古事記傳一之卷

                          本居宣長謹撰

 

     古記典等總論《イニシヘブミドモノスベテノサダ》

 

前御代《サキツミヨ》の故事《フルコト》しるせる記《フミ》は、何《イヅ》れの御代のころより有《アリ》そめけむ、書紀【日本書紀をいふ、傳の中みな然り、】の履中天皇(ノ)御卷に、四年秋八月、始之《ハジメテ》於《ニ》2諸國《クニグニ》1置(テ)2國史《フミビトヲ》1記(ス)2言事(ヲ)1、と有(ル)を思へば、朝廷《ミカド》には是(レ)よりさきに既《ハヤ》く史《フミビト》ありて、記されけむこと知られたり、そはその時々の事どもこそあらめ、前代《サキツミヨ》の事などまでは、如何《イカニ》有(リ)けむ知(ラ)ねども、既に當時《ソノトキ》の事|記《シル》されたらむには、往昔《イニシヘ》の事はた、語(リ)傳へたらむまに/\、かつ/”\も記しとゞめらるべき物なれば、其比《ソノコロ》よりぞ有(リ)そめけむ、かくて書紀|修撰《ツクラ》しめ給ひし頃《コロ》は、古記《フルキフミ》ども多く有(リ)つと見えたり、【彼(ノ)神代(ノ)卷に、一書とて取(ラ)れたるが多き

もて知べし、】小治田宮《をヲハリダノミヤ》に御宇《アメノシタシロシメシ》し天皇の御世、二十八年に、聖徳太子命《シヤウトクノミコノミコト》、蘇我馬子大臣《ソガノウマコノオホオミ》と共に、天皇記及國記《スメラギノミフミマタクニノフミ》、臣連伴造國造百八十部《オミムラジトモノミヤツコクニノミヤツコモモヤソトモノヲ》、并公民等本記《マタオホミタカラドモノフミ》を録《シル》し給ふと書紀にある、是(レ)ぞ其事の物に見えたる始(メ)には有ける、又|飛鳥淨御原宮《アスカノキヨミバラノミヤ》に御宇《アメノシタシロシメシ》し天皇の御代十年に、川嶋皇子等《カハシマノミコナド》十二人に詔《オホミコト》おふせて、帝紀及上古諸事《スメラギノミフミマタカムツヨノモロモロノコトドモ》を記定《エラビシルサ》シめ給ふとあり、然れども批(ノ)二(ツ)記は、共に世に傳はらず、こゝに平城宮御宇《ナラノミヤニアメノシタシロシメシ》天津御代豐國成姫(ノ)天皇(ノ)御代、和銅四年九月十八日に、大朝臣安萬侶《オホノアソミヤスマロ》に詔《オホミコト》おふせて、この古事記を撰録《ツクラ》しめ給ふ、同五年と云(フ)年の正月(ノ)二十八日になむ、其功終《ソノコトヲヘ》て貢進《タテマツ》りけると、序に見えたり、【續紀に此事見えず、】然れば今に傳はれる古記の中には、此記ぞ最古《モトモフル》かりける、さて書紀は、同宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシ》高瑞淨足姫(ノ)天皇(ノ)御世、養老四年にいできつと、續紀に記されたれば、彼《カレ》は此記に八年おくれてなむ成れりける、さて此記は、字《モジ》の文《アヤ》をもかざらずて、もはら古語《フルコト》をむねとはして、古(ヘ)の實《マコト》のありさまを失《ウシナ》はじと勤《ツトメ》たること、序に見え、又今|次々《ツギツギ》に云が如し、然るに彼(ノ)書紀いできてより、世(ノ)人おしなべて、彼(レ)をのみ尊《タフト》み用ひて、此記は名をだに知(ラ)ぬも多し、其(ノ)所以《ユヱ》はいかにといふに、漢籍《カラブミ》の學問《マナビ》さかりに行はれて、何事も彼(ノ)國のさまをのみ、人毎にうらやみ好《コノ》むからに、書紀の、その漢國《カラクニ》の國史と云(フ)ふみのさまに似たるをよろこびて、此記のすなほなるを見ては、正《マサ》しき國史の體《サマ》にあらずなど云て、取(ラ)ずなりぬるものぞ、或人、かく云をあやしみて問(ヒ)けらく、此記いできていくばくもあらざるに、又書紀を撰《エラバ》しめ賜へるは、此記に誤(リ)あるが故ならじやは、己《オノレ》答(ヘ)けらく、然にはあらじ、此記あるうへに、更《サラ》に書紀を撰(バ)しめ給へるは、そのかみ公《オホヤケ》にも、漢學問《カラブミマナビ》を盛《サカリ》に好《コノ》ませたまふをりからなりしかば、此記のあまりたゞありに飾《カザリ》なくて、かの漢《カラ》の國史どもにくらぶれば、見《ミ》だてなく淺々《アサアサ》と聞ゆるを、不足《アカズ》おもほして、更に廣く事どもを考へ加《クハ》へ、年紀を立《タテ》などし、はた漢《カラ》めかしき語どもかざり添《ソヘ》などもして、漢文章《カラブミノアヤ》をなして、かしこのに似たる國史と立《タテ》むためにぞ、撰(バ)しめ賜へりけむ、いで其由を委曲《ツバラカ》にいはむには、先(ヅ)かの川嶋(ノ)皇子等に仰せて、帝紀等を撰(バ)しめ給ひしこと、上にいへるごとくにて、其後又和銅七年にも、紀(ノ)朝臣清人三宅(ノ)臣藤麻呂に詔《オホミコト》おふせて、國史を撰(バ)しめ賜ひしこと、續紀に見ゆ、此(ノ)二度の撰の中に、川嶋(ノ)皇子等のは、此記の草創《ハジメ》と同じく、淨御原の大御世なる中に、此記の始(メ)は、彼(レ)より前なりしか、後なりしか、知(リ)がたきを、もし彼(ノ)撰、此記のはじめより前ならば、是(レ)また諸家(ノ)之所v齎、帝紀及(ビ)本辭、既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1、多(ク)加(フ)2虚僞(ヲ)1と、此(ノ)序にある内に在(リ)て、彼(ノ)撰も、正實にたがひ、虚僞をぞ加《クハ》へたりけむ、もしまた後ならば、おもほしめし立《タチ》し此記の事も、彼(ノ)撰にて事足《コトタリ》ぬべきわざなるに、運移(リ)世|異《カハリ》、未(ダ)v行(ハ)2其(ノ)事(ヲ)1矣と、序にあるを思へば、此(レ)と彼(レ)とは、其(ノ)趣《オモムキ》別《コト》なることと聞えたり、その別《コト》なるけぢめは、彼(ノ)撰は、潤色《カザリ》を加《クハ》へて、漢《カラ》の國史に似《ニ》するを旨《ムネ》とし、此(レ)は古(ヘ)の正實《マコト》のさまを傳へむがためなるべし、其意序に見えたり、かくて平城《ナラ》の大御代に至(リ)て、其(ノ)大御志《オホミココロザシ》を繼坐《ツギマシ》て、太(ノ)朝臣に仰せて、かの稗田(ノ)阿禮が誦習《ヨミウカベ》たる故事《フルコト》どもを、撰録《カキシルサ》しめ賜へるなり、次にかの和銅七年に撰(バ)しめ賜ひし史は、又彼(ノ)潤色《カザリ》の方なるべし、さて養老の年、又しも舎人御子《トネノミコ》に仰せて、書紀を撰(バ)しめたまふ、抑かくの如くさしつゞきたるは、かの潤色《カザリ》の史、二(ツ)ながら宜しからずて、大御心にかなはずぞ有(リ)けむかし、さればこれらは、當時《ソノカミ》はやく廢《スタ》れたりとおぼしくて、世に傳はらず、名だにものこらぬなるべし、然るに書紀は、さき/”\のに勝《マサ》りて宜しき故に、正史《タダシキフミ》と定まりて、其後は、又改め撰ばるゝ事もなかりしなり、かくてこの古事記は、書紀いできて後しも、なほ廢《ステ》られざりつと見ゆるは、かの二(ツ)の史の、かざり多きが類(ヒ)にはあらずて、古(ヘ)の正實《マコト》を記せるがゆゑなるべし、されば書紀を撰ばれしは、此記の誤(リ)あるが故にはあらず、もとより其趣ことなるものなり、もし誤(リ)ありとして、改め撰ばれむには、是(レ)もかの二(ツ)の史の如く、そのかみはやく廢《スタ》るべきに、此記のみは、今の世までも傳はれるをおもふべし、又或人、後(ノ)世まで傳はると、傳はらざるとは、おのづからのことにこそあらめ、かならず宜きによりて傳はり、宜しからざるによりて、傳はらざるにもあらざるべし、凡て漢《カラ》にも此間《ココ》にも、古(ヘ)の書の、いとよろしきも絶え、さもあらぬも廣く傳はれるたぐひ多きにあらずやと疑ふ、答へけらく、大かたはさることなれども、これはなほ然らじ、先(ヅ)彼(ノ)二(ツ)の史は、書紀續紀にも其事を記さるゝほどにて、公《オホヤケ》の書なれば、もしおのづからに絶たらむには、しかすがにしばらくは世間にものこりて、人もしり、後(ノ)代にも、其名ばかりだにも遣《ノコ》るべきに、さらにその名をだにしらず、既《ハヤ》く平城《ナラ》の代にすら、知(ル)人もなかりしにや、萬葉集に、古(ヘ)の事を證《アキラ》めたる註などにも、引たるを見ず、然るに此記は、潤色《カザリ》なくたゞありに記して、漢《カラ》の國史などの體《サマ》とは、いたく異なる物なれば、もし誤(リ)多からむには、さしも漢籍《カラブミ》好《コノミ》ましし世に、はやく廢《ステ》られて、とり見る人も有(ル)まじく、まして後(ノ)代までは傳はるまじき物なるに、千年の後までも傳はり來つるを思へば、そのかみ書紀いできても、なほしかすがに公《オホヤケ》にも用ひられ、世(ノ)人も讀《ヨミ》つとは見えて、かの萬葉などにも、往々《ヲリヲリ》に引出けるものをや、【上(ノ)件の趣、すべて詳《サダカ》には知(ル)べきならねども、序の詞と、かの二(ツ)の史撰ばれし跡とを考へ合せて、かくも有けむと思はるゝすぢを、一わたりいへるなり、】又問(フ)、彼川嶋(ノ)皇子等に仰せし撰の事は、書紀に見え、和銅七年のと書紀との事も、續紀に載られたるに、此(ノ)古事記を撰ばしめ給ひしことは、見えぬを思へば、此記は、彼(ノ)史どもの如き嚴重《オモ》き公事《オホヤケゴト》にはあらで、たゞ内々《ウチウチ》の小事《イササカゴト》と見え、又書紀に神代(ノ)卷などに、一書とて、擧《アゲ》られたるが數《アマタ》ある中に、此記を取《トラ》れたりとおぼしきもあれば、此記は、そのかみ如是《カカ》る記録《フミ》ども多《サハ》に有けむ中の一書と見えたり、さて書紀は、その記録ども皆撰び取(ラ)れて、此(レ)も彼(レ)も集めて、足《タラ》はぬことなく備《ソナハ》れれば、さらに此記の比《タグヒ》にあらず、此記は、いかでか其《ソレ》と等《ヒトシ》なみに尚《タフト》び用ふべからむ、答(フ)、此記は、かの一書どもの中の一(ツ)にして、みな書紀にえらび取(ラ)れて、かれは事|備《ソナハ》れり、との論《アゲツラヒ》は謂《イハ》れたり、誠に書紀は、事を記さるゝこと廣く、はた其年月日などまで詳にて、不足《アカヌ》ことなき史《フミ》なれば、此記の及ばざることも多きは、云(フ)もさらなり、然はあれども又、此記の優《マサ》れる事をいはむには、先(ヅ)上(ツ)代に書籍《フミ》と云物なくして、たゞ人の口に言傳《イヒツタ》へたらむ事は、必(ズ)書紀の文の如くには非ずて、此記の詞のごとくにぞ有けむ、彼(レ)はもはら漢《カラ》に似るを旨《ムネ》として、其(ノ)文章《アヤ》をかざれるを、此(レ)は漢にかゝはらず、たゞ古(ヘ)の語言《コトバ》を失《ウシナ》はぬを主《ムネ》とせり、【其由は、次(ノ)卷の序の下に委くいふべし、】抑|意《ココロ》と事《コト》と言《コトバ》とは、みな相稱《アヒカナ》へる物にして、上(ツ)代は、意も事も言も上(ツ)代、後(ノ)代は、意も事も言も後(ノ)代、漢國《カラクニ》は、意も事も言も漢國なるを、書紀は、後(ノ)代の意をもて、上(ツ)代の事を記し、漢國の言を以(テ)、皇國《ミクニ》の意を記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此記は、いさゝかもさかしらを加《クハ》へずて、古(フ)より云(ヒ)傳(ヘ)たるまゝに記されたれば、その意も事も言も相稱《アヒカナヒ》て、皆上(ツ)代の實《マコト》なり、是(レ)もはら古(ヘ)の語言《コトバ》を主《ムネ》としたるが故ぞかし、すべて意も事も、言を以て傳(フ)るものなれば、書《フミ》はその記せる言辭《コトバ》ぞ主《ムネ》には有ける、又書紀は、漢文章《カラブミノアヤ》を思はれたるゆゑに、皇國《ミクニ》の古言の文《アヤ》は、失《ウセ》たるが多きを、此記は、古言のまゝなるが故に、上(ツ)代の言の文《アヤ》も、いと美麗《ウルハ》しきものをや、然ればたとひかの一書どもの中の一(ツ)にして、重《オモ》き公《オホヤケ》の書典《フミ》にはあらずとも、尚《タフト》び用ふべきを、まして是(レ)は、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の、厚き大御志より起りて、ふたゝび平城《ナラノ》大御代の詔命《オホミコト》によりて撰録《シルサ》れたるうへは、さらに輕々《カロガロ》しき私の書の比《タグヒ》にあらず、かれこれを思へば、いよゝます/\尊び仰《アフ》ぐべきは、此記になむ有ける、然ある物を、そのかみ漢學《カラブミマナビ》のみさかりに行はれて、天(ノ)下の御制《ミサダメ》までも、よろづ漢樣《カラザマ》になり來《キ》ぬる世にしあれば、かゝる書典《フミ》の類(ヒ)まで、ひたぶるに漢《カラ》ざまなるを悦びて、表《オモテ》に立《タテ》られ、上(ツ)代の正實《マコト》なるはしも、返(リ)て裏《ウラ》になりて、私(シ)物の如くにぞ有(リ)けむ、故《カレ》其(ノ)撰定《ヱラビ》の事も、續紀などにも載られざりけるなるべし、さて後は、いよゝ其心ばへにて、取(リ)見る人も罕《マレ》らになり、世々の識者《モノシリビト》はた、是をば正《マサ》しき國史の體《サマ》にあらずとして、なほざりに思ひなすこそ、いとも/\哀《カナ》しけれ、抑皇國に古き國史といふ物、外《ホカ》に傳はらざれば、其(ノ)體《サマ》と例《タメシ》に引(ク)は、漢の《カラ》なるべければ、その體《サマ》備《ソナハ》れりといふも、漢のに似たるをよろこぶなり、もし漢《カラ》に邊《ヘ》つらふ心しなくば、彼(レ)に似ずとて何事かはあらむ、すべて萬(ヅ)の事、漢《カラ》を主《アロジ》として、よさあしさを定むる、世のならひこそいとをこなれ、爰に吾(ガ)岡部(ノ)大人《ウシ》、【賀茂(ノ)眞淵(ノ)縣主】東(ノ)國の遠朝廷《トホノミカド》の御許《ミモト》にして、古學《フルコトマナビ》をいざなひ賜へるによりて、千年《ツトセ》にもおほく餘《アマ》るまで、久しく心の底に染着《シミツキ》たる、漢籍意《カラブミゴコロ》のきたなきことを、且々《カツガツ》もさとれる人いできて、此記の尊《タフト》きことを、世(ノ)人も知初《シリソメ》たるは、學《マナビ》の道には、神代よりたぐひもなき、彼(ノ)大人の功《イサヲ》になむありける、宣長はた此(ノ)御蔭《ミカゲ》に頼《ヨリ》て、此(ノ)意を悟《サト》り初《ソメ》て、年月を經《フ》るまに/\、いよよ益々《マスマス》からぶみごゝろの穢汚《キタナ》きことをさとり、上(ツ)代の清《キヨ》らかなる正實《マコト》をなむ、熟《ウマ》らに見得《ミエ》てしあれば、此記を以て、あるが中の最上《カミ》たる史典《フミ》と定めて、書紀をば、是(レ)が次に立《タツ》る物ぞ、かりそめにも皇大御國《スメラオホミクニ》の學問《モノマナビ》に心ざしなむ徒《トモガラ》は、ゆめ此意をなおもひ誤りそ、

 

     書紀の論《アゲツラ》ひ

 

今古事記を解《トク》とて、書紀を論ふはいかにと云に、古昔《ムカシ》より世間《ヨノナカ》おしなべて、只此(ノ)書紀をのみ、人たふとび用ひて、世世の物知(リ)人も、是(レ)にいたく心をくだきつゝ、言痛《コチタ》きまでその神代(ノ)卷には、註釋なども多かるに、此記をばたゞなほざりに思(ヒ)過《スグ》して、心を用ひむ物としも思ひたらず、是(レ)何故にかと尋ぬるに、世(ノ)人たゞ漢籍意《カラブミゴコロ》にのみなづみて、大御國の古意《イニシヘゴコロ》を忘《ワス》れはてたればぞかし、故《カレ》其(ノ)漢意《カラゴコロ》の惑《マドヒ》をさとし、此記の尊ぶべき由を顯《アラハ》して、皇國《ミクニ》の學問《モノマナビ》の道しるべせむとなり、其《ソ》は先(ヅ)書紀の潤色《カザリ》おほきことを知(リ)て、其(ノ)撰述《エラビ》の趣《オモムキ》をよく悟《サト》らざれば、漢意《カラゴコロ》の痼疾《フカキヤマヒ》去《サリ》がたく、此(ノ)病|去《サ》らでは、此記の宜きこと顯《アラハ》れがたく、此記の宜きことをしらでは、古學《イニシヘマナビ》の正しき道路《ミチ》は知らるまじければなり、いで其(ノ)論(ヒ)は、まづ日本書紀といふ題號《ナ》こそ心得ね、こは漢の國史の、漢書晋書などいふ名に傚《ナラヒ》て、御國の號《ナ》を標《アゲ》られたるなれども、漢國は代々に國(ノ)號のかはる故に、其代の號もて名づけざれば、分《ワカ》り難《ガタ》ければこそあれ、皇國は、天地の共《ムタ》遠長《トホナガ》く天津日嗣|續坐《ツヅキマシ》て、かはらせ賜ふことし無ければ、其《ソレ》と分《ワケ》て云べきにあらず、かゝることに國(ノ)號をあぐるは、並《ナラ》ぶところある時のわざなるに、是(レ)は何《ナニ》に對《ムカ》ひたる名ぞや、たゞ漢図に對《ムカ》へられたりと見えて、彼(レ)に邊《ヘ》つらへる題號《ナ》なりかし、【後の史どもも、又是にならひて名づけられ、文徳三代の實録にさへ、此(ノ)國號を添られたるは、いよゝ心得ずなむ、】然るを後(ノ)代の人の、返(リ)て是をたけき事に稱《ホメ》思ふは、いかにぞや、己《オノ》が心には、いとあかず、邊《ホトリ》ばみたる題號《ナ》とこそおもはるれ、【或人、此書は、漢國へも見せ給はむの意にて、名をもかくはつけられたるならむといへれども、決《キハメ》て然にはあらず、たとひ然るにても、外(ツ)國人に見せむことをしも、主《ムネ》として、名づけられむは、いよゝわろしかし、】さてその記《シル》されたる體《サマ》は、もはら漢のに似たらむと、勤《ツト》められたるまゝに、意も詞も、そなたざまのかざりのみ多くて、人の言語物《コトドヒモノ》の實《サネ》まで、上(ツ)代のに違《タガ》へる事なむ多かりける、まづ神代(ノ)卷の首《ハジメ》に、古(ヘ)天地未(ダ)v剖、陰陽不v分、渾沌(トシテ)如(シ)2鷄子(ノ)1云々、然(シテ)後(ニ)神聖生2其中1焉といへる、是《コ》はみな漢籍《カラブミ》どもの文《コトバ》を、これかれ取(リ)集(メ)て、書(キ)加(ハ)へられたる、撰者の私説《ワタクシゴト》にして、決《キハメ》て古(ヘ)の傳説《ツタヘゴト》には非ず、次に故日開闢之時《カレイハクアメツチノハジメノトキ》、洲壤浮漂《クニツチタダヨヒテ》、譬猶游魚之浮水上《ウヲノミヅニウカベルガゴトクナリキ》也云々とある、是ぞ實《マコト》の上(ツ)代の傳説《ツタヘゴト》には有ける、故曰とあるにて、それより上は、新《アラタ》に加《クハ》へられたる、潤色《カザリ》の文なること知られたり、若(シ)然らずは、此(ノ)二字は何《ナニ》の意ぞや、初《ハジメ》の説は、其(ノ)趣《オモムキ》すべてこざかしく、疑《ウタガヒ》もなき漢意にして、さらに/\皇國の上(ツ)代の意に非ず、古(ヘ)をよく考(ヘ)知れらむ人は、おのづから辨へつべし、そも/\天地の初發《ハジメ》のありさまは、誠に古傳説《イニシヘノツタヘゴト》の如くにぞ有けむを、いかなれば、うるさく言痛《コチタ》き異國《アダシクニ》のさかしら説《ゴト》を假《カ》り用ひて、先(ヅ)首《ハジメ》にしも擧《アゲ》られたりけむ、【纂疏の本を見れば、故曰を一曰とせり、もしこれ正しき本ならば、殊にいはれなし、其故は、異國の説を主として、御國の古傳をば、傍《カタハラ》になしたる記《シル》しざまなればなり、】凡《スベ》て漢籍《カラブミ》の説は、此(ノ)天地のはじめのさまなども何《ナニ》も、みな凡人《タダビト》の己が心もて、如此《カク》有(ル)べき理ぞと、おしあてに思(ヒ)定めて、作れるものなり、此間《ココ》の古(ヘノ)傳へは然らず、誰云出《タガイヒイデ》し言ともなく、たゞいと上(ツ)代より、語り傳へ來つるまゝなり、此(ノ)二つをくらべて見るに、漢籍の方は、理(リ)深《フカ》く聞えて、信に然こそ有けめと思はれ、古傳の方は、物げなく淺々《アサアサ》と聞ゆるからに、誰も彼(レ)にのみ心引れて、舍人親王《トネノミコ》をはじめ、世々の識者《モノシリビト》、今に至るまで、惑《マド》はぬはなし、かく人皆の惑ひ溺《オボ》るゝゆゑは、凡てからぶみの説といふ物は、かしこき昔の人どもの、萬(ヅ)の事を深く考へ、其理を求めて、我も人も實《マコト》に然こそと、信《ウク》べきさまに造り定めて、かしこき筆もて、巧《タクミ》にいひおきつればなり、然れども人の智《サトリ》は限(リ)のありて、實《マコト》の理は、得測識《エハカリシ》るものにあらざれば、天地の初《ハジメ》などを、如此《カク》あるべき理ぞとは、いかでかおしては知(ル)べきぞ、さる類のおしはかり説《ゴト》は、近き事すら、甚《イタ》く違ふが多かる物を、理をもて見るには、天地の始(メ)も終《ハテ》も、しられぬことなしと思ふは、いとおふけなく、人の智《サトリ》の限(リ)有(リ)て、まことの理(リ)は、測《ハカリ》知(リ)がたきことを、え悟《サト》らぬひが心得なり、凡て理のかなへりと思はるゝを以て、物を信《ウク》るはひがことなり、そのかなへるもかなはぬも、實《マコト》には凡人《タダビト》の知べきにあらず、其(ノ)説をなせる人も凡人《タダビト》、信《ウク》る心も几心《タダビトゴコロ》にしあれば、いかでかはまことによきあしきは辨へ知む、彼(ノ)國にいとこと/”\しくいはるゝ、聖人といふ人も、智はなほ限(リ)ありて、至らぬ處の多かるものを、ましてそれより智の後《オク》れたる人どものいひおきたる説どもは、いかでか信《ウケ》ひくに足《タラ》む、然るを世々の識者《モノシリビト》みな、さる臆度《オシアテ》の説にはかられて、是をえさとらず、此(ノ)潤色《カザリ》の漢文《カラコトバ》の處をしも、道の旨《ムネ》と心得居るこそ、いとも/\あさましけれ、彼(ノ)首《ハジメ》の文は、たゞかざりに加《クハ》へたる、序の如き物と見過《ミスグ》して有(ル)べきなり、次に乾道獨(リ)化(ス)、所以《コノユヱニ》成(セリ)2此(ノ)純男(ヲ)1、また乾坤(ノ)之道相參(テ)而化(ス)、所以(ニ)成(セリ)2此男女(ヲ)1とある、是(レ)らも撰者の心もて、新《アラタ》に加へられたる、さかしら文《コトバ》なり、其(ノ)故は、まづ乾坤などいふことは、皇國になきことにて、その古言なければ、古傳説《イニシヘノツタヘゴト》に非ること明らけし、もし古(ヘノ)傳(ヘ)ならむには、たゞに天地之道とこそあらめ、但しそはただ天地を乾坤と書れたる、文字の異《カハリ》のみなれば、なほゆるさるべけれど、此(ノ)神たちを、その乾坤の道によりて、化坐《ナリマセ》るさまに書れたるは、いたくまことの意に背《ソム》けり、此(ノ)神たちも、たゞ高御産巣日《タカミムスビノ》神|神産巣日《カミムスビノ》神の御靈《ミタマ》によりてこそ成坐《ナリマシ》けめ、然《シカ》成坐《ナリマセ》る理は、いかにとも測知《ハカリシル》べきにあらぬを、かしこげに乾坤の化などいひなすは、漢意《カラゴコロ》のひがことなるをや、又伊邪那岐(ノ)神を陽神、伊邪那美(ノ)神を陰神とかき、陰神先(ヅ)發2喜言(ヲ)1、既(ニ)違(フ)2陰陽(ノ)之理(ニ)1と書れたるも、漢意のひがことなり、大よそ世に陰陽の理といふもの有(ル)ことなし、もとより皇國には、いまだ文字なかりし代に、さること有(ル)べくもあらざれば、古(ヘノ)傳(ヘ)には、たゞ男神《ヲガミ》女神《メガミ》、女男之理《メヲノコトワリ》などとこそ有(リ)けむを、然《シカ》改《アラタ》めてかゝれたるは、たゞ字の異なるのみには非ず、いたく學問《モノマナビ》の害《サマタゲ》となることなり、其故は、なまさかしき人、此(ノ)文を見ては、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命と申す神は、たゞ假《カリ》に名を設けたる物にして、實《マコト》は陰陽造化をさしていへるぞと心得るから、或は漢籍《カラブミ》の易の理をもて説き、陰陽五行を以て説《トク》こととなれる故に、神代の事は、みな假《カリ》の作りことの如くになり、古傳説《イニシヘノツタヘゴト》、盡《コトゴトク》に漢意《カラゴコロ》に奪《ウバ》はれはてて、まことの道|立《タチ》がたければなり、そも/\撰者は、然《サ》ることまでには心もつかずて、たゞ文《コトバ》の漢《カラ》めくをよきこととして、かざりのみに書れたるべけれど、此(ノ)文どもは、後(ノ)代に至(リ)て、かくさま/”\の邪説《ヨコサマゴト》を招《マネ》く媒《ナカダチ》となりて、まことの道のあらはれがたき根本《モト》にぞ有ける、されどこの陰陽の理といふことは、いと昔より、世(ノ)人の心の底に深く染着《シミツキ》たることにて、誰も/\、天地の自然《オノヅカラ》の理にして、あらゆる物も事も、此(ノ)理をはなるゝことなしとぞ思ふめる、そはなほ漢籍説《カラブミゴト》に惑《マド》へる心なり、漢籍心《カラブミゴコロ》を清く洗《アラ》ひ去《サリ》て、よく思へば、天地はたゞ天地、男女《メヲ》はたゞ男女《メヲ》、水火《ヒミヅ》はたゞ水火《ヒミヅ》にて、おの/\その性質情状《アルカタチ》はあれども、そはみな神の御所爲《ミシワザ》にして、然るゆゑのことわりは、いともいとも奇靈《クスシ》く微妙《タヘ》なる物にしあれば、さらに人のよく測知《ハカリシル》べききはにあらず、然るを漢國人《カラクニビト》の癖《クセ》として、己がさかしら心をもて、萬の理を強《シヒ》て考へ求めて、此(ノ)陰陽といふ名を作(リ)設(ケ)て、天地萬物みな、此理の外なきが如く説《トキ》なせるものなり、【かくの如く陰陽はたゞ、漢人の作(リ)出たることにて、もと彼國のみの私説《ワタクシゴト》なるが故に、他國にはそのさだ無きこととおぼしくて、天竺の佛經論《ホトケブミ》を見るに、世界の始(メ)、又人(ノ)身などみな、地水火風の四大といふ物を以て説て、すべて陰陽五行などの説はあることなし、其文字はまれ/\には見ゆれども、そはたゞ漢語《カラコト》に譯《カヘ》たる、文章のうへのみの事とおぼしくて、實に其理をいへることはなし、すべて天竺は、漢にもまさりて、なほ言痛《コチタ》く物の理をいふ國なるすら、かくのごとくなるを以て、陰陽は漢國の私説なることをさとるべし、】そはもとかしこき人の、よく考へて作(リ)出(デ)たることにて、十に六(ツ)七(ツ)は當《アタ》れるが如くなる故に、世々の人皆これを信用《ウケモチヒ》て、疑《ウタガ》ふことなけれども、其陰陽は、又いかなる理によりて陰陽なるぞといはむに、其理は知(ル)ことあたはず、太極無極などいふこともあれども、それはたいかなる理にて太極無極なるぞといはむに、終《ツヒ》にその元《モト》の理は、知(リ)がたきに落《オツ》めれば、誠には陰陽も太極無極も、何《ナニ》の益もなきいたづら説《ゴト》にて、たゞいさゝか人の智の測知《ハカリシル》べき限(リ)の内の小《チヒサキ》理(リ)に、さま/”\と名を設けたるのみにぞ有ける、抑天照大御神は、日(ノ)神に坐《マシ》まして女神、月夜見(ノ)命は、月(ノ)神にして男神に坐《マシ》ます、是(レ)を以て、陰陽といふことの、まことの理にかなはず、古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》けることをさとるべし、然るを猶《ナホ》彼(ノ)理に泥《ナヅ》み惑《マド》ひて、返(リ)て此(レ)をさへ其理にかなへむと、強《シヒ》て説曲《トキマグ》るなどは、いふにも足《タラ》ぬことなりかし、さて又|美都波能賣《ミツハノメノ》神を罔象女、綿津見《ワタツミ》を少童とかゝれたる類も、漢にへつらひて、快《ココロヨ》からぬ書《カキ》ざまなり、かくて又神武(ノ)御卷に至ては、天皇の詔とて、是(ノ)時運屬2鴻荒(ニ)1、時鍾2草昧(ニ)1、故(ニ)蒙以養(ヒ)v正(ヲ)、治2此(ノ)西偏(ヲ)1、皇祖皇考、乃神乃聖、積v慶(ヲ)重v暉(ヲ)とあるたぐひ、意も語も、さらに上(ツ)代のさまにあらず、全《モハラ》潤色《カザリ》のために、撰者の作(リ)加(ハ)へられたる文なり、崇神(ノ)御卷に、詔曰、唯我皇祖諸天皇等、光2臨宸極(ニ)1者(ハ)、豈爲(ナラムヤ)2一身(ノ)1乎云々、不2亦可1乎、これも同じ、大かた御代御代《ミヨミヨ》の詔詞《ミコトノリノコトバ》、此(ノ)類なるは、上(ツ)代の卷々なるは、潤色《カザリ》に加(ハ)へられたる物と見えたり、故(レ)いかにとも古言に訓《ヨミ》がたき處の多きなり、餘《ホカ》も准《ナズラ》へて知べし、續紀には、古語の詔【いはゆる宣命なり、】と漢文の詔とを、別に載られたるを見るに、平城《ナラ》の御代に至てすら、古語の詔(ノ)詞には、漢《カラ》めきたることは、をさ/\見えざるを思へば、まして上(ツ)御代御代のは、おしはかられて、かの古語の詔詞の如くにて、なほ古(ル)かりけむを、此(ノ)書紀の詔詞どもは、さらに古(ル)めかしきことはなくて、ひたぷるに漢の意《ココロ》言《コトバ》なるをや、又神武(ノ)御卷に、天皇の大御言に、戰勝(テ)而無(キハ)v驕(ルコト)者、良將(ノ)之行也とある、大方如此《カクノゴト》く、さかしく漢めきたる語どもは、皆かざりと聞ゆ、凡て言語は、其世々のふり/\有て、人のしわざ心ばへと、相協《アヒカナ》へる物なるに、書紀の人の言語は、上(ツ)代のありさま、人の事態《シワザ》心ばへに、かなはざることの多かるは、漢文のかざりの過《スギ》たる故なり、又同じ大御言とて、今我(レハ)是(レ)日(ノ)神(ノ)子孫(ニシテ)、而向(テ)v日(ニ)征v虜(ヲ)、此(レ)逆2天(ノ)道(ニ)1也、【此(ノ)御言、此記には、たゞ向(テ)v日(ニ)而戰(フコト)不良とあり、】また頼(テ)2以皇天(ノ)之威(ニ)1、凶徒就v戮(ニ)云々【不亦可乎といふまで、此文すべて漢意なり、】といひ、また獲2罪(ヲ)於天(ニ)1、などとある類の天は、もはら漢籍意《カラブミゴコロ》の天にして、古(ヘノ)意にそむけり、【天命天心天意天禄などあるたぐひみな同じ、】いかにといふに、天はたゞ虚空《ソラ》の上方《ウヘ》に在《アリ》て、天(ツ)神のまします御國なるのみにして、心も魂《ミタマ》もある物にあらず、然れば天(ノ)道といふこともなく、皇天之威などいふべくもあらず、罪を獲《ウ》べき由もなし、然るを天に神靈《ミタマ》あるが如くいひなして、人の禍《ワザハヒ》福《サイハヒ》も何《ナニ》も、世(ノ)中の事はみな、その所爲《シワザ》とするは、漢國のことにて、ひがことなるを、【續紀の宣命に、天地の心と見え、萬葉の歌に、天地のなしのまに/\などよめるも、奈良のころにいたりては、既に漢意のうつりて、古(ヘノ)意にたがへることもまじれるなり、外國《トツクニ》には、萬(ヅ)の事をみな天といふは、神代の正しき傳説《ツタヘゴト》なくして、世(ノ)中の事はみな、神の御所爲《ミシワザ》なることをえしらざるが故なり、天帝或は天之主宰などいふなるは、神を指《サス》に似たれども、これらもまことに神あることを知ていへるにはあらず、たゞ假《カリ》の名にして、實は天の理もていへるなれば、天神とは異なり、かの皇天とある字を、|アメノカミ〔付○圏点〕と訓るは、皇天にては、古意にかなはず、かならず天神とあるべき處《トコロ》なることを辨へたるなれば、此(ノ)訓は宜し、されど此(ノ)訓によりて、皇天即(チ)天神と心得むは、ひがことなり、凡て書紀を看《ミ》むには、つねに此(ノ)差《ケヂメ》をよく思ふべき物ぞ、よくせずば漢意に奪はれぬべし、】ひたぶるに漢文のかざりを旨《ムネ》とせられつるから、かゝる違《タガヒ》はあるなり、漢意に惑へる後(ノ)世(ノ)人、此(ノ)差別《ケヂメ》をえしらず、是(レ)らの文を見ては、返(リ)て天(ツ)神と申すは、假《カリ》の名にして、即(チ)天のことぞと心得めれば、こは殊に学問《モノマナビ》の害《サマタゲ》となる文なり、【天(ツ)神は、正しく人などの如く、現身《ウツシミミ》まします神なり、漢意の天の如く、空《ムナ》しき理を以ていへる假名《カリノナ》には非ず、天神と申す御稱《ミナ》の天は、その坐《マシ》ます御國をいへるのみにして、神即(チ)天なるにはあらず、】綏靖(ノ)御卷に、天皇風姿岐嶷、少有2雄拔之氣1、及(テ)v壯(ニ)容貌魁偉、武藝過v人(ニ)、而志尚沈毅といひ、崇神(ノ)御卷に、天皇識性聰敏、幼好2雄略1既壯寛博謹愼云々、などいへる類の文も、古(ヘノ)傳(ヘ)の有しを、漢字にうつして書れたるにはあらず、上(ツ)代のはたゞ、其(ノ)御代の御所行《ミシワザ》によりて、多くは撰者のかざりに加《クハ》へられたる物と見ゆ、又應神(ノ)御卷に、淡路嶋の事を、峯巖紛錯、陵谷相續、芳草薈蔚、長瀾潺湲といひ、雄略(ノ)御卷に馬を稱《ホメ》て、※[さんずい+獲の旁]略而龍※[者/羽]、※[炎+欠]聳擢而鴻驚、異體峯生、殊相逸發、といへるたぐひなども、潤色過《カザリスギ》ていとうるさき漢文《カラコトバ》なり、又神武御卷に、弟猾大(ニ)設(テ)2牛酒(ヲ)1、以勞2饗皇師(ヲ)1焉、崇神(ノ)御卷に、蓋《ナゾ》d命2神龜(ニ)1、以極(メ)c致(ス)v災(ヲ)之所由(ヲ)u也、これらの文、かざりによりて實《マコト》を失《ウシナ》ひ、いたく害《サマタゲ》となれり、皇国には上(ツ)代といへども、牛《ウシ》を食《クラ》へることなく、又|卜《ウラ》に龜を用ひたることも、古(ヘ)はなき事なるをや、【牛酒神龜など書れたるは、撰者の意は、たゞ漢文の潤色のみなれども、後(ノ)人は、これを實と思ふ故に、學問の害となるなり、牛を食ひ、卜に龜を用るなどは、外國の俗にこそあれ、】景行(ノ)御卷、倭建(ノ)命の、東國《アヅマノクニ》言向《コトムケ》に幸行《イデマシ》なむとする處に、天皇持(テ)2斧鉞(ヲ)1、以授(テ)2日本武(ノ)尊(ニ)1曰(ク)云々、すべて古(ヘ)かゝる時にも、矛劔《ホコタチ》などをこそ賜ひつれ、斧鉞を賜へる事はさらになし、故(レ)これも、此記に給(フ)2比々羅木之八尋矛《ヒヒラギノヤヒロボコヲ》1とあるぞ、實《マコト》なりけるを、強《シヒ》て漢《カラ》めかさむとて、斧鉞とは書れたるなり、語《コトバ》をかざれるは、なほゆるさるゝかたもありなむを、かく物《モノ》をさへに替《カヘ》て書れたるは、あまりならずや、なほ此(ノ)類あり、看《ミ》む人心すべし、又繼體天皇の、未《イマダ》越前《コシノミチノクチ》の三國《ミクニ》に大坐々《オホマシマシ》しを、臣連等《オミムラジタチ》相議《アヒハカリ》て、迎(ヘ)奉(リ)て、天津日嗣|所知看《シロシメサ》しめむとせしを、謝《イナ》び賜へる處に、男大迹《ヲホトノ》天皇、西(ニ)向(テ)讓(ルコト)者|三《ミタビ》、南(ニ)向(テ)讓(ルコト)者|再《フタタビ》とある、そのかみかゝる事《ワザ》あるべくもあらず、此(ノ)前後《アタリ》の文は、すべて漢籍《カラブミ》にあるを、そのまゝに取《トラ》れたるなり、抑かく人の事態《シワザ》まで造《ツク》りかざりて、漢《カラ》めかされたるはいかにぞや、又綏靖天皇元年、春正月壬申朔己卯云々、尊(テ)2皇后(ヲ)1曰2皇大后(ト)1とあるたぐひ、【此(レ)より次の御代々々も、みな此例に記されたり、】上(ツ)代のさまにはあらず、いかにといふに、まづ上(ツ)代には、大后《オホギサキ》とは、當代《ソノミヨ》の嫡后を申し、大御母《オホミハハ》命をば、大御祖《オホミオヤ》と申せればなり、【此事、中卷|白梼原《カシバラノ》宮(ノ)段に委くいふべし、古(ヘ)によらば、皇后を意富岐佐伎《オホギサキ》、皇大后をは意富美意夜《オホミオヤ》と訓べし、皇大后を意富岐佐伎《オホギサキ》と訓てはかなはず、】さて皇后《オホギサキ》を、其(ノ)御子の御世に至(リ)て、改めて際《キハ》やかに皇大后《オホミオヤ》と御號《ミナ》づけ奉り賜はむことも、上(ツ)代のさまには非ず、大御母命は、元《モト》より大御親《オホミオヤ》に坐《マセ》ばなり、【上(ツ)代には、語をおきて、文字はなければ、外に皇大后と申すべき御號《ミナ》はなきをや、】凡てかゝる御號《ミナ》を、きはやかに改めらるゝなどは、もと漢《カラ》國の事なり、且《ソノウヘ》某《ソノ》年月日と、月日まで記されたるは、まして漢《カラ》なり、すべて上(ツ)代の事に月日をいへるは、猶《ナホ》別に論《アゲツラヒ》あり、抑書紀の論ふべきことどもは、なほ種々《クサグサ》多かれども、今はたゞ漢籍意《カラブミゴコロ》の潤色文《カザリコトバ》の、古學《イニシヘマナビ》の害《サマタゲ》となりぬべきかぎりの言《コト》を、これかれ引出て、辨へ論へるなり、此《コノ》同類《オナジタグヒ》の言は、みな准《ナズラ》へてさとるべし、すべて漢意《カラゴコロ》の説《コト》は、理《コトワリ》深《フカ》げにて、人の心に入(リ)やすく、惑ひやすき物なれば、彼(ノ)紀を看《ミ》む人、つねに此意をなわすれそゆめ、

〇書紀を訓讀《ヨム》こといとかたし、いかにといふに、まづ上(ノ)件に論へる如く、漢籍《カラブミ》のふりをならひて、其(ノ)かざりの文多ければなり、これを文のまゝに訓まむには、字音などをもまじへて、もはらからぶみを讀《ヨム》ごとくによむべきさまなれども、又をり/\は訓注を加《クハ》へて、古言を顯《アラハ》されたることもあるを思へは、然《シカ》ひたぶるに漢籍の如く讀(ム)べきにも非ず、然らば全《マタ》く古言によまむとするには、さらにさは訓(ミ)がたき處おほく、又其字の意を得て、強《シヒ》てよむときは、言は皇國の言になりても、その連接《ツヅキ》と意とは、なほ漢なること多し、然れば全く古言古意に訓(マ)むとならば、さらに文に拘《カカハ》らず、字にすがらず、たゞ其所《ソコ》のすべての意をよく思(ヒ)て、古事記萬葉の語の格《サマ》をよく考へて訓べし、然せむには、十字二十字などをも、みながら捨《ステテ》て讀(ム)まじき處々なども有(ル)べきなり、さはあれども、今(ノ)世(ノ)人は、おのづから又今の癖《クセ》のある物なれば、さまで上(ツ)代の意言を、いさゝかも違へず、つばらかにさとり明らめむことも、え有(リ)がたかるべきわざにしあれば、かにかくにうるはしくは訓(ミ)得がたき書なりかし、さて今(ノ)本の訓は、あるべき限(リ)は、古言に訓たる物にして、【此記にあることは、多く其言にならひてよめり、】古き言ども是(レ)にのこれる多し、されども漢文のかざりの處などは、其文のまゝに、字にすがりて訓る故に、さらに古(ノ)意にあらずして、言のつゞきざまなども、もはら漢籍訓《カラブミヨミ》なり、此(ノ)意を思ひて看《ミ》べし、

 

     舊事紀といふ書の論

 

世に舊事本紀と名づけたる、十卷の書あり、此《コ》は後(ノ)人の僞り輯《アツ》めたる物にして、さらにかの聖徳太子命《シヤウトクノミコノミコト》の撰《エラ》び給し、眞《マコト》の紀《フミ》には非ず、【序も、書紀(ノ)推古(ノ)御卷の事に據《ヨリ》て、後(ノ)人の作れる物なり、】然れども、無き事をひたぶるに造りて書るにもあらず、たゞ此(ノ)記と書紀とを取(リ)合せて、集《アツ》めなせり、其《ソ》は卷を披《ヒラ》きて一たび見れば、いとよく知(ラ)るゝことなれど、なほ疑はむ人もあらば、神代の事《コト》記せる所々を、心とゞめて看《ミ》よ、事|毎《ゴト》に此記の文と書紀の文とを、皆|本《モト》のまゝながら交《マジ》へて擧《アゲ》たる故に、文體《コトバツキ》一つ物ならず、諺《コトワザ》に木に竹を接《ツゲ》りとか云が如し、又此記なるをも書紀なるをも、ならべ取(リ)て、一(ツ)事の重《カサ》なれるさへ有て、いと/\みだりがはし、すべて此記と書紀とは、なべての文のさまも、物(ノ)名の字《モジ》なども、いたく異《コト》なるを、雜《マジ》へて取れれば、そのけぢめいとよく分れてあらはなり、又|往々《ヲリオリ》古語拾遺をしも取れる、是(レ)も其文のまゝなれば、よく分れたり、【これを以て見れは、大同より後に作れる物なりけり、さればこそ中に、嵯峨(ノ)天皇と云ことも見えたれ、】かくて神武天皇より以降《こなた》の御世々々は、もはら書紀のみを取て、事を略《はぶき》てかける、是(レ)も書紀と文|全《また》く同じければ、あらはなり、且《そのうへ》歌はみな略《はぶ》けるに、いかなればか、神武(ノ)御卷なるのみをば載《のせ》たる、假字《かな》まで一字《ひともじ》も異《こと》ならずなむ有(ル)をや、さて又|某《なにの》本紀|某《くれの》本紀とあげたる、卷々の目《な》どもも、みなあたらず、凡て正《ただ》しからざる書なり、但し三の卷の内、饒速日《ニギハヤビノ》命の天より降り坐(ス)時の事と、五の卷尾張(ノ)連物部(ノ)連の世次《ヨツギ》と、十の卷國造本紀と云(フ)物と、是等《コレラ》は何《イヅレノ》書《フミ》にも見えず、新《アラタ》に造れる説《コト》とも見えざれば、他《ホカ》に古書ありて、取れる物なるべし、【いづれも中に疑はしき事どもはまじれり、そは事の序《ツイデ》あらむ處々に辨ふべし、】さればこれらのかぎりは、今も依(リ)用ひて、助《タス》くることおほし、又此記の今(ノ)本《マキ》、誤字《アヤマレルモジ》多きに、彼(ノ)紀には、いまだ誤らざりし本《マキ》より取れるが、今もたま/\あやまらである所なども稀《マレ》にはある、是(レ)もいさゝか助《タスケ》となれり、大かたこれらのほかは、さらに要《エウ》なき書なり、【〇舊事大成經といふ物あり、此《コ》は殊に近き世に作(リ)出たる書にして、こと/”\く僞説《イツハリゴト》なり、又神別本紀といふものも、今あるは、近(キ)世(ノ)人の僞造《イツハリツク》れるなり、そのほか神道者といふ徒《トモガラ》の用る書どもの中に、これかれ僞(リ)なるおほし、古學《イニシヘマナビ》をくはしくして見れば、まこといつはりは、いとよく分るゝ物ぞかし、】

 

     記《フミノ》題號《ナ》の事

                                   古事記と號《ナヅ》けられたる所以《ユヱ》は、古(ヘ)の事をしるせる記《フミ》といふことなり、書紀に、淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の御代に、かの川嶋(ノ)皇子|等《ナド》に仰せて、國史を撰ばしメらるゝ事を記されたる處に、記(シ)2定(メシム)帝紀及上古(ノ)之諸事(ヲ)1とある、此(ノ)語即(チ)今の題號《ナ》の意と同じ、然《サ》て此題號は、かの書紀のごと、國號を標《アゲ》ず、押出《オシイダ》してたゞ古事と云る、うけばりていと貴《タフト》し、異國《アダシクニ》を邊《ヘ》つらひ思はず、天地の極《キハ》み、たゞ天(ツ)神(ノ)御子の所知看食國《シロシメスヲスクニ》の外なき意にかなへればなり、【撰者の意は、さることまでを思ひいぇなづけたるにはあらざるめれども、おのづから此意にかなひて、めでたきなり、】大御國の物學《モノマナビ》せむともがらは、何事にも、常《ツネ》此こゝろばへを忘《ワス》るまじきものなり、又卷の分《ワカ》ちざまも、漢籍の例に、かゝはらずて、上卷中卷下卷といへる、これはためでたし、【卷(ノ)上卷(ノ)中卷(ノ)下といはむは、漢《カラ》ざまなり、又卷之一巻第一などいふも漢なり、それも一之卷《イチノマキ》二之卷《ニノマキ》などとこそいふべけれ、マキノツイデヒトツ、又はヒトマキニアタルマキなどよむは、中々に皇國の物言《モノイヒ》ざまにはうとし、】さて日本紀をば、夜麻登夫美《ヤマトブミ》と訓(ム)を、此記の題號は、訓《ヨミ》あることも聞えず、本より撰者の心にも、たゞ字音《モジゴヱ》に讀《ヨメ》とにや有(リ)けむ、されど彼(ノ)夜麻登夫美《ヤマトブミ》の例に傚《ナラ》はば、布琉許登夫美《フルコトブミ》とぞ訓《ヨマ》まし、上卷は迦美都麻伎《カミツマキ》、中卷は那加都麻伎《ナカツマキ》、下卷は斯母都麻伎《シモツマキ》と訓べし、

 

     諸本又注釋の事

 

此記、今世に流布《ホドコ》れる本《マキ》二(ツ)あり、其一(ツ)は、寛永のころ板《イタ》に彫《ヱ》れる本《マキ》にて、字《モジ》の脱《オチ》たる誤れるなどいと多く、又訓も誤れる字のまゝに附《ツケ》たる所は、さらにもいはず、さらぬ所も、凡ていとわろし、今一(ツ)は、其後に伊勢の神官《カムヅカサ》なる、度會(ノ)延佳てふ人の、古本《フルキマキ》など校《カムガヘ》て、改(メ)正して彫《ヱラ》せたるなり、此《コレ》はかの脱《オチ》たる字をも誤れるをも、大かた直《ナホ》して、訓もことわり聞ゆるさまに附《ツケ》たり、されど又まゝには、己がさかしらをも加《クハ》へて、字をも改めつと見えて、中々なることもあり、此(ノ)人すべて古語をしらず、たゞ事の趣《オモムキ》をのみ、一わたり思ひて、訓(メ)れば、其訓は、言も意も、いたく古にたがひて、後(ノ)世なると漢《カラ》なるとのみなり、さらに用ふべきにあらず、かくて右の二(ツ)をおきて、古(キ)本はいとまれらにて、今はいと/\得がたきを、己《オノレ》さきにからくして一部《ヒトツ》得て見つるに、誤(リ)はなほいと多《サハ》になむ有ける、近きころ又、かの延佳が、はじめに異本《コトマキ》どもを比校《クラベミ》て、これもかれも書(キ)入(レ)たる本を寫したる本、又京の村井氏【敬義】が所藏《モタ》る古き本をも見るに、此(レ)らはた殊なることもなくて、誤のみ多く、村井がは、大かた舊《フル》き印本《ヱリマキ》にぞ近かりける、其後又、尾張(ノ)國名兒屋なる眞福寺といふ寺【俗に大洲の觀音といふ、】に、昔より傳へ藏《ア》る本を寫せるを見るに、こは餘《ホカ》の本どもとは異《コト》なる、めづらしき事もをり/\あるを、字の脱《オチ》たる誤れるなどは、殊にしげくぞある、かゝればなほ今(ノ)世には、誤なき古(ヘノ)本は、在《アリ》がたきなりけり、されど右の本どもも、これかれ得失《ヨキアシキ》ことは互《タガヒ》に有(リ)て、見合(ハ)すれば、益《タスケ》となること多し、

〇此記、むかしより註釋あることをきかず、たゞ元々集といふ物に、或記(ニ)云(ク)【古事記釋】云々、また古事記(ノ)釋註(ニ)曰(ク)云々とあるは、むかし釋註といふもの有しにこそ、そは誰《タガ》作《ツク》れりしにか、其名だに他《ホカ》には見えず、まして今は聞えぬ物なり、【或《アル》僞書《イツハリブミ》に、此記の註とて、名を作りて、引たることあれど、そらごとなれば、いふにたらず、】

 

     文體《カキザマ》の事

 

すべての文、漢文の格《》サマに書れたり、抑此記は、もはら古語を傳ふるを旨《ムネ》とせられたる書なれば、中昔《ナカムカシ》の物語文などの如く、皇國の語のまゝに、一もじもたがへず、假字書《カナガキ》にこそせらるべきに、いかなれば漢文にほ物せられつるぞといはむか、いで其ゆゑを委曲《ツバラカ》に示さむ、先(ヅ)大御國にもと文字はなかりしかば、【今神代の文字などいふ物あるは、後(ノ)世人の僞作《イツハリ》にて、いふにたらず、】上(ツ)代の古事《フルコト》どもも何《ナニ》も、直《タダ》に人の口《クチ》に言(ヒ)傳へ、耳に聽《キキ》傳はり來《キ》ぬるを、やゝ後に、外國《トツクニ》より書籍《フミ》と云(フ)物|渡參來《ワタリマヰキ》て、【西土《ニシグニ》の文字の、始(メ)て渡(リ)參來《マヰキ》つるは、記に應神天皇の御世に、百濟《クダラ》の國より、和邇吉師てふ人につけて、論語と千字文とを貢《タテマツリ》しことある、此時よりなるべし、なほ懷風藻の序などにも、此おもむき見えたれば、奈良のころも、然言(ヒ)傳へたるなるべし、それよりさきにも、外國《トツクニ》人の參入《マヰリ》しは、書紀に崇神天皇の御世に始(メ)て彌摩那《ミマナノ》國人又垂仁天皇の御世に、新羅《シラギノ》國主(ノ)子|天之日矛《アメノヒボコ》などあれども、書籍《フミ》はいまだ渡らざりけむ、そも/\異國《アダシクニ》とこと通《カヨ》ふことは、漢國《カラクニ》の書には、かのくにの漢《カン》といひし代より、御國の使、かしこに至れりつと云へれども、皇朝《ミカド》にはさらにしろしめさぬ事にして、此《コ》はくさ/”\論ひ有て、別にしるせり、彼(ノ)國ノ大御使を遣《ツカ》はししは、遙《ハルカ》の後、推古天皇の御世ぞ始(メ)なりける、又韓の國々の、したしく仕(ヘ)奉(リ)しことは、神功皇后の、かの國|言向坐《コトムケマシ》しよりの事なれば、書籍《フミ》のわたり來《コ》しも、決《ウツナ》くかの和邇がまゐりこし時よりのこととぞ思はるゝ、然るに神武天皇の御時よりも、既《ハヤ》く文字は有しごと思ふ人もあれど、そは書紀を一わたり見て、かのかざり多かることを、よくも考へず、文のまゝに意得るから、さも思ふぞかし、】其《ソ》を此間《ココ》の言もて讀(ミ)ならひ、その義理《ココロ》をもわきまへさとりてぞ、【書紀に、應神天皇十五年、太子の、百濟の阿直岐又|王仁《ワニ》に、經典をならひて、よくさとり賜へりしこと見えたり、】其(ノ)文字《モジ》を用ひ、その書籍《フミ》の語《コトバ》を借《カリ》て、此間《ココ》の事をも書記《カキシル》すことにはなりぬる、【書紀(ノ)履中(ノ)卷、四年云々|首《ハジメ》に引るがごとし、】されどその書籍《フミ》てふ物は、みな異國《アダシクニ》の語にして、此間《ココ》の語とは、用格《ツカヒザマ》もなにも、甚《イタ》く異《コト》なれば、その語を借(リ)て、此間《ココ》の事を記すに、全《マタ》く此間《ココ》の語のまゝには、書(キ)取(リ)がたかりし故に、萬(ノ)事、かの漢文の格《サマ》のまゝになむ書(キ)ならひ來《キ》にける、故(レ)奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間《ココ》の語の隨《ママ》なるは、をさ/\見えず、萬葉などは、歌の集《フミ》なるすら、端辭《ハシノコトバ》など、みな漢文なるを見てもしるべし、かの物語|書《ブミ》などのごとく、こゝの語のまゝに物|言《カク》事は、今(ノ)京になりて、平假字《ヒラガナ》といふもの出來ての後に始まれり、但し歌と祝詞《ノリト》と宣命詞《ミコトノリノコトバ》と、これらのみは、いと古(ヘ)より、古語《フルコト》のまゝに書(キ)傳へたり、これらは言《コト》に文《アヤ》をなして、麗《ウルハシ》くつゞりて、唱《トナ》へ擧《アゲ》て、神にも人にも聞感《キキメデ》しめ、歌は詠《ナガ》めもする物にて、一字《ヒトモジ》も違《タガ》ひては惡《アシ》かる故に、漢文には書がたければぞかし、故(レ)歌は、此記と書紀とに載《ノ》れる如くに、字の音をのみ假《カリ》てかける、これを假字《カナ》といへり、【假字《カナ》とは加理那《カリナ》なり、其字の義《ココロ》をばとらずて、たゞ音のみを假《カリ》て、櫻を佐久羅《サクラ》、雪を由伎《ユキ》と書たぐひなり、那《ナ》は字といふことなり、字を古(ヘ)名《ナ》といへり、さて古(ヘ)の假字《カナ》は、凡て右の佐久羅《サクラ》由伎《ユキ》などの如く書るのみなりしを、後に、書(ク)に便《タヨリ》よからむために、片假字《カタカナ》といふ物を作れり、作れる人はさだかならず、吉備大臣《キビノオホオミ》などにぞありけむ、かくて是(レ)を片假字と名《ナヅ》けしゆゑは、本よりの假字のかたかたを略《ハブキ》て、伊をイ、利をリと、片《カタカタ》をかくが故なり、此(ノ)名は、うつほの物語(ノ)藏開《クラビラキノ》巻|國禅《クニユヅリノ》卷、又狹衣(ノ)物語などにも見えたり、さて此(ノ)片假字もなほ眞書にて、婦人《ヲミナ》兒童《ワラハベ》などのため、又歌など書(ク)にも、なごやかならざるゆゑに、又草書をくづして、平假字《ヒラガナ》)を作れり、是(レ)も其人はさだかならねど、花鳥餘情に、弘法大師これを作るとあり、世にも然いひつたへたり、さもありぬべし、さてこれを平假字といふは、片假字に對《ムカ》へてなり、されど此(ノ)名は、古き物には見あたらず、】祝詞《ノリト》宣命《ミコトノリ》は、又|別《コト》に一種《ヒトクサ》の書法《カキザマ》ありて、世に宣命書《セムミヤウガキ》といへり、【祝詞は、延喜式にあまた載《ノセ》られて、八の卷その卷なり、宣命は、續紀よりこなた、御代々々の紀に多く記されたり、】おほかたこれらの餘《ホカ》、かならず詞を文《アヤ》なさずても有(ル)べきかぎりは、みな漢文にぞ書《カケ》りける、【故(レ)そのならひのうつりて、漸(ク)に此方《ココ》の詞つゞけも、おのづから漢文ざまになりぬることおほし、かの宣命祝詞のたぐひすら、後々のは、たゞ書(キ)ざまのみ古(ヘ)のまゝにて、詞は漢なることのみぞ多かる、凡て後(ノ)世にくだりては、漢文の詞つきを、返(リ)て美麗(ウルハ)しと聞て、皇國の雅言《ミヤビゴト》の美麗《ウルハシ》きをば、たづぬる人もなくなりぬるは、いとも/\悲しきわざなりけり、】かゝれば此記を撰定《エラ》ばれつるころも、歌祝詞宣命 などの余《ホカ)には、いまだ仮字文《カナブミ》といフ書法《カキザマ》は無《ナ》かりしかばmなべての世間《ヨ》のならひのまゝに、漢文には書《カカ》れしなり、さて然《シカ》漢文を以て書(ク)に就《ツキ》ては、そのころ其(ノ)学問|盛《サカリ》にて、そなたざまの文章をも、巧《タクミ》にかきあへる世なれば、是(レ)も書紀などの如く、其文をかざりて物せらるべきに、さはあらで、漢文のかたは、たゞありに拙《ツタナ》げなるは、ひたぶるに古(ノ)語を傳ふることを旨《ムネ》とせる故に、漢文の方には心せざる物なり、【撰者の、漢文かくことの拙《ツタナ》かりしにはあらず、序(ノ)文とくらべ見よ、序こそ、彼(ノ)人のからぶみ力《ヂカラ》のかぎりとは見ゆめれ、】故(レ)字の意にもかゝはらず、又その置處《オキドコロ》などにも拘《カカハ》らざるところ多かりかし、又序に、全(ク)以(テ)v音(ヲ)連(ヌレバ)者、事(ノ)趣更(ニ)長(シ)、是(ヲ)以(テ)今或(ハ)一句(ノ)之中、交(ヘ)2用(ヒ)音訓(ヲ)1、或(ハ)一事(ノ)之内、全(ク)以(テ)v訓(ヲ)録(ス)、とあるをもて見れば、全く仮字|書《ガキ》の如くにもせまほしく思はれけむ、撰者の本意《ココロ》しられたり、故(レ)大体《オホカタ》は漢文のさまなれども、又ひたぶるの漢文にもあらず、種々《クサグサ》のかきざま有て、或は仮字書(キ)の處も多し、久羅下那洲多陀用幣流《クラゲナスタダヨヘル》などもあるが如し、又宣命書の如くなるところもあり、在祁理《アリケリ》、また吐散登許曾《ハキチラストコソ》などの如し、又漢文ながら、古語(ノ)格《サマ》」ともはら同じきこともあり、立《タタシ》2天浮橋《アマノウキハシニ》1而《テ》指2下《サシオロシ》其《ソノ》沼矛《ヌホコヲ》1【立(ノ)字又指下(ノ)二字を、上に置るほ、漢文なり、されど尋常《ヨノツネ》のごとく字のまゝに讀て、古語に違ふことなし、】などの如し、又漢文に引(カ)れて、古語のさまにたがへる處も、をり/\は無きにあらず、名(ケテ)2其(ノ)子(ヲ)1云(フ)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とあるたぐひ、古語にかゝば、其(ノ)子(ノ)名(ヲ)云(フ)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とか、其(ノ)子(ヲ)名(ク)2木(ノ)俣(ノ)神(ト)1とか有(ル)べし、此(レ)謂(フ)2之(ヲ)神語(ト)也とある、之(ノ)字の添《ソヒ》たるは、古語にたがへり、更(ニ)往(キ)廻(リタマフコト)其(ノ)天(ノ)之御柱(ヲ)1如(シ)v先(キノ)、これらも如(シ)v先(ノ)てふ言の置所《オキドコロ》、此方《ココ》の語とたがへり、更(ラニ)其(ノ)天(ノ)之御柱(ヲ)如《ゴト》v先(キノ)往(キ)廻(リタマフ)といふぞ、此方《ココ》の語《コトバ》つゞけなる、此(ノ)類(ヒ)心をつくべきことなり、よくせずば漢文に惑《マド》ひぬべし、又懷妊臨v産、或は不v得v成v婚、或は足v示2後世1、或は不v得v忍2其兄1などの類は、ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず、但(シ)かくさまの文といへども、ことさらに好《コノ》みてにはあらざるめれど、當時《ソノカミ》物書(ク)には、なべて漢文のみになれぬるから、とりはづしては、おのづからかゝることも雜《マジ》れるなるべし、【古(ヘ)仮字文の例なくして、漢文にのみ物をかきなれたるゆゑなり、仮字文かくこと始まりて後の、物語文などには、かへりてかくの如き詞つきなる文はなきをもてしるべし、】又庶兄嫡妻人民國家などのたぐひの文字も、此方《ココ》の言には疎《ウト》けれど、これらは殊に世に用《ツカ》ひなれたるまゝなるべし、山海晝夜などの類も、此方《ココ》には海山《ウミヤマ》夜晝《ヒル》といへども、これはた書(キ)なれたるまゝなり、さて又古言を記《シル》すに、四種《ヨクサ》の書(キ)ざまあり、一(ツ)に」は假字書《カナガキ》、こは其言をいさゝかも違《タガ》へざる物なれば、あるが中にも正《タダ》しきなり、二(ツ)には正字《マサモジ》、こは呵米《アメ》を天、都知《ツチ》を地と書(ク)類にて、字の義《ココロ》、言の意に相當《アヒアタリ》て、正しきなり、【但し天は阿麻《アマ》とも曾良《ソラ》とも訓(ム)べく、地は久爾(クニ)とも登許呂《トコロ》とも訓べきが故に、言の定まらざることあり、故(レ)假字書の正しきには及ばず、されど又、言の意を具《ソナ》へたるは、假字書にまされり、】其(ノ)中に、股《マタ》に俣と書(キ)、【こは漢國籍《カラクニブミ》になき文字なり、】橋に椅(ノ)字を用ひ、【こは橋の義《ココロ》なき字なり、】蜈※〔虫+松〕呉公と作《カケ》る【こは偏《ヘム》を省《ハブ》ける例なり、】たぐひは、正字ながら別《コト》)なるものにして、又|各《オノオノ》一種《ヒトクサ》なり、【其由どもは、各其處々にいふべし、】三(ツ)には借字《カリモジ》、こは字の義《ココロ》を取らず、たゞ其(ノ)訓《ヨミ》を、異意《アダシココロ》に借(リ)て書(ク)を云(フ)、序に、因(テ)v訓(ニ)述(ブレバ)者、詞不v逮(バ)v心(ニ)とある是(レ)なり、神(ノ)名人(ノ)名地(ノ)名などに殊におほし、其(ノ)餘《ホカ》のたゞの言にも、まれには用ひたり、平城《ナラ》のころまでは、凡て此(ノ)借(リ)字に書る、常の事にて、云(ヒ)もてゆけば、假字《カナ》と同じことなるを、後(ノ)世になりては、たゞ文字にのみ心をつくる故に、これをいふかしむめれど、古(ヘ)は言を主《ムネ》として、字にはさしも拘《カカハ》らざりしかば、いかさまにも借(リ)てかけるなり、四(ツ)には、右の三種《ミグサ》の内を、此(レ)彼(レ)交《マジ》へて書るものあり、さて上(ノ)件(リ)の四くさの外に又、所由《ヨシ》ありて書ならへる一種《ヒトクサ》あり、日下《クサカ》春日《カスガ》飛鳥《アスカ》大神《オホミワ》長谷《ハツセ》他田《ヲサダ》三枝《サキクサ》のたぐひ是(レ)なり、

 

     假字《カナ》の事

 

此記に用ひたる假字のかぎりを左にあぐ、

ア※〔□で囲む〕阿 此(ノ)外に、延佳本又一本に、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、亞亞《アア》といふ假字あれども、誤字《アヤマレルモジ》と見えたり、其由ほ彼處《ソコ》に辨《ワキマフ》べし、

イ※〔□で囲む〕伊

ウ※〔□で囲む〕宇※〔さんずい+于〕 此(ノ)中に、※〔さんずい+于〕(ノ)字は、上卷|石屋戸(イハヤドノ)段に、伏《フセ》2※〔さんずい+于〕氣《ウケ》1、とたゞ一(ツ)あるのみなり、

エ※〔□で囲む〕延愛 此(ノ)中に、愛(ノ)字は、上卷に愛袁登古《エヲトコ》愛袁登賣《エヲトメ》、また神(ノ)名|愛比賣《エヒメ》などのみなり、

オ※〔□で囲む〕淤意隱 此(ノ)外に、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、於志弖流《オシテル》と、たゞ一(ツ)於(ノ)字あれども、一本に淤とあれば、後の誤(リ)なり、隱(ノ)字は、國(ノ)名|隱伎《オキ》のみなり、

カ※〔□で囲む〕加迦※〔言+可〕甲可 【濁音】賀何我 此(ノ)中に、甲(ノ)字は、甲斐《カヒ》とつゞきたる言にのみ用ひたり、【國(ノ)名のみならず、カヒとつづきたる言には、すべて此(ノ)字を書り、】可(ノ)字は、中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、阿可良氣美《アカラケミ》とあるのみなり、【下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、延佳本に、可豆艮《カヅラ》とあるは、ひがことなり、】賀(ノ)字は、清濁に通はし用ふといふ人もあれど、然らず、必濁音なり、【記中の歌に、此字の見えたる、おほよそ百三十あまりなる中に、必清音なるべきところは、たゞ五(ツ)のみにして、其餘《ソノホカ》百二十あまりは、ことごとく濁音の處なればなり、】何(ノ)字は、上卷(ノ)歌に、和何《ワガ》と三(ツ)、また岐美何《キミガ》ともあるのみなり、我(ノ)字は、中卷に、姓の蘇我《ソガ》のみなり、【下卷には宗賀《ソガ》とかけり、】

キ※〔□で囲む〕伎紀貴幾吉 【清濁通用】岐 【濁音】藝疑棄 此(ノ)中に、伎(ノ)字と岐(ノ)字との間《アヒダ》に、疑はしきことあり、上卷の初《ハジメ》つかたしばしがほどは、清音には伎(ノ)字を用ひ、岐(ノ)字は濁音にのみ用ひて、清濁分れたるに、後は清濁共に岐をのみ用ひて、伎を用ひたるはたゞ、上卷八千矛(ノ)神(ノ卷卷)御歌に、伎許志弖《キコシテ》、また那伎《ナキ》、【鳴也、】中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段に、伊須々岐伎《イススギキ》、輕嶋(ノ)宮(ノ)段に迦豆伎《カヅキ》、下卷高津(ノ)宮(ノ)段に、伊波迦伎加泥弖《イハカキカネテ》、朝倉(ノ)宮(ノ)段に由々斯伎《ユユシキ》、これらのみなり、抑記中凡て一(ツノ)假字を、清濁に兼用ひたる例なきをもて思(フ)に、本は清音の處は、終(リ)までみな伎(ノ)字なりけむを、字(ノ)形の似たるから、後に誤(リ)て、みな岐に混《マギ》れつるにやあらむ、【又伊邪那岐命の岐(ノ)字を、伎と作《カケ》る處もあり、是(レ)はたまぎれつるなり、】されど今は定めがたければ、姑く岐をば清濁通用とあげつ、貴(ノ)字は、神(ノ)名|阿遲志貴《アヂシキ》のみなり、【歌にも此字を書り、】幾(ノ)字は、河内の地名|志幾《シキ》のみなり、【大倭のはみな師木とのみかけり、】吉(ノ)字は、國(ノ)名~|吉備《キビ》、【歌には岐備《キビ》と書り、】姓《カバネ》吉師《キシ》のみなり、疑(ノ)字は、上卷に佐疑理《サギリ》、【霧なり、】中卷に泥疑《ネギ》【三つあり、】須疑《スギ》【過なり三(ツ)あり、】のみなり、棄(ノ)字は、上卷に奴棄宇弖《ヌギウテ》とあるのみなり、【同じつゞきに此(ノ)言の今一(ツ)あるには、奴岐《ヌギ》と書り、】

ク※〔□で囲む〕久玖 【濁音】具

ケ※〔□で囲む〕氣祁 【濁音】宜下牙 此(ノ)中に、下(ノ)字は、上卷に久羅下《クラゲ》【海月《クラゲ》なり、】とあるのみなり、牙(ノ)字は、中卷に佐夜牙流《サヤゲル》とあるのみなり、

コ※〔□で囲む〕許古故胡高去 【濁音】碁其 此(ノ)中に、故(ノ)字は、上卷(ノ)歌に故志能久邇《コシノクニ》と、只一(ツ)あるのみなり、【文《コトバ》には高志《コシ》と書り、】胡(ノ)字は、中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段に、盈々志夜胡志夜《エエシヤコシヤ》、【二(ツ)あり、】下卷甕栗(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、宇良胡本斯《ウラコホシ》、これのみなり、去(ノ)字は、白檮原(ノ)宮(ノ)段に、志祁去岐《シケコキ》とあるのみなり、【もしは古(ノ)字を誤れるには非るにや、】高(ノ)字は、地名高|志《コシ》と、人(ノ)名|高目郎女丸高王《コムクノイラツメマロコノミコ》と、これらのみなり、碁(ノ)字は、或は基(ノ)字に作《カケ》る處もあり、是(レ)は本より二(ツ)かとも思はるれど、諸本|互《タガヒ》に異《コト》にして、定まらざれば、本は一(ツ)なりけむが、誤りて二(ツ)にはなれるなり、かくて何《イヅ》れを正《タダ》しとも、今|言《イヒ》がたけれども、姑《シバラ》く多き方に定めて、基をば誤(リ)としつ、其(ノ)字は、上卷(ノ)歌に只一(ツ)あるのみなり、【その同言の、前後に多くあるは、みな碁基(ノ)字を書たれば、是(レ)はたその字の誤(リ)にこそあらめ、】

サ※〔□で囲む〕佐沙左 【濁音】邪奢 此(ノ)中に、沙(ノ)字は、神(ノ)名人(ノ)名地(ノ)名に往々《ヲリヲリ》用ひ、又中卷に沙庭《サニハ》ともある、これらのみなり、左(ノ)字は、国(ノ)名|土左《トサ》のみなり、又佐(ノ)字を、二所《フタトコロ》作と作《カケ》る本あり、上卷|麻都夫作邇《マツブサニ》、また岐作理持《キサリモチ》これなり、是《コ》は皆誤(リ)なり、邪(ノ)字、おほく耶と作《カケ》り、誤(リ)にはあらざれども、【漢籍《カラブミ》にも、此(ノ)二字通はし用ひたること多し、玉篇に、耶(ハ)俗(ノ)邪(ノ)字といへり、】なほ邪を正《タダ》しとすべし、奢(ノ)字は、神(ノ)名|久比奢母知《クヒザモチ》、奥奢加流《オキザカル》、伊奢沙和氣《イザサワケ》、人(ノ)名|伊奢之眞若《イザノマワカ》など、辭《コトバ》にも、中卷に伊奢《イザ》【二ところ】とある、これらのみなり、

シ※〔□で囲む〕斯志師色紫芝 【濁音】士自 此(ノ)中に、師(ノ)字は、壹師《イチシ》吉師《キシ》のみなり、【師木《シキ》味師《ウマシ》などの師は、訓に取れるにて、借字《カリモジ》の例なり、假字の例には非ず、】色(ノ)字は、人(ノ)名の色許男《シコヲ》色許賣《シコメ》のみなり、紫(ノ)字は、筑紫《ツクシ》のみなり、芝(ノ)字は、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、芝賀《シガ》と只一(ツ)あるのみなり、自字は、地(ノ)名|伊自牟《イジム》、人(ノ)名|志自牟《シジム》のみなり、さて右の字どもの外に、中卷水垣(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に式(ノ)字一(ツ)、輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に支(ノ)字一(ツ)、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に之(ノ)字一(ツ)あれども、いと疑はし、誤(リ)ならむか、なほ其(ノ)處々《トコロドコロ》に論ふべす、

ス※〔□で囲む〕須洲州周 【濁音】受 此(ノ)中に洲(ノ)字は、上卷に久羅下那洲《クラゲナス》とあるのみなり、【堅洲國《カタスクニ》洲羽海《スハノウミ》などの洲は、訓を用ひたるなれば、假字の例にあらず、】州(ノ)字は、上卷に州須《スス》【煤なり、】とあるのみなり、洲州の内一(ツ)は、一(ツ)を誤れるにもあらむか、周(ノ)字は、國(ノ)名周芳のみなり、さて右の字どもの外に、中卷水垣(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、素(ノ)字一(ツ)あれども、そは袁(ノ)字の誤(リ)なり、

セ※〔□で囲む〕勢世 【濁音】是

ソ※〔□で囲む〕曾蘇宗 【濁音】叙 此(ノ)中に、曾(ノ)字は、なべては清音にのみ用ひたるに、辭《テニヲハ》のゾの濁音は、あまねく此(ノ)字を用ひたり、【書紀萬葉などもおなじ、】故(レ)もしくは辭《テニヲハ》のゾも、古(ヘ)は清《スミ》て云るかとも思へども、中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌には、三處まで叙(ノ)字をも用ひ、又|某《ソレ》ゾといひとぢむるゾにも、多くは叙を用ひたれば、清音にあらず、然るにそのいひとぢむるところのゾにも、一(ツ)二(ツ)曾を書る處もあり、然れば此字、清濁に通はし用ひたるかとも思へど、記中にさる例もなく、又|辭《テニヲハ》のゾをおきて、他《ホカ》に濁音に用ひたる處なければ、今は清音と定めつ、そも/\此(ノ)字、辭《テニヲハ》のゾにのみ濁音に用ひたること、猶よく考ふべし、宗(ノ)字は、姓|阿宗宗賀《アソソガ》のみなり、

タ※〔□で囲む〕多當他 【濁音】陀太 此(ノ)中に、當(ノ)字は、當藝志美美々《タギシミミノ》命、また當藝斯《タギシ》、當藝野《タギヌ》、當岐麻《タギマ》などのみなり、他(ノ)字は、地(ノ)名|多他那美《タタナミ》、下卷高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に他賀《タガ》、【誰《タガ》なり、】これのみなり、太(ノ)字は、下卷列木(ノ)宮(ノ)段に、品太《ホムダノ》天皇とあり、【此(ノ)御名、餘《ホカ》は皆品陀とかけり、】又朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、延佳本に太陀理《タダリ》【線柱なり、】とあるは、さかしらに改めたるものにしてひがことなり、諸本みな本陀理《ホダリ》とあるぞよろしき、【なほこの太陀理の事は、彼歌の下《トコロ》に委しく論ふ、】また中卷にも、阿太之別《アダノワケ》といふ姓あり、其《ソ》は本《ホノ》字の誤(リ)ならむかの疑(ヒ)あるなり、

チ※〔□で囲む〕知智 【濁音】遲治地 此(ノ)中に、地(ノ)字は、神(ノ)名|宇比地邇《ウヒヂニ》、意富斗能地《オホトノヂ》のみなり、

ツ※〔□で囲む〕都 【濁音】豆

テ※〔□で囲む〕 弖帝 【濁音】傳殿 此(ノ)中に、帝(ノ)字は、神(ノ)名|布帝耳《フテミミ》、中卷に、佐夜藝帝《サヤギテ》とあるのみなり、殿(ノ)字は、上卷に志殿《シデ》【垂《シデ》なり、】のみなり、

ト※〔□で囲む〕登斗刀等土 【濁音】杼度滕騰 此(ノ)中に、等(ノ)字は、上卷に、袁等古《ヲトコ》また美許等《ミコト》、下卷に、等母邇《トモニ》、これらのみなり、土(ノ)字は國(ノ)名土左のみなり、滕(ノ)字は、神名|淤滕山津見《オドヤマツミ》のみなり、騰(ノ)字は、曾富騰《ソホド》とあるのみなり、【中卷に勝騰門比賣とあるは、誤(リ)なるべし、】さて此(ノ)滕騰」の内、一(ツ)は一(ツ)を誤れるにもあらむか、

ナ※〔□で囲む〕那

ニ※〔□で囲む〕邇爾

ヌ※〔□で囲む〕奴怒濃努 此(ノ)中に、濃(ノ)字は、國(ノ)名|美濃《ミヌ》のみなり、【凡て古書に、農濃などは、ヌの假字に用ひたり、ノの音にはあらず、美濃も、ミノといふは、中古よりのことなり、】努(ノ)字は、中卷に、美努《ミヌノ》村とあるのみなり、

ネ※〔□で囲む〕泥尼禰 此(ノ)中に、尼(ノ)字は、上卷に、加尼《カネ》【金なり、】また阿多尼都岐《アタネツキ》とあるのみなり、禰(ノ)字は、宿禰《スクネ》、また輕嶋(ノ)宮(ノ)段に沙禰王《サネノミコ》、【こは彌の誤(リ)にもあらむか、】これのみなり、

ノ※〔□で囲む〕能乃 此(ノ)中に、乃(ノ)字は、上卷に大斗乃辨《オホトノベノ》神、下卷に余能那賀乃比登《ヨノナガノヒト》、又|加流乃袁登賣《カルノヲトメ》、又|比志呂乃美夜《ヒシロノミヤ》、これらのみなり、

ハ※〔□で囲む〕波 【濁音】婆

ヒ※〔□で囲む〕比肥斐卑 【濁音】備毘 此(ノ)中に、卑(ノ)字は、天之菩卑《アメノホヒノ》命【此(ノ)御名、比《ヒノ》)字をも書たり、】のみなり、

フ※〔□で囲む〕布賦 【濁音】夫服 此(ノ)中に、賦(ノ)字は、賦登麻和※〔言+可〕比賣《フトマワカヒメ》、又|日子賦斗邇《ヒコフトニノ》命、又地(ノ)名|伊賦夜坂《イフヤザカ》、波邇賦坂《ハニフザカ》、これらのみなり、服(ノ)字は、地(ノ)名|伊服岐《イブキ》のみなり、

ヘ※〔□で囲む〕幣閉開平 【濁音】辨倍 此(ノ)中に、平(ノ)字は、地(ノ)名|平群《ヘグリ》のみなり、さて幣(ノ)字は、弊(ノ)字に作《カケ》る處もあり、其《ソ》は誤(リ)とすべし、其(ノ)説|全《マタ》」く上の碁と基との如し、辨(ノ)字は、辨とも作《カケ》る處あるは、同じことと心得て寫(シ)誤れるなり、【こは釋を尺、慧を惠と書(ク)類にて、畫の多き字をば、音の通ふ字の、畫|少《スクナ》く書易《カキヤス》きを借(リ)て書(ク)例ありて、辨をもつねに辨と書ならへる故に、たゞ同じことと心得たるものなり、別に此(ノ)字をも用ひたるにはあらず、これは假字なれば、もとより別に辨(ノ)字とせむも、事もなけれど、なほ然にはあらじ、】

ホ※〔□で囲む〕富本菩番蕃品】 【濁音】)煩 此(ノ)中に、本(ノ)字は、上卷には一(ツ)もなくして、中卷下卷に多く用ひたり、菩(ノ)字は、天之菩卑《アメノホヒノ》命、中卷に加牟菩岐《カムホギ》、これのみなり、番(ノ)字は、番能邇々藝《ホノニニギノ》命、又|番登《ホト》、【陰《ホト》なり、】これのみなり、蕃(ノ)字は、蕃登《ホト》【陰《ホト》なり、】のみなり、番蕃の内、一(ツ)は一(ツ)の誤にもあるべし、品(ノ)字は、中卷に、品牟智和気《ホムチワケノ》命とあるのみなり、【同(ジ)御名を、下には本(ノ)字を書り、】そのほかほ、ホムの二音にこれかれ用ひたり、

マ※〔□で囲む〕麻摩

ミ※〔□で囲む〕美微彌味 此(ノ)中に、彌(ノ)字は、神名|彌都波能賣《ミツハノメ》、彌豆麻岐《ミヅマギ》また下卷高津(ノ)宮(ノ)段に意富岐彌《オホキミ》、【此言、餘《ホカ》は美(ノ)字をかけり、】遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段に和賀多々彌《ワガタタミ》、これらのみなり、味(ノ)字は、中卷に佐味那志爾《サミナシニ》、これ一(ツ)なり、

ム※〔□で囲む〕牟无武 此(ノ)中に、无(ノ)字は、國(ノ)名(ノ)无邪志《ムザシ》のみなり、武(ノ)字は、國(ノ)名|相武《サガム》のみなり、【相模と作(カ)ける本もあり、歌には牟(ノ)字を書り、】

メ※〔□で囲む〕米賣※〔口+羊〕 此(ノ)中に、※〔口+羊〕(ノ)字は、中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)末、人(ノ)名|當麻之※〔口+羊〕斐《タギマノメヒ》)のみなり、【こは正しくは※〔口+※〔草がんむり/干〕〕と作《カク》字なり、】

モ※〔□で囲む〕母毛 此(ノ)外に、下干高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、文(ノ)字二(ツ)あれど、誤(リ)なるべし、

ヤ※〔□で囲む〕夜也 此(ノ)中に、也(ノ)字は、上卷歌の結《トヂメ》に、曾也《ゾヤ》と只一(ツ)あるのみにて、疑はしけれど、姑くあげつ、【なほ其(ノ)歌の處に云べし、】

ユ※〔□で囲む〕由

ヨ※〔□で囲む〕余用與予 此(ノ)中に、予(ノ)字は、國(ノ)名|伊予《イヨ》、【中卷下卷には、伊余《イヨ》とかけり、】又|予母都志許賣《ヨモツシコメ》のみなり、

ラ※〔□で囲む〕羅良

リ※〔□で囲む〕理

ル※〔□で囲む〕琉流留

レ※〔□で囲む〕禮

ロ※〔□で囲む〕呂路漏侶盧樓 此(ノ)中に、路(ノ)字は、上卷に、斯路岐《シロキ》【二(ツ)あり、】久路岐《クロキ》のみなり、中卷下卷には、白黒《シロクロ》のロに、みな漏(ノ)字を用ひたり、侶(ノ)字は、佐久々斯侶《(サククシロ》のみなり、(ノ)字は、意富牟夜《オホムロヤ》のみなり、樓(ノ)字は、摩都樓波奴《マツロハヌ》とあるのみなり、【此(ノ)言今一(ツ)あるには、漏(ノ)字をかけり、】

ワ※〔□で囲む〕和丸 此(ノ)中に、丸(ノ)字は、地(ノ)名|丸邇《ワニ》のみなり、【こは訓に非ず、音なり、】

ヰ※〔□で囲む〕葦

ヱ※〔□で囲む〕惠

ヲ※〔□で囲む〕袁遠

  上件の外に、記※〔さんずい+巳〕※〔さんずい+遊のしんにょうなし〕〓梯之天未末且徴彼衣召此忌計酒河被友申祀表存在又、これらを假字に書る本《マキ》あり、みな寫し誤れるものなり、

假字用格《カナヅカヒ》のこと、大かた天暦のころより以往《アナタ》の書どもは、みな正《タダ》しくして、伊葦延惠於袁《イヰエヱオヲ》の音《コヱ》、又下に連《ツラナ》れる、波比布本《ハヒフヘホ》と、阿伊宇延於和葦宇意袁《アイウエオワヰウヱヲ》とのたぐひ、みだれ誤りたること一(ツ)もなし、其《ソ》はみな恒《ツネ》に口《クチ)にいふ語《コトバ》の音《コヱ》に、差別《ワキタメ》ありけるから、物に書《カク》にも、おのづからその假字《カナ》の差別《ワキタメ》は有(リ)けるなり、【然るを、語《コトバ》の音《コヱ》には、古(ヘ)も差別はなかりしを、ただ假字のうへにて、書分《カキワケ》たるのみなりと思ふは、いみしきひがことなり、もし語の音に差別なくば、何によりてかは、假字を書(キ)分(ク)ることのあらむ、そのかみ此(ノ)書と彼(ノ)書と、假字のたがへることなくして、みなおのづからに同じきを以ても、語(ノ)音にもとより差別ありしことを知(ル)べし、かくて中昔より、やうやくに右の音どもおの/\乱れて、一(ツ)になれるから、物に書(ク)にも、その別《ワキ》なくなりて、一(ツノ)音に、二(タ)ともの假字ありて、其《ソ》は無用《イタヅラ》なる如くになむなれりけるを、其(ノ)後に京極(ノ)中納言定家(ノ)卿、歌書《ウタブミ》の假字づかひを定めらる、これより世にかなづかひといふこと始(マ)りき、然れども、當時《ソノカミ》既《ハヤ》)く人の語(ノ)音|別《ワカ》)らず、又古書にも依《ヨ》らずて、心もて定められつる故に、その假字づかひは、古(ヘ)のさだまりとは、いたく異《コト》なり、然るを其後の歌人の思へらくは、古(ヘ)は假字の差別なかりしを、たゞ彼(ノ)卿なむ、始めて定め給へると思ふめり、又近き世に至りては、たゞ音の輕(キ)重(キ)を以て辨ふべし、といふ説などもあれど、みな古(ヘ)を知らぬ妄言《ミダリゴト》なり、こゝに難波に契沖といひし僧《ホウシ》ぞ、古書をよく考へて、古(ヘ)の假字づかひの、正しかりしことをば、始めて見得(ミエ)たりし、凡て古學《イニシヘマナビ》の道は、此(ノ)僧よりぞ、かつ/”\も開け初《ソメ》ける、いとも/\有(リ)がたき功《イサヲ》になむ有(リ)ける、】かくて其(ノ)正しき書どもの中に、此記と書紀と萬葉集とは、殊に正しきを、其中にも、此記は又殊に正しきなり、いでそのさまを委曲《ツバラカ》に云(ハ)むには、まづ續紀より以來《コナタ》の書どもの假字は、清濁|分《ワカ》れず、【濁音の所に、清音(ノ)假字を用ひたるのみならず、清音に濁音(ノ)字をもまじへ用ひたり、】又音と訓とを雜《マジ》へ用ひたるを、此記書紀萬葉は清濁を分《ワカ》てり、【此記|及《マタ》書紀萬葉の假字、清濁を分《ワカ》てるにつきて、なほ人の疑ふことあり、今つばらかに辨へむ、そはまづ後(ノ)世には濁る言を、古(ヘ)は清《スミ》ていへるも多しと見えて、山の枕詞のあしひき、又|宮人《ミヤヒト》などのヒ、嶋《シマ》つ鳥《トリ》家《イヘ》つ鳥《トリ》などのトのたぐひ、古書どもには、いづれも/\清音の假字をのみ用ひて、濁音なるはなし、なほ此類多し、又後(ノ)世には清《ス》む言に、濁音の假字をのみ用ひたるも多し、これらは、假字づかひのみだりなるにはあらず、古(ヘ)と後(ノ)世と、言の清濁の變《カハ》れるなれば、今の心をもて、ゆくりなく疑ふべきにあらず、又そのほかに、言の首《ハジメ》など、決《キハ》めて清音なるべき處にも、濁音の假字を用ひたることも、いとまれ/\にはあるは、おのづからとりはづして、誤れるもあるか、又後に寫し誤れるもあるべし、されど此記には、殊に此(ノ)違《タガ》ひはいと/\まれにして、惣《スベ》ての中に、わづかに二十ばかりならでは見えざる、其中に十ばかりは、婆(ノ)字なるを、その八(ツ)は、一本には波と作《ア》れば、のこり二(ツ)三(ツ)の婆も、もとは波なりしことしられたり、然れば、記中まさしく清濁の違《タガ》へりと見ゆるは、たゞ十ばかりには過《スギ》ずして、其(ノ)餘《ホカ》幾百《イクモモチ》かある清濁は、みな正《タダ》しく分れたるものを、いと/\まれなる方になづみて、なべてを疑ふべきことかは、さて書紀は、此記に比《クラ》ぶれば、清濁の違へることいと多し、こはいといふかしきことなり、然れども又、全くこれを分《ワカ》たず、淆《マジヘ》用ひたるものにはあらず、凡《スベ》ては正しく分れたれば、かの後の全く混《マジヘ》用ひたる書どものなみにはあらず、さて又萬葉は、此記に比《クラ》ぶれば、違へるところもやゝ多けれども、書紀に比《クラ》ぶれば、違ひはいと少《スクナ》くして、すべて清濁正しく用ひ分《ワケ》たるさま太り、これらの差別《ワキタメ》は、その用ひたる假字どもを、一(ツ)毎《ゴト》にあまねく考へ合せて、知(ル)べきことなり、たゞ大《オホ》よそに見ては、くはしきことは、知(リ)がたかるべきものぞ、】其(ノ)中に萬葉の假字は、音訓まじはれるを、【但し萬葉の書法《カキザマ》は、まさしき假字の例には云(ヒ)がたき事あり、なほ種々《クサグサ》あやしき書《カキ》ざま多《オホ》ければなり、】此記と書紀とほ、音のみを取(リ)て、訓を用ひたるは一(ツ)もなし、これぞ正《マサ》しき假字なりける、【訓を取(ル)とは、木止三女井《キトミメヰ》の類なり、此記と書紀には、かゝるたぐひの假字あることなし、書紀允恭(ノ)御卷(ノ)歌に、迹《ト》津《ツノ》二字あるは、共に寫し誤れるものなり、又苫(ノ)字を多く用ひたる、是も苔を誤れるなり、こはタイの音の字なるを、トに用ひたる例は、廼《ナイ》をノに、廼《ダイ》をドに、耐《ダイ》をドに用ひたると同じ、此(ノ)格他(ノ)音にも多し、なほ書紀の假字、今(ノ)本、字を誤り讀《ヨミ》を誤れる多し、委くは別に論ひてむ、】然るに書紀は、漢音呉音をまじへ用ひ、又一字を三音四音にも、通はし用ひたる故に、いとまぎらはしくして、讀《ヨミ》を誤ること常《ツネ》多きに、此記は、呉音をのみ取て、一(ツ)も漢音を取らず、【帝をテに、禮をレに用るも、漢音のテイレイにはあらず、呉音のタイライなり、そは愛《アイ》を.エに、賣《マイ》米《マイ》をメに用ると同(ジ)格なり、書紀にも、此格の假字あり、開《カイ》階《カイ》をケに、細《サイ》をセに、珮《ハイ》背《ハイ》をヘに用ひたる是(レ)なり、さて用(ノ)字は、呉音はユウにして、ヨウは漢音なるに、ヨの假字に用ひたるは、此(ノ)字古(ヘ)は、呉音もヨウとせるにや、書紀にも萬葉にも、ヨの假字にのみ用ひて、ユに用ひたる例なし、】又一字をば、唯《タダ》一音に用ひて、二音三音に通はし用ひたることなし、【宜《ゲ》をギともよみ、用《ヨ》をユともよむたぐひは、みなひがことなり、】又入聲(ノ)字を用ひたることをさ/\無し、たゞオに意(ノ)字を用ひたるは、入聲なり、【是(レ)は億(ノ)字の偏《ヘム》を省《ハブ》きたるものなり、古(ヘ)は偏《ヘム》を省《ハブ》きて書(ク)例多し、此(ノ)事傳十之卷|呉公《ムカデ》の下《トコロ》に委(ク)云べし、億憶などをも、書紀にオの假字に用ひたり、又意(ノ)字に億《オク》の音もあり、臆《オク》に通ふこともあれども、正音をおきて、傍音《カタハラノコヱ》を取(ル)べきにあらず、たゞ億の偏を省ける物とすべし、】又いとまれに、シに色(ノ)字、カに甲(ノ)字、プに服(ノ)字を書ることあり、これらは由《ヨシ》あり、そは必(ズ)下に其(ノ)韻の通音の連《ツヅ》きたる書にあり、【色(ノ)字は、人(ノ)名に色許《シコ》と連《ツヅ》きたるにのみある、色《シキ》の韻ほキにして、許《コ》は其(ノ)通音なり、甲(ノ)字は、甲斐《カヒ》と連《ウヅ》きたる言にのみ書る、甲《カフ》の韻はフにして、斐《ヒ》は其(ノ)通音なり、服(ノ)字は、地名|伊服岐《イブキ》とあるのみなる、服《ブク》の韻はクにして、岐《キ》は其(ノ)通音なり、おほかたこれらにても、古(ヘ)人の假字づかひの、いと嚴《オゴソカ》なりしことをしるべし、】此(ノ)外|吉備《キビ》吉師《キシ》の音(ノ)字あれども、國(ノ)名又|姓《カバネ》なれば、正《マサ》しき假字の例とは、いさゝか異なり、【故に吉備も、歌には岐備《キビ》とかけり、凡て歌と訓(ノ)注とぞ、正《マサ》しき假字の例には有(リ)ける、】さて又同音の中にも、其(ノ)言に隨《シタガ》ひて、用(フ)る假字|異《コト》にして、各《オノオノ》定まれること多くあり、其例をいはば、コの假字には、普《アマネ》く許《コ》古《コノ》二字を用ひたる中に、子《コ》には古(ノ)宇をのみ書て、許(ノ)字を書ることなく、【彦《ヒコ》壯士《ヲトコ》などのコも同じ、】メの假字には、普《アマネ》く米《メ》賣《メノ》二字を用ひたる中に、女《メ》には賣《メノ》字をのみ書て、米《メノ》字を書ることなく、【姫《ヒメ》處女《ヲトメ》などのメも同じ、】キには、伎《キ》岐《キ》紀《キ》を普く用ひたる中に、木《キ》城《キ》には紀《キ》をのみ書て、伎《キ》岐《キ》をかゝず、トには登《ト》斗《ト》刀《ト》を普く用ひたる中に、戸《ト》太《フト》問《トフ》のトには、斗《ト》刀《ト》をのみ書て、登《ト》をかゝず、ミには美《ミ》微《ミ》を普く用ひたる中に、神《カミ》のミ木草の實《ミ》には、微《ミ》をのみ書て、美《ミ》を書《カカ》)ず、モには毛《モ》母《モ》を普く用ひたる中に、妹《イモ》百《モモ》雲《クモ》などのモには、毛《モ》をのみ書て、母《モ》をかゝず、ヒには、比《ヒ》肥《ヒ》を普く用ひたる中に、火《ヒ》には肥《ヒ》をのみ書て、比《ヒ》をかゝず、生《オヒ》のヒには、斐《ヒ》をのみ書て、比肥をかゝず、ビには、備《ビ》毘《ビ》を用ひたる中に、彦《ヒコ》姫《ヒメ》のヒの濁(リ)には、毘《ビ》をのみ書て、備《ビ》を書ず、ケには、氣《ケ》祁《ケ》を用ひたる中に、別《ワケ》のケには、氣《ケ》をのみ書て、祁《ケ》を書ず、辭《コトバ》のケリのケには、祁《ケ》をのみ書て、氣《ケ》をかゝず、ギには、藝《ギ》を普く用ひたるに、過《スギ》祷《ネギ》のギには、疑《ギ》(ノ)字をのみ書て、藝《ギ》を書ず、ソには、曾《ソ》蘇《ソ》を用ひたる中に、虚空《ソラ》のソには、蘇《ソ》をのみ書て、曾をかゝず、ヨには、余《ヨ》與《ヨ》用《ヨ》を用ひたる中に、自《ヨリ》の意のヨには、用《ヨ》をのみ書て、余《ヨ》與《ヨ》をかゝず、ヌには、奴《ヌ》怒《ヌ》を普く用ひたる中に、野《ヌ》角《ツヌ》忍《シヌブ》篠《シヌ》樂《タヌシ》など、後(ノ)世はノといふヌには、怒《ヌ》をのみ書て、奴《ヌ》をかゝず、右は記中に同(ジ)言の數處《アマタトコロ》に出たるを驗《ココロミ》て、此(レ)彼(レ)擧《アゲ》たるのみなり、此(ノ)類の定まり、なほ餘《ホカ》にも多《オホ》かり、此(レ)は此(ノ)記のみならず、書紀萬葉などの假字にも、此(ノ)定まりほの/”\見えたれど、其《ソ》はいまだ徧《アマネ》くもえ驗《ココロミ》ず、なほこまかに考ふべきことなり、然れども、此記の正しく精《クハ》しきには及ばざるものぞ、抑此(ノ)事は、人のいまだ得《エ》見顯《ミアラハ》さぬことなるを、己《オノレ》始(メ)て見得《ミエ》たるに、凡て古語を解《ト》く助《タスケ》となること、いと多きぞかし、

〇二合の假字 こは人(ノ)名と地(ノ)名とのみにあり、

アム※〔二字□で囲む〕淹 淹知《アムチ》 イニ※〔二字□で囲む〕印惠《イニヱノ》命、印色之入日子《イニシキノイリビコノ》命 イチ※〔二字□で囲む〕壹 壹比葦《イチヒヰ》、壹師《イチシ》 カグ※〔二字□で囲む〕香 香山《カグヤマ》、香用比賣《カグヨヒメ》 カゴ※〔二字□で囲む〕香 香余理比賣《カゴヨリヒメ》、香坂王《カゴサカノミコ》 グリ※〔二字□で囲む〕群 平群《ヘグリ》 サガ※〔二字□で囲む〕相 相模《サガム》、相樂《サガラカ》 サヌ※〔二字□で囲む〕讃 讃岐《サヌギ》 シキ※〔二字□で囲む〕色 印色之入日子《イニシキノイリビコノ》命 スク※〔二字□で囲む〕宿 宿禰《スクネ》 タニ※〔二字□で囲む〕丹旦 丹波《タニハ》、旦波《タニハ》 タギ※〔二字□で囲む〕當  當麻《タギマ》 ヂキ※〔二字□で囲む〕直 阿直《アヂキ》 ツク※〔二字□で囲む〕筑竺 筑紫《ツクシ》、竺紫《ツクシ》 ヅミ※〔二字□で囲む〕曇 阿曇《アヅミ》 ナニ※〔二字□で囲む〕難 難波《ナニハ》 ハヽ※〔二字□で囲む〕伯 伯伎《ハハキ》 ハカ※〔二字□で囲む〕博 博多《ハカタ》 ホム※〔二字□で囲む〕品 品遲部《ホムヂベ》、品夜和氣《ホムヤワケノ》命、品陀和氣《ホムダワケノ》命 マツ※〔二字□で囲む〕末 末羅《マツラ》 ムク※〔二字□で囲む〕目 高目郎女《コムクノイラツメ》 ラカ※〔二字□で囲む〕樂 相樂《サガラカ》 凡て古書地名に此(ノ)類いと多し、

〇借字《カリモジ》 是も人(ノ)名と地(ノ)名とに多し、

ウ※〔□で囲む〕菟 エ※〔□で囲む〕江枝 カ※〔□で囲む〕鹿蚊 キ※〔□で囲む〕木寸 ケ※〔□で囲む〕毛 コ※〔□で囲む〕子 サ※〔□で囲む〕狭 シ※〔□で囲む〕師 【こはもと音なるを、やがて訓にもして、借字に用ひたるあり、師木《シキ》、百師木《モモシキ》、味師《ウマシ》、時置師《トキオカシノ》神、秋津師比賣《アキヅシヒメ》、などの師(ノ)字是(レ)なり、これらは、音の假字の例にはあらず、訓にて借字の例なり、】 ス※〔□で囲む〕巣洲酢 セ※〔□で囲む〕瀬 タ※〔□で囲む〕田手 チ※〔□で囲む〕道千乳 ツ※〔□で囲む〕津 テ※〔□で囲む〕手代 ト※〔□で囲む〕戸砥 ナ※〔□で囲む〕名 ニ※〔□で囲む〕丹 ヌ※〔□で囲む〕野沼 ネ※〔□で囲む〕根 ハ※〔□で囲む〕羽歯 ヒ※〔□で囲む〕日氷 ヘ※〔□で囲む〕戸 ホ※〔□で囲む〕穂大 マ※〔□で囲む〕間眞目 ミ※〔□で囲む〕見海御三 メ※〔□で囲む〕目 モ※〔□で囲む〕裳 ヤ※〔□で囲む〕屋八矢 ユ※〔□で囲む〕湯 ヰ※〔□で囲む〕井 ヲ※〔□で囲む〕尾小男

上(ノ)件の字ども、常に多く借字に用ひたり、但し此(ノ)字どもを書るは、皆借字なりといふにはあらず、正字なる處も多く、又正字とも借字とも、さだかに辨へがたきところも多かり、又借字は、此(ノ)字どもに限れるにもあらず、たゞ大かたを擧るのみなり、或人、借字も即(チ)假字なれば、別に借字といふことは、有(ル)べくもあらず、又古書の假字に、訓を用ひたることなしとも云べからず、といふは精《クハ》しからず、假字借字、いひもてゆけば同じことなれども、此記にも書紀にも、歌又訓注などに、訓を用ひたること一(ツ)もなし、其《ソ》は正《マサ》しき假字の例に非るが故なり、此(レ)をもて、借字は別に一種《ヒトクサ》なることを知(ル)べし、別に一種なるが故に、其(ノ)目《ナ》を立《タテ》て、借字《カリモジ》とは云り、

〇二合の借字

アナ※〔二字□で囲む〕穴 イク※〔二字□で囲む〕活 イチ※〔二字□で囲む〕市 イナ※〔二字□で囲む〕稲 イハ※〔二字□で囲む〕石 イヒ※〔二字□で囲む〕飯 イリ※〔二字□で囲む〕入 オシ※〔二字□で囲む〕忍押 カタ※〔二字□で囲む〕方 カネ※〔二字□で囲む〕金 カリ※〔二字□で囲む〕刈 クシ※〔二字□で囲む〕櫛 クヒ※〔二字□で囲む〕※〔木+〓〕咋 クマ※〔二字□で囲む〕熊 クラ※〔二字□で囲む〕倉 サカ※〔二字□で囲む〕坂酒 シロ※〔二字□で囲む〕代 スキ※〔二字□で囲む〕※〔金+且〕 ツチ※〔二字□で囲む〕椎 ツヌ※〔二字□で囲む〕角 トリ※〔二字□で囲む〕鳥 ハタ※〔二字□で囲む〕幡 フル※〔二字□で囲む〕振 マタ※〔二字□で囲む〕俣 マヘ※〔二字□で囲む〕前 ミヽ※〔二字□で囲む〕耳 モロ※〔二字□で囲む〕諸 ヨリ※〔二字□で囲む〕依 ワケ※〔二字□で囲む〕別 ヲリ※〔二字□で囲む〕折 ことわり一音の借字と全《モハ》ら同じ、さて二合の借字、上件の外なほいと多かるを、今はたゞ、其中にあまた處に見えたるをえり出て、彼(レ)此(レ)あぐるのみなり、

 

     訓法《ヨミザマ》の事

 

凡て古書は、語を嚴重《オゴソカ》にすべき中にも、此記は殊に然あるべき所由《ユヱ》あれば、主《ムネ》と古語を委曲《ツバラカ》に考(ヘ)て、訓を重くすべきなり、いで其(ノ)所由《ユヱ》はいかにといふに、序に、飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の大詔命《オホミコト》に、家々にある帝紀|及《マタ》本辭、既に實を失ひて、虚僞《カザリ》おほければ、今その誤を正しおかずは、いくばくもあらで、其(ノ)旨うせはてなむ、故(レ)帝紀をえらび、舊辭を考へて僞をのぞきすてて、實《マコト》のかぎりを後(ノ)世に傳《ツタヘ》む、と詔たまひて、稗田阿禮《ヒエダノアレ》といひし人に、大御口《オホミクチ》づから仰《オホ》せ賜(ヒ)て、帝皇(ノ)日繼と、先代の舊辭とを、誦《ヨミ》うかべ習《ナラ》はしむ、とあるをよく味《アヂハ》ふべし、帝紀とのみはいはずて、舊辭本辭などいひ、又次に安萬侶(ノ)朝臣の撰述《コノフミツク》れることを云る處にも、阿禮が誦《ウカベ》たる勅語(ノ)舊辭を撰録すとあるは、古語を旨《ムネ》とするが故なり、彼(ノ)詔命《オホミコト》を敬《ツツシミ》て思ふに、そのかみ世のならひとして、萬(ノ)事を漢文に書(キ)傳ふとては、其(ノ)度《タビ》ごとに、漢文章《カラコトバ》に牽《ヒカ》れて、本の語は漸(ク)に違ひもてゆく故に、如此《カク》ては後《ノチ》遂《ツヒ》に、古語はひたぶるに滅《ウセ》はてなむ物ぞと、かしこく所思看《オモホシメ》し哀《カナシ》みたまへるなり、殊に此(ノ)大御代は、世間《ヨノナカ》改まりつるころにしあれば、此(ノ)時に正《タダ》しおかでは、とおもほしけるなるべし、さて其《ソ》を彼(ノ)阿禮に仰せて、其(ノ)口に誦《ヨミ》うかべさせ賜ひしは、いかなる故ぞといふに、萬(ヅ)の事は、言《コト》にいふばかりは、書《フミ》にはかき取(リ)がたく、及ばぬこと多き物なるを、殊に漢文にしも書(ク)ならひなりしかば、古語を違へじとては、いよゝ書(キ)取(リ)がたき故に、まづ人の口に熟《ツラツラ》誦《ヨミ》ならはしめて後に、其(ノ)言の隨《マニマ》に書録《カキシル》さしめむの大御心にぞ有(リ)けむかし、【當時《ソノカミ》、書籍ならねど、人の語にも、古言はなほのこりて、失《ウセ》はてぬ代《ヨ》なれば、阿禮がよみならひつるも、漢文の舊記に本づくとは云(ヘ)ども、語のふりを、此間《ココ》の古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ、然せずして、直《タダ》に書《フミ》より書にかきうつしては、本の漢文のふり離《ハナ》れがたければなり、或人、其(ノ)時既に諸家の記録ども、誤(リ)おほしとならば、阿禮は何《イヅ》れの書によりて、實の古語をば、誦ならへるにかと疑ふ、其《ソ》はそのかみなほ誤(リ)なき記録も遺《ノコ》れりけむを、よく擇《エラビ》てぞ取(ラ)れけむ、】此(ノ)大御志《オホミココロザシ》をよく思ひはかり奉て、古語のなほざりにすまじきことを知べし、これぞ大御國の學問《モノマナビ》の本なりける、もし語にかゝはらずて、たゞに義理《コトワリ》をのみ旨《ムネ》とせむには、記録を作らしめむとして、先(ヅ)人の口に誦習《ヨミナラ》はし賜はむは、無用《イタヅラ》ごとならずや、然《サ》て次に、此記を撰《ツク》らせらるゝ事を云る處にも、舊辭のたがひゆくことを惜《ヲシ》み賜ひ、先紀の誤あるを、正《タダ》し給はむとして、安萬侶(ノ)朝臣に仰せて、かの阿禮が誦《ヨミ》うかべたる勅語の舊辭を、撰録《エラビシル》さしむとあり、此處にも舊辭とあるを以て、此(ノ)大御世の天皇の大御心ざしをも、おしはかり奉るべし、彼(ノ)淨御原(ノ)天皇は、撰録《フミシルス》に及び賜はで、崩坐《カミアガリマシ》しかば、かの舊辭は、阿禮が口に留《トドマ》れりしを、此(ノ)平城《ナラ》の大御世に至て、事《コト》遂行《トゲオコナ》はせ賜へるなり、故(レ)安萬侶(ノ)朝臣の撰録《エラビシル》されたるさまも、彼(ノ)天皇たちの大御志のまに/\、旨《ムネ》と古語を嚴重《オモ》くせられたるほど灼然《イチジロ》くて、高天原の註に、訓(テ)2高(ノ)下(ノ)天(ヲ)1云2阿麻《アマト》1としるし、天比登都柱《アメヒトツバシラ》の註には、訓(ムコト)v天(ヲ)如(シ)v天(ノ)などしるし、或は讀聲《ヨムコヱ》の上下《アガリサガリ》をさへに、委曲《ツバラカ》に示《シメ》し諭《サト》しおかれたるをや、如此有《カカレ》ば今是(レ)を訓(マ)むとするにも、又上(ノ)件の意をよく得て、一字《ヒトモジ》一言《ヒトコト》といへども、みだりにはすまじき物ぞ、さて然つゝしみ嚴重《オモ》くするにつきては、漢籍《カラブミ》また後(ノ)世の書をよむとは異《コト》にして、いとたやすからぬわざなり、いで其(ノ)由をいはむ、先(ヅ)凡て古記は、漢文もて書(キ)たれば、文のまゝに訓(ム)ときは、たとひ一(ツ)一(ツ)の言は古言にても、其(ノ)連接《ツヅキ》ざま二言《イヒ》ざまは、なほ漢文のふりにして、皇國のにはあらず、故(レ)書紀の古き訓なども、文に拘《カカハ》らずて、古語のふりのまゝに附《ツケ》たる書おほし、然れども彼(ノ)訓も、後(ノ)人の所爲《シワザ》のまじれりとおぼしくて、猶|漢文訓《カラブミヨミ》のおほきこと、上に論へるが如し、おほかた平城《ナラ》のころまでは、世(ノ)人古語のふりをよくしり、又|當時《ソノトキ》の言も、なほ古(ル)かりける故に、漢文訓《カラブミヨミ》との差別《ケヂメ》は、おのづからよく辨へたりしを、後(ノ)世は只|漢籍《カラブ》にのみ眼《メ》なれ、其(ノ)讀《ヨミ》にのみ耳|馴《ナレ》たる癖《クセ》の着《ツキ》ては、大かたの語のさま、其(ノ)漢《カラ》のふりと此方《ココ》のふりとを、え辨へず、かしこげなる漢《カラ》の方を、美《ウルハシ》きが如く聽《キキ》なして、萬(ヅ)の言、おのづから其ふりに移《ウツ》り來《キ》ぬることおほし、【近(キ)代の人は、おほかた古(ヘ)の詞づかひをばえしらず、文章とて書(ク)を見るに、すべて漢語《カラコトバ》のふりにして、たゞ漢文を假字にかきたるが如くにて、いと/\見苦《ミグル》し、なほ文章の事は、上古《カミツイ》中古《ナカムカシ》の體製《ツクリザマ》、くさ/”\別に論(ヒ)あり、】此(ノ)たがひめをよく辨へて、漢《カラ》のふりの厠《マジ》らぬ、清《キヨ》らかなる古語を求《モト》めて訓べし、かにかくにこの漢の習氣《ナラヒ》を洗《アラ》ひ去《スツ》るぞ、古學《イニシヘマナビ》の務《ツトメ》には有(リ)ける、然るを世々の物知人《モノシリビト》の、書紀を説《トケ》るさまなど、ただ漢の潤色分《カザリノフミ》のみをむねとして、その義理《コトワリ》にのむかゝづらひて、本とある古語をば、なほざりに思ひ過《スグ》せるは、かへす/”\もあぢきなきわざなり、語にかゝはらず、義理《コトワリ》をのみ旨《ムネ》とするは、異國《アダシクニ》の儒佛などの、教誡《ヲシヘゴト》の書こそさもあらめ、大御國の古書は、然《シカ》人の教誡《ヲシヘ》をかきあらはし、はた物の理《コトワリ》などを論《アゲツラ》へることなどは、つゆばかりもなくてたゞ古(ヘ)を記せる語《コトバ》の外には、何《ナニ》の隱《カク》れたる意《ココロ》をも理《コトワリ》をも、こめたるものにあらず、【語の外に教誡をこめたりといふは、なほ漢にへつらへるものなり、】まして其(ノ)文字は、後に當《アテ》たる假《カリ》の物にしあれば、深くさだして何《ナニ》にかはせむ、唯《タダ》いく度《タビ》も古語を考へ明《アキ》めて、古(ヘ)のてぶりをよく知(ル)こそ、學問《モノマナビ》の要《ムネ》とは有(ル)べかりけれ、凡て人のありさま心ばへは、言語《モノイヒ》のさまもて、おしはからるゝ物にしあれば、上(ツ)代の萬(ヅ)の事も、そのかみの言語をよく明《アキ》らめさとりてこそ、知(ル)べき物なりけれ、漢文の格《サマ》にかける書を、其(ノ)隨《ママ》に訓《ヨミ》たらむには、いかでかは古の言語を知(リ)て、其(ノ)代のありさまをも知(ル)べきぞ、古き歌どもを見て、皇國の古(ヘ)の意《ココロ》言《コトバ》の、漢のさまと、甚《イタ》く異《コト》なりけることを、おしはかり知(ル)べし、さて全《モハラ》古語を以て訓(マ)むとするに、それいとたやすからぬわざなり、其故は、古書はみな湊文もて書て、全《マタ》く古語のまゝなるが無《ナ》ければ、今|何《イヅ》れにかよらむ、そのたづきなきに似たり、たゞ古記の中に、往往《ヲリヲリ》古語のまゝに記《シル》せる處々、さては續紀などの宣命《ミコトノリ》の詞、また延喜式の八(ノ)卷なる諸(ノ)祝詞《ノリト》など、これらぞ連《ツヅ》きざまも何《ナニ》も、大方《オホカタ》此方《ココ》の語のまゝなれば、まづこれらを熟《ウマ》く讀習《ヨミナラ》ひて、古語のふりをば知(ル)べきなり、さて又此記と書紀とに載(ノ)れる歌、また萬葉集を、熟《ウマ》く誦《ヨミ》ならふべし、殊に此記と書紀との歌は、露ばかりも漢《カラ》ざまのまじらぬ、古(ヘ)の意《ココロ》言《コトバ》にして、いとも/\貴《タフト》くありがたき物なり、【此歌どもをよく見れば、言語《モノイヒ》はさらにもいはず、古(ヘ)の世間《ヨノナカ》のありさま、人の心ばへまで、おしはかり知られて、後(ノ)世(ノ)人のこと/”\しくいひあへる、義理深《コトワリフカ》げなる説どもの、ひがことなること、著明《イチジロ》きものをや、】されど其《ソ》は數おほからず廣からずて、事|足《タラ》はぬを、萬葉は歌數いと多くして、其(ノ)中に古言はあまねくのこれるぞかし、【此集も、訓は後(ノ)世人の所爲《シワザ》なれば、誤りて、古言ならぬこといと多し、そは假字にかける歌、また他の歌の例などをよく考へ合せて、古語を撰ぶべし、】さて上(ノ)件の書どもを則《ノリ》として訓(ム)べきに就《ツキ》て、又其(ノ)中にくさ/”\の意得《ココロエ》あり、まづ古記の中にまじれる古語どもは、いと/\古くして、みやびやかなれども、助辭《テニヲハ》など略《ハブ》かれたれば、聯續《ツヅキ》ざまに詳《サダカ》ならぬことあり、次に宣命(ノ)詞は、那良《ナラ》の朝廷《ミカド》のなれば、既《ハヤ》く漢文のふりなる處も、往々《ヲリヲリ》はまじれり、【凡て人の口にいふ言は、那良のころまでも、漢文のふりはまじらざりしかども、書《フミ》にかきたることには、やゝ上(ツ)代より、漢文に引れて、おのづからそのふりにうつれることも、いさゝかはありぞしけむ、かくて聖徳(ノ)太子の、いたく漢学を好み賜ひ、其後孝徳天智の御世などになりては、いよゝ寓(ヅ)の事に、漢《カラ》を用ひられしかば、古語を傳へたる中にも、漢文ざまにうつれること有(ル)べし、續紀の宣命は、又それより後のなれば、やがて漢字の音ながらの言さへ、まゝまじりたり、かゝるにつけても、上(ツ)代の詔命(ノ)詞ぞいとゆかしき、書紀なるは、皆舌(ヘ)のにあらず、おほく作り加《クハ》へられたる、漢意のなれは、いとうるさし、】又式なるもろ/\の祝詞《ノリト》は、凡ていと古き語どもなる多かれども、全《マタ》く上(ツ)代より傳《ツタ》はり來《キ》つるまゝにはあらずて、近江(ノ)朝淨御原(ノ)朝などにもや、定め齊《トトノ》へられたりけむと見えて、是(レ)はた漢文よりうつり來《コ》し語のふりも、清《キヨ》くなきにはあらず、【世に大祓(ノ)詞を、全く神武天皇の御世に作られたるまゝの物、と心得居るなどは、古(ヘ)に昧《クラ》きことなり、此(ノ)詞も、全くは後に定められつと見えて、後の詞《コトバ》つきまじれり、諸の祝詞の中に最《モトモ》古きは、出雲(ノ)國(ノ)造の神賀《カムホギノ》詞なり、】さればこれらの中におきても、いさゝかも漢《カラ》めきたらむふりなるをば、擇去《エリステ》て取(ル)べし、さて又此記と書紀との歌どもは、いと清《キヨ》き古言なれども、歌とたゞの詞との差目《タガヒメ》ありて、いさゝか異《コト》なる處のある物なれば、其《ソコ》を辨へて取(ル)べきなり、萬葉の歌は、種々《クサグサ》のふり有て、いと古きも多かるを、平城《ナラ》のころになりてのは、漢文より出たる意言《ココロコトバ》も、まれ/\見ゆれば、又是(レ)を辨ふべし、又凡て漢のうつりのみにもあらず、古(ヘ)と後(ノ)世との差《タガヒ》有(リ)て、語のふりいたく異《コト》なること多し、大かた那良《ナラ》よりあなたのをば、古語と定むべし、今(ノ)京になりてこなたは、すべてのいひざまも、古(ヘ)と變《カハ》りたること多く、或は音便《コヱノタヨリ》によりて、頽《クヅ》れたる言も多し、【音便の言は、凡て古書の訓には用ふまじきことなり、大御神《オホミカミ》をおほんがみ臣《オミ》をおんと讀(ム)たぐひこれなり、書紀の訓には、かくさまの音便の言おほし、〇古今集を始めて、物語文などのたぐひは、中古《ナカムカシ》の雅言《ミヤビゴト》なり、伊勢源氏この餘《ホカ》も物語は、本より假字もて書(キ)たる物なる故に、返《カヘリ》て古書よりは、語《コトバ》つきに漢語氣《カラケ》のまじらずて、まされることあり、さるは漢文より出たる語も多く字音の言もおほかれども、それながらに皇國(ノ)語のふりにかければ、漢ならざるなり、なほ中古の文の事も、別に委き論あり、】但し古(ヘ)と後(ノ)世と、もろ/\の言こと/”\く異なるものにもあらず、中には神代も中古《ナカムカシ》も今(ノ)世も、全《モハラ》同くて、かはらぬ言も亦多かれば、其《ソ》は必しも後(ノ)世のいひざまに同じとて、避《サル》べきにあらず、【然るに後(ノ)世の言と同じきをば嫌《キラ》ひて、ことさらに曲《マゲ》て古《フル》めかさむとするときは、中々に強事《シヒゴト》になりて、正《タダ》しからざること多し、近きころ古學《イニシヘマナビ》するともがら、凡てなだらかに耳なれたる言をば、みな後(ノ)世のさまと心得て、必めづらしく聞なれぬさまなるをのみ古言とするは、ひがことなり、】さて又古書の中に、いかに考へても、眞《マコト》の古言に訓(ミ)がたきことあり、其《ソ》はもと古言の傳《ツタ》はりたるを、後に漢字には移せるなれば、本の古言に復《カヘ》すに、難《カタ》きことはあるまじきことわりなれども、漢文にうつし傳へて後、初《ハジメ》の古言は絶《タエ》て、つたはらぬも有(ル)べく、又皇國の上(ツ)代は、萬(ヅ)の物にも事にも、あまり細《コマカ》に分て名稱《ナ》をば着《ツケ》ず、なべての言語《コトドヒ》すくなくて、こと足《タ》れりしを、漢國などは、なべて言痛《コチタ》き風俗《ナラハシ》にて、何事にも、あまりなるまで細《コマカ》に名稱《ナ》のあるなれば、此間《ココ》にはたゞ大かたに言傳《イヒツタ》へ來《キ》つることも、文字に移《ウツ》すとき、其々《ソレソレ》の名稱《ナ》のあるに當《アテ》て書ることどもも有(ル)べし、さる類(ヒ)は、本よりの古言は無《ナ》けれども、すべて字音ながらは讀(マ)ざるならひなりしかば、其(ノ)状《サマ》に從ひて、新《アラタ》に訓(ミ)を造《ツク》りしも有(ル)べし、【おほかた那良のころなどまでは、よろづの名稱なども、字音ながら唱ふることは、をさ/\なかりき、漢籍をよむにも、よまるゝかぎりは、訓によみき、】其《ソ》は眞《マコト》の古言とは、おのづから同じからぬ物なれども、那良までに出來《イデキ》つるは、なほ古言と定めて、えさらぬ時は用ふべし、さて又此記は、彼(ノ)阿禮が口に誦習《ヨミナラ》へるを録《シル》したる物なる中に、いと上(ツ)代のまゝに傳はれりと聞ゆる語も多く、又|當時《ソノトキ》の語《コトバ》つきとおぼしき處もおほければ、悉《コトドト》く上(ツ)代の語には訓(ミ)がたし、さればなべての地を、阿禮が語と定めて、その代のこゝろばへをもて訓べきなり、さて又意得べきことあり、同言のいく處にもあるを、一(ツ)は委く書き、一(ツ)は字を略《ハブ》きたるは、委き方と相照《アヒテラ》して、略ける方をも、辭《コトバ》を添《ソヘ》て訓べきなり、其例をいはば、成坐流神之御名者《ナリマセルカミノミナハ》といふ語を、成神名とも、所成坐神名とも、所成神御名とも書たるが如き、所(ノ)字坐(ノ)字御(ノ)字、たがひに略きもし、詳《クハシ》くも書るにて、皆同語なり、【夜見《ヨミノ》國の汚穢《ケガレ》に因(リ)て成れる、八十禍津日(ノ)神にしも、所成坐と、坐(ノ)字を添(ヘ)てかきて、其次の神たちには、天照大御神にすら、只所成とかきて、坐(ノ)字を略きたる、是(レ)意ありて、ことさらにかく書る物にして、略ける方にも、必(ズ)添(ヘ)て訓べき法《ノリ》をしらせたるなり、然るを此(ノ)格をさとらずして、ゆくりなく本《マキ》の亂れ誤れる物とおもふは、ひがことなり、】また上卷に天照大御神の詔《ミコト》に、如《ゴト》v拜《イツクガ》2吾前《アガミマヘヲ》1云々、中卷に大物主(ノ)神の御言に、令《シメバ》v祭《イツカ》2我御《アガミマヘヲ》1者云々、これも御(ノ)字略ける方にも、必(ズ)添(ヘ)て訓べきことしるし、凡て御坐《ミマス》賜《タマフ》奉《マツル》などの字は、多くは略けるに、往々《ヲリヲリ》又添(ヘ)ても書る處のあるを以て、餘《ホカ》をも准《ナズラ》へ訓べし、又同言を、一(ツ)は假字、一(ツ)は漢文に書ることあり、其《ソ》は漢文なる方をも、假字の方にならひて訓べし、立《タタシ》2天浮橋《アメノウキハシニ》1とも書き、於《ニ》2天浮橋《アメノウキハシ》1多々志《タタシ》ともかけるがごと

し、【此(ノ)立(ノ)字の注に、訓(テ)v立(ヲ)云2多々志《タタシト》1としるせるは、凡て此(ノ)類(ヒ)、假字書の方に傚《ナラ》ひて訓べき例を思はせたる物なり、】不伏人《マツロハヌヒト》とも、麻都漏波奴人《マツロハヌヒト》とも書る、是(レ)も同じ、又同じさまのことを、一(ツ)は古語にかき、一(ツ)は漢文の格《サマ》に書ることあり、神(ノ)世七代の注に、上二柱《カミノフタバシラハ》、獨神各《ヒトリガミヲオノオノ》云2一代(ト)1、次雙十神《ツギニナラビマストバシラハ》、各《オノオノ》合(セテ)2二神《フタバシラヲ》1云2一代(ト)1也、と書るが如き、二柱は古語、十神二神は漢文なれば、古語の方に傚《ナラ》ひて、十神をも十柱《トバシラ》、二神をも二柱《フタバシラ》と訓べし、如此《カク》一段《ヒトクダリ》の内に、同格《オナジサマ》の言を、古語と漢文とに書變《カキカヘ》たるも、古語の方を則《ノリ》として訓べき、凡ての例をしらせたるなり、他段《ホカノクダリ》に、神たちの數を擧《アゲ》たるも、或は若干《イク》神、或は若干《イク》柱と書たり、みな准《ナズラ》)へて訓べし、【中下卷に、御世々々の皇子《ミコ》たちの數をいへるも、みな若干柱《イクハシラ》と書り、さて又二柱(ノ)神三柱(ノ)神などといへることあるを、柱(ノ)字を略きて、二神《フタバシラノカミ》三神《ミハシラノカミ》とも書る、此(ノ)類は柱《ハシラ》てふ言を添(ヘ)、また神(ノ)字をも訓べし、其處《ソコ》の文のさまに隨ひて、かにもかくにもよむべし、】又|全《マタ》く一句など、ひたぶるの漢文にして、古語にはいと遠《トホ》き書《カキ》ざまなる處も、往々《ヲリヲリ》にあるなどは、殊に字には拘《カカ》はるまじく、たゞ其意を得て、其事のさまに隨ひて、かなふべき古言を思ひ求めて訓べし、書紀(ノ)神代(ノ)卷に、顧眄之間、此(ヲ)云2美屡摩沙可利爾《ミルマサカリニト》1とあるなど、其(ノ)例なり、又崇峻(ノ)御巻に、哀不忍聽とあるを、イトホシガリタマヒテと訓るなども、訓注はなけれども、其例にかなへり、凡て書紀の訓に古語多し、其《ソ》は多く此記に本づき據《ヨリ》て附(ケ)たる物ぞと、卜部氏の釋にもいへる、信《マコト》に然なり、文字にかゝはらぬ古き訓は、此記の言《コトバ》を取れるぞ多き、然るに今又此記の訓を求むるに、返りて又書紀の訓を取(ル)べきことも多し、其《ソ》は此記に漢文にのみ書て、假字書などにしたる處なくて、漏《モレ》たる古語の、たま/\彼紀の訓にのこれることもあればなり、此記を訓べきこゝろばへ、大概《オホカタ》上(ノ)件の如し、なほ其(ノ)處々にもいふべし、

〇凡て言は、弖爾袁波《チエヲハ》を以て連接《ツヅク》るものにして、その弖爾袁波《テニヲハ》によりて、言連接《コトツヅキ》のさま/”\の意も、こまかに分るゝわざなり、かくて是《レ》を用るさま、上下|相協《アヒカナ》ひて嚴《オゴドカ》なる格《サダ》まりしあれば、今古記を古語に訓《ヨ》むにも、これをよく考へて、正《タダ》しくすべきなり、【然るに漢文には助字こそあれ、弖爾袁波《テニヲハ》にあたる物はなし、助字はたゞ語を助《タス》くるのみにして、弖爾袁波《テニヲハ》の如く、こまかに意を分(カ)つまでには及ばぬものなり、故(レ)助字はなくても、文(ノ)意は聞ゆるなり、さて古記はみな漢文なれば、其《ソ》を訓(ム)に、弖爾袁波《テニヲハ》は、訓者《ヨムヒト》の心もて定むるわざなるを、近(キ)世には、をさ/\其(ノ)格《サダ》まりを明《アキ》らかに識《シ》れる人なくして、誤ること常多し、抑漢文の意をだにも得てよめば、其(ノ)訓語《ヨミノコトバ》も、意はいとしも違《タガ》はざれども、弖爾袁波《テニヲハ》のとゝのひの違《タガ》へらむは、雅語《ミヤ輙分《ワケ》て用ひたる中に、此記は殊に正しければ、嚴《オゴソカ》にその清濁を守りて讀(ム)べし、一(ツ)といへども、私に輙《タヤス》く變讀《カヘヨム》べきにあらず、古(ヘ)と後世とは、清濁のかはれる言も多ければ、今(ノ)世の言の例にはかゝはりがたければなり、【宮人里人の如き、宮人の比《ヒ》には、古書の假字(ノ)何《イヅ》れもみな、清音の比《ヒ》をのみ書き、里人の比《ヒ》には、濁音の毘《ビ》をのみ書り、然るを此類、凡て連言《ツラネコト》の下の言の頭《ハジメ》は、皆濁る例と心得るがごときは、ひがことなり、其言によりて、清濁定まらざること、右のごとし、大方近きころ古學の徒《トモガラ》、殊に濁音を好みて、濁るまじき言をも、多く濁るを古言のごと思ふめるは、ひがことなり、たゞ古書の假字づかひをよく考(ヘ)合せて、よむべきわざぞかし、】

〇古言《フルコト》の聲の上《アガ》り下《サガ》りの事、神(ノ)御名などの内に、上(ノ)字を小《チヒサ》く書添《カキソヘ》たる處々あるは、漢國《カラクニ》に定《サダ》する四聲の目《ナ》を假《カリ》て、讀《ヨム》音《コヱ》の上下《アガリサガリ》を示《シメ》したるものなり、凡て漢語《カラサヘヅリ》の音には、平上去入と四(ツ)の別《ワキ》あり、此方の語も、彼(レ)に准《ナズラ》へて云(ヘ)ば、平上去の三(ツノ)聲あり、【入聲はなし、其由は別に委くいふべし、】契沖が云(ハ)く、平上去の三聲を、一音の言にていはば、日《ヒ》は平、樋《ヒ》は上、火《ヒ》は去なり、毛《ケ》は平、蹴《ケ》は上、氣《ケ》は去なり、二音の言は、橋《ハシ》は平、端《ハシ》は上、箸《ハシ》は去なり、弦《ツル》は平、釣《ツル》は上、鶴《ツル》は去なり、此(ノ)類にて意得べしといへり、此(ノ)説の如くにて、平は上《アガ》らず下《サガ》らず平《タヒラカ》なる聲、上は上《アガ》る聲、去は下《サカ》る聲なり、【漢國にては、下といはずして、去といへれども、下《サガ》る外なし、又今(ノ)世の唐音《カラコエ》の四聲は、訛《アヤマ》れる者《モノ》にて、實にたがへり、】又同(ジ)人の云く、鴨《カモ》【鳥《ノ》名】は平聲なるに、鴨川《カモガハ》といふときは上聲、鴨社《カモノヤシロ》といふときは去聲なり、連《ツヅ》きによりて、同言もかく聲|變《カハ》るなりといへり、かく言《コト》を連《ツラ》ね云(フ)とき、上なる言の聲のかはるのみならず、下なるも同じく變《カハ》るなり、かの地(ノ)名の鴨は、本は去聲なるを、下鴨《シモガモ》といふときは、平聲になり、鳥の鴨は平聲なるを、眞鴨《マガモ》といふときは、上聲になるが如し、又四方の國々の音の異《カハリ》有(リ)て、同(ジ)言も等《ヒトシ》からず、其《ソ》は京畿《ウチツクニ》のをもて正しとし、それに違へるを訛(リ)とすべし、さて記中に、讀音《ヨムコヱ》を示したるを考るに、上卷に多くして、中下卷にはいと/\稀《マレ》なり、上卷にも神(ノ)名に多し、其《ソ》は常言《ツネノコト》と異《コト》にして、唱《トナヘ》を訛《アヤマ》ること多きが故なるべし、さて其《ソ》は、其(ノ)字(ノ)訓の本(ノ)聲のまゝに讀《ヨム》べき處には、附《ツケ》たることなし、たゞ言の連《ツラナ》りて、聲の變《カハ》る處に附《ツケ》たり、豊雲《トヨクモ》上|野《ヌノ》神の如き、雲《クモ》はもと平聲なるを、雲野《クモヌ》と連《ツヅ》く故に、上聲になるを、訛(リ)て本の平聲に讀《ヨマ》むことを思(ヒ)て、上聲と示したるなり、餘《ホカ》も是(レ)に傚《ナラヒ》て知(ル)べし、然らば上聲の、平聲去聲にかはる處も有(ル)べきに、平と去とは、附《ツケ》たる處なく、只上聲のみ見えたるは如何《イカニ》といふに、凡て言の連《ツヅ》きて、本(ノ)聲の變《カハ》る例を考るに、平去の上聲にかはるが常多くして、上聲の平去に變《カハ》るは、いと稀《マレ》なり、故《カレ》記中に、聲を附《ツク》る中に、平去に附《ツク》べき處は、おのづから無《ナカ》りけらし、然るに宇比地邇《ウヒヂニノ》上神、須比地邇《スヒヂニノ》去神、此(ノ)去聲たゞ一(ツ)あるは、比地邇《ヒヂニ》てふ同言の二(ツ)ならびたる、一(ツ)の邇(ニ)は上聲、一(ツ)の邇《ニ》は去聲にて、忽《タチマチ》に音の異なるが故なり、【此(ノ)邇《ニ》は土《ニ》にて、本(ノ)聲去なるを、比地邇《ヒヂニノ》神とつゞくによりて、一(ツ)は上聲となれれば、上と附(ケ)たるは、他の例に同じきを、去と附たる方は、本(ノ)聲なれば、附る例にはあらざれども、一(ツ)の上聲に傚《ナラ》ひて讀《ヨマ》むことを慮《オモヒハカリ》てなり、】又|山津見《ヤマツミ》てふ神(ノ)名、つゞきて多く出たる所に、大山《オホヤマ》上|津見《ツミ》、奥山《オクヤマ》上|津見《ツミ》などは、聲を附け、淤縢《オド》山津見、闇《クラ》山津見などは附(ケ)ず、是《コ》は附ざる方は、山を本音のまゝに、平聲に讀べしとなり、又|奥津嶋比賣《オキツシマヒメノ》命、市寸嶋《イチキシマ》上|比賣《ヒメノ》命、これも然なり、【もしかの須比智邇に、去聲を附たる例によらば、これらも本音の方にも、山平嶋平と附(ク)べきことなるに、然らざるは如何《イカニ》といふに、彼(レ)は初(メ)にて、まがひやすきを、此(レ)は多くの山津見のならべる中に、附(ケ)たると附ざるとまじはれれば、附(ケ)ざるは本音なること、さとりやすく、且《ソノウヘ》上《カミ》に既に彼(ノ)例もあれば、疑(ヒ)なからむ、又奥津嶋比賣は、山津見の例にて、いよゝ明らかなるべし、】おほかた聲を附たる例かくの如し、抑神(ノ)名などを讀(ム)にも、古(ヘ)はかく其聲の上下《アガリサガリ》をさへに、正《タダ》し示《シメ》したるを以て、すべて語《コト》を嚴重《オゴソカ》にすべきことをさとるべし、後世人たゞよしなき漢意《カラゴコロ》の理をのみさだして、語をばおほろかにして、心をつけむものとも思ひたらぬは、いかにぞや、

〇いはゆる助字《ジヨジ》の類(ヒ)、記中《コノフミノウチニ》用ひざま種々《クサグサ》あり、或はたゞ漢文の方の助《タスケ》に置るのみにて、古語には關《アヅカ》らぬもあり、或は漢文の方にはかゝはらずして、古語の方に用ひたるもあり、或は漢文のかたにて置るが、やがて古語にかなへるもあり、いづれも/\よのつねに漢籍にて讀(ム)とは、異なることおほし、故(レ)今こゝにその助字のたぐひ、又其(ノ)餘《ホカ》も、常に出る字どもをも、此(レ)彼(レ)集《アツ》め出して、訓べきさまをあげつらふ、

之※〔□で囲む〕能《ノ》と訓こと尋常《ヨノツネ》のごとし、但し必(ズ)讀(ム)べきと、必(ズ)讀(ム)まじきとあり、大凡《オホカタ》用言《ハタラキコトバ》に屬《ツキ》たるは、漢文の格なれば、捨《ステ》て訓べからず、吾所生《アガウメル》之|子《ミコ》、また出向《イデムカフ》之|時《トキ》、これらなり、【この類を能《ノ》とよむは、皇國(ノ)語にあらず、後(ノ)世(ノ)人、かゝる處にも之《ノ》を加《クハ》へて云(フ)は、漢籍讀《カラブミヨミ》の癖《クセ》の移《ウツ》りたるにて、ひがことなり、】體言《ヰコトバ》に屬《ツキ》たるは必(ズ)讀(ム)べし、天之某國之某《アメノナニクニノナニ》の類(ヒ)、淡路之穗之狹別《アハヂノホノサワケ》など、如此《カグ》さまの能《ノ》てふ辭、讀(ミ)添(フ)べき處には、丁寧《タシカ》に之(ノ)字を書(キ)添(ヘ)て、古語を明らかにせり、後(ノ)世に誤(リ)て、能《ノ》を略《ハブキ》てよむたぐひ、此(ノ)記に依(リ)て正《タダ》すべし、【國之常立《クニノトコタチノ》神を、クニトコタチと訛《アヤマ》れるたぐひおほかり、】父一(ツ)此方《ココ》の昔の漢文に用ひならへる之(ノ)字あり、凡て句(ノ)終《ハテ》などに置る、漢人《カラビト》の書る格《サマ》に違《ダガ》へるが、書紀などにも多きなり、そのたぐひ必訓べからず、云2々(ス)之(ヲ)1などの之(ノ)字も、よむべからず、また云(ノ)字と互《タガヒ》に寫し誤れる處多し、詔之を詔云とも作《カ》ける類(ヒ)なり、こは何《イヅ》れにても、古語の方にあづからざれば、訓(マ)ぬ例なり、於※〔□で囲む〕邇《ニ》と訓(ム)字なり、於《ニ》v某《ナニ》と用ひたり、凡て古書に此(ノ)格多し、者※〔□で囲む〕波《ハ》と訓ことつねの如し、又|於《ニ》2今者《イマ》1とあるは、たゞ伊麻《イマ》と云(フ)に添《ソヘ》たるなれば、別に者(ノ)字はよむまじきなり、又者也とある者(ノ)字も、訓べからず、而※〔□で囲む〕弖《テ》と訓ことつねのごとし、又|從《ママニ》2八十神之教《ヤソガミノヲシヘシ》1而《シテ》、これらは志※〔氏/一〕《シテ》と訓て、爲而《シテ》の意なり、【常に志※〔氏/一〕《シテ》と訓(ム)とは、意|異《コト》なり、又常の如く、教《ヲシヘ》ニシタガヒテと訓(ム)も、古語に非ず、】また隨《マニマニ》2云々《シカシカノ》1而とあるは、隨を麻爾麻爾《マニマニ》と訓て、而(ノ)字は訓べからず、【字は、シタガヒテとよむ漢文ざまに添(ヘ)て書るなり、〇凡て而(ノ)字は、漢文にては句(ノ)頭にあれども、御國にては、必(ズ)言の下に附(ク)辭なり、】矣※〔□で囲む〕袁《ヲ》といふ辭《テニヲハ》に用ひたり、地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラシトコソ》などの如し、此(ノ)例萬葉などにも多し、【後(ノ)世には絶《タエ》てなきことなり、】又たゞ漢文の助字なるもあり、乎※〔□で囲む〕夜《ヤ》とも、加《カ》とも、夜母《ヤモ》とも、加母《カモ》とも、語のさまに隨《シタガヒ》て訓べし、哉※〔□で囲む〕大かた乎(ノ)字の訓に同じ、【加那《カナ》といふは、古言にあらず、奈良のころまでは、加那《カナ》といへる辭なし、其《ソ》は萬葉などにもみな、加母《カモ》とよめり、まれに哉(ノ)字をかけるも、加母《カモ》と訓べし、加那《カナ》と訓るは誤なり、書紀にも此(ノ)字、伽夜《カヤ》また※〔木+可〕佞《カネ》などと訓注あり、】也※〔□で囲む〕たゞ漢文の助字に用ひたり、其中に、那理《ナリ》と云て宜き處に置たるが多きなり、【漢籍にても、那理《ナリ》とよむべき處に多き故に、つひに此(ノ)字の定まれる訓となれり、然れども奈良のころまでは、那理《ナリ》といふに、此(ノ)字を定めて用(ヒ)たることはなし、萬葉にも此(ノ)字は、ヤの假字に用ひたるのみなり、那理《ナリ》には、有《ナリ》在《ナリ》とかけり、爾阿理《ニアリ》の切《ツヅ》まりたる辭なればなり、】歟※〔□で囲む〕よのつねの如く、疑ひたる處にも用ひ、また只焉(ノ)字などと同じさまの助字にも置(キ)たり、書紀にも然《サル》例あり、焉※〔□で囲む〕たゞ漢文の方の助字なり、故※〔□で囲む〕語の下にあるは、由惠《ユヱ》とも由惠爾《ユヱニ》とも訓こと、常の如し、【輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、志波邇波《シハニハ》、邇具漏岐由惠《ニグロキユヱ》云々、書紀(ノ)雄略(ノ)御巻(ノ)歌に、耶麼能謎能《ヤマノベノ》、故思麼古喩衛爾《コシマコユヱニ》云々、かゝれば是(レ)もいと古き言なり、】又句(ノ)頭にあるをば、迦禮(カレ)と訓(メ)り、其《ソ》は記中に殊におほし、其(ノ)中に、此(ノ)字の意にはあらずて、たゞ次の語を發《オコ》すとて、於是《ココニ》などいふべき處に置るいと多し、それにつきて思ふに、迦禮は、迦々禮婆《カカレバ》の切《ツヅマ》りたる辭ならむか、迦々禮婆《カカレバ》は、如此有者《カクアレバ》にて、上を承《ウケ》て次の語を發《オコ》す言なり、さて其《ソ》を切《ツヅ》めては、迦禮婆《カレバ》とこそいふべきに、婆《バ》をしも略《ハブ》けるはいかにといふに、古語に、婆《バ》を略きて、婆《バ》の意なる例多し、【此例萬葉に多く見ゆ、別に出せり、又長歌に、奴禮婆《ヌレバ》都禮婆《ツレバ》などと云べき處を、婆《バ》を省《ハブ》きて、奴禮《ヌレ》都禮《ツレ》などとのみ云る例もあり、是《コ》も別に出《ダ》す、】然《サ》てその迦禮《カレ》に故(ノ)字を書るは、いかなる由ぞといふに、凡て祁婆《ケバ》泥婆《ネバ》閇婆《ヘバ》禮婆《レバ》の類(ヒ)は、由惠《ユヱ》といふ意に通《カヨ》ふ例多ければ、【第四(ノ)音よりつゞく婆《バ》は、故《ユヱ》の意に通《カヨ》ふ多し、ゆけばなりけりといへば、ゆく故《ユヱ》なりけりの意に通ひ、あればなりといへば、ある故《ユヱ》なりといふに通ふが如し、】迦々禮婆《カカレバ》は、如是有故《カカルユヱ》といふに通ふを以て、此(ノ)字を當《アテ》たるなるべし、【また加良爾《カラニ》といふ辭、故《ユヱ》といふ意に近ければ、加禮《カレ》は、加良《カラ》の活點《ハタラ》きたるかとも思へど、然《シカ》にはあらじ、加良《カラ》は別なるべし、さて又漢籍にて、句(ノ)頭にある故(ノ)字をば、加流賀由惠爾《カルガユヱニ》とよむは、是(レ)も加々流賀由惠爾《カカルガユヱニ》を切《ツヅ》めたる物なるべし、又句(ノ)頭なる而(ノ)字を、志加斯弖《シカウシテ》と訓(ム)例によらば、然《シカ》るがゆゑにの志《シ》を省《ハブ》けるにもあらむか、】爾※〔□で囲む〕此(ノ)字は、殊に多く用ひたり、おほくは許々爾《ココニ》と訓べし、又處によりて、迦禮《カレ》と訓て宜《ヨロシ》きもあるなり、抑此記の文(ノ)法《サマ》、すべて一連《ヒトツヅキ》の語終りて、次の語の首《ハジメ》には、かならず於是《ココニ》とも、故《カレ》とも、爾《ココニ》ともいへる、此(ノ)三(ツ)の辭を用ひたるさまを考へ合するに、たゞ其處《ソコ》の語の勢《イキホヒ》に隨ひ、調《シラベ》に任《マカ》せて置るのみにして、必しも各|異《コト》なる意のあるにはあらず、さればまた故《カレ》爾《ココニ》とも、故《カレ》於是《ココニ》とも、重《カサ》ねても置る、其《ソレ》も同じことなり、但し右の三(ツ)のうち、爾(ノ)字は、於是《ココニ》とある處と同じ勢《イキホヒ》なる處に多く、また故爾と重ねたるは多くあれども、爾於是と重ねたる處は無し、これらを思へば、みな許々爾《ココニ》と訓べくして、迦禮《カレ》とは訓(ム)まじきが如し、然れども又|稀《マレ》には、故(ノ)字を置る勢《イキホヒ》と全《モハラ》同じくして、許々爾《ココニ》と訓(マ)むよりは、迦禮《カレ》と訓(ム)が優《ヤサ》れる處もあり、又あまり頻《シキ》りて多かる處などは、棄《ステ》て讀(ム)まじきもあるなり、【大かた爾とも、於是とも、故ともあるは、みな今の俚言《イヤシキコトバ》に、曾許傳《ソコデ》といふ勢(ヒ)なる處なり、爾(ノ)字つねに曾能《ソノ》とも訓めば、曾許《ソコ》とおのづから意通へり、又爾時は、曾能登伎《ソノトキ》と訓ても、許能登伎《コノトキ》と訓ても意通ふを、許能《コノ》と許々《ココ》と同じければ、許々爾《ココニ》と訓(ム)こと、おのづから字(ノ)義にもかなへり、又|是《ココ》と如是《カク》と、本(ト)同言にして、迦禮《カレ》は、如是有者《カクアレバ》の切《ツヅ》まりたるなれば、迦禮と訓(ム)も自《オ》通へり、】又上卷に自v爾とあるは、曾禮余理《ソレヨリ》とも、許禮余理《コレヨリ》とも訓べく、中卷に爾祟とあるは、曾能多々理《ソノタタリ》とも、許能多々理《コノタタリ》とも訓べし、乃※〔□で囲む〕須那波知《スナハチ》と訓べし、【漢文にて、此(ノ)字また爾(ノ)字などを、古く伊麻志《イマシ》と訓り、そは汝《イマシ》の意とまぎれつるものなるべし、但し土左日記に、いまし羽根といふ所に來《キ》ぬ、又いましかもめ群集《ムレヰ》てあそぶ所ありなどいへり、】又只漢文の方にて置りと見ゆるもあり、然《サ》る處は、捨《ステ》て讀(ム)まじきなり、即※〔□で囲む〕乃(ノ)字と同じさまに用ひたり、訓べきさまも同じ、爲※〔□で囲む〕淤母本巣《オモホス》また淤母布《オモフ》といふを以爲とかき、また爲(ノ)一字を書る處も一(ツ)二(ツ)あり、また爲《ミトシテ》v直《ナホサ》2其禍《ソノマガヲ》1而、かく用ひたる處あり、是《コ》は漢文には將(ノ)字を用る格なり、また爲《ス》v將《ムト》v出2幸《イデマサ》上國《ウハツクニ》1とも、將2爲《ムトシ》待攻《マチセメ》1而《テ》とも用ひたり、此格《カクサマ》なる類(ヒ)多し、【漢文の格には異《コト》なる用ひざまなり、】將※〔□で囲む〕將《ム》v罷《マカラ》、かくさまに用ひたり、萬葉にも此(ノ)格に用ひて、みな將《ム》v見《ミ》將《ム》v聞《キカ》など書り、又|將《ムトスル》v殺《コロサ》時《トキニ》、かくも用ひたり、此《コ》は漢文の訓に同じ、欲※〔□で囲む〕おはくは將(ノ)字と同じ格《サマ》に、たゞ牟《ム》と訓べし、欲《ム》v爲《セ》2力競《チカラクラベ》1などの類(ヒ)なり、書紀(ノ)欽明(ノ)御卷に爲《ス》v欲《ムト》2熟喫《コナシハマ》1、かくも訓り、又|淤母布《オモフ》と訓べき處あり、欲《オモフ》v罷《マカラムト》2妣國《ハハノクニニ》1などの類(ヒ)なり、書紀にも多くかく訓り、【たゞ牟《ム》とのみ訓て宜き處をも、書紀には多くは、淤母布《オモフ》淤煩須《オボス》など訓り、其《ソレ》も意は違ふことなけれども、語のいきほひに從ふべし、右の欲《ム》v爲《セ》2力競(ベ)の如き、世牟登淤母布《セムトオモフ》、また世麻久本理須《セマクホリス》など訓ても、意は同じことなれども、然訓べき處にはあらず、大かた此(ノ)字、萬葉などには、かならず本流《ホル》本理須《ホリス》といふに用ひたる故に、何《イヅ》れの書にても、必(ズ)然訓べきこととのみ心得たるは、ひがことなり、聖武紀の宣命に、欲《ム》v奉《マツラ》v造《ツクリ》止思《トオモフ》云々、光仁紀のにも、御體《ミミ》欲《ム》v養《ヤシナハ》止奈母所念須《トナモオモホス》、これら必(ズ)牟《ム》とのみ訓(ム)外はなきを思ふべし、下に思《オモフ》所念《オモホス》とあれば、欲(ノ)字は、淤母布《オモフ》とも本理須《ホリス》ともいかでか訓べき、漢籍にては、凡て本須《ホツス》とよむ、こは本理須《ホリス》の訛《ヨコナマ》れるなり、其(ノ)中に、或は花に欲(ス)v開《サカムト》欲(ス)v落《チラムト》などいふ類(ヒ)は、此(ノ)訓あたらぬことなり、凡て心無き物に、本理須《ホリス》とはいふべからず、是《コ》は字書に、將(ニ)《スル》v然(ラムトノ也と注せる意なれば、開《サカ》むとす、落《チラ》むとすとこそ讀(ム)べけれ、此方の古書にても、凡て本理須《ホリス》とのみよむことと心得たるは、字書に、期願(ノ)之辭と注せる方をのみ思ひて、又|將(ニ)《スル》v然(ラムト)也と云る方をばしらざるなり、】以※〔□で囲む〕以2云々1とあるは、おほく袁《ヲ》と訓べし、云々以とあるは、多く弖《テ》と訓べし、又|余理弖《ヨリテ》と訓て宜き處も稀《マレ》にあり、又|尋常《ヨノツネ》の如く訓(ム)處も多し、其(ノ)中には、本よりの古語と、漢文訓《カラブミヨミ》の移《ウツ》れると有(ル)べし、是以《ココヲモテ》などの以《モテ》の用《ツカ》ひざま、其(ノ)初《ハジメ》は漢文訓(ミ)よりや出《イ》(デ)けむ、されど此(ノ)類も、いと/\古(ヘ)よりいひなれつることと聞えて、辭《コトバ》つきいとふるく、萬葉の歌などにも多し、古言とすべし、さて其《ソレ》を、母ツ弖《モツテ》とよむは、後(ノ)世の俚言《イヤシキコトバ》なれば、云にたらず、母弖《モテ》と訓(ム)も略《ハブ》ける辭なり、正しくは母知弖《モチテ》と訓べし、中卷(ノ)歌に岐許志母知袁勢《キコシモチヲセ》、下卷(ノ)歌に、加微能美弖母知《カミノミテモチ》、比久許登爾《ヒクコトニ》、萬葉二十に、麻蘇※〔泥/土〕毛知《マソデモチ》、奈美太乎能其比《ナミダヲノゴヒ》、【これら後(ノ)世ならば、母弖《モテ》といふべし、】又三に、我袖用手《ワガソデモチテ》、將隱乎《カクサムヲ》、【用(ノ)字を書たれども、以の意なり、】石卜以而《イシウラモチテ》、十一に何有依以《イカナラムヨシヲモチテカ》、これら母知弖《モチテ》てふ辭の例なり、【此(ノ)外に萬葉(ノ)中に、以持用などの字、母知《モチ》と訓べきを、母弖《モテ》と附(ケ)たる多(シ)、】但し同十に、手折以而《タヲリモテ》、十五に、奈爾毛能母弖加《ナニモノモテカ》、伊能知都我麻之《イノチツガマシ》ともあれば、母弖《モテ》と訓(マ)むも、ひがことにはあらず、所※〔□で囲む〕生《ウム》を宇米流《ウメル》、成《ナル》を那禮流《ナレル》といふが如き時に、此字を加(ヘ)て、所生《ウメル》所成《ナレル》と書る例なり、此(ノ)格の言、餘《ホカ》もみな然り、是(レ)を萬葉には、生有《ウメル》成有《ナレル》などと、有(ノ)字を添(ヘ)て書り、【此(ノ)格の所(ノ)字を、登許呂《トコロ》と訓(ム)は、漢文訓にして、古語にあらず、】又|不《ズ》v知《シラ》v所《トコロヲ》v出《イデム》、こは漢文の方は、右の所生《ウマル》などの所(ノ)字と、同格なれども、語は不v知(ラ)2可《ベキ》v出《イヅ》之|處《トコロヲ》1と書(ク)意なれば、登許呂《トコロ》と訓べし、下卷高津(ノ)宮(ノ)段に、女鳥王《メドリノミコノ》之|所《トコロ》v坐《マス》とあるも、坐處《マストコロ》の意なれば同じ、耳※〔□で囲む〕記中此(ノ)字、皆漢文の格によりて置たれば、常の如く能美《ノミ》と訓ては、古語にかなはず、別に訓べき格《サマ》あり、例を一(ツ)二(ツ)擧《アゲ》て喩《サト》さむ、欲v奪2吾國1耳、こは吾國袁欲奪登爾許曾阿禮《アガクニヲウバハムトニコソアレ》と訓べし、愛友故弔來耳、こは愛友那禮許曾弔來都禮《ウルハンキトモナレコソトブラヒキツレ》と訓べし、【那禮許曾《ナレコソ》は、那禮婆許曾《ナレバコソ》といふ意なり、】起2邪心1之表耳、こは邪心袁起世流表爾許曾阿禮《アシキココロヲオコセルシルシニコソアレ》と訓べし、是者無2異事1耳、こは是者異事無許曾《コハケシキコトナクコソ》と訓べし、如此《カク》訓て、何《イヅ》れも許曾《コソ》と云に、耳の意はあるなり、其《ソ》は地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラシトコソ》、我那勢之命《アガナセノミコト》爲《シツラメ》2如此《カク》1とあるは、以《ヲ》v地《トコロ》爲《オモフガ》2可惜《アタラシト》1故《ユヱニ》、我那勢之命《アガナセノミコト》爲《シルツ》2如些《カク》1耳《ノミ》、と云(ヒ)たらむと、全《モハラ》同意なるを以曉《サト》るべし、抑此(ノ)字、能美《ノミ》とは訓(ム)まじき所以《ユヱ》は如何《イカニ》といふに、凡て皇國語《ミクニゴト》には、能美《ノミ》は、中間《ナカラ》にのみ在《アル》ことにて、終《ハテ》を此(ノ)辭にて結《トヂ》むることはなければ、古語にかなはざるなり、【然るを能美《ノミ》と結《トヂ》めたらむも、古語に違《タガ》ふことあらじと思ふは、漢籍讀にのみ口《クチ》なれ耳《ミミ》なれたる、後(ノ)世人のひが心なり、】書紀(ノ)允恭(ノ)御卷(ノ)歌に、多※〔にんべん+嚢〕比等用能未《タダヒトヨノミ》、萬葉十一に、但一耳《タダヒトリノミ》、など結《トヂ》めたるあれど、これらは、唯一夜《タダヒトヨ》唯一人而已《タダヒトリノミ》にして、二夜に及ばず、二人と無《ナ》しといふ意にて、能美《ノミ》てふ辭いと重《オモ》ければ、漢文の輕《カロ》く云捨《イヒステ》たる耳《ノミ》とは異《コト》なり、【然らば古(ヘ)より此(ノ)字に、能美《ノミ》といふ訓のあるは、いかなる故ぞと云に、漢文にて此(ノ)字は、語決(スル)辭と云て、何《イヅ》れも其(ノ)事に決《サダ》まりて、他にわたる疑(ヒ)なき意なる處に置る故なり、されば漢文にては、此(ノ)訓かなはざるにあらず、然れども然《サ》る處に能美《ノミ》といふ辭を置こと、皇國の語にあらざるなり、凡て言の意は同じきも、置(キ)處用ひざまなどの、此方《ココ》と彼(ノ)國と差《タガヒ》あることをよく辨へて、萬(ヅ)の詞は用ふべきものぞ、】亦※〔□で囲む〕麻多《マタ》と訓(ム)ところと、母《モ》と訓べきところとあるなり、且※〔□で囲む〕又(ノ)字と同じ格《サマ》に用ひたり、【字書に又也と注せる意なり、】麻多《マタ》と訓べし、加都《カツ》と訓(マ)むは非《ヒガコト》なり、凡て此(ノ)字を訓(ム)に、麻多《マタ》と加都《カツ》との差別《ケヂメ》をいはば、漢籍《カラブミ》に、君子有(リ)v酒、多(ク)且《マタ》旨《ウマシ》と云るが如きは多きがうへに、また旨《ウマ》くさへありといふ意なり、此(ノ)意の且(ノ)字は、何《イヅ》れも麻多《マタ》と訓べし、加都《カツ》と訓(ム)はあたらず、句(ノ)頭にあるも同じことなり、【漢籍どもの古き本に、句(ノ)頭にある且(ノ)字を、曾能宇閇《ソノウヘ》と訓ることあり、そはよくあたれり、】また我(レ)歌(ヒ)且《カツ・マタ》謠(フ)と云るが如きは、【注に、曲(アリテ)合(ヲ)v樂(ニ)曰v歌(ト)、徒(ニ)歌(フヲ)曰v謠(ト)とありて、歌と謠と異なるなり、】歌《ウタ》ひもし、又|謠《ウタ》ひもする意なり、かくさまの意の且(ノ)字は、麻多《マタ》と訓ても加都《カツ》と訓ても宜きなり、此(ノ)二(ツ)、漢文にては同じ格なれども、此方《ココ》の言にうつして訓(ム)には、かく差別《ケヂメ》あり、其中に麻多《マタ》は廣《ヒロ》ければ、何《イヅ》れにもわたるを、加都《カツ》はたゞ、此(レ)をしながら、又彼(レ)をもするが如きをいふ辭にて、【伊勢物語(ノ)歌に、かつ恨みつつなほぞ戀しきと云るが如き、恨《ウラ》めしくもありながら、又戀しくもあるなり、是(レ)にて加都《カツ》の意をさとるべし、】其(ノ)意ならぬ處には、かなはずと知(ル)べし、【然るを近(キ)世の人は、此(ノ)差別をしらずて、且(ノ)字をば、すべてみな加都《カツ》と訓ならへる故に、麻多《マタ》と訓べきを、加都《カツ》と訓(ミ)ても、違《タガ》はぬがごとおぼえたるは、誤訓《ヒガヨミ》に口《クチ》なれ耳なれたるがゆゑなり、】抑漢文の且(ノ)字を訓(ミ)誤《アヤマ》るから、皇國文《ミクニブミ》をかくにも誤りて、用《ツカ》ふまじき處に、加都《カツ》といふ辭を用《ツカ》ふ人多かる故に、今かく委くは辨へおくなり、此記なる且(ノ)字は、ただ文(ノ)字|書《カケ》ると同じことぞ、と意得るばかりぞ、但し麻豆《マヅ》と訓べき處一(ツ)二(ツ)あり、【其由は其處にいふべし、】及※〔□で囲む〕某《ソレ》及|某《ソレ》とある及(ノ)字、麻多《マタ》と訓べし、淤余毘《オヨビ》と訓(ム)は漢文訓にして、古語にかなはず、抑|麻多《マタ》と訓べき所由《エヱ》は、天若日子(ガ)之父天津國玉(ノ)神及其(ノ)妻子とありて、又次には、天若日子(ガ)之父亦其(ノ)妻とある、及(ノ)字と亦(ノ)字と、用ひざま全《モハラ》同じ、また八尺勾※〔王+總の旁〕《ヤサカノマガタマ》鏡及草那藝(ノ)劔亦常世(ノ)思金(ノ)神、また國(ノ)造亦|和氣《ワケ》及|稻置《イナキ》などと、一連《ヒトツヅキ》の内に、及と亦とを重《カサ》ねても云る、只同じ用ひざまなるを以て知べし、【但しこれらに、同じ亦(ノ)字を二(ツ)は用ひずして、一(ツ)は及(ノ)字を用ひたるを思へば、當時《ソノカミ》既《ハヤ》く漢文訓のうつりにて、かゝる處を淤余毘《オヨビ》とよむことも有し故に、麻多《マタ》てふ辭の重なりて、かしかましさに、一(ツ)は淤余毘《オヨビ》と讀(マ)しめむの心にて、及(ノ)字を書るにもあらむか、もし然らば、他《ホカ》なるをも、みな然訓(マ)むこと、何《ナニ》かあらむともいふべけれど、なほわろし、】但し麻多《マタ》と訓て勢(ヒ)あしからむは、其語のさまに隨ひて、登《ト》とも波多《ハタ》とも、下より返りて母《モ》とも訓べく、捨《ステ》て讀《ヨ》までも有(ル)べし、左右《カニカク》に淤余毘《オヨビ》とは訓(ム)まじきなり、可※〔□で囲む〕おほくほよのつねのごと倍志《ベシ》と訓て宜し、まれに可還を加幣理麻勢《カヘリマセ》、と訓べきが如きもあり、勿※〔□で囲む〕不(ノ)字の意に用ひたり、受《ズ》と訓べし、書紀にもさる處おほし、【此(ノ)字常には、禁止之辭と注したる如く、那加禮《ナカレ》と訓べき處に用《ツカ》へども、此記に用ひたるは然らず、みな不(ノ)字なるべき處にあり、】其《ソ》は云々《シカシカ》することなしと訓ても通《キコ》ゆれども、なは云云世受《シカシカセズ》と訓て正しき處なり、【又非(ノ)字と不(ノ)字とは、用る格《サマ》異なるを、此方《ココ》の古書どもには、不(ノ)字を用ふべき處に、非(ノ)字を用ひたること多きも、此(ノ)たぐひなり、】雖※〔□で囲む〕杼母《ドモ》また登母《トモ》と訓べし、【此(ノ)字漢籍にて、伊閇杼母《イヘドモ》又|伊布登母《イフトモ》とよむ、それも古言なり、凡て古言に、伊布《イフ》といふ辭を添(ヘ)ていへる例多し、後(ノ)世の言にもあることなり、有(ラ)ざることなしといふべきを、有(ラ)ずといふこと無(シ)といふ類ひ是なり、】是※〔□で囲む〕許禮《コレ》また許能《コノ》と訓こと、常のごとし、又|許禮《コレ》を許《コ》とのみいふも、古言の一(ツ)なり、【其《ソレ》を曾《ソ》といひ、吾《ワレ》を和《ワ》といふと同じ格なり、】又|許禮《コレ》を許々《ココ》といへることも多し、【其《ソレ》を曾許《ソコ》といふに同じ、】また於是《ココニ》とあるべきを、是《ココニ》と一字に書る處もあり、また天(ノ)菩比《ホヒノ》神|是可遣《コレヤルベシ》、また八重言代主《ヤヘコトシロヌシノ》神|是可白《コレマヲスベシ》、などの類の是(ノ)字、漢文の格に似たれども、然《シカ》にはあらず、古語なり、許禮《コレ》と訓べし、【こはまづ其(ノ)名を顯《アラ》はして、さて是《コノ》神云々といふに同じ、委《クハシ》くいふときは、天(ノ)菩比(ノ)神と云(フ)神あり、是《コノ》神|遣《ヤル》べしといはむが如し、漢文に此(ノ)字を置(ク)意とは異なり、】其※〔□で囲む〕つねの如く曾能《ソノ》と訓べし、但し此(ノ)字あまり繁《シゲ》く置(キ)たれば、中には捨《ステ》て讀(ム)まじきもあり、又彼(ノ)字と相通《アヒカヨ》はして、共に曾能《ソノ》とも加能《カノ》とも訓べき處あり、又|許能《コノ》と訓て宜しき處もあり、また上に云る物を指て、曾禮《ソレ》といふに、此(ノ)字を用ひたる處あり、如《ゴト》2魚(ノ)鱗(ノ)1所造《ツクレル》之|宮室《ミヤ》、其《ソレ》綿津見《ワタツミノ》神之|宮者《ミヤナリ》也、などある是(レ)なり、【中昔の物語書にも、人(ノ)名などを出(ダ)して、曾禮《ソレ》云々といへること多し、同(ジ)格なり、古語なるべし、】相※〔□で囲む〕阿比《アヒ》と訓べきこと常の如し、此(ノ)字いとおほし、中に捨てよむまじきもあるべし、竟※〔□で囲む〕袁波理弖《ヲハリテ》又|袁閇弖《ヲヘテ》又|波弖々《ハテテ》など訓べし、又然訓ては煩《ワヅラ》はしき處もある、其《ソ》は捨て讀まじきなり、訖※〔□で囲む〕竟(ノ)字と全《モハラ》同じさまに用ひたり、訓べきさまも同じ、至※〔□で囲む〕おほくはたゞ麻傳《マデ》と訓べし、伊多流麻傳《イタルマデ》と訓べき處は、いと稀《マレ》なり、また八拳須《ヤツカヒゲ》至《イタルマデ》2于|心前《ムナサキニ》1、こは至《マデ》v到《イタル》といふ意なり、【其故は、須《ヒゲ》の心前《ムナサキ》にとづき至《イタ》る齢になれるまでといふ意にて、伊多流《イタル》は須《ヒゲ》の心前に至るなり、麻傳《マデ》は然《サ》る齢になるまでなり、然れば是《コ》は、常にたゞ麻傳《マデ》といふことを、伊多流麻傳《イタルマデ》といふとは異なり、】到※〔□で囲む〕常のごと伊多流《イタル》と訓べきもあり、又|由久《ユク》伊傳麻須《イデマス》など訓べき處もあり、臨※〔□で囲む〕此(ノ)字多くは漢文の格にて用ひたり、其《ソ》は常の如く能叙牟《ノゾム》と訓ては、古語にあらず、臨2産時(ニ)1とあるは、産時爾那理弖《コウムトキニナリテ》、懷妊臨産とあるは、懷妊阿禮麻佐牟登須《ハラマセルミコアレマサムトス》などと、其語の状《サマ》にしたがひて訓べし、各※〔□で囲む〕つねの如く淤々能々《オノオノ》、また淤能母淤能母《オノモオノモ》、と訓て可《ヨ》き處もあり、又語のさまによりて、阿比《アヒ》とも美那《ミナ》とも迦多美邇《カタミニ》とも訓べき處あるなり、諸※〔□で囲む〕天神諸《アマツカミモロモロ》、八百萬神諸《ヤホヨロヅノカミモロモロ》、御子等諸《ミコタチモロモロ》などの如く、下にあること古語なり、毛々呂々《モロモロ》と訓べし、諸人諸國諸神などの如く、上にある類は、古語なると漢文なるとあるべし、諸人は、萬葉にも毛呂比登《モロヒト》とあれば、古言なり、諸國などは漢文と見ゆ、書紀などにも、久爾具爾《クニグニ》と訓り、然訓べし、諸神は迦微多知《カミタチ》と訓べし、又|久爾具爾《クニグニ》の例に、迦微賀微《カミガミ》とも訓べし、【毛呂加微《モロカミ》と訓(ム)はひがことならむ、】凡て毛呂某《モロナニ》とは、云(フ)べきと云まじきと有(ル)べく、毛呂毛呂能某《モロモロノナニ》とは、何《ナニ》にもいふべきなり、於是※〔二字□で囲む〕許々爾《ココニ》と訓なり、【今(ノ)俗言《サトビゴト》に曾許傳《ソコデ》といふ勢(ヒ)の處に用る辭なり、】上卷に在《アリ》2于|此處《ココニ》1と云べきを、於是有《ココニアリ》と書る處あり、こはなべての例に異なり、記中|如此状《カクサマ》のこと往々《ヲリヲリ》あり、是以※〔二字□で囲む〕許々袁母弖《ココヲモテ》と訓(ム)なり、此(ノ)辭は、本よりの皇國言とは聞えず、其(ノ)初《ハジメ》漢籍を讀《ヨム》ために、設けつる物なるべし、されど其《ソ》はいと古(ヘ)のことと聞えて、いひざまいと古《フル》し、許禮袁《コレヲ》といはずして、許々袁《ココヲ》と云(フ)は、古(ヘ)の物言《モノイヒ》なり、【凡て古(ヘ)は、曾禮《ソレ》を曾許《ソコ》、許禮《コレ》を許々《ココ》といへること多し、萬葉に、曾禮由惠爾《ソレユヱニ》と云べきを、曾許由惠爾《ソコユヱニ》といひ、許禮袁思閇婆《コレヲオモヘバ》と云べきを、許々毛閇婆《ココモヘバ》といへる類なり、さて今(ノ)世漢籍をよむに、是以を許々袁母弖《ココヲモツテ》とよむは、たま/\古訓ののこれるなり、此(ノ)外も那良より以前《アナタ》の古言の、此方の古書には漏《モレ》たるが、漢籍讀《カラブミヨミ》にのこれる、往々《コレカレ》あり、心をつくべし、】故爾※〔二字□で囲む〕迦禮許々爾《カレココニ》と訓べし、故《カレ》は軽《カロ》く用ひたる辭なり、即爾※〔二字□で囲む〕爾(ノ)字は捨て讀まじきなり、爾即※〔二字□で囲む〕これも爾(ノ)字はよむべからず、云爾※〔二字□で囲む〕中卷に只一(ツ)あり、語(ノ)終(リ)に、たゞ伊布《イフ》と訓べき處なり、爾(ノ)字捨て讀べからず、如此※〔二字□で囲む〕迦久《カク》と訓なり、迦久能碁登《カクノゴト》といふも、朝倉(ノ)宮(ノ)天皇の大御歌にも見えて、古言なり、されどなべては、迦久《カク》とのみいへり、然而※〔二字□で囲む〕斯加志弖《シカシテ》と訓べし、【漢籍にて斯加宇志弖《シカウシテ》と訓(ム)は、音便に宇《ウ》の添《ソハ》りたる俚言《サトビゴト》なり、】佐弖《サテ》とも訓べし、萬葉に然而毛《サテモ》と云る例あり、斯加《シカ》を切《ツヅ》めて佐《サ》といふ、常のことなり、【それに取ては、佐弖《サテ》は斯加弖《シカテ》なれば、こと足《タラ》はぬに似たれども、然らず、佐弖《サテ》は、斯加阿理弖《シカアリテ》の切《ツヅ》まりたるなり、阿《ア》を省《ハブキ》て斯加理弖《シカリテ》となるを、又その理《リ》の省《ハブ》かりて、佐弖《サテ》とはなれる、おのづからの勢(ヒ)なり、もし然らば、斯加理弖《シカリテ》と訓べしともいはむか、されど然訓る例は見ず、】然後※〔二字□で囲む〕期加志※〔氏/一〕能知《シカシテノチ》とも、佐弖能知《サテノチ》とも訓べし、以爲※〔二字□で囲む〕淤母布《オモフ》また淤母本須《オモホス》と訓べし、【淤母本須《オモホス》を淤煩須《オボス》、淤母本由《オモホユ》を淤煩由《オボユ》と云(フ)は、音便に頽《クヅ》れたる辭なり、此記などの訓には、用ふべからず、】所謂※〔二字□で囲む〕伊波由流《イハユル》と訓べし、其《ソ》は所有《アラユル》と同じ言格《イヒザマ》の辭なり、【是(レ)を漢籍訓と思ふ人あるべけれど、然らず、那良以前《ナラヨリアナタ》の古言なり、其(ノ)故は、伊波由流《イハユル》は伊波流々《イハルル》、阿良由流《アラユル》は阿良流々《アラルル》といふことなるに、流々《ルル》を由流《ユル》といふは、いと古(ヘ)の物言《モノイヒ》にて、萬葉などに此(ノ)格多ければなり、然らば某《ナニ》といはゆると、下にこそ云べきに、いはゆる某《ナニ》といふは、いさゝかおぼつかなけれど、中古の物語ぶみなどにも然云へれば、古(ヘ)よりして、然云(ヒ)ならへるなるべし、】所由〔二字□で囲む〕由惠《ユヱ》と訓べし、所以〔二字□で囲む〕由惠《ユヱ》と訓べし、者也〔二字□で囲む〕多くは那理《ナリ》と訓べき處にあり、者(ノ)字なきと同じことなり、又まれに神也《カミナリ》の意に、迦微那理《カミナリ》と訓べき處もあるなり、

故於是〔三字□で囲む〕故爾といへると同じさまなり、迦禮許々爾《カレココニ》と訓べし、故是以〔三字□で囲む〕迦禮許々袁母弖《カレココヲモテ》と訓べし、書紀(ノ)天武(ノ)御卷にも此(ノ)辭あり、續紀の宣命にも多し、古き言なるべし、何由以〔三字□で囲む〕那叙《ナゾ》とも那杼《ナド》とも、伊加傳《イカデ》とも伊加爾志弖《イカニシテ》とも、語のさまによりて訓べし、何由何故何以などあるも、皆同じことなり、何《イヅ」れも字のまゝに訓(マ)むは、此方《ココ》の詞つきにあらず、

詔之〔二字□で囲む〕告之〔二字□で囲む〕白之〔二字□で囲む〕【これらの之(ノ)字を、延佳本にはみな云と作《カケ》り、それもさることなれども、諸本ともにみな之とある故に、今は其《ソレ》に依(レ)り、】告言〔二字□で囲む〕白言〔二字□で囲む〕問曰〔二字□で囲む〕答日〔二字□で囲む〕答詔〔二字□で囲む〕答告〔二字□で囲む〕答言〔二字□で囲む〕答白〔二字□で囲む〕誨告〔二字□で囲む〕誨曰〔二字□で囲む〕議云〔二字□で囲む〕議白〔二字□で囲む〕凡てかゝるたぐひ、字のまゝに尋常《ヨノツネ》の如く訓むは、古語のさまにあらず、詔之告之などは、續紀(ノ)宣命に、詔賜都良久《ノリタマヒツラク》云々、勅豆良久《ノリタマヒツラク》云々、などあるに依(リ)て訓べく、白之白言などは、上卷に白都良久《マヲシツラク》云々、とあるに依て訓べく、議云議白などは、宣命に謀家良久《ハカリケラク》云々、とあるに依て訓べし、【都良久《ツラク》は都流《ツル》なり、家良久《ケラク》は祁流《ケル》なり、】大かたこれらに准《ナズラ》へて、問口は斗比祁良久《トヒケラク》、答曰は許多閇祁良久《コタヘケラク》、答詔は許多閇多麻比都良久《コタヘタマヒツラク》、誨告恨袁志閇多麻比都良久《ヲシヘタマヒツラク》、などと訓べし、又|都良久《ツラク》祁良久《ケラク》と云(ヒ)て、煩《ワヅラ》はしからむ處などは、詔之などは、能理多麻波久《ノリタマハク》、白言などは、麻袁佐久《マヲサク》と訓まむも宜し、又答は、字のまゝに許多閇《コタヘ》と訓ては、煩《ワヅラ》はしき處多し、其《ソ》はたゞ答詔は能理多麻波久《ノリタマハク》、答白は麻袁佐久《マヲサク》などとも訓べし、又告(ノ)字は、古書どもに、能流《ノル》てふ言に用ひたる故に、此記にては、詔(ノ)字と同じ意に用ひたれば、訓《ヨミ》も詔と全《モハラ》同じ、さて又右の字ども何《イヅ》れも/\、其(ノ)下なる語の短《ミジカ》きなどは、下より囘《カヘ》りて、詔之は云々登詔多麻布《シカシカトノリタマフ》、問曰は云々登問《シカシカトトフ》、などとも訓べし、左右《カニカク》に其處の勢(ヒ)によるべきなり、

〇凡て詔(ハク)云々、曰(ク)云々、白(サク)云々などある文を訓(ム)には、先(ヅ)初(メ)に詔《ノリタマハク》曰《イハク》白《マヲサク》とよみて、その云々《シカシカ》の語の終(リ)に、又ふたゝび、登能理多麻布《トノリタマフ》、登伊幣理《トイヘリ》、登麻袁須《トマヲス》、などと云(フ)辭を訓附《ヨミツク》るぞ古語の格《サダマリ》なる、古書は皆|漢文格《カラブミザマ》に書る故に、終(リ)には其(ノ)字を置《オカ》ざれども、古語のまゝに書る物には、皆此(ノ)辭あり、記中には、詔云《ノリタマハク》、豐葦原之水穂國者《トヨアシハラノミヅホノクニハ》、云々有祁理告而《シカシカアリケリトノリタマヒテ》、また詔云《ノリタマハク》、此地者云 々甚吉地詔而《シカシカアリテイトヨキトコロトノリタマヒテ》なども書り、【他《ホカ》も凡てこれらの格に傚《ナラヒ》て訓べきことしるし、】出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀詞に、乃大穴持命乃申給久《スナハチオホナモチノミコトノマヲシタマハク》、云々申天《シカシカトマヲシテ》、また續紀宣命に、云天在良久《イヒテアラク》、云々云利《シカシカトイヘリ》、また遷却祟神祝詞に、諸神等皆量申久《カミタチミナハカリマヲサク》、天穂日之命乎遣而《アメノホヒノミコトヲツカハシテ》、平氣武止申支《コトムケムトマヲシキ》、また謀家良久《ハカリケラク》、云々等謀家利《シカシカトハカリケリ》、また是東人波常爾云久《コノアブマビトハツネニイハク》、云々止云天《シカシカトイヒテ》などあり、歌にも萬葉九に、吾妹兒爾《ワギモコニ》、告而語久《ノリテカタラク》、云々登《シカシカト》、言家禮婆《イヒケレバ》、十三に、里人之《サトビトノ》、吾丹告樂《アレニツグラク》、云々登《シカシカト》、人曾告鶴《ヒトゾツゲツル》、十七に、乎登賣良我《ヲトメラガ》、伊米爾都具良久《イメニツグラク》、云々等曾《シカシカトゾ》、伊米爾都氣都流《イメニツゲツル》など、此(ノ)外にもなはおほく見えて、みな如是《カクノゴト》き例なり、古語のみならず、中古《ナカムカシ》の文もみな同じ、【古今集に、親王《ミコ》の云(ヒ)けらく、狩《カリ》して天(ノ)川原に至る、といふ心をよみて、盃はさせと云(ヒ)ければ、土左日記に、かぢとりの云(フ)やう、黒き鳥のもとに、白き波《ナミ》をよすとぞ云(フ)、源氏物語(ノ)玉葛(ノ)卷に、此(ノ)男《ヲノコ》どもを召取《ヨビトリ》て、かたらふことは、おもふさまになりなば、同じ心に、いきほひをかはすべきこと、などかたらふになどあり、なほおほかり、】必(ズ)訓添《ヨミソフ》べき辭なり、【今文章をかゝむにも、必(ズ)此(ノ)格を違《ダガ》ふまじきなり、然るを今(ノ)世(ノ)人の心には、首《ハジメ》に既に置たる辭を、又終(リ)にも二たび云(ハ)むは、同言の重なりて、煩《ワヅラ》はしく、拙《ツタナ》きぞと思ひて、終(リ)なるをば略《ハブ》きて、たゞ登《ト》とのみ訓結《ヨミトヂ》むめり、其《ソ》は中々に近(キ)世の、からぶみよみのさかしらにて、ひがことなり、漢籍も古き訓點の本には、皆トイヘリなどと訓(ミ)附(ケ)たるをや、たゞ登《ト》とのみ云(ヒ)とぢめたるは、古今集に、此(ノ)歌は、或人の云(ハ)く、柿(ノ)本(ノ)人まろがなりと、又ならのみかどの御歌なりと、これら一(ツ)二(ツ)のみなり、抑これらは、歌の左(ノ)注にて、其(ノ)下に語なければ、なほ聞《キキ》ぐるしくもあらぬを、其(ノ)下になは語のある處を、登《ト》とのみ云(ヒ)ては、上も下もとゝのはぬ語となるぞかし、是《コ》は凡て今(ノ)世(ノ)人は、さかしら心にて、誤る事なる故に、くだ/\しけれど、かく委曲《ツバラカ》に辨へ云なり、】


     直毘靈《ナホビノミタマ》【此篇《コノクダリ》は、道といふことの論ひなり、】

 

皇大御國《スメラオホミクニ》は、掛《カケ》まくも可畏《カシコ》き神御祖天照大御神《カムミオヤアマテラスオホミカミ》の、御生坐《ミアレマセ》る大御國《オホミクニ》にして、

  萬(ノ)國に勝《スグ》れたる所由《ユヱ》は、先(ヅ)こゝにいちじるし、國といふ國に、此(ノ)大御神の大御徳《オホミメグミ》かゞふらぬ國なし、  

大御神、大御手《オホミテ》に天《アマ》つ璽《シルシ》を捧持《ササゲモタ》して、

  御代御代に御《ミ》しるしと傳《ツタ》はり來《キ》つる、三種《ミクサ》の神寶《カムダカラ》は是ぞ、

萬千秋《ヨロヅチアキ》の長秋《ナガアキ》に、吾御子《アガミコ》のしろしめさむ國なりと、ことよさし賜《タマ》へりしまに/\、

  天津日嗣高御座《アマツヒツギタカミクラ》の、天地の共《ムタ》動《ウゴ》かぬことは、既《ハヤ》くこゝに定まりつ、

天雲《アマグモ》のむかぶすかぎり、谷蟆《タニグク》のさわたるきはみ、皇御孫《スメミマノ》命の大御食國《オホミヲスクニ》とさだまりて、天下《アメノシタ》にはあらぶる神もなく、まつろはぬ人もなく、

  いく萬代を經《フ》とも、誰《タレ》しの奴《ヤツコ》か、大皇《オホキミ》に背《ソム》き奉《マツラ》む、あなかしこ、御代御代の間《アヒダ》に、たま/\も不伏惡穢奴《マツロハヌキタナキヤツコ》もあれば、神代の古事《フルコト》のまに/\、大御稜威《オホミイツ》をかゞやかして、たちまちにうち滅《ホロボ》し給ふ物ぞ、

千萬御世《チヨロヅミヨ》の御末《ミスエ》の御代まで、天皇命《スメラミコト》はしも、大御神の御子《ミコ》とまし/\て、

  御世御世の天皇《スメラギ》は、すなはち天照大御神の御子になも大坐《オホマシ》ます、故《カレ》天《アマ》つ神の御子とも、日の御子ともまをせり、天《アマ》つ神の御心を大御心として、

  何《ナニ》わざも、己《オノレ》命《ミコト》の御心もてさかしだち賜はずて、たゞ神代の古事《フルコト》のまゝに、おこなひたまひ治《ヲサ》め賜ひて、疑《ウタガ》ひおもほす事しあるをりは、御卜事《ミウラゴト》もて、天(ツ)神の御心を問《トハ》して物し給ふ、

神代も今もへだてなく、

  たゞ天津日嗣《アマツヒツギ》の然《シカ》ましますのみならず、臣連八十伴緒《オミムラジヤソトモノヲ》にいたるまで、氏《ウヂ》かばねを重《オモ》みして、子孫《ウミノコ》の八十續《ヤソツヅキ》、その家々《イヘイヘ》の職業《ワザ》をうけつがひつゝ、祖神《オヤガミ》たちに異《コト》ならず、只《タダ》一世《ヒトヨ》の如くにして、神代のまゝに奉仕《ツカヘマツ》れり、

神《カム》ながら安國《ヤスクニ》と、平《タヒラ》けく所知看《シロシメ》しける大御國になもありければ、

  書紀の難波長柄朝廷御卷《ナニハノナガラノミカドノミマキ》に、惟神者《カムナガラトハ》、《イフ》2隨神道亦自有神道《カミノミチニシタガヒタマヒテオノヅカラカミノミチアルヲ》1也とあるを、よく思ふべし、神(ノ)道に隨《シタガ》ふとは、天(ノ)下|治《ヲサ》め賜ふ御しわざは、たゞ神代より有(リ)こしまに/\物し賜ひて、いさゝかもさかしらを加《クハ》へ給ふことなきをいふ、さてしか神代のまに/\、大《オホ》らかに所知看《シロシメ》せば、おのづから神の道はたらひて、他《ホカ》にもとむべきことなきを、自《オノヅカラ》有(リ)2神(ノ)道1とはいふなりけり、かれ現御神《アキツミカミ》と大八洲國《オホヤシマクニ》しろしめすと申すも、其(ノ)御世々々の天皇の御政《ミヲサメ》、やがて神の御政《ミヲサメ》なる意なり、萬葉集の歌などに、神隨云々《カムナガラシカシカ》とあるも、同じこゝろぞ、神國《カミグニ》と韓人《カラビト》の申せりしも、諾《ウベ》にぞ有(リ)ける、

古(ヘ)の大御世《オホミヨ》には、道《ミチ》といふ言擧《コトアゲ》もさらになかりき、

  故(レ)古語《フルコト》に、あしはらの水穂《ミヅホ》の國は、神《カム》ながら言擧《コトアゲ》せぬ國といへり、

其《ソ》はたゞ物にゆく道こそ有(リ)けれ、

  美知《ミチ》とは、此記に味御路《ウマシミチ》と書る如く、山路《ヤマヂ》野路《ヌヂ》などの路《チ》に、御《ミ》てふ言を添《ソヘ》たるにて、たゞ物にゆく路ぞ、これをおきては、上(ツ)代に、道といふものはなかりしぞかし、

物のことわりあるべきすべ、萬《ヨロヅ》の教《ヲシ》へごとをしも、何《ナニ》の道くれの道といふことは、異國《アダシクニ》のさだなり、

  異國《アダシクニ》は、天照大御神の御國にあらざるが故に、定《サダ》まれる主《キミ》なくして、狹蠅《サバヘ》なす神ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし取《トリ》つれば、賤しき奴《ヤツコ》も、たちまちに君ともなれば、上《カミ》とある人は、下なる人に奪《ウバ》はれじとかまへ、下なるは、上《カミ》のひまをうかゞひて、うばゝむとはかりて、かたみに仇《アタ》みつゝ、古(ヘ)より國|治《ヲサ》まりがたくなも有(リ)ける、其《ソ》が中に、威力《イキホヒ》あり智《サト》り深くて、人をなつけ、人の國を奪《ウバ》ひ取て、又人にうばゝるまじき事量《コトバカリ》をよくして、しばし國をよく治めて、後の法《ノリ》ともなしたる人を、もろこしには聖人とぞ云なる、たとへば、亂《ミダ》たる世には、戰《タタカヒ》にならふゆゑに、おのづから名將《ヨキイクサノキミ》おほくいでくるが如く、國の風俗《ナラハシ》あしくして、治まりがたきを、あながちに治めむとするから、世々にそのすべをさま/”\思ひめぐらし、爲《シ》ならひたるゆゑに、しかかしこき人どももいできつるなりけり、然るをこの聖人といふものは、神のごとよにすぐれて、おのづからに奇《クス》しき徳《イキホヒ》あるものと思ふは、ひがことなり、さて其(ノ)聖人どもの作りかまへて、定めおきつることをなも、道とはいふなる、かゝれば、からくににして道といふ物も、其(ノ)旨《ムネ》をきはむれば、たゞ人の國をうばはむがためと、人に奪《ウバ》はるまじきかまへとの、二(ツ)にはすぎずなもある、そも/\人の國を奪ひ取(ラ)むとはかるには、よろづに心をくだき、身をくるしめつゝ、善《ヨキ》ことのかぎりをして、諸人《モロビト》をなつけたる故に、聖人はまことに善人《ヨキヒト》めきて聞え、又そのつくりおきつる道のさまも、うるはしくよろづにたらひて、めでたくは見ゆめれども、まづ己《オノレ》からその道に背《ソム》きて、君をほろぼし、國をうばへるものにしあれば、みないつはりにて、まことはよき人にあらず、いともく惡《アシ》き人なりけり、もとよりしか穢惡《キタナ》き心もて作りて、人をあざむく道なるけにや、後(ノ)人も、うはべこそたふとみしたがひがほにもてなすめれど、まことには一人も守《マモ》りつとむる人なければ、國のたすけとなることもなく、其(ノ)名のみひろごりて、つひに世に行《オコナ》はるゝことなくて、聖人の道は、たゞいたづらに、人をそしる世々の儒者《ズサ》どもの、さへづりぐさとぞなれりける、然るに儒者の、たゞ六經などいふ書をのみとらへて、彼(ノ)國をしも、道|正《タダ》しき國ぞと、いひのゝしるは、いたくたがへることなり、かく道といふことを作りて正《タダ》すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かへりてたけきことに思ひいふこそをこなれ、そも後(ノ)人、此(ノ)道のまゝに行なはばこそあらめ、さる人は、よゝに一人だに有(リ)がたきことは、かの國の世々の史《フミ》どもを見てもしるき物をや、さて其道といふ物のさまは、いかなるぞといへば、仁義禮讓孝悌忠信などいふ、こちたき名どもを、くさ/”\作り設《マケ》て、人をきびしく教へおもむけむとぞすなる、さるは後(ノ)世の法律を、先王の道にそむけりとて、儒者はそしれども、先王の道も、古(ヘ)の法律なるものをや、また易《ヤク》などいふ物をさへ作りて、いともこゝろふかげにいひなして、天地の理《コトワリ》をきはめつくしたりと思ふよ、これはた世人をなつけ治めむための、たばかり事ぞ、そも/\天地のことわりはしも、すべて神の御所為《ミシワザ》にして、いとも/\妙《タヘ》に奇《クス》しく、靈《アヤ》しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智《サト》りもては、測《ハカ》りがたきわざなるを、いかでかよくきはめつくして知ることのあらむ、然るに聖人のいへる言をば、何《ナニ》ごともたゞ理《コトワリ》の至極《キハミ》と、信《ウケ》たふとみをるこそいと愚《オロカ》なれ、かくてその聖人どものしわざにならひて、後々《ノチノチ》の人どもも、よろづのことを、己《オノ》がさとりもておしはかりごとするぞ、彼(ノ)國のくせなる、大御国の物學びせむ人、是《ココ》をよく心得をりて、ゆめから人の説《コト》になまどはされそ、すべて彼(ノ)國は、事|毎《ゴト》にあまりこまかに心を着《ツケ》て、かにかくに論《アゲツラ》ひさだむる故に、なべて人の心さかしだち惡《ワロ》くなりて、中々に事をしゝこらかしつゝ、いよゝ國は治まりがたくのみなりゆくめり、されば聖人の道は、國を治めむために作りて、かへりて國を亂《ミダ》すたねともなる物ぞ、すべて何《ナニ》わざも、大《オイ》らかにして事|足《タリ》ぬることは、さてあるこそよけれ、故《カレ》皇国の古(ヘ)は、さる言痛《コチタ》き教(ヘ)も何《ナニ》もなかりしかど、下が下までみだるゝことなく、天(ノ)下は穩《オダヒ》に治まりて、天津日嗣いや遠長《トホナガ》に傳はり来坐《キマセ》り、さればかの異國の名にならひていはぱ、是(レ)ぞ上《ウヘ》もなき優《スグレ》たる大《オホ》き道にして、實《マコト》は道あるが故に道てふ言《コト》なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり、そをこと/”\しくいひあぐると、然らぬとのけぢめを思へ、言擧《コトアゲ》せずとは、あだし國のごと、こちたく言《イヒ》たつることなきを云なり、譬《タトヘ》ば才《ザエ》も何《ナニ》も、すぐれたる人は、いひたてぬを、なまなまのわろものぞ、返りていさゝかの事をも、こと/”\しく言《イヒ》あげつゝほこるめる如く、漢國《カラクニ》などは、道ともしきゆゑに、かへりて道々《ミチミチ》しきことをのみ云(ヒ)あへるなり、儒者《ズサ》はこゝをえしらで、皇國をしも、道なしとかろしむるよ、儒者のえしらぬは、萬(ヅ)に漢《カラ》を尊《タフト》き物に思へる心は、なほさも有(リ)なむを、此方《ココ》の物知(リ)人さへに、是(レ)をえさとらずて、かの道てふことある漢國をうらやみて、強《シヒ》てこゝにも道ありと、あらぬことどもをいひつゝ爭《アラソ》ふは、たとへば、猿《サル》どもの人を見て、毛《ケ》なきぞとわらふを、人の恥《ハヂ》て、おのれも毛《ケ》はある物をといひて、こまかなるをしひて求出《モトメイデ》て見せて、あらそふが如し、毛《ケ》は無《ナ》きが貴きをえしらぬ、癡人《シレモノ》のしわざにあらずや、然るをやゝ降《クダ》りて、書籍《フミ》といふ物|渡參來《ワタリマヰキ》て、其《ソ》を學《マナ》びよむ事|始《ハジ》まりて後《ノチ》、其(ノ)國のてぶりをならひて、やゝ萬(ヅ)のうへにまじへ用ひらるゝ御代になりてぞ、大御國の古(ヘ)の大御《オホミ》てぶりをば、取別《トリワケ》て神道《カミノミチ》とはなづけられたりける、そはかの外國《トツクニ》の道々《ミチミチ》にまがふがゆゑに、神《カミ》といひ、又かの名を借《カ》りて、こゝにも道《ミチ》とはいふなりけり、

  神の道としもいふ所由《ユヱ》は、下につばらかにとく、

しかありて御代々々を經《フ》るまゝに、いやます/\に、その漢《カラ》國のてぶりをしたひまねぶこと、盛《サカリ》になりもてゆきつつ、つひに天の下|所知看《シロシメ》す大御政《オホミワザ》も、もはら漢樣《カラザマ》に爲《ナリ》はてて、

  難波の長柄《ナガラノ》宮、淡海《アフミ》の大津(ノ)宮のほどに至りて、天の下の御制度《ミサダメ》も、みな漢《カラ》になりき、かくて後は、古(ヘ)の御《ミ》てぶりは、たゞ神事《カムワザ》にのみ用ひ賜へり、故(レ)後(ノ)代までも、神事《カムワザ》にのみは、皇國のてぶりの、なほのこれることおほきぞかし、

青人草《アヲヒトクサ》の心までぞ、其(ノ)意にうつりにける、

  天皇尊《スメラミコト》の大御心を心とせずして、己々《オノオノ》がさかしらごゝろを心とするは、漢意《カラゴコロ》の移《ウツ》れるなり、

さてこそ安《ヤス》けく平《タヒラ》けくて有來《アリコ》し御國の、みだりがはしきこといできつゝ、異國《アダシクニ》にやゝ似《ニ》たることも、後にはまじりきにけれ、

  いともめでたき大御國の道をおきながら、他国《ヒトグニ》のさかしく言痛《コチタ》き意行《ココロシワザ》を、よきこととして、ならひまねべるから、直《ナホ》く清《キヨ》かりし心も行《オコナ》ひも、みな穢惡《キタナ》くまがりゆきて、後つひには、かの他國《ヒトグニ》のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし、さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物ぞと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、もと聖人の道の蔽《ツミ》なることを、えさとらぬなり、古(ヘ)の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ、

そも/\此(ノ)天地《アメツチ》のあひだに、有(リ)とある事は、悉皆《コトゴト》に神の御心なる中に、凡て此(ノ)世(ノ)中の事は、春秋のゆきかはり、雨ふり風ふくたぐひ、又國のうへ人のうへの、吉凶《ヨキアシ》き萬(ノ)事、みなことごとに神の御所為《ミシワザ》なり、さて神には、善《ヨキ》もあり惡《アシ》きも有(リ)て、所行《シワザ》もそれにしたがふなれば、大かた尋常《ヨノツネ》のことわりを以ては、測《ハカ》りがたきわざなりかし、然るを世(ノ)人、かしこきもおろかなるもおしなべて、外国《トツクニ》の道々の説《コト》にのみ惑《マド》ひはてて、此(ノ)意をえしらず、皇國の學問《モノマナビ》する人などは、古書《イニシヘノフミ》を見て、必(ズ)知(ル)べきわざなるを、さる人どもだに、えわきまへ知(ラ)ざるは、いかにぞや、抑|吉凶《ヨキアシ》き萬(ヅ)の事を、あだし國にて、佛の道には因果とし、漢《カラ》の道々には天命といひて、天のなすわざと思へり、これらみなひがことなり、そが中に佛(ノ)道(ノ)説《コト》は、多く世の學者《モノマナブヒト》の、よく辨《ワキマ》へつることなれば、今いはず、漢國《カラクニ》の天命の説《コト》は、かしこき人もみな惑《マド》ひて、いまだひがことなることをさとれる人なければ、今これを論《アゲツラ》ひさとさむ、抑天命といふことは、彼(ノ)國にて古(ヘ)に、君を滅《ホロボ》し國を奪《ウバ》ひし聖人の、己《オノ》が罪をのがれむために、かまへ出《イデ》たる託言《コトツケゴト》なり、まことには、天地は心ある物にあらざれば、命《メイ》あるべくもあらず、もしまことに天に心あり、理《コトワリ》もありて、善人《ヨキヒト》に國を與《アタ》へて、よく治めしめむとならば、周の代のはてかたにも、必(ズ)又聖人は出ぬべきを、さもあらざりしはいかにぞ、もし周公孔子にして、既《スデ》に道は備《ソナハ》れる故に、其後は聖人を出(ダ)さずといはむも、又心得ず、かの孔丘が後、其(ノ)道あまねく世に行はれて、國よく治まりたらむにこそ、さもいはめ、其後しもいよゝ其(ノ)道すたれはてて、徒言《イタヅラゴト》となり、國もます/\みだれつる物を、今はたれりとして、聖人をも出(ダ)さず、國の厄《マガ》をもかへりみず、つひに秦(ノ)始皇がごと荒《アラ》ぶる人にしも與《アタ》へて、人草《ヒトクサ》を苦《クル》しめしは、いかなる天のひがこゝろぞ、いと/\いふかし、始皇などは、天のあたへしに非る故に、久しくはえたもたず、ともいひ枉《マグ》べけれど、そも暫《シバラク》にても、さる惡人《アシキヒト》にあたふべき理あらめやも、又國をしる君のうへに、天命のあらば、下なる諸人《モロビト》のうへにも、善惡《ヨキアシ》きしるしを見せて、善《ヨキ》人はながく福《サカ》え、惡《アシキ》人は速《スミヤ》けく禍《マガ》るべき理なるを、さはあらずて、よき人も凶《アシ》く、あしき人も吉《ヨ》きたぐひ、昔《ムカシ》も今も多かるはいかに、もしまことに天のしわざならましかば、さるひがことはあらましや、さて後(ノ)世になりては、やうやく人心さかしきゆゑに、國を奪ひて天命ぞといふをば、世(ノ)人の諾《ウベ》なはねば、うはべは禅《ユヅ》らせて取《トル》こともあるをば、よからぬことにいふめれど、かの古(ヘ)の聖人どもも、實(マコト)は是に異《コト》ならぬ物をや、後(ノ)世の王の天命ぞといふをば、信《ウケ》ぬものの、古(ヘ)人の天命をば、まことと心得をるは、いかなるまどひぞも、古(ヘ)は天命ありて、後にはなきこそをかしけれ、或人、舜は堯が國をうばひ、禹も又舜が國を奪へりしなりといへるも、さも有(ル)べきことぞ、後(ノ)世の王莽曹操がたぐひも、うはべはゆづりを受《ウケ》て嗣《ツギ》つれども、實《マコト》は簒《ウバ》へるを以て思へば、舜禹などもさぞありけむを、上(ツ)代は朴《スナホ》にして、禅《ユヅ》れりと云(ヒ)なせるを、まことと心得て、國内《クヌチ》の人ども、みなあざむかれにけらし、かの莽操がころは、世(ノ)人さかしくて、あざむかれざりし故に、惡《アシ》きしわざのあらはれけむ、かれらが如くなる輩《トモガラ》も、上(ツ)代ならましかば、あはれ聖人と仰《アフ》がれなましものを、

禍津日《マガツビノ》神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲《カナ》しきわざにぞありける、

  世間《ヨノナカ》に、物あしくそこなひなど、凡て何事《ナニゴト》も、正しき理(リ)のまゝにはえあらずて、邪《ヨコサマ》なることも多かるは、皆此(ノ)神の御心にして、甚《イタ》く荒《アラ》び坐《マス》時は、天照大御神高木(ノ)大神の大御力にも、制《トド》みかね賜ふをりもあれば、まして人の力には、いかにともせむすべなし、かの善《ヨキ》人も禍《マガ》り、惡《アシキ》人も福《サカ》ゆるたぐひ、尋常《ヨノツネ》の理(リ)にさかへる事の多かるも、皆此(ノ)神の所為《シワザ》なるを、外國には、神代の正しき傳説《ツタヘゴト》なくして、此(ノ)所由《ヨシ》をえしらざるが故に、たゞ天命の説を立(テ)て、何事《ナニゴト》もみな、當然理《シカルベキコトワリ》を以て定めむとするこそ、いとをこなれ、然《シカ》れども、天照大御神|高天原《タカマノハラ》に大坐々《オホマシマシ》て、大御光《オホミヒカリ》はいさゝかも曇りまさず、此(ノ)世を御照《ミテラ》しまし/\、天津御璽《アマツミシルシ》はた、はふれまさず傳《ツタ》はり坐《マシ》て、事依《コトヨサ》し賜ひしまに/\、天の下は御孫命《ミマノミコト》の所知食《シロシメシ》て、

  異國《アダシクニ》は、本より主の定まれるがなければ、たゞ人《ビト》もたちまち王になり、王もたちまちたゞ人にもなり、亡《ホロ》びうせもする、古(ヘ)よりの風俗《ナラハシ》なり、さて國を取(ラ)むと謀《ハカ》りて、えとらざる者《モノ》をば、賊といひて賤《イヤ》しめにくみ、取(リ)得たる者をば、聖人といひて尊《タフト》み仰《アフ》ぐめり、さればいはゆる聖人も、たゞ賊の爲《シ》とげたる者にぞ有(リ)ける、掛《カケ》まくも可畏《カシコ》きや吾《アガ》天皇尊《スメラミコト》はしも、然《サ》るいやしき國々の王どもと、等《ヒトシ》なみには坐まさず、此(ノ)御國を生成《ウミナシ》たまへりし神祖《カムロギノ》命の、御みづから授《サヅケ》賜へる皇統《アマツヒツギ》にまし/\て、天地の始(メ)より、大御|食國《ヲスクニ》と定まりたる天(ノ)下にして、大御神の大命《オホミコト》にも、天皇|惡《アシ》く坐(シ)まさば、莫《ナ》まつろひそとは詔《ノリ》たまはずあれば、善《ヨ》く坐(サ)むも惡《アシ》く坐(サ)むも、側《カタハラ》よりうかゞひはかり奉ることあたはず、天地のあるきはみ、月日の照《テラ》す限(リ)は、いく萬代を經《ヘ》ても、動《ウゴ》き坐(サ)ぬ大君に坐(セ)り、故(レ)古語《フルコト》にも、當代《ソノヨ》の天皇をしも神と申して、實《マコト》に神にし坐(シ)ませば、善惡《ヨキアシ》き御うへの論《アゲツラ》ひをすてて、ひたぶるに畏《カシコ》み敬《ヰヤマ》ひ奉仕《マツロフ》ぞ、まことの道には有(リ)ける、然るを中ごろの世のみだれに、此(ノ)道に背《ソム》きて、畏《カシコ》くも大朝廷《オホキミカド》に射向《イムカ》ひて、天皇尊《スメラミコト》をなやまし奉れりし、北條(ノ)義時泰時、又足利(ノ)尊氏などが如きは、あなかしこ、天照日(ノ)大御神の大御蔭《オホミカゲ》をもおもひはからざる、穢惡《キタナ》き賊奴《ヤツコ》どもなりけるに、禍津日《マガツビノ》神の心はあやしき物にて、世(ノ)人のなびき從ひて、子孫《ウミノコ》の末まで、しばらく榮《サカ》え居《ヲリ》しことよ、抑此(ノ)世を御照し坐(シ)ます天津日(ノ)神をば、必(ズ)たふとみ奉るべきことをしれども、天皇を必(ズ)畏《カシ》こみ奉るべきことをば、しらぬ奴《ヤツコ》もよにありけるは、漢籍意《カラブミゴコロ》にまどひて、彼(ノ)國のみだりなる風俗《ナラハシ》を、かしこきことにおもひて、正しき皇國の道をえしらず、今世を照しまします天津日(ノ)神、即(チ)天照大御所にましますことを信《ウケ》ず、今の天皇、すなはち天照大御神の御子に坐(シ)ますことを忘《ワス》れたるにこそ、

天津日嗣《アマツヒツギ》の高御座《タカミクラ》は、

  天皇の御統《ミツイデ》を日嗣《ヒツギ》と申すは、日(ノ)神の御心を御心として、其(ノ)御業《ミシワザ》を嗣《ツギ》坐(ス)が故なり、又その御座《ミクラ》を高御座と申すは、唯に高き由のみにあらず、日(ノ)神の御座なるが故なり、日には、高照《タカヒカル》とも高日《タカヒ》とも日高《ヒダカ》とも申す古語《フルコト》のあるを思へ、さて日(ノ)神の御座を、次々《ツギツギ》に受(ケ)傳へ坐て、其(ノ)御座に大坐《オホマシ》ます天皇命にませば、日(ノ)神に等《ヒトシ》く坐(ス)こと決《ウツナ》し、かゝれば、天津日(ノ)神のおほみうつくしみを蒙《カガフ》らむ者は、誰《タレ》しか天皇命には、可畏《カシコ》み敬《ヰヤ》び尊《タフト》みて、奉仕《ツカヘマツ》らざらむ、

あめつちのむた、ときはにかきはに動《ウゴ》く世なきぞ、此(ノ)道の靈《アヤシ》く奇《クスシ》く、異國《アダシクニ》の萬(ヅ)の道にすぐれて、正《タダ》しき高《タカ》き貴《タフト》き徴《シルシ》なりける、漢國などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、もとよりみだりなるが、世々にます/\亂れみだれて、終《ツヒ》には傍《カタヘ》の國(ノ)人に、國はこと/”\くうばゝれはてぬ、其《ソ》は夷狄といひて卑《イヤシ》めつゝ、人のごともおもへらざりしものなれども、いきほひつよくして、うばひ取(リ)つれば、せむすべなく天子といひて、仰《アフ》ぎ居《ヲ》るなるは、いとも/\あさましきありさまならずや、かくても儒者《ズサ》はなほよき國とやおもふらむ、王のみならず、おほかた貴《タフト》きいやしき統《スヂ》さだまらず、周といひし代までは、封建の制《サダメ》とかいひて、此(ノ)別《ワキ》ありしがごとくなれ莊ど、それも王の統《スヂ》かはれば、下までも共にかはりつれば、まことは別《ワキ》なし、秦よりこなたは、いよゝ此(ノ)道たゝず、みだりにして、賤《イヤシ》き奴《ヤツコ》の女《ムスメ》も、君の寵《メデ》のまに/\、忽《タチマチ》に后《キサキ》の位にのぽり、王の女《ムスメ》をも、すぢなき男《ヲノコ》にあはせて、恥《ハヂ》ともおもへらず、又|昨日《キノフ》まで山賤《ヤマガツ》なりし者も、今日《ケフ》はにはかに、國の政とる高官《タカキツカサ》にもなり登《ノボ》るたぐひ、凡て貴賤《タカキイヤシ》き品さだまらず、鳥獣《トリケモノ》のありさまに異《コト》ならずなもありける、

そも此(ノ)道は、いかなる道ぞと尋《タヅ》ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、

  是《コ》をよく辨別《ワキマヘ》て、かの漢國《カラクニ》の老莊などが見《ココロ》と、ひとつにな思ひまがへそ、

人の作れる道にもあらず、此(ノ)道はしも、可畏《カシコ》きや高御産巣日《タカミムスビノ》神の御靈《ミタマ》によりて、

  世(ノ)中にあらゆる事も物も、皆《ミナ》悉《コトゴト》に此(ノ)大神のみたまより成れり、

神祖伊邪那岐《カムロギイザナギノ》大神|伊邪那美《イザナミノ》大神の始めたまひて、

  よのなかにあらゆる事も物も、此(ノ)二柱(ノ)大神よりはじまれり、

天照大御神の受《ウケ》たまひたもちたまひ、傳へ賜ふ道なり、故《カレ》是以《ココヲモテ》神の道とは申すぞかし、

  神(ノ)道と申す名は、書紀の石村池邊《イハレノイケノベノ》宮の御卷に、始めて見えたり、されど其《ソ》は只、神をいつき祭りたまふことをさして云るなり、さて難波(ノ)長柄(ノ)宮の御卷に、惟神者《カムナガラトハ》、謂d隨《シタガヒタマヒテ》2神(ノ)道(ニ)1亦|自《オ》有(ルヲ)c神(ノ)道u也とあるぞ、まさしく皇國の道を廣くさしていへる始(メ)なりける、さて其由は、上に引ていへるが如くなれは、其(ノ)道といひて、ことなる行《オフナ》ひのあるにあらず、さればたゞ神をいつき祭りたまふことをいはむも、いひもてゆけば一(ツ)むねにあたれり、然るを、からぶみに、聖人設(ケテ)2神道(ヲ)1、といふ言あるを取て、此方《ココ》にも名《ナヅ》けたりなどいふめるは、ことのこゝろしらぬみだり言《ゴト》なり、其故は、まづ神とさすもの、此《ココ》と彼《カシコ》と姶(メ)より同じからず、かの國にしては、いはゆる天地陰陽の、不測《ハカリガタ》く靈《アヤシ》きをさしていふめれば、たゞ空《ムナシ》き理(リ)のみにして、たしかに其物あるにあらず、さて皇國の神は、今の現《ヲツツ》に御宇《アメノシタシロシメス》天皇の皇祖《ミオヤ》に坐(シ)て、さらにかの空《ムナシ》き理(リ)をいふ類にはあらず、さればかの漢籍《カラブミ》なる神道は、不測《ハカリガタ》くあやしき道といふこゝろ、皇國の神(ノ)道は、皇祖《ミオヤノ》神の、始め賜ひたもち賜ふ道といふことにて、其意いたく異《コト》なるをや、さて其道の意は、此(ノ)記《フミ》をはじめ、もろ/\の古書《イニシヘブミ》どもをよく味《アヂハ》ひみれば、今もいとよくしらるゝを、世々のものしりびとどもの心も、みな禍津日(ノ)神にまじこりて、たゞからぶみにのみ惑《マド》ひて、思ひとおもひいひといふことは、みな佛《ホトケ》と漢《カラ》との意《ココロ》にして、まことの道のこゝろをば、えさとらずなもある、

  古(ヘ)は道といふ言擧《コトアゲ》なかりし故に、古書どもに、つゆばかりも道々《ミチミチ》しき意《ココロ》も語《コトバ》も見えず、故《カレ》舍人親王《トネノミコ》を始め奉(リ)て、世々の識者《モノシリビト》ども、道の意をえとらへず、たゞかの道々《ミチミチ》しきことこちたく云る、から書《ブミ》の説《コト》のみ、心の底《ソコ》にしみ着《ツキ》て、其《ソ》を天地のおのづからなる理(リ)と思(ヒ)居《ヲ》る故に、すがるとは思はねども、おのづからそれにまつはれて、彼方《カナタ》へのみ流れゆくめり、されば異國《アダシクニ》の道を、道の羽翼《タスケ》となるべき物と思ふも、即(チ)其(ノ)心のかしこへ奪《ウバ》はれつるなりけり、大かた漢國の説《コト》は、かの陰陽乾坤などをはじめ諸《モロモロ》皆、もと聖人どもの己《オノ》が智《サトリ》をもて、おしはかりに作りかまへたる物なれば、うち聞(ク)には、ことわり深《フカ》げにきこゆめれども、彼《カレ》が垣内《カキツ》を離《ハナ》れて、外よりよく見れば、何《ナニ》ばかりのこともなく、中々に淺《アサ》はかなることどもなりかし、されど昔《ムカシ》も今も世(ノ)人の、此(ノ)垣内《カキツ》に迷入《マヨヒイリ》て、得出離《エイデハナ》れぬこそくちをしけれ、大御國の説《コト》は、神代より傳へ來《コ》しまゝにして、いさゝかも人のさかしらを加《クハ》へざる故に、うはべはたゞ淺々《アサアサ》と聞ゆれども、實《マコト》にはそこひもなく、人の智《サトリ》の得測度《エハカラ》ぬ、深き妙《タヘ》なる理のこもれるを、其(ノ)意をえしらぬは、かの漢國書《カラクニブミ》の垣内《カキツ》にまよひ居《ヲ》る故なり、此《コ》をいではなれざらむはどは、たとひ百年《モモトセ》千年《チトセ》の力《チカラ》をつくして、物《モノ》學《マナ》ぶとも、道のためには、何《ナニ》の益《シルシ》もなきいたづらわざならんかし、但し古(キ)書は、みな漢文《カラブミ》にうつして書(キ)たれば、彼(ノ)國のことも、一(ト)わたりは知(リ)てあるべく、文字《モジ》のことなどしらむためには、漢籍《カラブミ》をも、いとまあらば學びつべし、皇國魂《ミクニダマシヒ》の定まりて、たゞよはぬうへにては、害《サマタゲ》はなきものぞ、

故《カレ》おのが身々《ミミ》に受行《ウケオコナ》ふべき神(ノ)道の教(ヘ)などいひて、くさ/”\ものすなるも、みなかの道々のをしへごとをうらやみて、近き世にかまへ出(デ)たるわたくしごとなり、

  こと/”\しく秘説《ヒメコト》など云て、人えりして密《ヒソカ》に傳ふる類《タグヒ》など、皆後(ノ)世に僞造《イツハリツク》れることぞ、凡てよきことは、いかにもいかにも世に廣《ヒロ》まるこそよけれ、ひめかくして、あまねく人に知(ラ)せず、己《オノ》が私物《ワタクシモノ》にせむとするは、いとこころぎたなきわざなりかし、

あなかしこ、天皇《オホキミ》の天(ノ)下しろしめす道を、下《シモ》が下《シモ》として、己《オノ》がわたくしの物とせむことよ、

  下なる者《モノ》は、かにもかくにもたゞ上の御おもむけに從《シタガ》ひ居《ヲ》るこそ、道にはかなへれ、たとへ神の道の行《オコナ》ひの、別《コト》にあらむにても、其《ソ》を数へ學びて、別《コト》に行ひたらむは、上にしたがはぬ私(シ)事ならずや、

人はみな、産集日《ムスビノ》神の御靈《ミタマ》によりて、生《ウマ》れつるまに/\、身にあるべきかぎりの行《ワザ》は、おのづから知(リ)てよく為《ス》る物にしあれば、

世中《ヨノナカ》に生《イキ》としいける物、鳥蟲に至るまでも、己《オノ》が身のほど/\に、必(ズ)あるべきかぎりのわざは、産集日《ムスビノ》神のみたまに頼《ヨリ》て、おのづからよく知(リ)てなすものなる中にも、人は殊にすぐれたる物とうまれつれば、又しか勝《スグ》れたるほどにかなひて、知(ル)べきかぎりはしり、すべきかぎりはする物なるに、いかでか其(ノ)上(ヘ)をなほ強《シヒ》ることのあらむ、教(ヘ)によらずては、えしらずえせぬものといはば、人は鳥蟲におとれりとやせむ、いはゆる仁義禮讓孝悌忠信のたぐひ、皆人の必(ズ)あるべきわざなれば、あるべき限(リ)は、教(ヘ)をからざれども、おのづからよく知(リ)てなすことなるに、かの聖人の道は、もと治まりがたき國を、しひてをさめむとして作れる物にて、人の必(ズ)有(ル)べきかぎりを過《スギ》て、なほきびしく教へたてむとせる強事《シヒゴト》なれば、まことの道にかなはず、故《カレ》口《クチ》には人みなこと/”\しく言《イヒ》ながら、まことに然《シカ》行《オコナ》ふ人は、世々にいと有(リ)がたきを、天理のまゝなる道と思ふは、いたくたがへり、又其(ノ)道にそむける心を、人慾といひてにくむも、こゝろえず、そも/\その人慾といふ物は、いづくよりいかなる故にていできつるぞ、それも然るべき理(リ)にてこそは、出來《イデキ》たるべければ、人慾も即(チ)天理ならずや、又|百世《モモツギ》を経《ヘ》ても、同(ジ)姓《ウヂ》どち婚《マグハヒ》することゆるさずといふ制《サダメ》など、かの國にしても、上(ツ)代より然るにはあらず、周の代のさだめなり、かくきびしく定めたる故は、國の俗《ナラハシ》あしくして、親子《オヤコ》同母兄弟《ハラカラ》などの間《アヒダ》にも、みだりなる事のみ常《ツネ》多くて、別《ワキ》なく治まりがたかりし故なれば、かゝる制《サダメ》のきびしきは、かへりて國の恥《ハヂ》なるをや、すべて何《ナニ》の上(ヘ)にも、法《サダメ》の嚴《キビシ》きは、犯《ヲカ》すものの多きがゆゑぞかし、さて其(ノ)制《サダメ》は制《サダメ》と立しかども、まことの道にあらず、人の情《ココロ》にかなはぬことなる故に、したがふ人いと/\まれなり、後々《ノチノチ》はさらにもいはず、はやく周の代のほどにすら、諸侯といふきはの者も、これを破れるが多ければ、ましてつぎ/\はしられたり、姉妹などにさへ※〔(女/女)+干〕《タハ》けし例《アト》もある物をや、然るを儒者《ズサ》どもの、昔よりかく世(ノ)人の守りあへぬことをば忘れて、いたづらなるさだめのみをとらへて、たけきことにいひ思ひ、又皇國をしひて賤《ィヤ》しめむとして、ともすれば、古(ヘ)兄弟まぐはひせしことをいひ出て、鳥獣《トリケモノ》のふるまひぞとそしるを、此方《ココ》の物知人《モノシリビト》たちも、是をばこゝろよからず、御國のあかぬことに思ひて、かにかくにいひまぎらはしつゝ、いまださだかに斷《コトワ》り説《トケ》ることもなきは、かの聖人のさかしらを、かならず當然理《サルベキコトワリ》と思ひなづみて、なほ彼(レ)にへつらふ心あるがゆゑなり、もしへつらふこゝろしなくば、彼(レ)と同じからぬは、なにごとかあらむ、抑皇國の古(ヘ)は、たゞ同母兄弟《ハラカラ》をのみ嫌《キラ》ひて、異母《コトハラ》の兄弟《イモセ》など御合坐《ミアヒマシ》しことは、天皇を始め奉(リ)て、おほかたよのつねにして、今《イマノ》京《ミヤコ》になりてのこなたまでも、すべて忌《イム》ことなかりき、但し貴《タフト》き賤《イヤシ》きへだては、うるはしく有(リ)て、おのづからみだりならざりけり、これぞこの神祖《カムロギ》の定め賜へる、正しき眞《マコト》の道なりける、然るを後(ノ)世には、かのから國のさだめを、いさゝかばかり守るげにて、異母《コトハラ》なるをも兄弟《イモセ》と云て、婚《マグハヒ》せぬことになも定まりぬる、されば今(ノ)世にして、其《ソ》を犯《ヲカ》さむこそ惡《アシ》からめ、古(ヘ)は古(ヘ)の定まりにしあれば、異國《アダシクニ》の制《サダメ》を規《ノリ》として、論《アゲツラ》ふべきことにあらず、

いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として、

天皇の所思看《オモホシメス》御心のまに/\奉仕《ツカヘマツリ》て、己《オノ》が私(シ)心はつゆなかりき、
ひたぶるに大命《オホミコト》をかしこみゐやびまつろひて、おほみうつくしみの御蔭《ミカゲ》にかくろひて、おのも/\祖神《オヤガミ》を齋祭《イツキマツリ》つゝ、
  天皇の、大御皇祖神《オホミオヤガミ》の御前《ミマヘ》を拜祭《イツキマツリ》坐(ス)がごとく、臣連八十件緒《オミムラジヤソトモノヲ》、天(ノ)下の百姓《オホミタカラ》に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の、朝廷《ミカド》のため天(ノ)下のために、天神《アマツカミ》國神《クニツカミ》諸《モロモロ》を」も祭(リ)坐(ス)が如く、下なる人どもも、事にふれては、福《サチ》を求《モト》むと、善《ヨキ》神にこひねぎ、禍《マガ》をのがれむと、惡《アシキ》神をも和《ナゴ》め祭り、又たま/\身に罪穢《ツミケガレ》もあれば、祓清《ハラヒキヨ》むるなど、みな人の情《ココロ》にして、かならず有(ル)べきわざなり、然るを、心だにまことの道にかなひなば、など云めるすぢは、佛の教へ儒の見《ココロ》にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚《イタ》くそむけり、又|異國《アダシクニ》には、神を祭るにも、たゞ理を先《サキ》にして、さま/”\議論《アゲツラヒ》あり、淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり、凡て神は、佛《ホトケ》などいふなる物の趣《オモムキ》とは異《コト》にして、善《ヨキ》神のみにはあらず、惡《アシ》きも有(リ)て、心も所行《シワザ》も、然ある物なれば、惡《アシ》きわざする人も福《サカ》え、善事《ヨキワザ》する人も、禍《マガ》ることある、よのつねなり、されば神は、理(リ)の當不《アタリアタラヌ》をもて、思ひはかるべきものにあらず、たゞその御怒《ミイカリ》を畏《カシコ》みて、ひたぶるにいつきまつるべきなり、されば祭るにも、そのこゝろばへ有(リ)て、いかにも其神の歓喜《ヨロコ》び坐(ス)べきわざをなも爲《ス》べき、そはまづ萬(ヅ)を齋忌清《イミキヨ》まはりて、穢惡《ケガレ》あらせず、堪《タヘ》たる限(リ)美好物《ウマキモノ》多《サハ》に獻《タテマツ》り、或《アル》は琴《コト》ひき笛《フヱ》ふき歌《ウタヒ》※〔にんべん+舞〕《マ》ひなど、おもしろきわざをして祭る、これみな神代の例《アト》にして、古(ヘ)の道なり、然るをたゞ心の至《イタ》り至らぬをのみいひて、獻《タテマツ》る物にもなすわざにもかゝはらぬは、湊意《カラゴコロ》のひがことなり、さて又神を祭るには、何《ナニ》わざよりも先(ヅ)火を重《オモ》く忌清《イミキヨ》むべきこと、神代(ノ)書の黄泉段《ヨミノクダリ》を見て知(ル)べし、是《コ》は神事《カムワザ》のみにもあらず、大かた常にもつゝしむべく、かならずみだりにすまじきわざなり、もし火|穢《ケガ》るゝときは、禍津日(ノ)神ところをえて、荒《アラ》び坐(ス)ゆゑに、世(ノ)中に萬(ヅ)の禍事《マガコト》はおこるぞかし、かゝれば世のため民のためにも、なべて天(ノ)下に、火の穢《ケガレ》は忌《イマ》ま
ほしきわざなり、今の代には、唯《タダ》神事《カムワザ》のをり、又神の坐(ス)地《トコロ》などにこそ、かつ/”\も此(ノ)忌《イミ》は物すめれ、なべては然る事さらになきは、火の穢《ケガレ》などいふをば、愚《オロカ》なることとおもふ、なまさかしらなる漢意《カラゴコロ》のひろごれるなり、かくて神御典《カミノミフミ》を釋誨《トキヲシ》ふる世々の識者《モノシリビト》たちすら、たゞ漢意《カラゴコロ》の理をのみ、うるさきまで物して、此(ノ)忌《イミ》の説《コト》をしも、なほざりにすめるは、いかにぞや、

ほど/\にあるべきかぎりのわざをして、穩《オダヒ》しく樂《タヌシ》く世をわたらふほかなかりしかば、

  かくあるほかに、何《ナニ》の教《ヲシヘ》ごとをかもまたむ、抑みどり兒《ゴ》に物教へ、又|諸匠《テビトドモ》の物造《モノツク》るすべ、其外よろづの伎藝《コトナルワザ》などを教ふることは、上(ツ)代にも有(リ)けむを、かの儒佛などの教事《ヲシヘゴト》も、いひもてゆけば、これらと異《コト》なることなきに似《ニ》たれども、辨《ワキマ》ふれば、同じからざることぞかし、

