是郷1而降v之、故因目v之、曰2虚空見日本國1矣云々とあるより出たる枕詞なれば、天にて見つといふ意とすれば、爾の字ありてもきこゆ。滿は借字にて見つ也。
倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。
大和をば、さて置て也。本集下【二十一丁】に、京乎置而隱口乃泊瀬山者《ミヤコヲオキテコモリクノハツセノヤマハ》云々。また【二十九丁】飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆《トフトリノアスカノサトヲオキテイナハ》云々などあるも同じ。集中猶多し。
(100)青丹吉《アヲニヨシ》。
上【攷證三十一丁】に出たり。枕詞なれば冠辭考にゆづれり。
平山乎越《ナラヤマヲコエ》。
平《ナラ》は、大和國添上郡なり。書紀崇神紀に、官軍屯聚、而|※[足+嫡の旁]」2※[足+且]《フミナラス》草木1、因以號2其山1、曰2奈羅山1【※[足+嫡の旁]」2※[足+且]此云2布瀰那羅須1。】云々とあるより、奈羅といふ地名はおこりて、地をならす義なれば、平の字をならとはよめる也。そは、本集九【二十七丁】に、石踐平之《イハフミナラシ》云々、また【三十五丁】立平之《タチナラシ》云々などあるがごとし。集中猶多し。或云、平山越而《ナラヤマコエテ》とある方まさるべし。本集十三【五丁】に、空見津倭國《ソラミツヤマトノクニ》、青丹吉寧山越而《アヲニヨシナラヤマコエテ》云々など見えたり。
何方《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。
おもほしめせかは、本集二【二十七丁】に、何方爾所念食可《イカサマニオモホシメセカ》云々ともありて、ばかの意のかにて、いかさまにおぼしめせばかといふ意也。そは、本集三【十八丁】に、妹母我母一有加母《イモヽワレモヒトツナレカモ》、三河有二見自道別不勝鶴《ミカハナルフタミノミチユワカレカネツル》云々。十五【十七丁】に、和伎毛故我伊可爾於毛倍可《ワキモコカイカニオモヘカ》、奴婆多末能比登欲毛於知受《ヌハタマノヒトヨモオチス》、伊米爾之美由流《イメニシミユル》云々などある、加文字と同格也。さて、こゝの意は、天智天皇いかにおぼしめしてか、大和をば、捨おきて、かゝる夷《ヒナ》には、宮地をさだめましけんと也。この都うつしの事、書紀本紀に、遷2都于近江1、是時天下百姓、不v願v遷v都、諷諫者多、童謡亦衆云々ともあるがごとく、都を近江にうつし給ふ事を、衆人|諾《ウヘ》なはざりしことゝ見えたり。されば、こゝにもかくよまれしにこそ。代匠記に、この所、句絶せりとあるによりて、考には、こゝを一行あけてかゝれしかど、古本皆つゞけ書たるうへに、古き歌にかゝるしらべ多ければ、こゝを落字ありとするはいかゞ。
(101)或云。所念計米可《オモホシケメカ》。
こは何方《イカサマ》とうたがひて、米とうけたり。この事下【攷證四中二十九丁】にいふべし。
天離《アマサカル》。
枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。こは、都より遠き所をのぞめば、天とともに遠ざかれば、かくはつゞくる也。古事記上卷、奧疎神《オキサカルカミ》云々。本集二【二十一丁】に、里放《サトサカリ》云々。又【四十丁】年離《トシサカル》云々。三【五十七丁】に、家離《イヘサカリ》云々などあるがごとく、はなれへだゝる意なり。
夷《ヒナ》。
夷は、都より遠き所をいふ。今田舍などいふがごとし。古事記上卷に、夷振《ヒナフリ》云々。本集二【四十三丁】に、夷之荒野《ヒナノアラヌ》云々。三【十六丁】に、夷之長道《ヒナノナカチ》云々。四【十六丁】に、夷乃國邊《ヒナノク〓ヘ》云々などありて、集中猶いと多し。古今集雜下に、たかむらの朝臣、思ひきやひなのわかれにおとろへてあまのなはたぎいさりせんとは云々と有も同じ。猶考別記にくはし。
石走《イハハシノ・イハハシル》。
こは枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。石走は、借字にて、磐橋なり。本集四【三十一丁】に、石走之間近君爾《イハハシノマチカキキミニ》云々とあると同じ意にて、磐橋の|あはひ《間》といふを、あはうみのあはに云かけしならん。猶くはしくは冠辭考につきて見るべし。代匠記、僻案抄などは、燭明抄の説によりたれどいかゞ。
淡海國《アフミノクニ》。
これあふみの正字也。近江とかくは義訓なり。
樂浪乃《サヽナミノ》。
こは、枕詞なれば、冠辭考にゆづれり。さゞ浪は、近江の地名なる事、古事記中卷に、自2項髪中1採2出設弦1、更張追撃、故逃2退逢坂1、對立亦戰、爾追2迫|沙々那美《サヽナミ》1、(102)悉斬2其軍1云々と見え、書紀神功紀には、狹々浪栗林と見えたり。今近江の志賀郡の中なりといへど、古しへは、その郡よりも廣かりしとおぼしき事は、さゝ浪といふ言を、志賀、大津、平《ヒヲ》山などlこかぶらせたれば也。そのうへ、さゞ浪のしがとはいへど、しがのさゞ浪とはいはざるにても、この地の古しへは廣かりし事しらる。さて、さゞ浪を樂浪と書は、義訓なり。本集二【廿四丁】に、神樂浪乃大山守者《サヽナミノオホヤマモリハ》云々。七【四十丁】に、神樂聲浪乃四賀津之浦能《サヽナミノシカツノウラノ》云々などもかけり。先達の説に、神樂に佐々とうたふ聲あれば、それに依て、神樂聲浪、神樂浪などかけるを、又文字をはぶきて、樂浪ともかけりといへるがごとく、いかにもさることながら、其證たらざれば、今こゝにあぐ。古事記中卷の御歌に、阿佐受袁勢佐々《アサスヲセサヽ》云々、宇多陀怒斯佐々《ウタヽヌシサヽ》云々などある佐々も、歌の後に付ていふ言也。古本、神樂歌の、殖舂、總角、大宮、湊田などの歌の後に、本方安以佐々々々、末方阿以佐々々々と見え、釋日本紀十一に、師説、沙者唱進之義也、言出《只》居神樂稱2沙佐之庭1也云々。又和名抄、但馬國の郷名に、樂前【佐々乃久萬】とあるなど皆考へ合すべし。又漢書地理志、文選東京賦などに樂浪といふ地名見えたれど、そは朝鮮國の事にて、こゝとはさらに別なり。(頭書、さゞ浪のしがとつゞくるは、枕詞にはあらず。地名を重ねたるにて、いその上ふるの山などつゞくる類也。七【十五丁】に、佐左浪乃連庫山爾《サヽナミノナミクラヤマニ》云々とつゞけたる連庫山は、高島郡なれば、狹々浪の地のいと廣く、隣郡までも及べりしをしるべし。通鐙十四【二丁ウ】審神者《サニハ》の條考へ合すべし。)
大津宮《オホツノミヤ》。
上【攷證二十七丁】にいへり。
(103)天皇《スメロキ》。
こは、天智天皇を申す。本集三【廿八丁】に、皇神祖之神之御言乃敷座《スメロキノカミノミコトノ》云々。十八【十八丁】に、須賣呂伎能《スメロキノ》、可未能美許登能《カミノミコトノ》、伎己之乎須《キコシヲス》云々などあるも同じ。さて、すめろぎとは、天皇の遠祖の天皇より、今の天皇をさして、申せる言にて、集中、皇神祖、皇祖神、皇祖などをよめるにてもしるべし。この事は、久老が三の卷の別記にくはしくいへり。
神之御言《カミノミコト》。
神は、天皇を申し、御言《ミコト》は借字にて、命なり。まへに引る、集中の歌にてもしるべし。さて、天皇を神と申すは、本集二【卅七丁】に、王者神西座者《オホキミハカミニシマセハ》云々。六【四十三丁】に、明津神吾皇之《アキツカミワカオホキミノ》云々などありて、集中猶多し。宣命に隨神《カンナカラ》、また現御神《アラミカミ》などあるも、みな天皇を申奉る也。
大宮《オホミヤ》。
大宮は、本集三【十二丁】大宮之内二手所聞《オホミヤノウチマテキコユ》云々。六【四十四丁】に刺竹乃大宮此跡定異等霜《サスタケノオホミヤコヽトサダメケラシモ》云々などあるがごとく、天皇のおはします宮をはめ奉りて、大宮とはいへる也。そは、大殿、大御門、大寺などのたぐひ也。
此間《コヽ》。
この二字を、こゝとよめるは、義訓也。本集三【廿二丁】四【廿八丁】この外いと多く、この二字をしかよめり。
春《ハル・ワカ》草《クサ》之《シ・ノ》。茂生《シゲクオヒ》有《タリ・タル》。
宣長云、春草し茂く生たりとよむべし。しはやすめ辭なり。さて、この二句は、宮のいたくあれたる事をなげきて、いふ也。次に、霞立云々は、たゞ見たるけしきのみにて、あれたる意をいふにはあらず。春日のきれるもゝしきの云々とつゞけて心得べし。春草の云々と、霞立云々とを、同意にならべて見るはわろし。一本の趣とは異な(104)り。さて、一本の方は、春日と夏草と、時節のたがへるもわろく、二つの疑ひの香《力》も心得がたし。
霞《カスミ》立《タチ・タツ》。春日之霧流《ハルヒノキレル》。
この霞立《カスミタチ》は、枕詞にあらず。舊訓、霞たつ春日のきれるとあれど、霞立はきれるといふへ、かゝる詞なれば、霞たちとよまでは解をなさず。さてきれるは、くもる事也。霞たちて春の日のくもれりと也。もと霧をきりといふも、きりふたがりて、くもるよりいへる也。書紀齊明紀御歌に、阿須簡我播《アスカガハ》、瀰儺蟻羅※[田+比]都々《ミナキラヒツヽ》云々。本集二【八丁】に、秋之田穗上爾露相朝霞《アキノタノホノヘニキラフアサカスミ》云々。八【一八丁】に打霧之雪者零乍《ウチキラシユキハフリツヽ》云々などありて、集中猶いと多し。また、後のものなれど、和泉式部日記に、いみじうきりたるそらをながむれば云々。源氏物語箒未に、めもきりて云々。榮花物語、きるはわびしと歎く女房の卷に、なくなみだあまぐもきりてふりにけりひまなくそらも思ふなるべし云々。これらみなくもる意也。或云、霞立春日香霧流《カスミタチハルヒカキレル》、夏草香繁成奴留《ナツクサカシケクナリヌル》云々。こは、大宮所をこゝときゝ、こゝといへども、あとかたもなきは、霞たちて春の日やくもれる、夏草やおひしげりてかくせると、をさなくうたがふ意なり。さて、考には、本文を捨て、この或云をとられしかど、本文解しがたくば、或本をとりもすべし。本文のまゝにても意明らかなるを、あながちに或本をとられしはいかゞ。
百磯城之《モヽシキノ》。
こは枕詞なれは、冠辭考にゆづれり。百《モヽ》は大數をいひ、磯《シ》は石をいひ、城《キ》は字のごとく、大宮のかたきをたとへ申せるなり。古事記下卷に、毛々志紀脳淤富美夜比登波《モヽシキノオホミヤヒトハ》云々などありて、集中猶いと多し。(頭書、モヽシキ冠辭考なし。)
(105)大宮處《オホミヤトコロ》。見者悲毛《ミレハカナシモ》。
大宮の宮殿なども、いつしかうせはてゝ、たゞ大宮の地のみ、あれはてゝあるを見れば、すゞろにものがなしと也。悲毛のもの字は、かろくそへたる字にて、意なし。本集二【廿八丁】に、皇子乃御門之荒卷惜毛《ミコノミカトノアレマクヲシモ》云々。古今集戀五、よみ人しらず、あしべよりくもゐをさしてゆくかりのいや遠ざかるわが身かなしも云々。これら同格なり。集中、猶いと多し。或云、見者左夫思母《ミレハサフシモ》云々。さぶしは、さびしにて、ひとふとかよへり。本集三【十七丁】に無而佐夫之毛《ナクテサフシモ》云々などありて、猶いと多し。さて、考には、この或本をとられしかど、本文にても意明らかなるをや。
反歌。
30 樂波之《サヽナミノ》。思賀乃辛崎《シカノカラサキ》。雖幸有《サキクアレト》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》。
思賀乃辛崎《シカノカラサキ》。
思賀は、近江滋賀郡、から崎はその郡の中なれば、しがのからさきとはよめり。本衆二【廿三丁】に、八隈知之《ヤスミシヽ》、吾期大王乃《ワコオホキミノ》、大御船《オホミフネ》、待可將戀《マチカコヒナン》、四賀之唐崎《シカノカラサキ》云々など見えたり。歌もここによしありてきこゆ。
雖幸有《サキクアレト》。
こはつゝがなく、かはらずといふ意也。こゝはしがの辛崎は、つゝがなく、むかしのまゝにてかはらずあれど、こゝに舟あそびなどせし大宮人も、今はなし。されば(106)舟よする人もなければ、待かねつと也。さきくあれどは、本集二【廿二丁】に、眞幸有者亦還見武《マサキクアラハマタカヘリミム》云云、九【八丁】に白崎者幸在待《シラサキハサキクアリマテ》、大船爾眞梶繁貫又將顧《オホフネニマカチシヽヌキマカタケヘリミム》云々などあり。この歌もこゝによしあり。
大宮人《オホミヤヒト》。
集中いと多し。天皇につかへまつる人をいふ。この大の字もまへにいへるがごとく、ほめてそへたるなり。
31 左散難彌乃《サヽナミノ》。志我能《シカノ》【一云比良乃。】大和太《オホワダ》。與杼六友《ヨドムトモ》。昔人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。【一云。將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》。】
志我能大和太《シカノオホワタ》。
志我は。まへにいへるごとく、近江滋賀郡なり。大和太は、大海也。山にはこゆといひ、海にはわたるといへば、海をわたる義にて、わたとのみもいへる也。本集四【四十三丁】に、海底奧乎深目手《ワタノソコオキヲフカメテ》云々とあるも同じ。猶いと多し。さて、海のこと、上【攷證二十六丁】の渡津海の條、考へ合すべし。一云、比良乃云々。これも近江地名也。上【攷證十六丁】にいへり。
與杼六友《ヨトムトモ》。
まへにいへるごとく、大わだは海なれば、水の淀むといふ事はなきを、たとへばその水のよどむせありとも、むかしの人に又とあはやめや、あふべきよしなしと也。この歌は、世にかたき事をいひて、それに又とあふまじきをたとへたる也。六帖四に、かたき事のたとへを引てよめる歌、三十七首あり。この歌と同じすがた也。さるを、考には、和太は入江にて、水の淀也といはれしは、甚しき誤り也。和太を淀とせば、淀のよどまん事めづらしからねば、かたき事をいふたとへには、ならざるをや。又、この歌をたとへ歌ならずともいはんか。(107)たとへ歌ならずとする時は、友《トモ》といふ詞、いたづらなり。この友といふ字に、心を付べし。
亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。
まへにいへるがごとく、たとへ、大海の水はよどむとも、むかしの大津の宮の人に、又もあはめや、あふせはあらじと也。やものやは、うらへ意のかへるやにて、もの字はたゞそへたるにて、意なし。上【攷證三十六丁】にいへるがごとし。一云、將會跡母戸八《アハントモヘヤ》云々。あはんと思へや、あはんとは思はじと也。もへやは、おもへやのおの字のはぶかりたる也。さておもふの、おの字を、はぶく例は、あはんとの、と文字の引聲、おなれば、おもふのおの字は、と文字のうちへこもる也。すべて、おもふの、おの字をはぶくは、第五の音よりうくる所をはぶく例也。その外の音より、つゞく所を、はぶく事なし。されど、かの字よりつゞく所をも、はぶける事、集にあり。こは變格といふべし。さてこれらの例は、本集三【五十六丁】に曾許念爾《ソコモフニ》云云。五【十八丁】に、彌夜古之敍毛布《ミヤコシソモフ》云々。六【廿三丁】に、無禮登母布奈《ナメシトモフナ》云々。十四【五丁】或本歌に、都我牟等母部也《ツカムトモヘヤ》云々などありて、猶多し。又變格は、十四【廿一丁】に、安禮也思加毛布《アレヤシカモフ》云々。二十【十一丁】に、安我毛布伎美波《アカモフキミハ》云々など見えたり。
(以上攷證卷一上册)
(109)高市連古人。感2傷近江舊堵1作歌。或書云高市連黒人
高市連古人。
父祖官位不v可v考。或書に、黒人とあるや正しからん。古人といふ人、ものに見えず。黒人は、本集下【廿五丁】に、大寶二年壬頁、太上天皇幸2參河國1時歌云々。右一首、高市連黒人。又【廿七丁】太上天皇、幸2于吉野宮1時、高市連黒人作歌云々などあるを見れば、朱鳥大寶のころの人と見えたり。又懷風藻に、隙士民忌寸黒人云々。扶桑隱逸傳に、黒人者、民氏、不v詳2其世代1、亦不v知2何人1、只稱爲2隱士1耳云々などあるは、別人なるべし。印本連の字なし。今一本と目録によりて補ふ。さて、又、高市連の姓は、書紀天武紀に、十二年冬十月己未云々、高市縣主云々、并十四氏、賜v姓曰v連云々。新撰姓氏録卷十五に、高市連、額田部同v祖、天津彦根命三世孫、彦伊賀都命之後也云々など見えたり。さて又、高市は、和名抄大和國郡名に、高市【多介知】とあれば、こゝも、たけちとよむべし。
近江舊堵。
考には、堵にみやこと訓をつけ、略解には、堵は都に同じといへり。予はじめに思へるには、この説ども、何によりて、さは定めつるにか。誤り也。舊堵とは、ふるき家の事也。堵は、説文に、垣也、一丈爲v板、五板爲v堵云々とありて、もと垣の事なれど、毛詩鴻鴈に、百堵皆作云々。文選魏都賦に、宣王中興、而築室百堵云々などありて、禮記禮器注に、堵者謂2之臺1云々。假名玉篇に、堵【スミカ】とあるにても、舊堵は、この近江大津の都なりし時の家などあれはてしをいへるなるべしと、思つるは、なか/\に誤り也けり。本集三【廿四丁】に、高(110)市連黒人、近江舊都歌ともありて、また【廿六丁】に、難波堵とあるも、難波都なり。いかにとなれば、禮記禮器釋文に、堵本作v闍とありて、毛詩出其東門章、箋に、闍讀當v如2彼都人士之都1、謂2國外曲城之中市里1也云々ともあれば、堵も都も闍と通ずる故に、堵を都の意にかりては、書るなるべし。されば、舊堵は舊都の意なり。六【卅八丁】堵里之中。
32 古《イニシヘノ・フル》。人爾和禮《ヒトニワレ》有哉《アレヤ・アルラメヤ》。樂浪乃《サヽナミノ》。故京乎《フルキミヤコヲ》。見者悲寸《ミレハカナシキ》。
古《イニシヘノ・フル》。
古の一字を、いにしへとよめること、本集二【廿二丁】に、情毛不解古所念《コヽロモトケスイニシヘオモホユ》云々、十【卅丁】に、古織義之八多乎《イニシヘニオリテシハタヲ》云々などあるがごとし。さて、此歌に、古人とつゞきたる字のあるより、端辭の黒人をも、古人と誤り、端辭を古人と誤りてより、この歌をもわが名を自ら名のるにいひかけたる事と心得て、舊訓、ふるひとゝよめれど、いかゞ。この歌を、六帖五に、いにしへの人我なれやさゞ浪のふるき都を見ればかなしき云々とてのせたるにても、ふるくは古《イニシヘ》とよめりし事明らけし。
人爾和禮《ヒトニワレ》有哉《アレヤ・アルラメヤ》。
此句の意は、我は古への大津宮の時の人にあればにや、そのふるき京を見れば、すゞろにものがなしきと也。あれやのやは、あればにやといふ意をこめたる也。本集六【廿二丁】に、湯原爾《ユノハラニ》、鳴蘆多頭者《ナクアシタツハ》、如吾妹爾戀哉《ワカコトクイモニコフレヤ》、時不定鳴《トキワカスナク》云々。七【卅九丁】に、鹽滿者《シホミテハ》、入流磯之草有哉《イリヌルイソノクサナレヤ》、見良久少《ミラクスクナク》、戀良久乃太寸《コフラクノオホキ》云々。これら皆、ればにやの意なり。集中猶あり。
故京乎《フルキミヤコヲ》。
こは、近江大津の京を云。さて京の一字をみやことよめるは、本集三【卅九丁】に、平城京乎《ナラノミヤコヲ》云々。集中猶あり。後漢書班彪傳下注に、京師京都也云々。
(111)33 樂浪乃《サヽナミノ》。國都美神乃《クニツミカミノ》。浦佐備而《ウラサビテ》。荒有京《アレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレハカナシモ》。
國都美神乃《クニツミカミノ》。
國つ御神也。天神、國つ神といふ時は、天にむかへて、地神といふ事なり。今この國つ神は、その一國の中の神をいふにて、せばし。書紀神代紀に、對曰、吾是國神、號脚摩乳《ナハアシナツチ》云々。古事記上卷に、僕者國神、名猿田毘古神云々。本集十七【十五丁】に、美知乃奈加久爾都美可未波《ミチノナカカクニツミカミハ》云々などあるは、みなその國の中の神をいふにて、天神にむかへて地神といふにあらず。
浦佐備而《ウラサビテ》。
浦は借字にて、心なり。古事記上卷に、心恥をうらはづかしとよみ、集中に、うらもとなく、うらやすくなどいふたぐひ、皆心也。考云、佐備は、下に不樂、不怜などかき、卷十三、佐備乍將居《サヒツヽヲラン》ともよみて、心の冷《スサ》まじくなぐさめがたきをいふ。こゝは、國つ御神の御心の、冷《スサ》び荒びて、つひに世の亂をおこして、都もあれたりといふ也云々とて、又此佐備といふ詞の、四種に、うつれるを、考別記に、とけ(き?)、その第四云、四つにはうらさびといふ也。こは古事記に、我勝云而、於2勝佐備《カチサビ》1、離2天照大御神之營田之阿1、理2其溝1云々とありて、勝たる氣の進みには、物を荒す方となるより、うつりて、是も國つ御神の心すさびて、國の亂をおこし、あらせしとよめり云々といはれしがごとし。
幸2于紀伊國1時。川島皇子御作歌。或云。山上臣憶良作。
(112)幸2于紀伊國1。
歌の左注にあるごとく、この行幸は天皇四年九月なり。
川島皇子。
書紀天智紀云、有2忍海造小龍女1、曰2色夫古娘1、生2一男二女1云々。其二曰2川島皇子1云々。天武紀云、十四年春正月、丁末朔丁卯、川島皇子授2淨大參位1云々。持統紀云、五年秋九月、己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨云々。又この皇子の事は、懷風藻にも出たれど、事長ければこゝにあげず。
34 白浪乃《シラナミノ》。濱松之枝乃《ハママツカエノ》。手向草《タムケクサ》。幾代左右二賀《イクヨマテニカ》。年乃經去良武《トシノヘヌラム》。【一云。年者經爾計武《トシハヘニケム》。】
白浪乃。
考云、卷十同國に、白神之磯とよめり。然れば、白神の濱とありつらんを。神と浪の草の近きまゝに、且濱に浪をいふは、常也とのみ思ふ、後世心もて、白浪とはかきしなるべし。又、催馬樂に、支乃久爾乃《キノクニノ》、之良々之波末爾《シラヽノハマニ》とうたへるによらば、白良とありけんを、四言のあるをもしらぬ人、言たらず、浪の畫の落しとて、さかしらやしけん云々。この説いかにもさることながら、この歌、本集九【十三丁】にものりて、白那彌之《シラナミノ》、濱松之木乃《ハママツノキノ》、手酬草《タムケクサ》、幾世左右二筒《イクヨマテニカ》、年薄經濫《トシハヘヌラン》云々とあるうへに、六帖六に、手向草 白浪のはま松がえのたむけ草いく世までにか年のへぬらん云々とありて、又新古今集雜中にも、右のごとく、一字不v違、のせられたるを見れば、いと古くより、今のごとくありきと思はる。されば、字の誤りとも定めがたし。しひ(113)て思ふに、白浪のは、濱といはん枕詞にやとも思はるれど、さらば、白浪のよすとか、かゝるとかあるべし。猶よく可v考。
濱松之枝之《ハママツカエノ》。
考云、此歌卷十に、松之木《マツノキ》とあるを、古本には松之本《マツカネ》とあり。然れば、こゝは根を枝と誤りし也云々。此説もさる事ながら、まへに引るごとく、これかれ皆同じければ、枝を根の誤りとも定めがたし。これはた猶可v考。
手向草。
たむけ草の草は、草木の草にあらず、神に手むくる料のものといへる也。本集十三【六丁】に、未通女等爾《ヲトメラニ》、相坂山丹《アフサカヤマニ》、手向草絲取置而《タムケクサイトトリオキテ》云々とあるは、手向る糸を、手向ぐさといへるにても、その料のものなるをしるべし。又十二【廿四丁】に、目ざまし草、十七【四十丁】に、かたらひ草などあるも、同じ。さて、この歌の意は、濱松が枝などに、手向にすべき幣帛《ヌサ》などをや、とりかけつらん。それを、濱松が枝の手向ぐさとはいへるなるべし。松は常磐にて、久しきものなれば、いくよまでにか、年のへぬらんとはいへり。すべて、山にまれ、海にまれ、旅ゆく道にては、その所の神に、幣帛など手向けて、往來の道の平らかならん事をいのる也。土佐日記に、わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなん云々とあるにても、思ふべし。又、たむけは、集中に手祭とかけるにても、物を奉りて神をいのるなるをしるべし。たむけの事は、下【攷證三上六十五丁】にいふべし。或人云、この御歌は、本集二の有間皇子の、磐代の結び松の古事を思ひて、よみたまひしなるべしといへれど、行幸の御供などにて、さる凶例を引いで給ふべきよしなし。
(114)左右《マデ》。
本集二 に、年替左右《トシカハルマデ》云々とありて、もと集中に、二手、諸手、左右手などかきて、までとよめり。さてこれらを、までとよめるは、全き手といふ意也。それに、ほむる意の異もこもれり。國のまほらなどいふ、まも、同じ。又中をま中といへる、まも同じく、秋のも中といふも、このまを、もにかよはしたる也。その手もじを、はぶきて、左右とばかりもかける也。
年乃經去良武《トシノヘヌラム》。
去をば、集中なにぬの假字に轉じ用ひたり。いなん、いに、いぬの略、になり。本集三【四十丁】に、開去歳《アケヌトシ》云々ともかけり。考云、この歌の意は、いと古へに幸有し時、こゝの濱松が根にて、御手向せさせ給ひし事、傳へいふをきゝて、松は猶ありたてるを、ありし手向種の事は、いくその年をかへぬらんとよみ給へる也。卷十四、住の江の岸の松原遠神吾大君のいでましどころなど、かはらぬ松にむかひて、昔ありけん事をいへる、かぞへがたし。一云、年者經爾計武。この八字を、印本大字とすれど、今集中の例によりて小字とせり。
日本紀曰。朱鳥四年庚寅。秋九月。天皇幸2紀伊國1也。
朱鳥四年庚寅。
天武天皇、白鳳十五年丙戌、七月戊午、改元ありて、朱鳥元年とし給へり。されば、白鳳十五年は、朱鳥元年なれば、庚寅年は朱鳥五年にあたれり。その上、丁亥年、持統天皇即位ましまして、さらに元年をたてたまへりしかば、庚寅年は持統天皇四年なり。朱鳥の年號は、元年のみにて、明年より、持統天皇元年とせり。又わが友、狩谷望之が古京遺文、那須碑條に、蒙齋曰、永昌元年年(衍?)、當v作2朱鳥四年1、蓋係2洗者改作1、今審觀v之、字樣不v類、其説似v可v信、朱鳥四年、五年、六年、七年、見2萬葉集左注1、朱鳥七年、見2靈異記1、不(115)v得3據v史、斷言2朱鳥之號僅一年1也云々とあり。この説による時は、書紀たがへり。書紀は、ひたすら漢土の歴史にならひて、作らせたまひしかば、持統天皇即位の年より、かりに元年をたてたまひしのみにて、實は朱鳥の年號を用ひ給ひし事と見えたり。又本紀を考ふるに國也の二字なし。(頭書、靈異記考證上(ノ)廿六丁可v考。)
越2勢能山1時。阿閉皇女御作歌。
勢能山《セノヤマ》。
せの山は、紀伊國伊都郡なりといへり。書紀孝徳紀云、凡畿内、東自2名墾横河1以來、南自2紀伊|兄《セ》山1以來【兄此云v制】、西自2赤石櫛淵1以來、北自2近江狹々波合坂山1、以爲2畿内國1云々と見えて、集中猶多くよめり。
阿閉皇女。
後に即位まし/\て、元明天皇と申す。紀には、阿部、阿閇二樣に書り。閇と閉、同じ。書紀天智紀云、有2遠智娘弟1、曰2姪娘1、生3御名部皇女與2阿部皇女1、阿部皇女及v有2天下1、居2于藤原宮1、後移2都于乃樂1云々。天武紀云、四年春二月、乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、參2赴於伊勢神宮1云々。續日本紀元明紀云、日本根子天津御代豐國成姫天皇、小名阿閇皇女、天命開別天皇之第四皇女也、母曰2宗我嬪1、蘇我山田石川麻呂大臣之女也、適2日並知皇子尊1、生2天之眞宗豊祖父天皇1云々。慶雲四年、秋七月壬子、天皇即2位於大極殿1云々。
35 此也是能《コレヤコノ》。倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。我戀流《ワカコフル》。木路爾《キチニ》有云《アリトフ・アリトイフ》。名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。
(116)此也是能《コレヤコノ》。
これやこのといふ辭は、まづ一つ物をおきて、これやかの何ならんと、その物をさしていへる辭也。今、こゝの意は、これやかの、せの山ならんといふにて、これやこのといふ詞は、せの山へかけてきくべし。やは、疑ひのや也、本集十五【十五丁】に、巨禮也己能《コレヤコノ》、名爾於布奈流門能宇頭之保爾《ナニオフナルトノウツシホニ》、多麻毛可流登布安麻乎等女杼毛《タマモカルトフアマヲトメトモ》云々。後撰集雜一に、蝉九、これやこのゆくもかへるもわかれつゝしるもしらぬもあふさかの關云々。伊勢物語に、これやこのあまのは衣うべしこそ君がみけしと奉りけれ云々。すべて、かのといふ所を、このといへる例多し。
倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。
倭は、大和藤原の京をのたまふ。爾四手者《ニシテハ》は、にてはといふ意也。集中さる意の所に、してと用ひたる事多し。さて、この歌の意は、この山の名を、兄《セ》の山といふからに、夫《ツマ》をも、兄《セ》といへば、大和の京に留り給ふ御|夫《ツマ》の、皇太子の御事を、おぼしいでゝ、大和にては、わが戀ふるは、御夫の兄《セ》の君也。その兄《セ》といふことを、名におひし山ありといふことを、きゝつるが、これが、かの紀路にありといひし、せの山ならんとのたまふ也。代匠記に、大和にありて、きの國にこそ、せの山といへる、おもしろき山はあれと、人のかたるをきゝしは、これやこの山ならん。げにもおもしろき山なりと、兄《セ》の山といふ名を、戀しく思しめす夫君によせて、よませ給へり云々とのみいはれつるは、くはしからず。
木路爾有云《キチニアリトイフ》。
木路は、紀伊路なり。古事記上卷に、木國とかけり。さてき路は、紀伊へゆく道にはあらで、その國をいへる也。本集四【廿三丁】に、麻裳吉木道爾入立《アサモヨシキチニイリタチ》、眞土山《マツチヤマ》云々。七【六丁】に、木道爾社妹山在云《キチニコソイモヤマアリテヘ》云々などあるがごとし。大和路、越路などいふも同じ。有云《アリトフ》は、ありといふ也。考別記云、ありちふとも、ありとふとも訓。そはまづ、安里登以布《アリトイフ》の、登以《トイ》の(117)約め知《チ》なれば、卷九に宇既具都袁《ウケグツヲ》云々、ふみぬぎで由久智布比等波《ユクチフヒトハ》、また、いたき瘡《キス》には、鹹鹽《カラシホ》を灌知布《ソヽグチフ》がごと、卷十二に、誰の人かも、手に將卷知布《マカンチフ》などある、これ也。又、登布《トフ》とよむは、登以布《トイフ》の以《イ》を略く也。卷九に、さよひめが比禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》、きみまつら山。卷二十に、波々登布波奈乃《ハヽトフハナノ》さきでこずけんなど多し。これを、東の人は見るちふ、聞ちふなど、常に今もいへり。然るを、今の京のかた、※[氏/一]布《テフ》といへるは、その知《チ》を※[氏/一]《テ》に通はせる也。かくて奈良の朝までは、てふといはざれば、此集にて右の如く訓べし。今本に、てふとよみしは、時代の言にくはしからぬ也云々。この説、おしつけ也。そは本集五【廿六丁】に、必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》云々。十四【九丁】に、和禮爾余須等布《ワレニヨストフ》云々。又【廿二丁】等保斯等布《トホシトフ》云々。又【廿八丁】可良須等布《カラストフ》云々。十五【十丁】に、左宿等布毛能乎《サヌトフモノヲ》云々。また【十五丁】多麻毛可流登布《タマモカルトフ》云々。十九【廿九丁】に、伊都久等布《イツクトフ》云々。二十【十六丁】に、波々登布波奈乃《ハヽトフハナノ》云々などありて、又、といふといひしは、一【十六丁】二【十二丁】三【廿四丁・三十五丁】十四【卅丁】十七【四十九丁】十八【十六丁・二十三丁】十九【廿四丁】二十【五十八丁】など見え、又、ちふといひしは、五【七丁・廿七丁】七【十五丁】八【卅七丁】十八【廿四丁】など見えて、文字に云の字書る所は、いづれによまんか、定めがたければ、舊訓のまゝにておくべし。下皆同じ。
名爾負《ナニオフ》。
考別記云、こは二樣に聞ゆれど、本同じ意也。卷四に、早人名負夜音《ハヤヒトノナニオフヨコヱ》。また何名負神幣饗奉者《イカサマニナニオフカミニタムケセハ》。卷十一に、巨禮也己能名爾於布奈流門能宇頭之保爾《コレヤコノナニオフナルトノウツシホニ》などは、たゞ何にでも、その名におひてあるをいふ也。今一つは、此卷に、これやこの云々、名二負勢《ナニオフセ》の山。卷十五に、名耳乎名兒山跡負而《ナノミヲナコヤマトオヒテ》、吾戀の千重のひと重もなぐさまなくになどにて、名に負《オフ》てふ意は、右とひとしきを、これはあやにいひしのみ也。且みな負と書たるにて、この言の意は明らか也。
(118)幸2于吉野宮1之時。柿本朝臣人麿作歌二首。并短歌二首。
幸2于吉野宮1。
書紀本紀を考ふるに、天皇吉野宮に行幸ありし事、二十九度あり。こゝは、いづれの度ならん。不v可v考。
歌二首并短歌二首。
この八字、印本なし。今、目録によりて補ふ。
36 八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王之《ワカオホキミノ》。所聞食《シロシメス》。天下爾《アメノシタニ》。國者思毛《クニハシモ》。澤二雖有《サハニアレトモ》。山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》。御心乎《ミコヽロヲ》。吉《ヨシ》野《ヌ・ノ》乃國之《ノクニノ》。花散相《ハナチラフ》。秋津乃《アキツノ》野《ヌ・ノ》邊爾《ヘニ》。宮柱《ミヤハシラ》。太敷座波《フトシキマセハ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮八者《オホミヤヒトハ》。船並※[氏/一]《フネナメテ》。旦川渡《アサカハワタリ》。舟競《フナキホヒ》。夕河《ユフカハ》渡《ワタル・ワタリ》。此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高良之《イヤタカヽラシ》。珠水激《イハハシル・タマミツノ》。瀧《タゴ・タキ》之宮子波《ノミヤコハ》。見禮跡不飽可聞《ミレトアカヌカモ》。
八隅知之《ヤスミシシ》。
枕詞なり。上【攷證一ノ上六丁】に出たり。
(119)所聞《キコシ》食《ヲス・メス》。
舊訓、きこしめすとあれど、きこしをすとよむべきなり。古事記上卷、夜之|食國《ヲスクニ》云云。靈異記上卷、釋訓に、食國【久爾乎師ス】云々。本集五【七丁】に、企計斯遠周《キコシヲス》、久爾能麻保良叙《クニノマホラソ》。十八【十八丁】に、可未能熊美許登能伎己之乎須《カミノミコトノキコシヲス》云々などある食を、をすとよめれば也。さて食《ヲス》は、物を食する事にて、見るも、聞も、知《シル》も、食ふも、みな物を身にうけ入る意なる故に、見《ミス》とも、聞《キコ》すとも、知《シラ》す(と)も、食《ヲス》とも、同じやうにかよはしいへり。又きこしめすは、書紀に所御、古事記、績紀に聞看などを、きこしめすとよみ、本集二十【二十五丁】に、伎己之米須四方乃久爾欲里《キコシメスヨモノクニヨリ》云云などありて、聞し給ひ、漢し給ふといふ意也。
國者思毛《クニハシモ》。
しもは、助辭にて、國はなり。本集三【五十六丁】に、時者霜何時毛將有乎《トキハシモイツモアランヲ》云々。十三【二十七丁】に、人下滿雖有君下《ヒトハシモミチテアレトモキミハシモ》云々などあるしもと同じ。
澤二雖有《サハニアレト》。
澤は、借字にて、多也。書紀神武紀に、比苔瑳破而異離烏利苔育毛《ヒトサハニイリヲリトモ》云々などありて集中いと多し。
山川之《ヤマカハノ》。山と川と也。川はすみてよむべし。本集六【十丁】に、山川乎清々《ヤマカハヲキヨミサヤケミ》云々。七【十丁】に、皆人之戀三吉野《ミナヒトノコフルミヨシヌ》、今日見者《ケフミレハ》、諾母戀來山川清《ウヘモコヒケリヤマカハキヨミ》云々。續日本紀、寶亀二年二月詔に、山川淨所者孰倶《ヤマカハノキヨキトコロハテタレトトモニ》【加母】、見行阿加良閇《ミソナハシアカラヘ》賜【牟止】云々などあるも、山と川と、二つをいへり。
河内《カフチ》は、此次の歌に、芳野川多藝津河内爾《ヨシヌカハタギツカフチニ》、高殿乎高知座而《タカトノヲタカシリマシテ》云々。六【十丁】に、三吉野乃清河内之《ミヨシヌノキヨキカフチノ》、多藝津白波《タギツシラナミ》云々。また、多藝追河内者《タキツカフチハ》、雖見不飽香聞《ミレトアカヌカモ》云々。又【十三丁】三(120)吉野乃多藝都河内之大宮所《ミヨシヌノタキツカフチノオホミヤトコロ》云々。七【八丁】に、妹之紐結八川内乎《イモカヒモユフハカフチヲ》云々。十四【七丁】に、阿之我利能刀比能可布知爾伊豆流湯能《アシガリノトヒノカフチニイツルユノ》云々。十七【四十一丁】に、於知多藝都吉欲伎可敷知爾《オチタキツキヨキカフチニ》、安佐左良受綺利多知和多利《アサヽラスキリタチワタリ》云々など見えたり。かはうちの、はうの反、ふなれば、かふちとよめり。さて、考云、川の行めぐれるを、かはうちといふ云々といはれつるは、何によりて、さはいはれつるにか、おぼつかなし。右に引る、集中の歌の中に、地名ならんと聞ゆる所も、河の中ならんと聞ゆる所もあり。諸國に、河内川内などいふ地名、和名抄に多く出せるにて思へば、こゝも地名にやとも思はるれど、右に引る、本集六に、清き河内のたぎつしら浪ともあれば、又河の中めきてもきこゆれば、とにかく定めがたし。しばらく、考の説にしたがふ。頭書、再考るに、河内と書るは、借字にて、河端《カハフチ》の意なるべし。をふの反、ふなれば、河端《カハフチ》をかふちともいふべし。)
御心乎《ミコヽロヲ》。
枕詞なれば、くはしくは冠辭考にいづ。天皇の御心を良《ヨシ》といひかけたるなり。
吉《ヨシ》野《ヌ・ノ》乃國《ノクニ》。
古しへは、一郡一郷をも國といひし事、上【攷證一ノ上二十六丁】にいだすがごとし。
花散相《ハナチラフ》。
らふの反、るなれば、ちるの、るをのべたる也。本集十四【十八丁】に、波奈知良布己能牟可都乎乃《ハナチラフコノムカツヲノ》云々。十五【二十七丁】に、毛美知婆能知良布山邊由《モミチハノチラフヤマヘユ》云々などある、皆同じ。同【二十五丁】安伎波疑能知良敝流野邊乃《アキハキノチラヘルノヘノ》云々とあるは、らへの反、れなれば、ちれる也。
(121)秋津刀野邊爾《アキツノヌヘニ》。
秋津は、借字にて、蜻蛉野也。古事記下卷云、即幸2阿岐豆野1而、御獵之時、天皇坐2御呉床1、爾※[虫+罔]咋2御腕1、即蜻蛉來咋2其※[虫+罔]1而飛云々、故自2其時1、號2其野1、謂2阿岐豆野1也云々。本集六【十丁】に、三芳野之蜻蛉乃宮者《ミヨシヌノアキツノミヤハ》云々。また、三吉野之秋津乃川之《ミヨシヌノアキツノカハノ》云々。七【四十一丁】に、秋津野爾朝居雲之《アキツヌニアサヰルクモノ》云々などありて猶多し。吉野のうちなり。
宮柱《ミヤハシラ》。太敷座波《フトシキマセハ》。
古事記上卷に、於2底津石根《ソコツイハネニ》1、宮桂布刀斯理《ミヤハシラフトシリ》、於2高天原《タカマノハラニ》1、冰椽多迦斯理《ヒキタカシリ》
云々。本集二【二十八丁】に、眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》、宮柱太布座《ミヤハシラフトシキマシ》云々。六【十四丁】に、長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》、眞木柱太高敷而《マキハシラフトタカシキテ》云々。又【四十三丁】鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》、宮柱太敷奉《ミヤハシラフトシキタテ》云々。祈年祭祝詞に、宮柱太知立《ミヤハシラフトシリタテ》云々。大祓祝詞に、下津磐根 爾 宮柱太敷立云《シモツイハネニミヤハシラフトシキタテ》々などあると同じ。宮柱は、宮中の柱をいふ。太《フト》は字のごとし。すべて、柱は太きをよしとする故に、かくはいへり。書紀神代紀下、一書に、其造営之制者、柱則高太云々。本集二【三十丁】に、眞木柱太心者云《マキハシラフトキコヽロハ》々などあるにても思ふべし。敷座《シキマス》は、本集二【二十七丁】に、天皇之敷座國等《スメロキノシキマスクニト》云々。三【十七丁】に、日之皇子茂座大殿於《ヒノミコノシキマセルオホトノヽウヘニ》云々。この外、いと多く、しきませるとあるも、しりますといふに意同じ。しきの解、考、いかゞ。
船並※[氏/一]《フネナメテ》。
船なめては、船ならべて也。馬なめて、友なめてなどいふに同じ。本集六【十六丁】に、鰒珠左盤爾潜出《アハビタマサハニカツギデ》、船並而仕奉之《フネナメテツカヘマツラシ》云々などあり。
旦川渡《アサカハワタリ》。
本集二【十五丁】に、未渡朝川渡《イマダワタラヌアサカハワタル》云々。三【五十四丁】に、佐保川乎朝川渡《サホカハヲアサカハワタリ》云々などありて、朝に川をわたる也。呂覽順民篇注に、旦(ハ)朝云々。戰國第齊策注に、旦暮(ハ)朝夕也云々などあリ。
(122)舟競《フナキホヒ》。
舟を競ひわたす也。本集二十【四十九丁】に、布奈藝保布保利江乃可波乃《フナギホフホリエノカハノ》云々と見えたり。
夕河渡《ユフカハワタル》。
旦川といふにむかへて、對をなせり。旦夕といふのみ。船なめ、舟ぎほひと、二つにわくるにあらず。朝夕に、舟なめ、舟ぎほひてわたる也。本集三【五十八丁】に、朝獵爾鹿猪踐起《アサカリニシヽフミオコシ》、暮獵爾鶉雉履立《ユフカリニトリフミタテ》云々とあると同格の對なり。宣長云、ゆふ川わたるとよみきるべし。わたる(り?)とよみては、下へつゞけてはわろし。
此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。
この二句と、次の二句は、山と川とによそへて、幸と宮とを祝し奉れり。本集六【十丁】に、三吉野之秋津乃川之《ミヨシヌノアキツノカハノ》、萬世爾斷事無《ヨロツヨニタユルコトナク》、又還將見《マタカヘリミン》云々。また、泊瀬川絶事無《ハツセカハタユルコトナク》云々などあるも同じ。また李白詩に、齊公鑿2新河1、萬古流不v絶云々とあり。
此山乃《コノヤマノ》。彌高良之《イヤタカヽラシ》。
彌《イヤ》は、ものゝ至り極る所に云言にて、こゝはます/\などいはんがごとし。古事記中卷に、最をよみ、本集六【十五丁】十【十二丁】この外にも益をよめり。小爾雅廣詁に、彌益也云々。廣雅釋詁三に、彌深也云々などあるにて明らけし。さて、考に、良は有の字を誤るか。又、良の上に、かの字を落せしか云々といはれつる、まことにさもあるべし。
珠水激《イハヽシル・タマミツノ》。
枕詞なれば、くはしくは、冠辭考にゆづれり。舊訓、たま水のたぎとよみしを、眞淵のいはゞしるとよまれしは、感心すべし。激は、水のはしり流るゝ意也。一切經(123)音義卷十四、引2莊子司馬注1て、流急曰v激云々。漢書溝※[さんずい+血]志に、爲2石※[こざと+是]1、激使2東注1、激者、聚2右於※[こざと+是]旁衝要之處1、所3以激2去其水1也云々などあるがごとし。
瀧《タギ・タキ》之宮子《ノミヤコ》。
考に、宮のまへ、即瀧川なれば、かくいふ云々といはれつるがごとく、次の歌に、多藝津河内《タキツカフチ》云々、三【十三丁】に、瀧上之三船乃山爾《タキノヘノミフネノヤマニ》云々などあるのみならず、吉野に瀧をよめる歌、集中いと多し。さて、瀧は、もとたぎる意にて、たぎつ、たぎちなど、はたらかし用ふれば、きを濁るべし。宮子《ミヤコ》は、借字にて、都也。かりそめにても、天皇のおはします所、都とはいふ也。この事上【攷證一ノ上十五丁】にいへり。
見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
いくたび見れども、あかずと也。さてこの歌を、拾遺集雜下に、いたくよみ誤りて、のせられたり。
反歌。
37 雖見飽奴《ミレトアカヌ》。吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》。常滑乃《トコナメノ》。絶事無久《タユルコトナク》。復還見牟《マタカヘリミム》。
常滑乃《トコナメノ》。
常《トコ》は、字のごとく、常《ツネ》のといふ意也。滑《ナメ》は、なめらかなる意にて、なめらかといへば用言なるを、物によそふる所なれば、體言にとりなして、滑《ナメ》のとはいへるなり。常《ツネ》に、水など、かわかね所の、石などには、なめらかなる苔《コケ》のごとき物、つくものなれば、吉野川の常滑《トコナメ》のとは、いへる也。又、山中道などにても、常に日などあたらぬ所は、こけおひて、な(124)めらかなるもの也。本集九【十一丁】に、妹門入出見河乃床奈馬爾《イモカヽトイリツミカハノトコナメニ》云々。十一【十四丁】に、豐泊瀬道者常滑乃恐道曾《トヨハツセチハトコナメノカシコキチソ》云々とあるも同じ。さて又、古事記中卷に、舂2佐那葛《サナツラ》之根1取2其|汁滑《シルノナメヲ》1云々とある滑も、なめらかなる汁をとる也。常滑乃の、乃もじは、のごとくの意なり。
復還見牟《マタカヘリミム》。
行幸の御供なれば、今都にかへるとも、いくたびもゆきかへりつゝ見んと也。
38 安見知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワカオホキミノ》。神長柄《カムナカラ》。神《カム・カミ》佐備世須登《サビセスト》。芳野川《ヨシヌガハ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。高殿乎《タカトノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。上立《ノボリタチ》。國見乎爲波《クニミヲスレハ》。疊有《タヽナハル》。青垣山《アヲガキヤマノ》。山神乃《ヤマツミノ》。奉《マツル・タツル》御調等《ミツキト》。春部者《ハルベハ》。花挿頭持《ハナカザシモチ》。秋立者《アキタテハ》。黄葉頭刺里《モミヂカザセリ》。【一云。黄葉加射之《モミヂバカザシ》。】 遊副川之《ユフカハノ》。神母《カミモ》。大御食爾《オホミケニ》。仕奉等《ツカヘマツルト》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜川乎立《ウカハヲタテ》。下瀬爾《シモツセニ》。小網刺渡《サデサシワタシ》。山川母《ヤマカハモ》。依※[氏/一]《ヨリテ》奉流《マツレル・ツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
安見知之《ヤスミシシ》。
この枕詞、上【攷證一ノ上六丁】に出たり。こゝを正字とす。
(125)神長柄《カムナカラ》。
本集下【二十二丁】二に、高所知武等神長柄所念奈戸二《タカシラサムトカムナカラオモホスナヘニ》云々。五【十三丁】に、可武奈加良可武佐備伊麻須《カムナカラカムサヒイマス》云々。集中猶多し。續日本紀、文武天皇元年詔に、隨神《カムナカラ》所思行【佐久止】云々などあり。神にましますまゝにといへる也。天皇を神と申すこと、上【攷證一ノ上四十八丁】にいへるがごとし。
神《カム・カミ》佐備世須登《サビセスト》。
集中、神佐備と書るは、いと多し。五【十三丁】に、可武佐備伊麻須《カムサヒイマス》云々。また【二十三丁》可牟佐飛仁家理《カムサヒニケリ》云々などありて、猶十五【十一丁十九丁】十六【二十九丁】十七【四十一丁四十二丁】など、みなかんさびとあり。かみさびとあるは、二十【二十九丁】に、可美佐夫流伊古麻多可禰爾《カミサフルイコマタカネニ》云々とあるのみなれば、今は多きによりて、かんさびとよむべし。さて考別記云、即、天皇の神御心のすさみせさせ給ふよりなり云々。この説のごとくなれど、又一つ、たゞ古びたる意にいへるあり。そは、神は古しへまし/\しなれば、神めきたりといふ意になれば、語の本は同じ意也。このことは、下【攷證三上十三丁】にいふべし。又思ふに、佐は發語、備は、ひなび、おきなびなどのびと同じく、ぶる意なるべし。されば、神さぶるともいへり。世須登《セスト》は爲《シ》給ふとゝいふ意也。下【二十一丁】に多日夜取世須《タヒヤトリセス》云々とあるも同じ。須の字、清音によむべし。猶この下【攷證十二丁】にいふべし。
多藝津河内爾《タギツカフチニ》。
こは上【六丁】の、清河内《キヨキカフチ》とある所に引るがごとく、本集六【十丁十三丁】などにたぎつ河内とよめり。さて、たぎつは、水のたぎる言にて、たぎち、たぎつとはたらく語なり。六【四十四丁】に、落多藝都湍音毛清之《オチタギツセノトモキヨシ》云々。また六【二十九丁】に、石走多藝千流留《イハハシルタギチナガルヽ》云々などありて、猶多し。河内《カフチ》の事は上【攷證六丁】にいへり。
(126)高殿乎《タカドノヲ》。
古事記下卷に、高臺、高堂、書紀神代紀に、臺などを、たかどのとよめり。續日本紀に、大寶元年六月丁巳、宴2於西高殿1云々。和名抄居處部に、樓辨色立成云【太加止乃】など見えたり。
高知座而《タカシリマシテ》。
高知《タカシリ》は、古事記上卷に、於2高天原1冰椽|多迦斯理《タカシリ》云々とある、たかしりに同じく、高殿を高く知《シ》り領し座《マス》なり。まへの歌に、大敷座《フトシキマシ》とある敷も、知《シル》と同意なる事、其所にいへるがごとし。さて、高知《タカシル》といふ語は、この下【二十二丁】に、都宮者高所知武等《ミアラカハタカシラササムト》云々。六【十三丁】に、和期大王乃高知爲芳野離者《ワゴオホキミノタカシラスヨシヌノミヤハ》云々。また【四十四丁】吾皇《ワカオホキミ》、神乃命乃《カミノミコトノ》、高所知布當乃宮者《タカシラスフタキノミヤハ》云々などありて、集中、又祝詞にも多し。座《マシテ》而は、まし/\てなり。
上立《ノホリタチ》。國見乎爲波《クニミヲスレハ》。
して、所のけしき、又は百姓の貧富、國のよしあしなど見たまふなること、上【攷證一ノ上三丁四丁】にいへるがごとし。
疊有《タヽナハル》。
是を、考には、冠辭といはれつれど、冠辭にあらじ。たゝなつく青垣山といふ時は、冠辭なるべけれど、こゝは、たゞ文字のごとく、疊《タヽナハル》青垣山なれば、たゞ言なり。冠辭とするはよしなかるべし。さて、たゝなはるは、俗言に、物のたゝまるといふごとく、重りつもる意也。一切經音義卷九、引2蒼頡1て、疊重也、積也とあるがごとし。又、宇津保物語藏開上に、(御ぐ(127)し【中略】たたなはれたるいとめでたし)云々。濱松中納言に、みづら、かたはらにたゝなはりまるがし、かきいでたまへれば云々。枕草子に、そなのかたに、髪のうちたゝなはりて、ゆらゝかなる云々などあるも、皆意同じ。さて、冠辭考に、疊有の有の字は、付の誤りならんといはれしかど、しひて、冠辭と見る時は、さもあるべし。冠辭ならずとせんには、本のまゝにても聞ゆべきをや。
(頭書、疊付《タヽナツク》と改むべし。傳廿ノ四十七オ可v考。)
青垣山《アヲカキヤマ》。
古事記中卷に、多々那豆久阿袁如岐夜麻碁母禮流《タヽナヅクアヲカキヤマゴモレル》云々。本集六【十三丁】に、立名附青墻隱《タヽナヅクアヲカキコモリ》云々。十二【三十八丁】に、田立名付青垣山之《タヽナツクアヲカキヤマノ》云々。出雲風土記に、青垣山廻賜而云々などあるも、皆同意にて、青き垣の如く、山をめぐれる意也。さて、舊訓、あを垣山のと、の文字を付て、よめれど、の文字あるはわろしと、宣長いへり。さる事なり。
山神《ヤマツミ》。
古事記上卷云、生2山神1、名(ハ)大山津見神云々。書紀神代紀上、一書に、山神等(ヲ)號2山祇1云々などあれば、山神は、山つみとよめり。さて山つみの名義は、山つ持《モチ》にて、山の事を持あづかる神也。もちの反、みにて、つは助字なれば、山つみといへる也。考につを濁りて、山づみとせられしかど、助字のつを、にごるべき例なし。
奉《マツル・タツル》御調等《ミツキト》。
本集二【三十五丁】に、装束奉而《ヨソヒマツリテ》云々。十八【三十二丁】に、萬調麻都流都可佐等《ヨロツツキマツルツカサト》云々。二十【三十五丁】賀美乃美佐賀爾怒佐麻都里《カミノミサカニヌサマツリ》云々などありて、古事記上卷に、たてまつるとよむべき所、立奉とかけるも、奉の一字は、たつるとも、まつるともよむ故に、こゝはたてまつると、よむべき事をしらせて、立奉とはかける也。これらにても、奉は、まつるとよむべき事をしるべ(128)し。又、舊訓、たつるとあるも、例なきにあらず。奉るを、たつるとのみもいへり。そは、大神宮儀式帳に、佐古久志侶伊須々乃宮仁御氣立止《サコクシロイスヽノミヤニミケタツト》云々。本集六【四十三丁】に、宮柱太敷奉《ミヤハシラフトシキタテ》云々などあるにても思ふべし。御調は、古事記に、調、御調などかき、書紀に調賦、また賦の一字をもよめり。民より天皇に物を奉るをいふ。
春《ハル》部者《ベハ・ベニハ》。
考別記云、部は假字なり。仍て、春部爾者とかゝぬをば、はるべはと四言によむ也。今本、これをも、はるべにはと訓しは、ひがごとぞ。假字の下に、辭をそへて、いふことなければ也。さて、こは春の方《カタ》てふことなれば、正しくは春方とかくべし。古事記に、匍2匐|御枕方《ミアトベ》1、匍2匐|御足方《ミマクラベ》1てふ、同じこゝろを、卷九に、父母波枕乃可多爾《チヽハヽハマクラノカタニ》、妻子等母波足乃方爾圍居而《メコトモハアトノカタニカクミヰテ》ともいひ、春べに向ひてといふ事を、春方設而《ハルカタマケテ》ともいへば也。又卷二に、皇子宮人行方不知毛《ミコノミヤヒトユクヘシラスモ》。卷八に、因來浪之逝方不知毛《ヨリクルナミノユクヘシラスモ》。その外、山べ、海べなどのべも、皆|方《カタ》てふ事也。今は、この、べに、邊の字をかくも、即、假字なり。集中に多あれど、みな同じ云々。宣長曰、此べは、方《カタ》の意とたれも思ふめれど、春にのみいひて、夏べ、秋べ、冬べといふことなければ、方にはあらず。春榮《ハルバヘ(エ)》をつゞめたる言なる故に、この事は、春の物ごとに、榮ることによれる所にのみいへり云々と、宣長のいへるは、さる事ながら、外に例なければ、別記の説にしたがふべし。
花挿頭持《ハナカザシモチ》。
こは、花を手に持ちて、頭にさしかざすなり。挿頭《カサシ》といふも、字のごとく、頭に挿《サス》意也 ふるくは、古事記中卷に、久麻加志賀波袁宇受爾佐勢《クマカシガハヲウスニサセ》云々といへるは、後にかざしの花といふもの也。又書紀推古紀に、皇子諸王諸臣、悉以2金(ノ)髻華《ウス》1着頭《カサセリ》云々などもありて、もとは頭に挿《サス》をのみ、いへる名なりしかど、そを轉じて、たゞ手に持たりて、頭にさゝげ(129)て、さしかざしたるをも、又實に頭にさすをも、挿頭《カサシ》とはいへる也。さてこゝなる花挿頭持《ハナカサシモチ》は、頭にさゝずして、たゞ手にもちて、さしかざせる事なるを、考には、持はそへたる言なりといはれしかど、挿頭《カサシ》は、實は頭にさすものなるを、手に持たるを、ことわらんが爲に、持の字はおけるにて、そへたる字にあらず。またかざしは、木集二【三十二丁】に、春部者花所挿頭《ハルヘハハナヲリカサシ》、秋立者黄葉挿頭《アキタテバモミチバカサシ》云々。七【九丁】に、彌和乃檜原爾挿頭折兼《ミワノヒハラニカサシヲリケム》云々。八【十六丁】に、※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾《ヲトメラカカサシノタメニ》云々などありて、集中猶いと多し。西宮記卷 云、挿頭花事、藤花、大甞會及可v然時、帝王所2刺給1也、祭使并列見之時、大臣藤花云々。其納言者、用2櫻花1、參議者、用2山葺1云々。和名抄雜藝具云、揚氏漢語抄云鈔頭花【賀佐之俗用2挿頭花1】云々。後撰集秋下に、三條右大臣、をみなへし花の名ならぬものならば何かは君がかざしにもせん云々など見えたり。
遊副川之神母《ユフカハノカミモ》。
代匠記云、ゆふ川は、よし野にある川の名、つねには、ゆかはといふ所なり云々。本集七【八丁】に、吾紐乎妹手以而結八川《ワカヒモヲイモカテモチテユフハカハ》云々。また妹之紐結八川内乎《イモカヒモユフハカフチヲ》云々などある、これか。猶可v考。川之神は、古事記中卷に、山神、河神、及穴戸神、皆言向和而云々。書紀仁徳紀云、以祷2河神1云々。和名抄神靈類云、兼名苑云河伯、一云水伯、河之神也【和名加波乃加美】云々など見えたり。(頭書、文開元遺事に、御苑新有2千葉桃花1、帝親折2一枝1、挿2於妃子寶冠上1、曰此箇花尤能助2嬌態1也云々。)
大御食《オホミケ》。
大御食の大御は、天皇に申奉るなり。大御子、大御身などのたぐひ也。さて大御食は、古事記中卷に、立2其河下1、將v獻2大御食1之時云々。本集二十【二十五丁】に、於保美(130)氣爾都加部麻都流等《オホミケニツカヘマツルト》、乎知許知爾伊射里都利家理《ヲチコチニイサリツリケリ》云々など見えたり。
仕奉《ツカヘマツル》。
この語は、もと被《レ》v使《ツカハ》奉るといふ言なるが、はれの反、へなれば、つかへまつるといふ也。されど、それを轉じて、たゞ何事にても、君の御爲にすることをもしかいへる也。古事記上卷に、答白|恐之仕奉《カシコシツカヘマツラム》云々。中卷に、仕2奉《ツカヘマツリ》假宮《カリミヤ》1而坐云々。書紀推古紀に※[言+可]之胡彌※[氏/一]菟伽倍摩都羅武《カシコミテツカヘマツラム》云々など見えたり。集中いと多く、あぐるにいとまなし。
鵜川乎立《ウカハヲタテ》。
鵜は、和名抄羽族名部に、辨色立成云大曰2※[盧+鳥]※[茲/子]【盧茲二音日本紀私記云志萬豆止利】小曰2鵜※[胡+鳥]1爾雅注曰、※[盧+鳥]※[茲/鳥]水鳥也、觜頭如v鈎、好食v魚者也云々とあるがごとくなれど、鵜を宇といふを俗名とせられしはいかゞ。しまつとりといふは、古事記にいでゝ、鵜といふ枕詞なるは、此鳥島などにありといふ意にて、島つ鳥鵜とつゞけしのみ。それよりうつりて、しまつとりを鵜の名とせるこそ、漸く後の事なれ。鵜といふ名は、古事記、書紀、此集にも、多くいでゝ、かくれなきを、俗名といはれしは、世にきゝなれぬを、雅名とのみ心得る、後世の心より、いでこし誤り也。さて、鵜川といふは、鵜を川にはなちて、魚をとらすといふ事なるを、やがて、一つのものゝ名のごとくいひし也。立《タテ》といふは、考に、川の上下を、多くの人もて、斷《タチ》せきて、中らにて、鵜を飼ふものなれば、斷《タチ》いふべし云々とて、立をたちとよみ直されしも、宣長が、立は、本のまゝに、たてと訓べし。是は、御獵立《ミカリタテ》、または射目立《イメタテ》などの立と同じくて、鵜に魚をとらするわざを、即鵜川といひて、その鵜川をする人共を、立《タヽ》するをいふ也云々(と)いひしも誤り也。この立《タテ》は、本集十六【二十九丁】に、高杯爾盛《タカツキニモリ》、机爾立而《ツクヱニタテヽ》、母爾奉都也《ハヽニマツリツヤ》云々とある立《タテ》と同じく、物を居置(131)意にて、置といふがごとし。そは、呂覽蕩兵篇注に、立置也云々。周禮天官書に、建2其牧1立2其監1云々などあるを見ても思ふべし。さて、鵜川は、本集十七【卅六丁】に、伎欲吉勢其等爾宇加波多知《キヨキセコトニウカハタチ》云々。また【四十九丁】夜蘇登毛乃乎波宇加波多知家里《ヤソトモノヲハウカハタチケリ》云々。十九【廿一丁】に、和我勢故波宇河波多々佐禰《ワカセコハウカハタヽサネ》云云など見えたり。又、北史倭國傳に、水多陸少、以2小環1掛2※[盧+鳥]※[茲+鳥]頂1、令2入v水捕1v魚、日得2百餘頭1云々とある、※[盧+鳥]※[茲+鳥]は鵜なり。
小網刺渡《サテサシワタシ》。
本集四【四十一丁】に、佐堤乃埼左手蠅師子之《サデノサキサテハヘシコノ》云々。九【十四丁】に、淵瀬物不落左提刺爾《フチセモオチスサテサシニ》云々。十九【廿一丁】に、平瀬爾波左泥刺渡《ヒラセニハサデサシワタシ》、早湍爾波水烏乎潜都追《ハヤセニハウヲカツケツヽ》云々。和名抄漁釣具云、文選注云※[糸+麗]【所買反師説佐天】網如2箕形1、狹v後廣v前名也云々。などあるにて、明らけし。
山川母《ヤマカハモ》。
山と川と也。上【攷證六丁】にいへり。さてこゝな(る脱?)山川の、山はまへの青垣《アヲカキ》山をいひ、川は遊副《ユフ》川をいへり。
依※[氏/一]《ヨリテ》奉流《マツレル・ツカフル》。
依※[氏/一]《ヨリテ》は、本集下【廿二丁】に、天地毛縁而有許曾《アメツチモヨリテアレコソ》云々。二【廿七丁】に、天地之依相之極《アメツチノヨリアヒノキハミ》云々などある、よりといふ言と同じく、物の寄《ヨリ》くる事にて、こゝの意は、山に花紅葉、あるは山神の、みつぎを奉るごとく、川に鵜川、さでさしなどするは、河伯の、大御食を奉るがごとし。されば、山も川も、よりあひて、天皇にまつろひ奉るに、ことならすと也。さて、奉流を、考には、つかへるとよまれしかど、宣長が、本のまゝに、つかふる|よ《(マヽ)》むべし。つかへるは、今の世の鄙俗の言也。すべて、下を、くる、する、つる、ぬる、むる、ゆる、るる、うるといふ言(132)を、ける、せる、てる、へる、れる、める、えるといふは、皆鄙言にて、古しへになき事也。まれに、時雨のあめの染る也けり、峯に延るなどあるは、染有《ソメアル》、延有《ハヘアル》の意にて、そむる、はふといふとは異なり云々といはれしも、心ゆかず。今案に、奉流は、まつれると訓べし。其故は、集中、奉の一字を、つかふと訓し事なければ也。まつれるは、まつろへるの約りにて、ろへの反、れなれば也。ま|ろつ《(マヽ)》へるは、順ひ奉る事にて、こは山も川も、よりあひて、君に順ひ奉れりと也。このまつろふといへる事は、下【攷證二下十八渟】にいふべし。
神乃御代鴨《カミノミヨカモ》。
神は、天皇を申す事、上にいへるがごとし。宣命に、現神《アキツカミ》と大八洲しろしめす天皇といへる言多し。これこゝと同意なり。
反歌。
39 山川毛《ヤマカハモ》。因而奉流《ヨリテツカフル》。神《カム・カミ》長柄《ナカラ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。舶出《フナデ》爲《セス・スル》加毛《カモ》。
舶出《フナデ》爲《セス・スル》加毛《カモ》。
爲の字は、舊訓、するとあれど、考に、せすとよまれしにしたがふ。せすは、したまふといふ言なり。上【十九丁】に、神佐備世須登《カムサヒセスト》云々。下【廿一丁】に、多日夜取世須《タヒヤトリセス》云々。十九【卅九丁】に、國看之勢志※[氏/一]《クニミシセシテ》云々。また【四十二丁】豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云々などあるも意同じ。(頭書、久老別記の説あぐべし。)
右日本紀曰。三年己丑。正月、天皇幸2吉野宮1。六月。幸2吉野宮1。四年(133)庚寅二月。幸2吉野宮1。五月。幸2吉野宮1。五年辛卯正月。幸2吉野宮1。四月。幸2吉野宮1者。未v詳2知何月從駕作歌1。
日本紀曰、
本紀を考ふるに、吉野宮行幸二十九度なるを、はづかに六度をのみあげつるはいかゞ。
何月。
この何月の上に、何年の二字を脱せる歟。さなくば文をなさず。
幸2于伊勢國1時。留v京。柿本朝臣人麿作歌三首。
幸2于伊勢國1。
この行幸の事は、下の左注に、書紀を引てしるせるがごとし。
三首。
この二字、印本なし。今、目録によりて補ふ。
40 嗚呼兒乃浦爾《アコノウラニ》。船乘爲良武《フナノリスラム》。※[女+感]嬬等之《ヲトメラカ》。珠裳乃須十二《タマモノスソニ》。四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
(134)嗚呼兒乃浦《アゴノウラ》。
嗚呼兒乃浦《アゴノウラ》は、志摩國英虞郡の浦なり。印本、嗚呼見の浦とあれど、書紀本紀に、此行幸の事をしるして、御2阿胡行宮1云々とありて、和名抄志摩國郡名に、英虞【阿呉】とあるうへに、此歌を本集十五【十丁】に重出して、安胡乃宇良爾《アコノウラニ》云々などもあれば、見は兒と字體の似たるより誤れる事、論なし。依て改む。但し、本集十五、この歌の左注に、柿本朝臣人磨歌曰、安美納宇良《アミノウラ》云々とあれど、そは兒を見に誤りて、嗚呼見乃浦《アミノウラ》とせしを見て、又見を美と書かへたるなれば、證とするにたらず。又上【八丁】に、網能浦《アミノウラ》云々。十一【卅七丁】に、留鳥浦《アミノウラ》云云とあれど、こは他國なれば、こゝに用なし。さて、嗚呼の二字を、あの一言に用ひしは、本集十二【十六丁】に、馬聲をいの假字とし、蜂音をぶの假字に用ひしたぐひにて、よき事にまれ、あしき事にまれ、物を歎息するに、あといふ聲あるによりて、嗚呼の二字をば、あの一言に用ひし也。小爾雅に、烏乎(ハ)吁嗟也、吁嗟(ハ)嗚呼也、有v所2歎美1、有v所2傷痛1、隨v事有v義也云々。集韻に、嗚呼歎辭云々ともあるがごとし。今、嗚呼の二字を、あゝとよむも、もとはあの一言なれど、それを引て、あゝといふ也。靈異記中卷、訓釋に、噫 阿 云々。新撰字鏡に、嗟【憂歎阿又奈介久】云々とあるにても、歎息の詞は、あの一言にてもたれるをしるべし。書紀に、咨、嗟乎などの字を、あゝとよめり。すべて、歎息の詞に、あな、あや、あはれなど、皆、あの字あるにても、あの一言にて、歎息の詞なるをしるべし。
舶乘爲良武《フナノリスラム》。
上【十丁】に、熟田津爾船乘世武登《ニキタツニフナノリセムト》云々。七【十五丁】に、何處可舟乘爲家牟《イツコニカフナノリシケム》云々などあるがごとく、たゞ舟にのるらんといへる也。
(135)※[女+感]嬬《ヲトメ》。
集中、をとめに※[女+感]嬬とかける所多し。※[女+感]の字見およばざる字也。可v考。(頭書※[女+感]嬬は、感嬬なるを、下の字の扁を上へ及ぼしたる也。この事、下【攷證三下二渟】可v考。)
珠裳乃須十二《タマモノスソニ》。
珠裳は、考に、あかも(と脱?)よまれしかど、舊訓のまゝ、たまもとよむべき也。たまは、ものほむることば、玉だれ、玉だすき、玉つるぎ、玉はゝきなどの類なり。宣長云、本のまゝに、たまもとよむべし。二の卷【卅一丁】に、に(衍?)をちの大野の、朝露に玉もはひづち云々。廿卷【四十五丁】に、多麻毛須蘇婢久《タマモスソヒク》とあり。珠をあかとはよみがたし。
四寶三都良武香《シホミツラムカ》。
潮滿らんかなり、かは輕く疑ふ意也。この次の歌に、妹乘良六鹿《イモノルラムカ》云々。九【十一丁】に家念良武可《イヘモフラムカ》云々などあると同意なり。
41 釧著《クシロツク》。手節乃崎二《タフシノサキニ》。今毛可母《イマモカモ》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。玉藻苅良武《タマモカルラム》。
釧著《クシロツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。印本劔著とありて、たちはきの(と脱?)訓しを、僻案抄に、釧著《クシロツク》と改められしは、感心すべきなり。いかにも劔は訓の誤りなる事論なし。さて、訓は、古事記上卷に、佐久々斯呂伊須受能宮《サククシロイススノミヤ》云々。下卷に、所v纏2御手1之|玉釧《タマクシロ》云々。本集九【廿五丁】に、吾妹兒者久志呂爾有奈武《ワキモコハクシロニアラナム》、左手乃吾奧手爾纏而去麻帥乎《ヒタリテノワカオクノテニマキテイナマシヲ》云々。また【卅一丁】吾戀兒矣《ワカコフルコヲ》、玉釧手爾取持而《タマクシロテニトリモチテ》云々などありて、手にまけるもの也。そは、説文に、釧臂環也云々。事林廣記、引2通俗文1て、環臂謂2之釧1後漢孫程十九人、立2順帝1有v功、各賜2金釧指環1、則釧起2於後漢1云々などあるが(136)ごとし。和名抄には、釧の字は、あげられしかど、比知萬岐《ヒチマキ》と注されつ。此物、中古より絶たりとおぼしければ、そのころ、くしろといふ名もあらざりしなり。提要にもいへるがごとく、和名抄は、順主、はやくの著述にして、此集に訓を付られしよりまへなる事、これらにてもしるべし。又本集九の、わぎもこはくしろにあらなん云々の歌を、六帖五に、くしの條にのせて、わがせこがくしにあらなん云々とせるにても、此もの、中古より絶しなしるべし。著《ツク》は、字のごとく、訓釧《クシロ》を著《ツク》る手節《タフシ》とつゞけし也。節は、手のふし也。素問生氣通天論に、五臓十二節などあるを見ても思ふべし。
手節乃崎《タフシノサキ》。
和名抄志摩國郡名に、答志《タフシ》とあり。すなはちこの答志郡の崎なり。
今毛可母《イマモカモ》。
今毛可母の母は、助字にて、今もか手節《タフシ》のさきに、大宮人が玉藻かるらんと、おしはかりて、よまれし也。
42 潮左爲二《シホサヰニ》。五十等兒乃島邊《イラコノシマベ》。※[手偏+旁]船荷《コグフネニ》。妹乘良六鹿《イモノルラムカ》。荒島囘乎《アラキシマワヲ》。
潮左爲二《シホサヰニ》。
潮の字しほとよむことは、上【攷證一ノ上十七丁】にいへり。さてしほざゐは、本集三【卅九丁】に、暮去者鹽乎令滿《ユフサレハシホヲミタシメ》、明去者鹽乎令干《アササレハシホヲヒシム》、鹽左爲能浪乎恐美《シホサヰノナミヲカシコミ》云々。十一【卅六丁】に、牛窓之浪乃鹽佐猪島響《ウシマトノナミノシホサヰシマヒヽキ》云々。十五【廿八丁】に、於伎都志保佐爲多可久多知伎奴《オキツシホサヰタカクタチキヌ》云々などありて、僻案抄に、潮佐爲とは、潮さわぎにて、潮のさしくる時、海のなるをいふ云々とあるがごとく、わきの反、ゐなれば、潮さわぎなり。
(137)五十等兒乃島《イラコノシマ》。
五十等兒乃島は、上【十五丁】に、麻績三流2於伊勢國伊良虞島1云々と見えたり。この事は、上【攷證一ノ上三十九丁四十丁】にいへり。考云、いらごは、參河國の崎也。其崎、いと長くさし出て、志摩のたふしの崎と、はるかに向へり。其間の海門《ウナト》に、神島、大づゝみ小づつみなどいふ島どもあり。それらかけて、古しへは、いらごの島といひしか。されど、この島門あたりは、世にかしこき波のたつまゝに、常の船人すら、漸くに渡る所なれば、官女などの船遊びする所ならず。こゝは、京にて大よそをきゝて、おしはかりに、よみしのみ也。五十の二字を、いの一言に用ふるは、古事記中卷に、五十日帶日子《イカタラシヒコ》云々。下【廿五丁】に、五十日太《イカタ》云々などあるがごとく猶多かり。
※[手偏+旁]船荷《コクフネニ》。
※[手偏+旁]は、小補韻會に、※[手偏+旁](ハ)進v船也云々ともありて、こぐとよまん事、論なし。本集七【十二丁】に、穿江水手鳴松浦船《ホリエコグナルマツラフネ》云々と、水手をこぐとよめるは、廣韻に、※[手偏+旁]人(ハ)船人也云々とありて、※[手偏+旁]をこぐとよむからに、※[手偏+旁]人の義にて、水手をもこぐとよめる也。荷は假字なり。
妹乘良六鹿《イモノルラムカ》。
妹のるらん歟也。このかの字の事は、上にいへり。
荒島《アラキシマ》囘《マ・ワ》乎《ヲ》。
荒《アラ》きは、波のあらきにて、荒磯《アリソ》などいふに同じ。島囘《シマワ》の囘《ワ》は、考に、島のあたりをいふ云々といはれしかど、くはしからず。囘《ワ》は阿《クマ》といふに似て、島にまれ、磯にまれ、浦にまれ、いりくまり、わだかまれるをいふ。書紀神武紀に、曲浦を、わだのうらとよめるも、わだかまりたる意也。國語晋語注に、囘曲也云々。漢書季布傳注に、阿曲也云々とありて、(138)二字通用すれば、囘《ワ》はくまといふに似たり。書紀天武紀に、川ぐまを、河曲と書たるにても思ふべし。本集二【十五丁】に、道之阿囘《ミチノクマワ》云々とあるは、道のくま/”\といふに似て、道の阿《クマ》のわだかまれる意也。さて、本集十七【十九丁】に、伎欲吉伊蘇末爾《キヨキイソマニ》云々。十五【七丁】に、伊素末乃宇良由《イソマノウラユ》云々などあるによりてか、宣長は、島囘《シママ》、、いそ囘《マ》など、囘をまとよめれど、いかゞ。考云、俄に、潮のきて、浪のさわぐに、そなれぬ妹らが、わぶらんことを思ふ也。島囘は、島のあたりをいふ。浦囘同、磯囘などいふ、皆|和《ワ》のかな也。浦び、浦箕、島|備《ビ》、磯間などいへるも、意は相通ひて、言は別也。此三くさのはじめは、宮びめをいひ、次は臣たちをいひ、其次は妹といへれば、人まろの思ふ人、御ともにあるをいふ歟。されど、言のなみによりて、妹といへる事もあれば定めがたし。(頭書、再考るに、囘は、宣長の説の如く、まと訓べし。まは間の意にて、ほとりの意也。)
當麻眞人麿妻作歌。
こは、まへの端辭に、幸2于伊勢國1時留v京とあるをうけて、かける也。當麻眞人麿が、此行幸の御供にて、下りしに、その妻、京にとゞまりて、思ひやりてよめる也。さて、當麻眞人麿は、父祖官位未v詳。本集四【十七丁】に、左の歌を重出して、當麻磨大夫妻とせり。書紀用明紀云、葛城直磐村女、生2一男一女1、男曰2麻呂皇子1、此當麻公之先也云々。天武紀云、十三年冬十月、己卯朔、當麻公云々十三氏、賜v姓曰2眞人1云々と見えたり。考は、紀にも出し人也云々といはれしかど今見えず。
(139)43 吾勢枯波《ワカセコハ》。何所《イツク・イツチ》行良武《ユクラム》。巳津物《オキツモノ》。隱《ナバリ・カクレ》乃山乎《ノヤマヲ》。今日香越等六《ケフカコユラム》。
何所《イツク・イツチ》。
舊訓、いづちとあるも、考にいづことよまれしも、いかゞ。古事記中卷にも、伊豆久とありて、集中皆しかかけり。枕詞にて、冠辭考にくはし。巳津物《オキツモノ》は、澳《オキ》つ藻《モ》のにて、物《モノ》は借訓也。澳つ藻の如く、隱とつゞけたる也。宣長云、起《オキ》を巳と書るは、古へ偏を省きて、書る例也。健を建とかき、日本紀、また式などに、石村を石寸とかき、古事記に、※[虫+呉]蚣を呉公とかける、此類、猶多し云々といはれしは、いかゞ。巳を起の省文とせずとも、巳の字に、もとより起の意はあるをや。そは玉篇に、巳徐里切、嗣也、起也云々。白虎通五行篇に、巳者物必起云々などあるを見ても思ふべし。省文のことは、提要にいへり。
隱《ナバリ・カクレ》乃山《ノヤマ》。
舊訓かくれの山とありて、名所部類の諸書に、伊勢國とすれどいかゞ。宣長云、隱の山は、伊賀國名張郡の山なり。大和の京のころ、伊勢へ下るには、伊賀を經る事常也。此卷【廿五丁】に、暮相而朝面無美隱爾加《ヨビニアヒテアシタオモナミナハリニカ》云々。八卷【卅五丁】に、隱野乃《ナハリヌノ》など皆同所也。さて名張を隱とかくことは、天武紀に、隱郡隱驛家とあり。また、大和の地名に、吉隱《ヨナバリ》もあり。これらを以て、こゝの隱の山も、なばりの山なるを思ひ定むべし。さて、なばりとは、即かくるゝ事をいふ古言と見えて、巳津藻《オキツモ》といふも、又|朝面無《アシタオモナシ》といふも、かくるゝ意のつゞけ也。十六卷【卅丁】に、忍照八難波乃小江爾《オシテルヤナニハノヲヘニ》、廬作難麻理弖居《イホツクリナマリテヲル》、葦河爾乎《アシカニヲ》云々。これ隱れてをることを、なまりてをるといへり。これを、古訓かたまりてとよめるは、いみじきひがごと也云々といはれしがごとし。右にいへる(140)ごとく、隱の山は伊賀なる事、明らかなるうへに、天武紀に、この伊勢の行幸の條に、伊賀、伊勢、志摩などの國を、過たまひし事あるにても思ふべし。
石上大臣。徒駕作歌。
石上大臣は、左大臣石上朝臣麻呂公なり。書紀天武紀、元年、五年、十年の條に、物部連磨と見えたり。その後、十三年十一月、朝臣の姓を給はりて、物部朝臣といへり。又其後、物部氏を、石上と改められしよし、姓氏録に見えたり。さて、この公は、持統紀三年に、直廣參石上朝臣麿云々。十年に、直廣壹石上朝臣麿云々。續紀に、大寶元年三月甲午、中納言正三位石上朝臣麿、爲2大納言1云々。慶雲元年正月癸巳、詔以2大納言從二位石上朝臣麿1、爲2右大臣1云々。和銅元年正月乙巳、授2從二位石上朝臣麿正二位1。三月丙午、右大臣正二位石上朝臣麿爲2左大臣1云々。養老元年三月癸卯、左大臣正二位石上朝臣麿薨、大臣(ハ)泊瀬朝庭大連物部目之後、難波朝衛部大華上宇麻呂之子也云々と見えたり。この麿公、このころは、まだ大臣にはおはさゞりしかど、極官をもてしるせしなり。從駕は、おほみともとよめり。駕は、小補韻會に、唐制天子居曰衙、行曰v駕、又車乘也云々とあるごとく、駕に從ふなれば、大御供とはよめるなり。
44 吾妹子乎《ワキモコヲ》。去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》。高三香裳《タカミカモ》。日本能不所見《ヤマトノミエヌ》。國遠見可聞《クニトホミカモ》。
吾妹子乎《ワキモコヲ》。
わぎも子は、わがいも子といふ、かいの反、きなれば、わぎもこといへる也。古事記下卷に、和藝毛《ワギモ》云々。本集十五【五丁】に、和伎母故我《ワギモコカ》云々。また二十【廿五丁】に、和(141)我伊母古《ワカイモコ》云々とも見えたり。書紀雄略紀に、謂2皇后1曰2吾妹1【稱v妻爲v妹蓋古之俗乎】云々ともあれど、妻をいふのみにかぎらず。そは仁賢紀注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹云々とあるにても思ふべし。さて、わがといふは、親しみむつびていへる言なること、わが大きみ、わがせこの類なり。
去來見乃山《イザミノヤマ》。
去來は上【攷證一ノ上廿一丁】にいへるがごとく、いざと誘ひ※[人偏+端の旁](催)す詞なり。吾殊子を、いざ見んといふを、いざ見の山といひかけたる也。考云、いさみの山てふはしらねど、式に、伊勢國多氣郡に、伊佐和神社、志摩の答志郡に伊佐波神社などいふもあれば、この國々の中に、伊佐美の山てふもありしにや。又|楢《ナラ》山を、舊衣|著楢《キナヲ》の山といひ下せし類にて、佐美の山てふあるに、いさみといひかけしにや。
高三香裳《タカミカモ》。
高さにか也。みはさにの意。かもの、もは助字也。
日本能《ヤマトノ》。
日本は、中國の惣名にて、大和をも、日本をも、やまとゝいふ故に、こゝは借訓にて、日本とかける也。實は大和なり。書紀神代紀上に、日本《ヤマトノ》國之三諸山云々。本集六【四十二丁】に、吾大王乃《ワカオホキミノ》、高敷爲《タカシカス》、日本國者《ヤマトノクニハ》云々などあるも、大和のこと也。
國遠見可聞《クニトホミカモ》。
この句も、高三香裳《タカミカモ》といふに同じく、見《ミ》は、さにの意、聞《モ》は助字也。吾ぎも子を、いざ見んと思ふに、大和の國も見えぬは、このいざみの山の高さにか、(142)國をへだてゝ、國の遠きにかあらんとなり。
右日本紀曰。朱鳥六年壬辰。春三月。丙寅朔戊辰。以2淨廣肆廣瀬王等1。爲2留守官1。於v是。中納言三輪朝臣高市麿。脱2其冠位1。※[敬/手]2上於朝1。重諫曰。農作之前。車駕未v可2以動1。辛未。天皇不v從v諫。遂幸2伊勢1。五月。乙丑朔庚午。御2阿胡行宮1。
朱鳥六年壬辰。
壬辰年は、持統天皇六年にて、朱鳥元年よりは七年にあたれり。六年とするを《(マヽ)》七年を誤れる也。
淨廣肆。
書紀天武紀云。十四年春正月、丁來未朔丁卯、更改2爵位之號1、仍増2加階級1、明位二階、淨位四階、毎v階有2大廣1、并十二階、以前諸王已上之位云々とあるがごとく、淨廣肆は、淨位第四の位なり。但し此まへ、十三年の所に、淨廣肆廣瀬王と見えたれば、この位階、その以前はやく行はれしなるべし。
廣瀬王。
この王父祖未v詳。續紀に、養老六年正月卒とあり。はじめは、天武紀より見えたり。猶くはしくは本集八【攷證八ノ中丁】にいふべし。
(143)留守官。
書紀齊明紀云、留守官蘇我赤兄臣云々。延喜太政官式云、凡行幸應v經v旬者云々、若諸司鑰匙有v勅付2留守官1者、大臣若大納言、率2侍從五位以上1内裏令d2典鑰等1就2櫃所1出收u云々。文献通考 云、唐太宗、親征2遼東1、置2京城留守1云々。杜氏通典云、唐志云車駕不v在v京、則置2留守1、此蓋命v官之始也云々など見えたり。
中納言。
職原抄云、持統元皇六年、始置2此官1、其後罷v之、大寶二年、定2官位令1、曰無2此官1、仍爲2令外1歟、但慶雲四年、又置v之云々。和名抄職名部云、二方品員云令外置中納言【奈加乃毛乃萬宇須豆加佐】云々など見えたり。
三輪朝臣|高市《タケチ》麿。
高市麿卿は書紀天武元年紀にはじめて、三輪君高市麿と見えたり。其のち、十三年朝臣の姓をたまはりて、三輪朝臣といへり。續紀云、大寶二年、正月乙酉、從四位上大神朝臣高市麿、爲2長門守1云々。同三年、六月乙丑、爲2左京大夫1云々。慶雲三年、二月庚辰、左京大夫從四位上大神朝臣高市麿卒、以2壬申年功1、詔贈2從三位1、大花上利金之子也云々。靈異記上卷云、故中納言從三位大神高市萬侶卿者、大后天皇時忠臣也、有記曰、朱鳥七年壬辰二月、詔2諸司1、當三月將v幸2行伊勢1、宜d知2此状1、而設備u焉、時中納言恐v妨2農務1、上言諫、天皇不v從、猶將2幸行1、於v是脱2其蝉冠1、※[敬/手]2上朝庭1、亦重諫v之、方今農節不v可也云云。さて、この氏は、姓氏録卷十七に、大神朝臣、素佐能雄命六世孫、大國主之後也云々などありて、みな大神とかけるを、書紀にのみ、三輪とかけり。大神とかけるをも、みわとよむべき也。この事は、古事記傳卷二十三にくはしく辨ぜり。(頭書、高市麿卿官位の論あぐべし。靈異記攷證上(144)二十六丁オ可v考。)
脱2其冠位1。
文選謝靈運詩云、歸客遂2海隅1、脱v冠謝2朝列1云々ともありて、國語齊語注に、脱解也云々ともあれば、その官位をみづからときて、さていさめ奉るといへるなり。
※[敬/手]2上於朝1。
※[敬/手]上は、書紀にさゝぐと訓ぜり。玉篇に、※[敬/手](ハ)持高也云々とあるにても、さゝぐる意なる事、明らけし。朝は、小補韻會に、朝廷也云々。禮記曲禮下注に、朝(ハ)謂d君臣謀2l政事1之處u也云々など見えたり。懷風藻、藤原朝臣萬里、過2神納言墟1詩云、一旦辭v榮去、千年奉v諫餘、松竹含2春彩1、容※[日+軍]寂2舊墟1云々。
農事之前。事駕未v可2以動1。
孟子染惠王篇云、不v違2農時1、穀不v可2勝食1也云々。前の字、本紀に、節につくるをよしとす。
御2阿胡行宮1。
御は、蔡※[災の火が邑]獨斷云、天子所v進曰v御云々。阿胡は、地名也。上【攷證十二丁】にいへり。又行宮のことも、上【攷證一ノ上十八丁】にいへり。さて、こゝに、御2阿胡行宮1とあるは、本紀の文を見誤りて、かくはしるせる也。本紀には、五月乙丑朔庚申、御2阿胡行宮1、時進v贄者、紀伊國牟婁郡人、阿古志海部河瀬麿等、兄弟三戸、服2十年調投雜※[人偏+搖の旁]1云々とありて、天皇伊勢に行幸のついで、阿胡行宮におはしましゝ時、贄《ニヘ》を奉りし紀伊國人に、十年の調、其外をもゆるしたまひし日を、五月乙丑朔庚申の日なりといへる事にて、阿胡の行宮におはしましゝは行幸の|お《(マ・)》(145)りの事なり。
輕皇子。宿2于安騎野1時。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌四首。
輕皇子。
輕皇子は、文武天皇を申す。又孝徳天皇をも、輕皇子と申しゝかど、こゝは文武帝の御事なる事明らけし。書紀持統紀に、この皇子を、皇太子に立奉りし事、見えざるは、誤り也。そは、釋日本紀引2私説1云、愚案當卷【持統紀】三年夏四月、草壁皇子薨、其後未v立2皇太子1而十一年二月、丁卯朔甲午、召2東宮大傅、并春宮大夫等1、八月乙丑朔、天皇定2策禁中1、禅2天皇位於皇太子1云々、以v之案v之、丁卯朔下、可v設d壬午立2珂瑠皇子1爲2皇太子1之句u歟、何則案2王子枝別記1云、文武天皇、少名珂瑠皇子、天武天皇皇太子草壁皇子之子也、持統天皇、十一年春二月、丁卯朔壬午、立爲2皇太子1云々とあるがごとし。一代要記、愚管抄等には、諱輕とありて、扶桑略記には、號2後輕天皇1とあり。こは、孝徳帝をも、輕皇子と申しゝかば、それにむかへ奉りて、後輕天皇とは申す也。續紀文武紀云、天之真宗豐祖父天皇、天淳中原瀛眞人天皇之孫、日並知皇子尊之第二子也云々。八月、甲子朔、受禅即v位云々。慶雲四年、六月辛巳、天皇崩、十一月丙午、誄人事v誄、謚曰2倭根子豐祖父天皇1、即日火2葬於飛鳥岡1、二十日奉v葬2於檜隈阿古山陵1云々。(頭書、考云、この御ことは、王と申すべきを、皇子と書しは、後よりたふとみ書か云々。)
安騎野《アキヌ》。
考云、安騎野は、左の歌に阿騎乃大野とよみ、紀に【天武】菟田郡云々、到2大野1といひ、式に、宇陀郡阿紀神社などあるにてしらる云々といはれつるがごとく大和宇陀郡な(146)るべし。
一首并短歌四首。
この七字、印本なし。今、目録によりて補ふ。
45 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワカオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之《ヒノ》皇子《ミコ・ワカミコ》。神《カム・カミ》長柄《ナカラ》。神《カム・カミ》佐備世須登《サヒセスト》。太敷爲《フトシキシ》。京乎置而《ミヤコヲオキテ》。隱口乃《コモリクノ》。泊瀬山者《ハツセノヤマハ》。眞木《マキ》立《タツ・タテル》。荒山道乎《アラヤマミチヲ》。石根《イハカネノ》。楚樹推《シモトオシ》靡《ナベ・ナミ》。坂鳥乃《サカトリノ》。朝越座而《アサコエマシテ》。玉蜻《カギロヒノ》。夕去來者《ユフサリクレハ》。三雪落《ミユキフル》。阿騎乃大野爾《アキノホヌニ》。旗須爲寸《ハタスヽキ》。四能乎押《シノヲオシ》靡《ナベ・ナミ》。草枕《クサマクラ》。多日夜取世須《タビヤドリセス》。古昔念而《イニシヘオボシテ・ムカシオモヒテ》。
高《タカ》照《ヒカル・テラス》。
とは、枕詞にて、冠辭考にくはし。舊訓、たかてらすとあれど、古事記中卷に、多迦比迦流《タカヒカル》、比能美古《ヒノミコ》、夜須美斯志和賀意富岐美《ヤスミシヽワカオホキミ》云々。本集二【卅六丁】に、高光日之皇子《タカヒカルヒノミコ》云々ともあれば、高照をもたかひかるとよむべし。集中いと多し。さて高照《タカヒカル》の高は、古事記中卷に、高往鵠之音《タカユクタヅガネ》云々。下卷に、多迦由久夜波夜夫佐和氣《タカユクヤハヤフサワケ》云々。本集四【廿一丁】に、水空往雲爾毛欲成《ミソラユククモニモガモ》、高飛鳥爾毛欲成《タカトフトリニモガモ》云々などある高《タカ》と同じく、天《ソラ》をいふ也。されば、高照《タカヒカル》は、天照《アマテラス》といふと同じ。けふ《(マヽ)》は、日《ヒ》とはつゞけしなり。
(147)日之《ヒノ》皇子《ミコ・ワカミコ》。
まへに引たる古事記にも、比能美古《ヒノミコ》云々ともあれば、ひのみことよむべし。舊訓、ひのわかみことあるは誤れり。やすみしゝわが大王、たかひかるひのみこと、つゞけしこと、集中いと多く、あぐるにいとまなし。日の皇子は、日神の御末と申す意、皇子をさして申せる事なれば、こゝは、輕皇子をさし奉れり。かの古事記に、たかひかるひのみことあるも、日本武命をさし奉れるにても思ふべし。
神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサビセスト》。
上【攷證八丁】にいへり。
太《フト》敷爲《シカス・シキシ》。
舊訓、ふとしきしとあれど、ゆくをゆかすといふごとく、しかすは、しくといふを、のべていふ言にて、かすの反なれば、ふとしかすは、ふとしく也。されば、こゝは、ふとしかすとよむべし。太《フト》は、太祝詞《フトノリト》、太占《フトマニ》、太玉串《フトタマクシ》などいふ太《フト》と同じく、物をほめていふ言也。上に【十八丁】ミヤハシラフトシキマセハ
云々とある太《フト》は、柱へかゝりて、柱の太《フト》きをいひ、こゝの太《フト》は、京《ミヤコ》といふへかゝりて、ほめていふ言也。敷爲《シカス》は知《シラ》すといふと同じく、知り領します意也。上【攷證九丁】にもいへり。
京乎置而《ミヤコヲオキテ》。
置而は、みやこをばさておきてといふ意也。本集上【十六丁】に、倭乎置而云々とあるに同じ。その所【攷證一ノ上四十七丁】にいへり。
隱口乃《コモリクノ》。
こは枕詞にて、冠辭考にくはし。又集中いと多し。下【二十九丁】に、隱國《コモリク》と書たる、正字にて、かなたこなたに山ありて、立こもりたる國といふ事にて、大神宮儀式帳に、許(148)母埋國志多備乃國《コモリクシタビノクニ》云云とあるがごとし。
泊瀬山《ハツセノヤマ》。
和名抄郷名に、大和國城上郡長谷【波都勢】云々。書紀にも、泊瀬とかけり。泊瀬とかける、借訓にて、泊は舟の宿るを泊《ハツ》といふより、かりて泊瀬とはかけるなり。本集下【二十五丁】に、船泊爲良武《フネハテスラム》云々。二【十六丁】に、大船之泊流登麻里《オホフネノハツルトマリ》云々などあるがごとし。書紀垂仁紀一書に、泊橿部《ハツカシヘ》とあるも借訓也。
眞木《マキ》立《タツ・タテル》。
舊訓、まきたてるとあれど、本集三【十三丁】に、眞木之立荒山中爾《マキノタツアラヤマナカニ》云々。十三【十九丁】に、三芳野之眞木立山爾《ミヨシヌノマキタツヤマニ》云々。これまきたつとあれば、こゝもまきたつと、四言よむべし。さて、こゝに眞木とあるを、考には、檜木にて、深き山に生也とある、いかゞ。こゝの眞木は、木の名にはあらで、たゞ木をほめて、眞木といへる也。この下の歌に、新草苅《ミクサカル》云々とあるも、まとみとかよひてほむる事なり。まはぎ、まくず、ますげなどいふまも、同じ。そも/\、眞木に二つあり。其一つは、こゝなる眞木のごとく、木の名ならで、たゞ、その木をほめていへる也。そは本集下【二十二丁】に、眞木乃都麻手《マキノツマテ》云々。十三【七丁】に、眞木積泉河乃《マキツメルイヅミノカハノ》云々などの類也。又枕詞に、まきさく檜の云々といへるも、檜の木の名を、眞木といふにはあらで、良材なる故に、まとはほむる也。其二つは、木の名にいへる也。そは、書紀神代紀上、一書に、※[木+皮]此云2磨紀1云々。本集六【三十三丁】に、奧山之眞木葉凌零雪乃《オクヤマノマキノハシノキフルユキノ》云々。七【十九丁】に、小爲手乃山之眞木葉毛《ヲステノヤマノマキノハモ》、久不見者蘿生爾家里《ヒサシクミネハコケオヒニケリ》云々。十【四十五丁】に、四具禮能雨《シクレノアメノ》、無間之零者《マナクシフレハ》、眞木葉毛爭不勝而色付爾家里《マキノハモアラソヒカネテイロツキニケリ》云々などある、これらは一つの木の名にて、和名抄木類に、玉篇云※[木+皮]【音彼日本紀私記云末木今案又杉一名也見2爾雅注1】木名、作v柱埋v之能不v腐也云々、などある(149)ごとし。また、新撰字鏡に(※[木+斯]【素※[(禾+尤)/山]反萬木又己曾木】槇【二作都牟反萬木】※[木+雁の中が言]【萬木】云々などもあり。
荒山道乎《アラヤマミチヲ》。
本集三【十三丁】に、眞木之立荒山中爾《マキノタツアラヤマナカニ》云々。九【三十四丁】に、蘆檜木笶荒山中爾《アシヒキノアラヤマナカニ》云々などありて、荒野などいふ、あらも同じ。人氣なき所をいふ。考云、初瀬寺のかたはらに、宇陀へこゆる坂路あり。古へも此道なるか。宣長云、この乎は、泊瀬はあしき山路なるものをといふ意の、を也。二【四十二オ】乎。
石根《イハガネノ》。
本集十三【十五丁】に、石根乃興疑敷道乎《イハカネノコヾシキミチヲ》云々。祈年祭祝詞に、磐根木根履佐久彌 ※[氏/一] 云々など見えたり。
楚樹押靡《シモトオシナベ》。
楚樹は、印本禁樹とありて、舊訓は、ふせぎとよみ、若冲が類林には、さへぎとよみて、さかへる意とし、僻案抄には、石根禁樹押靡の字を、いはねせくこだちおしふせとよめれど、いづれも、しからず。今は、考によりて改む。禁と楚と、いかにも字體よく似たり。されば誤れる也。さて、しもとは、本集十四【二十四丁】に於布志毛等《オフシモト》、許乃母登夜麻乃麻之波爾毛《コノモトヤマノマシハニモ》云々とありて、書紀景行紀に、茂林、雄略紀に、弱木林をしもとはらとよみ、靈異記、延喜臨時祭式齋宮等に※[木+若]、新撰字鏡に※[木+戎]、※[木+若]、※[代/木]などの字、皆しもとゝよめり。和名抄木具に、唐韻云※[草冠/〓]【音聰和名之毛止】木細枝也云々と見えたり。楚は、平他字類抄に、ずはへとよみ、禮記士喪禮注に、楚荊也云々。毛詩楚茨章傳に、楚々茨棘貌云々と見えたれば、おのづから、しもとゝよむべき意あり。さて楚樹は、盧綸送2楊※[白+皐]1詩に、楚樹荊雲發2遠思1云々。柳宗元詩に、今朝楚樹發2南枝1云云など見えたり。押靡《オシナベ》は、おしなびけ也。ひけの反、へなれば也。本集六【十七丁】に、淺茅押靡《アサヂオシナベ》云々(150)など見えたり。上【攷證一ノ上二丁】にもいへり。(頭書、十七【四十八丁】に須々吉於之奈倍云々。)
坂鳥乃《サカトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鳥の、坂などを、朝こえゆくごとくといふつゞけなり。
玉蜻《カキロヒノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。印本、玉限《タマキハル》に作るは誤り也。若冲が類林と、冠辭考との説によりて改む。本集十【五丁】に、玉蜻夕去來者佐豆人之《カキロヒノユフサリクレバサツヒトノ》云々などあるにても、玉限は玉蜻の誤りなる事しるし。又二【三十七丁】に、玉蜻磐垣淵之《カキロヒノイハカキフチノ》云々。十【五十九丁】に、玉蜻直一目耳《カキロヒノタヾヒトメノミ》云々。十二【二十七丁】に、玉蜻髣髴所見而《カキロヒノホノカニミエテ》云々などあるごとく、玉蜻とかきたり。かぎろひの夕とつゞくるは、夕日は、ことに火かげのごとくかゞやき、きらめく故に、さはつゞけし也。さて、冠辭考に、玉蜻とも書は、蜻※[虫+廷]が目は、實に玉のごとく見え、はた、そを土に埋めおけば、珠となるよし、博物志にいへるなどの意にもあるべし云々といはれしは、誤り也。玉は、物をほめて付る詞なること、玉だすき、玉つるぎ、玉はゝきなどの類、中國に例多し。漢土にても、尚書洪範注に、玉食(ハ)美食云々。呂覽貴直篇注に、玉女美女也云々などありて、玉の字は物をほむる言也。されば、こゝの玉蜻も、文字の上のみに、玉とほむる詞をつけたるにて、玉は訓にかゝはる事なし。(頭書、再考、玉限を玉蜻とあらためしはいかゞ。十一【十三丁】に、玉限石垣淵。十二(【十三ノ九丁】)に、玉限日ともつゞけたり。これをもかぎろひとよむべし。限はつねにはかぎりとのみい|へ《(マヽ)》て、かぎろふ、かぎろひともはたらけば也。玉は添たる字也。これを、舊訓たまきはるとよみしは、いかゞ。たまきはるといふべき所に、玉限と書しは、一つもなきを見ても思ふべし。)
(151)夕去來者《ユフサリクレバ》。
春去來者《ハルサリクレバ》、夜去來者《ヨルサリクレバ》などいふと同じく、夕になりくればなり。
三雪零《ミユキフル》。
三雪《ミユキ》の三は、眞にて、みそら、みそで、み浦、み熊野などの類の、みなり。考云、後世此みを、深と書は、古へなき事也。み山、み谷なども、眞とほむるに、大きなる事も、深きことも、こもりてあり云々。
阿騎大野爾《アキノオホヌニ》。
阿騎野の事は、上にいへり。大野といふは、稱美して大の字をば付る也。上【八丁】に、内野を内乃大野などいふを、思ひ合すべし。書紀天武紀に、菟田郡云々、到2大野1と見えたり。
旗須爲寸《ハタスヽキ》。
こは枕詞ならねど、集中枕詞に用ひたる所多し。されば、冠辭考に、くはし。本集三【三十一丁】十【五十五丁】などに、度爲酢寸《ハタスヽキ》などかきたれど、こゝに旗須爲寸《ハタスヽキ》とかき、書紀神功紀に、幡荻穗出吾《ハタスヽキホニイテシワレハ》云々などかける、正字にて、すゝきの穗の、旗のごとくなびくを、旗薄とはいへる也。豐旗雲《トヨハタクモ》、雲のはたて、また旗雲などいへるも、皆雲の旗のごとく、長くなびくをいふ也。この事上【攷證一ノ上二十七丁】にいへり。すゝきは、集中|須酒伎《スヽキ》、爲酢寸《スヽキ》、須爲寸《スヽキ》など書き、古事記上卷に、須々岐などかきたれ《(マヽ)》清てよむべし。和名抄草類云、爾雅云草聚生曰v薄【新撰萬葉集和歌云花薄波奈須々木今案即厚薄之薄字也見2玉篇1】辨色立成云※[草冠/千]【和名上同今案※[草冠/千]音千草盛也見2唐韻1】云々など見えたり。猶|薄《スヽキ》の事は、下【攷證七上十八丁】にくはしくいふべし。
(152)四能押《シノオシ》靡《ナヘ・ナミ》。
四能《シノ》は、篠にあらず。すゝきの、しなふを、おしなびけなり。なふの反、ぬなるを、のに轉じて、しのとはいへる也。小竹を、しのとも、しぬともいへるにて、のと、ねと、かよふをしるべし。小竹を、しのといへるも、もとしなふ意なり。
草枕《クサマクラ》。
枕詞なり。上【攷證一ノ上十一丁】にも見えたり。
多日夜取世須《タヒヤドリセス》。
たびやどりは、旅宿也。端詞に、宿2于安騎野1とあり。本集三【十九丁】に、何處吾將宿《イツクニカワカヤトリセム》云々。また、【四十七丁】草枕※[覊の馬が奇]宿爾《クサマクラタビノヤドリニ》云々など見えたり。世須は、し給ふといふ意也。この事は、上【攷證八丁十二丁】にいへり。
古昔念而《イニシヘオホシテ・ムカシオモヒテ》。
こは、御父、日並知皇子《ヒナメシノミコ》と、この野に獵し給ひし事のあるを、むかしとはいへる也。さて、そのむかしを、おぼしいでゝ、この野にやどりしたまふらんと也。この反歌に、日雙斯皇子命乃《ヒナメシノミコノミコトノ》、馬副而御獵立師斯時者來向《ウマナメテミカリタヽシヽトキハキムカフ》云々。二【三十丁】に、この皇子の殯宮の時、舍人等が歌に、毛許呂裳遠春冬片設而、幸之、宇陀乃大野者、所念武鴨云々などあるにて、御父尊の、此野に御獵したまひし事しらる。さて、この句、舊訓むかしおもひてとあれば、古昔の字は、上【十一丁】にもいにしへとよみ、そのうへ次の歌にも、古部《イニシヘ》ともあれば、いにしへとよみつ。念而《オボシテ》は皇子の申す所なれば、おぼすとよめり。
(153)反歌。
印本、この反歌を短歌とせり。さて、考別記云、長歌の末には、反歌と書ぞ例なる。然るに、この卷には、此所のみ短歌とあり。【藤原御井にもあれど、かの短歌は、別の歌にて、一本と見ゆ。其外一所にあるも注の歌なり。】卷二には、五所短歌とあり。【外に三所あるは或本の歌なり。】此外皆反歌としるせり。卷三より下は、二百あまりあり。長歌に皆反歌とあり、かかれば、一二の卷は、家々に書しに、私に短歌ともしるし、又一書どもには、短歌とありしがまぎれ入しもの也。故、此度は皆反歌とせり云々といはれしぞ、まことにさることなりける。そもそも、短歌とは長歌にむかへいふ時のことにて、端詞に、作歌并短歌とあるは、并反歌としては、同じ長歌をいふことにか、わかちなければ、そのよしをことわりて、短歌としるせるなれば、長歌にむかへていへる也。されば、こゝに短歌とあるべきいはれなし。こは、端辭に、反歌の事を短歌とかけば、反歌といふも、短歌といふも、同じ事ぞと心得て、後人のみだりにしるしたるもの也。依て、今、一二兩卷ともに、皆反歌とあらためつ。さるを略解には、集中多く反歌とあり。されど短歌ともかくまじきにあらねば、改めず云々とあるは、短歌といふ事を、いかに心得たるにか。まへにいへるごとく、こゝは短歌とは、かつて書まじき所なるをや。すべて、古言をみだりに、直しあらたむるは、罪多き事なれど、疑なき誤りとしりて、正し直さゞるは學者の見識あらざる也。
46 阿騎乃野爾《アキノヌニ》。宿旅人《ヤトルタビヒト》。打靡《ウチナビキ》。寐毛宿〔左*〕良目八方《イモヌラメヤモ》。古部念爾《イニシヘオモフニ》。
(154)阿騎乃野爾《アキノヌニ》。
印本、野の字を脱す。今校異本に引たる官本によりて、補ふ。但し、官本、騎下有2野字1とあれど、こは、上下に誤りしなること明らかなれば、乃の字下に補ふ。
宿旅人《ヤトルタビヒト》。
從駕の人々も旅なれば、御供の人々旅人といふ也。
打靡《ウチナビキ》。
本集五【五丁】に、宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナビキコヤシヌレ》云々。十四【三十三丁】に、宇知奈婢伎比登里夜宿良牟《ウチナビキヒトリヤヌラム》云々。十七【二十三丁】に、宇知奈妣吉等許爾許伊布之《ウチナビキトコニコイフシ》云々などもありて、心とけてなよゝかにものゝうちなびきたるやうにふす也。心のどかなる意にいへり。
寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》。
舊訓も、考もいもねらめやもとあれど、ねらめといふ言あるべくもあらず。俗言也。こゝは、必ず、ぬらめといはでは、かなはぬ所なり。さて、いは俗言に、ねいるといふ言、ぬるはたゞふす事にて、いぬといふを分て、いをぬるとも、いのねられぬともいへる也。本集八【二十六丁】に、寐乃不所宿《イノネラレヌニ》云々。九【三十丁】に、五十母不宿二吾齒曾戀流《イモネスニワレハソコフル》云々。十【十九丁】に、君將聞可朝宿疑將寐《キミキヽケンカアサイカヌラム》云々などあるにて思ふべし。目八方《メヤモ》の、やは、うらへ意のかへるや、もは添たるもにて、こゝの意は、うちなびきて心やすく、いをもぬらめや、ねられはせじと也。めやもの事は、上【攷證一ノ上三十六丁】にいへり。目の字、印本自に誤る。今集中の例と、拾穗抄によりてあらたむ。
(155)古部念爾《イニシヘオモフニ》。
まへに、古昔|念而《オモヒテ》とあると同じ。古へ、御父尊の、此野に獵したまひしことを思ひ出て、ねられじと也。
47 眞草苅《ミクサカル》。荒野二者雖有《アラヌニハアレト》。黄葉《モミチハノ》。過去君之《スキニシキミカ》。形見跡曾來師《カタミトソコシ》。
眞草苅《ミクサカル》。
考には、まくさかるとよまれしかど、舊訓のまゝ、みくさかるとよむべき也。そは、本集二【十一丁】に、水篶苅信濃乃眞弓《ミスヾカルシナノノマユミ》云々。十【十四丁】に、春去者水草之上爾置霜之《ハルサレハミクサノウヘニオクシモノ》云々。又【五十四丁】秋就者水草花乃《アキツケハミクサノハナノ》云々などある水草は、みづ草にはあらで、眞草也。眞《ミ》は、物を稱美して付る事なる事、上にも所々にいへるがごとし。
荒野二者雖有《アラヌニハアレト》。
荒野は、本集六【十五丁】に、荒野等丹里雖有《アラヌラニサトハアレドモ》云々ともありて、荒山などいふ荒と同じく、人氣なく、里ばなれたる野をいふ。さて、印本、野の下の二の字なし。考に、一本にありとて加へられしにしたがふ。
黄葉《モミチハノ》。
黄の字、印本なし。脱せること明らかなれば、代匠記、僻案抄、考などによりて加ふ。そは、本集二【三十七丁】に、奧津藻乃名延之妹者《オキツモノナヒキシイモハ》、黄葉乃過伊去等《モミチバノスギテイニキト》云々。四【三十五丁】に、黄葉乃過哉君之《モミチハノスキヌヤキミカ》云々。九【三十二丁】に、黄葉之過去子等《モミチハノスキニシコト》云々。十三【三十四丁】黄葉之過行跡《モミチハノスキテユキヌト》云々などあるにても、黄の字を脱せしをしるべし。こは、枕詞にて、黄葉はちりて、過るものなれば、もみぢばのごと、過にしとつゞけし也。猶、冠辭考にくはし。
過《スギ》去《ニシ・ユク》君之《キミカ》。
舊訓、すぎゆく君がとあれど、こゝはすぎにしとよむべし。考にも、しかよめり。君とさすは、さき/”\もいへるがごとく、輕皇子【文武天皇】の御父、日並知皇子を申奉るなり。
形見跡曾來師《カタミトゾコシ・カタミノアトヨリソコシ》。
かたみは、こゝに形見とかけるぞ正字なる。形見をかたみとよむは、かたち見の略也。衣にまれ、器物にまれ、何にまれ、後々まで傳へおきて、わがゝたちを見るごとく、思ひしのべとて、のこしおく、その物を、形ち見の意にて、かたみとはいへるにて、形《カタ》ち代《シロ》を形代《カタシロ》といふがごとし。集中いと多し。本集十六【九丁】に堅監、遊仙窟に記念、信などを、かたみとよめるは、借訓、義訓なり。本集十六【十二丁】左注に、寵薄之還2賜寄物1【俗云可多美】云云。舊事記天孫本紀に、汝子|如吾形見物《モシワカカタミノモノニセハ》云々など見えたり。さて、こゝの意は、此野は、かく眞草などかるばかりの荒野なれど、君が御かりしたまひし所ぞと思へば、君が形見のごとく思はるれば、此野を君が形見と思ひてぞこしと也。本集九【十二丁】に、鹽氣立荒磯丹者雖在《シホケタツアリソニハアレト》、往水之過去妹之方見等曾來《ユクミヅノスキニシイモカカタミトソコシ》云々、あるもこゝと似たり。
48 東《ヒムカシノ・アツマ》。野炎《ヌニカギロヒノ・ノヽケフリノ》。立所見而《タツミエテ・タテルトコロミテ》。反見爲者《カヘリミスレバ》。月西渡《ツキカタブキヌ》。
東《ヒムカシノ》。
此歌、上句、印本、代匠記、僻案抄、共に訓いたく誤れり。今は、考の訓による。さて、東の一字を、一の句とせり。のは付てもよみ、又はかきもする例也。本集二【三十丁】に、東乃(157)多藝能御門爾《ヒムカシノタギノミカドニ》云々。三【二十五丁】に、東市之殖殖木乃《ヒムカシノイチノウエキノ》云々。十六【三十二丁】にヒ東中門由《ヒムカシノナカノミカトユ》云々など見えたるにても、こゝはひんがしとよむべきをしるべし。東は、俗にひがしといへど、和名抄官名に、東市司【比牟加之乃以知乃官】云々。又摂津國郡名に、束生【比牟我志奈里】云々とあれば、ひんがしとよむべし。此語、實はひむかしなれど、音便にてひんがしといへば、かの字を濁るべし。
炎《カギロヒノ・ケフリノ》。立《タツ・タテル》所見而《ミエテ》。
本集六【四十二丁に、炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレハ》云々とともあれば、こゝの炎の字も、かぎろひとよむべし。こは上【攷證二十一丁】に、玉蜻《カギロヒ》とあると同じく、日にまれ、火にまれ、かゞやく意よりいへるにて、古事記中巻に、迦藝漏肥能毛由流伊幣牟良《カキロヒノモユルイヘムラ》云々とあるは、火のかがやく也。それを又、日のかゞやく事にもいひ、又それを轉じて、今の世に糸ゆふとも、あそぶ糸ともいふものゝ事をも、かぎろひといへり。後世かげろふともいへり。(頭書、下【攷證二下四十六丁】可v考。)さて、こゝに炎《カキロヒ》といふは、今の糸ゆふをいへる也。これも、野または原などに、うら/\と日よりよき日は、ちら/\とたちて、火の氣のごとく見ゆる故に、かゞやく意にて、かぎろひとはいへる也。本集二【三十八丁】に、蜻火之燎流荒野爾《カギロヒノモユルアラヌニ》云々。また【三十九丁】に、珠蜻髣髴谷裳《カギロヒノホノカニダニモ》云々。十【五十九丁】に、玉蜻直一目耳《カギロヒノタヽヒトメノミ】云々などある、これらも、上に引たる炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレハ》云々とあるも、こゝと同じく、今の糸ゆふといふもの也。この物、漢土にては、野馬とも、遊絲ともいへり。荘子逍遥遊に、野馬也、塵埃也、生物之以v息相吹也云々。郭注に、野馬者、遊氣也云々。庶物異名疏に、野馬、日光、一曰2遊絲1、水氣也、龍樹大士曰、日光著2微塵1、風吹2之野中1、轉v名爲2陽※[餡の旁+炎]1、愚夫見v之、謂2之野馬1云々。杜甫詩に、落花遊絲白日靜云々など見えたり。さて、こゝの意は、漸くあけわたる、その東の方の野に、朝日いでんとして、かゞやくにつけて、炎《カギロヒ》の立など見ゆる也。さて、うし(158)ろの方をかへりみれば、月もやゝかたぶきぬと也。今もつとめてなどは、日の出ても、月の、西の方に殘りてある事まゝあり。
反見爲者《カヘリミスレバ》。
本集下【二十九丁】に、萬段顧爲乍《ヨロツタヒカヘリミシツヽ》云々。二十【三十四丁】に、等騰己保里可弊里美之都都《トトコホリカヘリミシツツ》云々などあるも、こゝと同じく、うしろの方をふりかへり見る意也。
月西渡《ツキカタブキヌ》。
夜わたる月、わたらふ月、さわたる月など、月のゆくを、わたるといへば、西に渡ると書て、かたぶくとよめり。これ義訓也。本集十【五十七丁】に、秋風吹而月斜焉《アキカゼフキテツキカタブキヌ》云々。十一【二十九丁】に、君待跡居之間爾月傾《キミマツトヲリシアヒダニツキカタブキヌ》云々。十七【二十丁】に、敷多我美夜麻爾月加多夫伎奴《フタカミヤマニツキカタブキヌ》云々など見えたり。
49 日雙斯《ヒナメシノ》。皇子命乃《ミコノミコトノ》。馬副而《ウマナメテ》。御獵立師斯《ミカリタヽシヽ》。時者來向《トキハキムカフ》。
日雙斯《ヒナメシノ》。皇子命《ミコノミコト》。
こは、輕皇子【文武天皇】の御父、草壁皇子を申奉る。續紀文武紀に、天之眞宗豐祖父天皇、天渟中原瀛眞人天皇之孫、日並知皇子尊《ヒナメシミコノミコト》之第二子也云々。注云、日並知皇子尊者、寶字二年有v勅追崇尊號稱2岡宮御宇天皇1云々と見えたり。書紀には、天武紀云、天皇命2有司1,設2壇場1,即2帝位於飛鳥淨御原宮1、立2正妃1爲2皇后1、后生2草壁皇子尊1云云。十年二月、庚子朔甲子、立2草壁皇子尊1、爲2皇太子1、因以令v攝2萬機1云々。持統紀云、三年四月、癸未朔乙未、皇太子草壁皇子尊薨云々など、草壁皇子尊とのみありて、日並知皇子尊といふ事なきを思へば、日並知皇子尊と申すは、日と並《ナラヒ》て、天の下を知《シラ》しめすといふ事にて、後の御謚なるべし。皇太子の御事を、日之皇子と申すにても知るべし。此集には、雙と書、續紀には並と(159)書たれど、いづれもならぶ意にて、同じ。さて舊訓にも、考にも、日雙斯皇子命《ヒナメシミコノミコト》とよみて、の文字なし。古字の例、假字にかける所は、てにをはの字をよみ付る事はすくなければ、神名、人名などは、假字に書たるも、の文字をそへてよむべき例なり。古事記、書紀などをくりかへしてしるべし。又、皇子の下へ、命、尊などの字を付るは、本集二【十三丁】に日並皇子尊《ヒナメシミコノミコト》、また【二十四丁】高市皇子尊などありて、皇太子にかぎりたること也。この高市皇子尊のことは、二【攷證二ノ上 丁】にいふべし。さて命《ミコト》とは、尊稱していふ言にて、御祖命《ミオヤノミコト》、父《チヽノ》命、母《ハヽノ》命、弟之《ナセノ》命、妹《イモノ》命など、古事記にも、集中にも多かり。書紀には、神代紀上注に、至貴曰v尊、自餘曰v命、並訓2美擧等《ミコト》1也云々とありて、君臣の稱をわかたれしかど、本集 また古事記にはこのわかちなし。
馬副而《ウマナメテ》。
この語は、上【攷證一ノ上九丁】に出たり。玉篇に、副芳富切貳也云云とあれば、おのづからにならぶといふ意こもれり。
御獵立師斯《ミカリタヽシヽ》。
舊訓、みかりたちしゝとあり。こはいふにもたらぬ誤りなれど、古事記上卷注に、訓v立云2多々志1云々。書紀欽明紀に、基能倍※[人偏+爾]陀々志《キノベニタヽシ》云々。推古紀に、異泥多々須《イデタヽス》云々。本集二十【六十一丁】に、多々志々伎美能《タヽシヽキミノ》云々などあるにてもたゝしゝとよむべきをしるべし。さて本集三【十三丁】に、馬並而三獵立流《ウマナメテミカリタヽセル》云々。六【十四丁】に、馬並而御※[獣偏+葛]曾立爲《ウマナメテミカリソタヽス》云々などあり。
來向《キムカフ》。
考には、きまけりとよまれしかど、舊訓のまゝ、きむかふとよむべき也。さて、むかふといふ語は、古事記下卷に、牟加閇袁由加牟《ムカヘヲユカム》云々。本集六【二十五丁】に、山多頭能迎參出六《ヤマタツノムカヘマヰテム》云云。八【十六丁】に、櫻花者迎來良之母《サクラノハナハムカヘクラシモ》云々などあり。をか《(マヽ)》れをこゝにむかへるを本にて、むかひ居るなど相對する事をもいひて、こゝなどは、その時の、今こゝにむかひ來る意なれば、必ずきむか(160)ふとよまではかなはざる所なり。本集十九【十八丁】、に春過而夏來向者《ハルスギテナツキムカヘバ》云々なども見えたり。
藤原宮之役民作歌。
藤原宮。
藤原宮は、持統天皇の大宮なり。上【攷證一ノ上四十三丁】に出たり。考云、此宮は、持統天皇朱鳥四年より、あらましの事ありて、八年十二月ぞ、清御原宮よりこゝにうつりましつ。そのはじめ、宮作に立民の中に、この歌はよみし也。宮の所は、十市郡にて、香山、耳成、畝火の三山の眞中也。今も大宮殿といひて、いさゝかの所を畑にすき殘して、松立てあるこれ也云々。
役民。
賦役令義解云、役者使也云々。廣雅釋詁一云、役使也云々などありて、役は丁《ヨホロ》をつかふなり。これ、藤原宮作營の時、諸國より役にさゝれて上りし民をいふ。賦役令義解に、除2當年須v役人1之外、皆※[手偏+総の旁]輸v庸、充2衛士女丁食、并役民雇直及食1也云々と見えたり。考云、役の字を、今はえたちとよめど、元は役の字音にて、古言にあらず。集中、たつ民とよめるぞ、これにはかなへる。かつ、造藤原宮と書べきを、略にすぎたり云々。宣長が玉勝間に、萬葉集一の卷に、藤原宮の役民作歌とある長歌は、役民作歌とあるによつて、たれもたゞその民のよめると心得たれど、歌のさまをもて|思ふ《(マヽ)》、然にはあらず。こは、かの七夕の歌を、彦星棚ばたつめになりてよめると、同じことにて、かの民の心になずらへて、すぐれたる歌人のよめる也。その作者は、たれともなけれど、歌のさまのいと/\めでたく、巧のふかきやう、人麿主の口つきにぞありける云云といはれしは、さることながら、農民なりとも、よき歌よむべからずとは、いひがたければ、(161)役民がよめる歌と見てあるべきなり。
50 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。荒妙乃《アラタヘノ》。藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》。食《ヲス・ヲシ》國乎《クニヲ》。賣之賜牟登《メシタマハムト》。都宮《ミアラカ・ミヤコニ》者《ハ》。高《タカ》所知《シラサ・シルラ》武等《ムト》。神長柄《カムナガラ》。所念奈戸二《オモホスナベニ》。天地毛《アメツチモ》。縁而有許曾《ヨリテアレコソ》。磐走《イハハシノ・イハハシル》。淡海乃國之《アフミノクニノ》。衣手能《コロモデノ》。田上山之《タナカミヤマノ》。眞木佐苦《マキサク》。檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》。物乃布能《モノノフノ》。八十氏河爾《ヤソウヂガハニ》。玉藻成《タマモナス》。浮倍流禮《ウカベナガセレ》。其乎取登《ソヲトルト》。散和久御民毛《サワグミタミモ》。家忘《イヘワスレ》。身毛多奈不知《ミモタナシラズ》。鴨自物《カモジモノ》。水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》。吾作《ワガツクル》。日之御門爾《ヒノミカドニ》。不知國《シラヌクニ》。依巨勢道從《ヨリコセチヨリ》。我國者《ワガクニハ》。常世爾成牟《トコヨニナラム》。圖負留《フミオヘル》。神龜毛《アヤシキカメモ》。新代登《アタラヨト》。泉乃河爾《イヅミノカハニ》。持越流《モチコセル》。眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》。百不足《モヽタラス》。五十日太爾作《イカダニツクリ》。泝良牟《ノボスラム》。伊蘇波久見者《イソハクミレバ》。神隨《カムナガラ・カミノマヽ》爾有之《ナラシ》。
(162)荒妙乃《アラタヘノ》。
こは枕詞にて、冠辭考にくはし。荒《アラ》昇は、あら/\しき意、妙、《タヘ》は絹布《キヌヌノ》などの惣名にて、あら/\しき布といふ言也。藤もて織れる布は、あら/\しければ、荒妙の藤とはつゞけし也。實は、それよりうつりて、藤布ならでも、たゞあら/\しき布をもいへり。この言、集中いと多し。古語拾遺に、織布【古語阿良多倍】云々。延喜践祚大甞會式に、麁妙服【神語所謂阿良多倍是也】云々など見えたり。又字彙葛字注に、草名、蔓生根可v食、藤可v作v布云々。
藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》。
藤原は地名、大和國十市郡なり。釋日本紀引2和(私?)記1云 師説此地不v詳、愚案氏族略記云、藤原宮在2高市郡鷺柄坂北地1云々とあるはいかゞ。下の藤原宮御井歌に、麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフチヰガハラニ》、大御門始賜而《オホミカドハシメタマヒテ》、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシミシタマヘハ》、日本乃青香具山者《ヤマトノアヲカクヤマハ》云々と、よみ合せたる埴安、香具山などの、十市郡なるにても、藤原宮は十市郡なるをしるべし。鎌足公の本居の、藤原は、高市郡にて、こゝとは別所なれば、思ひまがふべからず。書紀持統紀云、四年十二月、癸卯朔辛酉、天皇幸2藤原1觀2宮地1云々など見えたり。宇倍《ウヘ》は、考に、此所今は畑となりつれど、他よりは高し。古しへは、いよゝ高き原なりけん。仍て上といふ云々といはれしは誤り也。宇倍《ウヘ》は上にて、俗言にもほとりといふ意也。古事記上卷に、傍之|井上《ヰノヘ》、有2湯津香木1云々。書紀には、この上の字をほとりとよめり。古事記中卷に、當藝野上《タギヌノウヘ》云々。本集二十【十五丁】に、多可麻刀能秋野宇倍能《タカマトノアキヌノウヘノ》云々。また【六十一丁】多可麻刀能努宇倍能美也婆《タカマトノヌノウヘノミヤハ》云々などあるも同じ。又野のへ、山のへ、川のへ、野べ、山べ、川べなどいふも同じ。
(163)食國《ヲスクニ》。
古事記上卷に、夜之|食國《ヲスクニ》云々。本集二【三十四丁】に、食國乎定賜等《ヲスクニヲサタメタマフト》云々。五【七丁】に、企許斯遠周久爾能麻保良敍《キコシヲスクニノマホラソツ》云々。十七【四十二丁】に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレハ》云々。靈異記上卷、釋訓に、食國【久爾乎師ス】云々などありて、食國とは、天皇のしろしめす天の下を、惣ていふなり。上【攷證五丁】にもいへり。
賣之賜牟登《メシタマハムト》。
考に、天の下の臣民を、召給ひ、治たまふ都なればいふ云々といはれしは、たがへり。賣之《メシ》の、めは、みにかよひて、見し給ふといふに同じ。本集十八【二十三丁】に、余思努乃美夜乎安里我欲比賣須《ヨシヌノミヤヲアリカヨヒメス》云々。二十【二十五丁】に、賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》云々。また【六十一丁】於保吉美能賣之思野邊爾波《オホキミノメシヽヌヘニハ》云々などある、めし、めすも見し、見すにて、めし給ふ、みたまふ意、めすは見る意也。しろしめす、きこしめすなどいふ、めすも同じ語なり。さて、見しといへるは、本集下【二十三丁】に、埴安乃堤上爾在立之見之賜者《ハニヤスノツツミノウヘニアリタヽシミシタマヘハ》云々。六【三十二丁】に、我大王之見給芳野宮者《ワガオホキミノミシタマフヨシヌノミヤハ》。十九【三十九丁】に、見之明良牟流《ミシアキラムル》云々などあるがごとし。
都宮《ミアラカ・ミヤコ》。
舊訓、みやことよみ、宣長はおほみやとよまれしかど、考にみあらかとよまれしをよしとす。みあらかは、古事記に、御舍をよみ、古語拾遺に古語正殿謂2之|麁香《アラカ》1云々。大殿祭祝詞に、御殿古語云2阿良可1云々。本集二【二十八丁】に、御在香乎高知座而《ミアラカヲタカシリマシテ》云々などありて、御ありかのり〔傍点〕を、ら〔傍点〕にはたらかしたる也。
高《タカ》所知武《シラサム・シルラム》等《ト》。
舊訓、たかしるらむとゝあれど、前後の義もて考ふるに、たかしらさんとゝよむべきなり。この言は上【攷證九丁】にいへり。
(164)奈戸二《ナベニ》。
なべには、並《ナミ》にといへるにて、まゝにといふ意なるも、それに又といふ意なるもあり。本集二【卅八丁】に、黄葉之落去奈倍爾《モミチハノチリユクナヘニ》云々。五【十八丁】に、于遇比須能於登企久奈倍爾《ウクヒスノオトキクナヘニ》云々。七【五丁】に、山河之瀬之響苗爾《ヤマカハノセノナルナヘニ》云々などありて、猶多し。この言下【攷證卅七丁】宜名部《ヨロシナベ》の條考へ合すべし。
天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》。
本集上【十九丁】に、山川母依底奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》云々とある、よりと同じく、一つ所に寄《ヨリ》てあれこそ也。其所【攷證一ノ下十一丁】考へ合すべし。あれこそは、あればこその、ばをはぶける也。本集此卷【十一丁】に、古昔母然爾有許曾《イニシヘモシカニアレコソ》云々。四【卅七丁】に、吾背子我如是戀禮許曾《ワカセコカカクコフレコソ》云々。七【卅六丁】に、意有社波不立目《コヽロアレコソナミタヽサラメ》云々。十七【卅一丁】に、孤悲家禮許曾婆伊米爾見要家禮《コヒケレコソハイメニミエケレ》云々。これらみな、ば文字をはぶけるなり。集中猶いと多し。
衣手能《コロモテノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。衣手は、袖をいふ。本集九【十一丁】に袖、十三【廿九丁】に衣袖などを、ころもでとよめるにてもしるべし。さて田上《タナカミ》とつゞけるは、衣手の手長《タナガ》といふ意にて、しかつゞけたり。
田上山《タナカミヤマ》。
田上山《タナカミヤマ》は、近江國栗本郡、勢多のほとりといへり。書紀神功紀に、阿布瀰能瀰《アフミノミ》、齊多能和多利珥《セタノワタリニ》、介豆區苔利《カヅクトリ》、多那伽瀰須疑弖《タナカミスギテ》、于〓珥等邏倍菟《ウヂニトラヘツ》云々とあるにても思ふべし。本集十二【廿五丁】に、木綿疊田上山之《ユフタヽミタナカミヤマノ》云々。歌枕名寄に、中務、田上の山のもみぢにしぐれしてせたのわたりに秋風ぞふく云々。新六帖六に、きりたふす田上山のかしの木は宇治の川せにな(165)がれ來にけり云々なども見えたり。
眞木佐苦《マキサク》。
枕詞にて、冠辭考にくはしかれど、眞木は檜なりといはれしは、たがへり。上【攷證廿丁】にいへるがごとく、眞木は木の名ならで、木をほめて眞木といへる也。佐吉《サク》は、柝にて、木をわる也。木をばさきて、坂ともし、柱ともして用ふ。故に、眞木佐苦《マキサク》とはいへる也。檜は良材なる故に、眞木さく檜とはつゞけし也。さて、古事記下に、麻紀佐久比能美加度《マキサクヒノミカト》云々。書紀繼體紀に、莽紀佐倶避能伊陀圖嗚《マキサクヒノイタドヲ》云々など見えより。
檜乃嬬手《ヒノツマデ》。
檜は、和名抄木類に、爾雅云檜柏葉松身【音會又入聲占活反和名非】云々と見えたり。嬬《ツマ》は借字にて、書紀神代紀上、一書に、※[木+爪]津姫《ツマツヒメ》命とある※[木+爪]《ツマ》なり。此神、木によしある事は、神代紀の文にてしらる。※[木+爪]は、古今韻會引2通俗文1云、木四方爲v※[木+稜の旁]、八※[木+稜の旁]爲v※[木+爪]云々とありて、削《ケツ》りたる木をいへる也。手《デ》は、そへたる語にて、古事記上卷に、八十※[土+囘]手《ヤソクマデ》とある、手と同じ。さて、八十※[土+囘]手《ヤソクマデ》の手を、宣長は、本集に、道之永手《ミチノナガテ》とあるを引て、手は道《ヂ》なりといはれしかど、たがへり。手はそへたる語なること、書紀神代紀下、訓注に、隈此云2矩磨※[泥/土]《クマデ》1云々とありて、隈の一字を、くまでとよむにてもしるべし。
物乃布能《モノノフノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。ものゝふは、いちはやび建き人をいふ。八十氏河《ヤソウチカハ》とつゞくるは、八十《ヤソ》は物の多きをいひ、氏《ウチ》は稜威《イツ》にて、いとうと、ちとつとかよへ(166)ば也。この事は、冠辭考にくはし。さて稜威《イツ》は、雄々しき意にて、伊都之男建《イツノヲタケヒ》などいふいづと同じ。この事は、古事記傳【七ノ卅八丁】にくはし。(頭書、冠辭考の説いかゞ。古事記傳の説によるべし。傳十九【六十一丁ウ】小注。)
八十氏河《ヤソウヂガハ》。
和名抄郷名に、山城國宇治郡宇治とあり。則こゝ也。八十氏《ヤソウチ》河といふ名はあらねど、氏《ウチ》は、上にいへるごとく、稜威の意に用ひて、その多き意に、八十うぢ川とはいひかけし也。この言も冠辭考にくはし。
玉藻成《タマモナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉藻の事は、上【攷證一ノ上三十九丁】にいへり。成《ナス》は、如くといふ意。これも止【攷證一ノ上卅四丁】にいへり。こゝの意は、田上山より伐出せる木を、玉藻などの、水にうかびながるゝごとくに、宇治川に宮材《ミヤキ》をうかべながせりとなり。
浮倍流禮《ウカベナガセレ》。
字の如く、意明らけし。考に、禮の下に、はは略せるよしいはれしは、誤り也。このせれといふ詞は、まへに有許曾《アレコソ》とある、こその結び詞なれば、意明らかなるをや。
其乎取登《ソヲトルト》。
其乎は、字の如く、それをといふ、れもじをはぶける也。こは、上なる物をさして、いふ言にて、こゝは、上に、田上山の、檜のつまでを、宇治川にうかべなが(167)すとある、その材木をとるとてにて、民どもが、舟にまれ、筏にまれ、水にうかび居て、その材木を陸にとりあぐる也。さて、其《ソ》をといふ言は、本集三【五十六丁】に、花曾咲有其乎見杼《ハナソサキタルソヲミレト》云々。十四【廿一丁】に、比登豆麻登安是可曾乎伊波牟《ヒトツマトアゼカソヲイハム》云々。十八【卅二丁】に、之保美可禮由苦曾乎見禮婆《シホミカレユクソヲミレハ》云々など見えたり。(頭書、登はとての意也。)
散和久御民毛《サワクミタミモ》。
本集三【五十九丁】に、五月蠅成驟騷舍人者《サハヘナスサワグトネリハ》云々。五【卅八丁】に、佐和久兒等遠《サワグコドモヲ》云々などありて、猶いと多し。さて、こゝに、御民毛とある、民は、役民のみづからをいへるにはあらで、又別の民をいへる也。この歌作りし役民は、藤原宮にありて、こゝは外の民をもおしはかりていへる也。毛《モ》の字に意あり。その民もわがごとく家をも身をもわすれて、仕へまつれるならんと、意をこめたる也。
家忘《イヘワスレ》。
おほやけに仕へまつるとて、家をも身をもわするゝをいふ。漢書賈誼傳に、爲2人臣1者、主爾忘v身、國爾忘v家、公爾忘v私云々など見えたり。
身毛多奈不知《ミモタナシラス》。
