古事記傳一之卷

                          本居宣長謹撰

 

     古記典等總論《イニシヘブミドモノスベテノサダ》

 

前御代《サキツミヨ》の故事《フルコト》しるせる記《フミ》は、何《イヅ》れの御代のころより有《アリ》そめけむ、書紀【日本書紀をいふ、傳の中みな然り、】の履中天皇(ノ)御卷に、四年秋八月、始之《ハジメテ》於《ニ》2諸國《クニグニ》1置(テ)2國史《フミビトヲ》1記(ス)2言事(ヲ)1、と有(ル)を思へば、朝廷《ミカド》には是(レ)よりさきに既《ハヤ》く史《フミビト》ありて、記されけむこと知られたり、そはその時々の事どもこそあらめ、前代《サキツミヨ》の事などまでは、如何《イカニ》有(リ)けむ知(ラ)ねども、既に當時《ソノトキ》の事|記《シル》されたらむには、往昔《イニシヘ》の事はた、語(リ)傳へたらむまに/\、かつ/”\も記しとゞめらるべき物なれば、其比《ソノコロ》よりぞ有(リ)そめけむ、かくて書紀|修撰《ツクラ》しめ給ひし頃《コロ》は、古記《フルキフミ》ども多く有(リ)つと見えたり、【彼(ノ)神代(ノ)卷に、一書とて取(ラ)れたるが多き

もて知べし、】小治田宮《をヲハリダノミヤ》に御宇《アメノシタシロシメシ》し天皇の御世、二十八年に、聖徳太子命《シヤウトクノミコノミコト》、蘇我馬子大臣《ソガノウマコノオホオミ》と共に、天皇記及國記《スメラギノミフミマタクニノフミ》、臣連伴造國造百八十部《オミムラジトモノミヤツコクニノミヤツコモモヤソトモノヲ》、并公民等本記《マタオホミタカラドモノフミ》を録《シル》し給ふと書紀にある、是(レ)ぞ其事の物に見えたる始(メ)には有ける、又|飛鳥淨御原宮《アスカノキヨミバラノミヤ》に御宇《アメノシタシロシメシ》し天皇の御代十年に、川嶋皇子等《カハシマノミコナド》十二人に詔《オホミコト》おふせて、帝紀及上古諸事《スメラギノミフミマタカムツヨノモロモロノコトドモ》を記定《エラビシルサ》シめ給ふとあり、然れども批(ノ)二(ツ)記は、共に世に傳はらず、こゝに平城宮御宇《ナラノミヤニアメノシタシロシメシ》天津御代豐國成姫(ノ)天皇(ノ)御代、和銅四年九月十八日に、大朝臣安萬侶《オホノアソミヤスマロ》に詔《オホミコト》おふせて、この古事記を撰録《ツクラ》しめ給ふ、同五年と云(フ)年の正月(ノ)二十八日になむ、其功終《ソノコトヲヘ》て貢進《タテマツ》りけると、序に見えたり、【續紀に此事見えず、】然れば今に傳はれる古記の中には、此記ぞ最古《モトモフル》かりける、さて書紀は、同宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシ》高瑞淨足姫(ノ)天皇(ノ)御世、養老四年にいできつと、續紀に記されたれば、彼《カレ》は此記に八年おくれてなむ成れりける、さて此記は、字《モジ》の文《アヤ》をもかざらずて、もはら古語《フルコト》をむねとはして、古(ヘ)の實《マコト》のありさまを失《ウシナ》はじと勤《ツトメ》たること、序に見え、又今|次々《ツギツギ》に云が如し、然るに彼(ノ)書紀いできてより、世(ノ)人おしなべて、彼(レ)をのみ尊《タフト》み用ひて、此記は名をだに知(ラ)ぬも多し、其(ノ)所以《ユヱ》はいかにといふに、漢籍《カラブミ》の學問《マナビ》さかりに行はれて、何事も彼(ノ)國のさまをのみ、人毎にうらやみ好《コノ》むからに、書紀の、その漢國《カラクニ》の國史と云(フ)ふみのさまに似たるをよろこびて、此記のすなほなるを見ては、正《マサ》しき國史の體《サマ》にあらずなど云て、取(ラ)ずなりぬるものぞ、或人、かく云をあやしみて問(ヒ)けらく、此記いできていくばくもあらざるに、又書紀を撰《エラバ》しめ賜へるは、此記に誤(リ)あるが故ならじやは、己《オノレ》答(ヘ)けらく、然にはあらじ、此記あるうへに、更《サラ》に書紀を撰(バ)しめ給へるは、そのかみ公《オホヤケ》にも、漢學問《カラブミマナビ》を盛《サカリ》に好《コノ》ませたまふをりからなりしかば、此記のあまりたゞありに飾《カザリ》なくて、かの漢《カラ》の國史どもにくらぶれば、見《ミ》だてなく淺々《アサアサ》と聞ゆるを、不足《アカズ》おもほして、更に廣く事どもを考へ加《クハ》へ、年紀を立《タテ》などし、はた漢《カラ》めかしき語どもかざり添《ソヘ》などもして、漢文章《カラブミノアヤ》をなして、かしこのに似たる國史と立《タテ》むためにぞ、撰(バ)しめ賜へりけむ、いで其由を委曲《ツバラカ》にいはむには、先(ヅ)かの川嶋(ノ)皇子等に仰せて、帝紀等を撰(バ)しめ給ひしこと、上にいへるごとくにて、其後又和銅七年にも、紀(ノ)朝臣清人三宅(ノ)臣藤麻呂に詔《オホミコト》おふせて、國史を撰(バ)しめ賜ひしこと、續紀に見ゆ、此(ノ)二度の撰の中に、川嶋(ノ)皇子等のは、此記の草創《ハジメ》と同じく、淨御原の大御世なる中に、此記の始(メ)は、彼(レ)より前なりしか、後なりしか、知(リ)がたきを、もし彼(ノ)撰、此記のはじめより前ならば、是(レ)また諸家(ノ)之所v齎、帝紀及(ビ)本辭、既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1、多(ク)加(フ)2虚僞(ヲ)1と、此(ノ)序にある内に在(リ)て、彼(ノ)撰も、正實にたがひ、虚僞をぞ加《クハ》へたりけむ、もしまた後ならば、おもほしめし立《タチ》し此記の事も、彼(ノ)撰にて事足《コトタリ》ぬべきわざなるに、運移(リ)世|異《カハリ》、未(ダ)v行(ハ)2其(ノ)事(ヲ)1矣と、序にあるを思へば、此(レ)と彼(レ)とは、其(ノ)趣《オモムキ》別《コト》なることと聞えたり、その別《コト》なるけぢめは、彼(ノ)撰は、潤色《カザリ》を加《クハ》へて、漢《カラ》の國史に似《ニ》するを旨《ムネ》とし、此(レ)は古(ヘ)の正實《マコト》のさまを傳へむがためなるべし、其意序に見えたり、かくて平城《ナラ》の大御代に至(リ)て、其(ノ)大御志《オホミココロザシ》を繼坐《ツギマシ》て、太(ノ)朝臣に仰せて、かの稗田(ノ)阿禮が誦習《ヨミウカベ》たる故事《フルコト》どもを、撰録《カキシルサ》しめ賜へるなり、次にかの和銅七年に撰(バ)しめ賜ひし史は、又彼(ノ)潤色《カザリ》の方なるべし、さて養老の年、又しも舎人御子《トネノミコ》に仰せて、書紀を撰(バ)しめたまふ、抑かくの如くさしつゞきたるは、かの潤色《カザリ》の史、二(ツ)ながら宜しからずて、大御心にかなはずぞ有(リ)けむかし、さればこれらは、當時《ソノカミ》はやく廢《スタ》れたりとおぼしくて、世に傳はらず、名だにものこらぬなるべし、然るに書紀は、さき/”\のに勝《マサ》りて宜しき故に、正史《タダシキフミ》と定まりて、其後は、又改め撰ばるゝ事もなかりしなり、かくてこの古事記は、書紀いできて後しも、なほ廢《ステ》られざりつと見ゆるは、かの二(ツ)の史の、かざり多きが類(ヒ)にはあらずて、古(ヘ)の正實《マコト》を記せるがゆゑなるべし、されば書紀を撰ばれしは、此記の誤(リ)あるが故にはあらず、もとより其趣ことなるものなり、もし誤(リ)ありとして、改め撰ばれむには、是(レ)もかの二(ツ)の史の如く、そのかみはやく廢《スタ》るべきに、此記のみは、今の世までも傳はれるをおもふべし、又或人、後(ノ)世まで傳はると、傳はらざるとは、おのづからのことにこそあらめ、かならず宜きによりて傳はり、宜しからざるによりて、傳はらざるにもあらざるべし、凡て漢《カラ》にも此間《ココ》にも、古(ヘ)の書の、いとよろしきも絶え、さもあらぬも廣く傳はれるたぐひ多きにあらずやと疑ふ、答へけらく、大かたはさることなれども、これはなほ然らじ、先(ヅ)彼(ノ)二(ツ)の史は、書紀續紀にも其事を記さるゝほどにて、公《オホヤケ》の書なれば、もしおのづからに絶たらむには、しかすがにしばらくは世間にものこりて、人もしり、後(ノ)代にも、其名ばかりだにも遣《ノコ》るべきに、さらにその名をだにしらず、既《ハヤ》く平城《ナラ》の代にすら、知(ル)人もなかりしにや、萬葉集に、古(ヘ)の事を證《アキラ》めたる註などにも、引たるを見ず、然るに此記は、潤色《カザリ》なくたゞありに記して、漢《カラ》の國史などの體《サマ》とは、いたく異なる物なれば、もし誤(リ)多からむには、さしも漢籍《カラブミ》好《コノミ》ましし世に、はやく廢《ステ》られて、とり見る人も有(ル)まじく、まして後(ノ)代までは傳はるまじき物なるに、千年の後までも傳はり來つるを思へば、そのかみ書紀いできても、なほしかすがに公《オホヤケ》にも用ひられ、世(ノ)人も讀《ヨミ》つとは見えて、かの萬葉などにも、往々《ヲリヲリ》に引出けるものをや、【上(ノ)件の趣、すべて詳《サダカ》には知(ル)べきならねども、序の詞と、かの二(ツ)の史撰ばれし跡とを考へ合せて、かくも有けむと思はるゝすぢを、一わたりいへるなり、】又問(フ)、彼川嶋(ノ)皇子等に仰せし撰の事は、書紀に見え、和銅七年のと書紀との事も、續紀に載られたるに、此(ノ)古事記を撰ばしめ給ひしことは、見えぬを思へば、此記は、彼(ノ)史どもの如き嚴重《オモ》き公事《オホヤケゴト》にはあらで、たゞ内々《ウチウチ》の小事《イササカゴト》と見え、又書紀に神代(ノ)卷などに、一書とて、擧《アゲ》られたるが數《アマタ》ある中に、此記を取《トラ》れたりとおぼしきもあれば、此記は、そのかみ如是《カカ》る記録《フミ》ども多《サハ》に有けむ中の一書と見えたり、さて書紀は、その記録ども皆撰び取(ラ)れて、此(レ)も彼(レ)も集めて、足《タラ》はぬことなく備《ソナハ》れれば、さらに此記の比《タグヒ》にあらず、此記は、いかでか其《ソレ》と等《ヒトシ》なみに尚《タフト》び用ふべからむ、答(フ)、此記は、かの一書どもの中の一(ツ)にして、みな書紀にえらび取(ラ)れて、かれは事|備《ソナハ》れり、との論《アゲツラヒ》は謂《イハ》れたり、誠に書紀は、事を記さるゝこと廣く、はた其年月日などまで詳にて、不足《アカヌ》ことなき史《フミ》なれば、此記の及ばざることも多きは、云(フ)もさらなり、然はあれども又、此記の優《マサ》れる事をいはむには、先(ヅ)上(ツ)代に書籍《フミ》と云物なくして、たゞ人の口に言傳《イヒツタ》へたらむ事は、必(ズ)書紀の文の如くには非ずて、此記の詞のごとくにぞ有けむ、彼(レ)はもはら漢《カラ》に似るを旨《ムネ》として、其(ノ)文章《アヤ》をかざれるを、此(レ)は漢にかゝはらず、たゞ古(ヘ)の語言《コトバ》を失《ウシナ》はぬを主《ムネ》とせり、【其由は、次(ノ)卷の序の下に委くいふべし、】抑|意《ココロ》と事《コト》と言《コトバ》とは、みな相稱《アヒカナ》へる物にして、上(ツ)代は、意も事も言も上(ツ)代、後(ノ)代は、意も事も言も後(ノ)代、漢國《カラクニ》は、意も事も言も漢國なるを、書紀は、後(ノ)代の意をもて、上(ツ)代の事を記し、漢國の言を以(テ)、皇國《ミクニ》の意を記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此記は、いさゝかもさかしらを加《クハ》へずて、古(フ)より云(ヒ)傳(ヘ)たるまゝに記されたれば、その意も事も言も相稱《アヒカナヒ》て、皆上(ツ)代の實《マコト》なり、是(レ)もはら古(ヘ)の語言《コトバ》を主《ムネ》としたるが故ぞかし、すべて意も事も、言を以て傳(フ)るものなれば、書《フミ》はその記せる言辭《コトバ》ぞ主《ムネ》には有ける、又書紀は、漢文章《カラブミノアヤ》を思はれたるゆゑに、皇國《ミクニ》の古言の文《アヤ》は、失《ウセ》たるが多きを、此記は、古言のまゝなるが故に、上(ツ)代の言の文《アヤ》も、いと美麗《ウルハ》しきものをや、然ればたとひかの一書どもの中の一(ツ)にして、重《オモ》き公《オホヤケ》の書典《フミ》にはあらずとも、尚《タフト》び用ふべきを、まして是(レ)は、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の、厚き大御志より起りて、ふたゝび平城《ナラノ》大御代の詔命《オホミコト》によりて撰録《シルサ》れたるうへは、さらに輕々《カロガロ》しき私の書の比《タグヒ》にあらず、かれこれを思へば、いよゝます/\尊び仰《アフ》ぐべきは、此記になむ有ける、然ある物を、そのかみ漢學《カラブミマナビ》のみさかりに行はれて、天(ノ)下の御制《ミサダメ》までも、よろづ漢樣《カラザマ》になり來《キ》ぬる世にしあれば、かゝる書典《フミ》の類(ヒ)まで、ひたぶるに漢《カラ》ざまなるを悦びて、表《オモテ》に立《タテ》られ、上(ツ)代の正實《マコト》なるはしも、返(リ)て裏《ウラ》になりて、私(シ)物の如くにぞ有(リ)けむ、故《カレ》其(ノ)撰定《ヱラビ》の事も、續紀などにも載られざりけるなるべし、さて後は、いよゝ其心ばへにて、取(リ)見る人も罕《マレ》らになり、世々の識者《モノシリビト》はた、是をば正《マサ》しき國史の體《サマ》にあらずとして、なほざりに思ひなすこそ、いとも/\哀《カナ》しけれ、抑皇國に古き國史といふ物、外《ホカ》に傳はらざれば、其(ノ)體《サマ》と例《タメシ》に引(ク)は、漢の《カラ》なるべければ、その體《サマ》備《ソナハ》れりといふも、漢のに似たるをよろこぶなり、もし漢《カラ》に邊《ヘ》つらふ心しなくば、彼(レ)に似ずとて何事かはあらむ、すべて萬(ヅ)の事、漢《カラ》を主《アロジ》として、よさあしさを定むる、世のならひこそいとをこなれ、爰に吾(ガ)岡部(ノ)大人《ウシ》、【賀茂(ノ)眞淵(ノ)縣主】東(ノ)國の遠朝廷《トホノミカド》の御許《ミモト》にして、古學《フルコトマナビ》をいざなひ賜へるによりて、千年《ツトセ》にもおほく餘《アマ》るまで、久しく心の底に染着《シミツキ》たる、漢籍意《カラブミゴコロ》のきたなきことを、且々《カツガツ》もさとれる人いできて、此記の尊《タフト》きことを、世(ノ)人も知初《シリソメ》たるは、學《マナビ》の道には、神代よりたぐひもなき、彼(ノ)大人の功《イサヲ》になむありける、宣長はた此(ノ)御蔭《ミカゲ》に頼《ヨリ》て、此(ノ)意を悟《サト》り初《ソメ》て、年月を經《フ》るまに/\、いよよ益々《マスマス》からぶみごゝろの穢汚《キタナ》きことをさとり、上(ツ)代の清《キヨ》らかなる正實《マコト》をなむ、熟《ウマ》らに見得《ミエ》てしあれば、此記を以て、あるが中の最上《カミ》たる史典《フミ》と定めて、書紀をば、是(レ)が次に立《タツ》る物ぞ、かりそめにも皇大御國《スメラオホミクニ》の學問《モノマナビ》に心ざしなむ徒《トモガラ》は、ゆめ此意をなおもひ誤りそ、

 

     書紀の論《アゲツラ》ひ

 

今古事記を解《トク》とて、書紀を論ふはいかにと云に、古昔《ムカシ》より世間《ヨノナカ》おしなべて、只此(ノ)書紀をのみ、人たふとび用ひて、世世の物知(リ)人も、是(レ)にいたく心をくだきつゝ、言痛《コチタ》きまでその神代(ノ)卷には、註釋なども多かるに、此記をばたゞなほざりに思(ヒ)過《スグ》して、心を用ひむ物としも思ひたらず、是(レ)何故にかと尋ぬるに、世(ノ)人たゞ漢籍意《カラブミゴコロ》にのみなづみて、大御國の古意《イニシヘゴコロ》を忘《ワス》れはてたればぞかし、故《カレ》其(ノ)漢意《カラゴコロ》の惑《マドヒ》をさとし、此記の尊ぶべき由を顯《アラハ》して、皇國《ミクニ》の學問《モノマナビ》の道しるべせむとなり、其《ソ》は先(ヅ)書紀の潤色《カザリ》おほきことを知(リ)て、其(ノ)撰述《エラビ》の趣《オモムキ》をよく悟《サト》らざれば、漢意《カラゴコロ》の痼疾《フカキヤマヒ》去《サリ》がたく、此(ノ)病|去《サ》らでは、此記の宜きこと顯《アラハ》れがたく、此記の宜きことをしらでは、古學《イニシヘマナビ》の正しき道路《ミチ》は知らるまじければなり、いで其(ノ)論(ヒ)は、まづ日本書紀といふ題號《ナ》こそ心得ね、こは漢の國史の、漢書晋書などいふ名に傚《ナラヒ》て、御國の號《ナ》を標《アゲ》られたるなれども、漢國は代々に國(ノ)號のかはる故に、其代の號もて名づけざれば、分《ワカ》り難《ガタ》ければこそあれ、皇國は、天地の共《ムタ》遠長《トホナガ》く天津日嗣|續坐《ツヅキマシ》て、かはらせ賜ふことし無ければ、其《ソレ》と分《ワケ》て云べきにあらず、かゝることに國(ノ)號をあぐるは、並《ナラ》ぶところある時のわざなるに、是(レ)は何《ナニ》に對《ムカ》ひたる名ぞや、たゞ漢図に對《ムカ》へられたりと見えて、彼(レ)に邊《ヘ》つらへる題號《ナ》なりかし、【後の史どもも、又是にならひて名づけられ、文徳三代の實録にさへ、此(ノ)國號を添られたるは、いよゝ心得ずなむ、】然るを後(ノ)代の人の、返(リ)て是をたけき事に稱《ホメ》思ふは、いかにぞや、己《オノ》が心には、いとあかず、邊《ホトリ》ばみたる題號《ナ》とこそおもはるれ、【或人、此書は、漢國へも見せ給はむの意にて、名をもかくはつけられたるならむといへれども、決《キハメ》て然にはあらず、たとひ然るにても、外(ツ)國人に見せむことをしも、主《ムネ》として、名づけられむは、いよゝわろしかし、】さてその記《シル》されたる體《サマ》は、もはら漢のに似たらむと、勤《ツト》められたるまゝに、意も詞も、そなたざまのかざりのみ多くて、人の言語物《コトドヒモノ》の實《サネ》まで、上(ツ)代のに違《タガ》へる事なむ多かりける、まづ神代(ノ)卷の首《ハジメ》に、古(ヘ)天地未(ダ)v剖、陰陽不v分、渾沌(トシテ)如(シ)2鷄子(ノ)1云々、然(シテ)後(ニ)神聖生2其中1焉といへる、是《コ》はみな漢籍《カラブミ》どもの文《コトバ》を、これかれ取(リ)集(メ)て、書(キ)加(ハ)へられたる、撰者の私説《ワタクシゴト》にして、決《キハメ》て古(ヘ)の傳説《ツタヘゴト》には非ず、次に故日開闢之時《カレイハクアメツチノハジメノトキ》、洲壤浮漂《クニツチタダヨヒテ》、譬猶游魚之浮水上《ウヲノミヅニウカベルガゴトクナリキ》也云々とある、是ぞ實《マコト》の上(ツ)代の傳説《ツタヘゴト》には有ける、故曰とあるにて、それより上は、新《アラタ》に加《クハ》へられたる、潤色《カザリ》の文なること知られたり、若(シ)然らずは、此(ノ)二字は何《ナニ》の意ぞや、初《ハジメ》の説は、其(ノ)趣《オモムキ》すべてこざかしく、疑《ウタガヒ》もなき漢意にして、さらに/\皇國の上(ツ)代の意に非ず、古(ヘ)をよく考(ヘ)知れらむ人は、おのづから辨へつべし、そも/\天地の初發《ハジメ》のありさまは、誠に古傳説《イニシヘノツタヘゴト》の如くにぞ有けむを、いかなれば、うるさく言痛《コチタ》き異國《アダシクニ》のさかしら説《ゴト》を假《カ》り用ひて、先(ヅ)首《ハジメ》にしも擧《アゲ》られたりけむ、【纂疏の本を見れば、故曰を一曰とせり、もしこれ正しき本ならば、殊にいはれなし、其故は、異國の説を主として、御國の古傳をば、傍《カタハラ》になしたる記《シル》しざまなればなり、】凡《スベ》て漢籍《カラブミ》の説は、此(ノ)天地のはじめのさまなども何《ナニ》も、みな凡人《タダビト》の己が心もて、如此《カク》有(ル)べき理ぞと、おしあてに思(ヒ)定めて、作れるものなり、此間《ココ》の古(ヘノ)傳へは然らず、誰云出《タガイヒイデ》し言ともなく、たゞいと上(ツ)代より、語り傳へ來つるまゝなり、此(ノ)二つをくらべて見るに、漢籍の方は、理(リ)深《フカ》く聞えて、信に然こそ有けめと思はれ、古傳の方は、物げなく淺々《アサアサ》と聞ゆるからに、誰も彼(レ)にのみ心引れて、舍人親王《トネノミコ》をはじめ、世々の識者《モノシリビト》、今に至るまで、惑《マド》はぬはなし、かく人皆の惑ひ溺《オボ》るゝゆゑは、凡てからぶみの説といふ物は、かしこき昔の人どもの、萬(ヅ)の事を深く考へ、其理を求めて、我も人も實《マコト》に然こそと、信《ウク》べきさまに造り定めて、かしこき筆もて、巧《タクミ》にいひおきつればなり、然れども人の智《サトリ》は限(リ)のありて、實《マコト》の理は、得測識《エハカリシ》るものにあらざれば、天地の初《ハジメ》などを、如此《カク》あるべき理ぞとは、いかでかおしては知(ル)べきぞ、さる類のおしはかり説《ゴト》は、近き事すら、甚《イタ》く違ふが多かる物を、理をもて見るには、天地の始(メ)も終《ハテ》も、しられぬことなしと思ふは、いとおふけなく、人の智《サトリ》の限(リ)有(リ)て、まことの理(リ)は、測《ハカリ》知(リ)がたきことを、え悟《サト》らぬひが心得なり、凡て理のかなへりと思はるゝを以て、物を信《ウク》るはひがことなり、そのかなへるもかなはぬも、實《マコト》には凡人《タダビト》の知べきにあらず、其(ノ)説をなせる人も凡人《タダビト》、信《ウク》る心も几心《タダビトゴコロ》にしあれば、いかでかはまことによきあしきは辨へ知む、彼(ノ)國にいとこと/”\しくいはるゝ、聖人といふ人も、智はなほ限(リ)ありて、至らぬ處の多かるものを、ましてそれより智の後《オク》れたる人どものいひおきたる説どもは、いかでか信《ウケ》ひくに足《タラ》む、然るを世々の識者《モノシリビト》みな、さる臆度《オシアテ》の説にはかられて、是をえさとらず、此(ノ)潤色《カザリ》の漢文《カラコトバ》の處をしも、道の旨《ムネ》と心得居るこそ、いとも/\あさましけれ、彼(ノ)首《ハジメ》の文は、たゞかざりに加《クハ》へたる、序の如き物と見過《ミスグ》して有(ル)べきなり、次に乾道獨(リ)化(ス)、所以《コノユヱニ》成(セリ)2此(ノ)純男(ヲ)1、また乾坤(ノ)之道相參(テ)而化(ス)、所以(ニ)成(セリ)2此男女(ヲ)1とある、是(レ)らも撰者の心もて、新《アラタ》に加へられたる、さかしら文《コトバ》なり、其(ノ)故は、まづ乾坤などいふことは、皇國になきことにて、その古言なければ、古傳説《イニシヘノツタヘゴト》に非ること明らけし、もし古(ヘノ)傳(ヘ)ならむには、たゞに天地之道とこそあらめ、但しそはただ天地を乾坤と書れたる、文字の異《カハリ》のみなれば、なほゆるさるべけれど、此(ノ)神たちを、その乾坤の道によりて、化坐《ナリマセ》るさまに書れたるは、いたくまことの意に背《ソム》けり、此(ノ)神たちも、たゞ高御産巣日《タカミムスビノ》神|神産巣日《カミムスビノ》神の御靈《ミタマ》によりてこそ成坐《ナリマシ》けめ、然《シカ》成坐《ナリマセ》る理は、いかにとも測知《ハカリシル》べきにあらぬを、かしこげに乾坤の化などいひなすは、漢意《カラゴコロ》のひがことなるをや、又伊邪那岐(ノ)神を陽神、伊邪那美(ノ)神を陰神とかき、陰神先(ヅ)發2喜言(ヲ)1、既(ニ)違(フ)2陰陽(ノ)之理(ニ)1と書れたるも、漢意のひがことなり、大よそ世に陰陽の理といふもの有(ル)ことなし、もとより皇國には、いまだ文字なかりし代に、さること有(ル)べくもあらざれば、古(ヘノ)傳(ヘ)には、たゞ男神《ヲガミ》女神《メガミ》、女男之理《メヲノコトワリ》などとこそ有(リ)けむを、然《シカ》改《アラタ》めてかゝれたるは、たゞ字の異なるのみには非ず、いたく學問《モノマナビ》の害《サマタゲ》となることなり、其故は、なまさかしき人、此(ノ)文を見ては、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命と申す神は、たゞ假《カリ》に名を設けたる物にして、實《マコト》は陰陽造化をさしていへるぞと心得るから、或は漢籍《カラブミ》の易の理をもて説き、陰陽五行を以て説《トク》こととなれる故に、神代の事は、みな假《カリ》の作りことの如くになり、古傳説《イニシヘノツタヘゴト》、盡《コトゴトク》に漢意《カラゴコロ》に奪《ウバ》はれはてて、まことの道|立《タチ》がたければなり、そも/\撰者は、然《サ》ることまでには心もつかずて、たゞ文《コトバ》の漢《カラ》めくをよきこととして、かざりのみに書れたるべけれど、此(ノ)文どもは、後(ノ)代に至(リ)て、かくさま/”\の邪説《ヨコサマゴト》を招《マネ》く媒《ナカダチ》となりて、まことの道のあらはれがたき根本《モト》にぞ有ける、されどこの陰陽の理といふことは、いと昔より、世(ノ)人の心の底に深く染着《シミツキ》たることにて、誰も/\、天地の自然《オノヅカラ》の理にして、あらゆる物も事も、此(ノ)理をはなるゝことなしとぞ思ふめる、そはなほ漢籍説《カラブミゴト》に惑《マド》へる心なり、漢籍心《カラブミゴコロ》を清く洗《アラ》ひ去《サリ》て、よく思へば、天地はたゞ天地、男女《メヲ》はたゞ男女《メヲ》、水火《ヒミヅ》はたゞ水火《ヒミヅ》にて、おの/\その性質情状《アルカタチ》はあれども、そはみな神の御所爲《ミシワザ》にして、然るゆゑのことわりは、いともいとも奇靈《クスシ》く微妙《タヘ》なる物にしあれば、さらに人のよく測知《ハカリシル》べききはにあらず、然るを漢國人《カラクニビト》の癖《クセ》として、己がさかしら心をもて、萬の理を強《シヒ》て考へ求めて、此(ノ)陰陽といふ名を作(リ)設(ケ)て、天地萬物みな、此理の外なきが如く説《トキ》なせるものなり、【かくの如く陰陽はたゞ、漢人の作(リ)出たることにて、もと彼國のみの私説《ワタクシゴト》なるが故に、他國にはそのさだ無きこととおぼしくて、天竺の佛經論《ホトケブミ》を見るに、世界の始(メ)、又人(ノ)身などみな、地水火風の四大といふ物を以て説て、すべて陰陽五行などの説はあることなし、其文字はまれ/\には見ゆれども、そはたゞ漢語《カラコト》に譯《カヘ》たる、文章のうへのみの事とおぼしくて、實に其理をいへることはなし、すべて天竺は、漢にもまさりて、なほ言痛《コチタ》く物の理をいふ國なるすら、かくのごとくなるを以て、陰陽は漢國の私説なることをさとるべし、】そはもとかしこき人の、よく考へて作(リ)出(デ)たることにて、十に六(ツ)七(ツ)は當《アタ》れるが如くなる故に、世々の人皆これを信用《ウケモチヒ》て、疑《ウタガ》ふことなけれども、其陰陽は、又いかなる理によりて陰陽なるぞといはむに、其理は知(ル)ことあたはず、太極無極などいふこともあれども、それはたいかなる理にて太極無極なるぞといはむに、終《ツヒ》にその元《モト》の理は、知(リ)がたきに落《オツ》めれば、誠には陰陽も太極無極も、何《ナニ》の益もなきいたづら説《ゴト》にて、たゞいさゝか人の智の測知《ハカリシル》べき限(リ)の内の小《チヒサキ》理(リ)に、さま/”\と名を設けたるのみにぞ有ける、抑天照大御神は、日(ノ)神に坐《マシ》まして女神、月夜見(ノ)命は、月(ノ)神にして男神に坐《マシ》ます、是(レ)を以て、陰陽といふことの、まことの理にかなはず、古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》けることをさとるべし、然るを猶《ナホ》彼(ノ)理に泥《ナヅ》み惑《マド》ひて、返(リ)て此(レ)をさへ其理にかなへむと、強《シヒ》て説曲《トキマグ》るなどは、いふにも足《タラ》ぬことなりかし、さて又|美都波能賣《ミツハノメノ》神を罔象女、綿津見《ワタツミ》を少童とかゝれたる類も、漢にへつらひて、快《ココロヨ》からぬ書《カキ》ざまなり、かくて又神武(ノ)御卷に至ては、天皇の詔とて、是(ノ)時運屬2鴻荒(ニ)1、時鍾2草昧(ニ)1、故(ニ)蒙以養(ヒ)v正(ヲ)、治2此(ノ)西偏(ヲ)1、皇祖皇考、乃神乃聖、積v慶(ヲ)重v暉(ヲ)とあるたぐひ、意も語も、さらに上(ツ)代のさまにあらず、全《モハラ》潤色《カザリ》のために、撰者の作(リ)加(ハ)へられたる文なり、崇神(ノ)御卷に、詔曰、唯我皇祖諸天皇等、光2臨宸極(ニ)1者(ハ)、豈爲(ナラムヤ)2一身(ノ)1乎云々、不2亦可1乎、これも同じ、大かた御代御代《ミヨミヨ》の詔詞《ミコトノリノコトバ》、此(ノ)類なるは、上(ツ)代の卷々なるは、潤色《カザリ》に加(ハ)へられたる物と見えたり、故(レ)いかにとも古言に訓《ヨミ》がたき處の多きなり、餘《ホカ》も准《ナズラ》へて知べし、續紀には、古語の詔【いはゆる宣命なり、】と漢文の詔とを、別に載られたるを見るに、平城《ナラ》の御代に至てすら、古語の詔(ノ)詞には、漢《カラ》めきたることは、をさ/\見えざるを思へば、まして上(ツ)御代御代のは、おしはかられて、かの古語の詔詞の如くにて、なほ古(ル)かりけむを、此(ノ)書紀の詔詞どもは、さらに古(ル)めかしきことはなくて、ひたぷるに漢の意《ココロ》言《コトバ》なるをや、又神武(ノ)御卷に、天皇の大御言に、戰勝(テ)而無(キハ)v驕(ルコト)者、良將(ノ)之行也とある、大方如此《カクノゴト》く、さかしく漢めきたる語どもは、皆かざりと聞ゆ、凡て言語は、其世々のふり/\有て、人のしわざ心ばへと、相協《アヒカナ》へる物なるに、書紀の人の言語は、上(ツ)代のありさま、人の事態《シワザ》心ばへに、かなはざることの多かるは、漢文のかざりの過《スギ》たる故なり、又同じ大御言とて、今我(レハ)是(レ)日(ノ)神(ノ)子孫(ニシテ)、而向(テ)v日(ニ)征v虜(ヲ)、此(レ)逆2天(ノ)道(ニ)1也、【此(ノ)御言、此記には、たゞ向(テ)v日(ニ)而戰(フコト)不良とあり、】また頼(テ)2以皇天(ノ)之威(ニ)1、凶徒就v戮(ニ)云々【不亦可乎といふまで、此文すべて漢意なり、】といひ、また獲2罪(ヲ)於天(ニ)1、などとある類の天は、もはら漢籍意《カラブミゴコロ》の天にして、古(ヘノ)意にそむけり、【天命天心天意天禄などあるたぐひみな同じ、】いかにといふに、天はたゞ虚空《ソラ》の上方《ウヘ》に在《アリ》て、天(ツ)神のまします御國なるのみにして、心も魂《ミタマ》もある物にあらず、然れば天(ノ)道といふこともなく、皇天之威などいふべくもあらず、罪を獲《ウ》べき由もなし、然るを天に神靈《ミタマ》あるが如くいひなして、人の禍《ワザハヒ》福《サイハヒ》も何《ナニ》も、世(ノ)中の事はみな、その所爲《シワザ》とするは、漢國のことにて、ひがことなるを、【續紀の宣命に、天地の心と見え、萬葉の歌に、天地のなしのまに/\などよめるも、奈良のころにいたりては、既に漢意のうつりて、古(ヘノ)意にたがへることもまじれるなり、外國《トツクニ》には、萬(ヅ)の事をみな天といふは、神代の正しき傳説《ツタヘゴト》なくして、世(ノ)中の事はみな、神の御所爲《ミシワザ》なることをえしらざるが故なり、天帝或は天之主宰などいふなるは、神を指《サス》に似たれども、これらもまことに神あることを知ていへるにはあらず、たゞ假《カリ》の名にして、實は天の理もていへるなれば、天神とは異なり、かの皇天とある字を、|アメノカミ〔付○圏点〕と訓るは、皇天にては、古意にかなはず、かならず天神とあるべき處《トコロ》なることを辨へたるなれば、此(ノ)訓は宜し、されど此(ノ)訓によりて、皇天即(チ)天神と心得むは、ひがことなり、凡て書紀を看《ミ》むには、つねに此(ノ)差《ケヂメ》をよく思ふべき物ぞ、よくせずば漢意に奪はれぬべし、】ひたぶるに漢文のかざりを旨《ムネ》とせられつるから、かゝる違《タガヒ》はあるなり、漢意に惑へる後(ノ)世(ノ)人、此(ノ)差別《ケヂメ》をえしらず、是(レ)らの文を見ては、返(リ)て天(ツ)神と申すは、假《カリ》の名にして、即(チ)天のことぞと心得めれば、こは殊に学問《モノマナビ》の害《サマタゲ》となる文なり、【天(ツ)神は、正しく人などの如く、現身《ウツシミミ》まします神なり、漢意の天の如く、空《ムナ》しき理を以ていへる假名《カリノナ》には非ず、天神と申す御稱《ミナ》の天は、その坐《マシ》ます御國をいへるのみにして、神即(チ)天なるにはあらず、】綏靖(ノ)御卷に、天皇風姿岐嶷、少有2雄拔之氣1、及(テ)v壯(ニ)容貌魁偉、武藝過v人(ニ)、而志尚沈毅といひ、崇神(ノ)御卷に、天皇識性聰敏、幼好2雄略1既壯寛博謹愼云々、などいへる類の文も、古(ヘノ)傳(ヘ)の有しを、漢字にうつして書れたるにはあらず、上(ツ)代のはたゞ、其(ノ)御代の御所行《ミシワザ》によりて、多くは撰者のかざりに加《クハ》へられたる物と見ゆ、又應神(ノ)御卷に、淡路嶋の事を、峯巖紛錯、陵谷相續、芳草薈蔚、長瀾潺湲といひ、雄略(ノ)御卷に馬を稱《ホメ》て、※[さんずい+獲の旁]略而龍※[者/羽]、※[炎+欠]聳擢而鴻驚、異體峯生、殊相逸發、といへるたぐひなども、潤色過《カザリスギ》ていとうるさき漢文《カラコトバ》なり、又神武御卷に、弟猾大(ニ)設(テ)2牛酒(ヲ)1、以勞2饗皇師(ヲ)1焉、崇神(ノ)御卷に、蓋《ナゾ》d命2神龜(ニ)1、以極(メ)c致(ス)v災(ヲ)之所由(ヲ)u也、これらの文、かざりによりて實《マコト》を失《ウシナ》ひ、いたく害《サマタゲ》となれり、皇国には上(ツ)代といへども、牛《ウシ》を食《クラ》へることなく、又|卜《ウラ》に龜を用ひたることも、古(ヘ)はなき事なるをや、【牛酒神龜など書れたるは、撰者の意は、たゞ漢文の潤色のみなれども、後(ノ)人は、これを實と思ふ故に、學問の害となるなり、牛を食ひ、卜に龜を用るなどは、外國の俗にこそあれ、】景行(ノ)御卷、倭建(ノ)命の、東國《アヅマノクニ》言向《コトムケ》に幸行《イデマシ》なむとする處に、天皇持(テ)2斧鉞(ヲ)1、以授(テ)2日本武(ノ)尊(ニ)1曰(ク)云々、すべて古(ヘ)かゝる時にも、矛劔《ホコタチ》などをこそ賜ひつれ、斧鉞を賜へる事はさらになし、故(レ)これも、此記に給(フ)2比々羅木之八尋矛《ヒヒラギノヤヒロボコヲ》1とあるぞ、實《マコト》なりけるを、強《シヒ》て漢《カラ》めかさむとて、斧鉞とは書れたるなり、語《コトバ》をかざれるは、なほゆるさるゝかたもありなむを、かく物《モノ》をさへに替《カヘ》て書れたるは、あまりならずや、なほ此(ノ)類あり、看《ミ》む人心すべし、又繼體天皇の、未《イマダ》越前《コシノミチノクチ》の三國《ミクニ》に大坐々《オホマシマシ》しを、臣連等《オミムラジタチ》相議《アヒハカリ》て、迎(ヘ)奉(リ)て、天津日嗣|所知看《シロシメサ》しめむとせしを、謝《イナ》び賜へる處に、男大迹《ヲホトノ》天皇、西(ニ)向(テ)讓(ルコト)者|三《ミタビ》、南(ニ)向(テ)讓(ルコト)者|再《フタタビ》とある、そのかみかゝる事《ワザ》あるべくもあらず、此(ノ)前後《アタリ》の文は、すべて漢籍《カラブミ》にあるを、そのまゝに取《トラ》れたるなり、抑かく人の事態《シワザ》まで造《ツク》りかざりて、漢《カラ》めかされたるはいかにぞや、又綏靖天皇元年、春正月壬申朔己卯云々、尊(テ)2皇后(ヲ)1曰2皇大后(ト)1とあるたぐひ、【此(レ)より次の御代々々も、みな此例に記されたり、】上(ツ)代のさまにはあらず、いかにといふに、まづ上(ツ)代には、大后《オホギサキ》とは、當代《ソノミヨ》の嫡后を申し、大御母《オホミハハ》命をば、大御祖《オホミオヤ》と申せればなり、【此事、中卷|白梼原《カシバラノ》宮(ノ)段に委くいふべし、古(ヘ)によらば、皇后を意富岐佐伎《オホギサキ》、皇大后をは意富美意夜《オホミオヤ》と訓べし、皇大后を意富岐佐伎《オホギサキ》と訓てはかなはず、】さて皇后《オホギサキ》を、其(ノ)御子の御世に至(リ)て、改めて際《キハ》やかに皇大后《オホミオヤ》と御號《ミナ》づけ奉り賜はむことも、上(ツ)代のさまには非ず、大御母命は、元《モト》より大御親《オホミオヤ》に坐《マセ》ばなり、【上(ツ)代には、語をおきて、文字はなければ、外に皇大后と申すべき御號《ミナ》はなきをや、】凡てかゝる御號《ミナ》を、きはやかに改めらるゝなどは、もと漢《カラ》國の事なり、且《ソノウヘ》某《ソノ》年月日と、月日まで記されたるは、まして漢《カラ》なり、すべて上(ツ)代の事に月日をいへるは、猶《ナホ》別に論《アゲツラヒ》あり、抑書紀の論ふべきことどもは、なほ種々《クサグサ》多かれども、今はたゞ漢籍意《カラブミゴコロ》の潤色文《カザリコトバ》の、古學《イニシヘマナビ》の害《サマタゲ》となりぬべきかぎりの言《コト》を、これかれ引出て、辨へ論へるなり、此《コノ》同類《オナジタグヒ》の言は、みな准《ナズラ》へてさとるべし、すべて漢意《カラゴコロ》の説《コト》は、理《コトワリ》深《フカ》げにて、人の心に入(リ)やすく、惑ひやすき物なれば、彼(ノ)紀を看《ミ》む人、つねに此意をなわすれそゆめ、

〇書紀を訓讀《ヨム》こといとかたし、いかにといふに、まづ上(ノ)件に論へる如く、漢籍《カラブミ》のふりをならひて、其(ノ)かざりの文多ければなり、これを文のまゝに訓まむには、字音などをもまじへて、もはらからぶみを讀《ヨム》ごとくによむべきさまなれども、又をり/\は訓注を加《クハ》へて、古言を顯《アラハ》されたることもあるを思へは、然《シカ》ひたぶるに漢籍の如く讀(ム)べきにも非ず、然らば全《マタ》く古言によまむとするには、さらにさは訓(ミ)がたき處おほく、又其字の意を得て、強《シヒ》てよむときは、言は皇國の言になりても、その連接《ツヅキ》と意とは、なほ漢なること多し、然れば全く古言古意に訓(マ)むとならば、さらに文に拘《カカハ》らず、字にすがらず、たゞ其所《ソコ》のすべての意をよく思(ヒ)て、古事記萬葉の語の格《サマ》をよく考へて訓べし、然せむには、十字二十字などをも、みながら捨《ステテ》て讀(ム)まじき處々なども有(ル)べきなり、さはあれども、今(ノ)世(ノ)人は、おのづから又今の癖《クセ》のある物なれば、さまで上(ツ)代の意言を、いさゝかも違へず、つばらかにさとり明らめむことも、え有(リ)がたかるべきわざにしあれば、かにかくにうるはしくは訓(ミ)得がたき書なりかし、さて今(ノ)本の訓は、あるべき限(リ)は、古言に訓たる物にして、【此記にあることは、多く其言にならひてよめり、】古き言ども是(レ)にのこれる多し、されども漢文のかざりの處などは、其文のまゝに、字にすがりて訓る故に、さらに古(ノ)意にあらずして、言のつゞきざまなども、もはら漢籍訓《カラブミヨミ》なり、此(ノ)意を思ひて看《ミ》べし、

 

     舊事紀といふ書の論

 

世に舊事本紀と名づけたる、十卷の書あり、此《コ》は後(ノ)人の僞り輯《アツ》めたる物にして、さらにかの聖徳太子命《シヤウトクノミコノミコト》の撰《エラ》び給し、眞《マコト》の紀《フミ》には非ず、【序も、書紀(ノ)推古(ノ)御卷の事に據《ヨリ》て、後(ノ)人の作れる物なり、】然れども、無き事をひたぶるに造りて書るにもあらず、たゞ此(ノ)記と書紀とを取(リ)合せて、集《アツ》めなせり、其《ソ》は卷を披《ヒラ》きて一たび見れば、いとよく知(ラ)るゝことなれど、なほ疑はむ人もあらば、神代の事《コト》記せる所々を、心とゞめて看《ミ》よ、事|毎《ゴト》に此記の文と書紀の文とを、皆|本《モト》のまゝながら交《マジ》へて擧《アゲ》たる故に、文體《コトバツキ》一つ物ならず、諺《コトワザ》に木に竹を接《ツゲ》りとか云が如し、又此記なるをも書紀なるをも、ならべ取(リ)て、一(ツ)事の重《カサ》なれるさへ有て、いと/\みだりがはし、すべて此記と書紀とは、なべての文のさまも、物(ノ)名の字《モジ》なども、いたく異《コト》なるを、雜《マジ》へて取れれば、そのけぢめいとよく分れてあらはなり、又|往々《ヲリオリ》古語拾遺をしも取れる、是(レ)も其文のまゝなれば、よく分れたり、【これを以て見れは、大同より後に作れる物なりけり、さればこそ中に、嵯峨(ノ)天皇と云ことも見えたれ、】かくて神武天皇より以降《こなた》の御世々々は、もはら書紀のみを取て、事を略《はぶき》てかける、是(レ)も書紀と文|全《また》く同じければ、あらはなり、且《そのうへ》歌はみな略《はぶ》けるに、いかなればか、神武(ノ)御卷なるのみをば載《のせ》たる、假字《かな》まで一字《ひともじ》も異《こと》ならずなむ有(ル)をや、さて又|某《なにの》本紀|某《くれの》本紀とあげたる、卷々の目《な》どもも、みなあたらず、凡て正《ただ》しからざる書なり、但し三の卷の内、饒速日《ニギハヤビノ》命の天より降り坐(ス)時の事と、五の卷尾張(ノ)連物部(ノ)連の世次《ヨツギ》と、十の卷國造本紀と云(フ)物と、是等《コレラ》は何《イヅレノ》書《フミ》にも見えず、新《アラタ》に造れる説《コト》とも見えざれば、他《ホカ》に古書ありて、取れる物なるべし、【いづれも中に疑はしき事どもはまじれり、そは事の序《ツイデ》あらむ處々に辨ふべし、】さればこれらのかぎりは、今も依(リ)用ひて、助《タス》くることおほし、又此記の今(ノ)本《マキ》、誤字《アヤマレルモジ》多きに、彼(ノ)紀には、いまだ誤らざりし本《マキ》より取れるが、今もたま/\あやまらである所なども稀《マレ》にはある、是(レ)もいさゝか助《タスケ》となれり、大かたこれらのほかは、さらに要《エウ》なき書なり、【〇舊事大成經といふ物あり、此《コ》は殊に近き世に作(リ)出たる書にして、こと/”\く僞説《イツハリゴト》なり、又神別本紀といふものも、今あるは、近(キ)世(ノ)人の僞造《イツハリツク》れるなり、そのほか神道者といふ徒《トモガラ》の用る書どもの中に、これかれ僞(リ)なるおほし、古學《イニシヘマナビ》をくはしくして見れば、まこといつはりは、いとよく分るゝ物ぞかし、】

 

     記《フミノ》題號《ナ》の事

                                   古事記と號《ナヅ》けられたる所以《ユヱ》は、古(ヘ)の事をしるせる記《フミ》といふことなり、書紀に、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の御代に、かの川嶋(ノ)皇子|等《ナド》に仰せて、國史を撰ばしメらるゝ事を記されたる處に、記(シ)2定(メシム)帝紀及上古(ノ)之諸事(ヲ)1とある、此(ノ)語即(チ)今の題號《ナ》の意と同じ、然《サ》て此題號は、かの書紀のごと、國號を標《アゲ》ず、押出《オシイダ》してたゞ古事と云る、うけばりていと貴《タフト》し、異國《アダシクニ》を邊《ヘ》つらひ思はず、天地の極《キハ》み、たゞ天(ツ)神(ノ)御子の所知看食國《シロシメスヲスクニ》の外なき意にかなへればなり、【撰者の意は、さることまでを思ひいぇなづけたるにはあらざるめれども、おのづから此意にかなひて、めでたきなり、】大御國の物學《モノマナビ》せむともがらは、何事にも、常《ツネ》此こゝろばへを忘《ワス》るまじきものなり、又卷の分《ワカ》ちざまも、漢籍の例に、かゝはらずて、上卷中卷下卷といへる、これはためでたし、【卷(ノ)上卷(ノ)中卷(ノ)下といはむは、漢《カラ》ざまなり、又卷之一巻第一などいふも漢なり、それも一之卷《イチノマキ》二之卷《ニノマキ》などとこそいふべけれ、マキノツイデヒトツ、又はヒトマキニアタルマキなどよむは、中々に皇國の物言《モノイヒ》ざまにはうとし、】さて日本紀をば、夜麻登夫美《ヤマトブミ》と訓(ム)を、此記の題號は、訓《ヨミ》あることも聞えず、本より撰者の心にも、たゞ字音《モジゴヱ》に讀《ヨメ》とにや有(リ)けむ、されど彼(ノ)夜麻登夫美《ヤマトブミ》の例に傚《ナラ》はば、布琉許登夫美《フルコトブミ》とぞ訓《ヨマ》まし、上卷は迦美都麻伎《カミツマキ》、中卷は那加都麻伎《ナカツマキ》、下卷は斯母都麻伎《シモツマキ》と訓べし、

 

     諸本又注釋の事

 

此記、今世に流布《ホドコ》れる本《マキ》二(ツ)あり、其一(ツ)は、寛永のころ板《イタ》に彫《ヱ》れる本《マキ》にて、字《モジ》の脱《オチ》たる誤れるなどいと多く、又訓も誤れる字のまゝに附《ツケ》たる所は、さらにもいはず、さらぬ所も、凡ていとわろし、今一(ツ)は、其後に伊勢の神官《カムヅカサ》なる、度會(ノ)延佳てふ人の、古本《フルキマキ》など校《カムガヘ》て、改(メ)正して彫《ヱラ》せたるなり、此《コレ》はかの脱《オチ》たる字をも誤れるをも、大かた直《ナホ》して、訓もことわり聞ゆるさまに附《ツケ》たり、されど又まゝには、己がさかしらをも加《クハ》へて、字をも改めつと見えて、中々なることもあり、此(ノ)人すべて古語をしらず、たゞ事の趣《オモムキ》をのみ、一わたり思ひて、訓(メ)れば、其訓は、言も意も、いたく古にたがひて、後(ノ)世なると漢《カラ》なるとのみなり、さらに用ふべきにあらず、かくて右の二(ツ)をおきて、古(キ)本はいとまれらにて、今はいと/\得がたきを、己《オノレ》さきにからくして一部《ヒトツ》得て見つるに、誤(リ)はなほいと多《サハ》になむ有ける、近きころ又、かの延佳が、はじめに異本《コトマキ》どもを比校《クラベミ》て、これもかれも書(キ)入(レ)たる本を寫したる本、又京の村井氏【敬義】が所藏《モタ》る古き本をも見るに、此(レ)らはた殊なることもなくて、誤のみ多く、村井がは、大かた舊《フル》き印本《ヱリマキ》にぞ近かりける、其後又、尾張(ノ)國名兒屋なる眞福寺といふ寺【俗に大洲の觀音といふ、】に、昔より傳へ藏《ア》る本を寫せるを見るに、こは餘《ホカ》の本どもとは異《コト》なる、めづらしき事もをり/\あるを、字の脱《オチ》たる誤れるなどは、殊にしげくぞある、かゝればなほ今(ノ)世には、誤なき古(ヘノ)本は、在《アリ》がたきなりけり、されど右の本どもも、これかれ得失《ヨキアシキ》ことは互《タガヒ》に有(リ)て、見合(ハ)すれば、益《タスケ》となること多し、

〇此記、むかしより註釋あることをきかず、たゞ元々集といふ物に、或記(ニ)云(ク)【古事記釋】云々、また古事記(ノ)釋註(ニ)曰(ク)云々とあるは、むかし釋註といふもの有しにこそ、そは誰《タガ》作《ツク》れりしにか、其名だに他《ホカ》には見えず、まして今は聞えぬ物なり、【或《アル》僞書《イツハリブミ》に、此記の註とて、名を作りて、引たることあれど、そらごとなれば、いふにたらず、】

 

     文體《カキザマ》の事

 

すべての文、漢文の格《》サマに書れたり、抑此記は、もはら古語を傳ふるを旨《ムネ》とせられたる書なれば、中昔《ナカムカシ》の物語文などの如く、皇國の語のまゝに、一もじもたがへず、假字書《カナガキ》にこそせらるべきに、いかなれば漢文にほ物せられつるぞといはむか、いで其ゆゑを委曲《ツバラカ》に示さむ、先(ヅ)大御國にもと文字はなかりしかば、【今神代の文字などいふ物あるは、後(ノ)世人の僞作《イツハリ》にて、いふにたらず、】上(ツ)代の古事《フルコト》どもも何《ナニ》も、直《タダ》に人の口《クチ》に言(ヒ)傳へ、耳に聽《キキ》傳はり來《キ》ぬるを、やゝ後に、外國《トツクニ》より書籍《フミ》と云(フ)物|渡參來《ワタリマヰキ》て、【西土《ニシグニ》の文字の、始(メ)て渡(リ)參來《マヰキ》つるは、記に應神天皇の御世に、百濟《クダラ》の國より、和邇吉師てふ人につけて、論語と千字文とを貢《タテマツリ》しことある、此時よりなるべし、なほ懷風藻の序などにも、此おもむき見えたれば、奈良のころも、然言(ヒ)傳へたるなるべし、それよりさきにも、外國《トツクニ》人の參入《マヰリ》しは、書紀に崇神天皇の御世に始(メ)て彌摩那《ミマナノ》國人又垂仁天皇の御世に、新羅《シラギノ》國主(ノ)子|天之日矛《アメノヒボコ》などあれども、書籍《フミ》はいまだ渡らざりけむ、そも/\異國《アダシクニ》とこと通《カヨ》ふことは、漢國《カラクニ》の書には、かのくにの漢《カン》といひし代より、御國の使、かしこに至れりつと云へれども、皇朝《ミカド》にはさらにしろしめさぬ事にして、此《コ》はくさ/”\論ひ有て、別にしるせり、彼(ノ)國ノ大御使を遣《ツカ》はししは、遙《ハルカ》の後、推古天皇の御世ぞ始(メ)なりける、又韓の國々の、したしく仕(ヘ)奉(リ)しことは、神功皇后の、かの國|言向坐《コトムケマシ》しよりの事なれば、書籍《フミ》のわたり來《コ》しも、決《ウツナ》くかの和邇がまゐりこし時よりのこととぞ思はるゝ、然るに神武天皇の御時よりも、既《ハヤ》く文字は有しごと思ふ人もあれど、そは書紀を一わたり見て、かのかざり多かることを、よくも考へず、文のまゝに意得るから、さも思ふぞかし、】其《ソ》を此間《ココ》の言もて讀(ミ)ならひ、その義理《ココロ》をもわきまへさとりてぞ、【書紀に、應神天皇十五年、太子の、百濟の阿直岐又|王仁《ワニ》に、經典をならひて、よくさとり賜へりしこと見えたり、】其(ノ)文字《モジ》を用ひ、その書籍《フミ》の語《コトバ》を借《カリ》て、此間《ココ》の事をも書記《カキシル》すことにはなりぬる、【書紀(ノ)履中(ノ)卷、四年云々|首《ハジメ》に引るがごとし、】されどその書籍《フミ》てふ物は、みな異國《アダシクニ》の語にして、此間《ココ》の語とは、用格《ツカヒザマ》もなにも、甚《イタ》く異《コト》なれば、その語を借(リ)て、此間《ココ》の事を記すに、全《マタ》く此間《ココ》の語のまゝには、書(キ)取(リ)がたかりし故に、萬(ノ)事、かの漢文の格《サマ》のまゝになむ書(キ)ならひ來《キ》にける、故(レ)奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間《ココ》の語の隨《ママ》なるは、をさ/\見えず、萬葉などは、歌の集《フミ》なるすら、端辭《ハシノコトバ》など、みな漢文なるを見てもしるべし、かの物語|書《ブミ》などのごとく、こゝの語のまゝに物|言《カク》事は、今(ノ)京になりて、平假字《ヒラガナ》といふもの出來ての後に始まれり、但し歌と祝詞《ノリト》と宣命詞《ミコトノリノコトバ》と、これらのみは、いと古(ヘ)より、古語《フルコト》のまゝに書(キ)傳へたり、これらは言《コト》に文《アヤ》をなして、麗《ウルハシ》くつゞりて、唱《トナ》へ擧《アゲ》て、神にも人にも聞感《キキメデ》しめ、歌は詠《ナガ》めもする物にて、一字《ヒトモジ》も違《タガ》ひては惡《アシ》かる故に、漢文には書がたければぞかし、故(レ)歌は、此記と書紀とに載《ノ》れる如くに、字の音をのみ假《カリ》てかける、これを假字《カナ》といへり、【假字《カナ》とは加理那《カリナ》なり、其字の義《ココロ》をばとらずて、たゞ音のみを假《カリ》て、櫻を佐久羅《サクラ》、雪を由伎《ユキ》と書たぐひなり、那《ナ》は字といふことなり、字を古(ヘ)名《ナ》といへり、さて古(ヘ)の假字《カナ》は、凡て右の佐久羅《サクラ》由伎《ユキ》などの如く書るのみなりしを、後に、書(ク)に便《タヨリ》よからむために、片假字《カタカナ》といふ物を作れり、作れる人はさだかならず、吉備大臣《キビノオホオミ》などにぞありけむ、かくて是(レ)を片假字と名《ナヅ》けしゆゑは、本よりの假字のかたかたを略《ハブキ》て、伊をイ、利をリと、片《カタカタ》をかくが故なり、此(ノ)名は、うつほの物語(ノ)藏開《クラビラキノ》巻|國禅《クニユヅリノ》卷、又狹衣(ノ)物語などにも見えたり、さて此(ノ)片假字もなほ眞書にて、婦人《ヲミナ》兒童《ワラハベ》などのため、又歌など書(ク)にも、なごやかならざるゆゑに、又草書をくづして、平假字《ヒラガナ》)を作れり、是(レ)も其人はさだかならねど、花鳥餘情に、弘法大師これを作るとあり、世にも然いひつたへたり、さもありぬべし、さてこれを平假字といふは、片假字に對《ムカ》へてなり、されど此(ノ)名は、古き物には見あたらず、】祝詞《ノリト》宣命《ミコトノリ》は、又|別《コト》に一種《ヒトクサ》の書法《カキザマ》ありて、世に宣命書《セムミヤウガキ》といへり、【祝詞は、延喜式にあまた載《ノセ》られて、八の卷その卷なり、宣命は、續紀よりこなた、御代々々の紀に多く記されたり、】おほかたこれらの餘《ホカ》、かならず詞を文《アヤ》なさずても有(ル)べきかぎりは、みな漢文にぞ書《カケ》りける、【故(レ)そのならひのうつりて、漸(ク)に此方《ココ》の詞つゞけも、おのづから漢文ざまになりぬることおほし、かの宣命祝詞のたぐひすら、後々のは、たゞ書(キ)ざまのみ古(ヘ)のまゝにて、詞は漢なることのみぞ多かる、凡て後(ノ)世にくだりては、漢文の詞つきを、返(リ)て美麗(ウルハ)しと聞て、皇國の雅言《ミヤビゴト》の美麗《ウルハシ》きをば、たづぬる人もなくなりぬるは、いとも/\悲しきわざなりけり、】かゝれば此記を撰定《エラ》ばれつるころも、歌祝詞宣命 などの余《ホカ)には、いまだ仮字文《カナブミ》といフ書法《カキザマ》は無《ナ》かりしかばmなべての世間《ヨ》のならひのまゝに、漢文には書《カカ》れしなり、さて然《シカ》漢文を以て書(ク)に就《ツキ》ては、そのころ其(ノ)学問|盛《サカリ》にて、そなたざまの文章をも、巧《タクミ》にかきあへる世なれば、是(レ)も書紀などの如く、其文をかざりて物せらるべきに、さはあらで、漢文のかたは、たゞありに拙《ツタナ》げなるは、ひたぶるに古(ノ)語を傳ふることを旨《ムネ》とせる故に、漢文の方には心せざる物なり、【撰者の、漢文かくことの拙《ツタナ》かりしにはあらず、序(ノ)文とくらべ見よ、序こそ、彼(ノ)人のからぶみ力《ヂカラ》のかぎりとは見ゆめれ、】故(レ)字の意にもかゝはらず、又その置處《オキドコロ》などにも拘《カカハ》らざるところ多かりかし、又序に、全(ク)以(テ)v音(ヲ)連(ヌレバ)者、事(ノ)趣更(ニ)長(シ)、是(ヲ)以(テ)今或(ハ)一句(ノ)之中、交(ヘ)2用(ヒ)音訓(ヲ)1、或(ハ)一事(ノ)之内、全(ク)以(テ)v訓(ヲ)録(ス)、とあるをもて見れば、全く仮字|書《ガキ》の如くにもせまほしく思はれけむ、撰者の本意《ココロ》しられたり、故(レ)大体《オホカタ》は漢文のさまなれども、又ひたぶるの漢文にもあらず、種々《クサグサ》のかきざま有て、或は仮字書(キ)の處も多し、久羅下那洲多陀用幣流《クラゲナスタダヨヘル》などもあるが如し、又宣命書の如くなるところもあり、在祁理《アリケリ》、また吐散登許曾《ハキチラストコソ》などの如し、又漢文ながら、古語(ノ)格《サマ》」ともはら同じきこともあり、立《タタシ》2天浮橋《アマノウキハシニ》1而《テ》指2下《サシオロシ》其《ソノ》沼矛《ヌホコヲ》1【立(ノ)字又指下(ノ)二字を、上に置るほ、漢文なり、されど尋常《ヨノツネ》のごとく字のまゝに讀て、古語に違ふことなし、】などの如し、又漢文に引(カ)れて、古語のさまにたがへる處も、をり/\は無きにあらず、名(ケテ)2其(ノ)子(ヲ)1云(フ)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とあるたぐひ、古語にかゝば、其(ノ)子(ノ)名(ヲ)云(フ)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とか、其(ノ)子(ヲ)名(ク)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とか有(ル)べし、此(レ)謂(フ)2之(ヲ)神語(ト)也とある、之(ノ)字の添《ソヒ》たるは、古語にたがへり、更(ニ)往(キ)廻(リタマフコト)其(ノ)天(ノ)之御柱(ヲ)1如(シ)v先(キノ)、これらも如(シ)v先(ノ)てふ言の置所《オキドコロ》、此方《ココ》の語とたがへり、更(ラニ)其(ノ)天(ノ)之御柱(ヲ)如《ゴト》v先(キノ)往(キ)廻(リタマフ)といふぞ、此方《ココ》の語《コトバ》つゞけなる、此(ノ)類(ヒ)心をつくべきことなり、よくせずば漢文に惑《マド》ひぬべし、又懷妊臨v産、或は不v得v成v婚、或は足v示2後世1、或は不v得v忍2其兄1などの類は、ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず、但(シ)かくさまの文といへども、ことさらに好《コノ》みてにはあらざるめれど、當時《ソノカミ》物書(ク)には、なべて漢文のみになれぬるから、とりはづしては、おのづからかゝることも雜《マジ》れるなるべし、【古(ヘ)仮字文の例なくして、漢文にのみ物をかきなれたるゆゑなり、仮字文かくこと始まりて後の、物語文などには、かへりてかくの如き詞つきなる文はなきをもてしるべし、】又庶兄嫡妻人民國家などのたぐひの文字も、此方《ココ》の言には疎《ウト》けれど、これらは殊に世に用《ツカ》ひなれたるまゝなるべし、山海晝夜などの類も、此方《ココ》には海山《ウミヤマ》夜晝《ヒル》といへども、これはた書(キ)なれたるまゝなり、さて又古言を記《シル》すに、四種《ヨクサ》の書(キ)ざまあり、一(ツ)に」は假字書《カナガキ》、こは其言をいさゝかも違《タガ》へざる物なれば、あるが中にも正《タダ》しきなり、二(ツ)には正字《マサモジ》、こは呵米《アメ》を天、都知《ツチ》を地と書(ク)類にて、字の義《ココロ》、言の意に相當《アヒアタリ》て、正しきなり、【但し天は阿麻《アマ》とも曾良《ソラ》とも訓(ム)べく、地は久爾(クニ)とも登許呂《トコロ》とも訓べきが故に、言の定まらざることあり、故(レ)假字書の正しきには及ばず、されど又、言の意を具《ソナ》へたるは、假字書にまされり、】其(ノ)中に、股《マタ》に俣と書(キ)、【こは漢國籍《カラクニブミ》になき文字なり、】橋に椅(ノ)字を用ひ、【こは橋の義《ココロ》なき字なり、】蜈※〔虫+松〕呉公と作《カケ》る【こは偏《ヘム》を省《ハブ》ける例なり、】たぐひは、正字ながら別《コト》)なるものにして、又|各《オノオノ》一種《ヒトクサ》なり、【其由どもは、各其處々にいふべし、】三(ツ)には借字《カリモジ》、こは字の義《ココロ》を取らず、たゞ其(ノ)訓《ヨミ》を、異意《アダシココロ》に借(リ)て書(ク)を云(フ)、序に、因(テ)v訓(ニ)述(ブレバ)者、詞不v逮(バ)v心(ニ)とある是(レ)なり、神(ノ)名人(ノ)名地(ノ)名などに殊におほし、其(ノ)餘《ホカ》のたゞの言にも、まれには用ひたり、平城《ナラ》のころまでは、凡て此(ノ)借(リ)字に書る、常の事にて、云(ヒ)もてゆけば、假字《カナ》と同じことなるを、後(ノ)世になりては、たゞ文字にのみ心をつくる故に、これをいふかしむめれど、古(ヘ)は言を主《ムネ》として、字にはさしも拘《カカハ》らざりしかば、いかさまにも借(リ)てかけるなり、四(ツ)には、右の三種《ミグサ》の内を、此(レ)彼(レ)交《マジ》へて書るものあり、さて上(ノ)件(リ)の四くさの外に又、所由《ヨシ》ありて書ならへる一種《ヒトクサ》あり、日下《クサカ》春日《カスガ》飛鳥《アスカ》大神《オホミワ》長谷《ハツセ》他田《ヲサダ》三枝《サキクサ》のたぐひ是(レ)なり、

 

     假字《カナ》の事

 

此記に用ひたる假字のかぎりを左にあぐ、

ア※〔□で囲む〕阿 此(ノ)外に、延佳本又一本に、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、亞亞《アア》といふ假字あれども、誤字《アヤマレルモジ》と見えたり、其由ほ彼處《ソコ》に辨《ワキマフ》べし、

イ※〔□で囲む〕伊

ウ※〔□で囲む〕宇※〔さんずい+于〕 此(ノ)中に、※〔さんずい+于〕(ノ)字は、上卷|石屋戸(イハヤドノ)段に、伏《フセ》2※〔さんずい+于〕氣《ウケ》1、とたゞ一(ツ)あるのみなり、

エ※〔□で囲む〕延愛 此(ノ)中に、愛(ノ)字は、上卷に愛袁登古《エヲトコ》愛袁登賣《エヲトメ》、また神(ノ)名|愛比賣《エヒメ》などのみなり、

オ※〔□で囲む〕淤意隱 此(ノ)外に、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、於志弖流《オシテル》と、たゞ一(ツ)於(ノ)字あれども、一本に淤とあれば、後の誤(リ)なり、隱(ノ)字は、國(ノ)名|隱伎《オキ》のみなり、

カ※〔□で囲む〕加迦※〔言+可〕甲可 【濁音】賀何我 此(ノ)中に、甲(ノ)字は、甲斐《カヒ》とつゞきたる言にのみ用ひたり、【國(ノ)名のみならず、カヒとつづきたる言には、すべて此(ノ)字を書り、】可(ノ)字は、中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、阿可良氣美《アカラケミ》とあるのみなり、【下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、延佳本に、可豆艮《カヅラ》とあるは、ひがことなり、】賀(ノ)字は、清濁に通はし用ふといふ人もあれど、然らず、必濁音なり、【記中の歌に、此字の見えたる、おほよそ百三十あまりなる中に、必清音なるべきところは、たゞ五(ツ)のみにして、其餘《ソノホカ》百二十あまりは、ことごとく濁音の處なればなり、】何(ノ)字は、上卷(ノ)歌に、和何《ワガ》と三(ツ)、また岐美何《キミガ》ともあるのみなり、我(ノ)字は、中卷に、姓の蘇我《ソガ》のみなり、【下卷には宗賀《ソガ》とかけり、】

キ※〔□で囲む〕伎紀貴幾吉 【清濁通用】岐 【濁音】藝疑棄 此(ノ)中に、伎(ノ)字と岐(ノ)字との間《アヒダ》に、疑はしきことあり、上卷の初《ハジメ》つかたしばしがほどは、清音には伎(ノ)字を用ひ、岐(ノ)字は濁音にのみ用ひて、清濁分れたるに、後は清濁共に岐をのみ用ひて、伎を用ひたるはたゞ、上卷八千矛(ノ)神(ノ卷卷)御歌に、伎許志弖《キコシテ》、また那伎《ナキ》、【鳴也、】中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段に、伊須々岐伎《イススギキ》、輕嶋(ノ)宮(ノ)段に迦豆伎《カヅキ》、下卷高津(ノ)宮(ノ)段に、伊波迦伎加泥弖《イハカキカネテ》、朝倉(ノ)宮(ノ)段に由々斯伎《ユユシキ》、これらのみなり、抑記中凡て一(ツノ)假字を、清濁に兼用ひたる例なきをもて思(フ)に、本は清音の處は、終(リ)までみな伎(ノ)字なりけむを、字(ノ)形の似たるから、後に誤(リ)て、みな岐に混《マギ》れつるにやあらむ、【又伊邪那岐命の岐(ノ)字を、伎と作《カケ》る處もあり、是(レ)はたまぎれつるなり、】されど今は定めがたければ、姑く岐をば清濁通用とあげつ、貴(ノ)字は、神(ノ)名|阿遲志貴《アヂシキ》のみなり、【歌にも此字を書り、】幾(ノ)字は、河内の地名|志幾《シキ》のみなり、【大倭のはみな師木とのみかけり、】吉(ノ)字は、國(ノ)名~|吉備《キビ》、【歌には岐備《キビ》と書り、】姓《カバネ》吉師《キシ》のみなり、疑(ノ)字は、上卷に佐疑理《サギリ》、【霧なり、】中卷に泥疑《ネギ》【三つあり、】須疑《スギ》【過なり三(ツ)あり、】のみなり、棄(ノ)字は、上卷に奴棄宇弖《ヌギウテ》とあるのみなり、【同じつゞきに此(ノ)言の今一(ツ)あるには、奴岐《ヌギ》と書り、】

ク※〔□で囲む〕久玖 【濁音】具

ケ※〔□で囲む〕氣祁 【濁音】宜下牙 此(ノ)中に、下(ノ)字は、上卷に久羅下《クラゲ》【海月《クラゲ》なり、】とあるのみなり、牙(ノ)字は、中卷に佐夜牙流《サヤゲル》とあるのみなり、

コ※〔□で囲む〕許古故胡高去 【濁音】碁其 此(ノ)中に、故(ノ)字は、上卷(ノ)歌に故志能久邇《コシノクニ》と、只一(ツ)あるのみなり、【文《コトバ》には高志《コシ》と書り、】胡(ノ)字は、中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段に、盈々志夜胡志夜《エエシヤコシヤ》、【二(ツ)あり、】下卷甕栗(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、宇良胡本斯《ウラコホシ》、これのみなり、去(ノ)字は、白檮原(ノ)宮(ノ)段に、志祁去岐《シケコキ》とあるのみなり、【もしは古(ノ)字を誤れるには非るにや、】高(ノ)字は、地名高|志《コシ》と、人(ノ)名|高目郎女丸高王《コムクノイラツメマロコノミコ》と、これらのみなり、碁(ノ)字は、或は基(ノ)字に作《カケ》る處もあり、是(レ)は本より二(ツ)かとも思はるれど、諸本|互《タガヒ》に異《コト》にして、定まらざれば、本は一(ツ)なりけむが、誤りて二(ツ)にはなれるなり、かくて何《イヅ》れを正《タダ》しとも、今|言《イヒ》がたけれども、姑《シバラ》く多き方に定めて、基をば誤(リ)としつ、其(ノ)字は、上卷(ノ)歌に只一(ツ)あるのみなり、【その同言の、前後に多くあるは、みな碁基(ノ)字を書たれば、是(レ)はたその字の誤(リ)にこそあらめ、】

サ※〔□で囲む〕佐沙左 【濁音】邪奢 此(ノ)中に、沙(ノ)字は、神(ノ)名人(ノ)名地(ノ)名に往々《ヲリヲリ》用ひ、又中卷に沙庭《サニハ》ともある、これらのみなり、左(ノ)字は、国(ノ)名|土左《トサ》のみなり、又佐(ノ)字を、二所《フタトコロ》作と作《カケ》る本あり、上卷|麻都夫作邇《マツブサニ》、また岐作理持《キサリモチ》これなり、是《コ》は皆誤(リ)なり、邪(ノ)字、おほく耶と作《カケ》り、誤(リ)にはあらざれども、【漢籍《カラブミ》にも、此(ノ)二字通はし用ひたること多し、玉篇に、耶(ハ)俗(ノ)邪(ノ)字といへり、】なほ邪を正《タダ》しとすべし、奢(ノ)字は、神(ノ)名|久比奢母知《クヒザモチ》、奥奢加流《オキザカル》、伊奢沙和氣《イザサワケ》、人(ノ)名|伊奢之眞若《イザノマワカ》など、辭《コトバ》にも、中卷に伊奢《イザ》【二ところ】とある、これらのみなり、

シ※〔□で囲む〕斯志師色紫芝 【濁音】士自 此(ノ)中に、師(ノ)字は、壹師《イチシ》吉師《キシ》のみなり、【師木《シキ》味師《ウマシ》などの師は、訓に取れるにて、借字《カリモジ》の例なり、假字の例には非ず、】色(ノ)字は、人(ノ)名の色許男《シコヲ》色許賣《シコメ》のみなり、紫(ノ)字は、筑紫《ツクシ》のみなり、芝(ノ)字は、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、芝賀《シガ》と只一(ツ)あるのみなり、自字は、地(ノ)名|伊自牟《イジム》、人(ノ)名|志自牟《シジム》のみなり、さて右の字どもの外に、中卷水垣(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に式(ノ)字一(ツ)、輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に支(ノ)字一(ツ)、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に之(ノ)字一(ツ)あれども、いと疑はし、誤(リ)ならむか、なほ其(ノ)處々《トコロドコロ》に論ふべす、

ス※〔□で囲む〕須洲州周 【濁音】受 此(ノ)中に洲(ノ)字は、上卷に久羅下那洲《クラゲナス》とあるのみなり、【堅洲國《カタスクニ》洲羽海《スハノウミ》などの洲は、訓を用ひたるなれば、假字の例にあらず、】州(ノ)字は、上卷に州須《スス》【煤なり、】とあるのみなり、洲州の内一(ツ)は、一(ツ)を誤れるにもあらむか、周(ノ)字は、國(ノ)名周芳のみなり、さて右の字どもの外に、中卷水垣(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、素(ノ)字一(ツ)あれども、そは袁(ノ)字の誤(リ)なり、

セ※〔□で囲む〕勢世 【濁音】是

ソ※〔□で囲む〕曾蘇宗 【濁音】叙 此(ノ)中に、曾(ノ)字は、なべては清音にのみ用ひたるに、辭《テニヲハ》のゾの濁音は、あまねく此(ノ)字を用ひたり、【書紀萬葉などもおなじ、】故(レ)もしくは辭《テニヲハ》のゾも、古(ヘ)は清《スミ》て云るかとも思へども、中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌には、三處まで叙(ノ)字をも用ひ、又|某《ソレ》ゾといひとぢむるゾにも、多くは叙を用ひたれば、清音にあらず、然るにそのいひとぢむるところのゾにも、一(ツ)二(ツ)曾を書る處もあり、然れば此字、清濁に通はし用ひたるかとも思へど、記中にさる例もなく、又|辭《テニヲハ》のゾをおきて、他《ホカ》に濁音に用ひたる處なければ、今は清音と定めつ、そも/\此(ノ)字、辭《テニヲハ》のゾにのみ濁音に用ひたること、猶よく考ふべし、宗(ノ)字は、姓|阿宗宗賀《アソソガ》のみなり、

タ※〔□で囲む〕多當他 【濁音】陀太 此(ノ)中に、當(ノ)字は、當藝志美美々《タギシミミノ》命、また當藝斯《タギシ》、當藝野《タギヌ》、當岐麻《タギマ》などのみなり、他(ノ)字は、地(ノ)名|多他那美《タタナミ》、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に他賀《タガ》、【誰《タガ》なり、】これのみなり、太(ノ)字は、下卷列木(ノ)宮(ノ)段に、品太《ホムダノ》天皇とあり、【此(ノ)御名、餘《ホカ》は皆品陀とかけり、】又朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、延佳本に太陀理《タダリ》【線柱なり、】とあるは、さかしらに改めたるものにしてひがことなり、諸本みな本陀理《ホダリ》とあるぞよろしき、【なほこの太陀理の事は、彼歌の下《トコロ》に委しく論ふ、】また中卷にも、阿太之別《アダノワケ》といふ姓あり、其《ソ》は本《ホノ》字の誤(リ)ならむかの疑(ヒ)あるなり、

チ※〔□で囲む〕知智 【濁音】遲治地 此(ノ)中に、地(ノ)字は、神(ノ)名|宇比地邇《ウヒヂニ》、意富斗能地《オホトノヂ》のみなり、

ツ※〔□で囲む〕都 【濁音】豆

テ※〔□で囲む〕 弖帝 【濁音】傳殿 此(ノ)中に、帝(ノ)字は、神(ノ)名|布帝耳《フテミミ》、中卷に、佐夜藝帝《サヤギテ》とあるのみなり、殿(ノ)字は、上卷に志殿《シデ》【垂《シデ》なり、】のみなり、

ト※〔□で囲む〕登斗刀等土 【濁音】騰 此(ノ)中に、等(ノ)字は、上卷に、袁等古《ヲトコ》また美許等《ミコト》、下卷に、等母邇《トモニ》、これらのみなり、土(ノ)字は國(ノ)名土左のみなり、(ノ)字は、神名|淤山津見《オドヤマツミ》のみなり、騰(ノ)字は、曾富騰《ソホド》とあるのみなり、【中卷に勝騰門比賣とあるは、誤(リ)なるべし、】さて此(ノ)騰」の内、一(ツ)は一(ツ)を誤れるにもあらむか、

ナ※〔□で囲む〕那

ニ※〔□で囲む〕邇爾

ヌ※〔□で囲む〕奴怒濃努 此(ノ)中に、濃(ノ)字は、國(ノ)名|美濃《ミヌ》のみなり、【凡て古書に、農濃などは、ヌの假字に用ひたり、ノの音にはあらず、美濃も、ミノといふは、中古よりのことなり、】努(ノ)字は、中卷に、美努《ミヌノ》村とあるのみなり、

ネ※〔□で囲む〕泥尼禰 此(ノ)中に、尼(ノ)字は、上卷に、加尼《カネ》【金なり、】また阿多尼都岐《アタネツキ》とあるのみなり、禰(ノ)字は、宿禰《スクネ》、また輕嶋(ノ)宮(ノ)段に沙禰王《サネノミコ》、【こは彌の誤(リ)にもあらむか、】これのみなり、

ノ※〔□で囲む〕能乃 此(ノ)中に、乃(ノ)字は、上卷に大斗乃辨《オホトノベノ》神、下卷に余能那賀乃比登《ヨノナガノヒト》、又|加流乃袁登賣《カルノヲトメ》、又|比志呂乃美夜《ヒシロノミヤ》、これらのみなり、

ハ※〔□で囲む〕波 【濁音】婆

ヒ※〔□で囲む〕比肥斐卑 【濁音】備毘 此(ノ)中に、卑(ノ)字は、天之菩卑《アメノホヒノ》命【此(ノ)御名、比《ヒノ》)字をも書たり、】のみなり、

フ※〔□で囲む〕布賦 【濁音】夫服 此(ノ)中に、賦(ノ)字は、賦登麻和※〔言+可〕比賣《フトマワカヒメ》、又|日子賦斗邇《ヒコフトニノ》命、又地(ノ)名|伊賦夜坂《イフヤザカ》、波邇賦坂《ハニフザカ》、これらのみなり、服(ノ)字は、地(ノ)名|伊服岐《イブキ》のみなり、

ヘ※〔□で囲む〕幣閉開平 【濁音】辨倍 此(ノ)中に、平(ノ)字は、地(ノ)名|平群《ヘグリ》のみなり、さて幣(ノ)字は、弊(ノ)字に作《カケ》る處もあり、其《ソ》は誤(リ)とすべし、其(ノ)説|全《マタ》」く上の碁と基との如し、辨(ノ)字は、辨とも作《カケ》る處あるは、同じことと心得て寫(シ)誤れるなり、【こは釋を尺、慧を惠と書(ク)類にて、畫の多き字をば、音の通ふ字の、畫|少《スクナ》く書易《カキヤス》きを借(リ)て書(ク)例ありて、辨をもつねに辨と書ならへる故に、たゞ同じことと心得たるものなり、別に此(ノ)字をも用ひたるにはあらず、これは假字なれば、もとより別に辨(ノ)字とせむも、事もなけれど、なほ然にはあらじ、】

ホ※〔□で囲む〕富本菩番蕃品】 【濁音】)煩 此(ノ)中に、本(ノ)字は、上卷には一(ツ)もなくして、中卷下卷に多く用ひたり、菩(ノ)字は、天之菩卑《アメノホヒノ》命、中卷に加牟菩岐《カムホギ》、これのみなり、番(ノ)字は、番能邇々藝《ホノニニギノ》命、又|番登《ホト》、【陰《ホト》なり、】これのみなり、蕃(ノ)字は、蕃登《ホト》【陰《ホト》なり、】のみなり、番蕃の内、一(ツ)は一(ツ)の誤にもあるべし、品(ノ)字は、中卷に、品牟智和気《ホムチワケノ》命とあるのみなり、【同(ジ)御名を、下には本(ノ)字を書り、】そのほかほ、ホムの二音にこれかれ用ひたり、

マ※〔□で囲む〕麻摩

ミ※〔□で囲む〕美微彌味 此(ノ)中に、彌(ノ)字は、神名|彌都波能賣《ミツハノメ》、彌豆麻岐《ミヅマギ》また下卷高津(ノ)宮(ノ)段に意富岐彌《オホキミ》、【此言、餘《ホカ》は美(ノ)字をかけり、】遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段に和賀多々彌《ワガタタミ》、これらのみなり、味(ノ)字は、中卷に佐味那志爾《サミナシニ》、これ一(ツ)なり、

ム※〔□で囲む〕牟无武 此(ノ)中に、无(ノ)字は、國(ノ)名(ノ)无邪志《ムザシ》のみなり、武(ノ)字は、國(ノ)名|相武《サガム》のみなり、【相模と作(カ)ける本もあり、歌には牟(ノ)字を書り、】

メ※〔□で囲む〕米賣※〔口+羊〕 此(ノ)中に、※〔口+羊〕(ノ)字は、中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)末、人(ノ)名|當麻之※〔口+羊〕斐《タギマノメヒ》)のみなり、【こは正しくは※〔口+※〔草がんむり/干〕〕と作《カク》字なり、】

モ※〔□で囲む〕母毛 此(ノ)外に、下干高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、文(ノ)字二(ツ)あれど、誤(リ)なるべし、

ヤ※〔□で囲む〕夜也 此(ノ)中に、也(ノ)字は、上卷歌の結《トヂメ》に、曾也《ゾヤ》と只一(ツ)あるのみにて、疑はしけれど、姑くあげつ、【なほ其(ノ)歌の處に云べし、】

ユ※〔□で囲む〕由

ヨ※〔□で囲む〕余用與予 此(ノ)中に、予(ノ)字は、國(ノ)名|伊予《イヨ》、【中卷下卷には、伊余《イヨ》とかけり、】又|予母都志許賣《ヨモツシコメ》のみなり、

ラ※〔□で囲む〕羅良

リ※〔□で囲む〕理

ル※〔□で囲む〕琉流留

レ※〔□で囲む〕禮

ロ※〔□で囲む〕呂路漏侶盧樓 此(ノ)中に、路(ノ)字は、上卷に、斯路岐《シロキ》【二(ツ)あり、】久路岐《クロキ》のみなり、中卷下卷には、白黒《シロクロ》のロに、みな漏(ノ)字を用ひたり、侶(ノ)字は、佐久々斯侶《(サククシロ》のみなり、(ノ)字は、意富牟夜《オホムロヤ》のみなり、樓(ノ)字は、摩都樓波奴《マツロハヌ》とあるのみなり、【此(ノ)言今一(ツ)あるには、漏(ノ)字をかけり、】

ワ※〔□で囲む〕和丸 此(ノ)中に、丸(ノ)字は、地(ノ)名|丸邇《ワニ》のみなり、【こは訓に非ず、音なり、】

ヰ※〔□で囲む〕葦

ヱ※〔□で囲む〕惠

ヲ※〔□で囲む〕袁遠

  上件の外に、記※〔さんずい+巳〕※〔さんずい+遊のしんにょうなし〕〓梯之天未末且徴彼衣召此忌計酒河被友申祀表存在又、これらを假字に書る本《マキ》あり、みな寫し誤れるものなり、

假字用格《カナヅカヒ》のこと、大かた天暦のころより以往《アナタ》の書どもは、みな正《タダ》しくして、伊葦延惠於袁《イヰエヱオヲ》の音《コヱ》、又下に連《ツラナ》れる、波比布本《ハヒフヘホ》と、阿伊宇延於和葦宇意袁《アイウエオワヰウヱヲ》とのたぐひ、みだれ誤りたること一(ツ)もなし、其《ソ》はみな恒《ツネ》に口《クチ)にいふ語《コトバ》の音《コヱ》に、差別《ワキタメ》ありけるから、物に書《カク》にも、おのづからその假字《カナ》の差別《ワキタメ》は有(リ)けるなり、【然るを、語《コトバ》の音《コヱ》には、古(ヘ)も差別はなかりしを、ただ假字のうへにて、書分《カキワケ》たるのみなりと思ふは、いみしきひがことなり、もし語の音に差別なくば、何によりてかは、假字を書(キ)分(ク)ることのあらむ、そのかみ此(ノ)書と彼(ノ)書と、假字のたがへることなくして、みなおのづからに同じきを以ても、語(ノ)音にもとより差別ありしことを知(ル)べし、かくて中昔より、やうやくに右の音どもおの/\乱れて、一(ツ)になれるから、物に書(ク)にも、その別《ワキ》なくなりて、一(ツノ)音に、二(タ)ともの假字ありて、其《ソ》は無用《イタヅラ》なる如くになむなれりけるを、其(ノ)後に京極(ノ)中納言定家(ノ)卿、歌書《ウタブミ》の假字づかひを定めらる、これより世にかなづかひといふこと始(マ)りき、然れども、當時《ソノカミ》既《ハヤ》)く人の語(ノ)音|別《ワカ》)らず、又古書にも依《ヨ》らずて、心もて定められつる故に、その假字づかひは、古(ヘ)のさだまりとは、いたく異《コト》なり、然るを其後の歌人の思へらくは、古(ヘ)は假字の差別なかりしを、たゞ彼(ノ)卿なむ、始めて定め給へると思ふめり、又近き世に至りては、たゞ音の輕(キ)重(キ)を以て辨ふべし、といふ説などもあれど、みな古(ヘ)を知らぬ妄言《ミダリゴト》なり、こゝに難波に契沖といひし僧《ホウシ》ぞ、古書をよく考へて、古(ヘ)の假字づかひの、正しかりしことをば、始めて見得(ミエ)たりし、凡て古學《イニシヘマナビ》の道は、此(ノ)僧よりぞ、かつ/”\も開け初《ソメ》ける、いとも/\有(リ)がたき功《イサヲ》になむ有(リ)ける、】かくて其(ノ)正しき書どもの中に、此記と書紀と萬葉集とは、殊に正しきを、其中にも、此記は又殊に正しきなり、いでそのさまを委曲《ツバラカ》に云(ハ)むには、まづ續紀より以來《コナタ》の書どもの假字は、清濁|分《ワカ》れず、【濁音の所に、清音(ノ)假字を用ひたるのみならず、清音に濁音(ノ)字をもまじへ用ひたり、】又音と訓とを雜《マジ》へ用ひたるを、此記書紀萬葉は清濁を分《ワカ》てり、【此記|及《マタ》書紀萬葉の假字、清濁を分《ワカ》てるにつきて、なほ人の疑ふことあり、今つばらかに辨へむ、そはまづ後(ノ)世には濁る言を、古(ヘ)は清《スミ》ていへるも多しと見えて、山の枕詞のあしひき、又|宮人《ミヤヒト》などのヒ、嶋《シマ》つ鳥《トリ》家《イヘ》つ鳥《トリ》などのトのたぐひ、古書どもには、いづれも/\清音の假字をのみ用ひて、濁音なるはなし、なほ此類多し、又後(ノ)世には清《ス》む言に、濁音の假字をのみ用ひたるも多し、これらは、假字づかひのみだりなるにはあらず、古(ヘ)と後(ノ)世と、言の清濁の變《カハ》れるなれば、今の心をもて、ゆくりなく疑ふべきにあらず、又そのほかに、言の首《ハジメ》など、決《キハ》めて清音なるべき處にも、濁音の假字を用ひたることも、いとまれ/\にはあるは、おのづからとりはづして、誤れるもあるか、又後に寫し誤れるもあるべし、されど此記には、殊に此(ノ)違《タガ》ひはいと/\まれにして、惣《スベ》ての中に、わづかに二十ばかりならでは見えざる、其中に十ばかりは、婆(ノ)字なるを、その八(ツ)は、一本には波と作《ア》れば、のこり二(ツ)三(ツ)の婆も、もとは波なりしことしられたり、然れば、記中まさしく清濁の違《タガ》へりと見ゆるは、たゞ十ばかりには過《スギ》ずして、其(ノ)餘《ホカ》幾百《イクモモチ》かある清濁は、みな正《タダ》しく分れたるものを、いと/\まれなる方になづみて、なべてを疑ふべきことかは、さて書紀は、此記に比《クラ》ぶれば、清濁の違へることいと多し、こはいといふかしきことなり、然れども又、全くこれを分《ワカ》たず、淆《マジヘ》用ひたるものにはあらず、凡《スベ》ては正しく分れたれば、かの後の全く混《マジヘ》用ひたる書どものなみにはあらず、さて又萬葉は、此記に比《クラ》ぶれば、違へるところもやゝ多けれども、書紀に比《クラ》ぶれば、違ひはいと少《スクナ》くして、すべて清濁正しく用ひ分《ワケ》たるさま太り、これらの差別《ワキタメ》は、その用ひたる假字どもを、一(ツ)毎《ゴト》にあまねく考へ合せて、知(ル)べきことなり、たゞ大《オホ》よそに見ては、くはしきことは、知(リ)がたかるべきものぞ、】其(ノ)中に萬葉の假字は、音訓まじはれるを、【但し萬葉の書法《カキザマ》は、まさしき假字の例には云(ヒ)がたき事あり、なほ種々《クサグサ》あやしき書《カキ》ざま多《オホ》ければなり、】此記と書紀とほ、音のみを取(リ)て、訓を用ひたるは一(ツ)もなし、これぞ正《マサ》しき假字なりける、【訓を取(ル)とは、木止三女井《キトミメヰ》の類なり、此記と書紀には、かゝるたぐひの假字あることなし、書紀允恭(ノ)御卷(ノ)歌に、迹《ト》津《ツノ》二字あるは、共に寫し誤れるものなり、又苫(ノ)字を多く用ひたる、是も苔を誤れるなり、こはタイの音の字なるを、トに用ひたる例は、廼《ナイ》をノに、廼《ダイ》をドに、耐《ダイ》をドに用ひたると同じ、此(ノ)格他(ノ)音にも多し、なほ書紀の假字、今(ノ)本、字を誤り讀《ヨミ》を誤れる多し、委くは別に論ひてむ、】然るに書紀は、漢音呉音をまじへ用ひ、又一字を三音四音にも、通はし用ひたる故に、いとまぎらはしくして、讀《ヨミ》を誤ること常《ツネ》多きに、此記は、呉音をのみ取て、一(ツ)も漢音を取らず、【帝をテに、禮をレに用るも、漢音のテイレイにはあらず、呉音のタイライなり、そは愛《アイ》を.エに、賣《マイ》米《マイ》をメに用ると同(ジ)格なり、書紀にも、此格の假字あり、開《カイ》階《カイ》をケに、細《サイ》をセに、珮《ハイ》背《ハイ》をヘに用ひたる是(レ)なり、さて用(ノ)字は、呉音はユウにして、ヨウは漢音なるに、ヨの假字に用ひたるは、此(ノ)字古(ヘ)は、呉音もヨウとせるにや、書紀にも萬葉にも、ヨの假字にのみ用ひて、ユに用ひたる例なし、】又一字をば、唯《タダ》一音に用ひて、二音三音に通はし用ひたることなし、【宜《ゲ》をギともよみ、用《ヨ》をユともよむたぐひは、みなひがことなり、】又入聲(ノ)字を用ひたることをさ/\無し、たゞオに意(ノ)字を用ひたるは、入聲なり、【是(レ)は億(ノ)字の偏《ヘム》を省《ハブ》きたるものなり、古(ヘ)は偏《ヘム》を省《ハブ》きて書(ク)例多し、此(ノ)事傳十之卷|呉公《ムカデ》の下《トコロ》に委(ク)云べし、億憶などをも、書紀にオの假字に用ひたり、又意(ノ)字に億《オク》の音もあり、臆《オク》に通ふこともあれども、正音をおきて、傍音《カタハラノコヱ》を取(ル)べきにあらず、たゞ億の偏を省ける物とすべし、】又いとまれに、シに色(ノ)字、カに甲(ノ)字、プに服(ノ)字を書ることあり、これらは由《ヨシ》あり、そは必(ズ)下に其(ノ)韻の通音の連《ツヅ》きたる書にあり、【色(ノ)字は、人(ノ)名に色許《シコ》と連《ツヅ》きたるにのみある、色《シキ》の韻ほキにして、許《コ》は其(ノ)通音なり、甲(ノ)字は、甲斐《カヒ》と連《ウヅ》きたる言にのみ書る、甲《カフ》の韻はフにして、斐《ヒ》は其(ノ)通音なり、服(ノ)字は、地名|伊服岐《イブキ》とあるのみなる、服《ブク》の韻はクにして、岐《キ》は其(ノ)通音なり、おほかたこれらにても、古(ヘ)人の假字づかひの、いと嚴《オゴソカ》なりしことをしるべし、】此(ノ)外|吉備《キビ》吉師《キシ》の音(ノ)字あれども、國(ノ)名又|姓《カバネ》なれば、正《マサ》しき假字の例とは、いさゝか異なり、【故に吉備も、歌には岐備《キビ》とかけり、凡て歌と訓(ノ)注とぞ、正《マサ》しき假字の例には有(リ)ける、】さて又同音の中にも、其(ノ)言に隨《シタガ》ひて、用(フ)る假字|異《コト》にして、各《オノオノ》定まれること多くあり、其例をいはば、コの假字には、普《アマネ》く許《コ》古《コノ》二字を用ひたる中に、子《コ》には古(ノ)宇をのみ書て、許(ノ)字を書ることなく、【彦《ヒコ》壯士《ヲトコ》などのコも同じ、】メの假字には、普《アマネ》く米《メ》賣《メノ》二字を用ひたる中に、女《メ》には賣《メノ》字をのみ書て、米《メノ》字を書ることなく、【姫《ヒメ》處女《ヲトメ》などのメも同じ、】キには、伎《キ》岐《キ》紀《キ》を普く用ひたる中に、木《キ》城《キ》には紀《キ》をのみ書て、伎《キ》岐《キ》をかゝず、トには登《ト》斗《ト》刀《ト》を普く用ひたる中に、戸《ト》太《フト》問《トフ》のトには、斗《ト》刀《ト》をのみ書て、登《ト》をかゝず、ミには美《ミ》微《ミ》を普く用ひたる中に、神《カミ》のミ木草の實《ミ》には、微《ミ》をのみ書て、美《ミ》を書《カカ》)ず、モには毛《モ》母《モ》を普く用ひたる中に、妹《イモ》百《モモ》雲《クモ》などのモには、毛《モ》をのみ書て、母《モ》をかゝず、ヒには、比《ヒ》肥《ヒ》を普く用ひたる中に、火《ヒ》には肥《ヒ》をのみ書て、比《ヒ》をかゝず、生《オヒ》のヒには、斐《ヒ》をのみ書て、比肥をかゝず、ビには、備《ビ》毘《ビ》を用ひたる中に、彦《ヒコ》姫《ヒメ》のヒの濁(リ)には、毘《ビ》をのみ書て、備《ビ》を書ず、ケには、氣《ケ》祁《ケ》を用ひたる中に、別《ワケ》のケには、氣《ケ》をのみ書て、祁《ケ》を書ず、辭《コトバ》のケリのケには、祁《ケ》をのみ書て、氣《ケ》をかゝず、ギには、藝《ギ》を普く用ひたるに、過《スギ》祷《ネギ》のギには、疑《ギ》(ノ)字をのみ書て、藝《ギ》を書ず、ソには、曾《ソ》蘇《ソ》を用ひたる中に、虚空《ソラ》のソには、蘇《ソ》をのみ書て、曾をかゝず、ヨには、余《ヨ》與《ヨ》用《ヨ》を用ひたる中に、自《ヨリ》の意のヨには、用《ヨ》をのみ書て、余《ヨ》與《ヨ》をかゝず、ヌには、奴《ヌ》怒《ヌ》を普く用ひたる中に、野《ヌ》角《ツヌ》忍《シヌブ》篠《シヌ》樂《タヌシ》など、後(ノ)世はノといふヌには、怒《ヌ》をのみ書て、奴《ヌ》をかゝず、右は記中に同(ジ)言の數處《アマタトコロ》に出たるを驗《ココロミ》て、此(レ)彼(レ)擧《アゲ》たるのみなり、此(ノ)類の定まり、なほ餘《ホカ》にも多《オホ》かり、此(レ)は此(ノ)記のみならず、書紀萬葉などの假字にも、此(ノ)定まりほの/”\見えたれど、其《ソ》はいまだ徧《アマネ》くもえ驗《ココロミ》ず、なほこまかに考ふべきことなり、然れども、此記の正しく精《クハ》しきには及ばざるものぞ、抑此(ノ)事は、人のいまだ得《エ》見顯《ミアラハ》さぬことなるを、己《オノレ》始(メ)て見得《ミエ》たるに、凡て古語を解《ト》く助《タスケ》となること、いと多きぞかし、