今はた其(ノ)道といひて、別《コト》に教(ヘ)を受《ウケ》て、おこなふべきわざはありなむや、

  然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひ問《ト》へるに、答(ヘ)けらく、かの老莊がともは儒者のさかしらをうるさみて、自然《オノヅカラ》なるをたふとめば、おのづから似《ニ》たることあり、されどかれらも、大御神の御國ならぬ、惡國《キタナキクニ》に生れて、たゞ代々の聖人の説《コト》をのみ聞《キキ》なれたるものなれは、自然《オノヅカラ》なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、よろづの事は、神の御心より出て、その御所爲《ミシワザ》なることをしも、えしらねば、大旨《オホムネ》の甚《イタ》くたがへる物をや、

もししひて求《モト》むとならば、きたなきからぶみごゝろを祓《ハラ》ひきよめて、清々《スガスガ》しき御國《ミクニ》ごゝろもて、古典《フルキフミ》どもをよく學《マナ》びてよ、然《シカ》せば、受行《ウケオコナフ》べき道なきことは、おのづから知(リ)てむ、其《ソ》をしるぞ、すなはち神の道をうけおこなふにはありける、かゝれば如此《カク》まで論《アゲツラ》ふも、道の意にはあらねども、禍津日《マガツビノ》神のみしわざ、見《ミ》つゝ黙止《ナホ》えあらず、神直昆《カムナホビノ》神|大直毘《オホナホビノ》神の御靈《ミタマ》たばりて、このまがをもて直《ナホ》さむとぞよ、

  上《カミ》の件《クダリ》、すべて己《オノ》が私のこゝろもていふにあらず、こと/”\に古典《フルキフミ》に、よるところあることにしあれば、よく見《ミ》む人は疑はじ、

かくいふは、明和の八年《ヤトセ》といふとしの、かみな月の九日の日、伊勢(ノ)國(ノ)飯高(ノ)郡の御民《ミタミ》、平(ノ)阿曾美宣長、かしこみかしこみもしるす、

 

古事記傳二之卷

 

                            本居宣長謹撰

 

古事記上卷《フルコトブミカミツマキ》并序

 

此(ノ)標題、此處《ココ》には古事記序とありて、古事記上卷といふことは、本文の首《ハジメ》にあるべきを、合せてこゝに書て、本文のはじめには略《ハブ》けるなり、諸(ノ)本みな同じ、【并序はナラビニ序とも序ヲナラブともよめども、共に此方《ココ》のものいひざまにあらず、此《コ》はかにかくに古言には訓(ミ)がたし、されどこれらはいかに讀てもあるべし、又昔より序(ノ)字の訓《ヨミ》もなし、しひていはば、中昔より奥書《オカウガキ》といふことある、其《ソ》はからぶみにて跋と云(フ)物なれば、是(レ)に准へて序をば、はしがき又ははしことばなどや云べからむ、】さて此序は、本文とはいたく異《コト》にして、すべて漢籍《カラブミ》の趣を以て、其文章をいみしくかざりて書り、いかなれば然るぞといふに、凡て書を著《ツク》りて上に獻る序は、然《シカ》文をかざり當代を賛稱《ホメ》奉りなどする、漢《カラ》のおしなべての例なるに依れるなり、さて然《シカ》漢文をかざるに引れては、其(ノ)意旨《ココロ》もおのづから漢《カラ》にて、或《アル》は混元既(ニ)凝、あるは乾坤初(テ)分、あるは陰陽斯(ニ)開、あるは齊2五行之序(ヲ)1などいふたぐひの語おほし、如此《カクノゴト》きことどもをいはでは、文章みだてなきが故なり、抑此(ノ)序にかゝる語どものあるを見て、ゆくりなく本文の旨を莫《ナ》誤《アヤマ》りそ、又本文のさまと甚《イタ》く異なるをもて、序は安萬侶の作《カケ》るにあらず、後(ノ)人のしわざなりといふ人もあれど、其《ソ》は中々にくはしからぬひがこゝろえなり、すべてのさまをよく考るに、後に他人《アダシビト》の僞り書る物にはあらず、決《ウツナ》く安萬侶(ノ)朝臣の作《カケ》るなり、本文に似《ニ》ず漢《カラ》めきたることはこよなけれど、そのかみさばかり漢學《カラブミマナビ》を盛《サカリ》に好《コノ》ませたまへりし世の事にしあれば、序の文は必(ズ)如此《カク》さまに書《カキ》つべきわざなるをや、

〇今此(ノ)序を註するに、たゞ文章のかざりのみに書るところは、たゞ一《ヒト》わたり解釋《トキ》て、委曲《クハシク》はいはず、其《ソ》はみな漢《カラ》ことにして、要《エウ》なければなり、かくて末に至りて、記の起《オコ》りを述《ノ》べ、書《カキ》ざまをことわりなどせる處ほ、必よく意得おくべきことどもなれば、委曲《ツバラカ》に云べし、

臣安萬侶言(ス)、夫(レ)混元既(ニ)凝(テ)、氣象未(ダ)v效《アラハレ》、無(ク)v名(モ)無(シ)v爲(モ)、誰(レカ)知(ム)2其(ノ)形(ヲ)1、

 此《コ》は天地のいまだ割《ワカ》れざりし前《マヘ》の状《アリサマ》を、漢籍《カラブミ》に云る趣もて云るなり、混元は混沌ともいひて、元氣未(ダ)v分(レ)也と註せり、既(ニ)凝(ル)とは、分れむとするきざしあるなり、氣象は、天地を始め凡て氣と象とをいへり、

然(シテ)乾坤初(テ)分(レテ)、參神|作《ナシ》2造化(ノ)之|首《ハジメヲ》1、陰陽斯(ニ)開(ケテ)、二靈爲(リ)2群品(ノ)之祖1、

 參神は、天之御中主高御産巣日神産集日の三柱(ノ)神を申す、即(チ)本文の始(メ)に出(ヅ)、造化は、漢籍に、天地陰陽の運行《ハコビ》によりて、萬(ノ)物の成(リ)出るをいへり、二靈は伊邪那岐伊邪那美二柱(ノ)神を申す、群品は萬の物なり、此處《ココ》の文二句づゝ對にかけり、次々もみな對句なり、さて此序の此(ノ)あたりの文を見て、陰陽乾坤などの説を、古(ヘノ)傳(ヘ)にも其(ノ)意ありければこそ、撰者もかく取(リ)用ひられつらむを、ひたぶるに廢《ステ》むこといかゞと思ふ人あるべけれど、然らず、もし古傳に其(ノ)意あらむには、序(ノ)文の短き間(ダ)にすら、かくあまた云(ヘ)るほどなれば、本文にも必(ズ)言《イフ》べきわざなるに、本文に至《ナリ》ては、一字もさることなし、されば本文と相比《アヒクラ》べて、序にこれらの語のあるは、返りて古傳にさる意なき證《シルシ》とすべき物にて、正實《マコト》と虚飾《カザリ》とのけぢめいよゝ著明《イチジル》し、これを以ても大御國のこゝろばへの、漢籍のおもむきとははるかに異なるほどをもさとるべく、はた本文にはいさゝかも撰者の私(シ)をまじへざるほども知られて、いとたふとしかし、【或人問けらく、同じ安萬侶(ノ)朝臣、後に書紀を撰ばしめたまへりしをりも、其事にあづかれりと云(フ)に、彼紀にも陰陽などの説はあり、又此序にもあれば、なほ此(ノ)朝臣は此説を信《ウケ》用(ヒ)られつと見ゆるはいかゞ、答(ヘ)けらく、書紀撰ばれしは、舎人(ノ)親王ぞ其事は執總《トリスベ》たまへりしかば、あづかれりとても、安萬侶(ノ)朝臣の意は論ふべきにあらず、又此(ノ)朝臣の意は、縱《ヨシ》やいかにもあれ、それにかゝはるべきにもあらず、たゞ古傳につきてこそは、ことわるべき物なれ、】
所以《コノユヱニ》出2入(シテ)幽顯(ニ)1、日月影(ハレ)2於洗(フニ)1v目(ヲ)、浮2沈(シテ)海水(ニ)1、神祇|呈《アラハル》2於滌(クニ)1v身(ヲ)、

 こゝに所以《コノユヱニ》といひ、次々に、故《カレ》といひ、寔(ニ)知(ル)といひ、是(ヲ)以(テ)といひ、即(チ)といへる、みなさしも意あるにあらず、たゞ輕く看《ミ》すぐすべし、さて伊邪那岐(ノ)大神の、夜見《ヨミノ》國に幸行《イデマシ》しを幽に入(ル)と云(ヒ)、顯國《ウツシクニ》に囘《カヘリ》坐るを顯に出(ヅ)と云るなり、日月云々は、阿波岐原《アハギハラ》に御禊《ミミソギ》し賜へる時の事なり、下二句も同(ジ)時の事ぞ、

故(レ)太素(ノ)杳冥(ナル)、因(テ)2本教(ニ)1而識(リ)2孕(ミ)v土《クニヲ》産《ウミタマフ》v嶋(ヲ)之時(ヲ)1、元始(ノ)綿※〔しんにょう+貌〕(タル)、頼(テ)2先聖(ニ)1察(スニ)2生(ミ)v神(ヲ)立(テタマヒシ)v人(ヲ)之世(ヲ)1、

 太素も元始も、世のはじめを云なり、杳冥は、世の始(メ)のいと遠くておほゝしくさだかならぬをいふ、冥(ノ)字、舊印本には※〔穴/目〕と作《カケ》り、それもあしからず、同(ジ)意なり、本教は、人に物を語《カタ》り聞《キカ》すを教ふといふに同じくて、神代の事どもを語(リ)傳へたる説《コト》をいふなり、綿※〔しんにょう+貌〕はとほくはるかなるをいふ、先聖は、神代の事を言(ヒ)傳へ記《シル》し傳へたる、古(ヘ)のかしこき人たちをいふ、立(ツ)v人(ヲ)とは、天照大御神を始(メ)て、各|事依《コトヨサ》し賜ひしをいふなり、【大御神をしも人と申さむは、いかゞにも聞ゆれども、生v神(ヲ)と云る對《ツヰ》に、かへて書るのみなるべし、】又思ふに、識といひ察といふを、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命の御事としても見べし、其(ノ)時は本教は天(ツ)神の命詔《ミコトノリ》なり、先聖も天(ツ)神を申すなり、

寔(ニ)知(ル)懸(ケ)v鏡(ヲ)吐(テ)v珠(ヲ)、而百王相續(ギ)、喫(ヒ)v劔(ヲ)切(テ)v蛇(ヲ)、以(テ)萬神蕃息(スルコトヲ)歟、

 懸(ク)v鏡(ヲ)とは、天照大御神の天(ノ)石屋《イハヤ》にこもらしし時に、眞賢木の枝に八咫鏡《ヤタカガミ》を取掛しを云なるべし、【但し百王相續と云(フ)へ係て見れは、皇御孫(ノ)命の天降坐むとせし時に、御魂として授《サヅケ》賜ひしを云るかとも聞ゆれども、吐v珠の上にあればいかゞあらむ、】吐v珠(ヲ)と喫v劔(ヲ)とは、大御神と須佐之男(ノ)命と誓坐《ウケヒマシ》し時の事なり、萬神蕃息とほ、須佐之男(ノ)命の御子孫(ノ)神たちのひろごり坐ることなり、

議(テ)2安(ノ)河(ニ)1而平(ケ)2天(ノ)下(ヲ)1、論(テ)2小濱(ニ)1而清(メキ)2國土(ヲ)1、

 上(ノ)句は、皇御孫(ノ)命の天降坐むとする時に、八百萬(ノ)神を集《ツド》へて議《ハカリ》たまひしこと、下(ノ)句は、建御雷(ノ)神の伊那佐の小濱に降りて、大國主(ノ)神を論《アゲツラ》ひ令伏《マツロヘ》て、天(ノ)下を和《ヤハ》し靜《シヅ》め賜ひし事なり、

是(ヲ)以(テ)番仁岐《ホノニニギノ》命、初(テ)降(リタマフ)2于高千(ノ)嶺(ニ)1、神倭(ノ)天皇、經2歴于秋津嶋(ニ)1、

 仁(ノ)字は、邇牟《ニム》の音を邇々《ニニ》の二音に用ひたるなり、然《サル》例多し、秋津嶋は大倭(ノ)國をいふ、

化熊出(テ)v爪(ヲ)、天劔|獲《エ》2於高倉(ニ)1、生尾遮(リ)v徑(ヲ)、大烏導(ク)2於吉野(ニ)1、

 こは四(ツ)の事を四句に云て、二句づゝ對にせり、皆|白檮原《カシバラノ》御世の事にして、其(ノ)御段《ミクダリ》に見えたり、爪は字を寫し誤れるなり、山か穴かなるべし、【延佳は、水か派かの誤ならむといへれども、そはわろし、】生尾は、生尾人とあり、大烏は八咫烏なり、

列(テ)v※〔にんべん+舞〕(ヲ)攘(ヒ)v賊(ヲ)、聞(テ)v歌(ヲ)伏(ス)v仇(ヲ)、

 此も同(ジ)御段(リ)に見ゆ、但し※〔にんべん+舞〕のことは見えず、書紀にも道(ノ)臣(ノ)命乃(チ)起(テ)而歌(フ)之とのみあり、されど後に久米※〔にんべん+舞〕《クメマヒ》といふは、此(ノ)時の態と聞ゆれば、※〔にんべん+舞〕《マヒ》もしつらむ、

即(チ)覺(リテ)v夢(ニ)而敬(ヒタマフ)2神祇(ヲ)1、所以(ニ)稱(ス)2賢后(ト)1、望(テ)v烟(ヲ)而撫(デタマフ)2黎元(ヲ)1、於(テ)v今(ニ)傳(フ)2聖帝(ト)1、

 上は水垣(ノ)宮(ノ)御世の事、下は高津(ノ)宮(ノ)御世の事にて、みな其(ノ)御段(リ)に出たり、后は君なり、【神功皇后の御事かとも聞ゆめれど、其《ソ》は御夢のこと見えず、】黎元は民をいふ、【後に崇神仁徳と御諡を奉られしも、こゝの文の意なり、】

定(メ)v境(ヲ)開(テ)v邦(ヲ)、制(シタマヒ)2于近(ツ)淡海(ニ)1、正(シ)v姓(ヲ)撰(テ)v氏(ヲ)、勒(シタマフ)2于遠(ツ)飛鳥(ニ)1、

 上は志賀(ノ)宮(ノ)御代の事にて、近(ツ)淡海は其(ノ)都の國(ノ)名なり、下は遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)御世の事なり、制(ス)勒(ス)とは、たゞ其(ノ)宮に坐まして天(ノ)下の政|所聞看《キコシメシ》しをいふ、さて是(レ)までは、古(ヘ)の御々代々《ミヨミヨ》に聞え高き事どもをこれかれと拔(キ)出て、文飾《カザリ》に書るなり、

雖2歩驟各異(ニ)、文質不(ト)1v同(カラ)、莫(シ)v不(トイフコト)d稽(テ)v古(ヲ)以(テ)縄《タダシ》2風猷(ヲ)於既(ニ)頽(レタルニ)1、照(シテ)v今(ヲ)以(テ)補(ハ)c典教(ヲ)於欲(スルニ)uv絶(ム)、

 此《コ》は上(ノ)件の事どもを取總《トリスベ》てことわれるなり、歩は徐《アイスカ》に歩《アユ》むこと、驟は疾《トク》走《ワシ》ることにて、政も世々のさまに隨ひて、寛《ユル》きと急《スミヤカ》なるとのかはりあるをいふなり、【三皇(ハ)歩(シ)五帝(ハ)驟(ス)など云り、】風猷は風教道徳なり、さてかくいへること、必(ズ)しも上に擧《アゲ》たる事ども、悉《コトゴト》には當《アタ》らねども、只漢人の常にいふなる趣を、文のかざりに書るのみなり、さて如此《カク》言《イヒ》て下(ノ)文の本を起せるものぞ、

曁(ビテ)d飛鳥(ノ)清(ミ)原(ノ)大宮(ニ)、御《シロシメシシ》2大八洲1天皇(ノ)御世(ニ)u、

 此(レ)より下、此(ノ)天皇【後(ノ)諡天武】の御事を申せる文なり、洲(ノ)字州と作《カケ》るはわろし、今は一本によれり、

潜龍體(シ)v元(ヲ)、※〔さんずい+存〕雷應(ズ)v期(ニ)、

 こはいまだ儲君にて坐まししほどを申せる賛《ホメ》詞なり、潜龍も※〔さんずい+存〕雷も易の言にて、太子のことに申せり、【※〔さんずい+存〕雷は、易に※〔さんずい+存〕《シキリニ》雷震(ス)とありて、震(ハ)爲2長子(ト)1といへるより出たり、※〔さんずい+存〕(ノ)字、游と作《カケ》るは誤也、】

聞(テ)2夢(ノ)歌(ヲ)1而想(ヒ)v纂(ムコトヲ)v業(ヲ)、投《イタリテ》2夜(ノ)水(ニ)1而知(シメス)v承(ムコトヲ)v基(ヲ)、

 此は天津日嗣しろしめすべきさとしの有しことなり、夢(ノ)歌の事は書紀に見えず、漏《モレ》つるなるべし、投(ル)2夜(ノ)水(ニ)1とは、東国に下り坐(サ)むとして、夜半《サヨナカ》に伊賀の隱《ナバリ》の横河《ヨクカハ》に至(リ)坐(シ)しことなるべし、此時に廣さ十餘丈《トツヱアマリ》の黒雲おこりて、天にわたりければ、異《アヤ》しとおもほして、御自《ミミヅカラ》占《ウラ》へ賜ふに、天(ノ)下二(ツ)に分れて、つひにはみな得たまふべき祥《サガ》なりしこと、書紀に見えたり、【聞(ノ)字、開と作《カケ》るは誤なり、今は一本に依(ル)、】

然(レドモ)天(ノ)時|末(ダ)《・ザリシカバ》v臻《イタラ》、蝉(ノゴト)2蛻(ケタマヒ)於南山(ニ)1、人事共(ニ)洽《アマネク》、虎(ノゴト)歩(ミタマヒキ)於東國(ニ)1、

 上は、京師をのがれ出て、吉野山に入(リ)坐(シ)しこと、下は、道より人|多《サハ》に從ひ附(キ)奉て、御威《ミイキホヒ》さかりになりまして、美濃(ノ)國に幸行《イデマシ》しことなり、皆書紀に見ゆ、洽(ノ)字、延佳本には給と作《カケ》り、それもあしからず、

皇輿忽(チ)駕(シテ)、※〔さんずい+陵の旁〕2渡(リ)山川(ヲ)1、六師雷(ノゴト)震(ヒ)、三軍電(ノゴトク)逝(ク)、

 ※〔さんずい+陵の旁〕は歴也と註せり、【汎v海(ニ)※〔さんずい+陵の旁〕v山(ヲ)など云り、延佳本に凌と作《カケ》るは誤なり、】六師は六軍なり、下二句は、皇軍《ミイクサ》のさかりなるさまをいへり、【漢國にて天子は六軍大國は三軍といへれども、此《ココ》はたゞ數(ノ)字を對にせるのみにして、六と三とに意はなし、】

杖矛擧(テ)v威(ヲ)、猛士烟(ノゴト)起(リ)、絳旗耀(シテ)v兵(ヲ)、凶徒瓦(ノゴト)解(ケツ)、

 上三句は御方の軍のさかりなるさま、下一句は淡海《アフミ》の軍の敗れしさまなり、

未(ダ)・(シテ)v移(サ)2※〔さんずい+夾〕辰(ヲ)1、氣※〔さんずい+診の旁〕|自《オ》清(マリヌ)、

 是《コ》は仇|速《スミヤカ》に亡《ホロ》びて、天(ノ)下治まりしを云るなり、※〔さんずい+夾〕辰は、子《ネ》より亥《ヰ》まで一周《ヒトメグリ》の日數【十二日】にて、其《ソ》を移《ウツ》さずとは、ほどもなくすみやかなる意なり、※〔さんずい+診の旁〕は妖氣なり、此(ノ)惡《ワロ》き氣去(リ)て、清らかになれりとなり、さて此(ノ)※〔さんずい+診の旁〕(ノ)字、諸(ノ)本|並《トモ》に誤(リ)て彌と作《カケ》り、今は延佳が考(ヘ)によりて改めつ、

乃(チ)放(チ)v牛(ヲ)息《イコヘ》v馬(ヲ)、愷悌(シテ)歸(リ)2於華夏(ニ)1、卷(キ)v旌(ヲ)※〔揖の旁+戈〕《ヲサメ》v戈(ヲ)、※〔にんべん+舞〕詠(シテ)停(リタマフ)2於都邑(ニ)1、

 放v牛息v馬とは、から國の周(ノ)武王が紂に勝《カチ》て後に、馬を華山の南に歸《カヘ》し、牛を桃林の野に放(チ)て、再《フタタビ》服《ツカ》はぬことをしらせし故事《フルコト》なり、愷悌は軍|勝《カチ》たる時の樂なり、書紀に|イクサトケテ〔付○圏点〕と訓(メ)り、【今|按《オモフ》に、悌(ノ)字心得ず、其(ノ)故は、愷こそ愷樂とも云て、軍|勝之樂《カテルトキノガク》なれ、悌(ノ)字には其(ノ)義《ココロ》あることを聞(カ)ず、愷悌と連《ツラ》ねいへることは多かれども、其《ソ》は義《ココロ》の異なることなり、然るに今愷樂を愷悌といへるは、愷(ノ)字にひかれて、彼(ノ)愷悌と一(ツ)に思ひ混《マガ》へつるにや、但し此《コ》は世になべて誤れることにやありけむ、書紀などにも然あり、漢籍にも例ありや、なほ尋ぬべし、】

歳次(リ)2大梁(ニ)1、月|踵《アタリテ》2夾鍾(ニ)1、清(ミ)原(ノ)大宮(ニシテ)、昇(テ)即(キタマフ)2天位(ニ)1、

 初(ノ)句は酉(ノ)年をいふ、大梁は、十二次の内の昴宿《ボウノホシ》の次《ヤドリ》にて、昴は二十八宿の中の西(ノ)方の星、西は酉(ノ)方なればなり、次《ツギノ》句は二月をいふ、夾鍾は、十二律の中の二月の律なればなり、踵は鍾に同じ、通はし書る例あり、さて書紀を考るに、此(ノ)天皇、癸酉(ノ)年二月癸未【二十七日】に御位に即《ツキ》ませり、

道|軼《スギ》2軒后(ニ)1、徳|跨(コエタマフ)2周王(ニ)1、

 軒后は漢國の黄帝といふ王、周王ほ文王武王をいふ、

握(テ)2乾符(ヲ)1而|摠《スベ》2六合(ヲ)1、得(テ)2天統(ヲ)1而|包《カネタマフ》2八荒(ヲ)1、

 乾符は天の吉端なり、六合は上下四方なり、天統は天より授くる帝統なり、八荒は八方の遠き國々なり、

乘(ジ)2二氣之正(シキニ)1、齊(ヘタマフ)2五行(ノ)之序(ヲ)1、

二氣は陰陽をいふ、君の政よろしければ、陰陽五行のはこび正しくて、四時の気候みだれずといふ、漢《カラ》人の常の談《コト》なり、

設(テ)2神理(ヲ)1以(テ)奬《ススメ》v俗(ヲ)、敷(テ)2英風(ヲ)1以(テ)弘(メ)v國(ヲ)、

 神理は神妙の道理なり、奬(ム)v俗(ヲ)とは、勸《スス》め導きて風俗をよくなすをいふ、英風は英聖の風教なり、

重加《シカノミナラズ》智海浩瀚(トシテ)、潭《フカク》探(リ)2上古(ヲ)1、心鏡※〔火+韋〕煌(トシテ)、明(カニ)覩(タマフ)2先代(ヲ)1、

 智海とは、御智の廣く大(キ)なるを海にたとへ、心鏡とは、御心の明らけきを鏡にたとへて申せるなり、浩瀚は廣大(ナル)貌、※〔火+韋〕煌は光明(ナル)貌なり、さて此《コレ》までは、此(ノ)天皇の凡ての御《ミ》うへを申(シ)て、次《ツギ》の事を申さむ料なり、

於是《ココニ》天皇|詔之(リシシタマハク)、朕(レ)聞(ク)諸家(ノ)之所(ノ)v〓《モタル》、帝紀及(ビ)本辭、既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1、多(ク)加(フト)2虚僞(ヲ)1、

 詔之の之(ノ)字、延佳本には云と作《カケ》り、それもよし、〓は齎の俗字なりと云り、延佳本には齎と作《カケ》り、帝紀は、下(ノ)文に帝皇(ノ)日繼とあると同じく、御々代々《ミヨミヨ》の天津日嗣を記し奉れる書なり、書紀(ノ)天武(ノ)御卷の、川嶋(ノ)皇子等の修撰の處にも、帝紀とあり、推古(ノ)御卷の、皇太子の修撰の處、又皇極(ノ)御卷の、蘇我(ノ)蝦※〔虫+夷〕《エミシ》が燒《ヤキ》つる處などには、天皇記とあり、國史などいはずして、かく帝紀天皇記といへるぞ古(ヘ)の稱なるべき、本辭は、下文に先代(ノ)舊辭とあると同じ、かの蝦※〔虫+夷〕が燒《ヤキ》し處に、國記といひ、聖徳太子の修撰の處に、國記臣連伴(ノ)造國(ノ)造百八十部并公民等本記と云(ヘ)るなど、是(レ)にあたるべきか、川嶋(ノ)皇子等の修撰のところに、上古(ノ)諸(ノ)事とあるは、正《マサ》しくこれなり、然るに今は舊事といはずして、本辭舊辭と云(ヘ)る、辭(ノ)字に眼《メ》をつけて、天皇の此(ノ)事おもほしめし立《タチ》し大御意は、もはら古語に在(リ)けることをさとるべし、さて此(レ)よりつぎ/\、未(ダ)v行(ハ)2其(ノ)事(ヲ)1矣といふまでは、此(ノ)記の本《モト》の起《オコ》りを演《ノベ》たるなれば、慇懃《ネモコロ》に見べし、上(ノ)件のかざりのみに書たる文とは異なるものぞ、

當(テ)2今(ノ)之時(ニ)1、不(バ)v改(メ)2其(ノ)失(ヲ)1、未(ダ)・(シテ)v經2幾(ハクノ)年(ヲモ)1、其(ノ)旨|欲《ムトス》v滅(ビ)、

 其(ノ)失とは、かの多(ク)加(フ)2虚僞(ヲ)1とある是(レ)なり、其旨は正實の旨なり、當時《ソノカミ》虚僞多くなれりといへども、なは正實も全く滅びたるにあらざれば、天皇の海のごと廣き御|智《サトリ》、鏡のごと明《アキラ》けき御心もて辨へたまへば、いとよく分《ワカ》るゝ故に、今是時に改め正《タダ》しおかずば、いよゝ虚僞おほくなりもてゆきて、今《イマ》幾《イク》ほどもなく正實の旨は滅びうせなむ物ぞと、かしこく愁坐《ウレヒマセ》るなり、【然るに後(ノ)世人の學問は、正實の處をばなほざりにして、たゞ漢《カラ》めきたる虚僞の文をのみ重《オモ》くすめるはいかにぞや、】

斯(レ)乃(チ)邦家(ノ)之經緯、王化(ノ)之鴻基(ナリ)焉、

 經緯とは、國を知《シロ》しめすに、なくてえあらぬ物なることを、織《ハタ》の經緯《タテヌキ》の絲にたとへて云なり、鴻は大なり、

故(レ)惟《コレ》撰2録(シ)帝紀(ヲ)1、討2覈(シテ)舊辭(ヲ)1、削(リ)v僞(ヲ)定(メ)v實(ヲ)、欲《ストノタマフ》v流《ツタヘムト》2後葉(ニ)1、

 是(レ)まで詔命なり、討覈は、深く實を尋ねて考へ究《キハ》むることなり、此(ノ)一句殊に古學の要《ムネ》とあることぞ、おほにな看過《ミスグ》しそ、後葉は後世なり、【欲(ノ)字は、撰録の上に在(ル)べき文(ノ)意なり、】

時(ニ)有(リ)2舍人1、姓(ハ)稗田《ヒエダ》名(ハ)阿禮、年是(レ)廿八、爲(リ)v人(ト)聰明(ニシテ)、度(レバ)v目(ニ)誦《ヨミ》v口(ニ)、拂《フルレバ》v耳(ニ)勒《シルス》v心(ニ)、

 稗田(ノ)姓、姓氏録に見えず、【延佳本に弘仁私記(ノ)序を引たるに、天(ノ)鈿女《ウズメノ》命(ノ)之後也と云り、】書紀(ノ)天武(ノ)上(ツ)御卷に、如此《カク》云《イフ》地名《トコロノナ》見えたり、大倭(ノ)國と聞えたり、【今添(ノ)上(ノ)郡に稗田村あり、是(レ)なるべし、】彼地《ソコ》より出たる姓なるべし、度(レバ)v目(ニ)誦《ヨム》v口(ニ)とは、一たび見たる書をば、やがて空《ソラ》にうかべて、よく諷誦《ヨム》をいふ、拂(レバ)v耳(ニ)勒(ス)v心(ニ)も、一たび聞たることをば、忘《ワス》るゝことなきをいふ、【廿(ノ)字、延佳本には二十と二字に作《カケ》り、それも同じことなれども、此(ノ)あたり多くは一句四字なれは、此(ノ)句も然るべし、故(レ)今は舊本によれり、】

即(チ)勅2語(シテ)阿禮(ニ)1、令(ム)v誦2習《ヨミナラハ》帝皇(ノ)日繼、及(ビ)先代(ノ)舊辭(ヲ)1、

 勅語は、天皇の大御口づから詔ひ屬《ツク》るなり、【有司《ツカサビト》をして傳へ宣《ノラ》しめ、又は書にかけるなどをも、たゞ勅とはいへども、そは勅語とはいはず、】かくて此《ココ》はなほ殊なる意も有(ル)べきか、其《ソ》は下にいふべし、令(ム)2誦習(ハ)1とは、舊記《フルキフミ》の本《マキ》をはなれて、そらに誦《ヨミ》うかべて、其語をしば/\口なれしむるをいふなり、抑|直《タダ》に書には撰録《シルサ》しめずして、先(ヅ)かく人の口に移《ウツ》して、つら/\誦(ミ)習はしめ賜ふは、語《コトバ》を重《オモ》みしたまふが故なり、此(ノ)事既に一《イチ》の卷に云るが如し、書紀(ノ)纂疏に弘仁私記(ノ)序に、天皇勅(シテ)2阿禮(ニ)1使(ム)v習(ハ)2帝王本紀及(ビ)先代舊事紀(ヲ)1とあるは、此《ココ》の文を見誤りて、舊辭を舊事紀としも云るなり、【ゆめ今世にある舊事紀のこととな思ひまがへそ、彼(ノ)題號は、此私記の文を取てぞつけつらむ、】

然(レドモ)運移(リ)世異(ニシテ)、未(ダ)・《ザリキ》v行(ヒタマハ)2其事(ヲ)1矣、

 天皇|崩《カムアガリ》坐て御世かはりにければ、撰録の事|果《ハタ》し行《オコナ》はれずして、討覈ありし帝紀舊辭は、いたづらに阿禮が口にのこれりしなり、

 テナモフェ               チ  ヲ    シ   ジチ ェ     ック†フ

伏(テ)惟《オモフニ》皇帝陛下、得(テ)v一(ヲ)光宅(シ)、通(ジテ)v三(ニ)亭育(シタマフ)、

 皇帝は撰者の當代《トキノミカド》、那良(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天津御代豐國成姫(ノ)天皇【後(ノ)御諡元明】を申せり、得v一(ツ)とは、老子に、天(ハ)得(テ)v一(ヲ)以(テ)清(ク)、地(ハ)得(テ)v一(ヲ)以(テ)寧(ク)、王侯(ハ)得(テ)v一(ヲ)以(テ)爲2天下(ノ)貞(ト)1、と云るよりいふことなり、光宅とは、天下を凡て家とする意にて、オホキニヲルとも、ミチヲル【光(ハ)充也といふ註もあり、】とも訓《ヨメ》り、【古文尚書(ノ)堯典に、光2宅(ス)天下(ニ)1と云るより出たる字なり、】通(ズ)v三(ニ)とは、天地人の三才に通(ズル)なり、亭育とは、本《モト》は亭毒と云るを、通はして如此《カク》も云(ヒ)ならへり、民を化育することなり、【是(レ)も始(メ)は老子に亭(シ)v之(ヲ)毒(ス)v之(ヲ)といへるより出たり、註に毒今作v育(ニ)といへり、〇亭(ノ)字を、舊印本に亨と作《カケ》るは誤なり、】さて此《コレ》より又例の漢語《カラコトバ》どもを多く引出て賛《ホメ》申せり、

御(シテ)2紫宸(ニ)1而徳被(リ)2馬蹄(ノ)之所(ニ)1v極(マル)、坐(シテ)2玄扈(ニ)1而化照(シタマフ)2船頭(ノ)之所(ヲ)1v逮(ブ)、

 紫宸も玄扈も、天皇の御處《マシマストコロ》をいふ、玄扈は、黄帝が洛水の上《ホトリ》なる玄扈といふ石室に坐《ヰ》たりし時に、鳳凰圖を含(ミ)來て授けつと云ことあるよりいへり、【舊印本に、宸を震に、船を※〔月+公〕に誤りたり、】

日浮(テ)重(ネ)v暉(リヲ)、雲散(テ)非(ズ)v烟(ニ)、

 浮は出るなり、重(ヌ)v暉(ヲ)とは、光暉の明らけきをいふ、雲云々とは、雲の如くにして雲にあらず、烟の如くにして烟にあらず、虚空《ソラ》に見ゆるをいふ、いはゆる慶雲なり、

連(ネ)v※〔木+可〕(ヲ)并(ハス)v穗(ヲ)之瑞、史不v絶《タタ》v書(スコトヲ)、列(ネ)v烽(ヲ)重(ヌ)v譯(ヲ)之貢、府無(シ)2空(シキ)月1、

 連※〔木+可〕はいはゆる連理の樹なり、并は、莖は異にして穗の一(ツ)にあひたる稻にて、いはゆる嘉禾なり、下二句は、外國よりまゐる貢(ノ)使の、月々に絶間《タエマ》なきを云て、列烽は、常に烽《トブヒ》を列ね構《カマ》へおきて、防《フセキ》をする國々、重譯は、譯を重ねずては、言語の通《キコ》えぬ遠き國々なり、さて然《サ》る國々も今皆朝貢すとなり、府はその貢物を納《イ》るゝ府倉なり、【列烽と云ること、其(ノ)貢使の來つる時にあたりて烽をあぐるごとく聞えて、まぎらはしきいひざまなれど、こゝは文選なる顔延年(ガ)曲水(ノ)詩(ノ)序に、※〔赤+貞〕莖素毳、并※〔木+可〕共穗(ノ)之瑞、史不v絶v書(スコトヲ)、棧山航海、踰沙軼漠(ノ)之貢、府無(シ)2空月1、列(ネ)2燧(ヲ)千城(ニ)1、通(スル)2驛(ヲ)萬里(ニ)1、穹居(ノ)之君(モ)、内(ニ)首《ムカヒテ》稟《ウケ》v朔(ヲ)、卉服(ノ)之酋(モ)、廻(シテ)v面(ヲ)受(ク)v吏(ヲ)といへる文を、すこしかへて書るなれば、此文にて心得べきなり、凡て文選(ノ)中の文を取れる處ぞいと多かる、】

可(シ)v謂(ヒツ)d名高(ク)2文命(ヨリモ)1、徳|冠《マサレリト》c天乙(ニモ)u矣、

 文命は夏(ノ)禹、天乙は殷(ノ)湯にて、並《ミナ》戎國《カラクニ》の古(ヘ)の名高き王どもなり、此(レ)までは當代《トキノミカド》をほめ奉れる文にて、例の次の事を申さむ料なり、

於焉《ココニ》惜(ミ)2舊辭之誤(リ)忤(ヘルヲ)1、正(サムトシテ)2先紀(ノ)之謬(リ)錯(レルヲ)1、

 これよりつぎ/\、正《マサ》しく此(ノ)記を撰録《エラバ》しめ賜ひし事を演《ノベ》たる中に、此(ノ)一節はまづ其(ノ)大御志をいへり、謬(ノ)字、繆と作《カケ》る本もあり、同じことなり、

以(テ)2和銅四年九月十八日(ヲ)1、詔(シテ)2臣安萬侶(ニ)1、撰録(シテ)稗田(ノ)阿禮(ガ)所(ノ)v誦(ム)之勅語(ノ)舊辭(ヲ)1、以(テ)獻上(セシム)者《テヘリ》、

 こゝの文のさまを思ふに、阿禮此時なほ存在《イケ》りと見えたり、【此(ノ)人、上(ノ)文に廿八歳とありしは、かの清御原(ノ)御世の何《イヅ》れの年なりけむしられねば、今和銅四年には齢《ヨハヒ》いくらばかりにか有(ル)らむ、さだかには知(リ)がたけれど、姑《シバラ》く彼(レ)を元(ノ)年として數《カゾ》ふれば、六十八歳にあたれり、されどそのかみ所思看《オモホシメ》し立《タチ》しこと、いまだとげ行《オコナ》はれぬほどに、天皇|崩《カミアガリ》まししを思へば、御世の末《スヱ》つかたの事にこそありけめ、もし崩(リ)の年のこととせば、五十三歳なり、】かくて彼(ノ)清御原(ノ)朝《ミカドノ》御世に、誦習《ヨミナラ》ひおきつる帝紀舊辭は、此(ノ)人の口にのこれるを、今安萬侶朝臣に詔命仰せて、撰録しめ賜ふなり、さて此には舊辭とのみ云て、帝紀をいはざるは、舊辭にこめて文を省《ハブ》けるなり、【又こゝは口に誦(ミ)習へる語をいふなれば、帝紀も其(ノ)語の内にあれば、別《コト》には云(フ)まじきこともとよりなり、】帝紀をばおきて、舊辭のかぎりと謂《イフ》にはあらず、又|此《ココ》にしもかく勅語のとあるを以(テ)思へば、もと此(ノ)勅語は、唯《タダ》に此(ノ)事を詔ひ屬《ツケ》しのみにはあらずて、彼(ノ)天皇【天武】の大御口づから、此(ノ)舊辭を諷誦《ヨミ》坐(シ)て、其《ソ》を阿禮に聽取《キキトラ》しめて、諷誦《ヨミ》坐(ス)大御言のまゝを、誦《ヨミ》うつし習はしめ賜へるにもあるべし、【若(シ)然らずば、此處《ココ》には殊に勅語のとことわるべきにあらねばなり、されど餘《ホカ》の古書どもにも、勅語とはたゞ大御口づから詔ひつくるを云る例なれば、上には唯其意に注しおきつるなり、】もし然《サ》るにては、此(ノ)記は本彼(ノ)清御原(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)天皇の、可畏《カシコ》くも大御親《オホミミヅカラ》撰《エラ》びたまひ定《サダ》め賜ひ、誦たまひ唱《トナ》へ賜へる古語にしあれば、世にたぐひもなく、いとも貴《タフト》き御典《ミフミ》にぞありける、然《サ》るは御世かはりて後、彼(ノ)御志|紹《ツギ》坐(ス)御擧《ミシワザ》のなからましかば、さばかり貴き古語も、阿禮が命《イノチ》ともろともに亡《ウセ》はてなましを、歡《ウレシ》きかもおむかしきかも、天(ツ)神國(ツ)神の靈《ミタマ》幸《チハ》ひ坐て、和銅の大御代に此(ノ)御撰録《ミエラビ》ありて、今の現《ヲツツ》に此(ノ)御典《ミフミ》の傳はり來つることよ、物學《モノマナ》びせむ人|頂《イナダキ》に捧持《ササゲモチ》て、天(ツ)神國(ツ)神、又二御代の天皇尊《スメラミコト》、【天武元明】又稗田(ノ)老翁《ヲヂ》、太《オホノ》朝臣の恩頼《ミタマノフユ》を莫《ナ》忘《ワスレ》そね、【記の本《モト》を起《オコ》し賜ひし天武天皇の元年、申(ノ)年なりしに、其《ソレ》撰録《エラバ》れし元明天皇の和銅元年も申(ノ)年なり、かくておほけなく宣長此傳を著《アラハ》し初《ハジ》むる今の大御代の明和元年しも、又申(ノ)年にあたれることをなむ、竊《ヒソカ》に奇《アヤ》しみ思ふ、】

謹(テ)隨(ヒ)2詔旨(ニ)1、子細(ニ)採(リ)※〔てへん+庶〕(フ)、

 此(レ)より、安萬侶(ノ)朝臣撰録のさまを演《ノベ》られたり、

然(ルニ)上古(ノ)之時、言意並(ニ)朴(ニシテ)、敷(キ)v文(ヲ)構(フルコト)v句(ヲ)、於(テ)v字(ニ)即(チ)難(シ)、

 上古(ノ)之時云々、此文を以(テ)見れば、阿靈が誦《ヨメ》る語のいと古《フル》かりけむほど知られて貴《タフト》し、敷v文(ヲ)と構v句(ヲ)とは、二(ツ)にはあらず、共にたゞ文にかきうつすを云なり、於(テ)v字(ニ)即難(シ)とは、文に書(キ)取(リ)がたきをいふ、文は漢文なればなり、【後(ノ)世の如く假字文《カナブミ》ならむには、いかなる古言も、書(キ)取(リ)がたきことなけれども、當時《ソノカミ》はいまだ假字のみを以て事を記す例化あらざりき、】上(ツ)代のことなれば、意も言も共にいと古くして、當時《ソノカミ》のとは異なるが多かるべければ、漢文にはかき取(リ)がたかりけむこと宜《ウベ》なり、【上古のは、言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし、奥《オク》ありげに理《コトワリ》めきたるすぢはさらになかりしなり、然るにかの漢文は、意にも虚《イツハ》りかざりのみ多くて、其旨いたく異なるぞかし、】此《ココ》の文をよく味ひて、撰者のいかで上(ツ)代の意言を違《タガ》へじ誤らじと、勤《イソ》しみ愼《ツツシ》まれけるほどをおしはかるべく、はた書紀などの如《ゴト》漢文をいたくかざりたるは、上(ツ)代の意言に疎《ウト》かるべきことをもさとりつべし、【此(ノ)記のごとかざることなくてすら、書(キ)移《ウツ》しがたしとある物を、況や漢文をいたくかざりたらむには、いかでか正實《マコト》のまゝには書(キ)取らるべき、】

已(ニ)因(テ)v訓(ニ)述(ベタルハ)者、詞不v逮(バ)v心(ニ)、

 已《スデニ》は盡《コトゴトク》の意なり、【書紀(ノ)神代(ノ)卷に、※〔金+宛〕|既《スデニ》碎《クダケタリ》、繼體(ノ)卷に全壞《スデニソコナフ》、萬葉十七に、天下須泥爾於保比底布流雪乃《アメノシタスデニオホヒテフルユキノ》、出雲風土記に既《スデニ》礒《イソナリ》、これらのすでにもみな、盡《コトゴトク》の意なり、】因(テ)v訓(ニ)述(ブ)とは、字の訓を取用ひて古語を記せるをいふ、いはゆる眞字《マナ》なり、詞は、その因(テ)v訓(ニ)述たる文なり、心は古語の意なり、【意(ノ)字をかゝずして、心としも云るは、上文の近き處に、意(ノ)字ある故にさけたるなり、凡て此(ノ)序(ノ)文、同字を用ることを嫌へり、】然《シカ》言《イフ》こゝろは、世間《ヨノナカ》にある舊記どもの例を見るに、悉く字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字なるが多くて、其《ソ》は其(ノ)字の義異なるがゆゑに、語の意までは得《エ》及び至らずとなり、【又思(フ)に、こゝは此記しるすべきさまを思ひ度《ハカ》れるにてもあらむか、若(シ)然らば、述(ノ)字はノブレバと訓べく、心は撰者の意なり、さて文の義《ココロ》は、悉くに訓に因て述(ベ)むとすれば、古語を違《タガ》へじと思ふ心のまゝには、文のゆきとゞきがたきと云るなり、如此《カク》もあらむかとも思ひよれるゆゑは、若(シ)上にいへる意ならむには、記中に借字をば書(ク)まじきことわりなるに、なほ借字多ければなり、然れども借字を多く用るは、古(ヘ)のおしなべての世のならひにて、殊に神(ノ)名地(ノ)名など、あまねく書(キ)ならひたらむを、正字の知られざらむ物から、中々に改めむは、あぢきなきわざにしあれは、こと/”\にはえ去《サリ》あふまじきことわりなれば、妨《サマタゲ》なし、】

全(ク)以(テ)v音(ヲ)連(ネタルハ)者、事(ノ)趣更(ニ)長(シ)、

音とは、字(ノ)音を假《カリ》て書るにて、即(チ)假字《カナ》なり、事(ノ)趣は、連《ツラ》ねたる文面をいふなり、然《シカ》言《イフ》こゝろは、全く假字のみを以(テ)書るは、字(ノ)數のこよなく多くなりて、かの因(テ)v訓(ニ)述(ベ)たるに比《クラ》ぶれば、其(ノ)文|更《サラ》に長しとなり、【又かの後にこゝろみに云つる意」にては、此《ココ》も連者をツラヌレバと訓て、撰者の思ひ度《ハカ》れるなり、】

是(ヲ)以(テ)今或(ハ)一句(ノ)之中、交(ヘ)2用(ヒ)音訓(ヲ)1、

 こは上文にある如く、悉く訓に因て眞字書《マナガキ》にせるは、中に借字多くて、語の意さとりがたく、さりとてはた全く假字書《カナガキ》にしたるは、文こよなく長くなりて煩《ワヅラ》はし、故(レ)是(ヲ)以(テ)今は宜《ヨロ》しきほどをはかりて、二つをまじへ用ふとなり、

或(ハ)一事(ノ)之内、全(ク)以(テ)v訓(ヲ)録(ス)、

 全く眞字書《マナガキ》にても、古語と言も意も違(フ)ことなきと、又字のまゝに訓《ヨ》めば、語は違へども、意は違はずして、其(ノ)古語は人皆知(リ)て、訓(ミ)誤(マ)ることあるまじきと、又借字にて、意は違へども、世にあまねく書(キ)なれて、人皆辨へつれば、字には惑ふまじきと、これらは、假字書は長き故に、簡約《ツヅマヤカ》なる眞字書の方を用ふるなり、一事といひ一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり、

即(チ)辭(ノ)理|※〔匡の王が口〕《ガタキハ》v見(エ)、以(テ)v注(ヲ)明(ス)v意(ヲ)、

 理は意にて、即(チ)明(ス)v意(ヲ)とある意これなり、※〔匡の王が口〕(ノ)字は、不可也と注して、難と同じく用ひたり、【書紀(ノ)釋に引(ケ)るには難と作《カケ》り、】さて記中に種々《クサグサ》の注ある中に、辭(ノ)理を明《アカ》したるはいと/\まれにして、只|訓《ヨム》べきさまを教へたるのみ常に多かれば、此《ココ》は文のまゝに心得ては少《スコ》し違ふべし、たゞ大概《オホカタ》にこゝろえてあるべきなり、【また訓《ヨミ》ざまを教へたるが殊に多きにつきて、此《ココ》の文を助けていはば、辭とは字をいひ、理また意とは、訓を云(フ)と心得てもあるべきか、訓はすなはち其字の意なればなり、假令《タトヘ》ば訓(テ)v立(ヲ)云2多々志(ト)1とあるたぐひ、訓を教へたるなれども、多々志《タタシ》はすなはち立(ノ)字の意なれば、明(ス)v意(ヲ)とも云(ヒ)つべし、されど又多く某々《ソレソレノ》字|以《モチフ》v音(ヲ)とあるは、假字なることを注したるなれば、明(ス)v意(ヲ)とは云(ヒ)がたかるべし、かにかくに當《アタ》りがたき文なり、】

況(ムヤ)易(キハ)v解(リ)更(ニ)非《ズ》v注(セ)、

 況(ノ)字はことに意なし、たゞ輕く見べし、【字書に發語之辭とも注せり、】非(ノ)字は不の意に用ひたるなり、此(ノ)例本文文書紀などにもおほし、さて全篇對句なれば、此《ココ》も然るべきさまなるに、意は上と對して、字の對せざるは、易(ノ)字の上に二字、更(ノ)字の上か下かに一字ありしが、共に脱《オチ》たるにやあらむ、

亦|於《ニ》2姓(ノ)日下1、謂(ヒ)2玖沙※〔言+可〕(ト)1、於《ニ》2名(ノ)帶(ノ)字1、謂(フ)2多羅斯(ト)1、如(キノ)v此(ノ)之類、隨(テ)v本(ニ)不v改(メ)、

 此(ノ)文は、於《ニ》2姓(ノ)玖沙※〔言+可〕1謂(ヒ)2日下(ト)1、於《ニ》2名(ノ)多羅斯(ニ)1謂(フ)v帶(ト)とあるべきことなり、其故は、玖沙※〔言+可〕に日下、多羅斯に帶と、本より書(キ)來れるまゝに今も改めず、其(ノ)字もて記すぞと云(フ)義《ココロ》なればなり、如(キノ)v此(ノ)之類とは、まづは長谷《ハツセ》春日《カスガ》飛鳥《アスカ》三枝《サキクサ》などなり、なほこのたぐひのみならず、地(ノ)名神(ノ)名など、多くは古來《イニシヘヨリ》書《カキ》ならへる字のまゝに記せり、【然るに書紀は、神|及《マタ》人(ノ)名地(ノ)名姓氏などの文字、又假字なども、凡て古来のをば用ひずして、ことさらに改めて、伊邪那岐(ノ)命を伊弉諾(ノ)尊、須佐之男(ノ)命を素盞嗚(ノ)尊など書《カカ》れたり、しかるを後(ノ)世人は、たゞ書紀にのみ目なれたれば、是《コレ》をうちまかせたる字《モジ》づかひと心得て、此(ノ)記の如く伊邪那岐(ノ)命須佐之男(ノ)命など書(ク)をば、かへりて異《コト》さまなる如く思ふめるは、ひがことなり、餘《ホカ》の古書どもをくらべ見よ、何《イヅ》れも大かた此(ノ)記の字に似たるを、たゞ書紀のみぞいたく異《コト》なる、此(ノ)記又餘の古書どもにも出たる、久米《クメ》川俣《カハマタ》など云(フ)地名をも、書紀にのみは來目《クメ》川派《カハマタ》など書れたり、これらの地名、今(ノ)世にも此《ココ》彼《カシコ》にあるを、古(ヘ)より今に當地々《ソノトコロドコロ》にて書(キ)來《キタ》れる字も、みな此(ノ)記などと同じことなり、いさゝかなることなれど、これらにても、書《フミ》の實《マコト》と飾《カザリ》あるとの差《ケヂメ》を思ひわたすべし、】

大抵所(ハ)v記(ス)者、自2天地(ノ)開闢1始(メテ)、以(テ)訖(フ)2于小治田(ノ)御世(ニ)1、

 こは全部の始終をいへり、次々は卷々の始終をいふ、

故(レ)天(ノ)御中主(ノ)神(ヨリ)以下、日子波限建鵜草〓不合(ノ)尊(ヨリ)以前(ヲ)、爲2上(ツ)卷(ト)1、

 神代を以て一卷とせるは、もとよりさるべきものなり、〓(ノ)字、延佳本に葺と作《カケ》り、同じことなり、命《ミコト》に尊(ノ)字を書ることめづらし、【此(ノ)記には、美許登《ミコト》には、尊卑《タカキイヤシ》きおしなべて、命(ノ)字をのみ用ひたり、他《ホカ》の古書どもにも、天皇などの大御名にも、多くは命(ノ)字を書けり、かくて書紀には、尊(ノ)字と命(ノ)字とを分(ケ)用(ヒ)て、至(テ)貴(キヲ)曰(フ)v尊(ト)、自餘《ホカヲ》曰(フ)v命(ト)と、自(ラノ)注あれば、尊(ノ)字は、彼(ノ)撰者の新(タ)に用(ヒ)初《ハジ》められたることと思はれ、又|日子《ヒコ》日女《ヒメ》に彦姫(ノ)字を書(ク)も、書紀より始まれりと見えて、此記などには一(ツ)もなきことなり、これらを以(テ)思(フ)に、今此(ノ)文に尊(ノ)字を書るは、疑ひなきにあらず、故(レ)此(ノ)序をなべて疑ひて、後(ノ)人の僞(リ)作れる物ぞと云(フ)人もあれど、其《ソ》は中々にひがこゝろえなり、つら/\思ふに、大雀《オホサザキ》を、舊印本に大鷦鷯と作《カケ》るも、書紀に目なれたる後(ノ)人のひがことなれは、此(ノ)尊(ノ)字も其類にて、書紀なるを見なれて、ふと寫誤れるか、眞福寺(ノ)本には、命(ノ)字を作《カケ》り、これや正しからむ、又思(フ)に次(ノ)文に、伊波禮毘古には天皇、品陀には御世、大雀には皇帝、小治田には大宮と、各|異《コト》に申せる如く、此(レ)もたゞ色々《イロイロ》にかへて書るにて、必しもたしかに美許登《ミコト》と云(フ)に此(ノ)字を用ひたるにも非るにやあらむ、】但し近きほど見得《ミエ》たりといふ、上野(ノ)國多胡(ノ)郡の古き碑文《イシブミ》の寫しを見るにも、石(ノ)上(ノ)麻呂公を石上尊、藤原(ノ)史《フヒト》公を藤原尊と書り、彼(ノ)碑は此(ノ)同じ和銅四年に建(テ)つるなり、然ればそのかみ既《ハヤ》く、尊人《タフトキヒト》をば如此《カク》稱《イフ》ことは、かつ/”\ありけむかし、【さて然《シカ》稱《イフ》が、おのづから美許登《ミコト》といふに當《アタ》れるから、書紀には即《ヤガ》て是(レ)を取て、正《マサ》しく美許登に用ひて、至(リテ)貴(ト)きに書れたるなるべし、然るを彼(ノ)碑なる尊を、朝臣の意にソムの音を取れるなりとしもいふは、いみしきしひごとなり、】

神倭伊波禮毘古(ノ)天皇(ヨリ)以下、品陀(ノ)御世(ヨリ)以前(ヲ)、爲2中(ツ)卷(ト)1、大雀(ノ)皇帝(ヨリ)以下、小治田(ノ)大宮(ヨリ)以前(ヲ)、爲2下(ツ)卷(ト)1、

 天皇御世皇帝大宮は、文《コト》をかへてあやとせるなり、【此(ノ)中に、天皇と皇帝とを對《ツヰ》し、御世と大宮とを對せるなり、】さて品陀(ノ)御世までを中卷とし、大雀(ノ)御世よりを下卷とせるはおのづからより來《キ》つるまゝにて、殊なる意はあるべからず、【中卷は長く、下卷は短きを以(テ)思へば、少《スコ》しは意あるかとも見ゆめれども、然にはあらじ、品陀(ノ)御世を下卷にいるれば、又下卷長くなりて、同じほどのけぢめなるをや、】さて小治田(ノ)御世までにしてとぢめたるゆゑは、此(ノ)御撰録《ミエラビ》は、阿禮が誦習《ヨミナラ》ひつるまゝを録《シル》されたる、其《ソ》はもと清御原(ノ)宮(ノ)天皇の勅語なれば、小治田【推古】の御次岡本(ノ)宮(ノ)天皇【舒明】は、彼(ノ)天皇の大御考《オホミチチ》命に坐(ス)が故に、憚《ハバカリ》て其御世までは及ぼし賜はざりけるなるべし、さるこゝろばへ記中にも見えたり、【他田《ヲサダノ》宮(ノ)御段に、御子たちをあげたる中にも、此(ノ)御子のみは御名をば諱《イミ》て、坐(テ)2岡本(ノ)宮(ニ)1治《シロシメシシ》2天(ノ)下1之天皇とあるこれなり、】抑此(ノ)記の、いさゝかも撰者の新爲《アラタナルシワザ》を加《クハ》へず、たゞかの阿禮が誦習《ヨミナラ》へるかぎりなりけるほど、是等《コレラ》にてもしられたり、

并(テ)録(シ)2三卷(ヲ)1、謹(テ)以(テ)獻上(ス)、臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首、

 三卷とせることは、たゞほどよきに從へるなり、

和銅五年、正月二十八日、

 去年の九月(ノ)十八日に、詔命を奉《ウケタマハ》りてより、たゞ四箇月餘《ヨツキアマリ》にして業《コト》を終《ヲヘ》たる、いとかく速《スミヤカ》なりしも、たゞかの阿禮が語のまゝを録《シル》せるのみにして、新爲《アラタナルシワザ》を加《クハ》ふることのなかりしがゆゑなるべし、

正五位上勲五等、太(ノ)朝臣安萬侶謹上

 勲五等とは、尋常の位階のほかに、勲位とて一等より十二等までありて、官位令に見えたり、義解によるに、五等は正五位に相當れり、【勲位は、武功によりてたまふことなり、】大《オホノ》朝臣は、白檮原《カシバラノ》宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の御子神八井耳(ノ)命の御末なり、委き事は彼(ノ)御段《ミクダリ》に云べし、安萬侶《ヤスマロノ》朝臣は、誰子《タガコ》といふことしられず、【書紀(ノ)天武(ノ)卷に、多《オホノ》臣|品治《ホムヂ》てふ人見えたり、壬申(ノ)年の役に、いたく功《イサヲ》ありし人にて、位は小錦下とありて、持統(ノ)卷に、十年八月庚午朔甲午、以(テ)2直廣壹(ヲ)1授(ケ)2多(ノ)臣品治(ニ)1、并(ニ)賜(フ)v物(ヲ)、褒2美《ホメタマフナリ》元(メヨリ)從(ヘル)之功(ト)、與《トヲ》2堅(ク)守(レル)v關(ヲ)事1とあり、此(ノ)品治(ノ)朝臣の子なるべくぞ思はるゝ、さて此(ノ)氏、天武(ノ)卷に朝臣となりて後は、多(ノ)朝臣品治と見えたるに、持統(ノ)卷にしも、臣《オミ》とあるはいかゞ、直廣壹は、天武(ノ)御世に定められたる四十八階の、第十に當《アタ》る位なり、】續紀三(ノ)卷に、慶雲元年正月丁亥朔癸巳、正六位下太(ノ)朝臣安麻呂(ニ)、授(ク)2從五位下(ヲ)、【此(ノ)人|此《ココ》に始(メ)て見えたり、】五(ノ)卷に、和銅四年四月丙子朔壬午、正五位下大(ノ)朝臣安麻呂、授(ク)2正五位上(ヲ)1、【正五位下に叙《ナ》られしことは、此(ノ)前に見えず、漏《モレ》たるなるべし、】六(ノ)卷に、靈龜元年正月甲申朔癸巳、叙(ス)2從四位下(ニ)1、七(ノ)卷に、同二年九月乙未、爲(ル)2氏(ノ)長(ト)1、九(ノ)卷に、養老七年七月庚午、民部卿從四位下、太(ノ)朝臣安麻呂卒、【民部卿に任《ナ》られしことも、前に見えず、もれたるなるべし、】享年《トシ》見えず、さて弘仁私記(ノ)序、三統(ノ)理平(ガ)延喜六年目本紀享宴(ノ)歌(ノ)序、橘(ノ)直幹(ガ)天慶六年同享宴(ノ)歌(ノ)序、又忌部(ノ)正通(ガ)口決などに、書紀を、舍人(ノ)親王と二人詔を奉《ウケタマハ》りて撰べりといへり、【續紀には、親王一柱の撰と見えて、安麻呂(ノ)朝臣のことはなし、○神名帳に、大和(ノ)國十市(ノ)郡(ニ)小杜神命(ノ)神社あり、或云、此(ノ)神社在(リ)2多《オホノ》社(ノ)東南(ニ)1、今稱(ス)2木(ノ)下(ノ)社(ト)1、傳(ヘテ)云(フ)v祭(ルト)2安麻呂(ヲ)1といへり、今|按《オモフ》に、彼(ノ)社|等《ナド》四社の下に、已上四神(ハ)、太(ノ)社(ノ)皇子神《ミコガミ》と、式にしるされたれば、多《オホ》氏の人を祀《マツ》れることは決《ウツナ》し、誠に安麻呂(ノ)朝臣にもあらむか、】舊印本には、謹上(ノ)二字はなし、


     大御代之繼繼御世御世之御子等
  之御中主神

  笠縫王
    右二柱御母櫻井玄王

古事記傳三之卷

                    本居宣長謹撰

 

     神代一之卷《カミヨノハジメノマキ》

 

天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》。於高天原成神名《》タカマノハラニナリマセルカミノミナハ。天之御中主神《アメノミナカヌシノカミ》。【訓高下天云阿麻下效此】次高御産巣日神《ツギニタカミムスビノカミ》。次神産巣日神《ツギニカミムスビノカミ》。此三柱神者《コノミバシラノカミハ》。並獨神成坐而《ミナヒトリガミナリマシテ》。隱身也《ミミヲカタシタマヒキ》。

 

天地は、阿米都知《アメツチ》の漢字《カラモジ》にして、天は阿米《アメ》なり、かくて阿米《アメ》てふ名義《ナノココロ》は、未(ダ)思(ヒ)得ず、抑|諸《モロモロ》の言《コト》の、然《シカ》云《イフ》本《モト》の意《ココロ》を釋《トク》は、甚《イト》難《カタ》きわざなるを、強《シヒ》て解《トカ》むとすれば、必|僻《ヒガ》める説《コト》の出來《イデク》るものなり、【古(ヘ)も今も、世(ノ)人の釋《トケ》る説《コト》ども、十に八九は當《アタ》らぬことのみなり、凡て皇国《ミクニ》の古言は、たゞに其(ノ)物其(ノ)事のあるかたちのまゝに、やすく云初《イヒソメ》名《ナ》づけ初《ソメ》たることにして、さらに深き理などを思ひて言《イヘ》る物には非れば、そのこゝろばへを以(テ)釋《トク》べきわざなるに、世々の識者《モノシリビト》、其(ノ)上(ツ)代の言語《コトドヒ》の本づけるこゝろばへをば、よくも考へずて、ひたぶるに漢意《カラゴコロ》にならひて釋《トク》ゆゑに、すべて當《アタ》りがたし、彼(ノ)漢國《カラクニ》も、上(ツ)代の言《コト》の本は、さしもこちたくはあらざりけむを、彼(ノ)國俗《クニワザ》として、何事にもたゞ理と云(フ)物を先《サキ》にたてて、言の意を釋《トク》にも、たゞその理を旨《ムネ》とせる故に、皆|強説《シヒゴト》なるをや、かくて近きころ古學《イニシヘマナビ》始まりては、漢意《カラゴコロ》を以(テ)釋《トク》ことの惡《ワロ》きをば、曉《サト》れる人も有て、古意《イニシヘゴコロ》もて釋《トク》とはすめれど、其《ソレ》將《ハタ》説得《トキウ》ることは、猶|稀《マレ》になむありける、】さりとてはたひたぶるに釋《トカ》ずて止《ヤム》べきにも非ず、考への及ばむかぎり、試《ココロミ》には云(フ)べし、其(ノ)中に正《マサ》しく當《アタ》れるも、稀《マレ》には有(ル)べきなり、故《カレ》今も如此《カク》にもやあらむ、と思ひよれることはある、其《ソ》は下に云べし、さて天《アメ》は虚空《ソラ》の上《カミ》に在(リ)て、天(ツ)神たちの坐《マシ》ます御國なり、【此(ノ)外に理を以(テ)こちたく説成《トキナ》し、或は其(ノ)形などをも、さま/”\おしはかりに云(フ)などは、皆|外國《トツクニ》のさだにて、古(ヘノ)傳(ヘ)にかなはざれば、凡て取(ル)にたらず、】地は都知《ツチ》なり、名義《ナノココロ》は、是(レ)も思ひよれることあり、下に云べし、さて都知《ツナ》とは、もと泥土《ヒヂ》の堅《カタ》まりて、國土《クニ》と成《ナ》れるより云る名なる故に、小《チヒサ》くも大《オホ》きにも言《イヘ》り、小《チヒサ》くはたゞ一撮《ヒトツマミ》の土《ツチ》をも云(ヒ)、又廣く海に對《ムカ》へて陸地《クヌガ》をも云(フ)を、天《アメ》に對《ムカ》へて天地《アメツチ》と云ときは、なほ大きにして、海をも包《カネ》たり、【姓氏録に、海神《ワタツミ》の子孫の氏々をも、地祇(ノ)部に收《イレ》られたる、是(レ)土《ツチ》には海をも包《カネ》たる故なり、〇己《オノレ》前《サキ》に思へりしは、阿米都知《アメツチ》と云(フ)は、古言に非じ、其故は、古書《イニシヘブミ》どもを見るに、凡て阿米《アメ》に對へては、必|久爾《クニ》とのみ云て、都知《ツチ》とは云ず、天神《アマツカミ》地祇《クニツカミ》、天社《アマツヤシロ》國社《クニツヤシロ》、又神(ノ)名にも、天某《アメノナニノ》神|國某《クニノナニノ》神と對ひ、又|天邇岐志《アメニギシ》國邇岐志《クニニギシ》云々《シカシカ》など申す御名、又書紀に扇《トヨモシ》v天(ヲ)扇《トヨモシ》v國(ヲ)と云ひ、雄略(ノ)卷吉備(ノ)臣尾代が歌にも、阿毎《アメ》にこそ聞えずあらめ、矩※〔にんべん+爾〕《クニ》には聞えてなと作《ヨメ》るなど、皆|久爾《クニ》をもて阿米《アメ》には對へたれば、阿米《アメ》久爾《クニ》と云むぞ古言なるべければ、古書に天地とあるをも、みな然《シカ》訓《ヨム》べきなり、と思へりしを、後に師の久爾《クニ》都知《ツチ》の考(ヘ)を見れば、なほ阿米《アメ》都知《ツチ》ぞ古言なりける、彼(ノ)考(ヘ)に云く、久爾《クニ》と云(フ)名は限《カギリ》の意なり、東國にて垣《カキ》を久禰《クネ》と云(フ)にて知(ル)べし、さて都知《ツチ》とは、皇祖神《カミロギ》の天(ノ)沼矛《ヌホコ》以てかきなし賜へりし始(メ)を以(テ)名《ナヅ》けたるなり、かゝれば地《ツチ》は天と等《ヒト》しく廣く、國《クニ》は限(リ)あれば狹きに似たり、故(レ)阿米《アメ》都知《ツチ》とは云(ヘ)ど、阿米《アメ》久爾《クニ》とは上(ツ)代には云(ハ)ざりしなるべし、さて久爾《クニ》は限(リ)の意ぞと云(フ)由は、天照大御神月讀(ノ)命は、天の日《ヒル》夜《ヨル》を分《ワカ》ちしろしめすなるを、須佐之男(ノ)命の天に上りたまふ時に、欲v奪(ハムト)2我(ガ)國(ヲ)1と天照大御神の詔《ノタマ》ひ、月讀(ノ)命は所2知《シロシメセ》夜食國《ヨルノヲスクニヲ》1、と皇祖神の詔ひ、又須佐之男(ノ)命は所2知(セ)海原(ヲ)1とありて、次に不v治2所命之國《ヨサセルクニヲ》1、とも皇祖神の詔ひ、又萬葉二の人麻呂の挽歌にも、天皇之敷座國等《スメロギノシキマスクニト》、天原石門乎開《アマノハライハトヲヒラキ》、神上上座奴《カムアガリアガリマシヌ》とよめるなど、みな限りて所知《シロシ》めす處を、天《アメ》にても國《クニ》と云り、これらにて、久爾は本は天《アメ》に對へ云べき名に非ることを知べし、さて天(ツ)神|地祇《クニツカミ》、又神(ノ)名などにも、天某《アメノナニ》國某《クニノナニ》と對へ云るたぐひは、地《ツチ》のかぎりおつる處なく、みな御孫(ノ)命のしろしめす御國なるが故に、おのづから天に對へる地《ツチ》をも、久爾《クニ》とも云ことになれりしなり、凡て天(ツ)神國(ツ)神と云(ヒ)、又神(ノ)名なども、御孫(ノ)命の此(ノ)國しろしめす御世になりて名《ナヅ》け奉れるが多けれはなり、然れども廣く天にむかへて連《ツラ》ね云(フ)には、なほ都知《ツチ》とのみ云て、阿米久爾とは云(ハ)ざりしなりとあり、彼(ノ)考(ヘ)の文の中には、いかにぞや聞ゆることどももまじれるをばおきて、今は宜しと思はるゝかぎりをえり出て引(ケ)り、】さて正《マサ》しく阿米《アメ》都知《ツチ》と云(フ)言《コト》の、物に見えたるは、萬葉廿【三十二丁】防人《サキモリノ》歌に、阿米都之乃《アメツシノ》、以都例乃可美乎《イヅレノカミヲ》云々、又【四十一丁】阿米都之乃《アメツシノ》、可美爾奴佐於伎《カミニヌサオキ》、【師(ノ)云(ク)、古(ヘ)東人《アヅマビト》はさかしらなる心を添(ヘ)ずて、言傳《イヒツタ》へたる言のまゝにうち云(フ)めれば、京の物知人《モノシリビト》の歌よりも、返りて古言の據《ヨリドコロ》とすべき物ぞと云れき、都知《ツチ》を東言《アヅマコトバニ》都之《ツシ》とは云るなるべし,】又五【七丁】に、阿米弊由迦婆《アメヘユカバ》、奈何麻爾麻爾《ナガマニマニ》、都智奈良婆《ツチナラバ》、大王伊麻周《オホキミイマス》などあり、

〇初發之時は、波自米能登伎《ハジメノトキ)と訓(ム)べし、萬葉二【二十七丁】に、天地之初時之《アメツナノハジメノトキシ》云々、十【三十二丁】に、乾坤之初時從《アメツチノハジメノトキユ》云々、書紀孝徳(ノ)御卷に、與《ヨリ》2天地之初《アメツチノハジメ》1云々などある、これら天地乃波自米《アメツチノハジメ》と云る古言の據《ヨリドコロ》なり、此《ココ》に發(ノ)字を連《ツラ》ねて書《カケ》るも、たゞ初《ハジメ》の意なり、【字書に發は起也と注せり、】事の初《ハジメ》を起《オコ》りとも云(ヒ)、又|俗《ヨ》に初發《シヨホツ》と云(フ)も、古(ヘ)より波自米《ハジメ》と云(フ)に、此(ノ)二字を用ひなれたるより出たるなるべし、【初發を、ハジメテヒラクルと訓るはひがことなり、其《ソ》はいはゆる開闢《カイビヤク》の意に思ひ混《マガ》へつる物ぞ、抑天地のひらくと云(フ)は、漢籍言《カラブミゴト》にして、此間《ココ》の古言に非ず、上(ツ)代には、戸《ト》などをこそひらくとはいへ、其《ソノ》餘《ホカ》は花などもさくとのみ云て、上(ツ)代にはひらくとは云ざりき、されば萬葉の歌などにも、天地のわかれし時とよめるはあれども、ひらけし時とよめるは、一つも無きをや、】さて如此《カク》天地之初發《アメツチノハジメ》と云(ヘ)るは、たゞ先(ヅ)此(ノ)世【佛書《ホトケブミ》に世界《セカイ》と云て、俗人《ヨノヒト》も常に然いふなり、】の初《ハジメ》を、おほかたに云る文《コトバ》にして、此處《ココ》は必しも天と地との成れるを指《サシ》て云るには非ず、天と地との成れる初《ハジメ》は、次の文《コトバ》にあればなり、

〇高天原《タカマノハラ》は、すなはち天《アメ》なり、【然るを、天皇の京《ミヤコ》を云(フ)など云る説は、いみしく古(ヘノ)傳(ヘ)にそむける私説《ワタクシゴト》なり、凡て世の物知人《モノシリビト》みな漢籍意《カラブミブコロ》に泥《ナヅ》み溺《オボ》れて、神の御上《ミウヘ》の奇靈《クスシクアヤシ》きを疑(ヒ)て、虚空《ソラ》の上《カミ》に高天(ノ)原あることを信《ウケ》ざるは、いと愚《オロカ》なり、】かくてたゞ天《アメ》と云(フ)と、高天(ノ)原と云との差別《ケヂメ》は、如何《イカニ》ぞと云に、まづ天は、天(ツ)神の坐(シ)ます御國なるが故に、山川木草のたぐひ、宮殿《ミアラカ》そのほか萬(ヅ)の物も事も、全《モハラ》御孫《ミマノ》命の所知看《シロシメス》此(ノ)御國土《ミクニ》の如くにして、なほすぐれたる處にしあれば、【かゝることどもは、漢籍にいはゆる天とは、甚《イタ》く異《コト》なる物ぞ、ゆめ彼(ノ)國書《クニブミ》の説《コト》に惑《マド》ひて、正《タダ》しき神代の傳(ヘ)を勿《ナ》説曲《トキマゲ》そ、凡て外(ツ)國には、正しき古(ヘノ)傳(ヘ)説《ゴト》の無き故に、天《アメ》の實《マコト》のさまをば得《エ》知《シ》らずて、たゞおしはかりの空理《ムナシゴト》をのみいふなり、】大方《オホカタ》のありさまも、神たちの御上《ミウヘ》の萬(ヅ)の事も、此(ノ)國土《クニに有る事《コト》の如くになむあるを、【此《コ》は此(ノ)記|及《マタ》書紀(ノ)神代(ノ)卷を見て知(ル)べし、みな正しき神代の傳説《ツタヘゴト》なり、】高天(ノ)原としも云(フ)は、其(ノ)天《アメ》にして有る事《コト》を語《カタ》るときの稱《ナ》なり、【然るを萬葉(ノ)歌などに、天(ノ)原ふりさけ見れば、とよめるなどは、やゝ後のことなるべし、如此《カク》さまにたゞ打見《ウチミ》たるのみの天《アメ》などを、天(ノ)原とも云るが如きは、神代の御典《ミフミ》などには見えぬことなり、】さて然《シカ》稱《イ》ふ由は、高《タカ》とは、是(レ)も天を云(フ)稱《ナ》にて、たゞに高き意に云るとはいさゝか異なり、【然れば此(ノ)高は體言なり、】日の枕詞に高光《タカヒカル》と云も、天照《アマテラス》と同(ジ)意、高御座《タカミクラ》も天《アメ》の御座と云ことにて、是(レ)等《ラ》の高《タカ》も同じ、又|高行《タカユク》や隼別《ハヤブサワケ》などは、【高津(ノ)宮(ノ)段の歌にあり、】虚空《ソラ》を高《タカ》と云るなり、【此《コレ》も高く行(ク)と云には非ず、抑|天《アメ》と虚空《ソラ》とは別《コト》なれば、精《クハシ》くは分《ワケ》て云ることもあれども、共に上方《カミツベ》にあれば、此(ノ)國土《クニ》よりは、天をそらとも、虚空《ソラ》を天《アメ》とも通はし云(フ)も常にて、天《アマ》つそらなども云り、されば高《タカ》と云も、天《アメ》と虚空《ソラ》とを通はしたる名なり、共に高き方にあればなり、】今(ノ)世にも、天《アマ》つ虚空《ソラ》を然《シカ》言《イフ》ことあり、【物の虚空《ソラ》に高く上るを、高《タカ》へ上《アガ》るなど云めり、但(シ)此《コ》は天(ノ)下にあまねく云(フ)ことには非るか知らず、此(ノ)伊勢(ノ)國などにては、をり/\然云(フ)を聞くなり、古言ののこれるなるべし、】原《ハラ》とは、廣く平《タヒ》らなる處を云(フ)、海原《ウナハラ》野原《ヌガラ》河原《カハラ》葦原《アシハラ》などの如し、萬葉(ノ)歌には國原《クニハラ》ともあり、かゝれば天をも天(ノ)原とは云なり、【之(ノ)原《ハラ》と云例も、海之原《ワタノハラ》など、そのほかもあり、】さて其《ソレ》に高《タカ》てふ言を添(ヘ)て、高天(ノ)原とは、此(ノ)國土《クニ》より云(フ)ことなり、【凡て天を高《タカ》とも云は、高きを以(テ)云|稱《ナ》なればなり、】されば天照大御神の天(ノ)石屋《イハヤ》に隱(リ)坐る處の御言《ミコト》、【天(ノ)原自《オ》闇(ク)云々、】又書紀の須佐之男(ノ)命の天に上《ノボリ》坐(ス)時、又|御誓《ミウケヒ》の處の天照大御神の御言、【必當v奪2我(ガ)天(ノ)原(ヲ)1云々、令《シメム》v治《シラ》2天(ノ)原(ヲ)1也云々、】などには、皆たゞ天(ノ)原とあり、其《ソ》は天にして詔《ノタマ》ふ御言なるが故なり、【然るに書紀(ノ)神代(ノ)下(ツ)卷に、同(ジキ)大御神の吾(ガ)高天(ノ)原と詔へる處の一(ツ)あるは、撰者の何心もなく書《カカ》れたるか、いかにもあれ、たゞ此一(ツ)をもてなべてを疑ふべきにはあらず、多きに就《ツキ》て決《サダ》むべきものぞ、】これらの餘《ホカ》、此(ノ)國士《クニ》より云るところになむ、高天(ノ)原とはある、凡て古文《イニシヘノフミコトバ》は、かゝることのいと正《タダ》しきなり、

〇成は那理麻世流《ナリマセル》と訓(ム)べき由、首卷《ハジメノマキ》【訓法の條】に云るが如し、さて那流《ナル》と云(フ)言に三(ツ)の別《ワキ》あり、一(ツ)には、無《ナカ》りし物の生《ナ》り出るを云(フ)、【人の産生《ウマルル》を云も是なり、】神の成坐《ナリマス》と云は其意なり、二(ツ)には、此(ノ)物のかはりて彼(ノ)物に變化《ナル》を云(フ)、豊玉比賣(ノ)命|産《ミコウミ》坐(ス)時(ニ)化《ナリ》2八尋和邇《ヤヒロワニニ》1たまひし類なり、(ツ)三には、作事《ナスコト》の成終《ナリヲハ》るを云(フ)、國難成《クニナリガタケム》とある、成《ナル》の類なり、【此(ノ)三(ツ)の差《ケヂメ》によりて、漢字《カラモジ》は生成變化などと異《カハリ》あれども、皇國の古書には、訓の同じきをば通(ハシ)用ひて、字にはさしもかゝはらざること多し、此《ココ》の成《ナリマス》も、成(ノ)字の意とはいさゝか異《コト》にして、書紀に所生《ナリマセル》神とある字の意なり、〇木草の實《ミ》の那流《ナル》、又|産業《ナリハヒ》を萬葉(ノ)歌などに那流《ナル》と云る、これらは上(ノ)件の三(ツ)とは本より別《コト》なる言か、はた三(ツ)の中より出たる言か、未(ダ)考へず、】

〇神名は迦微能美那波《カミノミナハ》と訓べきことも、首卷《ハジメノマキ》に云り、迦微《カミ》と申す名義《ナノココロ》は未(ダ)思(ヒ)得ず、【舊《フル》く説《トケ》ることども皆あたらず、】さて凡て迦微《カミ》とは、古《イニシヘノ》御典等《ミフミドモ》に見えたる天地の諸《モロモロ》の神たちを始めて、其《ソ》を祀《マツ》れる社に坐(ス)御靈《ミタマ》をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣《トリケモノ》木草のたぐひ海山など、其《ソノ》餘《ホカ》何《ナニ》にまれ、尋常《ヨノツネ》ならずすぐれたる徳《コト》のありて、可畏《カシコ》き物を迦微《カミ》とは云なり、【すぐれたるとは、尊《タフト》きこと善《ヨ》きこと、功《イサヲ》しきことなどの、優《スグ》れたるのみを云に非ず、惡《アシ》きもの奇《アヤ》しきものなども、よにすぐれて可畏《カシコ》きをば、神と云なり、さて人の中の神は、先(ヅ)かけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐(ス)こと、申すもさらなり、其《ソ》は遠《トホ》つ神とも申して、凡人《タダビト》とは遙《ハルカ》に遠く、尊く可畏《カシコ》く坐(シ)ますが故なり、かくて次々にも神なる人、古(ヘ)も今もあることなり、又天(ノ)下にうけばりてこそあらね、一國一里一家の内につきても、ほど/\に神なる人あるぞかし、さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴(ル)神神鳴(リ)など云(ヘ)ば、さらにもいはず、龍《タツ》樹靈《コタマ》狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏《カシコ》ければ神なり、木靈《コタマ》とは、俗《ヨ》にいはゆる天狗にて、漢籍《カラブミ》に魑魅など云たぐひの物ぞ、書紀舒明(ノ)卷に見えたる天狗は、異物《コトモノ》なり、又源氏物語などに、天狗こたまと云ることあれば、天狗とは別《コト》なるがごと聞ゆめれど、そは當時《ソノカミ》世に天狗ともいひ木靈《コタマ》とも云るを、何となくつらね云るにて、實《マコト》は一つ物なり、又|今俗《イマノヨ》にこたまと云物は、古(ヘ)山彦と云り、これらは此《ココ》に要なきことどもなれども、木靈《コタマ》の因《チナミ》に云のみなり、又虎をも狼をも神と云ること、書紀萬葉などに見え、又|桃子《モモ》に意富加牟都美《オホカムツミノ》命と云名を賜ひ、御頸玉《ミクビタマ》を御倉板擧《ミクラタナノ》神と申せしたぐひ、又|磐根《イハネ》木株《コノタチ》艸葉《カヤノカキバ》のよく言語《モノイヒ》したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其(ノ)御靈《ミタマ》の神を云に非ずて、直《タダ》に其(ノ)海をも山をもさして云り、此《コレ》らもいとかしこき物なるがゆゑなり、】抑|迦微《カミ》は如此《カクノゴト》く種々《クサグサ》にて、貴《タフト》きもあり賤《イヤシ》きもあり、強《ツヨ》きもあり弱《ヨワ》きもあり、善《ヨ》きもあり惡《アシ》きもありて、心も行《シワザ》もそのさま/”\に隨《シタガ》ひて、とり/”\にしあれば、【貴《タフト》き賤《イヤシ》きにも、段々《キザミキザミ》多くして、最《モトモ》賤《イヤシ》き神の中には、徳《イキホヒ》すくなくて、凡人にも負《マク》るさへあり、かの狐など、怪《アヤシ》きわざをなすことは、いかにかしこく巧《タクミ》なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗《イヌ》などにすら制せらるばかりの、微《イヤシ》き獣なるをや、されど然《サ》るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向《ムカ》ふには、可畏《カシコ》きこと無《ナ》しと思ふは、高きいやしき威力《チカラ》の、いたく差《タガ》ひあることを、わきまへざるひがことなり、】大かた一《ヒト》むきに定めては論《イ》ひがたき物になむありける、【然るを世人の、外(ツ)國にいはゆる佛菩薩聖人などと、同じたぐひの物のごと心得て、當然《シカルベ》き理と云ことを以て、神のうへをはかるは、いみしきひがことなり、惡《アシ》く邪《ヨコサマ》なる神は、何事も理にたがへるしわざのみ多く、文善(キ)神ならむからに、其ほどにしたがひては、正しき理のまゝにのみもえあらぬ事あるべく、事にふれて怒《イカ》り坐る時などは、荒《アラ》びたまふ事あり、惡き神も、悦ばば心なごみて、物|幸《サキ》はふること、絶《タエ》て無きにしもあらざるべし、又人は然《サ》はえ知《シ》らねども、そのしわざの、さしあたりては惡《ア》しと思はるゝ事も、まことには吉《ヨ》く、善《ヨ》しと思はるゝ事も、まことには凶《アシ》き理のあるなどもあるべし、凡て人の智《サトリ》は限(リ)ありて、まことの理はえしらぬものなれば、かにかくに神のうへは、みだりに測《ハカ》り論《イ》ふべきものにあらず、】まして善《ヨ》きも惡《アシ》きも、いと尊《タフト》くすぐれたる神たちの御うへに至りては、いとも/\妙《タヘ》に靈《アヤシ》く奇《クス》しくなむ坐(シ)ませば、さらに人の小《チヒサ》き智《サトリ》以て、其(ノ)理(リ)などちへのひとへも、測《ハカ》り知らるべきわざに非ず、たゞ其(ノ)尊きをたふとみ、可畏《カシコ》きを畏《カシコ》みてぞあるべき、【迦微《カミ》に神(ノ)字をあてたる、よくあたれり、但し迦微《カミ》と云は體言なれば、たゞに其物を指(シ)て云のみにして、其事其徳などをさして云ことは無きを、漢國《カラクニ》にて神とは、物をさして云のみならず、其事其徳などをさしても云て、體にも用にも用ひたり、たとへば彼(ノ)國書《クニブミ》に神道と云るは、測《ハカ》りがたくあやしき道と云ことにて、其通のさまをさして神とは云るにて、道の外に神と云(フ)物あるには非ず、然るを皇國にて迦微之道《カミノミチ》と云へば、神の始めたまひ行ひたまふ道、と云ことにこそあれ、其道のさまを迦微と云ことはなし、もし迦微なる道といはば、漢國の意の如くなるべけれど、其《ソレ》もなほ直《タダ》に其道をさして云にこそなれ、其(ノ)さまを云にはならず、書紀に神劔神龜などある神(ノ)字も、漢文の意に其徳をさして云るにて、あやしきたちあやしきかめと云ことなれば、迦微とは訓(ム)べからず、もしカミタチカミガメなどよむときは、たゞに劔をさし龜をさして、迦微と名《ナヅ》くるになるなり、凡て皇國言《ミクニコト》の意と漢字の義と、全くは合(ヒ)がたきも多かるを、かたへに合ざる處あるをも、大方の合へるを取て、當《アテ》たるものなれば、その合(ハ)ざる所のあることを、よく心得分(ク)べきなり、又|漢籍《カラブミ》に、陰陽不(ル)v測(ラレ)之(ヲ)謂v神(ト)、あるは氣(ノ)之伸(タル)者(ヲ)爲v神(ト)、屈(マル)者(ヲ)爲v鬼(ト)、など云るたぐひを以て、迦微を思ふべからず、かくさまにさかしだちて物を説くは、かの國人の癖《クセ》なりかし、】名《ナ》と云(フ)言のよしは、遠飛鳥《トホツアスカノ》宮(ノ)段の、氏々名々《ウヂウヂナナ》とある下《トコロ》に云べし、【傳三十八の三十二の葉】

〇天之御中主《アメノミナカヌシノ》神、御中《ミナカ》は眞中《マナカ》と云むが如し、凡て眞《マ》と御《ミ》とは本|通《カヨ》ふ辭なるを、やゝ後には分て、御《ミ》は尊む方、【御(ノ)字を書(ク)も此意なり、但し此(ノ)字は漢国にては、王のうへに限りて云を、此方《ココ》にて美《ミ》といふは、天皇の御うへに限らず、凡人《タダビト》にも何《ナニ》にもいふ辭なり、】眞《マ》は美稱《ホム》ると、甚しく云(フ)と、全《マタ》きこととに用ふ、されど古(ヘ)の言の遺《ノコ》れるはなほ通はして、眞熊野《マクマヌ》とも三熊野《ミクマヌ》とも云る類(ヒ)多く、又|眞《マ》と云べきを御《ミ》と云るも、御空《ミソラ》御雪《ミユキ》御路《ミチ》など多かり、御中《ミナカ》も此類なり、天《アメ》のみならず、國之御中《クニノミナカ》里之御中《サトノミナカ》なども萬葉(ノ)歌にあり、【俗言《サトビゴト》にマン中といふも、眞中《マナカ》なり、凡て眞《マ》をなほ甚しく云とてマンと撥《ハ》ね、又マツとつむるは、俗言のつねなり、】又|毛那加《モナカ》と云も眞中《マナカ》の轉《ウツ》れるにて、天武紀に天中央《ソラノモナカ》とあり、【此(ノ)字を以て、此《ココ》の御中《ミナカ》の意をも知(ル)べし、】主《ヌシ》は大人《ウシ》と同言にて、能宇斯《ノウシ》の切《ツヅマ》れるなり、【宇斯《ウシ》を主人と書ることも見えたり、書紀に、繼體天皇の大御父|彦主人王《ヒコウシノミコ》、又續紀に、阿倍(ノ)朝臣|御主人《ミウシ》など是なり、これら今は訓をあやまれり、】故(レ)古(ヘ)に宇斯《ウシ》は、必|某之宇斯《ナニノウシ》と之《ノ》を加《クハ》へたるに云(ヒ)、奴斯《ヌシ》は某主《ナニヌシ》と直《タダ》に連《ツラネ》て、之《ノ》を加《クハ》へぬに云り、飽咋之宇斯能《アキグヒノウシノ》神、大背飯之三熊之大人《オホセヒノミクマノウシ》、大国|主《ヌシノ》神、大|物主《モノヌシノ》神、事代主《コトシロヌシノ》神、經津主《フツヌシノ》神などの如し、又書紀に、齋主《イハヒヌシノ》神(ヲ)號《イフ》2齋之大人《イハヒノウシト》1と見え、【此《コレ》は齋主(ノ)神と云は、其(ノ)神(ノ)號《ナ》、齋之大人と云は、其時祭(リ)につきての職號《ツカサノナ》の如くなるものなるを、その職(ノ)號を即《ヤガテ》其神(ノ)名として、齋主(ノ)神と云なり、然れば職(ノ)號は前にて、神(ノ)號となれるは後なるを、此(ノ)文はなほ後より云る故に、本末まぎらはしく聞ゆめり、】又|丹波美知能宇斯王《タニハノミチノウシノミコ》を、書紀には道主王《ミチヌシノミコ》とある、是《コレ》らを以知(ル)べし、【奴斯《ヌシ》にも之《ノ》を添(ヘ)て某之主《ナニノヌシ》といひ、又たゞ主《ヌシ》とばかり首《ハジメ》に云(フ)などは、みな後のことなり、萬葉十八天平勝寶元年の歌に、たゞ奴之《ヌシ》とあり、そのころよりぞさる言もありけむ、又主(ノ)字を宇斯《ウシ》にあてずして、奴斯《ヌシ》にあてたるは、能宇斯《ノウシ》と云よりも、約めて奴斯《ヌシ》と云し言の、古(ヘ)より多かりし故なるべし、されど本を正《タダ》していはば、主(ノ)字ばかりは宇斯《ウシ》と訓(ム)べきことわりなり、】さて宇斯波久《ウシハク》と云も、其處《ソコ》の主《ウシ》として、領居《シメヲ》ることなり、【宇斯波久の事は、傳十四に委(ク)いふ、】されば此神は、天眞中《アメノマナカ》に坐々て、世(ノ)中の宇斯《ウシ》たる神と申す意の御名なるべし、【或は此(ノ)神を、人臣の祖なりと云ひ、或は國(ノ)常立(ノ)尊の配合にて皇后なりなど云は、心にまかせたる妄説《ミダリゴト》なり、大方近きころは、かゝる邪説《ヲコサマゴト》いと多し、ゆめ惑《マド》はさるゝこと勿《ナカ》れ、】

〇註に、訓《テ)2高《ノ)下《ノ)天《ヲ)1云《フ)2阿麻《アマト》1、下效(ヘ)v此(ニ)とは、高天原を多加麻能波艮《タカマノハラ》と訓(ム)べきことを示したるなり、凡て天某とあるに、四(ツ)の訓《ヨミ》あり、一(ツ)には阿米能某《アメノナニ》、二(ツ)には阿麻能某《アマノナニ》、三(ツ)には阿米某《アメナニ》、四(ツ)には阿麻某《アマナニ》なり、然るを世に此(ノ)四(ツ)の讀《ヨミ》を相誤ることある故に、【阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》を誤(リ)て、阿麻能迦久夜麻《アマノカグヤマ》と云類なり、】かゝる註あり、其例、阿米能《ァメノ》と訓べきをば註《シル》さず、阿米某《アメナニ》と直《タダ》に連《ツヅ》けて、之《ノ》と訓(ム)まじきをば、訓(ムコト)v天(ヲ)如(シ)v天(ノ)と註し、阿麻能《アヤノ》と訓(ム)べきをば、此所《ココ》の如く註せり、【阿麻某《アマナニ》と訓(ム)べき註は見えず、其《ソ》はたま/\記中に然註すべき處はなきにやあらむ、】さて阿麻《アマ》は、高天とつゞく時は、高の加《カ》に阿韻《アノヒビキ》ある故に、おのづから多加麻《タカマ》と讀《ヨマ》るゝなれ、【或人これを疑ひて、常の如く多加麻《タカマ》と訓(ム)べくば、云(フ)v麻《マト》とこそ註すべきに、云2阿麻(ト)1とあるは、多加阿麻乃原《タカアマノハラ》と訓(ム)べきためならむかと云るは、中々にわろし、高天とつゞけては、麻《マ》となれども、註は天(ノ)一字を離《ハナ》していふゆゑに阿麻なり、其例は下に、八咫鏡の註に、訓(テ)v咫(ヲ)云2阿多(ト)1とあれども、なほ夜多《ヤタ》と訓(ム)これなり、是も八《ヤ》に阿《ア》の韻《ヒビキ》ありて、此《ココ》と同じければなり、】高(ノ)下(ノ)とは、天之御中主の天(ノ)字もある故に、分て云るなり、下效(ヘ)v此(ニ)とは、高天原とあるをば、何處《イヅク》にても如此《カク》訓《ヨ》めとなり、

〇次《ツギニ》、都藝《ツギ》は、都具《ツグ》といふ用語の、體語になれるなり、【凡て言に體用の別あり、體とは動かぬをいふ、用とは活《ハタラ》くを云(フ)、其(ノ)體語に、本より體なると、用の體になれるとあり、いと上(ツ)代には、用語多くて、體語すくなかりしを、世々に人の言語の多くなりもてゆくまゝに、用語の分れて、體語にもなれるがいと多きなり、】都具《ツグ》は都豆久《ツヅク》ともと同言なれば、都藝《ツギ》も都豆伎《ツヅキ》と云に同じ、さて其《ソレ》に縱横《タテヨコ》の別《ワキ》あり、縱《タテ》は、假令《タトヘ》ば父の後《ノチ》を子の嗣《ツグ》たぐひなり、横は、兄《セ》の次《ツギ》に弟《オト》の生るゝ類(ヒ)なり、記中に次《ツギニ》とあるは、皆此(ノ)横の意なり、されば今|此《ココ》なるを始めて、下に次(ニ)妹伊邪那美(ノ)神とある次《ツギニ》まで、皆同時にして、指續《サシツヅ》き次第《ツギツギ》に成(リ)坐ること、兄弟の次序《ツイデ》の如し、【父子の次第《ツイデ》の如く、前《サキノ》神の御世|過《スギ》て、次に後(ノ)神とつゞくには非ず、おもひまがふること勿《ナカ》れ、】

〇高御産巣日《タカミムスビノ》神、神産巣日《カミムスビノ》神、高御産巣日(ノ)神は、書紀に、高皇産靈尊、皇産靈此(ヲ)云2美武須毘《ミムスビト》1、古語拾遺に、古語|多賀美武須比《タカミムスビ》、新撰姓氏録に、高彌牟須比《タカミムスビノ》命、などあるを以て訓《ヨミ》を知(ル)べし、【タカンスビなど唱るは、音便に頽《クヅ》れたる後(ノ)世の訛りなり、】御名義《ミナノココロ》、高《タカ》は美稱《タタヘコト》なるべし、別御名《コトミナ》をも高木《タカギノ》神と申せり、【下に見ゆ、】御《ミ》も美稱《タタヘコト》なり、所産巣日(ノ)神は、書紀には神皇産靈《カムミムスビノ》尊とありて、皇《ミ》てふ一言《ヒトコト》多し、まことに高御産巣日《タカミムスビ》と並《ナラ》びたる御名なれば、此《コレ》も必|神御《カミミ》ととあるべきことなり、然るに延喜式出雲(ノ)國(ノ)造(ガ)神賀(ノ)辭にも高御魂神魂《タカミムスビノ》命、また祈年祭(ノ)詞にも神魂高御魂《カミムスビタカミムスビ》、また御巫(ノ)祭(ル)神八座の中なるも、神産日《カミムスピノ》神|高御産日《タカミムスビノ》神【三代實録二卷に出たるも是(レ)に同じ、】とある、此等《コレラ》に此(ノ)二柱を並(ベ)擧(ゲ)たるに、何《イヅ》れも神魂《カミムスビ》の方には御《ミノ》字無し、姓氏録にはあまた處に出たる中に、神御魂《カムミムスピ》ともあれども、多くは神魂《カミムスビ》とあり、故(レ)考るに、凡て古言に同音《オナジコヱ》の二つ重《カサ》なるをば、約《ツヅ》めて一つに云(フ)例|此彼《コレカレ》とあれば、【倭迹々日《ヤマトトトビ》てふ皇女の御名を、夜麻登々《ヤマトト》ともあり、又|旅人《タビビト》を多毘登《タビト》とある類なり、】これも神御《カミミ》と美《ミ》の重《カサ》なる故に、多く約《ツヅ》めて申しならへるなり、されば神《カミ》の微《ミ》に御《ミ》は具《ソナハ》れり、神(ノ)字|迦微《カミ》と訓べし、【迦微美《カミミ》を切《ツヅ》めても、迦牟美《カムミ》を切《ツヅ》めても、共に迦微《カミ》となればなり、迦牟《カム》と訓(ミ)ては、御《ミ》てふ言|具《ソナハ》らず、但し書紀などの如く、神皇とあるは、神を迦牟《カム》《カム》と訓べきなり、又神皇神御ともに、二字を迦微《カミ》と訓(ム)も可《ヨ》けむ、】御名義《ミナノココロ》、神御《カミ》は高御《タカミ》と並びたる稱辭《タタヘコト》なり、産巣日《ムスビ》は、字は皆|借字《カリモジ》にて、産巣《ムス》は生《ムス》なり、其《ソ》は男子《ムスコ》女子《ムスメ》、又|苔《コケ》の牟須《ムス》【萬葉に草武佐受《クサムサズ》などもあり、】など云|牟須《ムス》にて、物の成出《ナリイヅ》るを云(フ)、【されば産(ノ)字は正字と見ても可《ヨ》し、書紀にも産靈《ムスビ》と書《カカ》れ、又|産日《ムスビ》とも書ることあればなり、さて牟《ム》に此字を書(ク)は、宇牟《ウム》てふ言なり、仁徳天皇の大御歌に、子産《コウム》を古牟《コム》とよませたまへり、さて又|産巣《ムス》を生《ムス》の意とはせずして、産(ム)を生《ウム》の意とし、巣日《スピ》を連《ツヅ》けて見べきかと思ふ由もあり、其(ノ)考(ヘ)は七之卷五十七葉に出せり、】日《ビ》は、書紀に産靈《ムスビ》と書《カカ》れたる、靈(ノ)字よく當れり、凡て物の靈異《クシビ》なるを比《ヒ》と云、【久志毘《クシビ》の毘《ビ》も是(レ)なり、】高天(ノ)原に坐(シ)々(ス)天照大御神を、此(ノ)地《クニ》より瞻望《ミサケ》奉りて、日《ヒ》と申すも、天地(ノ)間に比類《タグヒ》もなく、最《モトモ》靈異《クシビ》に坐(ス)が故の御名なり、比古《ヒコ》比賣《ヒメ》などの比《ヒ》も、靈異《クシビ》なるよしの美稱《タタヘナ》なり、又|禍津日《マガツビ》直毘《ナホビ》などの毘《ビ》も此(ノ)意なり、されば産靈《ムスビ》とは、凡て物を生成《ナ》すことの靈異《クシビ》なる神靈《ミタマ》を申すなり、【さきに此(ノ)毘《ビ》を、神佐備《カムサビ》荒備《アラビ》などの備《ビ》と同くて、夫流《ブル》とも活用《ハタラキ》て、米久《メク》と云に似たり、されば牟須毘《ムスビ》とは、生《ムサ》むとする状《サマ》を云なり、と思へりしは非ず、彼(ノ)夫流《ブル》と活用《ハタラ》く備《ビ》とは異なり、故(レ)假字も彼(レ)は備を書き、此(レ)は皆毘を書り、】此(ノ)外に、火産靈《ホムスビ》、和久産巣日《ワクムスビ》、玉留産日《タマツメムスビ》、生産日《イクムスビ》、足産日《タルムスピ》、角凝魂《ツヌコリムスビ》など申す御名もあり、牟須毘《ムスビ》の意皆同じ、さて世間《ヨノナカ》に有(リ)とあることは、此(ノ)天地を始めて、萬(ヅ)の物も事業《コト》も悉《コトゴト》に皆、此(ノ)二柱の産巣日《ムスビノ》大御神の産靈《ムスビ》に資《ヨリ》て成(リ)出る」ものなり、【いで其事の、顯《アラハ》れて物に見えたる跡を以て、一つ二ついはば、まづ伊邪那岐(ノ)神伊邪那美(ノ)神の、國土《クニツチ》萬(ノ)物をも、神|等《タチ》をも生成《ウミナシ》賜へる其初(メ)は、天(ツ)神の詔命《オホミコト》に由《ヨ》れる、其(ノ)天(ツ)神と申すは、此《ココ》に見えたる五柱の神たちなり、又天照大御神の、天(ノ)石屋に刺隠《サシコモリ》坐(シ)し時も、御孫《ミマノ》命の天降坐むとするによりて、此國|平《ムケ》つべき神を遣《ツカハ》す時も、其事|思慮《オモヒハカリ》給ひし思金(ノ)神は、此(ノ)神の御子なり、又此(ノ)國を造固《ツクリカタ》め給ひし少名毘古那(ノ)神も、此(ノ)神の御子なり、又忍穗耳(ノ)命の御合《ミアヒ》坐て、御孫《ミマノ》命を生《ウミ》奉(リ)給ひし豊秋津師比賣(ノ)命も、此(ノ)神の御女なり、又此(ノ)國の荒《アラ》ぶる神等を言向《コトムケ》しも、御孫(ノ)命の天降坐(シ)しも、皆此(ノ)神の詔命《オホミコト》に由《ヨ》れり、大かた是(レ)らを以て、世に諸の物頼《モノ》も事業《コト》も成《ナ》るは、みな此(ノ)神の産靈《ムスビ》の御徳《ミメグミ》なることを考へ知べし、凡て世間《ヨノナカ》にある事の趣は、神代にありし跡を以て考へ知べきなり、古(ヘ)より今に至るまで、世(ノ)中の善惡《ヨキアシ》き、移《ウツ》りもて來《コ》しさまなどを驗《ココロ》むるに、みな神代の趣に違《タガ》へることなし、今ゆくさき萬代までも、思ひはかりつべし、さて又右に擧たる事どもを、なほよく考るに、天照大御神に此(ノ)神相並(ビ)坐て大御詔《オホミコト》仰《オホ》せて、事ども成り、大穴牟遲(ノ)命に少名毘古那(ノ)神相並(ビ)坐て、國成り、忍穗耳(ノ)命に豐秋津師日女(ノ)命相|配《タグヒ》坐て、御孫(ノ)命|生坐《アレマセ》り、是(レ)ら何《イヅ》れも相並(ビ)坐(ス)神有(リ)て、此(ノ)神の産靈《ムスビ》の御功《ミイサヲ》の成れることの同じさまなるも、深き理(リ)あることなるべし、又書紀に此(ノ)神の御兒千五百座《ミコチイホクラ》ありつとある、千五百《チイホ》は、たゞ數の限りなく多きを云例なれば、あらゆる神たちを、皆此所の御兒《ミコ》なりと云むも違はず、神も人もみな此神の産靈《ムスビ》より成《ナリ》出(ヅ)ればなり、拾遺集の歌に、君見ればむすぶの神ぞ恨めしき、つれなき人を何《ナニ》造《ツク》りけむとよめるは、そのころまではなほ、世(ノ)人も古(ヘノ)意をよく知れりしなり、狹衣(ノ)物語に、いとかくしも造《ツク》りおききこえさせけむむすぶの神さへ恨めしければといへるは、彼(ノ)拾遺集(ノ)歌に依ていへるなり、】されば世に神はしも多《サハ》に坐(セ)ども、此(ノ)神は殊に尊《タフト》く坐々(シ)て、産靈《ムスビ》の御徳《ミメグミ》申すも更《サラ》なれば、有(ル)が中にも仰ぎ奉るべく、崇《イツ》き奉るべき神になむ坐ける、【然るを書紀の初《ハジメ》に、此(ノ)神をしも擧《アゲ》られざるは、甚《イタ》く事|足《タラ》はぬさまなり、一書は一書にて、本書とは別《コト》ことなるに、本書には、末に至(リ)てゆくりなく出(デ)給へるも、いかにぞや聞ゆ、此(ノ)神は、餘神《アダシカミ》のつらに然《シカ》ゆくりなく擧《アゲ》奉るべき神には坐(サ)ねば、必此記の如く、初(メ)に擧《アゲ》奉りおかるべきことなりかし、又代々の物知(リ)人たちも、たゞ國(ノ)常立(ノ)神をのみ、上《ウヘ》なき神のごと、言痛《コチタキ》まで言擧《イヒアゲ》て、此(ノ)産靈日(ノ)神の御徳《ミカゲ》をば、さしもさだせざるは、たゞ書紀をのみ據《ヨリドコロ》として、此記などをよくも見ず、ことの意を深く考へざる失《アヤマチ》なり、上(ツ)代より此(ノ)神をこそ、朝廷にも殊に崇祠《イツキマツ》り給へ、彼國(ノ)常立(ノ)神は、ことに祭り給ひし事も聞えず、諸國《クニグニ》の神社どもの中にも、をさ/\見えたまへることなきをや、】さて此(ノ)大御神は、如此《カク》二柱坐(ス)を、記中に其(ノ)御事を記せるには、二柱並(ビ)出(デ)給へる處はなくして、或(ル)時は高御産巣日(ノ)神、或(ル)時は神産巣日御祖(ノ)命、とかた/”\一柱のみ出給へる、其(ノ)御名は異《カハ》れども、唯《タダ》同(ジ)神の如《ゴト》聞えたり、抑かく二柱にして一柱の如く、一柱かと思へば二柱にして、其(ノ)差《ケヂメ》の髣髴《オホホ》しきは、いと深き所以《ユヱ》あることにぞあるべき、さて古語拾遺などには、高御産巣日神を神魯伎《カムロギノ》命、神産巣日(ノ)神を神魯美《カムロミノ》命とせり、又和名抄には、産靈と標《アゲ》て、无須比乃加美《ムスビノカミ》とあり、【或書に此(ノ)二柱の産巣日(ノ)神を、天之御中主(ノ)神の御子とするは、例のおしあての漫言《ミダリゴト》なり、】書紀神武(ノ)御卷に、天皇|大御身《オホミミ》づから顯齋《ウツシイハヒ》して、高皇産靈(ノ)尊を祭り賜ひ、又|鳥見《トミノ》山中に祭庭《マツリニハ》を構《カマヘ》て、皇祖《ミオヤ》天(ツ)神を祭り賜ひしこと見えたり、神名帳に、神祇官(ニ)坐(ス)御巫(ノ)祭(ル)神八座【並大、月次新嘗、】の首《ハジメ》に、神産日《カミムスビノ》神|高御産日《タカミムスビノ》神とあり、此(ノ)八座の神|等《タチ》を祭(リ)給ふことは、神倭伊波禮毘古《カムヤマトイハレビコノ》天皇の御世より始まりつる事、古語拾遺に見ゆ、此(ノ)餘《ホカ》にも此(ノ)神を祭れる社は、神名帳に、山城(ノ)國乙訓(ノ)郡|羽束師《ハヅカシニ》坐(ス)高御産日(ノ)神(ノ)社、【大、月次新嘗、】大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡|宇奈太理《ウナタリニ》坐(ス)高御魂(ノ)神社、【大、月次相嘗新嘗、持統紀に、新羅(ノ)調《ミツギモノ》を奉りたまへる五社の中に、菟名足《ウナタリ》とあるは、此社なり、又三代實録に、法華寺(ノ)薦枕高御産栖日《コモマクラタカミムスビノ》神とありて、正三位また從二位を授奉りたまひしも、此社なり、】十市(ノ)郡目原(ニ)坐(ス)高御魂(ノ)神(ノ)社二座、【並大、月次新嘗、】對馬下縣(ノ)郡高御魂(ノ)神社、【名神大、書紀(ノ)顯宗(ノ)卷(ノ)十五葉考(ヘ)合すべし、】山城國(ノ)風土記に、久世(ノ)郡水渡(ノ)社、名(ク)2天照高|彌牟須比《ミムスビノ》命、和多都彌豐玉比賣(ノ)命(ト)1、【神名式に水度(ノ)神社三座とあり、】三代實録【十二】に、大和(ノ)國神皇産靈(ノ)神など見えたり、

〇三柱《ミバシラ》、凡て古(ヘ)は、神をも人をも數《カゾ》へては、幾柱《イクハシラ》と云り、神は本よりのことにて、皇子等《ミコタチ》などをも然《シカ》云る、記中|常《ツネ》のことなり、やゝ後には、三代實録【十一】清和天皇の大命に、太政大臣一柱と詔《ノリタマ》ひ、うつほの物語【藤原(ノ)君(ノ)卷】に、大將なる人の女等《ムスメタチ》の事を云に、今《イマ》一柱《ヒトハシラ》はと云り、皆|貴人《タカキヒト》のうへのことなり、【書紀に、佛像一躯二躯などあるをも、一《ヒト》はしら二《フタ》はしらと訓(メ)り、おちくぼの物語にも、佛一はしら、佛九はしらなどあり、又文粹前中書王の文に、白檀(ノ)觀世音菩薩一柱とあり、漢文にはめづらし、さて又稱徳紀の宣命には、二所乃天皇《フタトコロノスメラミコト》とあり、中昔の歌物語などにも、貴人をばみな幾所《イクトコロ》と云り、今(ノ)世の俗言《サトビゴト》に、御一方《オヒトカタ》御二方《オフタカタ》と云が如し、】さてかく柱《ハシラ》としも云|所以《ユヱ》は、詳《サダカ》ならねど、まづ上(ツ)代には、宮造《ミヤツク》ることを云に、底津石根に宮柱|布刀斯理《フトシリ》と稱《タタ》へ、或は柱は高太《タカクフト》くなどもいひ、大殿祭(ノ)詞などにも、柱の事をのみ旨《ムネ》といひ、又書紀の袁祁御子《ヲケノミコ》の室壽《ムロホギ》の御詞にも、築立柱者此家長御心之鎭《ツキタツルハシラハコノイヘキミノミココロノシヅマリ》也と先(ヅ)詔ひ、其外神代の始(メ)に、女男《メヲノ》大神天之御柱を行廻《ユキメグ》り坐(シ)しを始(メ)て、柱を云ること多く、後には神(ノ)宮に心(ノ)御柱など云こともあり、かくて其(ノ)柱は、あまた並立《ナミタテ》る物なるが故に、もと皇子《ミコ》たちなどを、數多立並《アマタタチナラビ》坐(ス)を賀《ホギ》て、幾柱《イクハシラ》と譬《タト》へ申せしにやあらむ、賀譬《ホギタト》へし例は、萬葉二【卅丁】に、眞木柱太心者《マキバシラフトキココロハ》と、大《オホキ》にして不動心《ウゴカヌココロ》をたとへ、二十【二十一丁】に、麻気波之良《マケバシラ》、寶米弖豆久禮留等乃能其等《マケバシラホメテツクレルトノノゴト》、已麻勢浪々刀自《イマセハハトジ》、於米加波利勢受《オメカハリセズ》などあり、又あまた立並《タチナラ》ぶを木に譬へたるは、同廿【二十八丁】に、麻都能気乃《マツノケノ》、奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》、伊波妣等乃《イハビトノ》、和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》、多々理之母己呂《タタリシモコロ》【松(ノ)樹の並《ナラビ》たるを見れば、家人の我を見送るとて立《タテ》りしが如し、と云ことなり、】とあり、【私記に、蓋(シ)古(ヘ)以(テ)2貴人(ヲ)1喩(ヘタリ)2於木(ニ)1、故(レ)爲2一柱一木(ト)1矣、以2賤一(ヲ)1喩2於草(ニ)1、故謂2青人草(ト)1也、といへる、此説はわろし、】

〇並は美那《ミナ》と訓べし、【字書に、皆也とも、偕也とも、併也とも、比也とも注せり、是(レ)を那艮毘爾《ナラビニ》と訓(ム)は、古(ヘ)の語《モノイヒ》ざまにあらず、】

〇獨神《ヒトリガミ》とは、次々の女男《メヲ》※〔耒+偶の旁〕《タグヒ》て成(リ)坐る神たちと別《ワカ》ちて、唯一柱づゝ成(リ)坐て、配坐《ナラビマス》神|無《ナ》きを申すなり、並《ナラブ》兄弟《ハラカラ》のなき子を、獨子《ヒトリゴ》と云が如し、【神の下に登《ト》てふ辭《テニヲハ》を添(ヘ)て讀《ヨム》はわろし、】

〇隱身也《ミミヲカタシタマヒキ》とは、御身《ミミ》の隱《カク》りて、所見顯《ミエアラハ》れ給はぬを云なり、【御形體《ミカタチ》の無きを如此《カク》言《イフ》と心得るは、後(ノ)世のなまさかしらなり、少名毘古那(ノ)神の事を、神産巣日(ノ)命の、自(リ)2我(ガ)手俣《タナマタ》1久伎斯子也《クキシミコナリ》、と詔へるを思ふべし、御身|無《ナ》くて、御手はあるべきかは、此(ノ)手俣《タナマタ》のこと、世人の心には、如何《イカニ》思ふらむ、凡て神代の故事《フルコト》を、假《カリ》の寓言《コトヨセゴト》の如く見るは、例の漢意《カラゴコロ》の癖《クセ》にして、甚《イタ》く古(ヘ)の傳への意に背《ソム》けり、】

〇上(ノ)件三柱(ノ)神は、如何《イカ》なる理《コトワリ》ありて、何《ナニ》の産靈《ムスビ》によりて成(リ)坐(セ)りと云こと、其(ノ)傳(ヘ)無《ナ》ければ知(リ)がたし、然《サ》るは甚《イト》も/\奇《クス》しく靈《アヤ》しく妙《タヘ》なることわりによりてぞ成(リ)坐(シ)けむ、されど其《ソ》はさらに心も詞も及ぶべきならねば、固《モトヨ》り傳(ヘ)のなきぞ諾なりける、【凡て古(ヘ)の傳(ヘ)なき事を、己が心以て其(ノ)理を考へて、おしあてに説《ト》くは、外國《トツクニ》のならひにて、いと妄《ミダリ》なるわざなり、】又此神たちは、天地よりも先《サキ》だちて成(リ)坐(シ)つれば、【天地の成ることは、此(ノ)次にあれば、此(ノ)神たちの成坐るは、其《ソレ》より前なること知べし、】たゞ虚空中《オホソラ》にそ成(リ)坐しけむを、【書紀一書に天地初判《アメツチノハジメノトキ》、一物在於虚中《オホソラニモノヒトツナレリ》、又一書に、天地初判《アメツチノハジメノトキ》、有物若葦芽生於空中《アシカビノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、などあるを以て准へ知べし、いまだ天も地も無き以前《マヘ》は、いづくも/\みなむなしき大虚空《オホソラ》なりき、〇虚空《ソラ》を即(チ)》天とするは、漢籍《カラブミ》のさだなり、天は虚空《ソラ》を謂(フ)に非ず、なほ天と虚空《ソラ》とは別《コト》なること、傳十七の廿七の葉にいへり、】於《ニ》2高天(ノ)原1成《ナリマス》としも云るは、後に天地成(リ)ては、其(ノ)成(リ)坐(セ)りし處《トコロ》、高天(ノ)原になりて、後まで其(ノ)高天(ノ)原に坐(シ)々(ス)神なるが故なり、【元來《モトヨリ》高天(ノ)原ありて、其處《ソコ》に成(リ)坐(ス)と云にはあらず、】書紀(ノ)一書(ニ)日(ク)、天地初判《アメツチノハジメノトキ》、始《ハジメヨリ》有2倶生之神《トモニナリマセルカミ》1云々、又曰、高天(ノ)原(ニ)所生神名《ニナリマセルカミノミナヲ》、曰2天御中主《アメ ミナカヌシノ》尊(ト)1、次(ニ)高皇産靈(ノ)尊、次(ニ)神皇産靈(ノ)尊、

 

次國稚如浮脂而《ツギニクニワカクウキアブラノゴトクニシテ》。久羅下那洲多陀用幣琉之時《クラゲナスタダヨヘルトキニ》。【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而成神名《アシカビノゴトモエアガルモノニヨリテナリマセルカミノミナハ》。宇麻志阿斯※〔言+可〕備比古遲神《ウマシアシカビヒコヂノカミ》。【此神名以音】次天之常立神《ツギニアメノトコタチノカミ》。【訓常云登許立云多知】此二柱神亦獨神成坐而《コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ》。隱身也《ミミヲカクシタマヒキ》。

 上件五柱神者別天神《カミノクダリイツバシラノカミハコトアマツカミ》。

 

次《ツギニ》は、下の成神《ナリマセルカミ》へ係《カカ》れり、【國稚《クニワカク》云々へ係て云には非ず、】次成神名國之常立《ツギニナリマセルカミノミナハクニノトコタチノ》神などあると同じ、其餘《ソノホカ》も前後《カミシモ》みな次《ツギニ》某《ソノ》神とある例なるを、此《ココ》は其(ノ)成(リ)坐る由縁《ユヱヨシ》より云(フ)故に、文《コトバ》の隔《ヘダタ》れるなり、

〇國稚《クニワカク》、稚は和※〔言+可〕久《ワカク》と訓べし、【書紀に、和※〔言+可〕《ワカ》にみな此字を用ひられたり、但し此(ノ)記には、凡て和※〔言+可〕には、若(ノ)字を用ひて、稚を書る例なければ、此《ココ》は和※〔言+可〕久には非じかとも思へど、他《ホカ》に訓べき言を未(ダ)思ひ得ず、書紀(ノ)一書に、國稚地稚之時とあるをば、クニイシツチイシノトキと訓るを、忌部(ノ)正通(ノ)口決に、宇比志《ウヒシ》なりと解《トキ》たり、宇比《ウヒ》を切《ツヅ》むれば伊《イ》となれば、然《サ》もあるべし、されどイシノトキと云ては、言の連《ツヅ》きざま協《トトノ》はず、凡てかゝる用言より之《ノ》とつゞくことは古(ヘ)無しと、師の云れしが如し、又|之《ノ》を省《ハブ》きて、イシトキと云ても、なほ協《トトノ》はず、若(シ)うひしてふ意ならば、國《クニ》イシク地《ツチ》イシキ時とぞ訓べき、されど此(ノ)言|他《ホカ》に見えず、又書紀にても、稚(ノ)字は和※〔言+可〕《ワカ》と云にのみ用ひて、異訓《アダシヨミ》は此外に見えず、かにかくに彼(ノ)訓はおほつかなくなむ、】和※〔言+可〕志《ワカシ》とは、凡て物の末(ダ)成りとゝのはざるを云て、書紀などに幼(ノ)字をも訓み、中昔の物語書などにも、人の幼稚《イトケナ》きを云ること多く、萬葉に三日月《ミカヅキ》を若月とも書き、【月の形のいまだ滿《ミチ》とゝのはざる意を以て、若てふ字をば書るなり、】推古紀には肝稚《キモワカシ》と云ことも見えたり、【文物の壯《サカリ》に美麗《ウルハシ》き方に云こともあり、美稱《タタヘコト》に若某《ワカナニ》と云類なり、此《コ》は未(ダ)成(リ)とゝのはぬを云とは、甚《イタ》く異なる如くなれども、本は一(ツ)意なり、】さて国土《クニツチ》は、伊邪那岐伊邪那美(ノ)大神の始めて生成《ウミナシ》賜へれば、此(ノ)時には未(ダ)然物《サルモノ》は無きを、如此《カク》言《イヘ》るは、成れる後の名を假《カリ》て、其(ノ)始(メ)の状《アリサマ》を談《カタ》れるなり、

〇浮脂は宇伎阿夫良《ウキアブラ》と訓べし、浮雲《ウキクモ》浮草《ウキクサ》など云類の稱《ナ》にて、物の脂《アブラ》の水に浮《ウカ》べるを、古(ヘ)に如此《カク》稱《カヒ》しなり、【ウカベルアブラと訓るはわろし、】脂は、和名抄に、【形體(ノ)部、肌肉類】脂膏(ハ)和名|阿布良《アブラ》、又【燈火具に】油(ハ)、四聲字苑(ニ)云、油(ハ)※〔しんにょう+乍〕(テ)v麻(ヲ)取(レル)脂(ナリト)也、和名|阿布良《アブラ》とあり、さて脂《アブラ》に譬《タト》へたる例は、朝倉(ノ)宮(ノ)段に、大御盞《オホミサカヅキ》に槻《ツキ》の葉の落浮《オチウカ》べるを、三重※〔女+采〕《ミヘノウネベ》が歌に、宇伎志阿夫良《ウキシアブラ》とよめり、【御盞なる御酒《ミキ》のうへに、木(ノ)葉の浮べりけむ形状《サマ》を以て、今|此《ココ》の状《アリサマ》を思ひ合すべし、】抑此(ノ)段《クダリ》は、天地の成《ナ》る初發《ハジメ》を云るにて、先(ヅ)其(ノ)初《ハジメ》に、此(ノ)物の一叢《ヒトムラ》生出《ナリイデ》たるなり、【此(レ)を如(シ)2浮脂(ノ)1と譬へたるは、たゞ其(ノ)漂蕩《タダヨ》へるありさまの似たるなり、其(ノ)物を脂の如くなる物と謂《イフ》には非ず、書紀の傳(ヘ)には、魚にも雲にも譬へたるにて知べし、一書には、其《ソノ》状貌《カタチ》難《ガタシ》v言《イヒ》ともある如く、正《マサ》しき其物の形は、言《イヒ》がたきなるべし、】

〇久羅下那洲《クラゲナス》は、多陀用幣琉《タダヨヘル》の枕詞なり、【こは如(クナル)2浮脂(ノ)1物の、漂蕩《タダヨ》へる状《サマ》を譬へて云る言には非ず、其《ソ》は既に如2浮脂1と云へればなり、若(シ)如(クナル)2浮脂(ノ)1物とあらば、浮脂は其(ノ)形を譬へ、久羅下《クラゲ》は其(ノ)漂蕩《タダヨ》へるさまを譬へたりとも云べけれど、然《サ》る文《コトバ》のさまにはあらず、】久羅下《クラゲ》は、和名抄に、崔禹錫(ガ)食經(ニ)云(ク)、海月一名水母、貌似(タリ)3月(ノ)在(ルニ)2海中(ニ)1、故(ニ)以(テ)名(クト)v之(ヲ)、和名|久良介《クラゲ》とあり、此(ノ)物海(ノ)中を漂蕩《タダヨ》ひ行《アリ》く物にて、其(ノ)形|晝《ヒル》晴《ハレ》たる天《ソラ》に月の白く見ゆるに甚《イト》よく似て、信《マコト》に海月と名けつべきさましたる物なりとぞ、那洲《ナス》は如《ゴト》くと云意にて、吾《ワガ》徒《トモ》稻掛(ノ)大平が、似《ニ》すなるべしと云る、さもあるべし、【那《ナ》と爾《ニ》とは通(フ)音なるうへに、那須《ナス》を能須《ノス》とも云る例あると、和名抄備中の郷(ノ)名に、近似(ハ)知加乃里《チカノリ》と見え、又似を漢籍にてノレリと訓(ム)などとを合せて思へば、似《ニ》すを那須《ナス》と云(ヒ)つべきものぞ、】此(ノ)辭、倭建(ノ)命の御言に、吾足《アガアシ》成《ナセリ》2當藝斯形《タギシノカタチ》1と詔ひ、輕太子《カルノミコノミコト》の御歌に、加賀美那須阿賀母布都麻《カガミナスアガモフツマ》と見え、萬葉には三【五十九丁】に、五月蠅成驟騷舍人《サバヘナスサワグトネリ》、五【三十八丁】に、五月蠅奈周佐和久兒等《サバヘナスサワグコドモ》、二【三十五丁】に、鶉成伊波比廻《ウヅラナスイハヒモトホリ》、三【五十四丁】に、哭兒成慕來座而《ナクコナスシタヒキマシテ》などあり、猶多し、又歌ならぬたゞの詞に、枕詞を置る例は、書紀(ノ)神代(ノ)卷に、眞髪觸奇稻田媛《マガミフルクシナダヒメ》、神功(ノ)卷に、幡荻穗出吾《ハタススキホニデシアレ》也、又|天疎向津媛《アマザカルムカツヒメノ》命、履中(ノ)卷に、鳥往來羽田之汝妹《トリカヨフハダノナニモ》、三代實録に、薦枕高御産巣日《コモマクラタカミムスビノ》神など、古(ヘ)は多かり、

〇多陀用幣琉《タダヨヘル》は、書紀に漂蕩とある、此(ノ)字の如し、【書紀には久羅下那洲《クラゲナス》と云ことを略《ハブ》かれたり、是《コレ》にても枕詞なることを知(ル)べし、私記に、此(ノ)漂蕩(ノ)二字を、クラゲナスタヾヨヘリと訓べき由のさだあり、上宮記大倭本紀など云古書にも、此(ノ)クラゲナスと云言ありと云り、】萬葉にも此(ノ)字を書(ケ)り、琉(ノ)下なる之(ノ)字讀(ム)べからず、【よむはひがことなり、】さて此(ノ)物の如此《カク》漂《タダヨ》ひたるは、如何《イカ》なる處《トコロ》にかと云に、虚空中《オホソラ》なり、次に引る如く書紀に、虚中とも空中ともあるを見て知(ル)べし、【然るを如(ク)2浮脂(ノ)1といひ、久羅下那洲などもあるに就《ツキ》て、此(ノ)物海(ノ)上に漂《タダヨ》へりと心得むは、いたく非《ヒガコト》なり、此《ココ》は未(ダ)天地成らざる時にて、海も無ければ、ただ虚空《オホソラ》に漂《タダヨ》へるなり、かくて海になるべき物も、此(ノ)漂《タダヨ》へる物の中に具《ソナハ》れるぞかし、】書紀に、開闢之初《アメツチノハジメノトキ》、洲壤浮漂《クニツチタグヨヒテ》、譬3猶《ゴトクナリキ》游魚之《ウヲノ》浮《ウケルガ》2水上《ミヅニ》1也云々、一書曰、天地初判《アメツチノハジメノトキ》、一2物在《ヒトツノモノナレリ》於|虚中《オホソラニ》1、状貌《ソノカタチ》難《ガタシ》v言《イヒ》云々、一書曰、古(ヘ)國稚地稚之時《クニワカクツチワカカリシトキ》、譬2猶《ゴトクニシテ》浮膏《ウキアブラノ》1而|漂蕩《タダヨヘリ》云々、一書曰、天地未生之時《アメツチイマダナラザリシトキニ》、譬3猶《ゴトクナリキ》海上浮雲《ウナハラナルウキクモノ》無《ナキガ》2所根係《カカルトコロ》1云々とある、此等《コレラ》と引合せて、其時の形状《アリカタ》をこまかに辨へ知(ル)べし、【開闢之初、また天地初判などあるは、此(ノ)記の首《ハジメ》に、天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》とあると同じくて、先(ヅ)たゞ大らかに、此(ノ)世の初(メ)と云(ヒ)出たるものなり、天地未生之時と云るは、いさゝかくはしく云るなり、さて洲壤云々は、此(ノ)記の國稚《クニワカク》にあたり猶游魚云々、また状貌難言、また猶海上浮雲云々などは、如(ク)2浮脂(ノ)1と云(フ)にあたれり、されば傳々《ツタヘツタヘ》各いさゝか異なるが如くなれども、よく考ふれば、其(ノ)形状《アリサマ》は皆同じことなり、】さて此(ノ)浮脂《ウキアブラ》の如く漂蕩《タダヨ》へりし物は、何物《ナニモノ》ぞと云に、是(レ)即(チ)天地《アメツチ》に成るべき物にして、其(ノ)天に成(ル)べき物と、地に成べき物と、未(ダ)分れず、一(ツ)に淆《マジ》りて沌《ムラ》かれたるなり、書紀(ノ)一書に、天地混成《アメツチムラカレナル》之|時《トキ》とある是(レ)なり、【混とは、未(ダ)分れずして、淆《マジ》りて一沌《ヒトムラ》なることにて、即(チ)此(ノ)浮脂の如くなる物の、始めて生出《ナリイデ》たるを、混成《マロカレナル》とは云るなり、或人問(ヒ)けらく、天に成(ル)べき物と云こと心得ず、天は實形《カタチ》なければ、其(ノ)初(メ)より物あるべくもあらず、いかゞ、答ふ、天は即(チ)高天(ノ)原なれば、實形《カタチ》あること云(フ)もさらなり、仰《アフ》ぎ望て見えざるは、たゞ遠《トホ》き故に、眼《メ》の力《チカラ》の及ばざるにこそあれ、然るを天はたゞ氣のみと云ひ、或は理のうへを以て云(フ)などは、みな外國のおしはかりの説にして、甚《イタ》く古(ヘノ)傳(ヘ)の趣に違《ダガ》へり、又問(フ)、然らば其(ノ)未(ダ)分れざりしほど、天となるべき物は何物なりしぞ、答(フ)、天になるべき物は如何《イカ》なる物なりけむ、傳説《ツタヘゴト》なければ知(リ)がたし、又問(フ)、地となるべき物は何物なりしぞ、答(フ)、潮《ウシホ》に※〔泥/土〕《ヒヂ》の淆《マジ》りて濁れる物なりき、此《コ》は下に、女男《メヲノ》大神指(シ)2下(シ)沼矛(ヲ)1以(テ)畫者《カキタマヘバ》、鹽許々袁々呂々邇《シホコヲロコヲロニ》云々と見え、書紀にも、以2天之瓊矛(ヲ)1指下而探之、是獲滄溟、とあるを以て知(ル)べし、猶委き事は彼(ノ)御段《ミクダリ》に云べし、】

〇註に、以音とあるは、其(ノ)字の意をば取らず、唯《タダ》音のみを借(リ)用(フ)るをいふ、即(チ)假字《カナ》なり、以は用の意なり、母知布《モチフ》と訓べし、記中なる皆同じ、

〇如《ゴト》2葦牙《アシカビノ》1、葦は、和名抄に、蘆葦、兼名苑(ニ)云、葭一名葦、爾雅注(ニ)云、一名蘆(ト)、和名|阿之《アシ》と見ゆ、葦牙は阿斯※〔言+可〕備《アシカビ》と訓べし、【書紀にも然訓り、但し備《ビ》を清《スミ》て、伊《イ》の如く讀(ム)はわろし、又|※〔言+可〕《カ》を濁るもわろし、成(リ)坐る神(ノ)御名の※〔言+可〕備《カビ》にて清(ミ)濁(リ)炳焉《イチジル》し、】葦のかつ/”\生初《オヒソメ》たるを云(フ)名なり、牙(ノ)字は芽と通へり、和名抄に、玉篇(ニ)云、※〔草がんむり/亂〕※〔草がんむり/炎〕(ナリ)也、※〔草がんむり/炎〕(ハ)蘆(ノ)之初(メテ)生(タルナリト)也、和名|阿之豆乃《アシヅノ》とある、【葦の初生《オヒソム》るを角具牟《ツノグム》と云故に、葦角《アシヅノ》とも云なり、】是(レ)葦牙《アシカビ》なり、さて如《ゴト》とは、此《コレ》は其(ノ)物の形の葦牙に似たるなり、只|萌騰《モエアガ》るさまの似たるのみには非ず、【故(レ)書紀にも、形如(シ)2葦牙(ノ)1とも、有v物若(シ)2葦牙(ノ)1ともあり、彼(ノ)浮脂《ウキアブラ》の、唯《タダ》に漂蕩《タダヨ》へる状《サマ》のみを譬へたるとは、いさゝか異《コト》なり、】此《コレ》に因《ヨリ》て成坐る神の御名にしも負《オホ》せ奉(リ)しを以て、其(ノ)いとよく似たりけむほどを知(ル)べし、

〇萌騰之物は、母延阿賀流母能《モエアガルモノ》と訓べし、【之(ノ)字讀(ム)べからず】萬葉十【八丁】に春楊者目生來鴨《ハルノヤナギハモエニケルカモ》、又|此河楊波毛延爾家留可聞《コノカハヤギハモエニケルカモ》などよめり、【木草の莖又葉の、はつかに出(デ)初(メ)たるを、芽《メ》と云も、母延《モエ》の約《ツヅ》まりたる名なるべし、又|米具牟《メグム》も、母延具牟《モエグム》なるべし、】阿賀流《アガル》てふ言は、書紀(ノ)神武(ノ)卷に、一柱騰宮、此(ヲ)云2阿斯毘苔徒鞅餓離能宮《アシヒトツアガリノミヤト》1などあり、物は天《アメ》と成(ル)べき物なり、さて此(ノ)物は、何處《イヅレノトコロ》より萌騰《モエアガ》りしぞと云に、彼(ノ)虚空中《オホゾラ》に漂蕩《タダヨ》へる浮脂の如くなる物の中より出《イデ》たるなり、彼(ノ)書紀《(ノ)一書に、一2物在《ヒトツノモノナレリ》於|虚中《オホソラニ》1、状貌《ソノカタチ》難(シ)v言(ヒ)、其(ノ)中《ナカニ》自《オノヅカラ》有(リ)2化生《ナレル》之|神《カミ》1云々、【其(ノ)中とあるを思ふべし、】一書に、于時《トキニ》國中《クニノナカニ》生《ナレリ》v物《モノ》、状《ソノカタチ》如(シ)2葦牙之抽出《アシカビノモエイヅルガ》1也、因《ヨリテ》v此《コレニ》有《アリ》2化生《マリマセル》之|神《カミ》1、號《マヲス》2可美葦牙彦舅《ウマシアシカビヒコヂノ》尊(ト)1云々、【國(ノ)中とは、すなはち猶2浮膏《ウキアブラノ》1而|漂蕩《タダヨヘリ》と云物の中なり、】一書に、譬2猶《ゴトクナリキ》海上浮雲《ウナハラナルウキクモノ》《ナキガ》1v所《トコロ》2根係《カカル》1、其中《ソノナカニ》《ナレリ》2一物《モノ》1、如(シ)3葦牙(ノ)之初生《モエソメタルガ》※〔泥/土〕中《ヒヂノナカヨリ》1也、などあるを以(テ)(ル)べし、さて此《コ》は天《アメ》の始《ハジメ》にて、如此《カク》萌騰《モエアガ》りて終《ツヒ》に天とは成れるなり、【是(レ)に就《ツキ》て思ふに、阿米《アメ》てふ名は、葦萌《アシモエ》の切《ツヅ》まりたるにて、斯《シ》の省《ハブ》かりたるにやあらむ、葦はたゞ譬(ヘ)に云る物なれども成(リ)坐る神の御名にも負《オヒ》たまへればなり、又|吾《ワガ》友《トモ》横井(ノ)千秋云く、阿米《アメ》とは、青所見《アヲミエ》の袁《ヲ》を省き、美延《ミエ》を約めたるならむか、其《ソ》は此(ノ)国土《クニ》よりは、たゞ蒼々《アヲアヲ》と見ゆる、其(ノ)隨《ママ》を以て名けたるなるべし、古(ヘ)より此間《ココ》にも他國《アダシクニ》にも、天をば蒼《アヲ》き物に云ること多し、又|阿袁《アヲ》と云(フ)色の名も、本|天《アメ》より出たるにやあらむと云り、此(ノ)考(ヘ)も然ることなり、】抑彼(ノ)浮脂《ウキアブラ》の如くなる物は、天と地と未(ダ)分れずして、たゞ先(ヅ)一沌《ヒトマロカレ》に成れるにて、其(ノ)中に天となるべき物は、今萌騰りて天となり、地となるべき物は、遺《ノコ》り留《トドマ》りて、後に地となれるなれば、【地の成るは、女男《メヲノ》大神の段《ミクダリ》なり、】是(レ)正《マサ》しく天地の分れたるなり、書紀(ノ)一書に、有物若葦牙生於空中《アシカビノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因《ヨリテ》v此《コレニ》化神號《ナリマセルカミノミナハ》天(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)可美葦牙彦舅(ノ)尊、又有物若浮脂生於空中《マタウキアブラノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因《ヨリテ》v此《コレニ》化神號《ナリマセルカミノミナハ》國(ノ)常立(ノ)尊とある、此《コレ》に葦牙の如くなる物に因《ヨリ》て成(リ)坐る神は天(ノ)常立、浮膏《ウキアブラ》の如くなる物に因て成(リ)坐る神は國(ノ)常立と申すを以て、天地《アメツチ》と分れたることを知(ル)べし、【但し此《コレ》には、浮膏の如くなる物と、葦牙の如くなる物と、本より別《コト》に生《ナ》れるさまに云るは、いさゝか異《コト》なる傳(ヘ)なり、されど天と地との分れたることは、此(ノ)傳(ヘ)にて殊に著明《シル》く聞えたり、或人問(ヒ)けらく、此一書はまことに天と地との初《ハジメ》分明《ワキワキ》しきを、彼(ノ)浮脂の如くなる物一(ツ)を以て、天地の初《ハジメ》とするは、いさゝか疑《ウタガ》はし、もし彼(ノ)物天地の初《ハジメ》を兼有《カネ》たらむには、首《ハジメ》に天地稚《アメツチワカク》などこそあるべきに、天をは云(ハ)ずして、たゞ國《クニ》稚《ワカク》とあれば、彼(ノ)物はたゞ地になるべき物にして、天になる葦牙の如くなる物は、此(ノ)一書の如く、本より別《コト》に生《ナリ》しにやあらむ、いかゞ、答(フ)、此(ノ)疑ひ一わたりはさることなれども、上に引る如く、書紀の傳どもにも、多くは葦牙の如くなる物は、浮脂の如くなる物の中より生《ナ》ると見え、此(ノ)記もさだかに然《サ》は云(ハ)ざれども、彼(ノ)物の中より萌上《モエアガ》りたるさまに聞ゆれば、なほ初《ハジメ》には、天になるべき物をも、共に浮脂の如くなる物の中に包有《フフミモタ》りしなり、然るに天をば云(ハ)ずして、たゞ國《クニ》稚《ワカク》と云るは、凡て何事も、此(ノ)國土《クニ》にして語り傳へたるものなれば、國を主として云るなり、書紀の傳々《ツタヘツタヘ》に、初(メノ)天(ツ)神五柱をば略きて、唯國之常立(ノ)神よりを始(メ)としたるも、此(ノ)意《ココロ》ばへにて、國土を主としたるなり、又天となる物は上《ノボ》り去(リ)て、たゞ地となるべき物のみ、本のまゝにのこり留《トド》まりて、地と成れる、後より見れは、上《ノボ》り去(リ)ぬる物は客の如くにて、のこりとゞまれる物ぞ主の如くなれば、其(ノ)初(メ)よりを專《モハラ》地の方に取(リ)て、國と云むことさもあるべし、故(レ)彼(ノ)一書に、本より二方に分(ケ)云るにも.如(クナル)2浮膏(ノ)1物をば、地の方に取れるぞかし、】然るを此《コレ》ぞ天《アメ》の初《ハジ》め、此《コレ》ぞ地《ツチ》の始《ハジ》めなど、きはやかにさかしくは言《イハ》ずして、只其(ノ)時神の成(リ)坐る由縁《ユヱヨシ》につけて、如此《カク》なだらかに語《カタ》り傳へたるは、まことにのどやかなる上(ツ)代の傳説《ツタヘゴト》にて、いともいとも貴《タフト》くなむありける、【然るを書紀の首《ハジメ》に、古天地未v剖、陰陽不v分云々、清陽老薄靡而爲v天、重濁者掩滯而爲v地云々、天先成而地後定とあるは、漢籍《カラブミ》の文《コトパ》を取て、かざりに書(キ)加へ賜へる者にして、いと/\さかしだちうるさし、かゝる類の漢籍《カラブミ》の説は、みな後(ノ)人の臆度《オシハカリ》の妄説《ミダリゴト》にして、古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》けること、初(メノ)卷に委く論へるがごとし、ゆめ/\惑《マド》ふことなかれ、】さてかく浮脂の如くなる物の生初《ナリハジ》めしも、其《ソレ》が分れて天地と成れるも、又此(ノ)次々の神等《カミタチ》の成(リ)坐るも、悉《コトゴト》に皆二柱の産巣日《ムスビノ》大神の産 アガ、・、オヤクカ ミ ムス

靈《ムスビ》によらずと云ことなし、書紀(ノ)顯宗(ノ)卷に、三年春二月、阿閇《アヘノ》臣|事代《コトシロ》使《ツカハサレシトキ》2于|任那《ミマナニ》1、月(ノ)神|着《カカリテ》v人(ニ)謂曰《ノリタマハク》、我祖高皇産靈《アガミオヤタカミムスビ》、有《アリ》d預2熔造《アヒツクリマシシ》天地《アメツチヲ》1之|功《ミイサヲ》u、宜《ベシ》d以《ヲ》2民地1奉《タテマツル》u、我《アレハ》月(ノ)神(ナリ)、若《モシ》依《ママニ》v請《コハシノ》獻《タテマツラバ》、我常福慶《アレサキハヘテムトノリタマヒキ》、事代由(テ)v是(レニ)還v京(ニ)具奏《ツブサニマヲシキ》、奉(リタマヒテ)v以《ヲ》2歌荒樔田《ウタノアラスノタ》1、【歌荒樔田在(リ)2山背(ノ)國葛野(ノ)郡(ニ)1、】壹伎《イキノ》縣主(ノ)先祖《オヤ》押見《オシミノ》宿禰(ヲシテ)侍祠《イツキマツラシメキ》云々、夏四月、日(ノ)神|着《カカリテ》v人(ニ)謂《ノリタマハク》2阿閇(ノ)臣事代(ニ)1曰、以《ヲ》2磐余《イハレノ》田1獻(レ)2我祖《アガミオヤ》高皇産靈(ニ)1、事代|便奏《カクトマヲシシカバ》、依《ママニ》2神(ノ)乞《カハシノ》1獻(リタマヒテ)2田四十町(ヲ)1、對馬《ツシマノ》下(ツ)縣(ノ)直《アタヘヲシテ》侍祠《イツキマツラシメキ》、とあるを思ふべし、【預熔造《アヒツクル》とは、伊邪那岐伊邪那美(ノ)大神の、國土《クニ》を生成《ウミナシ》たまへる事あるに因(リ)て、預《アヒ》とは云るなり、さて此時の由縁《ユヱ》と見えて、山城(ノ)國葛野(ノ)郡に、葛野(ニ)坐(ス)月讀(ノ)神社、名神大、月次新嘗、木嶋(ニ)坐(ス)天照御魂(ノ)神社、名神大、月次相嘗新嘗、大和(ノ)國十市(ノ)郡に、目原(ニ)坐(ス)高御魂(ノ)神社二座、並大、月次新嘗、磐余《イハレ》は十市(ノ)郡なり、對馬下(ツ)縣(ノ)郡に、高御魂(ノ)神社、名神大、阿麻※〔氏/一〕留《アマテルノ》神(ノ)社など、式に見えたり、抑|如此《カク》後(ノ)世まで、其(ノ)處々に重《オモ》く祭祠《マツ》り給ふを以て、彼(ノ)神着《カムガカリ》の詔言《ミコト》の、おぼろけならざりしほどをも、産巣日(ノ)神の御功《ミイサヲ》の大きなるほどをも、思ひはかるべし、故(レ)今此(ノ)事を委く擧《アゲ》つ、】

〇因《ヨリテ》は、從《ヨリ》と云と同(ジ)意にて、此(ノ)萌騰《モエアガ》る物より生出《ナリイデ》坐すなり、【されば此(ノ)物の即(チ)神となるには非ず、書紀に状《カタチ》如(シ)2葦牙(ノ)1、便(チ)化2為《ナル》神(ト)1とあるは、いさゝか傳(ヘ)の異なるなり、〇此(ノ)因(ノ)字は、如(ノ)字の上にある意なり、されど此(ノ)記はさることにかゝはらず、たゞ讀(ム)に便(リ)よき處に字をば置《オケ》り、漢文に目《メ》なれたる人、勿《ナ》あやしみそ、】

○成神《ナリマセルカミ、此(ノ)如(クナル)2葦牙(ノ)1物に因て成《ナリ》坐る神は、次《ツギ》なる二柱なるべし、其故は、上に引る如く書紀一書に、有物若葦牙生於空中《アシカビノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因(テ)v此(レ)化《ナリマセル》神(ノ)號《ミナハ》天(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)可美葦牙彦舅《ウマシアシカビヒコヂノ》尊、又有物云々と見えて、國(ノ)常立(ノ)尊の生《ナリ》坐るは別《コト》なり、又此(ノ)記の趣《オモムキ》も、此(ノ)二柱|以上《マデ》を天(ツ)神として、段《クダリ》を結《トヂ》め、【若(シ)國之常立(ノ)神などをも、此(ノ)如(クナル)2葦牙(ノ)1物に因て成坐とせば、此(ノ)物は天なれば、彼(ノ)神等も共に天神たるべきに、然らずして、天神は天之常立(ノ)神までなればなり、】天之常立國之常立と申す御名も、天と地とに分れたればなり、【如(クナル)2葦牙(ノ)1物は、天の始(メ)にこそあれ、地の始(メ)には非れば、國之常立(ノ)神は、此(ノ)物に因ては成(リ)坐(ス)まじきものなり、】しかれども又、ひたぶるには如此《カクノゴト》くにも定め難《ガタ》きことありて、伊邪那美(ノ)神までも、並《ミナ》共《トモ》に此(ノ)如(クナル)2葦牙(ノ)1物に因て生《ナリ》坐るかとも思はるゝなり、其(ノ)所以《ヨシ》は國之常立(ノ)神の下《トコロ》に云べし、

〇宇麻志阿斯※〔言+可〕備比古遲《ウマシアシカビヒコヂノ》神、書紀に、可美葦牙彦舅《ウマシアシカビヒコヂノ》尊、可美此(ヲ)云2于麻時《ウマシト》1、彦舅此(ヲ)云2比古尼《ヒコヂト》1とあり、宇麻志《ウマシ》は美稱《タタヘナ》なり、【阿斯※〔言+可〕備《アシカビ》のみに屬《ツキ》たる稱にはあらず、惣《スペ》てへかゝれり、】其《ソ》は心にも目《メ》にも耳にも口《クチ》にも美《ヨ》きをば、皆|讃《ホメ》て云(フ)言にして、【今(ノ)世にはたゞ、物の味《アヂ》の口に美《ヨ》きをのみいへど、古(ヘ)は然のみならず、】書紀に、可怜小汀《ウマシヲバマ》、【可怜此(ヲ)云2于麻師《ウマシト》1、】可怜御路《ウマシミチ》、可怜國《ウマシクニ》などもあり、人(ノ)美稱《タタヘナ》には、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に宇摩志麻遲《ウマシマヂノ》命、堺(ノ)原(ノ)宮(ノ)段に味師内《ウマシウチノ》宿禰、書紀(ノ)崇神(ノ)卷に甘美韓日狹《ウマシカラヒサ》など云あり、【萬葉三に見えたる吉野(ノ)人|味稻《ウマシネ》と云を、懷風藻には美稻と作《カケ》り、宇麻志《ウマン》てふ言には、美(ノ)字よく當れり、】阿斯※〔言+可〕備《アシカビ》は、上の葦牙の下《トコロ》に云るが如し、比古《ヒコ》は男《ヲ》を稱美《タタヘ》て云(フ)稱《ナ》、【比《ヒ》は産巣毘《ムスビ》の毘と同意、古《コ》は子なり、】遲《ヂ》は男《ヲ》を尊《タフト》みて云|稱《ナ》なり、老人《オイビト》を云も、尊《タフト》むより出たるなるべし、意富斗能地《オホトノヂノ》神、書紀の鹽土老翁《シホツチノヲヂ》、【老翁此(ヲ)云2烏※〔月+貳〕《ヲヂト》1とあり、皇極紀の歌に歌麻之々能烏※〔月+貳〕《カマシシノヲヂ》、萬葉十一に山田守翁《ヤマダモルヲヂ》、十七に佐夜麻太乃乎治《サヤマダノヲヂ》、】などの遲《ヂ》も是(レ)なり、さて比古遲《ヒコヂ》袁遲《ヲヂ》など云ときは濁れども、本は清《スム》言にて、明(ノ)宮(ノ)段の國栖人の歌に、麻呂賀知《マロガチ》とある知《チ》、又|父《チチ》の知《チ》なども是(レ)なり、さて又八千矛(ノ)神をも火遠理《ホヲリノ》命をも、比古遲《ヒコヂ》と申せることあり、其事は彼處《ソコ》【傳十一の三十二葉】に云べし、さて此神は、葦牙《アシカビ》の如くなる物に因《ヨリ》て成(リ)坐る故に、如此《カク》御名《ミナ》つけ奉れるなり、【此(ノ)御名の讀《ヨミ》ざま、宇麻志《ウマシ》と讀て、阿斯※〔言+可〕備此古遲《アシカビヒコヂ》を一(ツ)に引連《ヒキツヅ》けて、葦牙之此古遲《アシカビノヒコヂ》といふ意《ココロ》ばへによむべきなり、】

〇天之常立(アメノトコタチノ)神、姓氏録【伊勢(ノ)朝臣(ノ)條】に天底立《アメノソコタチノ》尊とあり、又國之常立(ノ)神を書紀(ノ)一書に、國(ノ)底立(ノ)尊とあり、かゝれば御|名義《ナノココロ》、登許《トコ》は曾許《ソコ》と通ひて同じ、【今(ノ)世にも、底《ソコ》を登許《トコ》と云ことあり、さて底とは下の極《キハミ》を云(ヘ)ば、國之底とは云べけれど、天之底と云むことはいかゞ、と思ふ人あるべけれども、】凡て底《ソコ》とは、上にまれ下にまれ横にまれ、至《イタ》り極《キハ》まる處を、何方《イヅカタ》にても云り、萬葉十五に、安米都知乃曾許比能宇良爾《アメツチノソコヒノウラニ》【宇良《ウラ》は内といふに同じ、】とあるを以て、天《アメ》にも云べきことを知(ル)べし、【紫式部(ガ)日記に、そこひも知らず清《キヨ》らなると云るも、限(リ)もなくと云に同じ、源氏(ノ)物語などにも此詞あり、】又六【藤原(ノ)宇合《ウマカヒノ》卿、西海道(ノ)節度使に罷《マカ》らるゝときの、高橋(ノ)連蟲萬呂の長歌】に、筑紫爾至《ツクシニイタリ》、山乃曾伎《ヤマノソキ》、野之衣寸見世常《ヌノソキミヨト》、伴部乎《トモノヲヲ》、班遣之《アカチツカハシ》、とある曾伎《ソキ》も、極《キハ》みを云て同じことなり、【細《クハシ》く云ときは、曾伎《ソキ》は曾久《ソク》を體言に云るにて、曾久《ソク》とは離放《ハナレサカ》る意なり、離居遠《ソキヲリトホ》ぞく退《シリゾク》などの曾久《ソク》なり、かくて其《ソレ》を體言に曾伎《ソキ》と云(フ)は、曾伎《ソキ》たる處を云言なり、又|曾許《ソコ》と云ときは、許《コ》は彼處《カシコ》此處《ココ》などの處《コ》にて、曾伎處《ソキコ》の意なり、故(レ)曾伎《ソキ》と意は全《モハラ》同じきなり、さて曾伎《ソキ》も曾許《ソコ》も離放《ハナレサカ》れる處を云て、おのづから其(ノ)離放《ハナレサカ》りたる至極《キハミ》の處の稱《ナ》にも、通はしいふなり、】又四に、天雲乃《アマグモノ》、遠隔乃極《ソキヘノキハミ》、遠鷄跡裳《トホケドモ》、九に、天雲乃退部乃限《アマグモノソキヘノキハミ》、【これらの遠隔《ソキヘ》退部《ソキヘ》、今(ノ)本は訓を誤れり、次に引る歌にて知べし、】十七に、山河乃曾伎敝乎登保美《ヤマカハノソキヘヲトホミ》、十九に、天雲能曾伎敝能伎波美《アマグモノソキヘノキハミ》、【敝《ヘ》は方《ヘ》なり、】又三に、天雲乃曾久敝能極《アマグモノソクヘノキハミ》ともあり、又塞を曾許《ソコ》と訓(ム)も、境域《クニ》の極界《カギリ》の地《トコロ》なるを謂《イ》ふ、又|常世《トコヨノ》國と云も、【字は借字にて、】常《トコ》は底《ソコ》にて、右の意に同じ、【此事は少名毘古那(ノ)神(ノ)段、傳十二の十のひらに委く云(フ)を考へ見べし、】立《タチ》は都知《ツチ》と通ひて同じ、その例は、書紀に國狹槌《クニノサヅチノ》尊を、亦曰2國狹立《クニノサダチノ》尊(ト)1とある是なり、凡て神名に、某豆知《ナニヅチ》と云多し、其(ノ)義《ココロ》は野椎《ヌヅチノ》神の下《トコロ》【傳五の四十五葉】に云べし、然れば此(ノ)御名は、常立は借字にて、天之底都知《アメノソコツチ》なり、【抑天は下《シモ》より上《カミ》へ萌騰《モエアガ》りて成《ナリ》しかば、阿斯※〔言+可〕備比古遲(ノ)神は下《シモ》に生坐《ナリマセ》れども先《サキ》なり、其(ノ)始(メ)葦牙の如くなりし時なるが故なり、さて天之常立(ノ)神は、其物の漸(ク)に騰(リ)て、騰り極《キハマ》れるところに生《ナリ》坐(シ)けむ故に、上《カミ》に成(リ)坐せれども後《ノチ》なり、されば此(ノ)二柱(ノ)神の成(リ)坐る次第《ツイデ》、おのづから如此《カクノゴト》くなるべきものぞ、然るを書紀には、此(ノ)次第の反《カヘ》さまなるは、上に成坐るを以て先《サキ》に擧《ア》げ、下《シモ》に成坐るを後に擧《アゲ》たる傳へなるべし、】

〇註に、訓(テ)v常(ヲ)云2登許《トコト》1とは、若(シ)誤りて都泥《ツネ》なども讀(マ)むことを思ひてなり、此《コ》は借字《カリモジ》なれども、古(ヘ)より書《カキ》なれたる字を、其(ノ)隨《ママ》に用ひたる故に、かゝる訓註あるなり、【借字に訓を注したることは、神武(ノ)段に土蜘蛛《ツチグモ》を土雲と作《カケ》るなどに其例あり、】

〇此二柱神亦云々、舊印本又一本に、神の下に足(ノ)字あるは衍《アヤマリ》なり、今は延佳本又一本などに無《ナ》きに從ひつ、【元々集に引るにも無し、師は是(ノ)字を誤れるならむと云れしかど、上に此《コノ》とあれば、又|是《コレモ》と云べくもあらず、又上の例に依(ル)に、もしは並(ノ)字を誤れるかとも思へど、然《シカ》にも非じ、】

〇上件は加美能久陀理《カミノクダリ》と訓べし、書紀(ノ)推古(ノ)卷に初章《ハジメノクダリ》【聖徳(ノ)皇子(ノ)命の十七條(ノ)憲法《ミノリ》の中の第一條のことなり、】とある、此(ノ)訓《ヨミ》古言なり、さて大和物語に、かむのくだり啓《ケイ》せさせけりなどあり、【此も加美乃久陀理《カミノクダリ》と云(フ)古言の遺《ノコ》りたるなるを、カミをカンと云るは、中昔より音便に頽《クヅ》れたる言なり、書紀(ノ)欽明(ノ)卷に上件色人《カミクダンノシナノヒト》とある、此(レ)も加美乃久陀理能《カミノクダリノ》と訓べきを、例の頽《クヅ》れたる音便のまゝに訓るなり、凡て中昔よりして、件之云々《クダンノシカシカ》と云(フ)語多し、此(レ)みな上件之《カミノタダリノ》と云べきを、上《カミノ》を略き、リを音便にンと云(フ)にて、正しからざる言なり、正しくはクダリと云べきなり、】宇治拾遺物語には、ありのくだりの事を申してけりとも云り、【後(ノ)世には、たゞ行(ノ)字をのみクダリとは訓(ム)ことと心得めれど、然らず、彼(ノ)書紀なる初章《ハジメノクダリ》にて心得べし、某(ノ)章某(ノ)段某(ノ)條などの類、皆クダリと云べし、又諸(ノ)文書の終《トヂメ》に、如(シ)v件(ノ)と書(ク)も、如(シ)2上件《カミノクダリノ》1と云ことなり、】

〇別天神《コトアマツカミ》、別は許登《コト》と訓べし、其(ノ)由は先(ヅ)書紀の傳々《ツタヘツタヘ》に、多く國之常立(ノ)神を以て最初《ハジメ》の神として、此(ノ)五柱(ノ)天神を擧《アゲ》ざるは、たゞ此(ノ)國土《クニ》の方に成(リ)坐る神をのみ申(シ)傳(ヘ)て、天上《アメ》に成(リ)坐るをば、別《コト》なる神として、略《ハブ》きたる物なり.【如何《イカニ》と云に、彼(ノ)紀本書には、初(メ)には高御産巣日(ノ)神を擧《アゲ》ずして、末に至(リ)ては擧《アゲ》たり、若(シ)此(ノ)神|無《ナ》しとして、初(メ)に擧ざるならば、末にも擧《アゲ》まじきを、末に擧て初(メ)に擧ざるは、略けるに非ずや、】又一書に、先(ヅ)國之常立(ノ)神などを擧《アゲ》て、次に又《マタ》曰《イハク》とて、天上《アメ》なる神|等《タチ》を擧《アゲ》たるも、天上《アメ》なるをば別《コト》なる神とせるなり、【天上《アメ》なるを先《サキ》には擧《アゲ》ずして、後《ノチ》にしも擧たるは、別にせる意なり、又《マタ》曰《イハク》と云(フ)は、一曰と云とは異《コト》にして、異説には非ず、同書《オナジフミ》の内に、又《マタ》別《コト》に如此《カク》言《イヘ》りといふ意なり、】されば別《コト》と云るも其(ノ)意にして、天上《アメ》に成(リ)坐るをば、別《コト》なる神として、分《ワケ》たるものなり、【又天照大御神より以下《コナタ》の神たちをも、天上《アメ》なるをば天(ツ)神と申すを、此(ノ)五柱は天地の初(メ)に成(リ)坐て、彼天神たちとは、凡て等《ヒト》しからず、異《コト》に坐(ス)故に、其(ノ)差《ケヂメ》をたてて別天神とは申すかとも思はるれど、なほ上の意に決《サダ》むべし、又師は、別(ノ)字をコト/”\ニと訓れつれどわろし、又ワケと訓るもわろし、〇舊事紀に、別天八下(ノ)尊、別高皇産靈(ノ)尊など云る別、此《ココ》の別と其意相似たるが如くなれども、別某(ノ)神と申す御名、古書に例なし、何《ナニ》に據《ヨリ》て書るにか、彼(ノ)紀は眞書《マコトノフミ》ならねば信《タノ》み難《ガタ》し、】天神は阿麻都迦微《アマツカミ》と訓べし、文武紀の詔(ノ)詞に天都神《アマツカミ》、聖武紀の大御歌に阿麻豆可未《アマツカミ》、大祓(ノ)詞に天津神《アマツカミ》、などあるを以(テ)證《シルシ》とすべし、猶《ナホ》此《コノ》餘《ホカ》にも多し、【然るを世に、天神《アマツカミ》地祇《クニツカミ》と並《ナラ》べ云(フ)ときの天神をのみ、アマツカミと唱(ヘ)て、其(ノ)餘《ホカ》のをばアメノカミと訓《ヨム》は非《ヒガコト》なり、何《イヅ》れをも皆アマツカミ、と申すことにて、アメノカミと申せることは古(ヘ)は無し、右に出せる例ども、何《イヅ》れも地祇《クニツカミ》と並《ナラ》べ云る處には非るぞかし、但(シ)此(ノ)記の例は、凡て阿麻都《アマツ》と云には、津《ノ》字を加《クハ》へて書《カケ》れども、此(レ)は古(ヘ)より常に天神と書《カキ》なれて、アマツカミと唱ふることは、當時《ソノカミ》誰《タレ》もよくしれりし故に、津(ノ)字は加《クハ》へざるなり、】さて上に於《ニ》2高天(ノ)原1成《ナリマセル》神とあるは、上(ノ)件五柱にわたれる言なり.此《ココ》に如此《カク》天神とあるを以(テ)知(ル)べし、又|此《ココ》に如此《カク》ことわれるうへは、此(ノ)次國(ノ)之常立(ノ)神より、七代の神|等《タチ》は、天神《アマツカミ》とは申さざることをも知(ル)べし、猶此(ノ)事は下【神世七代とある下《トコロ》】に委くいふべし、

 

次成神名國之常立神《ツギニナリマセルカミノミナハクニノトコタチノカミ》。【訓常立亦如上】次豐雲《ツギニトヨクモ》【上】|野神《ヌノカミ》。此二柱神亦獨神成坐而《コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ》。隱身也《ミミヲカクシタマヒキ》。

國之常立《クニノトコタチノ》神、御名義《ミナノココロ》、天之常立に准《ナズラ》へて知(ル)べし、【常立の字に就《ツキ》て解《トケ》る説は、皆かなはず、】此(ノ)御名を、之《ノ》を略きて、久爾登許多知《クニトコタチ》と申すは非《ヒガコト》なり、【書紀に之(ノ)字を略きて書れたるは、彼(ノ)紀の例として、簡字《モジズクナ》にせるものにて、之《ノ》は多くは讀附《ヨミツク》べく書れたり、然るを後(ノ)世には、古言をば尋むものとも思はず、たゞ文字と理とのさだをのみ旨《ムネ》とするから、如此《カクノゴト》き讀法《ヨミザマ》も、漫《ミダリ》になれるなり、抑神(ノ)御名などは、殊に謹《ツツンミ》て、いさゝかも訛《アヤマリ》なく讀奉るべきわざなるをや、此記に、訓注を加《クハ》へ、誦聲《ヨムコヱ》の上り下りをさへに、懇《ネモコロ》に示したるを思ふべし、さて又此(ノ)神を、天之御中主(ノ)神と一(ツ)神なりなど云(ヒ)なすなどは、例の牽強《シヒゴト》なる中にも、殊に甚しきものぞ、其《ソノ》餘《ホカ》此神の御事は、例の漢意以てさま/”\言痛《コチタ》きことどもをいひあへる、みな論ふにも足らずなむ、】さて書紀には、國(ノ)常立(ノ)尊次(ニ)國狹槌《クニノサヅチノ》尊次(ニ)豐斟渟《トヨクムヌノ》尊とあり、此記の傳(ヘ)と異なり、【此記には國之狹土《クニノサヅチノ》神は、後に別段《コトクダリ》にあり、】さて此(ノ)國之常立(ノ)神より、伊邪那美(ノ)神まで、十二柱の成(リ)坐る由縁《ユヱヨシ》は如何《イカニ》と云に、先(ヅ)上なる阿斯※〔言+可〕備比古遲《アシカビヒコヂ》天之常立《アメノトコタチ》二柱(ノ)神は、天の始(メ)なる葦牙《アシカビ》の如くなる物に因て成(リ)坐て、天(ツ)神なり、【其由は既に上に云るが如し、】次に國之常立より以下《シモ》の神たちは、彼(ノ)如(クナル)2浮脂《ウキアブラノ》1物の中の、【天と成るべき物は、既に萌騰去《モエアガリサリ》て、あとにのこり留《トド》まりて、】地と成るべき物に因て成(リ)坐るなり、其由は上に引る如く、書紀(ノ)一書に、又有物若浮膏生於空中《マタウキアブラノゴトクナルモノオホソラニナレリ》、因《ヨリテ》v此《コレニ》化神號《ナリマセルカミノナハ》國(ノ)常立(ノ)神と見え、天之常立に對(ヒ)て國之常立と申す御名も、地に依《ヨ》れればなり、かくて上に如(クニシテ)2浮脂(ノ)1而|多陀用幣琉《タダヨヘル》之|時《トキ》とあるは、廣《ヒロ》く伊邪那美(ノ)神の成(リ)坐(ス)までに係《カカ》れる語なれば、國之常立(ノ)神より次々、皆此物に因て成(リ)坐ること、おのづから然《シカ》聞えたり、【然らば如2浮脂(ノ)1而云々と云ことをば、國之常立(ノ)神の處に云べきを、上に云るは如何《イカニ》と云に、かの葦牙の如くなる物も、此(ノ)物の中より分れて萌騰りつれば、此(ノ)物を先(ヅ)言《イハ》ずはあるべからず、さて國之常立(ノ)神の處に言《イハ》ざるは、既に上に云る故なり、上に云ることを再(ビ)言(ヒ)たらむは、語《コト》拙《ツタナ》かるべし、更《サラ》に云(ハ)ざれども、時と云(フ)は、廣く下まで及ぶ言《コトバ》なれば、おのづからそれと聞ゆることなり、天之常立(ノ)神にて其(ノ)段《クダリ》をばとぢめながら、次成神と云るは、なほ上を承《ウケ》て連《ツヅ》く意なるをや、】然れども又ひたぶるに如是《カクノゴト》くにも定め難《ガタ》き所以《ユヱ》あり、其《ソ》は書紀に、天地(ノ)之中(ニ)生一物状如葦牙《アシカビノゴトクナルモノナレリ》、便化爲神《スナハチカミトナリキ》、號《ミナハ》國(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)國(ノ)狹槌(ノ)尊、次(ニ)豐斟渟(ノ)尊、また一書に、國(ノ)中(ニ)生物状如葦牙之抽出也《アシカビノヌキデタルゴトクナルモノナリキ》、因(テ)v此(ニ)有化生之神號《ナリマセルカミノミナハ》、可美葦牙彦舅(ノ)尊、次國(ノ)常立(ノ)尊、次(ニ)國(ノ)狹槌(ノ)尊、また一書に、其(ノ)中(ニ)生一物如葦牙之初生※〔泥/土〕中也《アシカビノヒヂノナカヨリオヒソメタルゴトクナルモノナレリ》、便化爲人《スナハチカミトナリキ》、號《ミナハ》國(ノ)常立(ノ)尊とある、此等《コレラ》に依(ル)ときは、此(ノ)記の趣《オモムキ》も、葦牙の如くなる物に因《ヨリ》て成(リ)坐(ス)と云(フ)は、國之常立(ノ)神へも係《カカ》るにやあらむ、【然るに此(ノ)神の處に、たゞ次《ツギニ》とのみはあらずして、次(ニ)成神(ノ)名(ハ)と、更《アラタ》めて云るは、たゞ天(ツ)神と段《クダリ》を分《ワカ》てる故のみなり、】若(シ)然らば、伊邪那美(ノ)神まで十二柱、みな葦牙の如くなる物に因《ヨリ》て生《ナリ》坐るなり、其(ノ)故は書紀に、豐斟渟(ノ)尊も、同く此(ノ)物に因て成(リ)坐とありて、此(ノ)記も豐雲野(ノ)神の下に界《サカヒ》無く、下へ續《ツヅ》ければなり、【獨神成坐云々と云(フ)界《サカヒ》あれども、此《コ》は男女並生神《メヲナラビナリマセルカミ》との堺《サカヒ》のみなり、若(シ)此(レ)を堺として、此(レ)より下は葦牙の如くなる物に因らずと云はば、國(ノ)常立(ノ)神も、其(ノ)上に堺あれば、如(クナル)2葦牙1物に因れりと云(ヒ)がたし、】但し如此《カクノゴト》く定むるときは、國之常立(ノ)神より、伊邪那美(ノ)神まで十二柱も、共に天神なるべきに、【彼(ノ)如2葦牙(ノ)1物は、天と成れる物なればなり、】然らざるは疑はし、【若(シ)くは同じ一(ツ)の物に因て生坐《ナリマシ》ながら、初(メ)二柱は、其(ノ)上方《カミツベ》に生《ナリ》坐て、天神なるを、次の十二柱は、其(ノ)下方《シモツベ》に因て生(リ)坐る故に、天神に非るか、然れども此(ノ)段は、正《マサ》しく天地の分れたる初(メ)を語《カタ》りて、成坐神も二方に分れて、其御名も、天之常立國之常立と明らかに分れたれば、國之常立(ノ)神|以下《ヨリシモ》は、必(ズ)地と成るべき物に因て生《ナリ》坐(ス)べきこととぞ思はるゝ、】故《カレ》此(ノ)事は、一方《ヒトカタ》に定めがたくてなむ、姑《シバラ》く二《フタ》むきに解《トケ》る、

〇豐雲野《トヨクモヌノ》神、御名義《ミナノココロ》、豐は、物の多《サハ》にして足《タラ》ひ饒《ユタカ》なる意の言にて、稱辭《タタヘコト》なり、豐布都(ノ)神豐石窓(ノ)神豐玉毘賣(ノ)命、叉豐木入日子(ノ)命豐※〔金+且〕入日賣(ノ)命などの例の如し、又人(ノ)名ならでも、豐葦原(ノ)中國|豐明《トヨノアカリ》豐榮上《トヨサカノボリ》豐壽《トヨホギ》なども云り、雲野《クモヌ》は、字は借字にて、久毛《クモ》は、久牟《クム》久美《クミ》久比《クヒ》許理《コリ》などと通ひて、【其由は次に云】物の集《アツマ》り凝《コ》る意と、初芽《ハジメテキザ》す意とを兼たる言にて、此(ノ)二(ツノ)意又おのづから相通へり、物|集《アツマ》り凝《コリ》て、物の形は成(ル)ものなればなり、野は怒《ヌ》と訓て、【凡て野をば、古(ヘ)は怒《ヌ》と云り、能《ノ》と云(フ)はやゝ後のことなり、師の云く、野《ノ》角《ツノ》篠《シノ》忍《シノブ》陵《シノグ》樂《タノシ》などの能《ノ》は、古(ヘ)はみな怒《ヌ》と云り、故(レ)古書に此等《コレラ》の假字には、能《ノ》乃《ノ》などをば用ること無《ナ》くして、みな奴《ヌ》怒《ヌ》農《ヌ》濃《ヌ》などを用ひたり、農《ヌ》濃《ヌヌ》などはヌの假字なり、ノに非ず、凡て右の言どもを能《ノ》と云ことは、奈良の末つかたよりかつ/”\始まれり、と云れたるがごとし、】沼《ヌ》の意なるべし、されば久毛《クモ》とは、彼(ノ)如(クナル)2浮脂(ノ)1物の沌《ムラカレ》凝《コ》り生《ナリ》て、國士《クニツチ》となるべき初芽《ハジメキザシ》なる由を以(テ)いひ、怒《ヌ》とは其(ノ)物を指《サシ》て云(フ)、彼(ノ)國土になるべき物は、潮《ウシホ》に泥《ヒヂ》の淆《マジ》りたる物なればなり、凡て水の渟《タマ》れる處を沼《ヌ》と云り、又書紀(ノ)一書の御名に依(ル)に、野《ヌ》は主の意にてもあらむか、【其由は次に云、】かくて此(ノ)神(ノ)御名、書紀には豐斟渟《トヨクムヌノ》尊、【斟は久美《クミ》とも訓べけれど、一書に組《クミ》ともあれば、此《コレ》は久牟《クム》なるべし、】一書には豐國主《トヨクニヌシノ》尊とありて、【こは雲野《クモヌ》斟渟《クムヌ》と合せて思ふに、國《クニ》は久毛爾《クモニ》又|久牟爾《クムニ》の約《ツヅ》まりたるにて、其(ノ)爾《ニ》は宇比地邇《ウヒヂニ》の邇《ニ》と同くて、彼(ノ)野《ヌ》渟《ヌ》と通ふ言なるべし、さて主《ヌシ》は別に添て尊める稱なり、さて此(ノ)御名に依(ル)ときは、又|雲野《クモヌ》などの野《ヌ》も、主《ヌシ》の意にてもあらむか、若(シ)然らば此(ノ)御名の國《クニ》、即(チ)久毛《クモ》又|久牟《クム》などと通ふなり、〇此(ノ)御名に依て思ふに、凡て國土《クニ》と云名は、久毛爾《クモニ》にて、雲野《クモヌ》てふ神名《カミノミナ》と同意にもやあらむ、】亦曰|豐組野《トヨクミヌノ》尊、【久美《クミ》は、久毛《クモ》久牟《クム》などと通へり、】亦曰|豐香節野《トヨカフシヌノ》尊、亦曰|浮經野豐買《ウキフヌトヨカヒノ》尊、【布斯《フシ》は、比《ヒ》と切《ツヅ》まれば、香節《カフシ》と買《カヒ》と同じ、さて加比《カヒ》は久比《クヒ》と通ひ、久比《クヒ》は久美《クミ》と通へり、猶此(ノ)事下なる角杙《ツヌグヒノ》神の下《トコロ》に云べし、されば此(ノ)御名も、雲野《クモヌ》と同意なり、さて浮經野《ウキフヌ》は、浮《ウキ》は彼(ノ)如(クナル)2浮脂(ノ)1物の、空中《オホソラ》に浮《ウキ》たゞよへる意、又は後世の歌に、泥《ヒヂ》を宇伎《ウキ》といへば、其意にてもあるべし、經《フ》は含《フフム》にて、彼(ノ)物の中に、地《ツチ》となるべき物の含《フフ》まりたる由なり、花の未開《イマダサカ》ぬを、ふゝまると云と同じ、次の葉木國《ハコクニ》と合(セ)考(フ)べし、野《ヌ》は雲野の野と同じ、】亦曰|豐國野《トヨクニヌノ》尊、【豐國主に同じ、】亦曰|豐齧野《トヨクヒヌノ》尊、【久比《クヒ》は加比《カヒ》久美《クミ》などと通ふこと、上に云るがごとし、】亦曰|葉木國野《ハコクニヌノ》尊、【葉木《ハコ》は富《ホ》と約《ツヅ》まりて、含《フフ》まる意なり、含《フフ》まるを富々《ホホ》まるとも云(ヒ)、布富《フホ》ごもりなども云り、又|波具久牟《ハグクム》波碁久牟《ハゴクム》などいふ言をも思ふべし、】亦曰|御野《ミヌノ》尊【こは久美怒《クミヌ》の久《ク》の省《ハブ》かりたるか、又|御沼《ミヌ》にてもあるべし、】とある、此等《コレラ》の御名と此彼《コレカレ》引合せて、其(ノ)義《ココロ》をさとるべし、又師の冠辭考|刺竹《サスタケノ》條に、籠《コモ》りと久美《クミ》と通ふ由を委く云れたり、開き見べし、信《マコト》に許母理《コモリ》も久麻《クマ》も、集《アツマ》り凝《コ》る意あり、雲《クモ》も其(ノ)意にて.本同じ言なるべし、又|角久牟《ツノグム》芽久牟《メグム》涙久牟《ナミダグム》などの久牟《クム》も、初《ハジメ》て芽《キザ》す意にて、凝《コ》る意を帶《オビ》たれば、同言なり、猶下なる角杙《ツヌグヒノ》神の下《トコロ》と考(ヘ)合すべし、【〇彼(ノ)書紀(ノ)一書に出たる御名どものうち、豐香節豐買葉木國などにつきては、稻に依れる御名かとも思はるゝ由あり、其《ソ》は香節は、八千矛(ノ)神の御歌に、やまとの、一本|薄《ススキ》、うなかぶし、とある如く、稻の靡《ナビ》き垂《タリ》たる意、豐買は豐穎《トヨカヒ》、葉木國は、稻のはびこりこもりかなる意にて、雲野なども、稻のふさやかにこもりかなる意なり、然れども、此(ノ)段に成坐る神(ノ)御名に、稻を以て負せ奉るべきに非ず、かの久美竹《クミダケ》の久美《クミ》にて、其《ソ》は次々の神たちの御名の類に非れば、此(ノ)考(ヘ)は用ひがたし、】雲(ノ)字の下なる上(ノ)字のことは、傳(ノ)初(ノ)卷【五十六葉】に委く云り、

〇獨神云々、書紀は、獨神成坐ると、女男《メヲノ》神|偶《タグヒ》て成坐るとを分(ケ)て、此《ココ》までを一段《ヒトクダリ》とせられたるを、【こゝに、凡三神矣乾道獨化(ス)所以(ニ)成(ス)2此(ノ)純男(ヲ)1とあるは、古傳の本(ノ)書には、此(ノ)記の如く、たゞ此(ノ)三柱(ノ)神(ハ)者|獨神《ヒトリガミ》成(リ)坐(キ)也、などぞありけむを、例の撰者の、強《シヒ》て漢《カラ》めかさむために、如此《カク》潤色《カザリ》を加(ヘ)て書《カカ》れたるなり、いとうるさき語なりかし、】此(ノ)記は、神世七代と云を一段《ヒトクダリ》として、此處《ココ》をば下へ續《ツヅ》けたり、

 

次成神名宇比地邇《ツギニナリマセルカミノミナハウヒヂニノ》上|神《カミ》。次妹須比智邇《ツギニイモスヒヂニノ》去|神《カミ》。【此二神名以音】攻角杙神《ツギニツヌグヒノカミ》。次妹活杙神《ツギニイモイクグヒノカミ》。【二柱】次意富斗能地神《ツギニオホトノヂノカミ》。次妹大斗乃辨神《ツギニイモオホトノベノカミ》。【此二神名亦以音】次淤母陀琉神《ツギニオモダルノカミ》。次妹阿夜《ツギニイモアヤ》上|※〔言+可〕志古泥神《カシコネノカミ》。【此二神名皆以音】次伊邪那岐神《ツギニイザナギノカミ》。次妹伊邪那美神《ツギニイモイザナミノカミ》。【此二神名亦以音如上】上件自国之常立神以下《カミノクダリクニノトコタチノカミヨリシモ》。伊邪那美神以前《イザナミノカミマデ》。并稱神世七代《アハセテカミヨナナヨトマヲス》。【上二柱《カミノフタバシラハ》。獨神各云一代《ヒトリガミオノオノヒトヨトマヲス》。次雙十神《ツギニナラビマストバシラハ》。各合二神云一代也《オノオノフタバシラヲアハセテヒトヨトマヲス》。

宇比地邇《ウヒヂニノ》神、次(ニ)妹須比智邇《イモスヒヂニノ》神、書紀に、※〔泥/土〕土煮《ウヒヂニノ》尊|沙土煮《スヒヂニノ》尊と書て、※〔泥/土〕土此(ヲ)云2千毘尼《ウヒヂト》1、沙土此(ヲ)云2須毘尼《スヒヂト》1と注されたり、【書紀には、毘は清音の假字にも多く用ひられたり、此(ノ)訓注に依て、比を濁音によむは非なり、凡て連便《ツヅキノタヨリ》によりて、下(ノ)言の頭を濁るは、常多けれども、其(ノ)言に濁音あれば、其(ノ)頭は必濁らざる例なり、此《ココ》も比地《ヒヂ》の地《ヂ》濁音なれは、比は濁るまじき例なるをや、】此《コレ》に依らば宇《ウ》は泥なり、【※〔泥/土〕(ノ)字、泥也と注せり、】後(ノ)世の歌などに、泥を字伎《ウキ》と云ることあり是なり、【宇《ウ》とは、宇伎《ウキ》の伎《キ》の省《ハブ》かりたるか、又|字《ウ》を本にて宇伎《ウキ》ともいふか、】須《ス》は、土の水と分れたるを云(フ)、されば※〔泥/土〕土《ウヒヂ》とは、かの如(クナル)2浮脂(ノ)1物の、潮と土と混淆《マジリ》て、未(ダ)分れざるを云(ヒ)、【水と土と和《マジ》りたるは泥なり、】沙土《スヒヂ》とは、其(ノ)潮と土と漸(ク)分れたるを云(フ)、【沙(ノ)字を書れたるは、此字、水(ノ)旁の之地(ナリ)、と注せる意を取(ラ)れたるなるべし、詩(ノ)大雅に鳧※〔醫の酉が鳥〕在v沙(ニ)など云る是なり、洲《ス》も其意の名にて、本同言なり、但しこれらは、水を離《ハナ》れて乾《カワ》ける土を云を、此《ココ》の沙土《スヒヂ》は、猶潮の中に在(リ)ながらに分れたるを云なるべし、和名抄に、聲類(ニ)云(ク)、砂(ハ)水中(ノ)細礫也、和名|須奈古《スナゴ》とある、これ水(ノ)中ながらに分れたるをも砂と云り、砂と沙と同じ、又|須奈古《スナゴ》の須《ス》は、即|須比智《スヒヂ》の須《ス》と同じ、】邇《ニ》は、豐雲野の野《ヌ》と通ひて沼《ヌ》なり、【沙土《スヒヂ》は、既に潮と分れたる土なれども、なほ潮《ノ》中にある故に、なべてのさまは此《コレ》も沼なり、】又書紀に、二柱共に煮《ニ》を根《ネ》とも申すとあり、【根《ネ》なれば、※〔言+可〕志古泥《カシコネ》の泥《ネ》と同じ、】さて又師の説には、宇《ウ》は浮《ウキ》なり、須《ス》は沈《シヅ》なり、【斯豆《シヅ》は須《ス》と約《ツヅ》まる、】比地《ヒヂ》は泥《ヒヂ》なり、と云れつる、此(レ)も然るべし、【此《コ》はかの一(ツ)に沌《ムラカ》れたる泥《ヒヂ》の漸(ク)に分れて、浮み沈むを云り、浮む泥は、浮散《ウキチリ》て海となり、沈む泥は、凝り堅まりて國土《クニ》となるなり、】此(ノ)時は、邇《ニ》をば土《ニ》の意として、【邇《ニ》は土の惣名なり、故(レ)黏《ネエ》たる土を埴《ハニ》と云(ヒ)、赤(キ)土を赭《ソホニ》と云(ヒ)、青き土を青丹《アヲニ》と云類多し、】比地邇《ヒヂニ》を泥土《ヒヂニ》とも見べし、抑書紀の字と師(ノ)説と、比地《ヒヂ》の意異なり、書紀には土《ヒヂ》と作《カカ》れたれば、土形《ヒヂカタ》築墻《ツキヒヂ》などの比地《ヒヂ》にて、土《ツチ》の總名《スベナ》に取れるなり、師(ノ)説にては、土《ツチ》と水と和《マジ》りたるにて、泥(ノ)字の意にて、和名抄に、泥(ハ)和名|比知利古《ヒヂリコ》、一云|古比千《コヒヂ》と見え、【後(ノ)歌に多く戀路《コヒヂ》をいひかけたり、】俗言《サトビゴト》に杼呂《ドロ》と云物なり、此(ノ)二説《フタツ》、今一方に思(ヒ)定め難し、次《ツギニ》妹《イモ》とは、此(レ)より五世の神|等《タチ》は、各|女男《メヲ》雙坐《ナラビマセ》れども、男神は先《サキダ》ち、女神はやゝ後《オタ》れて生《ナリ》坐る故に、次《ツギニ》と云なり、妹は伊毛《イモ》と訓べし、【和名抄に伊毛宇止《イモウト》とあるは、妹人《イモヒト》の義《ココロ》にて、後のことなり、】伊毛《イモ》とは、古(ヘ)夫婦にまれ兄弟にまれ他人《ヨソビト》どちにまれ、男と女と雙《ナラ》ぶときに、其(ノ)女を指《サシ》て云|稱《ナ》なり、【故に記中の例、兄弟を擧《アグ》るに、兄《アニ》と妹《イモウト》となれば、妹《イモウト》をば妹某《イモソレ》といひ、姉《アネ》と妹《イモウト》となれば、弟某《オトソレ》と云て、妹《イモ》とはいはず、阿遲※〔金+且〕高日子根(ノ)神、次(ニ)妹《イモ》高比賣(ノ)命といひ、姉《アネ》石長比頁、其《ソノ》弟《オト》木花之佐久夜毘賣、と云るが如し、心を着《ツク》べし、古(ヘ)の定まりと見えたり、然れば女と女との間《アヒダ》にては、伊毛《イモ》と云ことは、上古には無《ナ》かりしなり、又書紀(ノ)仁賢(ノ)卷に、古者《イニシヘ》不《ズ》v言(ハ)2兄弟長幼(ヲ)1、女(ハ)以v男(ヲ)稱《イヒ》v兄《セト》、男(ハ)以v女(ヲ)稱《イフ》v妹《イモト》とある如く、男よりは、姉《アネ》をも妹《イモ》と云しなり、さて又夫婦の間《アヒダ》にて、妻を妹《イモ》と云ることは、世(ノ)人もよく知れることなり、然るを書紀に、雄略天皇の、皇后《オホギサキ》を指て吾妹《ワギモ》と詔へるを註して、稱(テ)v妻(ヲ)爲《スルハ》v妹(ト)、蓋(シ)古(ヘノ)之俗(カ)乎、とあるはいかにぞや、此《コ》は今(ノ)京になりてまでも、常に云ることにて、奈良のころはさらなるを、如此《カク》よそ/\しげに、蓋(シ)古(ヘ)俗(カ)乎などとは、強《シヒ》て萬(ヅ)を漢籍《カラブミ》めかさむとての文なり、さて又他人どちの間《アヒダ》にても、男の女を指て妹と云ることも、萬葉などに甚《イト》多し、但し十二(ノ)卷に、妹といへばなめしかしこし、しかすがにかけまく欲《ホシ》き言《コト》にあるかも、とよめるを思へば、敬《ウヤマ》ふべき人をばいはざりし稱にこそ、】然るをやゝ後には、女どちの間《アヒダ》にても稱《イフ》こととなれりき、【姉妹の間にて妹《イモウト》を云(フ)はさらにて、他人にても、萬葉四吹黄(ノ)刀自が歌、又紀(ノ)女郎が友に贈(ル)歌、又十九に、家持の妹《イモウト》の、其(ノ)妻の許《モト》に贈(ル)歌、其答歌などに、皆|妹《イモ》と云り、】さて妹(ノ)字をしも書(ク)は、此(ノ)稱《ナ》に正《マサ》しく當れる字のなき故に、姑《シバラク》兄弟の間《アヒダ》の伊毛《イモ》に就《ツキ》て當《アテ》たるものなり、ゆめ此(ノ)字に泥《ナヅ》みて、言の本義《モトノココロ》を勿《ナ》誤りそ、【然るを後世人は、ひたすら字を主として思ふ故に、伊毛《イモ》と云は、本兄弟の妹より出たるが轉《ウツリ》て、妻をも然云ぞと心得誤るめり、】さて是《コレ》より淤母陀琉※〔言+可〕志古泥《オモダルカシコネノ》神までは、たゞ女男|雙《ナラビ》坐るを以(テ)、女神をば妹《イモ》と申すなり、嫁《トツギ》の事は未(ダ)始まらざる時なれば、妻《ミメ》の謂《イヒ》には非ず、さて男神(ノ)御名の邇(ノ)下なる上(ノ)字は、邇《ニ》を上聲《アガルコヱ》に誦《ヨ》めとなり、女神(ノ)御名の(ノ)下なる去(ノ)字は、下聲《サガルコヱ》に誦《ヨメ》となり、此事傳(ノ)初(ノ)卷【五十六葉】に云つ、書紀(ノ)私記に、問(フ)、此(ノ)二神(ノ)御名(ノ)煮《ニハ》同字(ナルニ)也、何故(ニ)有(ル)2變聲(ノ)之|讀《ヨミ》1哉、答(フ)、是(レ)據(テ)2古事記(ニ)1、上(ノ)煮《ニノ》字(ハ)讀(ミ)2上聲(ニ)1、下(ノ)煮(ノ)字(ハ)讀(ム)2去聲(ニ)1、其(ノ)由雖v未v詳、如v此之神名、皆以2上古(ノ)口傳(ヲ)1、所(ナリ)2注(シ)置(ク)1也と云り、【かゝれば當時《ソノカミ》は、日本紀を讀(ム)にも、此(ノ)記の旨を守りて、かばかりの讀聲《ヨミコヱ》をも、漫《ミダリ》にはせざりしこと知(ル)べし、近(キ)世にたゞ理説をのみ主《ムネ》とする學者も、かゝることを少《スコ》しはおもへかし、】
〇角杙《ツヌグヒノ》神、活杙《イクグヒノ》神、角は都怒《ツヌ》と訓べし、【古(ヘ)は凡て都奴《ツヌ》と云しこと、上の豐雲野の野訓下《ヌノヨミノトコロ》に云るが如し、】角(ノ)臣を此記に都奴《ツヌノ》臣と作《カケ》るなどを以(テ)知べし、【其餘も皆然り】さて御名(ノ)意、凡て物のわづかに生初《ナリソメ》て、たとへば尾頭手足などの分ちは未(ダ)生《ナラ》ざる形を、都怒《ツヌ》と云、【獣の角も此(ノ)意にて、其形を以て云(フ)名なるべし、】杙《クヒ》は借字にて、久比《クヒ》は【こゝは連便《ツヅキノタヨリ》にて濁(リ)て讀べし、】上の豐雲野の下《トコロ》に云る如く、彼(ノ)久毛《クモ》又|久牟《クム》久美《クミ》許理《コリ》などと皆通ひて、物の初《ハジメ》て芽《キザ》し生《ナル》意の言なり、【又物の集(マ)り凝《コ》る意をも兼たり、凡て物は、物の集(マリ)凝(リ)て成《ナル》ものなれば、おのづから意は一(ツ)に通へり、】芽具牟《メグム》涙具牟《ナミダグム》などの具牟《グム》に同じ、【具牟《グム》は、具美《グミ》とも活用《ハタラ》く言なり、】されば都奴具比《ツヌグヒ》とは、神の御形の生初《ナリソメ》たまへる由なり、葦などの生初《オヒソム》るを、角具牟《ツノグム》と云は、此(ノ)神(ノ)名と全《モハラ》同じ、【角杙を角ぐむなりとは、或人もいひき、】さて姓氏録に、角凝魂《ツヌゴリムスビノ》命、角凝命《ツヌゴリノ》、【許理《コリ》と久比《クヒ》と通ふ、】神名式に、出雲(ノ)國神門(ノ)郡|神魂子角魂《カミムスビノミコツヌムスビノ》神(ノ)社などあるは、此(ノ)神なるべし、活杙《イクグヒ》は、生活動《イキハタラ》き初《ソム》る由の御名なり、神祇官(ニ)坐(ス)御巫(ノ)祭(ル)八神(ノ)中の生産日《イクムスビノ》神【姓氏録に伊久魂《イクムスビノ》神とあり、】は、此(ノ)神なるべし、さて書紀には此二柱無し、【一書にはあり、】

〇註に二柱とあるは、此二柱雙坐て一世なり、と知(ラ)せたるなり、【前後の四世には此注なくして、たゞ此《ココ》にのみあるは如何《イカニ》と云に、前後なるはみな、此(ノ)二神(ノ)名以(フ)v音(ヲ)と云注あるを、此《ココ》にはたま/\然る注なき故なり、】

〇意富斗能地《オホトノヂノ》神、大斗乃辨《オホトノベノ》神、意富《オホ》は稱辭《タタヘコト》なり、【女神の方の大(ノ)字も、本《モト》は意富《オホ》なりけむを、後にふと寫(シ)誤れるものなるべし、此(ノ)二神(ノ)名(モ)亦以(フ)v音(ヲ)と注せれは、大(ノ)字にはあるまじきことなり、】斗《ト》は處《ト》なり、凡そ處《トコロ》を斗《ト》と云例多し、立處《タチド》伏處《フシド》寢處《ネド》【萬葉(ノ)陸奥歌に禰度《ネド》とあり、】祓處《ハラヒド》などの如し、弘仁私記(ノ)序に、古語(ニ)謂(テ)2居住(ヲ)1爲《ス》v止《トト》とあるも、處《トコロ》の意より出たり、能《ノ》は之《ノ》てふ辭《チニヲハ》なり、地《ヂ》は、上に出たる比古遲《ヒコヂ》の遲《ヂ》に同じ、辨《ベ》は、男神の地《ヂ》に對《ムカヒ》て、女を尊《タフト》む稱なり、老女を云(フ)も、尊むより出たるなるべし、百師木伊呂辨《モモシキイロベ》、【明(ノ)宮(ノ)段】八坂振天某邊《ヤサカフルアメイロベ》、【書紀(ノ)崇神(ノ)卷】など云名の辨《ベ》も是なり、又|級長戸邊《シナトベ》、荒河刀辨《アラカハトベ》、苅幡刀辨《カリバタトベ》、【此外も某刀辨《ナニトベ》といふ名多し、】など云|刀辨《トベ》の辨《ベ》も同じ、又其(ノ)刀辨《トベ》を賣《メ》に通はして度賣《トメ》とも云り、伊斯許理度賣《イシコリドメ》などの如し、【此(ノ)賣《メ》は、たゞ女の意には非ず、辨《ベ》に通ふ稱なり、此(ノ)度賣《ドメ》を書紀に姥《トメ》と書れたるは、老女の意なり、】かゝれば此二柱の御名は、彼|地《ツチ》と成(ル)べき物の凝成《コリナリ》て、國處《クニドコロ》の成れる由にて、其《ソレ》に女男の尊稱《タフトミナ》を附《ツケ》たるなり、書紀には、大戸之道《オホトノヂノ》尊|大苫邊《オホトマベノ》尊、一云|大戸之邊《オホトノベ》、亦曰|大戸摩彦《オホトマヒコノ》尊|大戸摩姫《オホトマヒメノ》尊、亦曰|大富道《オホトムヂノ》尊|大富邊《オホトムベノ》尊とあり、【こは女神の御名、大戸之邊とあるを正しとすべし、大苫邊大戸摩彦大戸摩姫はみな、此記の別段《コトクダリ》なる大戸惑子《オホトマドヒコノ》神|大戸惑女《オホトマドヒメノ》神と、御名の傳(ヘ)の亂《マガ》ひつるなり、富《トム》は斗乃《トノ》の轉《ウツ》れるなり、】

〇淤母陀琉《オモダルノ》神、書紀に面足《オモダルノ》尊と書れたり、此字の意の御名なり、萬葉二【四十一丁】に、天地《アメツチ》、日月與共《ヒツキトトモニ》、滿將行《タリ丘カム》、神乃御面跡《カミノミオモト》云々、九【三十四丁】に、望月乃《モチヅキノ》、滿有面輪二《タレルオモワニ》云々【此(ノ)二(ツ)の滿(ノ)字、今(ノ)本の訓は誤れるを、師の冠辭考に此(ノ)面足《オモダル》てふ神(ノ)名の例を引て、多理多禮流《タリタレル》と訓れたるぞよき、】とありて、面《オモ》の足《タル》と云は、不足處《アカヌトコロ》なく具《ソナハ》りとゝのへるを云、【面を云て、手足其《ソノ》餘《ホカ》も皆凡て滿足《タレ》ることはこもれる御名なり、〇此(ノ)神の御名を、師は、凡ての例の如く之神《ノカミ》とは讀(マ)ずて、淤母陀琉迦微《オモダルカミ》と訓れき、其《ソ》は體言よりつゞくと、用言よりつゞくとの異《ケヂメ》なり、某之神《ナニノカミ》とよむは、體言のときなり、又用言ながら、常立《トコタチ》角具比《ツヌグヒ》など云類は、體言になる例なり、此(レ)らも常多都《トコタツ》角具布《ツヌグフ》などいへば、本の用言なり、此《ココ》も淤母陀理《オモダリ》といへば、體言になる故に、之神《ノカミ》と訓べきを、陀琉《ダル》なる故に、本の用言なれば、之《ノ》とはつゞかぬ、古語の格《サダマリ》なればなり、石拆《イハサク》神|根拆《ネサク》神、奥疎《オキザカル》神|邊疎《ヘザカル》神なども此例なり、かくて己(レ)も初(メ)は然のみ心得てありつるを、後になほよく思へば、然には非ず、其故は、先(ヅ)淤母陀琉など云ときは、用言なることも、又用言の下は之《ノ》とは承《ウケ》ざることも、論なけれども、神(ノ)名人(ノ)名などは、なべての語の例とは異なれば、なほ用言なるをも、之神《ノカミ》とよむべきなり、其《ソ》は用言ながらも、既に名となりては、體言なればなり、此も淤母陀琉と申すが御名なるを、神とも尊《ミコト》とも申すは、別に添て稱すなれば、必|之《ノ》と云ずはあるべからず、かの荒《アラ》ぶる神|天降《アマクダ》る神など云類とは、御名ほ異なるをや、又天照大御神なども、照之《テラスノ》とは申さねども、此(レ)も天照《アマテラス》と申すが御名には非れば、異なり、なほ御名のときは、用言なるをも之《ノ》と讀(ム)べき例をいはば、孝元天皇の御名、日子国玖琉《ヒコクニクルノ》命と申す、玖琉《クル》は書紀に牽《クル》と書れたれば、用言なるべきを、之《ノ》を附《ツケ》ずにはよみがたし、必|之命《ノミコト》之天皇《ノスノラミコト》とこそよむべけれ、又神武(ノ)段なる贄持之子《ニヘモツノコ》石押分之子《イハオシワクノコ》などは、之《ノ》字あれば、殊に論なし、これらをも師は、持を母持《モチ》、分を和気《ヮケ》と訓れつれども、必|母都《モツ》和久《ワク》と訓べきこと、彼(ノ)段に云るが如し、】神祇官(ニ)坐(ス)御巫(ノ)祭(ル)八神(ノ)中の足産日《タルムスビノ》神と申すは、此(ノ)神なるべし、【此(ノ)七代十二柱(ノ)神の中に、たゞ活杙(ノ)》神と此(ノ)淤母陀琉(ノ)神とをのみ、取分て彼(ノ)八神の列《ツラ》に收て祭(リ)たまふことは、彼(ノ)八神は、もはら天皇の大御身を御守護《ミマモリ》のためなれば、活《イク》と申し足《タル》と申す神靈の由縁《ユヱヨシ》を以てなるべし、】〇阿夜※〔言+可〕志古泥《アヤカシコネノ》神.阿夜《アヤ》は驚て歎《ナゲク》こえなり、皇極紀に、咄嗟【今(ノ)本には、咄を吐に誤れり、】を夜阿《ヤア》とも阿夜《アヤ》とも訓(メ)り、【凡そ阿夜《アヤ》阿波禮《アハレ》波夜《ハヤ》阿々《アア》などみな、本は同く歎《ナゲク》聲にて、少しづゝの異《カハリ》あるなり、抑歎くとは、中昔よりしては、たゞ悲《カナシ》み愁《ウレ》ふることにのみ云へども、然《サ》にあらず、那宜伎《ナゲキ》は、長息《ナガイキ》の約まりたる言にて、凡て何事にまれ、心に深く思はるゝことあれば、長き息をつく、是(レ)即(チ)部宜伎《ナゲキ》なり、されば喜《ウレシ》きことにも何にも、歎《ナゲキ》はすることなり、さてその歎きは、阿夜《アヤ》とも阿波禮《アハレ》とも波夜《ハヤ》とも聲の出れば、歎聲《ナゲクコヱ》とはいへり、】又|阿夜《アヤ》と言て歎くべき事を、阿夜爾云々《アヤニシカシカ》とも云り、【阿夜爾《アヤニ》かしこし、阿夜爾戀《アヤニコヒ》し、阿夜爾悲《アヤニカナシ》などの類なり、】又|奇《アヤ》し危《アヤフ》しなども、歎《ナゲキ》て阿夜《アヤ》と云(ハ)るゝより出たる言なり、又|阿那《アナ》も阿夜《アヤ》と通へり、【阿那《アナ》たふと、阿那《アナ》こひしなどの阿那《アナ》なり、書紀應神(ノ)卷に、呉織《クレハトリ》穴織《アナハトリ》とあるを、雄略(ノ)卷には、漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》とあり、是(レ)阿夜《アヤ》阿那《アナ》同じき證なり、】阿那可畏《アナカシコ》は、阿夜可畏《アヤカシコ》と全《モハラ》同じ、※〔言+可〕志古《カシコ》は、古書に、畏可畏恐惶懼などの字を書て、【畏志《カシコシ》畏伎《カシコキ》と活用《ハタラ》きて、其(ノ)伎《キ》は加伎久祁《カキクケ》と活《ハタラ》く言なり、】おそるゝ意なり、【又賢をも、智あるをも云は、然《サ》る人は畏《オソ》るべき故に、轉《ウツ》りていふなり、】さて阿夜爾可畏《アヤニカシコ》しと云ときは、猶《ナホ》ゆるやかなるを、阿夜可畏《アヤカシコ》と云は、其(ノ)可畏《カシコ》きに觸《フレ》て、直《タダチ》に歎《ナゲ》く言なれば、いよゝ切《セチ》なり、泥《ネ》は、男をも女をも尊《タフト》む稱《ナ》なり、其《ソ》は名兄《ナエ》の約《ツヅマ》りたる言なるべし、【兄《エ》は女男にわたる稱なり、同く兄(ノ)字を書《カケ》ども、勢《セ》と云は男に限れり、思ひ混《マガ》ふべからず、】那泥《ナネ》伊呂泥《イロネ》【那泥の事は、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、伊呂泥の事は、浮穴(ノ)宮(ノ)段にいへり、】宿禰《スクネ》などの泥《ネ》も是なり、又天津日子根(ノ)命其外も、某根《ナニネ》てふ名の多かる、皆同じ、さて此(ノ)御名は、神の御面《ミオモ》の滿足《タラハ》せる【淤母陀琉(ノ)神の御名是なり、】を以て、其《ソ》を望《ノゾ》めば、可畏《カシコ》み敬《ヰヤマ》はるゝ意以て負せ奉りしなり、書紀には惶根《カシコネノ》尊とありて、亦曰|吾屋惶根《アヤカシコネノ》尊、亦曰|吾忌橿城《アユカシキノ》尊、【今(ノ)本には吾(ノ)字を脱《オト》せり、類聚國史に此(ノ)字|有《アル》に依て補ふべし、阿由《アユ》は阿夜《アヤ》と通ひ、※〔言+可〕志紀《カシキ》は※〔言+可〕志古《カシコ》と通へり、】亦曰|青橿城根《アヲカシキネノ》尊、【阿乎《アヲ》も阿夜《アヤ》と通ふ、】亦曰|吾屋橿城《アヤカシキノ》尊とあり、さて阿夜《アヤ》に上《アガル》聲を附(ケ)たるは、※〔言+可〕志古《カシコ》と引續《ヒキツヅケ》て一(ツ)に讀《ヨム》べきためなり、一續《ヒトツヅ》けに讀《ヨ》めば、上聲になるなり、【打任《ウチマカ》せては、阿夜と※〔言+可〕志古とを、いさゝか離《ハナ》して讀(ム)べきが如し、然《シカ》離《ハナ》してよむときは、本の平聲なるを、然《サ》は讀《ヨマ》ずして、一(ツ)に合せてよむ、其《ソ》は猿樂の謠物の中に、阿夜※〔言+可〕志《アヤカシ》の着《ツク》と云ことのある、其(ノ)阿夜※〔言+可〕志の讀聲《ヨミコエ》の如し、然《シカ》讀《ヨメ》ば阿夜上聲なり、】

〇豐雲野《トヨクモヌノ》神より※〔言+可〕志古泥《カシコネノ》神まで九柱の御名は、國土《クニ》の初《ハジメ》と神の初《ハジメ》との形状《アリサマ》を、次第《ツギツギ》に配《クバ》り當《アテ》て負せ奉りしものなり、其《ソ》は豐雲野《トヨクモヌ》、宇比地邇《ウヒヂニ》須比智邇《スヒヂニ》、意富斗能地《オホトノヂ》大斗乃辨《オホトノベ》と申すは、國土《クニ》の始《ハジメ》のさま、角杙《ツヌグヒ》活杙《イクグヒ》、淤母陀琉《オモダル》阿夜※〔言+可〕志子古泥《アヤカシコネ》と申すは、神の始《ハジ》まりのさまなり、【但し國土《クニ》も神も、其神の生《ナリ》坐(シ)し時の形状《アリサマ》の、各其(ノ)御名の如くなりしには非ず、必しも其時の形状にはかゝはらず、たゞ大凡《オホヨソ》を以て、次第《ツギツギ》に御名に配當《クバリアテ》たるのみなり、されば此(ノ)御名々々を以て、各其時の形状《アリサマ》と當ては見べからず、此(レ)をよく辨《ワキマ》へずば、疑(ヒ)ありなむものぞ、實は神は、初(メ)天之御中主よりして、何《イヅ》れの神もみな、既に御形は滿足《タラヒ》坐り、面足(ノ)神に至(リ)て初(メ)て足《タラ》ひ坐りとには非ず、又國土は、伊邪那岐伊邪那美(ノ)神の時すら、未(ダ)浮脂の如く漂蕩《タダヨ》へるのみなりしを以て曉《サト》るべし、】然らば須比地邇《スヒヂニ》の次に意富斗《オホト》能地とつゞき、活杙《イクグヒ》の次に淤母陀琉《オモダル》とつゞくべきに、然《サ》は非ずて、國土《クニ》の初(メ)と神の初(メ)と、御名の次第《ツイデ》の參差《イリマガ》ひたるは如何《イカニ》と云に、未(ダ)國處《クニトコロ》は成《ナラ》ざる前《サキ》に、國之常立(ノ)神よりして、次第《ツギツギ》に神|等《タチ》は生《ナリ》坐る【天之常立(ノ)神|以前《マデ》五柱は、天神にて別なる故に、此《ココ》に云(ハ)ず、此《ココ》は國土の初(メ)に就《ツキ》て云故に、國之常立(ノ)神より云々とは云り、】故に、意富斗能地《オホトノヂノ》神の先《サキ》なる神を、角杙《ツヌグヒ》活杙《イクグヒ》と名《ナヅ》け奉り、さて御面《ミオモ》の足《タラ》はせるを見て可畏《カシコ》むは、既に國處も成り、人物《ヒト》も生《ナリ》てのうへの事なる故に、大斗乃辨《オホトノベノ》神の次《ツギ》なる神を、淤母陀琉《オモダル》阿夜※〔言+可〕志古泥《アヤカシコネ》と名《ナヅ》け奉りしにぞあらむ、【書紀には、沙土煮《スヒヂニ》の次|大戸之道《オホトノヂ》とつゞき、又一書には、活※〔木+織の旁〕《イクグヒ》の次|面足《オモダル》と續《ツヅ》けり、】

〇伊邪那岐《イザナギノ》神、伊邪那美《イザナミノ》神、御名義《ミナノココロ》、書紀(ノ)口決に、伊弉《イザ》は誘語《イザナフコトバ》といひ、師も、伊邪那比君《イザナヒギミ》、伊邪那比女君《イザナヒメギミ》てふことなりと云れき、【那比《ナヒ》の比《ヒ》を省きたるぞ、】信《マコト》に此(ノ)二柱(ノ)神、遘合《ミトノマグハヒ》して國土を生成《ウミナ》さむとして、互《タガヒ》に誘《イザナ》ひ催《モヨホ》し賜へる意、【其事次(ノ)段に見ゆ、】然《サ》もあるべし、君《キミ》を岐《ギ》とのみ云る例、明(ノ)宮(ノ)段の大御言に、佐邪岐阿藝《サザキアギ》、又忍熊(ノ)王の歌に伊奢阿藝《イザアギ》、【共に吾君《アギ》の意なり、】などあるが如し、又|女君《メギ》を切《ツヅ》むれば美《ミ》となるなり、【或説に、岐《キ》は比古の倒反、美《ミ》は比賣《ヒメ》の倒反なりといへれど、其《ソ》はたま/\合(ヘ)るにこそあれ、然ることにはあらじ、】又思ふに、此《コ》は遘合《ミトノマグハヒ》せむとしたまふ時に、交《カタミ》に伊邪汝《イザナ》と誘《イザナ》ひ賜へる御言を以(テ)、即(チ)御名に負せ奉(リ)しにて、那《ナ》は汝《ナ》にもあるべし、【かの伊奢阿藝《イザアギ》、又此記萬葉などに、去来子等《イザコドモ》などある類なり、さて岐《ギ》と美《ミ》とは上の意にて、此《コ》は御名に稱《タタヘ》申せるものなるべし、此(レ)も共に其時の互《タガヒ》の御言ともすべけれど、なほ然には非じ、又己(レ)前《サキ》に思ひしは、伊邪《イザ》は誘《イザナフ》言、那岐《ナギ》は汝君伊《ナギイ》、那美《ナミ》は汝妹伊《ナニモイ》なり、伊《イ》は余《ヨ》と云が如し、繼體紀の歌に、愷那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》云々、萬葉十二に、家有妹伊《イヘナルイモイ》云々、續紀(ノ)詔に、藤原(ノ)朝臣麻呂|等伊《ライ》云々、又百濟王敬福|伊《イ》云々、又國王|伊《イ》云々、なほ多き辭なり、さて岐伊《ギイ》は、岐《ギ》に伊《イ》の韻《ヒビキ》ある故に、岐《ギ》とのみ云(ヒ)、汝妹伊《ナニモイ》は、爾《ニ》を省《ハブ》き、毛伊《モイ》を切《ツヅ》むれば美《ミ》なり、如此《カク》思ひつれど、かくては神漏岐《カムロギ》神漏美カムロミ》の例に叶ひ難ければ、此(ノ)考へは癈《スツ》べきなり、】さて伊邪《イザ》てふ言、先(ヅ)右の如く聞ゆれども、伊奢沙和氣《イザサワケノ》神、伊邪能眞若《イザノマワカノ》命、伊邪本別《イザホワケノ》命など申す御名、又|去來之眞名井《イザノマナヰ》、又地(ノ)名にも伊邪河《イザカハ》など、上(ツ)代に多くあれば、他意《アダシココロ》にもあらむか、猶《ナホ》考ふべきなり、岐《ギ》と美《ミ》と相對へる例は、神漏岐《カムロギ》神漏美《カムロミ》、【此(ノ)稱の事は、傳十三の八の葉に云べし、】那藝《ナギ》と那美《ナミ》と偶《タグ》へる例は、沫那藝《アワナギノ》神|沫郡美《アワナミノ》神、頬那藝《ツラナギノ》神|頬那美《ツラナミノ》神これなり、【但し此(ノ)那藝那美は、異意《コトココロ》にもあらむか、其事は傳五(ノ)卷彼(ノ)神の下《トコロ》に云べし、】さて此(ノ)御名書紀には、伊弉諾《イザナギノ》尊|伊弉冉《イザナミノ》尊と書れたり、【書紀ほ、神(ノ)名地(ノ)名などの文字、凡て新《アラタ》に撰《エラビ》て書れたりと見えて、他の古書に例なき書《カキ》ざま多き中にも、此(ノ)二柱の御名の字などは、殊にまぎらはしくて疑ふ人あり、故(レ)今此(レ)を辨ふ、諾は奴各(ノ)反なれば、呉音|那久《ナク》なるを、久《ク》を岐《キ》に轉《ウツ》して用ひたるなり、久《クノ》韻を岐《キ》に用ひたる例多し、さて冉は、今(ノ)本どもに多く冊と作《カケ》れども、冊は測革(ノ)反にて、佐久《サクノ》音なれば、那美《ナミ》には甚《イト》遠し、又〓とも作《カケ》れども、此(レ)も冊と同音なり、又再とも作《カケ》れども、再は作代(ノ)反にて、佐伊《サイノ》音なれば、此(レ)も甚遠し、又〓を、集韻に所晏(ノ)反音※〔言+山〕ともあれども、此(レ)も遠し、されば右の字どもは皆寫(シ)誤(リ)なり、或説に、南(ノ)字を誤れるならむと云る、音はさることなれども、南(ノ)字は用ひらるべくも思はれず、故(レ)思(フ)に、※〔耳+甘〕(ノ)字、集韻に乃甘(ノ)反、正韻に那含(ノ)反音南とあれば、此(レ)ならむかとも思へど、なほ史記(ノ)管蔡世家に、武王(ガ)同母兄弟十人の中に、冉季載と云(フ)あるを、正義に、冉作(ル)v丹(ニ)、音奴甘(ノ)反、或(ハ)作(ル)v※〔冉+おおざと〕(ニ)、音同(ジ)とあれば、此(ノ)冉(ノ)字なるべし、史記は古(ヘ)よりあまねく見る書にて、殊に人(ノ)名なるも由あれば、取(リ)用ひられたるなるべし、奴甘(ノ)反なれは、呉音|那牟《ナン》なるを、牟《ン》を美《ミ》に轉《ウツ》し用ひたること、諾《ナギ》の例に同じ、是(レ)又さる例多きことなり、】

〇以下以前などは、漢文《カラブミ》にして、此間《ココ》の言に非ず、故(レ)以下をば志母《シモ》、以前をば麻傳《マデ》と訓べし、

〇并(ノ)字、延佳本に並と作《カケ》るは非《ヒガコト》なり、此《ココ》のみならず、下にも處々《トコロドコロ》ある、皆准へて知るべし、何《イヅ》れも餘《ホカ》の本どもには、并と作《ア》る其《ソレ》よろし、

〇神世七代《カミヨナナヨ》、神世《カミヨ》とは、人代《ヒトノヨ》【人(ノ)代といふこと、古今集(ノ)序に見ゆ、】と別《ワケ》て云|稱《ナ》なり、其《ソ》はいと上(ツ)代の人は、凡て皆神なりし故に然《シカ》言《イヘ》り、さて何時《イツ》までの人は神にて、何時《イツ》より以來《コナタ》の人は神ならずと云(フ)、きはやかなる差《ケヂメ》はなき故に、萬葉の歌どもなどにも、たゞ古(ヘ)を廣く神代と云り、【六(ノ)卷に、日本國者《ヤマトノクニハ》、皇組乃《スメロギノ》、神之御代自《カミノミヨヨリ》、敷座流《シキマセル》、國爾之有者《クニニシアレバ》、とは、神武天皇の御代を申し、同卷に、自神代《カミヨヨリ》、芳野宮爾《ヨシヌノミヤニ》、蟻通《アリガヨヒ》、高所知者《タカシラスハ》、これも人(ノ)代になりての事なり、十八(ノ)卷に、皇神祖能《スメロギノ》、可見能大御世《カミノオホミヨ》と、垂仁天皇の御世をよめり、又一(ノ)卷には、當代《ソノミヨ》をしも讃《ホメ》奉て、神乃御代《カミノミヨ》とよめり、】然れども事を分(ケ)て云(フ)ときは、鵜葺草葺不合《ウガヤフキアヘズノ》命までを神代とし、【書紀に此(レ)までの二卷を、神代上下と標《シル》されたり、姓氏録にも、此(レ)までの御子孫を神別とし、神武天皇より以來《コナタ》のを皇別とせらる、】白檮原《カシバラノ》朝より以來《コナタ》を人(ノ)代とす、信《マコト》に此(ノ)朝《ミカドノ》御時より、世間《ヨノナカ》のありさま新《アラタ》なりしかば、然《サ》も云つべきものなり、然るを此《ココ》に、伊邪那美(ノ)神までを神世と云るは、後五代《ノチノイツヨ》の神代に言《イヘ》りし稱《ナ》の遺《ノコ》れるなり、其《ソ》は人(ノ)代となりて後に、鵜葺草葺不合《ウガヤフキアヘズノ》命の御時までを申す如くに、五代の神代の時には、又此(ノ)七代を神代と申せしなり、信《マコト》に此(ノ)七代は、天地の初發《ハジメ》の時にして、神の状《サマ》も世のさまも、又|甚《イタ》く異《コト》なりしぞかし、七代は那々余《ナナヨ》と訓べし、萬葉十九【四十丁】橘大臣《タチバナノオホオミ》を壽《コトホ》げる歌に、古昔爾《イニシヘニ》、君之三代經《キミノミヨヘテ》、仕家利《ツカヘケリ》、吾大王波七世申禰《ワガオホキミハナナヨマヲサネ》、【又|父子《オヤコ》相續《アヒツギ》もてゆくを、幾都岐《イクツギ》といへば、那々都岐《ナナツギ》とも訓べし、續後紀十五尾張(ノ)連濱主(ノ)歌に、那々都岐乃美與爾《ナナツギノミヨニ》とよめり、されどなほ那々余と訓むぞ勝《マサ》るべき、】さて此《コ》は十二柱(ノ)神のうち、初《ハジメ》二柱は獨神《ヒトリガミ》成坐し、次十柱は、女男二柱づゝ※〔耒+偶の旁〕坐《タグヒマセ》れば、たゞ十二柱(ノ)神世と申しては、其趣|分《ワカ》り難き故に、後の世嗣《ヨツギ》の例に准へて、假《カリ》に七代とは申せるなり、【されば此《コ》は、父子《オヤコ》相嗣《アヒツグ》如く、前《サキ》の神の御代|過《スギ》て、次(ノ)神の御代とつゞけるには非ず、上にも云る如く、此(ノ)七代の神たちは、追次《オヒスガ》ひて生(リ)坐て、伊邪那岐伊邪那美(ノ)神までも、なほ天地の初《ハジメ》の時なり、猶其證は次(ノ)卷に見えたり、然るを書紀(ノ)一書に、國(ノ)常立(ノ)尊生2天鏡(ノ)尊(ヲ)1、天鏡(ノ)尊生2天萬(ノ)尊(ヲ)1、天萬(ノ)尊生2沫蕩《アワナギノ》尊(ヲ)1、沫蕩(ノ)尊生2伊弉諾(ノ)尊(ヲ)1、また一書に、此(ノ)二神(ハ)青橿城根(ノ)尊(ノ)之子也とある、此等《コレラ》は甚《イタ》く異なる傳(ヘ)にて、いと心得ぬことなり、されば私記にも、或説(ニ)云(ク)、是(ハ)後代(ノ)之見(テ)2代々相(ヒ)嗣(グヲ)1、而假(リニ)謂(ヘリ)2之(ヲ)生(ムト)1、未(ダ)2必(シモ)事(ノ)實(ナラ)1也といへり、さもあるべきことなり、書紀に此《ココ》に、乾坤(ノ)之道相參(テ)而化(ス)、所以《コノユヱニ》成(セリ)2此(ノ)男女(ヲ)1とあるは、例の撰者の漢意のかざりにして、痛《イタ》く古(ヘノ)意に背《ソム》けること、初(ノ)卷に論へるが如し、又後世に、此(ノ)七代を天神七代と申し、後(ノ)五代を地神五代と申すなるは、いかなるをこの者の云(ヒ)初《ソメ》つることにか、更に事の由をも考へず、たゞに強《シヒ》て天と地とに配《アテ》むとての漫説《ミダリゴト》なるを、世に普く云なれて、そのいみしき非《ヒガコト》なることを辨へたる人もをさ/\聞えぬは、いかにぞや、先(ヅ)此(ノ)七代を天神と申せること、古書に見えたることなし、只姓氏録に、角凝魂《ツヌゴリムスビノ》命と申すは、此(ノ)七代の中の角杙(ノ)神なるべく思はるゝに、其(ノ)後胤《スヱ》を天神(ノ)部に收《イレ》られたれども、此《コ》は正《マサ》しく角杙(ノ)神とあるにも非ず、名の異なれば、たゞ名に就《ツキ》て、高御魂(ノ)神などの例として、天神(ノ)部には入(レ)られたる物なるべければ、證とすばかりのことにも非ずかし、既に天之常立(ノ)神の下《トコロ》に、上(ノ)五柱を天神と申すよしことわりたれば、其(ノ)次々ほ天神と申すに非ること明《イチジル》し、天位を知看《シロシメス》を天神と申すなど云説は、近(キ)世の漢意の例の私言《ワタクシゴト》なり、天に坐(ス)神をこそ天神とは申すなれ、然るに伊邪那岐伊邪那美(ノ)神の御事を記せるさまを考るにも、天に坐(ス)神とは見えず、此(ノ)地に坐(ス)神とこそ見えたれ、然ればかにかくに此(ノ)七代は、並《ミナ》此(ノ)國土《クニ》に就坐《ツキマセ》る神たちにぞ有(リ)ける、然はあれども、又|正《マサ》しく是(レ)を地神《クニツカミ》と稱《マヲ》せることも物に見えざるなり、地(ツ)神とは、後(ノ)五代に至(リ)て、此(ノ)國土《クニ》なる神を、天神に對《ムカヘ》て申す稱《ナ》にぞありける、さて又地神五代と申すも、甚《イタ》く違《タガ》へることなり、まづ天照大御神は、高天(ノ)原を知看《シロシメシ》て、今も眼當《マノアタリ》天に坐々《マシマセ》ば、天神なること更なり、次に天之忍穗耳(ノ)命日子番能邇々藝(ノ)命も、高天(ノ)原に成(リ)坐(シ)つれば、天神なり、故(レ)是以《ココヲモテ》穗々手見(ノ)命より以下《コナタ》を、天(ツ)神(ノ)御子と申すなり、さて此(ノ)穗々手見(ノ)命鵜葺草葺不合(ノ)命は、此(ノ)國土に生《アレ》坐て、此(ノ)國土に坐《マシ》まししかば、天神とは申さず、然れども又|此《コレ》を地(ツ)神と申せることは、更に物に見えず、國土《クニ》には生《アレ》坐(セ)れども、天(ツ)神(ノ)御正統《ミスヱ》に坐(ス)が故に、皇孫《スメミマ》とも、又漢文には天孫とも申すなり、かゝれば天神七代地神五代と申すは、返々《カヘスガヘス》當《アタ》らぬ妄稱《ミダリゴト》と知(ル)べし、又此(ノ)七代五代を、天(ノ)七星地(ノ)五行に象《カタド》るといひ、或は易の八卦と云物に配當《アテ》て説(ク)たぐひは、耳に觸聞《フレキク》も穢《ケガラ》はしくなむ、】さて此(ノ)七代の神、書紀は異《カハリ》ありて、國(ノ)常立(ノ)尊の次に國(ノ)狹槌(ノ)尊と申す一代ありて、角杙(ノ)神活杙(ノ)神(ノ)一代無し、又一書には、此(ノ)一代はありて、意富斗能地(ノ)神大斗之辨(ノ)神(ノ)一代無し、さて世(ノ)字と代(ノ)字とを書ること、異なる意あるに非ず、神代七世と易《カヘ》て書(キ)たらむも、只同じkぽとなり、書紀にも、卷(ノ)首《ハジメ》には神代と標《シルシ》ながら、此處《ココ》におは此記と同く、神世七代と書れたり、上(ツ)代より如此《カク》書(キ)傳(ヘ)たる隨《ママ》なりけむかし、

〇上《カミノ》二柱云々の註は、十二柱にして七代なる由を云るなり、

〇各《オノオノ》とは、己々《オノオノ》と云ことなり、【己の假字|淤能《オノ》なれば、各も然なり、袁《ヲ》を用るは誤なり、】稱徳紀の詔には、於乃毛於乃毛《オノモオノモ》とあり、【毛《モ》は辭《テニヲハ》なり、】

〇十神二神は、登婆斯良《トバシラ》、布多婆斯良《フタバシラ》と訓べし、【其(ノ)由は、初(ノ)卷(ノ)訓法《ヨミザマノ》條に云るが如し、】

 

古事記傳侍四之卷

                 本居宣長謹撰

 

    神代二之卷《カミヨノフタマキトイフマキ》

 

於是天神諸命以《ココニアマツカミモロモロノミコトモチテ》。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神《イザナギノミコトイザナミノミコトフタバシラノカミニ》。修理固成是多陀用幣流之國《コノタダヨヘルクニヲツクリカタメナセトノリゴチテ》。賜天沼矛而《アマノヌボコヲタマヒテ》。言依賜也《コトヨサシタマヒキ》。故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而《カレフタバシラノカミアマノウキハシニタタシテ》。指下其沼矛以畫者《ソノヌボコヲサシオロシテカキタマヘバ》。鹽許袁呂許袁呂邇《シオコヲロコヲロニ》【此七字以音】畫鳴《カキナシ》【訓鳴云那志】而《テ》。引上時《ヒキアゲタマフトキニ》。自其矛末垂落之鹽《ソノホコノサキヨリシオタダルシホ》。累積成嶋《ツモリテシマトナル》。是淤能碁呂嶋《コレオノゴロシマナリ》。【自淤以下四字以音】

天神諸《アマツカミモロモロ》、天神《アマツカミ》は、初段《ハジメノクダリ》に見えたる五柱(ノ)天神《アマッカミ》なり、【下に至ては何事にも、高御産巣日(ノ)神之|命以《ミコトモチテ》云々とあるを、此《ココ》にのみは、彼(ノ)大神を分ては擧《アゲ》ずして、かく天神諸と、凡てを擧たること、所以《ユヱ》あるにや、】諸《モロモロ》とは、五柱をあつめて申せるにて、天(ツ)神に屬《ツキ》たる言なり、天(ノ)石屋の段に、八百萬神諸咲《ヤホヨヅノカミモロモロワラフ》、中(ノ)卷|倭建《ヤマトダケノ》命の段に、后等及御子等諸下到而《キサキタチマタミコタチモロモロクダリキマシテ》云々、孝謙紀(ノ)皇大后の宣命に、汝多知諸者吾近姪奈利《イマシタチモロモロハアガチカキヲヒナリ》、稱徳紀の宣命に、天下能人民諸乎愍賜《アメノシタノオホダカラモロモロヲメダミタマヒ》云々などある、是|等《ラ》と同じ例にて、古語の用(ヒ)ざまなり、又|諸《モロモロ》とばかりも云ること多し、萬葉廿(ノ)卷にも、母呂母呂波佐祁久等麻腕乎須《モロモロハサケクトマヲス》、また藥師寺(ノ)佛足石(ノ)歌に、都止米毛呂毛呂《ツトメモロモロ》などある是(レ)なり、【此(ノ)諸(ノ)字を、迦多閇能《カタヘノ》と訓るはひがことなり、此(レ)は眞字《マナ》伊勢物語に諸之人《カタヘノヒト》と見え、又|漢書《カラブミ》にも然《シカ》訓ることあり、其《ソ》は誰《タレ》にまれ一人のことを云(フ)處に、その傍《カタヘ》なる他《ホカ》の人|共《ドモ》を指《サシ》て云ゆゑに、迦多閇能人《カタヘノヒト》とは訓るなれば、固《モトヨリ》其意|異《コト》なるを辨(ヘ)ず、諸(ノ)字をば凡て然訓(ム)は妄《ミダリ》なり、又是(レ)を舊《フルキ》印本にも、元々集と云ものに引たるにも、誥と作《カケ》るは、寫《ウツシ》誤れるなり、】

