古事記傳一之卷
本居宣長謹撰
古記典等總論《イニシヘブミドモノスベテノサダ》
前御代《サキツミヨ》の故事《フルコト》しるせる記《フミ》は、何《イヅ》れの御代のころより有《アリ》そめけむ、書紀【日本書紀をいふ、傳の中みな然り、】の履中天皇(ノ)御卷に、四年秋八月、始之《ハジメテ》於《ニ》2諸國《クニグニ》1置(テ)2國史《フミビトヲ》1記(ス)2言事(ヲ)1、と有(ル)を思へば、朝廷《ミカド》には是(レ)よりさきに既《ハヤ》く史《フミビト》ありて、記されけむこと知られたり、そはその時々の事どもこそあらめ、前代《サキツミヨ》の事などまでは、如何《イカニ》有(リ)けむ知(ラ)ねども、既に當時《ソノトキ》の事|記《シル》されたらむには、往昔《イニシヘ》の事はた、語(リ)傳へたらむまに/\、かつ/”\も記しとゞめらるべき物なれば、其比《ソノコロ》よりぞ有(リ)そめけむ、かくて書紀|修撰《ツクラ》しめ給ひし頃《コロ》は、古記《フルキフミ》ども多く有(リ)つと見えたり、【彼(ノ)神代(ノ)卷に、一書とて取(ラ)れたるが多き
もて知べし、】小治田宮《をヲハリダノミヤ》に御宇《アメノシタシロシメシ》し天皇の御世、二十八年に、聖徳太子命《シヤウトクノミコノミコト》、蘇我馬子大臣《ソガノウマコノオホオミ》と共に、天皇記及國記《スメラギノミフミマタクニノフミ》、臣連伴造國造百八十部《オミムラジトモノミヤツコクニノミヤツコモモヤソトモノヲ》、并公民等本記《マタオホミタカラドモノフミ》を録《シル》し給ふと書紀にある、是(レ)ぞ其事の物に見えたる始(メ)には有ける、又|飛鳥淨御原宮《アスカノキヨミバラノミヤ》に御宇《アメノシタシロシメシ》し天皇の御代十年に、川嶋皇子等《カハシマノミコナド》十二人に詔《オホミコト》おふせて、帝紀及上古諸事《スメラギノミフミマタカムツヨノモロモロノコトドモ》を記定《エラビシルサ》シめ給ふとあり、然れども批(ノ)二(ツ)記は、共に世に傳はらず、こゝに平城宮御宇《ナラノミヤニアメノシタシロシメシ》天津御代豐國成姫(ノ)天皇(ノ)御代、和銅四年九月十八日に、大朝臣安萬侶《オホノアソミヤスマロ》に詔《オホミコト》おふせて、この古事記を撰録《ツクラ》しめ給ふ、同五年と云(フ)年の正月(ノ)二十八日になむ、其功終《ソノコトヲヘ》て貢進《タテマツ》りけると、序に見えたり、【續紀に此事見えず、】然れば今に傳はれる古記の中には、此記ぞ最古《モトモフル》かりける、さて書紀は、同宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシ》高瑞淨足姫(ノ)天皇(ノ)御世、養老四年にいできつと、續紀に記されたれば、彼《カレ》は此記に八年おくれてなむ成れりける、さて此記は、字《モジ》の文《アヤ》をもかざらずて、もはら古語《フルコト》をむねとはして、古(ヘ)の實《マコト》のありさまを失《ウシナ》はじと勤《ツトメ》たること、序に見え、又今|次々《ツギツギ》に云が如し、然るに彼(ノ)書紀いできてより、世(ノ)人おしなべて、彼(レ)をのみ尊《タフト》み用ひて、此記は名をだに知(ラ)ぬも多し、其(ノ)所以《ユヱ》はいかにといふに、漢籍《カラブミ》の學問《マナビ》さかりに行はれて、何事も彼(ノ)國のさまをのみ、人毎にうらやみ好《コノ》むからに、書紀の、その漢國《カラクニ》の國史と云(フ)ふみのさまに似たるをよろこびて、此記のすなほなるを見ては、正《マサ》しき國史の體《サマ》にあらずなど云て、取(ラ)ずなりぬるものぞ、或人、かく云をあやしみて問(ヒ)けらく、此記いできていくばくもあらざるに、又書紀を撰《エラバ》しめ賜へるは、此記に誤(リ)あるが故ならじやは、己《オノレ》答(ヘ)けらく、然にはあらじ、此記あるうへに、更《サラ》に書紀を撰(バ)しめ給へるは、そのかみ公《オホヤケ》にも、漢學問《カラブミマナビ》を盛《サカリ》に好《コノ》ませたまふをりからなりしかば、此記のあまりたゞありに飾《カザリ》なくて、かの漢《カラ》の國史どもにくらぶれば、見《ミ》だてなく淺々《アサアサ》と聞ゆるを、不足《アカズ》おもほして、更に廣く事どもを考へ加《クハ》へ、年紀を立《タテ》などし、はた漢《カラ》めかしき語どもかざり添《ソヘ》などもして、漢文章《カラブミノアヤ》をなして、かしこのに似たる國史と立《タテ》むためにぞ、撰(バ)しめ賜へりけむ、いで其由を委曲《ツバラカ》にいはむには、先(ヅ)かの川嶋(ノ)皇子等に仰せて、帝紀等を撰(バ)しめ給ひしこと、上にいへるごとくにて、其後又和銅七年にも、紀(ノ)朝臣清人三宅(ノ)臣藤麻呂に詔《オホミコト》おふせて、國史を撰(バ)しめ賜ひしこと、續紀に見ゆ、此(ノ)二度の撰の中に、川嶋(ノ)皇子等のは、此記の草創《ハジメ》と同じく、淨御原の大御世なる中に、此記の始(メ)は、彼(レ)より前なりしか、後なりしか、知(リ)がたきを、もし彼(ノ)撰、此記のはじめより前ならば、是(レ)また諸家(ノ)之所v齎、帝紀及(ビ)本辭、既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1、多(ク)加(フ)2虚僞(ヲ)1と、此(ノ)序にある内に在(リ)て、彼(ノ)撰も、正實にたがひ、虚僞をぞ加《クハ》へたりけむ、もしまた後ならば、おもほしめし立《タチ》し此記の事も、彼(ノ)撰にて事足《コトタリ》ぬべきわざなるに、運移(リ)世|異《カハリ》、未(ダ)v行(ハ)2其(ノ)事(ヲ)1矣と、序にあるを思へば、此(レ)と彼(レ)とは、其(ノ)趣《オモムキ》別《コト》なることと聞えたり、その別《コト》なるけぢめは、彼(ノ)撰は、潤色《カザリ》を加《クハ》へて、漢《カラ》の國史に似《ニ》するを旨《ムネ》とし、此(レ)は古(ヘ)の正實《マコト》のさまを傳へむがためなるべし、其意序に見えたり、かくて平城《ナラ》の大御代に至(リ)て、其(ノ)大御志《オホミココロザシ》を繼坐《ツギマシ》て、太(ノ)朝臣に仰せて、かの稗田(ノ)阿禮が誦習《ヨミウカベ》たる故事《フルコト》どもを、撰録《カキシルサ》しめ賜へるなり、次にかの和銅七年に撰(バ)しめ賜ひし史は、又彼(ノ)潤色《カザリ》の方なるべし、さて養老の年、又しも舎人御子《トネノミコ》に仰せて、書紀を撰(バ)しめたまふ、抑かくの如くさしつゞきたるは、かの潤色《カザリ》の史、二(ツ)ながら宜しからずて、大御心にかなはずぞ有(リ)けむかし、さればこれらは、當時《ソノカミ》はやく廢《スタ》れたりとおぼしくて、世に傳はらず、名だにものこらぬなるべし、然るに書紀は、さき/”\のに勝《マサ》りて宜しき故に、正史《タダシキフミ》と定まりて、其後は、又改め撰ばるゝ事もなかりしなり、かくてこの古事記は、書紀いできて後しも、なほ廢《ステ》られざりつと見ゆるは、かの二(ツ)の史の、かざり多きが類(ヒ)にはあらずて、古(ヘ)の正實《マコト》を記せるがゆゑなるべし、されば書紀を撰ばれしは、此記の誤(リ)あるが故にはあらず、もとより其趣ことなるものなり、もし誤(リ)ありとして、改め撰ばれむには、是(レ)もかの二(ツ)の史の如く、そのかみはやく廢《スタ》るべきに、此記のみは、今の世までも傳はれるをおもふべし、又或人、後(ノ)世まで傳はると、傳はらざるとは、おのづからのことにこそあらめ、かならず宜きによりて傳はり、宜しからざるによりて、傳はらざるにもあらざるべし、凡て漢《カラ》にも此間《ココ》にも、古(ヘ)の書の、いとよろしきも絶え、さもあらぬも廣く傳はれるたぐひ多きにあらずやと疑ふ、答へけらく、大かたはさることなれども、これはなほ然らじ、先(ヅ)彼(ノ)二(ツ)の史は、書紀續紀にも其事を記さるゝほどにて、公《オホヤケ》の書なれば、もしおのづからに絶たらむには、しかすがにしばらくは世間にものこりて、人もしり、後(ノ)代にも、其名ばかりだにも遣《ノコ》るべきに、さらにその名をだにしらず、既《ハヤ》く平城《ナラ》の代にすら、知(ル)人もなかりしにや、萬葉集に、古(ヘ)の事を證《アキラ》めたる註などにも、引たるを見ず、然るに此記は、潤色《カザリ》なくたゞありに記して、漢《カラ》の國史などの體《サマ》とは、いたく異なる物なれば、もし誤(リ)多からむには、さしも漢籍《カラブミ》好《コノミ》ましし世に、はやく廢《ステ》られて、とり見る人も有(ル)まじく、まして後(ノ)代までは傳はるまじき物なるに、千年の後までも傳はり來つるを思へば、そのかみ書紀いできても、なほしかすがに公《オホヤケ》にも用ひられ、世(ノ)人も讀《ヨミ》つとは見えて、かの萬葉などにも、往々《ヲリヲリ》に引出けるものをや、【上(ノ)件の趣、すべて詳《サダカ》には知(ル)べきならねども、序の詞と、かの二(ツ)の史撰ばれし跡とを考へ合せて、かくも有けむと思はるゝすぢを、一わたりいへるなり、】又問(フ)、彼川嶋(ノ)皇子等に仰せし撰の事は、書紀に見え、和銅七年のと書紀との事も、續紀に載られたるに、此(ノ)古事記を撰ばしめ給ひしことは、見えぬを思へば、此記は、彼(ノ)史どもの如き嚴重《オモ》き公事《オホヤケゴト》にはあらで、たゞ内々《ウチウチ》の小事《イササカゴト》と見え、又書紀に神代(ノ)卷などに、一書とて、擧《アゲ》られたるが數《アマタ》ある中に、此記を取《トラ》れたりとおぼしきもあれば、此記は、そのかみ如是《カカ》る記録《フミ》ども多《サハ》に有けむ中の一書と見えたり、さて書紀は、その記録ども皆撰び取(ラ)れて、此(レ)も彼(レ)も集めて、足《タラ》はぬことなく備《ソナハ》れれば、さらに此記の比《タグヒ》にあらず、此記は、いかでか其《ソレ》と等《ヒトシ》なみに尚《タフト》び用ふべからむ、答(フ)、此記は、かの一書どもの中の一(ツ)にして、みな書紀にえらび取(ラ)れて、かれは事|備《ソナハ》れり、との論《アゲツラヒ》は謂《イハ》れたり、誠に書紀は、事を記さるゝこと廣く、はた其年月日などまで詳にて、不足《アカヌ》ことなき史《フミ》なれば、此記の及ばざることも多きは、云(フ)もさらなり、然はあれども又、此記の優《マサ》れる事をいはむには、先(ヅ)上(ツ)代に書籍《フミ》と云物なくして、たゞ人の口に言傳《イヒツタ》へたらむ事は、必(ズ)書紀の文の如くには非ずて、此記の詞のごとくにぞ有けむ、彼(レ)はもはら漢《カラ》に似るを旨《ムネ》として、其(ノ)文章《アヤ》をかざれるを、此(レ)は漢にかゝはらず、たゞ古(ヘ)の語言《コトバ》を失《ウシナ》はぬを主《ムネ》とせり、【其由は、次(ノ)卷の序の下に委くいふべし、】抑|意《ココロ》と事《コト》と言《コトバ》とは、みな相稱《アヒカナ》へる物にして、上(ツ)代は、意も事も言も上(ツ)代、後(ノ)代は、意も事も言も後(ノ)代、漢國《カラクニ》は、意も事も言も漢國なるを、書紀は、後(ノ)代の意をもて、上(ツ)代の事を記し、漢國の言を以(テ)、皇國《ミクニ》の意を記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此記は、いさゝかもさかしらを加《クハ》へずて、古(フ)より云(ヒ)傳(ヘ)たるまゝに記されたれば、その意も事も言も相稱《アヒカナヒ》て、皆上(ツ)代の實《マコト》なり、是(レ)もはら古(ヘ)の語言《コトバ》を主《ムネ》としたるが故ぞかし、すべて意も事も、言を以て傳(フ)るものなれば、書《フミ》はその記せる言辭《コトバ》ぞ主《ムネ》には有ける、又書紀は、漢文章《カラブミノアヤ》を思はれたるゆゑに、皇國《ミクニ》の古言の文《アヤ》は、失《ウセ》たるが多きを、此記は、古言のまゝなるが故に、上(ツ)代の言の文《アヤ》も、いと美麗《ウルハ》しきものをや、然ればたとひかの一書どもの中の一(ツ)にして、重《オモ》き公《オホヤケ》の書典《フミ》にはあらずとも、尚《タフト》び用ふべきを、まして是(レ)は、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の、厚き大御志より起りて、ふたゝび平城《ナラノ》大御代の詔命《オホミコト》によりて撰録《シルサ》れたるうへは、さらに輕々《カロガロ》しき私の書の比《タグヒ》にあらず、かれこれを思へば、いよゝます/\尊び仰《アフ》ぐべきは、此記になむ有ける、然ある