古事記傳十六之卷
                      本居宣長謹撰
 
     神代十四之巻《カミヨノトヲマリヨマキトイフマキ》
   
故爾詔天宇受賣命《カレココニアメノウズメノミコトニノリタマハク》。此立御前所仕奉《コノミサキニタチテツカヘマツレリシ》。※[獣偏+爰]田毘古大神者《サルタビコノオホカミヲバ》。專所顯申之汝送奉《モハラアラハシマセルイマシオクリマツレ》。亦其神御名者《マタソノカミノミナハ》.汝負仕奉《イマシオヒテツカヘマツレトノリタマヒキ》。是以※[獣偏+爰]女君等《ココヲモテサルメノキミラ》。負其※[獣偏+爰]田毘古之男神名而《ソノサルタビコノヲガミノナヲオヒテ》。女呼※[獣偏+爰]女君之事是也《ヲミナヲサルメノキミトヨブコトコレナリ》。
此《コノ》立(チテ)2御前(ニ)1云々、此《コノ》は、彼《カノ》と云むが如し、先《サキ》に天降(リ)坐(シ)し時の事を指《サス》なり、【中昔の物語書などにも、彼《カノ》と云べきを、此《コノ》と云ること多し、】又此(ノ)時猿田毘古(ノ)大神、大前《ミマヘ》に侍《ハヘ》り坐(ス)を、直《タダ》に指(シ)て詔ふともすべし、
〇※[獣偏+爰]田毘古(ノ)大神、書紀に、自《ミ》名告《ナノリ》賜ふ言にも、大神《オホカミ》とあり、本より尋常《ヨノツネ》ならぬ神にこそ坐(シ)つらめ、
〇專《モハラ》とは、他神《アダシカミ》は得《エ》問《トハ》ざりしを、此(ノ)宇受賣(ノ)命たゞ獨《ヒトリ》、よく問顯《トヒアラハ》せる意なり、其(ノ)處にも、專汝《モハライマシ》云々とあり、
〇顯申《アラハシマヲセル》とは、彼(ノ)大神の御名をも、又其(ノ)出居《イデヰ》賜へる所以《ユヱ》をも、問聞《トヒキキ》て顯《アラハ》せるを云、上に顯2白《アラハシマヲセリシ》其(ノ)少名毘古那(ノ)神(ヲ)1、所謂《イハユル》久延毘古云々、とあるに同じ、申《マヲス》は、云々《シカシカ》と奏《マヲ》せるを云、【顯《アラハシ》に附(ケ)て云辭には非ず、】書紀に、天鈿女《アメノウズメ》還詣報状《カヘリマヰリテアリサママヲス》とあるに當れり、
○送奉《オクリマツレ》、書紀には、猿田彦(ノ)大神云々、因曰(ク)、發2顯《アラハセル》我(ヲ)1者(ハ)汝(ナリ)也、故(レ)汝可以送我而致之矣《ワレヲオクリテヨ》、また果《ハタシテ》如《ゴト》2先期《サキノチギリノ》1皇孫《ミマノミコトハ》云々、其(ノ)猿田彦(ノ)神(ハ)者、則|到《イタリマシキ》2伊勢(ノ)狹長田五十鈴(ノ)川上(ニ)1、即(チ)天(ノ)鈿女(ノ)命|隨《マニマニ》2猿田彦(ノ)神(ノ)所乞《コハシノ》1、遂以侍送焉《オクリマツリキ》などあり、いさゝか此(ノ)記とは傳(ヘ)の異なるなり、さて此(ノ)記には、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神、何處《イヅク》へ往坐《イマス》とも云(ハ)ずして、たゞ送(リ)奉(シ)とあるは、其(ノ)本郷《モトツクニ》に還りたまふなるべし、【もし本(ツ)郷に還(リ)賜ふに非ずは、必(ズ)往《ユキ》坐(ス)處を云はでは、事|足《タラ》はず、】是(レ)に依(リ)て見れば、伊勢は初目より其(ノ)本(ツ)國なりけり、【伊勢の書どもにも、其趣に云り、】かくて天(ノ)宇受賣(ノ)命の送りしは、書紀の趣は、かの御前《ミサキ》に立(チ)て、天より降(リ)賜ふをりの如くに聞ゆれど、此(ノ)記の趣は、然にあらず、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神は、先(ヅ)伊勢に降(リ)到(リ)て、さて伊勢より、一度《ヒトタビ》日向の宮に朝參《マヰリ》て、【此(ノ)事は傳十五の卅五葉にも云り、】さて暇《イトマ》を賜はりて、日向より伊勢に歸り給ふ時の事と聞えたり、【書紀に、遂以侍送焉とあるをも口決などには、天孫降臨之後の事に云り、さもあるべし、】さて※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の、日向に參り賜ひしことは、此(ノ)記にも書紀にも見えざれども、若(シ)日向に參(リ)給へる事|無《ナ》からむには、既に天降坐て後に、宇受賣(ノ)命の送れるをば、何處《イヅク》よりとかせむ、必(ズ)日向よりとこそ聞えたれ、
〇其(ノ)神(ノ)御名|者《ハ》汝負《イマシオヒテ》、すべて名を負《オフ》と云は、他人《アダシヒト》の名にまれ、物(ノ)名にまれ、取て己が名につくを云(フ)、其名を負持《オヒモツ》よしなり、
〇仕奉《ツカヘマツレ》は、皇朝《スメラミカド》に仕(ヘ)奉(ル)にて、【※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神に仕奉と心得るは、甚《イタ》く違へり、】即(チ)後まである※[獣偏+爰]女《サルメ》の職《ツカサ》これなり、さて是は、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神|躬《ミ》づから皇朝に侍《ハヘリ》て、仕奉り賜ふべきを、此(ノ)神は、幽契《フカキユヱ》ありて、罷退《マカリソキ》て伊勢に坐(ス)べきが故に、宇受賣(ノ)命此(ノ)神の代《カハリ》として、其(ノ)御名を負持《オヒモチ》て、【近(キ)世に、身の代(リ)を名代と云は、此(ノ)義によく當れり、】仕奉れと詔ふなり、【汝負(テ)2其(ノ)神(ノ)御名(ヲ)1、とは云(ハ)ずして、其(ノ)神(ノ)御名(ハ)者汝負(テ)とある、語の勢に心を着《ツケ》て、よく味ふべし、其(ノ)神の代(リ)には、汝仕奉れと詔ふ意、おのづから含めり、】
〇※[獣偏+爰]女君等《サルメノキミラ》、これは後の※[獣偏+爰]女(ノ)君氏の人等《ヒトドモ》を指(シ)て云り、
〇男神《ヲガミ》の名《ミナ》を負てとは、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の代(リ)として、其(ノ)御名を負む者は、男なるべきことなるに、然はあらで、宇受賣(ノ)命よりして後までも、皆女にして其職に供奉る故に、女にして、男の代(リ)を供奉ると云意にて、男神とはことわれるなり、次に女《ヲミナヲ》とあると、相應《アヒテラ》せる言ぞ、【師(ノ)説に、日本紀古語拾遺などと合せて考るに、男神(ノ)名とある男(ノ)字は、下の女(ノ)字の上に在(リ)しが、錯《ミダ》れたるなり、と云れたるは、一わたりのことにて、なほ深く思はれざりしものなり、もしさもあらむには、男(ノ)字の上なる之(ノ)字も、いかゞなり、男神と云むとてこそ、之(ノ)字をも置るなれ、】
〇女(ヲ)呼2※[獣偏+爰]女(ノ)君(ト)1、上の女(ノ)字、袁美那袁《ヲミナヲ》と訓べし、【先(キ)には、書紀古語拾遺などに、男女皆呼とあるに依て、袁美那母《ヲミナモ》と訓て、男も女もと云意としつれども、然にはあらずかし、】此《コ》は女にして、男神の名を負て、仕奉る所由《ユヱ》を云處なる故に、男には用なく、たゞ女を主《ムネ》とは云り、※[獣偏+爰]《サル》と云は、男神の名なるを、女の負て、※[獣偏+爰]女《サルメ》と呼《ヨブ》なり、【然るを、男(ノ)字の脱《オチ》たるかと思ふは、中々にあらず、】呼(ノ)字、師は伊布《イフ》と訓れたり、【與夫《ヨブ》と云は、からぶみ讀《ヨミ》めきたれば、】それも然《サ》ることなれども、なほ此《ココ》などは、與夫《ヨブ》と訓べくおぼゆ、さて此(ノ)處、書紀には、時(ニ)皇孫《ミマノミコト》勅(リタマヒ)3天(ノ)鈿女(ノ)命(ニ)、汝宜以所顯神名《イマシアラハセルカミノミナヲ》爲《セヨト》2姓氏《カバネト》1焉、因(テ)賜(ヒ)2猿女(ノ)君(ト)之號《イフナヲ》故(レ)猿女(ノ)君|等《ラ》、男(モ)女(モ)皆|呼2爲《ヨブ》君(ト)1、此(レ)其(ノ)縁也《コトノモトナリ》、【此(レ)は漢文を修《ツクロ》はれたるにつきて、古(ノ)意の主《ムネ》とある所を失へり、此(ノ)記と合せ見て曉《サト》るべし、且《ソノウヘ》此(ノ)文には、心得ぬ事どもあり、まづ上には姓氏と云て、下には號と云る、姓氏と號と忽(チ)違へり、そも/\此時、いまだ姓氏と云ことあるべくもあらざれば、此(ノ)二字は、此《ココ》にかなはず、たゞ號とあるぞ宜き、次に呼爲君と云るも心得ず、其故は、此《ココ》は※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の名を取て、號とせるなれば、※[獣偏+爰]女と云こそ主《ムネ》なれ、君と云は、たゞ尊稱《アガメナ》のみにて、こゝの由縁に關《アヅカ》れることに非るを、その主《ムネ》とある※[獣偏+爰]女をば略きて、たゞ君と呼(ブ)ことを云るは、何の由ぞや、故(レ)思(フ)に、本は是も、呼爲猿女君とありけむを、上にも猿女君等とある故に、煩はしと思ひて、後(ノ)人のなまさかしらに、猿女(ノ)二字を削れるにこそあらめ、】古語拾遺にも、天(ノ)鈿女(ノ)命(ハ)者、是(レ)猿女(ノ)君(ノ)遠祖(ナリ)、以(テ)2所顯《アラハセル》神(ノ)名(ヲ)1爲2氏姓(ト)1、今彼(ノ)男女皆|號2爲《イフ》猿女(ノ)君(ト)1、此(ノ)縁也《ヨシナリ》とあり、【書紀にも此(ノ)書にも、男女皆と云ることいかゞ、其故は、男女皆呼(ブ)ことは、萬(ノ)姓の常なり、いづれの姓かは然らざらむ、殊更に云べきことにあらず、且《ソノウヘ》此(ノ)號は、女に局《カギ》れる事とおぼしくて、男に猿女(ノ)君と云ることは、諸の書に見えたることなし、故(レ)思(フ)に、こは本は此(ノ)記の如く、女とのみありけむを、例の漢文のあやに、何の意もなく、ふと書れたる物にこそあらめ、さるは男のみならず女もと云意にて、實は女を云むためにはあれども、かにかくに男を云るは、いたづらなるのみならず、事違ひてぞ聞ゆる、】さて書紀に依れば、此(ノ)號《ナ》は、即(チ)宇受賣(ノ)命に賜へる號《ナ》にして、其《ソ》を後々まで嗣々《ツギツギ》傳へたる物なり、上に天(ノ)宇受賣(ノ)命(ハ)者、※[獣偏+爰]女(ノ)君等之祖、書紀に、猿女(ノ)君(ノ)遠祖天(ノ)鈿女(ノ)命、また猿女(ノ)上祖天(ノ)鈿女(ノ)命とあり、さてかくあれば、※[獣偏+爰]女(ノ)君と云は、尋常《ヨノツネ》の姓氏《ウヂ》の如《ゴト》聞ゆれども、鏡作(ノ)連(ノ)祖伊斯許理度賣(ノ)命と、此(ノ)宇受米(ノ)命とは、女神なるに、子孫の氏のあらむこと疑はし、【天照大御神の、皇統の御祖神に坐(ス)などは、殊なる所由《ユヱ》のまし/\て、殊に天上《アメ》の事なれは、例には申しがたし、同じき神代といへども御天降《ミアモリ》の後は、萬の事やう/\に、人(ノ)代のさまと近ければ、此(ノ)神たち、夫《ヲ》なくして子孫のあらむこと、いふかし、若(シ)くは夫神ありつれども、其(ノ)夫神は功なくして、此|婦《メ》神ぞ功ありて、皇朝に仕奉(リ)給ひ、後までも其家の職業《ワザ》は、世々女子の仕奉る氏なる故に、殊に妣神《ハハガミ》を以て、祖とはせるにやあらむ、ともいふべけれど、なほ然にはあらじ、】故(レ)思(フ)にこれらは、尋常《ヨノツネ》の姓の如く、必しも其(ノ)子孫《ウミノコ》にはあらざれども、此(ノ)職業《ワザ》を相嗣《アヒツギ》て仕奉る女|等《ドモ》を、※[獣偏+爰]女(ノ)君と號《イヒ》て、此(ノ)神を祖神とせるにやあらむ、書紀應神(ノ)卷に、百濟王貢(ル)2縫衣工女《キヌヌヒメヲ》1曰(フ)2眞毛津(ト)1、是(レ)今(ノ)來目衣縫《クメノキヌヌヒノ》之始祖也とあるなども、同じ例にやあらむ、【又同卷に、工女《キヌヌヒ》兄媛を、筑紫の御使(ノ)君(ノ)祖とあるは、如何《イカ》にあらむ、しらず、】されば此(ノ)記書紀を始めて、世々の史《フミ》どもに、※[獣偏+爰]女(ノ)君と云姓の人も、見えたることなく、天武天皇の御世に、此(ノ)同(ジ)列《ツラ》の氏々【中臣忌部玉祖など】は、みな加婆泥《カバネ》を賜はれるに、其中にも見えず、又姓氏録にも見えざるも、然《サ》る故にやあらむ、【次に引く書どもに依れば、※[獣偏+爰]女(ノ)君氏とて、一氏ある如くなり、其《ソ》はやゝ後には、世々女子を此(ノ)職に供奉らしむる家の、おのづからに定まりて、例となりて、其(ノ)家の女子を、※[獣偏+爰]女(ノ)君氏とは云るにこそ、古語拾遺に、神武天皇の段などに云るは、氏(ノ)字は、後(ノ)世の稱に依て、書る文なるべし、凡て彼書には、後(ノ)世の稱に依て云る事、此(ノ)類多し、】なほよく考ふべきことなり、さて※[獣偏+爰]女といふ職《ツカサ》は、後まで大嘗會鎭魂祭などに見えたり、次に引く書どもの如し、古語拾遺、神武天皇(ノ)段に、※[獣偏+爰]女(ノ)君氏|供《ツカヘマツル》2神樂(ノ)之事(ニ)1、類聚三代格、弘仁四年十月(ノ)太政官符に、應(キ)v貢(ル)2※[獣偏+爰]女(ヲ)1事、右得(ルニ)2從四位下行左中辨兼攝津守小野(ノ)朝臣野主等(ガ)解(ヲ)1※[人偏+爾](ク)、※[獣偏+爰]女(ノ)之興(リ)、國史(ニ)詳(ナリ)矣、其後不v絶、今猶現在(ス)、又※[獣偏+爰]女(ノ)養田、在2近江(ノ)國和邇村、山城(ノ)國小野郷(ニ)1、今小野(ノ)臣和邇部(ノ)臣等、既邇非(シテ)2其氏(ニ)1、被v供2※[獣偏+爰]女(ニ)1、熟《ツラツラ》捜(ルニ)2事緒(ヲ)1、上件(ノ)兩氏、貪(リ)v人(ヲ)利(シテ)v田(ヲ)、不v顧2恥辱(ヲ)1、拙吏相容(レテ)、無(シ)v加(ルコト)2督察(ヲ)1也、亂(リ)2神事(ヲ)於先代(ニ)1、穢(ス)2氏族(ヲ)於後裔(ニ)1、積(ミ)v日(ヲ)經(バ)v年(ヲ)、恐(クハ)成(ム)2舊貫(ト)1、望(ミ)請(フ)、令(メム)d所司(ヲ)嚴(ニ)加2捉搦(ヲ)1、斷《タタ》uv用(ルコトヲ)2非氏(ヲ)1、然(ルトキハ)則祭禮無(ク)v濫、家門得(ム)v正(ヲ)、謹(テ)請(フ)2官裁(ヲ)1者《テヘリ》、捜2檢(スルニ)舊記(ヲ)1、所v陳(ル)有v實、右大臣宣(ス)奉(ルニ)v勅(ヲ)宜(ク)・《ベシ》v改2正(ス)之(ヲ)1者《テヘリ》、仍(テ)兩氏(ノ)※[獣偏+爰]女從(ヒ)2停廢(ニ)1定(テ)※[獣偏+爰]女(ノ)公氏(ノ)之女一人(ヲ)1、進(リ)2縫殿寮(ニ)1、隨(テ)v闕(ニ)即補(シ)、以(テ)爲《セヨ》2恆例(ト)1、【この小野(ノ)々主等の解文、類聚國史にも載れり、】西宮記に、猿女【依(テ)2縫殿寮(ノ)解(ニ)1、内侍奏(シテ)補(ス)v之(ヲ)、】裏書に、貢(ル)2猿女(ヲ)1事、【弘仁四年十月廿八日、※[獣偏+爰]女(ノ)公氏(ノ)之女一人進(ル)2縫殿寮1、】延喜廿年十月十四日、昨《キノフ》尚侍令(ム)v奏(セ)、縫殿寮申(ス)、以2※[草がんむり/稗]田(ノ)福貞子(ヲ)1、請(フ)v爲(ムト)2※[草がんむり/稗]田(ノ)海子(ガ)死闕(ノ)替(リト)1云々、天暦九年正月廿五日、右大臣令(ム)v奏(セ)、縫殿寮申(ス)、被《ハリ》v給(マ)2官符(ヲ)於大和近江(ノ)國(ノ)氏人(ニ)1、令(メム)v差(シ)2進(セ)猿女三人死闕(ノ)替(リヲ)1云々、貞觀儀式、踐祚大嘗會卯(ノ)日(ノ)儀に、大臣一人、率(テ)2中臣忌部御巫猿女(ヲ)1、前行(ス)、【大臣在2中央(ニ)1、中臣忌部在2左右(ニ)1、】延喜大嘗祭式に、大臣若(シクハ)大中納言一人、率(テ)2中臣忌部【中臣立v左(ニ)忌部立v右(ニ)】御巫※[獣偏+爰]女(ヲ)1、【左右】前行(ス)、【江次第にも見えたり、平戸記に、仁治三年十一月十三日、今夜大嘗祭也云々、祭祀(ノ)之間、又多(シト)2違例等1云々《イヘリ》、無(シト)2猿女1云々《イヘリ》、希代(ノ)勝事(ナリ)也、】鎭魂祭儀式に、縫殿寮率(テ)2猿女(ヲ)1、升(リ)v自2東側(ノ)階1、就(ク)v座(ニ)、また御巫《オホミカムノコ》舞(ヒ)訖(テ)、次(ニ)諸(ノ)御巫《ミカムノコ》猿女舞(ヒ)畢(ル)、【延喜式にも見ゆ、】縫殿寮式に、鎭魂(ノ)齋服【新嘗祭同(ク)用(フ)v之(ヲ)、】云々、猿女四人(ノ)緑(ノ)袖四領、【緑(ノ)表帛(ノ)裏、別《オノオノ》三丈、】綿八屯、【別《オノオノ》二屯、】寮面(ノ)紐四條、【別長(サ)一尺九寸、廣(サ)五寸、】汗衫四領、【別三丈、】緑(ノ)裾四腰、【緑(ノ)表帛(ノ)裏、別三丈、】裾(ノ)腰(ノ)料(ノ)縹(ノ)帛四條、【別一丈五尺、】綿八屯、【別二屯、】下裾四腰、【裾別三丈、腰別一丈五尺、】袴四腰、【別三丈、】綿四屯、【別一屯、】縹(ノ)帶四條、【別長六尺、廣(サ)四寸五分、】細布(ノ)髪※[かみがしら/告]四條、【別二尺、】緋(ノ)※[巾+皮]四條、【緋(ノ)表吊(ノ)裏、別一丈五尺、】細布(ノ)※[衣偏+末]四兩、【別三尺、】線鞋四兩、【この種々の服、儀式には、大嘗祭の處に見えたり、】
〇事是也《コトコレナリ》とは、中卷(ノ)末に、此者神宇禮豆玖之言本者《コハカミウレヅクトイフコトノモトナリ》也【師は是を、後(ノ)人の注なりと云れつれど、然らず、】と見え、又書紀に、多く云々之縁也《シカシカノコトノモトナリ》、とあると同意にて、其事の所由始《ハジメ》と云ことなり、【事の下に、本(ノ)字の脱《オチ》たるにや、さらずとも、意は其意なり、】さて此處の文《コトバ》、上に是以《ココヲモテ》と云て、是也《コレナリ》と結《トヂ》めたるは、とゝのひ宜しからず聞ゆ、【是以《ココヲモテ》をば、故《カレ》と云ると同く、輕く見べし、故《カレ》は多く、たゞ語の首《ハジメ》に輕く置る例なり、】
 