〇命以、命は御言《ミコト》なり、式の祝詞《ノリト》に、天津神能御言以弖《アマツカミノミコトモチテ》、更量給弖《サラニハカリタマヒテ》云々、などある例以て知(ル)べし、【即(チ)命(ノ)字の意なり、】是(レ)を神の御名に某命《ナニノミコト》と申す命《ミコト》の意に見るは誤なり、以は母知弖《モチテ》と訓べし、【其由は、初(ノ)卷の訓法(ノ)條に云るが如し、又|命袁《ミコトヲ》と袁《ヲ》を添《ソヘ》ずて、直《タダ》に美許生母知弖《ミコトモチテ》と訓べきこと、かの式の例、また彼(ノ)訓法のところに引る歌どもなどの例をもて知べし、】さて此(ノ)命以《ミコトモチテ》は、國司《クニノミコトモチ》など云(フ)母知《モチ》とは意異なり、彼(レ)は命《ミコト》を承《ウケタマ》はりて負持《オヒモツ》こゝろなり、此(レ)は命爾弖《ミコトニテ》と云むが如くにして、以《モチテ》は輕《カロ》き辭なり、

〇伊邪那岐命、伊邪那美命、上(ノ)段には神とあるを、此《ココ》よりしては命と申せり、【こは殊なる意はあるべからず、上は他(ノ)神|等《タチ》みな某(ノ)神と申すゆゑに、それと等《ヒトシ》く神とは申せるなり、】下に至ては、大神《オホカミ》と申せる處もあり、さて凡て某命《ナニノノミコト》と、御名の下に命《ミコト》てふことを添《ソヘ》て申すは、尊む稱《ナ》なり、御名のみならず、天皇命《スメラミコト》、神《カミノ》命、御祖《ミオヤノ》命、皇子《ミコノ》命、父《チチノ》命、母《ハハノ》命、那勢《ナセノ》命、那邇妹《ナニモノ》命、妻《ツマノ》命、妹《イモノ》命、汝命《ナガミコト》などとも云る、記中又萬葉などに多かり、さてこの美許登《ミコト》てふ言の意は、未(ダ)思ひ得ず、【昔より人の云(フ)は、字に就て思へる説なれば信《ウケ》がたく、且《マタ》ことわりも叶はず、さて許《コ》を濁て誦《ヨム》人もあれど、記中にも書紀萬葉などにも、假字《カナ》に清音《スムコヱ》の字をのみ書(キ)つれば、清《スミ》て誦《ヨム》べし、濁音《ニゴルコヱ》に書るは唯《タダ》漢籍《カラブミ》に、天皇を主明樂美御徳《スメラミコト》と書るのみなり、こは好《ヨキ》字の限(リ)を擇《エリ》集めたる物と見ゆれば、清濁の定《サダ》までにはわたるまじければ、據《ヨリドコロ》とするにたらず、】命(ノ)字を書(ク)は、本《モト》御言《ミコト》と云に此字を書るを、言の同じきまゝに、尊稱《タフトムナ》の美許登《ミコト》にも借《カリ》て用ひたるなり、凡て言だに違《タガハ》ねば、文字の義にほ拘《カカハ》らず、左《カ》に右《カク》に借(リ)て書るは、古(ヘ)の常なり、【此字に目《メ》を付(ケ)て、その意をおもふべきにあらず、】さて書紀には、この美許登《ミコト》を、尊(ノ)字と命(ノ)字とに書別《カキワケ》て、至(テ)貴(キヲ)曰(ヒ)v尊(ト)、自餘(ハ)曰(フ)v命(ト)、並《ミナ》訓(ム)2美擧登《ミコトト》1と注《シル》されたり、これ君と臣と稱の同じきを惡《ニクミ》て、強《シヒ》て別《ワカ》むために、文字を書《カキ》かへ賜ふ、撰者の所為《シワザ》なり、さてその尊は、字の意を取て書《カカ》れたれば正字なり、命は、古(ヘ)より書來《カキコ》しを其《ソノ》隨《ママ》なれば、猶《ナホ》借(リ)字なり、【然るを尊に對《ムカヘ》て、この命(ノ)字をも、臣は君の命令を承る意ぞなどいふは、甚《イタク》強言《シヒゴト》なり、もし強《シヒ》て云(ハ)ば、命令を出す人を命と云むは、猶ことわり有(ル)に似たるを、其《ゾレ》を承る人を然《シカ》云むは、甚《イタ》く事たがへるをや、】

〇是多陀用幣流之國《コノタダヨヘルクニ》とは、正《マサ》しく初(ノ)段に、國稚如浮脂而《クニワカクウキアブラノゴトクニシテ》、とある物を指《サシ》て詔《ノタマ》へるなり、彼處《カシコ》にも久羅下那洲多陀用幣琉《クラゲナスタダヨヘル》とあると、言の同じきを以てさとるべし、又下に引る書紀(ノ)一書に、有物若浮膏云々とあるをも思ふべし、されば上にも云る如く、天之御中主(ノ)神より此(ノ)二柱(ノ)神までは、さしつゞきて次第《ツギツギ》に同(ジ)時に成(リ)坐て、此(ノ)時も即かの國稚《クニワカク》如(クニシテ)2浮脂(ノ)1而|漂蕩《タダヨヘ》る時なり、さて彼處《カシコ》にも云る如く、未(ダ)國と云物はなき時なれども、出來《イデキ》て後の名を以て、其(ノ)初(メ)をも如此《カク》國《クニ》とは語り傳(ヘ)しなり、【實は此時は、たゞ潮のかつ/”\凝《コリ》なむとして、たゞよへるのみぞ、】

〇修理固成《ツクリカタメナセ》、【修(ノ)字脩と作《カケ》るは正しからず、】修理は、たゞ作《ツクル》と書(ク)と同じことなり、玉垣(ノ)宮(ノ)御段《ミクダリ》に、修2理《ツクル》我宮《アガミヤヲ》】なども書り、さて國を修理固《ツクリカタム》と云語は、神産巣日《カミムスビノ》神の、少名毘古那《スクナビコナノ》神の事を、大穴牟遲《オホナムヂノ》神に、與汝葦原色許男命爲兄弟而《イマシアシハラシコヲノミコトトアニオトトナリテ》、作堅其國《カノクニツクリカタメヨ》、と詔《ノラ》ししこと下に見え、又其(ノ)二柱(ノ)神|相並作堅此國《アヒナラビテコノクニツクリカタム》ともあり、【文徳實録七に、佛毛平爾《ホトケモタヒラカニ》奉2造固《マツリツクリカタメ》1などもあり、和名抄に、修理職をば、乎佐女豆久留豆加佐《ヲサメツクルツカサ》とあり、】修理固《ツクリカタメ》と三字引(キ)つゞけて訓べし、成《ナセ》とは成《ナ》し竟《ヲへ》よと云ことなり、是(レ)もかの大穴牟遲(ノ)神の段《クダリ》に、國難成《クニナリガタケム》などあり、書紀にも成不成《ナルナラヌ》の論《アゲツラヒ》あり、さて作堅《ツクリカタム》と成《ナス》とは、似たることをかく重《カサネ》て云(フ)は古語なり、

〇詔は能理碁知弖《ノリゴチテ》と訓べし、能流《ノル》とは、人に物を云聞《イヒキカ》すことなり、己《オノ》が名を人に云(ヒ)聞すを、名告《ナノル》と云にて知べし、又法を能理《ノリ》と云も、上より云々《シカシカ》せよと定(メ)て、云(ヒ)聞せたまふより出たり、告また謂などの字をも、能留《ノル》と訓ること、記中又萬葉などに數多《アマタ》あり、【此等の字を、今(ノ)本には誤て、異《コト》さまに訓る所多し、古語に昧《クラ》き故なり、よく考(ヘ)て正《タダ》すべし、】さて此(ノ)詔(ノ)字、美許登能理《ミコトノリ》とも能理賜布《ノリタマフ》とも云り、【美許登能理《ミコトノリ》は御言詔《ミコトノリ》なり、能理多麻布《ノリタマフ》は詔賜《ノリタマフ》なり、常に能多麻布《ノリタマフ》と云は、此(ノ)理《リ》を省《ハブ》けるなり、】記中にても其所《ソコ》の言のつゞきに因て、訓《ヨム》さまいさゝか異《カハ》るべし、されど能留《ノル》てふ言はいづくにても離《ハナ》れぬなり、本(ト)それより樣々《サマザマ》に用《ツカ》ひ分《ワケ》たる故なり、能理碁都《ノリゴツ》は、書紀(ノ)崇神(ノ)卷に令《ノリゴチテ》2諸國《クニグニニ》1などあり、歌物語に、獨碁都《ヒトリゴツ》、所聞碁都《キコエゴツ》、政碁都《マツリゴツ》など云ると同じ格《サマ》にて、詔言爲《ノリゴトス》を約《ツヅ》めたる言なり、【應神紀に令《ノリゴトシテ》2有司《ツカサツカサニ》1とあり、】源氏(ノ)物語|東屋《アヅマヤノ》卷に、帝《ミカド》の御口《オホムクチ》づから碁弖《ゴテ》たまへるなりとあるは、能理碁知賜《ノリゴチタマフ》を、後にいひなれて、能理《ノリ》を省《ハブ》ける語なるべし、

〇天沼矛《アマノヌボコ》、書紀に天之瓊矛と書て、瓊此(レヲ)云(フ)v努《ヌト》、【書紀にて是(レ)を登富許《トホコ》と訓(ミ)來れるは、云に足(ラ)ぬ俗訓《サトビヨミ》なり、努(ノ)字、一本に貳《ニ》とありしよし私記に見ゆ、】とあれば、沼《ヌ》は借(リ)字にて玉なり、玉を奴《ヌ》と云るは、書紀に、瓊響※〔王+倉〕々此(レヲ)云(フ)2奴儺等母母由羅爾《ヌナトモモユラニト》1とある、【今(ノ)本瓊響(ノ)二字|脱《オチ》たり、又奴(ノ)上に乎(ノ)字あるも衍《アヤマリ》なり、又其(ノ)説どもも皆誤れり、此記と合せて考るときは、自《オノヅカ》ら明らけし、】奴儺等《ヌナト》は即(チ)瓊《ヌ》の響《オト》なり、【能《ノ》を那《ナ》と云も、淤《オ》を略《ハブ》くも、例多し、】又天武天皇の夫人《キサキ》に大※〔草がんむり/(豕+生)〕娘《オホヌノイラツメ》あり、舊事紀に天(ノ)〔草がんむり/(豕+生)〕槍と云あり、此(ノ)二(ツ)を合せて思ふに、是(レ)も玉を奴《ヌ》と云る一(ツ)の例ならむか、【※〔草がんむり/(豕+生)〕(ノ)字はさらに玉に由なければ、和を※〔口+禾〕とも書(ク)ごとき例に、※〔王+遂〕(ノ)字などを※〔しんにょう+(遂+玉)〕と書るを誤れるか、】かくて瓊を書紀に常に邇《ニ》と訓《ヨ》めば、それを通(フ)音《コヱ》に奴《ヌ》とも云しなるべし、矛は和名抄に、楊雄方言(ニ)云(ク)、戟或(ハ)謂2之(ヲ)干(ト)1、或(ハ)謂(フト)2之(ヲ)戈(ト)1、和名|保古《ホコ》、また釋名(ニ)云(ク)、手戟(ヲ)曰v矛(ト)、人(ノ)所v持也、字亦作(ルト)v鉾(ニ)、和名|天保古《テホコ》とあり、【此方の古書には、戟矛など字にはかゝはらず、みな通はし書り、桙《ホコ》とも多く書たり、矛を天保古《テホコ》と云るは、古(キ)名にはあらじ、手戟と云るにつきてのことなるべし、】上(ツ)代には殊に常に用ひし兵器《ツハモノ》にて、古書に多く見えたり、【日矛《ヒボコ》、茅纏之※〔矛+肖〕《チマキノホコ》、廣矛《ヒロホコ》、八尋矛《ヤヒロボコ》などいふ稱《ナ》見えたり、】沼矛《ヌボコ》は、玉桙《タマボコ》と云如く、玉以て飾《カザ》れる矛《ホコ》なるべし、古(ヘ)はかゝる物にも玉をかざれる、常のことなり、さて萬(ヅ)の物に天之某《アマノナニ》と、天《アマ》てふ言を上に添(ヘ)て呼(ブ)ことは、御孫《ミマノ》命の天降《アモリ》坐(シ)し時、大御身《オホミミ》に服御物《ソヘルモノ》、また御從《ミトモ》の神|等《タチ》のとり/”\に持《モタ》しし物など、凡て天《アメ》より降來《クダリコ》し物多し、其時に此(ノ)國の物と別《ワカ》ちて、天物《アメノモノ》をば天之某々《アマノナニナニ》と呼《ヨビ》しなり、さて後には、此(ノ)國にて作る物も、彼(ノ)天(ノ)物の制《ツクリ》ざまにならへるをば、然《シカ》云《イヒ》けらし、さて又|轉《ウツリ》ては、何《ナニ》となく唯|美稱《ホメ》て云りと思はるゝもあるなり、【それはた天(ノ)物は美《ウルハ》しかりしよりのことなり、】さて此(ノ)類の天は、後にはみな阿麻能《アマノ》とのみ訓(メ)ど、倭建(ノ)命の御歌に、阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》、書紀仁徳(ノ)御卷(ノ)歌に、阿梅箇儺※〔麻/(ノ+ム)〕多《アメカナバタ》なども有(レ)》ば、阿米能某《アメノナニ》阿米某《アメナニ》など訓べきもあるべし、されど定《サダ》かなる證《シルシ》の見えぬは、姑《シバラ》く舊訓《フルヨミ》に從ひつ、さて今國を作(リ)固めよとして、此矛を賜へること、如何《イカ》なる所以《ユヱ》とも知(ル)べからず、穴畏《アナカシコ》後の世の心もておしはかり言《ゴト》な為《セ》そ、【又此(ノ)矛に、例の種々《クサグサ》の説あれど、皆云(フ)にたらず、或は今伊勢の瀧祭《タキマツリノ》宮の地底《ツチノソコ》に藏《ヲサマ》るなど云も、いと/\信《ウケ》難きことなりかし、】

〇言依賜也《コトヨサシタマヒキ》、言《コト》は借字にて事なり、即(チ)事と書る所もあり、若(シ)言の意ならば、御言依《ミコトヨサシ》とあるべきに、何《イヅレ》の書にも御《ミ》と云るはなし、依《ヨサス》は、因《ヨサス》とも寄《ヨサス》とも所寄《ヨサス》とも書て、即(チ)字の如く與須《ヨス》なるを延《ノベ》て云(フ)言なり、佐須《サス》を切《ツヅム》れば即(チ)須《ス》なり、凡て古語は延《ノベ》ても縮《チヂメ》ても云こと多し、【其例は、次の立《タタス》の所にいふが如し、】然らば與世《ヨセ》を延《ノベ》ては與佐世《ヨサス》と云べきを、與佐斯《ヨサシ》と訓(ム)はいかにと云に、古(ヘ)は與世《ヨセ》を興斯《ヨシ》とも云るなり、書紀(ノ)神代(ノ)卷の歌に、妹盧豫嗣爾《メロヨシニ》、豫嗣豫利據禰《ヨシヨリコネ》【此歌、上は網《アミ》のことを序に云て、その網の目《メ》を引依《ヒキヨス》れば依《ヨリ》くる如く、依り來《コ》よと詠るなり、註ども痛《イタ》く誤れり、】とあるは、目依《メロヨセ》に依々來《ヨセヨリコ》ねと云ことなり、又萬葉十四【十九丁】に、都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》とよめるも、妻依令來《ツマヨコセ》ねなり、此外もあり、さて與佐斯《ヨサシ》と訓(ム)たしかなる證は、聖武紀(ノ)詔に、吾孫將知食國天下止《アガミマノシラサムヲスクニノアメノシタト》、與佐斯奉志麻爾麻爾《ヨサシマツリシマニマニ》とあり、佐《サ》を清《スミ》て誦《ヨム》べきことは、與須《ヨス》の延《ノビ》たる言なるを以て知べし、【今(ノ)人多く濁るはひがことなり、】さて與佐須《ヨサス》とは、任(ノ)字をも書て、事《コト》を其(ノ)人に依任《ヨセマカセ》て、執行《トリオコナ》はしむる意なり、光仁天皇の、藤原(ノ)永手大臣《ナガテノオホオミ》の薨《ミマカラ》れしを悼《イタミ》坐る大命《オホミコト》に、大政官之政|乎波《ヲバ》、誰任之加母罷伊麻須《タレニヨサシカモマカリイマス》、と詔《ノタマ》へるも、誰《タレ》に任《マカ》せ置《オキ》て身罷坐《ミマカリマス》ぞとなり、又封(ノ)字を訓(ム)も、其國の政を其人に依任《ヨセマカ》す意なり、言依《コトヨサス》てふ語《コトバ》は、此卷の下にも、續日本紀(ノ)宣命式(ノ)祝詞《ノリト》などにも、あまた見えて、皆同じ意なり、書紀には勅任《コトヨサス》ともあり、又應神(ノ)御卷に、任《コトヨサシテ》2大山守(ノ)命(ニ)1、令《ム》v掌(ラ)2山川林野(ヲ)1などもあり、賜《タマフ》は、上の賜《タマヒ》とは異《カハ》りて、たゞ尊《タフト》みて申す附辭《ツケコトバ》なり、

〇天浮橋《アマノウキハシ》は、天《アメ》と地《ツチ》との間《アヒダ》を、神たちの昇降《ノボリクダ》り通ひ賜ふ路《ミチ》にかゝれる橋なり、空《ソラ》に懸《カカ》れる故に、浮橋とはいふならむ、【和名抄に、魏略五行志(ニ)云、洛水(ノ)浮橋(ト)、和名|宇岐波之《ウキハシ》とあるは、水(ノ)上に浮たるなれば異なり、】天(ノ)忍穗耳(ノ)命番能邇々藝(ノ)命などの、天降り坐むとせし時も、天(ノ)浮橋に立《タタシ》しこと、下に見えたり、さて此橋のこと、後(ノ)人の例の漢書心《カラブミゴコロ》の、なま賢《サカシ》き説どもは云に足(ラ)ねば論《アゲツラ》はず、丹後(ノ)國(ノ)風土記(ニ)曰(ク)、與謝(ノ)郡(ノ)郡家(ノ)東北(ノ)隅方《スミノカタニ》有(リ)2速石(ノ)里1、此(ノ)里(ノ)之海(ニ)有(リ)2長(ク)大(キナル)石前《イソザキ》1、長(サ)二千二百廿九丈、廣《ヒロサ》或所《アルトコロハ》九丈以下、或所《アルトコロハ》十丈以上廿丈以下、先《サキヲ》名(ケ)2天梯立《アマノハシダテト》1、後《シリヲ》名(ク)2久志濱《クシノハマト》1、然云《シカイフハ》者、國生大神伊射奈0藝《クニウミマセルオホカミイザナギノ》命、天爲通行而《アメニカヨハサムトシテ》、梯作立《ハシヲツクリタテタマフ》、故《カレ》云(フ)2天梯立《アマノハシダテト》1、神御寢坐間仆伏《カミノミネマセルアヒダニタフレフシキ》云々、此(レ)に因《ヨレ》ば、此(ノ)浮橋もと此神の作り坐《マシ》しなり、さて天《アメ》に通ふ橋なれば、梯階《ハシダテ》にて、立《タチ》て有(リ)しを、神の御寢坐《ミネマセ》る間に仆《タフ》れ横《ヨコ》たはりて、丹後(ノ)國の海に遺《ノコ》れるなり、こは倭《ヤマト》の天香山《アメノカグヤマ》、美濃《ミヌ》の喪山《モヤマ》などの故事《フルコト》の類にて、神代にはかゝることいと多し、後(ノ)人|儒者心《ズサゴコロ》もて勿《ナ》あやしみそ、又播磨(ノ)國(ノ)風土記(ニ)曰(ク)、賀古(ノ)郡益氣(ノ)里(ニ)有(リ)2石橋1、傳(ヘテ)云(ク)、上古(ノ)之時此(ノ)橋|至《イタル》v天《アメニ》、八十人衆上下往來《ヤソノヒトドモノボリクダリカヨヒキ》、故《カレ》曰(フ)2八十《ヤソ》橋(ト)1、これも天《アメ》に往來《カヨヒ》し一(ツ)の橋と見ゆ、神代には天に昇(リ)降る橋、此所彼所《ココカシコ》にぞありけむ、是(レ)を以て思へば、彼(ノ)御孫《ミマノ》命の降りたまふ時|立《タタ》ししは、此處《ココノ》天(ノ)浮橋と一(ツ)にはあらで、別《コト》浮橋にぞ有(リ)けむ、さて此《ココ》を書紀(ノ)一書には、二神立(シテ)2于|天霧之中《アメノサギリノナカニ》1曰(ク)云々ともあるは、異なる傳(ヘ)》なり、

〇註に、訓(テ)v立(ヲ)云(フ)2多々志《タタシト》1、下には天(ノ)忍穗耳(ノ)命|於天浮橋多々志而《アメノウキハシニタタシテ》とも書り、書紀(ノ)欽明(ノ)卷(ノ)歌に、基能倍※〔にんべん+爾〕陀々志《キノベニタタシ》、【城之上立《キノベニタタシ》なり、】又推古(ノ)卷(ノ)歌に、異泥多々須《イデタタス》【出立なり、】など、其外つね多き古語なり、是《コ》は依《ヨス》を與佐須《ヨサス》と云に同くて、延《ノベ》たる言なり、行《ユク》を由迦須《ユカス》、取《トル》を登羅須《トラス》、持《モツ》を毛多須《モタス》、守《モル》を毛羅須《モラス》、待《マツ》を麻多須《マタス》など、凡て如此樣《カクサマ》に延《ノベ》て云(フ)、常のことなり、そは先(ヅ)は尊みて云(フ)語の如く聞ゆ、然れども又、賤き者の上《ウヘ》にも然云ること、あまた見えたり、

〇指下《サシオロシ》は、かの虚空中《オホソラ》に如(ク)2浮脂(ノ)1たゞよへる、一屯《ヒトムラ》の物の中へ指下したまふなり、書紀一書に、伊弉諾伊弉冉二神|相謂曰《カタラヒタマハク》、有物若浮膏《ウキアブラノゴトクナルモノアリ》、其中蓋有国乎《ソノナカニケダシクニアラムカ》、乃以(テ)2天(ノ)瓊矛(ヲ)1探2成一(ノ)嶋(ヲ)1、名(ケテ)曰2※〔石+殷〕馭盧嶋《オノゴロシマト》1、とあるを以て知べし、

〇矛《ホコ》の下なる以(ノ)字は、佐志淤呂志弖《サシオロシテ》の弖《テ》に當《アテ》て訓(ム)べし、字のまゝに訓(ム)は漢文語《カラブミヨミ》なり、

〇畫者《カキタマヘバ》、畫(ノ)字は、書紀一書にも、畫《カキテ》2滄海《ウナバラヲ》1とも、又|畫2成《カキナシタマフ》※〔石+殷〕馭盧嶋《オノゴロシマヲ》1ともありて、似たることながら、猶《ナホ》此(ノ)字の意にはあらねば、借(リ)字なり、式(ノ)祈年祭(ノ)祝詞にも、泥畫寄弖《ヒヂカキヨセテ》と書り、これら古(ヘ)より、書來《カキコ》し字を、そのまゝ用(ヒ)たる物なり、此(ノ)迦久《カク》は、攪(ノ)字などの意にして、俗語《サトビゴト》に迦伎麻波須《カキマハス》と云が如し、書紀本書に、以天之瓊矛指下而探之《アマノヌボコヲサシオロシテサグリタマヘバ》とあり、彼(ノ)一書の畫《カキテ》をも、口決《クケツ》に以(テ)v矛(ヲ)探(ル)v海(ヲ)也と解《トキ》たる、よく當れり、【畫(ノ)字に就て云る註は、なか/\に惡《ワロ》し、】さて其《ソレ》を迦久《カク》と云るは、凡て手末《テノサキ》して為《ス》るわざを、迦伎云々《カキシカシカ》と云(フ)、【迦伎上《カキア》ぐ、迦伎因《カキヨ》す、迦伎亂《カキミダ》すなどのごとし、】又必しも手《テ》して為《セ》ねども、其《ソノ》状《サマ》の同じきは、物もて為《ス》る事《ワザ》をも然《シカ》云なり、【痒《カユキ》を掻《カク》、字《ジ》繪《ヱ》などを書《カク》、木葉《コノハ》などをかくの類なり、】此《ココ》は彼(ノ)空中《オホソラ》に漂《ダダヨ》へる物【潮《ウシホ》に泥《ヒヂ》の和《マジ》れる一沌《ヒトムラ》の物なり、】を固《カタ》めむ爲《タメ》に、矛《ホコ》以て攪探《カキサグ》り賜ふなり、【彼(ノ)書紀の探《サグル》は、上下の語を思ふに、探求《サグリモトム》る意なり、此(ノ)記の迦久《カク》は、求る意には非ず、若《モシ》是(レ)を然《サ》る意とせば、許袁呂許袁呂邇書成《コヲロコヲロニカキナス》とあるに叶はず、且《ソノウヘ》天(ツ)神の、是漂有國《コノタダヨヘルクニ》と指《サシ》て詔《ノタマ》へば、漂有國《タダヨヘルクニ》は著明《アラハ》なれば、尋求《タヅネモトメ》賜(フ)べきにあらず、】

〇鹽《シホ》は潮《シホ》なり、【鹽と潮と字は異《コト》なれども、斯富《シホ》てふ名は一(ツ)なり、】和名抄に、潮、和名|宇之保《ウシホ》、齊明紀の大御歌に于之※〔衣の間に臼〕《ウシホ》とあり、又これを斯富《シホ》とのみ云るもつねのことなり、

〇許袁呂許袁呂邇《コヲロコヲロエ》は、【これを諸本に許々袁々呂々邇と作《カケ》るは、古(ヘ)の書法なり、下の大穴牟遲(ノ)神の段に、鼠《ネズミ》の外者須夫須夫《トハスブスブ》と云るをも、須々夫々とかき、又神武紀の、伊莽波豫《イマハヨ》、伊莽波豫《イマハヨ》、阿々時夜塢《アアシヤヲ》、伊莽※〔にんべん+嚢〕而毛阿誤豫《イマダニモアゴヨ》、伊莽※〔にんべん+嚢〕而毛阿誤豫《イマダニモアゴヨ》と云歌を、舊事紀には、伊々莽々波々豫々、阿々時夜塢、伊々莽々※〔にんべん+嚢〕々而々毛々、阿々誤々豫々と書るなど、書紀の古本には、然《シカ》有(リ)しを寫《ウツ》せしならむ、古(ヘ)は凡て如此《カク》さまに書(ケ)りしなり、然れども其《ソ》は、同字の重《カサナ》れるを、省書《ハブキカク》とてのうちとけわざにこそあれ、正しき書典《フミ》などには、然《サ》は書(ク)まじきことなり、故(レ)今は延佳本に從ひて、正《ウルハ》しく書つ、此(ノ)餘《ホカ》も、此(ノ)書格《カキザマ》みな同じことなり、】彼(ノ)矛以て迦伎賜《カキタマ》ふに隨《シタガ》ひて、潮の漸々《ヤウヤウ》に凝《コリ》ゆく状《サマ》なり、即(チ)許袁呂《コヲロ》と凝《コル》と言も通へり、そは下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段に、大御盞《オホミサカゾキ》に落葉の浮るを、三重《ミヘ》の※〔女+采〕《ウネベ》が歌に、美豆多麻宇伎爾《ミヅタマウキニ》、宇岐志阿夫良《ウキシアブラ》、淤知那豆佐比《オチナヅサヒ》、美那許袁呂許袁呂爾《ミナコヲロコヲロニ》云々、とあると同じ、さて此《ココ》の状《アリサマ》を物に譬(ヘ)ていはば、膏《アブラ》などを煮《ニ》かたむるに、始《ハジメ》のほどは水の如くなるを、匕《カヒ》もて迦伎《カキ》めぐらせば、漸々《ヤウヤウ》に凝《コリ》もてゆくが如し、【但し膏《アブラ》を煮《ニ》むはさることなれど、潮は如何《イカニ》かきめぐらせばとても、凝《コラ》むこといかゞ、と云(フ)疑(ヒ)も有(リ)ぬべけれど、此《コ》は産巣日《ムスビノ》

神の産靈《ムスビ》によりて、國土《クニ》の初《ハジ》まるべき、神の御爲《ミシワザ》なれは、今|尋常《ヨノツネ》の小理を以て、左《カ》に右《カク》に測《ハカリ》云(フ)べきにあらず、今はたゞ其《ソノ》状《サマ》をたとへていへるのみなり、】

〇書鳴《カキナシ》は、彼(ノ)浮脂《ウキアブラ》の如《ゴト》漂《タダヨ》へる物を迦伎《カキ》て、稍《ヤヤ》凝《コリ》たる物に成《ナス》なり、鳴は借字にして、成《ナス》の意なり、即(チ)書紀には畫成探成《カキナスサグリナス》など書り、【然らば直《タダ》に成(ノ)字を書べきに、物遠《モノドホ》き字を借《カ》れるは、今は如何《イカニ》ぞや思はるれども、古(ヘ)は例の只|何心《ナニゴコロ》なく書來《カキコ》し字を、やがてそのまゝに書るなり、さて古(ヘ)は、琴《コト》を弾鳴《ヒキナラス》を比伎那須《ヒキナス》、笛を吹鳴《フキナラス》を布伎那須《フキナス》、鼓《ツヅミ》を打鳴《ウチナラス》を宇知那須《ウチナス》など、凡て鳴《ナラス》を那須《ナス》といひし故に、成《ナス》に此(ノ)字を借れるなり、〇舊印本(ノ)註には、訓(テ)v鳴(ヲ)云2那志々(ト)1とあるを、師は此(レ)を用ひて、ナシヽテと訓れき、そは見《ミ》たまふをみしたまふと云格の語と見られたるにや、されど那志々《ナシシ》とあるは、誤なるべし、】

〇引上《ヒキアゲタマフ》は、彼(ノ)矛をなり、

〇其(ノ)矛末《ソノホコノサキ》、末は佐伎《サキ》と訓べし、下に着《ツケル》2其御刀前《ソノミハカシノサキニ》1之|血《チ》云々、以《モチテ》2御刀(ノ)之|前《サキ》1云々、趺2坐(テ)其劔釦前《ソノツルギノサキニ》1云々など、皆|佐伎《サキ》と云(ヒ)、書紀欽明(ノ)卷に鉾末《ホコノサキ》、新撰字鏡にも、欽(ハ)保己乃佐支《ホコノサキ》とあればなり、【國栖等《クズドモ》が、大雀《オホサザキノ》命の御刀《ミタチ》を見てよめる歌に、波加勢流多知《ハカセルタチ》、母登都流藝《モトツルギ》、須惠布由《スヱフユ》云々とあれば、須惠《スヱ》と訓むも誤《ヒガコト》ならねど、なほ多き方によるべし、】

〇垂落は斯多陀流《シタダル》と訓べし、書紀の訓も然なり、又|劔刀垂血《ツルギノハヨリシタダルチ》などもあり、斯多陀流の斯多《シタ》は、※〔酉+麗〕《シタム》といふと同じ、

〇落の下なる之(ノ)字、諸本に鹽(ノ)字(ノ)下にあるは誤なり、如此《カク》下上に寫(シ)誤れる例|往々《トコロドコロ》にあり、今は一本に從(ヒ)つ、書紀にも滴瀝《シタダル》之|潮《シホ》、また垂落《シタダル》之|潮《シホ》とあり、且《ソノウヘ》記中の之(ノ)字を置《スウ》る例も、然ればなり、

〇累積は都母理弖《ツモリテ》と訓べし、

〇淤能碁呂嶋《オノゴロシマ》は、【碁(ノ)字、諸本みな基と作《ア》れども、此嶋(ノ)名、下にも又高津(ノ)宮(ノ)段の御歌にも、共に碁とあれば、今は其《ソレ》に依(リ)つ、碁呂《ゴロ》の碁《ゴ》を清《スミ》て讀(ム)は誤なり、書紀にも濁音の馭(ノ)字を用(ヒ)られたり、又|嶋《シマ》の志《シ》は、彼(ノ)大御歌に清音《スムコヱ》の志《シノ》字を書れば、清《スム》べきなり、】私記に、自凝之嶋也《オノヅカラコレルシマナリ》、猶3如《ゴトシ》言(ムガ)2自凝《オノコリト》1也とあり、彼(ノ)許袁呂許袁呂《コヲロコヲロ》にかき成(シ)賜へる潮の滴《シタダ》りの積《ツモリ》て成れる故の名なり、【即(チ)許袁呂《コヲロ》を切《ツヅム》れば許呂《コロ》なり、さて此嶋は、國土《クニツチ》の成れる初《ハジメ》なれば、地《ツチ》と云名は、※〔泥/土〕《ヒヂ》の聯接《ツヅキ》て成れる由にて、都豆比遲《ツヅヒヂ》の約《ツヅ》まれるなるべし、】自《オノ》と云|所以《ユヱ》は、他《ホカ》の嶋國《シマクニ》は皆二柱(ノ)神の生成《ウミナシ》賜へるに、此(ノ)嶋のみは然らず、自然《オノヅカラ》に成れればなり、故(レ)下に唯意能碁呂嶋者《タダオノゴロシマノミハ》、非所生《ウミマセルナラズ》とあり、【是(ノ)嶋を御國《ミクニ》の本(ノ)名として、丈夫嶋《ヲノコシマ》の意なりと云は、古語知(ラ)ぬ者《モノ》のひが言なり、袁能古《ヲノコ》の袁《ヲ》は音|異《コト》なり、自《オノ》は淤能《オノ》の音にして、よく叶へり、後(ノ)世に自の假字《カナ》に袁《ヲ》を用るは誤なり、其餘《ソノホカ》も説|共《ドモ》多けれど、皆云(フ)に足(ラ)ず、】さて此(ノ)嶋の在所《アリドコロ》は、高津(ノ)宮(ノ)段に、天皇の淡道嶋《アハヂシマ》に大坐ましての大御歌に、阿波志摩《アハシマ》、淤能碁呂志摩《オノゴロシマ》、阿遲摩佐能志麻母美由《アヂマサノシマモミユ》云々、とあるに因《ヨレ》ば、淡嶋《アハシマ》の並《ナラビ》と聞えたり、【淡嶋のことは、下に委くいふ、】私記に、今見《イマゲムニ》在(ル)2淡路嶋(ノ)西南(ノ)角《スミニ》1小嶋是也《コシマコレナリ》、云(フ)3俗猶《クニビトナホ》存(スト)2其(ノ)名(ヲ)1也と云(ヒ)、口決には、在(ル)2淡路(ノ)西北(ノ)隅(ニ)1小嶋(ナリ)と云り、西北西南いづれか實ならむ、【或説に、後世歌によむ淡路の繪嶋《ヱジマ》これなり、日本紀に、以2※〔石+殷〕馭廬嶋(ヲ)1爲v胞《エト》、とあるより出て、もとは胞嶋《エジマ》の意なりと云り、又或説に、淡路の西北(ノ)隅にある胞嶋《エジマ》これなり、今も胞嶋《エジマ》と云(ヒ)、又おのころ嶋てふ名も存せり、さて其(ノ)地方に、鶺鴒嶋《セキレイジマ》と云もあり、磐※〔木+豫〕樟《イハクスノ》神社と云もあり、式に石屋《イハヤノ》神社とあるこれなり、岩窟《イハヤ》の内に、二柱(ノ)大神に蛭兒を合せ祭る、其(ノ)東南(ノ)方の山に、天地大神宮といふあり、國常立(ノ)尊伊弉諾(ノ)尊伊弉冉(ノ)尊三座なり、其攝社に八十萬神ありと云り、又荒木田(ノ)瓠形(ガ)云(ク)、おのれさきに西(ノ)國へまかりしとき、おのごろ嶋のあたりを經行《ヘユキ》たり、淡路の津名(ノ)郡石屋(ノ)神社の東の小嶋なりと云りき、又或説に、淡路と紀伊(ノ)國の境、由理(ノ)驛の西方なる小嶋なりと云り、こは違へるが如し、】さて此(ノ)嶋の先(ヅ)成堅《ナリカタ》まりしは、大八嶋國《オホヤシマクニ》の成《ナル》べき基《モトヰ》なり、其(ノ)故は、二柱(ノ)神|國士《クニツチ》を生成《ウミナシ》賜(ハ)むとて、殿造《トノヅクリ》して共住《トモニスミ》て、其柱を廻逢《メグリアヒ》て御合坐《ミアヒマス》に、此(ノ)嶋は、其(ノ)殿の柱を立(ツ)べき基《モトヰ》の、先(ヅ)成堅《ナリカタマ》れる物なればなり、猶其事は、次々《ツギツギ》に見えたるを考(ヘ)て知べし、

 

於其嶋天降坐而《ソノシマニアモリマシテ》。見立天之御柱《アメノミハシラヲミタテ》。見立八尋殿《ヤヒロドノヲミタテタマヒキ》。於是問其妹伊邪那美命曰《ココニソノイモイザナミノミコトニ》。汝身者如何成《ナガミハイカニナレルトトヒタマヘバ》。答曰吾身者成成不成合處一處在《アガミハナリナリテナリアハザルトコロヒトトコロアリトマヲシタマヒキ》。爾伊邪那岐命詔《イザナギノミコトノリタマヒツラク》。我身者成成而成餘處一處在《アガミハナリナリテナリアマレルトコロヒトトコロアリ》。故以此吾身成餘處《カレコノアガミノナリアマレルトコロヲ》。刺塞汝身不成合處而《ナガミノナリアハザルトコロニサシフタギテ》。爲生成國土奈何《クニウミナサムオモフハイカニトノリタマヘバ》。【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善《イザナミノミコトシカヨケムトマヲシタマヒキ》。爾伊邪那岐命《ココニイザナギノミコト》。詔然者吾與汝行廻逢是天之御柱而《シカラバアトナトコノアメノミハシラヲユキメグリアヒテ》。爲美斗能麻具波比《ミトノマグハヒセムトノリタマヒキ》。【此七字以音】如此云期《カクイヒチギリテ》。乃詔汝者自右廻逢《スナハチナハミギリヨリメグリアヘ》。我者自左廻逢《アハヒダリヨリメグリアハムトノリタマヒ》。約竟以廻時《チギリヲヘテメグリマストキニ》。伊邪那美命先言阿那邇夜志愛 上 袁登古袁《イザナミノミコトマヅアナニヤシエヲトコヲトノリタマヒ》。【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那邇夜志愛 上 袁登賣袁《ノチニイザナギノミコトアナニヤシエヲトメヲトノリタマヒキ》。各言竟之後《オノオノノリタマヒヲヘテノチニ》。告其妹曰女人先言不良《ソノイモニヲミナヲコトサキダチテフサハズトノリタマヒキ》。雖然久美度邇《シカレドモクミドニ》【此四字以音】興而《オコシテ》。生子水蛭子《ミコヒルゴヲウミタマヒキ》。此子者入葦船而流去《コノミコハアシブネニイレテナガシステツ》。次生淡嶋《ツギニアハシマヲウミタマヒキ》。是亦不入子之例《コモミコノカズニハイラズ》。

天降坐而は阿母理麻志弖《アモリマシテ》と訓べし、萬葉二(ノ)卷【二十四丁】に、和射見我原乃《ワザミガハラノ》、行宮爾《カリミヤニ》、安母理座而《アモリマシテ》、天下《アメノシタ》、治賜《ヲサメタマヒ》云々、又三(ノ)卷【十六丁】に、天降付《アモリツク》、天之芳來山《アメノカグヤマ》、又十三卷【三丁】に、葦原乃《アシハラノ》、水穗之國丹《ミヅホノクニニ》、手向爲跡《タムケスト》、天降座兼《アモリマシケム》云々、又十九(ノ)卷【三十九丁】に、安母理麻之《アモリマシ》云々、など有(ル)に依れり、【阿麻久陀理《アマクダリ》と訓(ム)もあしくはあらず、其《ソ》は十八に、葦原能《アシハラノ》、美豆保國乎《ミヅホノクニヲ》、安麻久太利《アマクダリ》、之艮志賣之家流《シラシメシケル》、などもあればなり、】安母理《アモリ》は阿麻淤理《アマオリ》【天下《アマオリ》なり】の約《ツヅマ》りたる古言なり、抑此(ノ)二柱(ノ)大神は、高天(ノ)原に生《ナリ》坐る神には非れば、今初(メ)て天降坐(ス)にはあらず、初(メ)天(ツ)神の大命を承り賜ふとして、參上《マヰノボ》り坐るが、降りたまふなり、【然るにその參上り坐(シ)しことを初(メ)に云(ハ)ざるは、其(ノ)事はさしも要《エウ》なければ、省《ハブキ》て語り傳(ヘ)たるなるべし、書紀の傳(ヘ)には、天神の大命を承りたまへることをさへに、省きたるをや、或人疑て云く、若(シ)初(メ)に高天(ノ)原に參上り賜へるが降(リ)たまふならば、下文にも反降《カヘリクダリ》とある如く、此《ココ》も反降《カヘリクダリ》と云べきにあらずや、答(フ)、初(メ)に參上り坐(シ)し時は、いまだ淤能碁呂嶋は無き時なれば、於《ニ》2其鳴1反《カヘリ》とは云べきにあらず、】

〇天之御柱《アメノミハシラ》は、即(チ)次に見えたる八尋殿《ヤヒロドノ》の柱なり、【別《コト》に立《タテ》賜(フ)には非ず、源氏(ノ)物語明石(ノ)卷(ノ)歌に、宮柱めぐりあひける云々とあるは、蛭子をよめる歌の答(ヘ)にて、こゝの天の御柱のことなるを、宮柱とよめる、作者の心は知らねども、自《オ》ら實《マコト》にかなへり、】和名抄に、柱(ハ)和名|波之良《ハシラ》とあり、凡て殿《トノ》を造ることを云(フ)とて、先(ヅ)柱を云(フ)は、底津石根《ソコツイハネ》に宮柱布刀斯理《ミヤバシラフトシリ》など、古(ヘ)の常なり、大殿祭の祝詞《ノリト》に、天皇の御殿《ミアラカ》造(リ)奉ることを云るにも、奥山乃大峽小峽爾立留木乎《オクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲ》、齋部能齋斧乎以伐操※〔氏/一〕《イミベノイミヲノヲモテキリトリテ》、本末乎波山神爾祭※〔氏/一〕《モトスヱヲバヤマノカミニマツリテ》、中間乎持出来※〔氏/一〕《ナカノマヲモテイデキテ》、齋※〔金+且〕乎以齋柱立※〔氏/一〕《イミスキヲモテイミハシラタテテ》、皇御孫之命乃天之御翳日之御翳止《スメミマノミコトノアメノミカゲヒノミカゲト》、造奉仕禮流瑞之御殿《ツクリツカヘマツレルミヅノミアラカ》云々、かく專《モハラ》柱《ハシラ》のことをとりわきて云り、且《ソノウヘ》此處《ココ》は、下に柱を行廻《ユキメグリ》たまふ大禮《オモキミワザ》を申す段《クダリ》なる故に、初(メ)に其《ソレ》を立《タテ》賜ふことを、先(ヅ)云(ヒ)置(ケ)るなり、書紀一書に、化2作《ミタテ》八尋之殿《ヤヒロドノヲ》1、又|化2竪《ミタツ》天(ノ)v柱(ヲ)1とあるは、此柱を又別に立《タテ》賜ふ如く聞ゆれど、さにはあらず、是(レ)も其(ノ)始(メ)を先(ヅ)云(ヒ)置(ク)》とて、猶《ナホ》たしかに又(ノ)字をさへ加(ヘ)賜へる物ならむ、さて天之《アメノ》と云は天なる殿舍《ミアラカ》の柱のさまに作(リ)立(テ)たまふ故に添(ヘ)て云こと、天沼矛《アマノヌボコ》の所に説《トケ》るが如し、【書紀に國柱《クニノミハシラ》とあると、對《ムカヘ》ては見べからず、】さて書紀に、以(テ)2※〔石+殷〕馭廬嶋《オノゴロシマヲ》1爲《ス》2國中之柱《クニナカノミハシラト》1【柱此(レヲ)云2美簸旨邏《ミハシラト》1、】とあるは、趣|異《コト》なるが如くなれども、彼(ノ)嶋の成れるは、此(ノ)殿の柱を立(ツ)べき基《モトヰ》の成れるにて、其(ノ)基も即(チ)柱なれば、たゞ同じことなり、【屋《ヤ》を支《ササ》へ持(ツ)物は柱にして、其(ノ)柱の本を支(ヘ)持(ツ)物は地《ツチ》なれば、地《ツチ》も柱なり、風をしも天(ノ)御柱國(ノ)御柱と申すにてもさとるべし、其事は傳七の□に委(ク)云り、さて此《ココ》の柱を、國中之柱とも國(ノ)柱とも云(フ)ゆゑは、まづ國土《クニ》を生成《ウミナサ》むとて遘合《マグハヒ》したまふ、其(ノ)初(メ)に先(ヅ)此(ノ)御柱を廻《メグ》りたまふ、然れば此(ノ)御柱は、國土の生《ナ》るべき本元《モト》なるがゆゑなり、かの風を云る國(ノ)御柱とは、名の意は異なり、又私記に古説とて、天神所賜瓊矛《アマツカミノタマヘリシヌボコハ》、既《スデニ》探2得《サグリエテ》※〔石+殷〕馭廬嶋(ヲ)1畢、即(チ)以《ヲ》2其矛1衝2立《ツキタテテ》此(ノ)嶋(ニ)1、爲2國柱《クニノミハシラト》1也、即(チ)其(ノ)矛|化2爲《ナリキ》小山《コヤマニ》1也と云る、是(レ)も一(ツ)の傳《ツタヘ》なるべし、舊事紀にも然いへり、さて此(ノ)御柱のことを、後(ノ)人の種々《クサグサ》言痛《コチタ》きことども以て、故あるさまにいひなせど、皆例の妄言《ミダリゴト》なり、】

〇見立《ミタテ》は、見《ミ》は見送《ミオク》るなど云|見《ミ》にて、俗言《ヨノコト》にも、兒《コ》を見育《ミソダ》つ、先途《セムド》を見屆《ミトド》くなど云、これらの見《ミ》は、たゞに眼《メ》して視《ミ》るのみを云にはあらず、其(ノ)事を身に受て、己が任《ワザ》として、知(リ)行ふを云り、されば此《ココ》も、此(ノ)御柱を立(テ)、殿を造ることに、御親《ミヅカラ》與《アヅカ》り所知看義《シロシメスココロ》 なり、【俗《ヨ》に人の首途《カドイデ》を見立《ミタテ》ると云も、みづから其處《ソノトコロ》に臨て、發《タタ》せ遣《ヤ》るを云て、同じ意なり、】すなはち所知看《シロシメス》などの看《メス》も、此(ノ)見《ミ》と同じ、【此(ノ)看《メス》は、即(チ)字の如くにて、見《ミ》るといふ言なり、見《ミ》るを古言に美須《ミス》と云、聞(ク)を伎許須《キコス》と云と同じ、さてその美須《ミヂ》を、通(フ)音にて賣須《メス》とも云り、これら萬葉の歌などに常多きことなり、さてそは目《メ》に見ることのみならず、何事にまれ、身に受(ケ)入るゝ意に多く云り、天(ノ)下|所知看《シロシメス》、政所聞看《マツリゴトキコシメス》などの如し、なほ此言の意は、傳七の十七葉に委(ク)云り、さて此(ノ)見立《ミタツ》を、さきには、御寢《ミミ》坐(ス)御合《ミアヒ》坐(ス)などの類にて、御立《ミオタツ》の意にもあらむ、と云(ヘ)りしはわろし、若(シ)其意ならば、たゞに御(ノ)字を書(ク)べきことなり、又書紀に、化作《ミタツ》化竪《ミタツ》など書れたる、化(ノ)字はいと心得ず、決《キハメ》て此字の意にはあらず、訓は此記に依れるなり、又みたつは生立《ウミタツ》なりと云る説なども、ひがことなり、】

〇八尋殿は夜比呂杼能《ヤヒロドノ》と訓べし、之《ノ》と添(ヘ)てよむはわろかるべし、【書紀には之(ノ)字を加(ヘ)て書れたれども、彼《カレ》は凡て漢文章《カラブミノアヤ》を旨《ムネ》とせられたれば、かくさまの證《シルシ》には依りがたし、】さて此(ノ)名、下|木花之佐久夜毘賣《コノハナノサクヤビメ》の段にも、作2無戸八尋殿(ヲ)1云々、書紀神代(ノ)卷にも、於秀起浪穗之上起八尋殿而《サキダテルナミノホノヘニヤヒロドノヲタテテ》云々などあり、又履中紀山城(ノ)風土記などに、八尋屋《ヤヒロヤ》と云こともあり、【倭姫(ノ)命(ノ)世記には、八尋機屋《ヤヒロハタヤ》と云もあり、】八尋《ヤヒロ》は、殿の廣さの度《ホド》を云るにて、八《ヤ》は必しも七《ナナツ》八《ヤツ》と數《カゾフ》る八《ヤ》にはあらず、彌《イヤ》の約《ツヅ》まりたる言なり、凡て八重《ヤヘ》八雲《ヤクモ》、又|八十《ヤソ》八百《ヤホ》八千《ヤチ》、其(ノ)外|八某《ヤナニ》と云こと古(ヘ)の常なり、皆同じことにて、唯|重《カサ》なり多きを云り、【然るを神道には八(ノ)數を尊むなど云て、此數に就て種々《クサグサ》云(ヒ)なすは、皆例の漢書言《カラブミゴト》にて、都《スベ》て古(ヘ)の意にあらず、物を八《ヤツ》に齊《トトノフ》るも後の態《シワザ》なり、】尋《ヒロ》は兩手《フタツノチ》を伸《ノベ》たる長《ナガ》さを云(フ)、今(ノ)人も然《シカ》して一尋《ヒトヒロ》と定(ム)るなり、其《ソ》は手《テ》を廣《ヒロ》げて度《ハカ》る故に、一廣《ヒトヒロ》げ二廣《フタヒロ》げの意なるべし、【漢國《カラクニ》にても、舒《ノベテ》v肘(ヲ)知(ル)v尋(ヲ)などあれば、上(ツ)代には然《シカ》有《アリ》けむを、八尺と定(メ)しは、稍《ヤヤ》後のことならむ、御国《ミクニ》には今も猶《ナホ》八尺をば云(ハ)ず、況《マシテ》神代は思ひやるべし、且《ソノウヘ》八尋矛《ヤヒロボコ》と云も有(ル)を以(テ)、八八六丈四尺にあらぬを悟《サトル》べし、】和名抄に、殿(ハ)和名|止乃《トノ》とあり、さて先(ヅ)此(ノ)殿を見立《ミタテ》賜(フ)は、女男《メヲ》共に住て御合《ミアヒ》し賜む料なり、そも/\其殿立(テ)賜(フ)ことまでは、云(ハ)でも有(リ)ぬべきを、先(ヅ)如此《カク》云(フ)は、古(ヘ)妻問《ツマドヒ》するには、先(ヅ)其(ノ)屋《ヤ》を建《タテ》しことと見えて、須佐之男《スサノヲノ》命の須賀《スガ》の宮作(リ)も、都麻碁微爾夜弊賀岐都久流《ツマゴミニヤヘガキツクル》、と詠《ヨマ》ししを見れば、專《モハラ》妻《ツマ》を籠居《コメスヱ》む爲《タメ》なること知られ、又萬葉三(ノ)卷|勝鹿眞間《カツシカノママノ》娘子(ガ)墓を見て赤人(ノ)歌に、古昔《イニシヘニ》、有家武人之《アリケムヒトノ》、倭文幡乃《シヅハタノ》、帯解替而《オビトキカヘテ》、廬屋立《フセヤタチ》、妻問爲家武《ツマドヒシケム》云々、【是は契沖又師の考(ヘ)は異《コト》なれど、此《ココ》に由あることとも思はるゝ故に引つ、人好む方を取れ、】是(レ)も古(ヘ)賤(キ)者も、廬屋《フセヤ》を立《タテ》て妻問《ツマドヒ》すといふ、云(ヒ)ならはしの有(ル)故に、かく續《ツヅケ》てよまれしと見ゆ、かゝれば此《ココ》の八尋殿も、徒《タダ》に云るには非ず、由(シ)あることぞ、書紀にも、同宮共住而生兒《ヒトツミヤニスミマシテウミマセルミコ》ともあるをや、

〇汝身は那賀美《ナガミ》と訓べし、汝は、【此字常に漢文にては那牟遲《ナムヂ》と訓(ミ)、古書には伊麻斯《イマシ》と訓たり、是らも惡しきにはあらねど猶】上(ツ)代の歌どもにも多く那《ナ》と詠《ヨミ》、又|那禮《ナレ》【吾《ワ》を吾禮《ワレ》、己《オノ》を己禮《オノレ》と云如く、汝《ナ》を汝禮《ナレ》と云なり、】那兄《ナセ》郡泥《ナネ》汝妹《ナニモ》汝者《ナビト》【允恭紀に見ゆ、】汝命《ナガミコト》なども、皆|那《ナ》を本としたる稱なり、【那牟遲《ナムヂ》も、那《ナ》を本として、牟遲《ムヂ》は、大穴牟遲《オホナムヂ》などの牟遲《ムヂ》なり、物語文には伎牟遲《キムヂ》と云稱も有(リ)、伎《キ》は君の意なり、】かゝれば汝は、那《ナ》と云ぞ本なりける、さて又是を伊麻斯《イマシ》と云るは、萬葉十一【十四丁】に、伊麻思毛吾毛事應成《イマシモワレモコトナスベシヤ》、又十四【五丁】に、伊麻思乎多能美《イマシヲタノミ》云々、續紀|高野《タカヌノ》天皇(ノ)大命《オホミコト》に、朕我《アガ》天先帝|乃御命以天朕仁勅之久《ノミコトモチテアレニノリタマヒシク》、天下方朕子伊末之仁授給《アメノシタハアガコイマシニサヅケクマフ》云々、是等なり、【萬葉十四また後(ノ)物語などに、麻之《マシ》ともあり、】又續紀の宣命どもに、【九の十六丁十七丁、卅一の十五丁、】美麻斯《ミマシ》ともあり、さて那《ナ》も伊麻斯《イマシ》も、後には下ざまの人にのみいへども、いと上(ツ)代には然らず、其(ノ)本は尊《タフト》む人にもいへる稱なり、【汝(ノ)字を當《アテ》しを思へば、其|頃《コロ》になりては、早く尊む方には云(ハ)ざりしにや、漢にても上古は爾汝など云稱に、上下の別《ワカ》ちはなかりしかども、御國へ文字の渡(リ)參出來《マウヂコ》し頃《コロ》は後なれば然らず、】己が夫《ヲ》を汝《ナ》と云ること、沼河比賣《ヌナカハヒメ》の歌、又|須勢理毘賣《スセリビメ》の歌などに見え、建内《タケウチノ》宿禰の歌には、天皇《スメロギ》をしも那賀美古《ナガミコ》【汝之御子なり】と申せり、又|某之《ナニノ》と云を某賀《ナニガ》と云も、後には賤《イヤシ》む方に取《トレ》ど、上(ツ)代には是《コ》も上下|別《ワカ》ぬ辭にて、之《ノ》と云に同じ、

〇如何成は伊迦爾那禮流《イカニナレル》と訓べし、女神の大御身《オホミミ》の成(リ)とゝのひたる形状《アリサマ》を、如何《イカ》なるぞと、男神の問(ヒ)賜ふなり、

〇成成《ナリナリテ》とは、初(メ)生《ナリ》そめしより漸々《ヤウヤウ》に成(リ)て、成(リ)畢《ヲハ》れるを云なり、【書紀に具成而《ナリナリテ》と書るが如し、】戀々而《コヒコヒテ》行々而《ユキユキテ》などの格《サマ》の言なり、

〇不成合處《ナリアハザルトコロ》とは、缺《カケ》て滿《タラ》はぬ如くなる處を詔《ノタマ》へり、即(チ)御番登《ミホト》なり、書紀には、對曰吾身(ハ)有(リ)2一雌元之處《メノハジメノトコロ》1とあり、一書には、對曰吾身(ハ)|具成而《ナリナリテ》有(リ)d稱《イフ》2陰元《メノハジメト》1者一處《トコロヒトトコロ》uともあり、

〇問曰答曰などの訓格《ヨミザマ》は、初卷(ノ)訓法(ノ)條に云るが如し、

〇伊邪那岐命詔、この詔は能理多麻比都良久《ノリタマヒツラク》と訓べし、續紀の詔に、詔賜都艮久云々止《ノリタマヒツラクシカシカト》、負賜詔賜比志爾《オホセタマヒノリタマヒシ》また勅豆良久云々止《ノリタマヒツラクシカシカト》、負賜宣賜志《オホセタマヒノリタマヒシ》、などあるに依れり、都良久《ツラク》と云る例は、記中須佐之男(ノ)命の御言にも、白都良久《マヲシツラク》とり、さて此所《ココ》の御言の終《トヂメ》に、登詔賜者《トノリタマヘバ》と云ことを再讀添《フタタビヨミソフ》べし、是も彼(ノ)大命どもに依れり、古語のさだまりなり、此事も訓法(ノ)條に委く論へるが如し、

〇成餘處《ナリアマレルトコロ》とは、ふくれ出て身の外に贅《アマレ》るが如くなるを詔《ノタマ》へり、書紀には、陽神《ヲカミノ》曰(ク)吾身(ニモ)亦有(リ)2雄元之處《ヲノハジメノトコロ》1とあり、又一書には、陽神《ヲカミノ》曰(ク)、吾身(モ)亦|具成《ナリナリテ》而有(リ)d稱《イフ》2陽元《ヲノハジメト》1者一處《トコロヒトトコロ》uともあり、

〇以(ノ)字は、處袁《トコロヲ》の袁《ヲ》に當《アテ》て讀べし、

〇刺《サシ》は挿入《サシイル》るなり、塞《フタギ》に屬《ツキ》たる輕き辭にはあらず、

〇塞は布多岐《フタギ》と訓べし、【和名抄に、或(ハ)以(テ)2閇(ノ)字(ヲ)1爲《ス》2男陰(ト)1、といふことある、此《ココ》にいさゝか由ありげなり、】

〇國土は久邇《クニ》と訓べし、【下に國土皆震《クニツチミナフル》とあるなどは、久邇都知《クニツチ》と訓べけれど、又※〔言+可〕志比(ノ)宮(ノ)段に、不《ズ》v見《ミエ》2國土《クニ》1とあるなどは、久邇《クニ》とのみ訓べければなり、其(ノ)さまによるべし、】

〇生成《ウミナス》は、唯|生《ウム》ことなり、其《ソ》を成《ナス》とも添《ソヘ》て詔《ノタマ》ふは、竹取(ノ)物語に、己《オノ》が成《ナサ》ぬ子《コ》なれば、心にも從《シタガ》へずと見え、うつほ藤原(ノ)君(ノ)巻に、此(ノ)春|子《コ》一人《ヒトリ》なしてかくれましにきとあり、これら生《ウム》を那須《ナス》と云り、今(ノ)世(ノ)言にも、まゝ親子《オヤコ》を、成《ナサ》ぬ中《ナカ》と云り、又大祓の詞に、國中爾成出武天之益人等《クニナカニナリイデムアメノマスヒトラ》とあるも、生出《ウマレイヅ》るを云り、

〇爲は、淤母布波《オモフハ》と訓べし、邇々藝《ニニギノ》命の、佐久夜毘賣《サクヤビメ》に、吾《アレ》欲《オモフハ》v目2合《マグハヒセムト》汝《イマシニ》1奈何《イカニ》と詔《ノタマ》へると、語も意も似たればなり、記中に淤母布《オモフ》といふに、以爲と書る例|往々《トコロドコロ》にあり、又爲(ノ)一字を書る例も、一(ツ)二(ツ)あるなり、【眞福寺(ノ)本には以爲とあり、こは例多ければ、殊にたしかなれど、其《ソノ》餘《ホカ》の本どもには皆、以(ノ)字無ければ、今は其《ソレ》に從(ヒ)つ、かにかくに淤母布《オモフ》と訓べきところなり、なべての例によりて、生成《ウミナサ》むと爲《ス》と訓ては、下なる奈何《イカニノ》語切(レ)て惡《ワロ》し、爲《スル》はと訓むも惡《ワロ》し、】

〇奈何は伊加爾《イカニ》と訓べし、語の終《ハテ》にかく奈何《イカニ》と云こと、記中にも例あり、又萬葉十六卷に、隱耳《コモリノミ》、戀者辛苦《コフレバクルシ》、山葉從《ヤマノハユ》、出來月之《イデクルツキノ》、顯者如何《アラハレバイカニ》とあり、これ此《ココ》と語勢《コトバツキ》よく似たり、

〇註に、訓(テ)v生(ヲ)云2宇牟《ウムト》1、こゝの生は、宇美《ウミ》と訓(ム)なるを、如此《カク》云るは如何《イカニ》、と疑(フ)人有む、凡(テ)かく活用《ハタラ》く言の字の訓注の例、天之常立(ノ)神(ノ)下に、訓(テ)v立(ヲ)云2多知《タチト》1、また神集々而、訓(テ)v集(ヲ)云2都度比《ツドヒト》1、これらは其處《ソコ》の訓樣《ヨミザマ》のまゝに注せるなり、又|伊都之男建《イグノヲタケビ》、訓(テ)v建(ヲ)云2多祁夫《タケブト》1、こは多祁備《タケビ》と訓(ム)所なれども、其《ソレ》に拘《カカハ》らず、言の居《ヰ》たる方を以て注せるなり、こゝも是(ノ)例なり、且《ソノウヘ》此(ノ)生は、次々《ツギツギ》に多かる言にて、下效(フ)v此(レニ)とあれば、其《ソ》が中には、左右《カニカク》に活《ハタラカ》して訓(ム)所あれば、其等《ソレラ》をも總《フサ》ねて、如此《カク》注《シル》すべきことなり、

〇然善は斯※〔言+可〕余祁牟《シカヨケム》と訓べし、【師は宇倍那理《ウベナリ》とよまれき、是(レ)も意はさることなれども、あまり字に遠し、】男《ヲ》神の詔《ノタマ》へる事を諾《ウベナ》ひたる御《ミ》答なり、然《シカ》は、吾も然思(フ)といふ意にて、然也《シカナリ》と云むが如し、【然也を、然《シカ》とばかりいへること、後の物語などにも多かり、又|志※〔言+可〕理《シカリ》と云は、然有《シカアリ》の約まりたる語なり、】善《ヨケム》と一(ト)つゞきの語にはあらず、讀切《ヨミキ》る心ばへに有(ル)べし、余祁牟《ヨケム》は、善加良牟《ヨカラム》と云に同じ古言なり、天智紀の童謠《ワザウタ》に、多※〔手偏+施の旁〕尼之曳鷄武《タダニシエケム》、【曳《エ》は即(チ)余《ヨ》なり、同(ジ)時の歌に、御吉野を美曳之弩《ミエシヌ》とあるにてしるべし、】萬葉などにも多かり、

〇行2廻逢《ユキメグリアヒ》是天之御柱《コノアメノミハシラヲ》1而《テ》、凡そ夫婦遘合《メヲマグハヒ》の初(メ)に、先(ヅ)柱を行廻《ユキメグル》こと、上(ツ)代の大禮《オホキミワザ》と見えたり、此《ココ》は其(ノ)男女遘合《メヲマグハヒ》の始(メ)にして、先(ヅ)此禮《コノミワザ》を行ひ賜ふことは、甚々《イトイト》深きことわり有(ル)ことなるべし、【書紀に此柱を、國中之柱とも、國(ノ)柱とも云るをも思ふべし、國士の生《ナ》れる本元《モト》を、此柱に負《オフ》せたる名ぞかし、】されど其(ノ)理は、傳(ヘ)無ければ、凡人《タダビト》の如何《イカニ》とも測《ハカリ》知べきにあらず、【されどこゝろみに強《シヒ》ていはば、まづ女男交合《メヲマグハヒ》の状《サマ》、男は上に在て天の如く、舍《イヘ》にては、屋《ヤ》の覆《オホ》ふが如し、女は下に在て地の載《ノス》るが如く、舍《イヘ》にては床《ユカ》の如くなるを、柱ほその中問《アヒダ》に立て、上下を固め持《モ》つ物なれば、夫婦《メヲ》の間《アヒダ》を固め持《モ》つ理にやあらむ、鶺鴒の一名を麻那婆斯羅《マナバシラ》と云も、學柱《マナビバシラ》にて、柱を交合《マグハヒ》の意にとりて名けたるにやあらむ、さて又思ふに、柱と云名(ノ)義は、波斯《ハシ》は間《ハシ》なるべし、間を波斯《ハシ》と云例多し、間人《ハシビト》、又萬葉の歌に、相競端爾《アラソフハシニ》と云るも、端は借字にて間《アヒダ》にの意なり、又木にもあらず草にもあらぬ竹のよの波斯《ハシ》に吾身はなりぬべらなりと云歌も、竹を木と草との間と云るなり、かくて柱は、屋《ヤネ》と地との間に立る物なればなり、又橋も同意か、此(ノ)岸と彼(ノ)岸との間にわたせばなり、又今(ノ)俗《ヨノ》言に、妻どひの最初《ハジメ》に、言を通はしそむる媒を、波斯加氣《ハシカケ》と云も、橋懸の意にて、右の柱の事にもおのづから通へり、又|箸《ハシ》と云名も、此(ノ)物は必二(ツ)相|對《ムカ》ひより合(ヒ)て其用をなす物なれば、夫婦の意に似たり、又事の初(メ)を端《ハシ》といふも、此《ココ》の御柱|廻《メグ》りの事に由あるなり、】さて然《シカ》廻《メグ》りける柱は、女男《メヲ》隱寢《コモリヌ》る身屋《ムヤ》【後に母屋《モヤ》と云】の中央《モナカ》の柱にぞ有けむ、其故は、後(ノ)世まで神の御殿《ミアラカ》造(リ)奉るに、其(ノ)中央《モナカ》に心御柱《シムノミハシラ》と云を建《タテ》て、殊に齋《イハ》ひかしづくは、【其(ノ)説どもこそ後(ノ)人の設(ケ)つる言《コト》なれ、然《シカ》する事は、】上(ツ)代よりの傳(ヘ)なるべく、【心(ノ)御柱てふ稱《ナ》は後のことか、若(シ)上(ツ)代よりの名ならば、心《シム》は中心《ナカゴ》の意にて、中央に立(ツ)故の名ならむ、是を人(ノ)心のことに取成《トリナシ》ていふは、例の妄言《ミダリゴト》なり、】又今人の屋《ヤ》にも、中央の柱を大黒柱《ダイコクバシラ》と云て重《オモ》くすめる、【大黒の稱《ナ》は、後(ノ)世人の、漢籍なる太極てふことより云出しさかしらごとならむか、】名《ナ》こそ信《ウケ》られね、是(レ)も神代より夫婦《メヲ》のかたらひの始(メ)に廻(ル)柱なる故に、重《オモ》く崇《アガマ》へける、上(ツ)代よりの傳はり事の、遺《ノコ》れるなるべければなり、【上古は貴き賤きけぢめこそあれ、神(ノ)宮人(ノ)家とて、造りざまかはれることなし、今の古(キ)神(ノ)宮作(リ)は、即上代の人の家のさまなり、雄略天皇の御代に、志幾(ノ)大縣主が舍《イヘ》に、堅魚木《カツヲギ》を上《アゲ》て作れりしことなど、思ひ合すべし、されば後世の心(ノ)御柱と大黒柱とは、本は一(ツ)物なるべくおもはる、】かゝれば今二柱(ノ)神の廻(リ)賜(フ)も、彼(ノ)八尋殿の御柱どもの中にも、その中央《モナカ》に立(テ)る御柱なりけむかし、【伊勢(ノ)神宮の記等《フミドモ》に、心(ノ)御柱の一名を、天之御柱と云るは、此《ココ》の故事《フルヱト》より自《オノヅカラ》に傳はりしことか、若(シ)しかならば、多(ク)の中にも、行(キ)廻(リ)賜ひし柱を、殊に天之御柱と負《オホ》せて傳(ヘ)しならむ、されど後人の引合せて云るも知(リ)がたし、彼《ト》まれ此《カク》まれひがことには非じ、】行廻逢は、由伎米具理阿比《ユキメグリアヒ》と訓べし、此《コレ》を分《ワケ》て解《トカ》ば、行《ユキ》は左右へ分《ワカレ》て行歩《ユキアユム》なり、廻《メグリ》は御柱を廻(ル)なり、逢《アヒ》は前《サキ》にて行會《ユキアフ》なり、佛足石(ノ)賛歌に由伎米具利《ユキメグリ》、萬葉十七【三十四丁】に伊由伎米具禮流《イユキメグレル》などあり、【さて行《ユキ》を、古(ヘ)の歌には、多く發語を置て伊由伎《イユキ》とよめれば、此《ココ》も然訓べきかともおぼしけれど、歌こそあれ、たゞの詞に然云る例はなければ、然《サ》は訓(ム)べからず、凡て歌と文とのけぢめあることをよく考(フ)べし、凡てこのたぐひ、今(ノ)人は辨へなくみだりなり、】

〇美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》、【具《グ》を清《スミ》波《ハ》を濁(リ)て訓(ム)はひがことなり、卜部《ウラベノ》兼倶など此(ノ)清濁《スミニゴリ》の説あれど、云にたらぬ妄言《ミダリゴト》なり、】美斗《ミト》は御所《ミト》なり、所を斗《ト》と云こと、上意富斗能地(ノ)神(ノ)下【傳三の四十二葉】に説《トケ》り、其《ソ》が中にも、夫婦《メヲ》隱《コモ》り寢《ヌ》る所をも、分《ワキ》て所《ト》と云けむ、下に大穴牟遲(ノ)神の、八上比賣《ヤカミヒメ》に美刀阿多波志都《ミトアタハシツ》とある美刀《ミト》と同じ、彼處《ソコ》【傳十の六十七葉】と考へ合すべし、又|久美度邇興《クミドニオコシ》とある度《ド》も是(レ)なり、【久美度のことは次に云べし、此《ココ》の美斗を、即(チ)久美度と同言とするは、委しからず、其(ノ)實は同じことなれども、言は本より別なり、】床《トコ》の斗《ト》、嫁《トツグ》の斗《ト》なども是か、【嫁《トツグ》は所《ト》に就《ツク》か、具《グ》と濁るは、黄牛《アメウジ》などの格に、下を音(ノ)便に濁るもあるぞ、】戸《ト》も彼所《ソコ》に立隔《タテヘダツ》るから出し名にや、麻《マ》は宇麻《ウマ》なり、宇《ウ》を省《ハブク》例多し、凡て何事《ナニゴト》にても可美物爲《ウマクモノスルヲ》を、宇麻云云《ウマナニ》と云ること多し、書紀繼體(ノ)御卷(ノ)歌に、女男《メヲ》うまく寢《ヌ》ることを、于魔伊禰《ウマイネ》とある類なり、【宇麻の註は、初(ノ)段葦牙比古遲(ノ)神の下にあり、】具波比《グハヒ》は、麻《マ》より連《ツヅ》く故に具《グ》と濁れども、古(ヘ)頭《ハジメ》を濁(ル)例なければ、本は久波比《クハヒ》にて、久比阿比《クヒアヒ》の約《ツヅマ》りたる言なり、【比阿《ヒア》は波《ハ》と切《ツゾ》まる、】凡(ソ)物二(ツ)が一(ツ)に合《アフ》を久比阿布《クヒアフ》と云、萬葉十六(ノ)卷に、尺度《サカド》氏(ノ)娘子《ヲトメ》が、美《カホヨ》き貴人《ウマビト》のよばふをば聽《キカ》ずて、なほ/\しき醜《ミニクキ》男に逢《アフ》と聞《キカ》して、兒部女王《コベノヒメミコ》の、美麗物《ヨキモノハ》、何所不飽矣《イヅクアカヌヲ》、坂門等之《サカドラシ》、角乃布久禮爾《ツヌノフクレニ》、四具比相爾計六《シグヒアヒニケム》、とあるこれなり、【是も四《シ》より連《ツヅク》故に具《グ》と濁る、此《ココ》と同じ、】今(ノ)世(ノ)語に、物を作り合すを、志久波須《シクハス》と云も、即(チ)此(ノ)志具比阿波須《シグヒアハス》の約《ツヅマ》りたるなり、又俗に物の具波比《グハヒ》の善《ヨ》き惡《ワロ》きと云も、久比阿比《クヒアヒ》の善惡《ヨキワロキ》なり、【具《グ》と濁るは、是も本は志具波比《シグハヒ》とか何《ナニ》とか、上に連(ク)語のありけむを、後にそは省きしならむ、】又伊勢物語(ノ)歌に、世をうみのあまとし人を見るからに、目久波世與《メクハセヨ》とも頼《タノマ》るゝ哉、【後々の歌にもあり、】此(ノ)目久波須《メクハス》も、久比阿波須《クヒアハス》の約《ツヅマリ》たるにて、彼方《カナタ》此方《コナタ》目《メ》を見合《ミアハ》すを云なり、是等《コレラ》にて其意を知べし、【楚辭九歌に、美人忽獨|與《ト》v余兮|目成《メクハセス》、】彼(ノ)不成合處《ナリアハザルトコロ》と成餘處《ナリアマレルトコロ》と、宇麻久久比阿布《ウマククヒアフ》を、麻具波比《マグハヒ》とは云なり、【俗に嫁《トツグ》を一つに爲《ナル》と云も、此意ばへならむ、】さて記中に、目合と云ることところ/”\にあり、是も右の意以て見るに、麻具波比《マグハヒ》と訓べきなり、其《ソレ》につきて彼(ノ)目久波須《メクハス》と思ひ合(ハ)すに、麻《マ》は目《マ》の意にもあらむか、もし然らば、具波比《グハヒ》も目《メ》を合すことになりて、右の考(ヘ)とは、語の本合(ハ)ず物|異《コト》なり、されど目《メ》を合(ハ)すは心を交《カハ》すにて、其《ソレ》を即《ヤガテ》交合《ミアヒ》のことに云(ヒ)なしつれば、末《スヱ》は一(ツ)に落《オツ》るぞ、なほ大穴牟遲(ノ)命の段《クダリ》目合《マグハヒ》の下【傳十の卅五葉】に云(フ)と、考(ヘ)合せて擇《エラ》び取《トリ》ね、

〇如此云期《カクイヒチギリテ》、云(ノ)字諸本みな之と作《アル》を、云の誤ならむと延佳が云る、實にさることなり、【記中に之と云と、相《タガヒ》に寫(シ)誤れる所多かり、】故(レ)今も然《シカ》定めて改めつ、期は知岐理弖《チギリテ》と訓べし、蜻蛉日記に、かくいひちぎりつれば、思ひかへるべきにもあらず、

〇自右廻逢《ミギリヨリメグリアヘ》、自左廻逢《ヒダリヨリメグリアハム》、右は、師の云く、後世にほ美岐《ミギ》といへども、美岐理《ミギリ》なるべし、今も遠江などにては然云なりと云れき、伊勢が亭子院(ノ)歌合(ノ)日記に、かむだちべは、階《ハシ》のひだりみぎりに、みな分(レ)て侍ひたまふとあり、美岐理《ミギリ》と訓べし、【こは比陀理《ヒダリ》に對へる稱《ナ》なれば、まことに美岐理《ミギリ》と云べきことなり、故(レ)古《フル》き證はいまだ見あたらざれども、姑く此(ノ)伊勢が文を據《ヨリドコロ》として、師(ノ)説に従ひつ、今も遠江のみならず、餘國《ホカノクニ》にも然云處々もあるなり、】さてかく廻《メグ》りの右左を定(メ)賜(フ)は、故あることなるべし、されど其(ノ)傳(ヘ)はなければ、度知《ハカリシル》べきにあらず、【然るを妄(リ)に漢籍の陰陽と云ことを以て解《ト》くは、都《スベ》て信《ウケ》られぬことなり、又是を月日の廻坐《メグリマス》ことに取《トリ》なすも強言《シヒゴト》なり、又書紀に同會一面とあるを、東北(ノ)方なるべしと、纂疏にあるも、甚《イタク》うけられず、何方《イヅカタ》より廻(リ)そめて、何方にて行逢賜ふといふこと、傳(ヘ)なければ、此(レ)も知(ル)べきことにあらず、】

〇約竟以《チギリヲヘテ》、この約《チギル》は、上の三段の約《チギリ》を總《フサネ》て云なり、三段とは、初に以此吾身成餘處《コノアガミノナリアマレルトコロヲ》云々|然善《シカヨケム》とあると、次に吾|與《ト》v汝行(キ)廻(リ)逢(ム)云々とあると、次に汝者自右云々とあると是(レ)なり、知岐流《チギル》は、行《ユク》さきを懸《カケ》て云々《シカシカ》せむと、互《カタミ》に云(ヒ)固《カタ》むるなり、竟《ヲヘ》は、只輕く見ても有(リ)なむ、又|極《キハ》め盡《ツク》す意にもあるべし、萬葉十九に、春裏之樂終者《ハルノウチノタヌシキヲヘハ》、梅花手折毛致都追遊爾可有《ウメノハナタヲリモチツツアソブニアルベシ》、この終《ヲヘ》も、春の中《ウチ》の樂《タヌシ》き事の至極を云り、祝詞どもに稱辭竟奉《タタヘコトヲヘマツル》とあるも、極《キハ》め盡《ツク》すを云り、

〇阿那《アナ》は、上件《カミノクダリ》阿夜※〔言+可〕志古泥《アヤカシコネノ》神(ノ)下《トコロ》にもかつ/”\云り、古語拾遺に、事(ノ)之甚切(ナルニ)皆|稱《イフ》2阿那《アナト》1とあり、何事にまれ、さし當《アタリ》て切《セチ》に思《オボ》ゆるを、阿那云々《アナシカシカ》と云(フ)、書紀(ノ)神武(ノ)卷に、大醜此(レヲ)云2鞅奈瀰※〔にんべん+爾〕句《アナミニクト》1とあり、萬葉には多く痛《アナ》と書り、又伊勢物語に、鬼早一口《オニハヤヒトクチ》に咋《クヒ》てけり、阿那夜《アナヤ》と云けれど、雷鳴《カミナル》さわぎに得聞《エキカ》ざりけり、なども云り、【後には轉《ウツリ》て、阿良《アラ》とも云なり、】

〇邇夜志《ニヤシ》は、邇《ニ》てふ言に、夜志《ヤシ》てふ辭《コトバ》を添《ソヘ》たるなり、此(レ)を書紀には、憙哉《アナニヱヤ》また美哉《アナニヱヤ》など書き、一書には、※〔女+研の旁〕哉と書て此(レヲ)云2阿那而惠夜《アナニヱヤト》1と見え、又神武(ノ)御卷には、※〔女+研の旁〕哉此(レヲ)云2鞅奈珥夜《アナニヤト》1ともあり、【字書に、憙(ハ)悦也とも好也とも注し、※〔女+研の旁〕は、麗也とも美好也とも注せり、】是等《コレラ》の字を以て、邇《ニ》てふ言の意を解《サトル》べし、【書紀の惠夜《ヱヤ》は、此記の夜志の如し、惠《ヱ》を※〔女+研の旁〕(ノ)字に當て心得るは誤なり、神武(ノ)卷には、惠《ヱ》を省《ハブケ》るにても知べし、さて憙哉も美哉も、※〔女+研の旁〕哉の訓註に従ひて、みなアナニヱヤと訓べし、字をいろ/\に作《カカ》れたるは、漢文のみにて、本の言は同じかるべければなり、さて何れも、惠夜の意も阿那の意も、哉(ノ)字にこもれれば、※〔女+研の旁〕美憙(ノ)字ぞ、正《マサ》しく邇《ニ》てふ言には當れる、】夜志《ヤシ》は、波斯祁夜斯《ハシケヤシ》、縱惠夜師《ヨシヱヤシ》などの夜志《ヤシ》にて、歎《ナゲキ》の夜《ヤ》に志《シ》を添《ソヘ》たる辭なり、【師は、邇《ニ》をも歎く辭なりと云れつれど、邇《ニ》は然らざること、上に云るにてしるべし、】又書紀(ノ)武烈(ノ)卷繼體(ノ)卷などの歌に、誰人《タレヒト》を陀黎耶始比登《タレヤシヒト》とあり、.

〇愛《エ》は、書紀(ノ)一書に可愛と作《カキ》て、此(レヲ)云v哀《エト》と見え、本書には可美《ヱ》、又一書には善《エ》とあり、是等《コレラ》の字にて其意|顯《アラハ》なり、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段の大御歌に、延袁斯麻加牟《ヱヲシマカム》とある延《エ》も、可愛少女《エヲトメ》と云ことなり、又朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、吉野を延期怒《エシヌ》と讀せ賜ひ、前に引る善《ヨ》けむを曳鷄武《エケム》とある、又|住吉《スミノエ》日吉《ヒエ》の類、古(ヘ)余伎《コキ》を延《エ》と云ること多し、今も然《サ》も云なり、【書紀の可愛《エ》は、字の意を取《ト》れれども、此記の愛は、只|假字《カナ》にて、意なし、勿《ナ》おもひまがへそ、】

〇袁登古《ヲトコ》は、古(ヘ)は袁登賣《ヲトメ》と對《ムカ》ふ稱《ナ》にて、下に訓(テ)2壯夫(ヲ)1云v(フ)2袁等古《ヲトコト》1と見え、書紀には少男此(ヲ)云2烏等孤《ヲトコト》1【少は若《ワカ》きを云、】などあり、萬葉にも壯士などと書て、若《ワカ》く壯《サカリ》なる男《ヲ》を云り、【老《オイ》たる若《ワカ》きを云(ハ)ず、男《ヲ》をすべて袁登古《ヲトコ》と云は、後のことなり、又|於《オ》の假字《カナ》を書(ク)も非《ヒガコト》なり、】

〇袁登頁《ヲトメ》は、袁登古《ヲトコ》に對(ヒ)て、若《ワカ》く盛《サカリ》なる女を云稱なり、【萬葉には、處女《ヲトメ》未通女《ヲトメ》など書《カケ》れば、未(ダ)夫嫁《ヲトコセ》ぬを云に似たれど然らず、既に嫁(シ)たるをも云(フ)、倭建(ノ)命の御歌に、袁登賣能登許能辨爾《ヲトメノトコノベニ》、和賀淤岐斯《ワガオキシ》、都流岐能多知《ツルギノタチ》云々とある、此|袁登賣《ヲトメ》は美夜受比賣《ミヤズヒメ》にて、既に御合坐而《ミアヒマシテ》、御刀を其許《ソコ》に置賜しことなり、又|輕太子《カルノミコノミコト》の、輕大郎女《カルノオホイラツメ》に※〔(女/女)+干〕《タハケ》て後の御歌にも、加流乃袁登賣《カルノヲトメ》とよみ賜へり、是等|嫁《トツキ》て後をいへり、】又|童《ワラハ》なるをも云ること多し、【袁登古《ヲトコ》とは、童なるをば云はず、中昔にも、元服するを、壯士《ヲトコ》になると云るにても知べし、然るに女は童なるをも袁登賣《ヲトメ》と云は、女はひたすらに少《ワカ》きを賞《メヅ》る故にやあらむ、】

〇終《ハテ》の袁《ヲ》は、余《ヨ》と云に通ひて、袁登古余《ヲトコヨ》、袁登賣余《ヲトメヨ》と云むが如し、此例古(ヘ)多し、其八重垣袁《ソノヤヘガキヲ》などの袁《ヲ》も、【其(ノ)八重垣|袁《ヲ》作《ツク》ると、上へ廻《カヘ》る袁《ヲ》にはあらず、】八重垣|余《ヨ》の意なり、倭建(ノ)命の御歌の末を續《ツギ》たる歌に、比邇波登袁加袁《ヒニハトヲカヲ》の袁《ヲ》、又若櫻(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、大坂爾《オホサカニ》、遇夜孃子袁《アフヤヲトメヲ》、道悶者《ミチトヘバ》の袁《ヲ》など皆同じ、此外も多し、

〇さて此二句づゝの唱和《トナヘコタヘ》の御言を、書紀には、憙哉遇可美少男焉《アナニヱヤエヲトコヲ》、一書には、※〔女+研の旁〕哉可愛少男歟《アナニヱヤエヲトコヲ》、一書には、美哉善少男《アナニヱヤエヲトコヲ》と書り、此記と見合せて、右何れも阿那邇惠夜愛袁登古袁《アナニヱヤエヲトコヲ》と訓べし、袁登賣袁《ヲトメヲ》の方も同じ、五言二句《イツコヱフタツガヒ》づゝの御言なり、【今(ノ)本にアナウレシヤウマシヲトコニアヒヌなどあるは、古(ヘ)を知らぬ者の訓なり、此《コ》は唱和《トナヘコタヘ》の御言にて、歌の始(メ)とも爲《ス》なるを、如此《カク》さまに訓ては、調《シラベ》もとゝのはず、凡《タダ》の言と等《ヒト》しきをや、遇(ノ)字は、凡《スベ》ての御言の意を得て加《クハヘ》られたるものなり、決《キハメ》て讀(ム)べからず、一書どもには此(ノ)字は無(キ)を以(テ)知るべし、焉(ノ)字歟(ノ)字は、末の袁《ヲ》に當《アタ》れり、歟は字書に、語末(ノ)之辭とも、語之餘也ともあり、】さて古今集(ノ)序に、此(ノ)歌天地の開始《ヒラケハジマ》りける時よりいできにけり、古註に、天(ノ)浮橋の下にて婦神《メガミ》夫神《ヲガミ》と成(リ)賜へるを云る歌なりとあるは、此《ココ》の唱和《ノタマヒカハ》せし御言《ミコト》を云り、信《マコト》に歌の始にぞありける、又師は、如此《カク》詔《ノタマ》ひ交《カハ》せるは、いと上(ツ)代の交合《マグハヒ》の初(メ)の禮《ワザ》なるべしと云れき、

〇女人は袁美郡袁《ヲミナヲ》と訓べし、【書紀にはこれを婦人と書れたるを、タヲヤメと訓(メ)れど、其《ソ》は女の弱《ヨワ》くはかなき方を云(フ)ときの稱《ナ》にて、記中書紀萬葉などを見(ル)に、多く其意なる所に云り、なほ手弱女《タヲヤメ》のことは、傳八の三葉に云り、又|袁登賣《ヲトメ》と云も、上に云る如く、若《ワカ》きをいふ稱なり、記中所々女人と書る例を考(ル)に、何(レ)も多袁夜賣《タヲヤメ》袁登賣《ヲトメ》など訓ては惡《ワロ》し、】袁美那《ヲミナ》といへるは、明(ノ)宮(ノ)段又朝倉(ノ)宮(ノ)段などの大御歌、又萬葉廿(ノ)卷家持(ノ)歌などに見えたり、【これを今ヲンナといふは、音便に頽《クヅ》れたるなり、】下に袁《ヲ》を添(ヘ)て讀(ム)は、語の調《シラベ》を助《タスケ》むとなり、愛袁登古袁《エヲトコヲ》の袁《ヲ》に同じ、

〇先言は許登佐伎陀知弖《コトサキダチテ》と訓べし、【上に先言とあると、字は同じけれど、訓は同じかるべからず、】書紀にも先言とありて、然訓り、萬葉十(ノ)卷に、春去者《ハルサレバ》、先鳴鳥乃《マヅナクトリノ》、※〔(貝+貝)/鳥〕之《ウグヒスノ》、事先立之《コトサキダチシ》、君乎之將待《キミヲシマタム》【事は借字にて言なり、】とあり、古語なり、

〇不良、この訓《ヨミ》は近き海に釣《ツリ》する海人《アマ》のうけならねど、思定(メ)かねて、種々《クサグサ》云なり、先(ヅ)一(ツ)には、余※〔言+可〕良受《ヨカラズ》とも訓べし、其《ソ》は即《ヤガテ》字の隨《ママ》にもあり、又聖武紀宣命に、天下君坐而《アメノシタノキミトマシテ》、年緒長久皇后不坐事母《トシノヲナガクオホギサキマサヌコトモ》、一豆乃善有良努行爾在《ヒトツノヨカラヌワザニアリ》ともあれば、古語にてもあり、文書紀に此《ココ》を不祥と作《カカ》れたるを、私記に、案(ズルニ)古事記(ニ)云(ク)余※〔言+可〕良受《ヨカラズ》とあれば、昔も然《シカ》訓(ミ)しならむ、垂仁(ノ)御卷に非良《ヨカラズ》ともあり、又一(ツ)には、佐賀邪志《サガナシ》とも訓べし、書紀の不祥を然《シカ》訓(ミ)、惡(ノ)字をも然《シカ》訓ることあり、又性を佐賀《サガ》と訓り、是(レ)古語にて、後(ノ)歌に憂世之佐賀《ウキヨノサガ》など云も、是(レ)によくかなへり、其《ソ》は元《モト》より自然《オノヅカラ》に然《シカ》有《アル》ことを云言なり、佐賀那伎《サガナキ》は其(ノ)反《ウラ》にて、自然《オノヅカラ》然《シカ》有(ル)べきさまに背《ソム》き違《タガ》へるを云て、是(レ)も古語と見ゆ、【後の物語に、言《コト》多《オホク》て人を惡《アシ》く云(ヒ)なすを、さがなしと云(フ)は、用樣《モチヒザマ》の移れるなり、又|夢《イメ》の祥《サトシ》などの祥を佐賀《サガ》と訓るは、本より佐賀てふ言もあるに、不祥を佐賀那志と訓(メ)ば、其(ノ)

反《ウラ》ぞと心得たる、後人のひがことなるべし、不祥は佐賀那志と云に叶へども、祥は佐賀に叶はず、然るに性を佐賀と云を思ひて、某《ナニガシ》がいはゆる性善の意に叶へりと思ふは、漢心《カラブコロ》にて、古(ヘ)の意にあらず、凡て同(ジ)字にても、用《ツカ》ひざまに從(ヒ)て、此方の言はかほるを、書紀の訓は、その別なく、同字にだにあれば、此《ココ》も彼《カシコ》も同じ言に訓て、語は古語ながら、其所に叶はぬこと多し、後(ノ)世になりては、その本の用ひざまを知(ラ)ねば、何れか正しく、何れかひがこととも、えわきまへぬことも多くなれり、】かくて不良を佐賀郡志《サガナシ》と訓るは、書紀(ノ)垂仁(ノ)御卷に、夫|君王陵墓埋立生人是不良《キミノミハカニイケルヒトウヅミタルコトハサガナシ》、推古(ノ)御卷に、其大國(ノ)客等(ノ)聞之亦不良《キカムモマタサガナシ》、これらなり、又一(ツ)には、布佐波受《フサハズ》とも訓べし、其《ソ》は八千矛(ノ)神の御歌に、云々|許禮波布佐波受《コレハフサハズ》、云々|許母布佐波受《コモフサハズ》、云々|許斯與呂志《コシヨロシ》とありて、布佐波受《フサハズ》は、宜《ヨロ》しの反《ウラ》にて、宜《ヨロ》しからずと云なり、彼(ノ)御歌を考(ヘ)て知(ル)べし、傳十一【三十七葉】に委く云り、さて源氏(ノ)物語などに、布佐波志加良受《フサハシカラズ》と云こと、ところ/”\にある中に、花(ノ)宴(ノ)卷に見えたる、河海抄の釋に、不祥日本紀とあり、かゝればかの書紀の不祥を、然訓る本《マキ》昔(シ)有(リ)つと見えたり、さて彼(ノ)物語の布佐波志加良受《フサハシカラズ》も、心にかなはぬことを云て、彼(ノ)御歌なると同じ意なり、【又今(ノ)世の語に、物の人に合應《アヒカナヒ》て幸《サキハヒ》あるを、布佐布《フサフ》といひ、否《シカラヌ》を布佐波奴《フサハヌ》と云(フ)、是(レ)又不祥の意にも合《アヘ》ば、かの河海抄に引《ヒカ》れたる、よくかなひたり、又萬葉十八(ノ)卷は、等理我奈久《トリガナク》、安豆麻乎佐之天《アヅマヲサシテ》、布佐倍之爾《フサヘシニ》、由可牟登於毛倍騰《ユカムトオモヘド》、與之母佐禰奈之《ヨシモサネナシ》とある、布佐倍之爾行《フサヘシニユク》とは、幸《サキハヒ》を得むとして行《ユク》なりと、師(ノ)説なり、布佐布《フサフ》布佐比《フサヒ》など活《ハタラ》く言なるを、布佐倍《フサヘ》と云は、布佐波勢《フサハセ》の約りたるなり、】さて右の三(ツ)をならべて今一(ト)度(ビ)考るに、なほ布佐波受《フサハズ》と訓(ム)ぞまさりて聞ゆる、さて此(ノ)詔を書紀には、陽神不v悦曰(ク)、吾(ハ)是男子、理當2先唱1、如何(ゾ)婦人反(テ)先言乎、事既(ニ)不祥、宜2以改旋(ル)1とあり、

〇告は能理多麻比伎《ノリタマヒキ》と訓べし、此(ノ)字記中に多く詔(ノ)字と通はして書り、凡て古(ヘ)は多くは能琉《ノル》と訓しなり、萬葉などにても、多くは能琉《ノル》に用ひたり、【然るを今(ノ)本は、古語に昧《クラ》くて、都具《ツグ》と訓(ミ)誤れる處のみ多し、】

〇雖然は斯加禮杼母《シカレドモ》と訓べし、此語萬葉にも多く有て、假字《カナ》にも之可禮杼毛《シカレドモ》など、所々【十五の五丁、十六の十四丁、十八の廿丁、十九の廿五丁、】に見えたり、

〇久美度《クミド》は、夫婦《メヲ》隱《コモ》り寢《ヌ》る處を云、【物語文などに、貴人《ウマビト》の寢《ネ》たまふことを、大殿隱《オホトノゴモル》と云り、】久美《クミ》は、許母理《コモリ》の約《ツヅマ》りたる言なること師(ノ)説に見えて、既に豐雲野《トヨクモヌノ》神の下《トコロ》にも云り、【傳三の卅五葉、】朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、伊久美陀氣《イクミダケ》、伊久美波泥受《イクミハネズ》、多斯美陀気《タシミダケ》、多斯爾波韋泥受《タシニハヰネズ》、能知母久美泥牟《ノチモクミネム》云々、この伊久美波泥受《イクミハネズ》は、隱者不寢《コモリハネズ》にて、【伊《イ》は發語、】久美泥牟《クミネム》も隱將寢《コモリネム》なり、又書紀武烈(ノ)御卷(ノ)歌に、耶陛能矩瀰 ※〔加/可〕枳《ヤヘノクミカキ》といふも、隱垣《コモリカキ》なり、都麻碁微爾《ツマゴミニ》、夜弊賀岐都久流《ヤヘガキツクル》の碁微《ゴミ》も、久美《クミ》と通ふ語なり、是等《コレラ》にて知べし、さて度《ド》は處《トコロ》なることも、又|夫婦《メヲ》隱《コモ》り寢《ヌ》る所をしも別《ワキ》て云ことも、上に説《トキ》つるが如し、又萬葉廿(ノ)卷|防人《サキモリ》が歌に、阿之可伎能《アシカキノ》、久麻刀爾多知弖《クマドニタチテ》、和藝毛古我《ワギモコガ》、蘇弖毛志保々爾《ソデモシホホニ》、奈伎志曾母波由《ナキシゾモハユ》、この久麻刀《クマド》は隈處《クマド》にて、即|久美度《クミド》と言は同じきなり、【なほ久美《クミ》久麻《クマ》許母理《コモリ》相通ふこと、師の冠辭考さす竹(ノ)條に委し、】

〇興而は淤許斯弖《オコシテ》と訓べし、【多弖々《タテテ》とも、多知弖《タチテ》とも訓(ム)は、ひがことなり、】此《コ》は女男《メヲ》交合《マグハヒ》することを如此《カク》言《イヘ》るなり、須佐之男(ノ)命の段にも、其櫛名田比賣以久美度邇起而所生神名《ソノクシナダヒメモテクミドニオコシテウミマセルカミノミナヲ》、謂《イフ》2八嶋士怒美《ヤシマジヌミノ》神(ト)1とあり、此《コレ》を書紀には、於《ニ》2奇御戸《クミド》1爲起而生兒《オコシテウミマセルミコ》云々と書れたり、【凡て書紀は、勤《ツトメ》て漢文に書るものなれども、間《ママ》には其(ノ)格《サマ》に違(ヒ)て、此方《ココ》の上古《カミツヨ》の物事格《モノカキザマ》なることもなきにあらず、其《ソ》は古記《フルキフミ》にありし隨《ママ》に書《カカ》れたるものと見えたり、今此(ノ)爲起《オコシ》の爲(ノ)字の用格《ツカヒザマ》も、漢文の方に取ては甚物遠《イトモノドホ》し、是も古記に淤許志《オコシ》の志《シ》に當《アテ》て書るを、其《ソノ》隨《ママ》と見えたり、古書には爲《シ》v起《オコ》とかける類、此(ノ)記などにも多し、奇御戸《クミド》も借字にて、古書のかきざまなり、】さて交合《マグハヒ》のことを如此《カク》しも云る、語のこゝろは、先((ヅ)凡て事の始まりを起《オコ》りといひ、始むるを起《オコ》すと云(フ)、されば此《コレ》は、御子を生《ウミ》たまはむ事《ワザ》を、久美度《クミド》にして始め賜ふ謂《イヒ》なり、【女男|交合《マグハヒ》するは、子を生《サム》べきことの起《オコ》りなればなり、】さる》故に此(ノ)言は、かならず御子を生坐《ウミマス》ことの端《ハシ》にのみ云て、たゞに交合《マグハヒ》することのみには云る例なし、心をつけて辨(フ)し、【久美度《クミド》に於《オキ》て其事を始(メ)て、御子を生《ウミ》坐(ス)と云むが如し、】書紀一書に、陰神先唱曰云々、便握2陽神(ノ)之手(ヲ)1、遂(ニ)爲(リ)2夫婦(ト)1、生2淡路洲(ヲ)1次蛭兒とあるは、異なる傳(ヘ)なり、又一書には、遂(ニ)將合交而《ミトノマグハヒシタマハムトシテ》、不v知2其術《ソノワザヲ》1、時(ニ)有鶺鴒飛來《ニハクナブリトビキテ》搖《ウゴカスヲ》2其|首尾《ヲカシラ》1、二神|見而學之《ミソナハシテソヲマナビテゾ》、即|得交道《トツギノサマヲシロシメシケル》ともあり、

〇水蛭子《ヒルゴ》は、上(ツ)代に水蛭《ヒル》に似たる兒《コ》をいひし稱《ナ》なり、【子《コ》を濁(リ)て讀(ム)べし、】此(ノ)御子の名と心得るはひがことなり、さて彼(ノ)蟲に似たるを如此《カク》云に就て、二(ツ)の意あるべし、其《ソ》は手足なども無(ク)て、見る形《カタチ》の似たるを云(フ)か、又書紀に雖已三歳脚猶不立《ミトセニナリヌレドアシタタザリキ》、とあるに依《ヨラ》ば、手足などもあれど、弱《ヨワク》て凡て萎々《ナエナエ》とあるが似たるを云にも有(ル)べし、水蛭《ヒル》は和名抄に、本草(ニ)云(ク)、水蛭和名|比流《ヒル》とあり、【契沖云、蛭《ヒル》は、痺蟲《ヒルムムシ》なれば名づけたるか、】さて此(ノ)御子の生《アレ》坐ること、書紀の傳(ヘ)は甚《イタ》く異にして、月(ノ)神の生《アレ》坐る次にありて、遙《ハルカ》に後なり、【舊事紀に、初(メ)と終(リ)とに、二(ツ)の蛭兒を生(ミ)坐と云るは、此記と書紀との傳(ヘ)を、一(ツ)に合せて記したる、例のひがことなり、】一書は此記と同じ、又一書には、先決路嶋、次に蛭兒なり、【天慶六年日本紀竟宴(ニ)、得2伊弉諾(ノ)尊(ヲ)1、大江(ノ)朝綱(ノ)歌に、賀曾伊呂婆《カゾイロハ》、阿婆禮度美須夜《アハレトミズヤ》、毘留能古婆《ヒルノコハ》、美斗勢爾那理奴《ミトセニナリヌ》、阿枳多々須志天《アシタタズシテ》、】

〇葦船は阿斯夫泥《アシブネ》と訓べし、【凡て某船《ナニブネ》と云(フ)例みな然なり、阿斯能《アシノ》とは讀《ヨマ》ぬことぞ、】此(ノ)船を書紀(ノ)纂疏には、以2葦(ノ)一葉(ヲ)1爲(ル)v船(ト)也とあり、さも有(リ)なむ、文章を多く集《アツメ》て、からみ作りたるにてもあるべし、かの無間堅間之小船《マナシカタマノヲブネ》など思ひ合すべし、書紀本書には、載《ノセテ》2之於天(ノ)磐橡樟船《イハクスブネニ》1而|順《マニマニ》v風(ノ)放(チ)棄(ツ)とあり、和名抄に、舟(モ)船(モ)和名|布禰《フネ》とあり、さて此(ノ)御子を如此《カク》流去《ナガシステ》賜へるは、たゞ水蛭子《ヒルゴ》なるゆゑに、惡《ニク》まして棄《ステ》たまへるなり、

〇淡嶋《アハシマ》は、前に引る高津(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、阿波志摩《アハシマ》とある嶋なり、又萬葉三(ノ)卷に、武庫浦乎《ムコノウラヲ》、榜轉小舟《コギタムヲブネ》、粟嶋矣《アハシマヲ》、背爾見乍《ソガヒニミツツ》、乏小舟《トモシキヲブネ》、又四【十六丁】【丹比《タヂヒノ》笠麻呂筑紫(ノ)國へ下る時の長歌、】に、淡路乎過粟嶋乎背爾見管《アハヂヲスギチアハシマヲソガヒニミツツ》云々、又七【十九丁】に、粟嶋爾《アハシマニ》、許枳將渡等《コギワタラムト》、思鞆《オモヘドモ》、赤石門浪《アカシノトナミ》、未佐和來《イマダサワゲリ》、【十二(ノ)卷の歌にも見ゆ、】これらに依《ヨル》に、淡路《アハヂ》の西北の方に在(ル)嶋と見えたり、仙覚(ガ)抄に、讃岐(ノ)國屋嶋(ノ)北去(ルコト)百歩許(リ)有v嶋、名(テ)曰2阿波嶋(ト)1とあり、なほよくたづぬべし、九(ノ)卷【十三丁】に、粟小嶋《アハノコジマ》とよめるも、これなるべし、【十五(ノ)卷(ノ)歌に安波之麻《アハシマ》とよめる、二首あれど、其《ソ》は別《コト》にて、周防の海に有(ル)かと聞ゆ、又書紀に、少名毘古那(ノ)神の、淡嶋に至て粟莖《アハガラ》に弾《ハジカ》れて、常世郷《トコヨノクニ》にいでませると有(ル)は、風土記に依(ル)に、伯耆《ハハキノ》國|相見《アフミノ》郡に在(ル)なり、又出雲風土記に、彼國の意宇(ノ)郡にも粟嶋あり、さて此《ココ》の淡嶋を、志摩(ノ)國紀(ノ)國など云も、東《アヅマ》の安房《アハノ》國なりと云も、皆誤(リ)なり、又阿波能志摩《アハノシマ》と訓(ム)も惡《ワロ》し、彼(ノ)大御歌又萬葉の歌どもにて、阿波志摩《アハシマ》と讀(ム)こと明らけし、】さて此(ノ)嶋は、今吾所生之子不良《イヤアガウメリシミコフサハズ》、【次(ノ)段(ニ)見ゆ、】と詔《ノタマ》へるを以(テ)思(フ)に、源氏(ノ)物語帚木(ノ)卷に、爪弾《ツマハジキ》をして、云む方なしと、式部を阿波米惡《ァハメニクミ》て少し宜しからむことを申せと、責《セメ》賜へど云々、【阿波米《アハメ》てふ詞、なほ明石(ノ)卷處女(ノ)卷角總(ノ)卷宿木(ノ)卷、又紫式部日記などにも見えたり、あはむとも、あはむるとも活用《ハタラ》く言なり、】この阿波米惡《アハメニク》みを、河海抄に淡惡《アハメニクム》と釋《トカ》れたる、【後の註に、拒なりと云(ヒ)、又|波《ハ》を濁りてよむ、みな非なり、】其(ノ)意にて、御親《ミオヤノ》神の淡《アハ》め惡《ニク》み賜(ヒ)し故に、淡嶋とは名《ナヅケ》しなるべし、書紀に、先(ヅ)以《ヲ》2淡路洲1爲《ス》v胞《エト》、意所不快故《フサハズオモホシケルユヱニ》、名2之曰《ナヅケキ》淡路洲(ト)1とあるは、此(ノ)淡嶋と名の似たるから、まがひつる傳(ヘ)なり、【舊事記に、これを吾恥《アハヂ》の意とせるは、似たることながら、古(ヘ)の意に非ず、淡路てふ名(ノ)義は次(ノ)卷に云、】

〇是亦不入子之例《コモミコノカズニハイレズ》、【不入は、伊良受《イヲズ》とも、伊禮受《イレズ》とも訓べし、】かの水蛭子《ヒルゴ》は、流去《ナガシステ》賜ひつれば、本より御子の數に入(ラ)ざること知《シラ》れたり、故《カレ》淡嶋を是亦《コモ》と云り、許禮母《コレモ》を、許母《コモ》と云は古言なり、さて例(ノ)字は※〔言+可〕受《カズ》と訓べし、書紀に此亦不以》充兒數《《コモミコノカズニハイレズ》、とあるに依れり、【此(ノ)例(ノ)字を師は、列(ノ)字の誤(リ)なるべしと云れたり、これもさることなり、欽明紀に、入(ル)2榮班貴盛(ノ)之|例《ツラニ》1とある例も、列の誤と聞えたり、然れども又雄略紀に、莫v預2群臣之|例《ツラニ》1、また天武紀に、入(レム)2不(ル)v赦(サ)之|例《カギリニ》1、また入(ル)2官治之例(ニ)1、などある例は、誤には非れば、此《ココ》なるも、これらの類とすべし、】是等《コレラ》を御子の數に入(レ)ぬは、不良《フサハズ》とて淡《アハ》め惡《ニク》み賜へる故なり、

 

於是二柱神議云《ココニフタバシラノカミハカリタマヒツラク》。今吾所生之子不良《イマアガウメリシミコフサハズ》。猶宜白天神之御所《ナホアマツカミノミモトニマヲスベシトノリタマヒテ》。即共參上《スナハチトモニマヰボリテ》。請天神之命《アマツカミノミコトヲコヒタマヒキ》。爾天神之命以《ココニアマツカミノミコトモチテ》。布斗麻邇爾《フトマニニ》【上。此五字以音】卜相而詔之《ウラヘテノリタマヒツラク》。因女先言而不良《ヲミナヲコトサキダチシニヨリテフサハズ》。亦還降改言《マタカヘリクダリテアラタメイヘトノリタマヒキ》。

天神は、上(ノ)件に天神諸《アマツカミモロモロ》とありしと同く、初(メ)の五柱(ノ)天神なり、

〇御所は実母刀《ミモト》と訓べし、

〇白は、何れも麻袁須《マヲス》と訓べし、高津(ノ)宮(ノ)段の歌に、母能麻袁須《モノマヲス》、朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、意富麻幣爾麻袁須《オホマヘニマヲス》など、此外萬葉などにも多く然あり、【萬葉に麻宇須《マウス》ともあれど、そは乎《ヲ》を宇《ウ》に寫し誤れるか、いかにまれ、宇《ウ》と云は、音便に頽《クヅレ》たるなり、】

〇參上は麻韋能煩理弖《マヰノボリテ》と訓べし、凡て參を古(ヘ)は麻韋《マヰ》と云り、參入を麻韋琉《マヰル》、【麻韋伊琉《マヰイル》の約(マ)りたるなり、後世の假字に麻伊琉と書(ク)は誤なり、】參出を麻韋傳《マヰデ》、參來を麻韋久《マヰク》と云類なり、【此(ノ)麻韋《マヰ》を、後にほ多くは麻宇《マウ》といへり、參出《マヰデ》を詣《マウヂ》といひ、參上をも麻宇能煩琉《マウノボル》と云類なり、みな例の音便に頽《クヅ》れたるなり、】

〇請《コフ》2天(ツ)神(ノ)之命(ヲ)1とは、上(ノ)件の状《サマ》を云々《シカシカ》と天神に白《マヲシ》賜て、【書紀に具(ニ)奏2其状(ヲ)1とあり、】是(レ)如何《イカ》なる故ぞ、なほ如何《イカニ》し侍《ハベラ》むと、伺《ウカガ》ひて、其(ノ)詔《ノリゴチ》賜ふ命《ミコト》を請《コヒ》たまふなり、抑|萬《ヨロヅ》の事に、いさゝかも己《オノ》が私《ワタクシ》を用ひずて、唯天神の命の隨《マニマ》に行ひ賜ふことは、道の大義《オモキコトワリ》なり、此二柱(ノ)大神すら猶|如此《カカ》りけるものを、況《マシ》て後(ノ)世の凡人《タダビト》として、努《ユメ》己《オノ》が私心《ワタクシゴコロ》もてさかしら莫《ナ》爲《セ》そ、

〇天神之命以《アマツカミノミコトモチテ》は、上に天(ツ)神|諸命以《モロモロノミコトモチテ》とありしと同(ジ)語にて、仰《オフセ》にてと云むが如し、

〇布斗麻邇《フトマニ》は、玉垣(ノ)宮(ノ)御段《ノミクダリ》にも、

布斗摩邇々占相而《フトマニニウラヘテ》と云ことあり、書紀に太占此(ヲ)云2布斗麻爾《フトマニト》1、又天(ノ)兒屋(ノ)命(ハ)主2神事(ノ)之宗源(ヲ)1者也、故(レ)俾《シメキ》d以(テ)2太占之卜事《フトマニノウラゴト》1奉仕《ツカヘマツラ》u焉などあり、布斗《フト》は、布刀詔戸《フトノリト》布刀玉《フトダマ》などの布刀《フト》にて、稱辭《タタヘコト》なり、麻邇《マニ》は、如何《イカ》なる意にか末(ダ)思ひ得ず、【書紀の占(ノ)字は、唯其(ノ)事に當《アテ》て書(キ)賜へる物にて、正《マサ》しく麻邇《マニ》は占なりと云にはあらず、凡て書紀の文字は、語に中《アタ》らねど、意を得て書るが多きなり、又から文《ブミ》にては、卜《ボク》と占《セム》と別なれど、此方には通(ハ)し用(ヒ)て別なし、然るを字に就て差別を云説は、甚《イタク》ひがことなり、】そも/\布斗麻邇《フトマニ》は、上(ツ)代の一種《ヒトクサ》の卜《ウラ》にて、諸卜《モロモロノウラ》の中に殊に重《オモ》く、主《ムネ》とせし卜《ウラ》と聞えたり、下の爾《ニ》は辭《テニヲハ》なり、

。註の上(ノ)字は、上聲《アガルコヱ》を附《ツケ》たるなり、

〇卜相而は宇良閇弖《ウラヘテ》と訓べし、萬葉十四【七丁】に、武藏野爾宇良敝可多也伎《ムザシヌニウラヘカタヤキ》とあり、宇良閇《ウラヘ》は宇良阿閇《ウラアヘ》にて、【阿《ア》を省く例常多し、殊に是(レ)は良《ラ》に阿韵《アノヒビキ》あればさらなり、】その阿閇《アヘ》は、令合《アハセ》の約《ツヅマ》りたるなり、例は朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、麻那婆志良袁由岐阿閇《マナバシラヲユキアヘ》【尾行合《ヲユキアハ》せなり、】とあるこれなり、猶此(ノ)格は、從《シタガ》はせてを從《シタガ》へて、違《タガ》はせてを違《タガ》へて、集《ツド》はせてを集《ツド》へてと云類多し、されば宇良閇弖《ゥラヘテ》は、卜令合而《ウラアハセテ》と云ことなり、書紀にも、卜合《ウラヘ》と合(ノ)字を添(ヘ)て書れたり、【凡て古書に卜とある、其所《ソコ》の使樣《ツカヒザマ》に因(リ)て、言の活《ハタラ》き變《カハ》るなり、まづ宇良《ウラ》と云は、其(ノ)事の體言なるを、其(ノ)宇良《ウラ》を爲《スル》を、用言に活《ハタラカ》すときに、宇良布《ウラフ》と云(フ)、是(レ)宇良阿波須《ウラアハス》てふことなるが、阿《ア》を省《ハブ》き、波須《ハス》を約(メ)て布《フ》となれるなり、さて其(ノ)本の言の合《アハ》すは、合《アハ》さむ合《アハ》せなどと活《ハタラ》く故に、約まりたる布《フ》も活《ハタラ》きて、宇良波牟《ウラハム》宇良閇《ウラヘ》なども云なり、又其(ノ)用言の宇良閇《ウラヘ》を居《スヱ》て、體言に爲《シ》たるもあり、萬葉十五に、保都手乃宇良敝乎可多夜伎弖《ホツテノウラヘヲカタヤキテ》とある是(レ)なり、こは乎《ヲ》とあれば體言なり、此(ノ)例は、歌てふ體言を活《ハタラカ》して、歌《ウタ》ふとも云を、又それを居《スヱ》て、謠《ウタヒ》と體言にも云が如し、さて此(ノ)宇艮敝《ウラヘ》の敝《ヘ》を濁(リ)て、卜部《ウラベ》と心得るは誤なり、卜部《ウラベ》は,卜《ウラ》を業《ワザ》とする人の部《ムレ》を云て別なり、思ひ混《マガ》ふべからず、又|宇良那布《ウラナフ》と云も、一(ツ)の活《ハタラカ》し格《ザマ》なり、萬葉十一に、玉桙路往占占相《タマボコノミチユキウラニウラナヘバ》云々、こは賂《マヒ》をするを麻比那布《マヒナフ》、商《アキ》をするを阿伎那布《アキナフ》、荷《ニ》を爾那布《ニナフ》と云類にて、卜《ウラ》を爲《ス》るを云なり、此外|行《オコナ》ふ養《ヤシナ》ふ咒《マジナ》ふなど、那布《ナフ》てふことを添(ヘ)て云言多し、皆同じ意なり、さて右の宇良布《ウラフ》と宇良那布《ウラナフ》と、事は同じかれど、言の本は別なり、思ひ混《マガ》ふべからず、此《ココ》も宇良那比弖《ウラナヒテ》と訓むも惡《アシ》からねど、相(ノ)字を加(ヘ)たるも、阿閇《アヘ》の意なり、右の萬葉の占相の相は、同じ借字の中にも、殊に輕《カロ》く用ひたる物にて、彼集の常なり、此《ココ》の相(ノ)字は、借字ながら阿閇《アヘ》の意を取て書れば、彼(レ)とは少し異なり、又僧尼令に、卜2相(ス)吉凶(ヲ)1とあるは、義解に、灼(ヲ)v龜(ヲ)曰v卜(ト)、視(ヲ)v地(ヲ)曰v相(ト)と有て、その意異なり、さて又|卜《ウラ》をして、兆《カタ》に見はれ出たるを、宇良阿布《ウラアフ》と云、漢文に是を卜食《ウラハム》と云、此方《ココ》にも此(ノ)食(ノ)字を借て書り、猶此(ノ)食(ノ)字のことは論あり、垂仁(ノ)段に云べし、さて上の宇良布《ウラフ》は、此方《コナタ》より合《アハ》す事《ワザ》をするを云(ヒ)、是(レ)は彼方《カナタ》より合《アフ》なり、此(ノ)令合《アハス》と合《アフ》との別《ワキ》をよく辨《ワキマ》ふべし、さて其(ノ)宇良阿布《ウラアフ》に又、食《アフ》v卜《ウラニ》と卜食《ウラアフ》との別《ワカチ》あり、凡て此(ノ)卜《ウラ》てふ言の活用《ハタラキ》多《オホ》くて、古書の訓まぎらはしく、誤れることも多き故に、見む人のうるさかるらむも思はで、長々《ナガナガ》といふなり、】さて卜相《ウラヘ》の樣《サマ》は、天(ノ)石屋の段【傳八の卅一葉】に云べし、抑《ソモソモ》中ごろよりは、【萬(ノ)事|漢樣《カラザマ》になれるから、】卜《ウラヘ》はたゞ神事《カムワザ》にのみ用ることになれれど、上(ツ)代には、萬の政《ミワザ》にも、己《オノ》がさかしらを用ひず、定めがたきことをば皆|卜《ウラヘ》て、神の御教《ミヲシヘ》を受て、行ひ賜しこと、記中書紀其(ノ)外にも多く見えたり、今天(ツ)神すら如此《カクノゴト》くなるをや、【抑|異神《コトカミ》の卜問《ウラドヒ》は、天(ツ)神の御教(ヘ)を受賜ふなるべければ、謂《イハ》れたるを、今此天(ツ)神の卜《ウラ》へ賜ふは、何(レノ)神の御教を受賜ふぞと、疑ふ人も有(リ)なめど、其《ソ》は漢籍意《カラブミゴコロ》にて、古(ヘ)の意ばへに違へり、是(レ)を彼《カ》に此《カク》にいはば、神代の事は皆がら、疑はしきことのみならむ、凡て是(レ)等の事、人の測《ハカリ》知(ル)べきならねば、中々《ナカナカ》なるさかしら心をもたらで、たゞ古(ヘ)の傳(ヘ)のまゝに見べきなり、】書紀には、天神の御所に參上て、大命を承たまふ事なし、直《タダ》に即(チ)改(メ)旋(リ)たまへり、一書に此事あり、

〇因女先言而不良《ヲミナヲコトサキダチシニヨリテフサハズ》、上に伊邪那岐(ノ)命の、女人先言不良《ヲミナヲコトサキダチテフサハズ》と詔へるは、女の言先《コトサキダツ》ことの、宜《ヨカ》らぬなるを、此《ココ》は生(レ)賜へる御子の宜《ヨ》からぬを指(シ)て詔ふなれば、【因《ヨリテ》とあるを以(テ)辨ふべし】同(ジ)語ながら指事《サスコト》異なり、思ひ混《マガ》ふべからず、【書紀の、此記の趣の如くなる一書に、上の伊邪那岐(ノ)命の詔へる此(ノ)語はなくて、たゞ此《ココ》に至て、天神云々乃教曰、婦人之辭其已先揚乎《ヲミナヲコトサキダツベシヤ》、宜更還去《カヘリテアラタメイヘ》とあり、】

〇改言は阿良多米伊幣《アラタメイヘ》と訓べし、【俗言にいひなほせと云ことなり、】不祥《フサハヌ》御子を生《ウミ》坐るは、もはらかの唱和《トナヘコタヘ》の次第《ツイイデ》の亂《ミダレ》に因(リ)てなれば、御言《ミコト》の罪なり、故(レ)如此《カク》詔へるなり、言《イヘ》とあること心を着《ツク》べし、上なる亦《マタ》は、又再(ビ)の意にて、言《イヘ》と云(フ)へ係《カカ》れり、

〇此(ノ)段の大かたの趣を取總《トリスベ》て、なほ委曲《ツバラカ》に云むには、まづ初(メ)に二柱(ノ)神天之御柱を行廻り賜(ヒ)し時に、女《メ》神の言先《コトサキ》だち賜べきことなり、惡《アシ》きを改めむは、善《ヨキ》ことなるを、其《ソレ》をさへなほ敬《ツツシ》みて、天神に白《マヲ》したまふほどならば、其(ノ)初(メ)に甚《イタ》く不良《フサハヌ》ことを知(リ)ながら、即《ヤガテ》御合《ミアヒ》坐るは又いかにぞや、重《オモ》く敬むべきことをば敬まで、さしもあらぬことを敬みたまふこと、あるべくもあらず、凡て敬《ツツシミ》も事にこそよれ、近(キ)代神道者などこと/”\しく稱《ナノ》るものの、漫《ミダリ》に敬《ツツシミ》といふことを、道の旨《ムネ》といひなすは、例の儒に諂《ヘツラ》へる私(シ)言なり、又或人の説に、其(ノ)初(メ)不良《フサハヌ》をばしりながら御合《ミアヒ》坐るは、御過《ミアヤマチ》なり、されど其《ソ》を速《スミヤ》けく改めたまへるぞ、大神には坐けると云も、亦儒書にへつらへるなり、】

古事記傳五之卷

                    本居宣長謹撰

 

    神代三之卷《カミヨノミマキトイフマキ》

 

故爾反降《カレスナハチカヘリクダリマシテ》。更往廻其天之御柱如先《サラニカノアノノミハシラヲサキノゴトユキメグリタマヒキ》。於是伊邪那岐命《ココニイザナギノミコト》。先言阿那邇夜志愛袁登賣袁《マヅアナニヤシエヲトメヲトノリタマヒ》。後妹伊邪那美命《ノチニイモイザナミノミコト》。言阿那邇夜志愛袁登古袁《アナニヤシエヲトコヲトノリタマヒキ》。如此言竟而《カクノリタマヒヲヘテ》。御合《ミアヒマシテ》。生子淡道之穗

 

之狹別嶋《ミコアハヂノホノサワケノシマヲウミタマヒキ》。【訓別云和氣下效此】次生伊豫之二名嶋《ツギニイヨノフタナノシマヲウミタマフ》。此嶋者身一而有面四《コノシマハミヒトツニシテオモヨツアリ》。毎面有名《オモゴトニナアリ》。故伊豫國謂愛 上 比賣《カレイヨノクニヲエヒメトイヒ》。【此三字以音下效此也】讃岐國謂飯依比古《サヌギノクニヲイヒヨリヒコトイヒ》。粟國謂大宜都比賣《アハノクニヲオホゲツヒメトイヒ》。【此四字以音】土左國謂建依別《トサノクニヲタケヨリワケトイフ》。次生隱伎之三子嶋《ツギニオキノミツゴノシマヲウミタマフ》。亦名天之忍許呂別《マタノナハアメノオシコロワケ》。【許呂二字以音】次生筑紫嶋《ツギニツクシノシマヲウミタフ》。此嶋亦身一而有面四《コノシマモミヒトツニシテオモヨツアリ》。毎面有名《オモゴトニナアリ》。故筑紫國謂白日別《カレツクシノクニヲシラビワケトイヒ》。豐國謂豐日別《トヨクニヲトヨビワケトイヒ》。肥國謂建日向日豐久士比泥別《ヒノクニヲタケヒムカヒトヨクジヒネワケトイヒ》。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別《クマソノクニヲタケビワケトイフ》。【曾字以音】次生伊伎嶋《ツギニイキノシマヲウミタマフ》。亦名謂天比登都柱《マタノナハアメヒトツバシラトイフ》。【自比至都以音訓天如天】次生津嶋《ツギニツシマヲウミタマフ》。亦名謂天之狹手依比賣《マタノナハアメノサデヨリヒメトイフ》。次生佐度嶋《ツギニサドノシマヲウミタマフ》。次生大倭豐秋津嶋《ツギニオホヤマトトヨアキヅシマヲウミタマフ》。亦名謂天御虚空豐秋津根別《マタノナハアマノミソラトヨアキヅネワケトイフ》。故因此八嶋先所生《カレコノヤシマゾマヅウミマセルクニナルニヨリテ》。謂大八嶋國《オホヤシマクニトイフ》。

反降《カヘリクダリ》は、天(ツ)神の御所《ミモト》より返(リ)て、淤能碁呂嶋に降(リ)賜ふなり、此言倭建(ノ)命(ノ)段にも、還下坐《カヘリクダリマシテ》とあり、若櫻(ノ)宮(ノ)段にもあり、

〇更往廻云々は、佐良爾迦能阿米能御柱袁《サラニカノアメノミハシラヲ》、佐伎能碁登由伎米具理賜比伎《サキノゴトユキメグリタマヒキ》と訓べし、【如《ゴト》v先《サキノ》を、文のまゝに下に讀(マ)むは、此方《ココ》の語のふりに非ず、漢文なり、凡て此方《ココ》の語と漢文とは、言の上下になりかはること多し、心得おくべし、】

〇御合は美阿比坐弖《ミアヒマシテ》と訓べし、即(チ)上にある美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》なり、續紀十に、伊波乃比賣命皇后止御相坐而《イハノヒメノミコトトミアヒマシテ》とあり、【美阿波世《ミアハセ》と訓(ム)は、古語しらぬひがことなり、俗語に美阿波須《ミアハス》と云ことあれど、それは子を親の令逢《アハス》なれば、自《ミ》ら逢《アフ》とは異なり、】

〇淡道之穗之狹別《アハヂノホノサワケ》、淡道は南海道の淡路(ノ)國なり、和名抄に阿波知《アハヂ》、書紀應神天皇の大御歌に、阿波※〔施の也が尼〕辭摩《アハヂシマ》とあり、【後に國となりても、なほ淡路嶋とのみ云ならへり、隱伎佐度も然り、】名義《ナノココロ》は、阿波《アハノ》國へ渡る海道《ウミツヂ》にある嶋なる由なり、【京路《ミヤコヂ》山跡路《ヤマトヂ》など云は常なる中にも、萬葉に筑紫路《ツクシヂ》土左道《トサヂ》ともよみ、|山跡道之嶋《ヤマトヂノシマ》ともよめれば、阿波道之嶋《アハヂノシマ》うたがひなし、又|津嶋《ツシマ》の名の意も似たるをおもへ、】さて次の國々の例によらば、生2子《ミコ》淡道嶋(ヲ)1亦(ノ)名(ハ)謂(フ)2穗之狹別《ホノサワケト》1とあるべきを此嶋のみは、古(ヘ)より亦(ノ)名をも引連《ヒキツヅケ》て唱來《トナヘコ》しなるべし、穗之狹《ホノサ》の意未(ダ)思ひ得ず、【されど強《シヒ》ていはば、始(メ)に生(ミ)坐る嶋なれば、稻穗《イナボ》の先(ヅ)出《イデ》そめたるによそへて、穗之早《ホノサ》の意※〔與+欠〕、早《サ》は、早蕨《サワラビ》早穗《ワサボ》などの早《サ》なり、】別《ワケ》は、皇子《ミコ》たちなどの御名に多し、其事は日代(ノ)宮(ノ)段【傳廿六の四のひら】に云べし、式に出雲(ノ)國出雲(ノ)郡|比古佐和氣《ヒコサワケノ》神社あり、こは狹別《サワケ》の例なり、

〇伊豫之二名嶋《イヨノフタナノシマ》、こは阿波讃岐伊余土左の四國《ヨクニ》を總《スベ》たる名なり、【後世四國と云、】萬葉三【三十九丁】に、白浪乎伊與爾回之《シラナミヲイヨニモトホシ》とあるも、四國を總《スベ》て云りと聞ゆ、是(レ)本は一國の名なるが、大名《オホナ》になれること、筑紫のごとし、二名《フタナ》は本より大名なるべし、此(ノ)名(ノ)義は、名《ナ》は借字にて二並《フタナラビ》なり、書紀應神(ノ)卷の大御歌に、阿波※〔施の也が尼〕辭摩《アハヂシマ》、異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、阿豆枳辭摩《アヅキシマ》、異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、豫呂辭枳辭摩之魔《ヨロシキシマジマ》、これは淡道《アハヂ》と小豆嶋《アヅキシマ》と並べるをよみ給へるにて、此《ココ》の二名(ノ)嶋のことにはあらねど、二並《フタナラビ》てふ言の證《ヨリドコロ》なり、萬葉九【二十二丁】に、二並筑波乃山《フタナラビツクハノヤマ》ともあり、さて此(ノ)嶋は、飯依比古《イヒヲリヒコ》と愛比賣《エヒメ》と女男《メヲ》並び、建依別《タケヨリワケ》と大宜都比賣《オホゲツヒメ》と又並べるを、二並《フタナ》と云か、【此(ノ)嶋、東より見れば、讃岐の飯依比古と粟の大宜都比賣と二並なり、西より見るも、土左の建依別と伊余の愛比賣と二並なり、北より見るも、南より見るも同じ、故に男女の名を負せて、二並(ノ)嶋とは云ならむ、又萬葉六(ノ)卷に、土左(ノ)國へゆくことを、刺並之國爾出坐《サシナミノクニニイデマス》とよめるは、別意《コトココロ》か、若《モシ》又これも二並の意にてもあらむか、今俗に、二人相(ヒ)對《ムカ》ふをさしむかひと云(ヒ)、又二人してすることをさしと云を思ふべし、】又伊豫をも本よりの大名とせば、彌《イヤ》の意にて、【いやをいよゝともいふ、】彼(ノ)御歌の語の如く、彌二並《イヤフタナラビノ》嶋なるべし、【今伊余《イヨ》の海中《ワタナカ》に大二嶋《オホニシマ》と云あり、大二嶋大明神の社もそこにあり、二名嶋はこれなりと國人は云(ヘ)ども、信《ウケ》られず、其《ソ》は越智《ヲチノ》郡なる大野(ノ)神社などを、唱へ誤れるにはあらぬか、】

〇此嶋者身一而《コノシマハミヒトツニシテ》とは、四國《ヨクニ》一嶋《ヒトツノシマ》なるを云(フ)、

〇有《アリ》2面四《オモヨツ》1とは、四(ツ)に分れたるを云(フ)、そはたゞ國(ノ)名の分れたるのみにはあらで、本より嶋の形の、四(ツ)に分れたる勢(ヒ)あるなるべし、【さてこそ四國《ヨクニ》には分れけめ、】さて如此《カク》人に准へて、身と云(ヒ)面《オモテ》と云は、次に三子《ミツゴノ》嶋|兩兒《フタゴノ》嶋なども云(ヒ)、又山にも頂《イタダキ》腹《ハラ》御富登《ミホト》【中卷に見(ユ)、】なども云類なり、面は淤母《オモ》と訓べし、【淤母弖《オモテ》と云は、後《ウシロ》を宇志呂弖《ウシロデ》と云がごとし、】萬葉二【四十一丁】に、讃岐國者《サヌギノクニハ》云々、天地《アメツチ》、日月與共《ツキヒトトモニ》、滿將行《タリユカム》、神乃御面《カミノミオモ》とよめるは、此處《ココ》を思へるなり、【昔はかくかりそめにも、古(ヘ)の傳言《ツタヘゴト》を物しけるに、後(ノ)世は只漢意をのみ思(ヒ)て、古(ヘ)の雅《ミヤビ》をわすれたるこそあさましけれ、】

〇伊豫《イヨノ》國、中卷下卷には伊余と書り、此《コ》は伊豫(ノ)郡より出たる名なるべし、【其例多し、】神名帳に、彼《ソノ》郡に伊豫(ノ)神(ノ)社もあり、同郡に伊豫豆比子《イヨヅヒコノ》神社と云もあり、【こは地《トコロノ》名より出たる神(ノ)名なるべし、】名(ノ)義思ひ得ず、

〇愛比賣《エヒメ》は、兄弟の女子を兄比賣《エヒメ》弟比賣《オトヒメ》と云例多かれば、此國は女子の始(メ)の意にて、兄比賣《エヒメ》か、【書紀皇極(ノ)卷に長女《エヒメ》ともあり、伊世(ノ)國多氣(ノ)郡には、兄國《エクニ》弟國《オクニ》てふ村の名もあり、】又伊豫を元よりの大名にして見れば、彼(ノ)大御歌の如く、彌二並宜嶋々《イヤフタナラビヨロシキシマジマ》の意にて、愛《エ》は宜《ヨロシ》き意か、【吉《ヨキ》を愛《エ》といふ例多し、上文の愛袁登賣《エヲトノ》のたぐひなり、】比賣《ヒメ》は、比古《ヒコ》に對て、女を美《ホメ》て云|稱《ナ》にて、比《ヒ》は、産巣日《ムスビ》などの日の意なり、上【傳三の十三葉】に云るが如し、賣《メ》は女《メ》なり、【書紀には、凡て比古に彦(ノ)字、比賣に姫又媛(ノ)字を用ひられたり、そは大抵《オホカタ》皇胤《ミスヱ》の女には姫(ノ)字、他姓《アダシウヂ》の女には媛(ノ)字を書れたり、さて此(ノ)記比古比賣の假字、凡て清濁いと嚴《オゴソカ》にて、清(ム)には必(ズ)比を用ひ、濁(ル)には必|毘《ビ》を用ひたり、みだりに讀(ム)べからず、又此(ノ)清濁、世に訛りて讀(ミ)ならひ來《キ》つるが多きをも、此記に依て正《タダ》すべし、少名毘古那《スクナビコナノ》神|※〔けものへん+爰〕田毘古《サルタビコノ》神などの毘《ビ》を清《スミ》、倭比賣《ヤマトヒメノ》命などの比《ヒ》を濁るなど、みな誤なり、此類なほ多し、】

○讃岐《サヌギノ》國、【岐は古(ヘ)は濁(リ)ていひしなり、】和名抄に佐奴岐《サヌギ》、この名(ノ)義未(ダ)思ひ得ず、強《シヒ》ていはば、古語拾遺神武天皇(ノ)御世の事どもを云る所に、又|手置帆負《タオキホオヒノ》命(ノ)之孫造(ル)2矛竿《ホコザヲヲ》1、其(ノ)裔《ハツコ》今分(レテ)在(リ)2讃岐(ノ)國(ニ)、毎(ニ)v年|調庸《ミツギモノ》之外(ニ)貢(ル)2八百竿《ホコザヲヤホヲ》1、是(レ)其(ノ)事|等《ドモノ》證也と見え、臨時祭式に、凡(ソ)桙木《ホコノキ》千二百四十四竿、讃岐(ノ)國十一月以前(ニ)差(テ)2綱丁(ヲ)1進納(ス)とある、是に因て思ふに、竿調《サヲノツギノ》國か、【乃都《ノツ》は奴《ヌ》と切《ツヅマ》り、乎《ヲ》を省《ハブケ》るなり、】

〇飯依比古《イヒヨリヒコ》、隣《トナリ》の粟(ノ)國を大宜都比賣《オホグツヒメ》といへば、飯《イヒ》もそれに由《ヨシ》あるか、鵜足《ウタリノ》郡に飯(ノ)神(ノ)社あり、式に見ゆ、依《ヨリ》のことは、玉依毘賣(ノ)命の下《トコロ》。【傳十七の七十四の葉】に云べし、比古《ヒコ》は男を美《ホメ》て云|稱《ナ》にて、比《ヒ》は上に云るが如し、古《コ》は子なり、

〇粟《アハノ》國、即(チ)阿波(ノ)國なり、粟は、書紀(ノ)神代(ノ)卷にも粟田《アハフ》と云(ヒ)、神武(ノ)卷の大御歌にも阿波布《アハフ》をよみ賜ひて、【萬葉三(ノ)卷にも春日之|野邊粟種益乎《ヌベニアハマカマシヲ》、】古(ヘ)に殊に多く作(リ)し物なり、故(レ)粟のよく出來《イデク》る國なる故の名なるべし、【和名抄に、唐韻(ニ)云、粟(ハ)禾子也(ト)、和名|阿波《アハ》とあるは、粟《ゾクノ》字につきたる義なり、漢國にては、たなつ物を凡て粟《ゾク》と云こともある故なり、されど皇國にて粟《アハ》と云は、一種の名にて、總《スベ》てにはわたらぬを、禾子也と云注を引ながら、和名|阿波《アハ》とせしは、順の誤なり、】古語拾遺に、求(メテ)2肥饒地《ヨキトコロヲ》1遣(ハシ)2阿波(ノ)國(ニ)1云々、こは穀麻《ユフアサ》を殖《ウヱ》むためなれど、肥地《ヨキトコロ》ならば粟もよくみのるべし、伯耆(ノ)風土記に、相見《アフミ》郡(ノ)郡家(ノ)之西北(ニ)有(リ)2粟嶋《アハシマ》1、少日子《スクナビコノ》命|蒔《マキタマフニ》v粟(ヲ)、秀實離々《イトヨクミノレリ》云々、故《カレ》云(フ)2粟嶋《アハシマト》1也、これも粟の、嶋の名となれる思(ヒ)合(ス)べし、

〇大宜都比賣《オホゲツヒメ》、【宜はゲの假字なり、キと訓(ム)はひがことぞ、】此(ノ)名も粟によれるなるべし、此(ノ)名の意は、下に同(ジ)名の神ある、其處《ソコ》に云べし、【此卷の五十三葉】

〇土左《トサノ》國、和名鈔(ニ)土佐(ノ)郡土佐(ノ)郷あれば、其《ソコ》より出たる國(ノ)名なるべし、【此(ノ)土左(ノ)郷に土左(ノ)大神(ノ)社あり、此神は葛木一言主《カヅラキノヒトコトヌシノ》神なるを.雄略天皇(ノ)御世に、故ありて此國へ移《ウツ》され給へること、續紀廿五、又此(ノ)國の風土記などに見ゆ、委(ク)は彼(ノ)朝倉(ノ)宮(ノ)段にいふべし、然《サテ》其(ノ)神|自《ミ》言離之神《コトサクノカミ》葛木之一言主之大神と名告《ナノリ》たまへり、此御名に因て思(フ)に、土左は許土左久《コトサク》の略《ハブカリ》たる名にもやあらむとも思へど、國(ノ)名彼(ノ)御世より先《サキ》にこそあらめ、】

〇建依別《タケヨリワケ》【建を、舊事紀には速とあり、】は、何《ナニ》となき稱名《タタヘナ》と聞ゆ、【依《ヨリ》は、上の飯依比古の依に同じ、】神名帳(ニ)、安藝《アギノ》郡に多氣《タケノ》神(ノ)社あり、さて此記を始(メ)て古書どもに、多祁《タケ》といふに建(ノ)字を用るは、健(ノ)字の偏《ヘム》を省《ハブ》けるなり、古(ヘ)は偏を省きて書る例多し、下|呉公《ムカデ》の下《トコロ》【傳十の三十九葉】に委(ク)云べし、書紀には凡て武(ノ)字を書り、

〇四國を擧たる序《ツイデ》、後(ノ)世の定(メ)に異なり、伊余は大名になれる故に先(ヅ)擧るか、さて次第《ツギツギ》に右へめぐれり、然《サ》て次なる嶋々の例によらば、此(ノ)四國も某國《ソノクニ》亦名《マタノナハ》謂《イフ》v某《ナニト》とあるべきを、是(レ)は一嶋の中にて分れたる國なる故に、文《カキザマ》を異《カヘ》て、亦(ノ)名とは云(ハ)ぬなるべし、筑紫(ノ)嶋の國々も此例なり、

〇隱伎之三子《オキノミツゴノ》嶋、下には淤岐《オキノ》嶋と書り、名(ノ)義は、海原《ウナバラ》の奥中《オキナカ》にある嶋と云なり、【書紀(ノ)口決に、奥《オク》也、西北(ノ)之隅(ヲ)謂(フ)2之奥(ト)1とあるは、似たることながら、漢書《カラブミ》にかゝれる故に、事違へり、纂疏の説も同じ、】三子(ノ)嶋とは、或人、此(ノ)國三(ノ)嶋ある故に云と云り、今|國圖《クニガタ》を考るに、まづ此(ノ)國四嶋に分れたる、其中に東北(ノ)方に在て大(キ)なるを、俗《ヨ》に嶋後《ダウゴ》と云(ヒ)、其西南(ノ)方に、【今道五里ばかり離れて】天之嶋向之嶋|知夫《チブリ》嶋とて三(ツ)あり、此(ノ)三(ツノ)嶋を統《スベ》て嶋前《ダウゼン》と云なり、【嶋後に比《クラ》ぶればいづれも小《チヒサ》し】三(ツ)子とはまことに此(レ)を以て云なるべし、

〇亦(ノ)名の下に謂(ノ)字|脱《オチ》たるか、次の例みな此字あり、されど無《ナク》てもありなむ、

〇天之忍許呂別《アメノオシコロワケ》、名(ノ)義|忍《オシ》は大《オホシ》の約りたるなり、神代紀一書の熊野忍隅(ノ)命を、又一書に熊野大隅(ノ)命とあり、これ通ふ例なり、又凡河内を大河内ともあり、これ大をおほしと云例なり、許呂《コロ》は未(ダ)思(ヒ)得ず、【上文の許袁呂許袁呂《コヲロコヲロ》、又は慇懃慇懃《ネモコロゴロ》、許呂臥《コロフス》など云語あれど、ことよりても聞えず、書紀に發(ス)2稜威之嘖讓《イツノコロビヲ》1、々々此(ヲ)云(フ)2擧廬毘《コロビト》1、この意などにや、凡て建《タケ》きさまを以て稱《タタフ》るは、古(ヘ)の名の常ぞ、】大神宮儀式帳に、鴨(ノ)神社一處、稱2大水上(ノ)兒|石己呂和居《イハコロワケノ》命(ト)1、こは許呂別《コロワケ》の例なり、

〇筑紫《ツクシノ》嶋、萬葉廿【二十八丁】に、都久之乃之麻《ツクシノシマ》とあり、これも伊余の如く、もと一國の名より出て、四國《ヨクニ》【筑紫豐國肥熊曾】の總名《スベナ》にはなれるなり、此嶋後に西海道【北山抄(ニ)云(ク)西之道《ニシノミチ》、】と云(ヒ)、九國となる、【俗に九州と云、】

〇有《アリ》2面四《オモヨツ》1とは、筑紫《ツクシノ》國と豐國《トヨクニ》と肥《ヒノ》國と熊曾《クマソノ》國と四(ツ)なり、

〇筑紫(ノ)國、萬葉五【二十三丁】に都久紫能君仁《ツクシノクニ》とあり、後に二國《フタグニ》に分れたり、和名鈔に、筑前【筑紫乃三知乃久知《ツクシノミチノクチ》】筑後【筑紫乃三知乃之里《ツクシノミチノシリ》】とある是なり、風土記に、筑後國者本與筑前國合爲一國《ツクシノミチノシリハモトミチノクチトヒトグニナリキ》と云り、道口《ミチノクチ》道後《ミチノシリ》のことは、黒田(ノ)宮(ノ)段【傳廿一の四十の葉】に云べし、さて如是《カク》二(ツ)に分れしは、何《イツノ》御代とも知《シラ》れず、書紀(ノ)景行(ノ)卷十八年(ノ)下《トコロ》に、筑紫後國《ツクシノミチノシリ》とあれば、其《ソレ》より前《マヘ》か、はた分(レ)しは後なれど、前へも及してかくは書るか、都久志《ツクシ》と云名(ノ)義は、筑後(ノ)風土記に、三(ツノ)説ある中の一(ツ)に、昔(シ)この前《ミチノクチ》と後《ミチノシリ》との堺なる山に、荒ぶる神ありて、往來《ユキカフ》人|多《サハ》に取殺《トリコロ》されき、故(レ)其神を人命盡神《ヒトノイノチツクシノカミ》となむ云ける、後に祝祭《イハヒマツリ》て筑紫《ツクシノ》神と申すとあり、此説さもありぬべく聞ゆ、【今二(ツ)の説も、共に盡《ツクシ》の意なれど、ひがことときこゆ、又書紀(ノ)私記に、國形《クニガタ》の木兎《ツク》に似たる故とあるを、世々の物知(リ)人も用(ヒ)たれど、此《コレ》もひがことときこゆ、】式に筑前(ノ)國御笠(ノ)郡筑紫(ノ)神(ノ)社あり、此(ノ)神なるべし、【又近(キ)世に貝原(ノ)某が釋名てふ物に、古(ヘ)異國《ヒトグニ》より寇《アタミ》來《クル》を防《フセガ》むがために、筑前の北(ノ)方の海濱《ウミベタ》に、石垣を多く築《ツカ》せ賜ひし故に、築石《ツクシ》の意ならむと云る、是も由《ョシ》ありて思《オボ》ゆれど、異國の賊《アタ》を防《フセ》がれしことは、上(ツ)代には無き事なり、】

〇白日別は、名(ノ)義思ひ得ざるを、【萬葉に白縫筑紫《シラヌヒツクシ》と連《ツヅ》けしは、由《ヨシ》ありげに聞ゆれど、其《ソ》は猶|不知火《シラヌヒ》ならむと、師も云れき、】強《シヒ》て思(フ)に、下に大年(ノ)神の御子白日(ノ)神あり、其《ソ》は向日《ムカヒ》の誤ならむと思《オボ》しき故あれば、此《ココ》も向日別《ムカツビワケ》ならむか、書紀神功(ノ)卷に天疎向津媛《アマザカルムカツビメノ》命、又仲哀(ノ)卷に向津野大濟《ムカツヌノオホワタリ》、又|向津國《ムカツクニ》、萬葉に向峯《ムカツヲ》などあり、かの向津國は韓國《カラクニ》のことにて、海《ワタ》の向《ムカヒ》に遙に見さくる意と聞ゆれば、此《ココ》も其意の名にや、繼體(ノ)卷(ノ)歌に、武※〔加/可〕左〓樓以祇能和駄※〔口+利〕《ムカサクルイキノワタリ》【壹伎之渡なり】とあるも同意なり、かの向津媛てふ御名に天疎《アマザカル》と置るも、遙に向ふ意につゞけたるなり、又思ふに、師(ノ)云(ク)、向津媛てふ名は、古(ヘ)は愛《ウツクシ》みて見《ミ》ま欲《ホシ》きことを向《ムカ》しきと云(ヘ)ば、其意にて負《ツケ》たるなりといはれたる、【萬葉十八(ノ)卷に、白玉|之《ノ》五百《イホ》つ集《ツド》ひを手にむすび、おこせむ海人《アマ》は牟賀思久母《ムカシクモ》あるか、】此(ノ)名も其意にて稱《タタ》へたるにもあらむか、若(シ)然らば筑紫《ツクシ》てふ名も、宇都玖志《ウツクシ》なるべし、【古(ヘ)然《サ》る所由《ヨシ》有て名づけつらむ、】是等《コレラ》思(ヒ)よれるまゝに記《シル》しつれど、易《タヤス》く改めがたければ、なほ本の如くてはあるなり、然《サ》て白は斯漏《シロ》とも訓べけれど、これはた定め難ければ、姑く舊《フルキ》によりて斯良《シラ》と訓べし、日は濁る例ぞ、【書紀の口決には自日別《ヨリビワケ》とあり、誤なるべし、】

〇豐國は登與久邇《トヨクニ》と訓べし、何書《イヅレノフミ》にも皆|然《シカ》有り、【登與乃久爾《トヨノクニ》とはいはず、】是も後に二國に分れて、和名鈔に、豐前【止與久邇乃美知乃久知《トヨクニノミチノクチ》、】豐後【止與久邇乃美知乃之利《トヨクニノミチノシリ》、】とあり、分れしは何時《イツ》ともしれず、さて書紀景行(ノ)卷十二年(ノ)下に、遂《ツヒニ》幸《イデマシ》2筑紫《ツクシニ》1到《イタリマシテ》2豐前國《トヨクニノミチノクチニ》1、長峽《ナガヲノ》縣(ニ)興《タテテ》2行宮《カリミヤヲ》1而|居《マシマシキ》、故《カレ》號其處《ソコヲ》曰《イフ》v京《ミヤコト》也、冬十月《カミナヅキ》到《イデマス》2碩田國《オホキダノクニニ》1、其地形廣大亦麗《ソコノクニガタヒロラニシテイトウルハシカリキ》、因《カレ》名(ク)2碩田《オホキダト》1也とあり、風土記にも此(ノ)事あり、されば其國の大名を豐國《トヨクニ》と云も、此意なるべし、【豐《トヨ》はゆたけく大きなる意なり、豐後(ノ)國(ノ)風土記の、豐國の名の説はいかゞ、】碩田《オホキダ》は後に郡となれり、【和名抄に、豐後(ノ)國|大分《オホイダノ》郡これなり、又大隅(ノ)國桑原(ノ)郡にも、大分《オホイダ》豐國《トヨクニ》てふ二郷《フタサト》ならびてあり、是は別ながら由あることなるべし、】

〇豐日別《トヨビワケ》、名(ノ)義國(ノ)名に同じかるべし、

〇肥國《ヒノクニ》、書紀景行(ノ)卷十八年(ノ)下に、五月|從《ヨリ》2葦北《アシキタ》1發船《ミフナデシテ》幸《イデマス》2火國《ヒノクニニ》1、於是日没也《ココニヒクレニキ》、夜冥不知着岸《イトクラクシテハテムトコロシラエヌニ》、遙視火光《トホクヒノヒカリミエキ》、天皇|詔挾杪者《カヂトリニ》曰《ノリタマフ》2直指火處《タダニヒノトコロヲサセト》1、因《カレ》指《サシテ》v火《ヒヲ》往之《ユキシカバ》、即得着岸《ヤガテキシニツキヌ》、天皇|問《トヒタマフ》2其火光處曰何謂邑《カノヒノヒカレルトコロヲナニチフムラゾト》1也、國人《クニビト》對2曰《コタヘマヲス》是八代縣豐村《コハヤツシロノクニトヨノムラト》1、亦尋其火是誰人之火也然《マタカノヒハタガヒゾトタヅネマシシカドモ》、不得主《ヌシナカリキ》、茲知非人火《ココニヒトノヒナラヌコトヲシリヌ》、故名其國曰火國《カレソノクニヲヒノクニトナヅク》とあり、【此(ノ)火の事、國人の説《コト》に云(ク)、肥後(ノ)國の海に、松ばせの澳《オキ》と云ところに、龍燈と云て今もあり、年毎の七月の末より、八月ごろまで見ゆるうちに、八月朔日の夜は殊に多し、宇土《ウド》のあたりの山よりよく見わたさるゝなり、そのさま世に挑燈と云物の大(キ)さに見ゆる火、初(メ)には一(ツ)二(ツ)あらはれて、其《ソレ》やうやくに分れて、數《カズ》多《オホ》くなりゆきて、さかりなるほどは、幾千萬《イクチヨロヅ》ともしられず、大かた海(ノ)上|竪横《タテヨコ》三四里がほど、おしなべてみな火になるなり、風ふけば火すくなく、雨ふる夜は見えず、さて其火のもゆる時に、其海を往來《カヨフ》船を、遠く見渡せば、火(ノ)中を行(ク)と見ゆるを、船にてはさらに火見ゆることなく、たゞつねの如くなりとぞ、】又肥後(ノ)風土記には、肥後(ノ)國(ハ)者|本《モト》與《ト》2肥前(ノ)國1合爲一國《ヒトクニナリキ》、昔《ムカシ》崇神天皇(ノ)之|世《ミヨニ》、益城《マシキノ》郡朝來名(ノ)峯(ニ)有《アリ》2土蜘蛛《ツチグモ》1、名《ナヲ》曰《イフ》2打※〔獣偏+爰〕《ウチサル》頸※〔獣偏+爰〕《ウナサルト》1、二人《フタリ》率《ヰテ》2徒衆百八十餘人《モモヤソノトモガラヲ》1、蔭《カクレヲリ》2於|峯頂《ミネノイタダキニ》1、常《ツネニ》逆《ソムキテ》2皇命《ミコトニ》1不肯降服《マツロハザリキ》、天皇《スメラミコト》勅(テ)2肥君等祖健緒組《ヒノキミドモノオヤタケヲクミニ》1、遣《ツカハシキ》v誅《トリニ》2彼賊衆《カノアタドモヲ》1、健緒組|奉勅到來《ミコトカガブリテキテ》、皆悉誅夷《コトゴトニタヒラゲテ》、便《スナハチ》巡《メグリ》2國裏《クヌチヲ》1、兼察消息《アルカタチヲミシツツ》、乃|到《イタリテ》2八代《ヤツシロノ》郡白髪山(ニ)1、日晩止宿《ヒクレシカバヤドリツ》、其夜虚空有火自然而燎《ソノヨオホゾラニヒアリテオノヅカラニモエツツ》、稍々降下《ヤヤクダリテ》着2燒《ヤケツキキ》此山《コノヤマニ》1、健緒組|見之大懷驚恠《イタクミオドロキテ》、行事既畢《マツロヘゴトスデニヲヘテ》參2上《マヰノボリテ》朝庭《ミカドニ》1、陳行状《アリサマヲ》奏2言《マヲシキ》云々《シカシカト》1、天皇|下詔曰《ノリタマハク》、剪2拂《キリハラヒテ》賊徒《アタドモヲ》1、頗|無《ナシニ》2西眷《ニシノカタノウレヘ》1、海上之勲誰人比之《イソシキコトタレカナラブモノアラマシ》、又《マタ》火《ヒ》從《ヨリ》v空《ソラ》下《クダリテ》燒《ヤキツル》v山《ヤマヲ》亦《モ》恠《アヤシ》、火下之國《ヒノクダレルクニナレバ》、可《ベシ》v名《ナヅク》2火國《ヒノクニト》1とありて、次にかの景行天皇の故事《フルコト》を擧《アゲ》たり、そは書紀と同じ、但し國人《クニビト》の對奏《コタヘマヲ》せる語は、此是火國八代郡火邑《ココハヒノクニヤツシロノアガタヒノムラナリ》、但未審火由《タダシヒノユヱハイマダエシリハベラズ》とありて、于時詔群臣曰《トキニオミタチニノリタマハク》燎之火《モユルヒハ》非《アラズ》2俗火《ヨノツネノヒニ》1也、火國之由《ヒノクニチフヨシ》、知《シリヌ》v所2以《ユヱヲ》然《シカル》1とあり、【火《ヒノ》邑は、和名抄に、肥後(ノ)國八代(ノ)郡|肥伊《ヒイ》、是なるべし、】是等《コレラ》を合(セ)て思ふに、火《ヒ》てふ名は、國にまれ邑《ムラ》にまれ、既《ハヤ》く崇神天皇の御世に始(マ)りしなりけり、さて此《コレ》も二國に分れたり、和名妙に、肥前【比乃美知乃久知《ヒノミチノクチ》、】肥後【比乃美知乃之利《ヒノミチノシリ》、】とあり、分れたるは何《イヅレ》の時とも知(ラ)れず、書紀神功(ノ)卷に火前國《ヒノミチノクチ》と見ゆ、後に火《ヒ》と云ことを忌《イミ》て、肥(ノ)字には改(メ)しなるべし、【和銅六年五月の詔に、諸国郡郷(ノ)名|着《ツケヨ》2好字(ヲ)1とあり、此時改まりしか、されど此記に既に肥(ノ)字を書《カケ》れば、彼《カレ》より前に改まるか、但(シ)中卷に火君《ヒノキミ》とあれば、本はこゝも火(ノ)字なりけむを、後(ノ)人の肥に改(メ)しにや、其例外にも見ゆ、〇上に筑紫(ノ)嶋を有2面四1と云て、肥(ノ)國を其(ノ)一(ツ)に取れり、然るに國圖《クニノカタ》を考るに、肥前と肥後とは海の隔《ヘナ》りて、地《クニ》接《ツヅ》かず、正《マサ》しく二(ツ)に分れたれば、面一(ツ)には取がたき國形《クニガタ》なり、故(レ)考るに、右に引る書紀又風土記などの、火(ノ)國の故事は、地(ノ)名に依るに、皆肥後(ノ)國の地なり、然れば肥(ノ)國と云しは、初《ハジメ》はたゞ肥後(ノ)方のみにて、肥前の地は、本は筑紫(ノ)國の内なりしが、やゝ後に肥(ノ)國には屬《ツキ》しにやあらむ、肥前は、筑前筑後と地《クニ》接《ツヅ》きて、此三國は面一(ツ)にも取(リ)つべき國形《クニガタ》にて、肥後とは清く離れたればなり、されど此《コレ》らは上(ツ)代のこと、さだかには辨へがたし、たゞこゝろみに驚《オドロ》かしおくのみなり、】さて日向の域《トコロ》も、北(ノ)方|半國《ナカラ》ばかりは、もとは此(ノ)肥(ノ)國の内なりけむを、【肥後と日向とは、面一(ツ)に取(リ)つべき地形《クニガタ》なり、】やゝ後に分れて一國にはなれるなり、【其事は次にいへり、】

〇建日向日豐久士比泥別《タケヒムカヒトヨクジヒネワケ》、名(ノ)義、日向日《ヒムカヒ》とは、【下の日《ヒ》は、向《ムカ》ふ向《ムカ》ひと活《ハタラ》く比《ヒ》なり、】書紀景行(ノ)卷に、十七年三月、幸(テ)2子湯《コユノ》縣(ニ)1遊(ビマス)2于|丹裳《ニモノ》小野(ニ)1時(ニ)、東望之謂左右曰《ヒムカシノカタヲミサケマシテモトコビトニ》、是國《コノクニハ》也|直2向《タダムケリトノタマヒキ》於日(ノ)出(ル)方(ニ)1、故號其國曰日向《カレソノクニヲヒムカトナヅケキ》也とある、此意を以て稱《タタ》へたるなるべし、【此《コ》は日向(ノ)國(ノ)名の本なるを、子湯(ノ)縣は其北(ノ)方によりてある處なれば、上(ツ)代には其地《ソコ》も肥(ノ)國の域内《ウチ》なりしなり、】萬葉十三【七丁】に日向爾《ヒムカヒエ》云々、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)詞に、朝日乃|日向處《ヒムカフトコロ》などあり、又垂仁紀に人(ノ)名にも、倭日向武日向彦とあり、久士比《クジヒ》は奇靈《クシビ》なり、【比《ヒ》は靈の意なること、産巣日(ノ)神の下《トコロ》にいへるが如し、】又|比《ヒ》は夫流《ブル》と活《ハタラ》く辭にてもあるべし、書紀に、日向(ノ)高千穗(ノ)※〔木+患〕觸之峯《クジフルノタケ》、又此(レ)を日向(ノ)※〔木+患〕日《クジヒノ》高千穗(ノ)之峯ともあればなり、【さて此《ココ》の亦(ノ)名も、即《ヤガテ》此(ノ)峯(ノ)名に依れるにやあらむ、されど此(ノ)峯の在(リ)處、かにかくに論ひあれば、定めがたし、其論は傳十五の四十一葉にあり、考へ見べし、】さて士比《シヒ》の清濁のこと、士を清《スミ》比を濁(リ)て、志備《シビ》と讀《ヨム》べき言なるに、士比《ジヒ》と書るは、【士は濁音、比は清音の假字なり、】彼(ノ)※〔木+患〕觸之峯をも、此記には久士布流多氣《クジフルタケ》と書るを合せて思ふに、奇《クシ》を久志備《クシビ》とも久志夫流《クシブル》ともいふときは、古(ヘ)は音(ノ)便にて清濁|互《タガヒ》に變《カハ》りて、久士比《クジヒ》久士布流《クジフル》と云しなるべし、かゝる例|他《ホカ》にもあり、朝倉(ノ)宮(ノ)段の歌に、日影《ヒカゲ》るを比賀氣流《ヒガケル》とよみ、萬葉十九に、夜降《ヨクダチ》にを夜具多知爾《ヨグタチニ》とよみ、馬多藝行《ウマタギユキ》てを馬太伎由吉弖《ウマダキユキテ》【太は濁る假字なり、】とよめるなど是なり、後(ノ)世の心を以てみだりに疑ふことなかれ、さて肥國《ヒノクニ》と云より十三字、今は眞福寺本|及《マタ》一本に依れり、此(ノ)處舊印本|及《マタ》延佳本又一本などには、肥國《ヒノクニヲ》謂《イヒ》2速日別《ハヤビワケト》1、日向國《ヒムカノクニヲ》謂《イフ》2豐久士比泥別《トヨクジヒネワケト》1と作《ア》り、されど如此《カク》ては、上に有《アリ》2面四《オモヨツ》1云々とある數に合ざれば、【若(シ)如此《カク》日向(ノ)國あるときは、必有(リ)2面五(ツ)1とあるべきことなり、抑記中神たちの數を都言《スベイヘ》るなどにも、其數の違へるに似たることは、これかれ例もあれども、此處《ココ》は指《テ》を屈《ヲリ》て計《カゾ》ふるまでもあらず、五(ツ)なることまぎるべくもあらざれば、然《シカ》違ふべきことに非ず、又此記はもと彼(ノ)阿禮が口《クチ》に誦《ヨミ》し語をうつせる物なれば、物の數などは具《ツブサ》に空《ソラ》にはうかべがたくて、誦違《ヨミタガヘ》もありけむを、安萬侶(ノ)朝臣はた其語を重《オモ》みし守(リ)て、私には正《タダ》し改められざりしにやとも思へども、若(シ)然《サ》もあらむには、其由を註にもしるさるべきに、然《サ》もあらず、又後に寫し誤れる物とも見えず、古本のまゝと見ゆるをや、】日向(ノ)國の無き方ぞ古本《フルキマキ》なるべき、然るに右の如く、日向(ノ)國の加《クハ》はりたる本《マキ》は、舊事紀に依て、後(ノ)人のさかしらに改めたる物とこそ思はるれ、【舊事紀に右の如くあるなり、其《ソ》は此記を取て記すとて、日向の無きを疑ひて、かの日向日《ヒムカヒ》とある亦(ノ)名を其《ソレ》として、下の日(ノ)宇を國に改め、その下に謂(ノ)字を補ひて、豐久士比泥別を、其(ノ)日向(ノ)國の亦(ノ)名とし、又|然《シカ》爲《ス》るときは、肥(ノ)國の亦(ノ)名、建(ノ)一字になりて足《タラ》ざる故に、次の熊曾(ノ)國の亦(ノ)名に效《ナラ》ひて、日別(ノ)二字を加へ、又さては熊曾のと全(ク)同じき故に、建を速に改めつる物なり、凡て彼(ノ)書は、かくさまのさかしらいと多し、されど上の有(リ)2面四(ツ)1とあるには心つかで、其《ソレ》をば改めずて、僞(リ)の顯《アラハ》れたるぞをかしき、然るを後(ノ)人、此(ノ)舊事紀のさかしらなることを得《エ》曉《サト》らで、日向(ノ)國の有(ル)を宜《ウベ》なりとして、遂《ツヒ》に此記をさへに然《シカ》改めつる、其(ノ)本《マキ》の世には流布《ホドコ》れるなりけり、但し速(ノ)字は、舊事紀舊印本には建と作《カケ》れば、此(ノ)字は此記の古本のまゝに取れりしを、さては熊曾(ノ)國の亦(ノ)名と同じき故に、後(ノ)人の速《ハヤ》に改めつるにもあらむか、書紀(ノ)口決又元々集などに、晝日別とあるも、晝は建と字形似たれば、其《ソ》を誤れりと見えたり、若(シ)くは又此(ノ)記の古本、此(ノ)字はもとより速なりしを、後に建とは誤れるにもあらむ、若(シ)然らば速日向《ハヤヒムカヒ》とは、早き朝日に向ふ意なるべし、日向(ノ)國に速日(ノ)峯と云もありと云り、】抑日向(ノ)國の此《ココ》に入らざることは、上(ツ)代に其地は、なほ肥(ノ)國と熊曾(ノ)國との内にありて、未(ダ)別に一國には立《タタ》ざりしほどの傳(ヘ)なるべし、

〇熊曾《クマソノ》國は曾《ソノ》國なり、曾《ソ》と云は、もと書紀神代(ノ)卷に、日向(ノ)襲《ソ》とある地《トコロ》にして、和名抄に、大隅(ノ)國|囎唹《ソノ》郡ある是なり、【唹は囎《ソ》の韻《ヒビキ》を添(ヘ)て二字に書るなり、木《キノ》國を紀伊と書(ク)に同じ、此例なほあまたあり、民部式に、凡(ソ)諸國部内(ノ)郡里等(ノ)名、並《ミナ》用(ヒ)2二字(ヲ)1、必(ズ)取(レ)2嘉名(ヲ)1とある如く、其《ソレ》より以前《マヘツカタ》にも此制ありしなるべし、筑前肥後などの風土記にも、球磨囎唹《クマソ》とかけり、】國(ノ)名となりてありしことは、書紀景行(ノ)卷に、十二年十二月、議《ハカリマス》v討(ムコトヲ)2熊襲《クマソヲ》1、於是《ココニ》天皇|詔群卿曰《マヘツギミタチニノリタマハク》、朕聞之襲國《アレキクニソノクニニ》有《アリ》2厚鹿文※〔しんにょう+乍〕鹿文者《アツカヤサカヤトイフモノ》1、是兩人熊襲之渠帥者也《コノフタリクマソノイサヲナリ》、衆類甚多《トモガライトオホシ》、是《コヲ》謂《イフ》2熊襲八十梟帥《クマソノヤソタケルト》1、其鋒不可當焉《ソノイキホヒアタリガタシトゾ》云々、又十三年五月、悉《コトゴトク》平(ク)2襲國《ソノクニヲ》1などあり、是(レ)を以て襲《ソノ》國即(チ)熊曾《クマソ》なることをも知べし、【肥後(ノ)國|球麻《クマノ》郡と云は別なり、思ひまがふべからず、又文徳實録九(ノ)卷に、肥後(ノ)國|曾男《ソヲノ》神と云あり、是も別か、はた彼(ノ)噌唹は肥後の堺にも近くて、同所を肥後ともあるにや、さる類も古(ヘ)は多し、なほこれらは、國形を知(ラ)ねば定めがたし、】彼(ノ)梟帥《タケル》どものいと建《タケ》かりし故に、熊曾《クマソ》とは云なり、熊鰐《クマワニ》熊鷲《クマワシ》熊鷹《クマタカ》なども皆、猛《タケ》きを云|稱《ナ》なり、【熊は獣(ノ)中に猛《タケ》き物なれば、其《ソレ》に准へて猛き物をも云か、はた久麻《クマ》と云は、本より猛《タケ》きを云(フ)言なるを、熊も名に負《オヘ》るか、本末はしらず、】さて曾《ソ》と云名(ノ)義は、古語拾遺に、天鈿女(ノ)命(ハ)、古語|天乃於須女《アメノオズメ》、其(ノ)神強悍猛固、故(レ)以為v名(ト)、今(ノ)俗強(キ)女(ヲ)謂(フ)2之|於須志《オズシト》1、此(ノ)緑也《ヨシナリ》と見え、源氏物語帚木(ノ)卷に、かくおぞましくは、いみしき契(リ)深くとも、絶て又見じと見え、俗語にもおぞきおそろしきなど云(フ)、されば曾《ソ》は此(ノ)於曾《オゾ》の約《ツヅマ》りたるにて、是も猛《タケ》き意なるべし、書紀に襲《オソフ》と云字をしも用ひられたるも、本(ノ)言|於曾《オソ》なる故なるべし、【書紀(ノ)釋に、山(ノ)襲(ヒ)重(ナル)之義也とあるは、高千穗(ノ)峯のことに依て、此(ノ)襲(ノ)字の意を以て説る、ひがことなり、襲は借字にて、其意を取れるに非(ズ)、】又思ふに、曾《ソ》は勇男《イサヲ》のつゞまりたるか、佐乎《サヲ》をつゞむれば曾《ソ》にて、伊《イ》を略くは常なり、書紀に渠帥をもイサヲと訓り、又|功《イサヲ》をも伊曾《イソ》と云を思ふべし、【書紀仲哀(ノ)御卷|神依《カムガカリ》の言に、彼(ノ)國のことを、※〔旅/肉〕之空國《ソジシノムナグニ》とあり、是《レ》より其《ソコ》の名にもなりつと見えて、紳代《ノ》卷に※〔旅/肉〕肉空國《ソジシノムナクニヲ》自《ヨリ》2頓丘《ヒタヲ》1云々とあり、此(ノ)※〔旅/肉〕《ソ》より出たるかとも思へど、景行の御世に既に熊曾建《クマソタケル》の名あれば、然にはあらず、】さて筑紫(ノ)嶋を四(ツ)として、其一(ツ)を熊曾(ノ)國と云るは、後の日向の南(ノ)方|半國《ナカラ》ばかりより、大隅薩摩の地《トコロ》までをすべて云し、上(ツ)代の大名なり、【かの景行紀に、襲《ソノ》國とあるもこれなり、但し續紀に、和銅六年四月乙未、割(テ)2日向(ノ)國(ノ)肝坏《キモツキ》贈於《ソ》大隅《オホスミ》姶※〔衣偏+羅〕《アヒラ》四郡(ヲ)始(テ)置(ク)2大隅(ノ)國(ヲ)1と見え、又書紀に日向(ノ)襲《ソ》とあれば、大隅(ノ)國の地は、古(ヘ)は日向(ノ)國内《クヌチ》にて、曾《ソ》と云も日向の内なるに、別に熊曾を一國とせるは如何《イカガ》、と思ふ人も有(ル)べけれど、其《ソ》はなほ精《クハ》しからず、其故は、日向と云名は、上に引る如く、景行天皇の十七年に始まりて、そのときはなほ肥(ノ)國の内の地(ノ)名にこそ有(リ)けめ、一國の大名とも聞えず、襲《ソノ》國と云(ヒ)熊襲と云る名は、同天皇の十二年に既に見えたれば、上(ツ)代よりの名にして、今の日向の南半《ミナミナカラ》より、大隅(ノ)國薩摩(ノ)國までをかけたる大名なりしを、やゝ後に至て、其(ノ)大名は廢《ウセ》て、隣國《トナリグニ》の日向と云名ぞ、其(ノ)あたりまでの大名にはなれりける、故(レ)本の曾《ソノ》國てふ名は、わづかに殘りて、其《ソレ》も日向の中に入て、後に一郡の名になりてありしを、和銅六年に、そのあたりの四郡を割て、一國と建《タテ》られしなれば、大隅(ノ)國も、本は熊曾(ノ)國内なりしが、中ごろ日向の内には入てありしなり、さて薩摩は、もとは隼人《ハヤビトノ》國と云り、其事は傳十六の四十一葉に云り、されど此《ココ》には其(ノ)國を別に擧《アゲ》ざれは、是(レ)も上(ツ)代には熊曾の中にこもり、やゝ後には日向の内に入れりしなり、續紀大寶二年の所に、筑紫七國とあるも、日向に大隅薩摩はこもれる故なり、又書紀に瓊々杵(ノ)尊の御陵を、日向(ノ)可愛《エノ》之山陵とある、此(ノ)可愛《エ》は、和名抄に薩摩(ノ)國|穎娃《エノ》那|穎娃《エノ》郷あり、此《コレ》なり、其(ノ)由《ヨシ》はなほ傳十七の八十六葉に委(ク)云り、されば是又古(ヘ)は薩摩までをかけて日向と云し證《シルシ》なれば、なほ古(ヘ)日向てふ名の無かりし以前は、熊曾(ノ)國と云ぞ、薩摩までかけたる大名なりしこと知べし、】

〇建日別《タケビワケ》、此(レ)も猛《タケ》きよしの名なり、

〇伊伎嶋《イキノシマ》は、萬葉十五【二十五丁二十六丁】に由吉能之麻《ユキノシマ》と見え、和名抄にも壹岐(ノ)嶋(ハ)由岐《ユキ》とあるに因(リ)て、由伎《ユキ》を古訓《フルキヨミ》と思(フ)人あれど、書紀繼體(ノ)卷の歌に以祇《イキ》とよみ、此記にも伊(ノ)字をかき、壹(ノ)字も由《ユ》の假字にあらねば、本は伊伎《イキ》なること明けし、然れども懷風藻に、伊支《イキノ》連と云(フ)姓を、目録には雪(ノ)連とかき、又かの萬葉に由吉《ユキ》とあるなどを以て思(フ)に、必(ズ)由伎《ユキ》とも通はし云べき故ある名(ノ)義と見えたり、【行《ユキ》も、通はして伊|伎《キ》とも云り、これも同じ例なり、】故《カレ》思(フ)に書紀天武(ノ)卷に、齋忌此(レヲ)云2踰既《ユキト》1とある、齋忌は伊牟《イム》伊波布《イハフ》由麻波留《ユマハル》由々志《ユユシ》由豆《ユヅ》伊豆《イヅ》など、さま/”\に云(フ)言にて、伊《イ》と由《ユ》と通へり、かゝれば齋忌《ユキ》も、古(ヘ)は伊伎《イキ》とも云べし、さて【若くは息長帶比賣(ノ)命の、辛《カラ》國を征《ウチ》に幸行《イデマシ》しをりなどにもや、】此嶋にして神祭り坐(ス)とて、齋忌《ユキ》のことありけむ故の名にもやあらむ、【齋忌《ユキ》古(ヘ)は大嘗に限るべからず、】又は辛國《カラクニ》へ渡るに、先(ヅ)此《ココ》に舟とめて息《ヤス》む故に、息《イコヒ》の嶋か、【されど國所(ノ)名は、凡て昔いさゝかの因縁《ヨシ》を以てつけそめしが多かれば、後(ノ)世の空考《ソラカムガヘ》は、理(リ)こそさもあらめ、實《マコト》には當《アタ》れりやあらずや、定めがたくなむ、さりとてはたひたぶるに不可知《シラレズ》とて有べきにもあらねば、人も我も心のかぎり推量言《オシハカリゴト》はするなり、】

〇天比登都柱《アメヒトツバシラ》とは、海中《ワタナカ》に離(レ)て一(ツ)ある嶋なればなるべし、萬葉三(ノ)卷に、淡路嶋中爾立置而《アハヂシマナカニタテオキテ》とよめるも、柱と云(ヒ)つべき由《ヨシ》あり、神代(ノ)卷に、以(テ)2※〔石+殷〕馭盧嶋(ヲ)1爲(ス)2國中(ノ)之柱(ト)1ともあり、

〇註に訓(ムコト)v天(ヲ)如(シ)v天(ノ)とは、阿米乃《アメノ》阿麻乃《アマノ》などはいはず、直《タダ》に阿米某《アメナニ》と云を、如是《カク》は註《シル》せり、下卷檜(ノ)※〔土+回の最後の横棒なし〕(ノ)宮(ノ)段に、訓(ムコト)v石(ヲ)如(シ)v石(ノ)などもあり、

〇津嶋《ツシマ》、名(ノ)義は萬葉十五【二十六丁】に、毛母布禰乃波都流対馬《モモフネノハツルツシマ》とよめる如く、韓國《カラクニ》の往還《ユキキ》の舟の泊《ハツ》る津《ツ》なる嶋なり、【魏志と云から書《ブミ》に、此嶋のことを對馬國《ツイマコク》とあり、こは此方にて古(ヘ)より如此《カク》書るを見て取れるかとも思へど、さには非ず、彼書のいできつるは晋の世なり、そのかみ御國にかゝる假字のつかひざまあるべくもあらず、たゞ津嶋と云を、彼國にて聞(キ)傳へ誤(リ)て、かくは書る物なり、さて書紀に、やがて此文字を假字に取用て、對馬嶋《ツシマジマ》とかゝれたり、津嶋の假字に對馬とかゝむは、さる例あれば、さも有(リ)なむを、嶋(ノ)字を添《ソヘ》られたるこそ、いと心得ね、嶋嶋と重ねて云(フ)名はあるべきことかは、淡海《アフミ》の海など云例とは異なるをや、敏達(ノ)御卷には、津嶋とかゝれたるところあり、是(レ)古(ヘ)の書ざまなり、】

〇天之狹手依比賣《アメノサデヨリヒメ》、名(ノ)義思ひ得ず、狹手彦《サデヒコ》など云人もあれば、名に負《ツク》よしある言と聞ゆ、【和名抄|魚取《ナトル》具に※〔糸+麗〕《サデ》てふ物もあり、萬葉の歌にも見ゆ、】

〇伊伎津嶋の二嶋、書紀には大八洲の内に入らず、是(レ)潮(ノ)沫(ノ)凝(テ)成(レルなり)矣とあり、一書の中には、八洲の内に入れるもあり、

〇佐度《サドノ》嶋、名(ノ)義は狹門《サド》か、此(ノ)嶋へ舟入るゝ水門《ミナト》のせばきにや、【凡て海に嶋門《シマド》水門《ミナト》迫門《セト》など云ること多し、】なほ國形《クニガタ》をよく辱て定むべし、此國天平十五年二月には、越後國《コシノミチノシリ》に併《アハ》され、勝寶四年三月に、又一國とせらる、續紀に見えたり、さて此嶋のみ亦(ノ)名のなきは、古(ヘ)より脱《オチ》たるなるべし、【口決また元々集などに、建日別とあれど、是は舊事紀に、次(ニ)熊襲(ノ)國謂2建日別(ト)1、一《アルヒハ》云(フ)2佐渡(ノ)嶋(ト)1、とあるを取て云るひが言なれば、依るに足らず、舊事紀は、此記に佐度(ノ)嶋に亦(ノ)名のなきを疑(ヒ)、又熊曾(ノ)國と云は、後の九國に無き名なれば、此《コレ》を佐度のことかとも思(ヒ)て、おしあてに、一《アルヒハ》云2佐渡(ノ)嶋(ト)1と云るなれば、例の妄《ミダ》り言《ゴト》なるをや、又口決(ノ)一本に、達日別《タチビワケ》ともあるは、後の寫しあやまりなり、】さて書紀には、雙2生《フタゴニウム》隱岐(ノ)洲(ト)與《トヲ》2佐度(ノ)洲1とあり、

〇大倭豐秋津嶋《オホヤマトトヨアキヅシマ》、これらの號《ナ》のことは、別に國號考に委曲《ツバラ》に云(ヘ)れば、此《ココ》には略《ハブ》きつ、

〇天御虚空豐秋津根別《アマノミソラトヨアキヅネワケ》、萬葉五【三十一丁】に、久堅能阿麻能見虚喩《ヒサカタノアマノミソラユ》、十【六十丁】に、天三空《アマノミソラ》などあり、天は右の五(ノ)卷なるに依て阿麻能《アマノ》と訓つ、さて此(ノ)名は、天照大御神の所知者《シロシメス》高天(ノ)原になずらへて、天皇の大坐京師《オホマシマスミヤコ》をも天《アメ》とする故に、【萬葉十三卷に、久堅《ヒサカタ》之|王都《ミヤコ》とよめるも此意なり、】其意もて稱《タタヘ》しにやあらむ、【大倭も秋津嶋も、京方《ミヤコガタ》を本として云る名なればなり、】又彼(ノ)虚空見倭《ソラミツヤマト》と云|古語《フルコト》の由などにもやあらむ、豐秋津は秋津嶋に依れり、根《ネ》は例の尊稱《タフトムナ》なり、

〇上(ノ)件八嶋を生《ウミ》坐る序次《ツイデ》、まづ淤能碁呂《オノゴロ》嶋にして御合《ミアヒ》坐て、生始《ウミハジメ》たまへる淡嶋《アハシマ》は、彼嶋の近隣《チカキトナリ》なり、次に淡路嶋、又その隣なり、さて西へ幸《イデマシ》て、伊豫之二名(ノ)嶋、つぎに筑紫(ノ)嶋と生《ウミ》まし、北へ折《ヲレ》て伊伎(ノ)嶋津嶋を生《ウミ》坐(シ)、東に廻《メグリ》て佐度(ノ)嶋を生《ウミ》坐(シ)、南へかへりて大倭嶋を生《ウミ》坐るなり、かくの如く其|序《ツイデ》みだりならざるに、たゞ隱伎(ノ)嶋のみ亂《ミダレ》て筑紫の前にあるこそ、いとも/\いふかしけれ、故(レ)書紀と合せて考るに、八嶋の次第《ツイデ》、彼紀は六(ツ)の異説あれども、隱伎は何《イヅ》れも佐度の前にあり、此記も必|然《シカ》あるべき物をや、【舊事紀の八嶋の次第は、全《モハラ》此記を取てかける物なるに、對馬洲次(ニ)隱岐(ノ)洲次(ニ)佐渡(ノ)洲とあるは、よくかなへり、されど下に又別に亦(ノ)名どもをつらねたる次第は、此記のまゝに伊余の次にあれば、上なるは私《ワタクシ》に改めつる物と見ゆ、】さて書紀の傳々《ツタヘツタヘ》は、凡て次第も洲々《シマシマ》も各|異《カハリ》ありて、皆此(ノ)記と同じからず、

○故因此八嶋先所生、こは故此八嶋叙先生坐流國那琉爾因弖《カレコノヤシマゾマヅウミマセルクニナルニヨリテ》と訓べし、

〇大八嶋國《オホヤシマクニ》、この號《ナ》のことも國號考にいへり、【或人|問《トヒ》けらく、次にもなほ生坐る嶋々はある物を、先(ヅ)八(ツノ)嶋を限(リ)て、國號《クニノナ》とせるはいかにぞ、答ふ、上の八嶋は、次第《ツギツギ》に生廻《ウミメグリ》て、旋《メグ》り竟《ヲヘ》て、本の淤能碁呂嶋の方へ復《カヘ》りたまふまで、一周《ヒトメグリ》に生《ウミ》坐る故なり、其(ノ)旨《ムネ》次の語に、還坐之時《カヘリマシシトキ》とあるにていちじるし、】

 

然後還坐之時《サテノチカヘリマシシトキニ》。生吉備兒嶋《キビノコジマヲウミタマフ》。亦名謂建日方別《マタノナハタケヒガタワケトイフ》。次生小豆嶋《ツギニアヅキシマヲウミタマフ》。亦名謂大野手 上 比賣《マタノナハオホヌデヒメトイフ》。次生大嶋《ツギニオホシマヲウミタマフ》。亦名謂大多麻 上 流別《マタノナハオホタマルワケトイフ》。【自多至流以音】次生女嶋《ツギニヒメジマヲウミタマフ》。亦名謂天一根《マタノナハアメヒトツネトイフ》。【訓天如天】次生知※〔言+可〕嶋《ツギニチカノシマヲウミタマフ》。亦名謂天之忍男《マタノナハアメノオシヲトイフ》。次生兩兒嶋《ツギニフタゴノシマヲウミタマフ》。亦名謂天兩屋《マタノナハアメフタヤトイフ》。【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋《キビノコジマヨリアメフタヤノシママデアハセテムシマ》。】

還坐之時は、迦幣理麻斯志時爾《カヘリマシシトキニ》と訓べし、こは上の八嶋を生廻《ウミメグ》りて、本の淤能碁呂嶋の方へ還(リ)賜(ヒ)しを云なり、さて次の吉備(ノ)兒嶋より次々《ツギツギ》は、みな淤能碁呂嶋より西にありて、今還り給へる路《ミチ》にはあらねば、其《ソ》は既(ニ)還り坐て、又|更《サラ》に西(ノ)方へ生《ウミ》つゝ幸行《イデマス》なり、【故(レ)上の八嶋は、限りて國(ノ)號《ナ》にもなり、此《コレ》より次なる嶋々は、別物《コトモノ》となれるなり、】

〇吉備兒嶋《キビノコジマ》、吉備は後に三國に分る、和名抄に、備前【岐比乃美知乃久知《キビノミチノクチ》、】備中【吉備乃美知乃奈加《キビノミチノナカ》、】備後【吉備乃美知乃之利《キビノミチノシリ》、】とある是なり、吉備中國《キビノミチノナカ》書紀仁徳(ノ)卷に見ゆ、【此《コ》はそのかみ既に三(ツ)に分れてありしにや、但(シ)此(ノ)後も多く吉備(ノ)國とのみあり、天武(ノ)上卷に、吉備(ノ)國(ノ)守なる人見えたるは、三國を統《スベ》たる守にや、又同卷に吉備(ノ)太宰と云職も見ゆ、】又和銅六年に備前(ノ)國の六郡を分て、美作(ノ)國とせられたり、名は黍《キミ》より出たるなるべし、【和名抄に、黍は木美《キミ》とあれども、美《ミ》と傭《ビ》は古(ヘ)常に通はしいへり、】兒嶋は、高津(ノ)宮(ノ)段にも見ゆ、吉備(ノ)國に兒の如く附《ツケ》る故の名なるべし、【或説に、昔百濟國の人兄弟三人、いまだ兒なりしとき、吾朝に來り、吉備(ノ)國にして、一(ツ)の嶋にとゞまれり、其(ノ)旗幟にみな兒と云字をしるしたる故に、その嶋を兒嶋と名《ナヅ》く、其兄弟其後三宅を姓とし、字喜多《ウキタ》ともなのれり、これ此(ノ)國の宇書多(ノ)家の先祖なりと云るは、凡て信《ウケ》られぬことなり、】萬葉六(ノ)卷に歌あり、後に備前(ノ)國の郡になれり、書紀欽明(ノ)卷に備前(ノ)兒嶋(ノ)郡とあり、和名抄に兒嶋(ノ)【古之末《コシマ》】郡是なり、さて書紀には、此(ノ)嶋|大八州《オホヤシマ》の一(ツ)に入れり、

〇建日方別《タケヒガタワケ》、此(ノ)名|日子刺屑別《ヒコサシカタワケノ》命と申す例あれば、建日《タケビ》と讀《ヨミ》、方別《カタワケ》と讀(ム)べきか、【然らば日《ビ》を濁り、方《カタ》を清(ム)べし、】されど又姓氏録に久斯此賀多《クシヒガタノ》命、【櫛日方(ノ)命とも書り、】是を書紀崇神(ノ)卷には、天日方奇日方《アメヒガタクシヒガタノ》命とあり、【此命は、大神《オホミワノ》君|鴨《カモノ》君の遠祖なり、然るに神名式に、備前(ノ)國邑久(ノ)郡に美和(ノ)神(ノ)社、上(ツ)道(ノ)郡に大神《オホミワノ》神(ノ)社あり、赤坂(ノ)郡津高(ノ)郡兒嶋(ノ)郡に皆鴨(ノ)神(ノ)社あり、これらも由あることにや、】此(レ)に依《ヨレ》ば日方《ヒガタ》なり、【日方の意は、水垣(ノ)宮(ノ)段|櫛御方《クシミカタノ》命の下にいふを考へ見べし、傳廿三の三十の葉】又日方と云風もあり、萬葉七【二十一丁】に、天霧相日方吹羅之《アマギラヒヒガタフクラシ》云々、

〇小豆嶋《アヅキシマ》は、備前と讃岐との間《アヒダ》の海中《ワタナカ》に、讃岐の方によりて在り、【淡路嶋の西、兒嶋(ノ)東なり、】續紀卅八には、備前(ノ)國兒嶋(ノ)郡小豆嶋とあり、今は讃岐【寒川郡】に屬《ツケ》り、此嶋、書紀應神(ノ)卷の大御歌に見えて、上【伊余(ノ)二名(ノ)嶋の下《トコロ》、】に引るが如し、彼《ソノ》時|淡道《アハヂ》より吉備へ幸行《イデマ》すとて、此(ノ)嶋に遊(ビ)坐(シ)しことも見えたり、名(ノ)義未(ダ)思(ヒ)得ず、字も正字《マサモジ》か借字《カリモジ》か、定めがたし、

〇大野手比賣《オホヌデヒメ》、名(ノ)意未(ダ)思(ヒ)得ず、若(シ)くは鐸《ヌデ》か、【手(ノ)下なる上(ノ)字、一本には野(ノ)下にあり、】

〇大嶋《オホシマ》は、周防(ノ)國大嶋(ノ)郡是か、此(ノ)郡は離《ハナ》れたる嶋にて、今八代嶋と云り、上(ノ)關の東、安藝の嚴《イツク》嶋の西南にあり、【長さ今(ノ)道八九里ばかり、横五六里ばかりなる嶋なり、】萬葉十五【十五丁】に、過(テ)2大嶋(ノ)鳴門《ナルトヲ》1而云々、巨禮也己能《コレヤコノ》、名爾於布奈流門能《ナニオフナ《ルトノ》、宇頭之保爾《ウヅシホニ》、多麻毛可流登布《タマモカルトフ》、安麻乎等女杼毛《アマヲトメドモ》とよみ、【此(ノ)鳴門《ナルト》今もあり、大畑(ノ)迫戸《セト》と云て、周防の地と大嶋との間の迫門《セト》なり、潮滿たる時は、鳴(ル)響《オト》いと高くて、舟人のおそるゝ虞なりとぞ、】國造本紀に大嶋(ノ)國(ノ)造とあるは、【阿岐《アギ》の次、周防の前に載たれば、】皆此(ノ)大嶋なり、後撰集戀(ノ)一に、人しれず思ふ心は、大嶋のなるとはなしに歎くころかな、同四に、大嶋の水を運びし早船の云々、これらも同じ、【此(ノ)後撰集なる大嶋を、備前とするは誤なり、】又筑前(ノ)國宗像(ノ)郡神(ノ)湊より、今(ノ)道三里北の海中にも大嶋あり、是か、胸形(ノ)中津宮と申すは此嶋なり、【傳七に出、】源氏物語玉鬘(ノ)卷に、船人も誰を戀(フ)とか、大嶋のうらがなしげに越えの聞ゆる【河海抄に、大嶋筑前(ノ)國なり、鐘御崎《カネノミサキ》の近邊とあり、鐘(ノ)岬《ミサキ》の西(ノ)方にあたれり、】とあるも、此(ノ)大嶋なり、又肥前(ノ)國松浦(ノ)郡平戸の東北の方にも大嶋あり、【肥前の北、壹岐(ノ)嶋の南なり、】是か、此(ノ)外猶國々に大嶋と云は多くあれども、【餘《ホカ》はみな非じ、】此《ココ》なるは右の三(ツ)の内なるべし、書紀雄略(ノ)卷に、吉備(ノ)臣|田狹《タサ》が子|弟君《オトキミ》てふ人、集2聚《ツドヘテ》百濟所貢今來才伎《クダラヨリタテマツレルイマキノテビトドモヲ》於大嶋(ノ)中(ニ)1、託2稱《コトツケテ》候風《カゼサモラフト》1淹留《ヒサニトドマレリ》と見え、繼體(ノ)卷にも、加羅《カラ》國に遣《ツカハ》しし御使物部(ノ)伊勢(ノ)連父根、云々《シカシカ》の由にて却2還《ソキカヘル》大嶋(ニ)1とあるは、右の肥前のか筑前のか、二(ツ)の内なるべし、又書紀に越《コシノ》洲(ノ)次(ニ)生《ウミタマフ》2大嶋(ヲ)1とあるも、此《ココ》なると同じかるべし、【然るを伊豆の大嶋なりと云は、西の國々の大嶋どもをしらぬ者の、ひがことなり、】さて書紀にては、此嶋も大八洲の一(ツ)なり、

〇大多麻流別《オホタマルワケ》、名義未(ダ)思(ヒ)得ず、【若(シ)くは多麻《タマ》は玉にて、流は泥《ネ》の誤(リ)にもあらむか、記中泥を流に誤れる例あり、泥は稱名《タタヘナ》なり、玉留産靈と云神(ノ)名あれども、其《ソ》は留をルと訓(ム)は非《ヒガコト》なり、】

〇女嶋は日女嶋《ヒメジマ》なるを、日(ノ)宇の脱《オチ》たるなり、【舊事紀に、まづ姫嶋と擧《アゲ》ながら、次には女嶋とあれば、此記の本、彼(ノ)書に取りし時より、日(ノ)宇|脱《オチ》てぞありけむ、又|日女《ヒメ》嶋と云はやゝ後にて、本《モト》は女嶋《メジマ》なりしにやとも思へど、然には非ず、又今筑前の山鹿(ノ)岬の北の海にも、肥前の五嶋の南の遙なる海中にも、男嶋女嶋と云ありといへども、其《ソレ》らにはあらず、】さて此《コ》は今筑前の海中|玄海《ゲムカイガ》嶋と、肥前の名兒屋との間の海路《ウミツヂ》にて、同國の唐津より、今(ノ)道二里|許《バカリ》東北(ノ)方にありと云姫嶋なるべし、又豐後(ノ)國直入(ノ)郡の東北の海にも、姫嶋あれども、其《ソレ》には非じ、攝津(ノ)國(ノ)風土記に、比賣嶋(ノ)松原(ハ)者、昔(シ)輕嶋|豐阿伎羅《トヨアキラノ》宮(ニ)御宇(ス)天皇(ノ)之|世《ミヨニ》、新羅(ノ)國(ニ)有(リ)2女神《メガミ》1、遁2去《ノガレ》其夫《ソノヲニ》1來《キテ》、暫《シマシ》住《スミキ》2筑紫(ノ)國(ノ)伊岐比賣嶋《イキヒメジマニ》1、乃《サルニ》曰《イヒテ》d此(ノ)嶋(ハ)者|猶《ナホ》不《ズ》2是遠《トホカラ》1、若《モシ》居《ヲラバ》2此(ノ)嶋(ニ)1、男神《ヲガミ》尋來《マギキナムト》u、乃|更《サラニ》遷(リ)來《キテ》停《トドマリキ》2此(ノ)嶋(ニ)1、故《カレ》取(リ)2本所住之地名《モトスメリシトコロノナヲ》1以(テ)爲《ス》2嶋(ノ)號《ナト》1とある、【こは難波の比賣碁曾(ノ)社の神の故事にて、明(ノ)宮(ノ)段(ノ)末に見えたり、傳三十二の四のひら考へ合すべし、比賣嶋(ノ)松原と云は、津(ノ)國に在て、其《ソ》は高津(ノ)宮(ノ)段に見えたり、傳三十五の三の葉考ふべし、】この伊岐比賣嶋と云る、即(チ)彼(ノ)筑前のなり、【伊岐とは、彼(ノ)女神新羅より來て、まづ伊岐(ノ)嶋に着《ツキ》、伊岐より直《タダ》に此(ノ)嶋に來着《キツキ》坐る故に云か、其《ソ》は豐後又津(ノ)國などの姫嶋と別《ワカ》むために、如此《カク》いひしにやあらむ、】名(ノ)義は、彼(ノ)女神の來て暫《シマシ》住《スミ》たまひし由緒《ユヱヨシ》なるべし、【さて豐後津(ノ)國の姫嶋も、其(ノ)次々に移住《ウツリスミ》たまひし故の名なるべし、又出雲(ノ)國嶋根(ノ)郡にも、比賣嶋と云あり、風土記に見ゆ、】

〇天一根《アメヒトツネ》は、上の天一柱《アメヒトツパシラ》の名(ノ)義と同じかるべし、根《ネ》は稱名《タタヘナ》の泥《ネ》か、又|嶋根《シマネ》と云こともあり、

〇知※〔言+可〕嶋《チカノシマ》、書紀敏達天武の御卷などに、血鹿《チカノ》嶋と作《カケ》り、釋(ニ)曰(ク)、肥前(ノ)國(ナリ)也、按(ニ)風土記(ニ)云(ク)、更《サラニ》勅云《ミコトノリシタマハク》、此嶋雖遠《コノシマトホケレド》猶《ナホ》見《ミユ》v如《ゴト》v近《チカキガ》、可《ベシ》v謂《イフ》2近嶋《チカシマト》1、因《カレ》曰《イフ》2値嘉嶋《チカノシマト》1、或(ハ)有(リトイフ)2一百餘(ノ)近(ノ)嶋1、或(ハ)有(リトイフ)2八十餘(ノ)近(ノ)嶋1と云り、【此(ノ)勅は、何《イツ》の御世にか有けむ、】聖武紀に、松浦(ノ)郡|値嘉《チカノ》鳴とあり、さて三代實録に、貞觀十八年三月、參議太宰權帥在原(ノ)朝臣行平起請(ス)、分(テ)2肥前(ノ)國松浦(ノ)郡|庇羅《ヒラ》値嘉《チカノ》兩郷(ヲ)1、更(ニ)建(テ)2二郡(ヲ)1、號(シ)2上近《カミチカ》下近《シモチカト》1、置(ム)2値嘉《チカqノ》嶋(ヲ)1、件(ノ)二郷地勢曠遠、戸口殷阜、又士産所(ノ)v出(ル)物多(シ)2奇異(ナル)1、加之《シカノミナラズ》地居(リ)2海中(ニ)1、境隣(ル)2異俗(ニ)1、大唐新羅(ノ)人(ノ)來(ル)者(ノ)、本朝入唐使等、莫(シ)v不(ルハ)v經2歴(セ)此(ノ)嶋(ヲ)1、去年或(ハ)人民等申(テ)云(ク)、唐人等必先到(テ)2件(ノ)嶋(ニ)1、多(ク)採(リ)2香藥(ヲ)1、以(テ)加(フト)2貨物(ニ)1、又其(ノ)海濱多(シ)2奇石1、或(ハ)鍛練(シテ)得v銀(ヲ)、或(ハ)琢磨(スレバ)似(タリ)v玉(ニ)云々、公卿奏議(シテ)曰(ク)、分(テ)2兩郷(ヲ)1號(スル)2一嶋(ト)1事、苟(モ)謂(ハバ)v利(アリト)v公(ニ)、豈(ニ)期(セムヤ)v膠v柱(ニ)、請(フ)隨(テ)2其所(ニ)1v陳(ル)、將(ニ)2以(テ)改(メ)置(ムト)1、謹(テ)録(シ)2事状(ヲ)1、聽(ム)2天裁(ヲ)1、奏可、【今は文を略て引り、さて此(ノ)後は、又いかゞ有けむ、】和名抄にはなほ松浦(ノ)郡(ノ)郷名に載《ノセ》たり、按《オモフ》に此嶋は、今の五嶋《ゴタウ》平戸《ヒラド゙》などの嶋々を總稱《スベイフ》なるべし、【或人、今筑前肥前の堺あたりより北の海中に、ちかの嶋と云ありといへども、それには非ず、】其故は、此嶋|歴史《ヨヨノフミ》にも見えて、三代實録の趣も大なる嶋と聞え、在所もよく叶ひ、風土記に數《カズ》多くあるよし云るも、よく叶へればなり、五嶋平戸は、肥前(ノ)國の西北(ノ)方の海より、西(ノ)方へ遙《ハルカ》に聯《ツラ》なりて、多くの嶋々あり、今も松浦(ノ)郡に屬《ツケ》り、【後に平戸と云は、かの庇羅《ヒラノ》郷より出たる名なるべし、三代實録の文によるに、庇羅は此嶋にある郷なり、】

〇天之忍男《アメノオシヲ》、名(ノ)義|忍《オシ》は上の忍許呂別の忍に同じ、式に陸奥(ノ)國行方(ノ)郡|押雄《オシヲノ》神社あり、こは忍男の例なり、

〇兩兒嶋《フタゴノシマ》は、此《ココ》より外に古書には見えたることなし、在(リ)處も詳《サダカ》ならず、【古今集ほの/”\と明石(ノ)浦の云々の歌の顯注(ニ)云(ク)、明石のおきに、はるかにちり/”\なる嶋ども見え侍り、ふたご嶋みなほし嶋たれか嶋くらかけ嶋家嶋など、うちちりたるやうに侍る云々、此(ノ)趣袖中抄にもあり、餘材抄(ニ)云、顯昭の申されたる嶋々は、明石よりははるかに西南の方にあり、いまだよくかのあたりを見ずして、おしはかりに申されけるにやと云り、今|按《オモフ》に、神名式によるに、家嶋揖保(ノ)郡なれば、兩兒(ノ)嶋も、明石よりは遙に西なりとも、なほ播磨(ノ)國にてはあるべし、されど次第を思ふに、此《ココ》の兩兒(ノ)嶋は其《ソレ》には非じ、なほ西(ノ)方筑紫の邊《ホトリ》にぞ在(ル)べき、今肥前(ノ)國長崎の西南(ノ)方、祝《イハフ》嶋と云嶋近き海(ツ)路に、二子《フタゴ》嶋とて、小《チヒサ》き嶋二(ツ)ならびてありと云(ヘ)ども、其《ソレ》などには非じ、又或人、長門(ノ)國の北の海中に、二生《フタオヒ》嶋と云(フ)はありと云り、抑上の八嶋、東より西へ、西より北へ東へ生《ウミ》もておはしつれば、此《ココ》の六嶋も、東より西へ、西より北へ折《ヲレ》て、東へめぐり給ふべければ、此(ノ)在所も由あり、さて伊邪那美(ノ)大神は、出雲と伯伎の堺なる比婆(ノ)山に葬まつるとあれば、其(ノ)あたりの國にして神《カム》ざり坐(シ)つと見ゆ、是も右の巡《メグリ》にかなへり、猶此嶋のこと、西海路《ニシノウミツヂ》を往來《カヨフ》船人などに問て、よく尋ぬべし、】若《モシ》くは書紀に、隱伎《オキノ》洲と佐渡《サドノ》洲とを雙生《フタゴニウミ》たまふ、とある傳(ヘ)を誤りて、別に一(ツノ)嶋の名と傳へたるものか、はた書紀に雙生《フタゴニウム》とあるは、此嶋の名の傳(ヘ)の異《コトナリ》しか、若(シ)然らば此嶋、二(ツ)ある嶋にて、雙生《フタゴニウミ》たまへる故に、兩兒《フタゴ》とは名《ナヅ》けしにやあらむ、

〇天兩屋《アメフタヤ》、天(ノ)字、上の一(ツ)柱一(ツ)根の例を以(テ)阿米《アメ》と訓(ム)べし、星の義《ココロ》いまだ思ひ得ず、【延佳曰(ク)、細注天兩屋嶋(ハ)、當(キ)v作(ル)2兩兒嶋(ニ)1乎《カ》、といへるはわろし、如是《カカ》る所に亦(ノ)名を以て云ること、下にも例あり、そは自(リ)2志那都比古(ノ)神1、至2野椎(ニ)1并(テ)四神、とある是なり、野椎も鹿屋野比賣(ノ)神の亦(ノ)名なるをや、】

〇上件六嶋の序《ツイデ》、在所さだかならぬもあれど、先(ヅ)は東より生《ウミ》つゝ西へ幸《イデマ》せり、さて四海《ヨモノウミ》に嶋はしも甚《イト》多《サハ》なるに、八嶋に次《ツギ》て只《タダ》此(ノ)六嶋を擧たるは、故あることなるべし、又上(ツ)代に殊に名高きかぎりを擧たるにもあらむか、二柱(ノ)大神の所生坐《ウミマセ》る、必此(ノ)六(ツ)には限らじとぞ思ふ、【六嶋みな西(ノ)國なり、凡て神代の故事は、多く西(ノ)國になむありける、】さて書紀には、大八洲の外に、別に生《ウミ》賜へる嶋は無くて、處々(ノ)小嶋(ハ)、皆是潮(ノ)沫(ノ)凝(テ)成(レルナリ)者矣、亦曰(フ)2水(ノ)沫(ノ)凝(テ)而成(レリトモ)也1とあり、【此(ノ)傳(ヘ)に依るときは、大八嶋の外の嶋々は、二柱(ノ)神の生《ウミ》たまへるには非るなり、さて處々(ノ)小嶋とあるは、必しも小《チヒサ》き嶋のみには限るべからず、大八洲の外なるを、皆凡て如此《カク》は云るなれば、其中には大《オホキ》なるも多くあるぞかし、されば皇國に屬《ツケ》る嶋々のみならず、諸の外(ツ)國をも、大きなる小きを云(ハ)ず、皆此(ノ)内とすべきなり、】

○此八嶋六嶋の亦(ノ)名どもを、其《ソコ》の國御魂《クニミタマノ》神の名と謂《オモフ》は、ひがことなり、此《コ》はたゞに其嶋國を指(シ)て云る名なり、さて其名の女男《メヲ》ある所以《ユヱ》は、いまだ知(ラ)ず、【國のみならず、山にも女男《メヲ》ありて、古(ヘ)倭(ノ)國なる三山の妻爭《ツマアラソ》ひのこと、播磨風土記萬葉一(ノ)卷などに見ゆ、】

〇或人問(ヒ)けらく、二柱(ノ)大神の、人の兒を産《ウム》如くに、國土《クニ》を生《ウミ》たまふといふこと甚《イト》疑はし、此《コ》は其國々の神を生《ウミ》たまふをいふか、又實は國々を巡《メグ》りて、經營《ヲサメツクリ》たまふを、如此《カク》言《イヒ》なせるにもあるべし、其故は、初(メ)天神の大命にも、修2理固成《ツクリカタメナセ》是多陀用幣流之國《コノタダヨヘルクニヲ》1とこそ事依《コトヨサ》したまひつれ、國土《クニ》を産成《ウミナ》せとは詔はず、いかゞ、答(フ)、此《コレ》を疑ふは例のなまさかしらなる漢意にして、神の御所為《ミシワザ》の奇《クシ》く靈《アヤシ》くして、測りがたきをしらざるものなれば.諭ふまでもあらず、但しかの天神の大命のことは論あり、其《ソ》はまづ夜見《ヨミノ》段に男神の御言に、愛我那邇妹《ウツクシキアガナニモノ》命、吾|與《ト》v汝|所作之國《ツクレルクニ》、未(ダ)2作竟《ツクリヲヘ》1とあるは、既に産生《ウミ》はしたまひつれども、いまだうるはしく經營成竟《ヲサメナシヲヘ》たまはざるを詔へるなり、【經營成竟《ヲサメナシヲヘ》たまふは、大汝少名毘古那(ノ)神のときなり、】又初(メ)の天神の大命は、漂蕩《タダヨ》へる潮を固《カタ》めて、先(ヅ)國士《クニ》産《ウム》べき基《モトヰ》【淤能碁呂嶋なり、】を成《ナス》より始めて、國土《クニ》を産生《ウミ》て、うるはしく經營成固《ヲサメナシカタ》むるまでをかけて詔へるにて、都久流《ツクル》といふは廣くして、産《ウミ》たまふことも其中に存《ア》るなり、かの男神の御言に、所作之國《ツクレルクニ》とあるは、即(チ)所生之國《ウメルクニ》といふに同じきを以てしるべし、二柱(ノ)大神の國土を經營成《ヲサメナシ》たまへることは見えざれば、此(ノ)作《ツクル》は、正《マサ》しく産生《ウミ》たまふことなるをや、【若(シ)又|生《ウム》とあるも、實はたゞ經營のことなりとなほいはば、かの御身の成不合處成餘處《ナリアハザルトコロナリアマレルトコロ》を尋《タヅネ》て、麻具波比《マグハヒ》したまへることなどを、委曲《ツバラ》にいへるは、何《ナニ》の要《エウ》ぞや、これら經營にはさしも關係《アヅカ》るべきことならず、且《ソノウヘ》書紀には、及2至《ナリテ》産時《ミコウミマストキニ》1、先(ヅ)以《ヲ》2淡路嶋1爲《シ》v胞《エト》と云ひ、雙3生《フタゴニウミマス》隱岐(ノ)洲(ト)與《トヲ》2佐度(ノ)洲1など云るも、みな人の子を産《ウム》如くに、生《ウミ》たまへる故なるをや、】

 

既生國竟更生神《スデニクニヲウミヲヘテサラニカミヲウミマス》。故生神名大事忍男神《カレウミマセルカミノミナハオホコトオシヲノカミ》。次生石土毘古神《ツギニイハツチビコノカミヲウミマシ》。【訓石云伊波亦毘古二字以音下效此】次生石巣比賣神《ツギニイハズヒメノミヲウミマシ》。次生大戸日別神《ツギニオホトビワケノカミヲウミマシ》。次生天之吹 上 男神《ツギニアメノフキヲノカミヲウミマシ》。次生大屋毘古神《ツギニオホヤビコノカミヲウミマシ》。次生風木津別之忍男神《ツギニカザゲツワケノオシヲノカミヲウミマシ》。【訓風云加邪訓木以音】次生海神名大綿津見神《ツギニワタノカミミナハオホワタツミノカミヲウミマシ》。次生水戸神名速秋津日子神《ツギニミナトノカミミナハハヤアキヅヒコノカミ》。次妹速秋津比賣神《ツギニイモハヤアキヅヒメノカミヲウミマシキ》。【自大事忍男神至秋津比賣神并十神《オホコトオシヲノカミヨリアキヅヒメノカミマデアハセテトバシラ》】

大事忍男《オホコトオシヲノ》神、これより速秋津比賣《ハヤアキヅヒヒメノ》神まで十柱のこと、下の阿波岐原《アハギバラ》の御祓《ミミソギ》の段、又書紀(ノ)一書に、次掃之神《ツギニハラフノカミヲ》號《イフ》2泉津事解之男《ヨモツコトトケノヲト》1云々、曰《ノリタマヒキ》d吾《アレ》與《ト》v汝《ミマシ》已《スデニ》生《ウミキ》v國《クニヲ》矣、奈何更求生乎《ナゾサラニウマクホリセムト》u云々、故《カレ》還2向《カヘリイデマシテ》於|橘之小門《タチバナノヲトニ》1而|拂濯也《ハラヒタマヒキ》、于時《トキニ》入《イリテ》v水《ミヅニ》吹2生《フキナシ》磐土命《イハヅチノミコトヲ》1、出《イデテ》v水《ミヅヨリ》吹2生(シ)大直日《オホナホビノ》神(ヲ)又|入《イリテ》吹2生(シ)底土《ソコヅチノ》命(ヲ)1、出《イデテ》吹2生(シ)大綾津日《オホアヤツビノ》神(ヲ)1、又入(テ)吹2生(シ)赤土《アカヅチノ》命(ヲ)1、出(テ)吹2生(シタマヒキ)大地海原之諸神《オホツチウナバラノカミタチヲ》1矣、とあると、大祓(ノ)祝詞に、科月之風乃《シナドノカゼノ》、天之八重雲乎《アメノヤヘグモヲ》、吹放事之如久《フキハナツコトノゴトク》、朝之御霧夕之御霧乎《アシタノミキリユフベノミキリヲ》、朝風夕風乃吹掃事之如《アサカゼユフカゼノフキハラフコトノゴトク》云々、遺罪波不在止《ノコルツミハアラジト》、祓給比清給事乎《ハラヒタマヒキヨメタマフコトヲ》、高山末短山之末與理《タカヤマノスヱミジカヤマノスエヨリ》、佐久那太理爾落多支津速川能瀬坐須《サクナダリニオチタギツハヤカハノセニマス》、瀬織津比※〔口+羊〕止云神《セオリツヒメトイフカミ》、大海原爾持出奈武《オホミノハラニモチデナム》、如此持出往波《カクモチイデイナバ》、荒鹽之鹽乃《アラシホノシホノ》、八百道乃《ヤホヂノ》、八鹽道之鹽乃《ヤシホヂノシホノ》、八百會爾座須《ヤホアヒニマス》、速開都比※〔口+羊〕止云神《ハヤアキヅヒメトイフカミ》、持歌呑※〔氏/一〕牟《モテカノミテム》、如此久歌呑※〔氏/一〕波《カクカノミテバ》、如此氣吹放※〔氏/一〕波《カクイブキハナチテバ》、根國底之國爾坐《ネノクニソコノクニニマス》、速佐須良比※〔口+羊〕登云神《ハヤサスラヒメトイフカミ》、氣吹戸坐須氣吹戸主止云神《イブキドニマスイブキドヌシトイフカミ》、根國底之國爾《ネノクニソコノクニニ》、氣吹放※〔氏/一〕牟《イブキハナチテム》、持佐須良比失※〔氏/一〕牟《モテサスラヒウシナヒテム》、如此久失※〔氏/一〕波《カクウシナヒテバ》、自今日始※〔氏/一〕《ケフヨリハジメテ》、罪止云布罪波不在止《ツミトイフツミハアラジト》、云々とあるとを引合(セ)て説(ク)べし、まづ此(ノ)大事忍男《オホコトオシヲ》は、かの事解之男《コトトケノヲ》にあたり、石土毘古《イハヅチビコ》石巣比賣《イハズヒメ》は、上筒之男《ウハヅツノヲノ》命又|磐土《イハヅチノ》命に、大戸日別《オホトビワケ》は、大直日《オホナホビノ》神に、天之吹男《アメノフキヲ》は、氣吹戸主《イブキドヌシ》に、大屋毘古《オホヤビコ》は、大綾津日《オホアヤツビノ》神又|大禍津日《オホマガツビノ》神に、風木津別《カザゲツワケ》は、底筒之男《ソコヅツノヲノ》命又|底土《ソコヅチノ》命又|速佐須良比※〔口+羊〕《ハヤサスラヒメ》に、大綿津見《オホワタツミ》は、三柱の綿津見(ノ)神に、速秋津日子《ハヤアキヅヒコ》速秋津比賣《ハヤアキヅヒメ》は、伊豆能賣《イヅノメノ》神又|赤土《アカヅチノ》命に、【祝詞には、やがて速開都比※〔口+羊〕《ハヤアキヅヒメ》とあり、】あたれり、如是《カカ》れば此(ノ)十柱(ノ)神は、もとかの御祓の時に成《ナリ》坐る紳たちの、一傳《マタノツタヘ》なりしが、亂《マギレ》て此記には、彼所《カシコ》と此所《ココ》とに重《カサナ》りし物なり、【故《カレ》書紀には、此記の趣を載《ノセ》たる一書にも、右の内の上(ノ)七柱は見えず、是(レ)雜重《マジリカサナ》りつることを考(ヘ)て、除《ノゾカ》れつるにや、】右に引る一書の終(リ)に、吹2生(シシタマフ)大地海原(ノ)之諸神(ヲ)1とあるも、此《ココ》の次に、因《ヨリテ》2河海《カハウミニ》1持別而生神《モチワケテウミマセルカミ》たち、【かの海原の諸神とあるにあたる】因(テ)2山野《ヤマヌニ》1持別而生神《モチワケテウミマセルカミ》たち【大地の諸神にあたる、】にあたりて、其次第も彼(レ)と合へり、

〇大事忍男(ノ)神、此(ノ)神の事解之男《コトトケノヲ》にあたれると云(フ)故は、まづ事解之男とは、女神男神族離《メガミヲガミウガラハナレ》たまふ方に就《ツキ》て、負《オフ》せ奉(リ)し名なるを、其處《ソコ》の御言に、右に引るが如く、吾《アレ》與《ト》v汝《ミマシ》已《スデニ》生《ウミキ》v國《クニ》矣云々【又伊弉諾(ノ)尊|神功既畢《カムコトスデニヲヘ》云々、又|功既至矣《コトスデニヲヘタマヒヌ》、徳亦大矣《ミイキホヒモオホキナリ》ともあり、】とあれば、夫婦《メヲ》離《ハナレ》賜ふも、既に大《オホキ》なる事業《コト》の成竟《ナリヲヘ》し故なれば、此《ココ》の名は、其(ノ)方に就《ツキ》て、大事《オホコト》と稱《タタヘ》しならむ、されば此(ノ)二(ツノ)名、いひもてゆけば一(ツ)意にあたれり、忍男は例の稱《タタヘナ》なり、【忍の義、上に云るが如し、萬葉二十信濃(ノ)國埴科(ノ)郡の防人に、神人部(ノ)子忍男《コオシヲ》と云名もあり、】

〇石土毘古《イハヅチビコノ》神、石巣比賣《イハズヒメノ》神、此(ノ)二柱の上筒之男《ウハヅツノヲ》にあたる故は、宇波《ウハ》と伊波《イハ》と通ひ豆都《ヅツ》と都知《ヅチ》と通へばなり、書紀に、鹽土老翁《シホツチノヲヂ》を鹽筒《シホツツ》ともあり、【土をも都々《ツツ》とも訓(ム)べけれど、もし都《ツ》々ならば、筒とかく此記(ノ)例なり】巣《ズ》も都々《ツツ》と近し、神名帳に、土左(ノ)國長岡(ノ)郡(ニ)石土《イハヅチノ》神(ノ)社あり、顯宗天皇の御名、袁祁之石巣別《ヲケノイハスワケノ》命と申せり、さて二柱(ヲ)一柱にあつる由は、此記と書紀とを合せ見(ル)に、此《コレ》には二柱なるが、彼《カレ》には一柱なるたぐひ多し、【次なる速秋津日子速秋津比賣、金山毘古金山毘賣なども、書紀にはみな一柱づゝなり、又磐筒(ノ)男(ノ)命、一曰磐筒男(ノ)命(ノ)及磐筒女(ノ)命(ノ)などもあり、】名(ノ)義は上簡之男の下《トコロ》に云べし、【傳六の七十のひら】

〇註(ニ)、訓(テ)v石(ヲ)云(フ)2伊波《イハト》1とは、伊志《イシ》とも訓(ム)字なる故なり、

〇大戸日別《オホトビワケノ》神、此(ノ)神の大直毘《オホナホビ》にあたる所以《ユヱ》は、那富《ナホ》を縮《ツヅム》れば能《ノ》となり、能《ノ》と登《ト》とは横通音《ヨコニカヨフコヱ》なればなり、【能《ノ》に通ふ登《ト》は、多く濁(ル)例なれば、戸(ノ)字濁て讀(ム)も可《ヨ》けむ、若(シ)戸《ト》を濁らば、日《ヒ》は清(ム)べし、】又戸は、名(ノ)字などの誤(リ)にはあらじか、然らばいよよ近し、【中卷堺原(ノ)宮(ノ)段に、意富那毘《オホナビ》てふ人の名もあり、】

〇天之吹男《アメノフキヲノ》神、此(ノ)神の氣吹戸主《イブキドヌシ》にあたる故は、かの祝辭に、根國底之國《ネノクニソコノクニ》に氣吹放《イブキハナチ》てむとあればなり、山城(ノ)國|相樂《サガラカノ》郡(ニ)和伎坐天乃夫支賣《ワキニマスアメノフキメノ》神(ノ)社と云も式に見ゆ、

〇大屋毘古《オホヤビコノ》神、此(ノ)神の大綾津日《オホアヤツビ》にあたる由は、大綾《オホアヤ》の阿《ア》を省《ハブキ》て大屋《オホヤ》と云は、古語の常なり、繼體天皇の皇女|若屋《ワカヤノ》郎女を、書紀には稚綾《ワカヤ》姫とかけり、【大綾をも即《ヤガテ》意富夜《オホヤ》ともよむべし、】津は例の助辭なれば、固《モトヨ》り省《ハブ》きても云べし、さて此(ノ)綾《アヤ》は禍《マガ》の意にて、【あやまつ、人をあやむるなどのあや、又さはることのあるを、俗にあやのあると云(ヒ)、又わやく者《モノ》など云(フ)、みな禍《マガ》のこゝろなり、】語も通へり、下に木(ノ)國の大屋毘古(ノ)神と云も坐《マ》す、猶そこ【傳十の廿八卅四葉】にも云べし、

〇風木津別之忍男《カザゲツワケノオシヲノ》神、こは訓《ヨミ》も名(ノ)意もいと/\心得がたし、其由は次に云、

〇註(ニ)訓(テ)v風(ヲ)云(フ)2加邪《カザト》1、舊印本又一本には、加(ノ)字|脱《オチ》たり、今は延佳本又一本に依れり、

〇訓v木以v音、こはいと心得ず、字の誤(リ)あるべし、【凡て註に以v音(ヲ)といふは、假字《カナ》なることを知(ラ)せたる物なる故に、何《イゾレ》も此(ノ)某《ナニノ》字|以《モチフ》v音(ヲ)、幾字《イクモジ》以(フ)v音(ヲ)などある例なり、然るに今(マ)訓(ニ)v木(ヲ)以v音(ヲ)とあるは、例もなく理(リ)もなし、もし訓v木(ヲ)ならば、云《イフ》2云々《シカシカト》1とこそ有(ル)べけれ、此註|左右《かにかく》に誤(リ)あること疑《ウツ》なし、】故(レ)思(フ)に、以音(ノ)二字は、云《イフ》v宜《ゲト》の誤(リ)ならむか、宜を音(ノ)字に誤れるから、云(ノ)字をばさかしらに以に改(メ)つらむ、【又思(フ)に、加(ノ)字無き本もあれば、もと訓(テ)v風(ヲ)云(フ)2※〔言+可〕邪《カザト》1、木(ノ)字以v音とありけむを、※〔言+可〕邪(ノ)二字亂(レ)て下上になれるを見て、後(ノ)人の、※〔言+可〕は訓(ノ)字の誤なるべしとて改め、字(ノ)字は衍字字《アマリモジ》と見て削《ケヅ》れるかとも思へど、木(ノ)字(ノ)音を取て假字に用(ヒ)たること、此記はさらにも云(ハ)ず、書紀などにも例なし、又木(ノ)字は、本文ごめに本米太《ホメタ》などの字の誤かとも云べけれど、風《カゼ》の假字に※〔言+可〕《カ》を用ること、此記の例に違へり、みな加是《カゼ》とのみ書り、されば此彼《コレカレ》この考(ヘ)は用ひがたし、又以音は云(フ)v古《コト》の誤かとも思へど、記中に木《コ》の假字には、許《コ》を用る例にて、古(ノ)宇書ることなし、】さて木《キ》を氣《ケ》と云ことは、下の子之一木《コノヒトツケ》の所にくはしく云べし、宜(ノ)字を書るは、風木《カザゲ》とつゞく音(ノ)便(リ)に濁る故なり、【音便の濁(リ)のまゝに注する例、此下に訓(テ)v土(ヲ)云(フ)2豆知《ヅチト》1、中卷に土雲の注に、云(フ)2具毛《グモト》1などあり、】さて式に、大和(ノ)國高市(ノ)郡|氣都和既《ケツワケノ》神(ノ)社といふあり、【但(シ)此社は姓氏録に、伊我香色乎《イガカシコヲノ》命(ノ)男|氣津別《ケツワケノ》命と云あり、是《コレ》などを祭れるか、いかにもあれ、氣都和気《ケツワケ》てふ語の據なり、】姑《シバラ》く此(ノ)考(ヘ)に依て、加邪宜都和気《カザゲツワケ》と訓つ、なほも考ふべし、さて此神を速佐須良比※〔口+羊〕《ハヤサスラヒメ》にあつることも、たしかにはあらねど、持佐須良比失※〔氏/一〕波《モテサスラヒウシナヒテバ》、罪止云罪波不在止《ツミトイフツミハアラジト》とあると、上に科戸之風乃吹放事之如久《シナトノカゼノフキハナツコトノゴトク》、吹拂事之如《フキハラフコトノゴトク》と譬《タトヘ》て、遺罪波不在止祓給比《ノコルツミハアラジトハラヒタマヒ》云々とあると、同じことなれば、風にさすらひ失ふ意あり、さて書紀に、曰(テ)2我所生之國《アガウメルクニハ》、唯有朝霧而薫滿之哉《タダサギリノミカヲリミテルカモト》1、乃|吹撥之氣《フキハラヒマスイブキ》化2爲《ナレリ》神《カミト》1、號2曰《イフ》級長戸邊《シナトベノ》命(ト)1、是《コハ》風(ノ)神(ナリ)也とありて、風は神の氣《イブキ》なれば、風氣《カザゲ》とも云べし、【氣《ケ》は、此字の音かとも聞ゆれども、なほ此方の言にて、古(ク)火氣《ホノケ》潮氣《シホケ》など云り、凡て皇國言と漢字(ノ)音とたま/\に同じきもまゝあり、死《シヌ》る剥《ハグ》茂《モ》き馬《マ》洲《ス》阿母《オモ》など、此外にもあり、これらは自然に相似たるにて、かの文《フミ》錢《ゼニ》などのたぐひとは異なり、しかるを此たぐひをも、皆字音とのみおもふは、深く考へざるなり、】木は借字、津《ツ》は助辭なり、さて下に別《コト》に風(ノ)神はあれども、右に云る如く、此《ココ》は別《コト》なる一(ツ)の傳《ツタヘ》のまがひ入(リ)し物なる故に、重《カサナ》れるなり、又|底筒之男《ソコヅツノヲ》にあつるゆゑは、曾許豆《ソコヅ》と邪宜津《サケツ》と、語の近ければなり、こはいとものどほけれど、せめて云なり、

〇海神は和多能加微《ワタノカミ》と訓べし、【宇美乃加微《ウミノカモ》とも訓べし、】師(ノ)説に、海を和多《ワタ》と云は、渡《ワタ》ると云ことなり、古書に、山には越《コユ》といひ、海には渡るといへり、【今云(ク)、書紀齊明天皇の大御歌に、山こえて海わたるともなど有(リ)、】萬葉一(ノ)卷に、對馬乃渡渡中爾《ツシマノワタリワタナカニ》などよめるを思へとあり、此外の説はひがことなり、
〇大綿津見神《オホワタツミノカミ》、名(ノ)義師(ノ)説に、綿は海《ワタ》、津は例の助辭、見は毛知《モチ》の約りたるにて、海津持《ワタツモチ》てふ意なり、これ海を持《タモツ》神なればなり、下文に、因《ヨリテ》2河海(ニ)1持別而《モチワケテ》云々、因(テ)2山野(ニ)1別而《モチワケテ》云々とある、持別《モチワケ》の言を以(テ)知べしとあり、【書紀に保食《ウケモチノ》神あり、この母知《モチ》の例をも思ふべし、又此記に、久比奢母智《クヒザモチノ》神、又|佐比持《サヒモチノ》神など云もあり、又師説に、綿津海《ワタヅミ》など書る、綿《ワタ》も海《ミ》も借字にて意なし、又わたづみを只海のことに云は、此神の名より轉《ウツ》れるなり、故(レ)いと上代には、神(ノ)名の外にわたづみてふことは見えず、海をも然云は、大津飛鳥などの御代のころよりや始(マ)りけむ、又|和多都宇美《ワタツウミ》と云は、いよゝ後のひがことなり、延喜式などまでも、たゞ和多都美《ワタツミ》とのみあり、多《タ》を濁(ル)もひがことなり、綿(ノ)字を借(リ)、又假字もみな清音を書り、津は音便にて濁ること、山津見《ヤマヅミ》などの例に同じとあり、今云(ク)、これらの津は清て讀べし、假字に清音を用《ツカ》ひ、又例も清《スム》ぞ多き、】此説に依べし、津見《ツミ》の意は今一(ツ)の考へもあり、そは傳七(ノ)卷【五十五葉五十七葉】に云べし、山津見の津見も同じ、さて上の諸神の例によれば、此(ノ)神下なる三柱の綿津見にあたれり、又生2海(ノ)神(ヲ)1とあるより、改(メ)て別に見(ル)ときは、下の三柱は別《ワカ》れたる神、此神は總《スベ》たる神なり、大山津見ありて、下に又くさ/”\の山津見あるが如し、

〇水戸神、水戸は【水門と書るも同じことなり、】美那斗《ミナト》と訓べし、【古く美斗《ミト》と云訓(ミ)も有て、今はたさる地名もあるなれば、然《シカ》讀(マ)むも惡きにはあらず、土左日記に、あはのみとを渡るとあり、】書紀武烈(ノ)卷の大御歌の之〓世《シホセ》を、一本に彌儺斗《ミナト》と有(リ)と分注《コガキ》あり、又齊明(ノ)卷の大御歌にも、瀰儺斗《ミナト》と云ことあり、萬葉(ノ)歌にも多し、【美斗《ミト》とよめるは見えず、】即(チ)水之門《ミヅノト》の意にて、門《ト》は海の出入る戸口《トグチ》なり、【嶋門《シマド》河門《カハド》なども云、】書紀神代(ノ)卷に、乃《スナハチ》往3見《イデマシテミソナハス》粟門《アハドト》及《トヲ》2速吸名門《ハヤスヒナド》1、然(ルニ)此(ノ)二門《フタカドハ》云々、仲哀(ノ)卷に、自《ヨリ》2穴門《アナド》1至《マデヲ》2向津野大濟《ムカツヌノオホワタリ》1爲《シ》2東門《ヒムカシノトト》1、以《ヲ》2名籠屋《ナゴヤノ》大濟1爲2西門《ニシノトト》1などあり、那《ナ》は之《ノ》に通(フ)辭なり、【右の速吸名門《ハヤスヒナド》の名を、神武(ノ)卷には、之《ノ》と作《カケ》るにて知べし、猶例多し、和名抄には、湊(ハ)和名|三奈止《ミナト》とあり、俗《ヨ》にも此字を用ふ、】