物を、そのかみ漢學《カラブミマナビ》のみさかりに行はれて、天(ノ)下の御制《ミサダメ》までも、よろづ漢樣《カラザマ》になり來《キ》ぬる世にしあれば、かゝる書典《フミ》の類(ヒ)まで、ひたぶるに漢《カラ》ざまなるを悦びて、表《オモテ》に立《タテ》られ、上(ツ)代の正實《マコト》なるはしも、返(リ)て裏《ウラ》になりて、私(シ)物の如くにぞ有(リ)けむ、故《カレ》其(ノ)撰定《ヱラビ》の事も、續紀などにも載られざりけるなるべし、さて後は、いよゝ其心ばへにて、取(リ)見る人も罕《マレ》らになり、世々の識者《モノシリビト》はた、是をば正《マサ》しき國史の體《サマ》にあらずとして、なほざりに思ひなすこそ、いとも/\哀《カナ》しけれ、抑皇國に古き國史といふ物、外《ホカ》に傳はらざれば、其(ノ)體《サマ》と例《タメシ》に引(ク)は、漢の《カラ》なるべければ、その體《サマ》備《ソナハ》れりといふも、漢のに似たるをよろこぶなり、もし漢《カラ》に邊《ヘ》つらふ心しなくば、彼(レ)に似ずとて何事かはあらむ、すべて萬(ヅ)の事、漢《カラ》を主《アロジ》として、よさあしさを定むる、世のならひこそいとをこなれ、爰に吾(ガ)岡部(ノ)大人《ウシ》、【賀茂(ノ)眞淵(ノ)縣主】東(ノ)國の遠朝廷《トホノミカド》の御許《ミモト》にして、古學《フルコトマナビ》をいざなひ賜へるによりて、千年《ツトセ》にもおほく餘《アマ》るまで、久しく心の底に染着《シミツキ》たる、漢籍意《カラブミゴコロ》のきたなきことを、且々《カツガツ》もさとれる人いできて、此記の尊《タフト》きことを、世(ノ)人も知初《シリソメ》たるは、學《マナビ》の道には、神代よりたぐひもなき、彼(ノ)大人の功《イサヲ》になむありける、宣長はた此(ノ)御蔭《ミカゲ》に頼《ヨリ》て、此(ノ)意を悟《サト》り初《ソメ》て、年月を經《フ》るまに/\、いよよ益々《マスマス》からぶみごゝろの穢汚《キタナ》きことをさとり、上(ツ)代の清《キヨ》らかなる正實《マコト》をなむ、熟《ウマ》らに見得《ミエ》てしあれば、此記を以て、あるが中の最上《カミ》たる史典《フミ》と定めて、書紀をば、是(レ)が次に立《タツ》る物ぞ、かりそめにも皇大御國《スメラオホミクニ》の學問《モノマナビ》に心ざしなむ徒《トモガラ》は、ゆめ此意をなおもひ誤りそ、
書紀の論《アゲツラ》ひ
今古事記を解《トク》とて、書紀を論ふはいかにと云に、古昔《ムカシ》より世間《ヨノナカ》おしなべて、只此(ノ)書紀をのみ、人たふとび用ひて、世世の物知(リ)人も、是(レ)にいたく心をくだきつゝ、言痛《コチタ》きまでその神代(ノ)卷には、註釋なども多かるに、此記をばたゞなほざりに思(ヒ)過《スグ》して、心を用ひむ物としも思ひたらず、是(レ)何故にかと尋ぬるに、世(ノ)人たゞ漢籍意《カラブミゴコロ》にのみなづみて、大御國の古意《イニシヘゴコロ》を忘《ワス》れはてたればぞかし、故《カレ》其(ノ)漢意《カラゴコロ》の惑《マドヒ》をさとし、此記の尊ぶべき由を顯《アラハ》して、皇國《ミクニ》の學問《モノマナビ》の道しるべせむとなり、其《ソ》は先(ヅ)書紀の潤色《カザリ》おほきことを知(リ)て、其(ノ)撰述《エラビ》の趣《オモムキ》をよく悟《サト》らざれば、漢意《カラゴコロ》の痼疾《フカキヤマヒ》去《サリ》がたく、此(ノ)病|去《サ》らでは、此記の宜きこと顯《アラハ》れがたく、此記の宜きことをしらでは、古學《イニシヘマナビ》の正しき道路《ミチ》は知らるまじければなり、いで其(ノ)論(ヒ)は、まづ日本書紀といふ題號《ナ》こそ心得ね、こは漢の國史の、漢書晋書などいふ名に傚《ナラヒ》て、御國の號《ナ》を標《アゲ》られたるなれども、漢國は代々に國(ノ)號のかはる故に、其代の號もて名づけざれば、分《ワカ》り難《ガタ》ければこそあれ、皇國は、天地の共《ムタ》遠長《トホナガ》く天津日嗣|續坐《ツヅキマシ》て、かはらせ賜ふことし無ければ、其《ソレ》と分《ワケ》て云べきにあらず、かゝることに國(ノ)號をあぐるは、並《ナラ》ぶところある時のわざなるに、是(レ)は何《ナニ》に對《ムカ》ひたる名ぞや、たゞ漢図に對《ムカ》へられたりと見えて、彼(レ)に邊《ヘ》つらへる題號《ナ》なりかし、【後の史どもも、又是にならひて名づけられ、文徳三代の實録にさへ、此(ノ)國號を添られたるは、いよゝ心得ずなむ、】然るを後(ノ)代の人の、返(リ)て是をたけき事に稱《ホメ》思ふは、いかにぞや、己《オノ》が心には、いとあかず、邊《ホトリ》ばみたる題號《ナ》とこそおもはるれ、【或人、此書は、漢國へも見せ給はむの意にて、名をもかくはつけられたるならむといへれども、決《キハメ》て然にはあらず、たとひ然るにても、外(ツ)國人に見せむことをしも、主《ムネ》として、名づけられむは、いよゝわろしかし、】さてその記《シル》されたる體《サマ》は、もはら漢のに似たらむと、勤《ツト》められたるまゝに、意も詞も、そなたざまのかざりのみ多くて、人の言語物《コトドヒモノ》の實《サネ》まで、上(ツ)代のに違《タガ》へる事なむ多かりける、まづ神代(ノ)卷の首《ハジメ》に、古(ヘ)天地未(ダ)v剖、陰陽不v分、渾沌(トシテ)如(シ)2鷄子(ノ)1云々、然(シテ)後(ニ)神聖生2其中1焉といへる、是《コ》はみな漢籍《カラブミ》どもの文《コトバ》を、これかれ取(リ)集(メ)て、書(キ)加(ハ)へられたる、撰者の私説《ワタクシゴト》にして、決《キハメ》て古(ヘ)の傳説《ツタヘゴト》には非ず、次に故日開闢之時《カレイハクアメツチノハジメノトキ》、洲壤浮漂《クニツチタダヨヒテ》、譬猶游魚之浮水上《ウヲノミヅニウカベルガゴトクナリキ》也云々とある、是ぞ實《マコト》の上(ツ)代の傳説《ツタヘゴト》には有ける、故曰とあるにて、それより上は、新《アラタ》に加《クハ》へられたる、潤色《カザリ》の文なること知られたり、若(シ)然らずは、此(ノ)二字は何《ナニ》の意ぞや、初《ハジメ》の説は、其(ノ)趣《オモムキ》すべてこざかしく、疑《ウタガヒ》もなき漢意にして、さらに/\皇國の上(ツ)代の意に非ず、古(ヘ)をよく考(ヘ)知れらむ人は、おのづから辨へつべし、そも/\天地の初發《ハジメ》のありさまは、誠に古傳説《イニシヘノツタヘゴト》の如くにぞ有けむを、いかなれば、うるさく言痛《コチタ》き異國《アダシクニ》のさかしら説《ゴト》を假《カ》り用ひて、先(ヅ)首《ハジメ》にしも擧《アゲ》られたりけむ、【纂疏の本を見れば、故曰を一曰とせり、もしこれ正しき本ならば、殊にいはれなし、其故は、異國の説を主として、御國の古傳をば、傍《カタハラ》になしたる記《シル》しざまなればなり、】凡《スベ》て漢籍《カラブミ》の説は、此(ノ)天地のはじめのさまなども何《ナニ》も、みな凡人《タダビト》の己が心もて、如此《カク》有(ル)べき理ぞと、おしあてに思(ヒ)定めて、作れるものなり、此間《ココ》の古(ヘノ)傳へは然らず、誰云出《タガイヒイデ》し言ともなく、たゞいと上(ツ)代より、語り傳へ來つるまゝなり、此(ノ)二つをくらべて見るに、漢籍の方は、理(リ)深《フカ》く聞えて、信に然こそ有けめと思はれ、古傳の方は、物げなく淺々《アサアサ》と聞ゆるからに、誰も彼(レ)にのみ心引れて、舍人親王《トネノミコ》をはじめ、世々の識者《モノシリビト》、今に至るまで、惑《マド》はぬはなし、かく人皆の惑ひ溺《オボ》るゝゆゑは、凡てからぶみの説といふ物は、かしこき昔の人どもの、萬(ヅ)の事を深く考へ、其理を求めて、我も人も實《マコト》に然こそと、信《ウク》べきさまに造り定めて、かしこき筆もて、巧《タクミ》にいひおきつればなり、然れども人の智《サトリ》は限(リ)のありて、實《マコト》の理は、得測識《エハカリシ》るものにあらざれば、天地の初《ハジメ》などを、如此《カク》あるべき理ぞとは、いかでかおしては知(ル)べきぞ、さる類のおしはかり説《ゴト》は、近き事すら、甚《イタ》く違ふが多かる物を、理をもて見るには、天地の始(メ)も終《ハテ》も、しられぬことなしと思ふは、いとおふけなく、人の智《サトリ》の限(リ)有(リ)て、まことの理(リ)は、測《ハカリ》知(リ)がたきことを、え悟《サト》らぬひが心得なり、凡て理のかなへりと思はるゝを以て、物を信《ウク》るはひがことなり、そのかなへるもかなはぬも、實《マコト》には凡人《タダビト》の知べきにあらず、其(ノ)説をなせる人も凡人《タダビト》、信《ウク》る心も几心《タダビトゴコロ》にしあれば、いかでかはまことによきあしきは辨へ知む、彼(ノ)國にいとこと/”\しくいはるゝ、聖人といふ人も、智はなほ限(リ)ありて、至らぬ處の多かるものを、ましてそれより智の後《オク》れたる人どものいひおきたる説どもは、いかでか信《ウケ》ひくに足《タラ》む、然るを世々の識者《モノシリビト》みな、さる臆度《オシアテ》の説にはかられて、是をえさとらず、此(ノ)潤色《カザリ》の漢文《カラコトバ》の處をしも、道の旨《ムネ》と心得居るこそ、いとも/\あさましけれ、彼(ノ)首《ハジメ》の文は、たゞかざりに加《クハ》へたる、序の如き物と見過《ミスグ》して有(ル)べきなり、次に乾道獨(リ)化(ス)、所以《コノユヱニ》成(セリ)2此(ノ)純男(ヲ)1、また乾坤(ノ)之道相參(テ)而化(ス)、所以(ニ)成(セリ)2此男女(ヲ)1とある、是(レ)らも撰者の心もて、新《アラタ》に加へられたる、さかしら文《コトバ》なり、其(ノ)故は、まづ乾坤などいふことは、皇國になきことにて、その古言なければ、古傳説《イニシヘノツタヘゴト》に非ること明らけし、もし古(ヘノ)傳(ヘ)ならむには、たゞに天地之道とこそあらめ、但しそはただ天地を乾坤と書れたる、文字の異《カハリ》のみなれば、なほゆるさるべけれど、此(ノ)神たちを、その乾坤の道によりて、化坐《ナリマセ》るさまに書れたるは、いたくまことの意に背《ソム》けり、此(ノ)神たちも、たゞ高御産巣日《タカミムスビノ》神|神産巣日《カミムスビノ》神の御靈《ミタマ》によりてこそ成坐《ナリマシ》けめ、然《シカ》成坐《ナリマセ》る理は、いかにとも測知《ハカリシル》べきにあらぬを、かしこげに乾坤の化などいひなすは、漢意《カラゴコロ》のひがことなるをや、又伊邪那岐(ノ)神を陽神、伊邪那美(ノ)神を陰神とかき、陰神先(ヅ)發2喜言(ヲ)1、既(ニ)違(フ)2陰陽(ノ)之理(ニ)1と書れたるも、漢意のひがことなり、大よそ世に陰陽の理といふもの有(ル)ことなし、もとより皇國には、いまだ文字なかりし代に、さること有(ル)べくもあらざれば、古(ヘノ)傳(ヘ)には、たゞ男神《ヲガミ》女神《メガミ》、女男之理《メヲノコトワリ》などとこそ有(リ)けむを、然《シカ》改《アラタ》めてかゝれたるは、たゞ字の異なるのみには非ず、いたく學問《モノマナビ》の害《サマタゲ》となることなり、其故は、なまさかしき人、此(ノ)文を見ては、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命と申す神は、たゞ假《カリ》に名を設けたる物にして、實《マコト》は陰陽造化をさしていへるぞと心得るから、或は漢籍《カラブミ》の易の理をもて説き、陰陽五行を以て説《トク》こととなれる故に、神代の事は、みな假《カリ》の作りことの如くになり、古傳説《イニシヘノツタヘゴト》、盡《コトゴトク》に漢意《カラゴコロ》に奪《ウバ》はれはてて、まことの道|立《タチ》がたければなり、そも/\撰者は、然《サ》ることまでには心もつかずて、たゞ文《コトバ》の漢《カラ》めくをよきこととして、かざりのみに書れたるべけれど、此(ノ)文どもは、後(ノ)代に至(リ)て、かくさま/”\の邪説《ヨコサマゴト》を招《マネ》く媒《ナカダチ》となりて、まことの道のあらはれがたき根本《モト》にぞ有ける、されどこの陰陽の理といふことは、いと昔より、世(ノ)人の心の底に深く染着《シミツキ》たることにて、誰も/\、天地の自然《オノヅカラ》の理にして、あらゆる物も事も、此(ノ)理をはなるゝことなしとぞ思ふめる、そはなほ漢籍説《カラブミゴト》に惑《マド》へる心なり、漢籍心《カラブミゴコロ》を清く洗《アラ》ひ去《サリ》て、よく思へば、天地はたゞ天地、男女《メヲ》はたゞ男女《メヲ》、水火《ヒミヅ》はたゞ水火《