〇二合の假字 こは人(ノ)名と地(ノ)名とのみにあり、

アム※〔二字□で囲む〕淹 淹知《アムチ》 イニ※〔二字□で囲む〕印惠《イニヱノ》命、印色之入日子《イニシキノイリビコノ》命 イチ※〔二字□で囲む〕壹 壹比葦《イチヒヰ》、壹師《イチシ》 カグ※〔二字□で囲む〕香 香山《カグヤマ》、香用比賣《カグヨヒメ》 カゴ※〔二字□で囲む〕香 香余理比賣《カゴヨリヒメ》、香坂王《カゴサカノミコ》 グリ※〔二字□で囲む〕群 平群《ヘグリ》 サガ※〔二字□で囲む〕相 相模《サガム》、相樂《サガラカ》 サヌ※〔二字□で囲む〕讃 讃岐《サヌギ》 シキ※〔二字□で囲む〕色 印色之入日子《イニシキノイリビコノ》命 スク※〔二字□で囲む〕宿 宿禰《スクネ》 タニ※〔二字□で囲む〕丹旦 丹波《タニハ》、旦波《タニハ》 タギ※〔二字□で囲む〕當  當麻《タギマ》 ヂキ※〔二字□で囲む〕直 阿直《アヂキ》 ツク※〔二字□で囲む〕筑竺 筑紫《ツクシ》、竺紫《ツクシ》 ヅミ※〔二字□で囲む〕曇 阿曇《アヅミ》 ナニ※〔二字□で囲む〕難 難波《ナニハ》 ハヽ※〔二字□で囲む〕伯 伯伎《ハハキ》 ハカ※〔二字□で囲む〕博 博多《ハカタ》 ホム※〔二字□で囲む〕品 品遲部《ホムヂベ》、品夜和氣《ホムヤワケノ》命、品陀和氣《ホムダワケノ》命 マツ※〔二字□で囲む〕末 末羅《マツラ》 ムク※〔二字□で囲む〕目 高目郎女《コムクノイラツメ》 ラカ※〔二字□で囲む〕樂 相樂《サガラカ》 凡て古書地名に此(ノ)類いと多し、

〇借字《カリモジ》 是も人(ノ)名と地(ノ)名とに多し、

ウ※〔□で囲む〕菟 エ※〔□で囲む〕江枝 カ※〔□で囲む〕鹿蚊 キ※〔□で囲む〕木寸 ケ※〔□で囲む〕毛 コ※〔□で囲む〕子 サ※〔□で囲む〕狭 シ※〔□で囲む〕師 【こはもと音なるを、やがて訓にもして、借字に用ひたるあり、師木《シキ》、百師木《モモシキ》、味師《ウマシ》、時置師《トキオカシノ》神、秋津師比賣《アキヅシヒメ》、などの師(ノ)字是(レ)なり、これらは、音の假字の例にはあらず、訓にて借字の例なり、】 ス※〔□で囲む〕巣洲酢 セ※〔□で囲む〕瀬 タ※〔□で囲む〕田手 チ※〔□で囲む〕道千乳 ツ※〔□で囲む〕津 テ※〔□で囲む〕手代 ト※〔□で囲む〕戸砥 ナ※〔□で囲む〕名 ニ※〔□で囲む〕丹 ヌ※〔□で囲む〕野沼 ネ※〔□で囲む〕根 ハ※〔□で囲む〕羽歯 ヒ※〔□で囲む〕日氷 ヘ※〔□で囲む〕戸 ホ※〔□で囲む〕穂大 マ※〔□で囲む〕間眞目 ミ※〔□で囲む〕見海御三 メ※〔□で囲む〕目 モ※〔□で囲む〕裳 ヤ※〔□で囲む〕屋八矢 ユ※〔□で囲む〕湯 ヰ※〔□で囲む〕井 ヲ※〔□で囲む〕尾小男

上(ノ)件の字ども、常に多く借字に用ひたり、但し此(ノ)字どもを書るは、皆借字なりといふにはあらず、正字なる處も多く、又正字とも借字とも、さだかに辨へがたきところも多かり、又借字は、此(ノ)字どもに限れるにもあらず、たゞ大かたを擧るのみなり、或人、借字も即(チ)假字なれば、別に借字といふことは、有(ル)べくもあらず、又古書の假字に、訓を用ひたることなしとも云べからず、といふは精《クハ》しからず、假字借字、いひもてゆけば同じことなれども、此記にも書紀にも、歌又訓注などに、訓を用ひたること一(ツ)もなし、其《ソ》は正《マサ》しき假字の例に非るが故なり、此(レ)をもて、借字は別に一種《ヒトクサ》なることを知(ル)べし、別に一種なるが故に、其(ノ)目《ナ》を立《タテ》て、借字《カリモジ》とは云り、

〇二合の借字

アナ※〔二字□で囲む〕穴 イク※〔二字□で囲む〕活 イチ※〔二字□で囲む〕市 イナ※〔二字□で囲む〕稲 イハ※〔二字□で囲む〕石 イヒ※〔二字□で囲む〕飯 イリ※〔二字□で囲む〕入 オシ※〔二字□で囲む〕忍押 カタ※〔二字□で囲む〕方 カネ※〔二字□で囲む〕金 カリ※〔二字□で囲む〕刈 クシ※〔二字□で囲む〕櫛 クヒ※〔二字□で囲む〕※〔木+〓〕咋 クマ※〔二字□で囲む〕熊 クラ※〔二字□で囲む〕倉 サカ※〔二字□で囲む〕坂酒 シロ※〔二字□で囲む〕代 スキ※〔二字□で囲む〕※〔金+且〕 ツチ※〔二字□で囲む〕椎 ツヌ※〔二字□で囲む〕角 トリ※〔二字□で囲む〕鳥 ハタ※〔二字□で囲む〕幡 フル※〔二字□で囲む〕振 マタ※〔二字□で囲む〕俣 マヘ※〔二字□で囲む〕前 ミヽ※〔二字□で囲む〕耳 モロ※〔二字□で囲む〕諸 ヨリ※〔二字□で囲む〕依 ワケ※〔二字□で囲む〕別 ヲリ※〔二字□で囲む〕折 ことわり一音の借字と全《モハ》ら同じ、さて二合の借字、上件の外なほいと多かるを、今はたゞ、其中にあまた處に見えたるをえり出て、彼(レ)此(レ)あぐるのみなり、

 

     訓法《ヨミザマ》の事

 

凡て古書は、語を嚴重《オゴソカ》にすべき中にも、此記は殊に然あるべき所由《ユヱ》あれば、主《ムネ》と古語を委曲《ツバラカ》に考(ヘ)て、訓を重くすべきなり、いで其(ノ)所由《ユヱ》はいかにといふに、序に、飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の大詔命《オホミコト》に、家々にある帝紀|及《マタ》本辭、既に實を失ひて、虚僞《カザリ》おほければ、今その誤を正しおかずは、いくばくもあらで、其(ノ)旨うせはてなむ、故(レ)帝紀をえらび、舊辭を考へて僞をのぞきすてて、實《マコト》のかぎりを後(ノ)世に傳《ツタヘ》む、と詔たまひて、稗田阿禮《ヒエダノアレ》といひし人に、大御口《オホミクチ》づから仰《オホ》せ賜(ヒ)て、帝皇(ノ)日繼と、先代の舊辭とを、誦《ヨミ》うかべ習《ナラ》はしむ、とあるをよく味《アヂハ》ふべし、帝紀とのみはいはずて、舊辭本辭などいひ、又次に安萬侶(ノ)朝臣の撰述《コノフミツク》れることを云る處にも、阿禮が誦《ウカベ》たる勅語(ノ)舊辭を撰録すとあるは、古語を旨《ムネ》とするが故なり、彼(ノ)詔命《オホミコト》を敬《ツツシミ》て思ふに、そのかみ世のならひとして、萬(ノ)事を漢文に書(キ)傳ふとては、其(ノ)度《タビ》ごとに、漢文章《カラコトバ》に牽《ヒカ》れて、本の語は漸(ク)に違ひもてゆく故に、如此《カク》ては後《ノチ》遂《ツヒ》に、古語はひたぶるに滅《ウセ》はてなむ物ぞと、かしこく所思看《オモホシメ》し哀《カナシ》みたまへるなり、殊に此(ノ)大御代は、世間《ヨノナカ》改まりつるころにしあれば、此(ノ)時に正《タダ》しおかでは、とおもほしけるなるべし、さて其《ソ》を彼(ノ)阿禮に仰せて、其(ノ)口に誦《ヨミ》うかべさせ賜ひしは、いかなる故ぞといふに、萬(ヅ)の事は、言《コト》にいふばかりは、書《フミ》にはかき取(リ)がたく、及ばぬこと多き物なるを、殊に漢文にしも書(ク)ならひなりしかば、古語を違へじとては、いよゝ書(キ)取(リ)がたき故に、まづ人の口に熟《ツラツラ》誦《ヨミ》ならはしめて後に、其(ノ)言の隨《マニマ》に書録《カキシル》さしめむの大御心にぞ有(リ)けむかし、【當時《ソノカミ》、書籍ならねど、人の語にも、古言はなほのこりて、失《ウセ》はてぬ代《ヨ》なれば、阿禮がよみならひつるも、漢文の舊記に本づくとは云(ヘ)ども、語のふりを、此間《ココ》の古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ、然せずして、直《タダ》に書《フミ》より書にかきうつしては、本の漢文のふり離《ハナ》れがたければなり、或人、其(ノ)時既に諸家の記録ども、誤(リ)おほしとならば、阿禮は何《イヅ》れの書によりて、實の古語をば、誦ならへるにかと疑ふ、其《ソ》はそのかみなほ誤(リ)なき記録も遺《ノコ》れりけむを、よく擇《エラビ》てぞ取(ラ)れけむ、】此(ノ)大御志《オホミココロザシ》をよく思ひはかり奉て、古語のなほざりにすまじきことを知べし、これぞ大御國の學問《モノマナビ》の本なりける、もし語にかゝはらずて、たゞに義理《コトワリ》をのみ旨《ムネ》とせむには、記録を作らしめむとして、先(ヅ)人の口に誦習《ヨミナラ》はし賜はむは、無用《イタヅラ》ごとならずや、然《サ》て次に、此記を撰《ツク》らせらるゝ事を云る處にも、舊辭のたがひゆくことを惜《ヲシ》み賜ひ、先紀の誤あるを、正《タダ》し給はむとして、安萬侶(ノ)朝臣に仰せて、かの阿禮が誦《ヨミ》うかべたる勅語の舊辭を、撰録《エラビシル》さしむとあり、此處にも舊辭とあるを以て、此(ノ)大御世の天皇の大御心ざしをも、おしはかり奉るべし、彼(ノ)淨御原(ノ)天皇は、撰録《フミシルス》に及び賜はで、崩坐《カミアガリマシ》しかば、かの舊辭は、阿禮が口に留《トドマ》れりしを、此(ノ)平城《ナラ》の大御世に至て、事《コト》遂行《トゲオコナ》はせ賜へるなり、故(レ)安萬侶(ノ)朝臣の撰録《エラビシル》されたるさまも、彼(ノ)天皇たちの大御志のまに/\、旨《ムネ》と古語を嚴重《オモ》くせられたるほど灼然《イチジロ》くて、高天原の註に、訓(テ)2高(ノ)下(ノ)天(ヲ)1云2阿麻《アマト》1としるし、天比登都柱《アメヒトツバシラ》の註には、訓(ムコト)v天(ヲ)如(シ)v天(ノ)などしるし、或は讀聲《ヨムコヱ》の上下《アガリサガリ》をさへに、委曲《ツバラカ》に示《シメ》し諭《サト》しおかれたるをや、如此有《カカレ》ば今是(レ)を訓(マ)むとするにも、又上(ノ)件の意をよく得て、一字《ヒトモジ》一言《ヒトコト》といへども、みだりにはすまじき物ぞ、さて然つゝしみ嚴重《オモ》くするにつきては、漢籍《カラブミ》また後(ノ)世の書をよむとは異《コト》にして、いとたやすからぬわざなり、いで其(ノ)由をいはむ、先(ヅ)凡て古記は、漢文もて書(キ)たれば、文のまゝに訓(ム)ときは、たとひ一(ツ)一(ツ)の言は古言にても、其(ノ)連接《ツヅキ》ざま二言《イヒ》ざまは、なほ漢文のふりにして、皇國のにはあらず、故(レ)書紀の古き訓なども、文に拘《カカハ》らずて、古語のふりのまゝに附《ツケ》たる書おほし、然れども彼(ノ)訓も、後(ノ)人の所爲《シワザ》のまじれりとおぼしくて、猶|漢文訓《カラブミヨミ》のおほきこと、上に論へるが如し、おほかた平城《ナラ》のころまでは、世(ノ)人古語のふりをよくしり、又|當時《ソノトキ》の言も、なほ古(ル)かりける故に、漢文訓《カラブミヨミ》との差別《ケヂメ》は、おのづからよく辨へたりしを、後(ノ)世は只|漢籍《カラブ》にのみ眼《メ》なれ、其(ノ)讀《ヨミ》にのみ耳|馴《ナレ》たる癖《クセ》の着《ツキ》ては、大かたの語のさま、其(ノ)漢《カラ》のふりと此方《ココ》のふりとを、え辨へず、かしこげなる漢《カラ》の方を、美《ウルハシ》きが如く聽《キキ》なして、萬(ヅ)の言、おのづから其ふりに移《ウツ》り來《キ》ぬることおほし、【近(キ)代の人は、おほかた古(ヘ)の詞づかひをばえしらず、文章とて書(ク)を見るに、すべて漢語《カラコトバ》のふりにして、たゞ漢文を假字にかきたるが如くにて、いと/\見苦《ミグル》し、なほ文章の事は、上古《カミツイ》中古《ナカムカシ》の體製《ツクリザマ》、くさ/”\別に論(ヒ)あり、】此(ノ)たがひめをよく辨へて、漢《カラ》のふりの厠《マジ》らぬ、清《キヨ》らかなる古語を求《モト》めて訓べし、かにかくにこの漢の習氣《ナラヒ》を洗《アラ》ひ去《スツ》るぞ、古學《イニシヘマナビ》の務《ツトメ》には有(リ)ける、然るを世々の物知人《モノシリビト》の、書紀を説《トケ》るさまなど、ただ漢の潤色分《カザリノフミ》のみをむねとして、その義理《コトワリ》にのむかゝづらひて、本とある古語をば、なほざりに思ひ過《スグ》せるは、かへす/”\もあぢきなきわざなり、語にかゝはらず、義理《コトワリ》をのみ旨《ムネ》とするは、異國《アダシクニ》の儒佛などの、教誡《ヲシヘゴト》の書こそさもあらめ、大御國の古書は、然《シカ》人の教誡《ヲシヘ》をかきあらはし、はた物の理《コトワリ》などを論《アゲツラ》へることなどは、つゆばかりもなくてたゞ古(ヘ)を記せる語《コトバ》の外には、何《ナニ》の隱《カク》れたる意《ココロ》をも理《コトワリ》をも、こめたるものにあらず、【語の外に教誡をこめたりといふは、なほ漢にへつらへるものなり、】まして其(ノ)文字は、後に當《アテ》たる假《カリ》の物にしあれば、深くさだして何《ナニ》にかはせむ、唯《タダ》いく度《タビ》も古語を考へ明《アキ》めて、古(ヘ)のてぶりをよく知(ル)こそ、學問《モノマナビ》の要《ムネ》とは有(ル)べかりけれ、凡て人のありさま心ばへは、言語《モノイヒ》のさまもて、おしはからるゝ物にしあれば、上(ツ)代の萬(ヅ)の事も、そのかみの言語をよく明《アキ》らめさとりてこそ、知(ル)べき物なりけれ、漢文の格《サマ》にかける書を、其(ノ)隨《ママ》に訓《ヨミ》たらむには、いかでかは古の言語を知(リ)て、其(ノ)代のありさまをも知(ル)べきぞ、古き歌どもを見て、皇國の古(ヘ)の意《ココロ》言《コトバ》の、漢のさまと、甚《イタ》く異《コト》なりけることを、おしはかり知(ル)べし、さて全《モハラ》古語を以て訓(マ)むとするに、それいとたやすからぬわざなり、其故は、古書はみな湊文もて書て、全《マタ》く古語のまゝなるが無《ナ》ければ、今|何《イヅ》れにかよらむ、そのたづきなきに似たり、たゞ古記の中に、往往《ヲリヲリ》古語のまゝに記《シル》せる處々、さては續紀などの宣命《ミコトノリ》の詞、また延喜式の八(ノ)卷なる諸(ノ)祝詞《ノリト》など、これらぞ連《ツヅ》きざまも何《ナニ》も、大方《オホカタ》此方《ココ》の語のまゝなれば、まづこれらを熟《ウマ》く讀習《ヨミナラ》ひて、古語のふりをば知(ル)べきなり、さて又此記と書紀とに載(ノ)れる歌、また萬葉集を、熟《ウマ》く誦《ヨミ》ならふべし、殊に此記と書紀との歌は、露ばかりも漢《カラ》ざまのまじらぬ、古(ヘ)の意《ココロ》言《コトバ》にして、いとも/\貴《タフト》くありがたき物なり、【此歌どもをよく見れば、言語《モノイヒ》はさらにもいはず、古(ヘ)の世間《ヨノナカ》のありさま、人の心ばへまで、おしはかり知られて、後(ノ)世(ノ)人のこと/”\しくいひあへる、義理深《コトワリフカ》げなる説どもの、ひがことなること、著明《イチジロ》きものをや、】されど其《ソ》は數おほからず廣からずて、事|足《タラ》はぬを、萬葉は歌數いと多くして、其(ノ)中に古言はあまねくのこれるぞかし、【此集も、訓は後(ノ)世人の所爲《シワザ》なれば、誤りて、古言ならぬこといと多し、そは假字にかける歌、また他の歌の例などをよく考へ合せて、古語を撰ぶべし、】さて上(ノ)件の書どもを則《ノリ》として訓(ム)べきに就《ツキ》て、又其(ノ)中にくさ/”\の意得《ココロエ》あり、まづ古記の中にまじれる古語どもは、いと/\古くして、みやびやかなれども、助辭《テニヲハ》など略《ハブ》かれたれば、聯續《ツヅキ》ざまに詳《サダカ》ならぬことあり、次に宣命(ノ)詞は、那良《ナラ》の朝廷《ミカド》のなれば、既《ハヤ》く漢文のふりなる處も、往々《ヲリヲリ》はまじれり、【凡て人の口にいふ言は、那良のころまでも、漢文のふりはまじらざりしかども、書《フミ》にかきたることには、やゝ上(ツ)代より、漢文に引れて、おのづからそのふりにうつれることも、いさゝかはありぞしけむ、かくて聖徳(ノ)太子の、いたく漢学を好み賜ひ、其後孝徳天智の御世などになりては、いよゝ寓(ヅ)の事に、漢《カラ》を用ひられしかば、古語を傳へたる中にも、漢文ざまにうつれること有(ル)べし、續紀の宣命は、又それより後のなれば、やがて漢字の音ながらの言さへ、まゝまじりたり、かゝるにつけても、上(ツ)代の詔命(ノ)詞ぞいとゆかしき、書紀なるは、皆舌(ヘ)のにあらず、おほく作り加《クハ》へられたる、漢意のなれは、いとうるさし、】又式なるもろ/\の祝詞《ノリト》は、凡ていと古き語どもなる多かれども、全《マタ》く上(ツ)代より傳《ツタ》はり來《キ》つるまゝにはあらずて、近江(ノ)朝淨御原(ノ)朝などにもや、定め齊《トトノ》へられたりけむと見えて、是(レ)はた漢文よりうつり來《コ》し語のふりも、清《キヨ》くなきにはあらず、【世に大祓(ノ)詞を、全く神武天皇の御世に作られたるまゝの物、と心得居るなどは、古(ヘ)に昧《クラ》きことなり、此(ノ)詞も、全くは後に定められつと見えて、後の詞《コトバ》つきまじれり、諸の祝詞の中に最《モトモ》古きは、出雲(ノ)國(ノ)造の神賀《カムホギノ》詞なり、】さればこれらの中におきても、いさゝかも漢《カラ》めきたらむふりなるをば、擇去《エリステ》て取(ル)べし、さて又此記と書紀との歌どもは、いと清《キヨ》き古言なれども、歌とたゞの詞との差目《タガヒメ》ありて、いさゝか異《コト》なる處のある物なれば、其《ソコ》を辨へて取(ル)べきなり、萬葉の歌は、種々《クサグサ》のふり有て、いと古きも多かるを、平城《ナラ》のころになりてのは、漢文より出たる意言《ココロコトバ》も、まれ/\見ゆれば、又是(レ)を辨ふべし、又凡て漢のうつりのみにもあらず、古(ヘ)と後(ノ)世との差《タガヒ》有(リ)て、語のふりいたく異《コト》なること多し、大かた那良《ナラ》よりあなたのをば、古語と定むべし、今(ノ)京になりてこなたは、すべてのいひざまも、古(ヘ)と變《カハ》りたること多く、或は音便《コヱノタヨリ》によりて、頽《クヅ》れたる言も多し、【音便の言は、凡て古書の訓には用ふまじきことなり、大御神《オホミカミ》をおほんがみ臣《オミ》をおんと讀(ム)たぐひこれなり、書紀の訓には、かくさまの音便の言おほし、〇古今集を始めて、物語文などのたぐひは、中古《ナカムカシ》の雅言《ミヤビゴト》なり、伊勢源氏この餘《ホカ》も物語は、本より假字もて書(キ)たる物なる故に、返《カヘリ》て古書よりは、語《コトバ》つきに漢語氣《カラケ》のまじらずて、まされることあり、さるは漢文より出たる語も多く字音の言もおほかれども、それながらに皇國(ノ)語のふりにかければ、漢ならざるなり、なほ中古の文の事も、別に委き論あり、】但し古(ヘ)と後(ノ)世と、もろ/\の言こと/”\く異なるものにもあらず、中には神代も中古《ナカムカシ》も今(ノ)世も、全《モハラ》同くて、かはらぬ言も亦多かれば、其《ソ》は必しも後(ノ)世のいひざまに同じとて、避《サル》べきにあらず、【然るに後(ノ)世の言と同じきをば嫌《キラ》ひて、ことさらに曲《マゲ》て古《フル》めかさむとするときは、中々に強事《シヒゴト》になりて、正《タダ》しからざること多し、近きころ古學《イニシヘマナビ》するともがら、凡てなだらかに耳なれたる言をば、みな後(ノ)世のさまと心得て、必めづらしく聞なれぬさまなるをのみ古言とするは、ひがことなり、】さて又古書の中に、いかに考へても、眞《マコト》の古言に訓(ミ)がたきことあり、其《ソ》はもと古言の傳《ツタ》はりたるを、後に漢字には移せるなれば、本の古言に復《カヘ》すに、難《カタ》きことはあるまじきことわりなれども、漢文にうつし傳へて後、初《ハジメ》の古言は絶《タエ》て、つたはらぬも有(ル)べく、又皇國の上(ツ)代は、萬(ヅ)の物にも事にも、あまり細《コマカ》に分て名稱《ナ》をば着《ツケ》ず、なべての言語《コトドヒ》すくなくて、こと足《タ》れりしを、漢國などは、なべて言痛《コチタ》き風俗《ナラハシ》にて、何事にも、あまりなるまで細《コマカ》に名稱《ナ》のあるなれば、此間《ココ》にはたゞ大かたに言傳《イヒツタ》へ來《キ》つることも、文字に移《ウツ》すとき、其々《ソレソレ》の名稱《ナ》のあるに當《アテ》て書ることどもも有(ル)べし、さる類(ヒ)は、本よりの古言は無《ナ》けれども、すべて字音ながらは讀(マ)ざるならひなりしかば、其(ノ)状《サマ》に從ひて、新《アラタ》に訓(ミ)を造《ツク》りしも有(ル)べし、【おほかた那良のころなどまでは、よろづの名稱なども、字音ながら唱ふることは、をさ/\なかりき、漢籍をよむにも、よまるゝかぎりは、訓によみき、】其《ソ》は眞《マコト》の古言とは、おのづから同じからぬ物なれども、那良までに出來《イデキ》つるは、なほ古言と定めて、えさらぬ時は用ふべし、さて又此記は、彼(ノ)阿禮が口に誦習《ヨミナラ》へるを録《シル》したる物なる中に、いと上(ツ)代のまゝに傳はれりと聞ゆる語も多く、又|當時《ソノトキ》の語《コトバ》つきとおぼしき處もおほければ、悉《コトドト》く上(ツ)代の語には訓(ミ)がたし、さればなべての地を、阿禮が語と定めて、その代のこゝろばへをもて訓べきなり、さて又意得べきことあり、同言のいく處にもあるを、一(ツ)は委く書き、一(ツ)は字を略《ハブ》きたるは、委き方と相照《アヒテラ》して、略ける方をも、辭《コトバ》を添《ソヘ》て訓べきなり、其例をいはば、成坐流神之御名者《ナリマセルカミノミナハ》といふ語を、成神名とも、所成坐神名とも、所成神御名とも書たるが如き、所(ノ)字坐(ノ)字御(ノ)字、たがひに略きもし、詳《クハシ》くも書るにて、皆同語なり、【夜見《ヨミノ》國の汚穢《ケガレ》に因(リ)て成れる、八十禍津日(ノ)神にしも、所成坐と、坐(ノ)字を添(ヘ)てかきて、其次の神たちには、天照大御神にすら、只所成とかきて、坐(ノ)字を略きたる、是(レ)意ありて、ことさらにかく書る物にして、略ける方にも、必(ズ)添(ヘ)て訓べき法《ノリ》をしらせたるなり、然るを此(ノ)格をさとらずして、ゆくりなく本《マキ》の亂れ誤れる物とおもふは、ひがことなり、】また上卷に天照大御神の詔《ミコト》に、如《ゴト》v拜《イツクガ》2吾前《アガミマヘヲ》1云々、中卷に大物主(ノ)神の御言に、令《シメバ》v祭《イツカ》2我御《アガミマヘヲ》1者云々、これも御(ノ)字略ける方にも、必(ズ)添(ヘ)て訓べきことしるし、凡て御坐《ミマス》賜《タマフ》奉《マツル》などの字は、多くは略けるに、往々《ヲリヲリ》又添(ヘ)ても書る處のあるを以て、餘《ホカ》をも准《ナズラ》へ訓べし、又同言を、一(ツ)は假字、一(ツ)は漢文に書ることあり、其《ソ》は漢文なる方をも、假字の方にならひて訓べし、立《タタシ》2天浮橋《アメノウキハシニ》1とも書き、於《ニ》2天浮橋《アメノウキハシ》1多々志《タタシ》ともかけるがごと

し、【此(ノ)立(ノ)字の注に、訓(テ)v立(ヲ)云2多々志《タタシト》1としるせるは、凡て此(ノ)類(ヒ)、假字書の方に傚《ナラ》ひて訓べき例を思はせたる物なり、】不伏人《マツロハヌヒト》とも、麻都漏波奴人《マツロハヌヒト》とも書る、是(レ)も同じ、又同じさまのことを、一(ツ)は古語にかき、一(ツ)は漢文の格《サマ》に書ることあり、神(ノ)世七代の注に、上二柱《カミノフタバシラハ》、獨神各《ヒトリガミヲオノオノ》云2一代(ト)1、次雙十神《ツギニナラビマストバシラハ》、各《オノオノ》合(セテ)2二神《フタバシラヲ》1云2一代(ト)1也、と書るが如き、二柱は古語、十神二神は漢文なれば、古語の方に傚《ナラ》ひて、十神をも十柱《トバシラ》、二神をも二柱《フタバシラ》と訓べし、如此《カク》一段《ヒトクダリ》の内に、同格《オナジサマ》の言を、古語と漢文とに書變《カキカヘ》たるも、古語の方を則《ノリ》として訓べき、凡ての例をしらせたるなり、他段《ホカノクダリ》に、神たちの數を擧《アゲ》たるも、或は若干《イク》神、或は若干《イク》柱と書たり、みな准《ナズラ》)へて訓べし、【中下卷に、御世々々の皇子《ミコ》たちの數をいへるも、みな若干柱《イクハシラ》と書り、さて又二柱(ノ)神三柱(ノ)神などといへることあるを、柱(ノ)字を略きて、二神《フタバシラノカミ》三神《ミハシラノカミ》とも書る、此(ノ)類は柱《ハシラ》てふ言を添(ヘ)、また神(ノ)字をも訓べし、其處《ソコ》の文のさまに隨ひて、かにもかくにもよむべし、】又|全《マタ》く一句など、ひたぶるの漢文にして、古語にはいと遠《トホ》き書《カキ》ざまなる處も、往々《ヲリヲリ》にあるなどは、殊に字には拘《カカ》はるまじく、たゞ其意を得て、其事のさまに隨ひて、かなふべき古言を思ひ求めて訓べし、書紀(ノ)神代(ノ)卷に、顧眄之間、此(ヲ)云2美屡摩沙可利爾《ミルマサカリニト》1とあるなど、其(ノ)例なり、又崇峻(ノ)御巻に、哀不忍聽とあるを、イトホシガリタマヒテと訓るなども、訓注はなけれども、其例にかなへり、凡て書紀の訓に古語多し、其《ソ》は多く此記に本づき據《ヨリ》て附(ケ)たる物ぞと、卜部氏の釋にもいへる、信《マコト》に然なり、文字にかゝはらぬ古き訓は、此記の言《コトバ》を取れるぞ多き、然るに今又此記の訓を求むるに、返りて又書紀の訓を取(ル)べきことも多し、其《ソ》は此記に漢文にのみ書て、假字書などにしたる處なくて、漏《モレ》たる古語の、たま/\彼紀の訓にのこれることもあればなり、此記を訓べきこゝろばへ、大概《オホカタ》上(ノ)件の如し、なほ其(ノ)處々にもいふべし、

〇凡て言は、弖爾袁波《チエヲハ》を以て連接《ツヅク》るものにして、その弖爾袁波《テニヲハ》によりて、言連接《コトツヅキ》のさま/”\の意も、こまかに分るゝわざなり、かくて是《レ》を用るさま、上下|相協《アヒカナ》ひて嚴《オゴドカ》なる格《サダ》まりしあれば、今古記を古語に訓《ヨ》むにも、これをよく考へて、正《タダ》しくすべきなり、【然るに漢文には助字こそあれ、弖爾袁波《テニヲハ》にあたる物はなし、助字はたゞ語を助《タス》くるのみにして、弖爾袁波《テニヲハ》の如く、こまかに意を分(カ)つまでには及ばぬものなり、故(レ)助字はなくても、文(ノ)意は聞ゆるなり、さて古記はみな漢文なれば、其《ソ》を訓(ム)に、弖爾袁波《テニヲハ》は、訓者《ヨムヒト》の心もて定むるわざなるを、近(キ)世には、をさ/\其(ノ)格《サダ》まりを明《アキ》らかに識《シ》れる人なくして、誤ること常多し、抑漢文の意をだにも得てよめば、其(ノ)訓語《ヨミノコトバ》も、意はいとしも違《タガ》はざれども、弖爾袁波《テニヲハ》のとゝのひの違《タガ》へらむは、雅語《ミヤ輙分《ワケ》て用ひたる中に、此記は殊に正しければ、嚴《オゴソカ》にその清濁を守りて讀(ム)べし、一(ツ)といへども、私に輙《タヤス》く變讀《カヘヨム》べきにあらず、古(ヘ)と後世とは、清濁のかはれる言も多ければ、今(ノ)世の言の例にはかゝはりがたければなり、【宮人里人の如き、宮人の比《ヒ》には、古書の假字(ノ)何《イヅ》れもみな、清音の比《ヒ》をのみ書き、里人の比《ヒ》には、濁音の毘《ビ》をのみ書り、然るを此類、凡て連言《ツラネコト》の下の言の頭《ハジメ》は、皆濁る例と心得るがごときは、ひがことなり、其言によりて、清濁定まらざること、右のごとし、大方近きころ古學の徒《トモガラ》、殊に濁音を好みて、濁るまじき言をも、多く濁るを古言のごと思ふめるは、ひがことなり、たゞ古書の假字づかひをよく考(ヘ)合せて、よむべきわざぞかし、】

〇古言《フルコト》の聲の上《アガ》り下《サガ》りの事、神(ノ)御名などの内に、上(ノ)字を小《チヒサ》く書添《カキソヘ》たる處々あるは、漢國《カラクニ》に定《サダ》する四聲の目《ナ》を假《カリ》て、讀《ヨム》音《コヱ》の上下《アガリサガリ》を示《シメ》したるものなり、凡て漢語《カラサヘヅリ》の音には、平上去入と四(ツ)の別《ワキ》あり、此方の語も、彼(レ)に准《ナズラ》へて云(ヘ)ば、平上去の三(ツノ)聲あり、【入聲はなし、其由は別に委くいふべし、】契沖が云(ハ)く、平上去の三聲を、一音の言にていはば、日《ヒ》は平、樋《ヒ》は上、火《ヒ》は去なり、毛《ケ》は平、蹴《ケ》は上、氣《ケ》は去なり、二音の言は、橋《ハシ》は平、端《ハシ》は上、箸《ハシ》は去なり、弦《ツル》は平、釣《ツル》は上、鶴《ツル》は去なり、此(ノ)類にて意得べしといへり、此(ノ)説の如くにて、平は上《アガ》らず下《サガ》らず平《タヒラカ》なる聲、上は上《アガ》る聲、去は下《サカ》る聲なり、【漢國にては、下といはずして、去といへれども、下《サガ》る外なし、又今(ノ)世の唐音《カラコエ》の四聲は、訛《アヤマ》れる者《モノ》にて、實にたがへり、】又同(ジ)人の云く、鴨《カモ》【鳥《ノ》名】は平聲なるに、鴨川《カモガハ》といふときは上聲、鴨社《カモノヤシロ》といふときは去聲なり、連《ツヅ》きによりて、同言もかく聲|變《カハ》るなりといへり、かく言《コト》を連《ツラ》ね云(フ)とき、上なる言の聲のかはるのみならず、下なるも同じく變《カハ》るなり、かの地(ノ)名の鴨は、本は去聲なるを、下鴨《シモガモ》といふときは、平聲になり、鳥の鴨は平聲なるを、眞鴨《マガモ》といふときは、上聲になるが如し、又四方の國々の音の異《カハリ》有(リ)て、同(ジ)言も等《ヒトシ》からず、其《ソ》は京畿《ウチツクニ》のをもて正しとし、それに違へるを訛(リ)とすべし、さて記中に、讀音《ヨムコヱ》を示したるを考るに、上卷に多くして、中下卷にはいと/\稀《マレ》なり、上卷にも神(ノ)名に多し、其《ソ》は常言《ツネノコト》と異《コト》にして、唱《トナヘ》を訛《アヤマ》ること多きが故なるべし、さて其《ソ》は、其(ノ)字(ノ)訓の本(ノ)聲のまゝに讀《ヨム》べき處には、附《ツケ》たることなし、たゞ言の連《ツラナ》りて、聲の變《カハ》る處に附《ツケ》たり、豊雲《トヨクモ》上|野《ヌノ》神の如き、雲《クモ》はもと平聲なるを、雲野《クモヌ》と連《ツヅ》く故に、上聲になるを、訛(リ)て本の平聲に讀《ヨマ》むことを思(ヒ)て、上聲と示したるなり、餘《ホカ》も是(レ)に傚《ナラヒ》て知(ル)べし、然らば上聲の、平聲去聲にかはる處も有(ル)べきに、平と去とは、附《ツケ》たる處なく、只上聲のみ見えたるは如何《イカニ》といふに、凡て言の連《ツヅ》きて、本(ノ)聲の變《カハ》る例を考るに、平去の上聲にかはるが常多くして、上聲の平去に變《カハ》るは、いと稀《マレ》なり、故《カレ》記中に、聲を附《ツク》る中に、平去に附《ツク》べき處は、おのづから無《ナカ》りけらし、然るに宇比地邇《ウヒヂニノ》上神、須比地邇《スヒヂニノ》去神、此(ノ)去聲たゞ一(ツ)あるは、比地邇《ヒヂニ》てふ同言の二(ツ)ならびたる、一(ツ)の邇(ニ)は上聲、一(ツ)の邇《ニ》は去聲にて、忽《タチマチ》に音の異なるが故なり、【此(ノ)邇《ニ》は土《ニ》にて、本(ノ)聲去なるを、比地邇《ヒヂニノ》神とつゞくによりて、一(ツ)は上聲となれれば、上と附(ケ)たるは、他の例に同じきを、去と附たる方は、本(ノ)聲なれば、附る例にはあらざれども、一(ツ)の上聲に傚《ナラ》ひて讀《ヨマ》むことを慮《オモヒハカリ》てなり、】又|山津見《ヤマツミ》てふ神(ノ)名、つゞきて多く出たる所に、大山《オホヤマ》上|津見《ツミ》、奥山《オクヤマ》上|津見《ツミ》などは、聲を附け、淤縢《オド》山津見、闇《クラ》山津見などは附(ケ)ず、是《コ》は附ざる方は、山を本音のまゝに、平聲に讀べしとなり、又|奥津嶋比賣《オキツシマヒメノ》命、市寸嶋《イチキシマ》上|比賣《ヒメノ》命、これも然なり、【もしかの須比智邇に、去聲を附たる例によらば、これらも本音の方にも、山平嶋平と附(ク)べきことなるに、然らざるは如何《イカニ》といふに、彼(レ)は初(メ)にて、まがひやすきを、此(レ)は多くの山津見のならべる中に、附(ケ)たると附ざるとまじはれれば、附(ケ)ざるは本音なること、さとりやすく、且《ソノウヘ》上《カミ》に既に彼(ノ)例もあれば、疑(ヒ)なからむ、又奥津嶋比賣は、山津見の例にて、いよゝ明らかなるべし、】おほかた聲を附たる例かくの如し、抑神(ノ)名などを讀(ム)にも、古(ヘ)はかく其聲の上下《アガリサガリ》をさへに、正《タダ》し示《シメ》したるを以て、すべて語《コト》を嚴重《オゴソカ》にすべきことをさとるべし、後世人たゞよしなき漢意《カラゴコロ》の理をのみさだして、語をばおほろかにして、心をつけむものとも思ひたらぬは、いかにぞや、

〇いはゆる助字《ジヨジ》の類(ヒ)、記中《コノフミノウチニ》用ひざま種々《クサグサ》あり、或はたゞ漢文の方の助《タスケ》に置るのみにて、古語には關《アヅカ》らぬもあり、或は漢文の方にはかゝはらずして、古語の方に用ひたるもあり、或は漢文のかたにて置るが、やがて古語にかなへるもあり、いづれも/\よのつねに漢籍にて讀(ム)とは、異なることおほし、故(レ)今こゝにその助字のたぐひ、又其(ノ)餘《ホカ》も、常に出る字どもをも、此(レ)彼(レ)集《アツ》め出して、訓べきさまをあげつらふ、

之※〔□で囲む〕能《ノ》と訓こと尋常《ヨノツネ》のごとし、但し必(ズ)讀(ム)べきと、必(ズ)讀(ム)まじきとあり、大凡《オホカタ》用言《ハタラキコトバ》に屬《ツキ》たるは、漢文の格なれば、捨《ステ》て訓べからず、吾所生《アガウメル》之|子《ミコ》、また出向《イデムカフ》之|時《トキ》、これらなり、【この類を能《ノ》とよむは、皇國(ノ)語にあらず、後(ノ)世(ノ)人、かゝる處にも之《ノ》を加《クハ》へて云(フ)は、漢籍讀《カラブミヨミ》の癖《クセ》の移《ウツ》りたるにて、ひがことなり、】體言《ヰコトバ》に屬《ツキ》たるは必(ズ)讀(ム)べし、天之某國之某《アメノナニクニノナニ》の類(ヒ)、淡路之穗之狹別《アハヂノホノサワケ》など、如此《カグ》さまの能《ノ》てふ辭、讀(ミ)添(フ)べき處には、丁寧《タシカ》に之(ノ)字を書(キ)添(ヘ)て、古語を明らかにせり、後(ノ)世に誤(リ)て、能《ノ》を略《ハブキ》てよむたぐひ、此(ノ)記に依(リ)て正《タダ》すべし、【國之常立《クニノトコタチノ》神を、クニトコタチと訛《アヤマ》れるたぐひおほかり、】父一(ツ)此方《ココ》の昔の漢文に用ひならへる之(ノ)字あり、凡て句(ノ)終《ハテ》などに置る、漢人《カラビト》の書る格《サマ》に違《ダガ》へるが、書紀などにも多きなり、そのたぐひ必訓べからず、云2々(ス)之(ヲ)1などの之(ノ)字も、よむべからず、また云(ノ)字と互《タガヒ》に寫し誤れる處多し、詔之を詔云とも作《カ》ける類(ヒ)なり、こは何《イヅ》れにても、古語の方にあづからざれば、訓(マ)ぬ例なり、於※〔□で囲む〕邇《ニ》と訓(ム)字なり、於《ニ》v某《ナニ》と用ひたり、凡て古書に此(ノ)格多し、者※〔□で囲む〕波《ハ》と訓ことつねの如し、又|於《ニ》2今者《イマ》1とあるは、たゞ伊麻《イマ》と云(フ)に添《ソヘ》たるなれば、別に者(ノ)字はよむまじきなり、又者也とある者(ノ)字も、訓べからず、而※〔□で囲む〕弖《テ》と訓ことつねのごとし、又|從《ママニ》2八十神之教《ヤソガミノヲシヘシ》1而《シテ》、これらは志※〔氏/一〕《シテ》と訓て、爲而《シテ》の意なり、【常に志※〔氏/一〕《シテ》と訓(ム)とは、意|異《コト》なり、又常の如く、教《ヲシヘ》ニシタガヒテと訓(ム)も、古語に非ず、】また隨《マニマニ》2云々《シカシカノ》1而とあるは、隨を麻爾麻爾《マニマニ》と訓て、而(ノ)字は訓べからず、【字は、シタガヒテとよむ漢文ざまに添(ヘ)て書るなり、〇凡て而(ノ)字は、漢文にては句(ノ)頭にあれども、御國にては、必(ズ)言の下に附(ク)辭なり、】矣※〔□で囲む〕袁《ヲ》といふ辭《テニヲハ》に用ひたり、地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラシトコソ》などの如し、此(ノ)例萬葉などにも多し、【後(ノ)世には絶《タエ》てなきことなり、】又たゞ漢文の助字なるもあり、乎※〔□で囲む〕夜《ヤ》とも、加《カ》とも、夜母《ヤモ》とも、加母《カモ》とも、語のさまに隨《シタガヒ》て訓べし、哉※〔□で囲む〕大かた乎(ノ)字の訓に同じ、【加那《カナ》といふは、古言にあらず、奈良のころまでは、加那《カナ》といへる辭なし、其《ソ》は萬葉などにもみな、加母《カモ》とよめり、まれに哉(ノ)字をかけるも、加母《カモ》と訓べし、加那《カナ》と訓るは誤なり、書紀にも此(ノ)字、伽夜《カヤ》また※〔木+可〕佞《カネ》などと訓注あり、】也※〔□で囲む〕たゞ漢文の助字に用ひたり、其中に、那理《ナリ》と云て宜き處に置たるが多きなり、【漢籍にても、那理《ナリ》とよむべき處に多き故に、つひに此(ノ)字の定まれる訓となれり、然れども奈良のころまでは、那理《ナリ》といふに、此(ノ)字を定めて用(ヒ)たることはなし、萬葉にも此(ノ)字は、ヤの假字に用ひたるのみなり、那理《ナリ》には、有《ナリ》在《ナリ》とかけり、爾阿理《ニアリ》の切《ツヅ》まりたる辭なればなり、】歟※〔□で囲む〕よのつねの如く、疑ひたる處にも用ひ、また只焉(ノ)字などと同じさまの助字にも置(キ)たり、書紀にも然《サル》例あり、焉※〔□で囲む〕たゞ漢文の方の助字なり、故※〔□で囲む〕語の下にあるは、由惠《ユヱ》とも由惠爾《ユヱニ》とも訓こと、常の如し、【輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、志波邇波《シハニハ》、邇具漏岐由惠《ニグロキユヱ》云々、書紀(ノ)雄略(ノ)御巻(ノ)歌に、耶麼能謎能《ヤマノベノ》、故思麼古喩衛爾《コシマコユヱニ》云々、かゝれば是(レ)もいと古き言なり、】又句(ノ)頭にあるをば、迦禮(カレ)と訓(メ)り、其《ソ》は記中に殊におほし、其(ノ)中に、此(ノ)字の意にはあらずて、たゞ次の語を發《オコ》すとて、於是《ココニ》などいふべき處に置るいと多し、それにつきて思ふに、迦禮は、迦々禮婆《カカレバ》の切《ツヅマ》りたる辭ならむか、迦々禮婆《カカレバ》は、如此有者《カクアレバ》にて、上を承《ウケ》て次の語を發《オコ》す言なり、さて其《ソ》を切《ツヅ》めては、迦禮婆《カレバ》とこそいふべきに、婆《バ》をしも略《ハブ》けるはいかにといふに、古語に、婆《バ》を略きて、婆《バ》の意なる例多し、【此例萬葉に多く見ゆ、別に出せり、又長歌に、奴禮婆《ヌレバ》都禮婆《ツレバ》などと云べき處を、婆《バ》を省《ハブ》きて、奴禮《ヌレ》都禮《ツレ》などとのみ云る例もあり、是《コ》も別に出《ダ》す、】然《サ》てその迦禮《カレ》に故(ノ)字を書るは、いかなる由ぞといふに、凡て祁婆《ケバ》泥婆《ネバ》閇婆《ヘバ》禮婆《レバ》の類(ヒ)は、由惠《ユヱ》といふ意に通《カヨ》ふ例多ければ、【第四(ノ)音よりつゞく婆《バ》は、故《ユヱ》の意に通《カヨ》ふ多し、ゆけばなりけりといへば、ゆく故《ユヱ》なりけりの意に通ひ、あればなりといへば、ある故《ユヱ》なりといふに通ふが如し、】迦々禮婆《カカレバ》は、如是有故《カカルユヱ》といふに通ふを以て、此(ノ)字を當《アテ》たるなるべし、【また加良爾《カラニ》といふ辭、故《ユヱ》といふ意に近ければ、加禮《カレ》は、加良《カラ》の活點《ハタラ》きたるかとも思へど、然《シカ》にはあらじ、加良《カラ》は別なるべし、さて又漢籍にて、句(ノ)頭にある故(ノ)字をば、加流賀由惠爾《カルガユヱニ》とよむは、是(レ)も加々流賀由惠爾《カカルガユヱニ》を切《ツヅ》めたる物なるべし、又句(ノ)頭なる而(ノ)字を、志加斯弖《シカウシテ》と訓(ム)例によらば、然《シカ》るがゆゑにの志《シ》を省《ハブ》けるにもあらむか、】爾※〔□で囲む〕此(ノ)字は、殊に多く用ひたり、おほくは許々爾《ココニ》と訓べし、又處によりて、迦禮《カレ》と訓て宜《ヨロシ》きもあるなり、抑此記の文(ノ)法《サマ》、すべて一連《ヒトツヅキ》の語終りて、次の語の首《ハジメ》には、かならず於是《ココニ》とも、故《カレ》とも、爾《ココニ》ともいへる、此(ノ)三(ツ)の辭を用ひたるさまを考へ合するに、たゞ其處《ソコ》の語の勢《イキホヒ》に隨ひ、調《シラベ》に任《マカ》せて置るのみにして、必しも各|異《コト》なる意のあるにはあらず、さればまた故《カレ》爾《ココニ》とも、故《カレ》於是《ココニ》とも、重《カサ》ねても置る、其《ソレ》も同じことなり、但し右の三(ツ)のうち、爾(ノ)字は、於是《ココニ》とある處と同じ勢《イキホヒ》なる處に多く、また故爾と重ねたるは多くあれども、爾於是と重ねたる處は無し、これらを思へば、みな許々爾《ココニ》と訓べくして、迦禮《カレ》とは訓(ム)まじきが如し、然れども又|稀《マレ》には、故(ノ)字を置る勢《イキホヒ》と全《モハラ》同じくして、許々爾《ココニ》と訓(マ)むよりは、迦禮《カレ》と訓(ム)が優《ヤサ》れる處もあり、又あまり頻《シキ》りて多かる處などは、棄《ステ》て讀(ム)まじきもあるなり、【大かた爾とも、於是とも、故ともあるは、みな今の俚言《イヤシキコトバ》に、曾許傳《ソコデ》といふ勢(ヒ)なる處なり、爾(ノ)字つねに曾能《ソノ》とも訓めば、曾許《ソコ》とおのづから意通へり、又爾時は、曾能登伎《ソノトキ》と訓ても、許能登伎《コノトキ》と訓ても意通ふを、許能《コノ》と許々《ココ》と同じければ、許々爾《ココニ》と訓(ム)こと、おのづから字(ノ)義にもかなへり、又|是《ココ》と如是《カク》と、本(ト)同言にして、迦禮《カレ》は、如是有者《カクアレバ》の切《ツヅ》まりたるなれば、迦禮と訓(ム)も自《オ》通へり、】又上卷に自v爾とあるは、曾禮余理《ソレヨリ》とも、許禮余理《コレヨリ》とも訓べく、中卷に爾祟とあるは、曾能多々理《ソノタタリ》とも、許能多々理《コノタタリ》とも訓べし、乃※〔□で囲む〕須那波知《スナハチ》と訓べし、【漢文にて、此(ノ)字また爾(ノ)字などを、古く伊麻志《イマシ》と訓り、そは汝《イマシ》の意とまぎれつるものなるべし、但し土左日記に、いまし羽根といふ所に來《キ》ぬ、又いましかもめ群集《ムレヰ》てあそぶ所ありなどいへり、】又只漢文の方にて置りと見ゆるもあり、然《サ》る處は、捨《ステ》て讀(ム)まじきなり、即※〔□で囲む〕乃(ノ)字と同じさまに用ひたり、訓べきさまも同じ、爲※〔□で囲む〕淤母本巣《オモホス》また淤母布《オモフ》といふを以爲とかき、また爲(ノ)一字を書る處も一(ツ)二(ツ)あり、また爲《ミトシテ》v直《ナホサ》2其禍《ソノマガヲ》1而、かく用ひたる處あり、是《コ》は漢文には將(ノ)字を用る格なり、また爲《ス》v將《ムト》v出2幸《イデマサ》上國《ウハツクニ》1とも、將2爲《ムトシ》待攻《マチセメ》1而《テ》とも用ひたり、此格《カクサマ》なる類(ヒ)多し、【漢文の格には異《コト》なる用ひざまなり、】將※〔□で囲む〕將《ム》v罷《マカラ》、かくさまに用ひたり、萬葉にも此(ノ)格に用ひて、みな將《ム》v見《ミ》將《ム》v聞《キカ》など書り、又|將《ムトスル》v殺《コロサ》時《トキニ》、かくも用ひたり、此《コ》は漢文の訓に同じ、欲※〔□で囲む〕おはくは將(ノ)字と同じ格《サマ》に、たゞ牟《ム》と訓べし、欲《ム》v爲《セ》2力競《チカラクラベ》1などの類(ヒ)なり、書紀(ノ)欽明(ノ)御卷に爲《ス》v欲《ムト》2熟喫《コナシハマ》1、かくも訓り、又|淤母布《オモフ》と訓べき處あり、欲《オモフ》v罷《マカラムト》2妣國《ハハノクニニ》1などの類(ヒ)なり、書紀にも多くかく訓り、【たゞ牟《ム》とのみ訓て宜き處をも、書紀には多くは、淤母布《オモフ》淤煩須《オボス》など訓り、其《ソレ》も意は違ふことなけれども、語のいきほひに從ふべし、右の欲《ム》v爲《セ》2力競(ベ)の如き、世牟登淤母布《セムトオモフ》、また世麻久本理須《セマクホリス》など訓ても、意は同じことなれども、然訓べき處にはあらず、大かた此(ノ)字、萬葉などには、かならず本流《ホル》本理須《ホリス》といふに用ひたる故に、何《イヅ》れの書にても、必(ズ)然訓べきこととのみ心得たるは、ひがことなり、聖武紀の宣命に、欲《ム》v奉《マツラ》v造《ツクリ》止思《トオモフ》云々、光仁紀のにも、御體《ミミ》欲《ム》v養《ヤシナハ》止奈母所念須《トナモオモホス》、これら必(ズ)牟《ム》とのみ訓(ム)外はなきを思ふべし、下に思《オモフ》所念《オモホス》とあれば、欲(ノ)字は、淤母布《オモフ》とも本理須《ホリス》ともいかでか訓べき、漢籍にては、凡て本須《ホツス》とよむ、こは本理須《ホリス》の訛《ヨコナマ》れるなり、其(ノ)中に、或は花に欲(ス)v開《サカムト》欲(ス)v落《チラムト》などいふ類(ヒ)は、此(ノ)訓あたらぬことなり、凡て心無き物に、本理須《ホリス》とはいふべからず、是《コ》は字書に、將(ニ)《スル》v然(ラムトノ也と注せる意なれば、開《サカ》むとす、落《チラ》むとすとこそ讀(ム)べけれ、此方の古書にても、凡て本理須《ホリス》とのみよむことと心得たるは、字書に、期願(ノ)之辭と注せる方をのみ思ひて、又|將(ニ)《スル》v然(ラムト)也と云る方をばしらざるなり、】以※〔□で囲む〕以2云々1とあるは、おほく袁《ヲ》と訓べし、云々以とあるは、多く弖《テ》と訓べし、又|余理弖《ヨリテ》と訓て宜き處も稀《マレ》にあり、又|尋常《ヨノツネ》の如く訓(ム)處も多し、其(ノ)中には、本よりの古語と、漢文訓《カラブミヨミ》の移《ウツ》れると有(ル)べし、是以《ココヲモテ》などの以《モテ》の用《ツカ》ひざま、其(ノ)初《ハジメ》は漢文訓(ミ)よりや出《イ》(デ)けむ、されど此(ノ)類も、いと/\古(ヘ)よりいひなれつることと聞えて、辭《コトバ》つきいとふるく、萬葉の歌などにも多し、古言とすべし、さて其《ソレ》を、母ツ弖《モツテ》とよむは、後(ノ)世の俚言《イヤシキコトバ》なれば、云にたらず、母弖《モテ》と訓(ム)も略《ハブ》ける辭なり、正しくは母知弖《モチテ》と訓べし、中卷(ノ)歌に岐許志母知袁勢《キコシモチヲセ》、下卷(ノ)歌に、加微能美弖母知《カミノミテモチ》、比久許登爾《ヒクコトニ》、萬葉二十に、麻蘇※〔泥/土〕毛知《マソデモチ》、奈美太乎能其比《ナミダヲノゴヒ》、【これら後(ノ)世ならば、母弖《モテ》といふべし、】又三に、我袖用手《ワガソデモチテ》、將隱乎《カクサムヲ》、【用(ノ)字を書たれども、以の意なり、】石卜以而《イシウラモチテ》、十一に何有依以《イカナラムヨシヲモチテカ》、これら母知弖《モチテ》てふ辭の例なり、【此(ノ)外に萬葉(ノ)中に、以持用などの字、母知《モチ》と訓べきを、母弖《モテ》と附(ケ)たる多(シ)、】但し同十に、手折以而《タヲリモテ》、十五に、奈爾毛能母弖加《ナニモノモテカ》、伊能知都我麻之《イノチツガマシ》ともあれば、母弖《モテ》と訓(マ)むも、ひがことにはあらず、所※〔□で囲む〕生《ウム》を宇米流《ウメル》、成《ナル》を那禮流《ナレル》といふが如き時に、此字を加(ヘ)て、所生《ウメル》所成《ナレル》と書る例なり、此(ノ)格の言、餘《ホカ》もみな然り、是(レ)を萬葉には、生有《ウメル》成有《ナレル》などと、有(ノ)字を添(ヘ)て書り、【此(ノ)格の所(ノ)字を、登許呂《トコロ》と訓(ム)は、漢文訓にして、古語にあらず、】又|不《ズ》v知《シラ》v所《トコロヲ》v出《イデム》、こは漢文の方は、右の所生《ウマル》などの所(ノ)字と、同格なれども、語は不v知(ラ)2可《ベキ》v出《イヅ》之|處《トコロヲ》1と書(ク)意なれば、登許呂《トコロ》と訓べし、下卷高津(ノ)宮(ノ)段に、女鳥王《メドリノミコノ》之|所《トコロ》v坐《マス》とあるも、坐處《マストコロ》の意なれば同じ、耳※〔□で囲む〕記中此(ノ)字、皆漢文の格によりて置たれば、常の如く能美《ノミ》と訓ては、古語にかなはず、別に訓べき格《サマ》あり、例を一(ツ)二(ツ)擧《アゲ》て喩《サト》さむ、欲v奪2吾國1耳、こは吾國袁欲奪登爾許曾阿禮《アガクニヲウバハムトニコソアレ》と訓べし、愛友故弔來耳、こは愛友那禮許曾弔來都禮《ウルハンキトモナレコソトブラヒキツレ》と訓べし、【那禮許曾《ナレコソ》は、那禮婆許曾《ナレバコソ》といふ意なり、】起2邪心1之表耳、こは邪心袁起世流表爾許曾阿禮《アシキココロヲオコセルシルシニコソアレ》と訓べし、是者無2異事1耳、こは是者異事無許曾《コハケシキコトナクコソ》と訓べし、如此《カク》訓て、何《イヅ》れも許曾《コソ》と云に、耳の意はあるなり、其《ソ》は地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラシトコソ》、我那勢之命《アガナセノミコト》爲《シツラメ》2如此《カク》1とあるは、以《ヲ》v地《トコロ》爲《オモフガ》2可惜《アタラシト》1故《ユヱニ》、我那勢之命《アガナセノミコト》爲《シルツ》2如些《カク》1耳《ノミ》、と云(ヒ)たらむと、全《モハラ》同意なるを以曉《サト》るべし、抑此(ノ)字、能美《ノミ》とは訓(ム)まじき所以《ユヱ》は如何《イカニ》といふに、凡て皇國語《ミクニゴト》には、能美《ノミ》は、中間《ナカラ》にのみ在《アル》ことにて、終《ハテ》を此(ノ)辭にて結《トヂ》むることはなければ、古語にかなはざるなり、【然るを能美《ノミ》と結《トヂ》めたらむも、古語に違《タガ》ふことあらじと思ふは、漢籍讀にのみ口《クチ》なれ耳《ミミ》なれたる、後(ノ)世人のひが心なり、】書紀(ノ)允恭(ノ)御卷(ノ)歌に、多※〔にんべん+嚢〕比等用能未《タダヒトヨノミ》、萬葉十一に、但一耳《タダヒトリノミ》、など結《トヂ》めたるあれど、これらは、唯一夜《タダヒトヨ》唯一人而已《タダヒトリノミ》にして、二夜に及ばず、二人と無《ナ》しといふ意にて、能美《ノミ》てふ辭いと重《オモ》ければ、漢文の輕《カロ》く云捨《イヒステ》たる耳《ノミ》とは異《コト》なり、【然らば古(ヘ)より此(ノ)字に、能美《ノミ》といふ訓のあるは、いかなる故ぞと云に、漢文にて此(ノ)字は、語決(スル)辭と云て、何《イヅ》れも其(ノ)事に決《サダ》まりて、他にわたる疑(ヒ)なき意なる處に置る故なり、されば漢文にては、此(ノ)訓かなはざるにあらず、然れども然《サ》る處に能美《ノミ》といふ辭を置こと、皇國の語にあらざるなり、凡て言の意は同じきも、置(キ)處用ひざまなどの、此方《ココ》と彼(ノ)國と差《タガヒ》あることをよく辨へて、萬(ヅ)の詞は用ふべきものぞ、】亦※〔□で囲む〕麻多《マタ》と訓(ム)ところと、母《モ》と訓べきところとあるなり、且※〔□で囲む〕又(ノ)字と同じ格《サマ》に用ひたり、【字書に又也と注せる意なり、】麻多《マタ》と訓べし、加都《カツ》と訓(マ)むは非《ヒガコト》なり、凡て此(ノ)字を訓(ム)に、麻多《マタ》と加都《カツ》との差別《ケヂメ》をいはば、漢籍《カラブミ》に、君子有(リ)v酒、多(ク)且《マタ》旨《ウマシ》と云るが如きは多きがうへに、また旨《ウマ》くさへありといふ意なり、此(ノ)意の且(ノ)字は、何《イヅ》れも麻多《マタ》と訓べし、加都《カツ》と訓(ム)はあたらず、句(ノ)頭にあるも同じことなり、【漢籍どもの古き本に、句(ノ)頭にある且(ノ)字を、曾能宇閇《ソノウヘ》と訓ることあり、そはよくあたれり、】また我(レ)歌(ヒ)且《カツ・マタ》謠(フ)と云るが如きは、【注に、曲(アリテ)合(ヲ)v樂(ニ)曰v歌(ト)、徒(ニ)歌(フヲ)曰v謠(ト)とありて、歌と謠と異なるなり、】歌《ウタ》ひもし、又|謠《ウタ》ひもする意なり、かくさまの意の且(ノ)字は、麻多《マタ》と訓ても加都《カツ》と訓ても宜きなり、此(ノ)二(ツ)、漢文にては同じ格なれども、此方《ココ》の言にうつして訓(ム)には、かく差別《ケヂメ》あり、其中に麻多《マタ》は廣《ヒロ》ければ、何《イヅ》れにもわたるを、加都《カツ》はたゞ、此(レ)をしながら、又彼(レ)をもするが如きをいふ辭にて、【伊勢物語(ノ)歌に、かつ恨みつつなほぞ戀しきと云るが如き、恨《ウラ》めしくもありながら、又戀しくもあるなり、是(レ)にて加都《カツ》の意をさとるべし、】其(ノ)意ならぬ處には、かなはずと知(ル)べし、【然るを近(キ)世の人は、此(ノ)差別をしらずて、且(ノ)字をば、すべてみな加都《カツ》と訓ならへる故に、麻多《マタ》と訓べきを、加都《カツ》と訓(ミ)ても、違《タガ》はぬがごとおぼえたるは、誤訓《ヒガヨミ》に口《クチ》なれ耳なれたるがゆゑなり、】抑漢文の且(ノ)字を訓(ミ)誤《アヤマ》るから、皇國文《ミクニブミ》をかくにも誤りて、用《ツカ》ふまじき處に、加都《カツ》といふ辭を用《ツカ》ふ人多かる故に、今かく委くは辨へおくなり、此記なる且(ノ)字は、ただ文(ノ)字|書《カケ》ると同じことぞ、と意得るばかりぞ、但し麻豆《マヅ》と訓べき處一(ツ)二(ツ)あり、【其由は其處にいふべし、】及※〔□で囲む〕某《ソレ》及|某《ソレ》とある及(ノ)字、麻多《マタ》と訓べし、淤余毘《オヨビ》と訓(ム)は漢文訓にして、古語にかなはず、抑|麻多《マタ》と訓べき所由《エヱ》は、天若日子(ガ)之父天津國玉(ノ)神及其(ノ)妻子とありて、又次には、天若日子(ガ)之父亦其(ノ)妻とある、及(ノ)字と亦(ノ)字と、用ひざま全《モハラ》同じ、また八尺勾※〔王+總の旁〕《ヤサカノマガタマ》鏡及草那藝(ノ)劔亦常世(ノ)思金(ノ)神、また國(ノ)造亦|和氣《ワケ》及|稻置《イナキ》などと、一連《ヒトツヅキ》の内に、及と亦とを重《カサ》ねても云る、只同じ用ひざまなるを以て知べし、【但しこれらに、同じ亦(ノ)字を二(ツ)は用ひずして、一(ツ)は及(ノ)字を用ひたるを思へば、當時《ソノカミ》既《ハヤ》く漢文訓のうつりにて、かゝる處を淤余毘《オヨビ》とよむことも有し故に、麻多《マタ》てふ辭の重なりて、かしかましさに、一(ツ)は淤余毘《オヨビ》と讀(マ)しめむの心にて、及(ノ)字を書るにもあらむか、もし然らば、他《ホカ》なるをも、みな然訓(マ)むこと、何《ナニ》かあらむともいふべけれど、なほわろし、】但し麻多《マタ》と訓て勢(ヒ)あしからむは、其語のさまに隨ひて、登《ト》とも波多《ハタ》とも、下より返りて母《モ》とも訓べく、捨《ステ》て讀《ヨ》までも有(ル)べし、左右《カニカク》に淤余毘《オヨビ》とは訓(ム)まじきなり、可※〔□で囲む〕おほくほよのつねのごと倍志《ベシ》と訓て宜し、まれに可還を加幣理麻勢《カヘリマセ》、と訓べきが如きもあり、勿※〔□で囲む〕不(ノ)字の意に用ひたり、受《ズ》と訓べし、書紀にもさる處おほし、【此(ノ)字常には、禁止之辭と注したる如く、那加禮《ナカレ》と訓べき處に用《ツカ》へども、此記に用ひたるは然らず、みな不(ノ)字なるべき處にあり、】其《ソ》は云々《シカシカ》することなしと訓ても通《キコ》ゆれども、なは云云世受《シカシカセズ》と訓て正しき處なり、【又非(ノ)字と不(ノ)字とは、用る格《サマ》異なるを、此方《ココ》の古書どもには、不(ノ)字を用ふべき處に、非(ノ)字を用ひたること多きも、此(ノ)たぐひなり、】雖※〔□で囲む〕杼母《ドモ》また登母《トモ》と訓べし、【此(ノ)字漢籍にて、伊閇杼母《イヘドモ》又|伊布登母《イフトモ》とよむ、それも古言なり、凡て古言に、伊布《イフ》といふ辭を添(ヘ)ていへる例多し、後(ノ)世の言にもあることなり、有(ラ)ざることなしといふべきを、有(ラ)ずといふこと無(シ)といふ類ひ是なり、】是※〔□で囲む〕許禮《コレ》また許能《コノ》と訓こと、常のごとし、又|許禮《コレ》を許《コ》とのみいふも、古言の一(ツ)なり、【其《ソレ》を曾《ソ》といひ、吾《ワレ》を和《ワ》といふと同じ格なり、】又|許禮《コレ》を許々《ココ》といへることも多し、【其《ソレ》を曾許《ソコ》といふに同じ、】また於是《ココニ》とあるべきを、是《ココニ》と一字に書る處もあり、また天(ノ)菩比《ホヒノ》神|是可遣《コレヤルベシ》、また八重言代主《ヤヘコトシロヌシノ》神|是可白《コレマヲスベシ》、などの類の是(ノ)字、漢文の格に似たれども、然《シカ》にはあらず、古語なり、許禮《コレ》と訓べし、【こはまづ其(ノ)名を顯《アラ》はして、さて是《コノ》神云々といふに同じ、委《クハシ》くいふときは、天(ノ)菩比(ノ)神と云(フ)神あり、是《コノ》神|遣《ヤル》べしといはむが如し、漢文に此(ノ)字を置(ク)意とは異なり、】其※〔□で囲む〕つねの如く曾能《ソノ》と訓べし、但し此(ノ)字あまり繁《シゲ》く置(キ)たれば、中には捨《ステ》て讀(ム)まじきもあり、又彼(ノ)字と相通《アヒカヨ》はして、共に曾能《ソノ》とも加能《カノ》とも訓べき處あり、又|許能《コノ》と訓て宜しき處もあり、また上に云る物を指て、曾禮《ソレ》といふに、此(ノ)字を用ひたる處あり、如《ゴト》2魚(ノ)鱗(ノ)1所造《ツクレル》之|宮室《ミヤ》、其《ソレ》綿津見《ワタツミノ》神之|宮者《ミヤナリ》也、などある是(レ)なり、【中昔の物語書にも、人(ノ)名などを出(ダ)して、曾禮《ソレ》云々といへること多し、同(ジ)格なり、古語なるべし、】相※〔□で囲む〕阿比《アヒ》と訓べきこと常の如し、此(ノ)字いとおほし、中に捨てよむまじきもあるべし、竟※〔□で囲む〕袁波理弖《ヲハリテ》又|袁閇弖《ヲヘテ》又|波弖々《ハテテ》など訓べし、又然訓ては煩《ワヅラ》はしき處もある、其《ソ》は捨て讀まじきなり、訖※〔□で囲む〕竟(ノ)字と全《モハラ》同じさまに用ひたり、訓べきさまも同じ、至※〔□で囲む〕おほくはたゞ麻傳《マデ》と訓べし、伊多流麻傳《イタルマデ》と訓べき處は、いと稀《マレ》なり、また八拳須《ヤツカヒゲ》至《イタルマデ》2于|心前《ムナサキニ》1、こは至《マデ》v到《イタル》といふ意なり、【其故は、須《ヒゲ》の心前《ムナサキ》にとづき至《イタ》る齢になれるまでといふ意にて、伊多流《イタル》は須《ヒゲ》の心前に至るなり、麻傳《マデ》は然《サ》る齢になるまでなり、然れば是《コ》は、常にたゞ麻傳《マデ》といふことを、伊多流麻傳《イタルマデ》といふとは異なり、】到※〔□で囲む〕常のごと伊多流《イタル》と訓べきもあり、又|由久《ユク》伊傳麻須《イデマス》など訓べき處もあり、臨※〔□で囲む〕此(ノ)字多くは漢文の格にて用ひたり、其《ソ》は常の如く能叙牟《ノゾム》と訓ては、古語にあらず、臨2産時(ニ)1とあるは、産時爾那理弖《コウムトキニナリテ》、懷妊臨産とあるは、懷妊阿禮麻佐牟登須《ハラマセルミコアレマサムトス》などと、其語の状《サマ》にしたがひて訓べし、各※〔□で囲む〕つねの如く淤々能々《オノオノ》、また淤能母淤能母《オノモオノモ》、と訓て可《ヨ》き處もあり、又語のさまによりて、阿比《アヒ》とも美那《ミナ》とも迦多美邇《カタミニ》とも訓べき處あるなり、諸※〔□で囲む〕天神諸《アマツカミモロモロ》、八百萬神諸《ヤホヨロヅノカミモロモロ》、御子等諸《ミコタチモロモロ》などの如く、下にあること古語なり、毛々呂々《モロモロ》と訓べし、諸人諸國諸神などの如く、上にある類は、古語なると漢文なるとあるべし、諸人は、萬葉にも毛呂比登《モロヒト》とあれば、古言なり、諸國などは漢文と見ゆ、書紀などにも、久爾具爾《クニグニ》と訓り、然訓べし、諸神は迦微多知《カミタチ》と訓べし、又|久爾具爾《クニグニ》の例に、迦微賀微《カミガミ》とも訓べし、【毛呂加微《モロカミ》と訓(ム)はひがことならむ、】凡て毛呂某《モロナニ》とは、云(フ)べきと云まじきと有(ル)べく、毛呂毛呂能某《モロモロノナニ》とは、何《ナニ》にもいふべきなり、於是※〔二字□で囲む〕許々爾《ココニ》と訓なり、【今(ノ)俗言《サトビゴト》に曾許傳《ソコデ》といふ勢(ヒ)の處に用る辭なり、】上卷に在《アリ》2于|此處《ココニ》1と云べきを、於是有《ココニアリ》と書る處あり、こはなべての例に異なり、記中|如此状《カクサマ》のこと往々《ヲリヲリ》あり、是以※〔二字□で囲む〕許々袁母弖《ココヲモテ》と訓(ム)なり、此(ノ)辭は、本よりの皇國言とは聞えず、其(ノ)初《ハジメ》漢籍を讀《ヨム》ために、設けつる物なるべし、されど其《ソ》はいと古(ヘ)のことと聞えて、いひざまいと古《フル》し、許禮袁《コレヲ》といはずして、許々袁《ココヲ》と云(フ)は、古(ヘ)の物言《モノイヒ》なり、【凡て古(ヘ)は、曾禮《ソレ》を曾許《ソコ》、許禮《コレ》を許々《ココ》といへること多し、萬葉に、曾禮由惠爾《ソレユヱニ》と云べきを、曾許由惠爾《ソコユヱニ》といひ、許禮袁思閇婆《コレヲオモヘバ》と云べきを、許々毛閇婆《ココモヘバ》といへる類なり、さて今(ノ)世漢籍をよむに、是以を許々袁母弖《ココヲモツテ》とよむは、たま/\古訓ののこれるなり、此(ノ)外も那良より以前《アナタ》の古言の、此方の古書には漏《モレ》たるが、漢籍讀《カラブミヨミ》にのこれる、往々《コレカレ》あり、心をつくべし、】故爾※〔二字□で囲む〕迦禮許々爾《カレココニ》と訓べし、故《カレ》は軽《カロ》く用ひたる辭なり、即爾※〔二字□で囲む〕爾(ノ)字は捨て讀まじきなり、爾即※〔二字□で囲む〕これも爾(ノ)字はよむべからず、云爾※〔二字□で囲む〕中卷に只一(ツ)あり、語(ノ)終(リ)に、たゞ伊布《イフ》と訓べき處なり、爾(ノ)字捨て讀べからず、如此※〔二字□で囲む〕迦久《カク》と訓なり、迦久能碁登《カクノゴト》といふも、朝倉(ノ)宮(ノ)天皇の大御歌にも見えて、古言なり、されどなべては、迦久《カク》とのみいへり、然而※〔二字□で囲む〕斯加志弖《シカシテ》と訓べし、【漢籍にて斯加宇志弖《シカウシテ》と訓(ム)は、音便に宇《ウ》の添《ソハ》りたる俚言《サトビゴト》なり、】佐弖《サテ》とも訓べし、萬葉に然而毛《サテモ》と云る例あり、斯加《シカ》を切《ツヅ》めて佐《サ》といふ、常のことなり、【それに取ては、佐弖《サテ》は斯加弖《シカテ》なれば、こと足《タラ》はぬに似たれども、然らず、佐弖《サテ》は、斯加阿理弖《シカアリテ》の切《ツヅ》まりたるなり、阿《ア》を省《ハブキ》て斯加理弖《シカリテ》となるを、又その理《リ》の省《ハブ》かりて、佐弖《サテ》とはなれる、おのづからの勢(ヒ)なり、もし然らば、斯加理弖《シカリテ》と訓べしともいはむか、されど然訓る例は見ず、】然後※〔二字□で囲む〕期加志※〔氏/一〕能知《シカシテノチ》とも、佐弖能知《サテノチ》とも訓べし、以爲※〔二字□で囲む〕淤母布《オモフ》また淤母本須《オモホス》と訓べし、【淤母本須《オモホス》を淤煩須《オボス》、淤母本由《オモホユ》を淤煩由《オボユ》と云(フ)は、音便に頽《クヅ》れたる辭なり、此記などの訓には、用ふべからず、】所謂※〔二字□で囲む〕伊波由流《イハユル》と訓べし、其《ソ》は所有《アラユル》と同じ言格《イヒザマ》の辭なり、【是(レ)を漢籍訓と思ふ人あるべけれど、然らず、那良以前《ナラヨリアナタ》の古言なり、其(ノ)故は、伊波由流《イハユル》は伊波流々《イハルル》、阿良由流《アラユル》は阿良流々《アラルル》といふことなるに、流々《ルル》を由流《ユル》といふは、いと古(ヘ)の物言《モノイヒ》にて、萬葉などに此(ノ)格多ければなり、然らば某《ナニ》といはゆると、下にこそ云べきに、いはゆる某《ナニ》といふは、いさゝかおぼつかなけれど、中古の物語ぶみなどにも然云へれば、古(ヘ)よりして、然云(ヒ)ならへるなるべし、】所由〔二字□で囲む〕由惠《ユヱ》と訓べし、所以〔二字□で囲む〕由惠《ユヱ》と訓べし、者也〔二字□で囲む〕多くは那理《ナリ》と訓べき處にあり、者(ノ)字なきと同じことなり、又まれに神也《カミナリ》の意に、迦微那理《カミナリ》と訓べき處もあるなり、

故於是〔三字□で囲む〕故爾といへると同じさまなり、迦禮許々爾《カレココニ》と訓べし、故是以〔三字□で囲む〕迦禮許々袁母弖《カレココヲモテ》と訓べし、書紀(ノ)天武(ノ)御卷にも此(ノ)辭あり、續紀の宣命にも多し、古き言なるべし、何由以〔三字□で囲む〕那叙《ナゾ》とも那杼《ナド》とも、伊加傳《イカデ》とも伊加爾志弖《イカニシテ》とも、語のさまによりて訓べし、何由何故何以などあるも、皆同じことなり、何《イヅ」れも字のまゝに訓(マ)むは、此方《ココ》の詞つきにあらず、

詔之〔二字□で囲む〕告之〔二字□で囲む〕白之〔二字□で囲む〕【これらの之(ノ)字を、延佳本にはみな云と作《カケ》り、それもさることなれども、諸本ともにみな之とある故に、今は其《ソレ》に依(レ)り、】告言〔二字□で囲む〕白言〔二字□で囲む〕問曰〔二字□で囲む〕答日〔二字□で囲む〕答詔〔二字□で囲む〕答告〔二字□で囲む〕答言〔二字□で囲む〕答白〔二字□で囲む〕誨告〔二字□で囲む〕誨曰〔二字□で囲む〕議云〔二字□で囲む〕議白〔二字□で囲む〕凡てかゝるたぐひ、字のまゝに尋常《ヨノツネ》の如く訓むは、古語のさまにあらず、詔之告之などは、續紀(ノ)宣命に、詔賜都良久《ノリタマヒツラク》云々、勅豆良久《ノリタマヒツラク》云々、などあるに依(リ)て訓べく、白之白言などは、上卷に白都良久《マヲシツラク》云々、とあるに依て訓べく、議云議白などは、宣命に謀家良久《ハカリケラク》云々、とあるに依て訓べし、【都良久《ツラク》は都流《ツル》なり、家良久《ケラク》は祁流《ケル》なり、】大かたこれらに准《ナズラ》へて、問口は斗比祁良久《トヒケラク》、答曰は許多閇祁良久《コタヘケラク》、答詔は許多閇多麻比都良久《コタヘタマヒツラク》、誨告恨袁志閇多麻比都良久《ヲシヘタマヒツラク》、などと訓べし、又|都良久《ツラク》祁良久《ケラク》と云(ヒ)て、煩《ワヅラ》はしからむ處などは、詔之などは、能理多麻波久《ノリタマハク》、白言などは、麻袁佐久《マヲサク》と訓まむも宜し、又答は、字のまゝに許多閇《コタヘ》と訓ては、煩《ワヅラ》はしき處多し、其《ソ》はたゞ答詔は能理多麻波久《ノリタマハク》、答白は麻袁佐久《マヲサク》などとも訓べし、又告(ノ)字は、古書どもに、能流《ノル》てふ言に用ひたる故に、此記にては、詔(ノ)字と同じ意に用ひたれば、訓《ヨミ》も詔と全《モハラ》同じ、さて又右の字ども何《イヅ》れも/\、其(ノ)下なる語の短《ミジカ》きなどは、下より囘《カヘ》りて、詔之は云々登詔多麻布《シカシカトノリタマフ》、問曰は云々登問《シカシカトトフ》、などとも訓べし、左右《カニカク》に其處の勢(ヒ)によるべきなり、

〇凡て詔(ハク)云々、曰(ク)云々、白(サク)云々などある文を訓(ム)には、先(ヅ)初(メ)に詔《ノリタマハク》曰《イハク》白《マヲサク》とよみて、その云々《シカシカ》の語の終(リ)に、又ふたゝび、登能理多麻布《トノリタマフ》、登伊幣理《トイヘリ》、登麻袁須《トマヲス》、などと云(フ)辭を訓附《ヨミツク》るぞ古語の格《サダマリ》なる、古書は皆|漢文格《カラブミザマ》に書る故に、終(リ)には其(ノ)字を置《オカ》ざれども、古語のまゝに書る物には、皆此(ノ)辭あり、記中には、詔云《ノリタマハク》、豐葦原之水穂國者《トヨアシハラノミヅホノクニハ》、云々有祁理告而《シカシカアリケリトノリタマヒテ》、また詔云《ノリタマハク》、此地者云 々甚吉地詔而《シカシカアリテイトヨキトコロトノリタマヒテ》なども書り、【他《ホカ》も凡てこれらの格に傚《ナラヒ》て訓べきことしるし、】出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀詞に、乃大穴持命乃申給久《スナハチオホナモチノミコトノマヲシタマハク》、云々申天《シカシカトマヲシテ》、また續紀宣命に、云天在良久《イヒテアラク》、云々云利《シカシカトイヘリ》、また遷却祟神祝詞に、諸神等皆量申久《カミタチミナハカリマヲサク》、天穂日之命乎遣而《アメノホヒノミコトヲツカハシテ》、平氣武止申支《コトムケムトマヲシキ》、また謀家良久《ハカリケラク》、云々等謀家利《シカシカトハカリケリ》、また是東人波常爾云久《コノアブマビトハツネニイハク》、云々止云天《シカシカトイヒテ》などあり、歌にも萬葉九に、吾妹兒爾《ワギモコニ》、告而語久《ノリテカタラク》、云々登《シカシカト》、言家禮婆《イヒケレバ》、十三に、里人之《サトビトノ》、吾丹告樂《アレニツグラク》、云々登《シカシカト》、人曾告鶴《ヒトゾツゲツル》、十七に、乎登賣良我《ヲトメラガ》、伊米爾都具良久《イメニツグラク》、云々等曾《シカシカトゾ》、伊米爾都氣都流《イメニツゲツル》など、此(ノ)外にもなはおほく見えて、みな如是《カクノゴト》き例なり、古語のみならず、中古《ナカムカシ》の文もみな同じ、【古今集に、親王《ミコ》の云(ヒ)けらく、狩《カリ》して天(ノ)川原に至る、といふ心をよみて、盃はさせと云(ヒ)ければ、土左日記に、かぢとりの云(フ)やう、黒き鳥のもとに、白き波《ナミ》をよすとぞ云(フ)、源氏物語(ノ)玉葛(ノ)卷に、此(ノ)男《ヲノコ》どもを召取《ヨビトリ》て、かたらふことは、おもふさまになりなば、同じ心に、いきほひをかはすべきこと、などかたらふになどあり、なほおほかり、】必(ズ)訓添《ヨミソフ》べき辭なり、【今文章をかゝむにも、必(ズ)此(ノ)格を違《ダガ》ふまじきなり、然るを今(ノ)世(ノ)人の心には、首《ハジメ》に既に置たる辭を、又終(リ)にも二たび云(ハ)むは、同言の重なりて、煩《ワヅラ》はしく、拙《ツタナ》きぞと思ひて、終(リ)なるをば略《ハブ》きて、たゞ登《ト》とのみ訓結《ヨミトヂ》むめり、其《ソ》は中々に近(キ)世の、からぶみよみのさかしらにて、ひがことなり、漢籍も古き訓點の本には、皆トイヘリなどと訓(ミ)附(ケ)たるをや、たゞ登《ト》とのみ云(ヒ)とぢめたるは、古今集に、此(ノ)歌は、或人の云(ハ)く、柿(ノ)本(ノ)人まろがなりと、又ならのみかどの御歌なりと、これら一(ツ)二(ツ)のみなり、抑これらは、歌の左(ノ)注にて、其(ノ)下に語なければ、なほ聞《キキ》ぐるしくもあらぬを、其(ノ)下になは語のある處を、登《ト》とのみ云(ヒ)ては、上も下もとゝのはぬ語となるぞかし、是《コ》は凡て今(ノ)世(ノ)人は、さかしら心にて、誤る事なる故に、くだ/\しけれど、かく委曲《ツバラカ》に辨へ云なり、】


     直毘靈《ナホビノミタマ》【此篇《コノクダリ》は、道といふことの論ひなり、】

 

皇大御國《スメラオホミクニ》は、掛《カケ》まくも可畏《カシコ》き神御祖天照大御神《カムミオヤアマテラスオホミカミ》の、御生坐《ミアレマセ》る大御國《オホミクニ》にして、

  萬(ノ)國に勝《スグ》れたる所由《ユヱ》は、先(ヅ)こゝにいちじるし、國といふ國に、此(ノ)大御神の大御徳《オホミメグミ》かゞふらぬ國なし、  

大御神、大御手《オホミテ》に天《アマ》つ璽《シルシ》を捧持《ササゲモタ》して、

  御代御代に御《ミ》しるしと傳《ツタ》はり來《キ》つる、三種《ミクサ》の神寶《カムダカラ》は是ぞ、

萬千秋《ヨロヅチアキ》の長秋《ナガアキ》に、吾御子《アガミコ》のしろしめさむ國なりと、ことよさし賜《タマ》へりしまに/\、

  天津日嗣高御座《アマツヒツギタカミクラ》の、天地の共《ムタ》動《ウゴ》かぬことは、既《ハヤ》くこゝに定まりつ、

天雲《アマグモ》のむかぶすかぎり、谷蟆《タニグク》のさわたるきはみ、皇御孫《スメミマノ》命の大御食國《オホミヲスクニ》とさだまりて、天下《アメノシタ》にはあらぶる神もなく、まつろはぬ人もなく、

  いく萬代を經《フ》とも、誰《タレ》しの奴《ヤツコ》か、大皇《オホキミ》に背《ソム》き奉《マツラ》む、あなかしこ、御代御代の間《アヒダ》に、たま/\も不伏惡穢奴《マツロハヌキタナキヤツコ》もあれば、神代の古事《フルコト》のまに/\、大御稜威《オホミイツ》をかゞやかして、たちまちにうち滅《ホロボ》し給ふ物ぞ、

千萬御世《チヨロヅミヨ》の御末《ミスエ》の御代まで、天皇命《スメラミコト》はしも、大御神の御子《ミコ》とまし/\て、

  御世御世の天皇《スメラギ》は、すなはち天照大御神の御子になも大坐《オホマシ》ます、故《カレ》天《アマ》つ神の御子とも、日の御子ともまをせり、天《アマ》つ神の御心を大御心として、

  何《ナニ》わざも、己《オノレ》命《ミコト》の御心もてさかしだち賜はずて、たゞ神代の古事《フルコト》のまゝに、おこなひたまひ治《ヲサ》め賜ひて、疑《ウタガ》ひおもほす事しあるをりは、御卜事《ミウラゴト》もて、天(ツ)神の御心を問《トハ》して物し給ふ、