故其猿田毘古神《カレソノサルタビコノカミ》。坐阿邪※[言+可]《アザカニイマシケル》【此三字以音地名】時《トキニ》。爲漁而《スナドリシテ》。於比良夫貝《ヒラブガヒニ》【自比至夫以音】其手見咋合而《ソノテヲクヒアハサエテ》。沈溺海鹽《ウシホニオボレタマヒキ》。故其沈居底之時名《カレソノソコニシヅミヰタマフトキノミナヲ》。謂底度久御魂《ソコドクミタマトマヲシ》。【度久二字以音】其海水之都夫多都時名《ソノウシホニツブタツトキノミナヲ》。謂都美多都御魂《ツブタツミタマトマヲシ》。【自都下四字以音】其阿和佐久時名《ソノアアワサクトキノミナヲ》。謂阿和佐久御魂《アワサクミタマトマヲス》。【自阿至久以音】阿邪※[言+可]《アザカ》は、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡なり、大神宮儀式帳に、次(ニ)壹志(ノ)藤方(ノ)片樋(ノ)宮(ニ)坐(シ)只《キ》、其在阿佐鹿惡神平《ソコナルアザカノアラブルカミシヅマリテ》、驛使《ハユマヅカヒ》阿倍(ノ)大稲彦(ノ)命|即御共仕奉支《ヤガテミトモツカヘマツリキ》、彼時壹志縣造等《ソノトキニイチシノアガタノミヤツコラガ》遠祖建呰子|乎《ヲ》、汝《イマシガ》國(ノ)名|何問《イカニトトヒ》腸(ヒ)支《キ》、白(サ)久《ク》、宍往呰鹿國止《シシユクアザカノクニト》白(シ)只《キ》、即(チ)神御田并神戸進支《カムミタマタカムベタテマツリキ》、【此(ノ)惡神《アラブルカミ》の事、下に云べし、建呰子の呰(ノ)字、倭姫命(ノ)世記には、皆とあり、其一本には、比とも作《カケ》り、呰鹿の呰《アザ》は、字書に毀也とも注せれば、※[魚+委]《アザレ》の意に取て書るか、又靈異記に、呰(ハ)アザケルとあり、此意か、又和名抄備中(ノ)國(ノ)郷(ノ)名の呰部は、安多《アタ》とあり、參河(ノ)國にも、呰見てふ郷あれど、其《ソレ》には注なし、宍往と云る枕詞も、心得がたし、世記には、害行阿佐賀(ノ)國とあり、害は誤字にや、】神鳳抄に、壹志(ノ)郡|大阿射賀《オホアザカノ》御厨、【彼是廿六石凡絹廿匹】小《コ》阿射賀(ノ)御厨、【卅三町八段十五石】また小阿射賀(ノ)神田【二町】とあり、今も大阿坂小阿坂と、北南に並びて、二村あり、【松坂より一里半許(リ)西(ノ)方なり、】其《ソコ》の山をも阿坂山といふ、さて宇受賣(ノ)命の送りて還《カヘ》られたること、下にあれば、※[獣偏+爰]田毘古神の、此(ノ)阿邪※[言+可]に坐(シ)しは、日向より還(リ)腸ふをりの、途《ミチ》の次《ツイデ》かとも云べけれども、坐時《イマシケルトキ》とあるなどを以て思(フ)に、なほ其(ノ)後|或時《アルトキ》の事なるべし、
〇注なる地名(ノ)二字は、例なし、後(ノ)人の加へたるなり、除《ノゾ》くべし、と師の云れたる、然《サ》もあるべし、
〇爲漁而は、須那杼理志弖《スナドリシテ》と訓べし、和名抄に、漁(ハ)、説文(ニ)云(ク)、捕(ル)v魚(ヲ)也(ト)、訓|須奈度利《スナドリ》、書紀欽明(ノ)卷に捕魚《スナドリ》、萬葉四に、奥幣往邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒《オキヘユキヘニユキイマヤイモガタメワガスナドレルモプシツカブナ》などあり、師(ノ)云(ク)、須那取《スナドリ》は、伊須那取《イスナドリ》の伊《イ》を略き、須《ス》と佐《サ》は、上(ノ)條【いすくはし】の如く通へば、即(チ)鯨魚取《イサナドリ》なり、然れば鯨魚を取(ル)を本にて、何の魚取(ル)をも云り、【冠辭考いさなとりの條に見ゆ、】さて阿邪※[言+可](ノ)地は、今は海邊やゝ遠けれども、【今の村よりは、海邊まで、一里餘許(リ)あるべし、】古(ヘ)は海邊かけて廣き名なりけむ、又さらずとも、甚《イタ》くは遠からねば、出て漁し給ひつべし、
〇比良夫貝《ヒラブガヒ》は、古(ヘ)世に多かりし物とおぼしくて、人(ノ)名に負る、書紀續紀にいと數多《アマタ》見えたり、【書紀に、大伴(ノ)毘羅夫(ノ)連、巨勢(ノ)臣比良夫、額田部(ノ)連比羅夫、阿曇(ノ)連比羅夫、倭(ノ)漢(ノ)直比羅夫、河部(ノ)引田(ノ)臣比羅夫、續紀に、民(ノ)忌寸比良夫、采女(ノ)朝臣|枚夫《ヒラブ》、田邊(ノ)史比良夫、石川(ノ)朝臣比良夫などあり、これらみな、此(ノ)貝を以て名けたりと見ゆ、】然るに和和抄などに見えざるは、後に名の變《かは》れるにやあらむ、今|詳《サダカ》ならず、【なほくさ/”\思ひめぐらすに、今(ノ)世に月日貝と云あり、殻《カラ》のさま月日に似たり、是(レ)などにや、そは比良《ヒラ》は平《ヒラ》、夫《ブ》は日《ビ》に通ひて、平日《ヒラビ》の意かと思へばなり、又|多比良岐《タヒラギ》と云貝あり、岐《ギ》は賀比《ガヒ》の切《ツヅマ》りたるにて、平貝《タヒラガヒ》の意にて、是(レ)にや、又|佐流煩《サルボ》と云貝あり、※[獣偏+爰]溺《サルオボ》らしてふ意にて、此《ココ》の故事に依れる名にて、是(レ)にや、されどこれら皆、其名につきて、思ひよれるまゝに、こゝろみに云のみなり、かくて後に、志摩(ノ)國の海邊の人に、此(ノ)貝の事問けるに、云く、比良夫貝は、月日貝のことなり、此(ノ)わたりの海に、いと稀《マレ》にある物なり、とぞ云ける、なほ國々の人に尋(ネ)問はば、今も古(ヘ)の名の殘れる處も有(ル)べきなり、さて今飯高(ノ)郡の海邊に、平生と書て、比良於《ヒラオ》と呼(ブ)村あり、壹志(ノ)郡の堺に近くして、阿坂村より一里半ばかり東なり、これ若(シ)くは、古(ヘ)は比良夫にて、此(ノ)貝の此《ココ》の故事より出たる地名にはあらざるか、神鳳抄に、平生(ノ)御厨とある處なり、】
〇海鹽は、【鹽は借字】齊明紀の御歌に、于之〓《ウシホ》とあるに依て、然訓べし、下なる海水も同じ、【師はウナシホと訓れつれども、據なし、】
〇沈溺は、淤煩禮《オボレ》と訓べし、さて此(ノ)神は、如此《カク》て是(ノ)時に薨《ウセ》坐(シ)しにや、然には非ずや、決《サダ》めがたし、
〇底度久《ソコドク》は、底着《ソコヅク》にて、底に沈着《シヅミツク》なり、下なる日子穗々手見(ノ)命の大御歌に、加毛度久《カモドク》とあるを、書紀には※[車+可]茂豆句《カモヅク》【鴨着なり】とある、是(レ)度久《ドク》は着《ツク》なる證《シルシ》なり、
〇都夫多都《ツブタツ》は、師(ノ)説に、物の沈没《シヅミイ》る時に、水の鳴(ル)音なりと云れき、藤原(ノ)實方(ノ)集に、物をだに岩間の水のつぶ/\と云(ハ)ばや行む思ふ心の、【千五百番歌合、顯昭判(ノ)詞に、世俗の口ずさみの歌に、雨ふれば軒の玉水つぶ/\といははや物を心ゆくまで、】萬葉十八【十二丁】に、可治能於登乃《カヂノオトノ》、都波良都婆良爾《ツバラツバラニ》、これも櫓《カヂ》の水に觸《フレ》て鳴(ル)音にて、都婆《ツバ》は都夫《ツブ》に同じ、【此(ノ)つばらを、師は、かぢの舟《フナ》ばたに摩《ス》るゝ音なり、と云れつれど、然にはあらず、】今(ノ)世(ノ)言にも、物の水に没《オチイ》り沈むを、都夫理《ツブリ》と入(ル)など云、これなり、【又|多都《タツ》とあるに就て思へば、音にはあらで、物の沈(ミ)没《イ》る時に、水都煩《ミツボ》の發《タツ》を云にや、水都煩《ミツボ》は、萬葉廿に見えたり、水(ノ)上に圓《マロ》に浮ぶ泡なり、又宇治拾遺物語に、大柑子の膚《ハダ》のやうに、つぶだちてふくれたり、これらも形を云り、然れども此處《ココ》は、次に阿和佐久とあれば、形にしては、同じことの重なれば、なほ音なり、】多都《タツ》とは、上《ノボ》るを云て、【烟のたつ、鳥のたつなど、みなのぼるを云、】底より音の鳴(リ)て上るなり、
〇時(ノ)下なる名(ノ)字、多くの本に無きは、落たるなり、【前後の例に違へり、】今は一本に有(ル)に依れり、
〇阿和佐久《アワサク》は、沫咲なり、佐久は、花の咲《サク》と同くて、沫の起《タチ》出るを云と、師の説なり、浪の立(ツ)をも咲《サク》と云に同じ、書紀に、秀起浪穗《サキタテルナミノホ》、秀起此(ヲ)云2左岐陀弖屡《サキタテルト》1とあり、さて右の三(ツ)の状《アリサマ》は、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の御身の、底に沈着《シヅミツキ》坐るに依て、海水《ウシホ》の都々夫々《ツブツブ》と鳴(リ)上《ノボ》りて、沫《アワ》の起《タテ》るなり、【三(ノ)件の次序《ツイデ》も如此《カクノゴト》し、】
〇阿和佐久御魂《アワサクミタマ》、諸(ノ)本に阿和(ノ)二字無きは、後に脱《オチ》たるなり、故(レ)今|補《クハ》へつ、【延佳は、沫(ノ)字を補て、據(テ)2舊事紀(ニ)1補v之と記せり、されど沫(ノ)字は宜しからず、上に阿和佐久とあれは、此《ココ》も必(ズ)其字なるべきこと、疑《ウツ》なし、舊事紀は、上をも沫佐久と作《カケ》ればこそ、此《ココ》も其字にてはあるなれ、】
〇註の阿(ノ)字、諸(ノ)本に、佐と作《カケ》るは、非《ヒガコト》なり、【もとは阿なりしを、本文の阿和(ノ)二字、脱《オチ》てなきにつきて、佐の誤(リ)ならむと思ひて、後(ノ)人のさかしらに、佐に改めたる物なり、もとより佐久(ノ)二字ならむには、たゞに佐久二字とこそ注すべけれ、凡て自2某字1至(ルマデ)2某字(ニ)1と注するは、三字|以上《ヨリウヘ》の時の例なるをや、二字を然注すべきことわりも、例もなきことなり、此(レ)を以て、本文に脱たるも、必(ズ)阿和二字にして、沫(ノ)字には非ることをも、互に相照して、さとるべし、】故(レ)今これをも、阿に改めつ、
〇此(ノ)三(ツ)の御魂《ミタマ》は、此(ノ)時の事に就て、各分れたる、※[獣偏+爰]田昆古(ノ)神の神靈《ミタマ》なり、【或(ル)伊勢人の説に、此(ノ)三(ノ)御魂は、※[獣偏+爰]田彦(ノ)神の、三人の妃《ミメ》を云るなり、凡て妻を御魂《ミタマ》と云る例多しと云るは、さらに由なく、論ふにも足らぬ、ひがことなり、】神名帳に、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡、阿邪加《アザカノ》神社三座、【並名神大とあり、續後紀に、承和二年十二月、奉v授2阿邪賀(ノ)大神(ニ)、從五位下(ヲ)1、此(ノ)神、坐2伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡(ニ)1、文徳實録に、嘉祥三年十月、授2伊勢(ノ)國阿邪賀(ノ)神(ニ)從五位上(ヲ)1、齊衡二年正月、以2伊勢(ノ)國阿那賀(ノ)神(ヲ)1預2於名神(ニ)1、同月、加2從四位下(ヲ)1、三代實録に、貞觀元年正月、奉v授2伊勢(ノ)國阿邪加(ノ)神(ニ)從四位上(ヲ)1、同八年十一月、伊勢(ノ)國阿邪加(ノ)神(ニ)授2從三位(ヲ)1、】これ此(ノ)三(ツ)の御魂《ミタマ》を齋祀《イハヒマツ》れるなり、今(ノ)世、阿邪※[言+可](ノ)神社、大阿坂村と小阿坂村と、二處にあり、【二方共に、俗に龍天(ノ)社と申すなり、】同じほどの森にて、共に古く見え、神殿《ミアラカ》も各|三宇《ミツ》あり、何方《イヅレノカタ》か古(ヘ)の本よりの御社ならむ、別《ワキ》まへがたし、【小阿坂村なる圓座藥師と云寺の縁起文に、小阿坂なる神社は、昔行基僧が歡請せるよし記せり、もし是(レ)實ならば、大阿坂なるや、本よりのなるべき、】さて此(ノ)阿邪※[言+可](ノ)神、上古《イニシヘ》に荒《アラ》び坐(シ)し事あり、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、十八年己酉、遷(リ)2坐(ス)于|阿佐加《アザカノ》藤方片樋(ノ)宮(ニ)1、積(テ)v年(ヲ)歴(テ)2四箇年《ヨトセヲ》1奉(ル)v齋、是(ノ)時|爾《ニ》阿佐加乃彌尼爾坐而《アザカノミネニマシテ》、伊豆速布留《イヅハヤブル》神、百往人者《モモユクヒトハ》、五十人取死《イヒトトリコロシ》、※[卅に縦棒一つ追加]人往人《ヨソユクヒトハ》、廿人取死《ハタヒトトリコロス》、如此伊豆速布留時爾《カクイヅハヤブルトキニ》、倭比賣(ノ)命、於《ニ》2朝廷1大若子|乎《ヲ》進上而《タテマツリアゲテ》、彼神事乎申之者《カノカミノコトヲマヲシタマヒシカバ》、種々大御手津物彼神進《クサグサメオホミテツモノソイカミニタテマツリ》、屋波志志豆目《ヤハシシヅメ》、平奉止《ムケマツレト》詔(ヒテ)、遣下《ツカハシクダシ》給(ヒ)支《キ》、于v時其(ノ)神|乎《ヲ》、阿佐加乃山嶺《アザカノヤマノミネニ》社作(リ)定(メ)而《テ》、其(ノ)神|乎《ヲ》夜波志志都米上奉天《ヤハシシヅメアゲマツリテ》、勞祀支《ネギラヒマツリキ》、【初(メ)に歴(テ)2四箇年(ヲ)1奉v齋とあるは、皇大御神の御事なり、】また一書(ニ)曰(ク)、天照大神、自2美濃(ノ)國1廻(リ)2到(リ)安濃《アヌノ》藤方片樋宮(ニ)1坐(シキ)、于v時|安佐賀山《アザカノヤマニ》有(リ)2荒《アラブル》神1云々、因(リテ)v茲《》倭姫(ノ)命、不v入(リ)2坐(サ)度會(ノ)郡|宇遲《ウヂノ》村五十鈴(ノ)川上(ノ)之宮(ニ)1云々、即賜(ヒテ)2種々(ノ)幣(ヲ)1而、返《カヘシ》2遣(ハシテ)大若子(ノ)命(ヲ)1、祭(ラシム)2其(ノ)神(ヲ)1、已保平《スデニヤハシシヅメテ》、定(メ)2社(ヲ)於|安佐賀《アザカニ》1以(テ)祭之矣《マツリタマヒキ》、而後《シカシテノチニ》倭姫(ノ)命即(チ)得《エ》入《イリ》坐(シキ)、とある是なり、かの儀式帳に、惡神平《アラブルカミシヅマリテ》とあるも、此(ノ)事なり、【阿邪加(ノ)神社は、正《マサ》しく此(ノ)荒び坐(シ)し神を祀《マツ》れる社と聞えたれば、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神には非じか、とも云べけれども、荒びましし神、即(チ)此《ココ》の※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の三(ツ)の御魂なるべし、三座に坐(ス)も、必(ズ)然思はる、さて※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の御魂ならむには、皇大御神の幸行《イデマシ》の前途《ミチ》をしも、妨げ給はむこと、あるべくもあらじと、なほ疑ふ人もあらむか、其《ソ》は凡人心《タダビトゴコロ》なり、凡て神の御所爲《ミシワザ》は、測《ハカ》りがたき物なれば、さる理(リ)あらじなどは、さだむべきにあらず、そも/\此(ノ)三(ツ)の御魂(ノ)神、當時《ソノカミ》いまだ朝廷より祭り賜ふ事もなく、社などもはか/”\しきもあらざりし故に、祟《タタ》らして、諭《サト》し給ひしにぞありけむ、かの崇神天皇の御世に、大物主(ノ)神の祟《タタ》らして、疫病《エヤミ》のいみしく起《オコリ》し事など、思(ヒ)合すべし、大物主(ノ)神は、皇京の御守(リ)神に坐(ス)すら、疫病をおこし賜へれば、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の御魂の、荒び賜ひけむこと、何か疑ふべき、〇或書に、多氣(ノ)郡神山(ノ)神社は、猿田彦(ノ)命なり、里人|鑰取《カイトリノ》神と稱す、鑰取《カイトリ》貝取《カヒトリ》と通ふ、と云て、此(ノ)段を引るは、あたらぬことなり、】
 
於是送※[獣偏+爰]田毘古神而《ココニサルタビコノカミヲオクリテ》。還到《マカリイタリテ》。乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以《スナハナコトゴトニハタノヒロモノハタノサモノヲオヒアツメテ》。問言汝者天神御子仕奉耶之時《イマシハアマツカミノミコニツカヘマツラムヤトトフトキニ》。諸魚皆仕奉白之中《モロモロノウヲドモミナツカヘマツラムトマヲスナカニ》。海鼠不白《コマヲサズ》。爾天宇受賣命謂海鼠云《カレアメノウズメノミコトコニイヒケラク》。此口乎不答之口而《コノクチヤコタヘセヌクチトイヒテ》。以紐小刀拆其口《ヒモガタナモチテソノクチヲサキキ》。故於今海鼠口拆也《カレイマニコノクチサケタリ》。是以御世《ココヲモテミヨミヨ》。嶋之速贄獻之時《シマノハヤニヘタテマツレルトキニ》。給※[獣偏+爰]女君等也《サルメノキミラニタマフ》。
於是の下に、天宇受賣命とあらまほし、
〇還到、還(ノ)字は、罷を誤れるなるべし、麻加理伊多理弖《マカリイタリテ》と訓べし、伊勢に到れるなり、其由は、下に斷《コトワ》るべし、【若(シ)本の如く還ならば、日向(ノ)京にかへれるなり、然れども然《サ》ては叶はず、下に云がごとし、】
