萬葉集講座第二卷・研究方法篇、佐佐木信綱・藤村作・吉澤義則監修、春陽堂、582頁、1933.4.20、
【萬葉集講座第二卷】研究方法篇 目次
萬葉集研究法……………………………………………武田祓吉…1
萬葉集研究史……………………………………………佐佐木信綱…33
萬葉集古寫本解題………………………………………正宗敦夫…79
海外の萬葉研究…………………………………………新村出…131
萬葉集に於ける宗教・神話……………………………松村武雄…153
傳説・土俗方面の研究…………………………………中平悦磨…187
萬菓集時代の社會及政治組織…………………………西岡虎之助…213
萬者集に現はれた交通路線の研究……………………西村眞次…235
建築・武器武具・家什…………………………………後藤守一…257
服飾………………………………………………………尾崎元春…289
萬葉染色の研究…………………………………………上村六郎…327
萬葉集に於ける地名について…………………………犬養孝…343
萬葉動物考………………………………………………豐田八十代…379
萬菓集の植物……………………………………………鴻巣盛廣…413
萬葉集の韻律……………………………………………藤田徳太郎…441
萬葉集の枕詞……………………………………………高崎正秀…469
萬葉集と歌謡……………………………………………高野辰之…493
記紀歌謡と萬葉集………………………………………西角井正慶…511
萬葉集と古今集と………………………………………尾上八郎…527
萬葉集と源氏物語………………………………………池田龜鑑…557
萬薬集と新古今集………………………………………川田順…573
(235)『萬葉集』に現はれた交通路線の研究
西村眞次
一 交通路線
交通路線は絶えず變化するもので、各時代によつて多少づゝ相異があり、一旦廢せられると直きに荒れて、それを後から痕づけることが困難になる。從つて『萬葉集』に現はれてゐるやうな古代路線の研究は、必然的に、非常に困難な仕事に屬する。
『萬葉集』に現はれた交通路線は、大體に於いてこれを二つに分けることが出来る。一つは陸線であり、他は水線である。それらの二つはともに多岐であつて、これを系統づけて研究することは一生の仕事といはなければならぬ。
幸にも水線の方については、私は古代船舶を研究してゐる關係から、既に一わたり調べて見たが、陸線の方は或目的で曾てちよつと調べて見たことがあるだけである。しかし陸線交通を復原することの出來る資料は可也多く見出されるし、たとへ多少は路線が變化してゐるとしても、或地點間を連絡するところの可視的道路は、不可視的吸引力の(236)上に造られたものに過ぎないが故に、一定路線を全然離れてしまふといふことはあり得ないから、陸線交通は却つて水線交通よりも興味が深く、研究が容易であるかも知れない。
私は、そこで、こんど新たに陸線交通について若干の研究を試みることにしたが、それらを一々書いたら非常に長いものになるから、平城京を中心として、そこから四出するところの東西南北の四路線だけを書いて見ることにした。かうした研究は理窟や想像で出來ることでなく、全然記述的性質のものであるから、一々證歌を擧げて説明しつつ記述を進めてゆくことにした。
そして最後に水線交通にも少し觸れて見たいと思ふが、それについては、可也詳しく拙著『萬葉集の文化史的研究』に述べて置いたから、篤志家はそれを參照していたヾきたい。
二 北方に通ずる陸運路線
萬葉時代に於ける平城京は、現在の奈良市よりもずつと西方に寄つて居り、宮城は大體今の郡跡村北新の北方にあり、そこから正南向して尼辻出屋敷、柏木を貫ぬく子午線が朱雀大路に當つてゐたと見て差支へない。從つて平城京の四至はそれに準じて比定せられ、更にそれから東西南北の交通路線が出發しなければならぬ。私は先づ北方に通ずる陸運路線から記述を初める。北方陸運路線は必らずしも一線でなかつたやうであるが、『萬葉集』に現はれたところでは、それらの日に最も多く經由せられたのは寧樂山越であつたやうである。東阪町から般若(237)寺を右に見て北進する奈良坂は、比較的新らしいもので、萬葉時代にはもつと西方に東北路が開かれてゐた。卷三には
長屋王駐馬寧樂山作歌二首
佐保過而寧樂乃手祭爾〔佐保〜傍点〕置幣者妹乎目不離相見染跡衣。
磐金之凝敷山〔六字傍点〕乎超不勝而哭者泣友色爾將出八方。(卷三)
とあるから、路は佐保から寧樂山に導かれてゐたらしいが、一條街道を東進して包水町から北に折れて奈良坂町に向ふのは、都城が西にあつた當時にあつては餘りに廻り道である。卷九には
青丹吉奈良乃山有黒木用造有室戸者雖居座不飽可聞 (卷九)
といふ聖武上皇の御製が載つて居り、それには『右聞之。御在左大臣長屋王佐保宅肆宴御製』と註せられてゐるから、長屋王の前掲の歌は佐保の家を出て寧樂山に向つたものと見ることも出來、また御製によつて佐保が寧樂山に包括せられてゐたことも想像が出來る。これら三首の歌によつて、寧樂山越が岩が根のこゞしい路であつたこと、其附近の佐保に邸宅を建てる時、材木を伐り出すことが出來るほど大木に富んでゐたこと、寧樂山を超える時には山の神に手向をしたことなどが明らかになつて來る。
然らば寧樂山越はどこかといふと、以前から比定せられてゐる通り歌姫越であつたと見るより仕方がない。法華寺から北進する聯路をこれに擬するものもあるが、それは『佐保過ぎて』の歌に囚はれ過ぎた考へ方である。最も明らかに路筋を示してあるのは卷十三の
空見津倭國。青丹吉寧樂山越而。山代之管木之原〔青丹〜傍点〕。血速舊于遲乃渡〔四字傍点〕。瀧屋之阿後尼之原〔五字傍点〕尾。千歳爾闕事無。(238)萬歳爾有通將得。山科之石田之森〔七字傍点〕之。須馬神爾奴左取向而。吾者越往相坂山〔三字傍点〕遠 (卷一三)
といふ長歌である。これに依ると寧樂山を越えて管木(綴喜)の原に出で、そこから于遲(宇治)の渡に出で、川を渡つて阿後尼原を貫き、石田の森で幣を取り向けて相坂山に懸り、それから大津に出たものである。管木原は今日の綴喜郡都々城村附近で、そこへは歌姫越で木津(泉)の西方に出で、相樂村の山の手を北進して、祝園村の菅井、狛田村の下狛、三山木村の宮津を經て、田邊町の丘麓を縫ひつゝ大住村に出で、そこから都々城村の上津屋あたりで木津川を越え、久津川を經て、新田、神明を貫ぬく一の坂越によつて宇治に出で、宇治から今日の奈良街道より少し東手を北進して、石田、醍醐、山科を貫き、追分から逢阪山に懸つたと思はれる。卷七には
氏河乎船令渡呼跡雖喚不所聞有之※[楫+戈]音毛不爲 (卷七)
とあるので、宇治川には橋がなく、渡船によつて對岸と連絡せられてゐたことが知られる。
しかし、宇治へ出る道は如上の一線に止まらず、平城から寧樂山を越えて、材木の積んであるあたり(木津邊)で泉河、即ち木津川を渡り、其右岸を上狛から井手に出で、多賀を經て久世郡の久世から山科に向ふ一線もあつたらしい。それは
王命恐。雖見不飽楢山越〔三字傍点〕而。眞木積泉河乃。速瀬竿刺渡〔八字傍点〕。千速振氏渡乃。多企都瀬乎見乍渡而。近江道乃相坂山丹。手向爲吾越往者。樂浪乃志我能韓埼。幸有者又反見。道前八十阿毎。嗟乍吾過往者。彌遠丹里離來奴。彌高二山文越來奴。劍刀鞘從拔出而。伊香胡山如何吾將爲往邊不知而(卷一三)
といふ歌で知られる。(此歌は又大津以北の路線をも示してゐる點に於いて面白いが、それは後に述べることにする)。
(239) 白鳥鷺坂山松影宿而往奈夜毛深往乎。
細比禮乃鷺坂山白管自吾爾尼保波尼妹爾示。
山代久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散來。(以上卷九)
といふ歌が卷九に載つてゐるが、これらは木津川右岸の路線に於ける鷺坂が一種のエロチツクな場所であつたことを知らしめる。鷺坂は『山代の久世の』とあるから、久世郷に屬してゐたことは分る。久世郷は今の久津川村で、其大字久世には久世神社があり、日本武尊が薨去の時白鳥になつて天翔り、久世の鷺坂小笹の上にとまつたといふ傳説があり、南方から見ればそこが一段の高地になつてゐるので、鷺坂山といふ地名を得たのである。前掲の歌は、一は夜が更けたから松影に宿つてゆかうといひ、他は白躑躅よ、我に匂つてくれ、歸つて妹に示してやらうといふので、そこにはいはゆる『遊行娼婦』がゐて、道ゆく人の袖を留めたことが知られて來る。
山科強田山馬雖在歩吾來汝念不得(卷一一)
といふ歌が卷十一に見えるから、宇治と石田との間で強田山(木幡山)を通過したことが知られるが、其路線は今日のものよりずつと山の手に偏つてゐたらしい。
前にちよつと觸れて置いた近江路――特に琵琶湖上の水運は、大津から舟出して北進し、其北端である鹽津で上陸するのが普通であつたやうである。(海津や今津に上陸するやうになつたのは後世のことである。)
鹽津山打越去者我乘有馬曾爪突家戀良霜。(卷三)
とあつて、鹽津山越で越前の疋田から角鹿(敦賀)に出たことがわかる。前掲の歌には辛崎を出て伊香胡山の見えると(240)ころまで從つたことが述べてあるが、其道は『道のくま八十くま毎に』とあるから、どうも水路のことではないらしいが、湖上の交通がそれらの日に盛んであつたことは、他の歌謠によつても十分にそれが窺知せられる。
當時の旅行には路傍の神々に幣を奉つたり、ミワを据ゑて平安を祈つたりしたが、さうした場所として北方路線で名高かつたのは、寧樂山、石田森、相坂山などであつた。近親のものが出發する時、平城京から同道して泉河あたりまで見送り、そこに駒を駈めて餞したりしたことが、大伴家持の亡弟を弔つた卷十七の歌によつて知られる。其歌は
袁傷長逝之弟歌一首并短歌
(前略)青丹余之奈良夜麻須疑底。泉河伎欲吉可波良〔奈良〜傍点〕爾。馬駐和可禮之時爾(卷一七)
とあり、誰れしも知るところであるが、地方官が郡に還る時などにも、國衙から相當距離のあるところまで見送りに出たやうである。それは総じて旅を憂いもの、つらいものと考へてゐたからで、其事は多くの覊旅の歌によつて知られる。當時の旅行が困難であつたことは後に述べるが、都に近い寧樂山でさへ岩根がこゞしかつたほどであるから、他は推して知るべしである。
北方路線は恐らく當時にあつて、最も多く通行されたものであらうが、それですら平坦ではなかつたのである。それ故に騎馬で旅するものもあつたが、大抵の旅人は徒歩であつた。官吏などはすべて驛馬を利用したらしいが、庶民では馬を用ひるものが少かつたらしい。卷十三に現はれてある次ぎの歌は、多分行商に出るが慣はしの夫を妻が憐んで詠んだものであらうが、行路の困難がそれと窺はれる。
次嶺經山背道乎。人都末乃馬從行爾。己夫之歩從行者。毎見哭耳之所泣。曾許思爾心之痛之。垂乳根乃母之(241)形見跡。吾持有眞十見鏡爾。蜻領巾負並持而馬替吾背。
反歌
泉河渡瀬深見吾世古我旅行衣裳沾鴨。(卷一三)
特に反歌は泉河を徒渉することを謳つて居り、渡る毎に衣の裳の沾れるやうなことは普通であつたと思はれる。次ぎには南方路線について一瞥しよう。
三 南方に出づる交通路線
平城京から南方、主として紀伊に出る路筋は、『萬葉集』の歌だけでは細かいところがわからないけれども、其大體は痕づけることが出来る。三方山に囲まれた大和平原に住んでゐた寧樂人士には、透明な南海の風光が喜ばれ、紀伊路に横はる名所々々の名が大方彼等によつて諳んぜられたほどであつた。中でも亦打《マツチ》山は最も著しい一つであつた。
朝毛吉木人乏母亦打山行來跡見良武樹人友師母。(卷一)
此歌などは紀伊人の幸福を羨んだものであるが、其羨みの因子は紀伊人が往くさ来るさに亦打山を見ることであつた。亦打山に次いで多く歌はれてゐるのは兄山妹山であつた。兄山は畿内の南極で、それ以南は外國に屬するから、都人士になつかしまれたのも無理はない。其懷しさを最も巧みにいひ現はしたものに、卷七の
麻衣著者夏樫木國之妹背之山二麻蒔吾妹。(卷七)
(242)といふのがある。麻衣を着れば妹背の山に麻を蒔く妹がなつかしいといふのだが、其なつかしさが妹山背山に懸つてゐることはいふまでもない。阿閉皇女が兄山を越えられた時詠まれた歌は、ヤマト人の紀伊路に對する憧憬のたゞならぬことを示した一つとして特に注意に値する。それは卷一に收められてゐる、今次ぎに抽出する。
越勢能山時阿閉皇女御作歌
此也是能倭爾四手者我戀流木路爾有云名二負勢能山。(卷一)
即ち大和に居て、常に戀ひこがれてゐた紀伊路の兄山といふのはこれかといふ咏歎の意を現はしたものである。かほどであるから紀伊路を詠んだ歌には、誰れのにも殆ど除外例なしに妹山背山の名が出て來る。卷十三に載つてゐる占卜の歌――鰒珠を拾はうといつて紀伊へ行つた君が、なか/\歸つて來ないので、それを心配して卜に問うた歌に次ぎのやうなのがある。
木國之濱因云。鰒珠將拾跡云而。妹乃山勢能山越而行之君。(卷一三)
然らば紀伊に入る路筋はどうであつたかといふと、卷四の笠金村の歌で大體それが知られる。
神龜元年甲子冬十月幸紀伊國之時。爲贈從駕人所誂娘子笠朝臣金村作歌一首并短歌
天皇之行幸乃隨意。物部乃八十伴雄與。出去之愛夫者。天翔哉輕路從〔三字傍点〕。玉田次畝火乎見管〔五字傍点〕。麻裳吉木道爾入立。眞土山越良武〔木道〜傍点〕公者。黄葉乃散飛見乍。(下略)
反歌
後居而戀乍不有者木國乃妹背乃山〔四字傍点〕爾有益物乎。
(243) 吾背子之跡履求追去者木乃關守伊將留鴨。(卷四)
之に依ると、先づ西京を出て、佐保川傳ひに南下し、輕の市を經て畝傍山を右手に見つゝ山路に懸り、吉野川まで出て阿太から五條附近に至り、大體今日の伊勢街道を南西に走ると、標高一二一の亦打山に出る。亦打山を下りると、いはゆる角太河原が展開する。こゝまでは山又山であるが、これからは稍々平地が開けるから、峠を越えるとやれやれといふ氣になつたものらしい。亦打山が名高くなつたのは一つはこれが爲めである。
辨基歌一首
亦打山暮越行而廬前乃角太河原爾獨可毛將宿。(卷三)
此辨基の歌によつて觀ると、河原で露営するやうなことがあつたものと考へられる。廬前は今の芋生で、眞土川の紀川へ合流する地點である。こゝから紀川の右岸を西下すると背山に出る。背山の名は今笠田村の小字となつて殘つてゐるが、鉢伏山がそれに相當し、妹山は對岸の澁田村にある長者屋敷に相當すると、『紀伊名所固會』はいつてゐる。確説ではないにしても、大體見當だけはつく。今の背山の東には萩原といふ大字がある、萩原は『延喜式』の驛で馬八匹の置かれた場所であつた。ともかくも、かうして、背山附近が紀伊路に於ける重要な一地點であつたことはわかる。こゝから以西和歌浦、雜賀浦などの名は、屡々『萬葉集』に出てゐるが、交通路線に當らないから省くことにする。
ちよつと一言したいのは、大和から紀伊にゆくのには、久米郷から南下して越、下平田の間を過る前述の線があつたと同時に、雲梯《ウナデ》から南下して越智の西方を過る一線もあつたらしい。此越智は吉田東伍博士に從へば、昔の巨勢郷の名殘であるといふが、さすれば巨勢路といはれたのは雲梯から越智を通して戸毛に至る路線であつたと見なければ(244)ならぬ。巨勢路を西線とし、前述の久米、越線を東線とし、葛或は戸毛のあたりで合して五條附近に達したものと思はれる。巨勢路には椿が多く、景色がよかつたと見えて、
巨勢山乃列々椿都良郡良爾見乍思奈許湍乃春野乎。
右一首坂門人足(卷一)
といふやうなのがある。これは大寶元年に持統上皇が紀伊に行幸された時の歌で、其時は巨勢路によられたのである。また波多朝臣少足の歌が卷三に載つてある。
小浪礒越道有能登湍河音之清左多藝通瀬毎爾。(卷二)
波多朝臣少足は波多郷(今の船倉村)の人であるらしく、又前述の東線に越といふ字があるところなどから見ると、東線が或は巨勢線であると見られぬこともないが、強ひてさう主張するほどの自信もない。たゞこ⊥には高取路(東線)と巨勢路(西線)との二線が存在したであらうことを述べて置くに止める。
四 西方に通ずる山越路線
平城の京から西進して浪華に達するには、勢ひ奈良平野の西方に當つて南北に連亘する山脈を越える必要があつた。『萬葉集』に現はれてゐる限りでは、生駒山越が普通であつたらしいが、しかし、其生駒山越がどの邊で行はれたかは甚だ曖昧である。
(245) 今日の生駒連峰を超ゆる線は、少くとも三つを擧げることが出來あ。最北は私市から片田に出るものであり、中央は甲可から下田原に出る清瀧街道であるが、共に浪華に至るには北に偏り過ぎてゐる。最南は豐浦から小瀬を經て富雄村追分に出る所謂『暗越』である。之は古代大阪(即ち浪華)から一直線に正東を指すもので、いはゞ最捷徑であつた。
伊毛爾安波受安良婆須敝奈美伊波禰布牟伊故麻乃山乎故延弖曾安我久流(卷一五)
此歌は新羅に遣はさるべき使人が、船出を待つ間に大和の家に還らうと、生駒山を越えて來たことを詠んだもので、『岩根踏む』の句は其路の嶮岨であつたことを想はしめる。かうした嶮路では相當な身分の者は馬を利用したらしい。次ぎの歌は妹をおとづれるべく馬に鞍を置いて山越したことを歌つてゐる。
妹許跡馬鞍置而射駒山撃越來者紅葉散筒(卷一〇)
生駒越に今一つ法隆寺から龍田に出で、龍田川を渡つて其岸を溯り、平群谷を小瀬に出て暗越路線に合する路線があつたらしい。これは南大和から浪華に出るもので、此外に大和川岸を西下して、柏原から能華寺、平野郷を經て、鶴橋或は天王寺に出た一線もあつたらしいが、『萬葉集』では詳しいことがわからない。
五 東方に通ずる山越路線
平城から東方に進出するには、南方に於いては初瀬路を名張に出る線と、北方に於いては泉河を溯つて加茂、笠置から柘植に出る線と二筋あつたが、多くの場合に於いては初瀬路が選ばれたやうである。初瀬路は奧までゆけば、い(246)はゆる名張越になる。卷一と卷十一とに收められた
吾勢枯波何所行良武己津物隱乃山手今日歟越等武。(卷一)
隱口乃豐泊瀬道者常滑乃恐道曾戀由眼。(卷一一)