多奈《タナ》といふ語、思ひ得ず。本集九【十八丁】に、金門爾之人乃來立者《カナトニシヒトノキタテハ》、夜中母身者田奈不知《ヨナカニモミハタナシラス》、出曾相來《イテソアヒタル》云々。また【卅五丁】何爲跡歟《ナニストカ》、身乎田名知而《ミヲタナシリテ》云々。十三【十六丁】に、人丹勿告事者硯知《ヒトニナツケソコトハタナシリ》云々。十七【廿九丁】に、伊謝美爾由加奈許等波多奈由比《イザミニユカナコトハタナユヒ》云々など見えたり。代匠記云、霞たなびくといふに、輕引とかける所あれば、たなはかろしといふ古語歟。しからば、身を王事のためにかろんじて、あやまちなどして、やぶりそこなふことをも、しらぬをいふなるべし云々。僻案抄云、多奈は、發語にて意なし。多奈不v知は、たゞ不知といふに同じ云(168)云。考別記云、多奈は多禰てふ言にて【奈禰は音同】物を心にたねらひ知得ること也。こゝは民どもの水に浮ゐなどして、身の勞もたねらひしらず仕奉をいへり。【らひ、辭なれば、そへてもいひ、たゞたなとのみもいふ。】卷六に、とやの野にをさぎねらはりてふは、兎をたねらひといふなれば、古言也。又|給《タマヘ》といふも同言也云々とて、猶説あれど、いづれも解得られたりともおぼえず。予は、しばらく僻案抄の説によりたらんとす。
鴨自物《カモジモノ》。
自物《ジモノ》は、の如くといふ意也。語の解は思ひ得ず。本集十五【十七丁】に、可母自毛能宇伎禰乎須禮婆《カモシモノウキネヲスレハ》云々とも見えたり。又書紀武烈紀に、斯々貳暮能瀰逗矩陛御暮黎《シヽジモノミツクヘコモリ》云々。續紀神龜六年八月詔に、恐古土物進退匍匐廻《カシコジモノシヽマヒハラハヒモト》【保里】云々。本集【卅五丁】に、鹿自物伊波比伏管《シヽジモノイハヒフシツヽ》云々。また鳥自物朝立伊麻之弖《トリジモノアサタチイマシテ》云々。また【四十丁】男自物脅挿持《ヲノコシモノワキハサミモチ》云々。三【十七丁】に、雪仕物往來乍益《ユキシモノユキヽツヽマセ》云々。五【廿八丁】に、伊奴時母能道爾布斯弖夜《イヌシモノミチニフシテヤ》云々。六【卅六丁】に、馬自物繩取附《ウマシモノナハトリツケテ》云々など見えて、集中いと多し。宣長云、稻掛大平が考へたるは、自物《シモノ》は状之《サマノ》なるべし。さまと、しもと音かよへり。鹿自物《シヽジモノ》は、鹿状之《シヽザマノ》にて、この類皆同じ。男自物《ヲノコシモノ》は、男の状《サマ》としてといふ意にて聞ゆといへり。此考へ、さもあるべし云々。久老云、鳥自物《トリジモノ》、犬自物《イヌジモノ》などある、みな鳥自久物《トリジクモノ》、犬自久物《イヌジクモノ》にて、自久《ジク》は、卷四に、思有四久志《オモヘリシクシ》、卷七に玉拾之久《タマヒロヒシク》などあるしくに同じく、そのさまをいふ言なれば、如の意に近し云々。これらの説、いづれも解得しともおぼえず。猶可v考。又自物といふに、三つあり。その二つは、二【攷證二下四十九丁】三【攷證三上卅丁】の卷にいふべし。
水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》。
宣長云、川より陸にとりあぐるとて、水に浮居て、とりあげて、それを泉の川に持越流《モチコセル》とつゞく詞也。されば浮居而《ウキヰテ》にて、しばらくきれたる語にて、た(169)だに吾作《ワカツクル》へはつゞかず。
吾作《ワカツクル》。
宣長云、吾は、役民の吾也。さて、日之御門爾《ヒノミカドニ》とあるをもて見れば、此作者の役民は、藤原の宮の地に在て、役《ツカ》はるゝ民也。上の散和久御民毛《サワクミタミモ》とある民にはあらず。思ひまがふべからず。
日之御門爾《ヒノミカドニ》。
日之御門《ヒノミカド》は、天子の御なればいふ。萬の事に、天子をば日にたとへ奉ること、皇太子を日の皇子と申し、又|日並知皇子《ヒナメシノミコ》と申す御名のあるも、天子を日になずらへ奉りて、その日とならびまして、天下をしろしめすといふ御名也。これらにてもしるべし。古事記下卷に、多加比加流比能美夜比登《タカヒカルヒノミヤヒト》云々。本集五【卅一丁】に、高光日御門庭《タカヒカルヒノミヤニハ》云々など見えたり。さて、或人の説に、日は借字にて、檜也。古事記下卷に、麻紀佐久比能美加度《マキサクヒノミカト》とあるにても思ふべしと、いへれどたがへり。古事記なるは、麻紀佐久《マキサク》とあるからは、檜の御門、こゝなるは、日の御門也。まがふべからず。御門は、借字にて、宮殿なり。みかどゝは、もとは御門のことなれど、轉じて宮殿の事をも、朝廷の事をも、帝の御事をも申奉れり。宮殿の事を、みかどといふ事は、下【攷證二中五十丁】にいふべし。古事記に朝廷、書紀に朝、朝廷、朝堂、帝朝などをよめり。皆意同じ。
不知國《シラヌクニ》。
考には、不知國依《シラヌクニヨリ》句巨勢道從《コセチヨリ》と、句をきりて、不知國《シラヌクニ》は諸國にて、諸國從も、巨勢道從も、材木をのぼすよし注せられしかどたがへり。こは、代匠記に、大唐三韓の(170)外も、名もしらぬ國々まで、徳化をしたひて、よりくるといふ事を、高市郡のこせといふ所の名に、いひつゞけたり云々といはれしがごとく、不知國《シラヌクニ》は、異國にて、その異國も、中國に寄《ヨリ》くといふを、よりこせぢとはいひかけし也。この不知國《シラヌクニ》とあるは、こせぢといはん序のみにおけるにて、一首の意にかゝはる事にあらず。さては不知國《シラヌクニ》と、五言によみ、依巨勢道從《ヨリコセチヨリ》と、七言に句を切てよむべし。さて後の書なれど、宇津保物語俊蔭卷に、あだの風おほいなる浪に、たゞよはされて、しらぬくにゝ打よせらる云々とあるも、異國をいへり。
依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》。
よりこせといふ言は、本集九【九丁】に、妻依來西尼《ツマヨリコセネ》、妻常言長柄《ツマトイヒナカラ》云々ともありて、よりこせといふを、依巨勢道《ヨリコセチ》といひかけたる也。本集三【廿六丁】に、小浪磯越道有《サヽレナミイソコセチナル》云々。延喜神名帳に、大和國葛上郡巨勢山口神社とあり。此集中に出たる巨勢は、いづれの郡ならん。大和志にも、二郡に載たり。おのれ地理にうとければ辨じがたし。七【六丁】に、吾勢子乎《ワカセコヲ》 乞許世山登《コチコセヤマト》云々。十【六丁】に、吾瀬子乎莫越山能《ワカセコヲナコセノヤマノ》云々。十三【十一丁】に、直不來自此巨勢道柄《タヽニコヌコユコセチカラ》云々などあるも、みな巨勢といひかけたり。和名抄郷名に、大和國高市郡巨勢云々と見えたり。
我國者《ワカクニハ》。
この句より、薪代登といふまでは、泉の河といはん序のみにおける語にて、一首の意にかかはらず。
常世爾成牟《トコヨニナラム》。
集中、常世といふに二つあり。一つは常世國《トコヨノクニ》をいひ、一つは字のごとく常《トコ》とはにして、かはらぬ世をいへり。常世國の事は、本集四【攷證四ノ中四十丁】にいふべし。さてこゝなる常世爾成牟《トコヨニナラム》は、常《トコ》とはにかはらぬ世とならんといへる也。書紀垂仁紀に、伊勢國、則|常世《トコヨ》之浪重浪歸國也云々。顯宗紀に、拍上《ウチアゲ》賜吾|常世《トコヨ》等云々などある、これらみな同じ。猶下(171)【攷證三上卅一丁】にもいへり。
圖負留《フミオヘル》、神龜毛《アヤシキカメモ》。
藝文類聚、引2龍魚河圖1云、堯時、與2群臣賢智1、到2翠※[女+爲]之川1、大龜負v圖來投v堯、上勅2臣下1、寫取告2瑞應1、寫畢龜還2水中1云々。古微書、引2孝經援神契1云、天子孝、天龍負v圖、地龜出v書云々。これらの故事をよめり。又古微書、引2尚書中候1云、玄龜負v書出云々ともありて、負v圖とも負v書ともあれば、かよはして圖の字をふみとはよめる也。神龜は、爾雅釋魚に、一曰神龜、二曰靈龜云々と見えたり。假名玉篇に、神【アヤシ】とよみ、易繋辭上傳注に、神也者變化之極云々。管子内業篇注に、神不測者也云々などもあれば、あやしといふ意は、もとよりこもれり。書紀天智紀云、九年六月、邑中獲v龜、背書2申字1、上黄下玄、長六寸許云々。續紀云、靈龜元年八月、献2靈龜1、長|七年《(マヽ〜》闊六寸、左眼白右眼赤、頸著2三台1、脊負2七星1云々。天平元年六月、献v龜、長五寸三分闊四寸五分、其背有v文云、天皇貴平知2百年1云々。八月詔曰云々、負圖龜《フミオヘルカメ》一頭献 止 奏賜【不爾】云々なども見えたり。
新代登【アラタヨト】。
考に、新代とは、新京に御代しろしめすをいふ也云々といはれしは、くはしからず。あたら代とは、あらたにめづらしくふりせぬ代といふ意にて、御代をほめていふ言なり。本集三【五十九丁】に、吾黒髪乃眞白髪爾成極《ワカクロカミノマシラカニナリキハルマテ》、新世爾共將有跡《アタラヨニトモニアラムト》云々。六【四十三丁】に、名良乃京矣新世乃事爾之有者《ナラノミヤコヲアタラヨノコトニシアレハ》云々。十三【三丁】に、石根蘿生左右二新夜乃好去通牟《イハカネニコケムスマテニアタラヨノサキクカヨハム》云々などあるも、しか也。新夜とかけるも、夜は借字にて、世也。又十七【十四丁】に、新年乃婆自米爾《アタラシキトシノハジメニ》云々とあるも、あらたにめづらしき年といふにて、新世の新と同じ。又|惜《ヲシ》きことを、あたらしといへる言、古事記よりはじめ(172)て、書紀にも集中にもいと多し。これは、意は別なれど、惜むも愛し思ふより、をしむなれば、めづらしと愛する意も、こもりたれば、この|ゝ《(マヽ)》の新世のあたらと、語のもとは、一つ也。さて、宣長は、あたら世といふも、たゞ世といふと同じことになるなり。世とは、とし月日のうつりゆくほどの間をいへば也云々といはれしかど、これもくはしからぬなり。久老は、新はみなあらたと訓べし。二十の卷なる、年月波安多良安多良爾《トシツキハタラアタラニ》といふ歌も、一本に安良多安良多爾《アラタアラタニ》とあるぞよき。すべて、古へに、新をあたらしといへることなし。あらたしなり。そを後にあたらしといふは、可惜《アタラシ》とまがひたる訛也云々といひしかど、この説もいかゞ。○上に、我國者《ワカクニハ》といふより、この新代登《アタラヨト》といふまでは、泉の川といはん序におけるのみにて、前後の意にかゝはることにあらず。我國《ワカクニ》は、常世《トコヨ》にならん、新代《アタラヨ》と圖《フミ》負《オ》へる神龜《アヤシキカメ》も出《イツ》といふを、泉《イヅミ》といひかけたる也。本集九【十一丁】に、妹門入出見河乃《イモカカドイリイヅミカハノ》云々などいひかけたるにても、おもふべし。
泉乃川爾《イヅミノカハニ》。
書紀崇神紀云、挾v河屯之、各相挑焉、故時人改2號其河1、曰2挑河1、今謂2泉河1訛也云云。和名抄郷名に、山城國相樂郡水泉【以豆美】云々。延喜雜式に、山城國泉河樺井渡瀬者云々など見えたり。集中猶多くよめり。
持越流《モチコセル》。
こは、宮作る材木を、宇治川よりとりあげて、陸路を持越《モチコシ》て、又泉川にながせる也。古事記中卷に、自2山多和1、引2越《ヒキコシテ》御船1、逃上行也云々。書紀欽明紀に、發v自2難波津1、控2引《ヒキコシテ》船於狹々波山1云々とあるも、船と材木と異るのみ。水よりとりあげて、山を引こして、又水にうかべる也。又本集十三【八丁】に、月夜見乃持有越水伊取來而《ツキヨミノモチコセルミツイトリキテ》云々なども見えたり。さて、宣長云、(173)泉乃河爾持越流《イツミノカハニモチコセル》は、宇治川より上《アゲ》て、陸路を泉川まで、持越《モチコシ》て、又流す也。こは、今の世の心をもて思へば、宇治川より直に下すべき事なるに、泉川へ持越て、下せるは、いかなるよしにか。古へはしかすべき故ありけんかし云々。
眞木乃都麻手乎《マキノツマデヲ》。
眞木は、木の名にあらず。木をほめて眞木とはいへる也。この事は、上【攷證廿丁】にいへり。都麻手《ツマテ》の事も、上【攷證廿八丁】にいへり。
百不足《モヽタラズ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。記紀にも見え、集中にも多かり。百にたらぬ五十《イ》八十《ヤソ》などつゞけしのみ。外に意なし。
五十日太爾作《イカタニツクリ》。
五十日太《イカタ》は、借字にて、桴の字、筏の字などをよめり。書紀孝徳紀に、採v竹爲v筏云々。延喜木工寮式に、近江國大津雜材直、並|桴《イカダ》功餞云々。和名抄船類に、論語注云、桴編2竹木1、大曰v筏【音伐字亦作v※[舟+發]】小曰v桴【音浮玉篇字亦作v艀在2舟部1和名以加太】云々など見えたり。五十の二字を、いの一言によむことは、上【攷證十四丁】にいへり。
泝須良牟《ノボスラム》。
泝は、書紀垂仁紀一書に、自2菟道河1泝《サカノボリ》北入2近江國吾名邑1云々。國語呉語注に、逆v流而上曰v泝とも見えたれば、のぼるとよまんこと論なし。さて、宣長云、泝須良牟《ノボスラム》とは、海より紀の川へいれて、紀の川を泝《ノボ》すをいひ、さて、巨勢路より宮所に運ぶまでをかねたり。されば、こは、泉の河に持越る材を、云々して、巨勢道より、吾作日御門《ワカツクルヒノミカト》にのぼすらんといふ語のつゞきにて、御門爾《ミカトニ》の爾《ニ》と、巨勢道從《コセヂヨリ》の從とを、この泝《ノボ》すらんにて結びたるもの也。てにをはのはこびを、よくたづねて、さとるべし。なほざりに見ば、まがひぬべし。さて、(174)良牟と疑ひたるは、この作者は、宮作の地にありて、よめるよしなれば、はじめ、田上山より、伐出せるより、巨勢路をはこぶまでは、皆よその事にて、見ざる事なれば也。さて伊蘇波久見者《イソバクミレバ》とは、宮地へ運び來たるを、目のまへに見たるをいへり。上の良牟《ラム》と、この見者《ミレバ》とを相照して、心得べし。さて難波海に出し、紀の川をのぼすといふ事は見えざれども、巨勢路よりといへるにて、然聞えたり。巨勢道は、紀の國にゆきかふ道なれば也。又筏に造り、泝すらんといへるにても、かの川をさかのぼらせたることしるく、然らざれば、此歌きこえず、大かた、そのかみ、近江山城などより、伐出す材を、大和へのぼすには、必ず、件の如く、難波海より紀の川にいれて、泝すが定まれる事なりし故に、其事はいはでも、しかきこえしなりけり云々。
伊蘇波久見者《イソバクミレバ》。
考に、事をよく勤るを、紀にいそしといへり云々といはれしは、いかゞ。伊蘇波久見者《イソバクミレハ》とは、筏に作りてのぼしゝ材木の、多きを見ればといふことにて、いそばくは數の多きをいふ。いくばく、そこばく、こゝばく、こきばくなど、みな數の多きをいふ言に、ぱくといふ言の付たるにて、こゝも、これらと一つ言なるをしるべし。古今集、物名に、花ごとにあかずちらしゝ風なれば、いくそばくわがうしとかは思ふ云々とあるも、こゝのいそばくと同じ。さて伊蘇波久《イソバク》の波の字も、こゝばく、こきばく、そこばく、いくばくなどの例もてにごるべし。波の字を、濁音に用ひたること、本集上【十八丁】に太敷座波《フトシキマセバ》云々。又【十九丁】國見乎爲波《クニミヲスレバ》云々などありで、猶多かり。すべて清濁といふものは、定りたるやうにて、又足らぬも多きものとしるべし。古言清濁考のごとく、こと/”\くに定りたるものにあらず。
(175)神隨《カムナカラ・カミノマヽ》爾有之《ナラシ》。
舊訓、かみのまゝならしとあれど、誤り也。かむながらならしとよむべき也。隨は、續紀第一之詔に、天 都 神 乃 御子隨 母 《アマツカミノミコナガラモ》云々。また隨神所思行《カムナガラオモホシメ》【佐久止《サクト》】云々。本集二【廿七丁】に、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミガミヤニ》、神隨太敷座而《カムナガラフトシキマシテ》云々。また【卅四丁】に、皇子隨任賜者《ミコナガラヨサシタマヘハ》云々などあるにても、ながらとよむべきをしるべし。又まに/\とよめるも、集中多かれど、こゝはかならずかむながらとよむべきなり。かんながらの事は、上【攷證八丁】にいへり。さて、宣長云、この歌のすべての趣は、田上川より伐出せる宮材《ミヤギ》を、宇治川へくだし、そを又泉川に持《モチ》越(シ)て、筏に作りて、その川より難波海に出し、海より又紀の川を泝《ノボ》せて、巨勢の道より藤原の宮の地へ運び來たるを、その宮造りに役《ツカ》はれ居る民の見てよめるさまなり。
右日本紀曰。朱鳥七年。癸巳。秋八月。幸2藤原宮地1。八年。甲午。春正月。幸2藤原宮1。冬十二月。庚戌朔乙卯。遷2居藤原宮1。
朱鳥七年癸巳。
癸巳の年は、持統天皇七年なれ《(マヽ)》、朱鳥元年よりは八|年《》あたれり。七年とするは誤り也。
秋八月。
本紀を考ふるに、この下に戊午朔の三字あるべし。
八年甲午。
これも朱鳥九年なり。
(176)後2明日香宮1。遷2居藤原宮1之後。志貴皇子御作歌。
明日香宮。
こゝは、明日香清御原宮なり。遷2居藤原宮1之云々とあれば、明日香宮とのみいひて、清御原宮なる事明かなれば、略してしか書る也。この宮の事は、上【攷證一ノ上卅六丁】にいへり。
志貴《シキノ》皇子。
書紀には、施基《シキ》、また芝基《シキ》などかけり。皆同じ。天智紀云、有2道君伊羅都賣1、生2施基皇子1云々。天武紀云、朱鳥元年八月、癸未、芝基皇子、磯城皇子、各加2二百戸1云々。續紀云、靈龜二年、八月甲寅、二品志貴親王薨、親王天智天皇第七之皇子也、寶龜元年追尊稱2御春日宮天皇1云々とあり。光仁天皇の御父なれば也。
51 婬女乃《タハレメノ》。袖吹反《ソテフキカヘス》。明日香風《アスカカセ》。京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》。無用爾布久《イタツラニフク》。
印本、※[女+采]女乃《タワヤメノ》とあれど、※[女+采]は正字通に、※[言+爲]字とせり。考に、※[女+委]に直されしも、さることながら、拾穗本に、婬とあるによりて、改む。されど、拾穗本「婬女をたをやめとよみしは誤り也.婬と、※[女+采]と、字體の似たるより誤れる也。婬女は、たはれめとよむべきなり。新撰字鏡に、婬【烏林反、過也、遊逸也、戯也、私逸也、宇加禮女又不介留又太波留。】云々とありて、本集九【十七丁】に、容艶縁而曾妹者多波禮弖有家留《カホトキニヨリテソイモハタハレテアリケル》云々など見えたり(四字衍?」などあるにてもたはれめとよむべきをしるべし。
(177)袖吹反《ソデフキカヘス》。
考には、袖ふきかへせと訓れつれど、舊訓のまゝ、かへすとよむべき也。この一首の意は、このあすかの地の、都なりしほどは、婬女《タハレメ》などの、袖をふきかへしゝ、この明日香の風も、今は都の遠さに、さる婬女のなければ、いたづらにふくぞといへる意なれば、袖ふきかへすとよまでは、意きこえがたし。
明日香風《アスカカゼ》。
こは、明日香《アスカ》といふ所の風なり。本集六【廿七丁】に、佐保風《サホカゼ》云々。十【五十二丁】に、泊瀬風《ハツセカゼ》云々。十四【十四丁】に、伊香保可是《イカホカセ》云々などの類なり。
無用爾布久《イタツラニフク》。
無用《イタツラ》、義訓也。書紀孝徳紀に、不食之地、閑曠之所などを、いたづらなるところとよめり。これらも義訓也。本集五【十九丁】に、伊多豆良爾阿例乎知良須奈云々。十一【十四丁】に、無用伊麻思毛吾毛事應成《イタツラニイマシモワレモコトヤナルベキ》云々なども見えたり。古今集、俳諧に、何をして身の|お1《(マヽ)》ぬらん、いたづらに年のおもはん事ぞやさしき云々。土佐日記に、いたづらに日をおくれば、人々ながめつゝぞある云々など見えたり。皆無用の意なり。
藤原宮御井歌。
藤原宮の宮中の井也。されば、御井とはかけり。いにしへ井といふに二つあり。一つは、今のごとく、底深く掘たるをいひ。一つは飲べき水にまれ、田に引水にまれ、用る水に汲んとて、水を引て取る流をも、井とはいひし也。この事、下【攷證七上十五丁】八信井《ハシリヰ》の下に、くはしくいふべし。こゝなる御井も、下に御井之清水とよめれば、藤原宮の大御水に汲んとて、外より流を取入られたる、(178)その流をいへるなり。この御井は、山の井のごとく、わき流るゝ井なるべし。歌の末に、御井之清水《ミヰノマシミヅ》とよめり。今の世の心にて思へば、井と清水《シミヅ》と別なるやうなれど、清水《シミヅ》とは流るゝ水をいひ、井とは人の手にて掘たるをいへる名也。おのづからに出る水を、泉《イヅミ》といひ、人の掘たるを井といふのみ。物は、井も泉も一つもの也。されば、井よりわき流るゝ水なれば、井の清水といはん事、論なし。釋名釋宮室に、井清也、泉之清潔者也云々とあるにても、井と泉と一つ物なるをしるべし。さて井に二つあり。一つは、水あさく、わき流るゝあり。そこふかく水ありて、流れぬもあり。こ|そそ《(マヽ)》の所々にいふべし。僻案抄に、御井は、大宮造營の時、掘たる井にはあらず。上古より、ありし井なり。朝廷に用ひらるゝ故に、御井とはいふなり云々。考云、うたに藤井が原とよめる、即、こゝに上つ代より異なる清水ありて、所の名ともなりしものぞ。香山の西北の方に、今清水ありといふは、これにや。
52 八隅知之《ヤスミシヽ》。和期大王《ワゴオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。麁妙乃《アラタヘノ》。藤井我原爾《フヂヰガハラニ》。大野門《オホミカド》。始賜而《ハジメタマヒテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツヽミノウヘニ》。在立之《アリタヽシ》。見之賜者《ミシタマヘバ》。日本乃《ヤマトノ》。青香具山者《アヲカグヤマハ》。日經乃《ヒノタテノ》。大御門爾《オホミカドニ》。青山跡《ハルヤマト》。之美佐備立有《シミサビタテリ》。畝火乃《ウネビノ》。此美豆山者《コノミヅヤマハ》。日緯能《ヒノヌキノ》。大御門爾《オホミカドニ》。彌豆山跡《ミヅヤマト》。山佐備伊座《ヤマサビイマス》。耳爲之《みヽナシノ》。青菅山者《アヲスカヤマハ》。背友乃《ソトモノ》。大(179)御門爾《オホミカドニ》。宜名倍《ヨロシナヘ》。神佐備立有《カミサビタテリ》。名細《ナグハシ》。吉野乃山者《ヨシヌノヤマハ》。影友乃《カゲトモノ》。大御門從《オホミカドユ》。雲居爾曾《クモヰニゾ》。遠久有家留《トホクアリケル》。高知也《タカシルヤ》。天之御蔭《アメノミカゲ》。天知也《アメシルヤ》。日御影乃《ヒノミカゲノ》。水許曾波《ミヅコソハ》。常爾有米《ツネニアルラメ・トキハニアラメ》。御井之《ミヰノ》清《マシ・キヨ》水《ミヅ》。
和期大王《ワゴオホキミ》。
印本、期を斯に誤る。今、集中の例によりてあらたむ。本集二【廿三丁】に、八隅知之吾期大王乃大御船《ヤスミシシワゴオホキミノオホミフネ》云々。また【廿四丁】八隅知之和期大王之恐也《ヤスミシシワゴオホキミノカシコキヤ》云々。六【十二丁】に、安見知之吾期大王之常宮等《ヤスミシシワゴオホキミノトコミヤト》云々などありて、猶多し。宣長云、こは下のおへ、つゞく故に、賀意《ガオ》つゞまりて、期《ゴ》となるを、長く詠《ウタ》へば、おのづから期意《ゴオ》となる也。さる故に、これはたゞ吾大王とつづく時のみのことなり。すべて、吾をわごともいふことゝ心得るはひがことなり。さてこゝに、和期大王《ワゴオホキミ》と申すは、持統天皇をさし奉り、日之皇子と申すは、高市皇子尊をさし奉れり。宮殿は別なるべけれど、天皇も春宮も同じ藤原の地におはしましゝ也。この事は、下【攷證二下廿八丁】にいふべし。
藤井我原《フヂヰガハラ》。
この地名、こゝより外、物に見えず。藤原といへる地名は、この藤井が原の井を略けるなるべし。僻案抄云、藤井が原は、藤原也。この原に、むかしより名井あるが故に、藤井が原ともいふ。殊に御井をよめる歌なれば、藤原を藤井が原とはよめる也。
(180)大御門《オホミカド》。始賜而《ハシメタマヒテ》。
大御門《オホミカド》は、大朝庭《オホミカド》にて、こゝは宮殿を造り始め給ふといへるなり。まへに、日之御門とあるも、借字にて、朝廷なるを思ふべし。さて、本集二【三十五丁】に、埴安乃御門之原爾《ハニヤスノミカドノハラニ》云々とよめるも、この御門ありし故の名なり。
埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツツミノウヘニ》。
埴安は、書紀神武紀に、天皇以2前年秋九月1、潜取2天香山之埴土1、以造2八十平瓮1、躬自齋戒、祭2諸神1、遂得v安2定區宇1、故號2取v土之處1曰2埴安1云々と見えたり。大和國十市郡也。大和志云、埴安池、在2南浦村1、今曰2鏡池1云々。本集二【三十六丁】に、埴安乃池之堤之隱沼之《ハニヤスノイケノツツミノコモリヌノ》云々。延喜式神名帳に、大和國十市郡畝尾坐健土安神社云々なども見えたり。
在立之《アリタヽシ》。
古事記上卷に、佐用婆比爾阿理多々斯《サヨバヒニアリタヽシ》、用婆比爾阿理加用婆勢《ヨバヒニアリカヨハセ》云々。本集十三【六丁】に、島之埼邪伎安利立有花橘乎《シマノサキザキアリタテルハナタチバナヲ》云々など見えたり。考云、むかし今と、絶せず在ことを、在通《アリカヨ》ふ、在乍《アリツヽ》などいへり。しかれば天皇、はやくよりこの堤にたゝして、物見放給へりしをいふなり。
見之賜者《ミシタマヘバ》。
見之賜者《ミシタマヘバ》の、みは、めとよ(か?)よひて、上に賣之賜《メシタマフ》とあると、同語なれど、ここをも、考に、めし給へば、とよまれしは、いかゞ。舊訓のまゝ、見し給ふとよむべき也。さて見し給へばの、し文字は、助字の如く、意なくて、見給ふ也。本集六【卅一丁】に、我大王之見給芳野宮者《ワカオホキミノミシタマフヨシヌノミヤハ》云々。十九【卅九丁】に、見賜明米多麻比《ミシタマヒアキラメタマヒ》云々なども見えたり。上【攷證廿七丁】賣之賜牟登《メシタマハムト》(181)云々とあるをも考へ合すべし。猶下【攷證三下六十五丁】をも考へ合すべし。
日本乃《ヤマトノ》。
大和國なり。日本とかけるは、借字なり。この事、上【攷證十六丁】にいへり。考云、此下に、幸2吉野宮1時、倭爾者鳴而歟來良武とよめるは、藤原都方を倭といへる也。然れば、香山をも、しかいへる事、しるべし。後にも、山邊郡の大和の郷といふは、古へは大各《オホナ》にて、其鄰郡かけて、やまとゝいひしなり云々。
青香具山者《アヲカグヤマハ》。
木草の、青々としげりたる香山といふ事也。古事記上卷に、青山如2枯山1泣枯《アヲヤマヲカラヤマナスナキカラシ》云々とある青山も、青々としたる山をいふ。下に青菅山といふも、菅のあをあをと生たるをいふ。
日經乃《ヒノタテノ》。
周禮天官書疏に、南北之道、謂2之經1、東西之道、謂2之緯1云々。漢書五行志注に、晋灼曰、南北爲v經、東西爲v緯云々とありて、南北を經とすれば、こゝに日の經とあるは、南北といふ事也。香山は、この大御門の南か北に當れるなるべし。予、いまだ、界をこえざれば、しらず。書紀成務紀に、以2東西1爲2日縱1、南北爲2日横1云々とも見えたり。さて、經緯《タテヌキ》といふは、正字通に、凡織縱曰v經、横言v緯云々。和名抄織機具に、説文云、緯【音尉和名沼岐】織v横絲也、謂v緯則經可v知云々などありて、もと機をおる糸の、よこたてをいふ事なるを、轉じて、何にまれ、物のよこたてには用ふる也。されば、天地四方のよこたてをも、經緯といふ也。
(182)大御門《オホミカド》。
まへに、大御門始賜而《オホミカドハシメタマヒテ》とあるは、朝廷をいひ、こゝは宮門をいふ。この御門、香山の方にむかへるなるべし。
青山跡《アヲヤマト》。
印本、春山路《ハルヤマヂ》とあれど、こゝは句を對にとりて、歌とせる處にて、青香具山《アヲカグヤマ》は、青山跡《アヲヤマト》しみさびたち、美豆山《ミヅヤマ》は、美豆山跡《ミツヤマト》やまさびいますと、對にせる句なれば、必ず青山跡《アヲヤマト》となくては、かなはざる所なるうへ、春と青、路と跡と、字體の似たるより誤れる事明らかなれば、考と宣長との説によりて改む。見ん人、句の對を考へてしるべし。
之美佐備立有《シミサビタテリ》。
之美《シミ》は、古事記下卷に、須惠幣爾波多斯美陀氣淤斐《スヱヘニハタシミダケオヒ》云々。本集三【五十四丁】に、京思美彌爾里家者左波爾雖在《ミヤコシミミニサトイヘハサハニアレドモ》云々。十七【九丁】に、烏梅乃花美夜萬等之美爾《ウメノハナミヤマトシミニ》云云などある、しみと同じく、繁《シゲ》き意也。佐備は、神さびのさびと同じく、進む意にて、青々と榮|へ《(マヽ)》進みて、たてりといふ意也。佐備てふ言は考別記にくはし。
畝火《ウネビ》。
畝火山也。上【攷證上ノ廿四丁】にいへり。
此美豆山者《コノミヅヤマハ》。
このといへるは、今、目前にある香山なれば、このとさしてはいへる也。みづは瑞にて、みづ枝などいふ、みづと同じ。青々とみづ/\しき意也。
日緯能《ヒノヌキノ》。
日緯《ヒノヌキ》は、經緯《タテヌキ》の緯にて、前の日經《ヒノタテ》の所にくはし。さてこの緯を、考には、よことよまれつ。前に引たる書紀に、日横とありて、正字通にも、構曰v緯ともあれど、たてぬきといふ時は、必らず、ぬきといふべき言にて、よことよまれしは誤り也。本集七【九丁】に、薨《・(マヽ)》席誰將織經緯無二《コケムシロダレカオリケンタテヌキナシニ》云々。八【卅一丁】に、經毛無緯毛不定《タテモナクヌキモサダメズ》云々。古今集、秋下に、霜のたて露のぬきこそよわ(183)からし、山の紅葉のおればかつちる云々。後撰集、秋上に、秋のよのながきわかれをたなばたはたてぬきにこそ思ふべらなれ云々などあるがうへに、和名抄に緯をぬきとよめるにても思ふべし。
大御門《オホミカド》。
字のごとく、宮門をいふ。この御門、日緯《ヒノヌキ》とあれば、東西に向へるなるべし。
山佐備伊座《ヤマサビイマス》。
考云、こゝにいますといひ、次に神さび立といへれば、上も神さびの略なるをしりぬ。其山を即神とするは例也云々。いはれつるがごとし。之美佐備《シミサヒ》、山佐備《ヤマサヒ》、神性備《カミサヒ》と三つを對にとりて、句をなせる也。皆意同じ。これ長歌の格なり。
耳爲之《ミヽナシノ》。
考云、今本に、耳高とあれど、こゝは大和の國中の三つの山をいひて、その三の一つの耳成山ぞ、北の御門にあたるなれば、爲を高に誤りし事、定か也。故に、改たり云々とあるがごとく、三つの山を對にとりて、歌をなせる所なれば、印本のごとく耳高《ミヽタカ》とありてきこえがたし。
青《アヲ》菅《スカ・スケ》山《ヤマ》。
考云、こは山の名にあらず。上の二山に、ほめたることあるがごとく、常葉なる山菅もて、耳成の茂榮るをいふ云々といはれつるがごとし。舊訓、あをすげ山とあれど、こ|く《(マヽ)》物の名にいふ時は、必ずすが何々といふべき也。古事記中卷に、須賀多々美云々、本集十四【七丁】に、須我麻久良《スカマクラ》云々などあるにても思ふべし。
背友《ソトモ》。
背友《ソトモ》の、友は、借字にて、背面也。書紀成務紀に、山腸曰2影面《カケトモ》1、山陰曰2背面《ソトモ》1云々とありて、影面《カゲトモ》はかげつおも、背面《ソトモ》はそつおも也。つおの反、となれば、かげとも、そとも(184)などなる也。さて、背は、毛詩蕩章釋文に、背後也云々。廣雅釋親に、背北也云々ともあるがごとく、後《ウシロ》の意なり。袖中抄十九に、そともはうしろといふこと也云々とも見えたり。又本集二【卅四丁】に、背友乃國之《ソトモノクニノ》、眞木立不破山越而《マキタツフハヤマコエテ》云々などもあり。
宜名倍《ヨロシナヘ》。
考別記云、よろしてふ言は、物の足《タリ》そなはれるをいふ。よろづ、よろこび、よろひなどいふ、皆同じ言より別れたる也。故、此卷に、取與呂布《トリヨロフ》天香具山てふは、山のかたち、麓の木立、池のさまゝでとゝのひ足たる山なれば也。耳爲《ミヽナシ》の青菅山《アヲスカヤマ》は、宜名倍《ヨロシナヘ》てふも、山のかたちの、そなはれる事、香具山にいへるがごとし。懸乃宜久《カケノヨロシク》、遠津神吾大王のとよまれしも、本より百千足《モヽチタル》天皇の御事なれば、申すもさら也。卷十四に、宜奈倍《ヨロシナヘ》吾背乃君が負來《オヒキ》にし、このせの山をいもとはよばじてふも、萬づ足たる君と、ほめいふなるをしるべし云々といはれしがごとし。名倍《シナヘ》は、上【攷證廿七丁】奈戸二《ナヘニ》とある所にいへるがごとく、並《ナヘ》の意也。されど、こゝなどは、それをもとにて、なべは助字のごとく、たゞよろしきといふに當れり。この事にも、この意なるも多かり。
神佐備《カムサビ》。
上【攷證八丁】にいへり。
名細《ナクハシ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。この語は、物をほめていふ言にて、古事記に細、微などの字をよみ、書紀に妙の字、本集に細、麗、妙、吉などの字をよめり。いづれも義訓にて、(185)細の字ぞ正字なる。細は、玉篇に、微也小也云々とありて、こまかに至らぬ所なきをいふ也。くはしてふ言は、今の世にいふ所も同じく、すみ/”\まで、いたりて、漏ることなきをいへり。されば、おのづからに、物をほることになりて、たゞ物のよきことにも、めでたきことにも用ひたり。花ぐはし、香ぐはし、いすぐはし、うらぐはし、くはし妹、くはし女などいふも、皆同じ。く(う?)るはしといへる語もうらぐはしのつゞまりなりと、眞淵はいはれきとぞ。
影友《カケトモ》。
上の背友《ソトモ》の條にいへるがごとし。友は借字にて、影面也。則かげつおもの略なり。こは南をいふ。
雲居爾曾《クモヰニゾ》。遠有家留《トホクアリケル》。
雲居《クモヰ》、集中いと多し。天《ソラ》は、雲の居るものなれば、雲ゐといひて、やがて、天との|こゝ《(マヽ)》もし、天は遠きものなれば、遠きを天にたとへて、かくは|か(い?)へる也。くもゐなす、とほきと、つゞくる枕詞などあるを見てもしるべし。本集十二【卅八丁】に、雲居有海山越而《クモヰナルウミヤマコエテ》云々などあるも同じ。爾曾《ニソ》の爾《ニ》は如くの意也。そは、(以下空白)
高知也《タカシルヤ》。天之御蔭《アメノミカゲ》
高知《タカシル》は、宮殿を高くしり領じませるをいへるよしは、上【攷證九丁】にいへるがごとし。也は、助字のやのたぐひにて、かろくおきたるにて、意なし。さて、この高知也てふ語は、天といはん枕詞なるを、冠辭考にもらされしはいかゞ。この事は、予が冠辭考補遺にいふべし。天之御蔭《アメノミカゲ》の、天は、天皇を申す也。天皇を天にたとへ奉る事は、天皇、天子などかけるにてもしるべし。こゝの意は、宮殿などを高く知り領じます、天皇の御蔭の、うつる水こそはといへる也。考の説、たがへり。
(186)天知也《アメシルヤ》。日之御蔭《ヒノミカゲ》。
天知《アメシル》は、天を知り領じませるをいふにて、本集三【五十八丁】に、久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレソ》云々と見えたり。さて、この天知也てふ語も、日といはん枕詞なるを、冠辭考にもらされしは、いかゞ。枕詞に、さひづるやから、あまとぶやかるなどいふ、やもじと、こゝの高知也《タカシルヤ》、天知也《アメシルヤ》などの、やもじと、同格なるを見ても、枕詞なるをしるべし。これらの事、くはしく冠辭考補遺にいふべし。日は、天を知り、領しますなれば、かくはつゞけし也。御蔭といふにて、かげの水にうつることをこめたり。又祈年祭祝詞に、天御蔭日御蔭登《アメノミカゲヒノミカゲト》、隱坐※[氏/一]《カクリマシテ》云々なども見えたり。
常爾有米《ツネニアルラメ・トキハニアラメ》。
舊訓、ときはにあらめとあるも、さることながら、常の一字を、ときはとよみし例なし。古事記上卷に、常堅を、ときはかきはとよめれど、こはまへに、石の字あれば、それにゆづりて、二つながらはぶけるなれば、この例とはなしがたし。考に、とこしへならめとも、つねにあるらめとも、二樣によまれしかど、つねにあるらめの方に、したがふべし。本集五【九丁】に、余乃奈迦野都禰爾阿利家留《ヨノナカノツネニアリケル》、遠等呼良何《ヲトメラカ》云々などあるにても思ふべし。
御井之《ミヰノ》清水《マシミヅ・キヨミヅ》。
舊訓、きよみづとあり。僻案抄には、しみづはとよみ、考に、ましみづとよまれつ。今は、考の訓にしたがふ。眞は、例のほむる詞。しみづは、すみ水のつゞまり、すみの反、しなれば也。書紀には好井、古事記には清水、寒泉などを、しみづとよめり。天文本和名抄、水土類に、日本紀私記云、妙美井【之美豆】石清水【以波之三豆】云々と見えたり。
(187)短歌。
短歌とあるは、疑はしけれど、しばらく本のまゝにて、おきつ。拾穗本には、反歌とあり。さて、考云、今本、こゝに短歌と書て、左の歌を、右の長歌の反歌とせしは、歌しらぬものゝわざて(ぞ?)。左の歌は、必、右の反歌にはあらぬなり。これは、この所に、別に端詞のありしが落たるか、又は亂れたる一本に、短歌とありしを以て、左の歌をみだりにこゝに引付しにもあるべし。故、左は別歌とす。
53 藤原之《フヂハラノ》。大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。安禮《アレ》衝哉《ツガム・セムヤ》。處女之友者《ヲトメガトモハ》。之吉《シキ》召《メセル・メス》賀聞《カモ》。
大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。
本集十三【五丁】に、内日刺大宮都加倍《ウチヒサスオホミヤツカヘ》云々とも見えたり。宮中につ、かうまつる也。今いふ所と同じ。
安禮《アレ》衝哉《ツガム・セムヤ》。
この句より下、誤脱ありとおぼしくて、心得がたし。されど、心みに諸説あげて論ず。衝哉を、舊訓、せんやとあれど、いかゞ。衝は、本集七【卅八丁】に、廣瀬川袖衝許淺乎也《ヒロセカハソテツクハカリアサキヲヤ》云々。十一【廿八丁】に、須蘇衝河乎《スソツクカハヲ》云々。二【卅九丁】に、夜者裳氣衝明之《ヨルハモイキツキアカシ》云々などあるにても、つくとよまんこと論なし。考云、衝は借字にて、生繼者《アレツケハ》にや也。卷十三に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツキクレハ》、人多爾國《ヒトサハニクニ》には滿《ミチ》てで云々。卷十五に、八千年爾阿禮衝之乍《ヤチトセニアレツカシツツ》、天の下しろしめしけん云々といへるたぐひ也云々といはれつるは、さる事ながら、哉の字は、いかに心得られしにか。このやもじを、ば(188)やの意の、やとする時は、下に結び詞なし。さればこの哉もじは、次にあげたる宣長の説のごとく、武の誤りなる事しるし。よりて、今はむとよめり。宣長云、哉字は武の誤り也。この字、誤れる例、これかれあり。さて結句は、田中道磨が、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》を誤れる也といへる、よろし。又六の卷に、長歌に云々、八千年爾安禮衝之乍《ヤチトセニアレツカシツヽ》、天下所知食跡《アメノシタシロシメサント》云々。この二つの安禮衝といふ言は、安禮は、類聚國史に、天長八年十二月、替2賀茂齋内親王1其辭曰云々、皇大神乃阿禮乎止賣爾、内親王齡毛云々、代爾時子女王乎、卜食定弖、進状乎云々。三代實録三十にも、貞觀十九年二月二十四日、賀茂神社齋内親王を、定めたまへる告文に、敦子内親王乎卜定天、阿禮乎度女爾進状乎云々とあるは、賀茂齋王を、阿禮乎止女と申せるにて、この阿禮と同くて、奉仕をいへる言也。賀茂の祭を、御阿禮といふも、奉仕る意なるべし。衝は、神功紀に、撞賢木《ツキサカキ》、嚴之御魂《イツノミタマ》とある、撞と同くて、伊都伎の伊を省ける言なり。されば、安禮衝武處女とは、藤原宮にして、持統天皇に奉仕いつきまつる女官をいへる也。かの阿禮乎止女と思ひ合すべし。友はともがら也。乏《トモシ》は、うらやましき也。然るに、この言を生繼《アレツク》と解たるは、いみじきひがごと也。生繼といふこと、この歌によしなく、且繼と衝とは、久の清濁も異なるを、いかでか借用ひん。さて、六の卷なるは、天下所知食とつゞきたれば、此詞、天皇の御うへの事を申せるさまなれども、一の卷なるを思ふに、天皇の御うへの事に申すべき言にあらず。必、宮づかへする人のうへをいへる言なれば、これも八千年までも、百宮(官?)奉仕《ツカヘ》、いつきまつりて、天下をしろしめさんといふ意によめろにこそ。衝之《ツカシ》は、都伎《ツキ》を延たるなり云々。この説いとたくみにて、いかにもさる事ときこゆれど、本集四【十二丁】に、神代從生繼來者《カミヨヨリアレツキクレハ》、人多國爾波滿而《ヒトサハニクニニハミチテ》云々と正しく生繼《アレツク》とさへあれば、阿禮衝は生繼(189)の借字ならんとおぼゆ。借字は清濁にかゝはらざる例なること、上にもところ/”\にいへるがごとし。(頭書、再考、阿禮衝哉《アレツケヤ》ともよまんか。)
處女之友者《ヲトメガトモハ》。
をとめが友は、書紀神武紀に、宇介譬俄等茂《ウカヒガトモ》云々。本集六【廿六丁】に、丈夫之伴《マスラヲノトモ》云々。十六【十九丁】に、佞人之友《ネジケヒトノトモ》云々などある、ともてふ言と同じく、ともがらといふなり。
之吉《シキ》召《メセル・メス》賀聞《カモ》。
召は、舊訓、めすとのみよみつれど、考にめせるとよまれしにしたがふ。之吉《シキ》は、古事記中卷に、頻をしきてとよみ、本集八【四十三丁】に、布將見跡吾念君者《シキテミムトワカモフキミハ》云云。十一【廿六丁】に、敷而毛君乎將見因母鴨《シキテモキミヲミムヨシモカモ》云々などある、しきと同じく、重なる意也。しきめる(す?)は、重ねてめせる也。考云、之吉は、重々《シキ/\》也。さてこの大宮づかへにとて、少女がともがらの多く生れ續けばにや、頻に召たてらるゝよと云也。媛天皇におはせば、女童を多くめす事ありけんを、それにつけて、よしありて、この歌はよめるなるべし。かゝれば、必、右の反歌ならず云々。この説も、さる事ながら、哉《ヤ》の字になづめり。かへす/”\も、哉は武の誤りなるべし。
右歌。作者未詳。
右歌とさせるは、短歌のみにあらず。まへの御井の長歌をもいへるなり。思ひまがふべからず。
(190)大寶元年。辛丑。秋九月。太上天皇。幸2于紀伊國1時歌二首。
大寶元年。
大寶元年は、文武天皇元年也。續日本紀には、大寶元年、九月丁亥、天皇幸2紀伊國1云々とのみありて、太上天皇御幸の事なし。いづれをか正しとせん。可v考。
太上天皇。
こは、持統天皇を申す。天皇御位をしりぞかせ給ひて後の尊號なり。太上天皇の尊號、この持統天皇よりはじまれり。濫觴抄云、持統天皇、十一年丁酉八月一日甲子、讓2位於太子1【年十五】號2太上天皇1、新皇文武天皇也云々と見えたり。さて、漢書高帝紀注に、太上極尊の稱云々と見えて、當帝をたゞ天皇とのみ申せば、先帝を尊稱して、太上天皇とは申す也。洛陽伽藍記、卷二に、天下號v父、爲2秦太上公1、母爲2秦太上君1云々とも見えたり。又史記秦始皇紀云、二十六年、初并2天下1、追2尊莊襄王1、爲2太上皇1云々とも見えたり。
二首。
印本、この二字なし。今、目録と集中の例によりて補ふ。
54 巨勢山乃《コセヤマノ》。列々椿《ツラ/\ツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。見乍《ミツヽ》思《オモハ・オモフ》奈《ナ》。許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》。
巨勢山《コセヤマ》。
考云、藤原の京より、巨勢路をへて、木の國へゆく也云々といはれしがごとく、紀の國へゆくみちにて、巨勢山にてよめる也。巨勢山は、大和高市郡也。この地の事は、上【攷證卅丁】にいへり。
(191)列々椿《ツラ/\ツハキ》。
つら/\椿は、つらなり、つらなる椿といふなり、なるを略ける也。本集十九【二十丁】に、小船都良奈米《ヲフネツラナメ》云々とある|を《(マヽ)》、つらね並《ナベ》の、ねをはぶける也。又、十五【十三丁】に、小船乘都良々爾宇家里《ヲフネノリツラヽラニウケリ》云々とも見えたり。皆列なる意也。椿は、和名抄木類云、唐韻云椿【勅倫反和名豆波木】木名也、楊氏漢語抄云海石榴【和名上同本朝式等用v之】云々。また本草和名、新撰字鏡にもいでたり。本集二十【五十五丁】に、夜都乎乃都婆吉《ヤツヲノツバキ》、都良都良爾美等母安加米也《ツラツラニミトモアカメヤ》云々と見えたり。列々《ツラ/\》つばきつら/\と、詞をかさねていへる也。書紀垂仁紀に究、欽明紀に熟をつら/\とよめり。遊仙窟に、一々細、熟などをよみ伊呂波字類抄にも倩、熟などをよめり。いまの語にいふ所の、つら/\と同じ。
見乍《ミツヽ》思《オモハ・オモフ》奈《ナ》。
乍《ツヽ》は、韻會に、廣雅暫也、蒼頡篇乍兩辭也、増韻初也、忽也、※[獣偏+卒]也、甫然也云々と見えたり。このつゝは、ての意。おもはなは、おもへと下知の詞にて、つらつら見ておもへといへる也。この句、印本見つゝおもふなとよめるは、いかゞ。宣長も、おもふなとよみて、なもじは助字の奈と定めしかど、助字の奈は、古くは皆、んの字より、うくる詞にて、外の字よりうけたる事なし。さてこゝの、おもふなの、なは、本集八【卅二丁】に、紐解設奈《ヒモトキマケナ》云々。九【卅二丁】に、爾保比天去奈《ニホヒテユカナ》云々。又【十丁】家者夜良奈《イヘニハヤラナ》云々などある、なと同じ。この奈もじ、集中いと多し。宣長は、これらのなもじを、んの意也、定めしかど、これもくはしからず。下知の意なると、んの意なると、二つあり。よく/\考へ見てしるべし。
許湍乃春野乎《コセノハルヌヲ》。
許湍《コセ》は、巨勢也。巨勢の春の野をおもへと也。今の御行は、九月なれど、巨勢山につらなり並びである椿などを、つら/\見て、その椿の花などの(192)咲らん春のころの、野などをも思ひやれと、外の人々にいひて、今九月なれど、春を思ひやりてよめる歌なり。
右一首。坂門人足。
坂門人足、父祖不v可v考。新撰姓氏録卷三十に、坂戸、物部神饒速日命、天隆之時、從者坂戸天物部之後者不v見云々。又舊事記、天神本紀に、坂戸造と見えたり。坂門、坂戸、相通るか。本集十六【十六丁】に、美麗物何所不飽矣《ウマシモノイヅクアカヌヲ》、坂門等之角乃布久禮爾四具比相爾計六《サカトラガツヌノフクレニシグヒアヒニケム》云々。左注に、右時有2娘子1、姓|尺度《サカド》氏也云々とあるは、尺度を坂門とかきたり。續日本紀、天應元年六月條に、河内國尺度池あり。和名抄郷名に、河内、相摸、伯耆などに、尺度郷あり。又延喜諸陵式に、河内坂門原陵あり。和名抄郷名に、大和、常陸等に坂門郷あり。これら、この坂門氏によしある地名歟。可v考。
55 朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨイ》。木人乏母《キビトトモシモ》。亦打山《マツチヤマ》。行來跡見良武《ユキクトミラム》。樹人友師母《キビトトモシモ》。
朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨイ》。
きの一言へかゝる枕詞なり。舊訓、あさもよいとあれど、あをによしの例によりて、あさもよしとよむべき也。さてこの語、思ひ得ず。契冲、眞淵等の説、とき得られたりとも覺えず。くはしき論は、冠辭考補遺にいふべし。
(193)木人《キビト》。
紀伊人なり。いせ人、難波人などの類也。
乏母《トモシモ》。
集中、乏《トモシ》といふに三つあり。一つはうらやましき意なると、一つめづらしと愛する意なると、一つは實に乏《トモシ》くまれなる意なる也。めづらしと愛する意なるも、下【攷證二ノ中卅七丁】に、乏くまれなる意なるも、下【攷證三上五十七丁】にいふべし。こゝなる木人乏母《キヒトトモシモ》は、うらやしき也。宣長云、此歌の意は、まつち山のけしきのおもしろきを、見すてゝゆく事のをしきにつきて、この紀伊の國人の、つねに往來に見るらんが、うらやましといへる也。乏《トモシ》は、うらやまし也。其意によめる例は、五【廿二丁】に、麻都良河波多麻斯麻能有良爾《マツラガハタマシマノウラニ》、和可由都流伊毛良遠美良牟比等能等母斯佐《ワカユツルイモラヲミラムヒトノトモシサ》云々。六【十八丁】に、島隱吾※[手偏+旁]來者乏毳《シマガクリワガコギクレハトモシカモ》、倭邊上眞熊野之船《ヤマトヘノホルマクマヌノフネ》云々。七【十九丁】に、妹爾戀余越去者《イモニコヒワガコエユケバ》、勢能山之妹爾不戀而有之乏左《セノヤマノイモニコヒズテアルガトモシサ》云々。また吾妹子爾吾戀行者《ワギモコニワガコヒユケバ》。乏雲並居鴨《トモシクモナラビヲルカモ》、妹與勢能山《イモトセノヤマ》云々。十七【廿七丁】に、夜麻扶枳能之氣美登※[田+比]久々鶯能《ヤマブキノシゲミトビクヽウクヒスノ》、許惠乎聞良牟《コヱヲキクラム》、伎美波登母之毛《キミハトモシモ》云々。これら思ひ合せてしるべし。又まつち山のけしきをおもしろき事によめるは、四【廿三丁】長歌に、眞土山越良武公者《マツチヤマコユラムキミハ》、黄葉乃散飛見乍《モミチハノチリトブミツツヽ》、親吾者不念《シタシクモワレハオモハズ》、草枕客乎便宜常《クサマクラタビヲヨロシト》、思乍公將有跡《オモヒツヽキミハアラムト》云々とあり云々。これをよしとす。母《モ》は添たる言にて意なし。
亦打山《マツチヤマ》。
印本。赤打山とあれど、拾穗本、楢山拾葉等に亦打山とあれば、赤は亦の誤りなる明らかなれば、亦に改む。亦打《マタウチ》の字、たうの反、つなれば、まつちとなるなり。さてまつち山は、舊説、大和といへど、本集四【廿三丁】に、麻裳吉木道爾入立《アサモヨシキヂニイリタチ》、眞土山越良武公者《マツチヤマコユラムキミハ》云々とあるにて、紀伊なること明らけし。大和と紀伊との堺なるよし代匠記にいはれつ。(頭書、まつち(194)山大和なる事、攷證四上四十三丁。)
行來跡見良武《ユキクトミラム》。
行くたび來るたびに、まつち山を見るらんが、うらやましとなり。本集九【卅六丁】に、葦屋之宇奈比處女之奧槨乎《アシノヤノウナヒヲトメノオキツキヲ》、往來跡見者哭耳之所泣《ユキクトミレハネノミシナカユ》云々とあるもおなじ。
右一首。調(ノ)首|淡海《アフミ》。
調首淡海は、書紀天武元年の紀に、見えたり。續日本紀云、和銅二年春正月丙寅、授2正六位上調連淡海從五位下1、同六年四月乙卯、授2從五位上1、養老七年正月丙子、授2正五位上1、神龜四年十一月己亥、太政官及八省各上v表奉v賀2皇子誕育1、並献2玩好物1、是日賜2宴文武百寮已下至v使部於朝堂1、五位已上賜v綿有v差、累世之家、嫡子身帶2五位已上1者、別加2※[糸+施の旁]十疋1、但五位上調連淡海、從五位上大倭忌寸五百足、二人年齡居v高、得v入2此例1焉云々と、調連とあるは、天武二年より和銅元年までの間に連の姓を賜はりしなるべし。新撰姓氏録卷二十二に、調連水海連同v祖、百濟國努理使主之後也、譽田天皇謚應神御世歸化、孫阿久太、男彌和次賀夜次麻利彌和、億計天皇謚顯宗御世、蠶織献2※[糸+施の旁]絹之樣1、仍賜2調首姓1云々と見えたり。
或本歌。
(195)56 河《カハ》上《ノベ・カミ》乃《ノ》。列々椿《ツラ/\ツバキ》。都良都良爾《ツラツラニ》。雖見安可受《ミレドモアカス》。巨勢能春野者《コセノハルヌハ》。
河《カハ》上《ノベ・カミ》乃《ノ》。
舊訓、かはかみのとあれど、かはのべのとよむべし。古事記下卷に、迦波能倍邇淤斐陀弖流《カハノベニオヒダテル》、佐斯夫袁《サシフヲ》云々。本集十七【十九丁】に、秋風左無美曾乃加波能倍爾《アキカゼサムミソノカハノベニ》云々などあれば、かはのべとよまんこと論なし。皆川のほとり也。和名抄河内甲斐等の郷名に、井上【井乃倍】とあるにても、上はべとよむべきをしるべし。論語子罕篇に、子在2川上1云々とあるも、川のほとり也。これらをも考へ合すべし。○考云、こは春見てよめる歌にして、この度の事にあらず。後にこゝに注せしものなるを、今本大字に書しはひがごと也云々。
右一首。春日藏人老。
春日藏人老、父祖不v可v考。續日本紀云、大寶元年三月、壬辰、令d2僧弁紀1還俗u、代度一人、賜2姓春日倉首名老1、授2追大壹1云々。和銅七年正月甲子、授2正六位上春日椋首老從五位下1云々と見えたり。又、懷風藻に、從五位下常陸介春日藏首老、年五十二云々。本集三【廿三丁】左注に、右或云弁基者、春日藏首老之法師名也云々などもあり。さて春日は氏、藏首は姓、老は名也。春日氏は、新撰姓氏録に、春日眞人、春日部村主など見え、續日本紀に、天平神護二年三月丁亥、左京人從七位下春日藏※[田+比]登常麿等二十七人、賜2姓春日朝臣1云々と見えたり。藏首はくらびとゝよむべし。書紀天武紀に、次田倉人椹足云々。續日本紀十一に、河内藏人首麿。二十七に春日藏※[田+比]登常麿。二十九に白鳥椋人廣云々。姓氏録に、池上椋人、河原藏人、日置倉云々などあるにても、藏首は(196)くらびととよむべきをしるべし。
二年壬寅。冬十月。太上天皇。幸2于參河國1時歌。
冬十月。
この三字、印本なし。今集中の例と、續日本紀とによりて補ふ。續日本紀云、大寶二年十月甲辰、太上天皇、幸2參河國1、令d2諸國1無uv出2今年田租1云々。行所2經過1、尾張美濃伊勢伊賀等國郡司乃百姓叙v位、賜v禄各有v差云々と見えたり。太上天皇は、まへと同じく持統天皇を申す。
幸2于參河國1。
印本、于の字なし。集中の例に依て補ふ。
57 引馬野爾《ヒクマヌニ》。仁保布《ニホフ》榛《ハリ・ハギ》原《ハラ》。入《イリ》亂《ミダレ・ミダル》。衣爾保波勢《コロモニホハセ》。多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
引馬野《ヒクマヌ》。
仙覺抄よりして、參河國とすれどいかゞ。考別記の説の如く、遠江國とすべし。考別記云、遠江國敷智郡濱松の驛を、古へは引馬宿といふ。阿佛尼の記に見ゆ。そこの城を、近ごろまで、引馬の城といひ、城の傍の坂を引馬坂といひ、其坂の上をすこしゆけば、大野あり。そを古へは引馬野といひつと、所にいひ傳へたり。此野、今は三方が原といふ。さてこの度、三河國へ幸とありて、遠江の歌あるをいぶかしむ人あれど、集中には難波へ幸とて、河内和泉の歌もあり。紀には幸2伊豫温湯宮1とある、同じ度に、集には讃岐の歌もあり。其隣國へは、(197)次に幸もあり、又宮人のゆきいたる事もありしゆゑ也。いまもそのごとくなり云々。
仁保布《ニホフ》榛原《ハリハラ・ハギハラ》。
印本にも、考にも、榛をはぎとよめるは非。はりとよむべき也。この事は、上【攷證一上卅四丁】にいへり。仁保布《ニホフ》は、色のにほふ也。本集上【十四丁】に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》云々などありて、集中猶いとおほし。古今より後の歌にも多くよめり。
入《イリ》亂《ミダレ・ミダル》。
舊訓、いりみだるとあるはいかゞ。考に、入みだりとよみて、いりみだらしてふ事なるを、良志の約め、利なれば、みだりといふは古言の例ぞ云々といはれしも、いかゞ。こは、榛原に人のいりみだれて、衣をすりて、色ににほはせよといふ意なれば、かならずいりみだれといふべき所なるをや。
衣仁保波勢《コロモニホハセ》。
榛原に、自らも人も入みだれて、衣を榛にすりて、色ににほはせよと、下知の詞なり。さて、衣を榛に摺れるは、書紀天武十四年の紀に、蓁揩御衣三具云々。日本後紀延暦十八年の紀に、蓁揩衣云々。延喜四時祭式下の、鎭魂祭官人装束に、蓁摺袍云々。同踐祚大嘗會式の齋服に、榛藍摺錦袍一領云々。同縫殿式の鎭魂齋服に、榛摺帛袍十三領云々。本集七【十三丁】に、住吉之遠里小野之眞榛以須禮流衣乃盛過去《スミノエノトホサトヲヌノマハリモテスレルコロモノサカリスギユク》云々。また【十四丁】古爾有監人之※[不/見]乍衣丹摺牟眞野之榛原《イニシヘニアリケムヒトノモトメツヽキヌニスリケムマヌノハリハラ》。また【廿四丁】不時斑衣服欲香衣服針原時二不有鞆《トキナラヌマタラコロモヲキカホシカコロモハリハラトキナラストモ》云々。また【卅四丁】白管之眞野乃榛原心從毛不念君之衣爾摺《シラスケノマヌノハリハラコヽロユモオモハヌキミカコロモニソスル》云々。十【廿丁】に、思子之衣將摺爾爾保比乞島之榛原秋不立友《オモフコガコロモスランニニホヒコセシマノハリハラアキタヽストモ》云々。蓁とかけるは、小補韻會に、蓁本作v※[木+蓁]或作v榛云々とあるにて、蓁蓁同じきをしるべし。さてこ(198)の榛摺は、木の皮をもてすれるなるべし。さる證は上に引たる卷十の歌に、島之榛原秋不立友《シマノハリハラキタヽストモ》とあるを、この歌は十月幸の歌なれば、時節たがへり。これにても花ならで、木の皮をもてすれるをしるべし。この榛摺を萩が花ずりと同じことゝ考にはいはれしかど、別なることは上にいへるがごとし。萩が花ずりの事は下【攷證】にいふべし。さてこの歌、本集八【卅五丁】に、草枕客行人毛往觸者爾保此奴倍久毛開流芽子香聞《クサマクラタヒユクヒトモユキフレハニホヒヌベクモサケルハギカモ》云々とあるに似たり。
多鼻能知師爾《タビノシルシニ》。
榛原に人もわれも入みだりて、衣をにほはせよ。かく旅をして、かゝる榛原などにも、入みだりししるしにせんと也。この歌、たびのしるしにころもにほはせと、うちかへしで心得べし。考云、下に清江娘子が、長皇子に奉る歌にも、草枕たび行君としらませば、岸のはにふににほはさましをとよみて、旅には摺衣きる古へのならひ也。摺衣は、古への御狩、御遊、また旅に着る事見ゆ云々。
右一首。長忌寸奧麿。
長忌寸奧《ナガノイミキオキ》磨、父祖官位不v可v考。本集二【廿二丁】九【八丁】十六【十七丁】には、長忌寸意吉麿と見え、三【十八丁】には、こゝのごとく奧麿とあり。長《ナカ》の氏は、書紀皇極紀に、長(ノ)直、姓氏録に、長(ノ)公と見えたり。忌寸の姓は、書紀天武紀に、十三年冬十月、己卯朔、詔曰、更改2諸氏之族姓1、作2八色之姓1、以混2天下萬姓1云々、四曰2忌寸1云々と見え、續日本記に、天平寶字三年十月辛丑、天下諸姓着2君字1者、換(199)以2公字1、伊美吉以2忌寸1云々と見えたり。忌寸は、いみきとよむべし。
58 何所《イヅク・イツコ》爾可《ニカ》。船《フナ・フネ》泊爲良武《ハテスラム》。安禮乃崎《アレノサキ》。※[手偏+旁]多味行之《コギタミユキシ》。棚無小舟《タナヽシヲフネ》。
何所《イヅク・イツコ》。
舊訓にも、考にも、いづことあるはいかゞ。いづくとよむべき也。この事、上【攷證十五丁】にいへり。下みなこれにおなじ。船泊《フナハテ》を、舊訓ふねはてと訓つれど、かくつゞく時は、一つの語となる故に、ふなはてとよむべき也。本集十四【十四丁】に、布奈波之《フナハシ》云々。二十【十七丁】に、布奈可射里《フナカザリ》云々。また【廿六丁】布奈與曾比《フナヨソヒ》云々などあるにても思ふべし。さて船泊《フナハテ》は、字のごとく、船の泊《トマ》るをいふ。はては終《ハテ》の義也。本集五【卅一丁】に、多太泊爾美船播將泊《タヾハテニミフネハハテム》云々。七【十五丁】に、大御船竟而佐守布《オホミフネハテテサモラフ》云々。又【十七丁】舟盡可志振立而《フネハテヽカシフリタテヽ》云々。九【十四丁】に、吾船將梅《ワカフネハテム》云々などありて、猶いと多し。盡、竟、極などの字をよめるにて、はては終の義なるをしるべし。この訓よろし。ある人、船はたすらんとよむべしといへりしかど、しかよむべき事なし。
安禮乃崎《アレノサキ》。
仙覺抄、萬葉名所部類、楢山拾葉等に、參河國とす。この歌より外に、物に見えず。何をもて、參河とは定めしには(か?)。おぼつかなけれど、しばらくこれによるべし。ある人云、和名抄、美濃國不破郡郷名に、荒崎あり。これ也云々といへれど、美濃には海なきうへに、方角いとたがへり。
(200)※[手偏+旁]多昧行之《コギタミユキシ》。
※[手偏+旁]は、唐韻に、掉v船一歇也云々。小補韻會に、進v舟也云々と見えたり。多味は本集三【十九丁】に、礒前※[手偏+旁]手囘行者《イソノサキコギタミユケバ》云々。また【卅三丁】奧島※[手偏+旁]囘舟者《オキツシマコギタムフネハ》云々。また【四十丁】敏馬乃崎乎許藝廻者《ミヌメノサキヲコギタメバ》云々。十二【卅九丁】に、磯囘從水手運往爲《イソワヨリコギタミイマセ》云々などあり。集中猶多かり。考云、こぎめぐり行しなり。たみの言に、囘、又轉の字をもかきつ云々といはれしがごとし。十一【三丁】に、崗前多未足道乎《ヲカノサキタミタルミチヲ》云々とあるも、曲りめぐれる道也。又十七【四十六丁】に、伊麻布都可太未等保久安良婆《イマフツカダミトホクアラハ》云々とあるは、みと、にとかよひて、だにの意なり。こゝと同語にあらず。
棚無小舟《タナナシヲブネ》。
本集三【十九丁】に、島榜隱棚無小舟《シマコギカクルタナナシヲブネ》云々。六【十五丁】に、海未通女棚無小舟榜出良之《アマヲトメタナナシヲブネコギヅラシ》云々など見えたり。和名抄、居宅類に、棚閣【〓格二反和名多奈】云々と見えて、本物を置料のものなるを、こゝには借字して用ひしにて、※[木+世]《フナダナ》の事也。※[木+世]は和名抄舟具に、野王按※[木+世]【音曳字亦作v※[木+曳]和名不奈太那】大船旁板也云々とありて、大船の兩方の旁に付たる板にて、そのうへをあゆみもし、※[舟+虜]などをもたつる料の板也。小船には、その※[木+世]《フナダナ》なければ、たななし小舟とはいへる也。和歌童蒙抄五云、たなゝし小舟とはうらうへの舟ばたに、浮たる板をいふ。舷と書り。それもなき小舟といへるなり云々。
右一首。高市連黒人。
この人の事、上【攷證一丁】にいへり。印本、市の字を脱す。今目録と、上下の證によりて補ふ。
譽謝女王作歌。
(201)譽謝女王、父祖未v詳、續日本紀に、慶雲三年六月丙申、從四位下譽射女王卒云々とのみ見えたり。
59 流經《ナガラフル》。妻吹風之《ツマフクカゼノ》。寒夜爾《サムキヨニ》。吾勢能君者《ワガセノキミハ》。獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
流經《ナカラフル》。
考に、流は借字にて、長ら經《フ》る也。寢衣《ヨルノモノ》のすその長きをいふ云々といはれしは誤り也。流るといふは、物の水に浮て流るゝをもとにて、物を風のふきなびかすをも、物のそらに浮てたゞよふをも流るといへり。こゝなる、流經《ナカラフル》の經の字は、借字、らふの反、るなれば、ながるるとなる也。されば、ながるゝ妻《ツマ》といへるにて、衣のつまなどの、風にふきながさるゝをいふ。本集八【十四丁】に、沫雪香薄太禮爾零登見左右二流倍散波何物花其毛《アワユキカハダレニフルトミルマデニナカラヘチルハナニノハナゾモ》云々とある、流倍《ナガラヘ》も、らへの反、れなれば、ながれちるにて、雪の風にふきながされちるをいふ。又十【六丁】に、春霞流共爾《ハルガスミナガルヽムタニ》云々とあるも、霞のそらにたなびくを流るといへり。同【十丁】櫻花散流歴《サクラバナチリナガラフル》云々。また【四十四丁】に、二上爾黄葉流志具禮零乍《フタカミニモミヂバナガルシグレフリツヽ》云々などある流歴《ナガラフル》も、流《ナガル》も、風にちりながるゝにて、こゝの流經《ナガラフル》と同じ。土佐日記異本に、白散を、あるもの夜のまとて、舟やかたにさしはさめりければ、風にふきながさせて、海にいれて、えのまずなりぬ云々とあるも、こゝと同じ。さて又この世に生てあるを、ながらふといふも、流經にて、水にまれ、風にまれ、ながれてうきてあるがごとく、いまだたゞよひてありといふ意也。又名の流るといふも、風に花紅葉などのながるといふと、本は同じ意也。この事は、下【攷證二下七十一丁】にいへふべし。
(202)妻吹風《ツマフクカゼ》。
こは、衣のつまをふく風といへるにて、妻《ツマ》は端《ツマ》の借字なり。今の世にいふ衣のつまも、端の意なれど、古へはたゞはしといふ事にて、今の世のごとく、一所をいふにあらず。古今集戀五に、ひとりのみながめふるやのつまなれば云々。後撰集戀二に、つまにおふることなし草を云々。拾遺集雜賀に、文のつまをひきやりて云々などある、つまもみな端なり。(頭書、妻一本作v雪この方勝れり。)
吾勢能君者《ワガセノキミハ》。
吾夫《ワカセ》の君也。夫《セ》の事は、上【攷證上三丁】にいへり。
獨香宿良武《ヒトリカヌラム》。
考云、夫君の旅ねを、女君の京にありて、ふかく思ひやり給ふ心あはれなり。
長皇子御歌。從駕作歌。
長《ナガノ》皇子。
書紀天武紀云、大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1云々。持統紀云、七年春正月、淨廣貳授3皇子長與2皇子弓削1云々。續日本紀云、慶雲元年春正月丁酉、二品長親王、益2封二百戸1云々。和銅七年春正月壬戌、二品長親王、益2封二百戸1云々。靈龜元年六月甲寅、二品長親王薨、天武天皇第四皇子也云々と見えたり。さて、この御名の訓は、同書云、天平神護元年冬十月庚申、從三位廣瀬女王薨、二品那我親王之女也云々とあれば、ながのみことよむべし。
(203)御歌。
考には、御作歌と作の字をくはへられしかど非也。集中の例、端辭ある時は、御作歌と、なき時は御歌とのみかける例也。こは皇子のみの事なり。
徒駕作歌。
この四字、諸本なし。目録と次の歌の例によりて補ふ。まへの譽謝女王の歌は、京にとゞまり居て、思ひやりでよまれし歌なれば、たゞ作歌とのみしるせり。それにむかへて、これ從駕せし皇子の御歌なれば、ことさらにことわりて、從駕作歌とはしるせるなり。
60 暮相而《ヨヒニアヒテ》。朝面無美《アシタオモナミ・アサカホナシミ》。隱《ナバリ・カクレ》爾加《ニカ》。氣《ケ》長《ナガク・ナガキ》妹之《イモカ》。廬利爲里計武《イホリセリケム》。
暮相而《ヨヒニアヒテ》。
今、よひといふは、初夜の事にて、宵の字をよめり。古くは、たゞ夜の事をよひといへり。集中、夕、暮、初夜、三更、夜などを、よひとよめれど、字にはかゝはらず、みなたゞ夜の事なり。本集八【廿四丁】に、獨居而物念夕爾《ヒトリヰテモノオモフヨヒニ》云々。また【卅七丁】織女之袖續三更之五更者《タナハタノソテツクヨヒノアカツキハ》云々。十【廿七丁】に、夜不去將見妹當者《ヨヒサラズミムイモガアタリハ》云々。また【卅四丁】初夜不去《ヨヒサラズ》云々。十二【廿一丁】に、暮置而旦者消流白露之《ヨヒニオキテアシタハキユルシラツユノ》云々など見えたり。また九【十三丁】に、烏玉乃宵度月乃《ヌハタマノヨハタルツキノ》云々。廣雅釋詁四に、暮夜也云々。玉篇に宵思搖切夜也云々などあるにても、暮も宵も夜の事なるをしるべし。
朝面無美《アシタオモナミ・アサカホナシミ》。
仙覺抄云、この歌、古點にはよひにあひて、あしたおもなみと點ず云々とあるごとく、あしたおもなみとよむべし。本集八【卅五丁】に、暮相而朝面羞《ヨヒニアヒテアシタオモナミ》、隱野乃芽子者散去寸《カクレヌノハキハチリニキ》、黄葉早續《モミチハヤツゲ》也云々とも見えたり。又伊勢物語に、おもなくていへるなるべし云々。竹取物語に、かのはちをすてゝ、又いひけるよりおもなき事をば、はちをすつとぞいひける云々。中(204)務集に、心してあらましものを夢とてもいかでおもなく見えわたりけん云々。源氏紅葉賀卷に、おもなのさまやと見給ふも、にけ《(マヽ)》れど云々などもあり。みなおもはゆく、むづかしき意也。おもなみのみは、さにの意なり。この言の事は、上所々にいへり。夜る男にあひて、そのあした、はづかしさに、かくるとつゞけたるなり。
隱《ナバリ・カクレ》爾加《ニカ》。
考の説たがへり。隱はなばりとよむべし。伊賀國名張郡の地名にて、隱山《ナバリヤマ》、隱野《ナバリヌ》などと同所なり。なばりとは、かくる、といふ言の古言なり。さて、この歌の意は、夜る男に逢て、其あした、はづかしさに、かくれてあるといふを、なばりとはかくるといふ言の古言なるによりて、なばりにかとはつゞけし也。女はあらはなるをはぢて、かくれ居るをよしとする事、物語ぶみなどに多し。この隱を、なばりとよめる事は、上【攷證十五丁】にあげたる宣長の説のごとし。
氣《ケ》長《ナガク・ナガキ》妹之《イモガ》。
古事記下卷に、岐美賀由岐氣那賀久那理奴《キミガユキケナガクナリヌ》云々。本集四【卅九丁】に、不相見而氣長久成奴《アヒミズテケナガクナリヌ》云々。六【十八丁】に、客乃氣長彌《タビノケナガミ》云々。十【廿六丁】に、眞氣長戀心自《マケナガクコフルコヽロユ》云々。また戀敷者氣長物乎《コヒシケバケナガキモノヲ》云々などありて、集中猶多し。宣長云、けながくは、月日の長く也。氣《ケ》は來經《キヘ》のつゞまりたる言にて、來經《キヘ》は月日の經行こと也。十三卷【卅四丁】に、草枕此※[覊の馬が奇]之氣爾妻放《クサマクラコノタビノケニツマサカリ》とよめるなども、旅にして月日をふるほどを、旅の氣といへり。長くは久しく也云々。この説のごとし。さて、この句、舊訓にも、考にも、けながき妹がとよめれど、氣長《ケナガ》くは、次の句|廬利爲里計武《イホリセリケム》といふへかかる詞にて、妹へはかゝらぬ詞なれば、けながくいもがとよむべし。さてこゝの意は、隱《ナバリ》といふ所の名のごとく、かくれてや妹が月日長くその隱といふ所にいほりせりけん、このごろ久しく見え(205)ざるはと、いふ意によめるなり。
廬利爲里計武《イホリセリケム》。
本集三【十二丁】に、雷之上爾廬爲流鴨《イカツチノウヘニイホリスルカモ》云々。六【卅五丁】に何野邊爾廬將爲子等《イツレノヌベニイホリセンコラ》云々。又【卅八丁】河口之野邊爾廬而夜乃歴者《カハクチノヌベニイホリシテヨノフレバ》云々などありて、集中猶多し。旅にまれ、田家にまれ、かりそめなる家を廬とはいふ也。古へは、旅行せんにも、今のごと驛家も多からねば、たゞ野山などに、かり廬を作りて、やどれりし也。されば行幸の行宮などを、やがていほりといひし事あり。さて周禮地官書に、凡國野之道、十里有v廬、廬有2飲食1、三十里有v宿、宿有2路室1云々と見えたり。
舍人娘子《トネリノイラツメ》。從駕作歌。
舍人娘子、父祖不v可v考。舍人は氏なり。書紀天武紀に、舍人連糠蟲てふ人名見えたり。新撰姓氏録卷三十に、舍人、百濟國人利加志貴王之後也云々とあり。さて舍人は、とねりとよむべし。神樂篠歌、一本に、古乃佐々波伊津古乃佐々曾《コノサヽハイヅコノサヽゾ》、止禰利良加古之仁左加禮留止毛乎加乃佐々《トネリラガコシニサカレルトモヲカノサヽ》云々と見えたり。朝庭に仕奉る舍人の事は、下二【攷證二ノ下 丁】にいふべし。娘子はいらつめとよむべし。いらつめの、いらは、いろ也。人を親しみ愛して、いろ何々といへる、いろにて、つは助字、めは女也。娘子の子は、附たる字にて、女の名の下に、何子などかくも同じ。また集中、女郎、郎女などをも、いらつめとよめり。この事は、下【攷證二上十四丁】にいふべし。さて娘子を、いらつめとよむ事は、考別記に、娘子と書るも、氏の下にあるは、皆いらつめと訓こと也。何ぞといはゞ、古事記に【允恭】長(206)田大郎女とあるを、紀には【同紀】名形大娘皇女とかき、同記に【仁賢】春日大郎女とあるを、紀には、春日娘子と書たる類、いと多きをむかへて知ぬ。下の卷に、坂上大孃子をおほいらつめと訓も同じく、古事記には、某の郎女とあるを、紀には某の孃、又媛とも書たり.又集中に、未珠名娘子《スヱノタマナヲトメ》、眞間娘子《ママノヲトメ》、播磨娘子《ハリマノヲトメ》など、所の名の下に娘子とある類は、乎登免とよむべし。その末珠名娘子を、歌には、こしぼそのすがるをとめがとよみ、古事記に、丹波の出石の女を、伊豆志袁登賣《イヅシヲトメ》と假字にても有もて、このわかちを知ぬ。また卷二に、姫島松原見2孃子屍1、卷十三に三香(ノ)原に幸(セシ)時、得2娘子1、豐前國娘子|紐子《ヒモノコ》、其外贈2娘子1、思2娘子1などの類も、本よりをとめと訓て、右の珠名娘子よりこなたは、みな少女、處女など書とひとしく、若き女のことなり。(頭書、四下十一ウ可v考。)
61 丈夫之《マスラヲノ》。得物矢《サツヤ・トモヤ》手挿《タバサミ》。立向《タチムカヒ》。射流圓方波《イルマトカタハ》。見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
丈夫《マスラヲ》。
印本、丈を大に誤れり。今、意改。集中此誤りいと多し。
得物矢《サツヤ・トモヤ》。
舊訓、ともやとあるは誤れり。そは、仙覺抄に引たる伊勢風土記に、此歌をのせて麻須良遠能佐都夜多波佐美牟加比多知伊流夜麻度加多波麻乃佐夜氣佐《マスラヲノサツヤタバサミムカヒタチイルヤマトカタハマノサヤケサ》云々あれば、こゝの得物矢も、さつやとよむべし。本集二【四十四丁】に、丈夫之得物矢手挿立向高圓山爾《マスラヲノサツヤタバサミタチムカフカタマトヤマニ》云々。六【十四丁】に、御※[獣偏+葛]人得物矢手挾《ミカリヒトサツヤタバサミ》云々など見えたり。これらも、舊訓誤れり。さて得物矢をさつやとよむべきよしは、古事記上卷に、海佐知、山佐知とあり。この海佐知も、山佐知も、海山の物を得る事にて、佐知《サチ》は幸《サチ》なり。されば、さちや、さち弓といふべきを、ちを、つにかよはしたる也。本集(207)五【九丁】に、都流岐多智許志爾刀利波枳佐都由美乎多爾伎利物知提《ツルキタチコシニトリハキサツユミヲタニキリモチテ》云々。二十【廿八丁】に、佐都夜奴岐《サツヤヌキ》云云なども見えたり。猶集中、獵人をさつ男、さつ人などいふも、このさつ矢、さつ弓のさつと同じく、幸《サチ》にて物を得る事なり。
手挿《タバサミ》。
こは、まへに引るごとく、手挾《タバサミ》とも書り。手に持る也。挿は、廣韻に、刺入也云々とあり。挾は、儀禮郷射禮注に、方持2弦矢1曰曰v挾云々とあるにて、手に持事なるをしるべし。この語、集中猶多し。
立向《タチムカヒ》。
本集二【四十四丁】に、立向高圓山爾《タチムカフタカマドヤマニ》云々。九【三十五丁】に、入水火爾毛將入跡立向競時爾《ミツニイルヒニモイラムトタチムカヒキソヘルトキニ》云々などありで、集中猶あり。的にたちむかふなり。
射流圓方波《イルマトカタハ》。
圓方は、仙覺抄に引たる伊勢風土記に、的形《マトカタノ》浦者、此浦地形似v的、故以爲v名也、今已跡絶、成2江湖1也云々。異本延喜神名式に、伊勢國多氣郡服部|麻刀方《マトカタ》神社云々とありて、伊勢の地名なるを的形《マトカタ》といふによりて、弓射る的にいひかけ、いるまとかたとはいへる也。此歌序にて、的形《マトカタ》といはんとて、上の句はおける也。さて圓方《マドカタ》とかくは、借字にて、的形ぞ正字なる。圓とかきて、まとゝよめるは、略訓也。この例、上にも所々にいへり。思ひ合すべし。また、圓をまとゝのみもいへり。加茂保憲女集に、うまのおもてまとにしも見えねば云々とあるも圓也。又和泉式部續集に、まつりの日、あるきんだちの、的のかたを車の輪につくりたるを見て、十つらの馬ならねども君がのる車もまとに見ゆる也けり云々とあるも、的に圓(208)をいひかけたり。
見爾清潔之《ミルニサヤケシ》。
まとかたの地は、見るに清らけしと也。さやけしの、さは、上におきたる助字のさの字、さはしり、さぬる、さよばひなどのさ也。この事、上【攷證上ノ卅四丁】にいへり。やけは、あけにて明也。ありやけ、ありあけと通ずるにてしるべし。さやかといふも、さあかの意にて明也。明らかなるは、いづれ見る清《キヨ》きものなれば、明らかなる意を轉じて、清き意にも用ひし事、集中いと多し。そは清の字を、さやともさやけとも訓るにて、しるべし。本集三【廿六丁】に、能登湍河音之清左《ノトセガハオトノサヤケサ》云々などありて、集中いと多し。皆同意にて、清らかなる也。
三野蓮。名闕。入唐時。春日藏首老作歌。
三野《ミヌノ》連。
父祖も名も不v詳。拾穗抄に國史を引て、大寶元年正月、遣唐使民部卿粟田眞人朝臣、以下百六十人、乘2船五隻1、小商監從七位下中宮小進美奴連岡麻呂云々とあり。萬葉集履歴には、この文を官本とて引。僻案抄、考等には、古本傍注とて引たり。略解には、誄聚國史に見えたりと云しかど、見えざるはいかゞ。續日本紀に、大寶元年正月丁酉、粟田朝臣眞人以下遣唐使を定めたまひて、翌年五月筑紫より出船せられしかど、風波によりて渡海する事を得ずして、翌年六月唐土にわたりて、慶雲元年七月歸朝せられしよし見えたれど、美奴連岡麿をのせず。拾穗抄に、國史と引たるは、なになるにかおぼつかなし。されどしばらくこれに從ふ。さて續日本紀に、靈龜二年正月壬午、授2正六位上美努連岡麿從五位下1云々と見えたり。新撰姓氏録卷十(209)九に、美努連、角凝魂命四世孫、天川田奈命之後也云々と見えたり。名闕の二字は、後人のしるせしなり。依て小字とす。
入唐。
考別記云、大内へまゐるを、入といふにならひて、さらぬ宮などへも、あがめて入と書しとおぼしき、集に一つ二つあり。然るに、から國へゆくを、入といふは、ひがごとなり。今の京となりて、意得られしにや。遣唐使と書し時も有し。凡史式などは、から文學びし人のかけば、みだりに他の國をたふとびて、入唐、大唐など書人あり。又延喜式には、入2渤海1使、入2新羅1使としも書しかば、入に心をもつけざりし人もありけん。此集の端詞は、みだりに他國たふとぴする人の文にならひて、おのづからしか書しもの也。ともあれ、から國の王の制をもうけぬ此國なるに、みだりに他を崇る時は、民うたがひおこりて、あが天皇の御|稜威《イツ》のおとるわざぞ。遣唐使をも、停給ひしこそ、めでたけれ。しか停められしかど、かれ何をかいふ。こゝに何のたらはぬ事かある云々。
春日藏首老。
上【攷證四十三丁】に、出たり。考云、此遣唐使、大寶元年正月、命有て、五月節刀を賜りて立ぬ。老は、もと僧にて、弁記といひしを、右同年三月に、春日藏首老と姓名を賜り、追大壹に叙せられて、臣となりし事、續日本紀に見ゆ。しかれば、此歌はかの三月より五月までによみし也。仍て、これは、右の大實元年九月とあるよりまへに入べき也。次の憶良の歌も、類によりてこれにつゞけのするは、この集の例也。
(210)62 在相良《アリネヨシ》。對馬乃渡《ツシマノワタリ》。渡中爾《ワタナカニ》。幣取向而《ヌサトリムケテ》。早還許年《ハヤカヘリコネ》。
在相良《アリネヨシ》。
この語、對馬《ツシマ》へかゝる枕詞とはきこゆれど、意は解しがたし。眞淵、宣長、みな誤字ならんといはれぬ。尤誤字なるべし。されど、その説々をもあげて、予が試みにいふ事をも出せり。さて、考云、今本に在根良と書て、ありねよしと訓しは、必あるまじき事なれば、二くさの考をしつ。その一つに、百船能《モヽフネノ》とするは卷十一【新羅への使人の歌】毛母布禰乃波都流對馬能安佐治山《モヽフネノハツルツシマノアサヂヤマ》とよみ、卷十五【みぬめの浦を】百船之泊停跡《モヽフネノハツルトマリト》、また卷二に、大船乃津守之占《オホフネノツモリノウラ》などあれば也。その字も、例の草の手より相まがふべき也。今一つは、百都舟《モヽツフネ》を誤りしにや。これも、つとつゞくるは、右に同じ。されど、猶上に依べし云々。宣長云、在根良は字の誤り也。布根竟《フネハツル》の誤りならん云々。略解云、在根良は布根盡《フネハツル》の誤りにて、ふねはつるならんか云々。久老云、在嶺《アリネ》よといふ言也。諸注、誤字とするは非也、云々。予試みに考ふるに、在根の在は借字にて、荒る意にて、荒磯《アリソ》といふと同じく、荒根《アリネ》にて、根は島根《シマネ》、岩根《イハネ》などの根にて、次に對馬といへば、こゝには島をはぶきて、たゞ、ねとのみいひて、島根の事とし、良《ヨシ》は吉にて、荒たる鳥根のけしきを、よしといへるならんか。
對馬乃渡《ツシマノワタリ》。
對馬《ツシマ》は、古事記上卷に、次生2津島1、亦名謂2天之狹手依比賣《アメノサテヨリヒメ》1云々とありて、書紀天智紀に、對馬島と見え、天武紀に對馬國と見えたり。又魏志倭人傳に、狗邪韓國七千餘里、始度2一海1、千餘里至2對馬國1、云々と見えたれば、對馬の字、中國より漢土方古し。されば思ふ。中國にても、いと古くより、對馬ともかきしなるべし。それを傳へて、漢土にては書(211)しならん。渡《ワタリ》は、海にまれ、川にまれ、わたりて行く所をわたりとはいへり。古事記中卷に、經《ヘ》2浪速之渡《ナミハヤノワタリヲ》1而云々。同卷に、知波夜夫流宇遲能和多理爾《チハヤフルウヂノワタリニ》云々。本楸六【四十五丁】に、泉川渡乎遠見《イツミカハワタリヲトホミ》云々など見えたり。又こまのわたり、難波わたり、さのゝわたりなどいふは、俗言にあたりといふ言にて、この渡とは別なり。
渡中爾《ワタナカニ》。
渡《ワタ》は、海をいふ。海を、わたつみといふも、わたるといふ意にていへる事、上【攷證上ノ廿六丁】にいへるがごとし。古事記上卷に、渡《ワタル》2海中《ワタナカ》1時云々本集七【四十二丁】に、名兒乃海乎朝※[手偏+旁]來者海中爾《ナゴノウミヲアサコギクレハワタナカニ》云々など見えたり。
幣取向而《ヌサトリムケテ》。
幣は、古事記中卷に、取2國之大奴佐《クニノオホヌサ》1而云々。本集三【廿四丁】に、佐保過而寧樂乃手祭爾置幣者《サホスギテナラノタムケニオクヌサハ》、妹乎目不離相見染跡衣《イモヲメカレズアヒミシメトゾ》云々。四【廿五丁】に、千磐破神之社爾我掛師幣者將賜《チハヤフルカミノヤシロニワガカケシヌサハタハラム》云々などありて、集中猶多し。土佐日記に、夜なかばかりより、舟をいだしてこぎくる道に、たむけする所あり、かぢとりしてぬさ奉らするに云々と見えたり。又、書紀允恭紀に、玉田宿禰、則畏v有v事、以2馬一疋1授2吾襲1爲2禮幣1云々。纂疏云、幣謂2束帛1也、謂2布帛紙之類1也云々、管子國畜篇に、以2珠玉1爲2上幣1、以2黄金1爲2中幣1、以2刀布1爲2下幣1云々なども見えたり。宣長云、ぬさは神に手向る物をもいひ、又祓にいだす物をもいふ。名義は祷布佐《ネギフサ》なり。ねぎふをつゞむれば、ぬとなる。事を乞祷《コヒネ》ぐとていだすよし也。祓のぬさも、其罪穢を除清《ノゾキキヨ》め給へと、祷《ネ》ぐ意をもて出すなれば、神に奉りてねぐと、こゝろばへ一つ也。さて布佐《フサ》は、麻也。古語拾遺に、好麻所v生、故謂2之總國1、古語麻謂2之總1也、今爲2上總下總二國1とあり云々。この説のごとし。取向《トリムケ》の取《トリ》(212)は、手に物をとるのとるにて、向《ムケ》は手向《タムケ》の手を略ける也。本集十三【六丁】に、山科之石田之森之須馬神爾奴左取向而《ヤマシナノイハタノモリノスメカミニヌサトリムケテ》云々など見えたり。手向の事は、下三【攷證三上六十五丁】にいふべし。
早還許年《ハヤカヘリコネ》。
本集五【卅一丁】に、速歸坐勢《ハヤカヘリマセ》云々。八【廿丁】に、早還萬世《ハヤカヘリマセ》云々などもありて、字のごとく、早くかへりこね也。こねの、ねの文字は、下知の意にて、よといふに同じ。本集二【十八丁】に、乞通來禰《コチカヨヒコネ》云々。十【卅七丁】に、此間爾落來根《コノマニチリコネ》云々などありて、集中猶多し。
山上臣憶良。在2大唐1時。憶2本郷1歌。
山上臣憶良《ヤマノヘノオクラ》。
父祖未v詳。續日本紀云、大寶元年春正月丁酉、以2守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人1、爲2道唐執節使1云々。无位山上憶良爲2少録1云々。和銅七年春正月甲子、授2正六位下山上臣憶良從五位下1云々。靈龜二年夏四月壬申、從五位下山上臣憶良爲2伯耆守1云々。養老五年春正月庚午、詔2從五位下山上臣憶良等1、退朝令v侍2東宮1焉云々と見えたり。又本集五【六丁】に、筑前守山上憶良と見え、六【卅二丁】沈v痾自哀文に、初沈v痾已來、年月稍多、是時年七十有四、鬢髪班白、筋力〓羸、不2但年老1、復加2斯病1、諺曰、痛瘡灌v鹽、短材截v端此之謂也云々など見えたり。さて山上の氏は、姓氏録卷五に、山上朝臣、大春日朝臣同祖、天足彦國忍人命之後也、日本紀合云々とあり。山上は、坂上の例によりて、やまのへとよむべし。への字濁るべからず。邊《べ》の意にあらず。
大唐。
書紀にも、大唐とかき給ひし所多けれど、この國よりかの國をさして、大唐とかゝんこと、いかゞ。たゞ唐とのみかくべきなり。
(213)憶《オモフ》2本郷《モトツクニヲ》1。
憶は、玉篇に、意不v定往來念也云々とあり。おもふとよむべし。本郷は、考にやまとゝよめり。憶良は、藤原の京の人、藤原の京は大和なれば、やまとゝよまんもさることながら、この本郷は、唐にありて、廣く日本の地をさしていへるなれば、もとつくにとよむべし。又本集十九【九丁】に、本郷をふるさとゝもよめり。
63 去來子等《イザコドモ》。早日本邊《ハヤクヤマトヘ》。大伴乃《オホトモノ》。御津乃濱松《ミツノハママツ》。待戀奴良武《マチコヒヌラム》。
去來子等《イザコドモ》。
去來は、いざと誘ひもよほす詞也。この言、上【攷證上ノ廿一丁】にいへり。子等《コドモ》の子は、吾兄子《ワガセコ》、吾妹子《ワギモコ》、またたゞ子ともいひて、人を親しみ稱していへる事にて、子等《コドモ》はこたちといはんがごとし。童をさして、こどもといふとは別也。おの|ふ《(マヽ)》(れ?)に、附從ふ子弟僕從などをいふ。古事記中卷に、伊邪古杼母《イザコドモ》、怒毘流都美邇《ヌビルツミニ》、比流都美邇《ヒルツミニ》云々。本集三【廿丁】に、去來兒等倭部早《イザコドモヤマトヘハヤク》云々。また【四十丁】、率兒等安部而※[手偏+旁]出牟《イザコドモアヘテコギデム》云々。六【廿二丁】に、去來兒等《イザコドモ》、香椎乃滷爾《カシヒノカタニ》、白妙之袖左倍所沾而《シロタヘノソデサヘヌレテ》、朝菜採手六《アサナツミテム》云々など見えたり。
早日本《ハヤクヤマト・ハヤヒノモト》邊《ヘ》。
舊訓、はやひのもとへとあれど、僻案抄、考等に、はやくやまとへとよまれしにしたがふ。やまとは、大和の事をいへるにはあらで、日本の地をいへる也。憶良唐土にありで、はやく日本へかへらんといへる也。そのかへらんといふ言をふくめたる也。書紀
欽明紀の歌に、柯羅倶※[人偏+爾]能基能陪※[人偏+爾]陀致底《カラクニノキノヘニタチテ》、於譜磨故幡比例甫※[口+羅]須母《オホバコカ(マヽ)ヒレフラスモ》、耶魔等陛武岐底《ヤマトヘムキテ》云々とある、やまとへむきても、から國に在て、日本へむきてひれふるにて、この歌の日本に同じ。まへに引る三の倭部早《ヤマトヘハヤク》の、やまとは、大和の事にで、日本にあらず。又舊訓、はやひのもとへとあるも、(214)すつべからず。このごろ、すでに、日本とかく字につきて、ひのもとゝもいひしならん。本集三【廿八丁】に、日本之山跡國乃《ヒノモトノヤマトノクニノ》云々と見えたり。この歌は、左注に高橋連蟲麿之歌集中に出といへり。蟲麿は、天平のころの人也。また續日本後紀卷十九、興福寺僧長歌に、日本乃野馬臺乃國遠《ヒノモトノヤマトノクニヲ》云々ともあり。
大伴乃《オホトモノ》。
枕詞也。大伴《オホトモ》は、おほくの件をひきゐて、仕奉る官の名也。さてやがて、氏ともなれる也。本集三【五十九丁】に、大伴乃名負靭帶而《オホトモノナニオフユギオヒテ》云々。七【四丁】に、靱懸流伴雄廣伎大伴爾《ユキカクルトモノヲヒロキオホトモニ》云々。續日本紀、天平勝寶元年詔に、大伴佐伯宿禰波常母云久天皇朝守仕奉《オホトモサヘキノスクネハツネモイハクスメラガミカドマモリツカヘマツル》云々などありて、武官也。大伴乃御津《オホトモノミツ》とつゞくるは、御津《ミツ》の御《ミ》は、伊とかよひて、伊都《イツ》也。いつは稜威《イツ》にて、雄々《ヲヽ》しく建《タケ》き意なれば、大伴の稜威《イツ》とはつゞけし也。その伊を、御にかよはせて、御津へはかけし也。この事、くはしくは、予が冠辭考補遺にいふべし。
御津乃濱松《ミツノハママツ》。
御津は、攝津なり。古事記下卷に、載2其御船1之御鋼柏、悉投2l棄於海1、故號2其地1謂2御津前《ミツノサキ》1也云々。書紀仁賢紀に、難波御津云々。齊明紀注に、難波三津之浦云々。本集下【廿七丁】大伴乃美津能濱爾有忘貝《オホトモノミツノハマナルワスレガヒ》云々。五【卅二丁】に、大伴御津松原《オホトモノミツノマツハラ》云々などありて、集中猶いと多し。さて御津といふは、もとよりの地名にはあらじ。古しへ、難波より發船するに、多く此津より舟にのれる事も、又此津に泊れる事も、集中いと多し。されば、御《ミ》はほむる詞にて、やがて地名にもなれる也。又唐土にわたるにも、かれよりこゝにかへるにも、古しへは、この難波へかゝりし事、あまた見えたり。されば、此歌にも、いざこどもわが日本の地へ、はやくかへらん。日本の地にて、まづ船をよする所なれば、御津の濱松も、待戀ぬらんとはよめる也。(215)そは、書紀欽明紀に、或人の、大葉子《オホバコ》がから國にあるをよめる歌に、柯羅倶爾能基能陪※[人偏+爾]陀々志《カラクニノキノヘニタヽシ》、於譜磨故幡《オホバコハ》、比禮甫羅須彌喩《ヒレフラスミユ》、那※[人偏+爾]婆陛武岐底《ナニハヘムキテ》云々とあるも、難波は日本の地にて、まづ船のつく所なれば、難波へむきでひれふる也。又、推古紀に、十六年六月丙辰、客等泊2于難波津1云々とあるも、客とは唐使をいへる也。これらにても、思ひ合すべし。猶これかれの書にも見えたれど、わづらはしければこゝに略す。
待戀奴良武《マチコヒヌラム》。
濱松待《ハママツマチ》と詞をかさねていへり。濱松にさへ待戀ぬらんといへるにて、妻子など思ひやるべし。
慶雲三年丙午。秋九月。幸2于難波宮1時。志貴皇子御作歌。
續日本紀云、慶雲三年九月丙寅、行2幸難波1、冬十月還宮云々と見えたり。さて、こゝに難波宮とあるは、仁徳天皇の難波高津宮をいへるか、孝徳天皇の難波長柄豐崎宮をいへるか、今知りがたし。書紀齊明天皇六年に、幸2于難波宮1とあるも、いづれにかしりがたし。
64 葦邊行《アシヘユク》。鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》。霜零而《シモフリテ》。寒暮夕《サムキユフヘハ》。和之《ヤマトシ》所念《オモホユ・ソオモフ》。
葦邊行《アシベユク》。
本集十二【廿七丁】に、葦邊往鴨之羽音之《アシベユクカモノハオトノ》云々。十三【卅四丁】に、葦邊往鴈之翅乎《アシベユクカリノツバサヲ》云云など見えたり。たゞ鴨といはん序のみに、うちみるさまをいへるなり。
(216)鴨之羽我比爾《カモノハガヒニ》。
考云、羽交なり。背をいふ云々といはれしがごとく、羽の右左り合ふ所を、はがひといへる也。本集二【卅九丁】に、大鳥羽易乃山《オホトリ云々、十【六丁】に、春日有羽買之山《カスカナルハカヘノヤマ》云々などあるを、こゝと同語とするは、いかゞ。こゝのはがひは、羽交也。二また十などのは羽のぬけかはるといふにて、羽替也。さて、はがひといふ語、こゝより外ふるきものに見えず。後のものなれど、散木集に、しほがまのけぶりにまがふはま千鳥、おのがはがひをなれぬとやなく。夫木集十六に、あしかものはがひのしもやおきぬらん、をのへのかねもほのきこゆ也云々など見えたり。
寒暮夕《サムキユフベハ》。
暮夕の二字を、ゆふべとよまんこと、誤り也とて、考には、夕の字をはぶかれしかどいかゞ。但し、集中、暮夕の二字を、ゆふべとよめる例、外には見えざれど、古昔の二字を、いにしへとよめるにて思へば、暮夕の二字をゆふべとよまん事、うたがふべからず。この文字を添て書る事は、下【攷證三上廿二丁】に、いふべし。さて、ある人、寒はさぶきと訓べし。不怜、不樂などの字を、さぶしと訓ると、本は同じ意也といへれど、しからず。本集七【四八丁】に、美奈刀可世佐牟久布久良之《ミナトカゼサムクフクラシ》。催馬樂飛鳥井歌に、美毛比毛左牟之《ミモヒモサムシ》云々とあるにてしるべし。
和之《ヤマトシ》所念《オモホユ・ソオモフ》。
和の字をやまとゝよめる事、續紀より後は、常の事なれど、この集のころまでは、あるべしともおぼえず。後、倭と和とかよはしかければ、原本|倭之所念《ヤマトシオモホユ》とありけんを、ふと倭を和にあらためしものなるべし。書紀崇神天皇六年の紀に、和大國魂二神とあるも、類聚國史に、倭大國魂二神とあるにて、和は倭の誤りなることしらる。考云、やまとの事に、和(217)の字をかゝれたるは、奈良の朝よりこそあれ、藤原朝までは、倭の字なる事、この下の歌どもにてもしれ。しかれば、この御歌に、和をやまとゝよむは、ひがごと也。仍て考るに、家の草を夕和二字に見なして、誤りたる也。此次の歌に、家之所偲とあるに同じこゝろことばなるをも見よ云々とて、家之所念《イヘシオモホユ》と直されしかど、あまりに遠き説なり。また和の字を、たすけいはゞ、田令に、大和攝津各三十町云々と見えたるうへに、和と倭と同韻の字なれば、相通はして用ふる歟。こは心みにいふのみ。さて、所念を、舊訓、ぞおもふとよめれど、本集七【廿丁】に、山跡之所念《ヤマトシオモホユ》云々、また、【廿二丁】敷布所念《シクシ(マヽ)オモホユ》云々など猶あまたあるにても、おもほゆとよまんこと明らけし。頭書、日本琴五ノ十一オ、七ノ廿二オ、倭琴七ノ十ウ、和琴十六ノ廿三オ。)
長皇子御歌。
65 霞打《アラレウツ》。安良禮松原《アラレマツハラ》。住吉之《スミノエノ》。弟日娘與《オトヒヲトメト》。見禮當不飽香聞《ミレトアカヌカモ》。
霞《アラレ》打《ウツ・フル》。
あられうつあられと、詞をかさねたる枕詞なり。舊訓、あられふるとよめれど、字のままにあられうつとよむべき也。尤、集中、あられうつとよめるは、こゝばかりなれど、古事記下卷に、佐々婆爾宇都夜阿良禮能多志陀志爾《サヽハニウツヤアラレノタシタシニ》云々などあるにても、あられうつとよむべきをしるべし。霰の、物をうつやうにふれるをいふなり。
安良禮松原《アラレマツバラ》。
考云、紀に【神功】烏智簡多能阿羅々摩菟麼邏《ヲチカタノアラヽマツバラ》、摩菟麼邏珥和多利喩祇※[氏/一]《マツバラニワタリユキテ》云々とあるは、山城の宇治川の彼方《ヲチ》に、あら/\と立たる松原のこと、こゝも住の江(218)の松原の疎々《アラ/\》と立たるさま也。あら/\を略きて、あらゝといふは、うら/\をうらゝ、つらつらをつらゝてふ類也云々といはれつるがごとく、あら/\と立たる松原也。もとはあらゝ松原なるを、良を禮に通はして、あられ松原とはいへる也。これを代匠記には、地名とせられしかど、誤り也。
住吉之《スミノエノ》。
考云、攝津國住吉郡也。住吉を和名抄にも、須三與之とあるは、そのころにはすでに誤りし也。奈良朝までは、假字には、須美乃要《スミノエ》とのみありて、吉字も古しへ多くはえといひしを、いかで古しへの事をたれもわすれにけん。近江の日吉も、古事記には日|枝《エ》と書、すなはち比えの山の神なれば、ひえなるを、後にひよしといふも、右と同じさまのひがごとぞ云云といはれつるがごとく、住吉はすみのえ、日吉はひえなるを、吉の字をよみ誤りて、中古よりはすみよし、日よしなどもいへり。されど、古今集より先は、この誤りなし。古今集雜上に、忠峯、すみよしとあまはつぐともながゐすな、人わすれ草おふといふ也云々。土佐日記に、すみよしのわたりをこぎゆく云々など見えたり。
弟日娘與《オトヒヲトメト》。
書紀賢宗紀云、倭者彼々茅原淺茅原弟日僕是也《ヤマトハソヽチハラアサチハラオトヒヤツコラマコレナリ》云々とある、弟日は兄弟のことをのたまふときこえたり。すべて、弟《オト》といふは、季子《スエノコ》の事をいふをもとにて、季子といふものは、父母にことに愛せらるゝものなれば、かならず季子ならねど、たゞ愛しうつくしみていふときも、弟何々といふことゝ見えたり。又それを轉じて、自ら名にもつきなどもせし也。古事記上卷に、淤登多那婆多能宇那賀世流《オトタナハタノウナカセル》云々とあるも、弟棚機《オトタナハタ》なり。また弟比賣命、弟橘比賣命などいふ御名の弟も、おなじ。さて、弟日何々といふ日は、そへたる字なし(り?)。そは(219)肥前國風土記に、弟日姫子といふ女見えたり。それをよめる歌には、意登比賣能古《オトヒメノコ》とあるにて、日はそへたる字なることしらる。弟日娘與の、ともじは、ともにといふ意なり。この事、下【攷證四上四十三丁】にいへり。
太上天皇。幸2于難波宮1時歌。
太上天皇。
太上天皇は、持統天皇を申す。考云、この下、五首も、右の大寶元年とあるより前に入べき事、かの美野連云々のごとし。かくて、この太上天皇はおりゐまして六年、大寶二年の十二月崩給ひき。然るを、右に慶雲三年と標したる下に載べきにあらず。是も亂れ本を、仙覺が校合せし時、よく正さゞるものなり。
幸2于難波宮。
この御幸の事、國史に見えず、續日本紀文武紀に、三年春正月癸未、幸2難波宮1云々とあり。これと同じ度に、御幸もありしか。可v考。
66 大伴乃《オホトモノ》。高師能濱乃《タカシノハマノ》。松之根乎《マツカネヲ》。枕宿杼《マキテシヌレド・マクラネヌトカ》。家之《イヘシ》所偲《シヌバ・シノバ》由《ユ》。
大伴乃。
枕詞なれば、くはしくは冠辭考にゆづれり。高師の濱とつゞくるは、上【攷證五十二丁】にもいへるがごとく、大伴は、雄々《ヲヽ》しく建《タケ》き氏なれば、大伴の建《タケ》しといふを、けをかにはたらかして、大伴乃高師とはつゞけしなり。
(220)高師能濱《タカシノハマ》。
和泉國大鳥郡なり。書紀持統紀に、河内國大鳥那高脚海と見えて、もとは河内國なりしかど、續日本紀に、靈龜二年春三月癸卯、割2河内國和泉日根兩郡1、令v供2珍奴宮1、夏四月甲子、割2大鳥和泉日根三郡1、始置2和泉監1焉云々。天平十二年八月甲述、和泉監并2河内國1焉云々。天平寶字元年五月乙卯、其能登安房和泉等國、依v舊分立云々など見ゆるがごとく、大鳥、和泉、日根の三部をわけて、和泉國をたてられしかば、今は和泉國なり。書紀垂仁紀に、三十五年秋九月、遣2五十瓊敷命于河内國1、作2高石池茅渟池1云々。延喜神名式に、和泉國大鳥郡高石神社云々。古今集雜上に、貫之、おきつ浪たかしのはまのはま松の名にこそ君をまちわたりつれ云々などあるも、みな當所なり。さるを、八雲御抄には、高師の濱、攝津としるし給へど、そはこの歌のはじめに、幸う于難波宮1時歌とあるにより給へる誤り也。難波宮に、御幸のをりの歌なれど、和泉國も隣國なれば、その序に御行もあり、又は御供の人などの、わたくしにゆきてよみなどもせし歌なるべし。この集、伊勢國行幸に、志摩三河などの歌もあり、三河國行幸に、遠江國の歌などもあるにて、この高師濱も、攝津にかぎらざるをしるべし。
枕《マキテシ》宿杼《ヌレド・ネヌトカ》。
この三字、舊訓、まくらねぬとかと訓るは誤れり。考に、まきてしぬれどゝよまれしに、しばらくしたがふ。宣長は、杼は夜の字の誤り也。松がねを枕にしてぬる夜は、物かなしくして、家を思ふ也。考に、まきてしぬれどとよみて、かく面白き濱の松がねを枕とまぎれてぬれど、猶故郷の妹が手枕は、戀しと也といはれつれど、この説いかゞ。面白き濱なればとて、松がねをまきてねんには、何の面白き心あらんといへり。この説はさることなれど、杼を夜に作りし本も見あたらねば、しばらく考にしたがへり。さて、まきてとは、字のごとく、枕にす(221)ることにて、纏《マト》ふ意也。古事記上卷に、多麻傳佐斯麻伎毛々那賀爾伊波那佐牟遠《タマテサシマキモヽナガニイハナサムヲ》云々とあるも、玉手を枕とする也。本集十【卅丁】に、君之手毛未枕者《キミカテモイマダマカネバ》云々。十一【廿五丁】に、枕手左宿座《マキテサネマセ》云々などあるを見ても思ふべし。
家之《イヘシ》所偲《シヌハ・シノハ》由《ユ》。
家之《イヘシ》の、し文字は、助字。所偲由を、舊訓しのばゆとあれど、しぬばゆとよむべし。集中は、もとより、古書みなしぬぶとかけり。偲は、假字玉篇に、したふともしのぶともよめり。すなはちしたふ意也。ゆは、るにかよふ言にて、しのぶるといふ意也。このゆ文字、集中いと多し。ねのみしなかゆ、きぬにすらゆな、わすらゆなどの類、皆るの意なり。
右一首。置始東人。
父祖官位不v可v考。置始の氏は、新撰姓氏録卷十二に、大椋置始瀲、縣犬貝同祖、河居大都命之後也云々と見えたり。書紀續紀等に、置始氏は皆瀲の姓なり。
67 旅爾之而《タヒニシテ》。物《モノ》戀《コフ・コヒ》之伎乃《シギノ》。鳴事毛《ナクコトモ》。不所聞有世者《キコエサリセハ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》。
旅爾之而《タヒニシテ》。
旅にてといふ意にて、之《シ》文字心なくそへたるのみ也。本集三【卅六丁】に、鴨曾鳴成山影爾之※[氏/一]《カモソナクナルヤマカケニシテ》云々。同【五十三丁】君無二四天《キミナシニシテ》云々などの類、集中猶多し。
(222)物戀之伎乃《モノコヒシキノ》。
舊訓、ものこひしきのとあるにつきて、考にも、※[(令/酉)+隹]《シキ》にいひかけたりといはれつ。さて、略解に、しぎのなくを、物戀てなくにいひなして、さてそのしぎのこゑをきけば、せめて旅の心をなぐさむといふ意也。ものこひしぎと訓たれど、かゝるいひかけざま、集中例なければ、ひがごとなるよし、宣長はいへりとて、ものこふしぎとよみ直しゝかど、集中云かけなしとはいかゞ。この卷【廿八丁】に、吾妹子乎早見濱風倭有吾松椿不吹有勿勤云々とあるは、一首に二所まで云ひかけあり。されば、こゝももの戀しきを、※[(令/酉)+鳥]に云かけし也。和名抄羽族名に、※[龍/鳥]玉扁云※[龍/鳥]【音籠楊氏抄云之木一云田鳥】野鳥也云々と見えたり。(頭書、三【十九丁】に客爲而物戀敷爾《タヒニシテモノコヒシキニ》云々。)
鳴事毛《ナクコトモ》。不所聞有世者《キコエサリセハ》。孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》。
旅といふものは、よろづものがなしきものなるを、せめて物戀などするしぎのなくこゑなどに、なぐさみて、うさをもわするゝを、そのこゑさへきこえざりせば、故郷をこひて、ほと/\しなま(し脱?)をとよめるなり。
右一首。高安大島。
父祖官位不v可v考。書紀天武紀、持統紀などに、大島といふ人見えたれど、姓氏ことなれば、別人なるべし。新撰姓氏録に、高安造、高安漢人、高安忌寸など見え、本集十九に、高安倉人種麿と見えたり。この大島は、いづれの姓の人ならん。可v考。さて、こゝを目録には、作主不詳歌、高安大島とせり。いづれをか是とせん。いとまぎらはしきかきざまなり。
(223)68 大伴乃《オホトモノ》。美津能濱《ミツノハマ》爾有《ナル・ニアル》。忘貝《ワスレカヒ》。家《イヘ》爾有《ナル・ニアル》妹乎《イモヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
大伴乃《オホトモノ》。
枕詞なり。上【攷證五十二丁】にいへり。
美津能濱《ミツノハマ》爾有《ナル・ニアル》。
美津の濱、攝津也。これも上【攷證五十二丁】にいへり。爾有の二字、舊訓に、あるとよめれど、にあり約、なゝれば、なるとよむべし。この事、上【攷證上ノ廿五丁】にもいへり。
忘貝《ワスレカヒ》。
わすれ貝とて、一種の貝あるにあらず。うつせ貝を、みぎはに浪のよせきて、わすれてのこしかへりぬといふ意にて、それをもとにて戀わすれ貝、人わすれ貝など、物によそへいへり。本集六【廿三丁】に、拾而將去戀忘貝《ヒロヒテユカムコヒワスレカヒ》云々。七【十二丁】に、住吉之岸因云戀忌貝《スミノエノキシニヨルトフコヒワスレカヒ》云々。十五【十四丁】に、和須禮我比與世伎弖於家禮於伎都之良奈美《ワスレカヒヨセキテオケレオキツシラナミ》云々などありて、猶いと多し。又本集十二【廿七丁】に、海處女潜取云忘貝《アマヲトメカツキトルトフワスレカヒ》、代二毛不忘妹之光儀者《ヨニモワスレシイモカスカタハ》云々とあるを見れば、海底にある貝をかづきとるごとく聞えて、わすれ貝の意とはたがへれど、こは貝といふからに、かづきとるともいひて歌をなせるもの也。さてこの歌、こゝまではわすれて思へやといふための序歌也。原本、貝を具に誤る。今意改。
家《イヘ》爾有《ナル・ニアル》妹乎《イモヲ》。
これも舊訓誤れり、いへなるいもをとよむべし。
(224)忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。
おもへやの、やは、うらへ意のかへるてにをはにて、家なる妹を、わすれておもへや、わすれはせじといふ意也。本集十一【廿六丁】に、君之弓食之將絶跡念甕屋《キミカユツラノタエムトオモヘヤ》云々。十五【七丁】に比登比母伊毛乎和須禮弖於毛倍也《ヒトヒモイモヲワスレテオモヘヤ》云々などある類也。猶いと多し。
右一首。身入部王。
父祖不v可v考。むとべの王とよむべし。身の字も、武の假字に用ひし事多し。書紀齊明紀に、田身嶺【田身山名此云2大務1】云々。また古事記に、正身を、むざねとよみ、延喜諸陵式に、身狹《ムサ》桃花鳥坂上陵云々などあるにても、身をむとよめるをしるべし。されば、六人部王ともかけり。續日本紀に、和銅三年春正月甲子、授2無位六人部王從四位下1云々。養老五年春正月壬子、授2從四位下六人部王從四位上1云々。神龜元年二月壬子、授2正四位下六人部王正四位上1云々。天平元年春正月壬寅正四位上六人部王卒云々と見えたり。
69 草枕《クサマクラ》。客去君跡《タヒユクキミト》。知麻世婆《シラマセバ》。岸之埴布爾《キシノハニフニ》。仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
草枕《クサマクラ》。
枕詞也。上【攷證上ノ十一丁】にいへり。
客去君跡《タヒユクキミト》。
左注に、清江娘子《スミノエノヲトメ》進2長皇子1とありて、こゝに君とさせるは、長皇子也。清江《スミノエ》娘子は、まへの長皇子の御歌に、住吉之弟日娘《スミノエノオトヒヲトメ》とよみ給へる同人か。可v考。さて、(225)長皇子御供にて、くたらせ給ひて、こゝも旅なるに、また客去君とよめるを、うたがふ人あれど、住る所より、こと所にゆきて、歸るにも、いづれ旅をせでは、京にもかへられぬもの故、その道のほどをさして、旅とはいへる也。この例、集中、これかれあるが中に、四【廿四丁】の、太宰少式石川足人朝臣遷任、餞2于筑前國蘆城驛家1歌に、天地之神毛助與《アメツチノカミモタスケヨ》、草枕※[覊の馬が奇]行君之至家左右《クサマタラタビユクキミカイヘニイタルマテ》云云などあるにても、往にもかへるにも旅といへることをしるべし。
知麻世婆《シラマセバ》。
しりましかば也。宣長は、玉の緒に、ませばは、ましせばの約まりたるなりといはれしかど、ましせばといふ言あるべしともおぼえず。誤り也。こは、ましかばの、しかを約むれば、さとなるを、せにかよはして、ませばとはいへる也。さてませばといへる下は、必らず、ましといへり。さて下にましといはざる歌、集中にたゞ一首あり。本集十五【卅二丁】に、可久婆可里古非牟等可禰弖之艮末世婆《カクハカリコヒムトカネテシラマセバ》、伊毛乎婆美受曾安流倍久安里家留《イモヲハミスソアルヘクアリケル》云々とあるのみ也。猶くはしくは、玉緒につきて見るべし。
岸之埴布爾《キシノハニフニ》。
岸は、住の江の岸也。埴は、和名抄塵土類に、埴稱名云土黄而細密曰v埴【常職反和名波爾】云々と見え、新撰字鏡に、埴【市力反黏土也波爾】云々など見えたり。古事記に、赤土、本集に赤土、黄土などかけり。布《フ》は生《フ》也。其もの多くある所を生《フ》といふ。埴生《ハニフ》は、埴の多くある所といふ事也。淺茅生《アサヂフ》、蓬生《ヨモギフ》、篠生《サヽフ》、芝生《シバフ》、園生《ソノフ》などいへるも、たゞ其ものゝ生《オヒ》たるをいふのみにあらず、其のものゝ多く生《オヒ》てある所といふ事也。本集十一【卅一丁】に、櫻生乃苧原之下草《サクラフノヲフノシタクサ》云々。十二【廿三丁】に、淺茅原茅生丹足蹈云々などありて、原の字をふとよめるも、其ものゝ多くある所と(226)いふ意也。さてはにふは、本集七【十二丁】に、住吉之岸之黄土於萬世見《スミノエノキシノハニフヲヨロツヨニミム》云々、など見えたり。猶次に多くあげたり。また十一【卅一丁】に、彼方之赤土少屋爾《ヲチカタノハニフノコヤニ》、※[雨/脉]霖零《コサメフリ》、床共所沾《トコサヘヌレヌ》、於身副我妹《ミニソヘワキモ》云々ともあるは、埴《ハニ》のうるほひたる土多かる所《(マヽ)》小屋といへるなり。
仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》。
にほはさましをとは、埴《ハニ》の色に、君が衣をにほはさましものをといへる也。色のうるはしきを、にほふとはいへり。本集上【十四丁】に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘルイモヲ》云々。同【廿五丁】引馬野爾仁保布榛原《ヒクマヌニニホフハリハラ》、入亂衣爾保波勢多鼻能知師爾《イリミタレコロモニホハセタヒノシルシニ》云々などありて、集中猶いと多し。さて、埴は、まへにもいへるがごとく、赤土、黄土などかきて、色あることはもとよりなれば、その色を衣につけて、旅ゆく君が衣を、にほはさましものをといへるにて、旅には摺衣を、もはらきるものなれば、旅の具にせんとはよめる也。埴《ハニ》を衣につくる事は、本集六【十五丁】に、住吉之岸黄土粉二寶比天由香名《スミノエノキシノハニフニニホヒテユカナ》云々。七【卅一丁】に、山跡之宇陀乃眞赤土左丹著者《ヤマトノウダノマハニノサニツカハ》云々。十一【卅五丁】に、三津之黄土色出而《ミツノハニフノイロニイデヽ》云々などあるがごとし。皆、黄土にふれて、その色のうつりそまるをいへり。(頭書、古事記に丹摺とあるも丹土にすれる也。)
右一首。清江《スミノエノ》娘子。進2長皇子1。姓氏未詳。
清江《スミノエノ》娘子、何人か、不v可v考。まへの長皇子の御歌に、住吉之弟日娘子《スミノエノオトヒヲトメ》とよみ給へると、同人か。可v考。清江は、住吉《スミノエ》なり。本集三【二十三丁】に、清江乃木笶松原《スミノエノキシノマツハラ》云々とあるにても、おもふべし。姓(227)氏未詳の四字、印本大字とす。今意改して小字とす。考別記云、右に長皇子の、住吉之弟日娘子とよみ給ひし、同じ娘子と思ひて、この注はなせるにや。こゝは亂れて、時代の前しりへに成たるよし、考にいへるがごとくなれば、是を大寶元年の幸としても、その後、慶雲三年の幸までは、六とせ經べきを、同じ娘子の、猶ありて、同じ皇子にめされんことおぼつかなし。注はおしはかりのわざか。
太上天皇。幸2于吉野宮1時。高市連黒人作歌。
太上天皇。
持統天皇を申す。考云、紀に大寶元年八月、吉野の幸の事見ゆれど、其度の歌とのみも定めがたし。此天皇、太上と申せしより、大寶元年の前、四年の間に、度度幸有つらんと思へば也云々。
高市黒人。
上【攷證一丁】にいへり。
70 倭爾者《ヤマトニハ》。鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。呼兒鳥《ヨフコトリ》。象乃中山《キサノナカヤマ》。呼曾越奈流《ヨヒソコユナル》。
倭爾者《ヤマトニハ》。
端詞に、幸2于吉野宮1云々とある、吉野も、大和國吉野郡、この歌によめる、象乃中山《キサノナカヤマ》も、同郡也。かく同じ大和國の中にして、ことさらに、倭《ヤマト》にはなきてかくらん(228)とよめるは疑はしきに似たれど、こゝに倭爾者《ヤマトニハ》とさせるは、大和國山邊郡大和郷といへるなるべし。大和一國を、やまとゝいへるも、この大和郷の郷名を、國中におほせしなるべし。そは考別記に、吾友なりし藤原常香てふ人は、大和國山邊郡大和郷は、古へ名高き郷也。【やまとの郷を、和名抄に於保夜末止とあるは、今京このかたの唱へか。紀などにはたゞ、夜萬登とのみ、其郷をいひたり。又同抄に、この郷を、城下郡に入しはいかに。山邊と城下とは、入交る故に、後にさは成しものと土人もいへり。大和神社は、式にも山邊郡に入たり。】この郷の名のひろまりて、一國の名となりつらん。諸の國に類ひありといひつ。眞淵考るに、こはたやすくして、よし多し。まづ駿河國に駿河郡駿河郷あるがごとく、出雲國その外にもこの類ひあり。又郡は他名《アダシナ》にて、國と郷の名の同きに、其郷より國の名となりぬるも見ゆ。後に國郡建らるゝにも、和泉、安房、加賀、其外郡名を、國の名とし、郷の名を郡の名とし給へる也。かくて、大和郷の事、神武天皇紀の定v功給ふ條に、道臣命を始めて、共にやまとの國内《クヌチ》の所々を賜れるが中に、珍彦《ウツヒコ》をば、爲2倭國造1とあり、釼根《ツルキネ》者爲2葛城國造1ともありて、葛城もとより同じ國内《クヌチ》なれば、倭は一國をいふならず、山邊郡の郷の事也。又崇神天皇紀に、市磯長尾市《イチシノナガヲチヲ》爲d祭2倭國魂神1之主uてふも、山邊郡大和に坐《マス》神を祭る也。又仁徳天皇紀に、皇后【磐之姫命】難波より葛城高宮へおはしぬる時の御歌に、山しろ川を川のぼり吾のぼれば、青によしならを過、鳥佗低夜莽苔烏輸疑《ヲダテヤマトヲスギ》、わが見がほし國は、かづらぎ高みやとよみ給ふ葛城へは、多くのさと/”\を經るに、たゞ奈良と夜麻登をのたまへるは、中にも大名《オホナ》なるをもて擧給ひしものなり。さて、その大名なるよしは、このまきの藤原御井歌に、日本乃青香具山といひ、又幸2吉野宮1時の歌に、倭《ヤマト》にはなきてかくらん呼子鳥《ヨフコトリ》象《キサ》の中山《ナカヤマ》喚《ヨヒ》ぞこゆなるといふも、共に大和の國内にして、さらにやまとゝいふからは、かく山邊郡のやまとを、隣郡の藤原郡あたりまでも、冠らせいひなれし事しるべし。かく意得ずば、(229)この二首のやまとてふ言を、何とかいはん。その頃は、攝津國の難波は、神名式によるに、もと東生郡の中の一つの名なるを、西生郡、住吉郡などかけて、難波ともいひ【卷十九に、難波にくだり住吉の御津に船のりとよみて、御津はもと住吉郡なるを、難波のみつといひならひ、西生郡の味原宮を、難波宮ともいへるは、難波は大名なるゆゑ也。】近江國の篠浪てふは、志賀郡の中の一つの名なるを、其郡の所々にひろく冠らせいひて、難波國、さゞなみの國など、古へいひしも、皆|大名《オホナ》なれば也。諸國にもあり、引むかへて見よ。然れば、大和國の名は、【古へ天皇專ら大和國に都し給へる故に、大和は大八洲の總名のごとくさへ、なりひろごりたり。かくて後には、日本の字をもやまとに書つ。然るを、立かへり大和一國をいふ所にも、日本とかきまして、かの郷をいふ所にも日本と書しは、餘りたる行かへりごとゝまづは見ゆれど、字は假初とする故にかゝはらず。】この郷名よりはじまれりとするこそ、ゆゑよし多けれ。かつ、諸の國も國魂《クニタマノ》神の坐《マス》所を本郷とすとおぼし。その中に、尾張國中島郡に、尾張大國|靈《ミタマ》神社、遠江國磐田郡に、淡海國玉神社、能登國能登郡に、能登|生國玉比古《イククニタマヒコノ》神社などあり。大和も、右にいふがごとし。難波の同東生郡に、難波|生國々魂《イククニクニタマ》神社のおはすも、これなり。【この東生、西生と郡を分しは、後也。本は生國てふ也。其後ひがしなり、にしなりといふは俗のわざぞ。】云々といはれつるがごとし。
鳴而歟來良武《ナキテカクラム》。
大和郷には、今|呼子鳥《ヨブコトリ》の鳴てか來るらん。今この象の中山をよぶこ鳥のよびつゝこえゆくよと也。これをだに都のたよりといふも旅の情也。
呼兒鳥《ヨブコトリ》。
呼兒鳥は、漢名未v詳。説々さだかならざれど、予は眞淵の説にしたがはんとす。さて、諸書に見えたる所と、眞淵の説をのみあぐ。和名抄羽族名云、萬葉集云喚子鳥【其讀與不古止里】云々。本集八【十四丁】に、神奈備乃伊波瀬乃杜之喚子鳥《カミナヒノイハセノモリノヨブコトリ》、痛莫鳴吾戀益《イタクナナキソワカコヒマサル》云々。九【十三丁】に、瀧上乃三船山從秋津邊來鳴度者誰喚兒鳥《タキノヘノミフネノヤマユアキツベニキナキワタルハタレヨブコトリ》云々。十【六丁】に、吾瀬子乎莫越山能喚子鳥君喚變瀬夜之不深刀爾《ワカセコヲナコセノヤマノヨフコトリキミヨヒカヘセヨノフケヌトニ》云々。又|春日有羽買之山從《カスカナルハカヒノヤマユ》、猿帆之内敝鳴往成者敦喚子鳥《サホノウチヘナキユクナルハタレヨフコトリ》云々。又|不答爾勿喚動曾《コタヘヌニナヨヒトヨメソ》、喚子鳥《ユフコトリ》、佐保乃山邊乎上下二《サホノヤマヘヲノホリクダリニ》云々。又【七丁】朝霧爾之怒々所沾而《アサキリニシヌヽヌニヌレテ》、喚子鳥《ヨフコトリ》、三船山從喧渡所見《ミフネノヤマユヨヒワタルミユ》云々。八【十九丁】(230)春雜歌に、尋常聞者苦寸喚子鳥《ヨノツネニキケハクルシキヨフコトリ》、音奈都炊時庭成奴《コエナツカシキトキニハナリヌ》云々。古今集春上に、よみ人しらず、をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこ鳥かな云々、後撰集春中に、よぶこ鳥をきゝてとなりの家におくり侍りける、春道つらき、わがやどの花になゝきそよぶこ鳥よぶかひありて君もこなくに云々。後拾遺春下に、法輪に道命法師の侍りける、とぶらひにまかりわたる夜に、よぶこ鳥のなき侍りければよめる、法圓法師、われひとりきくものならばよぶこ鳥二聲まではなかせざらまし云々。康資王母家集に、物思ひみだれるころ、よぶこ鳥のなくを、世の中をなぞやといふもよぶこ鳥わがなくこゑをこたふとやきく云々などあり。猶諸書に多かれど、うるさければはぶきつ。古今集餘材抄に、或抄裏書を引て、東野州古今傳受、箱内切紙説、呼子鳥はかつほう/\となく鳥の事也云々と見えたり。考別記云、この鳥は、集に專ら春夏よめり。そが中に、卷十二に坂上郎女の、世の常に聞はくるしき喚子鳥音なつかしき時にはなりぬとよめろは、三月一日佐保宅にてよめるとしるしつ。げに山の木ずゑ、やう/\青みたち、霞のけはひもたゞならぬに、これが物ふかく鳴たるは、なつかしくもあはれにも、ものに似ずおぼゆ。それより五月雨るゝころまでも、ことにあはれと聞ゆめり。さてなく聲の、ものをよぶに似たれば、よぶ子鳥といひ、又そのこゑ、かほう/\と聞ゆれば、集には容鳥ともよみたり。ゐ中人の、かつぽうどりといふ、即これ也。かんこ鳥てふも、喚子息のよこなはり言也。同じ鳥を、さま/”\に名づくるは、常の事ぞ。この鳥、萬葉に多く出て、何の疑もなきに、後の世人は、古今集の一つを守りて、ひがごといふめり。こはいづこの山|方《ベ》にもあれど、下つふさの國にては、何とかや藥にすとて、とれるを見しに、凡は鳩に似て、かしらより尾かけて、うす黒也。はらは白きに、いさゝか赤き氣あり(231)て、すゞみ鷹のはらざまなるかた有。くちばしは、鳩のごとくして、少しくながく、うす黒し。足はうす赤にて、はとよりも高し云々。(頭書、布穀の事)
象乃中山《キサノナカヤマ》。
大和志は、吉野郡象山喜佐谷村上方云々と見えたり。本集三【廿七丁】幸2吉野離宮1時、大伴卿の歌に、象乃小河《キサノヲカハ》云々。六【十三丁】に、三吉野乃象山際乃《ミヨシヌノキサヤマノマノ》云々とよめり。象は和名抄毛群名に、四聲字苑云象【祥兩反上聲之重字亦作v象和名岐佐】云々とありて、きさとよまんこと、論なし。さて中山としもいへるは、象《キサ》は其地の地名にて、その象《キサ》の地の中にある山といへる意也。書紀天武紀に、伊賀中山あり、又みをの中山、みをの山、吉備の中山、きびのを山などいへるにてもおもふべし。
呼曾越奈流《ヨヒソコユナル》。
呼子鳥と名付るからに、其こゑをも物をよぶやうに聞なして、今象の中山をよびつゝこえゆけば、大和の郷の方にはなきでか來るらんとなり。
大行天皇。幸2于難波宮1時歌。
大行天皇は、こゝには文武天皇を申奉る。天皇崩じまして、いまだ御謚を奉らぬほどを、大行天皇とは申奉る也。書紀持統天皇三年紀に、大行天皇と見えたり。風俗通卷 云、天子新崩、未v有2謚號1、故總2其名1、曰2大行皇帝1也云々。韻會引2漢書音義1云、禮有2大行人小行人1、主2謚號1、官韋昭曰、大行者不v在之辭、天子崩未v有2謚號1、故稱2大行1云々と見えたり。考云、こは文武天皇をさし奉る也。此崩まして、いまだ御謚を奉らぬ間に、前にありし幸の度の歌などもを傳へ聞し人、私の歌集に大行云々、しるしおきしを、後人の見てこゝの注とせしもの也。されば、此卷な(232)どに、大行と書べきにあらず、注なる事しるべし云々。考別記云、大行とは、天皇崩まして、いまだ御謚奉らぬ間に、申奉る事なれば、大行の幸といふ言はなき事也。然るを、こゝに慶雲三年と標せし條に、大行天皇幸2難波1とあるは、同四年六月天皇【文武】崩まして、十二月に御謚奉りたり。この六月より十一月までの間に、前年の幸の時の歌を傳へ聞たる人、私の歌集に大行云々としるし載しならん。さて其歌集を、この萬葉のうら書にしつるを、今本には表へ出して、大字にしも書加へし故に、かくことわりもなくは成しなりけり。こはとまれかくまれ、本文のならぬ事明らかなれば、今度の考には、小字にしるして分てり。これが次に、大行天皇幸2吉野1とあるも、右に准らへてしるべし云々。さてこゝより下五首を、裏書の歌の集中に亂れ入し也とて、改めて小字とせしは誤り也。そは因幡國なる、伊福吉部臣徳足比賣墓版銘に、藤原大宮御宇大行天皇御世、慶雲四年云々とありて、和銅三年十一月としるせり。これに大行天皇とあるも、文武天皇をさし奉れり。文武天皇崩じまして、御謚を奉りて三年をへて、猶大行天皇とし申せしを思へば、このころの人は、大行天皇とは先帝といふことのごとく心得て、かけりとおぼし。さればこの集にも、もとより大行天皇とはしるしゝならん。これこの集の本よりの誤りなり。
71 倭戀《ヤマトコヒ》。寐之《イノ》不所宿《ネラエヌ・ネラレヌ》爾《ニ》。情無《コヽロナク》。此渚崎爾《コノスノサキニ》。多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》。
倭戀《ヤマトコヒ》。
難波の幸の御ともにて、かの地にいたれど、故郷の大和をこふるなり。
(233)寐之《イノ》不所宿《ネラエヌ・ネラレヌ》爾《ニ》。
舊訓、いのねられぬにとあれど、いのねらえぬにとよむべし。本集十五【二十丁】に、伊母乎於毛比伊能禰良延奴爾《イモヲオモヒイノネラエヌニ》云々。又【廿二丁】欲乎奈我美伊能年良延奴爾《ヨヲナガミイノネラエヌニ》云々。又【廿三丁】伊能禰良要奴毛比等里奴禮婆可《イノネラエヌモヒトリヌレハカ》云々などあるにても思ふべし。ねらえぬの、えは、れの字にかよふ、えにて、本集五【十丁に】、可久由既婆比等爾伊等波延《カクユケハヒトニイトハエ》、可久由既婆比等爾邇久麻延《カクユケハヒトニニクマエ》云々。又【廿丁】美流爾之良延奴有麻比等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》云々。又【廿六丁】に、美夜故能提夫利和周良延爾家利《ミヤコノテフリワスラエニケリ》云々などある、みな同じ。集中多し。故郷の倭《ヤマト》の戀しさに、ねる事もねられぬなり。
此渚崎爾《コノスノサキニ》。
渚字は、知名抄にも、奈木左とよみて、今もしかなれど、集中|洲《ス》に用ひたり。本集六【卅丁】に、奧渚爾鳴成鶴乃《オキツスニナクナルタツノ》云々。十九【四十七丁】に、河渚爾母雪波布禮々之《カハスニモユキハフレヽシ》云々など見えたり。爾雅釋水に、小洲曰v渚云々とあるにて、すとよまん事論なし。
多津鳴倍思哉《タツナクベシヤ》。
多津は鶴也。和名抄羽族名に、唐韻云※[零+鳥]【音零楊氏抄云多豆今按倭俗謂v鶴爲2葦鶴1是也】鶴別名也云々と見えて、古事記中卷には、鵠をよめり。本集三【十九丁】にも、鵠をよめり。鵠《クヾヒ》、鸛《オホトリ》などの類をも、おしなべて、たづとはいふなるべし。さて、鳴倍思哉《ナクベシヤ》の、やは、うらへ意のかへるやにて、倭をこひてねるにもねられぬを、をりしも、この洲のさきに、鶴のなくべしや、なく事はあらじをといへる意なり。
右一首。忍坂部《オサカベ》乙麿。
(234)忍坂部乙麿、父祖官位不v可v考。忍坂部の氏は、古事記に刑部《オサカベ》、書紀に忍壁《オサカベノ》連、押坂部《オサカヘノ》史、刑部造などかけり。たゞ文字をいろ/\にかけるのみ。皆その本は、同じ。さて舊訓、おしさかべとあれど、おさかべとよむべし。そは古事記中卷に、忍坂大室《オサカノオホムロ》とあるを、歌には意佐加能意富牟廬夜爾《オサカノオホムロヤニ》云々とかき、和名抄郷名に、大和國城上郡忍坂を、於佐加とよめるにてもおさかべとよむべきをしるべし。姓氏録には刑部とのみかけり。
72 玉藻苅《タマモカル》。奧敝波不榜《オキヘハコカシ》。敷妙之《シキタヘノ》。枕之邊《マクラノアタリ》。忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
玉藻苅《タマモカル》。
枕詞也。意は明らけし。玉藻《タマモ》は、海には、いづこにも生るもの故に、奧《イキ》ともつゞけ、
本集三【十五丁】に、珠藻苅敏馬乎過《タマモカルミヌメヲスキテ》云々。六【十八丁】に、玉藻苅辛荷乃島爾《タマモカルカラニノシマニ》云々。十一【卅五丁】に、玉藻苅井提乃四賀良美《タマモカルヰテノシガラミ》云々などいづこにもつゞけし也。猶予が冠辭考補正にいふべし。
奧敝波不榜《オキヘハコガシ》。
奧の方へは榜いでじ、枕のほとりのけしきのおもしろきをわすれかねつと也。枕詞にて、冠辭考にくはし。敷妙《シキタヘ》の敷《シキ》は、借字にて、しげき意也。古事記上卷に、敷《シキ》山主神とあるも、敷は借字にて、しげき意也。妙は絹布の類をすべいふ名にて、織布の織めのしげきをいふ。冠辭考云、夜の物は、なごやかに身にしたしきを、用る故に、和らかなる服《キモノ》てふ意にて、敷栲の夜の衣といふより、袖就床ともつゞくるなり云々。
(235)枕之邊《マクラノアタリ》
枕のわたりといふにて、近き意をきかせたり。近きあたりといふがごとし。後世、枕の山、枕のみねなどいふも、みなちかき意也。
忘可禰津藻《ワスレカネツモ》。
わすれかねつもの、もの字は、そへたる字にて、意なし。この事は、上【攷證上四十九丁】にいへり。
右一首。式部卿藤原宇合。