神代も今もへだてなく、

  たゞ天津日嗣《アマツヒツギ》の然《シカ》ましますのみならず、臣連八十伴緒《オミムラジヤソトモノヲ》にいたるまで、氏《ウヂ》かばねを重《オモ》みして、子孫《ウミノコ》の八十續《ヤソツヅキ》、その家々《イヘイヘ》の職業《ワザ》をうけつがひつゝ、祖神《オヤガミ》たちに異《コト》ならず、只《タダ》一世《ヒトヨ》の如くにして、神代のまゝに奉仕《ツカヘマツ》れり、

神《カム》ながら安國《ヤスクニ》と、平《タヒラ》けく所知看《シロシメ》しける大御國になもありければ、

  書紀の難波長柄朝廷御卷《ナニハノナガラノミカドノミマキ》に、惟神者《カムナガラトハ》、《イフ》2隨神道亦自有神道《カミノミチニシタガヒタマヒテオノヅカラカミノミチアルヲ》1也とあるを、よく思ふべし、神(ノ)道に隨《シタガ》ふとは、天(ノ)下|治《ヲサ》め賜ふ御しわざは、たゞ神代より有(リ)こしまに/\物し賜ひて、いさゝかもさかしらを加《クハ》へ給ふことなきをいふ、さてしか神代のまに/\、大《オホ》らかに所知看《シロシメ》せば、おのづから神の道はたらひて、他《ホカ》にもとむべきことなきを、自《オノヅカラ》有(リ)2神(ノ)道1とはいふなりけり、かれ現御神《アキツミカミ》と大八洲國《オホヤシマクニ》しろしめすと申すも、其(ノ)御世々々の天皇の御政《ミヲサメ》、やがて神の御政《ミヲサメ》なる意なり、萬葉集の歌などに、神隨云々《カムナガラシカシカ》とあるも、同じこゝろぞ、神國《カミグニ》と韓人《カラビト》の申せりしも、諾《ウベ》にぞ有(リ)ける、

古(ヘ)の大御世《オホミヨ》には、道《ミチ》といふ言擧《コトアゲ》もさらになかりき、

  故(レ)古語《フルコト》に、あしはらの水穂《ミヅホ》の國は、神《カム》ながら言擧《コトアゲ》せぬ國といへり、

其《ソ》はたゞ物にゆく道こそ有(リ)けれ、

  美知《ミチ》とは、此記に味御路《ウマシミチ》と書る如く、山路《ヤマヂ》野路《ヌヂ》などの路《チ》に、御《ミ》てふ言を添《ソヘ》たるにて、たゞ物にゆく路ぞ、これをおきては、上(ツ)代に、道といふものはなかりしぞかし、

物のことわりあるべきすべ、萬《ヨロヅ》の教《ヲシ》へごとをしも、何《ナニ》の道くれの道といふことは、異國《アダシクニ》のさだなり、

  異國《アダシクニ》は、天照大御神の御國にあらざるが故に、定《サダ》まれる主《キミ》なくして、狹蠅《サバヘ》なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし取《トリ》つれば、賤しき奴《ヤツコ》も、たちまちに君ともなれば、上《カミ》とある人は、下なる人に奪《ウバ》はれじとかまへ、下なるは、上《カミ》のひまをうかゞひて、うばゝむとはかりて、かたみに仇《アタ》みつゝ、古(ヘ)より國|治《ヲサ》まりがたくなも有(リ)ける、其《ソ》が中に、威力《イキホヒ》あり智《サト》り深くて、人をなつけ、人の國を奪《ウバ》ひ取て、又人にうばゝるまじき事量《コトバカリ》をよくして、しばし國をよく治めて、後の法《ノリ》ともなしたる人を、もろこしには聖人とぞ云なる、たとへば、亂《ミダ》たる世には、戰《タタカヒ》にならふゆゑに、おのづから名將《ヨキイクサノキミ》おほくいでくるが如く、國の風俗《ナラハシ》あしくして、治まりがたきを、あながちに治めむとするから、世々にそのすべをさま/”\思ひめぐらし、爲《シ》ならひたるゆゑに、しかかしこき人どももいできつるなりけり、然るをこの聖人といふものは、神のごとよにすぐれて、おのづからに奇《クス》しき徳《イキホヒ》あるものと思ふは、ひがことなり、さて其(ノ)聖人どもの作りかまへて、定めおきつることをなも、道とはいふなる、かゝれば、からくににして道といふ物も、其(ノ)旨《ムネ》をきはむれば、たゞ人の國をうばはむがためと、人に奪《ウバ》はるまじきかまへとの、二(ツ)にはすぎずなもある、そも/\人の國を奪ひ取(ラ)むとはかるには、よろづに心をくだき、身をくるしめつゝ、善《ヨキ》ことのかぎりをして、諸人《モロビト》をなつけたる故に、聖人はまことに善人《ヨキヒト》めきて聞え、又そのつくりおきつる道のさまも、うるはしくよろづにたらひて、めでたくは見ゆめれども、まづ己《オノレ》からその道に背《ソム》きて、君をほろぼし、國をうばへるものにしあれば、みないつはりにて、まことはよき人にあらず、いともく惡《アシ》き人なりけり、もとよりしか穢惡《キタナ》き心もて作りて、人をあざむく道なるけにや、後(ノ)人も、うはべこそたふとみしたがひがほにもてなすめれど、まことには一人も守《マモ》りつとむる人なければ、國のたすけとなることもなく、其(ノ)名のみひろごりて、つひに世に行《オコナ》はるゝことなくて、聖人の道は、たゞいたづらに、人をそしる世々の儒者《ズサ》どもの、さへづりぐさとぞなれりける、然るに儒者の、たゞ六經などいふ書をのみとらへて、彼(ノ)國をしも、道|正《タダ》しき國ぞと、いひのゝしるは、いたくたがへることなり、かく道といふことを作りて正《タダ》すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かへりてたけきことに思ひいふこそをこなれ、そも後(ノ)人、此(ノ)道のまゝに行なはばこそあらめ、さる人は、よゝに一人だに有(リ)がたきことは、かの國の世々の史《フミ》どもを見てもしるき物をや、さて其道といふ物のさまは、いかなるぞといへば、仁義禮讓孝悌忠信などいふ、こちたき名どもを、くさ/”\作り設《マケ》て、人をきびしく教へおもむけむとぞすなる、さるは後(ノ)世の法律を、先王の道にそむけりとて、儒者はそしれども、先王の道も、古(ヘ)の法律なるものをや、また易《ヤク》などいふ物をさへ作りて、いともこゝろふかげにいひなして、天地の理《コトワリ》をきはめつくしたりと思ふよ、これはた世人をなつけ治めむための、たばかり事ぞ、そも/\天地のことわりはしも、すべて神の御所為《ミシワザ》にして、いとも/\妙《タヘ》に奇《クス》しく、靈《アヤ》しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智《サト》りもては、測《ハカ》りがたきわざなるを、いかでかよくきはめつくして知ることのあらむ、然るに聖人のいへる言をば、何《ナニ》ごともたゞ理《コトワリ》の至極《キハミ》と、信《ウケ》たふとみをるこそいと愚《オロカ》なれ、かくてその聖人どものしわざにならひて、後々《ノチノチ》の人どもも、よろづのことを、己《オノ》がさとりもておしはかりごとするぞ、彼(ノ)國のくせなる、大御国の物學びせむ人、是《ココ》をよく心得をりて、ゆめから人の説《コト》になまどはされそ、すべて彼(ノ)國は、事|毎《ゴト》にあまりこまかに心を着《ツケ》て、かにかくに論《アゲツラ》ひさだむる故に、なべて人の心さかしだち惡《ワロ》くなりて、中々に事をしゝこらかしつゝ、いよゝ國は治まりがたくのみなりゆくめり、されば聖人の道は、國を治めむために作りて、かへりて國を亂《ミダ》すたねともなる物ぞ、すべて何《ナニ》わざも、大《オイ》らかにして事|足《タリ》ぬることは、さてあるこそよけれ、故《カレ》皇国の古(ヘ)は、さる言痛《コチタ》き教(ヘ)も何《ナニ》もなかりしかど、下が下までみだるゝことなく、天(ノ)下は穩《オダヒ》に治まりて、天津日嗣いや遠長《トホナガ》に傳はり来坐《キマセ》り、さればかの異國の名にならひていはぱ、是(レ)ぞ上《ウヘ》もなき優《スグレ》たる大《オホ》き道にして、實《マコト》は道あるが故に道てふ言《コト》なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり、そをこと/”\しくいひあぐると、然らぬとのけぢめを思へ、言擧《コトアゲ》せずとは、あだし國のごと、こちたく言《イヒ》たつることなきを云なり、譬《タトヘ》ば才《ザエ》も何《ナニ》も、すぐれたる人は、いひたてぬを、なまなまのわろものぞ、返りていさゝかの事をも、こと/”\しく言《イヒ》あげつゝほこるめる如く、漢國《カラクニ》などは、道ともしきゆゑに、かへりて道々《ミチミチ》しきことをのみ云(ヒ)あへるなり、儒者《ズサ》はこゝをえしらで、皇國をしも、道なしとかろしむるよ、儒者のえしらぬは、萬(ヅ)に漢《カラ》を尊《タフト》き物に思へる心は、なほさも有(リ)なむを、此方《ココ》の物知(リ)人さへに、是(レ)をえさとらずて、かの道てふことある漢國をうらやみて、強《シヒ》てこゝにも道ありと、あらぬことどもをいひつゝ爭《アラソ》ふは、たとへば、猿《サル》どもの人を見て、毛《ケ》なきぞとわらふを、人の恥《ハヂ》て、おのれも毛《ケ》はある物をといひて、こまかなるをしひて求出《モトメイデ》て見せて、あらそふが如し、毛《ケ》は無《ナ》きが貴きをえしらぬ、癡人《シレモノ》のしわざにあらずや、然るをやゝ降《クダ》りて、書籍《フミ》といふ物|渡參來《ワタリマヰキ》て、其《ソ》を學《マナ》びよむ事|始《ハジ》まりて後《ノチ》、其(ノ)國のてぶりをならひて、やゝ萬(ヅ)のうへにまじへ用ひらるゝ御代になりてぞ、大御國の古(ヘ)の大御《オホミ》てぶりをば、取別《トリワケ》て神道《カミノミチ》とはなづけられたりける、そはかの外國《トツクニ》の道々《ミチミチ》にまがふがゆゑに、神《カミ》といひ、又かの名を借《カ》りて、こゝにも道《ミチ》とはいふなりけり、

  神の道としもいふ所由《ユヱ》は、下につばらかにとく、

しかありて御代々々を經《フ》るまゝに、いやます/\に、その漢《カラ》國のてぶりをしたひまねぶこと、盛《サカリ》になりもてゆきつつ、つひに天の下|所知看《シロシメ》す大御政《オホミワザ》も、もはら漢樣《カラザマ》に爲《ナリ》はてて、

  難波の長柄《ナガラノ》宮、淡海《アフミ》の大津(ノ)宮のほどに至りて、天の下の御制度《ミサダメ》も、みな漢《カラ》になりき、かくて後は、古(ヘ)の御《ミ》てぶりは、たゞ神事《カムワザ》にのみ用ひ賜へり、故(レ)後(ノ)代までも、神事《カムワザ》にのみは、皇國のてぶりの、なほのこれることおほきぞかし、

青人草《アヲヒトクサ》の心までぞ、其(ノ)意にうつりにける、

  天皇尊《スメラミコト》の大御心を心とせずして、己々《オノオノ》がさかしらごゝろを心とするは、漢意《カラゴコロ》の移《ウツ》れるなり、

さてこそ安《ヤス》けく平《タヒラ》けくて有來《アリコ》し御國の、みだりがはしきこといできつゝ、異國《アダシクニ》にやゝ似《ニ》たることも、後にはまじりきにけれ、

  いともめでたき大御國の道をおきながら、他国《ヒトグニ》のさかしく言痛《コチタ》き意行《ココロシワザ》を、よきこととして、ならひまねべるから、直《ナホ》く清《キヨ》かりし心も行《オコナ》ひも、みな穢惡《キタナ》くまがりゆきて、後つひには、かの他國《ヒトグニ》のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし、さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物ぞと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、もと聖人の道の蔽《ツミ》なることを、えさとらぬなり、古(ヘ)の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ、

そも/\此(ノ)天地《アメツチ》のあひだに、有(リ)とある事は、悉皆《コトゴト》に神の御心なる中に、凡て此(ノ)世(ノ)中の事は、春秋のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐひ、又國のうへ人のうへの、吉凶《ヨキアシ》き萬(ノ)事、みなことごとに神の御所為《ミシワザ》なり、さて神には、善《ヨキ》もあり惡《アシ》きも有(リ)て、所行《シワザ》もそれにしたがふなれば、大かた尋常《ヨノツネ》のことわりを以ては、測《ハカ》りがたきわざなりかし、然るを世(ノ)人、かしこきもおろかなるもおしなべて、外国《トツクニ》の道々の説《コト》にのみ惑《マド》ひはてて、此(ノ)意をえしらず、皇國の學問《モノマナビ》する人などは、古書《イニシヘノフミ》を見て、必(ズ)知(ル)べきわざなるを、さる人どもだに、えわきまへ知(ラ)ざるは、いかにぞや、抑|吉凶《ヨキアシ》き萬(ヅ)の事を、あだし國にて、佛の道には因果とし、漢《カラ》の道々には天命といひて、天のなすわざと思へり、これらみなひがことなり、そが中に佛(ノ)道(ノ)説《コト》は、多く世の學者《モノマナブヒト》の、よく辨《ワキマ》へつることなれば、今いはず、漢國《カラクニ》の天命の説《コト》は、かしこき人もみな惑《マド》ひて、いまだひがことなることをさとれる人なければ、今これを論《アゲツラ》ひさとさむ、抑天命といふことは、彼(ノ)國にて古(ヘ)に、君を滅《ホロボ》し國を奪《ウバ》ひし聖人の、己《オノ》が罪をのがれむために、かまへ出《イデ》たる託言《コトツケゴト》なり、まことには、天地は心ある物にあらざれば、命《メイ》あるべくもあらず、もしまことに天に心あり、理《コトワリ》もありて、善人《ヨキヒト》に國を與《アタ》へて、よく治めしめむとならば、周の代のはてかたにも、必(ズ)又聖人は出ぬべきを、さもあらざりしはいかにぞ、もし周公孔子にして、既《スデ》に道は備《ソナハ》れる故に、其後は聖人を出(ダ)さずといはむも、又心得ず、かの孔丘が後、其(ノ)道あまねく世に行はれて、國よく治まりたらむにこそ、さもいはめ、其後しもいよゝ其(ノ)道すたれはてて、徒言《イタヅラゴト》となり、國もます/\みだれつる物を、今はたれりとして、聖人をも出(ダ)さず、國の厄《マガ》をもかへりみず、つひに秦(ノ)始皇がごと荒《アラ》ぶる人にしも與《アタ》へて、人草《ヒトクサ》を苦《クル》しめしは、いかなる天のひがこゝろぞ、いと/\いふかし、始皇などは、天のあたへしに非る故に、久しくはえたもたず、ともいひ枉《マグ》べけれど、そも暫《シバラク》にても、さる惡人《アシキヒト》にあたふべき理あらめやも、又國をしる君のうへに、天命のあらば、下なる諸人《モロビト》のうへにも、善惡《ヨキアシ》きしるしを見せて、善《ヨキ》人はながく福《サカ》え、惡《アシキ》人は速《スミヤ》けく禍《マガ》るべき理なるを、さはあらずて、よき人も凶《アシ》く、あしき人も吉《ヨ》きたぐひ、昔《ムカシ》も今も多かるはいかに、もしまことに天のしわざならましかば、さるひがことはあらましや、さて後(ノ)世になりては、やうやく人心さかしきゆゑに、國を奪ひて天命ぞといふをば、世(ノ)人の諾《ウベ》なはねば、うはべは禅《ユヅ》らせて取《トル》こともあるをば、よからぬことにいふめれど、かの古(ヘ)の聖人どもも、實(マコト)は是に異《コト》ならぬ物をや、後(ノ)世の王の天命ぞといふをば、信《ウケ》ぬものの、古(ヘ)人の天命をば、まことと心得をるは、いかなるまどひぞも、古(ヘ)は天命ありて、後にはなきこそをかしけれ、或人、舜は堯が國をうばひ、禹も又舜が國を奪へりしなりといへるも、さも有(ル)べきことぞ、後(ノ)世の王莽曹操がたぐひも、うはべはゆづりを受《ウケ》て嗣《ツギ》つれども、實《マコト》は簒《ウバ》へるを以て思へば、舜禹などもさぞありけむを、上(ツ)代は朴《スナホ》にして、禅《ユヅ》れりと云(ヒ)なせるを、まことと心得て、國内《クヌチ》の人ども、みなあざむかれにけらし、かの莽操がころは、世(ノ)人さかしくて、あざむかれざりし故に、惡《アシ》きしわざのあらはれけむ、かれらが如くなる輩《トモガラ》も、上(ツ)代ならましかば、あはれ聖人と仰《アフ》がれなましものを、

禍津日《マガツビノ》神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲《カナ》しきわざにぞありける、

  世間《ヨノナカ》に、物あしくそこなひなど、凡て何事《ナニゴト》も、正しき理(リ)のまゝにはえあらずて、邪《ヨコサマ》なることも多かるは、皆此(ノ)神の御心にして、甚《イタ》く荒《アラ》び坐《マス》時は、天照大御神高木(ノ)大神の大御力にも、制《トド》みかね賜ふをりもあれば、まして人の力には、いかにともせむすべなし、かの善《ヨキ》人も禍《マガ》り、惡《アシキ》人も福《サカ》ゆるたぐひ、尋常《ヨノツネ》の理(リ)にさかへる事の多かるも、皆此(ノ)神の所為《シワザ》なるを、外國には、神代の正しき傳説《ツタヘゴト》なくして、此(ノ)所由《ヨシ》をえしらざるが故に、たゞ天命の説を立(テ)て、何事《ナニゴト》もみな、當然理《シカルベキコトワリ》を以て定めむとするこそ、いとをこなれ、然《シカ》れども、天照大御神|高天原《タカマノハラ》に大坐々《オホマシマシ》て、大御光《オホミヒカリ》はいさゝかも曇りまさず、此(ノ)世を御照《ミテラ》しまし/\、天津御璽《アマツミシルシ》はた、はふれまさず傳《ツタ》はり坐《マシ》て、事依《コトヨサ》し賜ひしまに/\、天の下は御孫命《ミマノミコト》の所知食《シロシメシ》て、

  異國《アダシクニ》は、本より主の定まれるがなければ、たゞ人《ビト》もたちまち王になり、王もたちまちたゞ人にもなり、亡《ホロ》びうせもする、古(ヘ)よりの風俗《ナラハシ》なり、さて國を取(ラ)むと謀《ハカ》りて、えとらざる者《モノ》をば、賊といひて賤《イヤ》しめにくみ、取(リ)得たる者をば、聖人といひて尊《タフト》み仰《アフ》ぐめり、さればいはゆる聖人も、たゞ賊の爲《シ》とげたる者にぞ有(リ)ける、掛《カケ》まくも可畏《カシコ》きや吾《アガ》天皇尊《スメラミコト》はしも、然《サ》るいやしき國々の王どもと、等《ヒトシ》なみには坐まさず、此(ノ)御國を生成《ウミナシ》たまへりし神祖《カムロギノ》命の、御みづから授《サヅケ》賜へる皇統《アマツヒツギ》にまし/\て、天地の始(メ)より、大御|食國《ヲスクニ》と定まりたる天(ノ)下にして、大御神の大命《オホミコト》にも、天皇|惡《アシ》く坐(シ)まさば、莫《ナ》まつろひそとは詔《ノリ》たまはずあれば、善《ヨ》く坐(サ)むも惡《アシ》く坐(サ)むも、側《カタハラ》よりうかゞひはかり奉ることあたはず、天地のあるきはみ、月日の照《テラ》す限(リ)は、いく萬代を經《ヘ》ても、動《ウゴ》き坐(サ)ぬ大君に坐(セ)り、故(レ)古語《フルコト》にも、當代《ソノヨ》の天皇をしも神と申して、實《マコト》に神にし坐(シ)ませば、善惡《ヨキアシ》き御うへの論《アゲツラ》ひをすてて、ひたぶるに畏《カシコ》み敬《ヰヤマ》ひ奉仕《マツロフ》ぞ、まことの道には有(リ)ける、然るを中ごろの世のみだれに、此(ノ)道に背《ソム》きて、畏《カシコ》くも大朝廷《オホキミカド》に射向《イムカ》ひて、天皇尊《スメラミコト》をなやまし奉れりし、北條(ノ)義時泰時、又足利(ノ)尊氏などが如きは、あなかしこ、天照日(ノ)大御神の大御蔭《オホミカゲ》をもおもひはからざる、穢惡《キタナ》き賊奴《ヤツコ》どもなりけるに、禍津日《マガツビノ》神の心はあやしき物にて、世(ノ)人のなびき從ひて、子孫《ウミノコ》の末まで、しばらく榮《サカ》え居《ヲリ》しことよ、抑此(ノ)世を御照し坐(シ)ます天津日(ノ)神をば、必(ズ)たふとみ奉るべきことをしれども、天皇を必(ズ)畏《カシ》こみ奉るべきことをば、しらぬ奴《ヤツコ》もよにありけるは、漢籍意《カラブミゴコロ》にまどひて、彼(ノ)國のみだりなる風俗《ナラハシ》を、かしこきことにおもひて、正しき皇國の道をえしらず、今世を照しまします天津日(ノ)神、即(チ)天照大御所にましますことを信《ウケ》ず、今の天皇、すなはち天照大御神の御子に坐(シ)ますことを忘《ワス》れたるにこそ、

天津日嗣《アマツヒツギ》の高御座《タカミクラ》は、

  天皇の御統《ミツイデ》を日嗣《ヒツギ》と申すは、日(ノ)神の御心を御心として、其(ノ)御業《ミシワザ》を嗣《ツギ》坐(ス)が故なり、又その御座《ミクラ》を高御座と申すは、唯に高き由のみにあらず、日(ノ)神の御座なるが故なり、日には、高照《タカヒカル》とも高日《タカヒ》とも日高《ヒダカ》とも申す古語《フルコト》のあるを思へ、さて日(ノ)神の御座を、次々《ツギツギ》に受(ケ)傳へ坐て、其(ノ)御座に大坐《オホマシ》ます天皇命にませば、日(ノ)神に等《ヒトシ》く坐(ス)こと決《ウツナ》し、かゝれば、天津日(ノ)神のおほみうつくしみを蒙《カガフ》らむ者は、誰《タレ》しか天皇命には、可畏《カシコ》み敬《ヰヤ》び尊《タフト》みて、奉仕《ツカヘマツ》らざらむ、

あめつちのむた、ときはにかきはに動《ウゴ》く世なきぞ、此(ノ)道の靈《アヤシ》く奇《クスシ》く、異國《アダシクニ》の萬(ヅ)の道にすぐれて、正《タダ》しき高《タカ》き貴《タフト》き徴《シルシ》なりける、漢國などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、もとよりみだりなるが、世々にます/\亂れみだれて、終《ツヒ》には傍《カタヘ》の國(ノ)人に、國はこと/”\くうばゝれはてぬ、其《ソ》は夷狄といひて卑《イヤシ》めつゝ、人のごともおもへらざりしものなれども、いきほひつよくして、うばひ取(リ)つれば、せむすべなく天子といひて、仰《アフ》ぎ居《ヲ》るなるは、いとも/\あさましきありさまならずや、かくても儒者《ズサ》はなほよき國とやおもふらむ、王のみならず、おほかた貴《タフト》きいやしき統《スヂ》さだまらず、周といひし代までは、封建の制《サダメ》とかいひて、此(ノ)別《ワキ》ありしがごとくなれ莊ど、それも王の統《スヂ》かはれば、下までも共にかはりつれば、まことは別《ワキ》なし、秦よりこなたは、いよゝ此(ノ)道たゝず、みだりにして、賤《イヤシ》き奴《ヤツコ》の女《ムスメ》も、君の寵《メデ》のまに/\、忽《タチマチ》に后《キサキ》の位にのぽり、王の女《ムスメ》をも、すぢなき男《ヲノコ》にあはせて、恥《ハヂ》ともおもへらず、又|昨日《キノフ》まで山賤《ヤマガツ》なりし者も、今日《ケフ》はにはかに、國の政とる高官《タカキツカサ》にもなり登《ノボ》るたぐひ、凡て貴賤《タカキイヤシ》き品さだまらず、鳥獣《トリケモノ》のありさまに異《コト》ならずなもありける、

そも此(ノ)道は、いかなる道ぞと尋《タヅ》ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、

  是《コ》をよく辨別《ワキマヘ》て、かの漢國《カラクニ》の老莊などが見《ココロ》と、ひとつにな思ひまがへそ、

人の作れる道にもあらず、此(ノ)道はしも、可畏《カシコ》きや高御産巣日《タカミムスビノ》神の御靈《ミタマ》によりて、

  世(ノ)中にあらゆる事も物も、皆《ミナ》悉《コトゴト》に此(ノ)大神のみたまより成れり、

神祖伊邪那岐《カムロギイザナギノ》大神|伊邪那美《イザナミノ》大神の始めたまひて、

  よのなかにあらゆる事も物も、此(ノ)二柱(ノ)大神よりはじまれり、

天照大御神の受《ウケ》たまひたもちたまひ、傳へ賜ふ道なり、故《カレ》是以《ココヲモテ》神の道とは申すぞかし、

  神(ノ)道と申す名は、書紀の石村池邊《イハレノイケノベノ》宮の御卷に、始めて見えたり、されど其《ソ》は只、神をいつき祭りたまふことをさして云るなり、さて難波(ノ)長柄(ノ)宮の御卷に、惟神者《カムナガラトハ》、謂d隨《シタガヒタマヒテ》2神(ノ)道(ニ)1亦|自《オ》有(ルヲ)c神(ノ)道u也とあるぞ、まさしく皇國の道を廣くさしていへる始(メ)なりける、さて其由は、上に引ていへるが如くなれは、其(ノ)道といひて、ことなる行《オフナ》ひのあるにあらず、さればたゞ神をいつき祭りたまふことをいはむも、いひもてゆけば一(ツ)むねにあたれり、然るを、からぶみに、聖人設(ケテ)2神道(ヲ)1、といふ言あるを取て、此方《ココ》にも名《ナヅ》けたりなどいふめるは、ことのこゝろしらぬみだり言《ゴト》なり、其故は、まづ神とさすもの、此《ココ》と彼《カシコ》と姶(メ)より同じからず、かの國にしては、いはゆる天地陰陽の、不測《ハカリガタ》く靈《アヤシ》きをさしていふめれば、たゞ空《ムナシ》き理(リ)のみにして、たしかに其物あるにあらず、さて皇國の神は、今の現《ヲツツ》に御宇《アメノシタシロシメス》天皇の皇祖《ミオヤ》に坐(シ)て、さらにかの空《ムナシ》き理(リ)をいふ類にはあらず、さればかの漢籍《カラブミ》なる神道は、不測《ハカリガタ》くあやしき道といふこゝろ、皇國の神(ノ)道は、皇祖《ミオヤノ》神の、始め賜ひたもち賜ふ道といふことにて、其意いたく異《コト》なるをや、さて其道の意は、此(ノ)記《フミ》をはじめ、もろ/\の古書《イニシヘブミ》どもをよく味《アヂハ》ひみれば、今もいとよくしらるゝを、世々のものしりびとどもの心も、みな禍津日(ノ)神にまじこりて、たゞからぶみにのみ惑《マド》ひて、思ひとおもひいひといふことは、みな佛《ホトケ》と漢《カラ》との意《ココロ》にして、まことの道のこゝろをば、えさとらずなもある、

  古(ヘ)は道といふ言擧《コトアゲ》なかりし故に、古書どもに、つゆばかりも道々《ミチミチ》しき意《ココロ》も語《コトバ》も見えず、故《カレ》舍人親王《トネノミコ》を始め奉(リ)て、世々の識者《モノシリビト》ども、道の意をえとらへず、たゞかの道々《ミチミチ》しきことこちたく云る、から書《ブミ》の説《コト》のみ、心の底《ソコ》にしみ着《ツキ》て、其《ソ》を天地のおのづからなる理(リ)と思(ヒ)居《ヲ》る故に、すがるとは思はねども、おのづからそれにまつはれて、彼方《カナタ》へのみ流れゆくめり、されば異國《アダシクニ》の道を、道の羽翼《タスケ》となるべき物と思ふも、即(チ)其(ノ)心のかしこへ奪《ウバ》はれつるなりけり、大かた漢國の説《コト》は、かの陰陽乾坤などをはじめ諸《モロモロ》皆、もと聖人どもの己《オノ》が智《サトリ》をもて、おしはかりに作りかまへたる物なれば、うち聞(ク)には、ことわり深《フカ》げにきこゆめれども、彼《カレ》が垣内《カキツ》を離《ハナ》れて、外よりよく見れば、何《ナニ》ばかりのこともなく、中々に淺《アサ》はかなることどもなりかし、されど昔《ムカシ》も今も世(ノ)人の、此(ノ)垣内《カキツ》に迷入《マヨヒイリ》て、得出離《エイデハナ》れぬこそくちをしけれ、大御國の説《コト》は、神代より傳へ來《コ》しまゝにして、いさゝかも人のさかしらを加《クハ》へざる故に、うはべはたゞ淺々《アサアサ》と聞ゆれども、實《マコト》にはそこひもなく、人の智《サトリ》の得測度《エハカラ》ぬ、深き妙《タヘ》なる理のこもれるを、其(ノ)意をえしらぬは、かの漢國書《カラクニブミ》の垣内《カキツ》にまよひ居《ヲ》る故なり、此《コ》をいではなれざらむはどは、たとひ百年《モモトセ》千年《チトセ》の力《チカラ》をつくして、物《モノ》學《マナ》ぶとも、道のためには、何《ナニ》の益《シルシ》もなきいたづらわざならんかし、但し古(キ)書は、みな漢文《カラブミ》にうつして書(キ)たれば、彼(ノ)國のことも、一(ト)わたりは知(リ)てあるべく、文字《モジ》のことなどしらむためには、漢籍《カラブミ》をも、いとまあらば學びつべし、皇國魂《ミクニダマシヒ》の定まりて、たゞよはぬうへにては、害《サマタゲ》はなきものぞ、

故《カレ》おのが身々《ミミ》に受行《ウケオコナ》ふべき神(ノ)道の教(ヘ)などいひて、くさ/”\ものすなるも、みなかの道々のをしへごとをうらやみて、近き世にかまへ出(デ)たるわたくしごとなり、

  こと/”\しく秘説《ヒメコト》など云て、人えりして密《ヒソカ》に傳ふる類《タグヒ》など、皆後(ノ)世に僞造《イツハリツク》れることぞ、凡てよきことは、いかにもいかにも世に廣《ヒロ》まるこそよけれ、ひめかくして、あまねく人に知(ラ)せず、己《オノ》が私物《ワタクシモノ》にせむとするは、いとこころぎたなきわざなりかし、

あなかしこ、天皇《オホキミ》の天(ノ)下しろしめす道を、下《シモ》が下《シモ》として、己《オノ》がわたくしの物とせむことよ、

  下なる者《モノ》は、かにもかくにもたゞ上の御おもむけに從《シタガ》ひ居《ヲ》るこそ、道にはかなへれ、たとへ神の道の行《オコナ》ひの、別《コト》にあらむにても、其《ソ》を数へ學びて、別《コト》に行ひたらむは、上にしたがはぬ私(シ)事ならずや、

人はみな、産集日《ムスビノ》神の御靈《ミタマ》によりて、生《ウマ》れつるまに/\、身にあるべきかぎりの行《ワザ》は、おのづから知(リ)てよく為《ス》る物にしあれば、

世中《ヨノナカ》に生《イキ》としいける物、鳥蟲に至るまでも、己《オノ》が身のほど/\に、必(ズ)あるべきかぎりのわざは、産集日《ムスビノ》神のみたまに頼《ヨリ》て、おのづからよく知(リ)てなすものなる中にも、人は殊にすぐれたる物とうまれつれば、又しか勝《スグ》れたるほどにかなひて、知(ル)べきかぎりはしり、すべきかぎりはする物なるに、いかでか其(ノ)上(ヘ)をなほ強《シヒ》ることのあらむ、教(ヘ)によらずては、えしらずえせぬものといはば、人は鳥蟲におとれりとやせむ、いはゆる仁義禮讓孝悌忠信のたぐひ、皆人の必(ズ)あるべきわざなれば、あるべき限(リ)は、教(ヘ)をからざれども、おのづからよく知(リ)てなすことなるに、かの聖人の道は、もと治まりがたき國を、しひてをさめむとして作れる物にて、人の必(ズ)有(ル)べきかぎりを過《スギ》て、なほきびしく教へたてむとせる強事《シヒゴト》なれば、まことの道にかなはず、故《カレ》口《クチ》には人みなこと/”\しく言《イヒ》ながら、まことに然《シカ》行《オコナ》ふ人は、世々にいと有(リ)がたきを、天理のまゝなる道と思ふは、いたくたがへり、又其(ノ)道にそむける心を、人慾といひてにくむも、こゝろえず、そも/\その人慾といふ物は、いづくよりいかなる故にていできつるぞ、それも然るべき理(リ)にてこそは、出來《イデキ》たるべければ、人慾も即(チ)天理ならずや、又|百世《モモツギ》を経《ヘ》ても、同(ジ)姓《ウヂ》どち婚《マグハヒ》することゆるさずといふ制《サダメ》など、かの國にしても、上(ツ)代より然るにはあらず、周の代のさだめなり、かくきびしく定めたる故は、國の俗《ナラハシ》あしくして、親子《オヤコ》同母兄弟《ハラカラ》などの間《アヒダ》にも、みだりなる事のみ常《ツネ》多くて、別《ワキ》なく治まりがたかりし故なれば、かゝる制《サダメ》のきびしきは、かへりて國の恥《ハヂ》なるをや、すべて何《ナニ》の上(ヘ)にも、法《サダメ》の嚴《キビシ》きは、犯《ヲカ》すものの多きがゆゑぞかし、さて其(ノ)制《サダメ》は制《サダメ》と立しかども、まことの道にあらず、人の情《ココロ》にかなはぬことなる故に、したがふ人いと/\まれなり、後々《ノチノチ》はさらにもいはず、はやく周の代のほどにすら、諸侯といふきはの者も、これを破れるが多ければ、ましてつぎ/\はしられたり、姉妹などにさへ※〔(女/女)+干〕《タハ》けし例《アト》もある物をや、然るを儒者《ズサ》どもの、昔よりかく世(ノ)人の守りあへぬことをば忘れて、いたづらなるさだめのみをとらへて、たけきことにいひ思ひ、又皇國をしひて賤《ィヤ》しめむとして、ともすれば、古(ヘ)兄弟まぐはひせしことをいひ出て、鳥獣《トリケモノ》のふるまひぞとそしるを、此方《ココ》の物知人《モノシリビト》たちも、是をばこゝろよからず、御國のあかぬことに思ひて、かにかくにいひまぎらはしつゝ、いまださだかに斷《コトワ》り説《トケ》ることもなきは、かの聖人のさかしらを、かならず當然理《サルベキコトワリ》と思ひなづみて、なほ彼(レ)にへつらふ心あるがゆゑなり、もしへつらふこゝろしなくば、彼(レ)と同じからぬは、なにごとかあらむ、抑皇國の古(ヘ)は、たゞ同母兄弟《ハラカラ》をのみ嫌《キラ》ひて、異母《コトハラ》の兄弟《イモセ》など御合坐《ミアヒマシ》しことは、天皇を始め奉(リ)て、おほかたよのつねにして、今《イマノ》京《ミヤコ》になりてのこなたまでも、すべて忌《イム》ことなかりき、但し貴《タフト》き賤《イヤシ》きへだては、うるはしく有(リ)て、おのづからみだりならざりけり、これぞこの神祖《カムロギ》の定め賜へる、正しき眞《マコト》の道なりける、然るを後(ノ)世には、かのから國のさだめを、いさゝかばかり守るげにて、異母《コトハラ》なるをも兄弟《イモセ》と云て、婚《マグハヒ》せぬことになも定まりぬる、されば今(ノ)世にして、其《ソ》を犯《ヲカ》さむこそ惡《アシ》からめ、古(ヘ)は古(ヘ)の定まりにしあれば、異國《アダシクニ》の制《サダメ》を規《ノリ》として、論《アゲツラ》ふべきことにあらず、

いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として、

天皇の所思看《オモホシメス》御心のまに/\奉仕《ツカヘマツリ》て、己《オノ》が私(シ)心はつゆなかりき、
ひたぶるに大命《オホミコト》をかしこみゐやびまつろひて、おほみうつくしみの御蔭《ミカゲ》にかくろひて、おのも/\祖神《オヤガミ》を齋祭《イツキマツリ》つゝ、
  天皇の、大御皇祖神《オホミオヤガミ》の御前《ミマヘ》を拜祭《イツキマツリ》坐(ス)がごとく、臣連八十件緒《オミムラジヤソトモノヲ》、天(ノ)下の百姓《オホミタカラ》に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の、朝廷《ミカド》のため天(ノ)下のために、天神《アマツカミ》國神《クニツカミ》諸《モロモロ》を」も祭(リ)坐(ス)が如く、下なる人どもも、事にふれては、福《サチ》を求《モト》むと、善《ヨキ》神にこひねぎ、禍《マガ》をのがれむと、惡《アシキ》神をも和《ナゴ》め祭り、又たま/\身に罪穢《ツミケガレ》もあれば、祓清《ハラヒキヨ》むるなど、みな人の情《ココロ》にして、かならず有(ル)べきわざなり、然るを、心だにまことの道にかなひなば、など云めるすぢは、佛の教へ儒の見《ココロ》にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚《イタ》くそむけり、又|異國《アダシクニ》には、神を祭るにも、たゞ理を先《サキ》にして、さま/”\議論《アゲツラヒ》あり、淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり、凡て神は、佛《ホトケ》などいふなる物の趣《オモムキ》とは異《コト》にして、善《ヨキ》神のみにはあらず、惡《アシ》きも有(リ)て、心も所行《シワザ》も、然ある物なれば、惡《アシ》きわざする人も福《サカ》え、善事《ヨキワザ》する人も、禍《マガ》ることある、よのつねなり、されば神は、理(リ)の當不《アタリアタラヌ》をもて、思ひはかるべきものにあらず、たゞその御怒《ミイカリ》を畏《カシコ》みて、ひたぶるにいつきまつるべきなり、されば祭るにも、そのこゝろばへ有(リ)て、いかにも其神の歓喜《ヨロコ》び坐(ス)べきわざをなも爲《ス》べき、そはまづ萬(ヅ)を齋忌清《イミキヨ》まはりて、穢惡《ケガレ》あらせず、堪《タヘ》たる限(リ)美好物《ウマキモノ》多《サハ》に獻《タテマツ》り、或《アル》は琴《コト》ひき笛《フヱ》ふき歌《ウタヒ》※〔にんべん+舞〕《マ》ひなど、おもしろきわざをして祭る、これみな神代の例《アト》にして、古(ヘ)の道なり、然るをたゞ心の至《イタ》り至らぬをのみいひて、獻《タテマツ》る物にもなすわざにもかゝはらぬは、湊意《カラゴコロ》のひがことなり、さて又神を祭るには、何《ナニ》わざよりも先(ヅ)火を重《オモ》く忌清《イミキヨ》むべきこと、神代(ノ)書の黄泉段《ヨミノクダリ》を見て知(ル)べし、是《コ》は神事《カムワザ》のみにもあらず、大かた常にもつゝしむべく、かならずみだりにすまじきわざなり、もし火|穢《ケガ》るゝときは、禍津日(ノ)神ところをえて、荒《アラ》び坐(ス)ゆゑに、世(ノ)中に萬(ヅ)の禍事《マガコト》はおこるぞかし、かゝれば世のため民のためにも、なべて天(ノ)下に、火の穢《ケガレ》は忌《イマ》ま
ほしきわざなり、今の代には、唯《タダ》神事《カムワザ》のをり、又神の坐(ス)地《トコロ》などにこそ、かつ/”\も此(ノ)忌《イミ》は物すめれ、なべては然る事さらになきは、火の穢《ケガレ》などいふをば、愚《オロカ》なることとおもふ、なまさかしらなる漢意《カラゴコロ》のひろごれるなり、かくて神御典《カミノミフミ》を釋誨《トキヲシ》ふる世々の識者《モノシリビト》たちすら、たゞ漢意《カラゴコロ》の理をのみ、うるさきまで物して、此(ノ)忌《イミ》の説《コト》をしも、なほざりにすめるは、いかにぞや、

ほど/\にあるべきかぎりのわざをして、穩《オダヒ》しく樂《タヌシ》く世をわたらふほかなかりしかば、

  かくあるほかに、何《ナニ》の教《ヲシヘ》ごとをかもまたむ、抑みどり兒《ゴ》に物教へ、又|諸匠《テビトドモ》の物造《モノツク》るすべ、其外よろづの伎藝《コトナルワザ》などを教ふることは、上(ツ)代にも有(リ)けむを、かの儒佛などの教事《ヲシヘゴト》も、いひもてゆけば、これらと異《コト》なることなきに似《ニ》たれども、辨《ワキマ》ふれば、同じからざることぞかし、

今はた其(ノ)道といひて、別《コト》に教(ヘ)を受《ウケ》て、おこなふべきわざはありなむや、

  然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひ問《ト》へるに、答(ヘ)けらく、かの老莊がともは儒者のさかしらをうるさみて、自然《オノヅカラ》なるをたふとめば、おのづから似《ニ》たることあり、されどかれらも、大御神の御國ならぬ、惡國《キタナキクニ》に生れて、たゞ代々の聖人の説《コト》をのみ聞《キキ》なれたるものなれは、自然《オノヅカラ》なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、よろづの事は、神の御心より出て、その御所爲《ミシワザ》なることをしも、えしらねば、大旨《オホムネ》の甚《イタ》くたがへる物をや、

もししひて求《モト》むとならば、きたなきからぶみごゝろを祓《ハラ》ひきよめて、清々《スガスガ》しき御國《ミクニ》ごゝろもて、古典《フルキフミ》どもをよく學《マナ》びてよ、然《シカ》せば、受行《ウケオコナフ》べき道なきことは、おのづから知(リ)てむ、其《ソ》をしるぞ、すなはち神の道をうけおこなふにはありける、かゝれば如此《カク》まで論《アゲツラ》ふも、道の意にはあらねども、禍津日《マガツビノ》神のみしわざ、見《ミ》つゝ黙止《ナホ》えあらず、神直昆《カムナホビノ》神|大直毘《オホナホビノ》神の御靈《ミタマ》たばりて、このまがをもて直《ナホ》さむとぞよ、

  上《カミ》の件《クダリ》、すべて己《オノ》が私のこゝろもていふにあらず、こと/”\に古典《フルキフミ》に、よるところあることにしあれば、よく見《ミ》む人は疑はじ、

かくいふは、明和の八年《ヤトセ》といふとしの、かみな月の九日の日、伊勢(ノ)國(ノ)飯高(ノ)郡の御民《ミタミ》、平(ノ)阿曾美宣長、かしこみかしこみもしるす、

 

古事記傳二之卷

 

                            本居宣長謹撰

 

古事記上卷《フルコトブミカミツマキ》并序

 

此(ノ)標題、此處《ココ》には古事記序とありて、古事記上卷といふことは、本文の首《ハジメ》にあるべきを、合せてこゝに書て、本文のはじめには略《ハブ》けるなり、諸(ノ)本みな同じ、【并序はナラビニ序とも序ヲナラブともよめども、共に此方《ココ》のものいひざまにあらず、此《コ》はかにかくに古言には訓(ミ)がたし、されどこれらはいかに讀てもあるべし、又昔より序(ノ)字の訓《ヨミ》もなし、しひていはば、中昔より奥書《オカウガキ》といふことある、其《ソ》はからぶみにて跋と云(フ)物なれば、是(レ)に准へて序をば、はしがき又ははしことばなどや云べからむ、】さて此序は、本文とはいたく異《コト》にして、すべて漢籍《カラブミ》の趣を以て、其文章をいみしくかざりて書り、いかなれば然るぞといふに、凡て書を著《ツク》りて上に獻る序は、然《シカ》文をかざり當代を賛稱《ホメ》奉りなどする、漢《カラ》のおしなべての例なるに依れるなり、さて然《シカ》漢文をかざるに引れては、其(ノ)意旨《ココロ》もおのづから漢《カラ》にて、或《アル》は混元既(ニ)凝、あるは乾坤初(テ)分、あるは陰陽斯(ニ)開、あるは齊2五行之序(ヲ)1などいふたぐひの語おほし、如此《カクノゴト》きことどもをいはでは、文章みだてなきが故なり、抑此(ノ)序にかゝる語どものあるを見て、ゆくりなく本文の旨を莫《ナ》誤《アヤマ》りそ、又本文のさまと甚《イタ》く異なるをもて、序は安萬侶の作《カケ》るにあらず、後(ノ)人のしわざなりといふ人もあれど、其《ソ》は中々にくはしからぬひがこゝろえなり、すべてのさまをよく考るに、後に他人《アダシビト》の僞り書る物にはあらず、決《ウツナ》く安萬侶(ノ)朝臣の作《カケ》るなり、本文に似《ニ》ず漢《カラ》めきたることはこよなけれど、そのかみさばかり漢學《カラブミマナビ》を盛《サカリ》に好《コノ》ませたまへりし世の事にしあれば、序の文は必(ズ)如此《カク》さまに書《カキ》つべきわざなるをや、

〇今此(ノ)序を註するに、たゞ文章のかざりのみに書るところは、たゞ一《ヒト》わたり解釋《トキ》て、委曲《クハシク》はいはず、其《ソ》はみな漢《カラ》ことにして、要《エウ》なければなり、かくて末に至りて、記の起《オコ》りを述《ノ》べ、書《カキ》ざまをことわりなどせる處ほ、必よく意得おくべきことどもなれば、委曲《ツバラカ》に云べし、

臣安萬侶言(ス)、夫(レ)混元既(ニ)凝(テ)、氣象未(ダ)v效《アラハレ》、無(ク)v名(モ)無(シ)v爲(モ)、誰(レカ)知(ム)2其(ノ)形(ヲ)1、

 此《コ》は天地のいまだ割《ワカ》れざりし前《マヘ》の状《アリサマ》を、漢籍《カラブミ》に云る趣もて云るなり、混元は混沌ともいひて、元氣未(ダ)v分(レ)也と註せり、既(ニ)凝(ル)とは、分れむとするきざしあるなり、氣象は、天地を始め凡て氣と象とをいへり、

然(シテ)乾坤初(テ)分(レテ)、參神|作《ナシ》2造化(ノ)之|首《ハジメヲ》1、陰陽斯(ニ)開(ケテ)、二靈爲(リ)2群品(ノ)之祖1、

 參神は、天之御中主高御産巣日神産集日の三柱(ノ)神を申す、即(チ)本文の始(メ)に出(ヅ)、造化は、漢籍に、天地陰陽の運行《ハコビ》によりて、萬(ノ)物の成(リ)出るをいへり、二靈は伊邪那岐伊邪那美二柱(ノ)神を申す、群品は萬の物なり、此處《ココ》の文二句づゝ對にかけり、次々もみな對句なり、さて此序の此(ノ)あたりの文を見て、陰陽乾坤などの説を、古(ヘノ)傳(ヘ)にも其(ノ)意ありければこそ、撰者もかく取(リ)用ひられつらむを、ひたぶるに廢《ステ》むこといかゞと思ふ人あるべけれど、然らず、もし古傳に其(ノ)意あらむには、序(ノ)文の短き間(ダ)にすら、かくあまた云(ヘ)るほどなれば、本文にも必(ズ)言《イフ》べきわざなるに、本文に至《ナリ》ては、一字もさることなし、されば本文と相比《アヒクラ》べて、序にこれらの語のあるは、返りて古傳にさる意なき證《シルシ》とすべき物にて、正實《マコト》と虚飾《カザリ》とのけぢめいよゝ著明《イチジル》し、これを以ても大御國のこゝろばへの、漢籍のおもむきとははるかに異なるほどをもさとるべく、はた本文にはいさゝかも撰者の私(シ)をまじへざるほども知られて、いとたふとしかし、【或人問けらく、同じ安萬侶(ノ)朝臣、後に書紀を撰ばしめたまへりしをりも、其事にあづかれりと云(フ)に、彼紀にも陰陽などの説はあり、又此序にもあれば、なほ此(ノ)朝臣は此説を信《ウケ》用(ヒ)られつと見ゆるはいかゞ、答(ヘ)けらく、書紀撰ばれしは、舎人(ノ)親王ぞ其事は執總《トリスベ》たまへりしかば、あづかれりとても、安萬侶(ノ)朝臣の意は論ふべきにあらず、又此(ノ)朝臣の意は、縱《ヨシ》やいかにもあれ、それにかゝはるべきにもあらず、たゞ古傳につきてこそは、ことわるべき物なれ、】
所以《コノユヱニ》出2入(シテ)幽顯(ニ)1、日月影(ハレ)2於洗(フニ)1v目(ヲ)、浮2沈(シテ)海水(ニ)1、神祇|呈《アラハル》2於滌(クニ)1v身(ヲ)、

 こゝに所以《コノユヱニ》といひ、次々に、故《カレ》といひ、寔(ニ)知(ル)といひ、是(ヲ)以(テ)といひ、即(チ)といへる、みなさしも意あるにあらず、たゞ輕く看《ミ》すぐすべし、さて伊邪那岐(ノ)大神の、夜見《ヨミノ》國に幸行《イデマシ》しを幽に入(ル)と云(ヒ)、顯國《ウツシクニ》に囘《カヘリ》坐るを顯に出(ヅ)と云るなり、日月云々は、阿波岐原《アハギハラ》に御禊《ミミソギ》し賜へる時の事なり、下二句も同(ジ)時の事ぞ、

故(レ)太素(ノ)杳冥(ナル)、因(テ)2本教(ニ)1而識(リ)2孕(ミ)v土《クニヲ》産《ウミタマフ》v嶋(ヲ)之時(ヲ)1、元始(ノ)綿※〔しんにょう+貌〕(タル)、頼(テ)2先聖(ニ)1察(スニ)2生(ミ)v神(ヲ)立(テタマヒシ)v人(ヲ)之世(ヲ)1、

 太素も元始も、世のはじめを云なり、杳冥は、世の始(メ)のいと遠くておほゝしくさだかならぬをいふ、冥(ノ)字、舊印本には※〔穴/目〕と作《カケ》り、それもあしからず、同(ジ)意なり、本教は、人に物を語《カタ》り聞《キカ》すを教ふといふに同じくて、神代の事どもを語(リ)傳へたる説《コト》をいふなり、綿※〔しんにょう+貌〕はとほくはるかなるをいふ、先聖は、神代の事を言(ヒ)傳へ記《シル》し傳へたる、古(ヘ)のかしこき人たちをいふ、立(ツ)v人(ヲ)とは、天照大御神を始(メ)て、各|事依《コトヨサ》し賜ひしをいふなり、【大御神をしも人と申さむは、いかゞにも聞ゆれども、生v神(ヲ)と云る對《ツヰ》に、かへて書るのみなるべし、】又思ふに、識といひ察といふを、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命の御事としても見べし、其(ノ)時は本教は天(ツ)神の命詔《ミコトノリ》なり、先聖も天(ツ)神を申すなり、

寔(ニ)知(ル)懸(ケ)v鏡(ヲ)吐(テ)v珠(ヲ)、而百王相續(ギ)、喫(ヒ)v劔(ヲ)切(テ)v蛇(ヲ)、以(テ)萬神蕃息(スルコトヲ)歟、

 懸(ク)v鏡(ヲ)とは、天照大御神の天(ノ)石屋《イハヤ》にこもらしし時に、眞賢木の枝に八咫鏡《ヤタカガミ》を取掛しを云なるべし、【但し百王相續と云(フ)へ係て見れは、皇御孫(ノ)命の天降坐むとせし時に、御魂として授《サヅケ》賜ひしを云るかとも聞ゆれども、吐v珠の上にあればいかゞあらむ、】吐v珠(ヲ)と喫v劔(ヲ)とは、大御神と須佐之男(ノ)命と誓坐《ウケヒマシ》し時の事なり、萬神蕃息とほ、須佐之男(ノ)命の御子孫(ノ)神たちのひろごり坐ることなり、

議(テ)2安(ノ)河(ニ)1而平(ケ)2天(ノ)下(ヲ)1、論(テ)2小濱(ニ)1而清(メキ)2國土(ヲ)1、

 上(ノ)句は、皇御孫(ノ)命の天降坐むとする時に、八百萬(ノ)神を集《ツド》へて議《ハカリ》たまひしこと、下(ノ)句は、建御雷(ノ)神の伊那佐の小濱に降りて、大國主(ノ)神を論《アゲツラ》ひ令伏《マツロヘ》て、天(ノ)下を和《ヤハ》し靜《シヅ》め賜ひし事なり、

是(ヲ)以(テ)番仁岐《ホノニニギノ》命、初(テ)降(リタマフ)2于高千(ノ)嶺(ニ)1、神倭(ノ)天皇、經2歴于秋津嶋(ニ)1、

 仁(ノ)字は、邇牟《ニム》の音を邇々《ニニ》の二音に用ひたるなり、然《サル》例多し、秋津嶋は大倭(ノ)國をいふ、

化熊出(テ)v爪(ヲ)、天劔|獲《エ》2於高倉(ニ)1、生尾遮(リ)v徑(ヲ)、大烏導(ク)2於吉野(ニ)1、

 こは四(ツ)の事を四句に云て、二句づゝ對にせり、皆|白檮原《カシバラノ》御世の事にして、其(ノ)御段《ミクダリ》に見えたり、爪は字を寫し誤れるなり、山か穴かなるべし、【延佳は、水か派かの誤ならむといへれども、そはわろし、】生尾は、生尾人とあり、大烏は八咫烏なり、

列(テ)v※〔にんべん+舞〕(ヲ)攘(ヒ)v賊(ヲ)、聞(テ)v歌(ヲ)伏(ス)v仇(ヲ)、

 此も同(ジ)御段(リ)に見ゆ、但し※〔にんべん+舞〕のことは見えず、書紀にも道(ノ)臣(ノ)命乃(チ)起(テ)而歌(フ)之とのみあり、されど後に久米※〔にんべん+舞〕《クメマヒ》といふは、此(ノ)時の態と聞ゆれば、※〔にんべん+舞〕《マヒ》もしつらむ、

即(チ)覺(リテ)v夢(ニ)而敬(ヒタマフ)2神祇(ヲ)1、所以(ニ)稱(ス)2賢后(ト)1、望(テ)v烟(ヲ)而撫(デタマフ)2黎元(ヲ)1、於(テ)v今(ニ)傳(フ)2聖帝(ト)1、

 上は水垣(ノ)宮(ノ)御世の事、下は高津(ノ)宮(ノ)御世の事にて、みな其(ノ)御段(リ)に出たり、后は君なり、【神功皇后の御事かとも聞ゆめれど、其《ソ》は御夢のこと見えず、】黎元は民をいふ、【後に崇神仁徳と御諡を奉られしも、こゝの文の意なり、】

定(メ)v境(ヲ)開(テ)v邦(ヲ)、制(シタマヒ)2于近(ツ)淡海(ニ)1、正(シ)v姓(ヲ)撰(テ)v氏(ヲ)、勒(シタマフ)2于遠(ツ)飛鳥(ニ)1、

 上は志賀(ノ)宮(ノ)御代の事にて、近(ツ)淡海は其(ノ)都の國(ノ)名なり、下は遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)御世の事なり、制(ス)勒(ス)とは、たゞ其(ノ)宮に坐まして天(ノ)下の政|所聞看《キコシメシ》しをいふ、さて是(レ)までは、古(ヘ)の御々代々《ミヨミヨ》に聞え高き事どもをこれかれと拔(キ)出て、文飾《カザリ》に書るなり、

雖2歩驟各異(ニ)、文質不(ト)1v同(カラ)、莫(シ)v不(トイフコト)d稽(テ)v古(ヲ)以(テ)縄《タダシ》2風猷(ヲ)於既(ニ)頽(レタルニ)1、照(シテ)v今(ヲ)以(テ)補(ハ)c典教(ヲ)於欲(スルニ)uv絶(ム)、

 此《コ》は上(ノ)件の事どもを取總《トリスベ》てことわれるなり、歩は徐《アイスカ》に歩《アユ》むこと、驟は疾《トク》走《ワシ》ることにて、政も世々のさまに隨ひて、寛《ユル》きと急《スミヤカ》なるとのかはりあるをいふなり、【三皇(ハ)歩(シ)五帝(ハ)驟(ス)など云り、】風猷は風教道徳なり、さてかくいへること、必(ズ)しも上に擧《アゲ》たる事ども、悉《コトゴト》には當《アタ》らねども、只漢人の常にいふなる趣を、文のかざりに書るのみなり、さて如此《カク》言《イヒ》て下(ノ)文の本を起せるものぞ、

曁(ビテ)d飛鳥(ノ)清(ミ)原(ノ)大宮(ニ)、御《シロシメシシ》2大八洲1天皇(ノ)御世(ニ)u、

 此(レ)より下、此(ノ)天皇【後(ノ)諡天武】の御事を申せる文なり、洲(ノ)字州と作《カケ》るはわろし、今は一本によれり、

潜龍體(シ)v元(ヲ)、※〔さんずい+存〕雷應(ズ)v期(ニ)、

 こはいまだ儲君にて坐まししほどを申せる賛《ホメ》詞なり、潜龍も※〔さんずい+存〕雷も易の言にて、太子のことに申せり、【※〔さんずい+存〕雷は、易に※〔さんずい+存〕《シキリニ》雷震(ス)とありて、震(ハ)爲2長子(ト)1といへるより出たり、※〔さんずい+存〕(ノ)字、游と作《カケ》るは誤也、】

聞(テ)2夢(ノ)歌(ヲ)1而想(ヒ)v纂(ムコトヲ)v業(ヲ)、投《イタリテ》2夜(ノ)水(ニ)1而知(シメス)v承(ムコトヲ)v基(ヲ)、

 此は天津日嗣しろしめすべきさとしの有しことなり、夢(ノ)歌の事は書紀に見えず、漏《モレ》つるなるべし、投(ル)2夜(ノ)水(ニ)1とは、東国に下り坐(サ)むとして、夜半《サヨナカ》に伊賀の隱《ナバリ》の横河《ヨクカハ》に至(リ)坐(シ)しことなるべし、此時に廣さ十餘丈《トツヱアマリ》の黒雲おこりて、天にわたりければ、異《アヤ》しとおもほして、御自《ミミヅカラ》占《ウラ》へ賜ふに、天(ノ)下二(ツ)に分れて、つひにはみな得たまふべき祥《サガ》なりしこと、書紀に見えたり、【聞(ノ)字、開と作《カケ》るは誤なり、今は一本に依(ル)、】

然(レドモ)天(ノ)時|末(ダ)《・ザリシカバ》v臻《イタラ》、蝉(ノゴト)2蛻(ケタマヒ)於南山(ニ)1、人事共(ニ)洽《アマネク》、虎(ノゴト)歩(ミタマヒキ)於東國(ニ)1、

 上は、京師をのがれ出て、吉野山に入(リ)坐(シ)しこと、下は、道より人|多《サハ》に從ひ附(キ)奉て、御威《ミイキホヒ》さかりになりまして、美濃(ノ)國に幸行《イデマシ》しことなり、皆書紀に見ゆ、洽(ノ)字、延佳本には給と作《カケ》り、それもあしからず、

皇輿忽(チ)駕(シテ)、※〔さんずい+陵の旁〕2渡(リ)山川(ヲ)1、六師雷(ノゴト)震(ヒ)、三軍電(ノゴトク)逝(ク)、

 ※〔さんずい+陵の旁〕は歴也と註せり、【汎v海(ニ)※〔さんずい+陵の旁〕v山(ヲ)など云り、延佳本に凌と作《カケ》るは誤なり、】六師は六軍なり、下二句は、皇軍《ミイクサ》のさかりなるさまをいへり、【漢國にて天子は六軍大國は三軍といへれども、此《ココ》はたゞ數(ノ)字を對にせるのみにして、六と三とに意はなし、】

杖矛擧(テ)v威(ヲ)、猛士烟(ノゴト)起(リ)、絳旗耀(シテ)v兵(ヲ)、凶徒瓦(ノゴト)解(ケツ)、

 上三句は御方の軍のさかりなるさま、下一句は淡海《アフミ》の軍の敗れしさまなり、

未(ダ)・(シテ)v移(サ)2※〔さんずい+夾〕辰(ヲ)1、氣※〔さんずい+診の旁〕|自《オ》清(マリヌ)、

 是《コ》は仇|速《スミヤカ》に亡《ホロ》びて、天(ノ)下治まりしを云るなり、※〔さんずい+夾〕辰は、子《ネ》より亥《ヰ》まで一周《ヒトメグリ》の日數【十二日】にて、其《ソ》を移《ウツ》さずとは、ほどもなくすみやかなる意なり、※〔さんずい+診の旁〕は妖氣なり、此(ノ)惡《ワロ》き氣去(リ)て、清らかになれりとなり、さて此(ノ)※〔さんずい+診の旁〕(ノ)字、諸(ノ)本|並《トモ》に誤(リ)て彌と作《カケ》り、今は延佳が考(ヘ)によりて改めつ、

乃(チ)放(チ)v牛(ヲ)息《イコヘ》v馬(ヲ)、愷悌(シテ)歸(リ)2於華夏(ニ)1、卷(キ)v旌(ヲ)※〔揖の旁+戈〕《ヲサメ》v戈(ヲ)、※〔にんべん+舞〕詠(シテ)停(リタマフ)2於都邑(ニ)1、

 放v牛息v馬とは、から國の周(ノ)武王が紂に勝《カチ》て後に、馬を華山の南に歸《カヘ》し、牛を桃林の野に放(チ)て、再《フタタビ》服《ツカ》はぬことをしらせし故事《フルコト》なり、愷悌は軍|勝《カチ》たる時の樂なり、書紀に|イクサトケテ〔付○圏点〕と訓(メ)り、【今|按《オモフ》に、悌(ノ)字心得ず、其(ノ)故は、愷こそ愷樂とも云て、軍|勝之樂《カテルトキノガク》なれ、悌(ノ)字には其(ノ)義《ココロ》あることを聞(カ)ず、愷悌と連《ツラ》ねいへることは多かれども、其《ソ》は義《ココロ》の異なることなり、然るに今愷樂を愷悌といへるは、愷(ノ)字にひかれて、彼(ノ)愷悌と一(ツ)に思ひ混《マガ》へつるにや、但し此《コ》は世になべて誤れることにやありけむ、書紀などにも然あり、漢籍にも例ありや、なほ尋ぬべし、】

歳次(リ)2大梁(ニ)1、月|踵《アタリテ》2夾鍾(ニ)1、清(ミ)原(ノ)大宮(ニシテ)、昇(テ)即(キタマフ)2天位(ニ)1、

 初(ノ)句は酉(ノ)年をいふ、大梁は、十二次の内の昴宿《ボウノホシ》の次《ヤドリ》にて、昴は二十八宿の中の西(ノ)方の星、西は酉(ノ)方なればなり、次《ツギノ》句は二月をいふ、夾鍾は、十二律の中の二月の律なればなり、踵は鍾に同じ、通はし書る例あり、さて書紀を考るに、此(ノ)天皇、癸酉(ノ)年二月癸未【二十七日】に御位に即《ツキ》ませり、

道|軼《スギ》2軒后(ニ)1、徳|跨(コエタマフ)2周王(ニ)1、

 軒后は漢國の黄帝といふ王、周王ほ文王武王をいふ、

握(テ)2乾符(ヲ)1而|摠《スベ》2六合(ヲ)1、得(テ)2天統(ヲ)1而|包《カネタマフ》2八荒(ヲ)1、

 乾符は天の吉端なり、六合は上下四方なり、天統は天より授くる帝統なり、八荒は八方の遠き國々なり、

乘(ジ)2二氣之正(シキニ)1、齊(ヘタマフ)2五行(ノ)之序(ヲ)1、

二氣は陰陽をいふ、君の政よろしければ、陰陽五行のはこび正しくて、四時の気候みだれずといふ、漢《カラ》人の常の談《コト》なり、

設(テ)2神理(ヲ)1以(テ)奬《ススメ》v俗(ヲ)、敷(テ)2英風(ヲ)1以(テ)弘(メ)v國(ヲ)、

 神理は神妙の道理なり、奬(ム)v俗(ヲ)とは、勸《スス》め導きて風俗をよくなすをいふ、英風は英聖の風教なり、

重加《シカノミナラズ》智海浩瀚(トシテ)、潭《フカク》探(リ)2上古(ヲ)1、心鏡※〔火+韋〕煌(トシテ)、明(カニ)覩(タマフ)2先代(ヲ)1、

 智海とは、御智の廣く大(キ)なるを海にたとへ、心鏡とは、御心の明らけきを鏡にたとへて申せるなり、浩瀚は廣大(ナル)貌、※〔火+韋〕煌は光明(ナル)貌なり、さて此《コレ》までは、此(ノ)天皇の凡ての御《ミ》うへを申(シ)て、次《ツギ》の事を申さむ料なり、

於是《ココニ》天皇|詔之(リシシタマハク)、朕(レ)聞(ク)諸家(ノ)之所(ノ)v〓《モタル》、帝紀及(ビ)本辭、既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1、多(ク)加(フト)2虚僞(ヲ)1、

 詔之の之(ノ)字、延佳本には云と作《カケ》り、それもよし、〓は齎の俗字なりと云り、延佳本には齎と作《カケ》り、帝紀は、下(ノ)文に帝皇(ノ)日繼とあると同じく、御々代々《ミヨミヨ》の天津日嗣を記し奉れる書なり、書紀(ノ)天武(ノ)御卷の、川嶋(ノ)皇子等の修撰の處にも、帝紀とあり、推古(ノ)御卷の、皇太子の修撰の處、又皇極(ノ)御卷の、蘇我(ノ)蝦※〔虫+夷〕《エミシ》が燒《ヤキ》つる處などには、天皇記とあり、國史などいはずして、かく帝紀天皇記といへるぞ古(ヘ)の稱なるべき、本辭は、下文に先代(ノ)舊辭とあると同じ、かの蝦※〔虫+夷〕が燒《ヤキ》し處に、國記といひ、聖徳太子の修撰の處に、國記臣連伴(ノ)造國(ノ)造百八十部并公民等本記と云(ヘ)るなど、是(レ)にあたるべきか、川嶋(ノ)皇子等の修撰のところに、上古(ノ)諸(ノ)事とあるは、正《マサ》しくこれなり、然るに今は舊事といはずして、本辭舊辭と云(ヘ)る、辭(ノ)字に眼《メ》をつけて、天皇の此(ノ)事おもほしめし立《タチ》し大御意は、もはら古語に在(リ)けることをさとるべし、さて此(レ)よりつぎ/\、未(ダ)v行(ハ)2其(ノ)事(ヲ)1矣といふまでは、此(ノ)記の本《モト》の起《オコ》りを演《ノベ》たるなれば、慇懃《ネモコロ》に見べし、上(ノ)件のかざりのみに書たる文とは異なるものぞ、

當(テ)2今(ノ)之時(ニ)1、不(バ)v改(メ)2其(ノ)失(ヲ)1、未(ダ)・(シテ)v經2幾(ハクノ)年(ヲモ)1、其(ノ)旨|欲《ムトス》v滅(ビ)、

 其(ノ)失とは、かの多(ク)加(フ)2虚僞(ヲ)1とある是(レ)なり、其旨は正實の旨なり、當時《ソノカミ》虚僞多くなれりといへども、なは正實も全く滅びたるにあらざれば、天皇の海のごと廣き御|智《サトリ》、鏡のごと明《アキラ》けき御心もて辨へたまへば、いとよく分《ワカ》るゝ故に、今是時に改め正《タダ》しおかずば、いよゝ虚僞おほくなりもてゆきて、今《イマ》幾《イク》ほどもなく正實の旨は滅びうせなむ物ぞと、かしこく愁坐《ウレヒマセ》るなり、【然るに後(ノ)世人の學問は、正實の處をばなほざりにして、たゞ漢《カラ》めきたる虚僞の文をのみ重《オモ》くすめるはいかにぞや、】

斯(レ)乃(チ)邦家(ノ)之經緯、王化(ノ)之鴻基(ナリ)焉、

 經緯とは、國を知《シロ》しめすに、なくてえあらぬ物なることを、織《ハタ》の經緯《タテヌキ》の絲にたとへて云なり、鴻は大なり、

故(レ)惟《コレ》撰2録(シ)帝紀(ヲ)1、討2覈(シテ)舊辭(ヲ)1、削(リ)v僞(ヲ)定(メ)v實(ヲ)、欲《ストノタマフ》v流《ツタヘムト》2後葉(ニ)1、

 是(レ)まで詔命なり、討覈は、深く實を尋ねて考へ究《キハ》むることなり、此(ノ)一句殊に古學の要《ムネ》とあることぞ、おほにな看過《ミスグ》しそ、後葉は後世なり、【欲(ノ)字は、撰録の上に在(ル)べき文(ノ)意なり、】

時(ニ)有(リ)2舍人1、姓(ハ)稗田《ヒエダ》名(ハ)阿禮、年是(レ)廿八、爲(リ)v人(ト)聰明(ニシテ)、度(レバ)v目(ニ)誦《ヨミ》v口(ニ)、拂《フルレバ》v耳(ニ)勒《シルス》v心(ニ)、

 稗田(ノ)姓、姓氏録に見えず、【延佳本に弘仁私記(ノ)序を引たるに、天(ノ)鈿女《ウズメノ》命(ノ)之後也と云り、】書紀(ノ)天武(ノ)上(ツ)御卷に、如此《カク》云《イフ》地名《トコロノナ》見えたり、大倭(ノ)國と聞えたり、【今添(ノ)上(ノ)郡に稗田村あり、是(レ)なるべし、】彼地《ソコ》より出たる姓なるべし、度(レバ)v目(ニ)誦《ヨム》v口(ニ)とは、一たび見たる書をば、やがて空《ソラ》にうかべて、よく諷誦《ヨム》をいふ、拂(レバ)v耳(ニ)勒(ス)v心(ニ)も、一たび聞たることをば、忘《ワス》るゝことなきをいふ、【廿(ノ)字、延佳本には二十と二字に作《カケ》り、それも同じことなれども、此(ノ)あたり多くは一句四字なれは、此(ノ)句も然るべし、故(レ)今は舊本によれり、】

即(チ)勅2語(シテ)阿禮(ニ)1、令(ム)v誦2習《ヨミナラハ》帝皇(ノ)日繼、及(ビ)先代(ノ)舊辭(ヲ)1、

 勅語は、天皇の大御口づから詔ひ屬《ツク》るなり、【有司《ツカサビト》をして傳へ宣《ノラ》しめ、又は書にかけるなどをも、たゞ勅とはいへども、そは勅語とはいはず、】かくて此《ココ》はなほ殊なる意も有(ル)べきか、其《ソ》は下にいふべし、令(ム)2誦習(ハ)1とは、舊記《フルキフミ》の本《マキ》をはなれて、そらに誦《ヨミ》うかべて、其語をしば/\口なれしむるをいふなり、抑|直《タダ》に書には撰録《シルサ》しめずして、先(ヅ)かく人の口に移《ウツ》して、つら/\誦(ミ)習はしめ賜ふは、語《コトバ》を重《オモ》みしたまふが故なり、此(ノ)事既に一《イチ》の卷に云るが如し、書紀(ノ)纂疏に弘仁私記(ノ)序に、天皇勅(シテ)2阿禮(ニ)1使(ム)v習(ハ)2帝王本紀及(ビ)先代舊事紀(ヲ)1とあるは、此《ココ》の文を見誤りて、舊辭を舊事紀としも云るなり、【ゆめ今世にある舊事紀のこととな思ひまがへそ、彼(ノ)題號は、此私記の文を取てぞつけつらむ、】

然(レドモ)運移(リ)世異(ニシテ)、未(ダ)・《ザリキ》v行(ヒタマハ)2其事(ヲ)1矣、

 天皇|崩《カムアガリ》坐て御世かはりにければ、撰録の事|果《ハタ》し行《オコナ》はれずして、討覈ありし帝紀舊辭は、いたづらに阿禮が口にのこれりしなり、

 テナモフェ               チ  ヲ    シ   ジチ ェ     ック†フ

伏(テ)惟《オモフニ》皇帝陛下、得(テ)v一(ヲ)光宅(シ)、通(ジテ)v三(ニ)亭育(シタマフ)、

 皇帝は撰者の當代《トキノミカド》、那良(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天津御代豐國成姫(ノ)天皇【後(ノ)御諡元明】を申せり、得v一(ツ)とは、老子に、天(ハ)得(テ)v一(ヲ)以(テ)清(ク)、地(ハ)得(テ)v一(ヲ)以(テ)寧(ク)、王侯(ハ)得(テ)v一(ヲ)以(テ)爲2天下(ノ)貞(ト)1、と云るよりいふことなり、光宅とは、天下を凡て家とする意にて、オホキニヲルとも、ミチヲル【光(ハ)充也といふ註もあり、】とも訓《ヨメ》り、【古文尚書(ノ)堯典に、光2宅(ス)天下(ニ)1と云るより出たる字なり、】通(ズ)v三(ニ)とは、天地人の三才に通(ズル)なり、亭育とは、本《モト》は亭毒と云るを、通はして如此《カク》も云(ヒ)ならへり、民を化育することなり、【是(レ)も始(メ)は老子に亭(シ)v之(ヲ)毒(ス)v之(ヲ)といへるより出たり、註に毒今作v育(ニ)といへり、〇亭(ノ)字を、舊印本に亨と作《カケ》るは誤なり、】さて此《コレ》より又例の漢語《カラコトバ》どもを多く引出て賛《ホメ》申せり、

御(シテ)2紫宸(ニ)1而徳被(リ)2馬蹄(ノ)之所(ニ)1v極(マル)、坐(シテ)2玄扈(ニ)1而化照(シタマフ)2船頭(ノ)之所(ヲ)1v逮(ブ)、

 紫宸も玄扈も、天皇の御處《マシマストコロ》をいふ、玄扈は、黄帝が洛水の上《ホトリ》なる玄扈といふ石室に坐《ヰ》たりし時に、鳳凰圖を含(ミ)來て授けつと云ことあるよりいへり、【舊印本に、宸を震に、船を※〔月+公〕に誤りたり、】

日浮(テ)重(ネ)v暉(リヲ)、雲散(テ)非(ズ)v烟(ニ)、

 浮は出るなり、重(ヌ)v暉(ヲ)とは、光暉の明らけきをいふ、雲云々とは、雲の如くにして雲にあらず、烟の如くにして烟にあらず、虚空《ソラ》に見ゆるをいふ、いはゆる慶雲なり、

連(ネ)v※〔木+可〕(ヲ)并(ハス)v穗(ヲ)之瑞、史不v絶《タタ》v書(スコトヲ)、列(ネ)v烽(ヲ)重(ヌ)v譯(ヲ)之貢、府無(シ)2空(シキ)月1、

 連※〔木+可〕はいはゆる連理の樹なり、并は、莖は異にして穗の一(ツ)にあひたる稻にて、いはゆる嘉禾なり、下二句は、外國よりまゐる貢(ノ)使の、月々に絶間《タエマ》なきを云て、列烽は、常に烽《トブヒ》を列ね構《カマ》へおきて、防《フセキ》をする國々、重譯は、譯を重ねずては、言語の通《キコ》えぬ遠き國々なり、さて然《サ》る國々も今皆朝貢すとなり、府はその貢物を納《イ》るゝ府倉なり、【列烽と云ること、其(ノ)貢使の來つる時にあたりて烽をあぐるごとく聞えて、まぎらはしきいひざまなれど、こゝは文選なる顔延年(ガ)曲水(ノ)詩(ノ)序に、※〔赤+貞〕莖素毳、并※〔木+可〕共穗(ノ)之瑞、史不v絶v書(スコトヲ)、棧山航海、踰沙軼漠(ノ)之貢、府無(シ)2空月1、列(ネ)2燧(ヲ)千城(ニ)1、通(スル)2驛(ヲ)萬里(ニ)1、穹居(ノ)之君(モ)、内(ニ)首《ムカヒテ》稟《ウケ》v朔(ヲ)、卉服(ノ)之酋(モ)、廻(シテ)v面(ヲ)受(ク)v吏(ヲ)といへる文を、すこしかへて書るなれば、此文にて心得べきなり、凡て文選(ノ)中の文を取れる處ぞいと多かる、】

可(シ)v謂(ヒツ)d名高(ク)2文命(ヨリモ)1、徳|冠《マサレリト》c天乙(ニモ)u矣、

 文命は夏(ノ)禹、天乙は殷(ノ)湯にて、並《ミナ》戎國《カラクニ》の古(ヘ)の名高き王どもなり、此(レ)までは當代《トキノミカド》をほめ奉れる文にて、例の次の事を申さむ料なり、

於焉《ココニ》惜(ミ)2舊辭之誤(リ)忤(ヘルヲ)1、正(サムトシテ)2先紀(ノ)之謬(リ)錯(レルヲ)1、

 これよりつぎ/\、正《マサ》しく此(ノ)記を撰録《エラバ》しめ賜ひし事を演《ノベ》たる中に、此(ノ)一節はまづ其(ノ)大御志をいへり、謬(ノ)字、繆と作《カケ》る本もあり、同じことなり、

以(テ)2和銅四年九月十八日(ヲ)1、詔(シテ)2臣安萬侶(ニ)1、撰録(シテ)稗田(ノ)阿禮(ガ)所(ノ)v誦(ム)之勅語(ノ)舊辭(ヲ)1、以(テ)獻上(セシム)者《テヘリ》、

 こゝの文のさまを思ふに、阿禮此時なほ存在《イケ》りと見えたり、【此(ノ)人、上(ノ)文に廿八歳とありしは、かの清御原(ノ)御世の何《イヅ》れの年なりけむしられねば、今和銅四年には齢《ヨハヒ》いくらばかりにか有(ル)らむ、さだかには知(リ)がたけれど、姑《シバラ》く彼(レ)を元(ノ)年として數《カゾ》ふれば、六十八歳にあたれり、されどそのかみ所思看《オモホシメ》し立《タチ》しこと、いまだとげ行《オコナ》はれぬほどに、天皇|崩《カミアガリ》まししを思へば、御世の末《スヱ》つかたの事にこそありけめ、もし崩(リ)の年のこととせば、五十三歳なり、】かくて彼(ノ)清御原(ノ)朝《ミカドノ》御世に、誦習《ヨミナラ》ひおきつる帝紀舊辭は、此(ノ)人の口にのこれるを、今安萬侶朝臣に詔命仰せて、撰録しめ賜ふなり、さて此には舊辭とのみ云て、帝紀をいはざるは、舊辭にこめて文を省《ハブ》けるなり、【又こゝは口に誦(ミ)習へる語をいふなれば、帝紀も其(ノ)語の内にあれば、別《コト》には云(フ)まじきこともとよりなり、】帝紀をばおきて、舊辭のかぎりと謂《イフ》にはあらず、又|此《ココ》にしもかく勅語のとあるを以(テ)思へば、もと此(ノ)勅語は、唯《タダ》に此(ノ)事を詔ひ屬《ツケ》しのみにはあらずて、彼(ノ)天皇【天武】の大御口づから、此(ノ)舊辭を諷誦《ヨミ》坐(シ)て、其《ソ》を阿禮に聽取《キキトラ》しめて、諷誦《ヨミ》坐(ス)大御言のまゝを、誦《ヨミ》うつし習はしめ賜へるにもあるべし、【若(シ)然らずば、此處《ココ》には殊に勅語のとことわるべきにあらねばなり、されど餘《ホカ》の古書どもにも、勅語とはたゞ大御口づから詔ひつくるを云る例なれば、上には唯其意に注しおきつるなり、】もし然《サ》るにては、此(ノ)記は本彼(ノ)清御原(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)天皇の、可畏《カシコ》くも大御親《オホミミヅカラ》撰《エラ》びたまひ定《サダ》め賜ひ、誦たまひ唱《トナ》へ賜へる古語にしあれば、世にたぐひもなく、いとも貴《タフト》き御典《ミフミ》にぞありける、然《サ》るは御世かはりて後、彼(ノ)御志|紹《ツギ》坐(ス)御擧《ミシワザ》のなからましかば、さばかり貴き古語も、阿禮が命《イノチ》ともろともに亡《ウセ》はてなましを、歡《ウレシ》きかもおむかしきかも、天(ツ)神國(ツ)神の靈《ミタマ》幸《チハ》ひ坐て、和銅の大御代に此(ノ)御撰録《ミエラビ》ありて、今の現《ヲツツ》に此(ノ)御典《ミフミ》の傳はり來つることよ、物學《モノマナ》びせむ人|頂《イナダキ》に捧持《ササゲモチ》て、天(ツ)神國(ツ)神、又二御代の天皇尊《スメラミコト》、【天武元明】又稗田(ノ)老翁《ヲヂ》、太《オホノ》朝臣の恩頼《ミタマノフユ》を莫《ナ》忘《ワスレ》そね、【記の本《モト》を起《オコ》し賜ひし天武天皇の元年、申(ノ)年なりしに、其《ソレ》撰録《エラバ》れし元明天皇の和銅元年も申(ノ)年なり、かくておほけなく宣長此傳を著《アラハ》し初《ハジ》むる今の大御代の明和元年しも、又申(ノ)年にあたれることをなむ、竊《ヒソカ》に奇《アヤ》しみ思ふ、】

謹(テ)隨(ヒ)2詔旨(ニ)1、子細(ニ)採(リ)※〔てへん+庶〕(フ)、

 此(レ)より、安萬侶(ノ)朝臣撰録のさまを演《ノベ》られたり、

然(ルニ)上古(ノ)之時、言意並(ニ)朴(ニシテ)、敷(キ)v文(ヲ)構(フルコト)v句(ヲ)、於(テ)v字(ニ)即(チ)難(シ)、

 上古(ノ)之時云々、此文を以(テ)見れば、阿靈が誦《ヨメ》る語のいと古《フル》かりけむほど知られて貴《タフト》し、敷v文(ヲ)と構v句(ヲ)とは、二(ツ)にはあらず、共にたゞ文にかきうつすを云なり、於(テ)v字(ニ)即難(シ)とは、文に書(キ)取(リ)がたきをいふ、文は漢文なればなり、【後(ノ)世の如く假字文《カナブミ》ならむには、いかなる古言も、書(キ)取(リ)がたきことなけれども、當時《ソノカミ》はいまだ假字のみを以て事を記す例化あらざりき、】上(ツ)代のことなれば、意も言も共にいと古くして、當時《ソノカミ》のとは異なるが多かるべければ、漢文にはかき取(リ)がたかりけむこと宜《ウベ》なり、【上古のは、言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし、奥《オク》ありげに理《コトワリ》めきたるすぢはさらになかりしなり、然るにかの漢文は、意にも虚《イツハ》りかざりのみ多くて、其旨いたく異なるぞかし、】此《ココ》の文をよく味ひて、撰者のいかで上(ツ)代の意言を違《タガ》へじ誤らじと、勤《イソ》しみ愼《ツツシ》まれけるほどをおしはかるべく、はた書紀などの如《ゴト》漢文をいたくかざりたるは、上(ツ)代の意言に疎《ウト》かるべきことをもさとりつべし、【此(ノ)記のごとかざることなくてすら、書(キ)移《ウツ》しがたしとある物を、況や漢文をいたくかざりたらむには、いかでか正實《マコト》のまゝには書(キ)取らるべき、】

已(ニ)因(テ)v訓(ニ)述(ベタルハ)者、詞不v逮(バ)v心(ニ)、

 已《スデニ》は盡《コトゴトク》の意なり、【書紀(ノ)神代(ノ)卷に、※〔金+宛〕|既《スデニ》碎《クダケタリ》、繼體(ノ)卷に全壞《スデニソコナフ》、萬葉十七に、天下須泥爾於保比底布流雪乃《アメノシタスデニオホヒテフルユキノ》、出雲風土記に既《スデニ》礒《イソナリ》、これらのすでにもみな、盡《コトゴトク》の意なり、】因(テ)v訓(ニ)述(ブ)とは、字の訓を取用ひて古語を記せるをいふ、いはゆる眞字《マナ》なり、詞は、その因(テ)v訓(ニ)述たる文なり、心は古語の意なり、【意(ノ)字をかゝずして、心としも云るは、上文の近き處に、意(ノ)字ある故にさけたるなり、凡て此(ノ)序(ノ)文、同字を用ることを嫌へり、】然《シカ》言《イフ》こゝろは、世間《ヨノナカ》にある舊記どもの例を見るに、悉く字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字なるが多くて、其《ソ》は其(ノ)字の義異なるがゆゑに、語の意までは得《エ》及び至らずとなり、【又思(フ)に、こゝは此記しるすべきさまを思ひ度《ハカ》れるにてもあらむか、若(シ)然らば、述(ノ)字はノブレバと訓べく、心は撰者の意なり、さて文の義《ココロ》は、悉くに訓に因て述(ベ)むとすれば、古語を違《タガ》へじと思ふ心のまゝには、文のゆきとゞきがたきと云るなり、如此《カク》もあらむかとも思ひよれるゆゑは、若(シ)上にいへる意ならむには、記中に借字をば書(ク)まじきことわりなるに、なほ借字多ければなり、然れども借字を多く用るは、古(ヘ)のおしなべての世のならひにて、殊に神(ノ)名地(ノ)名など、あまねく書(キ)ならひたらむを、正字の知られざらむ物から、中々に改めむは、あぢきなきわざにしあれは、こと/”\にはえ去《サリ》あふまじきことわりなれば、妨《サマタゲ》なし、】

全(ク)以(テ)v音(ヲ)連(ネタルハ)者、事(ノ)趣更(ニ)長(シ)、

音とは、字(ノ)音を假《カリ》て書るにて、即(チ)假字《カナ》なり、事(ノ)趣は、連《ツラ》ねたる文面をいふなり、然《シカ》言《イフ》こゝろは、全く假字のみを以(テ)書るは、字(ノ)數のこよなく多くなりて、かの因(テ)v訓(ニ)述(ベ)たるに比《クラ》ぶれば、其(ノ)文|更《サラ》に長しとなり、【又かの後にこゝろみに云つる意」にては、此《ココ》も連者をツラヌレバと訓て、撰者の思ひ度《ハカ》れるなり、】

是(ヲ)以(テ)今或(ハ)一句(ノ)之中、交(ヘ)2用(ヒ)音訓(ヲ)1、

 こは上文にある如く、悉く訓に因て眞字書《マナガキ》にせるは、中に借字多くて、語の意さとりがたく、さりとてはた全く假字書《カナガキ》にしたるは、文こよなく長くなりて煩《ワヅラ》はし、故(レ)是(ヲ)以(テ)今は宜《ヨロ》しきほどをはかりて、二つをまじへ用ふとなり、

或(ハ)一事(ノ)之内、全(ク)以(テ)v訓(ヲ)録(ス)、

 全く眞字書《マナガキ》にても、古語と言も意も違(フ)ことなきと、又字のまゝに訓《ヨ》めば、語は違へども、意は違はずして、其(ノ)古語は人皆知(リ)て、訓(ミ)誤(マ)ることあるまじきと、又借字にて、意は違へども、世にあまねく書(キ)なれて、人皆辨へつれば、字には惑ふまじきと、これらは、假字書は長き故に、簡約《ツヅマヤカ》なる眞字書の方を用ふるなり、一事といひ一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり、

即(チ)辭(ノ)理|※〔匡の王が口〕《ガタキハ》v見(エ)、以(テ)v注(ヲ)明(ス)v意(ヲ)、

 理は意にて、即(チ)明(ス)v意(ヲ)とある意これなり、※〔匡の王が口〕(ノ)字は、不可也と注して、難と同じく用ひたり、【書紀(ノ)釋に引(ケ)るには難と作《カケ》り、】さて記中に種々《クサグサ》の注ある中に、辭(ノ)理を明《アカ》したるはいと/\まれにして、只|訓《ヨム》べきさまを教へたるのみ常に多かれば、此《ココ》は文のまゝに心得ては少《スコ》し違ふべし、たゞ大概《オホカタ》にこゝろえてあるべきなり、【また訓《ヨミ》ざまを教へたるが殊に多きにつきて、此《ココ》の文を助けていはば、辭とは字をいひ、理また意とは、訓を云(フ)と心得てもあるべきか、訓はすなはち其字の意なればなり、假令《タトヘ》ば訓(テ)v立(ヲ)云2多々志(ト)1とあるたぐひ、訓を教へたるなれども、多々志《タタシ》はすなはち立(ノ)字の意なれば、明(ス)v意(ヲ)とも云(ヒ)つべし、されど又多く某々《ソレソレノ》字|以《モチフ》v音(ヲ)とあるは、假字なることを注したるなれば、明(ス)v意(ヲ)とは云(ヒ)がたかるべし、かにかくに當《アタ》りがたき文なり、】

況(ムヤ)易(キハ)v解(リ)更(ニ)非《ズ》v注(セ)、

 況(ノ)字はことに意なし、たゞ輕く見べし、【字書に發語之辭とも注せり、】非(ノ)字は不の意に用ひたるなり、此(ノ)例本文文書紀などにもおほし、さて全篇對句なれば、此《ココ》も然るべきさまなるに、意は上と對して、字の對せざるは、易(ノ)字の上に二字、更(ノ)字の上か下かに一字ありしが、共に脱《オチ》たるにやあらむ、

亦|於《ニ》2姓(ノ)日下1、謂(ヒ)2玖沙※〔言+可〕(ト)1、於《ニ》2名(ノ)帶(ノ)字1、謂(フ)2多羅斯(ト)1、如(キノ)v此(ノ)之類、隨(テ)v本(ニ)不v改(メ)、

 此(ノ)文は、於《ニ》2姓(ノ)玖沙※〔言+可〕1謂(ヒ)2日下(ト)1、於《ニ》2名(ノ)多羅斯(ニ)1謂(フ)v帶(ト)とあるべきことなり、其故は、玖沙※〔言+可〕に日下、多羅斯に帶と、本より書(キ)來れるまゝに今も改めず、其(ノ)字もて記すぞと云(フ)義《ココロ》なればなり、如(キノ)v此(ノ)之類とは、まづは長谷《ハツセ》春日《カスガ》飛鳥《アスカ》三枝《サキクサ》などなり、なほこのたぐひのみならず、地(ノ)名神(ノ)名など、多くは古來《イニシヘヨリ》書《カキ》ならへる字のまゝに記せり、【然るに書紀は、神|及《マタ》人(ノ)名地(ノ)名姓氏などの文字、又假字なども、凡て古来のをば用ひずして、ことさらに改めて、伊邪那岐(ノ)命を伊弉諾(ノ)尊、須佐之男(ノ)命を素盞嗚(ノ)尊など書《カカ》れたり、しかるを後(ノ)世人は、たゞ書紀にのみ目なれたれば、是《コレ》をうちまかせたる字《モジ》づかひと心得て、此(ノ)記の如く伊邪那岐(ノ)命須佐之男(ノ)命など書(ク)をば、かへりて異《コト》さまなる如く思ふめるは、ひがことなり、餘《ホカ》の古書どもをくらべ見よ、何《イヅ》れも大かた此(ノ)記の字に似たるを、たゞ書紀のみぞいたく異《コト》なる、此(ノ)記又餘の古書どもにも出たる、久米《クメ》川俣《カハマタ》など云(フ)地名をも、書紀にのみは來目《クメ》川派《カハマタ》など書れたり、これらの地名、今(ノ)世にも此《ココ》彼《カシコ》にあるを、古(ヘ)より今に當地々《ソノトコロドコロ》にて書(キ)來《キタ》れる字も、みな此(ノ)記などと同じことなり、いさゝかなることなれど、これらにても、書《フミ》の實《マコト》と飾《カザリ》あるとの差《ケヂメ》を思ひわたすべし、】