といふ二首の歌は、名張越と初瀬路とを詠んだものである。初瀬路には石がころがり、それに苔がむして旅人が滑つたり、躓いたりしたことが想ひ泛べしめられる。卷一にある柿本人麿が輕皇子の安騎野に狩した時の歌も同樣、初瀬路の險しさを歌つてゐる。
(前略)隱口乃泊瀬山者。眞木立荒山道乎。石根禁樹押靡。坂鳥乃朝越座而。玉限夕去來者。三雪落阿騎乃大野爾。旗須爲寸四能乎押靡。草枕多日夜取世須古昔念而。(卷一)
平城、名張間の路線は三輪の南で北東々に折れて初瀬路に入るが、山邊郡竹谿郷(後の宇陀郡多氣郷)を經て名張に出る路筋もあつた。名張からは阿保に出て、上津から伊勢壹志郡に入るのであるが、名張、阿保間は今日の街道よりも北方を通り、藏持、美濃波多を經て、羽根で縣道に合一したと思はれる。上津からは壹志郡の河口に出たが、其路筋ははつきり分らない。
十二年庚辰冬十月。依太宰少貳藤原朝臣廣嗣謀反發軍。幸于伊勢國之時。河口行宮内舍人大伴宿禰家持作歌一首
河口之野邊爾廬而夜乃歴者妹之手本師所念鴨。 (卷六)
これは天平十二年に於ける聖武天皇の伊勢、美濃行幸に供奉した大伴家持が、河口行宮で詠んだもので、行宮すら露營式のものであつたことが想像せられる、河口は昔から關所のあつたところで、そこから南伊勢に入るには波多に(247)出た。
十市皇女參赴於伊勢神宮時。見波多横山巖吹黄刀自作歌
河上乃湯津盤村二草武左受常丹毛冀名常處女煮手。(卷一)
此歌は天武四年二月の頃詠まれたもので、河口から出て波多の横山に至つたことが分る。波多は今日河合村の大字八太として知られてゐるところである。波多から南東行して今日の松阪のあたりに出で、そこから一路山田に入つた。卷四の
碁檀越從伊勢國時留妻作歌一首
神風之伊勢乃濱荻折伏客宿也將爲荒濱邊爾。(卷四)
といふ歌は、二見から志摩にかけての地域で詠まれたものと思はれる。濱邊で露宿した有樣が髣髴されて面白い。
萬葉人には伊勢と志摩と三河との區別はついてゐず、飛島から島つゞき伊良胡崎までを伊勢と認めてゐたのである。其事は卷一の次ぎの歌で知られる。
幸于伊勢南時留京柿本朝臣人麿作歌
嗚呼兒乃浦〔五字傍点〕爾船乘爲良武嬬等之珠裳乃須十二四寶三都良武香
釧著手節乃崎〔四字傍点〕二今毛可母大宮人之玉藻苅良武
潮左爲二五十等兒乃島〔六字傍点〕邊榜船荷妹乘良六鹿荒島囘乎 (卷一)
『嗚呼兒乃浦』といふのは志摩國英虞郡の一部、『手節乃崎』は答志郡の一部で、太廟の建てられてゐる神路山を越し(248)て南東に志摩へ入る道筋が一般に選ばれたやうにこれらの歌では理解せられる。いふところの『島路山』は志摩路の山に過ぎないのである。『五十等兒乃島』はいふまでもなく伊良湖崎であるが、萬葉人にはそれが島と感ぜられてゐたのであらう。菅島、答志島から神島を經て、そこには容易に達せられたから、寧樂時代には伊良湖は伊勢と同一文化圏に屬してゐたことが考古學的材料でそれと知られる。
六 餘言
以上、私は平城京から四出する陸上路線について叙述したが、かうした風に丹念に調査を進めてゆくと、北は陸奧地方、南は薩摩地方まで、交通についての若干の資料の提供されないところはない。
最も多く目に觸れるのは、道路の險惡、假泊の困難、食料の攝取など、旅行の苦みを歌つたものである。それについては既に序ながら前にも叙述したが、最も普通にさうした資料の一つとして引かれるのは、卷二に載つてゐる有間皇子の
家有者笥爾盛飯乎草枕旅爾之有者椎之菓爾盛 (卷二)
といふ歌である。これは食事の簡素を謠つたものである。また額田女王の
金野乃美草刈茸屋杼禮里之兎道乃宮子能借五百磯所念。(卷一)
は假泊の苦しさを表はしたものとし著しい。次ぎに
※[糸+參]路者石蹈山無鴨吾待公馬爪盡(卷一一)
(249) 宇治間山朝風寒之旅爾師手衣應借妹毛有勿久爾。(卷一) 安豆麻治乃手兒乃欲妣左賀古要我禰※[氏/一]夜麻爾可禰牟毛夜杼里波奈之爾。(卷一四)
などを見ると、道に木の根岩角がつき出て行きわづらつたこと、風の寒さに旅衣の薄きを歎つたこと、夜が來ても宿るべき家がなく、山の中に泊るべき場所を探したことなどが想ひ泛べしめられる。また
信濃道者伊麻能波里美知可里婆禰爾安思布麻之牟奈久郡波氣和我世。(卷一四)
といふ歌を見ると、それらの日に信濃路が新たに開かれて、木の切株などが路面に突出し、徒跣では危かつたことが具體的にはつきりと知られて來る。
行倒れや水死者の多かつたことが、路傍、水畔でそれらを見て憐愍の情を起した歌の多いことによつて知られる。携帶行糧によつて旅行を續けた時代であるから、旅が長ければ長いだけ苦しく、病氣にでも罹れば取りつくしまもなく、怨嗟の情に胸を塞ぎつゝ斃死せざるを得なかつたのであつた。
萬葉時代は既に文獻記録の時代であり、立派な正史も殘つてゐるのであるから、『萬葉集』だけで、或文化現象を研究しようといふのは無理である。それらの洩してゐるところを私達は『萬葉集』に依つて單に補填しようとするのみでなければならぬのである。然るにこゝでは、私は主として『萬葉集』のみによつて、當時の交通路線を知らうとしたのであるから、安全な結果の得られなかつたことは勿論である。しかしながら、『日本書紀』や『續日本紀』では到底把握の出來ない史實を、如上の研究によつて發見し得たことは事實である。『萬葉集』を史料として研究することの眞價はさうした細事の表現、非正規的史實の描寫によつて、萬葉時代の萬葉人の生活を還原、把握し得るところに横はつて(250)ゐる。
七 海洋及び河川航路
萬葉時代には比較的航運が盛んで、海洋及び河川の航行についての歌が少なからず『萬葉集』に載つてゐる。海洋航行を謳つたものも大分あるが、航路を指示したものはあまり多くない。比較的に纏まつたものは、卷十五に載つてゐる『遣新羅使人等悲別贈答、及海路慟情陳思、并當所誦詠之古謌」である。これは天平八年四月遣新羅大使に任ぜられた阿倍繼麻呂らの一行が詠んだもので、送別の悲み、船中の感想が大部分を占めてゐる。女が
武庫能浦乃伊里江能渚鳥羽具久毛流伎美乎波奈禮弖古非爾之奴倍之。
と歌へば、男は
大船爾伊母能流母能爾安良麻勢波羽具久美母知※[氏/一]由可麻之母能乎。
と答へて互みに別れを惜しんだ。今日『秩父丸』でアメリカへ行くのとは異つて、無事で歸れるかどうかも分らなかつたのであるから、いはゞ死別を兼ねる生別でもあつたのだ。船持してゐる間に生駒山を超えて、平城の家を訪うたものさへもあつた。
大伴能美津爾布奈能里《フナノリ》許藝出而者伊都禮乃思麻爾伊保里世武和禮
とあるから、使船は大伴御津濱から出たことがわかる。大伴御津濱は住吉浦の難波よりのところである。
(251) 出帆後の歌を調べて見ると、武庫浦(攝津)、印南(播磨)、玉の浦(備前)、神島(備中)、鞆浦(備後、歌には牟漏能木が詠んである)、長井浦(備後)、風速浦(安藝)、長門島(安藝)、麻里布浦(周防)、可太大島(周防)、熊毛浦(長門)などの地名が出てゐる。これらの場所に或は假泊し或は經過して、佐婆の海中で逆風に逢ひ、豐前の分間浦に漂着し、そこから筑前糟屋郡|之賀《シガ》を經て同國志麻郡韓亭に出で、そこで三泊した後、引津亭を經て肥前松浦郡|狛島《コマシマ》亭に至り、そこから玄海を超えて壹岐に着くと、一行中の雪連宅滿が病死したので、石田《イハタ》野に葬つて船出し、對馬の淺茅浦で五日間日和見をして、竹敷浦を經て新羅に向つた。竹敷には玉槻といふ遊行女婦がゐて一行をもてなし、
多可思吉能多麻毛奈婢可之己藝低奈牟君我美布禰乎伊都等可麻多牟。
といふ歌を詠んだ。大使は之に對して
多麻之家流伎欲吉奈藝佐乎之保美弖婆安可受和禮由久可反流左爾見牟。
と酬いた。副使大伴三中もやはり飽き足らぬ思を歌に詠んでそこを立つた。對馬海峽こそ壯大な海洋の光景を展開したらうに、一行は一首の歌も殘してゐない、よほど船醉したものと見える。
一行は翌天平九年正月歸朝入京したが、大使は歸途對馬で病歿し、副使もまた病に罹つて入京が後れた。歸途は殆ど歌がなく、只だ播磨の家島まで來た時、家郷を懷ふ五首の歌が載つてゐるのみである。
伊敝之麻波奈爾許曾安里家禮宇奈波良乎安我古非伎郡流伊毛母安良奈久爾。
家島といふのは名だけで、そこには妹もゐないといつてゐるが、此島は原史時代から萬葉時代にかけて可也に盛んな舟着であつたらしく、そこには多數の古墳が殘つてゐて、古代航海がいはゆる《coasting》の方法を採つた時には、か(252)うした島々が往還の船に訪はれたことが窺知される。
萬葉時代の航海は、出來るだけ海岸に沿うて進み、已むを得ない場合の外はそれを離れなかつた。沖へ出ることは出來るだけ避け、海中の島々を縫うて進んだ。
吾船者枚乃湖爾榜將泊奧部莫避左夜深去來。(卷三)
といふ歌は琵琶湖で詠んだものであるが、それでさへ『沖へなさかり』といつてゐる。況んや浪風の荒い海の航行に於いてをやである。柿本人麿の作に
………許伎多武流浦乃盡。往隱島乃埼埼。隅毛不置憶曾吾來客乃氣長彌。(卷六)
といふのがあり、浦傳ひ、島傳ひに、浪の靜かな日を覘つて進んだのである。航海日數が多くかゝつたのは、航行の速度が小さかつたことよりも、日和見したことの多かつたことに基づいてゐる。
それだから速い海流、瀬戸の早潮などはひどく旅人を驚かせた。旅人のみではなく、舟乘もまた恐れをのゝいた。瀬戸内海の潮の干滿について、
※[覊の馬が奇]旅歌一首并短歌
海若者靈寸物香。淡路島中爾立置而。白浪乎伊與爾囘之。座待月開乃門從者。暮去者鹽乎令滿。明去者鹽乎令干。鹽左爲能浪乎恐美。淡路島磯隱居而。何時鴨此夜乃將明跡。待從爾寢乃不勝宿者。瀧上乃淺野之雉。開去歳立動良之。率兒等安倍而榜出牟爾波母之頭氣師
反歌
(253) 島傳敏馬乃崎乎許藝廻者日本戀久鶴左波爾鳴(卷三)
といふ歌が卷三に載つてゐる。夜のほどは淡路島で磯隱れをして、夜の引き明け時に潮を見て急いで漕ぎ出した有樣が有々とうかゞはれる。朝凪が彼等に如何に喜ばれたかは
朝名寸二梶音所聞三食津國野島乃海子乃船二四有良信。(卷六)
………安香等吉能之保美知久禮婆。安之辨爾波多豆奈伎和多流。安左奈藝爾布奈弖乎世牟等。船人毛鹿子毛許惠欲妣。仁保等里能奈豆左比由氣婆………。(卷一五)
といふやうな歌で知られる。それだから航海中に海の景色の美くしさなどを詠んだものは殆ど全くない。あつたとしても極めて僅かである。つまり航海が恐ろしかつたのである。それだから大海を越えることは死にゝゆくことゝ同一の感じを以て觀られた。萬葉人に一番恐れられた航海は遣唐使として支那にゆくことであつた。それ故、朝廷でも遣唐使を特に手厚く犒はれて、酒肴を賜はつたりした。天平勝實三年藤原清河が遣唐使として難波を出帆する時、孝謙天皇は高麗福臣を遣はして御製に副へて酒肴を賜はつた。其御製は
虚見都山跡乃國波。水上波地往如久。船上波床座如。大神乃鎭在國曾。四舶舶能倍奈良倍。平安早渡來而。還事奏日爾。相飲酒曾斯豐御酒者
反歌一首
四舶早還來等白香著朕裳裾爾鎭而將待。(卷一九)
といふので、天皇が木綿※[草冠/縵]をつけて清河の爲めに平安の航海を祈られたことが知れる。遣唐使船は主船類船すべて四(254)艘であつたから、『四つの舶』とよまれたのである。藤原氏の氏神である春日の祭日に、藤原太后が清河に賜はつた御歌も卷十九に載つてゐる。
大船爾眞梶繋貫此吾子乎韓國邊遣伊波敝神多智。
萬葉人は船の前部に諸々の神達が神集りまして、船を正路に導き、荒き浪、強き風から船を免れしめるといふ強い信仰を有つてゐた。陸上のちよつとした旅にさへ、ミワを据ゑて山の神に手向けたりしたのだから、遠い異國への旅には儀禮を備へた鄭重なマジックが行はれたのである。これが後世のフナダマ信仰の基礎となつたもので、エジプトやギリシャの船の舳の兩端に謂ふところの『眼文樣』(Ocular design)をつけたのと同一形式のマジックであつた。支那ジャンクの眼玉もやはり同じものである。卷五に憶良の
好去來歌一首 反歌二首
神代欲理云傳介良久。虚見通倭國者。皇神能伊都久志吉國。言靈能佐吉播布國等。加多利繼伊比都賀比計理。今世能人母樂許等期等。目前爾見在知在。人佐播爾滿弖播阿禮等母。高光日御朝庭。神奈我良愛能盛爾。天下奏多麻比志。家子等撰多麻比天。勅旨【反云大命】戴持弖。唐能遠境爾。都加播佐禮麻加利伊麻勢。宇奈原能邊爾母奧爾母。神豆麻利宇志播吉伊麻須。諸能大御神等。舶抽爾【反云布奈能閇爾】道引麻遠志。天地能大御神等。倭大國靈。久堅能阿麻能見虚喩。阿麻賀氣利見渡多麻比。事了還日者。又更大御神等。船舶爾御手打掛弖。墨繩袁播倍多留期等久。阿庭可遠志智可能岫欲利。大伴御津濱備爾。多大泊爾美船播將泊。都々美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢
(255) 反歌
大伴御津松原可吉掃弖和禮立待速歸坐勢
難波津爾美船泊農等吉許延許婆紐解佐氣弖多知婆志利勢牟(卷五)
といふ歌が載つてゐる。船靈信仰の原型を知るのに役立つ歌である。
此歌でも分る通り、遣唐使船は大伴御津濱から船出して、瀬戸内を北九州に出で、値嘉島から一路直ちに支那に向つたもので、南島を經る南のルートと、山東に向ふ北のルートとの二つがあつた。何しろ船體が脆弱で、屡々中央から二つに折れて、其半分に乘つて漂着したやうな例もあり、殆ど命がけの仕事であつた。それ故に安倍仲麿は遂に歸朝を斷念し、藤原清河も唐土で果てた。臆病といへばいへようが、實際生命を愛したものには二度と支那海を横切る氣が起らなかつたらうと思はれる。
萬葉時代には河川の航行は可也盛んに行はれ、今日よりも一層多く河川が利用された。河川の航行は多く曳船で、舟に綱をつけて陸上から曳いたのである。卷十八に堀江の曳船を咏んだ歌が載つてゐるが、それを見ると
保里江欲里水乎妣吉須郡追美布禰左須之津乎能登母波加波能瀬麻宇勢
奈郡乃欲波美知多豆多都之布禰爾能里可波乃瀬其等爾佐乎左指能保禮
右件歌者。御船以綱手泝江。遊宴之日作也。傳誦之人。田邊史福麿是也
とあつて、淺瀬で棹を用ひる外は、大方曳舟したことが知られるのである。それ故にどんな淺い河でも舟を入れ、出來るだけそれを上流まで溯江せしめた。山背川(淀川)の如きは水量が多かつたに相違ないが、河身が今日などよりはず(256)つと廣く、從つて洲が方々にあり、蘆葦が生えてあて、水深は比較的小さかつたと思はれる。鯰江川で發掘された磐※[木+豫]樟船を見ると、舳に近く兩側に圓孔があいてゐるが、それはそれに桿を貫き、それを兩側から人が推して舟を進めたことが朝鮮のスーシャンセン(松葉舟)の例などで分つた。當時の川船は恐らくさうした形式であつたらうと思はれる。飛鳥川や初瀬川のやうな小さな川をどし/”\と船が上下してゐたところを見ると、大抵の河川には船が通つてゐたと推測して差支へない。
萬葉時代の船舶は、小形のものは大方單材刳舟で、稍々大形のものは複材刳舟であり、構造船の如きはさほど多くなかつた。『棚無小舟』といふのは刳舟のことで、棚のある舟といふのは刳舟の上に舷部を補つたもので、それが『熊野舟』とか『松浦舟』とか呼ばれたのである。遣唐使船などは特別の構造を有つたジャンク式のものであらうが、他は海上を航行するものでも極めて脆弱であつたやうである。『赤曾布舟』といふのがあるが、これは朱塗の舟で、官船を他の私船から區別する爲めに彩色したと一學者はいつてゐるが、それはどうだか分らない。
船の漕ぎ方は今日の艪の押し方と異り、舷側に繩の輪をつけ、それに櫂をつツ込んで背を船首に向けて漕いだのである。其漕ぎ方は糸魚川あたりの漁船の椿葉の櫂と似てゐたらしい。それが所謂『眞梶繁貫』であり、其漕ぐ音が高く聞えたから、屡々『梶の音聞ゆ』などゝ詠まれたのである。帆を歌つたものゝないのを見ても、それの多く用ひられなかつたことが知れる。たとへ用られたとしても、それは布帆でなく、いはゆる『蓆帆』であつた。
詳しく云へば限りがないから、許された紙數で、極めて大まかに海洋と河川との航行、特に海上路線について述べることにした。他は各自で研究していたゞきたい。
(379) 萬葉動物考
豊田八十代
はしがき
萬葉集に見えたる動物は鳥類三十七、獣類十一、蟲類十三、魚類九、貝類六、すべて七十六種である。これ等の動物を詠みこんだ歌を見て直に感ずるのは、その形態や習性のはっきりと現れてゐることである。それは、後世の歌のやうな題詠ではなく、作者の直接経験から來てゐるからであらう。今これ等の形態や習性についてくはしい説明をしたならば、讀者を益することが多からうと思はれるが、紙数の制限があるので、その主要なる點のみについて解説を試みることにする。
動物の科の名は日本動物圖鑑に據り、歌詞の番號は國歌大觀のを用ひ、挿繪は代田恒夫氏の筆に成つたことを附記しておく。
(380) 一 鳥類
あきさ 秋沙《アイサ》(雁鴨科)
鴨の類、鴨よりは小さく、嘴が稍狹く、末端が鉤状に尖り、嘴の縁に尖つた齒が列び生じてをる。かはあいさ・うみあいさ・みこあいさ等の種類があり、冬季のみ本邦に渡來する。數多く群り飛ぶ羽音は大風の吹き渡るやうである。
一一二二 山の際《マ》にわたる秋沙の往きて居むその河の瀬に浪立つなゆめ
あぢ 味鴨(雁鴨科)
「これは今の世に安遲鴨《アヂカモ》と呼んで、鳧《カモ》の種類なり。しまあぢかもといふもあり。」と小野博はいつてをる。鴨に似て小さく、頭は青緑に黄赤を帶び、翅は灰色。胸は黄赤で、小い黒點がある。腹は白く、背は灰白で、赤黒い毛がまじつてゐる。常に數百羽も群をなし、冬(381)季のみ本邦に渡來する。
二五七 天降《アモ》りつく云々邊《へ》つ方《へ》に阿遲《アヂ》村さわぎ云々
二七五一 阿知《アヂ》のすむ須沙《スサ》の入江のこもりぬのあないきづかし見ずひさにして
三九九一 ものゝふの云々なぎさには安遲《アヂ》むらさわぎ云々
あとり 花鷄(雀科)
和名抄に「辨色立成云〓紫鳥【阿止里一云胡雀】楊氏漢語抄云〓子鳥【和名同上】」とあり、閑田耕筆には「アトリといふもの過ぎし寛政七卯年秋冬嵯峨天龍寺の林に群飛す。都下の人も群集して見にゆけり。」といつてをる。雀よりは少しく大、背は頭部から下脊部迄黒く、腰と上尾筒は白い。秋冬群飛渡來する。
四三三九 國めぐる阿等利《アトリ》かまけり行きめぐりかひりくまでにいはひてまたね
いかるが 桑〓(雀科)