藤原宇合卿は、續日本紀に、馬養とも書たれば、うまかひとよむべし。續日本紀云、室龜二年八月癸亥、正六位下藤原朝臣馬養、爲2遣唐副使1、己巳、授2正六位下藤原朝臣馬養從五位下1云々。養老三年春正月壬寅、授2正五位下藤原朝臣馬養正五位上1云々。同年秋七月庚子、常陸國守正五位上藤原朝臣宇合、管2安房上總下總三國1云々。同五年春正月壬子、五五位上藤原朝臣馬養正四位上云々。神龜元年夏四月丙申、以2式部卿正四位上藤原朝臣宇合1、爲2持節大將軍1云々。同二年閏正月丁未、詔叙2征夷將軍已下一千六百九十六人勲位1、各有v差、授2正四位上藤原朝臣宇合從三位勲四等1云々。同三年冬十月庚午、以2式部卿從三位藤原宇合1、爲2知造難波宮事1云々。天平三年八月丁亥、詔依2諸司擧1、擢2式部卿從三位藤原朝臣宇合1爲2參議1云々。同年十一月丁卯、始置2畿内惣管諸道鎭撫使1、以2一品新田部親王1爲2大惣管1、從三位藤原朝臣宇合爲2副惣管1云々。同四年八月丁亥、從三位藤原朝臣宇合、爲2西海道節度使1云々。同六年正月己卯、授2從三位藤原朝臣宇合正三位1云々。同九年八月丙午、參議式部卿兼大宰帥正三位藤原朝臣宇合薨、贈太政大臣不比等之第三子也云々と見えたり。懷風藻、公卿補任など、みな薨年四十四とあれば、持統天皇八(236)年の誕生也。されば、この慶雲三四年のころは、いまだ十三四にておはしたれば、御幸の御ともにてかゝる歌などよまれん事おぼつかなし。よく可v考。
長皇子御歌。
73 吾妹子乎《ワキモコヲ》。早見濱風《ハヤミハヤカセ》。倭有《ヤマトナル》。吾《ワヲ・ワガ》松椿《マツツハキ》。不吹有勿勤《フカサルナユメ》。
早見濱風《ハヤミハヤカセ》。
考云、豐後に速見郡あるがごとく、難波わたりにも、早見てふ濱ありて、しかつづけ給へるならん。或人集中に、濱行風のいやはやにてふ歌に依て、地名にあらずといへど、此歌、さては叶はず云々といはれしかど、いかゞ。早見《ハヤミ》は、わぎも子を、早く見んといふを、濱風の早きにいひかけたる也。本集四【五十六丁】に、今所知久邇乃京爾妹二不相久成《イマシラスクニノミヤコニイモニアハテヒサシクナリヌ》、行而早見奈《ユキテハヤミナ》云々などある、早見と同じく、又十五【十六丁】に、宇良末欲里許藝許之布禰乎《ウラマヨリコキコシフネヲ》、風波夜美《カセハヤミ》、於伎都美宇良爾夜杼里須流可毛《オキツミウラニヤトリスルカモ》云々とある、風早み|と《(ママ)》、わぎも子を早く見んといふを、濱風の早きにいひかけたり。早見の、み文字は、さにといふ意也。この事は上のところ/”\にいへり。
吾《ワヲ・ワガ》松椿《マツツハキ》。
この一句、誤脱ありや、おだやかならず。しひていはゞ、わぎも子が、われを待といふを、庭などにある松椿にいかかけたり。わをは、われといふに同じ。本集四【四十一丁】に、乞吾君人中言聞超名湯目《イテワキミヒトノナカコトキヽコスナユメ》云々。十一【十一丁】に、麾可宿濫和乎待難爾《ナヒキカヌラムワヲマチカテニ》云々などあるにても思ふべし。
(237)不吹有勿勤《フカサルナユメ》。
考に、われは妹を早く見まく思ひ、妹はわれを待らん、其間の便りとせんに、風だにつとめておこたらず吹かよへと、よみ給へるがごとし云々といはれしがごとし。この句を、ある人、ふかざれなゆめとよみ直しゝかど、勿は、みななかれといふ意の所の、なの字にのみ用ひて、たゞの、なの假字に用ひしこと例なし。勤は、集中、謹、忌なども書て、みな禁止の語也。勤とかけるも、つとめてつゝしめといふ意也。古事記下卷に、美夜比登々余牟《ミヤヒトヽヨム》、佐斗毘登母由米《サトビトモユメ》云々。本集三【十四丁】に、浪立莫動《ナミタツナユメ》云々。七【卅二丁】に、風吹莫勤《カゼフクナユメ》云々。十一【廿二丁】嘆爲勿謹《ナゲキスナユメ》云々などありて、集中猶いと多し。
大行天皇。幸2于吉野宮1時歌。
大行天皇と申すことは、上【攷證六十一丁】にいへり。こゝも文武天皇をさし奉れり。慶雲年中、吉野宮行幸の事なし。可v考。
74 見吉野乃《ミヨシヌノ》。山下風之《ヤマシタカゼノ》。寒久爾《サムケクニ》。爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》。我《ワカ・ワレ》獨宿牟《ヒトリネム》。
寒久爾《サムケクニ》。
さむけくには、さむきに也。けくといふ語は、すべて、きといふ意なると、くといふ意なると、二つあり。けくの約まり、くなれば、くといふ意なるは、もとより、又その、くを、きとはたらかして、きといふ意なるもあり。書紀神武紀に、多智曾縻能未廼那鷄句※[手偏+烏]《タチソバノミナケクヲ》云々。古今集雜下に、よみ人しらず、世の中のうけくにあきぬ、おく山のこの葉にかゝるゆ(238)きやけなまし云々などある、けくは、きの意也。又本集五【卅七丁】に、世間能宇計久都良計久《ヨノナカノウケクツラケク》云々。八【五十七丁】に、戀乃繁鷄鳩《コヒノシケケク》云々などあるは、皆くの意也。集中猶いと多し。
爲當也《ハタヤ》。
書紀欽明紀云、許勢臣問2王子惠1曰、爲當《モシ》欲v留2此|問《(マヽ)》1爲當《ハタ》欲v向2本郷1云々。本集十一【五丁】に、半手不忘《ハタワスラエス》、猶戀在《ナホコヒシカル》云々。六【廿一丁】に、當不粕將有《ハタアハサラン》云々。十五【卅三丁】に、和我由惠爾波太奈於毛比曾《ワカユヱニハタナオモヒソ》云々。十六【廿三丁】に、波多也波多《ハタヤハタ》云々。又【廿八丁】將見和之《ハタミテムワシ》云々など見えて、日本後紀にも、爲當、眞字伊勢物語に爲將をもよめり。將をはたとよめるごとく、まさにの意也。考別記云、こゝに爲當也と書しは、今夜も果して獨ねんやてふ意を得て、書たる也。故に、古しへより、この三字を、はたやと訓つ。然れば、波太《ハタ》は果しててふ言ぞとすめり。常に、はたと當るといふは、行はてゝ物に當る事にて、終にといふ(に脱?)ちかし。さて其果してを本にて、さし當る事にも、打つけにてふ事にも、轉じいへり。卷十五に、さを鹿の鳴なる山をこえゆかん日だにや君に當《ハタ》あはざらん。古今歌集に、わびぬれば今はた同じ、難波なる身をつくしてもあはんとぞ思ふ。是らは、果して也。今、十一に、命あらばあふこともあらん、吾ゆゑに波太奈於毛比曾《ハタナオモヒソ》【當勿v念也】今(命?)だに經《ヘ》ば。古今歌集に、【郭公の初てなくをきゝて】ほとゝぎす鳴こゑきけばあぢきなくぬしさだまらぬ戀せらるはた。これらは、うちつけにと心得てきこゆ。同集に、ほとゝぎす人まつ山になくなればわがうちつけにこひまさりけ|る《(マヽ)》といへると、右のを合せ見よ云々といはれつ。さて、はたやの、や文字、疑のやにて、この吉野の山下風のさむき夜に、まさにや今夜も、われひとりねなんとの意也。
(239)右一首。或云。天皇御製歌。
考云、注に、或云天皇御製とあるは、誤り也。先、端に、其所へ幸とある下に、御製とかゝぬは、みな從駕の人の歌也。さて難波、吉野などへの幸は、御心のすさみの爲なる事、上の歌にも見ゆ。然るに、いかでこの歌のごとく、なけ給ふ事あらんや。又これを持統天皇御製といふ説もわろし。此姫天皇は、天武天皇崩じませし後、御|獨《ヒトリ》ね、もとよりの事なるべき也。
75 宇治間山《ウチマヤマ》。朝風寒之《アサカセサムシ》。旅爾師手《タヒニシテ》。衣應借《コロモカルベキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
宇治間山《ウチマヤマ》。
吉野の中なるべし。大和志吉野郡に、宇治間山在2池田莊千俣村1云々と見えたり。新撰六帖一に、しろたへの衣手寒し、うぢま山朝風ふきて秋は來にけり云々とあるも、この歌をとられし也。
衣應借《コロモカルヘキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》。
古しへ、男女ともに、衣を相かりて、きる事常の事也。本集十二【十九丁】に、吾妹兒爾衣借香之云々。後撰集雜三に、小野小町、いはの上にたびねをすればいと寒し、こけの衣をわれにかさなん、返し、遍昭、よをそむくこけの衣はたゞひとへ、かさねばうとし、いさふたりねん云々。大和物語に、男、女のきぬをかりきて、今のめのがり、いきて、さらに見えず、この衣をみなきやりて、返しおこすとて云々など見えたり。一首の意明らけし。
(240)右一首。長屋王。
長屋王は、續日本紀云、慶雲元年春正月癸巳、无位長屋王授2正四位上1云々。和銅二年十一月甲寅、以2從三位長屋王1爲2宮内卿1云々。同三年四月癸卯、以2從三位長屋王1爲2式部卿1云々。同七年春正月壬戌、從三位長屋王益v封一百戸云々。養老二年三月乙巳、以2正三位長屋王1、爲2大納言1云々。同五年春正月壬子、授2正三位長屋王從二位1、爲2右大臣1云々。同年三月辛未、勅給2右大臣從二位長屋王帶刀資人十人1云々。神龜元年二月甲午、授2從二位長屋王正二位1、爲2左大臣1云云。天平元年二月辛未、左京人從七位下漆部君足、无位中臣宮處連東人等、告v密、稱左大臣正二位長屋王、私學2左道1欲v傾2國家1、其夜遣3v使固守2三關1云々。將2六衛兵1、圍2長屋王家1云々。癸酉、令3王自盡2其室1云々。長屋王天皇【天武】之孫、高市親王之子也云々と見えたり。又此王の事は、同書天平十七年七月の條にも、懷風藻、日本靈異記、宋高僧傳等にも見えたれど、こと/”\くあぐるにいとまなし。(頭書、無實の罪なりしかの事。)
寧樂宮。
この三字、諸本こゝになくて、下和銅五年云々の歌の下にしるせり。されど、次に和銅元年云々とあれば、こゝより下は都を寧樂にうつし給ひし元明天皇の御代なれば、必らずこゝに此三字あるべき所なれば、眞淵のこゝに加へられしにしたがひて、加へつ。寧樂に、都をうつし給ひしは、和銅三年三月なるを、其まへ和銅元年の上に、かくあぐるをあやしぶ人あるべけれど、上【攷證上四(241)十三丁】に、藤原宮御宇天皇代とあるも、藤原に都をうつし給はぬまへをも、其天皇の御代となりてをば、みなその下にあげたるにても、後の事をまへにおよぼして、かくあぐる例なるをしるべし。又この外には、皆御宇天皇代の五字あるを、こゝにしるさゞるは、この寧樂宮は、當時の都なれば、あながちに御宇天皇代とことわるべきいはれもなく、二卷の末にも、この字なきによりてはぶきつ。考云、卷二も、和銅四年の所に、この標あれど、其上に、同元年の歌ある所にしるしつ。この卷には、同三年の歌どもありて、後に同五年と記せし下に、此標あるは何のよしともなし。亂れ本のまゝに、後人の書し事明らか也。仍て今こゝにしるしつ。且同三年この都へ遷ましゝより前、元年の歌の上にあぐるは、上の藤原宮の所にいへる例なり云々。(頭書、再考るに、寧樂宮の三字を、こゝに載るは誤り也。いかにとなれば、藤原宮までは、過さりし古都なれば、その所に都を遷給はぬまへをも、その天皇の御宇の歌をば、その宮の御宇天皇の下に、載べき事、尤さる事なれど、寧樂宮は、當代までの都なれば、當都よりは、年月をこまかにわけし也。されど、印本の如く、和銅五年の下に載るは、いかゞ。和銅五年の上に載べし。)
和銅元年戊申。天皇御製歌。【日本根子天津御代豐國成姫《ヤマトネコアマツミヨトヨクニナリヒメノ》天皇。】
天皇、御謚を元明と申。續日本紀云、日本根子天津御代豐國成姫天皇、小名阿閉皇女、天命開別天皇之第四皇女也、母曰2宗我嬪1、蘇我山田石川磨大臣之女也、適2日並知皇子尊1、生2天之眞宗豐祖父天皇1、慶雲三年十一月、豐祖父天皇不豫、始有2禅v位之志1、天皇謙讓固辭不v受、四年六月、豐祖父天皇崩、庚寅、天皇御2東樓1、詔召2八省卿及五衛督卒等1、告以d依2遺詔1攝2萬機1之状u、秋七(242)月壬子、天皇即2位於大極殿1云々と見えたり。さて考には、戊申の下に、冬十一月の四字を加へられつ。是甚しき誤り也。代匠記には、左の御歌に、楯立良思母とあるに、大嘗會の具に、神楯を建る事あるをもて、十一月大嘗會の時の御歌と定められつ。この説も誤りなれど、この説による時は、冬十一月の四字を加へんにも、よしありておぼゆれど、眞淵は、この説にもよられず、何をもて、かの四字をば加へられつるか、おぼつかなし。この御歌の事は、次にいふべし。たゞ月はしれざる御製と心得べし。
76 丈夫之《マスラヲノ》。鞆乃《トモノ》音《ト・オト》爲奈利《スナリ》。物《モノノ》部《ベ・フ》乃《ノ》。大臣《オホマヘツキミ・オホマウチキミ》。楯立良思母《タテタツラシモ》。
丈夫之《マスラヲノ》。
印本、誤りて大夫とす。今意改。この事は上【攷證上十一丁】にいへり。
鞆乃《トモノ》音《ト・オト》爲奈利《スナリ》。
舊訓、とものおとすなりとよめれど、かゝる所、音を、とゝのみよむべし。本集四【廿丁】に、梓弓爪引夜音之遠音爾毛《アツサユミツマヒクヨトノトホトニモ》云々。十四【十九丁】に、可是乃等能登抱
吉和伎母賀《カセノトノトホキワキモカ》云々。又【廿一丁】左努夜麻爾宇都也乎能登乃《サヌヤマニウツヤヲノトノ》云々などあるにても思ふべし。鞆は書紀神代紀に、臂著稜威之高鞆云々。【古事記に竹鞆と書り。借字なり。】延喜大神宮式に、鞆二十四枚【以2鹿皮1縫v之、胡粉塗以v墨畫v之、納檜麻笥二合徑一尺六寸五分、深一尺四寸五分、着緒一處、用紫革、長各一尺七寸廣二分】云々。同兵庫寮式に、熊革一條鞆料【長九寸廣五寸】牛革一條鞆手料【長五寸廣二寸】云々。又鞆袋、鞆緒紫組など見えたり。これらにて、製作おしはからる。この物、今は絶てなし。西宮記に、奉2御鞆1とあるを引て、そのころまではなべて用ひしものと見ゆと宣長いへり。さてこれを付るは、弦にふれて、鞆の音せんが爲なるべし。大神宮儀式帳に、弓矢鞆音不聞國《ユミヤトモトキコエヌクニ》云々とも見えた|れ《(マヽ)》。音(243)を專らとすと見えたり。今は弦の中に音金《オトカネ》といふ物を入て、弦をならす事あり。和名抄射藝具云、蒋魴切韻云※[旱+皮]【音旱、和名止毛、楊氏漢語抄、日本紀等用2鞆字1、俗亦用之本文未v詳】云々と見えたり。猶鞆の事は、書紀通證卷四、古事記傳卷七などにくはしく見えたり。さて鞆の字、漢土の書に見えず。書紀通證には、字彙補を引たれど、字彙補に出たるは、※[革+内]の字にて、鞆とはたがへり。字鏡集には鞆【トモ】といだせり。
物《モノノ》部《ベ・フ》乃《ノ》。大臣《オホマヘツキミ・オホマウチキミ》。
舊訓にも、考にも、ものゝふのおほまへつぎみとよみて、考に御軍の大將をのたまへり云々といはれつるは、誤り也。こは石上(ノ)麿公をのたまふなれば、ものゝべの大臣とよむべし。石上麿公は、書紀天武天皇十年の條までは、物部連麻呂とありて、持統天皇三年の條には、石上朝臣麿と見えたれば、天武天皇十年より、持統天皇三年まで、九年の間に、石上朝臣の姓氏をば賜はられし也。そは、舊事記天孫本紀に、饒速日尊十七世孫、物部連公|麻侶《マロ》、馬古連公之子、此連公、淨御原朝御世、天下萬姓、改2連公1賜2物部朝臣姓1、同朝御世、改賜2石上朝臣姓1云々とあるにてしらる。されば、麻呂公、もとは物部氏なりしかば、こゝにても、猶物部の大臣とはのたまふ也。麿公、和銅元年には、正二位左大臣にておはしぬ。この公の事は、上【攷證十六丁】にいへり。さてものゝべといふも、ものゝふといふ、もとは同語にて、物部《モノヽヘ》といへる氏も、武《タケ》き物士部《モノノフ》といふことなるが、やがて氏とはなれる也。集中、物部とかきて、ものゝふとよめる所も多かり。これにても、もとは一つなるをしるべし。大臣は、おほまへつぎみとよむべし。和名抄職名に、本朝式職員令云、太政大臣【於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美】職員令云左右大臣【於保伊萬宇智岐美】云々とある、おほまつきみも、おほいまうちきみも、もとはまへつぎみなれど、への字をはぶきてまつきみといひ、まうちぎみもまへつぎみの音便也。書紀景行紀に、阿佐志毛能瀰概能佐烏麼志《アサシモノミケノサヲバシ》、麼弊菟著瀰《マヘツギミ》、(244)伊和※[口+多]羅秀暮《イワタラスモ》、瀰開能佐烏麼志《ミケノサヲハシ》云々と見えたる、まへつぎみは、天皇の御前に仕奉る人といふことにて、たゞ臣下をおしなべていへる也。(頭書、本集三【三十五丁】石上乙磨卿をさせる歌に、物部乃臣之《モ/ヽヘノオミノ》壯士者云々と見えたり。)
楯立良思母《タテタツラシモ》。
楯は、和名抄征戰具に、兼名苑云楯【倉尹反上聲之重也和名太天】一名※[木+鹵]【音魯】云々と見えて、その製作の事は、延喜兵庫寮式に見えたり。さてこゝに、楯立良思母《タテタツラシモ》とある、循を、大嘗會の神楯の事として、代匠記には、和銅元年十一月大嘗會の時の御製といはれしかど、この御製を、大嘗會の時の御製とする時は、次の御|和《コタヘ》歌に、吾大王物其御念《ワカオホキミモノナオモホシ》とあるを、何とか解ん。されば、この御製は、官人どもが弓など射る鞆の音のきこゆるをきこしめして、御軍おこれるにや、さらば物部の大臣などが楯をや立らんと、こゝろならず、おぼしめして、よませ給へるを、御|和《コタヘ》歌に、吾大王さやうに物なおもほしそと、いさめ給へる也。考云、御軍の調練する時と見ゆれば、楯を立る事もとより也。さてこの御時、みちのく越後の蝦夷らが、叛きぬれば、うての使を遣さる。その御軍の手ならしを、京にてあるに、鼓吹のこゑ、鞆の音などかしがましきを、聞しめして、御位のはじめに、事あるを、なげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此大御歌に、さる事までは聞えねど、次の御こたへ歌と合せて、しるべき也云々といはれつるも、可也。猶考に、いと長き説もあれど、こゝに不用なればもらしつ。
御名部皇女。奉v和御歌。
(245)書紀天智紀云、次有2遠智娘弟1、曰2姪娘1、生3御名部皇女與2阿倍皇女1云々。續日本紀云、慶雲元年春正月壬寅、詔2御名部内親王1、益2封一百戸1云々と見えたり。薨年未v評。この皇女は、元明天皇同母の御姉なり。
77 吾大王《ワカオホキミ》。物莫御念《モノナオモホシ》。須賣神乃《スメカミノ》。嗣而賜流《ツキテタマヘル》。吾《ワレ》莫《ナケ・ナラ》勿久爾《ナクニ》。
吾大王《ワカオホキミ》。
天皇をさして申たまふ也。
物《モノ》莫御念《ナオモホシ・ナオホシソ》。
舊訓、ものなおぼしそとあれど、ものなおもほしとよむべし。かく莫《ナ》といひて、そもじを略く事、集中いと多し。そは、宣長云、二の句、ものなおもほしとよむべし。下の、そを略きて、かくいふ事、集中に例多し。そとよむはわろし。おもほしをおぼしといふ事、集中にはまた例なし。後の事也、といはれしがごとし。
須賣神乃《スメカミノ》。
集中に、皇神、皇祖神など書て、すめかみとよめるより、すめ神とは、皇統の神を申事ぞと心得るは誤り也。すめとは、神にまれ、人にまれ、尊稱していへる語なる事、古事記に須賣伊呂《スメイロ》、中日子《ナカツヒコノ》王、須賣伊呂杼《スメイロド》などありて、本集七【二十一丁】に、千磐破金之三崎乎過鞆吾者不忘牡鹿之須賣神《チハヤフルカネノミサキヲスクレトモワレハワスレスシカノスメカミ》云々。十三【六丁】に、山科之岩田之森之須賣神爾《ヤマシナノイハタノモリノスメカミニ》云々。二十【三十八丁】に、須美乃延能安我須賣可未爾《スミノエノアカスメカミニ》云々などあるにても、たゞ尊稱の語なるを知るべし。天皇をすめらみことゝ申すも尊稱なり。こゝにはたゞ尊き神とのたまふなり。
(246)嗣而賜流《ツキテタマヘル》。吾《ワレ》莫《ナケ・ナラ》勿久爾《ナクニ》。皇統たゆることなく、嗣々に神の依し賜ふ也。考に、こは言を上下にいふ體にて、三四の句を、吾大王の上へやりて、意得る也。これを隔句體といへり。集中はもとよりにて、古今歌集にもある體也、云々といはれつるは、いかゞ。この次の句の吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》とあるを、たすけんとての説なるべけれど、四五の句、詞つゞきたり。されど5の句、必らず誤字ありとおぼし。この事は次にいふべし。
吾《ワレ》莫《ナケ・ナラ》勿久爾《ナクニ》。
この一句、諸釋みなたがへり。略解に、宣長は、吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》の吾は、君の字の誤れるならんかといへり云々とあるぞよろしき。吾は必ず君の字の誤り也。かく見ざれば、一首の意解しがたし。莫勿久爾《ナケナクニ》は、本集四【十五丁】、に、吾背子波物其念《ワカセコハモノナオモホシ》、事之有者火爾毛水爾毛吾莫七國《コトシアラハヒニモミツニモワレナケナクニ》云々。十一【四十八丁】に、眞葛延小野之淺茅乎《マクスハフヲヌノアサチヲ》、自心毛人引目八面《コヽロユモヒトヒカメヤモ》、吾莫名國《ワレナケナクニ》云々。十五【三十三丁】に、多婢等伊倍婆許等爾曾夜須伎《タヒトイヘハコトニソヤスキ》、須久奈久毛伊母爾戀都々須敝奈家奈久爾《スクナクモイモニコヒツヽスヘナケナクニ》云々などありて、なけなくにの、けは、からの反、かなるを、けに通はしたるにて、なからなくにといふ言にて、無《ナキ》にあらずてふ意也。されば、一首の意は、わが大王よ、さやうに物なおもほしそ。皇統たゆることなく、嗣々に神の依《ヨサ》し給へる君なきにあらず。君かくていませば、天の下のうごくべき事はあらずと、和《コタヘ》申し給ふ也。さて、其勿久爾を、舊訓、ならなくにとよみつれど、十五に奈家奈久爾《ナケナクニ》とあると、上に引たる歌どもの意を解して、なけなくにとよむべきをしるべし。
和銅三年庚戌。春二月。從2藤原宮1。遷2于寧樂宮1時。御輿停2長屋原1。(247)廻2望古郷1御作歌。
春二月。從2藤原宮1。遷2于寧樂宮1。
續日本紀云、和銅三年三月辛酉、始遷2都于平城1云々とありて、都うつしは、三月なれど、この内親王は、その以前二月にうつり給ひしなるべし。考に、三月と直されしは、なか/\にさかしらなるべし。
御輿。
本集三【五十八丁】に、和豆香山御輿立之而《ワツカヤマミコシタヽシテ》云々。和名抄車類云、四聲字苑云※[與/車]【音餘字或作輿和名古之】云々と見えたり。
長屋原。
和名抄郷名に、大和國山邊郡長屋【奈加也】云々。大和志に、山邊郡長屋原長原村、萬葉集曰、御輿停2長屋原1即此云々と見えたり。
廻望。
廻、印本※[しんにょう+向]に作るは誤れり。今意改。邊讓章華賦云、登※[土+謠の旁]臺以廻望云々。李商隱板橋曉別詩云、廻望高城落曉河云々などあるも同じ。こゝは古郷を見かへりたまふなり。
御作歌。
御作歌とのみありて、作者の名なく、しかも御の字をさへそへたれば、前の端詞をうけて、御名部皇女の御歌なること明らけきを、次に一書云太上天皇御製とあるは、甚しき誤り也。
一書云。太上天皇御製。
(248)まへにいへるごとく、これ甚しき誤り也。ことにこのころ、太上天皇はおはしまさゞるをや。これらにても、古注は誤り多きをしるべし。さて是を、宣長は、これは飛鳥の云々の歌を、一書には持統天皇の御時に、飛鳥より藤原へ遷り給へる時の御製とするなるべし。然るを、太上天皇といへるは、文武天皇の御代の人の言る詞也。又、和銅云々の詞につきていはゞ、和銅のころは、持統天皇は、既に崩給へども、文武の御時に申ならへるまゝに、太上天皇と書る也。この歌のさまを思ふに、まことに飛鳥より藤原の宮へ、うつり給ふ時の御歌なるべし。然るを、和銅三年云云といへるは、傳への誤りなるべし云々わいはれつ。
78 飛鳥《トフトリノ》。明日香能里乎《アスカノサトヲ》。置而伊奈婆《オキテイナハ》。君之當者《キミカアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエスカモアラム》。【一云。君之當乎《キミカアタリヲ》。不見而香毛安良牟《ミステカモアラム》。】
飛鳥《トフトリノ》。
枕詞なり。冠辭考の説、誤れり。宣長云、この地の名を、飛鳥と書く由は、天武紀に、十五年改v元、曰2朱鳥元年1、仍名v宮、曰2飛鳥《トフトリノ》淨御原宮1とありて、大宮の名を飛鳥《トフトリ》云々といふから、其地名にも冠らせ、飛鳥《トフトリ》の、明日香《アスカ》といひ、つひに其枕詞の字を、やがて地名にも用ひて、書たるものにで、加須賀を春日とかく例に同じ云々といはれしがごとし。猶くはしくは、予が冠辭考補遺に云り。
(249)明日香能里乎《アスカノサトヲ》。
大和國高市郡なり。延喜神名式に、大和國高市郡に飛鳥坐神社、飛鳥山口坐神社、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社など見えたり。さて、この地名の事は、古事記下卷に、乃明日上幸、故其地謂2近飛鳥1也、上到2于倭1、詔之、今日留2此間1爲2祓禊1、而明日參出將v拜2神宮1、故號2其地1謂2遠飛鳥1也云々とあるがごとし。明日《アス》いでまさんと詔たまふより、あすかとはいへる也。
置而伊奈婆《オキテイナハ》。
おきていなばゝ、この明日香の里をおきて、寧樂へゆかば也。本集上【十六丁】に、倭置而《ヤマトヲオキテ》云々。又【二十一丁】京乎置而《ミヤコヲオキテ》云々などある、おきてとおなじ。
君之當者《キミカアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエスカモアラム》。
考云、藤原の都ならで、飛鳥の里(と脱?)のたまふは御陵墓につけたる御名殘か、又何ぞのみこなどの留りゐ給ふをおぼすか云々といはれつるにて、一わたりはきこえつれど、端辭にいへる、宣長の説にしたがふ時は、何のうたがひもなく、よく聞えたり。一云、君之當乎《キミカアタリヲ》、不見而香毛安良牟《ミステカモアラム》とあるも意明らけし。活本、此一云以下なし。
或本。從2藤原京1。遷2于寧樂宮1時歌。
考云、今本には、これをある本歌としるして、端詞によみ人の姓名もなし。然るを、此度本文として、小字にせざるよしは、大よそこの集の本文に載たる歌に、異なる所あるを、一本とて注せ(250)しは、重ねあぐべきにあらぬ事、もとより也。これは、今本にはなくて、或本にのみあるからは、今本には落失し事しらる、仍て、全くしるしつ云々とて、或本の二字をはぶかれしかど、いかゞ。尤、此容の歌前にはあら|ね《(マヽ)》、前の歌も、藤原宮より、寧樂宮へうつり給ふ時の御歌なれば、その類をもて、こゝにはのせし也。類をもて、外の歌をものする事、集中の例なり。
79 天皇《オホキミ・スメロキ》乃《ノ》。御命畏美《ミコトカシコミ》。柔備爾之《ニキビシニ》。家乎《イヘヲ》擇《ワカレテ・エラビテ》。隱國乃《コモリクノ》。泊瀬乃川爾《ハツセノカハニ》。船浮而《フネウケテ》。吾行河乃《ワカユクカハノ》。川隈之《カハクマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチス》。萬段《ヨロツタビ》。顧爲乍《カヘリミシツヽ》。玉桙乃《タマホコノ》。道行晩《ミチユキクラシ》。青丹吉《アヲニヨシ》。楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。佐保川爾《サホカハニ》。伊去至而《イユキイタリテ》。我宿有《ワカネタル》。衣乃上《コロモウヘ》從《ユ・ニ》。朝月夜《アサツクヨ》。清爾見者《サヤカニミレハ》。栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。磐床等《イハトコト》。川之氷《カハノヒ》凝《コヾリ・コリテ》。冷《サムキ・サユル》夜乎《ヨヲ》。息言《イコフコト・ヤムコトモ》無久《ナク》。通乍《カヨヒツヽ》。作家爾《ツクレルイヘニ》。千代二手《チヨマテニ》。來座多公與《キマセオホキミト》。吾毛通武《ワレモカヨハム》。
天皇《オホキミ・スメロキ》乃《ノ》。
天皇を、舊訓、すめろぎとよめるも、さる事ながら、かゝる所は、おほきみとよむべき也。おほきみとよむべき猶多しと、宣長もいへり。集中いと多し。さて久老が槻の落葉別記に、(以下空白)
(251)御命畏美《ミコトカシコミ》。
本集三【二十三丁】に、大王之命恐《オホキミノミコトカシコミ》、夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》云々などありて、集中いと多く、あぐるにいとまなし。仰をかゞふりて、其御言をかしこさにてふ意なり。其もとは、字のごとくかしこみおそるゝ意なれど、それを轉じて、承諾《ウヘナ》ふ意にもなれり。
柔備爾之《ニキビシニ》。
にきびにしは、本集三【五十九丁】に、白妙之手本矣別《シロタヘノタモトヲワケレ》、丹杵火爾之家從裳出而《ニキビニシイヘユモイテヽ》云々ともありて、こは荒備《アラビ》にむかへたる言にて、何にまれ、物のすたれたるを、荒《ア》るゝ、荒びともいふにむかへて、住なれて、萬とゝのひたるを、和備とはいひて、和《ニギ》と荒とは常にむかへいふ言なる事、和御魂《ニギミタマ》、荒御魂《アラミタマ》、和細布《ニキタヘ》、荒細布《アラタヘ》、和稻《ニキシネ》、荒稻《アラシネ》、和海布《ニキメ》、荒海布《アラメ》などいふにてしるべし。またにぎはす、にぎやかなどいふも、語の本は、これと一つ言也。されば、柔は和《ニキ》の意にて、こゝは住なれたるをいへる也。和《ニキ》たへ、和稻《ニキシネ》などのにぎと同じく、作りたてゝ物なれるをいへるなる事は、熟田津《ニキタツ》の熟を、にぎとよめるにてもしるべし。毛柔物《ケノニコモノ》などもよみ、靈異記中に、柔【爾古也可】とよめるも、よく熟しなれたるをいふにて、こゝの柔《ニキ》といふと、もとは同じ言也。さて、柔備《ニキビ》の備《ヒ》は、ものゝ荒るを、あらびとも、あらぶるともいひ、又神さびとも、神さぶるともいふ類にて、和《ニキ》ぶりにし家といへる也。こは、住なれ熟したる家といへる意なり。考に、藤原宮は、二御代平かに知しつれば、臣民の家々も、今は調和《ニキハヒ》ぬる時に、かくうつさるゝをなげく也けり云々とのみ、いはれつ|る《(マヽ)》くはしからす。
家乎《イヘヲ》擇《ワカレテ・エラビテ》。
舊訓、家をえらびてとあるも、誤れり。考に、家乎擇とあるは、乎は毛を誤り、擇は※[放の方が獣偏](放?)を択と見誤りしなり云々とて、家毛放《イヘヲモサカリ》と直されしも、甚しき誤り也。擇(252)は、呂覽簡選篇注に、擇(ハ)別云々とありて、別の意なれば、家をわかれてとよむべし。
隱國乃《コモリクノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。泊瀬《ハツセ》は、めぐり皆山にて、こもりたる國の、泊瀬とつづけしなる事、隱國とかける字のごとし。古しへは、必らず一國ならねど、國といへる事、初瀬の國、はつせを國、難波國、吉野國などいへるがごとし。(頭書、こもりく、上【攷證二十丁】)
泊瀬乃川《ハツセノカハ》。
上頭十【攷證二十丁】にいへり。
吾行河《ワカユクカハ》。
考云、この川、三輪にては、三輪川ともいへど、その源、初瀬なれば、大名を初瀬川と云しならん。さて、末は廣瀬の川合にて、落合ふなれば、そこまで舟にて下りて、河合よりは廣瀬川をさかのぼりに、佐保川まで引のぼすべし。然れば末にては人は陸にのぼりてゆく故に、陸の事もいへり云々。
川隈之《カハグマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチス》。
川隈は、川のすみ/”\、曲り/\といふこと也。上【攷證上三十二丁】に、道隈《ミチノクマ》とある所と、引合せてしるべし。八十阿の、八十は、何十《イクソ》といふ事にて、必らず八十と數のかぎりたる事にあらず。古事記上に、百不足八十※[土+囘]手隱而侍《モヽタラスヤソクマデニカクリテサモラヒナム》云云。本筆二【十九丁】に、此道乃八十隈毎《コノミチノヤソクマコトニ》、萬段顧爲騰《ヨロツタビカヘリミスレド》云々。十三【七丁】に、道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマゴトニ》云々などある、八十隈も、みな何十《イクソ》隈といふ事にて、數の多きをいふ。そは、八十神、八十|建《タケル》、八十|友緒《トモノヲ》、八十氏人、八十國、八十舟、八十島、八十(ノ)衢《チマタ》などの類の八十にて、やは彌のつゞまりたるや也。八雲(253)たついづもやへがきなどの、やのごとし。不落は、滿(漏?)さずといふ言なる事、上【攷證上十二丁】にいへるがごとし。こゝの意は、川の曲り/\、すみ/”\など、いく十《ソ》阿といふ事もなく、もらさずかへり見しつゝゆくといふ意也。さて阿は、楚辭少司命注に、阿(ハ)曲隈也云々など見えたり。
萬段《ヨロツタビ》。
萬度なり。本集二【十九丁】に、萬段顧爲騰《ヨロツタビカヘリミスレド》云々とありて、古事記上卷に、三段をみきだとよめり。段の字に、度の意はあらねど、説文に、分段也云々ともあれば、おのづからに、度の意はこもるなるべし。
顧爲乍《カヘリミシツヽ》。
顧は、玉篇に、瞻也囘v首曰v顧云々とありて、毛詩蓼莪箋に、顧旋視也云々、見えたり。乍《ツヽ》は、古事記上卷に、爲釣《ツリシツヽ》とよめり」。中あぐるにいとまなし。宣長云、すべて、つゝてふ辭は、この事をしながら、かの事を相まじへてするをいふ時におけり云々。この説のごとし。一切經音義卷十七に、蒼頡篇を引て、乍(ハ)兩辭也云々と見えたり。(頭書、乍、上四十一ウ。)
玉桙乃《タマホコノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉は、例の物をほむる詞にて、たゞ杵の身《ミ》と、みの一言へかゝりたる枕詞なり。
道行晩《ミチユキクラシ》。
こゝは、舟より陸にのぼりて、行く也。
(254)楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。
楢は、借字にて、和名抄木類に、唐韻云楢【音秋漢語抄云奈良】樫木也云々と見えたり。京師は、義訓なり。集中、京都、王都などをもしかよめり。京師は、公羊傳桓九年注に、京師天子之居云々と見えたり。
佐保川爾《サホカハニ》。
集中多くよめり。あぐるにいとまなし。書紀武烈紀に、逗摩御暮屡鳴佐〓嗚須疑《ツマコモロヲサホヲスギ》云々とあるも、この佐保也。こは大和國添上郡にて、大和志に、佐保川、源自2鶯瀧1、經2川上村1、納2佐保山水1、遶2南都西北1、經2大安寺1、至2辰市1、流2郡界1、曰2奈良川1、至2下三橋1、入2添下郡1云々と見えたり。こゝは佐保川のほとりにゆき至れるなり。いゆきいたりての、いは發語にて、心なし。發語の事は、上【攷證七丁二十丁】にいへり。
衣乃上《コロモウヘ》從《ユ・ニ》。
考には、衣の字、床の字に改めて、今本床を衣に書しは、誤り也といはれしぞ、さる事なる。從《ユ》は、よりの意なれば、衣と見る時は、衣の上より、朝月夜のさやかに見ればとは、何の事とも聞えず。床の上ならば、こゝはまだ假屋なれば、夜床の上より、月などの見えんこと、さもあるべし。さて又予が思ふには、衣乃上邇《コロモノウヘニ》とありし、邇《ニ》を從《ユ》に誤りしなるべし。しかいふ故は、印本、本文には、從の字を書たれど、假字をば、にとつけたり。これ文字は、後に誤りたれど、假字はもとのまゝま(に?)てありし也。さて、邇とする時は、下に夜之霜落《ヨルノシモフリ》といふにかゝりて、歌がらまされり。見ん人、考の説にまれ、予が説にまれ、心のひかん方にしたがふべし。
(255)朝月夜《アサツクヨ》。
考には、曉月也。曉より朝ともいふは例也云々といはれしがごとく、有明月ののこりたる也。本集九【廿四丁】に、朝月夜明卷鴦視《アサツクヨアケマクヲシミ》云々と見えたり。月夜はつくよと訓べし。十八【卅七丁】に、天禮流都久欲爾《テレルツクヨニ》云々。二十【四十七丁】に、伎欲伎都久欲爾《キヨキツクヨニ》云云。又【五十七丁】己與比能都久欲、可須美多流良牟云々などあればなり。
栲乃穗爾《タヘノホニ》。
たへは、栲《タヘ》、木綿《タヘ》、細布《タヘ》など書て、絹布を惣いふ名なる事、冠辭考|白妙《シロタヘ》の條にくはしければ、こゝにはもらせり。栲の字は、古書みなたへとも、たくともよみて、豐後風土記に、速見郡|柚富《ユフ》郷、此郷之中、栲樹多生、常取2栲皮1、以造2木綿《ユフ》1、因曰2柚富郡1云々とありて、穀《ユフ》の事也。此字、漢土の書にも見えたれど、爾雅釋木に、栲(ハ)山樗云々と注して、こゝに用ふる所と意別なり。されば、この字をたへとよみて、穀《ユフ》の事とするは、中國の製也。又【栲の異体字】とかける本もあれど、栲【栲の異体字】同字也。さてこの栲《タヘ》は木綿《ユフ》なれば、白き故に、本集十一【六丁】に、敷白《シキタヘ》云々、十三【廿八丁】に、雪穗《タヘノホ》云々など白または雪などの字をたへとよみ、又枕詞に、栲衾《タクブスマ》しらぎの國、しら山風、栲《タク》づぬのしろきたゞむき、しらぎの國、しらひげ、栲領巾《タクヒレ》のしらはま波、さぎさか山などつつくるも、栲の白きよりしかつゞけし也。されば、栲《タヘ》のほの如くに、夜の霜ふりとはよめる也。には、如くの意にて、本集三【四十六丁】に、花橘乎玉爾貫《ハナタチバナヲタマニヌキ》とある、にもじと同じく、自波穗乘天之羅摩船而《ナミノホヨリアメノカヽミノフネニノリテ》云々とある穗と、もとは同じくて、波穗《ナミノホ》は、書紀神武紀に、浪秀《ナミノホ》ともかきて、秀をほとよめるがごとく、いちじるくまづあらはるゝをいふ事にて、薄《スヽキ》の穗、稻の穗などもあらはれ見ゆるものなれば、ほとはいへる也。されば栲乃《タヘノ》穗もいろの白くあらはれ見ゆるをいへるにて、祈年祭祝詞に、赤丹穗《アカニノホ》云々、本集五【九丁】一書に、爾納保奈酒《ニノホナス》云々、十三【十三丁】に、秋付者丹之穗爾黄色《アキツケハニノホニモミヅ》云々などある(256)も、いろのあらはるゝを穗といへり。垣穗《カキホ》、石穗《イハホ》などのほも、これなり。波穗、すゝき、稻などの穗も、本は同じ。
夜之霜落《ヨルノシモフリ》。
夜の間の霜ふり也。落をふるとよめるは、義訓也。上【攷證上四十一丁】にもいでたり。
磐床等《イハトコト》。
床は、寢る所をも、居る所をも、床といへり。磐床等とは、磐の上の、居る所の如く、いと堅くこほれりといふ意にて、等は、如くてふ意也。本集八【四十六丁】に、玉跡見左右置有白露《タマトミルマテオケルシラツユ》云々。字津保物語俊蔭卷に、紅葉のしづくを、ちぶさとなめて云々などある、と文字と同じ格にて、皆何々と同じごとくにといふ意也。さて、磐床《イハトコ》は、本集十三【十五丁】に、石床根延門呼《イハトコノネハヘルカトヲ》云々など見えたり。
川之氷《カハノヒ》凝《コヾリ・コリテ》。
字のごとく、氷の岩のごとくに、凝《コ》れる也。磐がねのこゞしき山など、集中多くよめる、こゞしきも、凝々しき也。凝、印本疑に誤る。今、考によりてあらたむ。訓も考にしたがへり。
冷《サムキ・サユル》夜乎《ヨヲ》。
考には、さむき夜をとよまれしにしたがふ。集中、寒冷などの字、皆さむきとよめり。
息《イコフ》言《コト・コトモ》無久《ナク》。
舊訓、やむときもなくとあるは、誤れり。考に、いこふことなくとよまれしにしたがふ。靈異記上卷に、无v憩所v駈云々とある、憩を、訓釋に伊古不去止【この去止を今本止(257)云誤れり。】とよめり。玉篇に、憩息也云々とありて、憩も息む|同《(マヽ)》じければこゝと同じ。こは奈良の新京へ、家作るとて、日夜|息《イコフ》こともなく、かよへるさまをいへる也。さて、この息言無久を、山本明清は、やむときもなくと訓べしといひて、そは集中やむときもなくといへる語、いと多かる中にも、十一【廿七丁】に、宮材引泉之追馬喚犬二立民乃《ミヤキヒクイツミノソマニタツタミノ》、息時無戀渡可聞《ヤムトキモナクコヒワタルカモ》云々とあるは、序歌にて、泉の杣に立民のごとく、すこしもいこひ休む時もなく、戀渡るといへるなれば、語勢こゝと全く同じ。言をときとよむは、拾芥抄人名録に、言をときとよめり。論語了罕篇疏に、言者説也云々。荀子非相篇注に、言講説也云々などありて、物を解《トキ》さとす事にもなれば、こゝにも義訓にて、言をときとよむべしといへり。この説も、すてがたければあげつ。
千代二手《チヨマテニ》。
二手をまでとよめり。集中、諸手、左右手、左右などをも、までとよめり。この事は、上【攷證三丁】にいへり。本集三【十三丁】に、大宮之内二手所聞《オホミヤノウチマテキコユ》云々とも見えたり。さて、左右、二手などを、までとよめるは、何にまれ、物二つあるを、まとはいふなるべし。本集八【廿丁】に、二梶とあるをまかぢとよめるにても思ふべし。間《アヒダ》をまといふも、物二つあるが中なればなるべし。
來座多公與《キマセオホキミト》。
この一句、心得がたし。活字本には、與の字なし、考には、千代二手爾座牟公與《チヨマテニイマサムキミト》と直されて、今本千代二手來座多公與とありて、ちよまでにきませおほきみとゝ訓しは、理りもなく、字の誤りもしるければ、考るに、來は爾を誤れるもの、多は古本に牟とあり、仍て改めつ云々といはれつ。いかにもさる事ながら、みだりにあらたむべきならねば、(258)原本のまゝにておきつ。猶よく可v考。
吾毛通武《ワレモカヨハム》。
考云、この歌、初めには大御ことのまゝに、人皆所をうつろふ心をいひ、次に藤原より奈良までの、道の事をいひ、次に冬寒きほど家作りせし勞をいひ、末に事成て新家をことぶく言もて結べるは、よく調へる歌也。さて、こはよき人の家を、親しき人の事とり作りて、且その作れる人は、異所に住故に、吾もかよはんとよめるならん。又、親王、王たちの家も、即造宮司に取作らしむべければ、其司人の中に、よみしか云々といはれしがごとし。
反歌。
80 青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》。萬代爾《ヨロツヨニ》。吾母將通《ワレモカヨハン》。忘跡念勿《ワスルトオモフナ》。
忘跡念勿《ワスルトオモフナ》。
考に、今よりは長くしたしみ通はんに、うとぶる時ありとなおぼしそと也云々といはれしがごとし。
右歌作主不詳。
この六字、大須本になし。上下の例を考ふるに、古注ながらあるをよしとす。
(259)和銅五年壬子。夏四月。遣2長田王于伊勢齋宮1時。山邊御井作歌。
長田王。
續日本紀云、和銅四年夏四月、從五位上長田王、授2正末位下1云々。靈龜元年夏四月、正五位下長田王授2正五位上1云々。同二年春正月壬午、正五位上長田王、授2從四位下1云々。同年冬十月壬戌、以2從四位下長田王1、爲2近江守1云々。神龜元年二月壬子、從四位下長田王、授2從四位上1云々。天平元年三月甲午、從四位上長田王、授2正四位下1云々。同年九月乙卯、正四位下長田王、爲2衛門督1云々。同四年冬十月丁亥、正四位下長田王、爲2攝津大夫1云云。同六年二月癸巳朔、天皇御2朱雀門1、覽2歌垣1、男女二百四十餘人、五品已上、有2風流1者、皆交2雜其中1、正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等、爲v頭、以2本末1唱和云々。同九年六月辛酉散位正四位下長田王卒云々と見えて、三代實録、貞觀元年十月二十三日紀に、尚侍從三位廣井女王薨、廣井者、二品長親王之後也、曾祖(ハ)二世從四位上長田王、祖(ハ)從五位上廣川王、父(ハ)從五位上雄河王云々とあれば、長田王は長親王の御子なるべしとは思へど、續日本紀にのする所は、正四位下なるを、三代實録には從四位上とありて、位次たがへり。そのうへ、續日本紀に、天平十二年冬十月甲辰、從四位下長田王授2從四位上1云々とあるは別人なれば、いづれをかこゝの長田王とはせん。猶よく可v考。
伊勢齋宮。
齋宮は、豐鋤入姫命より始りしかど、伊勢國にうつり給ひしは、倭姫命をはじめとす。そは書紀垂仁紀云、二十五年三月丁亥朔丙申、離2天照大神於豐耜入姫命1、(260)託2于倭矩命1、爰倭姫命求d鎭2坐大神1之處u、而詣2菟田〓幡1、更還之、入2近江國1、東廻2美濃1到2伊勢國1時、天照大神誨2倭姫命1曰、是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也、欲v居2此國1、故隨2大神教1、其嗣立2於伊勢國1、因興2齋宮于五十鈴川上1、是謂2磯宮1、則天照大神、始自v天降之處也云々と見えたり。さてそれより、世々つぎ/\かはる/”\、立たまへり。されど、この和銅のころの齋宮不v詳。一代要記元明天皇の條に、神祇記を引て云、是時齋王不v定、田方内親王、多貴内親王各一度參入、次智努女王、次圓方女王、各一度參入云々と見えたり。
山邊御井。
こは、伊勢國鈴鹿郡山邊村なるよし、宣長いはれつ。考別記にも、いとながき論あれど、誤りなるよし、宣長が玉勝間卷三に辨ぜり。いづれもことながければ略す。本集十三【五丁】に、山邊乃五十師方御井者《ヤマヘノイシノミヰハ》とあると同所也。或人、書紀天智紀に、九年三月壬午、於2山御井傍1、敷2諸神座1、而班2幣帛1云々とあるを、こゝに引あてつれど、書紀なるは、近江國蒲生郡にて、こゝとは別所也。さて考ふるに、山の字の上に過《スクル》とか、覽《ミル》とか、又は外の字にても一字ありしを脱せしなるべし。さなくては、集中の例にもたがひ、語をもなさず。しかも見誤らば、人名とまがひぬべし。
81 山邊乃《ヤマノベノ》。御井乎見我※[氏/一]利《ミヰヲミガテリ》。神《カム・カミ》風乃《カセノ》。伊《イ》勢《セ・ノ》處女《ヲトメ》等《ドモ・ラ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》。
見我※[氏/一]利《ヲミガテリ》。
本集十七【十七丁】に、秋田乃穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミカテリ》云々などあり。又三【卅五丁】に、君待香光《キミマチカテリ》云云。七【十八丁】に、片待香光《カタマチカテリ》云々どある、香光《カテリ》を、舊訓は、がてらとよめれど、これら(261)もがてりとよむべし。さて、常には、がてらといへるを、らをりに通して、がてりとはいへる也。すべて、このがてら、がてりといふ語は、一つ物のあるうへに、又それに物をかぬる時の語にて、こゝは山邊の御井を見がてら、伊勢をとめを見んと思ひしに、果してあひみつるかなといへるなり。
神《カム・カミ》風乃《カゼノ》。
舊訓、かみかぜのとよみつれど、かむかぜのとよむべし。古事記中卷に、加牟加是熊伊勢能宇美能《カムカゼノイセノウミノ》云々。書紀神武紀に、伽牟伽筮能《カムカゼノ》云々などあれば也。さてこは神風の息《イキ》といふべきを略きて、いの一言にのみかけたる枕詞なり。猶冠辭考にくはし。
伊勢處女等《イセヲトメドモ》。
舊訓、いせのをとめらとよみたれど、難波女《ナニハメ》、泊瀬女《ハツセメ》など(の脱?)類なれば、間に、の文字をそへて、よむまじき所なれば、略解にいせをとめどもとよみしをよしとす。こは、齋宮の宮女などをいへなるべし。
82 浦佐夫流《ウラサブル》。情佐麻禰之《コヽロサマネシ》。久竪乃《ヒサカタノ》。天之四具禮能《アメノシクレノ》。流相《ナガラフ・ナガレアフ》見者《ミレバ》。
浦は借字にて、心といふこと也。佐夫流に、冷《スサマ》しき意也。これらの事は、上【攷證二丁】にいへり。考云。こは久しき旅ゐに、愁る心すさまじくして、なぐさめがたきをいふ也云々といはれしがごとし。
(262)情佐麻《コヽロサマ》禰《ネ・ミ》之《シ》。
佐麻禰之の禰を、印本|彌《ミ》に誤れり。眞淵の説によりて改む。本集十六【廿六丁】に美彌良久埼《ミヽラクノサキ》を美禰良久に誤る類也。佐麻禰之《サマホ(マヽ)シ》は、考に卷十八に、月重ね美奴日佐末禰美てふも、見ぬ日間なくにて、佐は發語也。この類、卷二、また卷十七にもあり。さて、しぐれのふるを見て、うらさぶる心のひま無といへり云々。宣長云、さまねしの、さは、發語にて、まねしは物の多き事にて、しげき意也。これはたゞさびしき心のしげき也。二【卅七丁】に、眞根久往從者人應知見《マネクユカハヒトシリヌベミ》云々。四【五十九丁】に、君之使乃麻値禰久通者《キミカツカヒノマネクカヨヘハ》云々。これらしげき意也。十七【卅七丁】多麻保許乃美知爾伊泥多知《タマホコノミチニイデタチ》、和可禮奈婆《ワカレナバ》、見奴日佐麻禰美孤悲之家牟可母《ミヌヒサマネミコヒシケムカモ》云々。又【四十六丁】矢形尾能多加乎手爾須惠《ヤカタヲノタカヲテニスヱ》、美之麻野爾可良奴日麻禰久《ミシマヌニカラヌヒマネク》、都寄曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》云々。十八【卅丁】に、月可佐禰美奴日佐末禰美《ツキカサネミヌヒサマネミ》、故敷流曾良夜須久之安良禰波《》云々。十九【十六丁】に、朝暮爾不聞日麻禰久《アサヨヒニキカヌヒマネク》、安麻射可流夷爾之居者《アマサカルヒナニシヲレハ》云々。又【廿三丁】不相日麻禰美念曾吾爲流《アハヌヒマネミオモヒゾワカスル》云々。これら日數の多きないへり。二【廿八丁】に、數多成塗《アマタナリヌル》云々。この外、數多と書るに、まねくと訓てよろしき所多し。今本の訓は、誤れり。さて、このまねくの意を、間無の意とするは、右の十七、十八、十九の歌どもにかなはず云々などいはれたり。宣長の説をよしとすべし。續日本紀、寶龜三年五月の詔に、一二遍《ヒトタビフタタビ》【能未仁】不在遍麻年久發覺奴《アラスタヒマネクアラハレヌ》云々。又天應元年四月の詔に、天下【乎毛】亂己我氏門【乎毛】滅人等麻禰久在云々など見え、龍田風神祭祝詞に、一年二年爾不在《ヒトヽセフタトセニアラズ》、歳眞泥久傷故爾《トシマネクソコナヘルユヱニ》云々などあるも意同じ。
久堅乃《ヒサカタノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。天の形は、まろく虚《ウツ》ろなるものなれば、※[誇の旁+包]形《ヒサカタ》の天とつゞけしなり。集中久堅、久方などかけるは借字なり。
(263)天之四具禮能《アメノシグレノ》。
しぐれは、和名抄雲雨類に、孫※[立心偏+面]曰※[雨/衆]【音與v終同漢語抄云之久禮】小雨也云々と見え、新撰字鏡に、※[雨/沐]、雹〓などの字をよめり。天よりふるものなれば、あめのしぐれとはいへり。こは、露霜をあめのつゆじもといへる類なり。猶時雨の事は、下【攷證三下十三丁】にいふべし。
流相《ナガラフ・ナガレアフ》見者《ミレバ》。
ながらふは、ながるゝをつゞめたる語にて、しぐれのあめのながれふるをいへる也。このこと、上【攷證四十六丁】にいへり。一首の意は、そらよりしぐれの流れふりなどして、さびしきを見れば、心さびしくすさまじくおもふ心しげしとなり。下より、一二の句へうちかへして心得べし。
83 海底《ワタノソコ・ワタツミノ》。奧津白浪《オキツシラナミ》。立田山《タツタヤマ》。何時鹿越奈武《イツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》。
眞淵は、枕詞ならず、いはれしかど、枕詞なることしるし。尤枕詞ならぬも有。本集四【四十三丁】に、海底奧乎深目手《ワタノソコオキヲフカメテ》云々。五【十三丁】に、和多能曾許意枳都布可延乃《ワタノソコオキツフカエノ》云々。七【二十丁】に、綿之底奧己具舟乎於邊將因《ワタノソコオキコグフネヲヘニヨセム》云々。又【卅一丁】海底奧津白玉《ワタノソコオキツシラタマ》云々など見えて猶多し。奧は海の面をいふのみにあらず、深き事にもいへれば、海底《ワタノソコ》ふかきといふ意につゞけたるなり。(頭書、底《ソコ》は、そきとかよひて、奧をいふ也。されば、海の奧沖とつゞけし也。)
奧津白浪《オキツシラナミ》。
奧《オキ》は、古事記上卷に、訓v奧云2淤伎1、下效v之と見えたり。奧《オキ》は、奧と邊と對しいふ時は、海面の事なれば、深き意に用ふる所多し。眞淵云、奧墓を於枳都紀とい(264)ふは、深きをおきといへる也。澳放而を、おきさけてとよむは、後世と同じく、遠き方をいふ也云々といはれつるがごとぐ、尚書序釋文に、奧深也云々、文選陸士衡樂府塘上行 注に、奧猶v深也云々と見えたり。
立田山《タツタヤマ》。
奧津《オキツ》しら浪の立といふを、立田山にいひかけたり。一二の句、立田山といはんのみの序にて、こゝろなし。古今集雜下に、よみ人しらず、風ふけばおきつしら浪立田山よはにや君がひとりこゆらんとよめるも、同じ。考云、冠辭と序歌は、末の心にまどひなき事をいふもの故に、かく異なる事をもいへり。立田は、大和の平群郡にて、河内の界なれば、伊勢とは其方たがへり。(頭書、立田山、玉かつま五。)
何時鹿越奈武《イツカコエナム》。
本集、二【八丁】に、何時邊乃方二《イツベノカタニ》云々。三【廿一丁】に、何時毛將越《イツカモエム》云々などある、何時も、みな義訓にて、こゝと同じ。集中、猶多し。このいつかといへる語は、願ふ意の詞なり。
妹之當見武《イモカアタリミム》。
妹があたりを、はやく見まほしく思ふ意なれば、妹があたりを、はやく見んと思ふに、立田山をいつしかこえなんと句を上へうちかへして心得べし。
右二首。今案。不v似2御井所1v作。若疑。當v時誦之古歌歟。
(265)此注、尤さる事也。二首ともに、御井の歌にあらず。
長皇子。與2志貴皇子1。於2佐紀宮1。倶宴歌。
諸本、この長皇子の上に、寧樂宮の三字あり。これは亂れ入つるなれば、上、和銅元年の歌の上に、加へて、こゝにははぶけり。そのよしは、上、寧樂宮の所にいへり。
長皇子。
上【攷證四十七丁】に出たり。
志貴皇子。
上【攷證三十三丁】に見ゆ。
佐紀《サキノ》宮。
この宮、長皇子の宮なる事、考に、卷二の志貴皇子の薨給へる時の歌によるに、この皇子の宮は、高圓にあり。佐紀は、長皇子の宮にて、こはあるじの皇子のよみ給ふ也云々といはれつるがごとし。佐紀は、地名にて、大和國添下郡なり。古事記中卷に、狹木之寺間《サキノテラマノ》陵云々。書紀垂仁紀に、三十五年冬十月、作2倭狹城《ヤマトサキノ》池1云々。續日本紀に、寶龜元年八月丙午、葬2高野天皇於大和國添下郡|佐貴《サキノ》郷高野山陵1云々。延喜神名式、大和國添下郡佐紀神社云々。諸陵式に、狹城《サキノ》盾列池後陵、狹城盾列池上陵、在2大和國添下郡1二云々。和名抄郷名に、大和國添下郡|佐紀《サキ》云々など見えたり。本集十【十四丁】に、姫部思咲野爾生白管自《ヲミナヘシサキヌニオフルシラツヽジ》云々。又【卅五丁】佳人部爲咲野之芽子爾《ヲミナヘシアサキヌノハギニ》云々などある、をみなへしは、枕詞にて、咲野《サキヌ》は地名にて、こゝと同じ。さて、考には、こ(266)の端辭、集中の例と、目録によりて、長皇子與2志貴皇子1、宴2於佐紀宮1時、長皇子御作歌と直されたり。これ尤さる事ながら、左注に、右一首長皇子とさへ、ことわりたれば、古くより今のごとくありしとおもはるれば、みだりにあらたむべきにあらず。依てもとのまゝにしるしつ。
84 秋《アキ》去《サラ・サレ》者《バ》。今毛見如《イマモミルコト》。妻戀爾《ツアコヒニ》。鹿《シカ・カ》將鳴山曾《ナカムヤマソ》。高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》。
摘餌招彗競稠酢誓鋼齢帥欝露駁點椚雛椚酢髭いい
ハルサラバハナノサカリニ
あり。この事は上【攷證上廿九丁】にもいへり。(頭書、五【廿六丁】に、波流佐良婆奈良能美夜故爾※[口+羊]佐宜多麻波禰《ハルサラハナラノミヤコニメサケタマハネ》云々。)
今毛見如《イマモミルコト》。
今こゝに見るごとく、秋にならば猶鹿のなかんやまぞといへるなり。
鹿將鳴山曾《シカナカムヤマソ》。
舊訓、かなかん山ぞとよめるは、しひて字數をあはせんとての誤り也。鹿はしかとよむべし。宣長云、すべて、集中に、鹿の字は、皆かと訓べし。しかと訓ては、いづれも文字あまりて調べわろし。しかには、必ず牡鹿と牡の字をそへてかけり。心をつくべし。鹿の一字をしかとよみて、よろしきは集中に、はつかに一つ二つなり。和名抄にも、鹿和名加とあり云々いはれつるは甚しき誤り也。集中、しかとよむべき所にも、鹿の一字をかけ(る脱?)所かぞへがたきまで多かるをや。いかに心得て、かゝる事をばいひ出られけん。
(267)高野原之宇倍《タカヌハラノウヘ》。
高野原《タカヌハラ》は、まへに引たる續日本紀に、佐貴郷高野山陵とあれば、佐紀宮のほとりなるべし。宇倍《ウヘ》は上にて、ほとりといふ意也。この事は、上【攷證廿七丁】にいへり。
右一首長皇子。
印本、この卷の末に、藤原重家卿、仙覺律師などの奧書をのせたれど、こは一部の終にのすべき例なれば、こゝにははぶけり。
去年の神無月、中の九日より、筆とりしかど、ことしきさらぎ朔日、家のやけぬるさわざに、やゝおこたりしを、四月朔日より、又さらにおもひおこして、この卷に考證しをはりしは、文政七とせといふとしの、五月中の三日になん。
岸本由豆流
(以上攷證卷一下冊)
(268)(追記。次の文は攷證第二卷中冊六丁オ柿本朝臣人磨從石見國別妻上來時歌の反歌、小竹之葉者云々の歌の條の附箋に書かれてあるが、これはもと第一巻上冊の終の攷證の一部であつたものを、後人が誤つて現在の場所に貼附したものと認められるから、今ここに附載しておく。)
○卷二に八すみしゝ吾大王の大み舟まちかこひなんしかのからさき云々。卷三に百しきの大宮人のまかりでてあそぶふねにはかぢさほもなくてさぶしもこぐ人なしに、などの類也。
○亦毛相目八毛。こも常いふ事なれど、一本の方、語ふるければ、ふるき方によるべし。さて水はかく淀むところもあれど過行世人はとゞまる事なきものを、今また昔人にあはんとおもはめや。舟まちかねしぞはかなかりけりと、今ぞ思ひしりたる也。
大正十三年十二月十二日印刷
大正十三年十二月十五日發行
定價八拾錢
著者 故岸本由豆流
校訂者 武田祐吉
東京市外西大久保四五九番地
發行者 橋本福松
東京市麹町區紀尾井町三番地
印刷者 福王俊禎
發兌元 東京市外西大久保四五九番地 古今書院
2009年7月14日(火)午後4時15分、入力終了
(1)萬葉集卷第二
相聞《アヒキコエ》。
考に、後の世の歌集に、戀といふにひとし云々といはれつるはたがへり。相聞とは、思ふ事を相たがひに聞えかはす意なる故に、この卷にも戀の歌ならぬがいと多し。たゞ贈答歌、あるは答へはなくとも、いひやれる歌と心得べし。國語 語に、世同居少同游、故夜戰聲相聞、足2以不1v乖、晝戰目相視、足2以相識1云々。文選曹子建與2呉季重1書に、口授不v悉、往來敷相聞云云などある、相聞と云字も、一つの標目にはあらねど、たがひに聞えかはす事也。これらにても、相聞は戀にかぎらざるをしるべし。又わが友、狩谷望之が讀書筆記に、相聞とは、互に聞えかはすといふ事なり。欝岡齋法帖に載る、唐無名書月儀に、十二月朋友相聞書と題せる是也。この月儀は、こゝの往來といふものゝごとく、毎月贈答の文章を作りたるものにして、男女の情を通はしたる文にはあらず云々といへるがごとし。又和歌童蒙抄に、萬葉集に相聞往來歌類也。その歌どもは、多くは戀の心、或は述懷、※[覊の馬が奇]旅、悲別、問答にて、それとたしかにさしたる事はなし。たゞ花紅葉をもてあそび、月雪を詠ぜるにはあらで、おもふこゝろをいかさまにもいひのべて、人にしらする歌を、相きかする歌と名づけたるなるべし云々あるも、予が説にちかし。
難波高津宮御宇天皇代。大鷦鷯《オホサヽギノ》天皇。【天皇御謚を仁徳と申す。書紀本紀云、大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也、母曰2仲姫命1、五百城(2)入彦皇子之孫也云々。元年春正月、丁丑朔己卯、大鷦鷯尊、即2天皇位1、都2難波1、是謂2高津宮1云々と見え、古事記に、大雀命、坐2難波之高津宮1治2天下1也云々と見えたり。大鷦鷯尊と申す御名のよしは、書紀本紀に、初天皇生日、木菟《ツク》入2于産殿1、明旦、譽田天皇、喚2大臣武内宿禰1、語v之曰、是何瑞也、大臣對言、吉祥也、復當2昨日1、臣妻産時、鷦鷯《サヽギ》入2于産屋1、是亦異焉、爰天皇曰、今朕之子、與2大臣之子1、同日共産、兼有v瑞、是天之表焉、以d爲取2其島名1各相易名v子、爲c後葉之契u也、則取2鷦鷯名1、以名2太子1、曰2大鵜鶴《オホサヽギノ》皇子1、取2木菟名1、號2大臣之子1、曰2木菟《ツク》宿禰1云々とあり。鷦鷯は、和名抄羽屬名に、文選鷦鷯賦云鷦鷯【焦遼二音、和名佐々木】小鳥也、生2於蒿莱之間1、長2於藩籬之本1云々。新撰字鏡に、鷯【聊音鷦加也久支又佐々支】云々。古事記下卷に、佐邪岐登良佐泥《サザキトラサネ》云々とあり。さて大鷦鷯天皇の五字、印本大字、今小字とす。
磐姫皇后。思2天皇1。御作歌。四首。
磐姫皇后。
古事記下卷に、此天皇、娶2葛城之曾都毘古之女石之日賣命1云々と見え、書紀仁徳紀に、二年春三月、辛末朔戊寅、立2磐之媛命1爲2皇后1云々。三十五年夏六月、皇后磐之媛命、薨2於筒城宮1云々と見えたり。さてこゝに磐姫と御名をしるせるを、令法にも背き、集中の例にもたがへりとて、考にたゞ皇后とせられしは、甚しき誤り也。この皇后、薨じ給ひて後、三十八年の正月、八田皇女を立て皇后とし給ひしかば、たゞ皇后とのみにては、いづれを申にか、わからざれば、御名をばしるせる也。元暦本にも、この二字をはぶけるは、さかしら也。(3)又何首の二字をも、考にははぶかれしかど、是も集中の例を考ふるに、あるをよしとす。
85 君之行《キミカユキ》。氣長成奴《ケナカクナリヌ》。山多都禰《ヤマタツネ》。迎加將行《ムカヘカユカム》。待《マチ・マツ》爾可將待《ニカマタム》。
この歌は、下の古注に、古事記を引たるがごとく、衣通王の、輕太子をこひまつりて、よめる歌なるを、こゝに、磐姫の皇后の御歌とするは誤り也。其うへ、時代もすこしたがへるをや。依て考には、この歌をばはぶかれたり。これもさる事ながら、諸本皆かくのごとくなれば、しばらく、本のまゝにておきつ。これ、この集の撰者の誤りか。又は後人のみだりに加へつるか。
君之行《キミカユキ》。
この歌、衣通王の歌なれば、君とは輕太子をさせる也。君之行《キミカユキ》は、體言にして、旅行《タビユキ》、御幸《ミユキ》などの、ゆきと同じ。本集三【卅一丁】に、吾行者久者不有《ワカユキハヒサニハアラス》云々。九【廿丁】に、吾去者七日不過《ワカユキハナヌカハスキシ》云々。十九【卅四丁】に、君之往者久爾有染《キミカユキモシヒサニアラハ》云々。廿【四十丁】に、和哉由伎乃伊伎都久之可婆《ワカユキノイキツクシカハ》云々など見えたり。宣長云、けながくなりぬは、月日長くなりぬなり。氣《ケ》は來經《キヘ》のつゞまりたる也。師の、褻なりといはれたるは、叶はず。又契沖が、息のことにいへるも非也。來經《キヘ》は、年月日の經行《ヘユク》こと也。十三【卅四丁】に、草枕此※[覊の馬が奇]之氣爾妻放《クサマクラコノタヒノケニツマサカリ》云々とよめるなども、旅にして月日を經《フ》るほどの旅の氣といへり。長くは久しく也云々といはれしがごとし。けながくといへる詞、集中いと多し。(頭書、本集四【十二丁】に、一日社人母待告長氣乎《ヒトヒコソヒトモマチツケナガキケヲ》云々。)
(4)山多都禰《ヤマタヅネ》。
古事記には、夜麻多豆能《ヤマタヅノ》とあるを、傳へ誤りて、山たづねとはせし也。されど、此集のごとく、山尋《ヤマタツネ》としても、意は聞えたり。君が行て、月日長く經にしかば、山べをたづねて、むかへにかゆかん、又たゞ待にかまちてあらんと也。
迎加將行《ムカヘカユカム》。
古事記には、牟加閉袁由加牟《ムカヘヲユカム》とあり。いづれにても、意はきこゆ。むかへにかゆかんと也。本集六【廿五丁】に、山多頭能迎參出六《ヤマタヅノムカヘマヰデム》云々など見えたり。
待《マチ・マツ》爾可將待《ニカマタム》。
古事記には、麻都爾波麻多士《マツニハマタジ》とあり。こゝも、いづれにても意はきこゆ。君を、山べなどたづねて、むかへにかゆかん。又は、たゞこゝにてまちにかまたんといふ意也。宣長は、結句まちにかまたんにては、上に叶はずとて、さとにかまたん|に《(マヽ)》直されしかどなか/\にたがへり。
右一首歌。山上憶良臣類聚歌林載焉。
上には、みな憶良大夫としるし、こゝにはじめて臣とせり。大夫とかけるも、臣とかけるも、みな稱していへる也。すべて、官位にまれ、姓にまれ、名の下に付ていふは、みな尊稱のことばとしるべし。
86 如此許《カクハカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》。高山之《タカヤマノ》。磐根四卷手《イハネシマキテ》。死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
(5)この御歌より下三首は、皇后の御歌なり。
如此許《カクハカリ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズバ》。
考の説たがへり。こゝの意は、かくのごとく、戀つゝあらんよりはといふ意也。あらずばの、ずばは、んよりはといふ意に用ひたり。此卷下【十五丁】に、遺居而戀管不有者追及武《オクレヰテコヒツヽアラズバオヒシカム》、道之阿囘爾標結吾勢《ミチノクマワニシメユヘワガセ》云々。四【四十九丁】に、如是許戀乍不有者《カクハカリコヒツヽアラズバ》、石木二毛成益物乎《イハキニモナラマシモノヲ》、物不思四手《モノモハスシテ》云々などある、ずばといへる語も、皆同じ意也。この語、集中いと多し。猶くはしくは、宣長が、詞の玉の緒に見えたり。
高山之《タカヤマノ》。磐根四卷手《イハネシマキテ》。
考に、葬てあらんさまを、かくいひなし給へり云々といはれしがごとく、高山《タカヤマ》は、葬れる山をいへる也。本集三【四十六丁】石田王卒之時、丹生女王のよめる歌に、高山之石穗乃上爾君之臥有《タカヤマノイハホノウヘニキミカコヤセル》云々とある、高山も、葬れる所をいへり。さて、磐根四卷手《イハネシマキテ》の、しは助字、卷手《マキテ》は枕とする也。本集一【攷證一ノ下五十四丁】に、松之根乎枕宿杼《マツカネヲマキテシヌレド》云々とあると同じ。くはしく其所にいへり。
死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》。
かくのごとく、戀てのみあらんよりは、葬する高山の石根などまくらとして、死ましものをと、のたまへる也。考云、天皇の吉備の黒媛がもとへ幸し時など、かくまでは、待わび給へるにや。紀を見るに、これら、この后の御心にはありける云々。
(6)87 在管裳《アリツヽモ》。君乎者將待《キミヲハマタム》。打《ウチ》靡《ナヒク・ナヒキ》。吾黒髪爾《ワカクロカミニ》。霜乃置萬代日《シモノオクマテニ》。
在管裳《アリツヽモ》。
ながらへ在つゝ、君をば待んと也。本集三【廿九丁】に、在管裳不止將通《アリツヽモヤマスカヨハムj》云々。四【廿丁】に、在乍毛張之來者立隱金《アリツヽモハルシキタラハタチカクルカネ》云々。七m【廿八丁】に、有乍君來座《アリツヽモキミカキマサハ》云々などありて、集中猶多し。
打《ウチ》靡《ナヒク・ナヒキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。髪もなびく物ゆゑに、うちなびく髪とつゞけし也。本集十二m【廿二丁】に、待君常庭耳居者《キミマツトニハニノミヲレハ》、打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《ウチナヒクワカクロカミニシモソオキニケル》云々とも見えたり。さて、舊訓うちなびきとあれど、うちなびくとよむべし。五【十六丁】に、有知奈※[田+比]久波流能也奈宜等《ウチナヒクハルノヤナキト》云々などあれば也。
霜乃置萬代日《シモノオクマテニ》。
考云、今本、此未を霜乃置萬代日《シモノオクマテニ》とあるは、此左に擧し或本歌に、居明而君乎者將待《ヰアカシテキミヲハマタム》、奴婆珠乃吾黒髪爾霜者零騰文《ヌハタマノワカクロカミニシモハフルトモ》云々。又卷五に、待君常庭耳居者打靡吾黒髪爾霜曾置爾家類《キミマツトニハニノミヲレハウチナヒクワカクロカミニシモソオキニケル》云々とある歌などに、まがひて、古歌の樣よく意得ぬ人の、かき誤れるもの也。何ぞといはゞ、古歌に、譬言は多かれど、く樣に、ふと霜のおくといひて、白髪の事を思はするごとき事、上つ代の歌にはなし。又この句のさま、他歌の言のまがひ入し事、おのづからも見えぬるを、見しる人はしるべし云々とて、白久爲萬代日《シロクナルマテニ》と直されたり。これも、一わたりはさる事ながら、外にさる本もあらば、直しもしつぺし。自らの心一つもて、千歳のさきの歌を直さんは、あまりしき事也。これ、例の古書の改《(マヽ》》る僻也。さて本集七【八丁】に、烏玉之吾黒髪爾落名積《ヌハタマノワカケロカミニフリナツム》、天之露霜取者消乍《アメノツユシモトレハキエツヽ》云々。五【九丁】に、美奈乃和多迦具漏伎可美爾《ミナノワタカクロキカミニ》、伊都乃麻可斯毛乃布利家武《イツノマカシモノフリケムケム》云々。十七【十三丁】に、布流由吉乃之路髪麻泥爾《フルユキノシロカミマテニ》云々などもありて、白髪を霜雪などに、たとふ(7)るは、つねの事なれば、ふと霜のおくまでにといひ出たりとも、何のうたがふ事かあらん。その上、かみしも何のかけ合せもなく、ふと物をいひ出るこそ、古歌のつねなれ。しかも、霜のおくまでにとしては、意の聞えぬ事あらば、これかれをたくらべて、直しもしつべけれど、もとのまゝにても、意はよく聞ゆるを、かくみだりに直さるゝは、罪多き事ならずや。萬代日は借音なるのみ。
88 秋之田《アキノタノ》。穗《ホノ》上《ヘ・ウヘ》爾《ニ》霧相《キラフ・キリアフ》。朝霞《アサカスミ》。何時邊乃方二《イヅベノカタニ》。我戀將息《ワカコヒヤマム》。
本集十【五十丁】に、秋田之穗上爾置白露之《アキノタホノヘニオケルシラツユノ》云々などある、上も、へとのみよむべし。五【十一丁】に、比等能比射乃倍《ヒトノヒサノヘ》、和我摩久良可武《ワカマクラカム》云々。又【十八丁】烏梅能波奈《ウメノハナ》、多禮可有可倍志《タレカウカヘシ》、佐加豆岐能倍爾《サカツキノヘニ》云々などある倍《ヘ》も、みなうへの略也。霧相《キラフ》は、上一【攷證一上四十八丁】に、霞立春日之霧流《カスミタツハルヒノキレル》云々とある所にいへるがごとく、くもれるをいへる也。本集六【四十四丁】に、天霧合之具禮乎疾《アマキラフシクレヲイタミ》云々ともありて、くもりあふ也。舊訓、きりあふとあれど、りあの反、らなれば、きらふとよむべし。
朝霞《アサカスミ》。
中古より、霞は春のものとのみなれれど、集中あきにもよめり。本集八【卅四丁】に、霞立天河原爾《カスミタツアマノカハラニ》、待君登《キミマツト》云々。十【五十三丁】秋相聞に、朝霞鹿火屋之下爾《アサカスミカヒヤカシタニ》云々などあり。十(ノ)卷なるは、枕詞ながら、秋によめれば、こゝにはひける也。猶下【攷證三下五十五丁】にも出たり。
(8)何時邊乃方二《イツベノカタニ》。
考に、何れの方といふ也。卷十九に、ほとゝぎす伊頭敝能山乎鳴《イツヘノヤマヲナキ》か越らんともあるもて、禮を邊に通はせいふをしる云々といはれしがごとし。
我戀將息《ワカコヒヤマム》。
わが戀のやむべきと也。秋の田の穗の上などに、くもりあふ朝がすみのごとく、はれぬ御思ひを、いづれの方にやりてか、わが御戀のやむべきとのたまへる也。上句は譬歌なり。
或本歌曰。
89 居《ヲリ・ヰ》明而《アカシテ》。君乎者將待《キミヲハマタム》。奴婆珠乃《ヌハタマノ》。吾黒髪爾《ワカクロカミニ》。霜者零騰文《シモハフルトモ》。
居《ヲリ・ヰ》明而《アカシテ》。
寐もねず、居あかして也。本集十八【十三丁】に、乎里安加之許余比波能麻牟《ヲリアカシコヨヒハノマム》云々などあり。すべてよるいねず、おきあかして居るを、をるといへり。この事は、宣長が玉勝間卷十四に辨せり。
奴婆珠乃《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。ぬば玉は、烏扇《カラスアフキ》の實《ミ》にて、このもの、野に生る故に、野《ヌ》とはいひ、その葉、羽に似たれば、羽といひ、其實、黒き玉のごとくなれば、ぬば玉とはいへる也。さて、その黒きよりして、黒き事はもとより、夜、月、夢其外いろ/\につゞくるなり。
(9)霜者零騰文《シモハフルトモ》。
さよふけて、髪の上などに霜はふりおけりとも、猶居あかして、君をばまたんと也。
右一首。古歌集中出。
右一首は、古き歌集の中に出たりと也。出の字、古の字の上にあるべき也。かくみだりがはしき書ざまなるにても、古注の誤り多きをしるべし。されど、いと古き人のしるしゝなれば、又とる所も多かり。
古事記曰。輕太子。※[(女/女)+干]2輕大郎女1。故其太子。流2於伊豫湯1也。此時。衣通王。不v堪2戀慕1。而追往時。歌曰。
古事記序云、惜2舊辭之誤忤1、正2先紀之謬錯1、以2和銅四年九月十八日1、詔2臣安萬侶1、撰2録稗田阿禮所v誦之勅語舊辭1、以献上者云々。和銅五年正月二十八日、正五位上勲五等、太朝臣安萬侶謹上云々とあり。
輕太子《カルノミコノミコト》。
古事記下卷云、男淺津間若子宿禰命、此天皇、娶2意富杼王之妹、忍坂之大中津比賣命1、生2御子木製之輕王、次長田夫郎女、次境之黒日子王、次穴穗命、次輕大郎女1云(10)云。書紀允恭紀云、二十三年春三月、甲午朔庚子、立2木梨輕皇子1、爲2太子1、容姿佳麗、見者自感、同母妹輕大娘皇女、亦艶妙也、太子、恒念v合2大娘皇女1、畏v有v罪、而黙v之、然感情既盛、殆將v至v死、爰以爲、徒非v死者、雖v有v罪、何得v忍乎、遂竊通、乃悒懷少息云々と見えたり。
※[(女/女)+干]《タハク》。
印本奸に作るは誤れり。今、古事記によりて改。新撰字鏡に、※[(女/女)+干]【亂也犯淫也多波久】云々と見えたり。たはくとよむべし。
輕大部女《カルノオホイラツメ》。
古事記云、輕大郎女、亦名衣通郎女、御名所v負2衣通王1者、其身之光、自v衣通出也云々と見えたり。
其太子。流2於伊豫湯1也。
本書を考ふるに、其字の下に輕の字あり。今脱せるか。又は、わざとはぶけるか。伊豫湯の事は、上【攷證一上十三丁】にいへり。さて、古事記には、太子を流し奉りしよしあれど、書紀には、太子是爲2儲君1、不v得v罪、則流2輕大娘皇女於伊豫1云々とあり。いづれをか是とせん。
追往。
追の字、印本遺に誤る。今本書と、活字本によりてあらたむ。さて、こゝに引たる古事記の文も、次にあげたる歌も、くはしく古事記傳によりて見るべし。
90 君之行《キミカユキ》。氣長久成奴《ケナカクナリヌ》。山多豆乃《ヤマタツノ》。迎乎將往《ムカヘヲユカム》。待爾者不待《マツニハマタジ》。【此云山多豆者。是今造木者也。】
本書には、岐美賀由岐氣那賀久那理奴《キミカユキケナカクナリヌ》、夜麻多豆能牟加閉袁由加牟《ヤマタツノムカヘヲユカム》、麻都爾波麻多士《マツニハマタジ》云々とあるを、こゝには、この集の書ざまに直しては、しるせる也。
山多豆乃《ヤマタツノ》。
枕詞にて、冠辭考、古事記傳などにくはし。されど宣長の釿《テヲノ》なりといはれしはたがへり。冠辭考にいはるゝごとく、鐇《タヅキ》なり。この物、今いふまさかりといふ物にて、木をうつ時には、刃をわが方にむかへて用ふ。故に山多豆乃迎《ヤマタツノムカヘ》とはつゞくる也。さて、この物、大神宮儀式帳に、立削《タツゲ》一柄云々。外宮儀式帳に、立削※[金+斧]《タツケヲノ》一柄云々などかけり。これ正字にて、たつげは字のごとく、立に削《ケツル》意なるを略して、たつげとはいへる也。又そのけを略して、たづとのみもいへり。分注十二字、印本大字とす。今本書によりて小字とす。
右一首歌。古事記。與2類聚歌林1。所v説不v同。歌壬亦異焉。因檢2日本紀1。曰。難波高津宮御字。大鷦鷯天皇。廿二年春正月。天皇語2皇后1。納2八田皇女1。將v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇。歌以乞2於皇后1云々。三十年。秋九月。乙卯朔乙丑。皇后遊2行紀伊國1。到2熊野岬1。即取2其處之御鋼葉1。而還。於v是。天皇。伺2皇后不1v在。而娶2八田皇(12)女1。納2於宮中1。時皇后。到2難波濟1。聞3天皇合2八田皇女1。大恨v之云云。亦曰。遠飛鳥宮御宇。雄朝嬬稚子宿禰天皇。二十三年春三月。甲午朔庚子。立2木梨輕皇子1。爲2太子1。容姿佳麗。見者自感。同母妹輕大娘皇女。亦艶妙也云々。遂竊通。乃悒懷少息云々。廿四年夏六月。御羮汁凝以作v氷。天皇異v之。卜2其所由1。卜者曰。有2内亂1。蓋親親相|姦《タハク》乎云々。仍移二2娘皇女於伊與1者。今案。二代二時。不v見2此歌1也。
語皇后。
本書、皇后の下、曰の字あり。
八田皇女。
書紀應神紀云、妃和珥臣祖、日觸使主之女、宮主宅媛、生2八田皇女1云々。仁徳紀云、三十八年春正月、癸酉朔戊寅、立2八田皇女1、爲2皇后1云々。舊事記卷八云、(13)履中天皇元年、春二月、壬午朔、尊2皇后1、曰2皇大后1云々。
妃。
古今韻會に、妃嬪御之貴者、次v於v后云々と見えたり。書紀に、妃、夫人、庶妃、嬪、女御など、みな、みめとよめり。御妻《ミメ》の義なり。
皇后云々。
云々の二字、印本之の一字に誤る。今元暦本によりて改む。書紀神代紀に、云々をしか/”\とよめり。史記汲黯傳に、上曰、吾欲云々。注に、云々猶v言2如v此如1v此也云々。文選阮元瑜書、張銑注に、云々謂2辭多略不1v能v載也云々と見えたり。
熊野(ノ)岬《ミサキ》。
熊野岬は、紀伊國牟婁郡なり。書紀神代紀上に、熊野之御崎とあるは、出雲國意宇郡にて、同名異所なり。古事記中卷に、廻幸到2熊野村1云々とあるは、紀伊國なり。和名抄山谷類に、唐韻云岬【古狎反日本紀私記云美佐岐】云々と見え、同書郷名に、紀伊國牟婁郡三前と見えたり。岬、印本※[山+卑]に誤る。今本書と元暦本によりて改む。
御鋼葉《ミツヌカシハ》。
本書に、御綱葉【葉此云箇始婆】云々とあり。書紀、古事記等に、字のまゝにみつなかしはとよめるは、いかゞ。みつぬかしはとよむべし。そは、下にあぐるがごとく、三津野柏、御角柏などかけるにても、しるべし。さて、大神宮儀式帳に、眞會酒釆女二人、侍御、角柏盛人別給云々。延喜造酒司式に、三津野柏二十把、長女柏四十八把云々などありて、豐明また神事などに、御酒を盛料の物と見ゆ。この柏は、葉三またにてさき尖《トカ》りたれば、三角の意の名なるべしと宣長いはれぬ。猶くはしくは、書紀通證、古事記傳、大神宮儀式帳解等に見えたり。
(14)於v是。
本書、是の字の下、日の字あり。
難波濟《ナニハノワタリ》。
本書云、皇后到2難波濟1、聞3天皇合2八田皇女1、而大恨v之、則其所v採御綱葉、投2於海1、而不2著岸1、故時人號2散v葉之海1、曰2葉《カシハ》濟1也云々と見えたり。又景行紀に、亦比v至2難波1、殺2柏濟《カシハノワタリ》之惡神1【濟此云2和多利1】云々とあり。攝津志に、柏濟、在2西成郡野里村1云云と見ゆ。古事記下卷に、難波之大渡とあるはこゝ歟。玉篇に、濟(ハ)渡也云々とあり。
遠飛鳥《トホツアスカノ》宮御宇。雄朝嬬稚子宿禰天皇。
古事記下卷云、男淺津間若子宿禰命、坐2遠飛鳥宮1治2天下1也云々と見えたり。遠飛鳥の事は、上【攷證一下六十八丁】にいへり。御下、印本膳の字あり。字、印本干に誤る。今意改。
御羮汁《ミアツモノノシル》。
羮は、和名抄葉羮類に、楚辭注云、有v菜曰v羮【音庚和名阿豆毛乃】無v菜臼v※[月+霍]【呼各反和名上同、今按是以2魚鳥肉1爲v羮也】云々と見え、汁は、祈年祭祝詞に、汁《シル》【爾母】穎【爾母】云々。延喜主計式に、汁漬坏。大膳式に、汁糟。九條殿年中行事に、汁物など見えたり。
内亂。
唐名例律に、十惡、十曰2内亂1、謂d姦2小功以上親父祖妾1、及與和者u云々。疏議に、左傳云女有v家、男有v室、無2相續1、易v此則亂、若有v禽2獣其行1、明2淫於家1、紊2亂禮經1、故曰2内亂1云々と見えたり。
(15)親親相姦。
公羊莊元年傳に、公子慶父、公子牙、通2于夫人1、以※[力三つ]v公、季子起而治v之、則不v得v與2于國政1、坐而視v之則親親、因v不v忍v見也、何体曰、親至親也云々、文選求v通2親親1表に、親親之義、宴在2敦固1云々。呂向注に、親親骨肉之義云々と見えたり。姦本書※[(女/女)+干]に作る。※[(女/女)+干]は姦の俗字也。
二代二時。不v見2此歌1也。
二代は、仁徳天皇と允恭天皇との二御代をいふ。二時は、仁徳天皇の八田皇女をめしたまへるを、皇后のうらみ給ひし事と、輕皇子の輕大娘皇女に通じ給ひし事とをいふ。不v見2此歌1とは、まへに檢2日本紀1云々とある文をうけてかけるにて、右二代の二時に此|君之行《キミカユキ》云々の歌、書紀には見えずといへる也。
近江大津宮御宇天皇代。天命開別天皇。
天皇、御謚を天智と申す。六年三月、都を近江にうつしたまへり。これらの事は、上【攷證一上廿七丁】にいへり。
天皇。賜2鏡女王1。御製歌。一首。
鏡女王。
印本、女王を王女とす。今考の説によりて改む。考別記云、此卷に、天皇賜2錦王女1云々。鏡王女奉歌とありで、鏡王女は、又曰2額田姫王1也と注せしは誤り也。卷十三に、額田王思2近江天皇1作歌、君待登吾戀居者《キミマツトワガコヒヲレバ》、吾屋戸之簾動之《ワカヤトノスダレウゴカシ》、秋風吹《アキノカセフク》云々。次に鏡王女作歌、風乎太爾戀流波乏之《カセヲタニコフルハトモシ》、風乎谷將來登時待者何香將嘆《カセヲタニコムトシマテハイカヽナケカム》云々。これ鏡王女、傍より、右の歌に和(16)よめる也。然れば、額田王と鏡王女は別なり。もしこれを和歌ならずと思ふ人有とも、かく並べあぐるに、同人の名をことに書ことやはある。とにもかくにも、別人なる證也。かゝるを、同女王ぞといへるは、紀に【天武】天皇、始|聚《(マヽ)》2鏡王女額田姫王1、生2十市皇女1とあるを、不意に見て、誤れるもの也。さてその意を立て、鏡女王とあるは、王女の誤りぞとて、さかしらに字を上下せし事あらは也。すべて、集中に、生羽が女、播麻の娘子などあるは、名のしられざる也。すでに、名のあらはなる額田姫王を、又は某女とは書べからず。仍て今改て、鏡女王とせり。さて、この此《(マヽ)》女王は、紀に【天武】幸2鏡姫王之家1、訊v病とあるは、御親き事しるべし。然れば、天智天皇も、おなじほどの御親みゆゑに、この大御歌をも、たまへるにて、こは常の相聞にはあらぬなるべし。額田姫王とする時は、こゝも次も、疑多き也云々と云れつるがごとく、印本、王女とあるは、女王の誤りなる事、明らけし。下皆同じければ改めつ。さて、この鏡女王は、額田王の姉にて、同じく鏡王の女也。この姉妹、ともに天智天皇にめされたりと見ゆ。其よし、宣長が玉勝間卷二にくはし。
御製歌。
印本、製の字なし。今集中の例によりて加ふ。
91 妹之家毛《イモカイヘモ》。繼而見麻思乎《ツキテミマシヲ》。山跡有《ヤマトナル》。大島嶺爾《オホシマミネニ》。家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。【一云。妹之當《イモカアタリ》。繼而毛見武爾《ツキテモミムニ》。一云。家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》。】
繼而見麻思乎《ツキテミマシヲ》。
つぎて見ましをは、つゞけたえず見んものをとのたまへる也。本集四【五十四丁】に、次相見六事計爲與《ツキテアヒミムコトハカリセヨ》云々。五【十丁】にヨルノイメニヲツキテミエコソ
云々。十一【十六丁】に、繼手志念者《ツキテシモヘハ》云々などありて、集中猶いと多し。皆つゞけての意なり。乎《ヲ》はものをといふ意也。
山跡有《ヤマトナル》。
大和也。和名抄を考ふるに、諸國に、額田《ヌカタ》といへる地名多かる中に、大和國平群郡にもあり。この鏡女王の姉、額田女王は、かの大和なる額田の郷に住たまひしかば、額田女王とはいへるか。古しへ、地名をもて名とする事、常の事也。されば、この鏡女王も、姉妹の縁につきて、同じく額田の郷には、住れしなるべし。されば、その里を見んに、大島みねに、家もあらましをと、のたまへる也。
大島嶺《オホシマミネ》。
大島嶺は、額田女王と、鏡女王と、ともに住たまへる額田郷のちかきほとり、平群郡の中なるべし。日本後紀に、大同三年九月、戊戌、幸2神泉苑1有v勅、令3從五位下平群朝臣賀是麿作2和歌1曰、伊賀爾布久賀是爾阿禮婆可《イカニフクカゼニアレバカ》、於保志萬乃乎波奈能須惠乎布岐牟須悲太留《オホシマノヲバナノスヱヲフキムスヒタル》云々とある平群氏も、もと平群の地名より出たるなれば、この賀是麿も、その郡の人とおもはるれば、こゝによめる於保志萬《オホシマ》も平群郡なるべし。
家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。
家もあらましをは、家もあらんかしものをとのたまへるにて、すべて、まし|を《(マヽ)》いへる詞は、ましもの|を《(マヽ)》いへる意にて、願ふ詞也。さて、猿を、ましの假(18)字に用ふるは、猿を、古くはましともいひし也。古今集誹諧に、わびしらにましらなゝきそ、あし引の山のかひあるけふにやはあらぬ云々とある、ましらといへる事、たま/\翻譯名義集に、※[獣偏+爾]猴を摩斯※[口+託の旁]と訓するに、いさゝか叶へりとて、ましらは猿の梵語とするは非也。ましは猿の一名、らは等にて猿の多く群をなして居るをいへる也。字鏡集、伊呂波字類抄等に、猿をましとのみよめるにても、猿をましともいへるをしるべし。
一云。家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》。
この方まされり。大島峯に、家居してをらましものをと也。ましをは、上にいへるがごとし。本集十【卅九葉】に、山近家哉可居《ヤマチカクイヘヤヲルヘキ》云々。十二【五丁】に、里近家哉應居《サトチカクイヘヤヲルヘキ》云々。十九【廿六丁】に、伊敝波乎禮騰母《イヘハヲレトモ》云々など見えたり。
鏡女王。奉v和歌。一首。【鏡王女又曰2額田姫王1也。】
鏡女王、これも印本王女とあり。今改む。又、印本、歌の字の上、御の字あれど、集中の例、帝王、皇后、皇子、皇女の外は、御とはかゝざる例なれば、はぶけり。注に、鏡女王又曰額田姫王也とあるは。甚しき誤り也。そのよしは、上に引る、考別記にいはれしがごとし。
92 秋山之《アキヤマノ》。樹下《コノシタ》隱《カクリ・カクレ》。逝水乃《ユクミヅノ》。吾許曾益目《ワレコソマサメ》。御念從者《ミオモヒヨリハ》。
樹下《コノシタ》隱《カクリ・カクレ》。
隱を、舊訓かくれとあれど非也。かくりとよむべし。そは、古事記下卷に、美夜麻賀久理弖《ミヤマカクリテ》云々。書紀推古紀に、和餓於朋耆彌能※[言+可]句理摩須《ワカオホキミノカクリマス》云々。本集五【十六丁】に、許奴禮我久利弖《コヌレカクリテ》云々。十五【九丁】に、海原乎夜蘇之麻我久里《ウナハラヲヤソシマカクリ》云々。又【十二丁】久毛爲可久里奴《クモヰカクリヌ》云々などあるにても、隱はかくりとよむべきをしるべし。
逝水乃《ユクミヅノ》。
印本、逝を遊に作る。元暦本には、道とせるうへに、集中遊とかける所なければ、今逝に改む。されど、遊とあるもすてがたし。毛詩板傳、淮南子原道 注などに、遊行也とあれど、多きにつき、逝に改む。乃《ノ》は、のごとくの意にて、秋は水かさまされるものなれば、秋山の木の下隱にゆく水のごとく、われこそ思ひまさらめとよまれし也。この歌、すべて序歌なり。
内大臣藤原卿。娉2鏡女王1時。鏡女王贈2内大臣1歌。一首。
こは鎌足公をいへり。本集一には、内大臣藤原朝臣とあり。こは天皇の詔し給ふ所にて、天皇にむかへて書るなれば、藤原朝臣とせり。こゝはたゞ鎌足公のうへをのみといふ所なれば、藤原卿とは書る也。これらの事、くはしくは、上【攷證一上廿七丁】にいへり。鎌足公の傳も、そこにあげたり。さて、卿は、集中、大臣、納言などを、多く何何の卿とかけり。そは、韻會に、秦漢以來、君呼v臣以v卿、凡敵體相呼、亦爲v卿、蓋貴v之也云云。漢書項籍傳注に、文穎曰、卿子時人相褒尊之稱、猶v言2公子1云々などありて、尊稱の字なり。
(20)娉。
考に、娉は古しへは、妻問といひ、後には懸想といふにあたる云云といはれしがごとし。又玉篇に、娉(ハ)娶也云々とも見えたり。
鏡女王。
こゝも、印本、王女に誤る。いま改。さて、この端辭、集中の例に異なりとて、考には贈2内大臣1の四字を、けづられたれど、諸本みな如v此なれば、しばらく、本のままにておきつ。
93 玉匣《タマクシケ》。覆乎安美《オホフヲヤスミ》。開而行者《アケテユカハ》。君名者雖有《キミカナハアレト》。吾名之惜毛《ワカナシヲシモ》。
玉匣《タマクシケ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉はほむる詞にて、匣《クシケ》は蓋を開くも、覆ひもするが、たやすき物なれば、おほふをやすみ、あけてゆかばとはつゞけたり。さて、この枕詞、あけ、ふた、みむろの山、あしきの川、おくなどもつゞけたり。匣《クシケ》は、櫛、鏡、また外の物を入る物也。この事は、下四【攷證四上卅一丁】にいふべし。【おほふは、本集十【七丁】に、梅花零覆雪乎《ウメノハナフリオホフユキヲ》云々。又【五十丁】に、雁之翅乃覆羽之《カリノツハサノオホヒハノ》云々。また【同丁】秋山霜零覆《アキヤマニシモフリオホヒ》云々などありて、物をおほひかくす意也。美《ミ》は、さにの意にて、夜あけて、君がかへり給はゞ、君が名もわが名もたちぬべし。名のたゝぬやうに、おほふはやすき事なれば、夜あけぬ中に、とくかへり給へと也。考に、匣のふたは、おほふ事もやすしとて、開るとつゞけたり。さて夜の明ることにいひかけたる序のみといはれつるは、くはしからず。
(21)開而行者《アケテユカハ》。
考云、この公の來て、夜ふくれどもかへり給はぬを、女王のわびていひ出せる歌なり云々。
君名者雖有《キミカナハアレト》。吾名之惜毛《ワカナシヲシモ》。
君は、男のことなれば、名のたつをもいとひ給ふまじければ、さてもあれど、われは、女の事なれば、名のたゝんがをしゝとなり。あれどといふ詞は、古今集大歌所に、みちのくはいづくはあれど、しほがまのうらこぐ舟のつなでかなしもとある、あれどと同じく、意をふくませたる詞也。さて略解に、按るに、君吾二字、互に誤りつらん。わがなはあれど、君がなしをしもとあるべし。六帖に、この歌を|わ名《(マヽ)》はあれど、君が名をしもとあり。巻四、吾名はも千名の五百名にたちぬとも、君が名たたばをしみこそなけとよめるをも思へ。宣長は、玉くしげは、開るへかゝれり。覆は、字の誤れるにやといへり云々とある千蔭の説は、いかにもさる事ながら、覆は字の誤れるにやといはれつるはうけがたし。
内大臣藤原卿。報《コタヘテ》2贈鏡女王1歌。一首。
考には、こゝをも、内大臣藤原卿和歌と直されしかど、本のまゝにておきつ。報は、韻會に、報答也とあれば、こたへてとよむべし。鏡女王、こゝも印本、鏡王女とあるを、改めつ。
94 玉匣《タマクシケ》。將見圓《ミムロノ・ミムマト》山乃《ヤマノ》。狹名葛《サナカヅラ》。佐不寐者遂爾《サネスハツヒニ》。有勝麻之目《アリカテマシモ》。【或本歌云。玉匣《タマクシケ》。三室戸山乃《ミムロノヤマノ》。
(22)將見圓《ミムロノ・ミムマト》山乃《ヤマノ》。
眞淵云、この將見圓山の四字は、みむろの山とよむべし。將見の二字は、にみんとはねて唱ふるを、はねずして、みとむと二つの假字に用ひたり。卷十二に、いなみの川を、將行乃河と書たるに似たり。圓は、まろとよむを、其まを略きて、ろのかなにせり。是は、大和國の三室山なり。今本に、みんまと山とよみたるは、誤れり云々。宣長云、圓の字は、まろの、まを略きて、ろの一言にとれるにはあらず。すべて、略きて取る例は多けれども、事による也。まろといふ意を、まを略く例はなし。これは、上に將見といふ、むとと通ふ音なる故に、おのづから、みまろといふやうにもひゞくから、圓の字を書る也云々。こ二つの説を合せて心得べし。さて、みむろ山は、集中、三諸《ミモロ》、三室《ミムロ》などかけり。むともとかよへればなり。されど三室《ミムロ》といふ方ぞ正しき。三室山は、三輪山の事にて、三輪の大神を祭り奉る故に、御室《ミムロ》の義也。三室山は、三輪山の事なりと云ふ證は、古事記中卷、書紀崇神紀等に出たれど、事長ければこゝにもらせり。この山は、大和國城上郡なり。
狹名葛《サナカツラ》。
古事記中卷に、佐那葛《サナカツラ》云々。本集十【五十七丁】に、山佐奈葛黄變及《ヤマサナカツラモミツマテ》云々。十二【廿五丁】に、狹名葛在去之毛《サナカツラアリユキテシモ》云々。十三【十七丁】に、在《・(マヽ)》奈葛後毛相得《サナカツラノチモアハムト》云々。又此卷【卅七丁】に、狹根葛後毛將相等《サネカツラノチモアハムト》云々。十一【十一丁】に、核葛後相《サネカツラノチモアハムト》云々とも見えたり。なとねと、音かよへば也。新撰字鏡に、藉【左奈葛】木防已【左奈葛一云神衣比】云々。醫潜心方和名部に、防已【和名阿乎加都良又佐禰加都良】云々。本草和名上卷に、立味和名佐禰加都良云々。和名抄葛類に、蘇敬本草注云、五味【和名作禰加豆良】皮肉甘酸、核中辛苦、都有2鹹味1、故名2五味1也云々などあり。新撰字鏡と、醫心方に、防已をよめれど、古事記中卷に、舂2l佐那葛(23)之根1、取2其汁滑1云々とありて、五味は葛も根も汁のなめらかなる物にて、今もその葛を、美男葛《ビナンカツラ》とて、水にひたしおきて、くしけづる用にすれば、さなかづらは、五味《(マヽ)》に防已をよめるは、誤れり。さてこの三の句までは、さねずばといはん序におけるのみ。
佐不寐者《サネスハ》。
さねずばの、さは發語にで、たゞねずばなり。さの發語の事は、上【攷證一上卅四丁】にいへり。古事記中卷に、佐泥牟登波阿禮波意母閇杼《サネムトハアレハオモヘト》云々。同下卷に、佐泥斯佐泥弖婆《サネシサネテハ》云々。本集此卷に、在宿夜者幾毛不有《サヌルヨハイクラモアラス》云々、三【六十丁】に、吾妹子跡在宿之妻屋爾《ワキモコトサネシツマヤニ》云々。八【五十二丁】に、袖指代而寐之夜也《ソテサシカヘテサネシヨヤ》云々などありて、集中いと多し。宣長は、さねは眞寐にて、多く男女|率《ヰ》てぬるをいへりといはれぬ。
有勝麻之目《アリガテマシモ》。
がては、難《カタ》き意にて、妹とつひにねずては、在難《アリガタ》からんと也。目《モ》は、音もくなるを、略して、もの假字に用ひたり。この、ましもの、もは助辭にて、意なし。書紀睾崇神に、多誤辭珥固佐麼《タコシニコサハ》、固辭介※[氏/一]務介茂《コシカテムカモ》云々。木集四【四十九丁】に、此月期呂毛有勝益士《コノツキコロモアリカテマシヲ》云々。十一【卅三丁】に戀乃増者在勝申目《コヒノマサレハアリカテマシモ》云々など見えたり。
三室戸山乃《ミムロノヤマノ》。
考云、或本歌云、玉匣、三室戸山乃といへるは、卷七に、珠くしげ見諸戸《ミモロト》山を行しかばてふ、旅の歌の中にありて、西の國の歌どもに交れゝば、備中國に、今もみむろどといふ所なるべし。こゝのは、大和の都にてよめれば、他國の地名をいふ事なかれ。古人は、よしなく遠き所を設てよむ事なかりし也。山城の宇治に、三室戸といふあれど、後の(24)事のみ云々といはれぬ。略解には、戸は乃の誤りにて、三室乃山乃《ミムロノヤマノ》ならんといへり。これらの説ども、いかゞ。本集八【五十四丁】に、黒木用造有室者迄萬代《クロキモテツクレルイヘハヨロツヨマテニ》云々。また、黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞《クロキモテツクレルイヘハヲレトアカヌカモ》云々と、並べのせて、室をも室戸をもいへとのみよめり。【舊訓やどとよめり】これは、一字と二字にかけるのみ。訓は同じく、室には必らず戸あるものなれば、室戸をいへとよめる事、書紀神代紀 に、無戸室を、うつむろとよめるにて、しらる。されば、こゝに三室戸山乃とあるも、みむろの山のとよむべき也。しかよむ時は、本書も、或本も、訓は同じきを、集中の例、訓の異なるをば、あぐれど、文字のみ異なるをばあげぬ例なるをと、疑ふ人もあるべけれど、古注の文は、眞淵もいはれつるがごとく、とるにたらざる事多く、誤りいと多きものなれに《(マヽ)》て、こゝも、本書の將見圓山とあるをば、舊訓と同じく、みんまと山とよみて、三室戸山とあるをば、訓たがへりと心得て、或本歌とてあげし也。また、考の説に、七卷なる三諸戸山を、備中國ならんといはれつるも、たがへり。この事はその所【攷證七中】にいふべし。
内大臣藤原卿。娶《メトリシ》2采女安見兒1時。作歌。一首。
娶。
娶は、めとるとよむべし。玉篇に、娶取v婦也とありて、女を取る義也。めとるとは、嫡妻を入るにのみかぎらず、妾を入るゝにもいへり。藤氏系圖を考ふる、鎌足公の男、不比等《フヒト》公の母は、車持國子君之女、與志古娘とあり。この采女安見兒と、いづれか嫡妻なりけん。
(25)采女《うねべ》。
うねべとよむべし。和名抄郷名に、伊勢國三重郡采女【宇禰倍】とあるがごとし。宣長云、常にうねめと唱ふるは、べを音便にしかいふ也。公卿《カンタチベ》を、かんたちめと唱ふるたぐひなり云々といはれつるがごとし。采女は、書紀孝徳天皇二年紀に、凡采女者、貢2郡少領以《(マヽ)》姉妹及子女、形容端正者1、【從丁一人從女二人】以2一百戸1、宛2采女一人粮1云々。後宮職員令、其貢2采女1者、郡少領以上、姉妹及子女、形容端正者、皆申2中務省1奏聞云々とありて、諸國より貢《タテマツ》れる事、續日本紀云、大寶二年夏四月、壬子、令d2筑紫七國及越後國1、簡2點采女兵衛1貢uv之云々。天平十四年五月、庚午、制云々。又采女者、自v今以後、毎v郡一人貢進之云々などありて、猶代々の史に見えたり。古事記に、三重※[女+采]《ミヘノウネヘ》、集中に豐島(ノ)采女、駿河采女、因幡八上采女、吉備津采女などあるも、皆その本國の地名をよべる也。また采女は、專ら陪膳の《(マヽ)》つかさとれる官也。この事は、下【攷證十六丁上】安積山影副所見《アサカヤマカケサヘミユル》の歌の下にいふべし。さて、この采女の事は、古事記(傳脱カ)卷四十二にくはし。
安見兒。
父祖不v可v考。○書紀舒明天皇八年紀に、三月、悉劾d※[(女/女)+干]2釆女1者u皆罪云々とありて、釆女ををかす事は、重き罪なれば、こゝにいへる安見兒は、前の釆女なりしか。又は公にはれて娶りしにもあるべし。
95 吾者毛也《ワレハモヤ》。安見兒得有《ヤスミコエタリ》。皆人乃《ミナヒトノ》。得難爾《エガテニ》爲云《ストフ・ストイフ》。安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》。
吾者毛也《ワレハモヤ》。
毛也《モヤ》は、助辭にて、意なし。籠毛與《タカマ《(マヽ)》モヨ》の、もよと同じ。やとよと音かよへり。古事記下卷に、意岐米母夜阿布美能淤岐米《オキメモヤアフミノオキメ》云々とあるもやを、書紀には於岐毎慕與《オキメモヨ》云(26)云とあるにても、もや、もよ同語なるをしるべL。書紀皇極紀に、伊弊母始羅孺母也《イヘモシラスモヤ》云々とあるも同じ。
安見兒得有《ヤスミコエタリ》。
釆女安見兒を、娶《メト》り得たりと也。古事記中卷に、伊豆志袁登賣(ノ)神坐也、故八十神雖v欲v得2是伊豆志袁登賣1、皆不v得v婚云々とある、得《ウル》と同じく、女をわがものになし得《ウル》をいへるなり。
得難爾《エガテニ》爲云《ストフ・ストイフ》。
がては、まへにいへるがごとく、難《カタ》き意にて、皆人ごとに得がたくすなる安見兒を、われこそ娶りえたれと也。がては、本集十一【廿一丁】に、名疑《・(マヽ)》衣今宿不膀爲《ナコリソイマモイネカテニスル》云々などありて、集中猶多し。云《トフ》は、舊訓といふとあれど、とふとよむべし。といふの意にて、いを略ける也。この事は、上【攷證一下四丁】にいへり。
久米禅師。娉2石川郎女1時歌。五首。
久米禅師。
父祖不v可v考。考云、久米は氏、禅師は名也。下の三方(ノ)沙彌も、これに同じ。すべて、氏の下にあるは、いかに異なるも、名としるべし。紀には、阿彌陀、釋迦などいふ名もありしを、禁《トヾ》め給ひし事見ゆ云々といはれつるがごとく、俗にて僧にあらず。されど禅師てふ字は、佛語なり。釋氏要覽卷上に、善住意天子所問經を引て、天子問2文殊1曰、何等比丘、得v名2禮師1、文殊曰、於2一切法1、一行思2量所v謂不生1、若如v此、知得v名2禅師1云々と見えたり。久米氏は、書紀に、來目物部、來目舍人造など見えたり。新撰姓氏録卷(以下空白)
(27)娉。
娉はつまどふと訓べし。この事は、下【攷證三中八十八丁】にいふべし。
石川(ノ)郎女。
石川氏は、書紀に、石川臣、石川朝臣など見えたり。新撰姓氏録、卷 父祖不v可v考。此卷下【十三丁】に、大津皇子、贈2石川郎女1御歌云々。また、日並知皇子尊、贈2石川女郎1御歌【女郎字曰大名兒】云々。また【十六丁】に、石川女郎、贈2大仲宿禰田主1歌云々。二十【五十七丁】左注に、藤原宿奈麿朝臣之妻、石川女郎云々などあり。いづれも別人なるべし。郎女は、考に郎女をいらつめといふ事は、紀に【景行】郎姫、此云2異羅菟※[口+羊]《イラツメ》1。また續紀に【廢帝】、藤原伊良豆賣ともあり云云いはれつるがごとし。郎女の字は、古事記中卷より見え、書紀天智紀に、道君伊羅都賣と見えたり。この下の歌五首を考ふるに、石川郎女が報《コタフ》る歌、又久米禅師が更贈歌もありて、本はそれぞれに端辭の有つらんが、落失たるなるべし。その落失たらんと思ふ文字は、その所々にいへり。下の三方沙彌が歌も、これに同じ。
五首。
これ、もとは一首ありつらんを、それ/”\の端辭の落失し後に、後人の五首とはしるしゝならん。
96 水《ミ》薦《スヾ・クサ》苅《カル》。信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》。吾引者《ワカヒカハ》。宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》。不言常將言可聞《イナトトイハムカモ》。 禅師。
水《ミ》薦《スヾ・クサ》苅《カル》。
枕詞にて、冠辭考に見えたれど、その説誤れり。考には、冠辭考にも、薦は篶の誤りとて、改められしは、例の古書を改るの僻なり。さて、水薦の水《ミ》は、借字にて、(28)眞《ミ》なる事、次の歌に三薦《ミスゞ》とかけるにてもしるべし。薦は、書紀神代紀上、一書に、五百箇野薦八十玉籤《イホツヌスヾヤソタマクシ》云々と見ゆ。韻會に、、薦(ハ)草之深厚者云々とありて、何となく草の生《オヒ》しげりたるを、いへる也。後世の歌に、すゞふく風、すゞわけて、すゞのしのやなどよめるも、もとはたゞ草の事なれど、後には一つの草の名となれる事、薄を、後には一つの草の名とするがごとし。薄は、和名抄草類に、爾雅云草聚生曰v薄【新撰萬葉集和歌云花薄波奈須々木、今案即厚薄之薄字也、見2玉篇1】辨色立成云、※[草冠/千]【和名上同今案※[草冠/千]音千草盛也見2唐韻1】云々と見えて、古事記下卷に、蚊屋野多在2猪鹿1、其立足者、如2荻原《ススキハラ》1、指擧角者如2枯樹《カラキ》1云々と、枯樹にむかへいへるにても、すゝきは古くは一つの名にはあらざりしをしるべし。後のものなれど、赤染街門集に、なでしこのすゝきになりたる見て云々とあるをも見よ。さて草のしげれるを、すゞといふも、すゝきといふも、かよひきこえたり。舊訓に、みくさとよめるもあしからねど、書紀に野薦《ヌスヽ》とよめるを見れば、こゝもみすゞとよめる方まされり。この枕詞は、みすゞ苅野とつゞけたるのみなり。
信《シナ》濃《ヌ・ノ》乃眞弓《ノマユミ》。
信濃は、古事記、書紀等に、科野《シナヌ》ともかけり。眞弓《マユミ》の眞は、例の物をほむる詞にて、たゞ弓なり。これを、檀《マユミ》の木もて作れる弓なれば、眞弓《マユミ》といへりと思ふは、非也。檀《マユミ》の木を、まゆみといへるも、弓に作る良材なる故に、名にはおへる所なり。古事記の中卷に、阿豆佐由美麻由美《アツサユミマユミ》云々とあるは、檀の木の事なれど、あづさゆみまゆみとつゞく
れば、眞弓をかねたり。本集七【卅二丁】に、陸奧之吾田多良眞弓《ミチノクノアタタラマユミ》云々。十【十六丁】に、白檀弓今春山爾《シラマユミイマハルヤマニ》云云。神樂弓歌に、安川佐由美萬由美川支由美志奈毛々止女須《アツサユミマユミツキユミシナモヽトメス》云々など見ゆ。さて、信濃國より、弓を奉りし事、續日本紀に、大寶二年三月、甲午、信濃國献2梓弓一千二張1、以充2大宰府1云々と見えて、又慶雲元年三月の紀にも見えたり。されば、信濃は、弓に名ある國なれば、しなぬの眞(29)弓とはいへり。
宇眞人佐備而《ウマビトサヒテ》。
宇眞人は、書紀神功紀に、宇摩比等破宇摩譬苔奴知《ウマヒトハウマヒトヾチ》、野伊徒姑幡茂伊徒姑奴池《ヤイツコハモイツコドチ》云々。仁徳紀に、于摩臂苔能多菟屡虚等太※[氏/一]《ウマヒトノタツルコトタテ》云々。本集五【廿丁】に、美流爾之良延奴有麻必等能古等《ミルニシラエヌウマヒトノコト》云々などありて、書紀に、君子、※[手偏+晉]紳、良家子などを、うま人の子とよめり。皆貴人といふ事也。神名に、宇摩志阿斯※[立心偏+可]備比古遲《ウマシアシカビヒコヂノ》神とあるも、人名に宇摩志麻遲《ウマシマヂ》命、味師《ウマシ》内宿禰などあるも、また可怜小汀《ウマシヲバマ》、可怜御路《ウマシミチ》、可怜國《ウマシクニ》などあるうましも、みなほむる詞にて、うま人のうまと同語也。佐備《サビ》は、をとめさび、翁さびなどいふ、さびと同じく、俗語に、ぶりといふにあたりて、こゝのうま人さびては、うま人ぶりて也。又おとなび、みやこび、ひなびなどいふ、びも、このさびの、さを略けるにて、何ぶり、何めくなどいふ意なり。
不言常將言可聞《イナトトイハムカモ》。
いなは、諸書に、辭の字をよめる意にて、諾《ウベ》なはざる事なれば、不言の字の義をとりて、いなとよめる義訓也。集中、不聽、不許、不欲などの字をも、いなとよめるにてしるべし。さて一首の意は、みすゞかる信濃の眞弓といふまでは、わが引ばといはん序にて、わが石川の郎女を、引こゝろみば、わが身のいやしさに、郎女|貴《ウマ》人めかして、いなといはんか、いなといはましと也。かもの、もは助字なり。
禅師。
この二字、印本大字なれど、元暦本によりて小字とす。まへにもいへるがごとく、この贈答の歌も、下の三方沙彌が歌も、それ/”\に、端辭のもとはありつらんが、いつの世(30)にか、落失しを、さてはいづれ禅師の歌、いづれ郎女の歌とも、わからざれば、後人の注して、禅師、郎女など、それ/”\にしるせるなり。
石川郎女報贈歌。二首。〔八字□で囲む〕
まへにもいへるがごとく、こゝに端辭のありしが落失し事、明らかにて、かく有べき例なれば、かりに文字を補へるなり。考には、石川郎女和歌と補はれつるも、さる事ながら、上下のつゞきを考ふるに、報贈歌とあるべし。
97 三薦苅《ミスヾカル》。信濃乃眞弓《シナヌノマユミ》。不引爲而《ヒカズシテ》。弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》。知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。 郎女。
三薦苅。
この三の字も、假字にて、眞の意なり。
弦作留《ヲハクル・シヒサル》行事乎《ワザヲ》。
印本、弦を強に誤りて、しひさるわざをとよめり。代匠記に、強は弦の字の誤りなり。と見えたり。作留は、はぐるとよむべし。日本紀に、矢作部といふ時、はぐとよめばなり云々といへるによりて改む。延喜神名式に、河内國若江郡|矢作《ヤハキ》神社云云。新撰姓氏録卷 に、矢作《ヤハキノ》連云々なども見えたり。又この次の歌に、梓弓都良絃取波氣《アヅサユミツラヲトリハゲ》云々。七【卅二丁】に、陸奧之吾田多良眞弓著絲而《ミチノクノアタタラマユミツルハケテ》云々。十四【十六丁】に、都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》云々。十六【卅一丁】に、牛爾己曾鼻繩波久例《ウシニコソハナナハハクレ》云々ともありて、弓に弦を張《ハル》を、はぐといへり。七に著の字をはぐとよめる意なり。考に、矢作《ヤハク》てふは、造るごとくなれど、こゝは左に、都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》といふ、即これにて、弓弦を懸るをはぐるといふ也云々といはれつるがごとく、もとは矢を作る事なれど、それに、作(31)の字をはぐとよめるによりて、こゝにて字を借て、作留《ハクル》とはかける也。また、いと後のものなれど、宇治拾遺卷一に、矢をはげていんとて云々、十二に、とがり矢をはげて云々などあるも、弦をはぐといふはぐに同じ。
知跡言莫君二《シルトイハナクニ》。
考に、弓を引ぬ人にて、弦かくるわざをばしりつといふ事はなし。其如く、われをいざなふわざもせで、そらに、わがいなといはんをば、はかりしり給ふべからずといふ也云云といはれつるがごとし。
98 梓弓《アヅサユミ》。引者隨意《ヒカハマニ/\》。依目友《ヨラメドモ》。後心乎《ノチノココロヲ》。知勝奴鴨《シリガテヌカモ》。 郎女
梓弓《アヅサユミ》。
梓の《アヅサ》木をもて作るをいふ。古へ、弓に多くこの木を用ひしかば、何の木と、たゞの弓にも、常に梓弓といひなれたる事とおぼし。くはしくは、上【攷證一上七丁】にいへり。
引者隨意《ヒカハマニ/\》。
ひくにしたがひて也。隨意の字を、まに/\とよめるは、義訓也。本集三【卅五丁】に大王任乃隨意《オホキミノマケノマニ/\》云々。また十一に、任意《マニ/\》の字をもよみ、書紀神代紀に、須、隨、尋、依などの字をもよめり。さて、このまに/\を略して、まにまとも、たゞ、まにとのみもいへり。これらの事は、下【攷證 】にいふべし。引《ヒク》とは、心をさそひ引見る事をいへり。この事は、下【攷證三中九十五丁】にいふべし。
(32)依目友《ヨラメドモ》。
君が、われを引たまらば、君が意にしたがひて、たび《(マヽ)》きもしつべしといふを、弓の縁語にとりなしていへり。古今集戀に、春道つらき、梓弓ひけばもとすゑわが方によるこそまされ戀のこゝろは云々などあるもおなじ。
後心乎《ノチノココロヲ》。知勝奴鴨《シリカテヌカモ》。
君が引にしたがひて、なびきもしつべけれど、後の心のしりがたしと也。がてぬてふ詞は、此卷【卅丁】に、太寸御門乎入不勝鴨《タキノミカトヲイリガテヌカモ》云々。五【廿七丁】に、須疑加與奴可《スギガテヌカモ》、意夜能目遠保利《オヤノメヲホリ》云々。七【十丁】に、去不勝可聞《ユキカテヌカモ》云々。また【十七丁】過不勝鳧《スキカテヌカモ》云々。また【卅二丁】。出不勝鴨《イテカテヌカモ》云々などありで、みな奴《ヌ》もじに心なく、難き意也。略解に、かで《(マヽ)》といふも、かてぬといふも、古へ、同じ詞にて、またなくといひて、またんにといふ意になるがごとし云々といへるがごとし。
久米禅師更贈歌。二首。〔九字□で囲む〕
まへにいへるがごとく、こゝにもかくあるべき所なれば、かりに補へり。考には、久米禅師重贈歌とせられしかどあたらず。
99 梓弓《アツサユミ》。都良絃取波氣《ツラヲトリハケ》。引人者《ヒクヒトハ》。後心乎《ノチノココロヲ》。知人曾引《シルヒトゾヒク》。 禅師
都良絃取波氣《ツラヲトリハゲ》。
本集十四【十六丁】に、美知乃久能安太多良末由美《ミチノクノアタタラマユミ》、波自伎於伎※[氏/一]《ハジキオキテ》、西良思馬伎那婆《セラシメキナバ》、都良波可馬可毛《ツラハカメカモ》云々ともありて、弦をつらといへるは、らとるとかよへば也。さねかづら、いはひづら、たはみづらなどいへるも、つらも蔓《ツル》にて、らをるに通はしたる也。小大君集に、あり所こまかにいかにしらうりのつらをたづねて、われならさなん云々と(33)あるも、蔓也。絃は、すなはち弦にて、弦の緒といへる也。取波氣《トリハゲ》は、まへに弦作留行事乎《ヲハクルワザヲ》とあると同じく、弓に弦を懸るないへり。
引人者《ヒクヒトハ》。
禅師自らを、引人によそへていへり。
後心乎《ノチノココロヲ》。知人曾引《シルヒトゾヒク》。
君は、後の心のしりがたしとはいへど、禅師、わか《(マヽ)》かでにわが後の心をよくしればこそ、君をば引見れとなり。
100 東人之《アツマトノ》。荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノサキノハコノ》。荷之緒爾毛《ニノヲニモ》。妹情爾《イモガココロニ》。乘爾家留香聞《ノリニケルカモ》。 禅師
東人之《アツマトノ》。
書紀景行天皇四十年紀に、日本式尊、毎有d顧2弟橘媛1之情u、故登2碓日嶺1、而東南望之・三歎曰、吾嬬者耶《アカツマハヤ》【嬬此云2菟摩1】故因號2山東諸國1、曰2吾嬬國1也云々とありて、東國をすべて、あづまとはいふ也。されば、義訓して、東の一字をも、あづまとはよめり。神代紀下に、東國の字をも、あづまとはよめり。人を、どとよめるは、ひとの略なり。天文本和名抄人倫部に、文選云〓眩邊鄙【師説邊鄙安豆末豆〓眩阿佐无岐加々夜加須】世説注云、東野之鄙語也【今案俗用東人二字其義近矣】云々とある。あづまづは、ととつと通へば、あづまどの轉れる也。西國は、貢物を船にて送り奉り、東國は船のかよはぬ所も多かれば、馬にて送り奉る也。されば荷向《ノサキ》のはこの荷の緒といはんとて、言わきて東人《アツマト》のとはいへる也。
向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《ノサキノハコノ》。
考別記云、東の國々より、今年なせる※[糸+旨]布を先として、木綿、麻、山海の物までも、始めに公へ御調奉るを、荷前といふ。さて、そを陸路より奉るには、※[しんにょう+(竹/夾)]に納め、(34)緒もて馬につくる故に、祈年祭祝詞にも、荷前《ノサキハ》者云々、自v陸往道《クガユユクミチハ》者、荷緒縛竪弖《ニノヲユヒカタメテ》といへり。且、ここには、荷向《ノサキ》と書しかど、右の祝詞、其外にも、荷前《ノサキ》とあるを正しとす。前《サキ》ははじめの意にて、新稻に、初穗といふにひとしければ也。荷を、乃と唱ふるは、紀に【神功】、肥前國の荷持田村を、荷持此云2能登利《ノトリ》1てふ類也云々といはれつるがごとく、諸國よりはじめて奉れる貢物を、荷前とはいふ也。それを、神にも、諸陵墓にも、奉らしめ給ふ也。これ、荷前《ノサキノ》使といふ。止由氣宮儀式帳九月例に、以2十三日1、多氣郡度會郡二神郡、國々所々神戸人夫、常所v進御調荷前進奉云々。職員令義解に、十二月奉2荷前幣1云々。續日本紀卷九に、歳竟分綵曰2荷前1云々。又卷十に、自2去年1以往兩年間荷前 乃 使、輙 久 陵戸人 爾 付奉v遣 【志與理】云々。清和天皇實録に、天安二年十二月九日丙申、詔定2十陵四墓1、献2年終荷前之幣1云々。十五日壬寅、分2遣公卿已下侍從已上於諸山陵墓1、献2荷前幣1云々。江次第裏書に、謂荷前者、四方國進2御調|荷前《ハツホ》1取奉、故曰2荷前1云々などあるにて、事明らけし。其儀式は、西宮記、北山抄等にくはしく見えたり。さて、諸書みな荷前と書るを、この集にのみ荷向とかけり。向は、字鏡集に、さきと訓ぜり。篋、印本※[しんにょう+(竹/夾)]に誤れり。今元暦本によりで改む。篋は、玉篇に笥也、箱也云々とあり。
荷之緒爾毛《ニノヲニモ》。
荷の緒は、結ふ緒也。さて、それを給付るになして、情《コヽロ》にのるとはいへり。これ縁語なり。荷の緒|爾毛《ニモ》のにも、の如くにもの略にて、如く意こもれる事、上一【攷證一下七十一丁】に、栲乃穗爾夜之霜落《タヘノホニヨルノシモフリ》云々とある、爾《ニ》もじに同じ。緒、印本結に誤る。今、仙覺抄、拾穗抄等によりてあらたむ。
(35)妹情爾《イモガコヽロニ》。乘爾家留香問《ノリニケルカモ》。
妹が事の、常にわが心にかゝる也。それを、貢物を入たる荷前の篋を、馬に結ひ乘たる緒のごとくにとたとへたり。さて、この四の句を、考には、いもはこゝろにと、訓直されしかど、宣長が、妹はこゝろにとよむはわろし。はもじおだやかならず。本のまゝに、妹がと訓べし。我心に、殊が乘る也。かならずがといふべき語の例也云々といはれしにしたがふべし。さて、心にのるといへる語は、本集四【四十五丁】に、百礒城之大宮人者雖多有《モモシキノオホミヤヒトハオホカレト》、情爾乘而所念妹《ココロニノリテオモホユルイモ》云々。七【四十丁】に船乘爾乘西意《フネノリニノリニシコヽロ》、常不所忘《ツネワスラエス》云々。十【十三丁】に、春去爲垂柳十緒妹心乘在鴨《ハルサレハシタリヤナキノトヲヲニモイモガココロニノリニケルカモ》云々。十二に、是川瀬々敷浪布々妹心乘在鴨《コノカハノセヽノシキナミシク/\ニイモカココロニノリニケルカモ》云云などありて、猶多し。また、後撰集秋下に、藤原忠房朝臣、秋ぎりの立野のこまを引時は、心にのりて君ぞこひしき云々。同離別に、伊勢、おくれずぞ心にのりて、こがるべき、浪にもとめよ、舟見えずとも云々なども見えたり。この歌を、考には、妹に贈る意に|なら《(マヽ)》ず、禅師がひとり思ふ歌なれば、別に端詞のありしが落たるにやといはれしかど、かゝる贈答に、つきなき歌、集中にも多し。これ古歌の常なり。
大伴宿禰。娉2巨勢郎女1時歌。一首。
大伴宿禰。
元暦本に、大伴宿禰、諱曰2安麿1也、難波朝右大臣長徳卿之第六子、半城朝任2大納言兼大將軍1薨也云々とあり。集中の例、いとみだりがはしく、定れる事もあらねど、一二の卷は、公卿をば、諱をかゝざる例なれば、さだかにはしりがたけれど、元暦本に、安麿卿と注したるに、しばらくよるべし。考には、これかれを論じて、大伴御行卿と定められし(36)も、さる事ながら、安麿卿としても、時代たがへるにあらず。さて、安麿卿は、和銅七年五月朔日、薨じられぬ。その年齡はしりがたけれど、七十までも、生《イキ》給ひたらましかば、大津宮の御時は、二十より三十までのあひだなるべし。この卿の事は、書紀天武天皇元年紀に、遣2大伴連安麻呂等於不破宮1、令v奏2事状1、天皇大喜之云々。十三年紀に、小錦中大伴連安麿云々。朱鳥元年紀に、直廣參大伴宿禰安麿云々。續日本紀に、大寶元年三月甲午、授2直大壹大伴宿禰安麿從三位1云々。二年正月乙酉、以2從三位大伴宿禰安麿1、爲2式部卿1云々。五月丁亥、勅2從三位大伴宿禰安麿1、令v參2議朝政1云々。六月庚申、爲2兵部1卿云々。慶雲二年八月戊午、爲2中納言1云々。十一月甲辰、爲2兼太宰帥1云々。和銅元年三月丙午、爲2大納言1云々。七年五月丁亥朔、大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麿薨、帝深悼之、詔贈2從二位1、安磨難波朝右大臣大紫長徳之第六子也云々と見えたり。大伴氏は、新撰姓氏録卷十一云、大伴宿禰、高皇産靈尊五世孫、天押日命之後也云々とあり。姓は、はじめ連にて、書紀に連とも書たれど、天武天皇十三年紀に、大伴連云々、五十氏、賜v姓曰2宿禰1云々とありて、これより宿禰とはせられたり。
巨勢《コセノ》郎女。
元暦本に、即近江朝大納言、巨勢人卿之女也云々とあり。しばらく、これによるべし。巨勢は姓、人は名也。書紀に、巨勢人臣、また巨勢臣|比等《ヒト》などもかけり。さて、この卿の事は、書紀天智天皇十年紀に、正月癸卯、以2巨勢人臣1、爲2御史大夫1云々。天武天皇元年紀に、巨勢臣、及子孫云々配流云々と見えたり。巨勢氏は、新撰姓氏録卷四に、巨勢朝臣、石川同氏、巨勢雄柄宿禰之後也云々。書紀天武天皇十三年紀に、巨勢臣云云、五十二氏賜v姓曰2朝臣1云々と見えたり、郎女の事は上にいへり。
(37)101 玉葛《タマカツラ》。實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》。千磐破《チハヤブル》。神曾著常云《カミゾツクトフ》。不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》。
玉葛《タマカツラ》。
冠辭考に、玉とは、實なる物なればいふといはれしはたがへり。代匠記に、玉かづらとは、惣じてかづらのたぐひをほめていふ詞也といへるごとく、玉は美稱のことばなり。
實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》。
考に、葛《カツラ》は子《ミ》のなるもの故に、次の言をいはん爲に冠らせしのみ也。且|子《ミ》のなるてふまでにいひかけて、不成《ナラヌ》の不《ヌ》まではかけぬたぐひ、集に多し云云といはれつるは、たがへり。一言二言へいひかけて、下へつゞくる事、集中いと多かれど、ことにこそよれ。こゝは、葛は、實の不成《ナラヌ》ものに云なして、そのかづらのごとく、實不成木《ミナラヌキ》にはといひつゞけし事、次の報歌に、玉かづら花のみさきてならざるはと、よめるにても明らかなるをや。さて、葛《カツラ》は、蔓《ツル》ある草を惣べいふ名なれば、蔓草の中にも、實のなるも、ならざるもあるべければ、考の説のごとく、必らず實のなるものとのみも、定めがたきをや。本集八【十九丁】に、實爾不成吾宅之梅乎《ミニナラヌワキヘノウメヲ》云々ともよめり。梅は、必らず實のなるものなるを、それすら實不成《ミナラヌ》ものにいひなしたり。これらにて、考の説のたがへるをしるべし。さて、實ならぬ木にはといへるは、戀のなるならざるを、草木の實の、なるならざるにいひよせたり。このたぐひ多し。本集三【四十一丁】に、妹家爾開有花之梅花《イモカヘニサキタルハナノウメノハナ》、實之成名者左右將爲《ミニシナリナハカモカカクモセム》云々。四【廿六丁】に、山管《ヤマスケノ》(菅?)乃實不成事乎《ミナラヌコトヲ》、吾爾所依言禮師君者《ワレニヨリイハレシキミハ》、與孰可宿良牟《タレトカヌラム》云々。七【五十六丁】に、吾妹子之屋前之秋芽子《ワキモコカニハノアキハキ》、自花者實成而許曾戀益家禮《ハナヨリハミニナリテコソコヒマサリケレ》云々。集中、猶いと多し。古今集、大歌所に、をふのうらにかたえさしおほひなる梨のなりもならずもねてかたらはん云々などあるにても、戀のなりならぬに、實のなりならぬをいひよせたるをしる(38)べし。
千磐破《チハヤブル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。いちはやぶる神てふを、語をはぶきてつゞけしなり。
神曾著《カミソツク》常云《トフ・トイフ》。
實の成べき木に、實のならざるをも、女の年たくるまで、男をももたで、やもめなるをも、神の領し給ふといふ諺の、古へありしなるべし。その二つを、ここにいひよせたる也。大物主の神の、丹塗矢《ニヌリヤ》になりて、勢夜陀多良比賣《セヤダタラヒメ》のもとにおはし、また活玉依比賣《イクタマヨリヒメ》が、三輪の神の故事など、このたぐひなるべし。神曾著《カミソツク》といふ、つくは身に物の付といふ、つくに同じ。本集十四【廿七丁】に、多可伎禰爾久毛能都久能須《タカキネニクモノツクノス》、和禮左倍爾伎美爾都吉奈那《ワレサヘニキミニツキナヽ》、多可禰等毛比底《タカネトモヒテ》云々。また十九【卅丁】に、意伊まめ久安我未《オイツクアカミ》云々とあるも、老付吾身なり。神の付、狐の付など、いまもいふ事也。太平記卷二十九に、臆病神の付たるほど、見ぐるしきはなし云々なども見えたり。
不成樹別爾《ナラヌキゴトニ》。
實のならぬ木ごとに也。實の成ぬ木を、郎女にたとへたり。
巨勢郎女。報贈歌。一首。
102 玉葛《タマカツラ》。花耳開而《ハナノミサキテ》。不成有《ナラサル・ナラスアル》者《ハ》。誰戀《タカコヒ》爾有目《ナラメ・ニアラメ》。吾孤悲《ワハコヒ》念《モフ・オモフ》乎《ヲ》。
(39)玉葛《タマカツラ》。
印本、葛を萬に誤れり。今意改。
花耳開而《ハナノミサキテ》。不成有《ナラザル・ナラスアル》者《ハ》。
右の歌に、實不成樹爾波《ミナラヌキニハ》といはれしをうけて、花のみさきて、實のならぬてふ、その木はといへる也。ここにかくあるにても、まへにいへるがごとく、玉葛を、實のならぬやうにとりなしいへるをしるべし。
誰戀《タカコヒ》爾有目《ナラメ・ニアラメ》。吾《ワハ・ワカ》孤悲《コヒ》念《モフ・オモフ》乎《ヲ》。
この二句、舊訓誤れり。今考の訓にしたがふ。右の歌に、實不成木《ミナラヌキ》とのたまふは、誰《タガ》うへの戀ならん、われはかく君をこひしと思ふにと也。爾有目の三字は、ならめとよむべし。にあの反、ななれば也。この事は、下【攷證三中十六丁】にいふべし。さて、たがといひて、ならめと結べるは、てにをはたがへるに似たれど、本集三【四十一丁】に、不所見十方孰不鯉有米《ミエストモタレコヒサヲメ》云々。四【四十丁】に、奧裳何如荒海藻《オクモイカニアラメ》云々などありで、集中いと多し。これ、集中一つの格也。吾をわとのみよむ事は、上【攷證一上三丁】にいへり。
明日香清御原宮御宇天皇代 天渟名原瀛眞人天皇。
天皇、御謚を天武と申す。この天皇の御事も、この大宮の事も、上【攷證一上卅七丁】にいへり。印本、渟を停に誤れり。上文と、書紀によりてあらたむ。
天皇。贈2藤原夫人1御製歌。一首。
(40)藤原夫人。
書紀天武天皇二年紀に、夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟、五百重娘、生2新田部皇子1云々とありて、二夫人ながら、鎌足公の女にて、姉妹なり。ここに、藤原夫人とあるは、この姉妹のうち、何れならん。さだめがたけれど、左の御製に、大原乃古爾之郷《オホラノフリニシサト》とよみ給ひて、本集八【廿二丁】に、藤原夫人とあ 古注に、字曰2大原大刀自1、即新田部皇子之母也云々とあれば、ここなる藤原夫人は、五百重(ノ)娘の御事なるべし。しか分る時は、二十【五十四丁】に、藤原夫人とあるは、古注に字曰2氷上大刀自1也云々とありて、氷上(ノ)娘なるべし。さて夫人といへることは、禮記曲禮下に、天子有v后、有2夫人1云々。疏に、有夫人者夫扶也、言扶2持於王1也云々。後宮職員令に、妃二員、右四品以上、夫人三員【保己一校本この間に右三位以上の五字あるは非也今集解によりてはぶけり。】嬪四員、右五位以上云々。集解に、漢書を引て、天子妾稱2夫人1云々と見えて、妃よりも下なるを、宣長が詔詞解に、きさきとよまれしは誤也。書紀反正紀に、皇夫人また夫人をもきさきとよめるも誤り也。【この事は別に考へあり。】尤、續日本紀に、神龜六年八月戊辰、詔立2正三位藤原夫人1、爲2皇后1云々とあり。こは光明皇后の御事にて、后に立給はぬほどなれば、夫人とはいへる也。かつ夫人を、考別記には、みやす所とよまれしかど、これもいかゞ。ただ字音のまゝによむべき也。猶考別記の説をも考へ合すべし。
御製歌。
印本、製の字なし。今集中の例によりて補ふ。
103 吾里爾《ワカサトニ》。大雪落有《オホユキフレリ》。大原乃《オホハラノ》。古爾之郷爾《フリシニサトニ》。落卷者後《フラマクハノチ》。