〇鰭廣物ひれ狹物は、波多能比呂母能波多能佐母能《ハタノヒロモノハタノサモノ》と訓べし、【然るに、廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)祝詞に、毛能和支物《ケノニゴキモノ》、毛能荒支物《ケノアラキモノ》、鰭能廣支物《ハタノヒロキモノ》、鰭能狹支物《ハタノサキモノ》、とあるを據として、師は各|此《コ》の如く、伎《キ》てふ辭を添(ヘ)て訓れしかども、伎《キ》と云ては、よろしからず、必(ズ)ひろものさものと云べき言の格《サマ》なり、故(レ)此(ノ)言、もろ/\の祝詞に多かる、何れも支(ノ)字あるはなし、右の廣瀬祭なる一(ツ)にのみあるは、心得ぬことなり、】魚の大きなる小《チヒサ》きを云る、古(ヘ)の雅言《ミヤビコト》なり、【獣に毛和物《ケノニゴモノ》毛麁物《ケノアラモノ》と云、下に見えたり、】鰭《ハタ》の事は、上に云り、【傳十四の六十七葉】萬葉廿【二十一丁】に、※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我波多波吾等爾可伎无氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシガハタハワレニカキムケオモヒシオモハバ》、【三の句、爾之鰭者《シガハタハ》なり、之我《シガ》は、それがと云むがごとし、】これらも、魚には鰭《ハタ》を主《ムネ》としてかく云り、書紀に、鰭廣《ハタノヒロモノ》鰭狹《ハタノサモノ》、祈年(ノ)祭(ノ)祝詞に、青海原住物者《アヲウナハラニスムモノハ》、鰭能廣物《ハタノヒロモノ》鰭能狹物《ハタノサモノ》、春日(ノ)祭(ノ)祝詞に、青海原|乃《ノ》物|者《ハ》、波多能廣物《ハタノヒロモノ》波多能狹物《ハタノサモノ》、此(ノ)餘《ホカ》龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭、平野(ノ)祭、鎭火(ノ)祭、道饗(ノ)条、鎭御魂(ノ)祭、遷却祟神、などの祝詞にも、如此《カク》あり、童蒙抄に、海原の底まですめる月影に數《カゾ》へつべしや鰭のせば物、古歌なり、鰭のせば物とは、小き魚なり、とあり、【狹《サ》は世婆《セバ》の切《ツヅマ》りたるなれば、せば物も同じ、】
○追聚《オヒアツメ》、魚なる故に追《オヒ》と云り、【魚は、方々より追(ヒ)寄《ヨ》せて集むればなり、】海神(ノ)宮(ノ)段に、召2集《ヨビアツメテ》海之大小魚《ハタノヒロモノハタノサモノヲ》1問曰云々、書紀の同段にも、盡《コトゴトニ》召《ヨビテ》2鰭廣鰭狹《ハタノヒロモノハタノサモノヲ》1而|問《トフ》之、
〇天神御子仕奉乎《アマツカミノミコツカヘマツラムヤ》とは、皇孫《ミマノ》命の大御|饌《ケ》の御贄《ミニヘ》になりなむや否《イナ》やを問(フ)なり、萬葉十六【卅丁】に、爲(メ)v鹿(ノ)述(ル)v痛(ヲ)歌に、佐男鹿乃來立嘆久頓爾吾可死王爾吾仕牟《サヲシカノキタチナゲカクタチマチニアレシヌベシオホキミニワレツカヘム》云々、また爲(メニ)v蟹(ノ)述(ル)v痛(ヲ)歌に、葦河爾乎王召跡何爲牟爾吾乎召良米夜《アシガニヲオホキミメストナニセムニワヲメスラメヤ》云々、これらも御贄《ミニヘ》になるを云り、
〇諸魚、諸は母呂母呂能《モロモロノ》と訓べし、【カタヘノと訓(ム)はひがことなり、】
〇海鼠は、和名抄に、崔禹錫(ガ)食經(ニ)云(ク)、海鼠(ハ)、似(テ)v蛭(ニ)而大(ナル)者(ノ)也(ト)、和名|古《コ》、本朝式(ニ)、加(ヘテ)2熬(ノ)字(ヲ)1云2伊里古《イリコト》1とあり、【今(ノ)世、なまこくしこきんこなど云名もあり、】内陣式、供御月料の中に、熬海鼠《イリコ》八斤四兩、また海鼠腸《コノワタ》四升五合など見ゆ、
〇此口乎《コノクチヤ》、かゝる處に乎《ヤ》と云は、余《ヨ》と云むが如し、例上に出(ヅ)、【傳五の六十四葉】
〇紐小刀は、【紐(ノ)字、諸(ノ)本に細に誤り、眞福寺本には釼に誤れり、今は延佳本に改めたるに依れり、】比母賀多那《ヒモガタナ》と訓べし、此(ノ)物、海神《ワタツミノ》宮(ノ)段にも見え、中卷玉垣(ノ)宮(ノ)段には、八鹽折之紐小刀《ヤシホヲリノヒモガタナ》とあり、書紀には匕首《ヒモガタナ》と書れたり、【史記刺客傳云々、索隱曰、匕首、劉氏云短劔也、鹽鐵論以爲長尺八寸云々、】和名抄に、大刀(ハ)太知《タチ》、小刀(ハ)加多奈《カタナ》とありて、【大刀《タチ》と加多那《カタナ》との事、傳九の卅六葉に云り、】加多那《カタナ》は片刃の小刀なり、紐《ヒモ》と云は、懷中《フトコロノウチ》に佩て、下帶《シタヒモ》に挿《サ》す故の名なり、此(ノ)小刀《カタナ》は、彼(ノ)玉垣(ノ)宮(ノ)段に見えたる、密《ヒソカ》に天皇を刺《サシ》奉む料なれば、必(ズ)懷中《フトコロノウチ》に隱《カク》し賜ひたるべし、【書紀に、是《コノ》匕首《ヒモガタナヲ》佩(テ)2于|※[衣+因]中《コロモノウチニ》1云々とあり、】倭建(ノ)命(ノ)段に、以《ヲ》v劔《タチヲ》納《イレテ》2于|御懷《ミフトコロニ》1幸行《イデマス》、などもあり、今宇受賣(ノ)命も、女なる故に、懷(ノ)中に佩たるにや、【或人(ノ)云(ク)、今(ノ)世に脇差《ワキザシ》と云物は、脇差(シ)の刀とて、古(ヘ)のは、六七寸ばかりの長さにて、懷(ノ)中に、隱《カク》してさす物なり、脇の方へよせてさす故に、脇差と云り、用心のために隱しさして、身を守る刀なる故に、守(リ)刀とも云り、東山殿のころより、下部の者など、顯《アラハ》して腰にさし初めしと見ゆ、今(ノ)世の脇差は、其形大に變じたり、と云り、此(ノ)中昔の脇差(ノ)刀と云物、即(チ)上代の紐小刀の傳はりしなるべし、】但し此《ココ》は、海鼠《コ》は小き物なる、其口を拆《サク》料なる故に、小刀を用ひたるよしにもあるべし、さて此《ココ》に海鼠の事を記せるは、仕(ヘ)奉(リ)仕(ヘ)奉らぬことには關《アヅカ》らず、たゞ此(ノ)物の口の裂《サケ》たる事本《コトノモト》の談《モノガタリ》なり、
〇是以《ココヲモテ》とは、上の追2聚鰭(ノ)廣物鰭(ノ)狹物(ヲ)1云々の事を承《ウケ》て云り、【海鼠の事には係《カカ》らず、】
〇御世は、御々世々《ミヨミヨ》と重ねてありけむが、脱《オチ》たるなるべし、舊事紀に、御世御世速贄《ミヨミヨハヤニヘ》とあり、
〇嶋は、志摩(ノ)國なり、【舊事紀に、嶋之(ノ)二字無きは、作者のさかしらに省《ハブ》けるか、又後に脱《オチ》たるかなるべし、然るを此(ノ)舊事紀に依て、此(ノ)記の嶋(ノ)字を、御世(ノ)二字の誤とするはわろし、其由は下に云べし、】
〇速贄《ハヤニヘ》、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、苞苴(ハ)、裹(ム)2魚肉(ヲ)1也、日本紀私記(ニ)云(ク)於保邇倍《オホニヘ》、俗(ニ)云2阿良萬岐《アラマキト》1、【苞苴の注には、裹2魚肉(ヲ)1といへれども、爾閇《ニヘ》は、魚肉にほ限らざるなり、】書紀(ノ)神武(ノ)卷、人(ノ)名の訓注には、苞苴を珥倍《ニヘ》とあり、爾閇《ニヘ》と云名は、爾比阿閇《ニヒアヘ》の切《ツヅマ》れるにて、【此(ノ)事、傳八の六葉、大嘗《オホニヘ》の處に云り、】もと新物《ニヒモノ》を、神にも人にも饗《アヘ》、みづからも食《ク》ふより出たり、【苞苴又贄(ノ)字などは、末なり、爾閇《ニヘ》の本(ノ)義《ココロ》にはうとし】さて朝廷《ミカド》に貢《タテマツ》る御贄《ミニヘ》を、大爾閇《オホニヘ》とは云なり、【中卷に大贄とあり、書紀仁徳(ノ)卷に、苞苴をオホニヘと訓るも、天皇に獻るところなる故なり、又大嘗をおほにへと云は、名の本は一(ツ)なれども、事は異なり、】其(ノ)御贄《ミニヘ》は、御食津國々《ミケツクニグニ》より、土産物種々《クニツモノクサグサ》貢るなり、【師(ノ)云(ク)、御食津國《ミケツクニ》とは、大御饌《オホミケ》の御贄《ミニヘ》を貢る國を云り、食國《ヲスクニ》と云とは異なり、】内膳司式に、諸國貢進御贄云々、右諸國所v貢、並(ニ)依(テ)2前件(ニ)1、仍(テ)收(テ)2贄殿《ニヘドノニ》1擬(ス)2供御(ニ)1とありて、其(ノ)品物《シナジナ》なども、委く擧られたり、【西宮記(ニ)云(ク)、贄殿(ハ)、在2内膳(ノ)中(ニ)1、太宰及諸國(ヨリ)所(ノ)v進(ル)御贄(ヲ)納(テ)備2供御(ニ)1、】さて速贄《ハヤニヘ》とは、初物《ハツモノ》を云なるべし、速《ハヤ》と初《ハツ》とは意通へり、【波都《ハツ》は、即|速津《ハヤツ》と云にてもあるべし、】今(ノ)世に、初物《ハツモノ》を走《ハシリ》と云も、速《ハヤ》き意なり、【又は、定まれる時節《トキ》より速《ハヤ》く貢る物を云にもあらむか、萬の物、早く出來たるを殊に賞《メヅ》るは、今も古(ヘ)も同じかるべし、内膳式に、五月五日、山科(ノ)園進2早瓜一捧(ヲ)1、と云たぐひならむか、とも思へど、なほ初物《ハツモノ》なるべし、】此(ノ)目《ナ》此處《ココ》より外に、古(キ)書には未(ダ)見あたらず、源(ノ)俊頼(ノ)朝臣(ノ)集に、垣根には百舌鳥《モズ》の早贄《ハヤニヘ》たててけりしでの田長にしのびかねつゝ、さて志摩(ノ)國は、殊に御贄を獻れりし國にて、萬葉六【三十九丁】に、御食國志麻《ミケツクニシマ》、【神鳳抄に、此(ノ)國に贄嶋と云もあり、】十三【五丁】に、御食都國神風之伊勢乃國《ミケツクニカムカゼノイセノクニ》、【志摩、伊勢の内なり、】などあり、今(ノ)京になりても、三代實録に、元慶六年十月廿五日、志摩(ノ)國年貢(ノ)御贄、四百三十一荷、令(メテ)2近江伊賀伊勢等(ノ)國(ヲシテ)驛傳(セ)1貢進(ス)、内膳式に、諸國貢進(ノ)御贄、旬料云々、志摩(ノ)國(ノ)御厨、鮮鰒螺、起(リ)2九月(ニ)1盡(ク)2明年(ノ)三月(ニ)1、月別上下旬、各二擔、味漬腸漬蒸鰒玉貫御取夏鰒等、月別(ニ)惣(テ)五擔、雜魚十三擔、【並(ニ)以2傜丁(ヲ)1運進(ス)、】云々節料云々志摩(ノ)國、【正月元日、新嘗會、二節各八擔、正月七日、十六日、五月五日、七月七日、九月九日、五節各三擔、】年料云々、伊勢(ノ)國、【鯛舂酢二擔二十籠二度鮨年魚二擔四壺二度蠣礒蠣】志摩(ノ)國、【藻海松】主税式に、凡志摩(ノ)國供2御贄(ニ)1潜女《カヅキメ》卅人云々、など見えたり、【又此(ノ)國より、大神宮に御贄獻る事は、後(ノ)世までも絶ず、伊勢の書どもに見えて、今(ノ)世にものこれる事おほし、】
〇給(フ)2※[獣偏+爰]女(ノ)君等(ニ)1、此(ノ)事、上(ツ)代には例にてありけむを、やゝ後には絶やしにけむ、此處《ココ》の外には、物に見えたることなし、【但し事は有(リ)つれども、漏《モレ》て記せることのなきにてもあるべし、】さて上の還到は、罷到《マカリイタリ》の誤(リ)にて、其《ソコ》より拆2其(ノ)口(ヲ)1と云までは、伊勢(ノ)國にての事なり、【もし本の如く、還到ならば、此(ノ)段、日向に還りて後の事なり、若(シ)然るときは、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神を送れることには、さらに關《アヅカ》らず、縁《ヨシ》なき事なれば、別に端《ハシ》を更《アラタ》めてこそ記すべけれ、彼(ノ)神を送れるに引連《ヒキツヅ》けて云るは、送りて伊勢に到(リ)て、其(ノ)國にての事なればなり、】故(レ)其處《ソコ》の志摩の速贄《ハヤニヘ》を獻れる時に、給ふ例とはなれるなり、【若(シ)舊事紀に依て、嶋(ノ)字を、御世(ノ)二字の誤(リ)とするときは、此(ノ)速贄は、何《イヅレ》の國より獻れるとかせむ、その獻る處を、何處《イヅク》とも云(ハ)ずして、たゞに御世々々の速贄と云ことやはあるべき、されば此(レ)も、必(ズ)嶋にてこそ宜しけれ、さて志摩は、もと伊勢の内にて、嶋々の多くある處を、分て一国とはせられしものにて、後までも伊勢に附《ツキ》たる國なり、然れば此《ココ》に嶋とあるも、伊勢の海の嶋にて、即(チ)志摩(ノ)國なり、】如此《カク》てこそ、此(ノ)段《クダリ》の趣は、明らかなりけれ、さて給《タマフ》とは、其(ノ)内を分(ケ)て給ふを云なり、【みながら給ふと云にはあらず、】
  
於是天津日高日子番能邇邇藝能命《ココニアマツヒダカヒコホノニニギノミコト》。於笠沙御前遇靈美人《カササノミサキニカホヨキヲトメノアヘルニ》。爾問誰女《タガムスメゾトトヒタマヒキ》。答白之《コタヘマヲシタマハク》。大山津見神之女《オホヤマツミノカミノムスメ》。名神阿多都比賣《ナハカムアタツヒメ》。【此神名以音】亦名謂木花之佐久夜毘賣《マタノナハコノハナノサクヤビメトマヲシタマヒキ》。【此五字以音】又問有汝之兄弟乎《マタイマシガハラカラアリヤトトヒタマヘバ》。答白我姉石長比賣在也《アガアネイハナガヒメアリトマヲシタマヒキ》。爾詔《カレノリタマハク》。吾欲目合汝奈何《アレイマシニマグハヒセムトオモフハイカニトノリタマヘバ》。答白僕不得白《アハエマヲサジ》。僕父大山津見神將白《アガチチオホヤマツミノカミゾマヲサムトマヲシタマヒキ》。故乞遣其父大山津見神之時《カレソノチチオホヤマツミノカミニコヒニツカハシケルトキニ》。大歡喜而《イタクヲヨロコビテ》。副其姉石長比賣《ソノアネイハナガヒメヲソヘテ》。令持百取机代之物奉出《モモトリノツクヱシロノモノヲモタシメテタテマダシキ》。故爾其姉者《カレココニソノアネハ》。困甚凶醜《イトミニクキニヨリテ》。見畏而《ミカシコミテ》。返送《カヘシオクリタマヒテ》。唯留其弟木花之佐久夜毘賣以《タダソノオトコノハナノサクヤビメヲノミトドメテ》。一宿爲婚《ヒトヨミトアタハシツ》。爾大山津見神《ココニオホヤマツミノカミ》。因返石長比賣而《イハナガヒメヲカヘシタマヘルニヨリテ》。大恥《イタクハヂテ》。白送言《マヲシオクリタマヒケルコトハ》。我之女二竝立奉由者《アガムスメフタリナラベテタテマツレルユヱハ》。使石長比賣者《イハナガヒメヲツカハシテバ》。天神御子之命《アマツカミノミコノミイノチイ》。雖雪零風吹恆如石而《アメフリカゼフケドモトコシヘナルイハノゴトク》。常堅不動坐《トキハニカキハニマシマセ》。亦使木花之佐久夜毘賣者《マタコノハナノサクヤビメヲツカハシテバ》。如木花之榮榮坐宇氣比弖《コノハナノサカユルガゴトサカエマセトウケヒテ》【自字下四字以音】貢進《タテマツリキ》。此令返石長比賣而《カカルニイマイハナガヒメヲカヘシテ》。獨留木花之佐久夜毘賣故《コノハナノサクヤピメヒトリトドメタマヒツレバ》。天神御子之御壽者《アマツカミノミコノミイノチハ》。木花之阿摩比能微【此五字以音】坐《コノハナノアマヒノミマシナムトストマヲシタマヒキ》。故是以至于今《カレココヲモテイマニイタルマデ》。天皇命等之御命不長也《スメラミコトタチノミイノチナガクハマサザルナリ》。
遇麗美人は、加本余伎袁登賣能阿幣流爾《カホヨキヲトメノアヘルニ》と訓べし、是(レ)雅言《ミヤビコト》の格《サダマリ》なり、【近(キ)世にはかゝる處は、美人爾《ヲトメニ》と云例なれども、雅言は然らず、美人爾《ヲトメニ》と云ときは、此方《コナタ》より美人に遇(フ)なり、美人遇《ヲトメアフ》、また美人之遇《ヲトメノアフ》など云ときは、其(ノ)美人の方より遇(フ)なり、かゝれば爾《ニ》てふ辭のあるとなきとは、此《コナタ》と彼《カナタ》との違《タガ》ひあるを、いかなればにか雅語には、凡て爾《ニ》とは云ざる例なり、左にこれかれ擧るがごとし、】萬葉十三【二十三丁】に、裏觸而妻者會登人曾告鶴《ウラブレテツマハアヘリトヒトゾツゲツル》、【妻者《ツマハ》と云も、妻之會《ツマノアヘル》なり、】古今集【春(ノ)部】端詞に、志賀の山越《ヤマゴエ》に女の多く遇《アヘ》りけるに、伊勢物語に、宇都《ウツ》の山に至りて云々、修行者《スギヤウザ》遇《アヒ》たり、拾遺集又六帖【伊勢の歌】に、散散《チリチ》らず聞《キカ》まほしきを故郷の花見て還る人も遇《ア》はなむ、【人もと云も、人のあはなむなり、忠見集に、云々ゆく道に知(リ)たる人あひて、兼盛集に、旅人いくあひだに、ぬす人あひたり、赤染衛門集に、同じ道に恥《ハヅ》かしげなる男のいきあひたりしかば云々、後の物ながら宇治拾遺物語にも、道に狐のあひたりけるを、又與佐の山に、白髪の武士一騎あひたりなど云(ヒ)、徒然草にすら、細道にて、馬に乗たる女の行(キ)遇(ヒ)けるがなど云り、其ころまでも、云(ヒ)ざまを失はざりしなり、】などあるを以て心得べし、凡て道などにして行(キ)遇(ヒ)たる事をば、皆|如此《カク》云り、【然るを近き世には、某《ソレ》に遇《アフ》と云ことになれるは、漢文よみよりうつれるものなるべし、漢文にては、遇(ノ)字、上に在て、返りてよむ故に、爾《ニ》とよみならへるなり、今此(ノ)記などにも、遇(ノ)字を上に置るは、漢文の格に依れるなり、】中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、許波多能美知邇《コハタノミチニ》、阿波志斯袁登賣《アハシシヲトメ》、下卷若櫻(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、淤富佐迦邇《オホサカニ》、阿布夜袁登賣《アフヤヲトメ》、これらの遇《アフ》も、袁登賣《ヲトメ》の方より遇《アフ》にて、同じ、【袁登賣に週《アヒ》給ふと云意にはあらず、】さて麗をかほよきと訓(ム)は、萬葉十四【十三丁】に、可抱與吉《カホヨキ》と見え、書紀に、麗又美麗又艶妙又容姿麗美など、みな然訓り、美人は、記中に、孃子孃女媛女などあると同くて、並《ミナ》をとめと訓べき例なり、