和名抄に「崔禹錫食經に云、鵤貌似v〓白喙者。和名伊加流加」とあり、伊豫風土記には「湯郡天皇等於v湯奉行降坐五度也云々。於2大殿戸1有2樹木1云2臣木《オミノキ》1。其上集2鵤|此米《シメ》1。天皇爲2此鳥1繋2稻穗1養賜云々。と見えてをる。小野博士(382)は「桑〓《イカルガ》形|伯勞《モズ》の大きさなり。全身灰色にして、頂深黒色帽を戴く如し。人家に畜ふもの黍《キビ》※[禾+參]《ヒエ》を以て飼ふに若し豆一粒その中にあれば、これを含み、旋轉して止まず、これによりて豆まはしと云ふ。」といつてをる。
シメによく似て、同屬であるが、頭上と尾との黒いので區別することが出來る。
三二三九 近江の海云々|仲枝《ナカツエ》に伊加流我《イカルガ》懸《カケ》云々|伊加流我等此米登《イカルガトシメト》
う 鵜(※[盧+鳥]〓科)
和名抄には「辨色立成云大曰2※[盧+鳥]〓1。小曰2鵜※[胡+鳥]1。爾誰註曰※[盧+鳥]〓水鳥也。觜頭如v鉤。好食v魚者也。とあり、和名本草には、※[盧+鳥]※[茲+鳥]和名宇。とある。島つ鳥は鵜の枕詞で、鵜の古名ではない。
三八 安見《ヤスミ》しゝ云々上つ瀬に鵜川《ウカハ》を立て云々
三五九 阿倍《アベ》の島|宇《ウ》の住む石《イソ》に依《ヨ》する浪まなくこのごろ日本《ヤマト》し念《オモ》ほゆ
九四三 玉藻かる辛荷《カラニ》の島に島みする※[水/鳥]《ウ》にしもあれや家|念《オモ》はざらむ
四一九一 ※[盧+鳥]河《ウカハ》立て取らさむ點《アユ》のしがはたは吾《アレ》等にかき向《ム》け念ひしもはゞ
うぐひす 鶯(鶯科)
(383) 和名抄に「陸詞切韻云※[(貝+貝)/鳥]春鳥也。楊氏漢語抄云春鳥子宇久比須とあり、集中には多く※[(貝+貝)/鳥]の字を用ひてをる。鶯は※[(貝+貝)/鳥]の俗字である。小野博は「漢土にて※[(貝+貝)/鳥]といふものは朝鮮うぐひすなり。大さ伯勞《モズ》の如し。この鳥筑前領|蛇島《ヲロチシマ》に稀に來る。又薩摩|夜久《ヤク》島にもあり。つねのうぐひすは漢名柴鶺鴒なり。」といつてをる。支那には又黄鳥といふものがあるが、鶯とは別である。鶯は夏期は主として山林に棲み、冬期は人里近く出て來り餌をあさるを常とする。
八二四 梅の花散らまく惜しみわが苑《ソノ》の竹のはやしに宇具比須《ウグヒス》なくも
八二七 春さればこぬれがくりて宇具比須《ウグヒス》ぞ鳴きていぬなる梅が下枝《シヅエ》に
九四七 まくづはふ云々|高圓《タカマド》に※[(貝+貝)/鳥]鳴きぬ云々
うづら 鶉(雉科)
和名抄に「淮南子云蝦蟇化爲v鶉。和名宇都良。」 和名本草に鶉和名宇都良。本居宣長は「或説に宇豆良は韓語なり。今朝鮮にても、うづらと云ふ。」といつてをる。
鷄の屬で、原野に棲む。形は鷄の雛に似て、首が小い。尾が特に短く、裾のきれた衣のやうであるから、鶉衣といふ語がある。よく居處を轉ずる鳥で、秋風の身にしむ頃になると、高らかに囀り出し、其の聲がみやびやかである。この鳥は尾の短いために高く飛ぶことが出來ず、叢の中をはひさまよふことが多いので、鶉なすといふ語がいはひもとほりの枕詞に用ひられる。
一九九 かけまくも云々鶉なすいはひもとほり云々
七七五 鶉鳴くふりにし里と念へども何かも妹にあふよしもなき
(384)おほとり 大鳥
和名抄に「本草云鸛水鳥似v鵠而巣v樹者也。和名於保止利。」和名本草に「鸛和名於保止利」とある。動植正名には、おほとり一名くゞひ、今名こふ。漢名鸛としてをる(こふは鸛科に屬し、一見丹頂鶴に類した鳥である。)古義には「鷲などをも大鳥と云ふべし。但し大鳥のとよめろは只何となく大きなる鳥をすべて稱《イ》へるにもあるべし。」といつてをる。
二一〇 うつせみと云々大鳥《オホトリ》の羽易《ハガヒ》の山に云々
かけ 鷄(雉科)
にはとりの異名。和名本草に鷄和名爾波止利とある。名の義はその鳴聲のかけ/\と聞えるからであらう。かけといふ語の物に見えるのは、古事記上卷の八千矛《ヤチホコ》の神の歌に、「我が立たせれば、青山に※[空+鳥]《ヌエ》は鳴き、さ野つ鳥|雉《キヾシ》はとよむ庭つ鳥|迦祁《カケ》は鳴く。」とあるのが始である。
二八〇〇 あかときと鷄《カケ》は鳴くなりよしゑやしひとり宿《ヌ》る夜は開けばあけぬとも
一四一三 庭つ鳥|可鷄《カケ》の垂尾《タリヲ》のみだり尾の長き心も念ほえぬかも
三三一〇 こもりくの云々家つ鳥|可鷄《カケ》も鳴き云々
かほとり 容鳥
かほとりは萬者動物の中で、古來不明とされてをるものゝ一つである。しかし集中に見える歌を綜合してみると、(一)三笠山附近にあるやうな小川即ち溪流に棲み、(二)春になると千鳥のやうにせはしく鳴く、(三)未婦中のよい鳥(385)でなければならぬ。
そこで、小野博は※[さんずい+鷄]〓《ヲシドリ》のことゝし、伴信友は翡翠《カハセミ》のことゝし、曾占春《ソウセンシユン》は藏玉集を引いて、雉子の雄だとしてゐるが、いづれもこの三の條件の全部には當てはまらない。仙覺は「容鳥とはゐなか人はかほとりといふ是なり。かほ/\となけば鳴聲を名とせるなり」といひ、眞淵は「今かつほ鳥といふものにて喚子鳥といふも是なり」といつてをるが、根據のない説である。
自分の研究によれば、右の三つの條件に適合するものは川烏《カハガラス》の外にはない。
川烏《カハガラス》は鶫《ツグミ》科に屬する小鳥で、全身が黒褐色であるから、この名がついてをるが、烏の類ではない。體躯は鶫《ツグミ》よりも稍小さく、尾は短い。我が國には四時ともにゐる。山地の渓流に沿うて棲息して、渓谷に風情を添へ、擧動が頗る活溌である。水棲昆虫を採りて食とし、食を求めるため水中に没することがあり、又巧に泳ぐものである。黒燒にして、婦人の血の道に藥效があるといはれてをる。春先になると、川岸の岩の上や木の陰などに來て遊び、チッチッチッといふやうな聲で鳴くのが常である。その聲が川千鳥によく似てゐるが、川千鳥よりは聲に力があつて強い。夫婦中のよい鳥で、雌と雄とがいつも一所に居る。今は三笠山の附近にはゐないが、昔は多く居たといふことで、宇陀郡吉野郡あたりには今もたくさんに居る。
(386)三七二 春日の山の高座《タカクラ》の御笠《ミカサ》の山に朝さらす雲ゐたなびき、容鳥のまなくしば鳴く雲居なす心いさよひ其鳥の片戀のみに云々
一〇四七 八隅《ヤスミ》しゝ吾|大王《オホキミ》の云々|平城《ナラ》の京師《ミヤコ》は炎《カゲロヒ》の春にしなれば春日山御笠の野邊に櫻花木のくれがくり貌鳥《カホトリ》はまなくしば鳴き云々
一八二二 朝井代《アサヰデ》に來鳴く※[日/下]鳥《カホトリ》汝《ナレ》だにも君に戀ふれや時終へず鳴く
一八九八 容鳥のまなくしば鳴く春の野の草根のしげき戀もするかも
三九七三 おほきみのみことかしこみ云々山びには櫻花ちり可保等利《カホトリ》はまなくしば鳴く春の野にすみれをつむと云々
かまめ 鴎(鴎科)
和名抄に「唐韻云鴎水鳥也。兼名苑云一名江燕和名加毛米」とあり、今はかもめといつてをるが、昔はかまめともいつたのであらう。
内地の湖沼にすむものと、海中に棲むものとがある。形鳩よりは大きく、嘴は尖つて長くて赤く、脚も赤い。頭背は灰色で、腹が白く、常に水上に浮んで、魚類を食とする。
二 大和には云々海原《ウナバラ》は加萬目《カマメ》立ち立つ
かも 鴨(雁鴨科)
和名抄に「爾誰集註云鴨野名曰v鳧。家名曰v※[務の力が鳥]。楊氏漢語抄云鳧〓加毛。」とある。小野博は、「昔より鴨をかもと訓むは非なり。野鴨といふはかもなり。」といつてをる。
(387)五〇 八隅《ヤスミ》しゝ云々鴨じもの水に浮きゐて云々
二六〇 天降《アモ》りつく云々奧べには鴨妻よび云々
四六六 わがやどに云々|水鴨《ミカモ》なす二人竝ぴゐ云々
二五二七 おきにすむ乎加毛《ヲカモ》のもころやさかどりいきづくいもをおきて來ぬかも
二八三三 葦鴨《アシカモ》のすだく池水溢るともまけみぞのへにあれこえめやも
三八六六 おきつとり鴨ちふ船のかへりこば也良《ヤラ》の埼守《サキモリ》はやく告げこそ
からす 烏(鴉科)
和名抄に「唐韻云鴉孝鳥也。兼名苑云鴉一名※[亞+鳥](字亦作v鴉)爾雅云純黒而反哺者謂2之鴉1。和名加良須。」とある。
三八五六 波羅門《バラモン》の作れる小田を喫《ハ》む烏|瞼《マナブタ》腫《ハ》れて幡瞳《ハタホコ》にをり
三五二一 加良須《カラス》とふ大をそどりのまさでにも來まさぬ君をころくとぞなく
三〇九五 朝鳥早くな鳴きそわが背子が旦開《アサケ》のすがた見れば悲しも
一二六三 曉と夜烏《ヨガラス》鳴けどこの山上《ヲカ》の木末《コヌレ》がうへはいまだ靜けし
かり 鴈(鴈鴨科)
和名抄に「毛詩鴻鴈篇註云大曰v鴻小曰v鴈和名加利」とある。かりがねは、もとは鳩之音《カリガネ》の意であつたが、後には鴈と同意に用ひたものと見える。又折木四をかりとよむことは、萬葉用字格に「或人云折は斷の誤、孟莊子に造v鋸截斷器とあり。四は器の誤なるべし。鋸の音かり/\と聞ゆれば、かりの假字に用ひたるならんといへり。」といつてをる。
(388) 次に一八二の歌の鴈について鷹の古字〓の誤とする説(契沖)とカリとよみて、カルガモのこととする説(契沖一説又眞淵)とがある。カルガモは大形の鴨である。
九四八 眞葛《マクズ》はふ云々|所木四哭《カリガネ》の來つぐこの頃
一一六一 家さかり旅にしあれば秋風の寒きゆふべに雁なき渡る
一八二 とぐら立て飼ひし鴈の子すだちなば檀《マユミ》の岡にとび反りこね
きゞし 雉(雉科)
和名抄に「廣雅云雉野※[奚+隹]世。和名木々須。一云木之」和名本草に「雉和名岐之」とある。木々須といふのは轉音であらう。
雉は本邦の特産で、狩獵鳥として最高位を占めてをる。朝鮮に産するのは高麗雉《カウライキジ》といつて、全く別種である。
三八八 海若《ワタツミ》は云々瀧の上の淺野《アサヌ》の雉《キギシ》明けぬとし立ち動《トヨ》むらし云々
四一四八 ※[木+媼の旁]野《スギノヌ》にさをどる雉《キギシ》いちじろくねにしもなかむこもりづまかも
三三七五 武藏野の乎具奇《ヲグキ》が吉藝志《キギシ》たちわかれいにしよひより背呂《セロ》にあはなふよ
一四四六 春の野にあさる雉《キギシ》の妻戀におのがあたりを人に知れつゝ
しぎ 鴫鷸
和名抄に「玉篇云〓野鳥也。楊氏抄之木一云田鳥」とある。
夏秋の間田澤に集る。形くひなに似て小さく、嘴長く、頭から翼まで茶褐色である。この鳥は又曉に羽蟲をとる(389)ために嘴で繁く羽をしごくので、しぎの羽がきといふ語が物の數の多い比喩に用ひられる。
四一四一 春まけて物悲しきにさよふけて羽ぶきなく志藝《シギ》誰が田にかすむ
しながどり 志長鳥
古義には尾長鴨《ヲナガガモ》のことならむといひ、動植正名にはあまつばめのことならむといつてをる。
尾長鴨(雁鴨科)は尾が長くて尖つてゐるのでこの名がある。あまつばめ(雨燕科)は燕より大きく、燕とは目を異にしてゐるが、外觀が極めて燕に類似してゐる。
一一四〇 志長鳥《シナガドリ》居名野《ヰナヌ》を來れば有間《アリマ》山夕霧立ちぬ宿はなくして
一七三八 水長鳥《シナガドリ》安房に繼ぎたる云々
しめ ※[(上/日)+鳥](雀科)
和名抄に「陸詞切韻云鴒白喙鳥也。漢語抄云比米。孫※[立心偏+面]切韻云※[(上/日)+鳥]小青雀也。漢語抄云之米。」
まめまはしに似て、稍大きく、頭腹黄白で黄なる斑がある。
三二三九 近江の海云々下枝《シヅエ》に此米《シメ》をかけ云々
しらさぎ 白鷺(鷺科)
和名抄に「唐韻云鶺鋤白鷺也。崔禹錫食經云鷺色純白。其聲似2人呼喚者1也。和名佐木」和名本草に「鷺和名佐岐」とある。古義には「たゞ鷺なり。漢國にてもつねの鷺を白鷺と云ふに同じ。後世青きを青鷺と云ふに對へて白きを白鷺といふとは異なり。」といつてをる。
(390)三八三一 池神《イケガミ》の力士※[人偏+舞]《リキシマヒ》かも白鷺の桙《ホコ》啄《ク》ひもちて飛び渡るらむ
しらとり 白鳥
これは鳥の名ではなく、たゞ白い島と見るのが穩であらうと思はれる。−六八七の歌のは鷺のことであることは言ふまでもない。
五八八 白鳥の飛羽《トバ》山松のまちつゝぞあが戀ひわたるこの月ごろを
一六八七 白鳥の鷺坂《サギサカ》山の松影《マヅカゲ》に宿りてゆかな夜もふけゆくを
すがとり 菅鳥 未詳
眞淵は菅は管の字の誤で、管鳥《ツヽトリ》ならむといつてをる。(略解の文に據る)如何にも集中には管をつゝの假名に用ひたところが多い上に、つゝとりといふ鳥のあることも事實である。
それについて、小野博は「つゝとり」は大さ鴿《ハト》の如く、背黒く小白點あり、鳴聲竹筒をたゝくがごとし。これを播磨にては苗代《ナハシロ》どり、土佐にては麥うらしといふ。」といひ、寺島良安は布穀鳥一名都々鳥。二月至2五月1有v聲。其鳴也如v言2豆々豆々1。」といつてをる。
しかしこのつゝとりは郭公の類であつて、水邊に棲む鳥ではないから、三〇九二の歌に白まゆみ斐太《ヒダ》の細江《ホソエ》の菅鳥とあるのに合はず、其の上諸本とも菅鳥とあるから、原文のまゝすがとりと訓むのが穩であらう。
古事記傳には「都々《ツヽ》は鶺鴒《セキレイ》の一の名なり」といつてをるが、根據がない。又|歌袋《ウタブクロ》には、仁安二年の歌合の「いづかたも同じうきねを何とかは浦わたりするさよのすが鳥」といふ祐盛《イウジヤウ》法師の歌を載せてをるが、後世のものであるか(391)ら證據とはなり難い。
要するに、菅鳥についてはこの鳥の特徴を知るべき歌がないから、考證が出來ないのである。
三〇九二 白まゆみ斐太《ヒダ》の細江《ホソエ》の菅鳥の妹にこふれや寢《イ》をねかねつる
たかべ 高部(雁鴨科)
和名抄に「爾雅集註云※[爾+鳥]一名沈鳧。貌似v鴨而背上有v文。漢語抄云多加閇。」貝原篤信は「今こがもと云ふ。漢名刀鴨と云ふものこれなり。」といひ、小野博は「たかべを南部にてはたかぶ、越後にてはたかぼといへり。此鳥|鳧《マカモ》より小く、雄なるもの文彩美しく、雌なるもの文彩なし。」といつてをる。
二五八 人|榜《コ》がずあらくもしるし潜《カヅキ》する鴦《ヲシ》と高部《タカベ》と船の上にすむ
二八〇四 高山に高部《タカベ》さわたり高々に余《ア》が待つきみを待ちでなむかも
たか 鷹(鷲鷹科)
和名抄に「蒋魴切韻云※[執/鳥]鷹(ハ)※[謠の旁+鳥]》(ノ)總名也。和名太加。今按古語云倶知。兩字急讀v屈。百済俗號v鷹也。見2日本紀私記1。」とあり。日本書紀仁徳天皇四十三年の條には「秋九月庚子朔|依網屯倉阿弭古《ヨサミノミヤケアビコ》捕2異鳥1献2於天皇1曰。臣毎張v網捕v鳥未3曾得2是鳥之類1。故奇而献v之。天皇召2酒君1示v鳥曰。是何鳥矣。酒君對言。此鳥類多在2百濟1。得v馴而能從v人。亦捷飛之掠2諸鳥1。百濟俗號2此鳥1曰2倶知1【是今時鷹也】」と見えてをる。
これに據ると、鷹の原名は倶知であるが、金澤博士の説によると、鷹も倶知も語原は一つで、ともに蒙古語から來てをるといふことである。
(392)四〇一一 大君の云々鷹はしもあまたあれども矢形尾《ヤカタヲ》のあが大黒《オホクロ》に云々
二上《フタカミ》のをてもこのもに網《アミ》さしてあが待つ鷹を夢につげつも
たづ 鶴(鶴科)
如名抄に「四聲字苑云鶴似v鵠。長喙高脚者也。和名豆流。唐韻云〓鶴別名也。楊氏抄一云多豆。今按倭俗謂v鶴爲2葦鶴1是也。」
集中には助動詞として、ツルに鶴の字を用ひたところが多いが、歌詞の方はいづれも多頭と訓んでをる。都留は多都の別名であらう。
あしたづといふ語については、國史草木昆蟲攷に「葦邊にむれたるものなれば、何の心なくいひ出でしなるべし。蘆鴨といひ、蘆蟹といふたぐひなり。」といつてをる。
七一 倭《ヤマト》戀ひいのねらえぬに情《コヽロ》なくこの渚《ス》の崎《サキ》に多津《タヅ》鳴くべしや
二七三 礒《イソ》の前こぎたみゆけば近江の海|八十《ヤソ》の湊にたづさはに鳴く
四五六 君に戀ひいたもすべなみ蘆鶴《アシタヅ》のねのみし泣かゆ朝夕にして
ちどり 千鳥(鷸科)
大和本草に「ちどり河海の水邊にあり。其形鶺鴒又鴫に似たり。」とある。(後の世の俗に鵆の字を用ひるのは出處が詳でない。)
二六八 わが背子が古家《フルイヘ》の里の明日香《アスカ》には乳島《チドリ》鳴くなり君待ちかねて
(393)五二六 千鳥鳴く佐保の河瀬の小浪《サヾレナミ》止むときもなく吾が戀ふらくに
九二五 烏玉《ヌバタマ》の夜のふけゆけば久木《ヒサギ》生《オ》ふる清き河原に知鳥《チドリ》しば鳴く
二六八〇 河千鳥住む澤のへに立つ霧のいちじろけむな相言ひそめてば
つばめ 燕(燕科)
和名抄に「爾椎集註云燕白〓小鳥也。和名豆波久良米。」とある。今もつばめともつばくらとも呼んでをる。
四一四四 燕來る時になりぬと鴈がねは本郷《クニ》思《シヌ》びつゝ雲がくりなく
にほどり 〓〓(〓〓科)
和名抄に「郭璞方言註云〓〓野鳧。小而好没2水中1也。野王按〓〓其膏可3以瑩2刀劍1者也。和名邇保。」とある。
本居宣長は「今の世にかいつぶりといふ鳥なり。處によりては今も邇本とも美本とも云ふ」といつてをる。
二九四七 天雲の云々牛留鳥《ニホドリ》のなづさひ來むと云々
七二五 二寶鳥《ニホドリ》のかづく池水こゝろあらば君にあが戀ふこゝろ示さね
四四五九 爾保杼里《ニホドリ》の於吉奈我《オキナガ》川はたえぬとも君にかたらむことつきめやも
ぬえ又ぬえこどり ※[空+鳥]
和名抄に「唐韻云※[空+鳥]恠鳥世。漢語抄云沼江」とあり。貝原篤信は「※[空+鳥]は鬼つぐみと云ふ。常のつぐみに三倍ほど大なり。ほし多し。山中にあり。」といひ、曾占春《ソウセンシユン》は「今の虎つぐみといふ鳥なり」といつてをる。内田清太郎氏の説明によると、「※[空+鳥]は古來怪禽の一とされたもので、種々異形な繪などを見るが、その鳴き聲が笛の音のやうで、頗る陰欝な(394)感じを與へるところから、怪禽とされたものであらう。虎鶫《トラツグミ》といふ鶫の一種で、その形は普通の鶫より少し大きく、全身淡黄色に黒斑を交へた美しい鳥である。我が國で蕃殖し、四五月頃になると、夜間又は曇天の際未明から林や藪の邊で淋しい鳴聲を發する」といふことであるが、この鳥の鳴聲は同氏の「鳥の研究」に引用された若山牧水氏の文に精細に措寫されてをる、集中に、奴延といふ語がうらなけ、のどよひ等の枕詞に用ひられてをるのは、陰欝な感じを與へるからであらう。
