春陽堂、萬葉集講座第一巻(作者研究編)、453頁、1933.2.20
目次
柿本人麻呂   折口信夫(私設万葉文庫収録)
柿本人麿    土屋文明
額田女王    金子薫園
額田女王研究  今井邦子(入力済み)
大伴旅人    武田祐吉(私設万葉文庫収録)
大伴旅人    土田杏村(私設万葉文庫収録)
高市連黒人   尾山篤二郎
山部赤人    中村憲吉(入力済み)
山部赤人    五味保義
高橋蟲麻呂   佐佐木信綱
大伴坂上郎女  屋敷頼雄
大伴坂上郎女  若山喜志子
狹野茅上娘子  上田英夫
笠金村     齋藤※[さんずい+劉]
大伴家持    吉澤義則(入力済み)
大伴家持    久松潜一
 
(73)  額田女王研究
                今井 邦子
 
 額田女王は、萬葉集に於てと言はず、又女流歌人の中でと限らずに、古今すべての歌人を合せて考へてみても、最高級に位する大歌人の中に加へ算すべき御女性であつて、日本詩歌史上に輝く歌聖とも稱ふべき御方であると信ずるのである。
 此女王に就ては私は、昭和六年岩波書店發行の雜誌「文學」及び昭和七年の「短歌春秋」等へ感想の一端を吐露した文章を寄せてゐる。その大體の心持は今日も變化してゐない。
 私の文章はもとより唯、一歌人として歌をとほして感ずる直感に即するもので、棍據をさぐり推理斷定をしたといふのではない事は言ふまでもない。さういふ事は學究の權威者に到底及ぶものではない、孔雀の羽根をひろつて貧弱な粧飾をするよりも、歌人は歌人らしく自分の感情に深く響きくる感激を率直に披歴して歌よむ人の情藻にはたらきかけてゆけばその本分はすむのである。特に萬葉集は、常葉學から觀る萬葉の研究と同時に、歌集「萬葉」としての生きたる呼吸、その生命の活動方面にも……赤彦の言をかりて言へば「切れば血の出る樣な直情熱誠に滿ちた」歌より受ける感動を傳へゆく方面にも亦萬葉の價値を廣く豐にする大切な研究の分野ありと信ずる處から、私は學問的方(74)面は一切その道の人々におまかせして、直感直情を主として此大歌聖の歌に觸れ、その風貌の一面を偲びたく筆をおこす次第である。
 
 額田女王の事を詳細に知らうとすれば未詳の事多く、甚だ心許ないのであるが、一般に知られた處では、鏡王といふ方の御子で額田ノ郷(大和國平群郡)にお住居になつて居られた處から額田王と呼ばれた由である。
 澤瀉久孝先生の「考」によると女王は十六七歳の頃大海人(ノ)皇子の寵を受け十市皇女(弘文天皇の妃にして葛野王を生まれた人)を生まれたが、後に天智天皇に召されて近江の宮廷に入られた。此事が額田女王の御一生の運命を悲痛なるものにし、その悲痛なる感情が歌に表現されて不朽の作を成させた。歌人の道を思うて感慨に打たれざるを得ない。
 あの悲しむべき壬申の亂の原因をなすものは複雜な時の政權を競ふ上から止むなきいろいろの事情もあつたらう。然しそのなかに此額田女王を中心として戀愛感情の烈しい電光がその黒雲《こくうん》のなかにひそみそれが物凄いひらめきをなして一層事態を深刻化したゞらう事は、詩人の想像とのみに考へられない。
 戰終つて後額田女王は再び昔の戀人である大海人ノ皇子、即ち時の天武帝に召しかへされてその宮中に起居する御身となられた。然しその後期の御生涯は前の才華輝くばかりのそれに比して如何であつたらうか。その終りをさぐる史料とてもないのである。
 何は兎もあれ私はまづ順を追うて殘された女王の御歌を一首々々に味はひつゝその風貌を研究してみる事にする。
(75) 殘されてあるお歌は、疑問のものもすべて入れて長歌三首、短歌十首と言はれてゐるが、はつきり殘つてゐるのは長歌三首、短歌九首と見てよいと思ふ。そのうち
    秋の野のみ草苅り葺き宿れりし兎道の宮處の假廬し思ほゆ
    ※[就/火]田津に船乘りせむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな
等は憶良の類聚歌林によつて齋明天皇の御製であるかの疑をおかれた作であるが、その事にこだはらずに私は額田女王の御作として感想をのべてゆく事にする。
 
 
        額田王の歌
    秋の野のみ草苅り葺《ふ》き宿れりし兎道の宮處《みやこ》の假廬し思ほゆ
 額田女王の萬葉集に於ける最初の作である。年代は未詳であるが、よみぶりから押して、後の圓熟せる才華艶々たるものと異り、どこか清素で初々しい單純なおもしろさを持つた歌と思ふ。
 美草は眞草の事で尾花の樣な立派な草を言ふ、元暦本には尾花と點じてある由、大嘗祭に黒木の輿を美草をもつて飾つたといふ事が延喜式などに見えてゐると學んだ。然し女王の此お歌は、さうした儀式の場合のものではなく、菟道のみやこの假廬を偲んで詠んだものである。菟道は山城の宇治、當時大和(ノ)國と近江(ノ)國との往來の路次であつたから、行幸の御供などでそこに假の宿りをした時の思出に興《きよう》をもつて詠まれたものでもあらうか。歌の意は
  秋の野の尾花を苅つて俄造りの小屋を葺き菟道の宮處に假の宿りをしたあの草屋の宿りの思はれる事かな
(76)と思ひ出すまゝに單純に言つておもしろくたのしかつた有樣をしのんで居られるのであり、此歌は一見その假廬の上を歌つてゐる樣で、實は或はそのなかに思出などが有つてよんだのではないだらうか。もとより額田女王の如く身分高き女性に野の戀などはなかつたらうが、何か人の好意などを嬉しく思ひ、日頃の窮屈な生活から放たれた樣な氣樂な假の宿のおもしろさを偲んでゐる樣にもとれる。序に言ふ私の郷里信濃の諏訪神社には八月二十七日御射山の祭といふ狩の祭があるが、山中に尾花の穗をもつてかなり大きな小屋を葺いて祭をする、町の人は夜をかけて山に登つてそのお小屋のほとりに夜明しをするものなどある、その祭のおもしろさなど私は思ひ合すのである。
 
        額田王の歌
    ※[就/火]田津に船乘りせむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな
 齊明天皇の七年正月に天皇親しく御船に乘じ新羅征伐の途につかせられた。時に額田女王も供奉のうちにあつた。おん船は途次伊豫の※[就/火]田津に碇泊し、石湯の行宮にお止りになり、やがて御出帆の時となつた。その時の作と解してよい。歌の意は
  伊豫の※[就/火]田津にて船出しやうとて月の滿つるを待つてゐると、折から潮もさし來り月も滿ちて上々の氣運にかなうて來た。今こそ榜ぎ出やう
と御心の踊躍を以つて歌はれたもので、滿ち來る月、さし來る潮、その氣運に棹さす征伐の御船出のきほひ……その想の雄渾なる、その調子の堂々たる、讀む者の心に氣魄迫るが如き感がある。しかしてその句々についてしらべてみ(77)ても「にぎたつに船のりせんと」「月まてば潮もかなひぬ」等、單純化の技倆の冴え、又その二句から三四句に呼びかけて互に反應し合ふ聲調の微妙さ等誠に天禀のいたす業と讃ふべきにて、たゞに女流の作として優れたものといふよりも日本詩歌史上に抽でて得難き傑作といふべきである。
 總じて萬葉集にあらはれた女性の歌は、後の平安朝時代の女流の歌の樣に優美繊細なものと味が異り、力強くその線に勢がこもつてゐて調子がおのづからおほらかで末梢的なものがない。それでゐて女の歌の本然の味を持つてゐるのは實に味ふべき事である。特に額田女王のお歌などに教へらるゝ點が深いのである。次ぎにある
        紀の温泉に幸せる時額田王の作れる歌
    莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾背子がい立たしけむ嚴橿が本
の一首は古來難解の句とされてゐるものがあつて何とも評しかねるので次ぎに移る。
 
        額田王近江國に下りし時、作れる歌
        井戸王すなはち和ふる歌
    味酒三輪の山 あをによし奈良の山 山の際にい隱るまで 道の隈いつもるまでに つばらにも見つつ行かむを しばしばも見|放《さ》けむ山を 情なく雲の隱さふべしや
        反歌
    三輪山をしかも隱すか雲だにも情あらなむ隱さふべしや
 
(78) 此長歌及び反歌を讀んで何よりも第一に直感される事は、言はむとする事柄が率直に言はれてある事だ。あやある思想(?)といふ樣なものがなく、純眞な悲嘆の歌をきかされる思ひに打たれる事である。歌のこころは
  なつかしき三輪の山よ奈良山の山かげに隱れるまで、道の曲り角が積り重なるまで心ゆくまで見つつ行かうものをいく度でも遠く望み見やうとする山であるものを、心なく雲よかくしてくれるな。
といふ樣な心を叙したものである。此歌を讀んでゐると、何か一人の女性が耐へきれぬ悲痛の心を山や雲をとほして天に訴へてゐる。その思ひを縷々《るゝ》としてうたはれたもの、といふ感を受け、その文學的價値は「美」よりも「眞」に重點があり、直情的に理窟なくかきゆすられる思ひがするのである。人麿の長歌などに比して充分に原始的純朴な味の深いものである。此歌を評して歌人伊藤左千夫は
  此歌の如き内容の場合大抵の人は初句より絶叫的語調を以て起し來るが普通であるのに第一句に枕詞をおき、第三句に枕詞をおき第一句より第四句までに二句の枕詞を使用したる爲に、初め四句は如何にも悠揚たる語調になつて奔らんとする思ひを差控へて靜かにしてゐる趣がある。
とその調子の内容に觸れて言はれた言葉のなかに、歌人は深く學ぶ處があると思ふ。しかも三の句で「三輪山の」と急呼せず「三輪の山」とのの一言を挿入した爲に語調を莊重にしそれが五句以下の激情を切つて落した瀧の樣な烈しい波動をいたづらに騷がしくせずに一層力強いものに響かせてくるといふ樣な點に左千夫は深く留意してゐるのにも教へられる。
 
        反歌
(79)    三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなむ隱さふべしや
 反歌は長歌の分離したもの、或は長歌で言ひ盡せなかつた心を歌うたものである。此反歌はその後者の場合で、長歌の終りが切つて落した瀧つ瀬であるならば、此反歌はその瀧|壺《つぼ》に逆卷く白泡を噛み合せでもみ合ふ悲情の入り亂れたる絶唱をきくが如き一首である。
  自分がかくも戀しく思ふ三輪山を左樣に隱してしまふのか、雲の如きものなりとも情《なさけ》あれかし雲よ隱してくれるな、かくしてはならぬあの三輪山を
と言ふのであつて、古今に絶した悲痛限りなき歌と思ふ。
 此歌は、前に述べておいた、大海人の皇子との切なる戀を裂かれて君命もだし難く近江の宮廷に召されゆく額田女王が悲痛きはまりなきお心を寄せられた歌と見てよいのである。此歌の場合、君の宮所のある近江へ下るといふは可笑しいからとて近江朝に召されゆく時のものでないとの説を立てる人もあるといふが、それは文字に執して歌の心を忘れたものゝ樣に思はれる、下るといふ字は後人の書したものといふ説をとる。此歌はどうしても普通の旅人として近江へ下る人の歌ではない。深き痛みを藏したお歌である。此歌に就きて思ひ、又後に出てくるお歌について、額由女王といふ御女性の一生をひそかに思ひめぐらす時、實に狹量者には描ききれない深刻複雜なる女人像を仰ぐが如き心地されて私は限りなくそのお歌をとほして額田女王をあがめまつるのである。
 
      天皇内大臣藤原朝臣に詔して、春山の萬花の艶、秋山の千葉の彩を競はしめ給ふ時、
(80)      額田王、歌を以ちてことわれる歌
  冬こもり春さりくれば 鳴かざりし鳥も來鳴きぬ 開かざりし花も開けれど 山を茂み入りても取らず 草を深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉をば取りてぞ賞ぶ 青きをば置きてぞ歎く そこし恨めし秋山われは
この歌のなかで「冬こもり」といふ句は、武田祐吉博士の萬葉集新解の「冬こもり考」に新説が見える讀者は參考によまれるといい。
歌の意は
  冬が終つて春になつてくると、今まで鳴かなかつた鳥も來て鳴いてゐる。咲かなかつた花も咲いてゐるが、山の木の茂さには入つても取らない。草が深さに手にとつても見ない。けれども秋山の木の葉を見ては、色づいた葉を取つて賞鑑し、まだ青葉なるものはうち置いて歎くのである。そこ故に思ひ深い事だ自分は秋山の方を優れりと思ふのである。
と言ふのである。
 此歌を讀んでゆくと前の長歌と異つて、一見才氣であやなされ、こしらへられた構想の歌といふ感じを受ける。それは此歌が應詔の作であり、しかも春秋の優劣とを競ふといふ樣な、きはめて遊戯的氣分のものであつたから、一層止むを得ぬ事であつたらう。
 然しさういふ缺點はありながらも、さすがに額田女主のおうたと思はせる優れた點がある。それは主に此歌の調べ(81)にかゝるものであつて、おほらかに、高く張つてゐる處である。内容は平凡で、優劣の比較も、たとへば木の茂き故に入りてもとらぬとか、秋は紅葉する葉をとつてめで、青書きもをば置いて歎くといふあたり、平凡を多少でも破らうとしても大《たい》した事もなくて月次に終つてゐるが、ずつととほして讀んでみると、矢張り俗《ぞく》をはなれた悠揚追らざるよき調べを聽くの感が深い。そこがやはり女王の非凡な力量のいたす處で、天禀の詩才群に抽てゐるの心地がされるのである。句法の變化、その曲折の自在なる點に教へらるゝ處が多い。
 此歌は年代未詳であるけれど、私は女王が近江朝に召されて後の作であらうと一人考へて味つてゐる。わざとさうしたのではないけれど、秋山を戀ふる心など直接に悲しい心を傳へようとしたものでなく、おのづからさうなつた樣な處にあはれのある心地がするのである。
 
        天皇蒲生野に遊獵し給へる時、
        額田王作れる歌
    茜さす紫野ゆき標野行き野守は見ずや君が袖ふる
 餘りに有名な歌であつて、既に大方の人々によつて解釋しつくされてゐて今更言ふ事もない、といふ感がある。
 この歌の茜さす、は紫に被らせた枕詞であつて、古代紫のやゝ赤味をおびてゐる處に實感の伴ふよい枕詞と思ふ。紫野は柴草を栽培して高貴の染料にあてられた、その禁園をさしてゐる。標野は、占有を表示するもの、標繩等にて境をしてある野、同じく禁園の意である。一首の意は
(82)  紫草を栽培してある禁園を行きつもどりつしておいでになる方《かに》がしきりに袖を振つて相圖をしておいでになる、さういふ大膽なふるまひをなされて衛士が見とがめるでは御座いませぬか
といふ樣な意になるのである。
 然し此場合、紫草を栽培してある禁園と文字の通りに釋した處で、蒲生野がはたして紫園であつたか否か私は知らない。むしろ紫野、標野などはみな假りの譬喩にすぎなく、その譬喩を如何にも微妙に修飾して女王自からの位置を示した處に女王の才藻が輝くのである。
 此歌は額田王の作品でも代表的なものでおよそ萬葉を讀む程の人に愛誦されてゐる。それ程美しく魅惑的である。どういふ點がさうであるかと調べてゆくと、まづ第一に歌の文字の彩どりが美麗である。茜、紫、野守、君《きみ》、袖、といふ樣に、文字そのものが詩的、色彩的であつて一見目もあやなる美感を與へる。次ぎに一首を誦讀するとその快調にひきつけられてしまふ。紫野ゆき標野ゆきと句を刻みながら疊みかける樣にリズミカルな語音を重ねて如何にも戀する者が、かゆきかくゆく姿を彷彿させ來る處、又、君の袖ふるを野守は見ずやと言ふべき處を逆に言つて一層歌を音階的に有效ならしめた處讀む程の人を陶醉せしめる力がある。第三に内容に入つて味ふと、前の三輪山の歌の悲痛を思ひ、その戀人を目前に見て、しかも盡きないその人の愛の表現を見て嬉しく又悲しく心が動いてゆく眞實感に打たれるのである。派手な歌は多く輕薄感が伴ふ、然し此歌の如く色彩的にも音調にも派手な流るゝ如き感を受ける歌が讀んで少しも厭味がなく浮薄な感を受ける事もないのは、「情まづ動いて才氣これに隨ふためであらう」と赤彦が評してゐるのは理解深き歌人の至評である。
(83) ここで一言加へたいのは、此歌を道徳的に論ずればいろいろやかましい説が出よう。然し私はさういふ人には付かない。同時に私は歌人にはかかる事も許されるなどとも考へない。たゞかかる事は天地|有情《うじやう》の間に在つて、言ふに言はれぬ無理ならぬものがある。理窟でなしに悲しき人生に於ける一つの事實として肯定も出來るし同情も出來るのである。かかる事は十抱一束には決《き》められない。その人々の運命や、眞實性の如何によつて物を言ふべきであると思ふ、同じ事をやつても反對に非常に浮薄なものもある、それを私は肯定しない。さういふ事は聰明な頭脳の持主、正しき感受性を持つた人には自然と頷かれる事であらう。
 