(41)天皇、すみ給へる飛鳥清御原宮のほとりをのたまふなり。
大雪落有《オホユキフレリ》。
此卷【卅四丁】に、大雪乃亂而來禮《オホコキノミタレテグレ》云々。十九【四十七丁】に、布禮留大雪《フレルオホユキ》云々など見えたり。今もいへるごとく、いたくふれる也。
大原乃《オホハラノ》。古爾之郷爾《フリシニサトニ》。
考に、大原は、續日本紀に、紀伊へ幸の路をしるせしに、泊瀬と小治田の間に、大原といふあり。今も、飛鳥の西北の方に、大原てふ所ありて、鎌足公の生給へる所とて、杜あり。これ、大方右の紀にかなへり。ここを、本居にて、夫人の下りて、居給ふ時の事なるべし云々といはれしがごとし。本集十一【廿一丁】に、大原《オホハラノ》、古郷妹置《フリニサトニイモヲオキテ》云々。四【十七丁】に、大原之此市柴乃《オホハラノコノイチシバノ》云々など見えたり。
落卷者後《フラマクハノチ》。
ふらんは後也。天皇、わがすみ給ふ里には、いたく雪ふれり。君がすめる大原の古郷に、ふらんは、この後ならんと也。まくといふ語、んといふを、のべたる言にて、まくの反、むなれば、見まくは、見ん、きかまくは、きかん、ちらまくは、ちらんの意也。宣長が、まくは、むといふと同意にて、ましと一つ詞なるを、下に語をつゞけんとて、まくとはたらかしいふ也。べしなども、下へつゞく時は、べくといふと、同格也云々といはれつるがごとし。
藤原夫人。奉v和歌。一首。
(42)104 吾崗之《ワガヲカノ》。於可美爾言而《オカミニイヒテ》。令落《フラセタル》。雪之摧之《ユキノクダケシ》。彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
於可美爾言而《オカミニイヒテ》。
於可美《オカミ》は、古事記上卷に、次集2御刀之手上1血、自2手俣1漏出、所v成神、名|闇於加美《クラオカミノ》云々とある、これにて、書紀神代紀上一書に、伊弉諾尊、拔v釼斬2軻遇突智《カグツチ》1、爲2三段1、其一段是爲2高※[靈の巫が龍]《タカオカミニ》1、【此云2於箇美1音力丁反】云々。仙覺抄に、豐後風土記を引て、有2地※[靈の巫が龍]1、謂2於箇美《オカミ》1云々と見えたり。※[靈の巫が龍]は、玉篇に※[靈の巫が龍]【力丁切龍也又作v靈神也】※[靈の巫が龍]【同上】とありて、龍をおかみといへる也。さて、おかみは、龍にて、龍は水をつかさどるものなれば、雨をも、雪をも、ふらすめり。されば、わが岡にすめる※[靈の巫が龍]《オカミ》にいひつけて、雪をふらせしと也。龍の水をつかさどれる事は、水經注卷云、交州丹淵、有2神龍1、毎v旱邨人以2繭草1、置2淵上1、流魚則多死、龍當時大雨云々。後魏書云、波知國有2三池1、傳云、大池有2龍王1、次者龍婦、又次者龍子、行人設v祭乃得v過、不v祭多遇2風雨1云々など見えて、この外、諸書にいと多かれど、あぐるにいとまなし。
雪之摧之《ユキノクダケシ》。
之《シ》は過去のしにて、しがといふ意に心得べし。
彼所爾塵家武《ソコニチリケム》。
わがすめる岡にゐる※[靈の巫が龍]《オカミ》にいひつけて、ふらしめたる、雪の摧《クダ》けしが、そこの御里にはふりけんと也。右の御製に、大原のふりにしさとに、後《ノチ》にふらんとのたまへるに、たはぶれこたへ奉れるにて、はやくわがすめる里には、雪のふれりしが、その雪のくだけしが、君があたりにやふりけんといへる意也。塵《チリ》は借字にて散なり。
(43)藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇。
天皇、御謚を持統と申す。この天皇の御事も、この大宮の事も、上【攷證一上四十三丁】にいへり。印本、高天原廣野姫天皇の八字を、天皇謚曰2持統天皇1の八字とす。今元暦本と、集中の例によりてあらたむ。
大津皇子。
書紀天武天皇二年紀に、納2皇后姉大田皇女1爲v妃、生3大來皇女與2大津皇子1云云。持統紀、朱鳥元年紀に、十月己巳、皇子大津、謀反發覺、逮2捕皇子大津1云云。庚午、賜2死皇子大津於譯語田舍1、時年二十四、妃皇女山邊、被髪徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷、皇子大津、天渟中原瀛眞人天皇第三子也、容止墻岸、音辭俊朗、爲2天命開別天皇所1v愛、及v長辨有2才學1、愛2文筆1、詩賦之興、自2大津1始也云々と見えたり。
竊下2於伊勢神宮1上來時。
竊は、しのびて也。ひそかに伊勢神宮に下り給ふ也。こは、御姉大伯皇女の、伊勢齋宮におはしませば、その御もとに、くだらせたまふ也。考別記云、天武天皇は、十五年九月九日崩ましぬ。さて、大津皇子、この時皇太子にそむき給ふ事、其十月二日にあらはれて、三日にうしなはれたまへりき。こ(44)の九月九日より、十月二日まで、わづかに二十日ばかりのほどに、大事をおぼし立ながら、伊勢へ下り給ふいとまはあらじ。且大御喪の間といひ、かの事おぼすほどに、石川郎女をめしたまふべくもあらず。仍て思ふに、天皇御病おはすによりて、はやくよりおぼし立ことありて、その七八月のころに、彼大事の御祈、または御姉の齋王に聞えたまはんとて、伊勢へは下り給ひつらん。さらば清御原宮の條に載べきを、其天皇崩ましてより後の事は、本よりにて、崩給はぬ暫まへの事も、崩後にあらはれし故に、持統の御代に入しならん云々といはれつるがごとし。伊勢神宮の事は、上【攷證一上卅七丁】にいへり。
大伯《オホクノ》皇女。
又、大來皇女ともかけり。書紀齊明天皇七年紀に、正月甲辰、御船到2于|大伯《オホクノ》海1、時大田姫皇女産v女焉、仍名2是女1、曰2大伯皇女1云々と見えたり。大伯海は、備前國にて、和名抄國郡部に、備前國邑久郡邑久【於保久】とある、これ也。さて、この皇女は、天武天皇の皇女にて、大津皇子の御姉なる事、上、大津皇子の下に引たる、天武天皇紀の文に見ゆるがごとし。同紀に、白鳳二年四月己巳、欲v遺v侍2大來皇女于天照大神宮1而、令v居2泊瀬齋宮1、是先潔v身、稍近2神之所1也云々。三年十月乙酉、大來皇女、自2泊瀬齋宮1、向2伊勢神宮1云々。持統天皇紀に、朱鳥元年十一月壬子、奉2伊勢神祠1皇女大來、還2至京師1云々。續日本紀に、大寶元年十二月乙丑、大伯内親王薨、天武天皇之皇女也云々と見えたり。
二首。
この二字、印本なし。集中の例によりて補ふ。
(45)105 吾勢枯乎《ワカセコヲ》。倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》。佐夜深而《サヨフケテ》。鷄鳴露爾《アカツキツユニ》。吾立所霑之《ワカタチヌレシ》。
吾勢枯乎《ワカセコヲ》。
御弟を親しみ給ひて、わがせことはのたまへる也。古事記に、天照大御神の、須佐能男《スサノヲノ》命をさして、我那勢《アカナセノ》命とのたまへるも、これに同じ。さて、男を、兄《セ》とも、兄子ともいふ事、上【攷證一上三丁】にくはし。
佐夜深而《サヨフケテ》。
佐《サ》は、發語にて、たゞ夜ふけて也。集中いと多く、あぐるにいとまなし。書紀仁徳紀歌に、瑳用廼虚烏《サヨドコヲ》云々とあるも、ただ夜床《ヨドコ》なり。
鷄鳴《アカツキ・アカトキ》露爾《ツユニ》。
書紀仁徳紀にも、鷄鳴をあかつきとよめり。毛詩鄭風に、女曰鷄鳴、士曰昧旦と見えたり。鷄鳴露《アカトキツユ》は曉がたの露なり。本集八【四十七丁】に、高圓之野邊乃秋芽子《タカマトノヌベノアキハギ》、比日之曉露爾開兼可聞《コノコロノアカトキツユニサキニケムカモ》云々。十【四十四丁】に、比日之曉露丹《コノコロノアカトキツユニ》云々。また【四十七丁】比者之五更露爾《コノコロノアカトキツユニ》云々など見えたり。(島嶼、曉を、あかつきといふは、やゝ後の事也。集中、假字に書る所は、みなあかときとのみあり。新撰字鏡にさへ、※[日+出]旭※[日/各]などを、阿加止支とよめり。明時の意なり。)
吾《ワガ・ワレ》立所霑之《タチヌレシ》。
わがせこを、大和へかへしやるとて、夜ふかくおきいでて、たゝずめば、曉がたの露にぬれねと也。舊訓、われたちねれしとあれど、わがとよむべし。たちぬれしの、しは、過去のしにて、わがの、がの結び詞也。わがといへる詞は、われがの略にて、わがのがは、てにをは也。古事記中卷歌に、和賀布多理泥斯《ワカフタリネシ》云々。本集此卷【十三丁】に、我二人宿之《ワカフタリネシ》(46)云々など、あるにても、しは、がの結び詞なるをしるべし。
106 二人行杼《フタリユケト》。去過難寸《ユキスキガタキ》。秋山乎《アキヤマヲ》。如何君之《イカニカキミガ》。獨越武《ヒトリコユラム》。
二人行杼《フタリユケド》。去過難寸《ユキスギガタキ》。秋山乎《アキヤマヲ》。
たとへ、道づれありて、二人してゆくとも、秋は物がなしきをりなるうへに、しかも山路なれば、さびしきを、まして獨こゆらん君をおもひやれりと也。大津皇子、たとへしのびて下らせ給ふなりとも、御身がら、御供も多く侍りけめど、かくのたまふは、歌のつねなり。
獨越武《ヒトリコユラム》。
武の上、らの字ありつらんが、落し也。らの字なきによりてか、考に、ひとりこえなんとよみ直されしかど、叶はず。本集十二【卅九丁】に、見乍可君之山路越良無《ミツツカキミカヤマチコユラム》云々。また獨可君之山道將越《ヒトリカキミカヤマチコユラン》云々などあるにても、こゆらんとよむべきをしるべし。
この二首の御歌、御弟大津皇子の、大事をおぼしたち給ふをりの御別なれば、またの御對面も、おぼつかなく、あはれなる意、おのづからにこもれり。
大津皇子。贈2石川郎女1御歌。一首。
父祖、不v可v考。上に、久米禅師娉2石川郎女1とあると、同人か、別人か、しりがたし。猶その所の攷證、考へ合すべし。
(47)107 足日木乃《アシヒキノ》。山之四付二《ヤマノシヅクニ》。妹待跡《イモマツト》。吾立所沾《ワレタチヌレヌ》。山之四附二《ヤマノシツクニ》。
足日木乃《アシヒキノ》。
枕詞也。宣長云、足引城之《アシヒキキノ》なり。足は、山の脚《アシ》、引は長く引はへたるを云。城《キ》は、凡て、一かまへなる所をいひて、此は即山の平らなる所をいふ。その周《メグリ》に、かぎりありて、おのづから一かまへなれば也。引城《ヒキキ》を、ひきといふは、同音の重なる言は、一つはぶきてもいふ例にて、旅人をたびといへる類也。されば、足を引たる城の山といふつゞき也云々といはれしにしたがふべし。猶、予が冠辭考補遺にくはし。
山之四附二《ヤマノシヅクニ》。
この句は、四の句の、われたちぬれぬといふへかゝれり。しづくは、雨露などの、木末に《(マヽ)》、草葉にまれ、たまれるをいふ。本集十九【卅一丁】に、足日木之山黄葉爾四頭久相而《アシヒキノヤマノモミチニシツクアヒテ》云々ともよめり。諸書、みな雫の字をかけり。この字、字鏡集に出せれど、訓注をはぶけり。また、龍龕手鑑にも出たれど、字注なし。案に、中國の作字なるべし。
吾立所沾《ワレタチヌレヌ》。
ぬるゝに、まへには霑の字、こゝには沾の字をかけり。沾は、正字通に、漬也、濡也、別作v霑と見えたり。一首の意明らけし。
石川郎女奉v和歌。一首。
108 吾《ア・ワレ》乎待跡《ヲマツト》。君之沾計武《キミカヌレケン》。足日木能《アシヒキノ》。山之四附二《ヤマノシツクニ》。成益物乎《ナラマシモノヲ》。
(48)吾《ア・ワレ》乎待跡《ヲマツト》。
吾は、あとのみよむべし。古事記上卷の歌に、阿波母與賣爾斯阿禮婆《アハモヨメニシアレバ》云々。本集十二【十九丁】に、吾妹兒哉安乎忘爲莫《ワキモコヤアヲワスラスナ》云々。十四【十九丁】に、安乎許登奈須那《アヲコトナスナ》云々などありて、猶多し。これらにて、吾はあとのみ|よ《(マヽ)》べきをしるべし。こは、誰《タレ》をたとのみいへる類也。この事は、下【攷證十二下】にいふべし。一首の意は明らけし。頭書、吾を、あとのみも、わとのみもいひし事、集中共にいと多かれば、いづれとも定めがたし。追て可v考。)
大津皇子。竊|婚《ミアヒマシヽ》2石川女郎1時。津守連通。占2露《ウラヘアラハシシカバ》其事(ヲ)1。皇子御作歌一首。
石川女郎。
父祖不v可v考。まへに石川郎女とあるとは別人なるべし。考別記に、今本に女郎とある、多かれど、そは、皆後世人、なま心得して誤れり。皇朝の古書に、女郎てふ字は見えず。まして、氏の下にしか書べきならぬを、大伴旅人卿の妻、大伴郎女を、卷十三に、大伴女郎とあるは、必らずひがごとなるをもて、惣てをしるべし云々とて、女郎とあるをば、皆郎女と改められしかど、郎女、女郎と、わかちかけるも、故ある事とおもは|れ《(マヽ)》るば、しばらくもとのまゝにておきつ。猶後案をまつのみ。
婚。
婚は、書紀にみあひますとよめるにしたがひて、みあひましゝとよむべし。白虎通嫁娶篇に、婚者昏時行v禮、故曰v婚云々と見えたり。
(49)津守連通。
父祖不v可v考。續曰本紀に、和銅七年正月甲子、授2正七位上津守連通從五位下1云々。十月丁卯、爲2美作守1云々。養老五年正月甲戌、詔曰、文人武士、國家所v重、醫卜方術、古今期v崇、宜d於百僚之内、優2遊學業1、堪v爲2師範1者、特加2賞賜1、勘2勵後生u、因賜2陰陽從五位上大津連首從五位下津守連通各※[糸+施の旁]十疋絲十※[糸+句]、布二十端鍬二十口1云々。七年正月丙子、授2從五位上1云々と見え、津守氏は、新撰姓氏録卷十八に、津守宿補、火明命八世孫、大御目足尼之後也云々。卷二十に、津守連、天香山命之後也云々と見えたり。又書紀天武天皇十三年紀に、十二月己卯、津守連、五十氏、賜v姓曰2宿禰1云々とあるのちも、連とかけるは、姓氏録にあげたるがごとく、後は津守の氏二つにわかれたるか。この通《トホル》ぬしは、宿禰の姓をたまはらざる津守氏なるべし。このぬし、卜占の道に勝れたりし事は、續紀の文にて明らけし。
占露。
この二字は、うらへあらはしゝかばとよむべし。うらへは、古事記に卜相とかき、書紀に卜合とかける意にて、うらあへの、あを略《ハブ》ける也。いまうらなふといふに同じ。この事くはしくは、下【攷證十三中 】にいふべし。露は、玉篇に露見也云々。集韻に、彰也云々。後漢書※[至+おおざと]※[立心偏+軍](ノ)傳注に、露顯也云々とあるにて、あらはるゝ意なる事明らけし。
109 大船之《オホフネノ》。津守之占爾《ツモリノウラニ》。將告登波《ツケムトハ》。益爲爾知而《マサシニシリテ》。我二人宿之《ワカフタリネシ》。
大船之《オホフネノ》。
枕辭にて、冠辭考にくはし。大船のよる津とつゞけし也。さて代匠記に、大舟の入津とつゞけて、住吉に、つもりのうらあれば、通が氏よりうらなひまでにかけたま(50)へり云々といへるがごとく、占《ウラ》を、浦にとりなして、ことばのあやをなせる也。本集十一【六丁】に、百積船潜納《モヽサカノフネカツキイル》、八占刺母雖問《ヤウラサシハヽハトフトモ》、其名不謂《ソノナハイハシ》云々とあるも、占に浦をかけたり。これにても思ふべし。
津守之占爾《ツモリカウラニ》。
津守は、津守連通をのたまふ也。うらは、うらへといふは、下へ相の字を付たるにて、占《ウラ》とのみいふぞ、本語なる。本集十一【十三丁】に、占正謂妹相依《ウラマサニイヘイモアヒヨルト》云々。十四【七丁】に麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名《マサデニモノラヌキミカナ》、宇良爾低爾家里《ウラニデニケリ》云々と見えて、猶多し。
將告登波《ツケムトハ》。
この句を、考には、のらんとはと訓直されしは誤り也。告の字は、のるとよむべき所も、つぐとよむべきもあり。ここなどは、必らずつぐとよむべき所也。たゞ物をいふをいへる所には、のるといひ、物をいひきかせて知らしむる所には、つぐといへり。このわかちを、よく心得べし。そは、本集三【四十八丁】に、吾毛見都人爾毛將告《ワレモミツヒトニモツケム》云々。七【廿三丁】に、花開在我告乞《ハナサキタラバワレニツケコソ》云々。十七【廿一丁】に、白雲爾多知多奈妣久等安禮爾都氣都流《シラクモニタチタナヒクトアレニツケツル》云々。また【四十丁】伊末太見奴比等爾母都氣牟《イマタミヌヒトニモツケム》云々。二十【五十三丁】に、美也古乃比等爾都氣麻久波《ミヤコノヒトニツケマクハ》云々などあるにても、思ふべし。集中いと多く、あぐるにいとまなし。
益爲爾知而《マサシニシリテ》。
益爲《マサシ》は、借字にて、正し也。本集十一【十三丁】に、占正謂妹相依《ウラマサニイヘイモニアヒヨラム》云々。古今集離別に、なにはのよろづを、相坂の關しまさしきものならば、あかずわかるゝ君をとゞめよ。戀四に、よみ人しらず、かくこひんものとはわれも思ひにき、心のうらぞまさしかりける。後選集戀一に、するが、まどろまぬかへにも人を見つるかな、まさしからなん、春のよ(51)のゆめ云々などあるも、皆意同じ。正《マサ》しを、まさしきとも、まさともいへるは、久しきを、ひさしきとも、ひさともいへる類也。また本集十四【七丁】に、麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名字良爾低爾家里《マサデニモノラヌキミガナウラニデニケリ》云云とあるは、眞定《マサダ》の、たを、てにかよはしたるにて、後世さだかといふ意なれば、こゝとはたがへり。この事は、その所にいふべし。
我二人宿之《ワカフタリネシ》。
わがふたりねしの、しは、過去のしにて、わがの、がの結び詞也。この事は上にいへり。さて一首の意は、君とわれと通じをる事を、津守の通が、うらなひあらはして、告《ツゲ》んとは、かへりてこの方は、正しくしりてありながらも、戀にえたへがたくて、かく二人宿しぞと也。かくのたまへるは、この皇子の、ひそかに石川女郎にあひたまはんとせし始より津守の通がしるよしありて、しりゐたらんと見えたり。
日並斯《ヒナメシ》知(ノ)皇子尊。贈2賜《オクリタマハスル》石川女郎1御歌。一首。【女郎字曰2大名兒1也。】
日並斯知皇子尊。
文武天皇の御父、草壁皇子を申奉る。尊號を、岡宮天皇とし申奉れり。この御事は、上【攷證一下廿四丁】にくはし。さて、印本、所知の二字を脱せり。續日本紀には、日並知皇子とあり。元暦本には、所知とあり。所の字は、すべて添てかける字なれば、所知とあるぞ、古本のまゝなる。よりてあらたむ。(頭書、大和志十五【六丁ウ】。)(頭書、而考、大和國十市郡粟原寺寶塔露盤銘に、奉d爲2淨見原天皇御宇日並春宮1、造2修u土伽藍1云々ともあれば、所知の二字なきをよしとす。)
(52)女郎字曰2大名兒1也。
字は、あざなとよむべし。字鏡集、伊呂波字類抄に、あざなとよめり。書紀孝徳紀に、大伴長徳【字馬飼】蘇我臣日向【字身刺】云々。文徳實録卷十に、山田連春城卒、春城字連城云々。宇津保物語祭使卷に、學生あざな、とうゑいさく、な、すゑふさ云々。源氏物語をとめの卷に、あざなつくる事は、ひんがしの院にてしたまふ云々など見えたり。宣長が玉勝間卷二に、あざなといふもの、かの文琳、菅三、平仲などのたぐひのみにあらず。古へより、正しき名の外に、よぶ名を、字《アサナ》といへること多し。中むかしには、今のいはゆる俗名をも、字といへる事あり。其外にも、田地の字、何の字、くれの字などいふも、皆正しく定まれる名としもなくて、よびならへるをいへり。いづれも漢國の人の字とは、こと/\也。そが中に、今の俗名をいへるは、漢文の字とこゝろばへ似たり云々といはれつるごとく、漢土人の字とは、少しことなる所もあれど、字を付そめしは、漢土にならへる也。禮記曲禮に、男子二十、冠而字云々。郊特牲に、冠而字v之、敬2其名1也云々。冠義注に、字所2以相尊1也云々など見えたり。また大神宮諸雜事記に、字《アサナ》浦田山云々、字山里川原云々、字※[石+弖]鹿淵云々など地名にいふもつねによびならへる名といふ事也。(頭書、靈異記上卷に、其名未v詳、字曰2瞻保1云々。顯宗紀【七丁ウ】字《ミナ》。)さて、印本、大名兒也の四字を脱せり。いま元暦本によりて補なふ。こは石川女郎のつねの呼名を、大名兒といへりといふ意なり。
110 大名兒《オホナコヲ》。彼方野邊爾《ヲチカタヌヘニ》。苅草乃《カルカヤノ》。束間毛《ツカノアヒタモ》。吾忘目八《ワレワスレメヤ》。
(53)大名兒《オホナコヲ》。
考に、一本又目録に、女郎字曰2大名兒1也と注せり。こは、この歌の言もて、おしていふ也。今思ふに、又の名とも聞えず。其女を、あがめて、大名兒とのたまひつらん歟。名姉《ナネ》、名兄《ナセ》、また大名持など、名をもてほめことゝせしは、古へのつね也云々といはれつるは、たがへり。大名は、大きに名ありといふ意にて、名のきこえたるをいへる事、大名持の神と申すも、この神の御名、聞えたるを、稱して申すにてもしるべし。また、いと古くは、名《ナ》といふ言も、子《コ》といふ言も、人を親しみ尊みていふ言なれど、天智、天武などの御ころよりこなたは、やがて名ともなれる事、上【十一丁】に、釆女安見兒、十六【六丁】に、娘子字曰2櫻兒1、また娘子字曰2鬘兒1也などあるにても、兒は名に付る事にて、こゝの大名兒も、名なる事をしるべし。このごろよりすこし下りて、嵯峨淳和の御ころよりは、女の名の下に、なべて子《コ》の字を付る事とはなれり。これ、本は尊稱の詞なりしが、うつれる也。また中ごろ、女房の名にあこき、みやき、いぬき、あてき、なれき、こもきなど、きの字付るも、君の略にて、本は尊稱の詞なりしが、うつれる事、子の字を、名の下に付るが如し。この句は、五の句へかけて、心得べし。堀川百首に、基俊、おほなこが草かるをかのかるかやは、下をれにけり、しどろもどろに云々とよまれしは、この歌を心得誤られし也。
彼方《ヲチカタ》野《ヌ・ノ》邊爾《ヘニ》
本集下十一【卅一丁】に、彼方之赤土少屋爾《ヲチカタノハニフノコヤニ》云々。上四【四十三丁】に、彼此兼手《ヲチコチカネテ》云々など、彼の字を、をちとよめるごとく、彼の字の義にて、をちかた野べは、かしこの野べといふ意、をちこちはかしここゝといふ意也。さるを、七【廿九丁】に、遠近の字を、をちこちとよめるを見て、をちとは遠くの事ぞと、おもふは非也。こは遠近の字義もてかけるにて、か(54)しここゝといふ事也。
苅草乃《カルカヤノ》。
本集十一【卅九丁】に、紅之淺葉之野良爾苅草乃《クレナヰノアサハノヌラニカルカヤノ》、束之間毛吾忘渚菜《ツカノアヒダモアヲワスラスナ》云々ともあるがごとく、束間毛《ツカノアヒタモ》といはんとて、をちかた野べにかるかやのと、おけるにて、序歌也。さて、苅草《カルカヤ》は、十四【廿五丁】に、和我可流加夜能佐禰加夜能《ワカカルカヤノサネカヤノ》云々ともありて、かやは、すなはち草の事なる事は、上【攷證一上廿二丁】にいへるがごとくなるを、拾遺集物名に、草の名を多くあげたる所に、かるかやと出し、大中臣能宣集にも、物名に、かるかやをよめり。これらよりして、後世一種の草の名として、歌にもよめるは、甚しき誤り也。そは、本集一【十一丁】に、小松下乃草乎苅核《コマツカモトノカヤヲカラサネ》云々。四【五十八丁】に黒樹取草毛刈乍《クロキトリカヤモカリツヽ》云々。十六【卅一丁】に、茅草苅草苅婆可爾《チカヤカリカヤカレハカニ》云々などあるにても、かるかやとは、苅たる草の事なるをしるべし。
束間毛《ツカノアヒタモ》。
束間《ツカノマ》は、握《ツカ》の間にて、握は四の指をならべたる長さをいひて、みじかき事のたとへなり。古事記に、十擧劍《トツカツルギ》、八擧鬚《ヤツカヒゲ》などあるを、書紀には十握劍《トツカツルキ》、八握鬚《ヤツカヒゲ》ともかきて、拳も、握も、物をにぎる事にて、いまつかむといふも同じ。さて、こゝは、苅たる草のみじかく、一握《ヒトツカミ》ばかりなる、そのみじかき間もといふ意なる事、本集四【十四丁】に、夏野去小牡鹿之角乃束間毛《ナツヌユクヲシカノツヌノツカノマモ》、妹之心乎忘而念哉《イモカコヽロヲワスレテモヘヤ》云々。金葉集雜上に、源俊頼朝臣、なきかげにかけゝるたちもあるものを、さやつかのまにわすれはてぬる云々。新古今集戀一に、伊勢、なにはがたみじかきあしのつかのまもあはでこの世をすぐしてよとや云々などあると、まへに引たる、十一の歌とを合せ見て、心得べし。さて列氏 篇に、推干御也、齊2輯乎轡銜之際1、而急2緩唇吻之和1、正2度乎胸臆之中1、(55)而執2節乎掌握之間1、内得2于中心1、而外合2于馬志1云々とあるも似たり。
吾忘目八《ワレワスレメヤ》。
一の句の大名兒《オホナコヲ》とあるを、この句へかけて心得べし。つかのまの、みじかきほども、君をわれわすれめや、わすれはせじと也。
幸2于吉野宮1時。弓削皇子。贈2與額田王1御歌。一首。
弓削皇子。
書紀天武天皇二年紀に、次妃大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1云々。持統天皇七年紀に、正月壬辰、以2淨廣貳1、授3皇子長與2皇子弓削1云々。續日本紀に、文武天皇三年七月癸酉、淨廣貳弓削皇子薨、皇子天武天皇之第六皇子也云々と見えたり。
贈與《オクリアタヘタマフ》。
この二字、おくりあたへたまふとよむべし。周禮春官大卜注に、與(ハ)謂v予2人物1云々と見えたり。上【攷證一上十三丁】にくはし。
111 古爾《イニシヘニ》。戀流鳥鴨《コフルトリカモ》。弓絃葉乃《ユツルハノ》。三井能上從《ミヰノウヘヨリ》。鳴渡遊久《ナキワタリユク》。
古爾《イニシヘニ》。戀流鳥鴨《コフルトリカモ》。
○代匠記に、いにしへにこふるは、いにしへをこふる也云々といへるがごとく、いにしへにの、にもじは、をの意にて、君にこひ、妹にこひなどいふ、(56)にもじと同じ。いにしへをこふる鳥とは、次の歌によるに、郭公をのたまへりと見ゆ。さて書紀を考ふるに、弓削皇子の御父、天武天皇、まだ春宮におはしましゝほど、事あらん事をはかりしり給ひて、春宮を辭し給ひて、出家して、吉野宮にしばらくおはしましゝ事あり。いま持統天皇の、吉野宮に幸したまふ御供に、弓削皇子もおはしたるが、吉野宮にて、そのかみ御父天皇のおはしましゝ事を、おぼしいでゝ、みづからも、むかし戀しくおぼしのしゝをりから、時鳥のなきわたりしを、汝もいにしへをこふる鳥かもとは、よませたまへる也。額田王も、この天皇にめされ《(マヽ)》人にて、同じくこひ奉るぺければ、この御歌をよみて、おくり給ひし也、古今集夏に、はやくすみける所にて、郭公のなきけるをきゝてよめる、忠峯、むかしへや今も戀しき、ほとゝぎす、ふるさとにしもなきてきつらん云々とよめるも、似たり。ある人、蜀の望帝の故事をこゝに引つれどあたらず。
弓絃葉乃《ユツルハノ》。三井能上從《ミヰノウヘヨリ》。
三井の、三は、假字にて、御井なり。この御井は、大和志に、弓絃葉井、在v二、一在2池田莊六田村1、一在2川上莊大瀧村1、未v詳2孰名區1云々と見えたり。いまだゆきて見ざる所なれば、しりがたけれど、いづれにまれ、御井とあるからは、吉野の宮中の御井なるべし。本集一【廿三丁】に、藤原宮御井とあるを思ひ合すべし。また【卅丁】山邊御井とあるも、行宮の御井也。弓絃葉《ユツルハ》の事は、下【攷證十四丁】にいふべし。
鳴渡遊久《ナキワタリユク》。
元暦本、渡を濟に作れり。いづれにてもよし。一首の意明らけし。
(57)額田王奉v和歌。一首。
112 古爾《イニシヘニ》。戀良武鳥者《コフラムトリハ》。霍公鳥《ホトヽキス》。盖哉鳴之《ケタシヤナキシ》。吾戀其騰《ワカコフルコト》。
霍公鳥《ホトヽキス》。
霍公鳥の字、本集の外見ゆる所なし。或人云、ほとゝぎすを、郭公鳥と書は、郭と霍と同韻の字なるによりて、郭公を霍公と、文字を書かへたるのみ。郭公とかくと同じといへり。この説、一わたりはさる事ながら、誤れり。霍公鳥の、霍は、玉篇に、乎郭切鳥飛急也云々とありて、鳥のはやく飛ゆく事なるを、ほとゝぎすは、飛事のいと早きものなれば、霍の字は用ひ、公は鳥獣にまれ、何にまれ、その物を稱美しで付る字にて、鶯を黄公といひ、燕を杜公といひ、布穀を郭公といひ、※[盧+鳥]※[茲/鳥]を摸魚公といひ、猿を白猿公、また山公などもいひ、羊を長髯公といへるたぐひにて、霍公鳥の字を義訓して、ほとゝぎすとはよめる也。是中國製作の熟字なり。さて、ほとゝぎすは、菅家萬葉集よりこのかた、和名抄にも、郭公の字をあてつれど、郭公は、布穀の事にて、よぶこ鳥の事にて、ほとゝぎすにあらざる事、寂照谷響集卷一にくはしく辨ぜり。(頭書、本集八【廿八丁】に、霍公鳥吾如此戀常往而告社《ホトヽギスワレカクコフトユキテツケコソ》云々。)
盖哉鳴之《ケタシヤナキシ》。
けだしてふ語は、本集三【四十二丁】に、山守者蓋雖有《ヤマモリハケタシアリトモ》云々。四【四十四丁】に、蓋毛人之中言聞可毛《ケタシクモヒトノナカコトキケルカモ》云々。また【四十八丁】情蓋夢所見寸八《ココロハケタシイメニミエキヤ》云々。十五【卅丁】に、和我世故之氣太之麻可良婆《ワカセコカケダシマカラハ》云々。十七【四十六丁】に、氣太之久母安布許等安里也等《ケタシクモアフコトアリヤト》云々と見えて、集中猶いと多し。これらみなおしわたして考ふるに、けだしといふ語は、若《モシ》といふと、うたがふ意の詞也。そは禮記檀弓上疏に、(58)蓋是疑辭、また史記秦始皇本紀正義に、蓋者疑辭也と見えたり。元暦本、蓋を益に作りて、ましてやなきしよめりしかど、いかが。(頭書、蓋の字の事攷證四上廿五オ。)
吾戀其騰《ワガコフルゴト》。
其の字、元暦本、基に作れり。いづれにてもよろし。一首の意は、君がいにしへにこふる鳥かもとのたまへる、その古へを戀らん鳥は、ほとゝぎすならん。そのほとゝぎすは、もしやわが古へをこふるごとくなきしとなり。
從2吉野1。 祈2取|蘿生松柯《コケムセルマツカエ》1。遣時。額田王|奉入《タテマツレル》歌。一首。
蘿生松柯。
蘊はこけ、生はむすとよむべし。此卷下【四十三丁】に、子松之末爾蘿生萬代爾《コマツカウレニコケムスマテ二》云々。六【廿二丁】
オクヤマノイハニコケムシヒサシクミネハコケムシニケリ
に、奧山之磐爾蘿生《》云々。七【十九丁】に、久不見者蘿生爾家里【】云々などあり。この事は、上【攷證一上卅八丁】に、草武左受《コケムサス》とある所にもいへり。和名抄苔類云、唐韻云蘿【魯可反日本紀私記云蘿比加介】女蘿也、雜要決云、松蘿一名女蘿【和名万豆乃古介一云佐流乎加世】云々と見えたり。ここに蘿《コケ》とあるは、松蘿《ヒカゲ》にて、たゞの苔にはあらず。いかにとなれば、松蘿、山中の木の梢にのみ生る物にて、ここに松柯とあれば、ひかげのかゝれる松が柯也。子松がうれに、こけむすまでにとよめるも、この松蘿也。柯はえとよむべし。玉篇に、柯音歌、枝也云々と見えたり。
奉入歌。
たてまつれるうたとよむべし。考に、奉入をいれまつるとよまれしかど、いかゞ。古事記下卷に、還入とあるも、入の字に心なく、たゞかへる事、賜ふ事也。祝詞式(59)に、齋内親王奉入時云々とあるも、ただ奉るにて、入の字に心なし。さてこの端辭は、まへに幸2于吉野宮1時弓削皇子云々とあるをうけて、その吉野宮より、額田王のもとへ蘿《コケ》むせる松が枝を、折とり給ひて、弓削皇子のおくり給ひし時、額田王の弓削皇子に奉れる歌ぞと也。
113 三吉野乃《ミヨシヌノ》。玉松之枝者《タママツガエハ》。波思吉香聞《ハシキカモ》。君之御言乎《キミガミコトヲ》。持而加欲波久《モチテカヨハク》。
三吉野乃《ミヨシヌノ》。
三吉野の事は上【攷證一上四十一丁】にいへり。
玉松之枝者《タママツガエハ》。
こゝに、玉松之枝者とあるを、宣長が玉勝間卷十三に、萬葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とはよく似たる故也。二の卷に、三吉野乃玉松之枝者云々。十五の卷に、夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》ともあり。山は玉を誤れる事しるし。然るを、後の歌に、玉松とよめるは、この歌によれるにて、みなひがごと也。玉松といふ事は、ある事なし。又同じ二の卷に、人者縱念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍《ヒトハヨシオモヒヤムトモタマカツラカケニミエツヽ》云々。こは、山※[草冠/縵]は、日影葛《ヒカケノカツラ》のことにて、影の枕詞における也。山※[草冠/縵]日影とつゞく意にて、十四の卷に、あし引の山かづらかげとよめる、かげに同じ。十八の卷にも、かづらかげとあり。みなかげは、日影の事也。懸の意と心得たるは、ひがごと也。又十三の卷に、五十串立云々、雲聚玉蔭見者乏文。こは髻華に垂たる、日影※[草冠/縵]也。十六の卷に、足曳之玉縵之兒《アシヒキノヤマカツラノコ》とあるは、足曳之とあれば、山なる事論なし。即、ならべる歌には、山縵之兒とあり。さて、件の例どもによりて思へば、十一の卷に、玉久世清河原《タマクセノキヨキカハラニ》云々といふ歌も、(60)山城久世能河原《ヤマシロノクセノカハラニ》なりけんを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世といふことはあるべくもおぼえず云々といはれつる、玉※[草冠/縵]、玉蔭などの説は、いかにもさる事なれど、こゝの玉松之枝の玉は、山の誤りにはあらじ。この集にたゞ一所のみありて、古き書に見えずと、誤りとせんには、この集より、はじまれる事をば、みな誤りとせんや。たゞ一所のみにて、外に見えざる事ありとも、事のこゝろ、聞えたるは、用ふべき事つね也。さて、玉松の玉は、例のほむる詞也。にて《(マヽ)》、玉かづら、玉も、玉がつま、玉だすき、玉つるぎ、玉はゞきなどの類也。催馬樂高砂歌に、之良太萬川波支《シラタマツバキ》、太萬也名支《タマヤナギ》云々。また美乃山歌に、太萬加之波《タマガシハ》云々などあるも、椿柳柏などをほめて、玉何とはいへる也、これらにても、玉松の玉は、ほむる詞なる事をしるべし。
波思吉香聞《ハシキカモ》。
本集三【五十七丁】に、波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》云々。また【五十九丁】波之吉可聞皇子之命之安里我欲比《ハシキカモミコノミコトノアリガヨヒ》云々。十八【卅七丁】に波之伎故毛我母《ハシキコモガモ》云々。二十【十九丁】に波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》云々なども見えて、はしきは古事記にも、愛の字をよみ、本集六【廿八丁】に、愛也思《ハシキヤシ》云々と愛の字をよめり。こは。細《クハ》しき事にて、物を愛する意なり。またはしけやし、はしきよし、はしきやしなどいへるも、愛の字の意にて、やしも、よしも、助字也。この事は、下【攷證四下】にいふべし。
君之御言乎《キミガミコトヲ》。持而加欲波久《モチテカヨハク》。
御言乎持而《ミコトヲモチテ》は、この字の、御言をとりもちてかよふ故に、三吉野の玉松が枝は一しほ愛せらると也。本集五【卅一丁】に勅旨戴持弖《オホミコトイタタキモチテ》云々。十七【四十二丁】に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロキノヲスクニナレバ》、美許登母知多知和可禮奈婆《ミコトモチタチワカレナバ》云々などあるも、意同じ。また、宰司などの字を、みこともちとよめるも、天皇の御言を持て、政《マツリコト》をとり行ふ故に、(61)やがて、そのつかさの名として、みこともちとはいへる也。加欲波久《カヨハク》は、かよふの、ふをのべて、かよはくといへるにて、はくの反、ふ也。本集十二【卅八丁】の一書に、君乎思苦止時毛無《キミヲオモハクヤムトキモナク》云々とある、おもはくも、思ふの、ふをのべたる言にて、こゝも同じ。また詔《ノリ》たまはくなどいふ、はくも、同じ。さて、かよふは、古事記に、往來の字をよめり。すなはち、この字の意にて、集中通の字をよめるも同じ。
但馬皇女。在2高市皇子宮1時。思2穗積皇子1御作歌。一首。
書紀天武天皇二年紀に、夫人藤原大臣女氷上娘、生2但馬皇女1云々。續日本紀に、和銅元年六月丙戌、三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也云々と見えたり。この皇女と、高市皇子、穗積皇子と、異母の兄弟にてましませり。そは次の故證に記せり。
高市皇子。
書紀天武天皇二年紀に、納2※[匈/月]形君徳善女尼子娘1、生2高市皇子命1云々。五年正月癸卯、高市皇子以下、小錦以上大夫等、賜2衣袴褶腰帯脚帶机杖1云々。十四年正月丁卯、高市皇子、授2淨廣貳位1云々。持統天皇四年紀に、七月庚辰、以2皇子高市1、爲2太政大臣1云々。五年正月乙酉、増2封皇子高市二千戸1、通v前三千戸云々。六年正月庚午、増2封皇子高市二千戸1、通v前五千戸云々。七年正月壬辰、以2淨廣壹1、授2皇子高市1云々。十年七月庚戌、後皇子尊薨云々など見えたるごとく、皇子尊と記されたれば、この皇子、一たび皇太子に立たまひたりとおぼし。(62)案に、皇太子草壁皇子、持統天皇三年四月に薨じ給ひぬれば、其のちに、この皇子皇太子に立給ひし事のありしを、書紀には脱されたるなるべし。そは、懷風藻葛野王傳に、高市皇子薨後、皇太后引2王公卿士於禁中1、謀v立2日嗣1云々とあるにて、この皇子薨じ給ひて、日嗣のかけたるをしるべし。またこの皇子、持統天皇十年に、薨じ給ひて、十一年に文武天皇を皇太子に立給ひしにても、草壁皇太子と文武天皇との間に、此皇子皇太子にましましゝをしるべし。
穗積皇子。
書紀天武天皇二年紀に、夫人蘇我赤兄大臣女大〓娘、生2一男二女1、其一曰2穗積皇子1云々持統天皇紀に、五年正月乙酉、増2封淨廣貳皇子穂積五百戸1云々。續日本紀に、慶雲元年正月丁酉、二品穗積親王、益2封各二百戸1云々。二年九月壬午、詔知2太政官事1云々。三年二月辛巳、季禄准2右大臣1給v之云々。靈龜元年正月癸巳、授2二品1云々。七月丙午、薨、遣2從四位下石上朝臣豐庭、從五位上小野朝臣馬養1、監2護喪事1、天武天皇之第五皇子也云々と見えたり。
御作歌。
印本、作の字を脱せり。目録によりて補ふ。
114 秋田之《アキノタノ》。穗《ホ》向《ムキ・ムケ》之|所縁《ヨレル・ヨスル》。異所縁《カタヨリニ》。君爾因奈名《キミニヨリナナ》。事痛有登母《コチタカリトモ》。
穗《ホ》向《ムキ・ムケ》之|所縁《ヨレル・ヨスル》。異所縁《カタヨリニ》。
本集十【五十一丁】に、秋田之穗向之所依片縁《アキノタノホムキノヨレルカタヨリニ》、吾者物念《ワレハモノオモフ》、都禮無物乎《ツレナキモノヲ》云々。十七【十七丁】に、秋田之穗牟伎見我底利《アキノタノホムキミカテリ》云々などあり。印本、ほむけの(63)よするとよみたれど、十七卷によりて、ほむきとよむべし。所縁は、おのづからに、穗のよれるなれば、よするとよむは誤り也。さてほむきとは、稻の實のりて、穗のしだれたるをいひて、そは必らず片方にのみしだれふすものなれば、そのほむきの風などによれるがごとく、かたよりに、君によりなんと也。異所縁を、かたよりとよめるは義訓なり。
君爾因奈名《キミニヨリナナ》。
君によりなんなり。名《ナ》は、んの意也。この事は、上【攷證一上十七丁】にいへり。
事痛有登母《コチタカリトモ》。
次の御歌に、人事乎繋美許知痛美《ヒトコトヲシケミコチタミ》云々。四【廿二丁】に、他辭乎繁言痛《ヒトコトヲシゲミコチタミ》云々。七【卅三丁】に、事痛者《コチタクハ》云々などありて、集中いと多し。代匠記に、こちたかりともは、此集に言痛と書て、こちたみとよめるを思へば、こといたみといふを、といの切は、ちなる故に、つゞめてこちたみとはいへり。と《(マヽ)》思ふに清少納言、源氏物語などには、たゞこと多くらうがはしき事にいへれば、言痛の心にあらざる歟。第四に、他辭乎繁言痛あはざりき、心あるごとおもふなわがせとよめるは、まさしく人の物いひの多ければ、その詞をいたみて、あはぬわがことなる心あるごとくな思ひそといふ事なれば、中ごろよりすこし用ひ誤れるにや云々といへるがごとく、人に言|甚《イタ》くいひさわがれぬとも、君が方によりなんとなり。
勅2穗積皇子1。遣2近江志賀山寺1時。但馬皇女御作歌。一首。
志賀山寺。
扶桑略記云、天智天皇七年、正月十七日、於2近江國志賀郡1、建2崇福寺1云々。伊呂波字類抄云、崇福寺、志賀寺是也云々。續日本紀云、大寶元年八月甲辰、太政官(64)處分、近江國志賀山寺封、起2庚子年1計滿2三十歳1云々。天平十二年十二月乙丑、幸2志賀山寺1禮v佛云々など見えて、崇福寺これ也。さて、穗積皇子を、この寺に遣はされし事は、國史にのせざれば、しりがたけれど、考に、左右の御歌どもを思ふに、かりそめに遣はさるゝ事にはあらじ。右の事、顯はれたるによりて、この寺へうつして、法師にしたまはんとにやあらん云々といはれしは、いかゞ。かみにこの皇子の傳にあげたるがごとく、持統文武の御代、たえずこの皇子の位を昇し、封をも益したまひし事ありしにて、法師にとて遣はされしにはあらぬをしるべし。案るに、造立の事か、またはさるべき法會などありて、勅使に遣はされしなるべし。
115 遺居而《オクレヰテ》。戀管不有者《コヒツヽアラズバ》。追《オヒ》及《シカ・ユカ》武《ム》。道之阿囘爾《ミチノクマワニ》。標結吾勢《シメユヘワガセ》。
居而《オクレヰテ》。
穗積皇子、勅によりて、近江の志賀山寺にゆきたまふに、京におくれゐてなり。
戀管不有者《コヒツヽアラズバ》。
戀つゝあらんよりはといふ意にて、あらずばの、ずばは、んよりはの意也。この事は、上【攷證一上三丁】にいへり。
追《オヒ》及《シカ・ユカ》武《ム》。
代匠記云、追及武を、おひゆかんと、かなの付たるは誤れり。及の字は、この集にも、日本紀等などにも、多く、しくとよめり。すなはち、およぶといふ心也。しく物ぞなき、しかじなどいふも、心はこのしくにて、およぶ物ぞなき、およばずなり云々。考云、紀に【仁徳】皇后の、筒城の宮へおはせし特、夜莽之呂珥伊辭※[奚+隹]苔利夜莽伊辭※[奚+隹]之※[奚+隹]《ヤマシロニイシケトリヤマイシケシケ》云々とよませ給へるに同(65)しく、ここはおひおよばんTふ意也云々といはれつるがごとく、古事記上卷に、亦云以2其|追斯伎斯《オヒシキシ》1而號2道敷大神1云々ともあれば、おひしかんとよむべし。意は、おひつがんといふに同じ。猶下【攷證四上十一丁】にもいふべし。
道之阿囘爾《ミチノクマワニ》。
囘、こゝは、みと訓べし。五【廿八丁】に、道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》云々とあれば也。囘《ミ》は、末《マ》と通ひて、間の意にて、道のくまのほとりといふ也。阿の事は、上【攷證一上卅二丁】道隈《ミチノクマ》とある所にいひ、囘の事は、【攷證一下十四丁】島囘とある所にいへり。この二つを、合せ見て、考ふべし。
標結吾勢《シメユヘワガセ》。
考に、山路などには、先ゆく人の、しるべの物を結《ユフ》を、ここにはいへり。この同言にて、繩引渡して、へだてのしるしとし、木などたてて、標とするもあり。事によりて、意得べし云々といはれつるは、いかが。ここの意は、おくれゐて戀つつあらんよりは、君をおひゆきなん。君は、それをうるさしとおぼすべし。さらば、道のくまぐまに、標引わたして、わがこすまじきやうに、へだてし給へと、すまひていへる意也。そは、此卷【廿三丁】に、大御船泊之登萬里標結麻思乎《オホミフネハテシトマリニシメユハマシヲ》云々。また【廿四丁】に爲誰可山爾標結《タカタメカヤマニシメユフ》云々。三【四十二丁】に、其山爾標結立而《ソノヤマニシメユヒタテテ》云々。また將結標乎人將解八方《ユヒテムシメヲヒトトカメヤモ》云々。四【廿丁】に、緘結師妹情者《シメユヒシイモカココロハ》云々などありて、集中いと多く、しめゆふとあるは、みなものの隔に、標《シメ》ゆひて、人のこすまじき料にする也。しめなは、しめさす、しめ野、しめし野などいふも、みな同意也。かの石屋戸のまへに、しりくめ繩を引はへしも、またかへりな入たまひそとて、隔てしにて、このしりくめ繩も、しめなはの事にて、この事は、古事記(66)傳にくはし。さて本集十八【廿二丁】に、大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハ》、之流久之米多底《シルクシメタテ》、比等能之流倍久《ヒトノシルヘク》云々とあるのみぞ、標繩のしめにはあらで、しるしの事にて、禮記投壺に、飲畢之後、司射請爲2勝者1樹v標云々とある、これ也。このしるしの標と、物を隔つる標とを、考には心得誤られしと見ゆ。この二つ、語の本、一つ言とは見ゆれど、用ひざまは別なり。
但馬皇女。在2高市皇子宮1時。竊|接《ミアヒマシヽ》2穗積皇子1事。既形而後御作歌。一首。
接《ミアヒマシヽ》。
接は、みあひまししとよむべし。廣韻に、接即葉切、交也、合也、會也云々と見えたり。
而後。
印本、後の字を脱せり。目録によりておぎなふ。
116 人事乎《ヒトゴトヲ》。繁美許知痛美《シゲミコチタミ》。己《オノ》母《モ・ガ》世爾《ヨニ》。未渡《イマタワタラヌ》。朝川渡《アサカハワタル》。
人事乎《ヒトゴトヲ》。
人事は、借字にて、人言也。世の人のいひさわぐ事の、繁《シケ》く甚しきに也。本集四【卅六丁】に、人事乃繁爾因而《ヒトコトノシケキニヨリテ》云々。十二【十一丁】に、人言乎繁三毛人髪三《ヒトコトヲシケミコチタミ》云々などありて、集中猶多し。
(67)繁美許知痛美《シケミコチタミ》。
二つの美《ミ》は、さにといふ意にて、しげさに、こちたさになり。この事は、上【攷證一上十丁】にいへり。
己《オノ》母《モ・ガ》世爾《ヨニ》。
舊訓、おのがよにと訓れど、母の《(マヽ)》を、がとよむべきよしなし。字のまゝに、おのもよにとよむべし。おのもよには、おのれも世になり。おのれといふを、おのとのみいふは、吾を、わとも、わがとも、われともいひ、己を、おのとも、おのがとも、おのれともいふと、同格の語にて、おのがつまといふを、本集四【廿四丁】に、自妻跡憑有今夜《オノヅマトタノメルコヨヒ》云々。十四【卅五丁】に、於能豆麻乎比登乃左刀爾於吉《オノヅマヲヒトノサトニオキ》云々といひ、また各を、おの/\とも、おのも/\ともいふも、語の本は、おのれも/\なり。これらにても、この句をば、おのもよにとよむべきをしるべし。さるを、代匠記に、おのがよにとよめるは、誤り也。母《モ》の字、我《ガ》の字の音、あるべきやうなし。これをば、いもせにとよむべし云々。考に、己|之《ガ》世に也。この母《モ》は、上の籠母與《カタマモヨ》の別記にいへるごとく、之《ノ》に通ひ、また君|之《ノ》代を、君が代ともいふ。しかれば、乃毛加《ノモカ》の三つは、言便のまに/\、何れにもいふ也云々。宣長の説に、己母世爾の、爾は、川か、河か、水かの字の誤りにて、いもせ川ならんか云々。略解に、母は我の誤りにて、おのがよにと有しか云々などいへる、諸説、皆誤れり。また元暦本には、母の字なしここは、おのがよにとよまんに、母の字ありてはいかがなれば、さかしらに、はぶけるなるべし。これらにても、元暦本は、さかしらをまじへしをしるべし。さて、おのも世にの、世は、本輯四【廿二丁】に、現世爾波人事繁《コノヨニハヒトコトシケミ》云々。また【五十三丁】生有代爾吾者未見《イケルヨニワレハマタミス》云々。五【廿九丁】に、伊可爾之都々可《イカニシツヽカ》、汝代者和多流《ナガヨハワタル》云云などある、世《ヨ》と同じく、この生《イケ》る世にといふ意也。
(68)未渡《イマタワタラヌ》。
いまだは、まだといふ意にて、まだは、いまだのいを略ける也。さて、男女の逢ふことを、河を渡るにたとへたる事多し。本集四【卅八丁】に、世間之女爾思有者吾渡瘡背乃河乎渡金目也《ヨノナカノヲトメニシアラハワカワタルイモセノカハヲワタリカネメヤ》云々。古今集戀三に、みはるのありすけ、あやなくてまだきなき名のたつた川、わたらでやまんものならなくに云々などありて、猶いと多かり。
朝川渡《アサカハワタル》。
本集一【十八丁】に、船並底旦川渡《フネナメテアサカハワタリ》、舟競夕河渡《フナキホヒユフカハワタル》云々。三【五十四丁】に、佐保河乎朝川渡《サホカハヲアサカハワタリ》、春日野乎背向爾見乍《カスカヌヲソカヒニミツヽ》云々ともありで、朝に川を渡をいふ。さて一首の意は、考に、河を渡るを、男女のあふことにたとへたる多ければ、ここも、おのが世に、はじめたる、いもせの道なるに、人言によりて、中たえゆけば、よにも淺き吾中かなと、なげき給ふよしなるべし。かかれば、朝は、淺の意也。又事あらはれしにつけて、朝明に、道ゆきたまふよしありて、皇女のなれぬわびしき事にあひ給ふを、のたまふか云々。この二つの説のうち、後のかたをよしとす。端辭に、事既形而後御作歌とあるがごとく、以前より通じ居給ひけんが、事あらはれていひさわがるる人言の繁《シケ》さに、甚しさに、君がわたりゆきけん川を、おのれもわたれり。おのれは女の事なれば、かかる事は世になれず。いまだ川などをわたりし事もなきに、しかも朝とく川をわたる事よとのたまふにて、事あらはれしかば、穗積皇子の、何方にかうつりたまひけん。それを追て、川をもわたりて、ゆきましし事ありしなるべし。かく見ざれば、繁美許知痛美《シケミコチタミ》の、二つの美《ミ》と、己母世爾《オノモヨニ》の母《モ》の字、いたづらなるべし。
舍人皇子。御作歌。一首。
(69)舍人皇子。
書紀天武天皇二年紀に、妃新田部皇女、生2舍人皇子1云々。持統天皇紀に、九年正月甲申、以2淨廣貳1授2皇子舍人1云々。續日本紀に、慶雲元年正月丁酉、益2封二百戸1云々。和銅七年正月壬戌、益2封二百戸1云々。養老二年正月庚子、詔授2一品1云々。三年十月、詔賜2内舍人二人大舍人四人衛士三十人1益2封八百戸1、通v前二千戸云々。四年五月癸酉、先v是、二品舍人親王、奉v勅修2日本紀1、至v是功成奏上、紀三十卷系圖一卷云々。八月甲申、詔知2太政官事1云々。神龜元年二月甲午、益2封五百戸1云々。天平七年十一月乙丑薨、遣d2中納言正三位多治眞人顯守等1、就v第宣uv詔、贈2太政大臣1、親王天渟中原瀛眞人天皇之第三皇子也云々。天平寶字三年六月康戌、詔臼、白v今以後、追2皇《(マヽ)》舍人親王1、宜d稱2崇道盡敬皇帝1、當麻夫人稱2大夫人1、兄弟姉妹悉稱u2親王1 止 宣云々と見えたり。
御作歌。
印本、作の字なし。いま集中の例によりて補ふ。さて、考には、舍人皇子の下に、贈2與舍人娘子1の六字を加へられたり。いかにもさるべき事ながら、さる本も見ざれば、しばらく本のままにておきつ。
117 大夫哉《マスラヲヤ》。片戀將爲跡《カタコヒセムト》。嘆友《ナゲケドモ》。鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》。尚戀二家里《ナホコヒニケリ》。
大夫哉《マスラヲヤ》。
印本、丈を大に誤れり。いま意改す。この事は、上【攷證一上十一丁】にいへり。
(70)片戀將爲跡《カタコヒセムト》。
上の、ますらをやの、やもじは、裏へ意のかへる、やはの意にて、ますらをやは、片戀せん、片戀すべき物にはあらぬをといふ意也。やはの意の、やの事は、上【攷證一下五十六丁】にいへり。片戀は、片方より戀るをいふ。本集【卅六丁】に、其鳥乃片戀耳爾《ソノトリノカタコヒノミニ》云々。八【廿四丁】に、片戀爲乍鳴日四曾多寸《カタコヒシツヽナクヒシソオホキ》云々。十一【四十二丁】に、獨戀耳年者經管《カタコヒノミニトシハヘニツヽ》云々など見えたり。
鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》。
しことは、物をのゝしりてもいひ、自ら卑下してもいへる詞也。本集四【五十丁】に、萱草吾下紐爾著有跡《ワスレクサワカシタヒモニツケタレト》、鬼乃志許草事二思安利家理《シコノシコクサコトニシアリケリ》云々。八【卅丁】に、志許霍公鳥《シコホトトギス》、曉之裏悲爾《アカツキノウラカナシキニ》、雖追雖追《オヘトオヘト》云々。十三【十四丁】に、鬼之四忌手乎指易而《シコノシキテヲサシカヘテ》云々。十七【四十五丁】に、多夫禮多流之許都於吉奈乃《タブレタルシコツオキナノ》、許太爾母《コトタニモ》云々などありて、書紀神代紀上・一書に、醜女此云2志許賣1とあり。鬼をしことよめるは、醜の偏を略きたるにて、醜とかける、正字也。文字の畫を略て、通ずる事は、吾友狩谷望之が、文字源流に、有2字畫省略者1、藜韓勅後碑作v※[草冠/(耕の左+勺)]、※[益+(横目/虫)]孔〓碑作v※[益+(横目/虫)]、爵婁壽碑作v※[艮+寸]、※[草冠/(耕の左+云)]石經論語作v耘、鞭劉寛碑作v鞭、皇朝古書、以v支爲v伎、以v寸爲v村、以v委爲v倭、亦此類云々といへるがごとくにて、鬼醜同じ意也。醜は、玉篇に尺久切貌惡也云々とありて、こゝに自らしこのますらをとのたまへるは、われ、かねては、丈夫《マスヲヲ》なりと思ひて、丈夫といふものは、片戀などすべきものにはあらぬを、わが方よりのみ、君を片戀せらるゝは、あはれしこのますらをかなと、自らののしりて、のたまへるなり。益卜雄は借字也。
舍人娘子奉v和歌。一首。
(72)この娘子の事は、上【攷證一下四十七丁】にいへり。
118 歎管《ナケキツヽ》。大夫之《マスラヲノコノ》。戀禮許曾《コフレコソ》。吾《ワカ》髪結《モトユヒ・ユフカミノ》乃《ノ》。漬而奴禮計禮《ヒチテヌレケレ》。
大夫之《マスラヲノコノ》。戀禮許曾《コフレコソ》。
印本、禮を亂に誤れり。いま拾穗本と、古本によりて改む。これにつきて、代匠記には、ますらをのこひみだれこそと訓直せるに、略解もしたがへり。印本、亂にれの暇字を付たるにても、亂は禮の誤りなる事明らけきをや。さて、ますらをとのみもいふを、ますらをのこといへるは、兄《セ》を兄子《セコ》といひ、をとめををとめ子ともいへる類にて、子は稱美の字也。それを、まさ《(マヽ)》らをとのみいひては、文字のたらざれば、子の字を
そへて、歌の調《シラヘ》をなせる也。本集九【卅三丁】に、古之益荒丁子各競《ニシヘノマスラヲノコノアヒキソヒイ》云々。十九【廿丁】に、念度知丈夫能許能久禮《オモフドチマスラヲノコノクレニ》云々など見えたり。戀禮許曾《コフレコソ》は、こふればこその、ばを略ける也。この事は、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
《ワカ》髪結《モトユヒ・ユフカミノ》乃《ノ》。
髪結の字を、もとゆひとよめるは、義訓也。舊訓、ゆふかみとよめるは誤れり。元暦本には、結髪とせり。こは、訓につきて、字を上下せるにて、例のさかしら也。さてもとゆひは、大神宮儀式帳に、紫本結糸一條【長四尺】云々。延喜大神宮式に、髪結紫絲二條【長四尺】云々。和名抄客飾具に、孫※[立心偏+面]切韻云※[髪の友が會]【音活和名毛度由比】以v組束v髪也云々。古今集戀四、よみ人しらず、君こずばねやへもいらじ、こむらさきわがもとゆひに霜はおくまで。拾遺集雜秋、中務のみこ、もとゆひにふりそふ雪の雫にはまくらの下に浪ぞたちける云々などありて、猶諸書に見えて、髪(72)を結べき料の、絲の事なるが、やがて、髻《モトドリ》の事ともなれる也。こゝも、わがもとゆひといひて、髻の事也。或人云、髪結とあるは、延喜式のごとく、髻結とありし、髻を髪に誤れる也。髪は、髻に改むべしといへれど、いかが。かく字を用ふる事、集中のつね也。
漬而奴禮計禮《ヒチテヌレケレ》。
すべて、ひづといふ語は、ひたし、ひたす、ひたり、ひたるなどいふを、つづめたるにて、ここは、ひたりてぬれけれ也。たりの反、ちなれば也。さて、一首の意は、まへの御歌に、ますらをや片戀せんとなげけどもとのたまへるごとく、ますらをが、なげきて、戀れば、その涙にやあらん、わが髻《モトドリ》のひぢてぬれぬと也。又案るに、このごろの諺に、人の戀らるれば、髻《モトドリ》のぬるといふ事のありしにもあるべ《(マヽ)》。考云、ひぢは、※[泥/土]漬《ヒヂツキ》をつづめたる言にて、本は、水につきて、ぬるるをいふよし、この卷の末の別記にいへり。さて、ここには轉じて、あぶらづきて、ぬる/\としたる髪をいふ。ぬれとは、たがねゆひたる髪の、自らぬる/\ととけさがりたるをいふ。この下に、多氣婆奴禮とよめる、これ也。且鼻ひ紐解などいへる類ひにて、人に戀らるれば、吾髪の綰《タガネ》の、解るてふ諺のあり《(マヽ)》、よめるならん云々。
弓削皇子。思2紀皇女1御作歌。一首。
紀皇女。
天武天皇二年紀に、夫人蘇我赤兄大臣女、大〓娘、生2一男二女1、其一曰2穗積皇子1、其二曰2紀皇女1云々とありて、この弓削皇子とは異母の兄弟也。
(73)御作歌。
印本作の字なし。いま集中の例によりて補ふ。
119 芳野河《ヨシヌカハ》。逝瀕之早見《ユクセノハヤミ》。須臾《シマラク・シハラク》毛《モ》。不通《ヨトム・タユル》事無《コトナク》。有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
逝瀕之早見《ユクセノハヤミ》。
流れゆく川の瀬の早さに也。見《ミ》はさにの意也。
須臾《シマラク・シハラク》毛《モ》。
舊訓、しばらくもとあれど、しばらく、しばしなどいふは、中古よりのことにて、古くは、みなしまらく、しましなどいへり。本集十四【廿一丁】に、思麻良久波禰都追安良牟乎《シマラクハネツヽアラムヲ》云々。續日本紀、天應元年二月丙午詔に、暫《シマラ》【久乃】間《マ》 毛 云々などあり。また、しましくといふも同じ。本集十五【七丁】に、之麻思久母比等利安里宇流《シマシクモヒトリアリウル》云々。又【十四丁】思未志久母見禰波古悲思吉《シマシクモミネハコヒシキ》云々。又【卅一丁】に、之末思久毛伊母我目可禮弖《シマシクモイモカメカレテ》云々などあり。ここも、須臾の字は、いづれにかよまん。しましくもとよまんもあしからねど、しばらく舊訓を殘して、しまらくもとはよめり。
不通《ヨドム・タユル》事無《コトナク》。
舊訓、たゆることなくとあれど、よどむことなくとよむべし。本集七【卅八丁】に、不絶逝明日香川之不逝有者《タエスユクアスカノカハノヨトメラバ》云々。十二【十七丁】に、今來吾乎不通跡念莫《イマクルワレヲヨトムトオモフナ》云々。又【十九丁】に、河余杼能不通牟心思兼都母《カハヨトノヨトマムコヽロオモヒカネツモ》云々とあるにても、思ふべし。さて、この歌は、しまらくもよどむことなくといはんとて、よしの川ゆくせの早みとはおけるにて、序歌なり。
ワカヘノソノニアリコセヌカモチトセイホ
有巨勢濃香毛《アリコセヌカモ》。
本集五【十五丁】に、和我覇能曾能爾阿利己世奴加毛《ワカヘノソノニアリコセヌカモ》云々。六【卅七丁】に、千年五百歳有巨勢奴香聞《チトセイホトセアリコセヌカモ》云々。十【廿九丁】に、今之七夕續巨勢奴鴨《イマシナヽヨヲツキコセヌカモ》云々などあるも、同(74)じくこひ願ふ詞にて、こせといふも、ぬかもといふも同じく、願ふ詞也。このぬかもの事は、下【攷證六下十八丁】にいふべし。さて、一首の意は、しばらくもよどみたゆたふ事なく、あれかしといふ意也。
120 吾妹兒爾《ワキモコニ》。戀乍不有者《コヒツヽアラスハ》。秋芽之《アキハギノ》。咲而散去流《サキテチリヌル》。花《ハナ》爾《ナラ・ニアラ》有猿尾《マシヲ》。
戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。
戀つつあらんよりはにて、ずはは、んよりはの意也。
秋芽之《アキハギノ》。
芽《ハキ》は、秋を專らとする物ゆゑに、秋芽《アキハギ》とはいへるにて、春花《ハルバナ》夏葛《ナツグズ》などいへる類也。集中、芽とのみも、芽子ともかけり。子は、そへたる字也。和名抄草類云、鹿鳴草爾雅注云萩【且雷七肖二反音秋又焦】蒿也一名蕭【蘇條切、和名波岐、今案、牧名用2萩字1、萩倉是也、辨色立成。新撰萬葉集等、用2芽字1、唐韻芽語家反、草名也、國史用2芳宜草1、漢語抄云、又用v萩並本文不v詳】云々と見えたり。猶可v考。(頭書、 集中|芽子《ハギ》をいへる歌、百一首あるがうちに、茅と書るは、ここと六【廿四丁】に一處あるのみにて、誤りなる事明らかなれば改む。)
花《ハナ》爾《ナラ・ニアラ》有猿尾《マシヲ》。
舊訓、にあらましをとあれど、にあの反、ななれば、ならましをとよむべし。六帖にも、この歌をしか訓ぜり。ましをは、ましものをの意也。さて、一首の意は、吾妹子を、かくいたづらに、戀つつすぐさんよりは、秋はぎの、一度さきてとくちるごとく、ちりはてなましものをと、はぎの花にそへて、花といふものは、一度の榮はある物なれば、うらやみのたまへる也。この和歌、此卷はじめの此歌に、かくばかり戀つつあらずは、高山のいはねしまきて、しなましものをとのたまへると、おなじすがたなり。
(75)121 暮《ユフ》去《サラ・サレ》者《バ》。鹽滿來奈武《シホミチキナム》。住吉乃《スミノエノ》。淺香乃浦爾《アサカノウラニ》。玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
暮《ユフ》去《サラ・サレ》者《ハ》。
春さらば、秋さらばなどいふさらばと、同じ語にて、暮べにならばの意也。この事は、上【攷證一下七十六丁】にいへり。
住吉乃《スミノエノ》。淺香乃浦爾《アサカノウラニ》。
攝津住吉郡の中なれど、この外古く物に見えず。續後撰集戀二に、從三位行能、住吉のあさかのうらのみをつくし、さてのみ下にくちやはてなん云々とありて、この後は、あまたよめり。
玉藻苅手名《タマモカリテナ》。
玉藻とは、藻をほめて、玉とはいへる也。てなの名《ナ》は、んの意也。この事は、上【攷證一上十七丁】にいへり。さて一首の意は、夕べにならば、しほ滿來ぬべし。しほのこぬ間に、玉もかりてんといふを、戀によせて、日ごろへば障《サハ》る事もあらんを、さはりなき中に、はやくあはんとのたまへる也。
122 大船之《オホフネノ》。泊流登麻里能《ハツルトマリノ》。絶多日二《タユタヒニ》。物《モノ》念《モヒ・オモヒ》痩奴《ヤセヌ》。人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
大船之《オホフネノ》。
字のごとく、大きなる船也。または、大は、例の物をほめたる言にてもあるべし。
泊流登麻里能《ハツルトマリノ》。
考に、船のゆきつきたるを、はつるといひ、そこにとまりやどるを、とまりといへり。されど、そを略きては、はつるといひて、とまる事をかねた(76)るぞ多き云々。泊の事は、上【攷證一下四十四丁】にいへり。
絶多日二《タユタヒニ》。
此卷【卅三丁】に、大船猶預不定見者《オホフネノタユタフミレハ》云々。十一【卅六丁】に、大船乃絶多經海爾重石下《オホフネノタユタフウミニイカリオロシ》云々。ともありて、また四【廿二丁】に、今者不相跡絶多比奴良思《イマハアハシトタユタヒヌラシ》云々。また【四十八丁】情多由多比不合頃者《コヽロタユタヒアハヌコノコロ》云々。七【五丁】に、海原絶搭浪爾《ウナハラノタユタフナミニ》云々。など、ただたゆたふともありて、舟の浪風にゆられ漂《タヽヨ》ふをも、またただためらひ、ただよふなをいへり。さて、上の二句は、ただにたゆたひといはん序にて、大船を泊りにはててあるが、浪風にゆられただよふごとく、ためらひただよふうちにと、のたまへる也。また七【卅四丁】に、吾情湯谷絶谷《ワカコヽロユタニタユタニ》云々。古今集戀一に、大ぶねのゆたのたゆたに云々とあるも、これと同じ。
物《モノ》念《モヒ・オモヒ》痩奴《ヤセヌ》。
本集四【四十九丁】に、念二思吾身痩奴《オモフニシワカミハヤセヌ》云々。十二【十五丁】に、戀可毛將痩相因乎無見《コヒカモヤセムアフヨシヲナミ》云々。十五【五丁】に、和我由惠爾於毛比奈夜勢曾《ワカユヱニオモヒナヤセソ》云々などありて、物思へば痩るもの也。文選 詩に、相去日已遠、衣帶日巳緩云々とあるも、このこころなり。
人能兒故爾《ヒトノコユヱニ》。
皇女をいまだ得たまはぬほどなれば、他《ヒト》の兒とはのたまへる也。本集十一【三丁】に、海原乃路爾乘哉吾戀居《ウナハラノミチニノリテヤワカコヒヲラム》、大舟之由多爾將有人兒由惠爾《オホフネノユタニアルラムヒトノコユヱニ》云々などあるも、同じ。故爾《ユヱニ》は、なるものをといふ意にて、人づまゆゑになどいふ、ゆゑにといふ詞と同じ。この事は、上【攷證一上三十六丁】にいへり。一首の意は、人の子なるものを、思ひただよひてあるほどに、物思ひに(77)身もつかれて、身もやせぬと、句をうちかへして心得べし。
三方沙彌。娶2園臣生羽之女1。未v經2幾時1。臥v病作歌。三首。
三方沙彌。
父親不v可v考。考に、三方は氏、沙彌は常人の名なる事、上の久米禅師が下にいへり云々。この説、誤れり。書紀持統天皇紀に、六年十月壬申、授2山田史御形務廣肆1、前爲2沙門1、學2問新羅1云々とある、この人にて、三方は名、沙彌は僧なりしほどの官也。姓氏録、その外の書にも、三方といふ氏の見えざるにても、三方は氏ならざるをしるべし。また沙彌滿誓を、四【四十一丁】に、滿誓沙彌とかけるにても、三方は名なる事明らけし。さてこの人の事は、續日本紀に、慶雲四年四月丙申、賜2正六位下山田史御方布※[秋/鍬]鹽穀1、優2學士1也云々。和銅三年正月甲子、授2從五位下1云々。四月癸卯、爲2周防守1云々。養老四年正月甲子、授2山田史三方從五位上1云々。五年正月庚午、詔2三方等1、退v朝之《(マヽ)》、令v侍2春宮1焉云々。甲戊、賜2文章山田史御方※[糸+施の旁]六疋絲六約布十端鍬十口1云々。六年四月庚寅、詔曰、周防國前守、從五位上山田史御方、※[斬/足]《(マヽ)》臨犯v盗、理令2除免1、先經2恩降赦罪1已訖、然依v法備v贓、家無2尺布1、朕念御方負2笈遠方1、遊2學蕃國1、歸朝之後、傳2授生徒1、而文舘學士、頗解v屬v文、誠以不v矜2若人1、墮2斯道1歟、宜d特加2恩寵1、勿uv使v徴v贓焉云々など見えたり。
園臣生羽之女
本集六【三十七丁】左注に、三方沙彌、戀2妻苑臣1作歌云々ともありて、園臣生羽は、父祖官位不v可v考。新撰姓氏録に、園部、苑部首、園人首などいふ姓(78)氏は見えたれど、園臣は見えず。
三首。
是もとは一首とありつらんを、次の歌の端辭の落失し後に、後人の、三首とは直しゝなるべし。次の歌どもの、端辭の落失たらんと思はるるは、それ/”\に、かりに端辭を加へたり。上の、久米禅師の條と同例なれば、あはせ見るべし。
123 多氣婆奴禮《タゲバヌレ》。多香根者長寸《タガネバナガキ》。妹之髪《イモガカミ》。比來不見爾《コノコロミヌニ》。掻入《カキレ・ミダリ》津良武香《ヅラムカ》。【三方沙彌。】
多氣婆奴禮《タゲバヌレ》。多香根者長寸《タガネバナガキ》。
考に、あぶらつき、めでたき髪は、たがぬれば、ぬるぬると延垂《ノビタル》るものなるをいふ。多我《タガ》ぬればの、我奴《カヌ》の約、具《グ》にて、多具禮婆《タグレバ》とあるを、又その具禮《グレ》を約れば、牙《ゲ》となる故に、多《タ》氣波といへり云々とありて、ぬれを、ぬる/\也といはれしは、尤さる事なれど、多氣波《タゲバ》を、たがぬれば也といはれしは、たがへり。まづ、多氣波《タゲバ》とは、髪をたぐり揚《アグ》る事にて、たぐればの、ぐれの反、げなれば、多氣波《タゲバ》は、たぐれば也。本集九【卅五丁】に、髪多久麻庭爾《カミタグマデニ》云々。十一【十七丁】に、髪爾多久濫《カミニタグラム》云々とある、多具《タグ》は、たぐるの意にて、くるの反、く也。また十四【十九丁】に、古麻波多具等毛《コマハタグトモ》云々。十九【十一丁】に、馬太使由吉※[氏/一]《ウマタギユキテ》云々。などある、たぐともは、たぐるともの意、たぎゆきては、たぐりゆきてにて、くりの反、きなり。共に、馬の手綱《タヅナ》を、たぐるをいへり。また七【廿五丁】に、八船多氣《ヤフネタゲ》とあるを、本は鋼手《ヅナデ》をたぐる事なれど、それを轉じて、船を遣《ヤ》る事也。土佐日記に、ゆくりなく風ふき(79)て、たげども/\、しりへしぞきにしぞきて云々とあるも、本はたぐれども/\なれど、ここは綱手のおよぶまじき所にて、舟をやれどもやれどもの意也。これらを合せて、ここの多氣波《タゲバ》も、たぐり揚る意なるをしるべし。こは、中ごろより、髪あぐといふに同じ。奴禮《ヌレ》は、考の説のごとく、ぬる/\する事なる事は、本集十四【八丁】に、伊波爲都良比可婆奴流奴流《イハヰヅラヒカバヌルヌル》云々とあるを、また同卷【十三丁】に、伊波爲都良比可波奴禮都追《イハヰヅラヒカバヌレツヽ》云々とあるにても、奴禮は、ぬる/\の意なるを知るべし。多香根者《タガネバ》は、多氣《タゲ》と同じく、たぐりあげねばにて、ここの意は、髪をあぐれば、ぬる/\し、あげずうちたれおけて《(マヽ)》、髪の長くて、わづらはしと也。こは、髪の長きを、賞美したる意もこもりて、古へ、髪の長きをよしとせし事は、中ごろの物語ぶみにも、これかれ見えたり。さて、ちなみに、考別記の説をも、左にあげたり。考別記云、多氣婆《タゲバ》は、髪をたがねゆふをいへり。掻入《カキレ》といふも、同じ事也。凡、古への、女の髪のさま、末にも用あれば、くはしくいはん。そもそも、いときなきほどには、目ざしともいひて、ひたひ髪の、目をさすばかり生下れり。それ過て、肩《カタ》あたりへ下るほどに、末をきりて、はなちてあるを、放髪《ハナリガミ》とも、童放《ウナヰハナリ》とも、うなゐ兒ともいへり。八歳子《ヤトセゴ》と成ては、きらで長からしむ。それより十四五歳と成て、男うるまでも、垂てのみあれば、猶うなゐはなりとも、わらはともいへり。これらの事、卷三【今十三】に、歳八年乎斬髪之我何多乎過《トシノヤトセヲキリカミノワカカタヲスキ》云々。卷十八 今九 に、菟名負處女之《ウナヒヲトメノ》、八年兒之片生乃時從《ヤトセコノカタナリノトキユ》、小放爾髪多久麻庭爾《ヲハナリニカミタクマデニ》云々。卷十六に、橘寺之長屋爾吾率宿之《タチハナノテラノナカヤニワカヰネシ》、童女波奈理波《ウナヰハナリハ》、髪上都良武香《カミアゲツラムカ》云々などあり。かくて、そのゐねて後に、髪あげつらんかといへる、ここの沙彌が歌と似たり。【允恭天皇紀に、皇后曰妾自2結髪《カミアゲセシ》1陪2於後宮1、既經2多年1、かかれば、髪をあげて、内に參り給ひし也。】且、髪の事も、年のほどをもしるべし。後の事ながら、伊勢物語に、ふりわけ髪も肩すぎぬ、(80)君ならずしてたれかあぐべきてふも、是也。上つ代には、男の髪は、頂に、二處ゆひ、女は頂に一處にゆひつと見ゆ。【上つ代の髪の樣は、神代紀と、神功皇后紀、景行天皇紀などに、見ゆるを、よく考へてしるべし。こと繁ければ略けり。】そののちまでも、髪あげせしを、いと後に垂し事あるか。天武天皇紀に、髪を皆結せられし事ありて、又もとの如く、垂髪于背《スベシモトドリ》せよとの御|制《サタ》ありけり。さて、持統天皇の紀には、いかにともなくて、文武天皇の慶雲二年の紀に、令d天下婦女、自v非2神部齋宮人及老嫗1、皆|髻髪《カミアゲ》u【語在2前紀1至v是重制也】とあれば、其後すべてあげつらん。かくて、今京このかたの書には、ともかくも見えず。【卷四に、おほよそはたが見んとかも、 ぬば玉のわがくろ髪をなびけてあらんとよめるは、少女のかみあげせぬ前は、いと長く、こちたければ、私にまきあぐる事もある故にいふと見ゆ。たとはゞ、おちくぼ物語に、あこぎが一人して、よろづいそがしきに、髪をまきあげて、わざするに、主の前へ出るには、かきおろして出し事あるが如し。いせ物語の、高安の女の、髪をまき上て、家兒の飯もりしもこれ也。このくさ/”\をわけて、いはゞ、うるはしく髪上するは、はれ也。たれてをるは常也。まき上るといふは私なり。】物語ぶみらには、專ら垂たる樣を書たり。只《タヾ》續古事談てふ物に、高内侍、圓融院の御時、典侍辭しけれども、ゆるされざりければ、内侍所にこ屏風をたてて、さぶらひて、申す事ある時は、髪をあげて女官を多く具して、石灰壇にぞ候けると書り。後に垂る御制あらば、かくあらんや。あぐるこそ、後までも正しとせし事しるべし。うつぼ物語の、紀伊國吹上の卷に、女は、髪あげて、唐衣きでは御前に出ずといひ、國ゆづりにも、みな髪あげすと見えたり。かくて、そのあげたる形は、内宴の樣書たる古き繪に、舞妓の髪あげたる形と、御食まゐらする采女が髪あげたるひたひの樣、うなじのふくらなど大かたはひとしく、舞妓は寶髻をし、采女はさる※[金+芳]せぬ也。且和名抄に、假髪【須惠】以v假覆2髪上1也といひ、蔽髪【比多飛】蔽2髪前1也といへり。雅亮が、五節の事書るに、おきひたひ、すゑひたひといへるもこれ也。かの舞妓の、ひたひの厚く、中高きと、釆女がひたひのいと高からぬに、この二つの分ちあるべし。凡は、紫式部日記に、髪あげたる女房の事を、からの繪めきたりと樣に書(81)しもて、おもひはかるべし。
掻入《カキレ・ミダリ》津良武香《ツラムカ》。
舊訓、みだりつらんかとあれど、代匠記に、かきれつらんかとよみしによるべし。されど、六帖に、この歌をのせて、みだれつらんかとあれば、この訓も、いと古し。さて、掻人《カキレ》の、掻は、掻別《カキワケ》、掻《カキ》なで、かきはらひ、かきゝらしなどいふ、かきと同じく、次の語の意をつよくする詞にて、手して、物を掻《カク》事にあらず、入をれとのみいふは、かきの、きの引聲、いなれば、自らに、いははぶかるゝ也。袖にこきいるゝ事を、本集十八【廿八叮】に、蘇泥爾毛古伎禮《ソテコモコキレ》云々とある、同じ格なり。こは、髪をあげて、みだれたるを、掻いるゝ意にて、一首の意は、髪をあぐればぬる/\とし、あげざれば、髪の長くわづらはしかりし君が髪を、このごろ久しく病にふして見ざりし間に、髪あげして、その長かりし髪をも、かきいれつらんかといへる也。考に、このごろ病て、女のもとへ行で見ぬ間に、いかゞ髪あげしつらんか、あげまさりのゆかしてふ意なるべし。さて、童ざまに垂たりし髪を、あげをさむるを、かき入るといふべし云々。
三方沙彌。
この四字、印本大字なれど、元暦本によりて小字とす。上、久米禅師が歌の所にいへるがごとく、この三方沙彌が贈答の歌も、本はそれぞれに端辭のありつらんが、いつの世にか落失しを、さてはいづれ三方、いづれ娘子の歌とも、わからざれば、後人の注して、それ/”\に三方、娘子とはわきて、しるせる也。
(82)園臣生羽之女報贈歌。一首。〔園臣〜□で囲む〕
まへにもいへるがごとく、こゝに端辭のありしが落失し事、明らかにて、かく有べき例なれば、暇に文字を補へるなり。考には、園臣生羽之女和歌と補はれつるも、さる事ながら、上下のつゞきを考ふる《(マヽ)》、報贈歌とあるべき也。
124 人皆者《ヒトミナハ》。今波長跡《イマハナガシト》。多計登雖言《タゲトイヘド》。君之見師髪《キミガミシカミ》。亂有等母《ミダレタレドモ》。 娘子。
人皆者《ヒトミナハ》。
皆人はといふ意也。元暦本に、人者皆《ヒトハミナ》とあれど、例のさかしら也。そは本集五【廿一丁】に、
比等未奈能美良武麻都良能《ヒトミナノミラムマツラノ》云々。六【十三丁】に、人皆乃壽毛吾母《ヒトミナノイノチモワレモ》云々。また【十四丁】人皆之念人息而《ヒトミナノオモヒイコヒテ》云々。十一【十丁】に、人皆知吾裏念《ヒトミナシリヌワカシタオモヒ》云々。十二【二丁】に、人皆如去見耶《ヒトミナノユクナスミルヤ》云々などあるにてもおもふべし。
今波長跡《イマハナガシト》。
今は、年も男すべきほどに成たれば、髪もながしとて、みな人ごとに髪あげせよといへどゝ也。今波《イマハ》といふにて、この娘子、やう/\男すべきよはひなる事しらる。跡はとての意也。
君之見師髪《キミガミシカミ》。亂有等母《ミダレタレトモ》。
君ならずして、たれかわが髪をばあぐべき。されば、君に見え初しをりのすがたをば、わたくしにはかへじとて、髪はみだれてあれども、もとのまゝにておけりと也。どもといふに、萬《タリ》の意をふくめたり。伊勢物語に、くらべこしふりわけ髪もかたすぎぬ、君ならずしてたれかあぐべき云々といへるも、この歌に似たり。
(83)娘子
この二字、印本なし。元暦本によりて補ふ。
125 橘之《タチハナノ》。蔭履路乃《カケフムミチノ》。八衢爾《ヤチマタニ》。物乎曾念《モノヲソオモフ》。妹爾不相而《イモニアハステ》。 三方沙彌。
橘之《タチハナノ》。
和名抄菓類に、兼名苑云橘【居密反】一名金衣【和名太知波奈】云々と見えたり。田道間守が、常世國より、もてこし事などは、人皆しれる事なればいはず。書紀雄略天皇十三年紀に、餌香市邊橘本とありて、古へ都の大路市町に、樹を植給ひし事ありと見えて、本集三【廿五丁】に、門部王詠2東市之樹《ヒムカシノイチノキ》1作歌、東市之殖木乃木足左右《ヒムカシノイチノウヱキノコタルマテ》云々ともあり。古事記中卷の和歌に、和賀由久美知能迦具波斯波那多知婆那波《ワカユクミチノカクハシハナタチバナハ》云々。本集六【卅七丁】に、橘本爾道履《タチハナノモトニミチフミ》、八衢爾物乎曾念《ヤチマタニモノヲソオモフ》、人爾不所知《ヒトニシラレデ》云々などもあるにて、橘を道路に植し事をしるべし。橘のかげふむみちとは、橘の木かげをふみてゆく道也。(頭書、道路に菓樹を植る事、【攷證三上七十五丁】。六【卅七丁】に載たる歌は、をりに合せて、この歌を改め誦したる也。)
八衢爾《ヤチマタニ》。
古事記上卷に、居2天之|八衢《ヤチマタ》1、而上光2高天原1、下光2葦原中國1之神云々。本集十二【十二丁】に、海石榴市之八十衢爾《ツハイチノヤソノチマタニ》云々。道饗祭祝詞に、大八衢湯津磐村之如久塞座《オホヤチマタニユツイハムラノコトクフサカリマス》云々などありて、八《ヤ》は彌《イヤ》の略にて、ちまたの方々へ、ゆきわかれて、數多きをいふ。爾雅釋宮に、四達謂2之衢1云々と見えて、今いふ四ツ辻なれば、一方《ヒトカタ》ならず、物思ふといふ序に、おけるにて、こゝの意は、橘は、道のほとりに植てあるものなれば、其橘の木かげを、ふみつゝゆく道の、ちまたのかなたこなたに、わかれたるがごとく、一方ならず物を思ふと也。この下の句は、妹爾不相(84)而物乎曾思《イモニアハステモノヲソオモフ》と、句をうちかへして心得べし。(頭書、爾は如くの意也。この事、上【攷證一下卅八丁】にいへり。)
石川女郎。贈2大伴宿禰田主1歌。一首。
石川女郎。
上に石川郎女、石川女郎などあると、同人か別人、しりがたし。これらの事は、上に久米禅師娉2石川郎女1とある處にいへり。
大伴宿禰田主。
元暦本に、即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也とあり。佐保大納言は、安磨卿をいへり。
126 遊士《ミヤビヲ・タハレヲ》跡《ト》。吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》。屋戸不借《ヤトカサス》。吾乎還利《ワレヲカヘセリ》。於曾能《オソノ》風流士《ミヤヒヲ・タハレヲ》。
遊士《ミヤビヲ・タハレヲ》跡《ト》。
舊訓、たはれをとゝあるを、考には、みやびをとゝよみ直されしかど、宣長が、遊士、風流士を、考に、みやびとゝ訓れたるにつきて、猶思ふに、さては、宮人と聞えて、まぎらはし。然れば、みやをと《(マヽ)》よむべし。この稱は、男に限れり。八卷【十六丁】に、※[女+感]嬬等之頭挿乃多米爾遊士之※[草冠/縵]之多米等《ヲトメラカカサシノタメニミヤヒヲカカツラノタメト》云々。これ、をとめに對へて、いへれば、必男といふべき也、云々といはれしにしたがふ。みやびの、びは、ひなびなどいふ、びと同じく、ぶりの意にて、宮ぶりしたる男といふ也。本集五【十九丁】に、烏梅能波奈伊米爾加多良久《ウメノハナイメニカタラク》、美也備多流波奈等阿例母布《ミヤビタルハナトアレモフ》、左氣爾宇可倍許曾《サケニウカヘコソ》云々とありて、みやびの意は、本は宮ぶりなれど、そを轉じて、風流の字をよめる意にて、おもむきある事を、みやびとはいへる也。
(85)於曾能《オソノ》風流士《ミヤビヲ・タハレヲ》。
於曾《オソ》は、本集九【十九丁】に、常世邊可住物乎《トコヨヘニスムヘキモノヲ》、劍刀己之心柄《ツルキタチナカコヽロカラ》、於曾也是君《オソヤコノキミ》云々。十二【三丁】に、山城石田杜《ヤマシロノイハタノモリニ》、心鈍手向爲在《コヽロオソクタムケシタレハ》、妹相難《イモニアヒカタキ》云々などあり。又源氏物語蓬生卷に、さやうの事も、心おそくて云々。橋姫卷に、おどろかざりける心おそさよと云々などもありて、十二に、心鈍をこゝろおそくよめる意にて、にぶくおろかなるをいへり。さて一首の意は、遊士《ミヤヒヲ》なりと、かねてより聞わたりて、戀にたへずして、わがゆきつるを、宿かさずして、すげなくかへせるは、みやびをなりと、人にいはるゝにも似ず、情もおもむきもなく、物のあはれもしらぬ心おそきみやびを也と、たはぶれいへる也。また後に、おくるゝをおそしといへるも、心おくれたる意にて、もとは一つ言なり。
大伴田主。字曰2仲郎1。容姿佳艶。風流秀絶。見人聞者。靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1。恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書。未v逢2良信1。爰作2方便1。而似2賤嫗1。已提2鍋子1。而到2寢側1。※[口+更]音跼足。叩v戸諮曰。東隣貧女。將v取v火來矣。於v是。仲郎。暗裏非v識2冒隱之形1。慮外不v堪2拘接之計1。任v念取v火。就v跡歸去也。明後。女(86)郎。既恥2自媒之可1v愧。復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1。以贈謔戯焉。
字曰2仲郎1。
字の事は、上にいへり、仲は、中とも、次とも通じ、郎は、韻會に、男子之稱とありて、田主は、佐保大納言第二子とあれば、仲郎とは人のよべるなり。
雙栖之感。
雙栖は、劉庭芝詩に、與v君相向轉相親、與v君雙栖共一身云々。白居易詩に、夜妬燕雙栖云々などありて、ならび住事也。感はふかく思ふ意也。
獨守之難。
獨守は、群玉韻府、引2古詩1云、蕩子行不v歸、空牀難2獨守1云々とありて、獨つゝしみ守るをいひ、難はそのつゝしみまもる事のかたきをいへり。
良信。
良信は、韻會小補に、古者謂v使曰v信也、而今之流俗、遂以v遣2※[食+鬼]物1爲v信、故謂2之書信手信1、而謂前人之語、亦然、不3復知2魏晋以還、所v謂信者、乃使之別名1耳云々とありて、よきつかひなり。
方便。
翻譯名義集卷七、引2淨名疏1云、方是智所v詣之偏法、便是菩薩權巧用之能巧、用2諸法1隨v機利v物、故云2方便1云々と見えたり。
鍋子《ナベ》。
和名抄瓦器類に、辨色立成云、※[土+鍋の旁]【古禾反、奈閉、今案、金謂2之鍋1、瓦謂2之※[土+鍋の旁]1、字或相通】云々とありて、土にて造りたるを、※[土+鍋の旁]とかき、銅鐵などにて造りたるを、鍋とはかけり。子は、合子、瓶子、銚子などの子と同じく、付たる字なり。
(87)※[口+更]音。
※[口+更]は、字鏡集、假字玉篇等に、むせぶとよめり。韻會に、咽塞也と注せり。老人は、むせぶ物なれば、賤嫗に似せて、聲づくりする也。
跼足。
跼は、字鏡集、假字玉篇等、かゞまるとも、せぐゝまるともよめり。これも、老人の背かゞまりたるさま也。足はたゞ付たる文字也。※[口+更]の一字にても、むせぶ事なるを、下へ音の字を付たるにても思ふべし。さて、竹取物語に、こしもかゞまり、目もたゞれにけり。翁、今年、五十ばかりなりけれども、物思ひには、かた時になん、老になりにけり云々。源氏物語若紫卷に、老かゞまりて、むろのとにもまかでずと申たれば云々。扶木抄卷一に、仲正、かたくなや、しりへのそのに若菜つみ、かゞまりありく翁すがたよ云々などあるにても、老人の背かゞまりたる事をしるべし。
諮。
諮は、玉篇に、子詞切、問也、謀也とあり。はかるとよむべし。※[口+更]音跼足などして、老嫗に似せてはかる也。
冒隱之形。
冒は、玉篇に、亡到切、覆也とあり。こは、おほひかくれたるかたちをしらざる也。
拘接之計。
拘は、玉篇に、恭于切、説文止也とありて、接は、玉篇に、子葉切、交也とあり。女郎がすがたをかくして、賤嫗のさまをして、火を取にきたるをぐらさに、それとしらざれば、とゞめおきて、交り通ぜざりしなり。
(88)就v跡歸去。
就v跡は、戸を叩て、入來たるその跡よりいでゝかへりさりしなり。
謔戯。
謔、印本、諺に作るは誤り也。いま元暦本によりて改む。謔は、説文に戯也云々。玉篇に、喜樂也云々とあれば、二字にて、たはぶるゝ意也。この歌を作りて、そを以てたはぶれをいひおくれりとなり。
大伴宿禰田主。報贈歌。一首。
127 遊士《ミヤビヲ・タハレヲ》爾《ニ》。吾者有家里《ワレハアリケリ》。屋戸不借《ヤトカサス》。令還吾曾《カヘセルワレソ》。風流士《ミヤビヲ・タハレヲ》者《ニハ・ニ》有《アル》。
風流士者有《ミヤビヲニハアル・タハレヲニアル》。
舊訓、たはれをにあるとあれど、者の字あれば、みやびをにはあるとよむべし。一首の意は、君がおぞのみやびを也と、のたまへど、うちつけに、ゆくりなく來給ひつるには、あはで、かへしゝこそ、なか/\に心ある事にて、みやびをのするわざなれと、またたはぶれいひおくりしなり。
石川女郎。更贈2大件宿禰田主1歌。圍一首。
印本、石川女郎の上、同の字、田主の下、仲郎の二字ありて、宿禰の二字なし。いま目録によりてあらたむ。
(89)更。
左の歌を、まへの二首の贈答と、同し度の歌にあらずとて、考には、更の字をはぶかれしかど、更は、論語子張篇集解、國語越語注などに、更改也とありて、改むる意なれば、ここも別にあらためおくれる也。
128 吾聞之《ワガキヽシ》。耳爾好似《ミヽニヨクニハ》。葦若未乃《アシカビノ》。足《ア・アシ》痛吾勢《ナヘグワガセ》。勤多扶倍思《ツトメタブヘシ》。
吾聞之《ワカキヽシ》。耳爾好似《ミヽニヨクニバ》。
代匠記に、わかきくがごとくならば也云々といへるがごとく、本集十一【廿一丁】に、言云者三々二田八酢四《コトニイヘバミヽニタヤスシ》云々とあると同じく、耳は聞ことにて、わがきゝし、そのきゝしがごとくならばてふ意也。
葦若未乃《アシカビノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。葦かびは、葦の萠出しにて、則葦の苗《ナへ》なれば、葦かびの、葦苗《アシナヘ》と、詞を重ねたるを、轉じて、足痛《アナヘグ》とはつゞけし也。さて、印本、葦若未とあれど、宣長が、若未を、かびとは、訓がたし。卷十長歌に、小松之若末とあるは、うれとよめれば、こゝもあしのうれのとよみて、足痛はあなへぐとよまんか。蘆芽は、なゆるものにあらず。一本若生とあるによらば、かびとよむべし云々といはれしによりて、若生とあらたむ。未は、生の誤りなる事、明らかなれば也。又ある人、若未とよめるは、若《カ》は、わかの略訓、未《ビ》はもとよりの音にて、論なしといへれど、未をびの假字に用ひし事、古書に見えず。
(90)足《ア・アシ》痛吾勢《ナヘグワカセ》。
舊訓、あしなへぐわがせとよみ、考には、あしなへわがせと、よまれしかど、あなへぐわがせとよむべし。足をあとのみいふは、本集十四【卅丁】に、安奈由牟古麻能《アナユムコマノ》云々とあるも、足なやむにて、足掻《アガキ》、足結《アユヒ》などいふたぐひ也。さて、足痛《アナヘグ》は、新撰字鏡に、※[馬+蹇]【才安反足奈戸久馬】云々。和名抄病類に、説文云蹇【音犬訓阿之奈閇此間云奈閇久】云々などありて、あしの病也。物の委《ナエ》たるといふとは、かなもたがひて別也。
勤多扶倍思《ツトメタフヘシ》。
考に、このつとめは、紀【推古】に、自愛の字を、つとめと訓しが如く、たぶべしは、給ふべし也。堪べしといふにあらず云々といはれしがごとく、病を自愛したまへといふ也。給ふを、たぶといふは、集中たまはるを、たばるといふ類也。この事は、下【攷證八下】にいふべし。さて、一首の意は、わがきゝしごとく、足の病ましまさば、わがせこよ、つとめて養生したまふべしといへるにて、前の二首の贈答の歌のつゞきにあらず。別におくりし也。
右依2中郎足疾1。贈2此歌1問訊也。
前には、仲郎とかき、こゝには中郎とかけり。仲と中と通ずる事は、まへにいへるがごとし。
大津皇子宮(ノ)侍《マカダチ》。石川女郎。贈2大伴宿禰宿奈麿1歌。一首。
(91)大津皇子。
この皇子の御事は、上にいへり。元暦本、津の字の傍に、朱にて伴一本としるせり。大伴皇子は、書紀には、大友とかきて、天智の皇子也。こゝは、いづれか是ならん。
侍。
侍、印本待に誤れり。いま目録と古本に依てあらたむ。さて、書紀神代紀に、侍者、遊仙窟に、侍婢などを、まかだちとよめるによりて、こゝもしかよむべし。こは、皇子の御前にて、つかはるゝ侍女なり。考には、大津皇子宮侍の六字を、はぶかれしかど、こは、まへの石川女郎とは、同名異人なるをしらしめんとて、かけるにて、こゝろあることゝおぼし。
石川女郎。
元暦本に、女郎字曰2山田郎女1也と注せり。また、本集二十【五十七丁】左注に、藤原宿奈麿朝臣之妻、石川女郎とあり。こは、藤原宇合卿の男、良繼公、はじめ、宿奈麿といはれしが、同名なるによりて、氏を誤れるなり。
大伴宿禰宿奈麿。
元暦本に、宿奈麿宿禰者、大納言兼大將軍之第三子也と注せり。こは、安磨卿をいへる也。さて、續日本紀に、和銅元年正月乙巳、授2從六位下大伴宿禰宿奈麻呂從五位下1云々。五年正月戊子、授2從五位上1云々。靈龜元年五月壬寅、爲2左衛士督1云々。養老元年正月乙巳、授2正五位下1云々。三年七月庚子、始置2按察使1、令d正五位下大伴宿禰宿奈麻呂管c安藝周防二國u云々。四年正月甲子、授2正五位上1云々。神龜元年二月壬子、授2從四位下1云々と見えたり。卒年不v詳。また同時に、大納言阿倍宿奈麻呂卿あり。また良(92)繼公の前名を、宿奈麻呂といへり。みな同名なるのみ。
129 古之《フリニシ・イニシヘノ》。嫗《オミナ・オウナ》爾爲而也《ニシテヤ》。如此許《カクバカリ》。戀爾將沈《コヒニシヅマン》。如手童兒《タワラハノゴト》。【一云。戀乎太爾《コヒヲタニ》。忍金手武《シヌヒカネテム》。 多和良波乃如《タワラハノコト》】
古之《フリニシ・イニシヘノ》。
考に、齡のふりし也。今本、いにしへのと訓しは、この歌にかなはず云々といはれつるがごとし。
嫗《オミナ・オウナ》爾爲而也《ニシテヤ》。
考云、紀に、老此云2於由1といひ、卷九に、意余斯遠波《オヨシヲハ》とあるは、老《オイ》しをば也。これに依に、嫗は、於與奈《オヨナ》とよむべし、此|與《ヨ》を、伊乎《イヲ》の約とする時は、於伊乎美奈《ヲイヲミナ》てふ言となれば也。和名抄に、嫗【於無奈】老女之稱也とあるは、例も見えず、言の意もおぼつかなし。思ふに、この無は、與を誤りしにやあらん云々。宣長云、嫗を、考におよなと訓れたるは、強事也。およなといふ稱あることなし。をみなに對へて、嫗をおんなといふ事は、和名抄のみならん(ずカ)、古書に、これかれ見えたる物をや云々。この二説誤れり。嫗をおよなといふことは、いふまでなき誤りにて、おんなといふも、おうなといふと、同じく、音便にくづれし也。新撰字鏡に、※[女+長]【於彌奈】とありて、※[女+長]の字、漢土の書に見えざれば、中國製作の字なるべけれど、字のさまを思ふに、老女のことゝこそ思はるれ。そのうへ、續日本紀卷五に、大伴宿禰御行之妻、紀朝臣音那とあるを、卷十三には、紀朝臣|意美奈《オミナ》とあれば、音那をも、おみなとよむべき事しらる。これらにつきて、嫗をも、おみなとよむべし。女を、古書に、多く乎美奈《ヲミナ》といふを、音便にをんなといふにても、和名抄に、於無奈《オムナ》とあるは、音便にて、正しくは、於美奈《オミナ》といふべきをしるべ(93)し。また、靈異記中卷に、嫗【於于那】とあるも、古けれど、音便なり。また、土佐日記に、童ごとにては何かはせん。おんなおきなにをしつべし云々。枕草子に、すさまじきもの、おうなのけさう云々とありて、猶おんなとも、おうなとも、これかれに見ゆるは、皆音便なり。さて爾爲而也《ニシテヤ》は、本集一【十八丁】に、此也是能倭爾四手者《コレヤコノヤマトニシテハ》云々とある、にしてと同じく、にての意也。集中猶多し。この事、下【攷證三上五十四丁】にもいへり。
如手童兒《タワラハノゴト》。
本集四【卅四丁】に、幼婦常言雲知久《タワヤメトイハクモシルク》、手小童之哭耳泣管徘徊《タワラハノネノミナキツツタモトホリ》云々ともありて、たわらはの、たは、發語にて、たもとほり、たばしる、たわすれ、たとほみ、などいふ類の、た也。是を、代匠記、考等に、母の手をはなれぬほどの、わらはなれば、たわらはとはいふよしいへるは、たがへり。さて、一首の意は、年ふりし嫗《オミナ》の身にて、ありながら、かくばかり、戀に思ひしづめるは、いかなる事ぞ。わらはなどの、物に思ひしづみて、なきいさつがごとしと也。
一云。戀《コヒ》乎太爾。忍金手武。多和良波乃如。
この十六字、印本大字。いま元暦本によりて小字とす。太を大に誤る。いま意改。良を郎に誤る。元暦本によりて改む。
長皇子。與2皇弟1御歌。一首。
(94)皇弟。
書紀天武天皇二年紀に、妃大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1云々とあり。こゝに、皇弟とあるは、弓削皇子をさし奉るなるべし。
130 丹生乃河《ニフノカハ》。瀬者不渡而《セハワタラズテ・セヲバワタラデ》。由久遊久登《ユクユクト》。戀《コヒ》痛《タム・イタム》吾弟《ワガセ》。乞通來禰《コチカヨヒコネ》。
丹生乃河《ニフノカハ》。
大和志云、吉野郡丹生川、源自2吉野山及赤瀧山1、經2河分長瀬1、達2丹生社前1、經2歴長谷西山貝原小古田河岸城戸河合黒淵大日川向加名生魚梁瀬和田江出老野等1、過2瀧村1、入2宇智郡1云々と見えたり。
瀬者不渡而《セハワタラズテ・セヲバワタラデ》。
舊訓、せをばわたらでとよめれど、者の一字を、をばとよむべきよしなし。今のごとくよむべし。
由久遊久登《ユクユクト》。
代匠記に、ゆく/\とは、第十二、十三などに、大舟のゆくら/\とよめる、おなじ。俗語に、ゆくりとしてといふも是也。ゆる/\とと、つねにいふ心なり云々とあるにしたがひて、略解にも、物思ひにおもひたゆたふ也といへれど、これらあまりに思ひすぐしたる説也。拾遺集別に、贈太政大臣、君がすむ宿のこずゑの、ゆく/\とかくるゝまでにかへり見しはや云々とあるは、菅家の御歌なれば、菅家は、この御歌の由久遊久等《ユクユクト》を、行行とと心得給ひしと見えたり。これによりて、こゝをば、行々とと心得べし。まへに、丹生の川、瀬はわたらずてといひくだしたるにては、行々の意なるをしるべし。
(95)戀《コヒ》痛《タム・イタム》吾弟《ワガセ》。
略解に、戀痛は、いと戀しきを、強くいふ詞也。愛するを、愛痛《メデタキ》といふがごとし云々といへるは、誤れり。戀痛《コヒタム》の、痛《タム》は、借字にて、船を※[手偏+旁]多武《コギタム》、※[手偏+旁]多味《コギタミ》【この事は上攷證一下四十五丁にいへり。】などいふ多武《タム》と同じく、また、本集十一【三丁】に、崗前多味足道乎《ヲカノサキタミタルミチヲ》云々ともありて、こは、集中囘轉などの字をも、よみて、ものなづみゆく意にいへり。されば、こひたむの、たむは、まへのゆく/\とへかゝりて、戀になづみて、行たむ意也。吾弟《ワガセ》の弟《セ》は、上【攷證一上三丁】にいへるがごとく、親しみ敬ふ意にて、男どもち、せといへり。この事は、下【攷證三上十四丁】に、くはしくいふべし。こは、略解に、わがせは親しみ敬ふ言實を以、弟の字を用ひたり。和名抄、備中賀夜郡、弟翳 勢 庭妹【爾比世】などもあり云々といへるがごとく、弟をせとのたまへる也。遊の字、印本※[しんにょう+(竹/夾)]に誤れり。今拾穗本に依て改む。
乞通來禰《コチカヨヒコネ》。
略解に、いでは、字のごとく、物を乞詞也。允恭紀二年云々、謂2皇后1曰云々、壓乞戸母云々。注に、壓乞此云2異堤《イデ》1、戸母此云2覩自《トジ》1とあり云々とて、いでかよひこねとよめりしは、いかゞ。舊訓のまゝ、こちとよむべし。そは本集七【六丁】に、吾勢子乎乞許世山登《ワカセコヲコチコセヤマト》云々とありて、また六【十二丁】七【十丁】十二【十五丁】などに、越乞《ヲチコチ》とも、かきたるにても思ふべし。さて、こちといふも、ねがふ意、禰といふも、下知の詞にて、何とぞ、こなたへかよひこよかしといふ意也。さて一首の意は、丹生の川の、瀬をばわたらずして、行くとて、行道に戀なづみたり。わがせの君よ。何とぞ、こなたへかよひこよかしと也。今世、此方といふを、こちといふも、これらよりうつりしなるべし。
(以上攷證卷二上册)
(96)柿本朝臣人麿。從2石見國1。別v妻上來時歌。二首并短歌四首。
妻。
考云、人萬呂の妻の事は、別記にいへるがごとく、くさ/”\の考へあり。こゝなるは、嫡妻にあらず云々。別記云、人まろが妻の事は、いとまどはしきを、心みにいはん。始め後かけて、四人か。そのはじめ、一人思ひ人、一人は妻なりけんを、共に死て、後に、又妻と思ひ人と有しなるべし。【始め二人の中に、一人は妻也。後二人も一人は妻と見ゆ。しかるを惣て妻と書しは、後に誤れるならん。】何ぞといはゞ、この卷の挽歌に、妻の死時、いためる歌二首、並載たるに、初一首は、忍びかよふほどに死たるを、悲しむ也。次の一首は、兒ある女の死を悲しむめれば、こゝは嫡妻なりけん。【これらは石見の任よりはいと前なり。】かくて、後に石見へまけて、任の中に京へ上る時、要に別るとて、悲しめる歌は、考にいふが如し。【石見に別れしは、久しく戀し女に、逢初たるころ故に、深き悲しみにありけん。嫡妻は、むつまじき事なれど、常のこゝちには、かりそめのわかれを甚しく悲しむべくもあらず。】然れども、考るに、こは妻といふにはあらで、石見にて、そのころ通ひそめし女ならん。其歌に、さぬる夜はいくばくもあらで、はふつたの別れしくればとよみたれば也。又その別れの歌についでゝ、人麿妻依羅娘子、與2人麿1別時歌とて、思ふなと君はいへども、あはん時いつと知てか、吾こひざらんとよみしは、載し次でによらば、かの石見にて別れしは、即この娘子とすべきを、下に、人まろの、石見にありて、身まからんずる時、しらずと妹がまちつゝあらんとよみ、そを聞て、かの娘子、けふ/\とわが待君とよみたるは、大和にありてよめるなれば、右の、思ふなと君はいへどもてふは、石見にて別るゝにはあらず。こは、朝集使にて、かりにのぼりて、やがて又石見へ下る時、むかひ女依羅娘子は、本より京に留りて、ある故に、かくよみつらん。【國の任に妻をばゐてゆかざるも集中に多し。】あはん時いつとしり(97)てかといふも、かりの別と聞えざる也。然れば、かの妻の死て後の妻は、依羅娘子なるを、任には、ゐてゆかざりしもの也。人まろ、遠き國に年ふれど、この娘子、他にもよらでありけんも、かりの思ひ人ならぬはしらる云々といはれつるが如し。されど、下に至りて本文を改められしは誤り也。古へは夫婦たがひにつまといひ、又かりそめにかよふ女をも、つまといへる事、常の事也。書紀貴行紀に、弟橘姫の事をいへる所に、日本武尊の妾とかゝれしを、後に日本武尊の、吾嬬者耶《アカツマハヤ》とのたまひ、これを古事記には、日本武尊の后とせり。かく定まれる事なく、いろ/\に書るを見ても、古へは、今の如くたしかに定れる事なきをしるべし。
上來時。
考云、この度は、朝集使にて、かりに上るなるべし。そは、十一月一日の官會にあふなれば、石見などよりは、九月の末、十月のはじめに立べし。仍て、この歌に黄葉の落をいへり。
四首。
この二字、原本なし。集中の例によりて補ふ。
131 石見乃《イハミノ》海《ミ・ウミ》。角《ツヌ・ツノ》乃浦回乎《ノウラワヲ》。浦無等《ウラナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。滷無等《カタナシト》。【一云。礒無登。】人社見良目《ヒトコソミラメ》。能咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者無友《ウラハナクトモ》。縱畫屋師《ヨシヱヤシ》。滷者《カタハ》【一云。礒者。】無鞆《ナクトモ》。鯨魚取《イサナトリ》。海邊乎《ウナヒヲ》(98)指而《サシテ》。和多豆乃《ニキタヅノ》。荒礒乃上爾《アリソノウヘニ》。香青生《カアヲナル》。玉藻息津藻《タマモオキツモ》。朝羽振《アサハフル》。風社依米《カゼコソヨラメ》。夕羽振流《ユフハフル》。浪社來縁《ナミコソキヨレ》。浪之共《ナミノムタ》。彼縁此依《カヨリカクヨリ》。玉藻成《タマモナス》。依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》。【一云。波之伎余思。妹之手本乎。】露霜乃《ツユシモノ》。置而之來者《オキテシクレバ》。此道乃《コノミチノ》。八十隈毎《ヤソクマコトニ》。萬段《ヨロツタビ》。顧爲騰《カヘリミスレド》。彌遠爾《イヤトホニ》。里者放奴《サトハサカリヌ》。益《イヤ・マス》高爾《タカニ》。山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。夏草之《ナツクサノ》。念之奈要而《オモヒシナエテ》。志怒布良武《シヌフラム》。妹之門將見《イモガカドミム》。靡此山《ナビケコノヤマ》。
石見乃《イハミノ》海《ウミ・ミ》
考云、紀【神功】に、あふみの海を、阿布彌能彌《アフミノミ》とあれば、今も、うみのうを略きよむ也。下もならへ云々といはれつるが如し。
角《ツヌ・ツノ》乃浦回乎《ノウラワヲ》。
和名抄郷名に、石見國那賀郡都農【都乃】云々とある、これ也。されど、本集十七【八丁】に、角の松原を、都努乃松原《ツヌノマツハラ》とかき、古事記中卷に、角鹿を都奴賀《ツヌガ》とかきたれば、こゝもつぬのうらとよむべし。浦囘《ウラワ》は、島囘《シマワ》、磯囘《イソワ》などいふ、囘《ワ》と同じく、いりくまり、わだかまれる所をいへり。この事は、上【攷證一下十四丁】にいへり。
浦無等《ウラナシト》。
考云、浦は裏《ウラ》にて、※[さんずい+内]《イリ》江をいふ。こゝに、浦無といふは、設て、まづかくいふとするはわろし。次に、潟無といふは、北の海に、干潟てふ事のなきをもていふに、對(99)へし心なれば、これも、實もていふべし。然るを、この國の海に、よき湊ありといへり。右の理りもて思へば、其湊は、他にあるにて、角の浦には、古しへなかりしにや云々といはれつるがごとし。
人社見良目《ヒトコソミラメ》。
谷川士清云、社をこそとよむは、日本紀に見えたり。神社は、祈請の所なれば、乞の字義かよへり。姓の古曾部も、日本紀に社戸と書り。比賣古曾も、和名抄に姫社と書り。式、伊勢國奄藝郡に、大乃己所神社見ゆ。今、大古曾村といふ。三重郡に、小許曾神社あり。今小社といへり。多氣郡に、流田上|社《コソ》神社あり。近江上許曾神社に訓同し云々。この説のごとく、乞を、集中こそとよみて、もて願ふ意なれ《(マヽ)》、社を、義訓して、こそとはよめるなるべし。久老が説に、社をこそと訓は、木苑《コソ》の意、則卷十六、に死者木苑《シナバコソ》と書たりといへるは非也。見良目は、後世、見るらめ、見るらんなどいふと同じ。宣長云、見らん、見ともなど、是は、後世の格をもて思へば、見るらん、見るともの、るを略けるが如く聞ゆめれど、さにはあらず。すべて、萬葉には、みな、見らん、見ともとのふいひて、見るらん、見るともといへるは、一つもなし。これもとより、しかいふべき格の言なれば也。十の卷、十一のひらに、春の野のうはぎ、つみてにらしもといへる、にらしも同じ格にて、後世ならば、これもにるらしといふべきを、にらしといへり。見らんは、古今集の歌にもあり云々。
滷無等《カタナシト》。一云礒無登。
和名抄涯岸類云、文選海賦云、海溟廣潟【思積反與v昔同師説加太】云々。また玉篇に、潟【鹵亦反或滷字】云々とありて、潟、滷、義かよへり。干潟をいふ也。
(100)能咲八師《ヨシヱヤシ》。
本集十【二十七丁】に、吉哉雖不直《ヨシヱヤシタヾナラズトモ》云々。また【五十七丁】忍咲八師不戀登爲跡《ヨシヱヤシコヒシトスレド》云々。十一【四丁に】、吉惠哉不來座公《ヨシヱヤシキマサヌキミヲ》云々などありて、集中猶多し。また十一【十六丁】に、心者吉惠君之隨
意《コヽロハヨシヱキミカマニマニ》云々ともありて、よしゑやしの、ゑと、しとは、助字にてよ、しやといふを、のべていへる也。し文字の助字は、常のこと也。ゑもじの助字は、十四【十二丁】に、安禮波麻多牟惠《アレハマタムヱ》云々。書紀天智紀、童謡に、愛倶流之衛《エクルシヱ》、奈疑納母騰《ナギノモト》、制利能母騰《セリノモト》、阿例播倶流之衛《アレハクルシヱ》云々などあるゑもじもおなじ。
浦者《ウラハ》無《ナケ・ナク》友《トモ》。
宣長云、無友、無鞆は、ともに、なけどもとよむべし。なけれどもの、れを略て、しかいふは、古言の例にて、集中に多し云々といはれつるが如く、なけどもとよむべし。次の或本歌に、雖無《ナケトモ》とかきたるにてもおもふべし。さて十三【三丁】に、隱來笶長谷之河者《コモリクノハツセノカハハ》、浦無蚊船之依不來《ウラナキカフネノヨリコヌ》、磯無蚊海部之釣不爲《イソナキカアマノツリセヌ》、吉咲八師浦者無友《ヨシヱヤシウラハナクトモ》、吉畫矢志礒者無友《ヨシヱヤシイソハナクトモ》云々とよめるとよく似たり。
鯨魚取《イサナトリ》。
枕語也。久老云、萬葉二に、鯨魚取淡海《イサナトリアフミ》の海とある、いかに思ひても、湖水にして、鯨取とはいふまじく、又卷六に、いさなとり濱びをきよみとあるも、鯨魚取としては、いかにぞや、おぼゆる故、つら/\按に、師説に、伊佐利《イサリ》と、須奈杼利《スナドリ》は、同語にて、須奈杼利と、伊佐奈登利《イサナトリ》と通へば、同じといはれしは、あたれりといふべし。然れば、伊佐奈取は、漁《スナドリ》の本語にして、萬葉に、鯨魚、勇魚と書しは、すべて假字とすべし云々といへるによるべし。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
(101)海邊《ウミベ・ウナビヒ》乎指而《ヲサシテ》。
集中、海邊とあるを、舊訓にも、多くうなびとよみて、本集五【十七丁】に、乎加肥爾波宇具比須奈久母《ヲカビニハウグヒスナクモ》云々。また【三十一丁】大伴御津濱備爾《オホトモノミツノハマビニ》云々。十四【四丁】に、可須美爲流布時能夜麻備爾《カスミヰルフジノヤマビニ》云々。また【八丁】奈都蘇妣久宇奈比乎左之※[氏/一]等夫登利乃《ナツソヒクウナビヲサシテトフトリノ》云々ともあれば、こゝの海邊の字をも、うなびとよまんかとも思へど、邊を、ぴのかなに用ひし所もなく、十八【八丁】に、波萬部余里和我宇知由可波《ハマベヨリワガウチユカハ》、宇美邊欲利牟可倍母許奴可《ウミベヨリムカヘモコヌカ》云々とあれば、うみべをさしてとよむべし。考云、指てゆく也。これより十句餘は、海の事もて、妹がうへをいふ序とす云々。
和多豆乃《ニキタヅノ》。
考云、今は此名なしといへり。されども、國府より屋上までゆく間、北の海邊にて、即そこのありさまを、詞としつる歌なるからは、和たつてふ所、そのほとりにありし也。今、濱田といふは、もしにぎたの轉にや云々。宣長云、石見國那賀郡の海邊に、渡津村とて、今あり。こゝなるべし。されば、わたつのと、四言の句也。或本の歌、柔田津と書るは、和多豆を、にぎたづとよみ誤れるにつきて、出來たる本なるべし云々。この説もさる事ながら、或本の歌に、柔田津とさへあれば、しばらく考の説に、したがへり。さて本集一【十丁】に、熟田津とあるは、こゝとは別所にて、伊豫なり。その所【攷證一上十六丁】にくはしくいへり。
荒礒《アリソ・アライソ》乃上爾《ノウヘニ》。
字のごとく、荒き磯のうへに也。あらいその、らいの反、りなれば、ありそとよむべし。そは、本集九【十丁】に、在衣邊著而榜尼《アリソヘニツキテコクアマ》云々。十四【卅三丁】に、安里蘇麻爾於布流多麻母乃《アリソマニオフルタマモノ》云々。十七【廿一丁】に、古之能宇美乃安里蘇乃奈美母《コシノウミノアリソノナミモ》云々などあるにても思ふべし。
(102)香青生《カアヲナル》。
香青生《カアヲナル》の、かもじは、本集四【十七丁】に、香縁相者《カヨリアハヾ》云々。五【九丁】に、美奈乃和多迦具漏伎可美爾《《ミナノワタカクロキカミニ》云々などある、かと同じく、發語にて、意なし。たゞあをきをいふ。
玉藻息津藻《タマモオキツモ》。
玉藻は、藻をほめていへる事、上にいへるがごとし。息津藻は、書紀神代紀下に、憶企都茂播陛爾播譽戻耐母《オキツモハヘニハヨレドモ》云々。本集七【廿三丁】に、奧藻花開在《オキツモノハナサキタラハ》云々。祈年祭祝詞に、奧津藻菜邊津藻菜《ヲキツ《(マヽ)》モハヘツモハ》云々などありて、津《ツ》は助字にて、海の奧の藻なり。
朝羽振《アサハフル》。風社依米《カセコソヨラメ》。
朝は、字のごとく、羽振は、風波の發りたつを、鳥の羽を振にたとへたる也。本集六【四十六丁】に、朝羽振浪之聲※[足+參]《アサハフルナミノトサワキ》云々とありて、十一【卅六丁】に、風緒痛、甚振浪能云々。十四【三十二丁】に、奈美乃保能伊多夫良思毛與《ナミノホノイタフラシモヨ》云々などあるも、浪の起《タツ》を振《フル》といひ、古事記中卷に、振浪比禮《ナミフルヒレ》、振風比禮《カセフルヒレ》といふものあるも、浪を發し、風を發す比禮にて、相摸國風土記に、鎌倉郡見越崎、毎有2速浪1崩v石、國人名號2伊曾布利1、謂v振v石也云々。土佐日記に、いそふりのよするいそにはとし月をいつともわかぬ雪のみぞふる云々とあるも、みな浪の起を振といへり。さて、また本集十【六丁】に、尾羽打觸而※[(貝+貝)/鳥]鳴毛《ヲハウチフリテウグヒスナクモ》云々。十九【九丁】に、勿振鳴志藝《ハフリナクシギ》云々。和名抄鳥體部に、唐韻云※[者/羽]【之庶反亦作v※[者+羽]、文選射v雉賦云、軒者、波布留、俗云波都々。】飛也、擧貌也云々とあるは、鳥の羽振也。それを朝ふく風に浪の起にそへて、あさはふるとはいへる也。文選郭璞江賦に、宇宙澄寂、八風不v翔云云とあるも、風の起を鳥の翔《カケル》によせたり。夕羽振も、なぞらへてしるべし。風こそよらめは、風にこそよらめ也。
(103)浪社來縁《ナミコソキヨレ》。
これも、浪にこそきよれにて、藻のよりくるをいへり。
浪之共《ナミノムタ》
本集四【卅四丁】に、浪之共靡珠藻乃《ナミノムタナビクタマモノ》云々。六【四十六丁】に、鹽干乃共※[さんずい+内]渚爾波《シホヒノムタニイリスニハ》云々。九【卅三丁】に、銷易杵壽《ケヤスキイノチ》、神之共荒競不勝而《カミノムタアラソヒカネテ》云々。十五【十九丁】に、可是能牟多與世久流奈美爾《カセノムタヨセクルナミノ》云々。また【卅七丁】君我牟多由可麻之毛能乎《キミカムタユカマシモノヲ》云々などありて、みな字のごとく、ともにといふ意にて、浪とともに藻のよりくるをいへるなり。
彼縁此依《カヨリカクヨリ》。
本集此卷【卅一丁】に、玉藻成彼依此依《タママモナスカヨリカクヨリ》、靡相之嬬乃命乃《ナヒキアヒシツマノミコトノ》云々ともありて、彼と此とを相對したる語にて、古事記中卷に、迦母賀登《カモガト》、和賀美斯古良《ワガミシコラ》、迦久母賀登《カクモガト》、阿賀美斯古爾《アガミシコニ》云々。本集此卷【卅二丁】に、夕星之彼往此去《ユフツヽノカユキカクユキ》云々。四【卅六丁】に、鹿煮藻闕二毛《カニモカクニモ》云々などあると、同格の語にて、こゝは、玉藻おきつもなどの、浪とともに、かれによりこれによるがごとく、何かにつけて、よりてねし妹をと、つゞけたるなり。
玉藻成《タマモナス》。
枕語にて、玉藻のごとくといふ也。上【攷證一下廿八丁】にいへり。
依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》。
藻の、浪とともよりくるがごとく、依そひてねしいもを也。古事記下卷に、余理泥弖登富禮云々とあるは、こゝとは別にて、倚偃而行去《ヨリネテトホレ》なり。
一云。波之伎余思《ハシキヨシ》。妹之手本乎《イモカタモトヲ》。
はしきよしは、はしけやしとも、はしきやしともいひて、はしきは、愛《ハシ》きにて、妹を愛していへる也。(104)この事は、下【攷證二下十二丁】にいふべし。さて、その愛《ハシ》き妹がもとを、露じものごとく、おきわかれてしくればとつゞく也。波の字、印本渡に誤れり。今古本によりてあらたむ。さて、集中、手本《タモト》とも、袂《タモト》ともかきたれど、手本と書たるも、手の本といふ意にて、專ら袖とことなることなし。そは、本集十六【七丁】に、結幡之袂著衣云《ユフハタノソデツケゴロモ》云々と、袂を、そでとも訓て、玉篇に、袂袖也とあるにても、しるべし。
露霜乃《ツユシモノ》。
枕詞也。露霜の置とつゞけし也。宣長玉勝間云、萬葉の歌に、露霜とよめる、卷々に多し。こは、後の歌には、露と霜とのことによめども、萬葉なるは、みなたゞ、露のこと也。されば、七の卷、十の卷などには、詠v露といへる歌によめり。多かる中には、露と霜と、二つと見ても、聞ゆるやうなるもあれど、それも、みなさにはあらず。たゞ露也。これにさま/”\説あれども、皆あたらず云々。この説のごとく、大かたは、たゞ露を露霜といふ所多かれど、又秋の末に至りて、はつかにおく霜を、つゆじもいふ所も見えたり。この事は、下【攷證四中四十一丁】にいふべし。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
置而之來者《オキテシクレバ》。
露霜のごとく、妹を石見におきてしくれば也。
八十隈毎《ヤソクマコトニ》。
八十は、物の數の多きを、彌《イヤ》十といふにて、必らず、八十とかぎりたる事にあらず。隈は、道のすみ/”\曲り/\といふことなり。この事は、上【攷證一下七十丁】にいへり。
(105)顧爲騰《カヘリミスレド》。
石見の國に妹を置てこし故に、その道のすみ/”\曲り/\などにては、もし妹があたりの見ゆるかとて、いく度ともなく、かへり見すれども、いや遠く、里をも山をもこえてきたれば、見えずと也。
里者放奴《サトハサカリヌ》。
本集三【五十七丁】に、離家伊麻須吾妹乎《イヘサカリイマスワキモヲ》云々。十三【七丁】に、里離來奴《サトサカリキヌ》云々。十四【十三丁】に、可奈師家兒良爾伊夜射可里久母《カナシケコラニイヤサカリタモ》云々など、猶多くありて、字のごとく離れわかるる意なり。
益《イヤ・マス》高爾《タカニ》。
考には、ましたかとよまれたり。されど、宣長云、この類の益の字を、ますとも、ましとも訓ずるは、皆誤り也。いやとよむべし。益を、いやとよむ證例は、此卷下【四十丁】に、相見し妹は益年《イヤトシ》さかる。七卷【廿三丁】に、益《イヤ》かはのぼる。十二卷【卅三丁】に、こよひゆ戀の益《イヤ》まさりなん云々とあり云々といはれしによるべし。また、十三【七丁】に、道前八十阿毎《ミチノクマヤソクマコトニ》、嗟乍吾過往者《ナケキツヽワカスキユケハ》、彌遠丹里離來奴《イヤトホニサトサカリキヌ》、彌高二山文越來奴《イヤタカニヤマモコエキヌ》云々とあるも、大かたこゝと同じつゞけがらなるに、彌《イヤ》をかさねたるにても、益は、いやとよむべきをしるべし。高は、遠き意也。この事、下【攷證四下卅二丁】高々《タカ/\》の解にいふべし。
夏草之《ナツクサノ》。枕詞にて、冠辭考にくはし。夏の日にあたりて、しをれて、草の萎《ナエ》ふすを、人の物思ひする時のさまにたとへて、なつ草のごとくにおもひしなえてと、つゞけし也。
(106)念之奈要而《オモヒシナエテ》。
下に書たる、この歌のある本に、思志萎而《オモヒシナエテ》と書て、又下【卅三丁】にも、念之萎而《オモヒシナエテ》とかき、十【五十七丁】に、於君戀之余要浦觸《キミニコヒシナエウラフレ》云々。十九【十五丁】に、宇知歎之余要宇良夫禮《ウチナケキシナエウラ》云々などもありて、しなえの、しは、そへたる字にて、草木のしをるゝも、本は折《ヲル》る事なるに、しもじをそへて、しをるといふがごとし。なえは、萎の字をよめるごとく、物のなゆるをいふ事にて、こゝの意は、戀しきおもひに萎《ナエ》くづをれてあるをいへり。さて、草木などの、たわむを、しなひ、しなふなどいへるとは、かなもたがひて別也。おもひまぎるゝことなかれ。
志怒布良武《シヌフラム》。
しのぶらん也。妹がわれを戀ふ思ひに、萎《ナエ》くづをれて、したひしのぶらん、妹が門見んに、この山ありて見えざれば、この山なびきふせよと也。
靡此山《ナビケコノヤマ》。
山などの、靡《ナビク》ものならねど、妹が門を見んに、この山なびきふせよと、をさなくい
よ
へるは、歌のつね也。本集十二【卅五丁】に、惡木山木末悉《》、明日從者靡有社《アシキヤマコスヱコト/\アスヨリハナビキタレコソ》、妹之當將見《イモカアタリミム》云々。十三【七丁】に、奧十山三野之山《オキソヤマミヌノヤマ》、靡得人雖跡《ナビケトヒトハフメトモ》云々などあるにても思ふべし。また、文選呉都賦に、雖v有2石林之※[山/乍]※[山+愕の旁]1、請攘v臂而靡v之云々なども見えたり。
反歌
132 石見乃也《イハミノヤ》。高《タカ》角《ツヌ・ツノ》山之《ヤマノ》。木際從《コノマヨリ》。我振袖乎《ワカフルソテヲ》。妹見都良武香《イモミツラムカ》。
石見乃也《イハミノヤ》。
のやの、やは、地名の下へつけて、かろく添たる字にて、意なし。書紀繼禮紀に、阿符美能野《アフミノヤ》、※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクコイ》云々。本集十四【十八丁】に、美奈刀能也《ミナトノヤ》、安之我奈可那(107)流《アシカナカナル》云々。古今集大歌所に、あふみのや、かがみの山をたてたれば云々など見えたり。
高角山之《タカツヌヤマノ》。
高角山は、この外古書に見えざれば、郡は知ざれど、こゝに、かくよまれつるからは、國府のちかきあたりなるべし。下の或本歌には、打歌山とかけり。この事は、下にいふべし。
木際從《コノマヨリ》。
この句をば、下へつけて、わがこゝにて振《フル》袖《ソデ》を、高角山の木の間より、妹見つらんかと心得べし。
我振袖乎《ワカフルソテヲ》。妹見都良武香《イモミツラムカ》。
袖を振は、人と別るゝ時、又はかなしき時、戀しきにたへずしてする、古しへのしわざなるべし。集中、人にわかるゝ所に、多くよめり。本集二【卅八丁】人麿妻死之後歌に、妹之名喚而袖曾振鶴《イモカナヨビテソデヅフリツル》云々。六【廿三丁】に、太宰師《(マ」》大伴卿上v京時、娘子歌に、凡有者左毛右毛將爲乎《オホナラバトモカモセムヲ》、恐跡振痛袖乎忍而有香聞《カシコシトフリタキソデヲシヌヒテアルカモ》云々。倭道者雲隱有《ヤマトチハクモカクレタリ》、雖然余振袖乎無禮登母布奈《シカレトモワカフルソテヲナカレトモフナ》云々。七【四丁】に妹之當吾袖將振《イモガアタリワカソテフラム》、木間從出來月爾雲莫棚引《コノマヨリイテクルツキニクモナタナヒキ》云々。十【廿六丁】に、汝戀妹命者《ナカコフルイモノミコトハ》、飽足爾袖振所見都《アクマテニソテフルミエツ》、及雲隱《クモカクルマテ》云々。十一【十二丁】に、袖振可見限吾雖有《ソテフルヲミルヘキカキリワレハアレド》、其松枝隱在《ソノマツカエニカクレタリケリ》云々。高山岑行宍友衆袖不振來忘念勿云《タカヤマノミネユクシヽノトモヲオホミソデフラスコシワスルトモフナ》々などありて、猶いと多し。文選劉※[金+樂]擬古詩に、眇々陵2長道1、遙々行遠之、囘v車背2京里1、揮v手從v此辭云々とあるも似たり。
133 小竹之葉者《サヽノハハ》。三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》。亂《マガヘ・ミタレ》友《トモ》。吾者妹思《ワレハイモオモフ》。別來禮婆《ワカレキヌレハ》。
(108)小竹之葉者《サヽノハハ》。
古事記上卷に、訓2小竹1云2佐々1云々とありて、また書紀神功皇后元年紀に、小竹此云2之努1云々。本集一【八丁】に、しぬびつといふ所の借字にも、小竹櫃《シヌビツ》と書たれば、小竹を、さゝとも、しぬともよむ也。されば、こゝは、舊訓のまゝに、さゝの葉はと訓べし。和名抄竹類に、蒋魴切韻云篠【先鳥反、和名之乃、一云佐々、俗用2小竹二字1、謂2之佐々1】細竹也云々とも見えたり。
三山毛清爾《ミヤマモサヤニ》。
みやまの、みは、例のほむる詞にて、眞也。古事記下卷に、美夜麻賀久理弖云云と見えたり。深山の意とするは誤れり。清爾《サヤニ》の、清《サヤ》は、借字にて、小竹葉の、風などに、さや/\と鳴るをいへり。古事記中卷に、久毛多知和多理許能波佐夜藝奴《クモタチワタリコノハサヤギヌ》云々。書紀神武紀に、聞喧擾之響焉、此云2左※[手偏+耶]霓利奈離《サヤゲリナリ》2云々。本集十【卅八丁】に、荻之葉左夜藝秋風之《ヲキノハサヤキアキカセノ》云々。二十【四十二丁】に、佐左賀波之佐也久志毛用爾《サヽガハノサヤグシモヨニ》云々などあるも、皆同じ。
亂《マガヘ・ミダレ》友《トモ》。
舊訓、みだれどもと訓る、いと誤りなり。考に、さわげどもとよまれしも、いかゞ。亂は、本集此卷【廿丁】に、黄葉乃散之亂爾《モミチハノチリノマガヒニ》云々。八【卅八丁】に、秋芽之落之亂爾《アキハキノチリノマガヒニ》云々。十【十丁】に、散亂見人無二《チリマガフラムミルヒトナシニ》云々。十三【廿三丁】に、黄葉之散亂有《モミチハノチリマガヒタル》云々など、多くまがふとよめば、こゝもまがへどもと訓べし。小竹《サヽ》の葉に、風などのふき、み山の物しづかなるも、さや/\と鳴さわぎて、物にまがへども、吾は愛する妹にわかれきぬれば、物にもまぎれず、こゝ一すぢに、妹をおもふとなり。
或本反歌。
(109)134 石見爾有《イハミナル》。高《タカ》角《ツヌ・ツノ》山乃《ヤマノ》。木間從文《コノマユモ》。吾袂振乎《ワカソテフルヲ》。妹見監鴨《イモミケムカモ》。
木間從文《コノマユモ》。
この間|從文《ユモ》の從は、よりの意、文《モ》は助字也。書紀神武紀に、伊那瑳能椰摩能虚能莽由毛《イナサノヤマノコノマユモ》云々とあると同じ。
袂振《ソテフル》。
袂は、今は、たもとゝのみよめど、玉篇に、袂彌鋭切、袖也とありて、袖と同じ。
135 角障經《ツヌサハフ》。石見之海乃《イハミノウミノ》。言佐敝久《コトサヘク》。辛乃崎有《カラノサキナル》。伊久里爾曾《イクリニソ》。深海松生流《フカミルオフル》。荒礒爾曾《アリソニソ》。玉藻者生流《タマモハオフル》。玉藻成《タマモナス》。靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》。深海松乃《フカミルノ》。深目手《フカメテ》思《モヘ・オモフ》騰《ト》。左宿夜者《サヌルヨハ》。幾《イクダ・イクバク》毛不有《モアラス》。延都多乃《ハフツタノ》。別之來者《ワカレシクレバ》。肝《キモ》向《ムカフ・ムカヒ》。心乎痛《コヽロヲイタミ》。念乍《オモヒツヽ》。顧爲騰《カヘリミスレト》。大舟之《オホフネノ》。渡乃山之《ワタリノヤマノ》。黄葉乃《モミチハノ》。散之亂爾《チリノマカヒニ》。妹袖《イモカソテ》。清爾毛不見《サヤニモミエス》。嬬隱有《ツマコモル》。屋上乃山《ヤカミノヤマ》【一云室上山。】乃《ノ》。自雲間《クモマヨリ》。渡相月乃《ワタラフツキノ》。雖惜《オシケドモ・ヲシメトモ》。隱比來者《カクロヒクレハ》。天傳《アマツタフ》。入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》。大夫跡《マスラヲト》。念有吾毛《オモヘルワレモ》。敷妙乃《シキタヘノ》。衣袖者《コロモノソテハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
(110)角障經《ツヌサハフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。角障經《ツヌサハフ》とかけるは、借字にて、つぬ、つな、つたとかよふ故、蘿這石《ツタハフイハ》とつゞけし也。さて、障の字、印本※[章+おおざと]に作れり。字書を考ふる《(マヽ〕》障※[章+おおざと]通ずる事なし。誤りなる事明らかなれば、本集三【廿一丁四十六丁】十三【廿八丁廿九丁】などの例に依てあらたむ。
言佐敝久《コトサヘク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。から人の言は、こゝの人の耳には、わかずさへぎてのみ聞ゆれば、ことさへぐ韓《カラ》といふを、辛《カラ》の埼とはつゞけしなり。また、ことさへぐ、百濟の原とつゞくるも意同じ。
辛乃崎有《カラノサキナル》。
辛の埼、この外ものに見えず。郡しりがたし。猶たづぬべし。
伊久里爾曾《イクリニソ》。
古事記下卷に、由良能斗能斗那加能《ユラノトノトナカノ》、伊久理爾布禮多都《イクリニフレタツ》、那豆能紀能《ナツノキノ》云々。本集六【十六丁】に、淡路乃野島之海子乃《アハチノヌシマノアマノ》、海底奧津伊久里二《ワタノソコオキツイクリニ》、鰒珠左盤爾潜出《アハヒタマサハニカヅキデ》云云とありて、いくりは、海の石をいふ也。宣長云、くりといふにつきて、栗を思ひて、小《チヒサ》き石をいふと云説は非也。海松《ミル》の生とよめるにても、小きに限らぬ事をしるべし。又海の底なる石をいふと云も非也。古事記の歌も、底なる石にては叶はず。六巻の歌に、海底とよめるは、たゞ奧《オキ》の枕詞にて、いくりへかゝれる言にはあらず。海底なるをも、又うへに出たるをもいひ、又小きをもいひ、大きなるをもいふ名也。云々といはれつるがごとし。又釋日本紀に、句離《クリ》謂v石也、伊《イ》助語也云々。この説のごとく、くりは石のこと、いは發語なるべし。
(111)深海松生流《フカミルオフル》。
本集六【十八丁】に、奧部庭深海松採《オキヘニハフカミルトリ》、浦囘庭名告藻苅《ウラワニハナノリソカリ》云々。十三【廿二丁】に、朝名寸二來依深海松《アサナギニキヨルフカミル》云々。延喜宮内式、諸國例貢御贄に、志摩深海松云々とありて、海松は、和名抄海菜類に、崔禹錫食經云、水松、状如v松而無v葉【和名美流】揚氏漢語抄云海松【和名上同俗用v之】云々と見えたり。
靡寐之兒乎《ナヒキネシコヲ》。