五 霞たつ云々|奴要子鳥《ヌエコドリ》うらなけをれば云々
一九六 飛鳥の云々|宿兄鳥《ヌエドリ》の片戀嬬《カタコヒヅマ》云々
八九二 風雜り云々|奴延鳥《ヌエドリ》ののどよひをるに云々
ひばり 雲雀(雲雀科)
和名抄に「崔禹錫食經云雲雀似v雀而大。和名比波里。楊氏漢語抄云〓〓和名上同。」
四二九二 うら/\と照れる春日に比婆理《ヒバリ》あがり情《コヽロ》かなしもひとりし思へば
四四三三 あさなさなあがる比婆里《ヒバリ》になりてしがみやこにゆきてはや歸りこむ
ほとゝぎす 杜鵑(杜鵑科)
(395) 和名抄に「唐韻云〓〓今之郭公也。和名保度々木須。」とある。 けれども、内田清太郎氏の研究に據ると、郭公と杜鵑とは同一ではない。郭公は杜鵑の一種で、社鵑《ホトヽギス》よりも遙に大きく翼の長さが七寸内外もあるといふことである。それについて、同氏は「本種は蕃殖の習性甚だ奇異にして、自ら巣を營むことなく、卵は一個づつ別々に他鳥(燕雀目に屬する食虫性の小鳥)の巣に寄託し、其の巣親鳥によりて、抱卵孵化せらる。雛は同巣の卵より早く孵化し、他卵を巣外に排棄し、自己のみ親鳥の哺育を受けて成長巣立す。」といつてをる。一七五五の歌に※[(貝+貝)/鳥]の生卵《カヒコ》の中に霍公鳥ひとり生れて云々」とあるのは即ちこの郭公のことである。集中の歌はこの兩者を混同してをるやうである。
一一二 古に戀ふらむ鳥は霍公鳥《ホトヽギス》けだしや鳴きし吾が戀ふるごと
四二三 角さはふ云々|霍公鳥《ホトヽギス》鳴くや五月には云々
四六七 霍公鳥《ホトヽギス》なかる國にもゆきてしがその鳴く聲を聞けばくるしも
一七五五 ※[(貝+貝)/鳥]《ウグヒス》の生卵《カヒコ》の中に霍公鳥《ホトヽギス》ひとり生れて己《シ》が父に似ては鳴かず云々
みさご 美沙(〓科)
和名抄に「爾誰集註云〓鳩|〓《ワシ》屬也。好在2江邊山中1亦食v魚者地。和名美佐古。
三六二 美佐ゐるいそみに生ふるなのりその名は告《ノラ》してよ親は知るとも
二七三九 水沙兒《ミサゴ》ゐる奧《オキ》のありそによする浪ゆくへも知らずあが戀ふらくは
みやこどり 都鳥(雁鴨科)
(396) 大和本草に「按ずるに、西土《ツクシ》にて都鳥といふ鳥あり。背は黒く、腹脇白く、觜と足と赤し。觜長く、けりの形に似て、其の形うるはし。伊勢物語にいへる都鳥是なるか。」といつてをる。
日本動物圖鑑にはゆりかもめのこととし、「本種は小形の美麗なる種類にして、冬季には比較的内地の河川湖沼等に多く目撃す。嘴と脚は美しき暗赤色なり。」といつてをる。この鳥は今も冬季には宮城のお濠に群集するのが常である。
四四六二 舟ぎほふほりえの河の水ぎはに來ゐつゝ鳴くは美夜胡杼里《ミヤコドリ》かも
もず 百舌鳥(鵙科)
和名抄に「兼名苑云鵙一名〓伯勞也。日本紀私記云百舌鳥。楊氏漢語抄云伯勞|毛受《モズ》一云鵙。」
この鳥は草の間をくゞりて、蛙|蚯蚓《ミヽズ》等を捕へて食ふのが常であるから、もずの草ぐき(くきは潜《クヾ》りの意)の語がある。秋になると、草木の梢にとまり、鋭い聲で鳴くことは人のよく知るところである。
一八九七 春されば伯勞《モズ》の草ぐき見えずとも吾《アレ》は見やらむ君があたりは
二一六七 秋の野の草花《ヲバナ》が末《ウレ》に鳴く百舌鳥《モズ》の音聞くらむか片待《カタマ》つ吾妹《ワギモ》
やまどり 山鳥(雉科)
(397) 和名抄に「食經註云山※[奚+隹]一名〓〓和名夜萬土利とある。雉に似た鳥であるが、山深く棲んでをるのが常である。
一六二九 ねもごろに云々|足日木《アシビキ》の山鳥こそは云々
三四六八 夜麻杼里《ヤマドリ》の乎呂《ヲロ》のはつをにかゞみかけとなふべみこそなによそりけめ
よぶこどり 喚子鳥
和名抄に「萬葉集云喚子鳥|其《ソレヲ》讀2與不古止里《ヨブコドリ》1」とあり、契沖は「カツホウ/\と鳴く鳥の事なり。」といひ、眞淵は「此鳥三月頃より五月まで鳴けり。鳴く聲物を喚ぶに似たれば、呼子鳥といへり。ゐ中人のかつはうどりといふ即ちこれなり。」といつてをるが、この外尚鹿なりといふ説もあり、猿なりといふ説もある。(曾占春)
集中の歌を總合して考へると、この鳥は(一)ある地點から餘り遠からぬ他の地點へ飛び移ること多く(二)その際には鳴きつゝ飛ぶを常とし(三)その聲が人を呼ぶやうに聞えることが明かであるから、これ等の條件に合せて考へると、契沖眞淵の説がよく當つてゐる。橘守部の山彦双紙の説も同じである。
この霍公鳥は前のほとゝぎすの條に述べた他鳥の巣に卵をおくといふ鳥であるに、萬葉歌人はそれに心づかなかつたものと見える。
(398)七〇 倭《ヤマト》には鳴きてか來らむ呼兒鳥|象《キサ》の中山呼びぞ越ゆなる
一八二七 春日《カスガ》なる羽買《ハガヒ》の山よ猿帆《サホ》の内《ウチ》へ鳴きゆくなるは孰《タレ》喚子鳥《ヨブコドリ》
わし 鷲(鷹科)
和名抄に「唐韻云〓大〓也。〓〓鳥別名也。山海經鷲小〓也。〓和名於保和之。鷲古和之。」仙覺抄には「眞鳥《マドリ》は鷲なり。えびすはわしの羽をまとりの羽といふなり。」といつてをる。
一七五九 鷲のすむ筑波の山の云々
三八八二 澁溪《シブタニ》の二上《フタカミ》山に鷲ぞ子むちふさし羽にも君がみために鷲ぞ子むちふ
一三四四 思はぬを思ふといはゞ眞鳥《マトリ》すむ卯名手《ウナデ》の神社《モリ》の神ししらさむ
をし又をしどり 鴦(雁鴨科)
和名抄に「崔豹古今註云鴛鴦雌雄未2甞相離1。人得2其一1則其一思而死。故名2匹鳥1也。和名乎之。」
二五八 人|榜《コ》がずあらくもしるし潜《カヅキ》する鴦《ヲシ》と高部《タカぺ》と船の上に住む
二四九 妹に戀ひいねぬ朝明《アサケ》に男爲鳥《ヲシドリ》のこよ飛びわたる妹が使か
二 獣類
いさな 鯨魚(鯨科)
(399) 和名抄には「唐韻云大魚。雄曰v鯨。雌曰v鯢。和名久知良。淮南子曰鯨鯢魚之王也。」とあり、和名本草には「鯨和名久知良」字鏡には「鯢女久地良。」とあり、ともに伊佐那といふ名は見えない。伊佐那といふ語の物に見えるのは允恭紀に「とこしへに君もあへやも異舍儺等利《イサナトリ》海のはまもの寄るときどきを」とあるのが始である。
鯨の假名《カナ》は常陸風土記の久慈郡の條に「古老曰自v郡以南近有2小丘1。體似2鯨鯢1。倭武天皇因名2久慈1。」とあるに據れば、古くはくじらと書いたのではないかと思はれる。
一三一 石見《イハミ》の海云々|鯨魚《イサナ》とり海邊《ウミベ》を指して云々
三六六 越海《コシノウミ》の云々|勇魚《イサナ》取り海路に出でて云々
いぬ 犬(犬科)
和名抄に「兼名苑云犬一名尨。爾誰集註云〓和名惠奴又與v犬同。犬子也。」
一二八九 垣越ゆる犬よびこせて鳥獵《トガリ》するきみ青山の葉茂き山べ馬《ウマ》安《ヤスメ》君
三二七八 赤駒云々|吾《アガ》待つ公《キミ》を犬な吠えそね
うし 牛(牛科)
和名抄に「四聲宇苑云牛土畜也。和名宇之。辨色立成云特牛頭大牛也。俗語云2古度比1。」
三八八六 忍照《オシテ》るや云々牛にこそ鼻繩《ハナハ》はくれ云々
三八三八 吾妹兒《ワギモコ》が額《ヒタヒ》に生ひたる双六《スゴロク》の事負《コトヒ》の牛の倉の上の瘡《カサ》
うま 馬(馬科)
(400) 和名抄に「四聲宇苑云馬南方火畜也。和名無萬。王仁〓曰駒馬子也。和名古萬。」
四 玉きはる内《ウチ》の大野に馬なめて朝ふますらむその草深野《クサフカヌ》
一六四 見まくほりあがする君もあらなくに何しか來けむ馬疲るゝに
か 鹿(鹿科)
和名抄に「陸詞切韻云鹿斑獣也。和名加」とある。古義に「牡鹿は鳴き、牝鹿は鳴かず。七月の末より鳴きはじめ、八月の中さかりに、九月の末まで鳴く。子は四五月に孕《ハラ》む。凡九月にして只一子を産む。」とあるのは正確な説明である。
八四 秋去らば今も見るごと妻戀《ヅマゴヒ》に鹿鳴かむ山ぞ高野原《タカヌハラ》のうへ
一六六四 ゆふされば小倉《ヲグラ》の山に鳴く鹿のこよひは鳴かず寐《イネ》にけらしも
一七九〇 秋萩を妻とふ鹿こそたゞひとり子をもつといへ鹿子《カコ》じものわが一人子《ヒトリコ》の云々
鹿はまたしゝと詠まれたところが多い。
一九九 かけまくも云々鹿じものいはひふしつゝ云々
三五三一 妹をこそ相見にこしかまよひきのよこ山べろのしゝなす思へる
きつ 狐(犬科)
和名抄に「考聲切韻云狐獣名、射干也。和名木豆禰。」
三八二四 刺すなべに湯わかせ子ども櫟津《イチヒヅ》の檜橋《ヒバシ》より來む狐《キツ》にあむさむ
(401)くま 熊(熊科)
和名抄に「陸詞切韻云熊獣之似v羆而小者也。和名久萬。」
二六九六 荒熊の住むちふ山の師齒迫《シハセ》山責めて問ふとも汝が名は告らじ
さる 猿(猿科)
和名抄に「風土記云※[獣偏+爰]善負v子乘v危而投至。倒而還者也。字亦作v猿。和名佐流。」
三四四 あな醜《ミニク》賢《サカシラ》をすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る
とら 虎(猫科)
和名抄に「説文云虎山獣之君也。和名止良。」
一九九 かけまくも云々|敵《アタ》見たる虎か吼《ホ》ゆると云々
三八三三 虎に乘り古屋《フルヤ》を越えて青淵《アヲブチ》に鮫龍《ミツチ》取り來む剱刀《ヅルギタチ》もが
むさゝび 牟佐々婢(栗鼠科)
和名抄に「本草云※[鼠+(田三つ)]鼠一名※[鼠+吾]鼠。兼名苑註云状如v※[獣偏+爰]而肉翼似2蝙蝠1。能從v高而下。不v能2從v下而上1。常食2水烟1。聲如2小兒1者也。和名毛美。俗云無佐左比。」
小野博は、「今も春日山に多し。形は猫に似て瘠せたり。紫褐色にして、尾身よりも長し。腹下黄色。喙頷雜白色。四脚肉翅尾に連(402)る。翅を開けば傘を張るが如し。常に木梢にすむ。夜出でて飛ぶ。然れども只高きより飛下るのみにて、高きに飛び上ること能はず。」といつてをる。
二六七 牟佐々婢《ムサヽピ》は木末《コヌレ》求むとあしびきの山のさつをにあひにけるかも
一〇二八 丈夫《マスラヲ》が高圓《タカマド》山にせめたれば里に下りける牟射佐妣《ムサヽビ》ぞこれ
をさぎ 兎(兎科)
和名抄に「四聲宇苑云兎似2小犬1而長耳缺唇。和名宇佐木。」
三五二九 等夜《トヤ》の野に乎佐藝《ヲサギ》ねらはりをさ/\もねさへ子ゆゑにはゝにころばえ
三 蟲類
あきつ 蜻蛉(蜻蛉科)
字鏡には「※[虫+羽]阿支豆」とあるが、和名抄には「本草云蜻蛉一名胡〓。和名加介呂布」とあつて、阿伎豆の名は見えない。日本紀神武天皇の條には「皇輿巡幸因登2腋上※[口+兼]間丘《ワキノカミノホヽマノヲカ》1。而廻2望國状1曰。妍哉雖2内木綿《ウツユフ》之|眞※[しんにょう+乍]《マサキ》國1。猶2蜻蛉之臀※[口+占]《ドナメ》1焉。由v是始有2秋津洲之號1也。と見え、古事記雄略天皇の條には、即幸2阿岐豆野1而御獵之時天皇坐2呉床1。爾|※[虫+囚]《アム》咋2御腕1。即蜻蛉來咋2其※[虫+囚]1而飛。(訓2蜻蛉1云2阿岐豆1)と見えてをる。宮崎地方では今も蜻蛉のことをあきつと呼んでゐる。
(403)三七六 秋津羽《アキツハ》の袖ふる妹を珠匣《タマクシゲ》奧《オク》に念ふを見たまへわぎみ
三三一四 次嶺經《ツギネフ》云々|蜻領《アキツヒレ》負《オ》ひなめもちて云々
かに 蟹
和名抄に「野王按蟹八足蟲也。和名加仁。」
三八八六 忍照《オシテ》るや云々|葦河爾《アシガニ》を王《オホギミ》召《メ》すと云々
かはづ 河津(赤蛙科)
蛙《カヘル》と河鹿《カジカ》とはともに赤蛙科の動物で、形態は類似してをるが、蛙の田池沼等にすむに反し、河鹿は清流にすむのを常とする。然るに、集中に見えるかはづの歌はいづれも清流によみ合せたものであるから、今の河鹿であることが明である。かはづは河鹿の古名であつて、今も吉野地方では河鹿のことをかはづと呼んでゐる。このかじかは魚類の鰍《カジカ》とは全く同名異物であることをこゝに附記しておく。
三二四 三諸《ミモロ》の云々夕霧に河津《カハヅ》はさわぐ云々
一〇〇四 念ほえず來ませる君を佐保川の河蝦《カハヅ》聞かせずかへしつるかも
かめ 龜(石龜科)
和名抄に「大戴禮云甲蟲三百六十四。神龜爲2之長1也。和名加米。」
五〇 八隅《ヤスミ》しゝ云々|圖《フミ》魚へる神《アヤ》しき龜も云々
くはご 桑子(昆蟲類)
(404) 和名抄に「説文云蠶蟲吐v絲也。俗爲v蚕。和名賀比古」とある。くはごと蠶とは同一物である。
三〇八六 なか/\に人とあらずは桑子《クハゴ》にもならましものを玉の緒ばかり
くも 蜘(蠅虎科)
和名抄に「本草云蜘蛛一名※[虫+出]※[虫+舞]。兼名苑云〓〓一名※[虫+毒]※[虫+徐]。和名久毛。」
八九二 風|雜《マジ》り云々|許之伎《コシキ》には久毛《クモ》のすかきて
こほろぎ 蟋蟀(蟋蟀科)
和名抄には「文字集略云蜻※[虫+列]和名古保呂木。」とあるが、集中には皆蟋蟀の字をこほろぎに充てゝをる。然るに、和名抄に「兼名苑云蟋蟀一名蛬。和名木里木里斯。」とあるところから考へると、萬葉時代にはこほろぎとも、きりぎりすともいつたのであらう。小野博が「古書にこほろぎといへるは皆蟋蟀にして、今のいとゞなり。故に今もいとゞをこほろぎと呼ぶ國々もあり。」といつてをるのは如何であらうか。
一五五二 ゆふづくよ心もしぬに白露のおくこの庭に蟋蟀《コホロギ》鳴くも
二一五八 秋風の寒く吹くなべわがやどの淺茅《アサヂ》がもとに蟋蟀《コホロギ》なくも
すがる 酢輕(細腰蜂科)
和名抄には「爾雅註云土蜂(和名由須留波知)大蜂之在2地中1作v房者也。」とあり、捜神記には「土蜂※[虫+果]〓」とある。
契沖は「すがるは※[虫+果]〓《クワラ》にて、蜂の類なり」といひ、古義には今世に云ふ似我蜂《ジガバチ》なるべし。」といつてをる。
一九七九 春されば酢輕《スガル》なす野の霍公鳥《ホトヽギス》ほと/\妹にあはず來にけり
(405)たにぐく 多爾具久(蟾蜍科)
蟾蜍《ヒキ》のことである。和名抄には「兼名苑註云蟾蜍似2蝦蟇1而大。陸居者也。和名比木」とあり、和名本草には「蝦蟇一名蟾蜍和名比支」とあつて、ともに多爾具久《タニグク》の稱は見えない。
小野博は、「蟾蜍は夏月夜出て蚊及び諸虫を食ひ、晝は土石の間に伏して出でず。形大にして、腹また大なり。」といつてをる。
八〇〇 父母を云々|多爾具久《タニグク》のさわたるきはみ云々
九七一 白等の云々|谷潜《タニグク》のさわたるきはみ云々
はへ 蠅(家蠅科)
和名抄に「方言云陳楚之間謂2之蠅1。東齊之問謂2之羊1。和名波閇。」
四七八 掛けまくも云々|五月蠅《サバヘ》なすさわげど舍人は云々
ひぐらし 茅蜩(蝉科)
和名抄に「爾雅集註云※[虫+良]・蜩・※[虫+偃の旁]・※[虫+唐]・※[虫+惠]※[虫+古]・※[虫+唐]※[虫+弟]・※[札/虫]蜻・※[虫+奚]※[虫+鹿]・此蝉類也。」とあつて、ひぐらしといふ名は見えないの。
爾誰注には「茅鯛小青蝉也。和名比具良志」とある。今のカナ/\ゼミのことであらう。
二一五八 こもりのみをればいぶせみなぐさむと出て立ち聞けば來なく日ぐらし
ほたる 螢(螢科)
和名抄に「兼名苑云螢一名燿々。和名保多流。」
(406)三三四四 この月は云々螢なすほのかに聞きて云々
みつち 蛟龍
和名抄に「説文云蛟龍屬也。山海經註云蛟似v蛇而四脚。池魚滿2二千六百1。則蛟來爲2之長1。和名美豆知」とあるは想像の動物である。
三八三三 虎に乘り古屋《フルヤ》を越えて青淵に鮫龍《ミヅチ》取りこむ剱刀《ツルギタチ》はも
四 魚類
あゆ 鮎(鮭科)
和名抄に「本草云※[魚+夷]魚。蘇敬註云一名鮎魚。和名安由。楊氏漢語抄云銀口魚。又云細鱗魚。崔禹錫食經云貌似v鱒而小。有2白皮1無v鱗。春生夏長秋衰冬死故名2年魚1也。」
八五五 まつら川川の瀬ひかりあゆつるとたゝせる妹がものすそぬれぬ
九六〇 隼人《ハヤヒト》の湍門《セト》の磐《イハホ》も年魚《アユ》走る芳野の瀧に尚しかずけり
かつを 堅魚(鯖科)
和名抄に「唐韻云鰹大※[魚+同]也。大曰v※[魚+同]。小曰v〓。漢語抄云加豆乎。式文用2堅魚1二字。」
一七四〇 春の日の云々浦島兒が堅魚《カツヲ》釣り鯛釣りほこり云々
(407)しび 鮪(鯖科)
和名抄に「食療經云鮪一名黄頬魚。和名|之比《シビ》。爾雅註云大爲2王鮪1。小爲2叔鮪1。」
貝原篤信は「まぐろは、しびの小なるをいへり。別物にあらず。」といつてをる。鮪つくといふのは鮪はその喉をねらひて衝いて捕るものであるからであらう。
九三八 八隅《ヤスミ》しゝ云々|鮨《シビ》釣ると海人船《アマブネ》さわぐ云々
四二一八 鮪《シビ》つくと海人《アマ》がともせるいさり火のほにか出でなむあが下もひを
すゞき 鱸(羽太科)
和名抄に「崔禹錫食經云鱸貌似v鯉而鰓大開者地。四聲字苑云似v〓而大青色。和名須々木。」
二五二 あらたへの藤江《フヂエ》の浦に鈴木《スヾキ》釣る泉郎《アマ》とか見らむ旅ゆく吾を
二七四四 鈴木《スヾキ》とる海部《アマ》のともし火よそにだに見ぬ人ゆゑに戀ふるこのごろ
たひ 鯛(鯛科)
和名抄に「崔禹錫食經云鯛味甘冷無v毒。貌似v※[魚+即]而紅鰭者也。和名太比。」
一七四〇 春の日の云々|堅魚《カツヲ》釣り鯛釣りほこり云々
三八二九 醤酢《ヒシホス》に蒜《ヒル》つきかてゝ鯛《タヒ》願ふわれにな見せそ水葱《ナギ》のあつもの
つなし 都奈之(※[魚+祭]科)
(408) 和名抄に「四聲宇苑云※[魚+祭]魚名似v※[魚+脊]而薄細鱗者也。字亦作v※[魚+制]。和名古乃之呂。」
略解には「遠江人は※[魚+制]をつなしといふ」とあり、谷川士清は「※[魚+制]今小者謂2都奈之1」といつてをるが、東京では今はつなしといふ語はつかはないやうである。
大和本草には「昔は此魚の名を都奈之といふ。昔或人の子繼母の讒にあへり。其父讒を信じて、家僕に命じ、其子を殺さしむ。家僕其罪なきをあはれみて、都奈之をやきて、其子を殺して燒きたりと父に告げて、其子をたすけて、他所へ去らしむ。それよりして、此魚の名をこのしろといふ。子の代にやけるゆゑなり」といつてをる。
四〇一一 大王《オホギミ》の云々|都奈之等流《ツナシトル》比美《ヒミ》乃江過ぎて云々