        額田王、近江天皇を思ひて作れる歌一首
    君待つと吾が戀ひ居ればわが屋戸の簾うごかし秋の風吹く
 此歌は年代未詳であるが、思近江天皇とあるからは、大體近江の宮廷に入つた後と解してよいかと思ふ。此歌は特に釋義を要する樣なむつかしい言葉づかひもなく、枕詞さへもなく、思ふ處をそのまゝにうたひあげてゐる。
歌の意は、
  あなた樣をお待ち申上るとて私が戀ひ渡つて居りますと、此やどの簾をうごかして秋の風が吹きます。
といふのであつて、歌の姿が眞實で前の「茜さす紫野ゆき」の歌の樣に艶麗目をおどろかす樣な輝かしきものと異り、しんみりと目だたぬなかに深い思ひをたたへて沁み入る樣なよき味を持つた歌である。
 額田女王の歌はすべて調べ高く姿豐かに熱情のこめられたものが多いが、此歌は同じく高き調べを持ち、豐な姿を(84)持つてゐるなかにも、それが春の調べの如く艶なものでなくして沁々とひそかな思ひを傳へ來る如き、豐かなる姿のうちにしをりあるものゝ如くである。「吾が戀ひ居れば吾がやどの」と一句ごとに吾がとことわつてあるのも、物寂しい心を戀人に許へる調べが自然に出てゐる樣である。さういふ樣に細々《さい/\》と調べて行つて四五句に於て息長に、嘆息した樣に「すだれ動かし秋の風吹く」と思ひふかく詠嘆してしばらくは沁々とした餘韻をよむ程の人に傳へ來る。如何ばかりか天禀豐かなるその詩才であらう。
 さて此歌に就て私は久しく疑を持つたのであつた。額田女王ははじめに書いた樣に、若き頃大海人皇子と烈しい戀愛があり十市皇女をあげてゐる。その後天智帝に召されて愛する戀人と別れ現人神《あらひとがみ》と信ずる天皇の召に應じて近江の宮廷に入られたのである。此|現人神《あらひとがみ》の信仰は現代の吾等が思ふ何層倍も當時の人々には眞劔な信仰であつた。
 その時の悲嘆慟哭は殘された「味酒三輪の山」の長歌及び「三輪山をしかも隱《かく》すか」の反歌に於て句々人に迫るの歌をなしてゐる。
 それであるにも不拘此一首を讀むと近江天皇を待ちつゝ歌はれたもので、しかも心の籠つた戀歌である。それはたとへば衣通郎女の歌とつたへられてある
    わが背子が來べき宵なりささがねの雲のおこなひ今宵しるしも
の如く、戀に於ける微妙な神經の旋律を持つた歌、待つものゝ去來を占問《うらと》ふ樣な、深く戀ふるものに思ひを致してゐる心の旋律がある。僞りなき戀の期待がある、此點を私は思へば思ふ程迷雲四方より集り來る思ひをなして幾年かすごしたのであつた。
(85) この頃折口博士の講演を拜聽すると、昔の女流の戀歌は、言はば男をそらしあやなす爲の一種の武器であつて、從つてそれは現代人が情熱のほとばしりと感ずるものも、實は誇張をもつてうたひなされた手だてにすぎなく、往時の相聞歌はは多く社交的にさしたる戀ならぬものをもさもそれらしく言ひ合つたりする事がいくらもあつたといふ意味の事を學んだのである。されば此女王の樣な詩聖が、さうした場合如何にもたくみに詠みこなして相手をアツと恐縮させる事もいくらも有つたであらう。戀歌と言はずとも前述の春秋の優劣を爭ふ歌なども即時に筆をとつてお答したものと言ふだけでも竝み居る大宮人の驚嘆の的であつたに相違ない。
 然しながら、此一首に就て讀み昧つてみるに、どうも見せる相手を心において誇張して讀んだらしい感を受けない。どうも眞實があつて心から詠み出された自然の感を受けるのは私だけであらうか。姉君の鏡女王に
    風をだに戀ふるはともし風をだに來むとし待たば何か嘆かむ
の作がある。此お歌には誇張があると見てもよいが、その誇張もかくまでも言ひ度い程心が悲しんでゐる樣に私などは受取つてゐたのであつて、所詮女の戀歌には誇張なしには滿足出來ぬ女としての眞實感の要求する誇張といふ樣なものがあるのかもしれぬ。之は決して大家のお説に反して言ふのではない。私は實に此歌に就ては萬葉學の大家の御解釋を伺ひ度く思つてゐる。古義を讀んでみると「中山(ノ)嚴水云、」として額田王は始め天武天皇に召されて十市皇女をお生みになつてゐるが此四卷の歌を見れば天智天皇も召し給ひしと見える。然しそれは天武天皇紀、天皇位の條に、正妃夫人、又お生みになつた皇子等をもあまねく擧て、さてその終りに天皇初娶2鏡王(ノ)女額田姫王(ニ)1生2十市(ノ)皇女(ヲ)1とあつて此女王を妃夫人の列にもつらねてないのを思へば天皇のお若かつた時にあつた出來事で、後に天智天皇の召して夫(86)人などになさつたのであらう、今から見ればあるべき事とも思はれぬがふるき代には少なからぬためしなり」とあつさり片付て、更に本居宣長がこの歌について額田王は天智天皇の妃であつたが天皇崩後の後に天武天皇に召されて十市の皇女をお生みになつたのだと苦しい釋き方をしてあるのに對して、此十市の皇女は大友(ノ)皇子の妃にして葛野王をお生みになつた方である、大友皇子は天智天皇の崩後打ちつづいてほろびておしまひになつたのに、僅の間に天智天皇の夫人であつた額田女王を又天武天皇のめし賜ひて十市皇女をお生みになり、その皇女がまた大友皇子にめされて葛野王をさへお生みになる樣な事があり得やうか」と追究して居るのを古義の著者も此説さる事なりと賛成してゐる。
 私ひそかに考ふるに、所詮は額田女王を女大學式賢婦人にまつり上げて型にはめた理想の表彰的人物に造り上げようとする處から起る無理な行き詰りがかくも苦しい説を生み出させてしまつたのだと思ふ。是非共そんな人物に造り上げなくても、あの女王の歌に殘された、眞に血を吐く樣な熱誠や、又はあの豐潤な才華の價値は自から水の樣な意志のみで成立してある賢婦人といふ樣な人々とは別途に尊まるべきものであつて、その歩みも型にははまり得ぬがやはり誠意ある深き自然に順應した有情の人間の僞りならぬ一つの歩みであつたらうといふ樣に近時私は考へられて來たのである。かかる事を言ふと又、いろいろとむつかしい議論が起り、或は誤解を受けたりする事もあらうかとも考へるけれど、人はいかめしい甲冑をぬぎすててごく自然に注意ぶかく物の實體を正視する時に、型をはなれたなかに却つて眞實の姿がある事も頷け、紙一枚で浮薄と眞實とが嚴然と分れてゐる樣な事も觀じ得るのである。
 次ぎに之は非常に獨斷的な考へ方であるけれど私は此一首を考へつめてゆくあまり、畏い事ながら天智天皇と天武天皇との御性格を歌をとほして偲びまつらうとしたのである。……天智天皇の有名な三山の歌「神代より斯くなるら(87)しいにしへも然なれこそ、現身も嬬をあらそふらしき」といふ樣なお歌の調子を讀みゆくと、天皇は事件に關係ある御自身を一方に於て客觀してゐられる樣な悠揚な御態度の方と私には受取れる。それは衷情の切なる嘆聲であつたとしてもおのづから寛潤なところがあつて天皇の御品格をあらはしてゐられる、と思ふのである、天智天皇はどうしても豐かに鷹揚な處のある方であの「渡津海の豐旗雲に入日さし」の一首をもつてみても大人物の風格をそなへられた方と想像されるのである。大海人皇子の御歌は
    紫のにほへる妹をにくくあらば人嬬故に吾こひめやも
によつてうかゞひみるも、御性格きはめて濶達で直情的に押してくる英雄的な御氣質と想像されるのである「よき人のよしとよく見て」のお歌から押して考へても感情の烈しい御性急な方であらせられた事が想像される。かく想像しつつ考へを進めゆくと私の思索のなかには、額田女王が大海人皇子との初戀に於て烈しく燒くるが如き思ひをされたのも事實であり、又止むを得ぬ運命上、近江朝廷に召されて天智天皇の廣々とした豐かな御愛情を受けるに及んでおのづからその御人格の下に僞りならぬ頼もしき靜かな愛が芽ばえそめたといふ事も不自然とは言へない。という樣に考へられて來たのである。
 勿論後世の倫理道徳から言へば之は賞揚すべき事ではない、然し後の平安朝文學(特に物語)には實にかゝる點で微妙に人間の心理に穿ち入つて文學的の筆を進めてある。額田女王の如き境遇に配された女人の心が聖天子に仕へ大いなる御人格に接してかゝる經路に入つたとてそれを直ちに不純とか不誠實とか言ふのはあまりに簡單にすぎる。時代の背景も亦考への中に入れて論じなければならぬ……。今の私は、まことの人生には額田女王の如き運命に生きて心(88)の至純な人もあり、一人に從つてゐても下凡その心飢鬼の如きものもある善惡清汚の分《わか》ちは小説や芝居などで見せるものよりも、倫理で説かれるものよりも微妙に入り組んだもので、人間の裁判などで分け難き深きものであると思ひ至つてゐるのである、然し此解釋が直ちに此歌に全部あてはまるか否かはもとより額田女王なき今日誰れとて定めかねる事ではある。殊に女王の場合殘された歌も少數で一から二に續く間の消息も明でない以上定めかねるさまざまの問題が殘るのである。
 
        天皇の大殯の時の歌
    斯からむと豫ねて知りせば大御船泊てし泊りに標繩結はましを
 天智天皇の十年十二月癸亥朔乙丑天皇近江の宮廷に於て御崩御の事がしるされてある。その時額田女王の詠まれた挽歌である」
 このお歌は古代の信仰心が中心になつて詠みなされた歌であつて、現代の私達には直接感が薄い。お歌の意は
  かく御壽命はかなく神あがります君なる事を豫め知りたりせば御すこやかなりし時に辛崎の湖に大御船うけて御遊ありての還幸の折に御舟はてし泊りに標を結うて永く止め奉るべかりしものを
と悲しみの餘り悔ゆる御心の歌と言はれてゐる。代匠記の方では此標結ひは還幸の時舟の繋せ給ひし處にだに標結ひ紀念としておいたならば今日せめてみ舟止めし名殘の處としてしのぶよすがもあらうと嘆ぜられたといふ樣に、きはめて現實的に解釋してあるが、私はどうもみ舟はておあがりになつた處に標結ひして天皇の御靈をしつかりと地につ(89)なぎ止めておくべかりしものを、といふ樣にとれてくる。それが現代の私たちにはぴつたりしない心持であるにしても、額田女王はさういふ氣持で歌をよみ、その氣持はその時代の人の信仰心の發露であつたといふ樣に受とれるのである。然しながら此時の挽歌は倭太后の御作が斷然群をぬいて優れたものである事を思はせられた。
同じ時
 
        山科御陵より退《まか》り散りし時額田王作れる歌一首
    やすみししわご大王の かしこきや御陵仕ふる 山科の鏡の山に 夜はも夜のことごと 畫はも日のことごと 哭のみを泣きつつ在りてや 百磯城の大宮人は去《ゆ》き別れなむ
の長歌がある。非常に謹み深く恐懼して作した樣な感を受け三輪山の長歌の作者とは別人の如き感がある。むしろ太后の御歌に、より強い實感が表現されてゐる樣に私には思へるのである。
 天智天皇崩御の後、壬中の亂おこり弘文天皇はお痛ましき御最期をとげられた。天武天皇天下の權を握り給ふに及んで額田女王は再び天武天皇に召しかへされて明日香清御原の宮に起居あそばさるる御身となり十市皇女を件はれて行かれた樣である。そして十市皇女は天武天皇七年四月丁亥朔癸巳に卒然として世を去られてしまつたのである。
 かかる事實を深く深く思ひ合せて額田女王の御心事をおしはかる時は實に悲惨のきはみで正視するにしのびない運命の神の苛酷なるを思はせられる。しかも額田女王は天武帝御崩御の後その正妃にまします持統天皇の御代となるまでも生存なされてお歌が殘されてある。
(90) 持統天皇の四年五月と、五年四月とに吉野行幸の事があり、そのいづれの年にか御供に從つた弓削皇子(天武天皇第六皇子)が吉野の宮から額田女王に
    古《いにしへ》に戀ふる鳥かも弓弦葉の御井の上より鳴きわたりゆく
といふ一首を贈られたのに和して
 
        額田王和へ奉れる歌一首
    古《いにしへ》に戀ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし吾が念へる如
の一首を詠まれてゐる。弓削皇子のお歌にも何となく懷古の情がふくまれ、すぎし昔の女王の華やかなりし御榮を偲びまつる樣な思ひがこめられてあるがそれに和して
  その御井のあたりを心ありげに鳴き渡り行いた鳥は霍公鳥でありませう。おしはかりみるに私が古へを戀しく思ふ如くにその鳥も鳴き渡つて行つたもので御座いませう。
と和したのである。
 此一首の上には昔日の「茜さす紫野ゆき」の如くに輝き渡る樣な華やかな光はかげを失つてゐる。その頃のお歌の碎けて言へば得意でもあつた心の快調はあとをひそめて、内に沈んだ、懷古的情緒によつて塗られてある一首である。然しながらそれとてもさすがに額田女王の歌ではある。隱せども餘香の才華はおのづから讀む人に深き趣《おもむき》を匂はせてゐる。ここの「けだしや」の用ひ方は、名優の技のなかに、ポンと煙草を拂ふ音で觀衆の心を引締めてしまふ樣な實に(91)たくみな使ひ方をしてゐると思つて私は常に敬服してゐる。
 
        吉野より蘿生せる松《まつ》が柯を折り取りて遣しし時、額田王の奉入れる歌一首
    み吉野の玉松が枝は愛しきかも君が御言を持ちて通はく
 この一首は古義も代匠記も、特に弓削皇子のお歌としてないけれど、前後の關係で弓削ノ皇子より蘿生せる松が柯を贈られたものに對して額田女王が奉入りしものとしてあるが武田祐吉博士の新解には天武天皇に奉入れるものとして解釋されてゐる。もとよりかゝる事は深き根據により斷定された事と思ふが、たゞ私自身の好みから言ふと、やはり弓削ノ皇子に答へられしものとして味ひたい。前の「古《いにしへ》に戀ふる鳥かも」のお歌か、或は外のお歌かそれは不明としても弓削ノ皇子が吉野に於て、此行幸の供奉に入らず、京に寂しく殘れる晩年の(?)額田女王に松が枝に歌を結んで御慰めの氣持をもつて御贈りになつたとして考へてもたゞ甘い詩人的の解釋とばかりは言へないと思ふ。
 さて以上で萬葉集に於ける額田女王の御歌は終る。そしてその以外はその後何年程御生存になつたかも一切未詳である。
 古い世の事を、しかも詳細な史料とてもつたはらぬ女王の御生涯を、現代の吾等の心持でくはしく押はかる事は痴《をこ》の業であり且つは不能な事と言つてもよい。然し私は折にふれては一人ひそかに額田女王に思ひを致す時、女性として耐へ難い劔が峰をこえねばならなかつたその辛き御運命を思ひ、しかも美しかりし花のやがて忘られて音もなく過(92)ぎゆきし如く世から消え去られし事を思ふ時、今更の如く人生の儚さを思はざるを得ないのである、
 美しく、才筆|絢爛《けんらん》たる若き女王をめぐつて幾人の殿上人が思ひを寄せたものであらう、そして英雄にまします大海人ノ皇子との燃ゆるが如き初戀を裂かれて偉大なる天智天皇に奉仕する身となられた。それからその御生涯の不幸は更に深刻なものとなり、近江朝の滅びた後身は再び天武帝に召されて明日香清御原の宮殿に起居される樣になつたとしても、それは決して昔日の如きものではなかつたであらう。しかも唯一人の御子十市ノ皇女は御父天武天皇によつて滅ぼされたる弘文天皇の妃であるからは御母として額田女王の御心は口に言へない悲痛なものがあつたであらう。そして女王はそのたゞ一人の皇女の御自害とまで傳へられる悲しい死にも遭遇せられたのである。
 およそ女人として此やうな悲惨な運命に遭遇せられた方は世に多くはなからうと思ふ。人によつては額由女王の御心裏を思ひやる事もなくその外面の現れだけを見て苛酷な評を下すかもしれぬ。しかし額田女王は、さうしたむごい運命の鞭《むち》にも荒ませられず、ひねくれる樣な事もなく、その時折に觸れては眞實の涙を流し、或は輝しき面を向けて、いとも率直に豐かなる調べをもつて誠の心の歌を詠み出されてゐる。萬葉集中でも最も人間らしい親しみのある方《かた》で、女王の歩まれた人生の暗くいたましきに抽んでて太陽の如く輝く面影は永遠の歌聖として一切の曇りをはらひのけてゐる。私は心から額田女王を讃へる自分を人々の前に語る。
             (一九三二・十二・九日)
 