ヒミヅ》にて、おの/\その性質情状《アルカタチ》はあれども、そはみな神の御所爲《ミシワザ》にして、然るゆゑのことわりは、いともいとも奇靈《クスシ》く微妙《タヘ》なる物にしあれば、さらに人のよく測知《ハカリシル》べききはにあらず、然るを漢國人《カラクニビト》の癖《クセ》として、己がさかしら心をもて、萬の理を強《シヒ》て考へ求めて、此(ノ)陰陽といふ名を作(リ)設(ケ)て、天地萬物みな、此理の外なきが如く説《トキ》なせるものなり、【かくの如く陰陽はたゞ、漢人の作(リ)出たることにて、もと彼國のみの私説《ワタクシゴト》なるが故に、他國にはそのさだ無きこととおぼしくて、天竺の佛經論《ホトケブミ》を見るに、世界の始(メ)、又人(ノ)身などみな、地水火風の四大といふ物を以て説て、すべて陰陽五行などの説はあることなし、其文字はまれ/\には見ゆれども、そはたゞ漢語《カラコト》に譯《カヘ》たる、文章のうへのみの事とおぼしくて、實に其理をいへることはなし、すべて天竺は、漢にもまさりて、なほ言痛《コチタ》く物の理をいふ國なるすら、かくのごとくなるを以て、陰陽は漢國の私説なることをさとるべし、】そはもとかしこき人の、よく考へて作(リ)出(デ)たることにて、十に六(ツ)七(ツ)は當《アタ》れるが如くなる故に、世々の人皆これを信用《ウケモチヒ》て、疑《ウタガ》ふことなけれども、其陰陽は、又いかなる理によりて陰陽なるぞといはむに、其理は知(ル)ことあたはず、太極無極などいふこともあれども、それはたいかなる理にて太極無極なるぞといはむに、終《ツヒ》にその元《モト》の理は、知(リ)がたきに落《オツ》めれば、誠には陰陽も太極無極も、何《ナニ》の益もなきいたづら説《ゴト》にて、たゞいさゝか人の智の測知《ハカリシル》べき限(リ)の内の小《チヒサキ》理(リ)に、さま/”\と名を設けたるのみにぞ有ける、抑天照大御神は、日(ノ)神に坐《マシ》まして女神、月夜見(ノ)命は、月(ノ)神にして男神に坐《マシ》ます、是(レ)を以て、陰陽といふことの、まことの理にかなはず、古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》けることをさとるべし、然るを猶《ナホ》彼(ノ)理に泥《ナヅ》み惑《マド》ひて、返(リ)て此(レ)をさへ其理にかなへむと、強《シヒ》て説曲《トキマグ》るなどは、いふにも足《タラ》ぬことなりかし、さて又|美都波能賣《ミツハノメノ》神を罔象女、綿津見《ワタツミ》を少童とかゝれたる類も、漢にへつらひて、快《ココロヨ》からぬ書《カキ》ざまなり、かくて又神武(ノ)御卷に至ては、天皇の詔とて、是(ノ)時運屬2鴻荒(ニ)1、時鍾2草昧(ニ)1、故(ニ)蒙以養(ヒ)v正(ヲ)、治2此(ノ)西偏(ヲ)1、皇祖皇考、乃神乃聖、積v慶(ヲ)重v暉(ヲ)とあるたぐひ、意も語も、さらに上(ツ)代のさまにあらず、全《モハラ》潤色《カザリ》のために、撰者の作(リ)加(ハ)へられたる文なり、崇神(ノ)御卷に、詔曰、唯我皇祖諸天皇等、光2臨宸極(ニ)1者(ハ)、豈爲(ナラムヤ)2一身(ノ)1乎云々、不2亦可1乎、これも同じ、大かた御代御代《ミヨミヨ》の詔詞《ミコトノリノコトバ》、此(ノ)類なるは、上(ツ)代の卷々なるは、潤色《カザリ》に加(ハ)へられたる物と見えたり、故(レ)いかにとも古言に訓《ヨミ》がたき處の多きなり、餘《ホカ》も准《ナズラ》へて知べし、續紀には、古語の詔【いはゆる宣命なり、】と漢文の詔とを、別に載られたるを見るに、平城《ナラ》の御代に至てすら、古語の詔(ノ)詞には、漢《カラ》めきたることは、をさ/\見えざるを思へば、まして上(ツ)御代御代のは、おしはかられて、かの古語の詔詞の如くにて、なほ古(ル)かりけむを、此(ノ)書紀の詔詞どもは、さらに古(ル)めかしきことはなくて、ひたぷるに漢の意《ココロ》言《コトバ》なるをや、又神武(ノ)御卷に、天皇の大御言に、戰勝(テ)而無(キハ)v驕(ルコト)者、良將(ノ)之行也とある、大方如此《カクノゴト》く、さかしく漢めきたる語どもは、皆かざりと聞ゆ、凡て言語は、其世々のふり/\有て、人のしわざ心ばへと、相協《アヒカナ》へる物なるに、書紀の人の言語は、上(ツ)代のありさま、人の事態《シワザ》心ばへに、かなはざることの多かるは、漢文のかざりの過《スギ》たる故なり、又同じ大御言とて、今我(レハ)是(レ)日(ノ)神(ノ)子孫(ニシテ)、而向(テ)v日(ニ)征v虜(ヲ)、此(レ)逆2天(ノ)道(ニ)1也、【此(ノ)御言、此記には、たゞ向(テ)v日(ニ)而戰(フコト)不良とあり、】また頼(テ)2以皇天(ノ)之威(ニ)1、凶徒就v戮(ニ)云々【不亦可乎といふまで、此文すべて漢意なり、】といひ、また獲2罪(ヲ)於天(ニ)1、などとある類の天は、もはら漢籍意《カラブミゴコロ》の天にして、古(ヘノ)意にそむけり、【天命天心天意天禄などあるたぐひみな同じ、】いかにといふに、天はたゞ虚空《ソラ》の上方《ウヘ》に在《アリ》て、天(ツ)神のまします御國なるのみにして、心も魂《ミタマ》もある物にあらず、然れば天(ノ)道といふこともなく、皇天之威などいふべくもあらず、罪を獲《ウ》べき由もなし、然るを天に神靈《ミタマ》あるが如くいひなして、人の禍《ワザハヒ》福《サイハヒ》も何《ナニ》も、世(ノ)中の事はみな、その所爲《シワザ》とするは、漢國のことにて、ひがことなるを、【續紀の宣命に、天地の心と見え、萬葉の歌に、天地のなしのまに/\などよめるも、奈良のころにいたりては、既に漢意のうつりて、古(ヘノ)意にたがへることもまじれるなり、外國《トツクニ》には、萬(ヅ)の事をみな天といふは、神代の正しき傳説《ツタヘゴト》なくして、世(ノ)中の事はみな、神の御所爲《ミシワザ》なることをえしらざるが故なり、天帝或は天之主宰などいふなるは、神を指《サス》に似たれども、これらもまことに神あることを知ていへるにはあらず、たゞ假《カリ》の名にして、實は天の理もていへるなれば、天神とは異なり、かの皇天とある字を、|アメノカミ〔付○圏点〕と訓るは、皇天にては、古意にかなはず、かならず天神とあるべき處《トコロ》なることを辨へたるなれば、此(ノ)訓は宜し、されど此(ノ)訓によりて、皇天即(チ)天神と心得むは、ひがことなり、凡て書紀を看《ミ》むには、つねに此(ノ)差《ケヂメ》をよく思ふべき物ぞ、よくせずば漢意に奪はれぬべし、】ひたぶるに漢文のかざりを旨《ムネ》とせられつるから、かゝる違《タガヒ》はあるなり、漢意に惑へる後(ノ)世(ノ)人、此(ノ)差別《ケヂメ》をえしらず、是(レ)らの文を見ては、返(リ)て天(ツ)神と申すは、假《カリ》の名にして、即(チ)天のことぞと心得めれば、こは殊に学問《モノマナビ》の害《サマタゲ》となる文なり、【天(ツ)神は、正しく人などの如く、現身《ウツシミミ》まします神なり、漢意の天の如く、空《ムナ》しき理を以ていへる假名《カリノナ》には非ず、天神と申す御稱《ミナ》の天は、その坐《マシ》ます御國をいへるのみにして、神即(チ)天なるにはあらず、】綏靖(ノ)御卷に、天皇風姿岐嶷、少有2雄拔之氣1、及(テ)v壯(ニ)容貌魁偉、武藝過v人(ニ)、而志尚沈毅といひ、崇神(ノ)御卷に、天皇識性聰敏、幼好2雄略1既壯寛博謹愼云々、などいへる類の文も、古(ヘノ)傳(ヘ)の有しを、漢字にうつして書れたるにはあらず、上(ツ)代のはたゞ、其(ノ)御代の御所行《ミシワザ》によりて、多くは撰者のかざりに加《クハ》へられたる物と見ゆ、又應神(ノ)御卷に、淡路嶋の事を、峯巖紛錯、陵谷相續、芳草薈蔚、長瀾潺湲といひ、雄略(ノ)御卷に馬を稱《ホメ》て、※[さんずい+獲の旁]略而龍※[者/羽]、※[炎+欠]聳擢而鴻驚、異體峯生、殊相逸發、といへるたぐひなども、潤色過《カザリスギ》ていとうるさき漢文《カラコトバ》なり、又神武御卷に、弟猾大(ニ)設(テ)2牛酒(ヲ)1、以勞2饗皇師(ヲ)1焉、崇神(ノ)御卷に、蓋《ナゾ》d命2神龜(ニ)1、以極(メ)c致(ス)v災(ヲ)之所由(ヲ)u也、これらの文、かざりによりて實《マコト》を失《ウシナ》ひ、いたく害《サマタゲ》となれり、皇国には上(ツ)代といへども、牛《ウシ》を食《クラ》へることなく、又|卜《ウラ》に龜を用ひたることも、古(ヘ)はなき事なるをや、【牛酒神龜など書れたるは、撰者の意は、たゞ漢文の潤色のみなれども、後(ノ)人は、これを實と思ふ故に、學問の害となるなり、牛を食ひ、卜に龜を用るなどは、外國の俗にこそあれ、】景行(ノ)御卷、倭建(ノ)命の、東國《アヅマノクニ》言向《コトムケ》に幸行《イデマシ》なむとする處に、天皇持(テ)2斧鉞(ヲ)1、以授(テ)2日本武(ノ)尊(ニ)1曰(ク)云々、すべて古(ヘ)かゝる時にも、矛劔《ホコタチ》などをこそ賜ひつれ、斧鉞を賜へる事はさらになし、故(レ)これも、此記に給(フ)2比々羅木之八尋矛《ヒヒラギノヤヒロボコヲ》1とあるぞ、實《マコト》なりけるを、強《シヒ》て漢《カラ》めかさむとて、斧鉞とは書れたるなり、語《コトバ》をかざれるは、なほゆるさるゝかたもありなむを、かく物《モノ》をさへに替《カヘ》て書れたるは、あまりならずや、なほ此(ノ)類あり、看《ミ》む人心すべし、又繼體天皇の、未《イマダ》越前《コシノミチノクチ》の三國《ミクニ》に大坐々《オホマシマシ》しを、臣連等《オミムラジタチ》相議《アヒハカリ》て、迎(ヘ)奉(リ)て、天津日嗣|所知看《シロシメサ》しめむとせしを、謝《イナ》び賜へる處に、男大迹《ヲホトノ》天皇、西(ニ)向(テ)讓(ルコト)者|三《ミタビ》、南(ニ)向(テ)讓(ルコト)者|再《フタタビ》とある、そのかみかゝる事《ワザ》あるべくもあらず、此(ノ)前後《アタリ》の文は、すべて漢籍《カラブミ》にあるを、そのまゝに取《トラ》れたるなり、抑かく人の事態《シワザ》まで造《ツク》りかざりて、漢《カラ》めかされたるはいかにぞや、又綏靖天皇元年、春正月壬申朔己卯云々、尊(テ)2皇后(ヲ)1曰2皇大后(ト)1とあるたぐひ、【此(レ)より次の御代々々も、みな此例に記されたり、】上(ツ)代のさまにはあらず、いかにといふに、まづ上(ツ)代には、大后《オホギサキ》とは、當代《ソノミヨ》の嫡后を申し、大御母《オホミハハ》命をば、大御祖《オホミオヤ》と申せればなり、【此事、中卷|白梼原《カシバラノ》宮(ノ)段に委くいふべし、古(ヘ)によらば、皇后を意富岐佐伎《オホギサキ》、皇大后をは意富美意夜《オホミオヤ》と訓べし、皇大后を意富岐佐伎《オホギサキ》と訓てはかなはず、】さて皇后《オホギサキ》を、其(ノ)御子の御世に至(リ)て、改めて際《キハ》やかに皇大后《オホミオヤ》と御號《ミナ》づけ奉り賜はむことも、上(ツ)代のさまには非ず、大御母命は、元《モト》より大御親《オホミオヤ》に坐《マセ》ばなり、【上(ツ)代には、語をおきて、文字はなければ、外に皇大后と申すべき御號《ミナ》はなきをや、】凡てかゝる御號《ミナ》を、きはやかに改めらるゝなどは、もと漢《カラ》國の事なり、且《ソノウヘ》某《ソノ》年月日と、月日まで記されたるは、まして漢《カラ》なり、すべて上(ツ)代の事に月日をいへるは、猶《ナホ》別に論《アゲツラヒ》あり、抑書紀の論ふべきことどもは、なほ種々《クサグサ》多かれども、今はたゞ漢籍意《カラブミゴコロ》の潤色文《カザリコトバ》の、古學《イニシヘマナビ》の害《サマタゲ》となりぬべきかぎりの言《コト》を、これかれ引出て、辨へ論へるなり、此《コノ》同類《オナジタグヒ》の言は、みな准《ナズラ》へてさとるべし、すべて漢意《カラゴコロ》の説《コト》は、理《コトワリ》深《フカ》げにて、人の心に入(リ)やすく、惑ひやすき物なれば、彼(ノ)紀を看《ミ》む人、つねに此意をなわすれそゆめ、