〇大山津見(ノ)神|之《ノ》女《ムスメ》、こは何地《イヅク》にまれ、此(ノ)神の鎭坐《シヅマリマス》社の御靈《ミタマ》の、現壯士《ウツシヲトコ》に化《ナリ》て、婦人《ヲミナ》に婚《ミアヒ》て、生《ウミ》賜へる御女《ミムスメ》なるべし、其例は、上に淤迦美《オカミノ》神|之《ノ》女とある處【傳十一の七十二葉】に云るが如し、
〇神阿多都《カムアタツ》比賣、御名(ノ)義は、神《カム》は、例の美稱《タタヘナ》、阿多は地(ノ)名、和名抄に、薩摩(ノ)國阿多(ノ)郡阿多、これなるべし、
〇木花之佐久夜《コノハナノサクヤ》毘賣、上に大山津見(ノ)神|之《ノ》女、木花知流《コノハナチル》比賣と云もあり、名(ノ)意、木花《コノハナ》は、字の意の如し、佐久夜は、開光映《サキハヤ》の伎波《キハ》を切《ツヅ》めて加《カ》なるを、通はして久《ク》と云なり、【若子《ワカゴ》を、和久碁《ワクゴ》と云類なり、】さて光映《ハエ》を波夜《ハヤ》と云は、上なる下照比賣の歌に、阿那陀麻波夜《アナダマハヤ》とある、波夜の如し、【此事は、傳十三の七十葉に委し、】かくて萬(ヅ)の木花《コノハナ》の中に、櫻ぞ勝《スグ》れて美《メデタ》き故に、殊に開光映《サキハヤ》てふ名を負て、佐久良《サクラ》とは云り、夜《ヤ》と良《ラ》とは、横通音《ヨコニカヨフコヱ》なり、【小兒《チゴ》のいまだ舌のえよくもめぐらぬほどの言には、良理流禮呂を、夜伊由延余と云て、櫻をも、佐久夜《サクヤ》と云、これおのづから通ふ音なればなり、さて此(ノ)御名も、庭つ鳥かけ、野つ鳥きゞし、などの例として、直《タダ》に木(ノ)花の櫻、と云ことともすべけれど、木(ノ)花知流比賣と云もあると、合せて思ふにも、佐久夜はなほ開光映《サキハヤ》の意に云るなり、もし即(チ)櫻ならば、下に如2木(ノ)花(ノ)之榮(ル)1、また木(ノ)花(ノ)之阿摩比など云處も、直《タダ》に如2佐久夜(ノ)之榮(ル)1、また佐久夜(ノ)之阿摩比、とこそあるべきに、さはあらぬは、此(ノ)佐久夜は、花(ノ)名には非るが故なり、】されば此(ノ)御名も、何の花とはなく、たゞ木(ノ)花の咲光映《サキハヤ》ながら、即(チ)主《》と櫻(ノ)花に困(リ)て、然云なるべし、やゝ後には、木花《コノハナ》と云て、即(チ)櫻にせるもあり、古今集(ノ)序の歌に、難波津に咲(ク)や木(ノ)花とある、是なり、【これも何の花となく、たゞ木(ノ)花ともすべけれど、然にはあらず、又梅(ノ)花とするは、由なし、そは冬隱(リ)今は春べとと云語を、あしく心得て、おしあてに定めたる、ひがことなり、然るを其説に泥《ナヅ》みて、此《ココ》の御名の木花をさへに、梅なりと云説は、いよゝ云にもたらず、】又萬葉八【廿丁】に、藤原(ノ)朝臣廣嗣、櫻(ノ)花(ヲ)贈(ル)2娘子(ノ)1歌に、此花乃《コノハナノ》云々、和《コタヘタル》歌にも、此花乃《コノハナノ》云々とよめる、是(レ)は贈る花を指(シ)て、【字の如く】此(ノ)花と云る物ながら、櫻を木(ノ)花と云から、其《ソ》を兼《カネ》たりげに聞ゆるなり、さていよゝ後には、たゞ花といへば、もはら櫻のこととなれり、【それもおのづから、上代の意に叶へり、】さて此(ノ)處、書紀には、到(リマシキ)2於|吾田《アタノ》長屋(ノ)笠狹《カササノ》之|碕《ミサキニ》1云々、故(レ)皇孫就而留住《ミマノミコトソコニトドマリマシキ》、時(ニ)彼國《ソノクニニ》有(リ)2美人《カホヨキヲトメ》1、名《ナハ》曰(フ)2鹿葦津《カアシツ》姫(ト)1、亦(ノ)名(ハ)神吾田津《カムアタツ》姫、亦(ノ)名(ハ)木(ノ)花(ノ)之|開耶《サクヤ》姫、皇孫問2此(ノ)美人《ヲトメニ》1曰、汝(ハ)誰《タガ》之|女子耶《ムスメゾ》、對曰、妾《アレハ》是天(ツ)神娶大山祇神|所生兒也《ウメルコナリ》とあり、【彼(ノ)國(ニ)有2美人1とのみにては、皇孫問2此(ノ)美人(ニ)1と云こと、由なく聞ゆ、いかなるをりに問(ヒ)賜ふとかせむ、又天神娶大山祇(ノ)神と云こと、通《キコ》えがたし、女《ムスメノ》字|脱《オチ》たるなるべし、若(シ)然らば、此(ノ)傳(ヘ)は、大山津見(ノ)神の外孫なり、】
〇兄弟は、此《ココ》は波良賀良《ハラガラ》と訓べし、【イロネイロドと訓(ム)はわろし、】
〇答白我の、白(ノ)字、諸(ノ)本には、曰と作《ア》れど、今は眞幅寺本に依れり、前後《カミシモ》の例皆白なればなり、
〇姉は、和名抄に、爾雅(ニ)云(ク)、女子先(ニ)生(ルルヲ)爲v姉(ト)、女兄(ナリト)、和名|阿禰《アネ》、
○石長比賣、名(ノ)義、下なる宇氣比詞《ウケヒゴト》にある如く、常磐堅石《トキハカキハ》に長久《ナガ》き由なり、さて此(ノ)二女《フタヲトメ》の御名、石《イハ》も木(ノ)花も、主《ムネ》と山の物にて、父神に緑《ヨシ》あり、書紀一書に、云々|天孫《アマツカミノミコ》又問曰、其《カノ》於《ニ》2秀起浪穗《サキダテルナミノホノ》之|上《ウヘ》1起《タテテ》2八尋殿《ヤヒロドノヲ》1、而|手玉玲瓏織※[糸+壬]《タタマモユラニハタオル》之|少女者《ヲトメハ》、是|誰《タガ》之|子女耶《ムスメゾ》、答曰、大山祇(ノ)神(ノ)之|女等《ムスメタチ》、太《アネハ》號《マヲシ》2磐長姫(ト)1、少《オトハ》號(ス)2木(ノ)花(ノ)開耶姫、亦(ノ)名(ハ)豐吾田津姫(ト)1ともあり、
〇目合《マグハヒ》は、麻具波比《マグハヒ》と訓べし、此(ノ)言の事、上に云り、【傳十の三十五葉】
〇僕《アハ》不《ジ》2得《エ》白《マヲサ》1云々は、上の建御雷(ノ)神の問給へる、大國主(ノ)神の答(ヘ)に、僕者《アハ》不《ジ》2得《エ》白《マヲサ》1、我(ガ)子八重事代主(ノ)神(ゾ)是可(キ)v白(ス)、とあると同じ、此《ココ》は殊に、父の心に隨ひ賜ふこと、さもあるべし、書紀一書(ニ)云(ク)、皇孫《ミマノミコト》後(ニ)遊1幸《イデマセルニ》海濱《ウミベタニ》1、見一美人《カホヨキヲトメアヘリ》、皇孫問曰、汝是誰《イマシハタガ》之|子耶《ムスメゾ》、對曰、妾是《ワレハ》大山祇(ノ)神(ノ)之|子《ムスメ》、名(ハ)神吾田鹿筆津姫、亦(ノ)名(ハ)木(ノ)花(ノ)開耶姫、因《マタ》白(ス)2亦|吾姉《アガアネ》磐長姫(モ)在《アリト》1、皇孫曰、吾《ワレ》欲《オモフハ》2以汝爲妻《イマシニマグハヒセムト》1如之何《イカニ》、對曰、妾父《アガチチ》大山祇(ノ)神|在《アリ》、請以垂問《トヒタマヘ》、
〇乞遣は、許比爾都加波志《コヒニツカハシ》と訓べし、【コヒツカハシと訓(ム)はわろし、】
〇副《ソヘテ》は、並《ナラ》べてと云むが如し、中卷黒田(ノ)宮(ノ)段に、二柱|相副而《アヒソハシテ》、また明(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、伊蘇比袁流迦母《イソヒヲルカモ》、續紀卅に、歌垣の處に、男女相並分(テ)v行《ツラヲ》徐(ニ)進(テ)歌(テ)曰(ク)、乎止賣良爾乎止古多智蘇比《ヲトメラニヲトコタチソヒ》云々、これらも皆、同じさまに並び配《タグ》ふを、蘇布《ソフ》と云り、【世の言に、夫婦にて在(ル)を、某と曾布《ソフ》と云も同じ、されば此《ココ》も、木花之佐久夜毘賣を主《ムネ》として、其《ソレ》に附副《ツケソフ》る意には非ず、副(ノ)字に拘《カカハ》るべからず、】
〇百取机代之物《モモトリノツクエシロノモノ》、百《モモ》とは、其數の甚《イト》多きを云るなり、【必しも百に限れるには非ず、】取《トリ》は、書紀神功(ノ)卷に、荷持田《ノトリダノ》村、荷持此(ヲ)云2能登利《ノトリト》1、とある持《トリ》の如し、【書紀には、百机とあれども、これは、机の數を云には非ず、机に置(ク)物の數百取なり、又私記に、百人共(ニ)擧(グ)2一机(ヲ)1、言2其高大(ヲ)1也、と云るは、殊にいみしきひがことなり、】机《ツクヱ》は杯居《ツキスヱ》にて、【伎須ほ久と切《ツヅ》まる、】飲食《ヲシモノ》の器を居《スウ》る由の名なり、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、机(ハ)案(ノ)屬也、和名|都久惠《ツクヱ》とあり、【杯居《ツクヱ》を本にて、又和名抄文書具に、書案(ハ)、俗云|不美都久惠《フミツクヱ》もあり、又坐臥具に、几(ハ)、和名|於之萬都岐《オシマヅキ》もあり、於之萬都岐は、押坐凡《オシマシツクヱ》の約まりたる名にて、脇足のたぐひなり、さて古書には、字は案几机など通はし用ひて、皆|杯居《ツキスヱ》の意なり、】代《シロ》は、書紀崇神(ノ)卷に、倭(ノ)國(ノ)之|物實《モノシロ》、物實此(ヲ)云2望能志呂《モノシロト》1、とある實《シロ》にて、何《ナニ》にまれ其物を指(シ)て云、机代《ツクエシロ》は、机に居《スウ》る種々《クサグサ》の物なり、【今(ノ)世に、代物《シロモノ》と云言、此《コレ》によく叶へり、】禮物《ヰヤノモノ》を、祝詞に禮代《ヰヤシロ》と云るも是なり、さて此(ノ)靈代を、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞には、禮自利《ヰヤジリ》とあるを、師の考に、自利《シリ》は、志流志《シルシ》の約まりたるなりとあり、然れば志呂《シロ》ももと其意にて、其《ソレ》と現《アラハ》れたる物を云るにて、灼然《イチシロシ》など云|志呂《シロ》と同じ、【志流志《シルシ》と志呂志《シロシ》と同じ、文|社《ヤシロ》御船代《ミフナシロ》御樋代《ミヒシロ》の類、又|苗代《ナハシロ》などの代《シロ》も是より出たり、又物の代《カハ》りを云も、是より轉《ウツ》れるなり、】貞觀儀式、及《マタ》臨時祭式の、鎭魂祭(ノ)條に、大膳職造酒司、供(ル)2八代《ツクエシロノ》物(ヲ)1、【其(ノ)品目《シナジナ》は、大膳式造酒式に見えたり、】遷却祟神祝詞に、云々|横山之如久《ヨコヤマノゴトク》、八物爾置所足弖奉留《ツクエシロニオキタラハシテタテマツル》、などあり、これらの八(ノ)字は、几《ツクヱ》を誤れるなり、【八物を、師のヤトリノモノと訓れたるは、誤なることを考へられざりしなり、】書紀(ノ)保食《ウケモチノ》神(ノ)段に、夫品物悉《ソノクサグサノモノヲコトゴトニ》備2貯《オキタラハシテ》之|百机《モモトリノツクヱニ》1而|饗之《アヘマツリキ》、萬葉十六【二十九丁】に、高坏爾盛机爾立而《タカツキニモリツクヱニタテテ》、大神宮儀式帳に、御饌《ミケ》奉(ル)机二具などあり、【書紀孝徳(ノ)卷に兵代之物草代之物など云ことも見えたり、又續後紀一に出雲(ノ)國造奏(ス)2神壽(ヲ)1時に獻れる物の中に倉代物《クラシロノモノ》五十荷とあるは、臨時祭式に御贄五十舁とあると同物と聞ゆれば、置座《オキクラ》に置く物を云るにて、即(チ)机代之物と同じかるべし、又大神宮儀式帳に机代貳佰拾前また机代七十一前などあるは、机の代りと云意もて名けたる一(ツノ)器の名にて別《コト》なり、】さて今|如此《カク》て獻るは、聟取《ムコドリ》の禮物《ヰヤシロ》なり、下卷穴穗(ノ)宮之段に、天皇爲(メニ)2大長谷(ノ)王子《ミコノ》1、大日下(ノ)王の妹若日下(ノ)王を聘《ツマドハ》しめ賜ふに、大日下(ノ)王、恐《カシコシ》隨《マニマニ》2大命(ノ)1奉進《タテマツラム》云々と白《マヲ》して、即(チ)爲《シテ》1其妹(ノ)之|禮物《ヰヤシロト》1、令(メテ)v持(タ)2押木之|玉縵《タマカヅラヲ》1而|貢獻《タテマツル》とあり、
〇奉出は、多弖麻陀志伎《タテマダシキ》と訓べし、【伎《キ》は例の辭なり、】類聚國史、天長四年十一月、告2柏原(ノ)山陵(ニ)1詞に、云々|差使天《サシツカハシテ》、奉出須止申賜布状乎《タテマダストマヲシタマフサマヲ》、同五年八月、祭2北山(ノ)神ゐ詞に、禮代乃幣乎《ヰヤシロノミテグラヲ》令《シメ》2捧齎《ササゲモタ》1天《テ》、獻出事乎《タテマダスコトヲ》、續後紀、承和三年五月(ノ)宣命に、云々|令《シメ》2捧持1弖《テ》、奉出事乎《タテマダスコトヲ》、同八年五月(ノ)宣命に、奉出状乎《タテマダスサマヲ》、同六月(ノ)宣命に、奉出此状乎《タテマダスコノサマヲ》、嘉祥三年二月(ノ)宣命に、云々|差使天《サシツカハシテ》、奉出須此状乎聞食天《タテマダスコノサマヲキコシメシテ》、三代實録、貞觀十八年五月(ノ)宣命に、云々|差使天《サシツカハシテ》、聞江奉出之賜不《キコエマダシタマフ》、元慶元年六月、渤海國(ノ)使に賜ふ、太政官(ノ)宣詞に、彼國王此制爾違天《ソノコクワウコノノリニタガヒテ》、使乎奉出世利《ツカヒヲタテマダセリ》、など見え、書紀に、奉遣《タテマダシ》【十四の十四丁、十七の二丁、二十四の一丁、】遣《タテマダシ》【十九の廿四丁、】奉【十七の十八丁】遣《タテマダシ》【十九の九丁、卅二丁】奉施《オクリマダシタマフ》、【三十の十四丁】頒2幣帛《ミテグラアカチマダシタマフ》於諸(ノ)神祇(ニ)1、【廿九の卅二丁】萬葉に、奉《マダス》【四の三十七丁十の五十八丁】奉有《マダセル》、【十一の二十丁】藤原(ノ)高光集に、忠清の右衛門(ノ)督、五節たてまだし賜ふに云々、それに入れてたてまだすとて云々、など見えたり、貞觀儀式、奉(ル)2山陵(ニ)幣(ヲ)1儀の處に、貴所(ニハ)稱(シ)2獻出(ト)1、凡所(ニハ)稱(ス)2奉出(ト)1とあるは、文字のさだなり、【續紀卅四宣命に、歡奉出禮波《ヨロコビマツレバ》、三代實録卅一に、奉出流《タテマツル》、これらはマダスとは訓がたければ、餘《ホカ》の奉出をも、皆タテマツルと訓べきかとも思へど、上に引る宣命どもに、奉出須、また奉出世利なども書れたれば、然らず、さて又萬葉二の詞に、奉入歌、祝詞式に、齋内親王奉入時、また天長五年の宣命に、大神(ノ)御杖代|止之弖《トシテ》奉入|多留《タル》、これら奉入は、タテマツルとよむ外なし、さて出と入とは、反對《ウラウヘ》ながら、又同意になることも多し、參出《マヰデ》と參入《マヰル》と同きが如し、然れば奉出も奉入も、意は同じことなり、】さて麻陀須《マダス》と云言は、萬葉十五【三十六丁】に、麻都里太須《マツリダス》、可多美乃母能乎《カタミノモノヲ》とあれば、【師は、此(ノ)須を流の誤ならむと云れつれど、然には非ず、太も必(ズ)濁音の假字なり、】麻都理陀須《マツリダス》の省言《ハブキコト》なるべし、【然らば奉出を、直《タダ》にマツリダスと訓べきが如くなれど、なほ然は訓(ム)まじきなり、〇萬葉二長歌に、遣使御門之人毛《タテマダスミカドノヒトモ》、とある訓は、ひがことなり、此(ノ)遣使は、必(ズ)ツカハシシと訓べき處なり、此(ノ)外も麻陀須《マダス》をば、つかはすの古言と心得て、遣(ノ)字を、凡てみだりにマダスと訓るは、皆非なり、麻陀須は、奉ると云意なれば、敬ふ處に遣《ツカハ》す事ならでは、云(ハ)ぬ言なり、】書紀一書に、皇孫因謂2大山祇(ノ)神(ニ)1曰、吾|見《ミツ》2汝(ノ)之|女子《ムスメヲ》1、欲2以《オモフ》爲妻《マグハヒセムト》1、於是大山祇(ノ)神乃|使《シメテ》3二女《フタリノムスメニ》、持《モタ》2百机飲食《モモトリノツクヱシロノモノヲ》1奉進《タテマダシキ》、
〇甚凶醜は、【甚(ノ)字、諸本に其と作るは誤なり、今は眞福寺本に依れり、】伊刀美爾久伎《イトミニクキ》と訓べし、【師はシコメケルと訓れつれど、いかゞ、】書紀神武(ノ)卷に、大醜此(ヲ)云2鞅奈瀰※[人偏+爾]句《アナミニクト》1、と見えたり、中卷玉垣(ノ)宮(ノ)段に、其(ノ)弟王《オトノミコ》二柱(ハ)者、因《ヨリテ》2甚凶醜《イトミニクキニ》1返2送《カヘシオクリキ》本土《モトツクニニ》1、
〇見畏而《ミカシコミテ》、此(ノ)詞の例、何《イヅ》れも怖《オソロ》しき事を見たる處に云れば、此《ココ》も石長比賣の顔貌《カホ》、たゞ尋常《ヨノツネ》の醜《ミニク》きのみには非《アラ》で、可怖畏《オソロ》しかりしにやあらむ、
〇弟《オト》は淤登《オト》と訓べし、【伊呂杼《イロド》と訓て宜きもあれど、所によることなり、】和名抄に、爾雅(ニ)云(ク)、男子(ノ)後(ニ)生(レ)爲(ト)v弟(ト)、和名|於止宇止《オトウト》、【とあれども、淤登《オト》は男女にわたりて云稱なり、又もとはたゞ淤登《オト》と云(ヘ)りしを、淤登宇登《オトウト》と云は、夫《ヲ》を袁宇登《ヲウト》、妹《イモ》を伊毛宇登《イモウト》と云類にて、宇登《ウト》は皆人にて、弟人《オトヒト》夫人《ヲヒト》妹人《イモヒト》なり、かく人と添(ヘ)て云は、後のことぞ、】また爾雅(ニ)云(ク)、女子(ノ)後(ニ)生(レタルヲ)爲(ト)v妹(ト)、和名|伊毛宇止《イモウト》とあれども、古(ヘ)は、姉《アネ》に對へて、後に生《ウマ》れたるをば、女をも弟《オト》と云て、妹《イモ》とはいはず、記中の例皆然り、心を着《ツケ》て見べし、中昔までも、然にぞありける、【後に生れたる女子を、妹と云は、男兄《アニ》に對へ云稱なり、姉に對へては、弟《オト》とのみ云て、妹と云ることなかりき、然るを後(ノ)世には、姉にむかへても、妹《イモウト》とのみ云て、男ならでは、弟《オトウト》とは云ぬこととなれるは、漢籍には、姉妹と云るに、めなれたる、うつりにして、皇國の古(ヘノ)稱《ナ》にたがへり、和名抄なども、たゞ漢ざまによりて云るものなり、實は中昔までも、古(ヘ)如くにて、姉に對へては、弟《オトウト》とこそ云つれ、古今集雜上詞書に、妻《メ》の弟をもて侍りける人に云々、源氏物語花(ノ)宴(ノ)卷に、朧月夜(ノ)君のことを、女御の御おとうとたちにこそあらめ、などある類にて、姉に對へて、妹と云ことは無かりき、】