 
(203)  山部赤人
                中村 憲吉
 
         一
 
 古來萬葉集の歌人と云へば柿本人麻呂.山上憶良.山部赤人の三人が稱せられ、なかにも人麻呂と赤人とが竝稱されるのが普通である。これは紀貫之が古今集序で『人麻呂は赤人が上に立たむこと難く赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける』と論じたのにはじまるが、後世更に賀茂眞淵が對比的に両者の歌風を論ずるに及んで益々一般的となつた風である。今私の『赤人論』もこれに倣ひ人麻呂と赤人とを對比することによつて、その筆を進めることを便宜とするのであるが、それにしても尚人麻呂に配するに、赤人、憶良の何れを以てすべきかの所謂『山柿』の竝稱關係について、一應考察を加へておくことも必要である。それは少くともかくすることが、直ちに人麻呂、赤人を對比考察するよりも、自然により詳しく赤人の萬葉集中に於ける地位と、その歌風とを分明ならしむるからである。從つてこの小論も或はその一半は人麻呂論に渉るかも知れないから、その點は豫め諒とされたい。
 さて人麻呂に就いてその特に稱せらるるは、十目の見るところ彼が萬葉集中の最高峯とされるが爲であるが、然し(204)それかと云つて萬葉集中他に人麻呂と比肩すべき歌人が無いといふのではない。雄略その他人麻呂以前の歴代天皇、皇族、諸臣の歌に於いては、むしろ人麻呂にすぐれた歌が多々あるのである。たとへば雄略帝の萬葉集卷頭の長歌『籠《こ》もよみ籠持ち』の如き、民間の一少女に對して純乎親愛の戀情を表白しながら、自ら帝王の權威を具へたる歌格の大きさ、舒明帝の『香具山國見』の歌の高朗にして器宇の宏大なる、又は天智帝『三山』の歌の複雜深刻なる悶情を歌ひながら氣品の高邁を保てる、之等には流石に雄偉莊重、沈痛熱烈をもつて稱せらるる人麻呂の歌もその氣魄を奪はれ、却つて文彩餘りあつて質足らざるを恥ぢねばならぬ程である。ただ惜しいことには之等の歌人には遺作甚だ少い爲に、その多種多樣の詩材の全豹をうかがひ知ることが出來ないのであるが、ここに到れば作品の數量の問題は作家の文學史的地位に重大なる關係を有し、この點では、これ等の人は人麻呂以下の歌數の多い歌人に、その萬葉集代表歌人たるの地位を讓らざるを得ないのである。しかし人麻呂について云へば、彼はこのほかにも古來詩歌の精華を集めた大成者であつて、やはり萬葉集中の第一人者たることは否めない事實である。
 之に對して憶良も赤人も共に他の何人よりも時代を超越した優秀な歌人であつて、その遺作も人麻呂、旅人、家持、金村、福麻呂等とともに多い方であり、此點に於ても亦萬葉集を代表する歌人たり得るのであるが、さて此の二人の中より選んで何れを人麻呂に配すべきかの、所謂山柿問題に至つては、必ずしも簡單に貫之、眞淵の説に從つて赤人、人麻呂と竝稱するわけには行かず、その然る可き理由がもつと根本的に考究されねばならない事情がある。何故ならば文献的にも現に憶良については、古くから人麻呂と竝稱する山柿説が傳來してゐるのである。萬葉集第十七卷の家持の『幼年未v※[しんにょう+至]2山柿之門1、裁歌之趣詞失2乎草林1矣』『巧遣2愁人之重患1、能除2戀者之積思1、山柿謌泉比v此如v蔑』の(205)所謂『山柿』の如きは、旅人、憶良、家持三者の交通關係、又は家持の家風に及ぼせる憶良の影響等、その他種々佐佐木信綱博士等の考證よりして、これを憶良、人麻呂の竝稱と推定すべきを至當とするからである。
 なほ憶良についてはこればかりではない。彼にはこの外にも萬葉集中に於けるその獨自の歌風を以つてして、充分人麻呂と竝稱され得べき重要なる資格が存してゐるのである。云ふまでもなく彼の歌は、露骨なる漢學的道學的思想と、當時の何人にも見るべからざる社會的意識とをもつて取材的に異彩を放つてゐる歌であり、その感情をやるに議論を以つてする歌風は、佶屈ではあるが引きしまつた素朴なその歌調と共に、萬菓集中最も人目につく習癖をなして居る歌である。故にもし異色をもつて稱せらるべくんば、憶良の歌はまづ何人の歌よりも先に選ばれて、人麻呂の歌の宏辯博辭とその特色を萬葉集中に對比竝稱されて然るべき歌なのである。
 然るにそれにもかかはらず、世論の多くは萬葉集中の人麻呂の異彩に配するに、憶良のこの異色を以つてせず、かへつて外見は歌風の平凡を以つてその特色とする赤人を配して『山柿』を竝稱しようとするのである。これは何故であらうか、(その理由は憶良に於ける場合よりも、もつと深く内的のものに根據を求められねばならない)。蓋し憶良の歌風は萬葉集中最も異色ある歌風と云つても、實はその特色はまだ充分感情化されぬ思想や、取材などによる第二義的な外的特色にすぎないのであつて、決して深く短歌の本質に交渉を有する第一義的特色ではないのである。故にたとへそれが社會意識の直接發露を欲する現代の好尚に投ずるものがあるとしても、直にこれに第一義的の高い文學的評價を置きえないのである。これに反して赤人の歌はその外的特色では憶良の歌ほど目立つものがないとしても、その内的素質即ち短歌の本質に交渉して感情的要素から派生する特色に到つては、顯然として他の萬葉歌人の歌風に卓絶(206)せる特色を有してゐる歌なのである。しかもその特色は清雅沈潜の境地より生じ、人麻呂の雄渾痛切の歌風に好個の對照をなしてゐるが、この事はたまたま赤人の歌の本質的特色を明にするためには、人麻呂の歌を引用對比することの必要にして、且つ適切なる事を證するのである。故に人麻呂赤人の竝稱は、人麻呂、憶良の竝稱よりも本質的により自然であり、且つそれがもつと深い根據に立つてゐることを物語る。
 
      二
 
 赤人と人麻呂の歌の特色を最も明確に論じた最初の人は、前にも述ぶるごとく賀茂眞淵であるが、その萬葉考序に於て『柿本朝臣人麻呂は古ならず後ならず一人の姿にして、荒魂和魂いたらぬ隈なん無き。その長歌、勢は雲風に乘りて御空行く龍の如く、言葉は大海の原に八百潮の湧くが如し。短歌の調は葛城の襲つ彦、眞弓を引き鳴らさん如せり。深き悲しみを云ふ時は、千早振る者をも歎《な》かしむべし。』『山部宿禰赤人は人麻呂と裏表《うらうへ》なり。長歌は心も詞も唯だに清らを盡せり。短歌こそ是れも一人の姿なれ。巧みをなさず有るがまにまに云ひたるが妙なる歌と成りにしは、本の心の高きが至りなり。譬へば檳榔の車して大路を渡る主の、あから目もせぬが如し。』と論じてある。人麻呂については『荒魂和魂いたらぬ隈なんなき』といひ、赤人については『人麻呂とは裏表なり』『本の心高きが至りなり』と云つて居る如き、要を一言に喝破してその炯眼誠に服すべきものがあり、大體に於て人麻呂の歌を力の表現と見るならば、赤人の歌を心情《こころ》の表現と見るべく、前者が動的で人に追迫する力を以て勝るならば、後者は靜的で人をして自《おのづか》(207)らに作者の情懷に親和せしむる歌徳を有すると見るべきであらう。
 然し更にこれを各個についてくはしく見るならば、先づ人麻呂の歌は對象の上に常に自己の感情を強く、大きく、沈痛に、又は由來深く働きかけてゐるところにその特色があつて、これは人麻呂自身の趣味でもあれば又その性格の反映でもある。而してこれが爲に人麻呂の歌の表現的態度は頗る積極的であつて、おほよそ人麻呂の歌ほど序辭枕詞などの装飾語の使用の多いものはなく、また彼ほど歌詞歌調の使驅縱横にその表現技巧の多種多樣なるものはない。だから彼はその歌の上に於いて、自己の雄偉荘重なる感情を貫くためには、屡々對象の素朴純粹の姿のうへに、自己の情意を奔放に積極的に振舞ふことをはばからぬのである。この態度は人麻呂の歌の隨所に現はれて、たとへば『…夏草の 思ひ萎えて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山〔五字右○〕』『秋山に落《ち》らふ黄葉《もみぢば》須臾《しばらく》はな散り亂れそ〔六字右○〕妹があたり見む』、は自然に對する強い命令であり希望である。『さざなみの志賀の辛崎幸くあれ〔四字右○〕ど大宮人の船待ちかねつ〔六字右○〕』『淡海《あふみ》の海夕浪千鳥汝が鳴けば〔五字右○〕心もしぬにいにしへ思ほゆ』『山の際《ま》の出雲の兒等は霧なれや〔四字右○〕吉野の山の嶺に棚引く』は非情を有情に、有情を非情に擬する作爲であり、『皇《おほきみ》は神にしませば〔六字右○〕天雲の雷の上に廬せる〔七字右○〕かも』『ひさかたの天《あめ》行く月を網に刺し〔四字右○〕わが大王は葢《きぬがさ》にせり〔三字右○〕』は人を神に、不可能を可能に、空想を現實にする事である。『青駒の足掻《あがき》を速み雲居にぞ〔四字右○〕妹があたりを過ぎて來にける〔七字右○〕』『八雲刺す出雲の子等が黒髪は〔三字右○〕吉野の川の奥になづさふ〔八字右○〕』『名ぐはしき稻見の海の奥《おき》つ浪千重に隱りぬ〔六字右○〕大和島根は』は事實の誇大、感情の誇張である。『明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水も長閑《のど》にかあらまし〔塞か〜右○〕』『見れど飽かぬ吉野の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなく〔七字右○〕また還り見む』は自然の動状を靜状に、潰城を常住に希ふ心であつて、之等は何れも作者が自己の意志感情を強く對象の上に主張してゐる歌である。
(208) 從つて人麻呂の歌の上に現はれるものは、まづ外部に向つて強く興奮する意志感情と、之を自在に斡旋する表現才能とである。併しこの興奮も氣魄も又その表現才能も、畢竟は作者が内に眞摯の生命を深くひそめて居てこそ、始めてその強い眞實性の光を放つのであつて、然らざる限りは、之等の特色はただその歌を一種の虞假威《こけおどし》歌たらしめ、浮誇粉飾を能事とする歌たらしむるに過ぎないであらう。この人麻呂の歌風の陷《おちい》る可き危險性については、賀茂眞淵早くより『上つ代の歌を味ひみれば、人麻呂の歌も巧を用ひたるところ、猶後につく方なり』と云ひ、伊藤左千夫も『予が人麻呂の歌に對する不滿の要點を云へば、(一)文彩餘りあつて質是れに伴はざるもの多き事、(二)言語の慟が往々内容に一致せざる事、(三)内容の自然的發現を重んぜずして形式に偏した格調を悦べるの風ある事、(四)技巧的作爲に往々匠氣を認め得ること』と云ひ、島木赤彦も『人麻呂は男性的長所を最もよく發揮し得た人であつて、歌の姿が雄偉高邁であると共に、その長所に辷り過ぎると、雄偉が騷がしくなり、高邁が跳ねあがり過ぎるといふ缺點があるやうである』と云つて注意の眼を放つた所である。
 赤人の歌は之に反して、感情の興奮を内に深く鎭めて藏するところにその特色が存し、以て人麻呂の表現態度とは對蹠的の立場にあることを示して居る。これは畢竟赤人の敬虔温雅な趣味性格に歸着する問題であるが、之が爲に赤人の歌の表現態度は人麻呂に比して、消極的で穩正であつて、その意志感情を直接對象の上に活躍せしめてゐない。だから赤人の歌では對象はその素朴平明な姿をありのままに現はしてゐて、その客觀性は嚴然と保有されてゐる。故に何等かの作者の主觀感情が直接讀者の胸にふれて來るとしたらば、それはこの客親性のある微妙なる間隙から油然としてしみ出づるがためである。赤人の歌では外面に現はれてゐるものは、事象の眞であつて作者の意志感情の力で(209)はない。然し文學上の眞は一般的の眞と異り、事象を把握する感情の力の深淺強弱によつて成立するが故に、對象の客觀的描寫の中に作者の深くひそめる感奮と情熱とがあつてこそ、始めてその歌が生氣を帶び、光彩を放つてくるのである。然らざる限りは、この種の歌の外形描寫の自然さも、素直さも、平明さも、畢竟は無氣力と平板と乾燥無味とを意味するものに外ならないのである。これ赤人の歌が一歩あやまれば陷るべき病所なのである。さて赤人の歌が人麻呂の歌に比して如何にその表現態度が消極的なるかを、二三の例をもつて示せば、同じく懷古又は戀愛を詠じた歌にしても、赤人は、
    (1)百磯城《ももしき》の大宮人の飽田津《にぎたづ》に船乘りしけむ年の知らなく(卷三)
    (2)吾も見つ人にも告げむ葛飾の眞間の手兒名が奥津城處(卷三)
 飽田津懷古の歌は、その長歌が身邊觸目の事物に托して一々具體的に懷舊の情を遣るに對して、反歌に於て單純概括的に平叙する方が、むしろ餘韻に富むとはいへ、之を人麻呂の近江荒郡懷古〔六字右○〕の歌、『大宮入の船待ちかねつ』『昔の人に亦も逢はめやも』などと、積極的に擬人法をもつて表現してゐるに比すべくもない。手兒名の歌は『吾も見つ人にも告けむ』と赤人の歌としては何れかといへば主觀の勝つた積極的表現をとつた歌であるが、併しそれでも之が人麻呂であるならば、例へば結句をただ『手兒名が奥津城處』と簡單平明にのみは云ひ据ゑずして、一首をもつと主情的に動亂的に云ひ表はさねば滿足しないであらう。また最も主我的であり盲目的であり易い戀愛の歌にしても、赤人の歌はどこかつつましく靜かで平靜を保つてゐる點がある。
    (3)須磨の海人《あま》の鹽燒衣の馴れなばか一日も君を忘れて思はむ(卷六)
(210)    (4)高按《たかくら》の三笠の山に鳴く鳥の止《や》めば繼がるる戀もするかも(卷三)
などと、たとへ胸中には滾々としてせきあへぬ哀戀の情を深くひそめて居るとしても、その表現された外形は『馴れなばか』『忘れて思はむ』『やめば繼がるる戀もする』と如何にも反省的で、靜かな所がある。之を人麻呂の『妹が門見む靡けこの山』『古にありけむ人も吾が如か妹に戀ひつつ宿《い》ねがてにけむ』『百重にも來繁かぬかとも思へかも君の使の見れど飽かざらむ』と如何にも古今の一大事の如く、自然に人事に誇張的言語を以て、強く積極的に戀情を表現してゐるに比べると、ここに人麻呂、赤人兩者の歌風の大なる差異の存するを見るであらう。
 要するに人麻呂の歌は所謂杜甫の「語不驚人死不休」の慨があつて、一讀人に強い衝撃を與へて感銘を殘すものがあるが、同時に又屡々これに對する一種の反感を惹起せしむることもある。これは感情の強調を以て、一氣に對象の客觀性を超越しようわする作爲感を伴ふからである。これに反して赤人の歌は外形極めて平淡靜和の言語を以て讀者に對するが故に、あへて最初より人に特異な強い刺戟を與ふる所なく、これに伴ふ反感も起らぬ譯であるが、その代りに迂滑に誦するとその平淡な歌風の内に藏する至味にふれることなく看過して了ふ歌である。所詮赤人の歌の妙味は、恰も杜詩の『好雨知時節、隨v風潜入v夜、潤v物細無v聲』の春雨の如くに、いつの間にか讀者の意識せざる胸奥に潜入つて、これをしつかりと捉へる所にあり、實に不可思議にして靈妙なるは、彼の歌に藏せられたる無技巧の力なのである。兎に角人麻呂、赤人の歌に現はれたるかかる歌風の對蹠的差異は、赤人の歌を論ずる上に於て、愈々人麻呂の歌を對比する妙味と必要とを感ぜしむるものであつて、多くの先人もこれに做ひ、今また私のこの小論もこれに做はんとする所である。以下さらに少しく數首の例歌に於て、兩者の差異を具體的に對比して赤人歌風の特色を鮮明(211)にしよう。
 