靡ねしとは、なよゝかに、物のうちなびきたるやうに、そひふしたるをいふ。本集一【廿一丁】に、打靡寐毛宿良目八方《ウチナヒキイモヌラメヤモ》云々とあり。猶その所にいへり。兒とは、男女にかぎらず、人を愛し親しみ稱していふことにて、子と書も、同じ。古事記下卷に、阿理岐奴能美幣能古賀《アリキヌノミヘノコガ》云々とあるは、三重采女が、自ら三重の子といへり。また同卷に、本陀理斗良須古《ホタリトラスコ》云々とのたまへるは、袁杼比賣《ヲドヒメ》をさしてのたまへる也。本集一【七丁】に、此岳爾菜採須兒《コノヲカニコナツマスコ》云々。四【廿丁】に、打日指宮爾行兒乎《ウチヒサスミヤニユクコヲ》云々、人之見兒乎吾四乏毛《ヒトノミルコヲワレシトモシモ》云々。五【十八丁】に、宇米我波奈知良須阿利許曾《ウメカハナチラスアリコソ》、意母布故我多米《オモフコカタメ》云々。七【四十二丁】に、薦枕相卷之兒毛《コモマクラアヒマキシコモ》云々などありで、猶いと多し。これらみな、女を親しみ愛して、子とはいへる也。兒は、玉篇に子、咨似切、兒也愛也云々とありて、子兒通用して、文選※[衣+者]淵碑文 注、引2孟子劉注1云、子通稱也云々。漢書武帝紀云、子者人之嘉稱也云々とあるにても思ふべし。さて、上【攷證二上廿八丁】にいへるがごとく、女の名の下に、兒《コ》の字を付るも、これらよりおこれる事なり。また、男を稱して子といふ事は、下【攷證】にいふべし。
深目手《フカメテ》思《モヘ・オモフ》騰《ド》。
本集十三【廿二丁】に、深海松乃深目師吾乎《フカミルノフカメシワレヲ》云々ともありて、こゝは、心をふかめておもへども也。
(112)左宿夜者《サヌルヨハ》。
さぬる夜はの、さは、さよばひ、さわたる、さばしり、さとほみ、さをどるなどの類、發語にて、意なし。たゞぬる夜はといへる也。集中いと多し。
幾《イクダ・イクバク》毛《モ》不有《モアラズ》。
舊訓、いくばくとよめるも、宣長が、いくらもとよまれしもいかゞ。こゝは、いくだもあらずとよむべし。そは、本集五【九丁】に、左禰斯欲能伊久陀母阿羅禰婆《サネシヨノイクダモアラネバ》云々。十【廿七丁】に、左尼始而何太毛不在者《サネソメテイクダモアラネハ》云々などあるにても思ふべし。
延都多乃《ハフツタノ》。
屋上乃山《ヤカミノヤマ》【一云室上山。】乃《ノ》。自雲間《クモマヨリ》。渡相月乃《ワタラフツキノ》。雖惜《オシケドモ・ヲシメトモ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。葛《ツタ》の、かなたこなたへ、はひわかるゝがごとく、わかれしくればと、つゞけし也。さて、つたは、和名抄に、絡石をよみ、本草和名に落石をよめれど、一種をさしていへるにあらず。つたは、蔓草をすべいふ名也。この事は、冠辭考補遺にいふべし。
別之來者《ワカレシクレバ》。
考云、このぬる夜は、いくばくもあらで別るといふからは、こは國にてあひそめし妹と聞ゆ。依羅《ヨサミ》娘子ならぬ事しるべし。
肝《キモ》向《ムカフ・ムカヒ》。
枕詞なり。宣長云、かくつゞくる由は、まづ腹の中にある、いはゆる五臓六腑の類を、上代には、すべて皆きもと云し也。さて、腹の中に、多くのきもの相|對《ムカ》ひて集りありて、凝々《コリ/\》しと云意に、こゝろとはつゞくる也云々といはれしがごとし。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
心乎痛《コヽロヲイタミ》。
心をいたみは、心も痛きまで、いたましみ思ひこむ意にて、こゝろをいたさに也。この事は、下【攷證三下五十三丁】にいふべし。このいたみといふ語は、句をへだてゝ、顧すれど(113)といふへかけて心得べし。いたみ思ひつゝとはつゞかざる也。妹にわかれくれば、心をいたさに、妹を思ひつゝ、かへり見すれど、わたりの山の紅葉のちりまがふ故に、妹が袖のさやかに見えずときくべし。
大舟之《オホフネノ》。
枕詞なり。大は例の物をほめたることにて、舟の渡るとつゞけし也。意明らけし。
渡乃山之《ワタリノヤマノ》。
この外、古書に見えず。名寄にも、石見とせり。考に、府より東北、今道八里の所にありと云り。妹が振袖の見えずといふにかなへり云々といはれつ。
散之亂爾《チリノマガヒニ》。
まがひは、上にいへるごとく、まぎるゝ意にて、紅葉のちりまぎらかす故に、妹がふる袖の、さやかにも見えずと也。古今集春下に、よみ人しらず、このさとにたびねしぬべし、さくら花、ちりのまがひに家路わすれ(て脱カ)云々とよめるも、ちりのまぎれにの意也。
清爾毛不見《サヤニモミエズ》。
清爾《サヤニ》のさやは、上【攷證一下四十九丁】にいへるがごとく、さは、上におきたる助字、やは、やけ、やかなどの、下の字を略けるにて、明らかなる意也。十四【十一丁】に、勢奈能我素低母佐夜爾布良思都《セナノガソテモサヤニフラシツ》云々。二十【四十一丁】に、伊波奈流伊毛波佐夜爾美毛可母《イハナルイモハサヤニミモカモ》云々。古今集大歌所に、かひがねをさやにも見しか云々とあるにてもおもふべし。
嬬隱有《ツマコモル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。古しへは、妻をおく屋をば、あらたに建などもして、つまごみにやへがきつくるなどいへれば、こゝも、妻の隱りゐる屋とつゞけしな(114)り。さて宣長云、これをつまごもるとよむ事は、假字書の例あれば、うごかず。然るに、隱有と有の字をそへて書るは、いかゞ。有の字あれば、必らずこもれるとよむ例也。されば、有は留の字などの誤りにや云々。この説さる事也。猶可v考。
屋上乃山《ヤカミノヤマ》
冠辭考云、屋|山《(マヽ)》の山は、光仁紀和名抄等にも、因幡國に八上郡あるによりて、この人麿、石見より山陰道を經て上られしにやといふ人あり。道の事は、しか也。屋|山《(マヽ)》は、この歌によめる心も、詞も、妻に別れたる、其日より、其夜までの事也。然れば、因幡の八|山《(マヽ)》にはあらで、遠からぬ程の山ならん云々。この説當れり。さて、一云室上山の五字を、印本山の字の上に入たれど、集中の例によりて、山の字の下に入たり。この一書の室上も、訓は同じけれど、文字のかはれるによりて、あげたるなるべし。
自雲間《クモマヨリ》。
この自《ヨリ》は、をの意にて、古事記上卷に、箸|從《ヨリ》2其河1流下云々とあるも、その河を流れ下る也。また本集八【廿四丁】に、霍公鳥從此間鳴渡《ホトヽキスコヽユナキワタル》云々とある從《ユ》も、よりの略にて、こゝをの意也。古今集春下、詞書に、山川より花のながれけるを云々とある、よりもおなじ。
渡相月乃《ワタラフツキノ》。
わたらふの、らふは、るを延《ノベ》たるにて、らふの反、るなれば、わたる月といふ意也。本集十一【九丁】に、雲間從狹徑月乃《クモマヨリサワタルツキノ》云々とも見えたり。さて、夜わたる月、つきわたる、また郭公鴈などの鳴わたるなどいふも、みな過る意なると去意なるとの二つ也。そは、廣雅釋詁三に、渡(ハ)、過也云々。廣韻に、渡(ハ)、過也去也云々とあるにても思ふべし。ここなる渡相《ワタラフ》(115)月は、ゆく月と心得べし。宣長云、屋上の山のと切て、隱《カクロ》ひ來ればといふへつゞく也。惜《ヲシ》けども、屋上の山の、隱れて見えぬよし也。さて、雲間より、波らふ月のといふ二句は、たゞ雖惜《ヲシケドモ》の序のみ也。はつかなる雲間をゆくあひだの月は、をしきよしの序也。もし、この月を、この時の實の景物としては、入日さしぬれといふにかなはず。このわたりまぎらはし。よくわきまふべし云々。
雖惜《オシケドモ》。
舊訓、をしめどもと訓るも、考にをしけれどゝよまれしも、いかゞ。をしけどもとよむべし。をしけどもは、をしけれどもの、れを略ける也。そは、木集五【十丁】に、伊能知遠志家騰《イノチヲシケト》云々。十一【廿九丁】に、隱經月之雖惜《カクラフツキノヲシケドモ》云々。十七【廿三丁】に、伊乃知乎之家騰《イノチヲシケド》云々など見えたり。また、四【廿五丁】に、遠鷄跡裳《トホケドモ》云々。十五【卅一丁】に、由吉余家杼《ユキヨケト》云々。十七【卅三丁】に、等保家騰母《トホケドモ》云々などあるも、みな同格の語にて、れを略ける也。
天傳《アマツタフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。天路を傳ひゆく日とつゞけし也。下【攷證三下卅丁】をも考へ合すべし。
入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》。
上に、こそのかゝりなくして、れとうけたるは、集中長歌の一つの格也。そは、本集三【五十四丁】に、晩闇跡隱益奴禮《ユフヤミトカクリマシヌレ》云々。また【五十八丁】久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》云々。五【五丁】に、宇知那比枳許夜斯努禮《ウチナヒキコヤシヌレ》云々などありて、集中いと多し。また、こそなくして、せとうけたるもあり。この事は、下【攷證五下】にいふべし。これらの、れ、せなどの下に、ばを加へて、れば、(116)せばなどと見れば、よく聞ゆと、宣長いはれぬ。
大夫跡《マスラヲト》。念有吾毛《オモヘルワレモ》。
本集一【八丁】に、丈夫登念有我母《マスラヲトオモヘルワレモ》、草枕客爾之有者《クサマクラタヒニシアレハ》云々。四【四十九丁】に、丈夫跡念流吾乎《マスラヲトオモヘルワレヲ》。六【廿四丁】に、丈夫跡念在吾哉《マスラヲトオモヘルワレヤ》云々ともありて、猶多し。こゝは、自ら、われは丈夫なれば、をゝしと思へるわれも、妻を戀る故に、涙こぼれて、衣の袖とほりてぬれぬと也。
敷妙乃《シキタヘノ》。
枕詞なり上【攷證一下六十一丁】にくはし。
衣袖者《コロモノソデハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》。
本集十【十六丁】に、春雨爾衣甚將通哉《ハルサメニコロモハイタクトホラメヤ》云々。十三【十一丁】に、吾衣袖裳通手沾沼《ワカコロモテモトホリテヌレヌ》云々。十五【廿八丁】に、和我袖波多毛登等保里弖奴禮奴等母《ワカソテハタモトトホリテヌレヌトモ》云々などありて、重ね著たる袖の、うらまで通りて、ぬれぬと也。
反歌二首。
136 青駒之《アヲコマノ》。足掻乎速《アカキヲハヤミ》。雲居曾《クモヰニソ》。妹之當乎《イモカアタリヲ》。過而來計類《スキテキニケル》。【一云。當者隱來計留。】
青駒之《アヲコマノ》。
和名抄牛馬類云、説文云※[馬+怱]【音聰、漢語抄云、聰青馬也、黄聰馬、葦花毛馬也。日本紀私記云、美太良乎乃宇萬。】青白雜毛馬也云々とある、是にて、實に眞青《マサヲ》なる毛の馬あるにあらず。本集十二【廿八丁】に、※[馬+総の旁]馬とあるも、(117)青き馬也。二十【五十八丁】に、水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎《ミツトリノカモノハノイロノアヲウマヲ》云々などあるにても、白き馬にはあらで、青き馬なるをしるべし。猶くはしくは、古事記傳卷十八、玉勝間卷十三などに見えたれば、こゝに略す。
足掻乎速《アカキヲハヤミ》。
○本集七【十二丁】に、赤駒足何久激《アカコマノアカクソヽキニ》云々。七【十四丁】に、赤駒之足我枳速者《アカコマノアカキハヤクハ》云々などありて、猶多し。こは、新撰字鏡に、※[足+宛](ハ)※[足+緤の旁]也踊也、馬奔走貌、阿加久云々とありて、馬のありくかたち也。鳥の羽掻《ハネカク》などいふもこれにおなじ。
雲居曾《クモヰニソ》。
上【攷證一下卅七丁】にいへるごとく、雲居は、天をいひて、天は遠きものなれば、遠きたとへにいへるなり。一首の意明らけし。
137 秋山爾《アキヤマニ》。落黄葉《オツルモミヂバ》。須臾者《シマラクハ》。勿散亂曾《ナチリマカヒソ》。妹之當將見《イモカアタリミム》。【一云。知里勿亂曾。】
須臾者《シマラクハ》。
舊訓、しばらくとあれど、しまらくとよむべし。そのよしは、上【攷證二上卅八丁】にいへり。
勿散《ナチリ》亂《マカヒ・ミタレ》曾《ソ》。
舊訓、みだれそとあれど、まがひそとよむべし。そのよしは、上にいへり。一首の意明らけし。
或本歌一首。并短歌一首。
(118)短歌一首。
この一首の二字、印本なし。いま集中の例によりて加ふ。
138 石見之海《イハミノウミ》。津之浦乎無美《ツノウラヲナミ》。浦無跡《ウラナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。滷無等《カタナシト》。人社見良目《ヒトコソミラメ》。吉咲八師《ヨシヱヤシ》。浦者雖無《ウラハナケドモ》。縱惠夜思《ヨシヱヤシ》。滷者雖無《カタハナケドモ》。勇魚取《イサナトリ》。海邊乎指而《ウナヒヲサシテ》。柔田津乃《ニキタツノ》。荒礒之上爾《アリソノウヘニ》。蚊青生《カアヲナル》。玉藻息都藻《タマモオキツモ》。明來者《アケクレバ》。浪己曾來依《ナミコソキヨレ》。夕去者《ユフサレバ》。風己曾來依《カゼコソキヨレ》。浪之共《ナミノムタ》。彼依此依《カヨリカクヨル》。玉藻成《タマモナス》。靡吾寐之《ナヒキワカネシ》。敷妙之《シキタヘノ》。妹之手本乎《イモカタモトヲ》。露霜乃《ツユシモノ》。置而之來者《オキテシクレハ》。此道之《コノミチノ》。八十隈毎《ヤソクマコトニ》。萬段《ヨロツタヒ》。顧雖爲《カヘリミスレト》。彌遠爾《イヤトホニ》。里放來奴《サトサカリキヌ》。益高爾《イヤタカニ》。山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》。早敷屋師《ハシキヤシ》。吾嬬乃兒我《ワカツマノコカ》。夏草乃《ナツクサノ》。思志萎而《オモヒシナエテ》。將嘆《ナケクラム》。角里將見《ツヌノサトミム》。靡此山《ナヒケコノヤマ》。
津之浦乎《ツノウラヲ》。
眞淵の説に、津能乃浦囘乎《ツノヽウラワヲ》の、能と囘を落し、無美は、まぎれてこゝに入たる也。其外、誤りいと多し。依て、この歌はとらず云々とあり。さもあるべし。
(119)明來者《アケクレバ》。
本集六【十一丁】に、閲來者朝霧立《アケクレバアサキリタチ》、夕去者川津鳴奈利《ユフサレハカハツナクナリ》云々。十【十八丁に、明來者柘之左枝爾《アケクレハツミノサエタニ》、暮去《ユフサレハ》、小松之若未爾《コマツカウレニ》云々。十五【十一丁】に、由布佐禮婆安之敝爾佐和伎《ユフサレハアシヘニサワキ》、安氣久禮婆於伎爾奈都佐布《アケクレハオキニナツサフ》云々などありて、集中猶いと多し。皆、夜があけつゞくればにて、あけゆけばなどいふに同じ。
風己曾來依《カゼコソキヨレ》。
浪己曾來依《ナミコツキヲレ》といふは、聞えたれ、風こそきよれといふは聞えず。風は、ふくとこそいへ、來依《キヨル》とはいふべからず。こは、本歌に風社依米《カセコソヨラメ》とあるを、誤りしなるべし。
敷妙之《シキタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上にもいへるがごとく、しきたへは、しげき栲といふことにて、袖、袂、衣、床、まくらなどつゞくを、こゝは、語を隔てゝ、妹之手本といふ、袂へつゞけしなり。枕詞の、語を隔てて下へつゞく例は、冠辭考補遺にいふべし。
妹之手本乎《イモカタモトヲ》。
手本《タモト》は、借字にて、袂なり。
早敷屋師《ハシキヤシ》。
はしきやしの、しは、よしゑやしの、しと同じく、助字也。はしきは、愛《ハシキ》にて、愛する意なれば、吾嬬の兒とはつゞけし也。屋《ヤ》は、よに通ひて、そへたる語也。猶くはしくは、下【攷證二下十二丁】にいふべし。
(120)吾嬬乃兒我《ワカツマノコカ》。
わがつまのこがの、兒は、上に、靡寐之兒乎とある、兒と同じく、親しみ愛していへるなり。この事は上にいへり。
角里將見《ツヌノサトミム》。
角里《《ツヌノサト》は、角浦《ツヌノウラ》とある同所歟。高角山《タカツヌヤマ》といふも、角といふからは、こゝによしありて聞ゆ。角浦、高角山など、同所ならば、まへの歌のおもむきにては、國府より、妻に別れて、上る道のほどと聞ゆるを、こゝに、かくよめるは、角里に妻を置たりと見ゆ。いづれを是とせん、とは思へど、おそらく、この歌の方誤りなるべし。
反歌
139 石見之海《イハミノミ》。打歌山乃《ウツタノヤマノ》。木際從《コノマヨリ》。吾振袖乎《ワカフルソテヲ》。妹將見香《イモミツラムカ》。
打歌山乃《ウツタノヤマノ》。
考云、この打歌は、假字にて、次に、角か、津乃などの字落し事、上の反歌もてしるべし。今本に、うつたの山と訓しは、人わらへ也云々といはれつる、さもあるべし。
右歌體雖v同。句々相替三。因v此重載。
歌體。
元暦本、體を躰に作れり。いづれにてもあるべし。
(121)柿本朝臣人磨妻。依羅娘子。與2人麿1相別歌。一首。
依羅《ヨサミノ》娘子。
父祖不v可v考。こは、人磨の後妻なりし事、上にあげたる、考別記の説のごとし。この娘子は、人磨の後妻にて、人磨、石見國の任に赴ても、この娘子は、京に留り居しが、人磨さるべき事ありて、石見より、京へ仮に上りて、又石見へ下らんとせられし時、この娘子の、京にとゞまりてよめる歌也。さて、依羅《ヨサミ》は、もと攝津、河内などの地名なりしが、やがて氏とはなれる也。この地名の事は、下【攷證七下】にいふべし。依羅の氏は、新撰姓氏勒録卷八に、依羅宿禰、日下部宿禰同v祖、彦坐命之後也云々。卷十一に依羅連、饒速日命十二世孫、懷大連之後也云々。卷十四に、神饒速日命十世孫伊己布都大連之後也云々。卷廿八に、出v自2百濟國人素禰志夜麻美乃君1也云々と見えたり。猶、紀記の中に、この氏の人多く見えたれど、あぐるにいとまなし。この娘子ははいづれの末の人ならん。可v考。
與2人麿1相別。
考云、こは右の、假に上りて、又石見へ下る時、京に置たる妻のよめるなるべし。かの、かりに上る時、石見の妹がよめる歌ならんと思ふ人あるべけれど、さいひては、前後かなはぬ事あり云々。
140 勿念跡《オモフナト》。君者雖言《キミハイヘトモ》。相時《アハムトキ》。何時跡知而加《イツトシリテカ》。吾不戀有牟《ワカコヒサラム》。
(122)勿念跡《オモフナト》。
今別るゝ、そのわかれを悲しび思ふなと也。
君者雖言《キミハイヘドモ》。
舊訓、君はいふともとあれど、いへどもと訓むべし。雖の字を、書るにてしるべし。一首の意明らけし。
吾不戀有牟《ワカコヒサラム》。
牟の字、印本乎に誤れり。今意改。考云、拾遺歌集に、この歌を人まろとて、のせしは、あまりしきひがごと也。人まろの調は、他にまがふ事なきを、いかで分ざりけん。この端詞見ざりし也云々。
挽歌。
挽歌は晋書樂志に、挽歌、出2于漢武帝役人之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送終之禮1云々。崔豹古今注に、薤露蒿里、並喪歌也、出2田横門人1、横自殺、門人傷v之、爲2之悲歌1、言人命如3薤上之露易2※[日+希]滅1也、亦謂人死魂魄歸2乎蒿里1、故有2二章1、至2孝武時1、李延年乃分爲2二曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽柩者歌1v之、世呼爲2挽歌11云々とありて、古今注にいへるがごとく、もとは喪歌とも、悲歌ともいひしかば、此方の哀傷の歌に當れり。さてその歌の言の、あはれにはかなく悲しければ、柩《ヒツギ》を挽《ヒク》とき、うたはせしより、挽歌といへるなれば、その字を借用ひて、哀傷の歌をばのせし也。さて、左の山上臣憶良追和歌の左注に、右件歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、唯擬2歌意1、故以載2于挽歌類1焉云々とあるは、本《モト》のことをばしらずして、挽歌は柩を挽ときうたふ(123)歌ぞとのみ、心得たる人のしわざにて、とるにたらず。また古事記中卷に、是四歌者、皆歌2其御葬1也、故至v今、其歌者、歌2天皇之大御葬1也云々とあるにても、古くより、御葬に歌をうたひしをしるべし。
後崗本宮御宇天皇代。【天豐財重日足姫天皇。】
天皇、御謚を齊明と申す。皇極天皇重祚ましましゝ也。上【攷證一上十六渟】にくはしくしるせり。
有間皇子。自傷結2松枝1御歌。二首。
有間皇子。
書紀孝徳紀に、妃阿部倉梯麿大臣女、曰2小足媛1、生2有間皇子1云々。齊明紀に、四年十一月、庚辰朔壬午、留守官蘇我赤見臣、語2有間皇子1曰、天皇所v治政事、有2三失1矣、大起2倉庫1、積2聚民財1、一也、長穿2渠水1、損2費公糧1、二也、於v舟載v石、運積爲v丘、三也、有間皇子、乃知2赤兄之善1v己、而欣然報答之、曰、吾年始可v用v兵時矣、甲申、有間皇子、向2赤兄家1、登v樓而謀、夾腰自斷、於v是、知2相之不詳《(マヽ)》1、倶盟而止、皇子歸而宿之、是夜半、赤兄遣2物部朴井連鮪1、率2造宮丁1、圍2有間皇子於市經家1、便遣2驛使1奏2天皇所1、戊子、捉3有間皇子與2守君大石坂部連藥、鹽屋連※[魚+制]魚1、送2紀温湯1、舎人新田部米麻呂從焉、於v是、皇太子親問2有間皇子1曰、何故謀反、答曰天與2赤兄1知、吾全不v解、庚寅、遣2丹比小澤連國襲1、絞2有間皇子於藤(124)白坂1云々とあるがごとく、皇子の謀反あらはれ給ひて、天皇の紀温湯におはします御もとに、遣はされける道な 磐白にて、自傷給ひて、松枝を結び給ひし也。
自傷。
史記蘇秦傳に、出游數歳、大困而歸、兄弟嫂妹妻妾竊皆笑之、蘇秦聞之、而所自傷、乃閉v室不v出、出2其書1※[行人偏+扁]觀之云々とある、自傷と同じく、かなしむ意也。考に、かなしみてとよまれしもあたれり。
結2松枝1。
代匠記に、十一月十日に、磐代の濱をすぎ給ふとて、わが運命いまだ盡ずして、事の始終を申ひらき、それをきこしめしわけて、たすけたまはゞ、又かへりて、この松を見んと、神のたむけに、引むすびて、つゝがなからん事を、いのりて、よませ給へるなるべし云々といへるは、たがへり。松が枝を結び給ふは、御旅路なれば、道のしをりし給ひ、御よはひをちぎらせ給ふ心にて、何とぞ申ひらきて、かへりきて今一度この結びし松を見る事もがなとおぼして、結び給ふ也。すべて、しらぬ旅路などにては、木にまれ草にまれ、折かけ、又は結びなどして、道のしをりとする事、中古までのならはしにて、韻會栞字注に、謂d隨v所v行2林中1、斫2其枝1爲c道記識u也云々とあるも、全くこゝのしをりとこそ聞ゆれ。さて本集、一【十一丁】に、君之齒母《キミカヨモ》 吾代毛所知武《ワカヨモシラム》 磐代乃岡之草根乎《イハシロノヲカノクサネヲ》、去來結手名《イサムスヒテナ》云々。六【四十一丁】に、靈剋壽者不知《タマキハルイノチハシラス》、松之枝結情者《マツカエヲムスフココロハ》、長等曾念《ナカクトソオモフ》云々。七【十五丁】に、近江之海湖者八十《アフミノミミナトハヤソチ》、何爾加君之舟泊草結兼《イツクニカキミカフネハテクサムスヒケン》云々。十二【廿佐丁】に、妹門去過不得而草結《イモカヽトユキスキカネテクサムスフ》、風吹解勿《カセフキトクナ》、又將顧《マタカヘリミム》云々。廿【六十丁】に、夜知久佐能波奈波宇都呂布《ヤチクサノハナハウツロフ》、等伎波奈流麻都能左要太乎《トキハナルマツノサエタヲ》、和禮波牟須婆奈《ワレハムスバナ》云々などあるも、よはひをちぎり、またしるしにとて、木草をむす(125)べる也。これらを見ても思ふべし。
御歌。
印本、御の字を脱せり。今集中の例によりて加ふ。
141 磐白乃《イハシロノ》。濱松之枝乎《ハママツカエヲ》。引結《ヒキムスヒ》。眞幸有者《マサキクアラハ》。亦還見武《マタカヘリミム》。
磐白乃《イハシロノ》。
紀伊國日高郡也。上【攷證一上廿一丁】に出たり。
眞幸有者《マサキクアラハ》。
眞《マ》さきくの、眞《マ》は、添たる字にて、國のまほら、眞《マ》かなし、眞《マ》さやかなどいふ類の眞《マ》也。この類、猶多し。幸《サキク》は、字のごとく、福《サキハヒ》ありて、つゝがなくの意にて、こゝは、かの謀反の事を申ひらきて、つゝがなく幸ひにかへり來たらば、今この結びし松を、二たびかへり見んと也。さて、まさきくは、本集三【廿二丁】に、吾命之眞幸有者《ワカイノチノマサキクアラハ》、亦毛將見《マタモミム》云々。又【五十一丁】に、
、平間幸座與《タヒラケクマサキクマセト》、天地乃神祇乞祷《アメツチノカミニコヒノミ》云々。十三【十丁】に、言幸眞福座跡《コトサキクマサキクマセト》、恙無福座者《ツヽミナクサキクイマセハ》云々などありて、猶いと多し。
142 家有者《イヘニアレハ》。笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》。草枕《クサマクラ》。旅爾之有者《タヒニシアレハ》。椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
笥爾盛飯乎《ケニモルイヒヲ》。
笥は、和名抄木器類に、禮記注云笥【思史反和名介】盛v食器也云々とありて、玉篇に、笥盛v飯方器也云々、また書紀武烈紀に、※[木+(施の旁の也が巴)]摩該※[人偏+爾]播伊比佐倍母理《タマケニハイヒサヘモリ》云々とあ(126)る、たまけも、玉笥也。延喜四時祭式に、供御飯笥一合云々。齋宮式に、飯笥、藺笥各五合云々とあるにても、笥は飯を盛器なるをしるべし。
椎之葉爾盛《シヒノハニモル》。
椎は、新撰字鏡に、奈良乃木とよめり。されど、書紀神武紀に、椎根津彦《シヒネツヒコ》【椎此云辭※[田+比]】とありて、和名抄菓類に、本草云椎子【直追反和名之比】云々とあれば、しひとよむべし。考云、今も、檜の、葉を折敷て、強飯を盛事あるがごとく、旅の行方にては、そこに有あふ椎の小枝を打敷て、盛つらん。椎は、葉のこまかに、しごく平らかなれば、かりそめに物を盛べきもの也。さてあるがまゝに、よみ給へれば、今唱ふるにすら、思ひはかられてあはれ也云々。
長忌寸|意吉《オキ》麿。見2結松1哀咽歌。二首。
長忌寸|意吉《オキ》麿。
父祖官位、不v可v考。上【攷證一下四十四丁】に出たり。考云、意吉麿は、文武天皇の御時の人にて、いと後の歌なれど、事の次で、こゝには載し也。下の、人まろが死時の歌になぞらへてよめる、丹治眞人が歌を、其次に載たる類也 眞人は、人まろと同時なるやしらねど、擬歌などをならべ載たる例にとる也云々といはれつるがごとし。
哀咽。
哀は、かなしむ意、咽は、梁武帝七夕詩に怨咽雙念斷、悽悼兩情懸云々。陸雲書に、重惟痛恨言増哀咽云々。※[まだれ/臾]信麥積※[山+涯の旁]佛龕銘に、水聲幽咽、山勢※[山+空]※[山+囘]云々などあると同じくむせぶ意にて、哀《カナシミ》にたへずして、むせぶをいふ也。考に、この二字をかなしみてとよまれしも當れり。
(127)143 磐代乃《イハシロノ》。岸之松枝《キシノマツカエ》。將結《ムスヒケム》。人者反而《ヒトハカヘリテ》。復將見鴨《マタミケムカモ》。
磐代乃《イハシロノ》。岸之松枝《キシノマツカエ》。
まへの御歌には、濱松之枝といひ、こゝには岸といひ、次のには、野中に立るといへり。この松は、野につゞきたる濱岸にありしなるべし。
復將見鴨《マタミケムカモ》。
略解に、皇子の御魂の、結枝を、又見給ひけんかといふ也云々といへるは、たがへり。又みけんかもの、かもは、疑ひの、かの、下へ、もを添たるにて、本集此卷【十九丁】に、吾袂振乎妹見監鴨《ワカソテフルヲイモミケムカモ》云々。八【五十五丁】に、君之許遣者與曾倍弖牟可聞《キミガリヤラハヨソヘテムカモ》云々。十五【二十二丁】に、安伎波疑須々伎知里爾家武可聞《アキハキスヽキチリニケムカモ》云々などある、かもと同じく、こゝの意は、磐代の岸の松が枝を、結びけん君は、又かへりきて、二たびこの結びけん松を見けんか、いかにぞ。さる事もなく、やみ給ひしぞあはれなると、意をふくめたる也。
144 磐代乃《イハシロノ》。野中爾立有《ノナカニタテル》。結松《ムスヒマツ》。情毛不解《コヽロモトケスズ》。古所念《イニシヘオモホユ・ムカシオモホヘ》。
情毛不解《ココロモトケズ》。
こは、本集九【二十二丁】に、家如解而曾遊《イヘノコトトケテソアソフ》云々。十七【十七丁】に、餘呂豆代爾許己呂波刀氣底《ヨロツヨニコヽロハトケテ》、和我世古我都美之乎見都追《ワカセコカツミシヲミツツ》、志乃備加禰都母《シノヒカネツモ》云々。後撰集春下、兼輔朝臣、一夜のみねてしかへらば、ふちの花、心とけたるいろみせんやは云々。戀一、よみ人しらず、なきたむるたもとこほれるけさ見れば、心とけても君を思はず云々などあると同じくて、こゝの意(128)は、かの結び松を見れば、いにしへ思ひ出られて、かなしさに心むすぼゝれて、そゞろにものかなしと也。考云、この松、結ばれながら、大木となりて、此時までもありけん。
古所念《イニシヘオモホユ・ムカシオモホヘ》。
舊訓、むかしおもほへとあれど、考に、いにしへおもほゆとよまれしによるべし。さて、印本、こゝに未詳の二字あれど、かつて用なき事にて、こゝに亂れ入たる事、明らかなれば、今ははぶけり。
山上臣憶良。追和歌。一首。
追和歌。
本集四【十八丁】に、後人追同歌云々。五【十九丁】に、後追和梅歌云々。【廿一丁】後人追和之詩云云などありて、集中猶多し。皆、後の人の、追て添たる歌也。假字玉篇に、和をソヘルとよめり。この意也。答ふる意にあらず。
145 鳥翔《カケル・トリハ》成《ナス》。有我欲比管《アリカヨヒツヽ》。見良目杼母《ミラメドモ》。人社不知《ヒトコソシラネ》。松者知良武《マツハシルラム》。
鳥翔《カケル・トリハ》成《ナス》。
舊訓、とりはなすとあるは、いふにもたらぬ誤りにて、考に、つばさなすとよまれしもいかゞ。すべて、成《ナス》といふ語は、書紀にも本集にも、如の字をもよみて、如《ゴトク》の意なれば、つばさのごとく、ありがよひつゝとはつゞかず。つばさあるごとく、ありがよひつゝといはでは、意聞えず。さては、文字あまれば、さはよむべくもあらず。されば、案るに、かけ(129)るなすとよむべし。こは、有間皇子の御魂の、天がけりて、通《カヨ》ひつゝ見そなはす事をいへる所にて、集中、また祝詞にもあまがけりといふことありて、古事記中卷に、念自虎翔行《オモフヨリソラカケリユカント》云々。本集十七【四十五丁】に、久母我久理可氣理伊爾伎等《クモカクリカケリイニキト》云々と見えたり。さて成《ナス》といふ語は、すべて體語よりうくる語なれば、かけるなすとはよめり。
有我欲比管《アリカヨヒツヽ》。
古事記上卷に、佐用婆比爾阿理多々斯《サヨハヒニアリタヽシ》、用婆比爾阿理加用姿勢《ヨハヒニアリカヨハセ》云々。本集三
オホキミノトホノミカトヽアリカヨフシマトヲミレバカミヨシオモホユ
【廿四丁】に、大王之遠乃朝庭跡《》、蟻通島門乎見者《》、神代之所念《》云々。また【五十九丁】皇子之命乃安里我欲比《ミコノミコトノアリカヨヒ》云々。六【三十二丁】自神代芳野宮爾蟻通《カミヨヨリヨシヌノミヤニアリカヨヒ》云々などありて、集中猶多し。ありがよひのありは、集中、ありたゝし、ありまちなどいへる、有にて、こゝは、皇子の御魂の、今もありて、かよひつゝといへるなり。
見良目杼母《ミラメドモ》。
考云、皇子のみたまは、飛鳥の如く、天かけりて、見給ふらめど、と云也。紀【履中】に、有v如2風之聲1、呼2於大虚1、曰、鳥往來羽田之汝妹《トリカヨフハタノナニモハ》、羽狹丹葬立社《ハサニハフリタチイヌ》ともあり、云々といはれつるがごとし。さて、一首の意は、皇子の御たまの、天がけりつゝ見給ふらめども、人は凡夫なれば、知ざれども、かの結び松は、よくしりてあらんと也。
右件歌等。雖v不2挽v柩之時所1v作。唯擬2歌意1故。以載2于挽歌類1焉。
右の左注の事は、上挽歌の所にいへるがことく、いと誤りなり。
(130)大寶元年辛丑。秋九月。幸2于紀伊國1時。見2結松1歌。一首。
秋九月。
この三字、印本なし。集中の例によりて、續《(マヽ)》日本紀につ《(マヽ)》きにおぎなふ。
幸2于紀伊國1時。
續日本紀云、大寶元年、九月丁亥、天皇幸2紀伊國1、十月丁未車駕至2武漏温泉1云々とある度なり。さて、この端辭、時の字の下、作者の姓名ありしを脱せしか。又は、もとより作者不v知歌にてもあるべし。元暦本、こゝに小字にて柿本朝臣人麿歌集中出也の十一字あり。集中の例、左注にあぐべきなれば、こゝにはとらず。
146 後將見跡《ノチミムト》。君之結有《キミカムスヘル》。磐代乃《イハシロノ》。子松之宇禮乎《コマツカウレヲ》。又將見香聞《マタミケンカモ》。
君之結有《キミカムスヘル》。
印本、君の字を、若の字に誤れり。今意改。
子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》。
子は、借字にて、小松之|未《ウレ》なり。本集此卷【四十三丁】に、姫島之子松之末爾《ヒメシマノコマツカウレニ》云々。十【五丁】に、吾門之柳乃宇禮爾《ワカヽトノヤナキノウレニ》云々などありて、集中に猶いと多し。らとれと、音通ひて、小松が未《ウアラ》なり。字のごとく、すゑをいへり。さてこの歌は、皇子の御歌に、まさきくあらば、又かへり見んとのたまへるをうけて、後見ん爲ぞとて、かの皇子が結び給ひけん松を、又かへりきて、見給ひけんか、いかにぞ、うたがへる也。又、この歌を、考には、右の意寸《オキ》麿の磐代の岸の松が枝、結びけん人はかへりて又見けんかもといへる歌を唱へ誤れるを、後人、みだ(131)りに書加へしもの也とて、除かれつれど、本より別の歌とこそきこゆれ。
近江大津宮御宇天皇代。 天命開別《アマミコトヒラカスワケノ》天皇。
天皇、御謚を天智と申す。上【攷證一上廿七丁】に出たり。
天皇。聖躬不豫之時。太后奉御歌。一首。
天皇。
天智天皇を申す。
聖躬。
後漢書斑彪傳下注に、聖躬謂2天子1也云々と見えたり。すなはち、こゝは、天皇の御大身を申す也。躬は、説文に、※[身+呂]或从v弓、身也云々と見えたり。
不豫。
書紀天武紀に、體不豫を、みやまひとよめり。爾雅釋詁に、豫安也、樂也云々とありて、不豫は不安の意にて、天皇の御疾あるをいへり。
太后。
太后は、天智帝の皇后なり。本紀に、七年二月、丙辰朔戊寅、立2古人大兄皇女倭姫王1、爲2皇后1云々とありて、皇太后となり給ひし事は、紀にもらされしかど、神武帝の皇后、綏靖帝の皇太后と尊號し給ひしより、代々前の皇后をば、皇太后と申す例なれば、天智帝崩御の後皇太后の尊號ありし事明らけし。漢書外戚傳に、漢興因2秦之稱號1帝母稱2皇太后1祖母稱2太皇(132)太后1云々と見えたり。さて、考に、いまだ天皇崩まさぬ程の御歌なれば、今本、こゝを太后と書しは誤云々とて、皇后と直されしかど、すべて集中の例、官位にまれ、後の事を前《(マヽ)》およぼして書る例なれば、こゝも太后とありて論なし。
147 天原《アマノハラ》。振放見者《フリサケミレバ》。大王乃《オホキミノ》。御壽者長久《ミイノチハナカク》。天足有《アマタラシタリ》。
天原《アマノハラ》。
天のはらは、本集三【廿二丁】に、天原振離見者《アマノハラフリサケミレバ》云々とありて、集中猶いと多くて、すなはち天をいへる也。そを、あまのはらといふは、國原、海原 野原、河原などいふ、原と同じく、はてしなく廣きをいへる也。
振放見者《フリサケミレバ》。
集中いと多き詞にも《(マヽ)》、今も、ふりむく、ふりかへるなどいふ、振と同じく、ふりあふぎ見るないへる也。放《サケ》は、見さけ、問さけなどいふ、さけと同じく、遣《ヤル》意にて、見さけは、見やる意也。古事記上卷に、望の字を、眞淵が、みさけてとよまれつるも、あたれり。さて、このことは、止【攷證一上三十二丁】に、見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》とある所と、考へ合すべし。
御壽者長久《ミイノチハナガク・オホミイノチハ》。天足有《アマタラシタリ・ナガクテタレリ》。
考に紀【推古】に、吾大きみの隱ます天の八十蔭、いでたゝすみそらを見れば、萬代にかくしもがも云々てふ歌を、むかへ思ふに、天を御室《ミヤ》とします、天つ御孫命におはせば、御命も、長《トコシナ》へに、天足しなん。今御病ありとも、事あらじと、天を抑て、賀し給ふ也云々といはれつるがごとく、古事記上卷に、天神御子之|命《ミイノチ》、雖2雪零風(133)吹、怛《(マヽ)》如v石而常堅不v動坐云々ともありて、天皇はすなはち天つ神の御孫なれば、天原ふりさけ見ればとも、あまたらしたりとも、賀しのたまへる也。さて、天足《アマタラシ》とは、本集十三【十七丁】に、夢谷相跡所見社《イメニタニアフトミエコソ》、天之足夜于《アメノタリヨニ》云々ともありて、こゝは、天皇は、天神の御孫にましませば、天神のゆるし給へる御よはひにて、足みちたりといふ意にて、祝詞に、足幣帛、足日、足國、足御世、などいふ、足とおなじ。(頭書、本集三【五十五丁】に留不得壽爾之有者《トヽメエヌイノチニシアレハ》云々。者の字は助字なり。よむべからず。)
一書曰。近江天皇。聖體不豫。御病急時。太后奉獻御歌。一首。
この處、錯亂ありて、いとみだりがはし。左の、青旗乃木旗能上乎《アヲハタノコハタノウヘヲ》云々の歌は、天皇崩御の後の歌なれば、右の一書曰云々の端詞の御歌にあらず。されば、思ふに、こゝに、一書の、太后の御歌一首と、次の青旗乃《アヲハタノ》云々の歌の端詞のありしを脱せしなるべし。故に圍をいれてそのわかちを辨ず。
※[長い長方形の□あり]
右にいへるごとく、こゝに御歌一首ありしを脱せしなるべし。故に圍をいれたり。
※[長い長方形の□あり]
(134)右にいへるごとく、こゝに、左の青旗乃《アヲハタノ》云々の歌の、端詞ありしを脱せしなるべし。故に、圍をいれたり。考には、天皇崩時太后御作歌と、端詞を補はれしかど、わたくしに加へん事をはゞかりて、しばらく、本のまゝにておきつ。異本の出んをまつのみ。
148 青旗乃《アヲハタノ》。木旗能上乎《コハタノウヘヲ》。賀欲布跡羽《カヨフトハ》。目爾者雖視《メニハミレトモ》。直爾不相香裳《タヽニアハヌカモ》。
青旗乃《アヲハタノ》。
青旗は、考に白旗をいふとありて、又下にあげたるごとく、これかれを合せて、白旗なりととかれしかど、青馬、青雲などの、白馬白雲ならで、實に青き馬、青き雲なるにむかへ見れば、白旗にはあらで、實に青き旗なるべし。孝徳紀の、葬制に、帷帳などには白布を用るよし見えたれど、旗の事はなきを、これもて、旗をも白旗とは定めがたく、喪葬令に幡幾竿とのみありて、色をしるされずとて、必らず白幡とは定めがたきをや。まして、これらによりて、常陸風土記に、現に赤旗青幡とあるを、誤り也とは、いかでか定めん。そは、仙覺抄に引る、常陸風土記に、葬具儀、赤旗青幡、交雜飄※[風+場の旁]、雲飛虹張、瑩v野耀v路、時人謂之幡垂國云々とあるうへに、この集にも、青旗とあるを、いかでかすつべき。これらにても、下にあげたる、考の説の、誤りなるをしるべし。さて、枕詞に、あをはたの云々とあるも、冠辭考の説あやまれり。この事は、下【攷證四上】にいふべし。
木旗能上乎《コハタノウヘヲ》。
考に、今本は、小を木に誤りつ。同じことに、をの發語をおきて、重ねいふ古歌の文のうるはしき也。さがみ嶺《ネ》の小嶺《ヲミネ》、玉ざゝの小篠《ヲザヽ》、などの類、いと(135)多し云々とて、木《コ》を小《ヲ》に直されつ。この説一わたりはさる事ながら、よく/\考ふれば、誤り也。さがみ嶺《ネ》の小嶺《ヲミネ》、玉ざさの小篠《ヲザヽ》などの、小《ヲ》は發語にはあらで、小《チヒサ》き意にて、玉だれの小簾《ヲス》、小梶《ヲカヂ》小劔《ヲダチ》などの類也。また小菅《コスゲ》、小松《コマツ》などもいひて、小の字を、をとも、ことも、訓れど、皆|小《チヒサ》き意なれば、こゝの木旗《コハタ》の、木《コ》は、小《コ》の借字にて、小《チヒサ》き旗也。そは本集十六【九丁】に、死者木苑《シナハコソ》云々、また冬隱《フユコモリ》といふに、冬木成《フユコモリ》と多く書るにても、木は假字なるをしるべし。
賀欲布跡羽《カヨフトハ》。
考云、大殯宮に、立たる白旗どもの上に、今もおはすがごと、御面影は見へ《(マヽ)》させ給へど、正面《マサメ》に相見奉る事なしと歎給へり。この青旗《アヲハタ》を、殯宮の白旗ぞといふよしは、孝徳天皇紀の葬制に、王以下小智以上、帷帳等に白布を用ひよとあり。卷三挽歌に、大殿矣振放見者、白細布飾奉而《シロタヘニカサリマツリテ》、内日刺宮舍人者、雪穗麻衣服者《タヘノホノアサキヌキレハ》。また此卷にも、皇子の御門乎、神宮爾|装束奉而《カサリマツリテ》云々。かくて、喪葬命の錫紵は、細布なれば、大殯のよそひも、皆白布なるをしる。さて、旗は、右の書等に見えねど、喪葬令の、太政大臣旗二百竿とあるに、こゝの青旗云々をむかへて、御葬また大殯宮の白旗多きを知るべし。且成務天皇紀、神功皇后紀に、降人は素幡《シラハタ》を立て、參ることあるも、死につくよしなれば、これをも思へ。或抄に、常陸風土紀に、葬に五色の旗を立し事あるを引たれど、皇朝の上代にあるまじき事、まして孝徳の制より、奈良朝まで、王臣の葬に帷衣ともに白布を用ひ、白旗なる據こゝにしるせるごとくなるを、いかで色々用ひんや。令 葬旗に、集解にも色をいはぬは、白き故也。みだりにせば、違令の罪ぞ。風土記の浮説にまどはざれ云々。この説に、青旗を、白旗ぞといはれつるは、誤りなること、まへにい(136)へるがごとし。また喪葬令の、錫紵を白布也といはれしも誤り也。義解に、錫紵者細布、即用2淺黒染1也云々とあるを見られずや、いかに。また孝徳紀の葬制も、奢を禁じ儉約を專らとせよとの詔にて、王臣以下の事なれば、天皇の大殯には、などかいろ/\の旗をも用ひざらん。しかも考に引れたる令、また常陸風土記などの文の、本書とことなるは、いかに。一首の意は、考にとかれつるがごとし。
天皇崩之時。太后御作歌。一首。
天皇崩。
本紀云、十年九月、天皇寢疾不豫、十二月、癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉、殯2于新宮1云々と見えたり。印本、崩の下、御の字あれど、集中の例により略けり。また、太后の上に、倭の字あれど、まへにも太后とのみありて、目録に倭の字なきによりて略けり。
149 人者縱《ヒトハヨシ》。念息登母《オモヒヤムトモ》。玉※[草冠/縵]《タマカツラ》。影爾所見乍《カケニミエツツ》。不所忘鴨《ワスラエヌカモ》。
人者縱《ヒトハヨシ》。
縱の字、舊訓いざとあれど、代匠記に、よしとよみしにしたがふへし。そは、本集此卷【十八丁】に、縱畫屋師《ヨシヱヤシ》云々。六【三十五丁】に、不知友縱《シラズトモヨシ》云々ありて、延喜太政官式に、仰云縱【讀曰與志】云々ともあるを見べし。さて、このよしは、よしやといふ、よしと同じくて、集中猶多し。古今集、秋上、よみ人しらず、萩の露玉にぬかんととれはけぬ、よし見ん人は枝ながら見よ(137)云々とあるもおなじ。
玉※[草冠/縵]《タマカヅラ》。
枕詞なり。玉かづらの、玉は、例の物をほめいふ言、※[草冠/縵]《カヅラ》は日蔭※[草冠/縵]《ヒカケカヅラ》の事にて、玉かづらかけとはつゞけし也。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。さて、この玉※[草冠/縵]の、玉は、山の誤り也と、宣長が古事記傳卷二十五、玉勝間卷十三にいはれつるは、上【攷證三上卅一丁】玉松之枝《タママツカエ》の所にあげたるがごとく、いかにもさる事ながら、貫之集に、かけて思ふ人もなけれど夕さればおもかげたえぬ玉かづらかな云々とあるは、全く此歌を本歌にとりて、よまれつるなれば、誤りながらいとふるければ、今さらあらたむべくもおぼえす。よりて、しばらく本のまゝにておきつ。
不《ワス》所《ラ・ラレ》忘鴨《エヌカモ》。
舊訓、わすられぬかもとあれ、わすらえぬかもとよむべし。かゝるは、れをえにかよはせて、えといふぞ、古言なる。そは、本集五【十丁】に、可久由既婆比等爾伊等波延《カクユケハヒトニイトハエ》、可久由既婆比等爾邇久麻延《カクユケハヒトニニクマエ》云々。また【廿丁】美流流爾之良延奴《ミルニシラエヌ》云々。また【廿六丁】美夜故能提夫利和周良延爾家利《ミヤコノテフリワスラエニケリ》云々。十三【二十丁】に、暫文吾者忘枝沼鴫《シハシモワレハワスラエヌカモ》云々などありて、猶多し。これらを見ても思ふべし。さて一首の意は、天皇崩御のなげきを、人はよしやおもひやむとも、われたゞ天皇のましましゝ御面かげのみ、見ゆるやうにて、わすられずとなり。
天皇崩時。婦人作歌。一首。 姓氏未詳
婦人。
後宮職員令、義解に、宮人謂2婦人仕官者1之惣號也云々とあれば、こゝに婦人とあるは宮人をいへる也。父祖不v可v考。さて考には、天皇崩時の四字をはぶかれたり。これも(138)さることながら、しばらく本のまゝとす。
姓氏未詳。
この四字、印本大字とせり。今集中の例によりて小字とす。
150 空蝉師《ウツセミシ》。神爾不勝者《カミニタヘネハ》。離居而《ハナレヰテ》。朝嘆君《アサナケクキミ》。吾戀君《ワカコフルキミ》。玉有者《タマナラハ》。手爾卷持而《テニマキモチテ》。衣有者《キヌナラハ》。脱時毛《ヌグトキモ》無《ナク・ナミ》。吾《ワカ》戀《コヒム・コフル》。君曾伎賊乃夜《キミソキソノヨ》。夢所見鶴《イメニミエツル》
空蝉師《ウツセミシ》。
こは、借字にて、現《ウツ》し身也。うつせみしの、しは、助字也。さてこゝは、枕詞ならねど、冠辭考、うつせみの條にくはし。
神爾不勝者《カミニタヘネハ》。
考云、天つ神となりて、上り給ふには、わがうつゝにある身の、したがひ奉る事かなはで、離をると也云々、といはれつるがごとし。たへねばは、本集四【五十二丁】に、戀二不勝而《コヒニタヘステ》云々。十【五十五丁】に、不堪情尚戀二家里《タヘズコヽロニナホコヒニケリ》云々。十一【十一丁】に、人不顔面公無勝《ヒトニシヌヘハキミニタヘナク》云云などあると同じく、不勝の字をよめるは、かたれざるよしの義訓にて、意もかたれねばといふ也。
朝嘆君《アサナケクキミ》。
考云、下の、昨夜《キソノヨ》夢に見えつるといふを思ふに、そのつとめてよめる故に、朝といへるならん云々といはれつるがごとし。又本集三【六十丁】に、朝庭出立偲夕爾波入居(139)嘆會《アシタニハイデタチシヌヒユフベニハイリヰナゲカヒ》云々。十三【十五丁】に、朝庭丹出居而歎《アサニハニイテヰテナケキ》云々なども見えたり。
放《サカリ・ハナレ》居而《ヰテ》。
舊訓、はなれゐてとよめれど、放は集中さかりとのみよめれば、こゝもさかりゐてとよむべし。
玉有者《タマナラハ》。手爾卷持而《テニマキモチテ》。
本集三【四十九丁】に、人言之繁比日《ヒトコトノシケキコノコロ》、玉有者手爾卷以而《タマナラハテニマキモチテ》、不戀有益雄《コヒスアラマシヲ》云々。四【五十丁】に、玉有者手二母將卷乎《タマナラハテニモマカムヲ》、欝瞻乃世人有者《ウツセミノヨノヒトナレハ》、手二卷難石《テニマキカタシ》云々。十七【三十五丁】に、我加勢故波多麻爾母我毛奈《ワカセコハタマニモカモナ》、手爾麻伎底見都追由可牟乎《テニマキテミツツユカムヲ》、於吉底伊加婆乎思《オキテイカハヲシ》云々とあると、同じく、吾戀る君の、もし玉にてましまさば、手にまき持てはなたざらましものをと也。さて、古しへの風俗、手足頸などに、玉を卷事、まゝ見えたり。こはたゞ、服飾のみの事なるべし。そは、書紀神代紀下、一書に、手玉玲瓏織〓之少女《タダマモユラニハタオルヲトメ》云々。本集三【四十七丁】に、泊瀬越女我手二纏在玉者亂而《ハツセヲトメガテニマケルタマハミダレテ》云々。五【九丁】に、可羅多麻乎多母等爾麻可志《カラタマヲタモトニマカシ》云々。七【廿九丁】に、海神手纏持在玉故《ワタツミノテニマキモタルタマユヱニ》云々。また【卅一丁】に照左豆我手爾纏古須玉毛欲得《テルサツカテニマキフルスタマモガモ》云々。十【卅丁】に、足玉母手珠毛由良爾《アシタマモタタマモユラニ》云々。十五【十三丁】に、和多都美納多麻伎納多麻乎《ワタツミノタマキノタマヲ》云々。延喜大神宮式に、頸玉手玉足玉緒云々などありて、又古事記上卷に、其御頸珠之玉緒《ソノミクヒタマノタマノヲ》母由良爾取由良迦志而云々。また淤登多那婆多能《オトタナハタノ》、宇那賀世流多麻能美須麻流《ウナカセルタマノミスマル》云々。書紀神代紀上、一書に、素戔嗚尊以2其|頸所嬰五百箇御統之瓊《クヒニウナケルイホツミスマルノタマ》云々。安閑紀に倫2取物部大連尾輿|瓔珞《クヒタマ》献2春日皇后1云々。本集十六【廿七丁】に、吾宇奈雅流珠乃七條《ワカウナケルタマノナヽツヲ》云々などあるは、頸《クヒ》玉なり。さて、この頸玉手玉足玉などの制は、いまはしりがたけれど、多く緒をいへるを見れば、玉をいくつも緒につらぬきて、まとひしものとおぼし。漢土に、環といふものあれど、 (140)そは一つの玉の中を、雕ぬきて、丸くなしたるものにて、この國なるとは別なり。頭書、四【四十三丁】眞玉付彼此兼手云々。こは枕詞ながら玉付る緒とつゞけたり。)
衣有者《キヌナラハ》。脱時毛《ヌクトキモ》無《ナク・ナミ》。
本集十【五十二丁】に、吾妹子者衣丹有南《ワキモコハキヌニアラナム》、秋風之寒比來下著益乎《アキカセノサムキコノコロシタニキマシヲ》云々。十二【十二丁】に、人言繋時《ヒトコトノシゲキトキニハ》、吾妹衣有裏服矣《ワキモコカコロモナリセハシタニキマシヲ》云々。また【十四丁】如此耳在家流君乎《カクシノミアリケルキミヲ》、衣爾有者下毛將著跡吾念有家留《キヌニアラハシタニモキムトワカモヘリケル》云々などあると同じく、わが戀る君、もし衣にてましまさば、ぬぐ時もなく、きてあらましをと也。かくおよばざる事も云るも、歌のつねなり。無の字、舊訓なみとよみ、考になけんとよまれしかど、なくとよむべし。そのよしは次にいふべし。
吾戀《ワカコヒム》。
宣長云、無吾戀は右のごとく、なくわがこひんとよむべし。一つ所に居て、思ふをも戀るといふ意也。衣ならば、ぬぐ時もなく、身をはなたずて思ひ奉らん君といふ意也。この無の字を、なみとよめるは、わろし。又わが戀る君とよめるもわろし。上にも、わか戀る君とあれば也。同じ言を、ふたゝびかへしていふは、古歌の常なれども、この歌のさまにては、わが戀る君とは、二度いひてはわろし。又無の字、考にはなけんと訓れたれども、さては、いよ/\下の詞づかひにかなひがたし云々といはれつるがごとし。
君曾伎賊乃夜《キミソキソノヨ》。
伎賊《キソ》は、昨日也。本集十四【廿六丁】に、孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》、伎曾母許余比毛《キソモコヨヒモ》云々また【廿八丁】伎曾許曾波兒呂等左宿之香《キソコソハコロトサネシカ》云々などあるがごとし。また書紀允恭紀に、去※[金+尊]古曾椰主區波娜布例《コソコソヤスクハダフレ》云々とある、去※[金+尊]《コソ》も、こと、きと、音通ひて、伎曾《キソ》といふにおなじ。釋日本紀に、去※[金+尊]《コソ》如v謂2與倍《ヨベ》1云々としけるにてもおもふべし。
(141)夢《イメ・ユメ》所見鶴《ニミエツル》。
考云、こを、古しへは、いめといひて、ゆめといへることなし。集中に、伊米《イメ》てふ假字あり。伊《イ》は、寢《イ》なり。米《メ》は、目《メ》にて、いねて物を見るてふ意也。後世、いつばかりよりか、轉て、ゆめといふらん云々といはれつるがごとし。既に、延喜六年日本紀竟宴歌に、美流伊米佐女弖《ミルイメサメテ》云々と、このころまでも、いめとのみいへり。
天皇|大殯《オホアラキ》之時歌。二首。
大殯《オホアラキ》。
こは、天皇崩じまして、いまだ葬り奉らで、別宮におき奉るほどをいへるなり。皇子、皇女なども、これに同じ。大の字は、尊み敬ひ奉りて、しるせる也。さて、考には、おほみあかりとよまれしかど、おほあらきとよむべし。そのよしは、宣長が古事記傳卷三十に、くはしくとかれつるがごとし。こと長ければ、こゝには略せり。殯は、説文に、死在v棺、將v遷2葬柩1、賓2遇之1云々と見えたり。
151 如是有刀《カヽラムト》。豫知勢婆《カネテシリセハ》。大御船《オホミフネ》。泊之登萬里人《ハテシトマリニ》。標結麻思乎《シメユハマシヲ》。 額田王
豫知勢婆《カネテシリセハ》。
本集十【六十三丁】に、君無夕者豫寒毛《キミナキヨヒハカネテサムシモ》云々。十七【廿一丁】に、可加良牟等可禰底思理世婆《カカラムトカネテシリセハ》云々などあり。
標結麻思乎《シメユハマシヲ》。
考云、こゝの汀に、御舟のつきし時、しめ繩ゆひはへて、永くとゞめ奉らんものをと、悲しみのあまり、をさなく悔する也。古事記に、布刀玉命、以2尻(142)久米繩《シリクメナハ》1、控2度其後方1、白言、縦v此以内、不v得2還入1云々てふを、思ひて、よめるなるべし云々といはれつるがごとし。さて、標結《シメユフ》といへることは、上【攷證二上卅四丁】にいへり。
額田王。
この三字、印本なし。略解に引る官本、考異に引る古本、拾穗本などによりて加ふ。いづれも小字也。たゝ拾穗本のみ大字。
152 八隅知之《ヤスミシシ》。吾期大王乃《ワゴオホキミノ》。大御船《オホミフネ》。待可將戀《マチカコヒナム》。四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。 舍人吉年。
八隅知之《ヤスミシシ》。
上【攷證一上六丁】にいへり。
吾期大王《ワゴオホキミ》。
わがおほきみといふに同じ。このことは上【攷證一下卅五丁】にいへり。
四賀乃辛崎《シガノカラサキ》。
近江國滋賀なり。上【攷證一上四十九丁】にいへり。一首の意、明らけし。さて、この二首は、天皇の近江の湖水、しがのほとりなどに、行幸ありしことを思ひいでゝよめるなるべし。考云、卷一に、大宮人のふねまちかねつと、柿本人麿のよみしは、これより年へてのち也。しかれども今をまねぶべき人ともおぼえず。おのづから似たるか云々。
舍人吉年。
新撰姓氏録書紀などにも、舍人の氏見えたれば、こゝの舍人吉年の舍人は、氏にて、女なり。この事下【攷證四上八丁】にいふべし。さて、この四字、印本なし。略解に引る官本、考異に引る古本、拾穗本などによりて加ふ。いづれも小字也。たゞ拾穗本のみ大字。
(143)太后御歌一首。
考云、これよりは、御新喪の程過て、後の事故に、またさらに太后の御歌をあぐ。
153 鯨魚取《イサナトリ》。淡海乃海乎《アフミノウミヲ》。奧放而《オキサケテ》。※[手偏+旁]來船《コキクルフネ》。邊附而《ヘニツキテ》。※[手偏+旁]來船《コキクルフネ》。奧津加伊《オキツカイ》。痛勿波禰曾《イタクナハネソ》。邊津加伊《ヘツカイ》。痛莫波禰曾《イタクナハネソ》。若草乃《ワカクサノ》。嬬之《ツマノ》。念鳥立《オモフトリタツ》。
鯨魚取《イサナトリ》。
いは、發語。さなとりは、すなとりと通ひて、漁《スナト》る海とつゞけし也。この事は上にいへり。
奧放而《オキサケテ》。
奧は、海のおきをいひ、放而は離《サカリ》てといふと同じく、奧はるかに遠ざかりてといふ意なり。
邊附而《ヘニツキテ》。
邊《ヘ》は、海ばたをいふ也。もとは、海邊《ウミベ》出邊《ヤマベ》などいふ、邊と同じ言なれど、語のはじめにいふ故に、清《スミ》ていへり。こは、古事記上卷に、奧疎神《オキサカルカミ》邊疎神《ヘサカルカミ》などあるごとく、奧邊《オキヘ》とむかへいふ言にで、邊は、すなはち海邊《ウミベ》也。本集此卷【四十一丁】に、奧見者跡位浪立《オキミレハアトヰナミタチ》、邊見者白浪散動《ヘヲミレハシラナミトヨミ》云々。九【十丁】に、在衣邊著而※[手偏+旁]尼《アリソベニツキテコクアマ》云々なども見えたり。さてこゝは、おき遠く、こぐ舟も、うみべにつきて、こぐふねもといふ意也。
(144)奧津加伊《オキツカイ》。
奧つの、つは、助字にて、奧榜舟《オキコグフネ》の櫂《カイ》なり。邊津加伊《ヘツカイ》は、邊《ヘ》を榜舟の櫂なり。この櫂といふものも、※[楫+戈]《カヂ》といふものも、古くは、一つ物にて、中古より、今も※[舟+虜]《ロ》といふものゝ事なり。今の世に、梶《カヂ》といふ物は、古しへは、※[舟+毎の毋が巴]《タイシ》といひし物なり。さるを、今の世には、かいも、かぢも、ろも、みな別物となりて、※[舟+毎の毋が巴]《タイシ》といふ名は、絶《タエ》たり。そを和名抄舟具に、釋名云、在v勞撥v水曰v櫂【馳效切、亦作v棹、楊氏漢語抄云加伊、】楫也、櫂2於水中1且進v櫂云々、釋名云、楫【才立切又子葉切和名加遲】使2v舟捷疾1行具也、兼名苑云、一名※[木+堯]【加昭切】小楫也云々、唐韻云、※[舟+虜]【郎古切與v櫓同】所2以進v船也云々と、おのおの別にあげられしは誤りなり。さて、これらのわかちを、くはしくいはん。まづ櫂《カイ》は、舟を掻遣《カイヤル》意にて、かき、かくとはたらきて、かい掃《ハク》、かいやるなどいふ、かいを、やがて物の名としつるなれば、かいの假字也。本集八【卅三丁】に、左丹塗之小船毛賀茂《サニヌリノヲフネモカモ》、玉纏之眞可伊毛我母《タマヽキノマカイモカモ》云々。十七【卅七丁】に、阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマフネニマカチカイヌキ》云々。十九【卅九丁】に、小舶都良奈米眞可伊可氣伊許藝米具禮婆《ヲフネツラナメマカイカケイコキメクレハ》云々。また【卅九丁】に、等母爾倍爾眞可伊繁貫《トモニヘニマカイシヽヌキ》云々。二十【十八丁】に、大船爾末加伊之自奴伎《オホフネニマカイシジヌキ》云々などあるうちに、まかいしゞぬきとも、かいぬきともあるに、三【卅四丁】に、大舟爾眞梶貫下《オホフネニマカチヌキオロシ》云々。六【十八丁】に、眞梶貫吾榜來者《マカチヌキワカコギクレハ》云々。七【卅八丁】に、眞梶繁貫水手出去之《マカチシヽヌキコキテニシ》云々。十【卅二丁】に、船装眞梶繁拔《フナヨソヒマカチシヽヌキ》云々とあるごとく、全く同じつゞけざまなると、てらし見ても、櫂楫おなじものなるをしるべし。また、これを、中古より、艪ともいへり。そは、枕草子に、ろといふものおして、歌をいみじううたひたる、いとをかしう云々。夫木抄卷十二に、匡房卿、小夜ふけてうらにからろのおとすなり、あまのとわたるかりにやあるらん云々と見えたり。雁の聲は、實に※[舟+虜]《ロ》をおすごとくきこゆる也。古今集秋上に、菅根朝臣、秋風にこゑをほにあげてくるふねは、あまのとわたるかりにぞ有ける云(145)云とよめるも、※[舟+虜]《ロ》の音の似たる也。また漢土の書に、櫂《カイ》は、釋名に、在v旁撥v水曰v櫂、櫂濯也、濯2於水中1也、且言使2舟櫂進1也云々。楫《カチ》は、説文に、舟櫂也云々。玉篇に、行舟具、※[楫+戈]※[舟+揖の旁+戈]同云々。易繋辭に、刳v木爲v楫、舟楫之利、以濟2不通1云々。※[舟+虜]は、和名抄に、見ゆるがごとく、これら皆おなじさまなるにても、同物なるをしるべし。今の世にいふ梶《カチ》は、和名抄舟具云、唐韻云船※[舟+毎の毋が巴]【徒可反上聲之重字亦作舵】正v船木也、楊氏漢語抄云、柁【船尾也、或作v※[木+毎の毋が巴]和語多伊之、今案舟人呼2挾抄1爲2舵師1是】云々と見えて、柁は、玉篇に、正v船木也、設2於船尾1與v舵同、一※[木+毎の毋が巴]云々。釋名に、舟尾曰v※[木+毎の毋が巴]、※[木+毎の毋が巴]柁也、後見※[木+毎の毋が巴]、見※[木+毎の毋が巴]曳也、且弼2正船1、使3順v流不2他戻1也云々とある、これ也。古事記中卷に、倭武命の、吾足不v得v歩、成2當藝斯《タギシノ》形1云々とのたまへるも、この物にて、當藝斯《タギシ》といへるを、音便、に多伊之《タイシ》とはいへる也。さて櫂《カイ》楫《カチ》と、※[舟+虜]《ロ》と、一物なりとはいへど、少しけぢめはあり。まづ、※[舟+虜]《ロ》といふ名は、漢名にて、この物和名なし。こは、今の世にも、※[舟+虜]《ロ》》といひて、上下木をつぎて、こしらへたる物にて、手にておして、舟をやる具にて、これを、歌にからろといふ。からろは、漢※[舟+虜]《カラロ》にて、漢士《カラ》の製の※[舟+虜]といふ事也。櫂《カイ》楫《カチ》は、上下一つ木にて、直くこしらへ、水をかきで舟をやるもの也。この物、この江戸の舟には見およばざる物なれど、海邊の漁船などには、今もあり。これらのわかちをよく/\考へてしるべし。
痛勿波禰《イタクナハネソ》。
今の世の俗言にも、水のはねる、泥土《ドロ》のはねるなどいふ、はねると同じ。櫂《カイ》にて水を甚《イタ》くはねる事なかれと也。古事記下卷に、加那須岐母伊本知母賀母須岐婆奴流母能《カナスキモイホチモカモスキハヌルモノ》云々といへるも、はねるといへる也。
(146)若草乃《ワカクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。春のわか草は、めづらしく、うつくしまるゝ物なれば、それにたとへて、わか草のつまとはつゞけし也。
嬬之念鳥立《ツマノオモフトリタツ》。
考云、こゝは、夫《ツマ》と書べきを、こゝ《(マヽ)》音をとりて、字にかゝはらぬ古へぶり也。下にも多し。さて、紀にも、集にも、御妻は、天皇を、吾せこともよみしかば、こゝのつまもしか也。この鳥は、下の日並知皇子尊の、殯の時、島宮池上|有《ナル》放鳥、荒備勿行、君不座十方とよめる如く、愛で飼せ給ひし鳥を、崩じまして後、放たれしが、そこの湖に猶をるを、いとせめて、御なごりに見給ひて、しかのたまふならん云々といはれつるがごとし。宣長云このとぢめの句、本のまゝにても、聞えはすめれど、猶思ふに、嬬之命之《ツマノミコトノ》とありけんを、之の字重なれるから、命之二字を脱せるにや云々といはれつる、さもあるべし。
石川夫人歌。一首。
書紀天智紀云、七年二月、丙辰朔戊寅、納2四嬪1、有2蘇我山田石川麻呂大臣女1、曰2遠智娘1、生2一男二女1、其一曰2大田皇女1、二曰2鵜野皇女1、其三曰2建皇子1、次有2遠智娘弟1、曰2姪娘1、生3御名部皇女與2阿倍皇女1云々。この二妃のうちなるべし。夫人の事は、上【攷證二上廿一丁】藤原夫人の所にいへり。
154 神樂浪乃《サヽナミノ》。大山守者《オホヤマモリハ》。爲誰可《タガタメカ》。山爾標結《ヤマニシメユフ》。君毛不有國《キミモアラナクニ》。
(147)神樂浪乃《サヽナミノ》。
枕詞にて、上にも出たり。神樂浪《サヽナミ》の三字を、さゞなみとよむよしは、上【攷證一上四十七丁】にいへり。
大山守者《オホヤマモリハ》。
山守は、書紀應神紀に、五年秋八月、庚寅朔壬寅、令2諸國1、定2海人及山守部1云々。顯宗紀云、小楯謝曰、山官明v願、乃拜2山官1、改賜2山部連氏1、以2吉備臣1爲v副、以2山守部1爲v民云々。續日本紀に、和銅三年二月、庚戌、初充2守山戸1、令v禁v伐2諸山木1云々など見えたり。續紀に、初とあるは、この官、中ごろたえしを、又おかれしなるべし。本集三【四十二丁】に、山守之有家留不知爾《ヤマモリノアリケルシラニ》、其山爾標結立而《ソノヤマニシメユヒタテヽ》、結之辱爲都《ユヒノハチシツ》云々。また山王者蓋雖有《ヤマモリハケタシアリトモ》云々。六【二十丁】に、大王之界賜跡《オホキミノサカヒタマフト》、山守居守云山爾《ヤマモリスヱモルトフヤマニ》云々。七【廿五丁】に、山守之里邊通《ヤマモリノサトヘカヨヘル》云々。十三【二丁】に、三諸者人之守山《ミモロハヒトノモルヤマ》云々などもありて、竹木をきる事を禁じ、またはみだりに界をこえざるために、山守を居たまふ也。宣長云、大山守とよめる、大は、さゞなみの山は、大津宮の邊なる山にて、ことなるよしをもて、この山守をたゝへて、いふ也。大御巫などの大のごとし云々。
山爾標結《ヤマニシメユフ》。
こゝは、御山ぞとて、しめゆひて、人を入しめぬなり。標結《シメユフ》ことは、上【攷證二上卅四丁】にいへり。
君毛《キミモ》不有國《アラナクニ・マサナクニ》。
本集此卷【四十四丁】に、久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》云々。四【四十二丁】に、幾久毛不有國《イクヒサシクモアラナクニ》云々。また君爾不有國《キミニアラナクニ》云々などあるによりて、あらなくにとよむべし。さて、一首の意は、この山守は、天皇もましまさぬに、たがためにか、かく御山をばまもるらんとなり。
(148)從2山科御陵1。退散之時。額田王作歌。一首。
山科御陵。
山科御陵は、天智天皇の御陵なり。されど、この書紀に、この御陵に、葬奉る事をのせられず。たゞ天武天皇元年紀に(山陵を造らん《(マヽ)》せらるゝよしあり。その後、文武天皇三年紀に、十月甲午、欲v營2造越智山科二山陵1也と見えて、延喜諸陵式に、山科陵、近江大津宮御宇天智天皇、在2山城國宇治郡1、兆域東西十四丁、南北十四丁、陵戸六烟云々と見えたり。猶くはしくは、前王廟陵記、また蒲生秀實が山陵志などにつきて見るべし。さて、御陵は、みはかとよむべし。古事記に、御陵とあるは、眞淵、みなみはかとよまれき。書紀仁徳紀に、難波荒陵《ナニハノアラハカ》云々。源氏物語須磨卷に、院の御はか云々とあり。またみさゝぎとよまんも、あしからず。陵は、新撰字鏡に、凌同、力承反、大阜曰v陵、乎加又豆不禮、又彌佐々木云々。和名抄葬送具に、日本紀私記云、山陵【美佐々岐】云々など見えたり。されど既に前にも、みはかとよめれば、こゝもしかよむべし。
退散《アラケマカル》。
こは、御陵に葬り奉りて、しばしがほどは、常に仕奉りし人たちの、晝夜御陵に仕奉りてありしが、ほどへて退散するなる事、前に見ゆるがごとし。さて、退散は、考にあらけまかるとよまれしによるべし。あらくは、古事記下卷に退、書紀神代紀上下散去などをよみ、又舒明紀に散卒をあらけたるいくさとよみて、つどへる者のまかりちるをいへる也。土佐日記にけふ海あらけ、磯に雪ふり、浪の花さけり云々とあるも、岩などにふれて、浪の散るをあらけとはいへり。
(149)155 八隅知之《ヤスミシヽ》。和《ワ》期《ゴ・ガ》大王之《オホキミノ》。恐也《カシコキヤ》。御陵《ミハカ》奉仕流《ツカフル・ツカヘル》。山科乃《ヤマシナノ》。鏡山爾《カヽミノヤマニ》。夜者毛《ヨルハモ》。夜之盡《ヨノコト/”\》。晝者母日之盡《ヒルハモヒノコト/”\》。哭耳呼《ネノミヲ》。泣乍在而哉《ナキツヽアリテヤ》。百礒城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。去別南《ユキワカレナム》。
恐也《カシコキヤ・カシコミヤ》。
舊訓、かしこみやと訓。考には、かしこしやとよまれしかど、かしこきやとよむべし。このかしこしと云言は、本はかしこみおそるゝ意なれど、こゝは、かたじけなき意にいへるなり。集中、祝詞、宣命など、あぐるにいとまなし。さて、宣長云、恐也を、かしこみや、かしこしやなどゝよめるは、わろし。かしこきやとよむべし。やは添たる辭にて、かしこき御陵《ミハカ》といふ意也。廿卷【五十四丁】に、可之故伎也安米乃美加度乎《カシコキヤアメノミカトヲ》云々。この例也。また八卷【卅丁】に、宇禮多岐也志許霍公鳥《ウレタキヤシコホトヽキス》云々。これらの例をもおもふべし云々といはれつるがごとし。
御陵《ミハカ》奉仕流《ツカフル・ツカヘル》。
陵は、はかとよむべき事、まへにいへるがごとし。また廣雅釋邱に、陵冢也云云。後漢書光武帝紀注に、陵謂2山墳1云々。水經渭水注に、長陵亦曰2長山1也、秦名2天子冢1曰v山、漢曰v陵、故通曰2山陵1矣云々とあるがごとく、天子と庶人とを、たゞ文字のうへにてわけたるのみ。訓はたがふ事なし。さて、宣長云、奉仕流は、つかふるとよむべし、つかへると訓るは誤り也。
(150)山科乃《ヤマシナノ》。鏡山爾《カヽミノヤマニ》。
山城國宇治郡なり。和名抄郷名に、山城國宇治郡山科【也末之奈】云々と見えたり。鏡山は、山城に、在2御陵村西北1、圓峯高秀、小山環列、行人以爲v望云々と見たり。考云、近江豐前にも、同名の山あり云々。
夜者毛《ヨルハモ》。
四言の句也。毛は助字にてよるは也。
夜之《ヨノ》盡《コト/\・ツキ》。
考云、卷十三《今四》に、崗本天皇御製とて、晝波日乃久流留麻弖夜者夜之明流寸食《ヒルハヒノクルヽマテヨルハヨノアクルキハミ》とあるに依てよみね。こはいと古言にて、古言をば、古言のまゝ用る事、集中に多き例也云々といはれしは、いかゞ。夜之盡《ヨノコト/\》とよむべし。古事記上卷に、伊毛波和須禮士《イモハワスレジ》、余能許登碁登爾《ヨノコトゴトニ》云々とあるも、世の盡にて、世のかぎりといふ意なり。本集此卷【卅五丁】に、赤根刺日之盡《アカネサスヒノコト/”\》云々。三【五十四丁】に、憑之人盡《タノメリシヒトノコト/”\》云々。五【六丁】に、久奴知許等其等美世摩斯母乃乎《クヌチコトゴトミセマシモノヲ》云々。又【廿九丁】布可多衣安里能許等其等《ヌノカタキヌアリノコトゴト》、伎曾倍騰毛寒夜須良乎《キソヘトモサムキヨスラヲ》云々などある、こと/”\も、みな限りの意なり。これらの例をおして、こゝもこと/”\とよまんとしるべし。呂覽明理篇注に、盡は極とも見えたり。
晝者母《ヒルハモ》。
これも、母《モ》は助字にて、晝者《ヒルハ》也。
哭耳呼《ネノミヲ》。
哭は、音をたてゝ泣なり。集中皆おなじ。説文繋傳に、哭聲繁、故从2二口1、大聲曰v哭、細聲有v涕曰v泣云々とあるにてしるべし。
(151)百磯城乃《モモシキノ》。
枕詞也。上【攷證一上四十八丁】にいでたり。
去別南《ユキワカレナム》。
考云、葬まして、一周の間は、近習の臣より舍人までもろもろ、御陵に侍宿《トノイ》する事、下の日並知皇子尊の、御墓つかへする、舍人の歌にてしらる云々。
明日香清御原宮御宇天皇代。 天渟中原瀛眞人天皇。
天皇、御謚を天武と申す。この宮の事は、上【攷證一上卅七丁】に出たり。天渟中原瀛眞人天皇の九字、印本大字とす。今集中の例によりて、小字とせり。
十市皇女薨時。高市皇子尊御作歌。三首。
十市皇女。
天武天皇の皇女なり。上【攷證一上卅七丁】に出たり。書紀天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜v之、癸巳、食v卜、仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘與命v盖、以未v及2出行1、十市皇|卒《(マヽ)》然病發薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣、庚子、葬2十市皇女於赤穗1、天皇臨v之、降v恩以發v哀云々と見えたり。
高市皇子尊。
この皇子の御事は、上【攷證二上卅二丁】に出たり。皇太子に立給ひしかば、尊とはかけり。この時は、まだ皇太子には、おはしまさねど、すべて極官を書べき例なり。
(152)156 三諸之《ミモロノ》。神之神須疑《カミノカミスギ》。巳具耳矣自得見監乍共《・イクニヲシトミケムツヽトモ》。不寐夜叙多《ネヌヨソオホキ》。
三諸之《ミモロノ》。
三輪の大神を申せり。この事は、上【攷證二上十一丁】にいへり。
神之神須疑《カミノカミスギ》。
神は、一の句よりつゞきて、すなはち三輪の大神也。神須疑《カミスキ》は、本集四【四十八丁】に、味酒呼三輪之祝我忌杉《ウマサケノミワノハフリカイハフスキ》、手觸之罪歟《テフレシツミカ》、君二遇難寸《キミニアヒカタキ》云々。七【四十丁】に、三幣帛取神之祝我鎭齋杉原《ミヌサトルミワノハフリカイハフスキハラ》、燎木伐殆之國手斧所取奴《タキヽコリホト/\シクニテヲノトラレヌ》云々。十【十七丁】に、石上振乃神杉神佐備而《イソノカミフルノカミスキカミサヒテ》云々などありて、また書紀顯宗紀に、石上振之神※[木+温の旁]《カミスキ》、伐v本截v末云々ともあり。これ今の世にいふ神木なり。和名抄木類云、爾雅音義云、杉【音衫、一音※[糸+鐵の旁]、和名須木見2日本紀私記1、今案、俗用2※[木+温の旁]字1非也※[木+温の旁]字於粉反、桂也、唐韻云、似v松生2江南1、可3以爲2船材1矣、】云々と見えたり。
巳具耳矣自得見監乍共《・イクニヲシトミケムツヽトモ》。
この十字、誤字ありとおぼしく、心得がたし。考には、已免乃實耳爲見管本無《イメノミニミエツヽモトナ》を、草の手より誤りしものならんといはれしかど、なほ心ゆかず。ただ後人の考を待つのみ。略解に、具一本目、矣一本笑に作るとあり。
157 神山之《ミワヤマノ》。山邊眞蘇木綿《ヤマヘマソユフ》。短木綿《ミシカユフ》。如此耳故爾《カクノミユヱニ》。長等思伎《ナカクトオモヒキ》。
神山之《ミワヤマノ》。
三輪山也。三輪は、大和國城上郡也。考云、三諸も、神山も、神岳と三輪とにわたりて、聞ゆるが中に、集中をすべ考るに、三諸といふに、三輪なるぞ多く、神なび(153)の三室、また神奈備山といへるは、飛鳥の神岳也。然れば、こゝは二つともに、三輪か。されどこの神山を、今本に、押て、みわ山とよみしは、おぼつかなし云々とて、神山を、かみやまとよまれしかど、猶舊訓のまゝ、みわ山とよむべき也。さる故は、古事記中に、神君《ミワノキミ》とありて、その傳に、神の字、みわと訓り。そも/\、みわを、神と事故は、古へ大和國に、皇大宮敷坐《スメラオホミヤシキマセ》りし御代には、このみわの大神を、ことにあがめ奉らして、たゞ大神とのみ申せば、すなはちこの神の御事なりしから、つひに、その文字を、やがておほみわといふに用る事にぞ、なれりけん。さるまゝに、大をはぶきて云にも、また神字を用ひし也けり。和名抄に、大和國城上郡の郷名、大神於保無和。神名式にも、大神《オホミワ》としるされたり。既に、崇神紀八年の下に、大神之掌酒《オホカミノサカヒト》とも、令v祭2大神1ともあるは、みわの大神也云々など、宣長のいはれしにてもおもふべし。
山邊眞蘇木綿《ヤマヘマソユフ》。
山邊は、神山《ミワヤマ》之山邊とつゞきてすなはちみわ山のほとりにある、木綿《ユフ》といへる也。眞蘇木綿《マソユフ》の眞《マ》は、例の物をほむることばにて、蘇《ソ》は、佐乎《サヲ》の反、蘇《ソ》なれば、佐乎《サヲ》の意、佐は添ていふ語にて、乎《ヲ》は緒《ヲ》也。大祓祝詞に、管曾《スガソ》とあるも、菅佐乎《スガサヲ》にて菅の緒也・そは、本集九【卅四丁】に、直佐麻乎裳者織服而《ヒタサヲヽモニハオリキテ》云々とあるにてもしるべし。木綿《ユフ》は豐後風土記に、速見郡|柚富《ユフ》郷、此郷之中、栲樹多生、常取2栲皮1、以造2木綿《ユフ》1、因曰2柚富《ユフ》郷1云々。寶基本記に、謂以2穀木1、作2白和幣1名號2木綿1云々とあるごとく、栲または穀などの皮をもて作れる布也。さてその皮を割《サキ》て、緒《ヲ》となして、織によりて、眞蘇木綿《マソユフ》とはいへり。麻を、乎いふも、割《サキ》て緒《ヲ》になして、用るもの故に、しか名づけし也。かくいふよしを、くはしくは、眞淵の祝詞考、宣長(154)の古事記傳卷八、大祓後釋などにつきて見るべし。
短木綿《ミジカユフ》。
考云、こは長きも短きもあるを、短きを設出て、この御命の短さによそへ給へり。後に、みじかきあしのふしの間も、とよめるも、この類也云々、いはれつるがごとし。
如此耳故爾《カクノミユヱニ》。
耳《ノミ》は、後世にいふ所と同じく、ばかりの意。故爾《ユヱニ》は、なる物をといふ意にてかくばかりなるものをと、のたまふ也。故爾といふ語のなるものをの意なる事は、上【攷證一上卅六丁】にいへり。さて、一首の意は、神山之山邊眞蘇木綿《ミワヤマノヤマヘマソユフ》といふまでは、短木綿《ミシカユフ》といはん序にて、短木綿の、みじかきを、御命のみじかきによせて、かくばかり、御命みじかゝりしものを、今までは、長くおはせよかしと、おもひきと、のたまふなり
158 山振之《ヤマフキノ》。立儀足《タチヨソヒタル・サキタル》。山清水《ヤマシミツ・ヤマノシミツヲハ》。酌爾雖行《クミニユカメト》。道之白鳴《ミチノシラナク》。
山振之《ヤマブキノ》。
集中、山振、山吹などをよめり。いづれも借字也。本草和名、和名抄等に、※[(ヒ/矢)+欠]冬をよめり。こは、今食物にする、ふきの事は《(マヽ)》、山振《ヤマフキ》に當られしは誤り也。また、新撰字鏡に、※[木+在]をよめり。こは漢土に見えぬ文字にて、中國の作字也。さて貝原篤信が大和本草に、棣棠を當たり。これしかるべし。くはしくは、本《(マヽ)》名につきてみるべし。
立儀足《タチヨソヒタル・サキタル》。
舊訓、さきたるとよめれに《(マヽ)》、代匠記に、たちよそひたるとよめるにしたがふべし。足は詞也。儀は、伊呂波字類抄、假字玉篇などに、よそふとよみて、また廣雅釋訓に、(155)儀儀容也云々ともあれば、よそひとよまん事、論なし。こゝは、山ぶきの容をよそひたるごとく咲とゝのひたるをのたまへり。さてこれを、宣長は、儀は灑などの誤りにて、立しなひたるとあるべし。卷廿に、多知之奈布《タチシナフ》きみがすがたを云々とよめり云々といはれしかど、古事記上卷に、束装立時《ヨソヒタヽストキ》云々。本集十四【廿九丁】に、水都等利乃多々武與曾比爾《ミツトリノタヽムヨソヒニ》云々ともあれば、などかたちよそふともいはざらん。
山清水《ヤマシミツ・ヤマノシミツヲハ》。
山の清水《シミヅ》也。山吹は、今も水邊に多くよめり。山吹の容をよそひたるごとく、咲とゝのひたるは、邊の清水などをよそふがごとし。そのよそひたる山のしみづを、くみにゆかめどもと也。
道之白鳴《ミチノシラナク》。
山の清水を、くみにゆかんとは思へど、道をしらずと也。道のゝ、の文字は、をの意也。さて、考云、葬し山邊には、皇女の、今も山ぶきの如く、姿とをゝに立よそひて、おはすらんと思へど、めゆかん道ししらねば、かひなしとおさなく思ふ《(マヽ)》給ふがかなしき也。(頭書、三【廿九丁】に、船乘將爲年之不知久《フナノリシケントシノシラナク》云々。九【十九丁】に問卷乃欲我妹之家之不知《トハマクノホシキワキモカイヘノシラナク》云々。)
天皇崩之時。太后御作歌。一首。
天皇崩。
書紀本紀云、朱鳥元年九月、丙午、天皇病遂不v差、崩2于正宮1、戊申、鮨發v哭、則起2殯宮於南庭1云々。持統紀云、三年十一月、乙丑、葬2于大内陵1云々と見えたり。
(156)太后。
後に、持統天皇と申す。書紀本紀云、高天原廣野姫天皇、少名鵜野讃良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰2遠智娘1、天豐財重日足姫天皇三年、適2天渟中原瀛眞人天皇1、爲v妃、天渟中原瀛眞人天皇二年、立爲2皇后1云々。四年春正月、戊寅朔、皇后即2天皇位1云々と見えたり。
159 八隅知之《ヤスミシシ》。我大王之《ワカオホキミノ》。暮去者《ユフサレハ》。召賜良之《メシタマフラシ》。明來者《アケクレハ》。問賜良之《トヒタマフラシ》。神岳乃《カミヲカノ》。山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》。今日毛鴨《ケフモカモ》。問給麻思《トヒタマハマシ》。明日毛鴨《アスモカモ》。召賜萬旨《メシタマハマシ》。其山乎《ソノヤマヲ》。振放見乍《フリサケミツツ》。暮去者《ユフサレハ》。綾哀《アヤニカナシミ》。明來者《アケクレハ》。裏佐備晩《ウラサヒクラシ》。荒妙乃《アラタヘノ》。衣之袖者《コロモノソテハ》。乾時文無《ヒルトキモナシ》。
召《メシ》賜《タマフ・タマヘ》良之《ラシ》。
宣長云、召賜良之《メシタマフラシ》、問賜良志《トヒタマフラシ》、二つながら、たまふらしとよむべし。十八【廿三丁】にみよしぬの、この大宮に、ありがよひ、賣之多麻布良之《メシタマフラシ》、ものゝふの云々。これ同じ格也。つねのらしとは、意かはりて、何とかや、心得にくきいひざま也。廿卷【六十二丁】に、大き(み脱か)のつぎて賣須良之《メスラシ》、たかまとの、ぬべ見るごとに、ねのみしなかゆ云々。このめすらしもつねの格にあらず。過しかたをいへる事、いまと同じ。これらの例によりて、今もたまふらしとよむべき事明らけし。本に、たまへらしと訓るは誤り也。考に、良は利に通ひて、給へり也と(157)あるも、いかゞ云々といはれつるがごとし。さて、この召賜《メシタマフ》の、召は、借字にて、米《メ》と美《ミ》と音かよへば、見之《ミシ》給ふにて、神岳のもみぢを見舊ふ也。この事は、上【攷證一下廿五丁】をも考へあはすべし。
明來者《アケクレハ》。
夜のあけゆけば也。この事上にいへり。
問賜良之《トヒタマフラシ》。
この問《トフ》は、人に物をとふ意にはあらで、訊《トフラ》ふ意にて、これも、神岳のもみぢをとぶらひ給ふらしと也。本集九【十九丁】に、問卷乃欲我妹之《トハマクノホシキワキモカ》云々。十【五十丁】に、誰彼我莫問《タレカレトワレヲナトヒソ》云々などありて、猶多し。皆、たづねとぶらふ意にいへり。玉篇に、問已糞切、訊也云々とあり。
神岳《カミヲカ・ミワヤマ》乃《ノ》。
舊訓、みわ山とよめれど、八雲御抄に、かみをかとよませ給へるしたがふべし。神岳は、三諸《ミモロ》の雷《イカツチノ》岳の事にて、雷は、奇しくあやしきものなれば、古くより、たゞ神とのみもいひ來れば、雷岳を、やがて神岳ともいひし也。そは書紀雄略紀に、雷をかみとよみて本集十二【十九丁】に、如神所聞瀧之白浪乃《カミノコトキコユルタキノシラナミノ》云々。十四【十四丁】に、伊香保禰爾可未奈那里曾禰《イカホネニカミナヽリソネ》云々」後撰集戀六に、よみ人しらす、ちはやぶる神にもあらぬわが中のくもゐはるかになりもゆくかな云々。拾遺集雜戀、端詞に、かみいたくなり侍りけるあしたに云々。伊勢物語に、神さへいみじうなり、雨もいたうふりければ云々などあるにても、しるべし。さて、この所は、書紀雄略紀に、七年秋七月、申戌朔丙子、天皇詔2少子部連※[虫+果]羸1曰。朕欲v見三諸岳神之形1、汝膂力過v人、自行捉來、※[虫+果]羸答曰、試往捉之、乃登2三諸岳1、捉2取大蛇1、奉v示2天皇1、天皇不2齋戒1、其雷※[兀+虫]々、目精赫々、天皇畏蔽v目不v見、却2入殿中1、使v放2於岳1、仍改賜v名爲v雷云々。この事を、靈異記上卷にものせて、雷(158)放2光明1※[火+玄]天皇見之恐偉進2幣帛1、命v還2落處1、今呼2雷岳1云々とあれど、其説ことなり。本集三【十二丁】に、天皇御2遊雷岳1之時、柿本朝臣人麿作歌、皇者神二四座者《オホキミハカミニシマセハ》、天雲之雷之上爾廬爲流鴨《アマクモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》云々。また【廿九丁】登2神岳1山部宿禰赤人作歌、三諸乃神名備山爾《ミモロノカミナヒヤマニ》云々。九【九丁】に、勢能山爾黄葉常敷《セノヤマニモミヂトコシク》、神岳之山黄葉者今日散濫《カミヲカノヤマノモミチハケフカチルラム》云々なども見えたり。これらにも、皆岳を、をかとよめり。岳は集韻に、嶽古作v岳云々とあれば、山獄と同字也。嶽は、たけとよみて、高山の事なれば、世のつね、丘岡などいふ所とは、大きにこと也。また和名抄山谷類に、蒋魴切韻曰、嶽高山名也、【五角反、又作v岳、訓與v丘同、未詳、漢語抄云美太介】周禮註云、土高曰v兵【音鳩、和名乎加、又用2岡字1、作v崗】とも見えたり。されば考ふるに、嶽は、高山の事、丘岡はひきく、平地のすこし高きをいひて、その所は、別なれど、訓は同じき也。訓の同じきにまかせて、一つ所ぞと思ひ誤る事なかれ。そは、古は山の峰をも、峰《ヲ》といひ、山の裔《スソ》をも尾《ヲ》といへど、所は、別なるにてもおもふべし。この事は下【攷證七 】にいふべし。
今日毛鴨《ケフモカモ》。
天皇のおはしまさば、今日もかも問たまはましあすもかもめしたまはましと心得べし。本集此卷【廿六丁】に、味凝文爾乏寸《ウマコリノアヤニトモシキ》云々。また【卅三丁】綾爾憐《アヤニカナシヒ》云々。六【十九丁】に決卷毛綾爾恐《カケマクモアヤニカシコク》云々などありて、集中猶いと多し。古事記上卷に、阿夜爾那古斐岐許志《アヤニナコヒキコシ》云々ともあり。綾《アヤ》文《アヤ》などかけるは、みな借字也。さるを、考に、綾文のごとく、とさまかくさまに、入たちてなげくなりといはれし《(マヽ)》たがへり。宣長云、阿夜《アヤ》は、驚て歎《ナゲク》聲なり。皇極紀に、咄嗟を夜阿とも、阿夜《アヤ》とも訓り。凡そ、阿夜《アヤ》、阿波禮《アハレ》、波夜《ハヤ》、阿々《アヽ》など、皆本は、同く歎くこゑにて、少しづゝのかはりあるなり。抑、歎くとは、中音よりしては、たゞ悲み愁ふることにのみいへども、然にあらず。(159)那宜伎《ナケキ》は、長息《ナカイキ》のつゞまりたる言にて、凡そ何事にまれ、心にふかく、おもはるゝ事あれば、長き息をつく。これすなはちなげき也。されば、うれしき事にも、歎はする事也。さて、そのなげきは、阿夜《アヤ》とも、阿波禮《アハレ》とも、波夜《ハヤ》とも、聲のいづれば、歎聲とはいへり。又|阿夜《アヤ》といひて、歎くべき事を阿夜爾《アヤニ》云々ともいへり。阿夜にかしこし、阿夜にこひし、あやにかなしなどの類也云々と、いはれつるがごとし。
裏佐備晩《ウラサビクラシ》。
裏《ウヲ》は、借字にて、心なり。佐備《サビ》は、集中、不樂、不怜などの字をもよみて、たのしまざる意にて、こゝは心のすさまじく、なくさまず、あかしくらすをのたまへり。このこと、くはしくは、上【攷證一下二丁】にいへり。
荒妙乃《アラタヘノ》。
枕詞に似て、枕詞にあらず。荒妙乃《アラタヘノ》衣とつゞきて、こは喪服なり。儀制令義解に、謂凶服者※[糸+衰]麻也云々とありて、※[糸+衰]衣は、和名抄葬送具に、唐韻云、※[糸+衰]【倉囘反、與v催同、和名不知古路毛】喪服也云々とありて、古今集戀三に、よみ人しらず、思ふどちひとり/\がこひしなば、たれによそへてふち衣きん云々とよめるも、かならず藤にて織たる布ならぬど、※[糸+衰]衣は、あら/\しきものなれば、藤衣の名をかりたる也。集中枕詞に、荒妙乃藤《アラタヘノフチ》とつゞくるにても、ふち衣はあら/\しきものなるをしるべし。
一書曰。天皇崩之時。太上天皇御製歌。二首。
(160)この天皇の御時、太上天皇おはしまするなし。されば考るに、こは持統天皇を申すなり。この時持統天皇は、いまだ天武帝の皇后にておはしましゝ事、まへに太后とあるがごとし。さて太上天皇の尊號は、持統帝より、はじまりしかば、ことさらに太上天皇とは申すなり。されどこゝは天武帝崩じましゝ所なれば、太后とかくべきを、太上天皇と書しは、この一書の誤り也。
160 燃火物《モユルヒモ》。取而※[裏に似た字]而《トリテツメミテ》。福路庭《フクロニハ》。入澄不言八面《・イルトイハスヤモ》。智男雲《・チヲノコクモ》。
燃火物《モユルヒモ》。
舊訓、ともしびもとあれど、燃の字、ともし火とよまんいはれなし。こは長流がもゆるひもとよめるに、したがふべし。廣韻に、燃俗然字云々。説文に、然燒也云々とあり。又本集十一【四十二丁】に、燒乍毛居《モエツヽモヲル》云々。十二【廿一丁】に、燒流火氣能《モユルケフリノ》云々など、燒をもゆるとのみよめるにても、こゝももゆるとよむべきをしるるべし。
福路庭《フクロニハ》。
福《フク》路は、借字にて、嚢なり。古しへは、何事にも、袋《フクロ》を用ひしことと見えたり。そは、古事記上卷に、於2大穴牟遲神1、負v※[代/巾]《フクロ》爲2從者1、率往云々。書紀雄略紀に、二2分子孫1、一分賜2茅渟縣主1、爲2負v嚢者1云々。續日本紀に大寶元年十二月、戊申、賜2諸王卿※[代/巾]樣1云々。靈龜二年十月、禁武官人者朝服之袋儲而勿v著云々。本集四【五十三丁】に、生有代爾吾者未見《イケルヨニワレハマタミス》、事絶而如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《コトタエテカククオモシロクヌヘルフクロハ》云々。この外集中、はり袋、すり袋なども見えたり。催馬樂庭生に、見也比《》止乃左久留不久呂乎於乃禮加介太利《ミヤヒトノサクルフクロヲオノレカケタリ》云々。靈異記中卷に、從2緋嚢1、出2一尺鑿1云々。清和實録貞觀十二年三月十六日紀に、納糒帶袋見えたり。この外とのいものゝふくろゑぶくろなどもいひ、猶諸書に見えたれどこと/\くあぐるにいとまなし。
(161)入澄不言八面智男雲《・イルトイハスヤモチヲノコクモ》。
この二句、いかによむべきかは、心得がたし。この二句の訓、思ひ得ざれば、一首の意も解しがたし。拾穗本には、智を知に作て、結句、おもしるなくもとよみ、代匠記にも、しかよめり。考異本に引る異本には、澄を登に作れり。これにても、猶解しがたし。されば、代匠記と考との説をあげたり。代匠記云、面智男雲をもちをのこくもと、和點を加へたる、後人のしわざなるべし。おもしるなくもとよむべし。智は、知の字なるべし。おもしるは、つねに、あひ見る顔をいふ也。第十二に、おもしる君が見えぬこのごろとも、おもしるこらが見えぬころかもともよめり。もゆる火だにも、方便をよくしつれば、ふくろにとりいれても、かくすを、寶壽かぎりまし/\て、とゞめ奉るべきよしなくて見なれ奉り給へるおもわの見えたまはぬを、こひ奉り給へる也云々。考には、智は知曰の二字を、一字に誤れるなるべしとて、入澄不言八面《イルトイハスヤモ》、知曰男雲《シルトイハナクモ》とよみて、八面を、やものかなとせしは、卷四にもあり。男雲は、借字にて、無毛也。後世も、火を食火を蹈わさを爲といへば、その御時ありし※[人偏+殳]小角がともがらの、火を袋につゝみなどする、あやしきわざをする事ありけん。さて、さるあやしきわざをだにすめるに、崩ませし君に、あひ奉らん術を知といはぬが、かひなしと、御なげきのあまりに、のたまへる也云々。この二説、いづれもかなへりともいひがたし。猶後人よく考ふべし。
161 向南山《キタヤマニ》。陣雲之《タナビククモノ》。青雲之《アヲクモノ》。星《ホシ》離《サカリ・ワカレ》去《ユキ》。月牟《ツキモ》離《サカリ・ワカレ》而《テ》。
(162)向南山《キタヤマニ》。
きた山とよむは、義訓也。名所にあらず。南に向ふは、北なれば、北方の山をのたまへり。顧瑛詩に、料應堂北梅花樹、今歳聞時向v南云々などあるにても、南に向ふは北なるをしるべし。
陣雲之《タナヒククモノ》。
陳は、義訓なり。玉篇に、陳除珍切、列也布也云々と見えて、たなびくとは、本集三【卅二丁】に、白雲者行憚而棚引所見《シラクモハユキハヽカリテタナヒケルミユ》云々。四【五十一丁】に、春日山霞多奈引《カスカヤマカスミタナヒキ》云々。この外、集中いと多く、輕引、霏※[雨/微]、桁曳などの字をも、よみて、そらに物など引はへたらんやうに、引わたし覆《オホ》ふをいふこと也。されは、陳の字をかける也。さて古事記上卷に、八重多奈雲云々。本集八【五十五丁】に、棚霧合《タナキラヒ》云々。十三【廿四丁】に、柳雲利《タナクモリ》云々などある、たなも、たなびくといふと同じ。
青雲之《アヲクモノ》。
宣長云、青雲といへる例は、祈年祭祝詞に、青雲能靄極《アヲクモノタナヒクキハミ》、白雲能墜坐向伏限《シラクモノオリヰムカフスカキリ》云々。萬葉十三【廿九丁】に、白雲之棚曳國之《シラクモノタナヒククニノ》、青雲之向伏國乃《アヲクモノムカフスクニノ》。十四【廿八丁】に、安乎久毛能伊※[氏/一]來和伎母兒《アヲクモノイテコワキモコ》云々。十六【廿九丁】に、青雲乃田名引日須良霖曾保零《アヲクモノタナヒクヒスラコサメソホフル》。そも/\青色の雲は、なきものなれども、たゞ大|虚空《ソラ》の、蒼《アヲ》く見ゆるを、しかいふ也云々といはれつるがごとし。史記伯夷傳に、青雲之士云々。南史 に、意在2青雲1云々。淮南子 に、志屬2青雲1云々などあるも、みな虚空をさして、青雲とはいへる也。
星《ホシ》離《サカリ・ワカレ》去《ユキ》。
宣長云、青雲之星は、青天にある星也。雲と星と、はなるゝにはあらず。二つの離は、さかりと訓て、月も星も、うつりゆくをいふ。ほ(163)どふれば星月も次第にうつりゆくを見たまひて、崩たまふ月日の、ほど遠くなりゆくを、かなしみ給ふ也云々といはれつるがごとく、王勃勝《(マヽ)》王閣詩に、物換星移幾度v秋云々。杜牧詩に、經2幾年月1換2幾星霜1云々などある、星の字も、年月の事なり。離を、さかりとよむ事は、上【攷證一上四十七丁】に見えたり。月牟《ツキム》の、牟は、毛の誤り也とて、考には月毛と直されたれど、牟《ム》と毛《モ》と音かよへば、牟を、もとよまん事論なし。
天皇崩之後。八年九月九日。奉v爲2御齋會1之夜。夢裏習賜《イメノウチニナレタマヘル》御歌。一首。
崩之後八年。
天武天皇、朱鳥元年崩じ給ひしかば、後八年は持統天皇七年にあたれり。
九月九日。
持統紀云、七年九月、丙申、爲2清御原天皇1、設2無遮大會於内裏1云々とあり。この月、丁亥朔なれば、丙申は十日に當れり。さるをこゝには、九日とせり。いづれをか正しとせん。
御斎會。
齋會は、書紀敏達紀に、大會設v齋とはあれど、蘇我馬子宿禰の家にての事にて、臣家の齋會なり。推古紀に、十四年四月、壬辰、丈六銅像坐2於元興寺金堂1、即日設v齋(164)於v是會集人衆、不v可2勝數1云々とあるも、元興寺の齋會なり。天武紀に、四年四月、戊寅、請2僧尼二千四百餘1、而大設v齋焉云々とある、宮中御齋會のはじめなり。持統紀に、二年二月乙巳、詔曰、自v今以後、毎v取2國忌日1、要v須v齋也云々と見えたり。後は、正月八日より十四日まで行はるゝよしなり。こははるかに後のことなり。
夢裏習賜《イメノウチニナレタマヘル》。
習賜は、目録になれたまふと訓るをよしとす。これを、考には、唱賜と直し、略解には、習は誦の誤かといへれど、いかが。漢書五行志、中之下に、習狎也とありて、狎は、なるゝ義なれば、こゝは、太后の御夢のうちに、天皇に親しく馴れ給ふさまを見たまひて、御いめの中ながら、この御歌をよませ給ふ也。さて、是は、天武帝崩給ひて後、八年にて持統帝七年の事なれば、この清御原宮御宇の條に、載べきにあらずとて、本文に略かれしかど、甚しき誤り也。年代はいかにまれ、こは、天武帝の御爲に、御齋會をまうけ給ひて、しかも多年を經ても、猶わすれかねさせ給ひて、御夢にさへ見奉りて、御歌をよませ給ふなれば、こゝに入べき事、論なきをや。また、こゝに、太后としるし奉らねど、こは、まへの天皇崩之時、太后御作歌とある端辭を、うけたるにて、御歌とさへあれば、太后の御歌なる事、明らけし。又代匠記に引る官に、小字にて、古歌集中出とあれど、集中の例、左注にあぐべきなれば、こゝにはとらず。
162 明日香能《アスカノ》。清御原乃宮爾《キヨミハラノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食之《シラシメシシ》。八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王《ワカオホキミ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。何方爾《イカサマニ》。所念食可《オモホシメセカ》。神《カム・カミ》風乃《カセノ》。伊勢能國者《イセノクニハ》。奧津藻毛《オキツモモ》。靡足波(165)爾《ナヒキシナミニ》。鹽氣能味《シホケノミ》。香乎禮流國爾《カヲレルクニヽ》。味凝《ウマコリ》。文爾乏寸《アヤニトモシキ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之御《ヒノミコ》。
高《タカ》照《ヒカル・テラス》日之《ヒノ》皇子《ミコ・ワカミコ》。
高照《タカヒカル》は、枕詞。日之皇子《ヒノミコ》とは、天皇は、日之神の御末ぞと申意也。この事上【攷證一下十九丁】にいへり。ここは、わが大王《オホキミ》は、日の神の御末ぞと申す意なり。
何方爾《イカサマニ》。所念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。
本集一【十七丁】に、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、天離夷者雖有《アマサカルヒナニハアレト》、石走淡海國乃《イハヽシノアフミノクニノ》、樂浪乃大津宮爾《サヽサミノオホツノミヤニ》、天下所知食兼《アメノシタシラシメシケム》云々ともありて、食可《》は、めせばかの意にて、可《カ》は、疑ひの辭なれば、右に引る一卷の歌にて、所知食兼《シラシメシケム》と結べり。さて、こゝはいかさまにおぼしめせばか、この伊勢の國には、おはしますらんとのたまふ也。
神風乃《カムカセノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十四丁】にも出たり。
靡足波爾《ナヒキシナミニ》。
靡足《ナヒキシ》は、波へもかゝりて、波の風にふきよせられなどするを、なびくといひて、藻も、波も、なびく也。本集二十【六十三丁】に、阿乎宇奈波良加是奈美奈妣伎《アヲウナハラカセナミナヒキ》、由久左久佐都々牟許等奈久《ユクサクサツヽムコトナク》、布禰波々夜家無《フネハヽヤケム》云々とあるにても、波のなびくといふをしるべし。さて、足をしの假字用ひしは、略訓也。割をき、石をし、市をちの假字に用ふるたぐひ多し。或人、九【十九丁】に、片足羽河《タダシハカハ》とあるを、ここの略訓の例に引たれど、あしの、あの字は、かたのたの字の引聲にこもりて、おのづからにはぶかるゝ格なれば、こゝの例にあらず。
鹽氣能味《シホケノミ》。香乎禮流國爾《カヲレルクニヽ》。
鹽氣は、鹽の氣也。本集九【卅二丁】に、鹽氣立荒礒丹者雖有《シホケタツアリソニハアレト》云々。能味《ノミ》はばかりの意。この伊勢の國は、鹽氣のみ立みち(166)たる國なるを、いかにおぼしめしてか、この國にはおはすらんとの意也。香乎禮流《カヲレル》は、鹽氣のたちて、くもれるをいへり。書紀神代紀上、一書に、我所v生之國、唯有2朝霧1、而薫滿之哉、云々。神樂、弓立歌に、多久保乃計《タクホノケ》、以曾良加左支仁《イソラカサキニ》、加保利安不《カホリアフ》、於介於介《オケオケ》云々とあるは、こゝと同語なれど、假字たがへり、とあるにても思ふべし。さて、この所、必ず脱句あるべし。鹽氣能味香乎禮流國爾《シホケノミカヲレルクニニ》、味凝文爾乏寸《ウマコリノアヤニトモシキ》とはつづくべくもあらぬうへに、上に、何方爾所念食可《イカサマニオホシメセカ》とある、可もじの結びなし。されば、こゝに脱句ありて結び辭もうせしこと、明らけし。
味凝《ウマコリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。本集六【十一丁】に、味凍とかけるも、借字にて、美織《ウマクオリ》の綾とつづけしにて、くおの反、こなれば、うまごりとはいへりき。綾を詞のあやにとりなしてつづけし也。
文爾乏寸《アヤニトモシキ》。
文爾《アヤニ》は、借字にて、まへにいへるごとく、歎息の辭なり。乏寸《トモシキ》といふに、三つあり。一つは、めづらしと愛すると、一つは、うらやましき意なると、一つは、實に乏《トモシ》くまれなる意なると也。うらやましき意なるは、上【攷證一下四十一丁】ともしくまれなる意なるは、下【攷證三上五十七丁】にいへり。こゝなるは、めづらしと愛する意なる事、何にまれ、少くともしき物は、めづらしく思ふよりいへる也。そは、本集三【廿二丁】に、出來月乃光乏寸《イテクルツキノヒカリトモシキ》云々。四【廿丁】に、人之見兒乎青四乏毛《ヒトノミルユヲワレシトモシモ》云々。六【十一丁】に、味凍綾丹乏敷《ウマコリノアヤニトモシキ》云々。九【十五丁】に、吉野川音清左見二友敷《ヨシヌカハオトノサヤケサミルニトモシク》云々などありて、猶多し。さてこゝの意は、あやにともしくめづらしと思ひ奉る、日之皇子と、天皇をさして申給ふ也。この御歌一首は《(マヽ)》の意は、脱句あれば、解しがたし。また夢中の御詠なれば、おのづからにし(167)どけなきにや。またこの天皇、はじめよし野に入せ給ひしが、吉野より伊勢國へ幸ありし事あるをおぼしいでゝ、よみ給へるにもあるべし。
藤原宮御宇天皇代。高天原廣野姫天皇。
天皇、御謚を持統と申す。この宮の事は、上【攷證一上四十三丁】に出たり。高天原廣野姫天皇の九字、印本大字とす。今集中の例によりて、小字とせり。
大津皇子薨之後。大來《オホク》皇女。從2伊勢齋宮1上v京之時。御作歌。二首。
大津《オホツ》皇子薨。
天武帝の皇子也。朱鳥元年十月。薨給へり。上【攷證二上廿二丁】にもくはし。
大來《オホク》皇女。
天武帝の皇女、大津皇子同母の御姉なり。白鳳二年、齋宮になり給ひて、朱鳥元年十一月に、齋宮より、京にかへらせ給ひぬ。こは、大津皇子の御事によりてなるべし。この皇女、まへには、大伯皇女と見えたり。その所【攷證二上廿三丁】にくはし。
163 神風之《カムカセノ》。伊勢能國爾母《イセノクニニモ》。有益乎《アラマシヲ》。奈何可來計武《ナニシカキケム》。君毛不有爾《キミモアラナクニ》。
奈何《ナニシ》。
奈何は、集中、なぞ、などかなどもよめり。みな義訓なり。
(168)君不有爾《キミモアラナクニ》。
君は、大津皇子をさしたまへり。一首の意明らけし。
164 欲見《ミマクホリ》。吾爲君毛《ワカセシキミモ》。不有爾《アラナクニ》。奈何可來計武《ナニシカキケム》。馬疲爾《ウマツカラシニ》。
欲見《ミマクホリ》。
字のごとく、見んと欲する也。本集三【四十二丁】に、朝爾食欲見其玉乎《アサニケニミマクホリスルソノタマヲ》云々。四【廿六丁】に、生日之爲社妹乎欲見爲禮《イケルヒノタメコソイモヲミマクホリスレ》云々などありて、猶いと多し。こゝは、わが見まくほりせし君もなう《(マヽ)》なくにと、上下して、心得べし。そは、七【十九丁】に、欲見吾爲里乃《ミマクホリワカスルサトノ》云々。また【廿六丁】見欲我爲苗《ミマクホリワカスルナヘニ》云々などあるもおなじ。
馬疲爾《ウマツカラシニ》。
略解には、うまつかるゝにと訓れど、舊訓のまゝ、うまつからしにとよむべし。わが見んと思ふ君も、いまはおはさぬものを、何しにか來にけん。たゞ馬をつからすのみぞと也。疲《ツカル》は、本集七【廿七丁】に、春日尚田立羸《ハルヒスラタニタチツカル》云々。十一【廿六丁】に、玉戈之道行疲《タマホコノミチユキツカレ》云々。靈異記中卷に、疲【都加禮爾弖】とありて、遊仙窟に、日晩途遙、馬疲人乏云々と見えたり。さて、こは、齋宮自ら、馬にのり給ふにはあらず。御供の人々の馬を、のたまふ也。そは、延喜齋宮式に、凡從行群官以下給v馬、主神司中臣忌部宮主各二疋、頭四疋、助三疋、命婦四疋、乳母并女嬬各三疋、輿長及殿守各一疋云々。凡齋王、還v涼者、其齋王衣服輿輦之類、官便附v使送v之、皆堺上而脱易【衣服之類、給2忌部1、輿輦之類、給2中臣1、又各加2鞍御馬一匹1】云々とあるにても、齋宮は御輿にて、從行の人は騎馬なるをしるべし。
移2葬大津皇子|屍《ミカハネ》。於葛城二上山1之時。大來皇女哀傷御作歌。二首。
(169)移葬。
假寧令集解に、改2移舊屍1、古記曰、改葬謂d殯2埋舊屍柩1改移v之類u云々とあれば、移葬は改葬といふに同じく、今まで殯してありつるを、墓所に移し葬るをいへり。
屍《ミカバネ》。
考に、屍をおきつきとよまれしは、甚しき誤り也。屍は、禮記曲禮に、在v牀曰v屍、在v棺曰v柩云々とありて、屍は 人死していまだ柩にも入ざるをいへる事、古事記中卷に、大山守命之骨者、葬2于那良山1也云々とある、骨も、みかばねとよむべきにてもしるべし。本集十八【廿一丁】に、海行者美都久屍《ウミユカハミツクカハネ》、山行者草牟須屍《ヤマユカハクサムスカハネ》云々とも見えたり。さて、おくつきは、墓の事なれば屍をよめるは誤り也。この事は、下【攷證三 】にいふべし。
葛城二上山。
いま葛城山は、大和國葛上郡、二上山は、葛下郡なり。葛城は、書紀神武紀に高尾張邑、有2土蜘蛛1、其爲v人也、身短而手足長、與2侏儒1相類、皇軍結2葛網1、而掩襲殺v之、因改號2其邑1、曰2葛城1云々とありて、いにしへは、葛上下二郡、おしなべて葛城とは云ひし也。和名抄國郡部に、大和國葛上【加豆良岐乃加美】葛下【加豆良木乃之毛】云々とありて、二郡とはわかれしかど、猶かつらぎといへり。されば、葛下郡の二上山をも、葛城二上とはいへる也。そは、延喜神名式に、大和國葛下郡、葛木二上神社云々とあるにても思ふべし。大和志に、葛下郡二上山墓在2二上山、二上神社東1云々と見えたり。猶この山は、集中の歌にも見えて、越中にも同名あり。
165 宇都曾見乃《ウツソミノ》。人《ヒト》爾有《ナル・ニアル》吾哉《ワレヤ》。從明日者《アスヨリハ》。二上山乎《フタカミヤマヲ》。弟世登吾將見《イモセトワレミム》。
(170)宇都曾見乃《ウツソミノ》。人《ヒト》爾有《ナル・ニアル》吾哉《ワレヤ》。
宇都曾美は、現身《ウツシミ》といふ意なる事、志《シ》と曾《ソ》と音かよへば也。これを、借字に、虚蝉《ウツセミ》、空蝉《ウツセミ》などかけるも、志《シ》と世《セ》と音かよひて、現身《ウツシミ》なり。この事は、冠辭考、うつせみの條にくはし。さて、こゝの意は、己れは現《ウツヽ》の身の人にはあれども、君を、二上山に葬りたるからは、明日よりは、その二上山を、いもせとは見んとなり。
弟世登吾將見《イモセトワレミム》。
弟を、いもせとよむは、妹の意にて、義訓なり。兄弟夫婦、おしなべて、いもせとはいへり。そは、書紀仁賢紀、分注に、古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹《イモ》云々とありて、いもせは、男女の稱にて、兄弟夫婦ともに、男は女を、いもといひ、女は男を、せといひしより、こゝは兄弟を、いもせとはいへる也。本集六【卅二丁】に、不言問木尚妹與兄有云乎《モノイハヌキスライモトセアリトフヲ》、直獨子爾有之苦者《タヾヒトリコニアルカクルシサ》云々。十七【廿三丁】に、伊母毛勢母和可伎紀等毛波《イモモセモワカキコトモハ》云々。七【十九丁】に、人在者母之最愛子曾《ヒトナラハハヽノマナコソ》、麻毛吉木川邊之妹與背之山《アサモヨシキノカハノヘノイモトセノヤマ》云々。後撰集雜三に、はらからの中にいかなる事かありけん、つねならぬさまに見え侍りければ、よみ人しらず、むつまじきいもせの山の中にさへへだつるくものはれずもあるかな云々。宗于集に、はらからなる人の、うらめしきことあるをりに、君とわがいもせの山も秋くればいろかはりぬるものにぞありける云々。これら、みな兄弟をいへり。夫婦をいへるは、やゝ後のことなり。
166 礒之於爾《イソノウヘニ》。生流馬醉木乎《オフルツヽジヲ》。手折目杼《タヲラメト》。令視倍吉君之《ミスヘキキミカ》。在常不言爾《アリトイハナクニ》。
(171)礒之於爾《イソノウヘニ》。
磯《イソ》は借字にて、曾《ソ》と志《シ》と音かよへば、石なり。本集十一【十二丁】に、磯上立回香瀧《イソノウヘニタチマフタキノ》云云。十二【三丁】に、磯上生小松《イソノウヘニオフルコマツノ》云々などあるも、皆石なり。於《ウヘ》は、三【四十丁】に、玉藻乃於丹獨宿名久二《タマモノウヘニヒトリネナクニ》などもよみて、廣韻に、於居也とあれば、自らうへの意こもれり。
生流馬醉木乎《オフルツツシヲ》。
馬醉木を、考には、あしびと訓て、本集二十【六十二丁】に、安之婢《アシヒ》とあると、同物として、今いふ木瓜《ホケ》なりといはれしは、誤れり。そのよしを、くはしくいはん。まづ、馬醉木は、本集八【十五丁】十三【二丁】などには、馬醉木とかき、十【十丁十四丁十七丁】には、馬醉花とかけり。いづれも、この集の外、漢土の書にも見ゆる事なし。これこの集の義訓に、まうけて、嶼る字なれば也。本集十に、馬醉花とかける、三首の歌は、六帖第六、あせみの條に載て、みなあせみと訓り。こは、天暦の御時、梨壺の五人に詔して、この集を讀解しめ給ひしをりの訓なるべけれど、其後、仙覺がつゝじと訓せしぞさる事なりける。そもそも、つゝじを、馬醉木と書たる事、この集の外は、ものに見えざれど、和名抄木類に、陶隱居本草注云、羊躑躅【擲直二音、和名以波豆々之、一云毛知豆々之】羊誤食v之、躑躅燭而死、故以名v之云々とありて、本はつゝじを、羊躑躅といひしかど、やがて、羊の字をはぶきて、躑躅とのみもいひし事、漢土の書にも多くありて、今もしか也。躑躅とは、一切經音義卷八、引2字林1て、躑躅※[足+主]足不v進也云々。玉篇に、躑躅不v能v行云々とありて、ゆくことならざる意にて、羊の、つゝじを食へば、足すくみて、行ことならざる故に、つつじを、しか名づけしなれば、馬の醉《ヱヘ》るも、足すくみて、行ざるもの故に、馬の醉《ヱヘ》るは、躑躅する事、もとよりなれば、躑躅の意をとりて、つゝじに、馬醉木とはかける也。こは、謎《ナゾ》のごとき、字の用ひ(172)ざまなる事、集中、山下風を、あらしのかせとよみ、馬聲の二字を、いの假字とし、所聞多を、かしまとまみ、向南を、きたとよみ、八十一を、くゝとよみ、二五を、とをとよみ、十六を、しゝとよみ、義之を、てしとよめる類、かぞへがたし。この類としるべし。さで、馬醉木《アシヒ》も、安之婢《アシビ》も、前によめる所も、咲時も、大かたは同じければ、同物とせしも、ことわりなれど、上にいへるを見ても、同物ならぬをしるべし。(頭書、再考るに、馬醉木をつゝじとせしは非なりけり。大和本草本草啓蒙など※[木+浸の旁]木【アセホ】を當たるも非也。※[木+浸の旁]木は、食へば、馬の醉るもの故に、馬醉木の字にのみ付て、これを定めしなるべけれど、花小き白き花にて、房になりて咲て、正月の末にひらきて、見るにたらね花也。集中詠る所を、こゝにあげたれば、よくく考へて、これに|なら《(マヽ)》ぬをしるべし。七【十丁】に、安志妣成榮君之《アシヒナスサカエシキミカ》云々。八【十五丁】に、山毛爾咲有馬醉木乃《ヤマモセニサケルアシヒノ》、不惡君乎何時《ニクカラヌキミヲイツシカ》云々。十【十四丁】に、吾瀬子爾吾戀良久者《ワカセコニワカコフラクハ》、奧山之馬醉花之今盛有《オクヤマノアシヒノハナノイマサカリナリ》。また十七丁、春山之馬醉花之不惡《ハルヤマノアシヒノハナノニクカラズ》云々。十三【二丁】に、本邊者馬醉木花開《モトヘハアシヒハナサク》、末辺方椿花開《スヱヘハツハキハナサク》云々。二十【六十二丁】に、乎之能須牟伎美我許乃之麻家布美禮姿安之婢乃波奈毛左伎爾家流可母《ヲシノスムキミカコノシマケフミレハアシヒノハナモサキニケルカモ》。また伊氣美豆爾可氣左倍見要底《イケミツニカケサヘミエテ》、佐岐爾保布安之婢乃波奈乎蘇弖爾古伎禮奈《サキキニホフアシヒノハナヲソテニコキレナ》。また伊蘇可氣乃美由流伊氣美豆《イソカケノミユルイケミツ》、底流麻※[泥/土]爾左家流安之婢乃知良麻久乎思母《テルマテニサケルアシヒノチラマクヲシモ》などあるを、おしわたし考るに、あしびなす榮えし君とも、山も迫にさけるあしびとも、池水てるまでにともあれば、花やかに咲榮ゆるものとこそおもはるれ。今いふあせぼの如く、見るにもたらぬ花を、いかでか賞すべき。このあせぼといふ木、たま/\馬に毒する功ありとも、これとは定めがたき事、人に毒するもの一二種のみならねば、馬に毒するものもまた猶ありぬべきにてしるべし。されば、冠辭考にいはれたる如く、木瓜なるべし。木瓜の種類、いと多き中に(173)も、しどみと云ふものぞ、古しへのあしびなるべき。これを、中古よりは、あせみといへり。しとせと通ずればなり。堀川百首に【俊頼】とりつなげ玉田横野のはなれごま、つゝじのけたにあせみはなさくとよまれたれど、かのあせぼは、正月末、二月のはじめに咲て、つゝじに先だつ事、一月あまり也。又夫木抄卷廿九に、【光俊】おそろしや、あせみの枝を折たきて、南にむかひいのるいのりはとよまれしは、人を呪咀する護摩には刺ある木をたきて、南に向ひて祈るよしなれば、今の木瓜よく當れり。されば、中古よりは、木瓜と定めしなれば、今もこれに從ふべし。)
在當不言爾《アリトイハナクニ》。
このなくには、下へ意をふくめたるにて、一首の意は、今この二上山の、石の上に、生たるつゝじの花を、手をらめども、見すべき君が、ありともいはぬは、いとかなしと、悲しみ給へるなり。さて、考に、移はふりの日に、皇女もしたひゆきたまふ道のへに、この花を見て、よみ給へるもの也。上の歌に、あすよりはとあるからは、他《アタ》し日にあらず。さて、かゝる時に、皇子、皇女も、そこへおはする事、紀にも、集にも、見ゆ。古への心ふかさしるべし云々といはれつるがごとくなれば、左注に、不v似2移葬之歌1とあるは、非なり。
右一首。今案。不v似2移葬之歌1。盖疑。從2伊勢神宮1還v京之時。路上見2花盛1。傷哀咽作2此歌1乎。
(174)右の左注は、誤りなる事、まへにいへるがごとし。哀咽は、かなしみむせぶ意なる事、上に見2結松1哀咽歌とある所にいへるがごとし。さて、次の日並知皇子云々の端辭を、印本、この左注につづけしるせり。今、活字本、古本などによりて、別行とす。
日並所知皇子尊。殯宮之時。柿本朝臣人麿作歌。一首。并短歌二首。
日並所知《ヒナメシノ》皇子尊。
文武天皇の御父、草壁皇子を申奉る。尊號を、岡宮天皇と申奉れり。そのよしは、上【攷證一下廿四丁】にいへり。さて、所知の二字、印本なし。今、上の元暦本によりて補ふ。續日本紀には、日並知皇子とあり。所の字は、そへたるのみ。上【攷證二上廿七丁】考へ合すべし。(頭書、再考、所知の二字なきをよしとす。そのよしは上【攷證二上廿七丁】にいへり。)
殯宮之時。
考云、この集に、葬の後にも、殯の時とあるは、既葬奉りても、一周、御はか仕へする間をば、殯といひしのみ。天皇の外は、別に殯宮をせられねば也云々といはれつれど、この歌にも、眞弓乃岡爾《マユミノヲカニ》、宮柱太布座《ミヤハシラフトシキマシ》云々とありて、下の、明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮歌にも、木※[瓦+缶]宮乎、常宮跡定賜云々ともあれば、殯宮なしとはいひがたし。皇女すら、かくのごとし。まして、こゝは皇太子におはし奉れば、殯宮ありし事明らけし。今考ふるに、天皇は、さる事にて、皇子、皇女などは、別に殯宮をたてらるゝ事はなくて、御墓と定むべき所のかたはらに、殯宮をおかれし事とおぼゆ。そは、この歌、下の歌などを考へ合せて、しるべし。さて、書紀持統紀に、三年四月、乙未、皇太子草壁皇子尊薨云々と見えたり。
(175)柿本朝臣人麿。
印本、朝臣の二字なし。集中の例、姓をしるせれば、目録によりて補ふ。また、麿を、丸に作れど、これも又目録によりてあらたむ。麿を、丸とかくは、やゝ後のことにて、古今集眞字序に、人丸とあるも、古本にも、人麿とせり。
二首。
この二字も、印本なし。集中の例によりて加ふ。
167 天地之《アメツチノ》。初時之《ハシメノトキシ》。久堅之《ヒサカタノ》。天河原爾《アマノカハラニ》。八百萬《ヤホヨロツ》。千萬神之《チヨロツガミノ》。神《カム》集《ツトヒ・アツメ》。集《ツトヒ・アツメ》座而《イマシテ》。神分《カムハカリ》。分之時爾《ハカリシトキニ》。天照《アマテラス》。日女之命《ヒルメノミコト》【一云。指上《サシノホル》。日女之命《ヒルメノミコト》。】天乎波《アメヲハ》。所知《シラシ》食《メヌ・メサム》登《ト》。葦原乃《アシハラノ》。水穗之國乎《ミツホノクニヲ》。天地之《アメツチノ》。依相之《ヨリアヒノ》極《キハミ・カキリ》。所知行《シラシメス》。神之命等《カミノミコトト》。天雲之《アマクモノ》。八重掻別而《ヤヘカキワケテ》。【一云。天雲之《アマクモノ》。八重雲別而《ヤヘクモワケテ》。】神下《カムクタリ》。座奉《イマセマツリ・イマシツカヘ》之《シ》。高《タカ》照《ヒカル・テラス》。日之皇子波《ヒノミコハ》。飛鳥之《アスカノ》。淨之《キヨミノ・キヨメシ》宮爾《ノミヤニ》。神髄《カムナカラ・カミノマニ》。太布座而《フトシキマシテ》。天皇之《スメロキノ》。敷座國等《シキマスクニト》。天原《アマノハラ》。石門乎開《イハトヲヒラキ》。神《カム・カミ》上《アカリ》。上《アカリ》座《イマシ・マシ》奴《ヌ》。【一云。神登《カムノホリ》。座爾之可婆《イマシニシカハ》。】吾王《ワカオホキミ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》。天下《アメノシタ》。所知食世者《シラシメシセハ》。春花之《ハルハナノ》。貴《タフト・カシコ》(176)在等《カラムト》。望月乃《モチツキノ》。滿《タタ・ミチ》波之計武跡《ハシケムト》。天下《アメノシタ》【一云。食國《ヲスクニ》。】四方之人乃《ヨモノヒトノ》。大船之《オホフネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。天水《アマツミツ》。仰而待爾《アフキテマツニ》。何方爾《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ・オホシメシテカ》。由縁《ツレ・ユヱ》母無《モナキ》。眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》。宮柱《ミヤハシラ》。太布座《フトシキマシ》。御《ミ》在《アラ・アリ》香乎《カヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。明言爾《アサコトニ》。御言《ミコト》不御問《トハサス・トハセス》。日月之《ヒツキノ》。數多《マネク・アマタニ》成塗《ナリヌル》。其故《ソコユヱニ》。皇子之宮人《ミコノミヤヒト》。行方不知毛《ユクヘシラスモ》【一云。刺竹之《サスタケノ》。皇子宮人《ミコノミヤヒト》。歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》。】
初時之《ハシメノトキシ》。
考には、之を、のとよまれしかど、しとよむべし。このしは助字のみ。
天河原爾《アマノカハラニ》。
安之河をいへる也。古事記上卷に、是以八百萬神、於2天安之河原《アメノヤスノカハラ》1、神集而《カムツトヘ/\テ》云々とあり。集中七夕の歌に、天の川原、また天川、安の川原などいへるは、漢土にいへる天漢に、中國の古への、安の川原を、合せていへるなり。
八百萬《ヤホヨロツ》。千萬神之《チヨロツカミノ》。
八百《ヤホ》は、彌百《イヤホ》にで、數多きい《(マヽ)》ふ。こゝは何百萬、何千萬神といへる也。
神《カム》集集《ツトヒツトヒ・アツメアツメ》座而《イマシテ》。
舊訓、かむあつめ、あつめいましてとあるは、いふにもたらぬことにて、考に、かむづまり、つまりいまして、とよめるもいかゞ。古事記にも、上に引(177)るごとくありて、大祓祝詞にも、高天原爾神留坐《タカマノハラニカムツマリマス》、皇親神漏岐神漏美乃命以弖《スメラカムツカムロキカムロミノミコトモチテ》、八百萬神等乎《ヤホヨロツノカミタチヲ》、神集々賜比《カムツトヘニツトヘタマヒ》、神議々腸※[氏/一]《カムハカリニハカリタマヒテ》とあり。されば、かむつどひ、つどひいましてとよむべし。こゝは千萬神の自らつどひ給ふ也。(頭書、古事記上卷に、訓v集云2都度比《ツドヒ》1。)
神分《カムハカリ》。分之時爾《ハカリシトキニ》。
分は、字鏡集に、はかるとよめり。古事記上卷に、八百萬神|議白之《ハカリテ》云々。大殿祭祝詞に、以|天津御量※[氏/一]事問之《アマツミハカリモテコトヽヒシ》云々とありて、まへに引る大祓祝詞にも、神議賜《カムハカリ》と見えたり。こは、神たち、はからひ定めたまふをいへる也。
天照《アマテラス》。日女之命《ヒルメノミコト》。
書紀神代紀上に、生2日神1號2大日〓貴1、【大日〓貴、云2於保比屡※[口+羊]能武智1、〓音力丁反、一書云、天照大神、一書云、天照大日〓尊、】此子光華明彩、照2徹於六合之内1云々とあり。これすなはち、日神にて、天照大神を申奉れり。
一云。指上《サシノホル》。日女之命《ヒルメノミコト》。
日月ともに、そらにさしのぼる故に、枕詞のごとく、さしのぼるひるめの命とつゞけし也。
天乎波《アメヲハ》。所知《シラシ》食《シメシヌ・メサム》登《ト》。
古事記上卷に、其頸珠之、玉緒毛由良邇、取由良迦志而、賜2天照大御神1而、詔v之、汝命者、所2知高天原1矣、事依而賜也云々とあるごとく、天をば、天照大御神のしろしめせば、いへるなり。
(178)葦原乃《アシハラノ》。水穗之國乎《ミツホノクニヲ》。
葦原《アシハラ》は、宣長云、葦原は、もと天つ神代に、高天原よりいへる號にして、この御國ながらいへる號にはあらず。さて、この號の意は、いと/\上つ代には、四方の海べたは、こと/”\く葦原にて、其中に國所はありて、上方より見下せば、葦原のめぐれる中に見えける故に、高天原より、かくは名づけたる也云々といはれつるがごとし。水穗國《ミツホノクニ》の、水は、借字にてみづ/\しき意、穗《ホ》は、稻穗にて、中國は、稻の萬國にすぐれたる國なれば、ことさらに、みづ穗國とはいへる也。これらの事は、宣長が國號考にくはしくいへり。さて、こゝは、古事記上卷に、天照大御神之命以、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝々速日天忍穗耳命之所知國、言因賜而、天降也云々とあるをとりて、よまれし也。
天地之《アメツチノ》。依相之極《ヨリアヒノキハミ》。
本集六【四十三丁】に、天地乃依會限《アメツチノヨリアヒノキハミ》、萬世丹榮將往迹《ヨロツヨニサカエユカムト》云々。十一【四十一丁】こ、天地之依相極《アメツチノヨリアヒノキハミ》、玉緒之不絶常念妹之當見津《タマノヲノタエシトオモフイモカアタリミツ》云々などありて、また十一【九丁】に、天雲依相遠《アマクモノヨリアヒトホミ》云々なども見えたり。考に、すでに、天地の開わかれしてふにむかへて、又よりあはんかぎりまでといひて、久しきためしにとりぬ云々といはれつるがごとし。さて、極《キハミ》といふ言は、まりの反、みにて、きはまりてふ言にて、かぎりをいへり。本集四。(以下空白)(頭書、書紀神代紀下一書に寶祚之隆、當d與2天壌1無uv窮者矣。)
神之命等《カミノミコトト》。
こは、彦火瓊々杵命《ヒコホノニヽキノミコト》を申奉れり。て《(マヽ)》等《ト》もじは神下《カムクタシ》といふへかゝりて、こゝの意はこの葦原の中國は、天神の御子の、しろしめすべき國ぞとて、天の八重雲を、かきわけて、くだし奉り給ふとなり。
(179)天雲之《アマクモノ》。八重掻別而《ヤヘカキワケテ》。
古事記上卷に、押2分天之八重多那雲1而、伊都能知和岐知和岐弖《イツノチワキチワキテ》於2天浮橋1宇岐士摩理蘇理多々斯弖《ウキシマリソリタヽシテ》、天2降坐于|竺紫日向之高千穗之久士布流多氣《ツクシノヒムカノタカチホノクシフルタケニ》1云々。書紀神代紀下に、且排2分天八重雲1云々。大祓祝詞に、天之八重雲 乎、伊頭 乃 千別 爾 千別 弖 云々。本集十一【廿八丁】に、天雲之八重雲隱《アマクモノヤヘクモカクリ》云々などありで、八重《ヤヘ》の八は、例の彌の意にて、天の雲の、いくへともなく、重《カサ》なりたるを、かきわけ、天降し奉れりとなり。
神下《カムクタリ》。座奉之《イマセマツリシ・イマシツカヘシ》。
舊訓、かむくだりいましつかへしとあれど、さては、意聞えがたし。宣長云、十五卷【卅四丁】に、比等久爾々伎美乎伊麻勢弖《ヒトクニヽキミヲイマセテ》とあれば、いませまつりしとよむべし。いませは、令v坐の意也云々といはれしによるべし。意はまへにいへり。
日之皇子波《ヒノミコハ》。
賂解云、この日之皇子は、日並知皇子尊を申す也。この句にて、しばらく切て、天原云々といふへかゝる。この國土は、天皇の敷坐國也として、日並知尊は、天へ上り給ふといひなしたり。この時、天皇は持統天皇にて、淨御原宮におはしませり云々といへるがごとし。
飛鳥之《アスカノ》。淨之宮爾《キヨミノミヤニ》。
この天武帝の大宮なり。上【攷證一上卅六丁】にいへり。
神髄《カムナカラ・カミノマニ》。
かむながらと訓べし。神にましましまゝ《(マヽ)》にといへる意也。この事は、上【攷證一下八丁】にいへり。
(180)太布座而《フトシキマシテ》。
太《フト》は、ものをほめていふ詞、布《シキ》は借字にて、知り領し給ふをいふ言にて、本集一【廿一丁】に、高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》、神長柄神佐備世須登《カムナカラカムサヒセスト》、太數爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》云々ともありて、こは天武帝の御代しろしめすを申せり。さて、この事は、上【攷證一下十九丁】にいへり。
天皇《スメロキ》。
天皇は、集中すめろぎとも、おほきみとも訓たり。下【攷證三下四十五丁】考へ合すべし。
敷座國等《シキマスクニト》。
この國土は、天皇のしりまします國とて、日の皇子は、天をしらさんとて、こゝをさり給ひて、天にのぼり給ふと也。等《ト》もじに、心をつくべし。(頭書、しきますとは、知り領しますをいへる事。)
石門乎開《イハトヲヒラキ》。
古事記上卷に、天石屋戸。書紀神代紀下に、引2開天磐戸1とあるも、皆こゝに、石門とあると同じ。石《イハ》は、實の石にはあらで、たゞ堅固なる、たとへいへるにて、天之|石位《イハクラ》、天之|石靱《イハユキ》、天|磐船《イハフネ》などの類也。また、豐石窓《トヨイハマト》、櫛石窓《クシイハマト》などいふ、石《イハ》も同じ。こは天上にて、神のおはします所なれば、この皇子、薨じ給へるを、神上《カムアカリ》し給ふといへるに、かりに天原の石門を開て、のぼり給ふよしにいへる也。さて、この開の字を、宣長は、開は閇の誤りにて、たてとよむべし。三卷【四十五丁】に、豐國乃鏡山之石戸立《トヨクニノカゞミノヤマノイハトタテ》、隱爾計良思《コモリニケラシ》とある類也。開といふべきにあらず。石門を閇て、上るといひては、前後たがへるやうに思ふ人あるべけれど、神上は、隱れ給ふといふに同じ。天なる故に、上りとは申す也云々とて、開を閇に改められたり。こは、古(181)事記、舊印本に、開2天石屋戸1而、刺許母理《サシコモリ》坐也とあるは、聞は閇の誤りにて、既に古本には、閇とある例ともすべけれど、書紀に、引2開天磐戸1云々。大祓祝詞に、天津神 波 天磐門 乎 押披 ※[氏/一]《オシヒラキテ》云々などありて、門は、出るにも、入るにも、開くべきものなれ、本のまゝに、開として、何のうたがはしき事かあらん。閇に改むるは、なか/\に誤りなるべし。
神《カム・カミ》上《アカリ》。
古事記、書紀など、崩をかむあがりとよめり。こゝも、崩給ふをいへるにて、天皇にまれ、皇子にまれ、崩じ給ふを、神となりて、天に上り給ふよしにいへる事は、集中、皇子たちの薨じ給ふにも、天《アメ》を所知《シラス》よしにいへるにても思ふべし。そは、本集此卷【卅六丁】三【五十八丁】五【四十丁】など考へ合せてしるべし。
上《アカリ》座《イマシ・マシ》奴《ヌ》。