大抵所(ハ)v記(ス)者、自2天地(ノ)開闢1始(メテ)、以(テ)訖(フ)2于小治田(ノ)御世(ニ)1、

 こは全部の始終をいへり、次々は卷々の始終をいふ、

故(レ)天(ノ)御中主(ノ)神(ヨリ)以下、日子波限建鵜草〓不合(ノ)尊(ヨリ)以前(ヲ)、爲2上(ツ)卷(ト)1、

 神代を以て一卷とせるは、もとよりさるべきものなり、〓(ノ)字、延佳本に葺と作《カケ》り、同じことなり、命《ミコト》に尊(ノ)字を書ることめづらし、【此(ノ)記には、美許登《ミコト》には、尊卑《タカキイヤシ》きおしなべて、命(ノ)字をのみ用ひたり、他《ホカ》の古書どもにも、天皇などの大御名にも、多くは命(ノ)字を書けり、かくて書紀には、尊(ノ)字と命(ノ)字とを分(ケ)用(ヒ)て、至(テ)貴(キヲ)曰(フ)v尊(ト)、自餘《ホカヲ》曰(フ)v命(ト)と、自(ラノ)注あれば、尊(ノ)字は、彼(ノ)撰者の新(タ)に用(ヒ)初《ハジ》められたることと思はれ、又|日子《ヒコ》日女《ヒメ》に彦姫(ノ)字を書(ク)も、書紀より始まれりと見えて、此記などには一(ツ)もなきことなり、これらを以(テ)思(フ)に、今此(ノ)文に尊(ノ)字を書るは、疑ひなきにあらず、故(レ)此(ノ)序をなべて疑ひて、後(ノ)人の僞(リ)作れる物ぞと云(フ)人もあれど、其《ソ》は中々にひがこゝろえなり、つら/\思ふに、大雀《オホサザキ》を、舊印本に大鷦鷯と作《カケ》るも、書紀に目なれたる後(ノ)人のひがことなれは、此(ノ)尊(ノ)字も其類にて、書紀なるを見なれて、ふと寫誤れるか、眞福寺(ノ)本には、命(ノ)字を作《カケ》り、これや正しからむ、又思(フ)に次(ノ)文に、伊波禮毘古には天皇、品陀には御世、大雀には皇帝、小治田には大宮と、各|異《コト》に申せる如く、此(レ)もたゞ色々《イロイロ》にかへて書るにて、必しもたしかに美許登《ミコト》と云(フ)に此(ノ)字を用ひたるにも非るにやあらむ、】但し近きほど見得《ミエ》たりといふ、上野(ノ)國多胡(ノ)郡の古き碑文《イシブミ》の寫しを見るにも、石(ノ)上(ノ)麻呂公を石上尊、藤原(ノ)史《フヒト》公を藤原尊と書り、彼(ノ)碑は此(ノ)同じ和銅四年に建(テ)つるなり、然ればそのかみ既《ハヤ》く、尊人《タフトキヒト》をば如此《カク》稱《イフ》ことは、かつ/”\ありけむかし、【さて然《シカ》稱《イフ》が、おのづから美許登《ミコト》といふに當《アタ》れるから、書紀には即《ヤガ》て是(レ)を取て、正《マサ》しく美許登に用ひて、至(リテ)貴(ト)きに書れたるなるべし、然るを彼(ノ)碑なる尊を、朝臣の意にソムの音を取れるなりとしもいふは、いみしきしひごとなり、】

神倭伊波禮毘古(ノ)天皇(ヨリ)以下、品陀(ノ)御世(ヨリ)以前(ヲ)、爲2中(ツ)卷(ト)1、大雀(ノ)皇帝(ヨリ)以下、小治田(ノ)大宮(ヨリ)以前(ヲ)、爲2下(ツ)卷(ト)1、

 天皇御世皇帝大宮は、文《コト》をかへてあやとせるなり、【此(ノ)中に、天皇と皇帝とを對《ツヰ》し、御世と大宮とを對せるなり、】さて品陀(ノ)御世までを中卷とし、大雀(ノ)御世よりを下卷とせるはおのづからより來《キ》つるまゝにて、殊なる意はあるべからず、【中卷は長く、下卷は短きを以(テ)思へば、少《スコ》しは意あるかとも見ゆめれども、然にはあらじ、品陀(ノ)御世を下卷にいるれば、又下卷長くなりて、同じほどのけぢめなるをや、】さて小治田(ノ)御世までにしてとぢめたるゆゑは、此(ノ)御撰録《ミエラビ》は、阿禮が誦習《ヨミナラ》ひつるまゝを録《シル》されたる、其《ソ》はもと清御原(ノ)宮(ノ)天皇の勅語なれば、小治田【推古】の御次岡本(ノ)宮(ノ)天皇【舒明】は、彼(ノ)天皇の大御考《オホミチチ》命に坐(ス)が故に、憚《ハバカリ》て其御世までは及ぼし賜はざりけるなるべし、さるこゝろばへ記中にも見えたり、【他田《ヲサダノ》宮(ノ)御段に、御子たちをあげたる中にも、此(ノ)御子のみは御名をば諱《イミ》て、坐(テ)2岡本(ノ)宮(ニ)1治《シロシメシシ》2天(ノ)下1之天皇とあるこれなり、】抑此(ノ)記の、いさゝかも撰者の新爲《アラタナルシワザ》を加《クハ》へず、たゞかの阿禮が誦習《ヨミナラ》へるかぎりなりけるほど、是等《コレラ》にてもしられたり、

并(テ)録(シ)2三卷(ヲ)1、謹(テ)以(テ)獻上(ス)、臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首、

 三卷とせることは、たゞほどよきに從へるなり、

和銅五年、正月二十八日、

 去年の九月(ノ)十八日に、詔命を奉《ウケタマハ》りてより、たゞ四箇月餘《ヨツキアマリ》にして業《コト》を終《ヲヘ》たる、いとかく速《スミヤカ》なりしも、たゞかの阿禮が語のまゝを録《シル》せるのみにして、新爲《アラタナルシワザ》を加《クハ》ふることのなかりしがゆゑなるべし、

正五位上勲五等、太(ノ)朝臣安萬侶謹上

 勲五等とは、尋常の位階のほかに、勲位とて一等より十二等までありて、官位令に見えたり、義解によるに、五等は正五位に相當れり、【勲位は、武功によりてたまふことなり、】大《オホノ》朝臣は、白檮原《カシバラノ》宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の御子神八井耳(ノ)命の御末なり、委き事は彼(ノ)御段《ミクダリ》に云べし、安萬侶《ヤスマロノ》朝臣は、誰子《タガコ》といふことしられず、【書紀(ノ)天武(ノ)卷に、多《オホノ》臣|品治《ホムヂ》てふ人見えたり、壬申(ノ)年の役に、いたく功《イサヲ》ありし人にて、位は小錦下とありて、持統(ノ)卷に、十年八月庚午朔甲午、以(テ)2直廣壹(ヲ)1授(ケ)2多(ノ)臣品治(ニ)1、并(ニ)賜(フ)v物(ヲ)、褒2美《ホメタマフナリ》元(メヨリ)從(ヘル)之功(ト)、與《トヲ》2堅(ク)守(レル)v關(ヲ)事1とあり、此(ノ)品治(ノ)朝臣の子なるべくぞ思はるゝ、さて此(ノ)氏、天武(ノ)卷に朝臣となりて後は、多(ノ)朝臣品治と見えたるに、持統(ノ)卷にしも、臣《オミ》とあるはいかゞ、直廣壹は、天武(ノ)御世に定められたる四十八階の、第十に當《アタ》る位なり、】續紀三(ノ)卷に、慶雲元年正月丁亥朔癸巳、正六位下太(ノ)朝臣安麻呂(ニ)、授(ク)2從五位下(ヲ)、【此(ノ)人|此《ココ》に始(メ)て見えたり、】五(ノ)卷に、和銅四年四月丙子朔壬午、正五位下大(ノ)朝臣安麻呂、授(ク)2正五位上(ヲ)1、【正五位下に叙《ナ》られしことは、此(ノ)前に見えず、漏《モレ》たるなるべし、】六(ノ)卷に、靈龜元年正月甲申朔癸巳、叙(ス)2從四位下(ニ)1、七(ノ)卷に、同二年九月乙未、爲(ル)2氏(ノ)長(ト)1、九(ノ)卷に、養老七年七月庚午、民部卿從四位下、太(ノ)朝臣安麻呂卒、【民部卿に任《ナ》られしことも、前に見えず、もれたるなるべし、】享年《トシ》見えず、さて弘仁私記(ノ)序、三統(ノ)理平(ガ)延喜六年目本紀享宴(ノ)歌(ノ)序、橘(ノ)直幹(ガ)天慶六年同享宴(ノ)歌(ノ)序、又忌部(ノ)正通(ガ)口決などに、書紀を、舍人(ノ)親王と二人詔を奉《ウケタマハ》りて撰べりといへり、【續紀には、親王一柱の撰と見えて、安麻呂(ノ)朝臣のことはなし、○神名帳に、大和(ノ)國十市(ノ)郡(ニ)小杜神命(ノ)神社あり、或云、此(ノ)神社在(リ)2多《オホノ》社(ノ)東南(ニ)1、今稱(ス)2木(ノ)下(ノ)社(ト)1、傳(ヘテ)云(フ)v祭(ルト)2安麻呂(ヲ)1といへり、今|按《オモフ》に、彼(ノ)社|等《ナド》四社の下に、已上四神(ハ)、太(ノ)社(ノ)皇子神《ミコガミ》と、式にしるされたれば、多《オホ》氏の人を祀《マツ》れることは決《ウツナ》し、誠に安麻呂(ノ)朝臣にもあらむか、】舊印本には、謹上(ノ)二字はなし、


     大御代之繼繼御世御世之御子等
  之御中主神

  笠縫王
    右二柱御母櫻井玄王

古事記傳三之卷

                    本居宣長謹撰

 

     神代一之卷《カミヨノハジメノマキ》

 

天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》。於高天原成神名《》タカマノハラニナリマセルカミノミナハ。天之御中主神《アメノミナカヌシノカミ》。【訓高下天云阿麻下效此】次高御産巣日神《ツギニタカミムスビノカミ》。次神産巣日神《ツギニカミムスビノカミ》。此三柱神者《コノミバシラノカミハ》。並獨神成坐而《ミナヒトリガミナリマシテ》。隱身也《ミミヲカタシタマヒキ》。

 

天地は、阿米都知《アメツチ》の漢字《カラモジ》にして、天は阿米《アメ》なり、かくて阿米《アメ》てふ名義《ナノココロ》は、未(ダ)思(ヒ)得ず、抑|諸《モロモロ》の言《コト》の、然《シカ》云《イフ》本《モト》の意《ココロ》を釋《トク》は、甚《イト》難《カタ》きわざなるを、強《シヒ》て解《トカ》むとすれば、必|僻《ヒガ》める説《コト》の出來《イデク》るものなり、【古(ヘ)も今も、世(ノ)人の釋《トケ》る説《コト》ども、十に八九は當《アタ》らぬことのみなり、凡て皇国《ミクニ》の古言は、たゞに其(ノ)物其(ノ)事のあるかたちのまゝに、やすく云初《イヒソメ》名《ナ》づけ初《ソメ》たることにして、さらに深き理などを思ひて言《イヘ》る物には非れば、そのこゝろばへを以(テ)釋《トク》べきわざなるに、世々の識者《モノシリビト》、其(ノ)上(ツ)代の言語《コトドヒ》の本づけるこゝろばへをば、よくも考へずて、ひたぶるに漢意《カラゴコロ》にならひて釋《トク》ゆゑに、すべて當《アタ》りがたし、彼(ノ)漢國《カラクニ》も、上(ツ)代の言《コト》の本は、さしもこちたくはあらざりけむを、彼(ノ)國俗《クニワザ》として、何事にもたゞ理と云(フ)物を先《サキ》にたてて、言の意を釋《トク》にも、たゞその理を旨《ムネ》とせる故に、皆|強説《シヒゴト》なるをや、かくて近きころ古學《イニシヘマナビ》始まりては、漢意《カラゴコロ》を以(テ)釋《トク》ことの惡《ワロ》きをば、曉《サト》れる人も有て、古意《イニシヘゴコロ》もて釋《トク》とはすめれど、其《ソレ》將《ハタ》説得《トキウ》ることは、猶|稀《マレ》になむありける、】さりとてはたひたぶるに釋《トカ》ずて止《ヤム》べきにも非ず、考への及ばむかぎり、試《ココロミ》には云(フ)べし、其(ノ)中に正《マサ》しく當《アタ》れるも、稀《マレ》には有(ル)べきなり、故《カレ》今も如此《カク》にもやあらむ、と思ひよれることはある、其《ソ》は下に云べし、さて天《アメ》は虚空《ソラ》の上《カミ》に在(リ)て、天(ツ)神たちの坐《マシ》ます御國なり、【此(ノ)外に理を以(テ)こちたく説成《トキナ》し、或は其(ノ)形などをも、さま/”\おしはかりに云(フ)などは、皆|外國《トツクニ》のさだにて、古(ヘノ)傳(ヘ)にかなはざれば、凡て取(ル)にたらず、】地は都知《ツチ》なり、名義《ナノココロ》は、是(レ)も思ひよれることあり、下に云べし、さて都知《ツナ》とは、もと泥土《ヒヂ》の堅《カタ》まりて、國土《クニ》と成《ナ》れるより云る名なる故に、小《チヒサ》くも大《オホ》きにも言《イヘ》り、小《チヒサ》くはたゞ一撮《ヒトツマミ》の土《ツチ》をも云(ヒ)、又廣く海に對《ムカ》へて陸地《クヌガ》をも云(フ)を、天《アメ》に對《ムカ》へて天地《アメツチ》と云ときは、なほ大きにして、海をも包《カネ》たり、【姓氏録に、海神《ワタツミ》の子孫の氏々をも、地祇(ノ)部に收《イレ》られたる、是(レ)土《ツチ》には海をも包《カネ》たる故なり、〇己《オノレ》前《サキ》に思へりしは、阿米都知《アメツチ》と云(フ)は、古言に非じ、其故は、古書《イニシヘブミ》どもを見るに、凡て阿米《アメ》に對へては、必|久爾《クニ》とのみ云て、都知《ツチ》とは云ず、天神《アマツカミ》地祇《クニツカミ》、天社《アマツヤシロ》國社《クニツヤシロ》、又神(ノ)名にも、天某《アメノナニノ》神|國某《クニノナニノ》神と對ひ、又|天邇岐志《アメニギシ》國邇岐志《クニニギシ》云々《シカシカ》など申す御名、又書紀に扇《トヨモシ》v天(ヲ)扇《トヨモシ》v國(ヲ)と云ひ、雄略(ノ)卷吉備(ノ)臣尾代が歌にも、阿毎《アメ》にこそ聞えずあらめ、矩※〔にんべん+爾〕《クニ》には聞えてなと作《ヨメ》るなど、皆|久爾《クニ》をもて阿米《アメ》には對へたれば、阿米《アメ》久爾《クニ》と云むぞ古言なるべければ、古書に天地とあるをも、みな然《シカ》訓《ヨム》べきなり、と思へりしを、後に師の久爾《クニ》都知《ツチ》の考(ヘ)を見れば、なほ阿米《アメ》都知《ツチ》ぞ古言なりける、彼(ノ)考(ヘ)に云く、久爾《クニ》と云(フ)名は限《カギリ》の意なり、東國にて垣《カキ》を久禰《クネ》と云(フ)にて知(ル)べし、さて都知《ツチ》とは、皇祖神《カミロギ》の天(ノ)沼矛《ヌホコ》以てかきなし賜へりし始(メ)を以(テ)名《ナヅ》けたるなり、かゝれば地《ツチ》は天と等《ヒト》しく廣く、國《クニ》は限(リ)あれば狹きに似たり、故(レ)阿米《アメ》都知《ツチ》とは云(ヘ)ど、阿米《アメ》久爾《クニ》とは上(ツ)代には云(ハ)ざりしなるべし、さて久爾《クニ》は限(リ)の意ぞと云(フ)由は、天照大御神月讀(ノ)命は、天の日《ヒル》夜《ヨル》を分《ワカ》ちしろしめすなるを、須佐之男(ノ)命の天に上りたまふ時に、欲v奪(ハムト)2我(ガ)國(ヲ)1と天照大御神の詔《ノタマ》ひ、月讀(ノ)命は所2知《シロシメセ》夜食國《ヨルノヲスクニヲ》1、と皇祖神の詔ひ、又須佐之男(ノ)命は所2知(セ)海原(ヲ)1とありて、次に不v治2所命之國《ヨサセルクニヲ》1、とも皇祖神の詔ひ、又萬葉二の人麻呂の挽歌にも、天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》、神上上座奴《カムアガリアガリマシヌ》とよめるなど、みな限りて所知《シロシ》めす處を、天《アメ》にても國《クニ》と云り、これらにて、久爾は本は天《アメ》に對へ云べき名に非ることを知べし、さて天(ツ)神|地祇《クニツカミ》、又神(ノ)名などにも、天某《アメノナニ》國某《クニノナニ》と對へ云るたぐひは、地《ツチ》のかぎりおつる處なく、みな御孫(ノ)命のしろしめす御國なるが故に、おのづから天に對へる地《ツチ》をも、久爾《クニ》とも云ことになれりしなり、凡て天(ツ)神國(ツ)神と云(ヒ)、又神(ノ)名なども、御孫(ノ)命の此(ノ)國しろしめす御世になりて名《ナヅ》け奉れるが多けれはなり、然れども廣く天にむかへて連《ツラ》ね云(フ)には、なほ都知《ツチ》とのみ云て、阿米久爾とは云(ハ)ざりしなりとあり、彼(ノ)考(ヘ)の文の中には、いかにぞや聞ゆることどももまじれるをばおきて、今は宜しと思はるゝかぎりをえり出て引(ケ)り、】さて正《マサ》しく阿米《アメ》都知《ツチ》と云(フ)言《コト》の、物に見えたるは、萬葉廿【三十二丁】防人《サキモリノ》歌に、阿米都之乃《アメツシノ》、以都例乃可美乎《イヅレノカミヲ》云々、又【四十一丁】阿米都之乃《アメツシノ》、可美爾奴佐於伎《カミニヌサオキ》、【師(ノ)云(ク)、古(ヘ)東人《アヅマビト》はさかしらなる心を添(ヘ)ずて、言傳《イヒツタ》へたる言のまゝにうち云(フ)めれば、京の物知人《モノシリビト》の歌よりも、返りて古言の據《ヨリドコロ》とすべき物ぞと云れき、都知《ツチ》を東言《アヅマコトバニ》都之《ツシ》とは云るなるべし,】又五【七丁】に、阿米弊由迦婆《アメヘユカバ》、奈何麻爾麻爾《ナガマニマニ》、都智奈良婆《ツチナラバ》、大王伊麻周《オホキミイマス》などあり、

〇初發之時は、波自米能登伎《ハジメノトキ)と訓(ム)べし、萬葉二【二十七丁】に、天地之初時之《アメツナノハジメノトキシ》云々、十【三十二丁】に、乾坤之初時從《アメツチノハジメノトキユ》云々、書紀孝徳(ノ)御卷に、與《ヨリ》2天地之初《アメツチノハジメ》1云々などある、これら天地乃波自米《アメツチノハジメ》と云る古言の據《ヨリドコロ》なり、此《ココ》に發(ノ)字を連《ツラ》ねて書《カケ》るも、たゞ初《ハジメ》の意なり、【字書に發は起也と注せり、】事の初《ハジメ》を起《オコ》りとも云(ヒ)、又|俗《ヨ》に初發《シヨホツ》と云(フ)も、古(ヘ)より波自米《ハジメ》と云(フ)に、此(ノ)二字を用ひなれたるより出たるなるべし、【初發を、ハジメテヒラクルと訓るはひがことなり、其《ソ》はいはゆる開闢《カイビヤク》の意に思ひ混《マガ》へつる物ぞ、抑天地のひらくと云(フ)は、漢籍言《カラブミゴト》にして、此間《ココ》の古言に非ず、上(ツ)代には、戸《ト》などをこそひらくとはいへ、其《ソノ》餘《ホカ》は花などもさくとのみ云て、上(ツ)代にはひらくとは云ざりき、されば萬葉の歌などにも、天地のわかれし時とよめるはあれども、ひらけし時とよめるは、一つも無きをや、】さて如此《カク》天地之初發《アメツチノハジメ》と云(ヘ)るは、たゞ先(ヅ)此(ノ)世【佛書《ホトケブミ》に世界《セカイ》と云て、俗人《ヨノヒト》も常に然いふなり、】の初《ハジメ》を、おほかたに云る文《コトバ》にして、此處《ココ》は必しも天と地との成れるを指《サシ》て云るには非ず、天と地との成れる初《ハジメ》は、次の文《コトバ》にあればなり、

〇高天原《タカマノハラ》は、すなはち天《アメ》なり、【然るを、天皇の京《ミヤコ》を云(フ)など云る説は、いみしく古(ヘノ)傳(ヘ)にそむける私説《ワタクシゴト》なり、凡て世の物知人《モノシリビト》みな漢籍意《カラブミブコロ》に泥《ナヅ》み溺《オボ》れて、神の御上《ミウヘ》の奇靈《クスシクアヤシ》きを疑(ヒ)て、虚空《ソラ》の上《カミ》に高天(ノ)原あることを信《ウケ》ざるは、いと愚《オロカ》なり、】かくてたゞ天《アメ》と云(フ)と、高天(ノ)原と云との差別《ケヂメ》は、如何《イカニ》ぞと云に、まづ天は、天(ツ)神の坐(シ)ます御國なるが故に、山川木草のたぐひ、宮殿《ミアラカ》そのほか萬(ヅ)の物も事も、全《モハラ》御孫《ミマノ》命の所知看《シロシメス》此(ノ)御國土《ミクニ》の如くにして、なほすぐれたる處にしあれば、【かゝることどもは、漢籍にいはゆる天とは、甚《イタ》く異《コト》なる物ぞ、ゆめ彼(ノ)國書《クニブミ》の説《コト》に惑《マド》ひて、正《タダ》しき神代の傳(ヘ)を勿《ナ》説曲《トキマゲ》そ、凡て外(ツ)國には、正しき古(ヘノ)傳(ヘ)説《ゴト》の無き故に、天《アメ》の實《マコト》のさまをば得《エ》知《シ》らずて、たゞおしはかりの空理《ムナシゴト》をのみいふなり、】大方《オホカタ》のありさまも、神たちの御上《ミウヘ》の萬(ヅ)の事も、此(ノ)國土《クニに有る事《コト》の如くになむあるを、【此《コ》は此(ノ)記|及《マタ》書紀(ノ)神代(ノ)卷を見て知(ル)べし、みな正しき神代の傳説《ツタヘゴト》なり、】高天(ノ)原としも云(フ)は、其(ノ)天《アメ》にして有る事《コト》を語《カタ》るときの稱《ナ》なり、【然るを萬葉(ノ)歌などに、天(ノ)原ふりさけ見れば、とよめるなどは、やゝ後のことなるべし、如此《カク》さまにたゞ打見《ウチミ》たるのみの天《アメ》などを、天(ノ)原とも云るが如きは、神代の御典《ミフミ》などには見えぬことなり、】さて然《シカ》稱《イ》ふ由は、高《タカ》とは、是(レ)も天を云(フ)稱《ナ》にて、たゞに高き意に云るとはいさゝか異なり、【然れば此(ノ)高は體言なり、】日の枕詞に高光《タカヒカル》と云も、天照《アマテラス》と同(ジ)意、高御座《タカミクラ》も天《アメ》の御座と云ことにて、是(レ)等《ラ》の高《タカ》も同じ、又|高行《タカユク》や隼別《ハヤブサワケ》などは、【高津(ノ)宮(ノ)段の歌にあり、】虚空《ソラ》を高《タカ》と云るなり、【此《コレ》も高く行(ク)と云には非ず、抑|天《アメ》と虚空《ソラ》とは別《コト》なれば、精《クハシ》くは分《ワケ》て云ることもあれども、共に上方《カミツベ》にあれば、此(ノ)國土《クニ》よりは、天をそらとも、虚空《ソラ》を天《アメ》とも通はし云(フ)も常にて、天《アマ》つそらなども云り、されば高《タカ》と云も、天《アメ》と虚空《ソラ》とを通はしたる名なり、共に高き方にあればなり、】今(ノ)世にも、天《アマ》つ虚空《ソラ》を然《シカ》言《イフ》ことあり、【物の虚空《ソラ》に高く上るを、高《タカ》へ上《アガ》るなど云めり、但(シ)此《コ》は天(ノ)下にあまねく云(フ)ことには非るか知らず、此(ノ)伊勢(ノ)國などにては、をり/\然云(フ)を聞くなり、古言ののこれるなるべし、】原《ハラ》とは、廣く平《タヒ》らなる處を云(フ)、海原《ウナハラ》野原《ヌガラ》河原《カハラ》葦原《アシハラ》などの如し、萬葉(ノ)歌には國原《クニハラ》ともあり、かゝれば天をも天(ノ)原とは云なり、【之(ノ)原《ハラ》と云例も、海之原《ワタノハラ》など、そのほかもあり、】さて其《ソレ》に高《タカ》てふ言を添(ヘ)て、高天(ノ)原とは、此(ノ)國土《クニ》より云(フ)ことなり、【凡て天を高《タカ》とも云は、高きを以(テ)云|稱《ナ》なればなり、】されば天照大御神の天(ノ)石屋《イハヤ》に隱(リ)坐る處の御言《ミコト》、【天(ノ)原自《オ》闇(ク)云々、】又書紀の須佐之男(ノ)命の天に上《ノボリ》坐(ス)時、又|御誓《ミウケヒ》の處の天照大御神の御言、【必當v奪2我(ガ)天(ノ)原(ヲ)1云々、令《シメム》v治《シラ》2天(ノ)原(ヲ)1也云々、】などには、皆たゞ天(ノ)原とあり、其《ソ》は天にして詔《ノタマ》ふ御言なるが故なり、【然るに書紀(ノ)神代(ノ)下(ツ)卷に、同(ジキ)大御神の吾(ガ)高天(ノ)原と詔へる處の一(ツ)あるは、撰者の何心もなく書《カカ》れたるか、いかにもあれ、たゞ此一(ツ)をもてなべてを疑ふべきにはあらず、多きに就《ツキ》て決《サダ》むべきものぞ、】これらの餘《ホカ》、此(ノ)國士《クニ》より云るところになむ、高天(ノ)原とはある、凡て古文《イニシヘノフミコトバ》は、かゝることのいと正《タダ》しきなり、

〇成は那理麻世流《ナリマセル》と訓(ム)べき由、首卷《ハジメノマキ》【訓法の條】に云るが如し、さて那流《ナル》と云(フ)言に三(ツ)の別《ワキ》あり、一(ツ)には、無《ナカ》りし物の生《ナ》り出るを云(フ)、【人の産生《ウマルル》を云も是なり、】神の成坐《ナリマス》と云は其意なり、二(ツ)には、此(ノ)物のかはりて彼(ノ)物に變化《ナル》を云(フ)、豊玉比賣(ノ)命|産《ミコウミ》坐(ス)時(ニ)化《ナリ》2八尋和邇《ヤヒロワニニ》1たまひし類なり、(ツ)三には、作事《ナスコト》の成終《ナリヲハ》るを云(フ)、國難成《クニナリガタケム》とある、成《ナル》の類なり、【此(ノ)三(ツ)の差《ケヂメ》によりて、漢字《カラモジ》は生成變化などと異《カハリ》あれども、皇國の古書には、訓の同じきをば通(ハシ)用ひて、字にはさしもかゝはらざること多し、此《ココ》の成《ナリマス》も、成(ノ)字の意とはいさゝか異《コト》にして、書紀に所生《ナリマセル》神とある字の意なり、〇木草の實《ミ》の那流《ナル》、又|産業《ナリハヒ》を萬葉(ノ)歌などに那流《ナル》と云る、これらは上(ノ)件の三(ツ)とは本より別《コト》なる言か、はた三(ツ)の中より出たる言か、未(ダ)考へず、】

〇神名は迦微能美那波《カミノミナハ》と訓べきことも、首卷《ハジメノマキ》に云り、迦微《カミ》と申す名義《ナノココロ》は未(ダ)思(ヒ)得ず、【舊《フル》く説《トケ》ることども皆あたらず、】さて凡て迦微《カミ》とは、古《イニシヘノ》御典等《ミフミドモ》に見えたる天地の諸《モロモロ》の神たちを始めて、其《ソ》を祀《マツ》れる社に坐(ス)御靈《ミタマ》をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣《トリケモノ》木草のたぐひ海山など、其《ソノ》餘《ホカ》何《ナニ》にまれ、尋常《ヨノツネ》ならずすぐれたる徳《コト》のありて、可畏《カシコ》き物を迦微《カミ》とは云なり、【すぐれたるとは、尊《タフト》きこと善《ヨ》きこと、功《イサヲ》しきことなどの、優《スグ》れたるのみを云に非ず、惡《アシ》きもの奇《アヤ》しきものなども、よにすぐれて可畏《カシコ》きをば、神と云なり、さて人の中の神は、先(ヅ)かけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐(ス)こと、申すもさらなり、其《ソ》は遠《トホ》つ神とも申して、凡人《タダビト》とは遙《ハルカ》に遠く、尊く可畏《カシコ》く坐(シ)ますが故なり、かくて次々にも神なる人、古(ヘ)も今もあることなり、又天(ノ)下にうけばりてこそあらね、一國一里一家の内につきても、ほど/\に神なる人あるぞかし、さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴(ル)神神鳴(リ)など云(ヘ)ば、さらにもいはず、龍《タツ》樹靈《コタマ》狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏《カシコ》ければ神なり、木靈《コタマ》とは、俗《ヨ》にいはゆる天狗にて、漢籍《カラブミ》に魑魅など云たぐひの物ぞ、書紀舒明(ノ)卷に見えたる天狗は、異物《コトモノ》なり、又源氏物語などに、天狗こたまと云ることあれば、天狗とは別《コト》なるがごと聞ゆめれど、そは當時《ソノカミ》世に天狗ともいひ木靈《コタマ》とも云るを、何となくつらね云るにて、實《マコト》は一つ物なり、又|今俗《イマノヨ》にこたまと云物は、古(ヘ)山彦と云り、これらは此《ココ》に要なきことどもなれども、木靈《コタマ》の因《チナミ》に云のみなり、又虎をも狼をも神と云ること、書紀萬葉などに見え、又|桃子《モモ》に意富加牟都美《オホカムツミノ》命と云名を賜ひ、御頸玉《ミクビタマ》を御倉板擧《ミクラタナノ》神と申せしたぐひ、又|磐根《イハネ》木株《コノタチ》艸葉《カヤノカキバ》のよく言語《モノイヒ》したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其(ノ)御靈《ミタマ》の神を云に非ずて、直《タダ》に其(ノ)海をも山をもさして云り、此《コレ》らもいとかしこき物なるがゆゑなり、】抑|迦微《カミ》は如此《カクノゴト》く種々《クサグサ》にて、貴《タフト》きもあり賤《イヤシ》きもあり、強《ツヨ》きもあり弱《ヨワ》きもあり、善《ヨ》きもあり惡《アシ》きもありて、心も行《シワザ》もそのさま/”\に隨《シタガ》ひて、とり/”\にしあれば、【貴《タフト》き賤《イヤシ》きにも、段々《キザミキザミ》多くして、最《モトモ》賤《イヤシ》き神の中には、徳《イキホヒ》すくなくて、凡人にも負《マク》るさへあり、かの狐など、怪《アヤシ》きわざをなすことは、いかにかしこく巧《タクミ》なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗《イヌ》などにすら制せらるばかりの、微《イヤシ》き獣なるをや、されど然《サ》るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向《ムカ》ふには、可畏《カシコ》きこと無《ナ》しと思ふは、高きいやしき威力《チカラ》の、いたく差《タガ》ひあることを、わきまへざるひがことなり、】大かた一《ヒト》むきに定めては論《イ》ひがたき物になむありける、【然るを世人の、外(ツ)國にいはゆる佛菩薩聖人などと、同じたぐひの物のごと心得て、當然《シカルベ》き理と云ことを以て、神のうへをはかるは、いみしきひがことなり、惡《アシ》く邪《ヨコサマ》なる神は、何事も理にたがへるしわざのみ多く、文善(キ)神ならむからに、其ほどにしたがひては、正しき理のまゝにのみもえあらぬ事あるべく、事にふれて怒《イカ》り坐る時などは、荒《アラ》びたまふ事あり、惡き神も、悦ばば心なごみて、物|幸《サキ》はふること、絶《タエ》て無きにしもあらざるべし、又人は然《サ》はえ知《シ》らねども、そのしわざの、さしあたりては惡《ア》しと思はるゝ事も、まことには吉《ヨ》く、善《ヨ》しと思はるゝ事も、まことには凶《アシ》き理のあるなどもあるべし、凡て人の智《サトリ》は限(リ)ありて、まことの理はえしらぬものなれば、かにかくに神のうへは、みだりに測《ハカ》り論《イ》ふべきものにあらず、】まして善《ヨ》きも惡《アシ》きも、いと尊《タフト》くすぐれたる神たちの御うへに至りては、いとも/\妙《タヘ》に靈《アヤシ》く奇《クス》しくなむ坐(シ)ませば、さらに人の小《チヒサ》き智《サトリ》以て、其(ノ)理(リ)などちへのひとへも、測《ハカ》り知らるべきわざに非ず、たゞ其(ノ)尊きをたふとみ、可畏《カシコ》きを畏《カシコ》みてぞあるべき、【迦微《カミ》に神(ノ)字をあてたる、よくあたれり、但し迦微《カミ》と云は體言なれば、たゞに其物を指(シ)て云のみにして、其事其徳などをさして云ことは無きを、漢國《カラクニ》にて神とは、物をさして云のみならず、其事其徳などをさしても云て、體にも用にも用ひたり、たとへば彼(ノ)國書《クニブミ》に神道と云るは、測《ハカ》りがたくあやしき道と云ことにて、其通のさまをさして神とは云るにて、道の外に神と云(フ)物あるには非ず、然るを皇國にて迦微之道《カミノミチ》と云へば、神の始めたまひ行ひたまふ道、と云ことにこそあれ、其道のさまを迦微と云ことはなし、もし迦微なる道といはば、漢國の意の如くなるべけれど、其《ソレ》もなほ直《タダ》に其道をさして云にこそなれ、其(ノ)さまを云にはならず、書紀に神劔神龜などある神(ノ)字も、漢文の意に其徳をさして云るにて、あやしきたちあやしきかめと云ことなれば、迦微とは訓(ム)べからず、もしカミタチカミガメなどよむときは、たゞに劔をさし龜をさして、迦微と名《ナヅ》くるになるなり、凡て皇國言《ミクニコト》の意と漢字の義と、全くは合(ヒ)がたきも多かるを、かたへに合ざる處あるをも、大方の合へるを取て、當《アテ》たるものなれば、その合(ハ)ざる所のあることを、よく心得分(ク)べきなり、又|漢籍《カラブミ》に、陰陽不(ル)v測(ラレ)之(ヲ)謂v神(ト)、あるは氣(ノ)之伸(タル)者(ヲ)爲v神(ト)、屈(マル)者(ヲ)爲v鬼(ト)、など云るたぐひを以て、迦微を思ふべからず、かくさまにさかしだちて物を説くは、かの國人の癖《クセ》なりかし、】名《ナ》と云(フ)言のよしは、遠飛鳥《トホツアスカノ》宮(ノ)段の、氏々名々《ウヂウヂナナ》とある下《トコロ》に云べし、【傳三十八の三十二の葉】

〇天之御中主《アメノミナカヌシノ》神、御中《ミナカ》は眞中《マナカ》と云むが如し、凡て眞《マ》と御《ミ》とは本|通《カヨ》ふ辭なるを、やゝ後には分て、御《ミ》は尊む方、【御(ノ)字を書(ク)も此意なり、但し此(ノ)字は漢国にては、王のうへに限りて云を、此方《ココ》にて美《ミ》といふは、天皇の御うへに限らず、凡人《タダビト》にも何《ナニ》にもいふ辭なり、】眞《マ》は美稱《ホム》ると、甚しく云(フ)と、全《マタ》きこととに用ふ、されど古(ヘ)の言の遺《ノコ》れるはなほ通はして、眞熊野《マクマヌ》とも三熊野《ミクマヌ》とも云る類(ヒ)多く、又|眞《マ》と云べきを御《ミ》と云るも、御空《ミソラ》御雪《ミユキ》御路《ミチ》など多かり、御中《ミナカ》も此類なり、天《アメ》のみならず、國之御中《クニノミナカ》里之御中《サトノミナカ》なども萬葉(ノ)歌にあり、【俗言《サトビゴト》にマン中といふも、眞中《マナカ》なり、凡て眞《マ》をなほ甚しく云とてマンと撥《ハ》ね、又マツとつむるは、俗言のつねなり、】又|毛那加《モナカ》と云も眞中《マナカ》の轉《ウツ》れるにて、天武紀に天中央《ソラノモナカ》とあり、【此(ノ)字を以て、此《ココ》の御中《ミナカ》の意をも知(ル)べし、】主《ヌシ》は大人《ウシ》と同言にて、能宇斯《ノウシ》の切《ツヅマ》れるなり、【宇斯《ウシ》を主人と書ることも見えたり、書紀に、繼體天皇の大御父|彦主人王《ヒコウシノミコ》、又續紀に、阿倍(ノ)朝臣|御主人《ミウシ》など是なり、これら今は訓をあやまれり、】故(レ)古(ヘ)に宇斯《ウシ》は、必|某之宇斯《ナニノウシ》と之《ノ》を加《クハ》へたるに云(ヒ)、奴斯《ヌシ》は某主《ナニヌシ》と直《タダ》に連《ツラネ》て、之《ノ》を加《クハ》へぬに云り、飽咋之宇斯能《アキグヒノウシノ》神、大背飯之三熊之大人《オホセヒノミクマノウシ》、大国|主《ヌシノ》神、大|物主《モノヌシノ》神、事代主《コトシロヌシノ》神、經津主《フツヌシノ》神などの如し、又書紀に、齋主《イハヒヌシノ》神(ヲ)號《イフ》2齋之大人《イハヒノウシト》1と見え、【此《コレ》は齋主(ノ)神と云は、其(ノ)神(ノ)號《ナ》、齋之大人と云は、其時祭(リ)につきての職號《ツカサノナ》の如くなるものなるを、その職(ノ)號を即《ヤガテ》其神(ノ)名として、齋主(ノ)神と云なり、然れば職(ノ)號は前にて、神(ノ)號となれるは後なるを、此(ノ)文はなほ後より云る故に、本末まぎらはしく聞ゆめり、】又|丹波美知能宇斯王《タニハノミチノウシノミコ》を、書紀には道主王《ミチヌシノミコ》とある、是《コレ》らを以知(ル)べし、【奴斯《ヌシ》にも之《ノ》を添(ヘ)て某之主《ナニノヌシ》といひ、又たゞ主《ヌシ》とばかり首《ハジメ》に云(フ)などは、みな後のことなり、萬葉十八天平勝寶元年の歌に、たゞ奴之《ヌシ》とあり、そのころよりぞさる言もありけむ、又主(ノ)字を宇斯《ウシ》にあてずして、奴斯《ヌシ》にあてたるは、能宇斯《ノウシ》と云よりも、約めて奴斯《ヌシ》と云し言の、古(ヘ)より多かりし故なるべし、されど本を正《タダ》していはば、主(ノ)字ばかりは宇斯《ウシ》と訓(ム)べきことわりなり、】さて宇斯波久《ウシハク》と云も、其處《ソコ》の主《ウシ》として、領居《シメヲ》ることなり、【宇斯波久の事は、傳十四に委(ク)いふ、】されば此神は、天眞中《アメノマナカ》に坐々て、世(ノ)中の宇斯《ウシ》たる神と申す意の御名なるべし、【或は此(ノ)神を、人臣の祖なりと云ひ、或は國(ノ)常立(ノ)尊の配合にて皇后なりなど云は、心にまかせたる妄説《ミダリゴト》なり、大方近きころは、かゝる邪説《ヲコサマゴト》いと多し、ゆめ惑《マド》はさるゝこと勿《ナカ》れ、】

〇註に、訓《テ)2高《ノ)下《ノ)天《ヲ)1云《フ)2阿麻《アマト》1、下效(ヘ)v此(ニ)とは、高天原を多加麻能波艮《タカマノハラ》と訓(ム)べきことを示したるなり、凡て天某とあるに、四(ツ)の訓《ヨミ》あり、一(ツ)には阿米能某《アメノナニ》、二(ツ)には阿麻能某《アマノナニ》、三(ツ)には阿米某《アメナニ》、四(ツ)には阿麻某《アマナニ》なり、然るを世に此(ノ)四(ツ)の讀《ヨミ》を相誤ることある故に、【阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》を誤(リ)て、阿麻能迦久夜麻《アマノカグヤマ》と云類なり、】かゝる註あり、其例、阿米能《ァメノ》と訓べきをば註《シル》さず、阿米某《アメナニ》と直《タダ》に連《ツヅ》けて、之《ノ》と訓(ム)まじきをば、訓(ムコト)v天(ヲ)如(シ)v天(ノ)と註し、阿麻能《アヤノ》と訓(ム)べきをば、此所《ココ》の如く註せり、【阿麻某《アマナニ》と訓(ム)べき註は見えず、其《ソ》はたま/\記中に然註すべき處はなきにやあらむ、】さて阿麻《アマ》は、高天とつゞく時は、高の加《カ》に阿韻《アノヒビキ》ある故に、おのづから多加麻《タカマ》と讀《ヨマ》るゝなれ、【或人これを疑ひて、常の如く多加麻《タカマ》と訓(ム)べくば、云(フ)v麻《マト》とこそ註すべきに、云2阿麻(ト)1とあるは、多加阿麻乃原《タカアマノハラ》と訓(ム)べきためならむかと云るは、中々にわろし、高天とつゞけては、麻《マ》となれども、註は天(ノ)一字を離《ハナ》していふゆゑに阿麻なり、其例は下に、八咫鏡の註に、訓(テ)v咫(ヲ)云2阿多(ト)1とあれども、なほ夜多《ヤタ》と訓(ム)これなり、是も八《ヤ》に阿《ア》の韻《ヒビキ》ありて、此《ココ》と同じければなり、】高(ノ)下(ノ)とは、天之御中主の天(ノ)字もある故に、分て云るなり、下效(ヘ)v此(ニ)とは、高天原とあるをば、何處《イヅク》にても如此《カク》訓《ヨ》めとなり、

〇次《ツギニ》、都藝《ツギ》は、都具《ツグ》といふ用語の、體語になれるなり、【凡て言に體用の別あり、體とは動かぬをいふ、用とは活《ハタラ》くを云(フ)、其(ノ)體語に、本より體なると、用の體になれるとあり、いと上(ツ)代には、用語多くて、體語すくなかりしを、世々に人の言語の多くなりもてゆくまゝに、用語の分れて、體語にもなれるがいと多きなり、】都具《ツグ》は都豆久《ツヅク》ともと同言なれば、都藝《ツギ》も都豆伎《ツヅキ》と云に同じ、さて其《ソレ》に縱横《タテヨコ》の別《ワキ》あり、縱《タテ》は、假令《タトヘ》ば父の後《ノチ》を子の嗣《ツグ》たぐひなり、横は、兄《セ》の次《ツギ》に弟《オト》の生るゝ類(ヒ)なり、記中に次《ツギニ》とあるは、皆此(ノ)横の意なり、されば今|此《ココ》なるを始めて、下に次(ニ)妹伊邪那美(ノ)神とある次《ツギニ》まで、皆同時にして、指續《サシツヅ》き次第《ツギツギ》に成(リ)坐ること、兄弟の次序《ツイデ》の如し、【父子の次第《ツイデ》の如く、前《サキノ》神の御世|過《スギ》て、次に後(ノ)神とつゞくには非ず、おもひまがふること勿《ナカ》れ、】

〇高御産巣日《タカミムスビノ》神、神産巣日《カミムスビノ》神、高御産巣日(ノ)神は、書紀に、高皇産靈尊、皇産靈此(ヲ)云2美武須毘《ミムスビト》1、古語拾遺に、古語|多賀美武須比《タカミムスビ》、新撰姓氏録に、高彌牟須比《タカミムスビノ》命、などあるを以て訓《ヨミ》を知(ル)べし、【タカンスビなど唱るは、音便に頽《クヅ》れたる後(ノ)世の訛りなり、】御名義《ミナノココロ》、高《タカ》は美稱《タタヘコト》なるべし、別御名《コトミナ》をも高木《タカギノ》神と申せり、【下に見ゆ、】御《ミ》も美稱《タタヘコト》なり、所産巣日(ノ)神は、書紀には神皇産靈《カムミムスビノ》尊とありて、皇《ミ》てふ一言《ヒトコト》多し、まことに高御産巣日《タカミムスビ》と並《ナラ》びたる御名なれば、此《コレ》も必|神御《カミミ》ととあるべきことなり、然るに延喜式出雲(ノ)國(ノ)造(ガ)神賀(ノ)辭にも高御魂神魂《タカミムスビノ》命、また祈年祭(ノ)詞にも神魂高御魂《カミムスビタカミムスビ》、また御巫(ノ)祭(ル)神八座の中なるも、神産日《カミムスピノ》神|高御産日《タカミムスビノ》神【三代實録二卷に出たるも是(レ)に同じ、】とある、此等《コレラ》に此(ノ)二柱を並(ベ)擧(ゲ)たるに、何《イヅ》れも神魂《カミムスビ》の方には御《ミノ》字無し、姓氏録にはあまた處に出たる中に、神御魂《カムミムスピ》ともあれども、多くは神魂《カミムスビ》とあり、故(レ)考るに、凡て古言に同音《オナジコヱ》の二つ重《カサ》なるをば、約《ツヅ》めて一つに云(フ)例|此彼《コレカレ》とあれば、【倭迹々日《ヤマトトトビ》てふ皇女の御名を、夜麻登々《ヤマトト》ともあり、又|旅人《タビビト》を多毘登《タビト》とある類なり、】これも神御《カミミ》と美《ミ》の重《カサ》なる故に、多く約《ツヅ》めて申しならへるなり、されば神《カミ》の微《ミ》に御《ミ》は具《ソナハ》れり、神(ノ)字|迦微《カミ》と訓べし、【迦微美《カミミ》を切《ツヅ》めても、迦牟美《カムミ》を切《ツヅ》めても、共に迦微《カミ》となればなり、迦牟《カム》と訓(ミ)ては、御《ミ》てふ言|具《ソナハ》らず、但し書紀などの如く、神皇とあるは、神を迦牟《カム》《カム》と訓べきなり、又神皇神御ともに、二字を迦微《カミ》と訓(ム)も可《ヨ》けむ、】御名義《ミナノココロ》、神御《カミ》は高御《タカミ》と並びたる稱辭《タタヘコト》なり、産巣日《ムスビ》は、字は皆|借字《カリモジ》にて、産巣《ムス》は生《ムス》なり、其《ソ》は男子《ムスコ》女子《ムスメ》、又|苔《コケ》の牟須《ムス》【萬葉に草武佐受《クサムサズ》などもあり、】など云|牟須《ムス》にて、物の成出《ナリイヅ》るを云(フ)、【されば産(ノ)字は正字と見ても可《ヨ》し、書紀にも産靈《ムスビ》と書《カカ》れ、又|産日《ムスビ》とも書ることあればなり、さて牟《ム》に此字を書(ク)は、宇牟《ウム》てふ言なり、仁徳天皇の大御歌に、子産《コウム》を古牟《コム》とよませたまへり、さて又|産巣《ムス》を生《ムス》の意とはせずして、産(ム)を生《ウム》の意とし、巣日《スピ》を連《ツヅ》けて見べきかと思ふ由もあり、其(ノ)考(ヘ)は七之卷五十七葉に出せり、】日《ビ》は、書紀に産靈《ムスビ》と書《カカ》れたる、靈(ノ)字よく當れり、凡て物の靈異《クシビ》なるを比《ヒ》と云、【久志毘《クシビ》の毘《ビ》も是(レ)なり、】高天(ノ)原に坐(シ)々(ス)天照大御神を、此(ノ)地《クニ》より瞻望《ミサケ》奉りて、日《ヒ》と申すも、天地(ノ)間に比類《タグヒ》もなく、最《モトモ》靈異《クシビ》に坐(ス)が故の御名なり、比古《ヒコ》比賣《ヒメ》などの比《ヒ》も、靈異《クシビ》なるよしの美稱《タタヘナ》なり、又|禍津日《マガツビ》直毘《ナホビ》などの毘《ビ》も此(ノ)意なり、されば産靈《ムスビ》とは、凡て物を生成《ナ》すことの靈異《クシビ》なる神靈《ミタマ》を申すなり、【さきに此(ノ)毘《ビ》を、神佐備《カムサビ》荒備《アラビ》などの備《ビ》と同くて、夫流《ブル》とも活用《ハタラキ》て、米久《メク》と云に似たり、されば牟須毘《ムスビ》とは、生《ムサ》むとする状《サマ》を云なり、と思へりしは非ず、彼(ノ)夫流《ブル》と活用《ハタラ》く備《ビ》とは異なり、故(レ)假字も彼(レ)は備を書き、此(レ)は皆毘を書り、】此(ノ)外に、火産靈《ホムスビ》、和久産巣日《ワクムスビ》、玉留産日《タマツメムスビ》、生産日《イクムスビ》、足産日《タルムスピ》、角凝魂《ツヌコリムスビ》など申す御名もあり、牟須毘《ムスビ》の意皆同じ、さて世間《ヨノナカ》に有(リ)とあることは、此(ノ)天地を始めて、萬(ヅ)の物も事業《コト》も悉《コトゴト》に皆、此(ノ)二柱の産巣日《ムスビノ》大御神の産靈《ムスビ》に資《ヨリ》て成(リ)出る」ものなり、【いで其事の、顯《アラハ》れて物に見えたる跡を以て、一つ二ついはば、まづ伊邪那岐(ノ)神伊邪那美(ノ)神の、國土《クニツチ》萬(ノ)物をも、神|等《タチ》をも生成《ウミナシ》賜へる其初(メ)は、天(ツ)神の詔命《オホミコト》に由《ヨ》れる、其(ノ)天(ツ)神と申すは、此《ココ》に見えたる五柱の神たちなり、又天照大御神の、天(ノ)石屋に刺隠《サシコモリ》坐(シ)し時も、御孫《ミマノ》命の天降坐むとするによりて、此國|平《ムケ》つべき神を遣《ツカハ》す時も、其事|思慮《オモヒハカリ》給ひし思金(ノ)神は、此(ノ)神の御子なり、又此(ノ)國を造固《ツクリカタ》め給ひし少名毘古那(ノ)神も、此(ノ)神の御子なり、又忍穗耳(ノ)命の御合《ミアヒ》坐て、御孫《ミマノ》命を生《ウミ》奉(リ)給ひし豊秋津師比賣(ノ)命も、此(ノ)神の御女なり、又此(ノ)國の荒《アラ》ぶる神等を言向《コトムケ》しも、御孫(ノ)命の天降坐(シ)しも、皆此(ノ)神の詔命《オホミコト》に由《ヨ》れり、大かた是(レ)らを以て、世に諸の物頼《モノ》も事業《コト》も成《ナ》るは、みな此(ノ)神の産靈《ムスビ》の御徳《ミメグミ》なることを考へ知べし、凡て世間《ヨノナカ》にある事の趣は、神代にありし跡を以て考へ知べきなり、古(ヘ)より今に至るまで、世(ノ)中の善惡《ヨキアシ》き、移《ウツ》りもて來《コ》しさまなどを驗《ココロ》むるに、みな神代の趣に違《タガ》へることなし、今ゆくさき萬代までも、思ひはかりつべし、さて又右に擧たる事どもを、なほよく考るに、天照大御神に此(ノ)神相並(ビ)坐て大御詔《オホミコト》仰《オホ》せて、事ども成り、大穴牟遲(ノ)命に少名毘古那(ノ)神相並(ビ)坐て、國成り、忍穗耳(ノ)命に豐秋津師日女(ノ)命相|配《タグヒ》坐て、御孫(ノ)命|生坐《アレマセ》り、是(レ)ら何《イヅ》れも相並(ビ)坐(ス)神有(リ)て、此(ノ)神の産靈《ムスビ》の御功《ミイサヲ》の成れることの同じさまなるも、深き理(リ)あることなるべし、又書紀に此(ノ)神の御兒千五百座《ミコチイホクラ》ありつとある、千五百《チイホ》は、たゞ數の限りなく多きを云例なれば、あらゆる神たちを、皆此所の御兒《ミコ》なりと云むも違はず、神も人もみな此神の産靈《ムスビ》より成《ナリ》出(ヅ)ればなり、拾遺集の歌に、君見ればむすぶの神ぞ恨めしき、つれなき人を何《ナニ》造《ツク》りけむとよめるは、そのころまではなほ、世(ノ)人も古(ヘノ)意をよく知れりしなり、狹衣(ノ)物語に、いとかくしも造《ツク》りおききこえさせけむむすぶの神さへ恨めしければといへるは、彼(ノ)拾遺集(ノ)歌に依ていへるなり、】されば世に神はしも多《サハ》に坐(セ)ども、此(ノ)神は殊に尊《タフト》く坐々(シ)て、産靈《ムスビ》の御徳《ミメグミ》申すも更《サラ》なれば、有(ル)が中にも仰ぎ奉るべく、崇《イツ》き奉るべき神になむ坐ける、【然るを書紀の初《ハジメ》に、此(ノ)神をしも擧《アゲ》られざるは、甚《イタ》く事|足《タラ》はぬさまなり、一書は一書にて、本書とは別《コト》ことなるに、本書には、末に至(リ)てゆくりなく出(デ)給へるも、いかにぞや聞ゆ、此(ノ)神は、餘神《アダシカミ》のつらに然《シカ》ゆくりなく擧《アゲ》奉るべき神には坐(サ)ねば、必此記の如く、初(メ)に擧《アゲ》奉りおかるべきことなりかし、又代々の物知(リ)人たちも、たゞ國(ノ)常立(ノ)神をのみ、上《ウヘ》なき神のごと、言痛《コチタキ》まで言擧《イヒアゲ》て、此(ノ)産靈日(ノ)神の御徳《ミカゲ》をば、さしもさだせざるは、たゞ書紀をのみ據《ヨリドコロ》として、此記などをよくも見ず、ことの意を深く考へざる失《アヤマチ》なり、上(ツ)代より此(ノ)神をこそ、朝廷にも殊に崇祠《イツキマツ》り給へ、彼國(ノ)常立(ノ)神は、ことに祭り給ひし事も聞えず、諸國《クニグニ》の神社どもの中にも、をさ/\見えたまへることなきをや、】さて此(ノ)大御神は、如此《カク》二柱坐(ス)を、記中に其(ノ)御事を記せるには、二柱並(ビ)出(デ)給へる處はなくして、或(ル)時は高御産巣日(ノ)神、或(ル)時は神産巣日御祖(ノ)命、とかた/”\一柱のみ出給へる、其(ノ)御名は異《カハ》れども、唯《タダ》同(ジ)神の如《ゴト》聞えたり、抑かく二柱にして一柱の如く、一柱かと思へば二柱にして、其(ノ)差《ケヂメ》の髣髴《オホホ》しきは、いと深き所以《ユヱ》あることにぞあるべき、さて古語拾遺などには、高御産巣日神を神魯伎《カムロギノ》命、神産巣日(ノ)神を神魯美《カムロミノ》命とせり、又和名抄には、産靈と標《アゲ》て、无須比乃加美《ムスビノカミ》とあり、【或書に此(ノ)二柱の産巣日(ノ)神を、天之御中主(ノ)神の御子とするは、例のおしあての漫言《ミダリゴト》なり、】書紀神武(ノ)御卷に、天皇|大御身《オホミミ》づから顯齋《ウツシイハヒ》して、高皇産靈(ノ)尊を祭り賜ひ、又|鳥見《トミノ》山中に祭庭《マツリニハ》を構《カマヘ》て、皇祖《ミオヤ》天(ツ)神を祭り賜ひしこと見えたり、神名帳に、神祇官(ニ)坐(ス)御巫(ノ)祭(ル)神八座【並大、月次新嘗、】の首《ハジメ》に、神産日《カミムスビノ》神|高御産日《タカミムスビノ》神とあり、此(ノ)八座の神|等《タチ》を祭(リ)給ふことは、神倭伊波禮毘古《カムヤマトイハレビコノ》天皇の御世より始まりつる事、古語拾遺に見ゆ、此(ノ)餘《ホカ》にも此(ノ)神を祭れる社は、神名帳に、山城(ノ)國乙訓(ノ)郡|羽束師《ハヅカシニ》坐(ス)高御産日(ノ)神(ノ)社、【大、月次新嘗、】大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡|宇奈太理《ウナタリニ》坐(ス)高御魂(ノ)神社、【大、月次相嘗新嘗、持統紀に、新羅(ノ)調《ミツギモノ》を奉りたまへる五社の中に、菟名足《ウナタリ》とあるは、此社なり、又三代實録に、法華寺(ノ)薦枕高御産栖日《コモマクラタカミムスビノ》神とありて、正三位また從二位を授奉りたまひしも、此社なり、】十市(ノ)郡目原(ニ)坐(ス)高御魂(ノ)神(ノ)社二座、【並大、月次新嘗、】對馬下縣(ノ)郡高御魂(ノ)神社、【名神大、書紀(ノ)顯宗(ノ)卷(ノ)十五葉考(ヘ)合すべし、】山城國(ノ)風土記に、久世(ノ)郡水渡(ノ)社、名(ク)2天照高|彌牟須比《ミムスビノ》命、和多都彌豐玉比賣(ノ)命(ト)1、【神名式に水度(ノ)神社三座とあり、】三代實録【十二】に、大和(ノ)國神皇産靈(ノ)神など見えたり、

〇三柱《ミバシラ》、凡て古(ヘ)は、神をも人をも數《カゾ》へては、幾柱《イクハシラ》と云り、神は本よりのことにて、皇子等《ミコタチ》などをも然《シカ》云る、記中|常《ツネ》のことなり、やゝ後には、三代實録【十一】清和天皇の大命に、太政大臣一柱と詔《ノリタマ》ひ、うつほの物語【藤原(ノ)君(ノ)卷】に、大將なる人の女等《ムスメタチ》の事を云に、今《イマ》一柱《ヒトハシラ》はと云り、皆|貴人《タカキヒト》のうへのことなり、【書紀に、佛像一躯二躯などあるをも、一《ヒト》はしら二《フタ》はしらと訓(メ)り、おちくぼの物語にも、佛一はしら、佛九はしらなどあり、又文粹前中書王の文に、白檀(ノ)觀世音菩薩一柱とあり、漢文にはめづらし、さて又稱徳紀の宣命には、二所乃天皇《フタトコロノスメラミコト》とあり、中昔の歌物語などにも、貴人をばみな幾所《イクトコロ》と云り、今(ノ)世の俗言《サトビゴト》に、御一方《オヒトカタ》御二方《オフタカタ》と云が如し、】さてかく柱《ハシラ》としも云|所以《ユヱ》は、詳《サダカ》ならねど、まづ上(ツ)代には、宮造《ミヤツク》ることを云に、底津石根に宮柱|布刀斯理《フトシリ》と稱《タタ》へ、或は柱は高太《タカクフト》くなどもいひ、大殿祭(ノ)詞などにも、柱の事をのみ旨《ムネ》といひ、又書紀の袁祁御子《ヲケノミコ》の室壽《ムロホギ》の御詞にも、築立柱者此家長御心之鎭《ツキタツルハシラハコノイヘキミノミココロノシヅマリ》也と先(ヅ)詔ひ、其外神代の始(メ)に、女男《メヲノ》大神天之御柱を行廻《ユキメグ》り坐(シ)しを始(メ)て、柱を云ること多く、後には神(ノ)宮に心(ノ)御柱など云こともあり、かくて其(ノ)柱は、あまた並立《ナミタテ》る物なるが故に、もと皇子《ミコ》たちなどを、數多立並《アマタタチナラビ》坐(ス)を賀《ホギ》て、幾柱《イクハシラ》と譬《タト》へ申せしにやあらむ、賀譬《ホギタト》へし例は、萬葉二【卅丁】に、眞木柱太心者《マキバシラフトキココロハ》と、大《オホキ》にして不動心《ウゴカヌココロ》をたとへ、二十【二十一丁】に、麻気波之良《マケバシラ》、寶米弖豆久禮留等乃能其等《マケバシラホメテツクレルトノノゴト》、已麻勢浪々刀自《イマセハハトジ》、於米加波利勢受《オメカハリセズ》などあり、又あまた立並《タチナラ》ぶを木に譬へたるは、同廿【二十八丁】に、麻都能気乃《マツノケノ》、奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》、伊波妣等乃《イハビトノ》、和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》、多々理之母己呂《タタリシモコロ》【松(ノ)樹の並《ナラビ》たるを見れば、家人の我を見送るとて立《タテ》りしが如し、と云ことなり、】とあり、【私記に、蓋(シ)古(ヘ)以(テ)2貴人(ヲ)1喩(ヘタリ)2於木(ニ)1、故(レ)爲2一柱一木(ト)1矣、以2賤一(ヲ)1喩2於草(ニ)1、故謂2青人草(ト)1也、といへる、此説はわろし、】

〇並は美那《ミナ》と訓べし、【字書に、皆也とも、偕也とも、併也とも、比也とも注せり、是(レ)を那艮毘爾《ナラビニ》と訓(ム)は、古(ヘ)の語《モノイヒ》ざまにあらず、】

〇獨神《ヒトリガミ》とは、次々の女男《メヲ》※〔耒+偶の旁〕《タグヒ》て成(リ)坐る神たちと別《ワカ》ちて、唯一柱づゝ成(リ)坐て、配坐《ナラビマス》神|無《ナ》きを申すなり、並《ナラブ》兄弟《ハラカラ》のなき子を、獨子《ヒトリゴ》と云が如し、【神の下に登《ト》てふ辭《テニヲハ》を添(ヘ)て讀《ヨム》はわろし、】

〇隱身也《ミミヲカタシタマヒキ》とは、御身《ミミ》の隱《カク》りて、所見顯《ミエアラハ》れ給はぬを云なり、【御形體《ミカタチ》の無きを如此《カク》言《イフ》と心得るは、後(ノ)世のなまさかしらなり、少名毘古那(ノ)神の事を、神産巣日(ノ)命の、自(リ)2我(ガ)手俣《タナマタ》1久伎斯子也《クキシミコナリ》、と詔へるを思ふべし、御身|無《ナ》くて、御手はあるべきかは、此(ノ)手俣《タナマタ》のこと、世人の心には、如何《イカニ》思ふらむ、凡て神代の故事《フルコト》を、假《カリ》の寓言《コトヨセゴト》の如く見るは、例の漢意《カラゴコロ》の癖《クセ》にして、甚《イタ》く古(ヘ)の傳への意に背《ソム》けり、】

〇上(ノ)件三柱(ノ)神は、如何《イカ》なる理《コトワリ》ありて、何《ナニ》の産靈《ムスビ》によりて成(リ)坐(セ)りと云こと、其(ノ)傳(ヘ)無《ナ》ければ知(リ)がたし、然《サ》るは甚《イト》も/\奇《クス》しく靈《アヤ》しく妙《タヘ》なることわりによりてぞ成(リ)坐(シ)けむ、されど其《ソ》はさらに心も詞も及ぶべきならねば、固《モトヨ》り傳(ヘ)のなきぞ諾なりける、【凡て古(ヘ)の傳(ヘ)なき事を、己が心以て其(ノ)理を考へて、おしあてに説《ト》くは、外國《トツクニ》のならひにて、いと妄《ミダリ》なるわざなり、】又此神たちは、天地よりも先《サキ》だちて成(リ)坐(シ)つれば、【天地の成ることは、此(ノ)次にあれば、此(ノ)神たちの成坐るは、其《ソレ》より前なること知べし、】たゞ虚空中《オホソラ》にそ成(リ)坐しけむを、【書紀一書に天地初判《アメツチノハジメノトキ》、一物在於虚中《オホソラニモノヒトツナレリ》、又一書に、天地初判《アメツチノハジメノトキ》、有物若葦芽生於空中《アシカビノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、などあるを以て准へ知べし、いまだ天も地も無き以前《マヘ》は、いづくも/\みなむなしき大虚空《オホソラ》なりき、〇虚空《ソラ》を即(チ)》天とするは、漢籍《カラブミ》のさだなり、天は虚空《ソラ》を謂(フ)に非ず、なほ天と虚空《ソラ》とは別《コト》なること、傳十七の廿七の葉にいへり、】於《ニ》2高天(ノ)原1成《ナリマス》としも云るは、後に天地成(リ)ては、其(ノ)成(リ)坐(セ)りし處《トコロ》、高天(ノ)原になりて、後まで其(ノ)高天(ノ)原に坐(シ)々(ス)神なるが故なり、【元來《モトヨリ》高天(ノ)原ありて、其處《ソコ》に成(リ)坐(ス)と云にはあらず、】書紀(ノ)一書(ニ)日(ク)、天地初判《アメツチノハジメノトキ》、始《ハジメヨリ》有2倶生之神《トモニナリマセルカミ》1云々、又曰、高天(ノ)原(ニ)所生神名《ニナリマセルカミノミナヲ》、曰2天御中主《アメ ミナカヌシノ》尊(ト)1、次(ニ)高皇産靈(ノ)尊、次(ニ)神皇産靈(ノ)尊、

 

次國稚如浮脂而《ツギニクニワカクウキアブラノゴトクニシテ》。久羅下那洲多陀用幣琉之時《クラゲナスタダヨヘルトキニ》。【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而成神名《アシカビノゴトモエアガルモノニヨリテナリマセルカミノミナハ》。宇麻志阿斯※〔言+可〕備比古遲神《ウマシアシカビヒコヂノカミ》。【此神名以音】次天之常立神《ツギニアメノトコタチノカミ》。【訓常云登許立云多知】此二柱神亦獨神成坐而《コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ》。隱身也《ミミヲカクシタマヒキ》。

 上件五柱神者別天神《カミノクダリイツバシラノカミハコトアマツカミ》。

 

次《ツギニ》は、下の成神《ナリマセルカミ》へ係《カカ》れり、【國稚《クニワカク》云々へ係て云には非ず、】次成神名國之常立《ツギニナリマセルカミノミナハクニノトコタチノ》神などあると同じ、其餘《ソノホカ》も前後《カミシモ》みな次《ツギニ》某《ソノ》神とある例なるを、此《ココ》は其(ノ)成(リ)坐る由縁《ユヱヨシ》より云(フ)故に、文《コトバ》の隔《ヘダタ》れるなり、

〇國稚《クニワカク》、稚は和※〔言+可〕久《ワカク》と訓べし、【書紀に、和※〔言+可〕《ワカ》にみな此字を用ひられたり、但し此(ノ)記には、凡て和※〔言+可〕には、若(ノ)字を用ひて、稚を書る例なければ、此《ココ》は和※〔言+可〕久には非じかとも思へど、他《ホカ》に訓べき言を未(ダ)思ひ得ず、書紀(ノ)一書に、國稚地稚之時とあるをば、クニイシツチイシノトキと訓るを、忌部(ノ)正通(ノ)口決に、宇比志《ウヒシ》なりと解《トキ》たり、宇比《ウヒ》を切《ツヅ》むれば伊《イ》となれば、然《サ》もあるべし、されどイシノトキと云ては、言の連《ツヅ》きざま協《トトノ》はず、凡てかゝる用言より之《ノ》とつゞくことは古(ヘ)無しと、師の云れしが如し、又|之《ノ》を省《ハブ》きて、イシトキと云ても、なほ協《トトノ》はず、若(シ)うひしてふ意ならば、國《クニ》イシク地《ツチ》イシキ時とぞ訓べき、されど此(ノ)言|他《ホカ》に見えず、又書紀にても、稚(ノ)字は和※〔言+可〕《ワカ》と云にのみ用ひて、異訓《アダシヨミ》は此外に見えず、かにかくに彼(ノ)訓はおほつかなくなむ、】和※〔言+可〕志《ワカシ》とは、凡て物の末(ダ)成りとゝのはざるを云て、書紀などに幼(ノ)字をも訓み、中昔の物語書などにも、人の幼稚《イトケナ》きを云ること多く、萬葉に三日月《ミカヅキ》を若月とも書き、【月の形のいまだ滿《ミチ》とゝのはざる意を以て、若てふ字をば書るなり、】推古紀には肝稚《キモワカシ》と云ことも見えたり、【文物の壯《サカリ》に美麗《ウルハシ》き方に云こともあり、美稱《タタヘコト》に若某《ワカナニ》と云類なり、此《コ》は未(ダ)成(リ)とゝのはぬを云とは、甚《イタ》く異なる如くなれども、本は一(ツ)意なり、】さて国土《クニツチ》は、伊邪那岐伊邪那美(ノ)大神の始めて生成《ウミナシ》賜へれば、此(ノ)時には未(ダ)然物《サルモノ》は無きを、如此《カク》言《イヘ》るは、成れる後の名を假《カリ》て、其(ノ)始(メ)の状《アリサマ》を談《カタ》れるなり、

〇浮脂は宇伎阿夫良《ウキアブラ》と訓べし、浮雲《ウキクモ》浮草《ウキクサ》など云類の稱《ナ》にて、物の脂《アブラ》の水に浮《ウカ》べるを、古(ヘ)に如此《カク》稱《カヒ》しなり、【ウカベルアブラと訓るはわろし、】脂は、和名抄に、【形體(ノ)部、肌肉類】脂膏(ハ)和名|阿布良《アブラ》、又【燈火具に】油(ハ)、四聲字苑(ニ)云、油(ハ)※〔しんにょう+乍〕(テ)v麻(ヲ)取(レル)脂(ナリト)也、和名|阿布良《アブラ》とあり、さて脂《アブラ》に譬《タト》へたる例は、朝倉(ノ)宮(ノ)段に、大御盞《オホミサカヅキ》に槻《ツキ》の葉の落浮《オチウカ》べるを、三重※〔女+采〕《ミヘノウネベ》が歌に、宇伎志阿夫良《ウキシアブラ》とよめり、【御盞なる御酒《ミキ》のうへに、木(ノ)葉の浮べりけむ形状《サマ》を以て、今|此《ココ》の状《アリサマ》を思ひ合すべし、】抑此(ノ)段《クダリ》は、天地の成《ナ》る初發《ハジメ》を云るにて、先(ヅ)其(ノ)初《ハジメ》に、此(ノ)物の一叢《ヒトムラ》生出《ナリイデ》たるなり、【此(レ)を如(シ)2浮脂(ノ)1と譬へたるは、たゞ其(ノ)漂蕩《タダヨ》へるありさまの似たるなり、其(ノ)物を脂の如くなる物と謂《イフ》には非ず、書紀の傳(ヘ)には、魚にも雲にも譬へたるにて知べし、一書には、其《ソノ》状貌《カタチ》難《ガタシ》v言《イヒ》ともある如く、正《マサ》しき其物の形は、言《イヒ》がたきなるべし、】

〇久羅下那洲《クラゲナス》は、多陀用幣琉《タダヨヘル》の枕詞なり、【こは如(クナル)2浮脂(ノ)1物の、漂蕩《タダヨ》へる状《サマ》を譬へて云る言には非ず、其《ソ》は既に如2浮脂1と云へればなり、若(シ)如(クナル)2浮脂(ノ)1物とあらば、浮脂は其(ノ)形を譬へ、久羅下《クラゲ》は其(ノ)漂蕩《タダヨ》へるさまを譬へたりとも云べけれど、然《サ》る文《コトバ》のさまにはあらず、】久羅下《クラゲ》は、和名抄に、崔禹錫(ガ)食經(ニ)云(ク)、海月一名水母、貌似(タリ)3月(ノ)在(ルニ)2海中(ニ)1、故(ニ)以(テ)名(クト)v之(ヲ)、和名|久良介《クラゲ》とあり、此(ノ)物海(ノ)中を漂蕩《タダヨ》ひ行《アリ》く物にて、其(ノ)形|晝《ヒル》晴《ハレ》たる天《ソラ》に月の白く見ゆるに甚《イト》よく似て、信《マコト》に海月と名けつべきさましたる物なりとぞ、那洲《ナス》は如《ゴト》くと云意にて、吾《ワガ》徒《トモ》稻掛(ノ)大平が、似《ニ》すなるべしと云る、さもあるべし、【那《ナ》と爾《ニ》とは通(フ)音なるうへに、那須《ナス》を能須《ノス》とも云る例あると、和名抄備中の郷(ノ)名に、近似(ハ)知加乃里《チカノリ》と見え、又似を漢籍にてノレリと訓(ム)などとを合せて思へば、似《ニ》すを那須《ナス》と云(ヒ)つべきものぞ、】此(ノ)辭、倭建(ノ)命の御言に、吾足《アガアシ》成《ナセリ》2當藝斯形《タギシノカタチ》1と詔ひ、輕太子《カルノミコノミコト》の御歌に、加賀美那須阿賀母布都麻《カガミナスアガモフツマ》と見え、萬葉には三【五十九丁】に、五月蠅成驟騷舍人《サバヘナスサワグトネリ》、五【三十八丁】に、五月蠅奈周佐和久兒等《サバヘナスサワグコドモ》、二【三十五丁】に、鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》、三【五十四丁】に、哭兒成慕來座而《ナクコナスシタヒキマシテ》などあり、猶多し、又歌ならぬたゞの詞に、枕詞を置る例は、書紀(ノ)神代(ノ)卷に、眞髪觸奇稻田媛《マガミフルクシナダヒメ》、神功(ノ)卷に、幡荻穗出吾《ハタススキホニデシアレ》也、又|天疎向津媛《アマザカルムカツヒメノ》命、履中(ノ)卷に、鳥往來羽田之汝妹《トリカヨフハダノナニモ》、三代實録に、薦枕高御産巣日《コモマクラタカミムスビノ》神など、古(ヘ)は多かり、

〇多陀用幣琉《タダヨヘル》は、書紀に漂蕩とある、此(ノ)字の如し、【書紀には久羅下那洲《クラゲナス》と云ことを略《ハブ》かれたり、是《コレ》にても枕詞なることを知(ル)べし、私記に、此(ノ)漂蕩(ノ)二字を、クラゲナスタヾヨヘリと訓べき由のさだあり、上宮記大倭本紀など云古書にも、此(ノ)クラゲナスと云言ありと云り、】萬葉にも此(ノ)字を書(ケ)り、琉(ノ)下なる之(ノ)字讀(ム)べからず、【よむはひがことなり、】さて此(ノ)物の如此《カク》漂《タダヨ》ひたるは、如何《イカ》なる處《トコロ》にかと云に、虚空中《オホソラ》なり、次に引る如く書紀に、虚中とも空中ともあるを見て知(ル)べし、【然るを如(ク)2浮脂(ノ)1といひ、久羅下那洲などもあるに就《ツキ》て、此(ノ)物海(ノ)上に漂《タダヨ》へりと心得むは、いたく非《ヒガコト》なり、此《ココ》は未(ダ)天地成らざる時にて、海も無ければ、ただ虚空《オホソラ》に漂《タダヨ》へるなり、かくて海になるべき物も、此(ノ)漂《タダヨ》へる物の中に具《ソナハ》れるぞかし、】書紀に、開闢之初《アメツチノハジメノトキ》、洲壤浮漂《クニツチタグヨヒテ》、譬3猶《ゴトクナリキ》游魚之《ウヲノ》浮《ウケルガ》2水上《ミヅニ》1也云々、一書曰、天地初判《アメツチノハジメノトキ》、一2物在《ヒトツノモノナレリ》於|虚中《オホソラニ》1、状貌《ソノカタチ》難《ガタシ》v言《イヒ》云々、一書曰、古(ヘ)國稚地稚之時《クニワカクツチワカカリシトキ》、譬2猶《ゴトクニシテ》浮膏《ウキアブラノ》1而|漂蕩《タダヨヘリ》云々、一書曰、天地未生之時《アメツチイマダナラザリシトキニ》、譬3猶《ゴトクナリキ》海上浮雲《ウナハラナルウキクモノ》無《ナキガ》2所根係《カカルトコロ》1云々とある、此等《コレラ》と引合せて、其時の形状《アリカタ》をこまかに辨へ知(ル)べし、【開闢之初、また天地初判などあるは、此(ノ)記の首《ハジメ》に、天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》とあると同じくて、先(ヅ)たゞ大らかに、此(ノ)世の初(メ)と云(ヒ)出たるものなり、天地未生之時と云るは、いさゝかくはしく云るなり、さて洲壤云々は、此(ノ)記の國稚《クニワカク》にあたり猶游魚云々、また状貌難言、また猶海上浮雲云々などは、如(ク)2浮脂(ノ)1と云(フ)にあたれり、されば傳々《ツタヘツタヘ》各いさゝか異なるが如くなれども、よく考ふれば、其(ノ)形状《アリサマ》は皆同じことなり、】さて此(ノ)浮脂《ウキアブラ》の如く漂蕩《タダヨ》へりし物は、何物《ナニモノ》ぞと云に、是(レ)即(チ)天地《アメツチ》に成るべき物にして、其(ノ)天に成(ル)べき物と、地に成べき物と、未(ダ)分れず、一(ツ)に淆《マジ》りて沌《ムラ》かれたるなり、書紀(ノ)一書に、天地混成《アメツチムラカレナル》之|時《トキ》とある是(レ)なり、【混とは、未(ダ)分れずして、淆《マジ》りて一沌《ヒトムラ》なることにて、即(チ)此(ノ)浮脂の如くなる物の、始めて生出《ナリイデ》たるを、混成《マロカレナル》とは云るなり、或人問(ヒ)けらく、天に成(ル)べき物と云こと心得ず、天は實形《カタチ》なければ、其(ノ)初(メ)より物あるべくもあらず、いかゞ、答ふ、天は即(チ)高天(ノ)原なれば、實形《カタチ》あること云(フ)もさらなり、仰《アフ》ぎ望て見えざるは、たゞ遠《トホ》き故に、眼《メ》の力《チカラ》の及ばざるにこそあれ、然るを天はたゞ氣のみと云ひ、或は理のうへを以て云(フ)などは、みな外國のおしはかりの説にして、甚《イタ》く古(ヘノ)傳(ヘ)の趣に違《ダガ》へり、又問(フ)、然らば其(ノ)未(ダ)分れざりしほど、天となるべき物は何物なりしぞ、答(フ)、天になるべき物は如何《イカ》なる物なりけむ、傳説《ツタヘゴト》なければ知(リ)がたし、又問(フ)、地となるべき物は何物なりしぞ、答(フ)、潮《ウシホ》に※〔泥/土〕《ヒヂ》の淆《マジ》りて濁れる物なりき、此《コ》は下に、女男《メヲノ》大神指(シ)2下(シ)沼矛(ヲ)1以(テ)畫者《カキタマヘバ》、鹽許々袁々呂々邇《シホコヲロコヲロニ》云々と見え、書紀にも、以2天之瓊矛(ヲ)1指下而探之、是獲滄溟、とあるを以て知(ル)べし、猶委き事は彼(ノ)御段《ミクダリ》に云べし、】

〇註に、以音とあるは、其(ノ)字の意をば取らず、唯《タダ》音のみを借(リ)用(フ)るをいふ、即(チ)假字《カナ》なり、以は用の意なり、母知布《モチフ》と訓べし、記中なる皆同じ、

〇如《ゴト》2葦牙《アシカビノ》1、葦は、和名抄に、蘆葦、兼名苑(ニ)云、葭一名葦、爾雅注(ニ)云、一名蘆(ト)、和名|阿之《アシ》と見ゆ、葦牙は阿斯※〔言+可〕備《アシカビ》と訓べし、【書紀にも然訓り、但し備《ビ》を清《スミ》て、伊《イ》の如く讀(ム)はわろし、又|※〔言+可〕《カ》を濁るもわろし、成(リ)坐る神(ノ)御名の※〔言+可〕備《カビ》にて清(ミ)濁(リ)炳焉《イチジル》し、】葦のかつ/”\生初《オヒソメ》たるを云(フ)名なり、牙(ノ)字は芽と通へり、和名抄に、玉篇(ニ)云、※〔草がんむり/亂〕※〔草がんむり/炎〕(ナリ)也、※〔草がんむり/炎〕(ハ)蘆(ノ)之初(メテ)生(タルナリト)也、和名|阿之豆乃《アシヅノ》とある、【葦の初生《オヒソム》るを角具牟《ツノグム》と云故に、葦角《アシヅノ》とも云なり、】是(レ)葦牙《アシカビ》なり、さて如《ゴト》とは、此《コレ》は其(ノ)物の形の葦牙に似たるなり、只|萌騰《モエアガ》るさまの似たるのみには非ず、【故(レ)書紀にも、形如(シ)2葦牙(ノ)1とも、有v物若(シ)2葦牙(ノ)1ともあり、彼(ノ)浮脂《ウキアブラ》の、唯《タダ》に漂蕩《タダヨ》へる状《サマ》のみを譬へたるとは、いさゝか異《コト》なり、】此《コレ》に因《ヨリ》て成坐る神の御名にしも負《オホ》せ奉(リ)しを以て、其(ノ)いとよく似たりけむほどを知(ル)べし、

〇萌騰之物は、母延阿賀流母能《モエアガルモノ》と訓べし、【之(ノ)字讀(ム)べからず】萬葉十【八丁】に春楊者目生來鴨《ハルノヤナギハモエニケルカモ》、又|此河楊波毛延爾家留可聞《コノカハヤギハモエニケルカモ》などよめり、【木草の莖又葉の、はつかに出(デ)初(メ)たるを、芽《メ》と云も、母延《モエ》の約《ツヅ》まりたる名なるべし、又|米具牟《メグム》も、母延具牟《モエグム》なるべし、】阿賀流《アガル》てふ言は、書紀(ノ)神武(ノ)卷に、一柱騰宮、此(ヲ)云2阿斯毘苔徒鞅餓離能宮《アシヒトツアガリノミヤト》1などあり、物は天《アメ》と成(ル)べき物なり、さて此(ノ)物は、何處《イヅレノトコロ》より萌騰《モエアガ》りしぞと云に、彼(ノ)虚空中《オホゾラ》に漂蕩《タダヨ》へる浮脂の如くなる物の中より出《イデ》たるなり、彼(ノ)書紀《(ノ)一書に、一2物在《ヒトツノモノナレリ》於|虚中《オホソラニ》1、状貌《ソノカタチ》難(シ)v言(ヒ)、其(ノ)中《ナカニ》自《オノヅカラ》有(リ)2化生《ナレル》之|神《カミ》1云々、【其(ノ)中とあるを思ふべし、】一書に、于時《トキニ》國中《クニノナカニ》生《ナレリ》v物《モノ》、状《ソノカタチ》如(シ)2葦牙之抽出《アシカビノモエイヅルガ》1也、因《ヨリテ》v此《コレニ》有《アリ》2化生《マリマセル》之|神《カミ》1、號《マヲス》2可美葦牙彦舅《ウマシアシカビヒコヂノ》尊(ト)1云々、【國(ノ)中とは、すなはち猶2浮膏《ウキアブラノ》1而|漂蕩《タダヨヘリ》と云物の中なり、】一書に、譬2猶《ゴトクナリキ》海上浮雲《ウナハラナルウキクモノ》《ナキガ》1v所《トコロ》2根係《カカル》1、其中《ソノナカニ》《ナレリ》2一物《モノ》1、如(シ)3葦牙(ノ)之初生《モエソメタルガ》※〔泥/土〕中《ヒヂノナカヨリ》1也、などあるを以(テ)(ル)べし、さて此《コ》は天《アメ》の始《ハジメ》にて、如此《カク》萌騰《モエアガ》りて終《ツヒ》に天とは成れるなり、【是(レ)に就《ツキ》て思ふに、阿米《アメ》てふ名は、葦萌《アシモエ》の切《ツヅ》まりたるにて、斯《シ》の省《ハブ》かりたるにやあらむ、葦はたゞ譬(ヘ)に云る物なれども成(リ)坐る神の御名にも負《オヒ》たまへればなり、又|吾《ワガ》友《トモ》横井(ノ)千秋云く、阿米《アメ》とは、青所見《アヲミエ》の袁《ヲ》を省き、美延《ミエ》を約めたるならむか、其《ソ》は此(ノ)国土《クニ》よりは、たゞ蒼々《アヲアヲ》と見ゆる、其(ノ)隨《ママ》を以て名けたるなるべし、古(ヘ)より此間《ココ》にも他國《アダシクニ》にも、天をば蒼《アヲ》き物に云ること多し、又|阿袁《アヲ》と云(フ)色の名も、本|天《アメ》より出たるにやあらむと云り、此(ノ)考(ヘ)も然ることなり、】抑彼(ノ)浮脂《ウキアブラ》の如くなる物は、天と地と未(ダ)分れずして、たゞ先(ヅ)一沌《ヒトマロカレ》に成れるにて、其(ノ)中に天となるべき物は、今萌騰りて天となり、地となるべき物は、遺《ノコ》り留《トドマ》りて、後に地となれるなれば、【地の成るは、女男《メヲノ》大神の段《ミクダリ》なり、】是(レ)正《マサ》しく天地の分れたるなり、書紀(ノ)一書に、有物若葦牙生於空中《アシカビノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因《ヨリテ》v此《コレニ》化神號《ナリマセルカミノミナハ》天(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)可美葦牙彦舅(ノ)尊、又有物若浮脂生於空中《マタウキアブラノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因《ヨリテ》v此《コレニ》化神號《ナリマセルカミノミナハ》國(ノ)常立(ノ)尊とある、此《コレ》に葦牙の如くなる物に因《ヨリ》て成(リ)坐る神は天(ノ)常立、浮膏《ウキアブラ》の如くなる物に因て成(リ)坐る神は國(ノ)常立と申すを以て、天地《アメツチ》と分れたることを知(ル)べし、【但し此《コレ》には、浮膏の如くなる物と、葦牙の如くなる物と、本より別《コト》に生《ナ》れるさまに云るは、いさゝか異《コト》なる傳(ヘ)なり、されど天と地との分れたることは、此(ノ)傳(ヘ)にて殊に著明《シル》く聞えたり、或人問(ヒ)けらく、此一書はまことに天と地との初《ハジメ》分明《ワキワキ》しきを、彼(ノ)浮脂の如くなる物一(ツ)を以て、天地の初《ハジメ》とするは、いさゝか疑《ウタガ》はし、もし彼(ノ)物天地の初《ハジメ》を兼有《カネ》たらむには、首《ハジメ》に天地稚《アメツチワカク》などこそあるべきに、天をは云(ハ)ずして、たゞ國《クニ》稚《ワカク》とあれば、彼(ノ)物はたゞ地になるべき物にして、天になる葦牙の如くなる物は、此(ノ)一書の如く、本より別《コト》に生《ナリ》しにやあらむ、いかゞ、答(フ)、此(ノ)疑ひ一わたりはさることなれども、上に引る如く、書紀の傳どもにも、多くは葦牙の如くなる物は、浮脂の如くなる物の中より生《ナ》ると見え、此(ノ)記もさだかに然《サ》は云(ハ)ざれども、彼(ノ)物の中より萌上《モエアガ》りたるさまに聞ゆれば、なほ初《ハジメ》には、天になるべき物をも、共に浮脂の如くなる物の中に包有《フフミモタ》りしなり、然るに天をば云(ハ)ずして、たゞ國《クニ》稚《ワカク》と云るは、凡て何事も、此(ノ)國土《クニ》にして語り傳へたるものなれば、國を主として云るなり、書紀の傳々《ツタヘツタヘ》に、初(メノ)天(ツ)神五柱をば略きて、唯國之常立(ノ)神よりを始(メ)としたるも、此(ノ)意《ココロ》ばへにて、國土を主としたるなり、又天となる物は上《ノボ》り去(リ)て、たゞ地となるべき物のみ、本のまゝにのこり留《トド》まりて、地と成れる、後より見れは、上《ノボ》り去(リ)ぬる物は客の如くにて、のこりとゞまれる物ぞ主の如くなれば、其(ノ)初(メ)よりを專《モハラ》地の方に取(リ)て、國と云むことさもあるべし、故(レ)彼(ノ)一書に、本より二方に分(ケ)云るにも.如(クナル)2浮膏(ノ)1物をば、地の方に取れるぞかし、】然るを此《コレ》ぞ天《アメ》の初《ハジ》め、此《コレ》ぞ地《ツチ》の始《ハジ》めなど、きはやかにさかしくは言《イハ》ずして、只其(ノ)時神の成(リ)坐る由縁《ユヱヨシ》につけて、如此《カク》なだらかに語《カタ》り傳へたるは、まことにのどやかなる上(ツ)代の傳説《ツタヘゴト》にて、いともいとも貴《タフト》くなむありける、【然るを書紀の首《ハジメ》に、古天地未v剖、陰陽不v分云々、清陽老薄靡而爲v天、重濁者掩滯而爲v地云々、天先成而地後定とあるは、漢籍《カラブミ》の文《コトパ》を取て、かざりに書(キ)加へ賜へる者にして、いと/\さかしだちうるさし、かゝる類の漢籍《カラブミ》の説は、みな後(ノ)人の臆度《オシハカリ》の妄説《ミダリゴト》にして、古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》けること、初(メノ)卷に委く論へるがごとし、ゆめ/\惑《マド》ふことなかれ、】さてかく浮脂の如くなる物の生初《ナリハジ》めしも、其《ソレ》が分れて天地と成れるも、又此(ノ)次々の神等《カミタチ》の成(リ)坐るも、悉《コトゴト》に皆二柱の産巣日《ムスビノ》大神の産 アガ、・、オヤクカ ミ ムス

靈《ムスビ》によらずと云ことなし、書紀(ノ)顯宗(ノ)卷に、三年春二月、阿閇《アヘノ》臣|事代《コトシロ》使《ツカハサレシトキ》2于|任那《ミマナニ》1、月(ノ)神|着《カカリテ》v人(ニ)謂曰《ノリタマハク》、我祖高皇産靈《アガミオヤタカミムスビ》、有《アリ》d預2熔造《アヒツクリマシシ》天地《アメツチヲ》1之|功《ミイサヲ》u、宜《ベシ》d以《ヲ》2民地1奉《タテマツル》u、我《アレハ》月(ノ)神(ナリ)、若《モシ》依《ママニ》v請《コハシノ》獻《タテマツラバ》、我常福慶《アレサキハヘテムトノリタマヒキ》、事代由(テ)v是(レニ)還v京(ニ)具奏《ツブサニマヲシキ》、奉(リタマヒテ)v以《ヲ》2歌荒樔田《ウタノアラスノタ》1、【歌荒樔田在(リ)2山背(ノ)國葛野(ノ)郡(ニ)1、】壹伎《イキノ》縣主(ノ)先祖《オヤ》押見《オシミノ》宿禰(ヲシテ)侍祠《イツキマツラシメキ》云々、夏四月、日(ノ)神|着《カカリテ》v人(ニ)謂《ノリタマハク》2阿閇(ノ)臣事代(ニ)1曰、以《ヲ》2磐余《イハレノ》田1獻(レ)2我祖《アガミオヤ》高皇産靈(ニ)1、事代|便奏《カクトマヲシシカバ》、依《ママニ》2神(ノ)乞《カハシノ》1獻(リタマヒテ)2田四十町(ヲ)1、對馬《ツシマノ》下(ツ)縣(ノ)直《アタヘヲシテ》侍祠《イツキマツラシメキ》、とあるを思ふべし、【預熔造《アヒツクル》とは、伊邪那岐伊邪那美(ノ)大神の、國土《クニ》を生成《ウミナシ》たまへる事あるに因(リ)て、預《アヒ》とは云るなり、さて此時の由縁《ユヱ》と見えて、山城(ノ)國葛野(ノ)郡に、葛野(ニ)坐(ス)月讀(ノ)神社、名神大、月次新嘗、木嶋(ニ)坐(ス)天照御魂(ノ)神社、名神大、月次相嘗新嘗、大和(ノ)國十市(ノ)郡に、目原(ニ)坐(ス)高御魂(ノ)神社二座、並大、月次新嘗、磐余《イハレ》は十市(ノ)郡なり、對馬下(ツ)縣(ノ)郡に、高御魂(ノ)神社、名神大、阿麻※〔氏/一〕留《アマテルノ》神(ノ)社など、式に見えたり、抑|如此《カク》後(ノ)世まで、其(ノ)處々に重《オモ》く祭祠《マツ》り給ふを以て、彼(ノ)神着《カムガカリ》の詔言《ミコト》の、おぼろけならざりしほどをも、産巣日(ノ)神の御功《ミイサヲ》の大きなるほどをも、思ひはかるべし、故(レ)今此(ノ)事を委く擧《アゲ》つ、】

〇因《ヨリテ》は、從《ヨリ》と云と同(ジ)意にて、此(ノ)萌騰《モエアガ》る物より生出《ナリイデ》坐すなり、【されば此(ノ)物の即(チ)神となるには非ず、書紀に状《カタチ》如(シ)2葦牙(ノ)1、便(チ)化2為《ナル》神(ト)1とあるは、いさゝか傳(ヘ)の異なるなり、〇此(ノ)因(ノ)字は、如(ノ)字の上にある意なり、されど此(ノ)記はさることにかゝはらず、たゞ讀(ム)に便(リ)よき處に字をば置《オケ》り、漢文に目《メ》なれたる人、勿《ナ》あやしみそ、】