          三
 
         望不盡山歌
    (5)天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふり放け見れば 渡る日の 影も隱ろひ 照る月の 光も見えず白雲も い行き憚り 時じくぞ 雪は降りける 語り繼ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡の高嶺は
      反歌
    田兒の浦ゆうち出でて見れば眞白にぞ不盡の高嶺に雪は零りける(卷三)
 この歌は何等の奇巧も、誇張も、形容もなく、平々淡々と詠まれた歌であるが、それにも拘らず一讀してある微妙なるものに心を捉へられる歌である。賀茂眞淵はこの歌を評して『大方の人一節を思ひ得て本末をつづくるぞ常なるを古へ人は直ちに云ひつらねしぞ多き、そがなかに赤人はことに節あるはいまだしく心ひくき事と思ひけん〔そが〜右○〕、かく打ち見るさまをそのままに云ひつづけたるなり、さて目出度く妙に聞ゆる故昔より名高きなり。後にもこの意を慕ふ人なしと見ねど聞き知る人のなきに倦みてやめるなるべし。歌などはただ人のほむるによきはなし。古へ人を友としてこそあらめ。』と云つて居る。まことに要を得た至言である。
(212) 然るに世にこの歌は歌格の雄大なる、赤人の歌としては珍らしい歌と稱せられてゐるが、私をして云はしむれば、寧ろこの歌は赤人と雖も雄大なる對象物に接すれば、やはりかくの如く立派に雄大なる歌を詠み得ることを證する歌とするのである。しかもその雄大さは、赤人の如き純直謹樸なる人格をまつて、初めて生じ得べき雄大の風格であつて、他の何人の雄大なる歌よりも、載然として一段高い氣品を備へたる雄大味なることを愉快とするのである。例へば手近くは、高橋蟲麻呂集中に存する不盡嶺の歌と比べて見よ。
      詠不盡山歌              高橋蟲麻呂歌集
    なまよみの 甲斐の國 打ち寄する 駿河の國と こちごちの 國のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行き憚り 飛ぶ鳥も 翔びも上らず 燎ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひもかね 名づけも知らに 靈《あや》しくも 坐《いま》す神かも 石花海《せのうみ》と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日本《ひのもと》の やまとの國の 鎭《しづめ》とも 坐す神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高峯は 見れど飽かぬかも
      反歌
    不盡の嶺に零り置ける雪は六月《みなづき》の十五日《もち》に消ぬればその夜降りけり
    不盡の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかり棚引くものを
 その長歌も短歌も、叙述形容の複雜繁多なる、或はその所在國の地勢より説き起して遂にそれに附屬する河海の神秘に及び、或は行雲に、翔鳥に、燎火に、飛雪に、あらゆる異常の材料を併列して、不盡の偉大と神秘とを描き出さん(213)とこれ努めてゐる觀あるに對して、赤人の歌は僅かに長歌に於て日月雲雪を以てその高大を形容せるのみであつて、短歌に至りては一語の主觀形容語をも着せず、如何に高古簡淨に歌ひ去つてゐるかを見よ。もとより我々はこの蟲麻呂の歌のうちに於て十分富岳の雄偉神秘を感じ、萬葉集中の一傑作とするに憚らないのであるけれども、靜かに兩者の歌を味ひ比べるときは、蟲麻呂の歌は、作者が辛うじて富嶽の雄偉の感情を背負つて居るかの如くであつて、その苦しい姿が目にもつくのである。これを赤人の歌がいかにも平然として富嶽の偉大を背負うて、それを自己の感情中に容易に融化してゐるのに比べると、その相違は單に詩才力量の末葉問題ではなくして、實はもつと根本的な人格問題に歸するではないかと思はれるのである。かかる偉大なる感情をよく無爲平然に背負ひうるは、詩人としての天性の無邪氣と、至純心とに惠まれたる性格のみがよくする所ではあるまいか。赤人の不盡の歌は、同じ雄偉を誇る歌のうちでも又別格なる歌品を有して居る歌である。
 今私はさらにこれを人麻呂の雄大なる自然を詠じた歌と比較して、その兩者間に存する風格の差異を見よう。
    あしびきの山河の瀬のなるなべに弓月が嶽に雲立ちわたる 柿本人麻呂
    ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月傾きぬ
 これは人麻呂の歌としては珍らしく主觀味の少い、客觀味に富んだ歌を選んだのであるが、しかもこの歌に現はれた自然の偉大さは、赤人の不盡歌のそれと比較してその歌品を別にするものがある。これは一つには人麻呂が自然の動的状態を、赤人がその靜的状態を詠んで居り、それによつて感情の内容に多少の相異があるためであるが、併し一つには人麻呂の歌が、山川風雲の活動に對し、又は黎明時に於ける天地の變象に對して、作者自身の姿がやはり積極(214)的に活動してゐるからでもある。『なべに』と一言を以て作者の氣息を山川風雲の活動に流通せしめたあたり、又『かへりみすれば』と作者の感情を所作的に表はしたあたりがそれであつて、赤人が『打ち出でてみれば』と同じく自己の動作を云ひながらも、やはり何處か靜かであつて作者は泰然としてゐるのと異る。故に赤人の歌に古聖者の靜かにして大きなる詞をきく趣があるとすれば、人麻呂の歌には三軍を叱咤する大將軍の號令をきくが如き威力がある。同じく偉大でもかくの如くその由來してくる根源の差異があり、それによつて歌品の區別の生ずることを知るべきである。
 
          四
 
 なほ人麻呂、赤人の歌風の差異を、同じく覊旅歌のうちより類似せるものを選んで比較して見るに
    (6)沖つ浪邊波靜けみ漁りすと藤江の浦に船ぞ騷ける(卷六)
     飼飯の海の庭よくあらし苅薦の亂れ出づる見ゆ海人のつり船 人麻呂
 場所も光景もほほ同じやうな歌でありながら、人麻呂の歌の方が赤人のより大きく廣く且より動的に感ぜられるが、これは人麻呂の歌が『庭よくあらし』と大まかに海面を推定してあるところ、又『苅薦の亂れ出づる見ゆ』が枕詞を利かしながら、語意語調ともに積極的に動的に云つてゐる所から來る效果であらう。これに對して赤人の歌は視界を廣く馳せながらも、『沖つ波、邊波〔五字右○〕しづけみ』と言葉をかさね、細所に詳しく着目してゐるために、海面の廣濶を語るよ(215)りも、まづその異常に靜かなる凪であることを語るに力を注いで居るかの觀がある。既に『沖』にも『邊』にも波が靜かであると云ふから、そこに漁りする船の廣く散在する樣は想見すべきであつて、廣濶なる白晝の海の靜寂のうちには船人の聲もきこえるのである。『船ぞさわげる』と云つても、これは海面に停止してゐての騷ぎの如くに感ぜられる。而してすべてこれ等の複雜を簡潔なる形に纏めて、歌幅を廣くして結んでゐるのが下句『藤江の浦に船ぞ騷ける』である。人麻呂の歌では『亂れ出づる』船の全面的動作よりして、自ら廣大なる海面の靜寂が想見されるに對して、これでは海面の廣濶と靜寂を凝視することにより、その細部に活躍する漁聲船影の動を見得るのである。即ち人麻呂の歌ほどの輪郭の大も動もないが、然し赤人の歌は靜中にこの動を見るとともに、又この複雜の情趣を見るのである。
    (7)印南野の淺茅おしなべさ宿《ぬ》る夜の日《け》長くしあれば家し偲ばゆ 卷六
     阿騎の野に宿る旅人うち靡き寐《い》も寢《ぬ》らめやも古おもふに 人麻呂
 前者は懷郷の寂しさに、後者は懷古の興奮に旅宿でねむれないで反側轉々としてゐるのである。そこに内容に多少の差異はあるが、それよりも尚差異の著しいのは兩者の表現態度である。人麻呂の歌の『うちなびき』と云ふ語調の強い枕詞、『いも寢らめやも』と云ふ斷定的な否定詞、凡てこれ等は抑制し難き自己の強い感奮を托した表現とは云へ、表はるる所は作者が對者を斷定せんとする意志感情である。強烈で沈痛な感情のひびきはこもるけれども、又時としてそれに對する一種の輕い反感が生ぜぬとも限らない。
 然るに赤人の懷郷の感慨の發露は極めて自然であつて、『淺茅押しなべさ宿る』と云ふ特異な境地も、それを作者が(216)『日《け》長くしあれば』と嘆くが故に、徒らに誇張した言葉としてひびかぬのみか、一夜二夜の苦勞でなく、積り積つてきた作者の感情が流露して、自らこの嘆きを發せしめたものとして響くのである。讀者は何等の強ひらるる感情なくして、作者の嘆聲に引き入れられて了ふのである。
    (8)風吹かは浪が立たむと伺候《さもらひ》に郡多の細江に浦がくり居り 卷六
     御津の崎浪をかしこみ隱り江の船こぐ君が行くか野島に『船よせかねつ野島の崎に』 人麻呂
 同じく暴風雨の船泊りの歌でありながら、人麻呂は『浪をかしこみ』と端的に恐怖の感情を云ひ、『船こぐ君が行くか』(或は『船よせかねつ』)と積極的に行動を歌つて居る。然るに赤人は『風吹けば浪が立たむ』と推測的に天候に對する疑惑を云ひ、『浦隱り居り』と靜止的に碇泊地に於ける警戒状態を説明して居る。前者に風浪の威力を誇張して直接に恐怖を感ぜしむるものがありとすれば、後者には未だ來らざるものに對する警戒と云ふ智的活動がある。同じく恐怖心の表現ながら、前者は恐怖を積極的に誇張して表現しつつも、何處かに作中の主人公に勇敢なる動作があり、後者は恐怖を消極的に説明するのみであるが、作中の主人公には周到なる警戒と一種の怯懦とがある。とにかくこの二つの歌には、何か人麻呂赤人兩者の性格の差別を如實に暗示するものを見るのである。而して又今迄に例擧した兩者歌風の比較に於て、この性格差異のほかに感情の興奮と沈潜と、その表現態度の積極的と消極的と、その他種々の特色の對蹠的差異を見るのである。
 
         五
 
(217) 赤人は自己を對象の奥所に沈潜せしめて居るが故に、その歌は普通客觀的繪畫的な歌であると云はれ、延いて赤人を自然描寫歌人、叙景歌人などと稱するものが多い。これも一面は眞實であるけれど、併しさう決定するには、なほ今少しつき進んで考察を要する所がある。赤人の歌は萬葉集中の他の何人よりも自然を取扱つた歌が多い。たとへば赤人の短歌三十六首中大部分は旅行歌であつて、他の歌人の如く戀歌とか挽歌とかの主情的要素のまじるべき歌は少い。これはその閲歴境遇によつてさういふ歌を詠む場合が少かつたのかも知れないが、然しそれにしても赤人の好尚は露なる主情的作歌には向かない所があつた故であるまいか。何故ならば例へば行幸供奉の際に於ける應詔歌でも、人麻呂ならば『山川もよりて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出するかも』(吉野宮)『皇《おほきみ》は神にしませは天雲の雷の上に廬せるかも』(雷岳)とか、又笠金村ならば『人みなの壽《いのち》も吾もみ吉野の瀧の常磐《ときは》の常ならぬかも』(吉野宮)『荒野らに里はあれども大王《おほきみ》の敷き座《ま》す時は京師《みやこ》となりぬ』(難波宮)等の如く感情の誇張や事實の誇大を以て主觀的に歌ふところを、赤人は素直に温和しく『若の浦に潮滿ち來れば潟を無み葦邊をさして鶴鳴き渡る』(玉津島)『み吉野の象山の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《ここだ》も騷ぐ鳥の聲かも』(吉野宮)等の如く、その地の自然の風物をそのままに歌ふことをもつて應詔歌として安じてゐる。然ればと云つて赤人は單なる自然觀察者でもなく、又淺薄なる自然描寫主義者でもない。赤人は自然界に存する人生を、鳥獣魚介を、又無生物をも自己の生命の温みを以て、じつと抱かうとする歌人である。他の歌人は自己乃至自己の周圍に執愛することによつて、はじめて自然界中のある現象に關心をもつのであるが、赤人は自然の微妙を深く凝視することによつて、その奥處に自己の生命の存在を見出すのである。從つて前者には自然の客觀性は偏視されてもよいが、後者にはさうは行かない所がある。夫れはその客觀性が赤人自身の世界を創造するために、(218)最初から必要なる要素であつたからなのである。赤人の歌に對象の素朴の姿が愛せられ、又その觀察が精細で描寫が複雜なのもこれが爲である。以下主なる歌について具體的にその特長を吟味しよう。
 
    (9)繩の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奥《おき》つ島|榜《こ》ぎ囘《た》む舟は釣《つり》爲《せ》すらしも(卷三)
    (10)武庫の浦を榜ぎ囘小舟粟島を背向に見つつともしき小舟(卷三)
 二首ともに灣頭乃至、内海の島嶼、漁舟散在の複雜な光景を簡明に描寫して居る。その印象明瞭なる點をもつて繪畫的とよばれてゐる所以であるが、内に潜在するものはただ夫れだけではない。前歌に於て作者は沖の島を漕ぐ舟に眼をとめながらも、その舟を『釣せすらしも』と云つて、そこに行はるる人間生活の営みに心を引かれて居るのである。而してこの人間生活あるがために、この灣嶼一連の自然景が、一層強く作者の愛着を惹くのである。『釣』と具體的にいつて漁する〔三字右○〕と漠然と言はないその細密丁寧なる言ひ方。これは別に作者が意圖した語ではあるまいが、蓋し情をやるに懇ろで忠實なるがために自然に發しられた語であらう。一首に作者の天眞の感情流露するを見る所以である。後歌『武庫の浦を』の歌にしてもまたさうである。眼前に描き出さるる所は一幅の畫圖であつても、一首のもたらす感懷は決してそれに止まらない。『粟島を背向にみつつ』歸漕する旅情切々たる船客どもを、その『美しき小舟』の中想見して羨しむが故に、この無心の畫圖のうちにも、自ら人間の棲居する生氣と温情とが生ずるのである。
 
    (11)阿倍の島鵜の住む磯に寄する浪問なくこのごろ大和し念ほゆ(卷三)
(219)    (12)玉藻苅る辛荷《からに》の島に島|囘《み》する鵜にしもあれや家念はざらむ(卷六)
 ともに島磯に住む鵜に托して旅情を歌つたものであるが、前者は『鵜』の住む故に家郷を一層に偲び、後者は無心〔二字右○〕の『鵜』の故に一時でも旅愁をまぎれやうとしてゐるのである。『阿倍の島』の歌では上三句は勿論序辭であつて、鵜の住む磯なるが故に『間なく寄する波』が寫生的によくきいてゐる。即ちその鵜が常に波になやまされてゐるが如く、作者が絶えす懷郷の念になやまされてゐるとの情意がよく通ふのである。『間なくこのごろ』が稍間拔けて緊密を缺いだ句のやうに思はれるけれど、併しこの此頃になつて漸く〔八字右○〕、と作爲せずに素直に云つて居るところが却つて眞切にひびく。穉拙なれど素直な味はひが深いのである。
 『辛荷の島に』の歌では、『鵜にしもあれや』の句法が、赤人としては珍らしく擬人法の句法であつて、自己の情意を積極的に働きかけてゐる歌である。自分の旅情の寂寥に比して、海中島邊に漁游せる無心の鵜に深く羨望の聲を發し、思はす知らず自己をそれに擬したから、かく自然にひびくのであらう。即ち『島囘する』の細かい情趣を伴つた鵜の客親的描寫が躍如としてこの感を援けるのである。兩歌ともに寫生的で對象の客觀性を尊重しながらも、作者が禽鳥に對して人間的生活の同愛を感じようとするところ、情意懇ろに至つてゐるものがある。
 