〇速秋津日子神《ハヤアキヅヒノコノカミ》、速秋津比賣神《ハヤアキヅヒメノカミ》、書紀にほ、速秋津日(ノ)命とて一柱なり、さて秋津日《アキヅヒ》と赤土《アカヅチ》と語通(ヒ)て、清明《アカ》き意なり、黄泉《ヨミ》の穢《ケガレ》を速《スミヤカ》に祓(ヒ)すてて、清《キヨ》らかに明《アキラ》けきをいふ名なり、【續紀(ノ)宣命に、明支清支直支誠之心以而《アカキキヨキナホキマコトノココロヲモチテ》云々、すべて清《キヨ》きをあかきといふこと、赤心《アカキココロ》など古言に例多し、】明津神《アキツカミ》といふも、意は少(シ)異なれど語は同じ、【又かの一書には、磐土《イハツチ》底土《ソコツチ》赤土《アカツチ》とならびたれば、赤土は中筒にあたるべし、但し中《ナカ》てふ言も、本は明《アカ》より轉《ウツ》れる物か、其由はかの大神上(ツ)瀬下(ツ)瀬をすてて、中(ツ)瀬に祓ひ清まはり坐(シ)しかば、其處《ソコ》を明《アカツ》瀬と云しより起《オコリ》て、萬の物も、上と下との間を那加《ナカ》とはいふか、】又|伊豆能賣《イヅノメ》にあつる故は、阿伎《アキ》を切《ツヅム》れば伊《イ》にて、その伊豆《イヅ》も、阿伎豆《アキヅ》と同(ジ)意なること、彼處《カシコ》【傳六の六十一葉】にいふを合せ見よ、【大綿津見と下の三柱の綿津見とを別に見ば、是(レ)も別神とすべし、倭比賣(ノ)命(ノ)世記に、伊勢(ノ)瀧(ノ)原(ノ)宮は、此(ノ)日子神、並(ノ)宮は此比賣神なりといへり、】

〇註、至(ノ)下に速(ノ)字|脱《オチ》しにや、

 

此速秋津日子速秋津比賣二神《コノハヤアキヅヒコハヤアキヅヒメフタバシラノカミ》。因河海特別而《カハウミニヨリテモチワケテ》。生神名沫那藝神《ウミマセルカミノミナハアワナギノカミ》。【那藝二字以音下效此】次沫那美神【ツギニアワナミノカミ】。【那美二字以音下效此】次頬那藝神《ツギニツラナギノカミ》。次頬那美神《ツギニツラナミノカミ》。次天之水分神《ツギニアメノミクマリノカミ》。【訓分云久麻理下效此】次國之水分神《ツギニクニノミクマリノカミ》。次天之久比奢母智神《ツギニアメノクヒザモチノカミ》。【自久以下五字以音下效此】次國之久比奢母智神《ツギニクニノクヒザモチノカミ》。【自沫那藝神至國之久比奢母智神并八神《アワナギノカミヨリクニノクヒザモチノカミマデアハセテヤバシラ》。】

二神は布多婆斯羅能迦微《フタバシラノカミ》と訓べし、

〇因《ヨリテ》2河海《カハウミニ》1とは、まづ水戸《ミナト》は、河水の海へ落る所の戸口《トグチ》にて、【河口といふこともあり、】河と海との際《キハ》なるを、此(ノ)神一柱は其(ノ)河の方に倚坐《ヨリマシ》、一柱は海の方に因坐《ヨリマシ》てなり、さて何《イヅレ》を河の方、何(レ)を海の方とせむ、かの祝詞に、比賣神《ヒメガミ》を、八鹽道之鹽乃八百會に坐(ス)と云(ヒ)、又下の山津見《ヤマツミ》野椎《ヌヅチ》の例にも依て、姑《シバラ》く日子神《ヒコガミ》は河の方に、比賣神《ヒメガミ》は海の方に因坐《ヨリテマス》と定むべし、河海は加波宇美《カハウミ》と訓べし、【常には、宇美加波《ウミカハ》と云(ヒ)なれたる故に、河海と書るをも然《シカ》訓《ヨム》ことなれど、此《ココ》は河(ノ)方の比古神は上に、海(ノ)方の比賣神は下にあり、又常に何《ナニ》となく宇美加波《ウミカハ》といふとも少《スコシ》異《コト》なればなり、】

〇持別而《モチワケテ》とは、同(ジ)水戸《ミナト》の内を、河に因《ヨ》れる方と、海によれる方と、二柱(ノ)神の別《ワケ》て持坐《タモチマス》を云なり、さて持別而生とつづきたれども、持別は此神たちの凡《オヨソ》の上《ウヘ》を云るにて、生《ウム》にかゝれることには非ず、

〇沫那藝《アワナギノ》神、沫那美《アワナミノ》神、名(ノ)義|沫《アワ》は字の如く水の沫《アワ》なり、【假字は阿和《アワ》なり、阿波《アハ》とかくはひがことぞ、】那藝と那美と對言《ムカヘイフ》こと、既に伊邪那岐伊邪那実の御名の所に云り、此《ココ》は其意にてはかなはぬに似たれど、彼(ノ)御名の例に依て稱《タタヘ》しにもあらむか、但し岐と藝と異なる假字を用《ツカ》へるも、故あるべきにや、【此記は、同音の假字にも差別《ワキ》あること別に云り、】故(レ)思(フ)に書紀一書に、國常立《クニノトコタチノ》尊云々、天萬(ノ)尊生2沫蕩《アワナギノ》尊(ヲ)1、【沫蕩此(レヲ)云2阿和那伎(ト)1、】沫蕩(ノ)尊生2伊弉諾(ノ)尊(ヲ)1とある、是《コ》はいと異なる一(ツノ)傳(ヘ)なり、かくて那伎《ナギ》に蕩(ノ)字を書《カカ》れたるは、平の義を取て、【詩に魯道有(リ)v蕩《タヒラカナルコト》などいふ蕩(ノ)字のこゝろなり、】水上《ミヅノヘ》の和《ナギ》たる意なるべし、【或人も然云(ヒ)き、】さて此《ココ》に那美《ナミ》と對《ムカヒ》たるは、那美《ナミ》は水(ノ)上の騷《サワ》ぐを云(フ)言にて、波《ナミ》と云名もそれより出たるなるべし、【下なる八千矛(ノ)神の御歌に、幣都那美曾《ヘツナミソ》とある、此(ノ)那美《ナミ》も海のさわぐさまを云て、即(チ)彼《ナミ》のうちよする意なれば、波よする礒《イソ》と云むが如し、もし那美《ナミ》を常に云(フ)彼《ナミ》の意とするときは、寄《ヨス》るなど云(フ)用(ノ)言なくては、波礒《ナミソ》にては言たらはず、】

〇頬那藝《ツラナギノ》神、頬那美《ツラナミノ》神、名(ノ)義、頬は借字にて、訓は和名抄に、頬和名|豆艮《ツラ》とあるに依べし、萬葉にも狹丹頬相《サニツラフ》など、多く都良《ツラ》と云に借(リ)て書り、さて都良《ツラ》は、都夫良《ツブラ》の切《ツヅマ》りたる言なり、其《ソ》は下に※〔獣偏+爰〕田毘古《サルタビコノ》神の事を云る段に、其海水之都夫多都時名《ソノウシホノツブダツトキノナヲ》謂《イフ》2都夫多都御魂《ツブダツミタマト》1、其阿和佐久時名《ソノアワサクトキノナヲ》謂《イフ》2阿和佐久御魂《アワサクミタマト》1とあり、都夫良《ツブラ》は即(チ)都夫多都音《ツブダツオト》にて、其《ソノ》貌《アリサマ》をも云なり、沫《アワ》と並びたるも彼《カシコ》と同きを以(テ)知べし、【萬葉十八(ノ)卷に、可治能於登乃都婆良々々々爾《カヂノヲトノツバラツバラニ》とよめるも、櫓《カヂ》の水にさはりて、つぶだつ音を云て、同(ジ)言なり、又廿(ノ)卷に、ほりえこぐ、いづての舟の、かぢ都久米《ツクメ》、おとしばたちぬ、みをはやみかも、此(ノ)都久米の久《ク》は、夫《ブ》の誤にて、都夫米《ツブメ》なるべし、十八(ノ)卷の、つばら/\にとよめると合せて知べし、つぶら/\と鳴(ル)を、つぶめと云なるべし、又つぶりと没入《オチイル》と云も、物の水におちいれば、つぶだつありさまを云、】圓《マロキ》を都夫良《ツブラ》と云も、其|形《カタチ》より出たり、猶|彼《カノ》段【傳十六の一のひら】に云(フ)言どもをも引合(セ)見よ、那藝《ナギ》那美《ナミ》は上に同じ、

〇天之水分《アメノミクマリノ》神、國之水分《クニノミクマリノ》神、名(ノ)義、久麻理《クマリ》は分配《クバリ》なり、即(チ)書紀に、分を久婆留《クバル》とも訓り、神名式に、大和(ノ)國吉野(ノ)郡吉野、宇陀(ノ)郡|宇太《ウダ》、山邊(ノ)郡|都祁《ツケ》、葛上《カヅラキノカミノ》郡|葛木等《カヅラキナド》に、各々|水分《ミクマリ》神(ノ)社あり、續紀に、文武天皇二年四月、奉《タテマツリテ》v馬《ウマ》2于吉野(ノ)水分(ノ)峯(ノ)神(ニ)1祈《コヒタマフ》v雨(ヲ)也、【萬葉七(ノ)卷に、三芳野之水分山《ミヨシヌノミクマリヤマ》とよめるは此《ココ》なり、是を美豆和氣山《ミヅワケヤマ》と訓るはひがことなり、】祈年《ヨシゴヒ》及《マタ》月次(ノ)祭(ノ)祝詞に、水分坐皇神等能前爾白久《ミクマリニマススメカミタチノマヘニマヲサク》、吉野宇陀都祁葛木登御名者白※〔氏/一〕《ヨシヌウダツケカヅラキトミナハマヲシテ》云々、【水分に坐《マス》とは、水分(ノ)神の坐《マス》所々を、即《ヤガテ》水分といふなり、】右の外にも、式に河内(ノ)國石川(ノ)郡|建水分《タケミクマリノ》神社、攝津(ノ)國住吉(ノ)郡|天水分豐浦《アメノミクマリトヨラノ》命(ノ)神社、三代實録二に、安藝(ノ)國(ニ)水分(ノ)天神など云あり、又丹後(ノ)國與謝(ノ)郡(ノ)籠(ノ)神社は、天(ノ)水分(ノ)神なりと云、【又古今六帖片戀(ノ)題(ノ)歌どもに、美許母理《ミコモリノ》神と多くよみ、清少納言(ガ)册子《サウシ》に、神はと云中にも、美許母理《ミコモリノ》神あり、是等《コレラ》も水分《ミクマリ》を訛《アヤマ》れる名か、吉野なるをも、後(ノ)世には然《シカ》いふなり、】

〇天之久比奢母智《アメノクヒザモチノ》神、國之久比奢母智《クニノクヒザモチノ》神、名(ノ)義、久比奢母智《クヒザモチ》は汲匏持《クミヒサゴモチ》なり、【美比《ミヒ》を約めて比《ヒ》といひ、碁《ゴ》を省けり、その省ける碁《ゴ》の濁《ニゴリ》の、佐《サ》へうつりて、奢《ザ》となれるは、語の自然の勢なり、】其由は鎭火祭《ヒシヅメノ》祭(ノ)詞に、火結神生給※〔氏/一〕《ホムスビノカミウミタマヒテ》、美保止被燒※〔氏/一〕《ミホトヤケテ》、石隱坐※〔氏/一〕《イハガクリマシテ》云々、吾名※〔女+夫〕命能所知食上津國爾《アガナセノミコトノシロシメスウハツクニニ》、心惡子乎生置※〔氏/一〕來奴止宣※〔氏/一〕《サガナキコヲウミオキテキヌトノタマヒテ》、返坐※〔氏/一〕《カヘリマシテ》、更《サラニ》生子|水神匏川菜埴山姫《ミヅノカミヒサゴカハナハニヤマビメ》、四種物乎生給※〔氏/一〕《ヨクサノモノヲウミタマヒテ》、此能心惡子乃心荒比曾波《コノサガナキコノココロアラビソバ》、水(ノ)神|匏《ヒサゴ》埴山姫川菜|乎《ヲ》持※〔氏/一〕《モチテ》、鎭奉禮止《シヅメマツレト》、事教倍給支《コトヲシヘサトシタマヒキ》【書紀に天吉葛《アマノヨサヅラ》とあるも、此(ノ)匏《ヒサゴ》のことなり、】とあり、但し彼《カレ》は、火(ノ)神の荒ぶるを鎭めむ備《ソナヘ》に生《ウミ》たまふといふ一(ツ)の傳(ヘ)なり、此《ココ》は其《ソレ》のみならず、水分《ミグマリノ》神と同じく、凡て萬(ヅ)に水を施《ホドコ》して、功《コト》を成《ナサ》しむる神なり、和名抄木器(ノ)部に、杓、和名|比佐古《ヒサゴ》、唐韻(ニ)云(ク)、斟《クム》v水(ヲ)器(ナリト)也、瓢(ハ)和名|奈利比佐古《ナリヒサゴ》、瓠(ナリ)也、瓠(ハ)匏(ナリ)也、鞄《ヒサゴハ》可v爲(ル)2飲器(ニ)1者也とあり、【奈利比佐古とは、草の蔓《ツル》になりたる杓《ヒサゴ》といふこゝろなり、】外宮儀式帳に、木匏《キノヒサゴ》廿柄|匏《ナリヒサゴ》廿柄とあり、

〇註に、自沫那藝神云々と云は、速秋津日子速秋津比賣二柱(ノ)神の生《ウミ》坐る神|等《タチ》の數を總《スベ》てことわれるなり、

 

次生風神名志那都比古神《ツギニカゼノカミミナハシナツヒコノカミヲウミマス》。【此神名以音】次生木神名久久能智神《ツギニキノカミミナハククノチノカミヲウミマス》。【此神名亦以音】次生山神名大山 上 津見神《ツギニヤマノカミミナハオホツミノカミヲウミマス》。次生野神名鹿屋野比賣神《ツギニヌノカミミナハカヤヌヒメノカミヲウミマス》。亦名謂野椎神《マタノミナハヌヅチノカミトマヲス》。【自志那都比古神至野椎并四神《シナツヒコノカミヨリヌヅチマデアハセテヨバシラ》。】

次生、これより又伊邪那岐(ノ)神伊邪那美(ノ)神の生《ウミ》給(フ)なり、次《ツギニ》とは、水戸(ノ)神の次《ツギニ》なり、生《ウミマス》と云て、久比奢母智(ノ)神の次ならぬことを別《ワカ》てり、

〇風(ノ)神志那都比古(ノ)神、書紀【一書】に伊弉諾(ノ)尊、曰《ノタマヒテ》2我所生之國《アガウメリシクニハ》、唯有朝霧而薫滿之哉《タダサギリノミカヲリミテルカモト》1、乃|吹撥之氣《フキハラハセルミイブキ》化2爲《ナレリ》神《カミト》1、號《ナヲ》曰《イフ》2級長戸邊《シナトベノ》命(ト)1、【亦曰(フ)2級長津彦《シナツヒコノ》命(ト)1、】是(レ)風(ノ)神也とあり、【萬葉二(ノ)卷人麻呂(ノ)歌に、神風爾伊吹惑之《カムカゼニイブキマドハシ》とよめり、】纂疏に、級長《シナ》は息長《イキナガ》といはむが如しとあり、其由は師(ノ)説に、此神は、大御神の御息《ミイキ》より成(リ)賜へば、志那都比古とは云なり、萬葉(ノ)歌に志長鳥《シナガドリ》と云は、※〔石+辛+鳥〕※〔虎+鳥〕《ニホドリ》のことにて、息長鳥《オキナガドリ》と云むに同じ、同廿(ノ)卷に、爾保抒里能於吉奈我河波《ニホドリノオキナガガハ》、とつゞけよめるを以(テ)知(ル)べし、【此歌を沖中川と心得たるは、論にたらず、】此鳥水底に入て浮出ては、長く息《イキ》づく故に、然云(ヒ)かけしならむ、息長川は近江(ノ)國坂田(ノ)郡なり、【天武紀に、近江(ノ)軍戰(フ)2息長(ノ)横河(ニ)1と見え、坂田(ノ)郡なることは、諸陵式に見ゆ、仙覺萬葉釋に、息長は坂田(ノ)郡穴(ノ)郷の内にありといへり、和名抄に阿那《アナ》、】彼(ノ)廿(ノ)卷なるは、河内にての歌なるを、そは近江にてよめる古歌を、河内にて宴にうたひしならむ、又河内(ノ)石川(ノ)郡の磯長《シナガ》も、もとおきながの略にてもあらむかとあり、【神名帳にかの坂田(ノ)郡に、日撫《ヒナヅノ》神社|伊夫伎《イブキノ》神社ならびて載《ノレ》り、日撫《ヒナヅ》志那都《シナツ》語ちかし、】さて科戸之風《シナドノカゼ》とは、此神の御名より云て、凡《スベ》ての風のことなり、【西北の風をいふとは、後(ノ)世のことなり、】又師(ノ)説に、龍田(ノ)風(ノ)神祭(ノ)祝詞に、此神は、比古神比賣神ならび坐(ス)ことしるければ、古事記日本紀、たがひに一神|脱《オチ》たるべしと云(ハ)れき、又彼(ノ)龍田に坐(ス)風(ノ)神を、天乃御柱(ノ)命、國乃御柱(ノ)命と謂《マヲ》す、此(ノ)御名の事は、傳七【七のひら】に云べし、

〇木《キノ》神、書紀には木祖《キノオヤ》とあり、

〇久々能智《ククノチノ》神、名(ノ)義、久々《クク》は莖《クク》なり、和名抄木具(ノ)部に、莖、和名|久木《クキ》とあり、【莖は、字書に草木之幹也といへり、】其《ソ》を久々《クク》と云るは、萬葉十四に久君美良《ククミラ》、【莖韮なり】又【同卷】九久多知《ククタチ》【和名抄に、※〔草がんむり/豊〕(ハ)久々太知《ククタチ》、蔓菁(ノ)之苗也、】などなり、【俗に物の速に長《ノバ》る貌《サマ》を、久々登《クツクト》と云も此意なり、】草《クサ》は莖多《ククフサ》なり、【多《オホ》きを布佐《フサ》と云ること、これかれ見えたり、】下に久々年《ククトシノ》神、久々紀若室葛根《ククキワカムロツナネノ》神あり、これらの久々《クク》も同じ、故(レ)思(フ)に、莖《クキ》はもと莖木《ククキ》の縮《ツヅマ》れる名なるべし、智《チ》は男《ヲ》を尊む稱《ナ》にて、前に【阿斯※〔言+可〕備比古遲(ノ)神の處、】云り、大殿祭(ノ)祝詞に、汝屋船命爾《イマシヤフネノミコトニ》、天津奇護言乎以弖《アマツクスシイハヒゴトヲモテ》、言壽鎭白久《コトホギシヅメマヲサク》云々、平氣久安久奉護留神御名乎白久《タヒラケクヤスクマモリマツルカミノミナヲマヲサク》、屋船久々遲命《ヤフネククヂノミコト》、【是(レ)木(ノ)靈《ミタマ》也、】屋船豐宇氣姫命登《ヤフネトヨウケヒメノミコトト》、【是(レ)稻(ノ)靈也、今(ノ)世|産屋《ウブヤニ》、以(テ)2辟木束稻《サキキツカイネヲ》1置(キ)2於戸(ノ)邊(ニ)1、乃以v米(ヲ)散(ラス)2屋中(ニ)1之類也、】御名乎波奉稱利※〔氏/一〕《ミナヲバタタヘマツリテ》云々、【此(ノ)祝詞に如是《カク》申すは、御殿《ミアラカ》造れる材《キ》の靈《ミタマ》の故にはあらずて、彼(ノ)辟木束稻《サキキツカイネ》のことによりて、其(ノ)靈《ミタマ》二神を祭(リ)賜(フ)なるべし、】

〇山(ノ)神大山津見(ノ)神、山津見《ヤマツミ》は綿津見《ワタツミ》の例の如く、山津持《ヤマツモチ》にて、山を持坐《タモチマス》神なりと、師(ノ)説なり、奥《オク》に又|種々《クサグサ》の山津見《ヤマツミ》あるは、分《ワケ》て持(ツ)神、是(レ)は凡て持(ツ)神なる故に、大《オホ》と稱《マヲ》すか、【書紀釋(ニ)曰(ク)、大山祇(ノ)神(ハ)、神名帳(ニ)曰(ク)、伊豆(ノ)國賀茂(ノ)郡伊豆三嶋(ノ)神社、】

〇野神《ヌノカミ》、野を古(ヘ)は怒《ヌ》と云しこと、前に【豐雲野(ノ)神の處】云るが如し、

〇鹿屋野比賣神《カヤヌヒメノカミ》、【今(ノ)本に、鹿(ノ)上に麻(ノ)字あるをば、延佳が削捨《ケヅリステ》たるぞよき、是は中頃あやまりて、鹿鹿と重《カサ》ね書るを、又誤(リ)て一(ツ)を麻に成《ナシ》たるなり、同字を誤て重ぬること例多く、はた鹿を麻に誤れることも、記中書紀などに例あるをや、眞草《マカヤ》と謂《イハ》むも、語はさることながら、下三字訓を用(ヒ)たるに、眞《マノ》一言をのみ假字に書べきに非ず、もし止《ヤム》ことえず然るときは、某(ノ)字以v音(ヲ)と注する例なり、其(ノ)上(ヘ)書紀にも、たゞ草野《カヤヌ》姫とあり、釋に此記を引る所にも、麻(ノ)字なし、又鹿(ノ)字は無《ナ》くて、麻と作《カケ》る一本もあり、】書紀には草祖《クサノオヤ》草野姫《カヤヌヒメ》とあり、加夜《カヤ》は此卷(ノ)末に、以(テ)2鵜羽《ウノハヲ》1爲《ス》2葦草《カヤト》1とありて、訓(テ)2葺草(ヲ)1云(フ)2加夜《カヤト》1、と註せるぞ本義《モトノココロ》にて、何《ナニ》にもあれ、屋《ヤネ》葦《フカ》む料の草《クサ》を云(フ)名なり、萬葉一(ノ)卷に、吾勢子波《ワガセコハ》、借廬作良須《カリイホツクラス》、草無者《カヤナクバ》、小松下乃《コマツガモトノ》、草乎苅核《クサヲカラサネ》、又四(ノ)巻に、板蓋之《イタブキノ》、黒木乃屋根者《クロギノヤネハ》、山近之《ヤマチカシ》、明日取而《アケムヒトリテ》、持將參來《モチテマヰコム》、黒樹取《クロギトリ》、草毛刈乍《カヤモカリツツ》、仕目利《ツカヘメド》、勤和氣登《イソシキワケト》、將譽十方不在《ホメムトモアラズ》、又八(ノ)卷に、波太須珠寸《ハダススキ》、尾花逆葺《ヲバナサカフキ》、黒木用《クロギモテ》、造有家者《ツクレルイヘハ》、迄萬代《ヨロヅヨマデニ》、これらを合(セ)て思(フ)べし、茅《カヤ》と云一種あるも、屋《ヤネ》ふくに主《ムネ》と用る故の名なり、さて野(ノ)神の御名に負《オヒ》給へる故は、野の主《ムネ》とある物は草《クサ》にて、草《クサ》の用は、屋《ヤネ》葺《フク》ぞ主《ムネ》なりける、故(レ)草(ノ)字をやがて加夜《カヤ》とも訓り、上(ツ)代は、大御殿《オホミアラカ》を始(メ)て、凡て草《クサ》以《モチ》葺《フキ》つればなり、

○野椎《ヌヅチノ》神は、野津持《ヌツモチノ》神なり、と師は謂れき、【母智の母を省るなり、】書紀天之石屋戸(ノ)段の一書に、又《マタ》使《シム》3山雷者《ヤマヅチトイフカミヲシテ》云々《シカシカ》、野槌者《ヌヅチトイフカミヲシテ》、採《トラ》2五百箇野薦八十玉籤《イホツヌスズノヤソタマグシヲ》1、また神武(ノ)御卷に、高御産巣日《タカミムスビノ》命を顯齋《ウツシイハヒ》して祭り賜(フ)所に、火《ヒヲ》名2爲《ナヅケ》嚴香具雷《イヅカグツチト》1、水《ミヅヲ》名2爲《ナヅケ》嚴罔象女《イヅミツハノメト》1、粮《ヲシモノヲ》名2爲《ナヅケ》嚴稻魂《イヅウカノメト》1、薪《タキギヲ》名2爲《ナヅケ》嚴山雷《イヅヤマヅチト》1、草《クサヲ》名2爲《ナヅケキ》嚴野椎《イヅヌヅチト》1とあるは、皆二柱(ノ)大神の生《ウミ》坐る神の名なれば、山雷《ヤマヅチ》も山津見《ヤマツミ》に當れり、是《コ》を以(テ)見れば、まことに都美《ツミ》と都知《ツチ》と同意にて、知《チ》は持なるべし、又|按《オモフ》に、かの海《ワタ》つ持《モチ》山《ヤマ》つ持《モチ》は、母知《モチ》を切《ツヅメ》て美《ミ》と云るに、其《ソ》を知《チ》と云(フ)も例違ひ、且《ハタ》狹土《サヅチ》迦具士《カグツチ》御雷《ミカヅチ》足名椎《アシナヅチ》手名椎《テナヅチ》雷《イカヅチ》などの豆知《ヅチ》、みな持《モチ》てふ意とも聞えず、此等《コレラ》の例を歴《アマネ》く思ひわたすに、豆知《ヅチ》の豆《ヅ》は例の助辭にて、知《チ》は久々能智《ククノチ》などの智《チ》と同くて、尊む名《ナ》にもあるべし、山雷《ヤマヅチ》野椎《ヌヅチ》は、山之智《ヤマノチ》野之智《ヌノチ》と云むが如し、
〇註に、并四神《アハセテヨバシラ》とは、此(ノ)前後の神|等《タチ》と一連《ヒトツヅキ》ならず、此《コ》は伊那那岐伊邪那美(ノ)大神の生《ウミ》坐る神なるを、他神等《コトカミタチ》の中間《アヒダ》に擧《アゲ》たる故に、取(リ)分(ケ)て結《ムス》べるなり、上の速秋津比賣の下に、并十神《アハセテトバシラ》といへるも是に同じ、椎の下に神(ノ)字|脱《オチ》たるか、【何《イヅ》れの本にも無《ナ》し、】

 

此大山津見神野椎神二神《コノオホヤマツミノカミヌヅチノカミフタバシラ》。因山野持別而《ヤマヌニヨリテモチワケテ》。生神名天之狹土神《ウミマセルカミノミナハアメノサヅチノカミ》。【訓土云豆知下效此】次國之狹土神《ツギニクニノサヅチノカミ》。次天之狹霧神《ツギニアメノサギリノカミ》。攻國之狹霧神《ツギニクニノサギリノカミ》。次天之闇戸神《ツギニアメノクラドノカミ》。次國之闇戸神《ツギニクニノクラドノカミ》。次大戸惑子神《ツギニオホトマトヒコノカミ》。【訓惑云麻刀比下效此】次大戸惑女神《ツギニオホトマトヒメノカミ》。【

自天之狹土神至大戸惑女神并八神《アメノサヅチノカミヨリオホトマトヒメノカミマデアハセテヤバシラ》。

野椎(ノ)神、凡て上に某所亦名《ソノカミマタノナハ》謂《イフ》2某神《ナニノカミト》1と有(リ)て、下に其(ノ)神の事を云(フ)ときは、其(ノ)亦(ノ)名の方を擧《アグ》る、此記の例なり、

〇二神は布多婆斯羅《フタバシラ》と訓べし、【前の二神は、上に神《カミ》と云(ハ)ざる故に、布多婆斯羅能迦微《フタバシラノカミ》と訓つるを、此《コ》は上に神とあれば、然《サ》は訓《ヨマ》ず、語の勢おのづから然り、】

〇山野は【常には怒夜麻《ヌヤマ》とよむ例なれど、此《ココ》は】夜麻怒《ヤマヌ》と訓べし、【上(ノ)河海《カハウミ》の例の如し、】

〇天之狹土《アメノサヅチノ》神、國之狹土《クニノサヅチノ》神、名(ノ)義、狹《サ》は志那《シナ》の切《ツヅマ》りたる言にて、その志那《シナ》は級《シナ》にて、坂路《サカヂ》のことなり、【其由は、師の冠辭考しなてる、又しなざかるの條に委(シ)、】其《ソ》を佐《サ》とのみ云る例は、明(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、丸邇坂《ワニサカ》を和邇佐《ワニサ》とあり、坂《サカ》と云も、加《カ》は處《トコロ》の意にて、【ありかすみかなどのかもこれなり、】級處《シナカ》なり、豆《ヅ》は例の助辭、知《チ》は尊稱《タフトミナ》にて、山豆知《ヤマヅチ》野豆知《ヌヅチ》の如く、坂豆知《サカヅチ》なり、さて書紀には、天地の始の處に、國常立《クニノトコタチノ》尊の次に、國狹槌《クニノサヅチノ》尊【一書には國狹立《クニノサダチノ》尊、】とあり、此《コ》は例の甚《イト》異《コト》なる傳(ヘ)なり、

〇註に、訓(テ)v土(ヲ)云2豆知(ト)1、こは前にも出たる字にて、訓も同じきを、此《ココ》にかく注せるは、豆《ヅ》を濁るべきためなり、【此神(ノ)名の土《ヅチ》をば、世に誤(リ)て清て唱ることある故なるべし、】

〇天之狹霧《アメノサギリノ》神、國之狹霧《クニノサギリノ》神、名(ノ)義、狹《サ》は狹土の狹《サ》と同じく伎理《ギリ》は限《カギリ》の意にて、佐疑理《サギリ》は境《サカヒ》と同じ、【境は坂合《サカアヒ》にて、此方《コナタ》と彼方《カナタ》とより登る坂の合《ア》ふ所なれば、即(チ)坂の限りなり、】下にも同名(ノ)神見えたり、傳十一【七十五葉】に出(ヅ)、【舊事紀に、天地の始に、先(ヅ)成坐る神を、天讓日天狹霧國讓月國狹霧《アメユヅルヒアメノサギリクニユヅルツキクニノサギリノ》尊とあり、此《コ》は後(ノ)人の作りたる名と聞ゆ、】

〇天之闇戸《アメノクラドノ》神、國之闇戸《クニノクラドノ》神、名(ノ)義、戸《ド》は處《トコロ》、闇《クラ》は谷《タニ》のことなり、其(ノ)由は下の闇淤加美《クラオカミ》の下《トコロ》に委(ク)云べし、式近江(ノ)國栗太(ノ)郡|佐久奈度《サクナドノ》神(ノ)社あり、久良斗《クラド》と久奈度《クナド》と通《カヨ》へり、【神皇實録と云物に、書紀の國狹槌(ノ)尊より次々五代を、漢人《カラビト》の論《サダ》すめる五行と云物にあてて、水藏戸《ミヅクラド》火藏戸《ヒクラド》木藏戸《キクラド》などと云り、是《コレ》らは凡て云に足《タラ》ぬ書なれど、藏戸《クラド》てふことは、古(キ)書にありしを取れるにもやあらむ、】さて上(ノ)件|水分《ミクマリノ》神より次々《ツギツギ》皆、天之《アメノ》國之《クニノ》と云(フ)は、たゞ二柱|並《ナラビ》坐(ス)神の名を、對《ムカヘ》て稱《タタヘ》たるまでにて、天と國とに殊《コト》なる意はあるべからず、

〇大戸惑子《オホトマトヒコノ》神、大戸惑女《オホトマトヒメノ》神、名(ノ)義、戸麻刀《トマト》は刀袁麻理處《トヲマリド》にて、山の多和美《タワミ》て低《ヒキ》き處を云(フ)、玉垣(ノ)宮(ノ)段に、山多和《ヤマノタワ》とある是なり、さて多和《タワ》と刀袁《トヲ》と通ふことは、萬葉などに、枝《エダ》のたわむを、刀袁余流《トヲヨル》とも云(ヒ)、多和々《タワワ》とも等乎々《トヲヲ》とも云るにて知べし、さて刀袁《トヲ》を切《ツヅメ》て刀《ト》と云(ヒ)、【例は十《トヲ》を十年《トトセ》十握《トツカ》など云が如し、】麻理《マリ》の理《リ》を略《ハブ》けり、【らりるれと活《ハタラ》く理《リ》を略く例は、詔《ノリ》たまふをのたまふと云たぐひ常多し、】麻理《マリ》は美《ミ》と云に同じ、【極《キハ》みきはまり、恐《カシコ》みかしこまり、屈《カガ》みかゞまり同きが如し、】又萬葉に山の常陰《トカゲ》と云るも、刀袁陰《トヲカゲ》にて、山のたわみ低《ヒキ》き所の陰《カグ》をいふ、なほ下の戸山津見《トヤマツミ》の下をも見合(ハ)すべし、さて比古《ヒコ》比賣《ヒメ》は例の稱なるを、惑子《マドヒコ》惑女《マドヒメ》としも書るは、たま/\語のより來《キ》たるまゝの借字のみなり、【惑《マドヒ》の比《ヒ》を、古(ヘ)は正《タダ》しく比《ヒ》と呼《トナヘ》しなり、故(レ)比古比賣にも此(ノ)字を借(リ)て書るなり、然るを此類の比布《ヒフ》を、伊宇《イウ》の如く呼《トナ》ふるは、後(ノ)世の音便にて、正しからず、】書紀に、大戸之道《オホトノヂノ》尊|大苫邊《オホトマベノ》尊、亦曰|大戸摩彦《オホトマビコノ》尊|大戸摩姫《オホトマビメノ》尊とあるも、此《ココ》と同(ジ)神の、いと異なる傳(ヘ)なり、式に阿波(ノ)國名方(ノ)郡(ニ)意富門麻比賣《オホトマヒメノ》神(ノ)社あり、【三代實録二に、天(ノ)香山大麻等野知(ノ)神と云も見ゆ、】

〇右八柱の名(ノ)義、因(テ)2山野(ニ)1持別(テ)而生(マス)、とあるに就《ツキ》て考(ヘ)知べきなり、【上の因(テ)2河海(ニ)1持別(テ)而生ませる神たちの名の、皆水によれると思(ヒ)合すべし、】又下の八柱の山津見の名合せ見べし、【又思ふに、狹土狹霧の狹は、多く詞(ノ)上に加(フ)る辭、土《ツチ》も霧《キリ》も闇《クラ》も惑《マドヒ》も、皆字の意にて、土より霧の發《タチ》、その霧によりて闇《くら》く、闇きによりて惑《マド》ふと云意に名づけしか、戸は所なり、俗にどにまよふと云はこれなり、此考(ヘ)やすらかに聞ゆめれど、然《サ》る意もて神(ノ)名に負せ奉むこといかゞ、もしさもあらば、必風(ノ)神より前にあるべきことなり、又思ふに、狹土は、佐豆《サヅ》は、海佐知毘古《ウミサチビコ》山佐知毘古《ヤマサチビコ》の佐知に同じ、そを佐豆《サヅ》とも云(フ)由は、彼所《カシコ》に委く云を見よ、知は例の尊稱にて、野山の佐知によれる名か、闇戸は座戸《クラド》、戸惑は門眞門《トマド》か、されどさては名の意おの/\はなれて、一(ツ)たぐひにあらず、必さはあるまじき物ぞ、〇凡て古語は、意はいとやすらかにて、こともなき物から、千歳の後の世に其《ソ》を解《トク》ことは、いとかたきわざになむ有ける、其故は、よろづの詞は、その體《サマ》も意も、世々に移轉《ウツリウツリ》て、いたく變《カハ》りきぬることなるに、然《サ》る流《ナガレ》の末《スエ》より、遙《ハルカ》なる源をうかゞふわざなれば、その間《アヒダ》いく瀬のよどかへだたりぬらむを、奈何《イカデ》か容易《タヤスク》は心得らるべき、彼(ノ)狹土《サヅチ》の狹《サ》を、坂ぞと云が如きも、坂《サカ》てふ言にのみ耳なれつる、流(レ)の末の人(ノ)心には、いとも物遠《モノドホ》くて、信《ウケ》られぬことに思(フ)めり、こは古學《フルコトマナビ》をよくして、川の八十隈を經《ヘ》のぼりて、源に至り見む時ぞ、然《サル》こととは覺《サトリ》ぬべき、然あるものを、代々の物知(リ)人の、書紀の神(ノ)名などを説《トキ》たるは、後の世の心詞を以て、直《タダ》に當《アテ》たる故に、こともなく、今(ノ)人の耳には、やすらかに聞ゆめれど、源にのぼりて見れば、皆|非《アラヌ》ことにて、中々に物遠《モノドホ》くなむ、】

 

次生神名鳥之石楠船神《ツギニウミマセルカミノミナハトリノイハクスブネ》。

亦名謂天鳥船《マタノミナハアメノトリブネトマヲス》。次生大宜都比賣神《ツギニオホゲツヒメノカミヲウミマシ》。【此神名以音】次生火之夜藝速男神《ツギニヒノヤギハヤヲノカミ》。【夜藝二字以音】亦名謂火之炫毘古神《マタノミナハヒノカガビコノカミトマヲシ》。亦名謂火之迦具士神《マタノミナハヒノカグヅチノカミトマヲス》。【迦具二字以音】因生此子美蕃登《コノミコヲウミマスニヨリミホト》【此三字以音】見炙而病臥在《ヤカエテヤミコヤセリ》。多具理邇《タグリニ》【此四字以音】生神名金山毘古神《ナリマセルカミノミナハカナヤマビコノカミ》。【訓金云迦那下效此】次金山毘賣神《ツギニカナヤマビメノカミ》。次於屎成神名波邇夜須毘古神《ツギニクソニナリマセルカミノミナハハニヤスビコノ》。【此神名以音】次波邇夜須毘賣神《ツギニハニヤスビメノカミ》。【此神名亦以音】次於尿成神名彌都波能賣神《ツギニユマリニナリマセルカミノミナハミツハノメノカミ》。次和久産巣日神《ツギニワクムスビノカミ》。此神之子謂豐宇氣毘賣神《コノカミノミコヲトヨウケビメノカミトマヲス》。【自字以下四字以音】故伊邪那美神者《カレイザナミノカミハ》。因生火神《ヒノカミヲウミマセルニヨリテ》。遂神避坐也《ツヒニカムサリマシヌ》。【自天鳥船至豐宇氣毘賣神并八神《アメノトリブネヨリトヨウケビメノカミマデアハセテヤバシラ》。】

 凡伊邪那岐伊邪那美二神共所生嶋壹拾肆嶋《スベテイザナギイザナミフタバシラノカミトモニウミマセルシマトヲマリヨシマ》。神參拾伍神《カミミソヂマリイツバシラ》。【是伊邪那美神未神避以前所生《コハイザナミノカミイマダカムサリマサザリシサキニウミマシツ》。唯意能碁呂嶋者非所生《タダオノゴロシマノミハウミマセルナラズ》。亦蛭子與淡嶋不入子之例《マタヒルゴトアハシマトモミコノカズニイラズ》。】

次生《ツギニウミマセル》、こは野椎(ノ)神の次にて、是より又伊邪那岐伊邪那美(ノ)神の生《ウミ》坐るなり、

〇鳥之石楠船《トリノイハクスブネノ》神、鳥とは行《ユク》ことの疾《ハヤ》きをかたどりて云と、口決には云(ヒ)、師は、水鳥の浮るさまによそへて云(フ)と云(ハ)れき、此《コ》は何《イヅレ》かよけむ、書紀に天鳩船《アメノハトブネ》と云あり、又|其《ソコ》の釋に播磨(ノ)國(ノ)風土記を引て云るは、仁徳天皇の御世に、いと大(キ)なる楠ありしを、伐《キリ》て船に造りしに、其船|飛《トブ》が如《ゴト》迅《トカリ》し故に、速鳥《ハヤトリ》と號《ナヅケ》つとあり、是《コレ》らに依(ラ)ば、口決の意なるべし、又萬葉十六【二十五丁】に、奥鳥鴨云船之《オキツトリカモチフフネノ》と【から書にも鳧舟といふあり、】あるを思へば、師(ノ)説も捨がたし、石楠《イハクス》とは書紀に、素戔嗚《スサノヲノ》尊、曰《ノタマヒテ》d韓國之嶋《カラクニノシマハ》是|有《アリ》2金銀《コガネシロカネ》1、若使吾兒所御之國《モシアガミコノシラサムクニニ》、不《ズハ》v有《アラ》2浮寶《ウクダカラ》1者|未《ジト》c是佳《ヨカラ》u也、乃《ヤガテ》拔《ヌキテ》2鬚髯《ミヒゲヲ》1散之《チラシタマヘバ》、即|成《ナリキ》v杉《スギニ》云々、眉毛《マユノケハ》是|成《ナリキ》2※〔木+豫〕樟《クスニ》1、已而《カクシテ》定《サダメマシテ》2其等用《ソヲツカハムサマヲ》1、乃|稱之曰《コトアゲシタマハク》、杉《スギト》及《ト》2※〔木+豫〕樟《クス》1此兩樹者《フタツノキハ》、可以爲浮寶《ウクダカラニツクレ》云々とあり、【浮寶とは船を云るなり、】さて此(ノ)木はいと堅《カタ》くて、磐《イハ》にもなる物なれば、石楠《イハクス》とは云るなり、

〇天鳥(ノ)船、名(ノ)意上の鳥に同じ、さて書紀に、蛭兒《ヒルゴ》を天磐※〔木+豫〕樟船《アメノイハクスブネ》に載《ノセ》て流《ナガシ》やるとも、又|鳥磐※〔木+豫〕樟船《トリノイハクスブネ》を生《ウミ》て、其《ソレ》に載《ノセ》てとも、又|別段《コトクダリ》に、高橋《タカバシ》浮橋《ウキハシ》、及天鳥船亦將供造《マタアメノトリブネモツクリソナヘム》、などもあり、はた此《ココ》の亦(ノ)名にも、神と云(ハ)ぬなどを以見れば、是《コ》は直《タダ》に船を指《サシ》て神と申(ス)歟、されど次(ニ)生(マセル)神(ノ)名と云(ヒ)、下に天鳥船《アメノトリブネノ》神(ヲ)副《ソヘテ》2建御雷《タケミカヅチノ》神(ニ)1而|遣《ヤル》、ともあるを思へば、正《マサ》しき神とも聞ゆ、【行(キ)過たるおしはかり言は、取(ル)にたらず、】

〇大宜都比賣《オホゲツヒメノ》神、宜《ゲ》は食《ケ》、【大食《オホゲ》と連《ツヅ》きて濁る故に、濁音の宜《ゲノ》假字を用《カケ》り、是をキと訓(ム)は非なり、】都《ツ》は例の助辭なり、さて此(ノ)食《ケ》を、放《ハナチ》ては宇氣《ウケ》と云(フ)、下なる豐宇氣毘賣《トヨウケビメノ》神、書紀の保食《ウケモチノ》神など是なり、此《ココ》は大食《オホケ》と連《ツヅ》く故に、宇《ウ》を省《ハブキ》て云(フ)、【凡て上に言を置て、連言《ツヅケイフ》とき宇《ウ》を省く例、古言にいと多し、食《ウケ》も、大食《オホケ》御食《ミケ》など云ときこそ氣《ケ》とは云(ヘ)、さらで只《タダ》には、必|宇氣《ウケ》宇迦《ウカ》といふぞ、】又|宇氣《ウケ》を轉《ウツシ》て宇迦《ウカ》とも云、【こは風《カゼ》を加邪《カザ》稻《イネ》を伊那《イナ》酒《サケ》を佐加《サカ》と云と同く、第四(ノ)音の第一(ノ)音に轉る格なり、】下なる宇迦之御魂《ウカノミタマノ》神、書紀神武(ノ)卷の稻魂女《ウカノメ》など是なり、如是《カカ》れば氣《ケ》宇氣《ウケ》宇迦《ウカ》みな同(ジ)言にて、右の神等《カミタチ》の御名、いづれも此(ノ)食の意なり、【御膳《ミケ》御饌《ミケ》などとも書て、凡て食物《ヲシモノ》のことなり、書紀に倉稻《ウカ》など書れたるは、意を得てのことぞ、】さて御食津神《ミケツカミ》【津《ツ》の下に之《ノ》を添《ソヘ》て唱(フ)るは、ひがことなり、凡て某津《ナニツ》と云語に、然《サル》例なきを思へ、】と云は、正《マサ》しく此《ココ》と同(ジ)名なり、凡て大御《オホミ》とも大《オホ》とも御《ミ》とも云(フ)、みな同(ジ)意なり、神祇官に坐(ス)、御巫の祭《イツク》神八座の中の御食津神《ミケツカミ》を、祈年《トシゴヒノ》祭(ノ)祝詞には、大御膳都神《オホミケツカミ》と云り、又文徳實録二に、河内(ノ)國恩智大御食津彦(ノ)命(ノ)神、恩智大御食津姫(ノ)命(ノ)神、【こは帳に、高安(ノ)郡恩智(ノ)神(ノ)社二座とあるこれなり、】さて上に粟《アハノ》國の亦(ノ)名も、此《ココ》と同(ジ)意以(テ)稱《タタヘ》しなり、一(ツ)神には非ず、又下に須佐之男《スサノヲノ》命の食物《ヲシモノ》を乞《コハシ》しは、【傳九(ノ)八葉】此《ココ》なると一(ツ)神なるべし、【彼《ソ》を書紀に保食《ウケモチノ》神とあるは、彼《カレ》と一(ツ)神にて、御名の傳(ヘ)の少し異なるなり、されど名(ノ)義は同きこと、右に云が如し、】

〇火之夜藝速男《ヒノヤギハヤヲノ》神、夜(ノ)字は迦《カ》の誤(リ)ならむか、亦(ノ)名の炫《カガ》迦具《カグ》などと、同じ類なるべければなり、迦藝《カギ》のことは次に云べし、又|夜藝《ヤギ》ならば、燒《ヤキ》の意なるべし、【濁音の藝《ギ》を書る由は、下の速《ハヤ》の波《ハ》を濁るべきを、其(ノ)濁(リ)を上へ轉《ウツ》せる、上(ツ)代の音便にて、上なる豐久士比泥別《トヨクジヒネワケ》の處に委く云るが如し、考(ヘ)合すべし、然るを師は、濁音を書るは燒《ヤキ》には非ず、かゞやぎのやぎなり、と云れつれど、かゞやぎならむには、かゞとこそ云べけれ、かゞを略て、やぎとのみは云べきに非ず、又かゞやきのキも、濁らむこといかゞ、又ヤケと訓るは、古(ヘ)の假字づかひを知(ラ)ぬなり、又舊事紀に火(ノ)燒速男とかけるは、既に假字の清濁みだれつる世の人の作れる書なれば、藝を清音に讀て、みだりに燒《ヤキ》とせるなれば、據とするにたらず、】速《ハヤ》は例の稱名《タタヘナ》なり、

〇火之炫毘古《ヒノカガビコノ》神、炫は迦賀《カガ》と訓べし、靈異記に、炫を加々也計利《カガヤケリ》と訓り、字書にも耀光也とも、火光也とも、明也とも注せり、【然るを舊事紀に、火々稱彦《ホホヤケビコ》とあるに依て、延佳が、稱(ノ)字に改めつるは非なり、舊事紀は信《タノミ》がたし、此記諸(ノ)本みな炫と作《ア》り、又師は炫を用ひて、本能※〔氏/一〕理《ホノテリ》と訓れき、此(レ)もいかゞ、】

〇火之迦具士《ヒノカグヅチノ》神、迦具《カグ》は赫《カガヤク》と云意、其《ソ》は迦賀《カガ》とも迦藝《カギ》とも迦具《カグ》とも迦宜《カゲ》とも活《ウゴキ》て、同(ジ)言なり、迦藝《カギ》と云る例は若櫻(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、火《ヒ》を加藝漏肥《カギロヒ》とよみ給へる【萬葉にも、香切火《カギロヒ》のもゆる荒野とあり、】是なり、迦宜《カゲ》は影《カゲ》と云是なり、さて土《ツチ》は、都《ツ》は例の助辭、知は例の尊稱なり、【此例上に委く云り、】さて右の三(ノ)名の火之は、みな肥能《ヒノ》と訓べき例なり、【本能《ホノ》と訓(ム)は誤(リ)なり、凡て火《ヒ》を本《ホ》と云は、木《キ》を許《コ》と云と同(ジ)格にて、木末《コヌレ》木陰《コカゲ》木立《コダチ》などの如く、下に言を聯《ツラ》ぬるとき、火影《ホカゲ》火中《ホナカ》火瓮《ホベ》火處《ホドコロ》など云、中《ナカ》に之《ノ》を夾《ハサミ》ても、木葉《コノハ》木本《コノモト》木芽《コノメ》などの如く、焔《ホノホ》火氣《ホノケ》など云(フ)、しかるに此《ココ》は、其類に非ず、火之《ヒノ》と姑《シバラク》切《キ》るゝが如くにて、下の言へ直《タダ》に聯《ツラ》なるに非《アラ》ねば、本《ホ》と訓(ム)例には非ず、右の格の外に、たゞ火《ヒ》とのみあるをも、本《ホ》とよむは誤なり、又|某火《ナニビ》と下に附《ツク》ときも、肥《ヒ》と訓(ム)例にて、本《ホ》と訓(ム)は誤なり、此(レ)等《ラ》も木《キ》と同格ぞ、是(レ)等《ラ》の格《サダマリ》を知(ラ)ずて、妄《ミダリ》に本《ホ》と云を古言ぞと、世人の思へる故に、委く辨《ワキマヘ》おくなり、】さて此神を、書紀(ノ)一書に火産靈《ホムスビ》ともあり、【鎭火(ノ)祭(ノ)祝詞にも此(ノ)名を云り、これを本能牟須備《ホノムスビ》と訓(ム)もひがことなり、本牟須備《ホムスビ》と訓べし、凡て某産靈《ナニムスビ》と云例、みな之《ノ》てふ辭なきを思ひわたして知(ル)べく、はた古書|何《イヅ》れにも、之(ノ)字を添《ソヘ》ず、唯舊事紀に、火之産靈とかけるは、古語をしらずして、俗訓《サトビヨミ》のまゝに書るひがことなり、】神名帳に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|香都知《カグヅチノ》神(ノ)社、伊豆(ノ)國田方(ノ)郡|火牟須比《ホムスビノ》命(ノ)神(ノ)社あり、又丹波(ノ)國桑田(ノ)郡|阿多古《アタゴノ》神(ノ)社【即京(ノ)西の愛宕《アタゴ》なり、】も、此神を祭(ル)となり、【阿多古《アタゴ》とは、御祖《ミオヤ》を燒《ヤキ》たまひし故に、仇子《アタゴ》と云意にや、】

〇美蕃登《ミホト》は御陰《ミホト》なり、下に訓(テ)2陰上(ヲ)1云(フ)2富登《ホトト》1とあり、【登は清音なり、濁るはわろし、】名(ノ)義は、師(ノ)云(ク)、含處《フホト》なり、萬葉に、保々萬留《ホホマル》とも布保隱《フホゴモリ》とも云る同じ、頬《ホホ》も物を含《フフ》む故の名なりとあり、さて記中の例を考るに、富登《ホト》とは皆女に云れば、男(ノ)陰にはわたらぬ名にやあらむ、書紀武烈(ノ)卷に不淨《ホトドコロ》とあるも、女に云り、但し下に、此(ノ)迦具士(ノ)神に陰とあるも、然《シカ》訓《ヨム》べければ、男にもわたるか、さだかならず、和名抄には、陰(ハ)玉莖玉門等(ノ)之通稱也と有て、和名は載《ノセ》ず、中卷に畝火山之美富登《ウネビヤマノミホト》と、山にも云り、【小腹《ホガミ》は富登上《ホトガミ》の意か、】

〇見炙は、夜加延《ヤカエ》と訓(ム)ぞ古言なる、凡て被《レ》v炙《ヤカ》被《ル》v炙《ヤカ》などの類の禮《レ》と流《ル》とは、古(ヘ)は延《エ》と云(ヒ)由《ユ》と云り、書紀齊明天皇(ノ)大御歌に、倭須羅〓麻自珥《ワスラユマジニ》、【忘《ワス》らるまじになり、】萬葉一【二十六丁】に家之所偲由《イヘシシヌバユ》、五【十丁】に、可久由既婆《カクユケバ》、比登爾伊等波延《ヒトニイトハエ》、可久由既婆《カクユケバ》、比登爾邇久麻延《ヒトニニクマエ》、【厭《イトハ》れ惡《ニクマ》れなり、】又【三十八丁】禰能尾志奈可由《ネノミシナカユ》、七【三十三丁】に衣爾須良由奈《キヌニスラユナ》、十五【二十丁】に伊能禰良延奴爾《イノネラエヌニ》など、この餘《ホカ》も多し、

〇病臥在は夜美許夜世理《ヤミコヤセリ》と訓べし、臥《フス》を許夜須《コヤス》と云は古言なり、書紀聖徳(ノ)太子命《ミコノミコト》の御歌に、伊比爾惠※〔氏/一〕許夜勢屡《イヒニヱテコヤセル》、萬葉三【四十三丁】同(ジ)命(ノ)御歌に、客爾臥有此旅人《タビニコヤセルコノタビト》、【これを布志多留《フシタル》と訓るは非なり、】五【九丁】に許夜斯怒禮《コヤシヌレ》、などなほ多し、記中に許夜流《コヤル》ともあり、又書紀【十四の三丁】に反側《コイマロブ》、萬葉【五の二十八丁】に宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》、などある許伊《コイ》も、同言の活《ウゴ》けるなり、【やいゆえよの通ひなり、】さて此《ココ》に、在(ノ)字を下に添(ヘ)たるは、右の萬葉に有(ノ)字あると同くて、世理《セリ》てふ辭にあてて書るなり、【此格萬葉に多し、】

〇多具理邇《タグリニ》は、書紀に爲《ス》v吐《タグリ》と書り、言の意は、髪を揚《アグ》るを、萬葉【二の十六丁】に多氣婆奴禮《タゲバヌレ》、多香根者長寸妹之髪《タガネバナガキイモガカミ》云々、又【九の三十五丁】小放爾髪多久麻庭爾《ヲバナリニカミタグマデニ》などよみ、又【十四の十九丁】古麻波多具等毛《コマハタグトモ》、又【十九の十一丁】馬太伎由吉※〔氏/一〕《ウマダキユキテ》、【手綱《タヅナ》してひき上《アグ》る意と聞ゆ、】などよめると同じきか、繩などをたぐると云も、掻上《カキアグ》る意ありて同じ、※〔口+歳〕噎《サクリ》の久理《クリ》も此(ノ)久理《クリ》と同じ、【俗に歐氣を世具理《セグリ》と云ひ、兒のよだりをも久留《クル》と云、又|咳《セキ》をせくと云ことを、播磨(ノ)國のあたりにては、せきをたぐると云となり、】和名抄には、歐吐【倍止都久《ヘドツク》、又|太萬比《タマヒ》、】※〔口+見〕吐【豆太美《ツダミ》、】とあり、【豆太美《ツダミ》は乳吐《チダマヒ》なり、】

〇生神は、次の屎尿に成神とある例に依て、此(ノ)生をも那理麻世流《ナリマセル》と訓べし、

〇金山毘古《カナヤマビコノ》神、金山毘賣《カナヤマビメノ》神、名(ノ)義は枯惱《カレナヤマ》しなり、【腦《ナヤム》は痿病《ナエヤム》なり、】書紀に悶熱懊腦因爲吐《アツカヒナヤマシテタグリス》、とある意なり、枯《カレ》と云故は、中卷(ノ)末に、其兄八年之間(ニ)干萎病枯《ヒシナビヤミカレキ》、とある意なり、【哀憔悴《カナシカジケ》の加《カ》、憊《ツカルル》の加留々《カルル》など、みな枯《カレ》なり、】式に、河内(ノ)國大縣(ノ)郡|金山孫《カナヤマビコノ》神(ノ)社、金山孫女《カナヤマビメノ》神(ノ)社、美濃(ノ)國不破(ノ)郡|仲山金山彦《ナカヤマカナヤマビコノ》神(ノ)社、【今南宮と申(ス)は此《コレ》なり、文徳實録二(ノ)卷に、越前(ノ)國金山彦(ノ)神とあるは、此《コレ》か別か、】

〇屎《クソ》、和名抄に、糞(ハ)屎也、和名|久曾《クソ》、

〇波邇夜須毘古《ハニヤスビコノ》神、波邇夜須毘賣《ハニヤスビメノ》神、名義は埴黏《ハニネヤス》なり、字鏡に、※〔手偏+延〕(ハ)謂(フ)v作(ルヲ)2泥物(ヲ)1也|禰也須《ネヤス》とあり、【からぶみ尚書(ノ)禹貢に、厥(ノ)土(ハ)赤(シテ)埴墳とある埴を、古(キ)訓に禰延《ネエ》とあり、史記も同じ、説文に埴(ハ)黏土也とあり、禰夜須《ネヤス》は令《シムル》v黏《ネエ》なり、令《シムル》v肥《コエ》を許夜須《コヤス》といふと同格なり、】書紀神武(ノ)卷【戊午(ノ)年】に、宜取天香山社中土以造天平瓮八十枚《アメノカグヤマノヤシロノチノハニヲトリテアメノヒラカヤソキヲツクレ》云々、又【己未(ノ)年】前年秋九月《イニシトシノナガヅキニ》、潜《ヒソカニ》取(テ)2天香山之埴土《アメノカグヤマノハニヲ》1、以|造《ツクリ》2八十平瓮《ヤソヒラカヲ》1、躬自齋戒祭《ミミヅカラユマハリテマツリタマヒテ》2諸神《カミタチヲ》1、遂得《ツヒニ》安2定《シヅメタマヘル》區宇《アメノシタヲ》1故《ユヱニ》、號《ナヅク》2取《トレル》v土《ハニヲ》之|處《トコロヲ》曰|埴安《ハニヤスト》1、【安《ヤス》を上の安定の文へ當《アテ》て見るは、古(ヘ)の意にあらず、是も黏《ネヤス》といふ意なり、】是にて心得べし、さて如此《カク》御名を負せたるは、屎《クソ》の形状《アリサマ》の、埴《ハニ》を泥夜志《ネヤシ》たるに似たればなり、式に大和(ノ)國十市(ノ)郡|畝尾坐健土安《ウネヲニマスタケハニヤスノ》神(ノ)社、【畝尾は香山《カグヤマ》の畝尾《ウネヲ》にて、地(ノ)名となれり、さて比(ノ)神(ノ)社(ノ)號に依れば、此《ココ》の神(ノ)名は、此(ノ)香山なる地名《トコロノナ》より出たるに似たれど、然《サ》には非じ、凡て此(ノ)前後《アタリ》の神に、地(ノ)名を取て名《ナヅケ》たる例なし、彼(ノ)地名は、返りて此(ノ)土安《ハニヤスノ》神の鎭坐《シヅマリマス》より出けむを、右の書紀の説は、異一傳《コトナルヒトツノツタヘ》にも有(ル)べし、凡て地名の由縁は、異説ある例多し、式に畝尾坐《ウネヲニマス》とあるを以ても、土安《ハニヤス》は地名に非ず、もと神(ノ)名なることを知(ル)べし、】さて此(ノ)神書紀には、土《ツチノ》神|埴山姫《ハニヤマビメ》とありて、唯一書に埴安《ハニヤスノ》神とあり、鎭火祭(ノ)祝詞にも埴山姫《ハニヤマビメ》とあり、屎のさま山にも似たる故に、然《サ》も云るにや、【又思ふに、上にある金山《カナヤマ》に准へていはば、埴山《ハニヤマ》は麻理病《マリヤマヒ》と云意か、波《ハ》と麻《マ》と通ふ、尿《ユマリ》をゆばりとも云が如し、理《リ》と爾《ニ》と通ふ、山城の苅羽井《カリバヰ》を、樺井《カニバヰ》と式にはあり、さて麻理は屎の出るを云、下に見えたり、此(レ)を用るときは、波邇夜須も其意にて、夜須は病なり、齋宮式(ノ)忌詞に病(ヲ)稱《イフ》2夜須美《ヤスミト》1、】式に、阿波(ノ)國美馬(ノ)郡|彌都波能賣《ミツハノメノ》神社、波爾移麻比彌《ハニヤマヒミノ》神社あり、【本|彌《ミ》を禰《ネ》と誤(ル)、】又中(ツ)卷堺原(ノ)宮(ノ)段に、此二神と同名の男女あり、其《ソ》は彼(ノ)地名よりぞ出(デ)つらむ、

〇上件|迦具士《カグヅチ》金山《カナヤマ》波邇夜須《ハニヤス》と云名、皆天(ノ)香《カグ》山に由縁《ヨシ》あり、先(ヅ)彼(ノ)山の名|迦具士《カグヅチ》と同く、又此(ノ)神の所殺《コロサレ》坐る身體《ミミ》に、諸の山津見《ヤマツミノ》神の成坐るも、山に由あり、又石屋戸(ノ)段に、取2天(ノ)金山(ノ)之鐵(ヲ)1とあるを、書紀には天(ノ)香山とあれば、香《カグ》山と金山とも由あり、又|波邇夜須《ハニヤス》と云地(ノ)名の、倭の香山にあるも由あり、これらたま/\に然ることとは聞えず、いかさまにも所以《ユヱ》ありげなるゆゑに、驚かしおくなり、

〇尿《ユマリ》、書紀に※〔尸/(さんずい+毛)〕此(レヲ)云(フ)2愈磨理《ユマリト》1、和名抄に、尿(ハ)小便也|由波利《ユバリ》とあり、由《ユ》は湯《ユ》、麻理《マリ》は屎麻理《クソマリ》の麻理に同くて、其(ノ)出るを云、【書紀の訓注の磨(ノ)字は、婆《バ》の假字にも用ひたれば、和名抄と照して、由婆理《ユバリ》ともよむべけれど、屎《クソ》まると同きこと疑《ウツ》なければ、由麻理《ユマリ》なり、ゆばりと云は、やゝ後に轉れる言なるべし、書紀に小便とあるを、ユバリマルと訓るは誤なり、ユマリスと訓べし、

〇俗に遺尿をよつばりといふは、夜尿《ヨユバリ》なり、又馬(ノ)小便をばりといふ、】さて上(ノ)件、吐《タグリ》も屎《クソ》も尿《ユマリ》も、皆|病臥在《ヤミコヤセル》ほどの御態《ミシワザ》なり、

〇彌都波能賣《ミツハノメ》、書紀に、水神罔象女《ミヅノカミミツハノメ》、罔象此(レヲ)云(フ)2美都波(ト)1とあり、又神武(ノ)御卷にも、水(ノ)名(ヲ)爲《イフ》2嚴罔象女《イヅミツハノメト》1、罔象女此(レヲ)云(フ)2彌菟破廼迷《ミツハノメト》1とあり、【都波二字共に清音の假字なり、書紀も同じ、これを濁音に讀(ム)はわろし、又波能を能波と作《カケ》る本あり、誤なり、今は延佳本又一本に依れり、】名(ノ)義、彌《ミ》は水《ミ》なるべし、都波《ツハ》は未(ダ)思(ヒ)得ず、【前《サキ》に、都波《ツハ》は都夫羅《ツブラ》なるべし、夫羅《ブラ》を切《ツヅム》れば婆《バ》なり、都夫羅の意は、上の頬那藝《ツラナギノ》神の所に云りといひ、又|彌都《ミヅ》は水《ミヅ》、波《ハ》は此(レ)も麻理《マリ》と云意か、はた早《ハヤ》の意か、萬葉十二に、石走垂水之水能早敷八師《イハバシルタルミノミヅノハシキヤシ》、これ波《ハ》の一言を、早《ハヤキ》意に取てつゞけたり、などいひしは、皆よくもあらず、】書紀一書(ノ)中の亦(ノ)一説に、向《ムキテ》2大樹《オホギニ》1放※〔尸/(さんずい+毛)〕《ユマリシタマヘバ》、此即《ヤガテ》化2成《ナリキ》巨川《オホカハニ》1とあるは、一(ツ)の傳(ヘ)なり、さて土《ツチ》と水とは、穀物《タナツモノ》の成《ナル》べき基《モトヰ》なれば、先(ヅ)此神たち成(リ)坐(ス)なり、又|糞《クソ》尿《ユマリ》も、土を肥《コヤ》し、穀物《タナツモノ》を助《タス》け成(ス)物なれば、由あるをや、

〇和久産巣日《ワクムスビノ》神、和久《ワク》は、書紀に稚(ノ)字を書り、凡て稚《ワカ》を古言に和久《ワク》と言《イヘ》る多し、武烈(ノ)卷の歌に、思寐能和倶吾《シビノワクゴ》、【鮪若子《シビノワクゴ》なり、】繼體(ノ)卷の歌に、愷那能倭倶吾《ケナノワクゴ》【毛野若子《ケナノワクゴ》なり、】などあり、萬葉十四にも、等能乃和久期《トノノワクゴ》とよめ」り、産巣日《ムスビ》の事は上【傳三の十三葉】に出たり、さて此神は、書紀一書に、※〔車+可〕遇突智娶(テ)2埴山姫1生2稚産靈《ワクムスビヲ》1、此(ノ)神(ノ)頭上(ニ)生(リ)2蠶(ト)與《ト》1v桑、臍(ノ)中(ニ)生(レリ)2五穀1とあるは、異なる傳(ヘ)なれども、【大宜都比賣の事と併せ考ふべし、傳九の七葉】豐宇気毘賣(ノ)神の御親《ミオヤ》なると合せて思へば、既に土と水との神たち成(リ)坐て、次に穀物《タナツモノ》の成るべき産靈《ムスビ》の神なり、和久《ワク》とは、たゞ何《ナニ》となく稱《タタヘ》たるか、はた穀物《タナツモノ》に由あるか、はた高御産巣日神産巣日に對《ムカヘ》て稱《タタヘ》たるか、

〇豐宇氣毘賣《トヨウケビメノ》神、豐《トヨ》は稱名《タタヘナ》、宇氣《ウケ》は既に大宜都比賣の所に云るが如し、書紀に、葦原中國《アシハラノナカツクニニ》有《アリ》2保食神《ウケモチノカミ》1【保食神此(ヲ)云(フ)2宇氣母知能加微(ト)1、】云々とある所、考(ヘ)合すべし、私記に、宇氣《ウケハ》者食(ノ)之義也、言《ココロハ》是保2持食物(ヲ)1之神也と云り、又書紀に、伊弉諾(ノ)尊又飢時(ニ)生兒號倉稻魂命《ウミマセルミコノミナハウカノミタマノミコト》、こは此《ココ》の神の傳(ヘ)の異なるなり、【此記には、須佐之男(ノ)命の御子に、宇迦之御魂(ノ)神といふあり、】大殿祭(ノ)祝詞に屋船豐宇氣姫《ヤフネトヨウケビメノ》命、【是(ハ)稻(ノ)靈《ミタマ》也、】又下なる登由宇氣《トユウケノ》神の處考(ヘ)合すべし、【傳十五】又神名帳に、大和(ノ)國廣瀬(ノ)郡(ノ)廣瀬(ニ)坐(ス)和加宇加賣《ワカウカノメノ》命(ノ)神(ノ)社、【宇氣と宇迦と同じきこと、上に云るが如し、】廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)祝詞に、御膳持須留若宇加能賣能命登御名者白※〔氏/一〕《ミケモタスルワカウカノメノミコトトミナハマヲシテ》云々、【此祝詞の文考へ見べし、又此神を大忌(ノ)神と申すこと、書紀(ノ)天武(ノ)卷に見ゆ、】續紀に、寶龜九年六月、奉2幣帛(ヲ)於廣瀬龍田二社(ニ)1、爲(メナリ)2風雨調和秋稼豐稔(ノ)1也、神名帳に、丹後(ノ)國竹野(ノ)郡|大宇加《オホウカノ》神(ノ)社奈具(ノ)神(ノ)社あり,【伊勢の鎭座傳記と云書に、丹後(ノ)國竹野(ノ)郡奈具(ノ)社(ニ)座(ス)豐宇賀能賣(ノ)神と云り、】さて上に大宜都比賣(ノ)神ありて、又|此《ココ》に重(ネ)て此(ノ)神あるは疑はし、水分《ミクマリノ》神|等《ナド》上に有て、又|彌都波能賣《ミツハノメノ》神あるも同じことなり、上(ツ)代の傳(ヘ)事《ゴト》なれば、まがひつることも有けむかし、書紀には、然《シカ》重《カサナ》れるをきらひて、省《ハブ》かれつと見えて、此記にある神の無《ナキ》が多かるはや、

〇火神は肥能加微《ヒノカミ》と訓べし、【これも本能《ホノ》と訓(ム)は訛《アヤマリ》ること、上に云るが如し、】

〇遂《ツヒニ》の假字は都比爾《ツヒニ》なり、記中高津(ノ)宮(ノ)段の歌に見ゆ、

〇神避坐《カムサリマシヌ》也、この神《カム》てふ言は、神集《カムツドヒ》神祝《カムホザキ》神逐《カムヤラヒ》神議《カムハカリ》などの神《カム》にて、凡て神《カミ》の御上《ミウヘ》のことに附《ツケ》云(フ)言なり、迦牟阿賀理《カムアガリ》も同じ、【御魂《ミタマ》の御身《ミミ》を去《サル》ことと思ふは誤なり、】鎭火(ノ)祭(ノ)祝詞に、國能八十國嶋能八十嶋乎生給比《クニノヤソクニシマノヤソシマヲウミタマヒ》、八百萬神等乎生給比※〔氏/一〕《ヤホヨロヅノカミタチヲウミタマヒテ》、麻奈弟子爾火結神生給※〔氏/一〕《マナオトゴニホムスビノカミウミタマヒテ》、美保止被燒※〔氏/一〕石隱坐※〔氏/一〕《ミホトヤカエテイハガクリマシテ》云々、

〇註に、毘賣《ビメ》の毘を、比と書るは誤なり、今は一本に從ふ、

〇并八神《アハセテヤバシラ》、此數|合《アハ》ざるに似たり、其事次に云べし、

〇嶋壹拾肆嶋は、志麻登袁麻理余志麻《シマトヲマリヨシマ》と訓べし、餘《アマリ》と云べきを阿《ア》を省(キ)て、麻理《マリ》と云は、古言なり、例は續後紀十五に、尾張(ノ)連濱主てふ人、百十三歳にて、毛々知萬利止遠乃於支奈《モモチマリトヲノオキナ》、【百餘十之翁《モモチマリトヲノオキナ》なり、】と自《ミヅカラ》歌《ウタ》へる是なり、

〇神參拾伍神《カミミソヂマリイツバシラ》、此數|誰《タレ》も疑ふことなり、まづ大事忍男(ノ)神より悉《コトゴト》く數《カゾフ》れば、四十柱なり、其中に速秋津日子速秋津比賣の生《ウミ》坐る八柱と、大山津見野椎(ノ)神の生坐る八柱と、豐宇氣比賣(ノ)神と、并《アハセ》て十七柱を除《ノゾ》けば、二十三柱なり、【延佳が、此數を合さむとて云ることは誤れり、まづ八嶋(ノ)八神、六嶋(ノ)六神と云るひがことなり、嶋は嶋にて神にあらねば、此數に入(ル)べきに非ず、若(シ)強《シヒ》て入(レ)ば、伊余之二名(ノ)嶋に四神、筑紫(ノ)嶋に四神の名あれば、八嶋と六嶋の神合(セ)て二十神なるをや、はた天(ノ)鳥船より和久産巣日(ノ)神まで七神と云るも違へり、其《ソ》は九神にこそあれ、】故《カレ》つら/\思ひ、くさ/\に數試《カゾヘミル》に、凡て四十柱の中にて、石土毘古石巣比賣を一柱とし、速秋津日子速秋津比賣を一柱とし、大戸惑子大戸惑女を一柱とし、金山毘古金山毘賣を一柱とし、波邇夜須毘古波邇夜須毘賣を一柱として數《カゾフ》れば、三十五柱なりけり、如此《カク》比古比賣と並(ビ)坐(ス)をば、一柱として數ふること、故あるべし、【此(ノ)比古比賣と並(ビ)坐(ス)神たち、書紀にはみな一柱づゝのみなるも、此《ココ》に由《ヨシ》あり、】然《シカ》數《カゾフ》るときは、上に、自2天(ノ)鳥船1至2豐宇氣毘賣神(ニ)1并(テ)八神、とあるも合《アヘ》り、又下(ノ)段に、大年(ノ)神(ノ)之子云々、并(テ)十六神、とあるも此例にて其(ノ)數あへり、【但(シ)大事忍男より速秋津比賣まで井(テ)十神といひ、天(ノ)狹土より大戸惑女まで并(テ)八神といへるは、又右の例に合はず、此《コ》は比古比賣を分て數へつるなり、】

〇此記、數《カズ》の字を、多く壹《ヒト》貳《フタ》參《ミ》肆《ヨ》伍《イツ》陸《ム》漆《ナナ》捌《ヤ》玖《ココノ》拾《トヲ》佰《モモ》仟《チ》と書り、此《コレ》を大字と云(フ)、公式令に、凡(ソ)簿帳科罪計贓過所抄※〔片+旁〕之類、有v數者(ハ)爲2大字(ト)1、【この大(ノ)字を、印本に本(ノ)字に誤れり、】民部式に、凡諸國進(ル)v官(ニ)雜物返抄、稱(スル)2其年物(ヲ)1者、皆作2大字(ニ)1、とあるこれなり、こは常の一二三などの字は、畫の少《スクナ》くてまがひやすき故に、音も義も近き字を借(リ)て、如此《カク》書るにて、漢《カラ》國よりある事なり、されど此記にしも其《ソ》を用ひたるは、何《ナニ》の由《ヨシ》にか、然らずともありぬべき物をや、

〇例(ノ)字、師はこれをも列の誤ならむと云れき、

 

故爾伊邪那岐命詔之《カレココニイザナギノミコトノノリタマハク》。愛我那邇妹命乎《ウツクシキアガナニモノミコトヤ》。【那邇二字以音下效此】謂易子之一木乎《コノヒトツケニカヘツルカモトノリタマヒテ》。乃匍匐御枕方《ミマクラベニハラバヒ》。匍匐御足方而哭時《ミアトベニハラバヒテナキタマフトキニ》。於御涙所成神《ミナミダニナリマセルカミハ》。坐香山之畝尾木本《カグヤマノウネヲノコノモトニマス》。名泣澤女神《ミナハナキサハメノカミ》。故其所神避之伊邪那美神者《カレソノカムサリマシシイザナミノカミハ》。葬出雲哭與伯伎哭堺比婆之山也《イヅモノクニトハハキノクニトノサカヒヒバノヤマニカクシマツリキ》。

愛は、【波志伎《ハシキ》とも、宇琉波志伎《ウルハシキ》とも訓べけれど、】書紀(ノ)齊明天皇(ノ)大御歌に、于都倶之枳阿餓倭※〔木+可〕枳古弘《ウツクシキアガワカキコヲ》【愛朕稚兒をなり、】云々、と有(ル)に依て宇都久斯伎《ウツクシキ》と訓つ、萬葉三【五十丁】大伴(ノ)旅人卿(ノ)歌に、愛人《ウツクシキヒト》とも妻を指て云り、又孝徳(ノ)御卷(ノ)歌にも于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》、萬葉廿【三十二丁】防人《サキモリガ》歌にも、有都久之波々爾《ウツクシハハニ》など讀《ヨメ》り、

〇那邇妹《ナニモ》は、書紀(ノ)履中(ノ)卷に、鳥往來羽田之汝妹者《トリカヨフハダノナニモハ》云々、汝妹此(レヲ)云(フ)2儺邇毛《ナニモト》1とあり、邇《ニ》は伊《イ》と同韻を通はして云か、はた萬葉九(ノ)卷【三十二丁】に、妹名根《イモナネ》ともあれば、名根妹《ナネイモ》の禰伊《ネイ》を切《ツヅメ》て邇《ニ》と云か、【白檮原(ノ)宮(ノ)段に那泥汝命《ナネナガミコト》ともあり、又萬葉十七に、弟をさして奈弟乃美許等《ナオトノミコト》ともあり、】

〇乎(ノ)字は夜《ヤ》と訓べし、須勢理毘賣《スセリビメ》の長歌【傳十一の四十四葉】に、八千矛之神能美許登夜《ヤチホコノカミノミコトヤ》云々、とある語《ノ》勢に似たればなり、此|夜《ヤ》は呼《ヨビ》出す辭にて、余《ヨ》と云むが如し、如是《カカ》る所に乎(ノ)字を用ひたる例、記中に多し、

〇註(ノ)邇(ノ)字、今(ノ)本はみな爾と作《カケ》り、本文に依て改(メ)つ、

〇易子之一木乎は、古能比登都氣爾加閇都流加母《コノヒトツケニカヘツルカモ》と訓べし、玉垣(ノ)宮(ノ)段に、吾殆見欺乎《アレホトホトアザムカレツルカモ》乃云々、とある語(ノ)勢に似たり、一木は、私記(ニ)曰(ク)、一兒《コノヒトツケ》、古事記及(ビ)日本新抄|並《ミナ》云(ヘリ)v謂(ト)d易2子之一木《コノヒトツケニ》1乎(ト)u、古者《オイニシヘハ》謂(テ)v木(ヲ)爲《(ス)v介《ケト》、故(ニ)今云(フヲ)2神今|食《ケト》1者《バ》、古(ヘハ)謂(フ)2之神今|木《ケト》1矣、云々と云り、此(ノ)訓|古《フル》き傳(ヘ)と聞えたり、猶古(ヘ)に木を氣《ケ》とも云し例は、書紀景行(ノ)卷に、御木《ミケ》、木此(レヲ)云(フ)v開《ケト》、萬葉廿【二十一丁】に、眞木柱を麻氣波之良《マケバシラ》、又【二十八丁】松(ノ)木を麻都能気《マツノケ》とよめり、【氣は必ケの假字なり、】又近江の佐々木を、和名抄に篠笥《ササケ》ともあり、さて今子一人とあるべきを、かく詔ふ由は未(ダ)思(ヒ)得ず、【私記に、蓋(シ)古(ヘ)以2貴人(ヲ)1喩(フ)2於木(ニ)1、故(ニ)謂(テ)2神及(ビ)貴人(ヲ)1、爲2一柱一木(ト)1矣、以2賤人(ヲ)1喩(フ)2於草(ニ)1、故(ニ)謂(テ)2天下(ノ)人民(ヲ)、爲2青人草(ト)1也と云(ヘ)れど、此(ノ)説|可《ヨシ》とも所思《オボエ》ず、なほ別意《コトココロ》あるべきものなり、】加毛《カモ》は後(ノ)世に哉《カナ》と云に同(ジ)辭なり、さて此(ノ)御言は、愛《ウツクシ》み所思《オモホ》す妹(ノ)命を、一人の子に替《カヘ》て、神避坐《カムサリマサ》せつることよと、悼《イタ》み惜《ヲシ》みたまへるなり、上に詔之《ノリタマハク》と有て、又|謂《ノリタマヒ》とあること、首(ノ)卷【七十一葉】に委《ツバラ》に云るが如し、

〇乃(ノ)字訓《ヨム》べからず、謂《ノリタマヒ》ての※〔氏/一〕《テ》にあたれり、

〇御枕方《ミマクラベ》御足方《ミアトベ》は、書紀に、頭邊此(レヲ)云(フ)2麻苦羅陛《マクラベト》1、脚邊此(レヲ)云(フ)2阿度陛《アトベト》1とあり、萬葉三にも枕邊《マクラベ》てふ言あり、方を幣《ヘ》と云は、古《イニシヘ》昔《ムカシヘ》行方《ユクヘ》又|某倍《ナニベ》と云、皆此(ノ)方《ヘ》の意なり、【前《マヘ》は目方《マヘ》、後《シリヘ》は尻方《シリヘ》なり、齊明紀に、後方羊蹄此(ヲ)云(フ)2斯梨蔽之《シリヘシト》1と有(リ)、】萬葉五(ノ)卷【三十丁】に、父母波《チチハハハ》、枕乃可多爾《マクラノカタニ》、妻子等母波《メコドモハ》、足乃方爾《アトノカタニ》、圍居而《カクミヰテ》云々、古今集に、枕よりあとより戀のせめ來《ク》れば云々、阿登《アト》は足所《アト》なり、

〇匍匐は、記中にたゞ波布《ハフ》と訓べき所もあれど、此《ココ》は波良婆比《ハラバヒ》と訓べし、書紀の訓も然り、萬葉十九【四十一丁】 に、赤駒之腹婆布田爲《アカゴマノハラバフタヰ》、新撰字鏡に、匍(ハ)匍匐也、波良波比由久《ハラバヒユク》、靈異記に、匍匐(ハ)波良波不《ハラバフ》などあり、

○哭は、伊佐都《イサツ》も古語なれど、所成神名泣澤女《ナリマセルカミノミナナキサハメ》なれば、此《ココ》は那伎《ナキ》と訓ぞよけむ、

〇御涙《ミナミダ》、那美陀《ナミダ》は泣水垂《ナキミダリ》の意か、

〇香山《カグヤマ》は、神名式に、大和(ノ)國十市(ノ)郡|天香山坐《アメノカグヤマニマス》云々、書紀神武(ノ)卷に、香山此(ヲ)云(フ)2介遇夜摩《カグヤマト》1とあり、【遇《グ》を濁れること、是を始て古書皆同じ、】伊豫(ノ)國(ノ)風土記に、伊豫(ノ)郡、自(リ)2郡家1以《シテ》東北《ヒムカシキタニ》在《アリ》2天山《アメヤマ》1、所《タル》v名《ナヅケ》2天山《アメヤマト》1由《ユヱハ》者、倭《ヤマトニ》在《アリ》2天加具山《アメノカグヤマ》1、自(リ)v天《アメ》天降時《アマクダリシトキニ》、二分而《フタツニワケテ》、以《ヲ》2片端《カタハシ》1者《バ》天2降《アマクダシ》於|倭國《ヤマトノクニニ》1、以《ヲ》2片端《カタハシ》1者《バ》天2降《アマクダシシニ》於|此土《コノクニニ》1因《ヨリテ》謂《イフナリ》2天山《アメヤマト》1也、【仙覺(ノ)萬葉釋には、阿波(ノ)國(ノ)風土記にありと此事を云り、】萬葉に、天降付天之芳來山《アモリツクアメノカグヤマ》とある、此意なり、なほ此(ノ)山をよめる歌は、萬葉にも後(ノ)世にもいと多し、【山の南の麓に、今|香山《カクヤマ》村と云もあり、土人《クニビト》は山をも村をも、具《グ》を清《スミ》て呼《イ》ふなり、】

〇畝尾《ウネヲ》【和名抄に畝和名|宇禰《ウネ》、】は、師(ノ)云(ク)、此山の畝尾《ウネヲ》は、西へも引《ヒキ》、ことに東へは長く曳渡《ヒキワタ》りけむ、今ほその畝尾の形いさゝか殘れり、

〇木本《コノモト》、神名式に、十市(ノ)郡畝尾(ニ)坐(ス)健土安《タケハニヤスノ》神(ノ)社、畝尾(ノ)都多本《ツタモトノ》神(ノ)社、書紀にも、此《ココ》を香山といはで、たゞに畝丘樹下《ウネヲノコノモトニ》所居《マス》之|神《カミ》とあると、右の神名式とを合(セ)て思へば、畝尾《ウネヲ》も木本《コノモト》も、地名《トコロノナ》に爲《ナ》れるなり、【姓氏銀に畝尾(ノ)連と云姓もあり、此處よりぞ出けむ、今も木(ノ)本村と云あり、】さて木(ノ)本を都多本《ツタモト》とも云しにや、【書紀の註に是を、何所《イヅコ》にまれ田(ノ)畝或は丘《ヲカ》或は樹《ノ》下と云意ぞといふは、ひがことなり、】

〇泣澤女神《ナキサハメノカミ》、萬葉二(ノ)卷【三十六丁】に、哭澤之《ナキサハノ》、神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》、雖祷祈《イノレドモ》、我王者《ワガオホキミハ》、高日所知奴《タカヒシラシヌ》、【昔かく人(ノ)命を此(ノ)神に祈(リ)けむ由は、伊邪那美(ノ)神の崩(リ)坐るを哀《カナシ》みたまへる御涙より成(リ)坐る神なればか、】是《コ》は此(ノ)神(ノ)社と聞えたり、彼(ノ)都多本《ツタモトノ》社とは同(ジ)きや非(ズ)や、よく尋ぬべし、名(ノ)義、下に須佐之男(ノ)命のことに、啼伊佐知《ナキイサチ》とあるを合せて思へば、泣伊佐波女《ナキイサハメ》の意か、又|雨《アメ》を佐米《サメ》とも云は、此(ノ)佐波米《サハメ》か、【佐波は佐と約(ル)、涙の落るさま、雨の降《フル》と同じことぞ、さらしなの日記に、さめ/”\となきたまふを云々とある、今の世にもいふ語なり、これも涙のおつるさまを云て、即さはめ/\なるべし、】

〇出雲のことは下【傳九の四十五葉】に云、

〇伯伎《ハハキ》は、和名抄に伯耆【波々岐、】神名帳に、彼國(ノ)川村(ノ)都に波々伎《ハハキノ》神(ノ)社もあり、名(ノ)義しらず、若(シ)箒《ハハキ》より出たる由など有にや、【或は此(ノ)伊邪那美(ノ)命の事によりて、母君《ハハキノ》國なるべしと云るはいかゞ、】

〇堺《サカヒ》は坂合《サカアヒ》なること、上に云るが如し、【坂合部《サカアヒベ》てふ姓を、境部ともかけり、】

〇比婆之山《ヒバノヤマ》、婆(ノ)字、舊印本延佳本|及《マタ》一本などに冢は、波と作《ア》れど、今は眞福寺本又一本などに從へり、舊事紀又釋紀に引たるも、共に婆《バ》と作《カケ》り、【凡(テ)此(ノ)波と婆とは、互《タガヒ》に誤れる例多し、】さて此(ノ)山今|詳《サダカ》に知れず、國人などによく尋ぬべし、【或説に、出雲(ノ)國|秋鹿《アイカノ》郡|佐陀《サダノ》神(ノ)社是(レ)なりといへれど、秋鹿(ノ)郡は伯耆の堺に非ず、出雲風土記(ノ)鈔に、比婆(ノ)山(ハ)蓋(シ)是(レ)能義(ノ)郡母理(ノ)郷|日波村《ヒナミノ》山也と云り、又出雲風土記仁多(ノ)郡に灰火山あり、郡家(ノ)東南三十里と見えたれば、國(ノ)堺に近し、これもし火灰《ヒバヒ》山にはあらぬにや、又大原(ノ)郡に比和《ヒワノ》社|日原《ヒバラノ》社あり、されど此郡は國堺にはあらず、又備中(ノ)國|賀夜《カヤノ》郡に日羽《ヒバ》てふ郷《サト》、和名抄に見えたり、賀夜(ノ)郡のありかも知(ラ)ねど、備中備後伯伎出雲四國の堺あひ聯《ツラナ》れれば、おどろかしおくなり、又枕册子《マクラノザウシ》に山はと云中に、比波乃山《ヒハノヤマ》と云あり、是《コ》は何國《イヅレノクニ》なるにか、又伯耆(ノ)國人の物語に、今出雲(ノ)國の内、伯耆の堺に近き處の山間《ヤマアヒ》に、たわの内と云處あり、そこに伊邪那美(ノ)命の陵なりとて家あり、小竹《ササ》など生《オヒ》しげれり、此(ノ)冢の草などをば、牛馬も喰はず、牛馬を牽來《ヒキキ》て草を飼《カハ》むとすれども、此(ノ)冢のあたりへは牛馬よりつかず、退き去るなり、又此冢の竹を杖《ツヱ》につきて行くときは、蛇《クチナハ》のたぐひよりつかず、蛇の居る處へ此杖をつきたつれば、すくみて動くことあたはず、甚《イト》奇異《アヤシ》きことどもなりと云り、なほたしかに聞《キカ》まほしきことなり、】さて此《コレ》を書紀一書には、葬《カクシマツル》2於|紀伊國熊野之有馬村《キノクニノクマヌノアリマノムラニ》1焉とあるは、異なる一(ツ)の傳(ヘ)なり、【或人、後に木(ノ)國には改(メ)葬(リ)まつれるぞなどいふは、ひがことなり、】又出雲と木(ノ)國とは、遙《ハルカ》に隔《ヘダタ》りながら、神代には近く通《カヨヒ》て聞ゆること多し、其《ソ》は下なる木(ノ)國(ノ)之|大屋毘古《オホヤビコノ》神の處【傳十の二十九葉】に委く云、

〇葬は、書紀に※〔言+可〕久志奉《カクシマツル》と訓つ、萬葉二(ノ)卷、高市皇子尊《タケチノミコノミコト》の殯《アガリノ》宮の時、人麻呂の歌に、明日香乃《アスカノ》、眞神之原爾《マガミノハラニ》、久堅能《ヒサカタノ》、天津御門乎《アマツミカドヲ》、懼母《カシコクモ》、定賜而《サダメタマヒテ》、神佐扶跡《カムサブト》、磐陰坐《イハガクリマス》云々、又鎭火祭(ノ)祝詞に、即此(ノ)伊邪那美(ノ)命の御事《ミコト》をも、美保止被燒弖石隱坐弖《ミホトヤカエテイハガクリマシテ》とあれば、迦久須《カクス》と云も古稱《フルコト》なるべし、石隱《イハガクリ》と云も、石構《イハガマヘ》の内に葬り奉るに就《ツキ》て云|稱《ナ》なり、【又書紀崇峻(ノ)卷に、淤久《オク》と訓ることあり、此記中卷倭建(ノ)命(ノ)段に、后弟橘比賣海に入(リ)坐て、御櫛の海邊《ウミベタ》に依(リ)しを取て、作《ツクリテ》2御陵《ミサザキヲ》1而|治置《ヲサメオキツ》也とある、書紀神代(ノ)卷に奥津棄戸《オクツスタベ》、萬葉に墓を淤久都紀《オクツキ》とあまたよめるなどを思へば、淤伎奉《オキマツル》と訓(マ)むも古語ならむか、されど崇峻(ノ)卷なるも凡人《タダビト》のこと、此中卷なるも、櫛に就《ツキ》て云るかの疑(ヒ)もあり、又奥津棄戸淤久都紀などは異意なれば、猶《ナホ》書紀のなべての訓に依(リ)つ、】又|波夫流《ハブル》も古言なり、【波宇牟流《ハウムル》と云は、八日《ヤカ》を夜宇加《ヤウカ》、賜《タブ》を多宇夫《タウブ》、など云と同じ音便なり、】されど其《ソ》は、死人《シニビト》を送遣事《オクリヤルワザ》を稱《ナ》にて、日代(ノ)宮(ノ)段に、天皇之|大御葬《オホミハブリ》などある葬(ノ)字は、然《シカ》訓(ム)べけれど、【委く彼處に云、傳廿九の二十二の葉】此《ココ》は葬奉《ハブリマツリ》たる處《トコロ》に就《ツキ》て云なれば、波夫流《ハブル》とは事|違《タガヘ》り、似たることながら差《ケヂメ》ある物ぞ、【然るを後には、たゞ葬(ノ)字にのみ依(ル)から、混《マガ》ひはてにき、凡て字の意をのみ思(ヒ)ては、古言に叶はぬこと、此(ノ)類なり、】

 

於是伊邪那岐命《ココニイザナギノミコト》。拔所御佩之十拳劔《ミハカセルトツカツルギヲヌキテ》。斬其子迦具士神之頸《ソノミコカグヅチノカミノミクビヲキリタマフ》。爾着其御刀前之血《ココニソノミハカシノサキニツケルチ》。走就湯津石村所成神名《ユツイハムラニタバシリツキテナリマセルカミノミナハ》。石拆神次根拆神《イハサクノカミツギニネサクノカミ》。次石筒之男神《ツギニイハツツノヲノカミ》。【三神】次着御刀本血亦走就湯津石村所成神名《ツギニミハカシノモトニツケルチモユツイハムラニタバシリツキテナリマセルカミノミナハ》甕速日神次樋速日神《ミカハヤビノカミツギニヒハヤビノカミ》。次建御雷之男紳亦名建布都神《ツギニタケミカヅチノヲノカミマタノミナハタケフツノカミ》【布都二字以音下效此】亦名豐布都神《マタノミナハトヨフツノカミ》。【三神】次集御刀之手上血《ツギニミハカシノタカミニアツマルチ》。自手俣漏出所成神名《タナマタヨリクキデテナリマセルカミノミナハ》。【訓漏云久伎】闇淤加美神《クラオカミノカミ》【淤以下三字以音下效此】次闇御津羽神《ツギニクラミツハノカミ》。

 上件自石拆神以下《カミノクダリイハサクノカミヨリシモ》。闇御津羽神以前《クラミツハノカミマデ》。并八神者《アハセテヤバシラハ》。因御刀所生之神者也《ミハカシニヨリテナリマセルカミナリ》。

所御佩は美波加勢流《ミハカセル》と訓べし、明(ノ)宮(ノ)段に、波加勢流多知《ハカセルタチ》と歌へり、立《タテ》るをたゝせると云類にて、波祁流《ハケル》を延《ノベ》たる語なるが、自《オノヅカラ》尊む辭と聞ゆ、【上の天(ノ)浮橋に立《タタス》の所に委く云り、】さてかく用(ノ)言にも御《ミ》と云こと、古(ヘ)は記中に御寢坐《ミネマス》、萬葉に御立《ミタタ》すなど猶多し、

〇十拳叙は登都迦都留岐《トツカツルギ》と訓べし、八拳鬚七拳脛《ヤツカヒゲナナツカハギ》などの例なり、【能《ノ》を添(ヘ)て讀《ヨム》はわろし、又劔は多知《タチ》とも訓る例多かれど、此はなほ都留岐《ツルギ》にてありなむ、】拳《ツカ》は搏《ツカム》にて、四(ノ)指を並《ナラ》たる長《ナガサ》を云、下に掬(ノ)字をも書(キ)、書紀には握(ノ)字を書り、上代に手して搏《ツカミ》て、幾搏《イクツカミ》と物の長(サ)を量れるなり、然《シカ》爲《スル》こと今も遺《ノコ》れり、【束《ツカヌ》るも、手して物を搏集《ツカミアツム》るをいふなり、】さて十拳《トツカ》は、劔身《ツルギノミ》の長さを云なり、【纂疏に柄(ノ)之量とあるは、都加《ツカ》と云語につきて誤(リ)給へるなり、柄を都加といふは、握《ツカム》處なる故なり、】書紀には九握《ココノツカノ》劔|八握《ヤツカノ》劔と云もあり、【同(ジ)ことながら、是(レ)は能《ノ》を添(ヘ)て訓べし、十拳《トツカ》は大方の劔の常度《ツネノホド》と見えて、何となくたゞ劔とて有(リ)ぬべき所に、みな十拳劔と云(ヘ)れば、能《ノ》と云べからず、】劔のことは下【都牟刈《ツムカリノ》大刀の處、傳九の三十五葉】に云べし、

〇頸は美久毘《ミクビ》と訓べし、和名抄に、頸(ハ)久比《クビ》、頭莖也とあり、【後(ノ)世に、頸《クビ》より斬《キリ》たる首《カウベ》を久毘《クビ》といふは、少し違へり、】久毘《クビ》は久煩美《クボミ》なり、【煩美《ボミ》を切《ツヅム》れば毘《ビ》なり、續世繼に、うなじのくぼと云ことあり、俗にもぼむのくぼといふ、】

〇御刀は、書紀景行(ノ)御卷に、御刀此(ヲ)云(フ)2彌波迦志《ミハカシト》1、とあるに依て訓べし、倭建(ノ)命(ノ)段に御佩《ミハカシ》とも書り、波迦志《ハカシ》とは、佩《ハキ》を延《ノベ》たる言なり、さて御佩賜劔《ミハカシタマフタチ》と云ことを、其(ノ)用(ノ)言を體(ノ)言に言爲《イヒナシ》て、即《ヤガテ》其(ノ)物の名とすること、御執賜弓《ミトラシタマフユミ》を御執《ミトラシ》と云に同じ、此格古(ヘ)も今も、萬の物(ノ)名に多し、

〇前《サキ》は、書紀に鋒《サキ》と書る此(レ)なり、

〇血は知《チ》と訓べし、【阿世《アセ》と訓(ム)は非《ヒガコト》なり、血《チ》を阿世《アセ》と云は、齋(ノ)宮の忌詞にこそあれ、常|然《シカ》よむは由なし、】

〇湯津石村《ユツイハムラ》、書紀には五百箇磐石《イホツイハムラ》と書り、師(ノ)説に、五百《イホ》を約(メ)て由《ユ》と云り、【今云(ク)、伊富《イホ》を切《ツヅム》れば與《ヨ》なれど、與《ヨ》と由《ユ》とは殊に近(ク)通ふ音なり、自《ヨリ》を古言に由《ユ》とも與《ヨ》とも云たぐひなり、】湯津桂《ユツカツラ》湯津爪櫛《ユツツマグシ》なども、枝の多く齒《ハ》の繁きを云、村《ムラ》は群《ムラ》の意なりとあり、萬葉一【十四丁】に、河上乃湯津磐村《カハノベノユツイハムラ》、又祝詞に、湯津磐村乃如塞坐《ユツイハムラノゴトフタガリマス》と云語多し、

〇走は、多婆斯理《タバシリ》と師の訓れたるぞよき、萬葉十【五十九丁】に、我袖爾雹手走《ワガソデニアラレタバシル》、又廿【十一丁】に、霜上爾安良例多婆之理《シモノウヘニアラレタバシリ》などあり、【俗にとばしりと云も、多《タ》の訛れるなり、】

〇石拆《イハサクノ》神、根拆《ネサクノ》神、書紀に、磐裂此(ヲ)云(フ)2以簸婆窶《イハサクト》1とあり、名(ノ)義は、式の祝詞に、磐根木根履佐久彌※〔氏/一〕《イハネコノネフミサクミテ》、萬葉二【三十九丁】に、石根左久見手名積來之《イハネサクミテナヅミコシ》【又六(ノ)卷には、五百重山伊去割見《イホヘヤマイユキサクミテ》とも、廿(ノ)卷には、奈美乃間乎伊由伎佐具久美《ナミノマヲイユキサグクミ》ともよめり、】などあるを、或説に、人(ノ)面《オモ》のたくぼくあるを、しやくみづらと云に同(ジ)くて、岩の凸凹《タカビク》ある上《ウヘ》を通行《トホリユク》を云なり、馬《ウマ》ざくりと云も、能《ノウ》の面にさくみと云あるも、同(ジ)詞なりと云り、此意なるべし、【源氏物語に、兒童のこざかしきを、さくじりおよずけたるとあるも、平穏《ナダラカ》ならぬ意にて同じ、或説に、岩根をも履裂《フミサキ》て行(ク)なりといふはわろし、】さて此(ノ)神(ノ)名は、石根拆《イハネサク》と云言を二(ツ)に分《ワカチ》て、二柱に名《ナヅ》けたる物なれば、根《ネ》も石根《イハネ》の意なり、

〇石筒之男《イハツツノヲノ》神、筒は借字にて都知《ツチ》に通《カヨ》ひ、【上の石土毘古の所にいへり、】其(ノ)都《ツ》は例の之《ノ》に通(フ)辭、知《チ》は男《ヲ》の尊稱《タフトミナ》なること、上に云り、【久々能智《ククノチ》野椎《ヌヅチノ》神の下、】次の建御雷之男《タケミカヅチノヲ》と云と同じさまの名なり、

〇御刀本《ミハカシノモト》、書紀には劔鐔《ミツルギノツミバ》とあり、【和名抄に、唐韻(ニ)曰(ク)、鐔(ハ)劔(ノ)鼻也、和名|都美波《ツミバ》とあり、】今|都婆《ツバ》と云物なり、そは即《スナハチ》本《モト》にあれば、同じことなり、

〇甕速日《ミカハヤビノ》神は美迦波夜備《ミカハヤヤビ》と訓べし、【迦(ノ)下に之《ノ》を添(ヘ)て唱るは非《アラ》ぬこと、委《ツバラ》に傳七の五十三葉|勝速日《カチハヤビノ》命の處に云べし、備《ビ》と濁(ル)べき由も、彼《カシコ》に云むを待《マチ》てよ、】甕は借字なり、【此字に就て云説は非なり、凡て何速日《ナニハヤビ》てふ語は、みな用(ノ)語よりつゞく例なり、】美迦の意は、次に委《ツバラ》に云、速日《ハヤビ》の意は、勝速日《カチハヤビノ》命の下《トコロ》に云べし、

〇樋連日(ノ)神、是も比波夜備《ヒハヤビ》と訓べし、【書紀に、いづれも皆|※〔火+漢の旁〕速日《ヒハヤビ》と書るを、唯一(ツ)※〔火+漢の旁〕之《ヒノ》と書る所あるは、後の謬訓《ヒガヨミ》に耳なれたる人の、ふと誤(リ)て之《ノ》字を加(ヘ)たるにや、其故は、彼紀は神代(ノ)卷の中《ウチオ》神(ノ)名の文字、凡ていづくも/\同じさまに書て、此《ココ》と彼《カシコ》と異なることはをさ/\なきをや、姓氏録に此神の名二所に出たる、共に之(ノ)字あるは疑はし、】樋は例の借字なり、書紀に※〔火+漢の旁〕《ヒ》と作《カケ》り、此字玉篇に、火盛乾也《ヒサカリニカワカスナリ》と注せる意なり、【易(ノ)説卦に、燥《カワカス》2萬物(ヲ)1者(ノ)莫(シ)v※〔火+漢の旁〕《カワカスハ》2乎火(ヨリ)1とあり、書紀に、※〔火+漢の旁〕(ハ)干也と注せる所あるは、後(ノ)人の所爲《シワザ》なり、又※〔火+漢の旁〕(ハ)火也とも注したるは、比《ヒ》と讀(ム)につきて、ひがこゝろえして書入(レ)たるなり、前後註の重なるのみならず、意さへ互に背けるは、本(ノ)注に非ることいちじるし、】火とかゝずて、樋(ノ)字をしも借れるは、乾《ヒ》の意なればなり、出雲風土記に樋速日子《ヒハヤビコノ》命とあるは、即此神なるべし、其由傳九【十五葉三十七葉】に云り、考(ヘ)合すべし、

〇建御雷之男《タケミカヅチノヲノ》神、御雷《ミカヅチ》を書紀には甕槌《ミカヅチ》と書り、何《イヅレ》も借字にて、美迦《ミカ》は伊迦《イカ》に通ふ言なり、その伊迦《イカ》は、嚴矛《イカシホコ》【舒明紀に此(ヲ)云(フ)2伊箇之保虚(ト)1、】重日《イカシビ》【皇極紀に此(ヲ)云(フ)2伊柯之比(ト)1、】伊賀志御世《イカシミヨ》、【祝詞】又|伊迦米志《イカメシ》伊迦志《イカシ》【源氏葵(ノ)卷(ニ)、たけくいかきひたぶる心いできて、又手習(ノ)卷(ニ)、いかきさまを人に見せむとおもひてなどあり、】などの伊迦《イカ》なり、その美迦《ミカ》と通ふ例は、遷2却(ル)祟神(ヲ)1祝詞に、即此神を健雷《タケイカヅチノ》命とあり、【美迦豆知《ミカヅチ》伊迦豆知《イカヅチ》通ふ故なり、】又|嚴《イカ》きを美迦《ミカ》と云る例は、書紀(ノ)仁徳(ノ)御卷の歌に、瀰箇始報《ミカシホ》、破利摩波椰摩智《ハリマハヤマテ》云々、此(ノ)瀰箇始報《ミカツホ》は、速待《ハヤヤチ》と云む枕詞にて、嚴《イカメ》しき潮《シホ》の速《ハヤ》きと云意のつゞけなり、【三日潮の説ひがことなり、】書紀に謂《イハ》ゆる甕星《mキカホシ》も嚴《イカ》きを云(ヒ)、【惡神と云(ヒ)、先(ヅ)誅と云るにて、嚴《イカ》きことしらる、】甕栗《ミカクリ》も嚴栗《イカクリ》なり、上の甕速日《ミカハヤビ》其外も、神|及《マタ》人(ノ)名に甕《ミカ》といふは、皆此意と知べし、都知《ツチ》は上の野椎《ヌヅチノ》神の下《トコロ》に云るが如し、【雷(ノ)字に付て意を思ふはひがことなり、】

〇建布都《タケフツノ》神、豐布都《トヨフツノ》神、布都《フツ》の事は、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)御段《ミクダリ》【傳十八の五十一葉】に云べし、式に、阿波(ノ)國阿波(ノ)郡(ニ)建布都(ノ)神(ノ)社あり、
〇此段書紀に異(ナル)傳(ヘ)どもあり、一書に、劔刃垂血是《ツルギノハヨリシタグルチハ》爲《ナル》2天(ノ)安(ノ)河邊所在五百箇磐石《カハラナルイホツイハムラト》1也、即此(レ)經津主《フツヌシノ》神(ノ)之|祖矣《ミオヤナリ》、また其(ノ)甕速日(ノ)神(ハ)是|武甕槌《タケミカヅチノ》神(ノ)之|祖也《ミオヤナリ》と見え、又一書には、磐裂(ノ)神次(ニ)根裂(ノ)神(ノ)兒《ミコ》磐筒(ノ)男(ノ)神次(ニ)磐筒(ノ)女(ノ)神(ノ)兒《ミコ》經津主(ノ)神【下卷本書にも、磐裂根裂(ノ)神(ノ)之子磐筒(ノ)男磐筒(ノ)女(ノ)所生之《ウメル》子經津主(ノ)神、】とも見え、下卷【神代】本書に、甕速日(ノ)神(ノ)之子※〔火+漢の旁〕速日(ノ)神、※〔火+漢の旁〕速日(ノ)神(ノ)子武甕槌(ノ)神、など見えたり、此等《コレラ》の傳(ヘ)少《スコ》しづゝの異《ダガヒ》にて、大旨《オホムネ》は皆|等《ヒトシ》き中に、經津主《フツヌシ》と武甕槌《タケミカヅチ》とを別《コト》神としたるぞ、甚《イタク》異《コト》なる傳(ヘ)には有ける、後に高天(ノ)原より此(ノ)御國|言向《コトムケ》に天降し給ふ所にも、書紀には、經津主《フツヌシ》と武甕槌《タケミカヅチ》と二柱を云り、【遷却祟神詞も書紀に同じ、】此記には、彼所《カシコ》にも建御雷《タケミカヅチ》一柱を云て、別《ホカ》に經津主《フツヌツ》てふ神はなし、其《ソ》は此《ココ》に建御雷の亦(ノ)名を、建布都《タケフツ》とも豐布都《トヨフツ》ともあれば、彼(ノ)經津主《フツヌシ》も此(ノ)亦(ノ)名なること著《シル》し、猶其(ノ)證《シルシ》を云むには、彼(ノ)【書紀】神武(ノ)御卷|高倉下《タカクラジ》の夢に、天照大神謂武甕雷神曰《アマテラスオホミカミタケミカヅチノカミニノリゴチタマハク》云々、時(ニ)武甕雷(ノ)神|登《スナハチ》謂高倉曰《タカクラニノリタマハク》、予劔號《アガタチノナハ》曰《イフ》2〓靈《フツノミタマト》1云々とあり、若《モシ》彼(ノ)神代(ノ)卷の如く、武甕雷と經津主と別《コト》神ならば、此夢にも二柱共に見え給ふべきに、然《サ》もあらず、其上《ソノウヘ》此劔の名をしも〓靈《フツノミタマ》と云(ヘ)ば、決《ウツナ》く經津主《フツヌシノ》神の劔なるべければ、其神こそ此夢には見え給ふべきに、さはあらで、武甕雷の予劔《アガタチ》とて授《サヅケ》給へるは、此(ノ)神|即《ヤガテ》經津主《フツヌシ》なる故ならずや、【かゝれば書紀は、神代(ノ)卷と神武(ノ)卷と相合《アヒカナハ》ず、神武(ノ)卷は此記の趣と合《ア》へり、】經津主てふ名は、此(ノ)刀《タチ》より出たるなり、舊事紀に此劔の名を、布津主神魂 刀《フツヌシノカミノミタマノタチ》ともあり、彼(レ)は信《ヨル》に足《タラ》ぬ書なれど、此名もし據あらば取べし、】又出雲(ノ)國造が神賀(ノ)詞には、天夷鳥命爾布都怒志《アメノヒナトリノミコトニフツヌシノ》命|乎副天《ヲソヘテ》、天降遣天《アマクダシツカハシテ》とありて、建御雷《タケミカヅチ》の見えぬも、一(ツ)神なればなるべし、さて古語拾遺には、書紀の如く是(レ)を別《コト》神として、經津主(ノ)神をば、今(ノ)下總(ノ)國(ノ)香取(ノ)神是也といひ、武甕槌(ノ)神をば、今(ノ)常陸(ノ)國(ノ)鹿嶋(ノ)神是也と云り、【此《コ》は書紀に、齋主《イハヒヌシノ》神、今|在《マス》2乎|東《アヅマノ》國※〔楫+戈〕取之地《カトリノトコロニ》1也、とあるに依れるなるべし、抑此(ノ)齋主てふ神は、經津主とも武甕槌とも指《サシ》て云(ハ)ざれば、推《オシ》て經津主とは定めがたきを、如此《カク》定めて云るは、據《ヨリドコロ》あるか、はた事の意をくはしくも思はで、ふと定めたるか、おぼつかなし、續後紀五、又春日祭(ノ)祝詞などにも、鹿嶋をば建御賀豆智《タケミカヅチノ》命、香取をば伊波比主《イハヒヌシノ》命とのみ有て、經津主と有(ル)ことなし、たとひ經津主とあらむにても、建御雷の一名とするに妨(ゲ)なし、】かくて寶龜八年に、此(ノ)二宮の神位を授(ケ)奉(リ)賜へるに、鹿嶋は正三位、香取は正四位上なり、是(レ)本一(ツ)神なるを、鹿嶋には其(ノ)總《スベ》ての御靈《ミタマ》を祭る故に【神號をも建御雷《タケミカヅチノ》命と申し傳へて、】位も高く、香取には別にかの齋主《イハヒヌシ》たる御靈《ミタマ》を祭る故に、【神號をも伊波比主《イハヒヌシノ》命と申(シ)傳へて、】位もやゝ降《クダ》れるなるべし、然るを若(シ)是(レ)別神なるときは、書紀の趣、經津主は大將軍、武甕槌は副將軍の如くなるは、彼(ノ)神位の尊卑《シナ》に當らざるものをや、

〇手上は多加美《タカミ》と訓べし、書紀に劔頭《タカミ》と書て、今云|柄《ツカ》なり、又書紀神武(ノ)卷に、撫劔此(ヲ)云(フ)2都盧耆能多伽彌屠利辭魔屡《ツルギノタカミトリシバルト》1とも見え、又劔柄と書て多加比《タカヒ》と訓る處もあり、其《ソ》は美《ミ》を後に比《ヒ》と云(ヒ)成(セ)るなり、【風土記に、日向(ノ)國宮碕(ノ)郡|高日《タカヒノ》村(ハ)、昔者《ムカシ》自v天降(リシ)神、以《ヲ》2御劔《ミタチノ》柄1置(クニ)2於|此地《ココニ》1因(テ)曰(フ)2劔柄(ノ)村(ト)1、後(ノ)人改(メテ)曰(ナリ)2高日(ノ)村(トハ)1也とある、是は本(ト)多加美《タカミノ》村と云るを、後に多加比と改(メ)つと云ことか、將《ハタ》本より多加比とは云つれど、劔頭《タカヒ》の義なりしを、改(メ)て高日とせしと云ことか、】萬葉九【三十五丁】に燒大刀乃手預《ヤキダチノタカヒ》云々とある、この預(ノ)字をも、【一本に穎《カヒ》とあるに依(ラ)ば借字なり、】師は頭の誤として、多加美《タカミ》と訓(マ)れき、

〇集《アツマル》、上に御刀の前《サキ》と本《モト》とには、着血《ツケルチ》と云るに、此《ココ》には言をかへて、かく集《アツマル》と云る故は、前《サキ》と本《モト》とは直《タダチ》に血の着《ツク》處なるを、手上《タカミ》は、其血の傳《ツタ》ひ流(レ)來て、手に塞《セカ》れて集《アツマ》る處なればなり、さて阿都麻流《アツマル》と云言には、滯《トドマ》る意を帶《フク》めり、

【あつむるをつむるとも云(ヒ)、俗に物のとゞこほるを、つまると云も通へり、なほ都麻流《ツマル》と云言の意は、傳十一の五十四葉に云るをも考(ヘ)合すべし、〇着《ツケル》2御刀(ノ)前(ニ)1之血、着(ケル)2御刀(ノ)本(ニ)1血、集(マル)2御刀(ノ)之手上(ニ)1血、かくの如く處をかへて之(ノ)字をおき、又略きもしてかきざまをかふること、此記の常なり、】

〇手俣《ミタナマタ》は、師の多那麻多《タナマタ》と訓れたるに依(ル)べし、上に美《ミ》を添《ソフ》るは御の意なり、【本に多能麻多《タノマタ》と訓(ミ)、又書紀に、指間を多麻麻多《タママタ》と訓る所もありいかゞ、】那《ナ》は之《ノ》に同じ、手心《タナゴコロ》手裏《タナウラ》手末《タナスヱ》など云例なり、さて記中の俣(ノ)字、延佳(ガ)本にはすべて股と作《カケ》り、こはさかしらに改(メ)つるなり、俣は字書には見えねど、此方の古書にあまねく用ひて、今も猶地名などには、此字をのみ書(キ)来れり、改むべきにあらず、【此外も、漢國になき字、又あれどもあらぬ意に用ひたるなど、古書には此類いと多し、】

〇漏《クキ》は、下にも大穴牟遲(ノ)神の事を、自(リ)2木(ノ)俣1漏逃而去《クキノガレテサリキ》といひ、少名毘古那(ノ)神の事を、御祖《ミオヤノ》命の、自《ヨリ》2我手俣《アガタナマタ》1久岐斯子《クキシミコゾ》也とものたまへり、寓葉十【十三丁】に、伯勞鳥之草具吉《モズノクサグキ》、十七【十一丁】に、保登等藝須《ホトトギス》、木際多知久吉《コノマタチクキ》、又【二十七丁】波流乃野能《ハルノヌノ》、之氣美登妣久々《シゲミトビクク》、鶯《ウグヒスノ》云々などあり、久具流《クグル》と云は、此(ノ)久々《クク》を延《ノベ》たる言なれば、久伎《クキ》は久具理《クグリ》と云ことなり、【然らば伎を濁るべくもあれど、此字清音なり、萬葉にも清(ム)字をのみかきたり、】

〇闇淤加美《クラオカミノ》神、久良《クラ》は谷《タニ》のことなり、【闇と書るは借字なり、】大祓(ノ)詞に、高山末短山之末與理《タカヤマノスヱミジカヤマノスヱヨリ》、佐久那太理爾落多支都速川能《サクナダリニオチタギツハヤカハノ》云々、これ谷川の水の落來るさまにて、佐《サ》は眞《マ》に通ふ言、久那《クナ》は久良《クラ》に通ひて谷のこと、【式に近江(ノ)國栗太(ノ)郡なる佐久奈度(ノ)神と云と、上の闇戸《クラドノ》神と云とを引合せておもふべし、】多理《タリ》は、少《スコシ》くも多くも水の落るを云、【此ことは、師の冠辭考|石走《イハバシル》垂水の下に委し、】谷《タニ》と云名も、もと此(ノ)多理《タリ》の轉れるなるべし、萬葉十七【十七丁】に、鶯能奈久久良多爾《ウグヒスノナククラタニ》とよめるも、【地名には非ず、】かの久那太理《クナダリ》と通ひて、たゞ谷のことぞ、【※〔骨+夸〕《マタグラ》のくらも、人(ノ)身にとりては、谷の如くなる處なる故の名なり、】又|諸國《クニグニ》に某倉《ナニクラ》倉某《クラナニ》と云地名の多かるも、谷よりぞ出つらむ、淤加《オカ》の意はいまだ思(ヒ)得ず、美《ミ》は龍蛇の類の稱なり、和名抄に、水神又蛟を、和名|美豆知《ミツチ》とある美《ミ》これなり、【豆《ツ》は例の之《ノ》に通(フ)辭、知《チ》は尊(ミ)稱《ナ》にて、野椎《ヌヅチ》などの例のごとし、】 又|蛇《ヘミ》蛟《ハミ》などの美《ミ》も此《コレ》なり、又|日讀《ヒヨミ》の巳を美《ミ》と訓るも、此意なるべし、さて此神を、書紀に※〔靈の巫が龍〕と書て、此(ヲ)云2於箇美《オカミト》1とあり、【〔靈の巫が龍〕は、字書を考るに、龍也とも注し、又靈(ノ)字とも通ふなり、】豐後(ノ)國(ノ)風土記に、球珠《クスノ》郡|球覃郷《クタミノサトハ》、此(ノ)村(ニ)有v泉、昔景行天皇行幸之時、奉膳之人擬於御飯《カシハデオホミケノソナヘニ》令(ルニ)v汲(マ)2泉水《イヅミヲ》1、即有(リキ)2蛇〔靈の巫が龍〕《オカミ》1、【謂2於箇美(ト)1、】於是《ココニ》天皇|勅2云《ノリタマフ》必(ズ)將《ム》v有《カラ》v※〔自/死〕《クサ》莫令汲用《ナクマセソト》1、因(テ)v斯(ニ)名2曰《イフヲ》※〔自/死〕泉《クサイヅミト》1、因《ヤガテ》爲《シキ》v名《ナト》、今(マ)謂(フハ)2球覃郷《クタミノサトト》1者|訛《ヨコナバレルナリ》也、【比(ノ)文、書紀(ノ)釋に引るは誤字多し、今は仙覺が萬葉抄に引るを引り、】萬葉二【十二丁】に、吾崗之《ワガヲカ/》、於可美爾言而《オカミニイヒテ》、令落《フラセツル》、雪之摧之《ユキノクダケシ》、彼所爾塵家武《ソコニチリケム》、これらを思ふに、此(ノ)神は龍《タツ》にて、雨を物する神なり、書紀に高〔靈の巫が龍〕《タカオカミ》と云もあり、そは山(ノ)上なる龍神《タツガミ》、この闇淤加美《クラオカミ》は、谷なる龍神《タツガミ》なり、【此神に、手俣《タナマタ》より漏出たる血の成れると、下なる闇《クラ》山津見の、陰《ホト》に成れるとを思ふべし、手俣《タナマタ》も陰《ホト》も、山に取ては谷のごとし、】神名帳に意加美《オカミノ》神(ノ)社處々見ゆ、

〇註に、下效(フ)v此(ニ)とは、此卷の末にも、二處此(ノ)神(ノ)名の出たるをいふ、

〇闇御津羽《クラミツハノ》神、闇の意上に同じ、御津羽は、上なる彌都波能賣《ミツハノメ》の如くにして、此《コ》は谷の水(ノ)神なり、

〇上件八神、すべては因(テ)2御刀(ニ)1所生《ナリマセリ》といへども、分《ワケ》ていはば、右拆根拆石筒の三柱は石村《イハムラ》により、甕速日樋速日の二柱は火(ノ)神の火により、【亦石村にもよれり、石より火の出るは此由なり、】建御雷は御刀により、【下に伊都之尾羽張(ノ)神の子とあるを思ふべし、かくて此(ノ)神も亦|石村《イハムラ》にもよれり、刀の砥によりて利《ト》きは此由なり、】闇淤加美闇御津羽の二柱は血によれり、【血の成れる故に、雨と水との神なり、上の彌都波能賣の、御尿《ミユマリ》になれるに同じ、さて上六神は皆石村に由あり、此二神は然らず、故(レ)着(ク)2石村(ニ)1といはず、】さて劔は火に燒(キ)、又石に水そゝぎつゝ礪《トギ》て、その用をなす物なれば、火と石と血とによれる七柱の神|等《タチ》、みな建御雷の徳《チカラ》を助(ケ)成(シ)たまへるなり、故(レ)此(ノ)八柱の中に、建御雷(ノ)神ぞ後に專(ラ)功《イサヲ》を立(テ)たまへるかし、

 

所殺迦具士神之於頭所成神名《コロサエマシシカグヅチノカミノミカシラニナリマセルカミノミナハ》。正鹿山上津見神《マサカヤマツミノカミ》。次於胸所成神名淤縢山津見神《ツギニミムネニナリマセルカミノミナハオドヤマツミノカミ》。【淤縢二字以音】次於腹所成神名奥山上津見神《ツギニミハラニナリマセルカミノミナハオクヤマツミノカミ》。次於陰所成神名闇山津見神《ツギニミホトニナリマセルカミノミナハクラヤマツミノカミ》。次於左手所成神名志藝山津見神《ツギニヒダリノミテニナリマセルカミノミナハシギヤマツミノカミ》。【志藝二字以音】次於右手所成神名羽山津見神《ツギニミギリノミテニナリマセルカミノミナハハヤマツミノカミ》。次於左足所成神名原山津見神《ツギニヒダリノミアシニナリマセルカミノミナハハラヤマツミノカミ》。次於右足所成神名戸山津見神《ツギニミギリノミアシニナリマセルカミノミナハトヤマツミノカミ》。【自正鹿山津見神至戸山津見神并八神《マサカヤマツミノカミヨリトヤマツミノカミマデアハセテヤバシラ》】故所斬之刀名謂天之尾羽張《カレキリタマヘルミハカシノナハアメノヲハバリトイフ》。亦名謂伊都之尾羽張《マタノナハイツノヲハバリトイフ》。【伊都二字以音】

所殺は許呂佐延坐斯《コロサエマシシ》と訓べし、【佐延《サエ》は佐禮《サレ》の古言なり、上に云り、】

〇頭は御加志羅《ミカシラ》と訓べし、和名抄に、首(ハ)加宇倍《カウベ》、頭(ハ)訓同(ジ)v上(ニ)、一《アルヒハ》云(フ)2賀之良《カシラト》1とあれど、又顱(ハ)加之良乃加波良《カシラノカハラ》、髑髏(ハ)比止加之良(ヒトガシラ)なども有て、加之良《カシラ》と云ぞ正《タダ》しき名なる、【美久志《ミクシ》と云訓は、凡て貴人《ウマビト》のをば、後にも加之良《カツラ》とはいはで、然《シカ》云めれど、久志《クシ》はもと髪のことか、くしけづると云も、髪をけづるなり、さて髪《クシ》をけづる具《モノ》なれば、櫛をも久志とは云か、そはくしけづりと云べきを、略て然云(フ)は、たとへば庖丁がつかふ刀なれば、庖丁刀なるを、やがて其《ソレ》をも庖丁とのみも云(ヒ)、田子の持(ツ)桶なれば、田子桶なるを、田子と俗の云も同じ、さて髪のある處なるゆゑに、頭をも美久志とは云か、加宇倍《カウベ》も髪方《カミベ》なり、しかはあれど、櫛《クシ》の名はいと古《フル》ければ、此(レ)を本にて、其《ソ》を刺《サス》處なる故に、髪をも頭をもいふなるべし、いかにまれ頭をいふは古語ならじ、】

〇正鹿《マサカ》は、口決に眞坂《マサカ》なりと云り、【萬葉に麻佐迦《マサカ》てふ言多けれど、彼《ソ》は行末《エクスヱ》のことなどに對《ムカヘ》て、今さしあたりたることを云るなれば、別《コト》なり、俗にまさかの時などいふ、其《リレ》より轉《ウツ》れるなり、】

〇胸《ムネ》は身根《ムネ》の意か、【身を、古言に牟《ム》と多くいへり、】

〇淤縢《オド》は下處《オリド》の意か、今も下《オル》る處を淤理斗《オリト》と云なり、【さてかくさまに活《ウゴ》くラリルレは、省《ハブ》く例多し、師は此神(ノ)名を引て、大祓(ノ)詞の短山を、淤登山《オトヤマ》と訓べしと云れつれど、いかゞ、】續紀十八に、出雲(ノ)臣|弟山《オトヤマ》と云人(ノ)名も見えたり、

〇腹《ハラ》は廣《ヒロ》の意にて、原《ハラ》平《ヒラ》なども同じ義《ココロ》なり、

〇奥山《オクヤマ》は、聞えたるまゝなり、

〇陰は御蕃登《ミホト》と訓べし、

〇闇《クラ》は前に云如く谷《タニ》なり、

○手《テ》は執《トリ》なり、【登理《トリ》を切《ツヅム》れば知《チ》なれど、凡て第二(ノ)音に切《ツヅマ》る語は、第四に轉《ウツ》る例多し、】
〇志藝《シギ》山は、師(ノ)説に、繁木《シギ》山といふ意なりと云れき、【書紀に※〔(令/酉)+隹〕《シギ》と書れたるは借字なり、】又|直《タダ》に繁《シゲ》山にても有(リ)なむ、此(ノ)卷(ノ)末に、敷山主《シキヤマヌシ》といふ神もあり、

〇羽山《ハヤマ》は、書紀に、麓山祇《ハヤマツミ》と書て、麓此(レヲ)云(フ)2簸耶磨《ハヤマト》1とあり、【かゝれば彼(ノ)書《カキ》ざまは山(ノ)字|剰物《アマリモノ》にて、對馬洲《ツシマジマ》におなじ、】端山《ハヤマ》の意と云説よろし、又|葉《ハ》山にてもあるべし、【青葉(ノ)山と云こともあり、】源(ノ)重之(ガ)歌に、筑波山は山しげ山|茂《シゲ》けれど、思(ヒ)入(ル)には障《サハラ》ざりけり、【新古今集戀(ノ)一(ノ)卷に入(レ)り、】はやましげ山と並《ナラベ》云こと、此《ココ》の神(ノ)名より出て、古きことなるべし、下に羽山戸(ノ)神と云もあり、

〇原山《ハラヤマ》は字の如けむ、

〇戸山《トヤマ》は、師(ノ)云(ク)、門《ト》山の意にて登夜麻《トヤマ》なり、【へやまと訓(ム)は誤なり、】と云れき、今思ふに、奥山に對(ヒ)て、外《ト》山の意にてもあらむ、又|多和《タワ》山にてもあらむか、其由は上の大戸惑子(ノ)神の所にいへり、何《イヅレ》にまれ後の歌に外山《トヤマ》とよむはこれなり、

〇八神《ヤバシラ》、此段書紀には、三段《ミキダ》に斬《キリ》て各々神になるとも、又五段に斬て五の山祇《ヤマツミ》になれりともありて、此記とやゝ異なり、

〇所斬之刀は、即|迦具士《カグヅチ》を斬《キリ》たまへる御刀なり、

〇天之尾羽張《アメノヲハバリ》、伊都之尾羽張《イツノヲハバリ》の名の意は、下に出たる、其處《ソコ》【傳十四の二葉】にいふべし、

 

おひつぎの考

    女嶋

筑前(ノ)國のある人云(ヒ)おこせけらく、肥前の唐津の東北の海中に在(リ)とある姫嶋は、筑前(ノ)國志摩(ノ)郡に屬《ツキ》て、福岡より西北の方十里許にあり、嶋廣さ南北十二町餘、東西八町餘あり、姫大明神と云社あり、其處《ソコ》を宮山と云、此(ノ)社あるによりて、姫嶋と云よし語(リ)傳ふ、民の家も三十戸あまりあり、此(ノ)嶋の女、むかしより産《コウム》に難《マガコト》なし、神のまもりと言(ヒ)傳ふ、この姫大明神は、即(チ)比賣碁曾《ヒメゴソノ》社の神なるべくおぼゆ、

    兩兒嶋

同人、今筑前(ノ)國遠賀(ノ)郡の北の海中に、嶋郷《シマガウ》と云處あり、東西五里、南北一里なる嶋にて、二十村あり、その内に二嶋村と云ありて、其處《ソコ》に小嶋二(ツ)あり、これによりて二嶋村とは云なり、此(ノ)二(ツ)の小嶋いづれも、周《メグリ》九十間ありて、岸けはしく、いづ方よりものぼりがたし、矢箆竹《ヤノダケ》多く生《オヒ》て、大きなる蛇すめり、長門(ノ)國の北の海中に、二生嶋ありとあるは、これを誤れるなるべし、此(ノ)嶋、海上より見れば、長門に屬《ツケ》るが如くなれども、長門の嶋にはあらず、二生と云名もたがへり、即(チ)二子嶋《フタゴジマ》と云なり、と云(ヒ)おこせたり、兩兒鳴これならむか、されどこはなは決《サダ》めがたし、

    比婆之山

澤(ノ)眞風、寛政六年四月に、杵築(ノ)大社に詣(デ)ける路次《チナミ》に、比婆之《ヒバノ》山を、委く尋ね來て、語りけらく、出雲(ノ)國能義(ノ)郡にて、同郡なる母理《モリ》より、一里餘(リ)許(リ)西南(ノ)方なり、伯耆(ノ)國の堺にも遠からず、山は高き山にて、北(ノ)海など、よく見渡さるゝ處なり、かくて山(ノ)上の、やゝ平《タヒラ》なる地《トコロ》に、徑《ワタリ》四五丈許(リ)と見ゆる程《ホド》、冢《ツカ》の如く小高き處の有て、石の齋垣《イガギ》を造(リ)周《メグ》らしたり、是(レ)なむ伊邪那美(ノ)命の御陵と云り、前(ヘ)に拜殿もあり、近き郷々《サトサト》より、詣づる者常に多し、さて其(ノ)御冢《ミツカ》には、松(ノ)木も幾株《イクモト》も生《オヒ》たり、小竹《ササ》透間《スキマ》もなく、高く生茂《オヒシゲ》れり、凡て此(ノ)あたりは、近き里より、牛を多く野飼《ノガヒ》に放《ハナ》ちおく處なるを、此(ノ)御冢の篠《ササ》をば、其(ノ)牛どもも、いさゝかも喰《クフ》ことなく、又|蝮蛇《ハミ》の此(レ)をいたく怖《オソ》るゝ事など、傳に記されたるが如し、されば詣(デ)たる者、蝮蛇を防《フセ》がむ料に、此(ノ)篠を賜はりて、持還《モチカヘ》るとぞ、たわの内と云は、此山の麓なる村(ノ)名にて、峠内《タワノウチ》と書り、此(ノ)國にては、いはゆる峠《タウゲ》を、凡て多和《タワ》と云なり、又風土記(ノ)抄に、日波《ヒナミ》村と云る、それも此《ノ》山の麓にて、吾(レ)此(ノ)度、其(ノ)里より登《ノボ》りたり、とぞ語りける、又内山(ノ)眞龍(ガ)云(ク)、出雲風土記仁多(ノ)郡に、備後(ノ)國惠宗(ノ)郡(ノ)堺、比布山云々とある、比布山は、比羽山にて、備後に屬るか、此(レ)御坂山の麓山なるべし、御坂山の南は、惠宗(ノ)郡湯川なり、そこに比羽村あり、上代に御坂山を、比波山と云しなるべし、御坂山には、有(リ)2神(ノ)御門1と、風土記に云(ヘ)れば、なみ/\ならぬ山なり、國(ノ)堺は、古今違(ヒ)あることなれば、上代には此(ノ)あたりも、伯耆の堺にぞありけむと云り、これもなほよく尋ね考ふべき處なり、


古事記傳六之卷

                        本居宣長謹撰

 

    神代四之卷《カミヨノヨマキトイフマキ》

 

於是欲相見其妹伊邪那美命《ココニソノイモイザナミノミコトヲアヒミマクオモホシテ》。追往黄泉國《ヨモツクニニオヒイデマシキ》。爾自殿騰戸出向之時《スナハチトノドヨリイデムカヘマストキニ》。伊邪那岐命語詔之《イザナギノミコトカタラヒタマハク》。愛我那邇妹命《ウツクシキアガナニモノミコト》。吾與汝所作之國《アレミマシトツクレリシクニ》。未作竟故可還《イマダツクリヲヘズアレバカヘリマサネトノリタマヒキ》。爾伊邪那美命答白《ココニイザナミノミコトノマヲシタマハク》。悔哉不速來《クヤシキカモトクキマサズテ》。吾者爲黄泉戸喫《アハヨモツヘグヒシツ》。然愛我那勢命《シカレドモウツクシキアガナセノミコト》。【那勢二字以音下效此】入來坐之事恐故欲還《イリキマセルコトカシコケレバカヘリナムヲ》。且具與黄泉神相論《マヅツバラカニヨモツカミトアゲツラハム》。莫視我《アヲナミタマヒソ》。如此白而《カクマヲシテ》。還入其殿内之間《ソノトノヌチニカヘリイリマセルホド》。甚久難待《イトヒサシクテマチカネタマヒキ》。故刺左之御美豆良《カレヒダリノミミヅラニササセル》【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而《ユツツマグシノヲバシラヒトツトリカキテ》。燭一火入見之時《ヒトツビトモシテイリミマストキニ》。宇士多加禮斗呂呂岐弖《ウジタカレトロロギテ》。【此十字以音】於頭者大雷居《ミカシラニハオホイカヅチヲリ》。於胸者火雷居《ミムネニハホノイカヅチヲリ》。於腹者黒雷居《ミハラニハクロイカヅチヲリ》。於陰者拆雷居《ミホトニハサクイカヅチヲリ》。於左手者若雷居《ヒダリノミテニハワキイカヅチヲリ》。於右手者土雷居《ミギリノミテニハツチイカヅチヲリ》。於左足者鳴雷居《ヒダリノミアシニハナルイカヅチヲリ》。於右足者伏雷居《ミギリノミアシニハフシイカヅチヲリ》。并八雷神成居《アハセテヤクサノイカヅチガミナリヲリキ》。

欲相見は、阿比美麻久淤母富志※〔氏/一〕《アヒミマクオモホシテ》と訓べし、【相(ノ))字は、逢《アヒ》の意に見べし、】

〇黄泉國は、【豫美能久爾《ヨミノクニ》とも、豫美都久爾《ヨミツクニ》とも訓べし、與美津《ヨミツ》と云ことは、祝詞式に見ゆ、されどなほ】豫母都志許賣《ヨモツシコメ》、又書紀に余母都比羅佐可《ヨモツヒラサカ》など、例多きに依て、豫母都久爾《ヨモツクニ》と訓つ、たゞ黄泉とのみあるは、豫美《ヨミ》と讀べし、さて豫美《ヨミ》は、死《シニ》し人の往《ユキ》て居《ヲル》國なり、萬葉九【三十四丁】に、遠津國黄泉乃界丹《トホツクニヨミノサカヒニ》、又【三十六丁】離生應合有哉《イケリトモアフベクアレヤ》、宍串呂黄泉爾將待跡 《シジクシロヨミニマタムト》云々などあり、源氏夕霧(ノ)卷に、よみぢのいそぎとあるは、泉路《ヨミヂ》なり、【泉門と注せるは誤なり、】榮花物語音樂(ノ)卷に、よみづとにし侍むとあるは、黄泉《ヨミ》にゆく裹《ツト》なり、生返《イキカヘル》をよみがへると云も、黄泉《ヨミ》より返《カヘル》なり、【俗にも黄泉路返《ヨミヂガヘリ》黄路障《ヨミヂノサハリ》などいふ、】名(ノ)義は、口決に夜見土《ヨミド》とある、土(ノ)字は非《ヒガコト》なれど、夜見《ヨミ》はさも有(リ)ぬべし、下文《シモノコトバ》に燭一火《ヒトツビトモシテ》とあれば、暗處《クラキトコロ》と見え、又|夜之食國《ヨルノヲスクニ》を知看《シロシメス》月讀(ノ)命の、讀《ヨミ》てふ御名も通ひて聞ゆればなり、さて祝辭に、吾名※〔女+夫〕能命波《アガナセノミコトハ》、上津國乎所知食倍志《ウハツクニヲシロシメスベシ》、吾波下津國乎所知牟止申※〔氏/一〕《アハシタツクニヲシラムトマヲシテ》とのたまひ、又|欲2罷《マカラム》妣國根之堅洲國《ハハノクニネノカタスクニニ》1と、須佐之男《スサノヲノ》命の詔へる【私記に、根(ノ)國(ハ)謂2黄泉(ヲ)1也と云(ヒ)、萬葉五に之多敝乃使《シタベノツカヒ》とよめるも、泉路《ヨミヂ》のことなるが、下方使《シタベノツカヒ》と聞ゆ、出雲(ノ)國(ノ)風土記に、伯耆(ノ)國(ノ)郡(ノ)内(ノ)夜見《ヨミ》嶋と云ことあるは、黄泉《ヨミ》に由あることありての名なるべし、】などを以見れば、下方《シタベ》に在(ル)國なりけり、さて此(ノ)黄泉《ヨミ》の事、外国《トツクニ》より來《キ》つる儒佛の書に、人の生死《イキシニ》の理をとり/”\に云ることどもを聞(キ)馴(レ)たる後(ノ)世の人は、佛にまれ儒にまれ、己が心の引々《ヒキビキ》に、強《シヒ》て其方《ソナタ》に思ひ寄《ヨス》めれど、皆ひがことなり、然《サ》る外國《トツクニ》の道々の書なかりし上(ツ)代の心に立歸(リ)て、唯|死人《シニビト》の往て住《スム》國と意得べし、【或人問、死《シ》にて夜見(ノ)國に罷《マカ》るは、此(ノ)身ながら往《ユク》か、はた魂《タマ》のみ往(ク)か、答(フ)、此身はなきからとなりて、しるく顯國《ウツシクニ》に留在《トドマリア》れば、夜見(ノ)國には魂《タマ》の往(ク)なるべし、又問、男神の火を燭《トモ》して見給へば、宇土多加禮《ウジタカレ》云々と云ひ、書紀(ノ)一書に、欲v見2其妹(ニ)1乃到2殯斂《アガリノ》之處(ニ)1、ともあるを合せて思へば、夜見(ノ)國に往(ク)と云は、實にはたゞ地下《ツチノシタ》に藏《カク》すを云るにこそあらめ、別に其國のあるにはあらじか、答、そはたゞ例の漢意のさかしらなる一わたりの見《ココロ》にて、誰《タレ》も然《サ》は思ふべきことなれども、さては此《ココ》に其國にて有しくさ/”\の事どもを傳へたる、皆|虚説《ムナシゴト》となるをや、凡て神代の傳説《ツタヘゴト》は、みな實事《マコトノコト》にて、その然有《シカア》る理は、さらに人の智《サトリ》のよく知(ル)べきかぎりに非れば、然《サ》るさかしら心を以て思ふべきに非ず、今女神の、初《ハジメ》に出向(ヘ)たまへりし時は、姑(ク)顯國《ウツシクニ》に坐《マシ》し世の御形になりて、見え賜ひしなり、書紀に、猶如2生平1出迎共語とある是なり、さて男神の、火してひそかに見たまへるは、夜見(ノ)國の實《マコト》の御形なり、かの海神(ノ)宮(ノ)段にも、かゝる頼の事あり、思(ヒ)合すべし、又到2殯斂之處1とあるは、死人《シニビト》に逢《アハ》むとして、夜見(ノ)國に行(ク)には、其骸を藏《カク》したる處より行(ク)ことなるべし、又此記に、黄泉比良坂《ヨモツヒラサカ》は、出雲之|伊賦夜坂《イフヤザカ》と謂《イフ》とあれば、還來《カヘリキ》坐る路は、彼地《カノトコロ》のあたりへ出賜ひしなるべし、凡てみな傳説《ツタヘゴト》のまゝに心得べきことなり、さて是《コ》はみな神の御うへの事にこそあれ、凡人《タダビト》は、此(ノ)世にあるほどの現身《ウツシミ》ながら、夜見(ノ)國に往見《ユキミ》ることは無《ナ》ければ、なべては何《イヅ》れの道より往還《ユキカヘ》るなどは、定め言《イフ》べきに非れども、何事も神代の跡を以て、物は定むることなれば、然《シカ》心得てあるべきものぞ、又世に十王經と云ものに、閻魔王國、自2人間(ノ)地1去(ル)五百臾善那、名(ク)2無佛世界(ト)1、亦名(ク)2預彌《ヨミ》國(ト)1云々と云る、此經はもとより僞經と云中にも、此邦にて作れるものなり、預彌《ヨミ》國と云も、神典に依て作れる名なり、然るをかへりて、神典に預美《ヨミ》と云る名は、此經より出たることかと、疑ふ人も有(リ)なむかと思(ヒ)て、今辨へおくなり、】貴《タカ》きも賤《イヤシ》きも善《ヨキ》も惡《アシキ》も、死ぬればみな此(ノ)夜見(ノ)國に往《ユク》ことぞ、

〇追往は淤比伊傳坐伎《オヒイデマシキ》と訓べし、【追を乎比《ヲヒ》の假字とするは、後(ノ)世のひがことなり、】凡て行給《ユキタマフ》ことを、古言に伊傳坐《イデマス》と云り、故(レ)行幸《ミユキ》をも、古くは伊傳麻志《イデマシ》と云り、【萬葉に行幸幸行などあるも、然《シカ》訓《ヨム》べし、今(ノ)本の美由伎《ミユキ》とある訓は誤なり、】又記中に、天皇ならでも幸行《イデマス》と多く書り、此(ノ)語本は、出《イヅ》る意に云つるにも有(ル)べけれど、必さらでも、たゞ行賜《ユキタマフ》にも来賜《キタマフ》と云にも云り、【今の俗語にも、御出《オイデ》なさると云を、行《ユク》ことにも來《クル》ことにも用るも、同じ心ばへなり、】天智紀(ノ)童謠に、于知波志能《ウチハシノ》、都梅能阿素弭爾《ツメノアソビニ》、伊提麻栖古《イデマセコ》云々、伊提麻志能倶伊播《イデマシノクイハ》云々、萬葉八【廿丁】に、闇夜有者《ヤミナラバ》、宇倍毛不來座《ウベモキマサジ》、梅花《ウメノハナ》、開月夜爾《サケルツクヨニ》、伊而麻左自常屋《イデマサジトヤ》、

〇自殿騰戸、この騰(ノ)字、舊印本又一本、又舊事紀にも如此《カク》有て、戸《ト》を騰《アゲ》てと訓り、されど此訓いかにぞや聞ゆ、【戸は開《ヒラク》とのみあり、上《アグ》と云ことは上代に見えず、延佳本又一本には、縢戸と作《カキ》て、久美度《クミド》と訓り、こは此(ノ)字説文に緘也と注し、詩(ノ)秦風小戎(ノ)篇に、竹閉※〔糸+昆〕縢《タケノユダメナハモテユヒツク》などあり、又新撰字鏡に、條(ハ)組也|久彌《クミ》とあれば、久美《クミ》とは訓べけれど、なほ非《ヒガコト》なり、こゝは久美度《クミド》を云べき所に非ず、久美戸のことは上に云り、】かにかくに此字は、古(ヘ)より誤(リ)來《コ》し物と見えたり、故(レ)くさ/”\思ふに、脇戸《ワキツド》か前戸《マヘツド》か後戸《シリツド》かなどにもやあらむ、其故は、玉垣(ノ)宮(ノ)御段に掖戸《ワキツド》あり、水垣(ノ)宮(ノ)御段の歌に、斯理都斗《シリツド》麻弊都斗《マヘツド》あり、高津(ノ)宮(ノ)御段には、前殿戸《マヘツトノド》後殿戸《シリツトノド》ともあり、又下(ノ)文に、具《バラカニ》與《ト》2黄泉神《ヨモツカミ》1相論《アゲツラハム》、とあるを見れば、此《ココ》は先(ヅ)竊《ヒソカ》に出賜(フ)と見ゆれば、脇戸《ワキツド》後戸《シリツド》などより出賜むも、由(シ)あるをや、【前戸《マヘツド》は論なし、】又思(フ)に、書紀一書に、欲v見2其妹(ニ)1乃到2殯斂之處《アガリノトコロニ》1とあると、仲哀(ノ)卷に、无火殯斂此(ヲ)云(フ)2褒那之阿餓利《ホナシアガリト》1、とあるとを合(セ)て見れは、殯斂《アガリ》の意に騰《アガリ》と書るか、若(シ)然らば騰殿戸《アガリノトノド》を、下上に寫し誤れるなるべし、【神武(ノ)段に足一騰官《アシヒトツアガリノミヤ)、これは意は異なれど、騰(ノ)字の例なり、】又|本《マキ》のまゝにて殿騰戸《トノノアガリド》か、されど騰戸《アガリド)てふことは例を見ず、意もおほつかなし、左右《カニカク》に思(ヒ)定めかねつれば、姑く此(ノ)一字をば遺《ノコシ》て、三字をたゞ登能度《トノド》と訓つ、さては何《イヅレ》にまれ違ふことあらじ、【仲哀(ノ)段に勝騰門比賣とある、騰の字は無き本よろし、】殿戸《トノド》てふ言は、書紀崇神(ノ)卷(ノ)歌に、瀰和能等能度《ミワノトノド》とあり、【三輪之殿戸なり、】猶又高津(ノ)宮(ノ)段に多く見ゆ、

〇出向は出迎《イデムカヘ》なり、古言には迎と向とを、通(ハ)して書る例多し、書紀一書に即ち出迎共語とあり、

〇語詔之は迦多良比多麻波久《カタラヒタマハク》と訓べし、【書紀にも、共語とも語之ともあれば、此《ココ》も語(ノ)字意ありてかけるなり、】萬葉十三【十五丁】に、愛妻跡不語別之來者《ウツクシヅマトカタラハズワカレシクレバ》云々、

〇汝(ノ)字、前には那《ナ》と訓つれど、此《ココ》は美麻斯《ミマシ》と訓べし、續紀九【十六丁】宣命に、美麻斯乃父止坐天皇乃《ミマシノチチトマススメラギノ》、美麻斯爾賜志天下之業止《ミマシニタマヒシアメノシタノワザト》云々、美麻斯親王乃齢乃弱爾《ミマシミコノヨハヒノワカキニ》云々、吾子美麻斯王爾《アガコミマシミコニ》云々、【此(ノ)美麻斯《ミマシ》は、聖武天皇を指(シ)て、元正天皇の詔へるなり、】又卅一【十五丁】に美麻之大臣《ミマシオホオミ》、【こは藤原(ノ)永手公を指て、光仁天皇の詔へるなり、】などあるに依れり、

〇未《イマダ・ズ》2作竟《ツクリヲヘ》1とは、下に大穴牟遲《オホナムヂト》與《ト》2少名毘古那《スクナビコナ》1二柱(ノ)神|相並《アヒナラビテ》、作2堅《ツクリカタメ》此(ノ)國(ヲ)1たまふことある、是(レ)今|妹背《イモセノ》神の未作竟《イマダツクリヲヘ》たまはぬ所ある故なり、相(ヒ)照して見べし、【萬葉に竟をも盡をも、波弖《ハテ》と訓めれば、竟は波弖《ハテ》とも訓べし、】

〇故可還は、迦閇理麻佐泥《カヘリマサネ》と訓べし、麻世《マセ》の世《セ》を延《ノベ》て佐泥《サネ》と云は、古言の常の格なり、【故(ノ)字は讀(ム)べからず、上の未作竟を、いまだつくりをへずあればと訓る、あればに此(ノ)故(ノ)字の意あるなり、】

〇答白は、たゞ麻袁志多麻波久《マヲシタマハク》と訓べし、

〇悔哉は久夜志伎加母《クヤシキカモ》と訓べし、哉(ノ)字、書紀に伽夜《カヤ》【神武(ノ)卷】とも柯佞《カネ》【顯宗(ノ)卷】とも註あれど、なほ加母《カモ》と云ぞ常なる、【加那《カナ》と云ことは、奈良のころまでは見えず、】さて此《コ》は、既に黄泉戸喫《ヨモツヘグヒ》し賜へることを、悔《クイ》賜へる御言なり、

〇不速來《トクキマサズテ》、此(ノ)受弖《ズテ》は、悔《クヤ》む意ある辭なり、萬葉三【廿丁】に、速来而母見手益物乎《トクキテモミテマシモノヲ》、山背高槻村散去奚留鴨《ヤマシロノタカツキノムラチリニケルカモ》、

○黄泉戸喫《ヨモツヘグヒ》、書紀に、※〔にすい+食泉之竈此(レヲ)云(フ)2譽母都俳遇比《ヨモツヘグヒト》1とあり、【此(ノ)俳《ヘ》を、火《ヒ》の意に見て、古來《イニシヘヨリ》比《ヒ》と訓るは誤なり、此字は皮《ヒ》皆《カイノ》反にて、ハイの音なり、ハイの音の字を、ヒの假字に用(ヒ)たる例なし、珮杯背沛などの字みな、閇《ヘ》の假字なるを以(テ)も知(ル)べし、哀愛をエに、開階をケに、賣昧妹をメに用ひたる同じ格なり、そのうへ竈(ノ)字をかき、此記にも戸とあれば、閇《ヘ》と讀べきこと疑《ウツ》もなき物をや、又纂疏(ノ)印本に、俳を非と作《カケ》るは、誤寫《ヒガウツシ》なり、】 閇《ヘ》とは即(チ)竈《カマド》のことなり、戸(ノ)字を書(ク)は、竈《ヘ》を本にて民戸《タミノイヘ》をも然《シカ》云《イフ》故なり、【漢國にて民家を戸《コ》と云故に、此方《ココ》にても民(ノ)家を閇《ヘ》と云に、此《ノ》字を用るなり、さて竈を以て民(ノ)家をよぶこと、今(ノ)世の言にも幾竈《イイクカマド》と云(ヒ)、又|竈《カマド》が絶るなども云めり、又民戸幾烟と云も此意なり、】さて黄泉戸喫《ヨモツヘグヒ》とは、黄泉國《ヨミノクニ》の竈《カマド》にて煮炊《ニカシキ》たる物を食《クフ》を云り、是《コレ》なむ火《ヒ》を忌清《イミキヨ》むる事の本なりける、【然らば、今(ノ)世にも云言の如く、黄泉《ヨミ》の火《ヒ》を食《クフ》と云むも、あしからじかと疑(フ)人あるべけれど、俳も戸も比《ヒ》とは訓がたきこと、上に云が如し、さて纂疏に、問(フ)水火(ハ)是(レ)天生(ノ)之物(ニシテ)、無(シ)v分(クコト)2染淨(ヲ)1、而(ルニ)神事(ニ)忌(ムハ)v火(ヲ)何(ゾヤ)也、曰(ク)火(ハ)雖2是(レ)淨(シト)1、因(テ)v物(ニ)而穢(ル)、故(ニ)不(ル)v食2炊爨(ノ)之物(ヲ)1而已とある、水火は天生の物なれば穢なしと云は、妄(リ)に理(リ)をのみ思ふ漢《カラ》意なり、もし物に因て穢るとせば、黄泉《ヨミ》の物は、炊爨の具に限らず、惣て穢れたるべきを、取分て竈をしも云は、もと其(ノ)火に穢の有(ル)ゆゑならずや、後に男神の御身に着《ツケ》る御衣服《ミケシモノ》など、穢《キタナ》しとて投棄《ナゲステ》たまふは、黄泉《ヨミ》の凡ての穢なり、然るに今|此《ココ》には、他《ホカ》の物をのたまはずして、ただ戸喫《ヘグヒ》をしも詔ふは、火の穢の重き故なり、さて火に淨《キヨキ》と穢《キタナキ》があることは、如何《イカ》なる所以《ユヱ》とも測知《ハカリシル》べきにあらぬを、其理なしと思(ヒ)とるは、神の御言を信《ウケ》ずして、妄(リ)に己《オノ》が心を信《タノ》むものなり、今の代には、神事《カムワザ》の時、又神の坐ス地《トコロ》などにこそ、火を忌(ム)事|有《ア》めれど、なべて世間《ヨノナカ》には、然《サ》るわざもせぬは、火の穢を云(フ)は、愚なることと、さかしらがる漢《カラ》意のひろごれるなり、】あなかしこ萬《ヨロヅ》の禍《マガ》は、火の穢《ケガ》るゝから起《オコ》るぞかし、禍《マガ》の起るは、此(ノ)黄泉《ヨミ》の穢より成(リ)坐る禍津日《マガツビノ》神の靈《ミタマ》なり、火穢るゝときは、此神ところ得て荒《アラ》ぶる故に、萬の禍おこるなり、神(ノ)道に志《ココロザ》さむ人は、由《ヨシ》なき漢意を捨て、よく此(レ)を思ふべきことぞ、かゝれば、民を撫《ナデ》世を治《ヲサメ》むには、先(ヅ)天(ノ)下の火を忌清《イミキヨ》めて、神の御心を取(リ)奉るべきものぞ、さて今|此《ココ》に如此《カク》申《マヲ》し給ふは、族《ウガラ》離《ハナレ》がたき御心は坐々《マシマ》して、又此(ノ)世に還《カヘリ》坐(サ)まほしくはおもほしめすものから、此(ノ)黄泉戸喫《ヨモツヘグヒ》の穢によりて、還《カヘリ》坐(ス)こと不能《アタハザ》るよしなり、此(ノ)御言をよく味《アヂハ》ひて、あなかしこ火の穢をなほざりにな思ひなしそ、【〇書紀に、吾已※〔にすい+食〕泉之竈矣《アハスデニヨモツヘグヒシツ》、雖然吾當寢息《シカレドモアレネヤスマム》とあるは、竈矣の下に文の脱たるなり、試(ミ)に此記に准(ヘ)て補はば、雖然吾夫君尊《シカレドモアガナセノミコト》、追來甚可畏《オヒキマセルコトイトカシコケレバ》、故|將還《カヘリナム》焉、など云文あるべし、さて雖然吾常寢息は、此記の與黄泉神相論とあるに當れり、古本には右の如き語のありけむを、雖然と云ことの二(ツ)重(ナ)れるによりて、寫《ウツ》す時まぎれて、脱《オト》しつるものならむ、さるためしよくあることなり、今(ノ)本のまゝにては、語の意つゞかず、【いかにとも解べき由なし、然るを世々の註者たちは、いかに心得たるにか、疑(ヒ)をだにのこさぬは、いとも/\みだりなることなり、】

〇我那勢《アガナセノ》命とは、男《ヲ》神の我那邇妹《アガナニモノ》命と詔へるに對(ヒ)て、女神の男神を申したまふ稱なり、那《ナ》は汝《ナ》、勢《セ》は兄《セ》にて、凡ては夫婦兄弟《メヲハラカラ》の間のみならず、女を妹《イモ》と云如く、【女を妹と云ふ例は、傳三(ノ)卷に委く云り、】凡て男を尊《タフト》み親《シタシミ》てよぶ稱なり、書紀に、吾夫君此(ヲ)云2阿我儺勢《アガナセト》1とあり、これは此《ココ》の一義に就《ツキ》て書る文字なり、【夫君の字は、那勢《ナセ》の凡ての意にはあらず、】袁祁《ヲケノ》命は御兄《ミアニ》を指《サシ》て汝兄《ナセ》と詔ひ、【下卷に見ゆ、】又御弟の須佐之男《スサノヲノ》命をしも、我那勢(ノ)命と天照大御神は詔へり、【傳七に見ゆ、】萬葉十六【二十九丁】に名兄乃君《ナセノキミ》、【今(ノ)本に那阿爾《ナアニ》と訓るは非なり、】十四【十九丁】に奈勢能古《ナセノコ》などもよめり、吾背《アガセ》又|吾背子《アガセコ》など云も同じ、【男どちも然《シカ》呼《ヨブ》こと、妹《イモ》といふ例の如し、】

〇恐故は※〔言+可〕志許祁禮婆《カシコケレバ》と訓べし、【此《ココ》は故(ノ)字を讀(ム)はわろし、祁禮婆《ケレバ》といふに故《ユヱ》の意こもれり、】

〇欲還は迦弊埋那牟袁《カヘリナムヲ》と訓べし、此(ノ)袁《ヲ》てふ助辭は、古(キ)歌をよく知れらむ人は自《オノヅカ》ら味(ハ)ひ知べし、

〇且(ノ)字は、【此《ココ》は字(ノ)隨《ママ》に加都《カツ》とも廊多《マタ》とも訓(マ)むは、上下の語(ノ)意に叶はず、後(ノ)世の文ならば、但《タダシ》など云べき所なり、下の天(ノ)尾羽張(ノ)神の事を云る處にも、似たる格あり、傳十四に出たり、併(セ)考ふべし、されど多々志《タダシ》と訓むは、古語のさまならず、】麻豆《マヅ》と訓て語(ノ)意よく叶へり、さては字(ノ)義にも痛《イタ》く違はじ、【今の語に、假《カリ》に姑《シパラ》くすることを、先云々《マヅシカシカ》してとも、麻阿云々《マアシカシカ》してとも云、この先《マヅ》麻阿《マア》は、苟且の意なれば、こゝの且(ノ)字も、押て其意に取て語意に叶へむも、いたく強事《シヒゴト》ならじ、】

〇具は都婆羅迦邇《ツバラカニ》となむ師の訓れし、此言は萬葉十九【十一丁】に、都婆良可爾今日者久良佐禰《ツバラカニケフハクラサネ》、又三【卅丁】に、淺茅原曲々二物念者《アサヂハラツバラツパラニモノオモヘバ》、【此(ノ)曲々を今(ノ)本に、トサマカクサマと訓るは、甚《イタ》く誤れり、契沖のツバラ/\と訓るぞよき、】又十八【十二丁】に、可治能於登乃都婆良々々々爾《カヂノオトノツバラツバラニ》、又一【十三丁】に委曲毛見管行武雄《ツバラニモミツツユカムヲ》、【此委曲の訓も、今(ノ)本は誤れり、】又九【二十二丁】に、委曲爾示賜者《ツバラカニシメシタマヘバ》などあり、記中に所々ある委曲(ノ)字も、如此《カク》よむべし、都麻毘良加《ツマビラカ》と同言なり、書紀(ノ)舒明(ノ)卷に曲擧《ツマビラケクス》ともあり、又|此《ココ》の具(ノ)字、麻都夫佐邇《マツブサニ》とも訓べし、此語は八千矛(ノ)神の御歌【傳十一】に見ゆ、【都夫佐《ツブサ》の都夫《ツブ》と、都婆良《ツバラ》の都婆《ツバ》とは一(ツ)なり、】

〇黄泉神は、天(ツ)神國(ツ)神などの例に、豫母都迦微《ヨモツカミ》と訓べし、さて此(ノ)神は如何《イカ》なる神にか、傳(ヘ)なければ知(ル)べきに非ず、ただ黄泉《ヨミ》に坐(ス)神|等《タチ》なり、【此(ノ)時は顯國《ウツシクニ》も初《ハジメ》の時なれば、夜見(ノ)國はた、此(ノ)伊(ノ)邪那美(ノ)神ぞ初(メノ)神なるべく思はるれども、此《ココ》に如此《カク》あるは、既に他神《アダシカミ》もありしなり、】

〇相論は阿宜都良波牟《アゲツラハム》と訓べし、【相(ノ)字はよまず、】書紀に然訓り、【遊仙窟にも、】阿宜《ァゲ》は言擧《コトアゲ》の如し、都良布《ツラフ》は、引《ヒコ》づらふ丹《ニ》づらふ掛《カカ》づらふなどの類にて、其(ノ)貌《サマ》を云辭なり、さて此《ココ》は、上國《ウハツクニ》に歸(リ)坐むとする事を相議(リ)たまふを云なるべし、

〇莫視我は、阿袁那美多麻比曾《アヲナミタマヒソ》と訓べし、鎭火祭(ノ)祝詞《ノリト》に、夜七夜晝七日《ヨナナヨヒナヌカ》、吾乎奈見給比曾《アヲナミタマヒソ》、吾奈※〔女+夫〕之命《アガナセノミコト》、止申給比支《トマヲシタマヒキ》とあり、書紀に請勿視吾矣《アヲナミマシソ》、

〇殿内は登能奴知《トノヌチ》と訓べし、書紀神功(ノ)卷(ノ)歌に、腹内《ハラノウチ》を波邏濃知《ハラヌチ》とよみ、【濃はヌの假字なり、乃宇《ノウ》は奴《ヌ》と切《ツヅマ》る、】國内《クニウチ》を萬葉に久奴知《クヌチ》とよめり、

〇間は、阿比陀《アヒダ》と云むも惡《アシ》からねど、なほ富抒《ホド》と訓べし、然訓る例《アト》萬葉【十一の十二丁】にあり、

〇甚は、伊登《イト》と萬葉に訓り、【すべて伊登《イト》てふ言には、甚(ノ)字よく叶へり、最(ノ)字はあたらず、】

〇難待は麻知迦泥多麻比伎《マチカネタマヒキ》と訓べし、待《マチ》かねと云語萬葉に多し、迦禰《カネ》には多く不得《カネ》と書り、【凡て迦泥《カネ》と云は、みな此(ノ)不得(ノ)字の意にて、待かねは待得ざるを云、今俗に云とは、いさゝかたがひあり、】難(ノ)字も意は通へり、又語も加弖《カテ》と云に通へるをや、【此《ココ》の難を、直《タダ》に加弖《カテ》と訓ては惡《ワロ》し、】

〇御美豆良《ミミヅラ》は、上(ツ)代に男の御裝《ミヨソヒ》にて、髪を左右へ分て、結綰《ユヒワガネ》たるものなり、下に天照大御神の、解(テ)2御髪(ヲ)1纏(ヒ)2御美豆羅(ニ)1たまふとあるも、書紀に息長足姫《オキナガタヲシヒメノ》尊の、橿日《カシヒノ》浦にして、御髪を解《トカ》して、海に入(リ)洗たまひて、占《ウラヘ》たまふに、御髪|自《オ》分(レ)たるを、即《ヤガテ》その分れたるまゝに結《ユヒ》て、髻《ミミヅラ》としたまふことあるも、假《カリ》に男貌《マスラヲノミスガタ》と爲《ナリ》たまふなり、又崇峻紀に、古俗年少兒、年十五六(ノ)間|束髪於額《ヒサゴバナニス》、十七八(ノ)間(ハ)分(ケテ)爲2角子(ト)1、今(モ)亦|然《シカス》之とある、此(ノ)角子即(チ)美豆良《ミヅラ》なり、【十七八(ノ)間とあるは、やゝ後のことなるべし、いと上代は、すべて男は然《シカ》せしこと、右に云が如し、〇角子をあげまきと訓るは、後の稱なり、即みづらと訓べし、】萬葉【七の二十八丁】に角髪《ミヅラ》とあり、左右にあるが角《ツヌ》の如くなる故に、かゝる稱は有(ル)なり、後(ノ)世に鬢頬《ビムヅラ》と云は、此(ノ)美豆良を訛れる言なり、【江次第に、幼主(ノ)之時(ハ)垂(ル)2便頬(ヲ)1、】さてかの大御神の御|装《ヨソヒ》の所を以て見れば、美豆良にも珠を飾《カザリ》しなり、萬葉廿【二十九丁】に、阿母刀自母《アモトジモ》、多麻爾母賀母夜《タマニモガモヤ》、伊多太伎弖《イタダキテ》、美都良乃奈可爾《ミヅラノナカニ》、阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》、

〇刺は佐々勢流《ササセル》と訓べし、

〇湯津々間櫛《ユツツマグシ》【由都之《ユツノ》と之《ノ》を添(ヘ)て讀(ム)は、ひがことなり、由都某《ユツナニ》といふ例皆然り、】の事は、櫛名田比賣《クシナダヒメ》の所【傳九の二十九葉】に云べし、

〇男柱は、書紀に雄柱とあり、【これをホトリバとよめるは、邊齒歯《ホトリバ》の意にて、中古《ナカムカシ》の稱なるべし、二記共に柱とあれば、古言は然らじ、】共に袁婆斯羅《ヲバシラ》と訓べし、新撰字鏡に、憧柄(ハ)、橋梁(ノ)之左右(ノ)之柱(ナリ)、乎止古柱《ヲトコバシラ》とあり、【大神宮年中行事に、東(ノ)男柱(ノ)西(ノ)砌云々、これは御殿の高欄の男柱にて、字鏡に云ると同じ、】是(レ)に准《ナズラ》ふれば、櫛も左右の端《ハシ》の大なる齒《ハ》を、男柱《ヲバシラ》とぞ云けむ、さて此《コレ》を取欠《トリカキ》て火《ヒ》燭《トモシ》たまひしを思へば、上代の櫛(ノ)齒は、やゝ長《ナガ》かりけむことしらる、

。一火《ヒトツピ》、たゞ火とても有(リ)ぬべきを、一(ツ)火としも云るは、古(ヘ)燭《トモシビ》は二(ツ)三(ツ)も、又いくつも燃《トモ》す物なりけむ故に、たゞ一(ツ)ともすをば、分て然云ならへるにや、又思(フ)に、書紀に、今世(ノ)人夜(ル)忌(ミ)2一片之火《ヒトツビトモスコトヲ》1、又夜(ル)忌(ム)v擲《ナグルコトヲ》v櫛(ヲ)此其縁《コトノモトナリ》とある、此《コ》は後(ノ)人の書(キ)加(ヘ)たる文と見ゆれど、【其由は、一片之火と云ことは、次に擧たる又の一書にありて、此(ノ)上には見えず、上にいまだ其事をもいはで、ゆくりなく此(レ)其(ノ)縁也と云べき謂《イハレ》なし、】さる云(ヒ)ならはしは古《フル》くぞありけむ、其(ノ)忌事《イミコト》に一(ツ)火と云(ヒ)なせる名目を、本へ廻《メグラ》して、今こゝをも然云(フ)にも有べし、【今(ノ)世にも、石見(ノ)國などにては、神に供る燈を、一(ツ)ともすことを忌て、必|二口《フタクチ》にともし、又櫛を投ることをも忌むなりと、彼(ノ)國人云りき、】書紀に豊玉姫の御子|産《ウミ》ますときにも、火々出見(ノ)尊の、以v櫛(ヲ)燃(テ)v火(ヲ)視《ミタマフ》v之ことあり、
〇宇土《ウジ》は蛆(ノ)字を訓(ミ)來れり、本草てふ書に、【李時珍云(ク)】蛆(ハ)蠅(ノ)之子(ナリ)也、凡(ソ)物敗臭|則《トキハ》生v之とあり、和名抄には、※〔月+且〕を波閇乃古《ハヘノコ》とありて、宇土《ウジ》てふ訓はなし、※〔月+且〕と蛆とは通ふ、字鏡には※〔虫+昔〕を宇自《ウジ》とあり、【※〔虫+昔〕の宇土《ウジ》なるべき由はいかゞしらず、】今も腐爛たる物に生る小蟲《チヒサキムシ》を、宇土《ウジ》とぞいふ、

〇多加禮《タカレ》、今(ノ)世の語に、すべて鳥蟲などの、物に多く集《アツ》まるを多加留《タカル》と云、【人多加理《ヒトダカリ》と人にも云り、又即|宇土《ウジ》がたかるとも常に云り、】但(シ)其《ソ》は良利留禮《ラリルレ》と活《ハタラ》く辭なるを、【たからむたかりたかるたかれ、】此《ココ》は禮《レ》とあれば、今(ノ)世の用(ヒ)格《ザマ》とは少し異《カハ》りて、【今の語の如くならば、此《ココ》は多加理とあるべき格なり、】禮留《レル》留々《ルル》と活《ハタラ》く格なり、【たかれたかるたかるゝ、】されどそは通ふ例も多し、【離《ハナ》れはなり、恐《オソ》れおそり、乱《ミダ》れみだりのたぐひなり、】

〇斗呂々岐弖《トロロギテ》を舊印本又一本には許呂々岐弖《コロロギテ》とあり、【和名抄に、嘶咽を古路々久《コロロク》とあれど、此《ココ》に由なし、】延佳本には斗々呂岐弖《トトロキテ》とあり、されど今は一本に依(リ)つ、言は斗呂祁弖《トロケテ》と云に同じ、盪淫鑠などの字をとらかすと訓(ム)も、とろけさすといふ言なり、【薯蕷(ノ)汁を斗呂々《トロロ》と云も、とろけたる意なり、】さて此一句を、書紀に膿沸蟲流《ウナワキウジタカル》とあり、【訓のウナのナは或人(ノ)云(ク)、古(ヘ)の片假字に、ミをアと作《カケ》り、其(ノ)アを誤てナとは書るならむ、さればウミなるべし、】蟲流《ウジタカル》の訓は此記に依れり、上二字は即(チ)此(ノ)》斗呂々岐弖に當れり、【さて蟲には少《スコ》し似つかはしからぬ流(ノ)字を書《カカ》れたるは、多加留々《タカルル》を那我留々《ナガルル》とも通はし云しにや、膿沸と云から、流《ナガル》と云にはあらじ、今俗言にも、物の甚々《イトイト》多くて餘《アマ》る許《バカリ》なるを、流(ルル)と云ことあるなり、】

〇大雷《オホイカヅチ》、雷は萬葉三【十二丁】に伊加土《イカヅチ》、藥師寺(ノ)佛足石の御歌に伊加豆知《イカヅチ》、これら此名の正《マサ》しく見えたるなり、名(ノ)意は嚴《イカ》なり、豆《ヅ》は例の之《ノ》に通ふ助辭、知《チ》は美稱《ホメナ》なり、【式に山城(ノ)國乙訓(ノ)郡|乙訓《オトクニニ》坐(ス)大雷神社あり、これは續紀以下の史に依(ル)に、火《ホノ》雷の寫(シ)誤なり、】

〇火雷は、諸《カタヘノ》雷の例によらば、富能《ホノ》と能《ノ》を添(ヘ)て讀(ム)は、あしきに似たれど、三代實録に【十一の十一丁十四の廿六丁】保沼雷《ホヌイカヅチノ》神と云あるは、即火雷神と聞ゆれば、なは舊(キ)訓に從ふべし、さて火雷(ノ)神(ノ)社は、式に山城大和に處々見え、又和泉(ノ)大鳥(ノ)郡、上野那波(ノ)郡などにも見えたり、

〇黒雷、此(ノ)名|他《ホカ》に見あたらず、

〇拆雷は、佐久《サク》か佐伎《サキ》か、訓べき由|定《サダ》かならねば、姑く舊《フルキ》によれり、書紀神功(ノ)御卷に、雷電霹靂して磐を裂《サキ》しこと見ゆ、

〇若雷、宇遲能和紀郎子《ウヂノワキイラツコ》を、善紀には稚《ワキ》郎子と作《カカ》れたれば、此(ノ)若も和紀《ワキ》にて、別雷《ワキイカヅチ》【此《ココ》なると合せて思ふに、此(レ)を和祁《ワキ》雷と訓は非なり、】と同じかるべし、三代實録九【二丁】に武藏(ノ)國若電(ノ)神、【電は雷のひが寫しなるべし、】式に山城(ノ)國愛宕(ノ)郡賀茂|別《ワキ》雷(ノ)神(ノ)社、これを又は若《ワキ》雷とも式にあり、【此(レ)も風土記に依(ル)に、若雷の意の御名なるべし、】

〇土雷、書紀舒明(ノ)卷に、九年二月、大星從v東流v西(ニ)、便有v音似v雷(ニ)、時(ノ)人曰2流星之音(ナリト)1、亦曰2地雷一(ナリトモ)1云々、

〇鳴雷、式に主水司《モヒトリノツカサニ》坐(ス)鴨雷(ノ)神(ノ)社、大和(ノ)國添(ノ)上(ノ)郡鳴雷(ノ)神(ノ)社、高市(ノ)郡|氣吹《イブキ》雷|響《ナル》雷吉野大國栖御魂(ノ)神(ノ)社二座、

〇伏雷、此(ノ)名|他《ホカ》に見あたらず、

〇并(ノ)字、延佳本に並と作《カケ》るは非なり、

。八雷神は、夜久佐能伊迦豆知賀微《ヤクサノイカヅチガミ》と訓べし、上の迦具士《カグヅチ》の御身に成(リ)坐る八柱の山津見《ヤマツミ》、及《マタ》此《コフ》の八種の雷神の、各|成《ナ》れる處と名の義《ココロ》とを當《アテ》て、其(ノ)由を考るに、山津見の方はことよれるが多し、されど又心得がたきもまじれれば、姑く黙止《モダシ》ぬ、今雷神は、何《イヅ》れも思ひ得がたし、【書紀の註どもに説あれど、みな強言《シヒゴト》なり、】さて書紀一書には、雷の成れること見えず.一書には八色雷公《ヤクサノイカヅチ》を云、されど此記と、成れる處も其名も異《カハリ》あり、【共に古(ヘ)の傳(ヘ)なれは、今とかく云べきならねど、猶試にいはば、此記には、御手も御足も、左右に別《コト》に成れりとあるを、書紀には、たゞ手又足とのみ云て、左右をいはぬはいかにぞや、手も足も名こそ一(ツ)なれ、實は左右にある物なれば、必二柱づゝ成(リ)坐(ス)べきことなり、かくいふは愚なるさだと人思ふべかめれど、たゞ理をさしおきて、實《マコト》の體《モノ》につきて云ぞ、いにしへの意なる、】又雷の名は、此《ココ》の八種の外にも、種々《クサグサ》他書《ホカノフミ》にも見ゆ、將《ハタ》雷の事を、陰陽と云物の理を以て、かにかくに論《アゲツラ》ふほ、例の漢意にて、甚《イタ》く古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》けり、凡て雷は此《ココ》に見えたる如く、もと伊邪那美(ノ)大神の大御身に成(リ)て、豫母都國《ヨモツクニ》より起る物なり、【甚《イタ》く怒(リ)て死《シニ》し人などの、後に雷になりてむくひすること,昔も今も多きは、是(ノ)故ぞ、】

於是伊邪那岐命見畏而逃還之時《ココニイザナギノミコトミカシコミテニゲカヘリマストキニ》。其妹伊邪那美命言令見辱吾《ソノイモイザナミノミコトアレニハヂミセタマヒツトマヲシタマヒテ》。即遣豫母都志許賣《ヤガテヨモツシコメヲツカハシテ》【此六字以音】令追《オハシメキ》。爾伊邪那岐命取黒御鬘投棄《カレイザナギノミコトクロミカヅラヲトリテナゲウチタマヒシカバ》。乃生蒲子《スナハチエビカヅラノミナリキ》。是※〔手偏+庶〕食之間逃行《コヲヒリヒハムアヒダニニゲイデマスヲ》。猶追《ナホオヒシカバ》。亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄《マタソノミギリノミミヅラニササセルユツツマグシヲヒキカキテナケウチタマヘバ》。乃生笋《スナハチタカムナナリキ》。是拔食之間逃行《コヲヌキハムアヒダニニゲイデマシキ》。且後者《マタノチニハ》。於其八雷神副千五百之黄泉軍令追《カノヤクサノイカヅチガミニチイホノヨモツイクサヲソヘテオハシメキ》。爾拔所御佩之十拳劔而《カレミハカセルトツカツルギヲヌキテ》。於後手布伎都都《シリヘデニフキツツ》【此四字以音】逃來《ニゲキマセルヲ》。猶追到黄泉比良【此二字以音】坂之坂本時《ナホオヒテヨモツヒラサカノサカモトニイタルトキニ》。取在其坂本桃子三箇待撃者《ソノサカモトナルモモノミヲミツトリテマチウチタマヒシカバ》。悉逃返也《コトゴトニニゲカヘリキ》。爾伊邪那岐命告桃子《ココニイザナギノミコトモモニノリタマハク》。汝如助吾《イマシアヲタスケシガゴト》。於葦原中國所有宇都志伎《アシハラノナカツクニニアラユルウツシキ》【此四字以音】青人草之《アヲヒトクサノ》。落苦瀬而患惚時《ウキセニオチテクルシマムトキニ》。可助告《タスケテヨトノリタマヒテ》。賜名號意富加牟豆美命《オホカムヅミノミコトトイフナヲタマヒキ》。【自意至美以音】

見畏《ミカシコミ》は見て畏《カシコ》むなり、記中所々に此詞あり、又|見驚《ミオドロク》見喜《ミヨロコブ》見感《ミメヅ》なども有て、みな古語ぞ、加志許牟《カシコム》はおそるゝことなり、書紀推古(ノ)卷の歌に、※〔言+可〕之胡彌弖《カシコミテ》とあり、字鏡に、悸を惶也と注し、加志古牟《カシコム》とも於曾留《オソル》ともあり、【又同書に、忙怕を、於比由《オビユ》とも於豆《オヅ》ともあり、此《ココ》も美於遲弖《ミオヂテ》とも訓つべし、】

〇逃還《ニゲカヘリ》、逃《ニゲ》てふ言は、朝倉(ノ)宮(ノ)段の大御歌に、爾宜能煩理斯《ニゲノボリシ》とあり、

〇令見辱《ハヂミセ》、恥《ハヂ》を與《アタフ》るを、恥見《ハヂミ》すと云は古語なり、書紀【五の八丁】にも令羞吾《アレニハヂミセツ》、又【十二の六丁】慚汝《イマシニハヂミセム》などあり、此《ココ》を鎭火祭(ノ)祝詞には、吾名※〔女+夫〕乃命能《アガナセノミコトノ》、吾乎見給布奈止申乎《アヲミタマフナトマヲスヲ》、吾乎見阿波多志給比津止申給弖《アヲミアハタシタマヒツトマヲシタマヒテ》とあり、

〇豫母都志許賣《ヨモツシコメ》は、書紀に泉津醜女とかきて、醜女此(ヲ)云(フ)2志許賣《シコメト》1、一(ヒハ)云(フ)2泉津日狹女《ヨモツヒサメト》1とあり、私記に、或(ル)説(ニ)黄泉(ノ)之鬼也と云り、【但し鬼とは、儒佛の書にとく鬼の意には非ず、たゞ尋常《ヨノツネ》の人の類ならで、おそろしき物を、世に鬼《オニ》といふ是なり、】書紀欽明(ノ)卷に、魃鬼《シコメ》とあるも其(ノ)意なり、和名抄にはこの醜女を、鬼魅の部に裁たり、さて名(ノ)義は、形のおそろしく見惡《ミニク》きを云、下文に伊那志許米《イナシコメ》云々とあると同じ、猶|彼處《カシコ》に言《イフ》べし、

〇遣は都迦波志弖《ツカハシテ》と訓べし、【麻陀志《マダシ》と訓は非《ヒガコト》なり、そは尊《タフト》む所へ人して物を奉る意の所に書る遣(ノ)字を、麻陀須《マダス》と訓むより轉《ウツ》れる誤なり、麻陀須《マダス》てふことは、傳十六、木(ノ)花之佐久夜毘賣の段にくはしくいふべし、】

〇黒御鬘《クロミカヅラ》、すべて加豆良《カヅラ》に三(ツ)の品あり、葛【蔓も同じ】と鬘と髪となり、まづ葛は、葛《クズ》かづら五味《サネカヅラ》忍冬《スヒカヅラ》など、凡て蔓草のことなり、鬘は、頭の飾《カザリ》に懸《カク》る物なり、【古書に、蘰とも縵とも鬘とも書り、蘰は字書に見えず、縵は見えたれども鬘《カヅラノ》意なし、〓は鬘のかきざまの異なるなり、】※〔髪の友が皮〕は、和名抄に、和名|加都良《カヅラ》、釋名(ニ)云(ク)、髪|少《スクナキ》者(ノ)所3以(ナリ)被(リテ)助(クル)2其(ノ)髪(ヲ)1也と有て、俗に加毛自《カモジ》と云物なり、かくさま/”\あれども、本は一(ツ)より轉《ウツ》れる名にて、草の葛《カヅラ》より出たり、さて其(ノ)葛の本の名は都良《ツラ》にて、記中に登許呂豆良《トコロヅラ》都豆良《ツヅラ》、書紀萬葉に、磨左棄逗※〔口+羅〕《マサキヅラ》、和名抄に千歳〓《アマヅラ》百部《ホトヅラ》など云(ヒ)、【これらの都良《ツラ》を、加豆良の略と思ふは、本末たがへり、】忍冬《スヒカヅラ》も、字鏡には須比豆良《スヒヅラ》とあり、【拾遺集雜(ノ)下に、さだめなくなるなる瓜《ウリ》のつら見てもとよめるは、蔓《ツラ》に頬《ツラ》を云(ヒ)かけたるなり、今|都留《ツル》と云は、都良《ツラ》のうつれるなり、弓の弦《ツル》をも、萬葉に都良《ツラ》ともよめり、馬具の轡《クツワヅラ》※〔革+龍〕頭《オモヅラ》の都良《ツラ》も、草の蔓《ツラ》よりぞ出けむ、轡は手綱《タヅナ》のことなり、】さて何《ナニ》にまれ蔓草《ツラクサ》を以て頭の飾《カザリ》にかくるを、髪葛《カヅラ》と云、是(レ)即(チ)鬘なり、さて然《シカ》鬘に用るから、立《タチ》かへりて草の葛《ツラ》をも、加豆良《カヅラ》とは云ならむ、又※〔髪の友が皮〕も髪を飾具《カザルモノ》なれば、鬘とおなじ名を負《オフ》せつらむ、さて鬘は、上(ツ)代には女男《メヲ》ともに懸《カク》る物にて、蔓草《ツラクサ》を用ひしことは、石屋戸の段に眞拆《マサキ》をかけしを始(メ)て、日影鬘《ヒカゲノカヅラ》など、又必しも蔓《ツラ》ならねど、花鬘《ハナカヅラ》菖蒲鬘《アヤメノカヅラ》柳(ノ)鬘|木綿鬘《ユフカヅラ》などあり、【これらも加豆良《カヅラ》と云名は、蔓草《ツラクサ》より出たるなり、】又|絲《イト》などを以ても作りしにや、珠《タマ》をかざること、天照大御神の御節《ミカザリ》【宇氣比《ウケヒ》の所、】に見えたり、玉鬘《タマカヅラ》と云は是(レ)なり、【※〔髪の友が皮〕にも葛にも玉かづらと云は、此の玉鬘の名をうつして呼《イフ》か、又たゞほめていふにもあるべし、】穴穗(ノ)宮(ノ)御段に、押木(ノ)玉縵《タマカヅラ》と云も有て、貴《タフト》き寶なりしこと見ゆ、萬葉に波禰蘰《ハネカヅラ》と云こともあり、【蘰(ノ)字は、此(ノ)物|艸《クサ》にても糸にても造るゆゑに、設《マウケ》たる字にや、しか此方にて作れる字多し、縵も、本の字義にはかゝはらで、右の意もて用るなるべし、〇和名抄に、花蔓《ケマム》を伽藍(ノ)具に載たれども、これももと天竺の人の頭のかざりなり、】さて此《ココ》に黒《クロ》とあるは、色|以《モ》て云(フ)なるべけれど、何物にて如何《イカニ》作《ツク》れりとも知がたし、【都豆良《ツヅラ》を黒葛とかけども、そは此《ココ》に由なし、〇此(ノ)黒(ノ)字|久漏伎《クロキ》と訓(ム)はわろし、殊《コト》に其(ノ)色をことわらむこと、こゝに用なく聞ゆればなり、さればクロミカヅラと訓べし、其(ノ)久漏《クロ》も色もて云にはあれど、如此《カク》よむときは、鬘の一種の稱《ナ》となりて、古言の例にかなへばなり、】蒲子《エビノミ》の成れるに就《ツキ》て思へば、此(ノ)鬘のさま、蒲萄葛《エビカヅラ》に似て、玉を垂《タレ》たるが、彼《カノ》實《ミ》のなれる形《サマ》にや似たりけむ、色の黒かりけむも、彼(ノ)實《ミ》によしあるにや、

〇棄は、八千矛(ノ)神の御歌に、脱棄を奴岐宇弖《ヌギウテ》とよみ給ひ、書紀に、吹棄此(ヲ)云2浮枳于都屡《フキウツルト》1とあるに依て、宇※〔氏/一〕《ウテ》と訓べし、

〇蒲子、書紀には蒲萄とあり、和名抄に、紫葛(ハ)和名|衣比加豆良《エビカヅラ》、蒲萄(ハ)和名|衣比加豆良乃美《エビカヅラノミ》とあり、或人(ノ)云(ク)、此(ノ)物|鬚《ヒゲ》ありて蝦《エビ》に似たる蔓草なる故に然《シカ》名くと云り、

〇※〔手偏+庶〕は、字書に、拾也とも注し、取也とも注せり、さて比呂比《ヒロヒ》は、比理比《ヒリヒ》と古言に云り、萬葉十五【十丁】に、於伎都白玉比利比弖由賀奈《オキツシラタマヒリヒテユカナ》、又【十三丁】和多都美能多麻伎能多麻乎《ワタツミノタマキノタマヲ》云々、比里比等里《ヒリヒトリ》、十七【七丁】に、多麻母比利波牟《タマモヒリハム》などあり、

〇逃行、この行(ノ)字は、伊傳坐《イデマス》と訓べし、そは必|出坐《イデマス》ならねど、行給《ユキタマフ》と云ことをも、然《シカ》言《イフ》は古言ぞ、

〇湯津々間櫛《ユツツマグシ》、まへには男柱《ヲバシラ》を取闕《トリカク》とあるを、此《ココ》にはたゞ引闕《ヒキカク》とあれば、【引と取とには、異なる意なし、】凡《ナベテ》の齒《ハ》の中《ウチ》を引闕たまふなり、又まへなるは、左の御髻《ミミヅラ》なる御櫛《ミグシ》、此《ココ》なるは右のなり、

〇笋は、字鏡に、筍笋|太加牟奈《タカムナ》、和名抄にも、筍亦作v笋(ニ)、和名|太加無奈《タカムナ》とあり、【後の物に多加宇奈《タカウナ》とも云り、凡て牟《ム》を宇《ウ》と云(ヒ)なす例多し、音便なり、】名の意は竹芽菜《タカメナ》なり、【菜《ナ》は、食に添(ヘ)て喰(フ)物の凡《スベテ》の名なり、かゝれば笋も、菜《ナ》にするときの名を、たかむなといひ、たゞには竹子《タケノコ》と云、故に歌には竹(ノ)子とのみょめり、此《ココ》は拔食《ヌキハム》とあれば菜《ナ》なり、】櫛の齒《ハ》の状《サマ》、竹子《タケノコ》の並立《ナミタテ》るに似たり、書紀に鹽土(ノ)老翁が、玄櫛を投しかば、五百箇竹林《イホツタカムラ》になれりしとあるも、此たぐひなり、

〇且後、この且は麻多《マタ》と訓べし、

〇其は加能《カノ》と訓べし、

〇千五百《チイホ》は、たゞ多きを大方に云言なり、凡て其(ノ)多《オホ》さのほどに從(ヒ)て、八《ヤ》とも五十《イ》とも、八十《ヤソ》とも百《モモ》とも百八十《モモヤゾ》とも、五百《イホ》とも八百《ヤホ》とも、千《チ》とも千五百《チイホ》とも、八千《ヤチ》とも萬《ヨロヅ》とも、八十萬《ヤソヨロヅ》とも八百萬《ヤホヨロヅ》とも千萬《チヨロヅ》とも云り、さて百を富《ホ》と云は、毛々《モモ》の轉れるなり、毛《モ》と富《ホ》と通へり、但しこは五百《イホ》八百《ヤホ》に限れり、餘は幾毛々《イクモモ》と云り、

〇黄泉軍は豫母都伊久佐《ヨモツイクサ》と訓べし、伊久佐《イクサ》とは軍士《イクサビト》を云|稱《ナ》なり、書紀神武(ノ)卷に女軍《メイクサ》男軍《ヲイクサ》、萬葉二【三十四丁】に、御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアトモヒタマヒ》、六【二十五丁】に千萬乃軍《チヨロヅノイクサ》、廿【二十七丁】に須米良美久佐《スメラミクサ》【皇御軍《スメラミイクサ》なり】などある、皆然り、凡て戰《タタカヒ》を伊久佐《イクサ》と云ることは、古(ノ)書には見えず、いと後のことなり、【軍(ノ)字師(ノ)字などを書《カク》も、其人衆を云故なり、然るに伊久佐《イクサ》は、射合箭《イクハシサ》と云ことなりと、師のいはれつるはいかゞ、戰(ノ)字などを伊久佐と訓る例もなきをや、】

〇後手《シリヘデ》は、手を後《ウシロ》ざまへ回《メグラ》して物するなり、うつほ物語に、しりへ手《デ》にしばり云々とあり、

〇布伎《フキ》は振《フリ》なり、古言に振《フル》を布久《フク》とも云し例、萬葉に、草の山吹《ヤマブキ》を山振《ヤマブキ》とも書たり、風の吹と云も振《フル》と通ふ、中卷に振《フル》v風(ヲ)比禮《ヒレ》といふあり、書紀に、背揮此(ヲ)云(フ)2志理幣提爾布〓《シリヘデニフクト》1、【此(ノ)〓《クノ》字を、今(ノ)本に侶とかけるは、いかにとも讀がたし、決《ウツナ》くひがことなり、纂疏(ノ)本に屡《ル》と作《カケ》るを以て、〓《ク》の誤寫なることを知れり、此(ノ)二字相誤れる所多し、】又皇極紀に揮《フキテ》v劔《タチヲ》ともあり、

〇都々《ツツ》は乍なり、此《コレ》を爲《シ》ながら彼《カレ》をも爲《ス》るを云辭なり、且且《カツカツ》の約《ツヅ》まりたる歟、此處《ココ》は雷神と軍と迫《セメ》て追來るを、防《フセ》き坐(ス)御所爲《ミシワザ》なり、されど相向て防くときは、得逃《エニゲ》給はぬに依て、逃《ニゲ》ながら防き坐(ス)故に、後手《シリヘデ》に物し給ふなり、

○黄泉比良坂《ヨモツヒラサカ》、書紀に、泉津平坂此(ヲ)云(フ)2余母都比羅佐可《ヨモツヒラサカト》1と見え、鎭火(ノ)祭(ノ)祝辭には、與美津枚坂《ヨミツヒラサカ》とあり、此《コ》は黄泉《ヨミ》と顯國《ウツシクニ》との堺なり、平《ヒラ》坂と云は、平易《ナダラカ》なる意なり、【山背にも平坂といふ所《トコロ》、書紀(ノ)崇神(ノ)卷に見ゆ、】

〇桃子は毛々能美《モモノミ》と訓べし、【凡ての木草に、花をもて名《ナヅク》るもあり、實《ミ》をもて名(ク)るもあり、幹をもて名(ク)るもある中に、實《ミ》を以(テ)名《ナヅ》けたる梨栗柿などは、實《ミ》と云(ハ)ねど實《ミ》のことになりて、梨《ナシ》の實《ミ》柿《カキ》の實《ミ》とは云(ハ)ず、されば挑も其類とせば、實《ミ》をもたゞ毛々《モモ》と云べし、和名抄にも菓類に收《イレ》て、桃子和名毛々と注し、其外も梨子《ナシ》栗子《クリ》椎子《シヒ》などと出せり、然れども、桃は花をも賞《メヅ》る木なり、又こゝの樣《サマ》を思ふに、坂本なる毛々《モモ》とのみいひては、其(ノ)木のことと聞ゆれば、なほ美《ミ》と訓べきにこそ、】さて桃之實乎三取弖《モモノミヲミツトリテ》と師の訓れたるぞよき、【三乎《ミツヲ》と云は漢文|讀《ヨミ》なり、さて師(ノ)云(ク)、蒲子桃子などを投あたへたまひしは、後(ノ)世の道饗祭の本なり、彼(ノ)祝祠に、根(ノ)國底(ノ)國與利麁備疎備來(ム)物爾云々、】

〇待撃《マチウチ》は、來《ク》るものを待受て打《ウツ》なり、中卷に倭建(ノ)命の、蒜の片端を以て、足柄の坂(ノ)神を待打《マチウチ》たまふとあるに同じ、古言には待問《マチトフ》待取《マチトル》待攻《マチセム》待戰《マチタタカフ》待向《マチムカフ》など云ること多かり、【此《コ》は早く來むことを欲《ホリ》するを待《マツ》といふとは異なり、たゞ來るものを向ひ承《ウク》るを云なり、後の物語などにも、待《マチ》云々と云語おほし、】

〇悉は許登碁登邇《コトゴトニ》と訓べし、火遠理《ホヲリノ》命の大御歌に、伊毛波和須禮士余能許登碁登邇《イモハワスレジヨノコトゴトニ》、萬葉五(ノ)卷に、布可多衣安里能許等其等伎曾倍騰毛《ヌノカタギヌアリノコトゴトキソヘドモ》などあり、

〇逃返《ニゲカヘリ》、舊印本には坂返とあり、此《コレ》も捨《ステ》がたし、黄泉《ヨミ》より返るを與美返《ヨミガヘル》と云如く、坂合《サカアヒ》より返るを、坂返《サカガヘル》と云古言の有けむも知がたければなり、

〇告桃子、この桃子はたゞ毛々《モモ》と訓べし、【此《ココ》をも實《ミ》と云むは拙し、】告(ノ)字|能理給波久《ノリタマハク》と訓べし、【こゝは都祁《ツゲ》と訓むも惡《アシ》からぬに似たれど、なほ然《サ》は訓(ム)まじきなり、】

〇助《タスケ》v吾《アヲ》とは、即(チ)今此(ノ)桃子《モモ》を以(テ)、迫追來《セメオヒコ》し者共《モノドモ》を撃退《ウチシリゾ》けて、難《マガ》をのがれ給ふ故に詔ふなり、

〇葦原中國《アシハラノナカツクニ》は大御國の號《ナ》にして、もと天(ツ)神の【天照大御神天之忍穗耳(ノ)命、】御代に、高天(ノ)原より云る號《ナ》なり、此(ノ)號の事、別に國號考に委く云り、【或書に、葦牙《アシカビ》に喩《タトヘ》しょり名《ナヅク》る由《ヨシ》云るは、上(ツ)代の意に非ず、さては原と云(ヒ)中と云こと由なし、又中(ツ)國と云を、漢國の人のみづからほこりて、中華中國と云と同じさまに説《トキ》なすも、彼《カレ》をうらやみたるひがことなり、たゞ葦原の中《ナカ》なる物をや、又この葦原(ノ)中國といふは、西(ノ)九州《ココノグニ》をさすと云は、高天(ノ)原を、大和(ノ)國のことぞと誤り思ふから出たる強説《シヒゴト》なり、】今|此《ココ》に天上《アメ》ならずして夜見(ノ)國にして、伊邪那岐(ノ)命の如此《カク》詔へるは、彼(ノ)天上にして云(フ)稱《ナ》を、其(ノ)まゝ此方《ココ》にても云ならへる世になりて語(リ)傳へし語なり、【又天(ツ)神の御代に、天上にて語(リ)傳(ヘ)たる語にても有なむ、】

〇所有は阿良由流《アラユル》と訓べし、伊波由琉《イハユル》と同格の言にして、共に古言なり、【由《ユ》は流《ル》に通ふ古言の格なり、此(ノ)阿良由琉伊波由琉などを、たゞ漢籍讀《カラブミヨミ》の言とのみ思ふは誤なり、凡てからぶみよみに古言の遣《ノコ》れること多きぞかし、】

〇宇都志伎青人草《ウツシキアヲヒトクサ》、書紀に、顯見蒼生此(ヲ)云2宇都志枳阿烏比等久佐《ウツシキアヲヒトクサ》1とありて、私記に、顯見者見在《ウツシキトハゲムザイノ》之義(ナリ)也とあり、かかれば宇都《ウツ》は現《ウツツ》、志伎《シキ》は嬉《ウレシキ》悲《カナシキ》の類の志伎《シキ》にて辭なり、書紀神武(ノ)卷に、顯齋此(ヲ)云2于圖詩怡破毘《ウツシイハヒト》1、續紀十(ノ)宣命に、于都斯久母《ウツシクモ》などあり、さて人草のことを如此《カク》詔ふは、書紀大穴牟遲命の御言に、吾所治顯露事者《アガシレルアラハニゴトハ》、皇孫當治《スメミマノミコトシロシメセ》、吾將退治幽事《アハカクレテカミゴトシリナム》云々、【此(ノ)幽事を、上(ノ)文には神事《カミゴト》とかけり、同じことなり、】かく幽神事《カミゴト》に對《ムカヘ》て顯露事《アラハニゴト》と云るが如く、目《メ》に見えず顯《アラハ》ならぬ神に對(ヘ)て、顯《アラハレ》たる世(ノ)人と云ことぞ、【中卷(ノ)末に、神習《カミナラフ》青人草習《アヲヒトクサナラフ》と云ことある、此(レ)も世(ノ)人を神に對へて云るなり、】雄略天皇の、葛木(ノ)神の形を顯《アラハ》して見え奉り給ふを、宇都志意莫《ウツツオミ》と詔へる、又師説に、萬葉に空蝉《ウツセミ》【借字なり】宇都曾臣《ウツソミ》などあるも、みな顯《ウツ》しき身と云ことなりとある、又|現心《ウツシゴコロ》夢現《イメウツツ》などの現《ウツ》、みな同(ジ)言なり、青人草と云|所以《ユヱ》は、次《ツギ》の文に、千人死千五百人生とある意にて、草の彌益々《イヤマスマス》に生茂《オヒシゲリ》はびこるに譬《タトヘ》たる稱《ナ》なり、青《アヲ》としも云るに心を着《ツク》べし、【私記に、貴人を木にたとへ、賤民を草にたとふ、といふ説はひがことなり、】故(レ)此(ノ)將《ナ》は、神の人の利益《クホサ》を爲《ナシ》給ふことと、人の損害《ソコナヒ》を爲《ナシ》給ふこととにのみ必(ズ)用《ツカ》ふ稱《ナ》なり、【神の人を利益《タスケ》たまふは、千五百人生るゝ意なり、さて損害をなすは、それに逆《サカ》ひ敵《アタ》むなり、故(レ)共に此(ノ)稱を云なり、古書どもをよく見わたして眼を着《ツク》べし、予《オノ》が云ことの虚《ムナシ》からざること、自《オ》さとりなむ、〇から國に蒼生黔首など云意とは、いたく異なり、ゆめ此(ノ)文字に迷(ヒ)て、意をとりあやまることなかれ、書紀に蒼生と作《カカ》れたるは、たゞたまたま似たる稱《ナ》の文字を取《トラ》れたるのみなり、】

〇苦瀬は、久留志伎勢《クルシキセ》と訓(マ)むも然《サル》ことなれど、なほ師の宇伎勢《ウキセ》と訓れたるぞよき、瀬《セ》は、歌に嬉勢《ウレシキセ》哀勢《カナシキセ》戀勢《コヒシキセ》逢勢《アフセ》如是有勢《カカルセ》など賦《ヨム》これなり、この勢《セ》てふ言は、凡て竪《タテ》にも横《ヨコ》にも用《ツカ》ふ、縱《タテ》とは時なり、長く經行《ヘユク》時の間《アヒダ》に、人に逢時《アフトキ》を指《サシ》て逢勢《アフセ》と云、此(ノ)餘《ホカ》も同じ、横とは處《トコロ》なり、川の瀬など是《コレ》」なり、川に云は、上《カミ》より下まで長き流の間《アヒダ》に、濟《ワタ》る處《トコロ》を指て勢《セ》とは云ぞ、【古(キ)歌に渡瀬《ワタリゼ》とある是なり、さて川は淺き處をえりて渡るものなれば、渡(リ)瀬は必淺き處なり、故(レ)それより轉《ウツ》りて、必渡る處ならねど、淺き處をも瀬とは云なり、又たぎつせ早瀬なども、もとはわたりぜよりぞ出つらむ、】又|痛《イタ》く後のことなれど、西行が歌に、此處《ココ》を勢《セ》にせむと云るも、此《ココ》を其《ソノ》處《トコロ》とせむと云意なり、此《ココ》の苦瀬《ウキセ》は、苦患《ウキ》ことに當《アタ》れるを云て、縱横《タテヨコ》にわたれり、

〇落《オツ》は沈《シヅム》と同じ、凡て凶《アシキ》にゆくを、落《オツ》とも沈《シヅム》とも云(ヒ)、吉《ヨキ》にゆくを、上《アガ》るとも浮《ウカ》むとも云り、

〇患惚の惚を、※〔牛偏+怱〕とも※〔手偏+怱〕とも作《カケ》るは、みな非《ヒガコト》なり、一本又舊事紀に、※〔立心偏〕に从《カケ》るぞよき、火遠理《ホヲリノ》命の段に、惚苦とあるも同じ、彼《カレ》も此《コレ》も久留志牟《クルシム》と訓べし、天智紀(ノ)童謠に、愛倶流之衛《エクルシヱ》云々、阿例播倶流之衛《アレハクルシヱ》とよめり、【惚は、摠の俗字とあり、字書に、惚恫(ハ)不v得v志(ヲ)也とも、不v得v意貌とも、又※〔立心偏+空〕惚(ハ)不v得v志也とも注し、又※〔人偏+空〕※〔人偏+怱〕とも通はし書て、窮困也迫促也苦也とも、又恫(ハ)痛也呻吟也ともあり、】

〇可助は多須祁弖余《タスケテヨ》と訓べし、上の如《ゴト》v助(シガ)v吾(ヲ)を、此《ココ》へかけて見べし、今|吾《アレ》を助《タスケ》しが如くに可助《タスケヨ》と云ことなり、桃の後(ノ)世まで鬼魅《アシキモノ》を避《サク》るは、此(ノ)大詔《オホミコト》によれり、【漢籍《カラブミ》にしも、桃のさる功能《イサヲ》あることを、これかれに記《シル》せるを見れば、御國のみならず、外國《トツクニ》の末までも、此大神の大詔の驗《シルシ》ありけることしられていと貴《タフト》し、】

〇意富加牟豆美《オホカムヅミ》は、大神之實《オホカミノミ》なりと谷川氏云り、さもあるべし、【但し大神《オホカミ》とつゞける言にはあらず、神《カム》つ實《ミ》に、大《オホ》てふ言を添(ヘ)て稱《タタヘ》しなり、】此號は、奇功《アヤシキイサヲ》を美《ホメ》て、かく神とは稱《タタ》へ賜ひしなり、豆美《ツミ》の義は、今一(ツ)の考へもあり、其《ソ》は傳七(ノ)卷【五十五葉五十七葉】に云べし、

 

最後其妹伊邪那美命身自追來焉《イヤハテニソノイモイザナミノミコトミミヅカラオヒキマシキ》。爾千引石引塞其黄泉比良坂《スナハチチビキイハヲソノヨモツヒラサカニヒキサヘテ》。其石置中《ソノイハヲナカニオキテ》。各對立而度事戸之時《アヒムキタタシテコトドヲワタストキニ》。伊邪那美命言《イザナミノミコトノマヲシタマハク》。愛我那勢命《ウツクシキアガナセノミコト》。爲如此者《カクシタマハバ》。汝國之人草一日絞殺千頭《ミマシノクニノヒトクサヒトヒニチカシラクビリコロサナトマヲシタマヒキ》。爾伊邪那岐命詔《ココニイザナギノミコトノノリタマハク》。愛我那邇妹命《ウツクシキアガナニモノミコト》。汝爲然者《ミマシシカシタマハバ》。吾一日立千五百産屋《アレハヤヒトヒニチイホウブヤタテテナトノリタマヒキ》。是以一日必千人死《ココヲモテヒトヒニカナラズチヒトシニ》。一日必千五百人生《ヒトヒニカナラズチイホヒトナモウマルル》也。故號其伊邪那美命謂黄泉津大神《カレソノイザナミノミコトヲヨモツオホカミトマヲス》。亦云以其追斯伎斯【此三字以音】而。《マタカノオヒシキシニヨリテ》號道敷大神《チシキノオホカミトマヲストモイヘリ》。亦所塞其黄泉坂之石者《マタソノヨミノサニサヤレリシイハハ》。號道反大神《チガヘシノオホカミトモマヲシ》。亦謂塞坐黄泉戸大神《サヤリマスヨミドノオホカミトモマヲス》。故其所謂黄泉比良坂者《カレソノイハユルヨモツヒラサカハ》。今謂出雲國之伊賦夜坂也《イマイヅモノクニノイフヤザカトナモイフ》。

最後は、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、伊夜佐岐陀弖流《イヤサキダテル》とある大御歌(ノ)詞に依《ヨリ》て、伊夜波弖《イヤハテ》と訓べし、【彼御歌(ノ)前(ノ)詞に、知(テ)v立(ルコトヲ)2於|最前《イヤサキニ》1とあり、】拾芥抄人(ノ)名(ノ)字の中に、最を彌《イヤ》の下《トコロ》に出せり、なほ伊夜《イヤ》と云言は、彼(ノ)大御歌の處【傳二十の二十六葉】に云べし、大穴牟遲(ノ)神(ノ)段にも、最後之來《イヤハテニキマセル》とあり、【枕册子に、さいはての車と云るは、最後之車《サイハテノクルマ》なり、其(ノ)頃は最(ノ)字を音にてぞ云けむ、又今(ノ)言に、最前《サイゼム》と音にて云も、本(ト)伊夜佐伎《イヤサキ》てふ言よりぞ出けむ、】波弖《ハテ》とは、何事にまれ物の終《ヲハリ》を云こと、今も古も同じ、

〇身自は美々豆加良《ミミヅカラ》と訓べし、常には自(ノ)一字をみづからとよめども、おのづから【己自《オノヅカラ》なり】てづから【手自《テヅカラ》なり】くちづから【口自《クチヅカラ》なり】なども云へば、自は加良《カラ》にて、みづからは身《ミ》つ自《カラ》なり、さて今|美々《ミミ》と重(ネ)てよむ、上の美《ミ》は御《ミ》なり、

〇千引石は知毘伎伊波《チビキイハ》と訓べし、【知毘伎能《チビキノ》とよまぬぞ古言の格なる、】此《コレ》を書紀に、千人所引磐石《チビキイハ》と書れたるは、稱《ナ》の意を顯《アラハ》せるなり、萬葉四【五十二丁】に、吾戀者千引乃石乎七許頸二將繋母《ワガコヒハチビキノイハヲナナバカリクビニカケムモ》云々、和名抄には、知比木乃以之《チビキノイシ》とあり、私記も同じ、【かくあれども、石は伊波《イハ》と訓(ム)ぞよき、】又記中に、五百引石《イホビキイハ》と云も見ゆ、

〇引塞は比伎佐閇《ヒキサヘ》と訓べし、佐閇《サヘ》は令《セ》v障《サハラ》なり、【はらせを切《ツヅム》れば閇《ヘ》なり、令《セ》v合《アハ》を阿閇《アヘ》といふと同じ格なり、】下に五百引石《イホビキイハヲ》取2塞《トリサヘ》其室戸《ソノムロドニ》1ともあり、【引と取とはたゞ同じことなり、上に櫛の齒を引闕《ヒキカキ》とも、取闕《トリカキ》ともあるが如し、】如是《カク》爲《シ》て、追來《オヒキ》坐る女神を、禦留《フセキトドメ》奉(リ)給(フ)なり、

〇各對立而は、阿比牟伎多々志弖《アヒムキタタシテ》と訓べし、萬葉八【三十二丁】に天漢相向立而《アマノガハアヒムキタチテ》、又【同丁】河向立《カハニムキタチ》などあり、書紀に此《ココ》を、相向而立と書《カカ》る、

○度事戸は、許登度袁和多須《コトドヲワタス》と訓べし、書紀には,建2絶妻之誓1と書て、絶妻之誓此(ヲ)云2許登度《コトドト》1とあり、私記(ニ)曰(ク)、按(ニ)2古事記(ヲ)1、曰(ヘリ)v度(ト)2事戸1矣、故(ニ)今尋(テ)2彼(ノ)文(ヲ)》1而讀(メリ)v之(ヲ)、度(ハ)者猶(ホ)如(シ)2言度《イヒワタスノ》1云々、【今俗言に、人に受持《ウケタモタ》しむべき事を言付《イヒツク》るを、申(シ)渡すと云(フ)、よく似たり、引導を渡すと云はさらなり、】さて書紀に書れたる字にて、大意《オホカタノココロ》は聞えたれども、許登度《コトド》てふ言の意は詳《サダカ》ならず、故(レ)按(フ)に、其(ノ)誓(ヒ)の辭を指て云か、そは書紀一書に、盟之曰族離《チカヒタマハクウガラハナレム》、又曰不負於族《マタウガラマケジトノリタマヒキ》云々、これ即(チ)事戸《コトド》の御辭《ミコトバ》にや、さて次に、次掃之神《ツギニハラヒマセルカミ》號《マヲス》2泉津事解之男《ヨモツコトトケノヲト》1、【この解(ノ)字、昔より佐加《サカ》と訓(メ)ども、然《シカ》訓べきさだかなる證も例もなければ、登祁《トケ》にても有(リ)なむかし、】とあるを思ふに、事戸《コトド》は事解言《コトトケゴト》の約《ツヅマ》りし語にもや有む、【とけごとを二たび切《ツヅム》れば度《ト》となる、さて碁《ゴ》の濁(リ)を帶《モチ》て度《ド》とは唱るなり、如此《カク》切《ツヅ》まるは物遠きが如くなれど、許登《コト》も登《ト》も上下に重なる故に、おのづからかくも約《ツヅマ》るべき語の勢なり、さて右の書紀の建絶妻之誓を、舊《フル》く許等度和多留《コトドワタル》と訓り、されど然《シカ》訓べくは、此記に、度(ノ)字は下にあるべきを、上に書るは、然《サ》に非じ、此記なるをは、師は舊本の如く、許等度邇和多留《コトドニワタル》と訓て、夫婦《メヲ》同室《オナジヤ》に住しが、離《ハナレ》て別戸《コトト》に度《ワタ》り往《ユク》意なりと云(ハ)れき、されど此《ココ》の樣《サマ》を思ふに、然《サル》意とも聞えがたし、たゞ書紀の字の如く、夫婦《メヲ》の交《ムツビ》を絶《タ》つ證《シルシ》の事と思はるゝなり、萬葉十九に、玉桙之道爾出立往吾者《タマボコノミチニイデタチユクワレハ》、公之事跡乎負而之將去《キミガコトドヲオヒテシユカム》、この歌、家持(ノ)卿越中國より京に上(ル)時、 餞《ウマノハナムケ》せし人に報《コタヘ》し、別《ワカレ》の歌なれば、此(レ)も事跡《コトド》とは、離別《ワカレ》の辭《コトバ》を云て、其《ソ》を忘《ワス》れず心に持《モチ》てゆかむと讀《ヨメ》るにや、若《モシ》然らば、此《ココ》の事戸《コトド》と同じ言にやあらむ、但し此歌師(ノ)説には、事跡は即ち字の如くにて、志和邪《シワザ》と訓べし、この餞せし人は、國の次官《スケ》なれば、公《キミ》が國にての政務の事跡《シワザ》を、京へ持ゆきて、申(シ)上《アゲ》むとよめるなりとあり、此説に依らば、此《ココ》の事戸にはさらに由《ヨシ》なし、されどしわざを負て行むと云こと、いかにぞや聞ゆ、なほ考ふべし、】又大穴牟遲(ノ)神(ノ)段|天詔琴《アメノノリコト》の下《トコロ》【傳十の五十二葉】に、今一(ツ)の考(ヘ)あり、併見《アハセミ》べし、

〇言(ノ)字|申給久《マヲシタマハク》と訓べし、此段女神には、上にも白(ノ)字をかき、鎭火(ノ)祭(ノ)詞にも、男神に對《ムカヒ》て詔《ノタマ》ふ所は、みな申給《マヲシタマフ》とあればなり、【末に獨(リ)詔(フ)所には、宣とかけり、】

〇為如此《カクシタマハバ》とは、石を引塞て、事戸《コトド》度《ワタ》し給ふを云、

〇汝國《ミマシノクニ》とは、此(ノ)顯國《ウツシグニ》をさすなり、抑(モ)御親生成給《ミミヅカラウミナシタマヘ》る國をしも、かく他《ヨソ》げに詔《ノタマ》ふ、生死《イキシニ》の隔《ヘダタ》りを思へば、甚《イト》も悲哀《カナシ》き御言《ミコト》にざりける、

〇千頭《チカシラ》、千人と云べきを如此《カク》詔ふは、絞《クビル》につきたる言なり、同じことを次には、千人死と云るに合せて思ふべし、【書紀には、産方《ウムカタ》をも千五百頭と書れたるは、いかにぞや、たゞ文に拘《カカハリ》て、古語をおもほさぬ故のしわざなり、】

〇絞は、字鏡に、縊(ハ)絞也經也|久比留《クビル》とあり、頸《クビ》をしめて殺すを云、【漢國の代々の死刑の中にも、絞と云あり、周禮に磬といふも此(レ)なり、】さて今たゞ殺(ス)とあらで、絞(リ)殺(ス)とあるは、いと上(ツ)代に人を殺(ス)には、もはら絞(リ)しにやあらむ、【又殺(ス)にさまざまある、何《イヅレ》も身に傷《キズツク》を、たゞ絞(ル)のみ傷《キズツカ》ず、故(レ)神の殺したまふも、其(ノ)跡あらはに見えねば、かくいふにや、】

〇爲然《シカセバ》とは、絞(リ)殺(ス)をさす、上には爲如此《カクセバ》と云(ヒ)、こゝにはかく云(フ)は、文をかへたるのみならず、凡て加久《カク》と志加《シカ》とは、細《クハシ》く云(ヘ)ば差《タガヒ》あり、加久《カク》は我(レ)につきたる事、又さし當りたる事を指《サシ》て云、志加《シカ》は、向ふ人文向ふ物につきたる事、又その言《イフ》事などを指て云(フ)、此《コレ》と其《ソレ》との差《タガヒ》の如し、【文章に上を承《ウケ》て云にも、此(ノ)けぢめあり、】されど又|如是《カク》と然《シカ》とを通はして云ることも、記中にもあり、【萬葉四に、吾背子我如是懸禮許曾《ワガセコガカクコフレコソ》云々などのたぐひは、然《シカ》と云べきを如是《カク》と云り、】

〇吾を阿禮波夜《アレハヤ》と訓べし、こは白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段(ノ)大御歌に、和禮波夜惠奴《ワレハヤヱヌ》【吾者餓ぬなり、夜《ヤ》は助け辭、】とある語(ノ)勢に似たればなり、

〇産屋《ウブヤ》は、末に其事見ゆ、彼處《ソコ》【傳十七の六十四の葉】に云べし、今たゞに産《ウマ》むとは詔はで、立(ム)2産屋(ヲ)1としも詔へるは、上(ツ)代の言に、子《コ》を生《ウム》を然《シカ》云(ヒ)ならはしけむ、榮花物語根合(ノ)卷に、大將殿も、女御の御|産屋《ウブヤ》四月なるに、今|二《フタ》月|三《ミ》月をすぐさせたまはずなりぬる、いみしうくちをしうおぼしなげく云々、これも御産《ミコウミ》のことを、御うぶやと云り、

〇上の殺をば許呂佐郡《コロサナ》、こゝの立をば多弖々那《タテテナ》と訓べし、其《ソ》は中卷忍熊(ノ)王(ノ)歌に、迦豆伎勢那和《カヅキセナワ》、【潜《カヅキ》せむ我《ワレ》なり、】書紀(ノ)崇神(ノ)卷(ノ)歌に、伊弟弖由介那《イデテユカナ》、【出て行むなり、】又神功(ノ)卷(ノ)歌に、伊弉阿波那和例波《イザアハナワレハ》、【いざ逢《アハ》む我(レ)はなり、】萬葉一に去來結手名《イザムスビテナ》、【いざ結《ムスビ》てむなり、】又二に君爾因奈名《キミニヨリナナ》、【君に因《ヨリ》なむなり、】又|玉藻苅手名《タマモカリテナ》、【苅てむなり、】これら牟《ム》と云べきを那《ナ》と云、【てむをてな、なむをなゝといへり、】古語の一(ツ)の格なり、さて如此《カク》交《カタミ》に詔ふは、たゞ多《オホ》からむことを云にて、必しも千と千五百の數に限らむとには非ず、
〇千人は知比登《チヒト》、千五百人は知伊富比登《チイホヒト》と訓べし、凡て人の數を、比登理《ヒトリ》布多理《フタリ》美多理《ミタリ》與多理《ヨタリ》など云、皆古言なれど、【高津(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に比登理《ヒトリ》、書紀仁徳(ノ)卷の歌に赴駄利《フタリ》、又|夜※〔にんべん+嚢〕利《ヤタリ》などあり、但し三人《ミタリ》四人《ヨタリ》などの例を以ていはば、一人二人をも、比登多理《ヒトタリ》布多々理《フタタリ》と云べきに、是《コレ》のみ比登理《ヒトリ》布多理《フタリ》と云は、比登理は多《タ》を省き、布多理は、多々《タタ》を約《ツヅ》めて多《タ》と云なり、書紀神武(ノ)卷に、一人を毘※〔にんべん+嚢〕利《ヒダリ》とあるも、登多《トタ》を約《ツヅ》めて※〔にんべん+嚢〕《ダ》と云るなり、さて右の駄《ダ》※〔にんべん+嚢〕《ダ》などの假字に依らば、何れも登《ト》多《タ》を濁るべきか、とも思はるれど、此記に比登理《ヒトリ》とあれば、此《コレ》に准へて、皆常に云如く清むべきなり、さて又さきには、書紀に五婦人をイツトリノヲムナ、五人をイトリなど訓る處あり、此(ノ)トリを正訓とせば、箇座《ツヲリ》の切《ツヅマ》りたる言にて、一人《ヒトリ》は一座《ヒトツヲリ》、二人《フタリ》は二座《フタツヲリ》、三人《ミトリ》は三座《ミツヲリ》、四人《ヨトリ》は四座《ヨツヲリ》にや、座《ヲリ》と云は、神に幾《イク》座と云に由《ヨシ》あり、とも思ひしかども、此(ノ)トリてふ訓は、一人《ヒトリ》にならひて、後に設《マウケ》たる言にこそあらめ、】多きを云には、書紀神武(ノ)卷の歌に、愛瀰詩烏毘※〔にんべん+嚢〕利《エミシヲヒダリ》、毛々那比苔《モモナヒト》【蝦夷を一人、百之人《モモノヒト》なり、】とある如く、若干比登《イクヒト》とぞ云けむ、されば書紀に醜女八人《シコメヤツヒト》、又垂仁(ノ)卷に壹佰人《ヒトモモヒト》、などある訓《ヨミ》も古言なるべし、

〇死は志邇《シニ》と訓べし、書紀雄略(ノ)卷(ノ)歌に、伊能致志儺磨志《イノチシナマシ》とあり、【なほ萬葉にも數しらず多し、】古言なり、志爾《シニ》は過去《スギイニ》なり、須岐《スギ》は志《シ》と切《ツヅマ》る、志奴留《シヌル》は過去《スギイヌ》るなり、【然るを、志邇《シニ》は死(ノ)字の音とおもふは非ず、】

〇生《ウマル》は被《ル》v産《ウマ》なり、世に日々《ヒビ》に死《シヌ》る人よりも、生《ウマ》るゝが多かるは、今|此《ココノ》御言に由《ヨ》れり、大祓(ノ)詞に、國中爾成生武天之益人等《クヌチニナリイデムアメノマシビトラ》と見え、又|青人草《アヲヒトクサ》と云も此意なること、上に云るが如し、凡て人の死《シヌ》るは、泉神《ヨモツカミ》の御所爲《ミシワザ》、【抑世に人草の害《ソコナ》はるゝ、もろ/\の惡事《マガコト》は、禍津日(ノ)神のしわざなる、此神は、今この黄泉《ヨミノ》國の穢(レ)より成(リ)坐て、その本をたづぬれば、こゝの千頭絞(リ)殺(サ)むとのたまへる御言の驗《シルシ》なり、】生出《ナリイヅ》るは伊邪那岐《イザナギノ》大神の御恩頼《ミタマノフユ》ぞかし、【漢國には此(ノ)傳(ヘ)をえしらで、天命など云めるは、聖人の託言《コトツケゴト》に欺《アザムカ》れ、又|空理《ウツケゴト》を信ずるひがことなり、】千五百人那母《チイホヒトナモ》と訓《ヨ》む、那母《ナモ》は、續紀の宣命などにいと多き辭にして、後(ノ)世の文章《アヤコトバ》に那牟《ナム》と云是なり、【那牟《ナム》は那母《ナモ》の轉れるなり、】

〇黄泉津大神は、豫母都意富迦微《ヨモツオホカミ》と訓べし、【津之《ツノ》と之《ノ》を加(ヘ)て訓(ム)は誤なり、凡て助辭の津の下に之《ノ》と云例なきこと、上にも云り、】

〇亦云とは、一(ツ)の傳《ツタヘ》を擧《アゲ》たるなり、

〇斯伎斯《シキシ》は及《シキ》しなり、【下の斯《シ》は、過去《スギサリ》し意をいふ辭なり、】仁徳天皇の御歌に、夜麻斯呂邇《ヤマシロニ》、伊斯祁登理夜麻《イシケトリヤマ》、伊斯祁伊斯祁《イシケイシケ》、阿賀波斯豆摩邇《アガハシヅマニ》、伊斯伎阿波牟迦母《イシキアハムカモ》、この伊斯祁《イシケ》は、伊《イ》は發語にて及《シケ》なり、【祁《ケ》と云るは仰《オホス》る言、】道を追及《オヒオヨ》ぶを斯久《シク》と古言に云り、【俗に追(ヒ)付(ク)といふ意なり、】そは後方《アト》より續《ツヅキ》て重《カサ》なる意なれば、萬葉(ノ)歌などに、重浪《シキナミ》、又|浪《ナミ》のしくしくなど多く云ると、本同(ジ)言なるべし、【今も物の劣優《オトリマサリ》を云には、及《シク》ものなし、及《シカ》ずなど云言殘れり、】此《コ》は伊邪那美(ノ)命の、黄泉比良坂《ヨモツヒラサカ》にして、男神に追及《オヒシキ》坐るを云なり、

〇道敷《チシキ》、道(ノ)字常には美知《ミチ》とのみ訓めども、本(ノ)言はたゞ知《チ》にて、美知《ミチ》は御《ミ》を添《ソヘ》たる言なり、【記中に味御路《ウマシミチ》などあるこれなり、】必しも尊むにはあらねど、地(ノ)名にも何にも、御《ミ》を添る例多し、敷は借字にて、即(チ)上の及《シキ》の意なり、書紀には、又投2其履(ヲ)1是謂2千敷《チシキノ》神(ト)1とあり、傳(ヘ)の異なるなり、

〇黄泉坂は豫美乃坂《ヨミノサカ》と訓べし、風土記に依れり、下に引《ヒケ》り、【亦所塞の亦(ノ)字は、無《ナク》てありぬべく、黄泉坂の坂の上には、必(ズ)比良(ノ)二字ありぬべし、と師はいはれしかども、共《トモ》に有《アル》も無《ナキ》もあしからず、】

〇道反《チガヘシ》は、女神を塞《サヘ》て反《カヘ》し奉(リ)し故の御名なり、

〇塞坐黄泉戸大神は、佐夜理坐黄泉戸之意富迦微《サヤリマスヨミドノオホカミ》と訓べし、【延佳が、黄泉戸邇《ヨミドニ》塞(リ)坐(ス)と訓るは、書紀に、泉門(ニ)塞大神とあるに依《ヨレ》るなれど、神(ノ)名を、逆に反(リ)て讀《ヨム》べく書る例なければ、非《ヒガコト》なり、葺不合命は、おのづから如是《カク》書べき文字なれば、云がたし、】さて上に引塞とある塞は、佐閇《サヘ》と訓み、所塞は佐夜禮理斯《サヤレリシ》とよみ、此《ココ》の塞坐は、佐夜理坐《サヤリマス》と訓べし、其故は、まづ始(メ)なるは、是《コレ》を以て塞《サヘ》たまふ伊邪那岐(ノ)神に就《ツキ》て云なれば、佐閇《サヘ》と訓べく、後《ノチ》の二(ツ)は、其(ノ)所塞《サハレル》石に就て云なれば、佐波理《サハリ》とか佐夜理《サヤリ》とか云べき格《サダマリ》なり、同(ジ)言も、人の爲《スル》と自《ミヅカ》ら然《シカ》るとの差《ケヂメ》あり、さて佐波理《サハリ》を佐夜理《サヤリ》とは、白檮原(ノ)宮(ノ)段の歌に、志藝波佐夜良受《シギハサヤラズ》云々、久治良佐夜流《クヂラサヤル》、萬葉五に、奈爾可佐夜禮留《ナニカサヤレル》、又|許良爾佐夜利奴《コラニサヤリヌ》、などあるに依て訓つ、【かゝれば此言は、やいゆえとはひふへと、二行にて活《ハタラ》く言と見ゆれば、佐夜理《サヤリ》は、人の爲《ス》るときは佐延《サエ》と活《ハタラ》くべけれど、然書る例をいまだ見あたらねば、始(メ)の塞は佐閇《サヘ》と書つ、こは佐波理《サハリ》の活《ハタラ》けるなり、なほ下なる船戸(ノ)神の處にも云ことあり、】式なる御門祭(ノ)祝辭に、四方内外御門爾《ヨモウチトノミカドニ》、如《ゴト》2湯津磐村《ユツイハムラノ》1久(ク)塞坐弖《サヤリマシテ》云々、【此(ノ)つゞきの文、下なる禍津日(ノ)神の處に引(ク)を、合せ考ふべし、又祈年月次道饗などの祭の祝詞にも此文あり、】なほ下の石窓《イハマドノ》神の處【傳十五の三十一の葉】を考へ合すべし、黄泉戸《ヨミド》は、即(チ)かの比良坂を云て、書紀に泉門とある如く、黄泉《ヨモツ》國に入(ル)門《ト》なり、

〇所謂は伊波由流《イハユル》と訓べし、古言なり、【此言、漢籍訓《カラブミヨミ》にあるをのみ見馴て、古言にあらじと思ふは、中々に非《ヒガコト》なり、凡て古言の漢籍訓に遣《ノコ》れるも多きぞかし、伊波由流《イハユル》とは、所《ルル》v言《イハ》と云ことなり、流々《ルル》を由流《ユル》と云は、古言の格なり、所《ルル》v言《イハ》とは、上に云るを指《サシ》て云り、又上文には言《イハ》ざれども、世に言《イヒ》ならへるを指ていふこともあり、】