ひを 氷魚
和名抄に「切韻云※[魚+氷]今案俗云2氷魚1是也。」
近江の湖中山城の宇治川に産する魚である。形しらうをに似て小く、色は潔白で、氷のやうである。秋の末から冬にかけて捕獲する。
三八三九 吾|背子《セコ》が犢鼻《タフサギ》にする圓石《ツブライシ》の吉野の山に氷魚《ヒヲ》ぞ懸《サガ》れる
ふな 鮒(鯉科)
和名抄に「本草云※[魚+即]魚一名鮒魚。和名布奈。」
六二五 おきへゆき邊にゆきいまや妹がためあが漁れる藻臥《モブシ》つか鮒
三八二八 香《コリ》塗《ヌ》れる塔《タフ》になよりそ川隈《カハグマ》の屎鮒《クソブナ》はめる痛《イタ》き女奴《メヤツコ》
(409)むなぎ 武奈伎(鰻科)
和名抄に「文字集略云※[魚+檀の旁]黄魚鋭頭口在2頸下1者也。和名無奈木。」
三八五三 石麿《イシマロ》に吾物申す夏やせによしとふものぞ武奈伎《ムナギ》とりめせ
三八五四 やす/\も生けらむものをはたやはた武奈伎《ムナギ》をとると河に流るな
五 貝類
あはび 鰒(石決明科)
和名抄に「四聲宇苑云鰒魚名似v※[虫+含]。偏著v石。肉乾可v食。出2青州海中1矣。本草云鮑。一名鰒。和名阿波比。」
鰒珠即ち眞珠は多くあこやがひから採るのであるが、蝮蛤等にも生ずることがある。允恭紀の十四年九月の條にも阿波國の海人|男狹磯《ヲサシ》が海底を探つて、眞珠を藏する大鰒を得たことが見えてをる。
二七九八 伊勢の泉郎《アマ》の朝な夕なにかづくちふ鰒の貝のかたもひにして
一三二二 天地《アメツチ》の云々|海底《ワタノソコ》おきついくりに鰒珠《アハビダマ》さはにかづきて云々
しゞみ 蜆(蜆科)
和名抄に「文字集略云蜆貝似v蛤而小黒者地。和名之之美加比。
九九七 住吉《スミノエ》の粉濱《コハマ》の四時美《シジミ》あけも見ずこもりのみやも戀ひわたりなむ
(410)したゞみ 小螺(馬蹄螺科)
和名抄に「崔禹錫食經云小〓子貌似2甲蟲1而細小。口有2白玉之蓋1者也。楊氏漢語抄云細螺之太太美。」
古義に「今きしやご又ちしやごといふものなり」といつてをる。
三八八〇 かしまねの机《ツクヱ》の島の小螺《シタゞミ》をい拾ひ持ち來て云々
せがひ 石花
和名抄に「崔禹錫食經云尨蹄子貌似2犬蹄1而附v石生者也。和名勢。兼名苑註云石花二三月皆紫舒v花。附v石而生。故以名v之。」和名本草に「尨蹄子和名世衣」とある。
小野博は此の貝海岸の石に附きてありて、今の世にもせえと呼べり。石につきて生ふるに一個離れて生ふるもあり、數個叢り生《ア》るもあり。其の石に粘《ツ》く處は莖なり。頭扁くして手腕の如し。莖と倶に細鱗ありて、春月紅の肉を吐出すこと花の如し。」といつてをる。
これは今かめのてと稱する貝で、滿干線の岩石の裂目に塊状をなして群棲し、これを採りて食用に供する處がある。(この一節日本動物圖鑑に據る)本名せであるので、せの假名に用ひたものと見(411)える。
集中に又うつせがひといふ語がある。古義には「空石《ウツセ》花|貝《ガヒ》にて石花の肉《ミ》の失せて、殻《カラ》のみになれるをいふ」とある。
三一九 なまよみの云々|石花海《セノウミ》と名づけてあるも云々
二九九一 垂らちねの云々|馬聲蜂石花蜘※[虫+厨]荒鹿《イブセクモアルカ》云々
二七九七 住吉の濱によるてふうつせ貝實なきこともて余こひめやも
みな 蜷(川蜷科)
和名抄に「崔禹錫食經云河貝子。殻上黒小狹長似2人身1者也。和名美奈。」字鏡には爾奈とある。ミナニナ兩樣にいつたものである。大和國高市郡に稻淵《イナブチ》といふ處がある。(古名南淵)蜷が多いところから起つた名であらう。この貝の腸は非常に黒いので、かぐろきといふ語の枕詞に用ひられる。
八〇四 世の中の云々|美奈《ミナ》のわたかぐろき髪に云々
一二七七 天なるひめ菅原|草《スゲ》な苅りそね彌那綿《ミナノワタ》かぐろき髪にあくたしつくも
わすれがひ 忘貝(蛤科)
古義に「土佐の海濱にありて、今も忘貝といへり。蛤に似て小」(412)といつてをる。
六八 大伴の美津《ミツ》の濱なる忘貝《ワスレガヒ》家なる妹を忘れて念へや
二七九五 木《キノ》國の飽等《アクラ》の濱の忘貝あれは忘れじ年はへぬとも
○
本篇は成るべく博く先人の研究の結果を綜合したいと思つて、いろ/\の方面から調査を進めてみたのであるが、餘りに多岐にわたるので、次に參考書の主なるものゝみを列擧する。
萬葉集抄 僧仙覺
萬葉代匠記 僧契沖
萬葉集考 賀茂眞淵
萬葉集略解 橘千蔭
萬葉集古義 鹿持雅澄
本草綱目 明李自珍
和名類聚抄 源順
本草和名 深江輔仁
新撰字鏡 僧昌住
藏玉集 二條良基
大和本草 貝原益軒
本草綱目啓蒙 小野博
動植名彙 件信友
萬葉動植考 伊藤多羅
萬葉集禽獣虫魚草木考 小林義兄
國史草木昆虫考 曾占春
萬葉集名物考 桑門春登
萬葉集品類抄 荒木田嗣興
萬葉古今動植正名 山本章夫
鳥の研究 内田清之助
日本動物圖鑑 丘淺次郎外二十一氏
(413) 萬葉集の植物
鴻巣盛廣
萬葉集にあらはれた植物は古義の品物解に列記したところによれば、
草類
○あさ〔を〕〔そ〕〔さくらを〕又〔さくらあさ〕○あし、〔みなとあし〕〔あしかび〕○あしつき○あは○あほひ○あやめぐさ○あをな〔くくたち〕○いちし○いね〔わせ〕〔ほ〕〔なへ〕〔ゆだね〕○いはひづら○うきくさ○うけら○うはぎ○うばら又うまら○うも○うり○おもひぐさ○おはゐぐさ○かきつばた○かたかご○かつみ○かほばな又かほがはな○かや〔ねじろたかがや〕〔さねかや〕○からゐ○きみ又きび〔きびのさけ〕○くくみら○くず〔なつくず〕○くそかづら○くれなゐ〔うれつむはな〕○こけ○こも○さきくさ○さなかづら又さねかづら○さはあららぎ○しだくさ○しば○しりくさ○すげ〔やますげ〕〔しらすげ〕〔たまこすげ〕〔しづすげ〕〔ますげ〕〔ありますげ〕〔みしますげ〕○すすき〔はたすすき〕〔はなすすき〕〔しぬすすき〕〔みくさ〕〔まくさ〕〔をばな〕○すみれ〔つぼすみれ〕○せり○たけ○たで〔ほたで〕〔みづたで〕○たはみづら○たまかづら〔またまづら〕○たまばはき○ちかや〔あさぢ〕〔ちばな〕○つきくさ○つた〔いはつな〕〔つぬ〕○つちはり○つづら〔はまつづら〕〔あそやまつづら〕○ところづら○なぎ〔こなぎ〕○なでしこ○なのりそ○なはのり○にこぐさ○ぬなは○ぬばたま○ぬはり○ねつこぐさ○はぎ〔さきはぎ〕〔わさはぎ〕○はち(414)す○はまゆふ○ひえ○ひかげ〔かづらかげ〕〔やまかづらかげ〕〔やまかげ〕〔やまかづら〕○ひし○ひる○ふぢ〔ふぢなみ〕〔ふぢころも〕〔ときじくふぢ〕○ふぢはかま○まめ○みる〔ふかみる〕〔またみる〕○むぎ○むぐら○むらさき○め〔にぎめ〕〔わかめ〕○も〔たまも〕〔おきつも〕〔へつも〕〔なびきも〕〔かはも〕〔いつも〕〔すがも〕○ももよぐさ○やまゐ○やまかづら○ゆり〔さゆり〕〔さゆる〕〔ひめゆり〕○よもぎ○わすれぐさ〔こひわすれぐさ〕○わらび○ゑぐ○をぎ〔ささらをぎ〕〔はまをぜ〕○をみなへし
以上草類凡八十六種(但やまかづら再出故不數)
竹類
○さすだけ○ささ〔ゆささ〕〔いささむらたけ〕○しぬ〔あさしぬはら〕○なよたけ又なゆたけ
以上竹類凡四種
木類
○あしび○あづさ〔あづさゆみ〕○あふち○あぢさゐ○あべたちばな○あさがほ○いちひ〔つるばみ〕○うめ〔ふゆきのうめ〕○うのはな○え○おみのき○かきつやぎ○かはやなぎ又かはやぎ○かつら〔つきぬちのかつら〕○かへるて○かへ○かしは〔あきかしは〕又〔あからかしは〕○からたち○かづのき○かには○かし○きり○くり〔みつくり〕○くは〔にひくはまよ〕○このてかしは○さくら〔やまさくら〕〔やまさくらと〕○さかき○しだりやなぎ○しらかし○しきみ○しひ○すぎ〔かむすぎ〕〔ほこすぎ〕○すもも○たちばな〔あからたちばな〕〔ときじくのかぐのこのみ〕〔とこよもの〕○たく〔ゆふ〕○ちさ○ちち○つばき〔やまつばき〕〔つらつらつばき〕○つつじ〔にはつつじ〕〔しらつつじ〕〔いそつつじ〕○つげ○つがのき○つまま○つき〔ももえつき〕〔いはひつき〕〔ゆつき〕〔いつき〕〔こつき〕〔たかつき〕○つみ○なし○なら〔こなら〕○なつめ○ねぶ○はり○はじ○ははそ○はねず○はまひさ(415)ぎ○ひ〔まき〕〔まけ〕○ひさぎ○ほほかしは○ほよ○まつ〔こまつ〕〔わかまつ〕〔たままつ〕〔やままつ〕〔はままつ〕〔いそまつ〕〔ありそまつ〕〔しままつ〕〔ひとつまつ〕〔むすびまつ〕〔まつのはな〕〔まつかへり〕○まゆみ〔しらまゆみ〕○むろのき○もも〔けもも〕○もむにれ○やなぎ〔はるやなぎ〕〔あをやなぎ又ああやぎ〕〔いつもとやなぎ〕○やまぶき○やまちさ○やまたちばな○やまたづ○ゆづるは
以上本類凡六十七種
この類計百五十七種である。この内には一種として立てるのは妥當でないものもあるが、それを除いても百五十種ばかりあるわけである。これらの内の過半は、現代人が日常目撃する普通の植物であるが、中には今と名稱が同じで、實物が違ふものがあり、或は我等とは極めて縁の遠い珍らしいものがあり、又今日の何に相當するか全く判断の着かないものもあるのである。予は以下それらの内、八種を選んで、予の研究したところを述べようと思ふ。配列は草木の別を立てず五十音順に從ふことにした。
第一、あさがほ
卷八に山上臣憶良詠秋野花二首として、
秋の野に咲きたる花をおよび折りかき數ふれば七種の花
萩が花尾花葛花瞿麥の花女郎花又藤袴朝顔の花
(416)とあるが、このアサガホについては、古來諸説紛々として未だ決定しない有樣で、木槿《ムクゲ》説、桔梗説、旋花《ヒルガホ》説、牽牛花説の四がある。
(1) 木槿説の理由とするところは、
(イ)槿は「槿花一日榮」と言はれ、花の盛が短くて朝顔といふ名にふさはしいこと、
(ロ)槿花は支那でも日及と云つて、朝に開いて暮に落つるものとしてゐること、
(ハ)和名抄に文字集略を引いて、「蕣、音舜、和名木波知須、地蓮花、朝生夕落者也」とあり、蕣と槿とは同一物で、蕣は常にアサガホと用ゐられてゐること、
(ニ)蕣は毛詩に「有v女同v車顔如2蕣華1」とあつて、朝顔の名にふさはしいこと。
以上の理由で古來これを主張する學者が多い。
桔梗説の由るところは、(イ)新撰字鏡に「桔梗、上居頡反、下柯杏反、加良久波、又云、阿佐加保」とあり、又別に「桔梗、阿佐加保、又云、岡止々支」とあること、(ロ)秋の野に咲く花としては、最美しいもので、七種を數ふれば、當然そのうちに擧げらるべき花であること。この二つである。(イ)に掲げた新撰字鏡の所載は、最も有力な論據となるわけであるが、ただ恠しむべきは桔梗の二字が木扁になつてゐることで、その爲同書にも木の部に入れてある。又(417)カラクハといふ名は、唐桑の意であらうが、寧ろ木槿を思はしめるるものがないでもない。併し支那でも、桔梗の文字は吾が國のものと同一物をさしてゐるやうであるから、桔梗の古名をアサガホと呼んだことを認めねばなるまい。
(ロ)に對しては誰も異論はあるまいと思ふ。
(3)旋花説は、狩谷掖齋が箋注倭名類聚抄に述べたところで、同書に、「岡村氏曰、舜楚謂2之※[草がんむり/福の旁]1者本草所謂旋花也、旋即舜借也、蘇敬云、此即生2平澤1旋※[草がんむり/福の旁]是也、旋※[草がんむり/福の旁]亦即舜※[草がんむり/福の旁]、舜※[草がんむり/福の旁]或單呼累呼或竝通、救荒本草云、※[草がんむり/福の旁]子根、幽薊間謂2之燕※[草がんむり/福の旁]根1者、亦即是、今俗呼2比流加保1」とあり、舜と旋と通じ、旋花は即ちヒルガホであるといふのである。この説には新考なども賛意を表してゐるが、古く旋花をアサガホといつた證は全くなく、却て本草和名にハヤヒトグサ、一名カマとあるのである。一説に、集中に容花《カホバナ》とよんだものは恐らく今のヒルガホのことで、牽牛花をアサガホといふやうになつてから、區別してヒルガホといふことになつたのであらうとも言はれてゐる。ともかくヒルガホは野の花ではあるが、花期は秋ではなくて、酷熱の眞夏であり、朝露おひて咲くといふやうな趣もない。花品も賤しくて後世でも殆ど歌によまれないやうであるから、この説は遽かに賛成出來ないものである。
(4)牽牛花説、牽牛花即ち今のアサガホは、古昔は槿の字を用ゐたもので、萬葉の朝貌は槿即ち牽牛花であるといふ説である。つまり槿と牽牛花とを混同したものである、これは古く和漢朗詠集にも、「槿。松樹千年終是朽槿花一日自爲榮來而不留薤※[土+龍]有拂晨之露去而不返槿籬無投暮之花」とあるに竝べて、「おぼつかな誰とか知らむ朝露の絶間に見ゆるあさがほの花、」「朝かほをなにはかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ、」とあつて、右の詩文の句はムクゲであるのに、歌は牽牛花をよんだもので、この「朝がほを」の歌は、今昔物語に道信が牽牛花を見るといふ心をよんだ(418)ものとして出てゐるのである。牽牛花は古今要覽にも「延喜のむかし呉船舶の載せ來りしが云々」とあり、平安朝の中葉に、藥品としてその種子を舶來してから、世に行はれるやうになつた。古今集にケニコシとるあのは、牽牛子の音讀で、これが舶來當時の名あでつたらうと思はれる。和名抄には「牽牛子和名阿佐加保」とある。右にあげた道信は、爲光の子、正暦五年に卒した人であるから、アサガほの名も間もなく行はれたのである。源氏物語に見えるあさがほも牽牛花である。ともかく、この花が古くから吾が國にあつたといふ證はない。況んや野草として見ることは絶對に出來ないのである。右の四説を比較して見ると、結局第一の木槿《ムクゲ》説と第二の桔梗説とが有力で、他の二説は顧るに足らぬやうである。さうして木槿説は古義に力説してゐるところで、廣く信じられてゐるやうだが、この説の缺點は、木槿《ムクゲ》が吾が國の固有の植物でなく、もと支那から舶載種であることである。これについて白井光太郎氏の植物渡來考には、「アルメニヤ、レンコル等にあれども眞のシリヤには自生なしと云ふ。支那には古代よりあり。爾雅に椴は木槿、※[木+親]は木槿とあり云々」と記して、これを外來植物としてゐる。又この花は漢文にあらはれたものを見ても、多くは籬に植ゑるものとして記されてゐるので、現今吾が國に於ても、籬に植ゑるのを常とし、野生のものは全く見ないのである。して見ると憶良の七種花の朝貌を、木槿とするのは穩當でないやうに思はれる。然らば萬葉のアサガホは何と定むべきかといふに、それはもはや第二説の桔梗とするより外はないのである。この花については前に掲げたやうに、なほ多少の疑點が無いではなく、又特にアサガホと呼ぶ理由を見出し難いやうでもあるが、アサガホの名が、平安朝初期に行はれてゐたことは新撰字鏡によつて認むべきであるから、萬葉のアサガホは桔梗と推定すべきであらうと思はれる。古今集に桔梗をキチカウとよんであるのは、殊更に漢名を用ゐたので、和名が當時なかつたのではない。(419)しかしそれ以來漢名を日本的にしたキキヤウが普通に用ゐられ、はやく源氏物語にも記されて居り、アサガホの名は牽牛花の稱呼となつて了つたのであらう。
第二、あしつき(葦附)
天平二十年の春大伴家持は、越中守として出拳の事務を管掌する爲に、管内諸郡巡行の途に上つた。その時礪波郡雄神河のほとりで、
雄神河くれなゐ匂ふをとめらし葦附とると瀬に立たすらし
と詠じたことが卷十七に見えてゐる。この葦附は當時に於ても、都人には知られない珍らしい植物であつたのであらう。萬葉集に註して「水松之類」とある。江戸時代の學者も、これに關しては何等の智識を有たなかつたと見えて、代匠記には一言をも費さず、考には葦附は足突の借字で、菱殻のことであらうといつてゐる。併しこの植物は、今でも雄神河即ち今日の庄川、附近に産し、葦附の名で稱へられてゐる。少し褐色を帶びた暗緑色の柔かい海苔のやうなもので、水底の石に、又は葦の根元に附着して生ずるか(420)ら、葦附の名を負うたのである。この植物の發生地・形態その他に關し、富山縣立礪波中學校の博物學教師御旅屋太作氏が、縣の依頼によつて調査した報告書があるから、次にそれを要約して記すと
一、名稱 葦附苔(あしつきのり)
一、所在地庄川・富山縣東礪波郡北般若村石代地先、(その後他にも發見せられた)
一、形態
葦附苔の植物分類學上の位置について述べると、水前寺苔に似てゐるが、それと比較研究の結果、顯微鏡下の觀察上、細胞排列の關係異なり、念珠藻屬で Nostoc Verrucosum (L)Vaucher(1803)なることが明瞭になつた。即ちこの植物は、裂殖藻門、念珠藻科、念珠藻屬に屬し、水田中に生ずる鬚藻と科を異にし、九州産の水前寺苔と屬を異にする。又濕地・石上・屋根上に生ずる念珠藻とは種が異る。葦附苔の肉眼的形態は帶褐緑色、柔軟の寒天樣質の塊である。波状にうねる褶襞の多い嚢状の固體で、大きいものは十仙米もある。發生のはじめ即ち小なるものは、殊に疣状である。この植物の生ずるところ即ち北般若村にありては、堤防の外側から湧き出づる寒冷なる清水の、流れて小川をなす小石の表面に附著してゐる。又は葦の莖にもついてゐる。水質は硬度が高いやうである。五六月から生じ、六月中旬から七月中句まで盛に繁殖する。成熟すれば小石などから離れ去り、泡沫状となつて腐敗する。發育には石灰分の多い寒冷清淨な水質を必要とするやうである。この葦附苔は、歌人の間に古くから知られてゐたもので、畏くも明治天皇は、明治十一年十月北陸御巡行の際、特にこれを御覽ありたき由の勅を賜はつたので、石動町道林寺に於て天覽に供し奉つた。明治四十二年十月大正天皇、東宮殿下として行啓の(421)折も縣師範學校に於て台覽の光榮を得たのである。
以上で此の植物の大體を知り得ると思ふ。その發生地は北陸省線の高岡驛で乘換へて戸出驛下車、東へ半里で庄川に架した中田橋がある。その附近の小川中に發見せられるから、陽春から初夏へかけて採集に出かけられるのがよい。時季を過ぎると、腐つてしまふから、採集は全く不可能である。
第三 あしび(馬醉木)
馬醉木は萬葉時代には花卉として賞美せられたもので、
磯の上に生ふる馬醉木を手折らめど見すべき君がありと言はなくに(卷二)
安志妣なす榮えし君が掘りし井の石井の水は飲めどあかぬかも(卷七)