    (13)奥つ島荒磯の玉藻潮干滿ちてい隱ろひなば思ほえむかも(卷六)
    (14)若の浦に潮滿ち來れば渇を無み葦邊をさして鶴鳴き渡る(卷六)
 前者は主觀の露はな歌でありながら、やはり作者の自然に對する鋭敏な感受性の閃いてゐる歌である。干潮時の磯(220)といへば、海底の泥砂も玉藻も隱岩も露はれれば、又磯海の複雑なる地形も一目に見えてゐる。人も鳥もそこに下り立つて遊びもする。まるで滿潮時の磯とは別物の觀を呈するのであるが、然しそれとても潮が滿ちてくれば、再び何事もなかつた一望の海面と變るのみである。自ら人々は一種の感慨をもつて干潮時の光景を思ひ出さざるを得ない。その磯の光景を『荒磯の玉藻』をもつて代表せしめ『潮干滿ちてい隱ろひなば』と想像して居るのである。この語また寫實によらなければ生れてこない細かい觀察である。
 後者は『渇をなみ』『葦邊をさして』の句が、滿潮に從つて變化する海面を如實に寫して居るとともに、結句の『鶴鳴きわたる』に對して鶴のこの動作を起すべき原因を示し、そこに鶴の習性や生活に對する作者の懇ろなる理解と愛情を示してゐる。この歌は由來治者的な描法の歌として宣傳されて居るが、單にそれだけと見るのは淺い。これを高市黒人〔四字右○〕の『櫻田へ鶴鳴きわたる年若市《あゆち》渇潮干にけらし鶴鳴きわたる』にくらべると、この歌は累句をもつて『鶴鳴きわたる』と強調してはゐるが、鶴の生活相に對する愛憐よりも、寧ろこれによつて『櫻田』『年若魚市渇』と二個處の地理的光景を讀者の眼前に髣髴せしむる所が多い。この差異に注目すべきである。
    (15)み吉野の象山の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《ここだ》も騷ぐ鳥の聲かも(卷六)
    (16)ぬばたまの夜の深けぬれば久木生ふる清き河原に千鳥|數《しば》鳴く(卷六)
 前者については島木赤彦が『境は吉野の山中で、耳に聞えるものは木末々々の鳥の聲である。一首の意至筒にして、澄み入る所か自ら天地の寂寥相に合してゐる。騷ぐというて却つて寂しく、鳥の聲が多いというて愈々寂しいのは、(221)歌の姿がその寂しさに調子を合せ得るまでに至純である爲である。』といつてゐる。所謂『天地の寂寥相に合する』とは、作者が自己の生命の寂寥を、この群鳥の生活のうちに見出してゐるを云ふのであらう。ここでは『幾許も騷ぐ鳥の聲かも』が一首の眼目になつてゐるけれども『山の際の』『木末には』と詳しく云つて居るために、一首の情意が濃密になつてゐることを看過してはならぬ。この二語は一見無造作に詠まれた言葉であるが、その實は作者の懇篤忠實なる寫生の道程に於て自然に生れた、所謂無技巧の技巧を藏する語である。『ぬばたまの夜の深けぬれば千鳥しば鳴く』の歌は、表面は自然の景物を客觀的に平叙しながら、内にはふかく作者の千鳥に對する愛着の情を通はして居り、赤人その人の魂がそこに移されてゐるかの感がある。これを又高市黒人〔四字右○〕の『磯の埼榜ぎ囘《た》み行けば近江の海八十《やそ》の湊に鶴《たづ》多《さは》に鳴く』の如き歌が、自然の客觀描寫が主であつて、内に鶴そのものに對する愛着などの如き、感懷を藏して居ないのとくらべるべきである。又人麻呂の『淡海の海夕浪千島汝が鳴けば〔五字右○〕心もしぬにいにしへ思ほゆ』の歌の如く千鳥を擬人してそれに自己の感慨を積極的に托して沈痛に歌つて居るのとも異なる。赤人のこの歌の形は何處迄も平淡で靜かなのである。島木赤彦又曰く、『猶この歌、夜半の景情を歌ひながら「久木生ふる清き川原」と明瞭に直觀的に歌つてゐるのは、月光明かな夜ででもあつたのか。そこに少しの疑がある。』と。これを月明の夜とするのは卓見である。ただし『久木生ふる』と明瞭に云つたのは、この場合、作者が現實に月明下の白い石河原に、黒點々と影を印して居る樹木を目に見てゐるからである。而して作者はその樹種の何たるかを熟知するが故に、『久木』と指摘して云つたのである。すでに或る樹種の生育する河原である以上、年々の洪水に全く荒廢され盡した裸河原ではない。そこに川鳥などの巣棲を想像し得べきである。もとよりこの歌のこの句はかかる既成概念があつて出來たのではあるま(222)いが、しかし作者の寫生心を押しつめて行くところ、この場合省略し得ざる重要なる描寫である。『久木』『清き』『しば』の細敍一見くだくだしいにしても、茲に一首の情味を釀す酵素が藏せられて居るのである。
 
    (17)明石渇汐干の道を明日よりは下咲《したゑま》しけむ家近づけば(卷六)
 『潮干の道』の句も亦一見無造作に出た言葉であるやうであるが、決して卒爾として生れた言葉ではない。ふかき實感、即ち寫生心の自ら深く至るにあらねば着眼し難い所である。行幸供奉の滯在中朝夕に親しんだ渇の道である。そこを明日出發して歩まんとするのである。故に同日にして『明日よりは下咲ましけむ』と想像してよろこぶのであつて、ここに巧まずして作者の天眞の情が流露して居る。結句『家近づけば』は倒句法を用ひ、その悦びの生ずべき根本の理由を説明し、以て一首の情意を一層濃密にしてゐるのである。
 
    (18)島がくり吾が榜ぎ來れば羨《とも》しかも倭へのぼる眞熊野の船(卷六)
 第三句で『羨しかも』と稍突如として主觀句を投入した句法は、赤人としては積極的な句法であるが、しかしそこに一種の感情が天眞に發露してゐる所やはり赤人流である、『島がくり』と云ふ句は一首の意味の上から云へば、それをたとへば『海原を』とか『印南海を』とか大まかに叙述してよい所で、必ずしもかく具體的に細叙しなくともよい所である。然るにそれを敢てして居るところに之また所謂赤人流の寫生の刻明と情調的な所とがある。この歌を高市黒人〔四字右○〕の『旅にして物戀ほしきに山下の朱のそほ舟沖に漕ぐ見ゆ』に比するに、黒人の歌には都に向ふ舟〔五字右○〕なるがゆゑに作(223)者の心を惹くよりも、むしろ朱塗舟〔三字右○〕と色彩が視覺を唆るが故に作者の心を惹いた點が多い。赤人の歌がその羨望の情を端的に大和へ下る舟にかけ、人事感情の咏嘆を含んだのとは違ふ。赤人の歌はやはり自然のうちに人間を親しんで居るのである。
 
        六
 
 かく今迄赤人の歌に試みた私の批評解説は、これによつて曩に人麻呂の歌と對照して論じた赤人の歌風の大體の特色を、一々具體的に詳しく例證するとともに、その道程に於て爾餘の特色をも闡明補足する所あらうとしたものであるが、今再び繰返して赤人の歌の特色を綜合的に説明するならば、第一に彼の歌は内に沈潜するが故にその表現態度は、消極的であつて、外面に現はれた歌の姿は素直で平明で靜かで、且つ對象の客觀性が尊重されてゐる。この點人麻呂の歌の外貌が積極的動的であるのとその趣を異にしてゐるが、然し赤人の歌には人麻呂の熱烈沈痛なる感情のかはりに、一歩踏みこんで味はば、内には深く湛へられた潺々不盡の情味の泉の汲むべきものがあるのである。たとへば彼が非情の自然界に有情の生活相を發見して親しまざれば止まざるが如きであつて、彼の歌に藏するかかる滋味温情こそは、これを同じ客親自然歌人でも高市黒人〔四字右○〕等に比べて、截然區別すべきであることは、既に屡々説いた所である。
 而してここに又注目すべきは、赤人の歌が内にこれらの滋味温情を藏してゐる原因は、その表現手法に一種の情調的〔三字右○〕なるものの存するに基くことである。情調的と云つても歌風が甘く脆弱にならないのは、作者が對象の客觀性を把(224)握することの謹肅なるためであるが、それにしても一首が情調的であると云ふことは、作者の細かい心情の動きが留意されることであり、ある細部の客觀描寫が要求されることである。この故に所謂赤人流の細かい表現は、逆にその歌を情調的ならしめて居るとも云ふべきであつて、實例はさきに掲げた各種の歌の隨處に於て説明したところであるが、たとへば芳野離宮の反歌にしてもあ(15)『象山にさわぐ鳥の聲かも』(16)『夜の更けぬれば河原に千鳥が鳴く』ですむべき所を、赤人は『山の際の』『木ぬれには』又は『久木生ふる』『清き』『しば鳴く』と細叙してゐる如きである。これもつまり赤人の如く沈潜したる感情を遣るに於ては、かく細叙せねば滿足し難いものがあるからであつて、一首の滋味も、實はこれ等の情調的表現の道程に於て必然的に生れる、所謂無技巧の技巧をなす語句の微妙なる斡旋裡に生ずるのである。なほ赤人の歌でも最も情調的な歌と見られるものについて云へば、
 
    (19)春の野に董摘みにと來しわれぞ野をなつかしみ一夜ねにける(卷八)
    (20あしびきの山櫻花けならべてかく咲きたらばいも戀ひめやも(卷八)
 これ等はいづれも裏に戀愛の心を含めて味ふべき歌であるが、官能的情調的であつて、或は象徴の域にまで進まうとしてゐる歌である。『董摘みに』は赤人流の細かい表現であるが、併しこれは實は春光※[にすい+熙]々たる野を戀に浮かれて來たことを意味するのである。また一夜ねたのも勿論女性の家に宿つたことであるが、それを『野をなつかしみ』と意味をぼかして情調的に云つて居るのである。第二首は『かく』『いと』などと形容的の語を用ゐ、『けならべて』と細かに、『戀ひめやも』と反語的に強めて云つて、語句を曲折せしめ心持を細かに運んでゐるなど、内心に戀着する一女性(225)を櫻花に象徴しながら、情調的な表現である。而してこれ等の歌は一般には家持の技巧的歌風平安朝歌風繊細の先驅をなすと稱せられて居る歌であるが、私はこれを次の歌などとともに、技巧の圓熟した赤人の晩年の歌ではないかと見るのである。
 
    (21)百濟野の萩の古枝に春待つと來居し鶯鳴きにけるかも(卷八)
    (22)足曳の山谷越えて野高處《ぬづかさ》に今は鳴くらむ鶯のこゑ(卷十七)
 前の歌は過去を追憶してその中の事象を捉へ來つた點で既に情調的なものがあるが、『百濟野』の固有名詞の使用極めて自然なる、『萩の古枝』と特に具體的に云つて、そこに重要なる情趣を宿せど態とらしからざる、『春待つと來居し』との擬人法的に云ひながら毫もその厭味を伴はぬ際どい表現、それらが『鶯鳴きにけむかも』の想像句に結びついて何等の破端を示さぬところに、技巧の自らにして考巧なるものがある。後の歌の『山谷越えて野高處に』の句には鶯の季節もともに移動する習性が凱切に寫生的に表はされて居り、その時問的經過を『今は』とうけて居るためにこの一語が非常によく利いて、春到來の感じを深からしめて居る點、この二首ともに春鶯を愛憐しつつ、清雅温純なる聲調をおびて技巧の洗練圓熟せる歌である。後の歌は之をさらに次の厚見王の歌と比較して見る時、その眞價が一層よく判明する歌である。
    かはづ鳴く甘南備《かむなび》川に陰見えて今や咲くらむ山吹の花 厚見王
赤人の歌の模倣とも見られる程酷似せる歌であつて一種の情調を伴うてゐるが、その情調は浮薄で一粉飾の匂ひがある。(226)『陰見えて』と言つてもこの句唐突であるうへに、何等の季節の經過を示唆して居らぬので、それを『今や』とうけても一向ひびかないのである。この肝心な點に於て寫生に徹しないがために、『山吹の花』も『かはづ鳴く』も只の虚飾語たる感があり、一首の生命も、ここに甚だ稀薄となつて居るのである。これ歌はいかに才氣や技巧を以てしても、紙一重の境に於ては、寫生的精神がその生命を決定する重大なる要素たることを、如實に示してゐる例歌である。今この微妙なる差異を辨ぜずして、赤人のこれ等の歌を平安朝歌風墮落の先驅となすは實に淺薄である、
 
         七
 
 赤人の歌がその情調的表現の過程に於て、所謂無技巧の技巧、不用意の用意句を生むことは前にも一寸記したが、これについて彼の歌でも最も外見の平凡無味な歌ほどが、如何にこれによつて一首の生命構成の機微を佐けられて居るかを顯著に示してゐる。例へば
    (23)昔者《いにしへ》の舊き堤は年深み池の渚に水草《みぐさ》生ひにけり
    (24)戀ひしけば形見にせむとわが宿に植ゑし藤波今咲きにけり
前者はこれを『御立たしし島の荒磯を今日見れば生ひざりし草生ひにけるかも〔生ひ〜右○〕』などの積極的誇張的表現にくらべるといかにも平板に過ぐるかの感があらう。然し仔細に見れば『昔者』と云ひ『舊き』と云ひ『年深み』と云ひ分ち、(227)又は『堤』と云つて次の『池の渚』と區別してゐるなど、ほぼ似た言葉をかさねながら、その意味の小異の間におのづから作者の情調の移行する跡がしつくりと表れてゐる點に注目すべきである。而してこれは巧んだり意圖したりして出來た語法ではないのである。後の歌は第一二句あたりが少しく感傷的であるが、『わが宿に植ゑし藤波』と云ふ澁い規實的の句がよく据つて居るのと、『今』と眞切に云つて居るのとで、これに照應してこの句はかへつて素朴純眞なひびきを籠らして居るのである。
 かく赤人の歌には、細微の寫生に立脚した所謂無技巧の技巧によつて、稍々もすればその表現態度の消極から陷り易き歌の外見上の平板無味も、その生命を救はれる所があるが、同時に彼の歌には、又その持前の性格の純朴さからして、自らに流露する天眞の愛すべき感情があつて、その平淡の歌風に云ふに云はれぬ親和的の魅力を生ぜしめて居ることも看過出來ない。これもすでに一寸は觸れた問題ながら、例へば『漕ぎたむ舟は釣せすらしも〔六字右○〕』と懷しく想像せる、『粟島を背向に見つゝ羨しき小舟』と純朴に嘆ける、『間なくこのごろ〔七字右○〕大和し思ほゆ』と正直に表白せる、『鵜にしもあれや〔七字右○〕家念はざらむ』と無邪氣に希望せる如きこれである。而してこの天眞の發露は、無遠慮から來るそれではなくて、虔しくありながら※[まだれ/叟]《かく》すことの出來ない純情から來る發露である。實にこの純眞はその無技巧の技巧と相俟つて、赤人の歌の大なる特色をなしてゐるものである。
 次に赤人町歌の表現の細かさ描寫の刻明は、必ずしも一首を構成する道具立の多い事を意味しない。彼の歌は前例にも見るが如く、單に一事象を委しく分析して描寫したまでである。前例の『象山の際の木ぬれ』は象山〔二字右○〕の一語に、『沖つ波邊波しづみ』は海靜〔二字右○〕の一語に、『久木生ふる清き河原』は單に河原〔二字右○〕の一語に各つづめらるべき語句である。即ち(228)事象は委しくなつても、決してその種類を増加するのではない。然るに赤人のこの表現方法に對立せる差異を示すのは人麻呂の表現技巧であつて、彼は赤人の如く一事を細別して叙するかはりに、その事象に枕詞を冠らせ一事をあらはすに却つて二語を以つてして居る。例へば『あしびきの山河〔二字右○〕』『かりこもの亂れ〔二字右○〕出づ見ゆ』『敷妙の袖〔右○〕かへし君』の如きである。赤人の手法が語意の上から情趣を詳かにせむとするに對して、人麻呂の手法は語音語調の上から情意を濃密にあらはさうとして居る。だから前者は一首の感情を複雜にはしても決してその調子を高めはしないが、後者は一首の調子を高めはしても決してその感情を複雜にはしない。これがため赤人の歌はその聲詞が靜的ではあるが澁味深く、人麻呂の歌はその聲調が動的であるとともに感情が痛切である。
 人麻呂の歌の聲調が動的なる原因には、このほかに積極的語法による意味の強調、又は句法の變化による律動的の效果に、工夫が凝らされて居ることも見逃せぬ。然るに赤人の歌は語法も靜かであり、句法音調的の變化による音樂的效果について顧慮することも比較的淡白である。故に赤人の歌は讀み下し的の句法になる歌が多く人麻呂の歌の如く倒句、又は疊句など句法の變化に富む歌は少ない。なほ序辭枕詞の使用について見るも人麻呂の短歌(人麻呂歌集出の歌は除く)は六十首中、序辭枕詞三十七の過半數に對して赤人は三十八首中、序辭枕詞十二の三分一以下の使用にすぎぬ。今この表現技巧の多種多樣を以つて、直ちに人麻呂、赤人の技巧の優劣を本質的に定めることは出來ないが、然し赤人にたとへ洗煉されたる高雅な技巧はあつても、やはりその技巧的變化の乏しいことは、その歌の取材範圍の狹少なることとともに、人麻呂に對して一等を輸する觀を呈せざるを得ないのである。例へば(6)『沖つ波』(9)『繩の浦の』(10)『武庫浦を』(11)『阿部の島』(12)『玉藻刈る辛荷の島』(18)『島がくり』の如き瀬戸内海を往復しながら、殆んど(229)同光景を取材として詠じて居り、その表現手法も用語も甚しく類似して居つて、これを人麻呂の第三巻の『※[覊の馬が奇]旅八首』の内容用語技巧の多種多樣なるに比較すべきもない。かう云ふ點から見ると、やはり赤人は人麻呂に内容的にも技巧的にもその豐富自在の變化を以ては、見劣りのする感じが深い。
 