〇書紀を訓讀《ヨム》こといとかたし、いかにといふに、まづ上(ノ)件に論へる如く、漢籍《カラブミ》のふりをならひて、其(ノ)かざりの文多ければなり、これを文のまゝに訓まむには、字音などをもまじへて、もはらからぶみを讀《ヨム》ごとくによむべきさまなれども、又をり/\は訓注を加《クハ》へて、古言を顯《アラハ》されたることもあるを思へは、然《シカ》ひたぶるに漢籍の如く讀(ム)べきにも非ず、然らば全《マタ》く古言によまむとするには、さらにさは訓(ミ)がたき處おほく、又其字の意を得て、強《シヒ》てよむときは、言は皇國の言になりても、その連接《ツヅキ》と意とは、なほ漢なること多し、然れば全く古言古意に訓(マ)むとならば、さらに文に拘《カカハ》らず、字にすがらず、たゞ其所《ソコ》のすべての意をよく思(ヒ)て、古事記萬葉の語の格《サマ》をよく考へて訓べし、然せむには、十字二十字などをも、みながら捨《ステテ》て讀(ム)まじき處々なども有(ル)べきなり、さはあれども、今(ノ)世(ノ)人は、おのづから又今の癖《クセ》のある物なれば、さまで上(ツ)代の意言を、いさゝかも違へず、つばらかにさとり明らめむことも、え有(リ)がたかるべきわざにしあれば、かにかくにうるはしくは訓(ミ)得がたき書なりかし、さて今(ノ)本の訓は、あるべき限(リ)は、古言に訓たる物にして、【此記にあることは、多く其言にならひてよめり、】古き言ども是(レ)にのこれる多し、されども漢文のかざりの處などは、其文のまゝに、字にすがりて訓る故に、さらに古(ノ)意にあらずして、言のつゞきざまなども、もはら漢籍訓《カラブミヨミ》なり、此(ノ)意を思ひて看《ミ》べし、
舊事紀といふ書の論
世に舊事本紀と名づけたる、十卷の書あり、此《コ》は後(ノ)人の僞り輯《アツ》めたる物にして、さらにかの聖徳太子命《シヤウトクノミコノミコト》の撰《エラ》び給し、眞《マコト》の紀《フミ》には非ず、【序も、書紀(ノ)推古(ノ)御卷の事に據《ヨリ》て、後(ノ)人の作れる物なり、】然れども、無き事をひたぶるに造りて書るにもあらず、たゞ此(ノ)記と書紀とを取(リ)合せて、集《アツ》めなせり、其《ソ》は卷を披《ヒラ》きて一たび見れば、いとよく知(ラ)るゝことなれど、なほ疑はむ人もあらば、神代の事《コト》記せる所々を、心とゞめて看《ミ》よ、事|毎《ゴト》に此記の文と書紀の文とを、皆|本《モト》のまゝながら交《マジ》へて擧《アゲ》たる故に、文體《コトバツキ》一つ物ならず、諺《コトワザ》に木に竹を接《ツゲ》りとか云が如し、又此記なるをも書紀なるをも、ならべ取(リ)て、一(ツ)事の重《カサ》なれるさへ有て、いと/\みだりがはし、すべて此記と書紀とは、なべての文のさまも、物(ノ)名の字《モジ》なども、いたく異《コト》なるを、雜《マジ》へて取れれば、そのけぢめいとよく分れてあらはなり、又|往々《ヲリオリ》古語拾遺をしも取れる、是(レ)も其文のまゝなれば、よく分れたり、【これを以て見れは、大同より後に作れる物なりけり、さればこそ中に、嵯峨(ノ)天皇と云ことも見えたれ、】かくて神武天皇より以降《こなた》の御世々々は、もはら書紀のみを取て、事を略《はぶき》てかける、是(レ)も書紀と文|全《また》く同じければ、あらはなり、且《そのうへ》歌はみな略《はぶ》けるに、いかなればか、神武(ノ)御卷なるのみをば載《のせ》たる、假字《かな》まで一字《ひともじ》も異《こと》ならずなむ有(ル)をや、さて又|某《なにの》本紀|某《くれの》本紀とあげたる、卷々の目《な》どもも、みなあたらず、凡て正《ただ》しからざる書なり、但し三の卷の内、饒速日《ニギハヤビノ》命の天より降り坐(ス)時の事と、五の卷尾張(ノ)連物部(ノ)連の世次《ヨツギ》と、十の卷國造本紀と云(フ)物と、是等《コレラ》は何《イヅレノ》書《フミ》にも見えず、新《アラタ》に造れる説《コト》とも見えざれば、他《ホカ》に古書ありて、取れる物なるべし、【いづれも中に疑はしき事どもはまじれり、そは事の序《ツイデ》あらむ處々に辨ふべし、】さればこれらのかぎりは、今も依(リ)用ひて、助《タス》くることおほし、又此記の今(ノ)本《マキ》、誤字《アヤマレルモジ》多きに、彼(ノ)紀には、いまだ誤らざりし本《マキ》より取れるが、今もたま/\あやまらである所なども稀《マレ》にはある、是(レ)もいさゝか助《タスケ》となれり、大かたこれらのほかは、さらに要《エウ》なき書なり、【〇舊事大成經といふ物あり、此《コ》は殊に近き世に作(リ)出たる書にして、こと/”\く僞説《イツハリゴト》なり、又神別本紀といふものも、今あるは、近(キ)世(ノ)人の僞造《イツハリツク》れるなり、そのほか神道者といふ徒《トモガラ》の用る書どもの中に、これかれ僞(リ)なるおほし、古學《イニシヘマナビ》をくはしくして見れば、まこといつはりは、いとよく分るゝ物ぞかし、】
記《フミノ》題號《ナ》の事
古事記と號《ナヅ》けられたる所以《ユヱ》は、古(ヘ)の事をしるせる記《フミ》といふことなり、書紀に、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の御代に、かの川嶋(ノ)皇子|等《ナド》に仰せて、國史を撰ばしメらるゝ事を記されたる處に、記(シ)2定(メシム)帝紀及上古(ノ)之諸事(ヲ)1とある、此(ノ)語即(チ)今の題號《ナ》の意と同じ、然《サ》て此題號は、かの書紀のごと、國號を標《アゲ》ず、押出《オシイダ》してたゞ古事と云る、うけばりていと貴《タフト》し、異國《アダシクニ》を邊《ヘ》つらひ思はず、天地の極《キハ》み、たゞ天(ツ)神(ノ)御子の所知看食國《シロシメスヲスクニ》の外なき意にかなへればなり、【撰者の意は、さることまでを思ひいぇなづけたるにはあらざるめれども、おのづから此意にかなひて、めでたきなり、】大御國の物學《モノマナビ》せむともがらは、何事にも、常《ツネ》此こゝろばへを忘《ワス》るまじきものなり、又卷の分《ワカ》ちざまも、漢籍の例に、かゝはらずて、上卷中卷下卷といへる、これはためでたし、【卷(ノ)上卷(ノ)中卷(ノ)下といはむは、漢《カラ》ざまなり、又卷之一巻第一などいふも漢なり、それも一之卷《イチノマキ》二之卷《ニノマキ》などとこそいふべけれ、マキノツイデヒトツ、又はヒトマキニアタルマキなどよむは、中々に皇國の物言《モノイヒ》ざまにはうとし、】さて日本紀をば、夜麻登夫美《ヤマトブミ》と訓(ム)を、此記の題號は、訓《ヨミ》あることも聞えず、本より撰者の心にも、たゞ字音《モジゴヱ》に讀《ヨメ》とにや有(リ)けむ、されど彼(ノ)夜麻登夫美《ヤマトブミ》の例に傚《ナラ》はば、布琉許登夫美《フルコトブミ》とぞ訓《ヨマ》まし、上卷は迦美都麻伎《カミツマキ》、中卷は那加都麻伎《ナカツマキ》、下卷は斯母都麻伎《シモツマキ》と訓べし、
諸本又注釋の事
此記、今世に流布《ホドコ》れる本《マキ》二(ツ)あり、其一(ツ)は、寛永のころ板《イタ》に彫《ヱ》れる本《マキ》にて、字《モジ》の脱《オチ》たる誤れるなどいと多く、又訓も誤れる字のまゝに附《ツケ》たる所は、さらにもいはず、さらぬ所も、凡ていとわろし、今一(ツ)は、其後に伊勢の神官《カムヅカサ》なる、度會(ノ)延佳てふ人の、古本《フルキマキ》など校《カムガヘ》て、改(メ)正して彫《ヱラ》せたるなり、此《コレ》はかの脱《オチ》たる字をも誤れるをも、大かた直《ナホ》して、訓もことわり聞ゆるさまに附《ツケ》たり、されど又まゝには、己がさかしらをも加《クハ》へて、字をも改めつと見えて、中々なることもあり、此(ノ)人すべて古語をしらず、たゞ事の趣《オモムキ》をのみ、一わたり思ひて、訓(メ)れば、其訓は、言も意も、いたく古にたがひて、後(ノ)世なると漢《カラ》なるとのみなり、さらに用ふべきにあらず、かくて右の二(ツ)をおきて、古(キ)本はいとまれらにて、今はいと/\得がたきを、己《オノレ》さきにからくして一部《ヒトツ》得て見つるに、誤(リ)はなほいと多《サハ》になむ有ける、近きころ又、かの延佳が、はじめに異本《コトマキ》どもを比校《クラベミ》て、これもかれも書(キ)入(レ)たる本を寫したる本、又京の村井氏【敬義】が所藏《モタ》る古き本をも見るに、此(レ)らはた殊なることもなくて、誤のみ多く、村井がは、大かた舊《フル》き印本《ヱリマキ》にぞ近かりける、其後又、尾張(ノ)國名兒屋なる眞福寺といふ寺【俗に大洲の觀音といふ、】に、昔より傳へ藏《ア》る本を寫せるを見るに、こは餘《ホカ》の本どもとは異《コト》なる、めづらしき事もをり/\あるを、字の脱《オチ》たる誤れるなどは、殊にしげくぞある、かゝればなほ今(ノ)世には、誤なき古(ヘノ)本は、在《アリ》がたきなりけり、されど右の本どもも、これかれ得失《ヨキアシキ》ことは互《タガヒ》に有(リ)て、見合(ハ)すれば、益《タスケ》となること多し、
〇此記、むかしより註釋あることをきかず、たゞ元々集といふ物に、或記(ニ)云(ク)【古事記釋】云々、また古事記(ノ)釋註(ニ)曰(ク)云々とあるは、むかし釋註といふもの有しにこそ、そは誰《タガ》作《ツク》れりしにか、其名だに他《ホカ》には見えず、まして今は聞えぬ物なり、【或《アル》僞書《イツハリブミ》に、此記の註とて、名を作りて、引たることあれど、そらごとなれば、いふにたらず、】
文體《カキザマ》の事
すべての文、漢文の格《》サマに書れたり、抑此記は、もはら古語を傳ふるを旨《ムネ》とせられたる書なれば、中昔《ナカムカシ》の物語文などの如く、皇國の語のまゝに、一もじもたがへず、假字書《カナガキ》にこそせらるべきに、いかなれば漢文にほ物せられつるぞといはむか、いで其ゆゑを委曲《ツバラカ》に示さむ、先(ヅ)大御國にもと文字はなかりしかば、【今神代の文字などいふ物あるは、後(ノ)世人の僞作《イツハリ》にて、いふにたらず、】上(ツ)代の古事《フルコト》どもも何《ナニ》も、直《タダ》に人の口《クチ》に言(ヒ)傳へ、耳に聽《キキ》傳はり來《キ》ぬるを、やゝ後に、外國《トツクニ》より書籍《フミ》と云(フ)物|渡參來《ワタリマヰキ》て、【西土《ニシグニ》の文字の、始(メ)て渡(リ)參來《マヰキ》つるは、記に應神天皇の御世に、百濟《クダラ》の國より、和邇吉師てふ人につけて、論語と千字文とを貢《タテマツリ》しことある、此時よりなるべし、なほ懷風藻の序などにも、此おもむき見えたれば、奈良のころも、然言(ヒ)傳へたるなるべし、それよりさきにも、外國《トツクニ》人の參入《マヰリ》しは、書紀に崇神天皇の御世に始(メ)て彌摩那《ミマナノ》國人又垂仁天皇の御世に、新羅《シラギノ》國主(ノ)子|天之日矛《アメノヒボコ》などあれども、書籍《フミ》はいまだ渡らざりけむ、そも/\異國《アダシクニ》とこと通《カヨ》ふことは、漢國《カラクニ》の書には、かのくにの漢《カン》といひし代より、御國の使、かしこに至れりつと云へれども、皇朝《ミカド》にはさらにしろしめさぬ事にして、此《コ》はくさ/”\論ひ有て、別にしるせり、彼(ノ)國ノ大御使を遣《ツカ》はししは、遙《ハルカ》の後、推古天皇の御世ぞ始(メ)なりける、又韓の國々の、したしく仕(ヘ)奉(リ)しことは、神功皇后の、かの國|言向坐《コトムケマシ》しよりの事なれば、書籍《フミ》のわたり來《コ》しも、決《ウツナ》くかの和邇がまゐりこし時よりのこととぞ思はるゝ、然るに神武天皇の御時よりも、既《ハヤ》く文字は有しごと思ふ人もあれど、そは書紀を一わたり見て、かのかざり多かることを、よくも考へず、文のまゝに意得るから、さも思ふぞかし、】其《ソ》を此間《ココ》の言もて讀(ミ)ならひ、その義理《ココロ》をもわきまへさとりてぞ、【書紀に、應神天皇十五年、太子の、百濟の阿直岐又|王仁《ワニ》に、經典をならひて、よくさとり賜へりしこと見えたり、】其(ノ)文字《モジ》を用ひ、その書籍《フミ》の語《コトバ》を借《カリ》て、此間《ココ》の事をも書記《カキシル》すことにはなりぬる、【書紀(ノ)履中(ノ)卷、四年云々|首《ハジメ》に引るがごとし、】されどその書籍《フミ》てふ物は、みな異國《アダシクニ》の語にして、此間《ココ》の語とは、用格《ツカヒザマ》もなにも、甚《イタ》く異《コト》なれば、その語を借(リ)て、此間《ココ》の事を記すに、全《マタ》く此間《ココ》の語のまゝには、書(キ)取(リ)がたかりし故に、萬(ノ)事、かの漢文の格《サマ》のまゝになむ書(キ)ならひ來《キ》にける、故(レ)奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間《ココ》の語の隨《ママ》なるは、をさ/\見えず、萬葉などは、歌の集《フミ》なるすら、端辭《ハシノコトバ》など、みな漢文なるを見てもしるべし、かの物語|書《ブミ》などのごとく、こゝの語のまゝに物|言《カク》事は、今(ノ)京になりて、平假字《ヒラガナ》といふもの出來ての後に始まれり、但し歌と祝詞《ノリト》と宣命詞《ミコトノリノコトバ》と、これらのみは、いと古(ヘ)より、古語《フルコト》のまゝに書(キ)傳へたり、これらは言《コト》に文《アヤ》をなして、麗《ウルハシ》くつゞりて、唱《トナ》へ擧《アゲ》て、神にも人にも聞感《キキメデ》しめ、歌は詠《ナガ》めもする物にて、一字《ヒトモジ》も違《タガ》ひては惡《アシ》かる故に、漢文には書がたければぞかし、故(レ)歌は、此記と書紀とに載《ノ》れる如くに、字の音をのみ假《カリ》てかける、これを假字《カナ》といへり、【假字《カナ》とは加理那《カリナ》なり、其字の義《ココロ》をばとらずて、たゞ音のみを假《カリ》て、櫻を佐久羅《サクラ》、雪を由伎《ユキ》と書たぐひなり、那《ナ》は字といふことなり、字を古(ヘ)名《ナ》といへり、さて古(ヘ)の假字《カナ》は、凡て右の佐久羅《サクラ》由伎《ユキ》などの如く書るのみなりしを、後に、書(ク)に便《タヨリ》よからむために、片假字《カタカナ》といふ物を作れり、作れる人はさだかならず、吉備大臣《キビノオホオミ》などにぞありけむ、かくて是(レ)を片假字と名《ナヅ》けしゆゑは、本よりの假字のかたかたを略《ハブキ》て、伊をイ、利をリと、片《カタカタ》をかくが故なり、此(ノ)名は、うつほの物語(ノ)藏開《クラビラキノ》巻|國禅《クニユヅリノ》卷、又狹衣(ノ)物語などにも見えたり、さて此(ノ)片假字もなほ眞書にて、婦人《ヲミナ》兒童《ワラハベ》などのため、又歌など書(ク)にも、なごやかならざるゆゑに、又草書をくづして、平假字《ヒラガナ》)を作れり、是(レ)も其人はさだかならねど、花鳥餘情に、弘法大師これを作るとあり、世にも然いひつたへたり、さもありぬべし、さてこれを平假字といふは、片假字に對《ムカ》へてなり、されど此(ノ)名は、古き物には見あたらず、】祝詞《ノリト》宣命《ミコトノリ》は、又|別《コト》に一種《ヒトクサ》の書法《カキザマ》ありて、世に宣命書《セムミヤウガキ》といへり、【祝詞は、延喜式にあまた載《ノセ》られて、八の卷その卷なり、宣命は、續紀よりこなた、御代々々の紀に多く記されたり、】おほかたこれらの餘《ホカ》、かならず詞を文《アヤ》なさずても有(ル)べきかぎりは、みな漢文にぞ書《カケ》りける、【故(レ)そのならひのうつりて、漸(ク)に此方《ココ》の詞つゞけも、おのづから漢文ざまになりぬることおほし、かの宣命祝詞のたぐひすら、後々のは、たゞ書(キ)ざまのみ古(ヘ)のまゝにて、詞は漢なることのみぞ多かる、凡て後(ノ)世にくだりては、漢文の詞つきを、返(リ)て美麗(ウルハ)しと聞て、皇國の雅言《ミヤビゴト》の美麗《ウルハシ》きをば、たづぬる人もなくなりぬるは、いとも/\悲しきわざなりけり、】かゝれば此記を撰定《エラ》ばれつるころも、歌祝詞宣命 などの余《ホカ)には、いまだ仮字文《カナブミ》といフ書法《カキザマ》は無《ナ》かりしかばmなべての世間《ヨ》のならひのまゝに、漢文には書《カカ》れしなり、さて然《シカ》漢文を以て書(ク)に就《ツキ》ては、そのころ其(ノ)学問|盛《サカリ》にて、そなたざまの文章をも、巧《タクミ》にかきあへる世なれば、是(レ)も書紀などの如く、其文をかざりて物せらるべきに、さはあらで、漢文のかたは、たゞありに拙《ツタナ》げなるは、ひたぶるに古(ノ)語を傳ふることを旨《ムネ》とせる故に、漢文の方には心せざる物なり、【撰者の、漢文かくことの拙《ツタナ》かりしにはあらず、序(ノ)文とくらべ見よ、序こそ、彼(ノ)人のからぶみ力《ヂカラ》のかぎりとは見ゆめれ、】故(レ)字の意にもかゝはらず、又その置處《オキドコロ》などにも拘《カカハ》らざるところ多かりかし、又序に、全(ク)以(テ)v音(ヲ)連(ヌレバ)者、事(ノ)趣更(ニ)長(シ)、是(ヲ)以(テ)今或(ハ)一句(ノ)之中、交(ヘ)2用(ヒ)音訓(ヲ)1、或(ハ)一事(ノ)之内、全(ク)以(テ)v訓(ヲ)録(ス)、とあるをもて見れば、全く仮字|書《ガキ》の如くにもせまほしく思はれけむ、撰者の本意《ココロ》しられたり、故(レ)大体《オホカタ》は漢文のさまなれども、又ひたぶるの漢文にもあらず、種々《クサグサ》のかきざま有て、或は仮字書(キ)の處も多し、久羅下那洲多陀用幣流《クラゲナスタダヨヘル》などもあるが如し、又宣命書の如くなるところもあり、在祁理《アリケリ》、また吐散登許曾《ハキチラストコソ》などの如し、又漢文ながら、古語(ノ)格《サマ》」ともはら同じきこともあり、立《タタシ》2天浮橋《アマノウキハシニ》1而《テ》指2下《サシオロシ》其《ソノ》沼矛《ヌホコヲ》1【立(ノ)字又指下(ノ)二字を、上に置るほ、漢文なり、されど尋常《ヨノツネ》のごとく字のまゝに讀て、古語に違ふことなし、】などの如し、又漢文に引(カ)れて、古語のさまにたがへる處も、をり/\は無きにあらず、名(ケテ)2其(ノ)子(ヲ)1云(フ)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とあるたぐひ、古語にかゝば、其(ノ)子(ノ)名(ヲ)云(フ)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とか、其(ノ)子(ヲ)名(ク)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とか有(ル)べし、此(レ)謂(フ)2之(ヲ)神語(ト)也とある、之(ノ)字の添《ソヒ》たるは、古語にたがへり、更(ニ)往(キ)廻(リタマフコト)其(ノ)天(ノ)之御柱(ヲ)1如(シ)v先(キノ)、これらも如(シ)v先(ノ)てふ言の置所《オキドコロ》、此方《ココ》の語とたがへり、更(ラニ)其(ノ)天(ノ)之御柱(ヲ)如《ゴト》v先(キノ)往(キ)廻(リタマフ)といふぞ、此方《ココ》の語《コトバ》つゞけなる、此(ノ)類(ヒ)心をつくべきことなり、よくせずば漢文に惑《マド》ひぬべし、又懐妊臨v産、或は不v得v成v婚、或は足v示2後世1、或は不v得v忍2其兄1などの類は、ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず、但(シ)かくさまの文といへども、ことさらに好《コノ》みてにはあらざるめれど、當時《ソノカミ》物書(ク)には、なべて漢文のみになれぬるから、とりはづしては、おのづからかゝることも雑《マジ》れるなるべし、【古(ヘ)仮字文の例なくして、漢文にのみ物をかきなれたるゆゑなり、仮字文かくこと始まりて後の、物語文などには、かへりてかくの如き詞つきなる文はなきをもてしるべし、】又庶兄嫡妻人民國家などのたぐひの文字も、此方《ココ》の言には疎《ウト》けれど、これらは殊に世に用《ツカ》ひなれたるまゝなるべし、山海昼夜などの類も、此方《ココ》には海山《ウミヤマ》夜昼《ヒル》といへども、これはた書(キ)なれたるまゝなり、さて又古言を記《シル》すに、四種《ヨクサ》の書(キ)ざまあり、一(ツ)に」は假字書《カナガキ》、こは其言をいさゝかも違《タガ》へざる物なれば、あるが中にも正《タダ》しきなり、二(ツ)には正字《マサモジ》、こは呵米《アメ》を天、都知《ツチ》を地と書(ク)類にて、字の義《ココロ》、言の意に相當《アヒアタリ》て、正しきなり、【但し天は阿麻《アマ》とも曾良《ソラ》とも訓(ム)べく、地は久爾(クニ)とも登許呂《トコロ》とも訓べきが故に、言の定まらざることあり、故(レ)假字書の正しきには及ばず、されど又、言の意を具《ソナ》へたるは、假字書にまされり、】其(ノ)中に、股《マタ》に俣と書(キ)、【こは漢國籍《カラクニブミ》になき文字なり、】橋に椅(ノ)字を用ひ、【こは橋の義《ココロ》なき字なり、】蜈※〔虫+松〕呉公と作《カケ》る【こは偏《ヘム》を省《ハブ》ける例なり、】たぐひは、正字ながら別《コト》)なるものにして、又|各《オノオノ》一種《ヒトクサ》なり、【其由どもは、各其處々にいふべし、】三(ツ)には借字《カリモジ》、こは字の義《ココロ》を取らず、たゞ其(ノ)訓《ヨミ》を、異意《アダシココロ》に借(リ)て書(ク)を云(フ)、序に、因(テ)v訓(ニ)述(ブレバ)者、詞不v逮(バ)v心(ニ)とある是(レ)なり、神(ノ)名人(ノ)名地(ノ)名などに殊におほし、其(ノ)餘《ホカ》のたゞの言にも、まれには用ひたり、平城《ナラ》のころまでは、凡て此(ノ)借(リ)字に書る、常の事にて、云(ヒ)もてゆけば、假字《カナ》と同じことなるを、後(ノ)世になりては、たゞ文字にのみ心をつくる故に、これをいふかしむめれど、古(ヘ)は言を主《ムネ》として、字にはさしも拘《カカハ》らざりしかば、いかさまにも借(リ)てかけるなり、四(ツ)には、右の三種《ミグサ》の内を、此(レ)彼(レ)交《マジ》へて書るものあり、さて上(ノ)件(リ)の四くさの外に又、所由《ヨシ》ありて書ならへる一種《ヒトクサ》あり、日下《クサカ》春日《カスガ》飛鳥《アスカ》大神《オホミワ》長谷《ハツセ》他田《ヲサダ》三枝《サキクサ》のたぐひ是(レ)なり、
假字《カナ》の事
此記に用ひたる假字のかぎりを左にあぐ、
ア※〔□で囲む〕阿 此(ノ)外に、延佳本又一本に、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、亞亞《アア》といふ假字あれども、誤字《アヤマレルモジ》と見えたり、其由ほ彼處《ソコ》に弁《ワキマフ》べし、
イ※〔□で囲む〕伊
ウ※〔□で囲む〕宇※〔さんずい+于〕 此(ノ)中に、※〔さんずい+于〕(ノ)字は、上卷|石屋戸(イハヤドノ)段に、伏《フセ》2※〔さんずい+于〕氣《ウケ》1、とたゞ一(ツ)あるのみなり、
エ※〔□で囲む〕延愛 此(ノ)中に、愛(ノ)字は、上卷に愛袁登古《エヲトコ》愛袁登賣《エヲトメ》、また神(ノ)名|愛比賣《エヒメ》などのみなり、
オ※〔□で囲む〕淤意隱 此(ノ)外に、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、於志弖流《オシテル》と、たゞ一(ツ)於(ノ)字あれども、一本に淤とあれば、後の誤(リ)なり、隱(ノ)字は、國(ノ)名|隱伎《オキ》のみなり、
カ※〔□で囲む〕加迦※〔言+可〕甲可 【濁音】賀何我 此(ノ)中に、甲(ノ)字は、甲斐《カヒ》とつゞきたる言にのみ用ひたり、【國(ノ)名のみならず、カヒとつづきたる言には、すべて此(ノ)字を書り、】可(ノ)字は、中卷軽嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、阿可良氣美《アカラケミ》とあるのみなり、【下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、延佳本に、可豆艮《カヅラ》とあるは、ひがことなり、】賀(ノ)字は、清濁に通はし用ふといふ人もあれど、然らず、必濁音なり、【記中の歌に、此字の見えたる、おほよそ百三十あまりなる中に、必清音なるべきところは、たゞ五(ツ)のみにして、其餘《ソノホカ》百二十あまりは、ことごとく濁音の處なればなり、】何(ノ)字は、上卷(ノ)歌に、和何《ワガ》と三(ツ)、また岐美何《キミガ》ともあるのみなり、我(ノ)字は、中卷に、姓の蘇我《ソガ》のみなり、【下卷には宗賀《ソガ》とかけり、】