川津なく吉野の河の瀧の上の馬醉之花ぞ地におくなゆめ(卷十)
をしの住む君がこの島けふ見れば安之婢の花もさきにけるかも(卷廿)
などの如き例がそれを示してゐる。なほ最後の歌は、この花が庭園に植ゑられたことを語るものである。この馬醉木を寛永本にはツツジと訓してあつて、古くはこれを躑躅と思つたらしい。尤も神田本や京大本にアセミの訓があり、六帖にもアセミとあるから、アセミの訓も古くからあつたのである。躑躅は萬葉(422)集では茵又は都追慈・管士・管仕・管自・乍自と記してあつて、馬醉木は文字通りその葉を食すれば馬醉ふ木であるから、躑躅にかかる文字を當てる筈はない。冠辭考はこれに對して、木瓜《ボケ》説を主張して、
「あしびをめでて手折とも、袖にこきれんともよめり。かくて花の照りにほふ色も、春ふかく野山にさくなども、茵《ツヽジ》に似たるさまによめるを思へば、木瓜《モケ》にぞ有ける。いかにぞなれば、其もけは字音にて、ここの語ならず。東びとの、しどみといひて、且馬の毒なりとする物ぞ是なる。(もけとしどみは、同じ物の少し大小の異なるのみなり。されど古へは、ひとつにいひしなるべし。又右の歌どもの如くなれば、此ものは馬は醉ど、人はいとはざりけり。今の東の土人、この子《ミ》を喰とさへいふめる)かの伊波都々自《イハツツジ》を、羊躑躅とするに對へて、安志妣《アシビ》を馬醉木と書るにてもしるべし。さて馬のこれを喰へば醉て足なへとなるべし。其あしびとも、しとみとも、いふ語を考るに、病に志良太美《シラダミ》あり、貝に志多太美《シタダミ》、草に毒だみといふ、太美は病の事なり、さてその太美と度《ト》美と、音の通ふに依に、志度美《シドミ》は安志太美《アシダミ》の安を略き、(太と度は同音也)安志妣《アシビ》は安志太美《アシダミ》の太を略けるなり。(妣の濁と、美の清とは常に通へり。)後世の歌に「とりつなげ玉田よこ野のはなれこまつゝじまじりにあしみ花さく」とよまるもこれ歟。又後の俗の、あせぼといふものをもて、古へのあしみを思ふはいと誤なり。(今世あせぼてふ木の花は、白くていとこまかなれば、見るめも無ものなり。集中にいへるあしびは、あかく照いろのよしよみたり」
と言つてゐる。このシトミとアシビと同音とするのは、かなり牽強の説であらう。
右の眞淵の説に對して、古義は「今の俗にあせぼの木といへり。土佐國にては今もあせみともあせびともいへり云々」と馬醉木説を稱へ、「眞淵が、志度美といふは安志太美《アシダミ》の安を省き、安志《アシ》妣は安志太美《アシダミ》の太を略けるなりといへる(423)も甚つたなし。しか心まかせに言を省き通はしなどせば、はてはては何物か同種になりもてゆかざらむ」と痛罵してゐる。この説は大に傾聽すべきものと思はれる。然るに木村正辭氏の美夫君志別記には、アシビとアセミとを別とし、アシとは即ち漢名|木瓜《ボケ》又は〓子《ノボケ》で、アセミは馬醉木のことだと言ふ説を立ててある。これは集中、馬醉木・馬醉之花・馬醉花・馬醉木花などの如く記したのと、安志妣・安之婢の如く假名書式になつてゐるものとあるのによつて區別を立てたもので、前者がアセミで、後者がアシビだといふのである。馬醉木は今日多くアセボと稱し、又アセミと稱ふる地方もあるが、中世ではアセミと稱したことは、古今六帖その他に明らかなので、これが萬葉時代にアシビと呼ばれたであらうことは想像に難くなく、安志妣・安之婢の如き書き方によつて、馬醉木のアシビなることを推定すべきは、異論のなささうなことであるのに、殊更馬醉木をアセミとよんでアシビと區別し、しかも眞淵の妄斷に出たシドミ説を採用して、アシビを木瓜《ボケ》とするのは、實にその意を得ぬことである。併しアシビ木瓜説の出る大きな理由は卷二十に
磯かげの見ゆる池水照るまでに咲ける安之婢の散らまく惜しも
とあるのが、花の紅色なる證であつて、白い小花を着ける馬醉木には、ふさはしくないといふにある。これは一應尤もであり、照るといふ語は多く色の鮮やかなものに使ふやうであるが、しかし山櫻のやうな白い花でも、さう言つた例がある。即ち卷十に
能登川の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも
とあつて、馬醉木と櫻と花こそ違へ、この二歌は全く同樣の風景である。(能登川の歌には櫻とはないが、この咲いた(424)花の櫻なることは異論のないところである)。だから紅色の花でなくとも「照るまでに」といふに差支はないのである。(なほ馬醉木の花は多くは純白であるが、中には少しく薄紅色を帶びたのもある。)次に馬醉木は、集中いづれも山野に自然生のものを詠んでゐるのに安志《アシ》妣は庭中に植ゑられた花のみになつてゐることも、理由として擧げられてゐる。併し富時庭園に植ゑられたものは、殆どすべて山野から掘り取つて來たものであつて、特に庭の花として培養したものは殆ど無かつたのであるから、安志妣を以て野生の植物でないとはし難い。否、若し論者の如く安志妣をシドミとするならば、それは謂はゆる草ボケと稱する野生のもので、後世庭園に植ゑ、盆栽などにする良種ではないのである。白井光太郎氏の植物渡來考には、「漢名木瓜和名モケ。支那産ならん野生なし」と記して木瓜の外來種なることを斷定してゐる。併し同書に「草ボケ高一二尺、野に多し。花赤色、木に刺あり、果少し、武藏野にシドミと云ふ草ボケあり。其實の大さ肥後梅ほどあり云々」と記して、野生を認めてゐるから、草ボケは吾が國固有の一種と認めることが出來る。ともかくも安志妣を培養種と見るのは、全く矛盾した説である。なほ木瓜をシドミと稱するのは東國地方に廣く行はれて、關西地方ではあまり聞かぬやうであり、又草ぼけは東國の山野には多く自生するが、他の地方には尠いやうである。又シトミといふ關東方言は、その果實に附した名として考へられてゐるから、シドミは酸い實といふやうな意味であるかも知れないし、或は又アイヌ語などかも知れない。ともかく上代大和言葉の遺つてゐるものとは考へられない。これに反して馬醉木は、大和・山城方面の山には到るところ自生してゐるもので、アシビが馬醉木なることは毫も疑ふ餘地がない。この花が葉の上に、房状をなして、薇ひかぶさつて咲く姿は實に美しく、卷七に「安志妣《アシビ》なす榮えし君」とある譬にしつくり適應するのである。
(425) 以上の理由で予は馬醉木も安志妣も同一物で、共にアシビと訓むべきことを斷定するものである。
第四 あづさ
梓は集中に弓を作る材として詠まれ、梓弓の名が屡見えてゐる。又卷十三の長歌に、「刺柳根張梓を御手に取らしたまひて」とあるが、これも梓弓のことである。梓は和名抄に「梓白皮和名阿郡佐乃岐、」字鏡に「桙阿豆佐(桙は梓の誤か)などとあり、今俗に木ささげと呼ばれるものとせられてゐる。これに就いて古義の品物解には「今俗に、かはらひさぎと云、又梓木を音字に呼、しぼくとも云、又|角豆《ササゲ》のごとくなる實なる故、木ささげとも云、又不老がしはとも云、樹も葉も桐に似たり、木理細にして、櫨に似て色白し」と述べてゐる。右に掲げた梓は河邊などに自生する落葉喬木で、のうぜんかつら科の植物であるが、この木は質極めて柔脆にして彈力なく、到底弓を作るに堪へない。白井光太郎氏はこの點に疑問を懷き、研究の結果、古の梓は俗に「みずめ」又は「おほばみねばり」と呼ぶもので、今なほ武藏秩父三峰山及び上州の山中では「あづさ」と稱し、信濃の北安曇郡、陸前及び上野吾妻郡でもさう呼んでゐる。加賀白山では「はんさ」大和吉野では「は(426)づさ」、紀州では「はんしや」とよんでゐるが、これは「あづさ」の訛音と思はれる。この樹は頗る靱強で、弓材とするに適してゐるといふ意味の論文を發表してゐられる。この説が今では一般學界に承認せられてゐるやうである。正倉院御物中に梓弓が藏せられてゐるから、これに就いて專門家が、その木質を研究することが出來れば、最も正確な斷定が下されるわけである。筆者の如きも數回同御物拜觀の榮を得てゐるが、一覽しただけでは今の何れの木に相當するかを判斷し得ない。今はしばらく白井氏の説に從ふことにする。
第五 うけら(朮)
卷十四の東歌に
戀しけば袖もふらむを武藏野の宇家良《ウケラ》が花の色にづなゆめ
とある。この宇家良について少し述べて見よう。ウケラはヲケラと稱し、菊科蒼朮屬の宿根草本で、山野に自生する薊に似た植物である。莖の高さは二三尺に達する。葉は多くは三裂となり、又複葉ともなつて葉柄を以て莖に互生する。夏秋の頃、枝梢に白色又は淡紅色の頭状花を附け、魚骨状の葉に圍まれる。若苗も根も食用に供し、根の乾したものは蒼朮と稱して藥用にする。これを晒して白色になつたものを白朮といふといふことである。一説に花の色の白いのを蒼朮といひ、紅紫色を帶ぶるものを白朮といふとある。然るに、小野博は、「白朮は蒼朮より苗も葉も大なり。三葉或は一葉にして花は白色なり。」と言ひ、契沖は「或書云、蒼朮一名赤朮、白朮一名抱薊とあるをあはせて按ふるに、花の紅なるが蒼朮にてや、赤朮とも紅朮とも申侍るならむ」と言つてゐる。かくの如く蒼朮・白朮の區別は明らかでない。さ(427)て和名抄は朮を乎介良と訓し、字鏡には白朮を乎介良とよんでゐる。宇家良《ウケラ》といつてあるのは萬葉集の東歌のみであるから、ウケラは東語で、大和言葉ではヲケラであらうかと思はれる。右に述べたやうに、この花は白色なるを常とし、稀に紅色を帶びたものがあるくらゐであるが、ここに「色に出《ヅ》なゆめ」とあるのは、「うけらが花の色」とつづいて、序詞を作つたものであるから、紅色を帶びたものに就いて言つたものとせねばならぬ。或は武藏野には、この種紅花の朮が多かつたのであらうか。加藤千蔭が、その歌文集に、「うけらが花」の名を附したのは、もとよりこの歌によつたもので、彼が武藏の歌人たる誇をあらはしてゐるのである。
第六 かつら
卷四に
目には見て手には取らえぬ月の内の楓《カツラ》の如き妹をいかにせむ
と月中の桂がよまれてゐる。月の桂は和名抄に「兼名苑云、月中有河、河上有v桂高五百丈」とあるもので、支那の傳説によつたのである。
(428) なほ、卷十に
もみぢする時になるらし月人の楓《カツラ》の枝の色つく見れば
とあるのも同じである。月のかつらは、上記の如く桂の字を用ゐるのに、以上二歌では、いづれも楓の字が用ゐてある。然るに、同じく卷十の
天の海に月の船浮け桂かぢかけてこぐ見ゆ月人壯子
では、桂の字を用ゐてある。この桂かぢは、月人壯子の用ゐるもので、やはり月中の桂を以て作つた楫と見るべきであらうから、同一樹であらねばならぬのに、一方は楓を用ゐ、一方は桂を用ゐたのは、楓と桂と相通用したことを語るものである。
以上は月中の桂であるが、卷七には
向つをの若|楓《カツラ》の木しづ枝とり花待ついまに嘆きつるかも
とあつて、月中ならぬ地上の、野生の若いカツラが詠まれ、文字は楓の字が當ててある。和名抄によれば「兼名苑云、楓一名※[木+聶]、爾雅云、有v指而香、謂2之楓1、和名乎加豆良」「兼名苑云、桂一名※[木+浸の旁]、和名女加豆良」とあつて、楓は樹脂に香氣のあるものとなつてゐる。一體この楓の字は、後世はカヘデにのみ用ゐて、カツラとは讀まず、專ら謂はゆるモミヂの樹として取あつかはれてゐるが、楓がカヘデでないことは、和名抄の説明で明らかである。現今カツラと稱(429)する樹は、山地に自生する落葉喬木で、高さは十丈にも達し、周圍が丈餘に及ぶものもある。樹皮は灰色を帶び、葉は對生で、圓形又は廣卵形、邊縁に鈍鋸齒を有し、長さは一寸五分乃至二寸餘、幅は二寸許である。早春葉に先立つて、紅色の花を開く。材は赤味を帶びて家具を作るに用ゐられる。この樹と萬葉集の「花待ついまに」とある歌とを比較して見ると、相一致するやうであるから、上代のカツラは多分この木であらう。なほ古事記に湯津楓《ユツカツラ》又は湯津香木《ユツカツラ》とあり、書紀には、湯津杜木《ユツカツラ》と記してある。杜の字はよくわからないが、香木と書くので見ると、香の高い木と見える。一體古事記に於ては、常緑濶葉樹の繁茂したものを、サカキと稱してゐるが、カツラはそれに對して、香氣ある木を指したものかとも考へられるのである。併し香氣のある木としても、肉桂の如きものをいふのではない。古義に「桂の字をカツラと訓來れるは、桂は俗に云肉桂の木にて、その古名|雌香木《メカツラ》なる故なり」とあるのは正しいかも知れないが、肉桂は舶載の藥劑であつて、吾が國に自生の植物ではない。なほ桂を今のギンモクセイ・キンモクセイの類となす説もある。古事記に香木をカツラとよんだのは、香の高いモクセイの類であらうとの推測も出來さうだが、モクセイは漢名を丹桂と稱する支那原産の樹木で、上代には無かつたものである。されば萬葉集のカツラは上に述べた落葉喬木のカツラとすべきであらう。
第七 くくたち(莖立)
卷十四に
上つ毛野左野の九久多知《ククタチ》をりはやし我《アレ》は待たむゑ今年來ずとも
(430)とあるククタチについて述べよう。ククタチはクキタチの東語で、和名秒に「※[草がんむり/豐]久々太知俗用2莖立二字1蔓菁苗也」とある。蔓菁は卷十六に
食薦《スゴモ》しき蔓菁《アヲナ》煮もち來うつばりにむかはき懸けて息む此の公
とあつて、アヲナと訓んであるから、ククタチはアヲナの苗といふことになる。併し又別に和名抄には「蘇敬本草註云蕪菁北人名2之蔓菁1阿乎奈、楊雄方言云、陳宋之問蔓菁曰v※[草がんむり/封]毛詩云、采v※[草がんむり/封]采v韮無v以2下體1加布良、下體、根莖也、此菜者、蔓菁與v※[草がんむり/福の旁]之類也、方言云、趙魏之間謂2蕪菁1爲2大芥1小者謂2之辛芥1太加奈」とあり、蔓菁はアヲナの外に蕪《カブラ》又はタカナにも用ゐられてゐる。けれども右の卷十六の歌はアヲナであることは間違ひがない。持統天皇紀には蕪菁をアヲナと訓し、古事記仁徳天皇の條には、於是爲v煮2大御羮1採2其地之※[草がんむり/松]菜1時天皇到2坐其孃子之採v※[草がんむり/松]處1歌曰、として
山がたに蒔ける阿袁那《アヲナ》も吉備人とともにしつめばたぬしくもあるか
と見えてゐる。これによると※[草がんむり/松]菜・※[草がんむり/松]をアヲナに用ゐたのである。これらから考へると古義にアヲナを加夫良菜《カブラナ》としたのは穩かでなく、狩谷掖齋の箋注倭名類聚抄に、ナは菜蔬の總名でアヲナはその一種、是は專ら葉を食べるから、アヲナといふ、と説いたのがよい。つまり上代に於ける最も流布された、蔬菜の種類であらうと思ふ。白井光太郎氏の植物渡來考には、「アヲナ漢名※[草がんむり/松]一名白菜以上訂正植物彙和名シラクキナ草木図説原産地未詳、支那にては名醫別録に始め(431)て記載す。日本にては古事記に、仁徳天皇が吉備の國に行幸ありし時、黒日賣命が其地の※[草がんむり/松]菜を採りて羮を作りて、天皇に進め奉りし記事あり。當時已に舶來ありしなり」と述べて、アヲナを白菜としてゐるが、これはアヲナといふ稱呼からしても、肯定することは出來ない。アヲナは今のタカナに似て小さく、辛味のない種類であらうと思ふ。
さてクキタチは右に引いた和名抄の文によつても、アヲナの苗だといふことだが、この名稱が今北陸地方に廣く行はれてゐるのは頗るおもしろいことである。地方人の内には、フキタチと稱へる者もあるが、それがクキタチの訛音なることは言ふまでもない。植物和漢辭林には、クキタチ・ククタチはアブラナ(※[草がんむり/雲]薹の別名としてあつて、菜種の苗と見てあるやうである。筆者が目下住んである金澤地方では、油菜の未だ薹に立たぬものを、クキタナと稱する者もあるやうだが、特に蔬菜として食用に供する爲に作るのが、本當のクキタチである。その形態は右に述べたやうに、タカナに似て小さく、色の青いもので、その味は如何にも原始的な野生種に近い感じがするのである。クキタチといふ名は春早く雪のある内から、早くも莖に立つて花をつけるからで、その點も亦タカナに似てゐる。上代のアヲナ・ククタチは必ず同一物で、アヲナをその薹に立つ頃から、クキタチ・ククタチと言つたものであらうと思はれる。
第八 つまま(都萬麻)
天平勝寶二年春三月九日のことである。越中守大伴家持は、出擧の政の爲に國府を出發して舊江村に赴いた。その途に澁溪の埼を過ぎ、巖上の樹を見て、
(432) 磯の上の郡萬麻《ツママ》を見れば根を延へて年深からし神さびにけり
と詠じた。この都萬麻と稱するものは、どんな樹であるか、集中他に用例がなく、後世の文獻にも殆ど見えず、研究者を悩ますことが甚だしい。よつて今次に少しくこれに就いて予が調査したところを述べて見ようと思ふ。
蓋しこの樹の名は當時に於ても、珍らしいものとして、家持の耳に響いたらしく、時にここに註して「樹名都萬麻」としたのである」これは恐らく越の國の方言で、家持がここへ來て始めて見た(少くとも注意した)木であり、又始めて聞いた名であつたのであらう。かの葦附《アシツキ》や※[魚+制]《ツナシ》などを、歌材として取扱ひ、殊更にアユノカゼ(東風)といふやうな方言を用ゐた彼の態度と、一致するものである。さてこの樹が今の何に相當するかを決定することは頗る困難であるが、この樹に就いて從來の諸説を少しあげて見ると、
一、畔田翠山の古名録に、磯ムマベ、一名イソチチミ(?)奧州でウツリといふものとしてゐる。(趣味の北日本にかかけた宮武竹陰氏「都萬麻考」による)
二、國史昆蟲草木攷に、ツママツの約とし、相生の松・夫婦松の類としてゐる(同上)
三、白井光太郎氏は、東蝦夷物産誌によつて、トママシ、即ち犬ツゲとしてゐられる(同上)
(433) 四、最近宮武氏が趣味の北日本誌上に發表せられたツマは端即ち埼に當り、マは松の下略とし、端松《ツママツ》が固有名詞となつたとする説。
五、松居嚴夫氏が心の花誌上に發表せられたもので、たぶのき、一名いぬぐす、即ち北陸地方でタモノキと稱する木とするもの。
などである。右の内第一の磯ムマベ説は、宮武氏はムマベは讃岐でバヘといひ、海濱に生育し、且地質の如何を選ばない木だといつて居られるが、不幸にして予はその如何なる樹なるかを知らないから何とも判斷し難い。第二の相生の松とするのは、詞はゆる常識判斷で、學術的價値に乏しく、しかも相生の松・夫婦松などの思想は、古今集の序を曲解して起つた中世以後の思想であつて、萬葉集中にあてはめて解かうとするのは無理である。第三の蝦夷名トマシシ即ち犬ツゲ説は、トマシシとツママと音が近いといふのみで、ツゲの種類では灌木であるから、家持の歌の趣と一致しないである。且これは已に白井氏の撤囘せられた舊説であるから、これについて言を費すにも及ぶまい。第四の端松《ツママツ》説は、萬葉集に印南都麻《イナミツマ》・伊奈美嬬《イナミツマ》・稻日都麻《イナビツマ》などとあるツマは岬の意らしいから、これを岬の松と解すべきだとするもので、なるほどツマは突端などの意であらうが、これ以外にツマを岬の意に用ゐたらしい例もなく、又マを松の省略とするのも想像説で、古今の文學に果してその例ありや疑はしい。なほ宮武氏はこの樹名都萬麻とあるのを、辛崎の松・曾根の松などの如き、固有名詞ではないかとの考を有つてゐるらしい書き方をして居られるが、この註によつては固有名詞とは到底解せられないのである。
第五のタモノキの説は、現今殆ど學界の定説となつてゐるやうだが、如何にしてこれが、學界に紹介せられるやう(434)になつたかといふと、安政五年戊午の年に、肝煎宗九郎といふ人が歌をよくし、その道に志が厚かつたので、萬葉集の都萬麻を研究してタモノキと推定し、自から筆を執つて家持の都萬麻の歌を記し、且これを自から石に刻んで、澁溪の崎近く、一本のタモノキを後にして建てたさうである。その木は早く枯れたので、現今の中老の人は知らないが、古老は今猶これを記憶してゐるとのことである。この歌碑は、その後顧る者もなく、倒れたままになつてゐたのを、大正七年六月、高岡高等女學校教諭(現礪波中學校教論)御旅屋太作氏が、かの附近の海濱植物採集中に發見せられ、その保存方を太田村及び郡役所に懇願せられたので、數年前漸くこれを建て直して保存することになり、今は義經雨晴から約二丁南方の伏木街道に、忠魂碑と竝んで建てられてゐる。同氏は當時同僚であつた國語科擔當の松居嚴夫氏に、この都萬麻について告げられたので、松居氏は白井光太郎氏にこの植物に關する意見を求められたところ、白井氏から次のやうな返答があつた。(これから以下御旅屋氏の手記による)
(前略)萬葉代匠記・古義品物解・萬葉品類鈔・國史昆蟲草木考等「都萬麻」の説相見え申、唯畔田氏古名録に「はまひさかき」ならんとの説相見え候へども、別に證據なく、海岸植物なる故之に充てたる迄にて、感服出來申さず、「アイヌの方言に「トママシ」と云ふ植物有之候處より、小生或は此の「トママシ」の訛言にては無きやと云ふ事を、植物古名考に掲げたる次第に有之候へども、此考を得たる當時は、「トママシ」を「イヌツゲ」なりといふ、曾占春翁蝦夷草木志料の説に據りし次第に候。然るに其の後「トママシ」は「イソツツジ」のアイヌ語なること相分り、此の「イソツツジ」は内地にては東北の高山にあるものにて、越中海邊には生育せざる事と存ぜられ、此の考説も成立たずと存居候(中略)古書に「タブノキ」に「ツママ」の方言ある事記載せるものは所見無之、別に考説として申上べき物無之(435)候(後略)
とあつた。これによると白井氏は從來持してゐられたトママシ説を捨てられたが、タモノキ説については、古書に記載はないと答へられたのみで、松居氏の提供せられたタモノキ説には反對せられなかつたのである。かくて松居氏は、このタモノキ説を心の花誌上に掲げたので、これが學界の注目を引くことになり、今日では殆ど定説のやうになつたのである。つまりこの説は、安政年間に肝煎宗九邸が建てた歌碑に源を發し、それが一旦忘れられむとしたのが、御旅屋・松居二氏の努力によつて、廣く世に認められることになつたのである。
さてこのタモノキ説は、現今最も有力な説として敬意を表すべきであるが、併し今日から七十餘年前に發表せられたもので、しかも若しこれが彼の地方に行はれて來た古傳によつたとか、又は方言に今なほタモノキをさう呼んでゐるいふやうな事實があればよいのであるが、古傳によつたといふことも聞かず、方言は予も種々取調べたけれども、目下同地方にはその痕跡をも留めてゐないから、この説は肝煎宗九郎又はその周圍の人たちの、私意によつた推定ではなからうかと思はれるのである。果して然りとするならば、ここにその當否を攻究して見る必要があるわけである。
先づ大伴家持の都萬麻の歌の意味から考へると、大よそ次の四點に留意しなければならぬやうに思はれる。即ち
一、澁渓崎方面に今も繁茂してある樹であるべきでこと、
二、巖上など土壤の尠い所にも生ずるものたるべきこと、
三、かなり大木で樹齡も相當に長かるべきものたること、
四、根の張り方に長く延びる特徴あるべきこと、
(436) 右のうちで一に就いては、已に歌碑がその木の前に建てられたことが證明するが、この植物は臺灣・琉球・奄美大島から九州・本州に分布し、日本海沿岸では、北は秋田縣に及んでゐるさうである。さうして御旅屋氏の報告によれば、伏木附近の海岸山中に多く、氷見地方に大樹があり、女良材長坂には地上五尺の間、周圍十八尺のものがあるといふことである。かの氷見郡北方の海中にある虻島は、澁渓崎と同質の岩石からなる島であるが、この島にはタモノキが欝蒼として生ひ茂つてゐるとのことである。して見ると、この木はこの地方の海岸に適したもので、現在も至るところに繁茂してゐるから、第一の條件に合致するのである。第二の巖上など土壤の尠いところに生ずことも、この樹の生育状態を知るものの誰しも首肯するところで、ことに虻島に於ける御旅屋氏の報告は、最も有力なものでないかと思はれる。第三に就いてはこれも右に記したところで明らかであるから、論ずるまでもない。第四の根の張り方に、長く延びる特徴があるかどうかといふことは、これが決定にかなり有力な點であらうと思ふが、このタモノキの姿態が、正しくその通りになつてゐるのである。この木は若木の間は、別に他の木と異なつたことはないが樹齡が古くなるにつれて、根部が地上に露出し、恰も根上り松のやうな姿になるのを常とする。これは予が多くの老樹を注意し觀察して、歸納し得たるところである。かうして見ると、肝煎宗九郎の推定は、よしその當時に於いて深い根據がなかつたとしても、これを今に於いて否定すべき何等の理由もないのである。なほ予は、この上にもう一つ、このタモノキが、この地方で、神聖な木として尊崇せられてゐることを付け加へよう。この樹は能登方面にも多く、至るところに老木があるが、就中著しいのは、國幣大社氣多神社の末社として奉祀してある、大多毘神社の神木で、この神名はこの木に基づくものらしい。これは石川縣農林課の鑑定によれば千三百年の古木であるとのことであるから、實に大伴(437)家持以前の木である。その社の祭神は迦具土命とのことであるが、恐らくタビといふ名からして、祭神をかく定めたものであらう。又鹿島郡金丸村に鎭座せられる鎌宮諏訪神社には、タモノキの神木かあつて、これに無數の鎌が打ち込まれてゐる。これは毎年八月の例祭に奉納した鎌を、群集の老幼が爭つて打込んだもので、古いものは漸次樹中にその姿を没入してしまふさうであるが、この行事は鎌舞と稱して、上代から行はれたのだといふ。なほこの社は、この樹を神體とし、社殿の設はないさうである。これらの事實と、家持が特にこの木に着目して、「年深からし神さびにけり」と詠んだのと對比して見ると、なるほどとうなづかれるのである。以上の諸點から、予は都萬麻をタブノキ、一名イヌクス、地方名タモノキとする説に賛成するものである。
〔波線あり〕
萬葉集植物の研究について
萬葉集にあらはれた植物中には、その如何なるものかに就いて今日なほ異論あるものが尠くない。これは勿論今後の研究によつて決定せらるべきものである。從來の學者もこれが研究に忠實でなかつたのではないが、研究の態度が妥當でなかつたものがあつたのは遺憾である。予は今後の研究者に對して、次のやうな態度を要求したいと思ふ。
一、その植物が詠まれてゐる歌の意味に就いての周到な研究。
二、その植物の精細なる植物學研究。即ちその形態、分布の状態、花に關するものは、その色彩、その開花の時季などを注意すること。
(438) 三、植物異名の研究。
四、植物名稱の地方的研究。
五、植物名稱の言語學的研究。
六、植物名稱を書きあらはせる漢字の研究。
七、植物色素・繊維等の應用化學的研究。
八、植物渡来の歴史的研究。
以上の八つはその一つを缺いても完全な研究とは言ひ難く、さうしてその一方に拘泥することなく、相倚り相助けて綜合的になされねばならぬ。もしそれ、漫然と古人の説に從つたり、或は學統的感情や、地方的感情によつて説を立てようとするなどは、以ての外のことである。次に少しく萬葉植物研究に關する古今の參考書を掲げて置かう。
新撰字鑑 僧昌住
本草和名 深江輔仁
和名類聚抄 源順
和漢三才圖會 寺崎良安
大和本草 貝原益軒
本草綱目啓蒙 小野蘭山
萬葉集名物考 春登
(439 萬葉集動植考 伊藤多羅
萬葉集中禽獣蟲魚草木考 小林義兄
萬葉品類抄 荒木田嗣興
萬葉集草木考 龜井交山
萬葉集品物解 鹿持雅澄
萬葉集品物圖繪 鹿持雅澄
萬葉古今勤植正名 山本章夫
眞榛問答 足利弘訓
榛葉萩芽訓義攷 木村正辭
植物渡来考 白井光太郎
萬葉葉草木考 岡不崩
萬葉染色考 上村六郎・辰巳利文
萬葉植物考 豊田八十代
國文學にあらはれたる植物考 松山亮藏
(493) 萬葉集と歌謡
高野辰之
一 はしがき
歌論はフシを附けて諷謠する歌をいふ。而して此の標題の下に、萬葉集所收の長歌、短歌、旋頭歌は、そのどれまでが歌謠であつたかといふことと、もう一つ後代に於て歌謠として傳唱したものはどの歌であつたかといふことを説述しようと思ふ。先哲は皆上代の歌は謠へるものにてといふが如くに概説して、上代とはどの時代までをいふか、萬葉集には其の上代時代の歌があるかないか、要約していへば萬葉集には歌謠扱をすべきものがあるかないかを檢討して細説したものが無い。往年私は怱卒の間に日本歌謠史を著して始めて此の問題に逢着し、言を他に托して逃避し能はず、ともかくも私見を述べて同好の士に批正を仰ぐこととした。次いで歌謠の研究はあげて青年有爲の士に讓り、自らは累年の素志日本演劇史の研究に主力を用ひようと思ひ、歌謠史料の主體をなすものを刊行して後人の利便に供することにした。彼の日本歌謠集成十二卷がそれで、其の編纂刊行の二三年間に期せずして、此の標題に觸れた考査をしたこともあるが、爾來念慮をこれに傾けたことが無く、隨つて私見の適否に關する批評の言説を耳目にせず、今も(494)往時と略同樣の見解を持するのである。但其の後に於て、やや微細に入つたこともあるかに思ふので、再び此の標題の下に執筆することを諾したのである。分つて長歌、短歌、旋頭歌の三となし、その各に就いて歌謠扱をすべきものを説き、後代に至つて歌謠となつたものは便宜一項を立てて、其の條下に於て述べる。もしそれその謠ふ所が千古不變の戀愛の想に成るものであらうか、既往一千年の間、稍異る表現の下に反復せられたことが數多たびに及んでゐて、擧げ來らば際涯のなかるべきを豫想し、原形又はそれに近くして永く謠はれたものに限つてそれを説述の例に引くであらう。
二 長歌
そも/\萬葉集の卷頭は長歌であつて、古く雄略天皇の御製である。これが歌謠であるか否か。標題下の考査は先づ此の歌から始まらなければならぬ。
雄略天皇の御代には、もう歌を文字に記して贈答することが起つてゐたと思ふが、それを徴すべき的確な史料が無い。ただし之を記紀所載の歌によつて考へれば、此の卷頭の歌は疑もなく諷謠せられたものである。雄略記には長短歌合せて十四首を載せ、雄略紀には八首を收めてあるが、天皇の御製と臣下の作とに別なく、其のすべては謠はれたものである。隨つて此の卷頭の歌、春光うらゝかな野外に於て、籠と掘串と持つて、若菜をあさる可憐な少女、健康色の滿ちた頬に、彩らぬ美しさの溢れてゐるを愛でて呼びかけ給へる此の歌は、些の遲疑を要せず歌謠と定むべきで(495)ある。
次の第二の歌は、舒明天皇が香具山に登つて望國《くにみ》を遊ばした時の詠、一眸の内に收め給うた景觀を敍べて「國原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち起つ」といひ、「うまし國ぞ、あきつ島大和の國は」と結ばれただけのもの。全くの即興詩で、口吟遊ばしたことが想見される。國見は蓋し上古以來の習俗であつて、前に述べた雄略天皇も國見の歌を遺し給ひ、古くは應神天皇も吟出してゐ給ふ。しかればこれも疑ひ無く歌謠。
此の如く簡易に解決することが可能だとすれば、此の標題下の説明を編纂當事者から私に向つて求められなかつたであらう。第三の歌が直ちに解決し難い問題を提起する。これも同じく舒明天皇の御代の歌ではあるが、此の長歌には反歌が添へてある。而して中皇命が間人連老《はしひとのむらじおい》をして獻らせ給うた歌だと端書にあつて、その歌の詞の中に「朝獵に今立たすらし、暮獵に今立たすらし」と朝夕のことを一つに敍してあれば、現に目撃する所をいふので無く、離れてゐて想察するのである。されば必ず老の作で、文字に記して獻つたのであるとすべきではあるまいか。總じて
反歌のある長歌は支那の賦に摸して作つたもので、謠ふことを考へず、目で視ること、すなはち讀むを目的にしたものである。而して反は賦の亂に該當するもので、反歌と書くは荀子に反辭とあるに導かれたものだ、
と考へる。反歌といふ語の説明は古く清輔の奧儀抄あたりから始まり、幾人かの先哲の考説が發表されて近く明治の代に及んだのである。而して元禄の昔契沖によつて「反は反覆の義なり。經の長行に偈頌の副ひ、賦等に亂の副ひたる類なり、長歌の意を約めて再び云ふ意なり」と端的の説明が下された。次いで橘守部によつて樂の調子を變へる意で、反としたのだといふ説が出たが、それは雅樂のかへしといふ眞意に通じなかつたが爲に誤つたのである。此のこ(496)とは既に日本歌謠史の中に説明しておいた。
反歌のある長歌は舒明天皇の代の此の歌を最古として、梯本人麿や山部赤人等著名な作者の長歌には必ず附いてゐる。而して此の兩人は山柿と竝び稱せられて、萬葉歌人の二大巨匠であるが、此の人たちの長歌は諷謠されたものでなかつたのかといふ問が涌いて來る。私は謠はなかつたもので、彼等兩人は往時より謠つて來た歌を、目で見て讀み味はふ詩に改めた點に於ての先進者であつたのだと思ふ。當時は大陸文化の移植に急で、大化の改新以來漢才のある者は尊重せられて、貴族には漢詩の絶句や漢文を相當巧に綴るものが出て來た。但賦や辭は模作が容易でない。模作どころか讀んで味はふことが既に難事であつた。けれどもわが國人は今も己れを虚しうして他の文化を謳歌し追隨することに於てどの國にも劣らないが如く、往昔にあつても此の態度に出る者が多かつた。當時、人麿赤人の二人は地位が低く、かつ教養を十分に受くべき程の惠まれた家に生れなかつたので、師について漢才を十分に具備することは出來なかつた。自然わが國既有の和歌一切を拂ひぬけて擧げて以て漢詩に傾倒するまでにはなり得なかつた。そこでほんの淺い程度に於て、大陸詩賦の形式に則つて、わが固有の長歌に反歌を附けて見せた先行者の跡を追うたのであつたと考へる。けれども二人共に歌才を有することは時流に卓越してゐた。且つそれが和魂漢才の現れと見るべきものであつたが爲に、當時の貴族社會にはそれ程迎へられもしなかつたが、むつかしい支那の詩賦を咀嚼し謳歌し得ない中流以下の人には、程よき革新態度の下に歌を詠ずるものとして崇められた。さうして遂に山柿之門といふ語も生れるに至り、後の覺醒期に至つては、歌聖または歌仙として尊拜せられたのである。かう思考する私は人麿赤人のは勿論、反歌のある長歌一切は諷謠されることを目的として作つたもので無く、隨つて歌謠ではないと推定する。
(497) 人麿や赤人の先行者とは誰であらう。記紀の歌の作者は皆それであるが、其の作に係る長歌には反歌の添はつてゐるものが一首もなく、、そのこれあるは今説明した舒明朝のを最古とし、それに次ぐ軍王の讃岐國にあつて旅愁を詠出したものにも反歌があり、天智天皇の三山の歌にも反歌がある。しかして萬葉集全部の長歌二百六十二首を通覽して、荀くも諷謠された證文のあるものには、すべて皆反歌の無いことは否まれない。決して自己に都合のよい長歌のみを拾つて、かう論斷するのでなく、假りに此の説に反對して立つて見ても、審思の末にはこれが肯はれさうに思ふ。
卷一卷二あたりの比較的古い時代の長歌には反歌のあるものと無いものと交雜するが、それ等に對しても同一に推定してよいと思ふ。ただ問題にすべきは、天智天皇が藤原鎌足に詔して、春秋の優劣論をなさしめられた時、額田女王が歌でそれを斷ぜられた長歌、これには反歌がない。私は此の歌には重大な意の潜むことを考へるので、少しく横にそれるけれど特に見解を述べさせて貰ふ。額田女王の姉君は鏡女王で、それが鎌足の夫人である。額田女王は天智の御弟天武の妃となつて、一女を擧げられた後、召されて天智の妃となり、天皇崩御に及んでまた天武の妃となられた人である。此の人に對して天智天皇が鎌足を通して、兄を選ぶか弟につくかを問はせられたのが底意で、これに對して、「秋山われは」といふ句で歌を結ばれた女王は、弟をとると明答されたのである。其の女王を兄弟兩人の妃たらしめた者は策士の鎌足の方案らしいが、そこに無理があつて、これが壬申の亂の遠因をなすのである。勿論女王の若い時の歌で、人麿や赤人より以前の作であり、當時は謠ふ長歌から、讀む長歌への過渡期であれば、これに反歌の無いのは古來の型を守つたものであつて、恐らくこれだけは文字に記して鎌足に示されたものであらうと思ふ。
次に天武天皇が皇太子を辭し、怏々として大津から吉野に向はれた時の「み芳野の耳我の嶺に時なくぞ雪は降りけ(498)る………」の長歌にも反歌がない。これも途中に於て口吟されたのが、從者によつて世に弘まり且つ記録されて、此の萬葉集に收められたものであるべく、これも支那の詩賦に摸したものではない。