〇伊賦夜坂《イフヤザカ》は、神名帳に、出雲(ノ)國|意宇《オウノ》郡|楫夜《イフヤノ》神(ノ)社【此神、三代實録十四廿にも出たり、風土記に伊布夜(ノ)社とかけり、】あり、此處なり、齊明紀に、五年云々、是歳命(シテ)2出雲(ノ)國(ノ)造(ニ)1、修(シム)2嚴神(ノ)之宮(ヲ)1云々、狗《イヌ》噛2置《カミオケリ》死人手臂《シエビトノタダムキヲ》於|言屋《イフヤノ》社(ニ)1とありて、分注に、言屋此(ヲ)云2伊浮※〔王+耶〕《イフヤト》1、天子崩(リマス)兆とあり、此(ノ)社にしも崩《カミアガリ》の兆《サガ》の有けむこと、此(ノ)段と思(ヒ)合すべし、さて此《ココ》の文に二(ツ)の義《ココロ》あり、一(ツ)には、黄泉平坂《ヨモツヒラサカ》と云處は、即(チ)出雲の伊布夜坂のことなりと、今(ノ)人の云(フ)となり、【此(レ)に就《ツ》かば、伊賦夜坂那理登伊布《イフヤザカナリトイフ》とよむべきなり、】今一(ツ)には、此(ノ)黄泉平坂のことを、今は出雲の伊布夜坂と名《ナヅ》くとなり、【このときは、出雲(ノ)國|之《ノ》と云るは、いかゞに聞ゆれども、京にての言なればさも有なむ、さて書紀に、或(ハ)所謂(ル)泉津平坂(ハ)者、不3復《マタ》別(ニ)有(ラ)2處所《トコロ》1、但《タダ》臨(テ)v死(ニ)氣《イキ》絶(ル)之際(ヲ)是(レ)之謂(フ)欺《カ》とあるは、こざかしき後(ノ)人の書加(ヘ)たる文にて、云に足(ラ)ぬことなり、縦《タト》ひ撰者の言にもあれ、謂歟と疑《ウタガ》へれば、古(ヘノ)傳(ヘ)には非ず、己が推度《オシハカリ》なること明(ラ)けし、然るを世の學者たちの、ひたすら如是《カカ》る意《ココロバヘ》を悦《ヨロコビ》て、猶|樣々《サマザマ》と空理《ウツケゴト》を説《トク》は、皆うるさき漢籍《カラブミ》の癖《クセ》なり、只此記の古傳に任《マカセ》て心得べし、】さて此(ノ)伊賦夜坂の、黄泉平坂なることは、當時《ソノカミ》伊邪那岐(ノ)神の、黄泉《ヨミ》より還《カヘ》り給(フ)時、此(ノ)地《トコロ》にぞ出(デ)給ひけむ、又出雲(ノ)國(ノ)風土記出雲(ノ)郡宇賀(ノ)郷(ノ)下(ニ)云(ク)、北海(ノ)濱(ニ)有(リ)v礒、自(リ)v礒西(ノ)方(ニ)有(リ)2窟戸1、高(サ)廣(サ)各六尺許(リ)、窟(ノ)内(ニ)在(リ)v穴、人不2得《エ》入(ラ)1、不v知2深淺《フカサヲ》1也、夢(ニ)至(ル)2此(ノ)礒(ノ)窟(ノ)之邊(ニ)1者(ハ)必(ズ)死(ヌ)、故(レ)俗人《クニヒト》自(リ)v古(ヘ)至《ニ》v今|號《イフ》2土黄泉之坂《ヨミノサカ》黄泉之穴《ヨミノアナト》1也とあり、此《コレ》は伊賦夜坂とは遙《ハルカ》に隔《ヘダタ》りて、別《コト》なれど、是(レ)も黄泉《ヨミ》に通ふ一(ツ)の道なるべし、【かゝる事を、世のさかしら人|等《ドモ》の心には、いと愚《オロカ》なることと思ふべけれど、然《シカ》愚《オロカ》げに聞ゆる事に、返りてそこひもなき深(キ)理(リ)の有(ル)ものなり、其(ノ)理はいかでか人はえしらむ、】

 

是以伊邪那岐大神詔《ココヲモテイザナギノオホミカミノノリタマハク》。吾者到於伊那志許米。上志許米岐【此九字以音】穢國而在祁理《アハイナシコメシコメキキタナキクニニイタリテアリケリ》。【此二字以音】故吾者爲御身之禊而《カレアハオホミマノハラヒセナトノリタマヒテ》。到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而《ツクシノヒムカノタチバナノヲドノアハギハラニイデマシテ》。禊祓也《ミソギハラヒタマヒキ》。故於投棄御杖所成神名《カレナゲウツルミツエニナリマセルカミノミナハ》。衝立船戸神《ツキタツフナドノカミ》。次於投棄御帶所成神名《ツギニナゲウツルミオビニナリマセルカミノミナハ》。道之長乳齒神《ミチノナガチハノカミリ》。次於投棄御裳所成神名《ツギニナゲウツルミモニナリマセルカミノミナハ》。時置師神《トキオカシノカミ》。次於投棄御衣所成神名《ツギニナゲウツルミケシニナリマセルカミノミナハ》。和豆良比能宇斯能神《ワヅラヒノウシノカミ》。【此神名以音】次於投棄御褌所成神名《ツギニナゲウツルミハカマニナリマセルカミノミナハ》。道俣神《チマタノカミ》。次於投棄御冠所成神名《ツギニナゲウツルミカガフリニナリマセルカミノミナハ》。飽咋之宇斯能神《アキグヒノウシノカミ》。【自字以下三字以音】次於投棄左御手之手纏所成神名《ツギニナゲウツルヒダリノミテノタマキニナリマセルカミノミナハ》。奥疎神《オキザカルノカミ》。【訓奥云奥云淤伎下效此訓疎云奢加留下效此】次奥津那藝佐毘古神《ツギニオキツナギサビコノカミ》。【自那以下五字以音下效此】次奥津甲斐辨羅神《ツギニオキツカヒベラノカミ》。【自甲以下四字以音下效此】次於投棄右御手之手纏所成神名《ツギニナゲウツルミギリノミテノタマキニナリマセルカミノミナハ》。邊疎神《ヘザカルノカミ》。次邊津那藝佐毘古神《ツギニヘツナギサビコノカミ》。次邊津甲斐辨羅神《ツギニヘツカヒベラノカミ》。

 右件自船戸神以下《ミギノクダリフナドノカミヨリシモ》。邊津甲斐辨羅神以前《ヘツカヒベラノカミマデ》。十二神者《トヲマリフタバシラハ》。因脱着身之物《ミミニツケルモノヲヌギウテタマヒシニヨリテ》。所生神也《ナリマセルカミナリ》。

是以《ココヲモテ》とは、上(ノ)件を廣く承《ウケ》て云なり、

〇大神、爰《ココ》に始(メ)て此(ノ)神を大神と申せるは、故あることにや、下に大御神ともあるに效《ナラヒ》て、此《コ》も意富美迦微《オホミカミ》と訓つ、

〇伊那《イナ》は、辭《イナム》否《イナ》などと同(ジ)言にて、此《ココ》は惡《ニク》み厭《イト》ふ御言なり、【書紀に、不須《イナ》也と、也(ノ)字を添(ヘ)られたる、信《マコト》にその意あり、姑《シバラ》く語を切《キリ》てこゝろうべし、】

〇志許米《シコメ》は、上の志許賣《シコメ》と別《コト》にて、【凡て女《メ》の假字には、賣とのみ書て、米とは書《カカ》ぬ、記の例にて、一(ツ)も混《マギ》るゝことなし、】この米《メ》は、憂《ウキ》こと辛《カラキ》ことに逢《アフ》を、憂目《ウキメ》を見る、辛目《カラキメ》を見るなど云|目《メ》なり、【俗に云々《シカシカ》の目《メ》にあふとも云、】故《カレ》書紀に凶目《シコメ》と書れたり、米《メ》の下に上と注したるは、次の米岐《メキ》の米《メ》と別《コト》にて、上聲《アガルコヱ》に讀《ヨメ》となり、【目《メ》は今は平聲なれどそのかみ志許目《シコメ》のときは、上聲なりけむ、】志許《シコ》は、志許賣《シコメ》の志許《シコ》と一(ツ)にて醜《シコ》なり、萬葉に、鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》、鬼乃志許草《シコノシコグサ》、志許霍公鳥《シコホトトギス》、鬼之四忌手《シコノノシキデ》、之許都於吉奈《シコツオキナ》【これらの鬼(ノ)字を、於爾乃《オニノ》と訓るは非なり、こは醜(ノ)字の偏を略《ハブケ》るか、又|醜女《シコメ》の意を得て鬼とは書(ク)か、いづれにまれ志許《シコ》なり、】など云る、皆其(ノ)物を惡《ニク》み罵《ノリ》て、志許《シコ》とは云なり、此《ココ》も黄泉《ヨモツ》國の穢《キタナ》きありさまを見給《ミタマ》ひつるを、醜目《シコメ》と詔ふなり、【目《メ》は見給(フ)によれる言ぞ、】

〇志許米岐《シコメキ》【岐は伎の誤寫か、】は、直《タダ》に黄泉《ヨミ》のありさまを指《サシ》て詔ふなれば、用言《ウゴクコトバ》にて、米《メ》の意も上と別《コト》なり、米岐《メキ》は、【めかむめきめくめけと活《ウゴ》く辭なり、】ひらめくひしめく、さゝめくなまめくなど、多く云(フ)米久《メク》の活《ハタラ》けるにて、其(ノ)貌《サマ》を云(フ)辭なり、書紀に、不須也凶目汚穢、此(ヲ)云2伊儺之居梅枳枳多儺枳《イナシコメキキタナキト》1とあり、【此《コ》は此記と照して思(フ)に、梅(ノ)字(ノ)下に、今一(ツ)之居梅《シコメノ》三字ありしが、脱《オチ》たるなり、其故は、目(ノ)字を、梅枳《メキ》と枳《キ》をそへて用語に云べき理(リ)なきをや、此《コ》は後のなまざかしき人の、同言の重《カサナ》りたるを、ゆくりなく衍文と心得て、三字削(リ)しか、將《ハタ》同(ジ)文字の重《カサナ》れる處は、何となく誤(リ)ても脱《オト》すめり、又枳(ノ)字一(ツ)衍文かとも思はるれど、なほ此記と引合(セ)て思ひ定むべし、汚穢(ノ)二字を、シコメキキタナキと訓つべし、】又天(ノ)忍穗耳(ノ)尊の天降《アモリ》ます處に、不須《イナ》也|頗傾凶目杵《カブシシコメキ》之|國《クニ》とあり、【此《コ》は頗傾《カブシ》と云が、爰《ココ》の凶目《シコメ》にあたり、凶目杵《シコメキ》とあるが、汚(ノ)字にあたれる語勢なり、されど目杵《メキ》の書ざまはいかにぞや覺ゆ、】

〇在祁理《アリケリ》は、其事を欺息《ナゲ》く意ある辭なり、

〇御身は意富美麻《オホミマ》と訓べし、貞觀儀式、奏(ス)2御體(ノ)御卜(ヲ)1條に、奏(シテ)云(ク)宮内省申久《ミヤノウチノツカサマヲサク》、御體《オホミマノ》【詞(ニ)云2於保美麻《オホミマト》1、】御卜供奉禮留事申給牟止《ミウラツカヘマツレルコトマヲシタマハムト》、神武官姓名候止申《カムヅカサナニガシサブラフトマヲス》、とある【四時祭式宮内省式にも同く見ゆ、】に依れり、身《ミ》は古言に牟《ム》とも多く云(ヘ)れば、麻《マ》とも云しにこそ、

〇禊、こゝは波良比《ハラヒ》と訓べし、【其由は下に委く云、】さて波良比《ハラヒ》と云と、波良閇《ハラヘ》と云と、

        ハ セ  ップメ ヘ

後には混《マギレ》て一(ツ)に心得めれど、本は別《ワキ》あり、波良比《ハラヒ》は自爲《ミヅカラスル》を云(ヒ)、波良閇《ハラヘ》は令《セ》v祓《ハラハ》の約《ツヅマリ》たる言【波勢《ハセ》を切《ツヅメ》て閇《ヘ》なり、此こと傳四(ノ)卷、卜相《ウラヘ》は卜《ウラ》令《セ》v合《アハ》なりと云所に、既に委く云り、】にて、人に令《セシム》るを云(フ)、罪咎ある人に負《オフ》する祓《ハラヘ》など是なり、【これ人に祓《ハラ》はするなり、】書紀に、祓具此(ヲ)云2波羅閇都母能《ハラヘツモノト》1とある、これ須佐能男(ノ)命に負《オホ》せてせしむる祓具《ハラヘツモノ》なればなり、萬葉十七に、敷等能里等其等伊比波良倍《フトノリトゴトイヒハラヘ》とよめるは、人に負する祓にはあらねど、人に誂《アトラヘ》て令爲《セサス》る祓なるべし、【伊勢物語に、おむやうじかむなぎ召て、戀せじと云|祓具《ハラヘノグ》してなむ行《イキ》ける、と云る類なるべし、】

〇爲は勢那《セナ》と訓て、勢牟《セム》と云に同じ、【上に委く云り、】

〇日向は二(ツ)の義《ココロ》あるべし、一(ツ)には比牟加比乃《ヒムカヒノ》と訓て、日の向ふ地《トコロ》を云るなり、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)詞に、吾宮者朝日乃日向處《ワガミヤハアサヒノヒムカフトコロ》云々、萬葉十三【七丁】に、三野之國之《ミヌノクニノ》、高北之《タカキタノ》、八十一隣之宮爾《ククリノミヤニ》、日向爾《ヒムカヒニ》云々、などある如く、上(ツ)代には日向《ヒムカ》ふ地《トコロ》を賞稱《メデタタヘ》たること多し、其事なほ下に、朝日之直刺國《アサヒノタダサスクニ》とある處【傳十五の八十五のひら】に委く云べし、されば此(ノ)禊したまひしも、然《サ》る地《トコロ》なるべし、【此時はいまだ日は無けれども、こは伊邪那岐(ノ)神の詔ふ御言に非れば、妨なし、此(ノ)地後にたま/\日向ふ處なる故に、稱《タタ》へて如此《カク》は云るなり、橘と云物も、後に外(ツ)國より渡り參《マウ》で來つる物なれども、此處《ココ》の地名に負ると同じ、】此(ノ)考(ヘ)に依るときは、竺紫《ツクシ》とは、筑前筑後の域《トコロ》を云るにもあるべし、今一(ツ)には、比牟加乃《ヒムカノ》と訓て、即日向(ノ)國のことなるべし、さて此(ノ)國(ノ)名は、書紀推古(ノ)卷の大御歌に辟武伽《ヒムカ》【武は必(ズ)牟《ム》の假字なり、】とあれば、古は字の如く如此《カク》唱へしなり、【和名抄に比宇加《ヒウカ》とあるは、後に音便に頽《クヅ》れたるものなり、大和の多武《タムノ》峯をも、後には多宇乃峯《タウノミネ》と云と同じ、此外にも、中昔よりは牟《ム》を宇《ウ》と云(ヒ)なせる言多し、】かく名《ナヅ》けたる由は、景行紀に見えて、傳五(ノ)卷【十三葉】に引るが如し、【如此《カク》名けたる地は、元《モト》は肥(ノ)國の内にてありしかども、此《ココ》はやゝ後に、一國の大名になれるうへを以て云るなり、】此(ノ)考(ヘ)に依るときは、竺紫とは九國の總名《スベナ》なり、右の二(ツ)の考(ヘ)何《イヅ》れよけむ、決《サダ》めかねたれど、書紀神功(ノ)卷に、此《コレ》を日向(ノ)國(ノ)橘(ノ)小門とあるにすがりて、姑く國(ノ)名の方に就《ツキ》て、比牟加《ヒムカ》とは訓り、【此(ノ)神功(ノ)卷なるも、比牟加比乃國《ヒムカヒノクニ》とも訓べけれど、此《コレ》はなほ國(ノ)名と聞ゆればなり、】

〇橘小門《タチバナノヲド》、書紀|火折《ホヲリノ》尊(ノ)段にも、此(ノ)地名見えたり、同(ジ)處なるべし、さて日向(ノ)國に此(ノ)地名物に見えず、古(ヘ)は大隅薩摩の地までかけて日向と云るを、其國圃々にも凡《スベ》て見えず、今も聞ゆることなし、【但し日向(ノ)國に、今現《イマノヲツツ》に此(ノ)舊跡《アト》はたしかにありと云り、然れども古書に依て舊跡《フルキアト》を設け作ること、世に多ければ、かろ/”\しくは信《ウケ》がたし、】されば日向とある、日向(ノ)國のことならば、後に此地名は失《ウセ》つるなるべし、若(シ)又日向ふ地を云るならば、九國の内にて尋ぬべし、【貝原氏の説に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡に立花と云處あり、又席田(ノ)郡にも早良(ノ)郡にも、青木村と云もありて、海邊なりと云り、信《マコト》に此(ノ)御禊《ミミソギ》に成(リ)坐る、墨江《スミノエノ》大神又|志加《シカノ》海(ノ)神の鎭座《シヅマリマス》も、みな彼(ノ)國なれば、由ありて覺ゆ、】小門は、地名とも云べけれど、【かの青木村のあたりに、小戸と云もありと、貝原氏は云り、】書紀に、乃《ス》往2見《ユキミタマフ》粟門及速吸名門《アハノトマタハヤスヒナドニ》1、然(ルニ)此(ノ)二門潮既太急《フタドハウシホイタクハヤシ》、故《カレ》還(リ)2向(テ)於橘(ノ)之小門(ニ)1而|拂濯也《ハラヒソソギタマヒキ》ともあれば、たゞ小《チヒサ》き水門《ミナト》にて、【水門のことは上に云り、】川の落口《オチグチ》なりけむ、萬葉に明大門《アカシノオド》ともあり、書紀に小戸橘《ヲドタチバナ》【ヲドノと訓はわろし、】とあるも同じことなり、【小門にある橘と云地名なり、故(レ)その小門の名を橘(ノ)小門といへり、】

〇阿波岐原《アハギハラ》、【岐《ギ》を濁るべし、清《スム》はわろし、また之《ガ》と添(ヘ)て訓(ム)もわろし、】書紀に檍原とかきて、檍此(ヲ)云2阿波岐《アハギト》1とあり、和名抄に、説文(ニ)云(ク)、檍(ハ)梓(ノ)之屬也(ト)、日本紀私記(ニ)云(ク)阿波木《アハギ》、今按(ニ)又橿(ノ)木(ノ)一名(ナリ)也、見(ユ)2爾雅(ノ)注(ニ)1とあれば、此(ノ)樹は、今世に阿乎木《アヲキ》と云物にはあらじ、なほよく尋ぬべし、【續古今集なる卜部(ノ)兼直が歌に、あをきがはらとあり、されどこれも古本にはあはきがはらとぞある、】さて是(レ)も地名にはあらで、松原《マツバラ》檜原《ヒバラ》柳原《ヤナギハラ》柞原《ハハソハラ》などの類にて、たゞ此(ノ)木の多く生《オヒ》たる地《トコロ》を云るなるべし、【和名抄、筑前(ノ)國下座(ノ)郡、又筑後(ノ)國三瀦(ノ)郡などに、青木といふ郷は見ゆ、】

〇到坐は伊傳萬志《イデマシ》と訓べし、

〇禊祓は、美曾岐波羅比給伎《ミソギハラヒタマヒキ》と、二字共に用語《ウゴクコトバ》に訓べし、【上にありし禊(ノ)字は、波良比と訓つ、そは御身之とあれば、美曾岐《ミソギ》と云むは言|重《カサナ》ればなり、それも御手之手纏《ミテノタマキ》と云が如く、苦《クルシ》くはあらねど、彼《カレ》はな柁波良比とて有なむ、さてその波良比やがて美曾岐なれば、事は同じ、】美曾岐《ミソギ》は身滌《ミソソギ》なり、下(ノ)文に迦豆伎而滌《カヅキテソソギタマフ》とあるを始めて、書紀に、當《ベシ》v滌2去《ソソギハラフ》吾(ガ)身(ノ)之|濁穢《ケガレヲ》1、また將《ム》v盪2滌《ソソガ》身(ノ)之|所汚《ケガレヲ》1、また欲《ム》v濯2除《ソソギハラハ》其(ノ)穢惡《ケガレヲ》1など見え、萬葉に潔身《ミソギ》身祓《ミソギ》などもあるを以知べし、【つねには、沃文注(ノ)字などをソヽグと訓て、そゝぐとすゝぐとは少し異なるが如く聞ゆめれど、浣滌濯盪浴洒などの字をも、ソヽグともスヽグとも訓て、たゞ同(ジ)言なり、すゞろともそゞろとも通はし云が如し、倭比賣(ノ)命の御裳長くて穢れしを、洗(ヒ)給しに因て、御裳濯《ミモスソ》川と號《ナヅ》けしを思へば、須曾具《スソグ》とも云しにや、右の濯(ノ)字、世記には須曾《スソ》と書り、〇下卷(ノ)歌に、美那曾々久淤美能袁登賣《ミナソソクオミノヲトメ》、この曾々久も語一(ツ)なり、】今も除服などに、海川(ノ)邊に出て清《キヨ》まはり、又|許理《コリ》とて水|浴《アム》ることするは、みな禊《ミソギ》の意ばへなり、【許理《コリ》は川降《カハオリ》の約《ツヅ》まりたるなり、垢離(ノ)字を書(ク)は、云にたらぬことなり、又|月事《サハリ》の日數を畢《ヲヘ》て清まはるを、伊勢にて、かりやすぎともたやすぎとも云、此《コレ》も過《スギ》にはあらで、禊《ススギ》なるべし、】波羅比《ハラヒ》は拂《ハラヒ》なり、書紀に即(チ)拂濯《ハラヒソソグ》とも書れたり、右に引る文の滌去の去(ノ)字、濯除の除(ノ)字なども其(ノ)義なり、又|洗《アラヒ》とも言《コト》通へり、【今俗に、物を買《カヒ》たる直《アタヒ》を出すを、拂《ハラ》ふとも拂(ヒ)をするとも云は、祓除の意にあたれり、又これを濟《スマ》すと云も、令《ス》v清《スマ》の意にて、祓の義に通へり、】さて禊《ミソギ》も祓《ハラヒ》も、常には體語《ヰコトバ》にのみ言《イ》へども、本は用語《ウゴクコトバ》にて、祓は本よりにて、禊《ミソギ》も萬葉三に、天川原爾出立而《アマノカハラニイデタチテ》、潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》、また六に、菅根取而之努布草解除而益乎《スガノネトリテシヌブグサハラヒテマシヲ》、往水丹潔而益乎《ユクミヅニミソギテマシヲ》【濱松(ノ)中納言(ノ)物語に、こひしさをみそげど神のうけねばや、心のうちのすゞしげもなし、】などよめり、書紀履中(ノ)卷に令《シム》2祓禊《ハラヒミソガ》1ともあり、さて美曾岐《ミソギ》は、必(ズ)水(ノ)邊に出てするに限(リ)て云り、古書皆然り、禊(ノ)字も其(ノ)意なり、波良比《ハラヒ》は、水(ノ)邊にてするをも、然《サラ》ぬをも廣くいふ名なり、【故(レ)朱雀門前の大祓、又人に負する祓などを、美曾岐とはいはず、水(ノ)邊の禊をば、波良比とも云(フ)はつねなり、〇天皇皇后齋王などに禊と云(ヒ)、凡人に祓と云などは、後(ノ)世の名目にこそさもいはめ、古(ヘ)の本(ノ)義にはあらず、】さて如此《カク》禊祓《ミソギハラヒ》給ひきと先《マヅ》云(ヒ)おきて、次に其事を細《コマカ》に云は、文法《フミノサマ》なり、【源氏物語などに此格おほし、】

〇於投棄御杖は、那牙宇都琉御杖邇《ナゲウツルミツギニ》と訓べし、御誓《ミウケヒノ》段に、於《ニ》2吹棄氣吹之狹霧《フキウツルイブキノサギリ》1とあると同じ語勢《イキホヒ》なればなり、次々なるも皆同じ、棄を宇都琉《ウツル》と訓べき由は、傳七【五十葉】十一【三十七葉】に見(ユ)、和名抄行旅(ノ)具に、杖和名|都惠《ツヱ》とあり、

〇衝立船戸神、衝立は、人の爲《スル》意ならば、都伎多都琉《ツキタツル》と訓べけれど、こは自《ミ》然《シカ》る意なれば、多都《タツ》と訓べし、【多知《タチ》とも訓べけれど、上の塞坐《サヤリマス》の語(ノ)格に因て、多都《タツ》とよむ、】抜(テ)2十握劔《トツカツルギヲ》1倒2植《サカシマニツキタテテ》於地(ニ)1なども書紀に見ゆ、船戸《フナドノ》神は、書紀には、かの度《ワタス》2事戸《コトドヲ》1御詞の次に、因(テ)曰(ヒテ)2自《ユ》v此《ココ》莫過《ナスギソト》1、即(チ)投(タマフ)2其(ノ)杖(ヲ)1、是(ヲ)謂2岐《フナドノ》神(ト)1也、岐神此(ヲ)云2布那斗能加微《フナドノトカミト》1とあり、亦(ノ)一書には、乃(チ)投(テ)2其(ノ)杖(ヲ)1曰《タマフ》2自《ユ》v此《コ》以還雷不敢來《コナタヘイカヅチナコソト》1、是(ヲ)謂2岐《フナドノ》神(ト)1とあり、【分注に、此(ノ)本(ノ)號(ハ)曰(フ)2來名戸之祖《クナドノオホヂノ》神(ト)1とあるは、次に引る祝詞に依て、後(ノ)人の書加(ヘ)たるひがことなり、本(ノ)號をさし置て後(ノ)號を擧《アグ》べき由なきものをや、又祖神とは、左閇乃加美《サヘノカミ》と訓(ム)べくて書《カケ》らば、さもあるべし、今の訓の如く、オホヂノカミならば、是もひがことなり、そは道祖の祖《ソ》をあしく心得て、祖父《オホヂ》の訓を、大路の意に借《カ》れる物と思へるにや、なほ又くなどのおぼぢと連《ツヅ》くべき由もなし、】道饗(ノ)祭(ノ)祝詞に、【此祭を爲《シ》たまふ所以《ユヱ》は、令(ノ)義解に見ゆ、】大八衢爾湯津磐村之如久塞坐皇神等之前爾申久《オホヤチマタニユツイハムラノゴトクサヤリマススメカミタチノマヘニマヲサク》、八衢比古八衢比賣久那斗止御名者申弖《ヤチマタヒコヤチマタヒメクナドトミナハマヲシテ》、辭竟奉久波《コトヲヘマツラクハ》、根國底國與里麁備《ネノクニソコノクニヨリアラビ》疎|備來物爾《ビコムモノニ》、相率相口會|事無弖《コトナクテ》、下行者下乎守理《シタユカバシタヲマモリ》、上往者上乎守理《ウヘユカバウヘヲマモリ》、夜之守日之守爾《ヨノマモリヒノマモリニ》、守奉齋奉禮止《マモリマツリイハヒマツレト》、進幣帛者《タテマツルミテグラハ》云々とある、久那斗《クナド》即(チ)此(ノ)神にて、布《フ》は經《フ》、久《ク》は來《ク》なり、さて中卷|美夜受比賣《ミヤズヒメ》の歌に、阿良多麻能《アラタマノ》、登斯賀伎布禮婆《トシガキフレバ》【來經者《キフレバ》なり】云々、都紀波伎閇由久《ツキハキヘユク》、【來經行《キヘユク》なり】かく來《ク》と經《フ》とを重(ネ)ても云て、同(ジ)意になるなり、師説に、布那斗《フナド》とは、物を衝立《ツキタテ》て、是(レ)より莫來《ナコ》そと留《トドム》る意の御名なりとあり、【書紀に其心見えたり、】布《フ》と久《ク》とを合せて云(ハ)ば、此處《ココ》を經《ヘ》て來莫《クナ》と云意なり、戸《ト》は處《トコロ》なり、此《コレ》より来來《クナ》と障留《サヘトドム》る處に坐(ス)神と云意なるべし、【口決纂疏などに、此神を道祖神なりといひ、和名抄に、道祖(ハ)佐倍乃加美《サヘノカミ》とあり、佐倍乃加美とは、かの祝詞に、湯津磐村之如久塞坐《ユツイハムラノゴトクサヤリマス》とある意にて、塞《サヘノ》神なり、後に幸《サイノ》神と云は、佐倍《サヘ》を訛れる語にて、幸《サイハヒ》を祈る意とするは附會なり、さて道祖と云文字は、漢《カラ》國にて行神《タビノカミ》を祖《ソ》と云(ヒ)、又その神を旅だちに祭ることをも祖《ソ》と云故に、此(ノ)佐倍《サヘノ》神に當《アテ》て書(ク)のみなり、神(ノ)名の意はいたく異なり、字に惑ふことなかれ、又和名抄に、道神(ハ)多無介乃加美《タムケノカミ》とあるも、同く此神なるべし、こは旅ゆく人の手向する神なれば名(ヅ)くるなり、】書紀に、經津主《フツヌシノ》神以(テ)2岐《フナドノ》神(ヲ)1爲《シテ》2郷導《シルベト》1周流《メグリアリキ》、と云ことも見えたり、

〇御帶は美淤備《ミオビ》と訓べし、書紀武烈(ノ)卷(ノ)歌に、於※〔褒の異体字〕枳瀰能瀰於寐《オホキミノミオビ》とあり、淤備《オビ》は淤夫《オブ》と云|用語《ウゴキコトバ》を、體語《ヰコトバ》にしたる名なり、【萬葉に、帶《オビ》にせると云ことを、於婆世留《オバセル》ともあり、さて序に見えたる如く、記中|多羅志《タラシ》と云に、凡て帶(ノ)字を書《カケ》れば、此《ココ》も然《シカ》訓べきにやとも思へど、多羅志は於備《オビ》のことには非《アラ》で、帶(ス)2弓箭(ヲ)1など云帶(ノ)字の意なるべし、其故は、御弓を御執《ミトラシ》と云を、オホムタラシともあればなり、又|正《マサ》しく於備《オビ》をたらしと云ることも見えず、又思ふに、右の武烈紀の歌に、おほきみのみおびのしづはたむすびたれとあれば、たらしは令《シ》v垂《タラ》の意にて、なほおびをさも云るか、されど決《サダ》めがたし、又契沖云、俗に長きことを、長たらしといひならへるは、古語ののこれるにや、帶は長き物に云りと云るは、あたらぬ説なり、】

〇道之長乳齒歯《ミチノナカチハノ》神、道(ノ)字、上の道敷《チシキ》道反《チガヘシ》、下の道俣《チマタ》などの例に依らば、知《チ》と訓べけれど、此《ココ》はなほ美知《ミチ》と訓べし、其故は萬葉に、遠き道のことを、道之長手《ミチノナガテ》と多くよめる、長乳《ナガチ》は即(チ)この長手《ナガテ》にて、同言なればなり、【手は、繩手《ナハテ》又物に鎰之手《カギノテ》など云手なり、道の行手《ユクテ》などもいへり、】又書紀には、道之《ミチノ》てふ言なくて、たゞ長道磐《ナガチハノ》神とあれば、乳《チ》も道《チ》にて、道之長道《ミチノナガヂ》か、萬葉廿【廿丁】に道乃長道《ミチノナガヂ》ともあり、齒《ハ》は意得がたし、【齒も磐も借字にては有べし、師(ノ)云、長乳齒は、紀に長道磐と書《カケ》れば、かの道饗祭の詞に、磐村之如久塞(リ)坐(ス)功《イサヲ》ある神にて、即かの八衢比古八衢比賣を申すなり、と云れつれど、いかゞあらむ、】御名の由は、帶の状《サマ》、道の長手に似たればなるべし、【古今集に、下《シタ》の帶の道はかた/”\分るとも、行めぐりても逢むとぞ思ふ、契沖、下の帶は道の枕言にて、此《ココ》の故事によれりと云り、されどこはたゞ顯昭が云る如く、帶はかなたこなたへ分れて、前(ヘ)にて又逢(フ)こゝろ以(テ)よめりと見ゆ、六帖紐の歌に、おく山のしげりに立てまよふとも、妹がむすびしひもをとかめや、契沖云、これは紐は二(ツ)あるものなれば、道にまよへるときに解《トキ》て、いづれの方にゆかむと占ふなるべしと云り、紐と帶とは同じければ、こゝに由あり、夫木抄に爲相卿、めぐりあはむ契(リ)の末は、長乳齒の神のしるべを頼むばかりぞ、】

〇御裳《ミモ》、萬葉廿に芙母《ミモ》とよめり、和名抄に、釋名(ニ)云(ク)、上(ヲ)曰(ヒ)v裙(ト)下(ヲ)曰(フト)v裳(ト)、和名|毛《モ》とあり、抑|裳《モ》は女の着る物にこそあれ、男のよそひに云ること、古書に凡て見えざれば、【禮服にあるは、漢《カラ》のまねびなれば、いふべからず、】此《ココ》に御裳《ミモ》の事を云るは、いと/\いふかし、書紀には、此《ココ》に御裳と御冠とのことは無し、意ありてにや、【又思ふに、和名抄に、褌和名須萬之乃毛能《スマシノモノ》、一云|知比佐岐毛乃《チヒサキモノ》、唐韻(ニ)云(ク)、※〔衣偏+公〕(ハ)小褌也、漢語抄(ニ)云(ク)、※〔衣偏+公〕子(ハ)毛乃之太乃太不佐岐《モノシタノタフサギ》とある、これに褌と※〔衣偏+公〕と、和名を別に擧たるを以思へば、※〔衣偏+公〕は褌の裏《シタ》に着《ツク》る物にて、今(ノ)世に云(フ)下帶の如き物にて、古(ヘ)は其(ノ)上(ヘ)に褌をば着しにやあらむ、若(シ)然らば、※〔衣偏+公〕を毛乃之太乃太布佐岐《モノシタノタフサギ》と云る、毛乃之太《モノシタ》は褌乃下《モノシタ》の意にて、上(ツ)代には褌を毛《モ》と云るにやあらむ、此(ノ)次に褌《ハカマ》は別にあれども、彼《ソレ》は表《ウヘ》に着たまへる御袴《ミハカマ》のことなれば、妨なし、後世にも后宮名目抄に、御したも、下裳と書(ク)、是は御|湯具《ユグ》の事にて、末々《スヱズヱ》にては、おゆもじなど申し侍る云々とあり、下裳《シタモ》とは、女は表《ウヘ》に着る裳《モ》ある故に、それに別《ワカ》むために、下《シタ》と云るなるべし、】

○時置師神、置(ノ)字は直の誤にやあらむ、然《サラ》ば登伎那富志《トキナホシ》なり、又本のまゝならば、登伎淤加志《トキオカシ》と訓べし、一本又元々集に引るには量と作《カケ》り、これもいかゞ、時は解《トキ》なり、置師《オカシ》は、立《タチ》を多々志《タタシ》と云如く、置《オキ》を延《ノベ》たる言なり、こは御裳を解置《トキオキ》たまふ意の御名にや有(ル)らむ、【貫之集に、あひしりたる人の、ものへゆくに、ぬさやるとて、ゆくけふもかへらむときも、玉ぼこのひきもの神をいのれとぞ思ふ、とよめるひきもは引裳にて、此神か、】

〇御衣は、美曾《ミソ》と云も古言なれど、なほ美祁斯《ミケシ》と訓べし、八千矛(ノ)神の御歌に見えたり、彼處《ソコ》【傳十一の三十四葉】に委く云べし、萬葉にも、十【三十丁】に公之御衣《キミガミケシ》、又十四【三丁】に伎美我美家思《キミガミケシ》などあり、

〇和豆良比能宇斯能《ワヅラヒノウシノ》神、書紀にはたゞ煩《ワヅラヒノ》神とあり、和豆良布《ワヅラフ》は、物に障《サハ》り滯《トドコホ》る意なり、萬葉五【三十八丁】に、可爾可久爾思和豆良比禰能尾志奈可由《カニカクニオモヒワヅラヒネノミシナカユ》、【上に其さはることを云てかくいへり、】又|病《ヤム》を云も、病《ヤマヒ》にさへられて清々《スガスガ》しからぬ意なり、宇斯《ウシ》のことは上【傳三の九葉、天之御中主(ノ)神の所、】に云つ、さて此神(ノ)名、御衣《ミケシ》に由ありても聞えず、強《シヒ》て云(ハ)ば、穢《ケガレ》し御衣を脱棄《ヌギステ》たるは煩《ワヅラ》はしき事を脱《マヌカ》れて、心のさはやぎたるに似たればか、【後(ノ)世の歌に、無名立《ナキナタテ》らるゝを、濡衣着《ヌレギスキル》と云も、衣に譬(ヘ)たる意は似たり、さて今俗に、行遇神《ユキアヒガミ》に行過《ユキアヒ》て病《ワヅラ》ふと云ことあるは、此神などにもや、此前後の神みな道路に依(レ)り、】

〇御褌《ミハカマ》、和名抄に、袴(ハ)八賀萬《ハカマ》とある是なり、書紀雄略(ノ)卷(ノ)歌に、多倍能婆伽摩嗚那々陛嗚※〔糸+施の旁〕《タヘノハカマヲナナヘヲシ》とあり、さて字鏡に、褌※〔衣+昆〕※〔巾+軍〕(ハ)口大袴(ナリ)志太乃波加萬《シタノハカマ》、和名抄に、褌(ハ)須萬之毛能《スマシモノ》、一(ハ)云(フ)知比佐岐毛乃《チヒサキモノ》などあり、如此《カク》分《ワケ》て呼《ヨブ》は後のことにて、袴も褌もたゞ波加麻《ハカマ》なるべし、【字には拘《カカハ》るべからず、此《ココ》に褌(ノ)字を書たれども、必しも特鼻褌などの事とも定むべからず、かの雄略(ノ)卷(ノ)歌に、那々陛嗚※〔糸+施の旁〕《ヲナナヘヲシ》とよめるを以て、表《ウヘ》の装束《ヨソヒ》なるをも、波加麻《ハカマ》と云ることを知べし、】

〇道俣《チマタノ》神、書紀には此神なし、【船戸(ノ)神を岐神と書り、又猿田彦(ノ)神を衢《チマタノ》神とあれど、そは別なり、】かの道饗(ノ)祝辭にいはゆる八衢比古《ヤチマタヒコ》八衢比賣《ヤチマタヒメ》は、此神なるべし、【一神を比古比賣と分ても申し、又其二神を合せても申す例多し、此事上にいへり、】さて袴《ハカマ》の股《マタ》の分れたる所|衢《チマタ》の如し、故此神成(リ)坐るなるべし、

〇御冠は美加賀布理《ミカガフリ》と訓べし、此名は萬葉五【二十九丁】に、麻被引可賀布利《アサブスマヒキカガフリ》、【俗にひつかぶるといふことなり、】又廿【十五丁】に、美許登加我布理《ミコトカガフリ》【命を蒙るなり、】などある如く、本は加賀布留《カガフル》と云用言なるを、體言にしたるなり、字鏡には、※〔髪の友が富〕(ト) ※〔髪の友が當〕(ト)同(ジ)、加々保利《カガホリ》、また※〔巾+責〕(ハ)首服也頭巾也、比太比乃加々保利《ヒタヒノカガホリ》とあり、【保《ホ》と布《フ》とは通(フ)音なり、】然るを和名抄に、冠又※〔巾+僕の旁〕頭を加宇布利《カウフリ》とあるは、音便に轉《ウツ》れる言なり、【か|むゝ《ンム》りかむりなども云り、】さて皇國に上(ツ)代は冠は無《ナカ》りしと云説あり、【漢籍《カラブミ》にも北史に、御國のことを記して、頭亦無(シ)v冠、但垂(ル)2髪(ヲ)於兩耳(ノ)上(ニ)1、至(テ)v隋(ニ)其(ノ)王始(テ)制(ス)v冠(ヲ)云々といへり、】姑《シバラ》く是(レ)に依て思ふに、證《シルシ》あることなむある、まづ上(ツ)代の首《カウベ》の飾《カザリ》を考るに、髻《ミヅラ》の玉又|鬘《カヅラ》などは固《モトヨ》りにて、宇受《ウズ》と云物あり、倭建(ノ)命の御歌にも見えたり、書紀に髻華《ウズ》と書て、髻《ミヅラ》に草木の枝、又やゝ後には、金銀など以(テ)作(リ)ても刺《サシ》たる物なり、もし冠あらば、さる物を髻《ミヅラ》に刺《サス》べき由なし、此(レ)を冠にも刺《サス》は、後の事にこそあらめ、本は直《タダ》に髻に刺《サシ》たりしこと、かの字もても知らる、又此記にも書紀にも、上古冠のことを云ることさらに見えず、【景行紀雄略紀などに衣冠と云ことあれども、そはたゞ文章のみにて、實は冠のことを云るには非ず、】如此《カカ》れば、推古(ノ)御卷十二年始(テ)行(フ)2冠位(ヲ)1とあるや、實《マコト》に冠の始なりけむ、【首服《カウベノキモノ》なかりしといはば、吾御國の不足《アカヌ》ことに人思ふべけれど、そは例のみだりに他國《ヒトクニ》をうらやむひが心なり、無《ナキ》も有《アル》も風儀《ナラハシ》なれば、いづれをよしとか定めむ、もし必あるべき物といはば、他國にても、女は服《キ》ぬはいかにぞや、それも服《キ》ぬならはしなればこそさてあれ、女は必|服《キ》まじき故《ユヱ》あらむやは、なほいはば、御國には右の如く、髻華《ウズ》あり鬘《カヅラ》ありて、玉をさへ飾れりしかば、冠なしとて、首服《カウベノキモノ》は何のあかぬことかあらむ、】然有《シカレ》ども今こゝに、此大神の御冠を云るうへは、無《ナシ》といふ論《アゲツラヒ》は、表には立(テ)がたくなむ、【上代冠ありとせば、推古紀に始(テ)行(フ)とあるは、其(ノ)階級《シナ》を始て定め給ふなり、】出雲風土記神門(ノ)郡に、冠山と云を記して、大神(ノ)之御冠(リナとあり、【此(ノ)大神は、大穴牟遲(ノ)命を申すなり、】これらは古傳《フルキツタヘ》と見ゆ、【後世の書に、應神天皇の御冠の、傳はりて存《アリ》しことなどあるは、證とすばかりのことにもあらず、】

〇飽咋之宇斯能《アキグヒノウシノ》神、書紀には御冠のことは無(ク)て、投(タマフ)2其(ノ)褌(ヲ)1、是(ヲ)謂2開囓《アキグヒノ》神1とあり、名(ノ)義|飽《アキ》は、冠にまれ褌にまれ、脱《ヌギ》たる處の口《クチ》の開《アキ》たる貌《サマ》、咋《クヒ》は角杙などの久比《クヒ》と同じきか、【又借字ながらも、秋杙などは書ずして、飽咋開囓などかけるを思へば、久比《クヒ》は久知《クチ》の轉《ウツ》れるか、又|口《クチ》に見成《ミナ》して咋《クヒ》ともいへるか、咋《クフ》ももと口《クチ》に依れる言ならむ、】神名帳に、和泉(ノ)國大鳥(ノ)郡|開口《アキクチノ》神(ノ)社あり、

○手纏《タマキ》、書紀仁徳(ノ)卷、田道《タヂ》てふ人の、蝦夷《エミシ》と戰(ヒ)て死《シニ》し所に、時有從者《トキツカヘビト》取(リ)2得(テ)田道(ガ)之|手纏《タマキヲ》1、與《アタヘシカバ》2其(ノ)妻(ニ)1、乃《ヤガテ》抱(テ)2手纏(ヲ)1l而|縊死《クビリシニキ》、萬葉十五【十三丁】長歌に、和多都美能多麻伎能多麻乎《ワタツミノタマキノタマヲ》云々、三代實録に、貞觀十二年正月十三日、勅(シテ)充(ツ)2壹岐(ノ)嶋(ニ)冑《カブト》并(ニ)手纏《タマキ》各二百具(ヲ)1などあり、和名抄には射藝(ノ)具に、※〔韋+構の旁〕和名|多末岐《タマキ》、一(ハ)云(フ)小手《コテ》也とあり、まことに後に云(フ)小手《コテ》の如くなる物と聞えたり、【射藝のみの具になれるは、後の事なり、上代には常にも着《キ》る物なりき、】又是(レ)を手結《タユヒ》とも名(ケ)しにや、萬葉三【三十四丁】に、丈夫乃手結我浦《マスラヲノタユヒガウラ》とつゞけよめり、足《アシ》なるを脚帶《アユヒ》といへば、手なるをも然《サ》も云けむ、【師(ノ)云、西宮抄に手纏足纏とならべ云る、足纏はアユヒと訓べければ、手纏もタユヒと訓べきことしるしと云れき、今思(フ)に、萬葉に右の如くつづけたるは、手纏の意なれば、手纏をもやがて多由比《タユヒ》とせむも、物は違《タガ》はず一(ツ)なり、然れども名は別なるべし、もし多由比ならば、此記にも手結と書(ク)べきを、纏(ノ)字をかけるは、多麻伎《タマキ》なるゆゑなり、此記の例必然り、其上(ヘ)萬葉十五和名抄などにも、多麻伎とあるをや、たゞ同(ジ)物に二(ツ)の名ありしなりけり、】又右の萬葉十五なる歌に依れば、此(ノ)物にも玉を飾(リ)しなり、【但しかれは、たゞ手にまける玉と云ことにて、此(ノ)手纏と云物のことにはあらぬにや、ともおぼゆ、されど手に玉を纏《マキ》たる、其《ソレ》すなはち手纏《タマキ》なり、さて書紀には爰に、此(ノ)手纏のこと見えず、是(ノ)下の六柱(ノ)神も凡て無し、

○奥疎《オキザカルノ》神、これより下六柱の御名は、一(ツ)に合(セ)て説《トク》べし、まづ左の御手纏《ミタマキ》に成《ナレ》る三神を奥《オキ》と云ひ、右のに成《ナレ》る三神を邊《ヘ》と云(フ)、奥《オキ》は海の奥《オキ》、邊《ヘ》は海邊《ウミベタ》にて、常にも對言《ムカヘイフ》なり、さて左を奥《オキ》に當《アツ》るは、師(ノ)説に、萬葉九に、吾妹兒者久志呂爾有奈武《ワギモコハクシロニアラナム》、左手乃吾奥手爾纏而去麻師乎《ヒダリテノワガオクノテニマキテイナマシヲ》とある、即(チ)此意なりと云れき、【今思ふに、釧《クシロ》は臂にまく物なれば、臂を手の奥《オク》と云意にて、左手を奥(ノ)手と云るには非るか、とも覺ゆれど、左右共にまくべき物に、取(リ)分て左(ノ)手としも云るは、左を奥《オク》として、殊に重《オモ》くする意にてよめるなるべし、】此《コレ》に依らば、左(ノ)手を奥手《オクノテ》とするなり、さて右は邊《ヘ》なることしるし、砌《ミギリ》も邊《ヘ》の意にかなへり、【又|萬《ヨロヅ》の事《ワザ》を、まづ右(ノ)手して爲《スル》も、邊《ヘ》のこゝろばへありて、左は奥《オク》なるがごとし、】上の諸の山津見の成坐るも、左(ノ)手に志藝《シギ》山津見、右(ノ)手に戸山《トヤヤ》津見なり、これもこゝの奥と邊とに合《ア》へり、さて淤伎《オキ》と淤久《オク》とは同言なり、邊《ヘ》は端方《ハシベ》なり、波志《ハシ》を切《ツヅメ》て比《ヒ》となり、比倍《ヒベ》を切《ツヅメ》て閇《ヘ》となれるなり、【故《カレ》海邊《ウミベ》を宇那備《ウナビ》、濱邊《ハマベ》を波萬備《ハマビ》、岡邊《ヲカベ》を乎加備《ヲカビ》、とも古歌によめり、】疎《サカル》は、古書に多く放又離(ノ)字などをも訓り、今(ノ)言にも遠《トホ》ざかると云、即(チ)其意なり、【佐加留《サカル》と佐久留《サクル》とは、自《ミ》然ると、物を然《シカ》するとの差《ケヂメ》あり、】さて今|奢加留《ザカル》と註して、奢《ザ》を濁るは、奥《オキ》より言の連《ツヅ》く故なり、那藝佐《ナギサ》は、卷(ノ)末に波限《ナギサ》と書り、其處《ゾコ》【傳十七の六十五の葉】に委く云べし、甲斐《カヒ》は間《アヒ》なり、山間《ヤマノアヒ》を峽《カヒ》と云が如し、【甲斐(ノ)國も、山(ノ)間《アヒノ》國といふことなり、】間《ァヒ》はもと合《アヒ》の意にて、彼《カナタ》と此《コナタ》と合《アフ》處を云るより出たり、此《ココ》は疎《サカル》處と波限《ナギサ》との間《アヒ》の意ぞ、【祓(ノ)詞に、八鹽道乃鹽乃八百會《ヤシホヂノシホノヤホアヒ》と云るも、此《ココ》の間《アヒ》の意にかなひ、合《アヒ》にもおのづから通へり、なほ加比《カヒ》と阿比《アヒ》と通ふ例は、花の散《チリ》かふも散相《チリアフ》なり、又心をかはす詞をかはすも、合《アハ》すなり、古歌に、眞玉手之玉手|指更佐宿夜《サシカヘサネシヨ》など云も、指合《サシアハ》せにて、加波之《カハシ》といふも又同じ言なるをおもへ、】辨《ベ》は方《ヘ》なり、羅《ラ》は下に置《オク》助辭《ヤスメコトバ》にて、例多き中にも、萬葉十四【二十九丁】に、與許夜麻敝呂《ヨコヤマベロ》【横山|方《ベ》なり、】とよめる呂《ロ》と全く同じ、さて疎《サカル》は、海路《ウミツヂ》にて奥《オキ》なれば、甲斐辨羅《カヒベラ》は、奥《オキ》と波限《ナギサ》との間方《アヒベ》と云意の御名なり、【師は、萬葉二の長歌に、奥津加伊邊津加伊《オキツカイヘツカイ》と云ることあり、奥津船の棹《カイ》邊津船の棹《カイ》にて、此《ココ》の神(ノ)名は是なり、さて棹《カイ》の假字は、右の如く加伊なれば、こゝの斐(ノ)字は、異《イ》の誤なりとて、改められつ、されど此説はいたくわろし、此記は凡て假字の文字すくなくして、書紀萬葉などの如く、一音に多くの字を用ひたるはまれなり、殊にイの假字には、伊の一字をのみ用ひて、他(ノ)字を書る例なし、凡て例なき字を用ひたるは、いとまれまれのことなり、書紀萬葉の如く、假字を泛《ヒロ》く心得て、みだりに改むべき書にあらず、そのうへ此《コレ》は、此記カヒとつゞける言には、必甲斐とかく例にもかなへれば、誤字ならぬこと明らけし、又|棹《カイ》の意としては、辨羅《ベラ》てふ言も解《トキ》難きをや、】さて左(ノ)方の三神を各|奥某《オキツナニ》といひ、右(ノ)方の三神を各|邊津某《ヘツナニ》と云て、左と右とを奥《オキ》と邊《ヘ》とにあて、又その左なるも右なるも、各|疎《サカル》【奥《オキ》にあたる、】と波限《ナギサ》【邊《ヘ》にあたる、】と甲斐《カヒ》【間なり、】とを以(テ)三神に當《アテ》たり、されば六神の御名いづれも、上に奥邊《オキヘ》と云ると、下に疎《サカル》波限《ナギサ》甲斐《カヒ》と云るとは、別に離《ハナ》して意得べし、【もし連《ツラネ》て見るときは、奥津那藝佐《オキツナギサ》と云名など、いと意待がたくこそ、】さて前の六神【飽咋(ノ)神|以前《マデ》、】は陸路《クニガノミチ》の神、此《ココ》の六柱は海路《ウミツヂ》の神なり、

 

於是詔之上瀬者瀬速《ココニカミツセハセバヤシ》。下瀬者瀬弱而《シモツセハセヨワシトノリゴチタマヒテ》。初於中瀬隨迦豆伎而《ハジメテナカツセニオリカヅキテ》。滌時《ソソギタマフトキニ》。所成坐神名《ナリマセルカミノミナハ》。八十禍津日神《ヤソマガツビノカミ》。【訓禍云摩賀下效此】次大禍津日神《ツギニオホマガツビノカミ》。此二神者《コノフタバシラハ》。所到其穢繁國之時因汚垢而所成之神者也《カノキタナキシキグニニイタリマシシトキノケガレニヨリテナリマセルカミナリ》。次爲直其禍而所成神名《ツギニソノマガヲナホサムトシテナリマセルカミノミナハ》。神直毘神《カムナホビノカミ》。【毘字以音下效此】次大直毘神《ツギニオホナホビノカミ》。次伊豆能賣神《ツギニイヅノメノカミ》。【并三神也。伊以下四字以音】次於水底滌時所成神名《ツギニミナソコニソソギタマフトキニナリマセルカミノミナハ》。底津錦《ソコツワタ》上|津見神《ツミノカミ》。次底筒之男命《ツギニソコヅツノヲノミコト》。於中滌時所成神名《ナカニソソギタマフトキニナリマセルカミノミナハ》。中津錦《ナカツワタ》上|津見神《ツミノカミ》。次中筒之男命《ツギニナカヅツノヲノミコト》。於水上滌時所成神名《ミヅノヘニソソギタマフトキニナリマセルカミノミナハ》。上津綿《ウハツワタ》上|津見神《ツミノカミ》。【訓上云字閇】次上筒之男命《ツギニウハヅツノヲノミコト》。
上(ツ)瀬下(ツ)瀬は、上に云る如く、橘(ノ)小門は川の落口なるべければ、其處《ソコ》の瀬々《セゼ》なり、遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段の歌に、賀美都勢《カミツセ》とも斯毛都勢《シモツセ》とも見ゆ、萬葉などにも多し、

〇瀬速《セバヤシ》とは、流《ナガレ》の急《ハヤ》きを云なり、弱《ヨワキ》に對《ムカヘ》て云(ヘ)れば、はげしき意を兼たり、

○瀬弱《セヨワシ》とは、流(レ)の緩《ノドヤカ》なるを云なり、さて速《ハヤキ》にも弱《ヨワキ》にも、瀬《セ》てふ言を上に置るは、古言と聞ゆれば、瀬速をも、勢婆夜斯《セバヤシ》と波《ハ》を濁(リ)て一言《ヒトコト》に讀《ヨミ》、瀬弱をもその心ばへに讀(ム)べし、さて弱《ヨワキ》を取(リ)たまはぬは、あまり流(レ)の緩《ユルキ》處は、潔《イサギヨ》からぬ故なるべし、

〇詔之は能理碁知腸※〔氏/一〕《ノリゴチタマヒテ》と訓べし、【のりごとしの、としを切《ツヅメ》てちと云なり、】書紀に興言《コトアゲシテ》曰(ク)とあればなり、

〇初《ハジメテ》とは、所成坐神《ナリマセルカミ》と云(フ)へ係《カカ》れる言なり、【中瀬《ナカツセ》へ係て云には非ず、】かの次國稚《ツギニクニワカク》云々とある次《ツギニ》の例なり、【其由は、傳三之卷に委く云り、考(ヘ)合すべし、】

〇中瀬《ナカツセ》、凡て物の中間を中《ナカ》と云は、もと此(ノ)中(ツ)瀬より出たる言にて、清明《アカ》と云ことならむか、【阿と那と通ふはつねなり、即此段の神名の赤土《アカヅチノ》命は、中筒之男《ナカヅツノヲ》なること、上にも下にも云るがごとし、】其故は、今|禊《ミミソギ》したまひて、清明《アカ》くなりたまふ瀬なればなり、

〇隨(ノ)字は降の誤(リ)なるべし、【中瀬の隨《マニマニ》とては通《キコ》えず、又上に於(ノ)字を置たるも、隨(ノ)字を用(ヒ)たる處の例に異なれば、決《ウツナ》く誤なり、又一本に墮と作《カケ》るも誤なり、降(ノ)字を、隨とも墮とも、草書より誤りつべし、此記などは、昔も草には書(ク)まじく思はるれど、草の似たるより誤れる例も多く見ゆ、】中瀬爾淤理《ナカツセニオリ》と訓べし、書紀|他田《ヲサダノ》宮(ノ)卷に、下《オリヰテ》2泊瀬中流《ハツセノカハナカニ》1などあるさまなり、大祓(ノ)詞に所謂《イハユ》る瀬織津比※〔口+羊〕《セオリツヒメ》は、此《ココ》の故事《フルコト》もて稱《タタヘ》たる御名にて、瀬降《セオリ》の意なり、【今|此《ココ》に大神の、穢を滌き去《ステ》たまはむとして、瀬に降《オ》りたまふと、彼(ノ)神の大海原爾持出奈武とあると、全く同意なるを思ふべし、猶よりどころあり、次の禍湯日(ノ)神の處に云り、引合せ見よ、】

〇迦豆伎《カヅキ》は、水(ノ)中に入(ル)ことにて、潜(ノ)字を書り、此言中卷※〔言+可〕志比(ノ)宮(ノ)段の歌、書紀神功(ノ)卷(ノ)歌にも見え、又萬葉などに多し、水鳥の没《ミヅニイ》るをもいひ、海人《アマ》の海(ノ)底に入て物とるをも、體語《ヰコトバ》にも云り、師云、迦豆久《カヅク》は、拜《ヲガム》を額衝《ヌカヅク》と云如く、水に頭を衝入《ツキイル》てふ意の語なりと云れき、

〇滌は曾々岐賜《ソソギタマフ》と訓べし、これ即(チ)御禊《ミミソギ》なり、

〇所成坐、すべて他《ホカ》の押|等《タチ》には、たゞ所成とのみ書るを、今|汚垢《ケガレ》に因て成(レ)る神にしも、如此《カク》坐(ノ)字を添(ヘ)て書ること意あり、委く首(ノ)卷【五十二葉】に云り、

〇八十禍津日《ヤソマガツビノ》神、大禍津日《オホマガツビノ》神、禍《マガ》のことは次に云べし、津は助辭、日《ビ》は濁る例にて、【借字なることはさらなり、】次の直毘《ナホビ》の毘《ビ》も同じ、此(ノ)辭の意は、産巣日《ムスビノ》神の下【傳三の十三葉】に云り、八十《ヤソ》は禍《マガ》の多きを云(ヒ)、大《オホ》は甚《ハナハダ》しきを云にや、書紀には大禍津日は無し、又の一書に大綾津日《オホアヤツビノ》神あり、【三代實録三十五に、下野(ノ)國綾都比(ノ)神、】阿夜《アヤ》と麻賀《マガ》と同き由|前《マヘ》に云り、【傳五の卅四葉】遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段に、八十禍津日(ノ)前と云地(ノ)名あり、【倭姫(ノ)命(ノ)世記に、荒祭(ノ)宮一座、皇大神(ノ)荒魂《アラミタマ》、伊弉那伎(ノ)大神(ノ)所生《ウミマセル》神、名(ハ)八十枉津日(ノ)神也、一《マタノ》名(ハ)瀬織津比※〔口+羊〕《セオリツヒメノ》神是(レ)也《ナリ》と云り、此書は僞書なれども、此神を皇大神の荒魂と云こと由あり、下に云べし、これらは古傳説ありてや云(ヒ)つらむ、又瀬織津比※〔口+羊〕は此神の亦(ノ)名といへると、右にいへる考(ヘ)と、引合せて見べし、】さて世間《ヨノナカ》にあらゆる凶惡事《アシキコト》邪曲事《ヨコサマナルコト》などは、みな元《モト》は此(ノ)禍津日(ノ)神の御靈《ミタマ》より起《オコ》るなり、其由は下に委く云べし、
〇穢繁國は、伎多那伎斯伎具邇《キタナキシキグニ》と訓べし、【今(ノ)本のまゝに、祁賀良波志伎國《ケガラハシキクニ》と訓(マ)むも、事もなく聞ゆめれど、なほ熟《ヨク》思《オモヘ》ばわろし、其故は、上(ノ)段に穢國とあるは、伎多那伎久爾《キタナキクニ》と訓て、そは書紀に訓(ノ)注あればうごかず、されば、同じことの、忽《タチマチ》こゝにて言のかはるべきならねばなり、又繁(ノ)字を添たるも、別に一(ツ)の言たるべし、】萬葉四【五十四丁】に、牟具良布能穢屋戸爾《ムグラフノキタナキヤドニ》とあり、【これをも今(ノ)本に、ケガシキヤドと訓るは、ひがことなり、】繁は斯伎《シキ》の借字にて、【しげきを、古言に斯伎《ンキ》と云り、】醜の意なり。然由《サルヨシ》は萬葉十三【十四丁】に、小屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》、掻所棄破薦乎敷而《カキステムヤレゴモヲシキテ》、掻將折鬼之四忌手乎指易而《カキヲラムシコノシキテヲサシカヘテ》、云々【第十六(ノ)卷にも爲支屋《シキヤ》とあり、】とよめる、鬼之四忌手《シコノシキデ》は、鬼乃志許草《シコノシコグサ》と同じ重《カサネ》言なれば、四忌《シキ》も醜《シコ》なり、さて此歌に醜屋《シキヤ》ともあるを以て、醜國《シキグニ》とも云つべきことをさとるべし、又萬葉十六【二十三丁】に、世間之繁借廬爾住々而《ヨノナカノシキカリイホニスミスミテ》云々【今(ノ)本に繁をシゲキと訓たれど、さては歌の意にかなはず、】とあるは、醜《シキ》の借字に繁とかける正《マサ》しき例なり、さて上には志許米岐穢國《シコメキキタナキクニ》と云(ヒ)、こゝには其《ソ》を下上《シタウヘ》にして、穢醜國《キタナキシキグニ》と云る、たゞ同じことぞ、

〇汚垢は、二字を祁賀禮《ケガレ》と訓べし、【如此《カク》よみて、垢《アカ》の意は足《タ》れり、別に阿加《アカ》と訓(マ)むはわろけむ、】

〇因(ノ)字は、所到の上にある意に看《ミ》て、時之汚垢《トキノケガレ》とつゞけて心得べし、【此方の漢文章には、かゝることつねに多し、】文のまゝに看《ミ》ては、いたくことたがへり、さて此《ココ》の文《コトバ》をよく思ふべし、世(ノ)中の諸の禍害《マガコト》をなしたまふ禍津日(ノ)神は、もはら此(ノ)夜見(ノ)國の穢より成坐るぞかし、あなかしこ/\、

〇之神、今(ノ)本に神之とあるは誤なり、一本に因て改つ、上にも、因(テ)2御刀(ニ)1所生之押者也とあればなり、

〇其《ソノ》禍《マガ》とは、禍津日《マガツビ》の禍《マガ》にして、即(チ)穢國《キタナキクニ》の汚垢《ケガレ》を云なり、禍(ノ)字|麻賀《マガ》と訓べし、【マガレルヲと訓むはわろし、】

〇爲直は、那富佐牟登志弖《ナホサムトシテ》と訓べし、【那富須《ナホス》は令《ス》v直《ナホ》なり、】直《ナホ》すとは、即(チ)滌《ソソ》ぎ清《キヨ》むるを云なり、【別に其事あるには非ず、されば次《ツギニ》と云も、例の所成神に係《カケ》て云言なり、さて汚穢《ケガレ》を禍《マガ》と云(ヒ)、清《キヨ》むるを直《ナホ》すと云よしは、下に委く云べし、然るに是を、祓を以て心の枉《マガ》れるを直《ナホ》すこととするは、甚《イタ》く誤《ヒガコト》なり、そは麻賀流《マガル》とは、たゞ物の形の枉曲《マガレル》をのみ云(ヒ)なれたる、後(ノ)世の意になづみて、古言の麻賀《マガ》の意をえしらず、又|動《トモス》れば儒佛を羨《ウラヤミ》て、心法《ココロノウヘ》を説《トカ》むとする學者の癖《クセ》なり、書紀に、將v矯2其枉(ヲ)1など書たまへるは、麻賀《マガ》と云(ヒ)那富須《ナホス》と云語によりて、文をつゞりたまへるものなれば、字になづむべきに非ず、凡て禊祓は、身の汚垢《ケガレ》を清むるわざにこそあれ、心を祓ひ清むと云は、外(ツ)國の意にして、御國の古(ヘ)さらにさることなし、もし心を主《ムネ》とせば、御心之禊とこそ云べきに、さはなくて、上(ノ)段にも御身之禊と云(ヒ)、書紀にも盪2滌身之|所汚《ケガレヲ》1、とあるはいかに、輕き方を撃て、重き方を略《ハブ》くべき由なきを思へ、かにかくに心法のさだは私(シ)事なり、下文に、汝心之清明などもありて、心の清き穢きを云も、常のことなれど、祓をして心を清むと云ことはなし、又須佐之男(ノ)命の、我心|須賀須賀斯《スガスガシ》とのたまへるも、心法の事に非ず、その由はそこにいふべし、】爲は將(ノ)字の意に用ひたるなり、【其由は首(ノ)卷に云り、】

〇神直毘《カムナホビノ》神、大直毘《オホナホビノ》神、直《ナホ》とは、未《イマダ》直《ナホ》からざるを直《ナホ》す意の御名なり、既に直《ナホ》れる意にはあらず、上に爲《シテ》v直《ナホサムト》とあるを以てさとるべし、【同言ながら、なほきなど云は、既に直《ナホ》れるを云(フ)、なほすは、直《ナホ》からざるを直《ナホ》からしむる爲《シワザ》を云て、既に直きに至れる意には非ず、然るに大直毘(ノ)神を、口決などに、既に清明(ナル)時(ニ)生(ル)神なりと謂(ヘ)るは、かなはず、】されば此二柱は、穢《キタナキ》より清《キヨキ》にうつる間《アヒダ》に成坐る神にして、直毘《ナホビ》とは、禍《マガ》を直したまふ御靈《ミタマ》の謂《イヒ》なり、【毘を日(ノ)意とするは非《アラ》ず、】御門祭(ノ)祝詞に、四方四角與利《ヨモヨスミヨリ》疎|備《ビ》荒備來武《アラビコム》、天能麻我都比登云神乃言武惡事爾《アメノマガツビトイフカミノイハムマガコトニ》、相麻自許利相口會賜事無久《アヒマジコリアヒクチアヘタマフコトナク》云々、咎過在乎波《トガアヤマチアルヲバ》、神直備大直備爾見直聞直坐※〔氏/一〕《カムナホビオホナホビニミナホシキキナホシマシテ》云々、遷2却祟神(ヲ)1祝詞に、神直日大直日爾直志給比※〔氏/一〕《カムナホビオホナホビニナホシタマヒテ》云々とある、是等《コレラ》は神議《カムハカリ》に議賜神遂《ハカリタマフカムヤラヒ》に逐賜《ヤラヒタマフ》など云類の語にて、たゞ直《ナホ》し賜(フ)と云ことなり、【これらは此《ココ》の神(ノ)名を申せるには非ず、彼(ノ)祝詞どもの前後の語をよく見てわきまふべし、思ひまがへて神(ノ)名とすべからず、】直《ナホ》し賜《タマフ》と云ことを如此《カク》言《イヘ》るにて、此《ココ》の神(ノ)名の意をも曉《サト》りてよ、又大殿祭(ノ)祝詞に、漏落武事乎波《モレオチムコトヲバ》、神直日《カムナホビノ》命|大直日《オホナホビノ》命、聞直志見直志※〔氏/一〕《キキナホシミナホシテ》、平良氣久安良氣久所知食登白《タヒラケクヤスラケクシロシメセトマヲス》、こは此《ココ》の二神を指て申せり、【倭姫(ノ)命(ノ)世記に、多賀《タカノ》宮一座、豐受(ノ)荒魂也、伊弉那伎(ノ)神(ノ)所生神、名(ハ)伊吹戸主、亦(ノ)名(ハ)曰2神直日大直毘(ノ)神(ト)1と云り、此(ノ)神の豐受(ノ)大神の荒魂に坐(ス)は、いかなる由にかしらねど、伊吹戸主の此神たる由は、大祓詞に、遺罪波不在止《ノコルツミハアラジト》、祓給比清給事乎《ハラヒタマヒキヨメタマフコトヲ》云々、氣吹戸坐須氣吹戸主止云神《イブキドニマスイブキドヌシトイフカミ》、根國底之國爾氣吹放※〔氏/一〕牟《ネノクニソコノクニニイブキハナチテム》云々、これ此《ココ》の穢《ケガレ》を滌清《ソソギキヨ》むると同意にて、此神に當れり、凡てかの世記は信《ウク》べき書には非れども、かゝる事は、古(キ)傳(ヘ)説《ゴト》ありて記せるも知がたし、】
〇伊豆能賣《イヅノメノ》神、今(ノ)本は何《イヅ》れにも神(ノ)字無し、こは延佳が補(ヒ)たるぞよき、凡て此(ノ)前にも後にも、生《ウミ》ませる神てふ神に、神といはぬ例なければなり、【彌都波能賣なども、書紀には神とはなけれど、此記には神とあり、】伊豆《イヅ》は、既に汚垢《ケガレ》を滌祓《ソソギハラヒ》て、明《アカ》く清《キヨ》まりたる意にて、明津《アキヅ》の約《ツヅマ》りたる言なり、【阿伎は伊と約《ツゾマ》る、】前に出たる速秋津《ハヤアキヅ》日子日女二柱は此神なりと、彼所《カシコ》【傳五の卅二葉三十七葉】に其由を云り、引合せて考(フ)べし、又大祓(ノ)祝詞(ニ)所謂《イハユル》、瀬織津比※〔口+羊〕《セオリツヒメ》は禍津日《マガツビ》に、氣吹戸主《イブキドヌシ》は直毘《ナホビノ》神にあたれば、此所の速開都※〔口+羊〕《ハヤアキツメ》に當ること更《サラ》に明《アキラ》けし、【但しかの祝詞に、先(ヅ)速開都※〔口+羊〕を云て、後に氣吹戸主を云るは、次序《ツイデ》の合《アハ》ぬに似たれど、彼は穢惡《ケガレ》の歸方《ユクカタ》を云る物なる故に、氣吹戸主は後にあり、次(ノ)文に、根國云々とあるを以て見よ、】さて伊豆《イヅ》てふ言の例は、書紀神武(ノ)卷に、嚴瓮此(ヲ)云(フ)2怡途背《イヅベト》1、また時(ニ)勅(タマハク)2道(ノ)臣(ノ)命(ニ)1、今以2高皇産靈(ノ)尊(ヲ)1、朕親《ミミヅカラ》作《セム》2顯齋《ウツシイハヒ》1、用(テ)v汝(ヲ)爲《シ》2齋主《イハヒヌシト》1,授《サヅケテ》2以|嚴媛之號《イヅヒメノナヲ》1而、名其所置埴瓮《ソノオケルハニベヲ》爲《ナヅケ》2嚴瓮《イヅベト》1、又火(ヲ)名2爲《ナヅケ》嚴香來雷《イヅカグヅチト》1、水(ヲ)名2爲《ナヅケ》嚴罔象女《イヅミツハノメト》1、粮《ヲシモノヲ》名2爲《ナヅケ》嚴稻魂女《イヅウカノメト》1、薪《カマギヲ》名2爲《ナヅケ》嚴山雷《イヅヤマヅチト》1、草(ヲ)名2爲《ナヅケテ》嚴野椎《イヅヌヅチト》1、天皇|嘗《マツリタマフ》2其(ノ)嚴瓮之粮《イヅベノミケヲ》1云々、又垂仁(ノ)卷に、以(テ)2天照大神(ヲ)1鎭(マリ)2坐(シメテ)於|磯城嚴橿本《シキノイヅカシガモトニ》1、

而|祠之《イツキマツル》云々、出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀(ノ)詞に、伊都幣《イヅミテグラ》又伊|豆能眞屋《イヅノマヤ》又|伊豆能席《イヅノムシロ》などあり、是(レ)皆神を象(ル)時の事にして、齋清淨《イハヒキヨメ》つる意を以て、伊豆《イヅ》とは云なり、【書紀に嚴(ノ)字を用(ヒ)られたるにつきてかの稜威《イツ》と一(ツ)に心得るは誤なり、稜威《イツ》は健《タケキ》ことを云(ヒ)、嚴《イヅ》は清《キヨキ》ことを云(ヘ)れば、本より別なり、神を祭るときの種々の物を、健《タケ》きことを以て名《ナヅ》くべき由なきを思ふべし、然るに嚴(ノ)字をしも書れたるは、嚴《イツクシ》く重《オモ》く忌清《イミキヨ》むる意にや、されど又|伊加志矛《イカシボコ》にも、嚴矛と香れたる、伊加志《イカシ》と稜威《イツ》と意近ければ、まぎらはしきに似たり、又伊加志に重(ノ)字を用ひられたる所もあり、祝詞式には茂御世《イカシミヨ》とも書り、これら猶よく考(ヘ)明らむべきことなり、されどそはとまれかくまれ、右の嚴《イヅ》は、此《ココ》の伊豆《イヅ》と同(ジ)意にして、稜威《イツ》とは別なり、此記に稜威をば皆|伊都《イツ》とかき、嚴《イヅ》をば皆|伊豆《イヅ》とかき、書紀にも神代(ノ)卷に、稜或は此(ヲ)云2伊都《イツト》1と注し、嚴は神武(ノ)卷に、此(ヲ)云2怡途《イヅト》1と注して、清濁分れたり、然るに世に、稜威《イツ》の都をも濁りてよみ來れるは誤りなり、】又|伊都久《イツク》伊波布《イハフ》伊牟《イム》なども、本は穢惡《キタナキ》を除去《ノゾキステ》て、清明《キヨク》する意なれば、皆此(ノ)伊豆《イヅ》より出たる言なり、【後には、伊都久は敬《ウヤマ》ふ方に、伊波布はことぶく方に、伊牟はきらふ方になりて、別《コト》意なるが如くなれど、本は皆一(ツ)にて、古書には相通はしていへること多し、】又|齋忌《ユキ》齋庭《ユニハ》などの齋《ユ》も伊豆《イヅ》と同意にて、語も本一(ツ)なり、かゝれば此(ノ)神は、御禊《ミミソギ》によりて、穢惡《キタナ》き麻賀《マガ》を神直《カムナホ》び大直《オホナホ》びに直《ナホ》し清《キヨ》めて、直く清く明《アカ》くなれる御靈《ミタマ》なり、【伊豆は即|明《アキ》づなること、右にいへるが如し、今の世の言にも、何《ナニ》にてもよからぬ事の盡終《ツキヲハ》るを、明《アク》といふは、此意にかなへり、】書紀には此神なし、然る故は、中筒男《ナカヅツノヲノ》命を一書に赤土《アカヅチノ》命とあるを、此(ノ)神に當《アテ》たる一(ツ)の傳(ヘ)なり、【那加豆都《ナカヅツ》と阿加豆知《アカヅチ》と阿伎豆比《アキヅヒ》と皆通ふ、】此事上【傳五の卅一葉三十二葉】にも云り、式出雲(ノ)國出雲(ノ)郡に、神魂伊豆乃賣《カムムスビイヅノメノ》神社あり、

〇禍津日(ノ)神より伊豆能賣(ノ)神まで、次第《ツギツギ》に成坐る義《ココロ》を、なほ委曲《ツバラカ》に云むには、先(ヅ)世中に所有凶惡事《アラユルアシキコト》は、みな黄泉《ヨミ》の汚穢《ケガレ》より起《オコ》るものなり、【下須佐之男(ノ)命のこと考(ヘ)合すべし、】故(レ)古(ヘ)には萬《ヨロヅ》の凶惡《アシキ》ことを、凡て穢《キタナ》しとも麻賀《マガ》とも云り、書紀に黒心濁心惡心など書るを、何《イヅレ》もキタナキコヽロと訓(ミ)、續紀宣命に岐多奈久惡奴《キタナクアシキヤツコ》、又|穢奴《キタナキヤツコ》など見え、祝詞式に、惡事古語(ニハ)麻我許登《マガコト》と見え、書紀景行(ノ)卷に禍害《マガ》、此記に禍《マガ》、又|死《シ》ねと云ことを、麻賀禮《マガレ》とあるなど、是(レ)ら伎多那志《キタナシ》とも麻賀《マガ》とも云るは、皆|凶惡《アシ》き意なり、【後世に伎多那伎《キタナキ》は穢(ノ)字の意、麻賀流《マガル》は曲(ノ)字の意とのみ心得るは、古(ヘ)の意にあらず、穢(ノ)字も伎多那伎|中《ナカ》の一(ツ)の意、曲(ノ)字も麻賀の中の一(ツ)の意にこそあれ、】さて萬(ヅ)の事に凶惡《アシキ》を吉善《ヨク》なすを令直《ナホス》と云(ヒ)、吉善《ヨク》なるを直《ナホ》るといふ、【此語は今(ノ)世まで古(ヘノ)意を失はず、萬(ノ)事にいふなり、】故《カレ》上文に、汚垢《ケガレ》を滌清《ソソギキヨ》むることを、其《ソノ》禍《マガ》を直《ナホ》すとあり、【汚垢《ケガレ》は凶惡《アシ》きこと、滌清《ソソギキヨ》むるは、其|凶惡《アシキ》を吉善《ヨク》なすなればなり、然るを後(ノ)世の心にては、直《ナホ》すはたゞ、物の枉曲《マガ》れるを矯直《タメナホ》すこととのみ思ふから、祓は心のまがれるを正《タダ》すなど云|僻説《ヒガコト》あれど、右に云如く、古(ヘ)に麻賀《マガ》と云るは、何事にても凡て凶惡《アシキ》こと、直《ナホ》すと云は、何事にても凶惡《アシ》きを吉善《ヨク》なすを云ること、今(ノ)世の語にても悟《サト》れ、】かくて世(ノ)中に所有吉善事《アラユルヨキコト》は、皆此(ノ)御禊《ミミソギ》より起るものなり、【日(ノ)神などの成坐る所、考(ヘ)合すべし、】故《カレ》古(ヘ)には、萬《ヨロヅ》の吉善《ヨキ》ことを、凡て明《アカ》しとも清《キヨ》しとも直《ナホ》しとも云り、即(チ)此卷に汝心之清明《ミマシノココロノアカキ》云々、中卷に淨公民《キヨキオホミタカラ》、書紀に清心《キヨキココロ》明心《キヨキココロ》赤心《アカキココロ》、萬葉廿に安加吉許己呂《アカキココロ》、また大夫乃伎欲吉彼名乎《マスラヲノキヨキソノナヲ》云々、續紀宣命に、明支淨支直支誠之心以而《アカキキヨキナホキマコトノココロモチテ》、などあるを以(テ)知(ル)べし、【後(ノ)世にたゞ、阿加伎《アカキ》は明(ノ)字赤(ノ)字などの意、伎興伎《キヨキ》は清(ノ)字淨(ノ)字などの意、那本伎《ナホキ》は直(ノ)字の意とのみ心得るは、古(ヘノ)意にあらず、】故(レ)黄泉《ヨミ》の穢惡《ケガレ》に因て、先(ヅ)世間《ヨノナカ》の諸の禍害《マガ》をなしたまふ禍津日(ノ)神、初《ハジメ》に成坐し、其|凶惡《ケガレ》を滌清《ソソギキヨ》むとして、世(ノ)間の諸の凶惡《マガ》を吉善《ヨキ》に直《ナホ》したまふ直毘(ノ)神、その次に成坐し、さて滌清《ソソギキヨ》め竟《ヲヘ》て、吉善《ヨク》なれる時に、伊豆能賣(ノ)神成坐るなり、

〇注に并(テ)三神也とあるは上の禍津日二柱は、云々而所成之神者也《シカシカシテナリマセルカミナリ》と、既にことわれる故に、其(ノ)次より三柱を總言《スベイフ》なり、

〇次於水底、この次《ツギニ》も、底津綿津見《ソコツワタツミノ》神の成坐る次序《ツイデ》を云なり、【伊豆能賣(ノ)神成坐て、さて次に水底《ミナソコ》に入て滌《ソソギ》たまふ、と云にはあらず、】

〇於中《ナカニ》、こは水底《ミナソコ》水上《ミヅノヘ》に對《ムカヒ》たれば、必(ズ)水中《ミヅノナカ》と有(ル)べき故に、延佳が水(ノ)字を補《クハヘ》たるは、然《サル》ことながら、諸本《イヅレノマキ》にも水(ノ)字なきに就《ツキ》てなほ思ふに、水底《ミナソコ》水上《ミヅノヘ》と云は、みな古言なるに、水中《ミヅノナカ》【みなかも同じ、】と云は、凡て水内《ミヅノウチ》を廣《ヒロ》くいふ言にこそあれ、底《ソコ》と上《ウヘ》との中間《ナカバ》を然《シカ》云る例はあらざりし故に、たゞ中《ナカ》とのみ云るにやあらむ、【底と上(ヘ)とに水をいへば、中はおのづから其(ノ)中間とは聞ゆ、】さて於《ニ》v中《ナカ》と於《ニ》2水上《ミヅノヘ》1との上に、おの/\次(ノ)字なきは、底中上の前後《ツイデ》はなきに似たれども、此《ココ》の事の樣《サマ》を思ふに、必(ズ)底より中上と次第《ツイデ》あるべし、

〇上津《ウハツ》云々、注に、訓(テ)v上(ヲ)云2宇閇《ウヘト》1とある、これは※〔言+可〕美《カミ》と訓(ム)まじきが爲《タメ》の注なり、宇波都《ウハツ》と訓べし、宇閇《ウヘ》は、上某《ウハナニ》とつゞく言あるときは、凡て宇波《ウハ》と云(フ)例にて、書紀に、上國此(ヲ)云2羽播豆矩※〔にんべん+爾〕《ウハツクニト》1とあるたぐひなり、然るを今|宇閇《ウヘ》と注したるは、記中に伊都之男建蹈建而《イツノヲタケビフミタケビテ》とある注に、訓v建(ヲ)云2多祁夫《タケブト》1とあるに同じくて、共に言《コト》の居《ヰ》たる方を注したるものなり、

 

此三柱綿津見神者《コノミバシラノワタツミノカミハ》。阿曇連等之祖神以伊都久神也《アヅミノムラジラガオヤガミトモチイツクカミナリ》。【伊以下三字以音下效此】故阿曇連等者《カレアヅミノムラジラハ》。其綿津見神之子宇都志日金拆命之子孫也《コノワタツミノカミノミコウツシヒガナサクノミコトノスヱナリ》。【宇都志三字以音】其底筒之男命中筒之男命上筒之男命三柱神者《ソノソコヅツノヲノミコトナカヅツノヲノミコトウハヅツノヲノミコトミバシラノカミハ》。墨江之三前大神也《スミノエノミマヘノオホカミナリ》。

綿津見《ワタツミ》のことは、上【傳五の卅六葉】に云り、

〇祖神は意夜賀微《オヤガミ》と訓べし、凡て上(ツ)代は、父母《チチハハ》に限《カギ》らず、幾世《イクヨ》にても、遠祖《トホツオヤ》までを通はして、皆たゞ意夜《オヤ》と云り、【其證は古書にあまた見ゆ、父母は其(ノ)意夜《オヤ》の中の一世なるが、有(ル)が中に近く親《シタシ》き故に、殊に其|稱《ナ》を專《モハラ》と負て、後には意夜《オヤ》といへば、たゞその父母のみの稱《ナ》の如くなれりしなり、後(ノ)世のならひを以(テ)古(ヘ)をな疑ひそ、】故(レ)古書には祖(ノ)字を意夜《オヤ》と訓て、親《オヤ》のことにも用ひたり、【意富々々遲(オホオホヂ)意富遲《オホヂ》などは、事を分《ワケ》て云ときの稱にて、すべては何《イヅ》れもみな意夜《オヤ》なり、】書紀には遠祖上祖本祖始祖など書て、登富都意夜《トホツオヤ》と訓(メ)り、是(レ)も古稱《フルキナ》にて、萬葉【十八】にも遠都神祖《トホツカムオヤ》などあり、されど此記には、何れも祖とのみありて、遠祖など書ること一(ツ)も無《ナケ》れば、たゞ意夜《オヤ》と訓(ム)例なり、されば上代には、某姓《ソノウヂ》の本祖《モトツオヤ》と云をも、たゞ祖《オヤ》とぞ云けむ、又|子《コ》と云も、己《オノ》が生《ウメ》るに限《カギラ》ず、子々孫々までかけて云|稱《ナ》なり、此事は後に出(ヅ)、

〇以伊都久《モチイツク》神、記中此語多し、【傳七の六十一葉廿二の二十六葉二十五の卅三葉】祝詞に、持齋波利《モチユマハリ》持可々呑《モチカガノミ》持佐須良比《モチサスラヒ》などある持《モチ》と一(ツ)にて、もてなすもてはやすなどの母弖《モテ》に同じ、【是を延佳が伊弖《イテ》と訓るは、甚《イタ》く誤なり、】祖神登母知《オヤガミトモチ》云々と訓べし、伊都久《イツク》は齋《イツク》なり、萬葉十九【三十六丁】に、住吉爾伊都久祝之《スミノエニイツクハフリガ》云々、又【三十五丁】春日野爾伊都久三諸乃《カスガヌニイツクミムロノ》云々、書紀に爲天孫所祭《アマツカミノミコニイツカレヨ》ともあり、又記中に伊都伎奉《イツキマツル》とある【傳十二の二十六葉】と、拜祭とある【傳十五の三十三葉】と同(ジ)義《ココロ》に聞ゆれば、拜祭をも伊都伎祭《イツキマツル》と訓べし、【なほ彼處に云べし、】さて此(ノ)神は、官帳に筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡|志加海《シカノワタツミノ》神(ノ)社三座【並名神大】とある是なり、【式今(ノ)本に、海神《ワタツミノカミノ》社をウミノ神社と訓るはひがことなり、】貞觀元年に、此神に從五位上を授奉たまへること、三代實録に見ゆ、この御社、志賀《シカノ》嶋と云に有て、今は那珂(ノ)郡に屬《ツケ》りとぞ、【志賀(ノ)嶋、福岡より海上三里なり】書紀景行(ノ)卷に志我《シカノ》神とあり、萬葉七【二十一丁】に、千磐破金之三崎乎過鞆《チハヤブルカネノミサキヲスギヌトモ》、吾者不忘牡鹿之須賣神《ワレハワスレジシカノスメカミ》、又十六に、糟屋(ノ)郡志賀(ノ)村、和名抄同郡に志※〔言+可〕《シカノ》郷あり、【今(ノ)本※〔言+可〕を阿と誤れり、】書紀(ノ)釋に風土記を引て、糟屋(ノ)郡|資※〔言+可〕《シカノ》嶋(ハ)、昔時氣長足姫《ムカシオキナガタラシヒメノ》尊、幸《イデマシシ》2於|新羅《シラギニ》1之|時《トキ》、御船夜時來《ミフネヨルキテ》泊《ハテキ》2此(ノ)嶋(ニ)1、有陪從名云大濱小濱者《ミトモニオホハマヲハマチフヒトアリ》、便《ココニ》勅|小濱《ヲハマヲ》遣(ハシテ)2此(ノ)嶋(ニ)1※〔妥の女が見〕《モトメシメツルニ》v火(ヲ)、得早來《トクエテマヰキツ》、大濱|問2云《トフ》近《チカク》有(リツ)v家|耶《ヤト》1、小濱|答云《コタヘケラク》、此(ノ)嶋(ハ)與《ト》2打昇濱1近(ク)相(ヒ)連接《ツヅキテ》、殆|可《バカリナリ》v謂(フ)2同(ジ)地《トコロト》1、因《カレ》曰(フ)2近《チカノ》嶋(ト)1、今訛(テ)謂(フ)2之|資※〔言+可〕《シカノ》嶋(ト)1とあり、此處は、萬葉(ノ)歌などにも多く見えて、名高き地《トコロ》なり、【此地名、萬葉にあまた所に出たる、鹿《シカ》とも四可《シカ》とも之加《シカ》ともかき、其外古書どもに、多くは清音(ノ)字を用ひたれば、加《カ》を清《ス》むべきなり、今も清《スミ》て呼ぶとぞ、】此外|海神《ワタツミノカミノ》社は、播磨(ノ)國明石(ノ)郡|海《ワタツミノ》神(ノ)社、【名神大云々、これを式今(ノ)本に、タルミと訓るはひがことなり、垂見村に坐(ス)ゆゑに、推當《オシアテ》に訓るなるべし、もしタルミならば、垂(ノ)字(ノ)脱たるかとも思へど、臨時祭式にも三代實録にも、たゞ海神とあれば、脱字に非ず、又海(ノ)一字をタルミと訓べき由もなきものをや、然ればこは、ワタツミノカミノ社と訓べきなり、此外諸國に往々《トコロドコロ》に海神社とある、みな同じことなり、】對馬(ノ)嶋上(ツ)縣(ノ)郡和多都美(ノ)神(ノ)社、【名神大】下(ツ)縣郡和多都美(ノ)神(ノ)社、【名神大】和多都美(ノ)神(ノ)社なども、式にも國史にも見ゆ、

〇阿曇《アヅミノ》連、阿曇は氏姓《ウヂ》、連は加婆禰《カバネ》にて、【氏姓加婆禰のことは、下卷遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段に委く云、】牟良自《ムラジ》と訓(ム)、【萬葉八中臣(ノ)朝臣|武良自《ムラジ》、續紀九紀(ノ)朝臣|牟良自《ムラジ》など、人(ノ)名にも見ゆ、】群主《ムラジ》の意か、【主を自《ジ》と云は、宮主《ミヤジ》の如し、戸母《トジ》主《アルジ》の自《ジ》も此(レ)なるべし、】其(ノ)群《ムレ》の中の主《ウシ》と云意なり、【凡て加婆禰は、貴《タフト》みて云稱なり、故(レ)師は崇名《アガマヘナ》の約《ツヅマ》りたるなりと云り、】さて連(ノ)字を書(ク)故は、さだかならず、【禮記(ノ)王制に、十國以爲v連(ト)、連(ニ)有v帥云々、注に、合(セテ)2十國(ヲ)1爲《シ》2連比(ト)1、有(テ)v帥以統(ブルナリ)v之也とあり、是(レ)を取れるなりと谷川氏は云き、さも有べきか、群主《ムラジ》の意、即(チ)かの連帥に似たり、又】萬葉廿【廿丁】に、多々美氣米牟良自加已蘇乃《タタミケメムラジガイソノ》と續《ツヅケ》たるは、疊薦《タタミコモ》を編《アム》と云(ヒ)かけたるなり、【阿を略く】とある師(ノ)説をもて思ふに、たゞ語の上《ウヘ》のみの續《ツヅ》けにも非《アラ》で、牟良自《ムラジ》と云に、編連《アミツラヌ》る意ある故にても有べし、

〇其綿の其(ノ)字は、許能《コノ》と訓べし、【字は漢文の格に從てかけれども、御國の語にては、此《ココ》は曾能《ソノ》にても加能《カノ》にてもわろし、必(ズ)許能《コノ》といふべき所なり、】

〇宇都志日金拆《ウツシヒガナサクノ》命、宇都志は顯なり、【書紀神代(ノ)卷に、顯此(ヲ)云2于都斯(ト)1、此外もおほし、】日金は、式に信濃(ノ)國更級(ノ)郡|氷※〔金+施の旁〕斗賣《ヒガナトメノ》神社、和名抄に同郡氷※〔金+施の旁〕(ノ)【比加奈《ヒガナ》】郷あり、【又|斗女《トメ》てふ郷もあり、】此(レ)より出たる御名なるべし、其故は、彼(ノ)國に安曇《アヅミノ》郡【和名抄、信濃(ノ)國(ノ)郡名安曇(ハ)阿都三《アヅミ》とあるを、今(ノ)本には、この三《ミ》を之にあやまれり、】もありて、其(ノ)郡に穗高《ホダカノ》神(ノ)社【名神大】式に見えて、姓氏録に、安曇(ノ)宿禰(ハ)、海神|綿積《ワタツミ》豐玉彦(ノ)神(ノ)子|穗高見《ホダカミノ》命(ノ)之後(ナリ)也、又安曇(ノ)連(ハ)、綿積(ノ)神(ノ)命(ノ)兒高見(ノ)命(ノ)之後也、などあればなり、拆《サク》は、又彼(ノ)國に佐久《サクノ》郡あり、此(レ)によるにや、さてかく信濃(ノ)國に此(ノ)氏の由縁《ヨシ》どものある、其(ノ)故は未(ダ)考(ヘ)得ず、又姓氏録に、安曇(ノ)連(ハ)、于都斯奈賀《ウツシナガノ》命(ノ)之後也ともあり、此記に依れば、奈賀は賀奈の寫し誤(リ)か、又式に、對馬上(ツ)縣郡(ニ)和多都美(ノ)御子神(ノ)社と云もあり、さて阿豆芙《アヅミ》といふ由《ヨシ》は、【阿曇と書く曇(ノ)字は、ドムの音を轉して用るなり、】書紀應神天皇三牛(ニ)、處々(ノ)海人※〔言+山〕※〔口+尨〕《アマサバメキテ》之不(リシカバ)v從(ハ)v命(ニ)、則遣(ハシテ)2阿曇(ノ)連(ノ)祖《オヤ》大濱(ノ)宿禰(ヲ)1、平《タヒラゲシム》2其(ノ)※〔言+山〕※〔口+尨〕《サバメキヲ》1、因《カレ》爲《ス》2海人《アマノ》之|宰《ミコトモチト》1、【又履中(ノ)卷に、對(テ)曰、淡路(ノ)野嶋(ノ)之海人也、阿曇(ノ)連濱子云々、此段をも考(フ)べし、是(レ)も海人を掌《ツカサド》れる據なり、】とあるを考るに、此(ノ)氏は海神の子孫なるから、固《モトヨ》り海人のことを執《トリ》し故に、其(ノ)※〔言+山〕※〔口+尨〕《サバメキ》を平げしめたまひ、さて其(ノ)宰《ミコトモチ》に爲《ナリ》ては、いよ/\其(ノ)事を掌《ツカサド》りつるを以て、海人《アマ》つ持《モチ》と負《オホ》せしが約《ツヅマ》りたるなるべし、【麻《マ》を略き、母智《モチ》を約(メ)て美《ミ》と云なり、其例は既に前(ヘ)にいへり、】かの志※〔言+可〕《シカ》の海人《アマ》の名高き【書紀神功(ノ)卷にも見え、萬葉(ノ)歌にも多くよめり、】も此(ノ)由なるべく、又姓氏録に、海犬養《アマノイヌカヒ》【海神綿積(ノ)命(ノ)之後也、】凡海《オフシアマノ》連【同神(ノ)男穗高見(ノ)命(ノ)之後也、】なども、海人《アマ》に依れる姓なるべし、又高橋(ノ)朝臣と此(ノ)姓《ウヂ》と、世々|御膳《ミカシハデ》のことに與《アヅカ》れり、高橋の然る由緒《コトノモト》は、景行天皇の御世の故事《フルコト》、書紀にも姓氏録にも見えたるを、此(ノ)姓のことは、如何《イカ》なる由とも物に見えず、是(レ)も海人《アマ》を掌るより事起(リ)しなるべし、【海人は御饌物《ミケツモノ》を取(ル)者なればなり、】和名抄に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡に阿曇《アヅミノ》郷あり、【今(ノ)本曇を雲に誤れり、】こは此(ノ)氏人の住《スミ》し故の地名なるべし、さて此(ノ)氏は、連《ムラジ》の加婆泥《カバネ》にてありしを、【書紀(ノ)卷々に出たる、みな阿曇(ノ)連とあり、】天武(ノ)卷十三年十二月戊寅朔己卯、阿曇(ノ)連賜v姓曰2宿禰(ト)1、【持統(ノ)卷五年に詔して、祖(ノ)墓記を上進《タテマツ》らしむる十八氏の内にも入れり、】さて姓氏録に載れるは、上に引たるが如し、又阿曇(ノ)犬養(ハ)、海神大和多罪(ノ)神三世(ノ)孫|穗己都久《ホコツクノ》命(ノ)之後也とも見えたり、【舊事紀に、天造日女命(ハ)阿曇(ノ)連等祖、】

〇子孫は須惠《スヱ》と訓べし、下卷に袁祁《ヲケ》命の、押齒王之末奴《オシバノミコノミスヱヤツコ》と名告《ナノリ》給へる、末《ミスヱ》は子孫の意なればなり、【此《コ》は實《マコト》は其(ノ)御子にて、子孫にはあらねど、言《コト》は子孫といふことなり、書紀には御裔僕《ミナスヱヤツコ》と書り、】是(レ)に依て、其の子孫などあるをば、皆|須惠《スヱ》とよむべきなり、中昔も今も然《シカ》云なり、【書紀にウミノコと訓るは、子孫八十連屬《ウミノコノヤソツヅキ》、又|生兒《ウミノコノ》云々|生子《ウミノコノ》云々とも書り、此訓は正《マサシ》くは萬葉廿に、宇美乃古能伊也都藝都岐爾《ウミノコノイヤツギツギニ》など有(ル)に依(レ)り、されど此(レ)は、子孫の末《スヱ》が末までとかけて云ときの稱《ナ》にこそあれ、ただ某(ノ)子孫などあるを、然《シカ》訓(マ)むはいかゞなり、凡《スベテ》の市立図書館稱に此《カク》の如き差別《ワキ》あることなるを、文字だに同じければ、いづこも/\同く訓るは、ただ文字にのみ依て、古言を思はぬ故なり、同(ジ)字を書(ケ)ども、そのさまに依(リ)て、古言は異《カハ》ることを思ふべし、又ハツコと云訓もあれど、さだかなる説を見ず、】

〇筒之男《ツツノヲ》、【此(ノ)三柱の神(ノ)名をツヽヲ》と訓(ム)は、書紀に筒男と書るをのみ見て、此記をも考(ヘ)合さざるひがことなり、】筒《ツツ》は都知《ツチ》と同(ジ)き由、上【傳五の卅三葉】に既(ニ)云り、猶此(ノ)次にも云を見よ、さて其(ノ)都《ツ》は例の之《ノ》に通ふ助辭、知《チ》は男の稱名《タタヘナ》なり、其例いと多し、上(ノ)野椎《ヌヅチノ》神の所【傳五の四十五六葉】に云り、都知之男《ツチノヲ》と連《ツヅ》く例は、建御雷之男《タケミカヅチノヲ》などの如し、如此《カカ》れば筒は借字にて、上の都《ツ》は、底津《ソコツ》中津《ナカツ》上津《ウハツ》と上《カミ》へ屬《ツキ》、【綿津見の三柱の例にても知べし、】下の都《ツ》は之男《ノヲ》へ屬《ツク》言なり、【後(ノ)人はたゞ文字にのみなづみて、同(ジ)例の神(ノ)名多きをも、文字の異なるまゝに、得《エ》さとらぬぞかし、又|都々《ツツ》を敬《ツツシム》の意に取(ル)などは、例の言《イフ》にもたらぬ強言《シヒゴト》なり、】さて書紀一書に、磐土《イハヅチノ》命とあるは此(ノ)上筒《ウハゾツ》、底土《ソコヅチノ》命とあるは底簡《ソコゾツ》、赤土《アカヅチノ》命とあるは中筒なり、【阿《ア》と那《ナ》と通(フ)例多し、】又上に石土毘古《イハヅチビコ》と云神あり、其(レ)も此(ノ)上筒に當る由、彼處《カシコ》にも云り、彼(ノ)神(ノ)名の義《ココロ》も、此《ココ》にて知べし、此等《コレラ》にて、筒《ツツ》は都知《ツチ》の意なることいよゝ明《アキラ》けし、さて上(ノ)八柱は某(ノ)神と云(ヒ)、此三柱は命と云(フ)、此《コ》は殊《コト》なる意あるには非《アラ》じ、【書紀には、綿津見三柱をも命といへり、】

〇上(ノ)件十一神のこと、上の大事忽男《オホコトオシヲノ》神以下十神の所【傳五の卅一葉】と考(ヘ)合すべし、

〇墨江《スミノエ》之三前(ノ)大神、墨江は津《ツノ》國の住吉をいへるなり、【住吉を須美與志《スミヨシ》と唱るは、後(ノ)世のことにて、那良のころまでは、須美能延《スミノエ》とのみ云り、まづ此記には墨江とかき、書紀萬葉には、住吉と書ても須美乃延《スミノエ》とよみ、又萬葉に墨之江清(ノ)江須美乃延など有て、須美與志と云ることは一(ツ)もなし、】此處《ココ》に此(ノ)大神の鎭(リ)坐ることは、書紀|息長帶比賣《オキナガタラシヒメノ》命西(ノ)國より海路《ウミツヂ》を歸上《カヘリノボ》り給(フ)所に云(ク)、忍熊王《オシクマノミコ》引(テ)v軍(ヲ)更(ニ)返(リテ)、屯《イハム》2於|住吉《スミノエニ》1時(ニ)、皇后《オホギサキ》聞(シメシテ)2忍熊(ノ)王起(テ)v師《イクサヲ》以|待《マツト》之1、命《シメ》3武内(ノ)宿禰(ヲ)懷《イダカ》2皇子《ミコヲ》1、横《ヨコサマニ》出(デ)2南(ノ)海(ニ)1、泊《ハテ》2于|紀伊水門《キノミナトニ》1、皇后(ノ)之|船《ミフネハ》直《タダニ》指《ムカフ》2難波《ナニハニ》1、于時皇后(ノ)之船|廻《モトホリテ》2於|海中《ワタナカニ》1、以|不能進《エススマズ》、更《マタ》還(リマシテ)2務古水門《ムコノミナトニ》1而|卜《ウラナフ》之、於是《ココニ》天照大神|誨之曰《ヲシヘサトシタマハク》云々、亦|表筒男中筒男底筒男三神《ウハヅツノヲナカヅツノヲソコヅツノヲミバシラノカミ》、誨d之曰《ヲシヘサトシタマヒキ》吾和魂《アガニギミタマハ》宜《ベシ》v居《マス》2大津渟中倉之長峽《オホツノヌナクラノナガヲニ》1、便因《サテ》看《ミムト》c往來船《ユキカフフネヲ》u、於是(ココニ)隨《マニマニ》2神教《カミノミヲシヘノ》1以|鎭坐焉《シヅメマサシメタマヒシカバ》、則|平得度海《タヒラケクワタリマシキ》と見え、攝津《ツノ》國(ノ)風土記に、所3以《ユヱハ》稱《ナヅケシ》2住吉《スミノエト》1者、昔(シ)息長足比賣天皇世《オキナガタラシヒメノミコトノミヨ》、住吉《スミノエノ》大神|現出而《アラハレマシテ》、巡2行《メグリテ》天(ノ)下(ヲ)1、※〔妥の女が見〕《マギタマフ》2可(キ)v住(ム)國《クニ》1時(ニ)、到(リマシテ)於|沼名椋之長岡之前《ヌナクラノナガヲノサキニ》1【前《サキハ》者、今(ノ)神(ノ)宮(ノ)南(ノ)邊是(レ)其(ノ)地(ナリ)、】乃|謂《ノタマハク》、斯實《ココゾ》可(キ)v住(ム)之國(ナルトノタマヒキ)、遂|讃稱之《ホメタタヘテ》云(フ)2眞住吉國《マスミノエノクニト》1、乃《ヤガテ》是《ココニ》定(メキ)2神社《ミヤシロヲ》1、今俗略之直《イマノヒトハハブキテタダニ》稱《イフ》2須美乃叡《スミノエト》1とあり、【西の國々なるをも、同く住吉と云は、此《ココ》の名を取れるなり、】和名抄、攝津《ツノ》國住吉(ノ)【須三與之《スミヨシ》】郡、神名帳此郡(ニ)、住吉(ニ)坐(ス)神(ノ)社四座【並名神大、月次相嘗新嘗、〇續紀に、延暦三年六月、叙(ス)2正三位住吉(ノ)神(ヲ)勲三等(ニ)1、同年十二月、叙(ス)2住吉(ノ)神(ヲ)從二位(ニ)1、日本紀略(ニ)、大同元年四月、攝津(ノ)國住吉(ノ)大神(ニ)奉(ル)v授2從一位(ヲ)1、以(テ)2遣唐使(ノ)祈(ヲ)1也、】とあり、四座は私記に、稱(スハ)2四座(ト)1者、神功皇后坐(ス)2別殿(ニ)1歟《カ》と云り、【舊事紀には此《ココ》に、津守連齋祠住吉《ツモリノムラシガイツキマツルスミノエ》云々とあり、是(レ)は右の阿曇(ノ)連に准(ヘ)て、書(キ)添(ヘ)たるなり、津守(ノ)連は、火明(ノ)命の後なりと姓氏録に見ゆ、さて此記に墨(ノ)江之津と云(ヒ)、右に引る書紀(ノ)文にも、大津云々とあれば、住吉は本より津《ツ》にて、津守は此(ノ)津を守し由なるべし、西生(ノ)郡に津守(ノ)郷もあるは、其人の住し里ならむ、萬葉十一に、住吉乃津守網引之《スミノエノツモリアビキノ》云々、さて此(ノ)氏の、此(ノ)神を以《モテ》伊都久|由《ヨシ》は、書紀神功(ノ)卷に、三神誨(テ)2皇后(ニ)1曰(ク)、我荒魂(ハ)令(メタマヘ)v祭2於穴門(ノ)山田(ノ)邑(ニ)1也、時(ニ)穴門(ノ)直(ノ)之祖|踐立《ホムタチ》、津守(ノ)連(ノ)之祖|田裳見《タモミノ》宿禰、啓(テ)2于皇后(ニ)1曰云々とありて、荒魂を穴門に祠(リ)たまふ時に、踐立をその神主と爲《シ》たまふ由見えたれば、其後に、和魂を津(ノ)國に祠(リ)給ふ時(ニ)、かの田裳見をば、その神主と爲《シ》たまひしなるべし、さて此人にもあれ子孫にもあれ、兼て津を守りしよりぞ、津守(ノ)連とは負《オヒ》けむ、】又式に、長門(ノ)國豐浦(ノ)郡住吉(ニ)坐(ス)荒御魂(ノ)神社三座、【並名神大】筑前(ノ)國耶珂(ノ)郡住吉(ノ)神社三座、【並名神大】壹岐(ノ)嶋壹岐(ノ)郡住吉(ノ)神社、【名神大】對馬下縣(ノ)郡住吉(ノ)神社【名神大】などあり、なほ此(ノ)大神の御事は、息長帶比賣(ノ)命(ノ)段にも委く云べし、三前《ミマヘ》は三座と云に同じ、中卷に伊豆志之八前大神《イヅシノヤマヘノオホカミ》とも、文徳實録三に久度古關等二前乃神《クドフルセキラフタマヘノカミ》とも見ゆ、なほ前《マヘ》と云ことは、下に治《ヲサム》2吾前《アガミマヘヲ》1とある處【傳十二の十九葉】に詳《ツバラ》に云、

 

於是洗左御目時《ココニヒダリノミメヲアラヒタマヒシトキニ》。所成神名《ナリマセルカミノミナハ》。天照大御神《アマテラスオホミカミ》。次洗右御目時《ツギニミギリノミメヲアラヒタマヒシトキニ》。所成神名《ナリマセルカミノミナハ》。月讀命《ツクヨミノミコト》。次洗御鼻時《ツギニミハナヲアラヒタマヒシトキニ》。所成神名《ナリマセルカミノミナハ》。建速須佐之男命《タケハヤハヤスサノヲノミコト》。【須佐二字以音】

 右件八十禍津日神以下《ミギノクダリヤソマガツビノカミヨリ》。速須佐之男命以前《ハヤスサノヲノミコトマデ》。十四柱神者《トヲマリヨバシラノカミハ》。因滌御身所生者也《ミミヲソソギタマフニヨリテアレマセルカミナリ》。

於是洗左御目時、これは上件の十一柱(ノ)神成坐て後の事なり、故(レ)書紀には、然後洗2左眼1云々とあり、【されば御目御鼻を洗ひたまふは、かの水底中水上《ミナノコナカミヅノヘ》に滌《ソソギ》たまふ事は竟《ヲハ》りて後なり、】さて正《マサ》しく洗ひたまふ時にあたりて成坐(ス)にはあらず、既に洗ひ竟《ヲハリ》たまふ時なるべし、故(レ)洗をば並《ミナ》阿良比賜比斯《アラヒタマヒシ》と訓つ、

〇天照大御神《アマテラスオホミカミ》、照は※〔氏/一〕良須《テラス》と訓べし、萬葉十八【三十三丁】に、安麻泥良須可未《アマテラスカミ》とあり、【弖流《テル》と訓(マ)むも誤《ヒガコト》には非ず、神名帳に阿麻※〔氏/一〕留《アマテル》神(ノ)社など云もあればなり、】さて此《コ》は天《アメ》を照《テラス》と云とは少《スコ》し異《カハリ》て、たゞ弖流《テル》を延《ノベ》て弖良須《テラス》と云(フ)、古言《フルコト》の格《サダマリ》にて、【立《タツ》を多々須と云が如し、】天照《アマテラス》は、天《アメ》に坐々《マシマシ》て照《テ》り賜ふ意、高光《タカヒカル》と云に同じ、【三代實録元慶四年、藤原(ノ)基經公を太政大臣に任《メシ》たまふ宣命に、朕我食國乎平久安久天照之治聞食須故波《アガヲスクニヲタヒラケクヤスクアマテラシヲサメキコシメスユヱハ》、此大臣之力奈利《コノオホオミノチカラナリ》とある、こは此(ノ)大御神に准へて、天皇の天(ノ)下|知看《シロシメス》をも、天照《アマテラス》と云り、めづらしき詞なり、】大(ノ)字、延佳(ガ)本にはみな太と作《カケ》るは、さかしらに改めつるなり、【其《ソ》は伊勢には、凡て然《シカ》書《カキ》ならへる故に、それを正《タダ》しと思へるなるべし、されど此記諸本も書紀も、皆大と作《カ》き、其外の古書も、多くは然るをや、】さて又常には、御《ミ》を略《ハブキ》て大神と書(ケ)ども、【大神と書てオホムガミと唱(ヘ)奉る、オホムは、即|大御《オホミ》の音便に轉《ウツ》れる、後の唱へなり、物語文などにて、御(ノ)一字をオホムと讀(ム)も、語は大御にて、今の俗言におみ某《ナニ》と云もおなじ、さるを重言と爲《スル》は誤なり、】萬葉續紀式(ノ)祝詞などにも多く大御神と書り、【御を正しく美《ミ》と讀《ヨミ》、神の迦《カ》を清《スミ》て讀《ヨミ》奉るべし、】さて書紀には、於是共《ココニトモニ》生《ウミマツリマス》2日神《ヒノカミヲ》1、號《マヲス》2大日※〔靈の巫が女〕貴《オホヒルメノムヂト》1、一書(ニ)曰(ク)天照大神《アマテラスオホミカミ》、一書(ニ)云(ク)天照大日※〔靈の巫が女〕尊《アマテラスオホヒルメノミコト》とあり、【これに天照大神と申(ス)御名を、一書(ニ)曰と記し給へるは、ひがことなり、亦名《マタノミナハ》とあるべきことなり、其故は、此《コレ》より次々《ツギツギ》にはいづこにもたゞ、天照大神とのみ書たまへれば、一書の説にはあらず、若《モシ》一書の説とせば、前後|相違《アヒタガ》へるをや、又師説に、大日女貴《オホヒルメノムヂ》の、女《メ》は実《ミ》に通(ヒ)て、持《モチ》の約れるなり、月夜見の見と對(ヘ)て知べし、貴(ノ)字はかなひがたしとあり、是によりて宣長今思ふに、書紀(ノ)訓注に、於保比屡※〔口+羊〕能武智とあるは、本はオホヒルムチなりしを、後人さかしらに※〔口+羊〕能《メノノ》二字をば加(ヘ)たるにや、此外何れにも、ひるめの命ひるめの神などとのみありて、ひるめのむちと云は見えず、されば大ひるむちと申せば、ムチ即メにあたれり、】一書には、號曰2天照大神(ト)1と有(リ)、一書には、謂2大日※〔靈の巫が女〕(ノ)尊(ト)1とあり、萬葉にも、天照日女之命《アマテラスヒルメノミコト》とよめることあり、さて此(ノ)大御神は、即(チ)今まのあたり世を御照《ミテラ》し坐々《マシマス》天津日《アマツヒ》に坐々《マシマセ》り、されば月日は、今此(ノ)御禊《ミミソギ》によりて、始(メ)て成出《ナリイデ》坐(セ)るぞかし、【此《コレ》より前《マヘ》には、月日|坐《マス》ことなし、然るを世の識者《モノシリビト》、月日は天地の初發《ハジメ》より自然《オノヅカラ》ある物とし、天照大御神月讀(ノ)命をば、別なりとして、説《コト》を立るは、何《イヅレ》の書に見えたるぞ、たゞ漢籍《カラブミ》の理に溺《オボ》れたる己《オノ》が私(シ)ごとにて、甚《イタク》古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》けり、若《モシ》月日|本《モト》より坐々《マシマサ》ば、今|茲《ココニ》成(リ)出(デ)坐るは何《ナニ》の神とかせむ、日(ノ)神とあるなどをば、なほ日とは別なりと説曲《イヒマ》ぐとも、書紀に、日月既(ニ)生(マス)などともあるをば如何《イカニ》とかせむ、ひたぶるに外國《トツクニ》の書《フミ》の理説にのみ泥《ナヅミ》て、如此《カク》さだかに、成出坐る始《ハジメ》を記《シル》されたる、御國の正しき古(ヘノ)傳(ヘ)を信《ウケ》ざるは、いみしき邪説《ヨコサマゴト》に非《アラズ》や、又|漢人《カラビト》のいはゆる陰陽の理を以て萬(ヅ)を説《トク》は、みな誤《ヒガコト》なりと云こと、首《ハジメノ》卷にも委く云り、若《モシ》實《マコト》に陰陽と云ことあらませば、今此(ノ)大御神は、左(ノ)御目《ミメ》より成坐て、日(ノ)神に坐々《マシヤセ》ば、必|男《ヲ》神に坐《マス》べきに、女神に坐々《マシマシ》て、返(リ)て右(ノ)御目より成坐る月(ノ)神しも、男神に坐(ス)は如何《イカニ》ぞや、陰陽の説の眞理《マコトノコトワリ》にかなはぬ證《シルシ》は、此(レ)にて著明《シルキ》ものをや、強《シヒ》てかの理にかなへむとて、是《コレ》をも種々《クサグサ》言曲《イヒマグ》るは、凡て論ふに足《タラ》ず、こゝに私記に、此(ノ)陰陽の理の合難《アヒガタキ》ことを、さま/”\論ひたるは、猶其(ノ)理を主として云るなれば、皆取(ル)に足(ラ)ぬことなるを、其(ノ)中に、漢家(ノ)之風儀、與《ト》2日域(ノ)之古事1、史書(ノ)所v注《シルス》皆異(ナリ)、更(ラニ)難(シ)2比擬(シ)1、と云るぞ宜《ヨロシ》き説なる、凡て陰陽の理を云は、漢家の風俗なれば、御國の古傳にはかなはぬ物ぞ、又近きころ、此(ノ)大御神を男神なり、と云人どももこれかれあれども、皆おのがわたくしの強言《シヒゴト》にて、漢《カラ》の理にへつらへるものなれば、云にたらず、こゝに伊勢人龍氏が云(ヘ)らく、日(ノ)神月(ノ)神(ハ)者、有(テ)2人(ノ)之貌1身(ニ)帶(ル)2光明(ヲ)1者(ノ)、非(ズ)2外典(ニ)説(ク)陰陽(ノ)之精(ナル)者《ニ》1、彿經(ニ)説(ク)日天子月天子(ナル)者(ナリ)也、日月二天子、人(ニシテ)2其(ノ)形(ヲ)1、來2臨(シテ)佛會(ニ)1、而聽(ク)2説法(ヲ)1、今時説(ク)2神書(ヲ)1者(ノ)、日(ノ)神月(ノ)神(ト)、與《ト》2懸空(ノ)日月1、爲《ナス》2各別(ノ)解(ヲ)1、未(ダ)v聞3古人|爲《ナスコトヲ》2其説(ヲ)1、孰《タレカ》信(ゼム)v乙(ヲ)哉と云り、この説、佛書《ホトケブミ》に溺《オボレ》て、日天子月天子と云(ヒ)、來2臨(シテ)佛會(ニ)1など云るは、同誤《オナジヒガコト》にて、云にも足(ラ)ざれども、世人の漢籍に溺《オボレ》たる誤《ヒガコト》をば、能《ヨク》辨へたり、此人の如此《カク》、月日は陰陽の精に非ることを見得《ミエ》たるは、佛書に資《ヨレ》る力《ナカラ》なり、是(レ)に付てつら/\思ふに、世の學者の、皇国の古典《フルキフミ》の力《チカラ》に資《ヨリ》て、外國《トツクニ》の説どもの誤《ヒガコト》をえ見付《ミツケ》ぬこそ、返々《カヘスカヘス》憾恨《クチヲシ》けれ、】

〇月讀(ノ)命、都久用美《ツクヨミ》と訓べし、書紀(ニ)云(ク)、次(ニ)生2月(ノ)神(ヲ)1、一(ル)書(ニ)曰(ク)、月弓《ツクユミノ》尊|月夜見《ツクヨミノ》尊|月讀《ツクヨミノ》尊、【讀も弓も借字なり、然るを此等の字につきて、御名を説(ク)などは、例の論ふにも足(ラ)ず、さて書紀の旨《ムネ》こゝろえぬことどもあり、まづ日(ノ)神に御名ありて、月(ノ)神に御名のなきはいかゞ、三(ツノ)御名は皆一書の説なれば、本書にはあづからぬことぞ、

次に月夜見と月讀とは、文字の異なるのみにて、たゞ同じ御名なるを、並擧《ナラベアゲ》られたるはいかに、是《コ》は漢字《カラモジ》にかゝはる人の爲《タメ》にはいはず、古書の趣をよく知《シレ》らむ人のために驚しおくなり、】御名の義《ココロ》、師説に、綿津見《ワタツミ》山津見《ヤマツミ》などの如く、美《ミ》は持《モチ》にて、月夜持《ツクヨモチ》の意なりとあり、夜之食國《ヨルノヲスクニ》を所知看《シロシメ》す大御神に坐せば、然《サ》も有(リ)ぬべし、故(レ)都久用美《ツクヨミ》と訓べき古言の例なり、月夜をば、都久用《ツクヨ》とのみ萬葉などにもよめればなり、【都伎用《ツキヨ》とあるをば、古書に見あたらず、】又|黄泉《ヨミ》と云名も相通ひて聞ゆ、美《ミ》の意は今一(ツ)の考(ヘ)もあり、そは天之忍穗耳(ノ)命の下《トコロ》【傳七の五十四葉】に云べし、さて此大御神も、即(チ)今天に坐(シ)々(ス)月に坐(セ)り、月の光を、即(チ)月讀之光《ツクヨミノヒカリ》とも萬葉によめり、さて男神に坐(ス)ことは疑(ヒ)なけれど、猶いはば、萬葉(ノ)歌に、月讀壯子《ツクヨミヲトコ》月人壯《ツキヒトヲトコ》左佐良榎壯子《ササラエヲトコ》、などよめるにても知べし、【倭姫(ノ)命(ノ)世記に、伊勢(ノ)月讀(ノ)宮の御形《ミカタ》も、馬乘男形《ウマニノレルヲノカタチニ》坐(ス)といへり、】書紀に、劔を拔て保食《ウケモチノ》神を撃殺《ウチコロシ》たまふとあるも、男神と聞えたり、さて此(ノ)大神を祭《イツ》く御社は、式に、山城(ノ)國葛野(ノ)郡葛野(ニ)坐(ス)月讀(ノ)神社、【名神大、月次新嘗、此御社の起《オコリ》、書紀(ノ)顯宗天皇三年の所に見ゆ、】綴喜(ノ)郡月讀(ノ)神社、【大、月次新嘗】伊勢(ノ)國度會(ノ)郡月讀(ノ)宮二座、【荒御魂(ノ)命一座、並大、月次新嘗】月夜見(ノ)神社、丹波(ノ)國桑田(ノ)郡小川(ノ)月(ノ)神(ノ)社、【名神大】壹岐(ノ)國壹岐(ノ)郡月讀(ノ)神社、【名神大、此御社は右の顯宗(ノ)卷の文に、壹伎(ノ)縣主(ノ)先祖云々に由《ヨ》れるか、】など坐り、

〇建速須佐之男《タケハヤスサノヲノ》命、建《タケ》また速《ハヤ》と申す由は、下に見えたり、須佐《スサ》の事は、下に於《ニ》2勝佐備《カチサビ》1云々とある所【傳八の四のひら】に云べし、【此(ノ)須《ス》を、書紀に素《ス》と作《カカ》れたるに依て、曾《ソ》と唱(ヘ)奉りて、清少納言(ガ)枕册子などにも、そさのをとかけるは訛《ヒガコト》なり、古書|何《イヅレ》も須《ス》とかき、書紀に素(ノ)字も、スとソと二音に用る字なるをや、凡て假字も何《ナニ》も、書紀の文字用《モジヅカヒ》に依て、古言をあやまることあまたなり、彼紀は、かにかくにまどはしきこと多ければ、熟々《ヨクヨク》他の古書と合せ見て定むべきなり、】之男《ノヲ》は、建御雷之男《タケミカヅチノヲ》、筒之男《ツツノヲ》などの例なり、

〇此《ココ》に御目《ミメ》と御鼻《ミハナ》を洗《アラヒ》たまへることのみ見えて、御口《ミクチ》と御耳《ミミミ》とのことは見えぬは、如何《イカニ》ぞと云(ヘ)ば、御目は、黄泉《ヨミ》の物を見坐る穢《ケガレ》あるべく、御鼻は、喚《カギ》坐る穢あるべし、さて彼所《カシコ》の物|喰坐《クヒマサ》ねば、御口は固《モトヨ》り穢《ケガ》れざるべし、御耳には、伊邪那美(ノ)命の御言を聞坐《キキマシ》、又雷の聲など觸《フレ》つらめど、凡て聲には穢のなきなるべし、【後(ノ)世も聲の穢を云ることは見えず、漢國に、穢《ケガラ》はしきこときゝつとて、耳を洗へるためしなどあるは、空理を思(フ)癖《クセ》なればなるべし、】されば正《マサ》しく醜穢《ケガレ》は、見《ミル》と嗅《カグ》とにある故なり、さて其《ソ》が中に、目に見たる穢は、淺くてなごりなき故に、其《ソコ》より成(リ)坐る月日の大神は、善神《ヨキカミ》に坐(シ)ますを、【月(ノ)神を書紀に、汝是惡神《ミマシハアシキカミナリ》と、天照大御神の詔へることもあれど、そは一事につきてのことにこそあれ、全《モハラ》は善(キ)神なり、大日※〔靈の巫が女〕(ノ)尊及月弓尊(ハ)、並是質性明麗云々、素盞嗚(ノ)尊(ハ)是性云々などあるにて、善と惡とはしるし、】鼻に嗅惡臭氣《カグクサキケ》は、深くて其(ノ)なごり亡《ウセ》がたき故に、須佐之男《スサノヲノ》命は惡《アシキ》神なり、【猶次の段に其證見えたり、考(ヘ)合すべし、】

〇所生者也は、上の例によれば、者は神(ノ)字の誤か、又は者の上に神(ノ)字を脱《オト》せるか、されど又本の隨《ママ》にても有(リ)なむ、さて此十四柱(ノ)神も、なほ伊邪那美(ノ)命を以て御母とす、其由は傳七之卷【二十五葉】に云べし、

 

おひつぎの考

 

   且具(ニ)與《ト》2黄泉神1相論(ハム)【初葉】

此且(ノ)字の事、吾(ガ)徒《トモ》尾張人稻葉(ノ)通邦が云(ク)、旦(ノ)字を誤れるなり、阿志多爾《アシタニ》と訓べし、今夜は既に黄泉戸喫《ヨモツヘグヒ》して、穢れつれば、顯國《ウツシクニ》に還りがたし、夜を過して、明旦黄泉神と論ひて、かへるべし、と申(シ)給へるなり、然るを伊邪那岐(ノ)命、夜の間を待かねて、うかゞひ給へるなり、諸の穢は、月日を經れば、うすらぎ清まる物なれば、此《ココ》も一夜過ぬれば、黄泉戸喫の穢の、清まることわりぞ有けむ、といへり、旦(ノ)字の誤(リ)といへる、いとよろし、阿志多爾《アシタニ》とも、都登米※〔氏/一〕《ツトメテ》とも訓べし、書紀に、雖然吾當寢息《シカレドモアレネヤスマム》とあるも、此考(ヘ)によりて、相照して見れば、一宿《ヒトヨ》を經《ヘ》て、明旦を待(ツ)ことわりにて、よくかなへり、さて白檮原(ノ)宮(ノ)段に、高倉下云々、旦《ツトメテ》見(レバ)2己(ガ)倉(ヲ)1、これも明朝のことを旦と云り、

古事記傳七之卷

                  本居宣長謹撰

 

    神代五之卷《カミヨノイツマキトイフマキ》

 

此時伊邪那岐命大歡喜詔《コノトキイザナギノミコトイタクヨロコバシテノリタマハク》。吾者生生子而於生終《アレハミコウミウミテウミノハテニ》。得三貴子《ミバシラノウヅノミコエタリトノリタマヒテ》。即其御頸珠之玉緒母由良邇《ヤガテソノミクビタマノタマノヲモユラニ》【此四字以音下效此】取由良迦志而《トリユラカシテ》。賜天照大御神而詔之《アマテラスオホミカミニタマヒテノリタマハク》。汝命者所知高天原矣《ナガミコトハタカマノハラヲシラセト》。事依而賜也《コトヨサシテタマヒキ》。故其御頸珠名《カレソノミクビタマノナヲ》。謂御倉板擧之神《ミクラタナノカミトマヲス》。【訓板擧云多那】次詔月讀命《ツギニツクヨミノミコトニノリタマハク》。汝命者所知夜之食國矣《ナガミコトハヨルノヲスクニヲシラセト》。事依也《コトヨサシタマヒキ》。【訓食云袁須】次詔建速須佐之男命《ツギニタケハヤスサノヲノミコトニノリタマハク》。汝命者所知海原矣《ナガミコトハウナハラヲシラセト》。事依也《コトヨサシタマヒキ》。

大歡喜、此(ノ)言記中|往々《トコロドコロ》に見ゆ、【大歡とも歡喜ともあり、】大は伊多久《イタク》と訓べし、例は萬葉七【三十七丁】に、大莫逝《イタクナユキソ》とあり、【又十一(ノ)卷に極太《イタク》ともあり、】伊多久《イタク》てふ言は、記中に伊多久佐夜藝弖《イタクサヤギテ》と見ゆ、痛《イタク》の意にて、即萬葉に此字をも數《アマタ》書《カケ》り、又甚(ノ)字をも訓(メ)り、さて如此《カクノゴト》き大(ノ)字、その所に依て、伊登《イト》とも訓べし、其《ソレ》も意は同じかれど、語の連《ツヅキ》に依て異《カハ》ることぞ、【意富伊爾《オホイニ》と訓(ム)は漢文讀《カラブミヨミ》にて、古格《イニシヘノサマ》にあらず、】

〇子《ミコ》とは、神のみならず、上の嶋國をもかけて詔ふなり、始(メ)に淡嶋を、不v入2子之例《ミコノカズニ》1とあるを以て知べし、

〇生々《ウミウミテ》は、次第《ツギツギ》にいと數多《アマタ》生《ウミ》坐るを云、行々《ユキユキ》て戀々《コヒコヒ》て居々《ヲリヲリ》てのたぐひなり、

〇於生終は、宇美乃波弖邇《ウミノハテニ》と訓べし、萬葉九【二十八丁】に、夕鹽之《ユフシホノ》、満乃登等美爾《ミチノトドミニ》、などあると同じ語の格《サマ》なり、此《コノ》餘《ホカ》も此(ノ)格《サマ》なほ多し、

〇三貴子は、書紀一書に、曰《ノリタマヒテ》2吾《アレ》欲《ムト》1v生《ウマ》2御宙之珍子《アメノシタシラサムウヅノミコヲ》1とありて、訓注に、珍此(ヲ)云(フ)2于圖《ウヅト》1とありて、此の三柱(ノ)大神成(リ)出坐し、神武(ノ)卷にも、珍彦此(ヲ)云(フ)2于※〔奴/石〕毘古《ウヅビコト》1とあり、又大殿祭(ノ)祝詞に、皇我宇都御子皇御孫之命《スメラワガウヅノミコスメミマノミコト》とある、これらを合《アハ》せて、美婆斯羅能宇豆能美古《ミバシラノウヅノミコ》と訓べし、又玉篇に、珍(ノ)字に貴也と云註もあれば、字も然《シカ》訓(マ)むに難《コト》もなし、さて宇豆《ウヅ》は師(ノ)説に、高く嚴《イツクシ》きことなりとあり、【今(ノ)言に人の容貌《サマ》を、宇豆高《ウヅダカ》きと云も、よく叶へり、】なほ例は萬葉六【二十五丁】に、天皇朕《スメラワガ》、宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》云々、又諸(ノ)祝詞に、宇豆乃幣帛《ウヅノミテグラ》などもあり、【又出雲(ノ)風土記に、須佐之男(ノ)命の御事を、伊弉奈枳乃麻奈子《イザナギノマナゴ》といひ、國造(ノ)神賀詞にも日眞名子《ヒマナゴ》とあれば、貴子を麻那古《マナゴ》と訓べきにやとも思はるれど、猶前の訓によるべし、】さて此《ココ》の語(ノ)勢、萬葉二【十一丁】に、吾者毛也安見兒得有《ワレハモヤヤスミコエタリ》、と云歌に似たれば、得は延多理《エタリ》と訓べし、

〇御頸珠《ミクビタマ》、古(ヘ)は男女共に、玉を緒《ヲ》に連貫《ツラヌキ》て、頭《カシラ》にも頸《クビ》にも手足にも衣にも、凡《スベ》て飾《カザ》りしこと、云もさらなり、其中に、火遠理《ホヲリノ》命の御裝束《ミヨソヒ》に、御頸之※〔王+與〕《ミクビノタマ》見え、書紀に、素戔嗚《スサノヲノ》尊以(テ)2其頸所嬰五百箇御統之瓊《ソノミクビニウナゲルイホツノミスマルノタマヲ》1云々、高比賣《タカヒメノ》命の歌に、淤登多那婆多能《オトタナバタノ》、宇耶賀世流《ウナガセル》、多麻能美須麻流《タマノミスマル》云々、萬葉十六【二十七丁】に、吾宇奈雅流《ワガウナゲル》、殊乃七條《タマノナナツヲ》云々など有(ル)は、頸《クビ》に懸《カケ》たるなり、【うながせるもうなげるも、頸《クビ》にかけたるを云り、】大神宮式にも、頸玉手玉足玉緒《クビタマタタマアシタマノヲ》云々とあり、書紀安閑(ノ)御卷に、幡媛《ハタヒメ》物(ノ)部(ノ)尾輿《ヲコシ》の瓔珞《クビタマ》を偸《ヌスミ》て、春日(ノ)皇后に獻《タテマツリ》しことあり、【是(レ)によれば、當昔《ソノカミ》頸玉《クビタマ》に貴《タフト》き品ありつと見えたり、】さて頸は久毘《クビ》と訓べし、【師は美宇那多麻《ミウナタマ》と訓れしかど、なほ美久毘多麻《ミクビタマ》なるべし、今(ノ)世に、犬猫などの頸《クビ》に結《ユ》ふ紐《ヒモ》を、頸玉《クビタマ》と云も、此(ノ)古(ヘ)の名の遺《ノコ》れるなり、】和名抄に頸(ハ)頭(ノ)莖(ナリ)也、

〇母由良《モユラ》は、緒《ヲ》に貫《ヌケ》る玉《タマ》どもの動きて、相觸《アヒフレ》つゝ鳴《ナル》さまを云(フ)、邇《ニ》は辭《テニヲハ》なり、御誓《ミウケヒノ》段に、奴那登母母由良爾《ヌナトモモユラニ》とあるを、書紀に、素戔嗚(ノ)尊乃|※〔車+(田三つ)2轤然解《ヲモクルルニトキテ》其(ノ)左(ノ)髻(ニ)所v纏五百箇統(ノ)之|瓊綸《タマノヲヲ》1而、瓊響※〔王+倉〕々《ヌナトモモユラニ》云々、訓注に、瓊響※〔王+倉〕々、此(ヲ)云2奴儺等母々由羅爾《ヌナトモモユラニト》1とあり、奴儺等《ヌナト》は、即(チ)瓊《ヌ》の音《オト》なり、又|手玉玲瓏織※〔糸+壬〕《タタマモユラニハタオル》之|少女《ヲトメ》、【※〔王+倉〕々も玲瓏も、字書に玉(ノ)聲也と注せり、遊仙窟に、※〔金+將〕々をユラメイテと訓り、此字も※〔王+倉〕々と同じ、】萬葉十【三十丁】に、足玉母手珠毛由良爾織旗乎《アシタマモタタマモユラニオルハタヲ》、又十三【八丁】に、手二卷流玉毛湯良羅爾《テニマケルタマモユララニ》などあり、又十一に玉響《タマユラ》ともあり、又|袁祁《ヲケノ》天皇(ノ)大御歌に、奴弖由良久母夜《ヌテユラクモヤ》、萬葉十三【二丁】に、小鈴文由良爾《ヲスズモユラニ》など、鈴にも云り、萬葉廿【五十八丁】に、由良久多麻能乎《ユラクタマノヲ》とよめるも同じ、【由良久の久を濁るはわろし、何處《イヅコ》も皆清音(ノ)字を用ひたり、さて由良爾由良々爾《ユラニユララニ》など云ときは、鳴貌《ナルサマ》なり、由良久《ユラク》は鳴《ナル》を云なり、】さて右の中に萬葉菜なるは、みな母《モ》は辭《テニヲハ》なるを、【足玉母手玉母といふにて知べし、】此《ココ》と書紀なるとは、辭に非ず、【訓注に母(ノ)字二(ツ)ある以(テ)知らる、其(ノ)上の母は辭なり、】眞《マ》の意などにや、【されど眞《マ》を母《モ》と云る例は未(ダ)見ず、】こは猶も考(フ)べきことぞ、

〇取由良迦志《トリユラカシ》は、御手に執持《トリモタ》し、振揺《フリウゴカ》して、令《ス》2※〔王+倉〕々《ユラカ》1なり、舊事紀に十種《トクサ》の寶を、由良由良止布瑠部《ユラユラトフルヘ》と云るも同じ、

〇賜は多麻比弖《タマヒテ》と訓べし、【タマハリテと訓(ム)は非なり、たまはるは被《ル》v賜《タマハ》にて、其物を受《ウク》る人に就《ツキ》て云(フ)言なり、萬葉十六に被給而《タバリテ》とあるは、即(チ)たまはりてなり、故に被(ノ)字を添(ヘ)たり、これも受る方より云り、此(ノ)たまふとたまはるとの差別《ワキ》は、生《ウム》と被《ルル》v生《ウマ》との如し、宇牟《ウム》は親《オヤ》に云(ヒ)、宇麻留《ウマル》は兄に云(フ)言なり、又舊印本に、此《ココノ》賜を、タテマツリテと訓るは、中古《ナカムカシ》の物言格《モノイヒザマ》なり、物語文などに、此方《コナタ》をも彼方《カナタ》をも共に尊(ミ)て云ときは、たてまつりたまふと云り、たてまつるは、受る方を尊み、たまふは授くる方を尊みて、重(ネ)云なり、然るに此《ココ》は、賜《タマフ》と書るは、授けたまふ伊邪那伎(ノ)命の方を尊みたるなり、御親《ミオヤ》なればぞかし、然るをタテマツリテと訓るは、受《ウケ》たまふ天照大御神の方を尊みていふなれど、上(ツ)代の格に叶はず、】凡て多麻布《タマフ》といふ言は、此《ココ》の御頸玉《ミクビタマ》の故事よりぞ出(デ)つらむ、故《カレ》其(ノ)物を玉物《タマモノ》とは云(フ)ならむ、然而如此御頸玉《サテカクミクビタマ》を取(リ)ゆらかして賜ふは、大歡喜《イタクヨロコビ》坐て、有(ル)が中にも此(ノ)御子を愛《メグ》く貴《タフト》く所思看《オボシメ》すゆゑの御爲《ミシワザ》なり、誠に此大御神を生得《ウミエ》たまひしには、然《シカ》有《アリ》けむことうべにざりける、

〇汝命は那賀美許登《ナガミコト》と訓べし、【賀《ガ》は之《ガ》なり、】續紀(ノ)宣命【十七の廿七丁】に、伊夜嗣爾奈賀御命聞看止勅夫《イヤツギニナガミコトキコシメセトノリタマフ》、また武内(ノ)宿禰(ノ)歌に、大雀《オホサザキノ》命を指奉《サシマツリ》て、那賀美古《ナガミコ》ともよめる、此等《コレラ》に依れり、此(ノ)稱記中にいと多し、前にも云る如く、後(ノ)世には汝と云は、卑《イヤシ》めたる稱なれども、上(ツ)代には尊む人をも云り、故《カレ》命《ミコト》とも云るなり、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、神沼河耳《カムヌナカハミミノ》命、御兄を指て、那泥汝命《ナネナガミコト》とも詔ひ、式の祝詞に、倭(ノ)六(ノ)御縣の山(ノ)口(ニ)坐(ス)神等を指ても、汝命《ナガミコト》と詔命《ノリタマヘ》る文見ゆ、

〇高天(ノ)原は、前に出て云る如く、天《アメ》を指て云(フ)、さて此(ノ)大御神は、今も目前《マノアタリ》天津虚空《アマツソラ》に仰ぎ見奉れば、今|如此《カク》事依《コトヨサ》し賜へる大命《オホミコト》の隨《マニマニ》、常《トコシヘ》に天《アメ》を所知看《シロシメ》して、四海《ヨモノウミ》萬國《ヨロヅノクニ》を御照《ミテラ》し坐々《マシマ》すこと著明《イチジル》し、【然るを世には、此大御神を、大和(ノ)國或は近江(ノ)國、或は豐前(ノ)國に都《ミヤシキ》坐(シ)つなど云|説《コト》の聞ゆるは、凡て皆いみしき邪説《ヨコサマゴト》なり、まづ此(ノ)邪説は、天照大神は、たゞ天皇の大祖に坐(ス)故に、其徳を天(ツ)日に配《ナズラヘ》て日(ノ)神と申(ス)にこそあれ、實は天(ツ)日を申(ス)には非ずと思ひ、又天はたゞ氣のみにて、形體なき物なるに、此(ノ)國土の如く、さま/”\の事を云るは、きはめてあるまじき理なれば、高天(ノ)原と云るも、たゞ皇都《ミヤコ》のことにて、その事實はみな、此(ノ)國土にありし物ぞ、と意得るより起《オコ》れり、是(レ)皆|漢籍《カラブミ》に溺れたる、私のおしはかりの邪見《ヨコサマゴコロ》なり、すべて漢人は、たゞ今日《イマ》見聞事物《ミキクコト》の、尋常《ヨノツネ》の理になづみて、其(ノ)外に測(リ)がたき妙理《クシキコトワリ》のあることをえ知らぬを、此方《ココ》の人も、ひたすら其(レ)をよきことに思ひならひて、動《トモス》れば神代の奇《クシキ》事どもをも、凡心《タダビトゴコロ》の常(ノ)理に強《シヒ》て當《アテ》むとするは、返々《カヘスカヘス》も謬れることぞかし、そが中にも、此大御神の都《ミヤコ》は、某《ソノ》國ぞなど云(フ)なるは、ことに甚しき強言《シヒゴト》なり、そも/\此大御神を、天(ツ)日と別《コト》にて、此(ノ)國土に坐々《マシマシ》つとせば、かの天の石屋《イハヤ》の段などは、いかに説《トキ》なすべきぞ、當時《ソノカミ》しばらく隱《コキ》り坐ししほどだにあるものを、若(シ)既に崩《カムサリ》坐(シ)なば、況《マシ》て其(ノ)後は、世(ノ)間ながく常夜なるべきに、さることなく、常《トコシヘ》に明(ラ)けく照したまふをば、いかにとか云む、若(シ)又|崩《カムサリ》まさでなほ此世にましますと云(ハ)ば、人(ノ)代になりて後は、何處《イヅク》に移《ウツリ》坐(シ)ますとかせむ、又何故に其(ノ)都坐《ミヤコシキマ》しし國をば棄《ステ》たまへるぞ、すべて/\心得ず、果《ハタシ》て大和にまれ近江にまれ坐ましし物ならば、皇御孫(ノ)命も、相續《アヒツギ》て其(ノ)都に坐ましてこそ、天(ノ)下は所知看《シロシメス》べきに、さる中土《クニノミナカ》の都をおきながら、西(ノ)邊の國へ降し奉りたまふは、何の由《ヨシ》とかせむ、又書紀一書に、天照大神(ハ)者可3以治2高天(ノ)原(ヲ)1云々、素戔嗚(ノ)尊(ハ)者可3以治2天(ノ)下(ヲ)1也ともあるを、若(シ)高天(ノ)原を此(ノ)國土の内にありとせば、素戔嗚(ノ)尊天(ノ)下を所知看《シロシメシ》て、天照大御神は、一國の國(ノ)造に任《ヨサ》したまふが如し、いと可笑《ヲカシク》こそ、然るに此(ノ)天(ノ)下とあるをも、異《コト》さまに説曲《トキマゲ》て、なほ説を立《タテ》むとする者もあり、凡て世の學者、古傳説をば信《ウケ》ずして、己が私の漢意に説曲《トキマゲ》むとするから、如此《カク》くさ/”\かなはぬ事どものあるを、なほ強《シヒ》てその曲説《マガコト》をかざるは、いとも/\あさましきことなりかし、】

〇所知は斯良世《シヲセ》と訓べし、【斯禮《シレ》を延《ノベ》たる言なり、】又|斯呂志米世《ツロシメセ》と訓(マ)むも惡《アシ》からず、なほ此詞のことは、此次に委曲《ツバラカ》に云べし、萬葉二【二十七丁】に、天照《アマテラス》、日女之命《ヒルメノミコト》、天乎波《アメヲバ》、所知食登《シロシメスト》云々、書紀に云々、何不生天下之主者歟於是《アメノシタノキミトマスベキカミヲウミマサムトノリタマヒテ》、共生2日(ノ)(ヲ)1、號2大日※〔靈の巫が女〕貴(ト)1、此子光華明彩《コノミコヒカリウルハシクマシテ》、照2徹《テリワタラセリ》於|六合之内《アメツチニ》1、故(レ)二神喜曰(ク)、吾息雖多《アガミコサハニマセドモ》、未《ズ》v有《マサ》2若此靈異之兒《カククシビナルミコハ》1、不《ズ》v宜《ベキニアラ》v久2留此(ノ)國(ニ)1、自當早送于天而《アメニオクリマツリテヨケムトノタマヒテ》1、授2以《ヨサシマツリタマフ》天上之事《アメノコトヲ》1、是時《コノトキハ》天地相去未v遠《アメツチノアヒダイマダトホカラズ》、故(レ)以《モテ》2天(ノ)柱《ミハシラヲ》1、擧《アゲマツリタマヒキ》2於|天上《アメニ》1也、【天地相去未v遠とは、天地分れ成(リ)て、いまだいくほどもあらざる代なればなり、以(テ)2天(ノ)柱(ヲ)1とは、師(ノ)云(ク)、此(ノ)天(ノ)柱は、伊邪那岐(ノ)大神の御息《ミイキ》にて、風なり、立田(ノ)風(ノ)神(ノ)御名を、天(ノ)御柱國(ノ)御柱(ノ)命と申すを合せてしるべしと云れき、まことに然るべきなり、天と地との間を支持《ササヘモツ》ものは、風なればなり、】

〇事依《コトヨサシ》は上【傳四】に見ゆ、さて天照大御神は、此(ノ)御事依《ミコトヨサシ》のまに/\、天地の共《ムタ》無窮《トコシヘ》に高天(ノ)原を所知看《シロシメシ》て、天地《アメツチ》の表裏《ウラウヘ》を、くまなく御照し坐まして、天(ノ)下にあらゆる萬(ノ)國、此(ノ)御靈《ミタマ》を蒙《カガフ》らずと云ことなければ、天地の限(リ)の大君主《オホキミ》に坐々て、世に無上至尊《カミナクタフト》きは、此(ノ)大御神になむまし/\ける、【此《コレ》より先《サキ》に、高天(ノ)原に、既《ハヤ》く五柱(ノ)神は坐(シ)ませども、いまだ高天(ノ)原を所知看《シロシメス》と申せることなければ、君主《キミ》とは申しがたし、君主《キミ》は、たゞ此(ノ)天照大御神ぞ初《ハジメ》には坐ましける、然るを世に、天之御中主(ノ)神、或は國(ノ)之常立(ノ)神などをも、君主の如く説《トキ》なすは、古傳に違へり、然りとて又、彼神等を、人臣(ノ)神と申さむも非なり、君なければ、いかでか臣とはいはむ、人(ノ)世の意を以て、天地の始(メ)にも、君臣の分を説《トカ》むとするは、漢意のひがことなり、さて又四海萬國、此大御神の御光を蒙り、御靈を蒙りながら其(ノ)初(メ)の趣をも知らず、此(ノ)皇國に生《アレ》坐ることをも知らずて、皇國のすぐれて尊きことをもすべて知らずてあるは、外(ツ)國には、すべて神代の正傳説《タダシキツタヘゴト》のなき故なり、】

〇賜也《タマヒキ》は、右の御頸玉を賜(フ)なり、かく重(ネ)て言(フ)は、古言の常ぞ、

〇御倉板擧之神《ミクラタナノカミ》、こは御祖《ミオヤノ》神の賜(ヒ)し重《オモ》き御寶《ミタカラ》として、天照大御神の、御倉に藏《ヲサ》め、その棚《タナ》の上《ウヘ》に安置奉《マセマツリ》て、崇祭《イツキマツリ》たまひし故の御名なるべし、さて板擧《タナ》は、書紀(ノ)垂仁(ノ)卷に、天(ノ)湯河板擧《ユカハタナ》てふ人(ノ)名ありて、其《ソコ》にも板擧此(ヲ)云2※〔手偏+它〕儺《タナト》1と見えたり、板《イタ》を高く※〔加/可〕擧《アゲ》て、物置(ク)所に構《カマフ》る故に、如此《カク》書るならむ、新撰字鏡に、棚(ハ)閣也|太奈《タナ》、和名抄に、棚閣(ハ)和名|多奈《タナ》とあり、常にも此(ノ)棚(ノ)字を用ふ、萬葉にも多那《タナ》てふ言の借字に、此(レ)を書り、【御代々々に傳(ヘ)坐(ス)三種(ノ)神寶の中の神璽は、此(ノ)御頸玉なりと云説あり、理《コトワリ》はまことに然《サ》も聞ゆれども、非なり、其由は傳十五の二十のひらに見ゆ、】さて三柱(ノ)御子、とり/”\に事依(シ)たまへる中に、此(ノ)大御神には、高天(ノ)原を依《ヨサ》し賜ふが勝《スグ》れたるのみならず、別《ワキ》て此(ノ)御頸珠をしも賜へるも、又中に勝《スグ》れ坐(ス)故なり、

〇夜之食國《ヨルノヲスクニ》、まづ食國《ヲスクニ》とは、御孫《ミマノ》命の所知看《シロシメス》この天(ノ)下を惣云稱《スベイフナ》にして、食《ヲス》は、もと物を食《クフ》ことなり、【書紀などに、食を美袁志須《ミヲシス》とよみ、食物を袁志物《ヲシモノ》と云、萬葉十二に、ヲシと云辭にも、食(ノ)字を借りて書り、】さて物を見《ミル》も聞《キク》も知《シル》も食《クフ》も、みな他物《ホカノモノ》を身に受入《ウケイ》るゝ意同じき故に、見《ミス》とも聞《キコス》とも知と《シラス》も食《ヲス》とも、相(ヒ)通はして云こと多くして、【その例は此次に見ゆ、】君の御國を治め有《タモ》ち坐(ス)をも、知《シラス》とも食《ヲス》とも、【から國に食邑と云ことありて、幾《イク》千戸を食《ハム》などいふも、自《オ》ら意のあへるなり、】聞看《キコシメス》とも申すなり、これ君の御國治め有《タモチ》坐(ス)は、物を見(ル)が如く、聞(ク)が如く、知(ル)が如く、食《ヲス》が如く、御身に受(ケ)入れ有《タモ》つ意あればなり、此次に所知看《シロシメス》とあるも、知見《シリミル》と云ことにて同(ジ)意なり、【其由は下十七(ノ)ひらに云り、又傳四の十八葉にいへる事をも、考(ヘ)合すべし、】又萬葉五【七丁】に、大王《オホキミ》云々|企許斯遠周《キコシヲス》、久爾能《クニノ》云々、又十八【十八丁】に、高御座《タカミクラ》、安麻能日繼登《アマノヒツギト》、須賣呂伎能《スメロギノ》、可未能美許登能《カミノミコトノ》、伎己之乎須《キコシヲス》、久爾能麻保良爾《クニノマホラニ》云々、又廿【二十五丁】に、伎己之米須《キコシメス》、四方乃久爾《ヨモノクニ》云々、この伎己之乎須《キヨシヲス》も伎己之米須《キコシメス》も、即(チ)知看《シロシメス》と云(フ)と全く同意なるを以て、知《シル》と聞《キク》と看《ミル》と食《ヲス》と皆通はして、【物|食《クフ》を聞食《キコシメス》といふも、同く通はして云なり、】國を治有《ヲサメタモ》ちたまふことに云るを曉《サト》るべし、【これにて所知《シラス》の義も自《オ》ら明けし、】さて食國《ヲスクニ》と云る例は、輕嶋(ノ)宮(ノ)段にも見え、續紀(ノ)宣命などに、食國天下《ヲスクニアメノシタ》とも、四方食國《ヨモノヲスクニ》とも、聞看食國《キコシメスヲスクニ》とも數多《アマタ》あり、萬葉にも多《オホ》かる中に、十七【四十二丁】に賣責呂伎能乎須久爾《スメロギノヲスクニ》などあり、【美祁都久爾《ミケツクニ》をも、御食國とも書て、同(ジ)文字なれど、そは大御饌《オホミケ》に備ふる御贄物《ミニヘモノ》を獻る國を云て、袁須國《ヲスクニ》とは別なり、又此(ノ)袁須國《ヲスクニ》を、御食國と書ることも、萬葉六又十八卷に見ゆ、勿見混《ナミマガ》へそ、】さて日(ノ)神は晝《ヒル》、月(ノ)神は夜を所知看《シロシメシ》て、共に高天(ノ)原に坐(シ)ませば、此(ノ)國土には非るを、食國と云(フ)は如何《イカニ》と云に、師(ノ)説に、凡て久爾《クニ》と云は、界限《カギリ》の義《ココロ》にて名けたり、東《アヅマ》にて、垣を久泥《クネ》と云も此意なり、されば須佐之男(ノ)命の、天に上り賜(フ)時に、高天(ノ)原|所知看《シロシメス》天照大御神の、欲v奪2我國(ヲ)1と詔ひ、又其(ノ)須佐之男(ノ)命は、所2知《シラセ》海原(ヲ)1と有て、次に不v治2所命之國(ヲ)1と、伊邪那伎(ノ)命の詔へるも、本(ト)皇御孫(ノ)命の所知看《シロシメス》天(ノ)下の界限《カギリ》を、國《クニ》と云より、其(ノ)名を上《ツ》神代へも廻《メグラ》して、各々|所知看界限《シロシメスカギリ》を、如此《カク》天《アメ》にまれ海にまれ、國《クニ》とは云(ヒ)傳へしなりと曰《イハ》れし、此説にて聞えたり、【續紀廿一に、食國高御原之業とあるは、座(ノ)字を原と寫(シ)誤(リ)つるなり、他の例もて知らる、】さて天照大御神には、晝《ヒル》とはなくて、全《モハラ》高天(ノ)原と詔ひ、此神には、夜《ヨル》また食國《ヲスクニ》と詔ふは、是又|界限《カギ》る意あり、【夜晝《ヨルヒル》と對《ムカ》へども、晝は主《ムネ》なり、】書紀に、次(ニ)生2月(ノ)神(ヲ)1其光彩亞日《ヒニツギテヒカリウルハシ》、可以配日而治《ヒニナラビテシラセトノリタマヒキ》、故亦《カレコノカミヲモ》送2之于天(ニ)1と見え、一書にほ、月讀(ノ)尊(ハ)者、可2以治《シラセ》滄海原潮之八百重《アヲウナバラシホノヤホヘヲ》1也とあり、【此(ノ)一書は、此記の趣と大※〔氏/一〕《オホカタ》同じきに、此《コ》は異なる傳(ヘ)なり、】

〇海原《ウナハラ》、この名は古書に常《ツネ》見えたる中に、萬葉五【二十五丁】に宇奈波良《ウナハラ》【三十一丁】宇奈原《ウナハラ》、十四【二十五丁】宇奈波良《ウナハラ》などあり、書紀に滄溟《アヲウナハラ》、萬葉廿【六十三丁】に、阿乎宇奈波良《アヲウナハラ》なども見えたり、【右の如く、萬葉に波《ハ》は皆清音の假字をのみ書《カケ》れば、清《スミ》てよむべし、つねに濁るはいかゞ、】和名抄には、滄溟を阿乎宇三波良《アヲウミハラ》とあり、さて書紀には、須佐之男(ノ)命は、是性好2殘害1、故令3下治2根(ノ)國(ヲ)1とも、可(シ)3以治(ス)2天下(ヲ)1也ともあるは、異なる傳(ヘ)どもなり、

〇三柱(ノ)御子神たちに依《ヨサ》し賜へる處、右の如くにして、【書紀の諸書の傳(ヘ)は各々異なり、まづ彼本書の旨は、天(ノ)下の主たるべき神を生むとて、此三柱を生坐り、然れば本は三柱共に天(ノ)下を所知看(ス)べき神なり、然れども月日二柱は、靈異之御兒《クシキミコ》にて、不v宜3久(ク)留2此國(ニ)1と詔て、天上を所知《シロシ》めさせたまひ、須佐之男(ノ)命は、汝無道不v可3以|君2臨《シル》宇宙《アメノシタヲ》1と詔て、根(ノ)國には逐《ヤラ》ひ賜へり、されば始(メ)に至貴(ヲ)曰v尊(ト)と、書格《カキザマ》を定めおきて、今此三柱共に、尊(ノ)字を用ひられしも、みな本(ト)天(ノ)下の主たるべき神に坐(ス)故なり、さて一書に、須佐之男(ノ)命を、假《モシ》使(メバ)3汝(ヲシテ)治2此國(ヲ)1、必多所殘傷云々とあれば、是も本は、此神天(ノ)下を治たまふべきよしなり、又一書は、大旨此記と同(ジ)きに、月讀(ノ)命に、滄海原《アヲウナハラ》、素戔烏(ノ)尊に天(ノ)下を依《ヨサ》し賜(フ)は異なり、又一書は、須佐之男(ノ)命に依《ヨサ》せる處は、此記と同じけれど、月(ノ)神に、可(シ)3以|配《ナラビテ》v日《ヒニ》而|知《シラス》2天(ノ)事(ヲ)1也と詔て、夜之食國となきは、猶異なり、こは撰者のさかしらに文を改(メ)られしにもあるべし、さてかくさま/”\なれども、須佐之男(ノ)命の、遂《ツヒ》に根(ノ)國に歸《オモムキ》給へるは皆同じ、】此(ノ)國土をば遺《ノコ》して、徒《ムナシ》くし給へるは如何《イカニ》と云に、豐葦原之水穗(ノ)國は、我(ガ)御子之所知《シラサム》國なりと、後に天照大御神の詔へるを以思へば、もとより後に皇御孫(ノ)命の所知看《シロシメ》すべき、深き所以《ユヱ》ありけることなるべし、さて月日(ノ)神の善《ヨキ》は天《アメ》に、須佐之男(ノ)命の惡《アシキ》は、終《ツヒ》に根(ノ)國に歸《オモムキ》賜へる、その善《ヨキ》神と惡《アシキ》神との、御誓《ミウケヒ》の中に生《アレ》坐る御子の御子の、此(ノ)天(ノ)下を永く所知看(ス)こと、又深き所以《ユヱ》あるべきものなり、抑神代の初(メ)より、如此《カカ》る幽契《フカキユヱ》ありて、所知看《シロシメ》し來る天皇の天日嗣《アマツヒツギ》にし坐(シ)ませば、天地の共《ムタ》常磐堅磐《トキハカキハ》に、動き坐さず移《ウツロ》ひ坐さぬも、ことわりなりけり、

〇人は人事《ヒトノウヘ》を以て神代を議《ハカ》るを、【世の識者、神代の妙理《タヘナルコトワリ》の御所爲《ミシワザ》を識《シ》ることあたはず、此《コレ》を曲《マゲ》て、世の凡人《タダビト》のうへの事に説なすは、みな漢意に溺れたるがゆゑなり、】我は神代を以て人事《ヒトノウヘ》を知れり、いでそのおもむきを委曲《ツバラ》に説《イハ》むには、凡て世間《ヨノナカ》のありさま、代々時々《ヨヨトキトキ》に、吉善事《ヨゴト》凶惡事《マガコト》つぎ/\に移《ウツ》りもてゆく理(リ)は、大きなるも小《チヒサ》きも、【天(ノ)下に關《アヅ》かる大事より、民草の身々《ミミ》のうへの小事に至るまで、】悉《コトゴト》に此(ノ)神代の始(メ)の趣に依るものなり、其(ノ)理(リ)の趣は、女男《メヲノ》大神の美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》より始まりて、嶋國諸の神たちを生《ウミ》坐し、今|如此《カク》三柱(ノ)貴御子《ウヅノミコ》神に、分任《ワケヨサ》し賜へるまでに皆|備《ソナ》はれり、【此(ノ)間のつぎつぎの事どもの趣を以て、世の人事《ヒトノウヘ》の萬(ヅ)のことわりを知(ル)べきなり、】其《ソ》はまづ美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》ありてより、國々神々を生《ウミ》坐るまでは、皆|吉善《ヨゴト》なるを、【但し初(メ)に女男《メヲ》の御言擧《ミコトアゲ》の先後《ツイデ》の違へりしは、凶惡《マガコト》の根ざしとやいはまし、】火(ノ)神の生《アレ》坐るに因て、【火は、世(ノ)中の大用《イミシキイサヲ》をなす物なることは、さらにもいはず、此神の斬《キ》られたまへる血《チ》より成(リ)坐る神たちも、大功《イミシキイサヲ》をなし給ふ、されば此(ノ)火(ノ)神の生《ナリ》ませるも、なほ吉善《ヨゴト》なり、】御母《ミオヤ》神の神避《カムサリ》坐ししは、世の凶惡事《マガコト》の始(メ)なり、【世(ノ)人の凶惡事《マガコト》に因て死ぬるは、此(ノ)理(リ)なり、凡て死ぬる所由《ユヱ》は、病にまれ何にまれ、みな凶惡《マガコト》ぞ、さて火(ノ)神は、如此《カク》善《ヨキ》と凶《マガ》とを兼《カネ》たれば、此(ノ)神の生《アレ》坐るは、吉《ヨゴト》より凶《マガコト》に移《ウツ》る際《サカヒ》なり、火は大用をなせども、又物を亡失《ホロボ》すことも、是(レ)に過たるは無きも、此(ノ)理なり、】かくて黄泉國《ヨミノクニ》は、かく凶惡《マガコト》に因て女神の移《ウツ》り往《イデマシ》て、【これ正《マサ》しく吉より凶に移るなり、】永《ナガ》く止坐《トドマリマス》國なるが故に、世間《ヨノナカ》の凶惡《マガコト》の歸止《ユキトドマ》る處にして、又世(ノ)間の凶惡《マガコト》の出來る處なり、【女神は、火(ノ)神を生《ウミ》坐るまでは、物を成す善《ヨキ》神なるを、此(ノ)黄泉(ノ)國に入坐て、止《トド》まり坐て、惡《アシキ》神となり賜へり、かの汝(ノ)國の人草一日に千頭絞殺《チカシラクビリコロ》さむとある、これ惡神になり給へるにて、禍津日《マガツビノ》神の生《ナリ》坐すべき根なり、】さて男神も、彼(ノ)國に追往《オヒイデマシ》て、すゞろに凶惡《ケガレ》に觸《フレ》たまへるは、世(ノ)間なべて凶惡《マガコト》になれるなり、【かの天照大御神の、しばらく天石屋《アメノイハヤ》に刺隱《サシコモ》らしし事、又後(ノ)世に天(ノ)下亂れに亂れし時あるなど、みな此(ノ)理によれり、抑男神は、物を成《ナ》しに成したまひて、始終《ハジメヲハリ》とほりて善神なり、然れども中間《ナカラ》に、いさゝか此|穢惡《マガコト》に觸《フレ》たまへるは、世(ノ)中のさま、善《ヨ》き中にも、必いさゝかの惡《アシ》きはまじらではえあらぬ趣なり、】されど男神は、速《ト》く顯國《ウツシクニ》に還《カヘリ》坐て、御禊《ミミソギ》したまふ、【是(レ)凶惡《マガ》より吉善《ヨキ》に移る爲《しわざ》にして、世(ノ)中に凶惡《アシキ》を直《ナホ》して、吉善事《ヨゴト》を行ふべき、人の道は此(ノ)理に因れり、】其時に先(ヅ)禍津日《マガツビノ》神の成(リ)出坐るは、全《モハラ》彼(ノ)黄泉《ヨミノ》國の穢惡《ケガレ》に因れるを、【禊《ミソギ》は、凶《マガコト》より吉《ヨゴト》に移(ル)際《サカヒ》なるが故に、先(ヅ)其(ノ)初(メ)には、此(ノ)神の成(リ)坐るなり、さて世(ノ)中に凶惡事《マガコト》のあるは、みな彼(ノ)穢惡《ケガレ》より生《ナ》れる、此(ノ)神の御心なり、】其(ノ)穢惡《マガ》を祓《ハラ》ひ清《キヨ》め直《ナホ》して、【方《ミサカリ》に直《ナホ》したまふ時にあたりて、直毘《ナホビノ》神成(リ)坐し、既に直《ナホ》りたる時に、伊豆能賣《イヅノメノ》神成(リ)坐せり、】此(ノ)三柱(ノ)貴御子《ウヅノミコ》神の成(リ)出坐て、【然れども此(ノ)三柱の中にも、なほ須佐之男(ノ)命は、惡《アシキ》神にまし/\て、荒《アラ》び傷害《ソコナ》ひたまふは、かの伊邪那岐(ノ)大神の、始終《ハジメヲハリ》善《ヨキ》神にましませども、なほしばしは穢惡《マガコト》に觸《フレ》たまひし理によれり、】つひに天照大御神の、高天(ノ)原を所知看《シロシメ》すは、又|全《モハラ》吉善《ヨゴト》に復《カヘ》れるにて、【さてなほ此大御神すら、須佐之男(ノ)命の荒《アラ》びに得《エ》堪《タヘ》たまはで、しばらくは障《サヘ》られたまふこともありしは、世(ノ)中に大亂《イミシキミダレ》大逆事《イミシキマガコト》も、必なくてはえあらぬ理(リ)にて、其(ノ)本は皆|黄泉《ヨミ》の凶惡《ケガレ》より出るなり、然れども大御光はつひに障《サヘ》られはて賜はず、ほどなく吉善《ヨゴト》に立復《タチカヘ》りて、又明らけく、無窮《トコシヘ》に世を御照《ミテラ》し坐まして、皇御孫(ノ)命、此天(ノ)下を所知看《シロシメシ》て、皇統《アマツヒツギ》は、千萬世の末までに動きたまはぬ、】これぞ此(ノ)世(ノ)間のあるべき趣なりける、【古(ヘ)今|治亂吉凶《ヨゴトマガコト》うつりかはる、よろづの理(リ)は、悉く此(ノ)上(ノ)件の趣によることなり、】されば此(ノ)次第《ツギツギ》の趣を熟《ヨ》く味ひて、世間《ヨノナカ》のあるかたち何事も、吉善《ヨゴト》より凶惡《マガコト》を生《ナ》し、【二柱(ノ)神、諸神を生《ウミ》たまへる吉善《ヨゴト》によりて、女神の神避《カムサリ》坐(ス)凶惡《マガコト》は出來れり、何事もみなかくの如く、凶惡《マガコト》は吉善《ヨゴト》よりおこるものぞ、】凶惡《マガコト》より吉善《ヨゴト》を生《ナ》しつゝ、【伊邪那岐(ノ)命、黄泉《ヨミ》の穢に觸《フレ》たまへる凶惡《マガコト》によりてこそ、御禊《ミミソギ》して月日(ノ)神は成(リ)出坐せれ、何事もみなかくの如く、吉善《ヨゴト》は凶惡《マガコト》よりおこるものなり、】互《タガヒ》にうつりもてゆく理(リ)をさとるべく、【人の生死《イキシニ》、一日の夜晝、一年の春秋あるも、此(ノ)趣にて、世(ノ)中には吉善事《ヨゴト》のみならずて、凶惡事《マガコト》も無くてはえあらぬ理なり、】又|然《シカ》凶惡《マガコト》はあれども、終《ツヒ》に吉善《ヨゴト》に勝《カツ》事あたはざる理(リ)をも知(ル)べく、【かの女神の、顯國《ウツシクニ》の人草を、一日に千人殺したまへば、男神の一日に千五百人を生出(デ)しめたまふこれなり、後に須佐之男(ノ)命の荒びたまふによりて、天照大御神天(ノ)石屋に隱《コモ》らせれども、ほどなく又出坐て、永く世を御照し坐《マ》し、須佐之男(ノ)命は逐《ヤラ》はれたまふも、此理なり、】又人は必|凶惡《マガコト》を忌去《キラヒ》て、吉善《ヨゴト》を行ふべき理(リ)をも知(ル)べきなり、【伊邪那岐(ノ)命の、黄泉《ヨミ》の穢惡《ケガレ》を忌惡《イミキラ》ひて、御禊したまふ是なり、後に須佐之男(ノ)命の、二《フタ》たび逐《ヤヲ》はれたまふも、此(ノ)理なるが故なり、さて世(ノ)人の、凶惡《マガコト》を直《ナホ》して、吉善《ヨゴト》を爲《ナス》べき道は、彼(ノ)御禊の理(リ)によれることなれども、彼(ノ)大神、此(ノ)御禊を以て、世(ノ)人に、凶惡《マガコト》を忌去《キラヒ》て、吉善《ヨゴト》を行《オコナ》へと、教喩《ヲシヘサト》したまふにはあらず、其故は、彼(ノ)御禊も、其時にことさらに神の教(ヘ)によりて爲《シ》たまふには非ず、元來《モトヨリ》産巣日(ノ)神の御靈《ミタマ》によりて、おのづから黄泉《ヨミ》の穢惡《マガコト》を穢惡《キタナ》しとおもほす、己命《オノレミコト》の御心から爲《シ》たまへれば、世(ノ)人も亦其(ノ)如くにて、産巣日(ノ)神の御靈《ミタマ》によりて、凶惡《マガコト》をきらひて、吉善《ヨゴト》をなすべき物と、生《ウマ》れたれば、誰《タ》が教ふとなけれども、おのづからそのわきためはあるものなり、然れども又其(ノ)なすわざ、必|吉事《ヨゴト》のみもえあらず、

 おのづから凶惡《マガコト》もまじらではえあらぬ、是(レ)はたかの大神も、一たびは黄泉《ヨミ》に入(リ)て、穢惡《ケガレ》に觸《フレ》たまひ、又三柱(ノ)貴《ウヅノ》御子神の中にも、なほ須佐之男(ノ)命のまじり坐す理によれるなり、】奇《アヤ》しきかも、靈《クス》しきかも、妙《タヘ》なるかも、妙《タヘ》なるかも、【凡そ世間古今萬事《ヨノナカヨヨノヨロヅノコト》、此(ノ)理にもるゝことなし、】

 

故各隨依賜之命所知看之中《カレオノモオノモヨサシタマヘルミコトノマニマニシロシメスナカニ》。速須佐之男命《ハヤスサノヲノミコト》。不知所命之國而《ヨサシタマヘルクニヲシラサズテ》。八拳須至于心前《ヤツカヒゲムナサキニイタルマデ》。啼伊佐知伎《ナキイサチキ》也。【自伊下四字以音下效此】其泣状者《ソノナキタマフサマハ》。青山如枯山泣枯《アヲヤマカラヤマナスナキカラシ》。河海者悉泣乾《カハウミハコトゴトニナキホシキ》。是以惡神之音《ココヲモテアラブルカミノオトナヒ》。如狹蠅皆滿《サバヘナスミナワキ》。萬物之妖悉發《ヨロヅノモノノワザハヒコトゴトニオコリキ》。故伊邪那岐大御神詔速須佐之男命《カレイザナギノオホミカミハヤスサノヲノミコトニノリタマハク》。何由以汝不治所事依之國而《ナニトカモミマシハコトヨサセルクニヲシラサズテ》。哭伊佐知流《ナキイサチルトノリタマヘバ》。爾答白《マヲシタマハク》。僕者欲罷妣國根之堅洲國故哭《アハハハノクニネノカタスクニニマカラムトオモフガユヱニナクトマヲシタマヒキ》。爾伊邪那岐大御神大忿怒《ココニイザナギノオホミカミイタクイカラシテ》。詔然者汝不可住此國《シカラバミマシコノクニニハナスミソトノリタマヒテ》。乃神夜良比爾夜良比賜也《スナハチカムヤラヒニヤラヒタマヒキ》。【自夜以下七字以音】故其伊邪那岐大神者《カレソノイザナギノオホミカミハ》。坐淡海之多賀也《アフミノタガニナモマシマス》。

各は、稱徳紀の詔の中に、於乃毛於乃毛《オノモオノモ》とあるに依て、如此《カク》訓べし、己《オノ》も己《オノ》もの義《ココロ》なり、

〇賜は、たゞ崇辭《アガメコトバ》なり、【賜《タマ》ふと云(フ)崇(メ)辭のこと、師説には、そのことをよくたねらひ得るよしなり、故に自《ミ》のことにも云る例多しとあり、されど今思(フ)に、是(レ)は物を賜ふより轉《ウツ》りたる言なるべし、其故は、奉(ル)と云も、物を獻るより轉(リ)て、たゞ崇(メ)辭にも、云々《シカシカ》し奉ると云(フ)、この奉(ル)と賜(フ)と、全く反對《ウラウヘ》なればなり、又敬(ヒ)辭に、己がうへを侍《ハムベル》候《サムラフ》など云も、本は貴人の前に伺候するより轉《ウツ》り、又今の俗文に、申(ス)と云ことを萬(ヅ)に附(ケ)て、云々《シカシカ》し申(ス)と云も、貴人に物を白《マヲ》すより轉り來れり、凡て尊卑《タフトキイヤシ》き間の附(ケ)言は、其(ノ)實(ノ)事を云より轉り來ること、他の例みな右の如くなれば、賜(フ)も又しかることを知(ル)べし、但し己が事に賜(フ)と云る例も多し、こはいまだその解《ココロ》を得ず、猶考(フ)べし、強《シヒ》ていはば、今の俗に己がうへの事に、御座有申《ゴザリマス》と云こと多し、御座《ゴザ》とは、人を尊(ミ)て云言なれど、對ふ人を崇むるとては、己がうへにも、かく崇(メ)言を附ることあり、又|御見廻《オミマヒ》申(ス)、御禮《オレイ》を申(ス)なども、己がうへに御を附くる、これみな對ふ人を敬ふ語なり、されば己がうへに賜ふと云も、このたぐひとせむか、】

〇命は御言なり、

〇隨《マニマニ》、續紀九(ノ)詔に、吾孫詔知食國天下止《アガミマノシラサムヲスクニアメノシタト》、與佐斯奉志麻爾麻爾《ヨサシマツリシマニマニ》などあり、

〇所知看《シロシメス》、此(ノ)言古書に常多し、祝詞式に、所知食(ハ)古語(ニ)云2志呂志女須《シロシメスト》1とあり、萬葉(ノ)歌には、之良志賣之《シラシメシ》とも處々【十八の廿丁二十の二十四丁五十丁】にあり、【志良志《シラシ》を志呂志《シロシ》と云は、所聞看《キカシメス》を伎許志米須《キコシメス》と云に同じ、】所知の意は、上【此卷八葉】に云るが如し、看《メス》は見《ミ》すなり、但し常に使《シムル》2人(ニ)見《ミセ》1を見すと云とは異《カハリ》て、たゞ見《ミル》を美須《ミス》と云(ヒ)、見賜《ミタマフ》を美志賜《ミシタマフ》と云(フ)、一(ツ)の古言なり、【立《タツ》をたゝす、立《タチ》をたゝしといふ格なり、】例は寓葉一【二十三丁】に、埴安乃《ハニヤスノ》、堤上爾《ツツミノウヘニ》、在立之《アリタタシ》、見之賜者《ミシタマヘバ》、【見《ミ》たまへばなり、】六【三十二丁】に、我大王之《ワガオホキミノ》、見給《ミシタマフ》、芳野宮者《ヨシヌノミヤハ》、十九【三十九丁】に、見賜《ミシタマヒ》、明米多麻比《アキラメタマヒ》、又|見之明良牟流《ミシアキラムル》【此外も多し、今(ノ)本は、古言をしらで訓を誤れる處多し、】などあり、さて此(ノ)見之《ミシ》を、賣之《メシ》とも通はし云るは、萬葉二【二十五丁】に、召賜良之《メシタマフラシ》、神岳乃《カミヲカノ》、山之黄葉乎《ヤマノモミヂヲ》云々、明日毛鴨《アスモカモ》、召賜萬旨《メシタマハマシ》、【これら見之《ミシ》たまふにて、召はみな借字なり、】十八【二十三丁】に、余思努乃美夜乎《ヨシヌノミヤヲ》、安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》、【見《ミ》すなり、右に引る六(ノ)卷の歌と合せてしれ、】廿【二十五丁】に、賣之多麻比《メシタマヒ》、安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》、又【六十一丁】於保吉美能《オホキミノ》、賣之思野邊爾波《メシシヌベニハ》、【これら又、右の六(ノ)卷十九(ノ)卷の歌と合せて曉《サトル》べし、めししは見《ミ》ししにて、下の思《シ》は、過去《スギサリシ》ことばなり、】かゝれば所知看《シロシメス》などの看《メス》も、本は物を見(ル)ことなるを、國を治め有《タモチ》坐(ス)ことに通はし用る由は、上に云るが如し、萬葉一【二十二丁】に、藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》、食國乎《ヲスクニヲ》、賣之賜牟登《メシタマハムト》、二【三十四丁】に吾大王乃《ワガオホキミノ》、所聞見爲《キコシミス》、背友乃國之《ソトモノクニノ》などあるにて、いよゝ明(ラ)けし、さて此(ノ)看《メス》に、食(ノ)字をも書(ク)は、物食《モノクフ》と物見るとを通はし云こと、是も既に上に云り、【今(ノ)世|飯《イヒ》を賣志《メシ》と云も、食物《メスモノ》なる故なり、又人を召《ヨブ》を賣須《メス》と云も、見《ミ》すより出たるべし、〇又萬葉二に、所知行《シロシメス》と書る、この行(ノ)字のことは、中卷倭建(ノ)命(ノ)段に、看行《ミソナハス》とある、彼處《ソコ》にいふべし、】

〇所命之國は、下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段に、忘(レ)2所命之事(ヲ)1とあるは、淤布世賜比之事《オフセタマヒシコト》と訓べし、されば此《ココ》も彼(レ)に效《ナラ》はば、淤布世賜志國《オフセタマヒシクニ》と訓(マ)むか、續紀一【二丁】に、天皇命授賜比負賜布大命乎《スメラミコトノサヅケタマヒオフセタマフオホミコトヲ》、又廿一【三丁】に、此天日嗣高座之業平《コノアマツヒツギタカミクラノワザヲ》、拙劣朕爾《ヲヂナキアレニ》、被賜※〔氏/一〕仕奉止仰賜比《タマハリテツカヘマツレトオフセタマヒ》云々、この外にも多く見ゆ、【仰《オフセ》ももと負《オフ》せの意なり、】されど此《ココ》は、下にも汝《ミマシハ》不《ズテ》v治《シラサ》2所事依之國《コトヨサセルクニヲ》1とあれば、猶|余佐志賜幣留國《ヨサシタマヘルクニ》と訓べきなり、この國は、即(チ)海原を云、【上文にてしるべし、】

〇不治は、乎佐米受弖《ヲサメズテ》と訓(マ)むも惡《アシ》からねど、なほ斯良佐受※〔氏/一〕《シラサズテ》と訓べし、【其故は、天(ノ)下|所知看《シロシメス》と云は、定まりたる古言にて、御宇御宙など書たるをも、皆|然《シカ》訓るに、中卷より御代々々《ミヨミヨ》みな、坐《マシマシテ》2某(ノ)宮(ニ)1治2天下1と書《カケ》れば、其(ノ)治(ノ)字も、必(ズ)斯呂志賣須《シロシメス》と訓べく、また】上の所知看の言を承《ウケ》て云(フ)べければなり、

〇八拳須、夜都迦比牙《ヤツカヒゲ》と訓(ム)、八拳《ヤツカ》の意は、十拳劔《トツカツルギ》の下《トコロ》に既(ニ)云り、なほ八束穗《ヤツカボ》なども云り、何《イヅ》れも必(ズ)八(ツ)に限るに非ず、彌束《イヤツカ》にて、たゞ長き由《ヨシ》なり、須は鬚の本字にて、説文に面(ノ)毛也と注せり、【漢書(ノ)註には、在(ルヲ)v頤(ニ)曰(ヒ)v須(ト)、在(ルヲ)v頬(ニ)曰(フ)v髯(ト)などあり、】和名抄に、髭(ハ)口(ノ)上(ノ)鬚也、加美豆比介《カミツヒゲ》鬚髯(ハ)頤(ノ)下(ノ)毛也、之毛豆比介《シモツヒゲ》と見えたり、或人、比介《ヒゲ》は鰭毛《ヒレゲ》の意と云り、然《サモ》有むか、又|秀毛《ヒデゲ》にてもあるべし、

〇心前は牟那佐伎《ムナサキ》と訓べし、今(ノ)世にも云ことなり、【天若日子のことに、高胸坂《タカムナサカ》と云ることあるに依て、牟那佐加《ムナサカ》と訓(ム)は誤なり、彼(レ)は別意なり、】

○至は伊多流庇俸《イクルマデ》と訓む、但(シ)尋常《ヨノツネ》に此字を如此《カク》訓(ム)とは、聊《イササカ》言の意異にて、此《ココ》は至《マデ》v至《イタル》の意にて、伊多流《イタル》は心前《ムナサキ》に至るなり、麻傳《マデ》は、成長《ヒトトナリ》坐て、如此《カカ》る頃《コロ》までと云ことなり、玉垣(ノ)宮(ノ)段に、本牟智別御子《ホムヂワケノミコ》をも、八拳鬚|至《イタルマデ》2于心前(ニ)1眞事登波受《マゴトトハズ》とあり、此(レ)たゞ齢《ヨハヒ》の長《オトナ》しくなれるを云(フ)古語なり、凡ていと上(ツ)代の語は、如此《カク》其(レ)となく其状《ソノサマ》を寛舒《ユルヤカ》に云て、いとも雅《ミヤピ》やかなるものなり、【然るを、勇悍(ノ)之異相を云など注せるは、古(ヘ)を知(ラ)ぬ後(ノ)世(ノ)心の妄《ミダリ》言なり、】

○啼伊佐知伎《ナキイサチキ》、書紀には哭泣恚恨《ナキイサチフヅク》とあり、神功(ノ)卷に血泣《イサチ》、欽明(ノ)卷に大息涕泣《ナゲキイサツ》などもあり、【佐《サ》を濁(ル)は惡《ワロ》し、】伎《キ》は語辭《カタリコトバ》なり、さて此(ノ)言、此《ココ》の外には、古書に定《サダ》かに見えたることなし、谷川氏は、猶(シ)v言(ムガ)2足摩而泣《アシズリシテナクト》1也、小兒(ノ)忿(リ)泣(ク)時有(リ)2此(ノ)状1と云り、さも有むか、【書紀に、恚恨(ノ)字を加《クハ》へて書れたるも此意にや、又小兒の足をすりて行《ユク》を、伊佐留《イサル》と云も、此(ノ)伊佐と本同じ言にや、】上に、匍2匐《ハラバヒ》御枕方《ミマクラベニ》1云々|哭《ナキタマフ》とある状《サマ》も似たり、【然らばかの泣澤女《ナキサハメ》は、啼伊佐波女《ナキイサハメ》の意にや、】萬葉五【四十丁】に、立乎杼利《タチヲドリ》、足須里佐家婢《アシスリサケビ》、伏仰《フシアフギ》、武禰宇知奈氣吉《ムネウチナゲキ》などもあり、出雲(ノ)風土記に、阿遲須枳高日子《アヂスキタカヒコノ》命の、晝夜哭《ヨルヒルナキ》坐(シ)しこと見えたり、そは彼(ノ)神の處に引べし、

〇泣状は、那伎賜佐麻《ナキタマフサマ》と訓べし、

○青山《アヲヤマ》は、木草の茂りて、青々と見ゆる山を云て、沼河《ヌナカハ》比賣の歌に、阿遠夜麻《アヲヤマ》とあるを始め、古書に多く見ゆ、

〇枯山《カラヤマ》は、※〔山+古〕(ノ)字の意にて、木草の無き山を云なるべし、凡て物の無くて空《ムナシ》きを迦良《カラ》と云、その意なり、文字に依て云(ハ)ば、本(ト)有し木草の皆枯て、無くなりたる山か、【冬枯のころの山を云りとも聞えず、又なべての木の枯(レ)ながら植《タテ》る山は有るべくもあらず、】さて迦流々《カルル》は、水の涸《カルル》、聲の嗄《カルル》なども、乾《カル》る意にて、草木の枯《カル》るも、潤澤《ウルホヒ》のなくなるなれば、同意なり、又物の無きを迦良《カラ》と云も、此意より轉《ウツリ》たるにやあらむ、【もし然らば、初(メ)の義《ココロ》もいひもて行(ケ)ば一(ツ)に落(ツ)めり、】さて枯《カレ》を迦良《カラ》といふは、難波(ノ)高津(ノ)朝に、船(ノ)名|枯野《カラヌ》【歌に加良怒《カラヌ》とあり、】などあり古言なり、さて書紀皇極(ノ)卷に、鞍作(ノ)得志が奇術《アヤシキハケ》を云(ル)中に、或使枯山變爲青山《アルヒハカラヤマヲアヲヤマトナス》と云ことあり、

〇河海は宇美加波《ウミカハ》と訓べし、

〇乾は富志伎《ホシキ》と訓べし、【伎《キ》は語《カタリ》辭なり、】此言は比布富《ヒフホ》と活用《ウゴ》けり、【布《フ》と云る例は、書紀に人(ノ)名に、市乾鹿文《イチフカヤ》乾此(ヲ)云(フ)v賦《フト》とあり、】來の伎久許《キクコ》と活《ウゴ》くが如し、さて富須《ホス》は令《ス》v乾《ホ》なり、さて書紀には、此(ノ)神|有勇悍以安忍《タケタイブリニマシテ》、且常以哭泣爲行故《マタツネニワザトハナキイサチマスユヱニ》、令國内人民多以夭折《クヌチノヒトクササハニソコナハレキ》、また此(ノ)神|性惡《サガナクマシテ》、常好哭恚《ツネニナキイサチキ》、國民多死《ヒトクササハニシニ》、青山爲枯《アオヤマハカラヤマトナル》などあるを、此記には人民《ヒトクサ》を害《ソコナ》ひ賜ふことを云(ハ)ぬは、山海河までを云へば、人民を始め、萬(ノ)物を殤害《ソコナ》ひ賜ふことは、自《オ》こもれるにや、抑此神の啼《ナキ》給ふに因て、山海河の枯乾《力ル》るは、如何《イカ》なる理(リ)にかあらむ、【泣《ナ》けば、涙《ナミダ》の出る故に、其涙《ソノナミダ》のかたへ吸《スヒ》取られて、山海河の潤澤《ウルホヒ》は、涸《カル》るにやあらむ、さて潤澤《ウルホヒ》の涸《カ》るれば、萬(ノ)物は枯傷《カレソコナ》はるゝなり、】さて此(ノ)神の如此《カカ》るは、伊邪那美(ノ)命の、人草一日(ニ)千頭を絞(リ)殺さむと詔へる驗《シルシ》なり、此神は、妣《ハハノ》命の黄泉《ヨミ》の汚垢《ケガレ》の殘《ノコ》れるより成(リ)坐るが故なり、【例の漢籍にまよへる徒《トモガラ》の、強(ヒ)てかの五行の説を引よせて、此神を金(ノ)性の神なりと云(ヒ)なし、其(ノ)金氣にて、青山(ヲ)變v枯(ニ)と云は、いと惡《ニク》きものの、且(ツ)は可笑《ヲカ》し、若(シ)然らば、金生(ス)v水(ヲ)べきに、海河を泣乾《ナキホン》たまふは、如何《イカニ》か云(ハ)まし、】

〇惡神《アラブルカミ》、書紀(ノ)神代(ノ)下(ツ)卷一書、皇御孫(ノ)命の天降(リ)坐むとする處に、葦原(ノ)中(ツ)國(ハ)者、磐根木株艸葉猶能言語《イハネコダチクサノカキバマデコトトヒ》、夜者若※〔火+票〕火《ヨルハホベノゴトク》而|喧響《オトナヒ》之、晝者如五月蠅而沸騰之《ヒルハサバヘナスワキアガル》云々、喧響此(ヲ)云2淤等娜比《オトナヒト》1、五月蠅此(ヲ)云2左※〔麻/幼の左〕倍《サバヘト》1、また本書に、彼地《カノクニハ》多2有《サハナリ》螢火光神《ホタルナスカガヤクカミ》、及蠅聲邪神《マタサバヘナスアラブルカミ》1、復有艸木咸能言語《マタクサモキモミナモノイフ》、【ついでに云(フ)、此(ノ)螢火を、ホタルビと訓るは、いたくひがことなり、火(ノ)字にかゝはるべきことかは、又如2五月蠅1を、こゝには字を略きて、蠅聲とかければ、この螢火もかれになぞらふるに、如(ノ)字を略きたるものなれば、ホタルナスと訓べきなり、凡て螢火と書(ク)は、漢文にこそあれ、此方にほたるびと云ことは無きなり、】とある同(ジ)處を、此記には、葦原(ノ)中(ツ)國(ハ)者云々、於《ニ》2此(ノ)國1道速振荒振國神等之多在《チハヤブルアラブルクニツカミドモノオホカル》云々とあり、此(レ)を合せて考るに、かの御孫(ノ)命の將《セシ》2天降(リ)坐(ムト)1時に、此(ノ)葦原(ノ)中(ツ)國の有状《アリサマ》を云ると、今|此《ココ》の状《サマ》と全《モハラ》同じ事なり、さればこの惡神も、阿羅夫流神《アラブルカミ》と訓べきなり、【書紀の右の邪神も、又|異所《コトトコロ》に邪鬼など有(ル)も、みな阿良夫流《アラブル》神と訓べし、舊訓は字にかゝはりて、古言にかなはぬこと多し、】

〇音は淤等那比《オトナヒ》と訓べし、【右に引る書紀の訓注に依れり、】此言|中古《ナカムカシ》の物語などにも多く見えて、淤登那布《オトナフ》とも云り、

〇狹蠅《サバヘ》は、書紀の字の如く、五月《サツキ》ごろの蠅なり、然るを佐都伎《サツキ》といはで、佐《サ》とのみ云(フ)は、田植《タウウ》る農業《ワザ》を、凡て佐《サ》と云(フ)、その苗《ナヘ》を佐苗《サナヘ》、【早苗としては、早の意かなはず、】植《ウウ》る女を佐少女《サヲトメ》、植《ウヱ》始むるを佐開《サビラキ》、植終《ウヱヲハ》るを佐登《サノボル》など云が如し、さて又其(ノ)業《ワザ》する月を佐月《サツキ》と云(ヒ)、【さなへ月と心得るは、本末違へり、】其(ノ)頃《コロ》の雨を佐亂《サミダレ》と云なり、【亂《ミダレ》とは、久しく雨ふるを云、源氏物語に、風雨を空《ソラ》の亂《ミダレ》と云り、又和名抄に、麥李(ハ)、麥(ノ)秀(ル)時(ニ)熟(ス)、故(ニ)以名(ク)v之(ヲ)、漢語抄云|佐毛々《サモモ》とある、この佐《サ》も同じ、】かゝれば、狹蠅《サバヘ》も、田植るころの蠅と云意の稱《ナ》なり、其(ノ)頃殊に此蟲は多かる故に、名に負へるなり、

○如(ノ)字|那須《ナス》と訓べし、石屋《イハヤ》の段に、即(チ)狹蠅那須《サバヘナス》と書(ケ)り、碁登久《ゴトク》の古言なり、上【傳三の廿一葉】にいへるが如し、
〇滿(ノ)字は、涌《ワク》の誤(リ)なるべし、書紀には沸騰《ワキアガル》と云(ヒ)、【其文上に引り、】出雲(ノ)國(ノ)造(ガ)神賀(ノ)詞にも、晝波如五月蠅水沸支《ヒルハサバヘナスミナワキ》、夜波如火瓮光神在《ヨルハホベノゴトカガヤクカミアリ》、石根木立青水沫毛事問天《イハネコダチアヲミナワモコトトヒテ》、荒國在利《アラブルクニナリ》とあればなり、【水沸の水は借字なり、美那《ミナ》と訓べし、此記と合せて思ふに、皆てふ意なりけり、】滿《ミチ》とては解《キコ》えがたし、書紀(ノ)允恭(ノ)卷に蠅散《ハヘノゴトサワグ》、萬葉三に、五月蠅成驟騷舍人《サバヘナスサワグトネリ》、五に五月蠅奈周佐和久兒等《サバヘナスサワグコドモ》など見ゆ、さて涌《ワク》とは、たゞ騷《サワ》ぐ状《アリサマ》をのみ云には非《アラ》で、涌出《ワキイデ》て騷《サワグ》を云なるべし、

〇萬物之妖《ヨロヅノモノノワザハヒ》、書紀(ノ)神武(ノ)卷に妖氣《ワザハヒ》ともあり、此(レ)は右に引る書紀に、磐根木株《イハネコノモト》云々、【此事、右の神賀(ノ)詞、又|他《ホカ》の祝詞どもにもあり、】とある事等《コトドモ》に當《アタ》れり、是(レ)物|言《イフ》まじき物の言《イフ》は、妖性《ワザハヒ》なるを云なり、唯|文《コトバ》のまゝに意得べし、【例のさま/”\生賢《ナマサカシ》き説あれど取(ラ)ず、】さて此記に萬物《ヨロヅノモノ》とあれば、如此《カカ》る事の妖《ワザハヒ》ども、な桔種々《クサグサ》有《アリ》けむを、磐根云々は、其中の一(ツ)二(ツ)を擧《アゲ》て語傳《カタリツタ》へたる古言なり、【彼(レ)と此(レ)と、時は異なれども、其(ノ)事状《コトノサマ》は全く同(ジ)きこと、上に云るが如し、】さて某皆云々《ナニミナシカシカ》某悉云々《ナニコトゴトニシカシカ》と、二(ツ)事を並言《ナラベイフ》に、皆《ミナ》と悉《コトゴトニ》とを對云《ムカヘイフ》こと、下に山川悉動《ヤマカハコトゴトニウゴキ》、國土皆震《クニツチミナフル》、また高天(ノ)原|皆闇《ミナクラク》、葦原《アシハラノ》中(ツ)國|悉暗《コトゴトニクラシ》などあり、さて祝詞【式八の廿三丁三十五丁】に、荒振神等乎《アラブルカミタチヲ》、神攘々給比《カムハラヒハラヒタマヒ》、神和々給弖《カムヤハシヤハシタマヒテ》、語問志磐根樹立草之片葉毛語止弖《コトトヒシイハネコダチクサノカキハモコトヤメテ》、とある語を味ふに、荒《アラブル》神を攘平《ハラヒムケ》しかば、此(ノ)妖《ワザハヒ》も止《ヤミ》しなり、此《コレ》に視《ナズラ》ふれば、今此(ノ)妖《ワザハヒ》の發《オコ》るも、惡《アラブル》神の沸出騷《ワキイデサワグ》に因てなりけり、さて須佐之男(ノ)命の御所行《ミシワザ》に因て、かく惡神|涌出《ワキイデ》、萬(ノ)妖の發ること、みな其本は、黄泉《ヨミ》の汚垢《ケガレ》より根ざすこと、既に云るが如し、故(レ)道饗祭(ノ)祝詞に、根國底國與里《ネノクニソコノクニヨリ》、麁備疎備來物爾《アラビウトビコムモノニ》云々と云り、【後(ノ)世(ノ)神道者、たゞ由《ヨシ》なき漢籍の理をのみ思(ヒ)て、此(ノ)義に暗《クラ》きはいかにぞや、】

〇何由以は、那爾登加母《ナニトカモ》と訓べし、書紀孝徳(ノ)卷(ノ)歌に、那爾騰柯母《ナニトカモ》、于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》、磨陀左枳※〔さんずい+捏の旁〕農《マタサキデコヌ》、とあるに依れり、【凡て難詞《トガメコトバ》は、なにしかもなどてかいかにぞなど、あまたあれば、如何樣《イカサマ》にも訓べし、今はそが中に古きにより、又下の語(ノ)勢もみな似たればなり、】ツゲキトヂム  ノ

〇伊佐知流《イサチル》、この知(ノ)字|甚疑《イトウタガ》はし、其故は、萬(ヅ)の活動《ウゴク》言の中に、第三(ノ)音【うくすつぬふむゆるう】より流《ル》と連《ツヅキ》て了《とぢむ》る、其(ノ)第三(ノ)音を、第二【いきしちにひみいりゐ】と第四【えけせてねへめえれゑ】との音に轉《ウツ》して、流《ル》と連《ツヅ》くるは、悉く近(キ)世の俚言《イヤシキコトバ》なり、【その例を且々《カツガツ》云(ハ)ば、荒《アラブ》るをあらびる、生《イク》るをいきると云(フ)類は、第二(ノ)音に轉《ウツ》せるなり、得《ウ》るをえる、受《ウク》るをうける、令見《ミス》るをみせる、立《タツ》るをたてる、重《カサ》ぬるをかさねる、留《トム》るをとめる、聞《キコ》ゆるをきこえると云類は、第四(ノ)音に轉《ウツ》せるなり、】かゝれば此《ココ》も、伊佐都流《イサツル》と云むこそ雅言《ミヤビゴト》なれ、知流《チル》と云るはいかゞ、【此《コ》は右の荒《アラ》びるの格にて、猶云(ハ)ば、落《オツ》るをおちる、朽《クツ》るをくちる、攀《ヨヅ》るをよぢる、滿《ミツ》るをみちる、閉《トヅ》るをとぢると云が如く、皆|俚言《イヤシキコトバ》の格《サダマリ》なり、】此|差別《ケヂメ》は、今の世とても、書《フミ》にかくばかりの言《コト》には、辨知《ワキマヘシリ》て訛らず、況《マシ》て中古上代の書には更なり、【されば舊印本に、この知(ノ)字に、都《ツ》と訓を附(ケ)たるは、自《オ》この差《ケヂメ》を人しれるゆゑなり、】若(シ)上に伊佐知《イサチ》とあるに效《ナラヒ》て、※〔都の草書〕《ツ》を※〔知の草書〕《チ》と寫(シ)誤れるにもやあらむ、

〇僕、師(ノ)云(ク)、此(レ)をも和禮《ワレ》と訓べし、皇朝の古(ヘ)人は直き故に、虚言《ソラゴト》せねば、貴人《ウマビト》の自《ミ》やつかれなど云が如きことはなし、然《シカ》るを僕と書るは、漢《カラ》ぶみに傚《ナラ》へるなり、彼(ノ)國人は卑下を甚しく書けれど、皆|虚言《ソラゴト》ぞと云れき、信《マコト》に然《サ》ることなり、此《ココ》の僕も、書紀には吾《アレ》とあり、其《ソレ》宜《ヨロ》し、

〇妣は母なり、波々《ハハ》と訓べし、禮記(ノ)曲禮に、生(ルトキハ)曰(ヒ)v父(ト)曰(ヒ)v母(ト)、死(スレバ)曰(ヒ)v考(ト)曰(フ)v妣(ト)とある意にて、此字は書るならむ、萬葉にも、波々《ハハ》に此字書る所あり、【父母をば、加敍伊呂波《カゾイロハ》と云を、古稱《フルキナ》と心得て、古書なるを皆然訓るは如何《イカガ》なり、萬葉などにも、凡て知々波々《チチハハ》とのみ見え、續紀(ノ)宣命などにも、其婆々止在須《ソノハハトマス》藤原(ノ)夫人|乎《ヲ》云々など、此(ノ)外も波々《ハハ》と云ることは多くて、加敍《カゾ》とも伊呂波《イロハ》とも云ることは、凡て古くは見えず、唯書紀(ノ)顯宗(ノ)卷に、鹿父《カカゾ》てふ人(ノ)名有て、その注に、俗呼(テ)v父(ヲ)爲2柯曾《カゾト》1とあるのみなり、此(レ)も正しく父を指《サシ》て云る所にはあらず、又|伊呂波《イロハ》は、遙《ハルカ》に後の大江(ノ)朝綱(ノ)歌によめるなどばかりなり、縱《タトヒ》有(リ)とも、なべてのことには非ず、然《サル》を和名抄に、父(ハ)加曾《カゾ》、母(ハ)伊呂波《イロハ》、俗(ニ)云(フ)2父(ヲ)知々《チチ》、母(ヲ)波々《ハハト》1と云るは古言を知(ラ)ずて、妄(リ)に云るなり、但(シ)加曾《カゾ》も伊呂波《イロハ》も、古(キ)稱《ナ》にては有べけれど、普《アマネ》く言《イヒ》し稱《ナ》にはあらざりけむ、されば數多《アマタ》例あるに依て、知々波々《チチハハ》と訓べきなり、】さて此(ノ)妣《ハハ》は、伊邪那美(ノ)命を指て白《マヲシ》賜ふなり、抑三柱(ノ)貴御子《ウヅノミコ》神などは、伊邪那岐(ノ)大神の御禊《ミミソギ》にこそ成(リ)坐つれ、伊邪那美(ノ)命の生《ウミ》坐る神|等《タチ》には非《アラ》ぬを、妣《ハハ》と白(シ)賜ふはいかにと云に、かの御禊に成坐る神たちは、元《モト》を辱ぬれば、みな伊邪那美(ノ)命の黄泉《ヨミ》の穢惡《ケガレ》より起《オコ》れるが故に、其時の十四柱(ノ)神たちも、猶伊邪那美(ノ)命を以て御母とするなり、【黄泉《ヨミ》の穢惡《ケガレ》と御禊《ミミソギ》の清善《キヨキ》とは、父と母との如し、】其中に月日(ノ)神などは、御禊の清き方に依(リ)坐て善《ヨキ》神、此(ノ)須佐之男(ノ)命は、惡臭《キタナキカ》のなごり消難《ウセガタ》き御鼻《ミハナ》に成(リ)坐て、殊に御母の方に依れる惡《アシキ》神なり、故(レ)終《ツヒ》に其國に歸《オモム》き坐つ、

〇根之堅洲國《ネノカタスクニ》、根《ネ》とは、下《シタ》つ底に有(ル)故に云(フ)、【草木の根もおなじ、】底津根之國《ソコツネノクニ》とも、祝詞に根國底之國《ネノクニソコノクニ》ともあり、【根(ノ)國とは出雲を云(フ)と云(ヒ)、或(ヒ)は須佐之男命の配所の名なりなど云説は、例の私の漢意なり、】堅洲國《カタスクニ》は、片隅國《カタスミグニ》の意なり、そは横《ヨコ》【東西南北など】の隅《スミ》にはあらで、竪《タテ》【上下】の片隅《カタスミ》にて、下つ底の方を云なり、書紀に極遠之根國ともあるも、下へ遠きを云(フ)、帶中日子《タラシナカツヒコノ》天皇を、汝者《ミマシハ》向《ムカヘ》2一道《ヒトミチニ》1と、神の詔へるも、片隅《カタスミ》へ往《ユ》けと云むが如し、さて隅《スミ》を須《ス》と云る例は、書紀に所謂《イハユル》天日隅《アメノヒスミノ》宮を、出雲風土記に天(ノ)日栖《ヒスノ》宮とあり、【栖(ノ)字は、古書に必(ズ)須《ス》と訓る例なり、】又記中に天之御巣《アメノミス》と云るも、日隅《ヒスミ》と通へり、【姓氏録に、宗形(ノ)朝臣(ノ)祖の吾田片隅《アタカタスミノ》命と云を、舊事紀には阿田賀田須《アタカタスノ》命とあり、此(レ)據《ヨリドコロ》ありて如此《カク》はかけるならむ、】さて此(ノ)根(ノ)國と云は、即(チ)黄泉國《ヨモツクニ》のことなり、下に須佐之男(ノ)命(ノ)所坐《マス》之|根堅洲國《ネノカタスクニ》とあり、

〇罷《マカラム》、凡て麻加流《マカル》とは、貴所《タフトキトコロ》より退去《ソキサ》るを云(フ)、【故に去所《サルトコロ》を尊《タフト》み、趣方《オモムクカタ》を卑《イヤシ》むる時に云(フ)言なり、萬葉十八に、京より越中へ來れることを越中にて、末加利天《マカリテ》とよめり、此意にかなへり、】參《マヰ》は貴(キ)所へ向行《ムキユク》を云(フ)【こは出る方を卑《イヤシ》めて、趣《オモムク》所を尊む時に言(フ)なり、】と反對《ウラウヘ》なり、故(レ)中古までほ、此(ノ)辨《ワキ》を知て用《ツカ》へるを、【中昔の物語文などに、罷出《マカムデ》と云るも叶へり、但し必しも貴所ならねど、同じほどの所にても、その對《ムカ》へる人を尊みて云詞には、他《ホカ》へ去《サル》を罷《マカ》ると云(ヒ)、又|鄙《ヰナカ》にて京へ行(ク)を罷《マカ》ると云るなども、對《ムカ》へる人を尊みて語る詞なり、】近(キ)代に至《ナリ》ては混《ミダレ》ぬ、

〇此國《コノクニ》、須佐之男(ノ)命は海原《ウナハラ》を所知看《シロシメス》なるに、此國と詔へるは、高天(ノ)原又根(ノ)國などに對へては、海原もなほ此(ノ)地なれば、さもあるべし、

〇不可住は那須美曾《ナスミソ》と訓べし、

〇神夜良比爾《カムヤラヒニ》云々、神《カム》とは、凡て神之上(ヘ)の事に多く附《ツケ》云(フ)詞にて、上【傳五の六十一葉】に見ゆ、夜良布《ヤラフ》は、本(ト)夜流《ヤル》を延たる言なり、【良布《ラフ》は流《ル》、良比《ラヒ》は理《リ》と切《ツヅマ》る、】されど用《ツカフ》意は聊《イササカ》異《コト》なるに似て、此(ノ)夜良比《ヤラヒ》を、書紀に逐《ヤラフ》と書れたり、さてかく疊《カサネ》て云例は、神集々《カムツドヒニツドヒ》、神祝々《カムホサキホサキ》、神議々《カムハカリニハカリ》、神問々《カムトハシニトハシ》、神和々《カムヤハシニヤハシ》、神掃々《カムハラヒハラヒ》などの如し、皆上は體語《ヰコトバ》、下は用語《ウゴキコトバ》なり、文中の爾《ニ》てふ辭は、略《ハブキ》ても云り、伊都之知和伎知和伎※〔氏/一〕《イツノチワキチワキテ》なども、此格の言なり、書紀に以2神逐(ノ)之理(ヲ)1逐之ともあり、【之理の二字は、例の撰者の漢意のさかしらと見えてうるさし、古言の意に違へり、さて彼處《ソコ》の分注に、逐之此(ヲ)云(フ)2波羅賦《ハラフ》1とある波(ノ)字は、夜の寫(シ)誤なるべし、】逐《ヤラフ》は今俗《イマノヨ》に云(フ)追放なり、さて此(ノ)地を逐《ヤラ》はれたまふ故に、つひに根(ノ)國には罷《マカリ》坐るなり、

〇故其云々、故《カレ》とは、凡て上を承《ウケ》て云辭なれども、此《ココ》などは、必しも上の事を承て、其故《ソノユヱ》と云意はあらず、此(ノ)格《サマ》記中に多くあることなり、【師は、此上に多くの言|脱《オチ》つらむ、といはれしかど、然にはあらず、】

〇淡海《アフミ》は、息長帶比賣(ノ)命(ノ)段(ノ)歌に、阿布美《アフミ》とあり、和名抄に、近江(ハ)知加津阿不美《チカツアフミ》とあるは、遠江《トホツアフミ》に對へて後に云る名にして、古(ヘ)も今も常には、近江と書てもたゞ阿布美《アフミ》と云なり、さて此《コ》は湖ある故の名にして、即(チ)阿波宇美《アハウミ》の切《ツヅ》まりたるなり、【淡海《アハウミ》とは、潮《シホ》ならぬ淡《アハ》しき海を云なり、さて其《ソ》は湖の名なれば、其(ノ)國をば淡海《アフミノ》國とは云べけれど、淡海《アフミ》とのみ云ては國(ノ)名には非るが如くなれども、本を以てやがて末の名にすることも、他《ホカ》にも常に例おほきことなり、】

〇多賀《タガ》、式に近江(ノ)國犬上(ノ)郡|多何《タガノ》神(ノ)社二座と見ゆ、和名抄に田可(ノ)郷あり、是(レ)なるべし、書紀に、是(ノ)後伊弉諾(ノ)尊神功既畢、靈運當遷、是以|構《ツクリ》2幽宮(ヲ)於|淡路《アハヂ》之|洲《シマニ》1、寂然長隱者矣、亦曰(ク)、伊弉諾(ノ)尊功既至矣、徳亦大矣、於是《ココニ》登《ノボリテ》v天《アメニ》報命《カヘリゴトマヲシタマヒ》、仍《ヤガテ》留2宅《トドマリマシマシキ》於|日《ヒノ》之|少宮《ワカミヤニ》1矣、【神名帳に、淡路(ノ)國津名(ノ)郡淡路伊佐奈伎(ノ)社、名神大、】とあるは、此記と合《アハ》ざるに似たれども、【舊事紀に淡路之多賀と云るは、此記と書紀とを取合せたる漫事《ミダリゴト》なれば、云に足(ラ)ねど、姑くたすけていはば、此記も本は淡路なりしを、路(ノ)字を海に寫し誤れるかとも疑ふべけれど、淡路に古(ヘ)より多賀てふ名聞えず、近江には今に名高くて、御社も坐ませば、此記は固《モトヨ》り淡海《アフミ》なり、又私記に、日之少宮(ハ)是(レ)東北(ノ)方(ノ)之地少陽(ノ)之宮、即近江(ノ)國犬上郡多賀(ノ)之宮、正(ニ)値《アタルトキハ》2此(ノ)方(ニ)1、則是(レ)近江(ノ)之宮(ナリ)也と云るは、此記と強《シヒ》て引(キ)合(セ)たるものにて非なり、束北之方少陽など云るも、古(ヘノ)意にあらず、日(ノ)少宮は、天上《アメ》にあること、仍留(ノ)二字にて著《イチジル》きものをや、此(ノ)餘《ホカ》世々の註者の説ども、みな漢意にて、古(ヘ)にかなへるは一(ツ)もなし、】今此記と書紀の二(ツ)の傳(ヘ)と三(ツ)を合せて思ふに、現御身《ウツシミミ》は、終《ツヒ》に天上《アメ》なる日(ノ)少宮に留(マリ)坐まして、【書紀(ノ)亦曰の傳(ヘ)の如し、】淡路《アハヂ》と多賀《タガ》とは、其(ノ)御靈《ミタマ》の鎭坐《シヅマリマス》御社なり、然るを構(リ)2幽宮(ヲ)1云々とあるは、後にかの天上《アメ》の日(ノ)少宮に擬《ナズラヘ》て、彼(ノ)洲《シマ》に御社を建《タテ》たるを、かくは語(リ)傳へたるなり、凡て皇御孫(ノ)命天降坐て後に、天上《アメ》の儀《サマ》に擬《ナズラヘ》て、此國にも其(ノ)形《カタ》をうつし、名をとゞむること例多し、叉|坐《マス》2多賀(ニ)1と云(フ)も、譬(ヘ)ば天照大御神は、長《トコシヘ》に天上に坐ませども、伊勢(ノ)五十鈴(ノ)宮(ニ)坐《マス》と常に申し、又|大山咋《オホヤマクヒノ》神を、此神(ハ)者坐(ス)2近淡海(ノ)國(ノ)之|日枝《ヒエノ》山(ニ)1、亦坐(ス)2葛野(ノ)之松(ノ)尾(ニ)1とも、手力男(ノ)神(ハ)者坐(ス)2佐那縣《サナガタニ》1ともある類(ヒ)の例にて、皆其神を拜祭《イツキマツル》御社をかくは云る、古(ヘ)の格《サマ》なれば、淡路と多賀と處の合(ハ)ざるにはあらず、【凡て神の御事を云(ヒ)傳へたるに、其(ノ)現身《ウツシミミ》と御靈《ミタマ》との差別あるを、たゞ同じさまに云(ヒ)傳へたるものなる故に、後(ノ)世に至りては、此差別をしらで、皆人の疑ふこと多し、心得おくべきことなり、】猶此外も此大神の坐(ス)御社は、大和(ノ)國添(ノ)下(ノ)郡、葛(ノ)下(ノ)郡、城(ノ)上(ノ)郡、津(ノ)國嶋(ノ)下(ノ)郡、伊勢(ノ)國度會(ノ)郡、若狹(ノ)國大飯(ノ)郡、出雲(ノ)國出雲(ノ)郡などにもありて、式に載れり、

〇坐は麻志麻須《マシマス》と訓べし、凡て此言、上《カミ》の麻志《マシ》は坐(ノ)字にあたりて、居賜《ヰタマ》ふことなり、下の麻須《マス》は、附(ケテ)云(フ)崇辭《アガメコトバ》にて、賜《タマフ》と云たぐひなり、【さて麻須《マス》と多麻布《タマフ》とは、似たる崇(メ)辭なれど、其事に從《ヨリ》て差別《ワキ》あり、相混《アヒミダル》べからず、中古よりしては、坐《マス》といふことをさ/\止《ヤミ》て、なべて賜《タマフ》と云なり、されど古書の訓を附(ク)るには、必(ズ)この差別を辨ふべし、そは此記又古き宣命祝詞などを見て、定まれる例を考へ知べきなり、】

 

故於是速須佐之男命言《カレココニハヤスサノヲノミコトノマヲシタマハク》。然者請天照大御神將罷《シカラバアマテラスオホミカミニマヲシテマカリナムトマヲシタマヒテ》。乃參上天時《スナハチアメニマヰノボリマストキニ》。山川悉動《ヤマカハコトゴトニトヨミ》。國土皆震《クニツチミナユリキ》。爾天照大御神聞驚而《ココニアマテラスオホミカミキキオドロカシテ》。詔我那勢命之上來由者《アガナセノミコトノノボリキマスユヱハ》。必不善心《カナラズウルハシキココロナラジ》。欲奪我國耳《アガクニヲウバハムトオモホスニコソトノリタマヒテ》。即解御髪《スナハチミカミヲトキ》。纏御美豆羅而《ミミヅラニマカシテ》。乃於左右御美豆羅《ヒダリミギリノミミヅラニモ》。亦於御鬘《ミカヅラニモ》。亦於左右御手《ヒダリミギリノミテニモ》。各纏持八尺勾※〔王+總の旁〕之五百津之美須麻流之殊而《ミナヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲマキモタシテ》。【自美至流四字以音下效此】曾毘良邇者負千入之靫《ソビラニハチノリノユギヲオヒ》。【訓入云能理下效此自曾至邇以音】附五百入之靫《イホノリノユギヲツケ》。亦所取佩伊都【此二字以音】之竹鞆而《マタイツノタカトモヲトリオバシテ》。弓腹振立而《ユハラフリタテテ》。堅庭者於向股蹈那豆美《カタニハハムカモモニフミナヅミ》。【三字以音】如沫雪蹶散而《アワユキナスクエハララカシテ》。伊都《イツ》【二字以音】之男建《ノヲタケビ》【訓建云多祁夫】蹈建而《フミタケビテ》。待問《マチトヒタマハク》。何故上來《ナドノボリキマセルトトヒタマヒキ》。爾速須佐之男命答白《ココニハヤスサノヲノミコトノマヲシタマハク》。僕者無邪心《アハキタナキココロナシ》。唯大御神之命以《タダオホミカミノミコトモチテ》。問賜僕之哭伊佐知流之事故《アガナキイサチルコトヲトヒタマヒシユヱニ》。白都良久《マヲシツラク》。【三字以音】僕欲往妣國以哭《アハハハノクニニマカラムトオモヒテナクトマヲシシカバ》。爾|大御神詔《オホミカミ》。汝者不可在此國而《ミマシハコノクニニハナスミソトノリタマヒテ》。神夜良比夜良比賜故《カムヤラヒヤラヒタマフユヱニ》。以爲請將罷往之状參上耳《マカリナムトスルサマヲマヲサムトオモヒテコソマヰノボリツレ》。無異心《ケシキヨコロナシトマヲシタマヘバ》。爾|天照大御神詔《アマテラスオホミカミ》。然者汝心之清明何以知《シカラバミマシノココロノアカキコトハイカニシテシラマシトノリタマヒキ》。於是速須佐之男命《ココニハヤスサノヲノミコト》。答白各字気比而《オノモオノモウケヒテ》。生子《ミコウマナトマヲシタマフ》。【自字以下三字以音下效此】

言《マヲシタマハク》は、伊邪那岐(ノ)命に請奏《コヒマヲシ》賜(フ)なり、故(レ)書紀には、先《ヅ》此事を擧《アゲ》て、次に構幽宮云々の事を擧たり、然るに此《ココ》には、先(ヅ)坐淡海云々と、伊邪那岐(ノ)命の御事をば云終《イヒトヂメ》て後に、更《サラ》に此事を云るは、次序《ツイデ》亂《ミダレ》たるに似たれど然らず、下の乃參2上天(ニ)1云々の事へ云續《イヒツヅケ》むためなり、此例記中に處々あり、

〇請は麻袁志弖《マヲシテ》と訓べし、【書紀雄略(ノ)卷などにも、然訓る例あり、】

〇參上は麻韋能煩理坐《マヰノポリマス》と訓べし、高津(ノ)宮(ノ)天皇(ノ)大御歌に麻韋久禮《マヰクレ》、【參來なり、】萬葉十八【二十七丁】に、麻爲泥許之《マヰデコシ》【參出來なり、】など有(ル)例に依れり、【然るを葦《ヰ》を宇《ウ》と云(ヒ)成(シ)て、參上を麻宇能煩留《マウノボル》、參來を麻宇久《マウク》、參出を麻宇傳《マウデ》など云は、後に音便に轉《ウツ》れる言なり、今に至るまで正《タダ》しく云(フ)は、たゞ參入《マヰル》のみなり、】萬葉六【三十六丁】に、參昇八十氏人乃《マヰノボルヤソウヂビトノ》云々、

〇山川は山と川となり、【山の川に非ず、】加《カ》を清《スミ》て讀べし、

〇動は登余美《トヨミ》と訓べし、萬葉六【十七丁四十六丁】に例あり、又七【十八丁】に、大海之水底豐三立浪之《オホウミノミナソコトヨミタツナミノ》、十一【三十三丁】に、居名山響禰行水乃《ヰナヤマトヨミユクミヅノ》などあり、さて又六【四十三丁】に山裳動響《ヤマモトドロニ》、左男鹿者妻呼令響《サヲシカハツマヨビトヨメ》なども見え、動々を登々呂《トドロ》と訓る處などもあれば、動《トヨ》むは、とゞろきひゞくことなり、猶此言、下八千矛(ノ)神(ノ)御歌に見ゆ、其《ソコ》【傳十一の十二葉】にも云べし、

〇國土は、山川に封へて云へれど、二(ツ)には非ず、たゞ地を云なり、久邇都知《クニツチ》と訓べし、【此二字を久邇《クニ》と訓べき處あれど、こゝは久邇都知《クニツチ》と訓ぞ宜《ヨケ》む、】下に天(ノ)詔琴《ノリコト》拂《フレテ》v樹(ニ)而|地動鳴《ツチトドロキキ》ともあり、

〇震は由理伎《ユリキ》と訓べし、【伎《キ》は辭なり、】書紀に地震《ナヰフル》と見えたれば、布流《フル》とも訓(ム)べけれど、武烈(ノ)卷(ノ)歌に、始陀騰余瀰《シタドヨミ》、那為我與釐據魔《ナヰガヨリコバ》【下動地震來者《シタドヨミナヰガユリコバ》なり、】とあれば、由流《ユル》ぞ猶古言ならむ、【與《ヨ》と由《ユ》とは通(フ)例つねおほし、】今(ノ)言にしも然《シカ》言《イフ》なり、さて此(ノ)所を書紀には、溟渤《オホキウミ》以之|鼓盪《ユスリ》、山岳《ヤマヲカ》爲之|鳴※〔口+句〕《トヨミキ》、此《コハ》則|神性雄健使之然《カムサガノタケクテシカアリシナリ》也と書《カカ》れたり、

〇聞驚は、伎々淤杼呂迦志※〔氏/一〕《キキオドロカシテ》と訓べし、【伎《キ》を延(ヘ)て迦志《カシ》と云は、例の古言の一(ツノ)格なり、人を令《ス》v驚《オドロカ》意とほ異《コト》なり、】此言記中處々に見ゆ、見驚《ミオドロク》とも、又|聞喜《キキヨロコビ》見喜《ミヨロコビ》などもあり、皆古語なり、

〇我那勢《アガナセノ》命は上に見ゆ、【こを書紀に、吾弟と書れたるは、漢文に依れるなり、】

〇善心は、字の隨《ママ》にも訓(ム)べけれど、なほ師の宇流波斯伎心《ウルハシキココロ》と訓れたるに從(フ)べし、【又此次に、汝(ノ)心(ノ)之|清明《アカキ》とあると合せて、此《ココ》も阿加伎心《アカキココロ》と訓(ム)べくも思はれしかど、なほ思へば、書紀にも彼所《カシコ》をば、爾(ノ)之赤心汝(ノ)心(ノ)明淨などと書て、こゝの善心をば、善意また好意と書れば、もとより彼《カレ》とは別言《コトコト》と聞えたり、】この宇流波斯伎《ウルハシキ》は、書紀(ノ)神代(ノ)下卷に、友善《ウルハシ》とある【此記には愛友《ウルハシキトモ》とあり、】善(ノ)字の意にて、【漢籍にても、かくさまの善(ノ)字は、古(ヘ)よりウルハシと訓り、】人の交《ナカラヒ》の睦《ムツ》まかにて、異心《ケシキココロ》なきを云り、

〇我国《アガクニ》とは、高天(ノ)原を詔ふなり、【其由(シ)上に」見ゆ、】

〇奪、萬葉五【十九丁】に有婆比弖《ウバヒテ》てふ言見えたり、さて此(ノ)句、我国袁奪牟登淤母富須爾許曾《アガクニヲウバハムトオモホスニコソ》と訓べし、耳(ノ)字を許曾《コソ》に

あてて訓む由は、首(ノ)卷【六十三葉】に云り、さて例に引(ク)は畏《カシコ》けれど、書紀神武(ノ)卷に、長隨彦《ナガスネピコ》聞《キキテ》v之《コレヲ》、曰《イヒテ》d夫天神子等《モアマツカミノミコタチノ》所2以《ユヱハ》來《イデマス》者、必《カナラズ》將《スト》uv奪《ウバハムト》2我國(ヲ)1云々、とある語の樣《サマ》よく似たり、

〇御髪は美加美《ミカミ》と訓べし、【古書にみな美久志《ミクシ》と訓(ミ)を附(ケ)たり、中古の書にも、おほむぐしと云(ヒ)、今もおぐしと云、されど此《コ》は櫛より轉《ウツ》れる後の稱なるべし、此事上にも論ひおきつ、】さて上(ツ)代の女の髪の樣は、師の萬葉(ノ)註に委く見えたり、然るに今ここに解《トキ》と有《ル》を、書紀には結《アゲテ》v髪《ミカミヲ》とある、解《トク》と結《アグル》と大《イタク》違《タガ》へるに似たり、故(レ)猶考(ル)に、まづ凡て女は、年長《ヲトナニナリ》て髪あぐるは、上(ツ)代よりの儀《コト》なるに、飛鳥(ノ)浄御原(ノ)宮(ニ)御宇(ス)十一年の詔《ミノリ》に、自v今以後男女悉(ク)結《アゲヨ》v髪《カミヲ》、とあるを思ふに、上(ツ)代に結《アグ》と云しは、本を一(ツ)にあつめ擧《アゲ》て結《ユヒ》て、其(ノ)末は後《ウシロ》へ垂《タリ》たりけむを、彼(ノ)詔に結《アゲヨ》とあるは、頭上《カシラ》に結綰《ユヒワガネ》て髻《モトドリ》と成《ナス》を云なるべし、【髻《モトドリ》とは、一(ツ)に綰《ワガネ》たるを云なり、かの男の二(ツ)に分けたる美豆艮《ミヅラ》とは異なり、】さて同(ジキ)十三年には、女年四十以上(ハ)、髪《カミ》之|結《アゲ》不《ズ》v結《アゲ》任(セヨ)v意(ニ)也とありて、又十五年の詔に、婦女垂髪于背猶如故《ヲミナドモナホモトノゴトクスベシモトドリニセヨ》とあるは、又かの上(ツ)代よりの風《ナラヒ》の如くせよとなり、故に此(ノ)十五年の詔(ノ)以後《ノチ》の萬葉の歌にも、髪あぐることを多くよめるは、かの本を結《ユフ》ことにて、末は垂《タルル》なれば、彼(ノ)詔に違ふことなし、さて此《ココ》に解《トキ》とあるは、かの本を結《ユヒ》たる所を解《トク》なり、【神功皇后の、解《トキテ》v髪(ヲ)とあるも是なり、然るを或説に、此《ココ》の解(ノ)字を和気《ワケ》と訓(ミ)て、三山(ノ)冠の形をまなばせ給ふなりといへるは、強説《シヒゴト》なり、】書紀に結《アゲテ》とあるは、末の垂《タレ》たるを擧《アゲ》てなり、かゝれば言ほ異《カハ》れども、實《マコト》は同(ジ)事にて、違へるには非ず、【此(ノ)事よくせずは、人の思ひ惑《マド》ふべきものぞ、】

〇御美豆艮《ミミゾラ》のことは、上【傳六の十一葉】に見ゆ、男の髪の樣《サマ》なり、

〇纏は麻加志《マカシ》と訓べし、【伎《キ》を延て加志《カシ》と云は例(ノ)古言、】御髪を分結《ワケユヒ》て、美豆良《ミヅラ》になしたまふを云なり、さて是より蹈建而《フミタケビテ》と云までほ、假《カリ》に丈夫《マスラヲ》の御裝束《ミヨソヒ》を爲賜《ナシタマ》ふなり、【但し玉を纏(ク)は、男に限れることならず、又|建《タケ》き備《ソナヘ》にもあらず、此《コ》は尊《タフト》く嚴《オゴソカ》なる御貌《ミカタチ》を示したまはむ料に、故《コトサラ》に美《メデタ》き玉どもを、こゝら纏持《マキモタ》せるなるべし、】

〇御鬘《ミカヅラ》も既に上に見ゆ、【傳六の十九葉】

〇御手に玉を纏《マク》ことは、上の御頸珠《ミクビタマ》の處にも云り、なほ書紀仁徳(ノ)御卷に、※〔此+鳥〕鳥皇女《メドリノミコ》の手玉《タタマ》の、かくれなき良玉《メデタキタマ》なりしこと見え、萬葉三【四十七丁】に、泊瀬越女我手二纏在玉者《ハツセヲトメガテニマケルタマハ》云々などよめり、

〇各は美那《ミナ》と訓べし、

〇八尺勾※〔王+總の旁〕《ヤサカノマガタマ》、八尺《ヤサカ》と云|義《ココロ》、くさ/”\思ひめぐらせども、未(ダ)思(ヒ)得ず、なほよく考ふべきなり、【賢木《サカキ》など云名、榮《サカ》ゆる意にて云(フ)なれば、此(レ)も彌榮《イヤサカ》の意ならむかとも思へど、樹《キ》などは生《イキ》たる物なれば榮《サカ》ゆと云べきを、玉などは、榮《サカ》ゆく物にあらねば、然《サ》は云(ヒ)がたからむか、又同じ言ながら、榮ゆく意にはあらで、盛《サカリ》なる意にて、彌盛《イヤサカリ》と云るかとも思へど、玉などの如き物を、然云る例なければ、なほいかゞ、又さきには、枕册子に、唐《モロコシ》より吾朝《ワガミカド》をはかり奉むとて、種々《クサグサ》の試《ココロミ》ごとせし事を云る中に、七曲《ナナワダ》にわだかまりたる玉の、中|通《トホ》りて、左右に口|開《アキ》たるが、小《チヒサ》きを獻《タテマツリ》て、此(レ)に緒《ヲ》とほして賜《タマハ》らむ云々とある、此(ノ)故事は漢籍《カラブミ》より出たることにて、固《モトヨ》り信難《ウケガタ》かれど、然《サ》る形状《カタチ》したる玉のあるから、如此《カカ》る事をも云(ヒ)傳へたるなれば、八尺(ノ)勾※〔王+總の旁〕も、然《サ》る形状《カタチ》なるをぞ云(ヒ)けむ、八尺《ヤサカ》とは、右の如くに曲《ワダカマ》り旋《メグ》れるを、直《タダ》に引延《ヒキハヘ》たらむ長さを思ひて云(フ)なり、七曲《ナナワダ》も旋《メグ》れらむは、信《マコト》に幾尺《イクサカ》も有(リ)ぬべし、と云しかど、後に思へば、此(ノ)考へもわろかりき、又八坂にて、玉を出す地名なりと云(ヒ)、又玉を貫《ヌ》く緒《ヲ》の長さ八尺なりなど云説どもも、みなわろし、】勾※〔王+總の旁〕は曲《マガ》れる玉なり、細く長き玉の、やゝ曲れる【兩端《フタハシ》の曲れる處に孔《アナ》あり、是(レ)緒《ヲ》を通せしところなるべし、】を、今もをり/\地(ノ)下より掘出《ホリイヅ》ることあり、此(レ)古(ヘ)の勾玉なるべしと云人あり、然《サ》もあるべし、上(ツ)代に、然《シカ》曲《マガ》りたるを、殊に貴《タフト》みし故に、八尺勾玉と云稱はあるなり、書紀仲哀(ノ)卷に、天皇|如《ゴト》2八尺瓊乃勾《ヤサカニノマガレルガ》1、以曲妙御宇《タヘニアメノシタシロシメセ》とあるも、勾《マガ》りたる状《サマ》の妙《タヘ》なるを美《ホメ》て、譬《タトヘ》としたり、【此文に就《ツキ》て、勾玉てふ名を、曲妙の義とするは、事違へり、曲(ノ)字にこそさる意もあらめ、麻賀《マガ》と云(フ)言に、いかで其意あらむ、凡て漢字《カラモジ》にすがりて、古言の意を思ふ輩は、つねに此(ノ)ひがことあり、但(シ)たゞ妙とは書《カカ》ずして、曲妙としも書《カカ》れたる、書紀の撰者の意は、曲玉《マガタマ》の曲(ノ)字を思ひよせられたるならむ、これら甚《イタ》く古意に害《ソコナヒ》あることなり、古(ヘ)に昧《クラ》き輩は迷ふべし、凡て書紀には、如此《カクノゴト》き人惑《ヒトマドハ》し多し、】さて書紀には、いづこも八坂瓊《ヤサカニ》とあり、瑞《ミヅノ》八坂瓊ともあり、【美豆《ミヅ》は、みづ/\しきを云なり、瑞(ノ)字になづむべからず、】垂仁(ノ)卷には、狢《ムジナ》の腹に八尺瓊(ノ)勾玉の有しことも見えたり、