         八
 
 以上で大體赤人の歌風とその萬葉集中に於ける地位とを明かにしたが、殊に人麻呂との對比によつて赤人の歌風はその特色を一盾鮮明に看取さるべきことをも示した。なほこれについて世説では赤人の歌風は純日本的の趣味であつて、これが古今集以後の歌風にその主脈を引いて居るが如く説き、赤人の追從者の多數なるに對して人麻呂歌風の追從者の少いことを説いて居るものがある。然し私の見るところを以つてすれば人麻呂の所謂雄大豪放なる歌風の模倣者は中世に入つても決して少くないのである。たとへば手近な夫木和歌集〔五字右○〕中の山海の歌よりこれを拾ふに、
     山もなき海の表にたなびきて波のはなにもまがふ白雲    西行
     東路やまた明けやらぬ足柄の八重山雲を今ぞわけくる    家隆
     目にかけていくかになりぬ東路やみくにをさかふ富士の白山 隆辨
     君が代はそこひも知らぬわだつみの駒うち渡す道となるまで 咲家
     西の海げに唐土の空なれやからくれなゐにうつる陽かげは  田島
(230)の如く多々あり、その外形の雄大豪莊に至つては人麻呂の歌も及ばぬほどであるが、しかし肝心の歌の生命の點になつてくると、これ等には殆んど何等の眞實性も情熱も氣魄も迫つてくるものがないのである。つまり萬葉集と古今集以後の歌風の根本的差異に基くものであつて、作爲と粉飾とを事とする古今集以後の作風に於ては、人麻呂の歌の雄大は外形的に摸し得ても、その氣魄までも模することは到底出來ない。これに反して萬葉流の作風に學べる實朝等について見るに、同じく新古今調流行の時世に生息しながらも、優に人麻呂の衣鉢を傳ふるに足る雄大なる歌を詠み得てゐるのである。
     大磯の磯もとどろによる波のわれてくだけてさけてちるかも 實朝
     時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ
 なほこのほか明治の萬集調復興期に於ては伊藤左千夫の『九十九里濱』『わが命』長塚節の『濃霧』等の如きが多々ある。即ち知る中世以後ながらく人麻呂流の雄大豪壯な歌風の承繼者の絶えたる所以は、決して我々の祖先にこの氣魄のかけて居たためではなく、唯これをつぐに適切正當なる道を以てされなかつたためである。
 これに對して赤人流の歌になると、世説はその模倣の易きと追從者の多きとを云つて居る。これも同じく皮相の見解であつて、赤人の歌風に於いてその眞骨髓を承繼することの困難は、むしろ人麻呂歌風の追蹤よりも困難なのである。賀茂眞淵は赤人の『不盡の歌』の反歌の評に附加して『後にもこの意をしたふ人なしと見ねど聞き知る人のなきに倦みてやめるなるべし。歌などはただ人の賞むるによきはなし。古へ人を友としてこそあらめ』と慨嘆して居るが、これ即ち『赤人は殊に飾あるは未しく心低きことと思ひけむ。かくうち見たる樣をそのままに云ひつづけたるなり』(231)の歌風を繼承し得る人の乏しいことを喝破したのである。赤人の歌の形の平明はあるひは容易に模すべきであらう。しかしその沈潜と純直とは、之を天賦の性格より以て入り、又は寫生的精神にふかく立脚するに非ずんば、容易に模することは出來ないであらう。世説が赤人の歌の外形の質實無奇なるを見て、これを平凡の記述と誤るのであつて、眞の難きはこの道の達成にあると云つてよい。
 最後に赤人は人麻呂と時を前後して出で、ともに朝廷の微官にして經歴の詳かならざる等類似を思はしむる點多々あるが、ただ人麻呂には妻婦愛人との數度の死別又はその隨身せる皇子の薨去があり、その感情生活に深刻なるものあつたに對して、赤人には別にこれと云ふ深刻悲痛の事變もなく、また憶良、旅人の如き身上社會上の何等の不滿憤慨もなく、その感情生活は新肅でありながら平穩で明るかつた。なほ人麻呂が前代よりの諸風を合して彼の鬱然たる歌風を大成したのに對して、赤人はその大勢力の影響下に歿埋せず、よく別にこれに對比すべき歌風を樹立し得たことは、人麻呂の效績が顯著であればある程、一層に赤人の歌風の開拓は至難で重要なる意義を有するのである。即ち人麻呂に於て壯觀なる一大瀧津瀬をなした萬葉歌風は、赤人に於てこれを湛然たる深淵に靜め導かれたのであつて、只赤人に歌數少く從つてその歌風に變化多樣の偉貌は望めぬが、しかし要するに茲に於て、萬葉集の二歌風の對立の壯觀を見得るに至つた譯である。
 この小論元來は赤人の長歌をも擧ぐべきをこれは紙數の都合で略した。尚この文病中の起稿にかかるため、始終口逃筆記によつたので、諸書の渉獵參照等意をつくし得ず、論旨行文ともに粗漏蕪雜の點も多いであらうが、大方の寛恕を御願ひする。
 
 
(403)  大伴家持
                 吉澤 義則
 
 歌人大伴家持を切離して萬葉集を思考することはむつかしい。見方によつては全二十卷のどの卷にも彼の息がかゝつてあるやうに思はれる。大伴氏の盛衰を内面から考へ、歌人家持の生涯を思惟することはやがて萬葉の本質に觸れることにもなるであらう。′
 茲に極めて概括的に彼の人柄と作品の傾向とを叙して、これに國文學上の一つの立場から批評を下して見たいと思ふ。
 大體、奈良朝の文化は雄渾とか素朴とか明朗とか、今日吾々が考へてゐるやうな一つの概念のもとに割切れるものではない。近づけば近づく程、それの含む諸相は複雜である。
 現在吾々が感じてゐるもの、求めてゐるもの、過去に於て失つたもの、將來に於て把握せむとするもの――あらゆる萌芽が混沌たる一つの生命をなしてゐるが故に尊い。
 近代の人々にかくも強く深く響くものは、この割切れざる混沌である。迫眞力である。
 文學上の一つの古典としてのみこれを眺めることは萬葉集の眞精神に到達する道ではないであらう。
(404) 「割り切れない」といふ事は、それ自らが全體であるといふことである。常に現在であるといふことである。
 古今集も新古今集も文學史の上にそれ/”\尊い「部分」を占めてはゐる。がその完成せられた味は、もう過去に屬してゐる。古典の清淨界に輝く星となつてゐる。けれども吾々の生活には、もう間接にしか觸れては來ない。萬葉集はさうでない。今鑄型を碎いて流れ出る直接な熱と力とを吾人の心に注いでくれる。吾らの血は千年の時間を超えて直ちに萬葉人に連結してゐる思がある。
 今日藝術上の解釋が間違つてゐない限り、萬葉集とのこのつながり〔四字傍点〕は不易のものとして殘るであらう。
 しかし何といつても歴史のひろがりの上で萬葉の歌は明かに古今集と結びついてゐるのである。けれども短歌の進化の途上に於て古今集の歌が進歩した幽艶な形式として發展してゐるところに文化の方向と歌の藝術的な歸趨とを見出すのである。萬葉集の混沌は時代の淨化作用によつて、その熱を失うた代りに古今集の清澄な統一を得たといはれる。
 この意味に於て家持の歌は萬葉の歌の一つの到達點であり、同時に次の時代の出發點でもあつた。
 さて寧樂朝の世相を概觀するとその變遷のあわたゞしさは思ひの外である。(これに比較し得るのは、明治維新以後の數十年間であつて、そこに形式内容兩面の徹底的なる革新が存在する)
 天智帝即位から聖武天皇まで僅に六十年ほどの時代の潮流は激しい角度を以て大和人の心を襲うてゐる。
 氏族制度の崩壞、壬申の亂、平城遷都、大佛開眼――國家的大變動は、その都度、純粹な傳統の力を脱落させ、咲(405)く花の匂ふが如き新帝郡は隋唐の文明の尖端的な模倣に滿されて、遠つ飛鳥の祭政一致ののどけき夢は全く醒め、貴族の遊宴は庶民塗炭の苦と交はり、貧窮問答歌に看るが如き階級的差別を現じ、寵臣の跋扈、風俗の頽廢、陰謀、暗殺は淫佛の惡弊と交錯して終止する處を知らぬ。
 急激な文明の釀す空氣はおのづから頽唐的虚無的思想を呼び、強ち旅人の讃酒歌を俟たずとも奈良朝末期の人心は頗る哀しく且享樂的であつた。豪華な現實に宿る深刻な影は他のいづれの時代にも見出す能はざる性質のものである。かゝる美しい暗黒を救ふ力は果して何であつたか。全國に亘る堂塔伽藍も、遣唐使の頻りなる派遣も、たゞ社會の装飾的意義と人心の官能的刺戟の方面に多分に役立つものであつた。
 一世の崇佛の態度も頗る形式的であつて、宗教の根本義なる道徳性は、その半面の社會性もしくは藝術性の爲に全く覆はれてしまつた。
 又一政治方面から見ると大化改新の根本は全く儒教精神に立つてゐる。天智帝の大御心には武王周公の理想が理想として働いてゐた。天武持統の御代に於ても大學の學制は經學を基本としてゐた。
 國史の刪定、律令の編纂などこの期の前半の國家は政治的實際的に活動して古い神々を驅逐し去り、後半ではその儒教的功利主義が藝術的享樂主義に墮ちていつた。大毘廬遮那佛建立が大化改新と相對してその後半の國家的意義を具現したものであつて、この二大區域を代表する歌人を擧ぐれば、柿本人麿と大伴家持とである。現代の短歌觀から推して人麿と家持との力倆のひらき〔三字傍点〕をあまり大きく考へることは多少の注意を要する。(406) 萬葉集をこの大きな時代精神を代表する歌集として見るとき、その中軸をなす作家は人麿と家持とである。
 赤人の透徹、蟲麿の精緻、これらはその單獨なる價値は別問題として、時代の歩みの上よりして見ればむしろ枝葉に屬する存在である。大和|人《びと》の精神は確かに人麿から家持へ遷つていつたのである。
 大伴氏は佐伯氏と共に所謂「神別」に屬する鏘々たる名族である。
 氏族制度への回顧がこれらの人々の心には無意識のうちに絶えず働いてゐたことゝ思ふ。吾が神々を護り、氏文を傳へ、多數の部曲の民を擁して誇恃してゐた氏(ノ)上の血は、破壞せられた傳統への烈しい愛着をもつてゐる筈である。
 歌は、殊に長歌はその氏族制度の時代に於て天皇(現《あき》つ神)と神々との爲に歌はれた形式である。
 和銅のはじめに人麿は世を去り、天平のはじめに家持の初作が見えてゐるから、その隔りは二三十年であるが、歌人としての立場は可成に遠く離れてゐる。かれは飛鳥藤原の御代を讃美し、これは天平の泰平を謳歌してゐるが、人麿は古歌の傳統を朗かに脱け出でようとし、家持はむしろ傳統の桎梏を自ら求めて苦悩してゐる。
 神と人との代辯者――語部――たる叙事詩人から、人間それ自らを歌ふもの即ち抒情詩の世界に出たところに人麿の偉さがある。
 彼の魂は全民族的な古い格調の上に人間の歪められざる情熱の發露として活動してゐる。そこに女帝の御心にも蒼人草の心にも通じる力が籠つてゐる。又人に代つて歌ふことゝ彼自らの情を抒べる歌とを殆んど同じ熱と力とで仕上げてゐる。すべての事件の中に自己のすべてを投げこむだけの没我性――叙事詩的血脈が明かに見られる。
 けれども彼の好んで用ひた句法――疊句、對句、序詞、枕詞などは、すべて氏族制度時代に養はれて來た格調であ(407)つて、その言葉の威力は却て感情の自然の流露を妨げる重々しい拘束として殘された。
 その莊重な音律は純朴な人心を信仰と陶醉とに導く力があるにしても、その句法が漢詩賦の感覺的な對句法と相對して進みゆく時代を支配することはすでに不可能であつた。
 奈良朝に於けるこの二つの文學形式は、互に並行し相接近し、或時は相背馳して微妙な關係に立つてゐるのである。
 人麿、赤人、黒人など、すべて官位の低い人々に歌の大家を出してゐるのは、漢詩の影響に比敵的縁遠い地位であつたが故に、却て純粹な歌心を失はなかつた爲であらう。
 鳥毛屏風の文を作られたといふ光明皇后、或は不比等、武智《むち》麻呂の如き高貴の人々はすべて學問を背景とせる詩賦の形式を最高の文學意識として受入れたが爲に、心の直接な表現は、模倣と技巧とに誇る知的遊戯化し、文學としては單純にすぐる長歌の作は堂上の人々を喜ばせる魅力に缺けて來たのである。色彩に富み複雜な印象を含む漢詩の眼うつし〔三字傍点〕には國歌の形式が物足らず感じられて來た消息はわかると思ふ。
 家持の父、大伴旅人は大學寮出身の詩人的政治家である。山上憶良も亦海を渡つて大唐の文化に浴した學者であるが、彼らがその倭歌に添へてゐる瑰麓な漢文序は淡々たる歌の詞句に較べて、いかに多大な苦心が拂はれてゐるかゞ覗はれる。
 彼らは漢文の制作によつて知識的(若しくは藝術的な)表現の滿足を沽ひ、作家に於て人間としての心の欝情をはらしてゐる。
 文學的表現をかく二元的に享樂し、二者の矛盾を少しも感じてゐない處に時代の趨勢が感じられる。しかしこれら(408)の人々の歌に於て述べるところは、主上して支那文學の思想であつて、こゝに一種の飜案的手法が弄せられてゐる。人麿の見た神々の精神《こゝろ》は、こゝでは一つの道(又は道念)として現れ、長歌の句法の如きもやゝ自由な散文詩的なものになつてゐる。
 酒を愛し、神仙を喜ぶ旅人の態度の中には韜晦と遣悶との逃避的な貴族らしい感情が流れてゐる。
 家持は旅人の子として文武の家に成長し、その漢文學に造詣の深かつたことは當時の鴻儒石上宅嗣と親交のあつたことを見てもわかる。一族の大伴池主も亦詩書に通じた學者であつた。
 けれども彼は父の如く藝術にかくれ、詩と歌とを二元的に受けいれて落つくことは出來なかつた。
 漢文學に養はれた眼、即ち技巧(藝術の)にめざめた心を以て、古い歌集、譬へば山柿の傑作を見直さうとしてゐる。そこに頗る眞面目な態度がある。
 彼の歌に萬葉の他の作者には見られぬ一つの新しい感覺のあらはれてゐるのはその爲である。又彼が模倣と創作との間を低迷してゐるのもその爲である。が古い長歌の精神と漢文學の表現との間の本質的な相違を乘り越えて自ら高く止揚する力は遂に惠まれなかつた。
 彼は典型的な貴公子であり、又爛熟し切つた奈良文化の空氣に浸りながら、遠く氏族制度の夢に耽り名に醉うて、その現實の空虚を埋めようとした。そこに無理があつた。
 歌の創作に於て、彼が藝術約に焦慮し緊張すればする程、その歌としての流動を失うていつた。
 すでに民謠的に存在した歌を強ひて藝術として見ようとするが爲に、却て藝術としての歌から遠ざかつた跡が見え(409)る。
 彼は古い歌が清算せられ、序詞や枕詞が剥落して、新しい感覺を表現する新短歌が發生するまで、つまり時代の目に見えぬ大廻轉の重心を一人で支持した逆境の歌人である。
 かうした考を推して次に彼の歌を少しく點檢して見よう。
 