天へ上り行《ユキ》ましぬと也。この座《イマシ》はつねの居る事を、座《イマス》といふとは、少しことかはりて、行ます事をいへる也。そは、古事記中卷に、佐々那美遲袁《ササナミヂヲ》、須久須久登和賀伊麻勢婆《スクスクトワカイマセハ》云々。本集三【卅八丁】に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラシソノミチ》云々。四【卅二丁】に、彌遠君之伊座者《イヤトホニキミカイマサハ》云々。十五【四丁】に、大船乎安流美爾伊多之伊麻須君《オホフネヲアルミニイタシイマスキミ》云々。また【五丁】多久夫須麻新羅邊伊麻須《タクフスマシラキヘイマス》云々。廿【四十四丁】に、安之我良乃夜敝也麻故要※[氏/一]伊麻之奈婆《アシカラノヤヘヤマコエテイマシナバ》云々などあるに同じ。一云に、神登座爾之可婆《カムノホリイマシニシカハ》とありては、意聞えがたし。
吾王《ワカオホキミ》。皇子之命乃《ミコノミコトノ》。
こは、日並知皇子を申奉る也。すべて皇太子をば、日並皇子尊、高市皇子尊など、皇子の下へ、尊といふ字を付て、尊稱すれど、こゝに皇子之命とあるは、それとは別にて、妹の命、嬬の命、父の命、母の命など、たゞも《(マヽ)》命の字を付て、尊稱する詞なる事、本集三【五十七丁】安積皇子の薨時の歌も、吾王御子乃命《ワカオホキミミコノミコト》云々とあるにて、(182)しるべし。此句よりは、日並知皇子の、天下をしろしめさば、めでたからんと思ふことのさまをいへり。
春花之《ハルハナノ》。
枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。春の花は、めでたくうるはしきものなれば、貴《タフトシ》とは、つゞけしなり。之はごとくの意也。猶くはしくは、冠辭考補遺にいふべし。
貴《タフト・カシコ》在等《カラムト》。
古事記上卷に、益2我王1而甚|貴《タフトシ》云々。また、斯良多麻能伎美何余曾比斯多布斗久阿理祁理《シラタマノキミカヨソヒシタフトクアリケリ》云々。本集五【七丁】に、父母乎美禮婆多布斗斯《チチハハヲミレハタフトシ》云々。また【卅九丁】世人之貴慕《ヨノヒトノタフトミネカフ》云々。六【廿八丁】に、常磐爾座貴吾君《トキハニイマセタフトキワカキミ》云々。催馬樂安名尊歌に、安奈太不止《》、介不乃太不止左也《アナタフトケフノタフトサヤ》云々など見えたり。みなめでたくありがたきをいへり。宣長云、たふとからんとゝよむべし。たふときといふ言は、古へは、めでたき事にも多くいへり。貴の字に、かゝはりて、たゞこの字の意とのみ思ふべからず。この事、古事記傳にくはしくいへり。考に、貴とは、花にいふことばにあらずとて、賞の字に改められしは、中々にわろし云々といはれつるがごとし。さて、こゝの意は、わが皇子の命の、御代とならず(ばカ)、春の花のさきさかゆるがごとくめてたからんと、又望月のてりみちたるごとく、たゝはしけんと思ひしものをとなり。
望月乃《モチツキノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。望月のごとく、滿はしけんとつゞけし也。
滿《タタ・ミチ》波之計武跡《ハシケムト》。
舊訓、みちはしけんとゝよめるは、いふにもたらぬ誤り也。本集十三【廿八丁】に十五月之多田波思家武登《モチツキノタタハシケムト》云々とあるによりて、たゝはしけんとゝよむ(183)べし。また十三【十一丁】に、天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》云々。十九【四十一丁】に、韓國爾由伎多良波之※[氏/一]《カラクニニユキタラハシテ》云々などもあれば、たらはしともよむべけれど、枕詞よりのつゞけざまを思ふに、猶たゝはしよむ《(マヽ)》むかたまされり。さて、こゝは、十五夜の月のごとく、足そなはりとゝのひなんといへる也。
大船之《オホフネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは海上にては、たゞ大船を、たのもしきものに思ひたのむものゆゑに、しかつゞけしなり。
思憑而《オモヒタノミテ》。
わが皇子の命の、天下をしろしめさば、めでたく滿しからんと、天下の四方の人の、思ひたのみ奉りて、あふぎてまち奉りしものを、いかにおぼしめしてか、かく早く、世をさり給ひけんとなり。
天水《アマツミツ》。仰而待爾《アフキテマツニ》。
天水《アマツミツ》は、雨なり。ひでりの時、天をあふぎて、雨を待ごとく、君が御代をまちしとなり。本集十八【卅二丁】、小旱歌に、彌騰里兒能知許布我其登久《ミトリコノチコフガコトク》、安麻都美豆安布藝弖曾麻都《アマツミツアフキテソマツ》云々と見えたり。又史記晋世家に、孤臣之仰v君、如3百穀之望2時雨1云々ともあり。
何方爾《イカサマニ》。御念食可《オモホシメセカ》。
いかにおぼしめせはかの意にて、可は、ばかの意也。この事は、上【攷證一上四十七丁】にいへり。
由縁《ツレ・ユヱ》母無《モナキ》。
宣長云、三巻【五十四丁】に、何方爾念鷄目鴨《イカサマニオモヒケメカモ》、都禮毛奈吉佐保乃山邊爾《ツレモナキサホノヤマヘニ》云々。十三巻【廿九丁】に、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、津禮毛無城上宮爾《ツレモナキキノヘノミヤニ》、大殿乎都可倍奉而《オホトノヲツカヘマツリテ》云々。これらによるに(184)こゝの由縁母無、また下【卅丁】なる所由無佐大乃岡邊爾《ツレモナキサタノヲカヘニ》云々などをも、つれもなきとよむべきこと也云々。この説によるべし。さて、これらの、つれもなきは、ゆかりもなきをいへるにて、また本集四【四十八丁】に、都禮毛無將有人乎《ツレモナクアルラムヒトヲ》云々。十【五十一丁】に、吾者物念都禮無物乎《ワレハモノオモフツレナキモノヲ》云々。十九【十九丁】に、都禮毛奈久可禮爾之妹乎《ツレモナクカレニシイモヲ》云々などあるは、今の世にもいふ所と同じく、心づよき意にて、つれなき人などもいひ、難面、強顔などの字をよむ意にて、こゝとは意たがへれども、もとは一つ語なり。
眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》。
延喜諸陵式に、眞弓丘陵、岡宮御宇天皇、在2大和國高市郡1、兆城東西二丁、南北二丁、陵戸六烟云々とあり。日並知皇子を追崇して、岡宮御宇天皇と申すよし、續日本紀、天平寶字二年八月戊申紀に見えたり。また續日本紀に、天平神護元年十月癸酉事駕過2檀山陵1、詔2陪從百官1、悉令2下馬1、儀衛卷2其旗幟1云々とあり。さて、この眞弓岡陵を、大和志に、皇極天皇の祖母の陵とするは誤れり。
御《ミ》在《アラ・アリ》香乎《カヲ》。
御在香は、御ありかの、りをらに通はしたるにて、すなはち宮殿なり。この事は、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
高知座而《タカシリマシテ》。
本集一【十九丁】に、高殿乎高知座而《タカトノヲタカシリマシテ》云々。また【廿二丁】都宮者高所知武等《ミアラカハタカシルラムト》云々など見えて、殿を高く知り領しますなり。この事は、上【攷證一下九丁】にいへり。
明言爾《アサコトニ》。
代匠記に、明言爾《アサコトニ》には、朝毎になり。物のたまふ事は、朝にかぎらざれども、伺候する人は、ことに朝とくより、御あたりちかくはべりて、物仰らるゝ也云々とある(185)がごとし。明言は借字なり。
御言《ミコト》不御問《トハサス・トハセス》。
考云、古へは、ものいふをこととふ、ものいはぬを、ことゝはずといへり。この次に、東のたぎの御門にさもらへど、きのふもけふもめすこともなしといへると、心同じ云々といはれつるがごとく、言問はものいふこと也。そは、古事記中卷に、是御子、八拳※[髪の友が耆]至2于心前1、眞事登波受《マコトトハズ》云々。本集四【廿一丁】に、明日去而於妹言問《アスユキテイモニコトトヒ》云々。また【卅三丁】外耳見管言將問縁乃無者《ヨソノミミツヽコトヽハムヨシノナケレハ》云々。また【五十七丁】事不問木尚《コトトハヌキスラ》云々。五【十一丁】に、許等々波奴樹爾波安里等母《コトヽハヌキニハアリトモ》云々などあるにても思ふべし。集中猶多し。
數多成塗《マネクナリヌル・アマタニナリヌ》。
宣長云、まねくなりぬると訓べし。まねくの事、一卷にいへるがごとし。塗、これをあまたになりぬと訓るはわろし。塗の字、ぬと訓べきよしなし云々といはれつるがごとし。猶上【攷證一下七十四丁】にくはし。
其故《ソコユヱニ》。
それゆゑにといふと同じ。すべて、中ごろよりの言に、それといふべきを、古くはそことのみいへり。そは、本集此卷下【卅一丁】に、所虚故名具鮫魚天氣留《ソコユヱニナクサメテケル》云々。三【五十六丁】に、曾許念爾※[匈/月]己所痛《ソコモフニムネコソイタメ》云々。四【十七丁】に、彼所毛加人之吾乎事將成《ソコモカヒトノワヲコトナサム》云々などありて、集中猶多し。みな、それといふ意也。さて、この句は、明毎爾御言不問、日月之數多(成脱カ)塗といふをうけて、それゆゑに、しか/”\といふ語を起すことば也。
(186)皇子之宮人行方不知毛《ミコノミヤヒトユクヘシラスモ》。
皇子の宮人は、春宮傅よりはじめて、舍人、馬部などまで、春宮の官人をおしなべていふ事ながら、專ら、舍人をいふとおぼし。その舍人等が、御墓仕へする日數へて、それ/”\逸散するを、ゆくへしらずとはいへる也。考云、下の高市皇子尊の殯時、この人のよめる長歌その外、この人の樣を、集中にて見るに、春宮舍人にて、この時もよめるなるべし。然れば、こゝの宮人は、もはら大舍人の事をいふ也。その舍人の輩、この尊の返ましては、つく所なくて、思ひまどへること、まことにおしはかられてかなし云々。
一云。刺竹之《サスタケノ》。皇子宮人《ミコノミヤヒト》。歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》。
刺竹之《サスタケノ》は、枕詞に、冠辭考にくはしく解れしかど、あたれりともおぼえず。とにかくに、思ひ得る事なし。さて、これも意は、本書とかはる事なけれど、句のつゞき、本書のかたまされり。
反歌二首
168 久堅乃《ヒサカタノ》。天見如久《アメミルコトク》。仰見之《アフキミシ》。皇子乃御門之《ミコノミカドノ》。荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
仰見之《アフキミシ》。
仰《アフク》は、すべて下より上を見る事なれば、下より、天皇、皇子などを見奉るにもいへり。御門などは、必らず、あふぎ見るものならねど、尊み敬ひて仰見之とはいへり。(187)されば、天見如久《アメミルコトク》とは、たとへし也。まへに、天水仰而待爾《アマツミツアフキテマツニ》とあるをも思ふべし。
荒卷惜毛《アレマクヲシモ》。
荒《アレ》んはをLもにて、もは助字也。まくは、んといふ意にかよへり。上【攷證二上廿一丁】にいへり。考云、こは高市郡、橘の島宮御門なり。さて、次の舍人等が歌どもにも、この御門の事のみを、專らいひ、下の高市皇子尊の殯の時、人まろの、御門の人とよみしを、むかへ見るに、人まろ、即舍人にて、その守る御門を申すなりけり。
169 茜刺《アカネサス》。日者雖照有《ヒハテラセレト》。烏玉之《ヌハタマノ》。夜渡月之《ヨワタルツキノ》。隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。
茜刺《アカネサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。集中、茜、赤根などかけるは、借字にて、あかねを約すれば、あけとなれり。あけは、赤にて、日はまづ赤くさすものなれば、しかつづけしなり。
夜渡月之《ヨワタルツキノ》。
渡るは、行意にて、夜ゆく月也。この事は、まへにいへり。
隱良久惜毛《カクラクヲシモ》。
らくは、いと多く、あぐるにいとまなし。こは、るを延《ノベ》たる言にて、隱るをしも、云《イフ》をいはく、申すをまをさくなどいふ類なり。考云、これは、日嗣の皇子尊の、御事を、月にたとへ奉りぬ。さて、上の、日はてらせれどてふは、月のかくるゝをなげくを強《ツヨ》むる言のみ也。かくいへるこゝろ、詞の勢ひ、まことに及ぶ人なし。常のごとく、日をば天皇をたとへ申すと思ふ人あるべけれど、さてはなめげなるに似たるもかしこし。猶もいはゞ、この時天皇おはしまさねば、さるかたにもよくかなはざるめり云々。
(188)或本云。以2件歌1。爲2後皇子尊殯宮之時反歌1也。
右の左注、印本小字なれど、活字本によりて大字とす。又印本、尊を貴に誤れり。集中の例によりて改む。又印本、反歌を歌反とす。これ誤りなる事、明らかなれば、意改せり。さて、後皇子尊とは、高市皇子を申せる也。高市皇子の、皇太子に立たまひし事、書紀には見えざれど、持統天皇三年四月、皇太子日並知皇子薨じ給ひて、十一年に、文武天皇、皇太子に立給ひぬ。この三年より、十一年までの間、この高市皇子、皇太子に立給ひし事明らか也。この事は、上【攷證二上卅二丁】にくはしくいへり。されば、日並知皇子、薨じ給ひて、後の皇太子なれば、後皇子尊とは申なり。書紀持統紀に。十年七月庚戌、後皇子尊薨云云とあるも、この高市皇子の御事なり。
或本歌。一首。
170 島宮《シマノミヤ》。勾之池之《マカリノイケノ》。放鳥《ハナチトリ》。人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》。池爾不潜《イケニカツカス》。
島宮《シマノミヤ》。
島は、庭に池島など作りたるを、島といへば、その島を專らとし給ふ宮のよしにて、島宮とはいへる也。この島宮は、書紀天武紀のはじめに見えて、島宮の池は、天武天皇十年九月紀に見えたり。さて、庭石泉水、築山などを、島といへるは、この次、舍人等が二十三首の歌の中に、御立爲之島乎見時《ミタヽシヽシマヲミルトキ》云々、御立爲之島乎母家跡住鳥毛《ミタヽシヽシマヲモイヘトスムトリモ》云々などありて、集中猶多し。又(189)伊勢物語に、島このみ給ふ君なり云々などあるにても、思ふべし。さて、この事、くはしく宣長が玉勝間卷十三に見えたり。ひらき見てしるべし。この宮は、日並知皇子の、つねにおはしましし宮也。大和志高市郡の條に、島宮、島莊村、一名橘島、又名御島宮、天武天皇元年、便居2於此1、先v是、蘇我梅子、家2於飛鳥河傍1、乃庭中開2小池1築2小島於池中1、時人曰2島大臣1云々と見えたり。
勾之池之《マカリノイケノ》。
こは、御庭の中の池ながら、勾《マカリ》は地名也。安閑天皇の宮を、勾金箸《マカリノカナハシノ》宮と申す、こゝにて、大和國高市郡なり。大和志高市郡の條に、曲川《マカリカハ》、曲岐《マカリヲノ》宮、勾池などあり。皆同所なるべし。さて、書紀崇峻紀に、廣瀬勾原、和名抄郷名に、大和國廣瀬郡下勾などあれば、古へは廣瀬郡なりしが、隣郡なれば、後に高市郡とはなせるか。可v考。次の二十三首の中の歌にも、島宮池上有放鳥《シマノミヤイケノウヘナルハナチトリ》、荒備勿行《アラヒナユキソ》、君不座十方《キミマサストモ》云々とありて、こは放生の鳥にはあらで、池のうへ、また島などに放ち飼ふ鳥也。そは、次に島乎母家跡住鳥毛《シマヲモイヘトスムトリモ》云々。また鳥〓立飼之雁乃兒《トクラタテカヒシカリノコ》云々などよめるにても、思ふべし。また、奧儀抄に、後撰集を引て、かげろふに見しばかりにや、はなち鳥、ゆくへもしらぬ戀にまどはん云々。伊勢歌を引て、はなちどりつばさのなきをとぶからにいかでくもゐを思ひかくらん云々。六帖六に、はなち鳥ゆくへもしらずなりぬれば、はなれしことぞくやしかりける云々などあるは、放生の鳥にて、こゝとは別なり。
人目爾戀而《ヒトメニコヒテ》。
人めにもの、爾《ニ》もじは、をの意にて、人めをこひて也。をの意の爾《ニ》もじの事は、上【攷證二上廿九丁】にいへり。さて人めは、人めもくさもかれぬと思へばなどい(190)ふ、人めと同じく、たゞ人を云て、皇子薨じ給ひて後は、人げもなくさびしければ、鳥さへも、たゞ人をのみこひて、池にもかづかずといふにて、考云、これは、必らず右の反歌にはあらず。次の歌どもの中に、入しものなるを、この所、亂れて、こゝにある也。仍て、こは捨べからず。さて本の意は、下の同じ言ある所にいふ。末は、なれし人めを、なつかしみて、水の上にのみ、うきゐて、底へかづき入ことをせずといひなせり云々。
池爾不潜《イケニカヅカズ》。
かづくとは、水中に入るにて、波をかづくよりいへるなり。人にも、鳥にも、いへり。古事記上卷に、初於2中瀬1降|迦豆伎而《カツキテ》、滌云々。書紀神功紀、歌に、齊多能和多利耳加豆區苔利《セタノワタリニカツクトリ》云々。本集四【五十丁】に、二寶鳥乃潜池水《ニホトリノカヅクイケミヅ》云々。六【十六丁】に、鰒球左盤爾潜出《アハヒタマサハニカヅキデ》云々などありて、集中猶いと多し。
皇子尊宮舍人等。慟傷作歌。二十三首。
考云、こは右の長歌につぎて、同じ御事を、同じ舍人のよめるなれば、端詞をはぶきて書しと見ゆ。職員令に、春宮の大舍人は、六百人あり。その人々、分v番て、宿直するに、今尊の薨ましゝ後も、島宮の外重を守ると、佐太(ノ)岡の御喪舍に侍宿するとある故に、こゝかしこにての歌どもある也云々といはれつるがごとし。さて、慟傷は、かなしみいたむ意にて、玉篇に、慟哀極也云々と見えたり。
(191)171 高《タカ》光《ヒカル》。我日皇子乃《ワカヒノミコノ》。萬代爾《ヨロツヨニ》。國《クニ》所知《シラサ・シラシ》麻之《マシ》。島宮婆母《シマノミヤハモ》。
高《タカ》光《ヒカル・テラス》。
高照と書と同じ。これ正字なり。
國《クニ》所知《シラサ・シラシ》麻之《マシ》。
舊訓、くにしらしましとあるに《(マヽ)》いふにたらぬ誤りにて、しらさましと訓べし。こは、この皇子尊の、この宮にまし/\て、天下をしらさんとこそ思ひつれと、この宮を見るにつけても、思ひいづるさま、さもあるべし。
島宮婆母《シマノミヤハモ》。
婆母《ハモ》といふ語は、下へ意をふくめたる詞にて、歎息のこゝろこもれり。母は、助字なり。そは、古事記中卷に、佐泥佐斯佐賀牟能袁怒邇《サネサシサカムノヲヌニ》、毛由流肥能本邦迦邇多知弖《モユルヒノホナカニタチテ》、斗比期岐美波母《トヒシキミハモ》云々。本集三【五十三丁】に、芽子花咲而有哉跡問之君波母《ハキノハナサキテアリヤトトヒシキミハモ》云々。また【廿一丁】阿倍乃市道爾相之兒等羽裳《アヘノイチヽニアヒシコラハモ》云々。十【五十五丁】に、吾戀度隱妻波母《ワカコヒワタルコモリツマハモ》云々などあるにて思ふべし。集中猶多し。さて、こゝの意は、我皇子《ワカミコノ》尊の、こゝにおはしまして、天下をいくとせもしらさんと思ひし島の宮|波母《ハモ》、思ひの外に、君がかくれましゝかば、かく人げもなく、あれはてし事にて、歎息の意をこめたるなり。
172 島宮《シマノミヤ》。池上有《イケノウヘナル》。放敷鳥《ハナチトリ》。荒備勿行《アラヒナユキソ》。君不座十方《キミマサストモ》。
(192)池上有《イケノウヘナル》。
印本、上池有《ウヘノイケナル》とせり。誤りなる事明らかなれば、古本によりて改む。
荒傭勿行《アラビナユキソ》。
鳥の、放れて、散ゆくをいひて、この宮に、君がおはしまさずとも、放鳥の、おもひ/\に飛さりゆく事なかれと也。さて、この荒備《アラヒ》は、あらぶる事ながらつねに、あらぶる神などいふ、あらぶるとは、別にて、物の、疎く放りゆくをいへる也。そは、本集四【廿五丁】に、筑紫船未毛不來者豫荒振公乎見之悲左《ツクシフネイマタモコネハカネテヨリアラフルキミヲミムカカナシサ》云々。十一【四十六丁】に、荒振妹爾戀乍曾居《アラフルイモニコヒツヽツソヲル》云々古今集戀四に、伊勢、ふるさとにあらぬものからわがために人の心のあれて見ゆらん云々などあるも、うとく遠ざかりゆくをいへる也。家、庭などのあるゝといふも、本は同語なり。
173 高《タカ》光《ヒカル・テラス》。吾日皇子乃《ワカヒノミコノ》。伊座世者《イマシセバ》。島御門者《シマノミカトハ》。不荒有益乎《アレサラマシヲ》。
島御門者《シマノミカドハ》。
考に、舍人の守る所なれば、專らといふ云々といはれつるはたがへり。この御門は、宮の事にて、島宮の宮殿をいへり。本集一【廿二丁】に、吾作日之御門爾《ワカツクルヒノミカトニ》云々。また【廿三丁】藤井我原爾《フチヰカハラニ》、大御門始賜而《オホミカトハシメタマヒテ》云々などありて、この前後にある御門も、みな宮殿をいへり。古事記下卷に、晝集2於|志毘門《シヒカカト》1云々とあるも、志毘が家也。一首の意は明らけし。
不荒有益乎《アレサラマシヲ》。
印本、益を蓋に作る。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
174 外爾見之《ヨソニミシ》。檀乃岡毛《マユミノヲカモ》。君座者《キミマセバ》。常都御門跡《トコツミカドト》。侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
(193)外爾見之《ヨソニミシ》。
外とかけるは、正字也。本集三【廿八丁】に、筑羽根矣《ツクハネヲ》 四十耳見乍《ヨソノミミツヽ》云々ともありて、集中猶いと多し。
檀乃岡毛《マユミノヲカモ》。
まへに、眞弓岡とあると同じ。和名抄木類に、唐韻云檀【音彈和名萬由三】木名也云々と見えたり。
常都御門跡《トコツミカドト》。
都は助字にて、常の宮といへる也。
侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》。
書紀雄略天皇十一年紀に、信濃國直丁與2武藏國直丁1、侍宿《トノヰシテ》相謂曰云々とありて天武紀には、直者をよめり。漢書地理志に、賓客相過、以v婦侍宿云々とあり。さて、このとのゐの假字の事は、宣長云、侍宿の假字を、考にとのいと定められたるはわろし。殿居の意にて、ゐの假字也。もし、宿の字によりて、いの假字なりとせば、とのねとこそいふべけれ。ねと、いとは、意異也。ねは、形につきいひ、いは睡眠のかたにいふ也。侍宿は、形につきて、殿にてぬるとはいふべけれど、殿にて睡眠するとはいふべき事にあらず。集中にも、宿の字はぬ、また、ねには書れども、いには宿の字はかゝず。とのゐは、居にて、夜殿に居といふ事也。晝を、とのゐとはいはざるは、晝は務に事ありて、たゞにはゐぬもの也。夜は、務事なくてたゞ居る故に、夜をとのゐとはいふ也。さて、務る事なき故に、寐もする事なれども、寐るを主とする事にはあらず。侍宿は殿に居るを主とする事なる故に、とのゐとはいふ也。眠るを主として、とのいといふべきよしなし云々。この説にしたがふべし。また、まへに引る雄略紀に、侍宿相語曰とあるも、殿に起居て、かたらふ也。寐てはかたらふ事なるまじきをや。また、源氏物語(194)桐つぼの卷、其外にも、とのゐまうしといふあるも、近衛司の時奏する事にて、眠る事なく、時奏する也。また新撰六帖一、とのもりのとのゐやつれの庭たちにすがたかしこき朝ぎよめかな云々とあるも、殿居して、寐ざれば、やつるゝ也。また、とのゐ装束、とのゐ衣などいへる、晝のほどは、官服にて、諸事を務るが、夜になれば、平生の服にきかゆる也。これらにても、宣長の説の是なるをしるべし。さて、一首の意は、今までは、たゞよそに見たりし檀の岡も、こたび君が陵として、君の久しきおはしまし所となりつれば、かく殿居するかなと、うちなげきける也。
175 夢爾谷《イメニダニ》。不見在之物乎《ミザリシモノヲ》。欝悒《オボホシク》。宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》。作日之隅囘乎《サヒノクマワヲ》。
欝悒《オボホシク》。
干禄字書に、欝鬱【上俗下正】とありて、欝は、鬱の俗字也。舊訓、おぼつかなとあれど、類林に、おぼほしくよめるよるべし。そは本集四【四十三丁】に、春日山朝居雲之蔚《カスカヤマアサヰルクモノオホヽシク》云々。此卷【四十二丁】に、玉桙之道太爾不知欝悒久待加戀良武《タマホコノミチタニシラスオホホシクマチカコフラム》云々。五【二十八丁】に、意保々斯久伊豆知武岐提可《オホヽシクイツチムキテカ》云々。七【二十一丁】に、夜中乃方爾欝之苦呼之舟人《ヨナカノカタニオホヽシクヨヒシフナヒト》云々。十一【九丁】に、雲間從狹徑月乃於保々思久《クモマヨリサワタルツキノオホヽシク》云々などありて、集中いと多し。おぼ/\と、明らかならざる意也。おぼろ、おぼつかなし、などいふも、一つ語也。また、圖繪寶鑑に、常鬱悒不v樂云々。司馬遷報2任安1書に、是以獨鬱悒、而誰與語云々などみえたり。これらも、心すさまじきかたちなれば、こゝと意同じ。
宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》。
宮出は、宮を出るにて、殿居して、宮を出る時のさまをいへる也。
(195)作日之隅囘乎《サヒノクマワヲ》。
本集七【八丁】に、佐檜乃熊檜隈川之瀬乎早《サヒノクマヒノクマカハノセヲハヤミ》、君之手取者《キミカテトラハ》、將縁言毳《ヨルトイハムカモ》云々。十二【廿八丁】、左檜隈檜隈阿爾駐馬《サヒノクマヒノクマカハニコマトメテ》、馬爾水令飲吾外將見《コマニミツカヘワレヨソニミム》云々とありて、作日之隈《サヒノクマ》のさは、みな發語にて、たゞ檜隈なり。この檜隈も、大和國高市郡なれば、この島宮のほとりなるべし。この島宮を、宮出して出て、檜隈をたどるなるべし。隈囘《クマワ》は、くま/”\といはんがごとし。上【攷證二上卅四丁】に、道之阿囘爾標結吾勢《ミチノクマワニシメユヘワカセ》とある所、考へ合すべし。或人云、隅は、字躰の似たれば、隈の誤りならんと。この説、さることながら、隅は角なれば、おのづからに、隈の意こもれり。さて、一首の意は、かゝる事をば、夢にだに見ざりしものを、この檜隈《ヒノクマ》の、隅囘《クマワ》にまよひつゝ、宮を出て來たるが、おぼつかなしと也。宣長云、作日は、一本佐田とあるを用べし云々。
176 天地與《アメツチト》。共將終登《トモニオヘムト》。念乍《オモヒツヽ》。奉仕之《ツカヘマツリシ》。惰違奴《コヽロタカヒヌ》。
天地與《アメツチト》。
天地ばかり久しき物あらざれば、久しきたとへにとれり。出雲國造神賀詞に、大八島國乎天地日月等共爾安久平久知行牟《シヲシメサム》云々と見えたり。
共將終登《トモニオヘムト》。
君が代、天地と共にこそ、終らんと思ひつゝ、仕へ奉りし、その心たがへりと也。將終《ヲヘム》は、本集五【十四丁】に、烏梅乎乎利都々多努之岐乎倍米《ウメヲリツヽタヌアシキヲヘメ》云々と見えたり。
177 朝日弖流《アサヒテル》。佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》。群居乍《ムレヰツヽ》。吾等哭涙《ワガナクナミダ》。息時毛無《ヤムトキモナシ》。
朝日弖流《アサヒテル》。
考云、朝日夕日をもて、山岡、宮殿などの景をいふは、集中、また古き祝詞などにも多し。これにおよぶものなければ也、云々といはれつるがごとく、朝日(196)また夕日のさすをもて、その所をほむる事、古へのつね也。そは、古事記上卷に、朝日之直刺國、夕日之日照國也云々。下卷に、阿佐比能比傳流美夜《アサヒノヒテルミヤ》、由布比能比賀氣流美夜《ユフヒノヒカケルミヤ》云々。大神宮儀式帳に、朝日來向國夕日來向國《アサヒノキムカフクニユフヒノキムカフクニ》云々。龍田風神祭祝詞に、吾宮者朝日乃日向處夕日乃日隱處《ワカミヤハアサヒノヒムカフトコロユフヒノヒカクルトコロ》云々などあるにても、古くより日のさすをもて、その所を賞したるしるべし。
佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》。
考云、この前後に、日隈とも、佐大岡とも、眞弓岡ともよめるは、今よく見るに、檜の隈の郷の内に、佐太、眞弓は、つゞきたる岡也。さてこの、御陵の侍宿所は、右の二岡にわたりてある故に、いづれをもいふ也けり云々といはれつるがごとくなるべし。(頭書、吾等哭涙《ワガナクナミダ》。等は添字なり。そは、)
178 御立《ミタヽ》爲《シ・セ》之《シ》。島乎見時《シマヲミルトキ》。庭多泉《ニハタヅミ》。流涙《ナガルヽナミダ》。止曾金鶴《トメゾカネツル》。
御立《ミタヽ》爲《シ・セ》之《ヽ》。
御かり立《タヽ》し、在立《アリタヽ》しなどいふ、立しと同じく、そこにゆきましゝをいへる言にて、たゝしの、しは、敬ひていふ言也。この事は【攷證一下廿五丁】にいへり。考云、もとこの池島によりて所の名ともなりつらめど、こゝによめるは、所の名にはあらで、其いけ島なり。且、この下に、御立しゝ島に下居て、なげきつるかもてふは、下居を思ふに、宮の外にある池島なるべし云々とあり。まへにもいへるごとく、この島は、作り庭の池島也。宮の外にある、池島といはれしはいかゞ。
庭多泉《ニハタヅミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。雨水の庭にたまりて、ながるゝなれば、にはたづみながるゝとは、つゞけし也。また、古事記傳卷三十六にも見えたり。さて、こゝ、庭多(197)泉とかけるは、借字也。一首の意は、皇子の平生いでましゝ、池島などを、見るにつけて、涙のにはたづみのごとく、ながれいでゝとゞめかぬつと也。
179 橘之《タチハナノ》。島宮爾者《シマノミヤニハ》。不《アカ》飽《ヌ・ス》鴨《カモ》。佐田乃岡邊爾《サダノヲカヘニ》。侍宿爲爾往《トノヰシニユク》。
橘之《タチハナノ》。島宮爾者《シマノミヤニハ》。
橘は、島宮のある所の地名なるべし。大和志高市郡に、橘村あり。これなるべし。この島宮は、皇子の、平生おはしましゝ宮にて、眞弓の岡、佐太の岡は、皇子の陵のある所にて、檜隈郷なり、これらの地名、よくせずば、まぎれぬべし。予もゆきて見ざる所なれ《(マヽ)》さだかにはしりがたし。
不《アカ》飽《ヌ・ス》鴨《カモ》。
考云、とのいを爲不足《シタラヌ》朝也云々。この説のごとく、島の宮には、とのゐをしたらねばにやあらん、今はまた、陵所の佐田の岡へも、とのゐしにゆくことよと也。
180 御立爲之《ミタヽシヽ》。島乎母家跡《シマヲモイヘト》。住鳥毛《スムトリモ》。荒備勿行《アラヒナユキソ》。年替左右《トシカハルマデ》。
島乎母家跡《シマヲモイヘト》。
この池の島をも、放たる鳥は、おのが家としてすめる也。このともじは、としての意也。この事、下【攷證五下十七丁】にいへり
住鳥毛《スムトリモ》。
この毛の字に、心をつくべし。鳥もといふにて、人はさら也、鳥までもといふ意也
年替左右《トシカハルマテ》。
年替は、今年の來年とかはる也。月かはるといふにてもしるべし。左右《マテ》をまでとよめるは、義訓也。上【攷證一下三丁】にいへり。池島などを、家として住る鳥も、また人(198)も、今は君ましまさずとも、うとくなりゆく事なかれ、せめて年のかはるまでもと也。
181 御立爲之《ミタヽシヽ》。島之荒礒乎《シマノアリソヲ》。今《イマ・ケフ》見者《ミレバ》。不生有之草《オヒサリシクサ》。生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
島之荒礒乎《シマノアリソヲ》。
考云、御池に岩をたてゝ、瀧おとして、あらき磯の形、作られしをいふなるべし云々といはれつるがごとし。
不生有之草《オヒサリシクサ》。
君の、まし/\たりしほどは、草などをも苅はらふ人ありしかば、草も生ざりしかど、君うせ給ひて、今見れば、その生ざりし草も、かく生にけるは、いとあはれと也。考云、まことに、歎きつべし。卷十四、故太政大臣家の山池を赤人、むかし見しふるき堤はとしふるき池のなぎさに水草生にけり、ともよみつ云々。
生爾來鴨《オヒニケルカモ》。
集中、來を、けり、ける、けれの假字に用ひたれ《(マヽ)》、來《ク》るといふ、くを、けに轉じたる也。書紀仁徳紀に、摩簡儒鷄麼虚曾《マカズケバコソ》云々とあるも、不v纏來者乞《マカスケバコソ》なり。本集十七【廿丁】に、使乃家禮婆《ツカヒノケレハ》などあるにても、くと、けと、かよふをしるべし。一首の意は、まへにいへり。
182 鳥※[土+(一/皿)]《トクラ》立《タテ・タチ》。飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》。栖立去者《スタチナバ》。檀崗爾《マユミノヲカニ》。飛反來年《トビガヘリコネ》。
鳥※[土+(一/皿)]《トクラ》立《タテ・タチ》。
※[土+(一/皿)]の字、字書に見えず。義訓に、鳥栖とかける、栖を※[土+(一/皿)]に誤るか。または、中國の作字歟。多度寺資財帳に、伊勢國桑名郡烏垣里云々とあり。これをも、とぐらの里(199)とよまんか。又は、とりがきの里とよまんか。こゝの鳥※[土+(一/皿)]も、もとは鳥垣とありしを、垣を草書に、垣と書しより、※[土+(一/皿)]には誤りしか。新撰字鏡に、※[木+桀]【巨列反鷄栖杖止久良】云々。和名抄羽族體云、孫※[立心偏+面]切韻云、穿v垣栖v鷄曰v塒【音時和名止久良】云々。本集十九【十一丁】に、鳥座由比須惠※[氏/一]曾我飼眞白部乃多可《トグラユヒスヱテソワカカフマシラフノタカ》云々。拾遺集雜春に、ひげこに花をこきいれて、さくらをとぐらにして、山すげを鶯にむすびすゑて云々。同雜賀に、元輔、松が枝のかよへる妓をとぐらにて、すだてらるべきつるのひなかな云々。宇津保物語國ゆづり上卷に、鳥のゐるおなじとぐらは、とひしかど、ふるすを見てぞとめずなりぬる云々など見えたり。さて、とぐらの、とは、鳥の略にて、鳥を、とゝのみいふは、鳥獵をとがり、鳥網をとなみ、鳥立をとだちなどいふ類也。くらは、本集十九に、鳥座とかける、正字にて、書紀神代紀上なる、千座置戸《チクラオキド》云々、大祓祝詞に、千座置座《チクラノオキクラ》云々ともありて、釋日本紀卷七に、座者、置v物之名也云々とあるにて、とぐらは、鳥を置所なるをしるべし。藏、倉などを、くらといふも、物を置よしの名にて、とぐらのくらと同じ。
飼之鴈乃兒《カヒシカリノコ》。
説文、除鉉曰、鴈通作v雁、別作v鴈云々とありて、雁鴈同字也。代匠記云、雁の兒は、かりの子をいふ。かるの子ともいふと、源氏物語の抄に見えたり。されども、いかにして、かりの子といふよしは見えず。細流は、逍遥院殿の御作なれど、只かものことのみのたまへり。源氏眞木柱に、かりの子の、いとおほかるを御らんじて、かんじ橘などやうにまぎらはして、わざとならず奉り給ふ云々。同橋姫に、春のうららかなる日かげに、水鳥どもの、はねうちかはしつゝ、おのがじじさへづるこゑなどを、つねははかなきことと見給ひ(200)しかども、つがひはなれぬを、うらやましくながめ給ひて、君だちに、御ことゞもを、をしへ聞え給ふ。いとをかしげにちひさき御ほどに、とり/”\かきならし給ふものゝ音ども、あはれにをかしくきこゆれば、なみだをうけ給ひて、うちすてゝつがひさりにし水鳥のかりのこの世にたちおくれけん云々。うつぼ物語藤原君に、宰相めづらしく出きたる。かりの子にかきつく。かひのうちにいのちこめたるかりのこは、君がやどにてかへさざらなん。兵衛、たまはりて、あて宮にすもりになりはじむるかりの子、御らんぜよとて奉れば、あて宮、くるしげなる御ものねがひかなと、のたまふ云々。枕草子に、あてなるもの、かりの子云々。またうつくしきもの、かりの子云々。これら、みなかもの子をいへり。このかもは家にかふ鴨の類ひの鷺にて、俗語にあひるといふなるべし。かもを、かるといふは、水にうくことの、かろきゆゑなるべし。鳧の類多きものにて、鴛をも、をしかもといひ、おほく水鳥の惣名なれば、鴈も水鳥にて、名さへ通ずるにや。後拾遺集秋下に、こしかたに思ふ人侍りける時に、貫之、秋のよにかりかもなきてわたるなり、わが思ふ人のことづてやせし云々。この歌、かりがねにやと思へど、むかしより、かもとのみあれば惣名をくはへてよめるなるべし。今案に、又一説あり、これは、鷹の兒を、鴈の兒と書誤れるにや。その故は、とぐらたてといふも、鷹と聞ゆ。第十九に、家持の、鷹をよまれたる長歌に、枕つくつまやつ《(マゝ)》まやうちに、鳥座《トクラ》ゆひすゑてぞわがかふ、ましらふのたかとよめり。かもならば、すなはち、まがりの池にかはせ給ふべし。また、まゆみの岡にとびかへりこねも似つかはしからず。下に、けごろもを春冬かたまけてみゆきせし、うだの大野はおもほえんかもとよめるは、鷹狩のみゆきと聞ゆ。第一に、日なめしのみこのみことの、馬なめて、みかりたゝしし時はきむか(201)ふともよめれば、御狩のために、鷹の子をかひおかせ給ふ間に、薨じたまへば、人となりて、はねもつよくなりなば、こゝろありて、このまゆみの岡に飛來よとよめるか。催馬樂に、たかの子はまろにたうばらん、手にすゑて、あはづのはらの、みくるすのわたりの、うづらとらせんや云々。玉篇云、雁【五諫切鳥也】※[まだれ/(人偏+隹)]【於薩切今作鷹】云々。※[まだれ/(人偏+隹)]を、いま鷹とかけども、猶やゝ似たれば、誤れる歟とおぼしき也云々と見えたり。この二説、いづれもとり/”\なれど、予は後の説にしたがひて、雁は※[まだれ/(人偏+隹)]の誤りにて、たかの子なるべしとおぼゆる也。
栖立去者《スダチナハ》。
玉篇云、栖音西、鳥栖宿也、又作v棲云々とありて、すだちなば、栖より出たちなば也。後撰集春上に、谷さむみいまだすだたぬ鶯の、なくこゑわかみ人のすさめぬ云々。源氏物語橋姫に、いかでかく、すだちけるぞと思ふにも、うき水鳥のちぎりをぞしる云々なども見えたり。一首の意明らけし。
183 吾御門《ワガミカド》。千代常登婆爾《チヨトコトハニ》。將榮等《サカエムト》。念而有之《オモヒテアリシ》。吾志悲毛《ワレシカナシモ》。
千代常登婆爾《チヨトコトハニ》。
千とせも、とこしなへに、久しく常盤《トキハ》にといへる也。とことはゝ、本集四【二十二丁】に、
、常不止通之君我《トコトハニカヨヒシキミカ》云々。佛足石歌に、己禮乃與波宇都利佐留止毛《コレノヨハウツリサルトモ》、止己止婆爾佐乃己利伊麻世《トコトハニサノコリイマセ》、乃知乃與乃多米《ノチノヨノタメ》云々など見えたり。
吾志悲毛《ワレシカナシモ》。
しの字、もの字、助字なり。吾君の大殿は、ちとせも、とこしへに、さかえんとおもひてのみありしが、かなしとなり。
(202)184 東乃《ヒムカシノ》。多藝能御門爾《タキノミカドニ》。雖伺侍《サモラヘド》。昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。召言毛無《メスコトモナシ》。
東乃《ヒムカシノ》。多藝能御門爾《タキノミカドニ》。
考云、池に瀧ある方の御門を、かく名づけられしならん云々といはれつるがごとく、瀧を、たぎといへるも、本はたぎる意にて、瀧《タキ》の宮子《ミヤコ》、多藝津河内《タキツカフチ》などいふも、瀧あるによりていへるなれば、このたぎの御門も、瀧ある方の御門なるをしるべし。
雖伺侍《サモラヘド》。
本集此卷【卅五丁】に、鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》、雖侍候《サモラヘト》、佐母良比不得者《サモラヒエネハ》云々。六【十八丁】に、風吹者浪可將立跡伺候爾《カセフケハナミカタヽムトサモラフニ》云々。七【十五丁】に、大御舟竟而佐守布《オホミフネハテヽサモラフ》云々。二十【卅四丁】に、安佐奈藝爾倍牟氣許我牟等佐毛良布等《アサナキニヘムケコカムトサモラフト》云々などありて、古事記、書紀等に侍の一字をもよめり。
昨日毛今日毛《キノフモケフモ》。
本集十五冊【卅七丁】に、伎能布家布伎美爾安波受弖《キノフケフキミニアハステ》云々。十七【四十六丁】に、乎等都日毛伎能敷母安里追《ヲトツヒモキノフモアリツ》など見えたり。三【五十三丁】に、愛八師榮之君乃伊座勢波《ハシキヤシサカエシキミノイマシセハ》、昨日毛今日毛吾乎召麻之乎《キノフモケフモワレヲメサマシヲ》云々。今の歌に似たり。一首の意明らけし。
185 水《ミツ》傳《ツタフ・ツテノ》。礒乃浦回乃《イソノウラワノ》。石乍自《イハツツシ》。木丘開道乎《モクサクミチヲ》。又將見《マタミナム・マタモミム》鴨《カモ》。
水《ミツ》傳《ツタフ・ツテノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはしけれど、代匠記に、是は、嶋の宮に作らせたまへる庭の、泉水のあたりの事をよめり。水つたふとは、いそべは、水につきてつたひゆけばなり。山(203)海の體勢をまなびて、うつさるれば、さきの歌には、島の荒磯とさへよめり云々とあるによるべし。さて、この枕詞は、こゝより外、ものに見えず。
礒乃浦回乃《イソノウラワノ》。
島囘《シマワ》、磯囘《イソワ》などいふ、囘と同じ。浦の、いりくまり、わだかまれる所々をいふ。この事は、上【攷證一下十四丁】に、荒島囘《アラキシマワ》とある所にいへり。こゝは、池なれど、磯といへり。この事、下【攷證六上廿七丁】にいふべし。磯なる浦のほとり也。
石乍自《イハツツシ》。
本草和名に、羊躑躅、一名玉支、一名史光、和名以波都々之、又之呂都々之、一名毛知都々之云々とあり。和名抄、これに同じ。本集三【四十九丁】に、美保乃浦廻之白管仕《ミホノウラワノシラツツシ》云々。六【廿五丁】に、丹管士乃將薫時能《ニツヽシノニホハムトキノ》云々。七【十七丁】に、遠津之濱之石管自《トホツノハマノイハツヽシ》云々などあり。乍自《ツヽシ》、管仕《ツヽシ》などかけるも、皆借字なり。
木丘開道乎《モクサクミチヲ》。
宣長云、木丘《モク》は、茂く也。神代紀に、枝葉|扶疏《シキモシ》、應神紀に、芳草|薈蔚《モクシケク》、顯宗紀に、厥功|茂焉《モシ》などあり。また、森《モリ》といふ名も、木の生ひ茂りたるよし也。
六巻に、百樹盛山者木高之《モヽキモリヤマハコダカシ》。これも、盛はしげりといふことなり云々といはれつるごとく、應神紀に、薈蔚《モクシゲク》とある、薈は、玉篇に烏會切、草盛貌云々とありて、もくとよめるは、茂くなる事しるし。さればもくさく道は乍自《ツヽシ》のしげくさきたる道也。
又將見《マタミナム・マタモミム》鴨《カモ》。
皇子薨たまひしかば、今より後は、この宮にまゐる事もあらねば、御池のほとりの石つゝじの、しげくさきたる道をも、又と見なんものか、又とは見じと、なご(204)し《(マヽ)》をしめるなり。
186 一日者《ヒトヒニハ》。千遍參入之《チタヒマヰリシ》。東乃《ヒムカシノ》。太寸御門乎《タキノミカトヲ》。入不勝鴨《イリカテヌカモ》。
太寸御門乎《タキノミカトヲ》。
考云、今本、たきのとよみたれど、寸は假字也。假字の下に、辭を添るよしなし云々とて、おほきみかどをと、よまれたり。されど、人名、地名などにはまゝ見えたり。人名に、訓そゆる事は、上【攷證一下廿五丁】にいへり。地名に、訓そゆるは、古事記上卷に知※[言+可]嶋《チカノシマ》、多祁理宮《タケリノミヤ》などあるにても、思ふべし。こゝの大寸《タキノ》御門は、地名にはあらで、本、たぎのあるによりていへるなれど、御門の名としつれば、地名とかはる事なし。又前の歌にも、東乃多藝能御門ともあれば、こゝもたぎのみかどとよまんかたまされり。又思ふに、太寸の下に、乃、之、能などの字のありしを脱せるにもあるべし。
入不勝鴨《イリガテヌカモ》。
がてぬの、ぬもじにはこゝろなく、難《カタ》き意にて、こゝは、入がたきかも也。この事は、上【攷證二上一六丁】に、いへり。一首の意は、一日の中には、いくたびといふこともなく、まゐりたりしかど、皇子薨給ひしかば、この御門をも、いまは入がたきやうにおもはると也。
187 所由《ツレモ・ヨシモ》無《ナキ》。佐太乃岡邊爾《サタノヲカベニ》。反居者《カヘリヰバ》。島御橋爾《シマノミハシニ》。誰加住舞無《タレカスマハム》。
(205)所由無《ツレモナキ・ヨシモナク》。
こゝも、つれもなきとよむべし。この事は、まへにいへり。
反居者《カヘリヰバ》。
考云、かへりゐるとは、ゆきかへりつゝ、分番交替してゐるをいふ。下、夜鳴かはらふとよめるも、これ也云々。
島御橋爾《シマノミハシニ》。
考云、橋は階也。舍人は御門と、御階のもとにも、さむらへば、かくいへり云々といはれつるがごとく、和名抄居宅具に、考聲切韻云、※[手偏+皆]土※[土+皆]也、一名階【古諧切、俗爲2※[土+皆]字1和名波之一訓之奈、】登v堂級道也云々とある、これ也。橋とかけるは、借字にて、宮中の階なり。舍人は、賤官なれば、階下に宿直せん事さもあるべし。
誰加住舞無《タレカスマハム》。
すまはんは、まはの反、まにて、すまんを延たる言也。こは、すまふ、すまひ、すまはんとはたらく語にて、本集四【廿九丁】に、天地與共久住波牟等《アメツチトトモニヒサシクスマハムト》云々。五【廿六丁】に、比奈爾伊都等世周麻比都々《ヒナニイツトセセスマヒツヽ》云々。木末爾住歴武佐左妣乃《コスエニスマフムサヽヒノ》云々などある、皆同じ。一首の意は、佐太の岡べは、ゆかりもなき所なれど、陵のある故に、宿直《トノヰ》もする也。さて、その佐太の岡に、又かへりて、とのゐせば、專ら宿直すべき御階の下には、たれかさむらはんとなり。
188 旦覆《アサクモリ》。日之入去者《ヒノイリユケハ》。御立之《ミタヽシヽ》。島爾下座而《シマニオリヰテ》。嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》。
旦は、戰國策齊策注に、旦暮朝夕也云々。管子小匡篇に、旦夕猶2朝夕1也云々とあればあさとよまん事、論なし。覆は、釋名釋言語に、覆蓋蔽也云々とあるごとく、おほふ事(206)にて、空をおほふ意なれば、くもりとはよめるなり。
日之入去者《ヒノイリユケバ》。
考には、日之入去者《ヒノイリユケバ》を、日のくれゆく事ぞと心得て、初句を、天靄《アマクモリ》と直されしは、甚しき誤り也。日出入は、暮ゆく事にはあらで、日の雲に入をいへり。されば、初句に、あさぐもりとはいへるなり。はじめは、うすぐもりなる時は、雲の底に日のあるが見ゆれど、やうやくに、くもりかさなれば、日の見えずなりゆくを、入去《イリユク》とはいへるなるべし。また、心みにいふ説あり。日之入去者《ヒノカクロヘハ》とよまんか。入去を、かくろふとよめるは、義訓也。古事記上卷に、阿遠夜麻邇比賀迦久良姿《アヲヤマニヒガカクラハ》云々。龍田風神祭祝詞に、夕日乃|日隱《ヒカクル》處云々などありて集中月の雲隱といふいと多し。されば、日の、くもりたるくもにかくろひゆくを、旦ぐもり日のかくろへばとはよめるなるべし。
御立之《ミタヽタシヽ》、
考に、例に依て、爲を加ふ云々とて、御立爲之とせられしは、此卷の中上よりの例いかにもさる事ながら、爲の字なしとても、みたゝしゝとよまんに、何事かあらん。そは、本集三【十三丁】に、三獵立流《ミカリタヽセル》云々。十九【卅六丁】に、御立座而《ミタヽシマシテ》云々などあるにてもおもふべし。
島爾下座而《シマニオリヰテ》。
島は、池島の島なり。さて一首の意は、皇太子を、日にたとへ奉りて、この皇子の、はやく薨じたまひしは、朝日の雲にかくれたるがごとしとて、あまぐもり日のいりゆけといひて、さてそれゆゑに皇子の平生御立ましゝ御座に下居て、みななげきつるかなと也。
(207)189 且日照《アサヒテル》。島乃御門爾《シマノミカドニ》。欝悒《オボヽシク・オホツカナ》。人音毛不爲者《ヒトオトモセネバ》。眞浦悲毛《マウラカナシモ》。
且日照《アサヒテル》。
これも、島の御門に、朝日のてるを賞したる也。まへに、朝日弖流佐太乃岡邊《アサヒテルサタノヲカヘ》とある所にいへるがごとし。
眞浦悲毛《マウラカナシモ》。
眞は、誠《マコト》の意にて、本集十四【七丁】に、宇良敝可多也伎麻左※[氏/一]爾毛乃良奴伎美我名《ウラヘカタヤキマサテニモノラヌキミカナ》云々。二十【卅一丁】に、多妣等弊等麻多妣爾奈理奴《タヒトヘトマタヒニナリヌ》云々などある、麻も、眞にて、誠の意也。物を賞《ホメ》て、眞何々といへる眞とは、別也。古事記中卷に、是御子|八拳鬚《ヤツカヒケ》至2于|心前《ムナサキ》1眞事登波受《マコトトハス》とあるを、たゞ物のたまはぬ事のよしに、宜長の注されしは、くはしからず。この皇子、物はのたまひけめど、たゞ何ともわかぬ、かた言のみ、のたまひて、眞《マコト》の事のたまはぬにて、眞は誠の意也。これを、書紀に、不言と書給ひしは、例の文字のうへにのみなづみて、古意を矢へる也。ある人、この御子を、唖《オフシ》ならんといへれど、書紀には、唖は唖と別にことわりたるを見れば、この御子實に唖ならば、そのよしことわらるべきを、たゞ不言とのみ書たまひしは、唖ならざる證也。されば、眞事登波受《マコトトハス》は、片言のみのたまひて、誠の言をのたまはぬなるをしるべし。さて浦悲《ウラカナシ》の、浦は、借字にて、心中|悲《カナシ》なり。そは本集八【卅丁】に、曉之裏悲爾《アカツキノウラカナシキニ》云々。十四【廿五丁】に、比等乃兒能宇良我奈之家乎《ヒトノコノウラカナシケヲ》云々。十五【卅四丁】に、波流乃日能宇良我奈之伎爾《ハルノヒノウラカナシキニ》云々などありて、猶多し。これら、心の中のかなしきにて、うらなけをる、うらこふ、うらまちなどいふうらとおなじ。さて、一首の意は、君のまさざれば、島の御門も、ものさびしく、すさまじく、人おともせざるを見れば、心の中のかなしと也。毛は助字のみ。
(208)190 眞木柱《マキハシラ》。太心者《フトキコヽロハ》。有之香杼《アリシカト》。此吾心《コノワカコヽロ》。鎭目金津毛《シツメカネツモ》。
眞木柱《マキハシラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。されど、眞木を檜也といはれしは、いかゞ。この眞は例の物をほむる詞にて、眞木とは、良材をいへる也。この事は、上【攷證一下廿丁】にくはしくいへり。柱は、太きを賞する故に、眞木ばしら、ふときとはつゞけし也。
太心者《フトキコヽロハ》。
太心は、すぐれてをゝしく、したゝかなる心といへる也。太は、すぐれたる意なり。廣韻に、太甚也、太也云々とあるにても、すぐれたる意なるをしるべし。
鎭目金津毛《シツメカネツモ》。
心を靜めかねつにて、毛は、助字也。書紀顯宗紀室壽詞に、築立柱者、此家長御心之鎭也云々。本集五【十三丁】に、彌許々呂遠斯豆迷多麻布等《ミコヽロヲシツメタマフト》云々など見えたり。一首の意は、われは、丈夫にて、太くをゝしき心なりしかども、今皇子の御喪に、わが心ながら、しづめかねつとなり。
191 毛許呂裳遠《ケコロモヲ》。春冬片設而《ハルフユカタマケテ》。幸之《イテマシシ・ミユキセシ》。宇陀乃大野者《ウタノオホヌハ》。所念武鴨《オモホエムカモ》。
毛許呂裳遠《ケコロモヲ》。
毛衣は、伊呂波字類抄に、褻をよめり。これ也。毛衣は、毛を以て織る衣、裘《カハコロモ》は皮衣とは別なり。皮衣の事は【攷證九】下にいふべし。さて、考云、古へ、御狩に、摺衣を着せ給ひしは、まれなる事にて、專ら、皮衣なる故に、しかよみしならん。今むかばきてふ物は、その遺なるべし云々といはれつるは、さる事ながら、毛衣、皮衣を一物とせら(209)れしはいかゞ。(頭書、毛許呂裳遠《ケコロモヲ》は枕詞也。たゞ衣を張《ハル》とつゞけしのみ也。古今集春上に、貫之、わがせこがころもはるさめふるごとに云々とある類なり。)
春冬片設而《ハルフユカタマケテ》。
片設《カタマケ》は、本集五に、烏梅能波奈知利麻我比多流乎加肥爾波《ウメノハナチリマカヒタルヲカヒニハ》、宇具比須奈久母波流加多麻氣弖《ウクヒスナクモハルカタマケテ》云々。十【九丁】に、鶯之木傳梅乃移者《ウクヒスノコツタフウメノウツロヘハ》、櫻花之時片設奴《サクラノハナノトキカタマケヌ》云々。また、秋田吾苅婆可能過去者《アキノタノワカカリハカノスキヌレハ》、鴈之喧所聞《カリカネキコユ》、冬方設而《フユカタマケテ》云々。また、【四十一丁】草枕客爾物念《クサマクラタヒニモノモフ》、吾聞者夕片設而鳴川津可聞《ワカキケハユフカタマケテナクカハツカモ》云々。十一【四丁】に、何時不戀時雖不有《イツシカモコヒヌトキトハアラネトモ》、夕方枉戀無乏《ユフカタマケテコヒハスヘナシ》云々。十五【十丁】に、伊蘇乃麻由多藝都山河多延受安良婆《イソノマユタキツヤマカハタエスアラハ》、麻多母安比見牟《マタモアヒミム》、秋加多麻氣※[氏/一]《アキカタマケテ》云々などあり。これらの、かたまけも、方儲《カタマケ》にて、皆その時を待まうけたる意也。こゝも同じ。片といふは、詞にて、意なし。片待などいふ片と同じ。さるを、考に、片設は、取設の誤りぞとて、直されしは、誤り也。かくのごとく、語例多きをや。
宇陀乃大野者《ウタノオホヌハ》。
書紀天武紀に、菟田郡、【中略】到2大野1云々とあるこゝ也。本集一【廿一丁】に、安騎乃大野とあるも、宇陀郡なれば、こゝなるべし。考云、上の卷に、宇陀の安騎野にて、日並斯皇子の、御狩たゝしし時は來向と、人まろのよみし、同じ御狩の事を、こゝにもいふ也云々。
所念武鴨《オモホエムカモ》。
考云、今よりは、このありし御狩の事を、常の言ぐさ思ひ種として、したひ奉らんかなと、なげきていふ也云々。(頭書、おもほえんかもといへるは、皆意をふくめたる語也。そは六【十二丁】ま【廿四丁】十七【三十五丁】などあるにしるべし。)
(210)192 朝日照《アサヒテル》。佐太力岡邊爾《サタノヲカヘニ》。鳴鳥之《ナクトリノ》。夜鳴變布《ヨナキカハラフ》。此年巳呂乎《コノトシコロヲ》。
鳴鳥之《ナクトリノ》。夜鳴變布《ヨナキカハラフ》。
鳴鳥之の、之もじは、如の意にて、舍人等の、かはる/”\宿直するが、嘆つゝ交替するを、この佐太の岡になく鳥にたとへて、その鳴鳥のごとく、夜る哭《ナキ》つゝ、かはる/”\交替と也。變布《カハラフ》とかけるは、借字也。本集十二【十一丁】に、吾兄子爾戀跡二四有四《ワカセコニコフトニシアラシ》、小兒之夜哭乎爲乍《ミトリコノヨナキヲシツツ》、宿不勝苦者《イネカテナクハ》云々。十九【十八丁】に、霍公鳥夜喧乎爲管《ホトヽキスヨナキヲシツヽ》云々など見えたり。
此年巳呂乎《コノトシコロヲ》。
考云、去年の四月より、今年の四月まで、一周の間、御陵づかへすれば、としごろとはいへり云々と、いはれつるがごとし。一首の意明らけし。(頭書、乎はよといたに似て、助辭也。この例、下【攷證七上十二丁】に出すべし。)
193 八多籠良家《ヤタコラカ》。夜晝登不云《ヨルヒルトイハス》。行路乎《ユクミチヲ》。吾者《ワレハ》皆悉《コト/”\・サナガラ》。宮路除爲《ミヤチトソスル》。
八多籠良家《ヤタコラカ》。
心得がたし。故に、諸説をあぐ。類林云、雜物を運送する、今俗|小荷駄《コニダ》馬といふ類と見えたり。はたごは、和名抄行旅具に、唐韻云〓【當侯反漢語抄云波太古俗用旅籠二字】飼馬籠也云々。かげろふ日記に、はたご馬云々。宇治拾遺に、はたご馬、かはご馬云々。これらを見るに、本は馬を飼ふ籠の名にて、乘馬ならぬ馬に、旅行のくさ/”\の物、食物などをつけて、(211)供するをいふ也。さる馬、それに付く馬子など、すべて、はたごらとよめる也。其宿する家を、はたごやといふ名のみ殘れり云々。代匠記、これに同じ。考云、奴等之《ヤツコラカ》なり。紀【神功】に、宇麻比等破于麻臂苔奴知《ウマヒトハウマヒトトチ》、野伊徒姑播茂伊徒姑奴池《ヤイツコハモイツコトチ》云々。このやいつこに同きを、こゝに八多とあるは、都と多と音通へば、やたこともいひしにや。もし又、豆を多に誤れるか云々。宣長云、やたこらと訓て、奴等とするも、さる事なれども、奴ならば、やつこといふべきを、やたこといへるも、いかゞなるうへに、籠の字を書んこといかゞなれば、かた/”\心ゆかず。故に思ふに、良は馬の誤りにて、はたごうまなるや。旅籠馬といふこと、蜻蛉日記にも見えたり云々。これらの説のうち、予はしばらく考の説にしたがはんとす。されど、考に、神功紀の歌を引て、于麻臂苔奴知野伊徒姑播茂《ウマヒトトチヤイツコハモ》云々とある野《ヤ》もじを、下につけて、やいつこと見られしはいかゞ。こは上につけて、うまひとゞちやとよむべき也。又考に、家、我の誤りとして、家を我に直されしも、いかゞ。家を、かの假字に用ひし事、外には見あたらねど、集韻に、家居牙切、音加云々。正字通に、居沙切音加云々とあれば、などかは加の假字にも用ひざらん。さて、この句をば、しばらく、奴等と見て下の解を下せり。
夜晝登不云《ヨルヒルトイハス》。
本集九【卅四丁】に、味澤相宵晝不云《アチサハフヨルヒルトイハス》、蜻※[虫+廷]火之心所燎管《カキロヒノコヽロモエツヽ》云々ともあり。夜るひると、そのわかちをもいはずとなり。
吾者《ワレハ》皆悉《コト/”\・サナカラ》。
皆悉は、考に、こと/”\とよまれしをよしとす。古事記に、悉の一字をも、こと/”\とよめり。こはかぎりといふ言にて、一首の意は、いやしき奴等が、夜ひる(212)となく、ゆきかよふ道のかぎりを、われは、この眞弓岡の御陵へ交替して、宿直する宮路とする事よといひて、おもひもかけぬ鄙の道をも、かよひて、務るよしを、かなしびにそへていへるなり。
右日本紀曰。三年己丑。夏四月。癸未朔乙未薨。
右の三年の上に、高天原廣野姫天皇とあるべき也。さなくては、いつの御代の三年かわかりがたし。こは持統天皇なり。
(以上攷證卷二中册)
(213)柿本朝臣人麿。獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首。並短歌。
この端詞、誤れりとおぼしくて、集中の例にもたがひ、事の意も不v詳。考には、左注に依て、葬2河島皇子於越智野1之時、柿本朝臣人磨、獻2泊瀬部皇女1歌と改られたり。これ、いかにもさる事ながら、みだりに意改せん事を、はゞかりて、しばらく本のまゝにておきつ。この端詞のまゝにては、何故に、泊瀬部皇女、忍坂部皇子に、歌を奉にか、そのよしもなく、泊瀬部皇女は、天武帝の皇女にで、川島皇子の妃におはしたりと見ゆれば、悲みの歌を奉るもよしあれど、忍坂部皇子は、泊瀬部皇女の御兄には《(マヽ)》、川島皇子とは、御いとこどしなるうへに、この歌に、專ら御夫婦の間の事をのみよまれしかば、この歌を、忍坂部皇子に奉るべきよしなし。まづこゝには、主とする、川島皇子の御事をいはん。そは、書紀天智紀云、有2忍海造小龍女1、曰2色夫古娘1、生2一男二女1、其二曰2川島皇子1云々。天武紀云、十四年、春正月戊申、授2淨大參位1云々。持統紀に、五年、春正月乙酉、増封淨大參皇子川島百戸、通v前五百戸云々。同年、九月丁丑、淨大參皇子川島薨。辛卯、以2直大貳1、贈《(マヽ)》2佐伯宿禰大目1、並贈2賻物1云々と見えたり。
泊瀬部《ハツセヘノ》皇女。
書紀天武紀云、宍人臣大麻呂女、擬媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬皇女1、其四曰2託基皇女1云々。續日本紀云、大寶元年、正月甲午、長谷部内親王、益2封一百戸1云々。天平九年、二月戊午、授2三品1云々。同十三年、三月己酉、天武天皇之皇女也云々と見えたり。泊瀬部、長谷部、同訓なり。
(214)忍坂部《オサカヘノ》皇子。
まへ、泊瀬部皇女の下に見えたり。忍壁、また刑部とかけるも、同訓也。書紀天武紀云、十四年、春正月戊甲、忍壁皇子授2淨大參位1云々。朱鳥元年、八月辛巳、加2封百戸1云々。續日本紀云、文武天皇四年、六月甲午、勅2淨大參刑部親王以下十六人1、撰2定律令1云々。大寶三年、春正月壬午、詔2三品刑部親王1、知2太政官事1云々。慶雲元年、春正月丁酉、益2封二百戸1云々。二年、夏四月庚申、賜2越前國野一百町1云々。同年、五月丙戌薨、遣v使監2護喪事1、天武天皇之第九皇子也云々と見えたり。
194 飛鳥《トフトリノ》。明日香乃河之《アスカノカハノ》。上《カミツ・ノホリ》瀬爾《セニ》。生玉藻者《オフルタマモハ》。下《シモツ・クタリ》瀬爾《セニ》。流觸《ナカレフラハ》經《ヘ・フル》。玉藻成《タマモナス》。彼依此依《カヨリカクヨリ》。靡相之《ナヒキアヒシ》。嬬乃命乃《ツマノミコトノ》。多田名附《タヽナツク》。柔膚尚乎《ニコハタスラヲ》。劔刀《ツルキタチ》。於身副不寐者《ミニソヘネヽハ》。烏玉乃《ヌハタマノ》。夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》【一云。阿禮奈牟《アレナム》。】所虚故《ソコユヱニ》。名具鮫魚天氣留《ナクサメテケル》。敷藻相《シキモアフ》。屋常念而《ヤトトオモヒテ》【一云。公毛相哉登《キミモアフヤト》。】玉垂乃《タマタレノ》。越《ヲチ・コス》乃大《ノオホ》野《ヌ・ノ》之《ノ》。且露爾《アサツユニ》。玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒツチ》。夕霧爾《ユフキリニ》。衣者沾而《コロモハヌレテ》。草枕《クサマクラ》。旅宿鴨爲留《タヒネカモスル》。不相君故《アハヌキミユヱ》
飛鳥《トフトリノ》。
枕詞にて、上【攷證一下六十九丁】にいへり。
(215)明日香乃河之《アスカノカハノ》。
大和國高市郡なり。この地の事は、上【攷證一下六十九丁】明日香能里《アスカノサト》の所にていへり。
上瀬《カミツセ・ノホリセ》爾《ニ》。
かみつせと訓べし。古事記上卷に、上瀬者瀬速《カミツセハセハヤシ》、下瀬者瀬弱《シモツセハセヨワシ》云々。下卷に許母理久能波都勢能賀波能《コモリクノハツセノカハノ》、賀美郡勢爾伊久比袁宇知《カミツセニイクヒヲウチ》、新毛都勢爾麻久比袁宇知《シモツセニマクヒヲウチ》云々など見えたり。
流《ナカレ》觸經《フラハヘ・フレフル》。
宣長云、この字を、ながれふれふるとよめるは、ひがごと也。考に、ふらへりとよまれたるも、心得ず。經の字は、へとか、ふるとかは訓べし。へり、へるなどは、訓べきよしなし。これは、ふらばへと訓べき也。古事記雄略の段の歌に、本都延能《ホツエノ》、延能宇良婆波《エノウラバハ》、那加都延爾《ナカツエニ》、淤知布良婆閇《オチフラハヘ》とあり云々といはれつるがごとく、こは、上つ瀬に生たる玉藻の流れ來て下つ瀬に觸《フレル》也。ふらばへは、ふれを延たる語也。
玉藻成《タマモナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉藻は、波のまに/\、彼により此により、なびくものなれば、玉藻のごとく、かよりかくより、なびきあひしとはつゞけしなり。
彼依此依《カヨリカクヨリ》。
本集此卷【十八丁】に、浪之共《ナミノムタ》、彼縁此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》云々。
また【廿一丁】浪之共《ナミノムタ》、彼依此依《カヨリカクヨリ》、玉藻成《タマモナス》、靡吾宿之《ナヒキワカネシ》云々など見えたり。
靡相之《ナヒキアヒシ》。
男女そひふすを、なびきぬるとはいへり。物のうちなびきたらんやうに、なよゝかに、そひふす意なり。この事は、【攷證一下廿二丁】にいへり。
(216)嬬之命乃《ツマノミコトノ》。
命は、父命、母命、弟《セナノ》命、妹《イモノ》命などいふ、命と同じく、親しみ敬ひて、いふ言にて、古事記上卷に、伊刀古夜能《イトコヤノ》、伊毛能美許等《イモノミコト》、【注略】和加久佐能《ワカクサノ》、都麻能美許登《ツマノミコト》云々。本集十八【廿三丁】に、波之吉餘之《ハシキヨシ》、都麻乃美許登能《ツマノミコトノ》云々など見えたり。
多田名附《タヽナツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはしけれど、いかゞ。和らかなる單衣などの、身にしたしく、疊《タヽナハ》り付を、妹が膚《ハタ》の和らかになびきたゝなはれるにたとへていへる也。猶くはしくは、古事記(傳脱カ)卷二十八に見えたり。
柔《ニコ・ヤハ》膚尚乎《ハダスラヲ》。
久老云、この柔膚を、師のやはゝだとよまれしは、非也。集中、柔の字は、卷二卷三に、柔備《ニキヒ》、卷十二に、柔田津《ニギタツ》と見え、假字には、卷十一に、蘆垣之中之似兒草《アシカキノナカノニコクサ》、爾故余漢《ニコヨカニ》云々。卷十四に、爾古具佐能《ニコクサノ》云々。卷七に、爾古具佐能《ニコクサノ》、爾古與可爾之母《ニコヨカニシモ》云々とあり。これらをもて、柔は、爾古《ニコ》とよむべきを明らめてよ云々といへるがごとく、柔膚《ニコハダ》は、若き女の、和らかに、にこよかなるをいへり。靈異記中卷に、柔【爾古也可二】とよめるにても思ふべし。尚《スラ》といふ詞を、考に、すらは、さながらてふ言を約めたるにて、そのまゝ、てふに同じく、又、摘ていはば、それを心得ても聞ゆ云々とて、別記にくはしく解れしかど、すべて當らず。この詞、集中いと多く、すらに、すらを、をすらなども、多く云ひて、なほかつなどいふ意に用ひたり。そが中にも、このすらをといふは、なほの意にて、詞を土下して、をすらと心得れば、よく聞ゆ。さて、尚の字を、すらとよめるは、玉篇に、尚且也、曾也云々。毛詩小辨箋に、尚猶云々などあり(217)て、すらは、なほかつなどいふ意なれ《(マヽ)》、この字を、義訓して、用ひし也。
劔刀《ツルキタチ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。刀は、人の身をはなたず、身にそへ持るものゆゑに、刀のごとく、身に副とつゞけし也。
於身副不宿者《ミニソヘネネハ》。
川島皇子薨じたまひてより、泊瀬部皇女、御ひとりねなるを、かくはいへり。(頭書、於は、義をもて、にの假字に用ひし也。この事、下【攷證七上廿七丁】にいふべし。)
烏玉乃《ヌハタマノ》。
印本、烏を鳥に誤れり。いま意改す。
夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》。
夜床は、夜のふし所なり。書紀仁徳紀に、瑳用廼處烏那羅倍務耆瀰破《サヨトコヲナラヘムキミハ》云々本集十八【廿三丁】に、奴婆玉乃夜床加多左里《ヌバタマノヨトコカタサリ》云々。など見えたり。荒良無《アルラム》は、上【攷證二中四十九丁】荒備勿行《アラヒナユキソ》とある所にいへるごとく、疎く遠ざかる意にて、家のあるゝ、庭のあるゝなどいふも同じく、こゝは、皇子おはしまさずして、夜の床も、疎くあれぬらんとなり。
一云。阿禮奈牟《アレナム》。
印本、阿を何に誤れり。今意改。
名具鮫魚天氣留《ナクサメテケル》。
この句、心得がたし。或人そこ故にこの歌を奉りて、君をなぐさめ奉ると心得べしといへりしかど、さては、下へのつゞき、おだやかなら(218)ず。久老云、魚は兼の誤り、留は田の誤りにて、なぐさめかねて、けだしくもと訓べし云々といへり。いかにも、こゝの所、名具鮫兼天《ナクサメカネテ》、氣田敷藻《ケタシクモ》、相屋常念而《アフヤトオモヒテ》云々とする時、下へのつゞきも、一云に、公毛細哉登とあるへも、よく叶へり。そのうへ、敷藻相《シキモアフ》といへる枕詞も、こゝより外、物に見えざれば、久老が説にしたがふべし。されど、みだりに本書を改るを憚りて、しばらく本のまゝにておきつ。鮫は、和名抄龍魚類に、陸詞切韻云鮫【音交和名佐米】云々と見えて、借字なり。
玉垂乃《タマタレノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。玉を垂るには、緒につらぬく故に、玉垂の緒と、をの一言へかけし也。
越《ヲチ・コス》乃大野之《ノオホヌノ》。
舊訓、こすの大野のとよめれど、反歌の一云に、乎知野《ヲチヌ》とありて、左注にも、越智野とあれば、こゝも、をちの大野とよむべし。考に、この越を、乎知《ヲチ》とよむは、次の或本、また卷五に、眞玉就越乞兼而《マタマツクヲチコチカネテ》云々、卷十三に、眞玉付彼此兼手《マタマツクヲチコチカネテ》云々などあれば也云々といはれつるがごとし。さて、この地は、延喜諸陵式に、越智崗上陵、皇極天皇在2大和國高市郡1云々。書紀天智紀に、小市《ヲチ》岡上陵云々。天武紀云、八年、三月丁亥、天皇幸2於越智1、拜2後岡本天皇陵1云々と見えたり。小市ともかけるにても、をちの假字なるをしるべし。この越野を、こすのとよめるが誤りなる事は、冠辭考、玉だれの條にとかれたり。
玉藻者※[泥/土]打《タマモハヒツチ》。
玉藻の、藻は、借字にて、裳也。玉は、例の物をほむる詞也。※[泥/土]打《ヒツチ》の、打《チ》は、借字にて、漬《ヒチ》也。※[泥/土]の字は、書紀神代紀上、訓注に、※[泥/土]土此云2于毘尼《ウヒチ》1(219)云々。和名抄塵土類に、孫※[立心偏+面]云、泥土和v水也【奴※[人偏+弖]反、和名知利古、一云古比千】云々とありて、ひぢなるを、ちを、つに通はして、ひづといひ、打は、うちのうを略して、ちの假字に用ひたり。さてこのひづちは、本集三【五十八丁】に、展轉※[泥/土]打雖泣《コイマロヒヒツチナケトモ》云々。十五【廿四丁】に、安佐都由爾毛能須蘇比都知《アサツユニモノスソヒツチ》、由布疑里爾己呂毛弖奴禮弖《ユフキリニコロモテヌレテ》云々。十七【廿七丁】に、赤裳乃須蘇能《アカモノスソノ》、波流佐米爾爾保比比豆知底《ハルサメニニホヒヒツチテ》云々などありて、つちの反、ちなれば、ひちを延ていへる言にて、ひたす意なり。猶この言は、下【攷證此卷七十四丁】に出せる、考別記の説をも、考へ合すべし。
衣者沾而《コロモハヌレテ》。
越《ヲチ》の大野のといふより、こゝまでは、もしも君にあふやと思しめして、越野を、皇女のわけゆきたまふさまをいひ、その野の朝つゆに、御裳をひたし、夕ぎりに衣をぬらすらんといへる也。
旅宿鴨爲留《タヒネカモスル》。不相君故《アハヌキミユヱ》。
朝つゆ夕りどに、御衣や、御裳などもひたしぬらしつゝ、たづね給へども、不相《アハヌ》君ゆゑに、すなはちこの野に旅宿かもしたまふらんと、はかり奉れるなり。考云、古へは、新喪に墓屋を作りて、一周の間、人してまもらせ、あるじらも、をりをり行てやどり、或は、そこに住人もありし也。紀【舒明】に、蘇我氏諸族等、悉集爲2島大臣1造v墓、而次2于墓所1、爰摩理勢臣、壞2墓所之廬1云々。この外にも紀にあり云々。
反歌一首。
(220)195 敷妙乃《シキタヘノ》。袖易之君《ソテカヘシキミ》。玉垂之《タマタレノ》。越野過去《ヲチヌニスキヌ・コスノヲスキテ》。亦毛《マタモ》將相《アハメ・アハム》八方《ヤモ》。【一云。乎知野爾過奴《ヲチヌニスキヌ》。】
袖易之君《ソテカヘシキミ》。
本集三【五十九丁】に、白細之袖指可倍※[氏/一]靡寢《シロタヘノソテサシカヘテナヒキネシ》云々。四【廿四丁】に、敷細乃衣手易而《シキタヘノコロモテカヘテ》、自妻跡
憑有今夜《ワカツマトタノメルコヨヒ》云々。十一《六丁》に、敷白之袖易子乎忘而念哉《シキタヘノソテカヘシコヲワスレテオモヘヤ》云々などありて、集中猶多し。男女袖をかはしで寢るをいへるにて、羽をかはすなどいふも、同じ。こは、皇子皇女、御袖を易《カハ》し寢たまひしをいへり。
越野過去《ヲチヌニスキヌ・ヲチヌヲスキテ》。
この過去《スキヌ》は、皇子の薨じ給ひしをいへるなり。字のごとく、すぎさる意也。本集一【廿二丁】に、、黄葉過去君之《モミチハノスキニシキミノ》云々。三【五十五丁】に、過去人之所念久爾《スキニシヒトノオモホユラクニ》云々などありて、集中猶いと多し。これらにても思ふべし。
亦毛《マタモ》將相《アハメ・アハム》八方《ヤモ》。
舊訓、またもあはんやもとあれど、やもは、うらへ意のかへるやに、もの字そへたるにて、このやもといふ詞のうへは、んといふべき所も、必らずめといふべき格也。そは、本集一【十四丁】に、吾戀目八方《ワカコヒメヤモ》云々。また【廿一丁】に、寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》云々。四【五十四丁】に、不相在日八方《アハサラメヤモ》云々。七【卅四丁】に、造計米八方《ツクリケメヤモ》云々などありて、集中猶いと多し。皆同じ格なり。さて、一首の意は、御袖をかはし給ひし君も、越野に葬り奉りしかば、又もあひ給ふことはあらじとなり。
右或本曰。葬2河島皇子越智野1之時。獻2泊瀬皇女1歌也。日本紀曰。(221)朱鳥五年辛卯。秋九月己巳朔丁丑。淨太參皇子川島薨。
泊瀬皇女。
本集、書記等に依に、瀬の字の下、部の字を脱せる歟。
朱鳥五年辛卯。
辛卯の年は、持統天皇五年にで、先鳥元年よりは、六年にあたれり。この事は、上【攷證一下三丁】朱鳥四年とある所にいへり。
明日香皇女。木※[瓦+缶]殯宮之時。柿本朝臣人麿作歌一首。並短歌一首。
明日香皇女。
書記天智紀云、有2阿倍倉梯麿大臣女1、曰2橘娘1、生3飛鳥皇女與2新田部皇女1云々。續日本紀云、文武天皇四年、夏四月癸未、淨廣肆明日香皇女薨、遣v使弔2賻之1、天智天皇女也云々と見えたり。
木※[瓦+缶]殯宮。
考云、木※[瓦+缶]は式、和名抄など、廣瀬郡に出で、此次に、城上殯宮とあるも同じ云々といはれつるがごとく、きのべとよむべし。さて、※[瓦+缶]の字、物に見えず、案に、集韻に、缶或從v瓦作v※[缶+瓦]もあり。こゝの※[瓦+缶]の字は、※[缶+瓦]の扁傍を弄左右せる歟。偏傍を左右する事、字のうへに多し。これを隷行といへり。朗を、篆書に、※[月+良]とかき、※[隔の旁+瓦]を、靈異記中卷に、※[瓦+隔の旁]と書る類也。さて※[缶+瓦]は、缶と同字にて、缶は、土器の惣名にて、また土器の惣名をべともいへば、※[缶+瓦]を、べの假字に用ひしか。忌瓮《イハヒベ》、嚴瓮《イツベ》、また※[瓦+隔の旁]を、なべなどいへるにても、べは、土器にいふこ(222)となるをしるべし。また、新撰字鏡に、※[缶+瓦] 取戸《トリベ》 などあるをも思ふべし。この木※[瓦+缶]宮を、大和志には、高市郡に載て、在2羽内村1としるせるは、いかゞ。この端詞、考に、この長歌に、夫君のなげき慕ひつゝ、木のべの御墓へ往來したまふをいへるも、上の、泊瀬部皇女の、乎知野へ詣たまふと同じ旅也。然れば、この端に、そのかよはせける皇子の御名をあぐべきに、今は、こゝには落て、上の歌の端に入し也。他の端詞の例をも思ふに、疑なければ、かの所を除て、こゝに入たり云々とて、人麿の下に、獻2忍坂部皇子1の六字を加へられたり。これいかにもさる事ながら、みだりに改るを憚りて、しばらく本のまゝにておきつ。
二首。
この二字、印本なし。集中の例に依て加ふ。
196 飛鳥《トフトリノ》。明日香乃河之《アスカノカハノ》。上《カミツ・ノホリ》瀬《セニ》。石橋渡《イハハシワタシ》。【一云。石浪《イハナミ》。】下《シモツ・クタリ》瀬《セニ》。打橋渡《ウチハシワタシ》。石橋《イハハシ》。【一云。 石浪《イハナミ》。】 生靡留《オヒナヒケル》。玉藻毛叙《タマモモソ》。絶者生流《タユレハオフル》。打橋《ウチハシニ》。生乎爲禮流《オヒヲヽレル》。川藻毛叙《カハモモソ》。干者波由流《カルレハハユル》。何然毛《ナニシカモ》。吾王乃《ワカオホキミノ》。立者《タヽセレハ・タチタレバ》。玉藻之如《タマモノコトク》。許呂臥者《コロフセハ》。川藻之如久《カハモノコトク》。靡相之《ナヒキアヒシ》。宣君之《ヨロシキキミカ》。朝宮乎《アサミヤヲ》。忘《ワスレ》賜《タマヘ・タマフ》哉《ヤ》。夕宮乎《ユフミヤヲ》。背賜哉《ソムキタマフヤ》。宇都曾臣跡《ウツソミト》。念之時《オモヒシトキニ》。(223)春部者《ハルヘハ》。花折挿頭《ハナヲリカサシ》。秋立者《アキタテハ》。黄葉挿頭《モミチハカサシ》。敷妙之《シキタヘノ》。袖携《ソテタツサハリ》。鏡成《カヽミナス》。雖見不※[厭の雁だれなし]《ミレトモアカス》。三五月之《モチツキノ》。益《イヤ・マシ》目頬染《メツラシミ》。所念之《オモホエシ》。君與時々《キミトトキ/”\》 幸《イデマシ・ミユキシ》而《テ》。遊賜之《アソヒタマヒシ》。御食向《ミケムカフ》。木《キ》※[瓦+缶]《ヘ・カメ》之宮乎《ノミヤヲ》。常宮跡《トコミヤト》。定賜《サタメタマヒテ》 。味澤相《アチサハフ》。目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》。然《シカ》有《アレ・アル》鴨《カモ》。【一云。所己乎之毛《ソコヲシモ》。】 綾爾憐《アヤニカナシヒ》。宿兄鳥之《ヌエトリノ》。片《カタ》戀《コヒ・コフ》嬬《ツマ》。【一云。爲乍《シツヽ》。】朝鳥《アサトリノ》。【一云。朝霧《アサツユノ》。】往《カヨ》來爲《ハス・ヒシ》君之《キミカ》。夏草乃《ナツクサノ》。念之萎而《オモヒシナエテ》。夕星之《ユフツヽノ》。彼往此去《カユキカクユキ》。大船《オホフネノ》。猶預不定見者《タユタフミレハ》。遣悶流《オモヒヤル》。情毛不在《コヽロモアラス》。其《ソコ・ソノ》故《ユヱニ》。爲便知之也《スベシラマシヤ》。音耳母《オトノミモ》。名耳毛不絶《ナノミモタエズ》。天地之《アメツチノ》。彌遠長久《イヤトホナカク》。思《シヌヒ・オモヒ》將往《ユカム》。御名爾《ミナニ》懸《カヽ・カケ》世流《セル》。明日香河《アスカカハ》。及萬代《ヨロツヨマテニ》。早布屋師《ハシキヤシ》。吾王乃《ワカオホキミノ》。形見何此《カタミカコヽ》焉《ヲ・モ》。
石橋渡《イハハシワタシ》。
本集七【廿七丁】に、橋立倉椅川石走者裳《ハシタテノクラハシカハノイハハシハモ》、壯子時我度爲石走者裳《ヲサカリニワカワタリシイハノハシハモ》云々。また【十丁】に、明日香河湍瀬由渡之石走無《アスカヽハセヽユワタリシイハハシモナシ》云々。十【五十六丁】に、石走間々生有貌花乃《イハハシノマヽニオヒタルカホハナノ》云々などもありて、水中に石をならべて、人をわたすを、いははしとはいふ也。枕詞に、いはゝしの何々とつゞくるも、これ也。そは、冠辭考にくはし。さて、爾雅釋宮に石杜謂2之※[行人偏+奇]1、注に、聚2石水中1、以爲v歩(224)渡※[行人偏+勺]也、孟子曰、歳十一月、徒杠成、或曰、今之石橋云々とあるもこれ也。一云|石浪《イハナミ》とあるも、浪は借字にて、石並にて石をならべて橋とする也。
内橋渡《ウチハシワタシ》。
書紀神代紀下に、於2天安河1、亦造2打橋1云々。天智紀童謡に、于知波志能都梅能阿素弭爾《ウチハシノツメノアソヒニ》云々。本集四【十九丁】に、打橋渡須《ウチハシワタス》、奈我來跡念者《ナカクトオモヘハ》云々。七【十七丁】勢能山爾直向妹之山《セノヤマニタヽニムカヘルイモノヤマ》、事聽屋毛《コトユルセヤモ》、打橋渡《ウチハシワタス》云々。十【卅丁】に、、機※[足+搨の旁]木持往而《ハタモノヽフミキモチイキテ》、天河打橋度《アマノカハウチハシワタス》、公之來爲《キミカコムタメ》云々。十七【九丁】に可美郡瀬爾宇知橋和多之《カミツセニウチハシワタシ》云々。源氏物語夕顔に、うちはしたつものを、みちにてなん、かよひはべる。いそぎくるものは、きぬのすそを、ものにひきかけて、よろぼひたふれて、はしよりもおちぬべければ云々。枕草子に、道のほども、とのゝ御さるがふ事に、いみじくわらひて、ほと/\うちはしよりもおちぬべし云々などあり。宣長云、うちはしを、打渡す橋と心得るは、いかゞ。打渡さぬ橋やあるべき。故に思ふに、打は借字にて、うつしの約りたる也。こゝへもかしこへもうつしもてゆきて、時に臨て、かりそめにわたす橋なり云々といはれつるがごとし。
生《オヒ》靡留《ナヒケル・ナビカセル》。
石をならべて、わたせる、その間などに、生るをいへり。おひなびけるとよむべし。
玉藻毛叙《タマモモゾ》。
毛叙《モゾ》は、毛とぞ重なりたるにて、本集此卷【四十丁】に、好雲叙無《ヨケクモゾナキ》云々。十一【十八丁】に、立念居毛曾念《タチテオモヒヰテモゾオモフ》云々。十三【廿三丁】に、汝乎曾母吾依云吾※[口+立刀]毛曾汝丹依云《ナレヲゾモワレニヨルトフワレヲモソナレニヨルトフ》云々などある皆同じ格なり。中ごろよりのちは、この格なし。
(225)生乎烏禮流《オヒヲヲレル》。
印本、烏を爲に誤りて、おふるをすれるとよめり。考の説によるに、爲は烏の誤りなる事、明らかなれば、改めつ。猶、考と宣長の説をあげて、見ん人の心にしたがはしむ。考別記云、今本に、烏を爲と書しは誤り也。卷十五今六に、春部者花咲乎遠里《ハルヘハハナサキヲヽリ》、また春去者乎呼理爾乎呼里《ハルサレハヲヽリニヲヽリ》、【花の咲たをみたるを略きいふ。】卷七今十に、芽子之花開之乎烏入緒《ハキガハナサキノヲヽリヲ》【今本烏を再に誤。】卷十七に久爾能美夜古波《クニノミヤコハ》、春佐禮播花咲乎々理《ハルサレハハナサキヲヽリ》などは、正しき也。卷十四今三に、花咲乎爲里《ハナサキヲヽリ》、卷十二今八に、開乃乎爲里《サキノヲヽリ》【今本里を黒に誤りて、をすくろと訓しは笑ふべし。】卷十今九に、開乎爲流《サキヲヽル》などの爲の字は誤り也。その故は、乎乎里《ヲヽリ》てふ言の本は、藻も草も、木の枝も、みな手弱く、靡くてふを、略きて、たわみなびくといふ。そのたわみの、たわを重ね、みを略きて、たわ/\ともいふを、音の通ふまゝに、とを/\ともいひ、そのとを/\を又略きて、とをゝといふを、又略きて、乎々里《ヲヽリ》といふ。【里はみに通ひて、とをみてふ辭也。即右にいへるたわみのみに同じ。】この言の理りは、猶もあり。乎爲里といふべき據はすべて見えぬにても、爲は誤りなるをしれ云々。宣長云、この言を、考に、たわみなびく意として、とを/\を略きて、をゝりといふとあるは、いとむづかし。今案に、此言は、卷五【卅丁】に、みるのごとわゝけさがれる、八卷【五十丁】に、秋はぎのうれ和々良葉になどよめる、此わゝけ、わゝら葉は、俗語に髪がわゝ/\としてある故、髪がをわるともいふを、わるは、わゝるの通音にて、わゝけ、わゝらは、彼是と同意也。又木の枝のしげりて、こぐらきを、うちをわるといふも、わゝると通音也。然れば、をゝり、わゝりにて、わゝ/\としくて生たるをいふ也。花咲をゝりも、わゝ/\としげく花の咲事をいふ也云々
干者波由流《カルレハハユル》。
枯るれば生《ハユ》る也。本集六【十九丁】に、家之小篠生《イヘシシヌハユ》云々。こは借字ながら、はゆは生る也。和名抄木具に、蘖を比古波衣と訓るも、生るをいへり。又、曾丹集に(226)あらを田のこぞのふる根のふる蓬、今は春べとひこばえにけり。散木集に、をがみ川むつきにはゆるゑぐのうれをつみしたえてもそこのみためそ云々なども見えたり。さてこゝにかくいへるは藻などは絶れは生ひ、枯れる《(マヽ)》生えなどすれは、うせ給ひし君は、二たぴあふまじきをいへるなり。
何然毛《ナニシカモ》。
この、下の忘賜哉《ワスレタマフヤ》といふへかけて、上の藻などの生かはるを、うたがひて、さるを、何しかもわすれ給ふぞといへるなり。志は助辭也。
立者《タヽセレハ・タチタレハ》。
舊訓、たちたればとあるは、いふにもたらぬ誤りにて、考に、たゝすれば、よまれしも、いかゞ。たゝする、たゝすれといふ言なし。古事記上卷に、和何多々勢禮婆《ワカタヽセレハ》とあれば、こゝもたゝせればとよむべし。皇子、皇女の、立たまふをいへり。
許呂臥者《コロブセハ》。
此卷四十二丁に、荒床自伏君之《アラトコニコロフスキミガ》云々と、自伏をころふすとよめるより、ころふすとは、みづから伏ことばとのみ心得るは、いかゞ。許呂《コロ》は、伏さまをいへるにて今俗言に、ころりとふすといひ、物の、高き所より落るを、ころりと落るといへり。自ら倒るゝを、ころぶといふも、ぶはびと通ひて、ころぶりにて、都び、鄙びなどの、びと同じ。こゝの、ころ伏も、ころとふす意にて、本集十三【十八丁】に、根毛一伏三向凝呂爾《ネモコロコロニ》云々とある、一伏三向を、ころと訓も、人の伏さまをいふより、義訓して、ころとはよめる也。いと後のものなれど、十訓抄卷 に、一伏三仰を月夜とよめる事を、わらはべのうつむきざいといふ物に、一つふして三つあふむけるを、月夜といふ也云々とあり。これ、うつむくは、ころぶ意なれば、十三卷なる一伏三向(227)もころぶ意にて、ころとよめるをしるべし。されば、こゝの許呂臥《コロフス》も、ころびふす意にて、びを略けるなるべし。
靡相之《ナヒキアヒシ》。
皇子皇女、御夫婦のなからひ、御むつまじく立たまふにも、ふし給ふにも、藻などの、水になびくがごとく、はなれたまはずなびき居給ひしと也。
宜君之《ヨロシキキミカ》。
書紀雄略紀、御歌に、擧暮利矩能《コモリクノ》、播都制能野磨播《ハツセノヤマハ》、伊底〓智能《イテタチノ》、與盧斯企夜磨《ヨロシキヤマ》云々。繼體紀、勾大兄皇子御歌に、奧盧志謎鳴《ヨロシメヲ》、阿〓等枳々底《アリトキヽテ》云々。本集三【廿一丁】に、宜奈倍吾背乃君之《ヨロシナヘワカセノキミカ》云々ともありて、よろしは物の足りそなはれるをいへる言なり。この事は、上【攷證一下卅七丁】にもいへり。
朝宮乎《アサミヤヲ》。
本集十三【四丁】に、朝宮仕奉而《アサミヤツカヘマツリテ》云々とあるは、あしたに宮仕へする也。こゝの朝宮は、夕宮にむかへたれば、朝夕常にまします宮といふを、朝宮夕宮といへる也。
忘《ワスレ》賜《タマヘ・タマフ》哉《ヤ》。
舊訓、わすれたまふやとあれど、わすれたまへやとよむべし。たまへやの、やは、ばやの意にて、ばを略ける也。そは、本集四十三丁に、眞野之浦乃與騰乃繼橋《マヌノウラノヨドノツキハシ》、情由毛思哉《コヽロユモオモヘヤ》、妹之伊目爾之所見《イモカイメニシミユル》云々とある、おもへやと同格也。されど、こゝのたまへやの、やは、結び詞なきがごとく聞ゆれど、こは、下の、目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》といふへかゝりて、奴《ヌ》と結びし也。常には、ぬるといふべきを、ぬとのみいへるは、變格也。さてこゝの意は、朝夕常におはしましゝ大宮をわすれ給へばや、又そむき給へや、この大宮をばすてゝ、薨給ひて、木※[瓦+缶]の宮を、常におはす宮とは、さだめつらんとなり。
(228)背賜哉《ソムキタマヘヤ》。
そむくは、背向《ソムク》の意に、物をうけひかざるをいへる也。拾遺集、秋に、よみ人しらず、秋風をそむくものから花すゝきゆくかたをなどまねくなるらんとあるも同意なり。
宇都曾臣跡《ウツソミト》。
そと、しと音通ひて、現身《ウツシミ》也。この事は、上【攷證二中卅九丁】にいへり。こゝの意は、皇女の、現《ウツヽ》におはしまししをりは、現身《ウツシミ》ぞと思ひ奉りし、その時には、春になれば、花を折かざし、秋になれば、紅葉をかざし給ひしと、こし方を思ひ出し也。
春部者《ハルヘハ》。花折挿頭《ハナヲリカザシ》。
春の方になれば、花を折てかざし、秋立ば、黄葉を折てかざしなどしたまひし、皇女の、御遊の、みやびたるをあげていへる也。さてこれらの事は、上【攷證一下十丁】に、春部者花挿頭持秋立者黄葉頭刺理《ハルヘハハナカサシモチアキタテハモミチカサセリ》云々とある所にいへり。
袖※[携の異体字]《ソテタツサハリ》。
本集此卷【卅九丁】に、宇都曾臣等念之時《ウツソミトオモヒシトキニ》、※[携の異体字]手吾二見之《タツサハリワカフタリミシ》云々。四【五十丁】に、吾妹兒與携行而《ワキモコトタツサヒユキテ》云々。九【十八丁】に、細有殿爾《タヘナルトノニ》、携二人入居而《タツサハリフタリイリヰテ》云々。十【廿三丁】に、妹與吾携宿者《イモトワレトタツサハリネバ》云々。十七【卅七丁】に、於毛布度知宇麻宇知牟禮底《オモフトチウマウチムレテ》、多豆佐波理伊泥多知美禮婆《タツサハリイテタチミレハ》云々。二十苦に、之路多倍之蘇※[泥/土]奈岐奴良之《シロタヘノソテナキヌラシ》、多豆佐波里和可禮加弖爾等《タツサハリワカレカテニト》云々などありて、たづさはりは、立よりさはるといふが如し。※[携の異体字]は、玉篇に、弦※[奚+隹]切、提※[携の異体字]也、又連也、携俗〓字云々。廣雅釋詁四に、※[携の異体字]提也云々と見えたり。
(229)鏡成《カヽミナス》。
枕詞なり。予が冠辭考補遺にいふべし。鏡の如く見るとつゞけしなり。
雖見不※[厭の雁だれなし]《ミレドモアカズ》。
※[厭の雁だれなし]は玉篇に、足也飽也云々と見えたり。
三五月之《モチツキノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。望月は、影みちてめづらしくをかしきものなれば、望月のごとくめづらしとつゞけし也。さて、三五を、もちとよめるは、九々の數三五十五なれば、十五日の月の義にて、義訓せる也。こは、集中、八十一を、くゝとよみ、重二並二などを、しとよみ、十六を、しゝとよみ、二五を、とをとよめる類なり。樂天八月十五夜詩に三五夜中新月色云々。劉孝綽詩に、明々三五月、垂影當2高樹1云々など見えたり、和名抄天部に、釋名六、望月【和名毛知豆岐】月大十六日小十五日、日在v東月在v西、遙相望也云々とあり。
益《イヤ・マシ》目頬染《メツラシミ》。
益は、いやと訓べし。上【攷證二中五丁】にいへり。目頼染《メツラシミ》は、借字也。頬は、新撰宇鏡に頬【居牒反豆良】云々。和名抄頭面類に、野王按云頬【音狹和名豆良一云保々】面旁目下也云々などあり。染は、しみ、しめ、しむとはたらきて、本集三【廿四丁】に、相見染跡衣《アヒミシメトソ》云々。四【卅八丁】に、和備染責跡《ワビシミセムト》云々など訓り。これを、そめ、そむなどいふも、しとそかよへば也、さてめづらしは、書紀神功紀、訓注に、希見此云2梅豆邏志《メツラシ》1云々とある意にて、望月は、月に一度ならではなく、希に見る物にて、いとゞめづらしく思ふを、この皇女の御さまを、いつもめづらしく、あかず見奉り給ひしにたとへし也。また繼體紀に、女の名に目頬《メツラ》子といふありて、歌にも梅豆羅古と詠るも、女を愛しめづらしき意にて、名にも呼し也。また本集八【四十三丁】に、希相見《メツラシキ》云々、また【四十七丁】に、目頬布《メツラシキ》云々な(230)とありて、集中いと多く、靈異記上卷に、奇【女ツラシク又阿ヤシ支】云々なども見えたり。
君與時々《キミトトキ/\》。幸而《イテマシテ・ミユキシテ》。
考に、こゝに、君とさす人有からは、かの忍坂部皇子の事をしれ云々といはれるつるがごとく、君とは、皇子と皇女とを申す也。時々は、考には、をり/\と訓れしかど、中ごろより此方は、をりといふべきを、集中時とのみ書たれば、こゝにも、舊訓のまゝ、とき/”\とよむべし。
御食向《ミケムカフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは、御饌に供る物の名にいひかけたるにで、集中、いろ/\につゞけたり。こゝは、御食《ミケ》の料に備《ソナ》へ設る酒《キ》とつゞけし也。酒を、古語にきといふ事は、下【攷證六】にいふべし。
常宮跡《トコミヤト》。定賜《サダメタマヒテ》。
本集此卷【卅五丁】に、朝毛吉木上宮乎《アサモヨシキノヘノミヤヲ》、常宮高之奉而《トコミヤトタカクシマツリテ》云々。六【十二丁】に、安見知之《ヤスミシヽ》和期大王之《ワコオホキミノ》、常宮等仕奉流《トコミヤトツカヘマツレル》、左日鹿野由《サヒカヌユ》云々などあり。常《》は、ゆく末久しくとことは、かはる事なき宮と、賀し申せる也。この皇女、今までは、御夫の皇子と、とき/”\おはしまして、遊給ひし木※[瓦+缶]に、御墓を作りたれば、これぞ、久しくかはる事なき、大宮所なると也。さて、この常宮を、宣長は、古事記上巻に、次登由宇氣神、此者坐2外宮《トツミヤ》之度相1神者也云々。本集十三【四丁】に、三諸之山礪津宮地《ミモロノヤマノトツミヤトコロ》云々。二十【十二丁】に、東常宮などあるを引て、常の大宮の外に、別に建おかれて、をり/\御はしますべき離宮をいへるよし、いはれしかど誤り也。外宮、礪津宮などは、疑もなき離宮の事なれば、このほかは、離宮にあらず。まへに引る、六の卷【十二丁】の歌(231)は、神龜元年、紀伊國に行幸の時、赤人のよめる歌にて、左日鹿《サヒカ》野の行宮《カリミヤ》を、常宮《トコミヤ》といへるなれば、外宮《トツミヤ》の意ともきこゆれど、すべて、外宮といふは、その本宮《モトツミヤ》の近きほとりに在て、をり/\おはしますべき料なれば、今の別業といふものゝ類也。されば、都より遠き、紀伊國の行宮を、外宮といふべきよしなし。こは行宮なれど、ゆく末久しくあれかしと、祝し申せる事、しばしなりとも、天皇のおはしませる大宮なれば也。又二十の卷【十二丁】に、東常宮とあるを、續日本紀には御2東院1とあり。これ外宮ならば、幸とあるべきを、ほかの宮殿のなみに、御とあれば、内裏の中とこそ聞ゆれ。されば、この東常宮は、内裏の宮殿の名なるべし。これらにても、こゝの常宮は、外宮ならぬをしるべし。
味澤相《アチサハフ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。味《アチ》は、あぢ鴨の事にて、この鳥、群《ムレ》ゆくものなれば、そのむれの反、めなれば、めの一言へかけて、味多經《アチサハフ》、群《ムレ》にて、經は、そらを飛經《トヒヘ》ゆく也。枕詞、あぢむらといへるにても、この鳥群るものなるをしるべし。
目辭毛絶奴《メコトモタエヌ》。
本集四【四十四丁】に、海山毛隔莫國《ウミヤマモヘダヽラナクニ》、奈何鴨目言乎谷裳《ナニシカモメコトヲタニモ》、幾許乏寸《コヽタトモシキ》云々。十一【廿七丁】に、東細布從空延越《ヨコクモノソラユヒキコス》、遠見社目言踈良米《トホミコソメコトカルラメ》、絶跡間也《タユトヘタツヤ》などありて、目に見、口に言事を、めごととはいひて、ここは、皇女薨給ひしかば、目に見奉る事も、もの言奉る事もたえぬと也。さて、ここは、上の、朝宮をわすれ給へや、夕宮をそむき給へやといふ、やの結び詞なれば、ぬるといふべきを、ぬとのみいふは、變格也。ぬの下へ、るをそへてきくべし。
(232)然《シカ》有《アレ・アル》鴨《カモ》。【一云。所己乎之毛《ソコヲシモ》。】
しかあればかもの、ばを略ける也。十七【四十七丁】に、之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》とあると、同格也。さてここは、しかあれかもとありては、下へのつづきもあもく、意も聞えがたし。一云|所己乎之毛《ソコヲシモ》とあるかたをとるべし。
綾爾《アヤニ》憐《カナシヒ・カシコミ》。
綾は、借字にて、あや歎く聲也。この事は、上【攷證二中卅二丁】にいへり。
宿兄鳥之《ヌエトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。この鳥、妻ごひつつなくものなるぺければ、片攣とはつづけしなるべし。上【攷證一上十丁】にも出たり。
片《カタ》戀《コフ・コヒ》嬬《ツマ》。【一云。爲乍《シツヽ》。】片戀とは、皇女薨たまひしかば、皇子のみ片戀し給ふ也。舊訓、かたこひとあれど、ここは用語に、かたこふつまとよむべし。さてこゝは、片こふつまとありては、次へのつづきよろしからねば、一云|爲乍《シツヽ》とあるをとりて、片戀|爲乍《シツヽ》と心得べし。
朝鳥《アサトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。朝には、鳥のねぐらをいでゝ、遠く往かよふものなれば、あしたの鳥のごとく、かよひし君とつづけしなり。一云朝露とあるはいかが。
往來《カヨ》爲《ハス・ヒシ》君之《キミカ》。
この君は、皇子をさし奉りて、皇女のおはしまししほどは、皇子のかよひ給ひしかば也。
夏草乃《ナツクサノ》。念之萎而《オモヒシナエテ》。
上【攷證二中五丁】に、夏草之念之奈要而《ナツクサノオモヒシナエテ》とある所に、いへるがごとく、夏草の日にしをるるがごとく、思ひにしをれて、萎《ナエ》くづをれたるをいへり。
(223)夕星之《ユフツヽノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。長庚星《ユフツヽ》の、或は西、或は東と、ここかしこに、往來して、見ゆるを、皇女をしたひ給ひて、皇子、かしここゝに、ゆきさまよひ給ふにたとへて、夕星のごとく、かゆきかくゆきとはつづけし也。和名抄天部に、兼名苑云、大白星、一云長庚、暮見2於西方1、爲2長庚1【此間云2由不豆々1】と見えたり。
彼往此去《カユキカクユキ》。
本集十七【卅六丁】に、可由吉加久遊岐《カユキカクユキ》とも見えたり。彼にゆき、此にゆきにて、彼依此依《カヨリカクヨリ》などいふ類也。
大船《オホフネノ》。猶預不定見者《タユタフミレハ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上卅九丁】に、大船之泊流登麻里能絶多日二《オホフネノハツルトマリノタユタヒニ》云々とある所にいへるがことく、船は、海上にうきて、ただよひたゆたふものなれば、大船のごとく、たゆたふとはつづけし也。ここは、皇女にわかれ給ひて、皇子の、かしこにゆきさまよひ、中ぞらにたゆたひ給ふをいへる也。尚預不定をよめるは義訓也。本集十一【卅一丁】に、妹者不相《イモニハアハス》、猶預四手《タユタヒニシテ》云々など見えたり。さて、猶預の字は、史記高帝紀云、諸呂老人、猶豫未v有v所v決、注云、猶豫二獣名、皆多v疑、故借以爲v喩とあり。玉篇云、豫或作v預とありて、豫預同字也。
遣悶流《オモヒヤル》。
上【攷證一上十一丁】にいへるごとく、心をやるといふに同じく、ここは、皇子の悲しみたまふさまを見るにつけても、われさへ、思ひを遣り失ふべき心なく、いとかなしと也。さて、遣悶の字は、會昌一品外集方士論云、宮中無事、以v此遣v悶耳云々。李群玉詩に、短篇纔遣v悶、小釀不v供v愁云々など見えたり。また説文に、悶煩也从v心云々。韻會に、煩懣心欝也云々(234)と見えたり。
其故《ソコユエニ・ソノユエヲ》。爲便《スベ》知之《シラマシ・モシラシ》也《ヤ》。
ましは、んかしの約り、やはうらへ意のかへるやにて、すべしらんかしや、すべをしらばと也。ここの意は、われさへ、思ひをやり失ふべき心さへあらずそれ故に、いかがすべきと、とふすべもしらずと也。宣長云、この一句は誤字あるべし。せんすべしらにとは、せんすべをなみとか、あるべき所也云々といはれつる、いかにもさることながら、しばらく、考の訓によりて解せり。
音耳母《オトノミモ》。名耳毛不絶《ナノミモタエス》。
本集十七【四十丁】に、於登能來毛名能未母伎吉庭《オトノミモナノミモキヽテ》云々ともあり。音は、皇女の御事をいふをきき、名は、皇女の御名をいふをいへるにてここは、今にかくせんすべもなければ、せめての事に、皇女の御事と、御名だにも年久しく思ひ奉らんと也。
天地之《アメツチノ》。彌遠長久《イヤトホナガク》。
天地のごとく、いや遠く、長く年久しく、わすれ奉る事なく、皇女の御事を思ひ奉りゆかんと也。本集三【四十六丁】に、延葛之彌遠永《ハフクスノイヤトホナカク》、萬世爾《ヨロツヨニ》云々。また【五十九丁】に、天地與彌違長爾《アメツチトイヤトホナカニ》、萬代爾《ヨロツヨニ》云々。續日本紀、天平十五年五月詔に、天地與共爾長久遠久仕奉【禮等】云々など見えたり。
思《シヌビ・オモヒ》將往《ユカム》。
上【攷證一上十二丁】にいへるが如く、しぬぶといふ言に、四つありて、ここは、戀しぬぶ意にて、天地の如く、遠く長く、戀しぬびゆかんと也。さて、思をしぬぶと訓るは、義(235)訓也。本集三【五十六丁】に、見乍思跡《ミツヽシヌヘト》云々と見えたり。
御名爾《ミナニ》懸《カヽ・カケ》世流《セル》。
舊訓、みなにかけせるとあれど、かかせるとよむべし。本集十七【卅九丁】に、安麻射可流比奈爾奈可加須《アマサカルヒナニナカヽス》、古思能奈可《コシノナカ》云々とあれば也。名にかかせるとは、名に負ふといふと同じく、皇女の御名も、明日香《アスカノ》皇女と申、川の名も明日香《アスカ》川といへば、皇女の御名に、かからせる、あすか川とはいへり。十六【六丁】櫻兒をよめる歌に、妹之名爾繋有櫻《イモカナニカケタルサクラ》、花開者《ハナサカハ》云々とも見えたり。
及萬代《ヨロツヨマテニ》。
こは、下の、形見何此焉《カタミカコヽヲ》といふへかかりて、この皇女の御名にかかれる、川の名なれば、この川を、萬代までも、吾王の御かたみとは見んと也。
早布屋師《ハシキヤシ》。
こは、古事記中卷、御歌に、波斯祁夜斯和岐弊能迦多用《ハシケヤシワキヘノカタヨ》云々。これを、書紀には、波辭枳豫辭《ハシキヨシ》とし給へり。本集四【卅八丁】に、波之家也思不遠里乎《ハシケヤシマチカキサトヲ》云々。六【廿八丁】に、愛也思不遠里乃《ハシキヤシマチカキサトノ》云々。十二【卅三丁】に、波之寸八師志賀在戀爾《ハシキヤシシカアルコヒニ》云々などありて、集中猶多し。はしきは人を愛しうつくしむ意に、憂の字をよめ《(マヽ)》かごとし。やしの、しは、助字、やはよに通ひて、かろく添たる字也。これを、はしけやしといふは、けときと音通へば也。また二十【五十九丁】に、波之伎余之《ハシキヨシ》ともあるは、やとよと音通へば也。また十一【卅丁】に、級子八師《ハシコヤシ》ともあるは、きとこと音通へば也。さて、この事は、考別記、古事記傳卷二十八などにも、くはしく見えたり。
(236)形見何此焉《カタミカコヽヲ》。
形見は、形ち見の略なる事、上【攷證一下廿三丁】にいへるがごとし。宣長云、此焉《コヽヲ》といふを、考には、ここをばの意とあれど、をばにては、止の詞にかなはず。集中に、さる例なし。このをは輕くして、よといはんがごとし云々といはれつるは、いかが。此をの字は 上へうちかへしてきく意にて、ここを、わが大王の、かたみかと、詞をかへして心得べし、
反歌二首。
この反歌を、印本短歌とあれど、例によりて改む。この事は、上【攷證一下廿二丁】にくはしくいへり。
197 明日香川《アスカカハ》。四我良美渡之《シガラミワタシ》。塞益者《セカマセハ》。進留水母《ナカルヽミツモ》。能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》。【一云。水乃與杼爾加有益《ミヅノヨトニカアラマシ》。】
四我良美渡之《シガラミワタシ》。
四我良美《シカラミ》は、木にまれ、竹にまれ、からみわたして、水をせく料とするをしがらみといへり。しは添ていふ語にて、からみ也。しなゆ、しをるなどの、し文字も、これ也。さて、しがらみは、本集六【四十二丁】に、芽子之枝乎石辛見散之《ヘキカエヲシカラミチラシ》、狹男鹿者妻呼令動《サヲシカハツマヨヒトヨメ》云々。七【三十八丁】に、明日香川《アスカヽハ》、湍瀬爾玉藻者雖生有《セヽニタマモハオヒタレト》、四賀良美有者《シカラミアレハ》、靡不相《ナヒキアハナクニ》云々などありて、集中猶あり。
(237)塞益者《セカマセハ》。
集中、塞の字を、皆せくとよめり。この字を、今ふさぐとよめるも、ふせぐにて、せくといふに同じ。ませばは、ましせばの約りにて、本集三【五十六丁】に、出行道知末世波《イデヽユクミチシラマセバ》、豫妹乎將留塞毛置末思乎《カネテヨリイモヲトヽメムセキモオカマシヲ》。多くは、下を、ましと結べり。これに違へるは、集中ただ一首のみ。
進留水母《ナカルヽミヅモ。
進を、ながるとよめば義訓也。水のすすみゆくなれば、おのづからに流るる意也。
能杼爾賀有萬思《ノドニカアラマシ》。
能杼《ノド》は、中ごろより、のどかといふに同じ、本集十三【三十三丁】に、吹風母和者不吹《フクカセモノドニハフカス》云々。また【三十三丁】立浪裳箟跡丹者不起《タツナミモノドニハタヽス》云々。續日本紀、天平勝寶元年四月詔に、海行波美豆久屍《ウミユカバミツクカハネ》、山行波草牟須屍《ヤマユカバクサムスカハネ》、王乃幣【爾去曾】死米《オホキミノヘニコソシナメ》、能杼【爾波】不死止《ノトニハシナシトト》云々など見えたり。一首の意は、皇女の、御名に懸《カケ》たまへる、明日香川も、しがらみなどして、せかば、流るる水ものどかにゆく物を、皇女の御わかれをば、とどめ奉るによしなしと也。古今集哀傷に、壬生忠峯、瀬をせけば淵となりてもよどみけり、わかれをとむるしがらみぞなき云々とよめるも似たり。
一云。水乃與杼爾加有益《ミツノヨトニカアラマシ》。
本集三【廿九丁】に、明日香河川余騰不去《アスカカハカハヨトサラス》云々。四【五十七丁】に、苗代水乃中與杼爾四手《ナハシロミツノナカヨドニシテ》云々などありて、集中猶多し。これら、みなよどむ意にて、淀をよどといふも、水のよどめるよりいへる名也。このかたにても、一首の意は同じ。
(238)198 明日香川《アスカカハ》。明日谷《アスダニ》。【一云。左倍《サヘ》。】 將見等《ミムト》。念八方《オモヘヤモ》。【[一云。念香毛《オモヘカモ》。】吾王《ワカオホキミノ》。御名忘世奴《ミナワスレセヌ》。【一云。御名不所忘《ミナワスラエヌ》。】
念八方《オモヘヤモ》。
方は、助字、おもへばやの、ばを略けるにて、や疑ひのや也。ばを略ける事は、まへにいへり。やは、疑ひなるによりて、下を世奴《セヌ》とむすべり。一云、念香毛《オモヘカモ》とあるも同じ。
御名忘世奴《ミナワスレセヌ》。
御名をわすれざる也。一首の意は、皇女は、今薨たまひて、又と見奉る事はなるまじきを、それをばあすだにも見參らんと思へるにや、とにかくに、皇女の御名を、わすれかねつと也。一の句に、明日香川とおけるは、詞をかさねて、明日谷《アスダニ》といはん料にて、皇女の御名をも兼たり。
一云。御名不所忘《ミナワスラエヌ》。
考に、みなわすられずとよまれしは、いかが。上の、疑の、やをうけたれば、みなわすらえぬとよむべし。集中、すべてかく、れといふべき所を、えといへる事多し。この事は、上【攷證一下六十丁】にいへり。
高市皇子尊。城上殯宮之時。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌二首。
(239)城上殯宮。
前に、木※[瓦+缶]《キノベノ》殯宮とあるを、同所也と考にいはれつるがごとくなるべし。延喜諸陵式に、三立岡墓、高市皇子、在2大和國廣瀬郡1云々とありて、和名抄郷名に、大和國廣瀬郡|城戸《キノヘ》云々ともあれば、この陵は、廣瀬郡なる事、明らかなるを、大和志には、この陵をば、廣瀬郡とし、木※[瓦+缶]をば、高市郡として、別所とせり。猶可v考。
二首。
この二字、印本なし。今卷中の例によりて補ふ。○この歌は、高市皇子尊の薨給へる、悲み奉りて、よめるにて、この皇子の御事は、上【攷證二上卅二丁】にいへるがごとく、持統天皇三年四月、日竝知皇子の薨給ひし後、皇太子に立給ひT、同十年七月、薨給ひしを、惜み悲み奉るとて、この皇子、たゞの皇子におはしましゝ提、御父天武天皇と、大友皇子と、御軍のをり、この皇子、專ら軍事をとり給ひて、御功ありし事、其後太政大臣となり給ひて、政を申給ひし事まで、世に勝れましし事を、あげかぞへて、悲み奉れる也、左の歌を見んには、まづこれらの事をよく思ひたどりて見るべし。
199 挂文《カケマクモ》。忌之伎鴨《ユヽシキカモ》。【一云。由遊志計禮杼母《ユヽシケレドモ》。】言久母《イハマクモ》。綾爾畏伎《アヤニカシコキ》。明日香乃《アスカノ》。眞神之原爾《マカミノハラニ》。久堅能《ヒサカタノ》。天津御門乎《アマツミカドヲ》。懼母《カシコクモ》。定賜而《サダメタマヒテ》。神《カム・カミ》佐扶跡《サブト》。磐《イハ》隱《カクリ・カクレ》座《マス》。八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワカオホキミノ》。所聞《キコシ・キカシ》見爲《メス》。背友乃國之《ソトモノクニノ》。眞木《マキ》立《タツ・タテル》。不破山越而《フハヤマコエテ》。狛劔《コマツルギ》。和射(240)見我原乃《ワサミガハラノ》。行宮爾《カリミヤニ》。安母理座而《アモリマシテ》。天下《アメ|ノ《・カ》シタ》。治賜《ヲサメタマヒ》。【一云。拂賜而《ハラヒタマヒテ》。】食國乎《ヲスクニヲ》。定賜等《シツメタマフト》。鳥之鳴《トリカナク》。吾妻乃國之《アツマノクニノ》。御軍士乎《ミイクサヲ。喚賜《メシタマヒ》而《テ・ツヽ》。千磐破《チハヤフル》。人乎《ヒトヲ》和爲《ヤハセ・ナコシ》跡《ト》。不奉仕《マツロハヌ》。國乎治跡《クニヲヲサメト》。【一云。掃部跡《ハラヘト》。】皇子《ミコ》隨《ナガラ・ノマニ》。任賜者《マケタマヘハ》。大御身爾《オホミミニ》。大刀取《タチトリ》帶《ハカ・オナ》之《シ》。大御手爾《オホミテニ》。弓取持之《ユミトリモタシ》。御軍士乎《ミイクサヲ》。安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》。齊流《トヽノフル》。皷之音者《ツヽミノオトハ》。雷之《イカツチノ》。聲登聞麻低《コヱトキクマテ》。吹響流《フキナセル》。小角乃《クダノ・ヲツノ》音母《コヱモ》。【一云。笛之音波《フエノコヱハ》。】敵見有《アダミタル》。虎可叫吼登《トラカホユルト》。諸人之《モロヒトノ》。〓流麻低爾《オヒユルマデニ》。【一云。聞惑麻低《キヽマドフマデ》。】指擧有《ササゲタル・サシアガル》。幡之靡者《ハタノナビキハ》。冬木成《フユコモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。野《ヌ・ノベ》毎《ゴトニ》。著而有火之《ツキテアルヒノ》。【一云。冬木成《フユコモリ》。春野燒火乃《ハルヌヤクヒノ》。】風之共《カセノムタ》。靡如久《ナビクガゴトク》。取持流《トリモタル》。弓波受乃《ユハズノ》驟《サワギ・ウゴキ》。三雪落《ミユキフル》。冬乃林爾《フユノハヤシニ》。【一云。由布之林《フユノハヤシ》。】飄可母《ツムシカモ》。伊卷渡等《イマキワタルト》。念麻低《オモフマテ》。聞之恐久《キヽノカシコク》。【一云。諸人《モロヒトノ》。見惑麻低爾《ミマドフマテニ》。】(241)引放《ヒキハナツ》。箭繁計久《ヤノシゲケク》。大雪乃《オホユキノ》。亂而《ミダレテ》來禮《キタレ・クレ》。【一云。霰成《アラレナス》。曾知奈里久禮婆《ソチヨリクレハ》。】不奉仕《マツロハズ》。立向之毛《タチムカヒシモ》。露霜之《ツユシモノ》。消者消倍久《ケナバケヌベク》。去鳥乃《ユクトリノ》。相競端爾《アラソフハシニ》。【一云。朝霜之《アサシモノ》。消者消言爾《ケナバケトフニ》。打蝉等《ウツセミト》。安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》。】渡會乃《ワタラヒノ》。齋宮從《イツキノミヤユ》。神風爾《カムカセニ》。伊吹惑之《イフキマトハシ》。天雲乎《アマクモヲ》。日之目毛不令見《ヒノメモミセス》。常闇爾《トコヤミニ》。覆賜而《オホヒタマヒテ》。定之《シツメテシ》。水穗之國乎《ミツホノクニヲ》。神隨《カムナカラ・カミノマニ》。太敷座而《フトシキマシテ》。八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王之《ワカオホキミノ》。天下《アメノシタ》。申賜者《マヲシタマヘバ》。萬代《ヨロツヨニ》。然之毛將有登《シカシモアラムト》。【一云。如是毛《カクモ》。安良無等《アラムト》。】木綿花乃《ユフバナノ》。榮時爾《サカユルトキニ》。吾大王《ワカオホキミ》。皇子之御門乎《ミコノミカトヲ》。【一云。刺竹《サスタケノ》。皇子御門乎《ミコノミカトヲ》。】神宮爾《カムミヤニ》。装束《ヨソヒ・カザリ》奉而《マツリテ》。遣使《ツカハシヽ・タテマタス》。御門之人毛《ミカトノヒトモ》。白妙乃《シロタヘノ》。麻衣著《アサコロモキテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。門之原爾《ミカトノハラニ》。赤根刺《アカネサス》。日之《ヒノ》盡《コト/\・ツクルマテ》。鹿自物《シヽジモノ》。伊波比伏管《イハヒフシツヽ》。烏玉能《ヌバタマノ》。暮爾至者《ユフベニナレバ》。大殿乎《オホトノヲ》。振放見乍《フリサケミツヽ》。鶉成《ウツラナス》。伊波比廻《イハヒモトホリ》。雖侍候《サモラヘド》。(242)佐母良比不得者《サモラヒエネバ》。春鳥《ハルトリ・ウグヒス》之《ノ》。佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》。嘆毛《ナゲキモ》。未過爾《イマダスギヌニ》。憶毛《オモヒモ》。未不盡者《イマダツキネバ》。言左敝久《コトサヘグ》。百濟之原從《クダラノハラユ》。神《カム・タマ》葬《ハブリ》。々伊座而《ハブリイマシテ》。朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨヒ》。木《キ》上《ノベ・ウヘ》宮乎《ノミヤヲ》。常宮等《トコミヤト》。高《タカ》之《シリ・シ》奉而《タテヽ》。神隨《カムナガラ・カミノマニ》。安定座奴《シヅマリマシヌ》。雖然《シカレドモ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。萬代跡《ヨロツヨト》。所念食而《オモホシメシテ》。作良志之《ツクラシヽ》。香來山之宮《カグヤマノミヤ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。過牟登念哉《スキムトオモヘヤ》。天之如《アメノゴト》。振放見乍《フリサケミツヽ》。玉手次《タマダスキ》。懸而《カケテ》將偲《シヌバム・シノハム》。恐《カシコ》有《カレ・ケレ》騰文《トモ》。
挂文《カケマクモ》。
心にかけて、思奉んもゆゆしといへるにて、まくの反、むなれば、かけんといへる也。本集【五十七丁】に、掛卷母綾爾恐之《カケマクモアヤニカシコシ》、言卷毛齋忌志伎可物《イハマクモユユシキカモ》云々。六【五十六丁】に、繋卷裳湯々石恐石《カケマクモユユシカシコシ》云々などありて集中猶多し。
忌之伎鴨《ユヽシキカモ》。
ゆゆしは、忌々しにて、物を忌ていへる也。ここは、いやしき心にかけて、思ひ奉らんも、憚多しといへるにて、恐々忌憚る意也。古事記下卷、御歌に、由々斯伎加母《ユヽシキカモ》、加志波良袁登賣《カシハラヲトメ》云々。本集十【五十四丁】に、言出而云忌染《コトニイデヽイハヽユヽシミ》云々。十二【七丁】に、忌々久毛吾者歎鶴鴨《ユヽシクモワレハナゲキツルカモ》云々などありて、集中にも、中古にも、いと多し。鴨は、歎息の意こもりて、中ごろよりは、(243)かなといふべき所也。この類、集中にいと多し。
言久毛《イハマクモ》。
これも、まくの反、むにて、いはんも也。
綾爾畏伎《アヤニカシコキ》。
綾は、借字にて、歎聲なる事、【攷證二中卅二丁】にいへるごとく、畏伎《カシコキ》は、本はかしこみ恐るる意なれど、そを轉じて、ありがたか《(マヽ)》たじけなる意とせる事、これも【攷證二中廿九丁】にいへるがごとし。
眞神之原爾《マカミノハラニ》。
考云、是より下七句は、天武天皇の御陵の事を先いへり、さて、ここには、明日香の眞神原とよみたるを、紀には、大内てふ所と見え、式には、檜隈大内陵とあるは、もと明日香檜隈は、つづきてあり、大内は、その眞神原の小名と聞ゆ。然ればともに同じ邊にて、違ふにはあらず云々といはれつるがごとし。さてこの地名は、書紀崇峻紀に、元年、始作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1云々。本集八【五十四丁】に、大口能眞神之原爾《オホクチノマカミノハラニ》云々。また十三【十四丁】にもかくよめり。
天津御門乎《アマツミカドヲ》。懼母《カシコクモ》。定賜而《サダメタマヒテ》。
すべて、天皇、皇太子などの崩たまふを、神上りとも申、天しらしとも申て、天をしらすごとく申來れるによりて、ここも、天武帝の御陵を、眞神原に定め奉るを、天つ宮殿《ミアラカ》を、かたじけなくも定めたまふとは申せるなり。
(244)神佐扶跡《カムサブト》。
こは、神さびし給ふと、いへる事にて、天皇の神御心の、すさびし給ふ事なり。この事は、上【攷證一下八丁】に、安見知之吾大王《ヤスミシヽワカオホキミノ》、神長柄神佐備世須登《カムナカラカムサヒセスト》云々とある所にいへり。
磐《イハ》隱《カクリ・カクレ》座《マス》。
陵にまれ、墓にまれ、土を掘て築て作れる故に、磐隱座とはいへり。本集九【卅三丁】に、磐構作冢矣《イハカマヘツクレルツカヲ》云々とあるを見べし。鎭火祭祝桐に、石隱坐※[氏/一]《イハカクリマシテ》云々とも見えたり。さて、隱を、考にも、かくれとよまれしかど、かゝる所、皆かくり《(マヽ)》よむべき也。そは古事記下卷御歌に、美夜麻賀久理弖《ミヤマカクリテ》云々。書紀推古紀、歌に、夜須彌志斯和餓於朋吉彌能《ヤスミシヽワガオホキミノ》、※[言+可]句理摩須阿摩能椰蘇※[言+可]礙《カクリマスアマノヤソカゲ》云々などあるにても思ふべし。集中にもいと多し。
所聞見爲《キコシミス》。
こは、きこしめすといへると同じくて、きこしめすも、きこしをすも、きこしみすも、みなその國を聞し給ひ、見し給ふことにて、同意也。この事は、上【攷證一下六丁】に、所聞食天下爾《キコシヲスアメノシタニ》云々とある所と、考へ合せてしるべし。さて、こゝに、きこし見爲《ミス》とあるは、きこしめすの本語にはあれど、この外は、きこしめすとのみあれば、見と、めと、かよはせたるなり。そは、物を見給ふといへるを、みしたまふとも、めしたまふともいへると同格にて、本集一【廿三丁】に、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシミシタマヘハ》云々。六【卅二丁】に、我大王之見給《ワガオホキミノミシタマフ》、芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》云々。十九【卅九丁】に、見賜明米多麻比《ミシタマヒアキラメタマヒ》云々とありで、また此卷【廿五丁】に、召賜良之神岳乃山之黄葉乎《メシタマフラシカミヲカノヤマノモミチヲ》云々。十八【廿三丁】に、余思努乃美夜乎安里我欲比賣須《ヨシヌノミヤヲアリカヨヒメス》云々。二十【二十五丁】に、賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》云々とも(245)あるにて、みと、めと、かよふをしるべし。考に、こゝをも、きこしめすとよまれしは誤り也。さて、これよりは、天武天皇御代の事を、たちかへりいひて、かの大友皇子と、御軍の事をいへり。このまへに、吾大王と申せるは、天武帝をさし奉れり。
背友乃國之《ソトモノクニノ》。
考云、美濃國をいふ。大和よりは北、多くの山の背面なればなり云々といはれつるがごとし。そともの事は、【攷證一下卅七丁】にいへり。
眞木立《マキタツ》。
眞木は、一つの木の名にはあらで、その木を、眞とほめていへるなる事、【攷證一下廿丁】にいへるがごとし。こゝは、いろ/\なる良材どものたてる、不破山とつゞけし也。
不破山越而《フハヤマコエテ》。
美濃國不破郡の山也。こゝより下、御軍士乎喚賜而《ミイクサヲメシタマヒテ》といふまでは、天武天皇都をさけて、東國に入まして、御軍をおこし給ひしほどの事をいへるにて、考に、これは天皇はじめ吉野を出まして、伊勢の桑名におはしませしを、高市皇子の申給ふによりて、桑名より美濃の野上の行宮へ幸の時、この山を越ましゝをいふ云々。
狛劔《コマツルギ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし、外國の劔は、環を付たるものゆゑ、高麗劔《コマツルギ》環《ワ》と、わの一言へかけて、つゞけし也。高麗《コマ》を狛《コマ》とかけるは、借字也。
和射見我原乃《ワサミカハラノ》。
これも不破部なるべし。書紀天武紀に、高市皇子自2和※[斬/足]《ワサミ》1參迎云々とあるこゝ也。こは、天皇の、わざみが原の行宮へ、幸し給ひし也。考に、わざみに高市皇子のおはして、近江の敵をおさへ、天皇は、野上の行宮におはしませしを、その野上よりわざみへ度々幸して、御軍の政を聞しめしし事、紀に見ゆ云々といはれつるが如し。さて、この(246)地は、本集十【六十三丁】に、和射美能嶺往過而《ワサミノミネユキスキテ》云々。十一【卅五丁】に、吾麻子之笠乃借手乃和射見野爾《ワキモコカカサノカリテノワサミヌニ》云々など見えたり。
安母理座而《アモリマシテ》。
本集三【十六丁】に、天降付天之芳來山《アモリツクアメノカクヤマ》云々。十九【卅九丁】に、安母里麻之掃平《アモリマシハラヒタヒラケ》云々。二十【五十丁】に、多可知保乃多氣爾阿毛理之《タカチホノタケニアモリシ》、須賣呂伎能可未能御代欲利《スメロキノカミノミヨヽリ》云々などありて、あもりは、天下《アマオリ》の釣り、まおの反、もなれば也。こは、天皇皇子などを神にたとへ奉りて、京より、この鄙に下り給へるを、天降ませりとは申せる也。こゝには、天皇の幸し給ひしを申せり。
天《アメ》(ノ・ガ)下《シタ》。治賜《ヲサメタマヒ》(・シ)。
考には、こゝを、下の治跡《ヲサメト》とあるをも、一云に、掃《ハラヒ》とあるを取れしかど、いかが。宣長云、この二つの治を、考には、一本をとりて、上を拂賜而《ハラヒタマヒテ》とし、下を掃部跡《ハラヘト》とせられて、治をば、わろきがごとく、いはれたれども、二つ共に、治にてもわろからず。又、下なるは、をさめとよみて、をさめよといふ意になる、古言の格也云々といはれつるがごとく、紀記にも、宣命にも、集中にも、治腸といへる事多かるをや。
一云。掃賜而《ハラヒタマヒテ》。
これもあしからず。書紀神代紀下に、撥平《ハラヒムケ》とも、撥2平《ハラヒムケ》天下1とも、駈除《ハラフ》ともありて、續日本紀、天平寶字八年十月詔に、朕乎掃止謀【家利】《アレヲハラハムトハカリケリ》云々などもありて、まへに引る、本集十九【卅九丁】に、掃平《ハラヒタヒラケ》ともあるごとく、まつろはぬ人を、はらひ除く意もていへるなり。
(247)食國乎《ヲスクニヲ》。
天皇のしろしめす天の下を、おしなべていへる名也。この事は、上【攷證一下廿七丁】にいへり。
定賜等《シツメタマフト》。
是を、考に、さだめ給ふとよみ直されしは、なかなかに誤り也。舊訓のまゝ、しづめ給ふとゝよむべし。こは、天皇のしろしめす國中の亂を靜め給はんとて、東國の兵士を召給ふといへるにて、必らずしづといはでは叶はざる所也。増韻に、定靜也云々。周書謚法に、大慮靜v民曰v定云々などあるにても、定は、靜の意なるをしるべし。また本集四【卅六丁】に、戀水定《ナミタニシツミ》云々とよめるにても、定をしづめとよめるをしるべし。
鳥之鳴《トリガナク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鳥は、鷄にて、鷄は、夜の明る時に鳴ゆゑに、鷄之鳴《トリガナク》明《アカ》とつゞけたるにて、あづまといふも、本は吾妻《アガツマ》の、かを略けるなれば、あの一言に、あかの意こもれるによりて、しかつづけし也。
吾妻乃國之《アツマノクニノ》。
東國を、すべてあづまといへり。こゝに、吾妻《アツマ》と書る正字也。集中、東の一字をもよめり。この事は、上【攷證二十七丁】にいへり。
御軍士乎《ミイクサヲ》。
古事記上卷に、黄泉軍《ヨモツイクサ》云々。書紀神武紀に、女軍《メイクサ》男軍《ヲイクサ》云々などありて、雄略紀、欽明紀などに兵士《イクサ》、崇峻紀に軍衆《イクサ》、齊明紀に兵馬《イクサ》などをよみ、本集六【廿五丁】に、千萬乃軍奈利友《チヨロツノイクサナリトモ》云々。二十【十八丁】に、伊佐美多流多家吉軍卒等《イサミタルタケキイクサト》なども見えて、いくさとは、もとは兵士をいひて、たゞ戰ふ事をいへるにあらず、こゝの御軍《ミイクサ》も、兵士をいひて、兵士を東國より召よし也。さ(248)るを、轉じてたゞ戰ふ事をも、いくさとはいひて、書紀持統紀に、射をいくさとよめり。考に、いくさとは、箭《ヤ》を射合《イアハス》てふ事なるを、用を體にいひなして、軍人の事とす云々といはれつるは、末には叶へれども、其もとにはたがへり。
喚賜《メシタマヒ》而《テ。ツヽ》。
考に、めしたまはしてとよまれたるは、しひて七言によまんとてのわざにて、いかゞ。めしたまひて六言よむべし。さてこゝは、考に、此度、いせ尾張などは、本よりにて、東海東山道の軍士をも、めしし事、紀に見ゆ云々、こゝまでは、天皇の天下を治め給はんとても、東國の兵士をめし給ふをいひて、さて、その兵士を、高市皇子に付給ひて、軍事を皇子に任給ふよし也。
千磐破《チハヤフル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。考云、これは、ちはやぶる人をいふ。神代にて、惡く荒き神をいへるに同じ云々といはれつるがごとし。
人乎《ジトヲ》和爲《ヤハセ・ナゴシ》跡《ト》。
和《ヤハ》すとは、荒びて從ひ奉らぬ人を、和《ヤハ》し平《タヒ》らぐる意に、こゝより、國乎治跡《クニヲヲサメト》といふまでは、高市皇子へ、天皇の詔給へる大御言のよし也。さて、和せは古事記、書紀等、みな和の字をよみて、本集二十【五十丁】に、知波夜夫流神乎許等牟氣《チハヤフルカミヲコトムケ》、麻都呂倍奴比等乎母夜波之《マツロヘヌヒトヲモヤハシ》云々。大殿祭祝詞に、言直言和志《コトナホシハヤシ》【古語云夜波之】座※[氏/一]《マシテ》云々。倭姫命世記に、夜波志志都米《ヤハシシツメ》云々など見えたり。
(249)不奉仕《マツロハヌ》。
こは古事記に、不伏、書紀に不順などの字を、まつろはぬとよめる字の意にて、天皇に、順ひ奉らざる國々をいへる也。さて、この言は、古事記中卷に、令v和2平其|麻都漏波奴《マツロハヌ》人等1云々。本集十八【廿丁】に、麻都呂倍乃牟氣乃麻爾麻爾《マツロヘノムケノマニマニ》云々。十九【廿七丁】に、大王爾麻都呂布物跡《オホキミニマツロフモノト》云々など見えたり、また、書紀雄略紀、御歌に、波賦武志謀《ハフムシモ》、飫〓枳瀰※[人偏+爾]摩都羅符《オホキミニマツラフ》云々とあるは奉仕る意にて、まつるを延て、まつらふといへるなれば、こゝとは別なり。
國乎《クニヲ》治《ヲサメ・ヲサム》跡《ト》。
舊訓、くにををさむとゝあれど、くにををさめとゝよむべし。よもじを略ける也。この事は、まへに、宣長いはれたり。さて、こゝは、高市皇子に、天皇の荒ぶる人をば和《ヤハ》せよ、まつろはぬ國をば平げ治めよと、詔給へるにて、こゝより下はその任《マケ》のまに/\、皇子の、御軍にたゝせ給ふ御さまを申せり。
皇子隨《ミコナカラ・ワカミコノマヽ》。
考云、こは、上に神隨《カムナカラ》とあるにひとしく、そのまゝ皇子におはしまして、軍の任給ふと也云々と、いはれつるがごとく、國史を考ふるに、將軍は、みな臣下の職なるを、こゝは、皇子ながらも、其將軍にまけたまふよしなり。
任賜者《マケタマヘハ》。