〇五百津《イホツ》は、たゞ數の多きを云(フ)、津《ツ》は一(ツ)二(ツ)の都《ツ》なり、【百の假字は富《ホ》なり、袁《ヲ》とかくは非なり、】

〇美須麻流《ミスマル》は、書紀に御統と書て、此(ヲ)云2美須磨屡《ミスマルト》とあり、纂疏に、以v絲(ヲ)貫穿(テ)總(ヘ)2括(ル)之(ヲ)1也とある意にて、即(チ)須夫流《スブル》と語通へり、【志婆流《シバル》志麻流《シマル》なども、本同言の轉れるなるべし、又谷川氏(ガ)云、和名抄に、昴星をすばるとあるは、彼(ノ)星の形勢の、此(ノ)御統《ミスマル》に似たる故の名なるべし、又天門冬をすまろぐさと云も、葉の細《コマカ》にあつまれるが似たればか、竟宴(ノ)歌には、御統をも、すばるの玉と云りといへり、】記中の高比賣(ノ)命(ノ)歌に、多麻能美須麻流《タマノミスマル》、美須麻流邇《ミスマルニ》、【邇《ニ》は瓊なり、】萬葉十【二十六丁】に、水良玉《シラタマノ》、五百都集乎《イホツツドヒヲ》、解毛不見《トキモミズ》、十八【二十四丁】に、思艮多麻能《シラタマノ》、伊保都々度比乎《イホツツドヒヲ》、

手爾牟須妣《テニムスビ》など賦《ヨメ》るも、同物なり、集《ツドヒ》と云るも、即|統《スマル》の意なり、

〇纏持《マキモタシ》、持《モツ》はたゞ佩《オビ》たまふを云なり、

〇曾毘良《ソビラ》は背平《ソビラ》なり、書紀に背《ソビラ》と書《カケ》り、【今せなかと云は、少し異なり、せなかは背中《セナカ》の意にて、和名抄に脊を訓るぞあたれる、】

〇千入《チノリ》、書紀には千箭と書て、此(ヲ)云2知能梨《チノリト》1とあり、和名抄に、箆(ハ)箭(ノ)竹(ノ)名也、和名|乃《ノ》とあり、大神宮式神寶(ノ)料にも、箆《ノ》二千二百五十株と見ゆ、かゝれば、千箆入《チノイリ》の意なり、五百入《イホノリ》も准へて知(ル)べし、【伊《イ》は略《ハブ》く例常多し、】千《チ》と云(ヒ)五百《イホ》と云(フ)は、其(ノ)量《ホド》なり、されど必|千《チヂ》と五百《イホチ》と入(ル)べきに非ず、唯多く入(ル)由(シ)なり、

〇靫《ユギ》は、盛《モル》v箭(ヲ)室《イヘ》と字書に見ゆ、書紀推古(ノ)卷に、靫此(ヲ)云2由岐《ユギト》1、【和名抄同】記中御孫(ノ)命(ノ)御天降(ノ)段に、天(ノ)石靫《イハユギ》と云も見え、孝徳紀に金(ノ)靫も見えたり、大神宮式神寶(ノ)中に、姫靫《ヒメユギ》三十四枚、【長(サ)各二尺四寸、上(ノ)廣(サ)六寸、下(ノ)廣(サ)四寸五分、矢刺(ノ)口(ノ)方二寸九分、以v檜(ヲ)作(リ)v之、以v錦(ヲ)黏(ケ)v表(ニ)、以2緋(ノ)帛(ヲ)1着(ク)v裏(ニ)、着(ク)2緒(ヲ)四處(ニ)1、並《ミナ》用(フ)2紫革(ヲ)1、長(サ)各二尺、廣(サ)一寸三分、】箭四百八十隻、【以2鳥(ノ)羽(ヲ)1作v之、】蒲《カマノ》靫二十枚、【長(サ)各二尺、上(ノ)廣(サ)四寸五分、下(ノ)廣(サ)四寸、以v檜(ヲ)作v之、編(テ)vレ蒲(ヲ)着(ケ)v表(ニ)、以2鹿(ノ)皮(ヲ)1着(ケ)v頂(ニ)、以v丹(ヲ)畫v裏(ニ)、着2緒(ヲ)四處(ニ)1、並《ミナ》用(フ)2紫革(ヲ)1、長(サ)各二尺、廣(サ)一寸、】箭一千隻、【以2鳥(ノ)羽(ヲ)1作v之、】革(ノ)靫二十四枚、【長(サ)各一尺八寸、上(ノ)廣(サ)四寸五分、下(ノ)廣(サ)三寸八分、以2調《ツキノ》布(ヲ)1黏(ケ)v之(ニ)、塗(リ)2黒漆(ヲ)1、着2緒(ヲ)四處(ニ)1、並《ミナ》用(フ)2紫革(ヲ)1、長(サ)各二尺、廣(サ)一寸、】箭七百六十八隻、【以2鷲(ノ)羽(ヲ)1作v之、】とあり、此《コレ》にて其(ノ)製《ツクリサマ》詳なり、儀式帳にも右の三種(ノ)靫見ゆ、【字鏡には、靫|也奈久比《ヤナグヒ》とあり、和名抄には、別に箙を夜奈久比《ヤナグヒ》と注せり、】さて靫《ユギ》を作るを編《アム》と云しにや、貞觀儀式【延喜式にも】に、靫(ハ)者|靫編《ユギアミ》氏造(ル)v之(ヲ)と見え、姓氏録に靫編《ユギアミノ》首てふ姓もあり、

〇負《オヒ》と云(ヒ)附《ツケ》と云るは、負ほ主《ムネ》と負(フ)なり、附(ク)は側《カタハラ》に添附《ソヘツク》る意なり、此記は凡てかゝるところ古言を守りて書り、心をつくべし、【諸本に、附の上に、比良邇者(ノ)四字あるは、衍なり、故(レ)延佳本に此四字無きに依れり、又師の、附五百入之靫の六字は削るべしといはれしは、返(リ)てわろし、】萬葉三【五十九丁】に、梓弓靫取負而《アヅサユミユギトリオヒテ》、又九【三十五丁】にも見え、廿【十九丁】に、麻須良男能《マスラヲノ》、由伎等里於比※〔氏/一〕《ユギトリオヒテ》とも見えたり、【和名抄に、近衛府兵衛府衛門府を、由介比乃豆加佐《ユゲヒノツカサ》とあるは、靫負と書て、由伎於比《ユギオヒ》を約《ツヅ》めたる稱なり、今是を由伎閇《ユキヘ》と云は訛なり、】

〇伊都《イツ》、書紀に稜威と書て、此(ヲ)云2伊都《イツト》1とあり、【稜(ノ)字は、漢書に威稜|憺《ウゴク》2乎鄰國(ニ)1、注に神靈(ノ)之威(ヲ)曰v稜(ト)とあり、此(ノ)意にてぞかかれけむ、文選に稜威ともあり、】此《コ》は伊知速《イチハヤ》の伊知《イチ》と同言にて、知波夜夫流《チハヤプル》の知《チ》も是(レ)なり、此等《コレラ》の詞の意は、冠辭考に【ちはやぶるの條】委く見ゆ、さて此言の例は、伊都之男建《イツノヲタケビ》、伊都能知和伎《イツノチワキ》、稜威之嘖讓《イツノコロビ》などなり、【これら皆|事《ワザ》に云るに、此《ココ》には物に云る、其例は未(ダ)見あたらず、】さて都《ツ》は清(ム)音にて、書紀にも同く此字を用ひられ、其餘も皆清音の假字を用ひたれば、濁るは非《ヒガコト》なり、【祝詞式に頭《ヅノ》字を書るは、そのころ既に清濁を訛れるにや、】又嚴(ノ)字を書る伊豆《イヅ》と混《マガ》へて、一(ツ)に意得るも誤なり、【此事上に云り、】

〇竹鞆《タカトモ》、鞆は、大神宮式神寶(ノ)中に、鞆二十四枚、【以2鹿(ノ)皮(ヲ)1縫(ヒ)v之(ヲ)、胡粉(ヲ)塗(リ)、以v墨(ヲ)畫(ク)v之(ヲ)、納(ル)2檜(ノ)麻笥二合(ニ)1、徑(リ)一尺六寸五分、深(サ)一尺四寸五分、着2緒(ヲ)一處(ニ)1、用2紫革(ヲ)1、長(サ)各一尺七寸、廣(サ)二分、】兵庫寮式に、熊(ノ)革一條鞆(ノ)料、【長(サ)九寸、廣(サ)五寸、】牛(ノ)革一條鞆(ノ)手(ノ)料、【長(サ)五寸、廣(サ)二寸、】と見ゆ、これは天皇御射の料なり、【西宮記(ニ)云(ク)、天皇欲(スル)2御射(アラムト)1時、侍臣一人候2御座(ノ)南方(ニ)1、奉(リ)2御鞆(ヲ)1張2御弓(ヲ)1、又持2御矢(ヲ)1とあり、持統紀七年、親王以下諸臣、各備(ヘ)儲る兵器の中にも、鞆一枚とあり、そのころまでは、なべて用ひしことと見ゆ、】大神宮儀式帳に、五十鈴(ノ)宮地のことを、弓矢鞆音不聞國《ユミヤトモノトキコエヌクニ》と見え、萬葉一【二十八丁】に、大夫之鞆乃音爲奈利《マスラヲノトモノオトスナリ》云々、七【十六丁】に、大夫乃手二卷持在鞆之浦回乎《マスラヲノテニマキモタルトモノウラマヲ》、【こは地(ノ)名に云かけたるなり、】などよめり、師(ノ)云(ク)、鞆は、射《ユミイ》るに、左(ノ)臂に着(ク)る物にして、形は吉部秘訓抄にも見え、着(ケ)たる樣は、古(キ)畫に見ゆと云り、【猶此物のこと、谷川氏書紀(ノ)註にも委く云り、】さて此《コレ》は何《ナニ》の料に着《ツク》る物ぞと云に、古歌などにも鞆にはみな、音《オト》を云るを思へば、此(ノ)物に弓弦《ユヅル》の觸《フレ》て、鳴る音を高からしめむためなり、音を以て威《オド》すこと、かの鳴鏑《ナリカブラ》なども同じ、【然るを師は、袂をおさへ、弓弦を避《サク》る物なり、故に弦のあたる音あるなりと云れつる、己もさきにはさることと思ひしを、後によく思へば、然には非ず、近きころ伊勢貞丈も、音のためなりと云り、その考(ヘ)に、或(ハ)以(テ)爲(ルハ)2鞆(ハ)是避(クルノ)v弦(ヲ)之具也(ト)1、是本(ツク)2于和名抄(ノ)※〔旱+皮〕(ノ)字(ノ)注(ニ)1者(ニシテ)而非也、夫(レ)弦(ノ)觸(ルル)v腕(ニ)者《ハ》、拙射之一癖也、何(ゾ)有(ン)v設(クルコト)2其(ノ)具(ヲ)1乎と云り、まことにさることなり、】さて此物を作るをば、張《ハル》と云しにや、續紀十八に、其(ノ)工人《テビト》を鞆張《トモハリ》と云り、備後(ノ)國|世羅《セラノ》郡に、然《サル》郷(ノ)名も見えたり、【和名抄に、※〔旱+皮〕(ノ)字を止毛《トモ》とせるはあたあたらず、又書紀應神(ノ)卷に、上古(ノ)時俗、號(テ)v鞆(ヲ)謂2褒武多《ホムダト》1とあるも、傳(ヘ)の誤(リ)なり、其由は彼(ノ)天皇の段にいふべし、又書紀に、加良《カラ》と訓を付(ケ)たるは、柄(ノ)字と思ひまがへつるにや、とまれかくまれひがことなり、】竹は借字にて、書紀の字の如く、高の意にして、鳴音《ナルオト》の高きをいふなり、抑|鞆《トモ》は音物《オトモノ》の省《ハブカ》りたる名にて、【物《モノ》の能《ノ》を略くは、作物所をつくもどころといふ類(ヒ)、又|於《オ》を略くは常なり、】竹鞆は高音物《タカトモ》なり、

〇所取佩は、登理於婆斯※〔氏/一〕《トリオバシテ》と訓べし、所(ノ)字は、所御佩十拳劔《ミハカセルトツカツルギ》【上に見ゆ】などの所(ノ)字の格なり、【然るを延佳が、さかしらに臂(ノ)字に改めしは非《ヒガコト》なり】書紀には臂着《ヒヂニツク》とあるを、此記には處《トコロ》を云(ハ)ねど、取佩《トリオバシ》と云ても、言《コト》は足《タ》れり、【書紀應神(ノ)卷に、負v鞆(ヲ)とあるも、佩《オブ》意なるべし、背《セ》に負《オフ》物には非ればなり、】

〇弓腹《ユハラ》、書紀には弓※〔弓+肅〕《ユハズ》とあり、【神武(ノ)卷に、皇弓弭《ミユミノハズ》ともあり、字書に弭(ハ)弓(ノ)梢末也と注し、※〔弓+肅〕(ハ)弭頭也と注し、和名抄に由美波數《ユミハズ》とあり、】萬葉十三【二十三丁】に、梓弓弓腹振起《アヅサユミユハラフリタテ》云々、【これをユズヱと訓るは誤なり、】又十一【二十六丁】に、梓弓末之腹野《アヅサユミスヱノハラヌ》とよめるは、【振山《フルヤマ》を、未通女子之袖振山《ヲトメゴガソデフルヤマ》、奈良里《ナラノサト》を、舊衣着楢里《フルコロモキナラノサト》とよめる例にて、】末之《スヱノ》と云るまでは序にて、腹野《ハラヌ》ぞ地名《トコロノナ》には有(ル)べき、【末之腹野と云名所は、いかにぞや聞ゆ、】これ弓(ノ)末に腹《ハラ》と稱《ナヅ》くる處の有し故に、末之腹《スヱノハラ》とは連《ツヅ》けたるなり、又三【三十四丁】に、大夫之弓上振起射都流矢乎《マスラヲノユズヱフリタテイツルヤヲ》、七【三丁】にも見ゆ、【此等《コレラ》に依らば、此《ココ》も由波受《ユハズ》又は由受惠《ユズヱ》と訓べきに似たれど、腹(ノ)字を書るを思ふに、然《サ》には非ず、弓上をユズヱと訓るも、義訓なれば、彼(レ)をもユハラとも訓べし、】

〇振立《フリタテ》、萬葉十九【十四丁】に、梓弓須惠布理於許之《アヅサユミスヱフリオコシ》ともあり、【これに依らば、かの三又十三などの振起をも、如此《カク》も訓べし、されど此《ココ》に立と書(ケ)れば、なほ多弖《タテ》なるべし、】

〇堅庭《カタニハ》は、たゞ堅《カタ》き地を云なり、【某場と云ときに、場を婆と訓むも、爾波《ニハ》の轉れる言なり、大庭をも意富婆《オホバ》と云り、されば今こゝの庭も、俗言に其場所《ソノバシヨ》と云に同じきなり、】

○向股《ムカモモ、和名抄に股(ハ)毛々《モモ》とあり、私記に、兩股(ハ)是(レ)正(シク)相(ヒ)向(フ)、故(ニ)云(フ)2向股《ムカモモ》1耳とあり、祈年祭(ノ)祝詞に、手肱爾水沫畫垂向股爾泥畫寄※〔氏/一〕《タナヒヂニミナワカキタレムカモモニヒヂリコカキヨセテ》と見ゆ、【此語廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)祝詞にもあり、】字鏡に、※〔足+專〕(ハ)脛腹(ナリ)也|古牟良《コムラ》、又|牟加波支《ムカハギ》【拾遺集物(ノ)名にも、行縢《ムカバキ》を隱《カク》して、向脛《ムカハギ》とよめり、僻案抄に、むかはぎは、凡(ソ)人のむかひずねと云ことをよめるにや、】とも見ゆ、何《イヅ》れも古言なり、

〇蹈那豆美《フミナヅミ》、倭建《ヤマトダケノ》命の段(ノ)歌に、阿佐士怒波良《アサジヌハラ》、許斯那豆牟《コシナヅム》【淺篠原腰なづむなり、】云々、又入(リテ)2其(ノ)海鹽《ウシホニ》1而|那豆美《ナヅミ》行(タマフ)時(ニ)歌曰、宇美賀由気婆《ウミガユケバ》、許斯那豆牟《コシナヅム》云々、【海行者腰なづむなり、】書紀仁徳(ノ)卷(ノ)大御歌に、那珥波臂苔《ナニハヒト》、須儒赴泥苔羅齊《スズフネトラセ》、許辭那豆瀰《コシナヅミ》、曾能赴泥苔羅齊《ソノフネトラセ》、於朋瀰赴泥苔禮《オホミフネトレ》、萬葉十三【廿丁】に、夏草乎腰爾莫積《ナツクサヲコシニナヅミテ》云々、これらの許斯那豆牟《コシナヅム》は、篠原《シノハラ》又|海水《ウシホ》又夏草に、腰《コシ》まで没《イル》を云り、されば此《ココ》は、御足《ミアシ》を堅(キ)地に踏入《フミイレ》て、御股《ミモモ》まで地《ツチ》に没《イル》を云て、甚《イト》も御力《ミチカラ》剛《ツヨ》く、勇健《タケク》坐《マス》さまなり、書紀には、蹈《フミテ》2堅庭(ヲ)1而|蹈《フミオトシ》v股《ムカモモニ》と書《カカ》れたり、【此《コ》は漢文もて古言を註したるが如し、この陷(ノ)字を、私記に、或説に奴岐《ヌキ》と訓る由(シ)を云て、言《ココロハ》蹈2貫《フミヌキテ》堅庭(ヲ)1、至(ル)2于二(ノ)股(ニ)1也とあり、奴岐《ヌキ》の訓はいかゞなれど、此註にて此處《ココ》の意は聞えたり、那豆牟《ナヅム》てふ言、萬葉に猶多かり、そが中に、意を轉して、難澁《ナヤミシブ》るかたに云るもあり、彼(ノ)倭建(ノ)命の下《トコロ》に引べし、〇此《コレ》は天上《アメ》の事なるに、堅庭云々とは如何《イカニ》と疑ふ人あれど、凡て神代の天上の事を云る、皆此(ノ)國のさまと異ならず、山川又井などさへあれば、何《ナニ》かこれをしも疑(ハ)む、】

〇沫雪《アワユキ》はたゞ雪のことなり、萬葉に數しらず多くよめる皆然り、其(ノ)さまの沫《アワ》に似たる故に云なり、【山川のたぎつせなどの沫は、まことに雪と似たるものにて、古歌にもさるよしよめり、後(ノ)世に、春の消易《キエヤス》きを別《ワキ》て淡雪《アハユキ》と云(ヒ)ならへるは、淡《アハ》しき雪と心得たるより起れるにや、沫は阿和《アワ》、淡は阿波《アハ》にて、音も異《コト》に、又萬葉に沫雪《アワユキ》とよめる、皆常の雪にて、冬を主《ムネ》とよめるをや、又|霰《アラレ》を云と云説もあれど、さらに古(ヘ)の歌どもに叶はず、甚《イタク》誤なり、】源氏物語【行幸(ノ)卷】に、御心をしづめてこそ、堅き巖《イハホ》をも、沫雪に成(シ)賜ふべき御気色《ミケシキ》なればと書るは、此《ココ》の故事なり、

〇蹶散、書紀に、※〔就/足〕散、此(ヲ)云2倶穢簸邏々箇須《クヱハララカスト》1とあり、祁《ケ》を久惠《クヱ》と云る例は、書紀垂仁(ノ)卷人(ノ)名に、當麻蹶速《タギマノクヱハヤ》と云あり、【又皇極(ノ)卷に打《クユ》v※〔毛+菊〕《マリ》、和名抄に蹴鞠(ハ)末利古由《マリコユ》などあるは、言の活用《ハタラキ》違へり、右の訓注に倶穢《クヱ》とあれば、和葦宇惠《ワヰウヱ》にて活用《ハタラク》言にて、久宇《クウ》とこそ云べけれ、植《ウヱ》うゝ、居《スヱ》すうなどの格なり、〇字音の祁《ケ》をも、久惠《クヱ》と云ること多し、法華經をほくゑ經、眷屬をくゑむぞく、源氏をぐゑむじといへる類なり、】散《ハララカス》は字の意なり、新撰字鏡に、毳(ハ)波良介志《ハラケシ》、又|知留《チル》、漢籍尚書【禹貢】に厥《ソノ》土(ハ)壤《ハララケリ》、萬葉廿【二十五丁】に、安麻乎夫禰波良々爾宇伎弖《アマヲブネハララニウキテ》、これら物は別《コト》なれど、言の意は皆同じ、【凡て波良波良《ハラハラ》本呂本呂《ホロホロ》など云言も、皆同言なるべし、萬葉十九に、天雲乎富呂爾布美安多之鳴神毛《アマグモヲホロニフミアタシナルカミモ》とあるは、別意ならむか、】堅庭の土を蹶散《クヱハララカ》して、雪の如く摧散《クグケチル》を云なり、萬葉二【十二丁】に、雪之摧之彼所爾塵家武《ユキノクダケシソコニチリケム》、

〇男建《ヲタケビ》、白檮《カシ》原(ノ)宮(ノ)段に、五瀬(ノ)命の、爲《シテ》2男建《ヲタケビ》1而崩(マス)ともあり、書紀には、雄誥此(ヲ)云2烏多稽眉《ヲタケビト》1とあり、【神武(ノ)卷景行(ノ)勸などにも此言あり、】萬葉九【三十六丁】に牙喫建怒而《キカミタケビテ》、十一【二丁】に、大夫乃思多鷄備弖《マスラヲノオモヒタケビテ》などよめり、遷2却祟神(ヲ)1祝詞に、荒備給比建備給事無志※〔氏/一〕《アラビタマヒタケビタマフコトナクシテ》とあるは、健荒《タケクアラ》ぶるを云なるべし、

〇蹈建而《フミタケビテ》、書紀神代(ノ)下(ツ)卷に、放《ツケテ》v火(ヲ)焚(ク)v室(ヲ)、其(ノ)火(ノ)初(テ)明《アカル》時(ニ)、躡誥《フミタケビテ》出(ル)兒《ミコ》自(ラ)言(ハク)云々、又雄略(ノ)卷に、津麻呂《ツマロ》聞《キキ》v之(ヲ)踏叱《フミタケビテ》曰(ク)云云、さて纏(シテ)2御美豆羅(ニ)1而と云るより此《ココ》まで、而《テ》てふ辭六(ツ)疊《カサナ》れり、今|讀《ヨム》には煩《ウルサ》きに似たれど、古文の格《サマ》なり、次の天(ノ)岩屋の段などには、猶多く重ね云り、

〇待問《マチトヒタマハク》、萬葉七【廿丁】に、平城有人之待問者如何《ナラナルヒトノマチトハバイカニ》、十七【二十一丁】に、安我麻知刀敷爾《アガマチトフニ》、

〇邪心は、伎多那伎心《キタナキココロ》と訓べし、こゝを書紀には、黒心《キタナキココロ》とも惡心《キタナキココロ》ともあり、

〇大御神は伊邪那岐(ノ)大御神なり、御兄弟《ミハラカラ》の間《アヒダ》にて、共に御父なる故に、たゞに如此《カク》は白《マヲ》したまふなるべし、

〇命《ミコト》は御言なり、

〇白都良久《マヲシツラク》は、白都流《マヲシツル》の流《ル》を延(ヘ)て良久《ラク》と云、伊布《イフ》を伊波久《イハク》、麻乎須《マヲス》を麻乎佐久《マヲサク》と云に同じ、續紀四【二丁】に、天皇乃詔豆羅久《スメラミコトノノリタマヒツラク》云々、答曰豆羅久《マヲシツラク》、又九【十七丁】に、教賜詔賜都良久《ヲシヘタマヒノリタマヒツラク》などあり、

〇神夜良比《カムヤラヒ》云々、比《ヒ》の下に邇《ニ》てふ辭なき例も多し、書紀に、神祝々之此(ヲ)云(フ)2加武保佐枳保佐枳々《カムホサキホサキキト》1とも、此記に、伊都能知和伎知和伎弖《イツノチワキチワキテ》とも見ゆ、

〇以爲は淤母比弖《オモヒテ》と訓べし記中例多し、

〇異心は氣志伎心《ケシキココロ》と訓べし、萬葉十四に、家思吉己許呂乎安我毛波奈久爾《ケシキココロヲアガモハナクニ》、又十五(ノ)卷にも、如此《カクノゴト》く連《ツヅキ》たる歌二(ツ)ある、一(ツ)は異情《ケシキココロ》と書り、【彼(レ)をばアダシ心と訓(ミ)を附(ケ)たれど、例に依て其(レ)も氣志伎心《ケシキココロ》と訓べし、】此《ココ》の異心の訓も、相(ヒ)照して知べし、さて始(メ)に無《ナシ》2邪心《キタナキココロ》1と白《マヲ》して、又こゝにかく無《ナシ》2異心《ケシキココロ》1と白したまふは、今|言《マヲシ》つる事の由《ヨシ》の外に、別意趣《コトココロ》はなしとなり、

〇清明は、萬葉廿に、加久佐波奴《カクサハヌ》、安加吉許己呂乎《アカキココロヲ》、十五に、安我己許呂《アガココロ》、安可志能宇良爾《アカシノウラニ》、などあるに依て、二字合(セ)て阿加伎《アカキ》と訓べし、續紀一に、明支清支直支誠之心以而《アカキキヨキナホキマコトノココロヲモチテ》云々、又九に、清支明支正支直支心以《キヨキアカキタダシキナホキココロヲモチテ》云々、又十に、浄伎明心乎持弖《キヨキアカキココロヲモチテ》などもあり、【是らに依(ラ)ば、此《ココ》も伎與伎阿加伎《キヨキアカキ》とも訓べし、】書紀に、將何以明爾之赤心《イカニシテミマシノアカキココロヲシラム》とも、清心《キヨキココロ》とも、また汝(ノ)心(ノ)明淨《キyポク》とも見え、仲哀(ノ)卷に、汝熊鰐者《ナレクマヮニハ》、有(リテ)2明心《アカキココロ》1以|參來《マヰキヌ》、敏達(ノ)卷に、用《モチテ》2清明心《キヨクアカキココロヲ》1、事2奏《ツカヘマツラム》天闕《ミカドニ》1、なども見えたり、【これらも皆同(ジ)く、阿加伎心《アカキココロ》とも訓べし、明《アカ》きも即(チ)清《キヨ》きことにて、意はひとし、萬葉一に、今夜乃月夜清明己曾《コヨヒノツクヨスミアカクコソ》とあるをも、師は、阿伎良氣久己曾《アキラケクコソ》となむ訓れし、まことにすみあかくといふ言は、いかにぞやおぼゆ、】萬葉十三【十九丁】に、吾情清隅之池之《ワガココロキヨスミノイケノ》ともあり、

〇各は、此《ココ》は淤能母淤能母《オノモオノモ》と訓べし、續紀廿六【十一丁】宣命に、於乃毛於乃毛《オノモオノモ》と見えたり、己《オノ》も己《オノ》もと云意なり、

〇宇氣比《ウケヒ》、書紀に、誓約とも誓とも書て、誓約之中此(ヲ)云(フ)2宇氣臂能美難箇《ウケヒノミナカト》1ともあり、宇氣比《ウケヒ》と云言は、此卷の末、中(ツ)卷にも見えたり、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)祝詞に、云々止宇氣比賜支《シカシカトウケヒタマヒキ》、萬葉四【五十六丁】に、得飼飯而雖宿《ウケヒテヌレド》、夢爾不所見來《イメニミエコヌ》、十一【八丁】に、妹相《イモニアハムト》、受日鶴鴨《ウケヒツルカモ》、書紀神功(ノ)卷に、祈狩此(ヲ)云2于氣比餓利《ウケヒガリト》1などもあり、見集《ミアツ》めて其事の樣は知べし、

〇生子は、御子宇麻那《ミコウマナ》と訓べし、那《ナ》は牟《ム》と云に同じ意の古言なること、前に云るがごとし、

 

故爾各中置天安河而字氣布時《カレココニオノモオノモアメノヤスノカハヲナカニオキテウケフトキニ》。天照大御神先乞度建速須佐之男命所佩十拳劔《アマテラスオホミカミマヅタケハヤスサノヲノミコトノミハカセルトツカツルギヲコヒワタシテ》。打折三段而《ミキダニウチヲリテ》。奴郡登母母由良爾《ヌナトモモユラニ》。【此八字以音下效此】振滌天之眞名井而《アメノマナヰニフリススギテ》。佐賀美爾迦美而《サガミニカミテ》。【自佐下六字以音下效此】於吹棄氣吹之狹霧所成神御名《フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ》。多紀理毘賣命《タキリビメノミコト》。【此神名以音】亦御名謂奥津嶋比賣命《マタノミナハオキツシマヒメノミコトトマヲス》。次市寸嶋 上 比賣命《ツギニイチキシマヒメノミコト》。亦御名謂狹依毘賣命《マタノミナハサヨリビメノミコトトマヲス》。次多岐都比賣命《ツギニタギツヒメノミコト》。【三柱。此神以音】速須佐之男命《ハヤスサノヲノミコト》。乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾※〔王+總の旁〕之五百津之美須麻流珠而《アマテラスオホミカミノヒダリノミミヅラニマカセルヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲコヒワタシテ》。奴郡登母母由良爾《ヌナトモモユラニ》。振滌天之眞名井而《アメノマナヰニフリススギテ》。佐賀美邇迦美而《サガミニカミテ》。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名《フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ》。正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命《マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミノミコト》。亦乞度所纏右御美豆良之珠而《マタミギリノミミヅラニマカセルタマヲコヒワタシテ》。佐賀美邇迦美而《サガミニカミテ》。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名《フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ》。天之菩卑能命《アメノホヒノミコト》。【自菩下三字以音】亦乞度所纏御鬘之珠而《マタミカヅラニマカセルタマヲコヒワタシテ》。佐賀美邇邁迦美而《サガミニカミテ》。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名《フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ》。天津日子根命《アマツヒコネノミコト》。又乞度所纏左御手之珠而《マタヒダリノミテニマカセルタマヲコヒワタシテ》。佐賀美邇迦美而《サガミニカミテ》。於吹棄気吹之狹霧所成神御名《フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ》。活津日子根命《イクツヒコネノミコト》。亦乞度所纒右御手之珠而《マタミギリノミテニマカセルタマヲコヒワタシテ》。佐賀美邇迦美而《サガミニカミテ》。於吹棄気吹之狹霧所成神御名《フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ》。熊野久須毘命《クマヌクスビノミコト》。【并五柱。自久下三字以音】

各《オノモオノモ》は、字氣布《ウケフ》へ係《カケ》て心得べし、たがひにと云むが如し、【源氏物語若菜(ノ)上に、おの/\はまたなく契りおきてければ云々、これも互《タガヒ》にの意なり、】

〇天安河は、安(ノ)下に之(ノ)字を加へても書り、阿米能夜須能迦波《アメノヤスノカハ》と訓べし、天上《アメ》にある河なり、名義《ナノココロ》は、古語拾遺に天(ノ)八湍(ノ)河原ともあれば、彌瀬之河《イヤセノカハ》にや、【書紀に天(ノ)八十河中《ヤソノカハラ》とあるも、同(ジ)河と聞ゆ、須《ス》と世《セ》と曾《ソ》と皆通ふ音なり、神代の天上の故事《フルコト》を云る、皆此河(ノ)名を云て、他《アダシ》河(ノ)名は見えざれば、是(レ)は一(ツ)の河(ノ)名にはあらで、たゞ流(レ)のいくすぢもありて、大きなる河を云なるべし、】萬葉十【三十二丁】に、天漢安之川原乃《アマノガハヤスノカハラノ》、十八【三十三丁】に安麻泥良須《アマテラス》、可未能御代欲里《カミノミヨヨリ》、夜洲能河波《ヤスノカハ》、奈加爾敝太弖弖《ナカニヘダテテ》、牟可比大知《ムカヒダナ》、【こは七夕(ノ)歌なれど、語のつゞきは、此《ココ》の故事を思へるにや、】十【二十五丁】に、天漢安渡《アマノガハヤスノワタリ》ともよめり、【凡て萬葉に賦《ヨメ》るは、皆七夕の歌なり、其《ソ》は漢《カラ》國にて云(フ)ことなるを、御國にも效《ナラヒ》て、彼集より歌にも多くよめる、其(ノ)棚機女《タナバタツメ》又|安河《ヤスノカハ》など云名は、此方《ココ》の古(ヘ)の傳(ヘ)を取(リ)て、引合せたるものなり、】近江(ノ)國にも安河《ヤスガハ》と云あり、【天武紀より見ゆ、そは天上《アメ》なる名を移《ウツ》せるか、又彼(レ)は郡(ノ)名より出て別か、】此時に成(リ)坐る神(ノ)名の日子根《ヒコネ》も、彼(ノ)國の地名にあり、

〇中置《ナカニオキ》は、中間《ナカ》に隔《ヘダ》つるなり、萬葉十一【二十八丁】に、紅之襴引道乎中置而《クレナヰノスソヒクミチヲナカニオキテ》云々、一云(フ)2須蘇衝河乎《スソツクカハヲト》1、

〇所佩は、上の例に依て、御《ミ》を添(ヘ)て、美波加世流《ミハカセル》と訓べし、

〇乞度《コヒワタシ》は、乞取《コヒトル》云むが如し、即(チ)書紀には、索取乞取など書り、度《ワタス》とは、今は人にやるをのみ云(ヘ)ど、古(ヘ)は此方《コナタ》へ取《トル》をも云しなり、

〇三段《ミキダ》、段を伎陀《キダ》と訓(ム)は、和名抄に、筑前(ノ)國鞍手(ノ)郡新分(ハ)爾比岐多《ニヒキダ》とある、此(ノ)分(ノ)字を岐多《キダ》と云に同じ、豐後|大分《オホイダノ》郡も、本はおほきだなり、景行紀に、碩田とかきて於保岐陀《オホキダ》と訓注あり、さて三段に折たまへる故に、三柱(ノ)神生(リ)坐るなるべし、

〇奴那登母々由良爾《ヌナトモモユラニ》、書紀に瓊響※〔王+倉〕々と書れて、此事は前に云り、さて此(ノ)語に疑(ハ)しきことあり、此次に須佐之男(ノ)命の、天照大御神の玉を乞度《コヒワタシ》て、滌《ススギ》たまふ處に如此《カク》云るは、かの玉に就《ツキ》てなるを、此《ココ》は玉に非ず、劔を云(フ)處なるに、如此《カク》あるは如何《イカニ》ぞや、次なると上下の文の同(ジ)き故に、まがへて此《ココ》にも云傳《イヒツタ》へしにや、【もし劔に飾れる玉の音かとも思へど、そは物遠し、又|振滌《フリススギ》たまふによりて、御手に纏《マカ》せる玉の、搖《ウゴキ》て鳴(ル)音ともいはむか、もし然らば次なるも、別に須佐之男(ノ)命の御手にまかせる玉の音とすべきか、されど彼(レ)は正《マサ》しく滌《ススギ》たまふ玉の音なれば、同じ語の此《ココ》と彼《カシコ》と別《コト》ことなるべくもあらぬをや、かにかくに此《ココ》は誤(リ)と見ゆ、】書紀(ノ)一書に此(ノ)語あるは、たゞ須佐(ノ)之男(ノ)命の、玉を滌《スス》ぎたまふ方にのみありて、天照大御神の方には見えず、

〇天之眞名井《アメノマナヰ》、書紀一書に、天渟名井《アメノヌナヰ》ともあるを合せて思ふに、眞渟名井《マヌナヰ》を約《ツヅメ》たる【奴那を切《ツヅメ》て那となる、】名にて、眞《マ》は美稱《ホメコト》、【眞水を云など云る説は、例のいとうるさし、】渟《ヌ》は凡て水の湛《タタヘ》たる所を云、【沼《ヌ》も同じ、】名《ナ》は借字にて之《ノ》なり、【之《ノ》を那《ナ》と云る例多し、】されば此《コ》はたゞ井を美《ホメ》て云る稱にて、一(ツ)の井の名には非ず、故(レ)書紀に掘(テ)2天(ノ)眞名井三處(ヲ)1とも有(ル)ぞかし、又此(ノ)井は、即(チ)安(ノ)河瀬の中《ウチ》にて、井と云べき所を指(シ)て云るにて、別に尋常云《ヨノツネイフ》井ありしには非ず、【書紀に、此(ノ)井を云る傳(ヘ)には河を云(ハ)ず、河を云る傳(ヘ)には此井を云ざるも、此故にや、】始(メ)に中(ニ)2置(テ)天(ノ)安(ノ)河(ヲ)1と云(ヒ)おきて、今|此《ココ》に如此《カク》言《イフ》は、別に非ること明けし、凡て古(ヘ)は、泉にまれ川にまれ、用る水に汲《クム》處を井と云り、さて丹後(ノ)國丹波(ノ)郡比沼麻奈爲《ヒヌノマナヰノ》神社、出雲(ノ)國意宇(ノ)郡眞名井(ノ)神社あり、官(ノ)帳に見ゆ、

〇佐賀美《サガミ》云々、書紀に、※〔齒+吉〕然咀嚼此(ヲ)云2佐我彌爾加武《サガミニカムト》1とあり、玉篇に※〔齒+吉〕(ハ)※〔契の大が齒〕《カム》v堅(キヲ)聲(ナリ)と注せり、かゝれば蹙※〔契の大が齒〕《シカミガミ》を約《ツヅメ》て、佐賀美《サガミ》とは云なり、【志加《シカ》を切《ツヅムレ》ば佐《サ》なり、美《ミ》を略く、】堅(キ)物を※〔契の犬が齒〕《カ》めば、口《クチ》の蹙謂《シカムイヒ》なり、

○吹棄云々、書紀に吹棄氣噴之狹霧、此(ヲ)云2浮枳于都屡伊浮岐能佐擬理《フキウツルイブキノサギリト》1、とあるに依て訓べし、棄を宇都流《ウツル》と言る例は、八千矛(ノ)神(ノ)御歌に見ゆ、

○氣吹《イブキ》は息吹《イキブキ》なり、【伊《イ》とのみ云も即(チ)息《イキ》なり、】大祓(ノ)辭に、氣吹戸坐須氣吹戸主止云神《イブキドニマスイブキドヌシトイフカミ》、根國底之國爾氣吹放※〔氏/一〕牟《ネノクニソコノクニニイブキハナチテム》、式に、近江(ノ)國坂田(ノ)郡、美濃(ノ)國不破(ノ)郡などに、伊夫伎《イブキノ》神社と申すもあり、

○狹霧《サギリ》、狹《サ》は眞《マ》と同意の言なり、佐牡鹿《サヲシカ》を眞男鹿《マヲシカ》とも云るにて知(ル)べし、又|佐夜中《サヨナカ》は眞夜中《マヨナカ》、佐衣《サゴロモ》は眞衣《マゴロモ》と云に同じ、【此(ノ)餘も佐某《サナニ》と云こと多し、皆同じ、】股地(ノ)名に佐檜前《サヒノクマ》など云は、眞熊野《マクマヌ》など云と通ひて聞ゆるを、その眞熊野《マクマヌ》を御熊野《ミクマヌ》とも云て、眞《マ》と御《ミ》と通へるに、大祓(ノ)詞に、朝之御霧夕之御霧《アシタノミギリユフベノミギリ》とあるを以て、狹霧《サギリ》は眞霧《マギリ》なることを知(ル)べし、さて息《イキ》を霧《キリ》と云る例は、萬葉五【六丁】に、大野山紀利多知和多流《オホヌヤマキリタチワタル》、和何那宜久於伎蘇乃可是爾《ワガナゲクオキソノカゼニ》、紀利多知和多流《キリタチワタル》、【於伎は息《オキ》なり、】十五【四丁】に、君之由久海邊乃夜抒爾奇里多々婆《キミガユクウミベノヤドニキリタタバ》、安我多知奈氣久伊伎等之理麻勢《アガタチナゲクイキトシリマセ》、書紀雄略(ノ)卷に、猪鹿多有《シシオホカリ》云々、呼吸氣息《イブクイキ》似《ナセリ》2於|朝霧《アサギリ》1などもあり、

○多紀理毘賣《タキリビメノ》命、書紀の田心姫《タコリビメ》に當《アタ》れり、【紀《キ》と許《コ》と通音、】たゞ一書に田霧姫《タキリビメノ》命とはあり、さて亦(ノ)御名は、下文に此(ノ)神は胸形之奥津宮《ムナカタノオキツミヤ》に坐(ス)とあれば、此(ノ)由なるべし、式に近江(ノ)國蒲生(ノ)郡奥津嶋神社あり、【三代實録にもいづ、】是(レ)も此神にや、

〇市寸嶋比賣《イチキシマヒメノ》命、式に安藝(ノ)國佐伯(ノ)郡|伊都伎嶋《イツキシマノ》神社、【三代實緑にも見ゆ、即(チ)嚴嶋なり、】是(レ)も此(ノ)神なるべし、纂疏などにも然《シカ》あり、

〇多岐都比賣《タギツヒメノ》命、右(ノ)三柱」の御名義《ミナノココロ》、まづ多紀理《タキリ》も多岐も、河の早瀬《ハヤセ》の状《サマ》を云(フ)言なれば、安(ノ)河に依れる御名にや、さて初の奥津嶋比賣を亦(ノ)御名とする例によらば、次《ツギ》も狹依毘賣《サヨリビメノ》命亦(ノ)御名(ハ)市寸嶋比賣(ノ)命なるべし、【此事下に考へあり、】さて狹依《サヨリ》は眞宜《マヨロ》しの意の稱名《タタヘナ》、市寸《イチキ》はいつくしなり、【此御名は、前後の二柱の御名の例とは類《ニ》ず、】さて多紀理《タキリ》と多岐都《タギツ》とは、全《モハラ》意も言も同きを、二柱の御名とせむこといかゞ、と云疑(ヒ)も有(リ)ぬべけれど、次の五男神の御名の例も、皆|然《シカ》なれば、疑ふべからず、【又|多岐理《タギリ》の岐《ギ》も、多岐都《タギツ》と同く濁る例なれば、岐(ノ)字を書べきに、清音の紀(ノ)字を書き、又書紀に田心《タコリ》とあるなどを合せて思ふに、別意ありげにも聞ゆれど、猶上に云る意なるべし、さて此(ノ)三神の御名を、心の動静を以て説《トケ》るなどは、さらに由《ヨシ》なし、田心姫と書る文字よりおもひよれるにや、あなをかし、】さて此三柱の御事、書紀の諸(ノ)傳(ヘ)を考るに、次第みな異《コト》に、或は瀛津嶋姫《オキツシマビメ》別に有て、市杵嶋姫《イチキシマヒメ》無《ナ》く、又は瀛津嶋姫亦(ノ)名(ハ)市杵嶋姫などありて、多紀理毘賣の亦(ノ)名奥津嶋比賣と云説は見えず、又狹依毘賣と申す名も、凡て見えざるなり、又彼紀には、市杵嶋姫|遠瀛《オキツミヤ》に坐(シ)、田心姫|中瀛《ナカツミヤ》に坐(ス)とあるも、此記と異なり、故(レ)思ふに、此記も、多紀理毘賣と市寸嶋比賣とを置替《オキカヘ》て、市寸嶋比賣(ノ)命亦(ノ)御名(ハ)奥津嶋比賣(ノ)命、次(ニ)多紀理毘賣(ノ)命亦(ノ)御名(ハ)狹依毘賣(ノ)命云々とするときは、彼(ノ)諸(ノ)傳(ヘ)と皆合(フ)なり、されど此記も、後に誤(リ)てまがへつるものとはた見えず、元《モト》より傳(ヘ)の異なりしなるべし、

〇正勝云々、正勝は、書紀に正哉と書ると合せて、此(レ)も彼(レ)も麻佐加《マサカ》と訓べし、哉を加《カ》と訓(ム)は固《モトヨリ》論なし、【書紀にマサヤと云訓を附(ケ)たるはひがことなり、】勝を加《カ》と訓(マ)む由(シ)は、此記に正鹿山津見《マサカヤマツミ》とある神を、書紀には正勝山祇と書り、此(ノ)勝も彼(レ)此(レ)相照(シ)て加《カ》と訓べし、【かの訓注に、正勝此(ヲ)云2麻佐柯※〔少/兎〕(ト)1とあるを、江家(ノ)本に※〔少/兎〕(ノ)字なしと云り、其本ぞよろしかるべき、】此(レ)同(ジ)例なり、さて言の意は、書紀の字の如くにて、正《マサ》しき哉《カモ》と云むが如し、【又此記は、字の如く正《マサ》しく勝《カチ》ぬと云意にてもあらむか、さらば麻佐加都《マサカツ》と訓べし、されど書紀と合せてなほ前《マヘ》の義《ココロ》ぞよけむ、】吾勝《アカツ》は、下文に自我勝云而《オノヅカラアカチヌトイヒテ》とある意なり、書紀一書に、便(チ)化2生《ナシタマヒヌ》男(ヲ)1矣、則|稱之曰《コトアゲシタマハク》、正哉吾勝《マサシカアカチヌトノタマフ》故因名《カレソノミナヲ》曰《イフ》2云々《シカシカト》1とも見ゆ、勝速日は加知波夜備《カチハヤビ》と訓べし、【古來《イニシヘヨ》り加都乃波夜比《カツノハヤヒ》と訓るは、古言のふりをもえわきまへ知(ラ)ぬものぞ、】下文に於《ニ》2勝佐備《カチサビ》1云々とあると同(ジ)意にて、【佐備《サビ》のこと、彼處《カシコ》に委く云を合せ見よ、】速《ハヤ》は、疾《ト》く烈《ハゲシ》く猛《タケ》き意、日《ビ》は夫流《ブル》とも活《ハタラキ》て、其(ノ)状《サマ》を云辭にて、速日《ハヤビ》は、即(チ)知波夜夫流《チハヤプル》の波夜夫流《ハヤブル》と同(ジ)言なり、上の甕速日《ミカハヤビ》樋速日《ヒハヤビ》、又|繞速日《ニギハヤビ》など皆同じ、【日(ノ)字に就ていふ説などは、例の古言を知(ラ)ぬ強言《シヒゴト》なり、】忽穗耳《オシホミミ》は、大々耳《オホシオホミミ》にて美稱なり、忍《オシ》の大《オホシ》なることは、上の忍許呂別《オシコロワケ》の所【傳五の八葉】に云り、穗《ホ》も大《オホ》なり、大《オホ》の意《オ》を省《ハブキ》て富《ホ》とのみ云る例多し、中にも書紀に三穗之碕《ミホノサキ》とある地名を、此記には御大之前《ミホノサキ》と書るなど、此《ココ》によく合《ア》へり、【邇々藝《ニニギノ》命より御次々三御代の大御名は、みな稻穗《イナボ》を以て稱《タタヘ》奉れれば、其一(ツ)例として、此(ノ)御名をも、字の如く稻穗とせむもさることなれども、彼(ノ)三御代の御名は、天降坐て後、此(ノ)水穗(ノ)國を所知看《シロシメ》せるうへにて、稱(ヘ)奉れるものなる故に、稻穗に依(レ)るを、此(ノ)尊《ミコト》は此(ノ)土《クニ》には降(リ)坐(サ)ざれば、御趣異なり、かの書紀なる齋庭之穗《ユニハノホ》の詔命《オホミコト》も、邇々藝(ノ)命の御段《ミクダリ》に係《カカ》れるをも思ふべし、次なる三御代の御名の事は、彼《ソノ》處々にいへるを見て知べし、】耳《ミミ》は尊稱《タフトミナ》なり、【耳(ノ)字はもとより借字、】下に布帝耳《フテミミノ》神と云あり、又神武天皇の御子たちに、某耳《ナニミミ》と申す多く、其外の人(ノ)名にも多かる、皆同じことなり、さて書紀一書に、忍穗根《オシホネノ》尊【忍骨とも書り、】ともある、穗《ホ》は右に同く、根《ネ》も耳《ミミ》と云が如き尊稱にて、某根《ナニネ》と云例は殊に多し、上の阿夜※〔言+可〕志古泥《アヤカシコネノ》神の所【傳三の四十五葉】に云り、即(チ)次の彦根の根も同じ、さて伊邪河(ノ)宮(ノ)段なる神大根王《カムオホネノミコ》【開化天皇の御孫なり、】を、書紀には神骨《カムホネ》とあり、此(ノ)例にて忍穗根《オシホネ》は忍大根《オシオホネ》なることを知(ル)べく、又|穗耳《ホミミ》の大耳《オホミミ》なることもいよゝ明《アキラ》けし、なほいはば、書紀神代(ノ)下(ツ)卷には、勝速日尊兒天大耳尊《カチハヤビノミコトゴアメノオホミミノミコト》とも有(ル)を以て、思ひ定むべし、【こは忍《オシ》てふ言を略て、天之穗耳(ノ)命と云むに同じ、又|尊兒《ミコトゴ》は、尊《タフト》み親《シタシ》みて云るなり、尊之子《ミコトノコ》と云には非ず、凡て此神の御名、舊説皆誤れり、他の例をよく考(ヘ)合せて、古(ヘ)の意《ココロ》言《コトバ》をば尋ぬべきものぞ、】さて耳《ミミ》てふ尊稱の意は、美《ミ》は比《ヒ》に通ひて、かの産靈《ムスビ》などの靈《ヒ》なるを、【産靈の意は、傳三の十三葉に云り、】靈々《ヒヒ》と重ねたるものなり、開化天皇の大御名|大毘々《オホビビノ》命と申す是なり、此(レ)を書紀には太日々《フトビヒノ》尊とありて、垂仁(ノ)卷に太耳《フトミミ》と云人(ノ)名もあるを以て、日々《ヒヒ》と耳《ミミ》と同じきことを知べし、又明(ノ)宮(ノ)段なる前津見《マヘツミ》てふ人(ノ)名を、書紀には前津耳《マヘツミミ》とある【又水垣(ノ)宮(ノ)段に、陶津耳《スエツミミ》とあるを、舊事紀には大陶祇《オホスエツミ》と云るも、據あるなるべし、】を以て、耳《ミミ》と云は美《ミ》を二(ツ)重ねたるにて、見《ミ》と云は、其《ソ》を一(ツ)略けるものなることを知べし、神(ノ)名人(ノ)名に某見《ナニミ》と云が多きは、皆是(レ)にて、水垣(ノ)宮(ノ)段に岐比佐都美《キヒサツミ》、書紀に武茅渟祇《タケチヌツミ》などある名の都美《ツミ》も、津耳《ツミミ》の略なり、【是(レ)を以て見れば、山津見綿津見|大加牟豆美《オホカムヅミ》なども、同じく津耳《ツミミ》にてもあらむか、又月夜見の見《ミ》も耳《ミミ》ならむか、】さて耳《ミミ》と日々《ヒヒ》と通はし云例にて、かの津見《ツミ》も津日《ツビ》と通へること、禍津日(ノ)神|庭高津日《ニハタカツビノ》神などにて知べし、又某須美《ナニスミ》と云名と、某須毘《ナニスビ》と云と通ふこと、次に見えたり、右の名どもを考(ヘ)合せて、耳《ミミ》の靈々《ヒヒ》なることをさとるべし、さて山城(ノ)國(ノ)風土記に、宇治(ノ)郡木幡(ノ)社(ノ)名《ミナハ》天(ノ)忍穗根(ノ)尊、【式に、彼(ノ)郡(ニ)許波多(ノ)神社載れり、】又式に、豐前(ノ)國田川(ノ)郡忍骨(ノ)神社、【賊後紀六に、此社の御山のこと見ゆ、】土左(ノ)國香美(ノ)郡天(ノ)忍穗別(ノ)神社【別《ワケ》も耳《ミミ》根《ネ》の類の尊稱なり、】などあり、伊勢(ノ)外宮《トツミヤ》に、忍穗井と云井の名もあり、

〇是(レ)より下|何《イヅ》れも、八尺(ノ)勾※〔王+總の旁〕之云々、奴那登母云々など云語なきは、上《カミ》に讓《ユヅリ》て文《コトバ》を略けるなり、

〇天之菩卑能命《アメノホヒノミコト》、【能(ノ)字を添たることめづらし、】此(レ)も本(ト)右の穗耳《ホミミ》と同(ジ)言にて、菩《ホ》は大《オホ》なり、卑《ヒ》は美《ミ》と通ひて、その実《ミ》は右に云る耳《ミミ》の略なり、さてしか菩卑《ホヒ》も穗耳《ホミミ》と同くば吾勝(ノ)命と御兄弟《ミハラカラ》御名の同(ジ)きは如何《イカニ》と云に、上の三女神の中の多紀理《タキリ》と多岐都《タギツ》も同(ジ)意言なる如く、又書紀に、次の熊野久須毘(ノ)命を、忍蹈《オシホミノ》命ともあるは、忍穗耳と正《マサ》しく同(ジ)言なる例なり、かゝれば御兄弟《ミハラカラ》たちの御名も、たゞいさゝかのけぢめを以(テ)分(ケ)奉(リ)しものぞ、【延喜六年日本紀竟宴、得2天(ノ)穗日(ノ)命(ヲ)1、矢田部(ノ)公望、阿磨能褒臂《アマノホヒ》、俄彌農美飫野簸《カミノミオヤハ》、耶佐賀珥廼《ヤサカニノ》、伊朋津儒波屡濃《イホツスバルノ》、※〔にんべん+嚢〕莽登胡楚耆鷄《タマトコソキケ》、】神名帳、山城(ノ)國宇治(ノ)郡、因幡(ノ)國高草(ノ)郡、出雲(ノ)國能義(ノ)郡などに、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)神社あり、出雲(ノ)風土記に、天乃夫比《アメノフヒノ》命とあるも、此神なるべし、

〇御鬘《ミカヅラ》は、舊印本に右(ノ)御美豆良とあるを、延佳が御迦豆良と改めつるは宜し、但(シ)上文に御美豆良は假字《カナ》に、御鬘《ミカヅラ》は正字《マサモジ》に書り、【黄泉(ノ)段も然り、】此《ココ》も正《マサ》しく上《カミ》を承《ウケ》たる所なれば、上文の隨《ママ》に書(ク)べきことなり、故(レ)今又改めつ、【豆良(ノ)二字、舊《フルキ》に依むもさることなれど、じは迦(ノ)字一(ツ)を誤れるには非ず、上文とまがひて、惣て誤れるものなれば、字に拘《カカハ》るべきにはあらず、

又一本に、右(ノ)御手と作《ア》るもひがことなり、其《ソ》は下にあればなり、】

〇天津日子根《アマツヒコネノ》命、名義ことなることなし、根は尊稱、上に云るが如し、伊勢(ノ)國桑名(ノ)郡|多度《タドノ》神社は、此神なりとぞ、【姓氏録(ニ)、桑名(ノ)首(ハ)天津彦根(ノ)命(ノ)男天(ノ)久之比乃命(ノ)之後也とあり、又此神近江(ノ)國に由あることは下文に蒲生(ノ)稻寸の祖と見え、姓氏録に、犬上(ノ)縣主(ハ)天津彦根(ノ)命(ノ)之後也とある、これらかの國の地(ノ)名なり、又伊邪河(ノ)宮(ノ)段なる、天(ノ)御影(ノ)神の下考ふべし、傳二十二の六十一の葉、】

〇活津日子根《イクツヒコネノ》命、凡て上代神又人(ノ)名にも、又さらでも、活《イク》といふ言多く見ゆ、地(ノ)名に生國《イクグニ》あり、【津(ノ)國なり、】出雲(ノ)國(ノ)造(ノ)神賀(ノ)詞に、今日能生日能足日《ケフノイクヒノタルヒ》といひ、神祇官(ニ)坐(ス)八神(ノ)中にも、生産日《イクムスビ》足産日《タルムスビ》と並び、座摩《ヰガスリノ》御巫(ノ)祭(ル)神(ノ)中にも、生井《イクヰノ》神福井(ノ)神とも並べり、是《コ》を以て思ふに、活杙《イクグヒノ》神より起《オコリ》て、生活の字の意にて、もと賀言《ホギコト》なるを以て、美稱《タタヘ》つるなるべし、【近江(ノ)國蒲生(ノ)郡彦根(ノ)神社と申すは、此神なりといへり、】

〇熊野久須毘《クマヌクスビノ》命、熊野《クマヌ》は地名《トコロナ》なり、出雲(ノ)國|意宇《オウノ》郡の熊野なるべし、【此(ノ)熊野の事は、傳九の四十二葉に委く云り、】久須毘《クスビ》は、久志須毘《クシスビ》を約《ツヅメ》たるなり、【志須《シス》を切《ツヅム》れば須《ス》なり、】その久志《クシ》は奇靈《クシ》なり、【書紀に、奇魂此(ヲ)云2倶斯美※〔手偏+施の旁〕摩《クシミタマト》1、また奇稻田姫《クシナダビメ》、また奇靈《クシビアヤシキ》などあり、さて續紀廿七に、久須之久奇事乎《クスシクアヤシキコトヲ》云々ともあれば、今も直《タダ》に久須《クス》を奇《クシ》とせむもあしからねど、某須毘《ナニスビ》てふ例を思へば、なほ久志須毘《クシスビ》の約れるなり、】須毘《スビ》は、書紀に、熊野|大隅《オホスミノ》命とも忍隅《オシスミノ》命とも有て、隅《スミ》と同じ、なほ須美《スミ》の例は、水垣(ノ)宮(ノ)段に飯肩巣見《イヒカタスミノ》命、伊邪河(ノ)宮(ノ)段に比古由牟須美《ヒコユムスミノ》命などもありて、某産巣日《ナニムスビノ》神といふ巣日《スビ》と通ひて、美《ミ》は耳《ミミ》の略《ハブキ》なること、忍穂耳(ノ)命の所に云るがごとし、此(ノ)御名書紀には、熊野忍蹈《クマヌオシホミノ》命ともあり、式に出雲(ノ)國意宇(ノ)郡|志保美《シホミノ》神社あるは、此(ノ)忍《オシ》の意《オ》を略《ハブ》ける神號なるべし、

〇并五柱、此(ノ)三字諸本皆大字にて、訓注の下にあり、今前後を考るに、此(ノ)例みな細注にかけり、又伊豆能賣(ノ)神多岐都比賣(ノ)命などの下に註せる、皆訓注の上にあり、故(レ)今は例の隨《ママ》に書つ、


於是天照大御神告速須佐之男命《ココニアマテラスオホミカミハヤスサノヲノミコトニノリマハク》。是後所生五柱男子者《コノノチニアレマセルイツハシラノヒコミコハ》。物實因我物所成《モノザネアガモノニヨリテナリマセリ》。故自吾子也《カレオノヅカラアガミコナリ》。先所生之三柱女子者《サキニアレマセルミバシラノヒメミコハ》。物實因汝物所成《モノザネミマシノモノニヨリテナリマセリ》。故乃汝子也《カレスナハチミマシノミコナリ》。如此詔別也《カクノリワケタマヒキ》。

是後云々《コノノチニシカシカ》、こは是《コノ》と、輕《カロ》く讀切《ヨミキル》べし、是後《コノノチ》と連讀《ツヅケヨム》べからず、是《コノ》とは、五男三女を惣《スベ》て指《サス》御言なればなり、

〇所生は阿禮麻世流《アレマセル》と訓べし、阿禮坐てふことは、中卷橿原(ノ)朝(ノ)段に見えたり、彼處《ソコ》【傳二十の三十五葉】に委く云べし、さて此《ココ》の御言は、汝所生《ミマシノウメル》吾所生《アガウメル》とあるべきことなるに、然《サ》はあらで、たゞ後先《ノチニサキニ》とあること故《ユヱ》あり、まづ書紀の旨《ムネ》は、素戔烏(ノ)尊の御言に、如吾所生《モシアガウメラムミコ》是|女者《ヲミナナラバ》云々、若《モシ》是|男者《ヲノコナラバ》云々とも、日(ノ)神(ノ)所生三女神云々、素戔烏(ノ)尊(ノ)所生之兒皆已(ニ)男矣ともありて、三女神は、天照大御神の生《ウミ》坐る御子、五男神は、須佐之男(ノ)命の生《ウミ》坐る御子と、本より分れたり、然るに此記の旨《ムネ》は、誓《ウケヒ》の間《アヒダ》に一連《ヒトツヅキ》に生《アレ》坐て、三女五男共に、大御神と須佐之男(ノ)命との御子にて、此(レ)は大御神の御子、此(レ)は須佐之男(ノ)命の御子と云|分《ワキ》は本あらず、此《ココ》の詔《ミコト》に、たゞ先後《サキノチ》を以て詔ふは此(ノ)故なり、なほ此事下にも次々《ツギツギ》いふを見べし、さて後《ノチ》に生《アレ》坐る方を先(ヅ)詔ひ、先《サキ》に生《アレ》坐る方を次《ツギ》に詔ふは、物實《モノザネ》の尊卑《タカキイヤシキ》を以てなり、【御自詔《ミミヅカラノタマフ》御言なるすら如此《カカ》り、大御神の尊《タフトキ》こと知べし、】

〇男子女子は、比古《ヒコ》美古《ミコ》比賣美古《ヒメミコ》と訓べし、【比古美古は、子《コ》てふ言|重《カサ》なるに似たれど、くるしからず、舊《フル》く麻須良袁《マスラヲ》多袁夜賣《タヲヤメ》、また比古賀微《ヒコガミ》比賣賀微《ヒメガミ》など訓《ヨメ》れど、よろしとも所思《オボエ》ず、】書紀孝元(ノ)卷に、生2二男一女(ヲ)1、また垂仁(ノ)卷に生2三男(ヲ)1、これらの男女を然《シカ》訓るに依れり、

〇物實は毛能邪泥《モノザネ》と訓べし、書紀には物根《モノダネ》とあり、佐泥《サネ》と多泥《タネ》とは、其(ノ)物も名も通へり、後(ノ)世にも人の母《ハハ》を云には某(ノ)腹《ハラ》、父を云にほ某(ノ)種《タネ》と云(フ)、木草の種子《タネ》も同じ、此《ココ》も其意なり、【谷川氏が、五男神は、物實日(ノ)神の物なれば、日(ノ)神は父の如く、須佐之男(ノ)命は母の如しと云るは、さることなり、〇書紀崇神(ノ)卷に、倭(ノ)國(ノ)之|物實《モノシロ》云々、物實此(ヲ)云2望能志呂《モノシロト》1とあるは、別事《コトコト》なり、祝詞などに禮代《ヰヤシロ》と云ひ、今商人のしろものと云などは、此(ノ)實《シロ》なり、寶基本記に、富物代《トミノモノシロ》と云ことも見ゆ、】

〇我物《アガモノ》とは、彼(ノ)美須麻流珠《ミスマルノタマ》を詔ふなり、

〇自吾子也《オノヅカラアガミコナリ》、この自は、下文に自我勝《オノヅカラアレカチヌ》とある自に同じ、かしこに説あり、【傳八の三葉】

〇汝物《ミマシノモノ》は十拳劔なり、

〇詔別賜《ノリワケクマフ》とは、五男三女|渾《スベ》て一(ツ)に、大御神と須佐之男(ノ)命との御子にて、本は何《イゾ》れが何《イヅ》れの御子と云|別《ワキ》は無《ナ》きを、今始(メ)て物實《モノザネ》を尋《トメ》て、如此《カク》別《ワケ》たまふなり、此(レ)此記の旨にして、書紀と異なり、猶下文にも其由見えたり、詔別《ノリワケ》と云語は、中卷明(ノ)宮(ノ)段にもあり、【或人、書紀は更《サラ》にも云ず、此記にても、三女は大御神の成(シ)たまひ、五男は須佐之男(ノ)命の成たまへれば、本より其(ノ)御子御子とは別《ワカ》れて聞え、又正勝吾勝と申す御名も、須佐之男(ノ)命に依れるものを、本其(ノ)別《ワキ》なしと云は如何《イカニ》、と疑ふに答(ヘ)けらく、書紀の旨は、吹成《フキナシ》たまふ主《ヌシ》に就《ツキ》て、其御子と別《ワケ》たるもの、此記の旨は、一(ツ)誓《ウケヒ》の間《アヒダ》に、次々《ツギツギ》成《ナリ》たまふ故に、一(ツ)に渾《スベ》たるものにて、吹成《フキナシ》たまふ主《ヌシ》には拘《カカハ》らざるなり、吾勝てふ御名は、吹成《フキナシ》たまふ主に就《ツキ》て負せ奉しものぞ、又或人、此(ノ)誓(ヒ)はたゞ、須佐之男(ノ)命の御心の清明《アカキ》を顯《アラハサ》むためなるに、大御神も諸共《モロトモ》に宇氣比賜《ウケヒタマフ》は如何《イカニ》、と問(フ)に答(ヘ)けらく、此事後世の心を以て見れば、疑はしけれど、上(ツ)代には如是《カカ》る類の誓は、凡て其(ノ)疑ふ人も、疑はるゝ人と共に誓ふは、定れる事にぞ有けむかし、或説に、此誓は、全《モハラ》皇嗣を主《ムネ》としたまふなり、故(レ)日(ノ)神も共に誓ひたまふなりと云は、意得ず、若(シ)然らば此段は、凡て方便を以て假《カリ》に種々《クサグサ》の相《コト》を現《アラ》はし示す、佛經の事に異ならず、凡て神の御《ミ》うへに、さるわざはなきことなり、大御神の、須佐之男(ノ)命を疑ひたまふも、本より眞實《マコト》なれば、此誓に天津日嗣|所知看《シロシメ》すべき御子の生《アレ》坐むことを、豫《マダキ》にいかでか知看《シロシメ》さむ、そのうへ誓(ヒ)て御子を生《ウマ》むと申したまふも、須佐之男(ノ)命の請《コヒ》申したまへることにて、大御神の御心より出しことにもあらざる物をや、但し此(ノ)御誓に、皇太子《ヒツギノミコ》の生《アレ》ませることは、深き所由《ユヱ》ありて、本より然《シカ》あるべく定まりつらめど、其《ソ》は大御神の御心にも、豫《カネ》ては知《シロ》しめさぬことなり、凡て神は佛てふ物とは異なるものぞ、又或説に、三女五男は、此時大御神と須佐之男(ノ)命と、御交合坐《ミアヒマシ》て生《ウミ》たまへる御子なりと云(ヒ)、又須佐之男(ノ)命|別婦《コトヲミナ》に御合《ミアヒ》て生《ウミ》たまへるなりとも云は、皆|據《ヨリドコロ》もなき妄言《ミダリゴト》なり、昭《アキラ》けき古(ヘノ)傳(ヘ)言《ゴト》を信《ウケ》ずして、己《オノ》が私の推測《オシハカリ》は何事《ナニゴト》ぞ、必(ズ)夫婦《メヲ》交合《アハ》ざれば、子《コ》は成《ナラ》ぬ物と思ふは、神(ノ)道の奇靈《クシキ》を思はで、尋常《ヨノツネ》の理に迷《マヨ》へるなり、又三女は、天照大御神の心化にて、無形の神、五男は、須佐之男(ノ)命の身化にて、有形の神なりと云も、例のみだり言《ゴト》なり、凡て心化身化など、うるさき名目を設《マウ》けて、神に分《ワキ》をなすは、古(ヘ)にさらに無《ナ》きことにして、後(ノ)世の私(シ)事ぞ、此(ノ)三女を無形と申すも、さらに其(ノ)證《シルシ》なし、たま/\其《ソノ》事跡《コト》の傳はらぬを以て然《しか》云(フ)にや、されど大國主(ノ)神の、多紀理毘賣(ノ)命に娶《ミアヒ》坐る事もあるをば、如何《イカニ》とかせむ、又五男紳の中にも、事跡は傳はらぬもあるものをや、凡て此三女五男神の御事を云る、世々《ヨヨ》にさま/”\の僻説《ヒガコト》おほしかし、】

 

故其先所生之神《カレソノサキニアレマセルカミ》。多紀理毘賣命者《タキリビメノミコトハ》。坐胸形之奥津宮《ムナカタノオキツミヤニマス》。次市寸嶋比賣命者《ツギニイチキシマヒメノミコトハ》。坐胸形之中津宮《ムナカタノナカツミヤニマス》。次田寸津比賣命者《ツギニタギツヒメノミコトハ》。坐胸形之邊津宮《ムナカタノヘツミヤニマス》。此三柱神者《コノミバシラノカミハ》。胸形君等之以伊都久三前大神者也《ムナカタノキミラガモチイツクミマヘノオホカミナリ》。

先《サキニ》とは、次《ツギ》の二女神に對へて云に非ず、後所生《ノチニアレマセル》五柱に對へて、三女神を總《スベ》云(フ)なり、神も同じ、

〇胸形《ムナカタ》は、和名抄に、筑前(ノ)國宗像(ノ)【牟奈加多《ムナカタ》】郡これなり、名義《ナノココロ》は彼國(ノ)風土記に、宗像(ノ)大神自v天降(リテ)、居《マス》2崎門山《サキドヤマニ》1之|時《トキニ》、以(テ)2青〓玉《アヲダマヲ》1置《オキ》2奥宮之表《オキツミヤノシルシニ》1、以(テ)2八尺紫〓玉《ヤサカノムラサキノタマヲ》1置(キ)2中宮之表《ナカツミヤノシルシニ》1、以(テ)2八咫鏡《ヤタカガミヲ》1置(キ)2邊宮之表《ヘツミヤノシルシニ》1、以(テ)2此(ノ)三表《ミツノシルシヲ》1、成《ナシ》2神體之形《カミノミミノカタト》1、納2置《ヲサメオキテ》三(ノ)宮(ニ)1即(チ)隱《イハフ》v之(ヲ)、因《カレ》曰(フ)2身形《ムナカタノ》郡(ト)1、後(ノ)人改(テ)曰(フ)2宗像(ト)1とあり、

〇奥津宮《オキツミヤ》、書紀には、市杵嶋姫(ノ)命(ハ)是|居《マス》2于|遠瀛《オキツミヤニ》1者也《カミナリ》とあり、此記と違へり、彼(ノ)社に傳ふる説は、此記の如し、さて此(ノ)處は、今|奥嶋《オキノシマ》と云(フ)嶋にて、大嶋の西北四十八里【或(ハ)三十里とも、五十餘里ともいへり、皆今の道程《ミチノリ》なり、】なりとぞ、又|恩賀《ヲンガノ》嶋ともいふと云り、【故(レ)思ふに、和名抄に、宗像(ノ)郡の次に遠賀(ノ)郡あり是(レ)か、其郡にも宗像と云郷も見ゆ、されど彼國の地理《トコロノサマ》を知(ラ)ねば、此(レ)はいかゞあらむ知(ラ)ねど、驚《オドロカ》しおくなり、】

〇中津宮《ナカツミヤ》、書紀には、田心姫(ノ)命(ハ)是|居《マス》2于|中瀛《ナカツミヤニ》1者也《カミナリ》と云(ヒ)、社(ノ)説には、湍津嶋姫《タギツシマヒメノ》命|此《ココ》に坐(ス)と云り、此記と違へり、さて此(ノ)處は、今|大嶋《オホシマ》と云【又中津(ノ)嶋ともいふとも云り、】嶋にて、神(ノ)湊と云處より三里北の海中《ワタナタ》に在《アリ》とぞ、【又田嶋より北三里とも云り、】

〇邊津宮《ヘツミヤ》、書紀に海濱《ヘツミヤ》とあり、坐(ス)神は此記と同じ、社(ノ)説には、市杵嶋姫(ノ)命|此《ココ》に坐(ス)と云り、さて此處は、今|田嶋《タシマ》と云とぞ、【或人(ノ)云(ク)、今の宗像(ノ)宮は、田嶋とは一里半ばかり隔《ヘダタ》れり、】或は此(ノ)御社、古(ヘ)は神(ノ)湊と云|海邊《ウミベ》に坐(シ)しを、後に今(ノ)地に移(シ)奉れりとも云り、信《マコト》に然らば、古(ヘ)の邊津宮は神(ノ)湊にて、【名も由(シ)有てきこゆ、】今の田嶋の地には非るなりけり、猶よく尋ぬべし、さて奥中邊《オキナカヘ》とは、其在所を以て名けしなり、【〇右三所(ノ)宮の事、宗像(ノ)社記の説に、澳津嶋は、祭(ル)神|田心《タゴリ》姫を主として、中に坐す、左(リ)市杵嶋姫、右|湍津《タギツ》姫とす、是(レ)澳津嶋(ノ)社家の傳説なり、又田嶋にも別に、澳(ツ)嶋(ノ)神大嶋(ノ)神をも祭れる社あり、其(ノ)澳(ツ)嶋(ノ)社の神座は、中を市杵嶋姫とし主として、左を田心姫右を湍津姫とす、さて澳津嶋は、今は奥之《オキノ》嶋と云て、大嶋より北(ノ)方、海中四十八里にして、嶋のめぐり一里あり、人家なし、社は西南に向(ヒ)て立(チ)たまふ、山(ノ)下平地の高き所なり、今杜人一人大嶋に住て、河野氏にて、一の甲斐と稱《イ》ふ、中津宮は、祭(ル)神湍津姫を主とし、中に坐す、左(リ)田心姫、右市杵嶋姫とす、此嶋今は大嶋と云て、神(ノ)湊の海濱より三里北の海中にあり、嶋のめぐり三里、人家多くあり、社人一人河野氏にて、二の甲斐といふ、邊津宮は、祭(ル)神田心姫を主として、中に坐す、左湍津姫、右市杵嶋姫とす、此社田嶋村にあり、社は西北に向ひ立(チ)たまふ、古(ヘ)は神(ノ)湊の東六町にあり、今も其跡を、神の幸屋敷と云て、田嶋より半里許へだたれり、後深草(ノ)天皇(ノ)建長年中、大宮司長氏の時、神の告によりて、田嶋に遷《ウツ》し奉ると云傳ふ、昔(シ)大宮司は田嶋に居住《スミ》たりしを、天正年中に滅亡《ホロ》びて、其後わづかに殘れるは、三所の社人合せて十三人なり、其(ノ)内十一人は田嶋の社職にて、其内三家は、大宮司の子孫にて、深田氏二家、嶺氏一家これなり、十三人の内、二人は大嶋に住て、其内一人は中津宮、一人は澳津宮の社人なり、と云り、】

〇胸形君《ムナカタノキミ》、姓氏録【右京神別】に、宗形(ノ)朝臣(ハ)、大神《オホミワノ》朝臣(ノ)同(ジ)祖、吾田片隅《アタガタスノ》命(ノ)之後也、【大神(ノ)朝臣は、素佐能雄(ノ)命(ノ)六世(ノ)孫、大國主(ノ)之後也とあり、】又【河内國神別】宗形(ノ)君(ハ)、大國主(ノ)命(ノ)六世(ノ)孫、吾田片隅(ノ)命(ノ)之後也と見ゆ、もと君の加婆禰《カバネ》なりしを、天武紀に、十三年十一月戊申朔、胸方《ムナカタノ》君賜(テ)v姓(ヲ)曰2朝臣(ト)1とあり、さて此(ノ)三神を、此(ノ)氏(ノ)人の以祭所以《モテイツクユヱ》は、舊事紀を考るに、【彼書は取(ル)に足(ラ)ねども、此段などは、取(ル)べき由あること、首(ノ)卷に斷《ヨトワ》れり、】大己貴《オホナムヂノ》命、【即(チ)大國主なり】宗像(ノ)奥津嶋(ニ)坐(ス)神田心姫(ノ)命に娶《ミアヒ》て、味※〔金+且〕高彦根《アヂスキタカヒコネノ》神を生《ウミ》、又邊津宮(ニ)坐(ス)高津姫《タカツヒメノ》神に娶《ミアヒ》て、都味齒八重事代主《ツミバヤヘコトシロヌシノ》神を生《ウミ》賜ふ、此(ノ)事代主(ノ)神、化2爲《ナリテ》八尋熊鰐《ヤヒロクマワニニ》1、通《ミアヒテ》2三嶋(ノ)溝杭女活玉依姫《ミゾクヒノムスメイクタマヨリヒメニ》1、生《ウミタマフ》2天日方奇日方《アメヒガタクシヒガタノ》命(ヲ)1、此(ノ)神の五世(ノ)孫、阿田賀田須《アタガタスノ》命なり、【かゝれば吾田片隅《アタガタス》は、大國主(ノ)神の七世(ノ)孫なり、姓氏録と一世の異《タガヒ》あり、又この活玉依姫に通ひたまひし故事は、此記姓氏録などには、大國主のこととせり、此事委く神武崇神(ノ)段に見ゆ、されど事代主の事とするも、一(ツ)の傳(ヘ)なり、書紀神代(ノ)卷にも、又曰、事代主(ノ)神、化2爲八尋熊鰐(ニ)1、通(テ)2三嶋(ノ)溝※〔織の糸偏が木偏〕姫(ニ)1而生兒云々とあり、】かゝれば此(ノ)邊津宮(ニ)坐(ス)神、事代主(ノ)命の御母にて、此(ノ)姓《ウヂ》の遠祖母神《トホツオバガミ》に坐せばなるべし、【此記には、大國主(ノ)神、娶(テ)d坐(ス)2胸形(ノ)奥津宮(ニ)1神、多紀理毘賣(ノ)命(ニ)u、生2子阿遲※〔金+且〕高日子根(ノ)神(ヲ)1、亦娶(テ)2神屋楯比賣(ノ)命(ニ)1、生2子事代主(ノ)神(ヲ)1とあれど、これはた舊事紀の趣も、一(ツ)の傳(ヘ)なるべし、其(ノ)うへ奥津宮に坐(ス)神に娶《ミアヒ》て生《ウミ》たまへる、阿遲※〔金+且〕高日子根は、迦毛《カモノ》大御神と申す、此(ノ)大御神をも、同祖の賀茂(ノ)朝臣の奉祭《イツキマツ》ること、姓氏録に見ゆ、又|大神《オホミワノ》朝臣も同祖にて、大三輪(ノ)大神を奉祭る、是(レ)らもかた/”\由《ヨシ》あることなり、或説に、此(ノ)大國主(ノ)神の、多紀理毘賣多岐都比賣に娶《ミアヒ》坐(ス)と云ことを信《ウケ》ずして、こは其(ノ)齋女を娶るなりと云は、さらに由なき私の妄説《ミダリゴト》なり、無形の神ぞなど云、後(ノ)世の謬説《ヒガコト》を守りて、かゝることはいふにや、】さて宗形(ノ)朝臣鳥麻呂てふ人、宗形(ノ)郡(ノ)大領《オホイミヤツコ》にて、宗形(ノ)神主たること、續紀十十三に見え【大領たることはなほ卷々に見ゆ、】て、然る例なりしを、延暦十九年十二月(ノ)勅に、彼(ノ)郡(ノ)大領として、此(ノ)神主を兼帶ることを停《トド》められしこと、又此神主の任、六年に限りて相替ることなど、後紀に見えたり、

〇三前《ミマヘノ》大神、神名帳に、筑前(ノ)國宗像(ノ)郡宗像(ノ)神社三座【並大名神】とあり、此神の御事、書紀應神(ノ)卷雄略(ノ)卷などにも出、又履中(ノ)卷に、於《ニ》2筑紫《ツクシ》1所居《マス》三神とあるも是なり、三代實録十七、貞觀十二年二月、奉幣告文に、大帶日姫《オホタラシヒメ》の新羅を降伏《マツロヘ》賜(フ)時に、此(ノ)大神相共に力《チカラ》を加《クハ》へ賜ひし由あり、此事此記又書紀には見えず、さて式に、大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡宗像(ノ)神(ノ)社三座、【類聚三代格に、宗像(ノ)神坐(ス)2城上(ノ)郡|登美《トミ》山(ニ)1、とある此(レ)なり、】尾張(ノ)國中嶋(ノ)郡宗形(ノ)神社、下野(ノ)國寒川(ノ)郡胸形(ノ)神社、伯耆(ノ)國會見(ノ)郡胸形(ノ)神社、備前(ノ)國赤坂(ノ)郡鴨(ノ)神社宗形(ノ)神社、津高(ノ)郡鴨(ノ)神社宗形(ノ)神社【鴨(ノ)神社の此神に由縁あること、右に云如し、】あり、又三代實録二に、太政大臣【藤原(ノ)良房公】の東京一條(ノ)第に、此三神(ノ)社有て、正二位を授(ケ)奉りたまふこと見えたり、

 

故此後所生五柱子之中《カレコノノチニアレマセルイツハシラノミコノナカニ》。天菩比命之子建比良鳥命《アメノホヒノミコトノミコタケヒラトリノミコト》【此出雲國造《コハイヅモノクニノミヤツコ》。无邪志國造《ムザシノクニノミヤツコ》。上菟上國造《カミツウナカミノクニノミヤツコ》。下菟上國造《シモツウナカミノクニノミヤツコ》。伊自牟國造《イジムノクニノミヤツコ》。津嶋縣直《ツシマノアガタノアタヘ》。遠江國造等之祖也《トホツアフミノクニノミヤツコラノオヤナリ》。】次天津日子根命者《ツギニアマツヒコネノミコトハ》。【凡川内國造《オフシカフチノクニノミヤツコ》。額田部湯坐連《ヌカタベノユヱノムラジ》。木國造《ウバラキノクニノミヤツコ》。倭田中直《ヤマトノタナカノアタヘ》。山代國造《ヤマシロノクニノミヤツコ》。馬來田國造《ウマグタノクニノミヤツコ》。道尻岐閇國造《ミチノシリノキヘノクニノミヤツコ》。周芳國造《スハウノクニノミヤツコ》。倭淹知造《ヤマトノアムチノミヤツコ》。高市縣主《タケチノアガタヌシ》。蒲生稻寸《カマフノイナキ》。三枝部造等之祖也《サキクサベノミヤツコラノオヤナリ》。】

建比良鳥《タケヒラトリノ》命、こゝに天(ノ)菩比(ノ)命をのみ擧《アゲ》ずして、此神をも擧《アゲ》て、其子孫を出《イダ》せるは、此(ノ)神|功《イサヲ》ありて、御名高ければなり、さて此(ノ)御名、武夷鳥《タケヒナトリ》とも、天夷鳥《アメヒナトリ》とも、天日照《アメヒナテリ》とも諸書に有て、何《イヅ》れも比那《ヒナ》なるを、此記にのみ比良《ヒラ》とあり、那《ナ》と良《ラ》とは横《ヨコニ》通(フ)音なり、【歎辭《ナゲクコトバ》の阿那《アナ》を阿良《アラ》といふも此例なり、】名(ノ)意は、此神天より降(リ)て、邊鄙《ヒナ》を平《ムケ》たまひし功を美《ホメ》て、鄙照《ヒナテリ》と稱《タタヘ》しなるべし、【照《テリ》を登理《トリ》と云る例は、萬葉十四に、日之照者《ヒノテレバ》を、比賀刀禮婆《ヒガトレバ》とよめり、】日名照額田毘道男《ヒナテリヌカタビヂヲ》云々てふ神(ノ)名【傳十一に出(ヅ)】も思ひ合すべし、彼(ノ)功のことほ次に見ゆ、式に、因幡(ノ)國高草(ノ)郡天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)神社、天日名鳥《アメヒナトリノ》命(ノ)神社、出雲(ノ)國出雲(ノ)郡|阿麻能比奈等理《アマノヒナトリノ》神社あり、文徳實録に、河内(ノ)國天(ノ)夷鳥(ノ)命(ノ)神見ゆ、【此神社は、志紀(ノ)郡道明寺村に在(リ)と云り、道明寺は、一名土師寺とも云り、即(チ)土師(ノ)郷これなりといへり、又姓氏録河内(ノ)國(ノ)神別に出雲(ノ)臣あり、】なほ此(ノ)神の事、傳十三【十二葉より十五葉】に云べし、考(ヘ)合せてよ、

○出雲国造、まづ天(ノ)菩比(ノ)命の、此葦原(ノ)中(ツ)國を言向《コトムケ》に天降(リ)て、出雲に留(リ)坐(シ)つる由は、末にも書紀にも見え、又書紀に、高皇産靈(ノ)尊勅2大己貴(ノ)神(ニ)1曰云々、汝(ガ)應《ベキ》v住《スム》天(ノ)日隅《ヒスミノ》宮(ハ)者、今|當《ベシ》2供造《ツクル》1云々、又|應《ベキ》v主(ル)2汝(ノ)祭祀《マツリヲ》1者《モノハ》、天(ノ)穗日(ノ)命|是也《コレナリ》、【此出雲(ノ)國造、又大社の神主たる起《オコリ》なり、】同紀に、天(ノ)穗日(ノ)命(ハ)、是(レ)出雲(ノ)臣土師《オミハニシノ》連|等《ラガ》祖也、【土師(ノ)連は、出雲(ノ)臣より出《イデ》、後に菅原秋篠大江などは、此(ノ)土師(ノ)連より出たり、】また此(ノ)國(ノ)造(ガ)神賀《カムホギノ》詞に、出雲(ノ)臣等我遠祖《オミラガトホツオヤ》天(ノ)穗比(ノ)命|乎《ヲ》、國體見爾遣時爾《クニガタミニツカハシシトキニ》云々、己命兒天夷鳥《オノレミコトノミコアメヒナトリノ》命|爾《ニ》、布都怒志《フツヌシノ》命|乎《ヲ》副天《ソヘテ》、天降(シ)遣天《シツカハシテ》、荒布留《アラブル》神等|乎《ヲ》撥平氣《ハラヒムケ》、國作之大神乎毛媚鎭天《クニツクリシオホカミヲモコビシヅメテ》、大八嶋國(ノ)現事顯事《ウツシゴトアラハニゴト》、令《シメ》2事避《コトサメ》1支《キ》、【國作《クニツクリシ》大神とは、大己貴(ノ)命を云、】書紀崇神(ノ)卷六十年、詔2群臣(ニ)1曰、武日照《タケヒナテリノ》命(ノ)、【一云武夷鳥、又云天夷鳥、】從(リ)v天|將來神寶《アメヨリモテコシカムダカラ》、藏《ヲサム》2于出雲(ノ)大神(ノ)宮(ニ)1、是(レ)欲(ス)v見(ムト)焉云々、當是時《コノトキニシモ》出雲(ノ)臣(ガ)之遠(ツ)祖|出雲振根《イヅモフリネ》、主(ドル)2于神寶(ヲ)1云々、其弟|飯入根《イヒリネ》則被(リ)2皇命《オホミコトヲ》1、以《ヲ》2神寶1付《サヅケテ》3弟甘美韓日狹《オトウマシカラヒサト》與《トニ》2子※〔盧+鳥〕濡渟《コウカヅクヌ》1、而|貢上《タテマツリキ》、【天長七年、大極殿にて、此國造の獻れる五種(ノ)神寶を覽《ミ》給ひしこと、後紀に見ゆ、】國造本紀に、出雲(ノ)國(ノ)造(ハ)、瑞籬《ミヅガキノ》朝(ニ)、以2天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)十一世(ノ)孫、宇迦都久怒《ウカヅクヌヲ》1、定(メ)2賜(フ)國(ノ)造(ニ)1と見ゆ、姓氏録に、出雲(ノ)宿禰(ハ)、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)子、天(ノ)夷鳥(ノ)命(ノ)之後也、また出雲(ハ)、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)五世(ノ)孫、久志和都(ノ)命(ノ)之後也、また出雲(ノ)臣(ハ)、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)十二(ノ)世(ノ)孫、鵜濡渟《ウカヅクヌノ》命(ノ)之後也、【此(ノ)外も山城河内にも、出雲(ノ)臣見ゆ、】續紀に、延暦十年九月、近衛將監正六位下出雲(ノ)臣祖人言(ス)、臣等本系、出v自2天(ノ)穗日(ノ)命1云々、於v是(ニ)賜2姓(ヲ)宿禰(ト)1、とあり、其(ノ)》後|朝臣《アソミ》に爲《ナリ》しにや、續後紀七【二丁】八【三丁】などに其人見ゆ、抑此(ノ)姓《ウヂ》の、もと臣の尸《カバネ》になりしも、彼(ノ)國より上《ノボ》りて、朝廷《ミカド》に仕奉《ツカヘマツリ》しょり始れるなるべし、【此(ノ)姓人の、始(メ)て京に移(リ)て仕(ヘ)奉(リ)しは、垂仁の御世|野見《ヌミノ》宿禰なり、此人は、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)十四世の孫にて、彼(ノ)土師(ノ)連の祖なり、凡て臣《オミ》の尸《カバネ》なる姓は、朝廷に親《シタシ》く仕奉る輩なり、此事後にくはしく云、】さて後に宿禰にも朝臣にもなれるなり、諸(ノ)氏に此例多し、さて然《シカ》京のあたりに住《スメ》るも、又國に住《スメ》るも、皆その本は、國造より出たる子孫なる故に、此《ココ》には其本に就《ツキ》て、國造とあげ、書紀には、廣く渾《スベ》て臣《オミ》と擧《アゲ》たり、諸(ノ)氏に此例多し、效《ナラヒ》て知べし、さて延暦十七年三月廿九日(ノ)太政官符に、昔(ハ)者國(ノ)造と郡領と別なりしを、慶雲三年よりして、出雲(ノ)國造に意宇(ノ)郡(ノ)大領を帶《カケ》しめけるを、又舊例の如く、國造と郡領と別に任ぜられしこと見ゆ、さて今(ノ)世まで國造の殘れるは、此(ノ)國と紀(ノ)國とのみにて、中にも此(ノ)國造名高し、此(ノ)二國造《フタグニノミヤツコ》は、昔より他《ホカ》に異なりしにや、貞觀儀式に、此(レ)を任《ヨサ》す儀を載られたり、さて此(ノ)出雲(ノ)國造京に上《ノポ》りて、神壽辭《カミノヨゴト》【神賀辭《カムホギノコトバ》とも云、】を奏《マヲス》事あり、何《イヅ》れの御世より始まりしにか、物には續紀七靈龜二年二月に始めて見えて、御世々々|絶《タユ》ることなし、延暦十四年二月、縁(テ)2遷都(ニ)1奏(ス)2神賀事《カミノヨゴトヲ》1ことも、類聚國史に見えたり、其事又|獻物《タテマツリモノ》のこと、賜(ヒ)物の品などは、臨時祭式に見え、彼(ノ)詞は祝詞式に載れり、

〇牟邪志《ムザシノ》國の造、武藏なり、今は邪《ザ》を清《スミ》て唱(フ)れども、濁るべし、此(ノ)邪《ザ》又藏(ノ)字、又萬葉十四に、牟射志野《ムザシヌ》と書る射(ノ)字、いづれも濁音に用る例なり、名(ノ)義未(ダ)思(ヒ)得ず、【師説には、相模武藏もと一(ツ)にて、牟佐《ムサ》なるを、上下に分て、牟佐上《ムサガミ》牟佐下《ムサシモ》と云、その上《カミ》は牟《ム》を略き、下《シモ》は毛《モ》を略けるなり、凡て牟佐《ムサ》てふ地名國々に多く、又東の國々は、上總下總上野下野などの如く、上下に分(ツ)例なりとあり、此説うち聞(ク)には諾《ウベ》なりとおぼゆれど、なほ定め難《ガタ》きことあり、其由は中卷倭建(ノ)命の處に云べし、】さて國造は、書紀に、天(ノ)穗日(ノ)命(ハ)、此(レ)出雲(ノ)臣武藏(ノ)國(ノ)造土師(ノ)連等(ガ)遠(ツ)祖也、國造本紀に、无邪志(ノ)國造(ハ)、志賀(ノ)高穴穗(ノ)朝(ノ)御世(ニ)、出雲(ノ)臣(ノ)祖名(ハ)二井之宇迦諸忍之神狹(ノ)命(ノ)十世(ノ)孫|兄多毛比《エタモヒノ》命(ヲ)定(メ)2賜(フ)國造(ニ)1【祖名(ノ)下、狹(ノ)命までの間に、誤字脱字などあるべし、さて姓氏録に、入間(ノ)宿禰(ハ)、天(ノ)穗日(ノ)命の後なりとある、此(レ)はもと武藏(ノ)國入間(ノ)郡の人どもにて、物部(ノ)直なりしを、入間(ノ)宿禰になされしこと、續紀に見ゆ、もと此國造より出し姓なるべし、彼(ノ)郡に出雲(ノ)伊波比(ノ)神社といふも式に見ゆ、】とあり、書紀安閑(ノ)卷に、武藏(ノ)國(ノ)造笠原(ノ)直|使主《オミ》てふ人見え、續紀廿八に、此(ノ)國(ノ)人大部(ノ)直不破麻呂てふ人、武藏(ノ)宿禰と云姓を賜はり、國(ノ)造となれること見え、延暦十四年武藏(ノ)國足立(ノ)郡(ノ)大領武藏(ノ)宿禰弟總(ヲ)爲2國(ノ)造(ト)1と、類聚國史に見ゆ、此(レ)等は本より別姓《コトウヂ》か、はた後に分れたる姓か、尋ぬべし、【埼玉(ノ)郡に笠原(ノ)郷は和名抄に見ゆ、】

〇上菟上《カミツウナカミノ》國造、和名抄に、上總(ノ)國海上(ノ)【宇奈加美《ウナカミ》】郡、これなり、【奈《ナ》は之《ノ》の意なる故に、菟《ウ》に讀附《ヨミツケ》て、菟上とかけり、】萬葉十四上總(ノ)國(ノ)歌に、奈都素妣久《ナツソビク》、宇奈加美我多能《ウナカミノガタノ》云々【七(ノ)卷にもよめり、】とよめり、國造本紀に、上(ツ)海上《ウナカミノ》國(ノ)造(ハ)、志賀(ノ)高穴穗(ノ)朝(ニ)、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)八世(ノ)孫忍立化多比(ノ)命(ヲ)定(メ)2賜(フ)國造(ト)1、【此(ノ)人(ノ)名誤字有(ル)べし、】と見ゆ、

〇下菟上《シモツウナカミノ》國造、和名抄に、下總(ノ)國海上(ノ)【宇奈加美】郡、これなり、萬葉九【二十八丁】に、海上之《ウナカミノ》、其津於指而《ソノツニサシテ》、君之己藝歸者《キミガコギイナバ》とあるは、此(ノ)海上《ウナカミ》なり、國造本紀に、下(ツ)海上(ノ)國(ノ)造(ハ)、輕嶋(ノ)豊明(ノ)朝(ノ)御世、上(ツ)海上(ノ)國(ノ)造(ノ)祖|孫久都伎《ヒコクツキノ》直(ヲ)定(メ)2賜(フ)國造(ニ)1とあり、萬葉廿【三十丁】下總(ノ)國(ノ)防人《サキモリ》に、助丁《スケヨホロ》海上(ノ)郡海上(ノ)國(ノ)造|他田日奉《ヲサダノヒマツリノ》直|得大理《トコタリ》見え、續紀卅八に、海上(ノ)國(ノ)造他田(ノ)日奉(ノ)直|徳刀自《トコトジ》、三代實録四十七【十四丁】に、下總(ノ)國海上(ノ)郡(ノ)大領外正六位上海上(ノ)國造他田(ノ)日奉(ノ)直春岳【今本に、海上の上(ノ)字を脱せり、此宇古本にあり、又他(ノ)字を池に誤れり、】あり、此《コ》は別姓にや、さてかゝる類をも國《クニ》と云るは、古(ヘ)は凡て道奥石城國《ミチノクノイハキノクニ》、常道仲國《ヒタチノナカノクニ》【中卷に見ゆ】など云る如く、國《クニ》の中《ウチ》なる地《トコロ》の小名《コナ》をも、同く國と云しを、郡《コホリ》とせられしは、やゝ後のことなり、さて郡となりて後にも、舊《モト》云《イヒ》なれつるまゝに、猶ことに依《ヨリ》ては國《クニ》とも云しこと、吉野(ノ)國難波(ノ)國初瀬(ノ)國などのたぐひなり、【此(ノ)二(ツ)の菟上《ウナカミ》を、延佳(ガ)本に、上菟毛《カミツケ》下菟毛《シモツケ》とあるは、古(ヘ)をしらぬ者《モノ》の、さかしらに改めつるにて、いふにも足《タラ》ぬことぞ、】

〇伊自牟《イジムノ》國(ノ)造、國造本紀に、伊甚《イジムノ》國(ノ)造(ハ)、志賀(ノ)高穴穗(ノ)朝(ノ)御世(ニ)、安房(ノ)國(ノ)造(ノ)祖|伊許保止《イコホトノ》命(ノ)孫|伊己侶止《イコロトノ》直(ヲ)定(メ)2賜(フ)國(ノ)造(ニ)1、【阿波(ノ)國造(ハ)、天(ノ)《ノ》穗日(ノ)命(ノ)八世(ノ)孫|彌都侶岐《ミツロギノ》命(ノ)孫大伴(ノ)直大瀧(ヲ)定(メ)2賜(フ)國造(ニ)1とあり、阿波即(チ)安房なり、】書紀安閑(ノ)卷、元年四月、伊甚《イジムノ》國(ノ)造|稚子《ワクゴノ》直|等《ラ》、云々の罪ありて、爲《ミタメニ》2皇后《オホギサキノ》1獻(リ)2伊甚(ノ)屯倉《ミヤケヲ》1贖(フ)v罪(ヲ)、因《カレ》定(ム)2伊甚(ノ)屯倉(ヲ)1、今分(テ)爲(シ)v郡(ト)、屬《ツク》2上總(ノ)國(ニ)1と見ゆ、即和名抄に、上總(ノ)國夷〓(ノ)【伊志美《イジミ》】郡とある此(レ)なり、【常陸(ノ)國茨城(ノ)郡夷針あり、式に夷針(ノ)神社もあり、此(レ)も伊自牟《イジム》と訓(ム)べくおぼゆ、】

〇津嶋縣直《ツシマノアガタノアタヘ》、縣《アガタ》は和名抄に、對馬嶋上(ツ)縣(ノ)【加無津阿加多《カムツアガタ》】郡下(ツ)縣(ノ)郡、これなり、【上下と分れたるは後のことにて、元はたゞ縣《アガタ》とぞ云けむ、】國造本紀に、津嶋(ノ)顯(ノ)直(ハ)、橿原(ノ)朝高魂(ノ)尊(ノ)五世(ノ)孫|建彌己々《タケミココノ》命改(メテ)爲《ス》v直(ト)とあり、此(ノ)建彌己々《タケミココ》は、建許呂《タケコロノ》命のことなるべし、【己己《ココ》は己呂《コロ》の誤ならむ、】其故は、同紀に師長《シナガノ》》國(ノ)造(ハ)、茨城《ウバラキノ》國(ノ)造(ノ)祖|建許呂《タケコロノ》命云々、須惠《スエノ》國(ノ)造(ハ)、茨城(ノ)國(ノ)造(ノ)祖|建許呂《タケコロノ》命云々、馬來田《ウマクタノ》國(ノ)造云々 【下に引】と云る、其(ノ)茨城(ノ)國(ノ)造は、同紀に輕嶋(ノ)豐明(ノ)朝(ノ)御世(ニ)、天津彦根(ノ)命(ノ)孫筑紫(ノ)刀禰(ヲ)定(メ)2賜(フ)國造(ニ)1【時代を度《ハカ》るに、筑紫(ノ)刀禰は、建許呂(ノ)命の子などにや、】といひ、書紀に、天津彦根(ノ)命(ハ)、此(レ)茨城(ノ)國(ノ)造額田部(ノ)連|等《ラガ》遠(ツ)祖也、常陸(ノ)國(ノ)風土記に、茨城(ノ)國(ノ)造(ノ)初祖|多祁許呂《タケコロノ》命、仕(フ)2息長帶比賣(ノ)天皇(ノ)之朝(ニ)1、姓氏録に、茨木《ウバラキノ》造(ハ)、天津彦(ノ)命(ノ)之後也、また天津彦根(ノ)命(ノ)十二世(ノ)孫建許呂(ノ)命などあると、此記に此(ノ)縣(ノ)直を、天(ノ)菩比(ノ)命の子孫とするとを、合せて思ふべし、凡て遠(ツ)祖を云(フ)に、御兄弟の間《ァヒダ》は、互《タガヒ》に傳(ヘ)の混《マガ》へる例、氏々《ウヂウヂ》に多ければなり、【右の書どもを合せて思へば、國造本紀に、橿原(ノ)朝といひ、高魂云々と云るは、誤とこそおぼゆれ、又改(テ)爲v直(ト)と云るも、疑はしき書ざまなり、】書紀顯宗(ノ)卷に、對馬《ツシマノ》下(ツ)縣(ノ)直みゆ、

〇遠江《トホツアフミノ》國(ノ)造、師(ノ)説に、此記に、國(ノ)名を遠江など二字に約《ツヅメ》て書るは、後(ノ)人の爲《シワザ》なり、其《ソ》は後に定まりしことなれば、此記には、必(ズ)遠淡海《トホツアフミ》などと有(ル)べきわざなりと云れき、今考るに、此記は、凡て國《クニ》地名《トコロノナ》、或(ヒ)は一字三字にも書(キ)、又二字に書るも、多くは後に定れる字と異なり、此(レ)古(ヘ)の書格《カキザマ》なり、然るに遠江など、後(ノ)文字の如く書る所も稀《マレ》にあるは、淡海《アフミ》と書ると准《ナヅラ》へて思ふに、信《マコト》に後(ノ)人の改めしこととは見えたり、抑《ソモソモ》國郡郷(ノ)名の字のこと、和銅六年(ノ)詔に、畿内七道諸(ノ)國郡郷(ノ)名、着《ツケヨ》2好字《ヨキモジヲ》1と見え、出雲風土記などに、神龜三牛に郡郷(ノ)名の文字を多く改めしこと見え、民部式に、凡諸國部内(ノ)郡里等(ノ)名、並《ミナ》用(ヒ)2二字(ヲ)1、必取(レ)2嘉名(ヲ)1と見ゆ、此(レ)等《ラ》皆此記より後のことなり、されどかの和銅六年よりやゝ前《マヘ》にも、國(ノ)名などはかつ/”\文字を擇ひ、又二字に約《ツヅメ》られしこと有(リ)しも知(リ)がたければ、遠江なども、決《キハメ》て後(ノ)人の爲《シワザ》とも定めがたくもあれば、今は舊《モト》の如くておきぬ、されど古(ヘ)の書格《カキザマ》は、必(ズ)師(ノ)説の如く有(リ)しことぞかし、【凡て地名の字を擇むにつきては、正しく其名にあたるは得がたき故に、近(キ)字音を取て、牟邪志《ムザン》に武藏、須流賀《スルガ》に駿河などと、邪志《ザシ》にザウの音を用ひ、須流《スル》にスンの音を用ひたる類いと多し、又必二字に約むるに付ては、いよ/\得がたき故に、強《シヒ》て字を略(キ)て、上毛野下毛野を、上野下野と書(ク)たぐひもいと多し、みな准(ヘ)て知べし、此義を得知(ラ)ぬ人、國郡(ノ)名に就《ツキ》て疑(ヒ)をなすこと、世に多し、故(レ)今ついでにくはしくいふ、】和名抄に、遠江【止保太阿不三】とあるは、阿(ノ)字|衍《アヤマリ》なり、登保都阿布美《トホツアフミ》を約むれば、登保多布美《トホタフミ》【都阿《ツア》を約めて多《タ》なり、】なり、【今(ノ)人も然《シカ》云ぞ、】萬葉十四【十五丁】に等保都安布美《トホツアフミ》、同二十【十六丁】に等保多保美《トホタホミ》などもあり、さて此國には、古(ヘ)湖《アハウミ》ありしを以(テ)、此(ノ)名を負《オヘ》り、近江(ノ)國の京に近きに對へて、遠《トホツ》とは云なり、【さて又此遠(ツ)淡海(ノ)名あるに對へて、近きをも近(ツ)淡海とは云なり、】さて其(ノ)湖は、明應のころ甚《イタク》地震《ナヰフリ》て地《ツチ》斷《キレ》て、南の海に連《ツヅ》きしとなり、【其(ノ)斷《キレ》たる所を今切《イマギレ》と云、】式に、磐田(ノ)郡|淡海國玉《アフミノクニタマノ》神社、濱名(ノ)郡猪(ノ)鼻湖(ノ)神社などあり、國造本紀に、遠(ツ)淡海(ノ)國(ノ)造(ハ)、志賀(ノ)高穴穗(ノ)朝(ニ)、以2物部(ノ)連(ノ)祖|伊香色雄《イカガシコヲノ》命(ノ)兒|印岐美《イニギミノ》命(ヲ)1定(メ)2賜(フ)國造(ニ)1とあるは、此《ココ》に合《アハ》ず、此《コノ》他《ホカ》未(ダ)考(ヘ)得ず、

〇凡河内《オフシカフチノ》國(ノ)造.即|河内《カフチノ》國なり、和名抄に河内【加不知《カフチ》】とあり、【加波宇知《カハウチ》の波宇《ハウ》を切《ツヅ》めて布《フ》なり、〇今|加波知《カハチ》といふは訛なり、】凡《オフシ》は、書紀安閑(ノ)卷推古(ノ)卷などに、大河内《オフシカフチ》とも書て、大の意なり、名(ノ)義は、倭の京にて、山代大河《ヤマシロノオホカハ》【淀河なり】の此方《コナタ》にある國なればなり、本は大《オホシ》河内と云しを、諸(ノ)國(ノ)名必二字に定められしょり、大《オフシ》をば除《ノゾキ》つらむ、さて大とかゝずて、凡と書(ク)は、意富《オホ》と云(ハ)で意布志《オフシ》といひならへる故なるべし、凡の假字は、和名抄に郷(ノ)名【丹波《(ノ)國加佐(ノ)郡】に、凡海を於布之安萬《オフシアマ》とあるに依(ル)べし、【又續紀四十に、大押《オホシノ》直の字を改(メ)て、」凡(ノ)直と書しこと見え、又|星《ホシノ》直と其《ソコ》にあるも、同姓なれば、意富志《オフシ》と書むも惡《アシ》からじ、凡て布《フ》と富《ホ》とは、通はし書たる例多ければ、何《イヅ》れにても有(リ)なむ、】國造は、書紀に、天津彦根(ノ)命(ハ)是(レ)凡河内(ノ)直山城(ノ)直等(ガ)祖也、【城(ノ)字は後(ノ)人の爲《シワザ》なり、背に改むべし、】姓氏録に、凡河内(ノ)忌寸《イミキ》は、額田部(ノ)湯坐(ノ)連(ト)同祖(ナリ)、また凡河内忌寸(ハ)、天津彦根(ノ)命(ノ)之後也、舊事紀に、天(ノ)御蔭《ミカゲノ》命(ハ)凡河内(ノ)直等(ノ)祖、【姓氏録に、天津彦根(ノ)命(ノ)子、明立天(ノ)御影(ノ)命とあり、なほ此(ノ)命《ミコト》のことは、傳二十二の六十一葉に出(ヅ)、】などあり、元《モト》直《アタヘ》の尸《カバネ》なりしを、天武紀に、十二年九月、凡川内(ノ)直腸(テ)v姓(ヲ)曰v連(ト)、十四年六月、凡川内(ノ)連賜(テ)v姓(ヲ)曰2忌寸(ト)1とあり、【共に書紀に見ゆ、又此(ノ)氏(ノ)人の中に、清内(ノ)宿禰と云姓を賜しことも、續後紀(ノ)一に見ゆ、清内とは、河内の縁《ユカリ》なるべし、】又姓氏録に、凡河内(ノ)忌寸(ハ)、天(ノ)穗日(ノ)命(ノ)十三世(ノ)孫、可美乾飯根《ウマシカラヒネノ》命(ノ)之後也ともあるは、遠(ツ)祖|御兄弟《ミハラカラ》の間《アヒダ》、傳(ヘ)の混《マガヒ》つるなるべし、國造本紀に、以(テ)2彦己蘇根《ヒココソネノ》命(ヲ)1、爲2凡河内(ノ)國(ノ)造(ト)1、即凡河内(ノ)忌寸(ノ)祖、また凡河内(ノ)國(ノ)造(ハ)、橿原(ノ)朝(ノ)御世(ニ)、以2彦己曾保理《ヒココソホリノ》命(ヲ)1、爲2凡河内(ノ)國(ノ)造(ト)1とあり、

〇額田部湯坐《ヌカタベノユヱノ》連(ハ)、書紀に、天津彦根(ノ)命(ハ)、此(レ)茨城《ムバラキノ》國(ノ)造額田部(ノ)連等(ノ)遠(ツ)祖(ナリ)也、姓氏録に、額田部(ノ)湯坐(ノ)連(ハ)、天津彦根(ノ)命(ノ)子|明立《アケタツ》天(ノ)御影(ノ)命(ノ)之後也、允恭天皇(ノ)御世、被(レテ)v遣(ハ)2薩摩(ノ)國(ニ)1平(ケ)2隼人《ハヤビトヲ》1、復奏之日《カヘリコトマヲスヒ》、獻(ル)2御馬|一疋《ヒトヒキヲ》1、額《ヌカニ》有(リ)2町形廻毛《マチガタノツムシ》1、天皇菩(ビタマヒテ)之、賜(ヒキ)2姓額田部《ヌカタベトイフカバネヲ》1也、【奴加《ヌカ》は、即(チ)比多比《ヒタヒ》のことなり、町形は、田の町の形なり、】また額田部(ノ)※〔にんべん+弖〕田(ノ)連(ハ)、同(ジ)神(ノ)【天津彦根】三世(ノ)孫|意富伊我都《オホイガツノ》命(ノ)之後也、允恭天皇(ノ)御世(ニ)、獻(ル)2額田《ヌカタノ》馬(ヲ)1、天皇勅(シタマハク)、此(ノ)馬(ノ)額《ヌカハ》、如《ナセリ》2田(ノ)町1、仍《カレ》賜(ヒキ)2姓額田連《ヌカタノムラジトイフカバネヲ》1、【此《コ》は部(ノ)字|脱《オチ》たるか、部《ベ》と云こと、後に加へたるにはあるまじければなり、】是(レ)にて額田《ヌカタ》の義《ココロ》解《キコ》えたり、【定額の田の義と云は、甚《イタ》く非《ヒガコト》なり、定額の額を、奴加《ヌカ》と云べき由なし、】同書に、額田部(ノ)湯坐(ノ)連(ハ)、天津彦根(ノ)命(ノ)五世(ノ)孫乎田部(ノ)連(ノ)之後也、【乎は決《ウツナ》く誤字なり、もし手《テ》の誤ならむか、然らば上の※〔にんべん+弖〕田も弖多《テタ》にや、】舊事紀に、天(ノ)斗麻彌《トマミノ》命(ハ)、額田部(ノ)湯坐(ノ)連等(ガ)祖(ナリ)【姓氏録に、天津彦根(ノ)命(ノ)男天(ノ)戸間見《トマミノ》命、】などあり、湯坐《ユヱ》の事は、玉垣(ノ)朝(ノ)段【傳廿四の三のひら、】に云むとす、【此(レ)を由邪《ユザ》と訓(ム)は、例の妄事《ミダリゴト》なり、】さて右の如く、たゞ額田部(ノ)連ともあれば、此(ノ)湯坐(ノ)連は、其(ノ)氏人の中に、湯坐《ユヱ》の事の由《ヨシ》に付《ツキ》て、別《コト》に賜《タマ》はりし姓なるべし、さて後に其(ノ)湯坐(ノ)連の方|榮《サカ》えて廣《ヒロ》かりける故に、此記には其《ソレ》を擧《アゲ》、【此(ノ)姓の人は、孝徳紀孝謙紀仁明紀などにも見えたるを、たゞ額田部(ノ)連の人は凡て見えず、】書紀には本を擧《アゲ》たるなるべし、さて書紀顯宗(ノ)卷に、倭(ノ)國山(ノ)邊(ノ)郡額田(ノ)邑、和名抄に、平群(ノ)郡額田【奴加多《ヌカタ》、〇今此郡に額田部と云村あり是(レ)か、】河内(ノ)國河内(ノ)郡額田などあり、これらは姓氏録の説の如くば、此姓より出たる地名にや、猶尋ぬべし、【凡て姓《ウヂ》又人(ノ)名より出たる地名か、地名より出たる姓《ウヂ》人(ノ)名か、疑はしきが多し、】又神名式に、伊勢(ノ)國桑名(ノ)郡額田(ノ)神社あり、同郡多度(ノ)神は、この天津日子根(ノ)命なれば、此(ノ)社も此(ノ)姓によしあるべし、又類聚國史に、額田(ノ)國(ノ)造と云姓の人もあり、此(レ)は同姓か異姓か、猶考(フ)べし、

〇木國造《キノクニノミヤツコ》、國(ノ)名(ノ)義《ココロ》字の如し、其由下に見ゆ、【傳十の二十八九葉】即(チ)紀伊なり、されども此神の此(ノ)國(ノ)造(ノ)祖たること、他の古書どもに見えず、國造本紀には、紀伊《キノ》國(ノ)造(ハ)、橿原(ノ)朝(ノ)御世(ニ)、神皇産靈(ノ)命(ノ)五世(ノ)孫天(ノ)道根(ノ)命、定(メ)2賜(フ)國(ノ)造(ニ)1といひ、姓氏録にも、紀直《キノアタヘハ》、神魂《カミムスビノ》命(ノ)五世(ノ)孫天(ノ)道根(ノ)命(ノ)之後也、また紀(ノ)直(ハ)、神魂(ノ)命(ノ)子御食持(ノ)命(ノ)之後也などあり、故(レ)思ふに、此《ココ》は茨木《ウバラキ》の茨(ノ)字を後に脱《オト》したるなるべし、此(ノ)神茨城(ノ)國(ノ)造(ノ)祖なることは、右の津嶋(ノ)縣(ノ)直の下《トコロ》に引る諸書の如し、其(ノ)上《ウヘ》書紀に、此神の子孫たゞ二姓のみを擧《アゲ》たる所にだに、此(ノ)茨城は其一(ツ)なるを、況《マシ》て此記には、數多《アマタ》の氏々《ウヂウヂ》を連《ツラ》ね擧たる中に、漏《モル》べくも所思《オモハレ》ず、故(レ)今|宇婆良紀《ウバラキ》と訓つ、【和名抄には牟婆良岐《ムバラキ》とあれども、本は宇婆良《ウバラ》なるべし、梅《ウメ》馬《ウマ》などをも、後には牟米《ムメ》牟麻《ムマ》と云たぐひにて、此(レ)も後に牟《ム》とはなれるなり、和名抄に、※〔草がんむり/拔〕※〔草がんむり/契〕を於保宇波良《オホウバラ》とあり、】茨木は、和名抄に、常陸(ノ)國茨城(ノ)【牟波良岐《ムバラキ》】郡、これなり、

〇倭田中直《ヤマトノタナカノアタヘ》、處《トコロ》は高市(ノ)郡にも添(ノ)下(ノ)郡にも、今田中村あり、此(ノ)内なるべし、書紀舒明(ノ)卷八年の所に、田中(ノ)宮とあるも、三代實録十又十四(ノ)卷に、大和(ノ)國田中(ノ)神と云あるも、同(ジ)地《トコロ》なるべし、神楽歌に、殖槻《ウヱツキ》や田中の杜《モリ》とあるは、添(ノ)下(ノ)郡なりと云り、さて此姓のことは、他書《コトフミ》に見あたらず、

〇山代國造《ヤマシロノクニノミヤツコ》、名(ノ)義は、書紀に山背と書る字の意【うしろのうを省く、】なるべし、此(ノ)國は、大和(ノ)國の北(ノ)方の山の後なればなり、延暦十三年十一月(ノ)詔に、此(ノ)國(ハ)山河襟帶(シ)、自然(ニ)作(セリ)v城(ヲ)、因(テ)2斯(ノ)形勝(ニ)1、可(シ)v制(ス)2新號(ヲ)1、宜(シ)d改(テ)2山背(ノ)國(ヲ)1、爲《ス》c山城(ノ)國(ト)u云々、と紀略に見ゆ、さて書紀に、天津彦根(ノ)命(ハ)、是(レ)凡河内(ノ)直山背(ノ)直等(ガ)祖(ナリ)也とあり、もと直《アタヘ》の加婆禰《カバネ》なりしを、天武紀に、十二年九月、山背(ノ)直腸(テ)v姓(ヲ)曰v連(ト)、十四年六月、山背(ノ)連賜v姓(ヲ)曰2忌寸《イミキト》1とあり、姓氏録に、山背(ノ)忌寸(ハ)、天都比古禰《アマツヒコネノ》命の子天(ノ)麻比止都禰《マヒトツネノ》命(ノ)後也、國造本紀に、以2天(ノ)目一《マヒトツノ》命(ヲ)1爲《ス》2山代(ノ)國(ノ)造(ト)1、即山代(ノ)直(ノ)祖と見え、續紀に、山背(ノ)國(ノ)造山背(ノ)忌寸|品遲《ホムヂ》と云人見ゆ、續後紀に、天長十年、山城(ノ)國(ノ)人山代(ノ)忌寸淨足、同姓五百川等八人、改(テ)2忌寸(ヲ)1賜(フ)2宿禰(ヲ)1、淨足等(ハ)、天津彦根(ノ)命(ノ)之苗裔也、

〇馬来田《ウマダタノ》國(ノ)造、和名抄に、上總國望多(ノ)【末宇多《マウタ》】郡とありて、萬葉十四【九丁】上總(ノ)國(ノ)歌に、宇麻具多能禰呂《ウマグタノネロ》とよめる地《トコロ》なり、【末宇多《マウタ》とは、後に訛れる唱《トナヘ》なり、】書紀廿八に、大伴(ノ)連|馬來田《ウマグタ》といふ人(ノ)名を、廿九(ノ)卷には望多《ウマグタ》と作《カケ》り、【かゝればもとは、望多と書るをも、宇麻具多《ウマグタ》と唱(ヘ)しこと知べし、】繼體天皇の御子に、馬來田皇女《ウマグタノミコ》と申すも有(リ)、書紀に見ゆ、國造本紀に、馬來田(ノ)國(ノ)造(ハ)、志賀(ノ)高穴穗(ノ)朝(ノ)御世(ニ)、茨城(ノ)國造(ノ)祖|建許呂《タケコロノ》命(ノ)兒|深河意禰《フカガハオミノ》命(ヲ)、定2賜國造(ニ)1、

〇道尻岐閇《ミチノシリノキヘノ》國(ノ)造、國造本紀に、道(ノ)口(ノ)岐閇(ノ)國(ノ)造(ハ)、輕嶋(ノ)豐明(ノ)朝(ノ)御世(ニ)、建許呂(ノ)命(ノ)兒宇佐比乃禰(ヲ)、定2賜國造(ニ)1。【これ道奥菊多《ミチノクノキクタノ》國(ノ)造の次(ギ)、阿尺《アサカノ》國(ノ)造の上に擧たり、】また岐閇《キヘノ》國(ノ)造(ノ)祖|兄多毛比《エタモヒノ》命【此(ノ)命牟邪志(ノ)國造と前に見ゆ】などあり、此(ノ)地名、陸奥《ミチノク》に在《アリ》げに聞ゆれども、物に見えず、又|道尻《ミチシリ》と云べき國々《クニグニ》を考るにも、凡て見えず、又國造本紀には、道(ノ)口とあるも疑はし、萬葉十四【四丁】遠江(ノ)國(ノ)歌に、伎倍《キヘ》と云地を賦《ヨメ》れども、彼國は道(ノ)尻と云べき由なし、道(ノ)口道(ノ)尻のことは、黒田(ノ)朝(ノ)段【傳廿一の四十ひら】に出《ヅ》、

〇周芳《スハウノ》國(ノ)造、【書紀(ノ)卷々にも、芳(ノ)字をかけり、】師は須波《スハ》と訓れき、信《マコト》に萬葉などにも、芳は波《ハ》の假字《カナ》に用ひ、又|須波宇《スハウ》と云むよりは、古言の體《サマ》なり、されど此國(ノ)名を、正《マサ》しく然云る例を未(ダ)見ず、【萬葉四に、周防在磐國山乎《スハウナルイハクニヤマヲ》とよめるも、須波那流《スハナル》か、須波宇那流《スハウナル》か、定めがたし、】和名抄にも周防【須波宇《スハウ》】とある故に、今も然訓つ、名(ノ)義いまだ考(ヘ)得ず、國造本紀に、周防(ノ)國(ノ)造(ハ)、輕嶋(ノ)豐明(ノ)朝(ニ)、茨城(ノ)國造(ノ)同祖、加米乃意美《カメノオミヲ》、定2賜國造(ニ)1とあり、

〇倭淹知造《ヤマトノアムチノミヤツコ》、淹知の訓は阿牟知《アムチ》なるべし、【和名抄、伊勢(ノ)國(ノ)郡に、奄藝(ハ)阿武義《アムギ》、隱岐(ノ)國周吉(ノ)郡奄可(ハ)安無加《アムカ》などある例によりて阿牟知《アムチ》と訓べし、】今山(ノ)邊(ノ)郡に庵治《アウヂ》と云村あり、此(レ)なるべし、【今あうぢと唱(フ)るは、伊勢の奄藝《アムギノ》郡をも、俊頼(ノ)集に、あふぎの郡とありて、歌に扇によせてよめり、これ同例なり、】又靈異記に、大倭(ノ)國十市(ノ)郡|菴知部《アムチベ》と云あり、續紀廿五又卅六に、豐野(ノ)眞人奄智と云人(ノ)名も見ゆ、さて姓氏録【左京神別】に、奄智(ノ)造(ハ)、額田部(ノ)湯坐(ノ)連(ト)同祖、また大和(ノ)國(ノ)神別に、奄知(ノ)造(ハ)、天津彦根(ノ)命(ノ)十四世(ノ)孫、建凝《タケコロノ》命(ノ)之後也とあり、類聚國史、弘仁十年二月(ノ)敍位に、奄智(ノ)造吉備麻呂と云人見ゆ、

〇高市縣主《タケチノアガタヌシ》、和名抄に、大和(ノ)國高市(ノ)【多介知《タケチ》】郡、これなり、此名の事は、朝倉(ノ)宮(ノ)段(ノ)大后の御歌に、多氣知《タケチ》とある下《トコロ》【傳四十二の三十九葉】に委く云べし、姓氏録に、高市(ノ)連(ハ)、額田部(ノ)同祖、天津彦根(ノ)命(ノ)三世(ノ)孫、彦伊賀都《ヒコイガツノ》命(ノ)後也、また高市(ノ)縣主(ハ)、天津彦根(ノ)命(ノ)十二世(ノ)孫、建許呂《タケコロノ》命(ノ)之後也と見ゆ、書紀天武(ノ)卷に、高市(ノ)郡(ノ)大領高市(ノ)縣主|許梅《コメ》と云人あり、同卷に、十二年冬十月、高市(ノ)縣主賜(テ)v姓(ヲ)曰v連(ト)、

〇蒲生稻寸《カマフノイナキ》、和名抄に、近江(ノ)國蒲生(ノ)【加萬不《カマフ》】郡、これなり、名(ノ)義は、いと上(ツ)代に蒲《カマ》の多く生《オヒ》たりし地なりしにや、【蓬生《ヨモギフ》淺茅生《アサヂフ》麻生《ヲフ》などの類なり、】此姓のことは、他書に未(ダ)見あたらず、【神名式に、近江(ノ)國蒲生(ノ)郡菅田(ノ)神社ありて、姓氏録に、菅田(ノ)首(ハ)、天(ノ)久斯麻比止都(ノ)命(ノ)之後也とあり、麻比止都(ノ)命は、天津彦根(ノ)命の子と同書に見えて、上に引り、】

〇三枝部造《サキクサベノミヤツコ》、姓氏録に、三枝部《サキクサベノ》連(ハ)、額田(ノ)部(ノ)湯坐(ト)同祖(ナリ)、顯宗天皇(ノ)御世(ニ)、喚2集《メシツドヘテ》諸氏(ノ)人等(ヲ)1賜(フ)2饗※〔酉+燕〕(ヲ)1、于v時三莖(ノ)之草生2於宮(ノ)庭(ニ)1、採(テ)以奉2獻(ル)、仍《カレ》負(フ)2姓三枝部造《サキクサベノミヤツコトイフカバネヲ》1、また三枝部(ノ)連(ハ)、額田部(ノ)湯坐(ノ)連(ノ)同祖、天津彦根(ノ)命(ノ)十四世(ノ)孫、建己呂《タケコロノ》命(ノ)之後也、顯宗天皇(ノ)御世(ニ)、諸氏(ニ)賜(フ)2饗※〔酉+燕〕(ヲ)1、于v時宮庭(ニ)有2三莖草1獻(ル)之、因《カレ》賜(フ)2姓三枝部造《サキクサベノミヤツコトイフカバネヲ》1とあり、書紀(ノ)獻宗(ノ)卷に、三年四月丙辰朔戊辰、置(ク)2福草部《サキクサベ》1とある、此時の事なるべし、天武紀に、十二年九月、福草部(ノ)造賜(テ)v姓(ヲ)曰v連(ト)とあり、三枝《サキクサ》のことは、白橿原《カシバラノ》宮(ノ)段、【傳二十の三十一葉】又|近飛鳥《チカツアスカノ》宮(ノ)段【傳四十三の四十九葉】に云、

〇右件《ミギノクダリ》十九氏の加婆禰《カバネ》の事、國造は、何れも久邇能美夜都古《クニノミヤツコ》と訓べし、其由はまづ、上(ツ)代に諸仕奉人等《モロモロノツカヘマツリビトタチ》を惣擧《スベアグ》るには、臣《オミ》連《ムラジ》伴造《トモノミヤツコ》國造《クニノミヤツコ》と並《ナラベ》云(ヘ)り、【書紀卷々に數しらずおほし、】又敏達(ノ)卷に、臣《オミ》連《ムラジ》二造《フタツノミヤツコ》とも有て、二造者《フタツノミヤツコ》國(ノ)造伴(ノ)造也と註せり、さてその國造《クニノミヤツコ》は、諸國《クニグニ》にて其國の上《カミ》として、各々其國を治《ヲサム》る人を云(フ)尸《カバネ》なり、造《ミヤツコ》は即かの伴造《トモノミヤツコ》と云る者にして、伴《トモ》とは部《ムレ》を云(フ)、三枝部《サキクサベ》などの部《ベ》なり、倍《ベ》は即(チ)牟禮《ムレ》を約《ツヅメ》たる米《メ》に通はしたる言なり、【上達部と書て、カムダチメと訓(ム)類をも思ふべし、】故(レ)造《ミヤツコ》の尸《カバネ》は、多くは某部《ナニベ》と云姓に多し、【天武紀十二年九月の所を見べし、】部《ベ》と云(ハ)ぬも、其意なる姓なり、かゝれば造《ミヤツコ》は、諸部《ムレムレ》にて上《カミ》として、各《オノオノ》其(ノ)部《ムレ》を掌《ツカサド》る人を云(フ)尸《カバネ》なり、【書紀垂仁(ノ)卷に、某部《ナニベ》々々《ナニベ》と】云をあげて、并(テ)十箇(ノ)品部《トモノミヤツコ》とあり、又欽明(ノ)卷に、秦人(ノ)戸(ノ)數惣(テ)七千五十三戸、以(テ)2大藏(ノ)椽(ヲ)1爲《ス》2秦伴造《ハダノトモノミヤツコト》1とある、是(レ)秦人(ノ)戸を掌る人を、秦(ノ)伴(ノ)造と云るなり、又雄略(ノ)卷巻に、詔(シテ)聚(メテ)2漢部《アヤベヲ》1、定(メ)2其伴(ノ)造(ナル)者(ヲ)1云々、これも漢部を掌る人を、其(ノ)伴(ノ)造と云なり、又孝徳(ノ)卷に、詔(シテ)曰(ク)若(シ)憂(ヘ)訴(フル)之人、有(ラバ)2伴(ノ)造1者、其(ノ)伴(ノ)造先(ヅ)勘當《カムガヘテ》而|奏《マヲセ》、これも其(ノ)部々《ムレムレ》を掌(ル)人を、其(ノ)伴(ノ)造といへり、】されば二(ツノ)の造《ミヤツコ》同(ジ)義にて、【郡領をも、許本乃美夜都許《コホノミヤツコ》と訓り、此(ノ)訓のこと、北山抄にも懇《ネモコロ》に記されたり、此(レ)も字は異なれども、同言同意なり、】名(ノ)義は御臣《ミヤツコ》なり、稱徳紀(ノ)詔に、貞久淨伎心乎以天《タダシクキヨキココロヲモチテ》、朝廷乃御奴止奉仕之米天《ミカドノミヤツコトツカヘマツラシメテ》云々、また丈部姉女乎波《ハセツカベノアネメヲバ》、内都奴止爲弖《ウチツヤツコトシテ》、冠位擧給比《カガフリクラヰアゲタマヒ》、などあるを以て、夜都古《ヤツコ》は臣の意なることを知べし、推古紀には、國造をクニノヤツコとも訓り、【夜都古《ヤツコ》といへば、甚《ハナハダ》賤《イヤシ》き者の如く聞ゆれども、本《モト》然《サ》に非ず、君に對《ムカ》へて、臣を云名なり、故(レ)君臣の意なる臣をば、書紀などにも皆ヤツコと訓(メ)り、又官奴を美夜都古《ミヤツコ》と云は別なり、其《ソレ》はもと、私(ノ)家の奴婢より起《オコリ》て、公《オホヤケ》の奴婢を云なり、されどその私(ノ)家の奴婢も、君臣の臣の意なれば、云(ヒ)もてゆけば、本は一(ツ)なり、又とのもりのともの御奴《ミヤツコ》など云も此(レ)なり、此等《コレラ》名《ナ》の本の意は一(ツ)におつめれども、造《ミヤツコ》は、天皇に對へて臣の意なる故に、其(ノ)部《ムレ》の上《カミ》たる人を云(ヒ)、御奴《ミヤツコ》とは、下に付(ク)者を云なれば、用ふる所に至りては、甚《イタク》異《コト》なり、さて國(ノ)造を、園(ノ)宮(ノ)司《ツカサ》と云意とする説は、大《イタク》誤(リ)なり、又師は、國(ノ)造を久爾都許《クニツコ》と訓て、其(ノ)説に、國造《クニツコ》は、其(ノ)國を草創《ハジメ》し意にて、即(チ)造《ツクル》と云言なり、又たゞの造《ミヤツコ》は、宮を造《ツク》れる功に因れる尸《カバネ》なり、と云れつれど、わろし、今考るに、書紀などに、多くは久爾能美夜都許《クニノミヤツコ》と訓(ミ)、又|久爾都許《クニツコ》と訓る所も稀《マレ》にはあり、造《ザウノ》字に就て思へば、此(ノ)師(ノ)説|當《アタ》れるに似たれども、造《ミヤツコ》も、宮を造《ツク》れる功に因れること、未(ダ)其(ノ)證を見ず、孝徳紀に、進(ル)2調賦(ヲ)1時(ニ)、其臣連伴(ノ)造國(ノ)造等、先(ヅ)自(ラ)收斂(テ)、然後(ニ)分(チ)進(テ)、脩2治宮殿(ヲ)1云々、など云ることあれど、此《コ》は別事《コトコト》なり、さて若(シ)造作《ツク》る意ならば、國造の例にて、美夜都古《ミヤツコ》も宮造《ミヤツコ》と書(ク)べきことなるに、然書ることなし、造(ノ)字のみにては、宮を造ることには取(リ)がたし、そのうへ右に引る書紀に、國(ノ)造伴(ノ)造と並べ云(ヒ)、又これを二(ツノ)造ともあるを、一(ツ)をばミヤツコ、一(ツ)をばたゞツコと、訓(ミ)の變《カハ》るべき由なきをや、】されば天皇の御臣《ミヤツコ》として、【書紀推古(ノ)卷に、國(ノ)司國(ノ)造云々、所任官司《ヨサセルツカサツカサハ》、皆(ナ)是(レ)王(ノ)臣《ヤツコラナリ》、】其國々を治(ム)る人を、國御臣《クニノミヤツコ》と云《ヒ》、各其(ノ)部々《ムレムレ》を掌る人を、件御臣《トモノミヤツコ》とは云なり、さて造(ノ)字を書(ク)所由《ヨシ》は未(ダ)思(ヒ)得ず、漢國《カラクニ》秦(ノ)官に、大良造【大上造とも云】と云あり、又北史に、新羅(ノ)國(ノ)官十七等の中の第十七を、造位と云といへり、此(レ)等《ラ》に由《ヨシ》有(リ)て書(キ)始(メ)たるか、猶考ふべし、さて國造は、上(ツ)代には、職《ツカサ》にて即(チ)加婆禰《カバネ》なりしを、やゝ後には、加婆禰《カバネ》は別に有て、其(ノ)氏の中に國造あり、【那良《ナラ》のころに至ては、其氏人の中にて、國造を任したまふが常なり、然るに某(ノ)國(ノ)造と云姓を賜ひしことも、續紀卅三の二葉などに見えたり、又大寶二年には、諸國(ノ)國造の氏を定めて、國造記に載られしことも、同書に見え、又陸奥(ノ)國に、大國造國造と、並《ナラ》べ任せられしことも、同廿八(ノ)卷に見ゆ、】さて國々に宰《ミコトモチ》を置《オカ》れて後、【古(ヘ)國造は、世々《ヨヨ》傳《ツタヘ》て其國を治めたり、漢國《カラクニ》の古(ヘ)の、封建の制《サダメ》と云も、此(レ)に似たり、然るに孝徳天皇の御世より、彼國の郡縣の制と云をまねびて、京より國司《クニノミコトモチ》をかはる/”\に遣《ツカハシ》て、國々を治めしめ賜ふことに爲《ナ》れり、其(レ)より前《サキ》にも、宰《ミコトモチ》と云者は有(リ)つれども、毎國《クニゴト》に必(ズ)定めて置れたるは、彼(ノ)御代よりなり、】國造は國司《ミコトモチ》の下に立て、多くは郡領《コホリノミヤツコ》などに任《ナ》れり、さて漸々《ヤウヤウ》に衰《オトロヘ》ゆきて、後(ノ)世には遂《ツヒ》に國々の國造|絶《タエ》て、今(ノ)世まで其名の殘れるは、出雲さては紀(ノ)國などのみなり、直《アタヘ》は、書紀に阿多比延《アタヒエ》と訓る所ある【皇極(ノ)卷に長(ノ)直《アタヒエ》とあり、】と、和名抄和泉(ノ)國和泉(ノ)郡の郷(ノ)名に、山直《ヤマタヘ》【也末多倍《ヤマタヘ》】とあるとを合せて、阿多閇《アタヘ》と訓べし、【かの阿多比延《アタヒエ》の比延《ヒエ》を切《ツヅ》めて、閇《ヘ》と云なり、山直《ヤマタヘ》は、山《ヤマ》の末《マ》に阿韵《アノヒビキ》ある故に、阿《ア》を略きて多閇《タヘ》なり、】名(ノ)義未(ダ)考(ヘ)得ず、延《エ》は兄《エ》なるべし、【直(ノ)字は借字なり、續紀廿八に、庚午(ノ)年(ノ)籍に、直《アタヘノ》姓に、費(ノ)字を書れたりしこともありしよし見ゆ、】姓氏録に、直者《アタヘハ》謂(フ)v君(ヲ)也とあるは、宜《ベシ》2汝|爲《ナリテ》v君(ト)治《ヲサム》之1、とある詔に就《ツキ》て註せるなり、此(ノ)尸《カバネ》も、凡て國々の處々にある姓に附《ツキ》たれば、其(ノ)處の君たる意にてはあるなり、連《ムラジ》は、前【傳六の六十八葉】に見ゆ、大※〔氏/一〕《オホヨソ》諸《モロモロ》の姓《ウヂ》の中に、臣《オミ》と連《ムラジ》とは、京のあたりに住居《スミ》て、殊に親《シタシ》く朝廷《ミカド》に仕奉る氏々の尸《カバネ》なり、【書紀雄略(ノ)卷(ノ)遺詔に、臣連伴(ノ)造(ハ)、毎日朝參《ヒニヒニミカドマヰリシ》、國(ノ)司郡(ノ)司(ハ)、隨《フレテ》v時《ヲリニ》朝集《マヰコ》とあるも、臣連伴(ノ)造は、京近く住居《スマフ》故なり、】さて造《ミヤツコ》は、其(ノ)部《ムレ》の品類《シナ》によりて、京のあたりに在(ル)と、國々に在(ル)と有(ル)べし、又國(ノ)造|君《キミ》直《アタヘ》縣主《アガタヌシ》稻寸《イナキ》【寸を置とも書り】などは、皆國々に在て、其處處を治むる氏人の尸《カバネ》なり、【臣連國(ノ)造伴(ノ)造、とすべ云ときは、君直縣主稻置のたぐひをば、國(ノ)造(ノ)中にこめたるべし、】其中に尊《タカキ》卑《イヤシキ》ありと見えて、闘※〔鷄の鳥が隹〕《ツケノ》國の造の姓を貶《オトシ》て、稻置《イナキ》になされしことなど、書紀允恭(ノ)卷に見ゆ、縣主《アガタヌシ》は、即(チ)其縣《ソノアガタ》々々《ソノアガタ》の主《ウシ》なり、縣《アガタ》のことは、中卷志賀(ノ)高穴穗(ノ)朝(ノ)段に出づ、【傳二十九の五十九葉】

○稻寸《イナキ》は、多くは稻置と書り、【置は於伎《オキ》の於《オ》を省《ハブキ》て取れり、日置《ヒキ》玉置《タマキ》などの例なり、】何《イヅ》れも借字なるべし、名(ノ)義いまだ思(ヒ)得ず、伎《キ》は君《キ》なるべし、書紀成務(ノ)卷五年、國郡に立2造長《ミヤツコヲ》1、縣邑(ニ)置(ケ)2稻置《イナキヲ》1、また孝徳(ノ)卷に、國(ノ)造伴(ノ)造縣(ノ)稻置などもあり、さて然《シカ》國々に在て、其(ノ)趣《オモムキ》相似たる中にも、國(ノ)造縣主君直稻寸などと、色々《クサグサ》に分れたること、其(ノ)所由《ユヱ》も高下《タカキヒキキ》も、今こと/”\く委曲《ツバラ》には辨《ワキマ》へがたし、【續紀に、天平寶字三年冬十月辛丑、天下(ノ)諸(ノ)姓、着(クル)2君(ノ)字(ヲ)1者、換(フルニ)以(ス)2公(ノ)字(ヲ)1とある、此(レ)よりして、君(ノ)姓みな公(ノ)字をかけり、】又右の外にも、なほ色々《クサグサ》の尸《カバネ》あり、其(ノ)出たる處に云べし、又|氏姓《ウヂカバネ》の惣《スベ》てのことは、下(ツ)卷遠(ツ)飛鳥(ノ)朝(ノ)段【傳三十八の二十八葉】に云べし、

〇此《コハ》出雲(ノ)國(ノ)造より、三枝部(ノ)造等之祖也と云まで、細字には書(キ)たれども、註の例には非ず、本文なり、記中凡て、如此《カク》子孫の氏々を擧たる所は、みな然なり、

古事記傳八之卷

                 本居宣長謹撰

 

     神代六之巻《カミヨノムマキトイフマキ》

 

爾速須佐之男命白于天照大御神《ココニハヤスサノヲノミコトアマテラスオホミカミニマヲシタマハク》。我心清明故《アガココロアカキユヱニ》。我所生之子得手弱女《アガウメリシミコタワヤメヲエツ》。因此言者《コレニヨリテマヲサバ》。自我勝云而《オノヅカラアレカチヌトイヒテ》。於勝佐備《カチサビニ》。【此二字以音】離天照大御神之營田之阿《アマテラスオホミカミノミツクダノアハナチ》【此阿字以音】埋其溝《ミゾウメ》。亦其於聞看大嘗之殿屎麻理《マタソノオホニヘキコシメストノニクソマリ》【此二字以音】散《チラシキ》。故雖然爲《カレシカスレドモ》。天照大御神者登賀米受而告《アマテラスオホミカミハトガメズテノリクマハク》。如屎《クソナスハ》。醉而吐散登許曾《ヱヒテハキチラストコソ》。【此三字以音】我那勢之命爲如此《アガナセノミコトカクシツラメ》。又離田之阿埋溝者《マタタノアハナチミゾウムルハ》。地矣阿多良斯登許曾《トコロヲアタラシトコソ》。【自阿以下七字以音】我那勢之命爲如此登《アガナセノミコトカクシツラメト》【此一字以音】詔雖直《ノリナホシタマヘドモ》。猶其惡態不止而轉《ナホソノアシキワザヤマズテウタテアリ》。天照大御神坐忌服屋而《アマテラスオホミカミイミハタヤニマシマシテ》。令織神御衣之時《カムミソオラシメタマフトキニ》。穿其服屋之頂《ソノハタヤノムネヲウガチテ》。逆剥天斑馬剥而所墮入時《アメノフチコマヲサカハギニハギテオトシイルルトキニ》。天衣織女見驚而《アメノミソオリメミオドロキテ》。於梭衝陰上而死《ヒニホトヲツキテミウセキ》。【訓陰上云富登】故於是天照大御神見畏《カレココニアマテラスオホミカミミカシコミテ》。閇天石屋戸而刺許母理《アメノイハヤドヲタテテサシコモリ》【此三字以音】坐也《マシマシキ》。

手弱女、萬葉十五【三十四丁】に、多和也女《タワヤメ》とあり、此(レ)に依て訓べし、和也《ワヤ》は弱《ヨワ》と通ふ、中卷倭建(ノ)命(ノ)御歌に、多和夜賀比那《タワヤガヒナ》と有るも、手弱肘《タワヤガヒナ》なり、萬葉三【四十五丁】に、石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》、手弱寸女有者《タヨワキメニシアレバ》、爲便乃不知苦《スベノシラナク》とよめる如く、男を大夫《マスラヲ》と云に對《ムカヘ》て、女は手弱《タヨワキ》意の稱《ナ》なり、和名抄には、手弱女人|太乎夜米《タヲヤメ》とあり、書紀萬葉などにも如此《カク》訓を付《ツケ》たれど、こは稍《ヤヤ》後に訛れるなるべし、萬葉六【三十六丁】に弱女《タワヤメ》、又十三【二丁】に手弱女《タワヤメ》、これらの訓ぞよき、

〇言者は、麻袁佐婆《マヲサバ》と訓べし、今(ノ)世人の語にも、如此《カカ》る所に如此《カク》言《イフ》ことあり、

〇自《オノヅカラ》は、即《スナハチ》いふに近し、上文にも 自《ノヅカラ》吾子也、乃《スナハチ》汝(ノ)子也と、同(ジ)意の言をかく乃《スナハチ》とも云り、共にもとよりと云むが如し、下文に天(ノ)原自(ラ)闇(ク)、また自得照明などある自も又同じ、

〇我勝《アレカチヌ》、書紀に、故《カレ》素戔嗚(ノ)命既(ニ)得《エツ》2勝驗《カテルシルシヲ》1とあり、但(シ)彼(ノ)紀には、男子を生《ウミ》たまふを以て、心の清明《アカキ》驗《シルシ》とせるを、今は如此《カク》女子を得たまふを以て、其《ソノ》驗《シルシ》とし、我勝《アレカチヌ》と白《マヲシ》たまふは、傳(ヘ)の意の異なるなり、上にも云るが如く、此(ノ)男女の御子の旨、すべて書紀と異なり、抑々女子を得給ふを以て、御心の清明《アカキ》驗《シルシ》とする故は、まづ天照大御神は高天(ノ)原を所知看《シロシメセ》ば、上《カミ》に立(チ)て專(ラ)と事を執《トル》大丈夫《マスラヲ》の如く、此(ノ)命《ミコト》は、所逐《ヤラハレ》て根(ノ)國に退《マカリ》坐(ス)御身なれば、手弱女の男に從《シタガヒ》て下に在(ル)が如くなるべき理(リ)なればなり、故(レ)今女子を得給ふは其理に叶(ヒ)て、天照大御神に服《マツロ》ひ給(ヒ)て、仇敵《アタム》御心なく、高天(ノ)原を奪はむの御心なき驗《シルツ》となれるなり、故(レ)此所《ココ》には唯女子と云(ハ)ずして、【上には女子とあり】手弱女《タワヤメ》としも云るも、其意ぞかし、【凡て益荒男《マスラヲ》手弱女《タワヤメ》とは、たゞ何となく男女をいふ稱には非ず、みな右の意にて、強《ツヨ》きこと弱《ヨワ》きことを云(フ)ときの稱なり、書紀萬葉などに心を付《ケ》て見よ、古《へ》はかゝる名栴みだりならずかし、】

〇於《ニ》2勝佐備《カチサビ》1、師説に、進《スス》むことを須佐備《スサビ》と云、又そを約《ツヅメ》て佐備《サビ》とも云り、【須佐《スサ》を反《ツヅメ》て佐《サ》なり、】今此神|誓《ウケヒ》に勝(チ)給(ヘ)る御心の進《スス》める勢(ヒ)に荒《アラ》び給ふを勝佐備《カチサビ》と云て、進《スス》み荒ぶる意なりとあり、【又云、萬葉一に感2傷近江(ノ)舊都(ヲ)1歌に、樂浪乃國都美神乃浦佐備而荒有京見者悲毛《ササナミノクニツミカミノウラサビテアレタルミヤコミレバカナシモ》、これも國御紳《クニツミカミ》の心すさびて、國の亂を起《オコ》し、都を荒《アラ》せりとよめるなり、今云(ク)、此歌舊(キ)説どもは誤れり、】猶此(ノ)佐備《サビ》須佐備《スサピ》てふ言、是《コレ》より種々《クサグサ》に轉《ウツ》し用ることなど、委曲《ツバラカ》に彼(ノ)萬葉(ノ)考に書《シル》されたり、さて須佐之男《スサノヲ》と申(ス)御名も此意なり、【故(レ)或書に進雄《スサノヲ》とかけり、】後(ノ)世に物の進み荒きを須佐夫《スサブ》と云ること多し、

○一段(ノ)内に、天照大御神と申す御名を幾度《イクタビ》も擧《アゲ》たること、此段《コノクダリ》又前にも後にも多し、これもしよのつねの文の例以ていはば、始(メ)の一(ツ)を然《シカ》申して、次々はたゞ大御神とのみあるべきを、度《タビ》毎に天照大御神とあるは、煩はしきに似たれども、これぞ古文の格《サマ》なるべき、

〇營田は美都久陀《ミツクダ》と訓べし、營《ツクル》2下田(ヲ)1營《ツクル》2高田(ヲ)1など卷(ノ)末に見ゆ、孝徳紀【二十一丁】にも營《ツクル》v田(ヲ)とあり、和名抄に佃(ハ)豆久太《ツクダ》とあり、さて此(ノ)御田、書紀には、天(ノ)挾田《サダ》長田《ナガタ》天(ノ)垣田《カキダ》天(ノ)安田《ヤスダ》天(ノ)平田《ヒラタ》天(ノ)邑并田《ムラアハセダ》など云名あり、

〇阿《ア》は畔《ア》なり、和名抄には、畔(ハ)田界也、和名|久呂《クロ》、一云|阿世《アゼ》とあれども、古(ヘ)は阿《ア》とのみ云り、【阿世《アゼ》は、もと畔背《アゼ》の意なり、】躬恒集に、このめはるときになるまで苗代のあをだにいまだつくらざりけり、書紀に、毀2其(ノ)畔《アヲ》1、毀此(ヲ)2波那豆《ハナツト》」古語拾遺に、毀畔古語|阿波那知《アハナチ》とあり、

〇埋其溝、書紀に、填v渠《ミゾヲ》とも埋v溝ともあり、埋は宇豆米《ウヅメ》とも訓べけれど、古語拾遺に美曾宇女《ミゾウメ》とあるに依れり、【其(ノ)字も讀べからず、】和名抄に、釋名(ニ)云、田(ノ)間(ノ)之水(ヲ)曰(フ)v溝(ト)、和名|三曾《ミゾ》、渠同(ジ)v上(ニ)と云(ヒ)、又※〔田+犬〕(ハ)田(ノ)中(ノ)渠(ナリ)也、和名|太三曾《タミゾ》ともあり、さて畔《ア》を離《ハナツ》は、其田にたくはへたる水を涸《カラ》し、又水の多《オホ》かる時は、外より漫《ミダリ》に入(レ)て、溢《アフラ》さむ爲《タメ》の態《ツワザ》なり、【田(ノ)界を混《ミダ》さむの爲《シワザ》なりと云は非《アラ》ず、書紀に、此《ココ》の種々の惡行《アシキワザ》どもを、春と秋とに分(ケ)て云る中に、此(レ)は春の事とするも、水のためなればなり、又須佐之男(ノ)命の御田の惡きを云(フ)とて、川依田《カハヨリダ》口鋭田《クチトダ》など有(ル)も、水に付《ツキ》たる名なるを思ふべし、】溝《ミゾ》を埋るは、水を引《マカ》するを妨《サマタゲ》むためなり、此(ノ)餘《ホカ》になほ重播種子《シキマキ》廢渠槽《ヒハガチ》插籤《クシサシ》伏馬《ウマフセ》などいふこと、書紀|及《マタ》大祓(ノ)祝辭古語拾遺などには見えたり、今は略《ハブキ》て擧《アゲ》たる傳(ヘ)なるべし、【中卷神功(ノ)段國之大祓の所にも、阿離溝埋の二(ツ)のみ見ゆ、】

〇大嘗、書紀には新嘗とあり、同じことなり、續紀廿六【二十五丁】には大新嘗ともあり、何《イヅ》れも意富爾閇《オホニヘ》と訓べし、【書紀廿九(ノ)四丁|大嘗《オホニヘ》、又十一丁|新嘗《オホニヘ》とあり、これらの訓よろしきなり、古今集廿(ノ)卷に、御代々々の意富牟倍之歌《オホムベノウタ》とある、即(チ)大嘗にて、爾閇《ニヘ》を音便に牟弁《ムベ》と云(ヒ)なせるなり、凡て言の中《ナカラ》にある爾《ニ》は、牟《ン》と云(ヒ)なす例多し、さて牟《ン》と云に引れて弁《ベ》と濁るも音便なり、】爾閇《ニヘ》は新饗《ニヒアヘ》を約《ツヅメ》たる【爾比《ニヒ》を切《ツゾムレ》ば爾《ニ》なり、阿《ア》は略く例常なり、】にて、新稻《ニヒシネ》を以て饗《アヘ》するを云(フ)名なり、其《ソ》は萬葉十四下總(ノ)國(ノ)歌に、爾保杼里能可豆思加和世乎爾倍須登毛曾能可奈之伎乎刀爾多※〔氏/一〕米也母《ニホドリノカヅシカワセヲニヘストモソノカナシキヲトニタテメヤモ》、【顯昭(ガ)袖中抄十六に、可豆思加和世《カヅシカワセ》とは、下總(ノ)國に葛飾《カヅシカ》と云處あり、其處の早稻《ワセ》を云なり、爾倍須登母《ニヘストモ》とは、田舍《ヰナカ》に始(メ)て早稻《ワセ》を刈《カリ》て物して、里隣《サトドナリ》の者集(リ)て食《クフ》をば、爾倍《ニヘ》すと云なり云々と云り、歌(ノ)意は、かの爾倍《ニヘ》をする節《ヲリ》は、いみしく齋愼《イハヒツツツミ》て、門をも閇《サシ》て外人《ヨソヒト》をかたく入(レ)ず、されどもかなしく思ふ男の來《キ》なば、門外《カドノト》に立《タタ》せてはおきたらじ、内へ入(レ)てむと、志(シ)のせめて深きよしをよめるなり、書紀に齋庭之穗《ユニハノホ》とあるも、新嘗《ニヒナヘ》はいみしく齋《イハヒ》愼むゆゑにいふなり、家持家集と云物に、我宿の早田かりあげて爾倍《ニヘ》すとも君が使をたゞにはやらじとあるは、右の歌をなほしたるものなり、】と詠《ヨメ》る如く、元《モト》は朝家《ミカド》のみならず、下々《シモジモ》までなべて爲事《セシコト》なり、又後(ノ)世にはもはら神に祭る事とのみ思(フ)めれど、然《サ》に非ず、神にも奉り、人にも饗《アヘ》自《ミヅカラ》も食《クフ》わざなり、【贄《ニヘ》苞苴《ニヘ》牲《イケニヘ》なども、本(ト)此(ノ)新饗《ニヒアヘ》より轉《ウツ》れる名なり、】かゝれば今大御神の聞食《キコシメス》大嘗《オホニヘ》も、此(ノ)意を以て見べし、【たゞに後(ノ)世の朝家の大嘗祭新嘗祭の事をのみ」思ふは、古意に非ず、】大《オホ》てふ言を添《ソヘ》たるは尊《タフトミ》てなり、改(レ)後に朝家《ミカド》にし給ふ爾閇《ニヘ》を、大嘗《オホニヘ》とは申すぞかし、さて嘗(ノ)字をしも書(ク)ゆゑは、漢《カラ》國にて秋(ノ)祭を嘗と云(フ)を借《カ》れるなり、【こはしばらく朝家の爾閇《ニヘ》に付(キ)て借(リ)たる字なり、必しも此字になづむべからず、又大嘗新嘗は十一月に行はせ給ふことなれども、秋に依《ヨレ》る事なる故に、此字をば書なり、】又新嘗とも書る新(ノ)字は、本の新饗《ニヒアヘ》の意を取て加(ヘ)つるなり、【漢籍にも嘗(ス)v新(ヲ)といふことは見ゆ、】さて此(ノ)新嘗を、書紀に、爾波能阿比《ニハノアヒ》【新之饗《ニハノアヒ》なり、私記に合《アヒ》之義とするも、由《ヨシ》なきにはあらねど、猶|饗《アヘ》の轉れるなり、】とも、爾波那比《ニハナヒ》【上に同じ、能阿《ノア》を約(ム)れば那《ナ》なり、】とも、爾波那閇《ニハナヘ》【上に同じ】とも、爾比那米《ニヒナメ》【上に同じ、閇《ヘ》と米《メ》と通ふ】とも爾比閇《ニヒヘ》【上に同じ、阿《ア》を略】とも、爾波比《ニハヒ》【上に同じ】とも、さま/”\に訓(ミ)を附(ケ)たれども、皆|正《タダ》しからず、【又嘗(ノ)字ナムルとも訓(ム)ゆゑに、ニヒナメと云(フ)と、思ひまがふることなかれ、】此記下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段|※〔女+采〕《ウネベ》が歌、又|大后《オホギサキ》の御歌に、爾比那閇夜《ニヒナヘヤ》【新嘗屋なり】とあるを、正《タダ》しき訓の據とすべし、【那閇《ナヘ》は之饗《ノアヘ》の約りたるなり、又阿と那と通はしいふ例多ければ、直《タダ》に新饗《ニヒアヘ》にても有(リ)ぬべし、】然《サテ》萬葉十四(ノ)東歌【廿丁】に、多禮曾許能屋能戸於曾夫流爾布奈未爾和我世乎夜里※〔氏/一〕伊波布許能戸乎《タレゾコノヤノトオソブルニフナミニワガセヲヤリテイハフコノトヲ》、【爾布那未《ニフナミ》の未《ミ》は、米《メ》の誤(リ)か、とまれかくまれ爾比那閇《ニヒナヘ》を、東詞にかく云るなり、上野(ノ)國の新田をも、和名抄には爾布太《ニフタ》としるせり、さて歌の意は、かの爾閇《ニヘ》をする所へ夫をやりて、妻の家に留(リ)居てよめるなり、人の許《モト》へ爾倍にゆきたるあとにても、家の戸をさして愼齋《ツツシミイハ》ふことと見ゆ、さる時に來て戸を押《オシ》て開《アケ》むとするは誰《タレ》ぞと咎《トガ》めたるなり、】この爾布奈未《ニフナミ》は爾比那閇《ニヒナヘ》の東言《アヅマコトバ》にて、上に引る下總(ノ)歌の爾倍《ニヘ》と、全《モハラ》同(ジ)事と聞ゆるを以て、爾閇《ニヘ》は新饗《ニヒアヘ》の約言《ツヅメコト》なるを知(ル)べし、さて新嘗は、朝家のに就《ツキ》て書(ク)文字なれば、大《オホ》てふ言を添《ソヘ》て、大爾比那閇《オホニヒナヘ》とか、大爾閇《オホニヘ》とか申すべきことなり、【又神嘗は、古書に加牟爾閇《カムニヘ》と訓を付たるぞよき、加牟奈米《カムナメ》と訓(ム)はわろし、相嘗は、阿比牟弁《アヒムベ》と云(フ)、公事根源に見ゆ、爾閇《ニヘ》を牟弁《ムベ》と云(ヒ)なせること、大嘗《オホムベ》に同じければ、是(レ)宜きなり、阿比那米《アヒナメ》と云はこれもひがことなり、凡てこれらも、名《ナ》の本の意を知(ラ)ずして、みだりに訓(ム)故に、まぎれて訛ること多きぞかし、〇書紀に、天稚彦|新嘗休臥《ニヒナヘシテネフセル》と有(ル)は、爾比那閇《ニヒナヘ》は上下なべてするわざなること、上に云如くなれば、天稚彦もしつるなり、新甞(ノ)字は姑く借《カレ》るのみぞ、然るを比(ノ)神僭(ス)2朝家(ノ)之儀(ヲ)1と云る説は、古(ヘ)に昧《クラ》し、皇極紀に、天皇|御《キコシメス》2新嘗1、是(ノ)日皇太子大臣(モ)各々自(ラ)新嘗(ス)と有(ル)をも見よ、】さて後(ノ)世には、踐祚大嘗《ミヨハジメノオホニヘ》を大嘗と云(ヒ)、毎年《トシゴト》のを新嘗と分(ケ)て云(ヘ)ども、古(ヘ)は通《カヨハ》し云て同(ジ)事なり、されば書紀清寧(ノ)卷に同度《オナジタビ》のを、始(メ)【三丁】には大嘗、後【六丁】には新嘗と書き、又皇極天皇(ノ)踐祚(ノ)大嘗をも、新嘗と書き、神祇令には、共に大嘗とあるぞかし、【北山抄にも、踐祚(ノ)大嘗祭毎季(ノ)大嘗祭とあり、】

〇聞看《キコシメス》、書紀皇極(ノ)卷に、御《キコシメス》2新嘗1、續紀三十【十五丁】宣命に、今日方新嘗乃猶良比乃豐乃明聞許之賣須日仁在《ケフハオホニヘノナホラヒノトヨノアカリキコシメスヒニアリ》云々、この言の意は、上【傳七の十七のひら】所知《シロシメス》の下《トコロ》に委く云るが如し、此《ココ》にては食賜《クヒタマフ》ことを云なり、後世の書にも多く然《シカ》云《イヘ》り、【今(ノ)世にも許志賣須《コシメス》と云言の遺《ノコ》れるは、此(ノ)略言なり、】祈年祭(ノ)祝詞に、荷前者《ハツホハ》、皇大御神能大前爾《スメオホミカミノオホマヘニ》如《ゴト》2横山《ヨコヤマノ》1打積置※〔氏/一〕《ウチツミオキテ》、殘乎波平聞看《ノコリヲバタヒラケクキコシメシ》云々、【この聞看も、天皇の食(ヒ)給(フ)と云ことなり、】大嘗祭祝詞に、今年十一月《コトシノシモツキノ》中(ノ)卯(ノ)日|爾《ニ》、天都御食乃長御食能遠御食登《アマツミケノナガミケノトホミケト》、皇御孫命乃大嘗聞食牟爲故爾《スメミマノミコトノオホニヘキコシメサムタメノユヱニ》、皇神等相宇豆乃比奉※〔氏/一〕《スメカミタチアヒウヅノヒマツリテ》、堅磐爾常磐爾齋比奉利《カキハニトキハニイハヒマツリ》、茂御世爾幸閇奉牟止依志※〔氏/一〕《イカシミヨニサキハヘマツラムトヨサシテ》、千秋五百秋爾平久安久聞食※〔氏/一〕《チアキイホアキニタヒラケクヤスケクキコシメシテ》、豐明爾明坐牟皇御孫命能《トヨアカリニアカリマサムスメミマノミコトノ》云々、これを見べし、古(ヘ)のは天皇の御自食《ミミヅカラキコシメ》すことを主《ムネ》と云り、中(ツ)卷明(ノ)宮(ノ)段に、聞2看《キコシメス》豐明《トヨノアカリ》1とあるも同じ言なり、【此《ココ》の大嘗《オホニヘ》を、たゞ神に供奉《マツリ》たまふことにのみ説《トキ》なすは、古(ヘ)の意にたがへり、】

〇屎麻理《クソマリ》、書紀に送糞此(ヲ)云2供蘇摩屡《クソマルト》1とあり、

麻理《マリ》は、大小便《クソユマリ》をすることなり、萬葉十六【十八丁】に、屎遠麻禮《クソトホクマレ》、竹取物語に、燕《ツバクラメ》の麻理置《マリオケ》る舊糞《フルグソ》などあり、【今(ノ)世に、大小便を取(ル)器を麻留と云も此言ぞ、】猶傳五【五十九葉】考(ヘ)合(ス)べし、散は知良須《チラス》と訓べし、下なるも同じ、【阿加都《アカツ》と訓(ム)は惡《ワロ》し、】是(ノ)所爲《シワザ》を中卷神功后(ノ)段【大祓(ノ)詞古語拾遺同、】には、屎戸《クソド》と云り、【此事は彼段に委(ク)云(フ)、】書紀には、陰《ヒソカニ》放2※〔尸/矢〕《クソマル》於|新宮《ニヒミヤニ》1とも、於《ニ》2新宮御席之下《ニヒミヤノミマシノシタ》1陰自送糞《ヒソカニミヅカラクソマル》云々、ともあり、凡て爾閇《ニヘ》する時は、萬《ヨロヅ》を愼《ツツシ》み齋《イハフ》こと、上に云が如し、新宮《ニヒミヤ》とあれば、此(ノ)料に宮をも新《アラタ》に造(リ)たまふことと見ゆ、然《サル》處《トコロ》へ如此《カク》穢《ケガラ》はしき行《ワザ》し給ふは、暴惡《アラビ》給ふことの甚《ハナハダシ》きなり、

〇雖然爲は、斯迦須禮杼母《シカスレドモ》と訓(ム)、

〇登賀米受而《トガメズテ》は、不《ズ》v咎《トガメ》而《テ》なり、倭姫(ノ)命世記に、何是問給止止可賣白支《ナドカクトヒタマフトトガノマヲシキ》、其處乎止鹿乃淵號支《ソコヲトガノフチトナヅケキ》、萬葉四【四十九丁】に、吾爲類和射乎害目賜名《ワガスルワザヲトガメタマフナ》、十八【三十五丁】に、比等毛登賀米授《ヒトモトガメズ》などあり、書紀に凡(テ)此(ノ)諸(ノ)事盡(ク)是|無状《アヂキナシ》、雖v然日(ノ)神恩親之意、不v慍不v恨、皆以2平心(ヲ)1容焉《ユルシタマフ》とあり、

〇如屎は、久曾那須波《クソナスハ》と訓べし、下の埋《ウムル》v溝《ミゾ》者《ハ》とあるに准《ナゾラ》へば、屎(ノ)下にも者(ノ)字あるべくこそ、さて如此《カク》詔《ノタマ》ふ意は、屎《クソ》の如く見《ミユ》るは、屎《クソ》には非ず、酒に醉《ヱヒ》て吐散《ハキチラシ》つる物ぞとなり、こは屎《クソ》なることは知看《シロシメシ》ながら、屎にあらぬさまに詔《ノタマ》ひなせるなり、抑(モ)醉て吐(ク)は、已《ヤム》こと得《エ》ず、處《トコロ》をも擇《エラビ》あへぬことあり、又屎よりは穢(レ)も淺き故に、かく詔直《ノリナホ》し給(フ)は、御恩愛《ミウツクシミ》の深きぞかし、

〇登許曾《トコソ》は、語辭《カタリコトバ》なり」 次なるも同じ、

〇爲如此は、加久志都良米《カクシツラメ》と訓べし、良米《ラメ》は良牟《ラム》と同くて、推度辭《オシハカルコトバ》なり、此《ココ》は必(ズ)此辭を讀附《ヨミツク》べき語(ノ)勢ぞ、【記中かゝる助辭《テニヲハ》をば、多くは略ける例なり、】

〇地矣阿多良斯登《トコロヲアタラシト》、古書どもに、惜(ノ)字を阿多良斯《アタラシ》と訓り、大雀《オホサザキノ》天皇(ノ)御歌に、阿多良須賀波良《アタラスガハラ》、書紀雄略(ノ)卷【二十二丁】歌に、阿※〔手偏+施の旁〕羅陀倶彌※〔白+番〕夜《アタラタクミハヤ》、又【二十三丁】婀※〔手偏+施の旁〕羅斯枳偉儺謎能陀倶彌《アタラシキヰナベノタクミ》云々、婀※〔手偏+施の旁〕羅須彌儺※〔白+番〕《アタラスミナハ》、萬葉十【三十六丁】に、思惠也安多良思《シヱヤアタラシ》など猶多し、此(ノ)御言《ミコト》は田になるべき地《トコロ》を費《ツヒヤ》して畔《ア》を作り、溝《ミゾ》を掘て置(ク)は、可惜《アタラシ》きことぞと思(ヒ)て、畔をも毀《コボ》ち溝をも埋《ウヅメ》て、其地をも皆田に爲《セ》むとの所爲《シワザ》にこそ有《アラ》めと云意なり、此(レ)も惡《アシキ》を善《ヨキ》に詔直《ノリナホ》し給(フ)こと右に同じ、一(ツ)一(ツ)に我那勢之命《アガナセノミコト》と詔ふに、弟命《オトノミコト》を親愛《ムツマシ》み所思看御心《オモホシメスミココロ》の程《ホド》見えて、甚《イト》も有がたくこそ、

〇詔雖直は、能理那本斯賜幣杼母《ノリナホシタマヘドモ》と訓べし、祝詞に、聞直志見直志《キキナホシミナホシ》【式八の廿丁廿二丁】など有(ル)と同格《オナジサマ》にて、惡事《アシキワザ》を善《ヨキ》に云成《イヒナシ》給(フ)なり、凡て惡きを善《ヨク》するを直《ナホ》すと云こと、前に説《トケ》ると思(ヒ)合すべし、

〇轉は、宇多弖阿理《ウタテアリ》と訓べし、是《コ》は本より有(ル)ことの愈《イヨヨ》進《ススミ》て、殊《コト》に甚《ハナハダ》しくなるを云(フ)言なり、萬葉十二【五丁】に、何時奈毛《イツハナモ》、不戀有登者《コヒズアリトハ》、雖不有《アラネドモ》、得田直比來《ウタテコノゴロ》、戀之繁母《コヒノシゲキモ》、又廿【十三丁】に、秋等伊弊婆《アキトイヘバ》、許己呂曾伊多伎《ココロゾイタキ》、宇多弖家爾《ウタテケニ》、花爾奈蘇倍弖《ハナニナソヘテ》、見麻久保里香聞《ミマクホリカモ》、【又十の十二丁、十一の十丁にも此言あり、開て見るべし、源氏葵(ノ)卷に、紫(ノ)上の髪のことを、うたて所せうもあるかな、いかにおひやらむとすらむと云(ヒ)、同卷に、年ごろあはれと思ひきこえつるは、かたはしにもあらざりけり、人の心こそうたてあるものはあれ云々、これらもいよゝ進みて甚しくなる意なり、】此等《コレラ》にて心得べし、轉(ノ)字を書(ク)は、轉《ウツ》り進《スス》む意を取(ル)なるべし、さて下卷穴穗(ノ)朝(ノ)段に、宇多弖物云王子《ウタテモノイフミコ》、書紀に武烈天皇の御所行《ミシワザ》を言所《イフトコロ》に、設2奇偉《ウタテアル》之戯(ヲ)1など有(ル)は、右の意よりうつりて、平穩《ナダラカ》に尋常《ヨノツネ》ならで、奇僻《アヤシ》く善《ヨ》からぬ意と聞ゆ、貫之集に、蟻通《アリドホシノ》神のことを、宇多弖有神也《ウタテアルカミナリ》と云るも是(レ)なり、古今集に、あはれてふ言こそうたて、世中をおもひはなれぬほだしなりけれ、又|落《チル》と見て可在物《アルベキモノ》を梅(ノ)花、宇多弖香《ウタテニホヒ》の袖に留在《トマレル》、これも形見《カタミ》こそ今は仇《アタ》なれと詠る如くにて同意なり、【菅家萬葉に、此歌の宇多弖を、別樣と書れたるは物遠し、春記に、瀧口定清去(ル)夜不v得2盗人(ヲ)1大(ハダ)以(テ)別樣也とあり、此(ノ)別樣もウタテシとよむべきなり、中古に此字を書ならへるなるべし、】又俗に、笑止《セウシ》なると云(フ)と同(ジ)意を、宇多弖伎《ウタテキ》とも云も、此(レ)よりうつれるなり、又古今集俳諧に花と見て折むとすれば女郎花、宇多多《ウタタ》あるさまの名にこそ有けれ、此(ノ)宇多多《ウタタ》も同言にて、恵も右に同じ、【女郎と云名にはゞかりて、尋常の花とはたがひて、折むことをあやしくよからず思ふよしなり、】故(レ)此(ノ)轉(ノ)字をも常には宇多多《ウタタ》と訓り、さて此《ココ》に轉《ウタテアリ》と云(ヒ)おきて、此(ノ)次に其(ノ)うたてある所行《シワザ》を云り、

〇此(ノ)段に論《アゲツラフ》べきことあり、須佐之男(ノ)命既に御誓《ミウケヒ》に依て、御心の清明《アカキ》こと顯《アラハ》れ、我勝《アレカチヌ》と詔ひ、天照大御神も許諾《ウベナヒ》たまへれば、【書紀に、於是日(ノ)神|方《ハジメテ》知(メス)3素戔烏(ノ)尊(ノ)固(ヨリ)無(キコトヲ)2惡意1と云ひ、又故日(ノ)神方(メテ)知(メス)3素戔(ノ)烏(ノ)尊(ノ)元(ヨリ)有(コトヲ)2赤心1といへり、】此時既に御心の清明《アカキ》こと疑(ヒ)なし、然るに忽《タチマチ》又かくの如く、天照大御神の御為《ミタメ》に種々の惡事を爲給《ナシタマフ》は如何《イカニ》ぞや、此(ノ)趣(キ)書紀の傳(ヘ)どもも皆同(ジ)ことなるに、古來《イニシヘヨリ》註者心を着《ツケ》ざるにや、如何《イカニ》とも論なきは麁《オロソカ》なりけり、余《マロ》は甚《イト》心得ぬことにこそ思へ、故(レ)按《オモフ》に、書紀の中の一(ツノ)傳(ヘ)に、右の種々の惡事始(メ)に有て、さて石屋《イハヤ》の事より、此神に解除《ハラヘ》を科《オフセ》て逐《ヤラヒ》し事ありて、後に天照大御神に相見《アヒマミエ》給(ハ)むとして、高天(ノ)原に上り給て、かの御誓約《ミウケヒ》の事あり、此(ノ)次第《ツイデ》こそまことに然るべく思はるれ、此(レ)に依て思ふに、此記|及《マタ》書紀(ノ)餘《アマリノ》傳(ヘ)は、事の次第の前と後と亂《マガヒ》つる物か、其由は、初(メ)に伊邪那岐(ノ)大御神に逐《ヤラ》はれ給(フ)と、解除《ハラヘ》の後に諸神に逐《ヤラ》はれ給(フ)と、事状《コトノサマ》の似たる故に、後度《ノチノタピ》の次《ツギ》に有(リ)し事を、誤(リ)て初度《ハジメノダビ》の次に云(ヒ)傳へしなるべし、此《コ》は彼(ノ)書紀(ノ)一書に就《ツキ》て云なり、又此記|等《ナド》の趣を立《タテ》ていはば、御誓《ミウケヒ》の時は實《マコト》に御心|清明《アカ》かりしかども、誓に勝《カチ》給へる御心おごりに依て、又しも本性《モト》の惡心《キタナキココロ》は起《オコリ》しにや、【此記には、於《ニ》2勝佐備《カチサビ》1と云(フ)言あれば、如此《カク》も云つべし、書紀にはさる言もなくて、是(ノ)後素戔嗚(ノ)尊之所行也甚無状と書(キ)出せる、あまりゆくりなく俄に聞ゆ、清心《アカキココロ》何故に忽(チ)かはりて如是《カカ》るにか、】

〇忌服屋は、伊美波多夜《イミハタヤ》と訓べし、【忌を伊牟《イン》と訓(ム)は非なり、凡て忌某《イミナニ》と云たぐひ、みな伊美と假字《カナ》を付べし、さて口《クチ》に伊牟と聞ゆる如く誦《ヨム》は、おのづからの音便なり、】書紀には、濟服殿《イミハタドノ》織殿《ハタドノ》などあり、忌《イミ》と云は、神御衣《カムミソ》を織《オル》屋《ヤ》なる故に、萬(ヅ)を齋愼《イハヒツツツム》ゆゑなり、齋斧《イミヲノ》齋※〔金+且〕《イミスキ》齋柱《イミハシラ》など云も同(ジ)、

〇神御衣は、神能美氣志《カミノミケシ》とも訓べけれど、是《コレ》はなほ加牟美曾《カムミソ》と訓べし、神に獻《タテマツリ》給ふ御衣なり、【此(ノ)大御神の祭(リ)給(フ)神を、天(ツ)神ぞと云説は宜し、然るをその天(ツ)神を、天(ツ)日のことといひ、又自(ラ)心神を齋たまふなど云説は、例の論に足(ラ)ず、】さて此《コ》は大御神の御手自《ミテヅカラ》織《オリ》たまふには非ず、衣織女《ミソオリメ》をして織《オラ》しめ給ふなり、【書紀も同じことなり、然るを御手づから織たまふと云説は誤なり、文に心を付て見よかし、】さて御自《ミミヅカラ》も其|服屋《ハタヤ》に坐て、事を看行《ミソナハ》すは、神事《カムワザ》を重《オモ》くし給(フ)故ならむか、又さらでも自《オノヅカラ》も行《イデマシ》て看行《ミソナハ》すべし、

〇頂は、白檮原(ノ)宮(ノ)段にも、降(サム)2此刀(ヲ)1状(ハ)者穿(テ)2高倉下之倉(ノ)頂《ムネヲ》1自v其墮(シ)入(ム)とありて、共に棟なり、和名妙に、棟謂(フ)2之※〔木+孚〕(ト)1、和名|無禰《ムネ》、字鏡に、穩(ハ)※〔木+盈〕(ノ)上(ニ)横(ニ)亙(ル)者也、棟也、牟禰《ムネ》とあり、【穩は、増韻に、屋脊也と注せり、】穿は、書紀神武(ノ)卷に、穿邑此(ヲ)云(フ)2于介知能務羅《ウカチノムラト》1とあるに依て訓べし、【書紀に介は加《カ》の假字にのみ用(ヒ)たり、氣《ケ》とよむはひがこと、】

〇天斑馬《アメノフチゴマ》、和名抄に、駁馬(ハ)俗(ニ)云|布知無萬《フチムマ》、説文(ニ)云、駁(ハ)不(ル)2純色(ナラ)1馬也、【布知を、俗云とあれども、俗稱にはあらじ、】また※〔馬+曾〕馬、爾雅(ノ)注(ニ)云、四※〔骨+交〕皆白(キヲ)曰(フト)v※〔馬+曾〕、俗(ニ)云|阿之布知《アシブチ》と云り、後世には夫知《ブチ》と濁(リ)て云(ヘ)ども、凡て首《ハジメ》を濁(ル)言は古(ヘ)は無《ナ》ければ、布《フ》を清(ム)べし、今(ノ)世にも、清(ミ)て云(フ)處も有(リ)となむ、さて馬は宇麻《ウマ》、古麻《コマ》は【萬葉十四に古宇馬《コウマ》ともよめり、】駒にて、馬(ノ)子なりと和名抄にも云(ヘ)れど、古(ヘ)は馬《ウマ》を古麻《コマ》と多く云り、今も然《シカ》訓べし、書紀には即(チ)斑駒と書れたり、さて御國には本(ト)牛馬はなかりしを、百濟《クダラノ》國より渡し奉たる物ぞと云説あれども、【後漢書にも御国には牛馬なしと云り、】此《ココ》にかくある上(ヘ)に、八千矛(ノ)神の所にも御馬《ミウマ》のこと見え、保食《ウケモチノ》押の頂に化2爲《ナレル》牛馬1ことも書紀に見えたるをや、【此斑馬は鹿を云など云るは、云に足ず、】

〇逆剥剥《サカハギニハグ》、書紀に生剥《イキハギ》ともあり、中卷神功(ノ)段に、生剥逆剥と重(ネ)云(ヘ)り、【其事は彼所にいふべし、】逆剥は尾の方より逆《サカサマ》に皮を剥《ハグ》なり、

〇所墮(ノ)二字、抄登志《オトシ》と訓べし、こは令《シ》v墮《オト》と書(ク)べきことなれども、萬葉などにも、令(ノ)字を書(ク)べきに所(ノ)字を書る例多し、書紀には、穿(テ)2殿(ノ)甍(ヲ)1而投柄(ル)とあり、

〇上(ノ)件種々の惡事の目《ナ》、中卷神功(ノ)段の國之大祓の所に出(ヅ)、猶そこにもいふべし、

〇天衣織女は、【衣(ノ)字一本には服と作《カケ》り、】阿米能美曾於理賣《アメノミソオリメ》と訓べし、

〇梭《ヒ》、和名抄織機(ノ)具に、通俗文(ニ)云(ク)、受(ルヲ)v緯《ヌキヲ》曰v※〔苧の草がんむりが竹がんむり〕(ト)、【和名比】亦謂2之梭と1、今按(ニ)※〔苧の草がんむりが竹がんむり〕(ハ)杼(ノ)字也、説文(ニ)云、杼(ハ)者機(ノ)之持v緯(ヲ)者也と見え、宇鏡に、杼(ト)※〔木+貯の旁〕(トハ)|※〔糸+旨〕織比伊《キヌオルヒイ》とあり、【書紀(ノ)今(ノ)本に、加比《カヒ》と訓るは誤なり、こは御梭《ミヒ》の意に古本にアヒと訓を付たるを、アはカの誤(リ)ならむと心得て、後(ノ)人のさかしらに改(メ)しなり、昔の訓にミをアと作《カケ》る例書紀に多し、心得おくべし、】

〇死は、美字世伎《ミウセキ》と訓べし、遷却祟神祝詞に、高津鳥(ノ)殃爾依弖|立處《タチドコロ》爾|身亡《ミウセ》支とあり、書紀崇神(ノ)卷に、倭迹々姫《ヤマトトトビメノ》命|箸《ハシニ》撞《ツキテ》v陰《ホトヲ》而薨とある、似たることなり、さて此所書紀には、天照大神驚動以v梭《ヒヲ》傷v身(ヲ)とも、稚日女《ワカヒルメノ》尊織(タマフ)2神《カム》之|御服《ミソヲ》1也云々乃驚(テ)而墮(テ)v機《ハタニ》以《ニ》2所持梭《モタセルヒ》1傷(テ)v體《ミミヲ》而|神退兵《カムザリマシキ》とも見ゆ、

〇見畏《ミカシコミテ》とは、荒《アラ》き所行《シワザ》を見て畏懼《オソレ》て、天(ノ)石屋に隱《コモリ》坐(ス)なり、書紀の意と異《コト》なり、【書紀には、由(テ)v此(ニ)發慍《イカリマシテ》云々と有、】

〇天石屋戸《アメノイハヤド》は、必しも實《マコト》の岩窟《イハヤ》には非じ、石《イハ》とはたゞ堅固《カタキ》を云るにて、天之石位《アメノイハクラ》天之|石靫《イハユギ》天(ノ)磐船《イハブネ》などの類にて、ただ尋常の殿《トノ》をかく云るなるべし、書紀に瓊々杵(ノ)尊の天降坐(ス)處にも、引2開(キ)天(ノ)磐戸(ヲ)1とあるも、よのつねの殿戸をかく云り、【豐石窓《トヨイハマド》櫛石窓《クシイハマド》も、石はたゞ堅きことにて、たゞの眞門《マド》なり、大祓(ノ)詞に、天津神|波《ハ》天(ノ)磐門乎押披※〔氏/一〕《イハトヲオシヒラキテ》云々と云るを思べし、天(ツ)神いつも岩窟におはすべきに非ず、又倭姫命世記に天(ノ)磐戸|乃(ノ)鑰預《カギアヅカリ》賜(ハ)利弖《リテ》とあるも、神(ノ)宮(ノ)戸を云り、或説に、石屋などの石《イハ》は、祝《イハフ》といふことなりと云は非なり、】書紀に岩窟とある文字に拘《カカハ》るべからず、さて萬葉十二【八丁】に、屋声閉勿勤《ヤドサスナユメ》、こは屋之戸《ヤノト》を屋戸《ヤド》と云る例なり、又三【二十五丁】に、石室戸《イハヤド》ともあり、

〇閇、舊印本延佳本共に開と作《カケ》るは誤なり、今は一本に依(リ)つ、さて此《コ》は多弖々《タテテ》と訓べし、萬葉三【四十五丁】に、豐國乃鏡山之石戸立隱爾計良思《トヨクニノカガミノヤマノイハトタテコモリニケラシ》、この立《タチ》も闔を云り、今世にも云(フ)言なり、さて闔を立《タツ》と云|所由《ユヱ》は、師説に、上(ツ)代には戸を常は傍《カタヘ》に取退置《トリソケオキ》て、闔《タテ》むとては其《ソ》を持來て立塞《タテフサグ》ゆゑなりと云れき、【後世の遣戸《ヤリド》は此《コレ》を便(リ)よくしなしたる物なるべし、排戸《ヒラキド》は上代よりあり、〇今俗に戸障子の類を建具《タテグ》といへり、】

〇刺《サス》は、闔《タテ》たる戸に物を刺《サシ》て固《カタ》むるを云、萬葉十二【三十一丁】に、門立而戸毛閉而有乎《カドタテテトモサタルヲ》、また門立而戸者雖闔《カドタテテトハサシタレド》、これにて多都留《タツル》と佐須《サス》との差《ワキ》あることを知べし、萬葉廿【三十一丁】に、久留爾久枳作之加多米等之《クルニクギサシカタメトシ》、【久留《クル》は戸の樞《クルル》なり、久枳《クギ》は釘なり、加多米等之《カタメトシ》は固《カタ》めてしなり、】又十六【十五丁】に、櫃爾※〔金+巣〕刺藏而師《ヒツニクギサシヲサメテシ》、【和名抄に※〔金+巣〕子を藏乃賀岐《クラノカギ》とあれども、加岐《カギ》には非ず、今ジヤウと云物なり、故(レ)今本に邪宇《ザウ》と訓を付たり、されど師は右の廿(ノ)卷の歌に依て久岐《クギ》と訓れき、信(ト)に古(ヘ)は※〔金+巣〕をも然ぞ云つらむ、】書紀清寧(ノ)卷に、※〔金+巣〕2閇《サシカタメ》外門《トノカドヲ》1云々、和名抄に、※〔戸/〓〕(ハ)度佐之《トザシ》、【此も戸を刺固《サシカタ》むる物なるゆゑの名なり、】

〇許母理《コモリ》は隱なり、さて此(ノ)石屋戸に隱《コモリ》坐るを、神避坐《カムザリマス》を此《カク》云るなりと云は、例の漢意《カラゴコロ》の推度《オシハカリ》にて、いみしき邪説《ヨコサマゴト》なり、【もし日(ノ)神崩りましまさば、此世は滅ぶべし、あなかしこあなかしこ、】

爾高天原皆暗《スナハチタカマノハラミナクラク》。葦原中國悉闇《アシハラノナカツクニコトゴトククラシ》。因此而常夜往《コレニヨリテトコヨユク》。於是萬神之聲者狹蠅那須《ココニヨロヅノカミノオトナヒハサパヘナス》【此二字以音】皆滿《ミナワキ》。滿妖悉發《ヨロヅノワザハヒコトゴトニオコリキ》。是以八百萬神於天安之河原神集集而《ココヲモテヤホヨロヅノカミアメノヤスノカハラニカムツドヒツドヒテ》。【訓集云都度比】鷹御産巣日神之子思金神令思《タカミムスビノカミノミコオモヒカネノカミニオモハシメ》【訓金云加尼】而《テ》。集常世長鳴鳥令鳴而《トコヨノナガナキドリヲツドヘテナカシメテ》。取天安河之河上之天堅石《アメノヤスノカハノカハラノアメノカタシハヲトリ》。取天金山之鐵而《アメノカナヤマノカネヲトリテ》。求鍛人天津麻羅而《カヌチアマツマウラヲマギテ》。【麻羅二字以音】科伊斯許理度賣命《イシコリドメノミコトニオホセテ》【自以下六字以音】令作鏡《カガミヲツクラシメ》。科玉祖命令作八尺勾※〔王+總の旁〕之五百津之御須麻流之珠而《タマノヤノミコトニオホセテヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲツクラシメテ》。召天兒屋命布刀王命《アメノコヤネノミコトフトタマノミコトヲヨビ》【布刀二字以音下效此】而《テ》。内拔天香山之眞男鹿之肩抜而《アメノカグヤマノマヲシカノカタヲウツヌキニヌキテ》。取天香山之天波波迦《アメノカグヤマノアメノハハカヲトリ》【此三字以音木名】而《テ》。令占合麻迦那波而《ウラヘマカナハシメテ》。【自麻下四字以音】天香山之五百津眞賢木矣根許士爾許士而《アメノカグヤマノイホツマサカキヲネコジニコジテ》。【自許下五字以音】於上枝取着八尺勾※〔王+總の旁〕之五百津之御須麻流之玉《ホツエニヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲトリツケ》。於中枝取繋八尺鏡《ナカツエニヤタカガミヲトリカケ》。【訓八尺云八阿多】於下枝取垂白丹寸手青丹寸手而《シヅエニシラニギテアヲニギテヲトリシデテ》。【訓垂云志殿】此種種物者《コノクサグサノモノハ》。布刀王命布刀御幣登取持而《フトタマノミコトフトミテグラトトリモタシテ》。天兒屋命布刀詔戸言祷白而《アメノコヤネノミコトフトノリトゴトネギマヲシテ》。天手力男神隱立戸掖而《アメノタヂカラヲノカミミトノワキニカクリタクシテ》。天宇受賣命手次繋天香山之天之日影而《アメノウズメノミコトアメノカグヤマノアメノヒカゲヲタスキニカケテ》。爲鬘天之眞拆而《アメノマサキヲカヅラトシテ》。手草結天香山之小竹葉而《アメノカグヤマノササバヲタグサニユヒテ》。【訓小竹云佐佐】於天之石屋戸伏※〔さんずい+于〕氣《アメノイハヤドニウケフセ》【此二字以音】而《テ》。蹈登杼呂許志《フミトドロコシ》【此五字以音】爲所懸而《カムガカリシテ》。掛出胸乳裳緒忍垂於番登也《ムナヂヲカキイデモヒモヲホトニオシタレキ》。爾高天原動而八百萬神共咲《カレタカマノハラユスリテヤホヨロヅノカミトモニワラヒキ》。

常夜往は、登許用由久《トコヨユク》と訓べし、【等許也未《トコヤミ》と云ことも萬葉十五などにあれど、こゝは然訓むはひがことなり、】常夜《トコヨ》とは、常《ツネ》に夜《ヨル》のみにて晝《ヒル》なきを云り、往《ユク》とは、凡て年月日時《トシツキヒトキ》の經往《ヘユク》を云、こゝは晝《ヒル》の無《ナク》て、たゞ夜のみにて時を經行《ヘユク》なり、萬葉四【二十四丁】に、相夜不相夜二走良武《アフヨアハヌヨフタツユクラム》、【相夜行《アフヨユク》と不相夜行《アハヌヨユク》と二(ツ)なり、】また【五十一丁】空蝉乃代也毛二行《ウツセミノヨヤモフタユク》、【人(ノ)世は死《シニ》て又二度は經行《ヘユカ》ぬ世といふなり、】七【四十一丁】に、世間者信二代着不在有之《ヨノナカハマコトフタヨハユカザラシ》、【上に同じ】九【九丁】に、常之陪爾夏冬往哉《トコシヘニナツフユユケヤ》、【これ正《マサ》しく此《ココ》と同(ジ)】十【四十七丁】に、一年二遁不行秋山乎《ヒトトセニフタタビユカヌアキヤマヲ》、後撰集(ニ)、やよひに閏月ある年云々貫之、あまりさへ有(リ)て行《ユク》べき年だにも云々、是等《コレラ》の行《ユク》にて心得べし、【舊事紀に往(ク)2常世(ノ)國(ニ)1と云るは、この往《ユク》てふ言を心得かねて、妄(リ)に云るひがことなり、】書紀神功(ノ)卷に、晝暗如夜已經多日《ヒルモヨルノゴトクラクテアマタヒヘヌ》、時人《トキノヒト》曰《イヒキ》2常夜行之《トコヨユクト》1也と云ことも見ゆ、さて書紀には此《ココ》を、故《カレ》六合之内常闇而《アメノシタトコヤミニシテ》、不v知2晝夜之相代《ヨルヒルノワキタメヲ》1とも、於是《ココニ》天(ノ)下|恆閤《トコヤミニシテ》、無(シ)2復|晝夜之殊《ヨルヒルノワキモ》1ともあり、【或人此事を疑(ヒ)て、天(ツ)日は二(ツ)なきを、此時吾邦のみ常闇にて、他国《アダシクニ》はさもあらざりしは如何《イカニ》と云は、殊に愚なる疑(ヒ)なり、他国にこのこと無《ナカ》りしは、何を以てしれるにか、漢籍に所見《ミエタル》ことなきを以(テ)云にや、抑(モ)此時は彼國の何《イヅレ》の代にあたれりと思ふにか、はるかに上(ツ)代のことなれば、有無《アリナシ》知(ル)べきに非ず、されど日(ノ)神の隱《コモ》坐(セ)るなれば、萬國共に常闇なりしこと疑ひなし、】

〇萬神、こゝと同(ジ)事の前にも有(ル)には、惡神《アラブルカミ》とあり、此《ココ》も然《シカ》あるべきことなり、萬(ノ)字は誤(リ)にはあらじか、とまれかくまれ惡神をいふなり、聲は、淤登那比《オトナヒ》と訓べし、其由上【傳七の廿一葉】にいへり、

〇皆滿は、諸本共に皆(ノ)字なし、寫し脱《オト》せるなり、今は上の例、又|他《ホカ》の皆《ミナ》云々 悉《コトゴトニ》云々と對(ヘ)言る例、みな同(ジ)きに依て補《クハヘ》つ、滿は涌《ワキ》を誤れることも、上に云が如し、抑かゝる妖《ワザハヒ》の又しも發《オコ》るは、黄泉《ヨミ》の穢《ケガレ》のなごりに依る須佐之男(ノ)命の荒び坐て、御禊し《ミミソギ》して清明《アカ》きに成(リ)坐る天照大御神の隱《コモリ》坐(ス)故なり、此(レ)に就《ツキ》ても、世《ヨ》の明光《アカリ》の貴《タフト》きのみならず、萬(ノ)妖のひたぶるに發《オコ》らぬも、全《モハラ》此(ノ)大御神の照したまふ御徳《ミメグミ》なることを仰ぎ、又|穢《ケガレ》のつゝしむべきことを思へ、【萬の妖禍《ワザハヒ》は穢よりおこるぞかし、】

〇八百寓《ヤホヨロヅ》は、數の多き至極《キハミ》を云り、萬葉には八百萬千萬神《ヤホヨロヅチヨロヅカミ》とも言り、

〇神集集而《カムツドヒツドヒテ》、此言の例は下に出(ヅ)、そこ【傳十三の八葉】に引べし、さて此《ココ》は誰《イヅレノ》神の命《オフセ》ともなく、たゞ己自集《オノヅカラツド》へる故に、都度比《ツドヒ》と訓り、下の例を以て思ふに、此《ココ》も高御産巣日(ノ)神の命《ミコト》以てとあるべきことなるに、然らぬ【書紀の傳(ヘ)どもも皆同じ、】は所由《ユヱ》有(ル)ことなるべし、【書紀たゞ一書に、會《ツドヘテ》2八十萬神(ヲ)於天(ノ)高市(ニ)1而問(フ)v之とあるは、他神の命にて集《ツド》はせたる書ざまなれば、都度閇弖《ツドヘテ》と訓べし、都度比は自(ラ)集(フ)なり、都度閇はツドハセのハセを切《ツヅメ》てへと云なり、然れども彼處《カシコ》にも何(レ)神の命といふことは見えず、古語拾遺に、高皇産靈(ノ)尊|會《ツドヘテ》2八十萬神(ヲ)1と云るは、中々に疑はし、こは下の例に依て椎當《オシアテ》に書るなるべし、】

〇思金《オモヒカネノ》神、名義は書紀に、時(ニ)有(テ)2高皇産靈(ノ)尊(ノ)之|息《ミコ》思兼《オモヒカネノ》神者(トイフカミ)1有(リ)2思慮《オモヒハカル》之|智《サトリ》1と有て、思《オモヒ》は、萬葉三【二十八丁】に、歌思辭思爲師《ウタオモヒコトオモハシシ》と云る思(ヒ)にて、思慮《オモヒハカリ》なり、金《カネ》は兼《カネ》にて、數人《アマタノヒト》の思(ヒ)慮る智《サトリ》を、一《ヒトリ》の心に兼持《カネモテ》る意なり、故(レ)國造本紀には、八意《ヤゴコロ》思金(ノ)命ともあり、

〇令《シメ》v思《オモハ》而《テ》、萬葉十五【三十二丁】に、於毛波之米都追《オモハシメツツ》とあり、書紀に、故(レ)思兼(ノ)神深(ク)謀(リ)遠(ク)慮《モヒテ》とあり、此(レ)より下天(ノ)宇受賣(ノ)命云々までの種々の事、皆此(ノ)神の思(ヒ)謀(リ)しなり、【延喜六年日本紀竟宴阿保(ノ)經覽歌に、於蒙飛加禰多波加利許度乎勢佐利勢波《オモヒカネタバカリゴトヲセザリセバ》、安萬能伊波度波飛羅気佐良萬事《アマノイハトハヒラケザラマシ》、】

〇常世長鳴鳥《トコヨノナガナキドリ》とは鷄をいふ、常世は常夜にて、常世とは本より別なり、されど言の同(ジ)きまゝに通はして、字には拘《カカハラ》ず書るは古(ヘ)の常《ツネ》なり、こは今かく常夜往時《トコヨユクヲリ》に集《ツドヘ》て鳴《ナカ》し鳥なるをもて、後に負し稱《ナ》なるを、其始(メ)へ廻《メグラ》して如此《カク》云るなり、思金(ノ)神をも下に常世《トコヨノ》思金(ノ)神とあり、これも此(ノ)時に出て謀《ハカリ》ごちし神なる故の稱なると同(ジ)例ぞ、【此(レ)を常世(ノ)國のことと一(ツ)に思ひ混《マガフ》るは誤なり、その常世(ノ)國のことは、下少名毘古那(ノ)神の段に委くいふべし、此《ココ》にはさらに由《ヨシ》なきことぞ、】長鳴《ナガナキ》とは、凡て鷄は他鳥よりも鳴聲の絶《スグレ》て長き物なる故にいふなり、【から書にも長鳴鷄と云(フ)見えたれど、そはなべての鷄を云にあらねば、今と同じからず、】書紀にすなはち使《シム》2互長鳴《タガヒニナガナキセ》1とあり、さて此《ココ》に此(ノ)鳥を鳴《ナカ》せつる所以《ユヱ》は、下に説《トク》を待て見よ、

〇河上は、書紀齊明(ノ)卷に、甘檮丘《アマカシノヲカノ》東(ノ)之川上云々、川上此(ヲ)云2箇播羅《カハラト》1、この訓に傚《ナラフ》べし、【かはかみには非ず、】

〇堅石、書紀雄略(ノ)卷人(ノ)名に、堅磐とあるを、此(ヲ)云2柯陀之波《カタシハト》1と見え、和名抄筑前(ノ)國穗波(ノ)郡の郷名に、堅磐(ハ)加多之方《カタシハ》【方《ハ》を今本に萬とあるは、万にあやまれるなり、】とあり、此訓に依べし、【後世の言ならば、加多伊波と云べきを、かく云は古言の一格なり、志《シ》はウマシミチなどのシと同くて、堅《カタ》に附《ツケ》る活辭《ウゴキコトパ》、波《ハ》は伊波《イハ》の伊《イ》を略(ケ)るなり、】此(ノ)名中卷にも出づ、さて今此石を取(ル)は、和名抄鍛冶(ノ)具に、銕碪(ハ)加奈之岐《カナシキ》とあり、【今かなとこと云物なり、】此料なるべし、

〇天金山《アメノカナヤマ》は、金《カネ》を取(ル)故の名なり、

〇鐵は、黒金《クロガネ》なれどもたゞ加尼《カネ》と訓べし、加尼《カネ》は諸金《モロモロノカネ》の惣名なれば、何《イづレ》にも亙《ワタ》れり、此《ココ》も古言にはたゞ加尼《カネ》と云(ヒ)傳(ヘ)しを、此記に鐵と書るは、其品を知(ラ)せたるなり、【此《ココ》に今取れるは、必黒金なるべき由は下に論ふ、】書紀に、採《トリテ》2天(ノ)香山(ノ)之|金《カネヲ》1とあるは、古言のまゝに書るなり、【黄金なりと云はひがことなり、此(レ)も品は銅鐵なるべし、〇香山は傳(ヘ)の異なるなり、】

〇鍛人は、加奴知《カヌチ》と訓べし、字鏡に〓(ハ)加奴知《カヌチ》とあり、書紀天武(ノ)卷に田中(ノ)臣|鍛師《カヌチ》と見え、文綏靖(ノ)卷にも此訓見ゆ、【次に引り】金打《カネウチ》を約《ツヅメ》たる名なり、【泥宇《ネウ》は奴《ヌ》と切《ツヅマル》】後に加遲《カヂ》と云も、此(ノ)加奴知の約《ツヅマリ》たるぞ、【和名抄に、鍛冶《タムヤ》の字音を訛て、俗に鍛冶《カヂ》と云よし云るは、中々に誤なり、又師は、鍛人を加多志《カタシ》と訓て、加遲《カヂ》もその約りたるなりと云れき、されど加多志は熔師《カタシ》の義なれば、鑄物師《イモノシ》のことにて、鍛冶とはいさゝか別なり、書紀垂仁(ノ)卷に鍛地《カタシドコロ》とあれど、こは土物《ハニモノ》を作る處をいへれば別なり、又三代實録十八に加太之とあるも、錢を鑄《イル》ことなり、】書紀に、冶工作金者など書るを、加那陀久美《カナダクミ》と訓を附たれど、古名にあらじ、

〇天津麻羅《アマツマウラ》、書紀綏靖(ノ)卷に、倭鍛部天津眞浦《ヤマトカヌチアマツマウラヲシテ》造(ラシム)2眞※〔鹿/弭〕鏃《マカゴノヤサキヲ》1、舊事紀繞速日(ノ)命の天降(ル)御供《ミトモ》の神の中に、倭鍛師等祖《ヤマトカヌチラガオヤ》天津眞浦、また物(ノ)部(ノ)造|等《ラガ》祖天津麻良、この麻良は別《コト》神なるか、眞浦は同神と聞ゆめれど、綏靖の御代に出たるはいと疑はし、故(レ)思(フ)に、次の伊斯許理度賣玉祖などの例に依(ラ)ば、此(レ)も科《オフセ》とあるべきに、求《マギ》とあるは、麻羅は一神の名には非《アラ》で、鍛人《カヌチ》の通名《ナベテノナ》などにや、此(ノ)名のみは神とも命とも云(ハ)ぬをも思(フ)べし、姓氏録に、大庭(ノ)造(ハ)神魂(ノ)命八世(ノ)孫天津麻良(ノ)命(ノ)之後也とあり、又|※〔火+漢の旁〕《ヒ》之|速日《ハヤビノ》命十二世(ノ)孫麻羅(ノ)宿禰と云人も見ゆ、

〇求は麻岐弖《マギテ》と訓べし、此(レ)もとむるの古言なり、下八千矛(ノ)神の御歌に見ゆ、猶|彼處《カシコ》に云む、さて鏡をば伊斯許理度賣(ノ)命に作らしむとあれば、此(ノ)麻羅を求《マギ》たるは、何物を造(ラ)しめむとてにか、甚《イト》も意得難し、【古語拾遺に、令(ム)d天(ノ)日鷲(ノ)神(ヲシテ)以(ヰテ)2津咋見(ノ)神(ヲ)1穀(ノ)木(ヲ)種殖《ウヱテ》之以(テ)作(ラ)c白和幣(ヲ)uとあるが如き例とも見えず、又麻羅を鍛人の通名と見て、伊斯許理度賣即(チ)其神とせむか、されど此(ノ)文のさま、さる意とも見えず、】故(レ)考るに、書紀に、白d曰宜《マヲスベシト》c圖2造《ウツシツクリテ》彼(ノ)神(ノ)之|象《ミカタヲ》1、而|奉《マツル》c招祷《ヲキ》u也、故(レ)即以(テ)2石凝姥《イシコリドメヲ》1爲(シテ)2

冶工《カナダクミト》1、採《トリ》2天(ノ)香山(ノ)之|金《カネヲ》1以(テ)作(リ)2日矛《ヒボコヲ》1、又|全2剥《ウツハギニハギ》眞名鹿之皮《マナカノカハヲ》1以(テ)作(リ)2天(ノ)羽鞴《ハブキニ》1、用(テ)v此《コヲ》奉《マツレル》v造(リ)之|神象《カミノミカタハ》是即(チ)紀伊國所坐日前《キノクニニマスヒノクマノ》神|也《ナリ》、【日矛《ヒボコ》は矛の名なるを、舊事紀に鏡と爲《シ》て、令(ム)v鑄2造《イツクラ》日矛(ヲ)1、此(ノ)鏡少(ク)不v合v意(ニ)云々と云るは、いたくひがことなり、こは圖2造彼神(ノ)之象(ヲ)1とあれば、矛《ホコ》にては叶はず、必鏡ならむと思へるから、かの古語拾遺に令(ム)v鑄2日像(ノ)之鏡(ヲ)1、初(メノ)度(ニ)所v鑄(ル)少(ク)不v合v意(ニ)とあるを引合(セ)て、強《シヒ》て此(ノ)日矛に當《アテ》たる僞説《イツハリゴト》なり、然るを古來諸説みな此(ノ)舊事紀を信じて、鏡と定めたるはいかにぞや、そも/\鏡を矛とはいかでか云む、凡て古(ヘ)にさることはなき物をや、然るに日(ノ)神の御像を造るとありて、此(ノ)矛を造れるは如何《イカニ》と云に、日の御像は、又全剥云々神(ノ)象とある是(レ)なり、こは鏡なること論なし、さて日矛もその同(ジ)時に同(ジ)山の金を採て同(ジ)神の造(リ)し故に、一(ツ)所に並(ベ)て云るなり、なほ然る所由は、かの紀(ノ)國名草(ノ)郡に日(ノ)前(ノ)神社|國懸《クニカカスノ》神社と同地に並て鎭座《シヅマリマ》す、或説に、以(テ)2日(ノ)御像(ヲ)1爲《シ》日(ノ)前(ノ)大神(ト)1、以(テ)2日矛(ヲ)1爲《ス》2國懸(ノ)大神1と云り、かゝれば此兩大神の御社も一(ツ)所に並び坐す故に、その日(ノ)御像(ノ)鏡を造れる所に、日矛をも並(ベ)て一(ツ)に擧たるは、かたがた由あることなり、されば是即紀伊國(ニ)所坐日(ノ)前(ノ)神也とは、國懸をも兼て云るなるべし、今時も兩社を合(セ)て日前宮と申すなり、】とあると合(セ)て思(フ)に、彼(レ)は矛と鏡と共に石凝姥《イシコリドメ》に造らせ、此記は矛をば別に此(ノ)天津麻羅に造らせたりといふ傳(ヘ)なるべくや、然(ラ)ば此(ノ)名の下に、矛を作(ラ)しむることの有(リ)しが、脱《オチ》たるなるべし、【如此《カクノゴト》く見るときは、此記も書紀も共に明(ラ)かなり、】下文に鏡を用たることは見えて、矛を用たることは、此記には見えざれども、書紀に、天(ノ)鈿女《ウズメノ》命則|手《テニ》持《モチ》2茅纏之※〔矛+肖〕《チマキノホコヲ》1云々、古語拾遺に、令(ム)3手置帆負彦狹知二神(ヲシテ)云々兼(テ)作(ラ)2御笠及矛楯(ヲ)1、令(ム)3天(ノ)目一箇《マヒトツノ》神(ヲシテ)作(ラ)2雜刀斧及|鐵鐸《サナギヲ》1【古語佐郡伎】とありて、次に天(ノ)鈿女(ノ)命云々手(ニ)持(テ)2者鐸之矛《サナギツケタルホコヲ》1而|於《ニ》2石窟戸前《イハヤドノマヘ》1覆《フセ》2誓槽《ウケ》1云々、【書紀に所謂(ル)日矛も此(ノ)料に造れるなるべし、されば右に引る或説に、國懸(ノ)大神の相殿に天(ノ)鈿女(ノ)命坐と云り、所由《ユヱ》あることなりけり、かゝれば日矛といひ、茅纏之※〔矛+肖〕といひ、着鐸之矛と云るは、たゞ名の傳(ヘ)の異なるのみにて、實は一(ツ)にて、此鈿女(ノ)命の持る矛なり、神樂(ノ)取物にも鉾《ホコ》あり、歌に、此矛はいづこの矛ぞ、天に坐(ス)とよをか姫の宮の御矛ぞ、】とあれば、矛をも持《モテ》ること明けし、此記には其《ソ》を略《ハブケ》るなり、【此餘も此記と書紀と拾遺とを比《クラ》べ見(ル)に、此時の種々の物、詳《ツマビラカナル》と略《ハブケル》とたがひにあり、又其物を造れることを前に云て、用たることをば略ける例も、拾遺にこれかれ見ゆ、】されば其料の矛をぞ今(マ)麻羅には造らせけむ、【此矛は他雜物《アダシクサグサノモノ》の並《ナミ》にあらず、玉鏡にならびて、殊に貴き寶なる由ありけるなるべし、其故は古語拾遺皇孫(ノ)命に神寶を授たまふ所に、以2八咫鏡及草薙(ノ)劔二種(ノ)神寶(ヲ)1授2賜(テ)皇係(ニ)1永(ク)爲2天(ツ)璽(ト)1矛玉|自《オ》從(フ)とあるは、三種の神器の一(ツノ)傳(ヘ)なり、さて此鏡も玉も此(ノ)石屋戸の時の物なれば、矛と云も此時の矛なること知《シル》し、さて三種の寶と並(ベ)て如此《カク》言《イヒ》、又後までも日(ノ)前|國懸《クニカカス》と並び坐(ス)神(ノ)御靈《ミタマ》なれば、おぼろけの物ならめや、故(レ)今|此《コレ》を造れることを云るならむ、】矛の料なる故に、其(ノ)加尼《カネ》にも鐵(ノ)字は書るなるべし、【鏡ならば鐵とは書《カカ》じ、】又|堅石《カタシハ》も矛を打《ウツ》料とこそ聞ゆれ、

〇伊斯許理度賣《イシコリドメノ》命、書紀に石凝姥此(ヲ)云2伊之居梨度※〔口+羊〕《イシコリドメト》1と見ゆ、又一書に、使(ム)2鏡作部(ノ)遠祖|天糠戸者《アメノヌカドトイフカミヲシテ》造(ラ)1v鏡(ヲ)とも、鏡作(ノ)遠祖|天拔戸兒已凝戸邊所作《アメノヌカドノコイシコリトベガツクレル》八咫鏡ともあり、【已は石(ノ)字の誤なり、】古語拾遺に、令(ム)d石凝姥(ノ)神(ヲシテ)【天(ノ)糠戸(ノ)命(ノ)之子鏡作(ノ)遠祖也】取(テ)2天(ノ)香山(ノ)銅《カネヲ》1以|鑄《イ》c日像之《ヒガタノ》鏡(ヲ)uとあり、なほ此神のことは、下【傳十五の卷】に見ゆ、さてこの造(リ)し鏡は、即下文なる八尺鏡《ヤタカガミ》なり、古語拾遺に、初度所鑄《ハジメノタビイタルハ》少《イササカ》不v合(ハ)v意(ニ)、【是紀伊(ノ)國日(ノ)前(ノ)神也】次度所鑄其状美麗《ツギノタビイタルソノサマウルハシカリキ》、【是伊勢(ノ)大神也】かゝれば此時初後二面の御鏡あり、【是(レ)を以て見れば、かの書紀一書に、日矛と日(ノ)神の御像(ノ)鏡とを造れることを云て、是(レ)日前(ノ)神也とあるは、初(ノ)度のみを云て、次(ノ)度のをば略《ハブケ》るなり、凡て彼(ノ)一書々々は、事を略て書る例多けれども、此(ノ)略は宜(シ)くも思はれず、まぎらはしきなり、故に日矛を初度の鏡に當《アツ》るがごときひがことも出來しなり、若(シ)又かれは拾遺の説とは異《コト》にて、たゞ一度なりとせば、伊勢(ノ)大神をば何《イヅ》れの鏡とかせむ、日前(ノ)神也とあるうへは、次に伊勢(ノ)大神の御鏡あるべきこと疑ひなき物をや、然るを初(メ)の不(ル)v合v意(ニ)方を擧て、次の美麗にして貴き方を略(ケ)るはいかにぞや、されば此事は、拾遺の傳(ヘ)ぞ明らかにして宜くは有ける、さて此(ノ)初度の鏡も、かの日矛と共に三種の神寶に添(ヘ)て、後に皇孫(ノ)命へ授け賜ひしなるべし、其故は右に引る拾遺の文に、矛玉自從とある、矛は日矛なるが、此(ノ)鏡もそれと同(ジ)時にいできて、後にも同地に鎭坐せばなり、さて御代々々天皇の同(ジ)御殿にましまし、水垣(ノ)朝に至て、天照大御神の御靈八咫鏡草薙劔を、豐鋤入日女(ノ)命に離《ハナチ》奉(リ)たまひて、鎭(リ)坐(ス)べき地を求ありきたまふ時に、紀(ノ)國の名草濱(ノ)宮に三年がほど齋《イツキ》奉りたまひしこと、倭姫(ノ)命(ノ)世記に見ゆ、此時までかの日矛も初度(ノ)鏡も共に、天照大御神の御靈に附(ケ)添(ヘ)て齋奉りしを、此(ノ)名草濱(ノ)宮に右の二(ツ)をば留め奉て、永く彼地に鎭り坐(サ)しめたまひしなるべし、此(レ)日(ノ)前國懸(ノ)二大神なり、】然るを此記などは、其(ノ)鑄《イ》改めつる細《クハシ》き事をば云(ハ)ざるにこそあれ、傳(ヘ)の異なるには非ず、さて此(ノ)拾遺の説に付て、此神の名を思(フ)に、鑄重《イシキリ》の義ならむか、【凡て事の重《カサ》なるを志伎留《シキル》と云、重播種子《シキマキ》重浪《シキナミ》などの類これなり、頻(ノ)字を書もこの意なり、】重《シキリ》を斯許理《シコリ》とも云る例は、萬葉十二【四丁】に、思咲八更々思許理來目八面《シヱヤサラサラシコリコメヤモ》【重將來哉《ンキリコメヤモ》なり】とよめり、度賣《トメ》は老女《オムナ》を云稱と見えて、書紀に姥《トメ》と書り、【此(ノ)字字書に老母也と有】例は記中に、春日建國勝戸賣《カスガノタケクニカツドメ》、沙本大闇見戸賣《サホノオホクラミドメ》、志理都紀斗賣《シリツキトメ》などあり、又|戸邊《トベ》とも通(ハ)し云こと、書紀の已凝戸邊《イシコリトベ》にて知べし、戸邊《トベ》の例は、中卷【苅幡戸弁《カリバタトベ》の所】に云べし、【和名抄に、今呼(テ)2老母(ヲ)1爲《ス》2太宇女《タウメ》1とあるは、この斗賣《トメ》の轉れるにはあらじか、又|處女《ヲトメ》は小姥《ヲトメ》の意か、】

〇科《オフセ》はもと令《セ》v負《オフ》の意にて、仰《オフセ》命《オフセ》も同言なり、【科(ノ)字をよむは、人々に事の品科《シナ》を分ていひつくる意なり、】

〇鏡《カガミ》の名義《ナノココロ》は、炫見《カガミ》なり、

○玉祖《タマノヤノ》命、訓は和名抄河内(ノ)國高安(ノ)郡、又周防(ノ)國佐波(ノ)郡なる郷名の玉祖を、共に多末乃於也《クマノオヤ》とあると、書紀に玉(ノ)屋(ノ)命と書るとを合(セ)て、多麻能夜《タマノヤ》なり、【於《オ》を省くは常なる中に、此(レ)は乃《ノ》に於《オ》の韵《ヒビキ》あればさらなり、故(レ)書紀には屋(ノ)字を書り、さるを此記をも見合さで多麻夜《タマヤ》と訓るは誤なり、】名(ノ)義は字の如し、さて此《ココ》を書紀一書には、玉作部(ノ)遠祖|豐玉者《トヨタマトイフカミ》造(ル)v玉(ヲ)とも、又一書には、玉作(ノ)遠祖伊弉諾(ノ)尊(ノ)兒《ミコ》天(ノ)明玉所作八坂瓊《アカルタマノツクレルヤサカニ》ともあり、【姓氏録に、高魂(ノ)命(ノ)孫天(ノ)明玉(ノ)命とあり、】古語拾遺には櫛明玉《クシアカルタマノ》神とあり、【神名秘書と云物に、櫛明玉(ノ)命(ハ)高皇産靈(ノ)神(ノ)女栲幡千々姫(ノ)命之妹也と云る、此神を女とせることいかゞ、】是等《コレラ》皆此神の一名なるべし、其故は、皇孫(ノ)命(ノ)天降(リ)坐(ス)時の五部《イツトモノヲ》の祖神は、みな此(ノ)段の神なるに、書紀にも彼所《カシコ》には玉屋《タマノヤノ》命とあればなり、なほ此神のこと、彼(ノ)段【傳十五の卷】に云べし、拾遺神武天皇(ノ)御代の所(ニ)云、櫛明玉(ノ)命(ノ)之孫造(ル)2御祈玉《ミホギタマヲ》1、【古語|美保伎玉《ミホギタマ》云々】其(ノ)裔今在(リ)2出雲(ノ)國(ニ)1、毎(ニ)v年|與《トトモニ》2調物《ミツギモノ》1貢2進《タテマツル》其玉(ヲ)1、【此事も彼(ノ)段に悉く云む、】

〇天兒屋《アメノコヤネノ》命、名(ノ)義は招祖泥《ヲキオヤネ》か、招《ヲキ》は書紀に奉(ル)2招祷《ヲキ》1とある是なり、此(ノ)招祷を必(ズ)乎伎《ヲキ》と訓べき由は、皇孫天降坐處に其遠岐斯《カノヲキシ》玉鏡云々、とある所【傳十五の卷】に云を見よ、さて此(ノ)神今|布刀詔戸言《フトノリトゴト》白《マヲシ》て、大御神を招祷《ヲキ》奉りたまひし故に、此(ノ)名を負《オヒ》坐るなるべし、【招《ヲキ》の乎《ヲ》を略き、伎於《キオ》を切《ツヅメ》て古《コ》と云、】祖《オヤ》は玉祖《タマノヤ》と同意、泥《ネ》は稱名《タタヘナ》にて、例殊に多し、【既に上に云り、】なほ此神のこと、下【傳十五】に悉く云べし、【〇他(ノ)書には、多くは兒屋根《コヤネ》と根《ネノ》字を添(ヘ)て書るを、此記書紀などには此字|無《ナ》く、又|泥《ネ》は稱名《タタヘナ》にて、稱(ヘ)名は略ても云る例これかれあるなどを思へば、根(ノ)字なきをば、古夜《コヤ》と訓(ム)べきかとも思へど、屋を夜泥《ヤネ》と云こと、今の俗語のみならず、萬葉四(ノ)卷などにもあれば、なほ古夜泥《コヤネ》と訓べし、】

〇布刀玉《フトタマノ》命、玉を以て御名に負《オフセ》し所由《ヨシ》未《イマダ》思ひ得ず、大神宮式に、着《ツケタル》2木綿(ヲ)1賢木是(レヲ)名(ク)2太玉串《フトタマグシト》1、【書紀に、五百箇眞坂樹(ノ)八十|玉籤《タマグシ》とも有、】とあり、今此神は、玉鏡|和幣《ニギテ》を着《ツケ》たる眞賢木を取(リ)持たまへば、若(シ)は此(ノ)太玉串の意にもや有む、さて玉串の名は手向串《タムケグシ》なるべし、【牟氣《ムケ》を切《ツゾム》れば米《メ》なれども、多米串《タメクシ》といへば、自《オ》ら多麻串《タマクシ》とも聞ゆる故に、玉(ノ)字は借て書つらむ、】さればその串を略《ハブキ》て、太手向《フトタムケノ》命とも云(ヒ)つべき物ぞ、【布刀御幣登取持而《フトミテグラトトリモチテ》とあれば、太手向《フトタムケ》とも云べし、】なほ此神のことも下【傳十五】に云べし、

〇天香山、中卷倭建(ノ)命(ノ)段の歌に、阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》とあり、此(レ)に依て訓べし、前《マヘ》に出たる香山は大和(ノ)國なるを云(ヒ)、此《ココ》のは天上《アメ》なるを云れば、別なり、さて伊邪那美(ノ)神の神避坐《カムザリマス》處に、金山毘古金山毘賣、波邇夜須毘古波邇夜須毘賣ありて、次にかの大和の香山のこと見ゆ、然るに彼(ノ)香山に埴安《ハニヤス》てふ地名あり、此《ココ》に金山《カナヤマ》の名あり、彼(レ)此(レ)を合(セ)て思ふに、本此(ノ)山の名は彼(ノ)迦具士《カグツチノ》神に由あるにや、猶《ナホ》熟《ヨク》考(フ)べし、

〇眞男鹿《マヲシカ》、書紀に眞名鹿《マナガ》ともあり、眞《マ》は稱辭《ホメコト》なり、又書紀顯宗(ノ)卷に、牡鹿此(ヲ)云2左嗚子加《サヲシカト》1とありて、佐袁鹿《サヲシカ》てふ名は常に多く云めれど、眞男鹿《マヲシカ》と云るは、他《ホカ》には見ず、【故(レ)思(フ)に、佐衣《サゴロモ》佐筵《サムシロ》佐夜《サヨ》佐寢《サヌル》など、多く付(ケ)云(フ)佐《サ》は、眞《マ》と通ふなるべし、地名にも佐檜隈《サヒノクマ》とも眞熊野《マクマヌ》とも云る、通ひて聞ゆるをや、】

〇肩、和名抄に、肩(ハ)加太《カタ》、※〔骨+曷〕※〔骨+汚の旁〕(ハ)加太乃保禰《カタノホネ》とあり、肩《カタ》を拔《ヌク》とは、其骨を拔取《ヌキトル》を云なり、

〇内拔《ウツヌキ》、内は借字にて、書紀に全剥此(ヲ)云2宇都播伎《ウツハギト》1とある全《ウツ》と同じ、俗に圓《マル》にと云意なり、全《マル》に骨を拔《ヌ》き、全《マル》に皮を剥《ハゲ》ば、中の空虚《ウツホ》になる意にて、宇都《ウツ》とは云なり、下に内2剥《ウツハギニ》鵞(ノ)皮(ヲ)1剥《ハギ》ともあり、

〇波波迦《ハハカ》、今本はみな婆々迦と作れども、言の首《ハジメ》を濁る例なければ、必(ズ)波(ノ)字なるべし、故(レ)今は舊事紀に波々と作《カケ》るに從(ヒ)つ、【此(ノ)餘《ホカ》にも、波と婆とは互に寫し誤れる所多し、○後世|平假字《ヒラカナ》の書どもには、多く波和加《ハワカ》と書り、此《ココ》も口にはさもよむべし、】和名抄に、朱櫻(ハ)波々加《ハハカ》、一云|邇波佐久良《ニハザクラ》、又木具部に、樺(ハ)木(ノ)皮(ノ)名可(キ)2以(テ)爲1v炬(ト)者|也《ナリ》、和名|加波《カバ》、又云2加仁波《カニバト》1、今櫻(ノ)皮(ニ)有(リ)v之と見え、萬葉六【十八丁】に、櫻皮纏作流舟《カニバマキツクレルフネ》とよみ、古今集物(ノ)名に、迦爾婆櫻《カニバザクラ》あり、【源氏物語などに加婆櫻《カバザクラ》といふもこれなり、】これらを合(セ)て思(フ)に、此(ノ)木の本(ノ)名は波々迦《ハハカ》にて、迦爾婆《カニバ》は皮(ノ)名なり、【加婆《カバ》は加爾婆《カニバ》の約《ツヅマ》りたるなり、】さて皮を專ら用るから、迦爾婆櫻《カニバザクラ》と木の名にもなれるなり、かゝれば和名抄に邇波佐久良とあるは、今(ノ)本加(ノ)字の脱《オチ》たること著《シル》し、【古今集かにばざくらの註に、朱櫻とかけりと顯昭が云る、よくかなへり、然るを契沖が、和名抄を引てこれを誤(リ)なりと云るは、返てひがことなり、】さて此《ココ》に此(ノ)木を取(ル)は、皮を燃《モヤ》して、彼(ノ)鹿の肩骨を灼《ヤカ》む料なり、【からぶみ五雜組と云ものに、樺皮燒(クニ)v之(ヲ)易(クシテ)v燃(エ)而無(シ)v烟也といへり、】後(ノ)世まで此(レ)を用らると見えて、臨時祭式に、凡(ソ)年中御卜(ノ)料(ノ)波婆加(ノ)木(ノ)皮(ハ)者、仰(セテ)2大和(ノ)國(ノ)有(ル)v封社(ニ)1令(ム)v採(リ)2進(ラ)之(ヲ)1、【齋宮式にも、波々可五枚と見ゆ、】とあり、【奥義抄に、大和(ノ)國笛吹(ノ)社より奉るとあり、此社は忍海(ノ)郡笛吹山にあり、】

〇占合《ウラヘ》、合(ノ)字は一本に依れり、【舊本に令と作《カケ》るは誤れるなり、延佳本に此字無きは、さかしらに削(リ)しなるべし、】前にも卜相と書き、書紀にも卜合と書る例あればなり、さて占合(ノ)二字を宇良閇《ウラヘ》と訓(ム)べく、其《ソ》は卜《ウラ》令《セ》v合《アハ》の意なること、上【傳四の卅九葉】に委く云るがごとし、

〇麻迦那波令《マカナハシメ》は、書紀雄略(ノ)卷に、彎《ヒキマカナヒ》v弓(ヲ)、欽明(ノ)卷に、彎《ヒキ》v弓(ヲ)占擬《サシマカナヒテ》射落(ス)、崇峻(ノ)卷にも 擬射《サシマカナヒテイル》と見え、新撰字鏡に、擬(ハ)設也度也、寓加奈不《マカナフ》とあり、字書に、擬(ハ)揣(リ)度(リテ)以(テ)待(ツ)也と注せり、今も此意なり、【今(ノ)世の俗に、萬(ノ)事をふさねて執(リ)行(フ)をも、又用脚を給《ツグ》をもまかなふと云は、意のうつれるなり、】さて上(ツ)代の卜《ウラ》は、凡て右の如く鹿の肩骨を用られたり、龜を用るは、漢《カラ》のを学べる後のことなり、【書紀崇神(ノ)卷に、命(ジテ)2神龜(ニ)1云々などあるは、たゞ文章に書るのみにて、實は是も鹿を用たるべし、〇卜部氏もと壹伎(ノ)國より出(デ)つれば、彼(ノ)氏人ぞ韓國より龜(ノ)卜は傳へけむ、欽明天皇十四年、百濟に仰て卜書暦本などを獻らしめたまひしこと、書紀に見ゆ、このころよりや、漢ざまの卜を用ひられけむ、然るに書紀の釋に、龜兆傳と云事を引て、龜卜の神代よりある事の起《オコリ》を、こと/”\しく云(ヘ)れど、彼(ノ)書は、古(ヘ)より傳はれる鹿の卜を廢《ステ》て、龜卜をあまねく世に用ひしめむために作れる虚言《ソラゴト》にて、古書に非ること著《シル》し、さて遂《ツヒ》に鹿は廢《スタレ》て、もはら龜をのみ用らるゝことになれるは、いとも哀《カナシ》きわざなりかし、式などにも卜(ノ)料には龜甲のみ見えて、鹿骨は凡て見えず、そのかみ既《ハヤ》く絶けるなるべし、さて龜になりても、波々迦をば昔の如く用しと見ゆ、】萬葉十四【七丁】に、武藏野爾宇良敝可多也伎《ムザシヌニウラヘカタヤキ》云々、【彼國豐嶋(ノ)郡に占方《ウラカタ》と云郷(ノ)名も和名抄に見ゆ、〇可多也伎は肩灼なり、】かゝれば鄙《ヰナカ》にはやゝ後までも、鹿(ノ)卜の殘れるにや、又十五【二十五丁】に、由吉能安末能保都手乃宇良敝乎可多夜伎弖《ユキノアマノホツテノウラヘヲカタヤキテ》云々、【保都手《ホツテ》は、太占《フトマニ》の太《フト》と同じ、此歌は、雪(ノ)連宅滿が死を傷て、壹岐(ノ)嶋にてよめるなれば、彼(ノ)漢國(ノ)傳(ヘ)の龜卜なるべきか、然らば可多也伎は、二首ともに肩にはあらで、兆《カタ》の意かとも思はるれども、此歌は、其時に見《マサシ》く卜《ウラ》をしたるさまにも聞えず、此嶋は卜《ウラ》に名高きゆゑに、たゞ設《マウケ》てかくよめりと聞ゆれば、古(ヘ)の鹿の肩灼《カタヤキ》の卜の語を以て云るなるべし、そは龜卜になりて後も、云(ヒ)なれたるまゝに、なほ肩灼《カタヤク》と云語をぞなべて用ひけむ、又兆を加多《カタ》と云も、象の意にはあらで、本は肩より出し名なるもしるべからず、】さて此段の卜合《ウラヘ》は、思金(ノ)神の謀て思ひ得たる種々の事の可否《ヨケムアシケム》を、先《マヅ》卜問《ウラドヒ》て、後に定(メ)行(ハ)むとなるべし、凡て上(ツ)代は、萬(ヅ)の事みな然有き、