〇一宿は比登與《ヒトヨ》と訓べし、一夜なり、
〇爲婚は、美刀阿多波志都《ミトアタハシツ》と訓べし、上に、故(レ)八上《ヤカミ》比賣|者《ハ》如《ゴト》2先期《サキノチギリノ》1美刀阿多波志都《ミトアタハシツ》とあり、言の意は、彼處《カシコ》に云り、【傳十の六十七葉】書紀(ニ)云(ク)、時(ニ)皇孫|謂姉爲醜不御而罷《アネハミニクキニヨリテメサズテカヘシタマヒ》、妹有國色引而幸之《オトゾカホヨカリケレバミトアタハシツ》、則一夜有身《カレヒトヨニハラメリキ》、
〇白送言は、麻袁志淤久理賜比祁流許登波《マヲシオクリタマヒケルコトハ》と訓べし、【送は贈なり、】
〇二並は、布多理那良倍弖《フタリナラベテ》と訓べし、萬葉三【五十六丁】に、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》、五【五丁】に、爾保鳥能布多利那良毘爲《ニホトリノフタリナラビヰ》などあり、【又思ふに、二人と書ずして、二と書るは、書紀應神(ノ)卷の大御歌に、淡路嶋|異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、小豆鳴いやふたならぴ云々、萬葉九に、二並《フタナラビ》筑波乃山、などありて、物の二(ツ)並《ナラ》べるを、布多那良毘《フタナラビ》と云(ヘ)れば、人の二人並べるをも、然云りしにや、然らば此《ココ》も、直《タダ》に布多那良毘と訓べきか、されど人に然云る例を未(ダ)見ざれば、姑く上の如く訓つ、】
〇立奉《タテマツレル》と、立(ノ)字を添(ヘ)て書る例、上【傳九の廿七葉】に云るが如し、【師は、立(ノ)字は、出の誤なりとて、イダシマツルと訓れしかど、其《ソ》は例を考へられざりしなり、】
〇使-者は、都迦波志弖婆《ツカハシテバ》と訓べし、【婆は濁るべし、】部迦比賜弖阿良婆《ツカヒタマヒテアヲバ》と云意なり、都迦波志《ツカハシ》は、都迦比《ツカヒ》を延(ヘ)たるにて、尊む言にもなるなり、書紀推古(ノ)卷(ノ)大御歌に、宇倍之※[言+可]茂《ウベシカモ》、蘇餓能古羅烏《ソガノコラヲ》、於朋枳彌能《オホキミノ》、兎伽破須羅志枳《ツカハスラシキ》、續紀、天平元年八月、立(テテ)2正三位藤原(ノ)夫人(ヲ)1爲《シタマフ》2皇后(ト)1詔に、加爾加久爾《カニカクニ》、年乃六年乎《トシノムトセヲ》、試賜使賜弖《ココロミタマヒツカヒタマヒテ》、此皇后位乎授賜《コノオホギサキノクラヰヲサヅケタマフ》、書紀安康(ノ)卷に、天皇爲(メニ)2大泊瀬(ノ)皇子(ノ)1、欲v聘2大草香(ノ)皇子(ノ)殊幡梭(ノ)皇女(ヲ)1、云々、大草香皇子對言云々、今陛下不v嫌2其醜(ヲ)1、將《ス》v滿《ツカヒタマハムト》2※[草がんむり/行]菜之數《ヲムナメノカズニ》1、是甚大恩也、などあり、なほ玉垣(ノ)宮(ノ)段に、茲二女王《コノフタバシラノヒメミコナモ》、淨公民故《キヨキオホミタカラナレバ》、宜使也《ツカヒタマフベシ》、とある處を考(ヘ)合すべし、【傳廿四の六十葉】
〇天神御子《アマツカミノミコ》は、此《ココ》は邇々藝《ニニギノ》命のみならず、大御末々《オホミスヱズヱ》までをかけて申せるなり、書紀に、生兒永壽とあるが如し、萬葉二【二十三丁】に、大王之《オホキミノ》、御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》、
〇雖《ドモ》2雪零風吹《アメフリカゼフケ》1は、雪(ノ)字は、雨を誤れるなり、【舊印本又一本又一本舊事紀(ノ)舊印本などには、並《ミナ》雪雨と作《カケ》り、今は姑く眞福寺本延佳本に依れり、然れども、雪はいかゞなり、其由は次に云、】故(レ)阿米《アメ》と訓つ、其(ノ)故は、此(ノ)言は、木《コノ》花の雨風に移落《ウツロ》ふに對へて云るなれば、必(ズ)雨をいふべし、木(ノ)花は春の物にて、雪の降(ル)時に非ず、雨と風とに傷《ソコナ》はるゝ物なればなり、【もし又、木草を枯《カラ》す物を云とならば、雪よりも、霜をこそ云べけれ、されば霜(ノ)字を誤れるかとも云べけれど、然にはあらじ、さて又諸本に、雪雨とあるを取らざるは、雪のいかゞなることは、右の如くなるうへに、風一(ツ)に並べて、雪と雨と二(ツ)を云べきに非ず、風も一(ツ)なれば、上も必(ズ)一(ツ)なるべき、文《コトバ》のならひなり、古言はかゝる處、必(ズ)しらべ宜き物なるをや、然れば此《コ》は、もと雨とありしを、雪に誤れる本に就て、又雨とある本を見合せて、さかしらに其(ノ)字をも加へたるなどにやあらむ、そはいかにまれ、雪とあるも、雪雨とあるも、よろしからず、かならず雨とあるべきことなり、】さて其《ソ》は、石の恆《トコシヘ》なるよしを云るにて、如(ク)d雖《ドモ》2雨零(リ)風吹(ケ)1恆(ナル)石(ノ)uと、如(ノ)字、雖の上にある意なり、呵米布理加是布氣杼母《アメフリカゼフケドモ》と訓べし、【布氣杼母《フケドモ》を、若(シ)布久登母《フクトモ》と訓て、如(ノ)字の在(リ)所を、文のまゝに心得るときは、此(ノ)言の意たがふなり、】書紀一書に、弟則雖逢風雨《オトミコハアメフリカゼフケドモ》、其幸不惑《ソノサチタガハザリキ》、
〇恆如石は、登許志幣那流伊波能碁登久《トコシヘナルイハノゴトク》と訓べし、さて恆《トコシヘナル》は、雨ふり風|吹《フケ》ども【移落《ウツロフ》ことなく】恆《トコシヘ》なるよしにて、上に屬《ツケ》る言なり、【是(レ)はた風ふけどもと切(リ)て、恆(ナル)石と心得ては違へり、】
〇常堅不動、此(ノ)四字を、登伎波爾加伎波爾《トキハニカキハニ》と訓べし、登伎波《トキハ》は、常石《トコイハ》の切《ツヅマ》れるにて、【即(チ)常に常磐《トキハ》と書り、許伊《コイ》は伎《キ》と切《ツヅ》まる、】萬葉六にすなはち、人皆乃壽毛吾毛三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨《ヒトミナノイノチモワレモミヨシヌノタギノトコイハノツネニアラヌカモ》とあり、【床は借字なり、】加伎波《カキハ》は、堅《カタ》き石《イハ》の、多《タ》の省《ハブ》かりたるなり、【又|加多《カタ》を切《ツヅ》めても、加《カ》となる、伊《イ》は伎《キ》の、韻《ヒビキ》にあれば、省《ハブ》くこともとよりなり、】書紀雄略(ノ)卷に、堅磐此(ヲ)云2柯陀之波《カタシハト》1ともあり、さて此《ココ》に、たゞ常堅と書て、二(ツ)共に石(ノ)字を略《ハブ》けるは、上に既に如(ク)v石(ノ)とあればなり、【こは漢文の方の字面を思へるものなり、】又不動(ノ)二字を添(ヘ)たるも、意を以てなり、【延佳本には、常石堅石不動とあり、こは舊事紀にかくの如くあるに依て、さかしらに、二(ツ)の石(ノ)字を加へたるものなり、諸(ノ)本に石(ノ)字あるはなし、眞福寺本に、常の上に一(ツ)石(ノ)字あれど、其《ソ》は上なる石(ノ)字よりまぎれたる衍《アヤマリ》なるべし、もし常の下なりしを、誤(リ)て上に書るならば、堅の下にもあるべきに、堅の下にはなけれは、然にはあらず、又師は、不動を別に、ウゴカズと訓れつれども、古(ヘ)の雅言《ミヤビコト》ともおぼえず、後の宣命又歌などに、うごきなきなどあれど、古言とは聞えず、然れば此《ココ》はたゞ、意を以て添(ヘ)たる字とすべし、】萬葉三【二十五丁】に、常磐成石室《トキハナスイハヤ》、五【十丁】に、等伎波奈周迦久期母何母等《トキハナスカクシモガモト》、十一【九丁】に、常石有命哉《トキハナルイノチニアレヤ》などよみ、祈年祭(ノ)祝詞に、皇御孫(ノ)命(ノ)御世|乎《ヲ》、手長《タナガノ》御世|登《ト》、堅磐爾常磐爾齋比奉《カキハニトキハニイハヒマツリ》、春日祭(ノ)祝詞に、常石爾堅石爾福閇奉利《トキハニカキハニサキハヘマツリ》、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞に、天皇命能《スメラミコトノ》手長(ノ)大御世|乎《ヲ》、堅石爾常石爾伊波比奉《カキハニトキハニイハヒマツリ》など、なほ餘《ホカ》の祝詞どもにも、此言多く見えたり、さて上に如(ク)v石(ノ)と云て、又|登伎波加伎波《トキハカキハ》と云むは、石《イハ》と云言、煩《ワヅラ》はしく重なるに似たれど、此《コ》はあまねく云なれたる壽詞《ホキコト》なれば、然《サ》も云(フ)、常の事なり、萬葉六に、春草者後波落易巖成常盤爾座貴吾君《ハルクサハノチハウツロフイハホナストキハニイマセタフトキワギミ》、月次祭文神嘗祭(ノ)祝詞に、御壽乎《ミイノチヲ》、手長乃御壽止《タナガノミイノチト》、湯津如磐村《ユツイハムラノゴト》、常磐堅磐爾《トキハカキハニ》、これらも然なり、
〇佐久夜毘賣、こゝの毘(ノ)字、諸(ノ)本に比と作《カケ》れど、今は一本に依れり、【此(ノ)御名、前後なる皆毘とありて、比にあらず】
〇如《ゴト》2木花榮《コノハナノサカユル》1榮《サカエ》、佐加延《サカエ》は咲光映《サキハエ》にて、【伎波《キハ》は加《カ》と切《ツヅ》まる、】すなはち御名の佐久夜《サクヤ》これなり、【上に云る佐久夜の義《ココロ》と、考(ヘ)合すべし、さて榮《サカエ》とは、花を本にて、他《コト》物にも云言なり、上卷沼河比賣の歌に、阿佐比能惠美佐迦延《アサヒノヱミサカエ》と、朝日にも、人の顔にも云り、さてその惠牟《ヱム》と、花の開《サク》と、共に咲(ノ)字を書(キ)ならへるも、榮《サカエ》は咲光映《サキハエ》にて、同意なるが故なり、】萬葉二【三十五丁】に、木綿花乃榮時爾《ユフバナノサカユルトキニ》、七【十丁】に、安志妣成榮之君之《アシビナスサカエシキミガ》、また三に、青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフガゴトクイマサカリナリ》、などもあり、佐加理《サカリ》も、もと咲《サキ》の延《ノビ》たる言にて、咲光映《サキハエ》たるを云なれば、榮《サカエ》と同じ、
〇宇氣比《ウケヒ》は上に出(ヅ)、【傳七の四十四葉】
〇此令は、姑《シバラ》く加々流爾伊麻《カカルニイマ》と訓つ、【かくの如き處に、此と云るは、めづらし、爾(ノ)字に准へて、許々爾《ココニ》とも訓べけれど、然訓(マ)むよりは、加々流爾と訓むぞ、まさるべき、】加々流爾《カカルニ》は、如此有《カクアル》になり、令は、今(ノ)字を誤れるなるべし、【今既(ニ)不v然と、書紀にあるにあたれり、】
〇木花之《コノハナノ》は、此《ココ》は木(ノ)花の如くと云意なり、【某之《ナニノ》と云て、某之如《ナニノゴト》くと云意なる、古語に常多し、】
〇阿摩比能微《アマヒノミ》は、微(ノ)字は、諸(ノ)本|並《ミナ》徴と作《カケ》るは、決《ウツナ》く誤なり、【此(ノ)記は更にもいはず、凡て古書に、徴(ノ)字を假字に用ひたる例なし、且《ソノウヘ》徴(ノ)字は、チヨウの音なり、チといふ音はたゞ、宮商角徴羽などの時のみなるを、いかでかチの假字には用ふべき、】舊事紀(ノ)舊印本に、微と作《あ》るぞ正しかりける、故(レ)今は然改めつ、さて書紀に、故(レ)磐長姫|大慙而詛之曰《イタクハヂテウケヒケラク》、假使天孫《モシアマツカミノミコ》不《ズテ》v斥《カヘサ》v妾《アレヲ》而|御者《メサマシカバ》、生兒永壽《アレマサムミコノミイノチハ》、有如磐石之常存《トキハカキハニマシマサマシヲ》、今既不然《イマシカアラズテ》、唯弟獨見御故《タダオトヒトリメサエツレバ》、其生兒《ソノウミマツラムミコハ》、必(ズ)如木華之移落《コノハナノアマヒノミマサム》、一云、磐長船|恥恨而唾泣《ハヂウラミテツバキナキテ》之曰(ク)、顯見蒼生如木華之俄遷轉當衰去矣《ウツシキアヲヒトクサノイノチハコノハナノアマヒノミコソアラメトイヒキ》、此《コレ》世(ノ)人(ノ)短折之縁也《イノチミジカキヨシナリ》、【此(ノ)詛(ヒ)を、石長比賣の自《ミヅカラ》の言とせるは、此(ノ)記と傳(ヘ)の異なるなり、】とあると相照して考るに、阿摩比《アマヒ》は、脆《モロ》く不堅固《ハカナ》き意と聞えて、【或説に、脆弱也と云る、然《サ》ることなり、】甘《アマ》と同言なり、【花の脆《モロ》く移《ウツロ》ひ落(チ)る類(ヒ)のことを、阿麻《アマ》と云る例は、いまだ見あたらざれども、物の堅固《カタ》からぬを、あましと云ることは、漢ぶみにも、莊子(ノ)天道(ノ)篇に、※[劉+斤]v輪(ヲ)徐(キ)則《トキハ》甘(クシテ)而不v固(カラ)、注に、甘(ハ)緩也、など云り、今の俗語にも多く云ことなり、甘《アマ》い事をいふ、甘い事では行(カ)ぬ、甘《アマ》い奴ぢや、などの如し、又人の身の病無く健なるを、堅《カタ》いといひ、病ありて弱きを、柔《ヤハラカ》なといふ、此(ノ)柔《ヤハラカ》も、甘きに近し、又|天《ソラ》の清く晴て、雨のふるべきけしきのさらに無きを、日よりの堅《カタ》いと云(ヒ)、堅からぬを、甘《アマ》いと云り、これらみな、脆《モロ》く不堅固《ハカナ》きと、其意|遠《トホ》からぬことなり、】小兒《チゴ》に髪《カミ》固《カタ》し髪《カミ》甘《アマ》しと云言のあるは、正《マサ》しく此《ココ》の意にあたれり、さて甘《アマ》は、甘《アマ》し甘く甘きなど活用《ハタラ》く言なるを、比《ヒ》としも云るは、其(ノ)甘《アマ》き状《サマ》を云る辭か、【されど此(レ)と同格に活用《ハタラ》く言に、比《ヒ》と云る例は、をさ/\おぼえず、若(シ)くは殊に阿治波比《アヂハヒ》、業《ナリ》に那理波比《ナリハヒ》など云たぐひの、波比《ハヒ》の切《ツヅ》まりたるか、】はた異意《コトココロ》あるか、此《コ》はなほよく考ふべし、【さきには、此(ノ)比《ヒ》は、濁る音に讀て、荒きを阿良備《アラビ》と云と同格にて、夫流《ブル》と活用《ハタラ》く備《ビ》ならむと云つるを、さては言の意はよく聞ゆれども、なほよく思ふに、清音の比を用ひたるは、其意にはあらじ、比と毘とは、互に寫(シ)誤れる例もあれば、さも云べきなれど、荒備《アラビ》の類には、記中、備(ノ)字をのみ用ひて、毘を用ひたる例は見えず、】萬葉五【三十八丁】に、水沫奈須微命母《ミナワナスモロキイノチモ》、【此(ノ)微命を、アマキイノチとも訓べし、】六【四十三丁】に、春花乃遷日易《ハルハナノウツロヒカハリ》、七【四十二丁】に、玉梓之妹者花可毛足日木乃此山影爾麻氣者失留《タマヅサノイモハハナカモアシヒキノコノヤマカゲニマケバウセヌル》、などよめり、能微《ノミ》は、而已にて、御世御世の天皇、何れも皆|然而已《シカノミ》坐て、然らざるは無《マサザ》らむと云意の而已《ノミ》なり、
〇至《イタルマデ》2于|今《イマニ》1とは、此(ノ)宇氣比言《ウケヒゴト》の驗《シルシ》の、遠き代まで延及《ヒキオヨ》べることを云るなり、
〇天皇命、かくの如く命(ノ)字を添(ヘ)ても書(キ)奉れること、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞にも、二處あり、續紀の【一の卷三の卷など】詔(ノ)詞の中などにも見えたり、三字を須賣良美許登《スメラミコト》と訓べし、儀制令(ノ)義解に、須明樂美御徳《スメラミコト》、【此(ノ)假字は、異國人に示さむために書れたる物と見えて、好字《ヨキモジ》のかぎりをあつめたるほどに、御(ノ)字など、清濁さへ叶はず、此(ノ)字に據《ヨリ》て、許《コ》を濁るはひがことなり、なほ此(ノ)假字の事は、馭戎慨言に云り、】書紀竟宴(ノ)歌に、數女良美己度《スメラミコト》【又|須女羅乃支美《スメラノキミ》とも、數梅羅機瀰《スメラキミ》ともよめるあり、】などあり、須賣《スメ》とも、須賣良《スメラ》とも、須賣良藝《スメラギ》とも申(シ)奉れり、須賣良朕《スメラワガ》と、御自《ミミヅカラ》も詔へり、【續紀十の卷の詔に、高天(ノ)原|由《ユ》天降|坐之《マシシ》天皇御世始而とあるは、邇々藝(ノ)命をも、天皇と申せるなり、さて天皇(ノ)字を當《アテ》奉りしも、いと上代よりの事と見えたり、若(シ)は仁徳天皇などの御世に、和邇《ワニ》などの如き博士の、申(シ)定(メ)奉(リ)しにやあらむ、さるは漢國孔丘が春秋に、かの王を天王と書るなどに本づきて、皇に天(ノ)字をは冠《クハ》へ奉りけるなるべし、彼(ノ)國にても、遙《ハルカ》の後に、唐(ノ)高宗が時に、天皇と云號を、新に立たることありしかども、末とほらざりしを、たゞ吾(ガ)須賣良尊《スメラミコト》の此(ノ)御號ぞ、眞《マコト》の理(リ)にかなひて、天地のかぎり、竪《タテ》にも横《ヨコ》にも往通《ユキトホ》り足《タラ》はして、動くことなく、變《カハ》ることなき大御號《オホミナ》にはありける、】