任は、まけとも、よざすとも、めすとも訓れど、こゝは、舊訓のまゝ、まけとよむべし。よざすは、事をその人に依任《ヨセマカ》せて、とり行はしむる意、めすは、その人を召上《メシアケ》て、官を授け給ふ意、まけは、その人に、その事をゆだねて、他に命罷《マカラセ》て、つかさどらしむる意にて、ここは、高市皇子に、軍事をゆだねまかせ給ひて、戰場に罷《マカ》らしめ給ふ所なれば、まけとよむべき(250)也。これらの事、宣長の説にしたがへり。宣長云、まけは、京より、他國の官に令罷《マカラスル》意にて、即ち、まからせを約めて、まけとは云ふなり。萬葉に、此言多し。みな、鄙の官になりて、ゆく事にのみいへり。心を付て見べし。又、史記南越傳に、天子|罷《マク》v參(ヲ)也とあり。この訓にて、まけは、まからせなることをさとるべし。然るを、京官の任をも、まけと訓は、みだりごと也。めすは、顯宗紀に、拜《メス》2山官(ニ)1、推古紀に、任《メス》2僧正僧都(ヲ)1天武紀に拜《メス》d造2高市大寺1司(ヲ)uなどあり。凡て、上代には、本居にある人を、京に召《メシ》て、官には任たまへりし故に、召といひし、その名目は、後までものこれり。古今集、雜部の詞書に、もろこしの判官にめされて云々とあるは、其國に遣すなればまけられてとあるべきを、めされてとあるは、遞へるに似たれども、かのころはまく、まけといふ名目は、たえて、凡て、めすといへりしなり。縣召《アカタメシ》といふも、これに同じ。又、いはゆる任大臣を後撰集、榮花物語などに、大臣|召《メシ》とあるは、古意によくかなへる名目也云々といはれつるがごとし。されの任《(マヽ)》を、命罷《マカラセ》の約り也といはれしは、いかゞ。任《マケ》は、其事を、その人にゆだね委《マカス》に意て、まかせの、かせをつゞむれば、けとなれり。これにても、まけはまかせの意なるを知るべし。さて、こゝは、書紀天武紀に、皇子、攘v臂按v劍奏言、近江群臣雖v多、何敢逆2天皇之靈1哉、天皇雖v獨、則臣高市、頼2神祇之靈1、請2天皇之命1、引2率諸將1、而征討、豈有v距乎、爰天皇譽v之、携v手撫v背曰、慎不v可v怠、因賜2鞍馬1、悉授2軍事1云々とある、これ也。
大御身爾《オホミミニ》。
即ち、高市皇子の大御身に也。
(251)大刀取《タチトリ》帶《ハカ・オバ》之《シ》。
舊訓にも、考にも、たちとりおばしと訓れど、大刀をおぶといふ言、物に見えず。靱《ユキ》、または鞆《トモ》、または箭《ヤ》、または袋《フクロ》などをば、おぶといひ、大刀をばはくといふぞ、古への常なる。佩《ハク》も、帶《オブ》も、みな身に付ることなれど、おぶは、したしく身に付る言、はくは、たゞかりそめに身に付る言と、いさゝかのけぢめあり。されど、專ら同じことのやうに聞えて、佩、帶などの字を、たがひに通はせて、所によりては、おぶとも、はくともよめり。そは、古事記上卷に、所2御佩《ミハカセル》1之|十拳《トツカ》劍云々。また、所2取佩《トサオハセル》1伊都之竹鞆云々。本集三【五十九丁】に、劔刀腰爾取佩《ツルギタチコシニトリハキ》云々。十三【卅四丁】に、公之佩具之投箭之所思《キミカオバシヽナグヤシゾオモフ》云々など、佩をはくとも、おぶともよみて、また帶を、おぶとよめるは、常のことにて、帶刀を、たちはきとよめるにても、帶をはくとも、おぶともよめるをしるべし。さて、書紀景行紀、日本武尊御歌に、多智波開摩之塢《タチハケマシヲ》云々。本集五【九丁】に、都流岐多智許志爾刀利波枳《ツルギタチコシニトリハキ》云々。九【卅六丁】に懸佩之小劔取佩《カケハキノコタチトリハキ》云々。集中猶多し。又御刀をみはかしといふにても、大刀をば、必らずはくといふをしるべし。
安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》。
この語釋、未v詳。本集九【十四丁】に、足利思代※[手偏+旁]行舟薄《アトモヒテコキユクフネハ》云々。また【廿八丁】三船子呼阿騰母比立而《ミフナコヲヨヒタテヽ》、喚立而三船出者《ミフネイテナハ》云々。十七【卅七丁】に、阿麻夫禰爾麻可治加伊奴吉《アマフネニマカチカイヌキ》、之路多倍能蘇泥布理可邊之《シロタヘノソテフリカヘシ》、阿登毛比底和賀己藝由氣婆《アトモヒテワカコキユケハ》云々。二十【十八丁】に、安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナキニカコトヽノヘ》、由布思保爾可知比岐乎里《ユフシホニカチヒキヲリ》、安騰母比弖許藝由久岐美波《アトモヒテコキユクキミハ》云々などありて、誘《イザナ》ひ催《モヨホ》す意をあともひとはいへりと聞ゆれど、語釋は、思ひ得ず。書紀雄略紀に、誘2率《アトヘタシヒテ》武彦於蘆城河1云々と誘の字を、あとへと訓るも、こゝの、あともひといふ言に、よしありて聞ゆ。廣韻に、誘(ハ)導也、(252)引也、進也云々と見えたり。また本集十【卅九丁】に、璞年之經往者《アラタマノトシノヘユケハ》、阿跡念登夜渡吾乎問人哉誰《アトモフトヨワタルワレヲトフヒトヤタレ》云々十四【卅五丁】に、安杼毛敝可《アトモヘカ》、阿自久麻夜末乃由豆流波乃《アシクマヤマノユツルハノ》、布敷麻留等岐爾可是布可受可母《フヽマルトキニカセフカスカモ》云々などあるは、十四【八丁】に、和我世故乎安杼可母伊波武《ワカセコヲアトカモイハム》云々、また【十二丁】安杼加安我世牟《アトカアカセム》云々とあると同じく、何《ナニ》といへるを、あといふにて、こゝのあともひたまひとは、別なれば、思ひ誤る事なかれ。
齊流《トヽノフル》。
とゝのふとは、呼集《ヨヒアツ》むる意也。古事記中卷に、整《トヽノヘ》v軍雙v船|度幸《ワタリイテマス》云々。本集三【十二丁】に、網引爲跡網子調流海人之呼聲《アヒキストアコトヽノフルアマノヨフコヱ》云々。十【卅九丁】に、左男牡鹿之妻整登鳴音之《サヲシカノツマトヽノフトナクコヱノ》云々。十九【卅九丁】に、物乃布能八十友之雄乎《モノヽフノヤソトモノヲヽ》、撫賜等登能倍賜《ナテタマヒトトノヘタマヒ》云々。集中猶あり。續日本紀、天平寶字八年十月詔に、六千乃兵乎發之等々乃倍《ムチノイクサヲオコシトヽノヘ》云々などあるにても思ふべし。玉篇に、齊整也と見えたり。
鼓之音者《ツヽミノオトハ》。
鼓は、軍鼓なり。鼓を鳴して、散たる兵士を齊《トヽノ》へ集めたまふ也。軍防令義解に、謂鼓者皮鼓也、鉦者金鼓也、所2以靜1v喧也云々と見えたり。書紀神功紀に、旌旗耀v日、鼓吹起v聲、山川悉振云々などもありて、貞觀儀式に、三月一日於2鼓吹司1、試2生等1儀式見えたり。さてこゝは、天武紀に、旗幟蔽v野、埃塵連v天、鉦鼓之聲、聞2數十里1、列努亂發、矢下如v雨云々とあるこれ也。
雷之《イカツチノ》。聲登開麻低《コヱトキクマテ》。
雷は、集中、神とのみも、なる神ともよめり。打たつる鼓の音の、おびたゞしきが、雷のこゑかときこゆるまで也となり。さて、いかづちは、本集十二丁に、雲隱伊加土山爾宮敷座《クモカクレイカツチヤマニミヤシキイマス》云々。佛足石御歌に、伊加豆知乃比加利乃期止岐《イカヅチノヒカリノゴトキ》云々。和名抄神靈類に、兼名苑云雷公、一名雷師【雷音力廻反和名奈流加美一云以賀豆知】云々などあり。
(253)吹響流《フキナセル》。
吹ならせるの、らを略ける也。書紀繼體紀歌に、須衛陞嗚磨《スヱベヲバ》、府曳※[人偏+爾]都倶利《フエニツクリ》、府企儺須《フキナス》云々。本集十一【廿六丁】に、時守之打鳴鼓《トキモリカウチナスツヽミ》云々。後撰集秋中に、よみ人しらず、秋のよは人をしづめて、つれ/”\とかきなすことの音にぞなかるゝ云々。これらもみな、らもじを略ける也。
小角乃音母《クダノコヱモ》。
小角は、代匠記に、くだと訓しによるべし。書紀天武紀に、十四年、十一月丙午、詔2四方國1曰|大角《ハラ》小角《クタ》鼓《ツヽミ》吹《フエ》幡旗《ハタ》及弩杖之類、不v應v存2私家1、咸收2于郡家1云々。軍防令に、凡軍團、各置2鼓二面大角二口小角四口1云々。和名抄征戰具云、兼名苑云角、楊氏漢語抄云大角【波良乃布江】小角【久太布江】本で2胡中1、式云呉越似象2龍吟1云々など見えて、こは軍器にて、この笛のふきざまは、貞觀儀式、鼓吹司試性等儀の所に、くはしく見えて、これも、軍衆をあつめ、進退せしむる具也。こは、漢土の書にも、演繁露卷に、〓尤率2魑魅1、與2黄帝1戰、帝命吹v角爲2龍鳴1禦之云々。唐書百官志に、節度使入v境、州縣築2節樓1、迎以2鼓角1、今鼓角樓始v此云々。王維從軍行に、吹v角動2行人1云々など見えたり。さて、こゝを、考には、今本に、小角乃音毛とある、母《モ》の辭、前後の辭の例に違ふ云々とて、一云|笛乃音波《フエノオトハ》とある方を、とられたり。笛の音波としても、あしきにはあらざれど、本書のまゝにても母《モ》の字は、まへの鼓之音者《ツヽミノオトハ》といふに對して、鼓《ツヽミ》の音は、雷のごとぐ、また小角《クダ》の音母《オトモ》虎のほゆるがごとし《(マヽ)》。對にいへる所なれば、母とありて、よく聞ゆるをや。
敵見有《アダミタル》。
散見《アダミ》は、新撰字鏡に、怏※[對/心]也、強也、心不v服也、宇良也牟、又阿太牟とありて、あだみ、あだむとはたらく言也。これを、敵を虎が見たる意とするは、誤り也。こは、(254)心不服v也と注したる意にて、虎のいかれるといふを、敵みたる虎とはいへる也。さて、これを本にて、敵《カタキ》も、吾をあだみて、あだする物故に、敵をも、やがて敵ともいへる也。本は、あだみ、あだむとはたらく語なるを、體語として、一つの名とはせる也。そは、本集六【廿五丁】に、賊守筑紫爾至《アダマモルツクシニイタリ》云々。二十【十八丁】に、筑紫國波安多麻毛流於佐倍乃城曾等《ツクシノクニハアダマモルオサヘノキソト》云々。伊勢集に、わがためになにのあだとて、春風のをしむとしれる花をしもふく云々。伊勢物語に、なにのあだにか思ひけん云々。拾遺集雜下に、八條おほい君、なき名をばたかをの山といひたつる、君はあたこの岸にやあるらん云々。落久保物語下卷に、いかばかりのあだがたきにて云々など見えたり。
虎可叫吼登《トラカホユルト》。
虎は、和名抄毛群名に、説文云虎【乎古反和名止良】山獣之君也云々と見えたり。叫吼《ホユル》は靈異記中卷に、叫【サケビ】とありて、叫は、さけぶ意、吼は、増韻に、※[旭の日が虎]聲とありて、虎のこゑなれば、この二字を、ほゆるとよめるは、義訓也。ほゆるは、本集十三【十六丁】に、犬莫吠行年《イヌナホエコソ》云々。靈異記上卷に、※[口+皐]吠【二合保由】云々。和名抄獣體に、玉篇云※[口+皐]【胡高反】虎狼咆聲也、唐韻云吼【乎後反亦作※[口+句]】牛鳴也、吠【〓〓反已上三字皆訓保由】犬鳴聲也云々と見えたり。
恊流麻低爾《オビユルマデニ》。
恊《オヒユ》は、靈異記上卷に、脅【オヒユ】云々。新撰字鏡に、恊※[立心偏+却]同、今作v脅、虚業反、怯於比也須云々などありて、康煕字典、引2正字通1云、恊同v※[立心偏+脅]、按比从v心、與2協字从v十者1不v同云々とあれば、恊脅※[立心偏+脅]三字通用して同字也。玉篇に、※[立心偏+脅]許※[去+立刀]切、以2威力1相恐也※[立心偏+脅]云々。廣雅釋詁二に、脅懼也ともあれば、おびゆとよまん事論なし。さて、この言は、源(255)氏物語若菜上に、人々おぴえさわぎて、そよ/\と、みじろきさまよふ云々。枕草子に、しれものはしりかかりたれば、おびえまどひて、みすのうちにいりぬ云々。榮花物語初花卷に、藤三位をはじめ、さべき命婦、藏人、ふた車にてぞまいりたる。ふねの人々おびえていりぬ云々などありて、ここは、吹立る小角の音、おびたゞしく、虎のほゆるごとくにて、諸人のおびゆるまで也となり。
一云|聞惑麻低《キヽマドフマテ》、これもあしからねど、本書の方まされり。
指擧有《サヽケタル・サシアクル》。
考に、さゝげたる、訓れしにしたがふ。しあの一反、さにて、さしあげたる也。
幡之靡者《ハタノナビキハ》。
幡は、軍防令義解に、幡者旌旗※[手偏+總の旁]名也、將軍所v載、曰2※[毒/縣]幡1、小隊長所v載、曰2隊幡1、兵士所v載、曰2軍幡1也云々とありて、旌旗をおしなべて幡とはいへる也。こゝ、その幡の、風などに靡たるが、おびたゞしく見ゆるを、春の野ごとに、付たる野火の、風とゝもになびくがごとしと也。さて、こゝに、幡のなびくを、火と見なしたる、思へば、この幡は、赤幡なりけん。赤幡は、古事記下卷云、物部之我夫子之《モノヽヘノワカセコカ》、取佩於大刀之手上《トリハケルタチノタカミニ》、丹畫著《ニカキツケ》、其緒者載亦幡《ソノヲハアカハタヲタチ》、立赤幡見者《アカハタタテヽミレハ》、五十隱山三尾之竹矣《イカクルヤマノミヲノタケヲ》、※[言+可]岐苅末押靡魚簀《カキカリスヱオシナヒカスナス》、如調八緒琴《ヤツヲノコトヲシラヘタルコト》、所治賜天下《アメノシタヲサメタヒシ》、伊邪本和氣天皇之御子《イサホワケノスメラミコトノミコ》云々とあるは、履中天皇、御軍に赤幡を立給ひし事有けん。それを、かくのたまへるなるべし。また、續日本紀云、天平十三年、十一月庚午、始以2赤幡1、班2給大藏内藏大膳大炊造酒主醤等司1、供御物前建以爲v標云々。延喜宮内式云、凡供奉雜物、送2大膳大炊造酒等司1者、皆駄擔上、竪2小緋幡1、以爲2標幟1云々。靈異記上卷云、栖輕奉v勅、從v宮罷出、緋※[草冠/縵]着v額、※[敬/手]2赤幡杵1(256)乘v馬云々など見えたり。かくいづれにも、赤幡を用ひ給ふは、赤きは、ことに目に付ものなればなるべし。或人云、赤幡は、軍事まれ、供物にまれ、官軍のしるしとせしなるべしといへど、天武天皇と、大友皇子と、この御軍のなりは、天皇まだ御位におはしまさざりしかば、赤幡を官軍の御しるしとも、さだめがたきをや。
冬木《フユコ》成《モリ・ナリ》。
冬は、萬物内にこもりてあるが、春になりて、はりいづるより、冬ごもりはるとはつづけし也。さて、こゝをも、考には、冬木盛と直されしかど、誤りなる事は、上にいへるがごとし。
野《ヌ・ノベ》毎《コトニ》。著而有火之《ツキテアルヒノ》。
野を、春專らと燒物故に、かくはよめり。そは本集、此卷【四十四丁】に、春野燒野火登見左右《ハルヌヤクヌヒトミルマテ》、燎火乎《モユルヒヲ》云々。七【卅二丁】に、冬隱春之大野乎《フユコモリハルノオホヌヲ》、燒人者《ヤクヒトハ》、燒不足香文《ヤキアカヌカモ》、吾情熾《ワカコヽロヤク》云々。集中猶あり。古今集、春上に、よみ人しらす、春日野はけふはなやきそ、わか草のつまもこもれり、われもこもれり云々。白居易詩に、野火燒不v盡、春風吹又生云々など見えたり。一云|冬木成春野燒火乃《フユコモリハルヌヤクヒノ》とあるも、あしからず。考には、この一本をとられしかど、本書、まゝにても、よく聞えたるをや。
風之共《カセノムタ》。
共《ムタ》は、字のごとく、ともにといふ意にて、こゝは、野火の風とゝもに、なびくがごとしと也。共《ムタ》てふ言は、上【攷證二中四丁】にいへり。
弓波受乃《ユハズノ》驟《サワギ・ウゴキ》。
弓波受《ユハズ》は、古事記中卷に、男弓端之調《ヲトコノユハスノミツキ》、女手未之調《ヲミナノタナスヱノミツキ》云々。本集十六【卅丁】に、吾爪者御弓之弓波受《ワカツメハミユミノユハズ》云々。和名抄征戰具に、釋名云弓末曰v〓【音蕭和名由美波數】云々と(257)ありて、弓の末を、はずとはいふ也。又、書紀神武紀、本集一【八丁】伊呂波字類抄等に、弭をはずとよめり。この弓弭《ユハズ》、今は角爪などを用る事はなけれど、本集十六の歌にて見れ、鹿の爪をも用るやうに見えたり。今、唐製の半弓などには、角爪等を用る事多し。上代の弓弭は、これにひとしき製なるべし。さて、ゆみはずといふべきを、ゆはずと、みの字を略きて、いへるは、弓※[弓+付]《ユミヅカ》をゆづか、弓腹をゆはら、弓上をゆずゑなどいふ類也。こゝに弓弭《ユハズ》をしも、まづ云るは、弭《ハス》は、弓の末の方にありて、人ごとに、弓をもてるが、その弭の方の、まづいちじるく見ゆれば、わきて弭をしもいへる也。この弭の、鳴《なり》さわぐを、弓はずのさわぎとはいへる也。驟を、舊訓、うごきとよめるは、いかゞ。集中、皆さわぐとのみよめり。
三零落《ミユキフル》。
三雪《ミユキ》の、みは眞也。この事は、上【攷證一下廿一丁】にいへり。雪、冬を專らとすれば、枕詞のごとく、雪ふる冬とつづけしのみ也。
冬乃林爾《フユノハヤシニ》。
人ごとに持る弓弭《ユハス》の、枯木のさわぐに似たれば、冬の林に、風のわたるがごとく、見なしたるなり。
飄《ツムシ・アラシ》可毛《カモ》。伊卷渡等《イマキワタルト》。
飄は、つむじとよむべし。書紀神功紀に、飄風《ツムシカセ》忽起、御笠隨v風云々。新撰字鏡に、※[風+火三つ]※[火三つ+風]※[風+云]※[(懽の旁+風)/(火+火)]四形作、※[人偏+卑]遙反、暴風豆牟志加世云々。和名抄風雨類云、文選詩云廻※[風+火三つ]卷2卷2高樹1【※[人偏+卑]遙反和名豆无之加世】兼名苑注云、※[火三つ+風]者暴風從v下而上也云々と見えて、文選長笛賦 注に、※[犬三つ]與v※[風+火三つ]同云々。禮記月令釋文に、※[犬三つ]本又作v飄云々とあれば、飄※[風+火三つ]※[犬三つ]三字通用せり。されば、新撰字鏡、和名抄等に、※[火三つ+風]をよめるにも、こゝに飄とあると、同じ。そは毛詩卷阿傳に、飄風廻風也云々ともありて、今もいふつむじかぜ也。宇津保物語俊蔭卷に、琴の(258)音を心みんとて、いでたつほどに、つじ風いできて三十の琴をおくる云々とある、つじ風も、つむじ風のむの字を略ける也。伊卷渡《イマキワタル》の、伊《イ》は發語にて、たゞ風の吹卷なり。まへに出でたる文選に廻※[風+火三つ]卷2高樹1とある卷もこれ也。つむじのまくといふは、今もいふことにて、後の歌なれど、新古今集に、藤原清輔朝臣、おのづからおとする物は、庭の面にこの葉ふきまく谷の夕かせ云々。萬代集に、前太政大臣、風のおとはみ山もさやに明るよのしぐれふきまくならの葉がしは云々などあるも、此卷と同じく、風のふきめぐらすをいへり。さて、こゝは、人ごとに持る、弓弭《ユハス》の多きが、鳴《ナリ》さわぐは、、枯木の林に、飄《ツムシ》のふきめぐらして、鳴さわがすが、きゝおどろくまでなりと也。
聞之恐久《キヽノカシコク》。
きくにかしこくといはんがごとく、この之《ノ》文字は、にの意也。そは、本集十【五丁】に
子等名丹開之宜《コラカナニカケノヨロシキ》云々。十七【卅六丁】に、見乃佐夜氣吉加《ミノサヤケキカ》云々。十八【十九丁】に、伎吉能可奈之母《キキノカナシモ》云々。廿【廿五丁】に、見之等母之久《ミノトモシク》云々などあると、同格の之文字也。
引放《ヒキハナツ》。箭繁計久《ヤノシゲケク》。
玉篇に、箭矢也とありて、矢とかくと同じ。けくの反、くにて、矢の繁く也。この事は、上【攷證一下六十三丁】にいへり。こゝは、人ごとに、引つゝはなつ矢のしげきが、大雪のふりくるごとく、亂れくと也。矢の羽は、白羽なりけん。されば、雪とは見なしたる也。古事記中卷に、射出之矢、如2葦《アシ》來散1云々。書紀欽明紀に、發箭如v雨云々など見えたり。
(259)大雪乃《オホユキノ》。亂而《ミタレテ》來禮《キタレ・クレ》。大雪は、いたくふれる雪也。この事は、上【攷證二上廿一丁】にいへり。こゝは白羽の矢の、しげく飛來るが、いたくふれる雪のごとくに、亂つゝ來ればと也。大雪乃の、乃もじは、如くの意也。さて、この句、まへに、こその詞なくして、來禮《キタレ》と、禮にてうけたるを疑ひて、考には、禮の下に、者《バ》の字の落たる物ぞといはれしは、誤り也。これ、集中長歌の一つの格にて、こその詞なき下を、れとも、せともうけたる所集中に多し。この事は、上【攷證二中十丁】にいへり。みな禮の下に、ばの字を添てきくべし。
一云。霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》。
これもあしからず。あられ成《ナス》の、成は、如の意、曾知の曾は、をと音通ひて、遠《ヲチ》なり。彼所《ソコ》此所《コヽ》、彼所《ソチ》此所《コチ》、遠《ヲチ》近《コチ》と對する語にて、今俗言に、彼方といふを、そちらといふもこれ也。蜻蛉日記に、西山に、例のものする事あり。そち物しなん、かの物忌はてぬさきにとて云々とも見えたり。さて、こゝは、人ごとに、引はなつ矢の、しげく霰のごとく、遠方よりくればと也。上に、大御身爾大刀取帶之《オホミミニテチトリハカシ》といふより、こゝまでは、高市皇子の、御軍を引率して、敵と戰ひたまふさまをいへり。
不奉仕《マツロハズ》。立向之毛《タチムカヒシモ》。
こゝより下、相競端爾《アラソフハシニ》といふまで、敵方の事をいひて、天武天皇にまつろひ奉らずして、立向ひしも、まけいろにて、露霜のごとくに消《キエ》なば消ぬべく、身命を輕じて、あらそひしと也。立向《タチムカ》ひは敵たふ意にて、本集九【卅五丁】に、入水火爾毛將入跡《ミツニイリヒニモイラムト》、丑向競時爾《タチムカヒアラソフトキニ》云々とも見えたり。
露霜之《ツユシモノ》。
枕詞也。露霜とはいへど、たゞ露のこと也。霜のごとくに、消《キユ》とつゞけし也。この事、上【攷證二中四丁】にもいへり。猶くはしくは、予が冠辭考補遺にもいふべし。
(260)消名消倍久《ケナバケヌベク》。
きえなばきえぬべくといふ也。本集十一【十丁】に、朝霧消々念乍《アサツユノケナバケヌヘクオモヒツ》云々。十三【十三丁】に、朝露之消者可消戀久毛《アサツユノケナバケヌヘタコフラクモ》云々など見えたり。
去鳥之《ユクトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし、群りてとびゆく鳥の、おのれおくれじと、あらそふにたとへて、ゆく鳥のごとくあらそふとはつゞけし也。
相競端爾《アラソフハシニ》。
相競の二字を、あらそふとよめるは義訓也。本集一【十一丁】に、諍競《アラソフ》、相格《アラソフ》、十【十丁】に相爭《アラソフ》などをもよめり。端《ハシ》を、はしとよめるは、借字にて、端《ハシ》は、間《ハシ》の意、あひだといふことにて、敵味方あらそふ間《アヒタ》に、神風ふき來りて、敵をまどはしゝと也。さて、はしといふ言を、あひだの意とするは、本集十九【十五丁】に、宇知歎之奈要宇良夫禮《ウチナケキシナエウラフレ》、之努比布都追有爭波之爾《シヌヒツヽアラソフハシニ》、許能久禮罷四月之立者《コノクレヤミウツキシタテハ》云々とある、あらそふはしも、あらそふ間也。また間人《ハシヒトノ》王、また氏に、間人《ハシヒトノ》宿禰とある、間をはしとよめるにても、はしといふは、あひだの意なるをしるべし。
一去。朝霜之《アサシモノ》。消者消言爾《ケナバケトフニ》。
こは、朝霜のごとく、消さ《(マヽ)》はきえよといふにといふ意と《(マヽ)》なれば、前後のつゞきここにかなはず。本書の方まされり。
打蝉等《ウツセミト》。安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》。
打蝉《ウツセミ》とかけるは、借字にて、上にいへるごとく、現《ウツヽ》の身てふ言、波之《ハシ》は、まへにいへるごとく、間の意にて、軍士たがひに、現の身なるが故に、相あらそふあひだにといへる也。これも本書のかたまされり。
渡會乃《ワタラヒノ》。齋宮從《イツキノミヤユ》。
渡會は、伊勢國郡名にて、大神宮儀式帳に、天照坐皇大神乃、伊勢國度會郡宇治里、佐古久志留伊須々乃川上爾御幸行坐時云々。和名抄郡名に(261)伊勢國度會【和多良比】云々とある、こゝ也。また伊勢國風土記に、夫所3以號2度會郡1者、畝傍橿原宮御宇、神日本磐余彦天皇、詔2天日別命1、覓v國之時、【中略】大國玉神、遣v使奉v迎2天日別命1、因令v造2其橋1、不v堪2造畢1、于v時到令d以2梓弓1爲uv橋而度焉、大國玉神資|彌豆佐々良比賣《ミツサヽラヒメ》命、參來、迎3相土橋郷岡本村1、【中略】度會焉、因以爲v名也云々と見えたり。齋は《イツキノミヤ》は、天照大御神をいつき奉る宮をいへるにて、齋内親王のおはします宮を、齋宮と申すとは別也。大神宮儀式帳に、美和乃御諸原爾造2齋宮1出奉天齋始奉支云々とある、齋宮も、崇神天皇六年、大御神を、宮中より、大和の笠縫邑に出し奉りて、齋祭奉りしを、又美和の御諸原に遷し奉りて、齋祭奉りしを申すなれば、これも齋《イツ》き祭る宮をいへるにて、齋内親王の御在所をいへるにあらず。いつくといふ言は、古事記上卷に、以伊都久神《モチイツクカミ》云々、また伊都伎奉《イツキマツル》云々。本集十九【卅五丁】に、春日野爾伊都久三諸乃《カスガノニイツクミモロノ》云々。また【卅六丁】住吉爾伊都久祝之《スミノエニイツクハフリガ》云々などありて、神にまれ、何にまれ、大切に敬めおくをいふことなり。さて、こゝは、敵味方たゝかひあらそふ間に、伊勢の神宮の方より、神風吹來りて、敵をまどはしゝと也。從《ユ》は、よりの意也。この御軍に、神風吹來りし事、紀には見えねど、この御軍の事を、しるしたる所に、於2朝明郡迹太川邊1、望2拜天照大神1とありて、大御神を祈らせ給ふ、しるく、この前後に雷雨ありし事も、黒雲天にわたりし事も、見えたれば、かく神風の吹來りし事もありつらんを、紀にはもらし給へるなるべし。
神《カミ・カム》風爾《カセニ》。
神風は神のふかしめ給ふにて、渡會の神宮より吹來りし也。比枕詞に、神風といふもこれ也。
(262)伊吹惑之《イフキマトハシ》。
伊吹の、伊は、假字にて、息吹《イキフキ》なり。神風に、息《イキ》を吹まどはし給ふ也。さて、いぶきとは、古事記上卷に、於吹棄氣吹之狹霧《フキウツルイフキノサキリニ》、所成神御名《ナリマセルカミノミナハ》、天津日子根《アマツヒコネノ》命云々。書紀神代紀上、一書に、我所v生之國、唯有2朝霧1而薫滿之哉、乃|吹撥《フキハラフ》之氣、化爲v神、號曰2級長戸邊《シナトヘノ》命1、亦曰2級長津彦《シナツヒコノ》命1、是風神也云々。大祓祝詞に、氣吹戸座須《イフキトニマス》、氣吹戸主止云神《イフキトヌシトイフカミ》、根國底之國爾《ネノクニソコノクニニ》、氣吹及※[氏/一]牟《イフキハナチテム》云々などありて、息を吹をいぶきとはいへり。枕詞に、神風の伊勢とつゞくるも、神風の息といふを、伊の一言へかけたる也。これらの事、冠辭考、かんかぜの條をも、考へ合すべし。
天雲乎《アマクモヲ》。
天雲は、天の雲なり。集中いと多く、あぐるにいとまなし。或人云、雲は天より外にあるまじきものなれば、天の雲といふべきよしなし。天は借字にて、雨雲なりといへれど誤り也、いかにも、重言なるやうなれど、空《ソラ》を、天のみそら、また天のしら雲などいへるにても、天雲は、天にたなびく雲なるをしるべし。
日之目毛不令見《ヒノメモミセス》。
日の見えんも見せずといふ也。目といふ言は、所見《ミエ》の約りたるにて、みえの反、めなれば、本集四【五十六丁】に、君之目乎保利《キミカメヲホり》云々といへるも、君が見えんを欲する也。十二【十九丁】に、妹之目乎見《イモカメヲミム》云々いへるも、妹が見えんを見ん也。これらを思ひ合せて、こゝの日之目の目も、見えの意なるをしるべし。
常闇爾《トコヤミニ》。
常闇は、書紀神代紀上に、六合之内、常闇而《トコヤミニシテ》、不v知2晝夜之相代1云々。また一書に、天下|恒闇《トコヤミニシテ》無2晝夜之殊1云々などありて、晝夜のわかちなく畫《ヒル》さへも闇になり(263)たるを、とこやみとはいへるなり。常闇《トコヤミ》の、常《トコ》は、常しへに久しき意にはあらで、たゞ晝夜のうちにのみいへるにて、夜の闇なるは、もとよりの事なれど、晝さへも、闇になりたりといふを、夜より引つゞくれば、晝までは久しき故に、常闇とはいへる也。本集十五【卅三丁】に、安波牟日乎其日等之良受《アハムヒヲソノヒトシラズ》、等許也未爾伊豆禮能日麻弖《トコヤミニイツレノヒマテ》、安禮古非乎良牟《アレコヒヲラム》云々なども見えたり
覆賜而《オホヒタマヒテ》。定之《シヅメテシ》。
上、齋宮從《イツキノミヤユ》といふ所より、こゝまでは、大御神の御意によりて、神宮より、俄に神風を吹出して、敵を惑し、天に雲たちて、日の目も見えぬまで、雲に覆ひて、晝さへも闇になしなどして、敵をなやまし、平らげて、神の御力も加はりて、しづめ給ひし天下ぞといへる也。
水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》。
水は借字にて、瑞々《ミヅ/\》しき意、穗は稻の事にて、中國は、稻の萬國にすぐれたる國なれば、それを賞して、中國の號を瑞穗《ミヅホ》の國ともいへるなり。この事は上【攷證二中四十三丁】にもいへり。
神髄《カムナガラ》。
こは、かんながらとよむべし。そのよしは、上【攷證一下八丁卅二丁】にいへり。また上【攷證二中】に、飛鳥之淨之宮爾《アスカノキヨミノミヤニ》、神隨太布座而《カムナカラフトシキマシテ》云々ともありて、神隨は、神にましますまゝにといへる意にて、こゝに神とさせるは、天皇の御事にて、即ち天武帝より持統帝までを申すなり。
太敷座而《フトシキマシテ》。
太は、賞《ホメ》ていふ詞、敷《シキ》は知《シリ》領じますこと也。この事は、上【攷證一下六丁】にいへり。
(264)吾大王之《ワカオホキミノ》。天下申賜者《アメノシタマヲシタマヘハ》。
吾大王とは、持統帝をさし奉り、持統帝の、しろしめす、天の下の政を、高市皇子の、申給へばといふ意也。こは、書紀天武紀に、十年二月甲子、立2草壁皇子尊1、爲2皇太子1、因以令v攝2萬機1云々。持統紀に、三年四月乙未、皇太子草壁皇子尊薨云々とありて、天武天皇十年より、持統天皇三年までは、天下の政を草壁皇子の執申給ひしを、この草壁皇子薨給ひて後、四年七月庚辰、以2皇子高市1爲2太政大臣1云々とあるより後、皇太子に立給ひても、天下の政をば、この皇子の執申給ひし也。さて、政を執給ふを、申給ふといふは、すべて、天下の政を、その/”\に聞行ひて、そのよしを、天皇に奏し申給ふよしにて、申賜《マヲシタマフ》とはいへる也。政をあづかり給ふ職を、關白と申すも、このよし也。古事記中卷に、大雀命、執2食國之政1以|白賜《マヲシタマヘ》云々。本集五【廿五丁】に、余呂豆余爾伊麻志多麻比提《ヨロツヨニイマシタマヒテ》、阿米能志多麻乎志多麻波禰《アメノシタマヲシタマハネ》、美加度佐良受弖《ミカトサラステ》云々。また【卅一丁】天下奏多麻比志家子等撰射多麻比天《アメノシタマヲシタマヒシイヘノコトエラミタマヒテ》、勅旨載持弖《オホミコトイタダキモチテ》云々など見えたり。さて、このまをすといふ言を、本集十八【十二丁】に、加波能瀬麻宇勢《カハノセマウセ》云々。また【二十丁】麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》云々。十五【廿三丁】に、波々爾麻于之弖《ハヽニマウシテ》云々。二十【卅八丁】に、伊能里麻宇之弖《イノリマウシテ》云々。また於夜爾麻宇佐根《オヤニマウサネ》云々など、まうすともあれど、古事記下卷歌に、母能麻袁須《モノマヲス》云々また御歌に、意冨麻敝爾麻袁須《オホマヘニマヲス》云々。本集五【廿五丁】に、意久利摩遠志弖《オクリマヲシテ》云々。二十【廿八丁】に、佐祁久等麻乎須《サケクトマヲス》云々。また【廿九丁】己等麻乎佐受弖《コトマヲサステ》云々など、まをすといふが本語なるを、まうすといふは、袁を宇に通はしたる音便にて、なべては、まをすといふべき也。
萬代《ヨロツヨニ》。然之毛將有登《シカシモアラムト》。
高市皇子の、天下の政を執申給ふも、萬代も、しかかはる事なくおはしまさんと見えて、榮えおはしましゝをいふ意にて、之毛《シモ》は(265)助字にて然《シカ》あらんとなり。一云|加是毛安良牟等《カクモアラムト》とあるも、あしからねど、本書のかたまされり。
木綿花乃《ユフハナノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。木綿は、上【攷證二中廿九丁】にもいへるが如く、穀または栲の木の皮をとりて、織れる布にて、木綿花は、その布もて作れる花なれば、今いふ作り花をいへるなるべし。實の花は、咲たるも盛り過ぬれば散ものなるを、作り花は、常しへに久しく散ことなきものなれば、いつもかはらず榮えまさんと思ふを、木綿花にたとへて、その水綿花のごとく、常しへに榮えまさんと思ひしをと、つゞけし也。さて、白綿花は、本集六【十丁】に山高三白木綿花落多藝追《ヤマタカミシラユフハナニオチタキツ》云々。また【十一丁】泊瀬女造木綿花《ハツセメノツクルユフハナ》云々。七【七丁】に、泊瀬川白木綿花爾墮多藝都《ハツセカハシラユフハナニオチタキツ》云々。十三【六丁】に、淡海之海白木綿花爾浪立渡《アフミノミシラユフハナニナミタチワタル》云々なども見えたり。
榮時爾《サカユルトキニ》。
榮《サカユル》は、皇子のさかえ給ふを、木綿花にたとへて、木綿花のごとく、榮《サカユ》るといへるなれ、上につき、時爾さかえ給ふ、その時爾にといふなれば、下につく詞也。時爾の上に其《ソノ》といふ字を加へて、心得べし。本集六【卅丁】に、御民吾生有驗在《ミタミワレイケルシルシアリ》、天地榮時爾《アメツチノサカユルトキニ》、相樂念者《アフラクオモヘハ》云々。二十【廿五丁】に、母能其時爾佐可由流等岐登《モノコトニサカユルトキト》云々などあるも同じ。古事記上卷に、如2木花榮《サカユル》1、榮《サカユ》佐加延《サカエ》云々などもあり。
吾大王《ワガオホキミ》。皇子之御門乎《ミコノミカトヲ》。
上の、日並知皇子尊の、殯宮の時の歌にも、吾王皇子之命乃《ワカオホキミミコノミコトノ》云々とありて、吾大王《ワカオホキミ》とは、皇子を親しみ敬ひて、申すこと(266)也。皇子之御門とは、上の同じ歌の反歌に、皇子之御門之荒卷惜毛《ミコノミカトノアレマクヲシモ》云々ともありて、皇太子のおはします宮殿をいへる也。御門とかけるは借字にて、宮殿をみかどゝはいへる也。この事は、上【攷證二中五十丁】にいへり。一云|刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカトヲ》。これもあしからねど、本書の方まされり。
神宮爾《カムミヤニ》。
天皇にまれ、皇子にまれ、崩給ふを、神になりませるよしにいへるは、古への常なる事は、上【攷證二中四十四丁】日並知皇子尊殯宮歌に、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》、神上上座奴《カムアカリアカリイマシヌ》云々。下弓削皇子薨時歌に、神隨神等座者《カムナカラカミトイマセハ》云々などあるにても思ふべし。さてこゝは、皇子薨給ひしかば、其大宮をも、神宮として、宮のよそひをも、改給ふなり。
装束《ヨソヒ・カサリ》奉而《マツリテ》。
舊訓にも、考にも、装束を、かざりとよめれど、古事記書紀等、みな装束をば、よそひとよみて、本集三【五十八丁】安積皇子薨時歌に、白細爾舍人装束而《シロタヘニトネリヨソヒテ》云々、十二【卅丁】に、衣乎取服装束間爾《コロモヲトリキヨソフマニ》云々など、装束を、よそひとよめれば、こゝもよそひとよむべし。さてよそふといふも、かざるといふも、同意にて、殿にまれ、容《カタチ》にまれ、つくろひ立るをいひて、こゝは皇子薨じ給ひしかば、御殿をも、殯宮の装束にかへ奉る也。こは、下に引る、十三卷の歌にも白き細布を用るよし見えたるにても、思ひやるべし。また、こゝをかざりとよまんも、あしからず。そは、本集十三【廿八丁】挽歌に、大殿矣振放見者《オホトノヲフリサケミレハ》、白細布飾奉而《シロタヘニカサリマツリテ》、内日刺宮舍人方《ウチヒサスミヤノトネリモ》、雪穗麻衣服者《タヘノホノアサキヌキレハ》云々とありて、また、つねには、舟をよそふるを,ふなよそひとのみいふを、二十【十七丁】に、布奈可射里《フナカザリ》ともあればなり。この兩訓見ん人、心のひかん方にしたがふべし。
(267)遣使《ツカハシヽ・タテマダス》。
使を、印本便に誤れり。使を誤れる事しるければ、代匠記、考等の説によりて改む。舊訓、たてまだすとあるもいかゞ。こゝは、しかいふべき所ならねば、考に、つかはしゝとよまれしに從ふ。しは、給ふといふ意にて、この皇子の、つかひ給ひし人たちをいふ也。本集十三【廿九丁】に、朝者召而使《アシタニハメシテツカハシ》、夕者召使《ユフヘニハメシテツカハシ》、遣之舍人之子者《ツカハシヽトネリノコラハ》云々などあるにても思ふべし。
御門之人毛《ミカドノヒトモ》。
考云、卷十四に、みこの御門乃五月蠅《ミカトノサバヘ》なすさわぐ舍人はともよみしかば、專ら、御門守る舍人をいふ也。春宮舍人は、御階の下をも守なれど、薨まして後は、御門のみ守る事上に見ゆ云々といはれつるがごとし。
白妙乃《シロタヘノ》。麻衣著《アサコロモキテ・アサノコロモキ》。
妙《タヘ》は、※[糸+旨]布の惣名なる事、上【攷證一下二十六丁】にいへるがごとし。されば、白き麻衣をば、白妙の麻衣とはいへるにて、こゝは、舍人たちの御喪服をきるをいへり。本集三【五十八丁】に、安積皇子薨時の歌に、白細爾舍人装束而云々。また【五十九丁】天地與彌遠長爾《アメツチトイヤトホナカニ》、萬代爾如此毛欲得跡《ヨロツヨニカクシモカモト》、憑有之皇子之御門乃《タノメリシミコノミカトノ》、五月蠅成驟騷舍人者《サハヘナスサワクトネリハ》、白栲爾服取着而《シロタヘニコロモトリキテ》云々。十三【廿八丁】挽歌に、大殿矣振放見者《オホトノヲフリサケミレハ》、白細布飾奉而《シロタヘニカサリマツリテ》、内日刺宮舍人者《ウチヒサスミヤノトネリハ》、雪穗麻衣服者《タヘノホニアサキヌキレハ》云々などあるもこゝと同じ。(頭書、書紀孝徳紀、大化二年詔に、其葬事、帷帳等用2白布1云々。)
埴安乃《ハニヤスノ》。御門之原爾《ミカトノハラニ》。
埴安《ハニヤス》は、大和國十市郡なり。この地の事は、上【攷證一下卅五丁】にいへり。御門之原《ミカトノハラ》は、藤井が原をいへるなるべし。いかにとなれば、本集一【廿三丁】
藤原宮御井歌に、八隅知之和期大王《ヤスミシヽワコオホキミ》、高照日之皇子《タカヒカルヒノミコ》、麁妙乃藤井我原爾《アラタヘノフチヰガハラニ》、大御門始腸而《オホミカトハシメタマヒテ》、埴安乃堤上爾《ハニヤスノツヽミノウヘニ》、在立之見之賜者《アリタヽシメシタマヘハ》云々とある、和期大王《ワコオホキミ》は、持統天皇をさし奉り、日之皇子は、高市皇(268)子をさし奉りて、天皇、春宮、殿は別なるべけれど、地は同じ地におはしまして、同じ地なれば、いづれをもひろく藤原宮とはまをし、またこの地、香具山のほとりなれば、春宮をば、香具山の宮とも申しゝなるべし。藤井が原に、大御門始賜而とあるごとく、この原に、大御門を建給ひしかば御門の原ともいへるなるべし。すべて、この歌と、かの藤原宮御井歌とを、てらし合せて、この地の事をば考ふべし。
赤根刺《アカネサス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中四十七丁】にも出たり。
日之《ヒノ》盡《コト/\・ツクルマデ》。
これを、考には、ひのくるるまでとよまれしかど、いかゞ。日のこと/”\と訓べし。日のこと/”\は、日の限りといふ意なり。そのよしは上【攷證二中廿八丁】に、夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコト/”\》、晝者母日之盡《ヒルハモヒノコト/”\》云々とある所にいへり。
鹿自物《シヽジモノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。自物《シモノ》といふ言は、書紀武烈紀歌に、斯々式貳暮能瀰逗矩陛御暮黎《シヽジモノミツクヘコモリ》云々とありで、集中、鹿兒自物《カコシモノ》、鳥自物《トリシモノ》、馬自物《ウマシモノ》、犬自物《イヌシモノ》、鴨自物《カモシモノ》、雪自物《ユキシモノ》などありて、皆、の如くといふ意也。この事は、上【攷證一下廿九丁】にもいへり。こゝは、獣などの如くに、匍伏《ハヒフス》とつゞ〃たるにて、伊波比の、伊は發語也。さて、鹿を、しゝと訓よしは、書紀神代紀下に、入v山覓v獣《シヽ》云々と、獣をしゝとよめる如く、すべて獣をしゝとはいひし也。そは獣は肉《シヽ》を専らと賞するものなれば、肉《シヽ》の意にて、しゝとはいひし也。今の世に、猪をさして、しゝといふも(269)これなり。
伊波比伏管《イハヒフシツヽ》。
伊波比《イハヒ》の、伊は發語にて、波比は匍《ハヒ》也。下に、伊波比廻《イハヒモトホリ》とあるも、同じ。古事記上巻に、化2八尋|和邇《ワニ》1而|匍匐委蛇《ハヒモコロヒキ》云々。本集三【十三丁】に、四時自物伊波比拜《シヽジモノイハヒヲロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒモトホリ》云々など見えたり。さて、こゝは、舍人などの、終日|匍伏《ハヒフシ》て、禮を亂さず侍らふをいへるにて、すべて、獣は、膝を祈て、伏もの故に、それにたとへて、いへる也。三【卅七丁】に、十六自物膝折伏《シヽシモノヒサヲリフセテ》云々などもいへり。書紀天武紀云、十一年九月壬辰、勅、自v今以後、跪禮匍匐禮、並止v之、更用2難波朝廷之立禮1云々とあるにても、匍匐《ハヒフス》は禮なるをしるべし。
鳥玉能《ヌバタマノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二上四丁】にもいへり。
暮爾至者《ユフベニナレバ》。
暮を、考に、よふべと訓れしは、甚しき誤りなるうへに、音便の假字さへたがへり。暮を、ゆふべとよむは、つねのことにて、本集五【卅九丁】に、夕皇乃由布幣爾奈禮婆《ユフツヽノユフベニナレバ》云々。十四【卅五丁】に、左牟伎由布敝思《サムキユフベシ》云々。廿【十三丁】に、須受之伎由布幣《スゞシキユフベ》云々などあるにてもよふべとよむまじきをしるべし。さて、本集四【五十八丁】に、昨夜者《ヨヘハ》云々とある昨夜を、よべとよむを、音便にようべともいひ、又それを音便にくづして、よんべともいへり。本集四【十八丁】に、咋夜雨爾云々とあるを、舊訓、よふへの雨にとよみ、この歌を、六帖五に取て、よんべの雨にとせり。土佐日記附注本に、よんべのうなゐもがな、ぜにこはん云々とあれど、よんべといふも、ようべといふも、中ごろよりの事にて、この集のころの音にあらず。ましてよふべと書ことは、すべてなき(270)事なり。
大殿乎《オホトノヲ》。
高市皇子尊のおはしましゝ春宮を申すなり。
振放見乍《フリサケミツヽ》。
ふりあふぎ見るをいふ也。この言は、上【攷證二中十八丁】にいへり。さて、大殿は、ふりあふぎ見るものならねど、上【廿八丁】にも、久竪乃天見如久仰見之《ヒサカタノアメミルコトクアフキミシ》、皇子乃御門之《ミコノミカトノ》云々とありて、天皇、皇子などをば、敬ひ尊み奉りて、ふりさけ見つゝとは申す也。
鶉成《ウヅラナス》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。鶉の、草根をはひめぐれるがごとく、匍廻とはつゞけしなり。
伊波比廻《イハヒモトホリ》。
止に、伊波比伏管《イハヒフシツヽ》とある、伊波比と同じく、伊は發語にて、波比は匍《ハヒ》、延《モトホリ》は字のごとくめぐれる也。古事記中卷、御歌に、波比母登富呂布《ハヒモトホロフ》、志多陀美能《シタヾミノ》、伊波比母登富理《イハヒハヒモトホリ》云々。また匍2匐廻《ハヒモトホリ》其地之|那豆岐田《ナツキダ》1哭云々。本集三【十三丁】に、四時自物伊波比拜《シシジモノイハヒヲロガミ》、鶉成伊波比毛等保理《ウヅラナスイハヒハヒモトホリ》、恐等仕奉而《カシコシトツカヘマツリテ》云々。績日本紀、神龜六年八月詔に、恐古士物進退匍匐廻保理白賜比《カシコシモノシゞマヒハヒモトホリマヲシタマヒ》云々など見えたり。また廻《メグ》るを、もとほるといへるは、本集三【五十三丁】に、若子乃匍匐多毛登保理《ミトリコノハヒタモトホリ》云々。四【十六丁】に、磐間乎射往廻《イハノマヲイユキモトホリ》云々などありて、集中猶いと多し。さて、こゝは、舍人たちの、せんすべしらで、夜になれば、大殿をあふぎ見ては、悲みにたへかねて、あるにもあられず、はひ廻り、ありきて、うちなげくさまをいへるなり。
(271)雖侍候《サモラヘト》。
大殿に伺候するをいへり。上【攷證二中五十五丁】にも出たり。
佐母良比不得者《サモラヒエネバ》。
皇子おはしまさねば、大殿にさもらへども、物さびしく、在つかぬこゝちすれば、さまよひたゞよふと也。宣長云、者の字は、草書のてをはに誤れるなるべし。必らず、かねてといはでは語とゝのはず。
春鳥《モヽトリ・ウクヒス》之《ノ》。
枕詞なり。舊訓には、うぐひすとよみ、考には、字のまゝに、はるとりとよまれつれど、いづれもいかが。鶯は、早春より來鳴て、春は、專らこの鳥を賞すること故に、是をうぐひすとよまんも、一わたりはさる事ながら、集中、春鳥と書る所は、音のみなくとも、さまよふとも、つゞけて、必らずうぐひすとよむべき所に、春鳥と書る所、一つなければ、うぐひすとよむまじき事しられたり。考に、はるとりとよみ、既に冠辭考にも、はるとりとして、のせられたれど、いかゞ。春來なくいろ/\のとりを、はる鳥といふことあらば、集中にまれ、外の書にまれ、はるとりと假字に書る所、一つばかりはありぬべきを、みな文字に、春鳥とのみ書て、外にはるとりといふこと見えざれば、はるとりともよむまじき也。されば、案に、もゝとりと訓べき也。いかにとならば、漢土にても、春鳥といふは、春來鳴くいろ/\の鳥のことにて中國に、もゝとりといふに、よく當れり。されば、集中、百鳥とあると、春鳥とあると、漢土にて春鳥といふ、この三つの例をあげたり。照し合せて、こゝも、もゝとりと訓べきをしるべし。まづ百鳥といふは、本集五【十七丁】七に、烏梅能波奈伊麻佐加利奈利《ウメノハナイマサカリナリ》、毛々等利能己惠能古保志枳波流岐(272)多流良斯《モヽトリノコヱノコホシキハルキタルラシ》云々。六【四十五丁】に、開化之色目列敷《サクハナノイロメツラシキ》、百鳥之音名束敷《モヽトリノコヱナツカシク》云々。十八【十八丁】に、山乎之毛佐波爾於保美等《ヤマヲシモサハニオホミト》、百鳥能來居弖奈久許惠《モヽトリノキヰテナクコヱ》、春佐禮婆伎吉能可奈之母《ハルサレハキヽノカナシモ》云々とありて、春鳥とあるは、九【卅四丁】に、葦垣之思亂而《アシカキノオモヒミタレテ》、春鳥能鳴耳鳴乍《モヽトリノネノミナキツヽ》云々。二十【卅七丁】に、春鳥乃己惠乃佐麻欲比《モヽトリノコヱノサマヨヒ》云々とあり。漢土に、春鳥といへるは、洛陽伽藍記卷 に、景林寺西有v園、多饒2奇果1、春鳥秋蝉、鳴聲相續云々。柳※[恐の心が言]陽春歌に、春鳥一囀有2千聲1、春花一叢千種名云々。薛濤詩に、春愁正斷絶、春鳥復哀吟云々など見えたり。之《ノ》文字は例の如くの意也。(頭書、新撰字鏡に、※[春+鳥]、宇久比須。)
佐麻欲此奴禮者《サマヨヒヌレハ》。
さまよふといふ言は、新撰字鏡に、※[口+屎]【詩伊反、出氣息心呻吟也、惠奈久又佐萬餘不、又奈介久】呻【舒神反、吟也、歎也、左萬與不、又奈介久】云々とありて、迷ひ歎く意にいへるにて、こゝは、春になれば、いろ/\の鳥來りて、さまよふにたとへて、舍人たちの、むなしき大殿に、なげきさまよふをいへるなり。宣長云、さまよひぬるにといふ意也。次の思ひもいまだつきねばも、つきぬにといふ意なると同じ古言の格なり。つねの、ぬればの意としては、下へかゝる所なし云々。
嘆毛《ナゲキモ》。未過爾《イマダスキヌニ》。
皇子薨まして、そのなげきもいまだすぎやらぬに、はや百濟の原に葬り奉りぬと也。ぬにといふ言は、神葬といふへかけてきくべし。
憶毛未盡者《オモヒモイマダツキネバ》。
まへの、嘆毛未過爾《ナゲキモイマダスキヌニ》といふに對へたる語にて、皇子薨給ひし、歎の思ひも、いまだつきやらぬにといへる也。さて、このねばといふ言は、ぬにといふ意也。そは古事記上卷、八千矛神御歌に、於須比遠母伊麻陀登加泥婆《オスヒヲモイマダトカネバ》云々。本集四【廿九丁】に、奉見而未時太爾不更者《ミマツリテイマタトキダニカハラネハ》、如年月所念君《トシツキノコトオモホユルキミ》云々。八【十七丁】に、霜雪毛未過者《シモユキモイマダスキネバ》、不思爾春日里爾梅花見都《オモハズニカスガノサトニウメノハナミツ》云々。
(273)ウノハナモイマタサカネハホトヽギスサホノヤマヘヲキナキトヨモスまた【廿五丁】に、宇能花毛未開者《》、霍公鳥《》、佐保乃山邊來鳴令響《》云々などありて、集中猶いと多し。古今集秋上に、友則、あまの川あさせしら浪たどりつゝわたりはてねばあけぞしにける云々。これらのねば、皆ぬにの意也。
言左敝久《コトサヘク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中七丁】にも出たり。印本、左を右に誤れり。今意改。
百濟之原從《クダラノハラユ》。
百濟の原は、大和國廣瀬郡なり。書紀舒明紀に、十一年秋七月、詔曰、今年造作大宮及大寺、則以2百濟川側1爲2宮處1云々。十二年冬十月、徙2百済宮1云々。天武紀に、繕2兵於百済家1云々。本集八【十六丁】に、百濟野乃芽古枝爾《タタラヌノハキノフルエニ》云々などあるも、みな同所なり。陽成實録、元慶四年紀に、大和國十市郡百濟川云々とあるは、大和志に、百濟川、自2高市郡1、流2於郡東界1、至2于河合1、入2廣瀬郡1云々とありて、この川、十市郡と、廣瀬郡との界を流るれば、十市郡ともすめれど、今は、大和志によりて、みな廣瀬郡とせり。また、この百濟てふ地名、攝津國、河内國などにも、同名あり。思ひまぎるべからず。從は、例の、よりの意にて、こゝは、この御葬送、十市郡藤原の京をいでて、廣瀬郡百濟より、同じ郡の城上殯宮にをさめ奉るなれば、從とは書るなり。
神葬《カムハブリ》。
天皇にまれ、皇太子にまれ、崩給ふを、神になりませるよしにいへるは、上に、神宮爾装束奉而《カムミヤニヨソヒマツリテ》とある所に、いへるがごとくなれば、神葬《カムハフリ》とは申すなり。本集十三【廿八丁】に、朝(274)裳吉城於道從《アサモヨシキノヘノミチユ》、角障經石村乎見乍《ツヌサハフイハレヲミツヽ》、神葬葬奉者《カムハフリハフリマツレハ》云々とも見えたり。さて、葬をはふりといふよしは、宣長云、すべて、はふりとは、其儀をいふ也。しかいふ意は、古事記遠飛鳥宮段歌に、意富岐美袁斯麻爾波夫良姿《オホキミヲシマニハフラハ》、續紀卅一の詔に、彌麻之《ミマシ》大臣之家内|子等乎母《コトモヲモ》、波布理《ハブリ》不v賜、失不v賜、慈賜|波牟《ハム》などある、はふると本同言にて、放《ハブ》るなり。葬は、住なれたる家より出して、野山へ送りやるは、故《ハブラ》かし遣る意よりいへる也云々といはれつるが如し。猶くはしくは、古事記傳廿九に出たれば、ひらき見てしるべし。
葬伊座而《ハブリイマシテ》。
葬《ハブリ》は、今の世にては、土の下に埋め隱す事とのみ思へど、古へは、しからず。まへに、宣長のいはれつるがごとく、そのわざを、はふりとはいふ也。伊座は、往ますといふことにて、常にましますといふことを、いますといふとは別なり。そは、古事記中卷御歌に、佐々那美遲袁《サヾナミヂヲ》、須久須久登和賀伊麻勢婆夜《スクスクトワカイマセバヤ》云々。本集三【卅八丁】に、好爲而伊麻世荒其路《ヨクシテイマセアラキソノミチ》云々。四【卅二丁】に、彌遠君之伊座者《イヤトホニキミカイマサハ》云々。五【卅一丁】に、唐能遠境爾《モロコシノトホキサカヒニ》、都加播佐禮麻加利伊麻勢《ツカハサレマカリイマセ》云々などありて、集中猶多し。これら、みな往《ユキ》ますの意也。さてこゝは、皇子のおはしましゝ、藤原の京の、香具山の宮をいでて、百濟の原より、城上の御墓所に、行道のほどを、葬伊座《ハフリイマス》とはいへるなり。
朝毛《アサモ》吉《ヨシ・ヨキ》。
上枕詞にて、冠辭考に出たり。上【攷證一下四十一丁】にも出たり。
木上宮乎《キノヘノミヤヲ》。
上に、木※[瓦+缶]殯宮、城上殯宮などあるも、こゝ也。そのよしは、その所にいへり。
(275)常宮等《トコミヤト》。
上、御食向木※[瓦+缶]之宮乎《ミケムカフキノベノミヤヲ》、常宮常定賜《トコミヤトサダメタマヒテ》云々とある所にいへるごとく、今こゝに、御墓を作りをさめ奉りしかば、これぞ久しく、かはる事なき大宮なると申せる也。
高《タカ》之《シリ・シ》奉而《タテヽ》。
この一句、心得がたし。しひて思ふに、之と知と同韻の字なれば、借用ひたる歟。故に、之をしりとよめり。奉《タテ》は訓を略して、建の意に用ひたる也。そは本集六【四十三丁】に、宮柱太敷奉《ミヤハシラフトシキタテヽ》云々とあるにてしるべし。たかしりは、上【攷證一下九丁】にいへるごとく、大宮を高く知り領します意、奉《タテ》建にて、こゝは、木上殯宮を賞し申せる詞也。さて、こゝに諸説のあるをあげたり。見ん人、心のひかん方にしたがふべし。考云、今本、高之奉而とあるは、字誤れり。上の、殯宮の長歌にも、陵の事を、御在香乎高知座而《ミアラカヲタカシリマシテ》とあるなどによりて、改めつ云々とて、こゝをも高知座而と改められたり。宣長云、高之奉而は、定を高之の二字に誤れる也。上の長歌にも、常宮跡定賜《トコミヤトサタメタマヒテ》とあり。考に、高知座と改められつるは、字形遠し。略解云、高之奉而の、之の字、久の誤りにて、たかくまつりてとありしか云々などあれど、いづれも心ゆかず。
神隨《カムナカラ・カミノマニ》安定座奴《シツマリマシヌ》。
神隨《カムナカラ》は、上所所にいへるがごとく、神におはしますまゝにといへる也。安定を、しづまりと訓るは、義訓なり。書紀神代紀下に、平定をしづむとよめるが如し。さて、このしづまりますといふ言は、外へ遷行《ウツリ》まさずして、其所に永く留り給ふをいへるにて、まへに、木上宮を、常宮といへるにても、永きおはしまし所の意なるをしるべし。古事記に、鎭座をよみ、出雲風土記、祝詞等に、靜坐をよめり。この事古事記傳卷十一にくはしく解れたれば、ひらき見てしるべし。
(276)雖然《シカレドモ》。
この言は、上下へかゝりて、神隨安定《カムナガラシツマリ》ましぬ、しかはあれど、平生おはしましゝ、藤原の京の香具山の宮は、萬代過ぬとも、失んと思へやは、うせんとは思はざりしものをと也。
吾大王之《ワガオホキミノ》。
高市皇子をさし奉れり。
萬代跡《ヨロツヨト》。所念食而《オモホシメシテ》。作良志之《ツクラシヽ》。
この香來山の大宮を、萬代も、かくてあらんと、おぼしめして、作り給ひしとなり。
香來山之宮《カグヤマノミヤ》。
まへに、埴安乃御門之原《ハニヤスノミカトノハラ》とある所にいへるがごとく、この地は、大和國十市郡にて、香來山のほとりなれば、香具山の宮とも申しゝ也。本集一【廿三丁】藤原宮御井歌に、日本乃青香具山者《ヤマトノアヲカグヤマハ》、日經乃大御門爾《ヒノタテノオホミカトニ》、春山跡之美佐備立有《ハルヤマトシミサヒタテリ》云々とあるにても、香具山のほとりなるをしるべし。
萬代爾《ヨロツヨニ》。過牟登念哉《スキムトオモヘヤ》。
萬代は、年久しきい《(マヽ)》へる也。過牟登念哉《スキムトオモヘヤ》の、過《スク》は、たゞ過《スキ》ゆく意にはあらで、いたづらにすぎんと思へや、いたづらに過んとは思はざりしをと也。この類ひの過《スク》といふ言は、本集三【廿九丁】に、明日香河《アスカカハ》、川余藤不去立霧乃《カハヨトサラスタツキリノ》、念應過孤悲爾不有國《オモヒスクヘキコヒニアラナク二》云々。四【四五丁】に、如此耳戀哉將度《カクシノミコヒヤワタラム》、秋津野爾多奈引雲能過跡者無二《アキツヌニタナヒククモノスグトハナシニ》云々。また、家人爾戀過目八方《イヘヒトニコヒスキメヤモ》、川津鳴泉之里爾年之歴去者《カハツナクイツミノサトニトシノヘヌレハ》云々など有で、集中猶多し。これらの過といふもみないたづらに過る意也。念哉《オモヘヤ》の、やもじは、うらへ意のかへるやにて、おもへや、おもはざりしものをといふ意也。このうらへ意のかへるやもじの事は、上【攷證一下五十六丁】にいへり。
(277)天之如《アメノコト》。振放見乍《フリサケミツヽ》。
これも、大殿をふりあふぎ見る也。天は、ふりあふぎて見るもの故に、これを天にたとへて、天之如とはいへり。
玉手次《タマダスキ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上十丁】にも出たり。
懸而《カケテ》將偲《シヌバム・シノバム》。
懸而《カケテ》は、心にかけて忍び奉らんと也。この事、上【攷證一上十二丁】にいへり。
恐《カシコ》有《カレ・ケレ》騰文《ドモ》。
恐有《カシコカレ》どもは、かしこくあれどもにて、かしこしといふ言は、上【攷證二中廿七丁此卷十六丁】にもいへるがごとく、本は、かしこみ恐《オソ》るゝ意なれど、そを轉じて、ありがたくかたじけなき意にて、こゝは、俗言にで、恐《オソ》れおほきといふこゝろとして、おそれおほけれども、心にかけて忍び奉らんとにて、この二句に、この長歌中の事をこめて、とぢめたり。かく見ざれば、さの《(マヽ)》とぢめの二句いたづらなるべし。
反歌二首。
印本、こゝをも短歌とせり。例によりてあらたむ。そのよしは上にいへり。
200 久堅之《ヒサカタノ》。天所知流《アメシラシヌル》。君故爾《キミユヱニ》。日月毛不知《ヒツキモシラス》。戀渡鴨《コヒワタルカモ》。
天所知流《アメシラシヌル》。
天皇にまれ、皇子にまれ、崩給ふを、神となりて天をしろしめすことをいへり。上、日並知皇子の殯宮歌に、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキカムアガリアカリイマシヌ》、神上上座奴《》云々ともありて、本集三(278)【五十八丁】安積皇子薨時歌に、和豆香山御輿立之而《ワツカヤマミコシタタシテ》、久堅乃天所知奴禮《ヒサカタノアメシラシヌレ》云々。また吾王天所知牟登《ワカオホキミアメシラサムト》云々などあるにても思ふべし。
君故爾《キミユヱニ》。
この故爾《ユヱニ》は、なるものをいふ意也。此事は、上【攷證一上卅六丁】にいへり。
目月毛不知《ヒツキモシラス》。
日も月もしらざるにて、皇子薨ませるを、なげきこひまどひて、月日の經ゆくをもしらざる也。一首の意は、皇子命は、今は天をしろしめして、神上したまひしものを、いかにおもへばにか、かく月日をもしらぬばかりに、戀奉るらんとなり。
201 埴安乃《ハニヤスノ》。池之堤之《イケノツヽミノ》。隱《コモリ・カクレ》沼乃《ヌノ》。去方乎《ユクヘヲ》不知《シラニ・シラズ》。舍人者迷惑《トネリハマトフ》。
埴安乃《ハニヤスノ》。池之堤之《イケノツヽミノ》。
本集一【廿三丁】に、埴安堤上爾在之《ハニヤスノツヽミノウヘニアリダヽシ》云々とあるこれなり。この地の事は、上【攷證一下卅五丁】にいへり。
隱《コモリ・カクレ》沼乃《ヌノ》。
舊訓、かくれぬのとよめれど、こもりぬのとよむべし。本集十四【卅二丁】に、須沙能伊利江乃許母理沼乃《スサノイリエノコモリヌノ》云々とあれば也。また、本集此卷【廿丁】に、嬬隱有屋上乃山乃《ツマコモルヤカミノヤマノ》云々。八【廿五丁】に、隱耳居者《コモリノミヲレハ》云々などあるにても、隱をこもりとよむべきをしるべし。隱沼《コモリヌ》とは、本集九【卅六丁】に、隱沼乃下延置而《コモリヌノシタハヘオキテ》云々。十二【廿丁】に絶沼之下從者將戀《コモリヌノシユハコヒム》云々。また去方無三隱有小沼乃下思爾《ユクヘナミコモレルヌマノシタモヒニ》など見えて、水の流るることなく、こもりてのみあるをいひて、ここは、池の堤を爲めぐらして、水の行方なきをいへり。されば、去方乎不知《ユクヘヲシヲニ》とはつゞけたる也。されど、古今集戀三に、友則、紅の(279)いろには出じ、かくれぬのしたにかよひて戀はしぬとも云々とあるを見れば、かくれぬとよめるもいと古けれど、こもりぬとよまん事、明らかなれば、今は改めつ。さて、沼の字は、古事記にもぬの假字に用ひ、本集十一【卅三丁】に、青山之石垣沼間乃水隱爾《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニ》云々ともありて、ぬともいひ、ぬまともいひし也。そは、本集十二【廿丁】に、小埼乃沼爾《ヲサキノヌマニ》云々。天文本和名抄水士類に、唐韻云沼【之少切和名奴】池沼也云々。これを、印本には、奴萬とあり。これらにて、沼をぬともぬまとも、いひしをしるべし。
去方乎《ユクヘヲ》不知《シラニ・シラズ》。
不知を、舊訓、しらずとよめれど、しらにとよむべし。しらにの、にもじはずの意にてしらずといふと同じ。この事は、上【攷證一上十一丁】にいへり。さて、この歌は、序歌にて、隱沼《コモリヌ》は、水のゆく所なく、こもりてのみあるをいひて、そのこもりぬのごとくゆく方をしらざれば、舍人はまどふといへる也。皇子薨まして、すべきかたなく、まどへるさまさもあるべし。(頭書、しらずといふことも、集中なきにあらず。そは、)
或書反歌一首。
考には、左注によりて、こゝを、檜隈女王作歌と直されしかど、例の、古書を改るの僻なればとらず。
202 哭澤之《ナキサハノ》。神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》。雖祷祈《イノレドモ》。我王者《ワカオホキミハ》。高日所知奴《タカヒシラシヌ》。
哭澤之《ナキサハノ》。
古事記上卷云、故爾|伊那那岐《イサナキ》命詔之、愛我那邇妹《ウツクシキワカナニモノ》命乎、謂d易2子之一木1乎u、乃匍2匐御枕方1、匍2匐御足方1而哭時、於2御涙1所v成神、坐2香山《カクヤマ》之畝尾木本1、名2泣澤女《ナキサハメノ》(280)神1云々とある、この神也。延喜神名式に、大和國十市郡、畝尾都多本神社云々ある、これなるべし。宣長云、むかし、かく、人のいのちを、この神にいのりけんよしは、伊邪那美神の崩ませるを、かなしみ給へる御涙より、なりませる神なればか云々。
神社爾《モリニ》。
集中、神社をも、社の一字も、もりとよめり。ともに義訓なり。そは本集七【卅三丁】に、卯名手之神社《ウナテノモリ》云々、九【一六丁】に、石田社《イハタノモリ》云々など見えたり。神社には、必らず木など植、その木をば、神木とて、手さへふれざれば、自らに生しげりて、森ともなるによりて、その事もて、この二字をもりとはよめる也。古今集※[言+非]諧に、さぬき、ねぎごとをさのみきゝけんやしろこそ、はてはなげきのもりとなるらめ云々。六帖五に、人づまはもりかやしろか、から國のとらふす野べか、ねてかたらはん云々など、もりと、やしろと、かけ合せよめるにても、もりもやしろも、おなじことなるをしるべし。又集中にも、新撰字鏡にも、社をもりとよめり。左氏昭十二年釋文に、社本作v杜とあれば、社とかけるも、杜と書るも同じ意なり。
三輪須惠《ミワスヱ》。
三輪《ミワ》は、神酒、須惠《スヱ》は居なり。和名抄祭祀具に、日本紀私記云神酒【和語云美和】云々。本集十三【四丁】に、五十串立神酒座奉神主部之《イクシタテミワスヱマツルハフリヘカ》云々など見えて、枕詞に、うまざけみわとつゞくるも、このよし也。須惠は居にて、これは、神酒を甕《ミカ》に釀《カミ》たるまゝ、神にそなへ供する也。春日祭祝詞に、御酒者甕上高知《ミキハミカノヘタカシリ》、甕腹滿並《ミカノハラミチナラヘ》云々などあるがごとく、甕は、長高く大きなるものと見ゆれば、ことさらに、居とはいへるにて、たゞ供する事のみにはあらず。
(281)雖祷祈《イノレドモ》。
ある人、これを、こひのめどゝよめれど、舊訓のまゝ、いのれどもと訓べき也。本
集十三【廿四丁】に、天地乃神乎祷迹《アメツチノカミヲイノレド》云々。また神尾母吾者祷而寸《カミヲモワレハイノリテキ》云々などあるにてもおもふべし。
高日所知奴《タカヒシラシヌ》。
高は、上【攷證一下十九丁】高照る《タカヒカル》とある所にいへるがごとく、天といふと同じく、日といへるは、すべて、天皇の御未は、日の神の御末なれば、日之皇子とさへ申せるごとくにて、日にたとへまつれば、日の神のおはします天を、知り領しますとはいへる也。まへに、天所知流《アメシラシヌル》とも申せるごとく、皇子たちの薨ませるをば、神となりて、天を領じませるやうに申て、こゝも高日《タカヒ》しらしぬとは申せる也。さて、一首の意は、哭澤の神社に、大御酒を居奉て我大王の御命をいのり申奉れども、其かひなく、薨まして、今は天を知り領しましぬとなり。
右一首。類聚歌林曰。檜隈女王。怨《ウラムル》2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1曰。持統天皇。十年丙申。秋七月。辛丑朔庚戌。後皇子尊薨。
槍隈《ヒノクマノ》女王。
父祖不v詳。續日本紀に、天平九年二月、授2從四位下檜前王從四位上1云々と見えたり。この前後、女の叙位の所なれどは《(マヽl)》女王とはなけれど、女王なる事明らけし。こゝには、檜隈とありて、續紀には、檜前とあれど、集中、前をも、くまとよみて、同訓なれば、通はし書る也。さて、この高市皇子の薨給へる、持統天皇十年より、天平九年まで、四十(282)二年なれば、この女王、高市皇子の薨給へる時、二十歳なりとも、天平九年には、六十歳餘になられぬべけれど、續紀に見えたる檜前王と、この檜隈女王と同人なる事明らけし。
怨《ウラムル》2泣澤神社1。
この高市皇子の御事を、祈申されしかど、そのかひあらざりしかば、うらみ奉れるなり。
後皇子。
この高市皇子、草壁皇子薨給ひて後、皇太子に立給ひしかば、後皇子とは申也。この皇子の御事は、上【攷證二上卅二丁】に申せり。
但馬皇女薨後。穗積皇子。冬日雪落遙望2御墓1。悲傷流v涕御作歌一首。
但馬皇女。
天武帝の皇女也。上【攷證二上卅二丁】に申せり。續日本紀に、和銅元年、六月丙戌、三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也云々と見えたり。さて、皇女と、穗積皇子との御事、本集此卷【十四丁】に、但馬皇女、在2高市皇子宮1時、思2穗積皇子1御作歌云々。また【十五丁】但馬皇女在2高市皇子宮1時、竊接2穗積皇子1、事既形而後御作歌云々などあるがごとく、ひそかに通じおはしましければ、ことさらに悲しみたまへるなり。
穗積皇子。
天武帝の皇子なり。この御事も上【攷證二上卅二丁】にて申せり。
遙望2御墓1。
この御墓は、大和國宇田郡と、城上郡との堺にて、城上郡につきたる方なるべし。其よしは下にいへり。
(283)悲傷流v涕。
かなしみいたみ給ひて、涕をながしたまふなり。さて考には、この但馬皇女の上に、寧樂宮の三字の標目を加へられて、こゝより下をば、寧樂宮の御宇の歌とされたれど、印本のまゝ、下に載べきなり。そのよしは、上【攷證一下卅九丁】寧樂宮の所にいへり。
203 零雪者《フルユキハ》。安幡爾勿落《アハニナフリソ》。吉隱之《ヨナバリノ》。猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》。塞爲卷爾《セキナラマクニ》。
この安幡《アハ》は、必らず地名なるべし。考には安幡《アハ》の、安は、佐の誤とて、佐幡と改めて、雪の多くふる事なかれといふ意とし、宣長は、近江の淺井郡の人其あたりにては、淺き雪をば、ゆきといひ、深く一丈もつもる雪をば、あはといふと也。こゝによくかなへり。古今集の、雪のあはだつも、深く立意なるべしといへり。古言ゐ中に殘れる事もあればにやあらん。猶考ふべしといはれしかど、いづれも心ゆかず。されば考ふるに、安幡《アハ》は、穗積皇子の、おはします藤原の京より、但馬皇女の御墓のある、猪養の岡のほとりを、望給ふ間にて、この御墓へ往來する、道のほどの地名なるべし。書紀皇極紀の謡歌に、阿波努《アハヌ》とあるは、古く高市郡とすれど、もし、この安幡と同所にはあらざるか。大和志十市郡に、粟原てふ地、ところ/”\に見えたるは、もしこゝにはあらざるか。其所にゆきて、考へたらましかばとは思へど、すべて界をいでぬ身なれば、いかゞはせん。これを地名とする時は、一首のうへも、おだしく、前後の意も、よく聞ゆれば、地名なる事明らけし。猶、この地にくはしき大和人よ、よく考へてよかし。
(284)吉《ヨ》隱《ナバリ・ゴモリ》之《ノ》。猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》。
この地の事は、書紀持統紀に、九年十月乙酉、幸2菟田吉隱1云々。延喜諸陵式に、吉隱陵、在2大和國城上郡1云々などありて、城上郡なり。本集八【卅九丁】大件坂上郎女、跡見《トミ》田庄作歌に、吉名張乃猪養山爾伏鹿之《ヨナハリノヰカヒノヤマニフスシカノ》云々。十【四十四丁】に、吉魚張能浪柴乃野之《ヨナハリノナミシハノヌノ》云々などあり。この讀合せたる地名をも、大和志もて考ふるに、跡見《トミ》、猪養《ヰカヒ》、吉隱《ヨナバリ》、浪柴《ナミシバ》、みな城上郡にのせて、鳥見丘《トミノヲカ》、外山村方、東至2宇陀郡萩原村1云々とあれば、この吉隱之猪養乃岡《ヨナバリノヰカヒノヲカ》も、二郡の界にて、城上郡につきし方なるべし。書紀に、菟田吉隱とあるは、古へは、郡などの界は、今の如くはさだかならざりしなるべし。
塞爲卷爾《セキナラマクニ》。
塞は、字の如く、ふさぐ意にて、古事記上卷に、逆2塞上《セキアケ》天安河之水1而云々。本州三【五十六丁】に、妹乎將留塞毛置末思乎《イモヲトヽメムセキモオカマシヲ》云々などありて、集中猶多し。これらも、みなふさぐ意より出たるにて、關を、せきといふも、これ也。そは、四【四十一丁】に、石上零十方雨二將關哉《イソノカミフルトモアメニセカレメヤ》云々とよみて、また廣雅釋詁三に、關塞也云々とあるにても、おもふべし。さて、一首の意は、上にも、薨給ひし人の、御ゆかりも、又めしつかひ給ひし臣たちも、御墓へ往來する事見えたるごとく、この皇女の御墓へ、皇子も、その外の人も、ゆきかよはんに、ふる雪も、心してその道の安幡《アハ》といふ所になふりそ、雪ふらば、御墓所の、吉隱の猪養の岡に行かよふ道の關《セキ》となりで、かよひがたからんにとのたまへるなり。
弓削皇子薨時。置始連東人作歌一首。并短歌。
(285)弓刷皇子。
天武天皇の皇子。文武天皇三年七月、薨給へり。上【攷證二上廿九丁】にくはし。
置始連東人。
父祖官位不v可v考。上【攷證一下五十五丁】にも出たり。印本、連の字なし。書紀、姓氏録集中等を考ふるに、すべて、置始の氏は、みな姓連なれば、集中の例によりて、補ふ。さて考云、文武天皇紀に、三年七月過給ふとありて、右の但馬皇女の薨より、九年前也。この卷、年の次でを立しを、この年次の遞ふを始として、歌にも多く疑あり。仍て、後人の注なる事しるければ、小字にせり。そのうたがひどもの事、左に見ゆ云々とて、この歌、反歌をも、端辭をも、小字とせられしはいかゞ。いかにとなれば、この前に、明日香皇女殯宮の歌を、高市皇子殯宮の歌の前に載たり。高市皇子は、持統天皇十年に薨給ひ、明日香皇女は、文武天皇四年に薨たまひしかば、高市皇子よりは四年おくれ給へるを、上にのせたるなど、思ひても、こゝの年の次のたがへるを、あやしむ事なかれ。しひて、この年の次を正さんとすれば、高市皇子をはじめとし、次に弓削皇子、次に明日香皇女、次に但馬皇女と改たむべけれど、いかで古書をさまでに改むべき。されば、こゝ一所の年の、次のたがへるをのみ、あやしめるは誤りならずや。
作歌、
印本、作の字なし。一二の卷の例によりて補ふ。
204 安見知之《ヤスミシヽ》。吾王《ワガオホキミ》。高《タカ》光《ヒカル・テラス》。日之皇子《ヒノミコ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天宮爾《アメノミヤニ》。神隨《カムナカラ・カミノマニ》。神等座者《カミトイマセハ》。(286)其《ソコ・ソレ》乎霜《ヲシモ》。文爾恐美《アヤニカシコミ》。晝波毛《ヒルハモ》。日之《ヒノ》盡夜羽毛《ヨルハモ》。夜之《ヨノ》盡《コト/\・ツキ》。臥居雖嘆《フシヰナゲケト》。飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
天宮爾《アメノミヤニ》。
まへにも、所々にいへるごとく、皇子たちの薨ませるを、神上《カムアカ》りとも、天所知《アメシラス》とも高日《タカヒ》しらすとも、いひて、神となりて、天に上りませるよしに申せば、こゝも、神となりまして、天へ上りまして、おはします大宮なれば、天宮とは申せる也。
神隨《カムナガラ・カミノマニ》。神等座者《カミトイマセハ》。
これも、上所々にいへるがごとく、神隨《カムナガラ》は、神にましますまゝにといへる意也。神等座者《カミトイマセハ》は、神となりて、天の宮ましませばなり。
其《ソコ・ソレ》乎霜《ヲシモ》。
草をそれとよめれど、かゝる所は、みなそことよむべき例也。本集此卷【卅三丁】に、所己乎之毛綾爾隣《ソコヲシモアヤニカナシミ》云々。十七【卅七丁】に、曾己乎之母宇良胡悲之美等《ソコヲシモウラコヒシミト》云々などあるにても思ふべし。霜と書るは、借字にて助辭也。
文爾恐美《アヤニカシコミ》。
まへ、高市皇子尊殯宮歌に、言久母綾爾畏伎《イハマクモアヤニカシコキ》云々とある所にいへり。美はさにの意也。
晝波毛《ヒルハモ》。日之《ヒノ》盡夜羽毛《ヨルハモ》。
上【攷證二中廿七丁】に、夜者毛夜之盡《ヨルハモヨノコト/\》、畫者母日之盡《ヒルハモヒノコト/\》云々とある所にいへ乙が如く、ひるは日のかぎり、夜は夜のかぎりといふ意也。
(287)臥居雖嘆《フシヰナケヽド》。
本集十【一六丁】に、丈夫之伏居嘆而《マスラヲノフシヰナケキテ》云々とありて、伏てはなげき、居てはなげくなり。
飽不足香裳《アキタラヌカモ》。
本集六【一五丁】に、今耳二秋足目八方《イマノミニアキタラメヤモ》云々。十【廿七丁】に、相見久※[厭の雁だれなし]雖不足《アヒミマクアキタラネトモ》云々などありて、集中猶多し。伏居なげけども、猶あきたらずと也。考云、これは古言をもて、いひつゞけしのみにして、わが歌なるべき事も見えず。そのつゞけに、言を略きたるところは、皆ことたらはずして、拙し。この撰みたる卷に、入べきにあらず。まして、右にあげいふ如く、年月の次の遞へるは、この一二卷にはかなはざる也。或人、これをも、よざまにいひなせれど、一つだにうべなることなし。よきはよき、あしきはあしと定めたらんこそ、わらはべの爲にもならめ云々。この説のごとく、みないひふるしたる言もて、つゞけたれど、難とすべき所もあらぬを、みだりに略きて、小字とせられしはあまりなる事なり。
反歌一首。
205 王者《オホキミハ》。神西座者《カミニシマセハ》。天雲之《アマクモノ》。五百重《イホヘ》之《ガ・ノ》下爾《シタニ》。隱《カクリ・カクレ》賜奴《タマヒヌ》。
神西座者《カミニシマセハ》。
神とは、皇子をさして申せり。皇子たちの薨給へるを、神になりませるよしにいへる事は、上、ところ/”\にいへるがごとし。又、天皇、また皇子たちの、現におはしますを、神と申せる事、集中いと多し。この事は、下【攷證三上】にいふべし。西《ニシ》は借字にて、にしの、しは、助辭なり。
(288)五百重《イホヘ》之《カ・ノ》下爾《シタニ》。
本集、此卷【廿七丁】に、天雲之八重掻別而《アマクモノヤヘカキワケテ》云々ともあるがごとく、雲の、いく重ともなく、重りたるを、八重とも、五百重ともいへり。さて、考には、下を上と直して、五百重之上爾《イホヘカウヘニ》とせられしかど誤り也。宣長云、考に、下を上と改られしは、ひがごと也。下は、裏にて、うちといふに同じ。上は、表なれば、たがへり。表に隱るゝといふことやあらん。上下の字にのみなづみて、表裏の節をわすれられし也といはれしが如く、本集十一【七丁】に、吾裏紐《ワカシタヒモヲ》云々、また【八丁】從裏鯉者《シタユコフレハ》云々、十二【二丁】に、裏服矣《シタニキマシヲ》云々など、裏をもしたとよめるにても、こゝの下《シタ》は裏《ウチ》の意なるをしるべし。さて一首の意は皇子は、あやしく神にしましませば、天雲のいくへともなくかさなれる、そのうちにかくれたまへりと也。この歌、本集三【十二丁】に、皇者神二四座者《オホキミハカミニシマセハ》、天雲之雷之上爾廬爲流鴨《アマクモノイカツチノウヘニイホリスルカモ》云々といふによく似たり。
又反歌一首。
又とは、まへの、端辭の、弓削皇子薨時、置始連東人作歌とあるをうけて、又そのをりのといへる意、短歌は、まへの長歌にむかへいへるによりて、短歌とはしるせるにて、たゞの歌といふ意なれば、こゝを《(マヽ)》前の長歌の反歌といふにあらで、かの弓削皇子の薨給へる時、別によめるたゞの歌といふ也。されば、こゝこそ、まことに短歌とあるべき所なれ。さるを、考に、右二首、本文ならば、これは或本歌と書べし。右は、注なる故に、こゝは又とかき、且これには、短歌と書しも、別のふみの歌なることしるべしといはれしは、いかが。
(289)206 (神樂波之《サヽナミノ》。志賀左射禮浪《シガサヽレナミ》。敷布爾《シクシクニ》。常丹跡君之《ツネニトキミガ》。所念有《オモホセリ・オホシタリ》計類《ケル》。)
神樂波之《サヽナミノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。神樂浪は、さゞなみとよめるよしも、其所にいへり。
志賀左射禮浪《シガサヽレナミ》。
志賀は、近江國の郡名、滋賀《シガ》なり。左射禮浪《サザレナミ》は、本集四【十九丁】に、佐保乃河瀬之小浪《サホノカハセノサヽレナミ》云々。十三【三丁】に、沙邪禮浪浮而流《サヽレナミウキテナガルヽ》云々。十七【卅七丁】に、佐射禮奈美多知底毛爲底母《サヽレナミタチテモヰテモ》云々などもありて、小浪をもよめるが如く、小《チヒサ》き浪をいへる也。書紀允恭紀御歌に、佐瑳羅餓多爾之枳能臂毛弘《サヽラガタニシキノヒモヲ》云々とあるも、小紋形の錦の紐にて、らとれと通へば、さゝれとも、さゝらともいふ也。また本集十四【十八丁】に、佐左良乎疑《サヽラヲギ》云々とあるも、小荻也。また小竹、細竹などを、さゝとよめるにても さゝは小の意なるをしるべし。
敷布爾《シクシクニ》。
本集四【四十六丁】に、朝居雲之敷布二吾者戀益《アサヰルクモノシクシクニワレハコヒマス》云々。六【十五丁】に、邊津浪之益敷布爾月二異二《ヘツナミノイヤシクシクニツキニケニ》云々。十七【卅丁】に、安我毛布伎美波思久思久於毛保由《アカモフキミハシクシクオモホユ》云々。また【卅四丁】に、與須流奈《ヨスルナ》美伊夜思久思久爾《ミイヤシクシクニ》云々などありて、集中猶いと多し。このしくは、重《シク》にて、三【四十三丁】に、一日爾《ヒトヒニハ》波千爾浪敷爾雖念《チヘナミシキニオモヘトモ》云々などもいふしきも、同じく、物のいやがうへに重《カサ》なる意にて、しきりにといへる言も、この語の轉じたる也。さて、こゝまでは、序歌にて、しく/\といはんとて、さゞ浪のしがさゞれ浪とはいひて、その浪のしく/\に、よりきてかはる事なきがごとく、つねにかはらじと、君のおぼしたりと也。
(290)常丹跡君之《ツネニトキミガ》。所念有《オモホセリ・オホシタリ》計類《ケル》。
宣長云、常はつねとよむべし。結句は、おもほせりけるとよむべし。考に、とこかと君がおぼしたりけるとよまれしかど、おぼしといふ言は、集中に例なしといはれつるがごとし。
柿本朝臣人麿妻死之後。泣v血哀慟作歌二首。并短歌。
人麿妻。
人麿の妻の《(マヽ)》、上【攷證二中一丁】にあげたる考別記の説のごとく、前後四人の中に、二人は嫡妻、二人は妾とおぼしき也。こゝなる二首の歌の、前一首は妾、のちの一首は妻の、失たるをかなしまれし歌と見えたり。さて考に、この端詞を、柿本人麿、所竊通娘子死之時悲傷作歌と改られしは誤り也。いにしへは、おほどかにして、妻をも妾をも、おしなべてつまとはいひしなれば、こゝに、妻をも、妾ともに、妻と書て、二者の端詞を、一つにてもたしめしなり。これらの事は、上【攷證二中一丁】をも考へ合すべし。
泣v血。
中ごろよりいふ血の涙なり。毛詩 に、鼠思泣血、無言不疾云々。韓非子 篇に泣盡而繼v之以v血云々などありて、古今集哀傷に、素性法師、血の涙おちてぞたぎつしら川は、君が世までの名にこそありけれ云々。竹取物語に、おきな女、ちの涙をながしてまどへどかひなし云々。伊勢物語に、をとこ、ちの涙をながせどとゞむるよしなし云々など見えたり。本集十六【六丁】に、其兩壯士不v堪2哀慟1、血涙漣v襟云々とあるも、ちの涙なり。
(291)哀慟。
こは上【攷證二中四十九丁】慟傷とある所にいへるがごとく、かなしみなげく意也。
207 天飛也《アマトブヤ》。輕路者《カルノミチハ》。吾妹兒之《ワギモコノ》。里爾思有者《サトニシアレバ》。懃《ネモゴロニ》。欲見《ミマク》騰《ホシケド・ホリスト》。不止行者《ヤマズユカバ》。人目乎多見《ヒトメヲオホミ》。眞根久往者《マネクユカバ》。人應知見《ヒトシリヌベミ》。狹根葛《サネカヅラ》。後毛將相等《ノチモアハムト》。大船之《オホフネノ》。思憑而《オモヒタノミテ》。玉蜻《カギロヒノ》。磐垣淵之《イハカキブチノ》。隱《コモリ・カクレ》耳《ノミ》。戀管在爾《コヒツツアルニ》。度日之《ワタルヒノ》。晩去之如《クレユクカコト》。照月乃《テルツキノ》。雲隱如《クモカクルゴト》。奧津藻之《オキツモノ》。名延之妹者《ナビキシイモハ》。黄葉乃《モミヂバノ》。過伊《スギテイ》去《ニキ・ユク》等《ト》。玉梓之《タマツサノ》。使乃言者《ツカヒノイヘハ》。梓弓《アヅサユミ》。聲爾聞《オトニキキ》而《テ・ツヽ》。【一云。聲耳聞而《オトノミキヽテ》。】將言爲便《イハムスベ》。世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。聲耳乎《オトノミヲ》。聞而有不得者《キヽテアリエネバ》。【一云。名耳聞而《ナノミキヽテ》。有不得者《アリエネバ》。】吾《ワカ》戀《コフル・コヒノ》。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》。遣悶流《ナグサムル・オモヒヤル》。情毛《ココロモ》有《アレ・アル》八等《ヤト》。吾妹子之《ワキモコカ》。不止出見之《ヤマズイデミシ》。輕市爾《カルノイチニ》。吾立聞者《ワカタチキケハ》。玉手次《タマタスキ》。畝火乃山爾《ウネビノヤマニ》。喧鳥之《ナクトリノ》。音母不所聞《オトモキコエス》。玉桙《タマボコノ》。道《ミチ》行《ユク・ユキ》人毛《ヒトモ》。獨谷《ヒトリダニ》。似之不去者《ニテシユカネバ》。爲便乎無見《スベヲナミ》。妹之名(292)喚而《イモカナヨヒテ》。袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。
天飛也《アマトフヤ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。天とぶ雁といふを、はたらかせて、輕の地名にいひかけたる也。也は、にほてるや、たかゆくや、たかしるや、おしてるや、さひづるやなど、枕詞に添へたるにで、これらみな助字なり。
輕路者《カルノミチハ》。
輕は、大和國高市郡の地名也。古事記に、輕之境岡宮、輕之酒折池、輕池など見え、延喜神名式に、大和國高市郡輕樹村坐神社などもあり。また本集四【廿三丁】に、天翔哉輕路從《アマトフヤカルノミチヨリ》、玉田次畝火乎見管《タマタスキウネヒヲミツツ》云々ともありて、この歌にも、畝火乃山を讀合せたれば、高市郡なる事明らけし。
里爾思有者《サトニシアレバ》。
吾妹子が住し里なればと也。その人の本居をさして、里といへり。物語ぶみに里ずみ、又里にてまかづるなどもいひ、今よめにまれ、聟にまれ、本家を里といふも、これ也。本集三【十八丁】に、吾背子我古家之里之《ワカセコガフルヤノサトノ》云々。十二【卅五丁】に、三雪零越乃大山《ミユキフルコシノオホヤマ》、行過而《ユキスキテ》、何日可我里乎將見《イツレノヒニカワカサトヲミム》などよめるもこれなり。
懃《ネモゴロニ》。
この語を、俗にいはゞ一方《ヒトカタ》ならず、ひとへになどいふに當れり。書紀神代紀に、慇懃、集四【廿九丁】に、懃、十一【五丁】に側隱、【十一丁】押伏、靈異記に慇、續日本後紀興福寺僧長歌に丁寧など
の字をよめり。みなひとかたならずの意也。また本集四【卅四丁】に、難波乃菅之根毛許呂爾《ナニハノスケノネモコロニ》云々。九【十五丁】に、川楊乃根毛居侶雖見《カハヤキノネモコロミレド》云々など見えたり。この言、多くは草木の根とかゝりたれど、草木の根(293)にかゝはりたる言にあらず。たゞ根《ネ》といはん序のみに、草木の名をおける也。(頭書、又はこまやかにの意にもあるべし。)
欲《ミマ》見騰《クホシケド・ホリスト》。
見まくはしけれどの、れを略ける也。この事は、上【攷證二中十丁】にいへり。こは、輕の路は、妹がすめる里なれば、一方ならず見まほしく思へども、やまずふだんにゆかば多き人目に立ぬべく、度々ゆかば、人の知りぬべしと也。こは、人めをしのびて、逢などせしなからひなるべし。
不止行者《ヤマスユカハ》。
不止は、やむ時なくといふにて、不斷の意也。本集三【廿九丁】に、在管裳不止將通《アリツツモヤマスカヨハム》云云。九【廿五丁】に、不息來益常玉橋渡須《ヤマスキマセトタマハシワタス》云々などありて、猶いと多し。
眞根久往者《マネクユカバ》。
しげく度々ゆかばの意也。眞根久《マネク》とは、類の多きをいふ言にて、この事は、上【攷證一下七十四丁】にいへり。
人應知見《ヒトシリヌベミ》。
べみといふ言は、集中にも、古ころ(古今カ)にも多くありて、皆、べき、それ故にといふ意也。こゝも、度々ゆかば、人しりぬべきそれ故に、のちにもあふことあらんと、思ひつゝある中にといへる也。この句は、下の隱耳戀管在爾《コモリノミコヒツツアルニ》といふへかけて心得べし。
狹根葛《サネカヅラ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。葛《カツラ》は、長くはひわかれては、末の、またはひあへるものなれば、それにたとへて、さねかづらのごとく、また後にあはんとつゞけし也。さて、狹根葛は、本草和名に、五味和名佐禰加都良とありて、和名抄はこれに同じ。新撰字鏡には藉木、防已などを、佐奈葛《サナカツラ》としるせり。古事記にも、佐那葛《サナカツラ》とありて、集中には、さねかづら(294)とも、さなかづらともよめり。猶この事は、上【攷證二上十一丁】にもいへり。
後毛將相等《ノチモアハムト》。
また後にもあはんとゝなり。本集四【四十六丁】に、逝水之復毛將相今爾不有十方《ユクミツノノチモアヒナムイマナヲストモ》。また【五十二丁】後湍山後毛將相常念社《ノチセヤマノチモアハムトオモヘコソ》云々などありて、集中猶いと多し。
大船之《オホフネノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證二中四十五丁】に、大船之思憑而《オホフネノオモヒタノミテ》とある所にもいへり。
玉蜻《カキロヒノ・カケロフノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは、石をうてば、火の出る故に、磐とはつゞけたりと見ゆといはれたり。猶玉蜻の事は、上【攷證一下廿一丁】にもいへり。
磐垣淵之《イハカキフチノ》。
考云、谷などに、岩の、垣の如く立めぐりたる、隱淵にたとへて、忍びかへしつつ、戀るをいふといはれつるがごとし。本集十【十三丁】に、玉限石垣淵乃隱而在※[女+麗]《カキロヒノイハカキフチノコモリタルツマ》云々。また【三十二丁】に、玉蜻石垣淵之隱庭《カキロヒノイハカキフチノコモリニハ》云々。また【卅三丁】青山之石垣沼間乃水隱爾《アヲヤマノイハカキヌマノミコモリニ》云々なども見えたり。
隱耳《コモリノミ》。
こは、上の不v止ゆかば、人目を多み、まねくゆかば、人しりぬべみをうけて、それ故に家に隱耳《コモリノミ》居て、戀つゝ在と也。さて、舊訓、かくれのみとあれど、隱はこもりとよむべき事、上、隱沼《コモリヌ》の所にいへるがごとし。
度日之《ワタルヒノ》。晩去之如《クレユクカゴト》。
日にまれ、月にまれ、空を行くことを、わたるとはいへり。この事はまへにいへり。さてこゝは、過にし妹がことをいはんとて、天を(295)ゆく日の晩になりて、入るがごとく、てらせる月の、雲にかくるゝがごとくに、わが思ふ妹は、過にきと、使來りていへりとなり。
奧津藻之《オキツモノ》。名延之妹者《ナヒキシイモハ》。
藻は浪と共にうち靡くものなれば、奧に生たる藻の如く、なよよかに靡き伏て、共にねし、妹はといへるなり。本集此卷【卅一丁】に、玉藻成彼依此依《タマモナスカヨリカクヨリ》、靡相之嬬乃命乃《ナヒキアヒシツマノミコトノ》云々。また【卅二丁】川藻之如久靡相之《カハモノコトクナビキアヒシ》云々。十一【四十一丁】に、奧藻之名延之君之《オキツモノナヒキシキミカ》云々なども見えたり。
黄葉乃《モミヂハノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證一下廿三丁】にも出たり。
過伊《スキテイ》去《ニキ・ユク》等《ト》。
舊訓、すぎていゆくとあるも、考に、すぎていにしとよまれしも、いかが。すぎていにきととよむべし。にきといはざれば、とゝうくるてにをはたがへり。去を、にきとよめるは、本集九【卅二丁】に、黄葉之過去子等《モミチハノスキニシコラ》云々などあるにても思ふべし〕さて、ここは、黄葉は、散て過去ものなれば、失にし人を、それにたとへて、かの隱し妻は、黄葉のちり失るがごとくに、過ゆき給ひしと、大和より、使來りて告しなり。
玉梓之《タマヅサノ》。
枕詞なり。玉はほむる詞ときこゆれど、梓の字解しがたし。代匠記、考などに、説あれど、よしとも思はれず。後人よく考へてよ。しばらく書かよはす使の事に、冠らせたる枕詞として、ありぬべし。集中いと多し。宣長《小琴》云(以下空白)
(296)使乃言者《ツカヒノイヘバ》。
使は、大和より來たる使にて、かの隱し嬬の失しをしらせんとて、こしなるべし。言者は、かの女の失にしよしを告るなり。
梓弓《アツサユミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。弓を引くには、必らず音するものなれば、おとゝつづけしなり。
聲爾聞《オトニキヽ》而《テ・ツツ》。
集中、聲と音と通はし署る事、常の事也。こは、女の失にし事を、告來りし使のいふ言をききて也。さて、舊訓、而をつゝとよめり。いかにもつゝとよまゝほしき所なれど、集中、而をつつと訓る例なければ、しばらく、てと六言によめり。一云|聲耳聞而《オトノミキキテ》とあるかた、いたくまされり。されば、考には、これを取れたり。
將言爲便《イハムスヘ》。世武爲便不知爾《セムスヘシラニ》。
女の失にし事を、使來りて告しかば、あきれまどひてたゞ歎にのみしづみて、何をいはんすべも、何とせんすべもしらずといへる也。爲便を、すべと訓ことは、まへにいへり。本集三【卅一丁】に、將言爲便將爲便不知《イハムスヘセムスヘシラニ》云々。この外、集中いと多し。不知爾《シラニ》の爾もじは、皆ずの意なり。
聲耳乎《オトノミヲ》。聞而有不得者《キキテアリエネバ》。
女の失にしよしを、告來りつれば、歎にのみしづみて、何といはんすべも、何とせんすべもしらず。されど、そのたよりをきゝては、かくてのみはあらねばといふ意にて、思ひかねたるさま、さもあるべし。
一云。名耳聞而《ナノミキキテ》。有不得者《アリエネバ》。
印本、この十字、こゝになくて、この、歌の末に、或本|有謂之名耳聞而《アリテイヒシナノミヲキキテ》、有不得者《アリエネバ》句。この十四字をのせたり。(297)こは誤りなる事明らかなれ、拾穗抄によりて、こゝにはくはへたり。
吾《ワガ》戀《コフル・コヒノ》。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》。遣悶流《ナクサムル・オモヒヤル》。
吾戀は、わが戀ふる心のといふ意なれば、わがこふると訓べし。千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》は、戀ふる心のしげきをたとへて、たとはばわが戀ふる心の、千重にかさなりたるものならば、そのうち一重だにもなぐさむやとてといふ意也。遣悶の字は、まへの、明日香皇女の殯宮歌にもいでて、おもひやるとよめり。こゝをも、舊訓、おもひやるとあれど、本集四【十六丁】に、吾戀流千重乃一隔母《ワカコフルチヘノヒトヘモ》、名草漏情毛有哉跡《ナクサモルコヽロモアレヤト》、家當吾立見者《イヘノアタリワカタチミレバ》云々。六【廿三丁】に、吾戀之千重之一重裳奈具佐末七國《ワカコヒノチヘノヒトヘモナクサマナクニ》。七【十九丁】に、吾戀千重一重名草目名國《ワカコフルチヘノヒトヘモナグサメナクニ》云々などあるにても、なぐさむるとよむべきをしるべし。また、十三【十五丁】に、吾戀《ワガコフ》流千重乃一重母人不令知《ルチヘノヒトヘモヒトシレス》云々とも見えたり。さて、これを、宣長は、なぐさもるとよまれしかど集中にも、なぐさむるとも、なぐさもるともありて、なぐさむるは、本語、なぐさもるは傳語なれば、本語につきて、なぐさむるとよまん方まされり。
情毛《コヽロモ》有《アレ・アル》八等《ヤト》。
舊訓、あるやと訓れども、宣長の、あれやとよまれしによるべし。あれやのやは、添たる文字にて意なし。本集六【十八丁】に、水鳥二四毛有哉《ウニシモアレヤ》、家不念有六《イヘモハサラム》七【卅六丁】に、雲西裳在哉《クモニシモアレヤ》、時乎思將待《トキヲシマタム》云々などある類ひのや也。さてこゝの意は、吾戀わたるこゝろの、千が一つも、なぐさむる方もやあるとて、輕の市にて立きくぞとなり。
不止出見之《ヤマズイデミシ》。
不止を、考に、つねにとよまれしかど、やまずは、不斷の意なれば、舊訓のままにても聞ゆるをや。また、出を、考に、でてとよみて、でてといふ言、集(298)中泥而と、假字にてもあり、後世いでてとのみ訓こととするは、古へにたがへりといはれたれどでては出而《イテテ》の略にて、いかにも古言にはあれど、こゝには、而もじもなく、またいで、いづなどいふ言、古言になくばしらず、いでも、いづも、皆古言なれば、同じ古言の中にも、略語をばおきて、本語をとるべき也。こは、いでゆく、いでたつなどいふ出なれば、必らずいでと本語によむべき所なるをや。さてこゝは、吾妹子は、不斷たえずいでて見し、輕の市といふにて、市にて商人などが、物の賣買するを、不斷出て見しなるべし。こは、今の世にもあるさまなり。
輕市爾《カルノイチニ》。
輕の地の事は、まへにいへり。市は、其所にて、賣買する所をいへり。關市令に、凡市恒以2午時1集、日入前撃v皷三度散。義解に、謂日中爲v市、致2天下之民1是也と見えたり。
吾立聞者《ワカタチキケバ》。
その輕の市に立てきけばにて、もし、妹が事をいふ人もやあるときく也。戀しきにたへかねて、妹がつねに出て見たりし所なれとて、そこ立まよへるさま、さもあるべし。この句は、下の音母不聞《オトモキコエス》といふへかけて、心得べし。
玉手次《タマタスキ》。
枕詞にて、冠辞考にくはし。上【攷證一上四十五丁】にも出たり。
畝火乃山爾《ウネヒノヤマニ》。
大和國高市郡なれば、この輕の地の近き所なるべし。この山の事は、上【攷證一上廿四丁】にも出たり。
(299)喧鳥之《ナクトリノ》。
こは、音母不聞《オトモキコエス》といはん序にて、喧鳥之音《ナクトリノオト》とかけたるなり。畝火山は、この輕の地の近きほとりなれば、ことさらにこの山をばいへる也。
音母不所聞《オトモキコエズ》。
こゑといはまほしきを、おとゝいへれど、聲といふに同じ。そは本集五【十八丁】に、于遇比須能於登企久奈倍爾《ウグヒスノオトキクナベニ》云々。七【四十一丁】に、妹之音乎聞《イモカオトヲキク》云々。十【廿丁】に、霍公鳥喧奈流聲之音乃遙左《ホトトキスナクナルコヱノオトノハルケサ》云々。十七【卅五丁】に、保登等藝須奈久於登波流氣之《ホトトキスナクオトハルケシ》云々などあるにてもおもふべし。
玉桙《タマボコノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十丁】にも出たり。
道《ミチ》行《ユク・ユキ》人毛《ヒトモ》。
本集九【十七丁】に、玉桙乃道行人者《タマホコノミチユクヒトハ》、己行道不去《オノガユクミチヲハユカス》云々とありて、集中猶多し。舊訓、これらをも、みな、みちゆき人とよめれど、十五【十五丁】に、多妣由久比等乎《タヒユクヒトヲ》云々あると、同格の語なれば、みちゆく人とよむべし。されど、貫之集に、夏山のかげをしげみや玉ぼこのみちゆき人も立とまるらんとあれば、いとふるくよりの誤り也。こゝは、市に群行人をいへるなり。
獨谷《ヒトリダニ》。似之不去者《ニテシユカネバ》。
輕の市を群行人を見れども、ひとりだにも妹に似たるがゆかねばと也。せめての事に、似たる人をだに兒んと思へるさま、悲みの情さもあるべし。谷《タニ》は借字也。この例、上【攷證一上卅二丁】に出せり。
爲便乎無見《スベヲナミ》。
妹に似たる人だにゆかねば、せんすべをなさにと也。なみの、みもじは、さにの意也。この言は、上【攷證一上十丁四十丁】にも出たり。
(300)妹之名喚而《イモカナヨビテ》。袖曾振鶴《ソデゾフリツル》。
あまりの悲しさにたへかねて、人めをもはぢず、妹が名をよびて、袖をふりぬと也。すべて袖をふるは、悲しみにまれ、人にわかるるにまれ、その事にたへかねしをりのわざる《(マヽ)》事、上【攷證二中六丁】にいへれば、引合せ考ふべし。
反歌二首。
これをも、印本、短歌とあれば、意改せり。そのよしは上にいへり。
208 秋山之《アキヤマノ》。黄葉乎茂《モミヂヲシケミ》。迷流《マトヒヌル》。妹乎將求《イモヲモトメム》。山道不知母《ヤマヂシラスモ》。【一云。路不知而《チシラズテ》。】
黄葉乎茂《モミチヲシケミ》。
秋の山は、黄葉のしげさにいとどまどひぬるなり。しげみのみは、さにの意也。まへにいへり。
山道不知母《ヤマヂシラスモ》。
妹たづねもとめん山路をしらざれば、秋山の黄葉のしげさにまどひつると、うちかへして心得べし。母は助辞なり。一云|路不知而《チシラステ》とあるは、路の上に、山の字あるなれども、山の字は、本書にあれば、略けるにて、山路不知而《ヤマチシラステ》なり。これにてもよく聞えたり。
209 黄葉之《モミヂバノ》。落去奈倍爾《チリユクナヘニ》。玉梓之《タマツサノ》。使乎見者《ツカヒヲミレバ》。相日所念《アヒシヒオモホユ》。
落去奈倍爾《チリユクナヘニ》。
なべは、並にて、ままにといふ意也。黄葉のちりゆくまゝになり。奈倍の言は、上【攷證一下廿七丁卅七丁】にいへり。
(301)相日所念《アヒシヒオモホユ》。
考には、あへるおもほゆとよまれ(し脱カ)かど、舊訓のまゝ、あへる日とよむ方まされり。さて一首の意は、この嬬と人麿と、黄葉のちれるころ、あはれし事ありしなるべし。それを思ひいでで、黄葉のちりゆくまゝに、大和より來たる使を見るにつけても、むかしあひし日の事を、思ひ出されぬと也。考には、こゝに、次の歌の端辭を、柿本朝臣人鹿妻之死後、悲傷作歌と加へられしかど、非なることはまへにいへるがごとし。
210 打蝉等《ウツセミト》。念之時爾《オモヒシトキニ》。【一云。宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》。】取持《タツサヒ・トリモチ》而《テ》。吾二人見之《ワカフタリミシ》。※[走+多]出之《ワシリテノ》。堤爾立有《ツヽミニタテル》。槻木之《ツキノキノ》。己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》。春葉之《ハルノハノ》。茂之知久《シゲキガゴトク》。念有之《オモヘリシ》。妹者雖有《イモニハアレト》。憑有之《タノメリシ》。兒等爾者雖有《コラニハアレド》。世間乎《ヨノナカヲ》。背之不得者《ソムキシエネハ》。蜻火之《カギロヒノ・カゲロフノ》。燎流荒《モユルアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。白妙之《シロタヘノ》。天領巾隱《アマヒレガクリ》。鳥自物《トリジモノ》。朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》。入日成《イリヒナス》。隱《カクリ・カクレ》去之鹿齒《ニシカバ》。吾妹子之《ワギモコガ》。形見爾置《カタミニオケル》。若兒乃《ミトリコノ》。乞泣毎《コヒナクゴトニ》。取與《トリアタフ》。物之無者《モノシナケレバ》。鳥穗自物《ヲトコシモノ》。腋挾《ワキハサミ》持《モテ・モチ》。吾妹子與《ワギモコト》。二人吾宿之《フタリワカネシ》。枕付《マクラツク》。嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》。晝羽裳《ヒルハモ》。浦《ウラ》不樂《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。夜(302)者裳《ヨルハモ》。氣衝明之《イキツキアカシ》。嘆友《ナゲケドモ》。世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。戀友《コフレトモ》。相因乎無見《アフヨシヲナミ》。大鳥《オホトリノ》。羽易乃山爾《ハガヘノヤマニ》。吾戀流《ワカコフル》。妹者伊座等《イモハイマセト》。人之云者《ヒトノイヘハ》。石根左久見手《イハネサクミテ》。名積來之《ナヅミコシ》。吉雲曾無寸《ヨケクモソナキ》。打蝉跡《ウツセミト》。念之妹之《オモヒシイモカ》。珠蜻《カギロヒノ・カゲロフノ》。髣髴谷裳《ホノカニタニモ》。不見《ミエヌ》思《オモ・オモヒ》者《ヘバ。》
打蝉等《ウツセミト》。念之時爾《オモヒシトキニ》。
上、明日香皇女の殯宮の歌に、宇都曾臣跡念之時《ウツセミトオモヒシトキノ》、春部者花所挿頭《ハルヘハハナヲリカサシ》云々とある所にいへるがごとく、しとせとそとは、音通へば、現《ウツ》し身にて、こゝは妻を現し身ぞと、思ひたりし時はといへる也。
一云。宇都曾臣等念之《ウツソミトオモヒシ》。
これも、意はまへと同じ。時爾の二字をば、本書にゆづれるなり。
取持《タツサヒ・トリモチ》而《テ》。
舊訓、とりもちてと訓り。集中、取持《トリモツ》といふこともいと多かれど、皆物を手に持事か、政を取持所にのみいひて、かゝる所にとりもつといひしことなく、こゝをとりもちてと訓ては、前後へかけて意聞えがたければ、考に、下の或本に、携手《タヅサハリ》とあるをとりて、こゝをもたづさへてとよまれしにしたがへり。されど、たづさへてとよまれしはいかゞ。たづさへといふ時は、自《ミヅ》から妻をたづさへゆく事になれば、こゝに當らず。こゝは、たづさはりてといふ意なれば、たづさひてと訓べし。はりの反、ひなれば、たづさはりといふ言になる也。そは、本(303)集四【五十丁】に、吾妹兒與携行而《ワキモコトタツサヒユキテ》、副而將座《タグヒテヲラム》云々。九【十八丁】に、細有殿爾携二人入居而《タヘナルトノニタツサハリフタリイリヰテ》云々などあるにても思ふべし。集中猶いと多し。このたづさはるといふ言は、上【此卷九丁】敷妙之袖携《シキタヘノソテタツサハリ》云々とある所にいへるがごとく、たちよりさはるの意なり。
吾二人見之《ワカフタリミシ》。
妹とわれと、たづさはりつゝ、二人して見しとなり。
※[走+多]出之《ワシリデノ》。堤爾立有《ツツミニタテル》。
※[走+多]出は、走り出る意にて、走り出るばかりに近きをいへる也。書紀雄略紀、御歌に和斯里底能與廬斯企野磨野《ワシリデノヨロシキヤマノ》云々。本集十三【卅一丁】に、忍坂山者《オサカノヤマハ》、走出之宜山之《ワシリデノヨロシキヤマノ》、出立之妙山叙《イデタチノクハシキヤマゾ》云々などありて、玉篇に、※[走+多]走也とあるにても、走り出るばかり近きを、わしりでといへるをしるべし。さて、考には、是を、はしりでとよまれたり。走は、集中|石走瀧《イハハシルタキ》とつづけて、これを伊波婆之流多岐《イハバシルタキ》と、假字に書る所もありて、五【卅二丁】に、多知婆志利《タチバシリ》とあるを、九【十八丁】に、立走《タチハシリ》とかき、十【五十九丁】に、雹手走《アラレタハシリ》と書るを、二十【十一丁】に、安良禮多波之理《アラレタハシリ》と書たるを見れば、走は、はしりの假字なるを、まへに引る、雄略紀の和歌には、和斯里《ワシリ》とありて、允恭紀御歌に、斯※[口+多]媚烏和之勢《シタビヲワシセ》とあるも、下樋を令v走なれば、走を、わしりの假字とせり。これらを思ふに、はとわは、ことに近き音なれば、古へより、わしりとも、はしりとも、いひしならんと思はるれば、眞淵の、はしりとよまれしも誤りにはあらねど、雄略紀の御歌によりで、今は、わしりとよめるなり。立有《タテル》は、堤に、槻の木の立る也。營繕令に、凡堤内外並堤上、多殖2楡柳雜樹1、充2堤堰用1云々と見えたり。立るとは、植たる也。書紀神代紀下に植、此云2多(304)底婁」とあるにてしるべし。
槻木之《ツキノキノ》。
和名抄木類に、唐韻云槻【音規和名都岐之木】木名堪v作v弓者也とありて、古事記下卷に、天皇坐2長谷之百枝槻下1、爲2豐樂1云々。本集十三に、垣津田乃池之堤之《カキツタノイケノツツミノ》、百不足五十槻枝丹《モモタラスイツキカエタ〓》、水枝指《ミツエサシ》云々などあれば、この木、枝のしげきものと見えたり。されば、この歌にも、こち/”\の枝の、春のはのしげきが如くとはつゞけたり。
己知碁智乃枝之《コチゴチノエノ》。
己知碁知《コチゴチ》は、各々《オノ/\》といふに當りて、こゝは、槻の木の枝ごとに、春の若葉のしげきが如くといふ也。古事記下卷、御歌に、久佐加辨能許知能夜麻登《クサカヘノコチノヤマト》、多々美許母幣具理能夜麻能《タタミコモヘグリノヤマノ》、許知碁知能夜麻能賀比爾《コチゴチノヤマノカヒニ》云々。本集三【廿七丁】に、奈麻余美乃甲斐乃國《ナマヨミノカヒノクニ》、打縁流駿河能國與《ウチヨスルスルガノクニト》、己知其智乃國之三中從《コチゴチノクニノミナカユ》云々。九【廿一丁】に、許智期智乃花之盛爾《コチゴチノハナノサカリニ》云々見えたり。この事、猶くはしくは、古事記(傳脱カ)卷四十一に見えたり。
春葉之《ハルノハノ》。茂之知久《シゲキガゴトク》。
春は、若葉さして、葉の茂くなるものなれば、それにたとへて、妹を思ふ思ひのしげきをいへり。
念有之《オモヘリシ》。妹者雖有《イモニハアレド》。
春の若葉のごとく、しげくおもひたりし妹にはあれどもといふにて、この句と、次のたのめりしこらにはあれどゝいふ句をば、下の隱去之《カクレニシ》かばといふへかけて心得べし。
(305)憑有之《タノメリシ》。兒等爾者雖有《コラニハアレド》。
心に思ひたのみてありし妹にはあれどもと也。兒等は、妹といはんがことし。女にまれ、男にまれ、親しみ稱して子とはいへる也。この事、上【攷證二中八丁】にくはしくいへり。
世間乎《ヨノナカヲ》。背之不得者《ソムキシエネバ》。
生あるもの、死するは、世の中のならひ也。その世の中のならはしを、そむく事を得ざればと也。
蜻火之《カキロヒノ・カケロフノ》。
かぎろひは、上【攷證一下廿四丁】にいへるごとく、陽炎なり。中ごろより、これをかげろふとも、糸ゆふともいへり。蜻火と書るは、本草和名に、蜻蛉一名青※[虫+廷]、和名加伎呂布とありて、和名抄、醫心方などには、かげろふと見えたり。是蟲の名なれば、その訓を借用ひたるにて、こゝは借字也。火を添てかけるは、もと陽炎ともいひて、きらめくが、火の氣に似たれば、火は添てかける字也。さて、このもの、日のうら/\とてりて、のどかなるをりは、野ごとにたつものなれば、かぎろひのもゆるあら野とはつゞけし也。本集九【卅四廷】に、蜻※[虫+廷]火之心所燎管《カキロヒノココロモエツツ》云々なども見えたり。
燎流荒野爾《モユルアラヌニ》。
もゆるとは、陽炎の火の氣の如くきらめく故に、もゆるとはいへり。荒野《アラヌ》は上【攷證一下廿三丁】眞草苅荒野二者雖有《ミクサカルアラヌニハアレト》云々とある所にいへるがごとく、人氣なく、里はなれたる野をいへるなり。
(306)白妙之《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にも出たり。こゝは、字をへだてゝ領巾《ヒレ》とつづけしなり。
天領巾《アマヒレ》隱《カクリ・カクレ》。
天領巾の説、まち/\なり。まづ古き説をあげて、後に予が説をいはん。まづ考に、是も天雲隱れて遠きをいふ。雲をひれといふは、卷七に、秋風にふきたゞよはす白雲は、たなばたつめの天つ領巾かもともありといはれたるは、代匠記の説と同じ。宣長云、白たへの天ひれがくりは、葬送の旗をいふ。柩の前後左右に、旗をたて、持行さま也。これらの説、こゝろゆかず。考に引れたる、たなばたつめの天つ領巾かもといふ歌は、雲を假に領巾と見なしたるにて、雲の事を領巾といふにはあらざれば、證となしがたし。又宣長の、葬送の旗をいふといはれつるも、旗を領巾といひし事もなく、こゝは、旗を領巾と見なしたりとも聞えねば、この説もこゝろゆかず。されば考ふるに、領巾は、古事記下卷、御歌に、毛々志紀能淤富美夜比登波《モヽシキノオホミヤヒトハ》、宇豆良登理比禮登理加氣弖《ウツラトリヒレトリカケテ》云々。書紀崇神紀に、吾田媛密來之、取2倭香山土1、※[果/衣のなべぶたなし]3領巾頭1
云々。欽明紀歌に、珂羅倶※[人偏+爾]能基能陪※[人偏+爾]陀致底《カラクニノキノヘニタチテ》、於譜磨故幡比例甫※[口+羅]須母《オホバコハヒレフラスモ》、耶魔等陛武岐底《ヤマトヘムキテ》云々天武紀に、十一年、三月辛酉、詔曰、膳夫釆女等之手襁肩巾、【肩巾此云2比例1】莫v服云々。續日本紀に、慶雲二年、四月丙寅、先v是、諸國釆女肩巾、依v命停v之、至v是復v舊焉云々。續日本後紀、興福寺僧歌に、天女來通天《アマツメノキタリカヨヒテ》、其後波蒙譴天《ソノノチハセメカヽフリテ》、※[田+比]禮衣著弖飛爾支度云《ヒレコロモキテトビニキトイフ》云々。本集五【廿三丁】に、麻都良我多佐欲比賣能故何比列布利斯《マツラガタサヨヒメノコカヒレフリシ》云々。八【卅三丁】に、天河原爾《アマノカハラニ》、天飛也領巾可多思吉《アマトブヤヒレカタシキ》、眞玉手乃玉手指更《マタマテノタマテサシカヘ》云々などありて、集中猶いと多し。これら、皆女の服也。和名抄衣服類云、領巾【日本紀私記云比禮】婦人頂上飾也と見えて、集中に多く、振ものゝやうにもよみ、紀に肩巾とも書るを見れば、肩《カタ》にかくるも(307)のとおぼし。この物の製作、今の世にてはしりがたけれど、大神宮儀式帳に、生絹御比禮八端【須蘇長各五尺弘二幅】止由氣宮儀式帳に、生※[糸+施の旁]比禮四具【長各二尺五寸廣隨幅】云々。延喜縫殿式、中宮春季御服に、領巾四條料、紗三丈六尺【別九尺】云々。北山抄内宴の條に、陪膳女藏人比禮料羅事、舊年仰2織部司1、人別一丈三尺云々など見えて、まへに引る本集八の歌にも、領巾《ヒレ》かたしきと見えたれば、幅も廣く、長も長きものと見ゆ。されば、こゝに、天領巾隱《アマヒレカクリ》といふは、すべて失し人は、天に上るよしにいへる事集中の常にて、こゝはいまだ葬りのさまなれども、はや失しかば、天女にとりなして、天つ領巾にかくるよしいへるにて、まへにもいへるが如く、領巾は、長も幅もゆたかなるものなれば、これを振おほはゞ、容もなかばはかくれぬべければ、天ひれがくりとはいへるなるべし。さて、白妙の天領巾とつゞくるは、枕詞に、栲領巾乃白濱浪《タクヒレノシラハマナミ》、細比禮乃鷺坂山《タクヒレノサキサカヤマ》などもつゞけて、この領巾てふものは、みな白きものなれば、白妙とはかぶらせたる也。又このもの、枕草子に、五月のせちのあやめの藏人、さうぶのかつら、あかひものいろにはあらぬを、領巾裙帶などして、くす玉を、みこたちかんたちめなどの、たちなみ給へるに奉るも、いみじうなまめかし云々とありて、北山抄にも見えたれば、中ごろまでは殘れりしものとは見ゆれど、古しへのごとく、おしなべてかくる事には、あらざりしなるべし。また、領巾の字、漢土にも見えたり。そは、楊雄方言卷四に、※[肩の月が巾]※[衣+表]謂2之被巾1、注云婦人領巾也とあり。さて、この領巾といふもの、まへにもいへるごとく、女の服なるを、大殿祭祝詞に、比禮懸伴緒《ヒレカクルトモノヲ》云々。大祓祝詞に、比禮挂伴男《ヒレカクルトモノヲ》云々などあるにつきて、男もかくるものぞと思ふ人もあるべけれど、伴緒、伴男とかける、緒も男も、借字にて、伴長《トモノヲ》の意なれば、祝詞に比禮かくるとあるは、女をいへる也。そは、古事記上卷に、五伴緒《イツトモノヲ》をいへる所(308)に、その中二柱は女神なるにても、伴長《トモノヲ》は男女にわたれるをしるべし。
鳥自物《トリジモノ》。
鳥自物は、鳥の、ごとく也。自物は、如くの意なる事、上【此卷廿八丁】にいへるがごとし。鳥は、ねぐらを朝とく出るものゆゑ、鳥のごとく朝立とはつゞけしなり。
朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》。
朝立行まして也。行を、いましといふ事は、上【此卷卅丁】にいへるがごとし。こゝは妻を葬りに、朝立ゆくをいへり。本集十三【十九丁】に、群鳥之朝立行者《ムラトリノアサタチユケハ》云々とあるもつゞけがら同じ。
入日成《イリヒナス》。隱《カクリ・カクレ》去之鹿齒《ニシカハ》。
入日のごとく隱りにしかば也。本集三【五十六丁】に、入日成隱去可婆《イリヒナスカクリニシカハ》云云とも見えたり。こゝは、妻がかくりにしかばといふ也。こは枕詞なれど、冠辭考にもらされたり。
形見爾置《カタミニオケル》。
形見は、今もいふかたみとおなじ。この事は、上【攷證一下廿三丁】にいへり。
若兒乃《ミトリコノ》。乞泣毎《コヒナクゴトニ》。
若子を、みどりこと訓は、義訓也。本集三【五十三丁】に、若子乃匍匐多毛登保里《ミトリコノハヒタモトホリ》云々。また【五十九丁】緑兒乃哭乎毛置而《ミトリコノナクモヲ(マヽ)オキテ》云々。十二【十丁】に、緑兒之爲杜乳母求云《ミドリコノタメコソオモハモトムテヘ》云々。また【十七丁】小兒之夜哭乎爲乍《ミトリコノヨナキヲシツヽ》云々。十六【七丁】に、緑子之若子蚊見庭《ミドリコノワクコカミニハ》云々。十八【卅二丁】に、彌騰里兒能知許布我其登久《ミドリコノチコフガゴトク》云々。靈異記上卷云嬰【彌止利古】。新撰字鏡云、※[子+可]孩兒【彌止利子】。和名抄男女類云、嬰兒、(309)唐韻云孩【戸米反辨色立成云美都利古】始生小兒也など見えたるごとく、嬰兒をみどり子といへり。集中、若子と書たるに、みどりごと訓べき所と、わくごとよむべき所と、二つあり。みどりごとは、いたく小き小兒をいひ、わくごとは、すこしころだちたる兒をいへり。このわかちを、よく心得てよむべし。さて小兒を、みどり子としもいふは、いかにとなれば、緑子とかけるも、借字にて、みどりごは、瑞兒《ミツコ》にて、みづを延れば、みどるとなる。そのるを、りに轉じて、みどりごとはいへるなり。みづは、みづ/\しき意にて、瑞枝《ミツエ》、瑞山《ミツヤマ》などいふ、瑞《ミツ》と同じく、小兒は生さきこもりて、若くみづ/\しきものなれば、端子《ミヅコ》といふを延《ノベ》て、みどりごといふ也。色の緑の、みどりといふも、これと同じく、木の葉などは、みづ/\しきものなれば、みづといふを延て、みどりとはいふなり。松の芽《メ》出しを、みどりといふも、生さきこもりて、若くみづ/\しき意にて、こゝと同じ。乞泣毎《コヒナクコトニ》は、何にまれ、物を乞て泣たびごとにいふなり。
取與《トリアタフ》。物之無者《モノシナケレバ》。
宣長云、考に、物は人なりとあれど、いかゞ。兒を取與とはいふべからず。物は玩物にて、泣をなぐさめん料の物也といはれつるがごとく、泣子をなぐさめんにも、取あたへんもてあそびものなければといふ也。
鳥徳自物《ヲトコシモノ》。
こゝを、印本、鳥穗自物とありて、とりほじものと訓るは、いかなることとも心得へす《(マヽ)》。誤りなる事明らけし。次の或本の方には、こゝを男自物《ヲトコジモノ》とあるによりて、考に、鳥は烏、穗は徳の誤りとして、烏徳自物《ヲトコシモノ》と改められしは、いかにもさる事にて、よくも考へられたり。字形もいと近ければ、この説によりて改めたり。烏徳《ヲトコ》と書るは、借字にて、男なり。(310)自物《シモノ》は、鳥自物《トリシモノ》、鹿自物《シヽシモノ》などいふ、自物とは意別にて、こゝはをとこなるものをといふ意也。そ
ユフヘニハイリヰナゲカヒワキハサムコノイサツヲモヲトコシモノオヒミイタキミ
は本集三【五十九丁】高橋朝臣の妻死時の歌に、夕爾波入居嘆合《》、腋挾兒乃泣母《》、雄自毛能負見抱見《》云々
オモカケノワスルトナラハアツキナクヲトコシモノヤコヒツヽヲラム
十一【廿一丁】に、面形之忘戸在者《》、小豆鳴男士物屋《》、戀乍將居《》云々などあるにても、思ふべし。さて、この雄男などを、舊訓、をのことよめれば《(マヽ)》、をとこといふと、をのこといふは、意すこしたがへり。をとこといふは、本訓にて、また男を、たゞ、をとのみいへば、をのこといふは、男の子と《(マヽ)》意にて、子は兄子《セコ》、吾妹子《ワキモコ》などいふ子にて、例の親しみ稱したる言也。されば、これらの男雄などをば、をとことよむべきなり。
腋挾《ワキハサミ》持《モテ・モチ》。
腋挾《ワキハサミ》を、字のまゝに見れば、兒を腋の下に挾《ハサ》むごとく聞ゆれど、さにあらず。腋挾は、懷《イタ》く意なり。そは古語拾遺に、天照大神、育2吾勝損1、特甚鍾愛、常懷2腋下1、稱曰2腋子1云々とあるにて、こゝもたゞいだく事なるをしるべし。玉篇に、挾懷也とも見えたり。持を、舊訓、もちと訓れど、もてよむべし。もては、もちての略なり。このもてといふは、下の嬬屋之内《ツマヤノウチ》に、晝《ヒル》はも浦不樂晩之《ウラフレクラシ》といふへかけて心得べし。
吾妹子與《ワギモコト》。二人吾宿之《フタリワカネシ》。
こは、嬬屋といはんとて、吾妹子が生て有しほどは、二人ねたりしつまやのうちに、今はみなし子をいだきて、よるひる悲しみあかすよしをいへるなり。
(311)枕付《マクラツク》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。夫婦宿るには、たがひに枕の付によりて、まくらつく嬬とはつゞけしなり。
嬬屋之内爾《ツマヤノウチニ》。
嬬屋は、舊説に、かのやくもたつ、いづもやへがき、つまごみに云々の御歌、また本集此卷【廿丁】に、つまこもる屋上の山などあるを引て、嬬をおく屋なれば、つまやといふとあれど、いかゞ。嬬と書るは、借字にて、つまは端の意にて、衣のつまといふも、衣の端、つま木といふも木の端也。これらの事、上【攷證一下四十六丁】妻吹風之《ツマフカゼノ》云々とある所、考へ合すべし。また爪をつめといふも、手の端にあれば、つまを轉じて、つめといふ也せ。書紀神代紀に、拔2其手足|爪《ツメ》1云々とあるを、一書には、有2手端吉棄物足端凶棄物《タナスヱノヨシキラヒモノアナスヱノアシキラヒモノ》云々とあれば、爪《ツメ》も端《ツメ》の意にて、こゝのつまやも、端屋《ツマヤ》にて、家の端《ハシ》の方にある屋なるをしるべし。すべて、閏《ネヤ》などは、家の中央に作るべきものとも覺えねば、端屋《ツマヤ》といはんこそ心ゆきておぼゆれ。(頭書、再考るに、つまは端の意なる事、うづなけれど、端はいづれにまれ、小さきものなれば、こゝは細小なる謂にて、つま屋は小さ屋をいへる事、枕付といふにてしるべし。つま木などいふつまもこれなり。)
晝羽裳《ヒルハモ》。
裳は、助辭にて、晝はなり。夜者裳《ヨルハモ》の裳も肋辭也。
浦《ウラ》不樂《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。
この句、考に、うらさびくらしとよまれしを、宣長云、考にうらぶれとよむはわろしとあれと、卷々に浦觸、裏觸といへる多し。又五の卷【廿五丁】十七の卷【卅二丁】などに、假字にも、うらぶれとかければ、わろからずとて、舊訓に、うらぶれと訓るを、とられしかど、考にうらさびとよまれしを、よしとす。そは本集三【十六丁】に、梶棹毛無而不樂毛《カチサヲモナクテサブシモ》、(312)己具人奈四二《コクヒトナシニ》云々。四【廿九丁】に、從今者城山道不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》、吾將通常念之物乎《ワカカヨチハムトオモヒシモノヲ》云々など、不樂の字を、さぶしとよめるにても、こゝの浦不樂も、うらさびとよまでは、かなはざるをしるべし。うらさび、うらぶれ、さぶしなどいふも、本はみな一つ語にて、みな心|冷《スサ》まじく、なぐさめがたき意也。この事は、上【攷證一下二丁】にいへり。こゝは、むかしは、妹と二人して、入居たる嬬屋のうちに、今は一人をるのみかは、みなし子をさへいだきを《(マヽ)》、晝は心|冷《スサ》まじくなぐさむる事もなくて、日をくらし、夜るは母を乞て、夜泣などする兒に、もてなやみて、氣をつき明しなどすと也。本集此卷【廿五丁】に、暮去者綾哀《ユフサレハアヤニカナシミ》、明來者裏佐備晩《アケクレハウラサヒクラシ》云々なども見えたり。浦は、借字にて、心の意也。この事も上にいへり。
氣衝明之《イキツキアカシ》。
息をつきあかし也。悲みにまれ、何にまれ、心にふかく思ふ事のあるをりは、まづ歎息して、息をつかるゝものにて、こゝはみなし子をもてなやみて、息をつきあかす也。なげくといふも、長息の意にて、息をつくとこころおなじ。さていきづくといふは、
本集五【廿六丁】に、加久能未夜伊吉豆伎遠良牟《カクノミヤイキツキヲラム》云々。八【廿丁】に、穴氣衝之相別去者《アナイキツカシアヒワカレユケハ》云々。【卅八丁】に、水隱ミコモリ
世武爲便不知爾《セムスベシラニ》。
せんすべしらにの、には、ずの意にて、しらずといふに同じ。この事は、まへにいへり。さてこゝは、夜一よ、息をつきあかして、なげゝどもいかにともせんすべをしらず、それゆゑに、戀れどもあふよしもなしと也。
(313)相因乎無見《アフヨシヲナミ》。
みは、さにの意にて、あふよしのなさにといふ意也。
大鳥《オホトリノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。羽のぬけかはるよしにて、羽易《ハガヘ》の山とつづけしなり。大鳥は、本草和名に、鸛和名於保止利云々。和名抄鳥名に、本草云鸛【古亂反和名於保止利】水鳥有2二種1、似v鵠而巣v樹者爲2白鸛1、曲頭者爲2烏鸛1云々など見えたり。
羽易乃山爾《ハカヘノヤマニ》。
本集十【六丁】に、春日有羽買之山從《カスカナルハカヘノヤマユ》云々とも見えたれば、大和國添上郡なり。考云、藤原の都べより、春日は、程近からねど、こゝの言ども近きほどの事とは聞えねば、かしこに葬りしならん。
吾戀流《ワカコフル》。妹者伊《イモハイ》座《マス・マセ》等《ト》。
この吾の字を、考には或本の方につきて、汝と改められたり。いかにもさる事ながら、吾とありても、意は聞えぬべし。吾戀流《ワカコフル》は人まろ自らいふ言にて、妹は伊ます等といふは、人のいふ言なれば、こゝは自らが鯉る妹は、羽易の山にいますと、人のいへばてふ意なり。
石根左久見手《イハネサクミテ》。
印本、手を乎に誤れり。いま古本によりて改む。さくみは、本集二十【五十丁】に、山河乎伊波禰左久美弖布美等保利云々。祈年祭祝詞に、磐根木根履佐久彌底《イハネコノネフミサクミテ》云々など見えて、こはさくみ、さくむ、さくめなどはたらく言にて、さくむの、くむを約むれば、くとなりて、さくは放にて、見放《ミサケ》、問放《トヒサケ》、語放《カタリサケ》などいふ、放と同じく、石根木の根のき(314)らひなく、ふみはなちゆく意也。
名積來之《ナツミコシ》。
名積《ナツミ》は、借字にて、勞する意也。古事記上卷に、堅庭者放2向股1蹈那豆美《フミナヅミ》云々。中卷歌に、阿佐士恕波良許斯那豆牟《アサジヌハラコシナヅム》云々などありて、猶紀記に見えたり。本集三【三十八丁】に、雪消爲山道尚矣名積叙吾來並二《ユキケスルヤマミチスラヲナツミソワカコシ》云々。四【四十六丁】に、不近道之間乎煩參來而《チカヽラヌミチノアヒダヲナヅミマヰキテ》云々などありて、集中猶いと多し。みな勞し煩ひ、とゞこほる意にて、こゝは石根をふみさくみ、なづみ煩ひつゝ、墓所に來りしとなり。(頭書、なづみは、行わづらふ意也。)
吉雲曾無寸《ヨケクモソナキ》。
よくもぞなきにて、けくは、くを延たる意也。この事は、上【攷證一下六十三丁】にいへり。さてこの句をば、下の不見思者《ミエヌオモヘハ》といふ下へつけて、山のこごしき石根など、ふみさけて、からうじて來つれども、妹がほのかにだにも見えざれば、それがよくもなく、いとわろしといふ意に見べし。
打蝉跡《ウツセミト》。念之妹之《オモヒシイモカ》。
打蝉は、まへにもいへるごとく、現身《ウツシミ》の意にて、平生は、うつゝの身なりと思ひたりし妹がといへる也。
珠蜻《カギロヒノ・カケロフノ》。
こゝは枕詞にて、冠辭考にくはし。珠蜻と書るは、玉蜻と書ると同じく、借字にて、玉は添たる字也。陽炎《カキロヒ》は、ちら/\と立て、さだかにも見えぬもの故に、かぎろひのほのかとはつづけし也。
(315)髣髴谷裳《ホノカニタニモ》。
ほのかは、さだかならざる意也。本集八【卅四丁】に、玉蜻※[虫+廷]髣髴所見而《カキロヒノホノカニミエテ》云々など見えて、集中猶いと多し。文選班固幽通賦云、夢登v山而※[しんにょう+向]眺兮、覿2幽人之髣髴1云々。銑注云、不2分明1貌など見えたり。
不見思者《ミエヌオモヘハ》。
まへにもいへるごとく、この句より上へうちかへして、はのかにだにも見えぬをおもへば、よけくもぞなきと心得べし。考云、こゝは神代の黄泉《ヨモツクニ》の事を、下に思ひてよめる也。この人の歌には、神代の古事をとりし、すべて多かり。あらはならぬは、上手のわざなり。
反歌二首。
こゝをも、印本、短歌とあり。今意改せり。そのよしは上にいへり。
211 去年見而之《コゾミテシ》。秋乃月夜者《アキノツキヨハ》。雖照《テラセレト》。相見之妹者《アヒミシイモハ》。彌年放《イヤトシサカル》。
去年見而之《コゾミテシ》。