〇五百津眞賢木《イホツマサカキ》、五百津は枝の繁《シゲ》きを云て、一木の上《ウヘ》のことなり、【五百株と云は非なり、布刀玉(ノ)命の取持とあるにも叶はず、】書紀仲哀(ノ)卷に、五百枝賢木《イホエサカキ》と有(ル)にて曉《サトル》べし、湯津楓《ユツカツラ》の湯津も同じ、【その由は彼處《カシコ》に云べし、又上の湯津石村の所にもいひき、】又下卷に百枝槻《モモエツキ》、書紀に百枝杜樹《モモエカツラ》などもある類なり、眞賢木、書紀には眞坂樹と書り、共に借字なり、仙覺(ガ)萬葉(ノ)解に、榮《サカエ》たる樹《キ》と云なりといへり、師(ノ)説に、こはもと一(ツ)の樹の名にはあらで、たゞ常葉《トコバ》なる木を、神事公事に讃稱《ホメタタヘ》て眞榮樹《マサカキ》といひしなり、そが中にとり分て鏡幣をかけ、髻華《ウズ》にさしなどせしは橿《カシ》なり、後世さかきと云物に非ずと云れき、【なほくはしく冠辭考まさきづらの條に見ゆ、】新撰字鏡には、杜(ハ)毛利《モリ》、又|佐加木《サカキ》、また龍眼(ハ)佐加木《サカキ》、また榊※〔木+祀〕※〔木+定〕三字|佐加木《サカキ》とあり、榊《ノ》字は日本後紀【十六】にも見えたり、和名抄にも、漢語抄(ニ)龍眼木(ハ)佐加木、今按龍眼(ハ)者其(ノ)子《ミノ》名也とあり、【此(レ)は後世のさかきにあてたるべけれど、おぼつかなし、まして上代のにはかなほず、】

○根許士爾許士而《ネコジニコジテ》、書紀に、掘《ネコジニシテ》とあり、又神武(ノ)卷に、拔取《ネコジニシテ》、景行(ノ)卷に、拔《コジトリテ》などもあり、拾遺には、古語|佐禰居自能禰居自《サネコジノネコジ》と見ゆ、萬葉八【十四丁】に、去年春伊許自而植之吾屋外之若樹梅者花咲爾家里《コゾノハルイコジテウヱシワガヤドノワカキノウメハハナサキニケリ》 、【拾遺集には、去《イニ》し年根こじて植しと直して入れり、】古今六帖に、秋(ノ)野は根許士《ネコジ》にこじて持去《モテヌ》とも、巖《イハホ》の種《タネ》は遺《ノコ》しやはせぬなどよみて、根ながらに掘取《ホリトル》を云、俗にいふ根引《ネビキ》にするなり、【物をこじると云俗語も、是よりぞ出(デ)つらむ、】

〇上枝、中枝、下枝は、譽田《ホムダノ》天皇(ノ)御歌、又|長谷《ハツセノ》朝倉(ノ)朝(ノ)段三重(ノ)※〔女+采〕(ガ)歌に、本都延《ホツエ》、那加都延《ナカツエ》、志豆延《シヅエ》とあるに依て訓べし、【下枝は、彼(ノ)※〔女+采〕が歌の中に三たび出たる、二(ツ)は志豆延《シヅエ》といひ、一(ツ)志毛都延《シモツエ》といへり、今は此(レ)彼(レ)多きによれり、又萬葉などにも、本都延《ホツエ》志豆延《シヅエ》と多くよめり、】此(ノ)枝の上中下に就(キ)て、著《ツケ》し物の尊卑《タカキイヤシキ》を言(フ)は、餘り言痛《コチタ》し、たゞ尊卑《タカキイヤシ》き由ならでも、玉は上(ミ)、鏡は中、和幣《ニギテ》は下に着《ツケ》て宜しかるべき物のさまなり、【中を尊《タフト》ぶなど云説は、殊に漢意にへつらひたる強言なり、】

〇取着《トリツケ》、萬葉三【三十七丁】に、奥山乃賢木之枝爾白香付木綿取付而《オクヤヤノサカキノエダニシラガツクユフトリツケテ》、又十七【四十五丁】に、之良奴里能鈴登里都気底《シラヌリノスズトリツケテ》などもあり、

。八尺鏡《ヤタカガミ》、延佳が、尺(ハ)普當(シ)v作v咫(ニ)と云るぞ宜《ヨ》き、こは決《ウツナ》く寫(シ)誤れるものなり、まづ尺とあるを強《シヒ》て助《タスケ》ていはば、八寸を咫と云(ヒ)、十寸を尺と云は常なれども、周(ノ)尺は八寸と云ことあり、又常に咫尺とも連《ツラ》ね言て、相(ヒ)遠からぬ字なれば、此記には佐加《サカ》にも阿多《アタ》にも、尺(ノ)字を通(ハシ)用て、此《ココ》に阿多《アタ》と註せるも、佐加《サカ》と混《マギ》るゝ故なりとも云べけれど、猶よく思ふに然《シカ》には非ず、何(レ)の古書にも、阿多には咫(ノ)字をのみ書て、尺と書る例なく、此記にも即(チ)白檮原(ノ)朝(ノ)段に、八咫烏《ヤタガラス》と書れば、此《ココ》も必(ズ)咫(ノ)字なるべき物ぞ、さて註に八尺とあるも、本は咫(ノ)一字なりけむを、本文の誤れるから、後人のさかしらに改つるか、又本文と共に誤れるにもあるべし、八阿多の八(ノ)字は、上を八尺とするから、是(レ)もさかしらに加(ヘ)つる後人の爲《シワザ》なり、決《キハメ》て削(ル)べし、凡て訓(ノ)註に、字(ノ)訓を用たる例なく、又八を八と註すべき謂《イハレ》なければ、こは上下共にひがことなること、相(ヒ)照しても知べし、かゝれば此註は、訓(テ)v咫(ヲ)云2阿多(ト)1とあるべきなり、さて此名を、古來《イニシヘヨリ》夜多能鏡《ヤタノカガミ》と訓めれども、かゝる稱《ナ》の古(ヘ)の例、凡て之《ノ》を添《ソヘ》ねば、夜多加賀美《ヤタカガミ》と訓べし、【かの八咫烏《ヤタガラス》の例をも思べし、】註に阿多とあるを、阿《ア》を省《ハブク》は如何《イカニ》と云に、高天原の天をも、云2阿麻(ト)1と註せれども、なほ麻《マ》と訓(ム)と同格《オナジサマ》なり、【一(ツ)離(チ)て言(フ)ときは、天は阿麻、咫は阿多なる故に、然《シカ》註したるなり、されど高天八咫と連(ネ)言(フ)ときは、高《タカ》にも八《ヤ》にも阿《ア》の韵《ヒビキ》ある故に、自《オ》ら多加麻《タカマ》夜多《ヤタ》といはるゝなりけり、】さて此(ノ)八咫の義《ココロ》を、古來とり/”\に説《トケ》れども、皆かなへりとは聞えず、【まづ咫を八寸として、八咫は六尺四寸、これ圍《メグリ》の度にして、徑り二尺一寸餘なりと云は、釋に論ひたる如く、伊勢(ノ)神宮の御樋代の度《ホド》にかなはず、又たゞ八寸と見れば、八《ヤ》てふ言《コト》由なし、神道八を尊ぶなど云めれども、由もなきことを漫《ミダリ》に加(フ)べきに非ず、古(ヘ)凡てさることなし、又女神の御手の長さなど云は、漢字の註に依れる、例のひがことなり、又|八《ヤ》は七八《ナナヤ》の八《ヤ》に非ず、例の禰《イヤ》の意にして、つゞめて二八一尺六寸にしても、周《メグリ》を以て名《ナヅ》くべきに非れば、なほかの御樋代にかなはず、又師(ノ)説に、八咫は、人の大指と中(ノ)指を桀《ハル》を咫といひ、其一咫は八寸ある故に、八あたとも云て、八は咫八(ツ)の謂には非ず、凡て古書に數を云に、正しきあり、大むねあり、又同じ咫にも、一咫の中に八きだ七きだ有(ル)を云(フ)と、一咫づゝ多の數を云とあり、其書をかける人の心々なりしなりとあれど、一咫は八寸ある故に八あたと云と云(ハ)れたるは心得ず、若(シ)然らば、直《タダ》に八寸《ヤキ》とか咫《アタ》とか云べきを、いかでかわづらはしく重ね云む、凡て物の度量《ホド》を云に、さる例も理(リ)もなきことなり、又その書をかける人の心々なりとあるも心得ず、文字こそ他国のを借れる物なれば、人の心々にて、古書にはさま/”\に書《カケ》れ、物の度量の稱《ナ》などは、古(ヘ)より云來るまゝに記せることなれば、書によりてかはるべきに非ず、されば人の心々とあるは、文字のことか、然らば七きだの阿多には七咫、八きだの阿多には八咫と書りとも、訓はいづれもたゞ阿多とこそ云べけれ、然れども夜多《ヤタ》といふ古言動くまじければ、右の師(ノ)説は用ひがたくこそ、】故(レ)今考るに、八咫は借字にて、【古(ヘ)物を度量《ハカ》るに、咫《アタ》といふ名あり、又|八《ヤ》は何の數にも、彌《イヤ》の意にて常に云ふことなれば、八咫《ヤタ》と云ことも物に多《オホ》かりけむ故に、其字を借れるなり、さるは後(ノ)世人の心にては、まぎらはしきに似たれども、常夜《トコヨ》に常世の字を借れるたぐひにて、古(ヘ)より借(リ)て書來れるまゝに、此記にも書紀にも然かけるなり、】八頭《ヤタ》の意なるべし、其(ノ)據《ヨリドコロ》は、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、此(ノ)御鏡のことを云る處に、謂(フハ)2八咫(ト)1者|八頭《ヤタ》也、また御鎭座傳記にも、【寶基本記にも】八咫《ヤタハ》古語|八頭也《ヤタナリ》、八頭花崎八葉《ヤタハナザキヤハノ》形(ナリ)也、中臺(ハ)圓形座也《マロキカタチニマスナリ》と云る是なり、【此書どもは多くは信《ウケ》がたけれど、此(レ)は妄説《ミダリコト》とは聞えず、古(キ)傳説《ツタヘゴト》ありけるならむ、或人、鎭座傳記などに八葉中臺など云るは、佛書を附會したる言にて、取(ル)にたらずと云り、今おもふに、まことに彼書どもは附會甚だ多し、この八葉中臺も佛書の語なり、然れども、もとより八頭花崎(ノ)御鏡なりといふ傳(ヘ)のありしに付て、佛書を引(キ)當(テ)たる者なり、まことに古(キ)鏡にさる形したるがあるなり、】さて八頭を夜多《ヤタ》と云に二(ツ)の考(ヘ)あり、一には、書紀(ノ)釋に天徳(ノ)御記を引て云(ク)、内裏燒亡(ノ)之時(ニ)、内侍所(ノ)神鏡不2燒損1、其(ノ)鏡徑(リ)八寸許(リ)、頭(ニ)雖v有(ト)2小瑕1、尊(ラ)無(シ)v損(スルコト)とありて、頭(ノ)字|波多《ハタ》と讀べしと云り、此(レ)を思(フ)に、頭とあるは、かの八頭の頭なるべし、【たゞ圓(キ)鏡ならば、頭とはいふべからず、又はしならば端とあるべきなり、】又かの御記のつゞきの文に、圓規并(ニ)蔕等甚分明(ナリ)とある、圓規はかの中臺(ハ)圓形とある處を云るなるべし、さて頭を波多《ハタ》と訓べしと云る、さもあるべし、魚の鰭《ハタ》と同意にて、かの花崎なる所を然云べし、かゝれば夜波多《ヤハタ》を約《ツヅメ》て夜多《ヤタ》とは云なり、【此記の注に云2阿多(ト)1とあるは、咫(ノ)字を借(レ)るにつきて、其(ノ)本語を注せるなり、されどそれも八咫とつゞけば夜多《ヤタ》なれば妨げなし、】二には、頭は阿多麻《アタマ》の意なり、【和名抄に※〔息+頁〕會(ハ)阿太萬《アタマ》とあれば、あたまは頭の内にて一所の名と見ゆれど、今(ノ)世の言には頭をいへば、古(ヘ)もさもいひけむ、】其故は、白檮原宮(ノ)段の八咫烏《ヤタガラス》も借字にて、此と同じく、頭《アタマ》の八(ツ)ある烏なるべければなり、【此烏はかの八俣蛇《ヤマタヲロチ》の八頭八尾ありし類なり、八は必しも七八の八ならずとも、幾《イク》つもあるを云べし、さて此記(ノ)序、又姓氏録に、これを大烏と云(ヘ)れば、なほ八咫の義然るべしとも云べけれど、八寸ならば殊に小烏なり、もし又咫八(ツ)の意とせば、御鏡の度かなはず、此(レ)と彼(レ)と同言にて、義の異なるべき謂なければなり、されば古(ヘ)より八咫の字を借て書來れるに就て、姑(ク)字面によりて大烏とは書つるか、又頭の八(ツ)あらむには、本より尋常の烏よりはいと大きにも有べければ、名によらずとも、などか大とは云(ハ)ざらむ、又大きなるのみにては、八咫《ヤタ》てふ名を負べきにあらず、鏡などは大小種々ある物なれば、其(ノ)度《ホド》を以て名(ヅ)けむもさることなるを、烏などは、大小くさ/”\ある物ならぬに、度《ホド》を以て名くべきにあらぬを思へ、大(キ)なるのみならば、たゞ大烏《オホカラス》とこそいはめ、又書紀に、頭八咫烏と頭(ノ)字を添てかゝれたるは、頭の大さ八咫と云意を顯《アラハ》さむためとも云べけれど、全體をおきて、頭の大さを以て名(ヅ)けむこと有べくもあらず、此(レ)は古(ヘ)より八咫の字を借(リ)て書つたへたるを、そのまゝに書ながら、頭の八(ツ)ありし烏なりといふ傳(ヘ)のありし故に、その由を顯(ハ)さむために、此字をば添(ヘ)られたるなるべし、かかれば是も返(リ)て八頭《ヤアタマ》なる一(ツ)の證とすべし、】右の二(ツ)の意、いづれかよけむ、人擇(ビ)取(リ)ねかし、さて此御鏡を、書紀に眞經津鏡《マフツカガミ》ともあるは、眞太《マフト》鏡なり、【太《フト》は稱辭《タタヘゴト》にて、布都《フツ》とも通はし云る例多し、此(ノ)經津《フツ》をとり/”\に漢意以て説《トケ》れど、皆例のいふにたらず、】

〇白丹寸手《シラニギテ》、書紀に白和幣とありて、和幣此(ヲ)云2尼枳底《ニギテト》1と見ゆ、底《テ》は多閇《タヘ》の約(マ)りたる言にて、即|爾岐多閇《ニギタヘ》なり、爾岐《ニギ》は即(チ)和(ノ)字又熟(ノ)字などを訓り、多閇《タヘ》は師(ノ)説に、※〔糸+旨〕布の類を總云《スベイフ》名なりとあり、【此事冠辭考|白多閇《シロタヘ》の條に見ゆ、又此次にも云り、※〔糸+旨〕《キス》の切《キレ》を佐伊弖《サイデ》と云は、裂多閇《サキタヘ》なり、又俗にいふ古手《フルテ》は、古多閇《フルタヘ》なり、これらみな多閇《タヘ》をつゞめて弖《テ》といふ例ぞ、】されば幣(ノ)字を書は、神に奉る方に付(キ)てのことにて、此物の本(ノ)義には非ず、書紀に、下枝《シヅエニ》懸2以《カケ》粟《アハノ》國(ノ)忌部《イミベノ》遠(ツ)祖天(ノ)日鷲(ノ)所作木綿《ハゲルユフヲ》1と見え、古語拾遺に、令《シメ》d天(ノ)日鷲(ノ)神(ヲシテ)以《ヰテ》2津咋見《ツクヒミノ》神(ヲ)1穀(ノ)木(ヲ)種殖之《ウヱテ》以作(ラ)c白和幣《シラニギテヲ》u、【是(レ)木綿《ユフ》也、已上二(ツノ)物一夜(ニ)蕃茂《シゲリツ》也とあり、二(ツノ)物とは麻と二(ツ)なり、又神武天皇の御代の事どもを云る處に、穀(ノ)木(ノ)所v生故(レ)謂(フ)2之|結城《ユフキノ》郡(ト)1とあり、是(レ)下總(ノ)國の郡(ノ)名なり、】豐後(ノ)風土記に、速見(ノ)郡|柚富《ユフノ》郷(ハ)、此(ノ)郷(ノ)之中(ニ)栲(ノ)樹多(ク)生(フ)、常(ニ)取(テ)2栲(ノ)皮(ヲ)1以造(ル)2木綿(ヲ)1、因《カレ》曰(フ)2柚富(ノ)郷(ト)1、また寶基本記にも、謂(テ)d以2穀(ノ)木(ヲ)1作(レル)白和幣(ヲ)u名2號《ナヅク》木綿《ユフト》1、かゝれば白爾岐弖《シラニギテ》は木綿《ユフ》のこと、木綿は穀(ノ)木(ノ)皮以て織《オ》れる布にて、古(ヘ)はあまねく用(ヒ)たりし物なり、【此(レ)を布にすること漢籍《カラブミ》にも見えたり、和名抄に、穀(ハ)加知《カチ》木(ノ)名也と云ひ、字鏡にも、穀(ハ)楮也|加知乃木《カチノキ》とあり、さて布にせしことはいと古(ヘ)のことにて、やゝ降りてはたゞ紙にのみして、布にすることは絶つと見えて、和名抄にも穀紙は見えて、布のことは見えず、さて師はこの穀(ノ)字を、やがて由布《ユフ》と訓れき、さも有べし、然るを古書どもには、由布《ユフ》にはたゞ木綿(ノ)字をのみ用たり、和名抄祭祀具に、本草(ノ)注(ニ)云木綿(ハ)折(レバ)v之(ヲ)多(キ)2白絲1者(ナリト)也、和名|由布《ユフ》と見え、又木(ノ)部に、杜仲、陶隱居(ガ)本草注(ニ)云、杜仲一名木綿折(レバ)v之(ヲ)多2白絲1者也、和名波比末由美と見ゆ、此(レ)に依て思へば、古(ヘ)より由布《ユフ》に木綿(ノ)字を用るは、杜仲の一名を取れるなり、されど其《ソ》は穀を杜仲と思ひ誤れるにて、實に杜仲を用(ヒ)たるには非ず、然らば和名抄にも祭祀(ノ)具には、穀を擧て和名|由布《ユフ》と記すべきことなるに、木綿と擧たるは、古(ヘ)より世にあまねく用る字を出せるのみにて、實に杜仲なりとするには非ず、故に同(ジ)陶氏が説を引ながら、彼處《カシコ》には杜仲の字をも波比麻由美の名をも擧ず、そは別に木(ノ)部に出せり、そのかみ既に杜仲をば由布《ユフ》には用(ヒ)ざりしこと知べし、さて又杜仲の外に、別に木綿と云木大小二種あり、その小きは近(キ)代に弘《ヒロマ》れる紀和多《キワタ》のことなり、大なるも共に實《ミ》の中に白き綿あるを採て布にするものなり、されば此(レ)らも又|由布《ユフ》とはいたく異なり,字の同きを以て思ひ混《マガ》ふべからず、】其《ソ》は殊に白き物なる故に、白多閇《シロタヘ》とも【古歌などに白多閇《シロタヘ》と多くよめるも、もはら此布なり、白たへの麻衣《アサギヌ》、又白たへの藤《フヂ》などもあれど、そはたまさかのことなり、】白由布《シラユフ》とも白爾岐弖《シラニギテ》とも云なり、【又古書に、栲機《タクハタ》栲衾《タクブスマ》栲繩《タクナハ》栲領巾《タクヒレ》など多くある栲《タク》も、右に引る豐後(ノ)風土記に依(ル)に同物なり、故(レ)萬葉に白栲《シロタヘ》ともかき、又|萬《ヨロヅ》の白き物に、栲衾《タクブスマ》栲角乃《タクツヌノ》など枕詞にも云り、角《ツヌ》は綱なりと師は云れ、或人は栲《タク》つ布《ヌノ》なりと云り、さて栲(ノ)字は、楮を草書より誤りつと、師はいはれつれど、楮(ノ)字を書る例なければいかゞ、此はなほ別に和字ならむ、】

〇青丹寸手《アヲニギテ》、書紀に青和幣と書り、古語拾遺に、令(ム)d長白羽《ナガシラハノ》神(ヲシテ)【伊勢(ノ)國|麻續《ヲミノ》祖、今(ノ)俗(ニ)衣服謂2之白羽(ト)1、此縁也、】種(テ)v麻(ヲ)以(テ)爲(ラ)c青和幣(ヲ)u【古語|爾伎※〔氏/一〕《ニギテ》】とあり、【かく青和幣をば長白羽に、白和幣をば天(ノ)日鷲にと、二神に分て云(ヘ)れども、末に神武天皇(ノ)御代(ノ)事を云る處には、天(ノ)日鷲(ノ)命(ノ)之孫造(ル)2木綿及(ビ)麻并(ニ)織布《アラタヘヲ》1、仍(テ)令(ム)d天富(ノ)命(ヲシテ)率《ヰテ》2日鷲(ノ)命(ノ)之孫(ヲ)1求(メ)2肥饒《ヨキ》地(ヲ)1遣(ハシテ)2阿波(ノ)國(ニ)1殖《ウヱ》c穀麻(ノ)種(ヲ)u、其(ノ)裔今在2彼國(ニ)1、當(テ)2大嘗(ノ)之年(ニ)1貢(ル)2木綿麻布及種々(ノ)物(ヲ)1、所以(ニ)郡(ノ)名(ヲ)爲(ル)2麻殖《ヲヱト》1之縁也云々と云ひ、式に阿波(ノ)國麻殖(ノ)郡忌部(ノ)神社、或(ハ)號2麻殖(ノ)神(ト)1、或(ハ)號2天(ノ)日鷲(ノ)神(ト)1とあれば、青和幣をも共に日鷲命の掌(リ)て作りしこと知られたり、されば以《ヰテ2二津咋見(ノ)神(ヲ)1云々と云る如く、麻をも以《ヰテ》2長白羽(ノ)神(ヲ)1、同じく天(ノ)日鷲(ノ)命の掌り作らせたるなるべし、其證なほ次にも云べし、さて麻を袁《ヲ》と云は緒《ヲ》の意にて、絲を云(フ)名なれば、本(ト)麻《アサ》にはかぎらず、されば麻殖《ヲヱノ》郡てふ名も、麻《アサ》のみならず穀を殖たるにもわたれり、字に泥むべからず、】麻は木綿《ユフ》に比《クラブ》れば稍《ヤヤ》青き故に、音和幣と云なり、さて書紀に、下枝(ニ)懸2以《カケ》木綿《ユフヲ》1【全文上に引り】といひ、又【神代下卷】天(ノ)日鷲(ノ)神(ヲ)爲《シ》2作木綿者《ユフハギト》1など云るは、此記など彼此《カレコレ》と合(セ)て思ふに、白和幣のみにはあらで、必(ズ)青和幣も具《ソナ》ふべければ、如此《カク》云(フ)ときは、穀と麻と二種を凡《スベ》ても木綿《ユフ》と云りと見ゆ、【これ又二種共に天(ノ)日鷲(ノ)神の作れる證ともすべし、】なほ又式などに、其料(ノ)物を擧たる所には、木綿と麻とを出せるに、其《ソ》を用る所には、たゞ木綿《ユフ》のことのみ云て、麻のことは見えぬが多きも、二種を合(セ)て木綿《ユフ》と稱《イフ》故なりけり、【凡て榊に木綿を付(ク)などいへるは、二種を合せての名なり、】さて白和幣青和幣共に、織たる布をも云ひ、【萬葉に木綿疊手向《ユフダタミタムケ》などあるは、必織たる布ときこゆ、】又末(ダ)織(リ)はせで、たゞ糸にしたるまゝなるをも用(ヒ)たりと見ゆ、故(レ)古書に木綿をば作と云て、【作と書て波具《ハグ》とよめり、剥なり、】織とは云(ハ)ず、【もし布ならば、倭文織《シドリ》などの如く、織とあるべきことなり、】又式などに、布若干端木綿若干斤麻若干斤と、布の外に擧げ、端などはなくて、斤とあるも、糸ながら用る證なり、【かゝれば木綿手次《ユフダスキ》木綿鬘なども、糸のまゝなるべし、】されば今|賢木《サカキ》に垂《シデ》たるも是なり、【麻《アサ》も常には未(ダ)織ざるを云(ヘ)ども、又其布をも同じく麻衣《アサギヌ》など云る如く、木綿も然なり、されば惣名の多閇《タヘ》も、織たる未(ダ)織ざる通はし云べきか、】又神に手向る奴佐《ヌサ》【幣又幣帛など書(ク)】も、絹布《キヌヌノ》をも云(ヒ)、未(ダ)織ざる木綿麻をも云り、【麻《ヌサ》と書(ク)は、種々の中の一(ツ)に就てなり、又後世に紙を用るは、木綿の代(リ)なり、】

〇取垂《トリシデテ》書紀皇極(ノ)卷に、折2取(リ)枝葉《シバヲ》1懸2掛《トリシデ》木綿《ユフヲ》1云々、萬葉六【三十九丁】に、木綿取之泥而《ユフトリシデテ》、また九【三十丁】に、齋戸爾木綿取四手而忌日管《イハヒベニユフトリシデテイハヒツツ》、延喜六年日本紀(ノ)竟宴(ニ)得2太玉(ノ)命(ヲ)1物部(ノ)安興歌に、比佐嘉多能阿麻弖流呵美乎伊能留度曾要多母《ヒサカタノアマテルカミヲイノルトゾエダモ》須惠々|爾奴佐波志弖氣留《ニヌサハシデケル》などあり、垂を志殿《シデ》と訓(ム)は、志陀禮《シダレ》を約《ツヅメ》たる言なり、【陀禮《ダレ》は殿《デ》と切《ツヅマル》】書紀孝徳(ノ)卷に、垂此(ヲ)云2之娜屡《シダルト》1、萬葉十に垂《シダリ》柳、十一に四垂尾《シダリヲ》など有(ル)以知べし、志陀留《シダル》は繁垂《シジタル》の意なり、【萬葉に竹玉乎繁爾貫垂《タカタマヲシジニヌキタレ》などあり、】さて此(ノ)垂《タル》でふ言、多理《タリ》多流《タル》など云は自然《ミヅカラシカル》なり、多禮《タレ》、多流々《タルル》などは、物を然《シカ》するなり、【多禮《タレ》は令《セ》v垂《タラ》、多流々《タルル》は令《スル》v垂《タラ》なり、凡て活言《ウゴクコト》には皆此(ノ)差別あることぞ、】されば志陀理《シダリ》と志陀禮《シダレ》とをも、此(ノ)差《ケヂメ》を以て別《ワク》べし、【右の柳又尾などは、自|重《タル》物なる故に志陀理《シダリ》と云、】此《ココ》は物を垂《シダ》らせたるなれば、志陀禮《シダレ》を約《ツヅメ》て志殿《シデ》と云なり、【後(ノ)世に四手《シデ》と云物は、此(ノ)用(ノ)語を體(ノ)語にして名とせるなり、】採物(ノ)歌に、賢木葉に木綿取(リ)垂《シデ》て誰《タガ》代にか神の御諸《ミムロ》と齋《イハヒ》そめけむ、【二の句、拾遺集には、ゆふしでかけてとあり、】拾遺集に、石上《イソノカミ》ふるや壯士《ヲトコ》の大刀《タチ》もがな組《クミ》の緒《ヲ》垂《シデ》て宮路《ミヤヂ》通《カヨハ》む、

〇此種々物《コノクサグサノモノ》、書紀景行(ノ)卷に、爰(ニ)有(リ)2女人1曰(フ)2神夏磯媛《カムナツシヒメト》1、聆《キキテ》2天皇(ノ)之|使者至《ミツカヒキヌト》1、則(チ)拔《コジトリ》2磯津《シヅ》山(ノ)賢木(ヲ)1以(テ)、上枝《ホツエニ》挂《トリカケ》2八握劔《ヤツカツルギヲ》1、中(ツ)枝(ニ)挂(ケ)2八咫鏡《ヤタカガミヲ》1、下枝《シヅエニ》挂(ケ)2八尺|瓊《ニヲ》1、亦|素幡《シラハタヲ》樹《タテテ》2于|船舳《フナノヘニ》1參向《マヰキテ》云々、仲哀(ノ)卷に、時(ニ)岡《ヲカノ》縣主(ノ)祖熊鰐《オヤクマワニ》聞(テ)2天皇|車駕《イデマスト》1、豫《カネテ》拔2取《コジトリ》五百枝貿木《イホエザカキヲ》1以《テ》立(テ)2九尋船之舳《ココノヒロブネノヘニ》1、而上(ツ)枝(ニ)挂《トリカケ》2白銅鏡《マスミカガミヲ》1、中(ツ)枝(ニ)挂(ケ)2十握劔(ヲ)1、下(ツ)枝(ニ)挂(ケテ)2八尺瓊(ヲ)1參迎《マヰムカヘマツル》云々、また筑紫(ノ)伊覩《イトノ》縣主(ガ)祖|五十迹手《イトテ》聞(テ)2天皇(ノ)之|行《イデマスヲ》1、拔2取(リテ)五百枝賢木(ヲ)1立(テ)2于船(ノ)之|舳艫《トモヘニ》1、上(ツ)枝(ニ)掛2八尺瓊(ヲ)1、中(ツ)枝(ニ)掛2白銅鏡(ヲ)1、下(ツ)枝(ニ)掛(テ)2十握劔(ヲ)1、參2迎(テ)于|穴門引嶋《アナドノヒケシマニ》1而|獻《タテマツル》、因以奏言《カクテマヲシツラクハ》、臣敢《ヤツコカク》所3以《ユヱハ》獻(ル)2是物《コノモノヲ》1者、天皇如(ク)2八尺瓊(ノ)之勾(レルガ)1以|曲妙御字《タヘニアメノシタシロシメセ》、且《マタ》如(ク)2白銅鏡(ノ)1以|分2明看行《ミシアキラメタマヘ》山川海原(ヲ)1、乃《マタ》提《トラシテ》2是(ノ)十握劍(ヲ)1平《ムケタマヘトナリ》天(ノ)下(ヲ)1矣、これら此段の故事《フルコト》に依《ヨレ》る古(ヘ)の禮儀《イヤゴト》なり、然るに和幣《ニギテ》を略きて劔あるは、朝家《ミカド》の三種の神寶にならへるならむ、【即三種の中の二種も、此段の物なり、】されど彼(ノ)五十迹手《イトテ》が奏せる言は、三種(ノ)寶の本(ノ)義《ココロ》にも非ず、【其由は後に云べし、】況《マシ》て此段の物を、彼(ノ)意とな思ひまがへそ、【此段の和幣をも、即劔の意ぞなど云説は、痛《イタ》く強言なり、又神功(ノ)卷に、皇后召(テ)2武内(ノ)宿禰(ヲ)1捧(テ)2劔鏡(ヲ)1令v祷2祈神祇(ニ)1とあるたぐひも、鏡は此段の古事に依(リ)て奉るなるべし、劔を神に奉ることは、垂仁天皇二十七年の紀に其(ノ)起(リ)見えて、彼(ノ)三種|與《ト》も又別意なり、】さて中昔までも、人に物を贈るに、多く木草の枝につけたりしも、此(ノ)段の榊の枝につけたる故事より起《オコ》れることなるべし、

〇布刀御幣《フトミテグラ》、和名抄に幣(ハ)美天久良《ミテグラ》、靈異記に幣帛(ハ)美天久良《ミテグラ》などあり、布刀《フト》は稱辭《タタヘゴト》なり、又|字豆乃幣帛《ウヅノミテグラ》大《オホ》幣帛|伊都《イヅ》幣帛|安幣帛乃足幣帛《ヤスミテグラノタルミテグラ》なども云り、美弖具良《ミテグラ》は、何物《ナニモノ》にまれ神に獻(ル)物の總名なり、諸(ノ)祝詞などを見て知べし、名(ノ)義《ココロ》は、まづ古(ヘ)神に獻(ル)物|及《マタ》人に贈りなどする物を、凡て久良《クラ》と云りと見ゆ、【後(ノ)世の語に、人に物を與《アタフ》るを久流《クル》と云も、是(レ)より出たることなるべし、】そは此(ノ)次(ノ)段に、千位置戸《チクラオキド》とある位《クラ》、【位は借字なり、なほ此事は傳九(ノ)卷の始(メ)に委く云べし、】又貞觀儀式大嘗祭(ノ)條に、倉代《クラシロ》十輿、【代《シロ》は實《シロ》にて即(チ)其物を云、】續後紀一に、國造出雲(ノ)豐持|等《ラ》奏(シ)2神壽《カミノヨゴトヲ》1、并《マタ》獻(ル)2白馬一匹生雉一翼高机四前|倉代物《クラシロモノ》五十荷(ヲ)1【此(ノ)國造|神吉事《カミノヨゴト》を奏(ス)時、白馬鵠とともに劔鏡をも獻りし例、神龜三年(ノ)紀に見え、又五種(ノ)神寶雜(ノ)物を獻(リ)し例、天長七年(ノ)紀に見え、又彼(ノ)神賀詞に、白馬白鵲の外に、玉|横刀《タチ》鏡など獻(ル)よしあれば、此(ノ)倉代(ノ)物とは、かゝるくさ/”\の物をすべいふなり、】などある倉《クラ》これなり、【倉(ノ)字も借(リ)字なり、】さて美弖《ミテ》は御手なり、即|此《ココ》に取持てとある如く、手に取持て獻る意にて云り、又|弖《テ》は多牟氣《タムケ》の切《ツゾマ》りたるにて、御手向久良《ミタムケグラ》の意にてもあるべし、太玉(ノ)命の名(ノ)義と思(ヒ)合すべし、【いづれにまれ御《ミ》は下の久良《クラ》に係《カカ》るなり、手又手向に附たる辭には非ず、又は後に天皇の御手づから神に獻りたまふ物を、御手久艮《ミテグラ》といひならへる、其名を始(メ)へもめぐらして、此(ノ)段にも然云るにもあるべし、御手向も同じ、】弖《テ》の意は、右の二(ツ)何《イヅ》れならむ、いまだ思ひ定めずなむ、【師(ノ)説には、充座《ミテグラ》の意として、萬(ノ)物を置座《オキクラ》に充《ミテ》て奉るを云とあれども、さては賢木《サカキ》の枝に着《ツケ》たるにかなはず、且《ソノウヘ》こゝに御《ミノ》字を添て書るにもかなはざるをや、】蜻蛉日記に美弖具良一夾二夾《ミテグラヒトハサミフタハサミ》とあるは、絹布などを串に夾《ハサミ》て奉るを云なり、【大神宮年中行事に、寮(ノ)幣(ハ)者長(キ)串(ニ)用紙(ヲ)挾(ムナリ)也、】

〇登取持而《トトリモタシテ》、登《ト》は辭《コトバ》なり、凡て御幣《ミテグラ》を取持ことは、此(ノ)時の例の隨《ママ》に、後の御代々々《ミヨミヨ》まで、忌部《イミベ》氏の職業《ワザ》なり、次に引る書どもにあまねく見ゆ、又書紀神代(ノ)下(ツ)卷に、乃使(ムルコトハ)u太玉(ノ)命(ヲシテ)以|弱肩《ヨワガタニ》被《トリカケテ》2太手襁《フトダスキヲ》1、而|代御手《ミテシロトシテ》以祭(ラ)c此(ノ)神(ヲ)u者、始2起《ハジマリキ》於|此《ココニ》1矣、【此(ノ)神とは大物主(ノ)神なり、又|代御手《ミテシロ》とは、御孫(ノ)命に代り奉て御幣を取(リ)持(ツ)を云なり、御手と云に心を付べし、たゞ代(リ)て祭(ル)とのみ見(ル)は精《クハ》しからず、】又祈年月次大嘗|等《ナドノ》祭(ノ)祝詞(ノ)辭別《コトワケ》にも、忌部能弱肩爾太多須支取掛※〔氏/一〕《イミベノヨワガタニフトダスキトリカケテ》、持由麻波利仕奉禮留幣帛乎《モチユマハリツカヘマツレルミテグラヲ》、神主祝部等受賜※〔氏/一〕《カムヌシハフリドモウケタマハリテ》、事《コト》不《ズ》v過《アヤマタ》捧持奉登《ササゲモチテタテマツレト》宣(フ)と見ゆ、諸の御幣を造り備《ソナフ》ることも、此氏の職《ワザ》なり、書紀に、忌部(ノ)遠(ツ)祖|太玉者《フトタマトイフカミ》造(リ)v幣《ニギテヲ》云々、古語拾遺に、宜《ベシ》v令(ム)d太玉(ノ)神(ヲシテ)率《ヰテ》2諸部(ノ)神(ヲ)1造(ラ)c和幣《ミテグラヲ》u、【これは和幣と書たれど、諸(ノ)物を云り、丹寸手《ニギテ》に限らず、】また令(ム)d天富(ノ)命(ヲシテ)率《ヰテ》2日鷲(ノ)命(ノ)之孫(ヲ)1云々、殖《ウヱ》c穀麻《ユフアサノ》種(ヲ)u云々、天富(ノ)命更(ニ)云々、分(チ)2阿波(ノ)齋部(ヲ)1率2往《ヰテユキテ》東土《アスマニ》1播2殖《ウヱ》麻穀(ヲ)1云々、【天富(ノ)命は布刀玉(ノ)命の孫なり、】また令(ム)d天富(ノ)命(ヲシテ)率《ヰテ》2供作諸氏《ソナヘツクルウヂウヂヲ》1造2作《ツクラ》大幣《ミテグラヲ》u、四時祭式に、祈年祭云々、前祭《マツリノマヘ》十五日、充(テ)2忌部八人木工一人(ニ)1、令(ム)v造2供v神(ニ)調度(ヲ)1など見えたり、

〇布刀詔戸言《フトノリトゴト》、萬葉十七【五十一丁】に、奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍《ナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘ》、書紀に、乃使(ム)3天(ノ)兒屋(ノ)命(ヲシテ)掌(ラ)2其(ノ)解除《ハラヒノ》之|太諄辭《フトノリトヲ》1、太諄辭此(ヲ)云(フ)2布斗能理斗《フトノリトト》1、大祓(ノ)詞に、大中臣天津祝詞乃太祝詞事乎宣禮《オホナカトミアマツノリトノフトノリトゴトヲノレ》、これらは祓除《ハラヒ》に宣《ノル》を云り、又月次祭(ノ)祝詞に、天照(シ)坐(ス)皇大神|乃《ノ》大前爾《オホマヘニ》申(シ)進留《タテマツル》天津|祝詞乃大祓詞乎《ノリトノフトノリトヲ》、鎭火祭祝詞に云々、如《ゴト》2横山《ヨコヤマノ》1置高成※〔氏/一〕《オキタカナシテ》、天津|祝詞乃太祝詞事以※〔氏/一〕稱辭竟奉久止《ノリトノフトノリトゴトモテタタヘゴトヲヘマツラクト》申(ス)などあるぞ、此《ココ》の祝詞《ノリト》の趣なる、名(ノ)義は宣説言《ノリトキゴト》なるべし、能流《ノル》は、必しも貴人《タカキヒト》の命《ミコト》ならでも、人に物を言聞《イヒキカ》するを云、【彼(ノ)大祓(ノ)詞に、大中臣に宣《ノレ》と云るが如し、その外にも例いとおほかり、】説《トク》は、書紀に太諄辭《フトノリト》と書る諄(ノ)字【説文に告曉《ツゲサトスノ》之熟也といへり、】の意なり、久度久《クドク》と云言も、此(ノ)のりときごとの意に近し、俊頼(ノ)歌に、はじめなき罪のつもりのかなしさをぬかのこゑ/”\くどきつるかな、【師(ノ)説に、高御産巣日《タカミムスビノ》命の詔賜《ノリタマヒ》し御言《ミコト》を承て、今兒屋(ノ)命の宣《ノリ》申すなれば、詔賜言《ノリタベゴト》なり、多弁《タベ》を約(ム)れば弖《テ》なるを、刀《ト》と轉し云りとあり、此説はいかゞ、凡て此段の事は、上に云る如く、彼(ノ)神の命《ミコト》に依《ヨレ》るに非ず、又|假令《タトヒ》その命《ミコト》にもあれ、然らば高木(ノ)神(ノ)命以祷白《ミコトモテネギマヲス》とあるべきなり、他時《コトトキ》の例みな然あり、たしかに彼神の命を

〇登取持而《トトリモタシテ》、登《ト》は辭《コトバ》なり、凡て御幣《ミテグラ》を取持ことは、此(ノ)時の例の隨《ママ》に、後の御代々々《ミヨミヨ》まで、忌部《イミベ》氏の職業《ワザ》なり、次に引る書どもにあまねく見ゆ、又書紀神代(ノ)下(ツ)卷に、乃使(ムルコトハ)u太玉(ノ)命(ヲシテ)以|弱肩《ヨワガタニ》被《トリカケテ》2太手襁《フトダスキヲ》1、而|代御手《ミテシロトシテ》以祭(ラ)c此(ノ)神(ヲ)u者、始2起《ハジマリキ》於|此《ココニ》1矣、【此(ノ)神とは大物主(ノ)神なり、又|代御手《ミテシロ》とは、御孫(ノ)命に代り奉て御幣を取(リ)持(ツ)を云なり、御手と云に心を付べし、たゞ代(リ)て祭(ル)とのみ見(ル)は精《クハ》しからず、】又祈年月次大嘗|等《ナドノ》祭(ノ)祝詞(ノ)辭別《コトワケ》にも、忌部能弱肩爾太多須支取掛※〔氏/一〕《イミベノヨワガタニフトダスキトリカケテ》、持由麻波利仕奉禮留幣帛乎《モチユマハリツカヘマツレルミテグラヲ》、神主祝部等受賜※〔氏/一〕《カムヌシハフリドモウケタマハリテ》、事《コト》不《ズ》v過《アヤマタ》捧持奉登《ササゲモチテタテマツレト》宣(フ)と見ゆ、諸の御幣を造り備《ソナフ》ることも、此氏の職《ワザ》なり、書紀に、忌部(ノ)遠(ツ)祖|太玉者《フトタマトイフカミ》造(リ)v幣《ニギテヲ》云々、古語拾遺に、宜《ベシ》v令(ム)d太玉(ノ)神(ヲシテ)率《ヰテ》2諸部(ノ)神(ヲ)1造(ラ)c和幣《ミテグラヲ》u、【これは和幣と書たれど、諸(ノ)物を云り、丹寸手《ニギテ》に限らず、】また令(ム)d天富(ノ)命(ヲシテ)率《ヰテ》2日鷲(ノ)命(ノ)之孫(ヲ)1云々、殖《ウヱ》c穀麻《ユフアサノ》種(ヲ)u云々、天富(ノ)命更(ニ)云々、分(チ)2阿波(ノ)齋部(ヲ)1率2往《ヰテユキテ》東土《アスマニ》1播2殖《ウヱ》麻穀(ヲ)1云々、【天富(ノ)命は布刀玉(ノ)命の孫なり、】また令(ム)d天富(ノ)命(ヲシテ)率《ヰテ》2供作諸氏《ソナヘツクルウヂウヂヲ》1造2作《ツクラ》大幣《ミテグラヲ》u、四時祭式に、祈年祭云々、前祭《マツリノマヘ》十五日、充(テ)2忌部八人木工一人(ニ)1、令(ム)v造2供v神(ニ)調度(ヲ)1など見えたり、

〇布刀詔戸言《フトノリトゴト》、萬葉十七【五十一丁】に、奈加等美乃敷刀能里等其等伊比波良倍《ナカトミノフトノリトゴトイヒハラヘ》、書紀に、乃使(ム)3天(ノ)兒屋(ノ)命(ヲシテ)掌(ラ)2其(ノ)解除《ハラヒノ》之|太諄辭《フトノリトヲ》1、太諄辭此(ヲ)云(フ)2布斗能理斗《フトノリトト》1、大祓(ノ)詞に、大中臣天津祝詞乃太祝詞事乎宣禮《オホナカトミアマツノリトノフトノリトゴトヲノレ》、これらは祓除《ハラヒ》に宣《ノル》を云り、又月次祭(ノ)祝詞に、天照(シ)坐(ス)皇大神|乃《ノ》大前爾《オホマヘニ》申(シ)進留《タテマツル》天津|祝詞乃大祓詞乎《ノリトノフトノリトヲ》、鎭火祭祝詞に云々、如《ゴト》2横山《ヨコヤマノ》1置高成※〔氏/一〕《オキタカナシテ》、天津|祝詞乃太祝詞事以※〔氏/一〕稱辭竟奉久止《ノリトノフトノリトゴトモテタタヘゴトヲヘマツラクト》申(ス)などあるぞ、此《ココ》の祝詞《ノリト》の趣なる、名(ノ)義は宣説言《ノリトキゴト》なるべし、能流《ノル》は、必しも貴人《タカキヒト》の命《ミコト》ならでも、人に物を言聞《イヒキカ》するを云、【彼(ノ)大祓(ノ)詞に、大中臣に宣《ノレ》と云るが如し、その外にも例いとおほかり、】説《トク》は、書紀に太諄辭《フトノリト》と書る諄(ノ)字【説文に告曉《ツゲサトスノ》之熟也といへり、】の意なり、久度久《クドク》と云言も、此(ノ)のりときごとの意に近し、俊頼(ノ)歌に、はじめなき罪のつもりのかなしさをぬかのこゑ/”\くどきつるかな、【師(ノ)説に、高御産巣日《タカミムスビノ》命の詔賜《ノリタマヒ》し御言《ミコト》を承て、今兒屋(ノ)命の宣《ノリ》申すなれば、詔賜言《ノリタベゴト》なり、多弁《タベ》を約(ム)れば弖《テ》なるを、刀《ト》と轉し云りとあり、此説はいかゞ、凡て此段の事は、上に云る如く、彼(ノ)神の命《ミコト》に依《ヨレ》るに非ず、又|假令《タトヒ》その命《ミコト》にもあれ、然らば高木(ノ)神(ノ)命以祷白《ミコトモテネギマヲス》とあるべきなり、他時《コトトキ》の例みな然あり、たしかに彼神の命を承て宣《ノル》處にも,其《ソ》を詔戸言《ノリトゴト》と云る例なし,】さて能理斗《ノリト》と常に云は、言《コト》を略けるなり、【祝詞(ノ)字を書(ク)ことを、師は此言の本(ノ)意に非ず、末なりと云れつれど、そは詔賜《ノリタペ》とこゝろえられたる故なり、此《ココ》の事を、以神統祝之《カムホサキホサキ》とも書紀にあれば、彼(ノ)字本(ノ)意に叶はずとも云がたし、説文に、祝(ハ)祭(ニ)主(ル)v賛(ルコトヲ)v神(ヲ)者などあるは、此《ココ》の義にかなへり、さて能理斗《ノリト》を、能都斗《ノツト》又|能斗《ノト》などいふは訛なり、】式に、左京二條|太詔戸《フトノリトノ》命(ノ)神社、大和(ノ)國添上(ノ)郡|太詔詞《フトノリトノ》神社、對馬上縣(ノ)郡|能理刀《ノリトノ》神社、下縣(ノ)郡|太祝詞《フトノリトノ》神社あり、

〇祷白而、此(ノ)語此(ノ)卷(ノ)末又中卷などにも見えたり、泥疑麻袁志弖《ネギマヲシテ》と訓べし、祷(ノ)字、本岐《ホギ》とも能美《ノミ》とも訓《ヨマ》る、是(レ)等の言を古書に考るに、本具《ホグ》は祝壽《ホメイハフ》方に云(ヒ)、能牟《ノム》は乞祈《コヒイノル》方に云(ヒ)、泥具《ネグ》は右の二方を兼《カネ》たる言なり、さて今|祷白《ネギマヲ》せる詔戸《ノリト》は、何事《ナニゴト》を申せるぞと云に、書紀に、時(ニ)中臣(ノ)遠(ツ)祖天(ノ)兒屋(ノ)命|則《ス》以神祝祝之《カムホサキホサキキ》、また尋厚稱辭祈啓《ヒロクアツクタタヘゴトネギマヲシキ》焉と見え、又此記に餘《ホカ》に祷白とある事の例、又諸(ノ)祭(ノ)祝詞に稱辭竟奉《タタヘゴトヲヘマツル》とあるなどを集《アツメ》て思ふに、かの布刀玉(ノ)命の取持《トリモタ》る種々の御幣《ミテグラ》物を賛稱《ホメタタヘ》たる辭《コトバ》なるべし、【諸祭(ノ)祝詞の例を見るべし、その幣帛を品々いひ擧《アゲ》て、天津祝詞の太祝詞言を以|稱辭竟《タタヘゴトヲヘ》奉(ル)とあり、これその幣帛を賛稱《ホメタタフ》る由なり、式に載る祝詞どもは、やゝ後に作れる文なれども、其(ノ)趣は上古より傳はれる祝詞の格に従《ヨ》れるものぞ、】故(レ)神祝稱辭《カムホサキタタヘゴト》など云り、さてしか稱賛白《ホメタタヘマヲス》も、大御神の出《イデ》坐むことを乞願意《コヒネガフココロ》にて爲《ス》ることなる故に、祷と云(ヒ)、祈啓と云(ヒ)、致2其(ノ)祈祷(ヲ)1とも書紀にあり、さればこゝの祷(ノ)字は、賛稱《ホメタタフ》る意と乞祈《コヒイノル》意とを兼たれば、泥疑《ネギ》とは訓り、下に獻(ル)2天(ノ)御饗(ヲ)1之時(ニ)祷白而とあるも、此《ココ》と全《モハラ》同《オナ》じ趣なり、考(ヘ)合すべし、猶《ナホ》泥疑《ネギ》てふ言は、中(ツ)卷日代(ノ)宮(ノ)段に出たり、其《ソコ》【傳廿七の四葉】に委く云べし、【神に仕奉る人を禰宜《ネギ》と云ひ、又|泥疑言《ネギコト》など云も是なり、又|願《ネガフ》も本(ト)泥具《ネグ》を延(ベ)たる言なり、】さて此(ノ)時に祷白《ネギマヲ》せる辭《コトバ》は、祝詞《ノリト》の始《ハジマリ》にて、いとも古文《フルコト》にて麗美《ウルハシ》かりけむを、此《ココ》に載《ノイラ》ず、世に傳(ハ)らぬは、甚々《イトイト》憾《クチヲシ》きわざなりかし、【世々の學者此段を説(ク)に、たゞ諸神の心の誠款《マコト》なりしことをのみ云て、辭《コトバ》のことをば等閑《ナホザリ》にし、凡て古言をば尋(ネ)む物とも思ひたらぬは、いたく道の意に背《ソム》けり、】書紀に、此(ノ)廣(キ)厚(キ)稱辭を聞《キコ》しめして、大御神の曰《ノ ク》、頃者《コノゴロ》人|雖《ドモ》2多請《サハニマヲセズトノリタマヒテ》1未v有(ラ)2若此言之麗美《カクコトノウルハシキハ》1者也、乃細(メニ)2開(テ)磐戸(ヲ)1とあるを見るべし、もはら言辭《コトバ》に感《メデ゙》たまふにあらずや、言靈《コトタマ》の幸《サキハ》ふ國、言靈《コチタマ》の助《タスク》る國と云る古語も、思(ヒ)合されていとたふとし、さて古語拾遺に、云々令(メ)2太玉(ノ)命(ヲシテ)捧持稱讃《ササゲモチテホメマヲサ》1、亦令(ム)2天(ノ)兒屋(ノ)命(ヲシテ)相副祈祷《アヒソヒチネギマヲサ》1、また神武(ノ)御世(ノ)段に、立(テ)2靈畤《マツリノニハヲ》於|鳥見《トミノ》山中(ニ)1、天富(ノ)命陳|《タテマツリ》v幣(ヲ)祝詞《ノリトゴトマヲシテ》※〔示す+(西/土)〕2祀《マツル》皇天《アマツカミヲ》1とあるは、心得ぬことあり、【この稱讃《ホメマヲス》を、太玉(ノ)命の事とし、祝詞《ノリトゴトマヲス》を、天富(ノ)命の事とせるは、齋部《イミベ》氏の強言《シヒゴト》なり、凡て幣帛《ミテグラ》を執《トル》は忌部《イミベ》、祝詞白《ノリトゴトマヲス》は中臣の職《ワザ》にて、神代より後まで定まれる物をや、抑(モ)中臣と忌部とは、此(ノ)段に見えたる如く、相並べる氏なるに、中古より中臣はこよなく榮え、忌部はいたく衰へたることを憂《ウレ》へたるが、彼(ノ)書の主意なる故に、やゝもすれば中臣(ノ)神を貶《オト》して、忌部(ノ)神を褒《アゲ》たるが、實《マコト》に過《スギ》たること多きぞかし、】書紀神功(ノ)卷に、皇后選2吉日(ヲ)1入(リ)2齋(ノ)宮(ニ)1親(ラ)爲(リタマヒ)2神主(ト)1、則|命《オホセテ》2武内(ノ)宿禰(ニ)1令《シメ》2撫琴《コトヒカ》1、喚(テ)2中臣烏賊津使主《ナカトミイカツノオミヲ》1爲《シテ》2審神者《サニハト》1、因以(テ)2千※〔糸+曾〕高※〔糸+曾〕《チハタタカハタヲ》1置(テ)2琴頭尾《コトカミコトシリニ》1、而|請曰《ネギマヲサシメテイハク》云々、これも此《ココ》の儀式《ヰヤゴト》をまなびたる者《モノ》なり、又持統(ノ)卷に、四年春正月朔、物(ノ)部(ノ)麻呂《マロノ》朝臣|樹《タテ》2大盾《オホダテヲ》1、神祇伯《カムツカサノカミ》中臣(ノ)大嶋(ノ)朝臣|讀《ヨミ》2天神壽詞《アマツカミノヨゴトヲ》1畢(テ)、忌部(ノ)宿禰|色夫知《シコブチ》奉2上(ル)神璽(ノ)劔鏡(ヲ)於皇后(ニ)1、皇后即(タマフ)2天皇(ノ)位(ニ)1、【これ古(ヘ)の即位の儀式なり、劔鏡を奉(ル)は、即幣帛を取持と同意なり、此(ノ)御鏡は、即此段に太玉(ノ)命の取持たまへる物なる由緒《ヨシ》を以て、忌部これを奉るなりけり、】神祇令に、凡(テ)踐詐(ノ)之日、中臣奏(シ)2天(ツ)神(ノ)之|壽詞《ヨゴトヲ》1、【義解(ニ)曰、以(テ)2神代(ノ)之古事(ヲ)1爲2萬壽(ノ)之寶詞(ト)1也、】忌部上(ツル)2神璽(ノ)之鏡劔(ヲ)1とある是なり、又持統(ノ)卷に、五年十一月戊辰|大嘗《オホニヘ》、神祇(ノ)伯中臣(ノ)朝臣大嶋讀(ム)2天(ツ)神(ノ)壽詞(ヲ)1と見え、踐詐大嘗祭式に、神祇官(ノ)中臣執(リ)2賢木(ヲ)1副(ヘ)v笏(ニ)》、入(リ)v自2南門1就(キ)2版位(ニ)1、跪(テ)奏(シ)2天(ツ)神(ノ)之壽詞(ヲ)1、忌部入(テ)奉(リ)2神璽(ノ)之鏡劔(ヲ)1訖(テ)退(キ)出(ヅ)、【此事江次第にも見えて、近代無(シ)2此事1、長元(ニ)忌部(ノ)爲賀奉仕(ス)之とあり、式の入奉の奉(ノ)字を、今(ノ)本に奏に誤れり、今は江次第を以て改(ム)、】とあり、中臣(ノ)壽辭《ヨゴト》と云物、藤原(ノ)頼長公の台記(ノ)大嘗會(ノ)別記に載《ノレ》り、又神祇令に、諸(ノ)祭(ニ)神祇官(ノ)中臣|宣《ノリ》2祝詞(ヲ)1、忌部|班《アカツ》2幣帛(ヲ)1、【義解(ニ)曰、其(ノ)中臣忌部(ハ)者、當司及(ビ)諸司(ノ)中取2用之(ヲ)1とあり、當司は神祇官なり、】貞觀儀式(ノ)祈年祭に、中臣進(テ)就(キ)2庭(ノ)座(ニ)1讀(ム)2祝詞(ヲ)1、讀訖(テ)退出云々、忌部二人進(テ)夾(テ)v案(ヲ)立(テ)、監(ス)2頒(ツ)v幣(ヲ)事(ヲ)1、【四時祭式も同、】月次祭(ノ)祝詞に、云々乎《シカシカヲ》如《ゴト》2海山《ウミヤマノ》1置足成天《オキタラハシテ》、大中臣|太玉串爾隱侍天《フトタマグシニカクリハベリテ》云々|稱申事乎《タタヘマヲスコトヲ》云々、神嘗祭に、九月之神嘗乃大幣帛乎《ナガヅキノカムニヘノオホミテグラヲ》、某官某位某王中臣某官某位某姓名|乎《ヲ》爲《シ》v使(ト)※〔氏/一〕《テ》、忌部(ノ)弱眉|爾《ニ》太襁取(リ)懸、持齋波理《モチユマハリ》令(メ)2捧(ゲ)持(タ)1※〔氏/一〕《テ》進《タテマツリ》給|布《フ》御命乎《オホミコトヲ》申(シ)給(ハ)久止申(ス)、また云々乎《シカシカノモノヲ》如《ゴト》2横山(ノ)1久《ク》置足成天《オキタラハシテ》、大中臣太玉串爾隱(リ)侍(リ)天《テ》云々天津|祝詞乃太祝詞辭乎稱申事乎《ノリトノフトノリトゴトヲタタヘマヲスコトヲ》などあり、祝詞式に、凡(テ)祭祀(ノ)祝詞(ハ)者、御殿《オホトノ》御門《ミカド》等(ノ)祭(ニハ)齋部氏|祝詞《ノリトゴトマヲセ》、以外《ソノホカノ》諸(ノ)祭(ニハ)中臣氏祝詞(マヲセ)とあるは、師(ノ)説に、大殿を守(リ)坐(ス)大宮(ノ)賣(ノ)命、御門を守(リ)坐(ス)豐磐間戸《トヨイハマドノ》命櫛磐間戸(ノ)命、此(ノ)三柱は太玉(ノ)命の子に坐(ス)故に、此二(ノ)祭には齋部氏祝詞申(ス)なりとあり、古語拾遺神武(ノ)段に、天富(ノ)命率(テ)2諸(ノ)齋部(ヲ)1捧(ゲ)2持(チ)天(ツ)璽(ノ)鏡劔(ヲ)1、奉(リ)v安《オキ》2正殿《オホトノニ》1、并《マタ》懸《カケ》2瓊玉《タマヲ》1陳(ネテ)2其(ノ)幣物《ミテグラヲ》1殿《オホトノ》祭(リシ)祝詞(ス)、【其(ノ)祝詞(ノ)文在2於別卷(ニ)1、】次(ニ)祭(ル)2宮門《ミカドヲ》1、【其(ノ)祝詞亦在2於別卷(ニ)1、】

。天手力男《アメノタヂカラヲノ》神、名(ノ)義次に云べし、萬葉三【四十五丁】に、石戸破手力毛欲得《イハトワルタヂカラモガモ》、十七【二十四丁】に、波流能波奈《ハルノハナ》云々|乎里底加射佐武多治可良毛我母《ヲリテカザサムタヂカラモガモ》、なほ此神の事、末【傳十五】に出たり、

〇隱立は、加久理多知弖《カクリタチテ》と訓(ム)ぞ古言なる、書紀推古(ノ)卷(ノ)歌に、※〔言+可〕句理摩須《カクリマス》とあり、沼河比賣《ヌナカハヒメノ》歌に、比賀迦久良婆《ヒガカクラバ》とよめり、猶其處にいふべし、

〇天宇受賣《アメノウズメノ》命、名(ノ)義古語拾遺に、天(ノ)鈿女《オズメノ》命古語|天乃於須女《アメノオズメ》、其神|強悍猛固《コハクタケシ》、故(レ)以(テ)爲v名(ト)、今(ノ)俗|強女《コハキヲミナヲ》謂(フハ)2之|於須志《オズシト》1此(ノ)縁也《ヨシナリ》、【此註を思(フ)に、此(ノ)書の傳(ヘ)には淤受賣《オズメ》とありしを、鈿女と書る文字は、書紀に依れるなり、】延喜七年(ニ)進(ル)大神宮禰宜譜圖帳に此段の事を云るにも、天の於須女とあり、源氏物語【帚木】に、例《レイ》の腹立《ハラダチ》怨《エム》ずるにかくおぞましくは、いみしき契《チギリ》深くとも、絶て又見じ、【河海抄に、形遠《オゾマシ》文選と有(リ)、】又【夕霧】人間《ヒトギキ》もうたておずましかべきわざを、又【東屋】物づつみせず疾《ハヤ》りかにおぞき人にて、又【浮舟】浮舟(ノ)君の川に身をなげむと思ひよれることを云る處に、すこしおずかるべきことを思(ヒ)よるなりけむかしなどある、皆|婦人《ヲミナ》のことを云て、右の意なり、【和名抄に、護田鳥(ハ)於須賣止里《オズメドリ》、常(ニ)在(リ)2澤中(ニ)1、見(レバ)v人(ヲ)輙(チ)鳴(ク)、有v似(タルコト)v主2守(ルニ)宮(ヲ)1、故(レ)以名v之とあるは、此神(ノ)名より出たる名なるべし、】今(ノ)世(ノ)言にも、於曾伊《オゾイ》又|於受伊《オズイ》と云ことあり、【又いやしき言に、延受伊《エズイ》といふことあるも、是(レ)より轉れるなるべし、】さて此神の強固《コハキ》ことは、此次又猿田毘古(ノ)神の段に見ゆ、書紀には、素戔嗚(ノ)尊扇v天扇v國上2詣于天1時(ニ)、天(ノ)鈿女見之而告2言於日(ノ)神(ニ)1也と云ことも見ゆ、

〇日影《ヒカゲ》、書紀に蘿と作《カキ》て、此(ヲ)云2比軻礙《ヒカゲト》1とあり、拾遺には蘿葛(ハ)者|比可氣《ヒカゲ》とあり、齋宮式供(ル)2新嘗(ニ)1料物に、日蔭《ヒカゲ》二荷とも、日影葛《ヒカゲカヅラ》二荷とも見ゆ、さて和名抄祭祀(ノ)具に、蘿蔓(ハ)比加介加都良《ヒカゲカヅラ》、又苔類に、蘿(ハ)比加介《ヒカゲ》、女蘿也、松蘿(ハ)一名女蘿|萬豆乃古介《マツノコケ》、一云|佐流乎加世《サルヲカセ》、【纂疏にも、蘿(ハ)謂(フ)2垂苔《サガリゴケヲ》1也、俗(ニ)謂2日蔭葛(ト)1とあり、】古今集(ノ)物(ノ)名に、さがりごけとある是なり、女蘿は、松(ノ)枝に生て甚《イト》長く、色青く帶の如くなる物と、漢籍《カラブミ》どもに見えたれば、佐賀理苔《サガリゴケ》てふ名も、松(ノ)上より懸《サガ》るよしなり、【或説に、地に延《ハヒ》つゞく物なりと云は非なり、】此物奥山ならでは生《オヒ》ず、又|乾《ホシ》ても色青くて枯《カレ》ずとぞ、【堀川百首に顯仲(ノ)朝臣(ノ)歌に、露かゝらねどかるゝよもなしとよめるも此(ノ)由にこそ、】萬葉十八新嘗會(ノ)宴に、足日木乃夜麻之多日影可豆良家流宇倍爾也左良爾梅乎之奴波牟《アシヒキノヤマシタヒカゲカヅラケルウヘニヤサラニウメヲシヌバム》とあり、又十四に、夜麻可都良加氣麻之波爾母衣可多伎可氣乎《ヤマカヅラカゲマシバニモエガタキカゲヲ》、これに加気《カゲ》とよめるも蘿《ヒカゲ》なり、【二に、山蘰影爾所見乍《ヤマカヅラカゲエミエツツ》とあるも、山蘰を枕言として、影は蘿《ヒカゲ》の意につゞけたること、この十四の歌にて知べし、今(ノ)本には、山(ノ)字を玉に誤れり、十三に、雲聚山蔭《ウズノヤマカゲ》とよめるも、鈿《ウズ》に垂《タレ》たる蘿《ヒカゲ》なり、此(ノ)山(ノ)字をも玉に誤れり、此(ノ)外にも山を玉に誤れる例なほ多し、】

〇手次繋は、多須伎爾加氣《タスキニカケ》と訓べし、書紀には、手繦と書て此(ヲ)云2多須枳《タスキト》1とあり、【繦(ノ)字は多須伎にあたらず、其故はまづ古(ヘ)の手次《タスキ》も、今(ノ)世に賤人のかくると全く同(ジ)物にて、書紀允恭(ノ)卷|盟神探湯《クカタチ》の處にも、諸人各|着《カケテ》2木綿手繦《ユフダスキヲ》1而赴v釜(ニ)探湯《クカタチス》などあり、然(ル)に繦は負(フ)v兒(ヲ)衣と見えて、多須伎の意なし、字鏡に、繦(ハ)負v兒(ヲ)帶也|須支《スキ》、また繦(ハ)束2小兒(ヲ)背(ニ)1帶(ナリ)須支《スキ》とあり、是(レ)に依て思(フ)に、兒を負(フ)帶を須支と云を本にて、袖をかゝぐる帶をも、手よりかくる物なれば、手須伎《タスキ》とは云なるべし、故(レ)書紀には手(ノ)字を添(ヘ)て、多須伎に此字を用られつらむ、】和名抄に、本朝式(ニ)云、襷※〔衣+畢〕各一條、襷(ハ)多須岐《タスキ》、※〔衣+畢〕(ハ)知波夜《チハヤト》、今按(ニ)未(ダ)v詳と見ゆ、【襷は袖を擧《アグ》る由の倭字なるべし、】萬葉には此《ココ》と同く手次《タスキ》とのみ書(ケ)り、次(ノ)字を書(ク)は、次《ツギ》を古言に須伎《スキ》とも云(ヘ)ればなり、【天武紀に、次此(ヲ)云2須岐(ト)1と見え、中音の物語などにも、すぎ/\などあまた見ゆ、】さて此《ココ》に手次《タスキ》に蘿《ヒカゲ》を用(ヒ)たりしこと、書紀も古語拾遺も皆同じことなり、かくて後(ノ)世まで、神事は全《モハラ》此段の故事に因て、萬(ヅ)を用らるゝことなるに、後には日蔭手次《ヒカゲノタスキ》といふことは、凡て物に見えず、手次にはたゞ木綿《ユフ》を用らる、【木綿手次《ユフダスキ》は、かの允恭(ノ)卷に始て見えて、後(ノ)世は常のことなり、〇口決にいへる木綿手次の説ひがことなり、】日蔭は便《タヨリ》あしき故にや、又日蔭にて爲《ス》るをも、古(ヘ)は木綿手次《ユフダスキ》と呼《イヒ》しにや、疑はし、【上に云る如く、穀と麻と二種を兼ても、木綿《ユフ》と云る例もあれば、由布《ユフ》はもと神事の物の惣名にてもあらむかし、】

〇眞拆《マサキ》、【これにのみ天之香山之といはぬは、たゞ文を略けるのみなり、是も同く彼山のなることしるし、】古語拾遺には眞辟葛《マサキヅラ》と書り、【書紀に、以2眞坂樹(ヲ)1爲v鬘(ト)とあるは、もとよりさる傳(ヘ)にても有べけれど、坂樹を鬘にせむこといかにぞやおぼゆ、是《コ》は名の似たるよりまぎれつるなるべし、凡て鬘とは長く垂《タル》る物を云て、挿頭《カザシ》鈿《ウズ》などとはいさゝか別《ワキ》あり、それに付て、この坂樹を助けむとて、種々説あれど、みな強言なり、】書紀繼體(ノ)卷(ノ)歌に、磨左棄逗※〔口+羅〕《マサキヅラ》とあり、此物のことは、師の冠辭考に委く見えたり、古今集採物(ノ)歌に、みやまには霰降らし外山なる眞拆《マサキ》の葛《カヅラ》色付にけり、さて此(ノ)段に如此《カク》、鬘《カヅラ》には眞拆《マサキ》を用ひ、蘿《ヒカゲ》をば手次《タスキ》にしたりとあれども、後には萬葉延喜式其(ノ)餘《ホカ》の書にも、もはら日蔭鬘《ヒカゲノカヅラ》のみ有て、却《カヘリ》て眞拆鬘《マサキノカヅラ》と云ことは見えざるは疑はし、【歌などにまさきのかづらとよめるは、蔓草《ツルクサ》なるゆゑなり、頭に垂《タ》るゝ蘰《カヅラ》を云にあらず、】故(レ)今考(ル)に、造酒式大嘗祭供神料(ノ)物(ノ)中に、眞前葛《マサキカヅラ》日蔭《ヒカゲ》山孫組《ヤマビコグミ》各三擔と見えたるに、【山孫組《ヤマビコグミ》も名の樣を思(フ)に、松蘿の類にて、此(レ)も鬘にせし物と見ゆ、或説に、佐流乎加世《サルヲカセ》は日蔭とは別にて、此物のことなり、故に和名抄にも別に擧たりと云は誤なり、佐流乎加世ほ即(チ)日蔭のことにて、山孫組は別に一種なり、和名抄に蘿を比加介《ヒカゲ》、松蘿を佐流乎加世と別に擧たるは、松蘿の訓は世間に呼名《イフナ》、蘿の訓は私記に依て別物と心得たるなり、されど蘿(ハ)女蘿也と云て、松蘿(ハ)一名女蘿と云(ヘ)れば、一物たること明けし、】大嘗祭にはたゞ日蔭(ノ)鬘とのみ見えて、餘の二物の鬘は見えず、又和名抄(ノ)祭祀(ノ)具にも、たゞ蘿鬘《ヒカゲカヅラ》のみ出せるは、彼(ノ)三(ツノ)物共に、鬘に爲《シ》てはみな日蔭(ノ)鬘と呼《イヒ》しなるべし、かゝれば眞拆《マサキ》も鬘に用ひざるには非ず、伊勢外宮(ノ)儀式帳にも、眞佐支乃鬘《マサキノカヅラ》をすること、二處に見え、古今集採物(ノ)歌に、卷向《マキムク》の穴師《アナジ》の山の山人と人も見るがに山鬘《ヤマカヅラ》せよ、此(レ)を奥義抄に、神樂するには、眞前《マサキ》の葛《カヅラ》にて頭を結《ユフ》なり、それを山鬘とは云と註せり、【江次第鎭魂祭の處に、上宣鬘木綿給(ヘ)、丞獻(ス)2上卿(ニ)1、上卿取(テ)v之(ヲ)結(フ)2冠(ノ)頭(ニ)1云々、史生分(ツ)2諸司(ニ)1とあり、奥義抄には眞前とあるを、此(レ)には木綿とあるは、眞前をも木綿をも用るか、又は眞前を用(ヒ)ても、例の木綿と呼《イフ》か、】又師(ノ)説には、此記も書紀も、もとは眞拆《マサキ》を手次《タスキ》とし、日影を鬘《カヅラ》としてとありけるを、後に誤(リ)て、右の如く日影を手次に、眞拆を鬘にとは書るなり、眞拆は長く強《ツヨ》き物なれば、手次とすべく、日影は弱《ヨワ》き物なれば、手次には堪《タフ》べからずとあり、此説まことにさることなり、但し眞拆の手次といふこと、凡て古書に見えたることなければ、此《コ》はなほ疑はし、【これはた眞拆の手次をも、例の木綿手次《ユフダスキ》と呼《イヒ》しにや、】日影を鬘とせしことは、あまねく古書に見えたれば、疑ひなし、さて近代は、白糸又は青糸を組《クミ》て、冠の左右に垂《タルル》を日蔭(ノ)鬘と云は、彼(ノ)物共《モノドモ》に代《カヘ》用らるゝなり、さて此(ノ)名(ノ)義は、天皇の大殿を稱《タタヘ》て、天之御蔭日之御蔭《アメノミカゲヒノミカゲ》と隱坐《カクリマシ》ますと申す【こは天を蔽《オホ》ひ隔《ヘダ》て、日の光を蔽ひ隔つる蔭といふ意なり、】如く、此(ノ)鬘を頭より垂るゝも、本は日(ノ)光のまばゆきを翳隔《サシヘダ》つる料《レウ》なる故に、日蔭とはいふなり、其由は下にいへり、【師(ノ)説に、蘿は繁木が中にある古木の、日も風もあたらぬ枝に生るゆゑに、山下日影といふとあるはいかゞ、】されば此(レ)は本(ト)眞前《マサキ》にまれ松蘿にまれ、鬘にしたる時の名なるが、後に松蘿一種の名にもなれるなり、【凡て惣名なるが、其中の一種の名にもなれる例多し、】

〇小竹葉は佐々婆《ササバ》と訓べし、下卷輕(ノ)太子の御歌に見ゆ、萬葉十四【九丁】にも佐左葉《ササバ》とよみ、今(ノ)世にも然云り、さて萬葉集に、佐々那美《ササナミ》【下の佐を濁るは誤なり、】といふに神樂聲浪《ササナミ》と書る、【略て神樂浪とも樂浪ともかけり、和名抄に但馬(ノ)國氣多(ノ)郡(ノ)郷名に、樂前と書て佐々乃久萬《ササノクマ》とよめるもあり、】は此《ココ》の故事に因て、神樂には小竹葉《ササバ》を用ひ、其《ソ》を打振音《ウチフルオト》の、佐阿佐阿《サアサア》と鳴《ナル》に就《ツキ》て、人|等《ドモ》も同(ジ)く音《コヱ》を和《アハ》せて、佐阿佐阿《サアサア》と云ける故なるべし、【猿樂の謠物に、さつ/\の聲ぞ樂むと云も、松風の颯颯と云音より、是(レ)に云(ヒ)かけたるなり、】又竹(ノ)葉の名を佐々《ササ》と負《オヘ》るも、此(ノ)音よりぞ出つらむ、【細小《ササ》の意以て名づけしには非ず、小竹と書る小(ノ)字は、幹《カラ》の小《チヒサ》きを云るにて別なり、】神樂歌(ノ)古本|殖槻《ウヱツキ》總角《アゲマキ》大宮湊田などの處に、本方安以佐々々々、末方安以佐々々々と云ことあり、是《コ》は佐々佐々《ササササ》と唱(ヘ)たるか、又は佐阿佐阿《サアサア》を如此《カク》書るか、何《イヅレ》にまれかの小竹葉《ササバ》の音に和《アハ》せたる聲より出《イデ》つることなるべし、古語拾遺には、以(テ)2竹(ノ)葉|飫※〔甜/心〕木葉《オケノキノハヲ》1爲《シ》2手草(ト)1【今|多久佐《タグサ》】とありて、飫※〔甜/心〕《オケハ》振《フル》2其(ノ)葉(ヲ)1之調也と云り、【此(ノ)飫※〔甜/心〕のこといと疑はし、まづ神樂歌(ノ)古本に、於介《オケ》と唱ることは處々に見えたれば、此(ノ)言は古(ヘノ)傳(ヘ)なるべし、然れどもこれを木(ノ)名とせるは心得ず、さる木は古(ヘ)も今もいまだ聞ず、或説に賢木なりとも、檜なりともいへど、みなおしはかりの妄説にて、其證なし、又木(ノ)葉を振(ル)音の、オケと鳴(ル)べき謂《イハレ》なし、されば此(レ)を木(ノ)名とするは、かの小竹葉《ササバ》の音の佐々よりまぎれつるひがことなるべし、凡て同(ジ)處に云る阿波禮《アハレ》於茂志呂《《オモシロ》多能志《タノシ》などの説も、みな古言の意に非ず、やゝ後(ノ)人の附會なるを、辨へずして記せるものなり、故(レ)思(フ)に於介《オケ》とは、次に見えたる※〔さんずい+于〕気《ウケ》のことを、神樂にかく唱へしを、木(ノ)名と誤れるなるべし、佐夜憩《サヤケ》を竹葉之聲也と云るは、さや/\と鳴(ル)聲より出たる言なれば、さもあるべし、】

手草結は多倶佐爾由比而《タグサニユヒテ》と訓べし、【拾遺に、手草今(ノ)多久佐とある、今(ノ)字は心得ず、】結《ユフ》とは數枝《アマタエダ》を合せて、本を結束《ユヒツカ》ぬるなり、さて持《モツ》と云(ハ)ねど、手草てふ名にて、持《モテ》りとは自《オ》ら聞ゆ、かゝる所古文なり、心を着べし、採物(ノ)歌に、水垣の神の御代より小竹《ササ》の葉をたぶさに執て遊《アソビ》けらしも、【手草を多夫佐《タブサ》と謠ひ誤れるなるべし、】

〇於《ニ》2天之石屋戸《アメノイハヤド》1、この前《マヘ》の種々の事も、皆この石屋戸にてする事なるに、此《ココ》に姶(メ)てかく云るは、前《マヘ》の事共《コトドモ》は神たちの身に付《ツキ》て爲《スル》態《ワザ》、この※〔さんずい+于〕氣《ウケ》は正《マサ》しく其(ノ)處に設(ケ)置(ク)物なれば、此《ココ》に至て其(ノ)處をば云べき勢(ヒ)なり、さて此《ココ》に云るが、自《オ》ら前へも後へもわたりて聞ゆるは、又古文なり、【後(ノ)世の文ならばまづ始(メ)に云おくべきものをや】

〇伏※〔さんずい+于〕氣而は宇氣布勢而《ウケフセテ》と訓べし、書紀には覆槽置《ウケフセテ》と書て、覆槽此(ヲ)云2于該《ウケト》1とあり、【此(ノ)書《カキ》ざまは、置(ノ)字が伏《フセ》と云にあたれり、覆(ノ)字は※〔さんずい+于〕氣《ウケ》の形を云る字なり、思(ヒ)まどふことなかれ、又類聚國史には、此(ヲ)云2于該布西《ウケフセト》1とあり、】是《コ》は此(ノ)物の上(ヘ)に立(チ)て舞《マフ》に、踏《フミ》て響《ヒビキ》あらせむ爲《タメ》に、【蹈《フミ》とゞろこしと云にてしるべし、】中を空虚《ウツラ》に設《マウケ》たる臺《ダイ》にて、形状《カタチ》の笥《ケ》の如くなる故に、名(ノ)義は空笥《ウツケ》なり、【或人、今|東《アヅマ》にて、物に水を湛《タタヘ》て、其(ノ)上に麻笥をうつぶせてたゝけば、鼓のごと鳴(ル)、これを宇氣《ウケ》と云と云り、此(レ)に依らば浮《ウケ》の意とも云べけれど、此《ココ》なるは上《ウヘ》に立(チ)て舞つるなれば、水に浮《ウケ》たるべくもあらず、彼《カレ》は響(キ)鳴(ル)ことの此(レ)に似たるより、同く宇氣とは云ならむ、又書紀に覆槽とかゝれたるに付て、以(テ)2馬槽(ヲ)1覆v之(ヲ)と註せられたるは誤なり、こゝは馬槽《ウマブネ》にまれ酒槽《サカブネ》にまれ、假(リ)て覆《フセ》用たるには非ず、本より別に設(ケ)たる一(ツ)の器なり、されど正しく填《アツ》べき漢字のなき故に、その形状によりて、覆槽とは書るぞかし、後の書に宇氣槽《ウケフネ》と云るも、槽《フネ》に似たる故に然云(ヒ)なせるものなり、然るを古語拾遺に、覆誓槽と書て、古語宇氣布禰とあるは、後につけたる名を古語と意得たるなり、誓(ノ)字を加(ヘ)て約誓之意と云るも、甚《イタク》誤なり、又書紀(ノ)纂疏(ノ)本に、于該布禰とあるも、布禰は此(ノ)拾遺に依て、さかしらに加(ヘ)られたるひがことと見ゆ、】さて此物、後世鎭魂祭(ノ)儀に遺《ノコ》れり、【鎭魂に此段の儀を用らるゝは、日神のこもり坐るを招《ヲキ》まつりしこゝろばへを以て、遊散する魂を招《ヲ》きしづむるなるべし、】貞觀儀式に、大藏(ノ)録以2安藝(ノ)木綿二枚(ヲ)1實《イレ》2於筥(ノ)中(ニ)1進(テ)置(ク)2伯(ノ)前(ニ)1、御巫《ミカムノコ》覆《フセ》2宇氣槽《ウケフネヲ》1立(テ)2其(ノ)上(ニ)1、以v桙(ヲ)撞《ツク》v槽《フネヲ》、毎(ニ)2一度畢(ル)1伯結(ヒ)2木綿(ヲ)1訖(リ)、御巫舞訖(ル)、次(ニ)諸(ノ)御巫猿女舞畢、江次第に、次(ニ)御巫衝(ク)2宇氣《ウケヲ》1、【衝(クハ)2宇氣(ヲ)1神遊《カミアソビノ》儀也、以2賢木(ヲ)1衝(クナリ)2槽(ノ)上(ヲ)1也、結(ヒ)v糸(ヲ)自v一至(ル)v十(ニ)云々、】四時祭式(ノ)彼(ノ)祭(ノ)料(ノ)物に、宇氣槽一隻とあり、

〇登抒呂許志《トドロコシ》は令《シメ》2動響《トドロカ》1なり、【加志《カシ》と云べきを許志《コシ》と云るは、所知看《シラシメシ》所聞看《キカシメシ》を、シロシメシキコシメシといふと同くて古言なり、】萬葉六【四十三丁】に、山裳動響爾《ヤマモトドロニ》、又【二十丁】宮動々爾《ミヤモトドロニ》、十一【二十八丁】に、馬音之跡抒登毛爲者《ウマノオトノトドトモスレバ》、又【三十四丁】瀧毛響動二《タギモトドロニ》、十四【十丁】に、伊波毛等抒呂爾於都流美豆《イハモトドロニオツルミヅ》、古今集に、天の原ふみとゞろかし鳴神も云々、源氏夕※〔貌の旁〕卷に、こほ/\と鳴神よりもおどろ/\しくふみとゞろかすからうすのおとも云々、などあり、書紀には鼓《トドロキ》とも見ゆ、【迹驚《トドロキノ》岡などあるは借字なり、】こゝは※〔さんずい+于〕氣《ウケ》を蹈《フミ》て響鳴《ヒビキナラ》しむるを云り、【後(ノ)世に神事に大鼓をうつは、此(ノ)音のまねびにやあらむ、】

〇爲《シ》2神懸《カムガカリ》1而《テ》、書紀には顯神明之憑談、此(ヲ)云2歌牟鵝可梨《カムガカリト》1とあり、又崇神(ノ)卷に、神2明憑《カミカカリテ》倭迹々日百襲姫《ヤマトトトビモモソビメノ》命(ニ)1曰《ノリタマハク》云々、顯宗(ノ)卷に、月(ノ)神|着《カカリテ》v人(ニ)謂之曰《ノリタマハク》云々、天武(ノ)卷に、高市(ノ)縣主|許梅《コメ》※〔修の彡が黒〕忽口閇而不能言《ニハカニクチツグヒテエモノイハズ》也、三日之後方着神以言《ミカアリテノチニカムガカリシテノタマハク》云々、言訖則醒矣《ノタマヒヲヘツレバサメキ》などあり、又此記※〔言+可〕志比(ノ)宮(ノ)段に、於是大后《ココニオホギサキ》歸神言教覺詔者云々とあるも同じ、皆|俗《ヨ》に所謂《イハユル》託宣なり、但(シ)此(レ)らは正《タダ》しく某々《ソレソレ》の神の有(ル)べき事を告覺《ツゲサト》し給(フ)なるを、今此(ノ)段の神懸《カムガカリ》は、物の着《ツキ》て正心《マゴコロ》を失《ウシナ》へる状《サマ》に、えも云(ハ)ぬ※〔奇+りっとう〕戯言《タハレゴト》を云て、俳優《ワザヲキ》をなすを云なり、【正心《マゴコロ》にては其人の得《エ》言《イフ》まじきことを、つゝまず言(フ)を、神懸(リ)とは云なり、今俗に着物《ツキモノ》のしたる如くくちばしるといふ状《アリサマ》なり、】次(ノ)文と合(セ)て其意を曉《サトル》べし、【古語拾遺には此語なくて、たゞ巧作俳優相與歌舞《ワザヲキシテトモニウタヒマフ》とのみあるは、神懸(リ)も俳優の中《ウチ》なる故なり、書紀に巧作俳優亦云々、縣神明憑談とあるは、俳優と別にしたる書ざまなり、されど手(ニ)持(チ)2茅纏(ノ)之※〔矛+肖〕(ヲ)1と云ると、眞坂樹(ヲ)爲v鬘(ト)以v蘿(ヲ)爲《シ》2手繦(ト)1と云るとは、たゞ一連《ヒトツヅキ》の事と聞えたれば、實は別事に非ること明けし、然れば別事のごとくあるは、書《カキ》ざまのあしきなり、拾遺はこれを意得てかけるものなり、學者よく味ひみよかし、】諸註の説皆此段の意にかなはず、【口決には稱辭《タタヘゴト》申(ス)也といひ、纂疏には讃2談(スル)日神之至徳(ヲ)1也といひ、或は日神の出坐むことを祈る言なりといひ、或は八百萬(ノ)神の靈こと/”\く憑るなりなど云る、みなひがことなり、もしこれらの説の如くは兒屋(ノ)命の祝辭《ノリトゴト》にこそ申したまふべけれ、又八百萬(ノ)神は現《ウツツ》に其庭に集《ツド》へるものを、いかでか他《ヒト》に憑(ル)ことあらむ、】只私記に、此(ノ)神明之憑談《カムガカリハ》與《ト》2他處《コトトコロ》1爲《ス》2少(シク)異(ナリト)1也、諸(ノ)神欲(スル)2令日(ノ)神(ヲシテ)深|見《レムト》1v奇《アヤシマ》物(ナル)故(ニ)、俳優萬態云々、然(ル)則《トキハ》是(レ)假(リニ)爲(ス)2之(ノ)言(ヲ)1、未(ダ)3必(シモ)有(ラ)2神(ノ)所1v託《ツク》也、と云るぞよろしき、【たゞ易々《ヤスヤス》と輕く見るべきことも、重くこちたく説《トキ》なすは、後世漢意にへつらふ識者の病なり、凡て此(ノ)宇受賣(ノ)命の事態《シワザ》は、前後みな俳優なることをなど思はぬぞ、】

〇而(ノ)字、上の神集々而とあるより是まで、合(セ)て二十あり、其中に、某《ナニ》を|云々而後某《シカシカシテノチニナニ》を云々すといふには非《アラ》で、たゞ種々事《クサグサノコト》を並(ベ)擧《ア》ぐとて云(ヘ)る辭なる多し、古文の格なり、【前の宇氣比の段にもいへり、】

〇右の種々の事の外に、書紀には、持(ツ)2茅纏之※〔矛+肖〕《チマキノホコヲ》1こと、火處燒《ホドコロタク》こと、【拾遺には庭火擧《ニハビヲアグ》とあり、】など見え、拾遺には、なほ種々(ノ)物を造(リ)備(ヘ)しことも見えたり、神樂(ノ)取(リ)物にも種々あり、凡そ後世神事にあることは、大※〔氏/一〕《オホムネ》此時の神遊《カミアソビ》の事態《ワザ》の遺《ノコ》れるなれば、なほさま/”\の事は有けむを、此記にも書紀にも、多く略てぞ傳(ハ)りつらむ、

〇胸乳《ムナヂ》とは、上(ツ)代にたゞ知《チ》とのみ云(フ)は、人(ノ)身に在(ル)乳《チ》に限(ラ)ず、他《ホカ》の物にも多く有(ル)を惣(ベ)て云(フ)名にて、【今(ノ)世にも幕などには此名遺れり、】胸と云(ハ)ざれば混《マギレ》し故にやあらむ、

〇掛出は加伎伊傳《カキイデ》と訓べし、加伎《カキ》は掻(ノ)字を書(ク)と同(ク)て、凡て手してするわざに附(ケ)云(フ)辭なり、さて古(ヘ)は掛《カケ》を加伎《カキ》とも云りと見ゆ、故(レ)此(ノ)字を借て書るなり、明《アキラノ》宮(ノ)段に、掛2出《カキイデ》其(ノ)骨《カバネヲ》1とあるも同じ、又萬葉九【三十六丁】に、懸佩之小劔取佩《カキハキノヲダチトリハキ》、これもカキと訓べきなり、さて此(ノ)出《イデ》は、伊陀志《イダシ》と訓べき理(リ)【伊傳《イデ》は自《ミ》出(ヅ)るなり、伊陀志《イダシ》は物を出《イダ》すなり、】なれども、伊傳《イデ》と云(ヒ)ならへり、書紀武烈(ノ)卷(ノ)歌にも、阿娑理豆那《アサリヅナ》とよめり、【此(レ)も求《アサ》り出《イダ》すなと云意なり、】その外中古の雅語《ミヤビゴト》にもみなかく云り、さて乳《チ》は婦人《ヲミナ》の人に見《ミ》らるゝことを恥《ハヂ》て、いたく隱《カク》す物なるを、【今(ノ)世にも、婦人《ヲミナ》の乳を人に見することを、深く恥る國あるなり、】故《コトサラ》に掻(キ)出して見するは、正心《マゴコロ》を失(ヒ)て、物に狂ふ状をなすなり、【これ即(チ)神懸(リ)の状なり、】

〇裳緒は毛比毛《モヒモ》と訓べし、【書紀の訓に依れり、】裳《モ》を結《ユヘ》る紐《ヒモ》なり、

〇忍《オシ》は、輕《カロ》く附(ケ)云(フ)辭には非ず、抑《オサ》へ下《クダ》すなり、此(ノ)態《ワザ》も乳を出すと同(ジ)意《ココロ》ばへなり、さて書紀にも拾遺にも、此《ココ》には此(ノ)事どもは見えず、たゞ巧(ニ)作2俳優1とのみ有て、猿田毘古(ノ)神の段になむ、天(ノ)鈿女乃露(シ)2其(ノ)胸乳(ヲ)1抑《オシタレテ》2裳帶《モヒモヲ》於臍(ノ)下(ニ)1而|笑※〔口+據の旁〕向立《アザワラヒテムキタツ》とは見えたる、【抑(ノ)字を、拾遺には押下と作《カケ》り、】かくて此記には、又|彼所《カシコ》には此事なし、傳(ヘ)の異なるなり、凡て此(ノ)神の、人に恥《ハヂ》ずてかゝる態《ワザ》どもを爲《ナセ》るぞ、宇受賣《ウズメ》の名に負《オヘ》る強悍《コハキ》にありける、沙石集と云物に、和泉式部が、貴布禰(ノ)社に祈ごとしけることを云る所に云(ク)、年たけたるみこ、赤幣たて並(ベ)たるめぐりを、さま/”\に作法《サハフ》して、鼓《ツゾミ》をうち前《マヘ》をかき上《アゲ》て、たゝきて三返めぐりて、是體《コレテイ》にせさせ賜へと云に、和泉式部|面《オモチ》うち赤《アカ》めて云々、千早振神の見(ル)目も恥《ハヅ》かしや身を思(フ)とて身をや捨《スツ》べき、此(ノ)巫がせし態《ワザ》、こゝの態の遺れるなるべし、

〇動而は由須理弖《ユスリテ》と訓べきか、萬葉七【二十二丁】に、大海之磯本由須埋立波之《オホウミノイソモトユスリタツナミノ》とあると、同卷【十八丁】に、大海之水底豐三立浪之《オホウミノミナソコトヨミタツナミノ》とあると、全《モハラ》同意に聞ゆ、かくて此(ノ)動(ノ)字、登余美《トヨミ》と訓《ヨメ》ば、由須理《ユスリ》と訓(マ)むも何事か有む、又物語|書《プミ》などに、世(ノ)中ゆすりてなどと多く云り、其《ソ》は擧《コゾリ》てと云意に聞ゆるを、此《ココ》も其意を帶《オビ》て聞ゆればなり、おちくぼの物語に、物見る人々にゆすりてわらはるとあるは、全《モハラ》此《ココ》と同じ、【又|登余美弖《トヨミテ》と訓(マ)むも惡《アシ》からず、】

〇咲(ノ)字、此《ココ》は宇受賣(ノ)命の俳優を觀《ミ》て、をかしさに笑《ワラフ》なれば、和良布《ワラフ》と訓べし、【惠良具《ヱラグ》と訓(ム)はわろし、】其由は次の歡喜咲樂とある處に斷《コトワ》れり、【拾遺に、相與(ニ)歌(ヒ)舞(フ)と云ひ、又群神何(ニ)由(テ)如此《カク》歌樂、と云るを以見れば、此《ココ》も咲(ノ)字は書つれども、歌(ヒ)舞(ヒ)などする意にて、惠良具と訓べきに似たれど、此《ココ》の文のさまは然には非ずかし、】

 

於是天照大御神以爲怪《ココニアマテラスオホミカミアヤシトオモホシテ》。細開天石屋戸而《アメノイハヤドヲホソメニヒラキテ》。内告者《ウチヨリノリタマヘルハ》。因吾隱坐而以爲天原自闇《アガコモリマスニヨリテアマノハラオノヅカラクラク》。亦葦原中國皆闇矣《アシハラノナカツクニモミナクラケムトオモフヲ》。何由以天宇受賣者爲樂《ナドテアメノウズメハアソビシ》。亦八百萬神諸咲《マタヤホヨロヅノカミモロモロワラフゾトノリタマヒキ》。爾天宇受賣白言益汝命而貴神坐故歡喜咲樂《スナハチアメノウズメナガミコトニマサリテタフトキカミイマスガユヱニヱラギアソブトマヲシキ》。如此言之間《カクマヲスアヒダニ》。天兒屋命布刀玉命指出其鏡《アメノコヤネノミコトフトダマノミコトカノカガミヲサシイデテ》。示奉天照大御神之時《アマテラスオホミカミニミセマツルトキニ》。天照大御神逾思奇而《アマテラスオホミカミイヨヨアヤシトオモホシテ》。稍自戸出而臨坐之時《ヤヤトヨリイデテノゾミマストキニ》。其所隱立之天手力男神取其御手引出《カノカクリタテルアメノタヂカラヲノカミソノミテヲトリテヒキイダシマツリキ》。即布刀玉命以尻久米【此二字以音】繩控度其御後方《スナハチフトタマノミコトシリクメナハヲソノミシリヘニヒキワタシテ》。自言從此以内不得還入《ココヨリウチニナカヘリイリマシソトマヲシキ》。故天照大御神出坐之時《カレアマテラスオホミカミイデマセルトキニ》。高天原及葦原中國自得照明《タカマノハラモアシハラノナカツクニモオノヅカラテリアカリキ》。
細開、は本曾米爾比良伎弖《ホソメニヒラキテ》と訓べし、書紀の訓も然り、此(ノ)米《メ》は、所見《ミユ》の切《ツヅマ》りたる辭なり、【拾遺集物(ノ)名に、つばくらめを隱(シ)て、難波津は闇目《クラメ》にのみぞ云々とよめる目《メ》も是に同じ、】

〇内告、此《コノ》上に自(ノ)字必(ズ)有(ル)べきことなり、而(ノ)字其(ノ)誤(リ)か、はた其(ノ)下に有(リ)しが脱《オチ》たるかなるべし、下沼河比賣(ノ)段に、未開戸自内歌曰《イマダトヲヒラカズテウチヨリウタヒケラク》とあるに似たる文なり、内與理能理腸閉留波《ウチヨリノリタマヘルハ》と訓べし、

〇自闇《オノヅカラクラク》、この自《オノヅカラ》は、上の自我勝云《オノヅカラアレカチヌトイヒテ》とある自に同じ、其(ノ)意|彼《カシコ》に云り、下に自得照明とある自も是なり、

〇皆闇は美都久良祁牟《ミナクラケム》と訓べし、古言なり、此(ノ)祁牟《ケム》は加良牟《カラム》と云に同じ、【例は古き歌にいと多し、】

〇以爲は淤母布乎《オモフヲ》と訓べし、此(ノ)乎《ヲ》は爾《ニ》と云むが如し、下なる矣(ノ)字、即(チ)此(ノ)乎《ヲ》てふ辭に當れり、

〇何由以(ノ)三字を那杼弖《ナドテ》と訓べし、

〇樂は阿曾毘《アソビ》と訓べし、凡て樂は、和名抄に、雅樂寮(ハ)宇多麻比乃豆加佐《ウタマヒノツカサ》と見え、書紀顯宗(ノ)卷に奏樂《ウタマヒキコシメス》などある訓、宜(シ)く聞ゆれども、なほ思(フ)に、阿曾毘《アソビ》と訓(ム)ぞよけむ、後(ノ)世にも此段の樂を即(チ)神遊《カミアソビ》と云り、【古今集に見ゆ、】おちくぼの物語には、樂をあそびがくと重ねても云り、此事なは委曲《ツバラカ》には※〔言+可〕志比《カシヒノ》朝(ノ)段に、猶《ナホ》阿2蘇婆勢《アソバセ》其(ノ)大御琴1とある處にいふべし、【又|阿曾夫《アソブ》てふこと、下(ノ)天若日子の喪(ノ)段にも出て、そこにも云り、さて書紀に※〔口+虐〕樂《ヱラグ》とあるは、鈿女(ノ)命を擧て諸神をかね、拾遺に歌樂とあるは、群神を擧て鈿女(ノ)命をこめたり、此記には宇受賣(ノ)命と諸神とを並べ擧たり、引合せ見るべし、】さて書紀一書に、於是天(ノ)兒屋(ノ)命云々、日(ノ)神聞之曰|頃者《コノゴロ》人|雖《ドモ》2多請《サハニマヲセ》1、未v有2若此言之麗美《カクコトノウルハシキハ》1者也、乃|細2開《ホソメニアケテ》磐戸(ヲ)1而|窺之《ノゾミマス》ともあり、

〇益は麻佐理弖《マサリテ》と訓べし、萬葉に然訓る例多し、持統紀に、築紫(ノ)史益といふ人(ノ)名をも、マサルと訓をつけたり、此《ココ》は勝(ノ)字の意なり、【麻佐留《マサル》は益《マス》を延(ベ)たるにて、本同言なり、故(レ)益(ノ)字を通はして此《ココ》にはかけり、】

〇歡喜咲の三字を惠良岐《ヱラギ》とよみ、樂(ノ)字を阿蘇夫《アソブ》と訓べし、【上の樂《アソビ》は爲《シ》とあれば體言なり、此《ココ》は其《ソ》を用言にいへるにて、意はおなじ、】惠良具《ヱラグ》とは咲榮樂《ヱミサカエタヌシ》むを云、續紀廿六大嘗祭(ノ)豐(ノ)明(リ)の詔に、黒紀白紀能御酒乎《クロキシロキノオホミキヲ》、赤丹乃保仁多末倍惠良伎《アカニソホニタマヘヱラギ》云々、又卅の詔にも、黒紀白紀乃|御酒食倍惠良伎《オホミキタマヘヱラギ》云々と見え、萬葉十九【四十三丁】に、豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云々、千年保伎保伎吉等餘毛之惠良々々爾仕奉乎見之貴佐《チトセホキホギキトヨモシヱラヱラニツカヘマツルヲミルガタフトサ》などあり、書紀に、※〔口+虐〕樂とあるをも訓《ヨミ》、又雄略(ノ)卷に歡喜盈懷《ヱラギマス》ともあり、【今此記に、上なる二(ツ)はたゞ咲(ノ)字のみを書るは、和良布《ワラフ》と訓つ、さて此《ココ》には歡喜(ノ)字を加へたるは、惠良具《ヱラグ》と訓べきなり、上なるは俳優のをかしきを笑ふなり、ゑらぐに非ず、次なるはゑらぐとてもありぬべけれど、なほ咲(ノ)一字なればわらふなり、さてこゝは宇受賣(ノ)命の謀《タバカリ》て申す詞にて、己《オノ》が俳優と諸神の咲《ワラヒ》とを合せて、眞實《マコト》におもしろく樂《タヌシ》みあそぶさまにいひなせるなり、故(レ)歡喜(ノ)二字を加へたり、心をつくべし、】

〇其《カノ》鏡は、即上文の賢木に懸たる八咫鏡《ヤタカガミ》なり、

〇示奉は美世麻都流《ミセマツル》と訓べし、書紀顯宗(ノ)卷孝徳(ノ)卷などに奉《マツル》v示《ミセ》【神武神功仁徳などの卷にも、示(ノ)字を美須《ミス》とよめり、】とあり、さて此《ココ》の示(ノ)字、舊印本に爾と作《カキ》、延佳本には亦と作《カケ》る、皆誤なり、今は一本に依《ヨレ》り、【舊事紀に奉示とあるも、此記の古本に示奉とありしを取て、字を下上に置替(ヘ)たるならむ、】さて此(ノ)御鏡を見せ奉れるからに、日(ノ)神の御光(リ)うつりて、全《モハヲ》等同《ヒトシ》く照《テリ》かゞやくを以て、汝命に勝《マサリ》て貴神とは、即(チ)此(ノ)御鏡を申(シ)なせるものなり、【如此《カク》爲《セ》るはいと淺《アサ》はかなるに似たれども、上(ツ)代の意なり、後(ノ)世のなまざかしき心を以て疑ふことなかれ、さて此(ノ)御鏡は日像(ノ)鏡と申(シ)て、日(ノ)神の御像を模《ウツ》し、又其御光(リ)のうつれるを以て言(フ)なれば、汝命と等《ヒト》しき神とこそ申すべきを、益貴《マサリテタフトキ》と云るは、甚しく云(ヒ)なせるものなり、】かの日蔭蘰《ヒカゲノカヅラ》をしたるも、【上に此(ノ)鬘を頭より垂るゝは、日(ノ)光のまばゆきをさし隔つる料なりと云ること、此《ココ》におもひ合すべし、】鷄を鳴せたるも、皆此(ノ)貴(キ)神坐て世を照したまふこと、日(ノ)神に同きよしを示《シメ》したるものなり、【纂疏の説などひがことなり、】拾遺(ニ)云(ク)、太玉(ノ)命以(テ)2廣(キ)厚(キ)稱詞《タタヘゴトヲ》1啓曰《マヲサク》、吾之所捧寶鏡明麗恰如汝命《アガモタルカガミナガミコトノゴトテリウルハシ》、乞開戸而御覽焉《ミトヒラキテミソナハセトマヲス》云々、書紀(ニ)云(ク)、於是《ココニ》日(ノ)神|方2開《ヒラキテ》磐戸《イハヤドヲ》1而|出焉《イデマシキ》是(ノ)時以(テ)v鏡(ヲ)入《イレシカバ》2其(ノ)石窟《イハヤニ》1者、觸(レテ)v戸(ニ)小瑕《イササカキズツキヌ》、其(ノ)瑕《キズ》於《ニ》v今|猶存《アリ》、此(レ)乃伊勢(ニ)崇秘《イツキマツル》之大神(ナリ)也、

〇逾《イヨヨ》思《オモホシテ》v奇《アヤシト》而とは、此(ノ)御鏡の己命《オノレミコト》と等《ヒトシ》く照(リ)明(ラ)けきを御覽《ミソナハシ》て、實に宇受賣の申せる如く、貴(キ)神|坐《イマ》すことよと、奇《アヤシ》み御思《オモホス》なり、上に以2爲《オモホシ》怪《アヤシト》1とあるを承《ウケ》て、逾《イヨヨ》とは云なり、

○稍《ヤヤ》は、今(ノ)世の言に漸々《ゼンゼン》にと云意なり、

〇臨《ノゾム》は、字鏡に、※〔門/規〕を宇加々不《ウカガフ》又|乃曾无《ノゾム》とある如く、能曾久《ノゾク》と同じ、今思(フ)には能曾牟《ノゾム》と能曾久《ノゾク》とは、意異なるが如くなれど、中務(ガ)家(ノ)集に、池にのぞきたる松に藤かゝれりと云ひ、源氏椎(ガ)本(ノ)卷にも、水にのぞきたる廊《ラウ》に云々、などあり、此らは臨《ノゾム》を能曾久《ノゾク》と云(ヒ)、今は能曾伎坐《ノゾキマス》を臨坐《ノゾミマス》とあれば、相通(ヒ)て本(ト)同言なりけり、但(シ)此《ココ》は自(リ)v戸出而とあれば、物の間などより※〔門/規〕《ノゾク》とは少(シ)異にて、たゞ事の情状《アリサマ》をうかゞひ見る意なり、

〇天(ノ)手力男(ノ)神、この天(ノ)字舊印本には無し、下に二處出たるにも、共に此(ノ)字なければ、無(キ)もあしからず、【師は、立(ノ)字の下なる之(ノ)字を、天の誤ぞと云れき、されど之(ノ)字もあるぞよき、】

〇取《トリテ》2其御手《ソノミテヲ》1、この取(ノ)字を舊《フル》く多麻波理《タマハリ》と訓り、書紀には奉承と書る、其《ソレ》をも然訓り、されど此(ノ)訓は後(ノ)世の語《コトバ》つきなれば、なほ字の隨《ママ》に登理弖《トリテ》と訓べし、

〇引出《ヒキイダシマツル》、書紀に引而奉v出と書り、又一書には、天(ノ)手力雄(ノ)神|侍《サモラヒテ》2磐戸側《イハヤドノワキニ》1則|引開之者《ヒキアケシカバ》云々【拾遺にもかくあり】とあり、此《ココ》にて此《ノ》神の名(ノ)義あらはれたり、戸を引開《ヒキアケ》むには本よりのこと、御手を取て引出(シ)奉むにも、手力《タヂカラ》の優《スグレ》たらむ神を充《アツ》べきわざなりかし、【延喜六年日本紀竟宴、阿刀(ノ)春海(ノ)歌に、止己也実母多乃之支美與止奈利介留波安女多知加良乎多須介安利介利《トコヤミモタノシキミヨトナリケルハアメタヂカラヲタスケアリケリ》、】

〇尻久米繩《シリクメナハ》は、今いふ志米繩《シメナハ》なり、【約《ツヅ》むればおのづから理久《リク》は略《ハブカリ》て、志米《シメ》といはるゝなり、又思(フ)に、志米《シメ》は標結《シメユフ》などの標《シメ》の意か、然らば尻久米と物は一(ツ)にて、名は別なるか、但(シ)標《シメ》も本はこの尻久米より出たる言にや、然らば活用《ウゴカシ》て志牟《シム》ともいふは、やゝ後のことか、】土佐日記に、こへのかどのしりくめなはとあり、尻《シリ》は藁《ワラ》の本をいひ、久米《クメ》は許米《コメ》にて、【許母理《コモリ》を久美《クミ》と云ること、師の冠辭考さす竹の條にくはしく見ゆ、然れば其例にて、許米をも久米といふべきこと疑ひなし、】藁の尻を斷去《キリステ》ずて、さながら許米置《コメオキ》たる繩なり、【許米とは、枕册子に牟久呂許米《ムクロゴメ》などある許米にて、俗に某具留米《ナニグルメ》といふ是なり、具(ノ)字の意に近し、】書紀に、端出之繩と作《カキ》て、此(ヲ)云(フ)2斯梨倶梅儺波《シリクメナハト》1【此下に、亦云2左繩1とある四字は、後(ノ)人の加へたるべし、】とあるにて知べし、端出とは、斷《キラ》ざる藁《ワラ》の尻の出たる由《ヨシ》にて、即(チ)後世の志米繩の状なり、【此繩にもくさ/”\理を云(フ)説あれど、みな例のひがことなり、和名抄に、顔氏家訓の注連(ノ)字を擧て、之利久倍奈波《シリクベナハ》といへれど、よく當れりとも所思《オボエ》ず、】又師(ノ)説には、尻《シリ》は後方《シリヘ》の意、久米《クメ》は限目《カギリメ》にて、今天照大御神の御後方《ミシリヘ》に引わたしたる限(リ)目の繩なる意なりとあるも、さることなり、いづれならむ決《サダ》めがたし、さて拾遺には、爰《ココニ》令《シメテ》3天(ノ)手力雄(ノ)神(ヲシテ)引2啓《ヒキヒラカ》其(ノ)扉《トビラヲ》1、遷(リ)2坐(サシメ)新殿《ニヒミヤニ》1、則天(ノ)兒屋(ノ)命太玉(ノ)命以(テ)2日御綱《ヒノミツナヲ》1【今(ノ)斯利久迷繩《シリクメナハナリ》是(レ)日影之像也】廻2懸《ヒキメグラシ》其(ノ)殿(ニ)1云々とあり、日(ノ)御綱は一名なるべし、【されど日影之像と云るは附會の説なり、藁の尻の出たるを以て如此《カク》さまにいひなせる、さらに上代の意にかなはず、】

〇御後方は美斯理幣《ミシリヘ》と訓べし、書紀齊明(ノ)卷【蝦夷(ノ)地名】に、後方羊蹄此(ヲ)云2斯梨敝之《シリヘシト》1、萬葉二十【十六丁】に、等能々志利弊《トノノシリヘ》などあり、即(チ)目方《マヘ》に對《ムカヒ》たる名にて、尻方《シリヘ》の意なり、

〇控度《ヒキワタシテ》、如此《カク》爲《セ》し所由《ユヱ》は次の語にて知らる、後(ノ)世に神事に引亙《ヒキワタ》すも同意にて、隔《ヘダテ》をなせるなり、

〇以内の以(ノ)字は、以上以下などの以なり、讀(ム)べからず、

〇不得還入は、那加幣理伊理麻志曾《ナカヘリイリマシソ》と訓べし、不得(ノ)字は、漢文に、云々《シカシカ》することなかれと禁止《イサムル》意に用《ツカ》ふ語なり、【俗に那良奴《ナラヌ》と云(フ)言此(ノ)字にかなへり、〇得は、復(ノ)字なるべしと延佳が云るは、書紀に勿復還幸とあるを思ひてなるべし、されど不得にてよく通《キコ》ゆ、】

〇自得照明、この得(ノ)字ぞ復《マタ》の誤にもあらむ、もし本のまゝならば讀(ム)まじき字《モジ》なり、たゞ淤能豆加良弖理阿加理伎《オノヅカラテリアカリキ》と訓べし、


古事記傳九之卷

                      本居宣長謹撰

 

    神代七之卷《カミヨノナナマキトイフマキ》

 

於是八百萬神共議而《ココニヤホヨロヅノカミトモニハカリテ》。於速須佐之男命負千位置戸《ハヤスサノヲノミコトニチクラオキドヲオホセ》。亦切鬚《マタヒゲヲキリ》。及手足爪令拔而《テアシノツメヲモヌカシメテ》。神夜良比夜良比岐《カムヤラヒヤラヒキ》。

 

共議《トモニハカリ》、これも天照大御神又高御産巣日(ノ)神の命を受て爲(ル)に非ず、神たち集《ツドヒ》て議りたまふなり、そは深き所以《ユヱ》ぞ有けむ、【書紀古語拾遺などの旨もおなじ、】

〇負《オフセ》2千位置戸《チクラオキドヲ》1、これ解除《ハラヒ》を科《オフ》するを云、即(チ)書紀に、科(セ)2千座置戸《チクラオキドノ》之|解除《ハラヒヲ》1とあり、凡そ波良比《ハラヒ》に二(ツ)あり、其(ノ)一(ツ)は、伊邪那岐(ノ)大神の阿波岐原《アハギハラ》の禊祓《ミソギ》の如し、一(ツ)は此《ココ》の解除《ハラヒ》の如し、是(レ)罪犯《ツミオカシ》ある人に科《オフ》せて、物【祓具《ハラヘツモノ》と云、書紀に見えたり、天武(ノ)卷には、此(レ)を祓柱《ハラヘツモノ》とかけり、】を出し贖《アガハ》するなり、かゝれば、其(ノ)事も意も二(ツ)別《コト》なるに似たれど、本は一(ツ)なり、書紀(ノ)履中(ノ)卷に、車持君《クラモチノキミ》に罪有て、負(セテ)2惡解除善解除《アシハラヘヨシハラヘヲ》1、而出(デテ)2於長渚崎《ナガスノサキニ》1令(ム)2祓禊《ミソガ》1、とあるを以(テ)見れば、犯(シ)ある者の波良比《ハラヒ》も、水(ノ)邊(リ)に出て禊祓《ミソギ》けり、是(レ)罪《ツミ》犯(シ)も穢《ケガレ》も同じければなり、大祓(ノ)詞に、伴男能八十伴男乎始※〔氏/一〕《トモノヲノヤソトモノヲヲハジメテ》、官々爾仕奉留人等乃《ツカサヅカサニツカヘマツルヒトドモノ》、過犯家牟雜々罪乎《アヤマチオカシケムクサグサノツミヲ》、今年六月晦之大祓爾《コトシミナヅキツゴモリノオホバラヘニ》、祓給清給《ハラヒタマヒキヨメタマフ》云々、速川能瀬坐須瀬織津比※〔口+羊〕止云神《ハヤカハノセニマスセオリツヒメトイフカミ》、大海原爾持出奈武《オホミノハラニモチイデナム》云々、四毛國卜部等《ヨモノクニノウラベドモ》、大川道爾持退出※〔氏/一〕祓却止宣《オホカハヂニモチマカリデテハラヒヤレトノル》、この文を思ふべし、罪犯(シ)を解除《ハラフ》るも、穢汚《ケガレ》を清むる禊《ミソギ》と全《モハラ》同じ、【穢(レ)は即(チ)罪なり、罪は即(チ)穢(レ)なること、前の阿波岐原の段に云ると、併(セ)考(フ)べし、又穢(レ)をも通はして罪と云ること、中卷神功(ノ)段、國之大祓の所にくはしくいふべし、】さて罪あるにも穢あるにも、其(ノ)重さ輕さに隨《シタガヒ》て、同(ジ)く波良閇《ハラヘ》するは、上(ツ)代の法《サダメ》なり、【然るを漢國の制をのみもはらならひ用(ヒ)らるゝ世になりて、上代のならはしは、何事もかはりて、此の波良閇《ハラヘ》の法《サダメ》もすたれゆきつるなり、然はあれど、】中音までも神事《カムワザ》に付《ツキ》たることには、猶此(ノ)法をもちひられて、大上中下|品々《シナジナ》の祓ありしこと、古書どもに見ゆ、【そは中卷神功(ノ)段、國之大祓の處に委くいふべし、】さて其|祓具《ハラヘツモノ》を出さしむることは、今考(フ)るに二(ツノ)義《ココロ》あり、一(ツ)には、其(ノ)祓に用ふる色々の物を科《オフ》せて出さしむるなり、書紀に祓具と書《カカ》れたる、具(ノ)字を思ふべし、又以(テ)v唾(ヲ)爲《シ》2白和幣《シラニギテト》1云々とあるも、祓に用る物に取れり、又雄略(ノ)卷に、齒(ハ)田根《タネノ》命罪ありて、以2馬|八匹《ヤツ》大刀|八口《ウアツヲ》1祓2除《ハラフ》罪過《ツミヲ》1とあり、【馬大刀を祓に用ることは、大祓の詞に、高天(ノ)原爾耳振(リ)立(テ)聞(ク)物|止《ト》、馬|牽《ヒキ》立(テ)※〔氏/一〕と見え、又|東文《ヤマトノフミノ》忌寸部獻(ル)2横刀(ヲ)1時(ノ)咒云々、神祇令にも、上(ル)2祓(ノ)刀(ヲ)1とあり、此外古書どもに見ゆ、文(ノ)忌寸の獻る例になれるは、所由あるべし、古語拾遺にも説あり、されど大刀を用ることは、そのもとは、此氏のあづかれることにはあらじ、抑馬を用る所以《ユヱ》は、耳振立聞物止と有(ル)如く、神たちの、その祓を速に聞(シ)召(シ)受(ケ)よと云(フ)意なること、上文に、云々掻別※〔氏/一〕所聞食武《シカシカカキワケテキコシメサム》、とあると合せて知らる、此(レ)に准へて思ふに、大刀は罪穢を斷絶《タツ》意に用るにや、此外用る種々の物も、其名又は其形、又は其物の用などにつきて、意を取ること多かるべし、】又延暦廿年五月の太政官符【日本後紀類聚三代格令集解などに出づ、】に、定(ムル)2准(テ)v犯(ニ)科(スル)v祓(ヲ)例(ヲ)1事、一(ツ)大祓(ノ)料物廿八種云々、一(ツ)上祓(ノ)料物廿六種云々、一(ツ)中祓(ノ)料物廿二種云々、一(ツ)下祓(ノ)料物廿二種云々とある、その種々(ノ)物みな祓の料(ノ)物にて、罪穢の重(サ)輕(サ)にまかせて、科する品なるを以て、思ひ定むべし、一(ツ)には、彼(ノ)阿波岐原の禊祓《ミソギ》の時に、

ある者も、身の槻《ケガレ》たるなれば、其身に所有物《モテルモノ》も皆稼《レ》たるを、御身《ミミ》に着《ツキ》たる物|等《ドモ》を、盡《コトゴト》に投棄《ナゲウテ》たまへりし如くに、罪犯《ツミオカシ》ある者も、身の穢《ケガレ》たるなれば、其身に所有物《モテルモノ》も皆穢(レ)たるを、拂ひ棄る意にて出すなり、故(レ)後(ノ)世までも、祓に用る種々《クサグサノ》物は、終《ハチ》にみな水に流し却《ヤル》なり、【なほ下に云べし、かゝれば祓具《ハラヘヅモノ》を科《オフ》するは、もと右の二(ツ)の意なるを、異國の贖刑と一(ツ)意に説成《トキナス》は、いとも古(ヘノ)意に非ず、書紀(ノ)孝徳(ノ)卷に、復有(レバ)2被《ルル》v役(ハ)之民路頭(ニ)炊(クコト)1v飯(ヲ)、於是路頭(ノ)之家、乃謂之(レニ)曰(テ)3何(ノ)故(ゾ)任(テ)v情(ニ)炊(クト)2飯(ヲ)余(ガ)路(ニ)1、強(テ)使(ム)2祓除1、復有(レバ)d百姓就(テ)v他(ニ)借(テ)v甑(ヲ)炊(クニ)v飯(ヲ)、其(ノ)甑觸(テ)v物(ニ)而覆(ヘルコト)u、於是甑(ノ)主乃使(ム)2祓除1、如v是等(ノ)類、愚俗(ノ)|所v染《ナリナラヘル》、今悉(ク)除斷《ヤメテ》、勿(レ)v使(ルコト)2復爲(セ)1、これは其(ノ)祓(ヘツ)物を取て、己が利《クボサ》にせし事と聞ゆ、そはやゝ世くだりて、本(ノ)意を失へる、民間《シモザマ》のならはしにぞ有(リ)けむ、】千位《チクラ》は、書紀に千座と作《カケ》り、私記に、座(ハ)者是(レ)置(ク)v物(ヲ)之名(ナリ)也と見えて、其(ノ)祓(ヘツ)物を居置《スヱオク》物【案《ツクエ》にても何にてもあるべし、】をいふ、人の座《ヲル》處を久良韋《クラヰ》と云も同(ジ)意なり、故(レ)此記には位(ノ)字を書(ケ)り、千《チ》は其數なり、犯(シ)の重さ輕さの任《ママ》に、祓も重き輕き有て、祓具《ハラヘツモノ》も多き少き品あるを、此(レ)は極《キハメ》て重ければ、極《キハ》めて多きを、千《チ》とは云なり、【後(ノ)世に四座置八座置など云名目の遺《ノコ》れるを以見れば、幾位《イククラ》と云て、祓のしなを定めしなり、】置《オキ》は、其物を持出て、祓する處に置く意より云るなり、萬葉に、置幣《オクヌサ》とも奴佐於伎《ヌサオキ》とも見え、大祓(ノ)詞に、大中臣天津金木乎本打切末打斷※〔氏/一〕《オホナカトミアマツカナギヲモトウチキリスヱウチキリテ》、千座置座爾置足波志※〔氏/一〕《チクラノオキクラニオキタラハシテ》とあり、【師(ノ)説に、金木と書るは借字にて、是(レ)は祓物を置(ク)べき層座に作る料の※〔木+苦〕《シモト》をいふなり、此(ノ)金木を置座に置(ク)ごと聞ゆれども、然にはあらず、文(ノ)意は、金木を本末打切て、千座(ノ)置座に造(リ)て、置(キ)足《タラ》はしといふなりと見ゆ、今思ふに、此説まことによし、置(ク)べき種々(ノ)物をば、略《ハブキ》ていはず、其(ノ)置座をのみ云ること、此《ココ》と同じ、一説に、金木を刑具とするは、甚《イタク》誤(リ)なり、】臨時祭式に、凡祈年月次神今食新嘗等(ノ)祭(ノ)料(ノ)置座木《オキクラノキ》【今(ノ)本に、クラヲオクキと訓るは誤なり、】とあるは、置(キ)座に造る料の木をいふ、【こは神に供奉《タテマツ》らるゝ料なり、】さて其(ノ)置座に、四座置《ヨクラオキ》八座置《ヤクラオキ》と云品あり、木工寮式に、四座置八座置、以v木(ヲ)爲(ル)v之(ヲ)、長(キ)者(ハ)二尺四寸、短(キ)者(ハ)一尺二寸、各以2八枝(ヲ)1爲(ルヲ)v束(ト)、名(テ)稱(ス)2八座置(ト)1、長短各以2四枝(ヲ)1爲(ルヲ)v束(ト)、名(テ)稱(ス)2四座置(ト)1と見ゆ、【四時祭式齋宮式大嘗祭式などにも、祭(ノ)料(ノ)物の中に、此名見ゆ、】今考るに、置座《オキクラ》とは、祓(ツ)物を居置《スヱオ》く座《クラ》なる故の名にて、四座置八座置も、本(ト)は四座の置物《オキモノ》八座の置(キ)物と云ことにて、その置(キ)座の數以て云たるなれば、一種の物の名に非ず、【然るをやゝ後になりては、其名のみ古(ヘ)にて、物のさまは變《カハ》れりと見ゆ、其故は式に諸(ノ)祭の料(ノ)物の中に載《ノレ》るを見るに、他の雜々《クサグサ》の物を居(ヱ)置(ク)べき料とは見えず、たゞ別に一種の物と見え、又右に引る木工寮式に云るも、物を居(ヱ)置(ク)べき物の状《サマ》に非ず、然れば延喜の頃《コロ》のは、たゞ象《カタ》ばかりなりけり、但(シ)右に引る祓(ノ)詞に、天津金木乎云々とあれば、上代の置座も、木工式に云る如くなる小木を連《ツラネ》て結《ユヒ》造れる物なるべし、今(ノ)世にもある柳筥などのさまにても推度《オシハカ》らる、然れば後(ノ)世のも、かの置座に造るべき木を束ねて、やがてそれを置座と稱《イ》ひ、その木の數を以て、かの座《クラ》の數にかへて、四座置八座置とは云なりけり、又ほかの祓(ノ)詞に、天津金木乎云々とあるも、後(ノ)世の象《カタ》ばかりの置座を造ることか、とも思はるれど、なほ然にはあらじ、彼(ノ)全文は、やゝ後に定めつる物ながら、詞はみな古(ヘ)のを用ひたればなり、】戸《ト》は、處《トコロ》の意と誰(レ)も心得て有(ル)めれど、さては負《オフセ》と云むこと叶はず、こは中卷(ノ)末、伊豆志袁登賣《イヅシヲトメノ》神を、兄弟の男のよばひける事云る段に、令《シム》v詛2言《トコヒゴトセ》云々《シカシカト》1、如此《カク》令《シメテ》v詛《トコハ》、置《オキキ》2於|烟《カマドノ》上(ヘニ)1云々、即(チ)令《シメキ》v返《カヘサ》2其詛戸《ソノトコヒドヲ》1とあるも、其《ソノ》詛事《トコヒゴト》に用ひたる種々《クサグサノ》物を指《サシ》て、詛戸《トコヒド》と云へれば、此《ココ》も置座に置く祓具《ハラヘツモノ》を指《サシ》て、戸《ト》とは云なり、然れば千位《チクラ》の置物《オキモノ》と云むが如し、【師は、此(ノ)戸を辨《ベ》とも訓れき、されど然訓べき明けき證なければ、舊《フルキ》に依て斗《ト》と訓べし、また千位之《チクラノ》と、之《ノ》をそへてよむはわろし、】

〇切《キリ》v鬚《ヒゲヲ》、和名抄に、説文(ニ)云、髭(ハ)口(ノ)上(ノ)鬚也、鬚髯(ハ)頤(ノ)下(ノ)毛也(ト)、髭和名|加美豆比介《カミツヒゲ》、鬚髯和名|之毛豆比介《シモツヒゲ》とあれど、此《ココ》は口の上下の差別《ワキ》なく、たゞ比宜《ヒグ》なり、さてこれを書紀には、拔v※〔髪の友が拔の旁〕(ヲ)とあり、【古語拾遺もおなじ、】傳(ヘ)の異なるなり、何《イヅレ》にても同(ジ)類(ヒ)の物なれば、意は同じ、

〇手足爪《テアシノツメ》、此下に乎母《ヲモ》と訓付《ヨミツク》べし、【上の及(ノ)字は讀(ム)べからず、その乎母《ヲモ》にあたれり、】和名抄に、四聲字苑(ニ)云(ク)、爪(ハ)手足(ノ)指上(ノ)甲(ナリト)、和名|豆女《ツメ》、さて此事書紀一書には、責《ハタル》2其(ノ)祓具《ハラヘツモノヲ》1、是(ヲ)以(テ)有(リ)2手端吉棄物《タナスヱノヨシキラヒモノ》、足端凶棄物《アナスヱノアシキラヒモノ》1、亦以(テ)v唾(ヲ)爲《シ》2白和幣(ト)1、以v洟(ヲ)爲《シテ》2青和幣(ト)1、用(テ)v此(ヲ)解除《ハラヘス》、【この吉凶棄物《ヨシアシキラヒモノ》は、いはゆる善惡祓除の事の本なり、然れども善惡祓の事は、其儀を記せる物なければ、如何《イカ》なるを善、如何《イカ》なるを惡と知(リ)がたし、吉(ハ)招(キ)v福(ヲ)、凶(ハ)禳(フ)v禍(ヲ)なりと云は、後人の例の推當《オシアテ》の誤なり、若(シ)然らば、上に引る車持(ノ)君の善惡(ノ)祓除は、いかに解《トク》べきぞ、犯《オカシ》ある人の爲(メ)に、福を招くことあるべきかは、右に引る延暦廿年の官符の中にも、承前神事、有v犯科(セ)v祓(ヲ)贖v罪(ヲ)、善惡二(ノ)祓、重(ネ)2科(ス)一人(ニ)1云々とあるも、車持(ノ)君のことに同じ、】又一書には、以2手(ノ)爪(ヲ)1爲《シ》2吉爪棄物(ト)1以2足(ノ)爪(ヲ)1爲《ス》2凶爪棄物(ト)1、などあると合せて考るに、是(レ)も祓具なれば、上に云る二(ノ)意を以(テ)解《トク》べし、一(ツ)には、此祓は極(メ)て重き祓なる故に、祓物も極(メ)て多く、千位《チクラ》を徴《ハタ》るなれば、須佐之男(ノ)命の所有《モタマヘ》る物の限りを取(リ)ても、猶|足《タラ》ざる故に、其(ノ)御身に生《オヒ》たる髪鬚爪までを取て、祓の料(ノ)物に用るなり、【白和幣青和幣とすとあるにて、祓(ノ)料なるをしるべし、】一(ツ)には、所有《モタ》る物も穢れたれば、拂ひ棄る意なるが、輕き犯《オカシ》は穢(レ)淺き故に、少《スコシ》の物を出(ダ)し棄て清まるを、是(レ)は犯《オカシ》重くして、極(メ)て深き穢(レ)なれば、所有《モタマヘ》る物をみながら棄ても、なほ清まりはてざる故に、其(ノ)御身に生《オヒ》たる物までを、拂ひ棄て清むるなり、【されば棄(ツ)る物はみな穢垢《ケガレ》なる故に、伎羅毘物《キラヒモノ》といひ、棄物《キモツ》と書《カカ》れたるも此意なり、後(ノ)世に人形《ヒトガタ》を造(リ)て流すも、穢れたる身體をば、さながら棄て、清きにかふる意なり、かゝれば此鬚を切(リ)爪を拔(ク)事は、右の二(ツノ)意なるを、纂疏に、肉刑之始也とのたまひて、皆人も刑と心得るは違《ダガ》へり、刑とは其義異なるをや、此記には、負(セ)2千位置戸(ヲ)1の下に亦(ノ)字を置て、此事をいへれば、祓にはあらで、是(レ)は又|別事《コトコト》なるに似たれども、さにはあらず、千位置戸の所にも、祓とはいはざれば、上は祓、下は別事と分つべき由なし、令(ム)v拔《ヌカ》と云まですべて祓によれること、書紀と合せてしるべし、】

〇神夜良比夜良比岐《カムヤラヒヤラヒキ》、此言前【傳七の二十六葉、四の十三葉、】に見ゆ、延佳本には、上の比の下に爾(ノ)字あり、こはあるもなきもあしからず、岐《キ》は語辭《カタリコトバ》なり、

  

又食物乞大氣津比賣神《マタヲシモノヲオホゲツヒメノカミニコヒタマヒキ》。爾大氣都比賣《ココニオホゲツヒメ》。自鼻口及尻《ハナクチマタシリヨリ》。種種味物取出而《クサグサノタメツモノヲトリイデテ》。種種作具而進時《クサグサツクリソナヘテタテマツルトキニ》。速須佐之男命《ハヤスサノヲノミコト》。立伺其態《ソノシワザヲタチウカガヒテ》。爲穢汚而奉進《キタナキモノタテマツルトオモホシテ》。乃殺其大宜津比賣神《スナハチソノオホゲツヒメノカミヲコロシタマヒキ》。故所殺神於身生物者《カレコロサエタマヘルカミノミニナレルモノハ》。於頭生蠶《カシラニカヒコナリ》。於二目生稻種《フタツノメニイナダネナリ》。於二耳生粟《フタツノミミニアハナリ》。於鼻生小豆《ハナニアヅキナリ》。於陰生麥《ホトニムギナリ》。於尻生大豆《シリニマメナリキ》。故是神産巣日御祖命《カレココニカミムスビミオヤノミコト》。令取茲《コレヲトラシメテ》。成種《タネトナシタマヒキ》。

書紀一書に、霖《ナガメ》ふりて宿《ヤド》とひ給ふに、衆神《カミタチ》宿かさで、甚《イタ》く辛苦《タシナミ》つゝ降(リ)給(フ)事あり、此《ココ》にも又(ノ)字の上に、然る類(ヒ)の事有(リ)けむが、脱《オチ》たるなるべしと、師の云(ハ)れつる、信《マコト》に然るべし、こは阿禮が空《ソラ》に誦《ヨミ》し時に、既《ハヤ》く脱《オト》しけるか、必(ズ)所逐《ヤラハレ》たまひて後の事、此(ノ)上(ミ)に別に有《ア》らでは、又《マタ》と云ることいかにぞや聞ゆ、若(シ)始(メ)より今(ノ)本の如(ク)ならば、又(ノ)字は、故《カレ》などと有(ル)べき所ぞ、【此(ノ)段の此處《ココ》にあるが不審《イフカ》しき由は、なほもあり、そは下に云を見よ、】

〇食物は袁志毛能《ヲシモノ》と訓べし、

〇大氣津比賣《オホグツヒメノ》神【津(ノ)字一本に都と作《ア》るは、次なると同じければ、宜しけれども、又次には宜津ともあれば、此《ココ》も津にてもあしからず、】は、上【傳五の五十三葉】に出て云るが如く、食物の神に坐(ス)が故に乞給《コヒタマフ》なり、さて此事書紀には、天照大神|在《マシマシテ》2於|天上《アメニ》1曰(ク)、聞(ケリ)3葦原(ノ)中(ツ)國(ニ)有(ト)2保食《ウケモチノ》神1、宜爾月夜見尊就候之《ツキヨミノミコトイデマシテミタマヘトノリタマフ》、月夜見(ノ)尊受(テ)v勅(ヲ)而降(リテ)已、到(リタマヘバ)2于保食(ノ)神(ノ)許《モトニ》1、乃《スナハチ》云々と有(リ)て、其(ノ)樣|大※〔氏/一〕《オホムネ》此《ココ》と同じきを、天照大御神の命(ト)以(テ)、月夜見(ノ)命の候《ミ》にいでますとせるは、傳(ヘ)の異なるなり、されど保食(ノ)神大氣津比賣は、一(ツ)神なるべき由(シ)、上に云るがごとし、【此事によりて今つら/\思ふに、もと月夜見(ノ)命と須佐之男(ノ)命とは、一(ツ)神かと思はるゝこと多し、まづ月夜見の夜見は黄泉《ヨミ》にて、須佐之男(ノ)命の就歸《ツキ》たまへる國(ノ)名なり、根(ノ)國は即(チ)黄泉のことなる由は、既に上に云るが如し、晝夜を以(テ)云(ヘ)ば、晝は此(ノ)世、夜は黄泉なれば、夜食國《ヨルノヲスクニ》も由あり、叉此記に、須佐之男(ノ)命に、海原を治《シラ》せと事依《コトヨサ》したまへると、書紀一書に、月夜見命に、滄海原潮之八百重を治《シラ》せとあるとを、思ひ合すべし、又こゝの須佐之男(ノ)命の、大宜都比賣(ノ)神を殺し給へるを、書紀には月夜見(ノ)命として、天照大神|怒甚之《イカリマシテ》、曰(ヒテ)2汝是惡神《ミマシハアシキカミナリ》、不(ト)1v須2相見1、乃一日一夜|隔離而住《サカリイマシキ》とあるも、須佐之男(ノ)命めきて聞ゆるをや、然れども諸の古書に、此(レ)を一(ツ)神としたる傳へはなくして、みな別神《コトカミ》としたるは、全《モハラ》一(ツ)神の如くにして、なほ別神に坐(ス)、深き所以《エヱ》あることなるべし、今たやすく云べきにあらず、】

〇鼻、和名抄に鼻(ハ)和名|波奈《ハナ》、

〇尻、同書に尻(ハ)和名|之利《シリ》とあり、此(ノ)如く訓べし、【尻を古書に凡て加久禮《カクレ》と訓るは、之理《シリ》てふ言を俚《イヤ》しと思ひて、嫌《キラ》へるものなり、そは皇《キミ》の大前《オホマヘ》にして、書紀などを讀(ミ)奉る時に、忌《イマ》はしき言|鄙《イヤシ》き言などをばえりて、あるは異《コト》さまに讀(ミ)直《ナホ》し、あるは漏《モラシ》てよまずなどありし例なり、信《マコト》にさるときこそ然あるべけれ、本《マキ》にさへ其(ノ)訓をつけむことは、いかゞなり、之理《シリ》てふ言も、古(ヘ)はつゝまであまた言《イヒ》き、尻(ノ)字は、尻久米繩《シリクメナハ》など其(ノ)餘《ホカ》も、みな之理《シリ》と云に用ひたれば、異《コト》さまの訓あるべからず、】書紀には、保食(ノ)神乃(チ)廻v首嚮《ムカヘバ》v國《クニニ》、則自(リ)v口出(ヅ)v飯《イヒ》、又嚮(ヘバ)v海(ニ)、則|鰭廣鰭狹亦《ハタノヒロモノハタノサモノモ》自(リ)v口出(ヅ)、又嚮(ヘバ)v山(ニ)、則|毛麁毛柔赤《ケノアラモノケノニゴモノモ》自(リ)v口出(ヅ)とありて、鼻尻より出ることは見えず、

〇味物は多米都母能《タメツモノ》と訓べし、中卷明(ノ)宮(ノ)段の末に、種々之珍味とあるも、如此《カク》よむべし、其(ノ)故は、貞觀儀式(ノ)大嘗祭(ノ)儀に、辨大夫入(リ)v自2儀鸞門1、就(テ)v版(ニ)跪(テ)奏(ス)2兩國(ノ)所《レル》v獻(ツ)多米都物《タメツモノノ》色目(ヲ)1【江次第にもかくあり、兩國は、悠紀主基(ノ)兩國を云、】と有(リ)て、其詞に,御酒倉代缶物、多米都《タメツ》物(ノ)雜(ノ)菓子飯などの色目見え、又|大多米津酒大多米酒波多米御酒多毎米大多米院《オホタメツザケオホタメサカナミタメノミキタメノヨネオホタメノヰム》と見え、延喜式にも、多明米《タメノヨネ》多明酒《タメノサケ》多明《タメノ》酒屋|多明《タメノ》料理屋などと見えたればなり、【但(シ)如v此(ノ)く大嘗祭の所にのみ多く出て、他《ホカ》には一(ツ)も見えねば、彼(ノ)祭に供(ル)v神(ニ)物に限れる名目かとも聞ゆれど、さに非ず、】古(ヘ)に凡て美味飲食《ウマキヲシモノ》を云る名なり、【凡て上代の事は、物(ノ)名も何《ナニ》も、神事にのこれる例なれば、此(ノ)名目もたま/\大嘗にのみのこれるなり、】姓氏録(ノ)多米《タメノ》連(ノ)條に、成務天皇(ノ)御世(ニ)、仕2奉(ル)炊(ノ)職1、賜(フ)2多米《タメノ》連(ト)1也、又|多米《タメノ》宿禰(ノ)條に、成務天皇(ノ)御世(ニ)、仕2奉(ル)大炊(ノ)寮《ツカサニ》1、御飯《ミケ》香美《ウマシ》、特(ニ)賜(フ)2嘉名《ヨキナヲ》1、とあるを以て知(ル)べし、【供(ル)v神(ニ)物に限らざること、此《コレ》にて明(ラ)けし、書紀の甜酒も、本《モト》の訓は多米邪祁《タメザケ》なりけむを、後(ノ)人のさかしらに、字音と心得て、多武《タム》とはよみなしつらむ、】

〇種々《クサグサ》は、上なるは取(リ)出(デ)つる物の品《シナ》、下なるは、其《ソ》を御饌物《ミケツモノ》に作り調《トトノヘ》たる品の多きを云り、陰陽寮式儺祭(ノ)文に、海山能種々味物乎給※〔氏/一〕《ウミヤマノクサグサノタメツモノヲタマヒテ》、

〇作具は、都久理曾那閇《ツクリソナヘ》と訓べし、大神宮儀式帳に、種々味物儲備仕奉《クサグサノタメツモノマケソナヘツカヘマツル》、祈年祭(ノ)祝詞に、種々色物乎備奉※〔氏/一〕《クサグサノモノドモヲソナヘマツリテ》、書紀(ノ)顯宗(ノ)卷に、辨《ソナフ》2新嘗供物《オホニヘノタテマツリモノヲ》1など見ゆ、曾那布《ソナフ》とは、不足《アカヌ》ことなく齊《トトノ》ふるを云、萬葉十【三十六丁】に、手寸十名相《タキソナヘ》云々、【俗言に、神に物供るを曾那布留《ソナフル》と云も、備具《ソナヘ》て供《タテマツ》る意なり、又萬葉十に、供養をソナヘと訓ることあるは誤にや、師は多牟氣《タムケ》とよまれき、】書紀には此《ココ》を、夫品物《カノクサグサノモノヲ》悉《コトゴトニ》備2貯《ソナヘアザヘテ》之|百机《モモトリノツクヱニ》1而|饗之《アヘマツル》とあり、

〇立伺《タチウカガヒ》とは、隱立《カクレタチ》て、物の隙《ヒマ》などより窺《ウカガ》ひ觀《ミ》たまふなり、水垣(ノ)朝(ノ)段(ノ)歌に、宇迦々波久斯良爾《ウカガハクシラニ》とよめり、

〇穢汚而《キタナキモノ》【汚を一本に※〔さんずい+于〕と作《カケ》り、同字なり、】とは、書紀に、月夜見(ノ)尊|忿然作色《オモホデリテ》、曰(ヒテ)2穢矣鄙矣《キタナキカモイヤシキカモ》、寧可以口吐之物敢養我乎《クチヨリタグレルモノモテワレニタテマツラメヤト》とある意なり、而(ノ)字は、物(ノ)字を誤れるなるべし、故(レ)伎多那伎毛乃多弖麻都流登淤母富志弖《キタナキモノタテマツルトオモホシテ》と訓(ミ)つ、必(ズ)然《シカ》あるべき所なり、【もし而(ノ)字ならば、キタナクシテタテマツルトオモホシテと訓べし、されどさては穩ならぬ文なり、】爲(ノ)字は、何《イヅ》れにしても淤母富志弖《オモホシテ》と訓べし、

〇殺《コロシタマフ》は、既に解除《ハラヒ》し給ひしかども、なほ惡御心《アシキミココロ》の、清《キヨ》まりはてぬなるべし、されど此(ノ)神を殺し給へるから、種々(ノ)穀《タナツモノ》などの成出《ナリイデ》つるは、善《ヨキ》は惡《アシキ》よりきざす理(リ)、かの黄泉《ヨミ》の穢(レ)を祓ひ給ふとて、天照大御神などの如き善《ヨキ》神の、成(リ)坐るにおなじ、

〇所殺神於身は、殺佐延賜幣琉神之身邇《コロサエタマヘルカミノミニ》と訓べし、【於(ノ)字は、所殺の上にある意なり、】

〇生物者は、那禮琉物波《ナレルモノハ》と訓べし、

〇蠶、和名抄に、蠶和名|加比古《カヒコ》、

〇稻種《イナダネ》、五品《イツシナ》の中に、此(レ)のみ種《タネ》と云るは、いかにと云に、まづ下に成《ナス》v種(ト)とあるを以見るに、此《ココ》に生《ナ》れるは、五品ながら其(ノ)實《ミ》なり、然るに餘《ホカ》の四品は、種《タネ》と云(ハ)ねど、おのづから實《ミ》のことなるを、稻は伊禰《イネ》とのみ云ては、穗《ホ》に在(ル)時の名にして、實《ミ》とは聞えず、莖《クキ》ながら生《オヒ》たる如《ゴト》聞えて、まぎらはしければなり、【此(レ)を以ても、古言のなほざりならざりしことを知れ、】

〇粟小豆麥大豆、和名抄に、粟(ハ)和名|阿波《アハ》、小豆(ハ)本草(ニ)云(ク)、赤小豆和名|阿加安豆木《アカアヅキ》、【こはたゞ阿豆伎《アヅキ》なるを、黄小豆緑小豆など云漢名あるに就《ツキ》て、後に色《イロ》を分(ケ)云(フ)名なり、】麥(ハ)和名|牟岐《ムギ》、大豆(ハ)和名|萬米《マメ》とあり、

〇尻(ノ)上なる於(ノ)字、舊印本に麥(ノ)上に有(ル)は誤なり、今は一本に依れり、【延佳も改め置《オキ》き、】

〇右六品の中に、食(フ)べき物五品は、皆|竅《アナ》に生《ナ》り、蠶一品は、竅ならぬ處に生《ナ》れること、所由《ユヱ》あるべし、又|口《クチ》に生《ナレ》る物無(キ)もゆゑあるにや、書紀には、頂《イタダキ》化2爲《ナリ》牛馬(ニ)1、顱上《ヒタヒノヘニ》生(リ)v粟、眉(ノ)上(ニ)生v繭《マユ》、眼(ノ)中(ニ)生v稗、腹(ノ)中(ニ)生(リ)v稻、陰(ニ)生(リキ)2麥|及《マタ》大豆小豆1とあり、又|稚産靈《ワクムスビノ》神(ノ)頭(ノ)上(ニ)生(リ)2蠶(ト)與《ト》1v桑、臍(ノ)中(ニ)生(レリ)2五穀《イツクサノタナツモノ》1、と云こともあり、是(レ)も一(ツ)事の、傳(ヘ)の異なるなるべし、【是(レ)等《ラ》を書紀の註どもに、如此《カク》身體に生《ナル》と云は、假《カリ》の言にして、實は其(ノ)物々に宜き土地に殖《ウヱ》なすことと説なせるは、みな例のなまざかしき、推量《オシハカリ》の私事《ワタクシゴト》にて、いたく古(ノ)傳(ヘ)の意にそむけり、又|生《ナレ》る物と其(ノ)處とを合せて、然る由《ヨシ》を云るも、眉《マユ》に蠶《マユ》の生《ナレ》るを云る外は、みなあたらず、強言《シヒゴト》なり、凡てなにごとも、強《シヒ》ていへば、如何《イカ》さまにもいはるゝものぞ、】

〇神産巣日御祖《カミムスビミオヤノ》命は、即(チ)始(メ)に見えたる神産巣日(ノ)神なり、然るを此《ココ》にも下|處々《トコロドコロ》にも、御祖《ミオヤノ》命としも申せるは、産靈《ムスビ》の御徳《ミイサヲ》によれる御稱《ミナ》なるべし、

〇令《シメテ》v取《トラ》v茲《コレヲ》、令(ノ)字、舊事紀(ノ)舊印本には合と作《カケ》り、それも惡《アシ》からず、此記の古本|然《シカ》ありしを取れるにや、

〇成種は、多泥登那志賜伎《タネトナシタマヒキ》と訓べし、書紀には、天熊大人悉取持去而奉進之《アメクマノウシコトゴトニトリモチユキテタテマツリキ》とあり、さて天照大神|喜之《ヨロコバシテ》、曰(テ)d是物者《コノモノドモハ》、則|顯見蒼生《ウツシキアヲヒトクサノ》、可《ベキ》2食而活《クヒテイク》1之也《モノゾト》u、乃(チ)以《ヲ》2粟稗麥豆1爲(シ)2陸田種子《ハタツモノト》1、以《ヲ》v稻|爲《シタマヒキ》2水田種子《タナツモノト》1、又因《マタ》定(メ)2天(ノ)邑君《ムラギミヲ》1、即(チ)以《ヲ》2其(ノ)稻種《イナダネ》1、始(メテ)殖《ウヱタマヒシカバ》于天(ノ)狹田及長田《サダトナガタトニ》1、其(ノ)秋|垂頴娃八握莫々然《ヤツカボシナヒシゲリテ》、甚快也《イトヨクミノリキ》とあり、此《ココ》は、成《ナシタマヒキ》v種《タネト》と云に、其(ノ)意こもれり、

 

故所避追而《カレヤラハエテ》。降出雲國之肥上河上在鳥髪地《イヅモノクニノヒノカハカミナルトリカミノトコロニクダリマシキ》。此時箸從其河流下《コノヲリシモハシソノカハヨリナガレクダリキ》。於是須佐之男命《ココニスサノヲノミコト》。以爲人有其河上而《ソノカハカミニヒトアリケリトオモホシテ》。尋覓上往者《マギノボリイデマシシカバ》。老夫與老女二人在而《オキナトオミナトフタリアリテ》。童女置中而泣《ヲトメヲナカニスヱテナクナリ》。爾問賜之汝等者誰《イマシタチハタレゾトトヒタマヘバ》。故其老夫答言僕者國神《ソノオキナアハクニツカミ》。大山上津見神之子焉《オホヤマツミノカミノコナリ》。僕名謂足上名椎《アガナハアシナヅチ》。妻名謂手上名椎《メガナハテナヅチ》。女名謂櫛名田比賣《ムスメガナハクシナダヒメトマヲストマヲス》。亦問汝哭由者何《マタイマシノナクユヱハナニゾトトヒタマヘバ》。答白言我之女者自本在八椎女《アガムスメハモトヨリヤヲトメアリキココニ》。是高志之八俣遠呂智【此三字以音】毎年來喫《コシノヤマタヲロチナモトシゴトニキテクフナル》。今其可来時故泣《イマソレキヌベキトキナルガユヱニナクトマヲス》。爾問其形如何《ソノカタチハイカサマニカトトヒタマヘバ》。答白彼目如赤加賀智而《ソレガメハアカカガチナシテ》。身一有八頭八尾《ミヒトツニカシラヤツヲヤツアリ》。亦其身生蘿及檜※〔木+温の旁〕《マタソノミニコケマタヒスギオヒ》。其長度谿八谷峽八尾而《ソノナガサタニヤタニヲヤヲヲワタリテ》。見其腹者《ソノハラヲミレバ》。悉常血爛也《コトゴトニイツモチアエタダレタリトマヲス》。【此謂赤加賀知者《ココニアカカガチトイヘリハ》。今酸醤者也《イマノホホヅキナリ》。】爾速須佐之男命詔其老夫《カレハヤスサノヲノミコトソノオキナニ》。是汝之女者《コレイマシノムスメナラバ》。奉於吾哉《アレニタテマツラムヤトノリタマフニ》。答白恐亦不覺御名《カシコケレドミナヲシラズトマヲセバ》。爾答詔吾者天照大御神之伊呂勢者也《アハアマテラスオホミカミノイロセナリ》。【自以下三字以音】故今自天降坐也《カレイマアメヨリクダリマシツトコタヘタマヒキ》。爾足名椎手名椎神《ココニアシナヅチテナヅチノカミ》。白然坐者恐立奉《シカマサバカシコシタテマツラムトマヲシキ》。

所避追而は、夜良波延弖《ヤラハエテ》と訓べし、抑(モ)此(ノ)語は、必上の神夜良比夜良比岐《カムヤラヒヤラヒキ》の下に續《ツヅキ》て有(ル)べきことなり、若(シ)此處《ココ》にあらば、故《カレノ》下に速須佐之男(ノ)命|者(ハ)と云ことあるべし、然らざれば、神産巣日(ノ)神の避追《ヤラハ》れ給ふごと聞ゆるなり、かゝれば大宜都比賣(ノ)神の御事の、此(ノ)上に出たるは、左右《カニカク》に疑はしくなむ、【かの始(メ)の文(ノ)字をも思ひ合すべし、】
〇肥《ヒ》は地名《トコロノナ》なり、和名抄に、出雲(ノ)國大原(ノ)郡|斐伊《ヒ》、【今(ノ)本伊を甲と誤る、】神名式に、同郡に斐伊《ヒノ》神社もあり、彼(ノ)國(ノ)風土記に、大原(ノ)郡斐伊(ノ)郷屬2郡家(ニ)1、樋速日子《ヒハヤビコノ》命坐(ス)2此(ノ)處(ニ)1、故(ニ)云v樋《ヒト》、神龜三年改(ム)2二字(ヲ)斐伊(ト)1【式に斐伊(ノ)社(ニ)坐(ス)斐伊波夜比古(ノ)神社、】とあり、是(レ)より河にも名《ナヅ》けつるなり、樋速日子《ヒハヤビコノ》命は、即(チ)上に見えたる樋速日《ヒハヤビノ》神なり、下に云ることあり、考(ヘ)合すべし、

〇河上は、加波乃弁《カハノベ》と訓(マ)むも惡《アシ》からねど、此《ココ》は加波加美《カハカミ》なるべし、其故は同風土記に、出雲(ノ)大川(ハ)、源(ト)自(リ)d伯耆(ト)與《ト》2出雲1二國(ノ)堺|鳥上《トリカミ》山u流(レテ)、出(デ)2仁多(ノ)郡横田(ノ)村(ニ)1、即|經《ヘテ》2横田三處三澤布勢等(ノ)四郷(ヲ)1、出(デ)2大原(ノ)郡(ノ)堺引沼(ノ)村(ニ)1、即|經《ヘ》2來次《キスキ》斐伊屋代神原等(ノ)四郷(ヲ)1、出(デ)2出雲(ノ)郡(ノ)堺(ノ)多義(ノ)村(ニ)1、經《ヘ》2河内出雲(ノ)二郷(ヲ)1、北(ニ)流(レ)更(ニ)西(ニ)流(レ)、即經(テ)2伊努杵築(ノ)二郷(ヲ)1、入(ル)2神門《カムドノ》水海(ニ)1、此(レ)則所謂(ル)斐伊(ノ)河(ノ)下也云々、自(リ)2河口1、至(ル)2河上(ノ)横田(ノ)村(ニ)1之間、五郡(ノ)百姓、便《タヨリテ》v河(ニ)而居(ル)、【此(ノ)大河の下、古(ヘ)は神門(ノ)水海に流(レ)入(リ)しを、寛永のころ大水出たりし時より、流(レ)かはりて、今は伊努(ノ)郷より東(ノ)方へ流れて、國中《クニナカ》の入海《イリウミ》に入るとなり、さて此(ノ)入海は、國中を東より西へ遠く入たる海にて、昔は潮海《シホウミ》なりしを、肥(ノ)大河の流(レ)入(ル)故に、その河水に衝《ツカ》れて、今は潮入(ラ)ず、淡海《アハウミ》なりとぞ、】また仁多(ノ)郡室原川、源出(デ)2郡家(ノ)東南卅五里鳥上山(ヨリ)1北(ニ)流(ル)、所謂(ル)斐伊(ノ)大河(ノ)上(ナリ)也、また同郡横田川、源出(デ)2郡家(ノ)東南卅六里室原山(ヨリ)1北(ニ)流(ル)、此(レ)則斐伊(ノ)大河(ノ)上(ナリ)などあるを見れば、鳥髪《トリカミ》は此(ノ)源なればなり、萬葉五【廿丁】に、許能可波加美爾《コノカハカミニ》、また十四【二十五丁】に、可波加美能《カハカミノ》などあり、【此《コ》はかはかみてふ言の證なり、】

〇在は那流《ナル》と訓べし、字も辭も萬葉などに例多し、爾阿流《ニアル》の切《ツヅマ》りたる辭なり、さて此(ノ)字を、諸(ノ)本に名と作るは誤なり、今は一本によれり、書紀に、簸川上所在《ヒノカハカミナル》鳥上(ノ)之峯と有(ル)をも合(セ)見よ、

〇鳥髪地《トリカミノトコロ》は、又彼(ノ)風土記に、仁多(ノ)郡鳥上山(ハ)、郡家(ノ)東南三十五里、伯耆(ト)與《トノ》2出雲1之堺(ナリ)と見え、右に引る處にも見えたるが如し、【此山、今俗には船通山と云、此山の東に室原山あり、其間を越れば、伯耆(ノ)國日野(ノ)郡に至るとぞ、】さて地(ノ)名の下に、之地《ノトコロ》と云例は、下に須賀地《スガノトコロ》、また書紀に曾尸茂梨之處《ソシモリノトコロ》とあり、是(レ)登許呂《トコロ》と訓べき證にてもあり、さて此《ココ》を書紀に、下2到於安藝(ノ)國|可愛《エノ》之川上(ニ)1、といふ傳(ヘ)もあり、

○此時は、【字のまゝに訓(マ)むもあしからねど、】許能袁理志母《コノヲリシモ》とよむべし、】

〇箸、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、※〔竹/助〕(ハ)匙(ナリ)也、字亦作(ルト)v箸(ニ)、和名|波之《ハシ》、

〇從《ヨリ》2其河《ソノカハ》1は、今(ノ)語ならば、從(リ)2其(ノ)河上1と云べきを、如此《カク》云るは古語のさまなり、從《ヨリ》は袁《ヲ》の意ぞ、姓氏録【佐伯(ノ)直(ノ)條】に、于時青菜葉《トキエアヲナノハ》、自(リ)2岡邊川1流(レ)下(ル)、天皇詔、應《ベシ》2川上(ニ)有(ル)1v人也云々、書紀繼體(ノ)卷(ノ)歌に、簸都細能※〔加/可〕婆※〔まだれ/臾〕那峨例倶屡《ハツセノカハユナガレクル》などある、みな同じことなり、又萬葉に霍公鳥などの歌に、從此鳴度《コユナキワタル》と多くよめるも、此《ココ》よりと云意にはあらず、こゝを鳴《ナキ》わたると云意なり、【古今集春(ノ)下、清原(ノ)深養父(ノ)歌の詞書に、山川より花の流れけるをよめる、又源氏須磨(ノ)卷に、おきより舟どものうたひのゝしりてこぎゆくなど云々、これらもみな同じことなり、然るを舊事紀に、さかしらに上(ノ)字を加(ヘ)て、從河上と書るは、なか/\にわろし、さてこは、從(リ)2其(ノ)河1箸流(レ)下(ル)とあるべきを、先(ヅ)上に箸とあるは、何とかや漢文に近きこゝちす、されど此《ココ》は思(ヒ)定(メ)難《ガタ》ければ、姑く文のまゝに訓つ、】書紀には、時(ニ)聞(タマフ)3川上(ニ)有(ルヲ)2啼哭《ナク》之|聲《コヱ》1、故(レ)尋(メテ)v聲(ヲ)覓往者《マギイデマセバ》とあり、

〇須佐之男(ノ)命、此(ノ)御名前後みな速《ハヤノ》字あるを、此《ココ》にのみ無きは脱《オチ》たるか、

〇人2有《ヒトアリケリト》其河上《ソノカハカミニ》1、こは決《キハメ》て其河加美爾人有祁理登《ソノカハカミニヒトアリケリト》と訓べし、【人を始(メ)に讀(ム)は、漢文のさまなり、】祁理《ケリ》は、推度《オシハカリ》て定(ム)る意の處に用ること多し、

〇尋覓(ノ)二字を麻岐《マギ》と訓べし、

〇往者は伊傳坐志加婆《イデマシシカバ》と訓べし、

〇老夫は意伎那《オキナ》と訓べし、和名抄に、翁(ハ)孫※〔立心偏+面〕(ガ)切韻(ニ)云、老人也(ト)、和名|於岐奈《オキナ》、【又古老(ハ)於岐奈比止《オキナビト》、耆宿(ハ)布流於木奈《フルオキナ》ともあり、書紀に、老公老夫長老など、みな於伎那《オキナ》と訓り、】

〇老女は意美那《オミナ》と訓べし、新撰字鏡に、※〔女+長〕(ハ)於彌奈《オミナ》とあり、【※〔女+長〕は字書に見えず、字のさまを思(フ)に、老女の意の和字なるべし、】續紀十三に、紀(ノ)朝臣|意美那《オミナ》と云婦人の名も見ゆ、抑老女を意美那《オミナ》と云は、少《ワカ》きを袁美那《ヲミナ》と云と對《ムカヒ》て、大《オ》と小《ヲ》とを以て、老《オイタル》と少《ワカキ》とを別《ワカ》てる稱《ナ》なり、【又伊邪那岐伊邪那美などの御名の例を思ふに、意伎那《オキナ》意美那《オミナ》は、伎《キ》と美《ミ》とを以て男女を別《ワカ》てる稱なるべし、】さて和名抄に、説文(ニ)云、嫗(ハ)老女之稱也(ト)、和名|於無奈《オムナ》と見え、書紀に老婆《オムナ》老嫗《オムナ》老女《オムナ》、【かの續紀十三なる紀(ノ)朝臣|意美那《オミナ》をも、同紀五には音郷《オムナ》とあり、又家原(ノ)音那《オムナ》と云も同卷に見ゆ、土佐日記に、おきなおむなと云るも、老夫老女の意なり、然るを註に、翁《オキナ》なる女と云るは誤なり、】又萬葉に嫗《オウナ》、靈異記に、嫗(ハ)於于那《オウナ》など見えたるは、中古よりして、美《ミ》を音便に牟《ム》とも宇《ウ》とも云(ヒ)なせるものなり、これ又|袁美那《ヲミナ》をも後には、袁牟那《ヲムナ》とも袁宇那《ヲウナ》とも云と同例なり、【意《オ》と袁《ヲ》とを以て、老少を別つことは、祖父母を意知《オヂ》意婆《オバ》と云ひ、親の兄弟を袁知《ヲヂ》袁婆《ヲバ》と云たぐひなり、然るに後世、意袁《オヲ》の假字亂(レ)てより、是(レ)らすべて分れずなりにたり、又師は、萬葉に據《ヨリトコロ》ありとて、老女は於與那《オヨナ》と訓べし、和名抄の於無奈《オムナ》も無《ム》は與《ヨ》の誤ならむ、と云れつれど、心得ず、凡て於與那《オヨナ》と云こと、物に見えたることなし、】

〇童女は袁登賣《ヲトメ》と訓べし、袁登賣のこと、上【傳四の廿九葉】に見ゆ、【こゝに童女と書るは、いまだ成長《ヒトトナ》らぬごと聞ゆれど、下卷に婚2是(ノ)童女《ヲトメニ》1といふこともあれば、こゝもむげにいときなきにはあらじ、】書紀に少女《ヲトメ》幼女《ヲトメ》幼婦《ヲトメ》、萬葉六に、漁童女《アマヲトメ》など見え、和名抄に、小女和名|乎止米《ヲトメ》、童女同上ともあれば、童《ワラハ》なるをも袁登賣《ヲトメ》と云なり、【又和名抄に、童女(ハ)女乃和良倍《メノワラベ》、書紀五に童女《ワラハメ》ともあれど、さは訓べからず、又和名抄に、信濃(ノ)國の郷名に、童女と書て、乎無奈《ヲムナ》と云るもあり、】文|宇那韋《ウナヰ》とも訓べし、和名抄【人倫(ノ)部老幼類】に、髫髪和名|宇奈為《ウナヰ》、萬葉十六に、童女波奈理《ウナヰバナリ》などあればなり、【髪を以て稱《ヨ》ぶこと、總角《アゲマキ》目刺《メザシ》などのごとし、今(ノ)世にも童男を前髪《マヘガミ》と稱《イ》ふ、】

〇置中而は那珂邇須惠弖《ナカニスヱテ》と訓(ム)、萬葉十一【三丁】に、人祖末通女兒居《ヒトノオヤノヲトメコスヱテ》、守山邊柄《モルヤマベカラ》云々、書紀には、中2間置《ナカニスヱテ》一少女《ヲトメヲ》1、撫而哭《カキナデツツナク》之とあり、

〇泣は那久那理《ナクナリ》と訓べし、此(ノ)那理《ナリ》は、古文の辭《コトバ》づかひをよく知む人、わきまへてむ、下の喫を、久布那流《クフナル》と訓るも同じ、【凡てかゝる那理《ナリ》那流《ナル》は、見聞物《ミキクモノ》のうへを、他より言《イフ》ときに、添る辭なり、こゝは老夫老女のうへを、須佐之男(ノ)命の見たまふ方より言《イフ》、下の喫は、遠呂智がうへを、老夫の見る方より言《イフ》なり、此辭中古の物語文などにもつね多かれど、なほざりに見る故に、心をつくる人なし、】

○誰は多禮曾《タレゾ》と訓べし、【是(レ)を多曾《タソ》と訓はわろし、己《オノレ》を於乃《オノ》、我《ワレ》を和《ワ》、汝《ナレ》を那《ナ》と云例に、多禮《タレ》を多《タ》といはむは、なほさることなれど、曾《ゾ》は必(ズ)濁(ル)べきを、清《スム》は心得ず、】

〇僕者は阿波《アハ》と訓べし、【凡て自《ミ》稱《イフ》ときの僕(ノ)字を夜都加禮《ヤツカレ》と訓は、後(ノ)世の文にはさも有(ル)べけれど、上代にはさる言なし、たゞ阿禮《アレ》於能禮《オノレ》といひしなり、】書紀には吾《アレ》と書《カカ》れ、此記にも我《アガ》之|女《ムスメ》と下にはあるぞ、古言のまゝなる、【僕と書る字は、漢文の格に依れるなり、】

〇國神《クニツカミ》、こは大山津見(ノ)神に係《カカ》りて聞ゆれども、【子《コナリ》の下に助字をおきて、此(ノ)下にはおかず、又下に更《サラ》に僕名《アガナハ》と云るなどを思へば、大山津見へ係りて聞ゆれども、】書紀に吾《アハ》是|國神《クニツカミ》號脚摩乳《ナハアシナヅチ》と見え、又記中に僕者《アハ》國(ツ)押、名(ハ)猿田毘古(ノ)神(ナリ)、又|僕者《アハ》國(ツ)神|名謂井氷鹿《ナハヰヒカ》などある例に依るに、自《ミ》云るなり、されば此《ココ》にてしばらく讀絶《ヨミキル》べし、さて國(ツ)神とは、高天(ノ)原に坐(ス)神を、天(ツ)神と申す【此事傳三の三十一葉五十葉】に對《ムカヘ》て、此國なる神を云なり、【神祇令(ノ)義解に別《ワケ》たる天(ツ)神地(ツ)祇は、疑ひあり、】但(シ)何事も此國にて言《イフ》ことなる故に、天(ツ)神とは申せども、國(ツ)神とは徒《タダ》には言《イハ》ず、【卷(ノ)に、五柱(ノ)天神をば、別天神とあれども、其次に此國に成(リ)坐る七代(ノ)神をば、たゞ神世七代と云て、國(ツ)神(ノ)世とは云(ハ)ず、是(レ)その意ぞ、】國(ツ)神とは、たゞ天(ツ)神に對《ムカ》ふときのみ云|稱《ナ》なり、此《ココ》も天《アメ》より降(リ)來坐(セ)る神に對《ムカヒ》て申す言《コト》なり、【右に引る猿田毘古(ノ)神も然り、又邇々藝(ノ)命の詔に、必(ズ)國(ツ)神(ノ)之子(ナラム)とあるも、天(ツ)神の御子ならじの意なればなり、】中卷|白檮原《カシバラノ》朝(ノ)段に云るは、いさゝか異《コト》なり、そはそこに云べし、

〇大山津見(ノ)神、上【傳五の四十四葉】に出(ヅ)、書紀には、此《ココ》に此神の子なること見えず、

〇足名椎《アシナヅチ》手名椎《テナヅチ》は、櫛名田比賣《クシナダヒメ》を撫愛《ナデウツク》しみつる由の名にて、足撫豆知《アシナヅチ》手撫豆知《テナヅチ》の約《ツヅマ》りたるなり、【弖豆《テヅ》を切《ツヅム》れば豆《ヅ》なり、】されば是は、比賣《ヒメ》の須佐之男(ノ)命の御妃《ミメ》に爲給《ナリヒ》て後に、御親《ミオヤ》を思て稱《タタ》へしものぞ、【然らざれば、子を愛《ウツクシ》みつる由を、本より親の名に負《オフ》べき由なし、然らば今|此《ココ》に僕名《アガナハ》とて名告《ナノリ》つるは、前後違へるに似たれど、凡て後を以(テ)始(メ)へも囘《メグ》らし言(フ)は、古傳の常なれば妨なし、】さて足と手とを分て、父母に當《アテ》たるには意なし、【石根拆《イハネサク》と云ことを分て、石拆《イハサクノ》秤|根拆《ネサクノ》神と云如く、足手撫《アシテナデ》と云ことを分て負《ツケ》たるのみなり、但(シ)足《アシ》以(テ)父に負《ツケ》たるは、古(ヘ)は手足《テアシ》とはいはで、足手《アシテ》とぞいひけむ、今も足手纏《アシテマツヒ》などは、足を先にいふめり、】書紀(ノ)一(ツノ)傳(ヘ)には、足摩《アシナヅ》手摩《テナヅ》と云を、父一人の名ともせり、椎《ツチ》は、【借字】野椎《ヌヅチ》などの如く、某豆知《ナニヅチ》と云例あまたありて、上【傳五の四十五葉】に云る如く、豆《ツ》は之《ノ》に通ふ辭、知《チ》は稱名《タタヘナ》なり、【書紀に摩乳と書る文字になづみて、知《チ》を乳養の意とするは、例をも考へず、古言(ノ)體《フリ》をも知(ラ)ぬひがことなり、乳養を乳《チ》とのみ云て聞えむ物かは、又父に乳養を以て名《ナヅ》けむものかは、】

〇妻名《メガナハ》、女名《ムスメガナハ》、上に此(ノ)老女《オミナ》は妻《メ》なり、童女《ヲトメ》は女《ムスメ》なりと申せる言《コト》なけれど、自《オ》妻子《メコ》としらるゝ故に、直《タダ》に如此《カク》は申せるなり、【書紀にも、女《ムスメ》には、此(ノ)童女(ハ)是吾(ガ)兒(ナリ)也と云ことありて、次に其名を云へれど、妻《メ》にはさる言なくて、此記のごと直《タダ》に我妻號《アガメノナハ》と云り、】

〇櫛名田比賣《クシナダヒメ》、櫛は【借字】書紀に奇《クシ》と作《カキ》て、

美稱《タタヘナ》なり、例は記中に、櫛八玉(ノ)神櫛石窓(ノ)神櫛御方(ノ)命など、猶多かり、名田は稻田《イナダ》にて地(ノ)名なり、【其由は下に云、】然るを久志《クシ》より連《ツヅ》く故に、志《シ》に伊《イ》の響《ヒビキ》有(リ)て、自《オ》名田《ナダ》と云(ハ)るゝなり、書紀には寄稻田媛と書《カカ》れたり、【是(レ)もクシナダヒメと師の訓れつるぞ古言なる、】又一書には、たゞ稻田媛ともあり、【是は伊那陀《イナダ》と訓べきなり、】又|眞髪觸奇稻田媛《マガミフルクシナダヒメ》ともあり、こは枕詞を置るなり、【此事は師の冠辭考に見ゆ、】神名帳に、山城(ノ)國相樂(ノ)郡|綺《カムバタノ》原(ニ)坐(ス)健伊那太比賣《タケイナダヒメノ》神(ノ)社、能登(ノ)國能登(ノ)郡|久志伊奈太伎比賣《クシイナダキヒメノ》神(ノ)社あり、出雲風土記に、久志伊奈太《クシイナダ》美等與麻奴良比賣(ノ)命と云もあり、【こは誤字などあるべし、】

〇自《ヨリ》v本《モト》、こは常に固《モトヨリ》と云とは聊《イササカ》異《コト》にして、俗言に元来《グワムライ》と云意なり、

〇八稚女は夜袁登賣《ヤヲトメ》と訓べし、書紀に、往時吾兒《サキニアガコ》有2八箇少女1、と書《カカ》れつれども、八《ヤ》は例のたゞ多きを云るにて、幾人《イクタリ》も有(リ)し意なるべし、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に七媛女《ナナヲトメ》、日代(ノ)宮(ノ)段に二嬢子《フタヲトメ》などもあり、

〇在(ノ)字は、延佳本には有と作《カケ》り、信《マコト》に然るべけれど、此方の古書には、通《カヨハシ》用ひたり、

〇高志《コシ》は地(ノ)名なり、和名抄に、出雲(ノ)國神門(ノ)郡|古志《コシ》とある是なり、名(ノ)義は風土記に、古志(ノ)郷(ハ)、即(チ)屬2郡家(ニ)1、伊弉彌(ノ)命(ノ)之時、以日淵|築2造《ツクル》池(ヲ)1之、爾時《ソノトキ》古志(ノ)國等|到來而《キタリテ》爲(リ)v堤(ヲ)、即(チ)宿居之所《ヤドリヲルトコロナリ》、故(レ)云(フ)2古志1也、【伊弉彌(ノ)命はいかなる神にか、疑がはし、又古志國(ノ)下に、人(ノ)字|脱《オチ》たるか、】また同郡|狹結《サユフノ》驛(ハ)、古志(ノ)國(ノ)佐與布云人来居《サヨフチフヒトキヲル》之、故(レ)云(フ)2最邑《サイフト》1、其(ノ)所2以《ユヱハ》來居(ル)1者、耽説如(シ)2古志(ノ)郷(ノ)1也とあれど、此説疑ひあり、猶下八千矛(ノ)神の段に云べし、コの假字に高と書る例、中卷にもあり、【傳首(ノ)卷に云り、】
〇八俣遠呂智《ヤマタヲロチ》、【八俣之《ヤマタノ》と之《ノ》を添(ヘ)て訓(ム)はわろし、上の八尋殿《ヤヒロドノ》十拳劔《トツカツルギ》八咫鏡《ヤタカガミ》などの處々に云るがごとし、】八俣は、次に身一有2八頭八尾1と云るこれなり、即書紀に、頭尾各々有2八岐《ヤマタ》1とあり、遠呂智は、書紀に大※〔虫+也〕と書(ケ)り、和名抄に、蛇(ハ)和名|倍美《ヘミ》、一(ハ)云(ク)久知奈波《クチナハ》、日本紀(ノ)私記(ニ)云(ク)乎呂知《ヲロチ》とあり、【今俗《イマノヨ》には、小《チヒサ》く尋常《ヨノツネ》なるを、久知奈波《クナナハ》と云(ヒ)、やゝ大(キ)なるを幣毘《ヘビ》と云(ヒ)、なほ大(キ)なるを宇波婆美《ウハバミ》と云(ヒ)、きはめて大なるを蛇《ヂヤ》と云なり、遠呂智とは、俗《ヨ》に蛇《ヂヤ》と云(フ)ばかりなるをぞ云けむ、】名(ノ)義|尾於杼呂智《ヲオドロチ》にて、尾《ヲ》のおどろ/\しきを云なるべし、於杼呂《オドロ》は、棘《オドロ》【字鏡に藪(ハ)於止呂】驚《オドロク》などと同言なり、さてその於《オ》は、遠《ヲ》の韻《ヒビキ》にある故に省《ハブカ》り、【和泉(ノ)國(ノ)郷名|呼唹《ヲ》、大隅(ノ)國(ノ)郷名|囎唹《ソ》など、皆|遠《ヲ》の韻《ヒビキ》に於《オ》を添(ヘ)たり、】又|遠杼《ヲド》は遠《ヲ》と切《ツヅマ》ればなり、そも/\此蛇は、上《ウヘ》なき靈劔《アヤシキツルギ》を、尾中《ヲノナカ》にしも含持《フフミモタ》れば、其|威靈《イキホヒ》にて、餘所《コトトコロ》よりも尾は殊に、いかめしくおどろ/\しかりけむ、故(レ)尾を以て名に負《オフ》せしなるべし、智《チ》は例の稱名《タタヘナ》なり、【上に多し】書紀に、汝(ハ)是|可畏《カシコキ》之神と見え、又欽明(ノ)卷に、虎をも威《カシコキ》神と云ることある如く、かゝる物をも稱《タタヘ》て智《チ》とは云るなり、蛟《ミツチ》などの知《チ》も同じ、

〇来喫は伎弖久布那流《キテクフナル》と訓べし、出雲風土記に、神門(ノ)郡に來食(ノ)池と云あり、【こは何の由にて名《ナヅケ》しにかしらねど、言の同じきまゝに引出(デ)つ、〇口決に、大蛇呑(メドモ)2八兒(ヲ)1、而老公不v去2其地(ヲ)1、不v畏2大※〔虫+也〕(ヲ)1、任2天命(ニ)1と云るは、何事ぞ、凡てかく漢《カラ》めきたる意は、上代にさらに無きことなり、】

〇今《イマ》其《ソレ》の其(ノ)字、本どもに且と作《カケ》り、【もし且(ノ)字ならば、麻多《マタ》と訓べし、】今は眞福寺本及一本に依れり、其《ソレ》とは、上の遠呂智《ヲロチ》を指(シ)て云古言なり、【漢文に云|其《ソレ》とは、格《サマ》異なり、】

〇赤加賀智《アカカガチ》、書紀に、赤酸醤と書て此(ヲ)云(フ)2阿箇々鵝知《アカカガチト》1とあり、和名抄には、酸漿和名|保々豆木《ホホヅキ》と云り、名(ノ)意は赤赫都實《アカカガツミ》にて、都美《ツミ》を切《ツヅメ》て智《チ》と云なり、字鏡に、酸醤(ハ)加我彌吾《カガミゴ》、又|奴加豆支《ヌカツキ》とあり、【吾は誤字か、】加我彌《カガミ》は赫實《カガミ》なり、【和名抄に、蟒蛇(ハ)夜萬加々知《ヤマカガチ》と云物もあり、】書紀に猿田毘古(ノ)神のことをも、眼(ハ)如2八咫鏡1、而|※〔赤色〕然《テリカガヤクコト》似《ニタリ》2赤酸醤《アカカガチニ》1也とあり、

〇八頭八尾は、師の加志良夜都《カシラヤツ》袁夜都《ヲヤツ》と訓れつるぞ、皇國《ミクニ》の物言《モノイヒ》なる、

○蘿は許祁《コケ》なり、萬葉に多く此字を書(ケ)り、和名抄に、陸詞(ガ)切韻(ニ)云、苔(ハ)水衣也(ト)、和名|古介《コケ》とあり、【谷川氏云(ク)、許祁《コケ》は木毛《コケ》なり、】蘿は別に出して、女蘿也|比加介《ヒカゲ》、女蘿(ハ)萬豆乃古介《マツノコケ》などあれど、此《ココ》の蘿は、たゞ許祁《コケ》に用ひたるなり、

〇檜、字鏡に檜(ハ)比《ヒ》、和名抄にも和名|非《ヒ》とあり、

〇※〔木+温の旁〕、諸本椙と作《カケリ》、今は延佳本に依れり、抑古書どもに、須疑《スギ》に此字を用ひ、或は椙とも多く作《カケ》り、書紀顯宗(ノ)卷に、振之神※〔木+温の旁〕《フルノカムスギ》、※〔木+温の旁〕此(ヲ)云2須擬《スギト》1と見え、出雲風土記に、杉字或(ハ)作v椙(ニ)と見え、萬葉などにも、杉椙ともに用ひたり、和名抄に、杉和名|須木《スギ》、今按俗(ニ)用(ルハ)2※〔木+温の旁〕(ノ)字(ヲ)1非(ナリ)、※〔木+温の旁〕(ハ)柱也、見(ユ)2唐韻(ニ)1とあれど、漢籍にも集韻に、※〔木+媼の旁〕音※〔さんずい+媼の旁〕杉也と云り、【此《コ》は宋(ノ)代の書なれども、古き據ぞありけむ、さて※〔木+媼の旁〕を※〔木+温の旁〕と作《カ》くは、常のことなり、椙は※〔木+温の旁〕を誤れるものなるべし、さて須岐《スギ》は進木《ススギ》なり、此木かたはらへははびこらず、たゞに上へすゝみ上《ノボ》る木なればなり、直木《スグキ》とするはわろし、直《ナホ》をすぐと云こと、古(ヘ)にあらず、】さて此《ココ》を書紀には、松2栢|生《オヒ》於|背上《セニ》1とあり、

〇長は那賀佐《ナガサ》と訓べし、【大《オホキ》さ廣《ヒロ》さ長《ナガ》さなど云|格《サマ》の辭は、奈良までには正《マサ》しくは見あたらねども、必|言《イハ》ではえあらぬ辭なれば、如此《カク》訓つ、此(レ)を多氣《タケ》と訓るはかなはず、多氣《タケ》は高《タケ》にて、人又木草など、立《タテ》る物に云ことなり、蛇などは横に長き物にこそあれ、高く立(ツ)物にはあらねば、多氣《タケ》と云べき由なし、】

〇峽は袁《ヲ》と訓べきこと、谿八谷《タニヤタニ》の例にて明《シル》し、尾《ヲ》に此(ノ)字を書る例は、書紀懿徳(ノ)卷に曲峽《マガリヲノ》宮、神功(ノ)卷に活田長峽《イクタノナガヲノ》國などあり、【峽は和名抄に、峽(ハ)山間(ノ)陝(キ)處也、俗(ニ)云|山乃加比《ヤマノカヒ》、とある如くなれば、尾には非ず、但し荊州記に、三峽七百里(ノ)中、兩岸連山無(シ)2斷處1など云る、彼(ノ)山の長く連なれるさまを取て、尾に用ひたるにや、】書紀には、蔓2延《ワタル》於|八丘八谷之間《ヤヲヤタニノアヒダニ》1と書《カカ》れたり、【此餘《コノホカ》も尾には、畝丘《ウネヲ》頓丘《ヒタヲ》など、書紀には多く丘(ノ)字をかけり、】なほ山の尾の事は、下卷朝倉(ノ)宮(ノ)段【傳四十二の八葉】に委く云べし、

〇悉常は、許登碁登爾伊都母《コトゴトニイツモ》、

〇血爛は、知阿延多陀禮多理《チアエタダレタリ》と訓べし、書紀には此事なし、

〇註に、此《ココニ》謂云々、記中に如v此(ノ)き註の例は、下卷遠(ツ)飛鳥(ノ)朝(ノ)段|夜麻多豆《ヤマタヅ》の註と、此《ココ》とのみなり、

〇是汝之女者は、許禮汝之女那良婆《コレイマシノムスメナラバ》と訓べし、是《コレ》とは、童女《ヲトメ》を直《タダ》に指(シ)て詔ふ御言なり、

〇奉は、字のまゝに多弖麻都良牟夜《タテマツラムヤ》と訓べし、【舊《フル》く久禮牟夜《クレムヤ》と訓り、書紀も同じ、其《ソ》は吾《アレ》に奉《タテマツ》ると云むは、いかゞと思へる故の訓なれども、上代には、貴人は自《ミ》のうへをも、尊みて詔ふことつねなり、後(ノ)世の心を以て疑ふべきにあらず、久流《クル》と云言も、土佐日記うつほ物語などにも見えて、やゝ古(ル)けれど、なほ然《サ》は訓べきにあらず、】

〇恐亦は加志許氣禮杼《カシコケレド》と訓べし、速《スミヤカ》に諾《ヲヲトマヲ》すべきなれども、と云意の言なり、【師は、亦(ノ)上に然(ノ)字|脱《オチ》たるべしとて、カシコシヽカレドモと訓れき、此レもさることなれど、なほ本のまゝにて宜し、】かゝる處に、恐《カシコシ》と云言の意は、次に云を合せ考ふべし、

〇不覺御名は、御名袁志良受《ミナヲシラズ》と訓べし、是《コ》はいかなる御方かも知らず、と云意なるべし、【又上古には、女《ムスメ》を嫁《アハ》するには、必(ズ)その男の名告《ナノリ》を聞(ク)ならひかとも思へど、御答(ヘ)に御|名告《ナノリ》なければ、上の意なるべし、】書紀には此言なくて、たゞ隨《マニマニ》v勅《ミコトノ》奉(ム)矣とあり、

〇伊呂勢《イロセ》、中卷下卷には伊呂兄《イロセ》と書り、同母兄《ヒトツハラノアニ》を云なり、伊呂とは、本|愛《ウツク》しみ親《シタ》しみて云言なり、此事中卷浮穴(ノ)宮(ノ)段、常根津日子伊呂泥(ノ)命の下【傳廿一の十のひら】に委く云り、考ふべし、【師(ノ)説に、伊呂は家等にて、萬葉十四東歌に、伊波呂《イハロ》と云るこれなり、さて同母の子は、母と共に同家に在(ル)故に、伊呂|母《ハ》伊呂|兄《セ》伊呂|弟《ト》伊呂|姉《ネ》と云なりとあり、是(レ)ぞ古(ヘ)のさまをよく得られたるものと、さきには思ひしかど、非《アラ》ざりけり、】さて此(ノ)命は、御弟なれども、男命なる故に、兄《セ》と詔ふなり、其由は上【傳六の九葉】に云り、上に天照大御神の大御言にも、我那勢命《アガナセノ》とあり、

〇恐立奉は、下に天(ノ)尾羽張(ノ)神の答(ヘ)に、恐之仕奉《カシコシツカヘマツラム》と見え、又事代主(ノ)神の語にも、恐之《カシコシ》此(ノ)國(ハ)者|立2奉《タテマツラム》天(ツ)神(ノ)之御子(ニ)1と見え、又下卷穴穗(ノ)宮(ノ)段に、恐《カシコシ》隨《マニマニ》2大命(ノ)1奉進《タテマツラム》などあると、同(ジ)語(ノ)格《サマ》なり、恐は※〔言+可〕志許斯《カシコシ》と訓べし、速《スミヤカ》に諾《ヲヲトマヲ》して承る詞なり、【今(ノ)世(ノ)言に、承諾するを加志許麻理申多《カシコマリマシタ》といひ、奉(リ)v畏(マリ)候など書(ク)も、此(レ)より出たる言にて、全《モハラ》同(ジ)事なり、又|此《ココ》は、書紀仁徳(ノ)卷播磨(ノ)速待《ハヤマチ》が歌に、伽之古倶等望《カシコクトモ》、阿例椰始儺破務《アレヤシナハム》、とあるによく似たる趣なれば、如志許久斗毛《カシコクトモ》と訓べきかとも思へり、其《ソ》は賤《イヤシキムスメ》を奉むは、恐《カシコ》くともなり、然れども猶|前《サキ》の方に依るべし、】立奉は多弖麻都良牟《タテマツラム》と訓べし、如此《カク》書る例は、右に引る事代主(ノ)神の言、又|木花之佐久夜毘賣《コノハナノサクヤビメノ》段にもあり、立(ノ)字を添(ヘ)たる故は、まづ多都《タツ》とばかりも、物を獻ること、麻都流《マツル》とばかりも獻ることにて、多弖麻都流《タテマツル》と云は、本其(ノ)二(ツ)を重ねたる言なり、又獻るを麻陀須《マダス》と云ることあり、其を多弖麻陀須《タテマダス》とも云る、その多弖《タテ》も同じ、【多弖麻陀須《タテマダス》のことは、傳十六の二のひらに委く云を考へ合すべし、】さて奉(ノ)字は、多弖麻都流とも訓(メ)ども、又常に麻都流《マツル》とばかりにも用る故に、かく立(ノ)字を添(ヘ)ても書るなり、さて獻るを立とばかり云るは、大神宮儀式帳【六月十七日(ノ)夜|御食直會《ミケナホラヒノ》歌に、】佐古久志侶伊須々乃宮仁御氣立止《サコクシロイスズノミヤニミケタツト》云々、【御食《ミケ》奉るとてなり、】これなり、【又萬葉一に、山神乃奉御調等《ヤマツミノタツルミツギト》、六に宮柱太敷奉《ミヤバシラフトシキタテテ》などある、この二(ツ)の訓は、誤(リ)とは見ゆれど、奉(ル)を多都《タツ》ともいふことの有(リ)しから、古(ル)くよりかく訓るなれば、これらも一(ツ)の證とはすべくなむ、】

 

爾速須佐之男命《カレハヤスサノヲノミコト》。乃於湯津爪櫛取成其童女而《スナハチソノヲトメヲユツツマグシニトリナシテ》。刺御美豆良《ミミヅラニササシテ》。告其足名椎手名椎神《ソノアシナヅチテナヅチノカミニノリタマハク》。汝等釀八鹽折之酒《イマシタチヤシホヲリノサケヲカミ》。且作廻垣《マタカキヲツクリモトホシ》。於其垣作八門《ソノカキニヤツノカドヲツクリ》。毎門結八佐受岐《カドゴトニヤソノサズキヲユヒ》。【此三字以音】毎其佐受岐置酒船而《ソノサズキゴトニサカブネヲオキテ》。毎船盛其八鹽折酒而待《フネゴトニソノヤシホヲリノサケヲモリテマチテヨトノリタマヒキ》。故隨告而《カレノリタマヘルママニシテ》。如此設備待之時《カクマケソナヘテマツトキニ》。其八俣遠呂智信如言來《カノヤマタヲロチマコトニイヒシガゴトキツ》。乃毎船垂入己頭飲其酒《スナハチフネゴトニオノモオノモカシラヲタレテソノサケヲノミキ》。於是飲醉死由伏寢《ココニノミヱヒテミナフシネタリ》。爾速須佐之男命《スナハチハヤスサノヲノミコト》。拔其所御佩之十拳劔《ソノミハカセルトツカツルギヲヌキテ》。切散其蛇者《ソノヲロチヲキリハフリタマヒシカバ》。肥河變血而流《ヒノカハチニナリテナガレキ》。故切其中尾時御刀之刃毀《カレソノナカノヲヲキリタマフトキミハカシノハカケキ》。爾思怪《アヤシトオモホシテ》。以御刀之前刺割而見者《ミハカシノサキモチテサシサキテミソナハシシカバ》。在都牟刈之大刀《ツムガリノタチアリ》。故取此大刀《カレコノタチヲトラシテ》。思異物而《アヤシキモノゾトオモホシテ》。白上於天照大御神也《アマテラスオホミカミニマヲシアゲタマヒキ》。是者草那藝之大刀也《コハクサナギノタチナリ》。【那藝二字以音】

於湯津爪櫛取成其童女は、其童女袁湯津爪櫛爾取成《ソノヲトメヲユツツマグシニトリナシ》と訓べし、湯津は、上|湯津石村《ユツイハムラ》の下《トコロ》【傳五の七十一葉】に云るが如し、【清潔の義、又は木(ノ)名など云は、あたらず、】爪《ツマ》は、【借字】加都麻《カツマ》の上を略けるなり、加都麻《カツマ》は堅津間《カタツマ》にて、【多都を切《ツヅ》むれば都《ツ》なり、】櫛の齒《ハ》のしげくて、問《マ》の堅くせまれるを云り、无間勝間小船《マナシカツマノヲブネ》の勝間《カツマ》も此意なり、猶|彼處《カシコ》【傳十七の十二葉】に委く云べし、【古(ヘ)の櫛は、爪の形したりとも、妻櫛の意なりともいふは誤なり、】櫛は、本(ト)串《クシ》と同(ジ)名なり、黄泉《ヨミノ》段に火を燭《トモ》し賜ふを思へば、上代の櫛の齒は、やゝ長かりしかば、串と同(ジ)類(ヒ)ぞかし、取成《トリナシ》とは、取《トリ》はたゞ輕く添(ヘ)たる辭とも云べけれど、なほ手に執《トリ》て爲《ス》るを云なり、さて此《コ》は、下に令《シムレバ》v取(ラ)2其(ノ)御手(ヲ)1者、即(チ)取2成《トリナシ》立氷《タチビニ》1、亦取(リ)2成(ス)劔刃《タチノハニ》1、とあると同くて、此物を變化《カヘ》て彼(ノ)物に爲《ナス》なり、書紀に、立《タチトコロニ》化《ヲ》2奇稻田姫《クシナダヒメ》1爲《トリナシテ》2湯津爪櫛(ニ)1、而|挿《サシタマヒ》2於|御髻《ミミヅラニ》1と書《カカ》れたる、化(ノ)字にて明《シル》し、【古來此(ノ)立化(ノ)二字を、タチナガラと訓るはあたらず、立(ノ)一字をさも訓べし、さて化(ノ)字と下なる爲(ノ)字とを合せて、とりなしと云言に當れり、】然れば是(レ)は、比賣《ヒメ》の身體《ミ》を櫛に變化《ナシ》て、須佐之男(ノ)命の、己命《オノレミコト》の御美豆良《ミミヅラ》に刺《サシ》給(フ)なり、【然るに中古より異説ありて、稻田姫の處女《ヲトメ》なるよそひを化《カヘ》て、櫛を其|髻《ミヅラ》にさして、須佐之男(ノ)命の御妻にしたまふなりといひ、或は須佐之男(ノ)命の、稻田姫の形に化《ナリ》て、櫛を爲《ツクリ》て御髻にさしたまふなりと云は、みなひがことなり、】さて如v此《カクノ》く爲賜《シタマ》ふ所以《ユヱ》は、いかなるにか知(リ)がたし、清輔(ノ)奥義抄に、櫛に取(リ)成(シ)て、蛇に見せじとし賜(ヒ)けるにや、爪櫛には、惡鬼《アシキモノ》のおづる物にて侍るにこそ、同紀にも、醜女《シコメ》に追《オハ》れて、逃《ニグ》るにすぢなくて、懷《フトコロ》より爪櫛をとり出て打《ウチ》まく、其時醜女|追《オヒ》さして返りぬ、と云ることありと云り、【但しおぢて追《オヒ》さしたりとは見えず、】如此《カカ》る由にもや有(ラ)む、

〇御美豆良《ミミヅラ》は上【傳六の十一葉】に出(ヅ)、

八鹽折之酒《ヤシホヲリノサケ》、書紀に八※〔酉+媼の旁〕酒《ヤシホヲリノサケ》と書り、※〔酉+媼の旁〕は醸v酒(ヲ)也とも、久(ク)醸也とも、字書に注せり、又和名抄に、説文(ニ)云(ク)、酎(ハ)三重(ニ)醸(ル)酒也、【漢語抄(ニ)云(ク)、豆久利加倍世流佐介《ツクリカヘセルサケ》、】西京雜記(ニ)云(ク)、正旦(ニ)作(リ)v酒(ヲ)、八月(ニ)成(ル)、名(テ)曰2酎酒(ト)1、一名(ハ)九※〔酉+媼の旁〕とあり、さて此(レ)を夜志本袁理《ヤシホヲリ》と云|所由《ユヱ》は、私記に、或(ル)説(ニ)、一度(ビ)醸熟(シ)、絞(リ)2取(テ)其(ノ)汁(ヲ)1、棄(テ)2其糟(ヲ)1、更(ニ)用(テ)2其酒(ヲ)1爲《シ》v汁(ト)、亦更(ニ)醸(ム)v之(ヲ)、如(ク)v此(ノ)八度(ス)、是爲繪2純酷之酒(ト)1也、謂(フハ)2之(ヲ)鹽《シホト》1者、以(テ)2其(ノ)汁(ヲ)1、八度|絞返《シボリカヘス》故(ナリ)也、今(ノ)世(ニモ)亦謂(テ)2一度(ヲ)1、便(チ)爲《ス》2一鹽(ト)1也、謂(フハ)2之(ヲ)折《ヲリト》1者、以(テノ)2其(ノ)八度|折返《ヲリカヘスヲ》1故(ナリ)也、是(レ)古老(ノ)之説也と云り、此説大かた宜しかるべし、八度|折返《ヲリカヘス》とは、古何事にまれ囘復《カヘシ》て物するを、折と云るにや、物語文に折(リ)返し歌ふなどあり、【こは折《ヲリ》から折節《ヲリフシ》其折《ソノヲリ》彼新《カノヲリ》など云|折《ヲリ》と本同じ、又より/\のよりも同言なり、一度二度を、一(ト)より二(タ)よりと云は、此《ココ》の折《ヲリ》と全(ク)同じ、】又|酒折《サカヲリノ》池|酒折《サカヲリノ》宮など云もあるを思へば、折《ヲル》は酒を造るに殊に云言なるべし、さて新撰字鏡に、※〔酉+戎〕(ハ)志保留《シホル》とあり、【※〔酉+戎〕は、※〔酉+農〕(ノ)俗字と見ゆ、さて※〔酉+農〕は、説文に厚酒也と注せり、】此(レ)に依らば、厚酒を造るを志保留《シホル》とは云るにや、志保留《シホル》は即(チ)志本袁留《シホヲル》の切《ツヅ》まりたる言にて、幾度《イクタビ》も折返《ヲリカヘ》し釀《カム》意なるべし、【さて物を絞《シボ》ると云も、此(レ)より出たること、又物(ノ)色を染る度数を、一しほ二しほと云も、本(ト)同意にて、其《ソ》は理《リ》を略《ハブケ》る言ならむ、】さて志本《シホ》とは、【酒を造るにも色を染るにも】其(ノ)汁を云(フ)名にやあらむ、【潮《シホ》も、かの伊邪那岐(ノ)大神の段に、鹽許袁呂許袁呂邇畫成《シホコヲロコヲロニカキナシ》てふ古言によれば、凝堅《コリカタ》まるべき汁の意なり、さて食(フ)鹽は、潮より出たる名なり、】又|八鹽折之紐小刀《ヤシホヲリノヒモガタナ》と云もあり、其《ソ》は玉垣(ノ)宮(ノ)段【傳廿四の三十一葉】に云べし、

〇釀は、酒を造るを云、古歌にこれかれ見ゆ、字鏡に、釀(ハ)造(ル)v酒(ヲ)也、佐介加无《サケカム》と注せり、【此(ノ)加牟《カム》を、口《クチ》にて※〔口+父〕咀《カミ》て作る故なりと云は、おしあてのひがことなり、加牟は、和名抄に、麹を加無太知《カムダチ》とあるは、かびたちにて、俗に花の付(ク)と云これなり、されば酒も、かびだたせて作る意にて、加牟とは云なり、故(レ)加毛須《カモス》とも云り、】

〇垣《カキ》は限《カギリ》なり、

〇作廻は、師の作母登本志《ツクリモトホシ》と訓れたるに從ふべし、母登本志《モトホシ》は、母登本良志米《モトホラシメ》なり、母登本留《モトホル》は、即(チ)廻《メグ》ることなり、萬葉十九【三十一丁】に、大殿之此廻之雪莫蹈禰《オホトノノコノモトホリノユキナフミソネ》、また大殿乃此母等保里能《オホトノノコノモトホリノ》、なほ此(ノ)言、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段(ノ)歌に出(ヅ)、【傳十九の四十五葉】

〇毎(ニ)v門結八云々とは、門|毎《ゴト》に一(ツ)づゝにて、八門なれば、合せて八(ツ)結《ユフ》を云、【一門毎に八(ツ)づゝ、合せて六十四にはあらず、】古文《イニシヘコトバ》には此《カク》言《イヒ》て、ほのかに通《キカ》せたること多し、【大祓(ノ)詞に、天津金木を本打切末打斷て、千座置座に云々と云るも、打斷ての下に、置座に作りと云言を省《ハブキ》て、然《シカ》聞《キカ》せたるに同じ、此《ココ》も毎(ニ)v門結(ヒ)2佐受岐(ヲ)1、八(ノ)門(ニ)合(セ)て八(ノ)佐受岐と云ては、言重なる故に、省(キ)て然聞せたるものぞ、】よくせずばまぎれなむ、さて八稚女《ヤヲトメ》八俣《ヤマタ》八頭八尾八谷八尾八鹽折八門、いづれもたしかに七(ツ)八(ツ)の八には非で、本はたゞ多きを云るなるべし、
〇佐受岐《サズキ》は、書紀に、作(リ)2假※〔まだれ/(てへん+攴)〕|八間《ヤマヲ》1と書て、假※〔まだれ/(てへん+攴)此(ヲ)云2佐受枳《サズキト》1とあり、※〔まだれ/(てへん+攴)は閣也と字書に見え、又所3以藏2食物(ヲ)1とも見ゆ、和名抄(ノ)古本に、類聚國史(ニ)云(ク)、假床此間(ニ)云2佐受枳《サズキト》1、今案(ニ)假(リニ)構(フル)2屋(ノ)内(ニ)1床(ノ)之名也とあり、此(レ)らは字に就《ツキ》て云るのみなり、佐受岐《サズキ》は、後(ノ)世に物見る料に構《カマ》ふる、佐自伎《サジキ》と云物即是なり、【さじきは、即さずきの訛なり、書紀(ノ)釋に、今(ノ)世(ノ)棧敷歟と云り、棧敷の字は、おしあてに作れるものなるを、此(ノ)字に依て、さむじきと唱るは、いたくひがことなり、さじきてふ名は、物語文におほく見ゆ、】書紀神功(ノ)卷に祈狩《ウケヒガリ》の處に、二王各々居(ス)2假※〔まだれ/(てへん+攴)《サズキニ》1、赤猪《アカヰ》忽(チ)出(デ)之《テ》登(ル)2假※〔まだれ/(てへん+攴)《サズキニ》1、また雄略(ノ)卷に、張(リ)2夫婦(ノ)四支(ヲ)於木(ニ)1、置(テ)2假※〔まだれ/(てへん+攴)《サズキノ》上(ニ)1、以v火|燒死《ヤキコロス》なども見えたり、

〇置《オキ》2酒船《サカブネヲ》1而《テ》、書紀に、各置一口槽而《サカブネヲヒトツヅツオキテ》、盛(リ)v酒(ヲ)以《テ》待《マツ》之也とあり、

〇隨《ママニ》v告《ノリタマヘル》而《シテ》、如此《カク》云々、而《シテ》は爲而《シテ》の意なり、さて此處《ココ》は、如此(ノ)二字|長《アマ》れる如く聞ゆれども、【師は、此(ノ)二字を志加《シカ》と訓れつれど、然《シカ》訓《ヨム》べき處に非ず、】凡て如此《カク》と言《イフ》辭は、上に云(ヒ)終《ヲヘ》たる事を承《ウケ》て云辭なれば、此《ココ》も隨《ママニ》v告(ヘル)爲《シ》つなどと云(ヒ)終(ヘ)て、此辭を置(ク)べきを、此《ココ》は然《シカ》云(ヒ)切(リ)ては宜しからざる故に、而《テ》と云て、【此記の例として、隨と云る處は、いづれも必下に而(ノ)字を置(ケ)り、そは多くはまに/\と訓て、而(ノ)字は讀(ム)まじきなり、然るを此《ココ》は、そのなべての例とほ異《カハ》りて聞ゆるなり、】下に續《ツヅケ》たれども、斷《キレ》たる意にて、如此《カク》とは云るなり、これ古文のさまなり、而《シテ》を句《ヨミキリ》とすべし、此(ノ)字まで一句は、專(ラ)足名椎手名椎に係《カカ》り、如此設備待《カクマケソナヘテマツ》と云は、兼《カネ》て須佐之男(ノ)命にも係《カカ》れり、其故は、信《マコトニ》如《ゴト》v言《イヒシ》と云は、須佐之男(ノ)命の御心にて云ればなり、かかれば此(ノ)處は、語は斷《キレ》ざれども、事の轉《ウツ》る處なる故に、如此《カク》とは云るなり、【古今集序に、難波津の歌は、帝の御始なり、淺香山の言(ノ)葉は、※〔女+采〕《ウネベ》のたはぶれより讀て、此二歌は云々、此(レ)に讀てと云て、此二歌はと、轉《ウツシ》てつゞけたる文勢、此《ココ》と似たり、】

〇信《マコトニ》如《ゴト》v言《イヒシガ》とは、嚮《サキ》に老夫が、今《イマ》其《ソレ》可(キ)v來(ヌ)時(ナリ)と云し如くなり、書紀に、至《ナリテ》v期《トキニ》果《マコトニ》有(リ)2大蛇1云々とあり、【さて彼紀には、此處にて大蛇の形状を云(ヘ)れば、此《ココ》も、蛇の形状の、言《イヒ》し如くなりと云意もこもるべし、】

〇己頭、書紀に頭各一槽飲醉而【各(ノ)下に低(ノ)字など脱たるべし、今(ノ)本のまゝにては聞えず、各一槽(ノ)酒を飲(ミ)盡す意とするは強説《シヒゴト》なり、】とある、頭各《カシラオノオノ》と合せて思ふに、己(ノ)字|於能母於能母《オノモオノモ》と訓べし、【こゝは於能賀《オノガ》と云べき處にはあらず、】八(ノ)頭|各《オノオノ》なり、前にも云る如く、各《オノオノ》は己々《オノオノ》にて、即(チ)續紀廿六に、於乃毛於乃毛《オノモオノモ》とあり、

〇垂入(ノ)二字、多禮弖《タレテ》と訓べし、

〇死由(ノ)二字は、決《ウツナ》く誤れるものなり、眞福寺(ノ)本には、※〔死/由〕と一字に作《カケ》り、故(レ)思ふに皆(ノ)一字なるべし、皆《ミナ》とは八(ノ)頭|皆《ミナ》なり、

〇所御佩之十拳劔《ミハカセルトツカツルギ》、此劔の事、書紀一書に、其(ノ)斷(タマヘル)v蛇(ヲ)劔(ノ)號《ナハ》曰(フ)2蛇之麁正《ヲロチノアラマサト》1、此(レ)今|在《マス》2石上《イソノカミニ》1也、又一書には、以(テ)2蛇韓鋤之劔《ヲロチノカラサヒノタチヲ》1斬(タマフ)云々、其(ノ)斷(タマヘル)v蛇(ヲ)之劔(ハ)、今|在《マス》2吉備(ノ)神部許《カムドモノヲノモトニ》1也、又一書には、以(テ)2天(ノ)蠅斫《ハヘキリノ》之劔(ヲ)1斬(タマフ)とあり、古語拾遺には、以(テ)2天(ノ)十拳劔(ヲ)1斬とありて、其名|天羽々斬《アメノハハキリ》、今|在《マス》2石上《イソノカミノ》神(ノ)宮(ニ)1と注せり、【石上は、一書に吉備(ノ)神部(ノ)許ともあるから、備前(ノ)國赤坂(ノ)郡石上布都之魂(ノ)神社これなりと云り、まことに一わたりは誰も然思はるれど、よく思へばさにあらず、其故は、さしも名高き倭《ヤマト》なるをおきて、吉備なるを、たゞに石上とは云てむや、若(シ)吉備のならば、かならず吉備(ノ)石上などとこそ云べけれ、さればなほ倭の石上なるべし、さて推度《オシハカリ》ていはば、書紀崇神(ノ)卷六十年に、矢田部(ノ)造(ノ)遠祖武諸隅を御使として、出雲(ノ)大神(ノ)宮に藏れる神寶を、召上て見たまふことあり、矢田部(ノ)造は、姓氏録によるに、物部氏の別(レ)なり、さて垂仁(ノ)卷廿六年に、物部(ノ)十千根(ノ)大連に詔て、出雲の神寶を檢校しめ、仍て神寶を掌らしむ、又八十七年の文に、同人石上の神寶を掌ること見ゆ、然れば此(ノ)須佐之男(ノ)命の御劔、出雲(ノ)神宮に藏れりしを、右の崇神垂仁の御時など、餘の神寶と共に、京に召(シ)上(ゲ)たまひて、其時よりや石上には納められたりけむ、此(ノ)石上には、なほ種々の神寶を納められしこと、垂仁(ノ)御卷に見えたり、さて後に所以《ユヱ》ありて、備前(ノ)國へ遷し奉しなるべし、其時倭の本(ノ)宮の名を取て、かしこをも、石上布都(ノ)御魂(ノ)神社とは申すならむ、いかにまれ、石上布都(ノ)魂と云名は、必倭のより出たること明《シル》きをや、かゝれば書紀又拾遺に、在2石上(ニ)1と云るは、初(メ)倭に坐(シ)し時の傳へ、在2吉備(ニ)1と云るは、遷りたまひて後の傳へ説《ゴト》なるべし、然るに備前の石上(ノ)社(ノ)傳説には、神劔は昔大倭の石上へ遷し奉て、此(ノ)社には坐まさずと云り、いかゞあらむ、又此劔在2吉備(ニ)1とあるにつきて、須佐之男(ノ)命の蛇を斬たまひしも、實は備前(ノ)國なり、故に簸(ノ)川といふも備前にあり、出雲の斐(ノ)川にはあらず、と云説もあれど、信《ウケ》られず、】

〇切散は伎理波布理《キリハフリ》と訓べし、水垣(ノ)宮(ノ)段に、斬2波布理《キリハフリ》其(ノ)軍士《イクサビトヲ》1と有(ル)に依れり、委くは彼處【傳廿三の八十一葉】に云べし、書紀には寸斷《ツダツダニキル》とあり、

〇變血は知邇那理弖《チニナリテ》と訓べし、書紀には此事見えず、仁徳(ノ)卷六十七年、笠(ノ)臣(ノ)祖縣守が、備中(ノ)國(ノ)川鳴川《カハナリガハ》の派《カハマタ》なる大※〔虫+礼の旁〕《オホミツチ》を斬《キレ》る處にぞ、河水《カハミヅ》變《カヘヌ》v血(ニ)と見えたる、【變をカヘヌと訓るは、かへりぬなり、かへるとは、色のかはるをいふ、】

〇中尾《ナカノヲ》とは、八(ノ)尾なれば、端《ハシ》なる中《ナカ》なるあるなり、

〇御刀《ミハカシ》は即右の十拳劔なり、

〇刃《ハ》毀《カケキ》、毀は迦祁伎《カケキ》と訓べし、伎《キ》は語(リ)辭なり、尾(ノ)中に劔ある故に、其《ソレ》に觸《フレ》て刃《ハ》の毀《カケ》つるなり、

〇都牟刈之大刀《ツムガリノタチ》、【刈を伎《キ》と訓るは由なし、又羽と作《カケ》る本も誤なり、】書紀にはたゞ劔、また神劔とのみあり、都牟賀理《ツムガリ》とは、物を利《ト》く截斷貌《キリタツサマ》を云(フ)言にて、今(ノ)世(ノ)語に、豆加理《ヅカリ》又|須加理《スツカリ》など云即是なり、大神宮(ノ)神寶に、須我流横刀《スガルノタチ》と云あるを、【式又儀式帳などに見ゆ、】須我利劔《スガリノタチ》とも云り、又式に、出雲(ノ)國出雲(ノ)郡|都我利《ツガリノ》神社と云あり、是等《コレラ》も同言なり、さて都流岐《ツルギ》と云も、此(ノ)都牟賀理《ツムガリ》の約《ツヅマ》りたる名【賀理《ガリ》は岐《ギ》と切《ツヅマ》り、牟《ム》と流《ル》と通ふ、】なれば、都牟刈之大刀は、劔之太刀《ツルギノタチ》といふに同じ、【師の冠辭考つるぎだちの條に、此(ノ)事見えたれども其説まぎらはしく、又たがへることあり、其《ソ》は都牟刈は尖《トガ》りたる意と云ながら、又|刈《カリ》は葉刈《ハカリ》草薙《クサナギ》など云て、物を刈斷《カリタツ》こゝろなりと云れたるはいかゞ、今思ふに、尖《トガ》りたる意にはあらじ、又|大葉刈《オホバカリ》草薙《クサナギ》なども、刀《タチ》の利《ト》きを云る名なれども、大葉刈の刈は、木草の葉を刈斷《カリタツ》を云(ヒ)たるなれば、都牟刈の刈とは異なり、都牟賀理は利《ト》く截斷貌《キリタツカタチ》を云言なれば、刈は借字なり、此(ノ)わきためよくせずば混《マガ》ひぬべし、】大刀《タチ》は、師の考に、斷《タチ》の意にて名けたりと云れたるが如し、物を斷具《タツモノ》なればなり、さて古書には、多知《タチ》とも都流岐《ツルギ》とも、たゞ同(ジ)物を通はし云り、【都流岐は、右に云る如く、物を利《ト》く斷切《タチキ》るさまを云言なれば、正《タダシ》くは都流岐能多知《ツルギノタチ》と云を、略きて都流岐とのみも云なり、然れば精《クハ》しく分《ワケ》ていふときは、多知《タチ》はなべての名、都流岐《ツルギ》は其用を稱《ホメ》たる名なり、】文字も、劔とも大刀とも刀とも横刀とも通はし書て、差別《ワキタメ》なし、【然るを和名抄に、四聲字苑(ニ)云(ク)、似(テ)v劔(ニ)而一刃(ナルヲ)曰v刀(ト)、似(テ)v刀(ニ)兩刀(ナルヲ)曰v劔(ト)、また屬鏤、文選(ノ)讀《ヨミ》豆流岐《ツルギ》と云るは、漢国のさだなり、此(レ)に依て、劔をばかならず都流岐《ツルギ》とよみ、多知《タチ》には必大刀と書(ク)ことと心得るは、後世のことなり、さて師の、古(ヘ)のは皆|諸刃《モロハ》なり、片刃《カタハ》なるは後の物ぞと云(ハ)れしは、信《マコト》にさることなり、但(シ)上代にも、小刀《チヒサキタチ》には、片刃なるも有(リ)つとおぼしきことあり、玉垣(ノ)朝(ノ)段に、紐小刀とあるは、必|比毛賀多那《ヒモガタナ》と訓べきなり、書紀にも七首と書て、然よめり、その加多那《カタナ》てふ名は、片刃《カタバ》か片薙《カタナギ》かの義《ココロ》と聞ゆ、然れば上代にも、小刀には片刃なるもありて、其《ソ》を加多那とは云しなるべし、和名抄にも、大刀(ハ)和名|太刀《タチ》、小刀(ハ)加太奈《カタナ》、又刻鏤鐘具にも、刀子(ハ)賀太奈《カタナ》とあり、然るを片刃なるが便《タヨリ》よき故に、いつとなく後には、大刀《タチ》をも凡て片刃にすることにはなれりけむ、天智紀三年、大氏(ノ)之氏上(ニハ)賜(ヒ)2大刀(ヲ)1、小氏(ノ)之氏上(ニハ)賜(フ)2小刀(ヲ)1とあり、これらの小刀は、諸刃なりしか片刃なりしか、知がたし、又武烈紀(ノ)歌に、飫〓陀※〔手偏+致〕《オホダチ》とあるは、大刀《タチ》の中にて大(キ)なるをいふなるべし、】

〇故取此大刀、舊印本又一本には、此五字無し、今は眞幅寺本又延佳本に依れり、

〇思《オモホシ》2異物《アヤシキモノゾト》1而《テ》白上云々、書紀に是神劔也《コハアヤシキタチナリ》、吾何敢私以安乎《ワレイカデカワタクシニオカムトノリタマヒテ》、乃|上2獻《タテマツリタマヒキ》於天(ツ)神(ニ)1也、【古語拾遺も同】又一書に、此《コレ》不《アラズ》v可《ベキニ》2以|吾私用《ワレワタクシニモチフ》1也、乃遣(シテ)2五世(ノ)孫天之葺根《ミコアメノフキネノ》神(ヲ)1、上2奉《タテマツリタマヒキ》於天(ツ)神(ニ)1とあり、【たゞ天神といひ、又天と云るは、正しく天照大御神に獻りたまふには非ずと聞ゆめれど、此大刀後に御孫(ノ)命に授け賜へれば、天照大御神の御許に納れりしこと明(ケ)し、】又一書に、此(ノ)劔昔(シ)在(リ)2素盞嗚《スサノヲノ》尊(ノ)許(ニ)1とあるは心得ず、白上《マヲシアゲ》は、此(ノ)大刀を得《エ》給ひつる事のあるかたちを白《マヲ》して、獻りたまふなり、【此《コ》は自《ミ》高天(ノ)原に參上《マヰノボリ》てにはあらず、人を使《ツカ》はして獻りたまふなり、白《マヲシ》と云る言、おのづから然聞ゆ、】上《アゲ》とは、此(ノ)國より高天(ノ)原に上《アグ》るを以ていふなり、そも/\此大刀の事、始(メ)に伊邪那岐(ノ)大神の、伽具土《カグツチノ》神を斬(リ)給ひし、御刀《ミハカシ》に着《ツケ》る血の成《ナ》れる樋速日《ヒハヤビノ》神、斐伊《ヒノ》郷に住《スミ》給(ヒ)て、其(ノ)斐伊《ヒノ》川上にして、今|如此《カク》大蛇を斬(リ)給(ヒ)て、其(ノ)川血に變《ナリ》て流(ル)と云(ヒ)、その尾(ノ)中より、又此(ノ)靈劔《アヤシキタチ》を得《エ》給へること、此彼《コレカレ》深き由縁《ヨシ》あるかな、【さて又かの樋速日(ノ)神と同く成(リ)坐る、建御雷(ノ)神の御大刀、石(ノ)上に鎭(リ)坐せば、此《ココ》の須佐之男(ノ)命の御大刀の、同く石(ノ)上に坐(シ)しも、又|由縁《ユヱヨシ》有(リ)けり、】

〇草那藝之大刀《クサナギノタチ》、大刀は、下に出たるには皆劔と作《ア》り、同じことなり、書紀にも、草薙劔此(ヲ)云2倶娑那伎能都留伎《クサナギノツルギト》1とあり、さて此《ココ》に如此《カク》云るは、後(ノ)名を擧て知らせたるものなり、書紀に、此所謂《コレイハユル》草薙(ノ)劔(ナリ)也、一書曰、本(ノ)名(ハ)天(ノ)※〔草がんむり/聚〕雲《ムラクモノ》劔、蓋(シ)大蛇(ノ)所居之上《スメルトコロノウヘニ》、常(ニ)有(リシ)2雲氣《クモ》1故(ニ)以名歟《ナヅケタルカ》、至(テ)2日本武(ノ)皇子(ニ)1、改(メテ)名2曰《ナヅケキ》草薙(ノ)劔(ト)1矣とあり、なほ此(ノ)大刀の事、倭建(ノ)命(ノ)段にいふべし、【傳廿七の四十六葉又五十六葉又十九の二十三葉又廿八の十九葉】

故是以其速須佐之男命《カレココヲモテソノハヤスサノヲノミコト》。宮可造作之地求出雲國《ミヤツクルベキトコロヲイヅモノクニニマギタマヒキ》。爾到坐須賀【此二字以音下效此】地而詔之《ココニスガノトコロニイタリマシテノリタマハク》。吾來此地《アレココニキマシテ》。我御心須賀須賀斯而《アガミココロスガスガシトノリタマヒテ》。其地作宮坐《ソコニナモミヤツクリテマシマシケル》。故其地者於今云須賀也《カレソコヲバイマニスガトゾイフ》。茲大神初作須賀宮之時《コノオホカミハジメスガノミヤヲツクラシシトキニ》。自其地雲立騰《ソコヨリクモタチノボリキ》。爾作御歌《カレミウタヨミシタマフ》。其歌曰《ソノミウタハ》。夜久毛多都《ヤクモタツ》。伊豆毛夜幣賀岐《イヅモヤヘガキ》。都麻碁微爾《ツマゴミニ》。夜幣賀岐都久流《ヤヘガキツクル》。曾能夜幣賀岐袁《ソノヤヘガキヲ》。於是喚其足名椎神《ココニカノアシナヅチノカミヲメシテ》。告言汝者任我宮之首《イマシハアガミヤノオビトタレトノリタマヒ》。且負名號稻田宮主須賀之八耳神《マタナヲイナダノミヤヌシスガノヤツミミノカミトオホセタマヒキ》。

是以《ココヲモテ》とは、櫛名田比賣を得《エ》給へることを承《ウケ》て云り、宮造(リ)の事に係(ケ)たり、

〇宮《ミヤ》可《ベキ》2作造《ツクル》1之|地《トコロヲ》、【宮(ノ)字は、作(ノ)字の下にある意に見べし、】宮《ミヤ》は御宅《ミヤ》なり、さて此(ノ)宮造(リ)は、全《モハラ》櫛名田日女に御合《ミアヒ》坐む料なり、書紀に、然後行《ソノノチユクユク》覓《マギテ》2將《ム》v婚《ミアヒマサ》之|處《トコロヲ》1とある、即|此《ココ》の文に當るを以知べし、凡て上(ツ)代に、婚禮《トツギワザ》するには、先(ヅ)其(ノ)屋《ヤ》を造りしことと見ゆ、かの伊邪那岐伊邪那美(ノ)大紳の御時にも、先(ヅ)八尋殿《ヤヒロドノ》を見立《ミタテ》賜(ヒ)しこと、思(ヒ)合すべし、出雲風土記にも、神門(ノ)郡八野(ノ)郷を、八野若日女《ヤヌワカヒメノ》命|坐《マシキ》之、爾時《ソノトキ》所2造《ツクラシシ》天下1大神大穴持(ノ)命、將《ムト》2娶給《ミアヒタマハ》1爲而《シテ》、令《シメ》v造(ラ)v屋《ヤヲ》給(フ)、故(レ)云(フ)2八野《ヤヌト》1と云り、

〇須賀地《スガノトコロ》、書紀に、遂《ツヒニ》到《イタリマス》2出雲(ノ)之|清地《スガノトコロニ》1焉と有て、清地此(ヲ)云2素鵝《スガト》1と注せり、【注の地(ノ)字は衍なるべし、】

〇我御心須賀須賀斯《アガミココロスガスガシ》、【これを須々賀々斯と作《カケ》る本あり、古(ヘ)の書格《カキサマ》なり、】書紀に、乃(チ)言曰《コトアゲシタマハク》、吾心清淨之《アガミココロスガスガシ》とあり、此言の意は、濯々斯伎《ススガススガシキ》なり、【すゝぐを、すゝがしきと云は、さわぐをさわがしき、もどくをもどかしきと云と、同格の語《コトバ》づかひなり、〇源氏物語などに、須賀須賀《スガスガ》と云言多し、それは滯《トドコホリ》なく、速《スミヤカ》に事の行(ク)を云(ヘ)れば、此《ココ》とは本より別《コト》意か、又垢なく清きと、滯ることなきと似たれば、本は一(ツ)意か、なほ此事は、中卷明(ノ)宮(ノ)段に、須久須久登《スクスクト》と云る言の處に、委く云(ヒ)てむ、】今此(ノ)地に來坐《キマシ》つれば、御心《ミココ》ちの、洗濯《アラヒススキ》たる如く、潔《イサギヨ》く所思《オボエ》給ふなり、今(ノ)世の言に、心の清《スム》と云に同じ、出雲風土記に、意宇(ノ)郡|安來《ヤスキノ》郷(ハ)、神須佐乃烏《カムスサノヲノ》命、天避立廻坐《アメノソキタチメグリマシキ》之、爾時《ソノトキ》來2坐《キマシテ》此(ノ)處(ニ)1而詔(ハク)、吾(ガ)御心(ハ)者|安平成《ヤスクナリヌト》詔(ヒキ)、故(レ)云2安來《ヤスキト》1也、とあると合せて見よ、處は異なれども、事のさま全《モハラ》同きを以て、古(ヘノ)傳(ヘ)の意を准《ナズラヘ》て知べし、安平成《ヤスクナル》も、心の落着《オチツク》意なれば、心の清《スム》と云と同じきをや、【然れば此(レ)はたゞ、此時の自《ミ》所思《オボス》御こゝちを云るにて、俗に云(フ)心持《ココロモチ》なり、全體《オホカタ》の御心の善惡のさだには非ず、然るを穢惡心性亡《アシキココロウセ》て、清淨善心《ヨキココロ》に變化《ナリ》たまふ意とするは、くはしからぬことなり、凡て漢意に溺れたる學者のくせとして、やゝもすれば萬の事を、儒佛の心法に説《トキ》なさむとするから、此《ココ》の御言などを執《トラヘ》て、心の祓除など云なるは、痛《イタ》く強言《シヒゴト》なり、又同記に、秋鹿(ノ)郡多太(ノ)郷(ハ)、須佐能乎(ノ)命(ノ)御子衝杵等乎而留比古(ノ)命、國|巡行《メグリ》坐(シシ)時、至(リ)2坐(テ)此處《ココニ》1詔(ク)、吾(ガ)御心|照明正眞成《アカクタダシクナリヌ》、吾者此處靜將坐《アハココニシヅマリマサムト》詔(テ)而|靜《シヅマリ》坐(ヌ)、故(レ)云2多太《タダト》1とあるも、似たることなり、】抑々|前《サキ》に既に御身の鬚《ヒゲ》爪《ツメ》などまでを拔て、祓《ハラヒ》たまひしかども、なほ穢(レ)の盡終《ツキハテ》ざりしにや、其(ノ)後しも大宜都比賣(ノ)所を、ゆくりなく殺(シ)給ふ惡行《アシキワザ》あり、【然れども、此神の御身に種々《クサグサノ》物の成(リ)て、世の大(キ)なる利《クポサ》を得つるは、祓除の功徳《イサヲ》にて、惡事の中より、はや善事の始れるなり、】さて後に大蛇《ヲロチ》を斬《キリ》て、無上靈劔《ウヘナキアヤシキタチ》を得て獻り給へる、此(ノ)功《イサヲ》たぐひなきに因(リ)て、【蛇を殺して、民の害を除きたまふを以て功とするは、あたらず、其《ソレ》ばかりの事は、此(ノ)神の御上《ミウヘ》にとりては、何《ナニ》ばかりの功にもあらじをや、】以往《コシカタ》の穢(レ)は、皆|盡《ツキ》はてたる故に、今|自《オノヅカ》ら御|心《ココ》ち清々《スガスガ》しく爲《ナリ》て所思《オボシ》めすなるべし、さて來《キテ》2此地《ココニ》1と、其地に係《カケ》て云るは、此地に又深き所以《ユヱ》あるべし、そは凡心《タダビトゴコロ》には測《ハカリ》がたし、そも/\此地は、櫛名田比賣に御婚坐《ミアヒマシ》て、其《ソノ》生《ウミ》の御子孫《ミコ》、天(ノ)下に大(キ)なる功績《イサヲ》を立《タテ》給ふべき始(メ)の地なれば、此處《ココ》に來坐て、御心すが/\しくおぼしけむも、宜《ウベ》にざりける、

〇作《ツクリテ》v宮《ミヤ》坐《マシマシケル》、この坐(ノ)字は、上の到坐《イタリマシ》の坐とは異にして、住居《スミ》たまふと云意なれば、麻志々々氣流《マシマシケル》と訓べし、【上の麻志《マン》は住居《スム》なり、下の麻志《マシ》は崇辭《アガメコトバ》なり、さて下に祁流《ケル》と云ことを添(ヘ)たるは、語の勢によれり、其《ソ》は祁理《ケリ》と云(ハ)ずして、祁流《ケル》としも云ことは、上の其地を、曾許爾那母《ソコニナモ》と訓る、那母《ナモ》の結《ムスピ》辭なり、凡て文章《アヤコトバ》は、如(ク)v此(ノ)上下相(ヒ)應《カナ》ふ辭の格あることなるを、後(ノ)世人の文は、みな亂(レ)て、辭のくさりを知れる人すべてなし、近きころ文章にほこる人あれど、猶これを知らず、】但(シ)此(ノ)命は、根(ノ)國に罷《マカリ》たまふべきなれば、【書紀に、遂《ツヒニ》就《イデマシヌ》2於根(ノ)國(ニ)1矣とあり、此記には、此《ココ》には此(ノ)事をいひもらしたれども、下文に至て、根之竪洲國に坐(ス)事見えたり、】現御身《ウツシオミ》の、永《ナガ》く此(ノ)地に住《スミ》給ふべきならねば、坐《マシマス》とは、たゞ御靈《ミタマ》の留《トドマリ》て、熊野《クマヌノ》神(ノ)宮に鎭坐《シヅマリマス》ことを、後《ノチ》より云る語なるべし、【其由はなほ次に云、】