〇御命不長也《ミイノチナガクハマサザルナリ》、そも/\上代の天皇|等タチ《》は、百歳《モモトセ》に多く餘《アマ》らせ賜ふが、あまた坐(シ)ましけるは、人(ノ)代にては、御壽《ミイノチ》長かりしなれども、神代の人の壽の、なほこよなく長かりし時を以て云へば、甚《イタ》く短きなり、此(ノ)詛(ヒ)の後、日子穗々出見《ヒコホホデミノ》命は、坐(スコト)2高千穗(ノ)宮(ニ)1五百八十歳、とあれども、これなほ不長《ナガカラザ》りしなり、さて同じことながら、短《ミジカ》しといはずして、不v長と云るは、天照大御神の皇統《ミツイデ》を承傳《ウケツタ》へ坐て、天津日嗣所知看《アマツヒツギシロシメス》天皇に坐(シ)ませば、大御|壽《ミイノチ》は、必(ズ)長かるべき理(リ)なるに、と云意を含《フク》めり、【書紀に、世人短折《ヨノヒトノイノナミジカキ》とあるも、人(ノ)代の中《ウチ》にての短命なるを云には非ず、神代の長壽《イノチナガ》かりし時に比《クラ》べて云るなり、さて此(ノ)記などには、天津紳(ノ)御子の御命《ミイノチ》を詛ひたるばかりにて、諸人の命までを詛ひたる由には非れども、天皇の御命の、長く坐(サ)ざるうへは、天(ノ)下にあらゆる人の命も、隨ひて短きは、本より然るべきことわりなりかし、さて書紀の纂疏に、皇胤蒼生(ノ)短壽(ナルハ)者、謂(ル)定業不(ル)v可v轉(ス)也、豈|由《ヨラムヤ》2磐長姫(ノ)之詛(ニ)1乎とあるは、いと/\心得ず、そも/\神(ノ)御典《ミフミ》を説《トク》とて、其(ノ)古(ヘ)にはよらずして、由なき異國の説を信じ給へるは、いかに惑ひ給へるひがことぞや、萬國《ヨノナカ》の人の命の、神代の如く長からざることは、もはら此(ノ)時の詛に由《ヨ》るものなり、】
 
故後木花之佐久夜毘賣《カレノチニコノハナノサクヤビメ》。參出白《マヰデテマヲシタマハク》。妾妊身《アレハラメルヲ》。今臨産時《イマコウムベキトキニナリヌ》。是天神之御子《コノアマツカミノミコ》。私不可産《ワタクシニウミマツルベキニアラズ》。故請《カレマヲストマヲシタマヒキ》。爾詔《ココニノリタマハク》。佐久夜毘賣《サクヤビメ》。一宿哉妊《ヒトヨニヤハラメル》。是非我子《ソハワガミコニアラジ》。必國神之子《カナラズクニツカミノコニコソアラメト》。爾答白《ノリタマヘバ》。吾妊之子《アガハラメルミコ》。若國神之子者《モシクニツカミノコナラムニハ》。産不幸《ウムコトサキカラジ》。若天神之御子者《モシアマツカミノミコニマサバ》。幸《サキカラムトマヲシテ》。即作無戸八尋殿《スナハチトナキヤヒロドノヲツクリテ》。入其殿内《ソノトノヌチニイリマシテ》。以土塗塞而《ハニモテヌリフタギテ》。方産時《ウマストキニアタリテ》。以火著其殿而産也《ソノトノニヒヲツケテナモウマシケル》。故其火盛燒時《カレソノヒノマサカリニモユルトキニ》。所生之子名火照命《アレマセルミコノミナハホデリノミコト》。【此者隼人阿多君之祖《コハハヤビトアタノキミノオヤ》。】次生子名火須勢理命《ツギニアレマセルミコノミナハホスセリノミコト》。【須勢理三字以音】次生子御名火遠理命《ツギニアレマセルミコノミナハホヲリノミコト》。亦名天津日高日子穗穗手見命《マタノミナハアマツヒダカヒコホホデミノミコト》。【三柱】
 
參出《マヰデ》は、邇々藝《ニニギノ》命の御許《ミモト》に詣《マヰヅ》るなり、萬葉十八【二十七丁】に、麻爲泥許之《マヰデコシ》、廿【三十二丁】に、麻爲弖枳爾之乎《マヰデキニシヲ》、などあり、【麻宇傳《マウデ》と云は、音便にくづれたる言なり、】
〇臨産時は、古宇牟倍伎時爾那理奴《コウムベキトキニナリヌ》と訓べし、
〇佐久夜毘賣とは、其名を呼出て、嘲り賜ふなり、
〇一宿哉妊は、比登用爾夜波良米流《ヒトヨニヤハラメル》と訓べし、一夜にて妊めるかと、嘲りて詔へるなり、書紀一書に、天孫見(テ)2其(ノ)子等《ミコタチヲ》1、嘲之《アザケリテ》曰(ク)、妍哉《アナニヤ》、吾皇子者《ワガミコトハ》、聞喜而生之歟《キキヨクテモウメルカモ》とあると、意ばへ同じ、【また皇孫|未之信《ウタガハシテ》曰(ク)、雖復天神《アマツカミナラムカラニ》、何能一夜之間令人有娠乎《イカデカヒトヨノカラニハラマシメム》、とあるによらば、」ヒトヨニヤハラマムと訓べけれど、もし其意ならば、一宿妊我と書(ク)べきを、哉(ノ)字、妊の上にあるは、其意とは少し異なるべし、】又同書に、天孫|報曰《コタヘタマハク》、我《アレ》知《シリニキ》2本是吾兒《モトヨリアガミコナルコトハ》1、但一夜而有身《サレドヒトヨニシテハラメレバ》、慮《オモヒテ》v有(ムト)2疑(フ)者(モ)1、欲《オモヒ》v使(メムト)3衆人皆《モロヒトミナニ》、知(ラ)2是吾兒《アガミコナルコトヲモ》、并亦《マタ》天(ツ)神(ハ)能令一夜有娠《ヒトヨニモハラマシムルモノゾトイフコトヲモ》1、云々、故有前日之嘲辭也《カレサキニハアザケリツルゾトノリタマヒキ》とあるも、一(ツ)の傳(ヘ)なるべけれど、此《ココ》は然らず、只|實《マコト》に疑ひて詔へるものとすべし、書紀雄略(ノ)卷に、童女君(ハ)者|本《モト》是|采女《ウネベナリキ》、天皇|與一夜而娠《ヒトヨアタハシテハラミテ》、遂(ニ)生《ウミキ》2女子(ヲ)1、天皇疑(テ)不《ズ》v養《ヤシナヒタマハ》云々、物取(ノ)目《メノ》大連(ノ)曰(ク)、比(ノ)娘子《ヲトメ》以2清(キ)身意(ヲ)1、奉(レリ)2與一宵《ヒトヨアタハシ1、安輙生疑《ナドテウタガヒタマハム》、臣2聞《ウケタマハレ》易産腹《ウミヤスキハラハ》者、以褌《シタモヲ》觸《フルルカラニ》v體《ミニ》、即便懷※[月+辰]《ヤガテハラムトコソ》1、況與終宵而《マシテヨモスガラアタハシテ》、妄生疑也《ミダリニケクガヒタマフカモ》、天皇命(セテ)2大連(ニ)1、以《ヲ》2女子1爲《シ》2皇女《ミコト》1、以母《ハハヲモ》爲v妃《ミメト》、
〇産不幸は、宇牟許登佐伎加良士《ウムコトサキカラジ》と訓べし、眞福寺本延佳本には、産の下に時(ノ)字あり、其《ソレ》も佳《ヨ》し、さて此(ノ)次なる幸は、佐伎加良牟《サキカラム》と訓べし、幸《サキ》とは、無恙《ツツミナ》く平安《タヒラカ》なるを云り、萬葉五【三十一丁】に、佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》、十三【十丁】には、眞福《マサキク》また福《サキク》ともあり、此(ノ)ほか幸《サキク》眞幸《マサキク》と、いと多く見ゆ、
〇八尋殿《ヤヒロドノ》は、上【傳四の十八葉】に出たり、無戸《トナキ》とは、土《ハニ》以て塗塞《ヌリフタ》ぎたる上《ウヘ》を以て云なるべし、【書紀には何れの傳(ヘ)にも、土以て塗塞ぐ事は見えず、たゞ無戸室とのみあり、これ無戸室と云(ヘ)ば、必(ズ)塗塞ぎたる室にて、今の世俗《ヨ》に牟呂《ムロ》と云物のさまなるべし、故(レ)塗れることをば、殊に云ざるなるべし、】初(メ)より出(デ)入(ル)べき口のひたぶるに無くてはあるまじければなり、
〇土は波邇《ハニ》と訓べし、塗《ヌ》るは必(ズ)埴土《ハニ》なるべければなり、
〇塞は布多岐《フタギ》と訓べし、かく塗(リ)塞ぎ給ふ故は、火を避《サケ》て外《ト》へ遁《ノガレ》出(ヅ)べき由(シ)無かるべく構へたるなり、
〇方産時は、宇麻須登伎爾阿多理弖《ウマストキニアタリテ》と訓べし、
〇以火著其殿は、其殿爾肥袁著弖《ソノトノニヒヲツケテ》と訓べし、【火を、師の、すべて皆|本《ホ》と訓れたるは、一偏《カタムキ》なり、】其《ソ》は外《ト》をば塗(リ)塞ぎて、内より放《ツク》るなり、書紀に、故(レ)鹿葦津姫|忿恨《ウレタミテ》、乃作(リテ)2無戸室《ウツムロヲ》1、入(リ)2居(テ)其(ノ)内(ニ)1、而|誓之曰《ウケヒタマハク》、妾所娠《アガハラメルコ》、若(シ)非(ズハ)2天孫之胤《アマツカミノミコニ》1、必(ズ)當※[隹三つ/れっか]滅《ヤケホロビナム》、如《モシ》實(ニ)天孫之胤《アマツカミノミコニマサバ》、火不能害《ヒモエソコナハジ》、即《カクイヒテ》放《ツケテ》v火(ヲ)燒《ヤキキ》v室(ヲ)、一書に、吾所娠《アガハラメルコ》、是若他神之子者《モシアダシカミノコナラバ》、必(ズ)不幸《サキカラジ》矣、是實天孫之子者《マコトニアマツカミノミコニマサバ》、必(ズ)當全生《ズサキクアレマスベシ》云々、などあり、又一書に、一夜有身《ヒトヨニハラマシテ》、遂(ニ)生2四子(ヲ)1、故(レ)吾田鹿葦津姫抱(テ)v子《ミコヲ》而|來進曰《マヰキテミセマツリテ》、天(ツ)神(ノ)之|子《ミコ》、寧可以私養乎《ワタクシニヒタシマツルベキニアラズ》、故(レ)告状知聞《マヲシテシロシメサス》云々ともあり、
〇其火(ノ)盛(ニ)燒(ル)時、盛燒は、麻佐加理爾毛由流《マサカリニモユル》と訓べし、火の燒《モユ》る時に當《アタ》りてと云むが如し、書紀に、顧眄之間、此(ヲ)云2美屡摩沙可利爾《ミルマサカリニト》1と見え、【間(ノ)字、麻沙可利《マサカリ》てふ言にあたれり、】又|方産《ミサカリニコウムトキ》ともあり、【麻《マ》と美《ミ》と同じ、萬葉七に壯子時《ミサカリニ》、】これらの如し、然れば此《コ》は、三柱(ノ)御子の生《アレ》坐る時を、廣く凡て云るにて、火折《ホヲリノ》命の生《アレ》坐るまでに係《カカ》れる言なり、【火照《ホデリノ》命一柱の生坐る時のみを、分て云にはあらず、然るに書紀には、始起烟末《ハジメテオコルケブリノスエヨリ》生出云々、次(ニ)避(テ)v熱(ヲ)而居生出、あるひは焔(ノ)初(テ)起(ル)時(ニ)云々次(ニ)火盛(ナル)時(ニ)云々、あるひは其火(ノ)初(テ)明《アカル》時(ニ)云々、次(ニ)火(ノ)盛(ナル)時(ニ)云々、次(ニ)火炎(ノ)衰《シメル》時(ニ)云々、次(ニ)避《サル》2火熱《ホトホリヲ》1時(ニ)云々など、一柱毎に、生坐る時の火の状《サマ》を、別《ワケ》て云るに就て、准へ見れば、此記はたゞ火照(ノ)命の生坐る時の状をのみ云て、次の二柱には、火の事を云(ハ)ざるは、事足らず、脱《オチ》たる如く聞ゆめれど、よく考ふれば然らず、此記は、書紀の如く各|別《ワケ》ては云(ハ)ず、三柱を惣《スベ》て云る物にして、盛《マサカリ》とは、必しもl初(メテ)起(ル)時と、衰《シメ》れる時とに對へて、云るには非ず、書紀なる盛とは異なり、此(ノ)字に泥《ナヅ》みて、勿《ナ》思ひ惑ひそ、】さて然廣く云る中に、其火の初《ハジメ》起《オコ》れるほどと、中ごろ盛(リ)なるほどと、後|衰《シメ》りたるほどとの次序《ツイデ》ありて、三柱は生《アレ》坐るにて、書紀の傳は、其(ノ)状《サマ》を細《クハシ》く云るものなり、
〇火照命、本傳理《ホデリ》と訓べし、本能弖流《ホノテル》と訓(ム)はわろし、【此(ノ)御兄弟《ミハラカラ》三柱の御名、皆|直《タダ》に火某《ホソレ》と訓べし、之《ノ》を添《ソフ》べからず、此記には、火|之《ノ》と之《ノ》の添(ヒ)たる名には、火之《ヒノ》夜藝速男、火之炫《ヒノカガ》毘古、火之《ヒノ》迦具士など、皆之(ノ)字あるをや、又照も、弖流《テル》とは訓まじく、必(ズ)弖理《テリ》なること次の火須勢理火遠理の理《リ》の例を以て知べし、】さて此《コ》は、初(メ)に火の燃起《モエタチ》て、照明《テリアカ》れる時に生《アレ》坐る故の御名なり、書紀一書に、初(メ)火※[餡の旁+炎]明《ホノホアカル》時(ニ)生兒《アレマセルミコ》、火明《ホアカリノ》命、又一書に、其(ノ)火(ノ)初(メテ)明《アカル》時(ニ)、躡誥《フミタケビテ》出(ル)兒《ミコ》、自《ミヅカラ》言《ナノリタマフ》2吾《アレハ》是天(ツ)神之|子《ミコ》、名(ハ)火明(ノ)命(ト)1とある、即(チ)此(ノ)御子にて、照《テリ》と明《アカリ》とは、同意なり、【書紀には、みな火明(ノ)命とのみありて、火照(ノ)命と云る傳(ヘ)は無きは、彼(ノ)天(ノ)忍穗耳(ノ)命の御子、尾張(ノ)連(ノ)祖なる天(ノ)火明(ノ)命と、混《マガ》ひつるなり、故(レ)此(ノ)段の火明(ノ)命を、本書には、尾張(ノ)連等(ガ)始祖也とあり、そはいよいよ混亂《マガヒ》たるものなり、然れば此(ノ)御名は、此記に火照とあるぞ、正しかりける、】
〇隼人阿多《ハヤビトアタノ》君|之《ノ》祖、隼人は、波夜毘登《ハヤビト》と訓べし、和名抄にも、隼人司(ハ)波夜比止乃豆加佐《ハヤビトノツカサ》とあり、【後(ノ)世に波伊登《ハイト》と云は、夜毘《ヤビ》は伊《イ》と約《ツヅ》まれども、なほ訛(リ)なるペし、又書紀の訓などに、ハイトンとあるは、いよゝ正しからず、又今(ノ)世に波夜登《ハヤト》とも云は、波伊登と云たぐひなり、】隼人《ハヤビト》と云者は、今の大隅薩摩二國の人にて、其(ノ)國人は、絶《スグ》れて敏捷《ハヤ》く猛勇《タケ》きが故に、此(ノ)名あるなり、【古言に、猛勇《タケ》きを波夜志《ハヤシ》とも登志《トシ》とも云(ヘ)れば、波夜《ハヤ》と云に、猛勇《タケ》き意もあるなり、隼(ノ)字を書(ク)ことは、迅速《ハヤ》きこと、此(ノ)鳥の如く、又|波夜夫佐《ハヤブサ》てふ名も合へればなり、】景行仲哀の御世のころ、熊曾《クマソ》と云し者も是(レ)にて、即(チ)其(ノ)國を熊曾《クマソノ》國と云き、【熊曾の國の事は、傳五の十五葉に云り、】又|其《ソ》を隼人《ハヤビトノ》國と云るは、續紀二に、大寶二年、先(キ)v是(ヨリ)征(セシ)2薩摩(ノ)隼人ゐ1時云々、唱更《ハヤビトノ》國司等【今(ノ)薩摩(ノ)國也】言(ス)云々とある、唱更これ隼人なり、【拾芥抄(ノ)改名所々(ノ)部に、薩摩(ノ)國元(ハ)唱更とあり、職員令(ノ)隼人司(ノ)義解に、隼人(ハ)者、分番上下、一年(ヲ)爲v限(ト)云々、とある意を以て、其(ノ)ころ唱更とは書たりしなり、今(ノ)薩摩(ノ)國也とは、續紀撰ばれし時の注なり、】萬葉三【十五丁】に、隼人乃薩摩乃迫門《ハヤビトノサツマノセト》、六【二十二丁】に、隼人乃湍門《ハヤビトノセト》、など云るも、國(ノ)名なり、【書紀孝徳(ノ)卷に、薩麻之曲《ツマノクマ》、右に引る續紀に、薩摩(ノ)隼人、萬葉に、薩摩乃迫門、などある薩摩は、國(ノ)名には非ず、隼人(ノ)國の中の地(ノ)名なり、後まで薩摩(ノ)郡あれば、其あたりの名にぞ有けむ、】其《ソ》を薩摩(ノ)國とは、後に改められたるなり、【さて隼人とは、今の大隅薩摩二國の人を云る中にも、隼人(ノ)國と云しは、今の薩摩(ノ)國の域《トコロ》なるべし、大隅は、和銅六年に、日向より分れたる國なればなり、但し上古には、薩摩までかけて、日向(ノ)國とも云しかば、其中に、薩摩より大隅かけてを、殊に隼人(ノ)國と云しにもあるべし、さて國(ノ)名の、薩摩と改まりしは、大寶より靈龜までの間なるべし、其故は、右に引る大寶二年の紀には、唱更《ハヤビトノ》國とありて、養老元年の紀に、始めて大隅薩摩二國(ノ)隼人とある、此(ノ)薩摩は、既に國(ノ)名なればなり、】なほ此(ノ)隼人の、皇朝に仕奉る事などは、海神《ワタツミノ》宮(ノ)段の末に、其(ノ)由縁《ユヱヨシ》の見えたる、彼處《ソコ》に委曲《ツバラカ》に云べし、【傳十七の五十七葉】阿多《アタノ》君は、【多《タ》清《スミ》て讀べし、濁るは非なり、】地(ノ)名に由れる姓なり、書紀海神(ノ)官(ノ)段に、其(ノ)火闌降(ノ)命(ハ)即|吾田《アタノ》君|小橋等之本祖《ヲバシラガオヤ》也、【上には是(レ)隼人等(ノ)姶祖也と云て、此《ココ》には又|如此《カク》云る、同(ジ)本書の内にて、前と後と違ひあるはいかにぞや、小橋の事は、中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段、傳廿の初(メ)に云べし、】姓氏録に、【右京神別】阿多御手養《アタノミテカヒハ》、火闌降(ノ)命(ノ)六世(ノ)孫、薩摩若相樂《サツマワカサガラカノ》後也、また 【山城(ノ)國神別】阿多(ノ)隼人(ハ)、富乃須佐利乃《ホノスサリノ》命(ノ)之後也と見え、續後紀に、承和三年六月、山城(ノ)國(ノ)人右(ノ)大衣阿多(ノ)隼人逆足(ニ)、賜(フ)2姓(ヲ)阿多(ノ)忌寸(ト)1、など見えたり、【これら隼人の國より上《ノボ》りて、皇朝に仕奉れるが子孫の、京畿に遺《ノコ》り住るなり、大衣の事は、傳十七の五十八葉に云り、さて火闌降(ノ)命の後は、右の外にも、大和(ノ)國に二見(ノ)首大角(ノ)隼人、津(ノ)國に日下部《クサカベ》、和泉(ノ)國に坂合部など、姓氏録に見えたり、】さて火照(ノ)命は、廣く隼人の祖と聞えたるに、分て阿多(ノ)君の祖としも云るは、隼人の諸(ノ)姓の中に、殊に顯《アラハ》れたる氏にこそありけめ、【或説に、此《ココ》の隼人阿多(ノ)君を、隼人と阿多(ノ)君と二(ツ)とし、又は隼人(ノ)國の阿多(ノ)君と見たるなど、皆わろし、たゞ阿多(ノ)君は、隼人なる故に隼人とは云るなり、】さて阿多てふ地《トコロ》は、和名抄に、薩摩(ノ)國阿多(ノ)郡阿多(ノ)郷あり、是なり、【此(ノ)名今も存《ア》り、】書紀に、吾田《アタノ》長屋(ノ)笠狹之碕、神武卷に、日向(ノ)國|吾田《アタノ》邑【古(ヘ)は薩摩までかけて、日向(ノ)國と云しこと、上に云るが如し、日向國臼杵(ノ)郡英多あれど、其《ソレ》には非ず、】などある、皆此(ノ)地を云り、天武紀持統紀などに、阿多(ノ)隼人とあるは、此(ノ)地の隼人なり、【又持統紀に、六年閏五月、詔(シテ)2筑紫大宰(ノ)率河内王等(ニ)1曰(ク)、宜(シ)d遣(シテ)3沙門(ヲ)於大隅(ト)與《トニ》2阿多1可uv傳2佛(ノ)教(ヲ)1、】さて書紀に、始(メテ)起(ル)烟(ノ)末(ニ)生出《ナリイヅル》之|兒號《ミコノミナハ》火闌降《ホスソリノ》命、是《コハ》隼人|等《ラガ》始祖《オヤ》也、次(ニ)云々、次(ニ)生出《ナリイヅル》之|兒號《ミコノミナハ》火明《ホアカリノ》命、【一書には、焔《ホノホ》初(メテ)起(ル)時(ニ)共(ニ)生《ナリイヅル》兒號《ミコノミナハ》火酸芹《ホスセリノ》命、次(ニ)火(ノ)盛(ナル)時(ニ)生(ル)兒(ノ)號(ハ)火明(ノ)命、次(ニ)云々、】とあるは、此(ノ)記と、此(ノ)神の生《アレ》坐る次第《ツイデ》も違ひ、又隼人(ノ)祖も異なり、されどその生《アレ》坐る次第《ツイデ》に就《ツキ》て、第一《ハジメ》なるが隼人(ノ)祖なることは同じきなり、又一書には、此(ノ)御兄弟《ミハラカラ》を、火酸芹《ホスセリノ》命と火折《ホヲリノ》尊と二柱として、火明(ノ)命無きは、火酸芹と火明とをば、同(ジ)神とせる傳(ヘ)なり、【又一書に、火折(ノ)命と火々出見(ノ)尊とを、別《コト》神としたる傳(ヘ)もあれば、此(ノ)火酸芹と火明も、或は一神とし、或は二神として、其生坐るついでも、互に前にも後にもなれるなり、】かゝれば此(ノ)二柱の間に、此(ノ)隼人(ノ)祖の錯《マギレ》のあるは、かた/”\由あることなりかし、