キ※〔□で囲む〕伎紀貴幾吉 【清濁通用】岐 【濁音】藝疑棄 此(ノ)中に、伎(ノ)字と岐(ノ)字との間《アヒダ》に、疑はしきことあり、上卷の初《ハジメ》つかたしばしがほどは、清音には伎(ノ)字を用ひ、岐(ノ)字は濁音にのみ用ひて、清濁分れたるに、後は清濁共に岐をのみ用ひて、伎を用ひたるはたゞ、上卷八千矛(ノ)神(ノ卷卷)御歌に、伎許志弖《キコシテ》、また那伎《ナキ》、【鳴也、】中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段に、伊須々岐伎《イススギキ》、軽嶋(ノ)宮(ノ)段に迦豆伎《カヅキ》、下卷高津(ノ)宮(ノ)段に、伊波迦伎加泥弖《イハカキカネテ》、朝倉(ノ)宮(ノ)段に由々斯伎《ユユシキ》、これらのみなり、抑記中凡て一(ツノ)假字を、清濁に兼用ひたる例なきをもて思(フ)に、本は清音の處は、終(リ)までみな伎(ノ)字なりけむを、字(ノ)形の似たるから、後に誤(リ)て、みな岐に混《マギ》れつるにやあらむ、【又伊邪那岐命の岐(ノ)字を、伎と作《カケ》る處もあり、是(レ)はたまぎれつるなり、】されど今は定めがたければ、姑く岐をば清濁通用とあげつ、貴(ノ)字は、神(ノ)名|阿遲志貴《アヂシキ》のみなり、【歌にも此字を書り、】幾(ノ)字は、河内の地名|志幾《シキ》のみなり、【大倭のはみな師木とのみかけり、】吉(ノ)字は、國(ノ)名~|吉備《キビ》、【歌には岐備《キビ》と書り、】姓《カバネ》吉師《キシ》のみなり、疑(ノ)字は、上卷に佐疑理《サギリ》、【霧なり、】中卷に泥疑《ネギ》【三つあり、】須疑《スギ》【過なり三(ツ)あり、】のみなり、棄(ノ)字は、上卷に奴棄宇弖《ヌギウテ》とあるのみなり、【同じつゞきに此(ノ)言の今一(ツ)あるには、奴岐《ヌギ》と書り、】
ク※〔□で囲む〕久玖 【濁音】具
ケ※〔□で囲む〕氣祁 【濁音】宜下牙 此(ノ)中に、下(ノ)字は、上卷に久羅下《クラゲ》【海月《クラゲ》なり、】とあるのみなり、牙(ノ)字は、中卷に佐夜牙流《サヤゲル》とあるのみなり、
コ※〔□で囲む〕許古故胡高去 【濁音】碁其 此(ノ)中に、故(ノ)字は、上卷(ノ)歌に故志能久邇《コシノクニ》と、只一(ツ)あるのみなり、【文《コトバ》には高志《コシ》と書り、】胡(ノ)字は、中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段に、盈々志夜胡志夜《エエシヤコシヤ》、【二(ツ)あり、】下卷甕栗(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、宇良胡本斯《ウラコホシ》、これのみなり、去(ノ)字は、白檮原(ノ)宮(ノ)段に、志祁去岐《シケコキ》とあるのみなり、【もしは古(ノ)字を誤れるには非るにや、】高(ノ)字は、地名高|志《コシ》と、人(ノ)名|高目郎女丸高王《コムクノイラツメマロコノミコ》と、これらのみなり、碁(ノ)字は、或は基(ノ)字に作《カケ》る處もあり、是(レ)は本より二(ツ)かとも思はるれど、諸本|互《タガヒ》に異《コト》にして、定まらざれば、本は一(ツ)なりけむが、誤りて二(ツ)にはなれるなり、かくて何《イヅ》れを正《タダ》しとも、今|言《イヒ》がたけれども、姑《シバラ》く多き方に定めて、基をば誤(リ)としつ、其(ノ)字は、上卷(ノ)歌に只一(ツ)あるのみなり、【その同言の、前後に多くあるは、みな碁基(ノ)字を書たれば、是(レ)はたその字の誤(リ)にこそあらめ、】
サ※〔□で囲む〕佐沙左 【濁音】邪奢 此(ノ)中に、沙(ノ)字は、神(ノ)名人(ノ)名地(ノ)名に往々《ヲリヲリ》用ひ、又中卷に沙庭《サニハ》ともある、これらのみなり、左(ノ)字は、国(ノ)名|土左《トサ》のみなり、又佐(ノ)字を、二所《フタトコロ》作と作《カケ》る本あり、上卷|麻都夫作邇《マツブサニ》、また岐作理持《キサリモチ》これなり、是《コ》は皆誤(リ)なり、邪(ノ)字、おほく耶と作《カケ》り、誤(リ)にはあらざれども、【漢籍《カラブミ》にも、此(ノ)二字通はし用ひたること多し、玉篇に、耶(ハ)俗(ノ)邪(ノ)字といへり、】なほ邪を正《タダ》しとすべし、奢(ノ)字は、神(ノ)名|久比奢母知《クヒザモチ》、奥奢加流《オキザカル》、伊奢沙和氣《イザサワケ》、人(ノ)名|伊奢之眞若《イザノマワカ》など、辭《コトバ》にも、中卷に伊奢《イザ》【二ところ】とある、これらのみなり、
シ※〔□で囲む〕斯志師色紫芝 【濁音】士自 此(ノ)中に、師(ノ)字は、壹師《イチシ》吉師《キシ》のみなり、【師木《シキ》味師《ウマシ》などの師は、訓に取れるにて、借字《カリモジ》の例なり、假字の例には非ず、】色(ノ)字は、人(ノ)名の色許男《シコヲ》色許賣《シコメ》のみなり、紫(ノ)字は、筑紫《ツクシ》のみなり、芝(ノ)字は、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、芝賀《シガ》と只一(ツ)あるのみなり、自字は、地(ノ)名|伊自牟《イジム》、人(ノ)名|志自牟《シジム》のみなり、さて右の字どもの外に、中卷水垣(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に式(ノ)字一(ツ)、軽嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に支(ノ)字一(ツ)、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に之(ノ)字一(ツ)あれども、いと疑はし、誤(リ)ならむか、なほ其(ノ)處々《トコロドコロ》に論ふべす、
ス※〔□で囲む〕須洲州周 【濁音】受 此(ノ)中に洲(ノ)字は、上卷に久羅下那洲《クラゲナス》とあるのみなり、【堅洲國《カタスクニ》洲羽海《スハノウミ》などの洲は、訓を用ひたるなれば、假字の例にあらず、】州(ノ)字は、上卷に州須《スス》【煤なり、】とあるのみなり、洲州の内一(ツ)は、一(ツ)を誤れるにもあらむか、周(ノ)字は、國(ノ)名周芳のみなり、さて右の字どもの外に、中卷水垣(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、素(ノ)字一(ツ)あれども、そは袁(ノ)字の誤(リ)なり、
セ※〔□で囲む〕勢世 【濁音】是
ソ※〔□で囲む〕曾蘇宗 【濁音】叙 此(ノ)中に、曾(ノ)字は、なべては清音にのみ用ひたるに、辭《テニヲハ》のゾの濁音は、あまねく此(ノ)字を用ひたり、【書紀萬葉などもおなじ、】故(レ)もしくは辭《テニヲハ》のゾも、古(ヘ)は清《スミ》て云るかとも思へども、中卷軽嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌には、三處まで叙(ノ)字をも用ひ、又|某《ソレ》ゾといひとぢむるゾにも、多くは叙を用ひたれば、清音にあらず、然るにそのいひとぢむるところのゾにも、一(ツ)二(ツ)曾を書る處もあり、然れば此字、清濁に通はし用ひたるかとも思へど、記中にさる例もなく、又|辭《テニヲハ》のゾをおきて、他《ホカ》に濁音に用ひたる處なければ、今は清音と定めつ、そも/\此(ノ)字、辭《テニヲハ》のゾにのみ濁音に用ひたること、猶よく考ふべし、宗(ノ)字は、姓|阿宗宗賀《アソソガ》のみなり、
タ※〔□で囲む〕多當他 【濁音】陀太 此(ノ)中に、當(ノ)字は、當藝志美美々《タギシミミノ》命、また當藝斯《タギシ》、當藝野《タギヌ》、當岐麻《タギマ》などのみなり、他(ノ)字は、地(ノ)名|多他那美《タタナミ》、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に他賀《タガ》、【誰《タガ》なり、】これのみなり、太(ノ)字は、下卷列木(ノ)宮(ノ)段に、品太《ホムダノ》天皇とあり、【此(ノ)御名、餘《ホカ》は皆品陀とかけり、】又朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、延佳本に太陀理《タダリ》【線柱なり、】とあるは、さかしらに改めたるものにしてひがことなり、諸本みな本陀理《ホダリ》とあるぞよろしき、【なほこの太陀理の事は、彼歌の下《トコロ》に委しく論ふ、】また中卷にも、阿太之別《アダノワケ》といふ姓あり、其《ソ》は本《ホノ》字の誤(リ)ならむかの疑(ヒ)あるなり、
チ※〔□で囲む〕知智 【濁音】遲治地 此(ノ)中に、地(ノ)字は、神(ノ)名|宇比地邇《ウヒヂニ》、意富斗能地《オホトノヂ》のみなり、
ツ※〔□で囲む〕都 【濁音】豆
テ※〔□で囲む〕 弖帝 【濁音】傳殿 此(ノ)中に、帝(ノ)字は、神(ノ)名|布帝耳《フテミミ》、中卷に、佐夜藝帝《サヤギテ》とあるのみなり、殿(ノ)字は、上卷に志殿《シデ》【垂《シデ》なり、】のみなり、
ト※〔□で囲む〕登斗刀等土 【濁音】抒度〓騰 此(ノ)中に、等(ノ)字は、上卷に、袁等古《ヲトコ》また美許等《ミコト》、下卷に、等母邇《トモニ》、これらのみなり、土(ノ)字は國(ノ)名土左のみなり、〓(ノ)字は、神名|淤〓山津見《オドヤマツミ》のみなり、騰(ノ)字は、曾富騰《ソホド》とあるのみなり、【中卷に勝騰門比賣とあるは、誤(リ)なるべし、】さて此(ノ)〓騰」の内、一(ツ)は一(ツ)を誤れるにもあらむか、
ナ※〔□で囲む〕那
ニ※〔□で囲む〕邇爾
ヌ※〔□で囲む〕奴怒濃努 此(ノ)中に、濃(ノ)字は、國(ノ)名|美濃《ミヌ》のみなり、【凡て古書に、農濃などは、ヌの假字に用ひたり、ノの音にはあらず、美濃も、ミノといふは、中古よりのことなり、】努(ノ)字は、中卷に、美努《ミヌノ》村とあるのみなり、
ネ※〔□で囲む〕泥尼禰 此(ノ)中に、尼(ノ)字は、上卷に、加尼《カネ》【金なり、】また阿多尼都岐《アタネツキ》とあるのみなり、禰(ノ)字は、宿禰《スクネ》、また軽嶋(ノ)宮(ノ)段に沙禰王《サネノミコ》、【こは弥の誤(リ)にもあらむか、】これのみなり、
ノ※〔□で囲む〕能乃 此(ノ)中に、乃(ノ)字は、上卷に大斗乃弁《オホトノベノ》神、下卷に余能那賀乃比登《ヨノナガノヒト》、又|加流乃袁登賣《カルノヲトメ》、又|比志呂乃美夜《ヒシロノミヤ》、これらのみなり、
ハ※〔□で囲む〕波 【濁音】婆
ヒ※〔□で囲む〕比肥斐卑 【濁音】備毘 此(ノ)中に、卑(ノ)字は、天之菩卑《アメノホヒノ》命【此(ノ)御名、比《ヒノ》)字をも書たり、】のみなり、
フ※〔□で囲む〕布賦 【濁音】夫服 此(ノ)中に、賦(ノ)字は、賦登麻和※〔言+可〕比賣《フトマワカヒメ》、又|日子賦斗邇《ヒコフトニノ》命、又地(ノ)名|伊賦夜坂《イフヤザカ》、波邇賦坂《ハニフザカ》、これらのみなり、服(ノ)字は、地(ノ)名|伊服岐《イブキ》のみなり、
ヘ※〔□で囲む〕幣閉開平 【濁音】弁倍 此(ノ)中に、平(ノ)字は、地(ノ)名|平群《ヘグリ》のみなり、さて幣(ノ)字は、弊(ノ)字に作《カケ》る處もあり、其《ソ》は誤(リ)とすべし、其(ノ)説|全《マタ》」く上の碁と基との如し、弁(ノ)字は、弁とも作《カケ》る處あるは、同じことと心得て寫(シ)誤れるなり、【こは釈を尺、慧を恵と書(ク)類にて、画の多き字をば、音の通ふ字の、画|少《スクナ》く書易《カキヤス》きを借(リ)て書(ク)例ありて、弁をもつねに弁と書ならへる故に、たゞ同じことと心得たるものなり、別に此(ノ)字をも用ひたるにはあらず、これは假字なれば、もとより別に弁(ノ)字とせむも、事もなけれど、なほ然にはあらじ、】
ホ※〔□で囲む〕富本菩番蕃品】 【濁音】)煩 此(ノ)中に、本(ノ)字は、上卷には一(ツ)もなくして、中卷下卷に多く用ひたり、菩(ノ)字は、天之菩卑《アメノホヒノ》命、中卷に加牟菩岐《カムホギ》、これのみなり、番(ノ)字は、番能邇々藝《ホノニニギノ》命、又|番登《ホト》、【陰《ホト》なり、】これのみなり、蕃(ノ)字は、蕃登《ホト》【陰《ホト》なり、】のみなり、番蕃の内、一(ツ)は一(ツ)の誤にもあるべし、品(ノ)字は、中卷に、品牟智和気《ホムチワケノ》命とあるのみなり、【同(ジ)御名を、下には本(ノ)字を書り、】そのほかほ、ホムの二音にこれかれ用ひたり、
マ※〔□で囲む〕麻摩
ミ※〔□で囲む〕美微弥味 此(ノ)中に、弥(ノ)字は、神名|弥都波能賣《ミツハノメ》、弥豆麻岐《ミヅマギ》また下卷高津(ノ)宮(ノ)段に意富岐弥《オホキミ》、【此言、餘《ホカ》は美(ノ)字をかけり、】遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段に和賀多々弥《ワガタタミ》、これらのみなり、味(ノ)字は、中卷に佐味那志爾《サミナシニ》、これ一(ツ)なり、
ム※〔□で囲む〕牟无武 此(ノ)中に、无(ノ)字は、國(ノ)名(ノ)无邪志《ムザシ》のみなり、武(ノ)字は、國(ノ)名|相武《サガム》のみなり、【相模と作(カ)ける本もあり、歌には牟(ノ)字を書り、】