 家持の誕生は、その歿年延暦四年八月(享年六十八歳)から逆算して養老二年と見るより今日のところ仕方がない。又それで大體の標準はつくのである。
 彼の名が本集に現れた最初は、天平二年夏六月父太宰帥大伴卿が脚疾で重態であつた時、朝廷はその庶弟稻公、姪胡麿を遙に任地に遣はされた。幸に病が※[病垂/全]えて上京しようとする時
    大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麿及卿の男家持等驛使を相送りて共に夷守《ひなもり》の驛家に到る。聊か飲みて悲別し乃ちこの歌を作る
といふ後序がついて、百代若麿の歌はあるが家持の作は見えぬ。家持は當時十三歳の少年であつた。
 花を愛し酒を嗜んだ父老帥は屡々饗宴を催して邊土の欝を遣つた。
 當時の筑前守として歌人憶良があり、觀音寺に滿誓沙彌が居り、家庭には女歌人として並ぶものなき叔母坂上郎女が居つたのである。
 多感な小公子を取卷く雰圍氣は創作の心を促進するものが多く、殊に同年正月旅人の催した梅花讌は、都人の詩賦(410)の會にも劣らぬ盛宴で、そこに三十二人の作歌が記載せられてゐる。しかし家持の作は見えない。
 三年七月任を卒へた旅人は上京すると間もなく六十七歳にて薨じ、それより先にすでに母を失つた家持は、十四歳の年少の身を叔母や父の資人金明軍などの愛護のもとに、奈良の佐保の舊宅で暮した。
 孤兒として寂しく矚目するところに發する感情には、すでに耳なれた歌語とその調子とが十分に含まれてゐた。最初の創作はこの時に始まつたと思はれる。そしてその出發點に於てすでに題詠的傾向が認められるのである。
    うちきらし雪はふりつゝしかすがにわぎへの園にうぐひすなくも
 この初作(?)がすでに卷十の歌
    風交り雪はふりつゝしかすがに霞たなびき春さりにけり
の極めて自然な模作である。恐らく卷十は彼の家に存した古歌集であつて、その中の歌の格調が反映したのであらう。しかもその詩想は上述の梅花宴の歌の中に求めることが出來る。
 なほその頃の彼の心は、叔母の愛娘、坂上(ノ)大孃に對する初戀として動いてゐるやうだ。
    わがやどに蒔きし瞿麥いつしかも花に咲きなむ比《たぐ》へつゝみむ
 下句には許嫁の乙女の成長を下待つ感情があるやうに思ふ。
 天平五年と明記せられた作には
    ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引おもほゆるかも
といふのかある。これは叔母郎女の歌
(411)    月立ちてまだ三日月の眉根かきけながく戀ひし君にあへるかも
といふ歌に和したものであるが、恐らく坂上の里に閑居してゐた叔母を訪ねたのであらう。「一目見し人の眉引」といふところに、はじめて若い大孃を見た心が現れてゐる。さう考へると郎女の歌も大孃に代つて詠じたものと見るのが妥當である。この作を技巧から見て後年のものと推定する人もあるが、彼の環境から見てこの位の修辭には十分習熟してゐたことがわかると思ふ。
 時代は天平の盛期である。歌人としても山上憶良、山邊赤人、笠金村、叙事的措寫に巧な高橋蟲麿らは、年齡技法に於て、既に圖熟の境に入り、目も彩なそれらの傑作は直接、もしくは間接に家持の創作の刺戟となつた。
 又神龜三年新羅の使者と交驩の詩宴を張つて、その風流一世を壓した詩人長屋王の冤死(天平元年)など、泰平の世に時には暗い影を投じた。
 一族の宴に坂上郎女が
    かくしつゝ遊び飲みこそ草木すら春は生ひつゝ秋は散りゆく
と歌つてゐるが如きは、強ち兄旅人の頽唐的思想をうけたとのみは言はれぬ。若い家持の心には人麿、赤人の知らぬ貴族的な傷心と享樂意識がめざめてゐたのである。
 
 次に彼の初期に屬する歌、主として相聞歌に就いて述べて見たい。
 彼の感情生活は二十一二歳噴、即ち内舍人時代に於て著しく表れてゐる。
(412) 十五六歳の頃から始まつた坂上大孃との戀はその母刀自の賢い暖い心づかひのもとに極めて順調に成長していつた。一目見しあの若月は次第にまどかな影を帶び、それか彼の半生を通じて多少の冷熱は免れぬにしても――樂しく持續せられた。
 けれども美貌と門閥との魅力をもつ青年時代の彼を中心に、多くの愛人の唱和が存するのは勿論である。
 本集に現れてゐるだけでも、山口女王、笠女郎、紀女郎、中臣女郎、平群女郎、日置長枝子、栗田女(ノ)娘子、河内百枝娘子、巫部麻蘇《かむこべまそ》娘子などが數へられ、又、たゞ娘子とのみ呼んで彼が人知れず切なる思を寄せた相聞歌も十餘首殘つてゐる。
 かうした生活も彼が二十五六歳頃までに見られる現象で、かの業平などが生涯を通しての戀愛三昧とはおのづから選を異にしてゐる。
 又その贈答歌をよく見ると戀愛そのものが彼の生活を成す底のものではない。
 彼の愛人の群は家持の生活を花やかに彩る如くに見えて案外物足らない節がある。
 詩人石上乙麿や歌人中臣宅守の如き全身的な情熱に身を燬くことは、虔ましい彼の性質の中に求めることが出來ぬ。
 中に笠女郎はすぐれた二十四首の相聞を殘してゐる。
    わが宿の夕かげ草の白露のけぬがにもとなおもほゆるかも
    相おもはぬ人をおもふは大寺の餓鬼のしりへにぬかづぐ如し
 袁艶と激越とを兼ねて集中の名作であるが、これに對する家持の態度は頗る消極的、受動的である。
(413)    なか/\にもだもあらましを何すとかあひ見そめけむとげざらなくに
 年齡の差から來た寂しさか、家持はむしろ冷く見える。
 これに反して彼が情感の動くまゝに自發的に歌ひあげたのを求めると次のやうなのがある。
 天平十一年夏六月亡妾を悲傷するうた、長歌一首、短歌十一首は初期の作中注意すべきものである。
    今よりは秋風さむく吹きなむをいかにかひとり長き夜を寢む
    秋さらば見つゝしのべと妹が植ゑし宿の石竹《なでしこ》咲きにけるかも
    時はしたいつもあらむを心いたくいゆく吾味かわかき子をおきて
    昔こそよそにも見しか吾妹子が奥つ城といへば愛《は》しき佐保山
    かくのみにありけるものを妹もわれも千歳の如く憑みたりける
 「若き子をおき」とあるから子供もあつたものと見える。若い父としての彼の袁傷にもそぞろに深きものがあつた。
 これらはむしろ挽歌であるが、石竹の歌の如きは第五句の純情な咏嘆が、感傷に流れる心を抑へてすぐれた歌になつてゐる。こゝに清く淡く、しかも官能的なひゞきをもつ彼の歌の特徴がすでに十分に現れてゐる。
 「かくのみに」のうたは、その直叙的な格調が、よく哀感の深さを保つてゐるが、これは卷十六の傳説の歌によつてゐる。
 (これは旅に出た壯士が歸つて來て、愛してゐた娘子の病衰したさまを見、泪を流してよんだものである)
    かくのみにありけるものを猪名川のおきをふかめてわがもへりける
(414)に、そのまゝ依つてゐる。意識の有無は別として、彼の發想にはいつも古歌集が働いてゐることを忘れてはならぬ。「むかしこそ」も、日竝知皇子を慟哭した舍人たちのうた、即ち
    よそに見し眞弓の丘も君ませはとこつ御門ととのゐするかも
の着想に支配せられた處がある。古歌への愛着が、やがて彼の心を固定せしめようとする弱點もこの時すでに見られるのである。
 坂上(ノ)大孃との間柄は極めて平和な相思の心を示してゐるが、二人の戀のはじめに家持が送つた十五首は、可成、積極的な態度で作られ若い情熱がよく伺はれる。
    相見ては幾日もへぬをこゝだくも狂ひに狂ひおもほゆるかも
    夢の逢ひはくるしかりけりおどろきてかきさぐれども手にもふれねば
などがある。しかし狹野茅上(ノ)娘子が中臣宅守に送つたうた
    君がゆく道の長手をくりたゝねやきほろぼさむ天の火もがも
    歸りける人來れりといひしかばはと/\死にき君かと思ひて
など、天眞の情歌に較べると、家持のは強い言葉の裏に月竝的な「概念としての戀」が含まれてたるやうである。
 これは間接なものを強ひて直接な表現にしようとする彼の病弊である。體驗の特殊な深さに生きずして、むしろ藝術の一般性――趣味性―に心をとられてゐるが爲である。王朝時代の戀歌に見るやうに、詞の誇張とその心との間の緊密さがやゝ缺けてゐる。
(415)    一重のみ妹がむすばむ帶をすら三重結ぶべく吾が身はなりぬ
の如き、着想は當時としてもすでに陳腐である。
 なほ一言すべきは相聞歌に用ひられる序詞の形式が彼には頗る乏しいといふことである。
 短歌全體に對して序の部分は、強い内部の衝動を強壓し、且装定するが故に却て情熱の迫力を増大するものであつて、感動の量の少い作品に於て、序詞の形式は頗る稀薄に見える。家持がこれを用ひないのは、古歌に關心をもつ彼としては不思議なやうであるが、理知的な彼としては却て自然である。平安朝に序詞が用ひられなくなつた理由もここにあると思ふ。
 