本集八【十六丁】に、去年之春相有之君爾《コソノハルアヘリシキミニ》云々。十【九丁】に去年咲之久木今開《コソサキシサクライマサク》云々。十八【卅一丁】に、許序能秋安比見之末々爾《コソノアキアヒミシマヽニ》云々などありて、又三【廿三丁】に、雨莫零行年《アメナフリコソ》など、こその假字に、行年とも書て、こぞとは去年のことなる事明らかなれど、訓義は思ひ得ず。書紀允恭紀御歌に去※[金+尊]去曾《コソコソ》とあるは、昨夜乞《コソコソ》にて、集中昨夜を伎曾《キソ》といへるも、皆音通にて、いづれも過し方をさしていへるなれば、去年を、こぞといへるも、本は同語とこそきこゆれ。
(316)月《ツク・ツキ》夜者《ヨハ》。
舊訓、つきよはとあれど、つくよはとよむべし。この事は、上【攷證一上廿六丁】にいへり。
彌年放《イヤトシサカル》。
彌《イヤ》は、かみ【攷證一下七丁】いにいへるがごとく、ます/\いよゝなどいふ意にて、いよ/\年をへだてゆく也。放《サカル》は、集中離をもよみて、はなれ遠さ《(マヽ)》る意也。こゝは、妻の失し明年の秋よめるにて、去年見てし秋の妹は、いよ/\年をへだたりゆくよとなり。
212 衾道乎《フスマヂヲ》。引手乃山爾《ヒキテノヤマニ》。妹乎置而《イモヲオキテ》。山徑往者《ヤマヂヲユケバ》。生跡毛無《イケリトモナシ》。
衾道乎《フスマチヲ》。
枕詞にて、冠辭考に出たれど、おぼつかなきよしに解れたり。衾は、和名抄衣服類に、説文云衾【音金和名布須萬】大被也云々とある、これにて、道は借字にて、今も幟などの手を、ちといふごとく、衾の手《チ》といふにて、衾は引かづくものなれば、衾ぢを引とつづけたるなるべし。雅亮装束抄に、御ふすま【中略】くびのかたには、紅のねりいとをふとらかによりて、二すぢならべて、よこさまに三はりさしをぬふなり云々とあり。この紅のねりいとを、ちとはいふか。本集五【廿九丁】に、麻被引可賀布利《アサフスマヒキカヽフリ》云々とあるにても、衾手を引とつゞけたるなるべし。長歌に、大鳥羽易乃山爾《オホトリノハカヘノヤマニ》、吾戀流妹者伊座等《ワカコフルイモハイマセト》云々とあれば、この引手の山は、羽易の山の一名か。いかにまれ、羽易山は、大和國添上郡なれば、これも同郡なる事しるし。
(317)生跡毛無《イケリトモナシ》。
いきたるこゝちもなしと也。引手の山に、妹を置て、その山みちをわれひとりゆけば、いきたるこゝちもなく、かなしとなり。さて、生跡毛無を、宣長の玉勝間卷十三に、本集十九【十六丁】に、伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》とあるを引て、集中生ともなしとあるは、みな生利《イケルト》もなしにて、利は利心《トコヽロ》、心利《コヽロド》などの利にて、生る利心《トコヽロ》もなく、心のうつけたるよし也といはれつれども、すべてを考ふるに、とは、てにをはにて、生りともなき意とこそ聞ゆれ。宣長は、生りともの、と文字へ心をつけて、十九なるは、まへにそのや疑の詞なくて、るより、ととうけたれば、生利《イケルト》もならんと思はれしかど、かゝる事猶ありて、これ一つをもて、例とはなしがたし。この事は、十九の卷にいふべし。
或本歌曰。
213 宇都曾臣等《ウツソミト》。念之時《オモヒシトキ》。携手《タヅサハリ・タヅサヘテ》。吾二見之《ワガフタリミシ》。出《イテ》立《タチノ・タテル》。百兄槻木《モヽエツキノキ》。虚知期知《コチゴチニ》。枝刺有如《エダサセルコト》。春葉《ハルノハノ》。茂如《シゲキガゴトク・シゲレルガコト》。念有之《オモヘリシ》。妹庭雖在《イモニハアレド》。特有之《タノメリシイ》。妹庭雖有《モニハアレド》。世中《ヨノナカヲ》。背不得者《ソムキシエネバ》。香切火《カキロヒ・カケロフ》之《ノ》。燎流荒《モユルアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。白栲《シロタヘノ》。天領巾《アマヒレ》隱《ガクリ・ゴモリ》。島自物《トリジモノ》。朝立伊行而《アサタチイユキテ》。入日成《イリヒナス》。隱《カクリ・カクレ》西加婆《ニシカバ》。吾妹子之《ワギモコカ》。形見爾置有《カタミニオケル》。線兒之《ミドリコノ》。乞哭別《コヒナクコトニ》。(318)取委《トリマカス》。物之無者《モノシナケレバ》。男《ヲトコ・ヲノコ》自物《シモノ》。脅挿持《ワキハサミモチ》。吾妹子與《ワギモコト》。二吾宿之《フタリワガネシ》。枕附《マクラツク》。嬬屋内爾《ツマヤノウチニ》。旦者《ヒルハ》。浦《ウラ》不怜《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。夜者《ヨルハ》。息衝明之《イキツキアカシ》。雖嘆《ナゲケドモ》。爲便《セムスベ》不知《シラニ・シラズ》。雖戀《コフレドモ》。相緑無《アフヨシヲナミ》。大鳥《オホトリノ》。羽易山爾《ハガヘノヤマニ》。汝戀《ナガコフル》。妹座等《イモハイマスト》。人云者《ヒトノイヘハ》。石根割見而《イハネサクミテ》。奈積來之《ナヅミコシ》。好雲叙無《ヨケクモソナキ》。宇都曾臣《ウツソミト》。念之妹我《オモヒシイモガ》。灰《ハヒ》而《ニテ・シテ》座者《マセバ》。
携手《タヅサハリ・タヅサヘテ》。
舊訓、たづさへてとあれば《(マヽ)》、しかよむまじきよしはまへにいへるがごとし。携手と、手もじを添て、書たれど、携の一字の中に、手の意もこもりて、携手と書る手もじは、物を手に持意にで、書なれば、二字にて、たづさはりとよむべし。そは、本集十【廿七丁】に、萬世携手居而《ヨロヅヨニタヅサハリヰテ》云々。十九【卅四丁】に鳴波多※[女+感]嬬《ナルハタヲトメ》、携手共將有等《タヅサハリトモニアラムト》云々。これらも、たづさひてとはよむまじきにても、こゝをたづさはりとよむべきをしるべし。また十七【卅七丁】に、於毛布度知宇麻宇知牟禮底《オモフドチウマウチムレテ》、多豆佐波理伊泥多知美禮婆《タツサハリイテタチミレハ》云々。このつゞけがらをも見べし。
出《イダ》立《タチノ・タテル》。
出立は、書紀雄略紀御歌に、擧暮利矩能播都制能野磨播《コモリクノハツセノヤマハ》、伊底〓智能與廬期企夜磨《イテタチノヨロシキヤマ》云々本集十三【卅一丁】に、忍坂山者走出之宜山之《オサカノヤマハハシリデノヨロシキヤマノ》、出立之妙山叙《イテタチノクハシキヤマゾ》云々。また【廿二丁】出立之清瀲爾《イテタチノキヨキナキサニ》云云などありて、これらは外へゆくとて、出《イテ》たつ道のはじめのよきをほめていへるなり。古今集序に、とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて云々とあるにても、出立は、道のはじめなる(319)をしるべし。さてこゝは、その道のはじめは、わが家よりは近き所なれば、其意もて、わが近きほとりの、百枝槻といふこゝろを、出立のとはいへるにて、出立は、近き邊と心得べし。
百兄槻木《モヽエツキノキ》。
兄は假字、枝にて、この枝のしげきものなれば、百枝槻といへるなり。この事は、本歌の槻木の所にいへり。
枝刺有如《エダサセルコト》。
こは今もいふ事にて、枝の生る意なり。
春葉《ハルノハノ》。茂如《シケキカゴト・シゲレルガゴト》。
本歌に、春葉之茂之如久とあるによりて、はるのはのしげきがごとくとよむべし。
朝立伊行而《アサタチイユキテ》。
伊行而《イユキテ》の、伊は、發語にて、心なく、行て也。本歌には朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》とあり。
取委《トリマカス》。
とりまかすは、その子をとりゆだぬるをいふ。任を、まけとよむも、その事をその人にまかするをいひて、まかせをつゞめて、まけとはいへるにて、意はこゝのまかすと同じ。左傳文六年注に、委任也とあるにても、おもふべし。
物之無者《モノシナケレバ》。
本歌に、取與物之無者《トリアタフモノシナケレバ》とある、物は、取あたふる品をいへれど、こゝの物之無者《モノシナケレバ》の物は、取まかせてゆだぬる人しなければ、といふ意にて、人をさしてものとはいへり。人をさして、ものといふは、古事記中卷に、問2其執v※[楫+戈]者1曰など見えたり。
(320)浦《ウラ》不怜《サビ・ブレ》晩之《クラシ》。
浦不怜を、舊訓、うらぶれと訓しかど、本歌に浦不樂とあるごとく、うらさびとよむべし。そは、本集此卷【四十一丁】に、若草其嬬子者不怜彌可《ワカクサノソノツマノコハサブシミカ》云々。十【五十六丁】に、雖見不怜《ミレトモサブシ》云々などあるにても、思ふべし。言の意は、本歌にいへり。
汝戀《ナカコフル》。
本歌には、吾戀流《ワカコフル》とあり。汝がこふるは、なんぢがこふるには外《(マヽ)》人の、人まろをさしていへるなり。汝は、なんぢとも、なれともいひて、なとのみもいふ也。那兄《ナセ》、那禰《ナネ》、汝妹《ナニモ》、汝命《ナカミコト》、これらみな、汝をなとのみいへり。こは、吾《ワレ》を、わとのみいふと同じ。
灰《ハヒ》而《ニテ・シテ》座者《マセバ》。
本歌には、この一句なくて、珠蜻髣髴谷裳《カキロヒノホノカニタニモ》、不見思者《ミエヌオモヘハ》の三句あり。考云、或本に灰而座者とあるは、亂れ本のまゝなるを、或人、そを、はひれてませばと訓て、文武天皇の四年三月に、始て道昭を火葬せし後にて、これも火葬して、灰まじりに座てふ事かといへるは、誤りを助けて、人まどはせるわざ也。火葬しては、古へも今も、やがて骨を拾ひて、さるべき所にをさめて、墓とすめるを、此反歌は葬の明る年の秋まゐでゝよめるなるを、ひとめぐりの秋までも、骨を納めず捨おけりとせんかは。又この妻の死は、人まろのまだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞ、おぼえらる。さて、その灰の字を、誤りとする時は、これも本文のごとき心詞にて、珠蛉《(マヽ)》仄谷毛見而不座者《ホノカニタニモミエテマサネバ》とぞありつらんを、字おちしなるべし云々といはれして《(マヽ)》、例のしひて古書を改めんとするの僻にて、甚しき誤りなり。そのよしをくはしくいはん。右にいはれつるごとく、火葬は道昭より始れる事、續日本紀に、文武(321)天皇四年、三月己未、道昭和尚物化、火2葬於栗原1、天下火葬從v此而始也云々とありて、其後、俄に天下あまねく火葬を用ひし事、持統天皇の崩たまへるをさへ、大寶三年十二月、飛鳥岡にて火葬し奉れるにて、しられたり。この文武天皇四年より、大寶三年まで、はづか四年が間に、かくあまねくなりし也。されば、この人麻呂の妻の失しも、火葬始りてより後にて、人麿の世にあられし時、既に火葬の專らなりし事、本集三【四十七丁】に、土形娘子、火2葬泊瀬山1時、柿本朝臣人麿作歌云々、また【四十八丁】溺死出雲娘子、火2葬吉野1時、柿本朝臣人麿作歌云々などあるにてしらるれば、この妻をも、火葬せしにて、今は灰となりませばといふを灰而座者《ハヒニテマセハ》とはいへるなり。考に、一周の秋まで、骨を納めず捨おけりとせんかはといはれしは、こゝの文をいかに見られたるにか。こゝの文は、火葬して埋めしを、たゞ大どかに、灰になるとはいへるにて、火葬せしまゝ捨おかずして、埋めたりとも、一度火葬せしは灰ならずや。續日本紀、神護景雲三年十月詔に、禮方灰止共爾地仁埋利奴禮止《ミハハヒトトモニツチニウツモリヌレド》、名波烟止共爾天爾昇止云利《ナハケフリトトモニアメニノホルトイヘリ》云々などあるにても、埋みても仍灰とゝもにて灰にあるをしるべし。又考に、この妻の死は、人まろの、まだ若きほどの事とおもはるゝよしあれば、かの道昭の火葬より前なるべくぞおぼえらるといはれしも、いかゞ。何をもて、若きほどの事とせらるゝにか。そは、この妻、失し時、若兒ありて、後にまた依羅《ヨサミ》娘子を妻とせられし故なるべけれど、男はたとへ五六十に及たりとも、子をも生せ、妻をもめとる事、何のめづらしき事かあらん。これらにても、考の説の誤りなるをしるべし。
反歌三首。
こゝをも、印本、短歌とあるを、今意改せり。そのよしは上にいへり。
(322)214 去年見而之《コゾミテシ》。秋月夜《アキノツクヨハ》。雖度《ワタレドモ》。相見之妹者《アヒミシイモハ》。去年離《イヤトシサカル》。
雖度《ワタレドモ》。
上に、度日《ワタルヒ》乃ともあるごとく、空を、月日のゆくを、わたるとは、いへり。この外、本歌にかはる事なし。一首の意は、本歌にいへり。
215 衾路《フスマヂヲ》。引出山《ヒキデノヤマニ》。妹置《イモヲオキテ》。山路念邇《ヤマヂオモフニ》。生刀毛無《イケリトモナシ》。
山路念邇《ヤマヂオモフニ》。
引出の山に妹を置てし來たれば、その妹が居る山路を思ひやるに、いけるこゝちもせずとなり。
216 家來而《イヘニキテ》。吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》。玉床之《タマトコノ》。外向來《ホカニムキケリ》。妹木枕《イモガコマクラ》。
家來而《イヘニキテ》。
嬬の墓にまうでて、さて家にかへりきて也。
吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》。
考に、吾は、もし妻の字にやといはれしも、さる事ながら、吾とても意はよくきこゆるをや。
玉《タマ》床《トコ・ユカ》之《ノ》。
玉床とは、愛する妹と宿し床なれば、玉とはほむる也。本集十【廿九丁】七夕の歌に、明日從者吾玉床乎打拂《アスヨリハワガタマトコヲウチハラヒ》、公常不宿弧可母寢《キミトイネステヒトリカモネム》云々など見えたり。舊訓床をゆかとよめるは、いかゞ。とことよむべき也。書紀神代紀下に、佐禰耐據茂阿黨播怒介茂卷譽《サネトコモアタハヌカモヨ》云々。本集五【卅九丁】に、敷多倍乃登許能邊佐良受云々。十四【四丁】に、伊利奈麻之母乃伊毛我乎杼許爾《イリナマシモノイモガヲドコニ》云々。また【卅二丁】に(323)伊毛我奴流等許乃安多理爾《イモガヌルロコノアタリニ》云々。二十【廿七丁】に、由等許爾母可奈之家伊母曾《ユトコニモカナシケイモゾ》云々など、皆とことあるにてもしるべし。さて考に、人まろの妻に似つかず。思ふに、こは死て臥たりし床なれば靈床《タマトコ》の意ならんといはれしはいかゞ。
外向來《ホカニムキケリ》。
家にかへり來て、わが屋を見れば、むかしは、わが方にむけて寢たりし、妹が枕の今はかたへにうちやられて、外ざまむきたりとなり。外は、集中多くよそとよめれどこゝはほかとよむべき也。本集十一【八丁】に、荒礒越外往波乃外心《アリソコエホカユクナミノホカコヽロ》云々とも見えたり。來をけりとよめるは、三【十八丁】に相爾來鴨《アヒニケルカモ》云々。十一【十丁】に浦乾來《ウラガレニケリ》云々。十三【廿四丁】に、戀云物者都不止來《コヒトフモノハスベテヤマスケリ》云々などありて、皆借字なり。こはよう來たりといふを、まうけりといふ時、來を、けり、ける、けれとよめる訓を借て書るなり。本集十七【廿丁】に、使乃家禮婆《ツカヒノケレハ》云々。續日本紀、神龜元年二月詔に、大瑞(ノ)物《モノ》顯|來理《ケリ》云々などあるにても、おもふべし。
妹木枕《イモガコマクラ》。
古へ、枕の製作、薦《コモ》枕、菅《スガ》枕などありて、薦、菅などにても造れり。木枕は、それならで、木にて造りたる枕也。集中、黄楊《ツゲ》枕あり。拾遺集に、沈の枕あり。これらおしなべて、木枕といふべし。本葉十一【廿五丁】に、吾木枕蘿生來《ワガコマクラニコケオヒニケリ》云々なども見えたり。さてこの歌を、考には、本歌の反歌とせられたれど、いかゞ。考云、去年死て、葬りやりしかば、又の秋まで、其床の枕さへ、そのまゝにてあらんこと、おぼつかなしと思ふ人有べし。このこと、上にもいへる如く、古へは、人死て、一周の間、むかしの夜床に、手をだにふれず、いみつゝしめる例(324)なれば、このたま床は、又の秋までかくてあるなりけり。たとへば、旅行人の、故郷の床の疊にあやまちすれば、旅にても、ことありとて、其疊を大事とする事、古事記にも、集にも見ゆ。これに依て、この歌と、上の、河島皇子を乎知野に葬てふに、ぬば玉の夜床母荒良無《ヨトコモアルラム》とよめるなどを、むかへ見るに、よみ路にても、事なからん事を思ふは、人の情なれば、しかあるべき事也。こぬ人をまつとても、床のちりつもるとも、あるゝともいふ。これも、その床に、手ふるゝをいむ故なれば、この三つ、おなじ意に、わたる也云々といはれしが如し。
吉備津采女死時。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌。
吉備津釆女。
考云、この釆女の氏は、吉備津なり。大津、志我津などよめるは、近江の其所より來りし故なるべし。さるを、近江宮の時の釆女かといふは、ひがごとなり。こゝは、藤原宮のころなり。宣長云、吉備津を、考にこの釆女の姓なるよしあれど、すべて釆女は、出たる地をもて、よぶ例にて、姓氏をいふ例なし。其上、反歌に、志我津子とも、凡津子ともよめるを思ふに、近江の志我の津より出たる釆女にて、吉備と書るは、志我の誤りにて、志我津釆女の《(マヽ)》なるべし云々。この宣長の説によるべし。
217 秋山《アキヤマノ》。下《シタ》部《ブ・ヘ》留妹《ルイモ》。奈《ナ》用《ヨ・ユ》竹乃《タケノ》。騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》。何方爾《イカサマニ》。念居可《オモヒヲリテカ》。栲紲之《タクナハノ》。長命乎《ナガキイノチヲ》。露己曾婆《ツユコソハ》。朝爾置而《アシタニオキテ》。夕者《ユフベニハ・ユフベハ》。消等言《キエヌトイヘ》。霧已曾婆《キリコソハ》。夕立而《ユフベニタチテ》。明者《アシタニハ》。(325)失等言《ウセヌトイヘ》。梓弓《アヅサユミ》。音聞吾母《オトキクワレモ》。髣髴《オホニ・ホノニ》見之《ミシ》。事悔敷乎《コトクヤシキヲ》。布栲乃《シキタヘノ》。手枕纏而《タマクラマキテ》。劔刀《ツルギタチ》。身二副寢價牟《ミニソヘネケム》。若草《ワカクサノ》。其嬬子者《ソノツマノコハ》。不怜《サブシ・サビシ》彌可《ミカ》。念而寢良武《オモヒテヌラム》。悔彌可《クヤシミカ》。念戀良武《オモヒコフラム》。時不在《トキナラズ》。過去子等我《スギニシコラガ》。朝露乃如也《アサツユノゴトヤ》。夕霧乃如也《ユフギリノゴトヤ》。
秋山《アキヤマノ》。
枕詞なり。下部留《シタブル》は、次にいへるがごとく、黄葉の色のうるはしくにほへるを、女のうるはしき紅顔にたとへいへるにて、秋山のごとく、下部留とはつゞけし也。猶くはしく予が冠辭考補正にいふべし。
下《シタ》部《ブ・ベ》留妹《ルイモ》。
下部留《シタフル》は、古事記中卷に、秋山之下氷批夫《アキヤマノシタヒヲトコ》云々とある下氷と同じく、また本集十【五十丁】に、金山舌日下鳴鳥《アキヤマノシタヒカシタナクトリ》云々などある舌日も、借字にて、意同じく、皆黄葉の色の、うるはしきを、女のうるはしき紅顔にたとへて、下部留妹《シタブルイモ》とはいへる也。さてこの言は、したびしたぶると活用して、言の本は、朝備《アシタヒ》といふことにて、秋山のいろの、紅葉ににほへるが、赤根さす朝の天の如くなる由なりと、宣長いはれたり。さもあるべし。本集一【十四丁】に、紫草能爾保敝類妹乎《ムラサキノニホヘリモヲ》云々。十【廿五丁】に、吾等戀丹穗面《ワガコフルニノホノオモガ》云々。十三【廿四丁】に、都追慈花爾太遙越賣《ツヽジハナニホヘルヲトメ》云々などありて、集中猶多く、又枕詞に、あかねさす君、あからひくしきたへの子、あからひくはだなどつゞくるも、みな紅顔のうるはしきをいへり。
(326)奈《ナ》用《ヨ・ユ》竹乃《タケノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは本集三【四十五丁】に、名湯竹乃十縁皇子《ナユタケノトヲヨルミコ》云々ともありてなよ竹は、なよ/\としなやかなる竹をいへるにて、とをゝにたわむ意もて、とをよるこらとはつゞけしなり。古事記上卷に、打竹之登遠々登遠々遍《サキタケノトヲヽトヲヽニ》云々など見えたり。さて舊訓、用をゆの假字としたれど、用はみな、よの假字にのみ用ひて、ゆと訓る事、例なければ、なよ竹とよめり。三の卷なるは、なゆたけと訓べし。ゆよ音通にて同じ。
騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》。
騰遠《トヲ》は、本集八【四十六丁】に、秋芽子乃枝毛十尾二降露乃《アキハキノエタモトヲゝニオクツユノ》云々。十【十三丁】に、爲垂柳十緒《シタリヤナキノトヲヽニモ》云々などありて、集中いと多く、とをむ、たわむ、とをゝ、たわゝと通はしいひて、みな枝の撓《タワ》む事にて、こゝの騰遠依《トヲヨル》の、とをも、女のすがたの、なよゝかにたわみたるをいへる也。すべて、女は、なよゝかに、しなやかなるをよしとする事、腰細《コシホソ》のすがるをとめなど、つゞくるにても思ふべし。依《ヨル》は、より靡意、子等は、集中子たちといふ所に、子等といへるも多かれど、こゝはたゞ、子といふにて、らは助辭也。本集十【卅丁】に、君待夜等者《キミマツヨラハ》云々。十四【廿三丁】に、安左乎良乎《アサヲラヲ》云々などある、らもじも、助辭にて、こゝとおなじ。
何方爾《イカサマニ》。念《オモヒテ》居可《ヲレカ・ヲリテカ》。
本集一【十七丁】二【廿七丁】などに、何方御念食可《イカサマニオモホシメセカ》云々とあると、同じく、可は、ばかの意なれば、をれかとよむべし。さてこゝは、いかさまに思ひをればか、かく失つらん、夫のなげくらんになどいふ意をふくめたり。
(327)栲紲之《タクナハノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。栲の木の皮にてよりたる繩にて、その繩の如く長きとつゞけたる也。漢書王莽傳注に、紲繋也云々とありて、又説文に、紲糸也、或从v※[蝶の旁]作v※[糸+蝶の旁]云々。楊雄方言卷十に、※[糸+蝶の旁]緒也などもあれば、繩の意なり。さてこの栲の字を、たへとも、たくとも訓は、一物二名にあらず。たへといふは、この栲の木の皮とりて、織なして布としたるをいひて、既に布となりたるをいへるなる事、上【攷證一下七十二丁】栲《タヘ》の穗《ホ》の所、考へ合せてしるべし。たくといふは、栲の本名にて、物につくらぬさきをいへるにて、栲紲《タクナハ》は栲の皮してよりたる繩、栲衾《タクフスマ》は栲の皮して織たる衾てふ意也。栲《タク》ひれ栲《タク》づぬなどおしてしるべし。
長命乎《ナガキイノチヲ》。
いまだ若くして、末長き命を、いかに思ひてか、かく失ぬらんといふ意をふくめたり。
露己曾婆《ツユコソハ》。
こそはといふ言に、心を付て見るべし。露こそは、朝おきても、夕べはきえぬといへ、霧こそは夕べに立ても、明ぬればうせぬといへ、されども人はさはあらざるものをといふ意也。
梓弓《アツサユミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。弓は、引ば必らず音あるものなれば、音とはつゞけし也。梓の弓の事は、上【攷證一上七丁】にいへり。
音聞吾母《オトキクワレモ》。
音とは、かの釆女失にしといふ言をきゝし也。まへに、梓弓聲爾聞而《アツサユミオトニキヽテ》ともあり、くはしくは、その所にいへり。
(328)髣髴《オホニ・ホノニ》見之《ミシ》。
舊訓、ほのに見しとあれど、反歌に相日於保爾見敷者今叙悔《アヒシヒヲオホニミシカバイマソクヤシキ》云々とある、こゝとつゞけがらの全く同じきにても、こゝをもおほに見しとよむべきをしるべし。さておほとは、本集三【五十八丁】に、吾王天所知牟登不思者《ワカオホキミアメシラサムトオモハネハ》、於保爾曾見谿流《オホニソミケル》云々。また【五十九丁】朝霧髣髴爲乍《アサキリノオホニナリツヽ》云々。六【廿三丁】に、凡有者左毛右毛將爲乎《オホナラハトモカモセムヲ》云々。四【卅一丁】に、朝霧之欝相見之人故爾《アサキリノオホニアヒミシヒトユヱニ》云々などありて、猶多し。凡の字をよめるごとく、大方といふ意にて、こゝはかの釆女失し事を、きゝしわれさへも、釆女が生てありしほど、おほよそに見すぐしたる事の、くやしきを、かたらひて、そひ寢せし人は、いかならんとおしは(か脱カ)るなり。
事悔敷乎《コトクヤシキヲ》。
敷《シキ》は、借字にて、乎《ヲ》はものをの意なり。
布栲乃《シキタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下六十一丁】にも出たり。手のうち越て、枕とつゞけたるなり。文字を打こして、下へつゞくる例も冠辭考に出たり。
手枕纏而《タマクラマキテ》。
手枕は、手を枕とする也。古事記上卷歌に、多麻傳佐斯麻岐《タマテサシマキ》云々とある、これなり。纏而《マキテ》は、字の如く、まとふ意にて、何にまれ、枕とするをいへる言也。本集此卷【四十一丁】に、奧波來依荒礒乎《オキツナミキヨルアリソヲ》、色妙乃枕等卷而《シキタヘノマクラトマキテ》云々。三【四十四丁】に、家有者妹之手將纏《イヘナラバイモカテマカム》云々。四【廿一丁】に、敷細乃手枕不纏《シキタヘノタマクラマカズ》云々。又【卅丁】吾手本將卷跡念牟《ワカタモトマカムトオモハム》云々などありて、集中猶いと多し。
劔刀《ツルギタチ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。まへにも出たり。
(329)身二副寢價牟《ミニソヘネケム》。
こは、釆女とかたらひし人を云て、われさへも凡に見過しゝ事のくやしきを、まして身にそへて寐けん人は、いかならんとなり。
若草《ワカクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證中廿五丁】にも出たり。其といふ字をうちこして、嬬とつゞけし也。
其嬬子者《ソノツマノコハ》。
こは、釆女とかたらひし男をいへるにて、嬬は、文字を借てかけるのみ。男女たがひに、つまといへる事、上所々にいへるがごとし。子も、人を稱し、親しみていへる也。この事も上にいへり。本集十【卅二丁】に、稚草乃妻手枕迹《ワカクサノツマテマカムト》、大船乃思憑而《オホフネオモヒタノミテ》、榜來等六其夫乃子我《コキクラムソノツマノコカ》云々とあるも、男をいへり。
不怜《サブシ・サビシ》彌可《ミカ》。念而寢良武《オモヒテヌラム》。
不怜《サブシ》は、今もいふさびしといふ言にて、心冷まじくなぐさめがたき意也。まへに、浦不樂《ウラサビ》、浦不怜《ウラサヒ》などあるも、同じくさび、さぶ、さびし、さぶしとはたらく語にて、意同じ。本集四【十二丁】に、吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》、君二四不在者《キミニシアラネハ》云々。また【廿九丁】從今者城山道者不樂牟《イマヨリハキノヤマミチハサブシケム》云々。五【廿五丁】に、等乃斯久母佐失志計米夜母《トノシクモサフシケメヤモ》云々。十【五十六丁】に、雖見不怜《ミレトモサフシ》云々などありて、集中猶多し。彌《ミ》は、さにの意にて、さびしさにか、かの釆女の事を思ひつゝ、ねぬらんと也。さにの意の、みの事は、上【攷證一上十丁】にいへり。
悔彌可《クヤシミカ》。念戀良武《オモヒコフラム》。
この二句、印本なし。今、活字本、拾穗本によりて補ふ。釆女が失にし事の、くやしさにか、その事を思ひて、戀したふらんとなり。
時不在《トキナラス》。
釆女が、まだ若くして死べき時にもあらぬにといふ也。
(330)過去子等我《スギニシコラガ》。
本集一【廿二丁】に、黄葉過去君之《モミチハノスギニシキミガ》云々。此卷【卅七丁】に、黄葉乃過伊去等《モミチハノスギテイニキト》云々。三【五十五丁】に、過去之人之所念久爾《スキニシヒトノオモホユラクニ》云々などありて、猶いと多く、皆失し人を、過にしとはいへり。子等は、まへにいへるが如く、たゞ子といふ意にて、等は助辭にて、過にし妹などいはんが如し。
朝露乃如也《アサツユノゴトヤ》。夕霧乃如也《ユフギリノゴトヤ》。宣長云、如也は、ごとと訓べし。也の字は、焉の字などのごとく、たゞ添て書るのみ也。ごとやと訓ては、やもじととのはず。さてこの終りの四句は、子等が朝露のごと、夕霧のごと、時ならず過ぬと、次第する意也。かくのごとく見ざれば、語とゝのはざる也云々といはれしはいかゞ。也もじは、ごとくやなどいふにて、歎息の意のや也。さて、この四句は、まへに露こそは、霧こそはといふをくりかへしいひて、その朝つゆのごとくやな、夕きりのごとくやなと、うちなげきたる事なり。
反歌二首。
これも、印本、短歌とあれど、意改せり。そのよしは上にいへり。
218 樂浪之《サザナミノ》。志我津子等何《シガツノコラガ》。【一云、志我津之子我《シガノツノコガ》。】罷道之《マカリヂノ》。川瀬道《カハセノミチヲ》。見者《ミレバ》不怜《サブシ・サビシ》毛《モ》。
樂浪之《サヽナミノ》。
枕詞にて冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。
志我津子等何《シガツノコラカ》。
志我は、近江の國滋賀郡也。この地の事は、上【攷證一上四十九丁】にいへり。そこの津を、志我津とはいふ也。志我の津といふ、のもじを略けるなり。吉野の山(331)吉野山ともいへる類にて、この類、地名にはつねのこと也。本集七【廿四丁】に、神樂浪之思我津乃白水郎者《サヽナミノシカツノアマハ》云々。また【四十丁】神樂聲浪乃四賀津之浦能《ササナミノシカツノウラノ》云々なども見えたり。子等《コラ》の、等《ラ》は、まへにいへる如く、助字にて、かの釆女を子とはいへり。
一云、志我津之子我《シカノツノコガ》。
印本、乃文字なし。乃もじなくては、異同にあぐべきやうなければ、今は拾穗本によりて補ふ。
罷道之《マカリヂノ》。
考云、葬送る道をいふ。紀【光仁】に、永手大臣の薨時の詔に、美麻之《ミマシ》大臣乃、罷道母意太比爾念而《マカリチモオタヒニオモヒテ》、平久幸久罷止富良須倍之止《タヒラケクサキクマカリトホラスヘシト》詔とあるは、黄泉の道をのたまへど、言は同じ云々といはれつるがごとし。罷は、玉篇に、罷、皮解切、休也、音疲、極也とあるにても、死てゆく道を罷道といふなるをしるべし。さてまかるとは、貴き所より賤き所へゆくをばいへるにて、中ごろより死る事を、身まかるといふも、これなり。まかるといふ言は、本集三【卅一丁】に、憶良等者今者將罷《オクララハイマハマカラム》云々。五【卅一丁】に、唐能遠境爾都加播佐禮麻加利伊麻勢《モロコシノトホキサカヒニツカハサレマカリイマセ》云々。六【廿五丁】に、食國遠乃御朝庭爾《ヲスクニノトホノミカドニ》、汝等之如是退去者《イマシラカカクマカリナハ》云々などあるにても、貴き所より賤き所へゆく意なるをしるべし。こゝの事を、宣長云、道は邇の誤りなるべし。こゝには、まかりぢにてはわろしといはれつれどまかりぢにても、意はよく聞ゆるをや。
川瀬道《カハセノミチヲ》。
葬りゆく道をいへるにて、考に、大和國にても、何所の川か、さしがたしといはれたり。
(332)見者不怜毛《ミレバサブシモ》。
不怜は、まへにもいふごとく、心すさまじく、なぐさめがたき意にて、こゝはかの釆女を葬送して、ゆく道の川瀬などを見るにつけても、心をなぐさめがたしとなり。
219 天《ソラ・アマ》數《カゾフ》。凡《オホシ・オフシ》津子之《ツノコカ》。相日《アヒシヒヲ》。於保爾見敷者《オホニミシカバ》。今叙悔《イマソクヤシキ》。
天《ソラ・アマ》數《カソフ》。
枕詞也。天を、そらとよめるは、そらみつ大和といふ枕詞を、本集一【十六丁】に、天爾滿倭乎置而《ソラニミツヤマトヲオキテ》云々とあるにて思ふべし。何にまれ、天なる物を、かぞふるは、凡なるものなればそらかぞふ凡とはつゞけし也。猶くはしくは、予が冠辭考補正にいふべし。
凡津子之《オホシツノコガ》。
凡津は、近江國滋賀郡大津にて、大津宮といふも、こゝ也。そはいかにとなれば、書紀推古紀に、大河内直とあるを、天武紀に、凡河内直とかき、同紀に大海といふ氏なるを、姓氏録には、凡海とかけり。これらにても、大と凡の訓を通はし用ひたるをしるべし。是を、おほしとよむ事、いかになれば、續日本紀、延喜十年九月紀に、改2大押《オホシ》字1、仍注2凡直1云々とあるにて、凡はおほしとよまん事、明らけし。さるを、宣長、おふしとよまれたり。こは和名抄丹後國郷名に、凡海とあるを、於布之安萬と訓るにつきて、おふしとよまれしにはあれど、おふしけ、おほしの音便にくづれたるにて、しかも和名抄國郡部は、順の手にはならざりしものなる事、古本にはみな國郡部なきにてもしらるれば、續紀をすてゝ、和名抄國郡部の訓を用ふべき(333)いはれなきをや。すべて和名抄てふ書は、漢名あるにむかへたる書名なれば、國郡郷名に、漢名あるべきいはれなきにても、もとよりのものにあらで、後人の増補せしものなるをしるべし。この事は、わが友狩谷望之が和名抄の攷證に辨ぜり。
相日《アヒシヒヲ》。
かの釆女が、われにあひし日といふに、ものゝ序などありて、面會せしなるべし。
於保爾見敷者《オホニミシカハ》。今叙悔《イマゾクヤシキ》。
於保《オホ》は、まへの長歌に、髣髴見之《オホニミシ》とある所にいへりしがごとく、凡《オホヨソ》の意にて、こゝはかの志我《シガ》の大津の釆女にあひたりし心とめても見ず、たゞおほよそに見過しゝかば、失にし今ぞくやしく思ふといふにて、かく時ならず失ぬべしとしりたらば、心とめて見おかましものをといふ意をふくめたり。
讃岐狹岑島。視2石中死人1。柿本朝臣人麿作歌一首。并短歌。
狹岑《サミネノ》島。
略解云、讃岐國那珂郡に、さみ島ありといへり云々とあり。こゝなるか。考には、反歌に、佐美乃山とあるによりて、こゝをも、さみのしまの《(マゝ)》よまれしかど、山と島のたがひありて、別所なるもしりがたければ、しばらく舊訓のまゝに、さみねのしまとよむべし。
石中死人。
磯邊の小石などある中にありしなるべし。石窟などをいふにはあらじ。
(334)220 玉藻《タマモ》吉《ヨシ・ヨキ》。讃岐國者《サヌキノクニハ》。國柄加《クニカラカ》。雖見不飽《ミレトモアカヌ》。神柄加《カムカラカ》。幾許貴寸《コヽタタフトキ》。天地《アメツチ》。日月與共《ヒツキトトモニ》。滿《タリ・ミチ》將行《ユカム》。神乃御面跡《カミノミオモト》。次來《ツキテクル》。中乃水門從《ナカノミナトユ》。船浮而《フネウケテ》。吾榜來者《ワカコギクレバ》。時風《トキツカセ》。雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》。奧見者《オキミレハ》。跡位《シキ・アトヰ》浪立《ナミタチ》。邊見者《ヘヲミレハ》。白浪《シラナミ》散動《サワギ・トヨミ》。鯨魚取《イサナトリ》。海乎恐《ウミヲカシコミ》。行船乃《ユクフネノ》。梶引折而《カヂヒキヲリテ》。彼此之《ヲチコチノ》。島者雖多《シマハオホケト》。名細之《ナクハシ》。狹岑之島乃《サミネノシマノ》。荒礒面爾《アリソモニ》。廬作而見者《イホリシテミレバ》。浪音乃《ナミノトノ》。茂濱邊乎《シケキハマベヲ》。敷妙乃《シキタヘノ》。枕爾爲而《マクラニナシテ》。荒床《アラトコニ》。自伏君之《コロフスキミガ》。家知者《イヘシラバ》。往而毛將告《ユキテモツケム》。妻知者《ツマシラハ》。來毛問益乎《キテモトハマシヲ》。玉桙之《タマホコノ》。道太爾不知《ミチダニシラス》。欝悒久《オホヽシク》。待加戀良武《マチカコフラム》。愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
玉藻《タマモ》吉《ヨシ・ヨキ》。
枕詞なり。吉《ヨシ》の、しは助字にて、讃岐よりは多く海藻を出すよしにて、玉藻よ、さぬきとつゞけし也。冠辭考の説おぼつかなし。猶予が冠辭考補正にいふべし。
讃岐國者《サヌキノクニハ》。國柄加《クニガラカ》。
柄は、借字にて、詞也。この言は、上に詞を添て、のよき故に、のわろき故に、と云意の語にて、こゝは、讃岐の國は、國のよき故に(335)か、見れどもあかぬといふ意也。そは、本集三【廿六丁】に、芳野乃宮者《ヨシヌノミヤハ》、山可良志貴有師《ヤマカラシタフトカルラシ》、水可良思清有師《ミツカラシキヨクアルラシ》云々。六【十丁】に、蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》、神柄香貴將有《カムカラカタフトカルラム》、國柄鹿見欲將有《クニカラカミガホシカラム》云々などあるにても思ふべし。集中猶多し。考には、神隨《カムナガラ》などいふ、ながらの、なを略けるにて、まゝの意のよしいはれしかど、いかゞ。
雖見不飽《ミレドモアカヌ》。
考には、あらずとよまれしかど、ぬは、まへの句の加の結び詞なれば、ぬとよむべし。
神《カム・カミ》柄加《ガラカ》。
この讃岐の國は、神の生また《(マヽ)》故にか、たふとかるらんといふ意也。まへにもいへる如く、此の柄といふ言は、上に詞をそへてきく意なる事、本集六【十丁】に、蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》 神柄香貴將有《カムカラカタフトカルラム》云々とあるも、この蜻蛉《アキツ》の宮は、神にまします天皇のおはしましゝ所なる故には、たふとかるらんといふ意、十七【卅四丁】に、布里佐氣見禮婆《フリサケミレハ》、可牟加良夜曾許婆多敷刀伎《カムカラヤソコハタフトキ》云々とあるも、二上山をよめる歌にて、この山は、神のまします山なる故にや、貴かるらんといふ意なるにても、この讃岐國は、神のうみましゝ故にか、貴かるらんといふ意なるをしるべし。この國は、古事記上卷に、次生2伊豫之二名島1、此島者身一而、有2面四1、毎v面有v名、故伊豫國、謂2愛比賣《エヒメ》1、讃岐國謂2飯依比古《イヒヨリヒコ》1云々とあれば、神の生ましゝ國也。さてこの句を、舊訓、かみがらかとよめれどまへに引る、十七卷に可牟加良夜《カムカラヤ》とあるによりて、神はかむとよむべし。
幾許貴寸《コヽダタフトキ》。
幾許《コヽダ》は、いかばかりといふ意にて、いかばかりたふときといふ也。この言は、古事記中卷歌に、許紀志斐惠泥《コキシヒヱネ》とも、許紀陀斐惠泥《コキダヒヱネ》ともありて、本集五【十八丁】に、伊(336)母我陛邇由岐可母不流登彌流麻提爾《イモガヘニユキカモフルトミルマデニ》、許々陀母麻哉不烏梅能波奈可毛《コヽダモマカフウメノハナカモ》云々。十四【七丁】に、多麻河泊爾左良須※[氏/一]豆久利《タマカハニサラステヅクリ》、佐良左良爾奈仁曾許能兒乃己許太可奈之伎《サラサラニナニソコノコノコヽタカナシキ》云々なども見え、又十四【廿八丁】に、許己呂爾能里※[氏/一]許己婆可那之家《コヽロニノリテコヽバカナシケ》云々なども見え、又十七【卅六丁】に、詐己婆久毛見乃佐夜氣吉加《コヽハクモミノサヤケキカ》云々なども見え、又十七【四十八丁】に、許己太久母之氣伎弧悲可毛《コヽタクモシケキコヒカモ》云々なども見え、又二【四十四丁】に、己伎太雲繁荒有《コキタクモシゲクアレタルカ》云々なども見え、又二十【廿五丁】に、己伎婆久母由多気伎可母《コキバクモユタケキカモ》云々なども見え、又九【一八丁】に、曾己良久爾堅目師事乎《ソコラクニカタメシコトヲ》云々など見え、又十七【卅四丁】に、可牟加良夜曾許婆多敷刀伎《カムカラヤソコハタフトキ》伎云々など見え、又二十【廿五丁】に、曾伎太久毛加藝呂奈伎可毛《ソキタクモカキリナキカモ》云々など見えて、かくさま/”\に轉じ、いづれもみな一つ言也。又四【卅七丁】に、幾許思異目鴨《イカハカリオモヒケメカモ》云々。八【五八丁】に、幾許香此零雪之《イクバクカコノフルユキノ》云々などあるにても、幾許《ココダ》はいかばかりの意なるをしるべし。また數多く、あまたの意とせるも、集いと多し。
天地《アメツチ》。日月與共《ヒツキトトモニ》。
舊訓、あめつちのと、のもじを添てよめるはいかゞ。天地とも、日月とも共にみち足《タリ》なんといふ意なれば、のもじを略きて、四言によむべし。本集十三【十一丁】に、天地丹思足椅《アメツチニオモヒタラハシ》云々とあるも、足《タレ》る事を天地にたとへいへるなり。
滿將行《タリユカム》。神乃御面跡《カミノミオモト》。
天地日月は、滿《タリ》とゝのひたるものなれば、それにたとへて、その如く滿(リ)行んといへるにて、滿とは、足をかけると同じ。足《タリ》そなはりとゝのひたるをいへるにて、本集此卷【廿七丁】望月乃滿波之計武跡《モチツキノタヽハシケムト》云々。九【卅四丁】に、望月乃滿有面輪二《モチツキノタレルオモワニ》云々などありて、又續日本紀、天平神護二年十月詔に、大御形毛圓滿天《オホミカタチモタラハシテ》云々など見えたり。(337)神名に、面足《オモダルノ》命といふあるも、これ也。さて、こゝは、まへにもいへるごとく、四國は、神の生ませりといふ傳へにて、その國の年経つゝ、ひらけゆきて、足《タリ》とゝのひそなはれるを、神の御面の、そなはれるによせていへるなり。
次來《ツキテコシ》。
この國の足そなはり、とゝのひゆくを、この國はもと神のうみましゝ國にて、神の名さへある國なれば、神の御面の、足そなはりゆくと見つゝ、道を次て來るといふ意にて、次はつゞくといふ意也。そは、本集四【五十四丁】に、次相見六事計爲與《ツキテアヒミムコトハカリセヨ》云々、五【十丁】に、用流能伊昧仁越都伎提美延許曾《ヨルノユメニヲツギテミエコソ》云々などありて、集中猶いと多し。これらもつゞけてといふにて、こゝの次來といふも、これに同じく、道をつゞけてこしなり。
中乃水門從《ナカノミナトユ》。
考曰、讃岐に那何郡あり。そこの湊をいふならん云々といはれたり。さもあるべし。水門とかけるは、借字にて、湊なり。和名抄水土類云、説文云湊【音奏和名美奈度】水上人所v會也と見えたり。從《ユ》はまへにもいへるごとく、よりの意なり。
船浮而《フネウケテ》。吾榜來者《ワカコギクレバ》。
中の湊までは、陸路を來られしなるべし。ここより船うけて、吾こぎくればといふ也。
時風《トキツカゼ》。
つもじは、助辭にて、時風なり。こは思ひよらぬ時に、吹來る風をいへる也。本集六【廿二丁】に、時風應吹成奴《トキツカセフクヘクナリヌ》、香椎滷潮干浦爾玉藻苅而名《カシヒガタシホヒノウラニタマモカリテナ》とよめるは、思ひよらず風のふくべき(338)けしきになりぬ。風のふき來ぬさきに、潮干のうらにて、玉藻かりてんといふ意。七【十四丁】に、時風吹麻久不知《トキツカゼフカマクシラニ》、阿胡之海之朝明之鹽爾《アコノウミノアサケノシホニ》、玉藻苅奈《タマモカリテナ》とよめるは、思ひよらず風の吹き來らんもはかりしらず、早く、この潮に玉藻かりてんといへる意なれば、いづれも思ひよらぬ風を、ときつ風とはいへり、。こゝも船をうかべて、※[手偏+旁]くるほどに、風の思ひよらず吹來りて、海山かしこければ狹岑島に、船がかりせりといへる也。この時風を、考に、うなしほの滿くる時は、必らず風のふきおこるを、時つ風とはいへり云々といはれつるは、こゝに叶はず。この下に、海乎恐《ウミヲカシコミ》とも、梶引折《カチヒキヲリ》ともいひて、狹岑の島に船がゝりして、假廬をも造りて、風待せるさまをも思ひ合せて、思ひよらぬほどに吹來る風なるをしるべし。
雲居爾吹爾《クモヰニフクニ》。
上【攷證一下卅七丁】にもいへるがごとく、天は雲の居るものなれば、雲居といひて、天の事とし、天は遠きものなれば、雲居といひて、遠きとせるにて、思ひよらぬ風ふき來りて、海原の澳かけて、いづこまでも、遠く風のふきわたるにといふ意也。次の句に奧見者《オキミレハ》とあるにても思ふべし。又本集一【廿三丁】に、雲居爾曾遠久有家留《クモヰニソトホクアリケル》云々、十二【卅八丁】に、雲居有海山越而《クモヰナルウミヤマコエテ》云々などあるにても、雲居は遠き意なるをしるべし。
跡位《シキ・アトヰ》浪立《ナミタチ》。
考云、跡居は、敷坐《シキヰル》てふ意の字なるを、借て書り。卷三今十三に、立浪母疎不立《タツナミモオホニハタヽス》、跡座浪之立塞道麻《シキナミノタチサフミチヲ》、その次の歌に、上には敷浪乃寄濱邊爾《シキナミノヨスルハマヘニ》とありて、其末に腫浪能恐海矣直渉異將《シキナミノカシコキウミヲタヽワタリケム》とあるも、共に重浪《シキナミ》てふ意なるに、敷とも、腫とも、書て、訓をしらせたるをおもふべしといはれつるがごとし。
(339)邊見者《ヘヲミレハ》。
これを、考に、へた見ればと訓れしは誤り也。へたといへる言も有ど奧《オキ》と對へいふ時は、必らずへとのみいふべき也。そは、古事記上卷に、奧疎《オキサカル》神、邊疎《ヘサカル》神云々。本集此卷【廿四丁】に、奧故而榜來船《オキサケテコキクルフネ》、邊附而榜來船《ヘニツキテコキクルフネ》、奧津加伊痛勿波禰曾《オキツカイイタクアナハネソ》、邊津加伊痛莫波禰曾《ヘツカイイタクナハネソ》云々などありて、祝詞に、奧津藻菜邊津藻菜《オキツモハヘツモハ》云々などあるにても、奧にむかへいふ時は、へとのみいふべきをしるべし。邊は、海邊《ウミベタ》をいふなり。
白浪《シラナミ》散動《サワク・トヨミ》。
舊訓には、散動の字を、とよみと訓。考には、さわぐと訓れたり。とよむと、さわぐとは、いとちかく、いづれも古言にて、いづれにても聞ゆるやうなれど、よく/\考れば、とよむは音につきていひ、さわぐは形につきていふとのわかち也けり。こゝはまへに、邊見者《ヘヲミレハ》とありて、形につきていふ所なれば、さわぐとよむべし。さてこのさわぐと、とよむとのわかちを、まづさわぐは、本集一【廿二丁】に、其乎取登散和久御民毛《ソヲトルトサワクミタミモ》云々。六【十四丁】に、御※[獣偏+葛]人得物矢手挾散動而有所見《ミカリヒトサツヤタハサミサワキタルミユ》云々。また【十七丁】鮪釣等海人船散動《シヒツルトアマフネサワキ》云々。七【十六丁】に、奧津浪驂乎聞者《オキツナミサワクヲキケハ》云々。八【卅四丁】に、浮津之浪音佐和久奈里《ウキツノナミトサワクナリ》云々。九【十丁】に、阿渡河波者驟鞆《アトカハナミハサワケトモ》云々などありて、これらのうち聞とも音ともあれど、こはさわぐ音を聞といふにて、さわぐといふに、もとより音の意あるにはあらで、形につきていふことなり。とよむは、古事記中卷歌に、美夜比登登余牟《ミヤヒトトヨム》云々。本集四【廿八丁】に、野立鹿毛動而曾鳴《ヌニタツシカモトヨミテソナク》云々。八【廿四丁】に、霍公鳥鳴令響良武《ホトトキスナキトヨムラム》云々。十一【卅三丁】に、山下動逝水之《ヤマシタトヨミユクミツノ》云々などありて、集中猶いと多し。皆音につきていへるにて、とゞろきひゞく意の言なり。
(340)鯨魚取《イサナトリ》。
枕詞なり。上【攷證二中三丁】にいへり。猶予が冠辭考補正にいふべし。
海乎恐《ウミヲカシコミ》。
恐《カシコミ》は、まへにも度々いへる如く、恐み畏るゝ意にて、本集七【十六丁】に、荒磯超浪乎恐見《アリソコスナミヲカシコミ》云々。また【廿一丁】大海之波者畏《オホウミノナミハカシコシ》云々などもありて、これらはみなおそろしといふ意にて、みは、さにの意なり。土佐日記に、かいぞくむくいせんといふなる事を思ふうへに、海のまたおそろしければ、かしらもみなしらけぬ云々なども見えたり。
梶引折而《カチヒキヲリテ》。
梶は、今の船にいふ、梶といふものにはあらで、櫂といふものと同物也。この事上【攷證二中廿四丁】にくはしく辨ぜり。さてこゝは風浪あれて、海のかしこさに、梶さへも折て、せんすべなければ、狹岑の島に、船をよせて、こゝにて風のなほるをも、船つくろひもせし也。こゝの所、考の解は誤られたり。(頭書、再考、梶引折といふは、折るゝ事にはあらず。二十【十八丁】に、大船爾末加伊之自奴伎、安佐奈藝爾可故等登能倍、由布思保爾可知比伎乎里、安騰母比弖許藝由久伎美波云々とありて、又七【廿丁】に、吾舟乃梶者莫引云々、二十【廿五丁】に、安佐奈藝爾可治比伎能保里、由布之保爾佐乎佐之久太理云々などもある如く、梶を引たわめこぎゆくを、引折るとはいへるなるべし。)
彼此之《ヲチコチノ》。島者雖多《シマハオホケト》。
彼此を、をちこちと訓るは、義訓也。四【四十三丁】にも、彼此兼手《ヲチコチカネテ》云々とあり。さてをちこちとは、遠近《ヲチコチ》にて、道の遠近をいふが本なれど、そを轉じて、俗にあちこちといふ意にもいひ、行末今をもいひて、すべて彼《カレ》と此《コレ》とをむかへいふ言なり。こゝも俗に、あちこちといふ意也。この邊り、彼此かけて、いづこにも島はおほけれど(341)も、名の高き狹岑の島に、船をよせたりといふ意にて、多けれどの、れを略きて、おほけどとはいへるなり。この事は、上にいへり。
名細之《ナグハシ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下卅七丁】にも出たり。名ぐはしは、名のこまかにいたらぬ所なき、何々といふ意也。
狹岑之島乃《サミネノシマノ》。
まへにもいへるがごとく、近きほ(と脱カ)りなるものから、佐美の山とは別所なるべし。
荒礒面爾《アリソモニ》。
荒磯面《アリソモ》は、ありそのおもといふ、おを略けるにて、面は磯のおもてにて、川づら海づらなどいふつらと同じ。本集十四【五丁】に、安思我良能乎弖毛許乃母爾佐須和奈乃《アシカラノヲテモコノモニサスワナノ》云々とあるも、彼面此面《ヲチモコノモ》にて、面を、もといへり。こゝに、まへにもいへるごとく、風浪あらければ、せんすべなく、この狹岑の島に、船をよせて、風待するほど、荒磯の面に假廬を作りてをる也。さて考には、面を囘に改めて、ありそわにと訓れしかど、例の古書を改る僻にて、誤りなる事論なし。
廬《イホリ》作《シ・ツクリ》而見者《テミレハ》。
考云、古へ旅路には、かりほを作りて、やどれゝば、作とは書しのみにて、こゝの意は、廬入而《イホリイリシテ》を、略きいへる也云々といはれつるがごとく、古へは旅宿といふものも多くあらざりしかば、山野海岸にも、假廬を作りて、旅人のやどれりし也。そは本集三【十五丁】※[覊の馬が奇]旅歌に、野島我埼爾伊保里爲吾等者《ヌシマガサキニイホリスワレハ》云々。六【卅五丁】に、木綿疊手向乃山乎今日越而《ユフタヽミタムケノヤマヲケフコエテ》、何野邊爾廬將爲子等《イツレノヌベニイホリセムコラ》云々。七【十七丁】に、舟盡可志振立而廬利爲《フネハテヽカシフリタテヽイホリスル》、名子江乃濱邊過不勝鳧《ナコエノハマヘスキカテヌカモ》云々。七【廿二丁】に竹島乃阿戸白波者動友《タカシマノアトカハナミハトヨメトモ》、吾家思《ワレハイヘオモフ》、五百入※[金+色]染《イホリカナシミ》云々。九【九丁】に、山跡庭聞徃歟《ヤマトニハキコエモユクカ》、大我野之竹葉苅敷廬(342)爲有跡者《オホカヌノタカハカリシキイホリセリトハ》云々などありて、集中猶いと多し。又拾遺集戀四に、よみ人しらず、旅人のかやかりおほひつくるてふ、まろやは人をおもひわするゝなどあるにても、いづれにも雁廬をつくりて、やどれりしをしるべし。
浪音乃《ナミノトノ》。茂濱邊乎《シケキハマベヲ》。
吾こゝに廬てをれば、浪の音のしげき濱べにて、いをやすくも寐られぬものを、いかなればか、こゝの濱べをしも、枕としては寐ぬらんと、かの死人をさしていへるなり。本集一【廿一丁】に、泊瀬山者眞木立荒山道乎《ハツセノヤマハマキタテシアラヤマミチヲ》、石根禁樹押靡《イハカネノシモトオシナミ》云々とある、乎も、なるものをの意なり。
荒床《アラトコニ》。
あら山、あら野などいふ、あらと同じく、あれはてゝ、人げなきをいへるにて、濱べに、かの死人が伏たるを、床と見なしよめる也。
自伏君之《コロブスキミガ》。
ころぶすは、上【此卷八丁】明日香皇女の殯宮の歌に、許呂臥者川藻之如久《コロブセハカハモノコトク》云々とある所にいへるごとく、ころぴふす意也。考に、おのれと伏をいふといはれつるは、いかゞ
家知者《イヘシラハ》。往而毛將告《ユキテモツケム》。
かの死人の家所を、わがしらば、こゝに死てありといふことを、往てもつげんに、家をも、名をも、所をも、しらざれば、せんすべなしとなり。
妻知者《ツマシラハ》。來毛問益乎《キテモトハマシヲ》。
かの死人の妻が、この事をしらば、來てもとはましものをと也。
(343)玉桙之《タマボコノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十丁】にも出たり。
道太爾不知《ミチダニシラズ》。
かの死人がありかをたづねんに、その妻がいづことも道をだにしらざればと也。
欝悒久《オボヽシク》。
この言は、上【攷證二中五十一丁】にいへるがごとく、おぼ/\しく分明ならざる意にて、かの人の出さりて、かへらざるを、かく失ぬともしらで、おぼつかなく待か戀ふらんとなり。
愛伎妻等者《ハシキツマラハ》。
愛伎《ハシキ》は、字のごとく愛する意にて、人を愛しうつくしむ意の言也。この事は上【攷證二上卅一丁此卷十二丁】にもいへり。さてこゝは、かの人の愛する妻は、おぼつかなく待か戀ふらん。上へうちかへして聞意にて、妻等の、等もじは、などゝいふ意也。この事は、下【攷證三中廿六丁】にいふべし。
反歌一首。
221 妻毛有者《ツマモアラハ》。採《ツミ・トリ》而多宜麻之《テタゲマシ》。佐美乃山《サミノヤマ》。野上《ヌノベ・ノガミ》乃宇波疑《ノウハギ》。過去計良受也《スキニケラスヤ》。
採《ツミ・トリ》而多宜麻之《テタゲマシ》。
採而を、考に、つみてと訓れしによるべし。採は、集中多くつむとよめり。舊訓、とりてと有も、意は同じけれど、いかゞ。説文に、釆採取也、从2木爪1、徐曰會意、或从v手作v採云々ともあれば、とりても、つみても、意同じ。多宜麻之《タゲマシ》は、上【攷證二上四十二丁】に、、多氣婆奴禮《タケバヌレ》、多香根者長寸妹之髪《タカネハナカキイモガカミ》云々とある所にいへるがごとく、本はたぐりあぐる(344)意なれど、そをたゞあぐる事にも用ひて、こゝは取あぐる意にて、かの死人に妻あらば、來りて死屍をとりあげましをといへる也、たげ、たぐなどいふことは、土、多氣婆奴禮の所にいへり。
佐美乃山《サミノヤマ》。
こは、狹岑島中の、湊などの近きほとりな(る脱カ)べけれど、つまびらかならず。
野上《ヌノベ・ノガミ》乃宇波疑《ノウハギ》。
野上《ヌノベ》は、野の邊の意なる事、上【攷證一下四十二丁】河上乃列々椿《カハノベノツラ/\ツバキ》云々とある所にいへるが如し。本集六【四十丁】に、飽津之小野笶野上者《アキツノヲヌノヌノベニハ》云々。また【四十丁】多藝乃野之上爾《タキノヌノベニ》云々。八【十八丁】に、霞立野上乃方爾《カスミタツヌノベノカタニ》云々など見えたり。字波疑《ウハギ》は、本集十【十一丁】に、春野之菟芽子採而煮良思文《ハルヌノウハキツミテニラシモ》云々。本草和名に、薺蒿菜和名於波岐云々。和名抄菜類に、七卷食經云、薺蒿菜一名莪蒿【家音鵝下呼高反和名於波岐】崔禹曰、似v艾而香、作v羮食v之云々と見えて、この物、今、よめ菜とも、野菊ともいふものなるべし。本草和名に、菊花和名加波良於波岐といふも、菊の花の、この薺蒿に似たれば、かはらおはぎとはいふ也。うと、おと、音かよへば、うはぎといふも、おはぎといふも同じ。
過去計良受也《スキニケラズヤ》。
過《スク》は、かの薺蒿《ウハギ》を採べきとき過るにて、一首の意は、かの死人を薺蒿《ウハキ》にたとへて、うはぎをつむべき時すぎゆけど、つむ人もなしといふ意にて、死人がかくてあれど、とりあげて葬り埋る人もなしとはいへるにて、妻だにもあらばとりあげましものをとなり。
222 奧浪《オキツナミ》。來依荒磯乎《キヨルアリソヲ》。色妙乃《シキタヘノ》。枕等卷而《マクラトマキテ》。奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
(345)奧浪《オキツナミ》。來依荒磯乎《キヨルアリソヲ》。
長歌に、邊見者白波散動《ヘヲミレバシラナミサワキ》云々とあるごとく、奧より浪うちよせて、かくさわがしき荒礒を枕として、寐てをるはいかにぞといへるなり。
枕等卷而《マクラトマキテ》。
まへ、吉備津釆女死時歌に、布栲乃手枕纏而《シキタヘノタマクラマキテ》云々とある所にいへるが如く、卷《マク》はまとふ意にて、こゝはまくらとなしてといふ意なり。
奈世流君香聞《ナセルキミカモ》。
奈世流《ナセル》は、なとねと音通ひて、寐せるといふ也。古事記上卷歌に、多麻傳佐斯麻岐《タマテサシマキ》、毛々那賀爾伊波那佐牟遠《モヽナガニイハナサムヲ》云々とあるも、寐者將v宿にて、本集五【八丁】に夜周伊斯奈佐農《ヤスイシナサヌ》云々。十四【廿一丁】に、伊利岐弖奈左禰《イリキテナサネ》云々。十七【卅二丁】に、吾乎麻都等奈須良牟妹乎《ワヲマツトナスラムイモヲ》云々。十九【十八丁】に、安寢不令宿《ヤスイシナサズ》、君乎奈夜麻勢《キミヲナヤマセ》云々など見えたるも、みな寐るをなすといへる也。この言は、なぬねと通じて、ぬる、ねぬ、なすなど、みな一つ語也。さて、一首の意は、浪の音のさわがしき荒礒を枕として、寐たまふ君かもといひて、歎息せるなり。
柿本朝臣人麿、在2石見國1臨v死時。自傷作歌一首。
喪葬令云、凡百官身亡、親王及三位以上稱v薨、五位以上及皇親稱v卒、六位以下達2於庶人1稱v死とありて、こゝに臨死とかき、次に死時ともあれば、これにても、人麿は六位以下の人なりし事しらる。石見國は、中國なれば、このぬし、たとへ守なりとも、六位以下の官なり。
223 鴨山之《カモヤマノ》。磐根之卷有《イハネシマケル》。吾乎鴨《ワレヲカモ》。不知等妹之《シラニトイモカ》。待乍將有《マチツヽアラム》。
(346)鴨山之《カモヤマノ》。
考云、こは常に葬する山ならん云々といはれつるがごとく、人麿も死なば、この山に葬られん事の、かねて定めありしなるべし。
磐根之卷有《イハネシマケル》。
磐根を枕として、あるといふ意にて、卷ては、本はまとふ意なれど、それを轉じて、やがて枕とする事をもいへり。本集一【廿六丁】に、枕の字をまきてとよめるにてもしるべし。猶この事は、上【攷證一下五十四丁】にもいへり。
不知《シラニ・シラズ》等妹之《トイモガ》。
この等《ト》もじは、助字にて、しらず妹がといふ意なり。この助字の等《ト》もじの事は、下【攷證三上四丁】にいふべし。さて一首の意は、われ死なば、鴨山に葬られて、磐根を枕としてあらんをも、妹はしらずして、かへらん日をいつ/\とまちつゝあらんとなり。
柿本朝臣人麿死時。妻依羅娘子作歌二首。
この依羅娘子は、人まろの後妻なりし事、上【攷證二中十二丁】にいへるがごとし。
224 且今日且今日《ケフケフト》。吾待君者《ワガマツキミハ》。石水《イシカハノ》。貝爾《カヒニ》【一云|谷爾《タニニ》】交而《マジリテ》。有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
且今日且今日《ケフケフト》。
けふやかへる、けふやかへる、日ごとにまつ也。本集五【廿九丁】に、家布家布等阿袁麻多周良武《ケフケフトアヲマタスラム》云々。九【廿五丁】に、且今日且今日《ケフケフト》、吾待君之《ワカマツキミカ》云々などあり(347)て、集中猶多し。
石水《イシカハノ》。
こは鴨山のうちの川なるべし。人まろをば、この川の邊などに葬りしにや。水を、かはとよめるは、義訓也。書紀神武天皇元年紀に、縁《ソヒテ》v水《カハニ》云々。景行天皇十二年紀に、水上《カハノホトリ》云々。神功皇后五十二年紀に、水源《カハノカミ》云々。本集七【八丁】に此水之湍爾《コノカハノセニ》云々などもよめり。(頭書、雄略紀|久米水《クメカハ》。)
貝爾《カヒニ》【一云|谷爾《タニヽ》】交而《マジリテ》。
人まろを、この水の邊にや葬りつらん。されば、貝にまじりてとはいへり。今も、山中などを、堀に、地下より貝の出る事もあり、山川の底なるを、石とゝもに貝のながるゝ事もあれば、海岸ならずとて、貝なしともいひがたし。一云|谷爾《タニニ》とあるはいかゞ。
有登不言八方《アリトイハズヤモ》。
この八方《ヤモ》は、うらへ意のかへる、てにをはにて、本集三に、隱口乃泊瀬越女我手二纏在《コモリクノハツセヲトメカテニマケル》、玉者亂而有不言八方《タマハミタレテアリトイハスヤモ》云々とあると同じくて、一首の意はけふかへり給ふか、けふかへり給ふかとて、わが待わたる君は、石川の貝にまじりて、おはせりといはずや、貝にまじりておはせりといへば、いまはひたぶるに、この世になしともいひがたしとなり。
225 直相者《タヽニアハヽ》。相不勝《アヒモカネテム》。石川爾《イシカハニ》。雲立渡禮《クモタチワタレ》。見乍《ミツヽ》將偲《シヌバム・シノハン》。
(348)直相者《タダニアハヽ》。
略解云、卷四に、夢之相者《イメノアヒハ》とよめれば、こゝもたゞのあひはとよまんよし、宣長いへり云々とあれどいかゞ。古事記中卷歌に、袁登賣爾多※[こざと+施の旁]爾阿波牟登《ヲトメニタヾニアハムト》云々。本集此卷【廿三丁】に、目爾者雖視直爾不相香裳《メニハミレトモタヽニアハヌカモ》。四【十四丁】に、心者雖念直不相鴨《コヽロハモヘドタヾニアハヌカモ》云々。五【十一丁】に、多陀爾阿波須阿良久毛於保久《タヾニアハスアラクモオホク》云々などありて、集中猶多く佛足石御歌にも、多太爾阿布麻弖爾《タヽニアフマテニ》云々ともあれば、舊訓のまゝ、たゞにあはゞとよむべし。たゞにあはゞ、たゞちにあはゞなり。
相不勝《アヒモカネテム》。
宣長云、本のまゝに、あひもかねてんとよむかた、おだやかにて、よくあたれり。不勝を、かねとよむ例も、おほくあり。考に、あひかてましをとよまれたるは、ましをの辭、こゝにかなはず云々といはれつるがごとし。本集三【廿四丁】に、凝敷山乎超不勝而《コヽシキヤマヲコエカネテ》云々。八【廿一丁】に、言持不勝而《コトモチカネテ》云々。また【四十九丁】留不勝都毛《トヽメカネツモ》云々など見えたり。
雲立渡禮《クモタチワタレ》。
川に、雲のたゝん事、いかゞなるやうなれど、これにても、石川は、かの鴨山の山中なる川としるべし。さて一首の意は、たゞにうつゝ《(マヽ)》あはんには、失にし人なればあひがたからん。せめての事に、かの墓所なる、鴨山の石川のほとりに、雲だにもたゝなん。それをだに形見とも見てしのばんとなり。
丹比眞人。【名闕。】擬2柿本朝臣人磨之意1。報歌一首。
丹比眞人。
名闕たればしりがたけれど、本集八【四十八丁】に、丹比眞人歌名闕、九【十五丁】に、丹比眞人歌などあるは、同人歟。この外、集中、丹比氏の人七人あり。いづれか不v可(349)v考。丹比眞人の姓氏は、(以下空白)
擬。
はかりてとよむべし。玉篇に、擬魚理切度也と見えたり。こは人まろが意をおしはかりて、人まろが心になりて、妻に報じよめるなり。
226 荒浪爾《アラナミニ》。縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》。枕爾《マクラニ》置《オキ・テ》。吾此間有跡《ワレココナリト》。誰將告《タレカツゲケム》。
立縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》。
玉は、すべて水中に多くあるよしいへり。そは本集一【十一丁】に、底深岐阿胡根能浦
乃珠曾不拾《ソコフカキアコネノウラノタマゾヒロハヌ》云々。六【廿丁】に、石隱加我欲布珠乎《イソガクリカガヨフタマヲ》云々。七【十九丁】に、奧津波部都藻纏持依來十方《オキツナミヘツモマキモチヨリクトモ》、君爾益有玉將縁八方《キミニマサレルタマヨラムヤモ》云々など見えたり。こゝはかの石川によりくる玉なり。
枕爾《マクラニ》置《オキ・テ》。
枕は、頭といふと同じく、伏たる枕のかたに、玉を置く也。古事記上卷に、匍2匐御枕方1、匍2匐御足方1云々。本集五【卅丁】に、父母波枕乃可多爾《チチハハハマクラノカタニ》、妻子等母波足乃方爾《メコトモハアトノカタニ》、圍居而《カクミヰテ》云々。古今集誹諧に、よみ人しらず、まくらよりあとより戀のせめくれば、せんかたなみぞとこなかにをるとある、これらみな、枕は頭の方をさしていへり。
吾此間有跡《ワレコヽナリト》。誰將告《タレカツゲヽン》。
一首の意は、石川の荒浪に、よりくる玉を、まくらのかたにおきて、吾こゝにありといふことを、妻にたれかつげゝん。妻が、いしかはの貝にまじりて有と、いはず八方といへるはとなり。まへにいへるがごとく、この石川の邊りに、葬り埋めたるなるべし。
(350)或本歌曰。
こゝに、或本歌曰とはあれど、左の歌は、人まろの妻の意にかはりてよめる歌也。その心して見るべし。
227 天離《アマサカル》。夷之荒《ヒナノアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。君乎置而《キミヲオキテ》。念乍有者《オモヒツヽアレハ》。生刀毛無《イケリトモナシ》。
天離《アマサカル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十七丁】にも出たり。
夷之荒《ヒナノアラ》野《ヌ・ノ》爾《ニ》。
夷は、都より遠き所をいへるにて、今|田舍《ヰナカ》といふも同じ。この事は、上【攷證一上四十七丁】にいへり。荒野は、人げなくあれはてたる野をいふ。この事も、上【攷證一下廿三丁】にいへり。この荒野は、鴨山をさせり。
念乍有者《オモヒツツアレハ》。
一首の意は、かの鴨山などの、すさまじき所に、君を置て、その事を念乍《オモヒツツ》、かくてあれば、いける心ちもせずと也。さてこの歌は、上に、人麿妻死之後、泣血哀慟歌の反歌に、衾道乎引手乃山爾妹乎置而《フスマチヲヒキテノヤマニイモヲオキテ》、山徑徃者生跡毛無《ヤマチヲユケハイケリトモナシ》云々といふによく似たり。
右一首歌。作者未v詳。但。古本。以2此歌1。載2於此次1也。
(351)寧樂宮。
この標目を、考には、上の但馬皇女薨後、穗積皇子云々の歌の上にあげられしかど、本のまゝに、こゝにあるべきなり。そのよしは、上【攷證一上六十四丁】にいへり。
和銅四年。歳次辛亥。河邊宮人。姫島松原。見2孃子屍1。悲歎作歌二首。
河邊宮人。
父祖官位不v可v考。この人、本集三【四十九丁】にも出たれど、そはこの端辭の亂れ入たるにて、こゝと同じ。さて、河邊氏は、新撰姓氏録卷四に、川邊朝臣、武内宿禰四世孫、宗我宿禰之後也云々。書紀天武紀に、十三年、十一月戊申朔、川邊臣賜v姓曰2朝臣1云々とありて、姓朝臣なるを、いかにしてか、ここには姓を脱しけん。本集六【廿七丁】十九【卅一丁】などに、河邊朝臣東人てふ人のあるは、かたのごとく、朝臣の姓を加へたり。
姫島松原。
攝津國西成郡なり。仙覺抄引2攝津風土記1云、比賣島松原者、昔輕島豐阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅國有2女神1、遁2去其夫1來、暫住2筑紫國伊岐比賣島1、乃曰d此島者猶不2是遠1、若居2此島1、男神尋來u、乃更遷來、停2此島1、故取2本所v住之地名1以爲2島號1云々とあり。古事記下卷云、一時、天皇、將v爲2豐樂1而、幸2行日女島1云々。書紀安閑紀云、二(352)年九月丙申、勅2大連1云、宜v放3午於難波大隅島與2媛島松原1云々。續日本紀云、靈龜二年、二月己酉、令3攝津國罷2大隅媛島二牧1、聽2佰姓佃食1v之云々など見えたるも、みなこゝなり。
孃子。
これを、考にをとめとよまれたるがごとく、少女の意なり。韻會、娘少女之號、通作v孃云々とあるにて、しるべし。
228 妹之名者《イモカナハ》。千代爾將流《チヨニナガレム》。姫島之《ヒメシマノ》。子松之末爾《コマツガウレニ》。蘿生萬代爾《コケムスマテニ》。
妹之名者《イモガナハ》。千代爾將流《チヨニナガレム》。
妹が名は、ゆく末千年も流程經《ナガレヘ》なんと也。流《ナガル》といふ言は、上【攷證一下四十五丁】にいへるごとく、風に花紅葉にまれ、霞雪にまれ、流經《ナガラフ》といふと、本は同語にて、流れて天にまれ、年月にまれ、經《フル》意にて、この世に生てあるを、ながらふといふも、流經《ナガレフ》る意也。名の流といふも、とゞまる事なく、後の世までも流經《ナガレフ》る意もていへる也。そは、本集十八【廿一丁】に、丈夫乃伎欲吉彼名乎《マスラヲノキヨキソノナヲ》、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾《イニシヘヨイマノヲツヽニ》、奈我佐敝流於夜能子等毛曾《ナカサヘルオヤノコドモゾ》云々。續日本紀、神護景雲三年十月詔に、善名乎遠世爾流傳天牟《ヨキナヲトホキヨニナガサヒテム》云々などあるにても、思ふべし。奈我作敝流《ナガサヘル》は、さへの反、せにて、ながせるの意、流傳天牟《ナカサヒデム》は、さひの反、しにて、ながしてんにて、こゝと意同じ。
子松之末爾《コマツガウレニ》。
末は、字のごとくすゑ也。この事は、上【攷證二中十七丁】にいへり。
蘿生萬代爾《コケムスマデニ》。
和名抄苔類に、雜要決云松蘿、一名女蘿【和名萬豆乃古介一云佐流乎加世】と見えたり。生《ムス》は、字のごとく生る也。この事は、上【攷證一上卅八丁】ににいへり。萬代は、字にかゝわり《(マヽ)》てよ(353)ろづ代などの字にあらず。音を借て、たゞ假字にかけるのみ。さて一首の意は、かの孃子をさして、君が名は千年の末までも、流經《ナカレヘ》なん。こゝにある小松の、老木となりて、蘿のむさんまでにたゆる事はあらじと也。本集三【十六丁】に、何時間毛神左備祁留鹿《イツノマモカミサビケルカ》、香山之鉾※[木+温の旁]之未爾薛生左右二《カクヤマノホコスキノウレニコケムスマテニ》云云。古今集賀に、よみ人しらず、わが君は千世に八千世にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまでなどあるも似たり。
229 難波方《ナニハガタ》。潮干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》。沈之《シツミニシ》。妹之光儀乎《イモガスガタヲ》。見卷苦流思母《ミマククルシモ》。
難波方《ナニハガタ》。
方は、借字にて、潟なり。集中滷をよめり。新撰字鏡に、洲【州渚加太】とあるがごとく、洲渚をいへり。
潮干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》。
鹽干は、今もいふごとく、潮の干る也。本集四【廿丁】に、難波方鹽干之名凝《ナニハカタシホヒノナコリ》云々。七【十四丁】に、難波方鹽干丹立而《ナニハカタシホヒニタチテ》云々。九【十五丁】に、難波方塩干爾出而《ナニハガタシホヒニイテヽ》云々など見えたり。曾禰《ソネ》の禰《ネ》は、下知の言にて、潮干なありそ、潮ひる事なかれといふに、禰と下知したる也。本集此卷【四十四丁】に、野邊乃秋芽子勿散禰《ヌヘノアキハキナチリソネ》云々。七【廿六丁】に、柴莫苅曾尼《シハナカリソネ》云々。九【九丁】に、雨莫零根《アメナフリソネ》云々など有て、猶多し、皆ねは下知の言、さね、せねなどのねと同じ。さるを、玉の緒にさねのねは、添たる字也といはれしは、いかゞ。さねの事は、上【攷證一上二丁】にいへり。せねの事は、下【攷證九】にいふべし。
(354)妹之光儀乎《イモガスガタヲ》。
光儀をすがたとよめるは、義訓也。本集八【五十丁】に、今毛見師香妹之光儀乎《イマモミテシカイモガスガタヲ》云々。十【五十二丁】に、見管曾思努布君之光儀乎《ミツヽソシヌブキミガスカタヲ》云々などありて、集中猶多し。文選禰衡鸚鵡賦に、背2蠻夷之下國1、侍2君子之光儀1云々と見えたり。猶書紀にも集にも、容儀をも、すがたとよめり。
見卷苦流思母《ミマククルシモ》。
卷は、借字にて、辭なり。上【攷證二上廿一丁】に、落卷者後《フラマクハノチ》とある所にいへる如く、まくの反、むにて、ふらまくは、ふらん、きかまくはきかん、みまくは見んの意也。苦流思母《クルシモ》の母は、助辭にて、心ぐるしき意也。集中いと多し。さて一首の意は、この難波潟は、鹽の干るといふ事なかれ。鹽ひなば、沈みておぼれ死たりし、妹がすがたの、見えなん。それを見んが、いたはしく、心くるしければ、鹽の干る事なかれと也。
靈龜元年。歳次乙卯。秋九月。志貴親王薨時作歌一首。并短歌。
志貴親王薨。天智天皇の皇子也。この御事は、上【攷證一下卅三丁】にくはし。續日本紀に、靈龜二年八月甲寅、二品志貴親王薨云々とあるを、こゝには靈龜元年とありてしかも干支をさへ、たしかに紀したるは、いとあやしきに似たれど、よく/\考れば、こゝに靈龜元年九月とあるぞ正しかりける。いかにとなれば、この元年九月は、元正天皇御即位の事ありて、さわがしく、しかもいまはしき事をば忌はゞかるをりなれば、實はこの元年九月、薨給ひしなるべけれど、翌年八月まで薨奏延して、翌八月薨奏せしかば、その日を以て、紀にはしるされたるも(355)のにて、こゝに元年九月とあるは、實に薨給ひし時也。これらにても、この集は、貴くかたじけなき古書なるをしるべし。さてこの集、こゝまでは、皇子とのみしるして、親王としるせる事なく、こゝに至りて、はじめて親王としるせり。そのよしを、くはしくいはん。まづ古事記には、命または王などのみしるし、書紀には、皇子皇女また王ともしるしたれど、親王といふ事はなく天武天皇四年紀に至りて、親王、諸王、及諸臣といふ文、はじめて見えたれど、親王と云を、御名の下につけ、其親王某内親王など申ことは、すべて書紀には見えず。その後、續日本紀に至りても、文武天皇四年四月までは、皇子皇女とのみあるを、六月甲午、勅2淨大參|刑部《オサカヘ》親王以下1、撰2定律令1云々とある所より以下は、みな親王、内親王とのみしるされたり。かく二三ケ月の中に改りしをもて、思ふに、繼嗣令に、凡皇兄弟皇子、皆爲2親王1とあれば、この時、皇子と申すを、皆親王と改められし也。され(ば脱カ)この本集にも、こゝまでは、この制なき以前のこと、こゝは靈龜元年にて、この制改りし後なれば、わきて親王とはかける也。そは、續日本紀、文武天皇四年四月までは、皇子皇女と書れしを、六月より改めて、親王内親王としるして、同書の中ながら、その時世の制によりて、例を改められし事、この集と同例なるをも思ふべし。かくのごとく、事明らかなるものを、この端辭を、靈龜二年丙辰、秋八月、志貴皇子薨時云々と、改められしは、よくも考へざるうへに、例の古書を改むるの僻、誤りなる甚し。さてこの歌、作者をしるさゞるは、作者未詳歌なるべし。
230 梓弓《アツサユミ》。手取持而《テニトリモチテ》。丈夫之《マスラヲノ》。得物《サツ・トモ》矢手挿《ヤタバサミ》。立向《タチムカフ》。高圓山爾《タカマトヤマニ》。春《ハル》野《ヌ・ノ》燒《ヤク》。野《ヌ・ノ》火(356)登見左右《ビトミルマテ》。燎火乎《モユルヒヲ》。何如問者《イカニトトヘバ》。玉桙之《タマホコノ》。道來人乃《ミチクルヒトノ》。泣涙《ナクナミダ》。※[雨/沛]霖《ヒサメ・コサメ》爾落者《ニフレバ》。白妙之《シロタヘノ》。衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》。立留《タチトマリ》。吾爾語久《ワレニカタラク》。何《ナニシ・イヅレ》鴨《カモ》。本名言《モトナイヘル・モトノナイヒテ》。聞者《キケバ・キヽツレバ》。泣耳師《ネノミシ》所哭《ナカユ・ソナク》。語者《カタレバ・カタラヘバ》。心曾痛《コヽロゾイタキ》。天皇之《スメロギノ》。神之《カミノ》御子《ミコ・オホミコ》之《ノ》。御駕之《イテマシノ》。手火之光曾《タビノヒカリソ》。幾許照而有《コヽタテリタル》。
梓弓手取持而《アツサユミテニトリモチテ》。
こゝより立向《タチムカフ》といふまでは。高圓山《タカマトヤマ》といはん序にて、圓《マト》を的《マト》にとりなしたり。
丈夫之《マスラヲノ》。
こゝをも丈夫とせり。意改するよしは、まへにいへり。
得物《サツ・トモ》矢手挿《ヤタバサミ》。
得物矢《サツヤ》を、さつやとよむべきよしは、上【攷證一下四十八丁】にいへり。こは、幸矢にて、※[獣偏+葛]せん料の矢なり。手挿《テハサミ》は、手に持意。この事も、上、得物矢《サツヤ》の所にいへり。
高圓山爾《タカマトヤマニ》。
大和國添上郡にて、春日のほとりといへり。この志貴親王の陵は、延喜諸陵式に田原西陵、春日宮御宇天皇、在2大和國添上郡1云々とありて、追號を春日宮御宇天皇と申も、陵の春日にあればなるべし。されば、春日にをさめ奉らんとて、御葬送の、この高圓山をすぎしなるべし。
(357)春野燒《ハルヌヤク》。野火登見左右《ヌヒトミルマテ》。上、高市皇子尊殯宮の歌に、冬木成春去來者《フユコモリハルサリクレハ》、野毎著而有火之《ヌコトニツキテアルヒノ》云々とあると同じく、春は、專らと、野をやくものなればなり。
燎火乎《モユルヒヲ》。何如問者《イカニトトヘバ》。
高圓山をのぞみ見れば、春の野を燒ごとく、もゆる火の見ゆるを、道くる人に、あれはいかにととへばと也。
道來人乃《ミチクルヒトノ》。
道を往來する人にて、この人に、かの高圓山にもゆる火を、あれはいかにと問しなり。本集十三【十六丁】に、玉桙乃道來人之《タマホコノミチクルヒトノ》、立留何常問者《タチトマリイカニトトヘハ》、答遺田付乎不知《コタヘヤルタツキヲシラニ》云々。十九【廿八丁】に、玉桙之道來人之《タマホコノミチクルヒトノ》、傳言爾吾爾語良久《ツテコトニワレニカタラク》云々とも見えたり。
泣涙《ナクナミダ》。※[雨/沛]霖《ヒサメ・コサメ》爾落者《ニフレバ》。
泣涙の大雨《ヒサメ》のごとくにふればといふにて、かの道來人《ミチクルヒト》に、燎火《モユルヒ》を何ぞと問しかば、その人の涙を流して答へしを、大雨のごとしといふ也。書紀垂仁紀云、天皇枕2皇后膝1而晝寢、於v是皇后、既無2成事1而空思v之、兄王所v謀、適是時也、即眼涙流之、落2帝面1、天皇則寤之、語2皇后1曰、朕今日夢矣、銀色小蛇繞2于朕頸1、復|大雨《ヒサメ》從2狹穗1發而來之濡v面、是何祥也云々とあるも、涙を大雨にたとへたる也。古事記に、冰雨《ヒサメ》、書紀に大雨、甚雨など、みなひさめとよめり。和名抄風雨類云、文字集略云※[雨/沛]大雨也、日本紀私記云大雨【比佐女】雨氷【上同今案俗云比布流】とありて、大雨をひさめといふは、氷のごとき雨といふ意にて、いま霰雹など、氷零《ヒフル》とすれば、雨の甚しきを、氷にたとへたる也。霖は添てかけるなるべし。さてこの※[雨/沛]霖を、宣長は(358)※[雨/脉]霖の誤りとして、舊訓のまゝ、こさめとよまれたり。そは和名抄風雨類に、兼名苑云※[雨/脉]霖、一名細雨【小雨也和名古散女】とありて、※[雨/脉]霖と改ためん方、いとまさりたれど、しばらく原本にしたがふのみ、
白妙之《シロタヘノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上四十三丁】にも出たり。
衣※[泥/土]漬而《コロモヒヅチテ》。
泣涙の、雨のごとくふりおつるを、衣をひたしぬらしつゝ、その人、立とまりて吾に語らくと也。※[泥/土]漬を、ひづちてと訓よしは、考別記云、この言を、集中に※[泥/土]打と書し多かれど、打は借字にて、この卷の未に、※[泥/土]漬と書たるぞ正しきなる。且この二字を比豆知《ヒヅチ】と訓ことは、下に假字にてあるなり。言の意は、物の※[泥/土]《ヒヂ》に漬《ツキ》てぬるゝを、本にて、雨露泪などにぬるゝにもいへり。かくて、比豆知は、右の※[泥/土]漬の字のごとく、比治都伎《ヒヂツキ》也。その比治都伎の、治《ヂ》と豆《ヅ》は、音通ひ、都伎《ツキ》の約は、知《チ》なれば、比豆知《ヒヅチ》といふ。又その豆知を約れば、治《チ》となる故に、比治《ヒヂ》とばかりもいふなり、云々といはれつるがごとし。この言は、上【攷證此卷三丁】にも出たり。考へ合すべし。
立留《タチトマリ》。吾爾語久《ワレニカタラク》。
らくは、るを延たる言にて、かの人、立とまりて、われにかたるにはといへる也。
何鴨《ナニシカモ》。本名言《モトナイヘル》。
宣長云、言はいへる、聞者はきけば【三音の句】語者はかたればと訓べし。さて、本名《モトナ》といふ言は、いづれもみな、今の世の俗言に、めつたにといふと同じ。めつたには、みだりにといふと同意にて、みだり、めつた、もとな、皆通音にて、もと同意也。さて、集中にて、もとなといふは、實にみだりなるにはあらざれども、其事をいとふ心より、みだ(359)りなるやうに思ひていふ言也。こゝの歌にては、言《イハ》ば、聞《キカ》ば、音のみなかれ、心いたきものを、何ぞみだりにいへるといふ意也云々といはれつるがごとし。本名《モトナ》は、借字《(マヽ)》に、辭なり。この言は本集三【卅二丁】に、明日香川今毛可毛等奈《アスカガハイマモカモトナ》、夕不離川津鳴瀬之清有良武《ユフサラズカハヅナクセノサヤケカルラム》云々。四【卅丁】に、不相見者不戀有益乎《アヒミズバコヒザラマシヲ》、妹乎見而《イモヲミテ》、本名如此耳戀者奈以將爲《モトナカクノミコヒバイカニセム》云々などありて、集中いと多し。意は、宣長のいはれつるが如し。(頭書、契沖はよしなしといふ意也といへり。本づく所なき意なればこれも叶へり。)
聞者《キケバ》。泣耳師所哭《ネノミシナカユ》。
こゝよりは、かの道來る人の答へ言へる詞にて、かの高圓山に見ゆる火のゆゑよしを、われもきけて《(マヽ)》、音をのみぞなかるゝといふにて、ゆは、るの意なり。
語者《カタレバ》。心曾痛《コヽロゾイタキ》。
その事、語り聞するにも、心にいたましみ思ふといふにて、心曾痛《コヽロゾイタキ》は、上【攷證二中九丁】にもいへるがごとく、心も痛きまで、いたましみ思ふといふ意也。
天皇之《スメロキノ》。神之御子之《カミノミコノ》。
天皇を、すめろぎと申奉る事は、上【攷證一上四十八丁】にいへり。神之御子とは、天皇の皇子を申す也。天皇を、神と申す事は、上ところ/”\に云るが如し。
御駕《イデマシ・オホウマ》之《ノ》。
考に、いでましとよまれしによるべし。駕は、上【攷證一下十六丁】ににいへるがごとく、行の意なれば、こゝは親王の御葬送を、いでましとはいへるなり。行幸をも、いでましと(360)はいへど、天皇のみにかぎらず。いでましは、出座《イテマス》といふ意なれば、皇子其外貴人にはいふべし。そは、書紀天智紀童謠に、于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古《ウチハシノツメノアゾビニイテマセコ》云々とあるにても思ふべし。
手火之光曾《タヒノヒカリソ》。
手火は、御葬を送り奉る人の、手ごとに持たる火にて、今ついまつ、たいまつなどいふもの也。書紀神代紀上云、陰取2湯津爪櫛1、牽2折其雄柱1、以爲2秉炬1而見v之云々。訓注云、秉炬此云2多妣《タヒ》1云々。釋日本紀卷六、引2私記1云、秉炬猶如v云2手火1云々とありて、新撰字鏡云、炬苣同巨音亟也、太比、又止毛志火云々とも見えたり。集韻に、炬束v葦燒也。これらを合せ考へて、今いふ、たまつなるをしるべし。かの高圓山にもゆる火を、何ぞとゝへば、御葬のたいまつの火の、あまたてらせるなりとなり。
231 幾許照而有《コヽタテリタル》。
幾許《コヽタ》は、數多いへる事は、まへ、狹岑島の條にいへるがごとし。
反歌二首。
こゝを、印本、短歌とせるを、今意改せり。そのよしは、まへにいへり
高圓之《タカマトノ》。野《ヌ・ノ》邊秋芽子《ベノアキハギ》。徒《イタツラニ》。開香將散《サキカチルラム》。見人無爾《ミルヒトナシニ》。
高圓之《タカマドノ》。野邊秋芽子《ヌヘノアキハギ》。
高圓山御葬りにゆく道なる事、本歌にいへるがごとし。芽子は萩なり。この事は、上【攷證二上卅九丁】にいへり。
徒《イタヅラニ》。
印本、徒を從に誤れり、誤りなる事、明らかなれば、古本、拾穗本などによりて改む。いたづらは、無用の意也。この事は、上【攷證一下卅三丁】にいへり。
(361)見人無爾《ミルヒトナシニ》。
咲も散もすらんといふにて、一首の意は、今は親王おはしまさゞれば、高まとの野べの秋はぎも、無用に咲て、將《(マヽ)》ぬらん。見る人もなくといへるなり。
232 御笠山《ミカサヤマ》。野《ヌ・ノ》邊往道者《ベユクミチハ》。己伎太雲《コキダクモ》。繁《シゞニ・シゲク》荒有可《アレタルカ》。久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》。
御笠山《ミカサヤマ》。
これも、大和國添上郡高圓山のほとりにて、春日のうちなる事、春日なるみかさの山とよめるにてもしるべし。
己伎太雲《コキタクモ》。
上、狹峯島の歌に、幾許《コヽタ》とある所にいへるがごとく、こきだくとも、こきぱくとも、こゝだくとも、こゝばくとも、こゝだとも、こきだとも、いろ/\にいへど皆一つ言にて、數の多きをいへり。印本、太を大に誤れり。誤りなる事明らかなれば、意改せり。
繁《シヽニ・シゲク》荒有可《アレタルカ》。
舊訓、繁を、しげくと訓つれど、しゞにとよむべし。本集三【廿九丁】に、五百枝刺繁生有都賀乃樹乃《イホエサシシヽニオヒタルツガノキノ》云々。また【卅七丁】竹玉乎繁爾貫垂《タカダマヲシヽニヌキタレ》云々などありて、猶繁をしゞとよめる、集中いと多し。又六【十二丁】に、越乞爾思自仁思有者《コエカテニシジニモヘレバ》云々。四【十六丁】に、打靡四時二生有莫告我《ウチナヒキシジニオヒタルナノリソガ》云云。十三【十八丁】に、竹珠呼之自二貫垂《タカダマヲシゞニヌキタレ》云々など、假字に書る所も多し。これらにても、しゞとよむべきをしるべし。可は、かもの意にて、歎息の詞也。一かたならず、しげくあれたるかもといへる也。さて己伎大雪繁荒有可《コキタクモシゝニアレタルカ》とあるを、重言なりとて、考には、或本に、己伎太久母荒爾計類鴨《コキタタモアレニケルカモ》(362)とあるを取れしかど、こきだくは、數多き意にて、一かたならずといふに當りたれば、重言にはあらず。そは本集十七【四十八丁】に、許己太久母之氣伎孤悲可毛《コヽダクモシケキコヒカモ》云々あるにても、おもふべし。
久爾有勿國《ヒサニアラナクニ》。
久しくといふを、ひさとのみいへるは、本集十五【七丁】に、和可禮弖比左爾奈里奴禮杼《ワカレテヒサニナリヌレド》云々。十七【十六丁】に、美受比佐奈良婆《ミズヒサナラバ》云々。十八【卅二丁】に、美受比左爾云々など見えたり。この句を以て思ふに、この歌は、かの親王を葬り奉りて、後、御墓詣などしてよめるなるべし。されど同じ度の歌なれば、反歌には加へつらん。さて一首の意は、三かさ山の野をゆく道は、其後いまだいくばくをも經ざるに、一かたならずしげくあれたるものかなといへるなり。考には、右の反歌二首を、反歌の趣にあらずとて、端辭を加へて、別の歌とせられたり。これもさる事ながら反歌としても聞ゆまじきならねば、改むる事なし。
右歌。笠朝臣金村歌集出。
父祖官位不v可v考。集中、養老神龜より、天平のはじめまでの歌、見えたり。このころの人なるべし。笠の氏は、古事記中卷云、若日子建吉備津日子命者【吉備下道臣笠臣祖。】書紀天武紀云、十三年十一月、戊申朔、笠臣賜v姓、曰2朝臣1云々。新撰姓氏録卷五云、孝靈天皇皇子、稚武彦命之後也、應神天皇、巡2幸吉備國1、登2加佐米山1之時、飄風吹2放御笠1、天皇怪v之、鴨別命、言d-神祇欲2奉天皇1、故其状爾u、天皇欲v知2其眞僞1、令v獵2其山1、所v得甚多、天皇大悦、賜2名賀佐1云々など見えたり。
(363)或本歌曰。
233 高圓之《タカマトノ》。野《ヌ・ノ》邊乃秋芽子《ベノアキハギ》。勿散禰《ナチチソト》。君之形見爾《キミガカタミニ》。見管思奴幡武《ミツヽシヌバム》。
勿散禰《ナチチソト》。
ちることなかれといふに、禰と下知したる也。この事は、まへに鹽干勿有曾禰《シホヒナアリソネ》とある所にいへり。一首の意は、君が陵のほとりなる、高圓山の野べの秋萩よ、ちる事なかれ。過給ひし君が、御形見と見つゝ、しのび奉らんにとなり。
234 三笠山《ミカサヤマ》。野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》。己伎太久母《コキダクモ》。荒爾計類鴨《アレニケルカモ》。久爾有名國《ヒサニアラナクニ》。
野邊從遊久道《ヌベユユクミチ》。
從は、よりの意にて、野べよりゆく道なり。一首の意は本歌とおなじ。
萬葉集卷第二
(364)一の巻を考證しをはりつる、文政七とせといふ年の、五月中の三日を、きのふといふ日より、筆を取て、此卷をかきをはりつるは、同じ年の十一月二十日あまり七日になん。
岸本由豆流
(以上攷證卷二下冊)
萬葉集叢書第五輯
大正十四年四月五日印刷
大正十四年四月八日發行
定價参圓五拾錢
著者 故岸本由豆流
校訂者 武田祐吉
東京市外西大久保四五九番地
發行者 橋本福松
東京市麹町區紀尾井町三番地
印刷者 福王俊禎
發兌元 東京市外西大久保四五九番地 古今書院
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(1)萬葉集卷第三
雜歌。
雜歌の事は、卷一のはじめにいへるがごとし。さて、この卷の事は、考云、この卷より下、おほくは家々に集めたる歌どもにて、そが中に、この卷らは、大伴家持ぬしの家の歌集なり。さて、初は、雜歌、譬喩歌、挽歌とついでゝ、時代の次を心して、一二の卷の拾遺めきてせられたるを、その體もはたさず、人のいへるを聞がまゝに、おひ/\に書載しかば、みだりになりぬ。後に正すべかりしを、をこたりしまゝに、傳れるなるべし。そのみだりなる事は、大伴旅人卿の事を、上に大納言大伴卿とありて、下に中納言なる時の歌をのせ、上に春日藏首老とありて、下にこの人まだ僧にて、辨基といひし時の歌ものり、藤原の宮人を下に、奈良の宮人を上にあげし類、又旅、相聞、俳歌など、所さだめず入。この外みだりにて、撰める卷にあらず。この卷に、古へのよき歌多くのせつ。こゝろをやりて見よ云々といはれし、一わたりはさる事ながら、提要にもくはしくいへるがごとく、この卷より下は、いとみだりがはしく、撰び集めたるものとも見えず。時代のたがへる、ことの前後せるなど、そのあやしみをかぞへんには、いたづらに筆をわづらはすのみにて、何の益もあらざれば、舊本のまゝにておきつ。一二の卷と、例のたがへるをあやしむ事なかれ。
(2)天皇。御2遊|雷岳《カミヲカ》1之時。柿本朝臣人麿作歌一首。
天皇。
持統天皇を申すなるべし。一二卷は、其宮御宇天皇代として、さて天皇としるせしかば、たしかにその天皇としらるゝを、こゝより下は、その標目をあげざれば、たしかにはしりがたけれど、この歌の作者人麿をば、一二卷に、みな藤原宮の下に出せしかば、この天皇も、持統天皇とこそしらるれ。但し、人麿は、奈良の京までわたりし人とはおもはるれど、一二の卷の例もて、藤原宮御宇の人とすべし。
雷岳《カミヲカ》。
これを、久老は、左の歌につきて、いかづちのをかとよみ、岳を丘と改めしは誤り也。考に、こゝをも、かみをかとよまれしをよしとす。そのよしは、上【攷證二中卅一丁】にくはしくいへり。
235 皇《オホキミ・スメロギ》者《ハ》。神二四座者《カミニシマセバ》。天雲之《アマグモノ》。雷之上爾《イカヅチノウヘニ》。廬《イホリ》爲《セ・ス》流鴨《ルカモ》。
皇者《オホキミハ・スメロギハ》。
舊訓、すめろぎはとあれど、考に、おほきみはとよまれしによるべし。そのよしは、長上【攷證一下六十九丁】に出せる、久老が説のごとし。
神二四座者《カミニシマセバ》。
天皇は、たゞ人とは別にて、神にてましませばといへる也U。天皇を神と稱し申す事は、上【攷證一上四十八丁一下八丁十一丁】にいへるが如し。
(3)天雲之《アマグモノ》。雷之上爾《イカツチノウヘニ》。
雷は、雲中にあれば、本集七【三十六丁】に、天雲近光而響神之《アマクモニチカクヒカリテナルカミノ》云々。十一【二十八丁】に、天雲之八重雲隱鳴神之《アマクモノヤヘクモカクリナルカミノ》云々。十九【三十三丁】に、天雲乎富呂爾布美安多之鳴神毛《アマクモヲホロニフミアタシナルカミモ》云々などよめり。さて、雷は、集中、神とも、なる神ともよみ、又いかづちとよめり。そのよしは、上【攷證二下二十丁】にいへり。上《ウヘ》は、雷山の上なり。久老が、上は山の誤りにやといへるは、いかゞ。
廬《イホリ》爲《セ・ス》流鴨《ルカモ》。
廬《イホリ》は、假廬をいへるにて、いづこにも行幸し給ふ所には、行宮《カリミヤ》を作りておはしませば、それを申也。たゞ人も、旅には假廬を作りて居る事、上で【攷證二下六十五丁】にいへるが如し。一首の意は、天皇は神にてましませば、奇《クス》しくあやしき御しわざありて、人力のおよぶまじき雷の上に、いほりを作り給へるかなと申すにて、雷山を、實の雷にとりなしてよめるは、歌の興なり。本書十三【四丁】に、月日攝友久經流三諸之山礪津宮地《ツキヒモアラタマレドモヒサニフルミモロノヤマノトツミヤコロ》云々とあれば、この雷山に行宮ありし事しるし。さて、爲流を、舊訓、すると訓れど、せると訓べし。そは、久老が別記に、後世、勢流《セル》と須流《スル》とを、ひとつ言と心得て、せると訓べき所を、すると訓るも多し。今よく考るに、須流《スル》は、現在より末をかけていふ言、世流《セル》は、志多流《シタル》をつゞめたる言にて、過去より現在までをいふ言也。その例をあぐるに、集中いと多くて、わづらはしければ、日本紀、古事記にあると、集の一二の卷をいはんに、世流《セル》は、神武紀に、※[さんずい+于]奈餓勢屡《ウナガセル》云々。繼體紀に於婆細屡《オバセル》云々。推古紀に許夜勢流云々。古事記【景行の條】に、那賀祁勢流《ナカケセル》云々。また和賀祁勢流《ワカケセル》云々。又【雄略の條】に、佐々加勢流《サヽガセル》云々。集には、卷一【十九】に、頭刺理《カザセリ》。また二十五丁、廬利爲利計武《イホリセリケム》云々。卷二【三十三丁】に、御名爾懸世流《ミナニカヽセル》。また【三十九丁】(4)枝刺流如《エダサセルゴト》。また【四十二丁】奈世流君香聞《ナセルキミカモ》云々。この外、卷々にいと多き、皆同じ意なり。これらの例をもてしるべしといへるがごとし。くはしくは、本書につきて見るべし。
右或本云。獻2忽忍《オサカヘ》皇子1也。其歌曰。
忍壁皇子は、天武帝の皇子なり。上【攷證二下一丁】に出たり。
王《オホキミハ》。神座者《カミニシマセバ》。雲《クモ》隱《ガクル・ガクレ》。伊加土山尓《イカヅチヤマニ》。宮敷座《ミヤシキイマス》。
王《オホキミハ》。神座者《カミニシマセバ》。
久老云、王とは、皇子諸王を申事なれど、こゝも天皇には皇とかき、皇子には王と書て、別てりと思ふ人あるべけれど、さにあらず。皇も王も、おほきみと訓て、ひとつ事なるよしは、卷十九に、壬申年之亂平定以後歌と標して、皇者神爾之《オホキミハカミニシ》ませば、赤駒之《アカゴマノ》はらばふ田爲《タヰ》を京師《ミヤコ》となしつ。大王神爾之《オホキミハカミニシ》ませば、水とりのすだくみぬまを皇都となしつとあり。この大王は、王とのみありて、同じ事なれば、天皇と皇子とを別てるにはあらず云々といへるがごとし。
雲《クモ》隱《ガクル・ガクレ》。
本集十一【二十八丁】に、天雲之八重雲隱鳴神之《アマクモノヤヘクモガクリナルカミノ》云々とつゞけたるごとく、こゝはいかづちとつゞけたり。
伊加土山尓《イカヅチヤマニ》。
これを、久老が槻の落葉に、雷山と改めしは、いかなる事ぞや。いかづちといふ言の本訓は、こゝと、佛足石の御歌とのみに殘れるものをや。
(5)宮敷座《ミヤシキイマス》。
敷座《シキマス》は、本集一【十八丁】に、宮柱太敷座波《ミヤハシラフトシキマセバ》云々とある敷座と同じく、知り領します意也。此卷【十七丁】に、日之皇子茂座大殿於《ヒノミコノシキマセルオホトノヽウヘニ》云々。また【二十八丁】皇神祖之神乃御言乃敷座國之盡《スメロギノカミノミコトノシキマセルクニノコト/”\》云々などあると、同語なるにても思ふべし。この事上【攷證一下七丁】にくはしくいへり。一首の意は、本歌と同じ。さて、この歌を、考云、皇子に申さん事にはあらず。端詞の誤りしもの也云々といはれつるが如く、皇子に献れる趣にあらず。思ふに、皇子につけて、天皇に奉りしにもあるべし。
天皇。賜2志斐嫗《シヒノオミナ》1御製歌一首。
天皇。
代匠記云、さきの天皇も、ともに持統天皇なるべし。その故は、老女にさる物語などせさせて、きこしめしけると見ゆれば、女帝に似つかはしき故なり云々。この説、さもあるべし。
志斐嫗《シヒノオミナ》。
代匠記云、志斐嫗の、志斐は氏なり云々。さもあるべし。續日本紀、養老五年正月紀に、算術正八位上志斐連三田次といふ人見えたり。新撰姓氏録卷十九云、志斐連、大中臣朝臣同v祖、天兒屋命之後也と見えたり。又考ふるに、右の御製にものたまへるごとく、この嫗、強言《シヒゴト》を強《シヒ》て申すによりて、字《アザナ》して志斐《シヒ》の嫗とはのたまへるにて、志斐は氏にはあらざるべし。姓氏録卷二に、阿倍志斐連、大彦命八世孫、稚子臣之後也、孫自v臣人世孫名代、謚天武御世、献2之楊花1、勅曰、何花、名代奏曰2辛夷《コブシ》花1也、群臣奏曰是楊花也、名代猶強奏2辛夷花1、因腸2阿倍志斐連姓1也云々とあるも、楊花を強《シヒ》て辛夷花なりと奏しゝによりて、阿倍志斐といふ氏をば賜ひしなれば、こゝと似たる事なり。嫗は、おみなとよむべし。そのよしは、上【攷證二上四十八丁】にくはしく(6)いへり。
御製歌。
印本、製の字なし。集中の例によりて補ふ。
236 不聽跡雖云《イナトイヘド》。強流志斐能我《シフルシヒノガ》。強語登《シヒゴトト》。比者不聞而《コノゴロキカデ》。朕戀爾家里《ワレコヒニケリ》。
不聽跡雖云《イナトイヘド》。
不聽を、いなとよめるは、義訓也。いなきかじといへどゝなり。この言の事は、上【攷證二上十五丁】にいへり。
強流《シフル》。
流《シフ》るは、俗言に、しひるといふと同じく、しひて語り聞しめ奉る也。本集四【四十三丁】に、不欲常云者將強哉吾背《イナトイハバシヒムヤワカセ》云々。九【二十八丁】に、四臂而有八羽《シヒニテアレヤハ》云々。十二【十四丁】に、吾將強八方《ワレシヒメヤモ》云々。十七【四十七丁】に、之比爾底安禮可母《シヒニテアレカモ》云々なども見えたり。
志斐能我《シヒノガ》。
考云、志斐女之《シヒナガ》也。今本、那を能に誤云々といはれしは誤りなり。志斐能我《シヒノガ》の能《ノ》は、本集十四【十一丁】に、勢奈能哉素低母《セナノガソデモ》云々。また【二十九丁】伊毛能良爾毛乃伊波受伎※[氏/一]《イモノラニモノイハズキテ》云々。十八【十四丁】に、之奈射可流故之能吉美能等《シナサカルコシノキミノト》云々などある能《ノ》もじと同じく、助字にて、志斐《シヒ》がとのたまふ也。さて久老が、この能は、したしみ呼ぶに、添いふ言のよしいひて、十四卷なる伊毛能良《イモノラ》は、同卷に妹奈呂《イモナロ》とあると同言にて、勢奈《セナ》、手兒奈《チコナ》などいふ奈も、この能に同じかるべしといへるは、いかゞ。十四卷【十八丁】なる妹奈呂《イモナロ》の奈《ナ》は、能《ノ》と通ひて、助字、呂《ロ》もらと通ひて、等《ラ》也。(7)そは、同卷【二十四丁】に、伊毛呂乎《イモロヲ》云々と、奈の字を略きいへるにても、奈《ナ》は助字、呂《ロ》は等《ラ》なるをしるべし。
強語登《シヒゴトト》。
印本、登もじなくて、しひごとをとよめり。今は元暦本によりて補ふ。登もじは、助字にて、心なし。されど、かゝる所に、登もじをおくは、古言の一つの格なり。そは
古事記中卷歌に、宇迦迦波久斯良爾登《ウカガハクシラニト》、美麻紀伊理毘古波夜《ミマキイリヒコハヤ》云々。本集二【四十二丁】に、不知等妹之待乍將有《シラニトイモガマチツヽアラム》云々。此卷【四十六丁】に、逆言之狂言等可聞《サカゴトノマガコトヽカモ》云々。四【二十三丁】に、爲便乎不知跡立而爪衝《スベヲシラニトタチテツマツク》云々。また【十二丁】寢宿難爾登阿可思通良久茂《イネガテニトアカシツラクモ》云々。十九【三十八丁】に、公之事跡乎負而之將去《キミガコトトヲオヒテシユカム》云々などある、ともじも、みな助字也。この助字のともじの事は、下【攷證四上三丁】にもいへり。さて、この登もじを、久老が別記には、切《セチ》にいひきはむるとき添る言のよしいひて、例を多くあげたれど、その例たしかならざれば、登もじは、たゞ助字とのみ心得べし。
比者不聞而《コノコロキカデ》。
印本、比を此に誤れり。今は、拾穗本古本などによりて改む。久老は、比日と改めつれど、比者にても、このごろとよまん事論なし。
朕戀爾家里《ワレコヒニケリ》。
一首の意は、いなきかじとのたまひつれど、強《シヒ》て語り聞せ奉りし、志斐の嫗は、強語《シヒゴト》をうるさくおぼしめしつれど、このごろ久しく聞たまはざれば、さらに戀しきこゝちせりとのたまへるなり。
志斐嫗奉v和歌一首。 嫗名未v詳。
(8)和は答へにて、答へ奉る歌なり。この事は、上【攷證一上三十一丁】にいへり。嫗名未詳の四字、印本大字とせり。今、集中の例によりて、小字とす。
237 不聽雖謂《イナトイヘド》。話禮話禮常《カタレカタレト》。詔《ノラセ・ノレバ》許曾《コソ》。志斐《シヒ》伊《イ・テ》波奏《ハマヲセ》。強話登言《シヒゴトノル》。
話禮話禮常《カタレカタレト》。
爾雅釋詁、廣雅釋詁四などに、話言也とあれば、かたるとよまん事論なし。
詔《ノラセ・ノレバ》許曾《コソ》。
のらせは、のりませばといふにて、のるとは、紀記集中、告の字を多くよめるごとく、人にものを告《ツグ》る意にて、名告といふも、詔《ミコトノリ》といふも、この告《ノル》也。こゝは、天皇なれば、詔の字をば、書る也。そは、廣韻云、詔上命也、秦漢以下、天子獨稱v之と見えたり。さて、詔古曾《ノラセコソ》は、のらせばこその、ばを略ける也。ばの字を略ける事は、上【攷證一下二十七丁】にも、所々にいへるを引合せ心得べし。
志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》。
志斐伊《シヒイ》の伊《イ》は、斐の引聲を延《ノペ》たる言にて、本集此卷【五十九丁】に、不絶射妹跡《タエシイイモト》云々とあると、同じ言にて、伊にはこゝろなく、たゞしひてはまをせといふ意也。
又書紀繼體紀歌に、※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》、輔曳府枳能朋樓《フエフキノボル》云々。本集四【二十三丁】に、木乃關守伊將留鴨《キノセキモリイトヾメテムカモ》云云。九【三十六丁】に、菟原壯夫伊《ウナビヲトコイ》、仰天《アメアフキ》云々。十二【三十五丁】に、家有妹伊《イヘナルイモイ》、將欝悒《イフカシミセム》云々。續日本紀、神龜六年八月詔に、藤原朝臣麻呂|等伊《ライ》云々。天平勝寶元年四月詔に、百濟王敬福伊云々。天平寶字元年七月詔に、奈良磨古麿等伊《ナラマロコマロライ》云々などあるは、伊《イ》と與《ヨ》と音通すれば、若子《ワクゴ》よ、關守よ、麻呂等《マロラ》よなど、(9)呼《ヨビ》かくる、よと同じ言なれば、志斐伊波《シヒイハ》の伊とは、さらに別なれば、思ひ誤る事なかれ。さて、これらの伊《イ》は、語の上に添ていふ、發語の伊もじとも別也。奏は、天皇に申す所なれば、奏とは書る也。
強話登言《シヒゴトノル》。強冨
この句を、久老が強語登云とあらためて、しひごとゝちふとよめるは誤り也。本のまゝにても、よく聞ゆるをや。話は、まへにあげたるごとく、言也といふ字註あれば、ことゝよまん事論なく、言を、のるとよめるは、義訓にて、明らか也。さて、一首の意は、わが御物語申あげでも、強ごと也とのたまふ故は、いな語り奉らじといへど、強て語れ/\とのり給へばこそ、志斐ては語り申すなれ。それを又しひごとゝはのり給ふなりと、たはぶれ和へ奉るなり。
長忌寸意吉麻呂。應v詔歌一首。
長忌寸意吉麻呂は、上【攷證一下四十四丁】に出たり。應v詔は、詔に答へ奉る也。國語晋語注、國策齊策注などに、應答也とあるにても思ふべし。さて應v詔とあるからは、何ぞ詔のありしなるべけれど、こゝにしるさゞれば、しりがたし。左注に、右一首とのみあるは、この下に詔の事ありしを脱せしにもあるべし。或る人、この詔は、まへの志斐嫗に給へる御歌をうけて、それに應ずる歌にて、海人に尼をかけて、この志斐嫗は尼なるべしといへれど、この集のころ、さる事あらんやは。案るに、こは下にあげたる久老の説のごとく、行幸などのをり、從駕してよめる歌なるべし。
(10)238 大宮之《オホミヤノ》。内二手所聞《ウチマデキコユ》。網引爲跡《アヒキスト》。網子調流《アコトゝノフル》。海人之呼聲《アマノヨビコヱ》。
内二手所聞《ウチマデキコユ》。
二手を、までとよめるは、義訓也。この事は、上【攷證一下七十二丁】にいへり。
網引爲跡《アヒキスト》。
網引は、字の如く、網をひく也。網を、あとのみ訓るは、略訓也。本集四【二十九丁】に、網引爲難波壯士乃《アヒキスルナニハヲトコノ》云々。七【十七丁】に、網引爲海子哉見《アヒキスルアマトカミラム》云々。十一【二十七丁】に、住吉乃津守網引之《スミノエノツモリアヒキノ》云々など見えたり。
網子調流《アゴトゝノフル》。
網子《アゴ》は、網ひく人夫をいふ事、水手をかこ、舟人を舟子といふにてしるべし。調流《トヽノフル》は、本集二十【十八丁】に、安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナキニカコトヽノヘ》云々ともありて、呼集むる意なり。この事は、上【攷證二下二十丁】にくはしくいへり。
海人之呼聲《アマノヨビコヱ》。
漁人《アマ》は、漁人をいへり。この事、上【攷證一上十二丁卅九丁】にいへり。呼聲《ヨビコヱ》は、友を集めんとてよばふ聲の、宮中まできこゆる也。久老云、この歌、大和に海なければ、かならず難波にての歌なるべしと、契沖いへり。まことにしかり。難波は、仁徳孝徳の皇居なりしに、天武紀、十二年詔曰、凡都城宮室、非2一處1、必造2兩參1、故先欲v都2難波1とありて、文武天皇三年正月、幸2難波宮1とあるも、この宮なるべければ、さるをりつかふ《(マヽ)》まつりて、よめるなるべし云々といへり。この説、さもあるべし。
(11)右一首。
まへにもいへるごとく、この下にことのよしありつらんを脱せしなるべし。
長皇子。遊2獵獵路池1之時。柿本朝臣人麿。作歌一首。并短歌。
長《ナガノ》皇子。天武天皇の皇子也。この御事は、上【攷證一下四十六丁】に申せり。
遊獵。
印本、この獵の字を脱せり。いま活字本によりて補ふ。遊獵は、かりし給ふ也。
獵路《カリチノ》池。
大和志云、十市郡獵路小野、鹿路村舊屬2高市郡1とあり。本集二【三十七丁】に、天飛也輕路者《アマトフヤカルミチハ》云々とよめる輕路も、高市郡なれば、りとると通じて、こゝと同所か、可v考。さて左の歌には、獵路小野《カリヂノヲヌ》と見え、十二【二十七丁】に、遠津人獵道之池爾住鳥之《トホツヒトカリヂノイケニスムトリノ》云々とも見えたれば、この野に池もありて、野にもいけにも名づけしなるべし。されば、久老が考に、この獵路池を、強て獵路野と改めしは非なり。
239 八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。高《タカ》光《ヒカル・テラス》。吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》。馬並而《ウマナメテ》。三獵立流《ミカリタヽセル》。弱《ワカ》薦《コモ・クサ》乎《ヲ》。(12)獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》。十六社者《シヽコソハ》。伊波比《イハヒ》拜目《ヲロガメ・フセラメ》。鶉己曾《ウヅラコソ》。伊波比囘禮《イハヒモトホレ》。四時自物《シヽジモノ》。伊波比《イハヒ》拜《ヲロガミ・フセテ》。鶉成《ウヅラナス》。伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》。恐等《カシコシト》。仕奉而《ツカヘマツリテ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天見如久《アメミルゴトク》。眞十鏡《マソカガミ》。仰而雖見《アフキテミレド》。春草之《ワカクサノ》。益《イヤ・マシ》目頬四寸《メツラシキ》。吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》。
八隅知之《ヤスミシヽ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一上六丁】にも出たり。
吾大王《ワガオホキミ》。
集中、吾王、我王などあるをも、すべて、久老は、わごおほきみと訓つれど、舊訓のまゝ、わがとよむべし。そのよしは、上【攷證一上七丁】にいへり。さて、この吾大王は、天皇をさし奉れり。
高光《タカヒカル》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上にも多く出たり。
吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》。
吾は、吾大王《ワガオホキミ》と申吾と同じく、親しみ奉りて申す詞にて、吾兄、吾妹などいふと同じ。日之皇子は、上【攷證一下十九丁】にいへるがごとく、日之神の御末の御子と申す意也。こゝは、長皇子をさし奉れり。さて、久老が考には、皇子乃の乃もじを略きつれど、本集二【二十七丁】に、高光我日皇子乃萬代爾《タカヒカルワガヒノミコノヨロヅヨニ》云々ともありて、乃もじは、つけてもはぶきてもいふ(13)言なれば、あるもあしからず。
馬並而《ウマナメテ》。
馬を乘|並《ナラ》べてなり。この事は、上【攷證一上九丁】にいへり。
三獵立流《ミカリタヽセル》。
三は借字にて、御なり。立流《タヽセル》は、立ませるといふ意にて、枕詞をへだてゝ、獵路乃小野《ノカリチヲヌ》爾につゞく也。本集一【二十二丁】に、馬副而御獵立師斯《ウマナメテミカリタヽシヽ》とも見えたり。
弱《ワカ》薦《コモ・クサ》乎《ヲ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。若菰を苅とつゞけし也。弱をわかとよめるは、義訓也。左傳、文十二年注に、弱年少也とあれば、おのづから若き意也。薦を、こもとよめるは、借訓にて、菰なり。薦は和名抄坐臥具に、唐韻云薦【作甸反、和名古毛】席也とありて、しきものゝ事なれど、訓の同じきまゝに、借用ひたる也。菰は和名抄草類に、本草云菰、一名蒋【上音孤、一音將、和名古毛】云々と見えたり。
獵路乃小野爾《カリヂノヲヌニ》。
まへにいへるごとく、高市郡にて、この野に池もありしなるべし。されば野とも池ともいへるならん。
十六社者《シヽコソハ》。
十六を、しゝとよめるは義訓也。本集六【十四丁】に、十六履起之《シヽフミオコシ》云々と見えたり。こは、重二、並二などを、しの假字に用ひ、八十一をくゝとよみ、二五をとをとよみ、二十をはたと訓る類也。社を、こそと訓るも義訓也。この事は、上【攷證二中二丁】にいへり。
(14)伊波比拜目《イハヒヲロガメ》。
伊波比《イハヒ》は、上【攷證二下二十八丁】伊波比伏管《イハヒフシツヽ》とある所にいへるがごとく、伊は發言にて心なく、波比《ハヒ》は這《ハヒ》にて、畏《カシコ》みおそれ伏《フス》をいへり。拜目《ヲガメ》の目《メ》は、まへの社《コソ》の結び也。拜目《ヲロガメ》は、書紀推古紀歌に、烏呂餓彌弖菟伽陪摩都羅武《ヲロガミテツサカヘマツラム》云々。釋日本紀卷五、引公望私記云、謂拜爲2乎加無《ヲガム》1、言是|乎禮加々旡《ヲレカヾム》也などありて、おそれ伏《フス》をおろがむとはいへるにて、神佛にぬかづくをおがむといふも、これ也。こゝは、鹿猪《シヽ》などの膝を折伏《エオチフシ》てつゝしみかしこまるをいへる事、本集二【三十二丁】に、鹿白物伊波比伏管《シヽジモノイハヒフシツヽ》云々。此卷【三十七丁】に、十六白物膝折伏《シヽジモノヒザヲリフセ》云々などあるにてもおもふべし。さて、この拜を、をろがむとよめるは、宣長のよまれし也。
鶉己曾《ウヅラコソ》。
鹿猪《シヽ》も鶉も、獵に專らするものなれば、對へいへる也。本集二【三十五丁】に鹿自物伊波比伏管《シヽジモノイハヒフシツヽ》【中略】鶉成伊波比廻《ウズラナスイハヒモトホリ》云々とも見えたり。
伊波比囘禮《イハヒモトホレ》。
伊波比は、まへにいへるごとく、伊は發語にて、波比は這也。こゝは、うづらの飛もやらでめぐりありくをいへるにて、囘《モトホル》とは、めぐれる事也。この事は、上【攷證二下廿九丁】にくはしくいへり。さて、こゝまでは、皇子の御獵にいでましゝかば、鹿猪《シヽ》鶉さへも敬ひ奉りて、走りも飛もやらで、あるは這伏《ハヒフシ》、あるは這囘《ハヒメグリ》などするさまをいひて、こゝより下は、その鹿猪《シヽ》鶉《ウヅラ》などの如、人麿自らも奉仕るさまをいへり。
四時自物《シヽジモノ》。伊波比《イハヒ》拜《ヲロガミ・フセテ》。鶉成《ウヅラナス》。伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》。
こは、まへの詞をうけて、をの猪鹿《シヽ》のごとく、這伏《ハヒフシ》、その鶉のごとく、這(15)囘《ハヒメグリ》りで、敬ひ仕へ奉るさまをいへり。
恐等《カシコシト》。仕奉而《ツカヘマツリテ》。
かしこしとて、仕へ奉りてといへる也。本集七【三十二丁】に、奧山之於石蘿生《オクヤマノイハニコケムシ》、恐常思情乎《カシコシトオモフコヽロヲ》云々と見えたり。こゝを、久老は、かしこみとゝ訓たれど、そは七卷なる、恐常をよみ誤れるより、こゝをも誤れるにて、非也。但し、本集十五【三十一丁】に、加思故美等能良受安里思乎《カシコミトノラズアリシヲ》云々ともあれど、こは、かしこさにとて言《ノラ》ずありしものをといふ意なれば、こゝの訓とはなしがたし。
久堅乃《ヒサカタノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。上【攷證一下七十五丁】にも出たり。
天見如久《アメミルゴトク》。
本集二【二十八丁】に、久竪乃天見如久《ヒサカタノアメミルゴトク》、仰見之《アフギミシ》、皇子乃御門之荒卷惜毛《ミコノミカドノアレマクヲシモ》とあると同じ。天を見るごとくに、あふぎ見るといふを、枕詞をへだてゝ、次へつゞけたり。
眞十鏡《マソカヾミ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。こは眞清《マスミ》の鏡といふをつゞめて、まそかゞみとはいひて、鏡は見るものなれば、仰《アフグ》といふ字をへだてゝ、雖見《ミレド》とつゞけたる也。これらの事は、予が冠辭考補正にくはしくいふべし。
仰而雖見《アフギテミレド》。
あふぐとは、ふりあふむく事にて、皇子をあふむき見奉らん事、いかゞなるやうに思ふ人も、あるべけれど、天皇にまれ、皇子にまれ、高き《(マヽ)》たとへまつれば、下(16)より上を見る意にて、あふぎて見れどとはいへる也。そは、まへに引る、二卷の歌に、仰兒之皇子乃御門之《アフギミシミコノミカドノ》とよめるにても思ふべし。
春草之《ワカクサノ》。
枕詞にて、冠辭考にくはし。春草をよめるは義訓にて、若草はめづらしきものなれば、若草のいやめづらしきとはつゞけし也。これを、久老は、文字のまゝに、はるくさとよむべしといへれど、いかが。そは、いかにとなれば、わかくさのつま、若草のにひ手枕、若草の思ひつきにしなど、つゞくるも、みな、めづらしき意もていへるなれば、こゝも、わかくさとよむべし。
益目頬四寸《イヤメヅラシキ》。
益は、いやとよむべし。この事は、上【攷證二中五丁】にいへり。目頬《メツラ》と書るは、借字也。この事は、上【攷證二下九丁】にいへり。こゝは、皇子を、、わか草のごとく、あかずめづらしく見奉るにて、本集二【三十二丁】に、鏡成雖見不厭《カヾミナスミレトモアカズ》アカズ、三五月之益目頬染《モチヅキノイヤメツラシミ》云々とも見えたり。
吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》。五芸
長皇子をさし奉りて、めづらしくあかず見奉る君かなと也。
反歌一首。
240 久堅乃《ヒサカタノ》。天歸月乎《アメユクツキヲ》。網爾刺《アミニサシ》。我大王者《ワガオホキミハ》。蓋爾爲有《キヌガサニセリ》。
(17)天歸月乎《アメユクツキヲ》。
歸を、ゆくとよめるは、義訓也。本集四【二十八丁】に、遊而將歸《アソビテユカム》云々。九【三十六丁】に、伊歸集《イユキアツマリ》云々ともありて、集中猶多し。廣雅釋詁一に、歸往也とあれば、ゆくとよまん事、論なし。
網爾刺《アミニサシ》。
眞淵、宣長、久老など、みな網《アミ》は鋼《ツナ》の誤りとして、つなにさしと訓れたれど、皆非也。まづ、これらの説をあげて、後に予が説をいはん。考云、鋼《ツナ》にて、月を刺取《サシトリ》て、蓋《キヌガサ》となしたまへりと也。この鋼《ツナ》を、今本には、網《アミ》とあるによりて、説々いへど、かなはず。蓋をば、鋼《ツナ》つけてひかへるものなれば、かく譬へし也。伊勢大神宮式の、蓋の下に、緋|綱《ツナ》四條とある、これ也。後撰集に、てる月をまさきのつなによりかけてともよみつ云々。宣長の説は、これに同じ。久老云、今本、網《アミ》とあるは、鋼《ツナ》の誤りにて、蓋には鋼《ツナ》ありて、そをとるものを綱取《ツナトリ》といふと、契沖いへり。まことにさる事にて、江次第などにも、その事見えたり。さるを、おのれ疑《ウタガヒ》けるは、鋼《ツナ》には、さすといふ言の、集中にも何にも見えぬに、網《アミ》には、さすといふ言のありて、卷十七に、ほとゝぎす夜音《ヨゴヱ》なつかし、安美指者《アミサヽバ》。おなじ卷に、二上乃乎底母許能母爾《フタカミノヲテモコノモニ》、安美佐之底《アミサシテ》、安我麻都多可乎《アカマツタカヲ》とも見え、端書に、張2設羅網1とあれば、刺とは、あみをはる事にて、こゝも今本の字のまゝに、蓋に網《アミ》をはるにやと思へりしかど、蓋に網《アミ》はさらによしなければ、猶|鋼《ツナ》の誤りとすべき也云々。これらの説、みな非也。予案るに、本集十七【十二丁】に、保登等藝須夜音奈都可思《ホトヽギスヨゴヱナツカシ》、安美指者花者須具等毛《アミサヽバハナハスグトモ》、可禮受加奈可牟《カレズカナカム》とあるは、ほとゝぎすの、夜る鳴聲のなつかしき故に、網《アミ》を張《ハリ》て、外へ飛《トビ》ゆかざるやうに留《トヾ》めおかば、花は散て過ぬとも、いつもなかましといへる意(18)にて、安美指者《アミサヽバ》は、網《アミ》を張《ハリ》て、ほとゝぎすの外へ飛行を留《トヾ》むる意なれば、こゝも網を張《ハリ》て、天《ソラ》往《ユク》月を留《トゞ》めて、君が蓋《キヌガサ》にしたまへりといふ意にて、網爾刺《アミニサシ》は、天《アメ》歸《ユク》月を留めん料にのみいへるにて蓋《キヌガサ》へかけていへるにはあらざる事、天歸《アメユク》月のゆくといふ言に心をつけて、往《ユク》を留《トヽ》めんがために、網《アミ》を張る意なるを、十七卷の、ほとゝぎすを留めんとて、網《アミ》をさせるに思ひ合せてしるべし。かくのごとく見る時は、本のまゝにて、やすらかに聞ゆるを、先達やゝもすれば、文字を改めんとのみして、古書をたすくるわざをはからざるは、いかなる事ぞや。こは、よくも思ひたどらざるより、いでくるわざなるべし。
蓋爾爲有《キヌガサニセリ》。
蓋は、天皇、皇子など、外にいでますに、御上にさしかざすもの也。職員令に、主殿寮、頭一人、掌2供御輿輦|蓋笠《キヌガサ》※[糸+散]扇經帳湯沐洒掃殿庭及燈燭松柴炭燎等事1云云。儀制令に、凡、蓋《キヌガサ》、皇太子紫表蘇方裏頂及四角覆v錦垂v總、親王紫大纈云々。大神宮儀式帳に、大神宮司人垣仕番人等召集弖即|衣垣《キヌガキ》衣笠《キヌガサ》刺羽《サシバ》等乎令v持弖云々。平野祭祝詞に、進流神財波御弓御大刀御鏡鈴|衣笠《キヌガサ》御馬乎引並※[氏/一]云々。延喜大神宮式に、蓋二枚、淺紫綾表緋經裏頂及角覆v錦、垂2淺紫組總1、緋鋼四條云々。和名抄、服玩具に、兼名苑注云、華蓋【和名岐沼加佐】黄帝征2豈(※[山/ノ/一虫]カ)尤1時、當2帝頭上1有2五色雲1、因2其形1所v造也など見えたるにて、このものゝ製作を大方にしるべし。また、本集十九【廿四丁】に、吾勢故我捧而持流保寶我之婆《ワガセコガサヽゲテモタルホヽガシハ》、安多可毛似加青蓋《アタカモニルカアヲキキヌガサ》云々ともよめり。さてこの歌、月を蓋《キヌガサ》に見なしたれば、蓋は圓《マド》かなるものと見ゆるを、右に引る儀制令、大神宮式などには、四角なるよしに見えたり。されば案るに、いと古くは圓なりしを、令のころより四角にはなりつらん(19)か。また圓なるも、方なるも、取交へ用ひたるにもあるべし。周禮冬官考工記に、輪人爲v蓋、以象v天云々。晋書天文志に、天圓如2倚蓋1云々。器物總論に、蓋之爲v言、覆也、形圓象v天、※[木+燎の旁]二十八、以象2經星斗1、圍三寸長二尺、柄圍六寸長八尺云々などあれば、漢土の製は、圓《マド》かなるのみとおぼし。さて一首の意は、天を行すぐる月を、網《アミ》をはりてさしとゞめて、吾大王は蓋になし給へりといふにて、皇子を神隨《カムナガラ》なども申すごとく、神の御末にましませば、あやしき御しわざありて、月をさへ蓋になし給へりと申す也。この句の、爲有《セリ》を、久老がことわりもなく、爲利《セリ》と改めつるは、いかなる事ぞや。本のまゝにてもくまなきものを。(頭書、葢、攷證四上二十五オ、二上三十オ。)
或本。反歌一首。
241 皇《オホギミ・スメロギ》者《ハ》。神爾之坐者《カミニシマセバ》。眞木之立《マキノタツ》。荒山中爾《アラヤマナカニ》。海成《ウミナセル・ウミヲナス》可聞《カモ》。
皇《オホギミ・スメロギ》者《ハ》。神爾之坐者《カミニシマセバ》
皇は、おほぎみと訓べき事、上に出せる久老が説のごとし。こゝに皇とかけりとても、天皇を申すと心得る事なかれ。文字は借たるにて、長皇子をさし奉れり。
眞木之立《マキノタツ》。荒山中爾《アラヤマナカニ》。
眞木《マキ》の眞《マ》は、例のものをほめて付る言、荒山中《アラヤマナカ》は、人氣なく世ばなれたる山中をいふ也。本集一【廿一丁】に、眞木立荒山道乎《マキタツアラヤマミチヲ》云々と見(20)えたり。これらの事は、その所【攷證一下廿丁】にくはしくいへり。
海成《ウミナセル・ウミヲナス》可聞《カモ》。
考にも、久老の考にも、舊訓のまゝ、うみをなすかもと訓て、この獵路池を作らしゝ事とするは、非なり。成といふは、紀記にも、集中にも、みな如《ゴト》くといふ意にのみ用ひて、こゝも、かの獵路池の廣らかなるを、海の如くといふにて、一首の意は、吾大王は神の御末にまし/\て、神におはしませば、そのいでませる所には、かゝる荒山中にも、海の如くなるものありと申すにて、右の反歌なる事、明らかなるを、結句を訓《(マヽ)》れるから、いろ/\なる論いできて、右の歌の反歌めかずともいひ、池を作らしゝをりの歌ぞともいふは、みな誤り也。本集十三【五丁】に、水戸成海毛廣之《ミナトナスウミモユタケシ》云々とあるにても、うみなせるは、海のごとくなるといふ意なるをわきまふべし。
弓削皇子。遊2吉野1之時御歌一首。
弓削皇子。
天武天皇の皇子也。上【攷證二上二十九丁】に出たり。
吉野。
大和國吉野郡なり。みな人しれる所なれば、さらにいはず。
之時。
之の字、印本なし。いま目録によりて補ふ。
(21)242 瀧《タキノ》上《ベ・ウヘ》之《ノ》。三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。居雲乃《ヰルクモノ》。常將有等《ツネニアラムト》。和我不念久爾《ワガオモハナクニ》。
瀧《タキノ》上《ベ・ウヘ》之《ノ》。
瀧は、本集一【十八丁】幸2吉野宮1時の歌に、瀧之宮子波《タギノミヤコハ》云々。また【十九丁】芳野川多藝津河内爾《ヨシヌカハタギツカフチニ》云々などあるが如く、吉野に瀧あればしかいへり。上は、べと訓て、邊の意なる事、河上《カハノベ》、野上《ヌノベ》などの上《ベ》と同じ。この事は、上【攷證一下四十二丁】にいへり。こゝは、瀧の邊《ベ》の三ふねの山といへる也。
三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。
大和志に、吉野郡御船山、在2菜摘村東南1、望v之如v船、坂路甚險とあり。本集六に、瀧上之御舟乃山爾《タギノベノミフネノヤマニ》云々とありて、同卷【十一丁】九【十三丁】などにも見えて、皆吉野離宮に行幸のをり《(マヽ)》歌なれば、吉野宮の近きほとりなるべし。
居雲乃《ヰルクモノ》。
雲は、起《タチ》もし、行《ユキ》もするものなるが、行ずして同じ所に居《ヲ》るを、居《ヰル》とはいへる也。古事記中卷、御歌に、宇泥備夜麻比流波久毛登韋《ウネビヤマヒルハクモトヰ》云々とあるも、雲と居也。集中猶いと多し。のは、如くの意也。
常將有等《ツネニアラムト》。
居る雲のごとくに、常にかくてあらんとゝのたまふ也。本集五【九丁】に、余乃奈迦野都禰爾阿利家留遠等呼良何《ヨノナカノツネニアリケルヲトメラガ》云々ともあり。
和我不念久爾《ワガオモハナクニ》。
わがおもはぬにと、意をふくめたる也。一首の意は、久老云、吉野にあそび申すに、御心にいとおもしろくおもほしめして、つね見まほしくおもほ(22)すにつきて、現し身のつねなきを、さらになげきます意也。卷六に、人みなの壽《イノチ》もわれもみよし野の瀧の床盤《トコハ》のつねならぬかもとあるも、同じ意也といへるがごとし。
春日王。奉v和歌一首。
春日王は、紀に三人見えたり。書紀持統紀に、三年四月甲辰、春日王薨云々。續日本紀に、文武天皇三年六月庚戌、淨大肆春日王卒云々。天平十七年四月乙卯、散位正四位下春日王卒云々と見えたり。この中、文武天皇三年卒られしは、紹運録にも出で、志貴親王の御子にて、この卒られし文武天皇三年は、弓削皇子も薨給ひし年なれば、この皇子と、ことに時代近ければ、この王とすべし。本集四【四十二丁】に出たる春日王は、別人なり。(頭書、本集四【四十二丁】元暦本古注に、志貫皇子之子、母曰2多紀皇女1也と見えたり。)
243 王者《オホキミハ》。千歳爾麻佐武《チトセニマサム》。白雲毛《シラクモモ》。三船乃山爾《ミフネノヤマニ》。絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》。
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