〇於《ニ》v今《イマ》云《イフ》2須賀《スガト》1也、此(ノ)地は、出雲風土記を細《コマヤカ》に考るに、まづ大原(ノ)郡|須我《スガ》山(ハ)、郡家(ノ)東北一十九里一百八十歩、須我《スガノ》小川(ハ)、源出(ヅ)2須我山(ヨリ)1と見えて、【又同郡御室山(ハ)、郡家(ノ)東北二十九里一百八十歩、神須佐乃乎(ノ)命、御室令(メ)v造(ラ)給(ヒテ)所(ナリ)v宿(リタマフ)、故(レ)云2御室(ト)1とも見ゆ、此(ノ)御室は、須賀(ノ)宮とは別に造り給ひしか、又須我山も此(ノ)山も、共に郡家(ノ)東北一十九里一百八十歩とあれば、相近き處なれば、須賀(ノ)宮のことを、如此《カク》傳へたるか、又同郡(ニ)須我(ノ)社も見ゆ、】又意宇郡野代川(ハ)、源出(ヅ)2郡家(ノ)正南一十八里須我山(ヨリ)1とある、此(ノ)須我山も、即(チ)右の大原(ノ)郡なるを云なり、【須我山は、大原意宇二郡にわたりて、其堺にあり、】さて同郡熊野山(ハ)、郡家(ノ)正南一十八里、所謂《イハユル》熊野(ノ)大神(ノ)之社坐(ス)と見ゆ、かゝれば、須我山熊野山は、相並べる處なれば、【共に郡家(ノ)正南十八里とあればなり、】熊野(ノ)神宮ぞ、即(チ)此(ノ)須賀(ノ)官處なるべき、故(レ)思ふに、久麻野《クマヌ》は隱野《コモリヌ》の義《ココロ》にして、【久麻《クマ》と許母理《コモリ》と通ふことは、傳三の卅六葉に云るが如し、】御歌詞の都麻碁微《ツマゴミ》の由なるべし、【或説に、須賀(ノ)宮地は、出雲(ノ)郡出雲(ノ)郷にして、式(ニ)出雲(ノ)神社とある是なりと云り、伊豆毛夜弊賀岐《イヅモヤヘガキ》と云御詞によれば、信《マコト》に此説も由なきに非ず、然れども、風土記に現に山川社などの名に須我と見え、又御室山の傳説、又熊野(ノ)御社など、彼(レ)此(レ)を思ふに、猶上の考(ヘ)に依るべし、又杵築(ノ)大社のあたりに、今其(ノ)趾《アト》と云處、又八雲山など云あるは、後(ノ)世の作(リ)事なり、】さて此(ノ)神宮は、式に意宇(ノ)郡熊野(ニ)坐(ス)神(ノ)社【名神大】とある是なり、【風土記に、熊野大社とあり、文徳實録三、仁壽元年九月、出雲(ノ)國熊野杵築兩大神、並(ニ)加2從三位(ヲ)1、三代實録、貞觀元年正月、奉v授2正三位(ヲ)1、五月授2従二位(ヲ)1、九年四月授2正二位(ヲ)1、】さて此(ノ)社の、須佐之男(ノ)命に坐(ス)ことは、國(ノ)造(ガ)神賀(ノ)詞に、出雲(ノ)國|乃《ノ》青垣山(ノ)内|爾《ニ》、下津石根|爾《ニ》宮柱太敷立|※〔氏/一〕《テ》、高天(ノ)原|爾《ニ》千木|高知坐須《タカシリマス》、伊射那伎乃日眞名子《イザナギノヒマナゴ》、加夫呂伎熊野《カブロギクマヌノ》大神|櫛御氣野《クシミケヌノ》命、風土記にも、伊弉奈枳乃麻奈子《イザナギノマナゴニ》坐(ス)熊野加武呂乃《クマヌカムロノ》命とあり、【伊邪那岐(ノ)命の御子は多かる中にも、天照大御神月讀(ノ)命須佐之男(ノ)命は、ことに御愛子《ミマナゴ》に坐(ス)こと、上に見えたり、日《ヒ》は、日子《ヒコ》日女《ヒメ》の日《ヒ》に同じ、加夫呂伎《カブロギ》とは、大名持(ノ)命の御祖なるゆゑに、出雲(ノ)國にては、殊に如此《カク》申せるなり、櫛御氣野(ノ)命と申す御名は、他神《アダシカミ》の如く思ふ人あるべけれど、さにあらず、こは須佐之男(ノ)命の、熊野(ノ)宮に鎭坐(ス)御靈《ミタマ》を、殊に稱《タタヘ》申せる御名なるべし、その例は、同神賀(ノ)詞に、大穴待(ノ)命の事を、倭(ノ)大物主櫛※〔瓦+肆の左〕玉(ノ)命|登名乎稱天《トナヲタタヘテ》とあり、此名も他には見えぬを思ふべし、式に熊野と同郡に、久志美氣濃(ノ)神社と云も別にあるは、熊野(ノ)神を、又別に祠れるなるべし、さて舊事紀に、此(ノ)須佐之男(ノ)命を、坐2熊野杵築(ノ)神宮(ニ)1と云るは、例の妄説《ミダリゴト》なり、又師の祝詞考に、熊野(ノ)神社を、穗日(ノ)命の御子健三熊(ノ)命とせられしは、熊と云名に依(リ)てのことなれど、誤なり、さてはかなはぬこと多し、伊射那伎乃日眞名子と云(ヒ)、又かの神賀(ノ)詞のみならず、文徳實録三代實録などにも、熊野は先《サキ》、杵築は後にあげ、又勲位も、杵築は一等降れり、これらかの健三熊(ノ)命にてかなふべきかは、須佐之男(ノ)命に坐(ス)こと、うたがひなきものなり、】

〇茲大神《コノオホカミ》、こゝに始(メ)て大神と申せり、【下皆同】伊邪那岐(ノ)命をも、黄泉《ヨミノ》段の次よりは、大神と申せり、共に故あることなるべし、さて此《ココ》は、熊野(ノ)宮に鎭(リ)坐(ス)ところを指て申せるなり、【若(シ)然らずは、更めて茲(ノ)大神と云べきに非ず、】於《ニ》v今《イマ》云(フ)2須賀(ト)1と云て、其(ノ)須賀(ノ)宮に鎭(リ)坐(ス)茲(ノ)大神と云(フ)意、おのづからあらはなり、【須賀と熊野とは、本一(ツ)なりしが、やゝ後には、その須賀てふ名は、近きわたりの山川にのこり、熊野てふ名は、神宮にのこりて、つひに別なるが如くなれるなり、さてかの熊野久須毘(ノ)命も、此(ノ)地(ノ)名より出たる御名なるべし、そは彼(ノ)命も、此(ノ)熊野に住たまひしなるべし、】

〇初作は、都久理波自米賜《ツクリハジメタマフ》と訓ても有ぬべし、されど茲(ノ)大神とは、此(ノ)宮に鎭(リ)坐(ス)ところを後より云て、是は立(チ)返(リ)て、其(ノ)初《ハジメ》を云(フ)なれば、初(ノ)字を、別に波自米《ハジメ》と訓べし、

〇雲立騰《クモタチノポリキ》、是(レ)は此(ノ)地に宮造(リ)婚《ミアヒ》坐て吉《ヨ》かるべき瑞《シルシ》なりしか、又|何《ナニ》の雲とも無《ナケ》れば、【古今集序(ノ)小注に、八色《ヤイロ》の雲の立(ツ)を見てと云るは、御歌(ノ)詞に依て云る妄説《ミダリゴト》なり、】たゞ尋常《ヨノツネ》」の雲にて、何《ナニ》となく立《タチ》しにても有むかし、此事書紀には見えず、御歌をも、或云とてぞ載られたる、

〇作御歌は、美宇多余美斯賜《ミウタヨミシタマフ》と訓べし、書紀神武(ノ)御卷に、爲《シタマフ》2御謠1之、謠此(ヲ)云2宇多預瀰《ウタヨミト》1とあり、枕册子にも、うたよみしておこせたるとあり、今(ノ)世にも、女童《ヲミナワラハ》の語に云ことなり、さて宇多《ウタ》と云名、又|余牟《ヨム》と云ことの由などは、予《オノレ》別《コト》に委き説あり、言《コト》長ければ此《ココ》には略《モラ》しつ、

〇其歌曰は、曾能美宇多波《ソノミウタハ》と訓べし、【曰(ノ)字は、漢文の格以て書るものにて、古語にかなはねば.讀(ム)べからず、何處《イヅコ》も何處《イヅコ》も然なり、】

〇夜久毛多都《ヤクモタツ》は、彌雲起《ヤクモタツ》にて、彼(ノ)雲の立(チ)騰るを、打見給へる隨《ママ》に詔へる御詞なり、夜《ヤ》は彌《イヤ》にて、幾重《イクヘ》も立疊《タチカサ》なる意ぞ、

〇伊豆毛夜幣賀岐《イヅモヤヘガキ》、伊豆毛《イヅモ》は出雲《イデクモ》にて、伊傳久毛《イデクモ》の傳久《デク》を約《ツヅメ》て、豆《ヅ》となれるなり、【此《ココ》は國(ノ)名には非ず、たゞ出《イデ》たる雲を云ことなり、】夜幣賀岐《ヤヘガキ》は彌重垣《イヤヘガキ》にて、幾重《イクヘ》もあるを云(フ)、但し此《ココ》は、實《マコト》の垣を云には非ず、八重雲《ヤヘグモ》の立(チ)出るを、垣とは云(ヒ)成(シ)給へるなり、雲霧は、彼方此方《アナタコナタ》を隔《ヘダ》つること垣に似たり、【上の夜久毛の夜《ヤ》を承て、此(ノ)夜幣賀岐の夜をば見べし、〇契沖は、此(レ)を宮(ノ)垣の速に出來ること、雲の如くなるによそふと云(ヒ)、師も、須賀(ノ)宮造(リ)たまふを云と云(ハ)れつれど、今よく思ふに、さには非ず、たゞ雲をかく詔へるまでなり、又師(ノ)説に、出雲は本より國(ノ)名、夜久毛多都は、其(ノ)冠辭なり、その故は、八雲|多知出《タチイヅ》と直《タダ》につづけずして、多都《タツ》と唱(ヘ)擧て、さて次の言をいふ、例の冠辭の樣《サマ》なればなりと云(ハ)れしも、一わたりさることなれど、然《シカ》には非じ、多知伊豆《ヤチイヅ》とつゞけずして、多都《タツ》と先(ヅ)言(ヒ)切(リ)たるは、其時見たまへるまゝに、八雲の立(ツ)よと、先(ヅ)言(ヒ)出(デ)給へるなり、さて其雲のさま、八重の垣を成《ナセ》りとのたまへり、】さて此(ノ)御歌(ノ)詞より起《オコ》りて、国(ノ)名を出雲と負《オヘ》り、【さるから八雲立(ツ)と云言も、其(ノ)枕詞となれるなり、】風土記に、所3以《ユヱハ》號(クル)2出雲(ト)1者、八束水臣津野《ヤツカミヅオミヅヌノ》命(ノ)詔(ハク)、八雲立(ト)詔(タマフガユ)之故(ニ)、云2八雲立出雲(ト)1、また八束水臣津野(ノ)命(ノ)詔(ハク)、八雲立(ツ)出雲(ノ)國(ハ)者云々とあるは、臣津野(ノ)命は、此《ココ》の御歌(ノ)詞に因て、後に詔へるなり、須佐之男(ノ)命の、八雲立(ツ)出雲とよみ賜へる此(ノ)國はと云意なり、【よく/\文義を味ひて知べし、】さて臣津野(ノ)命の如此《カク》詔へるによりて、遂《ツヒ》に國(ノ)名にはなれるなり、【臣津野(ノ)命は、須佐之男(ノ)命の四世の御孫にて、次に出たり、さて諸國の例に依(ル)に、郷(ノ)名を取て郡(ノ)名とし、郡(ノ)名を國(ノ)名とせるが多ければ、此國も、出雲(ノ)郡出雲(ノ)郷あれば、始(メ)は此(ノ)郷より出たる國(ノ)名なるべし、其《ソ》は彼(ノ)臣津野(ノ)命の、八雲立出雲(ノ)國(ハ)者と詔へるは、廣く一國を指(シ)てなれども、然詔へりしは、出雲(ノ)郡出雲(ノ)郷のあたりにての事なりし故に、先(ヅ)其處《ソコ》の名に負(ヘ)るが、後に大名にもなれるなり、彼(ノ)文は意宇(ノ)郡(ノ)條、臣津野(ノ)命の、出雲(ノ)國を修理《ツクリ》たまふ事を云る處に出たる、其(ノ)修理《ツクリ》たまへるさま、先(ヅ)出雲(ノ)郡のあたりより修理初《ツクリハジ》めて、意宇(ノ)郡の方にて、修理終《ツクリヲヘ》たまへる趣なるを、かの八雲立出雲(ノ)國(ハ)者と詔へるは、修理初《ツクリハジ》めむとし賜ふときの言なれば、其(ノ)詔ひし地は、必出雲(ノ)郡なり、抑出雲てふ國(ノ)名の事、初(メ)須佐之男(ノ)命の詠たまへりし御歌は、須賀(ノ)宮にての事なるに、出雲と云郡郷は、遙《ハルカ》に離《サカ》りて、他處《コトトコロ》にあること、己も初(メ)はいと疑はしかりしを、熟《ヨ》く細《コマカ》に考れば、右の如くにて、疑《ウツ》もなく明らかなるものなり、】

〇都麻碁微爾《ツマゴミニ》は、夫妻隱《ツマゴミ》ににて、夫婦隱《メヲコモ》る料にと云意なり、凡て都麻《ツマ》とは、夫《ヲ》に對《ムカ》へて妻《メ》を云のみならず、妻《メ》に對《ムカ》へて夫《ヲ》をも云稱にて、夫婦の間《アヒダ》を互《タガヒ》に云へば、【俗に都禮阿比《ツレアヒ》といふにあたれり、】此《ココ》は夫婦《メヲ》をかねて云るなり、さて微《ミノ》字、書紀には昧《メ》とあり、其《ソ》は意いさゝか異なるべし、【碁微《ゴミ》は碁母理《ゴモリ》の約《ツヅマ》り、碁昧《ゴメ》は碁母良世《ゴモラセ》の約りなれば、碁昧《ゴメ》のときは、夫婦《メヲ》を隱《コモ》らせむ料にと云意なり、〇此句を、妻と共にと云意に見て、稻田比賣と諸共《モロトモ》に、宮造りたまふを云、と云る説はかなはず、】さて夫婦隱《メヲコモ》ると云例は、上|久美度《クミド》の解に【傳四の卅三葉】云るが如し、

〇夜幣賀岐都久流《ヤヘガキツクル》は、彌重垣造《ヤヘガキツクル》にて、此《コレ》も實《マコト》の垣を云に非ず、彼(ノ)雲の、垣を成《ナス》と云ことなり、

〇曾能夜幣賀岐袁《ソノヤヘガキヲ》、曾能《ソノ》は其《ソノ》なり、都麻碁微爾《ツマゴミニ》の句を承て云、さて如此《カク》二度上(ノ)詞を返《カヘ》して云(フ)は、古(ヘノ)歌の常なり、中頃よりは此(ノ)格なきを、返(リ)て今(ノ)世の俗の謠歌《ウタフウタ》にほ常多し、是(レ)歌謠《ウタフモノ》の自然《オノヅカラ》の勢にて、折(リ)返せば其(ノ)情《ココp》深くなることぞかし、終《トヂメ》の袁《ヲ》は、只助辭にて、余《ヨ》と云むが如し、【此(ノ)格多し、下にいふべし、】袁作《ヲツク》ると上へ返る意に似たれど、古(ヘノ)意は然に非ず、さて一首《ヒトウタ》の意をつらねて云(ハ)ば、今吾(レ)須賀(ノ)宮を造る時《ヲリ》しも、八重雲の起《タツ》よ、此(ノ)立(チ)出る雲、八重垣を成《ナ》せり、吾夫妻《アガメヲ》隱《コモ》らむ此(ノ)宮の料に、雲も八重垣を作《ツク》ることよ、と作《ヨミ》給へるなり、【凡て雲のうへのみを云り、然るに妻を隱《コメ》むために、今吾(レ)此(ノ)宮の垣を造(ル)といふ意を兼て看《ミル》は、ひがことぞ、よくく詞を味ひしらば、明(ラ)かならむ、】此(ノ)餘《ホカ》の義《ココロ》あることなし、【後(ノ)世に神(ノ)道歌(ノ)道の輩、此御歌にくさ/”\の言痛《コチタ》き説をつけ、或は秘事《ヒメゴト》など、こと/”\しく云(ヒ)あふめれど、凡て古(ヘ)をしらぬ妄説《ミダリゴト》なれば、論ふにも足らず、又稻田姫の答歌とて有(ル)も、古(ヘノ)體《サマ》にあらず、後(ノ)世の作(リ)事ぞ、又此御歌に、なほ遠呂智《ヲロチ》のことを云て、八重垣造(ル)を、警戒の意ぞなどいふも、さらに由なきことなり、】

〇於是喚云々、この喚を米志弖《メシテ》と訓て、下の任(ノ)字をば多禮《タレ》と訓べし、其由は次に云、

〇首は【都加佐《ツカサ》と訓るも、誤《ヒガコト》にはあらねど、なほ】意毘登《オビト》と訓べし、姓尸《ウヂノカバネ》に某(ノ)首と云をも然訓べし、私記にも、忌部(ノ)首讀(ム)2於比止《オビトト》1とあり、書紀に、三輪(ノ)君|子首《コビト》など云名を、子人《コビト》とも書るは、子《コ》の韻《ヒビキ》に意《オ》を含《フク》める故に、おのづから古毘登《コビト》と唱へらるゝなり、元明紀に、大津(ノ)連|意毘登《オビト》と云人(ノ)名を、元正紀聖武紀には首《オビト》と書《カカ》れたり、【然るを意宇登《オウト》と訓(ム)は、旅人《タビビト》をたびうど、商人《アキビト》をあきうど、藏人《グラビト》をくらうどと云例の音便にて、正しからず、古書を訓(ム)に、かゝる音便の言をまじふべきにあらず、又其(ノ)宇《ウ》を布《フ》と書(ク)もひがことなり、此《コ》は比《ヒ》の通音にて、布《フ》と云にはあらざればなり、かゝる音便の言の假字はみな宇《ウ》なり、】さてこは本(ト)尊稱《タフトムナ》にて、大人《オビト》の意なるべし、【書紀に、宇志《ウシ》を大人と書れたるも、漢文の方に取ては、叶はぬ字なれば、此(ノ)大人《オビト》と意の同じき故に、移《ウツ》して書れしものなるべし、】尊(ミ)て云るは、書紀允恭(ノ)卷に、首也《オビトヤ》余《ワレ》不《ジ》v忘(レ)矣、これ對人《ムカフヒト》を指(シ)て云り、さて首長《ヲサ》の意に云るは、景行(ノ)卷に、村之《アレニ》無《ナク》v長《ヲサ》、邑之《サトニ》勿《ナシ》v首《オビト》、顯宗(ノ)卷に縮見屯倉首《シシミノミヤケノオビト》、孝徳(ノ)卷に村(ノ)首《オビト》【首(ハ)長也】などあり、さて此《ココ》の首《オビト》は、後(ノ)世の宮々《ミヤミヤ》【三后宮春宮等】の長官《カミ》の如くなるを云なり、

〇任を多禮《タレ》と訓べき由は、【凡て多理《タリ》と云辭に二(ツ)あり、登阿理《トアリ》と弖阿理《テアリ》との約まりたるなり、此《ココ》はその登阿理《トアリ》の約れる多理《タリ》を、仰《オホス》る言なる故に、多禮《タレ》と訓(ム)なり、多禮《タレ》は即(チ)登阿禮《トアレ》なり、】まづ此字は、拜(ス)2某(ノ)官(ニ)1の拜と同く、與佐須《ヨサス》と麻氣賜《マケタマフ》と米須《メス》と三(ツ)の訓ある中に、與佐須《ヨサス》は此《ココ》に叶はず、又|麻氣賜《マケタマフ》とも訓べからず、【麻氣は、京より他國《ヨソノクニ》の官に令《スル》v罷《マカラ》意にて、即(チ)まからせを約めて、麻氣《マケ》とは云なり、萬葉に此言多し、みな鄙《ヰナカ》の官になりてゆくことにのみ云り、心を付て見べし、又史記(ノ)南越傳に、天子|罷《マク》v參(ヲ)也とあり、此訓にてマケはマカラセなることをさとるべし、然るを京官の任をも麻氣と訓(ム)は、みだりごとなり、】米須《メス》と訓(ム)ぞ此《ココ》は叶へる、米須《メス》は其人を召來《メシコセ》て、其(ノ)官を授くる意にて、司召《ツカサメシ》と云是なり、【顯宗紀に拜《メシ》2山(ノ)官(ニ)1、推古紀に任《メス》2僧正僧都(ヲ)1、天武紀に拜《メス》d造(ル)2高市大寺(ヲ)1司(ニ)uなどあり、凡て上代には、本居《ウブスナ》に在《ア》る人を、京に召《メシ》て、官には任《シ》たまへりし故に、召《メス》と云し、其(ノ)名目《ナ》は後までものこれり、古今集雑(ノ)部の詞書に、もろこしの判官にめされて云々とあるは、異國に遣すなれば、まけられてとあるべきを、めされてと有(ル)は、違へるに似たれども、彼(ノ)時代《コロ》は既《ハヤ》く麻氣《マケ》と云名目は絶て、凡て米須《メス》といへりしなり、縣召《アガタメシ》と云も此(レ)に同じ、又いはゆる任大臣を、後撰集榮花物語などに、大臣召《ダイジムメシ》とあるは、古(ヘノ)意によくかなへる名目《ナ》なりかし、】かゝれば同(ジ)任(ノ)字も、其官によりて、皇國の言は異なるぞかし、さて此《ココ》は、上に喚《メシテ》とあるが、此(ノ)意に當《アタ》る故に、此(ノ)任(ノ)字は、多禮《タレ》と訓べきぞかし、書紀に、乃(チ)相與遘合而《クミドニオコシテ》、生(タマフ)2兒《ミコ》大己貴(ノ)神(ヲ)1、因《カクテ》勅2之曰《ノリタマヒキ》吾兒宮首者《アガミコノミヤノオビトハ》、即《ヤガテ》脚摩乳手摩乳(ナレト)1也とあるは、傳(ヘ)の異なるなり、

〇負《オホセタマフ》2名號《ナヲ》云々(ト)1は、須佐之男(ノ)命の、此(ノ)名を賜ふなり、

〇稻田宮主須賀之八耳《イナダノミヤヌシスガノヤツミミノ》神、稻田は、須賀(ノ)地の奮名《モトノナ》なるべし、故(レ)稻田(ノ)宮とも云けむ、かゝれば稻田比賣と云は、此《ココ》に宮造(リ)て御婚《ミアヒ》坐るよりの名なるべきを、父の初(メ)に名告《ナノ》れるは、後(ノ)名を廻《メグラ》して語(リ)傳へたるなり、主《ヌシ》は首《オビト》と同意なり、須賀《スガ》は、此《ココ》にては既に地名なり、其故は、さきに吾御心|須賀々々斯《スガスガシ》と詔へるのみにては、此神名に負せ給ふまではあるまじければなり、書紀本書にはたゞ故(レ)賜(テ)2號《ナヲ》於二神(ニ)1、曰2稻田(ノ)宮主(ノ)神(ト)1とあり、一書には始(メ)より、稻田(ノ)宮主|簀狹之八箇耳《スサノヤツミミ》とあり、【是又後(ノ)名を始へ廻らし云證なり、さて須佐てふ地名、飯石(ノ)郡にもあれど、こは其《ソ》にあらず、須々賀《ススガ》を切《ツヅメ》て須佐《スサ》と云るなれば、即|須賀《スガ》と同じ、上に須賀須賀斯《スガスガシ》は、須々賀須々賀斯《ススガススガシ》なりと云るを、おもひ合せよ、】又一書には、此(レ)を妻の名とせり、八耳《ヤツミミ》は【借字】嚴都美々《イカツミミ》か、伊加都《イカツ》と云名の例、これかれあればなり、【伊加《イカ》は夜《ヤ》と切《ツヅマ》る、】又|足撫耳《アシナヅミミ》を約(メ)たる名ならむか、【阿志那《アシナ》を切て夜《ツゲメヤ》となる、】耳《ミミ》は尊稱なること、上【傳七の五十四葉】に委く云るが如し、若(シ)足撫耳《アシナヅミミ》の意ならば、足名椎《アシナヅチ》と云と同じ、【足名椎手名椎は、比賣の、須佐之男(ノ)命の妃《キサキ》に爲《ナリ》給ひて稱《タタヘ》し名ならむと、上に云るを思ひ合すべし、又書紀一書に、是(レ)を母の名とせるは、手撫耳《テナヅミミ》を約(メ)て、多都耳《タツミミ》なりけむを、多都《タツ》と夜都《ヤツ》と混《マガヒ》て、是(レ)をも八箇耳《ヤツミミ》と傳へたるか、然るを八耳の文字に就て、口決に、聞(ク)2八方(ヲ)1稱(ナリ)と云るは、此(ノ)神にさらに縁《ヨシ》なき漫言《ミダリゴト》なり、又聖徳太子を八耳と申せる例を引(ク)も、あたらず、かの太子を八耳と申せしこと、此記にも書紀にも見えず、おぼつかなし、よしやさる御名ありとも、彼(レ)は豐聰耳と申しつれば、由あり、此(レ)はさる由あることなきをや、又大祓(ノ)詞一本に、棹鹿乃八乃耳《サヲシカノヤツノミミ》云々と云を引(ク)も、心得ず、此(ノ)言式に載(ノ)れるには見えず、私(シ)事なるうへに、鹿も神も、耳《ミミ》多く有(ル)ものならねば、八乃耳《ヤツノミミ》と云べき由あらめや、】

 

故其櫛名田比賣以久美度邇起而《カレソノクシナダヒメヲモテクミドニオコシテ》。所生神名《ウミマセルカミノミナヲ》。謂八嶋士奴美神《ヤシマジヌミノカミトイフ》。【自士下三字以音下效此】又娶大山津見神之女名神大市比賣《マタオホヤマツミノカミノミムスメナハカムオホイチヒメニミアヒテ》。生子大年神《ミコオホトシノカミ》。次宇迦之御魂神《ツギニウカノミタマノカミヲウミマシキ》。【二柱。宇迦二字以音】

延佳本又一本には、首《ハジメ》の故(ノ)字無し、今は舊印本又一本共に有(ル)に依れり、如此《カカ》る所には、必此(ノ)字有(ル)例なればなり、

〇比賣(ノ)下なる以(ノ)字を、韋弖《ヰテ》と訓はわろし、凡て此方の古書に、韋弖《ヰテ》に以(ノ)字を用ひたる例なし、

〇久美度邇起而《クミドニオコシテ》は、上【傳四の三十三四葉】に出たり、考(ヘ)合すべし、

〇八嶋士奴美《ヤシマジヌミノ」》神、名(ノ)意は、士《シ》は知《シリ》、奴《ヌ》は主《ヌシ》、【是(レ)より大國主まで、六世の神名の中に、五世はみな奴(ヌ)と云、何れも此意なり、】美《ミ》は稱名《タタヘナ》耳《ミミ》の略《ハブキ》にて、上【傳七の五十四五葉】に云る例の如し、【書紀に八嶋篠《ヤシマジヌ》とあるは、美《ミ》を略き、八嶋野《ヤシマヌ》とあるは、知《シリ》を略き、美《ミ》をも略きて、主《ヌシ》とのみ云るなり、八嶋|手《デ》とあるは、手《デ》は根《ネ》に通ひて、此(レ)も稱名《タタヘナ》にて、例多きこと上に云り、さてかく同(ジ)名を、略きも換《カヘ》もしたるにて、士奴美(ノ)三字みな稱名《タタヘナ》なることをしるべし、凡て稱(ヘ)名は、略きも換《カヘ》も重(ネ)もする例なり、】さて此御名は、後に大國主(ノ)神、國造りて天下をうしはき坐る時に、遠祖《トホツオヤ》なる故に、如此《カク》稱《タタ》へしにや、若(シ)然らずは、八嶋知主《ヤシマシヌ》とは云(フ)まじくこそ、書紀には、號2清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠《スガノユヤマヌシミツナサモルヒコヤシマジヌト》1、」【篠此(ヲ)云(フ)2斯奴《シヌト》1、】一云|清之繋名坂輕《スガノツナサカカル》彦八嶋|手《デノ》命、又云清之湯山主|三名狹漏《ミツナサモル》彦八嶋|野《ヌ》とあり、【三名は美都奈《ミツナ》と訓べし、美《ミ》は御なり、さて繋名坂は、都奈佐加《ツナサカ》と訓べし、繋(ノ)字は、つなぐの訓を取れるなり、かゝれば、彼(ノ)美都奈佐《ミツナサ》の御《ミ》を略けるにて、同(ジ)名なり、坂を上古は佐《サ》とのみも云ること、上に委く云るが如くなれば、狹《サ》も坂なり、此(ノ)御名ども、舊き訓も説も皆あやまれり、〇舊事紀に、此(ノ)神(ノ)亦(ノ)名大國主(ノ)神と云るは、書紀(ノ)本書に、大己貴(ノ)神を、稻田姫の生兒《ウメルミコ》とあるを見て、おしあてに云る、例の妄説なり、然るを此(ノ)僞書に惑《マドハ》されて、とかく云人あるはいかにぞや、】

〇神大市比賣《カムオホイチヒメ》、上に神《カム》と置(ク)は稱名《タタヘナ》なり、【例おほし】大市は、和名抄に、大和(ノ)國城(ノ)上(ノ)郡大市、【於保以智〇こは書紀(ノ)崇神(ノ)卷垂仁(ノ)卷にも見えたる地《トコロ》なり、】參河(ノ)國碧海(ノ)郡大市、播磨(ノ)國揖保(ノ)郡大市、【於布知】備中(ノ)國窪屋(ノ)郡大市、【於布知】神名帳に、伊勢(ノ)國安濃(ノ)郡大市(ノ)神社などあり、此(ノ)地々《トコロドコロ》の中に由ある有むか、

〇娶は美阿比弖《ミアヒテ》と訓べし、上【傳五】に御合《ミアヒ》とある是なり、さて此《コ》は須佐之男(ノ)命の娶《ミアヒ》給ふなり、【此(ノ)字、常には賣登流《メトル》と訓(メ)ど、古言に非じ、】

〇大年《オホトシノ》神、名義《ミナノココロ》、大《オホ》は例の稱(ヘ)名、年《トシ》は田寄《タヨシ》なり、【多余《タヨ》を切《ツヅメ》て登《ト》となる、さて余世《ヨセ》を余佐志《ヨサシ》とも余志《ヨシ》とも云る例古(ヘ)に多し、】然云故は、まづ登志《トシ》とは穀《タナツモノ》のことなる、其《ソ》は神の御靈《ミタマ》以て、田に成《ナ》して、天皇に寄《ヨサシ》奉(リ)賜ふゆゑに云り、【田より寄《ヨサ》すと云こゝろにて、穀を登志《トシ》とはいふなり、】祈年祭(ノ)祝詞に、皇神等能依左志奉牟《スメカミタチノヨサシマツラム》、奥津御年乎《オクツミトシヲ》云々、八束穂能伊加志穂爾《ヤツカボノイカシボニ》、皇神等能依左志奉者《スメカミタチノヨサシマツラバ》云々、とあるを以知べし、【天(ノ)下に成(リ)とし成る穀《タナツモノ》は、悉く天皇に神の依《ヨサ》し奉(リ)給ふなるを云り、奥津御年は、師(ノ)説に、稻を云(フ)、稻は穀の中にも晩《オソ》く成(ル)ゆゑに、奥《オク》と云なり、同じ稻の中にても、晩《オソキ》をおくてと云にて知べし、】さて穀《タナツモノ》を一度取(リ)收(ム)るを、一年《ヒトトセ》とは云なり、【されば登志《トシ》と云名は、穀を本にて、年月《トシツキ》の登志《トシ》は末なり、】かくて此(ノ)神は、此(ノ)穀の事に大《オホキ》なる功《イサヲ》坐《マシ》し故に、此御名を負(ヒ)給へるなり、さて諸國《クニグニ》に大歳《オホトシノ》神(ノ)社と云が多かるは、此神を齋《イハ》へるも有(ル)べく、又其(ノ)處々にて、穀の事に功有(リ)し神を、然《シカ》稱《タタヘ》名《ナヅ》けて祭れるも有べし、【漢籍にいはゆる大歳《タイサイ》とは、痛《イタ》く異なり、字の同きに付て、な思ひまがへそ、〇倭姫(ノ)命(ノ)世記に、眞名鶴稻穂を咋持廻て鳴(ク)云々、此(ノ)鶴を大歳(ノ)神と號《ナヅケ》て祠《マツリ》賜へり、是も穀に功ありし故なり、是(レ)を神名秘書と云物に、今|此《ココ》の神の、鶴に化《ナ》り給ひてと云るは、名に附てのおしあてごとなるべし、又朝熊(ノ)社にて、此(ノ)鶴を祭(リ)て、保於斗志《ホオトシノ》神と云も、於保斗志《オホトシ》を轉《ウツシ》て、穂落の意にとりなせるなるべし、】

〇宇迦之御魂《ウカノミタマノ》神、宇迦は上【傳五の五十三葉、大宜都比賣(ノ)處、又六十葉、豐宇氣毘賣(ノ)神(ノ)處、】に云るごとく食《ウケ》なり、書紀に、伊弉諾(ノ)尊又飢時(ニ)生兒、號(ス)2倉稻魂《ウカノミタマノ》命(ト)1、倉稻魂此(ヲ)云2宇介能美※〔手偏+施の旁〕磨《ウカノミタマト》1、【介は、書紀にはカの假字にのみ用ひたり、氣《ケ》に用ひたる例なし、】大殿祭(ノ)祝詞に、屋船豐宇気姫《ヤフネトヨウケヒメノ》命、是(レ)稻靈《イネノミタマ》也、俗(ノ)詞|宇賀能美多麻《ウカノミタマ》とある、此等《コレラ》は、此記に豐宇氣毘賣(ノ)神とありし【上に出】にあたりて、此《ココ》なる神とは別《コト》なるを、御名の同きは、功徳《イサヲ》の等《ヒトシ》き故ぞ、彼(レ)は食《ウケ》の元始《ハジメ》の靈《ミタマ》、此(レ)は其(ノ)食《ウケ》の事に功《イサヲ》坐《マシ》し神なり、御魂《ミタマ》とは、恩頼《ミタマノフユ》、【神靈《ミタマノフユ》又|靈《ミタマノフユ》などもあり、】又萬葉五【二十六丁】に、阿我農斯能美多麻多麻比弖《アガヌシノミタマタマヒテ》などある意にて、其|功徳《イサヲ》を稱《タタ》へたる名なり、書紀神武(ノ)御卷に、粮(ノ)名(ヲ)爲《ス》2嚴稻魂女《イヅウカノメト》1、稻魂女此(ヲ)云2于伽能迷《ウカノメト》1と見ゆ、【或人、倉稻魂《ウカノミタマ》と稻魂《ウケノミタマ》は別なりと云は、倉(ノ)字に惑へる誤なり、此(ノ)神武(ノ)卷を見よ、】和名抄に、稻魂和名|宇介乃美太萬《ウケノミタマ》、俗(ニ)云2宇加乃美太萬《ウカノミタマト》1、とあるは誤なり、【こは書紀の訓荘の介《カノ》字を、ケと讀る誤《ヒガコト》と見ゆ、〇或書に、稻荷(ノ)神社三座は、本殿(ハ)宇賀(ノ)御魂、第二殿(ハ)須佐之男(ノ)命、第三殿(ハ)大市比賣なりと云り、】兄八嶋士奴美神《ミアニヤシマジヌミノカミ》。娶大山津見神之女名木花知流【此二字以音】比賣生子《オホヤマツミノカミノミムスメナハコノハナチルヒメニミアヒテウミマセルミコ》。布波能母遲久奴須奴神《フハノモヂクヌスヌノカミ》。此神娶淤迦美神之女名日河比賣生子《コノカミオカミノカミノムスメナハヒカハヒメニミアヒテウミマセルミコ》。深淵之水夜禮花神《フカブチノミヅヤレハナノカミ》。【夜禮二字以音】此神娶天之都度閇知泥 上 神《コノカミアメノツドヘチネノカミニミアヒテ》【自都下五字以音】生子《ウミマセルミコ》。淤美豆奴神《オミヅヌノカミ》。【此神名以音】此神娶布怒豆怒神【此神名以音】之女名布帝耳 上 神《コノカミフヌヅヌノカミノムスメナハフテミミノカミニミアヒテ》【布帝二字以音】生子《ウミマセルミコ》。天之冬衣神《アメノフユキヌノカミ》。此神娶刺國大 上 神之女名刺國若比賣生子《コノカミサシクニオホノカミノムスメナハサシクニワカヒメニミアヒテウミマセルミコ》。大國主神《オホクニヌシノカミ》。亦名謂大穴牟遲神《マタノナハオホナムヂノカミトマヲシ》。【牟遲二字以音】亦名謂葦原色許男神《マタノナハアシハラシコヲノカミトマヲシ》。【色許二字以音】亦名謂八千矛神【マタノナハヤチホコノカミトマヲシ】。亦名謂宇都志國玉神《マタノナハウツシクニタマノカミトマヲス》。【宇都志三字以音】并有五名《アハセテミナイツツアリ》1。

兄は御阿邇《ミアニ》と訓べし、書紀神代(ノ)卷に兄弟《アニオト》、又垂仁の卷に御子たちの次第を云處に、第一をも阿爾《アニ》とよめり、又仁賢(ノ)卷にも、異父兄弟《ハラカラノアニオト》など訓り、【此稱、中昔の物語どもにも多かり、今(ノ)人の心には、阿爾《アニ》と云は、俗言のごと思ふめれど、言のさまいと古し、和名抄に、兄(ハ)古乃加美、又母兄(ハ)波良比止豆乃古乃加美とあれども、古能加美《コノカミ》と云は、本(ト)第一(ノ)子に限る稱《ナ》なり、魁帥《ヒトゴノカミ》なども、其中の長を云(ヒ)、官司《ツカサ》にても、長官を加美《カミ》とは云り、然るを、必しも第一に限らず、ひろく弟《オト》に對へて云(フ)は、兄(ノ)字を訓るから轉《ウツ》れる、後のことなるべし、されば書紀應神(ノ)卷清寧(ノ)卷などに、長子を訓るはよく當れり、此《ココ》は先《サキ》に三柱(ノ)女《ヒメ》神坐せば、長子にはあらざれば、かなはず、又|伊呂勢《イロセ》伊呂泥《イロネ》などは、同母《ヒトツハラ》のを云(フ)稱なれば、是(レ)も此《ココ》にはかなはず、然ればたゞ勢《セ》と云ぞ、ひろく兄(ノ)字によく當れれど、此《ココ》は然訓むも語調よろしからずなむ、】

〇木花知流比賣《コノハナチルヒメ》、凡て神(ノ)名は、何《イヅ》れも美稱《ホメタタヘ》たるこそ常なるに、花知流《ハナチル》とは、かの佐久夜毘賣《サクヤビメ》の段に、天(ツ)神(ノ)御子之|御壽者《ミイノチ》、木花《コノハナ》之|阿摩比能微《アマヒノミ》坐(ム)と云て、あだなる譬《タトヒ》に取れるに、其《ソ》を今かく名に負(ヒ)給ふは、如何《イカ》なる由にか、若《モシ》は此神いまだ壯《ワカ》く盛《サカリ》の齢にて、身亡《ミウセ》給へる故に、惜《アタラ》しみて名《ナヅ》けしにもや有(ル)らむ、木(ノ)花のことは、下木(ノ)花之佐久夜毘賣の處に云べし、【傳十六の二十三葉、或説に、此神を石長此賣と同神なりといふは由なし、】

〇布波能母遲久奴須奴《フハノモヂクヌスヌノ》神、布波《フハ》は地(ノ)名か、母遲《モヂ》は、大穴牟遲《オホナムヂ》の牟遲《ムヂ》と同じ、【彼(レ)をも大名持とも云を思ふべし、布波能母遲と、大穴牟遲と、凡て通ひて聞ゆ、但し布波を地名とするときは、母遲へ連《ツゾ》くに能《ノ》てふ辭いかゞなれば、地(ノ)名には非じか、】久奴《クヌ》は國主《クニヌシ》なるべし、【これ又かの大國主の例あり、】須奴《スヌ》は意得がたし、【強《シヒ》ていはば、知主《シルヌシ》か、志流《シル》は須《ス》と切《ツヅマ》れり、八嶋知主《ヤシマジヌ》の例あり、又は奴《ヌ》は美《ミ》を誤れるにや、上の久奴《クヌ》の奴《ヌ》よりまぎれつべし、さる例あることぞ、若(シ)然らば須美《スミ》なり、某須莫《ナニスミ》と云例は多し、上に云り、】

〇淤迦美《オカミノ》神は、上【傳五の七十七葉】にも下【傳十一の七十二葉】にも出(デ)つ、さて此(ノ)神の女と云は、此神を祠《マツ》れる社の神靈《ミタマ》の、現壯夫《ウツシヲトコ》に化《ナリ》て、婦人《ヲミナ》に娶《ミアヒ》て、生《ウミ》坐る女子《ムスメ》なり、此例多し、委くは傳二十【十三葉】に云り、考(ヘ)合すべし、淤迦美(ノ)神を祭る社は、國々に多し、其中に此《コ》は何地《イヅク》のとも知がたし、

〇日河比賣《ヒカハヒメ》、河(ノ)字諸本に阿と作《ア》るは誤なり、【もし此字ならば、久麻《クマ》と訓べけれど、古書に久麻に此字を用ひたる例なし、遠江(ノ)國に引馬《ヒクマ》と云地名もあれど、なほ阿(ノ)字には非ず、明(ノ)宮(ノ)段なる矢河枝比賣と云名の河(ノ)字をも、延佳本には阿と誤れり、】今は眞福寺(ノ)本に依れり、さて日河《ヒカハ》は、地(ノ)名ならむか、神名帳に、武蔵(ノ)國足立(ノ)郡に、氷川(ノ)神社、入間(ノ)郡にも中氷川(ノ)神社ありて、同郡に出雲(ノ)伊波比(ノ)神社あるは由あるか、又同郡に國渭地祇《クニヌクニツカミノ》神社もあり、【渭を奴《ヌ》と訓べき證は、和名抄に、即同國に渭後と書て、沼乃之利《ヌノシリ》とある郷あり、】是(レ)久奴須奴《クヌスヌノ》神に近し、これらにや、【出雲の肥(ノ)河にはあらじ、】

〇深淵之水夜禮花《フカブチノミヅヤレハナノ》神、深淵は和名抄に、土佐(ノ)國香美(ノ)郡深淵【布加不知】あり、式に深淵(ノ)神社もそこに見ゆ、【師は、水と云む冠辭の如く置るならむと云れき、又水を美《ミ》と訓れつれども、美《ミ》ならば、下二字と同じく連《ツラネ》て、假字に書べきを、別に水と書き、又御子神(ノ)名にも美豆《ミヅ》とあれば、此(レ)も猶|美豆《ミヅ》なるべし、】水夜禮花の意、凡て未(ダ)思(ヒ)得ず、和名抄、伊豫(ノ)國新居(ノ)郡に花と云郷名はあり、【花は、祖母の御名、深淵之水は、母の御名に由あるか、〇花知流より、日河の河に承《ウケ》、さて淵の水に至て、破傷《ヤレソコナ》はるゝ花と云意に、次々名けしにや、されどさる意以て名《ナヅ》けけむ由もおぼつかなし、】

○天之都度閇知泥《アメノツドヘチネノ》神、都度閇は集《ツド》へ、知は市《イチ》か、帳に、出雲(ノ)國神門郡|智伊《チノ》神社【風土記には知乃《チノ》社と有(リ)、】あり、泥《ネ》は稱名《タタヘナ》、上に云るが如し、又知も共に稱(ヘ)名か、下に遠津待根《トホツマチネノ》神と云例あり、なほかしこに云べし、【傳十一の七十五葉】さて前後の例に依(ル)に、此(ノ)神のみ、父の名を擧ざること疑はし、故(レ)思ふに、此(レ)は父神の名にて、此(ノ)下に、之女名某比賣《ノムスメナハナニヒメ》と云ことの脱《オチ》たるにや、又下の段に至ては、父の名を擧ざるも多かれば其例か、

〇淤美豆奴《オミヅヌノ》神、大水主《オホミヅソヌシ》の意にや、【風土記に、八束水とあれば、美豆も水なるべくや、そも/\淤迦美《オカミノ》神の女|日河《ヒカハ》比賣、其御子深淵云々、其御子此神まで、みな水に依れる御名は、如何《イカ》なる縁《ヨシ》か有けむ、】又美豆は異意《コトココロ》ならむか、とまれかくまれ、父神の名の水《ミヅ》と一(ツ)なるべし、さて出雲風土記意宇(ノ)郡(ノ)段に、國引坐八束水臣津野《クニヒキマスヤツカミヅオミヅヌノ》命(ノ)詔(ハク)、八雲立出雲(ノ)國(ハ)者、狹布之《サヌノノ》堆國|在哉《ナルカモ》、初國小所作《ハツクニスコシクツクレリ》、故《カレ》將《ムト》2作縫《ツクリヌハ》1詔而《ノタマヒテ》と有(リ)て、其|國引坐《クニヒキマシ》し状《アリサマ》を、委曲《ツバラカ》に記せり、【其文いとも/\上(ツ)代の雅言《ミヤビゴト》なり、心留めて讀べし、】又嶋根(ノ)郡の段にも、國引坐云々、出雲(ノ)郡(ノ)段にも、國引坐意美豆努命と見え、其《ソノ》餘《ホカ》にも、此神の御事處々に出て、彼國に甚《イタ》く功ありし神と聞えたり、然るを其(ノ)御社の見えぬは、如何《イカ》なるにか、

〇布怒豆怒《フヌヅヌノ》神、名(ノ)義未(ダ)思(ヒ)得ず、備後(ノ)國三次(ノ)郡に布努(ノ)郷あり、和名抄に出(ヅ)、豆は助辭、怒は主か、又周防(ノ)國に都濃(ノ)郡もあり、

〇布帝耳《フテミミノ》神、名(ノ)意未思《ダヒ》得ず、【凡て事の跡も何《ナニ》も傳はらぬ神(ノ)名は、考ふべきたづき無《ナキ》ものぞ、】

〇天之冬衣《アメノフユキヌノ》神、書紀に、須佐之男(ノ)命草薙(ノ)劔を、遣(シテ)2五世(ノ)孫|天之葺神《アメノフキネノ》神(ヲ)1、上2奉《タテマツリタマフ》於天(ニ)1とあり、此(レ)と同神なるべし、五世(ノ)孫もよく合(ヘ)り、又式に、山城(ノ)國相樂(ノ)郡|和伎《ワギニ》坐(ス)天之夫支賣《アメノフキメノ》神社、【大月次新嘗】此(レ)も同神か、【此《コ》は賣《メ》とあるは、女神にてもあるべし、此記に天之吹男《アメノフキヲノ》神と云も、上に見えたり、又は賣《メ》は根《ネ》より轉《ウツ》れるにもあらむ、】其《ソレ》に並(ビ)て健伊那大比賣《タケイナダヒメノ》神社もあるも由ありかし、さて名(ノ)義は、書紀に依(ル)に、【須佐之男(ノ)命かの靈劔を、五世(ノ)孫に至て、天には奉(リ)給ふと云こと、此記又彼紀の餘《ホカ》の傳(ヘ)どもとは異にして、疑はし、されど其劔は、よしや彼(ノ)草薙には非ずとも、他劔《コトタチ》にまれ、此神の天に奉(リ)給しことなどの、別に有けむが、草薙のことに混《マガヒ》て、傳はりしにもあらむ、古(ヘノ)傳(ヘ)ごとには、さるためしも多かりかし、】劔《タチ》にぞ由《ヨリ》けむ、さて思ふに、布由伎奴《フユキヌ》【伎は清音に讀べし、】と訓べく、その布由伎《フユキ》は、明(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、波加勢流多知《ハカセルタチ》、母登都流藝《モトツルギ》、須惠布由《スエフユ》、布由紀能須《フユキノス》云々、【歌の意は彼處《カシコ》に云べし、】これなり、奴《ヌ》は稱(ヘ)名にて主なり、【さて上(ノ)黄泉(ノ)段に、十拳劔(ヲ)於《ニ》2後手《シリヘデ》1布伎都々《フキツツ》とあるにて、かの葺根《フキネ》と通ふ由もしるし、根も上に云る如く、稱(ヘ)名なれば、奴と同じこゝろばへなり、】

〇刺國大神、刺は佐須《サス》と訓(マ)むか、【凡て刺某《サスナニ》と云言の例、みな佐須なり、刺竹《サスタケ》刺車《サスグルマ》などの如し、】佐志《サシ》と訓(マ)むか、【和名抄、出雲(ノ)國大原(ノ)郡に佐世《サセノ》郷あり、式に佐世(ノ)神社も坐り、此郷名のこと、風土記に、佐世(ノ)木より負たること見ゆ、佐世(ノ)木は、或人、和名抄に、烏草樹(ハ)佐之夫乃紀《サシブノキ》とある、是なりと云り、此(レ)に依らば、刺國《サシグニ》は、右の佐世(ノ)郷のことにも有むか、又|小國《ササグニ》の意か、然らば佐須具爾《サスグニ】と訓べし、】決《サダ》めがたけれど、且《シバラ》く【彼(ノ)佐世(ノ)郷の事によりて】佐志《サシ》とは訓《ヨミツ》、又刺國と連《ツヅケ》て訓むか、刺と讀て、國大《クニオホ》と連《ツヅケ》むか、【國大と連《ツヅ》かば、大は御大之御前《ミホノミサキ》と書る例に、富《ホ》とも訓べし、但(シ)女《ムスメ》の若比賣と云名に對ひたれば、大《オホ》の意にては有べし、】此(レ)も決《サダ》めがたし、大神は、尋常《ヨノツネ》の大神《オホカミ》と申(ス)例には非じ、此神、殊に然|崇《アガ》めて申すべき由も見えねばなり、故(レ)大《オホ》に上聲を附(ケ)て、常の例ならぬことを示(シ)たり、大之紳《オホノカミ》と訓べし、【大《オホ》と下へ置(ク)言は、めづらしけれど、大和(ノ)國などに、太《オホ》と云地(ノ)名もあれば、大《オホ》の神ともいふべし、尾張(ノ)國中嶋(ノ)郡|大神《オホノカミノ》々社、臨時祭式に、大或(ハ)作(ル)v多(ニ)とあれば、是も大之神なる例なり、】

〇刺國若比賣、此(ノ)御名のこと、右に同じ、若《ワカ》は、父神の大《オホ》に對へり、

〇大國主《オホクニヌシノ》神、下に須佐之男(ノ)大神の詔《ミコト》に、爲《ナレ》2大國主(ノ)神(ト)1と詔へり、御名の意|彼處《ソコ》【傳十の五十八葉】に云べし、さて須勢理毘賣(ノ)命の御歌に、夜知富許能《ヤチホコノ》、加微能美許登夜《カミノミコトヤ》、阿賀淤富久邇奴斯《アガオホクニヌシ》と作《ヨミ》給へり、

〇大穴牟遲《オホナムヂノ》神、此(ノ)御名の訓は、萬葉三【三十三丁】六【二十三丁】に、大汝《オホナムヂ》とかき、又十八【二十五丁】に、於保奈牟知《オホナムヂ》と見え、古語拾遺には大己貴とかきながら、【此(ノ)文字は、書紀によれるなり、】古語|於保那武智《オホナムヂノ》神と云ひ、姓氏録に大奈牟智《オホナムヂノ》神、文徳實録八に大奈母智《オホナモヂ》、三代實録に大名持《オホナモチ》、延喜式に大名持、また於保奈牟智《オホナムヂ》とある、此等《コレラ》以て知べし、遲《ヂ》は濁音なり、【然るを書紀に、大己貴此(ヲ)云2於褒婀娜武智《オホアナムチト》1、とあるに依て、今に至るまで、世(ノ)人|如此《カク》唱《トナフ》めるはいかゞ、此訓注は、師の疑ひおかれつる、信《マコト》に疑はし、此(ノ)御名に意富阿那《オホアナ》と阿《ア》を添《ソヘ》たること、古書に例なければなり、又大己貴と書れたる文字も、いと心得ず、己(ノ)字は、於能《オノ》を阿那《アナ》に借(リ)用ひたるか、又汝と云べきを、於能禮《オノレ》とも云こともある故に、汝《ナ》に用ひたるか、かにもかくにもまぎらはしく、物遠き書ざまなり、然るを後(ノ)世人は、本の言の意をば深くたどらで、たゞ大己貴の字に依(リ)て、此(ノ)御名を説(ク)は、いかにぞや、凡て書紀は、かゝる文字がきに、異なるを好まれたる癖《クセ》なれば、其心して見べし、】さて大穴と書るは、此記を始(メ)として、萬葉七【二十三丁】に大穴道《オホナムヂ》、出雲國造(ノ)神賀(ノ)詞、又神名帳、又出雲風土記などに、大穴持《オホナモチ》、姓氏録に大穴牟遲《オホナムヂノ》命などあり、是(レ)らもみな於富那《オホナ》と訓べき證《シルシ》は、和名抄に、信濃(ノ)國埴科(ノ)郡(ノ)郷(ノ)名の大穴を、於保奈《オホナ》と記せるこれなり、さて牟遲《ムヂ》と母智《モチ》とは通はして、古(ヘ)より二(ツ)に傳はれる中に、正《マサ》しく母智《モチ》とあるは、右の文徳實録のみにて、餘《ホカ》はみな牟智《ムチ》なれば、持と書るをも、牟智《ムチ》と訓ても有(リ)ぬべし、【智《チ》は、此記にほ遲《ヂ》とあれば、必濁音なるを、持とも多く書たるを思へば、此《コ》は清(ム)音にも唱へたるにや、此清濁のことは疑はし、】かくて御名の意は、師(ノ)説に、穴は那《ナ》の假字、牟《ム》は母《モ》の轉《ウツ》れるにて、大名持《オホナモチ》なり、凡て古(ヘ)、名の弘《ヒロ》く長く聞ゆるを、譽《ホマレ》とすめれば、天皇の宮所を遷し賜ひ、御子おほしまさぬ后《キサキ》、又御子たちは、御名代の氏を定め、又|名背《ナセ》名根《ナネ》名妹《ナニモ》など云(ヒ)、萬葉二に大名兒《オホナゴ》などあるも、皆名高き由の美詞《ホメコトバ》、人に向ひて那牟遲《ナンヂ》と云も、名持《ナモチ》てふ言にて、美《ホム》る稱《ナ》なり、かくて此(ノ)命は、天(ノ)下を作り治め知(リ)たまへる御名の、世に勝《スグ》れたれば、大名持と美稱《ホメタタ》へ申せるなりとあり、

〇葦原色許男《アシハラシコヲノ》神、【葦原之《アシハラノ》と、之《ノ》を添(ヘ)て讀(ム)は誤なり、此《コ》は出雲建《イヅモタケル》、難波根子《ナニハネコ》などの類なる名なれば、必|之《ノ》とは云(ハ)ぬ例ぞ、】色許《シコ》は醜と書て、前に志許米《シコメ》志許米伎《シコメキ》、とありし處【傳六の三十九葉四十葉】に云る如く、多くは惡《ニク》み詈《ノリ》て云言なれども、此《ココ》の御名は、勇猛《タケキ》を美《ホメ》て云り、さて其《ソレ》も、人の畏《カシコ》み懼《オソ》るゝ方より云(ヘ)れば、彼(ノ)醜女《シコメ》などと、云(ヒ)もてゆけば同(ジ)意に歸《オツ》めり、【後(ノ)世の言に、勇猛《タケキ》人を、鬼神《オニカミ》の如しと云に同じ、又思ふに、今(ノ)語に、豐《ユタカ》に堅《カタ》きことを、志許理《シツコリ》とも、志加理《シツカリ》とも云(フ)、色許《シコ》は、其意にてもあらむか、志許夫都《シコブツ》と云言もあり、】さて葦原としも云は、天(ノ)下を宇志波伎坐《ウシハキイマ》せればなり、【上に云る如く、此國を葦原(ノ)中國といふは、天上より呼《イフ》名なれば、此(ノ)神(ノ)名も、もと天(ツ)神たちの呼《イヒ》はじめたまへる名なるべし、】中卷に、内色許男《ウツシコヲノ》命|内色許賣《ウツシコメノ》命、伊賀迦色許男《イガカシコヲノ》命|伊賀迦色許賣《イガカシコメノ》命など云名もあり、【皆|色《シ》の上に之(ノ)とは云(ハ)ず、】又孝徳紀に、高田醜《タカタノシコ》【此(ヲ)云2之渠《シコト》1】雄《ヲ》と云人も見ゆ、

〇八千矛《ヤチホコノ》神、萬葉六【四十六丁】に、八千桙之神之御世自《ヤチホコノカミノミヨヨリ》云々、又十【二十五丁】にも、如此《カク》よめり、此(レ)も武威《タケキイキホヒ》の、八千《ヤチヂ》と多くの矛を持《モタ》る如きの意に稱《タタヘ》し御名なるべし、千《チ》の意は、今一(ツ)の考(ヘ)もあり、そは國號考の細曳千足國《クハシボコチダルクニ》の解《トキゴト》に云り、

〇字都志國玉《ウツシクニタマノ》神、玉は【借字】御靈《ミタマ》なり、故(レ)國御魂《クニミタマ》とも云り、さて御靈《ミタマ》は、上の宇迦之御魂《ウカノミタマノ》神の處に云るごとくにて、其國《ソノクニ》を經營坐《ツクリマシ》し功徳《イサヲ》ある神を、國玉《クニタマ》國御魂《クニミタマ》と云なり、【其由下文に見ゆ、】故(レ)此(ノ)名は、此(ノ)神に限らず、倭大國魂《ヤマトノオホクニミタマノ》神、【此(レ)をも大穴牟遲(ノ)神と心得るは、ひがことなり、】高市(ノ)郡吉野(ノ)大國栖(ノ)御魂(ノ)神社、山城(ノ)國久世(ノ)郡水主(ニ)坐(ス)山背(ノ)大國魂命(ノ)神、和泉(ノ)國日根(ノ)郡國玉(ノ)神社、攝津(ノ)國東生(ノ)郡生國魂(ノ)神社、兎原(ノ)郡河内(ノ)國魂(ノ)神社、伊勢(ノ)國度會(ノ)郡大國玉比賣(ノ)神社、度會|乃《ノ》大國玉比賣(ノ)神社、尾張(ノ)國中嶋(ノ)郡尾張(ノ)大國靈(ノ)神社、遠江(ノ)國磐田(ノ)郡淡海(ノ)國玉(ノ)神社、能登(ノ)國能登(ノ)郡能登(ノ)生國玉比古(ノ)神社、對馬上(ツ)縣(ノ)郡嶋(ノ)大國魂(ノ)神社など、各其國處に、經營《クニツクリ》の功徳《イサヲ》ありし神を、如此《カク》申して祀《マツ》れるなり、右の外にも、國々に國玉(ノ)神社大國玉(ノ)神社と云多し、皆同じ、其(ノ)中には、此(ノ)大穴牟遲(ノ)命を齋《イハ》へるもありぬべし、さて宇都志《ウツシ》とは、此(ノ)御名は、元《モト》須佐之男(ノ)大神の詔《ミコト》に、爲《ナレ》2宇都志國玉(ノ)神(ト)1と詔へるより起《オコ》れり、其《ソ》は根(ノ)國にして詔へる御言なる故に、此國を指(シ)て顯見國《ウツシクニ》とは詔へるぞかし、書紀にも顯《ウツシ》と書れたり、【又は上に宇都志|日金拆《ヒガナサクノ》命と云もあれば、只|何《ナニ》となき稱名《タタヘナ》にて、宇都久志《ウツクシ》の意ともしつべくや、とも思ひしかど、然にはあらじ、】

〇并《アハセテ》有(リ)2五名1、五名は、那伊都々《ナイツツ》と師の訓れつるぞ、此方《ココ》の物言《モノイヒ》なる、【或説に、大和(ノ)國城上(ノ)郡狹井(ニ)坐大|神《ミワノ》荒魂(ノ)神社五座は、此五名を祭(ル)と云り、神祇令(ノ)義解に、狹井(ハ)者大|神《ミワ》之|麁御靈《アラミタマ》也とあり、】書紀には、大國主(ノ)神、亦(ノ)名(ハ)》大物主(ノ)神、亦(ノ)名(ハ)國作大己貴(ノ)命、亦曰葦原醜男、亦曰八千矛(ノ)神、亦曰大國玉(ノ)神、亦曰顯國玉(ノ)神、顯此(ヲ)云2于都斯《ウツシト》1と、七(ノ)名を擧られ、古語拾遺には、大己貴(ノ)神、一名大物主(ノ)神、一名大國主(ノ)神、一名大國魂(ノ)神と、四(ノ)名を擧たり、さて此神のこと、書紀本書に、須佐之男(ノ)命櫛名田比賣に御合《ミアヒ》坐て、生2兒《ミコ》大己貴(ノ)神(ヲ)1とあり、此《コ》は凡て上代には、遠祖《トホツオヤ》までをかけて、みな意夜《オヤ》と云(ヒ)、子孫末々《ウミノコノスヱズヱ》までをかけて、みな古《コ》と云(ヘ)れば、【此事上にも下にも委く云り、】此(レ)も須佐之男(ノ)命の御子孫《ミスヱ》と云意にて、御子と申傳へつるより混《マギレ》し傳(ヘ)なるべし、【然るを此(ノ)書紀の文になづみて、八嶋士奴美(ノ)神より、大國主(ノ)神までを、一神なりといふ説もあるは、痛《イタ》く強《ンヒ》たるわざぞ、】其故は、此記に右の如く、世々《ツギツギ》の神(ノ)御名さだかに見えて、六世(ノ)孫なることいと著明《シル》ければなり、且《ソノウヘ》書紀にも一書には、八嶋篠(ノ)五世(ノ)孫(ハ)、即(チ)大國主(ノ)神(ナリ)と見え、又一書には、素盞嗚(ノ)尊|所生兒《ウミマセルミコ》之六世(ノ)孫是(ヲ)曰2大己貴(ノ)命(ト)1【これは兒之六世とあれば、七世(ノ)孫と云に似たれど、さにはあらず、六世は素盞嗚(ノ)尊より六世なり、】と見え、姓氏録にも、素佐能雄《スサノヲノ》命(ノ)六世(ノ)孫大國主とありて、何《イヅ》れの傳(ヘ)も皆|合《アヘ》る物をや、


古事記傳十之卷

                      本居宣長謹撰

 

     神代八之卷《カミヨノヤマキトイフマキ》

 

故此大國主神之兄弟八十神坐《カレコノオホクニヌシノカミノミアニオトヤソガミマシキ》。然皆國者避於大國主神《シカレドモミナクニハオホクニヌシノカミニサリマツリキ》。所以避者《サリマシシユヱハ》。其八十神各《ソノヤソガミオノモオノモ》。有欲婚稻羽之八上比賣之心《イナバノヤカミヒメヲヨバハムノココロアリテ》。共行稻羽時《トモニイナバニユキケルトキニ》。於大穴牟遲神負※〔代/巾〕《オホナムヂノカミニフクロヲオホセ》。爲從者率往《トモビトトシテヰテユキキ》。於是到氣多之前時《ココニケタノサキニイタリケルトキニ》。裸菟伏也《アカハダナルウサギフセリ》。爾|八十神謂其菟云《ヤソガミソノウサギニイヒケラク》。汝將爲者《イマシセムハ》。浴此海鹽《コノウシホヲアミ》。當風吹而《カゼノフクニアタリテ》。伏高山尾上《タカヤマノヲノヘニフシテヨトイフ》。故其菟從八十神之教而伏《カレソノウサギヤソガミノヲシフルママニシテフシキ》。爾其鹽隨乾《ココニソノシホノカワクマニマニ》。其身皮悉風見吹拆故《ソノミノカハコトゴトニカゼニフキサカエシカラニ》。痛苦泣伏者《イタミテナキフセレバ》。最後之來大穴牟遲神《イヤハテニキマセルオホナムヂノカミ》。見其菟言《ソノウサギヲミテ》。何由汝泣伏《ナゾモイマシナキフセルトトヒタマフニ》。菟答言《ウサギマヲサク》。僕在淤岐嶋《アレオキノシマニアリテ》。雖欲度此地《コノクニニワタラマクホリツレドモ》。無度因故《ワタラムヨシナカリシユヱニ》。欺海和邇《ウミノワニヲアザムキテ》【此二字以音下效此】言《イヒケラク》。吾與汝競欲計族之多小《アレトイマシトトモガラノオホキスクナキヲクラベテム》。故汝者《カレイマシハ》。隨其族在悉率來《ソノトモガラノアリノコトゴトヰテキテ》。自此嶋至于氣多前《コノシマヨリケタノサキマデ》。皆列伏度《ミナナミフシワタレ》。爾|吾蹈其上走乍讀度《アレソノウヘヲフミテハシリツツヨミワタラム》。於是知與吾族孰多《ココニアガトモガラトイヅレオホキトイフコトヲシラム》。如此言者《カクイヒシカバ》。見欺而列伏之時《アザムカヘテナミフセリシトキニ》。吾蹈其上讀度來《アレソノウヘヲフミテヨミワタリキテ》。今將下地時《イマツチニオリムトスルトキニ》。吾云汝者我見欺言竟《アレイマシハアレニアザムカエツトイヒヲハレバ》。即伏最端和邇捕我《スナハチイヤハシニフセルワニアヲトラヘテ》。悉剥我衣服《コトゴトニアガキモノヲハギキ》。因此泣患者《コレニヨリテナキウレヒシカバ》。先行八十神之命以《サキダチテイデマシシヤソガミノミコトモチテ》。誨告浴海鹽當風伏《ウシホヲアミテカゼニアタリフセレトヲシヘタマヒキ》。故爲如教者《カレヲシヘノゴトセシカバ》。我身悉傷《アガミコトゴトニソコナハエツトマヲス》。於是大穴牟遲神教告其菟《ココニオホナムヂノカミソノウサギニヲシヘタマハク》。今急往此水門《イマトクコノミナトニユキテ》。以水洗汝身《ミヅモテナガミヲアラヒテ》。即取其水門之蒲黄敷散而《スナハチソノミナトノカマノハナヲトリテシキチラシテ》。輾轉其上者《ソノウヘニコイマロビテバ》。汝身如本膚必差《ナガミモトノハダノゴトカナラズイエナムモノゾトヲシヘタマヒキ》。故爲如教《カレヲシヘノゴトセシカバ》。其身如本也《ソノミモトノゴトクニナリキ》。此稻羽之素菟者也《コレイナバノシロウサギトイフモノナリ》。於今者謂菟神也《イマニウサギガミトナモイフ》。故其菟白大穴牟遲神《カレソノウサギオホナムヂノカミニマヲサク》。此八十神者必不得八上比賣《コノヤソガミハカナラズヤカミヒメヲエタマハジ》。雖負※〔代/巾〕《フクロヲオヒタマヘレドモ》。汝命獲之《ナガミコトゾエタマヒナムトマヲシキ》。

兄弟、こは下に庶兄弟とありて、異母《コトハラ》なれば、【波良加良《ハラカラ》とは訓がたし、】阿爾於登《アニオト》と訓べし、

〇八十神《ヤソガミ》は、たゞ多きを云めり、必|八十柱《ヤソハシラ》と限れるにほ非じ、中卷明(ノ)宮(ノ)段(ノ)末に、故《カレ》八十神《ヤソガミ》雖《スレドモ》v欲《ムト》v得《エ》2是伊豆志袁登賣《コノイヅシヲトメヲ》1皆不得婚《ミナエズ》、とあるに同じ、考(ヘ)合せて知(ル)べし、書紀(ノ)神代(ノ)卷に、八十諸神、垂仁(ノ)卷に八十魂《ヤソミタマノ》神、などもあり、又|百八十神《モモヤソガミ》と此記にあるも、同じたぐひなり、【式に、阿波(ノ)國美馬(ノ)郡|八十子神《ヤソコガミノ》社とあるは、前後の神社を合せて思ふに、伊邪那岐(ノ)大神の、多くの御子を申すならむ、○こゝを舊事紀に、事八十(ノ)神とて、一神の名にしたるは、例のひがことなり、次(ノ)文に、皆とも各とも共(ニ)議ともあるにてしるし、】

〇皆國者《ミナクニハ》避《サリマツリキ》2於大國主(ノ)神(ニ)1、こは後の事を先(ヅ)言(ヒ)おきて、次に其(ノ)然る所以《ユヱ》を、初(メ)より具《ツブサ》に言ふ、【此(ノ)次より、下文の毎(ニ)2坂(ノ)御尾1追(ヒ)伏(セ)、毎(ニ)2河(ノ)瀬1追(ヒ)撥(ヒ)而始(テ)作(リタマヒキ)v國也、とある處まで、みなその事なり、】皆《ミナ》は、八十神皆なり、國《クニ》は、此(ノ)天(ノ)下を云、避《サル》とは、書紀に、經津主(ノ)神武甕槌(ノ)神、大御命《オホミコト》を受て天降《アマクダリ》て、大己貴(ノ)神に問(ヒ)給ひし言に、汝(ノ)意(ハ)如何《イカニ》、當須避不《サリマツラムヤイナヤ》云々、事代主(ノ)神曰(ク)、我(ガ)父|宜當奉避《サリマツルベシ》、吾(モ)亦(タ)不可違《タガハジ》、因《カレ》於《ニ》2海中1造(リ)2八重(ノ)蒼柴籬《アヲフシガキヲ》蹈(テ)2船枻《フナノヘヲ》1而|避《サリキ》之、また出雲(ノ)國(ノ)造(ガ)神賀(ノ)詞に、國作之大神乎毛媚鎭天《クニツクラシシオホカミヲモコビシヅメテ》、大八島國(ノ)現事顯事《ウツシゴトアラハニゴト》令《シメ》2事避《コトサラ》1支《キ》などあり、但(シ)彼《カレ》は自《ミ》退(キ)て讓避《ユヅリサル》をこそ云(ヘ)るに、此《コレ》は下文《シモ》の事どもを見るに、さに非ず、競爭《キホヒアラソ》ひつれども、及(バ)ず負《マケ》て退き避《サ》れるなり、【若《モシ》くは終《ツヒ》に大國主(ノ)神に歸服《シタガヒ》て、自《ミ》避《サリ》し事のありしが、記にはもれつるにもやあらむ、】

〇稻羽《イナバ》は因幡(ノ)國なり、彼(ノ)國|法美《ハフミノ》郡に、稻羽(ノ)【伊奈波】郷あれば、是《コレ》より出たる國(ノ)名なるべし、名義《ナノココロ》は、稻葉よりや出けむ、

〇八上比賣《ヤカミヒメ》、和名抄に、因幡(ノ)國八上(ノ)【夜加美】郡あり、此(レ)より出つる名なり、【又は此(ノ)比賣神の坐(シ)し處なる故に、地(ノ)名となれるか、その本末は辨へがたし、〇萬葉四に、八上(ノ)采女も見ゆ、】

〇有欲婚云々は、用婆波牟能心有弖《ヨバハムノココロアリテ》と訓べし、此(ノ)言は、下八千矛(ノ)神(ノ)御歌に、佐用婆比《サヨバヒ》とある處に委く云べし、

〇共行《トモニユク》は、出雲(ノ)國より行(ク)なるべし、

〇負《オホセ》v※〔代/巾〕《フクロヲ》、負の假字は和名抄に、稻負鳥を、其(ノ)讀(ミ)以奈於保世度里《イナオホセドリ》、とあるに依(ル)べし、※〔代/巾〕は、同書に蒋魴(ガ)切韻(ニ)云、袋(ハ)嚢(ノ)名(ナリト)、字亦作v※〔代/巾〕、和名|布久路《フクロ》、また唐韻云、※〔月+(券の刀が巾)〕(ハ)嚢(ノ)之可(キ)v帶(ブ)也(ト)、和名|於比不久呂《オヒブクロ》、これら共に行雄(ノ)具に載《ノセ》たれば、古(ヘ)は旅《タビニ》用《ツカフ》物《モノ》を※〔代/巾〕に入(レ)て、從者《トモビト》に齎《モタ》せ行(ク)と見えたり、【蜻蛉(ノ)日記などに、餌袋《ヱブクロ》に菓子《クダモノ》など入(レ)て、旅にもたること見えたり、餌袋《ヱブクロ》の名は、鷹より出(デ)つらめど、それに種々(ノ)物入るゝは、古(ヘ)の旅に袋をもたることののこれるなるべし、】西宮記踏歌(ノ)裝束(ノ)條に、又以2衛府(ノ)官人(ヲ)1爲2持(ツ)v袋(ヲ)者(ト)1、裝束如(シ)v常(ノ)、また禁秘御抄得2選(ノ)條に、行幸(ノ)之時持(チ)2大袋(ヲ)1與《ト》2内侍1同車(ス)、是(レ)不(ル)v可v然事(ノ)第一也とあり、書紀(ノ)雄略(ノ)卷に、根使主《ネノオミ》を罪《ツミ》なひ給ひて、其《ソレ》が子孫を賜(ヒテ)2茅渟《チヌノ》縣主(ニ)1、爲《ス》2負嚢者《フクロカヅキビトト》1とあり、賤(キ)者の役《ワザ》と見えたり、【或人の云(ク)、事功の人におくるゝ者を、世俗に袋持(チ)と云も、此(ノ)故事によれり、】

〇従者は、延佳本に志度理辨毘登《シドリベビト》と訓るも、然《サル》こと【書紀廿四に※〔人偏+賓〕從者《シドリベ》、しどりべは後執部《シリトリベ》にて、最後に行(ク)從者を云、】なれど、なほ廣く登母毘登《トモビト》と訓て有(リ)ぬべし、下卷穴穗(ノ)朝(ノ)段に、御伴人《ミトモビト》ともあり、書紀に、從とも從人とも※〔人偏+兼〕人ともある、皆トモビトと訓り、さて同(ジキ)兄弟の中に、此神しも如此《カク》賤《イヤシ》きさまに見役《ツカハレ》たまへる所由《ユヱ》は、凡て大《オホキ》なる功業《イサヲ》を立《タテ》むとする人は、細事《イササケゴト》にはかゝはらぬから、中々に人の云(フ)まゝに從《シタガ》ふものなればなるべし、此意は次の手間山《テマヤマ》の事にても見えたり、

〇気多之前《ケタノサキ》は、因幡(ノ)國氣多(ノ)郡の海邊の崎なり、

〇裸、阿加波陀那流《アカハダナル》と訓べし書紀垂仁(ノ)卷に、裸伴此(ヲ)云2阿箇播娜我等母《アカハダガトモト》1とあり、又雄略(ノ)卷に、禿《アカハダナル》鷄とも見ゆ、古き歌に阿加波陀能山《アカハダノヤマ》ともよめり、顯膚《アカハダ》の意なり、又|赤膚《アカハダ》にても有べし、【史記秦(ノ)始皇本紀に、伐(テ)2湘山(ノ)樹(ヲ)1赭《アカハダニス》2其山(ヲ)1、又|波陀加《ハダカ》と云は、膚顯《ハダアカ》にて、阿加波陀《アカハダ》を下上に云(フ)言なり、然るを阿加波陀加《アカハダカ》と云は、此(レ)を意得ぬひが言《コト》にて、由《ヨシ》なく同言の重なるぞかし、右に引る書紀の訓注の我(ノ)字は、之《ガ》の意なり、故(レ)濁音(ノ)字を用ひたり、思ひあやまることなかれ、】こゝは菟《ウサギ》の毛《ケ》の無(キ)を云り、

〇菟、【此方の古書には、兔を多くは菟と作《カケ》り、漢籍にもさる例ありて、字書にも相(ヒ)通(フ)と云るもあれど、そは誤なりと、或書に云り、菟を兔とはかくべく、兔を菟とはかくまじきことなりとぞ、信《マコト》にさも有べきことなり、】萬葉十四東歌にも、今の田舍人《ヰナカビト》も、乎佐藝《ヲサギ》と言(ヘ)ば、然訓べしと師は云れき、されど凡て古書に、宇《ウ》の假字《カナ》に此字を用ひたるを思へば、なほ宇佐岐《ウサギ》ぞ正《タダ》しかりける、天武紀に置始(ノ)連菟と云人(ノ)名をも、元正紀には宇佐伎《ウサギ》と書《カカ》れたり、【乎佐岐《ヲサギ》は本より田舍言なるべし、】和名抄に四聲字苑(ニ)云(ク)、兎(ハ)似(テ)2小犬(ニ)1、而長耳缺唇(ト)、和名|宇佐木《ウサギ》、

〇爾八十神謂其菟云云々、此(ノ)上に、菟の裸《アカハダ》にて伏る所以《ユヱ》を、八十神の問《トヘ》る言、次に菟の答(ヘ)たる言など有(ル)べきを、其《ソ》は次の大穴牟遲(ノ)神の問(ヒ)賜へる處に、委曲《ツバラカ》に擧《アゲ》て、此《ココ》には省《ハブケ》り、抑《ソモソモ》前に言て後に省《ハブク》こそ、文章の常なるに、此(レ)は前に省(キ)て後に云るは、凡て大穴牟遲(ノ)神の事業《コト》を主《ムネ》と語《カタ》る故に、其(ノ)處を委曲《ツバラカ》にいへるなり、

〇將爲者は、勢牟波《セムハ》と訓べし、可《ベキ》v爲《ス》樣者《ヤウハ》と云むが如し、【此《コ》を師は、母登能菟登那良牟爾波《モトノヲサギトナラムニハ》と訓れき、此《コ》は漢文の格に依て、意を得て訓れつるものなれど、撰者の意は然《サ》る心にて書るに非じ、凡て此記は、漢文の格に依て、意を得て訓べき處と、又漢文の格にかゝはらずて、たゞ古語の隨《ママ》に字を置るとの差《タガヒ》あり、こゝはたゞ古語の任《ママ》に置る文字なれば、字のまゝに訓べきなり、】

〇海鹽【鹽は借字にて、潮をいふ、下同、】は宇志富《ウシホ》と訓べし、齊明紀(ノ)大御歌に于之〓《ウシホ》と見ゆ、

〇尾上《ヲノヘ》のことは、朝倉(ノ)宮(ノ)段【傳二十の六十四葉】にいふべし、

〇徒《ママニ》2八十神(ノ)之教(フル)1而《シテ》の而は、爲而《シテ》の意なり、遠呂智(ノ)段に、隨《ママニ》v告《ノリタマヘル》而《シテ》とあると同(ジ)格ぞ、

〇乾の假字は、字鏡の燥(ノ)字の下に、可和久《カワク》とあり、

〇其(ノ)身(ノ)皮とは、膚《ハダヘ》を云なり、その故は、上に裸《アカハダ》と見え、下文に悉《コトゴトニ》剥(グ)2我(ガ)衣服(ヲ)1とあれば、毛《タ》の付《ツキ》たる皮《カハ》はなければなり、

〇痛苦は伊多美弖《イタミテ》と訓べし、そも/\此(ノ)菟は、八十神のために、何《ナニ》の怨仇《アタ》ならぬを、かく令惱《ナヤマセ》るは、甚《イト》も惡有《アシカル》神たちなりけり、凡て由なきすさみに、物を傷《ソコナ》ふことは、昔も今も不善人《ヨカラヌヒト》の爲《ス》ることなりかし、

〇最後は、伊夜波弖《イヤハテ》と訓べき由(シ)、前に云が如し、【傳六の廿八葉】

〇僕、これも阿禮《アレ》と訓べし、即(チ)次に吾とあり、

〇淤岐(ノ)嶋は隠岐(ノ)國なり、

〇和邇《ワニ》、和名抄に麻果(ガ)切韻(ニ)云(ク)、鰐(ハ)似(テ)v※〔敝/魚〕(ニ)有2四足1、喙(ノ)長三尺甚|利《トシ》v齒、虎及(ビ)大鹿渡(レバ)v水(ヲ)、鰐撃(テ)v之(ヲ)皆中斷(スト)、和名|和仁《ワニ》と云り、此魚の事、古書に多く見ゆ、【宇治拾遺に、虎の海へおちいりける足を、和邇のくひきりけるを、その和邇つひに虎にくひ殺されたる物語をのせたり、】甚《イト》大(キ)なるが有(リ)と見えて、記中に八尋和邇《ヤヒロワニ》などあり、【漢籍にも長(サ)三丈など見ゆ、】又|熊鰐《クマワニ》とは、其(ノ)猛《タケキ》を云る稱《ナ》なり、凡て熊某《クマナニ》と云は、みな猛《タケキ》を云る例なること、上|熊曾《クマソ》の處【傳五の十六葉】に云が如し、【凡て北國の海には、今も和邇多しと云り、又|遙《ハルカ》西《ニシ》の外國々《トツクニグニ》にも、此魚多き處ありと云り、】さて此《ココ》に海《ウミノ》と云るは、菟は陸《クヌガ》の物にて、海を渡《ワタラ》むの謀《ハカリコト》を語る處なればなり、

〇族は登母賀良《トモガラ》と訓べし、【書紀に、宇我邏《ウガラ》また夜加羅《ヤカラ》と訓(メ)れども、此《ココ》は親族を云に非れば、然《サ》は訓べからず、】菟の族とは、闔嶋《ヒトシマ》の諸菟皆《ウサギドモミナ》いひ、和邇の族とは、擧海《ヒトウミ》の和邇ども皆を云るなればなり、書紀十一に※〔虫+糺の旁〕之黨類《ミツチノトモガラ》、又諸(ノ)※〔虫+糺の旁〕(ノ)族《トモガラ》とあるも同じ、【族、禮記(ノ)註に類也とある意なり、】書紀に、屬類黨類徒黨同伴者衆など、皆然訓り、

〇多小は於本伎須久那伎《オホキスクナキ》と訓べし、小は少(ノ)字の誤かとも思へど、通はしてぞ用ひけむ、【百官の品などには、大と少とを對(ヘ)たれば、多に小をも對(フ)べくや、】

〇競欲計をば、久良辨弖牟《クラベテム》と訓べし、

〇隨其族在悉の五字は、其族之阿理能許登碁登《ソノヤカラノアリノコトゴト》と、師の訓れつるに從ふべし、【但(シ)族は、上の如くトモガラと訓べし、】有限《アルカギリ》不《ズ》v遺《ノコサ》と云意なり、萬葉五【二十九丁】に、布可多衣《ヌノカタギヌ》、安里能許等其等《アリノコトゴト》、伎曾倍騰毛《キソヘドモ》とあるにひとし、

〇列伏渡《ナミフシワタシ》、此(ノ)渡《ワタル》は、此處《ココ》より彼處《カシコ》まで續《ツヅ》くを云り、彌亙(ノ)字を訓る意なり、

〇走乍《ハシリツツ》、凡て乍(ノ)字、古書には、必(ズ)都々《ツツ》と訓(ム)例なり、都々《ツツ》は、此事《コノコト》と彼(ノ)事と相交《アヒマジハ》るとき、其|間《アヒダ》に置く辭なり、此《ココ》は走《ハシリ》もし讀《ヨミ》もして、二(ツ)事を相(ヒ)交へて爲《ス》るなり、【走々讃《ハシルハシルヨム》とも、走(リ)ながら讀(ム)ともいふに同じ、故(レ)此(ノ)乍(ノ)字を、後世には那賀良《ナガラ》とも訓(ム)なり、凡て都々《ツツ》と那賀良《ナガラ》と、通ひて聞ゆること多し、物語文などに、必(ズ)都々《ツツ》と云べきを、那賀良《ナガラ》と云る例あり、〇近(キ)世の歌に、而《テ》と云べき處を、都々《ツツ》とよむこと多し、こは誤(リ)なり、都々《ツツ》と云べきを、弖《テ》と云むは可《ヨ》し、弖《テ》と云べきを、都々《ツツ》とはいひがたし、此(ノ)意をよく辨ふべし、近(キ)世に歌(ノ)道(ノ)人の云(フ)都々《ツツ》の説は、叶はぬことおほし、】」

〇讀度《ヨミワタラム》、讀《ヨム》は數計《カゾソフル》なり、萬葉四【十六丁】に月日乎數而《ツキヒヲヨミテ》、又七【三十九丁】に浪不數爲而《ナミヨマズシテ》、又十一【二十六丁】に、時守之打鳴鼓數見者《トキモリノウチナスツヅミヨミミレバ》、【これら今(ノ)本の訓は、皆誤れり、】又十三【十五丁】に、吾睡夜等呼讀文將敢鴨《ワガヌルヨラヲヨミモアヘムカモ》、【今(ノ)本は、讀を續と誤れり、】又【卅丁】吾寢夜等者數物不敢鴨《ワガヌルヨラハヨミモアヘヌカモ》、【是も今本は訓を誤、】又十七【三十三丁】に月日餘美都追《ツキヒヨミツツ》、かく假字にも書り、【今(ノ)世にも、錢などを數《カゾ》ふるをば、よむと云り、】さて此(ノ)度《ワタル》は、上なると異《コト》にして、渡行《ワタリユク》を云り、

〇知《シラム》d與《ト》2吾族《ワガトモガラ》1孰多《イヅレオホキト》u、右の如く爲《シ》たらむには、實《マコト》に和邇の族《トモガラ》の數《カズ》をば、知るべけれども、菟の族の數は、知(ル)べきならねば、此(ノ)上に、然後吾亦隨族在悉率来將列伏《サテノチニアレモマタトモガラノアリノコトゴトヰテキテナミフサム》、爾汝云々讀度《カレイマシシカシカシテヨミワタレ》、などいふ語もあるべきを、其《ソ》は今菟の身(ノ)上(ヘ)を語るに用|無《ナ》ければ、略《ハブ》けるにこそ、

〇今《イマ》將《スル》v下《オリムト》v地《ツチニ》時《トキニ》、凡そ今《イマ》と云に三(ノ)意あり、一(ツ)には、字の如く常云(フ)今なり、二(ツ)には、今一《イマヒトツ》など云て、有(ル)が上(ヘ)に猶《ナホ》添《ソヘ》むとするを云、三(ツ)には、將《スル》v然(ラムト)ことの近きを云、【俗にやがてともおつゝけとも云に同じ、即(チ)今《インマ》にともいふなり、】今《イマ》返(リ)來《コ》むなど云是(レ)なり、【此(レ)に又一(ノ)意あり、今《イマ》早《ハヤク》と催《モヨホ》すにいふ是なり、〇又今者《イマハ》と云て、今は此(レ)ぞ限(リ)と云意に用ることあり、】こゝは其意にて、地に下《オリ》むとするほどの近きを云、下(ル)v地(ニ)とは、和邇の背(ノ)上(ヘ)より氣多(ノ)前の地に下《オル》るを云、

〇最端も伊夜波志《イヤハシ》と訓べし、俗に一端《イチノハシ》と云ことなり、

○我衣服《アガキモノ》とは、毛《ケ》の付《ツケ》る皮《カハ》を云り、こは人に准へて、衣服《キモノ》とは云るか、又は伎母能《キモノ》とは、凡て膚をつゝみ藏《カク》す物の名にて、人の着《キ》る衣服のみの名には非るか、又|蛇《クチナハ》の伎奴《キヌ》と云ことあれば、此《ココ》も伎奴《キヌ》とも訓べし、

〇患《ウレヒ》の假字は、三代實録【十三の十七丁】に憂禮比《ウレヒ》とあり、字禮閇《ウレヘ》に非ず、

〇命以は以(テ)2御言(ヲ)1なり、【初(メ)に天(ツ)神諸(ノ)命以(テ)とあるにおなじ、】

〇傷は、上に其身皮悉風見吹拆故痛苦《ソノミノカハコトゴトニカゼニフキサカエシカラニイタミテ》とあるを云り、曾許那波延都《ソコナハエツ》と訓べし、

〇今急《イマトク》、この今は、速《ハヤ》くと催《モヨホ》し起《タツ》る意あり、

〇以v水洗は、潮氣《シホケ》を去《サラ》むために、眞水《マミヅ》にて洗はしむるなるべし、【上に云る如く、水門《ミナト》は河の海に落る戸口《トグチ》にて、河と海との交際《サカヒ》なるが、此《ココ》は眞水《マミヅ》を用ひむ爲《タメ》に、水門《ミナト》と云るなれば、河(ノ)方へよりて、潮の交らぬ所とすべし、然らばたゞに河とこそ云べきを、まぎらはしく水門と云るは、いかにと云に、此處は海邊なれば、河即(チ)水門なればぞかし、】

〇蒲黄、和名抄に唐韻(ニ)云(ク)、蒲(ハ)草(ノ)名、似(タリ)v藺(ニ)、可(シ)2以(テ)爲《ツクル》1v席(ヲ)也(ト)、和名|加末《カマ》、陶隱居(ガ)本草(ノ)注(ニ)云(ク)、蒲黄(ハ)蒲(ノ)花(ノ)上(ノ)黄(ナル)者(ナリト)也、和名|加末乃波奈《カマノハナ》、【蒲黄は、花(ノ)上の黄粉なるを、直《タダ》に波奈《ハナ》と云るは、此方《ココ》にては、別《コト》に黄粉の名は無くて、其《ソレ》をも花と云るなるべし、さて漢籍にも、蒲黄はもはら治v血治v痛藥とするは、本此(ノ)神の靈に頼て、上(ツ)代よりしかつたへしものなり、〇今(ノ)人は、加を濁(リ)て賀麻《ガマ》といへど、凡て頭を濁(ル)言無し、今も蒲生《カマフ》など云地(ノ)名などは、清(ム)を以て、古(ヘ)をしるべし、】

〇輾轉者は、許伊麻呂毘※〔氏/一〕婆《コイマロビテバ》【婆は濁音なり、弖互婆《テバ》は多良婆《タラバ》の意なり、】と訓べし、萬葉三【五十八丁】に展轉《コイマロビ》と見ゆ、【十の五十四丁、十三の廿九丁にもあり、】許伊《コイ》は臥伏《フス》を云て、又萬葉に即(チ)、反側《コイフス》臥有《コヤセル》なども多く見ゆ、假字は許伊《コイ》なり、此(レ)も萬葉にあり、なほ此(ノ)言の例、下卷遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段の歌、【傳三十九の六十五葉】許夜流《コヤル》とある處に云、

〇如《ゴト》2本膚《モトノハダノ》1、靈異記に膚(ハ)加波邊《カハヘ》、字鏡に※〔肉+几〕(ハ)膚也|加波戸《カハヘ》、和名抄に、肌(ハ)膚肉也、和名|加波倍《カハヘ》などあれど、なほ波陀《ハダ》と云ること、古言に多かれば、然訓べし、和名抄に、膚(ハ)體肌(ナリ)也、和名|波多《ハダ》とあり、本膚《モトノハダ》とは、見《レ》2吹拆《フキサカ》1たるが差合《イエアフ》のみならず、皮《カハ》も毛《ケ》も本《モト》の如くに成(ル)を云なり、

〇差は愈《イユル》なり、伊延那牟《イエナム》と訓べし、

〇如本也は、本之如爾爲伎《モトノゴトクニナリキ》と訓べし、此(レ)藥方《クスリワザ》の物に見えたる始(メ)なり、書紀に、大己貴(ノ)命(ト)與《ト》2少彦名(ノ)命1、戮力一心《アヒトモニ》經2營《ツクリ》天(ノ)下(ヲ)1、復《マタ》爲《タメニ》2顯見蒼生及畜産《ウツシキアヲヒトクサマタケモノノ》1、則|定《サダメ》2其(ノ)療《ナホス》v病(ヲ)之方《ワザヲ》1とあり、世(ノ)人病又身の傷《ソコナヒ》などを治めむとせば、此(ノ)神の恩頼《ミタマノフユ》を仰《アフ》ぐに如事《シクコト》なし、【今も鳥蟲などは、身の病又|傷痛《ソコナヒイタミ》などあるときは、治むる方《ワザ》を自(ラ)知(リ)て爲《ス》るに、速《スミヤ》けく驗《シルシ》あるは、幽《オノヅカラ》に此(ノ)神の靈《ミタマ》ちはひ賜ふなるを、人は中々に己《オノ》がさかしら心以て、理に溺《オボレ》たる漢《カラ》の方《ワザ》を用るからに、病も何も治まることまれなり、漢のも上(ツ)代は、理に泥《ナヅマ》ずて、古(ヘ)の傳(ヘ)に任《マカ》せてせしほどに、驗《シルシ》いちじるかりしは、自《オ》此(ノ)締の靈《ミタマ》に頼《ヨリ》しなり、】

〇稻羽之素菟《イナバノシロウサギ》とは、此(ノ)故事《フルコト》を語る時の名目《ナ》なるべし、【然らざれば、次に又謂2菟神(ト)1、とあるに重《カサ》なりていかゞなり、於今者とあれば、古(ヘ)は稻羽之素菟と云(ヒ)、今は菟神と云、と云意かとも云(フ)べけれど、さも聞えず、記中凡て於今者と書るは、たゞ於《ニ》v今《イマ》と訓て、至(ルマデ)2于今(ニ)1の意にて、者(ノ)字は、波《ハ》と訓べき例にあらず、他の處にあるを見合せてしるべし、】さて此(ノ)菟の白《シロ》なりしことは、上文に言(ハ)ずして、此處《ココ》にしも俄《ニハカ》に素菟《シロウサギ》と云るは、いさゝか心得ぬ書《カキ》ざまなり、故(レ)思(フ)に、素はもしくは裸《アァハダ》の義《ココロ》には非じか、若(シ)然《サ》もあらば、志呂《シロ》とは訓(ム)まじく、異訓《アダシヨミ》ありなむ、人猶考へてよ、【塵添※〔土+蓋〕嚢抄に、因幡記と云書を引て、此(ノ)兎の故事を記せる、此記の趣と同じ、但し其(ノ)始(メ)は、高草(ノ)郡の竹林の竹の中に、老たる兎住けるに、あるとき洪水いできて、此(ノ)竹林流れにき、兎竹の根に乘て流れて、隱岐(ノ)嶋に着《ツキ》ぬ、水かさ落て後、本の所にかへらむとすれど、渡るべきすべなし、そのときに水中に鰐あり、兎鰐に云やう云々、これより後の事は、此記と同じ、因幡記と云は、風土記などを云るにや、】〇謂2菟神(ト)1、この神社今も有(リ)や、くはしく國人に尋ぬべきことなり、【伯耆(ノ)國人の云く、本國八橋(ノ)郡|束積《ツカヅミ》村に、鷺《サギ》大明神と云あり、須佐之男(ノ)命を祭ると云、同村に大森大明神と云あり、大穴持(ノ)命を祭ると云り、件(ノ)兩社の神主|細谷《ホソヤ》大和と云、さてその鷺大明神を、疱瘡《モガサ》の守(リ)神なりと云て、そのわたりの諸人あふぎ尊みて、小兒の疱瘡の輕《カロ》からむことを祈《イノ》る、まづ初(メ)に此(ノ)願を立るときに、此社に詣《マウデ》て、竹(ノ)皮の笠を一蓋借(リ)て歸(リ)て、家(ノ)内に齋《イハ》ひ置て、その兒疱瘡をことなくしをへぬれば、賽《カヘリマヲシ》に同じさまの笠を今一蓋添(ヘ)て、初(メ)のと共に、かの社に返し納(メ)奉る、此(ノ)笠どもはみな、神の御前に積《ツミ》置(ク)を、又後に祈(リ)かくる者は、一蓋づゝ借(リ)て歸るなり、さて其(ノ)束積《ツカヅミ》のあたりに、木江川《キノエガハ》とて大(キナル)河ありて、其川の海に落る處、鹽津浦とて、隱岐の知夫里《チブリノ》湊その向ひに當れり、さて因幡の氣多(ノ)郡は、伯耆の堺にて、束積村とは、五六里|隔《ヘダ》たれりと語りき、此(レ)因幡の氣多(ノ)前《サキ》とあるには合(ハ)ざれども、若(シ)は菟神は此(ノ)社にて、鷺とは、菟を誤りたるならむか、疱瘡を祈るも、此(ノ)段の故事に縁あることなり、和名抄によるに、束積(ノ)郷は※〔さんずい+于〕入(ノ)郡なるを、八橋(ノ)郡なるは、今は八橋(ノ)郡に屬《ツケ》るなるべし、さて彼(ノ)木(ノ)江川の落口、鹽津と云|地《トコロ》、蒲黄を取し水門《ミナト》ならむか、猶よく尋ぬべし、貝原好古が和爾雅てふ物に、伯耆(ノ)國|素菟《ウサギ》大明神と云を載(セ)たるも、彼(ノ)杜を云るにやあらむ、】

〇其菟白云々、此(ノ)言のごとく果《ハタ》して、八上比賣をば、大穴牟遲(ノ)神の得たまへるは、この菟の靈《タマ》ちはひけるなるべければ、まことに神なりけり、

〇汝命は、那賀美許登《ナガミコト》と訓べき由、上にいへるがごとし、さて比下にかならず曾《ゾ》と云辭を讀附《ヨミツク》べき處なり、

 

於是八上比賣答八十神言《ココニヤカミヒメヤソガミニコタヘケラク》。吾者不聞汝等之言《アハミマシタチノコトハキカジ》。將嫁大穴牟遲神《オホナムヂノカミニアハナトイフ》。故爾八十神怒《カレココニヤソガミイカリテ》。欲殺大穴牟遲神共議而《オホナムヂノカミヲコロサムトアヒタバカリテ》。至伯伎國之手間山本云《ハハキノクニノテマノヤマモトニイタリテイヒケルハ》。赤猪在此山《コノヤヤマニアカヰアルナリ》。故和禮《カレワレ》【此二字以音】共追下者《ドモオヒクダリナバ》。汝待取《イマシマチトレ》。若不待取者《モシマチトラズハ》。必將殺汝云而《カナラズイマシヲコロサムトイヒテ》。以火燒似猪大石而《ヰニニタルオホイシヲヒモテヤキテ》。轉落《マロバシオトシキ》。爾追下《カレオヒクダリ》。取時《トルトキニ》。即|於其石所燒著而死《ソノイシニヤキツカエテミウセタマヒキ》。爾其御祖命哭患而《ココニソノミオヤノミコトナキウレヒテ》。參上于天《アメニマヰノボリテ》。請神産巣日之命時《カミムスビノミコトニマヲシタマフトキニ》。乃遣※〔討/虫〕貝比賣與蛤貝比賣《スナハチキサガヒヒメトウムギヒメトヲオコセテ》。令作活《ツクリイカサシメタマフ》。爾※〔討/虫〕貝比賣岐佐宜《カレキサガヒヒメキサゲ》【此三字以音】集而《コガシテ》。蛤貝比賣持水而《ウムギヒメミヅヲモチテ》。塗母乳汁者《オモノチシルトヌリシカバ》。成麗壯夫《ウルハシキヲトコニナリ》【訓壯夫云袁等古】而出遊行《テイデアルキキ》。

答《コタヘケラク》2八十神(ニ)1、この前に聘《ツマドヒ》せし事のあるべきを、其をば略《ハブキ》て、たゞに其答(ヘ)を云るなり、されど何《ナニ》とかやこと足《タラ》はぬここちす、

〇不《ジ》v聞《キカ》は承引《ウケヒカ》じなり、

〇將嫁は阿波那《アハナ》と訓べし、那《ナ》は牟《ム》と云に同じ古辭なる由、上に委く云り、さて此(レ)は、先(キ)に菟を惱《ナヤマ》したると、助《タスケ》たると、善惡《ヨキアシ》き所為《シワザ》を見て、其(ノ)善(キ)に心を歸《ヨセ》たるか、はた此(ノ)神は、もとより萬(ヅ)こよなく勝《スグレ》たるからに、何故となくなびきたるか、如何《イカニ》まれ彼(ノ)菟の事は、もはら此(ノ)妻問(ヒ)の事にかけて云るなれば、自《オ》菟の靈《ミタマ》をそへたることは、前に云るが如し、

〇怒(ノ)字、一本には忿とあり、

〇手間《テマノ》山本、和名抄に、伯耆(ノ)國|會見《アフミノ》郡|天萬《テマノ》郷あり、此なり、又出雲風土記意宇(ノ)郡(ノ)段に、道通(フ)2國(ノ)東(ノ)堺|手間※〔戔+立刀〕《テマノセキニ》1と見え、【今彼(ノ)國意宇(ノ)郡筑野村|間潟《マカタノ》海中に、手間(ノ)天神と云あり、と或書に見ゆ、】古今六帖關(ノ)歌に、八雲立(ツ)出雲(ノ)國の手間(ノ)關、いかなるてまに君|障《サハ》るらむ、待(テ)しばし人知(リ)見むや我(ガ)せこを、留《トドメ》かねてぞ手間と名づけし、掘川院百首に、さりともと思ひしかども八雲立(ツ)、てまのせきにも秋はとまらず、國堺なる故に、伯耆とも出雲ともせしなるべし、【又|郷《サト》は伯耆、關は出雲に屬《ツケ》るか、いかにまれ別にはあらじ、〇舊事紀に手向山とあるは、寫誤なるべし、】

〇赤猪《アカヰ》、書紀神功(ノ)卷にも見ゆ、今は石を火に燒《ヤキ》て欺《アザムカ》むために、赤と色を云るなるべし、又記中に白猪と云も見ゆ、和名抄に爾雅(ノ)注(ニ)云、猪一名〓、和名|井《ヰ》、兼名苑(ニ)云、一名豕、方言(ノ)注(ニ)云、豚(ハ)家(ノ)子也と見ゆ、さて此《ココノ》文は、此山邇赤猪在郡理《コノヤマニアカヰアルナリ》と訓べし、

〇和禮共(ノ)三字、連《ツラネ》て和禮杼母《ワレドモ》と訓べし、我《ワレ》とも吾《ワレ》とも書(ク)べきを、假字に書(キ)、そのうへに注までを附(ケ)たるは、いと煩《ワヅラ》はしきに似たるを、記中に往々《ヲリヲリ》かゝることあるは、たゞ甚《イト》古き書に書《カケ》るまゝによれるにや、

〇追下者《オヒクダリナバ》、下《クダ》るは猪を下《クダ》すに非ず、猪を追《オヒ》て八十神の下《クダ》るなり、同(ジ)言の此(ノ)下《シモ》にあると、考(ヘ)合せて知(ル)べし、

〇待取は、常にはたゞ待《マチ》つくるを云て、取《トル》は輕《カロ》き言なるを、此《ココ》は取(ル)の言|重《オモ》し、山(ノ)下に在て、待承(ケ)て捕《トラ》へよと云なり、

〇大石は意富伊志《オホイシ》と訓べし、白檮原《カシバラノ》朝(ノ)段(ノ)御歌に、意斐志《オヒシ》【斐《ヒ》は富伊《ホイ》の切《ツヅマリ》なり、】とあるに依れり、伊波《イハ》とは訓(ム)まじ、

〇追下取《オヒクダリトル》、この追(ヒ)下(ル)も、八十神の下るなり、上に云る言に應《カナ》ふ、【もしこれを大穴牟遲(ノ)神の追下(ル)とするときは、待取(レ)と云るに違へばなり、又上に云る追下(ル)も、猪を下《クダ》すに非ずと云ること、こゝと合せて心得べし、前後にて同言の、意のかはるべきならねばなり、もし又こゝをも、かの石を下《クダ》すこととせば、上に轉落とあると重《カサ》なりて、わづらはしきをや、されば此(レ)は轉落《マロバシオト》す石を追て、八十神の下《クダ》るなり、】取《トル》は、大穴牟遲(ノ)神の待取《マチトル》なり、然らば追下乎取《オヒクダルヲトル》と、乎《ヲ》を附(ケ)て訓べく思ふ人有(ル)べけれど、其意とはいさゝか異《コト》なり、【取(ノ)字を上に置《オ》かで、下へ連《ツラネ》て置るを思(フ)べし、】此(レ)と彼(レ)と爲交事《シカハスコト》を、かく引(キ)つゞけて一(ツ)に云も、語の一(ツ)の格なり、追下《オヒクダル》なり、取《トル》なり、と云むが如きこゝろばへなり、出雲風土記に、意宇(ノ)郡宍道《シシヂノ》郷(ハ)、郡家(ノ)正西卅七里、所2造《ツクヲシシ》天下1大神(ノ)命(ノ)之追(ヒ)給(フ)猪(ノ)像、南(ノ)山(ニ)有(リ)v二(ツ)、【一(ハ)長(サ)二丈七尺、高(サ)一丈、周(リ)五丈七尺、一(ハ)長(サ)二丈五尺、高(サ)八尺、周(リ)四丈一尺、】追(ヒシ)v猪(ヲ)犬(ノ)像、【長(サ)一丈、高(サ)四尺、周(リ)一丈九尺、】其(ノ)形|爲《タリ》v石、无(シ)v異(ナルコト)2猪犬(ニ)1、至(マデ)v今(ニ)猶在(リ)、故(レ)云(フ)2宍道(ト)1、と云こと見ゆ、【所2造天下1大神は、大穴牟遲(ノ)神なり、さて此(ノ)宍道(ノ)郷は、郡家(ノ)西卅七里とあれば、手間山とははるかに隔《ヘダタ》れれば、別事にや、又一(ツ)事の、傳への異なるにや、】さて此神の、又|如此《カク》人の云まゝに爲《シ》給へること、上の※〔代/巾〕を負給ひしと同意なり、

〇御祖命《ミオヤノミコト》は、大穴牟遲(ノ)神の御母なれば、刺國若比賣なり、記中凡て御祖《ミオヤ》とは、母を云る例なり、山城(ノ)賀茂(ノ)御祖(ノ)神社なども然り、そも/\父の於夜《オヤ》なるは本よりのことなるに、母をしも殊に云る所以《ユヱ》は、子は母の許《モト》に生長《オヒタチ》しなれば、父よりも親睦《ムツマシ》く、同(ジ)家に在(ル)故に、朝暮《アケクレ》の事にふれても、御祖《ミオヤ》とは先(ヅ)母を云しなり、【此記の、上(ツ)代の意を失《ウシナ》はぬこと、大方此(ノ)たぐひなり、さて親《オヤ》と作《カカ》ずして、祖(ノ)字を書るは、上に云る如く、於夜《オヤ》は父母に限らず、遠祖《トホツオヤ》までに通ふ稱《ナ》なる故に、此字をも訓り、さて言の同じきまゝに、父母を云にも借(リ)て書るは、古(ヘ)の例なり、續紀十五に祖子《オヤコ》ともかけり、】中卷(ノ)末に、秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》春山之霞壯夫《ハルヤマノカスミヲトコ》とて、兄弟の神、伊豆志袁登賣《イヅシヲトメノ》神を聘《ヨバヒ》し段に、其母のくさ/”\はかりごちし事あり、此《ココノ》段と意《ココロバヘ》よく似たり、凡てかゝることどもも、父は知(ラ)ずて、中々に母の事執《コトト》り知(リ)あつかへるは、殊に親《シタシ》き故なりかし、

〇請《マヲス》2神産巣日(ノ)之命(ニ)1とは、上(ノ)件(リ)の状《アリサマ》を白《マヲ》して、救活《スクヒイカ》したまはらむことを乞《コフ》なり、産靈《ムスビ》の御名の意、【傳二の十一十二葉に云、】思(ヒ)合すべし、

〇※〔討/虫〕貝比賣、※〔討/虫〕は、蚶を※〔甘/虫〕と作《カケ》るを誤れるものなり、【新井氏の東雅(ノ)蚶(ノ)條に、此(ノ)段を引て、蚶貝《キサガヒ》姫と云るも、※〔討/虫〕を蚶(ノ)誤と定めたるものなるべし、】されば伎佐賀比《キサガヒ》と訓べし、和名抄に唐韻(ニ)云(ク)、蚶(ハ)蚌(ノ)屬(ヒ)、状(チ)如(ク)v蛤(ノ)圓(ニシテ)而厚(シ)、外(ニ)有(リ)v理縱2横(ナリ)、即今(ノ)※〔魚+甘〕(ナリト)也、辨色立成(ニ)云、和名|木佐《キサ》とある、これ本草に魁蛤とありて、今|阿加々比《アカガヒ》と云物なり、出羽(ノ)國なるきさかたと云地名をも、延喜式に蚶方《キサカタ》と書り、又倭姫(ノ)命(ノ)世記に、阿佐加々多爾伎佐宇阿佐留《アザカガタニキサウアサル》とあるも、蚶乎求《キサヲアサル》にや、さて今※〔討/虫〕を蚶と定むる所由《ユヱ》は、次に云む、【延佳が考(ヘ)に、※〔討/虫〕(ノ)字字書(ニ)無(シ)v之、舊事紀(ニ)作2訓黒(ノ)二字(ニ)1、又遣(ノ)字(ヲ)、同書(ニ)作v造(ニ)、是亦誤字歟、可v作v告(ニ)也、然則告(ケ)2訓(ル)黒貝姫1也、黒貝和名|伊加比《イガヒ》と云り、和名抄に、貽貝、爾雅(ノ)注(ニ)云、貽貝一名黒貝、和名伊加比とあるに依(レ)ば、黒貝は伊加比なれども、和名抄の此説|信《ウケ》がたし、今爾雅を考るに、諸(ノ)貝の形色を凡て云る所に、玄貝(ハ)貽貝(ナリ)とありて、注には、黒色(ノ)貝也とこそいへれ、一名黒貝と云ことは見えず、疏にも、黒色(ノ)之貝(ヲ)名(ク)2貽貝(ト)1とぞ云る、然ればこはたゞ、黒色の介蟲殻《カヒガラ》のことなるに、此(レ)を伊加比《イガヒ》に當《アテ》たるは、いかにぞや、貽(ノ)字音によりて、思ひあやまりしにや、伊加比は、本草に淡菜一名束海夫人とある物にて、今(ノ)世にも即(チ)伊加比《イガヒ》と云なり、字鏡には、※〔虫+進〕(ハ)※〔虫+咸〕也伊加比とあり、字書に、※〔虫+進〕は海虫蛤(ノ)類と見ゆ、凡て此物に黒貝と云名あることは、未(ダ)見あたらず、然ればたとひ舊事紀に黒貝と作《カケ》るが正《タダ》しくとも、伊加比と訓むはあたらざることなり、そのうへ※〔討/虫〕を訓黒(ノ)二字に作《カケ》る、誤寫なり、其故は、此名こゝに始(メ)に出たる所は、訓《ヲシフ》とも云(ヒ)つべけれど、次に出たるにも同く訓黒とあるはいかに、そは訓(ノ)字用なく衍《アマリ》て聞ゆ、此(レ)誤寫の證《シルシ》なり、又遣を造と作るも、告なりと云るも、みな誤なり、又※〔討/虫〕(ノ)字を一本には※〔尉/虫〕、一本には※〔(言+立刀)/虫〕と作《カケ》れども、此(レ)らの字、介蟲(ノ)類の名にあらねば、此(レ)も誤なるべし、故(レ)今くさ/”\考(ヘ)て、或は蠣貝《カキガヒ》ならむかとも、又は河貝子《ミナ》なるを、色の黒きによりて、河黒貝とかけるかなども、思ひよりしかども、みなわろし、さてからくして思ひ得て、蚶とはさだめつ、】出雲風土記に、御祖神魂《ミオヤカミムムスビノ》命(ノ)御子|支佐加比賣《キサカヒメノ》命、【一本に支佐加比比賣《キサカヒヒメノ》命とあり、】とあるは此(ノ)神か、

〇蛤貝比賣は、宇牟岐比賣《ウムギヒメ》と訓べし、其故は、書紀に、景行天皇東(ノ)國を巡《メグ》り賜(ヒ)し時、そこの海の白蛤【姓氏録には大蛤とあり、】を、膾《ナマス》に作《ツクリ》て奉りしこと見ゆ、此(レ)を宇牟岐《ウムギ》と訓《ヨメ》り、さて和名抄には、蚌蛤(ハ)一名含漿、和名|波萬久理《ハマグり》、海蛤(ハ)和名|宇無木乃加比《ウムギノカヒ》、文蛤(ハ)、和名|伊太夜加比《イタヤガヒ》、と分(ケ)て出せれども、蛤と云は、波萬具理《ハマグリ》の類の介蟲《カヒ》どもの惣名にて、【右の三(ノ)漢名は、彼(ノ)國にても互《タガヒ》に混《マガヒ》て、詳《ヅマビラカ》には分《ワカ》らざれば、此方にても、古(ヘ)人の心々に當《アテ》つらむなれば、必しも右のまゝに定むべきにもあらず、】右の三(ツ)の和名の中に、宇牟岐《ウムギ》ぞ蛤の古(キ)名なる、【餘の二(ツ)は、其中にて後に分《ケ》たる名なり、故(レ)名のさまも宇牟岐《ウムギ》は古《フル》く、餘の二(ツ)はやゝ後なり、】字鏡にも、蚶※〔虫+衆〕※〔虫+沙〕などの字を、いづれも宇牟岐《ウムギ》と記して、餘の二(ノ)名は凡て見えず、【されば本は凡て宇牟岐《ウムギ》と云しを、やゝ後に其(ノ)中にて、小《チヒサ》きを濱栗《ハマグリ》とつけ、大《オホキ》なるを本のまゝに呼び、文《アヤ》あるを板屋貝《イタヤガヒ》とぞつけけむ、板屋貝とは、其|文《アヤ》の、板屋根の葺目《フキメ》に似たる故の名なるべし、さて後には、つひに宇牟岐《ウムギ》てふ名は亡《ウセ》て、大小凡て波萬具理《ハマグリ》と云なりけり、さて此《ココ》の蛤貝を、延佳本に於布加比《オフカヒ》と訓るは、和名抄に唐韻(ニ)云、蛤(ハ)古三(ノ)反一(ノ)者(ハ)含、辨色立成(ニ)云|於富《オフ》、本朝式(ノ)文(ニ)用(フ)2白貝(ノ)二字(ヲ)1、爾雅云、貝(ノ)在v水(ニ)曰v蛤(ト)也、とあるによれるものなれど、和名抄(ノ)今(ノ)本は、此(ノ)蛤(ノ)字は寫誤にて、古本に※〔虫+含〕と作《カケ》るぞ正しき、そは古三(ノ)反とも、一(ノ)音含ともあるにてもしられ、又爾雅を考(ヘ)て知(ル)べし、されば今蛤貝を於布加比と訓べき由はさらに無きことなり、さて※〔虫+含〕は、爾雅を今考るに、貝(ノ)居(ルハ)v陸(ニ)※〔虫+(犬三つ)〕、在v水(ニ)者(ハ)※〔虫+カン〕、音含とありて、疏に、在v水(ニ)者(ヲ)名(ク)v※〔虫+カン〕(ト)と云り、然れば※〔虫+カン〕は水に在(ル)貝の惣名なり、さてこれを※〔虫+含〕と作《カケ》るは、含と※〔カン〕と音も義も通ふ故なるべし、かくて在v水(ニ)貝の惣名(ノ)字を、於布と云一種の貝の名にあてたることは、右の辨色立成のみにもあらず、字鏡にも※〔虫+含〕(ハ)於不《オフ》、又阿波比とあり、こは爾雅にまた、※〔ラ〕(ノ)小(キ)者(ハ)※〔虫+カン〕、ともあるなどによれることにや、さて本朝式に白貝《オフ》と作《カケ》ると、右の黒色(ノ)貝の惣名の貽貝を、伊加比にあてたるとを、對へて思へば、彼(レ)は黒貝ともかき、此(レ)は白貝とも書て、いづれも其(ノ)色を以(テ)一種の名とせるにや、若(シ)然らば此《ココ》も、※〔討/虫〕貝は黒貝にて伊加比、蛤貝は此(レ)も※〔虫+含〕(ノ)字の誤にて、於布加比にて、黒白の色を對へて、此(ノ)二種を云るかとも思はるれども、黒貝にては、次(ノ)訓(ノ)字あまり、又訓を除《ノゾ》きては、たゞ黒(ノ)字を、※〔討/虫〕とは誤るまじく、そのうへ岐佐宜《キサゲ》の言にも由なし、かゝれば蛤も※〔虫+含〕(ノ)誤にはあらざれば、於布《オフ》にはあらずなむ、】出雲風土記に、神魂(ノ)命(ノ)御子|宇武賀比賣《ウムガヒメノ》命と云見ゆ、【上に引る支佐加比賣も此(レ)も、共に嶋根(ノ)郡の郷(ノ)名を説る中にあり、又共に神魂(ノ)命(ノ)御子と云り、此《ココ》の二比賣と一(ツ)にもあらむか、】さて右の二比賣《フタヒメ》は、即(チ)※〔虫+甘〕貝《キサガヒ》と蛤貝《ウムギ》とを云なり、さるを比賣と云るは、雉を鳴女《ナキメ》と云(ヒ)、魚(ノ)名にも赤女口女鯛女など、皆女の定《デウ》に云る、凡ての例ともすべけれど、此(レ)はたゞ女《メ》と云(ハ)ずして、比賣と云るは、今の功《イサヲ》を美稱《ホメタメヘ》て、神とせる名なり、

〇遣は淤許世弖《オコセテ》と訓べし、此《コレ》は彼《カシコ》より此《ココ》に遣《オコ》すなればなり、

〇令作活は、都久理伊加佐志米賜《ツクリイカサシメタマフ》と訓べし、【令《シメ》v令《サ》v活《イカ》なり、活《イカ》は大穴牟遲(ノ)神に係《カカ》り、令《ス》v活《イカ》は二比賣にかゝり、上の令《シメ》は神産巣日(ノ)命に係《カカ》れり、】作《ツクリ》は繕治《ツクロヒヲサムル》なり、國作《クニツクル》の作《ツクル》の如し、令(ノ)字、舊印本延佳本共に命と作《カケ》るは、誤寫《ヒガウツシ》なり、【同列の今一柱に命《ミコト》と云ず、又此(ノ)名の次に出たるにも、命と云(ハ)ざるに、こゝにのみ此字有(ル)べくもあらず、】今は一本に依れり、

〇岐佐宜《キサゲ》は、研《キシラ》し削《ケヅ》りなり、【和名抄に、※〔石+展〕(ハ)岐之流《キシル》、】志良《シラ》を切《ツヅメ》て佐《サ》と云(ヒ)、下の志《シ》を省《ハブク》なり、又|氣豆理《ケヅリ》を宜《グ》とのみ云例は、弓削《ユミケヅリ》を由宜《ユゲ》と云是なり、【宜(ノ)字は、此記にては必ゲの假字なり、〇體源抄に、笙五管(ノ)名物の中に、幾佐氣繪《キサケヱ》と云あり、蚶界繪《キサケヱ》とも書たり、】今(ノ)世の言に、物を許曾宜流《コソゲル》と云は、此(ノ)伎佐宜《キサゲ》の訛れるにて、意は同じ、

〇集は、師の考(ヘ)に、焦(ノ)字の誤なりとあるぞよき、許賀志《コガシ》と訓べし、蚶《キサ》貝の、其(ノ)殻《カラ》を研磨《スリ》けづりて、燒焦《ヤキコガ》してなり、さて今|如此《カク》して功《イサヲ》をなせるに因て、此(ノ)貝の名を伎佐《キサ》とは負《オヘ》るなり、されば此(ノ)言と相照して、※〔討/虫〕は蚶なることを思ひ定むべし、【師は、黒貝比賣岐佐宜乎焦而《イガヒヒメキサギヲヤキテ》と訓て、岐佐《キサ》は蚶なりと云れき、されども黒貝は誤なること、既に云るが如くなるうへに、もし黒貝ならば、その黒貝の功用《ワザ》をこそ云べきに、同類の中の別貝《コトカヒ》を用ひたらむは、黒貝の出たるよりどころなし、かにかくに※〔討/虫〕貝と岐佐宜の言と、相應《アヒカナ》はではいかゞなり、又宜(ノ)字もさてはあまりて聞ゆるなり、凡て此言は、いと/\心得がたくて、己(レ)もはじめにくさ/”\考(ヘ)つ、まづ岐(ノ)上に比(ノ)字脱て提《ヒキサ》げにて、焦《コガレ》たるを提《ヒキサ》げと、下より返(リ)て讀て、焦《コガレ》たるとは、屍《シニカバネ》のことならむかとも思ひ、又は岐佐《キサ》の木のことにて、宜は木ならむかとも思ひ、又此(レ)も即(チ)蚶貝にて、宜《ゲ》は加比《カヒ》の約りたる言か、又貝(ノ)字の誤かとも、くさ/”\おもひつれど、皆わろし、】

〇持《モチ》v水《ミヅヲ》而《テ》、凡て蛤貝《ウムギ》の中には、水を含《フフ》みもたる物なり、【蚌蛤一名含漿、と漢籍にあるをも思ふべし、】此(レ)を眞福寺本延佳本などには、待承《マチウケ》【舊事紀には侍承とあり、】とあれども、さては岐佐宜焦而《キサゲコガシテ》と云ると相應《アヒカナ》はず、

〇塗《ヌレ》2母乳汁《オモノチシルト》1者《バ》は、於毛能知志流登奴禮婆《オモノチシルトヌレバ》と訓べし、【師は、塗の上に如(ノ)字|脱《オチ》たるべしと云れつれど、もし其意ならば、如2母(ノ)乳汁1塗者と、塗(ノ)字下に在(ル)べきを、然らぬは、然に非るなり、】母《オモ》は乳母《チオモ》を云なり、凡て於母《オモ》と云は、親母《オヤ》にまれ乳母《メノト》にまれ、兒《コ》に乳《チ》を飲《ノマ》しむる人の稱《ナ》なれば、親母《オヤ》とせむも違はず、【親母《ハハ》を於毛《オモ》と云も、乳をのまし養ふことにつきての稱《ナ》なり、然るをたゞ波々《ハハ》の古言とのみ心得て、乳養のことにあづからぬ處の母(ノ)字をも、なべて於毛《オモ》と訓(ム)はひがことなり、】されど中卷玉垣(ノ)宮(ノ)段に、取《トリ》2御母《ミオモヲ》1とあるも乳母《チオモ》なり、なほ於母《オモ》のことは、彼處《カシコ》【傳廿四の五十六葉】に委く云べし、乳汁(ノ)二字は、ただ知《チ》とのみも訓べきに似たれど、知《チ》はもとは、出る處の名にて、出る汁の名には非ず、然るをその汁をも知《チ》とのみ云は、やゝ後に略《ハブ》けるなり、さて此《ココ》の方《ワザ》は、まづ世間《ヨノナカ》に常に萬(ヅ)の傷に、母《オモ》の乳汁を塗《ヌリ》て、愈《イヤ》す方《ワザ》ある故に、【此(ノ)法《ワザ》、上代にもはら爲《セ》しことなるべし、】今|蛤貝《ウムギ》の水を、其(ノ)如くに塗《ヌル》と云意なり、故(レ)知志流登《チシルト》と訓べしとは云なり、うつほ物語俊蔭(ノ)卷に、紅葉の雫を乳《チ》ぶさとなめつゝ、ありふるに云々、とある登《ト》に同じ、【萬葉十四に、信濃なるちぐまのかはのさゞれしも、きみしふみてば多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》、この等《ト》も同じ格なり、】そは彼(ノ)蚶貝《キサガヒ》の焦粉《コガレコ》を、蛤《ウムギ》の水以てときて、母(ノ)乳汁を塗《ル》如くに塗(リ)しなり、さて宇牟岐《ウムギ》てふ名は、母貝《オモガヒ》の約《ツヅマ》りたるにて、【さるを宇牟岐《ウムギ》の貝《カヒ》と云は、後の重言《カサナリコト》なり、】今かく母(ノ)乳汁の如く塗(リ)て、功《イサヲ》をなせしに因て負《オヘ》るなり、さて右の二貝比賣《フタリノカヒヒメ》のこと、上に云る外に、今一(ツ)の考(ヘ)あり、そは直《タダ》に介蟲《カヒ》を謂《イフ》にはあらで、尋常《ヨノツネ》の神にても有(リ)なむ、若(シ)然らば蚶貝比賣《キサガヒヒメ》蚶貝《キサガヒ》を岐佐宜焦而《キサゲコガシテ》、蛤貝比賣《ウムギヒメ》蛤貝《ウムギ》の水を持て、と云ことなるを、神(ノ)名にゆづりて、その用ひたる貝(ノ)名をば、共に略《ハブ》けるなり、是《カカ》るも一(ツ)の文なるべし、さて然《シカ》二(ツ)の貝を用(ヒ)て功をなせしに因て、其(ノ)貝の名を以(テ)、其(ノ)神(ノ)名にも稱《タタヘ》しなるべし、【此(ノ)考(ヘ)もすてがたくてしるしぬ、】

〇麗壯夫《ウルハシキヲトコ》、麗《ウルハシキ》とは此《ココ》にては、火傷《ホヤケ》の肌膚《ハダ》の、本の如くに愈《イエ》たる意を帶《オビ》て云るなるべし、壯夫《ヲトコ》とは、此(ノ)字の如く、少壯《ワカクサカリ》なるを云|稱《ナ》なること、上にいへるが如し、

〇遊行は阿流伎々《アルキキ》と訓べし、【下の伎《キ》は辭なり、】萬葉三【四十七丁】に、公之阿流久爾《キミガアルクニ》、五【九丁】に、阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》、十八【三十五丁】に、安流氣騰《アルケド》などあり、【書紀に歩行の訓(ミ)、また中古の物語文などにも、阿理久《アリク》とのみ見えたれば、阿理久《アリク》といふぞ、雅言《ミヤビゴト》のごとくきこゆめれど、其《ソ》はかへりて後なり、】

 

於是八十神見《ココニヤソガミミテ》。且欺率入山而《マタアザムキテヤマニヰテイリテ》。切伏大樹《オホギヲキリフセ》。茹矢打立其木《ヤヲハメソノキニウチタテ》。令入其中《ソノナカニイラシメテ》。即打離其冰目矢而拷殺也《スナハチソノヒメヤヲウチハナチテウチコロシキ》。爾亦其御祖命哭乍求者《カレマタソノミオヤノミコトナキツツマゲバ》。得見《ミエテ》。即拆其木而《スナハチソノキヲサキテ》。取出活《トリイデイカシテ》。告其子言《ソノミコニノリタマハク》。汝有此間者《イマシココニアラバ》。遂爲八十神所滅《ツヒニヤソガミニホロボサエナムトノリタマヒテ》。乃速遣於木國之大屋毘古神之御所《スナハチキノクニノオホヤビコノカミノミモトニイソガシヤリタマヒキ》。爾八十神覓追臻而《カレヤソガミマギオヒイタリテ》。矢刺之時《ヤサストキニ》。自木俣漏逃而去《キノマタヨリクキノガレテサリタマヒキ》。

率2入《ヰテイリテ》山(ニ)1、この山は、何所《イヅレノトコロ》の山とも傳はらざるなり、前の同(ジ)山には非じ、

〇茹矢、茹(ノ)字諸本に茄と作《カケ》れども、然《サ》ては此(ノ)事かにかくに通《キコ》えがたし、故(レ)今はしばらく眞福寺(ノ)本に茹と作《ア》るに依れり、抑此(ノ)段、此(ノ)字と氷目矢《ヒメヤ》との詳《サダカ》ならざるによりて、凡ての事の状《サマ》もさだめがたし、然れどもしばらく茹とあるに就《ツキ》ていはば、まづ茹(ノ)字は、食也と註し、又飯2牛馬(ニ)1也ともあれば、波米弖《ハメテ》と訓べし、波米《ハメ》は令《セ》v食《ハマ》の切《ツヅマ》りたる言にて、伊勢物語の歌に、狐《キツ》に波米《ハメ》なでとある波米《ハメ》なども是なり、凡て物を入《イ》るゝを波牟流《ハムル》と云も、皆本は令《シムル》v食《ハマ》意なり、【さて此《ココ》に食と書《カカ》ずして、茹(ノ)字をしも書るは、少《スコ》し物遠きこゝちすれど、此《ココ》は物を食《クハ》しむるを云とは、事の異《コト》なる故に、字をかへて書たるにもあるべし、】さて矢《ヤ》は、こゝは尋常《ヨノツネ》の矢には非ず、木に※〔手偏+豕〕入《ウチイ》るゝ器《モノ》なり、【次に氷目矢《ヒメヤ》とある、即其名なり、】其《ソレ》にとりて總《スベ》ての事の状《サマ》、二むきに聞ゆるなり、一(ツ)には、まづ其矢は、木に※〔手偏+豕〕入《ウチイ》れて、割目《ワリメ》をつくる具《モノ》を云、【或人云、今の世に、木を割《ワル》に、難《カタ》きは、柯《カラ》の無き斧を其(ノ)木口《コグチ》に挾《ハサミ》て※〔手偏+豕〕《ウツ》を、矢と云りと云り、是なり、】茹《ハメ》とは、木に※〔手偏+豕〕入《ウチイ》るゝをいふなり、

〇打立其木は、其(ノ)木|爾《ニ》打立と訓べし、【茹《ハメ》と云て、又打立と云るは、言の重なれるに似たれども、打立とは、打立て挾置《ハサミオク》意なり、】

〇令(ム)v入(ラ)2其(ノ)中(ニ)1とは、大穴牟遲(ノ)命を、其(ノ)木の割《ワリ》かけたる間《ハザマ》に入《イラ》しむるなり、【舊事紀には、其の下に木(ノ)字あれど、此《ココ》は木といはでも、其木中とは、自《オ》聞ゆるなり、さて其木の割目《ワレメ》は、たゞいさゝかの廣さなるべきに、其中に人を入れむことは、いかゞと云疑ひあるべし、此(ノ)事は、次なる鼠《ネズミ》の段に論へり、】

〇氷目矢《ヒメヤ》【舊印本又一本などには、水自失とあれど、其《ソ》は誤寫《ヒガウツシ》なるべし、今は眞福寺本又延佳本に依(レ)り、】は、木に※〔手偏+豕〕立《ウチタテ》割《ワリ》かけて挾置《ハサミオク》矢の名なり、氷目とは、【字は借字にて、】木などの割目《ワレメ》をいふ、樋目《ヒメ》の意ならむか、【俗言に、比米和流々《ヒメワルル》、比和流々《ヒワルル》、比毘和流々《ヒビワルル》など云、比毘《ヒビ》も比米《ヒメ》の訛りなるべし、和名抄に※〔やまいだれ/豕〕(ハ)比美《ヒミ》、俗《ヨ》には比毘《ヒビ》と云、是も比米《ヒメ》なるべし、又萬葉十六に、比米加夫良《ヒメカブラ》、八多婆左彌《ヤツタバサミ》、宍待跡《シシマツト》云々とあるは、狩《カリ》に用ひたりと見ゆれば、此《ココ》の氷目矢《ヒメヤ》とは、固《もと》より別《コト》なれども、比米《ヒメ》と云名の意は、同じかるべし、八目鳴鏑《ヤツメノナリカブラ》といふは、鏃《ヤサキ》に孔《アナ》のいくつもあるをいへば、比米鏑《ヒメカブラ》も、其(ノ)孔《アナ》を長く樋にゑりたるを云なるべければなり、】又思ふに、氷(ノ)字は、羽《ハノ》字の右の竪《タテ》の畫の滅《キエ》て誤れるにて、羽目矢《ハメヤ》にてもあらむか、若(シ)然らば、木に※〔手偏+豕〕茹《ウチハム》る由の名なり、

〇拷殺也《ウチコロシキ》とは、かの木の割目《ワレメ》に挾置《ハサミオキ》たる矢を、打離《ウチハナ》ち去《サ》るときに、其(ノ)割目《ワレメ》忽《タチマチ》に迫《セマ》り合《アフ》ゆゑに、其中に挾《ハサ》まれて、死《ミウセ》たまひしなり、

〇今一(ツ)の趣は、茹《ハメ》v矢《ヤヲ》は、矢とは、加須賀比《カスガヒ》の如くなる物か、又は木の斷口《キリクチ》に※〔手偏+豕〕入《ウチイ》れて、接合《ツギアハ》す物か、【俗に間之釘《アヒノクギ》といふ物のさまにて、兩端《フタハシ》を鋒《サキ》にして打入《ウチイル》るなり、】其《ソ》は何《イヅ》れにまれ、木の斷《キレ》たる處にこれを打茹《ウチハメ》て、假《カリ》に接《ツギ》て、其木を立《タテ》おくなり、此(ノ)趣ならば、其木を打立と訓べし、【打《ウチ》は輕《カロ》く添たるのみの辭なり、】令v入(ラ)2其中(ニ)1とは、其(ノ)假《カリ》に立《タテ》たる木の本に倚《ヨ》らしむるなり、【此事は、山中なれば、多く殖《タテ》る木の中なるべければ、中《ナカ》と云(ヒ)入(ル)と云る、妨《サマタゲ》なかるべし、然れども下《シタ》と云(ハ)ずして、中《ナカ》と云(ヒ)、倚《ヨル》など云ずして、入(ル)と云るは、なほ初(メ)の趣まされり、】氷目矢は、名義《ナノココロ》は初(メ)の趣と同じくて、此のおもむきにては、木の切口《キリクチ》を接合《ツギアハ》す料の具《モノ》なり、【此(ノ)趣にては、割目《ワレメ》に挾《ハサ》むには非れども、木を接合《ツギアハ》す料のにも、同じ名を用ひむこと、妨なし、】拷殺は、かの打茹《ウチハメ》たる矢を打離《ウチハナ》てば、其木の斷口《キリクチ》離《ハナ》れて、仆《タフ》るゝ故に、其木に壓《ウタ》れて死《ミウセ》たまふなり、【拷《ウチ》と云るは、此趣にてよく叶へり、】右二(ツ)の趣、何れよけむ、決《サダ》めかねつ、【さきには、右の外にも、くさ/”\思ひよりしことどもありしかども、今思ふには、みなわろし、さて此(ノ)段、延佳は、茹(ノ)字を、架の誤ならむかと云て、矢ニカケと訓つ、其《ソ》は切伏《キリフセ》たる大木を、矢を以て支《ササ》へ荷《モタ》せて、假《カリ》に立《タツ》るを云なり、然れども大木を支《ササ》へ荷《モタ》する物を、矢とは云べくもあらず、其《ソレ》ならば、架v※〔木+戈〕《クヒニ》などとこそ云べけれ、さて又氷目矢を、ヒメシヤヲと訓つれども、さては何の事とも聞えがたく、且《ソノウヘ》シを讀附《ヨミツク》べき由もなし、さて又師の考(ヘ)も、凡ての状《サマ》は、延佳が考(ヘ)の如くにて、氷目矢は、舊印本に水自矢とあるにつきて、水は木の誤として、其(ノ)木を矢より打離《ウチハナチ》、と訓れつれども、さては打離(ノ)字の置(キ)處、此記の例に非ずして、いとむつかしく、又其意ならば、たゞに打2離其矢(ヲ)1とこそ云べけれ、其木を矢よりとては、くだ/\しくつたなきをや、】

〇得見は美延※〔氏/一〕《ミエテ》と訓べし、得は、見《ル》ことを得《エ》てと云意には非ず、求《モト》めて得《エ》たる意なり、

〇拆《サキ》2其(ノ)木(ヲ)1、拆(ノ)字、諸本折と作《ア》り、今は一本に依れり、此(ノ)切(リ)伏(セ)たる大樹の割目《ワレメ》に挾《ハサ》まれ死《シニ》て坐(ス)を、見つけたる故に、其木を拆割《サキワリ》て、屍《シニカバネ》を取(リ)出し給ふなり、但し後に云る趣ならば、折《ヲリテ》なるべし、其《ソ》は木にうたれて、其(ノ)下《シタ》に押《オサ》れてあるべければなり、

〇取出《トリイデ》とあるは、割目《ワレメ》より出《イダ》す方まされり、

〇活《イカシテ》、この度も前の如く、令《ス》v活《イカ》方術《ワザ》ありけむを、其《ソ》は傳へざりしなるべし、

〇此間は許々《ココ》と訓べし、

〇爲《ニ》2八十神1、爲(ノ)字は、たゞ爾《ニ》と訓べし、【かくの如き爲(ノ)字を、多米爾《タメニ》と訓(ム)は、漢籍訓《カラプミヨミ》の誤なり、】

〇木《キノ》國、名(ノ)義此字の如し、【紀伊と書(ク)は、必二字に定むべしとの御制《ミノリ》に因て、紀(ノ)音の韻《ヒビキ》の伊《イ》を添たるなり、

此例多し、】

〇大屋毘古《オホヤビコノ》神は、五十猛《イダケルノ》神と一(ツ)なるべし、其故は、書紀に、素戔嗚(ノ)尊|帥《ヰテ》2其(ノ)子五十猛(ノ)神(ヲ)1、降2到《クダリマシ》於|新羅《シラギノ》國(ニ)1云々、机(メ)五十猛(ノ)神|天隆之《アモリマシシ》時、多(ク)將《モチテ》2樹種《コダネヲ》1而|下《クダリマシキ》、然(ルニ)不《ズテ》v殖《ウヱ》2韓地《カラクニニハ》1、盡《コトゴトニ》以|持《モチ》歸(リテ)、遂(ニ)始(テ)v自(リ)2筑紫1、凡(テ)大八洲國(ノ)之内(ニ)、莫(シテ)v不《ザルトコロ》2播殖《ホドコシウヱ》1、而成(シキ)2青山(ヲ)1焉、所以《コノユヱニ》稱《タタヘテ》2五十猛(ノ)神(ヲ)1、爲《イフ》2有功《イサヲノ》之神(ト)1、即|紀伊《キノ》國(ニ)所在《マス》大神是也、また素戔嗚(ノ)尊(ノ)之|子《ミコヲ》號2曰《マヲス》五十猛(ノ)命(ト)1、妹|大屋津姫《オホヤツヒメノ》命、次(ニ)※〔木+爪〕津姫《ツマツヒメノ》命、凡(テ)三神、亦能|分2布《ワケホドコシタマフ》木種(ヲ)1、即奉(リキ)v渡(シ)2於|紀伊《キノ》國(ニ)1也、然《サテ》後(ニ)素戔嗚(ノ)尊(ハ)、居《マシテ》2熊成峰《クマナスノミネニ》1、而遂(ニ)入《マカリマシキ》2於根(ノ)國(ニ)1者矣と見え、神名帳に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|伊太祁曾《イダケソノ》神社、【名神大月次相嘗新嘗】大屋都比賣《オホヤツヒメノ》神社、【名神大月次新嘗】都麻都比賣《ツマツヒメノ》神社、【名神大月次新嘗、伊太祁曾《イダケソ》の曾《ソ》を、契沖の魯(ノ)字の誤ならむと云しは、一わたりさもと聞ゆれど、なほ思へばわろし、こは五十猛有功《イダケイサヲノ》神と云なり、佐乎《サヲ》を切《ツヅム》れば、曾《ソ》となるなり、故(レ)續紀文徳實録三代實録和名抄などにも、みな曾とあり、又今国人も然云り、但(シ)國人の、祁《ケ》を伎《キ》と云なるは訛なり、さて右(ノ)三(ツノ)神社、本(ト)は一(ツ)所に坐(シ)しにや、大寶二年二月、分2遷《ワカチウツス》伊太祁曾大屋都比賣都麻都比賣三神社(ヲ)1と、續紀に見ゆ、さて又|熊成峰《クマナスノミネ》は、即(チ)熊野《クマヌ》なるべし、なすを切《ツヅム》ればぬなり、此(レ)をワニナリと訓て、鰐淵山のこととするは、ひがことなり、】是(レ)らを思ふに、別神《コトカミ》とは見えず、妹神を大屋津姫《オホヤツヒメ》と申すにても、其(ノ)兄神とは聞えたり、【舊事紀に、五十猛(ノ)神亦(ハ)云(フ)2大屋彦(ノ)神(ト)1と云るは、傳(ヘ)ありしか、はた例の推當《オシアテ》か、いかにまれこはよくあたれり、】さて右の如く、木種《コダネ》を分播《ホドコシ》たまふ神の坐(ス)故に、木(ノ)國とは名けしなり、【出雲と木(ノ)國と、同く通へること多し、まづ伊邪那美(ノ)命をば、伯伎の堺なる比婆之山に葬奉(ル)とあると、紀伊(ノ)國熊野之有馬(ノ)村に葬奉(ル)と同事、又熊野てふ地(ノ)名も、二國にあり、又意宇(ノ)郡速玉(ノ)神社、牟婁(ノ)郡熊野速玉(ノ)神社、又意宇(ノ)郡韓國|伊達《イダチノ》神社、名草(ノ)郡伊達(ノ)神社、大原(ノ)郡加多(ノ)神社、名草(ノ)郡加太(ノ)神社、これらみな同名なり、此(レ)皆右の三神の、出雲(ノ)國より遷り渡り坐(シ)し時の由縁なるべし、書紀に、奉v渡(シ)2於紀伊(ノ)國(ニ)1とあるも、須佐之男(ノ)命の、三神を出雲(ノ)國より渡し奉(リ)たまふなり、然後云々とあるにてしか聞ゆ、】さて材《キ》の用は、舎宅《ヤ》を造るを主《ムネ》とする故に、大屋《オホヤ》てふ御名は負《オヒ》たまひつらむ、【名草(ノ)郡に大屋と云郷も、和名抄に見ゆ、又|※〔木+爪〕津《ツマツ》姫も、材《キ》によれる御名なり、※〔木+爪〕(ノ)字は四方木也と字書に見ゆ、萬葉(ノ)歌に、眞木さく檜《ヒ》の嬬手《ツマデ》とある此(レ)なり、しかるを抓と作《カケ》るは寫誤《ヒガウツシ》なり、】又此(ノ)御名につきて、御禊《ミミソギ》の事に合せて説《トク》べき由もあり、そは次なる須勢理毘賣《スセリビメ》の處に云む、さて今大穴牟遲(ノ)神を、此(ノ)神の御許《ミモト》にしも令遁遣《ノガシヤリ》たまふ所以《ユヱ》は、此(ノ)神は、遠(ツ)祖須佐之男(ノ)大神の御子にて、御縁《ミユカリ》あるうへに、有功之神《イサヲノカミ》とも稱《タタヘ》申(ス)ほどにて、そのかみ御威勢《ミイキホヒ》ありけむ故なるべし、【又名草(ノ)郡に刺田比古(ノ)神社あり、これ外祖父刺國大(ノ)神には由なきか、もしは田は国(ノ)字の誤にはあらぬか、】

〇速遣は、伊曾賀志夜理賜伎《イソガシヤリタマヒキ》と訓べし、【速(ノ)字|此處《ココ》は、スミヤカニ》とも、トクとも訓てはわろし、遣もツカハスと訓てはわろきなり、】

〇覓追《マギオヒ》は、跡を尋《タヅネ》て追(ヒ)行なり、

〇臻《イタル》は追及《オヒシク》なり、【俗に追着《オヒツク》といふ意なり、】此(レ)は大屋毘古(ノ)神の御許《ミモト》までは至らで、中途《ミチノナカラ》にて追及《オヒシキ》しなるべし、

〇矢刺之時《ヤサストキニ》、【之(ノ)字舊印本延佳本共に、乞と作《カケ》るは誤なり、今は一本に依れり、舊事紀にも之とかけり、】矢刺《ヤサス》と云ること、中卷|白檮原《カシバラノ》朝(ノ)段に、握《トリシバリ》2横刀《タチ》之|手上《タカミ》1、矛由氣矢刺而追入《ホコユケヤサシテオヒイル》、また明《アキラノ》宮(ノ)段に、彼(ノ)廂此(ノ)廂|一時共興《モロトモニオコリ》、矢刺而《ヤサシテ》、また下卷朝倉(ノ)朝(ノ)段に、天皇|大怒而矢刺《イタクイカリテヤサシタマヒ》、百官人等悉矢刺《ツカサヅカサノヒトドモモコトゴトニヤサス》など、多く見ゆ、古言なるべし、こは射《イ》むとて、矢を弓にかくるを云(フ)、後世の軍記《イクサブミ》どもに、さしつがふと云是なり、

〇自《ヨリ》2木俣《キノマタ》1漏逃而去《クキノガレテサリキ》、こは暫《シバラク》大樹《オホギ》の下《モト》に隱居《カクレヰ》て、其木の俣《マタ》より脱出《ヌケイデ》て、竊《ヒソカ》に遁去《ノガレサリ》たまふなり、木俣《キノマタ》は、字鏡に、椏(ハ)江南(ニハ)謂(テ)2樹岐(ヲ)1爲2※〔木+叉〕椏(ト)1、木乃萬太《キノマタ》とあり、【和名抄には、※〔木+叉〕椏を末多布里《マタフリ》とあり、】漏《クキ》の事は、上【傳五の七十七葉】に云り、去(ノ)宇|佐理賜伎《サリタマヒキ》と訓べし、【此《ココ》は伊爾《イニ》と訓ては宜しからず、此(ノ)差《ケヂメ》は、古(ヘ)の言によく練《ナレ》てしるべし、】

 

御祖命告子云《ミオヤノミコトミコニノリタマハク》。可參向須佐能男命所坐之根堅洲國《スサノヲノミコトノマシマスネノカタスクニニマヰデテヨ》。必其大神議也《カナラズソノオホカミタバカリタマヒナムトノリタマフ》。故隨詔命而參到須佐之男命之御所者《カレミコトノマニマニスサノヲノミコトノミモトニマヰタリシカバ》。其女須勢理毘賣出見《ソノミムスメスセリビメイデミテ》。爲目合而相婚《マグハヒシテミアヒマシテ》。還入白其父《カヘリイリテソノミチチニ》。言甚麗神來《イトウルハシキカミマヰキツトマヲシタマヒキ》。爾其大神出見而《カレソノオホカミイデミテ》。告此者謂之葦原色許男《コハアシハラシコヲトイフカミゾトノリタマヒテ》。即喚入而《ヤガテヨビイレテ》。令寢其蛇室《ソノヘミノムロヤニネシメタマヒキ》。於

 

是其妻須勢理毘賣命《ココニソノミメスセリビメノミコト》。以蛇比禮《ヘミノヒレヲ》【二字以音】授其夫云《ソノヒコヂニサヅケテノリクマハク》。其蛇將咋《ソノヘミクハムトセバ》。以此比禮三擧打撥《コノヒレヲミタビフリテウチハラヒタマヘトノリタマフ》。故如教者《カレヲシヘノゴトシタマヒシカバ》。蛇自靜故《ヘミオノヅカラシヅマリシユヱニ》。平寢出之《ヤスクネテイデタマヒキ》。亦來日夜者《マタクルヒノヨハ》。入呉公與蜂室《ムカデトハチトノムロヤニイレタマヒシヲ》。且授呉公蜂之比禮《マタムカデハチノヒレヲサヅケテ》。教如先故《サキノゴトヲシヘタマヒシユヱニ》。平出之《ヤスクテイデタマヒキ》。亦鳴鏑射入大野之中《マタナリカブラヲオホヌノナカニイイレテ》。令採其矢《ソノヤヲトラシメタマフ》。故入其野時《カレソノヌニイリマストキニ》。即以火廻燒其野《スナハチヒモテソノヌヲヤキメグラシツ》。於是不知所出之間《ココニイデムトコロヲシラザルアヒダニ》。鼠來云《ネズミキテイヒケルハ》。内者富良富良《ウチハホラホラ》。【此四字以音】外者須夫須夫《トハスブスブ》。【此四字以音】如此言故《カクイフユヱニ》。蹈其處者《ソコヲフミシカバ》。落隱入之間《オチイリカクリシアヒダニ》。火者燒過《ヒハヤケスギヌ》。爾其鼠咋持其鳴鏑出來而奉也《ココニソノネズミカノナリカブラヲクヒモチイデキテタテマツリキ》。其矢羽者《ソノヤノハハ》。其鼠子等皆喫也《ソノネズミノコドモミナクヒタリキ》。

御祖命告子云、舊印本延佳本共に、此(ノ)六字を脱《オト》せり、今は一本に依れり、【舊事紀にも此言あり、】こは必(ズ)有(ル)べし、無(ク)ては通《キコエ》ず、猶《ナホ》云(ハ)ば、此(ノ)上に、爾または於是など云字もありぬべくおぼゆ、【諸本に右の六字なきにつきて、師は、大屋毘古(ノ)神告曰、など云言あるべきなりと云れき、まことに此(ノ)上に彼(ノ)神のこと出たれば、其神の告(ゲ)教(ヘ)たまふとすれば、殊に宜しくかなへれども、然《サ》る本も無く、又彼神ならむには、告曰とのみにては、いさゝか事たらはぬこゝちす、】

〇須佐能男(ノ)命(ノ)所坐《マス》之|根堅洲國《ネノカタスクニ》、洲(ノ)字、諸本皆州と作《カケ》るは、決《キハメ》て誤なれば、前文なるに依て改(メ)つ、さて此(ノ)大神は、初(メ)に欲《オモフ》v罷《マカラムト》2妣國根之堅洲國《ハハノクニネノカタスクニニ》1と白《マヲシ》賜ひ、後|終《ツヒ》に所逐《ヤラハレ》て、罷《マカリ》たまひぬれば、【書紀に八俣遠呂智(ノ)段の終(リ)に、素戔嗚(ノ)尊|遂《ツヒニ》就《ツヒニマカリタマフ》2於|根國《ネノクニニ》1矣、また居《マシテ》2熊成峰《クマナスノミネニ》1、而|遂《ツヒニ》入《マカリマシキ》2於根(ノ)國(ニ)1者矣などあり、此記にも必(ズ)此(ノ)事を云べきが、脱《モレ》たりしこと、前に論へるごとし、】今は既《ハヤ》く彼(ノ)國に坐々《マシマス》なり、

〇參向(ノ)二字、記中に往々《トコロドコロ》ある、何《イヅ》れも參迎奉《マヰムカヘマツル》ところに云り、然れども此《ココ》は其意に非ず、たゞ參《マヰル》なり、【參赴(ノ)二字も、多く參迎奉るところに用ひ、又たゞ參(ル)に用ひたる所もあり、】さて麻韋禮《マヰレ》とも訓(ム)べけれども、藥師寺(ノ)佛足石(ノ)御歌に、己乃美阿止乎《コノミアトヲ》、多豆禰毛止米弖《タヅネモトメテ》、與伎比止乃《ヨキヒトノ》、伊麻須久爾々波《イマスクニニハ》、和禮毛麻胃弖牟《ワレモマヰデム》とあり、今|此《ココ》も、此(ノ)世を離《ハナレ》たる國に往《ユク》を云るが似たれば、准へて麻韋傳弖余《マヰヂテヨ》と訓(ミ)つ、

〇議也は、多婆※〔言+可〕理賜比那牟《タバカリタマヒナム》と訓べし、たばかるは唯《タダ》はかるなり、こは八十神の難《ワザハヒ》を免《ノガレ》て、功《イサヲ》を立(テ)賜ふべきことを、よきさまに度《ハカ》り賜むと云なり、鹽椎《シホツチノ》神の、火遠理(ノ)命に、其海神之女見相議者《ソノワタツミノカミノムスメミテアヒハカラムモノゾ》也、と教(ヘ)奉(リ)しと、全《モハラ》同(ジ)意ばへなりかし、

〇參到は、此(レ)も佛足石御歌に、麻韋多利弖《マヰタリテ》、麻佐米爾彌祁牟《マサメニミケム》【參到正目見《マヰタリテマサメニミケム》けむなり、】とあるに依て、麻韋多理志加婆《マヰタリシカバ》と訓べし、【到《イタリ》の伊《イ》を省けるなり、】

〇須勢理毘賣《スセリビメ》、名義《ナノココロ》は、下なる火須勢理《ホスセリノ》命と同く、進む意なり、【彼(ノ)命の名(ノ)義を、進(ム)意とすることは、かしこに云、傳十六の四十四ひら】其《ソ》は今此(ノ)比賣神の方より進《スス》みて、夫《ヲ》に婚《ミアヒ》たまふ故の御名なるべし、【此次に引る、此《ココ》と同(ジ)類の、木花之佐久夜毘賣又海神(ノ)女などは、父の嫁《アハ》すを待(チ)たまへるに、此(ノ)比賣はさもあらず、心と相婚《ミアヒマセ》るも、進《スス》めるなり、】又|祓除《ハラヒ》に合せて説(ク)べき由あり、大祓(ノ)詞に、根(ノ)國底之國|爾《ニ》坐(ス)、速佐須良比※〔口+羊〕登云神《ハヤサスラヒメトイフカミ》、持佐須良比失弖牟《モテサスラヒウシナヒテム》とあるは、即此(ノ)比賣神にて、須勢理《スセリ》は佐須良比《サスラヒ》なるべし、【須勢《スセ》と佐須《サス》と通ひ、良比《ラヒ》を切《ツヅム》れば理《リ》なり、】根(ノ)國に坐(ス)と云る、よく叶へり、さて大穴牟遲(ノ)神の、種種《クサグサ》八十神の難《ワザワヒ》に逢《アヒ》給ふは、遠祖《トホツミオヤ》須佐之男(ノ)命に歸《ヨ》れる、黄泉《ヨミ》の汚穢《ケガレ》の、既に盡訖《ツキハテ》ぬる止にも、なごりの猶有(ル)なり、然るを今|此處《ココ》に遁来坐《ノガレキマシ》て、此(ノ)比賣神の議《ハカラ》ひに頼《ヨリ》て、彼(ノ)難《ワザハヒ》を免《ノガ》れ、大(キ)なる利《クボサ》を得て、遂《ツヒ》に功績《イサヲ》を立(テ)給へるは、即此(ノ)比賣神の、彼(ノ)罪科《ツミトガ》を、持《モテ》さすらひ失ひ賜へる物ぞかし、【然るに此(ノ)神は、即彼(ノ)須佐之男(ノ)命の御女なるは、惡より善を成せるにて、御禊(ノ)段に云るごとく、惡と善と、たがひに根ざすことわりを思ふべし】さて伊邪那岐伊邪那美(ノ)大神の、最初《ハジメ》に生《ウミ》坐る十神《トハシラノカミ》の中なる、大屋毘古(ノ)神と申すは、書紀(ノ)御禊(ノ)段(ノ)一書の大綾津日《オホアヤツビノ》神にあたり、其《ソ》は即|大禍津日《オホマガツビノ》神に當ること、其(ノ)處々【傳五の卅三葉、六の五十七葉】に云るが如くなれば、上なる木(ノ)國(ノ)大屋毘古(ノ)神も、又|祓除《ハラヒ》に由ある御名なり、そは今八十神の凶難《ワザハヒ》至極《キハマリ》て、今は吉《ヨキ》に趣《オキムカ》むとする、凶《アシキ》と吉《ヨキ》との交際《キハ》に、此(ノ)神の御許《ミモト》に遣《ヤル》事ある、是(レ)亦彼(ノ)禍津日(ノ)神【凶なり】は、即(チ)其(ノ)次に成(リ)坐(ス)天照大御神【吉なり】の荒御魂に坐(ス)と、同(ジ)理《コトワリ》なるべし、

〇爲目合而は、麻具波比志弖《マグハヒシテ》と訓べし、具波比《グハヒ》は即(チ)物の合《アフ》ことなる由、上【傳四の二十六葉】に委曲《ツバラカ》に云るが如くなれば、然《シカ》訓《ヨミ》て目を見交《ミアハ》すことなり、さて男女《ヲトコヲミナ》故《コトサラ》に目を交《アハ》すは、互《タガヒ》に思ひあふ態《シワザ》なれば、即《ヤガテ》交通事《アフコト》にも轉云《ウツシイフ》なり、されど此《ココ》は、次に相婚とあるぞ其事なれば、目合《マグハヒ》は、たゞ本の意なり、海神《ワタツミノ》宮(ノ)段に、爾《ココニ》豐玉毘賣(ノ)命、思《オモホシテ》v奇《アヤシト》出見《イデミテ》乃(チ)見感目合《ミメデテマグハヒシテ》、白《マヲシ》2其(ノ)父(ニ)1曰云々、即|令2婿《ミアハス》其(ノ)女《ミムスメ》豐玉毘賣(ニ)1とあるも、令婚《ミアハス》が交通《アフ》なれば、上の目合《マグハヒ》は、交《カタミ》に目見交《メミアハス》ことなること、あらはなれば、【書紀にはたゞ擧目視之、また仰見などあれば、此記の目合も、たゞ心なくて、ふと見あはせたることと思ふ人もあらむか、さには非ず、互《タガヒ》に心有(リ)思(ヒ)合(ヒ)て見交《ミアハス》なり、見感《ミメデテ》とあるにても知(ル)べく、又次に引(ク)邇々藝(ノ)命の御言をも思ふべし、】此《ココ》も准へて知(ル)べし、又|邇々藝《ニニギノ》命の詔に、吾《アレ》欲《オモフ》v目2合《マグハヒセムト》汝《イマシニ》1と、木花之佐久夜《コノハナノサクヤ》毘賣に詔《ノタマ》へるは、【書紀には、吾欲2以v汝爲(ムト)1v妻(ト)と有(リ)、】交通《アフ》ことに轉言《ウツシイフ》方なり、かの美斗能麻具波比《ミトノマグハヒ》とある【傳四】に同じ、

〇相婚は、ここは美阿比坐而《ミアヒマシテ》と訓べし、【美は御なり、】

〇来は麻韋伎都《マヰキツ》と訓べし、

〇謂之葦原色許男、延佳本などには、命《ミコトノ》字あれども、此は舊印本又一本などに無《ナキ》ぞよき、下に是奴《コノヤツコ》と詔へる御言、又此(ノ)時の凡ての接待《アシラヒ》などを思ふに、命《ミコト》とは詔ふまじけれはなり、さて謂(ノ)字あれば、葦原色許男《アシハラシコヲ》と謂《イフ》神《カミ》ぞと、神ぞてふ言《コト》を、添《ソヘ》て讀(ム)べき語の勢ひなり、【さて又此(ノ)御名は、此(レ)より後に負《オヒ》たまへるなるべきを、此《ココ》に今詔ふは、例の後を以(テ)前へも囘《メグラ》して語り傳へたる語なるべし、】

〇其蛇室、師は、其(ノ)字は無(ク)てあるべし、と云れしかども、こは其處之《ソノトコロノ》と、處《トコロ》を云る意にて、須佐之男(ノ)命の坐(ス)宮わたりなることを、斷《コトワ》れる辭なれば、必有るぞよき、蛇は、此《ココ》は呉公《ムカデ》蜂《ハチ》などと類《タグヘ》て云るを思ふに、小蛇なるべければ、弊美《ヘミ》と訓べし、【遠呂智とは、いと大きなるを云べければ、こゝはさは訓(ム)まじきか、將《セバ》v咋《クハムト》とは、大蛇ならずとも云つべし、】和名抄に、蛇(ハ)和名|倍美《ヘミ》、一(ハ)云|久知奈波《クチナハ》、日本紀私記(ニ)云(ク)|乎呂知《ヲロチ》、※〔虫+元〕蛇(ハ)|加良須倍美《カラスヘミ》、※〔虫+冉〕蛇(ハ)|仁之木倍美《ニシキヘミ》とありて、弊美《ヘミ》てふ名ぞ主《ムネ》と聞ゆる、【但し弊美《ヘミ》と云は、反鼻(ノ)字音より出たるかの疑(ヒ)ありぬべけれども、同(ジ)和名抄の蝮の條に、俗或(ハ)呼(テ)v蛇(ヲ)爲《ス》2反鼻(ト)1其(ノ)音|片尾《ヘムビ》と云るは、右に引る和名|倍美《ヘミ》とは、似たれども別なりと聞ゆ、反鼻《ヘムビ》は、もとより正名に非ず、一名なるを、其音を取て和名とすべきに非ず、それも上代此(ノ)御國に無(カ)りし物は、漢(ノ)一名などをも取て、名くる例これかれあれども、蛇などは、神代よりある物なれば、名も無かるべきにあらず、もし乎呂知《ヲロチ》を古(キ)名とせむにも、既(ニ)さる名あるうへは、更に漢(ノ)一名を借(リ)求むべき由なし、そのうへ弊美《ヘミ》と云名は、廣く云(ヒ)ならはしたるさまに聞ゆるをや、然れば此《コ》は、反鼻の音と自然《オノヅカラ》似たるのみなりけり、】萬葉にも、倍美《ベミ》と云辭に、蛇《ベミ》と借(リ)て書る處あり、さて小蛇とするに付て思へば、蝮蛇ならむか、其故は、類(ヘ)て云る呉公《ムカデ》も蜂《ハチ》も共に螫《サス》物なれば、是(レ)も然るべければなり、【尋常《ヨノツネ》の蛇は、さのみ害をなさぬ物なれば、此《ココ》は蝮蛇にてよくかなふべきか、咋《クフ》とは、螫《サス》を云りとしても、妨なかるべくや、】さて其《ソレ》も蛇《ヘミ》の一種なれば、古(ヘ)は共にたゞ蛇《ヘミ》ともいひつべし、【和名抄には、蝮は和名|波美《ハミ》とあり、今云|眞蟲《マムシ》なり、眞《マ》と云は、害をなすことの甚しき故なり、狼を眞神《マガミ》と云が如し、】但(シ)よのつねの蛇《ヘミ》と見ても有(リ)ぬべし、室は、師の牟呂夜《ムロヤ》と訓れたるに從ふべし、白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、忍坂(ノ)大室とあるを、歌に意佐加能意富牟盧夜《オサカノオホムロヤ》と見えたればなり、さてかく蛇《ヘミノ》室次に呉公《ムカデ》蜂《ハチノ》室などとて有るは、如何《イカ》なる故にか、若(シ)は根(ノ)國【即|黄泉《ヨミ》なり、】なれば、人の害をなすかゝる物の類(ヒ)、凡て多かるにや、【一日(ニ)絞(リ)2殺千頭(ヲ)1の意、】下文に、見(レバ)2其(ノ)頭(ヲ)1者、呉公《ムカデ》多在《オホカリ》とあるなどを以(テ)、其處の状《アリサマ》を思ふべし、其《ソ》が中にも蛇(ノ)室と云は、殊に蛇の多かる室を云なるべし、

〇令寢は、泥志米賜伎《ネシメタマヒキ》と訓べし、【今(ノ)人の詞づかひにて見れば、泥佐志米《ネサシメ》と訓べきが如くなれど、そは雅《ミヤビ》たらず、萬葉廿に、山人乃和禮爾依志米之《ヤマビトノワレニエシメシ》とあり、令《シメ》v得《エ》しなり、得《エ》と寢《ネ》と、全《モハラ》同(ジ)格の詞づかひなり、得《エ》む寢《ネ》む、得《ウ》る寢《ヌ》るなどと、第三第四の音にて活用《ウゴケ》り、又萬葉十四東歌に、伊射禰志米刀羅《イザネシメトラ》と云ことあるは、令寢《ネシメ》ならむか、】

〇其妻《ソノミメ》、既に一度《ヒトタビ》相婚《ミアヒ》坐つるからに、はや妻《ミメ》と云り、次に其(ノ)夫ともあり、

〇蛇比禮《ヘミノヒレ》、職員令(ノ)集解に、饒速日(ノ)命降v自v天時、天(ツ)神授(ケテ)2瑞寶十種、息津《オキツ》鏡一(ツ)、部津《ヘツ》鏡一(ツ)、八握劔一(ツ)、生玉一(ツ)、足玉一(ツ)、死反玉一(ツ)、造反玉一(ツ)、蛇(ノ)比禮一(ツ)、蜂(ノ)比禮一(ツ)、品之物《クサグサノモノノ》比禮一(ツヲ)1、教※〔道/口〕《ヲシヘタマハク》、若(シ)有(ラバ)2痛《イタキ》所1者、合(セテ)2茲《コノ》十寶(ヲ)1、一二三四五六七八九十(ト)云(ヒテ)而|布瑠部《フルヘ》、由良由良止布瑠部《ユラユラトフルヘ》、如此爲《カクセバ》之者、死人(モ)返(ラム)v生《イキ》矣とある、【此事舊事紀にも記せり、後(ノ)世に鎭魂祭にも、此事のかた遺《ノコ》れれば、古(ヘノ)傳(ヘ)なるべし、貞觀儀式江次第などの、彼祭の條を見べし、】此《ココ》は其(ノ)十種の中なるには非るべけれど、たゞ同《ジ》物と見えて、用る意《ココロバヘ》も全《モハラ》同じ、さて此《コ》は、蛇の身の鰭《ヒレ》と云には非ず、蛇を撥《ハラ》ふ比禮《ヒレ》なり、【たとへば蛇之麁正《ヲロチノアラマサ》など云劔(ノ)名なども、蛇が劔にはあらで、蛇を斬たる劔なるが如し、凡て物の名に、此例猶多し、右の十種(ノ)中に、品物比禮《クサグサノモノノヒレ》一(ツ)とあるにても、其(ノ)身の鰭《ヒレ》にあらぬことを知(ル)べし、種々物《クサグサノモノノ》身の鰭ならば、一(ツ)にはあらじをや、】中卷(ノ)末に、天之日矛の持(チ)渡(リ)來し寶物の中に、振浪比禮《ナミフルヒレ》切浪比禮《ナミキルヒレ》、などある比禮に同じ、さてその比禮てふ物は、如何《イカ》なる物ぞと云に、まづ比禮《ヒレ》とは、振手《フリデ》の約《ツヅマ》りたる名にて、【理弖《リテ》を禮《レ》と切《ツヅム》れば、布禮《フレ》なれど、又|布理《フリ》は比《ヒ》と切《ツヅマ》れば、おのづから比禮《ヒレ》といはるゝなり、】何にまれ打振物《ウチフルモノ》を云、されば魚の鰭《ヒレ》も、水(ノ)中を行(ク)とて振物《フルモノ》、服の領巾《ヒレ》も本は、振《フラ》む料にて、【故に上代に領巾《ヒレ》は、必|振《フル》ことをいへり、】皆本は一(ツ)意に名《ナヅケ》たる物ぞ、然れば蛇(ノ)比禮とは、蛇を撥《ハラ》ふとて振《フル》物の名なり、【然るを右の由良々々止布瑠閇《ユラユラトフルヘ》とある詞に就て、玉なりなど云説は、かなはず、由良由良《ユラユラ》は、振(ル)さまを云(フ)詞、布瑠閇《フルヘ》は、即(チ)振《フ》れを延《ノベ》たることばなり、】

〇其夫は、曾能比古遲《ソノヒコヂ》と訓べし、夫を比古遲《ヒコヂ》と云ること、下に見ゆ、彼處《ソコ》【傳十一の三十二葉】に云べし、叉|遠《ヲ》とも訓べし、即此(ノ)比賣神の御歌に、那遠岐※〔氏/一〕遠波那志《ナヲキテヲハナシ》【除《オキ》v汝《ナヲ》而《テ》夫者無《ヲハナシ》なり、】とあり、和名抄に、夫(ハ)和名|乎宇止《ヲウト》、【宇止《ウト》は人なり、俗に乎都登《ヲツト》といふは、此(ノ)訛なり、】一云|乎止古《ヲトコ》、また後夫(ハ)和名|宇波乎《ウハヲ》、前夫(ハ)和名|之太乎《シタヲ》と見ゆ、是(ラ)らみな袁《ヲ》を本としたる名なり、

〇三擧は美多毘布理※〔氏/一〕《ミタビフリテ》と訓べし、【布理《フリ》を布伎《フキ》と訓むも同、】擧は、必(ズ)布理《フリ》と訓べき由は、右に云るが如し、中卷(ノ)始(メ)に、爲《シ》v釣《ツリ》乍《ツツ》打羽擧來人《ウチハブリクルヒト》とある擧(ノ)字も、必(ズ)然《シカ》訓(ム)べき例を以て、思ひ定むべし、なほ彼處《カシコ》【傳十八の十七葉】に云をも合(セ)考へてよ、

〇如《ゴトシタマヒ》v教《ヲシヘノ》者《シカバ》、この上に、果《ハタ》して蛇《ヘミ》の咋《クハ》むとせしこと有(ル)べきを、其《ソ》は上の語に讓《ユヅリ》て省《ハブ》ける文なり、此例常多し、餘も准へて知(ル)べし、

〇自靜《オノヅカラシヅマル》とは、起立《オコリタチ》て咋《クハ》むとせし蛇の、退き靜《シヅマ》りて、何《ナ》てふ害《ソコナヒ》をもなさざりしなり、

〇平寢は夜須久泥※〔氏/一〕《ヤスクネテ》と訓べし、【平は、常は多比良《タヒラ》と訓(ミ)、夜須久《ヤスク》は安と書(ケ)ども、此(ノ)二言は常に連言《ツラネイヒ》て、同意なり、此《ココ》は必(ズ)夜須久《ヤスク》と訓べき語なり、師は此《ココ》を夜須伊志弖《ヤスイシテ》と訓れき、これ同意にて古言なり、されどこゝは、然訓べき語のさまに非ず、凡て同言同意にても、其處々の語のふりに依て、訓べきさまはいさゝか異なるものぞ、】

〇出之《イデタマヒキ》は、翌朝《アクルアシタ》蛇(ノ)室より出(デ)賜(フ)なり、

〇來日は久流比《クルヒ》と訓べし、書紀に、明日《クルツヒ》明旦《クルツアシタ》明年《クルツトシ》などある訓を見るに、明(ノ)字なるを、阿久流《アクル》とは訓まで、久流《タル》と訓るは、是(レ)古言なるべし、【但(シ)助辭の都《ツ》は心得ず、此(ノ)助辭を置べき言には非ず、そのかみ此(レ)ばかりのことは、誰(レ)もよく辨へたるべきを、いかなることにか、】久流比《クルヒ》は翌日《アクルヒ》をいふ、

〇呉公《ムカデ》は蜈蚣なり、【但し延佳本に、蜈蚣と作《カケ》るは、さかしらに改めつるものなり、諸本みな呉公とあり、】字鏡蛆(ノ)字(ノ)下にも、呉公と作《カケ》り、如此《カク》偏《ヘム》を省《ハブ》きて書(ク)は、此方《ココ》にて古(ヘ)の一(ツノ)書法《カキザマ》なり、例をいはば、健《タケ》を建と作《カキ》、【建(ノ)字に多氣《タケ》と訓べき義はなし、】假字に伎《キ》を支と作《カキ》、【支(ノ)字にキ(ノ)音はなし、神名式又伊勢(ノ)儀式帳などに、只(ノ)字をキの假字にかけるも、枳(ノ)字なり、】此記下卷に弦《ユミハリ》を玄と作《カ》き、石村《イハレ》の村を寸と作《カキ》、【此事下卷池(ノ)邊(ノ)宮(ノ)段にくはしく云べし、】醜《シコ》を鬼とかき、和名抄上野(ノ)國の郷名に委文《シドリ》、【之土利】とあるも、倭(ノ)字の偏を省(ケ)るなり、又後世に條を条とかくも此例なり、【これらの字ども、古來《イニシヘヨリ》物知(リ)人たちの、心得かねたることなるを、己《オノレ》近《チカ》ごろ考(ヘ)得て、右の例を以て見れば、皆いと明《アキラ》けし、】さて和名抄に、蜈蚣(ハ)和名|無加天《ムカデ》、

〇蜂、和名抄に波知《ハチ》とあり、

〇且(ノ)字、延佳本などには亦とあり、何《イヅ》れにても同じ、

〇呉公蜂之比禮《ムカデハチノヒレ》、こは呉公《ムカデ》を撥《ハラフ》と蜂《ハチ》を撥(フ)と二(ツ)の比禮か、又此(ノ)二(ツノ)蟲を撥(フ)比禮にて一(ツ)か、何《イヅレ》にても有(リ)なむ、さて世人の害をなす物は、種々《クサグサ》多かる中に、此(ノ)三(ノ)蟲【蛇呉公蜂】をしも云る由《ユヱ》は、上(ツ)代に、民の家居《イヘヰ》などはか/”\しからで、野(ノ)山《ヤマ》にまじり住《スミ》しほどは、此等《コレラノ》物の害ぞ常多かりけむ、さればこそ大祓(ノ)詞にも、昆蟲之災《ハフムシノワザハヒ》を擧げ、右の十種(ノ)寶の中にも、此(レ)等を撥(フ)比禮は有(ル)なりけれ、【欽明紀に、席際現2蜂蛇(ノ)恠1、】

〇平出之、これも夜須久弖出賜伎《ヤスクテイデタマヒキ》と訓べし、此《ココ》は寢《ネテ》をば、上に傚《ナラ》はせて略《ハブケ》る文なり、

〇鳴鏑、書紀などの訓に、那流※〔言+可〕夫良《ナルカブラ》とあれども、字鏡に、鏑(ハ)奈利加夫良《ナリカブラ》とあるに依て訓べし、名(ノ)義は、鳴神夫理矢《ナリカミブリヤ》なり、【神《カミ》の微《ミ》を略き、理夜《リヤ》は良《ラ》と切(ル)、】天智紀に、有(リ)2細響《ホソキオト》1如(シ)2鴨鏑《ナリカブラノ》1とある如く、射れば空《ソラ》を鳴(リ)行(ク)が、雷《ナリカミ》に似たればなり、【蔓菁根《ナノカブラ》の形に似たる故の名と云は、ひがことなり、そは返(リ)て此(ノ)鏑に似たるから、彼(ノ)根をも加夫良《カブラ》とはいふなり、】さて此(ノ)矢、記中に往々《トコロドコロ》見えたり、古(ヘ)もはら用ひし物と見ゆ、書紀に、八目鳴鏑《ヤツメノナリカブラ》と云もあり、【八目とは、其(ノ)鏃《ヤサキ》に竅《アナ》のいくつもあるをいふ、】和名抄に日本紀私記(ニ)云、八目鏑(ハ)夜豆女加布良《ヤツメカブラ》とあり、【雷《ナリカミ》をたゞ神ともいへば、鳴鏑《ナリカブラ》をも、加夫良《カブラ》とのみも云べし、又は後に鳴《ナリ》を略(キ)て、加夫良《カブラ》とのみも云か、加夫良《カブラ》をもとにて、其中に鳴(ル)を分(ケ)て鳴鏑と云には非じ、】萬葉九【九丁】に響矢《ナリヤ》ともよめり、【此(ノ)響矢を、今本の訓には、加夫艮《カブラ》とあり、袖中抄には那流夜《ナルヤ》とあり、〇さて鏑(ノ)字は、たゞなべての鏃《ヤサキ》のことにて、分て加夫良と訓べき義は見えず、こは漢籍に鳴鏑と云物、此方の那理加夫良《ナリカブラ》に似たる故に、此字を當たるなれば、鏑(ノ)一字を訓るも、鳴鏑よりうつれるなり、史記匈奴傳(ニ)云(ク)、冒頓乃作2爲鳴鏑(ヲ)1、注(ニ)韋昭(ガ)曰(ク)、矢鏑飛(ブトキハ)則鳴(ル)、】

〇廻燒は夜伎米兵良志都《ヤキメグラシツ》と訓べし、

〇不《ズ》v知(ラ)v所(ヲ)v出(ム)は、不《ズ》v知《シラ》2可《ベキ》v出《イヅ》之處《ノトコロヲ》1と云意なれは、此(ノ)所(ノ)字は、虚字に非ず、さてこれは、四面《ヨモ》より燒廻《ヤキメグラ》す故に、遁出《ノガレイヅ》べきかたなきなり、抑蛇と云(ヒ)呉公蜂と云(ヒ)此事と云(ヒ)、種々《クサグサ》に苦惱《クルシ》め賜ふ所以《ユヱ》は、彼(ノ)八十神の如く、實《マコト》に害《ソコナハ》むの御心には非ず、如此爲《カクシ》て、此神の勇怯《イサミヲヂナキ》、また智愚《サカシオロカ》なるを、驗《ココロミ》たまはむとなるべし、下文に、於《ニ》v心《ミココロ》思《オモホシテ》v愛《ハシク》而|寢《ミネマシキ》、とあるにて其意あらはれたり、さて又此(ノ)くさ/”\の艱苦《タシナミ》も、おのづから祓除《ハラヒ》の意あるをや、【須勢理毘賣の名義思ふべし、】

〇鼠、和名抄に鼠(ハ)和名|禰須美《ネズミ》とあり、

〇富良《ホラ》は、物の中の空虚《ウツホ》にして廣きを云、洞《ホラ》など是(レ)なり、そは廓《ホガラカ》を約《ツヅメ》たる言なり、【凡て物の、殻《カラ》ばかりにて、中に實《ミ》なく空虚《ウツホ》なるを、俗《ヨ》に富賀良《ホガラ》と云は此意なり、又|朝富良氣《アサボラケ》と、富賀良富賀良《ホガラホガラ》と明行《アケユク》と云ると、全く同意なるを以ても、富良《ホラ》と富賀良《ホガラ》と同じきをしるべし、】

〇須夫《スブ》は窄《スボ》きなり、【統《スブ》るも本は、廣《ヒロ》ごりたる多くの物を、一(ツ)に集めて窄《スボ》くなす意よりいふ言なり、此(レ)須煩《スボ》を須夫《スブ》と通はし云例なり、】さて内《ウチ》とは、鼠《ネズミ》の地中《ツチノナカ》に構《カマ》へたる穴《アナ》の奥《オク》をいひ、外《ト》とは、其(ノ)穴の入口《イリクチ》を云なり、【外は登《ト》と訓べし、曾登《ソト》と云は俗《イヤ》し、其《ソ》は背面《ソトモ》と云ことを、外面と意得たるより、まぎれしなるべし、背面《ソトモ》は山陰《ヤマノキタ》を云と、書紀成務(ノ)卷に見えて、背津於母《ソツオモ》をつゞめたるなり、外面の意にあらず、中昔より歌などにも、外面の意によむはかなはず、外はたゞ登《ト》なり、】然れば如此《カク》云る意は、己《オノ》が地中に構へたる穴の奥は、廓《ホガラ》に廣し、入口《イリクチ》は窄狹《スボクセバ》ければ、火の燒入《ヤケイル》べき由なし、故《カレ》暫《シバラク》此(ノ)穴(ノ)内に隱《カクレ》坐て、難《ワザハヒ》を免《ノガ》れ給へとなり、さて富良《ホラ》も須夫《スブ》も、重て《カサネ》云るは、鼠の鳴《ナク》に象《カタド》れるにや、

〇落隱入は、淤知伊理加久理《オチイリカクリ》と訓べし、【隱入は、入隱とありしを、寫し誤れるか、又は入(ノ)字は、加久理《カクリ》の理(リ)に當《アテ》て書るか、もし然《サ》もあらば、淤知加久理《オチカクリ》と訓べし、さて隱《カクレ》を加久理《カクリ》と云は、古言の格なり、下に見ゆ、】自《オ》彼(ノ)鼠(ノ)穴(ノ)中へ落(チ)入(リ)て、御身の隱(レ)給へるなり、かくて其(ノ)間《アヒダ》に、彼(ノ)野火は穴(ノ)外を燒過去《ヤケスギユキ》て、其(ノ)難《ワザハヒ》を免(レ)給ひつ、さて上に、大樹に矢を打立て、其(ノ)割目《ワレメノ》中に入(ラ)しむと云(ヒ)、又自(リ)2木(ノ)俣1漏《クキ》逃(ル)と云(ヒ)、今|此《ココ》に鼠(ノ)穴に入て隱(レ)給ふと云るを、合せて思へば、此(ノ)神も、少那毘古那《スクナビコナノ》神の如く、身體《ミ》の甚《イト》小《チヒサ》く坐(シ)けるにや、されどこは、たしかに物に見えたること無ければ、定(メ)ては云(ヒ)がたし、【書紀に少那毘古那(ノ)神のことを、大己貴(ノ)神即(チ)取(リテ)置(テ)v掌中《タナウチニ1而翫(ブ)之、とあるを思へば、同じ程に小《チヒサ》き神とも見えず、】

〇咋持《クヒモチ》、萬葉十六に、地神力士※〔人偏+舞〕可母《イケガミノリキジマヒカモ》、白鷺乃桙啄持而飛渡良武《シラサギノホコクヒモチテトビワタルラム》、

〇奉也《タテマツリキ》とは、大穴牟遲(ノ)神に獻るなり、そも/\鼠は、人の害をなす物の、家(ノ)内に在(ル)を吉(シ)とし、無(キ)を凶(シ)とする【又近く燒《ヤケ》ぬべき家は、かねて知(ル)故に、鼠|住《スマ》ずなどいふめり、】は、此(ノ)故事《フルコト》よりぞ出たりけむ、

〇皆喫《ミナクヒキ》也、皆《ミナ》は子等皆《コドモミナ》なり、喫《クヒ》は上の咋《クヒ》と同くて、子鼠等《コネズミドモ》の、矢(ノ)羽(ノ)方を、共に助(ケ)て咋《クハ》へ持來るなり、【鏃《ヤサキ》の方は重《オモ》ければ、大鼠の持(チ)、羽の方は輕ければ、子鼠の扶持《タスケモタ》むこと、さもあるべし、】喫《クヒ》とのみ云て、持《モチ》を省《ハブ》けるは、上にある故なり、【※〔契の大が齒〕傷《カミソコナ》ふこととなおもひまがへそ、】

 

於是其妻須世理毘賣者《ココニソノミメスセリビメハ》。持喪具而哭來《ハブリツモノヲモチテナキツツキマシ》。其父大神者《ソノチチノオホカミハ》。思已死訖《スデニミウセヌトオモホシテ》。出立其野《ソノヌニイデタタセバ》。爾持其矢以奉之時《スナハナカノヤヲモチテタテマツルトキニ》。率入家而《イヘニヰテイリテ》。喚入八田間大室而《ヤタマノオホムロヤニヨビイレテ》。令取其頭之虱《ソノミカシラノシラミヲトラセタマヒキ》。故爾見其頭者《カレソノミカシラヲミレバ》。呉公多在《ムカデオホカリ》。於是其妻以牟久木實與赤土授其夫故《ココニソノミメムクノキノミトハニトヲソノヒコヂニサヅケタマヘバ》。咋破其木實《ソノコノミヲクヒヤブリ》。含赤土唾出者《ハニヲフフミテツバキイダシタマヘバ》。其大神以爲咋破呉公唾出而《ソノオホカミムカデヲクヒヤブリテツバキイダストオモホシテ》。於心思愛而寢《ミココロニハシクオモホシテミネマシキ》。爾握其大神之髪《ココニソノオホカミノミカミヲトリテ》。其室毎椽結著而《ソノムロヤノタリキゴトニユヒツケテ》。五百引石取塞其室戸《イホビキイハヲソノムロノトニトリサヘテ》。負其妻須世理毘賣《ソノミメスセリビメヲオヒテ》。即取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而《ソノオホカミノイクダチイクユミヤマタソノアメノノリコトヲトリモタシテ》。逃出之時《ニゲイデマストキニ》。其天詔琴拂樹而地動鳴《ソノアメノノリコトキニフレテツチトドロキキ》。故其所寢大神聞驚而《カレソノミネマセルオホカミキキオドロカシテ》。引仆其室《ソノムロヤヲヒキタフシタマヒキ》。然解結椽髪之間《シカレドモタリキニユヘルミカミヲトカスルアヒダニ》。遠逃《トホクニゲタマヒキ》。故爾追至黄泉比良坂《カレココニヨモツヒラサカマデオヒイデマシテ》。遙望呼謂大穴牟遲神曰《ハロバロニミサケテオホナムヂノカミヲヨバヒテノリタマハク》。其汝所持之生大刀生弓矢以而《ソノイマシガモタルイクダチイクユミヤヲモチテ》。汝庶兄弟者《イマシガアニオトドモヲバ》。追伏坂之御尾《サカノミヲニオヒフセ》。亦追撥河之瀬而《カハノセニオヒハラヒテ》。意禮《オレ》【二字以音】爲大國主神《オホクニヌシノカミトナリ》。亦爲宇都志國玉神而《マタウツシクニタマノカミトナリテ》。其我之女須世理毘賣爲嫡妻而《ソノアガムスメスセリビメヲムカヒメトシテ》。於宇迦能山【三字以音】之山本《ウカノヤマノヤマモトニ》。於底津石板宮柱布刀斯理《ソコツイハネニミヤバシラフトシリ》。【此四字以音】於高天原冰椽多迦斯理《タカマノハラニヒギタカシリ》【此四字以音】而居是奴也《テヲレコヤツヨトノリタマヒキ》。故持其大刀弓《カレソノタチユミヲモチテ》。追避其八十神之時《カノヤソガミヲオヒサクルトキニ》。毎坂御尾追伏《サカノミヲゴトニオヒフセ》。毎河瀬追撥而《カハノセゴトニオヒハラヒテ》。始作國也《クニツクリハジメタマヒキ》。

喪具は師の、波夫理都毛能《ハブリツモノ》と訓れたるに依べし、書紀に祓具を、此(ヲ)云2波羅閇都母能《ハラヘツモノト》、とあると同格なり、喪は母《モ》と訓べき字なれども、此《ココ》は葬《ハブリ》せむ料の具《モノ》なるべければなり、【母乃曾那閇《モノソナヘ》と訓るも、ひがことにはあらねど、そは心ゆかず、其故は、まづ凡て具(ノ)字、漢籍にて、體と用とに用ふ、たとへば禮記(ノ)檀弓に、葬(ノ)具(ハ)君子恥(ヅ)v具(ヘムコトヲ)と云る、上の具は、其料に備(フ)る物を云て體、下の具は、其物を備(フ)るを云て用なり、然るに此方にては、用言に曾那布《ソナフ》と云は、古言なれども、其物を指(シ)て、曾那閇《ソナヘ》と體に云むは、具(ノ)字によりたる、後の言めきて聞ゆればなり、されど然《シカ》訓までは、訓がたき所もあれば、其《ソ》は已《ヤム》こと得ず、然《サ》もよみつべし、なほ他にも此例いとおほかり、】

〇哭來は、那伎都々來坐志《ナキツツキマシ》と訓べし、師の書入(レ)に、此《ココ》は影媛《カゲヒメ》が鮪臣《シビノオミ》を葬し時の歌と合せて見よとあり、信《マコト》によく似たり、其《ソ》は書紀(ノ)武烈(ノ)卷に、影媛|曾※〔(女/女)+干〕《サキニタハケツ》2眞鳥大臣男鮪《マトリノオホオミノコシビニ》1云々、戮《コロシツ》2鮪(ノ)臣(ヲ)於|乃樂山《ナラヤマニ》1、是(ノ)時影媛|逐2行《オヒユキテ》戮(サルル)處(ニ)1、見《ミテ》2是戮已《スデニコロサレヌルヲ》1、驚惶失所《オドロキココロマドヒシテ》、悲涙盈目《ナミダヲヒトメウケテ》、遂作歌曰《ウタヒケラク》、伊須能箇瀰《イスノカミ》、賦屡嗚須擬底《フルヲスギテ》云々、逗摩御暮屡《ツマゴモル》、嗚佐〓嗚須擬《ヲサホヲスギ》、抱摩該※〔人偏+爾〕播《タマケニハ》、伊比佐倍母理《イヒサヘモリ》、抱摩暮比※〔人偏+爾〕《タマモヒニ》、瀰逗佐倍母理《ミヅサヘモリ》、儺岐曾〓遲喩倶謀《ナキソホヂユクモ》、何※〔旦/寸〕比謎阿婆例《カゲヒメアハレ》、於是影媛|收埋既畢《ヲサメヲヘテ》云々、とあることなり、此(ノ)玉笥《タマケ》に飯《イヒ》を盛《モリ》、玉※〔怨の心が皿〕《タマモヒ》に水を盛(リ)とある、喪具《ハブリツモノ》の中なり、

〇思已死訖は、須傳爾美宇世奴登思本志弖《スデニミウセヌトオモホシテ》と訓べし、抑此語は、右の須世理比賣|者《ハ》と云下に、先(ヅ)有(ル)べきを、彼處《カシコ》には言(ハ)で、後《オク》れて此處《ココ》にしも云るは、古文の巧《タクミ》なり、上には持2喪具(ヲ)1云々と云語のあれば、自《オ》ら死訖《ミウセヌ》と思《オボ》せることは聞え、又|此處《ココ》には然《サ》る語も無(ク)て、直《タダ》に出2立其野(ニ)1と云むは、語(ノ)調(ヘ)も足《タラ》はねば、彼(レ)此(レ)を以て、此處《ココ》に此(ノ)語をば置て、自然《オノヅカラ》に彼處《カシコ》へもひゞかしたる物ぞ、

〇出2立《イデタタセバ》其野《ソノヌニ》1、こは此(ノ)段の凡ての意を以て思ふに、まづ右の如く、大穴牟遲(ノ)神を、くさ/”\苦《クル》しめ賜ふは、前に云如く、皆此神を驗《ココロ》み賜ふなるに、今かく野火|熾《サカリ》に燃《モエ》わたりて、既に燒竟《ヤケヲハル》まで、なほ彼(ノ)神の出來り坐(サ)ぬ故に、如此《カク》ては既《ハヤ》く所燒《ヤカレ》て死《ミウセ》ぬる物ならむと、御心の内には、いとほしく心もとなく思《オモホ》して、其(ノ)爲《ナリ》の終《ハテ》を尋ね賜はむとてぞ、出立《イデタチ》賜ひつらむ、出立は、書紀(ノ)推古(ノ)卷の歌に、異泥多々須《イデタタス》とあるに依て訓べし、

〇《ハタ《〔》》持《モチ》2其矢《ソノヤヲ》1以奉《テタテマツル》は、始(メ)に令(ム)v採《トラ》2其矢(ヲ)1とあることを竟《ハタ》すなり、

〇率2入《ヰテイリ》家《イヘニ》1而《テ》云々、此《ココ》は已《スデニ》死《ウセ》ぬと思《オボ》したるを、思ひの外に、彼(ノ)矢を持て出來坐るなれば、驚(キ)賜(ヒ)て云々《シカシカ》など云言の、此(ノ)上に必有(リ)ぬべき處なるに、何ともさる言の無(ク)て、語の足《タラ》はぬこゝちするは、裏《シタ》の御心を顯はし賜はず、強面《ツレナシ》づくり賜ふ故なり、其由は次に云べし、家は即(チ)須佐之男(ノ)大神の御家《ミヤ》なり、

〇八田間大室《ヤタマノオホムロヤ》、八田間は、廣く大なる謂《イヒ》なり、田【借字】の意は未(ダ)思(ヒ)得ず、若(シ)は都《ツ》の轉《ウツ》れるにて、たゞ八箇間《ヤツマ》か、【師は、八咫間ならむかと云れしかど、其意にはあらじ、】八《ヤ》は例のたゞ多きを云なり、間《マ》とは、凡て家の桂と桂との中間《アヒダ》を云り、中昔までも然り、【一間二間《ヒトマフタマ》、又は東より第一(ノ)間、西より第三(ノ)間など云るたぐひ、皆然り、後(ノ)世に、家(ノ)内を區《ワケ》て、障子など隔《ヘダテ》たるほどを間《マ》と云も、右の意よりうつれるなり、又一歩を一間と云も、右の意より出たり、】さて此(ノ)大室《オホムロヤ》は、次(ノ)文によるに、此(ノ)大神の内寢《ウチツミヤ》と見ゆ、

〇虱、和名抄に虱(ハ)和名|之良美《シラミ》、

〇呉公多在《ムカデオホカリ》、上の黄泉《ヨミノ》段に、宇土多加禮斗呂々岐弖《ウジタカレトロロギテ》、於《ニ》v頭|者《ハ》大雷|居《ヲリ》云々、とあると合せて、彼(ノ)國のさまを思へ、かかる御頭に手を觸《フレ》さするも、猶此(ノ)神を試《ココロミ》たまふなり、

〇牟久木實《ムクノキノミ》は、天武紀に、椹此(ヲ)云2武矩《ムクト》1と見え、和名抄菓類には、椋子(ハ)和名本草(ニ)無久《ムク》、また木類にも、椋(ハ)和名|牟久《ムク》とあり、字鏡には、村又椹又※〔木+尺〕などを、牟久乃木《ムクノキ》とあり、又※〔木+(忠/貝)〕※〔木+口〕また※〔木+匕〕※〔木+幼の扁〕などを、二字|牟久《ムク》とあり、

〇以牟久の以(ノ)字、一本には取と作《ア》り、

○赤土は波爾《ハニ》と訓べし、萬葉に例多し、波邇《ハニ》は常に埴(ノ)字を書て、黏土《ネエツチ》なり、そは多くは色赤き故に、赤土とは書り、又|黄《キ》にもある故に、萬葉に黄土《ハニ》とも書り、【此《ココ》は呉公《ムカデ》を※〔口+(契の大が齒)〕碎《カミクダキ》たる色に似せむ料なれば、其色を知(ラ)さむとて、赤土と書るにもあるべければ、阿加爾《アカニ》又は曾富爾《ソホニ》など訓(マ)むも、さることなれど、猶|波邇《ハニ》なるべし、中卷には、赤色に用なき處にも、赤土と書り、】

〇授(ク)2其夫(ニ)1、さきに蛇の比禮を授(ケ)て教へたる如くに、此《ココ》にも云々《シカシカ》し賜へと、教(ヘ)賜(フ)言あるべきを、上に傚《ナラ》はせて省《ハブケ》るものなり、

〇木實は許能美《コノミ》と訓べし、【上なるは牟久木《ムクノキ》とつゞける故に、木は紀能《キノ》とよめり、同字なれどいさゝか異なり、】和名抄に、應劭曰、木(ノ)實(ヲ)曰(フ)v菓(ト)、日本紀私記(ニ)云|古乃美《コノミ》、俗(ニ)云|久太毛乃《クダモノ》とあり、

〇咋破は久比夜夫理《クヒヤブリ》と訓べし、※〔口+(契の大が齒)〕碎《カミクダク》を云なり、下なるも同じ、萬葉十六【二十九丁】に、机之嶋能小螺乎《ツクヱノシマノシタタミヲ》、伊拾持來而《イヒリヒモチキテ》、石以都追伎破夫利《イシモチテツツキヤブリ》云々、とあるに同じ、

〇含は布々美弖《フフミテ》と訓べし、布久牟《フクム》の古言なり、萬葉十九【四十六丁】に、布敷賣流《フフメル》など、なほあり、

〇唾出者は、都婆伎伊陀志腸閇婆《ツバキイダシタマヘバ》と訓べし、和名抄に、唾(ハ)和名|豆波岐《ツバキ》と見え、字鏡に、※〔口+延〕(ハ)口水也液也唾也|與太利《ヨダリ》、又|豆波志留《ツバシル》、また液(ハ)小兒(ノ)口(ヨリ)所(ノ)v出(ル)汁也|豆波支《ツバキ》などあるは、みな其物を云(ヘ)ば、體言なるを、今は用言にいへり、【さて此(ノ)都婆伎《ツバキ》てふ言に疑(ヒ)あり、そはまづ今(ノ)世にも、口中にたまる水を、津《ツ》といへば、唾《ツバキ》は津吐《ツバキ》の意なるべし、然るに津(ノ)字も、都《ツ》と云言も、もと船の泊《ハツ》る所の名なれば、それより轉《ウツ》して、津液の津をも都《ツ》とは云か、若(シ)然らば古言にはあらで、津(ノ)字より出たる言なり、されど唾は、たゞ吐《ハク》とは、ことのさまひとしからねば、都婆久《ツバク》と訓むほかなし、】さてこは椋子《ムクノミ》を咬《カミ》くだきて、含《フフミ》たる赤土《ハニ》と和《マジリ》たるが、呉公を咬破《カミヤブリ》たるによく似たるなるべし、

〇思愛は、波斯久於毛富志弖《ハシクオモホシテ》と訓べし、波斯久《ハシク》は字の如く、めでうつくしむ意にて、記中に倭建(ノ)命の、渡斯祁夜斯《ハシケヤシ》と歌《ウタヒ》賜ひ、萬葉などにも多く見え、愛(ノ)字を書る例も彼集にあり、大雀(ノ)天皇の御歌に、阿賀波斯豆摩《アガハシヅマ》【吾愛妻なり、】とよみ賜へるも是なり、猶|彼處《カシコ》【傳廿四の三十一葉】に委く云べし、さて此《ココ》は大穴牟遲(ノ)神の、多かる呉公をいさゝかも懼れずて、咋破《クヒヤブリ》賜(フ)と思ひて、其(ノ)勇《イサミ》を感《メデ》たまふなり、されどそは御心の裏《ウチ》にこめて、色にも出し賜はぬと云ことを、慥《タシカ》に知らさむために、於《ニ》v心《ミココロ》とは云るなり、さて上(ノ)件蛇(ノ)室呉公蜂(ノ)室などに寢《ネ》しめ賜(ヒ)しに、事故《コトユヱ》なく平《ヤス》くて出(デ)坐(シ)し時も、又野を燒廻《ヤキメグラ》したるに、無恙《ツツガナク》て矢を持て獻り賜(ヒ)し時も、其|度毎《タビゴト》に御心の裏《ウチ》には思愛《ハシクオモホシ》ながら、其心を表《ウヘ》に顯はしたまはぬ故に、彼(ノ)處々《トコロドコロ》には此語を略《ハブキ》て、今終(リ)の一事に如此《カク》云る、古文の妙《タヘ》なる處なり、心を着《ツケ》て味ふべし、【此記は、さかしらを加へずて、古文のまゝに記されたる故に、よく見れば、妙なることのみ多し、書紀は、漢文をかざるとて、さかしらをのみ加へられし故に、中々に古文の妙處は、みなうせはてつ、】さて上の處々へも、例のひゞかせたる物ぞ、如此有《カカレ》ば、上件|種々《クサグサ》の事は、みな彼神を驗《ココロミ》賜はむとの御所爲《ミシワザ》なること、此(ノ)一語にて著《シル》し、

〇寢は御寢坐伎《ミネヤシキ》と訓べし、

〇握《トリテ》2其(ノ)大神(ノ)之|髪《ミカミヲ》1、諸(ノ)本に大(ノ)字無し、されど前後みな大神とあるを、此《ココ》にのみたゞ神とは必(ズ)申(ス)まじければ、今|補《クハヘ》つ、さて御頭の虱を取(リ)居(ル)をりなれば、御髪を握《トル》には、本より便(リ)あり、

〇椽は、字鏡に、※〔木+薄の旁〕(ハ)櫨也※〔木+開の中〕也|太利木《タリキ》、また※〔木+僚の旁〕(ハ)比佐志乃太利木《ヒサシノタリキ》とあり、和名抄には、※〔木+衰〕(ハ)釋名(ニ)云、※〔木+衰〕(ハ)在(テ)2※〔木+穩の旁〕(ノ)穿下(ニ)1垂(ル)也、兼名苑(ニ)云、一名(ハ)※〔木+僚の旁〕、一名(ハ)椽、和名|太流岐《タルキ》、楊氏漢語抄(ニ)云|波閇岐《ハヘキ》と有て、今(ノ)世にも多流紀《タルキ》といへど、多理紀《タリキ》ぞ理《コトワリ》優《マサ》れば、字鏡の訓に依べし、

〇結着《ユヒツケ》は、臥《フシ》坐(ス)御髪を、直《タダ》に屋の椽《タリキ》に結(ヒ)着むは、餘(リ)程遠きこゝちすれば、此《ココ》は別に緒《ヲ》を髪に結《ムス》び續《ツギ》て結(ヒ)着(ク)とせむか、されどそは中々にくだ/\しく聞ゆめれば、直《タダ》に御髪をゆひつくと見てありなむ、さて如此《カク》爲《シ》賜(フ)所以《ユヱ》は、此(ノ)大神の御寢《ミネ》坐る間に、此處《ココ》を遁去《ノガレサラ》むとおぼすから、跡より追(ヒ)來坐むことを恐(レ)て、其《ソ》を留(メ)奉むがためなり、其事即次に見ゆ、

〇五百引石《イホビキイハ》は、上に千引石とある類なり、

〇取塞は登理佐閇※〔氏/一〕《トリサヘテ》と訓べし、上に千引石《イホビキイハヲ》引2塞《ヒキサヘ》其(ノ)黄泉比良坂《ヨモツヒヲサカニ》1、とある處【傳六の廿九葉】に云るが如し、【俗語に、人の闘《タタカヒ》などするを、傍《カタハラ》より取(リ)さへるといふも、是より出たり、】

〇生太刀《イクダチ》生弓矢《イクユミヤ》、生《イク》は、上に引る、天(ツ)神の饒速日(ノ)命に授(ケ)賜へる十種の寶に、生玉《イクダマ》足玉《タルタマ》あり、神祇官に坐(ス)八神の中に、生魂《イクムスビ》足魂《タルムスビ》と申すあり、又|生嶋《イクシマ》足嶋《タルシマ》、生國《イククニ》足國《タルクニ》、また出雲(ノ)國造(ノ)神賀(ノ)詞に、今日能生日能足日爾《ケフノイクヒノタリヒニ》、などもある生《イク》にて、皆|命《イノチ》長く生《イク》る意なり、【足《タル》は、萬(ヅ)あかぬことなく足《タラ》ふ意なり、】さて此《ココ》は、執持主《トリモツヌシ》の、命長く生《イク》べき徳ある大刀弓欠なり、【右の如く、生某《イクナニ》と云には、みな足某《タルナニ》と並びたるに、此《ココ》には生《イク》のみにて、足《タル》の無きは、生(ク)に足(ル)をも兼《カヌ》る意あるべし、師は、右の生魂足魂生國足國は、共にその和魂荒魂を分てるなり、とぞいはれし、】そも/\今|黄泉《ヨミノ》國にして、此物を得たまふは、例の凶より吉をなすことわりぞ、

〇其天詔琴《ソノアメノノリコト》、其《ソノ》とは、上に其(ノ)大神|之《ノ》とあるを承《ウケ》て、同《オナジ》其《ソノ》大神|之《ノ》なり、天《アメノ》とは、前に云る如く、何《ナニ》にても其《ソノ》製《ツクリザマ》の、天上《アメノ》物に同じきを云、詔琴《ノリコト》は、此(ノ)琴の名には非ず、凡て琴の正《タダ》しき本の名なり、さて其意は、詔言所《ノリコトド》と云ことなり、【所《トコロ》を登《ト》と云例多し、上に云り、さて登杼《トド》を切《ツヅム》れば登《ト》となる、留《トドマル》をとまるとも云が如し、かゝれば切《ツヅメ》て能理許登《ノリコト》といふなり、】然云所以《シカイフユヱ》は、まづ古(ヘ)に何事《ナニゴト》にまれ、神の御心を問むとて、其(ノ)命《ミコト》を請《コヒ》申すには、必(ズ)琴を弾《ヒケ》り、于時《トキニ》其(ノ)神、琴(ノ)上に降(リ)来坐て、人に著《カカリ》て命《ミコト》を詔《ノリ》たまふ、此事は中卷※〔言+可〕志比《カシヒノ》宮(ノ)段【傳三十の二十四葉】に、證等《シルシドモ》を擧《アゲ》て委(ク)云を、合(セ)見て知(ル)べし、又書紀武烈(ノ)卷(ノ)御歌に、擧騰我瀰※〔人偏+爾〕《コトガミニ》、枳謂屡箇皚比謎《キヰルカゲヒメ》とある、上一句半は、影《カゲ》と云む序《ハシコトバ》にて、琴頭《コトガミ》に降(リ)來て坐々《マシマス》神の御影《ミカゲ》と云意に連《ツヅケ》たるなり、これらを以ても、右の旨を知(ル)べし、かゝれば琴《コト》と云名は、神の来て詔言《ノリコト》し賜ふ所、と云意にてつけたるなれば、本は凡て能理許登《ノリコト》といひしを、許登《コト》とのみ云は、後に略《ハブ》ける名ぞかし、さて琴《コト》は如此《カク》、神代より有(ル)ことは更にも云(ハ)ず、大刀弓矢に並(ベ)て、此《ココ》にかく云るを思へば、有(ル)が中にも重《オモ》き器財なること知られたり、【後に漢國よりも、此(ノ)類の樂器くさ/”\渡(リ)まうで來ては、御國に本よりあるをば、倭琴《ヤマトゴト》と云ひ、彼《カシコ》のをば唐琴《カラコト》と云り、備前(ノ)國に唐琴と云地名のあるを以て、古(ヘ)此名ありしことを知(リ)ぬ、さて又後には、分て琴《キム》のこと箏《サウ》のこと琵琶《ビハ》のことなど云り、かくて中昔までは、此(ノ)倭琴をも、常に弘《ヒロ》くもてあそばれて、殊に諸の樂器の中の最上と定められしも、神代より深き故ありて、本より大御國の物なればなるべし、さて然《シカ》重《オモ》くし貴《タフト》ばれしあまりにや、後(ノ)世には、其家に深く秘《ヒメ》て、ひろくは傳へぬことになりぬるから、遂に世間《ヨノナカ》には、たゞ名をのみ聞て、如何《イカ》なる物とも、その状《サマ》をだにしらず、況《マシ》て弾法《ヒクスベ》知(ル)人は絶てなく、たゞ其家にのみ傳へて、わづかに神遊などにのみ用ることとなりぬるは、いとも/\くちをしく、心うきわざなりかし、凡て何事も、あまり深く秘《ヒメ》て、世にもらさぬから、知(ル)人まれになりもてゆきて、遂には絶《タユ》るものなれば、貴《タフト》み重《オモ》くすと思ふが、返(リ)て賤しめ棄《スツ》ると云ものぞかし、されば物を重《オモ》くし貴むとならば、ます/\弘《ヒロ》く世に傳へて、盛(リ)にせまほしくこそあれ、かゝるめでたき神代の物の廢《スタ》れて、世に知(ル)人もなくなりぬるが歎《ナゲカ》しさに、かく長々とは云なり、さて上代の琴は、木を以ても竹を以ても造りしと見ゆ、木以造(リ)しことは、高津(ノ)宮(ノ)段に見え、竹以造(リ)し證は、書紀(ノ)繼體(ノ)卷(ノ)歌に見ゆ、絃《ヲ》の數は、六帖(ノ)歌に、六(ツ)の絃《ヲ》とよめる如く、中音よりのは六(ツ)なり、上代より然るか、甕栗(ノ)宮(ノ)段、袁祁《ヲケノ》命の御詠言《ミナガメゴト》に、八絃琴《ヤツヲノコト》とある、八(ツ)は、例の彌《イヤ》の意ならむか、但し東遊(ノ)歌に、奈々川乎乃也川乎乃古止乎《ナナツヲノヤツヲノコトヲ》、之良部太留《シラベタル》とあれば、定れる數はなかりしにや、凡ての製《ツクリザマ》も、上代のとは、いさゝか變《カハ》りきぬることなきにしもあらじ、】さて今かく、大刀と弓矢と琴とを取(リ)持て、逃出《ニゲイデ》たまふ、其中に、大刀弓矢を用ひし事は、次の文に見えたるに、此琴の用は見えず、【たゞ拂《フレテ》v樹《キニ》而地動鳴《ツチトドロク》ことを云む料のみに、此物を擧むは、作(リ)物語などにこそさることもあらめ、實録《マコトノフミ》には、然《シカ》設《マウ》けて云べきことわりなし、又如(ク)v調2八絃(ノ)琴(ヲ)1所2治天(ノ)下1と云こと、記中にあれど、そは譬(ヘ)なれば、こゝに由なくなむ、】然れば是を取(リ)持て出賜ふこと、何の由とも聞えがたし、故(レ)つら/\思ふに、上代には、夫婦《メヲ》の結《ムス》びをなすに、必(ズ)女の親《オヤ》の方より、聟《ムコ》に琴を與《アタ》へて、其《ソ》を永く夫婦《メヲ》の中の契《シルシ》とせしことにぞありけむ、其(ノ)さだかなる據《ヨリドコロ》は、未(ダ)見あたらねど、吾妻《アヅマ》といふ名の有(ル)も、此故なるべくおぼゆ、【後までも、倭琴に此名あり、此(レ)を中頃東國より奉(リ)しことありし故など云説は、名に付て設(ケ)たる妄言《ソラゴト》ぞかし、】さて今此(ノ)琴を取持て出賜ふは、須世理毘賣を妻とする、表物《シルシノモノ》とするなるべし、されば次の文に、父大神の詔に、其汝所持之生大刀生弓矢《ソノイマシガモタルイクダチイクユミヤ》以(テ)云々とあるは、大刀弓矢の用を云(ヒ)、次に其我之女《ソノアガムスメ》須世理毘賣(ヲ)爲《シテ》2嫡妻《ムカヒメト》1とある所に、此(ノ)詔琴《ノリコト》の用をばこめたるべし、さて夫婦《メヲ》の中を絶《タツ》ときには、その表《シルシ》の琴を、婦《メ》の方に返し渡せしなるべし、上の黄泉(ノ)段【傳六の廿九三十葉】に、女男《メヲノ》神|各對立而《アヒムキタタシテ》度《ワタス》2事戸《コトドヲ》1とあるも、此《ココ》と合せて思へば、表《シルシ》の琴【許登《コト》は、詔言所《ノリコトド》の詔《ノリ》を略ける名なること、右に云るが如くなる故に、許登抒《コトド》といふ、】を、女神の方に返《カヘ》し度《ワタ》すと云意の言なるべくや、【五百引石を取2塞《トリサヘ》室(ノ)戸(ニ)1といひ、追2至《オヒイタリ》黄泉比良坂《ヨモツヒラサカマデ》1と云(ヒ)、其外も彼(ノ)段と此(ノ)段と、事のさま相似たること多きを、思ひ合すべし、さて此大穴牟遲(ノ)神の、今|黄泉《ヨミ》より歸(リ)て、國作(リ)坐(ス)ことは、本彼(ノ)上(ノ)黄泉(ノ)段に、國|未《イマダ・ズ》2作(リ)竟《ハテ》1とある、其業を紹《ツギ》たまふなること、下に委く云が如くなれは、彼(ノ)段に女男(ノ)神|離別《ハナレ》て、未竟《イマダヲヘ》たまはぬ業を、今此(ノ)神又女男と爲《ナリ》て、紹《ツギ》たまふなれば、彼(ノ)度《ワタス》2事戸《コトドヲ》1と、今|詔琴《ノリコト》を取(リ)持(ツ)と、遙《ハルカ》に相應《アヒコタヘ》て、妙《タヘ》なる理(リ)あることを思へ、但(シ)かの伊邪那岐伊邪那美(ノ)大神の御時に、現に琴を返し度《ワタ》したまふにはあるまじけれども、然云て夫婦の中を絶《タツ》こととなれる詞を以、語(リ)つたへたる物ぞ、河海抄に、和琴(ハ)伊弉諾伊弉冉(ノ)尊(ノ)御時(ニ)令《シメ》2作(リ)出《イデ》1給云々と云るは、據あるか、もし古き傳へならば、少《スコ》しここに由ありてきこゆ、】出雲風土記に、飯石(ノ)郡|琴引山《コトヒキヤマ》、古老(ノ)傳(ヘニ)云(ク)、此(ノ)山(ノ)峯(ニ)有v窟、裏《ウチニ》所2造《ツクラシシ》天下1大神(ノ)之|御琴《ミコトアリ》、長(サ)七尺、廣(サ)三尺、厚(サ)一尺五寸、又在2石神1、高(サ)二丈、周(リ)四尺(ナリ)、故(レ)云(フ)2琴引山《コトヒキヤマト》1、

〇拂樹は紀爾布禮《キニフレ》と訓べし、俗《ヨ》に云(フ)突當《ツキアタル》なり、高津(ノ)宮(ノ)段に、水潦|拂《フレテ》2紅紐《アカヒモニ》1、ともあり、

〇動鳴は斗々呂伎々《トドロキキ》と訓べし、【下の伎《キ》は辭なり、】此言は、前の伏(テ)2※〔さんずい+于〕気《ウケ》1而|蹈登抒呂許志《フミトドロコシ》とある處【傳八の五十六葉】に解《トキ》つ、此《ココ》は登余美伎《トヨミキ》と訓むも惡《アシ》からねど、【トヨミナルと訓(ム)はわろし、とよむと云に、鳴《ナル》意はこもれればなり、】萬葉に、動響とも響動とも書るは、みな斗々呂《トドロ》と云處なり、斗余美《トヨミ》は、然《シカ》は書ず、響《トヨミ》又|動《トヨミ》など書り、意は同じかれど、今は此(ノ)差別《ケヂメ》を以訓つ、

〇聞驚、上に須佐之男(ノ)命、天に參上《マヰノボリ》たまふ時に、山川悉(ニ)動《トヨミ》、國土皆|震《ユリキ》、爾天照大御神|聞驚而《キキオドロキテ》とあるとは、此《ココ》は聊《イササカ》異《コト》にて、睡《ネブリ》坐るが驚(キ)て、御目の覺《サメ》賜ふを云なり、凡て物の音などに驚くには非《アラ》で、只に目の覺《サム》るをも、驚くと云ること、物語文などに常多し、【今も、或國《アルクニ》人然云を聞しことありき、其國は忘れたり、】書紀垂仁(ノ)卷に寤《オドロク》ともあり、萬葉四【五十二丁】に、夢之相者苦有家里《イメノアヒハクルシカリケリ》、覺而掻探友手二毛不所觸者《オドロキテカキサグレドモテニモフレネバ》、これにて明けし、

〇引2仆《ヒキタフシ》其室《ソノムロヤヲ》1とは、かの椽毎《タリキゴト》に御髪を結着《ユヒツケ》たるをば、知《シロ》しめさで、ふと驚きて起立《オキタチ》て出たまふからに、御髪に引れて、室の仆《タフ》るゝなり、

〇然《シカレドモ》とは、如此《カク》ばかり勇猛《タケ》き御勢力《ミイキホヒ》にては、何處《イヅコ》までも、速《スミヤカ》に追及《オヒシキ》たまふべきなれどもと云なり、

〇遙は波呂々々邇《ハロバロニ》と訓べし、皇極紀(ノ)謠歌《ワザウタ》に、波魯々々爾《ハロバロニ》、渠騰曾枳擧喩屡《コトゾキコユル》、萬葉五【二十三丁】に、波漏婆漏爾《ハロバロニ》、於志方由流可毛《オモハユルカモ》などあり、

〇望は、師の美佐気※〔氏/一〕《ミサケテ》と馴れたるに依(ル)べし、【書紀などに、かゝる望(ノ)字を、ヲセルとも、ホセルとも、訓を付(ケ)たれども、此言たしかに云るを見ねば、取(リ)がたし、】萬葉一【十三丁】に、數々毛見放武八萬雄《シバシバモミサケムヤマヲ》とある言、此字によく當れり、【振放見《フリサケミル》と云も、同意なり、】 さて黄泉比良坂《ヨモツヒラサカ》は、上にも見えて、黄泉國《ヨミノクニ》と顯國《ウツシクニ》との交堺《サカヒ》なれば、此(ノ)大神は、此(ノ)堺より此方《コナタ》へは、越出《コエイデ》たまふこと能《アタ》はず、故(レ)此(ノ)處にして、遠望《ハロバロニミサケ》て、呼《ヨバヒ》賜(フ)なり、

〇以而《モチテ》、この文字の書(キ)ざまは、記中にも希見《メヅラシ》けれど、如此《カク》書(ク)まじき物にも非ず、

〇庶兄弟は、上にはたゞ兄弟とあれば、此《ココ》も彼《ソレ》に傚《ナラ》ひてたゞ阿邇於登杼母乎波《アニオトドモヲバ》と訓べし、【庶(ノ)字はたゞ、異母《コトハラ》なることを知(ラ)せたるのみなるべし、若(シ)此(ノ)庶(ノ)字に當《アタ》る古言ありせば、此《ココ》よりも上の、兄弟八十神坐、と云る處にこそ、此字は添《ソフ》べきことなるに、返(リ)て彼處《カシコ》には無きを思へば、古言にはたゞ阿邇於登《アニオト》とぞ云けむかし、なほ庶(ノ)字のことは、中卷傳二十の三十九葉、庶兄とある處に云べし、】

〇坂之御尾《サカノミヲ》は、山の坂路の前《サキ》の、長く延《ヒキ》はへたる處を云なるべし、御《ミ》は眞《マ》に同じ、

〇亦(ノ)字は、下文に無きに傚《ナラ》て、讀(ム)べからず、語(ノ)勢必無きぞ宜しき、此《コ》はたゞ字面のうへの助(ケ)に置(ケ)りと見ゆ、

〇河之瀬《カハノセ》、坂に御尾といひ、河に瀬と云るは、たゞ詞の文《アヤ》にて、實はたゞ坂と河なり、さてその坂も河も、又詞の文にて、實はたゞ道の行事《ユクテ》に、【山といはで坂といひ、又河にも瀬と云は、みな道路に就て云なり、瀬は渡(リ)瀬なり、】此處《ココ》にても彼處《カシコ》にても、と云ことなるを、如此《カク》言(ヒ)なせるは、古文の麗美《ウルハシ》きさまなり、又坂に伏《フセ》と云(ヒ)、河に撥《ハラヒ》と云も、言をかへて文をなせるものぞ、

〇意禮《オレ》は、人を賤《イヤシ》め詈《ノル》稱《ナ》なり、記中|白檮原《カシバラノ》宮(ノ)段に、兄宇迦斯《エウカシ》をも詈《ノリ》て云(ヒ)、日代(ノ)宮(ノ)段に、熊曾建《クマソタケル》をも云り、書紀に、右の兄宇迦斯《エウカシ》を云るを、爾と書て、此(ヲ)云2飫例《オレト》1とあり、又神代下卷敏達(ノ)卷などに、※〔人偏+爾〕《オレ》とも作《カケ》り、【※〔人偏+爾〕は爾と同(ジ)と、字書に有(リ)、】枕册子《マクラザウシ》に、田植る女の謠へる歌に、郭公《ホトトギス》よ、意禮《オレ》よ加夜都《カヤツ》よ、意禮《オレ》鳴《ナキ》てぞ、我(レ)は田に立(ツ)、【此(レ)も女心に、田に立(ツ)勞《イタツキ》を苦(ミ)て、郭公を詈《ノリ》たる詞なり、中昔の軍記《イクサブミ》などに、人を罵《ノリ》て、夜意禮《ヤオレ》と云こと多し、是も夜《ヤ》は呼(ビ)出す辭、意禮《オレ》は此《ココ》と同じ、又今俗言に、罵《ノリ》て起《タチ》をたちおれ、行《ユケ》をゆきおれなど云も、たておれ、ゆけおれにて、こゝのおれなるべし、然るを轉《ハタラカ》して又、たちおつた、ゆきおつたなども云り、又今(ノ)世の俗言には、自《ミ》意禮《オレ》と云(ヒ)、人を詈(ル)に、己《オノレ》とも我《ワレ》とも云(フ)は、古(ヘ)と相反《カヘサマ》なり、】さて今|如此《カク》詈《ノリ》て詔へる所以《ユヱ》は、下|是奴《コヤツ》とある處に云む、

〇大国主(ノ)神、名義《ミナノココロ》は、天(ノ)下を伏《マツロ》へて、宇志波久《ウシハク》神と云意なり、【其(ノ)處を宇志波久人《ウシハクヒト》を宇志《ウシ》と云、主《ヌシ》は之宇志《ノウシ》と云ことなる由、上天(ノ)御中主(ノ)神の處に云るがごとし、】

〇顯國玉《ウツシクニタマノ》神、玉(ノ)字、諸本共に主と作《カケ》れども、上文にも書紀にも玉と作《カ》き、古語拾遺にも魂とあれば、主は寫誤なること著《シル》ければ、今改(メ)つ、名(ノ)義は、前(ノ)卷【傳九の六十一葉】に云り、さて似たる御名を、如此《カク》二つ重ねて詔ふは、如何《イカニ》と云に、大國主とは、右の如く天(ノ)下を宇志波久《ウシハク》意、此(レ)は國|經營《ツク》る功業《イサヲ》を成して、天(ノ)下に其|恩頼《ミタマ》を蒙《カガフラ》しむる神と云意なり、さて此(ノ)二(ツノ)名は、此處《ココ》にては未(ダ)此(ノ)神の御名にはあらず、然《サル》神と爲《ナ》れと詔ふなり、さて後(チ)遂(ヒ)に功業《イサヲ》を成(シ)て、此詔の如くに爲《ナリ》賜へる故に、御名とはなれるなり、

〇其我之女《ソノアガムスメ》、この比賣神今は、大穴牟遲(ノ)神に屬從《ツキシタガ》ひて坐(ス)故に、其《ソノ》と指《サシ》て詔ふなり、

〇嫡妻は、字鏡に、嫡適(ハ)牟加比女《ムカヒメ》と見え、書紀に多く正妃《ムカヒメ》とあり、此等《コレラ》に依て訓べし、牟加比《ムカヒ》は、正《タダシ》く夫《ヲ》に對配《ムカフ》意なり、【物語文に、今の妻の生《ウメ》る子を、むかひばらと云るは、先(ノ)妻と別けて、今(ノ)妻をいへれど、是(レ)も本は、嫡妻腹より轉《ウツ》れるにや、】出雲風土記に、神門(ノ)郡|滑狹《ナメサノ》郷、須佐能《スサノ》袁(ノ)命(ノ)御子、和加須世理比賣《ワカスセリヒメノ》命|坐《マセリ》之、爾時《ソノトキ》所2造《ツクラシシ》天(ノ)下1大神(ノ)命、娶而通坐時《ミアヒテカヨヒマストキニ》、彼(ノ)社(ノ)之前爾有v磐石、其(ノ)上(ヘ)甚滑之《イトナメラカナリシカバ》、即詔(ハク)、滑磐石哉《ナメシハカモト》詔(ヒキ)、故(レ)云(フ)2南佐《ナメサト》【志波《シハ》を切《ツヅメ》て佐《サ》と云、】式に、同郡に那賣佐(ノ)社(ニ)坐(ス)和加須西利比賣《ワカスセリヒメノ》社あり、【隱岐(ノ)國|知夫《チブリノ》郡由良比女(ノ)神社も、此比賣神を祭るといふ説あり、】

〇宇迦能山《ウカノヤマ》、和名抄に、出雲(ノ)國出雲(ノ)郡宇賀(ノ)郷、出雲風土記に、出雲(ノ)郡宇賀(ノ)郷(ハ)、所造天下《アメノシタツクラシシ》大神(ノ)命、讓《ヨバヒ》2坐(ス)神魂(ノ)命(ノ)御子|綾門比女《アヤトヒメノ》命(ヲ)1、爾時《ソノトキ》女神|不《ズ》v肯《ウケガハ》、逃隱之《ニゲカクレタマフ》時(ニ)、大神|伺求《ウカガヒマギ》給(フ)所、此(レ)則是(ノ)郷(ナリ)、故(レ)云2宇加《ウカト》1とあり、【讓(ノ)字は、決《ウツナ》く誤寫と見ゆ、】式に、同郡宇加(ノ)神社もあり、山は、郷の西にありて、出雲(ノ)御埼山と云までつゞけり、【鰐淵山といふこれなり、】
〇於《ニ》2底津右根《ソコツイハネ》1宮柱《ミヤバシラ》、式の祝詞どもに又、下都磐根爾《シタツイハネニ》ともあり、凡て上(ツ)代には、神(ノ)宮も人の舍宅《イヘ》も、伊勢(ノ)神(ノ)宮などの製《ツクリ》の如く、地を堀て柱を立る故に、【今(ノ)世にも、賤《シヅ》が家《ヤ》には是(レ)あり、堀(リ)立(テ)と云なり、地(ノ)上に石居《イシズヱ》をして、柱を立るは、後のことなり、】此(ノ)稱辭《タタヘコト》あるなり、石根《イハネ》は、故《コトサラ》に礎《イシズヱ》をするには非ず、地(ノ)底に本よりある石根まで、深く堀て立ると云|義《ココロ》なり、【於2高天(ノ)原1云々は、高きを云(フ)と對へて見べし、】其《ソ》は柱の立(テ)るが堅《カタ》くして、動無《ウゴキナキ》よしぞ、大殿祭(ノ)詞に、此乃敷坐大宮地底津磐根乃極美《コノシキマスオホミヤドコロノソコツイハネノキハミ》、下津綱根《シタツツナネ》、波府蟲能禍無久《ハフムシノワザハヒナク》、高天原波《タカマノハラハ》、青雲乃靄久極美《アヲクモノタナビクキハミ》、天乃血垂《アメノチダル》、飛鳥乃禍無久《トブトリノワザハヒナク》、掘堅多留柱《ホリカタメタルハシラ》云々などもあり、

〇布刀斯理《フトシリ》は、祝詞等《ノリトドモ》に、太知立《フトシリタテ》とも、太敷立《フトシキタテ》とも、又|廣知立《ヒロシリタテ》とも、廣敷立《ヒロシキタテ》ともあり、そは師(ノ)説に、萬葉二に、天皇之敷座國《スメロギノシキマスクニ》と云(ヒ)、祈年祭(ノ)詞に、皇神能敷坐嶋能八十嶋者《スメカミノシキマスシマノヤソシマハ》云々など、知坐《シリマス》を敷坐《シキマス》と云(ヒ)たれば、知《シリ》と敷《シキ》と同じとあり、さて此(ノ)稱辭《タタヘコト》を、古来たゞ柱の上《ウヘ》とのみ意得れど、さに非ず、今考るに、萬葉二【三十五丁】に、水穗之國乎神隨大敷座而《ミヅホノクニヲカムナガラフトシキマシテ》云々、又一【二十一丁】に、太敷爲京乎置而《フトシカスミヤコヲオキテ》云々、又二【二十七丁】に、飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而《アスカノキヨミノミヤニカムナガラフトシキマシテ》云々、などある例を思ふに、宮柱布刀斯理《ミヤバシラフトシリ》も、其(ノ)主《ヌシ》の、其(ノ)宮を知《シリ》坐(ス)を云なり、布刀《フト》も右の萬葉に、柱ならで、國を知(リ)坐(ス)にも云れば、ただ廣く大きにと云稱辭なり、【布刀御幣《フトミテグラ》、布刀詔戸《フトノリト》、太占《フトマニ》などもいへり、】故(レ)廣知《ヒロシリ》とも云るぞかし、かゝれば此語は、專(ラ)柱に係《カカ》るには非ず、其宮の主に係れる語なるを、布刀《フト》と云が柱に縁《ヨシ》あるから、宮柱太《ミヤバシラフトク》とは云かけて、兼《カネ》て其宮をも祝《ホギ》たる物なり、【萬葉二十に、麻氣波之良《マケバシラ》、寶米弖豆久禮留《ホメテツクレル》、等乃能其等《トノノゴト》云々、】書紀(ノ)神代(ノ)下(ツ)卷に、其(ノ)造(ル)v宮之|制《ノリハ》者、柱(ハ)則|高太《タカタフトク》云々、萬葉二【卅丁】に、眞木柱太心者《マキバシラフトキココロハ》云々など、柱は太《フトキ》を貴ぶなり、【又師(ノ)説には、知(リ)敷《シキ》にて、柱も千木も、その繁《シゲ》きを云、祝詞に、瓶上高知《ミカノヘタカシリ》と云も、長(ケ)高(キ)酒瓶《ミカ》どもを、繁く並(ベ)たるを云にて知べし、とあれども、此説は心得ず、まづ此記には、此(ノ)稱辭三處にある、みな布刀斯理とのみありて、立《タテ》と云言なし、知立《シリタテ》と云るは、繁く立(ツ)ともすべけれど、そを繁《シリ》とのみ云ては、語成(ラ)ず、其(ノ)外此(ノ)前後に引(ク)萬葉などにある敷《シキ》も、繁《シゲキ》にては通《キコ》えぬぞ多き、宮柱太敷坐とつゞきたる、坐(ス)にても、主に係れる言なる事を知(ル)べし、但(シ)瓶(ノ)上高知(リ)は、右の説にてよく聞ゆれども、他の例に合(ハ)ず、故(レ)思(フ)に、彼(レ)は高(ク)とのみ云ては、調(ベ)たらぬ故に、千木高知と云(ヒ)なれたる