メ※〔□で囲む〕米賣※〔口+羊〕 此(ノ)中に、※〔口+羊〕(ノ)字は、中卷軽嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)末、人(ノ)名|當麻之※〔口+羊〕斐《タギマノメヒ》)のみなり、【こは正しくは※〔口+※〔草がんむり/干〕〕と作《カク》字なり、】
モ※〔□で囲む〕母毛 此(ノ)外に、下干高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、文(ノ)字二(ツ)あれど、誤(リ)なるべし、
ヤ※〔□で囲む〕夜也 此(ノ)中に、也(ノ)字は、上卷歌の結《トヂメ》に、曾也《ゾヤ》と只一(ツ)あるのみにて、疑はしけれど、姑くあげつ、【なほ其(ノ)歌の處に云べし、】
ユ※〔□で囲む〕由
ヨ※〔□で囲む〕余用與予 此(ノ)中に、予(ノ)字は、國(ノ)名|伊予《イヨ》、【中卷下卷には、伊余《イヨ》とかけり、】又|予母都志許賣《ヨモツシコメ》のみなり、
ラ※〔□で囲む〕羅良
リ※〔□で囲む〕理
ル※〔□で囲む〕琉流留
レ※〔□で囲む〕禮
ロ※〔□で囲む〕呂路漏侶盧樓 此(ノ)中に、路(ノ)字は、上卷に、斯路岐《シロキ》【二(ツ)あり、】久路岐《クロキ》のみなり、中卷下卷には、白黒《シロクロ》のロに、みな漏(ノ)字を用ひたり、侶(ノ)字は、佐久々斯侶《(サククシロ》のみなり、盧(ノ)字は、意富牟盧夜《オホムロヤ》のみなり、樓(ノ)字は、摩都樓波奴《マツロハヌ》とあるのみなり、【此(ノ)言今一(ツ)あるには、漏(ノ)字をかけり、】
ワ※〔□で囲む〕和丸 此(ノ)中に、丸(ノ)字は、地(ノ)名|丸邇《ワニ》のみなり、【こは訓に非ず、音なり、】
ヰ※〔□で囲む〕葦
ヱ※〔□で囲む〕恵
ヲ※〔□で囲む〕袁遠
上件の外に、記※〔さんずい+巳〕※〔さんずい+遊のしんにょうなし〕〓梯之天未末且徴彼衣召此忌計酒河被友申祀表存在又、これらを假字に書る本《マキ》あり、みな寫し誤れるものなり、
假字用格《カナヅカヒ》のこと、大かた天暦のころより以往《アナタ》の書どもは、みな正《タダ》しくして、伊葦延恵於袁《イヰエヱオヲ》の音《コヱ》、又下に連《ツラナ》れる、波比布閇本《ハヒフヘホ》と、阿伊宇延於和葦宇意袁《アイウエオワヰウヱヲ》とのたぐひ、みだれ誤りたること一(ツ)もなし、其《ソ》はみな恒《ツネ》に口《クチ)にいふ語《コトバ》の音《コヱ》に、差別《ワキタメ》ありけるから、物に書《カク》にも、おのづからその假字《カナ》の差別《ワキタメ》は有(リ)けるなり、【然るを、語《コトバ》の音《コヱ》には、古(ヘ)も差別はなかりしを、ただ假字のうへにて、書分《カキワケ》たるのみなりと思ふは、いみしきひがことなり、もし語の音に差別なくば、何によりてかは、假字を書(キ)分(ク)ることのあらむ、そのかみ此(ノ)書と彼(ノ)書と、假字のたがへることなくして、みなおのづからに同じきを以ても、語(ノ)音にもとより差別ありしことを知(ル)べし、かくて中昔より、やうやくに右の音どもおの/\乱れて、一(ツ)になれるから、物に書(ク)にも、その別《ワキ》なくなりて、一(ツノ)音に、二(タ)ともの假字ありて、其《ソ》は無用《イタヅラ》なる如くになむなれりけるを、其(ノ)後に京極(ノ)中納言定家(ノ)卿、歌書《ウタブミ》の假字づかひを定めらる、これより世にかなづかひといふこと始(マ)りき、然れども、當時《ソノカミ》既《ハヤ》)く人の語(ノ)音|別《ワカ》)らず、又古書にも依《ヨ》らずて、心もて定められつる故に、その假字づかひは、古(ヘ)のさだまりとは、いたく異《コト》なり、然るを其後の歌人の思へらくは、古(ヘ)は假字の差別なかりしを、たゞ彼(ノ)卿なむ、始めて定め給へると思ふめり、又近き世に至りては、たゞ音の軽(キ)重(キ)を以て弁ふべし、といふ説などもあれど、みな古(ヘ)を知らぬ妄言《ミダリゴト》なり、こゝに難波に契沖といひし僧《ホウシ》ぞ、古書をよく考へて、古(ヘ)の假字づかひの、正しかりしことをば、始めて見得(ミエ)たりし、凡て古學《イニシヘマナビ》の道は、此(ノ)僧よりぞ、かつ/”\も開け初《ソメ》ける、いとも/\有(リ)がたき功《イサヲ》になむ有(リ)ける、】かくて其(ノ)正しき書どもの中に、此記と書紀と萬葉集とは、殊に正しきを、其中にも、此記は又殊に正しきなり、いでそのさまを委曲《ツバラカ》に云(ハ)むには、まづ続紀より以來《コナタ》の書どもの假字は、清濁|分《ワカ》れず、【濁音の所に、清音(ノ)假字を用ひたるのみならず、清音に濁音(ノ)字をもまじへ用ひたり、】又音と訓とを雜《マジ》へ用ひたるを、此記書紀萬葉は清濁を分《ワカ》てり、【此記|及《マタ》書紀萬葉の假字、清濁を分《ワカ》てるにつきて、なほ人の疑ふことあり、今つばらかに弁へむ、そはまづ後(ノ)世には濁る言を、古(ヘ)は清《スミ》ていへるも多しと見えて、山の枕詞のあしひき、又|宮人《ミヤヒト》などのヒ、嶋《シマ》つ鳥《トリ》家《イヘ》つ鳥《トリ》などのトのたぐひ、古書どもには、いづれも/\清音の假字をのみ用ひて、濁音なるはなし、なほ此類多し、又後(ノ)世には清《ス》む言に、濁音の假字をのみ用ひたるも多し、これらは、假字づかひのみだりなるにはあらず、古(ヘ)と後(ノ)世と、言の清濁の變《カハ》れるなれば、今の心をもて、ゆくりなく疑ふべきにあらず、又そのほかに、言の首《ハジメ》など、決《キハ》めて清音なるべき處にも、濁音の假字を用ひたることも、いとまれ/\にはあるは、おのづからとりはづして、誤れるもあるか、又後に寫し誤れるもあるべし、されど此記には、殊に此(ノ)違《タガ》ひはいと/\まれにして、惣《スベ》ての中に、わづかに二十ばかりならでは見えざる、其中に十ばかりは、婆(ノ)字なるを、その八(ツ)は、一本には波と作《ア》れば、のこり二(ツ)三(ツ)の婆も、もとは波なりしことしられたり、然れば、記中まさしく清濁の違《タガ》へりと見ゆるは、たゞ十ばかりには過《スギ》ずして、其(ノ)餘《ホカ》幾百《イクモモチ》かある清濁は、みな正《タダ》しく分れたるものを、いと/\まれなる方になづみて、なべてを疑ふべきことかは、さて書紀は、此記に比《クラ》ぶれば、清濁の違へることいと多し、こはいといふかしきことなり、然れども又、全くこれを分《ワカ》たず、淆《マジヘ》用ひたるものにはあらず、凡《スベ》ては正しく分れたれば、かの後の全く混《マジヘ》用ひたる書どものなみにはあらず、さて又萬葉は、此記に比《クラ》ぶれば、違へるところもやゝ多けれども、書紀に比《クラ》ぶれば、違ひはいと少《スクナ》くして、すべて清濁正しく用ひ分《ワケ》たるさま太り、これらの差別《ワキタメ》は、その用ひたる假字どもを、一(ツ)毎《ゴト》にあまねく考へ合せて、知(ル)べきことなり、たゞ大《オホ》よそに見ては、くはしきことは、知(リ)がたかるべきものぞ、】其(ノ)中に萬葉の假字は、音訓まじはれるを、【但し萬葉の書法《カキザマ》は、まさしき假字の例には云(ヒ)がたき事あり、なほ種々《クサグサ》あやしき書《カキ》ざま多《オホ》ければなり、】此記と書紀とほ、音のみを取(リ)て、訓を用ひたるは一(ツ)もなし、これぞ正《マサ》しき假字なりける、【訓を取(ル)とは、木止三女井《キトミメヰ》の類なり、此記と書紀には、かゝるたぐひの假字あることなし、書紀允恭(ノ)御卷(ノ)歌に、迹《ト》津《ツノ》二字あるは、共に寫し誤れるものなり、又苫(ノ)字を多く用ひたる、是も苔を誤れるなり、こはタイの音の字なるを、トに用ひたる例は、廼《ナイ》をノに、廼《ダイ》をドに、耐《ダイ》をドに用ひたると同じ、此(ノ)格他(ノ)音にも多し、なほ書紀の假字、今(ノ)本、字を誤り讀《ヨミ》を誤れる多し、委くは別に論ひてむ、】然るに書紀は、漢音呉音をまじへ用ひ、又一字を三音四音にも、通はし用ひたる故に、いとまぎらはしくして、讀《ヨミ》を誤ること常《ツネ》多きに、此記は、呉音をのみ取て、一(ツ)も漢音を取らず、【帝をテに、禮をレに用るも、漢音のテイレイにはあらず、呉音のタイライなり、そは愛《アイ》を.エに、賣《マイ》米《マイ》をメに用ると同(ジ)格なり、書紀にも、此格の假字あり、開《カイ》階《カイ》をケに、細《サイ》をセに、珮《ハイ》背《ハイ》をヘに用ひたる是(レ)なり、さて用(ノ)字は、呉音はユウにして、ヨウは漢音なるに、ヨの假字に用ひたるは、此(ノ)字古(ヘ)は、呉音もヨウとせるにや、書紀にも萬葉にも、ヨの假字にのみ用ひて、ユに用ひたる例なし、】又一字をば、唯《タダ》一音に用ひて、二音三音に通はし用ひたることなし、【宜《ゲ》をギともよみ、用《ヨ》をユともよむたぐひは、みなひがことなり、】又入聲(ノ)字を用ひたることをさ/\無し、たゞオに意(ノ)字を用ひたるは、入聲なり、【是(レ)は億(ノ)字の偏《ヘム》を省《ハブ》きたるものなり、古(ヘ)は偏《ヘム》を省《ハブ》きて書(ク)例多し、此(ノ)事傳十之卷|呉公《ムカデ》の下《トコロ》に委(ク)云べし、億憶などをも、書紀にオの假字に用ひたり、又意(ノ)字に億《オク》の音もあり、臆《オク》に通ふこともあれども、正音をおきて、傍音《カタハラノコヱ》を取(ル)べきにあらず、たゞ億の偏を省ける物とすべし、】又いとまれに、シに色(ノ)字、カに甲(ノ)字、プに服(ノ)字を書ることあり、これらは由《ヨシ》あり、そは必(ズ)下に其(ノ)韻の通音の連《ツヅ》きたる書にあり、【色(ノ)字は、人(ノ)名に色許《シコ》と連《ツヅ》きたるにのみある、色《シキ》の韻ほキにして、許《コ》は其(ノ)通音なり、甲(ノ)字は、甲斐《カヒ》と連《ウヅ》きたる言にのみ書る、甲《カフ》の韻はフにして、斐《ヒ》は其(ノ)通音なり、服(ノ)字は、地名|伊服岐《イブキ》とあるのみなる、服《ブク》の韻はクにして、岐《キ》は其(ノ)通音なり、おほかたこれらにても、古(ヘ)人の假字づかひの、いと嚴《オゴソカ》なりしことをしるべし、】此(ノ)外|吉備《キビ》吉師《キシ》の音(ノ)字あれども、國(ノ)名又|姓《カバネ》なれば、正《マサ》しき假字の例とは、いさゝか異なり、【故に吉備も、歌には岐備《キビ》とかけり、凡て歌と訓(ノ)注とぞ、正《マサ》しき假字の例には有(リ)ける、】さて又同音の中にも、其(ノ)言に隨《シタガ》ひて、用(フ)る假字|異《コト》にして、各《オノオノ》定まれること多くあり、其例をいはば、コの假字には、普《アマネ》く許《コ》古《コノ》二字を用ひたる中に、子《コ》には古(ノ)宇をのみ書て、許(ノ)字を書ることなく、【彦《ヒコ》壯士《ヲトコ》などのコも同じ、】メの假字には、普《アマネ》く米《メ》賣《メノ》二字を用ひたる中に、女《メ》には賣《メノ》字をのみ書て、米《メノ》字を書ることなく、【姫《ヒメ》處女《ヲトメ》などのメも同じ、】キには、伎《キ》岐《キ》紀《キ》を普く用ひたる中に、木《キ》城《キ》には紀《キ》をのみ書て、伎《キ》岐《キ》をかゝず、トには登《ト》斗《ト》刀《ト》を普く用ひたる中に、戸《ト》太《フト》問《トフ》のトには、斗《ト》刀《ト》をのみ書て、登《ト》をかゝず、ミには美《ミ》微《ミ》を普く用ひたる中に、神《カミ》のミ木草の實《ミ》には、微《ミ》をのみ書て、美《ミ》を書《カカ》)ず、モには毛《モ》母《モ》を普く用ひたる中に、妹《イモ》百《モモ》雲《クモ》などのモには、毛《モ》をのみ書て、母《モ》をかゝず、ヒには、比《ヒ》肥《ヒ》を普く用ひたる中に、火《ヒ》には肥《ヒ》をのみ書て、比《ヒ》をかゝず、生《オヒ》のヒには、斐《ヒ》をのみ書て、比肥をかゝず、ビには、備《ビ》毘《ビ》を用ひたる中に、彦《ヒコ》姫《ヒメ》のヒの濁(リ)には、毘《ビ》をのみ書て、備《ビ》を書ず、ケには、氣《ケ》祁《ケ》を用ひたる中に、別《ワケ》のケには、氣《ケ》をのみ書て、祁《ケ》を書ず、辭《コトバ》のケリのケには、祁《ケ》をのみ書て、氣《ケ》をかゝず、ギには、藝《ギ》を普く用ひたるに、過《スギ》祷《ネギ》のギには、疑《ギ》(ノ)字をのみ書て、藝《ギ》を書ず、ソには、曾《ソ》蘇《ソ》を用ひたる中に、虚空《ソラ》のソには、蘇《ソ》をのみ書て、曾をかゝず、ヨには、余《ヨ》與《ヨ》用《ヨ》を用ひたる中に、自《ヨリ》の意のヨには、用《ヨ》をのみ書て、余《ヨ》與《ヨ》をかゝず、ヌには、奴《ヌ》怒《ヌ》を普く用ひたる中に、野《ヌ》角《ツヌ》忍《シヌブ》篠《シヌ》樂《タヌシ》など、後(ノ)世はノといふヌには、怒《ヌ》をのみ書て、奴《ヌ》をかゝず、右は記中に同(ジ)言の數處《アマタトコロ》に出たるを驗《ココロミ》て、此(レ)彼(レ)擧《アゲ》たるのみなり、此(ノ)類の定まり、なほ餘《ホカ》にも多《オホ》かり、此(レ)は此(ノ)記のみならず、書紀萬葉などの假字にも、此(ノ)定まりほの/”\見えたれど、其《ソ》はいまだ徧《アマネ》くもえ驗《ココロミ》ず、なほこまかに考ふべきことなり、然れども、此記の正しく精《クハ》しきには及ばざるものぞ、抑此(ノ)事は、人のいまだ得《エ》見顯《ミアラハ》さぬことなるを、己《オノレ》始(メ)て見得《ミエ》たるに、凡て古語を解《ト》く助《タスケ》となること、いと多きぞかし、