○成神《ナリマセルカミ、此(ノ)如(クナル)2葦牙(ノ)1物に因て成《ナリ》坐る神は、次《ツギ》なる二柱なるべし、其故は、上に引る如く書紀一書に、有物若葦牙生於空中《アシカビノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因(テ)v此(レ)化《ナリマセル》神(ノ)號《ミナハ》天(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)可美葦牙彦舅《ウマシアシカビヒコヂノ》尊、又有物云々と見えて、國(ノ)常立(ノ)尊の生《ナリ》坐るは別《コト》なり、又此(ノ)記の趣《オモムキ》も、此(ノ)二柱|以上《マデ》を天(ツ)神として、段《クダリ》を結《トヂ》め、【若(シ)國之常立(ノ)神などをも、此(ノ)如(クナル)2葦牙(ノ)1物に因て成坐とせば、此(ノ)物は天なれば、彼(ノ)神等も共に天神たるべきに、然らずして、天神は天之常立(ノ)神までなればなり、】天之常立國之常立と申す御名も、天と地とに分れたればなり、【如(クナル)2葦牙(ノ)1物は、天の始(メ)にこそあれ、地の始(メ)には非れば、國之常立(ノ)神は、此(ノ)物に因ては成(リ)坐(ス)まじきものなり、】しかれども又、ひたぶるには如此《カクノゴト》くにも定め難《ガタ》きことありて、伊邪那美(ノ)神までも、並《ミナ》共《トモ》に此(ノ)如(クナル)2葦牙(ノ)1物に因て生《ナリ》坐るかとも思はるゝなり、其(ノ)所以《ヨシ》は國之常立(ノ)神の下《トコロ》に云べし、

〇宇麻志阿斯※〔言+可〕備比古遲《ウマシアシカビヒコヂノ》神、書紀に、可美葦牙彦舅《ウマシアシカビヒコヂノ》尊、可美此(ヲ)云2于麻時《ウマシト》1、彦舅此(ヲ)云2比古尼《ヒコヂト》1とあり、宇麻志《ウマシ》は美稱《タタヘナ》なり、【阿斯※〔言+可〕備《アシカビ》のみに屬《ツキ》たる稱にはあらず、惣《スペ》てへかゝれり、】其《ソ》は心にも目《メ》にも耳にも口《クチ》にも美《ヨ》きをば、皆|讃《ホメ》て云(フ)言にして、【今(ノ)世にはたゞ、物の味《アヂ》の口に美《ヨ》きをのみいへど、古(ヘ)は然のみならず、】書紀に、可怜小汀《ウマシヲバマ》、【可怜此(ヲ)云2于麻師《ウマシト》1、】可怜御路《ウマシミチ》、可怜國《ウマシクニ》などもあり、人(ノ)美稱《タタヘナ》には、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に宇摩志麻遲《ウマシマヂノ》命、堺(ノ)原(ノ)宮(ノ)段に味師内《ウマシウチノ》宿禰、書紀(ノ)崇神(ノ)卷に甘美韓日狹《ウマシカラヒサ》など云あり、【萬葉三に見えたる吉野(ノ)人|味稻《ウマシネ》と云を、懷風藻には美稻と作《カケ》り、宇麻志《ウマン》てふ言には、美(ノ)字よく當れり、】阿斯※〔言+可〕備《アシカビ》は、上の葦牙の下《トコロ》に云るが如し、比古《ヒコ》は男《ヲ》を稱美《タタヘ》て云(フ)稱《ナ》、【比《ヒ》は産巣毘《ムスビ》の毘と同意、古《コ》は子なり、】遲《ヂ》は男《ヲ》を尊《タフト》みて云|稱《ナ》なり、老人《オイビト》を云も、尊《タフト》むより出たるなるべし、意富斗能地《オホトノヂノ》神、書紀の鹽土老翁《シホツチノヲヂ》、【老翁此(ヲ)云2烏※〔月+貳〕《ヲヂト》1とあり、皇極紀の歌に歌麻之々能烏※〔月+貳〕《カマシシノヲヂ》、萬葉十一に山田守翁《ヤマダモルヲヂ》、十七に佐夜麻太乃乎治《サヤマダノヲヂ》、】などの遲《ヂ》も是(レ)なり、さて比古遲《ヒコヂ》袁遲《ヲヂ》など云ときは濁れども、本は清《スム》言にて、明(ノ)宮(ノ)段の國栖人の歌に、麻呂賀知《マロガチ》とある知《チ》、又|父《チチ》の知《チ》なども是(レ)なり、さて又八千矛(ノ)神をも火遠理《ホヲリノ》命をも、比古遲《ヒコヂ》と申せることあり、其事は彼處《ソコ》【傳十一の三十二葉】に云べし、さて此神は、葦牙《アシカビ》の如くなる物に因《ヨリ》て成(リ)坐る故に、如此《カク》御名《ミナ》つけ奉れるなり、【此(ノ)御名の讀《ヨミ》ざま、宇麻志《ウマシ》と讀て、阿斯※〔言+可〕備此古遲《アシカビヒコヂ》を一(ツ)に引連《ヒキツヅ》けて、葦牙之此古遲《アシカビノヒコヂ》といふ意《ココロ》ばへによむべきなり、】

〇天之常立(アメノトコタチノ)神、姓氏録【伊勢(ノ)朝臣(ノ)條】に天底立《アメノソコタチノ》尊とあり、又國之常立(ノ)神を書紀(ノ)一書に、國(ノ)底立(ノ)尊とあり、かゝれば御|名義《ナノココロ》、登許《トコ》は曾許《ソコ》と通ひて同じ、【今(ノ)世にも、底《ソコ》を登許《トコ》と云ことあり、さて底とは下の極《キハミ》を云(ヘ)ば、國之底とは云べけれど、天之底と云むことはいかゞ、と思ふ人あるべけれども、】凡て底《ソコ》とは、上にまれ下にまれ横にまれ、至《イタ》り極《キハ》まる處を、何方《イヅカタ》にても云り、萬葉十五に、安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》【宇良《ウラ》は内といふに同じ、】とあるを以て、天《アメ》にも云べきことを知(ル)べし、【紫式部(ガ)日記に、そこひも知らず清《キヨ》らなると云るも、限(リ)もなくと云に同じ、源氏(ノ)物語などにも此詞あり、】又六【藤原(ノ)宇合《ウマカヒノ》卿、西海道(ノ)節度使に罷《マカ》らるゝときの、高橋(ノ)連蟲萬呂の長歌】に、筑紫爾至《ツクシニイタリ》、山乃曾伎《ヤマノソキ》、野之衣寸見世常《ヌノソキミヨト》、伴部乎《トモノヲヲ》、班遣之《アカチツカハシ》、とある曾伎《ソキ》も、極《キハ》みを云て同じことなり、【細《クハシ》く云ときは、曾伎《ソキ》は曾久《ソク》を體言に云るにて、曾久《ソク》とは離放《ハナレサカ》る意なり、離居遠《ソキヲリトホ》ぞく退《シリゾク》などの曾久《ソク》なり、かくて其《ソレ》を體言に曾伎《ソキ》と云(フ)は、曾伎《ソキ》たる處を云言なり、又|曾許《ソコ》と云ときは、許《コ》は彼處《カシコ》此處《ココ》などの處《コ》にて、曾伎處《ソキコ》の意なり、故(レ)曾伎《ソキ》と意は全《モハラ》同じきなり、さて曾伎《ソキ》も曾許《ソコ》も離放《ハナレサカ》れる處を云て、おのづから其(ノ)離放《ハナレサカ》りたる至極《キハミ》の處の稱《ナ》にも、通はしいふなり、】又四に、天雲乃《アマグモノ》、遠隔乃極《ソキヘノキハミ》、遠鷄跡裳《トホケドモ》、九に、天雲乃退部乃限《アマグモノソキヘノキハミ》、【これらの遠隔《ソキヘ》退部《ソキヘ》、今(ノ)本は訓を誤れり、次に引る歌にて知べし、】十七に、山河乃曾伎敝乎登保美《ヤマカハノソキヘヲトホミ》、十九に、天雲能曾伎敝能伎波美《アマグモノソキヘノキハミ》、【敝《ヘ》は方《ヘ》なり、】又三に、天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》ともあり、又塞を曾許《ソコ》と訓(ム)も、境域《クニ》の極界《カギリ》の地《トコロ》なるを謂《イ》ふ、又|常世《トコヨノ》國と云も、【字は借字にて、】常《トコ》は底《ソコ》にて、右の意に同じ、【此事は少名毘古那(ノ)神(ノ)段、傳十二の十のひらに委く云(フ)を考へ見べし、】立《タチ》は都知《ツチ》と通ひて同じ、その例は、書紀に國狹槌《クニノサヅチノ》尊を、亦曰2國狹立《クニノサダチノ》尊(ト)1とある是なり、凡て神名に、某豆知《ナニヅチ》と云多し、其(ノ)義《ココロ》は野椎《ヌヅチノ》神の下《トコロ》【傳五の四十五葉】に云べし、然れば此(ノ)御名は、常立は借字にて、天之底都知《アメノソコツチ》なり、【抑天は下《シモ》より上《カミ》へ萌騰《モエアガ》りて成《ナリ》しかば、阿斯※〔言+可〕備比古遲(ノ)神は下《シモ》に生坐《ナリマセ》れども先《サキ》なり、其(ノ)始(メ)葦牙の如くなりし時なるが故なり、さて天之常立(ノ)神は、其物の漸(ク)に騰(リ)て、騰り極《キハマ》れるところに生《ナリ》坐(シ)けむ故に、上《カミ》に成(リ)坐せれども後《ノチ》なり、されば此(ノ)二柱(ノ)神の成(リ)坐る次第《ツイデ》、おのづから如此《カクノゴト》くなるべきものぞ、然るを書紀には、此(ノ)次第の反《カヘ》さまなるは、上に成坐るを以て先《サキ》に擧《ア》げ、下《シモ》に成坐るを後に擧《アゲ》たる傳へなるべし、】

〇註に、訓(テ)v常(ヲ)云2登許《トコト》1とは、若(シ)誤りて都泥《ツネ》なども讀(マ)むことを思ひてなり、此《コ》は借字《カリモジ》なれども、古(ヘ)より書《カキ》なれたる字を、其(ノ)隨《ママ》に用ひたる故に、かゝる訓註あるなり、【借字に訓を注したることは、神武(ノ)段に土蜘蛛《ツチグモ》を土雲と作《カケ》るなどに其例あり、】

〇此二柱神亦云々、舊印本又一本に、神の下に足(ノ)字あるは衍《アヤマリ》なり、今は延佳本又一本などに無《ナ》きに從ひつ、【元々集に引るにも無し、師は是(ノ)字を誤れるならむと云れしかど、上に此《コノ》とあれば、又|是《コレモ》と云べくもあらず、又上の例に依(ル)に、もしは並(ノ)字を誤れるかとも思へど、然《シカ》にも非じ、】

〇上件は加美能久陀理《カミノクダリ》と訓べし、書紀(ノ)推古(ノ)卷に初章《ハジメノクダリ》【聖徳(ノ)皇子(ノ)命の十七條(ノ)憲法《ミノリ》の中の第一條のことなり、】とある、此(ノ)訓《ヨミ》古言なり、さて大和物語に、かむのくだり啓《ケイ》せさせけりなどあり、【此も加美乃久陀理《カミノクダリ》と云(フ)古言の遺《ノコ》りたるなるを、カミをカンと云るは、中昔より音便に頽《クヅ》れたる言なり、書紀(ノ)欽明(ノ)卷に上件色人《カミクダンノシナノヒト》とある、此(レ)も加美乃久陀理能《カミノクダリノ》と訓べきを、例の頽《クヅ》れたる音便のまゝに訓るなり、凡て中昔よりして、件之云々《クダンノシカシカ》と云(フ)語多し、此(レ)みな上件之《カミノタダリノ》と云べきを、上《カミノ》を略き、リを音便にンと云(フ)にて、正しからざる言なり、正しくはクダリと云べきなり、】宇治拾遺物語には、ありのくだりの事を申してけりとも云り、【後(ノ)世には、たゞ行(ノ)字をのみクダリとは訓(ム)ことと心得めれど、然らず、彼(ノ)書紀なる初章《ハジメノクダリ》にて心得べし、某(ノ)章某(ノ)段某(ノ)條などの類、皆クダリと云べし、又諸(ノ)文書の終《トヂメ》に、如(シ)v件(ノ)と書(ク)も、如(シ)2上件《カミノクダリノ》1と云ことなり、】

〇別天神《コトアマツカミ》、別は許登《コト》と訓べし、其(ノ)由は先(ヅ)書紀の傳々《ツタヘツタヘ》に、多く國之常立(ノ)神を以て最初《ハジメ》の神として、此(ノ)五柱(ノ)天神を擧《アゲ》ざるは、たゞ此(ノ)國土《クニ》の方に成(リ)坐る神をのみ申(シ)傳(ヘ)て、天上《アメ》に成(リ)坐るをば、別《コト》なる神として、略《ハブ》きたる物なり.【如何《イカニ》と云に、彼(ノ)紀本書には、初(メ)には高御産巣日(ノ)神を擧《アゲ》ずして、末に至(リ)ては擧《アゲ》たり、若(シ)此(ノ)神|無《ナ》しとして、初(メ)に擧ざるならば、末にも擧《アゲ》まじきを、末に擧て初(メ)に擧ざるは、略けるに非ずや、】又一書に、先(ヅ)國之常立(ノ)神などを擧《アゲ》て、次に又《マタ》曰《イハク》とて、天上《アメ》なる神|等《タチ》を擧《アゲ》たるも、天上《アメ》なるをば別《コト》なる神とせるなり、【天上《アメ》なるを先《サキ》には擧《アゲ》ずして、後《ノチ》にしも擧たるは、別にせる意なり、又《マタ》曰《イハク》と云(フ)は、一曰と云とは異《コト》にして、異説には非ず、同書《オナジフミ》の内に、又《マタ》別《コト》に如此《カク》言《イヘ》りといふ意なり、】されば別《コト》と云るも其(ノ)意にして、天上《アメ》に成(リ)坐るをば、別《コト》なる神として、分《ワケ》たるものなり、【又天照大御神より以下《コナタ》の神たちをも、天上《アメ》なるをば天(ツ)神と申すを、此(ノ)五柱は天地の初(メ)に成(リ)坐て、彼天神たちとは、凡て等《ヒト》しからず、異《コト》に坐(ス)故に、其(ノ)差《ケヂメ》をたてて別天神とは申すかとも思はるれど、なほ上の意に決《サダ》むべし、又師は、別(ノ)字をコト/”\ニと訓れつれどわろし、又ワケと訓るもわろし、〇舊事紀に、別天八下(ノ)尊、別高皇産靈(ノ)尊など云る別、此《ココ》の別と其意相似たるが如くなれども、別某(ノ)神と申す御名、古書に例なし、何《ナニ》に據《ヨリ》て書るにか、彼(ノ)紀は眞書《マコトノフミ》ならねば信《タノ》み難《ガタ》し、】天神は阿麻都迦微《アマツカミ》と訓べし、文武紀の詔(ノ)詞に天都神《アマツカミ》、聖武紀の大御歌に阿麻豆可未《アマツカミ》、大祓(ノ)詞に天津神《アマツカミ》、などあるを以(テ)證《シルシ》とすべし、猶《ナホ》此《コノ》餘《ホカ》にも多し、【然るを世に、天神《アマツカミ》地祇《クニツカミ》と並《ナラ》べ云(フ)ときの天神をのみ、アマツカミと唱(ヘ)て、其(ノ)餘《ホカ》のをばアメノカミと訓《ヨム》は非《ヒガコト》なり、何《イヅ》れをも皆アマツカミ、と申すことにて、アメノカミと申せることは古(ヘ)は無し、右に出せる例ども、何《イヅ》れも地祇《クニツカミ》と並《ナラ》べ云る處には非るぞかし、但(シ)此(ノ)記の例は、凡て阿麻都《アマツ》と云には、津《ノ》字を加《クハ》へて書《カケ》れども、此(レ)は古(ヘ)より常に天神と書《カキ》なれて、アマツカミと唱ふることは、當時《ソノカミ》誰《タレ》もよくしれりし故に、津(ノ)字は加《クハ》へざるなり、】さて上に於《ニ》2高天(ノ)原1成《ナリマセル》神とあるは、上(ノ)件五柱にわたれる言なり.此《ココ》に如此《カク》天神とあるを以(テ)知(ル)べし、又|此《ココ》に如此《カク》ことわれるうへは、此(ノ)次國(ノ)之常立(ノ)神より、七代の神|等《タチ》は、天神《アマツカミ》とは申さざることをも知(ル)べし、猶此(ノ)事は下【神世七代とある下《トコロ》】に委くいふべし、

 

次成神名國之常立神《ツギニナリマセルカミノミナハクニノトコタチノカミ》。【訓常立亦如上】次豐雲《ツギニトヨクモ》【上】|野神《ヌノカミ》。此二柱神亦獨神成坐而《コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ》。隱身也《ミミヲカクシタマヒキ》。

國之常立《クニノトコタチノ》神、御名義《ミナノココロ》、天之常立に准《ナズラ》へて知(ル)べし、【常立の字に就《ツキ》て解《トケ》る説は、皆かなはず、】此(ノ)御名を、之《ノ》を略きて、久爾登許多知《クニトコタチ》と申すは非《ヒガコト》なり、【書紀に之(ノ)字を略きて書れたるは、彼(ノ)紀の例として、簡字《モジズクナ》にせるものにて、之《ノ》は多くは讀附《ヨミツク》べく書れたり、然るを後(ノ)世には、古言をば尋むものとも思はず、たゞ文字と理とのさだをのみ旨《ムネ》とするから、如此《カクノゴト》き讀法《ヨミザマ》も、漫《ミダリ》になれるなり、抑神(ノ)御名などは、殊に謹《ツツンミ》て、いさゝかも訛《アヤマリ》なく讀奉るべきわざなるをや、此記に、訓注を加《クハ》へ、誦聲《ヨムコヱ》の上り下りをさへに、懇《ネモコロ》に示したるを思ふべし、さて又此(ノ)神を、天之御中主(ノ)神と一(ツ)神なりなど云(ヒ)なすなどは、例の牽強《シヒゴト》なる中にも、殊に甚しきものぞ、其《ソノ》餘《ホカ》此神の御事は、例の漢意以てさま/”\言痛《コチタ》きことどもをいひあへる、みな論ふにも足らずなむ、】さて書紀には、國(ノ)常立(ノ)尊次(ニ)國狹槌《クニノサヅチノ》尊次(ニ)豐斟渟《トヨクムヌノ》尊とあり、此記の傳(ヘ)と異なり、【此記には國之狹土《クニノサヅチノ》神は、後に別段《コトクダリ》にあり、】さて此(ノ)國之常立(ノ)神より、伊邪那美(ノ)神まで、十二柱の成(リ)坐る由縁《ユヱヨシ》は如何《イカニ》と云に、先(ヅ)上なる阿斯※〔言+可〕備比古遲《アシカビヒコヂ》天之常立《アメノトコタチ》二柱(ノ)神は、天の始(メ)なる葦牙《アシカビ》の如くなる物に因て成(リ)坐て、天(ツ)神なり、【其由は既に上に云るが如し、】次に國之常立より以下《シモ》の神たちは、彼(ノ)如(クナル)2浮脂《ウキアブラノ》1物の中の、【天と成るべき物は、既に萌騰去《モエアガリサリ》て、あとにのこり留《トド》まりて、】地と成るべき物に因て成(リ)坐るなり、其由は上に引る如く、書紀(ノ)一書に、又有物若浮膏生於空中《マタウキアブラノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因《ヨリテ》v此《コレニ》化神號《ナリマセルカミノナハ》國(ノ)常立(ノ)神と見え、天之常立に對(ヒ)て國之常立と申す御名も、地に依《ヨ》れればなり、かくて上に如(クニシテ)2浮脂(ノ)1而|多陀用幣琉《タダヨヘル》之|時《トキ》とあるは、廣《ヒロ》く伊邪那美(ノ)神の成(リ)坐(ス)までに係《カカ》れる語なれば、國之常立(ノ)神より次々、皆此物に因て成(リ)坐ること、おのづから然《シカ》聞えたり、【然らば如2浮脂(ノ)1而云々と云ことをば、國之常立(ノ)神の處に云べきを、上に云るは如何《イカニ》と云に、かの葦牙の如くなる物も、此(ノ)物の中より分れて萌騰りつれば、此(ノ)物を先(ヅ)言《イハ》ずはあるべからず、さて國之常立(ノ)神の處に言《イハ》ざるは、既に上に云る故なり、上に云ることを再(ビ)言(ヒ)たらむは、語《コト》拙《ツタナ》かるべし、更《サラ》に云(ハ)ざれども、時と云(フ)は、廣く下まで及ぶ言《コトバ》なれば、おのづからそれと聞ゆることなり、天之常立(ノ)神にて其(ノ)段《クダリ》をばとぢめながら、次成神と云るは、なほ上を承《ウケ》て連《ツヅ》く意なるをや、】然れども又ひたぶるに如是《カクノゴト》くにも定め難《ガタ》き所以《ユヱ》あり、其《ソ》は書紀に、天地(ノ)之中(ニ)生一物状如葦牙《アシカビノゴトクナルモノナレリ》、便化爲神《スナハチカミトナリキ》、號《ミナハ》國(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)國(ノ)狹槌(ノ)尊、次(ニ)豐斟渟(ノ)尊、また一書に、國(ノ)中(ニ)生物状如葦牙之抽出也《アシカビノヌキデタルゴトクナルモノナリキ》、因(テ)v此(ニ)有化生之神號《ナリマセルカミノミナハ》、可美葦牙彦舅(ノ)尊、次國(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)國(ノ)狹槌(ノ)尊、また一書に、其(ノ)中(ニ)生一物如葦牙之初生※〔泥/土〕中也《アシカビノヒヂノナカヨリオヒソメタルゴトクナルモノナレリ》、便化爲人《スナハチカミトナリキ》、號《ミナハ》國(ノ)常立(ノ)尊とある、此等《コレラ》に依(ル)ときは、此(ノ)記の趣《オモムキ》も、葦牙の如くなる物に因《ヨリ》て成(リ)坐(ス)と云(フ)は、國之常立(ノ)神へも係《カカ》るにやあらむ、【然るに此(ノ)神の處に、たゞ次《ツギニ》とのみはあらずして、次(ニ)成神(ノ)名(ハ)と、更《アラタ》めて云るは、たゞ天(ツ)神と段《クダリ》を分《ワカ》てる故のみなり、】若(シ)然らば、伊邪那美(ノ)神まで十二柱、みな葦牙の如くなる物に因《ヨリ》て生《ナリ》坐るなり、其(ノ)故は書紀に、豐斟渟(ノ)尊も、同く此(ノ)物に因て成(リ)坐とありて、此(ノ)記も豐雲野(ノ)神の下に界《サカヒ》無く、下へ續《ツヅ》ければなり、【獨神成坐云々と云(フ)界《サカヒ》あれども、此《コ》は男女並生神《メヲナラビナリマセルカミ》との堺《サカヒ》のみなり、若(シ)此(レ)を堺として、此(レ)より下は葦牙の如くなる物に因らずと云はば、國(ノ)常立(ノ)神も、其(ノ)上に堺あれば、如(クナル)2葦牙1物に因れりと云(ヒ)がたし、】但し如此《カクノゴト》く定むるときは、國之常立(ノ)神より、伊邪那美(ノ)神まで十二柱も、共に天神なるべきに、【彼(ノ)如2葦牙(ノ)1物は、天と成れる物なればなり、】然らざるは疑はし、【若(シ)くは同じ一(ツ)の物に因て生坐《ナリマシ》ながら、初(メ)二柱は、其(ノ)上方《カミツベ》に生《ナリ》坐て、天神なるを、次の十二柱は、其(ノ)下方《シモツベ》に因て生(リ)坐る故に、天神に非るか、然れども此(ノ)段は、正《マサ》しく天地の分れたる初(メ)を語《カタ》りて、成坐神も二方に分れて、其御名も、天之常立國之常立と明らかに分れたれば、國之常立(ノ)神|以下《ヨリシモ》は、必(ズ)地と成るべき物に因て生《ナリ》坐(ス)べきこととぞ思はるゝ、】故《カレ》此(ノ)事は、一方《ヒトカタ》に定めがたくてなむ、姑《シバラ》く二《フタ》むきに解《トケ》る、

〇豐雲野《トヨクモヌノ》神、御名義《ミナノココロ》、豐は、物の多《サハ》にして足《タラ》ひ饒《ユタカ》なる意の言にて、稱辭《タタヘコト》なり、豐布都(ノ)神豐石窓(ノ)神豐玉毘賣(ノ)命、叉豐木入日子(ノ)命豐※〔金+且〕入日賣(ノ)命などの例の如し、又人(ノ)名ならでも、豐葦原(ノ)中國|豐明《トヨノアカリ》豐榮上《トヨサカノボリ》豐壽《トヨホギ》なども云り、雲野《クモヌ》は、字は借字にて、久毛《クモ》は、久牟《クム》久美《クミ》久比《クヒ》許理《コリ》などと通ひて、【其由は次に云】物の集《アツマ》り凝《コ》る意と、初芽《ハジメテキザ》す意とを兼たる言にて、此(ノ)二(ツノ)意又おのづから相通へり、物|集《アツマ》り凝《コリ》て、物の形は成(ル)ものなればなり、野は怒《ヌ》と訓て、【凡て野をば、古(ヘ)は怒《ヌ》と云り、能《ノ》と云(フ)はやゝ後のことなり、師の云く、野《ノ》角《ツノ》篠《シノ》忍《シノブ》陵《シノグ》樂《タノシ》などの能《ノ》は、古(ヘ)はみな怒《ヌ》と云り、故(レ)古書に此等《コレラ》の假字には、能《ノ》乃《ノ》などをば用ること無《ナ》くして、みな奴《ヌ》怒《ヌ》農《ヌ》濃《ヌ》などを用ひたり、農《ヌ》濃《ヌヌ》などはヌの假字なり、ノに非ず、凡て右の言どもを能《ノ》と云ことは、奈良の末つかたよりかつ/”\始まれり、と云れたるがごとし、】沼《ヌ》の意なるべし、されば久毛《クモ》とは、彼(ノ)如(クナル)2浮脂(ノ)1物の沌《ムラカレ》凝《コ》り生《ナリ》て、國士《クニツチ》となるべき初芽《ハジメキザシ》なる由を以(テ)いひ、怒《ヌ》とは其(ノ)物を指《サシ》て云(フ)、彼(ノ)國土になるべき物は、潮《ウシホ》に泥《ヒヂ》の淆《マジ》りたる物なればなり、凡て水の渟《タマ》れる處を沼《ヌ》と云り、又書紀(ノ)一書の御名に依(ル)に、野《ヌ》は主の意にてもあらむか、【其由は次に云、】かくて此(ノ)神(ノ)御名、書紀には豐斟渟《トヨクムヌノ》尊、【斟は久美《クミ》とも訓べけれど、一書に組《クミ》ともあれば、此《コレ》は久牟《クム》なるべし、】一書には豐國主《トヨクニヌシノ》尊とありて、【こは雲野《クモヌ》斟渟《クムヌ》と合せて思ふに、國《クニ》は久毛爾《クモニ》又|久牟爾《クムニ》の約《ツヅ》まりたるにて、其(ノ)爾《ニ》は宇比地邇《ウヒヂニ》の邇《ニ》と同くて、彼(ノ)野《ヌ》渟《ヌ》と通ふ言なるべし、さて主《ヌシ》は別に添て尊める稱なり、さて此(ノ)御名に依(ル)ときは、又|雲野《クモヌ》などの野《ヌ》も、主《ヌシ》の意にてもあらむか、若(シ)然らば此(ノ)御名の國《クニ》、即(チ)久毛《クモ》又|久牟《クム》などと通ふなり、〇此(ノ)御名に依て思ふに、凡て國土《クニ》と云名は、久毛爾《クモニ》にて、雲野《クモヌ》てふ神名《カミノミナ》と同意にもやあらむ、】亦曰|豐組野《トヨクミヌノ》尊、【久美《クミ》は、久毛《クモ》久牟《クム》などと通へり、】亦曰|豐香節野《トヨカフシヌノ》尊、亦曰|浮經野豐買《ウキフヌトヨカヒノ》尊、【布斯《フシ》は、比《ヒ》と切《ツヅ》まれば、香節《カフシ》と買《カヒ》と同じ、さて加比《カヒ》は久比《クヒ》と通ひ、久比《クヒ》は久美《クミ》と通へり、猶此(ノ)事下なる角杙《ツヌグヒノ》神の下《トコロ》に云べし、されば此(ノ)御名も、雲野《クモヌ》と同意なり、さて浮經野《ウキフヌ》は、浮《ウキ》は彼(ノ)如(クナル)2浮脂(ノ)1物の、空中《オホソラ》に浮《ウキ》たゞよへる意、又は後世の歌に、泥《ヒヂ》を宇伎《ウキ》といへば、其意にてもあるべし、經《フ》は含《フフム》にて、彼(ノ)物の中に、地《ツチ》となるべき物の含《フフ》まりたる由なり、花の未開《イマダサカ》ぬを、ふゝまると云と同じ、次の葉木國《ハコクニ》と合(セ)考(フ)べし、野《ヌ》は雲野の野と同じ、】亦曰|豐國野《トヨクニヌノ》尊、【豐國主に同じ、】亦曰|豐齧野《トヨクヒヌノ》尊、【久比《クヒ》は加比《カヒ》久美《クミ》などと通ふこと、上に云るがごとし、】亦曰|葉木國野《ハコクニヌノ》尊、【葉木《ハコ》は富《ホ》と約《ツヅ》まりて、含《フフ》まる意なり、含《フフ》まるを富々《ホホ》まるとも云(ヒ)、布富《フホ》ごもりなども云り、又|波具久牟《ハグクム》波碁久牟《ハゴクム》などいふ言をも思ふべし、】亦曰|御野《ミヌノ》尊【こは久美怒《クミヌ》の久《ク》の省《ハブ》かりたるか、又|御沼《ミヌ》にてもあるべし、】とある、此等《コレラ》の御名と此彼《コレカレ》引合せて、其(ノ)義《ココロ》をさとるべし、又師の冠辭考|刺竹《サスタケノ》條に、籠《コモ》りと久美《クミ》と通ふ由を委く云れたり、開き見べし、信《マコト》に許母理《コモリ》も久麻《クマ》も、集《アツマ》り凝《コ》る意あり、雲《クモ》も其(ノ)意にて.本同じ言なるべし、又|角久牟《ツノグム》芽久牟《メグム》涙久牟《ナミダグム》などの久牟《クム》も、初《ハジメ》て芽《キザ》す意にて、凝《コ》る意を帶《オビ》たれば、同言なり、猶下なる角杙《ツヌグヒノ》神の下《トコロ》と考(ヘ)合すべし、【〇彼(ノ)書紀(ノ)一書に出たる御名どものうち、豐香節豐買葉木國などにつきては、稻に依れる御名かとも思はるゝ由あり、其《ソ》は香節は、八千矛(ノ)神の御歌に、やまとの、一本|薄《ススキ》、うなかぶし、とある如く、稻の靡《ナビ》き垂《タリ》たる意、豐買は豐穎《トヨカヒ》、葉木國は、稻のはびこりこもりかなる意にて、雲野なども、稻のふさやかにこもりかなる意なり、然れども、此(ノ)段に成坐る神(ノ)御名に、稻を以て負せ奉るべきに非ず、かの久美竹《クミダケ》の久美《クミ》にて、其《ソ》は次々の神たちの御名の類に非れば、此(ノ)考(ヘ)は用ひがたし、】雲(ノ)字の下なる上(ノ)字のことは、傳(ノ)初(ノ)卷【五十六葉】に委く云り、

〇獨神云々、書紀は、獨神成坐ると、女男《メヲノ》神|偶《タグヒ》て成坐るとを分(ケ)て、此《ココ》までを一段《ヒトクダリ》とせられたるを、【こゝに、凡三神矣乾道獨化(ス)所以(ニ)成(ス)2此(ノ)純男(ヲ)1とあるは、古傳の本(ノ)書には、此(ノ)記の如く、たゞ此(ノ)三柱(ノ)神(ハ)者|獨神《ヒトリガミ》成(リ)坐(キ)也、などぞありけむを、例の撰者の、強《シヒ》て漢《カラ》めかさむために、如此《カク》潤色《カザリ》を加(ヘ)て書《カカ》れたるなり、いとうるさき語なりかし、】此(ノ)記は、神世七代と云を一段《ヒトクダリ》として、此處《ココ》をば下へ續《ツヅ》けたり、

 

次成神名宇比地邇《ツギニナリマセルカミノミナハウヒヂニノ》上|神《カミ》。次妹須比智邇《ツギニイモスヒヂニノ》去|神《カミ》。【此二神名以音】攻角杙神《ツギニツヌグヒノカミ》。次妹活杙神《ツギニイモイクグヒノカミ》。【二柱】次意富斗能地神《ツギニオホトノヂノカミ》。次妹大斗乃辨神《ツギニイモオホトノベノカミ》。【此二神名亦以音】次淤母陀琉神《ツギニオモダルノカミ》。次妹阿夜《ツギニイモアヤ》上|※〔言+可〕志古泥神《カシコネノカミ》。【此二神名皆以音】次伊邪那岐神《ツギニイザナギノカミ》。次妹伊邪那美神《ツギニイモイザナミノカミ》。【此二神名亦以音如上】上件自国之常立神以下《カミノクダリクニノトコタチノカミヨリシモ》。伊邪那美神以前《イザナミノカミマデ》。并稱神世七代《アハセテカミヨナナヨトマヲス》。【上二柱《カミノフタバシラハ》。獨神各云一代《ヒトリガミオノオノヒトヨトマヲス》。次雙十神《ツギニナラビマストバシラハ》。各合二神云一代也《オノオノフタバシラヲアハセテヒトヨトマヲス》。

宇比地邇《ウヒヂニノ》神、次(ニ)妹須比智邇《イモスヒヂニノ》神、書紀に、※〔泥/土〕土煮《ウヒヂニノ》尊|沙土煮《スヒヂニノ》尊と書て、※〔泥/土〕土此(ヲ)云2千毘尼《ウヒヂト》1、沙土此(ヲ)云2須毘尼《スヒヂト》1と注されたり、【書紀には、毘は清音の假字にも多く用ひられたり、此(ノ)訓注に依て、比を濁音によむは非なり、凡て連便《ツヅキノタヨリ》によりて、下(ノ)言の頭を濁るは、常多けれども、其(ノ)言に濁音あれば、其(ノ)頭は必濁らざる例なり、此《ココ》も比地《ヒヂ》の地《ヂ》濁音なれは、比は濁るまじき例なるをや、】此《コレ》に依らば宇《ウ》は泥なり、【※〔泥/土〕(ノ)字、泥也と注せり、】後(ノ)世の歌などに、泥を字伎《ウキ》と云ることあり是なり、【宇《ウ》とは、宇伎《ウキ》の伎《キ》の省《ハブ》かりたるか、又|字《ウ》を本にて宇伎《ウキ》ともいふか、】須《ス》は、土の水と分れたるを云(フ)、されば※〔泥/土〕土《ウヒヂ》とは、かの如(クナル)2浮脂(ノ)1物の、潮と土と混淆《マジリ》て、未(ダ)分れざるを云(ヒ)、【水と土と和《マジ》りたるは泥なり、】沙土《スヒヂ》とは、其(ノ)潮と土と漸(ク)分れたるを云(フ)、【沙(ノ)字を書れたるは、此字、水(ノ)旁の之地(ナリ)、と注せる意を取(ラ)れたるなるべし、詩(ノ)大雅に鳧※〔醫の酉が鳥〕在v沙(ニ)など云る是なり、洲《ス》も其意の名にて、本同言なり、但しこれらは、水を離《ハナ》れて乾《カワ》ける土を云を、此《ココ》の沙土《スヒヂ》は、猶潮の中に在(リ)ながらに分れたるを云なるべし、和名抄に、聲類(ニ)云(ク)、砂(ハ)水中(ノ)細礫也、和名|須奈古《スナゴ》とある、これ水(ノ)中ながらに分れたるをも砂と云り、砂と沙と同じ、又|須奈古《スナゴ》の須《ス》は、即|須比智《スヒヂ》の須《ス》と同じ、】邇《ニ》は、豐雲野の野《ヌ》と通ひて沼《ヌ》なり、【沙土《スヒヂ》は、既に潮と分れたる土なれども、なほ潮《ノ》中にある故に、なべてのさまは此《コレ》も沼なり、】又書紀に、二柱共に煮《ニ》を根《ネ》とも申すとあり、【根《ネ》なれば、※〔言+可〕志古泥《カシコネ》の泥《ネ》と同じ、】さて又師の説には、宇《ウ》は浮《ウキ》なり、須《ス》は沈《シヅ》なり、【斯豆《シヅ》は須《ス》と約《ツヅ》まる、】比地《ヒヂ》は泥《ヒヂ》なり、と云れつる、此(レ)も然るべし、【此《コ》はかの一(ツ)に沌《ムラカ》れたる泥《ヒヂ》の漸(ク)に分れて、浮み沈むを云り、浮む泥は、浮散《ウキチリ》て海となり、沈む泥は、凝り堅まりて國土《クニ》となるなり、】此(ノ)時は、邇《ニ》をば土《ニ》の意として、【邇《ニ》は土の惣名なり、故(レ)黏《ネエ》たる土を埴《ハニ》と云(ヒ)、赤(キ)土を赭《ソホニ》と云(ヒ)、青き土を青丹《アヲニ》と云類多し、】比地邇《ヒヂニ》を泥土《ヒヂニ》とも見べし、抑書紀の字と師(ノ)説と、比地《ヒヂ》の意異なり、書紀には土《ヒヂ》と作《カカ》れたれば、土形《ヒヂカタ》築墻《ツキヒヂ》などの比地《ヒヂ》にて、土《ツチ》の總名《スベナ》に取れるなり、師(ノ)説にては、土《ツチ》と水と和《マジ》りたるにて、泥(ノ)字の意にて、和名抄に、泥(ハ)和名|比知利古《ヒヂリコ》、一云|古比千《コヒヂ》と見え、【後(ノ)歌に多く戀路《コヒヂ》をいひかけたり、】俗言《サトビゴト》に杼呂《ドロ》と云物なり、此(ノ)二説《フタツ》、今一方に思(ヒ)定め難し、次《ツギニ》妹《イモ》とは、此(レ)より五世の神|等《タチ》は、各|女男《メヲ》雙坐《ナラビマセ》れども、男神は先《サキダ》ち、女神はやゝ後《オタ》れて生《ナリ》坐る故に、次《ツギニ》と云なり、妹は伊毛《イモ》と訓べし、【和名抄に伊毛宇止《イモウト》とあるは、妹人《イモヒト》の義《ココロ》にて、後のことなり、】伊毛《イモ》とは、古(ヘ)夫婦にまれ兄弟にまれ他人《ヨソビト》どちにまれ、男と女と雙《ナラ》ぶときに、其(ノ)女を指《サシ》て云|稱《ナ》なり、【故に記中の例、兄弟を擧《アグ》るに、兄《アニ》と妹《イモウト》となれば、妹《イモウト》をば妹某《イモソレ》といひ、姉《アネ》と妹《イモウト》となれば、弟某《オトソレ》と云て、妹《イモ》とはいはず、阿遲※〔金+且〕高日子根(ノ)神、次(ニ)妹《イモ》高比賣(ノ)命といひ、姉《アネ》石長比頁、其《ソノ》弟《オト》木花之佐久夜毘賣、と云るが如し、心を着《ツク》べし、古(ヘ)の定まりと見えたり、然れば女と女との間《アヒダ》にては、伊毛《イモ》と云ことは、上古には無《ナ》かりしなり、又書紀(ノ)仁賢(ノ)卷に、古者《イニシヘ》不《ズ》v言(ハ)2兄弟長幼(ヲ)1、女(ハ)以v男(ヲ)稱《イヒ》v兄《セト》、男(ハ)以v女(ヲ)稱《イフ》v妹《イモト》とある如く、男よりは、姉《アネ》をも妹《イモ》と云しなり、さて又夫婦の間《アヒダ》にて、妻を妹《イモ》と云ることは、世(ノ)人もよく知れることなり、然るを書紀に、雄略天皇の、皇后《オホギサキ》を指て吾妹《ワギモ》と詔へるを註して、稱(テ)v妻(ヲ)爲《スルハ》v妹(ト)、蓋(シ)古(ヘノ)之俗(カ)乎、とあるはいかにぞや、此《コ》は今(ノ)京になりてまでも、常に云ることにて、奈良のころはさらなるを、如此《カク》よそ/\しげに、蓋(シ)古(ヘ)俗(カ)乎などとは、強《シヒ》て萬(ヅ)を漢籍《カラブミ》めかさむとての文なり、さて又他人どちの間《アヒダ》にても、男の女を指て妹と云ることも、萬葉などに甚《イト》多し、但し十二(ノ)卷に、妹といへばなめしかしこし、しかすがにかけまく欲《ホシ》き言《コト》にあるかも、とよめるを思へば、敬《ウヤマ》ふべき人をばいはざりし稱にこそ、】然るをやゝ後には、女どちの間《アヒダ》にても稱《イフ》こととなれりき、【姉妹の間にて妹《イモウト》を云(フ)はさらにて、他人にても、萬葉四吹黄(ノ)刀自が歌、又紀(ノ)女郎が友に贈(ル)歌、又十九に、家持の妹《イモウト》の、其(ノ)妻の許《モト》に贈(ル)歌、其答歌などに、皆|妹《イモ》と云り、】さて妹(ノ)字をしも書(ク)は、此(ノ)稱《ナ》に正《マサ》しく當れる字のなき故に、姑《シバラク》兄弟の間《アヒダ》の伊毛《イモ》に就《ツキ》て當《アテ》たるものなり、ゆめ此(ノ)字に泥《ナヅ》みて、言の本義《モトノココロ》を勿《ナ》誤りそ、【然るを後世人は、ひたすら字を主として思ふ故に、伊毛《イモ》と云は、本兄弟の妹より出たるが轉《ウツリ》て、妻をも然云ぞと心得誤るめり、】さて是《コレ》より淤母陀琉※〔言+可〕志古泥《オモダルカシコネノ》神までは、たゞ女男|雙《ナラビ》坐るを以(テ)、女神をば妹《イモ》と申すなり、嫁《トツギ》の事は未(ダ)始まらざる時なれば、妻《ミメ》の謂《イヒ》には非ず、さて男神(ノ)御名の邇(ノ)下なる上(ノ)字は、邇《ニ》を上聲《アガルコヱ》に誦《ヨ》めとなり、女神(ノ)御名の(ノ)下なる去(ノ)字は、下聲《サガルコヱ》に誦《ヨメ》となり、此事傳(ノ)初(ノ)卷【五十六葉】に云つ、書紀(ノ)私記に、問(フ)、此(ノ)二神(ノ)御名(ノ)煮《ニハ》同字(ナルニ)也、何故(ニ)有(ル)2變聲(ノ)之|讀《ヨミ》1哉、答(フ)、是(レ)據(テ)2古事記(ニ)1、上(ノ)煮《ニノ》字(ハ)讀(ミ)2上聲(ニ)1、下(ノ)煮(ノ)字(ハ)讀(ム)2去聲(ニ)1、其(ノ)由雖v未v詳、如v此之神名、皆以2上古(ノ)口傳(ヲ)1、所(ナリ)2注(シ)置(ク)1也と云り、【かゝれば當時《ソノカミ》は、日本紀を讀(ム)にも、此(ノ)記の旨を守りて、かばかりの讀聲《ヨミコヱ》をも、漫《ミダリ》にはせざりしこと知(ル)べし、近(キ)世にたゞ理説をのみ主《ムネ》とする學者も、かゝることを少《スコ》しはおもへかし、】
〇角杙《ツヌグヒノ》神、活杙《イクグヒノ》神、角は都怒《ツヌ》と訓べし、【古(ヘ)は凡て都奴《ツヌ》と云しこと、上の豐雲野の野訓下《ヌノヨミノトコロ》に云るが如し、】角(ノ)臣を此記に都奴《ツヌノ》臣と作《カケ》るなどを以(テ)知べし、【其餘も皆然り】さて御名(ノ)意、凡て物のわづかに生初《ナリソメ》て、たとへば尾頭手足などの分ちは未(ダ)生《ナラ》ざる形を、都怒《ツヌ》と云、【獣の角も此(ノ)意にて、其形を以て云(フ)名なるべし、】杙《クヒ》は借字にて、久比《クヒ》は【こゝは連便《ツヅキノタヨリ》にて濁(リ)て讀べし、】上の豐雲野の下《トコロ》に云る如く、彼(ノ)久毛《クモ》又|久牟《クム》久美《クミ》許理《コリ》などと皆通ひて、物の初《ハジメ》て芽《キザ》し生《ナル》意の言なり、【又物の集(マ)り凝《コ》る意をも兼たり、凡て物は、物の集(マリ)凝(リ)て成《ナル》ものなれば、おのづから意は一(ツ)に通へり、】芽具牟《メグム》涙具牟《ナミダグム》などの具牟《グム》に同じ、【具牟《グム》は、具美《グミ》とも活用《ハタラ》く言なり、】されば都奴具比《ツヌグヒ》とは、神の御形の生初《ナリソメ》たまへる由なり、葦などの生初《オヒソム》るを、角具牟《ツノグム》と云は、此(ノ)神(ノ)名と全《モハラ》同じ、【角杙を角ぐむなりとは、或人もいひき、】さて姓氏録に、角凝魂《ツヌゴリムスビノ》命、角凝命《ツヌゴリノ》、【許理《コリ》と久比《クヒ》と通ふ、】神名式に、出雲(ノ)國神門(ノ)郡|神魂子角魂《カミムスビノミコツヌムスビノ》神(ノ)社などあるは、此(ノ)神なるべし、活杙《イクグヒ》は、生活動《イキハタラ》き初《ソム》る由の御名なり、神祇官(ニ)坐(ス)御巫(ノ)祭(ル)八神(ノ)中の生産日《イクムスビノ》神【姓氏録に伊久魂《イクムスビノ》神とあり、】は、此(ノ)神なるべし、さて書紀には此二柱無し、【一書にはあり、】

〇註に二柱とあるは、此二柱雙坐て一世なり、と知(ラ)せたるなり、【前後の四世には此注なくして、たゞ此《ココ》にのみあるは如何《イカニ》と云に、前後なるはみな、此(ノ)二神(ノ)名以(フ)v音(ヲ)と云注あるを、此《ココ》にはたま/\然る注なき故なり、】

〇意富斗能地《オホトノヂノ》神、大斗乃辨《オホトノベノ》神、意富《オホ》は稱辭《タタヘコト》なり、【女神の方の大(ノ)字も、本《モト》は意富《オホ》なりけむを、後にふと寫(シ)誤れるものなるべし、此(ノ)二神(ノ)名(モ)亦以(フ)v音(ヲ)と注せれは、大(ノ)字にはあるまじきことなり、】斗《ト》は處《ト》なり、凡そ處《トコロ》を斗《ト》と云例多し、立處《タチド》伏處《フシド》寢處《ネド》【萬葉(ノ)陸奥歌に禰度《ネド》とあり、】祓處《ハラヒド》などの如し、弘仁私記(ノ)序に、古語(ニ)謂(テ)2居住(ヲ)1爲《ス》v止《トト》とあるも、處《トコロ》の意より出たり、能《ノ》は之《ノ》てふ辭《チニヲハ》なり、地《ヂ》は、上に出たる比古遲《ヒコヂ》の遲《ヂ》に同じ、辨《ベ》は、男神の地《ヂ》に對《ムカヒ》て、女を尊《タフト》む稱なり、老女を云(フ)も、尊むより出たるなるべし、百師木伊呂辨《モモシキイロベ》、【明(ノ)宮(ノ)段】八坂振天某邊《ヤサカフルアメイロベ》、【書紀(ノ)崇神(ノ)卷】など云名の辨《ベ》も是なり、又|級長戸邊《シナトベ》、荒河刀辨《アラカハトベ》、苅幡刀辨《カリバタトベ》、【此外も某刀辨《ナニトベ》といふ名多し、】など云|刀辨《トベ》の辨《ベ》も同じ、又其(ノ)刀辨《トベ》を賣《メ》に通はして度賣《トメ》とも云り、伊斯許理度賣《イシコリドメ》などの如し、【此(ノ)賣《メ》は、たゞ女の意には非ず、辨《ベ》に通ふ稱なり、此(ノ)度賣《ドメ》を書紀に姥《トメ》と書れたるは、老女の意なり、】かゝれば此二柱の御名は、彼|地《ツチ》と成(ル)べき物の凝成《コリナリ》て、國處《クニドコロ》の成れる由にて、其《ソレ》に女男の尊稱《タフトミナ》を附《ツケ》たるなり、書紀には、大戸之道《オホトノヂノ》尊|大苫邊《オホトマベノ》尊、一云|大戸之邊《オホトノベ》、亦曰|大戸摩彦《オホトマヒコノ》尊|大戸摩姫《オホトマヒメノ》尊、亦曰|大富道《オホトムヂノ》尊|大富邊《オホトムベノ》尊とあり、【こは女神の御名、大戸之邊とあるを正しとすべし、大苫邊大戸摩彦大戸摩姫はみな、此記の別段《コトクダリ》なる大戸惑子《オホトマドヒコノ》神|大戸惑女《オホトマドヒメノ》神と、御名の傳(ヘ)の亂《マガ》ひつるなり、富《トム》は斗乃《トノ》の轉《ウツ》れるなり、】

〇淤母陀琉《オモダルノ》神、書紀に面足《オモダルノ》尊と書れたり、此字の意の御名なり、萬葉二【四十一丁】に、天地《アメツチ》、日月與共《ヒツキトトモニ》、滿將行《タリ丘カム》、神乃御面跡《カミノミオモト》云々、九【三十四丁】に、望月乃《モチヅキノ》、滿有面輪二《タレルオモワニ》云々【此(ノ)二(ツ)の滿(ノ)字、今(ノ)本の訓は誤れるを、師の冠辭考に此(ノ)面足《オモダル》てふ神(ノ)名の例を引て、多理多禮流《タリタレル》と訓れたるぞよき、】とありて、面《オモ》の足《タル》と云は、不足處《アカヌトコロ》なく具《ソナハ》りとゝのへるを云、【面を云て、手足其《ソノ》餘《ホカ》も皆凡て滿足《タレ》ることはこもれる御名なり、〇此(ノ)神の御名を、師は、凡ての例の如く之神《ノカミ》とは讀(マ)ずて、淤母陀琉迦微《オモダルカミ》と訓れき、其《ソ》は體言よりつゞくと、用言よりつゞくとの異《ケヂメ》なり、某之神《ナニノカミ》とよむは、體言のときなり、又用言ながら、常立《トコタチ》角具比《ツヌグヒ》など云類は、體言になる例なり、此(レ)らも常多都《トコタツ》角具布《ツヌグフ》などいへば、本の用言なり、此《ココ》も淤母陀理《オモダリ》といへば、體言になる故に、之神《ノカミ》と訓べきを、陀琉《ダル》なる故に、本の用言なれば、之《ノ》とはつゞかぬ、古語の格《サダマリ》なればなり、石拆《イハサク》神|根拆《ネサク》神、奥疎《オキザカル》神|邊疎《ヘザカル》神なども此例なり、かくて己(レ)も初(メ)は然のみ心得てありつるを、後になほよく思へば、然には非ず、其故は、先(ヅ)淤母陀琉など云ときは、用言なることも、又用言の下は之《ノ》とは承《ウケ》ざることも、論なけれども、神(ノ)名人(ノ)名などは、なべての語の例とは異なれば、なほ用言なるをも、之神《ノカミ》とよむべきなり、其《ソ》は用言ながらも、既に名となりては、體言なればなり、此も淤母陀琉と申すが御名なるを、神とも尊《ミコト》とも申すは、別に添て稱すなれば、必|之《ノ》と云ずはあるべからず、かの荒《アラ》ぶる神|天降《アマクダ》る神など云類とは、御名ほ異なるをや、又天照大御神なども、照之《テラスノ》とは申さねども、此(レ)も天照《アマテラス》と申すが御名には非れば、異なり、なほ御名のときは、用言なるをも之《ノ》と讀(ム)べき例をいはば、孝元天皇の御名、日子国玖琉《ヒコクニクルノ》命と申す、玖琉《クル》は書紀に牽《クル》と書れたれば、用言なるべきを、之《ノ》を附《ツケ》ずにはよみがたし、必|之命《ノミコト》之天皇《ノスノラミコト》とこそよむべけれ、又神武(ノ)段なる贄持之子《ニヘモツノコ》石押分之子《イハオシワクノコ》などは、之《ノ》字あれば、殊に論なし、これらをも師は、持を母持《モチ》、分を和気《ヮケ》と訓れつれども、必|母都《モツ》和久《ワク》と訓べきこと、彼(ノ)段に云るが如し、】神祇官(ニ)坐(ス)御巫(ノ)祭(ル)八神(ノ)中の足産日《タルムスビノ》神と申すは、此(ノ)神なるべし、【此(ノ)七代十二柱(ノ)神の中に、たゞ活杙(ノ)》神と此(ノ)淤母陀琉(ノ)神とをのみ、取分て彼(ノ)八神の列《ツラ》に收て祭(リ)たまふことは、彼(ノ)八神は、もはら天皇の大御身を御守護《ミマモリ》のためなれば、活《イク》と申し足《タル》と申す神靈の由縁《ユヱヨシ》を以てなるべし、】〇阿夜※〔言+可〕志古泥《アヤカシコネノ》神.阿夜《アヤ》は驚て歎《ナゲク》こえなり、皇極紀に、咄嗟【今(ノ)本には、咄を吐に誤れり、】を夜阿《ヤア》とも阿夜《アヤ》とも訓(メ)り、【凡そ阿夜《アヤ》阿波禮《アハレ》波夜《ハヤ》阿々《アア》などみな、本は同く歎《ナゲク》聲にて、少しづゝの異《カハリ》あるなり、抑歎くとは、中昔よりしては、たゞ悲《カナシ》み愁《ウレ》ふることにのみ云へども、然《サ》にあらず、那宜伎《ナゲキ》は、長息《ナガイキ》の約まりたる言にて、凡て何事にまれ、心に深く思はるゝことあれば、長き息をつく、是(レ)即(チ)部宜伎《ナゲキ》なり、されば喜《ウレシ》きことにも何にも、歎《ナゲキ》はすることなり、さてその歎きは、阿夜《アヤ》とも阿波禮《アハレ》とも波夜《ハヤ》とも聲の出れば、歎聲《ナゲクコヱ》とはいへり、】又|阿夜《アヤ》と言て歎くべき事を、阿夜爾云々《アヤニシカシカ》とも云り、【阿夜爾《アヤニ》かしこし、阿夜爾戀《アヤニコヒ》し、阿夜爾悲《アヤニカナシ》などの類なり、】又|奇《アヤ》し危《アヤフ》しなども、歎《ナゲキ》て阿夜《アヤ》と云(ハ)るゝより出たる言なり、又|阿那《アナ》も阿夜《アヤ》と通へり、【阿那《アナ》たふと、阿那《アナ》こひしなどの阿那《アナ》なり、書紀應神(ノ)卷に、呉織《クレハトリ》穴織《アナハトリ》とあるを、雄略(ノ)卷には、漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》とあり、是(レ)阿夜《アヤ》阿那《アナ》同じき證なり、】阿那可畏《アナカシコ》は、阿夜可畏《アヤカシコ》と全《モハラ》同じ、※〔言+可〕志古《カシコ》は、古書に、畏可畏恐惶懼などの字を書て、【畏志《カシコシ》畏伎《カシコキ》と活用《ハタラ》きて、其(ノ)伎《キ》は加伎久祁《カキクケ》と活《ハタラ》く言なり、】おそるゝ意なり、【又賢をも、智あるをも云は、然《サ》る人は畏《オソ》るべき故に、轉《ウツ》りていふなり、】さて阿夜爾可畏《アヤニカシコ》しと云ときは、猶《ナホ》ゆるやかなるを、阿夜可畏《アヤカシコ》と云は、其(ノ)可畏《カシコ》きに觸《フレ》て、直《タダチ》に歎《ナゲ》く言なれば、いよゝ切《セチ》なり、泥《ネ》は、男をも女をも尊《タフト》む稱《ナ》なり、其《ソ》は名兄《ナエ》の約《ツヅマ》りたる言なるべし、【兄《エ》は女男にわたる稱なり、同く兄(ノ)字を書《カケ》ども、勢《セ》と云は男に限れり、思ひ混《マガ》ふべからず、】那泥《ナネ》伊呂泥《イロネ》【那泥の事は、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、伊呂泥の事は、浮穴(ノ)宮(ノ)段にいへり、】宿禰《スクネ》などの泥《ネ》も是なり、又天津日子根(ノ)命其外も、某根《ナニネ》てふ名の多かる、皆同じ、さて此(ノ)御名は、神の御面《ミオモ》の滿足《タラハ》せる【淤母陀琉(ノ)神の御名是なり、】を以て、其《ソ》を望《ノゾ》めば、可畏《カシコ》み敬《ヰヤマ》はるゝ意以て負せ奉りしなり、書紀には惶根《カシコネノ》尊とありて、亦曰|吾屋惶根《アヤカシコネノ》尊、亦曰|吾忌橿城《アユカシキノ》尊、【今(ノ)本には吾(ノ)字を脱《オト》せり、類聚國史に此(ノ)字|有《アル》に依て補ふべし、阿由《アユ》は阿夜《アヤ》と通ひ、※〔言+可〕志紀《カシキ》は※〔言+可〕志古《カシコ》と通へり、】亦曰|青橿城根《アヲカシキネノ》尊、【阿乎《アヲ》も阿夜《アヤ》と通ふ、】亦曰|吾屋橿城《アヤカシキノ》尊とあり、さて阿夜《アヤ》に上《アガル》聲を附(ケ)たるは、※〔言+可〕志古《カシコ》と引續《ヒキツヅケ》て一(ツ)に讀《ヨム》べきためなり、一續《ヒトツヅ》けに讀《ヨ》めば、上聲になるなり、【打任《ウチマカ》せては、阿夜と※〔言+可〕志古とを、いさゝか離《ハナ》して讀(ム)べきが如し、然《シカ》離《ハナ》してよむときは、本の平聲なるを、然《サ》は讀《ヨマ》ずして、一(ツ)に合せてよむ、其《ソ》は猿樂の謠物の中に、阿夜※〔言+可〕志《アヤカシ》の着《ツク》と云ことのある、其(ノ)阿夜※〔言+可〕志の讀聲《ヨミコエ》の如し、然《シカ》讀《ヨメ》ば阿夜上聲なり、】

〇豐雲野《トヨクモヌノ》神より※〔言+可〕志古泥《カシコネノ》神まで九柱の御名は、國土《クニ》の初《ハジメ》と神の初《ハジメ》との形状《アリサマ》を、次第《ツギツギ》に配《クバ》り當《アテ》て負せ奉りしものなり、其《ソ》は豐雲野《トヨクモヌ》、宇比地邇《ウヒヂニ》須比智邇《スヒヂニ》、意富斗能地《オホトノヂ》大斗乃辨《オホトノベ》と申すは、國土《クニ》の始《ハジメ》のさま、角杙《ツヌグヒ》活杙《イクグヒ》、淤母陀琉《オモダル》阿夜※〔言+可〕志子古泥《アヤカシコネ》と申すは、神の始《ハジ》まりのさまなり、【但し國土《クニ》も神も、其神の生《ナリ》坐(シ)し時の形状《アリサマ》の、各其(ノ)御名の如くなりしには非ず、必しも其時の形状にはかゝはらず、たゞ大凡《オホヨソ》を以て、次第《ツギツギ》に御名に配當《クバリアテ》たるのみなり、されば此(ノ)御名々々を以て、各其時の形状《アリサマ》と當ては見べからず、此(レ)をよく辨《ワキマ》へずば、疑(ヒ)ありなむものぞ、實は神は、初(メ)天之御中主よりして、何《イヅ》れの神もみな、既に御形は滿足《タラヒ》坐り、面足(ノ)神に至(リ)て初(メ)て足《タラ》ひ坐りとには非ず、又國土は、伊邪那岐伊邪那美(ノ)神の時すら、未(ダ)浮脂の如く漂蕩《タダヨ》へるのみなりしを以て曉《サト》るべし、】然らば須比地邇《スヒヂニ》の次に意富斗《オホト》能地とつゞき、活杙《イクグヒ》の次に淤母陀琉《オモダル》とつゞくべきに、然《サ》は非ずて、國土《クニ》の初(メ)と神の初(メ)と、御名の次第《ツイデ》の參差《イリマガ》ひたるは如何《イカニ》と云に、未(ダ)國處《クニトコロ》は成《ナラ》ざる前《サキ》に、國之常立(ノ)神よりして、次第《ツギツギ》に神|等《タチ》は生《ナリ》坐る【天之常立(ノ)神|以前《マデ》五柱は、天神にて別なる故に、此《ココ》に云(ハ)ず、此《ココ》は國土の初(メ)に就《ツキ》て云故に、國之常立(ノ)神より云々とは云り、】故に、意富斗能地《オホトノヂノ》神の先《サキ》なる神を、角杙《ツヌグヒ》活杙《イクグヒ》と名《ナヅ》け奉り、さて御面《ミオモ》の足《タラ》はせるを見て可畏《カシコ》むは、既に國處も成り、人物《ヒト》も生《ナリ》てのうへの事なる故に、大斗乃辨《オホトノベノ》神の次《ツギ》なる神を、淤母陀琉《オモダル》阿夜※〔言+可〕志古泥《アヤカシコネ》と名《ナヅ》け奉りしにぞあらむ、【書紀には、沙土煮《スヒヂニ》の次|大戸之道《オホトノヂ》とつゞき、又一書には、活※〔木+織の旁〕《イクグヒ》の次|面足《オモダル》と續《ツヅ》けり、】

〇伊邪那岐《イザナギノ》神、伊邪那美《イザナミノ》神、御名義《ミナノココロ》、書紀(ノ)口決に、伊弉《イザ》は誘語《イザナフコトバ》といひ、師も、伊邪那比君《イザナヒギミ》、伊邪那比女君《イザナヒメギミ》てふことなりと云れき、【那比《ナヒ》の比《ヒ》を省きたるぞ、】信《マコト》に此(ノ)二柱(ノ)神、遘合《ミトノマグハヒ》して國土を生成《ウミナ》さむとして、互《タガヒ》に誘《イザナ》ひ催《モヨホ》し賜へる意、【其事次(ノ)段に見ゆ、】然《サ》もあるべし、君《キミ》を岐《ギ》とのみ云る例、明(ノ)宮(ノ)段の大御言に、佐邪岐阿藝《サザキアギ》、又忍熊(ノ)王の歌に伊奢阿藝《イザアギ》、【共に吾君《アギ》の意なり、】などあるが如し、又|女君《メギ》を切《ツヅ》むれば美《ミ》となるなり、【或説に、岐《キ》は比古の倒反、美《ミ》は比賣《ヒメ》の倒反なりといへれど、其《ソ》はたま/\合(ヘ)るにこそあれ、然ることにはあらじ、】又思ふに、此《コ》は遘合《ミトノマグハヒ》せむとしたまふ時に、交《カタミ》に伊邪汝《イザナ》と誘《イザナ》ひ賜へる御言を以(テ)、即(チ)御名に負せ奉(リ)しにて、那《ナ》は汝《ナ》にもあるべし、【かの伊奢阿藝《イザアギ》、又此記萬葉などに、去来子等《イザコドモ》などある類なり、さて岐《ギ》と美《ミ》とは上の意にて、此《コ》は御名に稱《タタヘ》申せるものなるべし、此(レ)も共に其時の互《タガヒ》の御言ともすべけれど、なほ然には非じ、又己(レ)前《サキ》に思ひしは、伊邪《イザ》は誘《イザナフ》言、那岐《ナギ》は汝君伊《ナギイ》、那美《ナミ》は汝妹伊《ナニモイ》なり、伊《イ》は余《ヨ》と云が如し、繼體紀の歌に、愷那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》云々、萬葉十二に、家有妹伊《イヘナルイモイ》云々、續紀(ノ)詔に、藤原(ノ)朝臣麻呂|等伊《ライ》云々、又百濟王敬福|伊《イ》云々、又國王|伊《イ》云々、なほ多き辭なり、さて岐伊《ギイ》は、岐《ギ》に伊《イ》の韻《ヒビキ》ある故に、岐《ギ》とのみ云(ヒ)、汝妹伊《ナニモイ》は、爾《ニ》を省《ハブ》き、毛伊《モイ》を切《ツヅ》むれば美《ミ》なり、如此《カク》思ひつれど、かくては神漏岐《カムロギ》神漏美カムロミ》の例に叶ひ難ければ、此(ノ)考へは癈《スツ》べきなり、】さて伊邪《イザ》てふ言、先(ヅ)右の如く聞ゆれども、伊奢沙和氣《イザサワケノ》神、伊邪能眞若《イザノマワカノ》命、伊邪本別《イザホワケノ》命など申す御名、又|去來之眞名井《イザノマナヰ》、又地(ノ)名にも伊邪河《イザカハ》など、上(ツ)代に多くあれば、他意《アダシココロ》にもあらむか、猶《ナホ》考ふべきなり、岐《ギ》と美《ミ》と相對へる例は、神漏岐《カムロギ》神漏美《カムロミ》、【此(ノ)稱の事は、傳十三の八の葉に云べし、】那藝《ナギ》と那美《ナミ》と偶《タグ》へる例は、沫那藝《アワナギノ》神|沫郡美《アワナミノ》神、頬那藝《ツラナギノ》神|頬那美《ツラナミノ》神これなり、【但し此(ノ)那藝那美は、異意《コトココロ》にもあらむか、其事は傳五(ノ)卷彼(ノ)神の下《トコロ》に云べし、】さて此(ノ)御名書紀には、伊弉諾《イザナギノ》尊|伊弉冉《イザナミノ》尊と書れたり、【書紀ほ、神(ノ)名地(ノ)名などの文字、凡て新《アラタ》に撰《エラビ》て書れたりと見えて、他の古書に例なき書《カキ》ざま多き中にも、此(ノ)二柱の御名の字などは、殊にまぎらはしくて疑ふ人あり、故(レ)今此(レ)を辨ふ、諾は奴各(ノ)反なれば、呉音|那久《ナク》なるを、久《ク》を岐《キ》に轉《ウツ》して用ひたるなり、久《クノ》韻を岐《キ》に用ひたる例多し、さて冉は、今(ノ)本どもに多く冊と作《カケ》れども、冊は測革(ノ)反にて、佐久《サクノ》音なれば、那美《ナミ》には甚《イト》遠し、又〓とも作《カケ》れども、此(レ)も冊と同音なり、又再とも作《カケ》れども、再は作代(ノ)反にて、佐伊《サイノ》音なれば、此(レ)も甚遠し、又〓を、集韻に所晏(ノ)反音※〔言+山〕ともあれども、此(レ)も遠し、されば右の字どもは皆寫(シ)誤(リ)なり、或説に、南(ノ)字を誤れるならむと云る、音はさることなれども、南(ノ)字は用ひらるべくも思はれず、故(レ)思(フ)に、※〔耳+甘〕(ノ)字、集韻に乃甘(ノ)反、正韻に那含(ノ)反音南とあれば、此(レ)ならむかとも思へど、なほ史記(ノ)管蔡世家に、武王(ガ)同母兄弟十人の中に、冉季載と云(フ)あるを、正義に、冉作(ル)v丹(ニ)、音奴甘(ノ)反、或(ハ)作(ル)v※〔冉+おおざと〕(ニ)、音同(ジ)とあれば、此(ノ)冉(ノ)字なるべし、史記は古(ヘ)よりあまねく見る書にて、殊に人(ノ)名なるも由あれば、取(リ)用ひられたるなるべし、奴甘(ノ)反なれは、呉音|那牟《ナン》なるを、牟《ン》を美《ミ》に轉《ウツ》し用ひたること、諾《ナギ》の例に同じ、是(レ)又さる例多きことなり、】

〇以下以前などは、漢文《カラブミ》にして、此間《ココ》の言に非ず、故(レ)以下をば志母《シモ》、以前をば麻傳《マデ》と訓べし、

〇并(ノ)字、延佳本に並と作《カケ》るは非《ヒガコト》なり、此《ココ》のみならず、下にも處々《トコロドコロ》ある、皆准へて知るべし、何《イヅ》れも餘《ホカ》の本どもには、并と作《ア》る其《ソレ》よろし、

〇神世七代《カミヨナナヨ》、神世《カミヨ》とは、人代《ヒトノヨ》【人(ノ)代といふこと、古今集(ノ)序に見ゆ、】と別《ワケ》て云|稱《ナ》なり、其《ソ》はいと上(ツ)代の人は、凡て皆神なりし故に然《シカ》言《イヘ》り、さて何時《イツ》までの人は神にて、何時《イツ》より以來《コナタ》の人は神ならずと云(フ)、きはやかなる差《ケヂメ》はなき故に、萬葉の歌どもなどにも、たゞ古(ヘ)を廣く神代と云り、【六(ノ)卷に、日本國者《ヤマトノクニハ》、皇組乃《スメロギノ》、神之御代自《カミノミヨヨリ》、敷座流《シキマセル》、國爾之有者《クニニシアレバ》、とは、神武天皇の御代を申し、同卷に、自神代《カミヨヨリ》、芳野宮爾《ヨシヌノミヤニ》、蟻通《アリガヨヒ》、高所知者《タカシラスハ》、これも人(ノ)代になりての事なり、十八(ノ)卷に、皇神祖能《スメロギノ》、可見能大御世《カミノオホミヨ》と、垂仁天皇の御世をよめり、又一(ノ)卷には、當代《ソノミヨ》をしも讃《ホメ》奉て、神乃御代《カミノミヨ》とよめり、】然れども事を分(ケ)て云(フ)ときは、鵜葺草葺不合《ウガヤフキアヘズノ》命までを神代とし、【書紀に此(レ)までの二卷を、神代上下と標《シル》されたり、姓氏録にも、此(レ)までの御子孫を神別とし、神武天皇より以來《コナタ》のを皇別とせらる、】白檮原《カシバラノ》朝より以來《コナタ》を人(ノ)代とす、信《マコト》に此(ノ)朝《ミカドノ》御時より、世間《ヨノナカ》のありさま新《アラタ》なりしかば、然《サ》も云つべきものなり、然るを此《ココ》に、伊邪那美(ノ)神までを神世と云るは、後五代《ノチノイツヨ》の神代に言《イヘ》りし稱《ナ》の遺《ノコ》れるなり、其《ソ》は人(ノ)代となりて後に、鵜葺草葺不合《ウガヤフキアヘズノ》命の御時までを申す如くに、五代の神代の時には、又此(ノ)七代を神代と申せしなり、信《マコト》に此(ノ)七代は、天地の初發《ハジメ》の時にして、神の状《サマ》も世のさまも、又|甚《イタ》く異《コト》なりしぞかし、七代は那々余《ナナヨ》と訓べし、萬葉十九【四十丁】橘大臣《タチバナノオホオミ》を壽《コトホ》げる歌に、古昔爾《イニシヘニ》、君之三代經《キミノミヨヘテ》、仕家利《ツカヘケリ》、吾大王波七世申禰《ワガオホキミハナナヨマヲサネ》、【又|父子《オヤコ》相續《アヒツギ》もてゆくを、幾都岐《イクツギ》といへば、那々都岐《ナナツギ》とも訓べし、續後紀十五尾張(ノ)連濱主(ノ)歌に、那々都岐乃美與爾《ナナツギノミヨニ》とよめり、されどなほ那々余と訓むぞ勝《マサ》るべき、】さて此《コ》は十二柱(ノ)神のうち、初《ハジメ》二柱は獨神《ヒトリガミ》成坐し、次十柱は、女男二柱づゝ※〔耒+偶の旁〕坐《タグヒマセ》れば、たゞ十二柱(ノ)神世と申しては、其趣|分《ワカ》り難き故に、後の世嗣《ヨツギ》の例に准へて、假《カリ》に七代とは申せるなり、【されば此《コ》は、父子《オヤコ》相嗣《アヒツグ》如く、前《サキ》の神の御代|過《スギ》て、次(ノ)神の御代とつゞけるには非ず、上にも云る如く、此(ノ)七代の神たちは、追次《オヒスガ》ひて生(リ)坐て、伊邪那岐伊邪那美(ノ)神までも、なほ天地の初《ハジメ》の時なり、猶其證は次(ノ)卷に見えたり、然るを書紀(ノ)一書に、國(ノ)常立(ノ)尊生2天鏡(ノ)尊(ヲ)1、天鏡(ノ)尊生2天萬(ノ)尊(ヲ)1、天萬(ノ)尊生2沫蕩《アワナギノ》尊(ヲ)1、沫蕩(ノ)尊生2伊弉諾(ノ)尊(ヲ)1、また一書に、此(ノ)二神(ハ)青橿城根(ノ)尊(ノ)之子也とある、此等《コレラ》は甚《イタ》く異なる傳(ヘ)にて、いと心得ぬことなり、されば私記にも、或説(ニ)云(ク)、是(ハ)後代(ノ)之見(テ)2代々相(ヒ)嗣(グヲ)1、而假(リニ)謂(ヘリ)2之(ヲ)生(ムト)1、未(ダ)2必(シモ)事(ノ)實(ナラ)1也といへり、さもあるべきことなり、書紀に此《ココ》に、乾坤(ノ)之道相參(テ)而化(ス)、所以《コノユヱニ》成(セリ)2此(ノ)男女(ヲ)1とあるは、例の撰者の漢意のかざりにして、痛《イタ》く古(ヘノ)意に背《ソム》けること、初(ノ)卷に論へるが如し、又後世に、此(ノ)七代を天神七代と申し、後(ノ)五代を地神五代と申すなるは、いかなるをこの者の云(ヒ)初《ソメ》つることにか、更に事の由をも考へず、たゞに強《シヒ》て天と地とに配《アテ》むとての漫説《ミダリゴト》なるを、世に普く云なれて、そのいみしき非《ヒガコト》なることを辨へたる人もをさ/\聞えぬは、いかにぞや、先(ヅ)此(ノ)七代を天神と申せること、古書に見えたることなし、只姓氏録に、角凝魂《ツヌゴリムスビノ》命と申すは、此(ノ)七代の中の角杙(ノ)神なるべく思はるゝに、其(ノ)後胤《スヱ》を天神(ノ)部に收《イレ》られたれども、此《コ》は正《マサ》しく角杙(ノ)神とあるにも非ず、名の異なれば、たゞ名に就《ツキ》て、高御魂(ノ)神などの例として、天神(ノ)部には入(レ)られたる物なるべければ、證とすばかりのことにも非ずかし、既に天之常立(ノ)神の下《トコロ》に、上(ノ)五柱を天神と申すよしことわりたれば、其(ノ)次々ほ天神と申すに非ること明《イチジル》し、天位を知看《シロシメス》を天神と申すなど云説は、近(キ)世の漢意の例の私言《ワタクシゴト》なり、天に坐(ス)神をこそ天神とは申すなれ、然るに伊邪那岐伊邪那美(ノ)神の御事を記せるさまを考るにも、天に坐(ス)神とは見えず、此(ノ)地に坐(ス)神とこそ見えたれ、然ればかにかくに此(ノ)七代は、並《ミナ》此(ノ)國土《クニ》に就坐《ツキマセ》る神たちにぞ有(リ)ける、然はあれども、又|正《マサ》しく是(レ)を地神《クニツカミ》と稱《マヲ》せることも物に見えざるなり、地(ツ)神とは、後(ノ)五代に至(リ)て、此(ノ)國土《クニ》なる神を、天神に對《ムカヘ》て申す稱《ナ》にぞありける、さて又地神五代と申すも、甚《イタ》く違《タガ》へることなり、まづ天照大御神は、高天(ノ)原を知看《シロシメシ》て、今も眼當《マノアタリ》天に坐々《マシマセ》ば、天神なること更なり、次に天之忍穗耳(ノ)命日子番能邇々藝(ノ)命も、高天(ノ)原に成(リ)坐(シ)つれば、天神なり、故(レ)是以《ココヲモテ》穗々手見(ノ)命より以下《コナタ》を、天(ツ)神(ノ)御子と申すなり、さて此(ノ)穗々手見(ノ)命鵜葺草葺不合(ノ)命は、此(ノ)國土に生《アレ》坐て、此(ノ)國土に坐《マシ》まししかば、天神とは申さず、然れども又|此《コレ》を地(ツ)神と申せることは、更に物に見えず、國土《クニ》には生《アレ》坐(セ)れども、天(ツ)神(ノ)御正統《ミスヱ》に坐(ス)が故に、皇孫《スメミマ》とも、又漢文には天孫とも申すなり、かゝれば天神七代地神五代と申すは、返々《カヘスガヘス》當《アタ》らぬ妄稱《ミダリゴト》と知(ル)べし、又此(ノ)七代五代を、天(ノ)七星地(ノ)五行に象《カタド》るといひ、或は易の八卦と云物に配當《アテ》て説(ク)たぐひは、耳に觸聞《フレキク》も穢《ケガラ》はしくなむ、】さて此(ノ)七代の神、書紀は異《カハリ》ありて、國(ノ)常立(ノ)尊の次に國(ノ)狹槌(ノ)尊と申す一代ありて、角杙(ノ)神活杙(ノ)神(ノ)一代無し、又一書には、此(ノ)一代はありて、意富斗能地(ノ)神大斗之辨(ノ)神(ノ)一代無し、さて世(ノ)字と代(ノ)字とを書ること、異なる意あるに非ず、神代七世と易《カヘ》て書(キ)たらむも、只同じkぽとなり、書紀にも、卷(ノ)首《ハジメ》には神代と標《シルシ》ながら、此處《ココ》におは此記と同く、神世七代と書れたり、上(ツ)代より如此《カク》書(キ)傳(ヘ)たる隨《ママ》なりけむかし、

〇上《カミノ》二柱云々の註は、十二柱にして七代なる由を云るなり、

〇各《オノオノ》とは、己々《オノオノ》と云ことなり、【己の假字|淤能《オノ》なれば、各も然なり、袁《ヲ》を用るは誤なり、】稱徳紀の詔には、於乃毛於乃毛《オノモオノモ》とあり、【毛《モ》は辭《テニヲハ》なり、】

〇十神二神は、登婆斯良《トバシラ》、布多婆斯良《フタバシラ》と訓べし、【其(ノ)由は、初(ノ)卷(ノ)訓法《ヨミザマノ》條に云るが如し、】

 

古事記傳侍四之卷

                 本居宣長謹撰

 

    神代二之卷《カミヨノフタマキトイフマキ》

 

於是天神諸命以《ココニアマツカミモロモロノミコトモチテ》。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神《イザナギノミコトイザナミノミコトフタバシラノカミニ》。修理固成是多陀用幣流之國《コノタダヨヘルクニヲツクリカタメナセトノリゴチテ》。賜天沼矛而《アマノヌボコヲタマヒテ》。言依賜也《コトヨサシタマヒキ》。故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而《カレフタバシラノカミアマノウキハシニタタシテ》。指下其沼矛以畫者《ソノヌボコヲサシオロシテカキタマヘバ》。鹽許袁呂許袁呂邇《シオコヲロコヲロニ》【此七字以音】畫鳴《カキナシ》【訓鳴云那志】而《テ》。引上時《ヒキアゲタマフトキニ》。自其矛末垂落之鹽《ソノホコノサキヨリシオタダルシホ》。累積成嶋《ツモリテシマトナル》。是淤能碁呂嶋《コレオノゴロシマナリ》。【自淤以下四字以音】

天神諸《アマツカミモロモロ》、天神《アマツカミ》は、初段《ハジメノクダリ》に見えたる五柱(ノ)天神《アマッカミ》なり、【下に至ては何事にも、高御産巣日(ノ)神之|命以《ミコトモチテ》云々とあるを、此《ココ》にのみは、彼(ノ)大神を分ては擧《アゲ》ずして、かく天神諸と、凡てを擧たること、所以《ユヱ》あるにや、】諸《モロモロ》とは、五柱をあつめて申せるにて、天(ツ)神に屬《ツキ》たる言なり、天(ノ)石屋の段に、八百萬神諸咲《ヤホヨヅノカミモロモロワラフ》、中(ノ)卷|倭建《ヤマトダケノ》命の段に、后等及御子等諸下到而《キサキタチマタミコタチモロモロクダリキマシテ》云々、孝謙紀(ノ)皇大后の宣命に、汝多知諸者吾近姪奈利《イマシタチモロモロハアガチカキヲヒナリ》、稱徳紀の宣命に、天下能人民諸乎愍賜《アメノシタノオホダカラモロモロヲメダミタマヒ》云々などある、是|等《ラ》と同じ例にて、古語の用(ヒ)ざまなり、又|諸《モロモロ》とばかりも云ること多し、萬葉廿(ノ)卷にも、母呂母呂波佐祁久等麻腕乎須《モロモロハサケクトマヲス》、また藥師寺(ノ)佛足石(ノ)歌に、都止米毛呂毛呂《ツトメモロモロ》などある是(レ)なり、【此(ノ)諸(ノ)字を、迦多閇能《カタヘノ》と訓るはひがことなり、此(レ)は眞字《マナ》伊勢物語に諸之人《カタヘノヒト》と見え、又|漢書《カラブミ》にも然《シカ》訓ることあり、其《ソ》は誰《タレ》にまれ一人のことを云(フ)處に、その傍《カタヘ》なる他《ホカ》の人|共《ドモ》を指《サシ》て云ゆゑに、迦多閇能人《カタヘノヒト》とは訓るなれば、固《モトヨリ》其意|異《コト》なるを辨(ヘ)ず、諸(ノ)字をば凡て然訓(ム)は妄《ミダリ》なり、又是(レ)を舊《フルキ》印本にも、元々集と云ものに引たるにも、誥と作《カケ》るは、寫《ウツシ》誤れるなり、】

〇命以、命は御言《ミコト》なり、式の祝詞《ノリト》に、天津神能御言以弖《アマツカミノミコトモチテ》、更量給弖《サラニハカリタマヒテ》云々、などある例以て知(ル)べし、【即(チ)命(ノ)字の意なり、】是(レ)を神の御名に某命《ナニノミコト》と申す命《ミコト》の意に見るは誤なり、以は母知弖《モチテ》と訓べし、【其由は、初(ノ)卷の訓法(ノ)條に云るが如し、又|命袁《ミコトヲ》と袁《ヲ》を添《ソヘ》ずて、直《タダ》に美許生母知弖《ミコトモチテ》と訓べきこと、かの式の例、また彼(ノ)訓法のところに引る歌どもなどの例をもて知べし、】さて此(ノ)命以《ミコトモチテ》は、國司《クニノミコトモチ》など云(フ)母知《モチ》とは意異なり、彼(レ)は命《ミコト》を承《ウケタマ》はりて負持《オヒモツ》こゝろなり、此(レ)は命爾弖《ミコトニテ》と云むが如くにして、以《モチテ》は輕《カロ》き辭なり、

〇伊邪那岐命、伊邪那美命、上(ノ)段には神とあるを、此《ココ》よりしては命と申せり、【こは殊なる意はあるべからず、上は他(ノ)神|等《タチ》みな某(ノ)神と申すゆゑに、それと等《ヒトシ》く神とは申せるなり、】下に至ては、大神《オホカミ》と申せる處もあり、さて凡て某命《ナニノノミコト》と、御名の下に命《ミコト》てふことを添《ソヘ》て申すは、尊む稱《ナ》なり、御名のみならず、天皇命《スメラミコト》、神《カミノ》命、御祖《ミオヤノ》命、皇子《ミコノ》命、父《チチノ》命、母《ハハノ》命、那勢《ナセノ》命、那邇妹《ナニモノ》命、妻《ツマノ》命、妹《イモノ》命、汝命《ナガミコト》などとも云る、記中又萬葉などに多かり、さてこの美許登《ミコト》てふ言の意は、未(ダ)思ひ得ず、【昔より人の云(フ)は、字に就て思へる説なれば信《ウケ》がたく、且《マタ》ことわりも叶はず、さて許《コ》を濁て誦《ヨム》人もあれど、記中にも書紀萬葉などにも、假字《カナ》に清音《スムコヱ》の字をのみ書(キ)つれば、清《スミ》て誦《ヨム》べし、濁音《ニゴルコヱ》に書るは唯《タダ》漢籍《カラブミ》に、天皇を主明樂美御徳《スメラミコト》と書るのみなり、こは好《ヨキ》字の限(リ)を擇《エリ》集めたる物と見ゆれば、清濁の定《サダ》までにはわたるまじければ、據《ヨリドコロ》とするにたらず、】命(ノ)字を書(ク)は、本《モト》御言《ミコト》と云に此字を書るを、言の同じきまゝに、尊稱《タフトムナ》の美許登《ミコト》にも借《カリ》て用ひたるなり、凡て言だに違《タガハ》ねば、文字の義にほ拘《カカハ》らず、左《カ》に右《カク》に借(リ)て書るは、古(ヘ)の常なり、【此字に目《メ》を付(ケ)て、その意をおもふべきにあらず、】さて書紀には、この美許登《ミコト》を、尊(ノ)字と命(ノ)字とに書別《カキワケ》て、至(テ)貴(キヲ)曰(ヒ)v尊(ト)、自餘(ハ)曰(フ)v命(ト)、並《ミナ》訓(ム)2美擧登《ミコトト》1と注《シル》されたり、これ君と臣と稱の同じきを惡《ニクミ》て、強《シヒ》て別《ワカ》むために、文字を書《カキ》かへ賜ふ、撰者の所為《シワザ》なり、さてその尊は、字の意を取て書《カカ》れたれば正字なり、命は、古(ヘ)より書來《カキコ》しを其《ソノ》隨《ママ》なれば、猶《ナホ》借(リ)字なり、【然るを尊に對《ムカヘ》て、この命(ノ)字をも、臣は君の命令を承る意ぞなどいふは、甚《イタク》強言《シヒゴト》なり、もし強《シヒ》て云(ハ)ば、命令を出す人を命と云むは、猶ことわり有(ル)に似たるを、其《ゾレ》を承る人を然《シカ》云むは、甚《イタ》く事たがへるをや、】

〇是多陀用幣流之國《コノタダヨヘルクニ》とは、正《マサ》しく初(ノ)段に、國稚如浮脂而《クニワカクウキアブラノゴトクニシテ》、とある物を指《サシ》て詔《ノタマ》へるなり、彼處《カシコ》にも久羅下那洲多陀用幣琉《クラゲナスタダヨヘル》とあると、言の同じきを以てさとるべし、又下に引る書紀(ノ)一書に、有物若浮膏云々とあるをも思ふべし、されば上にも云る如く、天之御中主(ノ)神より此(ノ)二柱(ノ)神までは、さしつゞきて次第《ツギツギ》に同(ジ)時に成(リ)坐て、此(ノ)時も即かの國稚《クニワカク》如(クニシテ)2浮脂(ノ)1而|漂蕩《タダヨヘ》る時なり、さて彼處《カシコ》にも云る如く、未(ダ)國と云物はなき時なれども、出來《イデキ》て後の名を以て、其(ノ)初(メ)をも如此《カク》國《クニ》とは語り傳(ヘ)しなり、【實は此時は、たゞ潮のかつ/”\凝《コリ》なむとして、たゞよへるのみぞ、】

〇修理固成《ツクリカタメナセ》、【修(ノ)字脩と作《カケ》るは正しからず、】修理は、たゞ作《ツクル》と書(ク)と同じことなり、玉垣(ノ)宮(ノ)御段《ミクダリ》に、修2理《ツクル》我宮《アガミヤヲ》】なども書り、さて國を修理固《ツクリカタム》と云語は、神産巣日《カミムスビノ》神の、少名毘古那《スクナビコナノ》神の事を、大穴牟遲《オホナムヂノ》神に、與汝葦原色許男命爲兄弟而《イマシアシハラシコヲノミコトトアニオトトナリテ》、作堅其國《カノクニツクリカタメヨ》、と詔《ノラ》ししこと下に見え、又其(ノ)二柱(ノ)神|相並作堅此國《アヒナラビテコノクニツクリカタム》ともあり、【文徳實録七に、佛毛平爾《ホトケモタヒラカニ》奉2造固《マツリツクリカタメ》1などもあり、和名抄に、修理職をば、乎佐女豆久留豆加佐《ヲサメツクルツカサ》とあり、】修理固《ツクリカタメ》と三字引(キ)つゞけて訓べし、成《ナセ》とは成《ナ》し竟《ヲへ》よと云ことなり、是(レ)もかの大穴牟遲(ノ)神の段《クダリ》に、國難成《クニナリガタケム》などあり、書紀にも成不成《ナルナラヌ》の論《アゲツラヒ》あり、さて作堅《ツクリカタム》と成《ナス》とは、似たることをかく重《カサネ》て云(フ)は古語なり、

〇詔は能理碁知弖《ノリゴチテ》と訓べし、能流《ノル》とは、人に物を云聞《イヒキカ》すことなり、己《オノ》が名を人に云(ヒ)聞すを、名告《ナノル》と云にて知べし、又法を能理《ノリ》と云も、上より云々《シカシカ》せよと定(メ)て、云(ヒ)聞せたまふより出たり、告また謂などの字をも、能留《ノル》と訓ること、記中又萬葉などに數多《アマタ》あり、【此等の字を、今(ノ)本には誤て、異《コト》さまに訓る所多し、古語に昧《クラ》き故なり、よく考(ヘ)て正《タダ》すべし、】さて此(ノ)詔(ノ)字、美許登能理《ミコトノリ》とも能理賜布《ノリタマフ》とも云り、【美許登能理《ミコトノリ》は御言詔《ミコトノリ》なり、能理多麻布《ノリタマフ》は詔賜《ノリタマフ》なり、常に能多麻布《ノリタマフ》と云は、此(ノ)理《リ》を省《ハブ》けるなり、】記中にても其所《ソコ》の言のつゞきに因て、訓《ヨム》さまいさゝか異《カハ》るべし、されど能留《ノル》てふ言はいづくにても離《ハナ》れぬなり、本(ト)それより樣々《サマザマ》に用《ツカ》ひ分《ワケ》たる故なり、能理碁都《ノリゴツ》は、書紀(ノ)崇神(ノ)卷に令《ノリゴチテ》2諸國《クニグニニ》1などあり、歌物語に、獨碁都《ヒトリゴツ》、所聞碁都《キコエゴツ》、政碁都《マツリゴツ》など云ると同じ格《サマ》にて、詔言爲《ノリゴトス》を約《ツヅ》めたる言なり、【應神紀に令《ノリゴトシテ》2有司《ツカサツカサニ》1とあり、】源氏(ノ)物語|東屋《アヅマヤノ》卷に、帝《ミカド》の御口《オホムクチ》づから碁弖《ゴテ》たまへるなりとあるは、能理碁知賜《ノリゴチタマフ》を、後にいひなれて、能理《ノリ》を省《ハブ》ける語なるべし、