次の藤原の朝すなはち持統天皇の御代は人麿の作の迎へられた時代である。赤人は稍後れるが、此の兩人のには反歌の添はつてゐないものは一首も無い。けれどもこれが一般を風靡せしめたわけでもない。持統天皇の藤原宮の造営の時に役民の作つたといふ長篇の歌には、堯の治世の大龜負圖來の故事をも詠み入れてあつて、大陸文化を憧憬する何人かの手に成つたものと定むべきだが、それにも反歌が無い。さうして二十餘句にわたる此の長歌は、目に一丁字のなき勞役民の共鳴を買ひ得て勞働用の歌に供し得る底のものでない。必ず記して以て獻つた聖世謳歌の一篇と見るべきものである。
されば反歌の無い長歌も其の全部が歌謠であつたとは論定すべきでなく、當代の歌謠として認むべき長歌には反歌が無かつたとだけしかいへぬと思ふ。而して其の考の下に萬葉集二十卷を通覽すれば、有數のもの數篇を除いた即興詩的の長歌には反歌のないことは事實である。たとへは卷十六所載の、佐爲王の近習の婦が、連夜の宿直に夫戀しく、相見の夢さめて後、すすり泣きをして高聲に吟詠した所の
飯《いひ》くへどうまくもあらず、歩けども、やすくもあらず、茜さす君が心し、忘れかねつも。
の一首は、反歌のない當代歌謠の一好適例で、至情は遂に王を動かして永く侍宿を免ぜられたといふ歌である。此の種の歌は集中にさう多いのでは無いが、これに近い、素朴にして熱を包藏するものは尠からずあるとはいひ得る。繁を去らんが爲に一々の例は示さず、卷二の天智天皇崩御の時の挽歌や卷八の草香山の歌や卷十六の能登の國の歌の類(499)が皆それだとだけ述べておく。
右に述べた即興的でない有數の歌といふ中に於て、特に注目すべきものがある。それは諷刺の意を寓する長歌であつて、卷十六に載せてある所の
乞食者詠《ほかひとのうた》二首
か代表者である、一には爲v鹿述v痛作v之也、一には爲v蟹述v痛作v之也と附記してある長篇物であつて、食を乞ふ者が門附に用ひた歌である。元來乞食をほかひと〔四字傍点〕といふは壽《ほかひ》の詞を述べる人の意であるが、此の二首は壽詞どころか、痛烈な怨恨を敍べたもので、身を鹿や蟹にたとへて、朝家への奉仕に心身困憊の果は、生命をも失ふことを陳じたものである。然るに之を聽いて人々が食を惠んだとすれば、一般人が此の歌に共鳴したことを推知すべきである。換言すれば、大化以降大陸文化の形體を追ふに急で、我が國の實情や富の力や人口の多少を顧みずして、租徴の法を改正し、相當な苛斂誅求を行つたことは、續日本紀の記事や萬葉集でいへば山上憶良の貧窮問答の歌によつても察知せられる。蓋し八省百官に對する俸給や諸雜費も少い額ではなかつたであらうが、それよりは遷都の頻繁であつたこと、宏壯な堂塔建築の引續いた事が深因をなしたのであつて、無用な土木事業も常に企てられたのであつた。而してそれが必ずしも聖慮に出です、野心を抱く貴臣が權勢を得んが爲の劃策に出づることを知つたものは、その私曲を爲す臣下を呪ふのみならず、遂に累を朝家にも及して、發して此の歌となつたのである。恐らくは天智天武持統三朝あたりに謠ひ出されたものであらうが、傳唱久しきが爲に録せられたものと見るべきである。此の二首の長歌に反歌のないことが時代の古いことを示し、三音または六音の句があつて形の整つてゐないことが伸縮を自在にして謠つた一證であ(500)り、後の古今和歌集漢文序に「乞食之客以v此爲2活計之媒1」とあるそれの實證となるものであつて、他にも此の類の多く行はれたことが想像される。
三 短歌
萬葉集所載の短歌で、確實に諷謠されたといふ證文のあるものは三四十首を越えないであらう。例へば天平八年十二月|歌※[人偏+舞]所《うたまひどころ》の諸王臣子等が葛井連廣成の家に集つて宴を開いた時の歌二首、
我が宿の梅咲きたりと告げやらば來てふに似たり散りぬともよし。
春さればをゝりにをゝり鶯の啼くわが島ぞやまず通はせ。
の如きは、固有の歌舞が外來樂に壓倒せられてゐるのを慨いて、相共に古情を盡さうといふので謠つたと馳の歌の後に明記してあるもので、其の當時に於ての古謠であつた。けれども他の短歌に比して何の異る點もない。
天平十一年十月光明皇后の推摩講に終日大唐や高麗の種々の音樂を供養した後、市原王と忍坂王が琴を彈き、田口朝臣家守十數人のものが佛前で唱つた歌は、
時雨のあめ間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも。
で、まだ和讃の作りされる以前とて、時の景色を述べただけの歌で、これも普通短歌である。
此の他河村王が宴居の時、琴を出せば必ず先づ謠つたといふ二首の短歌(卷十六)も、小鯛王が同樣な時に謠つたと(501)いふ二首(同上)も皆同樣に時の景觀を詠じた短歌であつた。穗積親王が酒酣なる時にいつも謠はれたといふ
家にありし櫃に鍵さし藏めてし戀の奴のつかみかゝりて(卷十六)
滑稽味こそ多けれ別な構造に成つてはゐない。是等を基礎として卷一卷二あたりの短歌を考察するに、即興的なものは其の座に於て口吟された歌謠で、當時世に行はれてゐるどれかの曲節に合せて諷謠されたことが推定される。例へば額田女王が齊明の朝に詠じた「熟田津に船乘りせむと月待てば、潮もかなひぬ今はこぎ出でな」も中皇命が紀伊の温泉へ往かれた時の「君が代も我が代も知れや」以下の三首も謠つたと見るべく、天武天皇が吉野宮に幸せる時の
よき人のよしとよく見てよしといひし芳野よく見よよき人よく見つ。
も口吟された歌謠だと思ふ。これは頭韻の詩だといふことになつてゐるが、それよりは同聲をことさらに反覆した戯作であつたと見るがよく、當代に讀まれてゐた玉臺新詠の卷八にある鮑泉和2湘東王春日1詩に、
新燕始新歸 新蝶復新飛 新花滿2新樹1 新月麗2新暉1 新光新氣早 新望新盈抱 (以下略)
とある類に導かれたのであらうといふ説がある。(林古溪著、萬葉集外來文學考)西洋の詩でいふ頭韻と同一に考へ難い配置で、恐らくは此の説が當つてゐると思ふが、座興的に謠はれたことも想像せられて、歌謠と見てよいと思ふ。
此の考の下に當代歌謠を推定して行けば、短歌は謠はうとすれば、どの歌も/\謠ひ得たことが考へられる。今もどどいつ〔四字傍点〕形の七七七五形の歌が追分節にも潮來節にも甚句節にもおけさ節にも謠はれ得るが如く、萬葉集時代にも幾種かの曲があり、短歌はひろくそれ等の曲に合せて謠ひ得たものであつたことが想見される。隨つてこゝに同集の短歌が歌謠であるか否かの推測を下すは無用の業では無いかの感が起らないでもない。しかしながら其の推定を下す上(502)にも強弱の別があつて、卷十四に收めてある東歌すなは東國地方の俚謠、上總下總常陸信濃遠江駿河伊豆相模武藏上野陸奧に於て謠はれたもの、及び國が不明の分合せて二百三十一首は疑も無く歌謠で、勞働に伴つた歌もあるべく、舞踊の用に供したものもあるべく、宴席に謠つたものもあらうが、その總べてを歌謠と見るが至當である。
次は卷十一の正述2心緒1歌百四十九首及び寄v物陳v思歌二百八十二首の如きは今の所謂情歌で、地方調にあらずして帝都に近きあたりに謠はれた洗練されたものと見るべきであらう。卷十二にも此の類が三百首近く收めてあるが、同じく歌謠と見てよいと思ふ。卷十六はすなはち有2由縁1歌を含む卷で、前にも屡引用したが、卷首の櫻兒《さくらこ》が二人の壯士に戀ひられて經死する時の歌、壯士たちが哀慟に堪へずして作つたといふ二首の歌、此の次の三人の男が一人の女|縵兒《かづらこ》を戀うた時の歌三首、此等は古傳説話中のもので、先づは歌謠と定むべきものである。同じく此の卷の中の前陸奧の采女の「淺香山影さへ見ゆる」の歌に至つては歌謠たるは敢て説明をまたぬであらう。此の次の、
住吉の小集樂《をづめ》に出でて正目にも己妻《おのづま》すらを鏡と見つも。
の歌も、今更にわが妻の美しきを知つて讃歎した鄙人の純情を謠つたものとして傳唱された果が、記録されてこゝに收められたもの、總じて此の卷には歌謠が多く、白水郎《あま》や樵夫の歌として記されてゐるものは皆それとして認めてよい。ひとり十六卷のみならず十七八九二十等の卷に古歌傳唱とあるは歌謠たることは疑が無い。而して以上説く處の短歌には後世にかけて謠はれたものがぼつ/\ある。それ等は特にぬき出して項を改めて略述するであらう。
(503) 四 旋頭歌
後世片歌と呼んだ五七七形の歌は、恐らくわが和歌の最古最小の形で、歌を構成する句の基本をなす五七の七を反復したもの、而してその五七をもう一回反復して、最後の七の句を繰返したものが短歌、五七を三回以上反復して、最後の七の句を繰返したのが長歌で、上古歌謠にあつては反復が歌の生命であつた。記紀所收の歌が實によく之を證する。
五七七は多く問答の歌に用ひられた。その一問一答の形を連ねて獨自の詠歌にすることも行はれた。應神記仁徳記雄略紀繼體紀等にその適例が出てゐる。此の形式の歌は萬葉集に至つて旋頭歌と名づけられた。旋頭歌は漢土で作つた熟字でない。隨つて其の名義に關しては、わが國獨自で考へなければならぬ。恐らくは五七七を二首連ねたものといふ考がまだ消え去らない頃に、第二首の頭の句は前の歌の頭の句の曲節を繰りかへすといふ意で全く謠ふ方面から考へて附けた稱呼であらうと思ふ。彼の神樂歌に於て、普通の短歌を本方と末方とに分けて相對して謠ふ時には、本方では五七五までを謠ひ、末方では第三句の五を繰返して、五七七と謠ふのであつて、これも旋頭歌の形式を遺したものだと思ふ。
旋頭歌は平安朝期に及んでは、謠ひ物の上に保存されたが、勅撰歌集では古今集だけで、他には載せられなくなつた。通觀しては、萬葉集時代が最も此の形の歌が用ひられた時であつて、通計六十一首を數へる。而して之を掲げる(504)ことは卷七に始まるが、此の卷に古歌集に見えてゐるといつて載せた十七首の中に、たつた一首だけが旋頭歌で、就v所發v思歌と題してゐる所の
ももしきの 大宮人の 踏みし趾《あと》どころ 冲つなみ 來よらざりせば 失せざらましを。
の如きは、何人かが天智天皇の大津の宮の荒廢の趾に立つて、追懷の情を詠出したもので、勿論諷謠されたものだと思ふ。これに次いで旋頭歌と題して擧げてある二十四首も歌謠であるべく、殊に其の最後の歌はやはり古歌集に見えてゐるものだと斷つてあるが、
春日なる 三笠の山に 月の船出づ みやびをが 飲む盃に 影に見えつつ。
で、風流漢が多くて、酒宴することを禁ぜられた程の奈良の都では、燕飲の席上で此の歌の高吟されたことが想像される。他に父母が嚴重に守つてゐる娘の許に通つた男がよんだといふ
み幣とり 神の祝《はふり》が 齋《いは》ふ杉原 薪|樵《こ》り ほと/\しくに手斧とらえぬ。
の如きも、あぶなかつたといふ意で、此の經驗は誰にもあつて、弘く傳唱されたことであらう。
卷八の山上憶良が秋の野の花を詠んだ「萩の花、尾花くず花撫子の花………」や、藤原八束の「さを鹿の萩にぬきおける露の白玉軍………」典鑄正《いもじのかみ》紀鹿人が大伴稻公の別莊で作つた「射部《いめ》立てて跡見の野邊の撫子の花………」以下の三首は、必ずしも謠つたものとも思へず、又秋の相聞の中にある丹生の女王が太宰帥の大伴旅人に贈つた「高圓の秋の野の邊の撫子の花………」の如きは、明かに記して贈つたもので、卷十あたりにも、謠つたものかどうか判じ難いものも二三首あるが、卷十一に收めてある相聞の歌で、人麿集に見えてゐるといふ十二首、古歌集に見えてゐるといふ(505)五首の如きは世に諷唱されたことが思はれる。いづれ確とした證文の無いものに對していふのであつて、反對説を立てようと思へば立ちもすべく、結局は水掛論以上の泥試合にまでも陷るであらうが故に、此のあたりで筆はとめる。しかしながら、卷十六の能登の國の歌
梯立《はしだて》の 熊來《くまき》のやらに 新羅斧陷れ わし かけて/\ な泣かしそね 浮出づるやと見む わし。
梯立の 熊來酒屋に まぬらる奴 わし 誘ひ立て 率て來なましを まぬらる奴 わし。
の二首の如きは、内容から見ても勞作歌であることが知られ、わしといふ囃子詞の附いてゐるのでも謠ひ物たることが知られよう。同じく越中の國の歌の、
澁谷の 二上山に 鷲ぞ子生むとふ。
翳《さしば》にも 君がみために 鷲ぞ子生むとふ。
も謠つたものと認められる。
なほ旋頭歌に近いものとして考ふべきは、同じく此の越中の國の歌の
彌彦《いやひこ》 神の麓に 今日らもか 鹿《カ》のこやすらむ 裘《かはごろも》着《き》て 角着きながら。
である。形からいへば旋頭歌だが、心持からいへば短歌の最後の句を反復するに別な語を用ひたものである。彼の佛足石歌二十一首は皆これであれば、又一體として別に立ててもよいが、萬葉集には右の一首のみであるが故に、旋頭歌に附説するだけに止めておく。
(506) 五 後の世までの歌謠
奈良朝の歌、萬葉集の歌がどの位迄、謠ひ物として後世に傳つたかを説くは、やはり相當に難事である。例へば十二卷の、
いで吾が駒はやく行きこせ、まつち山、まつらむ人を行きてはや見む。
が、催馬樂歌にそのまゝ用ひられてゐるなどはよい例だが、こんなのは極めて尠く、多くは少しづつ改めて謠はれた。例へば十一の卷の、
妹が門ゆきすぎかねつ久方の雨もふらぬかそをよしにせむ。
を原歌にして催馬樂の「妹之門」の歌が生れたが、これも原歌のままではない。又十六の卷の、
わが門に千鳥しばなく起きよ起きよ、わが一夜づま人に知らるな。
も、神樂の酒殿歌に周ひられて、
にほとりはかけろと鳴きぬなり、おきよおきよ、わが一夜づま人もこそ見れ。
の如くに謠はれた。此の類はもつと/\多い。十一の卷の、
伊勢のあまの朝な夕なにかづくとふ鰒の貝の片思にして。
も、梁塵秘抄の卷二の二句神歌の一として謠はれた
(507) 伊勢の海に朝な夕なにあまのゐて、とりあぐなる鰒の貝の片思なる。
の原歌なることには何人も異論があるまい。またもう少しく度を強めていへば、同じく十一の卷の
山科の木幡の山を馬はあれど、かちよりわがく汝をおもひかねて。
が、同上書の二句神歌の春日十首のうちの、
春日山くもゐはるかに遠けれど、かちよりぞ行く君を思へば。
の原歌と定めてよい。ただしもつと之をおしひろめて行けば、鎌倉時代の宴曲や室町時代の謠曲の上に、萬葉集の歌の後裔と認むべきものの尠からぬを思うて、斷然省略に附し、それ程必要もない引用や列擧に紙面を浪費しないことにする。
判じ難いのは、風土記に載せてある歌と萬葉集の歌とに於て近似せるものの前後裁定である。風土記には概ね古傳の歌として收録してあるのであれば、恐らくは萬葉集の歌よりも古いのもあらうが、暫く兩者の間に前後の別を立てず、こんな類似なものもあると説くに止める。かの卷十六の、
事しあらは小泊瀬山の石城にもこもらば共に、なおもひそわがせ。
と常陸風土記の葦穩山の條下の短歌との前後の如きは匆卒の間に解決せられない問題であらう。又彼の卷の五所掲の山上憶良の「哀2世間難1v住」歌の起首に
少女等が少女さびすと、唐玉をたもとにまかしよち子らと………
とあるのと、五節舞の歌の
(508) 少女ども少女さびすも唐玉をたもとにまきて少女さびすも。
との間には到底前後を定めがたからう。もつと微弱なもの、例へば東歌の二の歌の「なをかけ山のかづの木………」の如きは萬葉集東歌の相模國歌
足柄の吾をかけ山のかづの木の、わをかづさねもかづさがつとも。
から出たものと認むべきだが、かやうな斷片的なものにまでわたらば、穿鑿の煩に堪へ難く、且つその推定を進めたなら、獨斷肯定の弊に墮すべきを虞れて、敢て勇を鼓さないことにする。
また原意の忘れられて、神事用の歌に用ひられたもの、例へば春日神社の田舞の歌
千早振神の社しなかりせば、春日の原に粟まかましを。
の如きは、もと男女唱和の戀愛歌で、某の處女が佐伯赤麿に贈つた歌を少しばかり改めたもので、赤麿がこれに和した歌も萬葉集の卷三に載せてあるのだが、後世になつてそれと知らずに用ひたものであらう。
六 結語
人によつては上來私の説く所を無用の言となすであらう。「上古の歌は皆謠ひけるなり」といつた先哲の言に對して萬葉集の歌はどこまでその上代の部に入るべきかを考へず、單に詠歌上の參考に資せんが爲に、或は模範とせんが爲に萬葉集を見るといふ人たちに取つては恐らく何の役にも立たぬ説明であらう。しかしながら、どの國の詩も遠き昔(509)にあつては口吟されたものであり、それにその民族特有の音調曲節がこもつてゐた處に、尊重すべき價値のあつたことを思ふと、わが萬葉集に對しても前述の如き考査をすることが決して無用の業でないと思ふ。
私は元來萬葉集を奈良朝の官吏や僧侶の有識階級人や上流貴族の心をこめた歌の集だとは認めてゐない。人麿や赤人の如き地位の低い人、旅人や家持の如き漢文學に對して、どこ迄咀嚼してゐたかわからない人、せい/”\で遣唐副使であつた山上憶良といつた人が、我が國古來の歌を詠じた所の其の集に過ぎないと思つてゐる。當代のすぐれた人達は漢詩漢文に思を凝して、和歌などには一瞥をも與へなかつたのではあるまいか。頭脳を冷靜にして、奈良朝を代表する天皇貴臣學者僧侶の作が果して此の集の中にどの位あるかを審思するがよい。あつても即興や愛の希求以外に何があるかを考へるがよい。奈良の大佛に關する歌や法隆寺に關する歌のないのをどう説けばよいかも考へるがよい。當時讀まれた文選其の他の漢籍の影響の極めて淺いのを、どう解したらよいのであらう。佛敦思想の浸潤にしても、此の集の歌の上では餘りに低級ではあるまいか。法華經は讀誦せられてゐた。それが萬葉集の上にどの位現れてゐるであらう。私は實にすくな過ぎることを感ずる。同時にかゝる難文字を咀嚼し得た人たちは新しい處に走つて、さう和歌なんぞはよまず、隨つて此の集の中には收められよう筈はなく、當代文化は決して萬葉集を主材として判定すべきでなく、我等はもつと/\多方面よりして奈良朝を研究すべきを思ふのである。
萬葉集を尊重するはよい。詠歌の手本とするもよい。よいが、文化史料としての價値は、別に評定する必要があり、私は其の立場に於て此の集を見ようとしてゐる一人であり、與へられた此の標題の下に於ても自らそれに支配されてゐたであらうことを附言しておく。
(2010年6月14日(月)、午後3時50分、入力終了)