 橘諸兄と家持との關係は夙くより始まつてゐた。天平八年冬十一月葛城王なる彼は、皇族の高名を辭し、生母橘三千代の姓を嗣ぎ、橘諸兄と名乘つた。三千代の後夫、不比等との間に出來た安宿姫は光明皇后であらせられた。
 天平九年、惡疫が流行して藤氏の巨頭武智麻呂、房前、宇合の三人は相次いで歿したので、諸兄の勢力は隆然として宮廷の内外に布いたのである。
 (天平十三年、恭仁京への遷都も諸兄の進言に出たものである。)
 これ以來、大伴氏と橘氏との結合は二十二年の久しきに亙つて連續し、家持は諸兄の長子奈良麿にも親しく仕へた。天平十年奈良麿の家の宴には、同族池主、弟書持と共に出席して歌を詠じ、天平勝實七年には兵部卿なる奈良麿のもとに兵部少輔として歌を追和してゐることが本集にも見えてゐる。
(416) こんな事情のもとに天平十八年七月彼は越中守に任ぜられて任地に赴いたのである。
 名族とはいへ若年の彼にこの地位が與へられることは、諸兄の庇護によるものと思はれる。
 こゝで平和な、彼の生活が轉向する時期に達した。
 今までは佐保の宅で比較的單調な大宮人らしい日を送り、たま/\恭仁の京に移り任んでは、程近い家郷の愛人を憶ひ、或は安積皇子(聖武天皇皇子)の薨去を哭する挽歌に耽るといつた生活であつたが、荒涼たる越路への赴任はたしかに彼の心を一轉させた。
 新しい任地の風物に親しむ心、國守としての責任を自覺すること、古里の人々への回想、――すべてが詩情をそゝる材料となつた。
 その九月愛弟書持の喪にあひ悲痛の長歌を詠じ、亞いで十九年春は彼自らが病褥に臥し異郷の空に悲緒を述べる苦しみを嘗めた。
    春の花今は盛りに匂ふらむ祈りてかざゝむ手力もがな
と詠じてゐる。草花を園に植ゑて寂しく暮した書持、紀女郎に「つばなを食《を》して肥えよ」と揶揄せられてゐる家持、武人としては決して強壯な體躯の人ではなかつたらしい。
 かうした事件や、過去の感情生活の情勢にうごかされながら「夜裏戀情に堪へずして」妹を思ふ長歌を作つたりした。
 このころの彼の作には感傷的な情緒が著しく出てゐる。
(417) 幸にも同族の歌人大伴池主が掾官として共に在り、彼の心の孤獨を慰める力となつた。
 この二人の贈答歌には互に書牘體の漢文序を添へ、衒學的な辭句を弄して、文學〔二字傍点〕の弄びの中に深く沈潜してゐる趣が見られる。
    但稚き時遊藝の庭に渉らざりしを以て、横翰の藻自ら彫蟲に乏し、幼年未だ山柿の門に※[しんにょう+至]らず、裁歌の趣、詞を※[草がんむり/聚]林に失ふ。
と述べてゐるあたりは注意すべきである。これは修辭的卑下であつて、彼の「藝術としての歌」に對する執着をも強く感じられる。これに答へて池主が「山柿の詞泉、此に比ぶるに蔑《な》きが如し」と推賞してゐる點も、歌の技巧上のある標準が、彼らの間に明かに存在してゐたことがわかるのである。
 山川の新しい刺戟は、彼の心を、「自然」に引きつけると共に、二上山賦、布勢水海賦、立山賦などの長歌が試みられ、天然を詠歌すると共に赤人や蟲麿の自然觀照の態度が彼の心に甦つて來た。
 ひいて短歌も風景に觸發せられたものが多く
    ※[盧+鳥]坂《うさか》川わたる瀬多みこのあが馬《ま》のあがきの水に衣ぬれにけり
    珠洲《すず》の海に朝びらきしてこぎくれば長濱の浦に月照りにけり
    乎敷《をふ》の埼こぎたもとほりひねもすに見ともあくべき浦にあらなくに
    立山の雪し來らしも延槻《はひつき》の河の渡瀬鐙つかすも
    湊風さむく吹くらし奈呉の江に妻よびかはし鶴さはに鳴く
(418) その格調は強く高く、萬葉の佳作の中核にふれたものがある。これは眼前の風光を直寫する赤人、人麿などの※[覊の馬が奇]旅歌に十分習熟してゐたが爲であらう。古人の歌の律動がおのづから實景にふれて鳴り出でたと見ることも出來る。
    あしびきの山川の瀬のなるなべに弓月がたけに雲たちわたる
    稻日野もゆきすぎがてに思へれば心こほしき可古の島見ゆ
    若の浦に汐みちくれは潟をなみ芦邊をさして鶴鳴きわたる
などの古名歌の印象が流れてゐる。
 動的な景色を原因と結果との二要素に於て構成し、強いリズムの力を借りて眞直に押し移る句法は微動も見せぬ。内外の統一がよく保たれてゐるが、たゞ結句の「衣ぬれにけり」「鐙つかすも」の如き用法は、主觀への結合がやゝ鋭く、古歌には見られぬ感覺的な趣がつよい。これはやがて彼の個性であり、又狹められた歌境とも考へられる。
 即事即興歌と見ゆるものに
    朝床にきけば遙けし射水河あさ漕ぎしつゝ唱ふ舟人
    春の日にはれる柳をとりもちて見れば郡の大路しおもほゆ
    あぶら火の光にみゆるわが縵《かづら》さ百合の花のゑまはしきかも
 これは、彼自身の歌である。解放せられた心の状態である。言語材料のもつ興味が古歌のリズムへの關心を忘れしめ、やすらかに、やゝ低調にうたはれてゐるのである。そこに彼の心と表現の純粹さがよく出てゐると思ふ。
 彼はこの方向にもつと〔三字傍点〕深められるべき筈であつた。莊重な古歌の精神を、即興歌としての平淡へ移すことによつて、(419)もつと自然な自由な人間の心を歌ふべきであつた。
 けれども彼の學問と保守的な性格とがその周圍の影響を拒むことを許さなかつた。社交の道具としての歌が漢詩と共に貴族の間に喜ばれると共に、歌の材料思想までも、六朝の樂府などに模作するやうな傾きが生じ、觀梅歌、七夕歌、霍公歌などは著しく支那趣味を帶びて來た。しかも漢文學の理解は知的であつて情緒的ではなかつた爲に、ますます歌は題詠化し、追和の歌が盛んになり、甚だしきは預作の歌をさへ家持は頻りに作つてゐる。
    左大臣橘卿を壽かむ爲、預て作れるうた(天平勝寶三年)
    詔に應ぜむ爲、儲て作れるうた(同)
 又こんなのまである。
    京に向はむ時、貴人を見、美人にあひて飲宴せむ日、懷をのべむ爲に、儲て作れる歌
 これは越中守より任みちて上京せんとしてよんだのであつて、如何に彼が社交歌に腐心してゐるかゞわかると思ふ。
 追和歌の如きも太宰府の、梅花の歌の追和は二十二三歳頃の作で、過去を追想する詩的衝動によつて作られてゐるが、後は全く對外的な動機にのみ支配せられて型の如き賀歌の追和を權門にさゝげてゐるのである。
 人麿も宮廷詩人として從駕の都度、頌歌の多くをものしてゐるが、神と天皇とに對し責任ある壽詞《よごと》を奏すべく生れたこの人は、人の爲に歌ふところにその天職の自覺と情熱がひらめくのであるが、純抒情詩人として生れた家持が自らに深まるべき心を絶えず外に向はしめた事は大きな誤である。
 預作追和の歌は必然的に流動を失ひ理窟に陷る運命をもつものである。
(420)    ほとゝぎす待てど來鳴かず菖蒲ぐさ玉にぬく日をいまだ遠みかも
    八千草の花はうつろふ常盤なる松の小枝を吾はむすばな
    藤娘の影なる海の底きよみしづく石をも玉とぞわが見る
 必ずしも惡歌ではないが、ある型によつて歌はれてゐるこれらの作は、彼の一つの傾向であり又沈滯した萬葉集第四期の歌風である。
 四時の運行、自然の代謝も、白馬、上巳、七夕などの行事として感じられ、梅、時鳥、萩など景物として見られる時、大自然の全幅は極めて縮小せられる。かゝる行事景物を透して見られた自然人生と、赤人、人麿などの如く全自然の中に見た人事景物とは非常に異つたものになる。俳句に現れてゐるやうな季の性質が家持の作にも現れてゐることは悲しむべき事である。
 ところが天平勝寶五年二月作(三十六歳)に次のやうな歌がある。
    春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かけにうぐひす鳴くも
    わが宿のいさゝむら竹吹く風の音のかそけきこの夕かも(二十三日作)
    うら/\とてれる春日に雲雀あがりこゝろかなしも獨し思へば(二十五日作)
 右の後序に
    春日遲々として※[倉+鳥]※[〓+鳥]正に鳴く、悽悵の意、歌に非ずば撥ひ難し〔歌に〜傍点〕、仍りてこの歌を作り、式ちて諦緒を展ぶ
とある。この時、家持は最も高い處に立つてゐる。物靜かな外界を、透な内生命に受けいれてゐる。自《おのづか》ら欝結せる(421)淡き春愁は、全く歌にあらずばはらひ難しの感がする。
 景色は極めて單純である。音調は極めて舒《の》びやかである。しかもその情趣は萬葉集中たゞ家持によつてのみ味はれた細かい洗練せられた、そして貴族的な表現である。赤人の
    みよしのゝ象山《きさやま》のまの木ぬれにはこゝだもさわぐ鳥の聲かも
などをよむと、この人の自然に對し自らに對してもつ妙諦を尊敬せざるを得ぬ。淡々として水の如く世の辛甘を絶したる深味であつて、外界と内界の續ぎ目は殆んど見られない。
 處が家持のこの作は外の些物を捉へ來つて内心の複雜な、説明し難きものを掴んでゐる。近代人の神經が求めてゐる感情そのものである。歌の總價値に於て赤人の作と比較することは異論があるであらうが、吾人の感覺に深く近く觸れる點に於て家持のこれらの歌に親しみを覺えるのである。
 前述した彼の即事即興歌が、こゝまで進展し來たのである。日頃、襯染して彼の絶對的な文學價値となつてゐる漢詩及古歌の表現が、この時、不自然なものとなり、押し迫る内的衝動によつて眞に歌〔右○〕を求める心がこゝに開かれてゐる。一つの自覺に達した状態である。
 殊に三首ともこれを現在〔二字傍点〕に於て感じてゐるのは驚くべき事である。
 「けり」「らむ」「らし」など、過去として推量としてすべてを眺める平安朝の人々は、反省と、回顧と、推定との間に強ひて間接の美即ち「あはれ」を求めてゐる。が現實の中にやどる「あはれ」は直感そのものでなくてはならぬ。ここに情熱が洗錬され盡して、しかも感傷の空疎に陷らぬ永遠の刹那がある。
(422) ある心のどかな折の放心が家持その人を解放してその内面の展開が示されたのである。この消息を解することによつて始めて家持がわかると思ふ。
 不幸にしてこの心境は持續せずして、この刹那につぐものはやはり舊套の生活であり、社交の歌であつた。かくなるのは時代の流れに從ふ彼の性格の中に存する宿命であつた。
 次に彼の長歌について少しく述べて見よう。
 家持の時代に於て長歌の社會的要求は短歌に比して質的に衰退してゐた。
 本集中にも宴席で古歌傳誦の記事が、あまた見えてゐるが、みな短歌である。
 天平八年歌※[人偏+舞]所の諸王子が吉井連の宅に宴した時にも
    このごろ古※[人偏+舞]盛に興りて、古歳漸く晩れぬ。理宜しく其古情をつくして同じくこの歌を唱ふべし云々
といつて、擬古の二曲をのせてゐる。共に短歌である。新文化の應接に暇のなかつた中にも古※[人偏+舞]復興の徴が見え、それと共に歌謠として歌が諷誦せられたのである。又
    冬十月(天平十年)皇后宮の維摩講に終日大唐高麗の種々の音樂を供養す。乃ちこの歌詞を唱ふ。琴ひきは市原王、忍坂王、歌子は田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連長谷等十數人なり。
とある。佛前唱歌に短歌をうたひ、彈琴歌子のもの十數人の盛事は、短歌流行の一つの證據である。神にさゝげる歌が讃佛の用に供せられ、延いて佛足石歌の如き宗教歌謡が行はれることにもなつた。
(423) 長歌には古くから定まつた節奏――叙事詩的朗讀法――があつて、リズムそれ自身が固定してゐた故に、新輸入の樂器につれて音樂の進歩すると共に、音律的に自由に發展したのは、むしろ短歌であつた。王朝時代の神樂歌、催馬樂が全く短歌の基調に立つてゐるのもその原因はこゝにあるのである。
 けれども挽歌の如きは、死者の生前の功績を稱へ、その靈を敬慕する保守的な形式を必要とするが故にこれは長歌が重んぜられた。
 相聞歌はこれに反して、説明的要素乏しく、且急迫の調子を必須とするものであるから、多くは短歌の形式をとる傾向を持つた。
 人麿が石見の妻と別れて上京する時の有名な長歌の如きは、叙述の大部分は序詞として用ひられ、それはたゞ最後の一句「妹が門見む、なびけこの山」といふ抒情的な咏嘆を強める爲に役立つてゐる。長歌の形式で戀情を歌はむとすればかうした苦しい技法を用ひねばならぬのである。
 純粹な抒情詩になればなる程、長歌の形武は重々しく且不便であるから、結論として長歌は神を讃へる形式で、人間の情を歌ふには不適當な詩形だといふことになる。さて、家持の長歌に就いていへば、天平十一年亡妾を悲しむうたに始まつてゐる。
 そして彼の長歌の數四十六首中三十首は越中守時代の三年間の作である。
 當時は最も文學熱の盛んな時代で、さま/”\な古人の影響をうけてゐる。
 例へば下官の史生尾張|少咋《をぐひ》が、妻をすてゝ遊行女婦、左夫流兒に惑溺したのを誡めるうたの如き、道學者的口吻は(424)めづらしく憶良の態度を模し、又逃げた愛鷹を憶ふ歌の如きはその叙述的な句法に蟲麿の趣がある。
 けれども概していへば、嚴格な人麿の手法を尊び、初期においては疊句法、序詞の如き屡々歌聖の成句をそのまゝ用ひてゐる。例
      天平十六年甲申二月安積皇子薨じ給ひし時、内舍人大伴宿禰家持の作れる歌
    かけまくも、あやにかしこし、言はまくも、ゆゝしきかも、吾おほ君、皇子の命、萬代に、食《を》し給はまし、大日本《おほやまと》、久邇の都は、うち靡く、春さりぬれば、山邊には、花咲きをゝり、河瀬には、年魚子《あゆこ》さ走り、いや日けに、榮ゆる時に、逆言の、狂言《まがごと》とかも、白細に、舍人よそひて、和豆香山、御輿立たして、ひさかたの、天知しぬれ、こひまろぴ、沾《ひづ》ち泣けども、せむすべもなし。
 挽歌である故に殊に古典的な手法を用ひてゐるが、この作の詞は、次にあげるやうな古歌のリズムや文句を集めた心地がする。
    高光るわが日のみこの萬代に國知らさまし島の宮はも (日竝皇子の舍人の作)
    春べは、花さきを1り、秋されば霧立ちわたる (赤人作、長歌)
    春さればわぎへの里の河|門《と》には年魚子さばしる君まちがてに (旅人作)
    逆言のまがごとゝかも高山の巖の上に君がこやせる (丹生王作)
    久方の天知らしぬる君故にゆくゑも知らす舍人はまどふ (人麻呂作)
 古歌の模倣は本集時代には誰もすることではあるが、この歌の如きは模倣以外何物も盛られてゐないやうな空靈が(425)感じられる。
 しかし年と共に彼の長歌にも進歩はあつた。漠然たる思恭、哀悼の感情を中心にして型通りの辭句が取卷いてゐるやうなうたは、茲に一轉して、一つの思想に基づいて、これを強く表現する處まで達したのである。例へば天平勝寶二年には「勇士の名を振ふを慕ふ歌」がある。
    ちゝのみの、父の命、柞葉《はゝそば》の、母の命、おほろかに、情《こゝろ》つくして、念ふらむ、その子なれやも、大夫や、空しくあるべき〔十二字傍線〕、梓弓、末振り起し、投矢《なぐや》もち、千尋射渡し、劔刀《つるぎだち》、腰にとりはき、あしひきの、八峯《やつを》ふみ越え、さし任《ま》くる、情《こゝろ》さやらず、後の代の、語りつぐべき、名を立つべしも〔語り〜傍線〕
 これは、憶良の作
    男やも空しくあるべきよろづ代に語りつぐべき名は立てずして
の追和である。
 憶良の歌の上下句を二分して、わが長歌の二つの焦點(思想の)として用ひたやり方も凡手でない。又あまり古人の成句に煩はされず大伴氏の高き名を憶ふ心が、おのづから強い修辭となつてゐる。
 これは動もすれば勢力を墮さむとするわが一族の上に、自然とそゝがれたる情熱であつて彼にしてはじめて歌ひ得る歌である。長歌の固い形式もこの思想の力で生氣があふれてくる。
 感寶元年陸奥から黄金を出したのを壽く歌は、人もしる彼の代表作で、これは例の外的動機によつて作られたものであるが、題材がすでに叙事的要素に富む上に「海ゆかば水つく屍、山ゆかば草むすかばね」「われをおきて人はあら(426)じ」といふやうな句を重ねて、わが氏族の上に誇りと愛着とを寄せる内的要求もよく理解せられる傑作である。
 勝寶七年には兵部少輔となり難波の津に赴いて交替する防人らを檢してゐる。そして東國の若者たちの尊い歌を後世の爲にあまた集録しておいたことは感謝にあまる心地がする。
 彼も亦、人々と悲別し舟を艤して遠く去る防人の心に同情して三首の長歌をさへ作つてある。
    ……春霞、島|廻《め》に立ちて、鶴《たづ》が音の、悲しくなけば、はろ/”\に、家を思ひ出、負征矢《おひそや》の、そよとなるまで、歎きつるかも
の一節の如きは悲壯なる景情に繊細なるひゞきを交へて獨特なる叙法をなしてゐる。
 序に言ふが、家持が防人の歌を集め、拙劣の歌を除き、國別にこれを載せ、わが長短歌をも加へ、一群の聯作の如く纏めて、卷二十に光彩を添へた動機を私は次の如く解釋してゐる。
 一つは防人たちの方言交りの短歌に家持が曾て見なかつた清新な力(民謠的な)を發見し、これに感動したこと、今一つは、卷十五に載つてゐる天平八年遣唐使の歌一百四十五首の整然たる記録が彼の心に復活してからであらう。
 難波の水門《みなと》に多人數集り生別悲別して船を出すといふことは、遣唐使と防人とが尤も著しい類似した事件である。しかも十五卷の使人たちの悲歌は頗る悲壯であつて、夙くより家持の詩心を動かしてゐたものであらう。
 こんなことが原因になつて防人のうたが世に殘つたのも多とすべきであるが、當時あれ程邊陬な田舍人があれほど短歌に習熟してゐた事實は更に驚くべきである。これを見ても古歌がむしろ民謠的にすべての人心の中に成長してゐたことがよくわかるであらう。
(427)    薪しき年の始めの初春のけふふる雪のいやしけ吉事《よごと》
 これは天平寶字三年正月、因幡國廳に於ける彼の宴歌で、彼はこの年七月こゝに赴任したのである。時に四十二歳であつた。
 萬葉集のあらゆる事情を綜合して見ると、この歌が彼及び萬葉集の最後の歌となつてゐるのである。
 これより先、橘諸兄は、女帝の寵を恃んで横暴な權威を弄してゐた藤原仲麿(惠美押勝)の爲に、失墜して寶字元年薨去し、同年諸兄の子橘奈良麿は仲麿を退けようと計つて却てこれが爲に敗れた。この際大伴氏の人々――胡麿、駿河麿、古慈悲、池主ら悉く連坐して、大伴氏にとつては殆んど致命傷であつた。家持は幸か不幸か、仲麿と姻戚の關係があつた爲に事なきを得たが、血肉の凋落を眼の前にして多感な彼が果して平靜な心を持ち得たであらうか。
 果して寶字六年、藤原良繼が佐伯今毛人、石上宅嗣及家持らと謀つて再び押勝を害しようとしたが、これにも彼は罪せられなかつた。けれどもこれによつて一層彼は社會的地位の不安、一揆の末路の悲痛を骨髄までも感じたことであらう。
 ついで弓削道鏡の出現となつて、さしもの押勝も一敗地にまみれ、寶字八年近江の湖上に斬られたが、これが爲に奈良の郡は政治的に腐敗の極に達し、剛愎陰險の政治家、道鏡の一睨にあつた家持は薩摩守として邊地に流離する運命に陷つた。
 寶宇三年、四十二歳より寶龜元年光仁帝の御即位まで約十年間は彼にとつて所謂轗軻不遇の時代であつた。しかし(428)これらの社會的動亂の中に處した彼の態度は武人としてはあまりに消極的であつた。
 晩年は從三位春宮大夫となり、持節征夷將軍にも任ぜられてやゝ光明に浴したが、延暦四年八月薨去後二十餘日にして藤原種繼射殺の事に觸れ、嗣子永主はもとより、彼も亦、死後の罪人として官位を剥奪せらるゝことになつた。これらは、人のよく知る處であるから略する。要するに名族の棟梁として多難の世路に當り汲々としてその地位を死守したことが彼の一生の事業であつた。
 歴史の語る處よりも、彼の見えざる精神的苦悩に對し吾人は多くの同情を注ぎたく思ふのである。
 
 寶字三年以後約三十年間の彼の制作は杳として求めることが出來ぬ。萬葉集の現存が偶然の運命であつた如く、彼の歌の消散も亦偶然であつたかもしれぬ。
 文事に理解ある長者、諸兄、奈良麿を失ひ一族の破滅をあとに見て、ひとだ因幡守として赴任した彼の心境は、曾て越中守として都を去つた時とは大に異るものがあつたらう。
 押勝、道鏡の如きが横行する時代は、すでに歌の時代ではなかつた。對外的に歌をつくる習慣をもつ彼の創作力は頓に衰へつゝあつた。
 試に彼の制作能率を擧けると次のやうな結果になる。
 天平十八年八月までの歌
  短歌、一五八首、(少年期より二十九歳まで約十五年に亘る習作時代)
(429) 天平十八年より勝寶二年まで
  短歌、一八三首
  長歌、三四首
 (右は主として越中守時代の四年間)
 勝寶三年より同八年まで
  短歌、七三首
  長歌、七首(約六年間)
 寶字元年より同三年まで
  短歌、一八首、長歌なし(約二年間)
 右の表の如く彼の熱は年と共に衰へ殊に最後の寶字元年(諸兄薨去の年)より以後は全く宴歌のみである。
 恩人の薨去、一族の敗惨など咏歎すべき材料は身に迫りつゝあるにも係はらず、彼に一首の挽歌さへも見られないのである。
 惰勢で作られる宴歌の外、吾人の心に映じるものはたゞ寂しい彼の心の影のみである。
 氏の長者たる自覺と責任感は極めて強い彼である。しかし氣力に於て缺ける處のある家持は、父旅人の如く超脱の世界にあこがれる餘裕もなく、又藝術に逃避するだけの自信もなかつたらしい。
 都をさすらへて地方官となつたことは、一面弱い彼を救うた結果にもなつた。
(430) 前述した如く作歌の動機を主として外の事情に求めてゐた彼は、社交界から轉落すると共に、それが制作力にも影響したことは已むを得ない。
 「歌にあらずば撥《はら》ひがたし」といふ内部の要求は屡々受けたことゝ思ふが、それを整理し、記録し、後に傳へむと努力を致す爲には、もつと歌といふものゝ藝術的核心に自覺をもたねばならなかつた。
 氣の利いた倭歌を諷誦して宴席の興を添へる底の技術として、換言すれば、過渡期の漢文學のある不足を補ふ爲に、歌はその存在の理由をもつてゐたのである。
 懷風藻を見ても、漢詩が可成發達してゐたことはわかるが、まだ文學として國民の性情に十分溶解してゐたものとは思はれぬ。
 恐らく漢詩を國風に朗詠して音樂的な興味を得るまでには達してゐなかつたのではあるまいか。そこに短歌の流行する理由もあつたのである。しかし漢文學の加速度の發達は、次第に歌の文學性を退け去つたのであらう。
 萬葉集以後歌が再び文學史に現れた時は、あの南都の僧徒の獻じたといふ拙劣な長歌の形式となり、或は色好みの家の弄びとなつた短歌(古今集序)のあさましい姿となつてゐた。
 家持以後、歌は貴族の社會から見る/\没落していつた。奈良末期の文化の急流があらゆる古いものを流し去つたのである。
 吾人は寶字三年以後の彼の歌を求めるに切なるものがあるが、もし求め得たとしても、これに大きい期待をもつ事は出來まい。
(431) かうした寂寥感は、歌人家持の天性のうちにも、古代の歌のもつ運命のうちにも、時代の風潮のうちにも宿つてゐると思ふ。
 藝術としての自覺なくして制作せられる歌は、他の多くの民謠の如く、單に人間生活の弄びとして存在し且その生活と共に浮沈するものである。
 萬葉集が寶字三年正月の和歌を以て終つてゐるらしいことが、勅撰か私撰かの問題をも孕むのであるが、これはつまり歌そのものに對する時代の自覺が不十分であつたことを示し、同時に歌人としての大伴家持が和歌史上に於ける痛ましい立場をも暗示してゐると思ふ。
 
  〔2010年1月13日(水)午前10時15分、入力終了〕