〇天沼矛《アマノヌボコ》、書紀に天之瓊矛と書て、瓊此(レヲ)云(フ)v努《ヌト》、【書紀にて是(レ)を登富許《トホコ》と訓(ミ)來れるは、云に足(ラ)ぬ俗訓《サトビヨミ》なり、努(ノ)字、一本に貳《ニ》とありしよし私記に見ゆ、】とあれば、沼《ヌ》は借(リ)字にて玉なり、玉を奴《ヌ》と云るは、書紀に、瓊響※〔王+倉〕々此(レヲ)云(フ)2奴儺等母母由羅爾《ヌナトモモユラニト》1とある、【今(ノ)本瓊響(ノ)二字|脱《オチ》たり、又奴(ノ)上に乎(ノ)字あるも衍《アヤマリ》なり、又其(ノ)説どもも皆誤れり、此記と合せて考るときは、自《オノヅカ》ら明らけし、】奴儺等《ヌナト》は即(チ)瓊《ヌ》の響《オト》なり、【能《ノ》を那《ナ》と云も、淤《オ》を略《ハブ》くも、例多し、】又天武天皇の夫人《キサキ》に大※〔草がんむり/(豕+生)〕娘《オホヌノイラツメ》あり、舊事紀に天(ノ)〔草がんむり/(豕+生)〕槍と云あり、此(ノ)二(ツ)を合せて思ふに、是(レ)も玉を奴《ヌ》と云る一(ツ)の例ならむか、【※〔草がんむり/(豕+生)〕(ノ)字はさらに玉に由なければ、和を※〔口+禾〕とも書(ク)ごとき例に、※〔王+遂〕(ノ)字などを※〔しんにょう+(遂+玉)〕と書るを誤れるか、】かくて瓊を書紀に常に邇《ニ》と訓《ヨ》めば、それを通(フ)音《コヱ》に奴《ヌ》とも云しなるべし、矛は和名抄に、楊雄方言(ニ)云(ク)、戟或(ハ)謂2之(ヲ)干(ト)1、或(ハ)謂(フト)2之(ヲ)戈(ト)1、和名|保古《ホコ》、また釋名(ニ)云(ク)、手戟(ヲ)曰v矛(ト)、人(ノ)所v持也、字亦作(ルト)v鉾(ニ)、和名|天保古《テホコ》とあり、【此方の古書には、戟矛など字にはかゝはらず、みな通はし書り、桙《ホコ》とも多く書たり、矛を天保古《テホコ》と云るは、古(キ)名にはあらじ、手戟と云るにつきてのことなるべし、】上(ツ)代には殊に常に用ひし兵器《ツハモノ》にて、古書に多く見えたり、【日矛《ヒボコ》、茅纏之※〔矛+肖〕《チマキノホコ》、廣矛《ヒロホコ》、八尋矛《ヤヒロボコ》などいふ稱《ナ》見えたり、】沼矛《ヌボコ》は、玉桙《タマボコ》と云如く、玉以て飾《カザ》れる矛《ホコ》なるべし、古(ヘ)はかゝる物にも玉をかざれる、常のことなり、さて萬(ヅ)の物に天之某《アマノナニ》と、天《アマ》てふ言を上に添(ヘ)て呼(ブ)ことは、御孫《ミマノ》命の天降《アモリ》坐(シ)し時、大御身《オホミミ》に服御物《ソヘルモノ》、また御從《ミトモ》の神|等《タチ》のとり/”\に持《モタ》しし物など、凡て天《アメ》より降來《クダリコ》し物多し、其時に此(ノ)國の物と別《ワカ》ちて、天物《アメノモノ》をば天之某々《アマノナニナニ》と呼《ヨビ》しなり、さて後には、此(ノ)國にて作る物も、彼(ノ)天(ノ)物の制《ツクリ》ざまにならへるをば、然《シカ》云《イヒ》けらし、さて又|轉《ウツリ》ては、何《ナニ》となく唯|美稱《ホメ》て云りと思はるゝもあるなり、【それはた天(ノ)物は美《ウルハ》しかりしよりのことなり、】さて此(ノ)類の天は、後にはみな阿麻能《アマノ》とのみ訓(メ)ど、倭建(ノ)命の御歌に、阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》、書紀仁徳(ノ)御卷(ノ)歌に、阿梅箇儺※〔麻/(ノ+ム)〕多《アメカナバタ》なども有(レ)》ば、阿米能某《アメノナニ》阿米某《アメナニ》など訓べきもあるべし、されど定《サダ》かなる證《シルシ》の見えぬは、姑《シバラ》く舊訓《フルヨミ》に從ひつ、さて今國を作(リ)固めよとして、此矛を賜へること、如何《イカ》なる所以《ユヱ》とも知(ル)べからず、穴畏《アナカシコ》後の世の心もておしはかり言《ゴト》な為《セ》そ、【又此(ノ)矛に、例の種々《クサグサ》の説あれど、皆云(フ)にたらず、或は今伊勢の瀧祭《タキマツリノ》宮の地底《ツチノソコ》に藏《ヲサマ》るなど云も、いと/\信《ウケ》難きことなりかし、】

〇言依賜也《コトヨサシタマヒキ》、言《コト》は借字にて事なり、即(チ)事と書る所もあり、若(シ)言の意ならば、御言依《ミコトヨサシ》とあるべきに、何《イヅレ》の書にも御《ミ》と云るはなし、依《ヨサス》は、因《ヨサス》とも寄《ヨサス》とも所寄《ヨサス》とも書て、即(チ)字の如く與須《ヨス》なるを延《ノベ》て云(フ)言なり、佐須《サス》を切《ツヅム》れば即(チ)須《ス》なり、凡て古語は延《ノベ》ても縮《チヂメ》ても云こと多し、【其例は、次の立《タタス》の所にいふが如し、】然らば與世《ヨセ》を延《ノベ》ては與佐世《ヨサス》と云べきを、與佐斯《ヨサシ》と訓(ム)はいかにと云に、古(ヘ)は與世《ヨセ》を興斯《ヨシ》とも云るなり、書紀(ノ)神代(ノ)卷の歌に、妹盧豫嗣爾《メロヨシニ》、豫嗣豫利據禰《ヨシヨリコネ》【此歌、上は網《アミ》のことを序に云て、その網の目《メ》を引依《ヒキヨス》れば依《ヨリ》くる如く、依り來《コ》よと詠るなり、註ども痛《イタ》く誤れり、】とあるは、目依《メロヨセ》に依々來《ヨセヨリコ》ねと云ことなり、又萬葉十四【十九丁】に、都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》とよめるも、妻依令來《ツマヨコセ》ねなり、此外もあり、さて與佐斯《ヨサシ》と訓(ム)たしかなる證は、聖武紀(ノ)詔に、吾孫將知食國天下止《アガミマノシラサムヲスクニノアメノシタト》、與佐斯奉志麻爾麻爾《ヨサシマツリシマニマニ》とあり、佐《サ》を清《スミ》て誦《ヨム》べきことは、與須《ヨス》の延《ノビ》たる言なるを以て知べし、【今(ノ)人多く濁るはひがことなり、】さて與佐須《ヨサス》とは、任(ノ)字をも書て、事《コト》を其(ノ)人に依任《ヨセマカセ》て、執行《トリオコナ》はしむる意なり、光仁天皇の、藤原(ノ)永手大臣《ナガテノオホオミ》の薨《ミマカラ》れしを悼《イタミ》坐る大命《オホミコト》に、大政官之政|乎波《ヲバ》、誰任之加母罷伊麻須《タレニヨサシカモマカリイマス》、と詔《ノタマ》へるも、誰《タレ》に任《マカ》せ置《オキ》て身罷坐《ミマカリマス》ぞとなり、又封(ノ)字を訓(ム)も、其國の政を其人に依任《ヨセマカ》す意なり、言依《コトヨサス》てふ語《コトバ》は、此卷の下にも、續日本紀(ノ)宣命式(ノ)祝詞《ノリト》などにも、あまた見えて、皆同じ意なり、書紀には勅任《コトヨサス》ともあり、又應神(ノ)御卷に、任《コトヨサシテ》2大山守(ノ)命(ニ)1、令《ム》v掌(ラ)2山川林野(ヲ)1などもあり、賜《タマフ》は、上の賜《タマヒ》とは異《カハ》りて、たゞ尊《タフト》みて申す附辭《ツケコトバ》なり、

〇天浮橋《アマノウキハシ》は、天《アメ》と地《ツチ》との間《アヒダ》を、神たちの昇降《ノボリクダ》り通ひ賜ふ路《ミチ》にかゝれる橋なり、空《ソラ》に懸《カカ》れる故に、浮橋とはいふならむ、【和名抄に、魏略五行志(ニ)云、洛水(ノ)浮橋(ト)、和名|宇岐波之《ウキハシ》とあるは、水(ノ)上に浮たるなれば異なり、】天(ノ)忍穗耳(ノ)命番能邇々藝(ノ)命などの、天降り坐むとせし時も、天(ノ)浮橋に立《タタシ》しこと、下に見えたり、さて此橋のこと、後(ノ)人の例の漢書心《カラブミゴコロ》の、なま賢《サカシ》き説どもは云に足(ラ)ねば論《アゲツラ》はず、丹後(ノ)國(ノ)風土記(ニ)曰(ク)、與謝(ノ)郡(ノ)郡家(ノ)東北(ノ)隅方《スミノカタニ》有(リ)2速石(ノ)里1、此(ノ)里(ノ)之海(ニ)有(リ)2長(ク)大(キナル)石前《イソザキ》1、長(サ)二千二百廿九丈、廣《ヒロサ》或所《アルトコロハ》九丈以下、或所《アルトコロハ》十丈以上廿丈以下、先《サキヲ》名(ケ)2天梯立《アマノハシダテト》1、後《シリヲ》名(ク)2久志濱《クシノハマト》1、然云《シカイフハ》者、國生大神伊射奈0藝《クニウミマセルオホカミイザナギノ》命、天爲通行而《アメニカヨハサムトシテ》、梯作立《ハシヲツクリタテタマフ》、故《カレ》云(フ)2天梯立《アマノハシダテト》1、神御寢坐間仆伏《カミノミネマセルアヒダニタフレフシキ》云々、此(レ)に因《ヨレ》ば、此(ノ)浮橋もと此神の作り坐《マシ》しなり、さて天《アメ》に通ふ橋なれば、梯階《ハシダテ》にて、立《タチ》て有(リ)しを、神の御寢坐《ミネマセ》る間に仆《タフ》れ横《ヨコ》たはりて、丹後(ノ)國の海に遺《ノコ》れるなり、こは倭《ヤマト》の天香山《アメノカグヤマ》、美濃《ミヌ》の喪山《モヤマ》などの故事《フルコト》の類にて、神代にはかゝることいと多し、後(ノ)人|儒者心《ズサゴコロ》もて勿《ナ》あやしみそ、又播磨(ノ)國(ノ)風土記(ニ)曰(ク)、賀古(ノ)郡益氣(ノ)里(ニ)有(リ)2石橋1、傳(ヘテ)云(ク)、上古(ノ)之時此(ノ)橋|至《イタル》v天《アメニ》、八十人衆上下往來《ヤソノヒトドモノボリクダリカヨヒキ》、故《カレ》曰(フ)2八十《ヤソ》橋(ト)1、これも天《アメ》に往來《カヨヒ》し一(ツ)の橋と見ゆ、神代には天に昇(リ)降る橋、此所彼所《ココカシコ》にぞありけむ、是(レ)を以て思へば、彼(ノ)御孫《ミマノ》命の降りたまふ時|立《タタ》ししは、此處《ココノ》天(ノ)浮橋と一(ツ)にはあらで、別《コト》浮橋にぞ有(リ)けむ、さて此《ココ》を書紀(ノ)一書には、二神立(シテ)2于|天霧之中《アメノサギリノナカニ》1曰(ク)云々ともあるは、異なる傳(ヘ)》なり、

〇註に、訓(テ)v立(ヲ)云(フ)2多々志《タタシト》1、下には天(ノ)忍穗耳(ノ)命|於天浮橋多々志而《アメノウキハシニタタシテ》とも書り、書紀(ノ)欽明(ノ)卷(ノ)歌に、基能倍※〔にんべん+爾〕陀々志《キノベニタタシ》、【城之上立《キノベニタタシ》なり、】又推古(ノ)卷(ノ)歌に、異泥多々須《イデタタス》【出立なり、】など、其外つね多き古語なり、是《コ》は依《ヨス》を與佐須《ヨサス》と云に同くて、延《ノベ》たる言なり、行《ユク》を由迦須《ユカス》、取《トル》を登羅須《トラス》、持《モツ》を毛多須《モタス》、守《モル》を毛羅須《モラス》、待《マツ》を麻多須《マタス》など、凡て如此樣《カクサマ》に延《ノベ》て云(フ)、常のことなり、そは先(ヅ)は尊みて云(フ)語の如く聞ゆ、然れども又、賤き者の上《ウヘ》にも然云ること、あまた見えたり、

〇指下《サシオロシ》は、かの虚空中《オホソラ》に如(ク)2浮脂(ノ)1たゞよへる、一屯《ヒトムラ》の物の中へ指下したまふなり、書紀一書に、伊弉諾伊弉冉二神|相謂曰《カタラヒタマハク》、有物若浮膏《ウキアブラノゴトクナルモノアリ》、其中蓋有国乎《ソノナカニケダシクニアラムカ》、乃以(テ)2天(ノ)瓊矛(ヲ)1探2成一(ノ)嶋(ヲ)1、名(ケテ)曰2※〔石+殷〕馭盧嶋《オノゴロシマト》1、とあるを以て知べし、

〇矛《ホコ》の下なる以(ノ)字は、佐志淤呂志弖《サシオロシテ》の弖《テ》に當《アテ》て訓(ム)べし、字のまゝに訓(ム)は漢文語《カラブミヨミ》なり、

〇畫者《カキタマヘバ》、畫(ノ)字は、書紀一書にも、畫《カキテ》2滄海《ウナバラヲ》1とも、又|畫2成《カキナシタマフ》※〔石+殷〕馭盧嶋《オノゴロシマヲ》1ともありて、似たることながら、猶《ナホ》此(ノ)字の意にはあらねば、借(リ)字なり、式(ノ)祈年祭(ノ)祝詞にも、泥畫寄弖《ヒヂカキヨセテ》と書り、これら古(ヘ)より、書來《カキコ》し字を、そのまゝ用(ヒ)たる物なり、此(ノ)迦久《カク》は、攪(ノ)字などの意にして、俗語《サトビゴト》に迦伎麻波須《カキマハス》と云が如し、書紀本書に、以天之瓊矛指下而探之《アマノヌボコヲサシオロシテサグリタマヘバ》とあり、彼(ノ)一書の畫《カキテ》をも、口決《クケツ》に以(テ)v矛(ヲ)探(ル)v海(ヲ)也と解《トキ》たる、よく當れり、【畫(ノ)字に就て云る註は、なか/\に惡《ワロ》し、】さて其《ソレ》を迦久《カク》と云るは、凡て手末《テノサキ》して為《ス》るわざを、迦伎云々《カキシカシカ》と云(フ)、【迦伎上《カキア》ぐ、迦伎因《カキヨ》す、迦伎亂《カキミダ》すなどのごとし、】又必しも手《テ》して為《セ》ねども、其《ソノ》状《サマ》の同じきは、物もて為《ス》る事《ワザ》をも然《シカ》云なり、【痒《カユキ》を掻《カク》、字《ジ》繪《ヱ》などを書《カク》、木葉《コノハ》などをかくの類なり、】此《ココ》は彼(ノ)空中《オホソラ》に漂《ダダヨ》へる物【潮《ウシホ》に泥《ヒヂ》の和《マジ》れる一沌《ヒトムラ》の物なり、】を固《カタ》めむ爲《タメ》に、矛《ホコ》以て攪探《カキサグ》り賜ふなり、【彼(ノ)書紀の探《サグル》は、上下の語を思ふに、探求《サグリモトム》る意なり、此(ノ)記の迦久《カク》は、求る意には非ず、若《モシ》是(レ)を然《サ》る意とせば、許袁呂許袁呂邇書成《コヲロコヲロニカキナス》とあるに叶はず、且《ソノウヘ》天(ツ)神の、是漂有國《コノタダヨヘルクニ》と指《サシ》て詔《ノタマ》へば、漂有國《タダヨヘルクニ》は著明《アラハ》なれば、尋求《タヅネモトメ》賜(フ)べきにあらず、】

〇鹽《シホ》は潮《シホ》なり、【鹽と潮と字は異《コト》なれども、斯富《シホ》てふ名は一(ツ)なり、】和名抄に、潮、和名|宇之保《ウシホ》、齊明紀の大御歌に于之※〔衣の間に臼〕《ウシホ》とあり、又これを斯富《シホ》とのみ云るもつねのことなり、

〇許袁呂許袁呂邇《コヲロコヲロエ》は、【これを諸本に許々袁々呂々邇と作《カケ》るは、古(ヘ)の書法なり、下の大穴牟遲(ノ)神の段に、鼠《ネズミ》の外者須夫須夫《トハスブスブ》と云るをも、須々夫々とかき、又神武紀の、伊莽波豫《イマハヨ》、伊莽波豫《イマハヨ》、阿々時夜塢《アアシヤヲ》、伊莽※〔にんべん+嚢〕而毛阿誤豫《イマダニモアゴヨ》、伊莽※〔にんべん+嚢〕而毛阿誤豫《イマダニモアゴヨ》と云歌を、舊事紀には、伊々莽々波々豫々、阿々時夜塢、伊々莽々※〔にんべん+嚢〕々而々毛々、阿々誤々豫々と書るなど、書紀の古本には、然《シカ》有(リ)しを寫《ウツ》せしならむ、古(ヘ)は凡て如此《カク》さまに書(ケ)りしなり、然れども其《ソ》は、同字の重《カサナ》れるを、省書《ハブキカク》とてのうちとけわざにこそあれ、正しき書典《フミ》などには、然《サ》は書(ク)まじきことなり、故(レ)今は延佳本に從ひて、正《ウルハ》しく書つ、此(ノ)餘《ホカ》も、此(ノ)書格《カキザマ》みな同じことなり、】彼(ノ)矛以て迦伎賜《カキタマ》ふに隨《シタガ》ひて、潮の漸々《ヤウヤウ》に凝《コリ》ゆく状《サマ》なり、即(チ)許袁呂《コヲロ》と凝《コル》と言も通へり、そは下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段に、大御盞《オホミサカゾキ》に落葉の浮るを、三重《ミヘ》の※〔女+采〕《ウネベ》が歌に、美豆多麻宇伎爾《ミヅタマウキニ》、宇岐志阿夫良《ウキシアブラ》、淤知那豆佐比《オチナヅサヒ》、美那許袁呂許袁呂爾《ミナコヲロコヲロニ》云々、とあると同じ、さて此《ココ》の状《アリサマ》を物に譬(ヘ)ていはば、膏《アブラ》などを煮《ニ》かたむるに、始《ハジメ》のほどは水の如くなるを、匕《カヒ》もて迦伎《カキ》めぐらせば、漸々《ヤウヤウ》に凝《コリ》もてゆくが如し、【但し膏《アブラ》を煮《ニ》むはさることなれど、潮は如何《イカニ》かきめぐらせばとても、凝《コラ》むこといかゞ、と云(フ)疑(ヒ)も有(リ)ぬべけれど、此《コ》は産巣日《ムスビノ》

神の産靈《ムスビ》によりて、國土《クニ》の初《ハジ》まるべき、神の御爲《ミシワザ》なれは、今|尋常《ヨノツネ》の小理を以て、左《カ》に右《カク》に測《ハカリ》云(フ)べきにあらず、今はたゞ其《ソノ》状《サマ》をたとへていへるのみなり、】

〇書鳴《カキナシ》は、彼(ノ)浮脂《ウキアブラ》の如《ゴト》漂《タダヨ》へる物を迦伎《カキ》て、稍《ヤヤ》凝《コリ》たる物に成《ナス》なり、鳴は借字にして、成《ナス》の意なり、即(チ)書紀には畫成探成《カキナスサグリナス》など書り、【然らば直《タダ》に成(ノ)字を書べきに、物遠《モノドホ》き字を借《カ》れるは、今は如何《イカニ》ぞや思はるれども、古(ヘ)は例の只|何心《ナニゴコロ》なく書來《カキコ》し字を、やがてそのまゝに書るなり、さて古(ヘ)は、琴《コト》を弾鳴《ヒキナラス》を比伎那須《ヒキナス》、笛を吹鳴《フキナラス》を布伎那須《フキナス》、鼓《ツヅミ》を打鳴《ウチナラス》を宇知那須《ウチナス》など、凡て鳴《ナラス》を那須《ナス》といひし故に、成《ナス》に此(ノ)字を借れるなり、〇舊印本(ノ)註には、訓(テ)v鳴(ヲ)云2那志々(ト)1とあるを、師は此(レ)を用ひて、ナシヽテと訓れき、そは見《ミ》たまふをみしたまふと云格の語と見られたるにや、されど那志々《ナシシ》とあるは、誤なるべし、】

〇引上《ヒキアゲタマフ》は、彼(ノ)矛をなり、

〇其(ノ)矛末《ソノホコノサキ》、末は佐伎《サキ》と訓べし、下に着《ツケル》2其御刀前《ソノミハカシノサキニ》1之|血《チ》云々、以《モチテ》2御刀(ノ)之|前《サキ》1云々、趺2坐(テ)其劔釦前《ソノツルギノサキニ》1云々など、皆|佐伎《サキ》と云(ヒ)、書紀欽明(ノ)卷に鉾末《ホコノサキ》、新撰字鏡にも、欽(ハ)保己乃佐支《ホコノサキ》とあればなり、【國栖等《クズドモ》が、大雀《オホサザキノ》命の御刀《ミタチ》を見てよめる歌に、波加勢流多知《ハカセルタチ》、母登都流藝《モトツルギ》、須惠布由《スヱフユ》云々とあれば、須惠《スヱ》と訓むも誤《ヒガコト》ならねど、なほ多き方によるべし、】

〇垂落は斯多陀流《シタダル》と訓べし、書紀の訓も然なり、又|劔刀垂血《ツルギノハヨリシタダルチ》などもあり、斯多陀流の斯多《シタ》は、※〔酉+麗〕《シタム》といふと同じ、

〇落の下なる之(ノ)字、諸本に鹽(ノ)字(ノ)下にあるは誤なり、如此《カク》下上に寫(シ)誤れる例|往々《トコロドコロ》にあり、今は一本に從(ヒ)つ、書紀にも滴瀝《シタダル》之|潮《シホ》、また垂落《シタダル》之|潮《シホ》とあり、且《ソノウヘ》記中の之(ノ)字を置《スウ》る例も、然ればなり、

〇累積は都母理弖《ツモリテ》と訓べし、

〇淤能碁呂嶋《オノゴロシマ》は、【碁(ノ)字、諸本みな基と作《ア》れども、此嶋(ノ)名、下にも又高津(ノ)宮(ノ)段の御歌にも、共に碁とあれば、今は其《ソレ》に依(リ)つ、碁呂《ゴロ》の碁《ゴ》を清《スミ》て讀(ム)は誤なり、書紀にも濁音の馭(ノ)字を用(ヒ)られたり、又|嶋《シマ》の志《シ》は、彼(ノ)大御歌に清音《スムコヱ》の志《シノ》字を書れば、清《スム》べきなり、】私記に、自凝之嶋也《オノヅカラコレルシマナリ》、猶3如《ゴトシ》言(ムガ)2自凝《オノコリト》1也とあり、彼(ノ)許袁呂許袁呂《コヲロコヲロ》にかき成(シ)賜へる潮の滴《シタダ》りの積《ツモリ》て成れる故の名なり、【即(チ)許袁呂《コヲロ》を切《ツヅム》れば許呂《コロ》なり、さて此嶋は、國土《クニツチ》の成れる初《ハジメ》なれば、地《ツチ》と云名は、※〔泥/土〕《ヒヂ》の聯接《ツヅキ》て成れる由にて、都豆比遲《ツヅヒヂ》の約《ツヅ》まれるなるべし、】自《オノ》と云|所以《ユヱ》は、他《ホカ》の嶋國《シマクニ》は皆二柱(ノ)神の生成《ウミナシ》賜へるに、此(ノ)嶋のみは然らず、自然《オノヅカラ》に成れればなり、故(レ)下に唯意能碁呂嶋者《タダオノゴロシマノミハ》、非所生《ウミマセルナラズ》とあり、【是(ノ)嶋を御國《ミクニ》の本(ノ)名として、丈夫嶋《ヲノコシマ》の意なりと云は、古語知(ラ)ぬ者《モノ》のひが言なり、袁能古《ヲノコ》の袁《ヲ》は音|異《コト》なり、自《オノ》は淤能《オノ》の音にして、よく叶へり、後(ノ)世に自の假字《カナ》に袁《ヲ》を用るは誤なり、其餘《ソノホカ》も説|共《ドモ》多けれど、皆云(フ)に足(ラ)ず、】さて此(ノ)嶋の在所《アリドコロ》は、高津(ノ)宮(ノ)段に、天皇の淡道嶋《アハヂシマ》に大坐ましての大御歌に、阿波志摩《アハシマ》、淤能碁呂志摩《オノゴロシマ》、阿遲摩佐能志麻母美由《アヂマサノシマモミユ》云々、とあるに因《ヨレ》ば、淡嶋《アハシマ》の並《ナラビ》と聞えたり、【淡嶋のことは、下に委くいふ、】私記に、今見《イマゲムニ》在(ル)2淡路嶋(ノ)西南(ノ)角《スミニ》1小嶋是也《コシマコレナリ》、云(フ)3俗猶《クニビトナホ》存(スト)2其(ノ)名(ヲ)1也と云(ヒ)、口決には、在(ル)2淡路(ノ)西北(ノ)隅(ニ)1小嶋(ナリ)と云り、西北西南いづれか實ならむ、【或説に、後世歌によむ淡路の繪嶋《ヱジマ》これなり、日本紀に、以2※〔石+殷〕馭廬嶋(ヲ)1爲v胞《エト》、とあるより出て、もとは胞嶋《エジマ》の意なりと云り、又或説に、淡路の西北(ノ)隅にある胞嶋《エジマ》これなり、今も胞嶋《エジマ》と云(ヒ)、又おのころ嶋てふ名も存せり、さて其(ノ)地方に、鶺鴒嶋《セキレイジマ》と云もあり、磐※〔木+豫〕樟《イハクスノ》神社と云もあり、式に石屋《イハヤノ》神社とあるこれなり、岩窟《イハヤ》の内に、二柱(ノ)大神に蛭兒を合せ祭る、其(ノ)東南(ノ)方の山に、天地大神宮といふあり、國常立(ノ)尊伊弉諾(ノ)尊伊弉冉(ノ)尊三座なり、其攝社に八十萬神ありと云り、又荒木田(ノ)瓠形(ガ)云(ク)、おのれさきに西(ノ)國へまかりしとき、おのごろ嶋のあたりを經行《ヘユキ》たり、淡路の津名(ノ)郡石屋(ノ)神社の東の小嶋なりと云りき、又或説に、淡路と紀伊(ノ)國の境、由理(ノ)驛の西方なる小嶋なりと云り、こは違へるが如し、】さて此(ノ)嶋の先(ヅ)成堅《ナリカタ》まりしは、大八嶋國《オホヤシマクニ》の成《ナル》べき基《モトヰ》なり、其(ノ)故は、二柱(ノ)神|國士《クニツチ》を生成《ウミナシ》賜(ハ)むとて、殿造《トノヅクリ》して共住《トモニスミ》て、其柱を廻逢《メグリアヒ》て御合坐《ミアヒマス》に、此(ノ)嶋は、其(ノ)殿の柱を立(ツ)べき基《モトヰ》の、先(ヅ)成堅《ナリカタマ》れる物なればなり、猶其事は、次々《ツギツギ》に見えたるを考(ヘ)て知べし、

 

於其嶋天降坐而《ソノシマニアモリマシテ》。見立天之御柱《アメノミハシラヲミタテ》。見立八尋殿《ヤヒロドノヲミタテタマヒキ》。於是問其妹伊邪那美命曰《ココニソノイモイザナミノミコトニ》。汝身者如何成《ナガミハイカニナレルトトヒタマヘバ》。答曰吾身者成成不成合處一處在《アガミハナリナリテナリアハザルトコロヒトトコロアリトマヲシタマヒキ》。爾伊邪那岐命詔《イザナギノミコトノリタマヒツラク》。我身者成成而成餘處一處在《アガミハナリナリテナリアマレルトコロヒトトコロアリ》。故以此吾身成餘處《カレコノアガミノナリアマレルトコロヲ》。刺塞汝身不成合處而《ナガミノナリアハザルトコロニサシフタギテ》。爲生成國土奈何《クニウミナサムオモフハイカニトノリタマヘバ》。【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善《イザナミノミコトシカヨケムトマヲシタマヒキ》。爾伊邪那岐命《ココニイザナギノミコト》。詔然者吾與汝行廻逢是天之御柱而《シカラバアトナトコノアメノミハシラヲユキメグリアヒテ》。爲美斗能麻具波比《ミトノマグハヒセムトノリタマヒキ》。【此七字以音】如此云期《カクイヒチギリテ》。乃詔汝者自右廻逢《スナハチナハミギリヨリメグリアヘ》。我者自左廻逢《アハヒダリヨリメグリアハムトノリタマヒ》。約竟以廻時《チギリヲヘテメグリマストキニ》。伊邪那美命先言阿那邇夜志愛 上 袁登古袁《イザナミノミコトマヅアナニヤシエヲトコヲトノリタマヒ》。【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那邇夜志愛 上 袁登賣袁《ノチニイザナギノミコトアナニヤシエヲトメヲトノリタマヒキ》。各言竟之後《オノオノノリタマヒヲヘテノチニ》。告其妹曰女人先言不良《ソノイモニヲミナヲコトサキダチテフサハズトノリタマヒキ》。雖然久美度邇《シカレドモクミドニ》【此四字以音】興而《オコシテ》。生子水蛭子《ミコヒルゴヲウミタマヒキ》。此子者入葦船而流去《コノミコハアシブネニイレテナガシステツ》。次生淡嶋《ツギニアハシマヲウミタマヒキ》。是亦不入子之例《コモミコノカズニハイラズ》。

天降坐而は阿母理麻志弖《アモリマシテ》と訓べし、萬葉二(ノ)卷【二十四丁】に、和射見我原乃《ワザミガハラノ》、行宮爾《カリミヤニ》、安母理座而《アモリマシテ》、天下《アメノシタ》、治賜《ヲサメタマヒ》云々、又三(ノ)卷【十六丁】に、天降付《アモリツク》、天之芳來山《アメノカグヤマ》、又十三卷【三丁】に、葦原乃《アシハラノ》、水穗之國丹《ミヅホノクニニ》、手向爲跡《タムケスト》、天降座兼《アモリマシケム》云々、又十九(ノ)卷【三十九丁】に、安母理麻之《アモリマシ》云々、など有(ル)に依れり、【阿麻久陀理《アマクダリ》と訓(ム)もあしくはあらず、其《ソ》は十八に、葦原能《アシハラノ》、美豆保國乎《ミヅホノクニヲ》、安麻久太利《アマクダリ》、之艮志賣之家流《シラシメシケル》、などもあればなり、】安母理《アモリ》は阿麻淤理《アマオリ》【天下《アマオリ》なり】の約《ツヅマ》りたる古言なり、抑此(ノ)二柱(ノ)大神は、高天(ノ)原に生《ナリ》坐る神には非れば、今初(メ)て天降坐(ス)にはあらず、初(メ)天(ツ)神の大命を承り賜ふとして、參上《マヰノボ》り坐るが、降りたまふなり、【然るにその參上り坐(シ)しことを初(メ)に云(ハ)ざるは、其(ノ)事はさしも要《エウ》なければ、省《ハブキ》て語り傳(ヘ)たるなるべし、書紀の傳(ヘ)には、天神の大命を承りたまへることをさへに、省きたるをや、或人疑て云く、若(シ)初(メ)に高天(ノ)原に參上り賜へるが降(リ)たまふならば、下文にも反降《カヘリクダリ》とある如く、此《ココ》も反降《カヘリクダリ》と云べきにあらずや、答(フ)、初(メ)に參上り坐(シ)し時は、いまだ淤能碁呂嶋は無き時なれば、於《ニ》2其鳴1反《カヘリ》とは云べきにあらず、】

〇天之御柱《アメノミハシラ》は、即(チ)次に見えたる八尋殿《ヤヒロドノ》の柱なり、【別《コト》に立《タテ》賜(フ)には非ず、源氏(ノ)物語明石(ノ)卷(ノ)歌に、宮柱めぐりあひける云々とあるは、蛭子をよめる歌の答(ヘ)にて、こゝの天の御柱のことなるを、宮柱とよめる、作者の心は知らねども、自《オ》ら實《マコト》にかなへり、】和名抄に、柱(ハ)和名|波之良《ハシラ》とあり、凡て殿《トノ》を造ることを云(フ)とて、先(ヅ)柱を云(フ)は、底津石根《ソコツイハネ》に宮柱布刀斯理《ミヤバシラフトシリ》など、古(ヘ)の常なり、大殿祭の祝詞《ノリト》に、天皇の御殿《ミアラカ》造(リ)奉ることを云るにも、奥山乃大峽小峽爾立留木乎《オクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲ》、齋部能齋斧乎以伐操※〔氏/一〕《イミベノイミヲノヲモテキリトリテ》、本末乎波山神爾祭※〔氏/一〕《モトスヱヲバヤマノカミニマツリテ》、中間乎持出来※〔氏/一〕《ナカノマヲモテイデキテ》、齋※〔金+且〕乎以齋柱立※〔氏/一〕《イミスキヲモテイミハシラタテテ》、皇御孫之命乃天之御翳日之御翳止《スメミマノミコトノアメノミカゲヒノミカゲト》、造奉仕禮流瑞之御殿《ツクリツカヘマツレルミヅノミアラカ》云々、かく專《モハラ》柱《ハシラ》のことをとりわきて云り、且《ソノウヘ》此處《ココ》は、下に柱を行廻《ユキメグリ》たまふ大禮《オモキミワザ》を申す段《クダリ》なる故に、初(メ)に其《ソレ》を立《タテ》賜ふことを、先(ヅ)云(ヒ)置(ケ)るなり、書紀一書に、化2作《ミタテ》八尋之殿《ヤヒロドノヲ》1、又|化2竪《ミタツ》天(ノ)v柱(ヲ)1とあるは、此柱を又別に立《タテ》賜ふ如く聞ゆれど、さにはあらず、是(レ)も其(ノ)始(メ)を先(ヅ)云(ヒ)置(ク)》とて、猶《ナホ》たしかに又(ノ)字をさへ加(ヘ)賜へる物ならむ、さて天之《アメノ》と云は天なる殿舍《ミアラカ》の柱のさまに作(リ)立(テ)たまふ故に添(ヘ)て云こと、天沼矛《アマノヌボコ》の所に説《トケ》るが如し、【書紀に國柱《クニノミハシラ》とあると、對《ムカヘ》ては見べからず、】さて書紀に、以(テ)2※〔石+殷〕馭廬嶋《オノゴロシマヲ》1爲《ス》2國中之柱《クニナカノミハシラト》1【柱此(レヲ)云2美簸旨邏《ミハシラト》1、】とあるは、趣|異《コト》なるが如くなれども、彼(ノ)嶋の成れるは、此(ノ)殿の柱を立(ツ)べき基《モトヰ》の成れるにて、其(ノ)基も即(チ)柱なれば、たゞ同じことなり、【屋《ヤ》を支《ササ》へ持(ツ)物は柱にして、其(ノ)柱の本を支(ヘ)持(ツ)物は地《ツチ》なれば、地《ツチ》も柱なり、風をしも天(ノ)御柱國(ノ)御柱と申すにてもさとるべし、其事は傳七の□に委(ク)云り、さて此《ココ》の柱を、國中之柱とも國(ノ)柱とも云(フ)ゆゑは、まづ國土《クニ》を生成《ウミナサ》むとて遘合《マグハヒ》したまふ、其(ノ)初(メ)に先(ヅ)此(ノ)御柱を廻《メグ》りたまふ、然れば此(ノ)御柱は、國土の生《ナ》るべき本元《モト》なるがゆゑなり、かの風を云る國(ノ)御柱とは、名の意は異なり、又私記に古説とて、天神所賜瓊矛《アマツカミノタマヘリシヌボコハ》、既《スデニ》探2得《サグリエテ》※〔石+殷〕馭廬嶋(ヲ)1畢、即(チ)以《ヲ》2其矛1衝2立《ツキタテテ》此(ノ)嶋(ニ)1、爲2國柱《クニノミハシラト》1也、即(チ)其(ノ)矛|化2爲《ナリキ》小山《コヤマニ》1也と云る、是(レ)も一(ツ)の傳《ツタヘ》なるべし、舊事紀にも然いへり、さて此(ノ)御柱のことを、後(ノ)人の種々《クサグサ》言痛《コチタ》きことども以て、故あるさまにいひなせど、皆例の妄言《ミダリゴト》なり、】

〇見立《ミタテ》は、見《ミ》は見送《ミオク》るなど云|見《ミ》にて、俗言《ヨノコト》にも、兒《コ》を見育《ミソダ》つ、先途《セムド》を見屆《ミトド》くなど云、これらの見《ミ》は、たゞに眼《メ》して視《ミ》るのみを云にはあらず、其(ノ)事を身に受て、己が任《ワザ》として、知(リ)行ふを云り、されば此《ココ》も、此(ノ)御柱を立(テ)、殿を造ることに、御親《ミヅカラ》與《アヅカ》り所知看義《シロシメスココロ》 なり、【俗《ヨ》に人の首途《カドイデ》を見立《ミタテ》ると云も、みづから其處《ソノトコロ》に臨て、發《タタ》せ遣《ヤ》るを云て、同じ意なり、】すなはち所知看《シロシメス》などの看《メス》も、此(ノ)見《ミ》と同じ、【此(ノ)看《メス》は、即(チ)字の如くにて、見《ミ》るといふ言なり、見《ミ》るを古言に美須《ミス》と云、聞(ク)を伎許須《キコス》と云と同じ、さてその美須《ミヂ》を、通(フ)音にて賣須《メス》とも云り、これら萬葉の歌などに常多きことなり、さてそは目《メ》に見ることのみならず、何事にまれ、身に受(ケ)入るゝ意に多く云り、天(ノ)下|所知看《シロシメス》、政所聞看《マツリゴトキコシメス》などの如し、なほ此言の意は、傳七の十七葉に委(ク)云り、さて此(ノ)見立《ミタツ》を、さきには、御寢《ミミ》坐(ス)御合《ミアヒ》坐(ス)などの類にて、御立《ミオタツ》の意にもあらむ、と云(ヘ)りしはわろし、若(シ)其意ならば、たゞに御(ノ)字を書(ク)べきことなり、又書紀に、化作《ミタツ》化竪《ミタツ》など書れたる、化(ノ)字はいと心得ず、決《キハメ》て此字の意にはあらず、訓は此記に依れるなり、又みたつは生立《ウミタツ》なりと云る説なども、ひがことなり、】

〇八尋殿は夜比呂杼能《ヤヒロドノ》と訓べし、之《ノ》と添(ヘ)てよむはわろかるべし、【書紀には之(ノ)字を加(ヘ)て書れたれども、彼《カレ》は凡て漢文章《カラブミノアヤ》を旨《ムネ》とせられたれば、かくさまの證《シルシ》には依りがたし、】さて此(ノ)名、下|木花之佐久夜毘賣《コノハナノサクヤビメ》の段にも、作2無戸八尋殿(ヲ)1云々、書紀神代(ノ)卷にも、於秀起浪穗之上起八尋殿而《サキダテルナミノホノヘニヤヒロドノヲタテテ》云々などあり、又履中紀山城(ノ)風土記などに、八尋屋《ヤヒロヤ》と云こともあり、【倭姫(ノ)命(ノ)世記には、八尋機屋《ヤヒロハタヤ》と云もあり、】八尋《ヤヒロ》は、殿の廣さの度《ホド》を云るにて、八《ヤ》は必しも七《ナナツ》八《ヤツ》と數《カゾフ》る八《ヤ》にはあらず、彌《イヤ》の約《ツヅ》まりたる言なり、凡て八重《ヤヘ》八雲《ヤクモ》、又|八十《ヤソ》八百《ヤホ》八千《ヤチ》、其(ノ)外|八某《ヤナニ》と云こと古(ヘ)の常なり、皆同じことにて、唯|重《カサ》なり多きを云り、【然るを神道には八(ノ)數を尊むなど云て、此數に就て種々《クサグサ》云(ヒ)なすは、皆例の漢書言《カラブミゴト》にて、都《スベ》て古(ヘ)の意にあらず、物を八《ヤツ》に齊《トトノフ》るも後の態《シワザ》なり、】尋《ヒロ》は兩手《フタツノチ》を伸《ノベ》たる長《ナガ》さを云(フ)、今(ノ)人も然《シカ》して一尋《ヒトヒロ》と定(ム)るなり、其《ソ》は手《テ》を廣《ヒロ》げて度《ハカ》る故に、一廣《ヒトヒロ》げ二廣《フタヒロ》げの意なるべし、【漢國《カラクニ》にても、舒《ノベテ》v肘(ヲ)知(ル)v尋(ヲ)などあれば、上(ツ)代には然《シカ》有《アリ》けむを、八尺と定(メ)しは、稍《ヤヤ》後のことならむ、御国《ミクニ》には今も猶《ナホ》八尺をば云(ハ)ず、況《マシテ》神代は思ひやるべし、且《ソノウヘ》八尋矛《ヤヒロボコ》と云も有(ル)を以(テ)、八八六丈四尺にあらぬを悟《サトル》べし、】和名抄に、殿(ハ)和名|止乃《トノ》とあり、さて先(ヅ)此(ノ)殿を見立《ミタテ》賜(フ)は、女男《メヲ》共に住て御合《ミアヒ》し賜む料なり、そも/\其殿立(テ)賜(フ)ことまでは、云(ハ)でも有(リ)ぬべきを、先(ヅ)如此《カク》云(フ)は、古(ヘ)妻問《ツマドヒ》するには、先(ヅ)其(ノ)屋《ヤ》を建《タテ》しことと見えて、須佐之男《スサノヲノ》命の須賀《スガ》の宮作(リ)も、都麻碁微爾夜弊賀岐都久流《ツマゴミニヤヘガキツクル》、と詠《ヨマ》ししを見れば、專《モハラ》妻《ツマ》を籠居《コメスヱ》む爲《タメ》なること知られ、又萬葉三(ノ)卷|勝鹿眞間《カツシカノママノ》娘子(ガ)墓を見て赤人(ノ)歌に、古昔《イニシヘニ》、有家武人之《アリケムヒトノ》、倭文幡乃《シヅハタノ》、帯解替而《オビトキカヘテ》、廬屋立《フセヤタチ》、妻問爲家武《ツマドヒシケム》云々、【是は契沖又師の考(ヘ)は異《コト》なれど、此《ココ》に由あることとも思はるゝ故に引つ、人好む方を取れ、】是(レ)も古(ヘ)賤(キ)者も、廬屋《フセヤ》を立《タテ》て妻問《ツマドヒ》すといふ、云(ヒ)ならはしの有(ル)故に、かく續《ツヅケ》てよまれしと見ゆ、かゝれば此《ココ》の八尋殿も、徒《タダ》に云るには非ず、由(シ)あることぞ、書紀にも、同宮共住而生兒《ヒトツミヤニスミマシテウミマセルミコ》ともあるをや、

〇汝身は那賀美《ナガミ》と訓べし、汝は、【此字常に漢文にては那牟遲《ナムヂ》と訓(ミ)、古書には伊麻斯《イマシ》と訓たり、是らも惡しきにはあらねど猶】上(ツ)代の歌どもにも多く那《ナ》と詠《ヨミ》、又|那禮《ナレ》【吾《ワ》を吾禮《ワレ》、己《オノ》を己禮《オノレ》と云如く、汝《ナ》を汝禮《ナレ》と云なり、】那兄《ナセ》郡泥《ナネ》汝妹《ナニモ》汝者《ナビト》【允恭紀に見ゆ、】汝命《ナガミコト》なども、皆|那《ナ》を本としたる稱なり、【那牟遲《ナムヂ》も、那《ナ》を本として、牟遲《ムヂ》は、大穴牟遲《オホナムヂ》などの牟遲《ムヂ》なり、物語文には伎牟遲《キムヂ》と云稱も有(リ)、伎《キ》は君の意なり、】かゝれば汝は、那《ナ》と云ぞ本なりける、さて又是を伊麻斯《イマシ》と云るは、萬葉十一【十四丁】に、伊麻思毛吾毛事應成《イマシモワレモコトナスベシヤ》、又十四【五丁】に、伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》云々、續紀|高野《タカヌノ》天皇(ノ)大命《オホミコト》に、朕我《アガ》天先帝|乃御命以天朕仁勅之久《ノミコトモチテアレニノリタマヒシク》、天下方朕子伊末之仁授給《アメノシタハアガコイマシニサヅケクマフ》云々、是等なり、【萬葉十四また後(ノ)物語などに、麻之《マシ》ともあり、】又續紀の宣命どもに、【九の十六丁十七丁、卅一の十五丁、】美麻斯《ミマシ》ともあり、さて那《ナ》も伊麻斯《イマシ》も、後には下ざまの人にのみいへども、いと上(ツ)代には然らず、其(ノ)本は尊《タフト》む人にもいへる稱なり、【汝(ノ)字を當《アテ》しを思へば、其|頃《コロ》になりては、早く尊む方には云(ハ)ざりしにや、漢にても上古は爾汝など云稱に、上下の別《ワカ》ちはなかりしかども、御國へ文字の渡(リ)參出來《マウヂコ》し頃《コロ》は後なれば然らず、】己が夫《ヲ》を汝《ナ》と云ること、沼河比賣《ヌナカハヒメ》の歌、又|須勢理毘賣《スセリビメ》の歌などに見え、建内《タケウチノ》宿禰の歌には、天皇《スメロギ》をしも那賀美古《ナガミコ》【汝之御子なり】と申せり、又|某之《ナニノ》と云を某賀《ナニガ》と云も、後には賤《イヤシ》む方に取《トレ》ど、上(ツ)代には是《コ》も上下|別《ワカ》ぬ辭にて、之《ノ》と云に同じ、

〇如何成は伊迦爾那禮流《イカニナレル》と訓べし、女神の大御身《オホミミ》の成(リ)とゝのひたる形状《アリサマ》を、如何《イカ》なるぞと、男神の問(ヒ)賜ふなり、

〇成成《ナリナリテ》とは、初(メ)生《ナリ》そめしより漸々《ヤウヤウ》に成(リ)て、成(リ)畢《ヲハ》れるを云なり、【書紀に具成而《ナリナリテ》と書るが如し、】戀々而《コヒコヒテ》行々而《ユキユキテ》などの格《サマ》の言なり、

〇不成合處《ナリアハザルトコロ》とは、缺《カケ》て滿《タラ》はぬ如くなる處を詔《ノタマ》へり、即(チ)御番登《ミホト》なり、書紀には、對曰吾身(ハ)有(リ)2一雌元之處《メノハジメノトコロ》1とあり、一書には、對曰吾身(ハ)|具成而《ナリナリテ》有(リ)d稱《イフ》2陰元《メノハジメト》1者一處《トコロヒトトコロ》uともあり、

〇問曰答曰などの訓格《ヨミザマ》は、初卷(ノ)訓法(ノ)條に云るが如し、

〇伊邪那岐命詔、この詔は能理多麻比都良久《ノリタマヒツラク》と訓べし、續紀の詔に、詔賜都艮久云々止《ノリタマヒツラクシカシカト》、負賜詔賜比志爾《オホセタマヒノリタマヒシ》また勅豆良久云々止《ノリタマヒツラクシカシカト》、負賜宣賜志《オホセタマヒノリタマヒシ》、などあるに依れり、都良久《ツラク》と云る例は、記中須佐之男(ノ)命の御言にも、白都良久《マヲシツラク》とり、さて此所《ココ》の御言の終《トヂメ》に、登詔賜者《トノリタマヘバ》と云ことを再讀添《フタタビヨミソフ》べし、是も彼(ノ)大命どもに依れり、古語のさだまりなり、此事も訓法(ノ)條に委く論へるが如し、

〇成餘處《ナリアマレルトコロ》とは、ふくれ出て身の外に贅《アマレ》るが如くなるを詔《ノタマ》へり、書紀には、陽神《ヲカミノ》曰(ク)吾身(ニモ)亦有(リ)2雄元之處《ヲノハジメノトコロ》1とあり、又一書には、陽神《ヲカミノ》曰(ク)、吾身(モ)亦|具成《ナリナリテ》而有(リ)d稱《イフ》2陽元《ヲノハジメト》1者一處《トコロヒトトコロ》uともあり、

〇以(ノ)字は、處袁《トコロヲ》の袁《ヲ》に當《アテ》て讀べし、

〇刺《サシ》は挿入《サシイル》るなり、塞《フタギ》に屬《ツキ》たる輕き辭にはあらず、

〇塞は布多岐《フタギ》と訓べし、【和名抄に、或(ハ)以(テ)2閇(ノ)字(ヲ)1爲《ス》2男陰(ト)1、といふことある、此《ココ》にいさゝか由ありげなり、】

〇國土は久邇《クニ》と訓べし、【下に國土皆震《クニツチミナフル》とあるなどは、久邇都知《クニツチ》と訓べけれど、又※〔言+可〕志比(ノ)宮(ノ)段に、不《ズ》v見《ミエ》2國土《クニ》1とあるなどは、久邇《クニ》とのみ訓べければなり、其(ノ)さまによるべし、】

〇生成《ウミナス》は、唯|生《ウム》ことなり、其《ソ》を成《ナス》とも添《ソヘ》て詔《ノタマ》ふは、竹取(ノ)物語に、己《オノ》が成《ナサ》ぬ子《コ》なれば、心にも從《シタガ》へずと見え、うつほ藤原(ノ)君(ノ)巻に、此(ノ)春|子《コ》一人《ヒトリ》なしてかくれましにきとあり、これら生《ウム》を那須《ナス》と云り、今(ノ)世(ノ)言にも、まゝ親子《オヤコ》を、成《ナサ》ぬ中《ナカ》と云り、又大祓の詞に、國中爾成出武天之益人等《クニナカニナリイデムアメノマスヒトラ》とあるも、生出《ウマレイヅ》るを云り、

〇爲は、淤母布波《オモフハ》と訓べし、邇々藝《ニニギノ》命の、佐久夜毘賣《サクヤビメ》に、吾《アレ》欲《オモフハ》v目2合《マグハヒセムト》汝《イマシニ》1奈何《イカニ》と詔《ノタマ》へると、語も意も似たればなり、記中に淤母布《オモフ》といふに、以爲と書る例|往々《トコロドコロ》にあり、又爲(ノ)一字を書る例も、一(ツ)二(ツ)あるなり、【眞福寺(ノ)本には以爲とあり、こは例多ければ、殊にたしかなれど、其《ソノ》餘《ホカ》の本どもには皆、以(ノ)字無ければ、今は其《ソレ》に從(ヒ)つ、かにかくに淤母布《オモフ》と訓べきところなり、なべての例によりて、生成《ウミナサ》むと爲《ス》と訓ては、下なる奈何《イカニノ》語切(レ)て惡《ワロ》し、爲《スル》はと訓むも惡《ワロ》し、】

〇奈何は伊加爾《イカニ》と訓べし、語の終《ハテ》にかく奈何《イカニ》と云こと、記中にも例あり、又萬葉十六卷に、隱耳《コモリノミ》、戀者辛苦《コフレバクルシ》、山葉從《ヤマノハユ》、出來月之《イデクルツキノ》、顯者如何《アラハレバイカニ》とあり、これ此《ココ》と語勢《コトバツキ》よく似たり、

〇註に、訓(テ)v生(ヲ)云2宇牟《ウムト》1、こゝの生は、宇美《ウミ》と訓(ム)なるを、如此《カク》云るは如何《イカニ》、と疑(フ)人有む、凡(テ)かく活用《ハタラ》く言の字の訓注の例、天之常立(ノ)神(ノ)下に、訓(テ)v立(ヲ)云2多知《タチト》1、また神集々而、訓(テ)v集(ヲ)云2都度比《ツドヒト》1、これらは其處《ソコ》の訓樣《ヨミザマ》のまゝに注せるなり、又|伊都之男建《イグノヲタケビ》、訓(テ)v建(ヲ)云2多祁夫《タケブト》1、こは多祁備《タケビ》と訓(ム)所なれども、其《ソレ》に拘《カカハ》らず、言の居《ヰ》たる方を以て注せるなり、こゝも是(ノ)例なり、且《ソノウヘ》此(ノ)生は、次々《ツギツギ》に多かる言にて、下效(フ)v此(レニ)とあれば、其《ソ》が中には、左右《カニカク》に活《ハタラカ》して訓(ム)所あれば、其等《ソレラ》をも總《フサ》ねて、如此《カク》注《シル》すべきことなり、

〇然善は斯※〔言+可〕余祁牟《シカヨケム》と訓べし、【師は宇倍那理《ウベナリ》とよまれき、是(レ)も意はさることなれども、あまり字に遠し、】男《ヲ》神の詔《ノタマ》へる事を諾《ウベナ》ひたる御《ミ》答なり、然《シカ》は、吾も然思(フ)といふ意にて、然也《シカナリ》と云むが如し、【然也を、然《シカ》とばかりいへること、後の物語などにも多かり、又|志※〔言+可〕理《シカリ》と云は、然有《シカアリ》の約まりたる語なり、】善《ヨケム》と一(ト)つゞきの語にはあらず、讀切《ヨミキ》る心ばへに有(ル)べし、余祁牟《ヨケム》は、善加良牟《ヨカラム》と云に同じ古言なり、天智紀の童謠《ワザウタ》に、多※〔手偏+施の旁〕尼之曳鷄武《タダニシエケム》、【曳《エ》は即(チ)余《ヨ》なり、同(ジ)時の歌に、御吉野を美曳之弩《ミエシヌ》とあるにてしるべし、】萬葉などにも多かり、

〇行2廻逢《ユキメグリアヒ》是天之御柱《コノアメノミハシラヲ》1而《テ》、凡そ夫婦遘合《メヲマグハヒ》の初(メ)に、先(ヅ)柱を行廻《ユキメグル》こと、上(ツ)代の大禮《オホキミワザ》と見えたり、此《ココ》は其(ノ)男女遘合《メヲマグハヒ》の始(メ)にして、先(ヅ)此禮《コノミワザ》を行ひ賜ふことは、甚々《イトイト》深きことわり有(ル)ことなるべし、【書紀に此柱を、國中之柱とも、國(ノ)柱とも云るをも思ふべし、國士の生《ナ》れる本元《モト》を、此柱に負《オフ》せたる名ぞかし、】されど其(ノ)理は、傳(ヘ)無ければ、凡人《タダビト》の如何《イカニ》とも測《ハカリ》知べきにあらず、【されどこゝろみに強《シヒ》ていはば、まづ女男交合《メヲマグハヒ》の状《サマ》、男は上に在て天の如く、舍《イヘ》にては、屋《ヤ》の覆《オホ》ふが如し、女は下に在て地の載《ノス》るが如く、舍《イヘ》にては床《ユカ》の如くなるを、柱ほその中問《アヒダ》に立て、上下を固め持《モ》つ物なれば、夫婦《メヲ》の間《アヒダ》を固め持《モ》つ理にやあらむ、鶺鴒の一名を麻那婆斯羅《マナバシラ》と云も、學柱《マナビバシラ》にて、柱を交合《マグハヒ》の意にとりて名けたるにやあらむ、さて又思ふに、柱と云名(ノ)義は、波斯《ハシ》は間《ハシ》なるべし、間を波斯《ハシ》と云例多し、間人《ハシビト》、又萬葉の歌に、相競端爾《アラソフハシニ》と云るも、端は借字にて間《アヒダ》にの意なり、又木にもあらず草にもあらぬ竹のよの波斯《ハシ》に吾身はなりぬべらなりと云歌も、竹を木と草との間と云るなり、かくて柱は、屋《ヤネ》と地との間に立る物なればなり、又橋も同意か、此(ノ)岸と彼(ノ)岸との間にわたせばなり、又今(ノ)俗《ヨノ》言に、妻どひの最初《ハジメ》に、言を通はしそむる媒を、波斯加氣《ハシカケ》と云も、橋懸の意にて、右の柱の事にもおのづから通へり、又|箸《ハシ》と云名も、此(ノ)物は必二(ツ)相|對《ムカ》ひより合(ヒ)て其用をなす物なれば、夫婦の意に似たり、又事の初(メ)を端《ハシ》といふも、此《ココ》の御柱|廻《メグ》りの事に由あるなり、】さて然《シカ》廻《メグ》りける柱は、女男《メヲ》隱寢《コモリヌ》る身屋《ムヤ》【後に母屋《モヤ》と云】の中央《モナカ》の柱にぞ有けむ、其故は、後(ノ)世まで神の御殿《ミアラカ》造(リ)奉るに、其(ノ)中央《モナカ》に心御柱《シムノミハシラ》と云を建《タテ》て、殊に齋《イハ》ひかしづくは、【其(ノ)説どもこそ後(ノ)人の設(ケ)つる言《コト》なれ、然《シカ》する事は、】上(ツ)代よりの傳(ヘ)なるべく、【心(ノ)御柱てふ稱《ナ》は後のことか、若(シ)上(ツ)代よりの名ならば、心《シム》は中心《ナカゴ》の意にて、中央に立(ツ)故の名ならむ、是を人(ノ)心のことに取成《トリナシ》ていふは、例の妄言《ミダリゴト》なり、】又今人の屋《ヤ》にも、中央の柱を大黒柱《ダイコクバシラ》と云て重《オモ》くすめる、【大黒の稱《ナ》は、後(ノ)世人の、漢籍なる太極てふことより云出しさかしらごとならむか、】名《ナ》こそ信《ウケ》られね、是(レ)も神代より夫婦《メヲ》のかたらひの始(メ)に廻(ル)柱なる故に、重《オモ》く崇《アガマ》へける、上(ツ)代よりの傳はり事の、遺《ノコ》れるなるべければなり、【上古は貴き賤きけぢめこそあれ、神(ノ)宮人(ノ)家とて、造りざまかはれることなし、今の古(キ)神(ノ)宮作(リ)は、即上代の人の家のさまなり、雄略天皇の御代に、志幾(ノ)大縣主が舍《イヘ》に、堅魚木《カツヲギ》を上《アゲ》て作れりしことなど、思ひ合すべし、されば後世の心(ノ)御柱と大黒柱とは、本は一(ツ)物なるべくおもはる、】かゝれば今二柱(ノ)神の廻(リ)賜(フ)も、彼(ノ)八尋殿の御柱どもの中にも、その中央《モナカ》に立(テ)る御柱なりけむかし、【伊勢(ノ)神宮の記等《フミドモ》に、心(ノ)御柱の一名を、天之御柱と云るは、此《ココ》の故事《フルヱト》より自《オノヅカラ》に傳はりしことか、若(シ)しかならば、多(ク)の中にも、行(キ)廻(リ)賜ひし柱を、殊に天之御柱と負《オホ》せて傳(ヘ)しならむ、されど後人の引合せて云るも知(リ)がたし、彼《ト》まれ此《カク》まれひがことには非じ、】行廻逢は、由伎米具理阿比《ユキメグリアヒ》と訓べし、此《コレ》を分《ワケ》て解《トカ》ば、行《ユキ》は左右へ分《ワカレ》て行歩《ユキアユム》なり、廻《メグリ》は御柱を廻(ル)なり、逢《アヒ》は前《サキ》にて行會《ユキアフ》なり、佛足石(ノ)賛歌に由伎米具利《ユキメグリ》、萬葉十七【三十四丁】に伊由伎米具禮流《イユキメグレル》などあり、【さて行《ユキ》を、古(ヘ)の歌には、多く發語を置て伊由伎《イユキ》とよめれば、此《ココ》も然訓べきかともおぼしけれど、歌こそあれ、たゞの詞に然云る例はなければ、然《サ》は訓(ム)べからず、凡て歌と文とのけぢめあることをよく考(フ)べし、凡てこのたぐひ、今(ノ)人は辨へなくみだりなり、】

〇美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》、【具《グ》を清《スミ》波《ハ》を濁(リ)て訓(ム)はひがことなり、卜部《ウラベノ》兼倶など此(ノ)清濁《スミニゴリ》の説あれど、云にたらぬ妄言《ミダリゴト》なり、】美斗《ミト》は御所《ミト》なり、所を斗《ト》と云こと、上意富斗能地(ノ)神(ノ)下【傳三の四十二葉】に説《トケ》り、其《ソ》が中にも、夫婦《メヲ》隱《コモ》り寢《ヌ》る所をも、分《ワキ》て所《ト》と云けむ、下に大穴牟遲(ノ)神の、八上比賣《ヤカミヒメ》に美刀阿多波志都《ミトアタハシツ》とある美刀《ミト》と同じ、彼處《ソコ》【傳十の六十七葉】と考へ合すべし、又|久美度邇興《クミドニオコシ》とある度《ド》も是(レ)なり、【久美度のことは次に云べし、此《ココ》の美斗を、即(チ)久美度と同言とするは、委しからず、其(ノ)實は同じことなれども、言は本より別なり、】床《トコ》の斗《ト》、嫁《トツグ》の斗《ト》なども是か、【嫁《トツグ》は所《ト》に就《ツク》か、具《グ》と濁るは、黄牛《アメウジ》などの格に、下を音(ノ)便に濁るもあるぞ、】戸《ト》も彼所《ソコ》に立隔《タテヘダツ》るから出し名にや、麻《マ》は宇麻《ウマ》なり、宇《ウ》を省《ハブク》例多し、凡て何事《ナニゴト》にても可美物爲《ウマクモノスルヲ》を、宇麻云云《ウマナニ》と云ること多し、書紀繼體(ノ)御卷(ノ)歌に、女男《メヲ》うまく寢《ヌ》ることを、于魔伊禰《ウマイネ》とある類なり、【宇麻の註は、初(ノ)段葦牙比古遲(ノ)神の下にあり、】具波比《グハヒ》は、麻《マ》より連《ツヅ》く故に具《グ》と濁れども、古(ヘ)頭《ハジメ》を濁(ル)例なければ、本は久波比《クハヒ》にて、久比阿比《クヒアヒ》の約《ツヅマ》りたる言なり、【比阿《ヒア》は波《ハ》と切《ツゾ》まる、】凡(ソ)物二(ツ)が一(ツ)に合《アフ》を久比阿布《クヒアフ》と云、萬葉十六(ノ)卷に、尺度《サカド》氏(ノ)娘子《ヲトメ》が、美《カホヨ》き貴人《ウマビト》のよばふをば聽《キカ》ずて、なほ/\しき醜《ミニクキ》男に逢《アフ》と聞《キカ》して、兒部女王《コベノヒメミコ》の、美麗物《ヨキモノハ》、何所不飽矣《イヅクアカヌヲ》、坂門等之《サカドラシ》、角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》、四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》、とあるこれなり、【是も四《シ》より連《ツヅク》故に具《グ》と濁る、此《ココ》と同じ、】今(ノ)世(ノ)語に、物を作り合すを、志久波須《シクハス》と云も、即(チ)此(ノ)志具比阿波須《シグヒアハス》の約《ツヅマ》りたるなり、又俗に物の具波比《グハヒ》の善《ヨ》き惡《ワロ》きと云も、久比阿比《クヒアヒ》の善惡《ヨキワロキ》なり、【具《グ》と濁るは、是も本は志具波比《シグハヒ》とか何《ナニ》とか、上に連(ク)語のありけむを、後にそは省きしならむ、】又伊勢物語(ノ)歌に、世をうみのあまとし人を見るからに、目久波世與《メクハセヨ》とも頼《タノマ》るゝ哉、【後々の歌にもあり、】此(ノ)目久波須《メクハス》も、久比阿波須《クヒアハス》の約《ツヅマリ》たるにて、彼方《カナタ》此方《コナタ》目《メ》を見合《ミアハ》すを云なり、是等《コレラ》にて其意を知べし、【楚辭九歌に、美人忽獨|與《ト》v余兮|目成《メクハセス》、】彼(ノ)不成合處《ナリアハザルトコロ》と成餘處《ナリアマレルトコロ》と、宇麻久久比阿布《ウマククヒアフ》を、麻具波比《マグハヒ》とは云なり、【俗に嫁《トツグ》を一つに爲《ナル》と云も、此意ばへならむ、】さて記中に、目合と云ることところ/”\にあり、是も右の意以て見るに、麻具波比《マグハヒ》と訓べきなり、其《ソレ》につきて彼(ノ)目久波須《メクハス》と思ひ合(ハ)すに、麻《マ》は目《マ》の意にもあらむか、もし然らば、具波比《グハヒ》も目《メ》を合すことになりて、右の考(ヘ)とは、語の本合(ハ)ず物|異《コト》なり、されど目《メ》を合(ハ)すは心を交《カハ》すにて、其《ソレ》を即《ヤガテ》交合《ミアヒ》のことに云(ヒ)なしつれば、末《スヱ》は一(ツ)に落《オツ》るぞ、なほ大穴牟遲(ノ)命の段《クダリ》目合《マグハヒ》の下【傳十の卅五葉】に云(フ)と、考(ヘ)合せて擇《エラ》び取《トリ》ね、

〇如此云期《カクイヒチギリテ》、云(ノ)字諸本みな之と作《アル》を、云の誤ならむと延佳が云る、實にさることなり、【記中に之と云と、相《タガヒ》に寫(シ)誤れる所多かり、】故(レ)今も然《シカ》定めて改めつ、期は知岐理弖《チギリテ》と訓べし、蜻蛉日記に、かくいひちぎりつれば、思ひかへるべきにもあらず、

〇自右廻逢《ミギリヨリメグリアヘ》、自左廻逢《ヒダリヨリメグリアハム》、右は、師の云く、後世にほ美岐《ミギ》といへども、美岐理《ミギリ》なるべし、今も遠江などにては然云なりと云れき、伊勢が亭子院(ノ)歌合(ノ)日記に、かむだちべは、階《ハシ》のひだりみぎりに、みな分(レ)て侍ひたまふとあり、美岐理《ミギリ》と訓べし、【こは比陀理《ヒダリ》に對へる稱《ナ》なれば、まことに美岐理《ミギリ》と云べきことなり、故(レ)古《フル》き證はいまだ見あたらざれども、姑く此(ノ)伊勢が文を據《ヨリドコロ》として、師(ノ)説に従ひつ、今も遠江のみならず、餘國《ホカノクニ》にも然云處々もあるなり、】さてかく廻《メグ》りの右左を定(メ)賜(フ)は、故あることなるべし、されど其(ノ)傳(ヘ)はなければ、度知《ハカリシル》べきにあらず、【然るを妄(リ)に漢籍の陰陽と云ことを以て解《ト》くは、都《スベ》て信《ウケ》られぬことなり、又是を月日の廻坐《メグリマス》ことに取《トリ》なすも強言《シヒゴト》なり、又書紀に同會一面とあるを、東北(ノ)方なるべしと、纂疏にあるも、甚《イタク》うけられず、何方《イヅカタ》より廻(リ)そめて、何方にて行逢賜ふといふこと、傳(ヘ)なければ、此(レ)も知(ル)べきことにあらず、】

〇約竟以《チギリヲヘテ》、この約《チギル》は、上の三段の約《チギリ》を總《フサネ》て云なり、三段とは、初に以此吾身成餘處《コノアガミノナリアマレルトコロヲ》云々|然善《シカヨケム》とあると、次に吾|與《ト》v汝行(キ)廻(リ)逢(ム)云々とあると、次に汝者自右云々とあると是(レ)なり、知岐流《チギル》は、行《ユク》さきを懸《カケ》て云々《シカシカ》せむと、互《カタミ》に云(ヒ)固《カタ》むるなり、竟《ヲヘ》は、只輕く見ても有(リ)なむ、又|極《キハ》め盡《ツク》す意にもあるべし、萬葉十九に、春裏之樂終者《ハルノウチノタヌシキヲヘハ》、梅花手折毛致都追遊爾可有《ウメノハナタヲリモチツツアソブニアルベシ》、この終《ヲヘ》も、春の中《ウチ》の樂《タヌシ》き事の至極を云り、祝詞どもに稱辭竟奉《タタヘコトヲヘマツル》とあるも、極《キハ》め盡《ツク》すを云り、

〇阿那《アナ》は、上件《カミノクダリ》阿夜※〔言+可〕志古泥《アヤカシコネノ》神(ノ)下《トコロ》にもかつ/”\云り、古語拾遺に、事(ノ)之甚切(ナルニ)皆|稱《イフ》2阿那《アナト》1とあり、何事にまれ、さし當《アタリ》て切《セチ》に思《オボ》ゆるを、阿那云々《アナシカシカ》と云(フ)、書紀(ノ)神武(ノ)卷に、大醜此(レヲ)云2鞅奈瀰※〔にんべん+爾〕句《アナミニクト》1とあり、萬葉には多く痛《アナ》と書り、又伊勢物語に、鬼早一口《オニハヤヒトクチ》に咋《クヒ》てけり、阿那夜《アナヤ》と云けれど、雷鳴《カミナル》さわぎに得聞《エキカ》ざりけり、なども云り、【後には轉《ウツリ》て、阿良《アラ》とも云なり、】

〇邇夜志《ニヤシ》は、邇《ニ》てふ言に、夜志《ヤシ》てふ辭《コトバ》を添《ソヘ》たるなり、此(レ)を書紀には、憙哉《アナニヱヤ》また美哉《アナニヱヤ》など書き、一書には、※〔女+研の旁〕哉と書て此(レヲ)云2阿那而惠夜《アナニヱヤト》1と見え、又神武(ノ)御卷には、※〔女+研の旁〕哉此(レヲ)云2鞅奈珥夜《アナニヤト》1ともあり、【字書に、憙(ハ)悦也とも好也とも注し、※〔女+研の旁〕は、麗也とも美好也とも注せり、】是等《コレラ》の字を以て、邇《ニ》てふ言の意を解《サトル》べし、【書紀の惠夜《ヱヤ》は、此記の夜志の如し、惠《ヱ》を※〔女+研の旁〕(ノ)字に當て心得るは誤なり、神武(ノ)卷には、惠《ヱ》を省《ハブケ》るにても知べし、さて憙哉も美哉も、※〔女+研の旁〕哉の訓註に従ひて、みなアナニヱヤと訓べし、字をいろ/\に作《カカ》れたるは、漢文のみにて、本の言は同じかるべければなり、さて何れも、惠夜の意も阿那の意も、哉(ノ)字にこもれれば、※〔女+研の旁〕美憙(ノ)字ぞ、正《マサ》しく邇《ニ》てふ言には當れる、】夜志《ヤシ》は、波斯祁夜斯《ハシケヤシ》、縱惠夜師《ヨシヱヤシ》などの夜志《ヤシ》にて、歎《ナゲキ》の夜《ヤ》に志《シ》を添《ソヘ》たる辭なり、【師は、邇《ニ》をも歎く辭なりと云れつれど、邇《ニ》は然らざること、上に云るにてしるべし、】又書紀(ノ)武烈(ノ)卷繼體(ノ)卷などの歌に、誰人《タレヒト》を陀黎耶始比登《タレヤシヒト》とあり、.

〇愛《エ》は、書紀(ノ)一書に可愛と作《カキ》て、此(レヲ)云v哀《エト》と見え、本書には可美《ヱ》、又一書には善《エ》とあり、是等《コレラ》の字にて其意|顯《アラハ》なり、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段の大御歌に、延袁斯麻加牟《ヱヲシマカム》とある延《エ》も、可愛少女《エヲトメ》と云ことなり、又朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、吉野を延期怒《エシヌ》と讀せ賜ひ、前に引る善《ヨ》けむを曳鷄武《エケム》とある、又|住吉《スミノエ》日吉《ヒエ》の類、古(ヘ)余伎《コキ》を延《エ》と云ること多し、今も然《サ》も云なり、【書紀の可愛《エ》は、字の意を取《ト》れれども、此記の愛は、只|假字《カナ》にて、意なし、勿《ナ》おもひまがへそ、】

〇袁登古《ヲトコ》は、古(ヘ)は袁登賣《ヲトメ》と對《ムカ》ふ稱《ナ》にて、下に訓(テ)2壯夫(ヲ)1云v(フ)2袁等古《ヲトコト》1と見え、書紀には少男此(ヲ)云2烏等孤《ヲトコト》1【少は若《ワカ》きを云、】などあり、萬葉にも壯士などと書て、若《ワカ》く壯《サカリ》なる男《ヲ》を云り、【老《オイ》たる若《ワカ》きを云(ハ)ず、男《ヲ》をすべて袁登古《ヲトコ》と云は、後のことなり、又|於《オ》の假字《カナ》を書(ク)も非《ヒガコト》なり、】

〇袁登頁《ヲトメ》は、袁登古《ヲトコ》に對(ヒ)て、若《ワカ》く盛《サカリ》なる女を云稱なり、【萬葉には、處女《ヲトメ》未通女《ヲトメ》など書《カケ》れば、未(ダ)夫嫁《ヲトコセ》ぬを云に似たれど然らず、既に嫁(シ)たるをも云(フ)、倭建(ノ)命の御歌に、袁登賣能登許能辨爾《ヲトメノトコノベニ》、和賀淤岐斯《ワガオキシ》、都流岐能多知《ツルギノタチ》云々とある、此|袁登賣《ヲトメ》は美夜受比賣《ミヤズヒメ》にて、既に御合坐而《ミアヒマシテ》、御刀を其許《ソコ》に置賜しことなり、又|輕太子《カルノミコノミコト》の、輕大郎女《カルノオホイラツメ》に※〔(女/女)+干〕《タハケ》て後の御歌にも、加流乃袁登賣《カルノヲトメ》とよみ賜へり、是等|嫁《トツキ》て後をいへり、】又|童《ワラハ》なるをも云ること多し、【袁登古《ヲトコ》とは、童なるをば云はず、中昔にも、元服するを、壯士《ヲトコ》になると云るにても知べし、然るに女は童なるをも袁登賣《ヲトメ》と云は、女はひたすらに少《ワカ》きを賞《メヅ》る故にやあらむ、】

〇終《ハテ》の袁《ヲ》は、余《ヨ》と云に通ひて、袁登古余《ヲトコヨ》、袁登賣余《ヲトメヨ》と云むが如し、此例古(ヘ)多し、其八重垣袁《ソノヤヘガキヲ》などの袁《ヲ》も、【其(ノ)八重垣|袁《ヲ》作《ツク》ると、上へ廻《カヘ》る袁《ヲ》にはあらず、】八重垣|余《ヨ》の意なり、倭建(ノ)命の御歌の末を續《ツギ》たる歌に、比邇波登袁加袁《ヒニハトヲカヲ》の袁《ヲ》、又若櫻(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、大坂爾《オホサカニ》、遇夜孃子袁《アフヤヲトメヲ》、道悶者《ミチトヘバ》の袁《ヲ》など皆同じ、此外も多し、

〇さて此二句づゝの唱和《トナヘコタヘ》の御言を、書紀には、憙哉遇可美少男焉《アナニヱヤエヲトコヲ》、一書には、※〔女+研の旁〕哉可愛少男歟《アナニヱヤエヲトコヲ》、一書には、美哉善少男《アナニヱヤエヲトコヲ》と書り、此記と見合せて、右何れも阿那邇惠夜愛袁登古袁《アナニヱヤエヲトコヲ》と訓べし、袁登賣袁《ヲトメヲ》の方も同じ、五言二句《イツコヱフタツガヒ》づゝの御言なり、【今(ノ)本にアナウレシヤウマシヲトコニアヒヌなどあるは、古(ヘ)を知らぬ者の訓なり、此《コ》は唱和《トナヘコタヘ》の御言にて、歌の始(メ)とも爲《ス》なるを、如此《カク》さまに訓ては、調《シラベ》もとゝのはず、凡《タダ》の言と等《ヒト》しきをや、遇(ノ)字は、凡《スベ》ての御言の意を得て加《クハヘ》られたるものなり、決《キハメ》て讀(ム)べからず、一書どもには此(ノ)字は無(キ)を以(テ)知るべし、焉(ノ)字歟(ノ)字は、末の袁《ヲ》に當《アタ》れり、歟は字書に、語末(ノ)之辭とも、語之餘也ともあり、】さて古今集(ノ)序に、此(ノ)歌天地の開始《ヒラケハジマ》りける時よりいできにけり、古註に、天(ノ)浮橋の下にて婦神《メガミ》夫神《ヲガミ》と成(リ)賜へるを云る歌なりとあるは、此《ココ》の唱和《ノタマヒカハ》せし御言《ミコト》を云り、信《マコト》に歌の始にぞありける、又師は、如此《カク》詔《ノタマ》ひ交《カハ》せるは、いと上(ツ)代の交合《マグハヒ》の初(メ)の禮《ワザ》なるべしと云れき、

〇女人は袁美郡袁《ヲミナヲ》と訓べし、【書紀にはこれを婦人と書れたるを、タヲヤメと訓(メ)れど、其《ソ》は女の弱《ヨワ》くはかなき方を云(フ)ときの稱《ナ》にて、記中書紀萬葉などを見(ル)に、多く其意なる所に云り、なほ手弱女《タヲヤメ》のことは、傳八の三葉に云り、又|袁登賣《ヲトメ》と云も、上に云る如く、若《ワカ》きをいふ稱なり、記中所々女人と書る例を考(ル)に、何(レ)も多袁夜賣《タヲヤメ》袁登賣《ヲトメ》など訓ては惡《ワロ》し、】袁美那《ヲミナ》といへるは、明(ノ)宮(ノ)段又朝倉(ノ)宮(ノ)段などの大御歌、又萬葉廿(ノ)卷家持(ノ)歌などに見えたり、【これを今ヲンナといふは、音便に頽《クヅ》れたるなり、】下に袁《ヲ》を添(ヘ)て讀(ム)は、語の調《シラベ》を助《タスケ》むとなり、愛袁登古袁《エヲトコヲ》の袁《ヲ》に同じ、

〇先言は許登佐伎陀知弖《コトサキダチテ》と訓べし、【上に先言とあると、字は同じけれど、訓は同じかるべからず、】書紀にも先言とありて、然訓り、萬葉十(ノ)卷に、春去者《ハルサレバ》、先鳴鳥乃《マヅナクトリノ》、※〔(貝+貝)/鳥〕之《ウグヒスノ》、事先立之《コトサキダチシ》、君乎之將待《キミヲシマタム》【事は借字にて言なり、】とあり、古語なり、

〇不良、この訓《ヨミ》は近き海に釣《ツリ》する海人《アマ》のうけならねど、思定(メ)かねて、種々《クサグサ》云なり、先(ヅ)一(ツ)には、余※〔言+可〕良受《ヨカラズ》とも訓べし、其《ソ》は即《ヤガテ》字の隨《ママ》にもあり、又聖武紀宣命に、天下君坐而《アメノシタノキミトマシテ》、年緒長久皇后不坐事母《トシノヲナガクオホギサキマサヌコトモ》、一豆乃善有良努行爾在《ヒトツノヨカラヌワザニアリ》ともあれば、古語にてもあり、文書紀に此《ココ》を不祥と作《カカ》れたるを、私記に、案(ズルニ)古事記(ニ)云(ク)余※〔言+可〕良受《ヨカラズ》とあれば、昔も然《シカ》訓(ミ)しならむ、垂仁(ノ)御卷に非良《ヨカラズ》ともあり、又一(ツ)には、佐賀邪志《サガナシ》とも訓べし、書紀の不祥を然《シカ》訓(ミ)、惡(ノ)字をも然《シカ》訓ることあり、又性を佐賀《サガ》と訓り、是(レ)古語にて、後(ノ)歌に憂世之佐賀《ウキヨノサガ》など云も、是(レ)によくかなへり、其《ソ》は元《モト》より自然《オノヅカラ》に然《シカ》有《アル》ことを云言なり、佐賀那伎《サガナキ》は其(ノ)反《ウラ》にて、自然《オノヅカラ》然《シカ》有(ル)べきさまに背《ソム》き違《タガ》へるを云て、是(レ)も古語と見ゆ、【後の物語に、言《コト》多《オホク》て人を惡《アシ》く云(ヒ)なすを、さがなしと云(フ)は、用樣《モチヒザマ》の移れるなり、又|夢《イメ》の祥《サトシ》などの祥を佐賀《サガ》と訓るは、本より佐賀てふ言もあるに、不祥を佐賀那志と訓(メ)ば、其(ノ)

反《ウラ》ぞと心得たる、後人のひがことなるべし、不祥は佐賀那志と云に叶へども、祥は佐賀に叶はず、然るに性を佐賀と云を思ひて、某《ナニガシ》がいはゆる性善の意に叶へりと思ふは、漢心《カラブコロ》にて、古(ヘ)の意にあらず、凡て同(ジ)字にても、用《ツカ》ひざまに從(ヒ)て、此方の言はかほるを、書紀の訓は、その別なく、同字にだにあれば、此《ココ》も彼《カシコ》も同じ言に訓て、語は古語ながら、其所に叶はぬこと多し、後(ノ)世になりては、その本の用ひざまを知(ラ)ねば、何れか正しく、何れかひがこととも、えわきまへぬことも多くなれり、】かくて不良を佐賀郡志《サガナシ》と訓るは、書紀(ノ)垂仁(ノ)御卷に、夫|君王陵墓埋立生人是不良《キミノミハカニイケルヒトウヅミタルコトハサガナシ》、推古(ノ)御卷に、其大國(ノ)客等(ノ)聞之亦不良《キカムモマタサガナシ》、これらなり、又一(ツ)には、布佐波受《フサハズ》とも訓べし、其《ソ》は八千矛(ノ)神の御歌に、云々|許禮波布佐波受《コレハフサハズ》、云々|許母布佐波受《コモフサハズ》、云々|許斯與呂志《コシヨロシ》とありて、布佐波受《フサハズ》は、宜《ヨロ》しの反《ウラ》にて、宜《ヨロ》しからずと云なり、彼(ノ)御歌を考(ヘ)て知(ル)べし、傳十一【三十七葉】に委く云り、さて源氏(ノ)物語などに、布佐波志加良受《フサハシカラズ》と云こと、ところ/”\にある中に、花(ノ)宴(ノ)卷に見えたる、河海抄の釋に、不祥日本紀とあり、かゝればかの書紀の不祥を、然訓る本《マキ》昔(シ)有(リ)つと見えたり、さて彼(ノ)物語の布佐波志加良受《フサハシカラズ》も、心にかなはぬことを云て、彼(ノ)御歌なると同じ意なり、【又今(ノ)世の語に、物の人に合應《アヒカナヒ》て幸《サキハヒ》あるを、布佐布《フサフ》といひ、否《シカラヌ》を布佐波奴《フサハヌ》と云(フ)、是(レ)又不祥の意にも合《アヘ》ば、かの河海抄に引《ヒカ》れたる、よくかなひたり、又萬葉十八(ノ)卷は、等理我奈久《トリガナク》、安豆麻乎佐之天《アヅマヲサシテ》、布佐倍之爾《フサヘシニ》、由可牟登於毛倍騰《ユカムトオモヘド》、與之母佐禰奈之《ヨシモサネナシ》とある、布佐倍之爾行《フサヘシニユク》とは、幸《サキハヒ》を得むとして行《ユク》なりと、師(ノ)説なり、布佐布《フサフ》布佐比《フサヒ》など活《ハタラ》く言なるを、布佐倍《フサヘ》と云は、布佐波勢《フサハセ》の約りたるなり、】さて右の三(ツ)をならべて今一(ト)度(ビ)考るに、なほ布佐波受《フサハズ》と訓(ム)ぞまさりて聞ゆる、さて此(ノ)詔を書紀には、陽神不v悦曰(ク)、吾(ハ)是男子、理當2先唱1、如何(ゾ)婦人反(テ)先言乎、事既(ニ)不祥、宜2以改旋(ル)1とあり、

〇告は能理多麻比伎《ノリタマヒキ》と訓べし、此(ノ)字記中に多く詔(ノ)字と通はして書り、凡て古(ヘ)は多くは能琉《ノル》と訓しなり、萬葉などにても、多くは能琉《ノル》に用ひたり、【然るを今(ノ)本は、古語に昧《クラ》くて、都具《ツグ》と訓(ミ)誤れる處のみ多し、】

〇雖然は斯加禮杼母《シカレドモ》と訓べし、此語萬葉にも多く有て、假字《カナ》にも之可禮杼毛《シカレドモ》など、所々【十五の五丁、十六の十四丁、十八の廿丁、十九の廿五丁、】に見えたり、

〇久美度《クミド》は、夫婦《メヲ》隱《コモ》り寢《ヌ》る處を云、【物語文などに、貴人《ウマビト》の寢《ネ》たまふことを、大殿隱《オホトノゴモル》と云り、】久美《クミ》は、許母理《コモリ》の約《ツヅマ》りたる言なること師(ノ)説に見えて、既に豐雲野《トヨクモヌノ》神の下《トコロ》にも云り、【傳三の卅五葉、】朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、伊久美陀氣《イクミダケ》、伊久美波泥受《イクミハネズ》、多斯美陀気《タシミダケ》、多斯爾波韋泥受《タシニハヰネズ》、能知母久美泥牟《ノチモクミネム》云々、この伊久美波泥受《イクミハネズ》は、隱者不寢《コモリハネズ》にて、【伊《イ》は發語、】久美泥牟《クミネム》も隱將寢《コモリネム》なり、又書紀武烈(ノ)御卷(ノ)歌に、耶陛能矩瀰 ※〔加/可〕枳《ヤヘノクミカキ》といふも、隱垣《コモリカキ》なり、都麻碁微爾《ツマゴミニ》、夜弊賀岐都久流《ヤヘガキツクル》の碁微《ゴミ》も、久美《クミ》と通ふ語なり、是等《コレラ》にて知べし、さて度《ド》は處《トコロ》なることも、又|夫婦《メヲ》隱《コモ》り寢《ヌ》る所をしも別《ワキ》て云ことも、上に説《トキ》つるが如し、又萬葉廿(ノ)卷|防人《サキモリ》が歌に、阿之可伎能《アシカキノ》、久麻刀爾多知弖《クマドニタチテ》、和藝毛古我《ワギモコガ》、蘇弖毛志保々爾《ソデモシホホニ》、奈伎志曾母波由《ナキシゾモハユ》、この久麻刀《クマド》は隈處《クマド》にて、即|久美度《クミド》と言は同じきなり、【なほ久美《クミ》久麻《クマ》許母理《コモリ》相通ふこと、師の冠辭考さす竹(ノ)條に委し、】

〇興而は淤許斯弖《オコシテ》と訓べし、【多弖々《タテテ》とも、多知弖《タチテ》とも訓(ム)は、ひがことなり、】此《コ》は女男《メヲ》交合《マグハヒ》することを如此《カク》言《イヘ》るなり、須佐之男(ノ)命の段にも、其櫛名田比賣以久美度邇起而所生神名《ソノクシナダヒメモテクミドニオコシテウミマセルカミノミナヲ》、謂《イフ》2八嶋士怒美《ヤシマジヌミノ》神(ト)1とあり、此《コレ》を書紀には、於《ニ》2奇御戸《クミド》1爲起而生兒《オコシテウミマセルミコ》云々と書れたり、【凡て書紀は、勤《ツトメ》て漢文に書るものなれども、間《ママ》には其(ノ)格《サマ》に違(ヒ)て、此方《ココ》の上古《カミツヨ》の物事格《モノカキザマ》なることもなきにあらず、其《ソ》は古記《フルキフミ》にありし隨《ママ》に書《カカ》れたるものと見えたり、今此(ノ)爲起《オコシ》の爲(ノ)字の用格《ツカヒザマ》も、漢文の方に取ては甚物遠《イトモノドホ》し、是も古記に淤許志《オコシ》の志《シ》に當《アテ》て書るを、其《ソノ》隨《ママ》と見えたり、古書には爲《シ》v起《オコ》とかける類、此(ノ)記などにも多し、奇御戸《クミド》も借字にて、古書のかきざまなり、】さて交合《マグハヒ》のことを如此《カク》しも云る、語のこゝろは、先((ヅ)凡て事の始まりを起《オコ》りといひ、始むるを起《オコ》すと云(フ)、されば此《コレ》は、御子を生《ウミ》たまはむ事《ワザ》を、久美度《クミド》にして始め賜ふ謂《イヒ》なり、【女男|交合《マグハヒ》するは、子を生《サム》べきことの起《オコ》りなればなり、】さる》故に此(ノ)言は、かならず御子を生坐《ウミマス》ことの端《ハシ》にのみ云て、たゞに交合《マグハヒ》することのみには云る例なし、心をつけて辨(フ)し、【久美度《クミド》に於《オキ》て其事を始(メ)て、御子を生《ウミ》坐(ス)と云むが如し、】書紀一書に、陰神先唱曰云々、便握2陽神(ノ)之手(ヲ)1、遂(ニ)爲(リ)2夫婦(ト)1、生2淡路洲(ヲ)1次蛭兒とあるは、異なる傳(ヘ)なり、又一書には、遂(ニ)將合交而《ミトノマグハヒシタマハムトシテ》、不v知2其術《ソノワザヲ》1、時(ニ)有鶺鴒飛來《ニハクナブリトビキテ》搖《ウゴカスヲ》2其|首尾《ヲカシラ》1、二神|見而學之《ミソナハシテソヲマナビテゾ》、即|得交道《トツギノサマヲシロシメシケル》ともあり、

〇水蛭子《ヒルゴ》は、上(ツ)代に水蛭《ヒル》に似たる兒《コ》をいひし稱《ナ》なり、【子《コ》を濁(リ)て讀(ム)べし、】此(ノ)御子の名と心得るはひがことなり、さて彼(ノ)蟲に似たるを如此《カク》云に就て、二(ツ)の意あるべし、其《ソ》は手足なども無(ク)て、見る形《カタチ》の似たるを云(フ)か、又書紀に雖已三歳脚猶不立《ミトセニナリヌレドアシタタザリキ》、とあるに依《ヨラ》ば、手足などもあれど、弱《ヨワク》て凡て萎々《ナエナエ》とあるが似たるを云にも有(ル)べし、水蛭《ヒル》は和名抄に、本草(ニ)云(ク)、水蛭和名|比流《ヒル》とあり、【契沖云、蛭《ヒル》は、痺蟲《ヒルムムシ》なれば名づけたるか、】さて此(ノ)御子の生《アレ》坐ること、書紀の傳(ヘ)は甚《イタ》く異にして、月(ノ)神の生《アレ》坐る次にありて、遙《ハルカ》に後なり、【舊事紀に、初(メ)と終(リ)とに、二(ツ)の蛭兒を生(ミ)坐と云るは、此記と書紀との傳(ヘ)を、一(ツ)に合せて記したる、例のひがことなり、】一書は此記と同じ、又一書には、先決路嶋、次に蛭兒なり、【天慶六年日本紀竟宴(ニ)、得2伊弉諾(ノ)尊(ヲ)1、大江(ノ)朝綱(ノ)歌に、賀曾伊呂婆《カゾイロハ》、阿婆禮度美須夜《アハレトミズヤ》、毘留能古婆《ヒルノコハ》、美斗勢爾那理奴《ミトセニナリヌ》、阿枳多々須志天《アシタタズシテ》、】

〇葦船は阿斯夫泥《アシブネ》と訓べし、【凡て某船《ナニブネ》と云(フ)例みな然なり、阿斯能《アシノ》とは讀《ヨマ》ぬことぞ、】此(ノ)船を書紀(ノ)纂疏には、以2葦(ノ)一葉(ヲ)1爲(ル)v船(ト)也とあり、さも有(リ)なむ、文章を多く集《アツメ》て、からみ作りたるにてもあるべし、かの無間堅間之小船《マナシカタマノヲブネ》など思ひ合すべし、書紀本書には、載《ノセテ》2之於天(ノ)磐橡樟船《イハクスブネニ》1而|順《マニマニ》v風(ノ)放(チ)棄(ツ)とあり、和名抄に、舟(モ)船(モ)和名|布禰《フネ》とあり、さて此(ノ)御子を如此《カク》流去《ナガシステ》賜へるは、たゞ水蛭子《ヒルゴ》なるゆゑに、惡《ニク》まして棄《ステ》たまへるなり、

〇淡嶋《アハシマ》は、前に引る高津(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、阿波志摩《アハシマ》とある嶋なり、又萬葉三(ノ)卷に、武庫浦乎《ムコノウラヲ》、榜轉小舟《コギタムヲブネ》、粟嶋矣《アハシマヲ》、背爾見乍《ソガヒニミツツ》、乏小舟《トモシキヲブネ》、又四【十六丁】【丹比《タヂヒノ》笠麻呂筑紫(ノ)國へ下る時の長歌、】に、淡路乎過粟嶋乎背爾見管《アハヂヲスギチアハシマヲソガヒニミツツ》云々、又七【十九丁】に、粟嶋爾《アハシマニ》、許枳將渡等《コギワタラムト》、思鞆《オモヘドモ》、赤石門浪《アカシノトナミ》、未佐和來《イマダサワゲリ》、【十二(ノ)卷の歌にも見ゆ、】これらに依《ヨル》に、淡路《アハヂ》の西北の方に在(ル)嶋と見えたり、仙覚(ガ)抄に、讃岐(ノ)國屋嶋(ノ)北去(ルコト)百歩許(リ)有v嶋、名(テ)曰2阿波嶋(ト)1とあり、なほよくたづぬべし、九(ノ)卷【十三丁】に、粟小嶋《アハノコジマ》とよめるも、これなるべし、【十五(ノ)卷(ノ)歌に安波之麻《アハシマ》とよめる、二首あれど、其《ソ》は別《コト》にて、周防の海に有(ル)かと聞ゆ、又書紀に、少名毘古那(ノ)神の、淡嶋に至て粟莖《アハガラ》に弾《ハジカ》れて、常世郷《トコヨノクニ》にいでませると有(ル)は、風土記に依(ル)に、伯耆《ハハキノ》國|相見《アフミノ》郡に在(ル)なり、又出雲風土記に、彼國の意宇(ノ)郡にも粟嶋あり、さて此《ココ》の淡嶋を、志摩(ノ)國紀(ノ)國など云も、東《アヅマ》の安房《アハノ》國なりと云も、皆誤(リ)なり、又阿波能志摩《アハノシマ》と訓(ム)も惡《ワロ》し、彼(ノ)大御歌又萬葉の歌どもにて、阿波志摩《アハシマ》と讀(ム)こと明らけし、】さて此(ノ)嶋は、今吾所生之子不良《イヤアガウメリシミコフサハズ》、【次(ノ)段(ニ)見ゆ、】と詔《ノタマ》へるを以(テ)思(フ)に、源氏(ノ)物語帚木(ノ)卷に、爪弾《ツマハジキ》をして、云む方なしと、式部を阿波米惡《ァハメニクミ》て少し宜しからむことを申せと、責《セメ》賜へど云々、【阿波米《アハメ》てふ詞、なほ明石(ノ)卷處女(ノ)卷角總(ノ)卷宿木(ノ)卷、又紫式部日記などにも見えたり、あはむとも、あはむるとも活用《ハタラ》く言なり、】この阿波米惡《アハメニク》みを、河海抄に淡惡《アハメニクム》と釋《トカ》れたる、【後の註に、拒なりと云(ヒ)、又|波《ハ》を濁りてよむ、みな非なり、】其(ノ)意にて、御親《ミオヤノ》神の淡《アハ》め惡《ニク》み賜(ヒ)し故に、淡嶋とは名《ナヅケ》しなるべし、書紀に、先(ヅ)以《ヲ》2淡路洲1爲《ス》v胞《エト》、意所不快故《フサハズオモホシケルユヱニ》、名2之曰《ナヅケキ》淡路洲(ト)1とあるは、此(ノ)淡嶋と名の似たるから、まがひつる傳(ヘ)なり、【舊事記に、これを吾恥《アハヂ》の意とせるは、似たることながら、古(ヘ)の意に非ず、淡路てふ名(ノ)義は次(ノ)卷に云、】