〇二合の假字 こは人(ノ)名と地(ノ)名とのみにあり、
アム※〔二字□で囲む〕淹 淹知《アムチ》 イニ※〔二字□で囲む〕印惠《イニヱノ》命、印色之入日子《イニシキノイリビコノ》命 イチ※〔二字□で囲む〕壹 壹比葦《イチヒヰ》、壹師《イチシ》 カグ※〔二字□で囲む〕香 香山《カグヤマ》、香用比賣《カグヨヒメ》 カゴ※〔二字□で囲む〕香 香余理比賣《カゴヨリヒメ》、香坂王《カゴサカノミコ》 グリ※〔二字□で囲む〕群 平群《ヘグリ》 サガ※〔二字□で囲む〕相 相模《サガム》、相樂《サガラカ》 サヌ※〔二字□で囲む〕讃 讃岐《サヌギ》 シキ※〔二字□で囲む〕色 印色之入日子《イニシキノイリビコノ》命 スク※〔二字□で囲む〕宿 宿禰《スクネ》 タニ※〔二字□で囲む〕丹旦 丹波《タニハ》、旦波《タニハ》 タギ※〔二字□で囲む〕當 當麻《タギマ》 ヂキ※〔二字□で囲む〕直 阿直《アヂキ》 ツク※〔二字□で囲む〕筑竺 筑紫《ツクシ》、竺紫《ツクシ》 ヅミ※〔二字□で囲む〕曇 阿曇《アヅミ》 ナニ※〔二字□で囲む〕難 難波《ナニハ》 ハヽ※〔二字□で囲む〕伯 伯伎《ハハキ》 ハカ※〔二字□で囲む〕博 博多《ハカタ》 ホム※〔二字□で囲む〕品 品遲部《ホムヂベ》、品夜和氣《ホムヤワケノ》命、品陀和氣《ホムダワケノ》命 マツ※〔二字□で囲む〕末 末羅《マツラ》 ムク※〔二字□で囲む〕目 高目郎女《コムクノイラツメ》 ラカ※〔二字□で囲む〕樂 相樂《サガラカ》 凡て古書地名に此(ノ)類いと多し、
〇借字《カリモジ》 是も人(ノ)名と地(ノ)名とに多し、
ウ※〔□で囲む〕菟 エ※〔□で囲む〕江枝 カ※〔□で囲む〕鹿蚊 キ※〔□で囲む〕木寸 ケ※〔□で囲む〕毛 コ※〔□で囲む〕子 サ※〔□で囲む〕狭 シ※〔□で囲む〕師 【こはもと音なるを、やがて訓にもして、借字に用ひたるあり、師木《シキ》、百師木《モモシキ》、味師《ウマシ》、時置師《トキオカシノ》神、秋津師比賣《アキヅシヒメ》、などの師(ノ)字是(レ)なり、これらは、音の假字の例にはあらず、訓にて借字の例なり、】 ス※〔□で囲む〕巣洲酢 セ※〔□で囲む〕瀬 タ※〔□で囲む〕田手 チ※〔□で囲む〕道千乳 ツ※〔□で囲む〕津 テ※〔□で囲む〕手代 ト※〔□で囲む〕戸砥 ナ※〔□で囲む〕名 ニ※〔□で囲む〕丹 ヌ※〔□で囲む〕野沼 ネ※〔□で囲む〕根 ハ※〔□で囲む〕羽歯 ヒ※〔□で囲む〕日氷 ヘ※〔□で囲む〕戸 ホ※〔□で囲む〕穂大 マ※〔□で囲む〕間眞目 ミ※〔□で囲む〕見海御三 メ※〔□で囲む〕目 モ※〔□で囲む〕裳 ヤ※〔□で囲む〕屋八矢 ユ※〔□で囲む〕湯 ヰ※〔□で囲む〕井 ヲ※〔□で囲む〕尾小男
上(ノ)件の字ども、常に多く借字に用ひたり、但し此(ノ)字どもを書るは、皆借字なりといふにはあらず、正字なる處も多く、又正字とも借字とも、さだかに弁へがたきところも多かり、又借字は、此(ノ)字どもに限れるにもあらず、たゞ大かたを擧るのみなり、或人、借字も即(チ)假字なれば、別に借字といふことは、有(ル)べくもあらず、又古書の假字に、訓を用ひたることなしとも云べからず、といふは精《クハ》しからず、假字借字、いひもてゆけば同じことなれども、此記にも書紀にも、歌又訓注などに、訓を用ひたること一(ツ)もなし、其《ソ》は正《マサ》しき假字の例に非るが故なり、此(レ)をもて、借字は別に一種《ヒトクサ》なることを知(ル)べし、別に一種なるが故に、其(ノ)目《ナ》を立《タテ》て、借字《カリモジ》とは云り、
〇二合の借字
アナ※〔二字□で囲む〕穴 イク※〔二字□で囲む〕活 イチ※〔二字□で囲む〕市 イナ※〔二字□で囲む〕稲 イハ※〔二字□で囲む〕石 イヒ※〔二字□で囲む〕飯 イリ※〔二字□で囲む〕入 オシ※〔二字□で囲む〕忍押 カタ※〔二字□で囲む〕方 カネ※〔二字□で囲む〕金 カリ※〔二字□で囲む〕刈 クシ※〔二字□で囲む〕櫛 クヒ※〔二字□で囲む〕※〔木+〓〕咋 クマ※〔二字□で囲む〕熊 クラ※〔二字□で囲む〕倉 サカ※〔二字□で囲む〕坂酒 シロ※〔二字□で囲む〕代 スキ※〔二字□で囲む〕※〔金+且〕 ツチ※〔二字□で囲む〕椎 ツヌ※〔二字□で囲む〕角 トリ※〔二字□で囲む〕鳥 ハタ※〔二字□で囲む〕幡 フル※〔二字□で囲む〕振 マタ※〔二字□で囲む〕俣 マヘ※〔二字□で囲む〕前 ミヽ※〔二字□で囲む〕耳 モロ※〔二字□で囲む〕諸 ヨリ※〔二字□で囲む〕依 ワケ※〔二字□で囲む〕別 ヲリ※〔二字□で囲む〕折 ことわり一音の借字と全《モハ》ら同じ、さて二合の借字、上件の外なほいと多かるを、今はたゞ、其中にあまた處に見えたるをえり出て、彼(レ)此(レ)あぐるのみなり、
訓法《ヨミザマ》の事
凡て古書は、語を嚴重《オゴソカ》にすべき中にも、此記は殊に然あるべき所由《ユヱ》あれば、主《ムネ》と古語を委曲《ツバラカ》に考(ヘ)て、訓を重くすべきなり、いで其(ノ)所由《ユヱ》はいかにといふに、序に、飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の大詔命《オホミコト》に、家々にある帝紀|及《マタ》本辭、既に實を失ひて、虚僞《カザリ》おほければ、今その誤を正しおかずは、いくばくもあらで、其(ノ)旨うせはてなむ、故(レ)帝紀をえらび、舊辭を考へて僞をのぞきすてて、實《マコト》のかぎりを後(ノ)世に傳《ツタヘ》む、と詔たまひて、稗田阿禮《ヒエダノアレ》といひし人に、大御口《オホミクチ》づから仰《オホ》せ賜(ヒ)て、帝皇(ノ)日繼と、先代の舊辭とを、誦《ヨミ》うかべ習《ナラ》はしむ、とあるをよく味《アヂハ》ふべし、帝紀とのみはいはずて、舊辭本辭などいひ、又次に安萬侶(ノ)朝臣の撰述《コノフミツク》れることを云る處にも、阿禮が誦《ウカベ》たる勅語(ノ)舊辭を撰録すとあるは、古語を旨《ムネ》とするが故なり、彼(ノ)詔命《オホミコト》を敬《ツツシミ》て思ふに、そのかみ世のならひとして、萬(ノ)事を漢文に書(キ)傳ふとては、其(ノ)度《タビ》ごとに、漢文章《カラコトバ》に牽《ヒカ》れて、本の語は漸(ク)に違ひもてゆく故に、如此《カク》ては後《ノチ》遂《ツヒ》に、古語はひたぶるに滅《ウセ》はてなむ物ぞと、かしこく所思看《オモホシメ》し哀《カナシ》みたまへるなり、殊に此(ノ)大御代は、世間《ヨノナカ》改まりつるころにしあれば、此(ノ)時に正《タダ》しおかでは、とおもほしけるなるべし、さて其《ソ》を彼(ノ)阿禮に仰せて、其(ノ)口に誦《ヨミ》うかべさせ賜ひしは、いかなる故ぞといふに、萬(ヅ)の事は、言《コト》にいふばかりは、書《フミ》にはかき取(リ)がたく、及ばぬこと多き物なるを、殊に漢文にしも書(ク)ならひなりしかば、古語を違へじとては、いよゝ書(キ)取(リ)がたき故に、まづ人の口に熟《ツラツラ》誦《ヨミ》ならはしめて後に、其(ノ)言の隨《マニマ》に書録《カキシル》さしめむの大御心にぞ有(リ)けむかし、【當時《ソノカミ》、書籍ならねど、人の語にも、古言はなほのこりて、失《ウセ》はてぬ代《ヨ》なれば、阿禮がよみならひつるも、漢文の舊記に本づくとは云(ヘ)ども、語のふりを、此間《ココ》の古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ、然せずして、直《タダ》に書《フミ》より書にかきうつしては、本の漢文のふり離《ハナ》れがたければなり、或人、其(ノ)時既に諸家の記録ども、誤(リ)おほしとならば、阿禮は何《イヅ》れの書によりて、實の古語をば、誦ならへるにかと疑ふ、其《ソ》はそのかみなほ誤(リ)なき記録も遺《ノコ》れりけむを、よく擇《エラビ》てぞ取(ラ)れけむ、】此(ノ)大御志《オホミココロザシ》をよく思ひはかり奉て、古語のなほざりにすまじきことを知べし、これぞ大御國の學問《モノマナビ》の本なりける、もし語にかゝはらずて、たゞに義理《コトワリ》をのみ旨《ムネ》とせむには、記録を作らしめむとして、先(ヅ)人の口に誦習《ヨミナラ》はし賜はむは、無用《イタヅラ》ごとならずや、然《サ》て次に、此記を撰《ツク》らせらるゝ事を云る處にも、舊辭のたがひゆくことを惜《ヲシ》み賜ひ、先紀の誤あるを、正《タダ》し給はむとして、安萬侶(ノ)朝臣に仰せて、かの阿禮が誦《ヨミ》うかべたる勅語の舊辭を、撰録《エラビシル》さしむとあり、此處にも舊辭とあるを以て、此(ノ)大御世の天皇の大御心ざしをも、おしはかり奉るべし、彼(ノ)淨御原(ノ)天皇は、撰録《フミシルス》に及び賜はで、崩坐《カミアガリマシ》しかば、かの舊辭は、阿禮が口に留《トドマ》れりしを、此(ノ)平城《ナラ》の大御世に至て、事《コト》遂行《トゲオコナ》はせ賜へるなり、故(レ)安萬侶(ノ)朝臣の撰録《エラビシル》されたるさまも、彼(ノ)天皇たちの大御志のまに/\、旨《ムネ》と古語を嚴重《オモ》くせられたるほど灼然《イチジロ》くて、高天原の註に、訓(テ)2高(ノ)下(ノ)天(ヲ)1云2阿麻《アマト》1としるし、天比登都柱《アメヒトツバシラ》の註には、訓(ムコト)v天(ヲ)如(シ)v天(ノ)などしるし、或は讀聲《ヨムコヱ》の上下《アガリサガリ》をさへに、委曲《ツバラカ》に示《シメ》し諭《サト》しおかれたるをや、如此有《カカレ》ば今是(レ)を訓(マ)むとするにも、又上(ノ)件の意をよく得て、一字《ヒトモジ》一言《ヒトコト》といへども、みだりにはすまじき物ぞ、さて然つゝしみ嚴重《オモ》くするにつきては、漢籍《カラブミ》また後(ノ)世の書をよむとは異《コト》にして、いとたやすからぬわざなり、いで其(ノ)由をいはむ、先(ヅ)凡て古記は、漢文もて書(キ)たれば、文のまゝに訓(ム)ときは、たとひ一(ツ)一(ツ)の言は古言にても、其(ノ)連接《ツヅキ》ざま二言《イヒ》ざまは、なほ漢文のふりにして、皇國のにはあらず、故(レ)書紀の古き訓なども、文に拘《カカハ》らずて、古語のふりのまゝに附《ツケ》たる書おほし、然れども彼(ノ)訓も、後(ノ)人の所爲《シワザ》のまじれりとおぼしくて、猶|漢文訓《カラブミヨミ》のおほきこと、上に論へるが如し、おほかた平城《ナラ》のころまでは、世(ノ)人古語のふりをよくしり、又|當時《ソノトキ》の言も、なほ古(ル)かりける故に、漢文訓《カラブミヨミ》との差別《ケヂメ》は、おのづからよく辨へたりしを、後(ノ)世は只|漢籍《カラブ》にのみ眼《メ》なれ、其(ノ)讀《ヨミ》にのみ耳|馴《ナレ》たる癖《クセ》の着《ツキ》ては、大かたの語のさま、其(ノ)漢《カラ》のふりと此方《ココ》のふりとを、え辨へず、かしこげなる漢《カラ》の方を、美《ウルハシ》きが如く聽《キキ》なして、萬(ヅ)の言、おのづから其ふりに移《ウツ》り來《キ》ぬることおほし、【近(キ)代の人は、おほかた古(ヘ)の詞づかひをばえしらず、文章とて書(ク)を見るに、すべて漢語《カラコトバ》のふりにして、たゞ漢文を假字にかきたるが如くにて、いと/\見苦《ミグル》し、なほ文章の事は、上古《カミツイ》中古《ナカムカシ》の體製《ツクリザマ》、くさ/”\別に論(ヒ)あり、】此(ノ)たがひめをよく辨へて、漢《カラ》のふりの厠《マジ》らぬ、清《キヨ》らかなる古語を求《モト》めて訓べし、かにかくにこの漢の習氣《ナラヒ》を洗《アラ》ひ去《スツ》るぞ、古學《イニシヘマナビ》の務《ツトメ》には有(リ)ける、