〇火須勢理《ホスセリノ》命、これも火之《ホノ》と訓(ム)はわろし、【其由は上に云るが如し、然るに書紀の訓注に、火闌降此(ヲ)云2褒能須素里《ホノスソリト》1とある、能《ノノ》字は、後の訛訓《ヒガヨミ》に耳なれたる人の、さかしらに加へたるなるべし、又姓氏録にも、富乃須佐利《ホノスサリ》ともあれど、是もいかゞ、同書の二見(ノ)首(ノ)條に、富須洗利《ホスセリノ》命とあるぞ、正しかりける、】此《コ》は火の熾《サカリ》に進《スス》み燃《モユ》る時に生《アレ》坐る故の御名なり、書紀一書に、次(ニ)火炎《ホノホノ》盛(リナル)時(ニ)生兒|火進《ホススミノ》命、又|曰《マヲス》2火酸芹《ホスセリノ》命(トモ)1、また一書に、次(ニ)火(ノ)盛(リナル)時(ニ)躡誥《フミタケビテ》出兒、亦《マタ》言《ナノリタマフ》2吾是《アハ》天(ツ)神(ノ)之|子《ミコ》名(ハ)火進《ホススミノ》命(ト)1、とあるを以て心得べし、須勢理《スセリ》は【須素里《スソリ》須佐利《スサリ》も皆同言、】進《ススミ》と同意なり、萬葉十七【四十丁】に、越(ノ)國(ノ)立《タチ》山(ノ)長歌に、之良久母能《シラクモノ》、知邊乎於之和氣《チヘヲオシワケ》、安麻曾々理《アマソソリ》、多可舌多知夜麻《タカキタチヤマ》とある、安麻曾々理《アマソソリ》も、此(ノ)山の甚《イト》高くして、天に進《スス》み登《ノボ》る状《サマ》なるを、思ひ合すべし、【俗《ヨ》に、人の心の浮立進《ウキタチスス》むを、そゝると云も同じ、】然るを書紀に、此(ノ)御名を、火闌降とも書れたる文字は、撰者《ツクレルヒト》の誤《ヒガコト》にぞありける、【其故は、此(ノ)神の生(レ)坐るは、始(メテ)起(ル)烟(ノ)末(ニ)とも、焔(ノ)初(メニ)起(ル)時(ニ)とも、また火炎盛(ナル)時(ニ)ともあれば、此(ノ)御名は、闌降の意なるべき由なし、闌は、衰也とも、殘也とも注せる字なれば、一書に、次(ニ)火炎衰(ル)時(ニ)云々名(ハ)火折(ノ)命とある、火折《ホヲリ》にこそ、よくかなふべき字なれ、然るを初(メテ)起(ル)時に生坐る御子の御名にしも、此(ノ)字を當《アテ》られたるは、進昇《ススミノボ》ると、衰降《オトロヘクダ》ると、反對《ウラウヘ》の違ひなるをや、】
〇火遠理《ホヲリノ》 命、これも火之《ホノ》と訓(ム)はわろきこと、上の二柱に同じ、此《コ》は火の衰へたる時に生《アレ》ませる故の御名にて、火弱《ホヨワ》りの義《ココロ》なり、書紀一書に、火夜織《ホヨオリノ》命ともあるを以て知(ル)べし、【本與《ホヨ》を切《ツヅ》むれば、本《ホ》となり、和《ワ》と袁《ヲ》と通ふ例は、たわやめたをやめ、たわむとをむ、たわゝとをゝ、わなゝくをのゝくなどのごとし、但し折と織と、袁《ヲ》淤《オ》の通ひたる例はめづらし、】又一書に、次(ニ)避《サル》2火炎《ホノホ》1時(ニ)生(ル)兒、火折《ホヲリ》彦火々出見(ノ)尊、また一書に、次(ニ)火炎衰《ホノホシメル》時(ニ)躡誥《フミタケビテ》出(ル)兒、亦|言《ナノリタマフ》2吾是《アハ》天(ツ)神(ノ)之|子《ミコ》名(ハ)火折(ノ)命(ト)1、などもあり、さて右の三柱の中に、終(リ)に火の衰へたる時に生《アレ》坐る御子しも、天津日嗣《アマツヒツギ》を所知看《シロシメ》しけることは、如何《イカ》なる故にか、知(リ)がたけれど、こゝろみに云(ハ)ば、此(ノ)御子|等《タチ》は、父尊の御疑《ミウタガヒ》を明《アキラ》め奉むとして、かく火中《ホナカ》に在て産《ウミ》坐るを、初(メ)に火の發《オコ》れるほどは、御疑(ヒ)いまだ明《ハレ》ざるべく、熾《サカリ》に燃《モユ》るほども、なほ燒《ヤケ》む燒《ヤ》けじは、未(ダ)定めがたかるべきを、其火既に盛(リ)過て、衰(フ)る時に至りてぞ、御母《ミオヤ》も御子も、終《ツヒ》に所燒《ヤケ》坐(サ)ざること定まりて、實に天(ツ)神の御子に坐(ス)徴驗《シルシ》は明らかなりける故に、終《ヲハ》りに生《アレ》坐るが貴きことわりならむか、【かの伊邪那岐(ノ)大神の、阿波岐原の御禊の時も、最後《イヤハテ》に生坐る三柱(ノ)御子ぞ、殊に貴く坐ける、其《ソレ》も漸に穢の除《ノゾコ》りて後、清明《キヨ》かりしこと、此《ココ》もこゝろばへ似たり、】
〇天津日高《アマツヒダカ》は、父尊の御名にて、【傳十五の三葉に出(ヅ)、】傳へ負(ヒ)賜へるなり、
〇日子穗々手見《ヒコホホデミノ》命、穗々《ホホ》は稲穗《イナホ》にて、即(チ)字の如く、重ね云るか、又|大穗《オホホ》にてもあるべし、【大《オホ》を、意《オ》を省きて、富《ホ》と云る例、傳七、忍穗耳(ノ)命の處に委(ク)云るがごとし、】穗々《ホホ》と云例は、書紀一書に、邇々藝《ニニギノ》命を、天之杵火々置瀬《アメノキホホオキセノ》尊ともあり、此(ノ)火々《ホホ》も、稲穗に依れり、【稲穗は、天津日嗣に、重き由縁《ヨシ》あること、上に處々云るが如し、考(ヘ)合すべし、然るにこれらの富々《ホホ》を、書紀の字に依て、火の意とするは非なり、火折《ホヲリ》こそ、生坐る時の火に因れる御名なれ、此(ノ)亦(ノ)御名は、天津日嗣しろしめしての御稱名《ミタタヘナ》にて、彼(ノ)火に因れることには非ず、故(レ)此(ノ)記に、火照火須勢理火遠理と、火に因れる御名には、皆火(ノ)字を書るに、同じつゞきにて、此(ノ)御名のみは、穗(ノ)字を書て、別《ワケ》たるを以ても知べし、但(シ)書紀には、或は彦火々出見(ノ)尊とのみありて、火折てふ御名をば出さず、或は出しながら、亦(ノ)御名とせるなどは、火々出見と申す方を、火明などと並べて、火の義に取れる傳(ヘ)なり、されど其《ソ》はもと混《マガ》ひつるものにて、正しからず、此(ノ)記|及《マタ》一書に、火折(ノ)尊|亦號《マタノミナハ》彦火々出見(ノ)尊とあるぞ、正しかるけり、】手《テ》は根《ネ》に通ひ、見《ミ》は耳《ミミ》と同くて、並《ミナ》美稱《タタヘナ》なり、手《デ》てふ例は、八嶋手《ヤシマデ》【須佐之男(ノ)命の御子にて、書紀に見ゆ、】などあり、又|宇麻志麻遲《ウマシマヂノ》命を、書紀には可美眞手《ウマシマデ》とあれば、手《デ》は遲《ヂ》と通ふにもあるべし、其《ソレ》も同く美稱《タタヘナ》なり、【根《ネ》又|遲《ヂ》などの稱名《タタヘナ》の例は、常多し、又|見《ミ》耳《ミミ》の事は、傳七の五十四葉、五十五葉に委く云り、】手見《デミ》と連《ツヅ》ける例は、浮穴(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の御名、師木津日子玉手見《シキツヒコタマデミノ》命これなり、【さて書紀に、火折(ノ)命と彦火々出見(ノ)尊とを、二柱としたる一書あり、そはいたく異なる傳(ヘ)なり、また火夜織(ノ)命次(ニ)彦火々出見(ノ)尊とあるもあり、火夜織は火折なれば、是(レ)も二柱とせる傳(ヘ)なり、又火折彦火々出見(ノ)尊と、二(ツ)の御名を、一(ツ)に連《ツラ》ねて擧たる傳(ヘ)もあり、】さて白檮原《カシバラノ》宮(ニ)御宇(シシ)天皇をも、彦火々出見(ノ)尊と申せるよし、書紀に見えたり、天津日嗣に由ある稲穗を以て、美稱《タタヘ》奉れる御號《ミナ》なる故に、又傳(ヘ)負(ヒ)賜へりしなり、
 
古事記傳十七之卷
                    木居宣長謹撰
 
 神代十五之卷《カミヨノトヲマリイツマキトイフマキ》
 
故火照命者《カレホデリノミコトハ》。爲海佐知毘古《ウミサチビコトシ》【此四字以音下效此】而《テ》。取鰭廣物鰭狹物《ハタノヒロモノハタノサモノヲトリタマヒ》。火遠理命者《ホヲリノミコトハ》。爲山佐知毘古而《ヤマサチビコトシテ》。取毛※[鹿三つ]物毛柔物《ケノアラモノケノニコモノヲトリタマヒキ》。爾火遠理命謂其兄火照命《ココニホヲリノミコトソノイロセホデリノミコトニ》。各相易佐知欲用《カタミニサチヲカヘテモチヒテムトイヒテ》。三度雖乞《ミタビコハシシカドモ》。不許《ユルサザリキ》。然遂纔得相易《シカレドモツヒニワヅカニエカヘタマヒキ》。爾火遠理命《カレホヲリノミコト》。以海佐知釣魚《ウミサチヲモチテナツラスニ》。都不得一魚《カツテヒトツモエタマハズ》。亦其鉤失海《マタソノツリバリヲサヘウミニウシナヒタマヒキ》。於是其兄火照命乞其鉤曰《ココニソノイロセホデリノミコトソノハリヲコヒテ》。山佐知母己之佐知佐知《ヤマサチモオノガサチサチ》。海佐知母己之佐知佐知《ウミサチモオノガサチサチ》。今各謂返佐知之時《イマハオノオノサチカヘサムトイフトキニ》。【佐知二字以音】其弟火遠理命答曰《ソノイロトホヲリノミコトノリタマハク》。汝鉤者《ミマシノツリバリハ》。釣魚不得一魚《ナツリシニヒトツモエズテ》。遂失海然《ツヒニウミニウシナヒテキトノリタマヘドモ》。其兄強乞徴《ソノイロセアナガチニコヒハタリキ》。故其弟《カレソノイロト》。破御佩之十拳劔《ミハカシノトツカツルギヲヤブリテ》。作五百鉤雖償《イホハリヲツクリテツグノヒタマヘドモ》。不取《トラズ》。亦作一千鉤雖償《マタチハリヲツクリテツグノヒタマヘドモ》。不受《ウケズテ》。云猶欲得其正本鉤《ナホカノモトノハリヲエムトゾイヒケル》。
海佐知山佐知は、直《タダ》に宇美佐知夜麻佐知《ウミサチヤマサチ》と訓べし、【海之山之《ウミノヤマノ》と、之《ノ》を添(フ)るはわろし、】下なるも皆同じ、書紀に、海幸山幸と書て、宰此(ヲ)云2左知《サチト》1とあれども、幸の意のみには非ず、【幸とのみ心得ては、下に至(リ)てかなはぬことあり、其由は其處に云べし、】佐知《サチ》は、幸取《サキトリ》にて、伎《キ》を省《ハブ》き、登理《トリ》を切《ツヅ》めて、知《チ》と云なり、【登理《トリ》を知《チ》と云例多し、】さてまづ幸《サキ》とは、凡て身のために吉《ヨ》き事を云、【福(ノ)字をも書り、】此《ココ》にては、海にて諸(ノ)魚を得(ル)を、海佐伎《ウミサキ》と云(ヒ)、山にて諸(ノ)獣を得るを、山佐伎《ヤマサキ》と云(フ)、凡て物を得るは、身のために吉事《ヨキコト》なる故に、幸《サキ》と云なり、さて其(ノ)海山の佐伎《サキ》を取(リ)賜ふを以て、幸取彦《サキトリビコ》と申せるなり、次の文《コトバ》に、取2鰭(ノ)云々(ヲ)1、取2毛(ノ)云々(ヲ)1、とある取《トリ》を思ふべし、萬葉一【二十六丁】二【四十四丁】六【十四丁】などに得物矢《サツヤ》、【此(レ)をトモヤと訓るは、誤なり、師のサツヤと訓れたるぞ、よくあたれる、】五【九丁】に佐都由美《サツユミ》、三【十八丁】に山能佐都雄《ヤマノサツヲ》、十【三十九丁四十丁】に薩雄《サツヲ》、又【五丁】佐豆人《サツヒト》、などある佐都《サツ》も、佐知《サチ》と同じ、薩摩《サツマ》てふ地(ノ)名も、此(ノ)幸取彦《サチビコ》たちの、住(ミ)給へりしにぞ因(リ)つらむ、日本紀竟宴(ノ)歌に、火遠理(ノ)命を夜麻讃智比胡《ヤマサチビコ》とよめり、
〇鰭廣物鰭狹物《ハタノヒロモノハタノサモノ》は、上に出(ヅ)、【傳十六の十五葉】
〇毛麁物毛柔物は、氣能阿羅母能《ケノアラモノ》、氣能爾古母能《ケノニコモノ》と訓べし、【廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)辭に、和支物荒支物《ニコキモノアラキモノ》とあるに依て、伎《キ》を添て讀(ム)は、中々にわろきこと、上に云るが如し、】諸(ノ)獣を云る古(ヘ)の雅言《ミヤビコト》なり、氣母能《ケモノ》又|氣陀母能《ケダモノ》も、毛を以て云る名にて同じ、【和名抄に、獣を介毛乃《ケモノ》、畜を介太毛乃《ケダモノ》と分《ワケ》たるは、いかなる由にか、介太毛乃《ケダモノ》も、毛津物《ケツモノ》とこそ聞えたれ、】書紀|保食《ウケモチノ》神(ノ)段に、又|嚮《ムカヘバ》v山(ニ)、則|毛麁毛柔亦《ケノアラモノケノニコモノモ》自(リ)v口|出《イデキ》、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)祝詞に、山爾住物者《ヤマニスムモノハ》、毛乃和物毛乃荒物《ケノニコモノケノアラモノ》、【遷却祟神祝詞にもかくあり、】道饗(ノ)祭(ノ)祝詞に、山野爾住物者《ヌヤマニスムモノハ》、毛能和物毛能荒物《ケノニコモノケノアラモノ》など見ゆ、書紀に、兄《イロセ》火闌降(ノ)命(ハ)、自有海幸《オノヅカラウミサチ》、弟《イロト》彦火々出見(ノ)尊(ハ)自有山幸《オノヅカラヤマサチニマシキ》、一書に、兄火酢芹(ノ)命(ハ)、能得海幸《ウミサチナリ》、故(レ)號《イフ》2海幸彦《ウミサチビコト》1、弟彦火々出見(ノ)尊(ハ)、能得山幸《ヤマサチニマセリ》、故(レ)號《マヲス》2山幸彦《ヤマサチビコト》1、兄(ハ)則|毎《ゴトニ》2有風雨《アメフリカゼフク》1、輒|失《エズ》2其(ノ)利《サチヲ》1、弟(ハ)則|雖《ドモ》2逢風雨《アメフリカゼフケ》1、其(ノ)幸《サチ》不(リキ)v惑《タガハ》、また一書に、兄火酢芹(ノ)命(ハ)、得山幸利《ヤマサチ》、弟火折(ノ)尊(ハ)、得海幸利《ウミサチニマシキ》、【此(レ)は海と山とを、相誤れる傳へなり、】
〇各は、師の加多美邇《カタミニ》と訓れたる宜し、互《タガヒ》になり 此(ノ)言、欲用《モチヒテム》と云までへ係《カカ》れり、
〇欲用は、母知比弖牟《モチヒテム》と訓べし、【舊印本などに、欲(ノ)字なきは、わろし、今は眞福寺本延佳本などに依れり、】用の假字は、源(ノ)仲正(ノ)家(ノ)集に、元日(ノ)戀、千代までも影をならべて逢(ヒ)見むと祝ふ鏡の用ひざらめや、【夫木集卅二に載れり、又後なれど、藤原(ノ)經衡(ノ)家集にも、此(ノ)同(ジ)人宇治殿にて、餅《モチヒ》をおこすとて、肴には何もあれども此(ノ)中に心につかば是を用ひよ、かへし、君が代を心用ひのうれしきはいかなる人のなさけなるらむ、】と餅《もちひ》に云(ヒ)かけたるに依(リ)て定めつ、【仲正は後撰集の作者《ヨミビト》なれば、いまだ假字の亂れざりしほどなり、もちひもちふももちふると活用《はたら》く言にて、戀《コヒ》強《シヒ》などと同格の活《ハタラ》きなり、】さて此《ココ》の佐知《サチ》も、【下なるも皆同じ、】上の海佐知山佐知の佐知と同くて、幸取《サキトリ》ながら、上なるは幸《サキ》を取(ル)人を指(シ)て云(ヒ)、【又|毘古《ヒコ》とつゞければ、取《チ》は、たゞに取(ル)事を指(ス)としても可《ヨ》し、さて其人を指て、某取《ナニトリ》と云例は、水取《モヒトリ》※[木+施の旁]取《カヂトリ》などのたぐひなり、此(ノ)例なほ他《アダ》し言にも多かり、】此處《ココ》なるは、幸《サキ》を取(ル)具《モノ》を指(シ)て云るなり、【欲用《モチヒテム》とあるを以て、其(ノ)具を指て云るなることをさとるべし、】凡て用の言の、其(ノ)具《モノ》の名ともなれる例多き中に、火を取(ル)器を、火取《ヒトリ》と云など、【和名抄に、薫爐(ハ)比度利、】正《マサ》しく同じ、然れば海幸取彦《ウミサチビコ》の幸取《サチ》は、海にして魚を取(ル)具にて、釣鉤《ツリバリ》などなり、【即書紀に、幸鉤《サチバリ》ともあり、幸取鉤《サキトリバリ》なり、】山幸取彦《ヤマサチビコ》の幸取《サチ》は、山にして獣を取(ル)具にて、弓矢などなり、【即書紀に、幸弓《サチユミ》ともあり、幸取《サキトリ》弓なり、さて佐知と云ことを、幸とのみ心得てはたがふと云こと、此《ココ》にて知(ル)べし、書紀に、欲v易v幸(ヲ)と書れたれども、幸を易《カフ》とては、文字のうへ聞えがたし、取(ル)v幸(ヲ)具を易《カヘ》むと云意ならでは、聞えぬ事ぞかし、】