〇是亦不入子之例《コモミコノカズニハイレズ》、【不入は、伊良受《イヲズ》とも、伊禮受《イレズ》とも訓べし、】かの水蛭子《ヒルゴ》は、流去《ナガシステ》賜ひつれば、本より御子の數に入(ラ)ざること知《シラ》れたり、故《カレ》淡嶋を是亦《コモ》と云り、許禮母《コレモ》を、許母《コモ》と云は古言なり、さて例(ノ)字は※〔言+可〕受《カズ》と訓べし、書紀に此亦不以》充兒數《《コモミコノカズニハイレズ》、とあるに依れり、【此(ノ)例(ノ)字を師は、列(ノ)字の誤(リ)なるべしと云れたり、これもさることなり、欽明紀に、入(ル)2榮班貴盛(ノ)之|例《ツラニ》1とある例も、列の誤と聞えたり、然れども又雄略紀に、莫v預2群臣之|例《ツラニ》1、また天武紀に、入(レム)2不(ル)v赦(サ)之|例《カギリニ》1、また入(ル)2官治之例(ニ)1、などある例は、誤には非れば、此《ココ》なるも、これらの類とすべし、】是等《コレラ》を御子の數に入(レ)ぬは、不良《フサハズ》とて淡《アハ》め惡《ニク》み賜へる故なり、

 

於是二柱神議云《ココニフタバシラノカミハカリタマヒツラク》。今吾所生之子不良《イマアガウメリシミコフサハズ》。猶宜白天神之御所《ナホアマツカミノミモトニマヲスベシトノリタマヒテ》。即共參上《スナハチトモニマヰボリテ》。請天神之命《アマツカミノミコトヲコヒタマヒキ》。爾天神之命以《ココニアマツカミノミコトモチテ》。布斗麻邇爾《フトマニニ》【上。此五字以音】卜相而詔之《ウラヘテノリタマヒツラク》。因女先言而不良《ヲミナヲコトサキダチシニヨリテフサハズ》。亦還降改言《マタカヘリクダリテアラタメイヘトノリタマヒキ》。

天神は、上(ノ)件に天神諸《アマツカミモロモロ》とありしと同く、初(メ)の五柱(ノ)天神なり、

〇御所は実母刀《ミモト》と訓べし、

〇白は、何れも麻袁須《マヲス》と訓べし、高津(ノ)宮(ノ)段の歌に、母能麻袁須《モノマヲス》、朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、意富麻幣爾麻袁須《オホマヘニマヲス》など、此外萬葉などにも多く然あり、【萬葉に麻宇須《マウス》ともあれど、そは乎《ヲ》を宇《ウ》に寫し誤れるか、いかにまれ、宇《ウ》と云は、音便に頽《クヅレ》たるなり、】

〇參上は麻韋能煩理弖《マヰノボリテ》と訓べし、凡て參を古(ヘ)は麻韋《マヰ》と云り、參入を麻韋琉《マヰル》、【麻韋伊琉《マヰイル》の約(マ)りたるなり、後世の假字に麻伊琉と書(ク)は誤なり、】參出を麻韋傳《マヰデ》、參來を麻韋久《マヰク》と云類なり、【此(ノ)麻韋《マヰ》を、後にほ多くは麻宇《マウ》といへり、參出《マヰデ》を詣《マウヂ》といひ、參上をも麻宇能煩琉《マウノボル》と云類なり、みな例の音便に頽《クヅ》れたるなり、】

〇請《コフ》2天(ツ)神(ノ)之命(ヲ)1とは、上(ノ)件の状《サマ》を云々《シカシカ》と天神に白《マヲシ》賜て、【書紀に具(ニ)奏2其状(ヲ)1とあり、】是(レ)如何《イカ》なる故ぞ、なほ如何《イカニ》し侍《ハベラ》むと、伺《ウカガ》ひて、其(ノ)詔《ノリゴチ》賜ふ命《ミコト》を請《コヒ》たまふなり、抑|萬《ヨロヅ》の事に、いさゝかも己《オノ》が私《ワタクシ》を用ひずて、唯天神の命の隨《マニマ》に行ひ賜ふことは、道の大義《オモキコトワリ》なり、此二柱(ノ)大神すら猶|如此《カカ》りけるものを、況《マシ》て後(ノ)世の凡人《タダビト》として、努《ユメ》己《オノ》が私心《ワタクシゴコロ》もてさかしら莫《ナ》爲《セ》そ、

〇天神之命以《アマツカミノミコトモチテ》は、上に天(ツ)神|諸命以《モロモロノミコトモチテ》とありしと同(ジ)語にて、仰《オフセ》にてと云むが如し、

〇布斗麻邇《フトマニ》は、玉垣(ノ)宮(ノ)御段《ノミクダリ》にも、

布斗摩邇々占相而《フトマニニウラヘテ》と云ことあり、書紀に太占此(ヲ)云2布斗麻爾《フトマニト》1、又天(ノ)兒屋(ノ)命(ハ)主2神事(ノ)之宗源(ヲ)1者也、故(レ)俾《シメキ》d以(テ)2太占之卜事《フトマニノウラゴト》1奉仕《ツカヘマツラ》u焉などあり、布斗《フト》は、布刀詔戸《フトノリト》布刀玉《フトダマ》などの布刀《フト》にて、稱辭《タタヘコト》なり、麻邇《マニ》は、如何《イカ》なる意にか末(ダ)思ひ得ず、【書紀の占(ノ)字は、唯其(ノ)事に當《アテ》て書(キ)賜へる物にて、正《マサ》しく麻邇《マニ》は占なりと云にはあらず、凡て書紀の文字は、語に中《アタ》らねど、意を得て書るが多きなり、又から文《ブミ》にては、卜《ボク》と占《セム》と別なれど、此方には通(ハ)し用(ヒ)て別なし、然るを字に就て差別を云説は、甚《イタク》ひがことなり、】そも/\布斗麻邇《フトマニ》は、上(ツ)代の一種《ヒトクサ》の卜《ウラ》にて、諸卜《モロモロノウラ》の中に殊に重《オモ》く、主《ムネ》とせし卜《ウラ》と聞えたり、下の爾《ニ》は辭《テニヲハ》なり、

。註の上(ノ)字は、上聲《アガルコヱ》を附《ツケ》たるなり、

〇卜相而は宇良閇弖《ウラヘテ》と訓べし、萬葉十四【七丁】に、武藏野爾宇良敝可多也伎《ムザシヌニウラヘカタヤキ》とあり、宇良閇《ウラヘ》は宇良阿閇《ウラアヘ》にて、【阿《ア》を省く例常多し、殊に是(レ)は良《ラ》に阿韵《アノヒビキ》あればさらなり、】その阿閇《アヘ》は、令合《アハセ》の約《ツヅマ》りたるなり、例は朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、麻那婆志良袁由岐阿閇《マナバシラヲユキアヘ》【尾行合《ヲユキアハ》せなり、】とあるこれなり、猶此(ノ)格は、從《シタガ》はせてを從《シタガ》へて、違《タガ》はせてを違《タガ》へて、集《ツド》はせてを集《ツド》へてと云類多し、されば宇良閇弖《ゥラヘテ》は、卜令合而《ウラアハセテ》と云ことなり、書紀にも、卜合《ウラヘ》と合(ノ)字を添(ヘ)て書れたり、【凡て古書に卜とある、其所《ソコ》の使樣《ツカヒザマ》に因(リ)て、言の活《ハタラ》き變《カハ》るなり、まづ宇良《ウラ》と云は、其(ノ)事の體言なるを、其(ノ)宇良《ウラ》を爲《スル》を、用言に活《ハタラカ》すときに、宇良布《ウラフ》と云(フ)、是(レ)宇良阿波須《ウラアハス》てふことなるが、阿《ア》を省《ハブ》き、波須《ハス》を約(メ)て布《フ》となれるなり、さて其(ノ)本の言の合《アハ》すは、合《アハ》さむ合《アハ》せなどと活《ハタラ》く故に、約まりたる布《フ》も活《ハタラ》きて、宇良波牟《ウラハム》宇良閇《ウラヘ》なども云なり、又其(ノ)用言の宇良閇《ウラヘ》を居《スヱ》て、體言に爲《シ》たるもあり、萬葉十五に、保都手乃宇良敝乎可多夜伎弖《ホツテノウラヘヲカタヤキテ》とある是(レ)なり、こは乎《ヲ》とあれば體言なり、此(ノ)例は、歌てふ體言を活《ハタラカ》して、歌《ウタ》ふとも云を、又それを居《スヱ》て、謠《ウタヒ》と體言にも云が如し、さて此(ノ)宇艮敝《ウラヘ》の敝《ヘ》を濁(リ)て、卜部《ウラベ》と心得るは誤なり、卜部《ウラベ》は,卜《ウラ》を業《ワザ》とする人の部《ムレ》を云て別なり、思ひ混《マガ》ふべからず、又|宇良那布《ウラナフ》と云も、一(ツ)の活《ハタラカ》し格《ザマ》なり、萬葉十一に、玉桙路往占占相《タマボコノミチユキウラニウラナヘバ》云々、こは賂《マヒ》をするを麻比那布《マヒナフ》、商《アキ》をするを阿伎那布《アキナフ》、荷《ニ》を爾那布《ニナフ》と云類にて、卜《ウラ》を爲《ス》るを云なり、此外|行《オコナ》ふ養《ヤシナ》ふ咒《マジナ》ふなど、那布《ナフ》てふことを添(ヘ)て云言多し、皆同じ意なり、さて右の宇良布《ウラフ》と宇良那布《ウラナフ》と、事は同じかれど、言の本は別なり、思ひ混《マガ》ふべからず、此《ココ》も宇良那比弖《ウラナヒテ》と訓むも惡《アシ》からねど、相(ノ)字を加(ヘ)たるも、阿閇《アヘ》の意なり、右の萬葉の占相の相は、同じ借字の中にも、殊に輕《カロ》く用ひたる物にて、彼集の常なり、此《ココ》の相(ノ)字は、借字ながら阿閇《アヘ》の意を取て書れば、彼(レ)とは少し異なり、又僧尼令に、卜2相(ス)吉凶(ヲ)1とあるは、義解に、灼(ヲ)v龜(ヲ)曰v卜(ト)、視(ヲ)v地(ヲ)曰v相(ト)と有て、その意異なり、さて又|卜《ウラ》をして、兆《カタ》に見はれ出たるを、宇良阿布《ウラアフ》と云、漢文に是を卜食《ウラハム》と云、此方《ココ》にも此(ノ)食(ノ)字を借て書り、猶此(ノ)食(ノ)字のことは論あり、垂仁(ノ)段に云べし、さて上の宇良布《ウラフ》は、此方《コナタ》より合《アハ》す事《ワザ》をするを云(ヒ)、是(レ)は彼方《カナタ》より合《アフ》なり、此(ノ)令合《アハス》と合《アフ》との別《ワキ》をよく辨《ワキマ》ふべし、さて其(ノ)宇良阿布《ウラアフ》に又、食《アフ》v卜《ウラニ》と卜食《ウラアフ》との別《ワカチ》あり、凡て此(ノ)卜《ウラ》てふ言の活用《ハタラキ》多《オホ》くて、古書の訓まぎらはしく、誤れることも多き故に、見む人のうるさかるらむも思はで、長々《ナガナガ》といふなり、】さて卜相《ウラヘ》の樣《サマ》は、天(ノ)石屋の段【傳八の卅一葉】に云べし、抑《ソモソモ》中ごろよりは、【萬(ノ)事|漢樣《カラザマ》になれるから、】卜《ウラヘ》はたゞ神事《カムワザ》にのみ用ることになれれど、上(ツ)代には、萬の政《ミワザ》にも、己《オノ》がさかしらを用ひず、定めがたきことをば皆|卜《ウラヘ》て、神の御教《ミヲシヘ》を受て、行ひ賜しこと、記中書紀其(ノ)外にも多く見えたり、今天(ツ)神すら如此《カクノゴト》くなるをや、【抑|異神《コトカミ》の卜問《ウラドヒ》は、天(ツ)神の御教(ヘ)を受賜ふなるべければ、謂《イハ》れたるを、今此天(ツ)神の卜《ウラ》へ賜ふは、何(レノ)神の御教を受賜ふぞと、疑ふ人も有(リ)なめど、其《ソ》は漢籍意《カラブミゴコロ》にて、古(ヘ)の意ばへに違へり、是(レ)を彼《カ》に此《カク》にいはば、神代の事は皆がら、疑はしきことのみならむ、凡て是(レ)等の事、人の測《ハカリ》知(ル)べきならねば、中々《ナカナカ》なるさかしら心をもたらで、たゞ古(ヘ)の傳(ヘ)のまゝに見べきなり、】書紀には、天神の御所に參上て、大命を承たまふ事なし、直《タダ》に即(チ)改(メ)旋(リ)たまへり、一書に此事あり、

〇因女先言而不良《ヲミナヲコトサキダチシニヨリテフサハズ》、上に伊邪那岐(ノ)命の、女人先言不良《ヲミナヲコトサキダチテフサハズ》と詔へるは、女の言先《コトサキダツ》ことの、宜《ヨカ》らぬなるを、此《ココ》は生(レ)賜へる御子の宜《ヨ》からぬを指(シ)て詔ふなれば、【因《ヨリテ》とあるを以(テ)辨ふべし】同(ジ)語ながら指事《サスコト》異なり、思ひ混《マガ》ふべからず、【書紀の、此記の趣の如くなる一書に、上の伊邪那岐(ノ)命の詔へる此(ノ)語はなくて、たゞ此《ココ》に至て、天神云々乃教曰、婦人之辭其已先揚乎《ヲミナヲコトサキダツベシヤ》、宜更還去《カヘリテアラタメイヘ》とあり、】

〇改言は阿良多米伊幣《アラタメイヘ》と訓べし、【俗言にいひなほせと云ことなり、】不祥《フサハヌ》御子を生《ウミ》坐るは、もはらかの唱和《トナヘコタヘ》の次第《ツイイデ》の亂《ミダレ》に因(リ)てなれば、御言《ミコト》の罪なり、故(レ)如此《カク》詔へるなり、言《イヘ》とあること心を着《ツク》べし、上なる亦《マタ》は、又再(ビ)の意にて、言《イヘ》と云(フ)へ係《カカ》れり、

〇此(ノ)段の大かたの趣を取總《トリスベ》て、なほ委曲《ツバラカ》に云むには、まづ初(メ)に二柱(ノ)神天之御柱を行廻り賜(ヒ)し時に、女《メ》神の言先《コトサキ》だち賜べきことなり、惡《アシ》きを改めむは、善《ヨキ》ことなるを、其《ソレ》をさへなほ敬《ツツシ》みて、天神に白《マヲ》したまふほどならば、其(ノ)初(メ)に甚《イタ》く不良《フサハヌ》ことを知(リ)ながら、即《ヤガテ》御合《ミアヒ》坐るは又いかにぞや、重《オモ》く敬むべきことをば敬まで、さしもあらぬことを敬みたまふこと、あるべくもあらず、凡て敬《ツツシミ》も事にこそよれ、近(キ)代神道者などこと/”\しく稱《ナノ》るものの、漫《ミダリ》に敬《ツツシミ》といふことを、道の旨《ムネ》といひなすは、例の儒に諂《ヘツラ》へる私(シ)言なり、又或人の説に、其(ノ)初(メ)不良《フサハヌ》をばしりながら御合《ミアヒ》坐るは、御過《ミアヤマチ》なり、されど其《ソ》を速《スミヤ》けく改めたまへるぞ、大神には坐けると云も、亦儒書にへつらへるなり、】

古事記傳五之卷

                    本居宣長謹撰

 

    神代三之卷《カミヨノミマキトイフマキ》

 

故爾反降《カレスナハチカヘリクダリマシテ》。更往廻其天之御柱如先《サラニカノアノノミハシラヲサキノゴトユキメグリタマヒキ》。於是伊邪那岐命《ココニイザナギノミコト》。先言阿那邇夜志愛袁登賣袁《マヅアナニヤシエヲトメヲトノリタマヒ》。後妹伊邪那美命《ノチニイモイザナミノミコト》。言阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲトノリタマヒキ》。如此言竟而《カクノリタマヒヲヘテ》。御合《ミアヒマシテ》。生子淡道之穗

 

之狹別嶋《ミコアハヂノホノサワケノシマヲウミタマヒキ》。【訓別云和氣下效此】次生伊豫之二名嶋《ツギニイヨノフタナノシマヲウミタマフ》。此嶋者身一而有面四《コノシマハミヒトツニシテオモヨツアリ》。毎面有名《オモゴトニナアリ》。故伊豫國謂愛 上 比賣《カレイヨノクニヲエヒメトイヒ》。【此三字以音下效此也】讃岐國謂飯依比古《サヌギノクニヲイヒヨリヒコトイヒ》。粟國謂大宜都比賣《アハノクニヲオホゲツヒメトイヒ》。【此四字以音】土左國謂建依別《トサノクニヲタケヨリワケトイフ》。次生隱伎之三子嶋《ツギニオキノミツゴノシマヲウミタマフ》。亦名天之忍許呂別《マタノナハアメノオシコロワケ》。【許呂二字以音】次生筑紫嶋《ツギニツクシノシマヲウミタフ》。此嶋亦身一而有面四《コノシマモミヒトツニシテオモヨツアリ》。毎面有名《オモゴトニナアリ》。故筑紫國謂白日別《カレツクシノクニヲシラビワケトイヒ》。豐國謂豐日別《トヨクニヲトヨビワケトイヒ》。肥國謂建日向日豐久士比泥別《ヒノクニヲタケヒムカヒトヨクジヒネワケトイヒ》。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別《クマソノクニヲタケビワケトイフ》。【曾字以音】次生伊伎嶋《ツギニイキノシマヲウミタマフ》。亦名謂天比登都柱《マタノナハアメヒトツバシラトイフ》。【自比至都以音訓天如天】次生津嶋《ツギニツシマヲウミタマフ》。亦名謂天之狹手依比賣《マタノナハアメノサデヨリヒメトイフ》。次生佐度嶋《ツギニサドノシマヲウミタマフ》。次生大倭豐秋津嶋《ツギニオホヤマトトヨアキヅシマヲウミタマフ》。亦名謂天御虚空豐秋津根別《マタノナハアマノミソラトヨアキヅネワケトイフ》。故因此八嶋先所生《カレコノヤシマゾマヅウミマセルクニナルニヨリテ》。謂大八嶋國《オホヤシマクニトイフ》。

反降《カヘリクダリ》は、天(ツ)神の御所《ミモト》より返(リ)て、淤能碁呂嶋に降(リ)賜ふなり、此言倭建(ノ)命(ノ)段にも、還下坐《カヘリクダリマシテ》とあり、若櫻(ノ)宮(ノ)段にもあり、

〇更往廻云々は、佐良爾迦能阿米能御柱袁《サラニカノアメノミハシラヲ》、佐伎能碁登由伎米具理賜比伎《サキノゴトユキメグリタマヒキ》と訓べし、【如《ゴト》v先《サキノ》を、文のまゝに下に讀(マ)むは、此方《ココ》の語のふりに非ず、漢文なり、凡て此方《ココ》の語と漢文とは、言の上下になりかはること多し、心得おくべし、】

〇御合は美阿比坐弖《ミアヒマシテ》と訓べし、即(チ)上にある美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》なり、續紀十に、伊波乃比賣命皇后止御相坐而《イハノヒメノミコトトミアヒマシテ》とあり、【美阿波世《ミアハセ》と訓(ム)は、古語しらぬひがことなり、俗語に美阿波須《ミアハス》と云ことあれど、それは子を親の令逢《アハス》なれば、自《ミ》ら逢《アフ》とは異なり、】

〇淡道之穗之狹別《アハヂノホノサワケ》、淡道は南海道の淡路(ノ)國なり、和名抄に阿波知《アハヂ》、書紀應神天皇の大御歌に、阿波※〔施の也が尼〕辭摩《アハヂシマ》とあり、【後に國となりても、なほ淡路嶋とのみ云ならへり、隱伎佐度も然り、】名義《ナノココロ》は、阿波《アハノ》國へ渡る海道《ウミツヂ》にある嶋なる由なり、【京路《ミヤコヂ》山跡路《ヤマトヂ》など云は常なる中にも、萬葉に筑紫路《ツクシヂ》土左道《トサヂ》ともよみ、|山跡道之嶋《ヤマトヂノシマ》ともよめれば、阿波道之嶋《アハヂノシマ》うたがひなし、又|津嶋《ツシマ》の名の意も似たるをおもへ、】さて次の國々の例によらば、生2子《ミコ》淡道嶋(ヲ)1亦(ノ)名(ハ)謂(フ)2穗之狹別《ホノサワケト》1とあるべきを此嶋のみは、古(ヘ)より亦(ノ)名をも引連《ヒキツヅケ》て唱來《トナヘコ》しなるべし、穗之狹《ホノサ》の意未(ダ)思ひ得ず、【されど強《シヒ》ていはば、始(メ)に生(ミ)坐る嶋なれば、稻穗《イナボ》の先(ヅ)出《イデ》そめたるによそへて、穗之早《ホノサ》の意※〔與+欠〕、早《サ》は、早蕨《サワラビ》早穗《ワサボ》などの早《サ》なり、】別《ワケ》は、皇子《ミコ》たちなどの御名に多し、其事は日代(ノ)宮(ノ)段【傳廿六の四のひら】に云べし、式に出雲(ノ)國出雲(ノ)郡|比古佐和氣《ヒコサワケノ》神社あり、こは狹別《サワケ》の例なり、

〇伊豫之二名嶋《イヨノフタナノシマ》、こは阿波讃岐伊余土左の四國《ヨクニ》を總《スベ》たる名なり、【後世四國と云、】萬葉三【三十九丁】に、白浪乎伊與爾回之《シラナミヲイヨニモトホシ》とあるも、四國を總《スベ》て云りと聞ゆ、是(レ)本は一國の名なるが、大名《オホナ》になれること、筑紫のごとし、二名《フタナ》は本より大名なるべし、此(ノ)名(ノ)義は、名《ナ》は借字にて二並《フタナラビ》なり、書紀應神(ノ)卷の大御歌に、阿波※〔施の也が尼〕辭摩《アハヂシマ》、異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、阿豆枳辭摩《アヅキシマ》、異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、豫呂辭枳辭摩之魔《ヨロシキシマジマ》、これは淡道《アハヂ》と小豆嶋《アヅキシマ》と並べるをよみ給へるにて、此《ココ》の二名(ノ)嶋のことにはあらねど、二並《フタナラビ》てふ言の證《ヨリドコロ》なり、萬葉九【二十二丁】に、二並筑波乃山《フタナラビツクハノヤマ》ともあり、さて此(ノ)嶋は、飯依比古《イヒヲリヒコ》と愛比賣《エヒメ》と女男《メヲ》並び、建依別《タケヨリワケ》と大宜都比賣《オホゲツヒメ》と又並べるを、二並《フタナ》と云か、【此(ノ)嶋、東より見れば、讃岐の飯依比古と粟の大宜都比賣と二並なり、西より見るも、土左の建依別と伊余の愛比賣と二並なり、北より見るも、南より見るも同じ、故に男女の名を負せて、二並(ノ)嶋とは云ならむ、又萬葉六(ノ)卷に、土左(ノ)國へゆくことを、刺並之國爾出坐《サシナミノクニニイデマス》とよめるは、別意《コトココロ》か、若《モシ》又これも二並の意にてもあらむか、今俗に、二人相(ヒ)對《ムカ》ふをさしむかひと云(ヒ)、又二人してすることをさしと云を思ふべし、】又伊豫をも本よりの大名とせば、彌《イヤ》の意にて、【いやをいよゝともいふ、】彼(ノ)御歌の語の如く、彌二並《イヤフタナラビノ》嶋なるべし、【今伊余《イヨ》の海中《ワタナカ》に大二嶋《オホニシマ》と云あり、大二嶋大明神の社もそこにあり、二名嶋はこれなりと國人は云(ヘ)ども、信《ウケ》られず、其《ソ》は越智《ヲチノ》郡なる大野(ノ)神社などを、唱へ誤れるにはあらぬか、】

〇此嶋者身一而《コノシマハミヒトツニシテ》とは、四國《ヨクニ》一嶋《ヒトツノシマ》なるを云(フ)、

〇有《アリ》2面四《オモヨツ》1とは、四(ツ)に分れたるを云(フ)、そはたゞ國(ノ)名の分れたるのみにはあらで、本より嶋の形の、四(ツ)に分れたる勢(ヒ)あるなるべし、【さてこそ四國《ヨクニ》には分れけめ、】さて如此《カク》人に准へて、身と云(ヒ)面《オモテ》と云は、次に三子《ミツゴノ》嶋|兩兒《フタゴノ》嶋なども云(ヒ)、又山にも頂《イタダキ》腹《ハラ》御富登《ミホト》【中卷に見(ユ)、】なども云類なり、面は淤母《オモ》と訓べし、【淤母弖《オモテ》と云は、後《ウシロ》を宇志呂弖《ウシロデ》と云がごとし、】萬葉二【四十一丁】に、讃岐國者《サヌギノクニハ》云々、天地《アメツチ》、日月與共《ツキヒトトモニ》、滿將行《タリユカム》、神乃御面《カミノミオモ》とよめるは、此處《ココ》を思へるなり、【昔はかくかりそめにも、古(ヘ)の傳言《ツタヘゴト》を物しけるに、後(ノ)世は只漢意をのみ思(ヒ)て、古(ヘ)の雅《ミヤビ》をわすれたるこそあさましけれ、】

〇伊豫《イヨノ》國、中卷下卷には伊余と書り、此《コ》は伊豫(ノ)郡より出たる名なるべし、【其例多し、】神名帳に、彼《ソノ》郡に伊豫(ノ)神(ノ)社もあり、同郡に伊豫豆比子《イヨヅヒコノ》神社と云もあり、【こは地《トコロノ》名より出たる神(ノ)名なるべし、】名(ノ)義思ひ得ず、

〇愛比賣《エヒメ》は、兄弟の女子を兄比賣《エヒメ》弟比賣《オトヒメ》と云例多かれば、此國は女子の始(メ)の意にて、兄比賣《エヒメ》か、【書紀皇極(ノ)卷に長女《エヒメ》ともあり、伊世(ノ)國多氣(ノ)郡には、兄國《エクニ》弟國《オクニ》てふ村の名もあり、】又伊豫を元よりの大名にして見れば、彼(ノ)大御歌の如く、彌二並宜嶋々《イヤフタナラビヨロシキシマジマ》の意にて、愛《エ》は宜《ヨロシ》き意か、【吉《ヨキ》を愛《エ》といふ例多し、上文の愛袁登賣《エヲトノ》のたぐひなり、】比賣《ヒメ》は、比古《ヒコ》に對て、女を美《ホメ》て云|稱《ナ》にて、比《ヒ》は、産巣日《ムスビ》などの日の意なり、上【傳三の十三葉】に云るが如し、賣《メ》は女《メ》なり、【書紀には、凡て比古に彦(ノ)字、比賣に姫又媛(ノ)字を用ひられたり、そは大抵《オホカタ》皇胤《ミスヱ》の女には姫(ノ)字、他姓《アダシウヂ》の女には媛(ノ)字を書れたり、さて此(ノ)記比古比賣の假字、凡て清濁いと嚴《オゴソカ》にて、清(ム)には必(ズ)比を用ひ、濁(ル)には必|毘《ビ》を用ひたり、みだりに讀(ム)べからず、又此(ノ)清濁、世に訛りて讀(ミ)ならひ來《キ》つるが多きをも、此記に依て正《タダ》すべし、少名毘古那《スクナビコナノ》神|※〔けものへん+爰〕田毘古《サルタビコノ》神などの毘《ビ》を清《スミ》、倭比賣《ヤマトヒメノ》命などの比《ヒ》を濁るなど、みな誤なり、此類なほ多し、】

○讃岐《サヌギノ》國、【岐は古(ヘ)は濁(リ)ていひしなり、】和名抄に佐奴岐《サヌギ》、この名(ノ)義未(ダ)思ひ得ず、強《シヒ》ていはば、古語拾遺神武天皇(ノ)御世の事どもを云る所に、又|手置帆負《タオキホオヒノ》命(ノ)之孫造(ル)2矛竿《ホコザヲヲ》1、其(ノ)裔《ハツコ》今分(レテ)在(リ)2讃岐(ノ)國(ニ)、毎(ニ)v年|調庸《ミツギモノ》之外(ニ)貢(ル)2八百竿《ホコザヲヤホヲ》1、是(レ)其(ノ)事|等《ドモノ》證也と見え、臨時祭式に、凡(ソ)桙木《ホコノキ》千二百四十四竿、讃岐(ノ)國十一月以前(ニ)差(テ)2綱丁(ヲ)1進納(ス)とある、是に因て思ふに、竿調《サヲノツギノ》國か、【乃都《ノツ》は奴《ヌ》と切《ツヅマ》り、乎《ヲ》を省《ハブケ》るなり、】

〇飯依比古《イヒヨリヒコ》、隣《トナリ》の粟(ノ)國を大宜都比賣《オホグツヒメ》といへば、飯《イヒ》もそれに由《ヨシ》あるか、鵜足《ウタリノ》郡に飯(ノ)神(ノ)社あり、式に見ゆ、依《ヨリ》のことは、玉依毘賣(ノ)命の下《トコロ》。【傳十七の七十四の葉】に云べし、比古《ヒコ》は男を美《ホメ》て云|稱《ナ》にて、比《ヒ》は上に云るが如し、古《コ》は子なり、

〇粟《アハノ》國、即(チ)阿波(ノ)國なり、粟は、書紀(ノ)神代(ノ)卷にも粟田《アハフ》と云(ヒ)、神武(ノ)卷の大御歌にも阿波布《アハフ》をよみ賜ひて、【萬葉三(ノ)卷にも春日之|野邊粟種益乎《ヌベニアハマカマシヲ》、】古(ヘ)に殊に多く作(リ)し物なり、故(レ)粟のよく出來《イデク》る國なる故の名なるべし、【和名抄に、唐韻(ニ)云、粟(ハ)禾子也(ト)、和名|阿波《アハ》とあるは、粟《ゾクノ》字につきたる義なり、漢國にては、たなつ物を凡て粟《ゾク》と云こともある故なり、されど皇國にて粟《アハ》と云は、一種の名にて、總《スベ》てにはわたらぬを、禾子也と云注を引ながら、和名|阿波《アハ》とせしは、順の誤なり、】古語拾遺に、求(メテ)2肥饒地《ヨキトコロヲ》1遣(ハシ)2阿波(ノ)國(ニ)1云々、こは穀麻《ユフアサ》を殖《ウヱ》むためなれど、肥地《ヨキトコロ》ならば粟もよくみのるべし、伯耆(ノ)風土記に、相見《アフミ》郡(ノ)郡家(ノ)之西北(ニ)有(リ)2粟嶋《アハシマ》1、少日子《スクナビコノ》命|蒔《マキタマフニ》v粟(ヲ)、秀實離々《イトヨクミノレリ》云々、故《カレ》云(フ)2粟嶋《アハシマト》1也、これも粟の、嶋の名となれる思(ヒ)合(ス)べし、

〇大宜都比賣《オホゲツヒメ》、【宜はゲの假字なり、キと訓(ム)はひがことぞ、】此(ノ)名も粟によれるなるべし、此(ノ)名の意は、下に同(ジ)名の神ある、其處《ソコ》に云べし、【此卷の五十三葉】

〇土左《トサノ》國、和名鈔(ニ)土佐(ノ)郡土佐(ノ)郷あれば、其《ソコ》より出たる國(ノ)名なるべし、【此(ノ)土左(ノ)郷に土左(ノ)大神(ノ)社あり、此神は葛木一言主《カヅラキノヒトコトヌシノ》神なるを.雄略天皇(ノ)御世に、故ありて此國へ移《ウツ》され給へること、續紀廿五、又此(ノ)國の風土記などに見ゆ、委(ク)は彼(ノ)朝倉(ノ)宮(ノ)段にいふべし、然《サテ》其(ノ)神|自《ミ》言離之神《コトサクノカミ》葛木之一言主之大神と名告《ナノリ》たまへり、此御名に因て思(フ)に、土左は許土左久《コトサク》の略《ハブカリ》たる名にもやあらむとも思へど、國(ノ)名彼(ノ)御世より先《サキ》にこそあらめ、】

〇建依別《タケヨリワケ》【建を、舊事紀には速とあり、】は、何《ナニ》となき稱名《タタヘナ》と聞ゆ、【依《ヨリ》は、上の飯依比古の依に同じ、】神名帳(ニ)、安藝《アギノ》郡に多氣《タケノ》神(ノ)社あり、さて此記を始(メ)て古書どもに、多祁《タケ》といふに建(ノ)字を用るは、健(ノ)字の偏《ヘム》を省《ハブ》けるなり、古(ヘ)は偏を省きて書る例多し、下|呉公《ムカデ》の下《トコロ》【傳十の三十九葉】に委(ク)云べし、書紀には凡て武(ノ)字を書り、

〇四國を擧たる序《ツイデ》、後(ノ)世の定(メ)に異なり、伊余は大名になれる故に先(ヅ)擧るか、さて次第《ツギツギ》に右へめぐれり、然《サ》て次なる嶋々の例によらば、此(ノ)四國も某國《ソノクニ》亦名《マタノナハ》謂《イフ》v某《ナニト》とあるべきを、是(レ)は一嶋の中にて分れたる國なる故に、文《カキザマ》を異《カヘ》て、亦(ノ)名とは云(ハ)ぬなるべし、筑紫(ノ)嶋の國々も此例なり、

〇隱伎之三子《オキノミツゴノ》嶋、下には淤岐《オキノ》嶋と書り、名(ノ)義は、海原《ウナバラ》の奥中《オキナカ》にある嶋と云なり、【書紀(ノ)口決に、奥《オク》也、西北(ノ)之隅(ヲ)謂(フ)2之奥(ト)1とあるは、似たることながら、漢書《カラブミ》にかゝれる故に、事違へり、纂疏の説も同じ、】三子(ノ)嶋とは、或人、此(ノ)國三(ノ)嶋ある故に云と云り、今|國圖《クニガタ》を考るに、まづ此(ノ)國四嶋に分れたる、其中に東北(ノ)方に在て大(キ)なるを、俗《ヨ》に嶋後《ダウゴ》と云(ヒ)、其西南(ノ)方に、【今道五里ばかり離れて】天之嶋向之嶋|知夫《チブリ》嶋とて三(ツ)あり、此(ノ)三(ツノ)嶋を統《スベ》て嶋前《ダウゼン》と云なり、【嶋後に比《クラ》ぶればいづれも小《チヒサ》し】三(ツ)子とはまことに此(レ)を以て云なるべし、

〇亦(ノ)名の下に謂(ノ)字|脱《オチ》たるか、次の例みな此字あり、されど無《ナク》てもありなむ、

〇天之忍許呂別《アメノオシコロワケ》、名(ノ)義|忍《オシ》は大《オホシ》の約りたるなり、神代紀一書の熊野忍隅(ノ)命を、又一書に熊野大隅(ノ)命とあり、これ通ふ例なり、又凡河内を大河内ともあり、これ大をおほしと云例なり、許呂《コロ》は未(ダ)思(ヒ)得ず、【上文の許袁呂許袁呂《コヲロコヲロ》、又は慇懃慇懃《ネモコロゴロ》、許呂臥《コロフス》など云語あれど、ことよりても聞えず、書紀に發(ス)2稜威之嘖讓《イツノコロビヲ》1、々々此(ヲ)云(フ)2擧廬毘《コロビト》1、この意などにや、凡て建《タケ》きさまを以て稱《タタフ》るは、古(ヘ)の名の常ぞ、】大神宮儀式帳に、鴨(ノ)神社一處、稱2大水上(ノ)兒|石己呂和居《イハコロワケノ》命(ト)1、こは許呂別《コロワケ》の例なり、

〇筑紫《ツクシノ》嶋、萬葉廿【二十八丁】に、都久之乃之麻《ツクシノシマ》とあり、これも伊余の如く、もと一國の名より出て、四國《ヨクニ》【筑紫豐國肥熊曾】の總名《スベナ》にはなれるなり、此嶋後に西海道【北山抄(ニ)云(ク)西之道《ニシノミチ》、】と云(ヒ)、九國となる、【俗に九州と云、】

〇有《アリ》2面四《オモヨツ》1とは、筑紫《ツクシノ》國と豐國《トヨクニ》と肥《ヒノ》國と熊曾《クマソノ》國と四(ツ)なり、

〇筑紫(ノ)國、萬葉五【二十三丁】に都久紫能君仁《ツクシノクニ》とあり、後に二國《フタグニ》に分れたり、和名鈔に、筑前【筑紫乃三知乃久知《ツクシノミチノクチ》】筑後【筑紫乃三知乃之里《ツクシノミチノシリ》】とある是なり、風土記に、筑後國者本與筑前國合爲一國《ツクシノミチノシリハモトミチノクチトヒトグニナリキ》と云り、道口《ミチノクチ》道後《ミチノシリ》のことは、黒田(ノ)宮(ノ)段【傳廿一の四十の葉】に云べし、さて如是《カク》二(ツ)に分れしは、何《イツノ》御代とも知《シラ》れず、書紀(ノ)景行(ノ)卷十八年(ノ)下《トコロ》に、筑紫後國《ツクシノミチノシリ》とあれば、其《ソレ》より前《マヘ》か、はた分(レ)しは後なれど、前へも及してかくは書るか、都久志《ツクシ》と云名(ノ)義は、筑後(ノ)風土記に、三(ツノ)説ある中の一(ツ)に、昔(シ)この前《ミチノクチ》と後《ミチノシリ》との堺なる山に、荒ぶる神ありて、往來《ユキカフ》人|多《サハ》に取殺《トリコロ》されき、故(レ)其神を人命盡神《ヒトノイノチツクシノカミ》となむ云ける、後に祝祭《イハヒマツリ》て筑紫《ツクシノ》神と申すとあり、此説さもありぬべく聞ゆ、【今二(ツ)の説も、共に盡《ツクシ》の意なれど、ひがことときこゆ、又書紀(ノ)私記に、國形《クニガタ》の木兎《ツク》に似たる故とあるを、世々の物知(リ)人も用(ヒ)たれど、此《コレ》もひがことときこゆ、】式に筑前(ノ)國御笠(ノ)郡筑紫(ノ)神(ノ)社あり、此(ノ)神なるべし、【又近(キ)世に貝原(ノ)某が釋名てふ物に、古(ヘ)異國《ヒトグニ》より寇《アタミ》來《クル》を防《フセガ》むがために、筑前の北(ノ)方の海濱《ウミベタ》に、石垣を多く築《ツカ》せ賜ひし故に、築石《ツクシ》の意ならむと云る、是も由《ョシ》ありて思《オボ》ゆれど、異國の賊《アタ》を防《フセ》がれしことは、上(ツ)代には無き事なり、】

〇白日別は、名(ノ)義思ひ得ざるを、【萬葉に白縫筑紫《シラヌヒツクシ》と連《ツヅ》けしは、由《ヨシ》ありげに聞ゆれど、其《ソ》は猶|不知火《シラヌヒ》ならむと、師も云れき、】強《シヒ》て思(フ)に、下に大年(ノ)神の御子白日(ノ)神あり、其《ソ》は向日《ムカヒ》の誤ならむと思《オボ》しき故あれば、此《ココ》も向日別《ムカツビワケ》ならむか、書紀神功(ノ)卷に天疎向津媛《アマザカルムカツビメノ》命、又仲哀(ノ)卷に向津野大濟《ムカツヌノオホワタリ》、又|向津國《ムカツクニ》、萬葉に向峯《ムカツヲ》などあり、かの向津國は韓國《カラクニ》のことにて、海《ワタ》の向《ムカヒ》に遙に見さくる意と聞ゆれば、此《ココ》も其意の名にや、繼體(ノ)卷(ノ)歌に、武※〔加/可〕左〓樓以祇能和駄※〔口+利〕《ムカサクルイキノワタリ》【壹伎之渡なり】とあるも同意なり、かの向津媛てふ御名に天疎《アマザカル》と置るも、遙に向ふ意につゞけたるなり、又思ふに、師(ノ)云(ク)、向津媛てふ名は、古(ヘ)は愛《ウツクシ》みて見《ミ》ま欲《ホシ》きことを向《ムカ》しきと云(ヘ)ば、其意にて負《ツケ》たるなりといはれたる、【萬葉十八(ノ)卷に、白玉|之《ノ》五百《イホ》つ集《ツド》ひを手にむすび、おこせむ海人《アマ》は牟賀思久母《ムカシクモ》あるか、】此(ノ)名も其意にて稱《タタ》へたるにもあらむか、若(シ)然らば筑紫《ツクシ》てふ名も、宇都玖志《ウツクシ》なるべし、【古(ヘ)然《サ》る所由《ヨシ》有て名づけつらむ、】是等《コレラ》思(ヒ)よれるまゝに記《シル》しつれど、易《タヤス》く改めがたければ、なほ本の如くてはあるなり、然《サ》て白は斯漏《シロ》とも訓べけれど、これはた定め難ければ、姑く舊《フルキ》によりて斯良《シラ》と訓べし、日は濁る例ぞ、【書紀の口決には自日別《ヨリビワケ》とあり、誤なるべし、】

〇豐國は登與久邇《トヨクニ》と訓べし、何書《イヅレノフミ》にも皆|然《シカ》有り、【登與乃久爾《トヨノクニ》とはいはず、】是も後に二國に分れて、和名鈔に、豐前【止與久邇乃美知乃久知《トヨクニノミチノクチ》、】豐後【止與久邇乃美知乃之利《トヨクニノミチノシリ》、】とあり、分れしは何時《イツ》ともしれず、さて書紀景行(ノ)卷十二年(ノ)下に、遂《ツヒニ》幸《イデマシ》2筑紫《ツクシニ》1到《イタリマシテ》2豐前國《トヨクニノミチノクチニ》1、長峽《ナガヲノ》縣(ニ)興《タテテ》2行宮《カリミヤヲ》1而|居《マシマシキ》、故《カレ》號其處《ソコヲ》曰《イフ》v京《ミヤコト》也、冬十月《カミナヅキ》到《イデマス》2碩田國《オホキダノクニニ》1、其地形廣大亦麗《ソコノクニガタヒロラニシテイトウルハシカリキ》、因《カレ》名(ク)2碩田《オホキダト》1也とあり、風土記にも此(ノ)事あり、されば其國の大名を豐國《トヨクニ》と云も、此意なるべし、【豐《トヨ》はゆたけく大きなる意なり、豐後(ノ)國(ノ)風土記の、豐國の名の説はいかゞ、】碩田《オホキダ》は後に郡となれり、【和名抄に、豐後(ノ)國|大分《オホイダノ》郡これなり、又大隅(ノ)國桑原(ノ)郡にも、大分《オホイダ》豐國《トヨクニ》てふ二郷《フタサト》ならびてあり、是は別ながら由あることなるべし、】

〇豐日別《トヨビワケ》、名(ノ)義國(ノ)名に同じかるべし、

〇肥國《ヒノクニ》、書紀景行(ノ)卷十八年(ノ)下に、五月|從《ヨリ》2葦北《アシキタ》1發船《ミフナデシテ》幸《イデマス》2火國《ヒノクニニ》1、於是日没也《ココニヒクレニキ》、夜冥不知着岸《イトクラクシテハテムトコロシラエヌニ》、遙視火光《トホクヒノヒカリミエキ》、天皇|詔挾杪者《カヂトリニ》曰《ノリタマフ》2直指火處《タダニヒノトコロヲサセト》1、因《カレ》指《サシテ》v火《ヒヲ》往之《ユキシカバ》、即得着岸《ヤガテキシニツキヌ》、天皇|問《トヒタマフ》2其火光處曰何謂邑《カノヒノヒカレルトコロヲナニチフムラゾト》1也、國人《クニビト》對2曰《コタヘマヲス》是八代縣豐村《コハヤツシロノクニトヨノムラト》1、亦尋其火是誰人之火也然《マタカノヒハタガヒゾトタヅネマシシカドモ》、不得主《ヌシナカリキ》、茲知非人火《ココニヒトノヒナラヌコトヲシリヌ》、故名其國曰火國《カレソノクニヲヒノクニトナヅク》とあり、【此(ノ)火の事、國人の説《コト》に云(ク)、肥後(ノ)國の海に、松ばせの澳《オキ》と云ところに、龍燈と云て今もあり、年毎の七月の末より、八月ごろまで見ゆるうちに、八月朔日の夜は殊に多し、宇土《ウド》のあたりの山よりよく見わたさるゝなり、そのさま世に挑燈と云物の大(キ)さに見ゆる火、初(メ)には一(ツ)二(ツ)あらはれて、其《ソレ》やうやくに分れて、數《カズ》多《オホ》くなりゆきて、さかりなるほどは、幾千萬《イクチヨロヅ》ともしられず、大かた海(ノ)上|竪横《タテヨコ》三四里がほど、おしなべてみな火になるなり、風ふけば火すくなく、雨ふる夜は見えず、さて其火のもゆる時に、其海を往來《カヨフ》船を、遠く見渡せば、火(ノ)中を行(ク)と見ゆるを、船にてはさらに火見ゆることなく、たゞつねの如くなりとぞ、】又肥後(ノ)風土記には、肥後(ノ)國(ハ)者|本《モト》與《ト》2肥前(ノ)國1合爲一國《ヒトクニナリキ》、昔《ムカシ》崇神天皇(ノ)之|世《ミヨニ》、益城《マシキノ》郡朝來名(ノ)峯(ニ)有《アリ》2土蜘蛛《ツチグモ》1、名《ナヲ》曰《イフ》2打※〔獣偏+爰〕《ウチサル》頸※〔獣偏+爰〕《ウナサルト》1、二人《フタリ》率《ヰテ》2徒衆百八十餘人《モモヤソノトモガラヲ》1、蔭《カクレヲリ》2於|峯頂《ミネノイタダキニ》1、常《ツネニ》逆《ソムキテ》2皇命《ミコトニ》1不肯降服《マツロハザリキ》、天皇《スメラミコト》勅(テ)2肥君等祖健緒組《ヒノキミドモノオヤタケヲクミニ》1、遣《ツカハシキ》v誅《トリニ》2彼賊衆《カノアタドモヲ》1、健緒組|奉勅到來《ミコトカガブリテキテ》、皆悉誅夷《コトゴトニタヒラゲテ》、便《スナハチ》巡《メグリ》2國裏《クヌチヲ》1、兼察消息《アルカタチヲミシツツ》、乃|到《イタリテ》2八代《ヤツシロノ》郡白髪山(ニ)1、日晩止宿《ヒクレシカバヤドリツ》、其夜虚空有火自然而燎《ソノヨオホゾラニヒアリテオノヅカラニモエツツ》、稍々降下《ヤヤクダリテ》着2燒《ヤケツキキ》此山《コノヤマニ》1、健緒組|見之大懷驚恠《イタクミオドロキテ》、行事既畢《マツロヘゴトスデニヲヘテ》參2上《マヰノボリテ》朝庭《ミカドニ》1、陳行状《アリサマヲ》奏2言《マヲシキ》云々《シカシカト》1、天皇|下詔曰《ノリタマハク》、剪2拂《キリハラヒテ》賊徒《アタドモヲ》1、頗|無《ナシニ》2西眷《ニシノカタノウレヘ》1、海上之勲誰人比之《イソシキコトタレカナラブモノアラマシ》、又《マタ》火《ヒ》從《ヨリ》v空《ソラ》下《クダリテ》燒《ヤキツル》v山《ヤマヲ》亦《モ》恠《アヤシ》、火下之國《ヒノクダレルクニナレバ》、可《ベシ》v名《ナヅク》2火國《ヒノクニト》1とありて、次にかの景行天皇の故事《フルコト》を擧《アゲ》たり、そは書紀と同じ、但し國人《クニビト》の對奏《コタヘマヲ》せる語は、此是火國八代郡火邑《ココハヒノクニヤツシロノアガタヒノムラナリ》、但未審火由《タダシヒノユヱハイマダエシリハベラズ》とありて、于時詔群臣曰《トキニオミタチニノリタマハク》燎之火《モユルヒハ》非《アラズ》2俗火《ヨノツネノヒニ》1也、火國之由《ヒノクニチフヨシ》、知《シリヌ》v所2以《ユヱヲ》然《シカル》1とあり、【火《ヒノ》邑は、和名抄に、肥後(ノ)國八代(ノ)郡|肥伊《ヒイ》、是なるべし、】是等《コレラ》を合(セ)て思ふに、火《ヒ》てふ名は、國にまれ邑《ムラ》にまれ、既《ハヤ》く崇神天皇の御世に始(マ)りしなりけり、さて此《コレ》も二國に分れたり、和名妙に、肥前【比乃美知乃久知《ヒノミチノクチ》、】肥後【比乃美知乃之利《ヒノミチノシリ》、】とあり、分れたるは何《イヅレ》の時とも知(ラ)れず、書紀神功(ノ)卷に火前國《ヒノミチノクチ》と見ゆ、後に火《ヒ》と云ことを忌《イミ》て、肥(ノ)字には改(メ)しなるべし、【和銅六年五月の詔に、諸国郡郷(ノ)名|着《ツケヨ》2好字(ヲ)1とあり、此時改まりしか、されど此記に既に肥(ノ)字を書《カケ》れば、彼《カレ》より前に改まるか、但(シ)中卷に火君《ヒノキミ》とあれば、本はこゝも火(ノ)字なりけむを、後(ノ)人の肥に改(メ)しにや、其例外にも見ゆ、〇上に筑紫(ノ)嶋を有2面四1と云て、肥(ノ)國を其(ノ)一(ツ)に取れり、然るに國圖《クニノカタ》を考るに、肥前と肥後とは海の隔《ヘナ》りて、地《クニ》接《ツヅ》かず、正《マサ》しく二(ツ)に分れたれば、面一(ツ)には取がたき國形《クニガタ》なり、故(レ)考るに、右に引る書紀又風土記などの、火(ノ)國の故事は、地(ノ)名に依るに、皆肥後(ノ)國の地なり、然れば肥(ノ)國と云しは、初《ハジメ》はたゞ肥後(ノ)方のみにて、肥前の地は、本は筑紫(ノ)國の内なりしが、やゝ後に肥(ノ)國には屬《ツキ》しにやあらむ、肥前は、筑前筑後と地《クニ》接《ツヅ》きて、此三國は面一(ツ)にも取(リ)つべき國形《クニガタ》にて、肥後とは清く離れたればなり、されど此《コレ》らは上(ツ)代のこと、さだかには辨へがたし、たゞこゝろみに驚《オドロ》かしおくのみなり、】さて日向の域《トコロ》も、北(ノ)方|半國《ナカラ》ばかりは、もとは此(ノ)肥(ノ)國の内なりけむを、【肥後と日向とは、面一(ツ)に取(リ)つべき地形《クニガタ》なり、】やゝ後に分れて一國にはなれるなり、【其事は次にいへり、】

〇建日向日豐久士比泥別《タケヒムカヒトヨクジヒネワケ》、名(ノ)義、日向日《ヒムカヒ》とは、【下の日《ヒ》は、向《ムカ》ふ向《ムカ》ひと活《ハタラ》く比《ヒ》なり、】書紀景行(ノ)卷に、十七年三月、幸(テ)2子湯《コユノ》縣(ニ)1遊(ビマス)2于|丹裳《ニモノ》小野(ニ)1時(ニ)、東望之謂左右曰《ヒムカシノカタヲミサケマシテモトコビトニ》、是國《コノクニハ》也|直2向《タダムケリトノタマヒキ》於日(ノ)出(ル)方(ニ)1、故號其國曰日向《カレソノクニヲヒムカトナヅケキ》也とある、此意を以て稱《タタ》へたるなるべし、【此《コ》は日向(ノ)國(ノ)名の本なるを、子湯(ノ)縣は其北(ノ)方によりてある處なれば、上(ツ)代には其地《ソコ》も肥(ノ)國の域内《ウチ》なりしなり、】萬葉十三【七丁】に日向爾《ヒムカヒエ》云々、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)詞に、朝日乃|日向處《ヒムカフトコロ》などあり、又垂仁紀に人(ノ)名にも、倭日向武日向彦とあり、久士比《クジヒ》は奇靈《クシビ》なり、【比《ヒ》は靈の意なること、産巣日(ノ)神の下《トコロ》にいへるが如し、】又|比《ヒ》は夫流《ブル》と活《ハタラ》く辭にてもあるべし、書紀に、日向(ノ)高千穗(ノ)※〔木+患〕觸之峯《クジフルノタケ》、又此(レ)を日向(ノ)※〔木+患〕日《クジヒノ》高千穗(ノ)之峯ともあればなり、【さて此《ココ》の亦(ノ)名も、即《ヤガテ》此(ノ)峯(ノ)名に依れるにやあらむ、されど此(ノ)峯の在(リ)處、かにかくに論ひあれば、定めがたし、其論は傳十五の四十一葉にあり、考へ見べし、】さて士比《シヒ》の清濁のこと、士を清《スミ》比を濁(リ)て、志備《シビ》と讀《ヨム》べき言なるに、士比《ジヒ》と書るは、【士は濁音、比は清音の假字なり、】彼(ノ)※〔木+患〕觸之峯をも、此記には久士布流多氣《クジフルタケ》と書るを合せて思ふに、奇《クシ》を久志備《クシビ》とも久志夫流《クシブル》ともいふときは、古(ヘ)は音(ノ)便にて清濁|互《タガヒ》に變《カハ》りて、久士比《クジヒ》久士布流《クジフル》と云しなるべし、かゝる例|他《ホカ》にもあり、朝倉(ノ)宮(ノ)段の歌に、日影《ヒカゲ》るを比賀氣流《ヒガケル》とよみ、萬葉十九に、夜降《ヨクダチ》にを夜具多知爾《ヨグタチニ》とよみ、馬多藝行《ウマタギユキ》てを馬太伎由吉弖《ウマダキユキテ》【太は濁る假字なり、】とよめるなど是なり、後(ノ)世の心を以てみだりに疑ふことなかれ、さて肥國《ヒノクニ》と云より十三字、今は眞福寺本|及《マタ》一本に依れり、此(ノ)處舊印本|及《マタ》延佳本又一本などには、肥國《ヒノクニヲ》謂《イヒ》2速日別《ハヤビワケト》1、日向國《ヒムカノクニヲ》謂《イフ》2豐久士比泥別《トヨクジヒネワケト》1と作《ア》り、されど如此《カク》ては、上に有《アリ》2面四《オモヨツ》1云々とある數に合ざれば、【若(シ)如此《カク》日向(ノ)國あるときは、必有(リ)2面五(ツ)1とあるべきことなり、抑記中神たちの數を都言《スベイヘ》るなどにも、其數の違へるに似たることは、これかれ例もあれども、此處《ココ》は指《テ》を屈《ヲリ》て計《カゾ》ふるまでもあらず、五(ツ)なることまぎるべくもあらざれば、然《シカ》違ふべきことに非ず、又此記はもと彼(ノ)阿禮が口《クチ》に誦《ヨミ》し語をうつせる物なれば、物の數などは具《ツブサ》に空《ソラ》にはうかべがたくて、誦違《ヨミタガヘ》もありけむを、安萬侶(ノ)朝臣はた其語を重《オモ》みし守(リ)て、私には正《タダ》し改められざりしにやとも思へども、若(シ)然《サ》もあらむには、其由を註にもしるさるべきに、然《サ》もあらず、又後に寫し誤れる物とも見えず、古本のまゝと見ゆるをや、】日向(ノ)國の無き方ぞ古本《フルキマキ》なるべき、然るに右の如く、日向(ノ)國の加《クハ》はりたる本《マキ》は、舊事紀に依て、後(ノ)人のさかしらに改めたる物とこそ思はるれ、【舊事紀に右の如くあるなり、其《ソ》は此記を取て記すとて、日向の無きを疑ひて、かの日向日《ヒムカヒ》とある亦(ノ)名を其《ソレ》として、下の日(ノ)宇を國に改め、その下に謂(ノ)字を補ひて、豐久士比泥別を、其(ノ)日向(ノ)國の亦(ノ)名とし、又|然《シカ》爲《ス》るときは、肥(ノ)國の亦(ノ)名、建(ノ)一字になりて足《タラ》ざる故に、次の熊曾(ノ)國の亦(ノ)名に效《ナラ》ひて、日別(ノ)二字を加へ、又さては熊曾のと全(ク)同じき故に、建を速に改めつる物なり、凡て彼(ノ)書は、かくさまのさかしらいと多し、されど上の有(リ)2面四(ツ)1とあるには心つかで、其《ソレ》をば改めずて、僞(リ)の顯《アラハ》れたるぞをかしき、然るを後(ノ)人、此(ノ)舊事紀のさかしらなることを得《エ》曉《サト》らで、日向(ノ)國の有(ル)を宜《ウベ》なりとして、遂《ツヒ》に此記をさへに然《シカ》改めつる、其(ノ)本《マキ》の世には流布《ホドコ》れるなりけり、但し速(ノ)字は、舊事紀舊印本には建と作《カケ》れば、此(ノ)字は此記の古本のまゝに取れりしを、さては熊曾(ノ)國の亦(ノ)名と同じき故に、後(ノ)人の速《ハヤ》に改めつるにもあらむか、書紀(ノ)口決又元々集などに、晝日別とあるも、晝は建と字形似たれば、其《ソ》を誤れりと見えたり、若(シ)くは又此(ノ)記の古本、此(ノ)字はもとより速なりしを、後に建とは誤れるにもあらむ、若(シ)然らば速日向《ハヤヒムカヒ》とは、早き朝日に向ふ意なるべし、日向(ノ)國に速日(ノ)峯と云もありと云り、】抑日向(ノ)國の此《ココ》に入らざることは、上(ツ)代に其地は、なほ肥(ノ)國と熊曾(ノ)國との内にありて、未(ダ)別に一國には立《タタ》ざりしほどの傳(ヘ)なるべし、

〇熊曾《クマソノ》國は曾《ソノ》國なり、曾《ソ》と云は、もと書紀神代(ノ)卷に、日向(ノ)襲《ソ》とある地《トコロ》にして、和名抄に、大隅(ノ)國|囎唹《ソノ》郡ある是なり、【唹は囎《ソ》の韻《ヒビキ》を添(ヘ)て二字に書るなり、木《キノ》國を紀伊と書(ク)に同じ、此例なほあまたあり、民部式に、凡(ソ)諸國部内(ノ)郡里等(ノ)名、並《ミナ》用(ヒ)2二字(ヲ)1、必(ズ)取(レ)2嘉名(ヲ)1とある如く、其《ソレ》より以前《マヘツカタ》にも此制ありしなるべし、筑前肥後などの風土記にも、球磨囎唹《クマソ》とかけり、】國(ノ)名となりてありしことは、書紀景行(ノ)卷に、十二年十二月、議《ハカリマス》v討(ムコトヲ)2熊襲《クマソヲ》1、於是《ココニ》天皇|詔群卿曰《マヘツギミタチニノリタマハク》、朕聞之襲國《アレキクニソノクニニ》有《アリ》2厚鹿文※〔しんにょう+乍〕鹿文者《アツカヤサカヤトイフモノ》1、是兩人熊襲之渠帥者也《コノフタリクマソノイサヲナリ》、衆類甚多《トモガライトオホシ》、是《コヲ》謂《イフ》2熊襲八十梟帥《クマソノヤソタケルト》1、其鋒不可當焉《ソノイキホヒアタリガタシトゾ》云々、又十三年五月、悉《コトゴトク》平(ク)2襲國《ソノクニヲ》1などあり、是(レ)を以て襲《ソノ》國即(チ)熊曾《クマソ》なることをも知べし、【肥後(ノ)國|球麻《クマノ》郡と云は別なり、思ひまがふべからず、又文徳實録九(ノ)卷に、肥後(ノ)國|曾男《ソヲノ》神と云あり、是も別か、はた彼(ノ)噌唹は肥後の堺にも近くて、同所を肥後ともあるにや、さる類も古(ヘ)は多し、なほこれらは、國形を知(ラ)ねば定めがたし、】彼(ノ)梟帥《タケル》どものいと建《タケ》かりし故に、熊曾《クマソ》とは云なり、熊鰐《クマワニ》熊鷲《クマワシ》熊鷹《クマタカ》なども皆、猛《タケ》きを云|稱《ナ》なり、【熊は獣(ノ)中に猛《タケ》き物なれば、其《ソレ》に准へて猛き物をも云か、はた久麻《クマ》と云は、本より猛《タケ》きを云(フ)言なるを、熊も名に負《オヘ》るか、本末はしらず、】さて曾《ソ》と云名(ノ)義は、古語拾遺に、天鈿女(ノ)命(ハ)、古語|天乃於須女《アメノオズメ》、其(ノ)神強悍猛固、故(レ)以為v名(ト)、今(ノ)俗強(キ)女(ヲ)謂(フ)2之|於須志《オズシト》1、此(ノ)緑也《ヨシナリ》と見え、源氏物語帚木(ノ)卷に、かくおぞましくは、いみしき契(リ)深くとも、絶て又見じと見え、俗語にもおぞきおそろしきなど云(フ)、されば曾《ソ》は此(ノ)於曾《オゾ》の約《ツヅマ》りたるにて、是も猛《タケ》き意なるべし、書紀に襲《オソフ》と云字をしも用ひられたるも、本(ノ)言|於曾《オソ》なる故なるべし、【書紀(ノ)釋に、山(ノ)襲(ヒ)重(ナル)之義也とあるは、高千穗(ノ)峯のことに依て、此(ノ)襲(ノ)字の意を以て説る、ひがことなり、襲は借字にて、其意を取れるに非(ズ)、】又思ふに、曾《ソ》は勇男《イサヲ》のつゞまりたるか、佐乎《サヲ》をつゞむれば曾《ソ》にて、伊《イ》を略くは常なり、書紀に渠帥をもイサヲと訓り、又|功《イサヲ》をも伊曾《イソ》と云を思ふべし、【書紀仲哀(ノ)御卷|神依《カムガカリ》の言に、彼(ノ)國のことを、※〔旅/肉〕之空國《ソジシノムナグニ》とあり、是《レ》より其《ソコ》の名にもなりつと見えて、紳代《ノ》卷に※〔旅/肉〕肉空國《ソジシノムナクニヲ》自《ヨリ》2頓丘《ヒタヲ》1云々とあり、此(ノ)※〔旅/肉〕《ソ》より出たるかとも思へど、景行の御世に既に熊曾建《クマソタケル》の名あれば、然にはあらず、】さて筑紫(ノ)嶋を四(ツ)として、其一(ツ)を熊曾(ノ)國と云るは、後の日向の南(ノ)方|半國《ナカラ》ばかりより、大隅薩摩の地《トコロ》までをすべて云し、上(ツ)代の大名なり、【かの景行紀に、襲《ソノ》國とあるもこれなり、但し續紀に、和銅六年四月乙未、割(テ)2日向(ノ)國(ノ)肝坏《キモツキ》贈於《ソ》大隅《オホスミ》姶※〔衣偏+羅〕《アヒラ》四郡(ヲ)始(テ)置(ク)2大隅(ノ)國(ヲ)1と見え、又書紀に日向(ノ)襲《ソ》とあれば、大隅(ノ)國の地は、古(ヘ)は日向(ノ)國内《クヌチ》にて、曾《ソ》と云も日向の内なるに、別に熊曾を一國とせるは如何《イカガ》、と思ふ人も有(ル)べけれど、其《ソ》はなほ精《クハ》しからず、其故は、日向と云名は、上に引る如く、景行天皇の十七年に始まりて、そのときはなほ肥(ノ)國の内の地(ノ)名にこそ有(リ)けめ、一國の大名とも聞えず、襲《ソノ》國と云(ヒ)熊襲と云る名は、同天皇の十二年に既に見えたれば、上(ツ)代よりの名にして、今の日向の南半《ミナミナカラ》より、大隅(ノ)國薩摩(ノ)國までをかけたる大名なりしを、やゝ後に至て、其(ノ)大名は廢《ウセ》て、隣國《トナリグニ》の日向と云名ぞ、其(ノ)あたりまでの大名にはなれりける、故(レ)本の曾《ソノ》國てふ名は、わづかに殘りて、其《ソレ》も日向の中に入て、後に一郡の名になりてありしを、和銅六年に、そのあたりの四郡を割て、一國と建《タテ》られしなれば、大隅(ノ)國も、本は熊曾(ノ)國内なりしが、中ごろ日向の内には入てありしなり、さて薩摩は、もとは隼人《ハヤビトノ》國と云り、其事は傳十六の四十一葉に云り、されど此《ココ》には其(ノ)國を別に擧《アゲ》ざれは、是(レ)も上(ツ)代には熊曾の中にこもり、やゝ後には日向の内に入れりしなり、續紀大寶二年の所に、筑紫七國とあるも、日向に大隅薩摩はこもれる故なり、又書紀に瓊々杵(ノ)尊の御陵を、日向(ノ)可愛《エノ》之山陵とある、此(ノ)可愛《エ》は、和名抄に薩摩(ノ)國|穎娃《エノ》那|穎娃《エノ》郷あり、此《コレ》なり、其(ノ)由《ヨシ》はなほ傳十七の八十六葉に委(ク)云り、されば是又古(ヘ)は薩摩までをかけて日向と云し證《シルシ》なれば、なほ古(ヘ)日向てふ名の無かりし以前は、熊曾(ノ)國と云ぞ、薩摩までかけたる大名なりしこと知べし、】

〇建日別《タケビワケ》、此(レ)も猛《タケ》きよしの名なり、

〇伊伎嶋《イキノシマ》は、萬葉十五【二十五丁二十六丁】に由吉能之麻《ユキノシマ》と見え、和名抄にも壹岐(ノ)嶋(ハ)由岐《ユキ》とあるに因(リ)て、由伎《ユキ》を古訓《フルキヨミ》と思(フ)人あれど、書紀繼體(ノ)卷の歌に以祇《イキ》とよみ、此記にも伊(ノ)字をかき、壹(ノ)字も由《ユ》の假字にあらねば、本は伊伎《イキ》なること明けし、然れども懷風藻に、伊支《イキノ》連と云(フ)姓を、目録には雪(ノ)連とかき、又かの萬葉に由吉《ユキ》とあるなどを以て思(フ)に、必(ズ)由伎《ユキ》とも通はし云べき故ある名(ノ)義と見えたり、【行《ユキ》も、通はして伊|伎《キ》とも云り、これも同じ例なり、】故《カレ》思(フ)に書紀天武(ノ)卷に、齋忌此(レヲ)云2踰既《ユキト》1とある、齋忌は伊牟《イム》伊波布《イハフ》由麻波留《ユマハル》由々志《ユユシ》由豆《ユヅ》伊豆《イヅ》など、さま/”\に云(フ)言にて、伊《イ》と由《ユ》と通へり、かゝれば齋忌《ユキ》も、古(ヘ)は伊伎《イキ》とも云べし、さて【若くは息長帶比賣(ノ)命の、辛《カラ》國を征《ウチ》に幸行《イデマシ》しをりなどにもや、】此嶋にして神祭り坐(ス)とて、齋忌《ユキ》のことありけむ故の名にもやあらむ、【齋忌《ユキ》古(ヘ)は大嘗に限るべからず、】又は辛國《カラクニ》へ渡るに、先(ヅ)此《ココ》に舟とめて息《ヤス》む故に、息《イコヒ》の嶋か、【されど國所(ノ)名は、凡て昔いさゝかの因縁《ヨシ》を以てつけそめしが多かれば、後(ノ)世の空考《ソラカムガヘ》は、理(リ)こそさもあらめ、實《マコト》には當《アタ》れりやあらずや、定めがたくなむ、さりとてはたひたぶるに不可知《シラレズ》とて有べきにもあらねば、人も我も心のかぎり推量言《オシハカリゴト》はするなり、】

〇天比登都柱《アメヒトツバシラ》とは、海中《ワタナカ》に離(レ)て一(ツ)ある嶋なればなるべし、萬葉三(ノ)卷に、淡路嶋中爾立置而《アハヂシマナカニタテオキテ》とよめるも、柱と云(ヒ)つべき由《ヨシ》あり、神代(ノ)卷に、以(テ)2※〔石+殷〕馭盧嶋(ヲ)1爲(ス)2國中(ノ)之柱(ト)1ともあり、

〇註に訓(ムコト)v天(ヲ)如(シ)v天(ノ)とは、阿米乃《アメノ》阿麻乃《アマノ》などはいはず、直《タダ》に阿米某《アメナニ》と云を、如是《カク》は註《シル》せり、下卷檜(ノ)※〔土+回の最後の横棒なし〕(ノ)宮(ノ)段に、訓(ムコト)v石(ヲ)如(シ)v石(ノ)などもあり、

〇津嶋《ツシマ》、名(ノ)義は萬葉十五【二十六丁】に、毛母布禰乃波都流対馬《モモフネノハツルツシマ》とよめる如く、韓國《カラクニ》の往還《ユキキ》の舟の泊《ハツ》る津《ツ》なる嶋なり、【魏志と云から書《ブミ》に、此嶋のことを對馬國《ツイマコク》とあり、こは此方にて古(ヘ)より如此《カク》書るを見て取れるかとも思へど、さには非ず、彼書のいできつるは晋の世なり、そのかみ御國にかゝる假字のつかひざまあるべくもあらず、たゞ津嶋と云を、彼國にて聞(キ)傳へ誤(リ)て、かくは書る物なり、さて書紀に、やがて此文字を假字に取用て、對馬嶋《ツシマジマ》とかゝれたり、津嶋の假字に對馬とかゝむは、さる例あれば、さも有(リ)なむを、嶋(ノ)字を添《ソヘ》られたるこそ、いと心得ね、嶋嶋と重ねて云(フ)名はあるべきことかは、淡海《アフミ》の海など云例とは異なるをや、敏達(ノ)御卷には、津嶋とかゝれたるところあり、是(レ)古(ヘ)の書ざまなり、】

〇天之狹手依比賣《アメノサデヨリヒメ》、名(ノ)義思ひ得ず、狹手彦《サデヒコ》など云人もあれば、名に負《ツク》よしある言と聞ゆ、【和名抄|魚取《ナトル》具に※〔糸+麗〕《サデ》てふ物もあり、萬葉の歌にも見ゆ、】

〇伊伎津嶋の二嶋、書紀には大八洲の内に入らず、是(レ)潮(ノ)沫(ノ)凝(テ)成(レルなり)矣とあり、一書の中には、八洲の内に入れるもあり、

〇佐度《サドノ》嶋、名(ノ)義は狹門《サド》か、此(ノ)嶋へ舟入るゝ水門《ミナト》のせばきにや、【凡て海に嶋門《シマド》水門《ミナト》迫門《セト》など云ること多し、】なほ國形《クニガタ》をよく辱て定むべし、此國天平十五年二月には、越後國《コシノミチノシリ》に併《アハ》され、勝寶四年三月に、又一國とせらる、續紀に見えたり、さて此嶋のみ亦(ノ)名のなきは、古(ヘ)より脱《オチ》たるなるべし、【口決また元々集などに、建日別とあれど、是は舊事紀に、次(ニ)熊襲(ノ)國謂2建日別(ト)1、一《アルヒハ》云(フ)2佐渡(ノ)嶋(ト)1、とあるを取て云るひが言なれば、依るに足らず、舊事紀は、此記に佐度(ノ)嶋に亦(ノ)名のなきを疑(ヒ)、又熊曾(ノ)國と云は、後の九國に無き名なれば、此《コレ》を佐度のことかとも思(ヒ)て、おしあてに、一《アルヒハ》云2佐渡(ノ)嶋(ト)1と云るなれば、例の妄《ミダ》り言《ゴト》なるをや、又口決(ノ)一本に、達日別《タチビワケ》ともあるは、後の寫しあやまりなり、】さて書紀には、雙2生《フタゴニウム》隱岐(ノ)洲(ト)與《トヲ》2佐度(ノ)洲1とあり、

〇大倭豐秋津嶋《オホヤマトトヨアキヅシマ》、これらの號《ナ》のことは、別に國號考に委曲《ツバラ》に云(ヘ)れば、此《ココ》には略《ハブ》きつ、

〇天御虚空豐秋津根別《アマノミソラトヨアキヅネワケ》、萬葉五【三十一丁】に、久堅能阿麻能見虚喩《ヒサカタノアマノミソラユ》、十【六十丁】に、天三空《アマノミソラ》などあり、天は右の五(ノ)卷なるに依て阿麻能《アマノ》と訓つ、さて此(ノ)名は、天照大御神の所知者《シロシメス》高天(ノ)原になずらへて、天皇の大坐京師《オホマシマスミヤコ》をも天《アメ》とする故に、【萬葉十三卷に、久堅《ヒサカタ》之|王都《ミヤコ》とよめるも此意なり、】其意もて稱《タタヘ》しにやあらむ、【大倭も秋津嶋も、京方《ミヤコガタ》を本として云る名なればなり、】又彼(ノ)虚空見倭《ソラミツヤマト》と云|古語《フルコト》の由などにもやあらむ、豐秋津は秋津嶋に依れり、根《ネ》は例の尊稱《タフトムナ》なり、

〇上(ノ)件八嶋を生《ウミ》坐る序次《ツイデ》、まづ淤能碁呂《オノゴロ》嶋にして御合《ミアヒ》坐て、生始《ウミハジメ》たまへる淡嶋《アハシマ》は、彼嶋の近隣《チカキトナリ》なり、次に淡路嶋、又その隣なり、さて西へ幸《イデマシ》て、伊豫之二名(ノ)嶋、つぎに筑紫(ノ)嶋と生《ウミ》まし、北へ折《ヲレ》て伊伎(ノ)嶋津嶋を生《ウミ》坐(シ)、東に廻《メグリ》て佐度(ノ)嶋を生《ウミ》坐(シ)、南へかへりて大倭嶋を生《ウミ》坐るなり、かくの如く其|序《ツイデ》みだりならざるに、たゞ隱伎(ノ)嶋のみ亂《ミダレ》て筑紫の前にあるこそ、いとも/\いふかしけれ、故(レ)書紀と合せて考るに、八嶋の次第《ツイデ》、彼紀は六(ツ)の異説あれども、隱伎は何《イヅ》れも佐度の前にあり、此記も必|然《シカ》あるべき物をや、【舊事紀の八嶋の次第は、全《モハラ》此記を取てかける物なるに、對馬洲次(ニ)隱岐(ノ)洲次(ニ)佐渡(ノ)洲とあるは、よくかなへり、されど下に又別に亦(ノ)名どもをつらねたる次第は、此記のまゝに伊余の次にあれば、上なるは私《ワタクシ》に改めつる物と見ゆ、】さて書紀の傳々《ツタヘツタヘ》は、凡て次第も洲々《シマシマ》も各|異《カハリ》ありて、皆此(ノ)記と同じからず、

○故因此八嶋先所生、こは故此八嶋叙先生坐流國那琉爾因弖《カレコノヤシマゾマヅウミマセルクニナルニヨリテ》と訓べし、

〇大八嶋國《オホヤシマクニ》、この號《ナ》のことも國號考にいへり、【或人|問《トヒ》けらく、次にもなほ生坐る嶋々はある物を、先(ヅ)八(ツノ)嶋を限(リ)て、國號《クニノナ》とせるはいかにぞ、答ふ、上の八嶋は、次第《ツギツギ》に生廻《ウミメグリ》て、旋《メグ》り竟《ヲヘ》て、本の淤能碁呂嶋の方へ復《カヘ》りたまふまで、一周《ヒトメグリ》に生《ウミ》坐る故なり、其(ノ)旨《ムネ》次の語に、還坐之時《カヘリマシシトキ》とあるにていちじるし、】

 

然後還坐之時《サテノチカヘリマシシトキニ》。生吉備兒嶋《キビノコジマヲウミタマフ》。亦名謂建日方別《マタノナハタケヒガタワケトイフ》。次生小豆嶋《ツギニアヅキシマヲウミタマフ》。亦名謂大野手 上 比賣《マタノナハオホヌデヒメトイフ》。次生大嶋《ツギニオホシマヲウミタマフ》。亦名謂大多麻 上 流別《マタノナハオホタマルワケトイフ》。【自多至流以音】次生女嶋《ツギニヒメジマヲウミタマフ》。亦名謂天一根《マタノナハアメヒトツネトイフ》。【訓天如天】次生知※〔言+可〕嶋《ツギニチカノシマヲウミタマフ》。亦名謂天之忍男《マタノナハアメノオシヲトイフ》。次生兩兒嶋《ツギニフタゴノシマヲウミタマフ》。亦名謂天兩屋《マタノナハアメフタヤトイフ》。【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋《キビノコジマヨリアメフタヤノシママデアハセテムシマ》。】

還坐之時は、迦幣理麻斯志時爾《カヘリマシシトキニ》と訓べし、こは上の八嶋を生廻《ウミメグ》りて、本の淤能碁呂嶋の方へ還(リ)賜(ヒ)しを云なり、さて次の吉備(ノ)兒嶋より次々《ツギツギ》は、みな淤能碁呂嶋より西にありて、今還り給へる路《ミチ》にはあらねば、其《ソ》は既(ニ)還り坐て、又|更《サラ》に西(ノ)方へ生《ウミ》つゝ幸行《イデマス》なり、【故(レ)上の八嶋は、限りて國(ノ)號《ナ》にもなり、此《コレ》より次なる嶋々は、別物《コトモノ》となれるなり、】

〇吉備兒嶋《キビノコジマ》、吉備は後に三國に分る、和名抄に、備前【岐比乃美知乃久知《キビノミチノクチ》、】備中【吉備乃美知乃奈加《キビノミチノナカ》、】備後【吉備乃美知乃之利《キビノミチノシリ》、】とある是なり、吉備中國《キビノミチノナカ》書紀仁徳(ノ)卷に見ゆ、【此《コ》はそのかみ既に三(ツ)に分れてありしにや、但(シ)此(ノ)後も多く吉備(ノ)國とのみあり、天武(ノ)上卷に、吉備(ノ)國(ノ)守なる人見えたるは、三國を統《スベ》たる守にや、又同卷に吉備(ノ)太宰と云職も見ゆ、】又和銅六年に備前(ノ)國の六郡を分て、美作(ノ)國とせられたり、名は黍《キミ》より出たるなるべし、【和名抄に、黍は木美《キミ》とあれども、美《ミ》と傭《ビ》は古(ヘ)常に通はしいへり、】兒嶋は、高津(ノ)宮(ノ)段にも見ゆ、吉備(ノ)國に兒の如く附《ツケ》る故の名なるべし、【或説に、昔百濟國の人兄弟三人、いまだ兒なりしとき、吾朝に來り、吉備(ノ)國にして、一(ツ)の嶋にとゞまれり、其(ノ)旗幟にみな兒と云字をしるしたる故に、その嶋を兒嶋と名《ナヅ》く、其兄弟其後三宅を姓とし、字喜多《ウキタ》ともなのれり、これ此(ノ)國の宇書多(ノ)家の先祖なりと云るは、凡て信《ウケ》られぬことなり、】萬葉六(ノ)卷に歌あり、後に備前(ノ)國の郡になれり、書紀欽明(ノ)卷に備前(ノ)兒嶋(ノ)郡とあり、和名抄に兒嶋(ノ)【古之末《コシマ》】郡是なり、さて書紀には、此(ノ)嶋|大八州《オホヤシマ》の一(ツ)に入れり、

〇建日方別《タケヒガタワケ》、此(ノ)名|日子刺屑別《ヒコサシカタワケノ》命と申す例あれば、建日《タケビ》と讀《ヨミ》、方別《カタワケ》と讀(ム)べきか、【然らば日《ビ》を濁り、方《カタ》を清(ム)べし、】されど又姓氏録に久斯此賀多《クシヒガタノ》命、【櫛日方(ノ)命とも書り、】是を書紀崇神(ノ)卷には、天日方奇日方《アメヒガタクシヒガタノ》命とあり、【此命は、大神《オホミワノ》君|鴨《カモノ》君の遠祖なり、然るに神名式に、備前(ノ)國邑久(ノ)郡に美和(ノ)神(ノ)社、上(ツ)道(ノ)郡に大神《オホミワノ》神(ノ)社あり、赤坂(ノ)郡津高(ノ)郡兒嶋(ノ)郡に皆鴨(ノ)神(ノ)社あり、これらも由あることにや、】此(レ)に依《ヨレ》ば日方《ヒガタ》なり、【日方の意は、水垣(ノ)宮(ノ)段|櫛御方《クシミカタノ》命の下にいふを考へ見べし、傳廿三の三十の葉】又日方と云風もあり、萬葉七【二十一丁】に、天霧相日方吹羅之《アマギラヒヒガタフクラシ》云々、

〇小豆嶋《アヅキシマ》は、備前と讃岐との間《アヒダ》の海中《ワタナカ》に、讃岐の方によりて在り、【淡路嶋の西、兒嶋(ノ)東なり、】續紀卅八には、備前(ノ)國兒嶋(ノ)郡小豆嶋とあり、今は讃岐【寒川郡】に屬《ツケ》り、此嶋、書紀應神(ノ)卷の大御歌に見えて、上【伊余(ノ)二名(ノ)嶋の下《トコロ》、】に引るが如し、彼《ソノ》時|淡道《アハヂ》より吉備へ幸行《イデマ》すとて、此(ノ)嶋に遊(ビ)坐(シ)しことも見えたり、名(ノ)義未(ダ)思(ヒ)得ず、字も正字《マサモジ》か借字《カリモジ》か、定めがたし、

〇大野手比賣《オホヌデヒメ》、名(ノ)意未(ダ)思(ヒ)得ず、若(シ)くは鐸《ヌデ》か、【手(ノ)下なる上(ノ)字、一本には野(ノ)下にあり、】

〇大嶋《オホシマ》は、周防(ノ)國大嶋(ノ)郡是か、此(ノ)郡は離《ハナ》れたる嶋にて、今八代嶋と云り、上(ノ)關の東、安藝の嚴《イツク》嶋の西南にあり、【長さ今(ノ)道八九里ばかり、横五六里ばかりなる嶋なり、】萬葉十五【十五丁】に、過(テ)2大嶋(ノ)鳴門《ナルトヲ》1而云々、巨禮也己能《コレヤコノ》、名爾於布奈流門能《ナニオフナ《ルトノ》、宇頭之保爾《ウヅシホニ》、多麻毛可流登布《タマモカルトフ》、安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》とよみ、【此(ノ)鳴門《ナルト》今もあり、大畑(ノ)迫戸《セト》と云て、周防の地と大嶋との間の迫門《セト》なり、潮滿たる時は、鳴(ル)響《オト》いと高くて、舟人のおそるゝ虞なりとぞ、】國造本紀に大嶋(ノ)國(ノ)造とあるは、【阿岐《アギ》の次、周防の前に載たれば、】皆此(ノ)大嶋なり、後撰集戀(ノ)一に、人しれず思ふ心は、大嶋のなるとはなしに歎くころかな、同四に、大嶋の水を運びし早船の云々、これらも同じ、【此(ノ)後撰集なる大嶋を、備前とするは誤なり、】又筑前(ノ)國宗像(ノ)郡神(ノ)湊より、今(ノ)道三里北の海中にも大嶋あり、是か、胸形(ノ)中津宮と申すは此嶋なり、【傳七に出、】源氏物語玉鬘(ノ)卷に、船人も誰を戀(フ)とか、大嶋のうらがなしげに越えの聞ゆる【河海抄に、大嶋筑前(ノ)國なり、鐘御崎《カネノミサキ》の近邊とあり、鐘(ノ)岬《ミサキ》の西(ノ)方にあたれり、】とあるも、此(ノ)大嶋なり、又肥前(ノ)國松浦(ノ)郡平戸の東北の方にも大嶋あり、【肥前の北、壹岐(ノ)嶋の南なり、】是か、此(ノ)外猶國々に大嶋と云は多くあれども、【餘《ホカ》はみな非じ、】此《ココ》なるは右の三(ツ)の内なるべし、書紀雄略(ノ)卷に、吉備(ノ)臣|田狹《タサ》が子|弟君《オトキミ》てふ人、集2聚《ツドヘテ》百濟所貢今來才伎《クダラヨリタテマツレルイマキノテビトドモヲ》於大嶋(ノ)中(ニ)1、託2稱《コトツケテ》候風《カゼサモラフト》1淹留《ヒサニトドマレリ》と見え、繼體(ノ)卷にも、加羅《カラ》國に遣《ツカハ》しし御使物部(ノ)伊勢(ノ)連父根、云々《シカシカ》の由にて却2還《ソキカヘル》大嶋(ニ)1とあるは、右の肥前のか筑前のか、二(ツ)の内なるべし、又書紀に越《コシノ》洲(ノ)次(ニ)生《ウミタマフ》2大嶋(ヲ)1とあるも、此《ココ》なると同じかるべし、【然るを伊豆の大嶋なりと云は、西の國々の大嶋どもをしらぬ者の、ひがことなり、】さて書紀にては、此嶋も大八洲の一(ツ)なり、

〇大多麻流別《オホタマルワケ》、名義未(ダ)思(ヒ)得ず、【若(シ)くは多麻《タマ》は玉にて、流は泥《ネ》の誤(リ)にもあらむか、記中泥を流に誤れる例あり、泥は稱名《タタヘナ》なり、玉留産靈と云神(ノ)名あれども、其《ソ》は留をルと訓(ム)は非《ヒガコト》なり、】

〇女嶋は日女嶋《ヒメジマ》なるを、日(ノ)宇の脱《オチ》たるなり、【舊事紀に、まづ姫嶋と擧《アゲ》ながら、次には女嶋とあれば、此記の本、彼(ノ)書に取りし時より、日(ノ)宇|脱《オチ》てぞありけむ、又|日女《ヒメ》嶋と云はやゝ後にて、本《モト》は女嶋《メジマ》なりしにやとも思へど、然には非ず、又今筑前の山鹿(ノ)岬の北の海にも、肥前の五嶋の南の遙なる海中にも、男嶋女嶋と云ありといへども、其《ソレ》らにはあらず、】さて此《コ》は今筑前の海中|玄海《ゲムカイガ》嶋と、肥前の名兒屋との間の海路《ウミツヂ》にて、同國の唐津より、今(ノ)道二里|許《バカリ》東北(ノ)方にありと云姫嶋なるべし、又豐後(ノ)國直入(ノ)郡の東北の海にも、姫嶋あれども、其《ソレ》には非じ、攝津(ノ)國(ノ)風土記に、比賣嶋(ノ)松原(ハ)者、昔(シ)輕嶋|豐阿伎羅《トヨアキラノ》宮(ニ)御宇(ス)天皇(ノ)之|世《ミヨニ》、新羅(ノ)國(ニ)有(リ)2女神《メガミ》1、遁2去《ノガレ》其夫《ソノヲニ》1來《キテ》、暫《シマシ》住《スミキ》2筑紫(ノ)國(ノ)伊岐比賣嶋《イキヒメジマニ》1、乃《サルニ》曰《イヒテ》d此(ノ)嶋(ハ)者|猶《ナホ》不《ズ》2是遠《トホカラ》1、若《モシ》居《ヲラバ》2此(ノ)嶋(ニ)1、男神《ヲガミ》尋來《マギキナムト》u、乃|更《サラニ》遷(リ)來《キテ》停《トドマリキ》2此(ノ)嶋(ニ)1、故《カレ》取(リ)2本所住之地名《モトスメリシトコロノナヲ》1以(テ)爲《ス》2嶋(ノ)號《ナト》1とある、【こは難波の比賣碁曾(ノ)社の神の故事にて、明(ノ)宮(ノ)段(ノ)末に見えたり、傳三十二の四のひら考へ合すべし、比賣嶋(ノ)松原と云は、津(ノ)國に在て、其《ソ》は高津(ノ)宮(ノ)段に見えたり、傳三十五の三の葉考ふべし、】この伊岐比賣嶋と云る、即(チ)彼(ノ)筑前のなり、【伊岐とは、彼(ノ)女神新羅より來て、まづ伊岐(ノ)嶋に着《ツキ》、伊岐より直《タダ》に此(ノ)嶋に來着《キツキ》坐る故に云か、其《ソ》は豐後又津(ノ)國などの姫嶋と別《ワカ》むために、如此《カク》いひしにやあらむ、】名(ノ)義は、彼(ノ)女神の來て暫《シマシ》住《スミ》たまひし由緒《ユヱヨシ》なるべし、【さて豐後津(ノ)國の姫嶋も、其(ノ)次々に移住《ウツリスミ》たまひし故の名なるべし、又出雲(ノ)國嶋根(ノ)郡にも、比賣嶋と云あり、風土記に見ゆ、】

〇天一根《アメヒトツネ》は、上の天一柱《アメヒトツパシラ》の名(ノ)義と同じかるべし、根《ネ》は稱名《タタヘナ》の泥《ネ》か、又|嶋根《シマネ》と云こともあり、

〇知※〔言+可〕嶋《チカノシマ》、書紀敏達天武の御卷などに、血鹿《チカノ》嶋と作《カケ》り、釋(ニ)曰(ク)、肥前(ノ)國(ナリ)也、按(ニ)風土記(ニ)云(ク)、更《サラニ》勅云《ミコトノリシタマハク》、此嶋雖遠《コノシマトホケレド》猶《ナホ》見《ミユ》v如《ゴト》v近《チカキガ》、可《ベシ》v謂《イフ》2近嶋《チカシマト》1、因《カレ》曰《イフ》2値嘉嶋《チカノシマト》1、或(ハ)有(リトイフ)2一百餘(ノ)近(ノ)嶋1、或(ハ)有(リトイフ)2八十餘(ノ)近(ノ)嶋1と云り、【此(ノ)勅は、何《イツ》の御世にか有けむ、】聖武紀に、松浦(ノ)郡|値嘉《チカノ》鳴とあり、さて三代實録に、貞觀十八年三月、參議太宰權帥在原(ノ)朝臣行平起請(ス)、分(テ)2肥前(ノ)國松浦(ノ)郡|庇羅《ヒラ》値嘉《チカノ》兩郷(ヲ)1、更(ニ)建(テ)2二郡(ヲ)1、號(シ)2上近《カミチカ》下近《シモチカト》1、置(ム)2値嘉《チカqノ》嶋(ヲ)1、件(ノ)二郷地勢曠遠、戸口殷阜、又士産所(ノ)v出(ル)物多(シ)2奇異(ナル)1、加之《シカノミナラズ》地居(リ)2海中(ニ)1、境隣(ル)2異俗(ニ)1、大唐新羅(ノ)人(ノ)來(ル)者(ノ)、本朝入唐使等、莫(シ)v不(ルハ)v經2歴(セ)此(ノ)嶋(ヲ)1、去年或(ハ)人民等申(テ)云(ク)、唐人等必先到(テ)2件(ノ)嶋(ニ)1、多(ク)採(リ)2香藥(ヲ)1、以(テ)加(フト)2貨物(ニ)1、又其(ノ)海濱多(シ)2奇石1、或(ハ)鍛練(シテ)得v銀(ヲ)、或(ハ)琢磨(スレバ)似(タリ)v玉(ニ)云々、公卿奏議(シテ)曰(ク)、分(テ)2兩郷(ヲ)1號(スル)2一嶋(ト)1事、苟(モ)謂(ハバ)v利(アリト)v公(ニ)、豈(ニ)期(セムヤ)v膠v柱(ニ)、請(フ)隨(テ)2其所(ニ)1v陳(ル)、將(ニ)2以(テ)改(メ)置(ムト)1、謹(テ)録(シ)2事状(ヲ)1、聽(ム)2天裁(ヲ)1、奏可、【今は文を略て引り、さて此(ノ)後は、又いかゞ有けむ、】和名抄にはなほ松浦(ノ)郡(ノ)郷名に載《ノセ》たり、按《オモフ》に此嶋は、今の五嶋《ゴタウ》平戸《ヒラド゙》などの嶋々を總稱《スベイフ》なるべし、【或人、今筑前肥前の堺あたりより北の海中に、ちかの嶋と云ありといへども、それには非ず、】其故は、此嶋|歴史《ヨヨノフミ》にも見えて、三代實録の趣も大なる嶋と聞え、在所もよく叶ひ、風土記に數《カズ》多くあるよし云るも、よく叶へればなり、五嶋平戸は、肥前(ノ)國の西北(ノ)方の海より、西(ノ)方へ遙《ハルカ》に聯《ツラ》なりて、多くの嶋々あり、今も松浦(ノ)郡に屬《ツケ》り、【後に平戸と云は、かの庇羅《ヒラノ》郷より出たる名なるべし、三代實録の文によるに、庇羅は此嶋にある郷なり、】

〇天之忍男《アメノオシヲ》、名(ノ)義|忍《オシ》は上の忍許呂別の忍に同じ、式に陸奥(ノ)國行方(ノ)郡|押雄《オシヲノ》神社あり、こは忍男の例なり、

〇兩兒嶋《フタゴノシマ》は、此《ココ》より外に古書には見えたることなし、在(リ)處も詳《サダカ》ならず、【古今集ほの/”\と明石(ノ)浦の云々の歌の顯注(ニ)云(ク)、明石のおきに、はるかにちり/”\なる嶋ども見え侍り、ふたご嶋みなほし嶋たれか嶋くらかけ嶋家嶋など、うちちりたるやうに侍る云々、此(ノ)趣袖中抄にもあり、餘材抄(ニ)云、顯昭の申されたる嶋々は、明石よりははるかに西南の方にあり、いまだよくかのあたりを見ずして、おしはかりに申されけるにやと云り、今|按《オモフ》に、神名式によるに、家嶋揖保(ノ)郡なれば、兩兒(ノ)嶋も、明石よりは遙に西なりとも、なほ播磨(ノ)國にてはあるべし、されど次第を思ふに、此《ココ》の兩兒(ノ)嶋は其《ソレ》には非じ、なほ西(ノ)方筑紫の邊《ホトリ》にぞ在(ル)べき、今肥前(ノ)國長崎の西南(ノ)方、祝《イハフ》嶋と云嶋近き海(ツ)路に、二子《フタゴ》嶋とて、小《チヒサ》き嶋二(ツ)ならびてありと云(ヘ)ども、其《ソレ》などには非じ、又或人、長門(ノ)國の北の海中に、二生《フタオヒ》嶋と云(フ)はありと云り、抑上の八嶋、東より西へ、西より北へ東へ生《ウミ》もておはしつれば、此《ココ》の六嶋も、東より西へ、西より北へ折《ヲレ》て、東へめぐり給ふべければ、此(ノ)在所も由あり、さて伊邪那美(ノ)大神は、出雲と伯伎の堺なる比婆(ノ)山に葬まつるとあれば、其(ノ)あたりの國にして神《カム》ざり坐(シ)つと見ゆ、是も右の巡《メグリ》にかなへり、猶此嶋のこと、西海路《ニシノウミツヂ》を往來《カヨフ》船人などに問て、よく尋ぬべし、】若《モシ》くは書紀に、隱伎《オキノ》洲と佐渡《サドノ》洲とを雙生《フタゴニウミ》たまふ、とある傳(ヘ)を誤りて、別に一(ツノ)嶋の名と傳へたるものか、はた書紀に雙生《フタゴニウム》とあるは、此嶋の名の傳(ヘ)の異《コトナリ》しか、若(シ)然らば此嶋、二(ツ)ある嶋にて、雙生《フタゴニウミ》たまへる故に、兩兒《フタゴ》とは名《ナヅ》けしにやあらむ、

〇天兩屋《アメフタヤ》、天(ノ)字、上の一(ツ)柱一(ツ)根の例を以(テ)阿米《アメ》と訓(ム)べし、星の義《ココロ》いまだ思ひ得ず、【延佳曰(ク)、細注天兩屋嶋(ハ)、當(キ)v作(ル)2兩兒嶋(ニ)1乎《カ》、といへるはわろし、如是《カカ》る所に亦(ノ)名を以て云ること、下にも例あり、そは自(リ)2志那都比古(ノ)神1、至2野椎(ニ)1并(テ)四神、とある是なり、野椎も鹿屋野比賣(ノ)神の亦(ノ)名なるをや、】

〇上件六嶋の序《ツイデ》、在所さだかならぬもあれど、先(ヅ)は東より生《ウミ》つゝ西へ幸《イデマ》せり、さて四海《ヨモノウミ》に嶋はしも甚《イト》多《サハ》なるに、八嶋に次《ツギ》て只《タダ》此(ノ)六嶋を擧たるは、故あることなるべし、又上(ツ)代に殊に名高きかぎりを擧たるにもあらむか、二柱(ノ)大神の所生坐《ウミマセ》る、必此(ノ)六(ツ)には限らじとぞ思ふ、【六嶋みな西(ノ)國なり、凡て神代の故事は、多く西(ノ)國になむありける、】さて書紀には、大八洲の外に、別に生《ウミ》賜へる嶋は無くて、處々(ノ)小嶋(ハ)、皆是潮(ノ)沫(ノ)凝(テ)成(レルナリ)者矣、亦曰(フ)2水(ノ)沫(ノ)凝(テ)而成(レリトモ)也1とあり、【此(ノ)傳(ヘ)に依るときは、大八嶋の外の嶋々は、二柱(ノ)神の生《ウミ》たまへるには非るなり、さて處々(ノ)小嶋とあるは、必しも小《チヒサ》き嶋のみには限るべからず、大八洲の外なるを、皆凡て如此《カク》は云るなれば、其中には大《オホキ》なるも多くあるぞかし、されば皇國に屬《ツケ》る嶋々のみならず、諸の外(ツ)國をも、大きなる小きを云(ハ)ず、皆此(ノ)内とすべきなり、】

○此八嶋六嶋の亦(ノ)名どもを、其《ソコ》の國御魂《クニミタマノ》神の名と謂《オモフ》は、ひがことなり、此《コ》はたゞに其嶋國を指(シ)て云る名なり、さて其名の女男《メヲ》ある所以《ユヱ》は、いまだ知(ラ)ず、【國のみならず、山にも女男《メヲ》ありて、古(ヘ)倭(ノ)國なる三山の妻爭《ツマアラソ》ひのこと、播磨風土記萬葉一(ノ)卷などに見ゆ、】

〇或人問(ヒ)けらく、二柱(ノ)大神の、人の兒を産《ウム》如くに、國土《クニ》を生《ウミ》たまふといふこと甚《イト》疑はし、此《コ》は其國々の神を生《ウミ》たまふをいふか、又實は國々を巡《メグ》りて、經營《ヲサメツクリ》たまふを、如此《カク》言《イヒ》なせるにもあるべし、其故は、初(メ)天神の大命にも、修2理固成《ツクリカタメナセ》是多陀用幣流之國《コノタダヨヘルクニヲ》1とこそ事依《コトヨサ》したまひつれ、國土《クニ》を産成《ウミナ》せとは詔はず、いかゞ、答(フ)、此《コレ》を疑ふは例のなまさかしらなる漢意にして、神の御所為《ミシワザ》の奇《クシ》く靈《アヤシ》くして、測りがたきをしらざるものなれば.諭ふまでもあらず、但しかの天神の大命のことは論あり、其《ソ》はまづ夜見《ヨミノ》段に男神の御言に、愛我那邇妹《ウツクシキアガナニモノ》命、吾|與《ト》v汝|所作之國《ツクレルクニ》、未(ダ)2作竟《ツクリヲヘ》1とあるは、既に産生《ウミ》はしたまひつれども、いまだうるはしく經營成竟《ヲサメナシヲヘ》たまはざるを詔へるなり、【經營成竟《ヲサメナシヲヘ》たまふは、大汝少名毘古那(ノ)神のときなり、】又初(メ)の天神の大命は、漂蕩《タダヨ》へる潮を固《カタ》めて、先(ヅ)國士《クニ》産《ウム》べき基《モトヰ》【淤能碁呂嶋なり、】を成《ナス》より始めて、國土《クニ》を産生《ウミ》て、うるはしく經營成固《ヲサメナシカタ》むるまでをかけて詔へるにて、都久流《ツクル》といふは廣くして、産《ウミ》たまふことも其中に存《ア》るなり、かの男神の御言に、所作之國《ツクレルクニ》とあるは、即(チ)所生之國《ウメルクニ》といふに同じきを以てしるべし、二柱(ノ)大神の國土を經營成《ヲサメナシ》たまへることは見えざれば、此(ノ)作《ツクル》は、正《マサ》しく産生《ウミ》たまふことなるをや、【若(シ)又|生《ウム》とあるも、實はたゞ經營のことなりとなほいはば、かの御身の成不合處成餘處《ナリアハザルトコロナリアマレルトコロ》を尋《タヅネ》て、麻具波比《マグハヒ》したまへることなどを、委曲《ツバラ》にいへるは、何《ナニ》の要《エウ》ぞや、これら經營にはさしも關係《アヅカ》るべきことならず、且《ソノウヘ》書紀には、及2至《ナリテ》産時《ミコウミマストキニ》1、先(ヅ)以《ヲ》2淡路嶋1爲《シ》v胞《エト》と云ひ、雙3生《フタゴニウミマス》隱岐(ノ)洲(ト)與《トヲ》2佐度(ノ)洲1など云るも、みな人の子を産《ウム》如くに、生《ウミ》たまへる故なるをや、】

 

既生國竟更生神《スデニクニヲウミヲヘテサラニカミヲウミマス》。故生神名大事忍男神《カレウミマセルカミノミナハオホコトオシヲノカミ》。次生石土毘古神《ツギニイハツチビコノカミヲウミマシ》。【訓石云伊波亦毘古二字以音下效此】次生石巣比賣神《ツギニイハズヒメノミヲウミマシ》。次生大戸日別神《ツギニオホトビワケノカミヲウミマシ》。次生天之吹 上 男神《ツギニアメノフキヲノカミヲウミマシ》。次生大屋毘古神《ツギニオホヤビコノカミヲウミマシ》。次生風木津別之忍男神《ツギニカザゲツワケノオシヲノカミヲウミマシ》。【訓風云加邪訓木以音】次生海神名大綿津見神《ツギニワタノカミミナハオホワタツミノカミヲウミマシ》。次生水戸神名速秋津日子神《ツギニミナトノカミミナハハヤアキヅヒコノカミ》。次妹速秋津比賣神《ツギニイモハヤアキヅヒメノカミヲウミマシキ》。【自大事忍男神至秋津比賣神并十神《オホコトオシヲノカミヨリアキヅヒメノカミマデアハセテトバシラ》】

大事忍男《オホコトオシヲノ》神、これより速秋津比賣《ハヤアキヅヒヒメノ》神まで十柱のこと、下の阿波岐原《アハギバラ》の御祓《ミミソギ》の段、又書紀(ノ)一書に、次掃之神《ツギニハラフノカミヲ》號《イフ》2泉津事解之男《ヨモツコトトケノヲト》1云々、曰《ノリタマヒキ》d吾《アレ》與《ト》v汝《ミマシ》已《スデニ》生《ウミキ》v國《クニヲ》矣、奈何更求生乎《ナゾサラニウマクホリセムト》u云々、故《カレ》還2向《カヘリイデマシテ》於|橘之小門《タチバナノヲトニ》1而|拂濯也《ハラヒタマヒキ》、于時《トキニ》入《イリテ》v水《ミヅニ》吹2生《フキナシ》磐土命《イハヅチノミコトヲ》1、出《イデテ》v水《ミヅヨリ》吹2生(シ)大直日《オホナホビノ》神(ヲ)又|入《イリテ》吹2生(シ)底土《ソコヅチノ》命(ヲ)1、出《イデテ》吹2生(シ)大綾津日《オホアヤツビノ》神(ヲ)1、又入(テ)吹2生(シ)赤土《アカヅチノ》命(ヲ)1、出(テ)吹2生(シタマヒキ)大地海原之諸神《オホツチウナバラノカミタチヲ》1矣、とあると、大祓(ノ)祝詞に、科月之風乃《シナドノカゼノ》、天之八重雲乎《アメノヤヘグモヲ》、吹放事之如久《フキハナツコトノゴトク》、朝之御霧夕之御霧乎《アシタノミキリユフベノミキリヲ》、朝風夕風乃吹掃事之如《アサカゼユフカゼノフキハラフコトノゴトク》云々、遺罪波不在止《ノコルツミハアラジト》、祓給比清給事乎《ハラヒタマヒキヨメタマフコトヲ》、高山末短山之末與理《タカヤマノスヱミジカヤマノスエヨリ》、佐久那太理爾落多支津速川能瀬坐須《サクナダリニオチタギツハヤカハノセニマス》、瀬織津比※〔口+羊〕止云神《セオリツヒメトイフカミ》、大海原爾持出奈武《オホミノハラニモチデナム》、如此持出往波《カクモチイデイナバ》、荒鹽之鹽乃《アラシホノシホノ》、八百道乃《ヤホヂノ》、八鹽道之鹽乃《ヤシホヂノシホノ》、八百會爾座須《ヤホアヒニマス》、速開都比※〔口+羊〕止云神《ハヤアキヅヒメトイフカミ》、持歌呑※〔氏/一〕牟《モテカノミテム》、如此久歌呑※〔氏/一〕波《カクカノミテバ》、如此氣吹放※〔氏/一〕波《カクイブキハナチテバ》、根國底之國爾坐《ネノクニソコノクニニマス》、速佐須良比※〔口+羊〕登云神《ハヤサスラヒメトイフカミ》、氣吹戸坐須氣吹戸主止云神《イブキドニマスイブキドヌシトイフカミ》、根國底之國爾《ネノクニソコノクニニ》、氣吹放※〔氏/一〕牟《イブキハナチテム》、持佐須良比失※〔氏/一〕牟《モテサスラヒウシナヒテム》、如此久失※〔氏/一〕波《カクウシナヒテバ》、自今日始※〔氏/一〕《ケフヨリハジメテ》、罪止云布罪波不在止《ツミトイフツミハアラジト》、云々とあるとを引合(セ)て説(ク)べし、まづ此(ノ)大事忍男《オホコトオシヲ》は、かの事解之男《コトトケノヲ》にあたり、石土毘古《イハヅチビコ》石巣比賣《イハズヒメ》は、上筒之男《ウハヅツノヲノ》命又|磐土《イハヅチノ》命に、大戸日別《オホトビワケ》は、大直日《オホナホビノ》神に、天之吹男《アメノフキヲ》は、氣吹戸主《イブキドヌシ》に、大屋毘古《オホヤビコ》は、大綾津日《オホアヤツビノ》神又|大禍津日《オホマガツビノ》神に、風木津別《カザゲツワケ》は、底筒之男《ソコヅツノヲノ》命又|底土《ソコヅチノ》命又|速佐須良比※〔口+羊〕《ハヤサスラヒメ》に、大綿津見《オホワタツミ》は、三柱の綿津見(ノ)神に、速秋津日子《ハヤアキヅヒコ》速秋津比賣《ハヤアキヅヒメ》は、伊豆能賣《イヅノメノ》神又|赤土《アカヅチノ》命に、【祝詞には、やがて速開都比※〔口+羊〕《ハヤアキヅヒメ》とあり、】あたれり、如是《カカ》れば此(ノ)十柱(ノ)神は、もとかの御祓の時に成《ナリ》坐る紳たちの、一傳《マタノツタヘ》なりしが、亂《マギレ》て此記には、彼所《カシコ》と此所《ココ》とに重《カサナ》りし物なり、【故《カレ》書紀には、此記の趣を載《ノセ》たる一書にも、右の内の上(ノ)七柱は見えず、是(レ)雜重《マジリカサナ》りつることを考(ヘ)て、除《ノゾカ》れつるにや、】右に引る一書の終(リ)に、吹2生(シシタマフ)大地海原(ノ)之諸神(ヲ)1とあるも、此《ココ》の次に、因《ヨリテ》2河海《カハウミニ》1持別而生神《モチワケテウミマセルカミ》たち、【かの海原の諸神とあるにあたる】因(テ)2山野《ヤマヌニ》1持別而生神《モチワケテウミマセルカミ》たち【大地の諸神にあたる、】にあたりて、其次第も彼(レ)と合へり、

〇大事忍男(ノ)神、此(ノ)神の事解之男《コトトケノヲ》にあたれると云(フ)故は、まづ事解之男とは、女神男神族離《メガミヲガミウガラハナレ》たまふ方に就《ツキ》て、負《オフ》せ奉(リ)し名なるを、其處《ソコ》の御言に、右に引るが如く、吾《アレ》與《ト》v汝《ミマシ》已《スデニ》生《ウミキ》v國《クニ》矣云々【又伊弉諾(ノ)尊|神功既畢《カムコトスデニヲヘ》云々、又|功既至矣《コトスデニヲヘタマヒヌ》、徳亦大矣《ミイキホヒモオホキナリ》ともあり、】とあれば、夫婦《メヲ》離《ハナレ》賜ふも、既に大《オホキ》なる事業《コト》の成竟《ナリヲヘ》し故なれば、此《ココ》の名は、其(ノ)方に就《ツキ》て、大事《オホコト》と稱《タタヘ》しならむ、されば此(ノ)二(ツノ)名、いひもてゆけば一(ツ)意にあたれり、忍男は例の稱《タタヘナ》なり、【忍の義、上に云るが如し、萬葉二十信濃(ノ)國埴科(ノ)郡の防人に、神人部(ノ)子忍男《コオシヲ》と云名もあり、】

〇石土毘古《イハヅチビコノ》神、石巣比賣《イハズヒメノ》神、此(ノ)二柱の上筒之男《ウハヅツノヲ》にあたる故は、宇波《ウハ》と伊波《イハ》と通ひ豆都《ヅツ》と都知《ヅチ》と通へばなり、書紀に、鹽土老翁《シホツチノヲヂ》を鹽筒《シホツツ》ともあり、【土をも都々《ツツ》とも訓(ム)べけれど、もし都《ツ》々ならば、筒とかく此記(ノ)例なり】巣《ズ》も都々《ツツ》と近し、神名帳に、土左(ノ)國長岡(ノ)郡(ニ)石土《イハヅチノ》神(ノ)社あり、顯宗天皇の御名、袁祁之石巣別《ヲケノイハスワケノ》命と申せり、さて二柱(ヲ)一柱にあつる由は、此記と書紀とを合せ見(ル)に、此《コレ》には二柱なるが、彼《カレ》には一柱なるたぐひ多し、【次なる速秋津日子速秋津比賣、金山毘古金山毘賣なども、書紀にはみな一柱づゝなり、又磐筒(ノ)男(ノ)命、一曰磐筒男(ノ)命(ノ)及磐筒女(ノ)命(ノ)などもあり、】名(ノ)義は上簡之男の下《トコロ》に云べし、【傳六の七十のひら】

〇註(ニ)、訓(テ)v石(ヲ)云(フ)2伊波《イハト》1とは、伊志《イシ》とも訓(ム)字なる故なり、

〇大戸日別《オホトビワケノ》神、此(ノ)神の大直毘《オホナホビ》にあたる所以《ユヱ》は、那富《ナホ》を縮《ツヅム》れば能《ノ》となり、能《ノ》と登《ト》とは横通音《ヨコニカヨフコヱ》なればなり、【能《ノ》に通ふ登《ト》は、多く濁(ル)例なれば、戸(ノ)字濁て讀(ム)も可《ヨ》けむ、若(シ)戸《ト》を濁らば、日《ヒ》は清(ム)べし、】又戸は、名(ノ)字などの誤(リ)にはあらじか、然らばいよよ近し、【中卷堺原(ノ)宮(ノ)段に、意富那毘《オホナビ》てふ人の名もあり、】

〇天之吹男《アメノフキヲノ》神、此(ノ)神の氣吹戸主《イブキドヌシ》にあたる故は、かの祝辭に、根國底之國《ネノクニソコノクニ》に氣吹放《イブキハナチ》てむとあればなり、山城(ノ)國|相樂《サガラカノ》郡(ニ)和伎坐天乃夫支賣《ワキニマスアメノフキメノ》神(ノ)社と云も式に見ゆ、

〇大屋毘古《オホヤビコノ》神、此(ノ)神の大綾津日《オホアヤツビ》にあたる由は、大綾《オホアヤ》の阿《ア》を省《ハブキ》て大屋《オホヤ》と云は、古語の常なり、繼體天皇の皇女|若屋《ワカヤノ》郎女を、書紀には稚綾《ワカヤ》姫とかけり、【大綾をも即《ヤガテ》意富夜《オホヤ》ともよむべし、】津は例の助辭なれば、固《モトヨ》り省《ハブ》きても云べし、さて此(ノ)綾《アヤ》は禍《マガ》の意にて、【あやまつ、人をあやむるなどのあや、又さはることのあるを、俗にあやのあると云(ヒ)、又わやく者《モノ》など云(フ)、みな禍《マガ》のこゝろなり、】語も通へり、下に木(ノ)國の大屋毘古(ノ)神と云も坐《マ》す、猶そこ【傳十の廿八卅四葉】にも云べし、

〇風木津別之忍男《カザゲツワケノオシヲノ》神、こは訓《ヨミ》も名(ノ)意もいと/\心得がたし、其由は次に云、

〇註(ニ)訓(テ)v風(ヲ)云(フ)2加邪《カザト》1、舊印本又一本には、加(ノ)字|脱《オチ》たり、今は延佳本又一本に依れり、

〇訓v木以v音、こはいと心得ず、字の誤(リ)あるべし、【凡て註に以v音(ヲ)といふは、假字《カナ》なることを知(ラ)せたる物なる故に、何《イゾレ》も此(ノ)某《ナニノ》字|以《モチフ》v音(ヲ)、幾字《イクモジ》以(フ)v音(ヲ)などある例なり、然るに今(マ)訓(ニ)v木(ヲ)以v音(ヲ)とあるは、例もなく理(リ)もなし、もし訓v木(ヲ)ならば、云《イフ》2云々《シカシカト》1とこそ有(ル)べけれ、此註|左右《かにかく》に誤(リ)あること疑《ウツ》なし、】故(レ)思(フ)に、以音(ノ)二字は、云《イフ》v宜《ゲト》の誤(リ)ならむか、宜を音(ノ)字に誤れるから、云(ノ)字をばさかしらに以に改(メ)つらむ、【又思(フ)に、加(ノ)字無き本もあれば、もと訓(テ)v風(ヲ)云(フ)2※〔言+可〕邪《カザト》1、木(ノ)字以v音とありけむを、※〔言+可〕邪(ノ)二字亂(レ)て下上になれるを見て、後(ノ)人の、※〔言+可〕は訓(ノ)字の誤なるべしとて改め、字(ノ)字は衍字字《アマリモジ》と見て削《ケヅ》れるかとも思へど、木(ノ)字(ノ)音を取て假字に用(ヒ)たること、此記はさらにも云(ハ)ず、書紀などにも例なし、又木(ノ)字は、本文ごめに本米太《ホメタ》などの字の誤かとも云べけれど、風《カゼ》の假字に※〔言+可〕《カ》を用ること、此記の例に違へり、みな加是《カゼ》とのみ書り、されば此彼《コレカレ》この考(ヘ)は用ひがたし、又以音は云(フ)v古《コト》の誤かとも思へど、記中に木《コ》の假字には、許《コ》を用る例にて、古(ノ)宇書ることなし、】さて木《キ》を氣《ケ》と云ことは、下の子之一木《コノヒトツケ》の所にくはしく云べし、宜(ノ)字を書るは、風木《カザゲ》とつゞく音(ノ)便(リ)に濁る故なり、【音便の濁(リ)のまゝに注する例、此下に訓(テ)v土(ヲ)云(フ)2豆知《ヅチト》1、中卷に土雲の注に、云(フ)2具毛《グモト》1などあり、】さて式に、大和(ノ)國高市(ノ)郡|氣都和既《ケツワケノ》神(ノ)社といふあり、【但(シ)此社は姓氏録に、伊我香色乎《イガカシコヲノ》命(ノ)男|氣津別《ケツワケノ》命と云あり、是《コレ》などを祭れるか、いかにもあれ、氣都和気《ケツワケ》てふ語の據なり、】姑《シバラ》く此(ノ)考(ヘ)に依て、加邪宜都和気《カザゲツワケ》と訓つ、なほも考ふべし、さて此神を速佐須良比※〔口+羊〕《ハヤサスラヒメ》にあつることも、たしかにはあらねど、持佐須良比失※〔氏/一〕波《モテサスラヒウシナヒテバ》、罪止云罪波不在止《ツミトイフツミハアラジト》とあると、上に科戸之風乃吹放事之如久《シナトノカゼノフキハナツコトノゴトク》、吹拂事之如《フキハラフコトノゴトク》と譬《タトヘ》て、遺罪波不在止祓給比《ノコルツミハアラジトハラヒタマヒ》云々とあると、同じことなれば、風にさすらひ失ふ意あり、さて書紀に、曰(テ)2我所生之國《アガウメルクニハ》、唯有朝霧而薫滿之哉《タダサギリノミカヲリミテルカモト》1、乃|吹撥之氣《フキハラヒマスイブキ》化2爲《ナレリ》神《カミト》1、號2曰《イフ》級長戸邊《シナトベノ》命(ト)1、是《コハ》風(ノ)神(ナリ)也とありて、風は神の氣《イブキ》なれば、風氣《カザゲ》とも云べし、【氣《ケ》は、此字の音かとも聞ゆれども、なほ此方の言にて、古(ク)火氣《ホノケ》潮氣《シホケ》など云り、凡て皇國言と漢字(ノ)音とたま/\に同じきもまゝあり、死《シヌ》る剥《ハグ》茂《モ》き馬《マ》洲《ス》阿母《オモ》など、此外にもあり、これらは自然に相似たるにて、かの文《フミ》錢《ゼニ》などのたぐひとは異なり、しかるを此たぐひをも、皆字音とのみおもふは、深く考へざるなり、】木は借字、津《ツ》は助辭なり、さて下に別《コト》に風(ノ)神はあれども、右に云る如く、此《ココ》は別《コト》なる一(ツ)の傳《ツタヘ》のまがひ入(リ)し物なる故に、重《カサナ》れるなり、又|底筒之男《ソコヅツノヲ》にあつるゆゑは、曾許豆《ソコヅ》と邪宜津《サケツ》と、語の近ければなり、こはいとものどほけれど、せめて云なり、

〇海神は和多能加微《ワタノカミ》と訓べし、【宇美乃加微《ウミノカモ》とも訓べし、】師(ノ)説に、海を和多《ワタ》と云は、渡《ワタ》ると云ことなり、古書に、山には越《コユ》といひ、海には渡るといへり、【今云(ク)、書紀齊明天皇の大御歌に、山こえて海わたるともなど有(リ)、】萬葉一(ノ)卷に、對馬乃渡渡中爾《ツシマノワタリワタナカニ》などよめるを思へとあり、此外の説はひがことなり、
〇大綿津見神《オホワタツミノカミ》、名(ノ)義師(ノ)説に、綿は海《ワタ》、津は例の助辭、見は毛知《モチ》の約りたるにて、海津持《ワタツモチ》てふ意なり、これ海を持《タモツ》神なればなり、下文に、因《ヨリテ》2河海(ニ)1持別而《モチワケテ》云々、因(テ)2山野(ニ)1別而《モチワケテ》云々とある、持別《モチワケ》の言を以(テ)知べしとあり、【書紀に保食《ウケモチノ》神あり、この母知《モチ》の例をも思ふべし、又此記に、久比奢母智《クヒザモチノ》神、又|佐比持《サヒモチノ》神など云もあり、又師説に、綿津海《ワタヅミ》など書る、綿《ワタ》も海《ミ》も借字にて意なし、又わたづみを只海のことに云は、此神の名より轉《ウツ》れるなり、故(レ)いと上代には、神(ノ)名の外にわたづみてふことは見えず、海をも然云は、大津飛鳥などの御代のころよりや始(マ)りけむ、又|和多都宇美《ワタツウミ》と云は、いよゝ後のひがことなり、延喜式などまでも、たゞ和多都美《ワタツミ》とのみあり、多《タ》を濁(ル)もひがことなり、綿(ノ)字を借(リ)、又假字もみな清音を書り、津は音便にて濁ること、山津見《ヤマヅミ》などの例に同じとあり、今云(ク)、これらの津は清て讀べし、假字に清音を用《ツカ》ひ、又例も清《スム》ぞ多き、】此説に依べし、津見《ツミ》の意は今一(ツ)の考へもあり、そは傳七(ノ)卷【五十五葉五十七葉】に云べし、山津見の津見も同じ、さて上の諸神の例によれば、此(ノ)神下なる三柱の綿津見にあたれり、又生2海(ノ)神(ヲ)1とあるより、改(メ)て別に見(ル)ときは、下の三柱は別《ワカ》れたる神、此神は總《スベ》たる神なり、大山津見ありて、下に又くさ/”\の山津見あるが如し、

〇水戸神、水戸は【水門と書るも同じことなり、】美那斗《ミナト》と訓べし、【古く美斗《ミト》と云訓(ミ)も有て、今はたさる地名もあるなれば、然《シカ》讀(マ)むも惡きにはあらず、土左日記に、あはのみとを渡るとあり、】書紀武烈(ノ)卷の大御歌の之〓世《シホセ》を、一本に彌儺斗《ミナト》と有(リ)と分注《コガキ》あり、又齊明(ノ)卷の大御歌にも、瀰儺斗《ミナト》と云ことあり、萬葉(ノ)歌にも多し、【美斗《ミト》とよめるは見えず、】即(チ)水之門《ミヅノト》の意にて、門《ト》は海の出入る戸口《トグチ》なり、【嶋門《シマド》河門《カハド》なども云、】書紀神代(ノ)卷に、乃《スナハチ》往3見《イデマシテミソナハス》粟門《アハドト》及《トヲ》2速吸名門《ハヤスヒナド》1、然(ルニ)此(ノ)二門《フタカドハ》云々、仲哀(ノ)卷に、自《ヨリ》2穴門《アナド》1至《マデヲ》2向津野大濟《ムカツヌノオホワタリ》1爲《シ》2東門《ヒムカシノトト》1、以《ヲ》2名籠屋《ナゴヤノ》大濟1爲2西門《ニシノトト》1などあり、那《ナ》は之《ノ》に通(フ)辭なり、【右の速吸名門《ハヤスヒナド》の名を、神武(ノ)卷には、之《ノ》と作《カケ》るにて知べし、猶例多し、和名抄には、湊(ハ)和名|三奈止《ミナト》とあり、俗《ヨ》にも此字を用ふ、】

〇速秋津日子神《ハヤアキヅヒノコノカミ》、速秋津比賣神《ハヤアキヅヒメノカミ》、書紀にほ、速秋津日(ノ)命とて一柱なり、さて秋津日《アキヅヒ》と赤土《アカヅチ》と語通(ヒ)て、清明《アカ》き意なり、黄泉《ヨミ》の穢《ケガレ》を速《スミヤカ》に祓(ヒ)すてて、清《キヨ》らかに明《アキラ》けきをいふ名なり、【續紀(ノ)宣命に、明支清支直支誠之心以而《アカキキヨキナホキマコトノココロヲモチテ》云々、すべて清《キヨ》きをあかきといふこと、赤心《アカキココロ》など古言に例多し、】明津神《アキツカミ》といふも、意は少(シ)異なれど語は同じ、【又かの一書には、磐土《イハツチ》底土《ソコツチ》赤土《アカツチ》とならびたれば、赤土は中筒にあたるべし、但し中《ナカ》てふ言も、本は明《アカ》より轉《ウツ》れる物か、其由はかの大神上(ツ)瀬下(ツ)瀬をすてて、中(ツ)瀬に祓ひ清まはり坐(シ)しかば、其處《ソコ》を明《アカツ》瀬と云しより起《オコリ》て、萬の物も、上と下との間を那加《ナカ》とはいふか、】又|伊豆能賣《イヅノメ》にあつる故は、阿伎《アキ》を切《ツヅム》れば伊《イ》にて、その伊豆《イヅ》も、阿伎豆《アキヅ》と同(ジ)意なること、彼處《カシコ》【傳六の六十一葉】にいふを合せ見よ、【大綿津見と下の三柱の綿津見とを別に見ば、是(レ)も別神とすべし、倭比賣(ノ)命(ノ)世記に、伊勢(ノ)瀧(ノ)原(ノ)宮は、此(ノ)日子神、並(ノ)宮は此比賣神なりといへり、】

〇註、至(ノ)下に速(ノ)字|脱《オチ》しにや、

 

此速秋津日子速秋津比賣二神《コノハヤアキヅヒコハヤアキヅヒメフタバシラノカミ》。因河海特別而《カハウミニヨリテモチワケテ》。生神名沫那藝神《ウミマセルカミノミナハアワナギノカミ》。【那藝二字以音下效此】次沫那美神【ツギニアワナミノカミ】。【那美二字以音下效此】次頬那藝神《ツギニツラナギノカミ》。次頬那美神《ツギニツラナミノカミ》。次天之水分神《ツギニアメノミクマリノカミ》。【訓分云久麻理下效此】次國之水分神《ツギニクニノミクマリノカミ》。次天之久比奢母智神《ツギニアメノクヒザモチノカミ》。【自久以下五字以音下效此】次國之久比奢母智神《ツギニクニノクヒザモチノカミ》。【自沫那藝神至國之久比奢母智神并八神《アワナギノカミヨリクニノクヒザモチノカミマデアハセテヤバシラ》。】

二神は布多婆斯羅能迦微《フタバシラノカミ》と訓べし、

〇因《ヨリテ》2河海《カハウミニ》1とは、まづ水戸《ミナト》は、河水の海へ落る所の戸口《トグチ》にて、【河口といふこともあり、】河と海との際《キハ》なるを、此(ノ)神一柱は其(ノ)河の方に倚坐《ヨリマシ》、一柱は海の方に因坐《ヨリマシ》てなり、さて何《イヅレ》を河の方、何(レ)を海の方とせむ、かの祝詞に、比賣神《ヒメガミ》を、八鹽道之鹽乃八百會に坐(ス)と云(ヒ)、又下の山津見《ヤマツミ》野椎《ヌヅチ》の例にも依て、姑《シバラ》く日子神《ヒコガミ》は河の方に、比賣神《ヒメガミ》は海の方に因坐《ヨリテマス》と定むべし、河海は加波宇美《カハウミ》と訓べし、【常には、宇美加波《ウミカハ》と云(ヒ)なれたる故に、河海と書るをも然《シカ》訓《ヨム》ことなれど、此《ココ》は河(ノ)方の比古神は上に、海(ノ)方の比賣神は下にあり、又常に何《ナニ》となく宇美加波《ウミカハ》といふとも少《スコシ》異《コト》なればなり、】

〇持別而《モチワケテ》とは、同(ジ)水戸《ミナト》の内を、河に因《ヨ》れる方と、海によれる方と、二柱(ノ)神の別《ワケ》て持坐《タモチマス》を云なり、さて持別而生とつづきたれども、持別は此神たちの凡《オヨソ》の上《ウヘ》を云るにて、生《ウム》にかゝれることには非ず、

〇沫那藝《アワナギノ》神、沫那美《アワナミノ》神、名(ノ)義|沫《アワ》は字の如く水の沫《アワ》なり、【假字は阿和《アワ》なり、阿波《アハ》とかくはひがことぞ、】那藝と那美と對言《ムカヘイフ》こと、既に伊邪那岐伊邪那実の御名の所に云り、此《ココ》は其意にてはかなはぬに似たれど、彼(ノ)御名の例に依て稱《タタヘ》しにもあらむか、但し岐と藝と異なる假字を用《ツカ》へるも、故あるべきにや、【此記は、同音の假字にも差別《ワキ》あること別に云り、】故(レ)思(フ)に書紀一書に、國常立《クニノトコタチノ》尊云々、天萬(ノ)尊生2沫蕩《アワナギノ》尊(ヲ)1、【沫蕩此(レヲ)云2阿和那伎(ト)1、】沫蕩(ノ)尊生2伊弉諾(ノ)尊(ヲ)1とある、是《コ》はいと異なる一(ツノ)傳(ヘ)なり、かくて那伎《ナギ》に蕩(ノ)字を書《カカ》れたるは、平の義を取て、【詩に魯道有(リ)v蕩《タヒラカナルコト》などいふ蕩(ノ)字のこゝろなり、】水上《ミヅノヘ》の和《ナギ》たる意なるべし、【或人も然云(ヒ)き、】さて此《ココ》に那美《ナミ》と對《ムカヒ》たるは、那美《ナミ》は水(ノ)上の騷《サワ》ぐを云(フ)言にて、波《ナミ》と云名もそれより出たるなるべし、【下なる八千矛(ノ)神の御歌に、幣都那美曾《ヘツナミソ》とある、此(ノ)那美《ナミ》も海のさわぐさまを云て、即(チ)彼《ナミ》のうちよする意なれば、波よする礒《イソ》と云むが如し、もし那美《ナミ》を常に云(フ)彼《ナミ》の意とするときは、寄《ヨス》るなど云(フ)用(ノ)言なくては、波礒《ナミソ》にては言たらはず、】

〇頬那藝《ツラナギノ》神、頬那美《ツラナミノ》神、名(ノ)義、頬は借字にて、訓は和名抄に、頬和名|豆艮《ツラ》とあるに依べし、萬葉にも狹丹頬相《サニツラフ》など、多く都良《ツラ》と云に借(リ)て書り、さて都良《ツラ》は、都夫良《ツブラ》の切《ツヅマ》りたる言なり、其《ソ》は下に※〔獣偏+爰〕田毘古《サルタビコノ》神の事を云る段に、其海水之都夫多都時名《ソノウシホノツブダツトキノナヲ》謂《イフ》2都夫多都御魂《ツブダツミタマト》1、其阿和佐久時名《ソノアワサクトキノナヲ》謂《イフ》2阿和佐久御魂《アワサクミタマト》1とあり、都夫良《ツブラ》は即(チ)都夫多都音《ツブダツオト》にて、其《ソノ》貌《アリサマ》をも云なり、沫《アワ》と並びたるも彼《カシコ》と同きを以(テ)知べし、【萬葉十八(ノ)卷に、可治能於登乃都婆良々々々爾《カヂノヲトノツバラツバラニ》とよめるも、櫓《カヂ》の水にさはりて、つぶだつ音を云て、同(ジ)言なり、又廿(ノ)卷に、ほりえこぐ、いづての舟の、かぢ都久米《ツクメ》、おとしばたちぬ、みをはやみかも、此(ノ)都久米の久《ク》は、夫《ブ》の誤にて、都夫米《ツブメ》なるべし、十八(ノ)卷の、つばら/\にとよめると合せて知べし、つぶら/\と鳴(ル)を、つぶめと云なるべし、又つぶりと没入《オチイル》と云も、物の水におちいれば、つぶだつありさまを云、】圓《マロキ》を都夫良《ツブラ》と云も、其|形《カタチ》より出たり、猶|彼《カノ》段【傳十六の一のひら】に云(フ)言どもをも引合(セ)見よ、那藝《ナギ》那美《ナミ》は上に同じ、

〇天之水分《アメノミクマリノ》神、國之水分《クニノミクマリノ》神、名(ノ)義、久麻理《クマリ》は分配《クバリ》なり、即(チ)書紀に、分を久婆留《クバル》とも訓り、神名式に、大和(ノ)國吉野(ノ)郡吉野、宇陀(ノ)郡|宇太《ウダ》、山邊(ノ)郡|都祁《ツケ》、葛上《カヅラキノカミノ》郡|葛木等《カヅラキナド》に、各々|水分《ミクマリ》神(ノ)社あり、續紀に、文武天皇二年四月、奉《タテマツリテ》v馬《ウマ》2于吉野(ノ)水分(ノ)峯(ノ)神(ニ)1祈《コヒタマフ》v雨(ヲ)也、【萬葉七(ノ)卷に、三芳野之水分山《ミヨシヌノミクマリヤマ》とよめるは此《ココ》なり、是を美豆和氣山《ミヅワケヤマ》と訓るはひがことなり、】祈年《ヨシゴヒ》及《マタ》月次(ノ)祭(ノ)祝詞に、水分坐皇神等能前爾白久《ミクマリニマススメカミタチノマヘニマヲサク》、吉野宇陀都祁葛木登御名者白※〔氏/一〕《ヨシヌウダツケカヅラキトミナハマヲシテ》云々、【水分に坐《マス》とは、水分(ノ)神の坐《マス》所々を、即《ヤガテ》水分といふなり、】右の外にも、式に河内(ノ)國石川(ノ)郡|建水分《タケミクマリノ》神社、攝津(ノ)國住吉(ノ)郡|天水分豐浦《アメノミクマリトヨラノ》命(ノ)神社、三代實録二に、安藝(ノ)國(ニ)水分(ノ)天神など云あり、又丹後(ノ)國與謝(ノ)郡(ノ)籠(ノ)神社は、天(ノ)水分(ノ)神なりと云、【又古今六帖片戀(ノ)題(ノ)歌どもに、美許母理《ミコモリノ》神と多くよみ、清少納言(ガ)册子《サウシ》に、神はと云中にも、美許母理《ミコモリノ》神あり、是等《コレラ》も水分《ミクマリ》を訛《アヤマ》れる名か、吉野なるをも、後(ノ)世には然《シカ》いふなり、】

〇天之久比奢母智《アメノクヒザモチノ》神、國之久比奢母智《クニノクヒザモチノ》神、名(ノ)義、久比奢母智《クヒザモチ》は汲匏持《クミヒサゴモチ》なり、【美比《ミヒ》を約めて比《ヒ》といひ、碁《ゴ》を省けり、その省ける碁《ゴ》の濁《ニゴリ》の、佐《サ》へうつりて、奢《ザ》となれるは、語の自然の勢なり、】其由は鎭火祭《ヒシヅメノ》祭(ノ)詞に、火結神生給※〔氏/一〕《ホムスビノカミウミタマヒテ》、美保止被燒※〔氏/一〕《ミホトヤケテ》、石隱坐※〔氏/一〕《イハガクリマシテ》云々、吾名※〔女+夫〕命能所知食上津國爾《アガナセノミコトノシロシメスウハツクニニ》、心惡子乎生置※〔氏/一〕來奴止宣※〔氏/一〕《サガナキコヲウミオキテキヌトノタマヒテ》、返坐※〔氏/一〕《カヘリマシテ》、更《サラニ》生子|水神匏川菜埴山姫《ミヅノカミヒサゴカハナハニヤマビメ》、四種物乎生給※〔氏/一〕《ヨクサノモノヲウミタマヒテ》、此能心惡子乃心荒比曾波《コノサガナキコノココロアラビソバ》、水(ノ)神|匏《ヒサゴ》埴山姫川菜|乎《ヲ》持※〔氏/一〕《モチテ》、鎭奉禮止《シヅメマツレト》、事教倍給支《コトヲシヘサトシタマヒキ》【書紀に天吉葛《アマノヨサヅラ》とあるも、此(ノ)匏《ヒサゴ》のことなり、】とあり、但し彼《カレ》は、火(ノ)神の荒ぶるを鎭めむ備《ソナヘ》に生《ウミ》たまふといふ一(ツ)の傳(ヘ)なり、此《ココ》は其《ソレ》のみならず、水分《ミグマリノ》神と同じく、凡て萬(ヅ)に水を施《ホドコ》して、功《コト》を成《ナサ》しむる神なり、和名抄木器(ノ)部に、杓、和名|比佐古《ヒサゴ》、唐韻(ニ)云(ク)、斟《クム》v水(ヲ)器(ナリト)也、瓢(ハ)和名|奈利比佐古《ナリヒサゴ》、瓠(ナリ)也、瓠(ハ)匏(ナリ)也、鞄《ヒサゴハ》可v爲(ル)2飲器(ニ)1者也とあり、【奈利比佐古とは、草の蔓《ツル》になりたる杓《ヒサゴ》といふこゝろなり、】外宮儀式帳に、木匏《キノヒサゴ》廿柄|匏《ナリヒサゴ》廿柄とあり、

〇註に、自沫那藝神云々と云は、速秋津日子速秋津比賣二柱(ノ)神の生《ウミ》坐る神|等《タチ》の數を總《スベ》てことわれるなり、

 

次生風神名志那都比古神《ツギニカゼノカミミナハシナツヒコノカミヲウミマス》。【此神名以音】次生木神名久久能智神《ツギニキノカミミナハククノチノカミヲウミマス》。【此神名亦以音】次生山神名大山 上 津見神《ツギニヤマノカミミナハオホツミノカミヲウミマス》。次生野神名鹿屋野比賣神《ツギニヌノカミミナハカヤヌヒメノカミヲウミマス》。亦名謂野椎神《マタノミナハヌヅチノカミトマヲス》。【自志那都比古神至野椎并四神《シナツヒコノカミヨリヌヅチマデアハセテヨバシラ》。】

次生、これより又伊邪那岐(ノ)神伊邪那美(ノ)神の生《ウミ》給(フ)なり、次《ツギニ》とは、水戸(ノ)神の次《ツギニ》なり、生《ウミマス》と云て、久比奢母智(ノ)神の次ならぬことを別《ワカ》てり、

〇風(ノ)神志那都比古(ノ)神、書紀【一書】に伊弉諾(ノ)尊、曰《ノタマヒテ》2我所生之國《アガウメリシクニハ》、唯有朝霧而薫滿之哉《タダサギリノミカヲリミテルカモト》1、乃|吹撥之氣《フキハラハセルミイブキ》化2爲《ナレリ》神《カミト》1、號《ナヲ》曰《イフ》2級長戸邊《シナトベノ》命(ト)1、【亦曰(フ)2級長津彦《シナツヒコノ》命(ト)1、】是(レ)風(ノ)神也とあり、【萬葉二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、神風爾伊吹惑之《カムカゼニイブキマドハシ》とよめり、】纂疏に、級長《シナ》は息長《イキナガ》といはむが如しとあり、其由は師(ノ)説に、此神は、大御神の御息《ミイキ》より成(リ)賜へば、志那都比古とは云なり、萬葉(ノ)歌に志長鳥《シナガドリ》と云は、※〔石+辛+鳥〕※〔虎+鳥〕《ニホドリ》のことにて、息長鳥《オキナガドリ》と云むに同じ、同廿(ノ)卷に、爾保抒里能於吉奈我河波《ニホドリノオキナガガハ》、とつゞけよめるを以(テ)知(ル)べし、【此歌を沖中川と心得たるは、論にたらず、】此鳥水底に入て浮出ては、長く息《イキ》づく故に、然云(ヒ)かけしならむ、息長川は近江(ノ)國坂田(ノ)郡なり、【天武紀に、近江(ノ)軍戰(フ)2息長(ノ)横河(ニ)1と見え、坂田(ノ)郡なることは、諸陵式に見ゆ、仙覺萬葉釋に、息長は坂田(ノ)郡穴(ノ)郷の内にありといへり、和名抄に阿那《アナ》、】彼(ノ)廿(ノ)卷なるは、河内にての歌なるを、そは近江にてよめる古歌を、河内にて宴にうたひしならむ、又河内(ノ)石川(ノ)郡の磯長《シナガ》も、もとおきながの略にてもあらむかとあり、【神名帳にかの坂田(ノ)郡に、日撫《ヒナヅノ》神社|伊夫伎《イブキノ》神社ならびて載《ノレ》り、日撫《ヒナヅ》志那都《シナツ》語ちかし、】さて科戸之風《シナドノカゼ》とは、此神の御名より云て、凡《スベ》ての風のことなり、【西北の風をいふとは、後(ノ)世のことなり、】又師(ノ)説に、龍田(ノ)風(ノ)神祭(ノ)祝詞に、此神は、比古神比賣神ならび坐(ス)ことしるければ、古事記日本紀、たがひに一神|脱《オチ》たるべしと云(ハ)れき、又彼(ノ)龍田に坐(ス)風(ノ)神を、天乃御柱(ノ)命、國乃御柱(ノ)命と謂《マヲ》す、此(ノ)御名の事は、傳七【七のひら】に云べし、

〇木《キノ》神、書紀には木祖《キノオヤ》とあり、

〇久々能智《ククノチノ》神、名(ノ)義、久々《クク》は莖《クク》なり、和名抄木具(ノ)部に、莖、和名|久木《クキ》とあり、【莖は、字書に草木之幹也といへり、】其《ソ》を久々《クク》と云るは、萬葉十四に久君美良《ククミラ》、【莖韮なり】又【同卷】九久多知《ククタチ》【和名抄に、※〔草がんむり/豊〕(ハ)久々太知《ククタチ》、蔓菁(ノ)之苗也、】などなり、【俗に物の速に長《ノバ》る貌《サマ》を、久々登《クツクト》と云も此意なり、】草《クサ》は莖多《ククフサ》なり、【多《オホ》きを布佐《フサ》と云ること、これかれ見えたり、】下に久々年《ククトシノ》神、久々紀若室葛根《ククキワカムロツナネノ》神あり、これらの久々《クク》も同じ、故(レ)思(フ)に、莖《クキ》はもと莖木《ククキ》の縮《ツヅマ》れる名なるべし、智《チ》は男《ヲ》を尊む稱《ナ》にて、前に【阿斯※〔言+可〕備比古遲(ノ)神の處、】云り、大殿祭(ノ)祝詞に、汝屋船命爾《イマシヤフネノミコトニ》、天津奇護言乎以弖《アマツクスシイハヒゴトヲモテ》、言壽鎭白久《コトホギシヅメマヲサク》云々、平氣久安久奉護留神御名乎白久《タヒラケクヤスクマモリマツルカミノミナヲマヲサク》、屋船久々遲命《ヤフネククヂノミコト》、【是(レ)木(ノ)靈《ミタマ》也、】屋船豐宇氣姫命登《ヤフネトヨウケヒメノミコトト》、【是(レ)稻(ノ)靈也、今(ノ)世|産屋《ウブヤニ》、以(テ)2辟木束稻《サキキツカイネヲ》1置(キ)2於戸(ノ)邊(ニ)1、乃以v米(ヲ)散(ラス)2屋中(ニ)1之類也、】御名乎波奉稱利※〔氏/一〕《ミナヲバタタヘマツリテ》云々、【此(ノ)祝詞に如是《カク》申すは、御殿《ミアラカ》造れる材《キ》の靈《ミタマ》の故にはあらずて、彼(ノ)辟木束稻《サキキツカイネ》のことによりて、其(ノ)靈《ミタマ》二神を祭(リ)賜(フ)なるべし、】

〇山(ノ)神大山津見(ノ)神、山津見《ヤマツミ》は綿津見《ワタツミ》の例の如く、山津持《ヤマツモチ》にて、山を持坐《タモチマス》神なりと、師(ノ)説なり、奥《オク》に又|種々《クサグサ》の山津見《ヤマツミ》あるは、分《ワケ》て持(ツ)神、是(レ)は凡て持(ツ)神なる故に、大《オホ》と稱《マヲ》すか、【書紀釋(ニ)曰(ク)、大山祇(ノ)神(ハ)、神名帳(ニ)曰(ク)、伊豆(ノ)國賀茂(ノ)郡伊豆三嶋(ノ)神社、】

〇野神《ヌノカミ》、野を古(ヘ)は怒《ヌ》と云しこと、前に【豐雲野(ノ)神の處】云るが如し、

〇鹿屋野比賣神《カヤヌヒメノカミ》、【今(ノ)本に、鹿(ノ)上に麻(ノ)字あるをば、延佳が削捨《ケヅリステ》たるぞよき、是は中頃あやまりて、鹿鹿と重《カサ》ね書るを、又誤(リ)て一(ツ)を麻に成《ナシ》たるなり、同字を誤て重ぬること例多く、はた鹿を麻に誤れることも、記中書紀などに例あるをや、眞草《マカヤ》と謂《イハ》むも、語はさることながら、下三字訓を用(ヒ)たるに、眞《マノ》一言をのみ假字に書べきに非ず、もし止《ヤム》ことえず然るときは、某(ノ)字以v音(ヲ)と注する例なり、其(ノ)上(ヘ)書紀にも、たゞ草野《カヤヌ》姫とあり、釋に此記を引る所にも、麻(ノ)字なし、又鹿(ノ)字は無《ナ》くて、麻と作《カケ》る一本もあり、】書紀には草祖《クサノオヤ》草野姫《カヤヌヒメ》とあり、加夜《カヤ》は此卷(ノ)末に、以(テ)2鵜羽《ウノハヲ》1爲《ス》2葦草《カヤト》1とありて、訓(テ)2葺草(ヲ)1云(フ)2加夜《カヤト》1、と註せるぞ本義《モトノココロ》にて、何《ナニ》にもあれ、屋《ヤネ》葦《フカ》む料の草《クサ》を云(フ)名なり、萬葉一(ノ)卷に、吾勢子波《ワガセコハ》、借廬作良須《カリイホツクラス》、草無者《カヤナクバ》、小松下乃《コマツガモトノ》、草乎苅核《クサヲカラサネ》、又四(ノ)巻に、板蓋之《イタブキノ》、黒木乃屋根者《クロギノヤネハ》、山近之《ヤマチカシ》、明日取而《アケムヒトリテ》、持將參來《モチテマヰコム》、黒樹取《クロギトリ》、草毛刈乍《カヤモカリツツ》、仕目利《ツカヘメド》、勤和氣登《イソシキワケト》、將譽十方不在《ホメムトモアラズ》、又八(ノ)卷に、波太須珠寸《ハダススキ》、尾花逆葺《ヲバナサカフキ》、黒木用《クロギモテ》、造有家者《ツクレルイヘハ》、迄萬代《ヨロヅヨマデニ》、これらを合(セ)て思(フ)べし、茅《カヤ》と云一種あるも、屋《ヤネ》ふくに主《ムネ》と用る故の名なり、さて野(ノ)神の御名に負《オヒ》給へる故は、野の主《ムネ》とある物は草《クサ》にて、草《クサ》の用は、屋《ヤネ》葺《フク》ぞ主《ムネ》なりける、故(レ)草(ノ)字をやがて加夜《カヤ》とも訓り、上(ツ)代は、大御殿《オホミアラカ》を始(メ)て、凡て草《クサ》以《モチ》葺《フキ》つればなり、

○野椎《ヌヅチノ》神は、野津持《ヌツモチノ》神なり、と師は謂れき、【母智の母を省るなり、】書紀天之石屋戸(ノ)段の一書に、又《マタ》使《シム》3山雷者《ヤマヅチトイフカミヲシテ》云々《シカシカ》、野槌者《ヌヅチトイフカミヲシテ》、採《トラ》2五百箇野薦八十玉籤《イホツヌスズノヤソタマグシヲ》1、また神武(ノ)御卷に、高御産巣日《タカミムスビノ》命を顯齋《ウツシイハヒ》して祭り賜(フ)所に、火《ヒヲ》名2爲《ナヅケ》嚴香具雷《イヅカグツチト》1、水《ミヅヲ》名2爲《ナヅケ》嚴罔象女《イヅミツハノメト》1、粮《ヲシモノヲ》名2爲《ナヅケ》嚴稻魂《イヅウカノメト》1、薪《タキギヲ》名2爲《ナヅケ》嚴山雷《イヅヤマヅチト》1、草《クサヲ》名2爲《ナヅケキ》嚴野椎《イヅヌヅチト》1とあるは、皆二柱(ノ)大神の生《ウミ》坐る神の名なれば、山雷《ヤマヅチ》も山津見《ヤマツミ》に當れり、是《コ》を以(テ)見れば、まことに都美《ツミ》と都知《ツチ》と同意にて、知《チ》は持なるべし、又|按《オモフ》に、かの海《ワタ》つ持《モチ》山《ヤマ》つ持《モチ》は、母知《モチ》を切《ツヅメ》て美《ミ》と云るに、其《ソ》を知《チ》と云(フ)も例違ひ、且《ハタ》狹土《サヅチ》迦具士《カグツチ》御雷《ミカヅチ》足名椎《アシナヅチ》手名椎《テナヅチ》雷《イカヅチ》などの豆知《ヅチ》、みな持《モチ》てふ意とも聞えず、此等《コレラ》の例を歴《アマネ》く思ひわたすに、豆知《ヅチ》の豆《ヅ》は例の助辭にて、知《チ》は久々能智《ククノチ》などの智《チ》と同くて、尊む名《ナ》にもあるべし、山雷《ヤマヅチ》野椎《ヌヅチ》は、山之智《ヤマノチ》野之智《ヌノチ》と云むが如し、
〇註に、并四神《アハセテヨバシラ》とは、此(ノ)前後の神|等《タチ》と一連《ヒトツヅキ》ならず、此《コ》は伊那那岐伊邪那美(ノ)大神の生《ウミ》坐る神なるを、他神等《コトカミタチ》の中間《アヒダ》に擧《アゲ》たる故に、取(リ)分(ケ)て結《ムス》べるなり、上の速秋津比賣の下に、并十神《アハセテトバシラ》といへるも是に同じ、椎の下に神(ノ)字|脱《オチ》たるか、【何《イヅ》れの本にも無《ナ》し、】

 

此大山津見神野椎神二神《コノオホヤマツミノカミヌヅチノカミフタバシラ》。因山野持別而《ヤマヌニヨリテモチワケテ》。生神名天之狹土神《ウミマセルカミノミナハアメノサヅチノカミ》。【訓土云豆知下效此】次國之狹土神《ツギニクニノサヅチノカミ》。次天之狹霧神《ツギニアメノサギリノカミ》。攻國之狹霧神《ツギニクニノサギリノカミ》。次天之闇戸神《ツギニアメノクラドノカミ》。次國之闇戸神《ツギニクニノクラドノカミ》。次大戸惑子神《ツギニオホトマトヒコノカミ》。【訓惑云麻刀比下效此】次大戸惑女神《ツギニオホトマトヒメノカミ》。【

自天之狹土神至大戸惑女神并八神《アメノサヅチノカミヨリオホトマトヒメノカミマデアハセテヤバシラ》。

野椎(ノ)神、凡て上に某所亦名《ソノカミマタノナハ》謂《イフ》2某神《ナニノカミト》1と有(リ)て、下に其(ノ)神の事を云(フ)ときは、其(ノ)亦(ノ)名の方を擧《アグ》る、此記の例なり、

〇二神は布多婆斯羅《フタバシラ》と訓べし、【前の二神は、上に神《カミ》と云(ハ)ざる故に、布多婆斯羅能迦微《フタバシラノカミ》と訓つるを、此《コ》は上に神とあれば、然《サ》は訓《ヨマ》ず、語の勢おのづから然り、】

〇山野は【常には怒夜麻《ヌヤマ》とよむ例なれど、此《ココ》は】夜麻怒《ヤマヌ》と訓べし、【上(ノ)河海《カハウミ》の例の如し、】

〇天之狹土《アメノサヅチノ》神、國之狹土《クニノサヅチノ》神、名(ノ)義、狹《サ》は志那《シナ》の切《ツヅマ》りたる言にて、その志那《シナ》は級《シナ》にて、坂路《サカヂ》のことなり、【其由は、師の冠辭考しなてる、又しなざかるの條に委(シ)、】其《ソ》を佐《サ》とのみ云る例は、明(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、丸邇坂《ワニサカ》を和邇佐《ワニサ》とあり、坂《サカ》と云も、加《カ》は處《トコロ》の意にて、【ありかすみかなどのかもこれなり、】級處《シナカ》なり、豆《ヅ》は例の助辭、知《チ》は尊稱《タフトミナ》にて、山豆知《ヤマヅチ》野豆知《ヌヅチ》の如く、坂豆知《サカヅチ》なり、さて書紀には、天地の始の處に、國常立《クニノトコタチノ》尊の次に、國狹槌《クニノサヅチノ》尊【一書には國狹立《クニノサダチノ》尊、】とあり、此《コ》は例の甚《イト》異《コト》なる傳(ヘ)なり、

〇註に、訓(テ)v土(ヲ)云2豆知(ト)1、こは前にも出たる字にて、訓も同じきを、此《ココ》にかく注せるは、豆《ヅ》を濁るべきためなり、【此神(ノ)名の土《ヅチ》をば、世に誤(リ)て清て唱ることある故なるべし、】

〇天之狹霧《アメノサギリノ》神、國之狹霧《クニノサギリノ》神、名(ノ)義、狹《サ》は狹土の狹《サ》と同じく伎理《ギリ》は限《カギリ》の意にて、佐疑理《サギリ》は境《サカヒ》と同じ、【境は坂合《サカアヒ》にて、此方《コナタ》と彼方《カナタ》とより登る坂の合《ア》ふ所なれば、即(チ)坂の限りなり、】下にも同名(ノ)神見えたり、傳十一【七十五葉】に出(ヅ)、【舊事紀に、天地の始に、先(ヅ)成坐る神を、天讓日天狹霧國讓月國狹霧《アメユヅルヒアメノサギリクニユヅルツキクニノサギリノ》尊とあり、此《コ》は後(ノ)人の作りたる名と聞ゆ、】

〇天之闇戸《アメノクラドノ》神、國之闇戸《クニノクラドノ》神、名(ノ)義、戸《ド》は處《トコロ》、闇《クラ》は谷《タニ》のことなり、其(ノ)由は下の闇淤加美《クラオカミ》の下《トコロ》に委(ク)云べし、式近江(ノ)國栗太(ノ)郡|佐久奈度《サクナドノ》神(ノ)社あり、久良斗《クラド》と久奈度《クナド》と通《カヨ》へり、【神皇實録と云物に、書紀の國狹槌(ノ)尊より次々五代を、漢人《カラビト》の論《サダ》すめる五行と云物にあてて、水藏戸《ミヅクラド》火藏戸《ヒクラド》木藏戸《キクラド》などと云り、是《コレ》らは凡て云に足《タラ》ぬ書なれど、藏戸《クラド》てふことは、古(キ)書にありしを取れるにもやあらむ、】さて上(ノ)件|水分《ミクマリノ》神より次々《ツギツギ》皆、天之《アメノ》國之《クニノ》と云(フ)は、たゞ二柱|並《ナラビ》坐(ス)神の名を、對《ムカヘ》て稱《タタヘ》たるまでにて、天と國とに殊《コト》なる意はあるべからず、

〇大戸惑子《オホトマトヒコノ》神、大戸惑女《オホトマトヒメノ》神、名(ノ)義、戸麻刀《トマト》は刀袁麻理處《トヲマリド》にて、山の多和美《タワミ》て低《ヒキ》き處を云(フ)、玉垣(ノ)宮(ノ)段に、山多和《ヤマノタワ》とある是なり、さて多和《タワ》と刀袁《トヲ》と通ふことは、萬葉などに、枝《エダ》のたわむを、刀袁余流《トヲヨル》とも云(ヒ)、多和々《タワワ》とも等乎々《トヲヲ》とも云るにて知べし、さて刀袁《トヲ》を切《ツヅメ》て刀《ト》と云(ヒ)、【例は十《トヲ》を十年《トトセ》十握《トツカ》など云が如し、】麻理《マリ》の理《リ》を略《ハブ》けり、【らりるれと活《ハタラ》く理《リ》を略く例は、詔《ノリ》たまふをのたまふと云たぐひ常多し、】麻理《マリ》は美《ミ》と云に同じ、【極《キハ》みきはまり、恐《カシコ》みかしこまり、屈《カガ》みかゞまり同きが如し、】又萬葉に山の常陰《トカゲ》と云るも、刀袁陰《トヲカゲ》にて、山のたわみ低《ヒキ》き所の陰《カグ》をいふ、なほ下の戸山津見《トヤマツミ》の下をも見合(ハ)すべし、さて比古《ヒコ》比賣《ヒメ》は例の稱なるを、惑子《マドヒコ》惑女《マドヒメ》としも書るは、たま/\語のより來《キ》たるまゝの借字のみなり、【惑《マドヒ》の比《ヒ》を、古(ヘ)は正《タダ》しく比《ヒ》と呼《トナヘ》しなり、故(レ)比古比賣にも此(ノ)字を借(リ)て書るなり、然るを此類の比布《ヒフ》を、伊宇《イウ》の如く呼《トナ》ふるは、後(ノ)世の音便にて、正しからず、】書紀に、大戸之道《オホトノヂノ》尊|大苫邊《オホトマベノ》尊、亦曰|大戸摩彦《オホトマビコノ》尊|大戸摩姫《オホトマビメノ》尊とあるも、此《ココ》と同(ジ)神の、いと異なる傳(ヘ)なり、式に阿波(ノ)國名方(ノ)郡(ニ)意富門麻比賣《オホトマヒメノ》神(ノ)社あり、【三代實録二に、天(ノ)香山大麻等野知(ノ)神と云も見ゆ、】

〇右八柱の名(ノ)義、因(テ)2山野(ニ)1持別(テ)而生(マス)、とあるに就《ツキ》て考(ヘ)知べきなり、【上の因(テ)2河海(ニ)1持別(テ)而生ませる神たちの名の、皆水によれると思(ヒ)合すべし、】又下の八柱の山津見の名合せ見べし、【又思ふに、狹土狹霧の狹は、多く詞(ノ)上に加(フ)る辭、土《ツチ》も霧《キリ》も闇《クラ》も惑《マドヒ》も、皆字の意にて、土より霧の發《タチ》、その霧によりて闇《くら》く、闇きによりて惑《マド》ふと云意に名づけしか、戸は所なり、俗にどにまよふと云はこれなり、此考(ヘ)やすらかに聞ゆめれど、然《サ》る意もて神(ノ)名に負せ奉むこといかゞ、もしさもあらば、必風(ノ)神より前にあるべきことなり、又思ふに、狹土は、佐豆《サヅ》は、海佐知毘古《ウミサチビコ》山佐知毘古《ヤマサチビコ》の佐知に同じ、そを佐豆《サヅ》とも云(フ)由は、彼所《カシコ》に委く云を見よ、知は例の尊稱にて、野山の佐知によれる名か、闇戸は座戸《クラド》、戸惑は門眞門《トマド》か、されどさては名の意おの/\はなれて、一(ツ)たぐひにあらず、必さはあるまじき物ぞ、〇凡て古語は、意はいとやすらかにて、こともなき物から、千歳の後の世に其《ソ》を解《トク》ことは、いとかたきわざになむ有ける、其故は、よろづの詞は、その體《サマ》も意も、世々に移轉《ウツリウツリ》て、いたく變《カハ》りきぬることなるに、然《サ》る流《ナガレ》の末《スエ》より、遙《ハルカ》なる源をうかゞふわざなれば、その間《アヒダ》いく瀬のよどかへだたりぬらむを、奈何《イカデ》か容易《タヤスク》は心得らるべき、彼(ノ)狹土《サヅチ》の狹《サ》を、坂ぞと云が如きも、坂《サカ》てふ言にのみ耳なれつる、流(レ)の末の人(ノ)心には、いとも物遠《モノドホ》くて、信《ウケ》られぬことに思(フ)めり、こは古學《フルコトマナビ》をよくして、川の八十隈を經《ヘ》のぼりて、源に至り見む時ぞ、然《サル》こととは覺《サトリ》ぬべき、然あるものを、代々の物知(リ)人の、書紀の神(ノ)名などを説《トキ》たるは、後の世の心詞を以て、直《タダ》に當《アテ》たる故に、こともなく、今(ノ)人の耳には、やすらかに聞ゆめれど、源にのぼりて見れば、皆|非《アラヌ》ことにて、中々に物遠《モノドホ》くなむ、】

 

次生神名鳥之石楠船神《ツギニウミマセルカミノミナハトリノイハクスブネ》。

亦名謂天鳥船《マタノミナハアメノトリブネトマヲス》。次生大宜都比賣神《ツギニオホゲツヒメノカミヲウミマシ》。【此神名以音】次生火之夜藝速男神《ツギニヒノヤギハヤヲノカミ》。【夜藝二字以音】亦名謂火之炫毘古神《マタノミナハヒノカガビコノカミトマヲシ》。亦名謂火之迦具士神《マタノミナハヒノカグヅチノカミトマヲス》。【迦具二字以音】因生此子美蕃登《コノミコヲウミマスニヨリミホト》【此三字以音】見炙而病臥在《ヤカエテヤミコヤセリ》。多具理邇《タグリニ》【此四字以音】生神名金山毘古神《ナリマセルカミノミナハカナヤマビコノカミ》。【訓金云迦那下效此】次金山毘賣神《ツギニカナヤマビメノカミ》。次於屎成神名波邇夜須毘古神《ツギニクソニナリマセルカミノミナハハニヤスビコノ》。【此神名以音】次波邇夜須毘賣神《ツギニハニヤスビメノカミ》。【此神名亦以音】次於尿成神名彌都波能賣神《ツギニユマリニナリマセルカミノミナハミツハノメノカミ》。次和久産巣日神《ツギニワクムスビノカミ》。此神之子謂豐宇氣毘賣神《コノカミノミコヲトヨウケビメノカミトマヲス》。【自字以下四字以音】故伊邪那美神者《カレイザナミノカミハ》。因生火神《ヒノカミヲウミマセルニヨリテ》。遂神避坐也《ツヒニカムサリマシヌ》。【自天鳥船至豐宇氣毘賣神并八神《アメノトリブネヨリトヨウケビメノカミマデアハセテヤバシラ》。】

 凡伊邪那岐伊邪那美二神共所生嶋壹拾肆嶋《スベテイザナギイザナミフタバシラノカミトモニウミマセルシマトヲマリヨシマ》。神參拾伍神《カミミソヂマリイツバシラ》。【是伊邪那美神未神避以前所生《コハイザナミノカミイマダカムサリマサザリシサキニウミマシツ》。唯意能碁呂嶋者非所生《タダオノゴロシマノミハウミマセルナラズ》。亦蛭子與淡嶋不入子之例《マタヒルゴトアハシマトモミコノカズニイラズ》。】

次生《ツギニウミマセル》、こは野椎(ノ)神の次にて、是より又伊邪那岐伊邪那美(ノ)神の生《ウミ》坐るなり、

〇鳥之石楠船《トリノイハクスブネノ》神、鳥とは行《ユク》ことの疾《ハヤ》きをかたどりて云と、口決には云(ヒ)、師は、水鳥の浮るさまによそへて云(フ)と云(ハ)れき、此《コ》は何《イヅレ》かよけむ、書紀に天鳩船《アメノハトブネ》と云あり、又|其《ソコ》の釋に播磨(ノ)國(ノ)風土記を引て云るは、仁徳天皇の御世に、いと大(キ)なる楠ありしを、伐《キリ》て船に造りしに、其船|飛《トブ》が如《ゴト》迅《トカリ》し故に、速鳥《ハヤトリ》と號《ナヅケ》つとあり、是《コレ》らに依(ラ)ば、口決の意なるべし、又萬葉十六【二十五丁】に、奥鳥鴨云船之《オキツトリカモチフフネノ》と【から書にも鳧舟といふあり、】あるを思へば、師(ノ)説も捨がたし、石楠《イハクス》とは書紀に、素戔嗚《スサノヲノ》尊、曰《ノタマヒテ》d韓國之嶋《カラクニノシマハ》是|有《アリ》2金銀《コガネシロカネ》1、若使吾兒所御之國《モシアガミコノシラサムクニニ》、不《ズハ》v有《アラ》2浮寶《ウクダカラ》1者|未《ジト》c是佳《ヨカラ》u也、乃《ヤガテ》拔《ヌキテ》2鬚髯《ミヒゲヲ》1散之《チラシタマヘバ》、即|成《ナリキ》v杉《スギニ》云々、眉毛《マユノケハ》是|成《ナリキ》2※〔木+豫〕樟《クスニ》1、已而《カクシテ》定《サダメマシテ》2其等用《ソヲツカハムサマヲ》1、乃|稱之曰《コトアゲシタマハク》、杉《スギト》及《ト》2※〔木+豫〕樟《クス》1此兩樹者《フタツノキハ》、可以爲浮寶《ウクダカラニツクレ》云々とあり、【浮寶とは船を云るなり、】さて此(ノ)木はいと堅《カタ》くて、磐《イハ》にもなる物なれば、石楠《イハクス》とは云るなり、

〇天鳥(ノ)船、名(ノ)意上の鳥に同じ、さて書紀に、蛭兒《ヒルゴ》を天磐※〔木+豫〕樟船《アメノイハクスブネ》に載《ノセ》て流《ナガシ》やるとも、又|鳥磐※〔木+豫〕樟船《トリノイハクスブネ》を生《ウミ》て、其《ソレ》に載《ノセ》てとも、又|別段《コトクダリ》に、高橋《タカバシ》浮橋《ウキハシ》、及天鳥船亦將供造《マタアメノトリブネモツクリソナヘム》、などもあり、はた此《ココ》の亦(ノ)名にも、神と云(ハ)ぬなどを以見れば、是《コ》は直《タダ》に船を指《サシ》て神と申(ス)歟、されど次(ニ)生(マセル)神(ノ)名と云(ヒ)、下に天鳥船《アメノトリブネノ》神(ヲ)副《ソヘテ》2建御雷《タケミカヅチノ》神(ニ)1而|遣《ヤル》、ともあるを思へば、正《マサ》しき神とも聞ゆ、【行(キ)過たるおしはかり言は、取(ル)にたらず、】

〇大宜都比賣《オホゲツヒメノ》神、宜《ゲ》は食《ケ》、【大食《オホゲ》と連《ツヅ》きて濁る故に、濁音の宜《ゲノ》假字を用《カケ》り、是をキと訓(ム)は非なり、】都《ツ》は例の助辭なり、さて此(ノ)食《ケ》を、放《ハナチ》ては宇氣《ウケ》と云(フ)、下なる豐宇氣毘賣《トヨウケビメノ》神、書紀の保食《ウケモチノ》神など是なり、此《ココ》は大食《オホケ》と連《ツヅ》く故に、宇《ウ》を省《ハブキ》て云(フ)、【凡て上に言を置て、連言《ツヅケイフ》とき宇《ウ》を省く例、古言にいと多し、食《ウケ》も、大食《オホケ》御食《ミケ》など云ときこそ氣《ケ》とは云(ヘ)、さらで只《タダ》には、必|宇氣《ウケ》宇迦《ウカ》といふぞ、】又|宇氣《ウケ》を轉《ウツシ》て宇迦《ウカ》とも云、【こは風《カゼ》を加邪《カザ》稻《イネ》を伊那《イナ》酒《サケ》を佐加《サカ》と云と同く、第四(ノ)音の第一(ノ)音に轉る格なり、】下なる宇迦之御魂《ウカノミタマノ》神、書紀神武(ノ)卷の稻魂女《ウカノメ》など是なり、如是《カカ》れば氣《ケ》宇氣《ウケ》宇迦《ウカ》みな同(ジ)言にて、右の神等《カミタチ》の御名、いづれも此(ノ)食の意なり、【御膳《ミケ》御饌《ミケ》などとも書て、凡て食物《ヲシモノ》のことなり、書紀に倉稻《ウカ》など書れたるは、意を得てのことぞ、】さて御食津神《ミケツカミ》【津《ツ》の下に之《ノ》を添《ソヘ》て唱(フ)るは、ひがことなり、凡て某津《ナニツ》と云語に、然《サル》例なきを思へ、】と云は、正《マサ》しく此《ココ》と同(ジ)名なり、凡て大御《オホミ》とも大《オホ》とも御《ミ》とも云(フ)、みな同(ジ)意なり、神祇官に坐(ス)、御巫の祭《イツク》神八座の中の御食津神《ミケツカミ》を、祈年《トシゴヒノ》祭(ノ)祝詞には、大御膳都神《オホミケツカミ》と云り、又文徳實録二に、河内(ノ)國恩智大御食津彦(ノ)命(ノ)神、恩智大御食津姫(ノ)命(ノ)神、【こは帳に、高安(ノ)郡恩智(ノ)神(ノ)社二座とあるこれなり、】さて上に粟《アハノ》國の亦(ノ)名も、此《ココ》と同(ジ)意以(テ)稱《タタヘ》しなり、一(ツ)神には非ず、又下に須佐之男《スサノヲノ》命の食物《ヲシモノ》を乞《コハシ》しは、【傳九(ノ)八葉】此《ココ》なると一(ツ)神なるべし、【彼《ソ》を書紀に保食《ウケモチノ》神とあるは、彼《カレ》と一(ツ)神にて、御名の傳(ヘ)の少し異なるなり、されど名(ノ)義は同きこと、右に云が如し、】

〇火之夜藝速男《ヒノヤギハヤヲノ》神、夜(ノ)字は迦《カ》の誤(リ)ならむか、亦(ノ)名の炫《カガ》迦具《カグ》などと、同じ類なるべければなり、迦藝《カギ》のことは次に云べし、又|夜藝《ヤギ》ならば、燒《ヤキ》の意なるべし、【濁音の藝《ギ》を書る由は、下の速《ハヤ》の波《ハ》を濁るべきを、其(ノ)濁(リ)を上へ轉《ウツ》せる、上(ツ)代の音便にて、上なる豐久士比泥別《トヨクジヒネワケ》の處に委く云るが如し、考(ヘ)合すべし、然るを師は、濁音を書るは燒《ヤキ》には非ず、かゞやぎのやぎなり、と云れつれど、かゞやぎならむには、かゞとこそ云べけれ、かゞを略て、やぎとのみは云べきに非ず、又かゞやきのキも、濁らむこといかゞ、又ヤケと訓るは、古(ヘ)の假字づかひを知(ラ)ぬなり、又舊事紀に火(ノ)燒速男とかけるは、既に假字の清濁みだれつる世の人の作れる書なれば、藝を清音に讀て、みだりに燒《ヤキ》とせるなれば、據とするにたらず、】速《ハヤ》は例の稱名《タタヘナ》なり、

〇火之炫毘古《ヒノカガビコノ》神、炫は迦賀《カガ》と訓べし、靈異記に、炫を加々也計利《カガヤケリ》と訓り、字書にも耀光也とも、火光也とも、明也とも注せり、【然るを舊事紀に、火々稱彦《ホホヤケビコ》とあるに依て、延佳が、稱(ノ)字に改めつるは非なり、舊事紀は信《タノミ》がたし、此記諸(ノ)本みな炫と作《ア》り、又師は炫を用ひて、本能※〔氏/一〕理《ホノテリ》と訓れき、此(レ)もいかゞ、】

〇火之迦具士《ヒノカグヅチノ》神、迦具《カグ》は赫《カガヤク》と云意、其《ソ》は迦賀《カガ》とも迦藝《カギ》とも迦具《カグ》とも迦宜《カゲ》とも活《ウゴキ》て、同(ジ)言なり、迦藝《カギ》と云る例は若櫻(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、火《ヒ》を加藝漏肥《カギロヒ》とよみ給へる【萬葉にも、香切火《カギロヒ》のもゆる荒野とあり、】是なり、迦宜《カゲ》は影《カゲ》と云是なり、さて土《ツチ》は、都《ツ》は例の助辭、知は例の尊稱なり、【此例上に委く云り、】さて右の三(ノ)名の火之は、みな肥能《ヒノ》と訓べき例なり、【本能《ホノ》と訓(ム)は誤(リ)なり、凡て火《ヒ》を本《ホ》と云は、木《キ》を許《コ》と云と同(ジ)格にて、木末《コヌレ》木陰《コカゲ》木立《コダチ》などの如く、下に言を聯《ツラ》ぬるとき、火影《ホカゲ》火中《ホナカ》火瓮《ホベ》火處《ホドコロ》など云、中《ナカ》に之《ノ》を夾《ハサミ》ても、木葉《コノハ》木本《コノモト》木芽《コノメ》などの如く、焔《ホノホ》火氣《ホノケ》など云(フ)、しかるに此《ココ》は、其類に非ず、火之《ヒノ》と姑《シバラク》切《キ》るゝが如くにて、下の言へ直《タダ》に聯《ツラ》なるに非《アラ》ねば、本《ホ》と訓(ム)例には非ず、右の格の外に、たゞ火《ヒ》とのみあるをも、本《ホ》とよむは誤なり、又|某火《ナニビ》と下に附《ツク》ときも、肥《ヒ》と訓(ム)例にて、本《ホ》と訓(ム)は誤なり、此(レ)等《ラ》も木《キ》と同格ぞ、是(レ)等《ラ》の格《サダマリ》を知(ラ)ずて、妄《ミダリ》に本《ホ》と云を古言ぞと、世人の思へる故に、委く辨《ワキマヘ》おくなり、】さて此神を、書紀(ノ)一書に火産靈《ホムスビ》ともあり、【鎭火(ノ)祭(ノ)祝詞にも此(ノ)名を云り、これを本能牟須備《ホノムスビ》と訓(ム)もひがことなり、本牟須備《ホムスビ》と訓べし、凡て某産靈《ナニムスビ》と云例、みな之《ノ》てふ辭なきを思ひわたして知(ル)べく、はた古書|何《イヅ》れにも、之(ノ)字を添《ソヘ》ず、唯舊事紀に、火之産靈とかけるは、古語をしらずして、俗訓《サトビヨミ》のまゝに書るひがことなり、】神名帳に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|香都知《カグヅチノ》神(ノ)社、伊豆(ノ)國田方(ノ)郡|火牟須比《ホムスビノ》命(ノ)神(ノ)社あり、又丹波(ノ)國桑田(ノ)郡|阿多古《アタゴノ》神(ノ)社【即京(ノ)西の愛宕《アタゴ》なり、】も、此神を祭(ル)となり、【阿多古《アタゴ》とは、御祖《ミオヤ》を燒《ヤキ》たまひし故に、仇子《アタゴ》と云意にや、】

〇美蕃登《ミホト》は御陰《ミホト》なり、下に訓(テ)2陰上(ヲ)1云(フ)2富登《ホトト》1とあり、【登は清音なり、濁るはわろし、】名(ノ)義は、師(ノ)云(ク)、含處《フホト》なり、萬葉に、保々萬留《ホホマル》とも布保隱《フホゴモリ》とも云る同じ、頬《ホホ》も物を含《フフ》む故の名なりとあり、さて記中の例を考るに、富登《ホト》とは皆女に云れば、男(ノ)陰にはわたらぬ名にやあらむ、書紀武烈(ノ)卷に不淨《ホトドコロ》とあるも、女に云り、但し下に、此(ノ)迦具士(ノ)神に陰とあるも、然《シカ》訓《ヨム》べければ、男にもわたるか、さだかならず、和名抄には、陰(ハ)玉莖玉門等(ノ)之通稱也と有て、和名は載《ノセ》ず、中卷に畝火山之美富登《ウネビヤマノミホト》と、山にも云り、【小腹《ホガミ》は富登上《ホトガミ》の意か、】

〇見炙は、夜加延《ヤカエ》と訓(ム)ぞ古言なる、凡て被《レ》v炙《ヤカ》被《ル》v炙《ヤカ》などの類の禮《レ》と流《ル》とは、古(ヘ)は延《エ》と云(ヒ)由《ユ》と云り、書紀齊明天皇(ノ)大御歌に、倭須羅〓麻自珥《ワスラユマジニ》、【忘《ワス》らるまじになり、】萬葉一【二十六丁】に家之所偲由《イヘシシヌバユ》、五【十丁】に、可久由既婆《カクユケバ》、比登爾伊等波延《ヒトニイトハエ》、可久由既婆《カクユケバ》、比登爾邇久麻延《ヒトニニクマエ》、【厭《イトハ》れ惡《ニクマ》れなり、】又【三十八丁】禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》、七【三十三丁】に衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》、十五【二十丁】に伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》など、この餘《ホカ》も多し、

〇病臥在は夜美許夜世理《ヤミコヤセリ》と訓べし、臥《フス》を許夜須《コヤス》と云は古言なり、書紀聖徳(ノ)太子命《ミコノミコト》の御歌に、伊比爾惠※〔氏/一〕許夜勢屡《イヒニヱテコヤセル》、萬葉三【四十三丁】同(ジ)命(ノ)御歌に、客爾臥有此旅人《タビニコヤセルコノタビト》、【これを布志多留《フシタル》と訓るは非なり、】五【九丁】に許夜斯怒禮《コヤシヌレ》、などなほ多し、記中に許夜流《コヤル》ともあり、又書紀【十四の三丁】に反側《コイマロブ》、萬葉【五の二十八丁】に宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》、などある許伊《コイ》も、同言の活《ウゴ》けるなり、【やいゆえよの通ひなり、】さて此《ココ》に、在(ノ)字を下に添(ヘ)たるは、右の萬葉に有(ノ)字あると同くて、世理《セリ》てふ辭にあてて書るなり、【此格萬葉に多し、】

〇多具理邇《タグリニ》は、書紀に爲《ス》v吐《タグリ》と書り、言の意は、髪を揚《アグ》るを、萬葉【二の十六丁】に多氣婆奴禮《タゲバヌレ》、多香根者長寸妹之髪《タガネバナガキイモガカミ》云々、又【九の三十五丁】小放爾髪多久麻庭爾《ヲバナリニカミタグマデニ》などよみ、又【十四の十九丁】古麻波多具等毛《コマハタグトモ》、又【十九の十一丁】馬太伎由吉※〔氏/一〕《ウマダキユキテ》、【手綱《タヅナ》してひき上《アグ》る意と聞ゆ、】などよめると同じきか、繩などをたぐると云も、掻上《カキアグ》る意ありて同じ、※〔口+歳〕噎《サクリ》の久理《クリ》も此(ノ)久理《クリ》と同じ、【俗に歐氣を世具理《セグリ》と云ひ、兒のよだりをも久留《クル》と云、又|咳《セキ》をせくと云ことを、播磨(ノ)國のあたりにては、せきをたぐると云となり、】和名抄には、歐吐【倍止都久《ヘドツク》、又|太萬比《タマヒ》、】※〔口+見〕吐【豆太美《ツダミ》、】とあり、【豆太美《ツダミ》は乳吐《チダマヒ》なり、】

〇生神は、次の屎尿に成神とある例に依て、此(ノ)生をも那理麻世流《ナリマセル》と訓べし、

〇金山毘古《カナヤマビコノ》神、金山毘賣《カナヤマビメノ》神、名(ノ)義は枯惱《カレナヤマ》しなり、【腦《ナヤム》は痿病《ナエヤム》なり、】書紀に悶熱懊腦因爲吐《アツカヒナヤマシテタグリス》、とある意なり、枯《カレ》と云故は、中卷(ノ)末に、其兄八年之間(ニ)干萎病枯《ヒシナビヤミカレキ》、とある意なり、【哀憔悴《カナシカジケ》の加《カ》、憊《ツカルル》の加留々《カルル》など、みな枯《カレ》なり、】式に、河内(ノ)國大縣(ノ)郡|金山孫《カナヤマビコノ》神(ノ)社、金山孫女《カナヤマビメノ》神(ノ)社、美濃(ノ)國不破(ノ)郡|仲山金山彦《ナカヤマカナヤマビコノ》神(ノ)社、【今南宮と申(ス)は此《コレ》なり、文徳實録二(ノ)卷に、越前(ノ)國金山彦(ノ)神とあるは、此《コレ》か別か、】

〇屎《クソ》、和名抄に、糞(ハ)屎也、和名|久曾《クソ》、

〇波邇夜須毘古《ハニヤスビコノ》神、波邇夜須毘賣《ハニヤスビメノ》神、名義は埴黏《ハニネヤス》なり、字鏡に、※〔手偏+延〕(ハ)謂(フ)v作(ルヲ)2泥物(ヲ)1也|禰也須《ネヤス》とあり、【からぶみ尚書(ノ)禹貢に、厥(ノ)土(ハ)赤(シテ)埴墳とある埴を、古(キ)訓に禰延《ネエ》とあり、史記も同じ、説文に埴(ハ)黏土也とあり、禰夜須《ネヤス》は令《シムル》v黏《ネエ》なり、令《シムル》v肥《コエ》を許夜須《コヤス》といふと同格なり、】書紀神武(ノ)卷【戊午(ノ)年】に、宜取天香山社中土以造天平瓮八十枚《アメノカグヤマノヤシロノチノハニヲトリテアメノヒラカヤソキヲツクレ》云々、又【己未(ノ)年】前年秋九月《イニシトシノナガヅキニ》、潜《ヒソカニ》取(テ)2天香山之埴土《アメノカグヤマノハニヲ》1、以|造《ツクリ》2八十平瓮《ヤソヒラカヲ》1、躬自齋戒祭《ミミヅカラユマハリテマツリタマヒテ》2諸神《カミタチヲ》1、遂得《ツヒニ》安2定《シヅメタマヘル》區宇《アメノシタヲ》1故《ユヱニ》、號《ナヅク》2取《トレル》v土《ハニヲ》之|處《トコロヲ》曰|埴安《ハニヤスト》1、【安《ヤス》を上の安定の文へ當《アテ》て見るは、古(ヘ)の意にあらず、是も黏《ネヤス》といふ意なり、】是にて心得べし、さて如此《カク》御名を負せたるは、屎《クソ》の形状《アリサマ》の、埴《ハニ》を泥夜志《ネヤシ》たるに似たればなり、式に大和(ノ)國十市(ノ)郡|畝尾坐健土安《ウネヲニマスタケハニヤスノ》神(ノ)社、【畝尾は香山《カグヤマ》の畝尾《ウネヲ》にて、地(ノ)名となれり、さて比(ノ)神(ノ)社(ノ)號に依れば、此《ココ》の神(ノ)名は、此(ノ)香山なる地名《トコロノナ》より出たるに似たれど、然《サ》には非じ、凡て此(ノ)前後《アタリ》の神に、地(ノ)名を取て名《ナヅケ》たる例なし、彼(ノ)地名は、返りて此(ノ)土安《ハニヤスノ》神の鎭坐《シヅマリマス》より出けむを、右の書紀の説は、異一傳《コトナルヒトツノツタヘ》にも有(ル)べし、凡て地名の由縁は、異説ある例多し、式に畝尾坐《ウネヲニマス》とあるを以ても、土安《ハニヤス》は地名に非ず、もと神(ノ)名なることを知(ル)べし、】さて此(ノ)神書紀には、土《ツチノ》神|埴山姫《ハニヤマビメ》とありて、唯一書に埴安《ハニヤスノ》神とあり、鎭火祭(ノ)祝詞にも埴山姫《ハニヤマビメ》とあり、屎のさま山にも似たる故に、然《サ》も云るにや、【又思ふに、上にある金山《カナヤマ》に准へていはば、埴山《ハニヤマ》は麻理病《マリヤマヒ》と云意か、波《ハ》と麻《マ》と通ふ、尿《ユマリ》をゆばりとも云が如し、理《リ》と爾《ニ》と通ふ、山城の苅羽井《カリバヰ》を、樺井《カニバヰ》と式にはあり、さて麻理は屎の出るを云、下に見えたり、此(レ)を用るときは、波邇夜須も其意にて、夜須は病なり、齋宮式(ノ)忌詞に病(ヲ)稱《イフ》2夜須美《ヤスミト》1、】式に、阿波(ノ)國美馬(ノ)郡|彌都波能賣《ミツハノメノ》神社、波爾移麻比彌《ハニヤマヒミノ》神社あり、【本|彌《ミ》を禰《ネ》と誤(ル)、】又中(ツ)卷堺原(ノ)宮(ノ)段に、此二神と同名の男女あり、其《ソ》は彼(ノ)地名よりぞ出(デ)つらむ、

〇上件|迦具士《カグヅチ》金山《カナヤマ》波邇夜須《ハニヤス》と云名、皆天(ノ)香《カグ》山に由縁《ヨシ》あり、先(ヅ)彼(ノ)山の名|迦具士《カグヅチ》と同く、又此(ノ)神の所殺《コロサレ》坐る身體《ミミ》に、諸の山津見《ヤマツミノ》神の成坐るも、山に由あり、又石屋戸(ノ)段に、取2天(ノ)金山(ノ)之鐵(ヲ)1とあるを、書紀には天(ノ)香山とあれば、香《カグ》山と金山とも由あり、又|波邇夜須《ハニヤス》と云地(ノ)名の、倭の香山にあるも由あり、これらたま/\に然ることとは聞えず、いかさまにも所以《ユヱ》ありげなるゆゑに、驚かしおくなり、

〇尿《ユマリ》、書紀に※〔尸/(さんずい+毛)〕此(レヲ)云(フ)2愈磨理《ユマリト》1、和名抄に、尿(ハ)小便也|由波利《ユバリ》とあり、由《ユ》は湯《ユ》、麻理《マリ》は屎麻理《クソマリ》の麻理に同くて、其(ノ)出るを云、【書紀の訓注の磨(ノ)字は、婆《バ》の假字にも用ひたれば、和名抄と照して、由婆理《ユバリ》ともよむべけれど、屎《クソ》まると同きこと疑《ウツ》なければ、由麻理《ユマリ》なり、ゆばりと云は、やゝ後に轉れる言なるべし、書紀に小便とあるを、ユバリマルと訓るは誤なり、ユマリスと訓べし、

〇俗に遺尿をよつばりといふは、夜尿《ヨユバリ》なり、又馬(ノ)小便をばりといふ、】さて上(ノ)件、吐《タグリ》も屎《クソ》も尿《ユマリ》も、皆|病臥在《ヤミコヤセル》ほどの御態《ミシワザ》なり、

〇彌都波能賣《ミツハノメ》、書紀に、水神罔象女《ミヅノカミミツハノメ》、罔象此(レヲ)云(フ)2美都波(ト)1とあり、又神武(ノ)御卷にも、水(ノ)名(ヲ)爲《イフ》2嚴罔象女《イヅミツハノメト》1、罔象女此(レヲ)云(フ)2