〇不許は、由流佐邪理伎《ユルサザリキ》と訓べし、【師は、ウナヅルサヾリキと訓れき、書紀に、不聽などを然訓り、此(レ)も古言とは聞ゆれども、たしかなる例を未(ダ)見ず、由流須《ユルス》と云言は、武烈紀平群(ノ)臣鮪の歌にも有て、慥なり、】
〇纔《ワヅカニ》は、事の、かつ/”\に、始めて其(ノ)處に及びたる如き意にて、【纔(ノ)字の注に、一入《ヒトシホノ》色(ノ)之淺(キ)也とも、始也とも、甫爾《ハジメチシカル》也とも見え、また僅(ノ)字の注に、纔(ニ)能(スル)也ともある、よく叶へり、此(ノ)意より點りて、少許《スコシバカリ》のことをも、和豆加《ワヅカ》といへども、此《ココ》は其意にはあらず、】此《ココ》は、三度まで乞《コヒ》賜へども.許さぬを、なほ強《シヒ》て乞て、辛《カラ》くしてかつ/”\に易《カヘ》賜ふを云なり、【俗言に、やうやうと易《カヘ》たりと云意なり、】
〇得相易は、延加幣賜比伎《エカヘタマヒキ》と訓べし、得を、延《エ》と先(ヅ)讀(ム)べき由は、上【傳十二の十七葉】に委曲《ツバラ》に云り、さて此(ノ)幸取易《サチカヘ》の事、此(ノ)記にては、弟(ノ)命の御方より乞《コヒ》賜へるなり、書紀は、本書|及《マタ》一書にては、兄弟|互《タガヒ》に相語らひて、易《カヘ》給へるなり、又の一書にては、兄(ノ)命の方より乞《コヒ》賜へるなり、此(ノ)三(ツ)の傳(ヘ)の中に、兄(ノ)命の方より乞腸へるぞ、此(ノ)段の終(リ)までの趣に、よく叶へりける、なほ其(ノ)傳(ヘ)には、はじめに、兄(ハ)則毎(ニ)2有風雨《アメフリカゼフク》1、輒|失《エズ》2其(ノ)利《サキヲ》1、弟(ハ)則|雖《ドモ》2逢風雨《アメフリカゼフケ》1、其(ノ)幸《サチ》不(リキ)v惑《タガハ》とあれば、易《カヘ》てむと所欲《オモホセ》る由縁《ユヱヨシ》さへ知られて、いよゝ明らけし、然れば、此(ノ)記の傳(ヘ)は、紛《マガ》ひ誤れる物なるべし、
〇海佐知《ウミサチ》、これも海にて幸《サキ》を取る具をいふこと、上に同じ、【これ又佐知をたゞ幸の意とするときは以2海佐知(ヲ)1釣v魚と云こと、聞えがたし、】書紀に、弟持(テ)2兄(ノ)之|幸鉤《サチバリヲ》1入《イデテ》v海(ニ)釣魚《ナツラス》、また弟取(テ)2兄(ノ)釣鉤《ツリバリヲ》入《イデテ》v海(ニ)釣魚《ナツラス》、などあると、照して知(ル)べし、【師は、此(ノ)記にも、佐知の下に鉤(ノ)字|脱《オチ》たらむ、と云れつれど、其《ソ》は佐知を、たゞ幸の意に見られたるからなり、幸取《サキトリ》の意と見るときは、
鉤といはざれども、鉤のことになるなり、】
〇釣魚は、那都良須爾《ナツラスニ》と訓べし、魚を那《ナ》と云ことは、上に出たり、【傳十四の七十一葉】萬葉五【二十三丁】に、多良志比賣《タラシヒメ》、可美能美許登能《カミノミコトノ》、奈都良須等《ナツラスト》、美多々志世利斯《ミタタシセリシ》、伊志遠多禮美吉《イシヲタレミキ》、和名抄に、聲類(ニ)云(ク)、釣(ハ)、設(テ)2鉤餌(ヲ)1取(ル)v魚(ヲ)也(ト)、和名|都理《ツリ》、字鏡に、釣(ハ)伊乎豆留《イヲツル》、
〇都は、加都弖《カツテ》と訓べし、萬葉四【四十三丁】に、花勝見都毛不知戀裳摺可聞《ハナカツミカツテモシラヌコヒモスルカモ》、十【十九丁】に、木高者曾木不殖《コダカクハカツテキウヱジ》、十三【二十四丁】に、戀云物者都不止來《コヒチフモノハカツテヤマズケリ》、【此(ノ)都は、今(ノ)本には、スベテと訓(メ)れど、四(ノ)卷なるに效(ヒ)て、カツテと訓べし、】
〇不得一魚は、比登都母延賜波受《ヒトツモエタマハズ》と訓べし、【漢文ざまに一魚とは書たれど、魚は上にあれば、又讀(マ)むは煩(ハ)し、】
〇鉤は都理婆理《ツリバリ》と訓べし、【書紀にて、此(ノ)段の鉤(ノ)字を、みな知《チ》と訓て、古(ノ)名と心得、或は其(ノ)知を、都理婆理《ツリバリ》の切《ツヅ》まりたる名なりとするなどは、ひがことなり、そも/\此(レ)を知《チ》と訓ることは、もと彼(ノ)紀に、踉※[足+旁]鉤、此(ヲ)云2須々能美※[月+貳]《ススノミヂト》1、などあるより出(デ)、又此(ノ)記に、海佐知などある知をも、鉤と心得、彼(レ)此(レ)を以て、まぎれ誤りたるものなり、かの須々能美※[月+貳]《ススノミヂ》などの※[月+貳]《ヂ》も、鉤(ノ)字にあたりたる言にはあらず、其由は、下に委(ク)云べし、】波理《ハリ》と云は、もと物縫針《モノヌフハリ》の名にて、其《ソ》を曲《マゲ》て、釣《ツリ》に用ふるを、釣針《ツリバリ》と云なり、【書紀神功(ノ)卷に、勾《マゲテ》v針(ヲ)爲v鉤《ツリバリト》、とあるが如し、或人、翻譯名義集に、婆利、翻(ス)2曲鉤(ト)1、と云るを引て、波理《ハリ》は梵語なりと云るは、本末を辨へざるひが説《コト》なり、曲鉤は、波理《ハリ》の本(ノ)義《ココロ》に非れば、末の自《オ》似たるにこそあれ、】さて此(ノ)鉤の下に、佐閇《サヘ》と云辭を添(ヘ)て讀べし、魚を得給はざるのみならず、鉤《ツリバリ》をさへ失ひ賜ふなり、【書紀には此(ノ)處に、兄(ノ)命の山に入て、獣を獵れるに、其《ソレ》も得ざりし事もあるを、此(ノ)記には、たゞ海の方の事のみを云るは、山の方の事は、用なき故に、略けるなるべし、】
〇失《ウシナヒ》v海(ニ)、失《ウシナフ》てふ言は、萬葉十五【三十四丁】に、安我之多其呂母《アガシタゴロモ》、宇思奈波受《ウシナハズ》、
〇乞2其鉤(ヲ)1、この鉤は、たゞ波理《ハリ》と訓べし、【初(メ)につりばりと云(ヒ)つれば、次々はたゞ波理《ハリ》と云ぞ、語の定まれる法《ノリ》なる、】
〇山佐知母《ヤマサチモ》云々、海佐知母《ウミサチモ》云々、こゝの佐知も、皆|幸取《サキトリ》にて、其(ノ)具を云ること、上に同じ、母《モ》は辭《テニヲハ》なり、己之《オノガ》は、人人の己己之《オノレオノレガ》なり、【俗言に、面々之《メンメンノ》、また手前手前之《テマヘテマヘノ》、など云が如し、火照(ノ)命の自《ミ》云(フ)己《オノレ》にはあらず、】佐知佐知《サチサチ》と重ね云は、凡て物を相(ヒ)對へて云ときの古言の格《サマ》にて、山佐知の方は、海佐知に對へ、海佐知の方は、山佐知に對へて云るなり、さる例は、萬葉九【三十三丁】に、遠津國黄泉乃界丹《トホツクニヨミノサカヒニ》、蔓都多乃各々向々《ハフツタノオノオノムキムキ》、天雲乃別右往者《アマグモノワカレシイヌレバ》、こは弟の身まかれるをよめるにて、只一人の事なるを、向々《ムキムキ》と重(ネ)言(ヘ)る、これ此(ノ)世に留《トドマ》れる吾身に對へてなり、又古今集戀(ノ)歌に、思ふどち一人一人《ヒトリヒトリ》が戀(ヒ)死なば、誰によそへて藤衣|着《キ》む、此《コ》は思交《オモヒカハ》せる男と女の中《ウチ》に、何方《イヅカタ》にまれ、一人が若(シ)戀(ヒ)死なば、と云意なるを、一人々々《ヒトリヒトリ》と云る、此(レ)も今一人に對へてなり、【竹取物語に、一人々々《ヒトリヒトリ》に逢《アヒ》給へ、此(レ)も幾人《イクタリ》もある中にて、何《イヅ》れにまれ一人と云るにて、其(ノ)餘の人に對へて云り、大和物語に、一人々々に逢《アヒ》なば、これも同じ、源氏物語若菜に、一人々々罪なきときには、椎本に、一人々々なからましかば、などあるも、皆二人の間にて、何方《イヅカタ》にまれ一人にて、今一人に對(ヘ)言(ヘ)り、今(ノ)世の心以て思へば、一人々々は、一人毎《ヒトリゴト》と云が如く聞ゆれども、然に非ず、又からぷみ禮記(ノ)曲禮に、二名(ハ)不2偏諱《ヒトツヒトツイマ》1と云る、二名とは、二字の名を云り、こは二字の名の中にて、上(ノ)字にまれ下(ノ)字にまれ、離して一字は諱《イマ》ず、と云ことなるに、偏をヒトツ/\と訓るも、古言の例によく當れることなり、大かたこれらを以て曉《サト》るべし、】山佐知母海佐知母《ヤマサチモウミサチモ》、己己之佐知々々《オノレオノレガサチサチ》と見れば、早く心得らるゝなり、
〇今は、伊麻波《イマハ》と訓べし、【俗言に母波夜《モハヤ》と云に當れり、】
〇各は、此《ココ》は淤能淤能《オノオノ》と訓て宜し、さて此處の語の凡ての意は、山幸取《ヤマサチ》の弓矢も、海幸取《ウミサチ》の釣鉤《ツリバリ》も、己(レ)己(レ)が本より得たる幸取《サチ》なれば、久しく易置《カヘオク》べきに非ず、互《タガヒ》に既に試《ココロミ》つれば、今は己々《オノオノ》本の如く返さむとなり、
〇強は、阿那賀知爾《アナガチニ》と訓べし、書紀に多く然訓り、【此(ノ)言は、孔穿《アナウガチ》にと云ことなるべし、】
〇乞徴は、許此波多理伎《コヒハタリキ》と訓べし、萬葉十六【二十二丁】に、課役徴者《エツキハタラバ》、
〇破は夜夫理弖《ヤブリテ》と訓べし、凡て夜夫流《ヤブル》は、成《ナス》の反對《ウラ》にて、壞(ノ)字毀(ノ)字などをも當《アテ》たる、其意なり、劔をやぶるは、銷鑠《ケス》を云、
〇五百鉤は伊富波理《イホハリ》、
〇一千鉤は知波理《チハリ》と訓べし、
〇償は、都具能比《ツグノヒ》と訓べし、字鏡に、※[人偏+貳](ハ)豆久乃布《ツグノフ》、また ※[人偏+肖](ハ)還也復也報也、豆久乃布《ツグノフ》などあり、【償(ハ)字書に、酬也とも、報也」とも、還(ヘス)v所(ヲ)v直也とも注せり、】
〇猶《ナホ》は、左右《カニカク》に償《ツグノ》ふを聽《キカ》ずして、其《ソレ》は猶不欲《ナホイナ》、といふ意より云る言にして、押《オシ》てひたぶるに乞(フ)意になるなり、【俗言に、是非《ゼヒ》とも、どう有《アツ》てもと云意になるなり、さて物語文などに、物を彼此《カレコレ》といろ/\に試み考へて、他《ホカ》は何《イヅ》れも宜しからず、猶此《ナホコレ》こそ宜しけれと、終《ツヒ》に一(ツ)に思(ヒ)定むる處に云る猶《ナホ》も、是なり、】また云(ノ)字の上にある意として、猶云《ナホイフ》と見ても通《キコ》ゆ、【其時は、よのつねの猶《ナホ》なり、】
〇其正本鉤は、加能母登能波理《カノモトノハリ》と訓べし、【正(ノ)字は、讀(ム)べからず、】下には其本鉤とあり、【書紀にも、故《モトノ》鉤とあり、】書紀に、始(メニ)兄弟二人|相謂曰《カタラヒタマハク》、試(ニ)欲易幸《サチヲカヘテム》、遂(ニ)相易之《カヘタマヘルニ》、各《オノモオノモ》不v得2其(ノ)利《サキヲ》1、兄|悔《クイテ》之乃還(シテ)2弟(ノ)弓箭(ヲ)1、而乞2己(ガ)釣鉤《ツリバリヲ》1、弟時(ニ)既(ニ)失(ヒテ)2兄(ノ)鉤(ヲ)1、無由訪覓《マグヨシナシ》、故(レ)別《コトニ》作(テ)2新鉤《ニヒハリヲ》1與v兄(ニ)、兄|不肯受《エウケズシテ》、而|責《ハタリキ》2其(ノ)故鉤《モトノハリヲ》1、弟|患之《ウレヒテ》、即|以《ヲ》2其(ノ)横刀《タチ》1鍛《ヤブリテ》作(リ)2新鉤(ヲ)1、盛《モリテ》2一箕《ヒトミニ》1而|與之《アタヘタマヘバ》、兄|忿之《イカリテ》、曰(テ)d非(ズハ)2我(ガ)故鉤《モトノハリニ》1雖多不取《サハナリトモトラジト》u、益復責《マスマスセメハタリキ》、また一書に、時(ニ)兄弟|欲《ス》3互《カタミニ》易(ムト)2其(ノ)幸《サチヲ》1、故(レ)兄持(テ)2弟(ノ)之幸弓《サチユミヲ》1、入(リテ)v山(ニ)覓《マクニ》v獣《シシヲ》終(ニ)不v見2獣之乾迹《シシノカラトヲダニモ》1、弟持(テ)2兄(ノ)之|幸鉤《サチバリヲ》1、入《イデテ》v海(ニ)釣魚《ナツラスニ》、殊無所獲《カツテヒトツモエタマハズテ》、遂(ニ)失2其(ノ)鉤(ヲ)1、また一書に、時(ニ)兄謂v弟(ニ)曰、吾試(ニ)欲《ム》2與《ト》v汝|換《カヘ》1v幸《サチヲ》、弟|許諾《ウベナヒタマヒ》云々、倶(ニ)不v得vレ利《サキヲ》、空手來歸《ムナデニシテカヘリマシヌ》云々、故(レ)別《コトニ》作(テ)2新鉤數千《ニヒハリヤチヂヲ》1、與之《アタヘタマヘバ》、兄怒(テ)不v受、急2責《セメハタリキ》故(ノ)鉤(ヲ)1、
 
於是其弟《ココニソノイロト》。泣患居海邊之時《ウミベタニナキウレヒイマストキニ》。鹽椎神來問曰《シホツチノカミキテトヒケラク》。何虚空津日高之泣患所由《イカニゾソラツヒダカノナキウレヒタマフユヱハトトヘバ》。答言《コタヘタマハク》。我與兄易鉤而《ワレイロセトツリバリヲカヘテ》。失其鉤《ソノハリヲウシナヒテキ》。是乞其鉤故《カクテソノハリコフユヱニ》。雖償多鉤《アマタノハリヲツグノヒシカドモ》。不受《ウケズテ》。云猶欲得其本鉤《ナホソノモトノハリヲエムトイフナリ》。故泣患之《カレナキウレフトノリタマヒキ》。爾鹽椎神《ココニシホツチノカミ》。云我爲汝命作善議《アレナガミコトノミタメニヨキコトバカリセムトイヒテ》。即造无間勝間之小船《スナハチマナシカツマノヲブネヲツクリテ》。載其船以《ソノフネニノセマツリテ》。教曰《ヲシヘケラク》。我押流其船者《アレコノフネヲオシナガサバ》。差暫往《ヤヤシマシイデマセ》。將有味御路《ウマシミチアラム》。乃乘其道往者《スナハチソノミチニノリテイマシナバ》。如魚鱗所造之宮室《イロコノゴトツクレルミヤ》。其綿津見神之宮者也《ソレワタツミノカミノミヤナリ》。到其神御門者《ソノカミノミカドニイタリマシナバ》。傍之井上有湯津香木《カタヘノヰノベニユツカツラアラム》。故坐其木上者《カレソノキノウヘニマシマサバ》。其海神之女《ソノワタノカミノミムスメ》。見相議者也《ミテハカラムモノゾトヲシヘマツリキ》。【訓香木云加都良】
海邊は、宇美辨多《ウミベタ》と訓べし、書紀に海畔《ウミベタ》、古今集【戀三】に、世をうみべたに云々とあり、萬葉十二【廿丁】に、淡海之海《アフミノミ》、邊多波人知《ヘタハヒトシル》、後撰集にへたのみるめ、【萬葉十四に、宇奈比《ウナヒ》と云ることあり、凡て邊《ヘ》を比《ヒ》と云ること、山備《ヤマビ》濱備《ハマビ》の類、古言に多し、然れば宇奈比は、海邊と聞ゆれども、又地(ノ)名かの疑(ヒ)あり、此(ノ)外に、正しく海邊を然云るを、未(ダ)見ざれば、然《サ》は訓がたくなむ、】さて此《ココ》は、海邊《ウミベタ》を先(ヅ)讀て、泣患を後に讀べき語のさまなり、【凡て上に云(フ)と、下に云(フ)とによりて、其(ノ)言、重くも輕くもなることぞ、】
〇鹽椎《シホツチノ》神は、一柱の神(ノ)名には非ず、凡て物をよく知識《シレ》る人を云|稱《ナ》にて、名義《ナノココロ》知識大都知《シリオホツチ》なり、【大は、例の美稱、都知《ツチ》も、野椎《ヌツチノ》神の處に云る如く、例多くして、美稱なり、】書紀には鹽土老翁《シホツチノヲヂ》、また一書に、鹽筒《シホツツ》ともあり、【都知と都々とは、通(フ)音にて同じ、續紀廿九に、賀茂(ノ)朝臣|鹽管《シホツツ》と云人(ノ)名も見ゆ、】老翁《ヲヂ》とは、たゞ尊みても云|稱《ナ》なれど、凡て年老たる人ぞ、物をばよく知識《シレル》ことなれば、此《コ》は實に翁にてもありけむ、【書紀に、有2一長老1とあるは、老翁《ヲヂ》てふ稱に就ての、例の撰者の文にてもあるべし、】さて神武(ノ)卷なる鹽土(ノ)老翁も、物知れる翁といふことなり、又事勝國勝長狹(ノ)神をも、亦(ノ)名鹽土(ノ)老翁とあり、これも物知れりし神にて、此(ノ)稱《ナ》はありしならむ、【帳に、薩摩(ノ)國頴娃(ノ)郡|枚聞《ヒラキキノ》神社あり、こは此段の鹽土(ノ)神を祭れる社なりとぞ、今(ノ)世に開聞《カイモン》が嶽と云これなり、】
〇虚空津日高《ソラツヒダカ》の御事は、下に申すべし、
〇易(ヘテ)v鉤(ヲ)、此(ノ)所いさゝか足《タラ》はず、字の脱《オチ》たるならむと、師は云れき、信《マコト》にかくのみにては、互《タガヒ》に鉤と鉤とを相易《アヒカヘ》賜ひし如く聞えて、紛《マギ》らはし、然れども字の落たる物とも見えず、本よりたゞ如是《カク》ぞ有けむ、さるは弓矢と鉤と易(ヘ)賜へるなれど、弓矢の事は、此《ココ》に用なき故に略きて、一方のみを云るや、古(ノ)文ならむ、
〇汝命は、那賀美許登《ナガミコト》と訓べきこと、上【傳七の五葉】に云るが如し、
〇爲は、美多米爾《ミタメニ》と訓べし、萬葉に、御爲《ミタメ》と多く見ゆ、奉爲と書るをも、然訓(ム)ことなり、
〇議は、許登婆加理《コトバカリ》と訓べし、萬葉四【五十四丁】に、事計爲與《コトバカリセヨ》、十二【十二丁】に、事計吉爲《コトバカリヨクセヨ》、此(ノ)他《ホカ》も多し、〇无間勝間は、麻那志加都麻《マナシカツマ》と訓べし、无間《マナシ》は、書紀に無目と作《カケ》る意なり、【間は借字、】加都麻《カツマ》は、堅津間《カタツマ》の約《ツヅ》まりたるにて、書紀には、即(チ)堅間《カタマ》とあり、【師は、此書紀の字に依て、勝間と書るをも、みな加多麻《カタマ》と訓べし、と云れつれど、此(ノ)記の字《モヂ》づかひ、加多《カタ》に膵などは書ることなし、又次に引る如く、地(ノ)名などにも、加都麻《カツマ》と云る多《オホ》かるをや、然れば古(ヘ)、加多麻《カタマ》とも加都麻《カツマ》とも云りしなり、】こは籠《コ》の、編《アメ》る竹と竹との間(ダ)の堅《カタ》く密《シマ》りて、目の無きを云り、【中卷に八目之荒籠《ヤツメノアラコ》、書紀に大目麁籠《オホメノアラコ》、など云るは、目の麁《アラ》きを云り、さて加多麻《カタマ》と云を、凡て籠《コ》の古(ノ)名と心得て、右の麁籠《アラコ》などをさへに、アラカタマと訓(ム)は非なり、麁きをかたまとは云べき由なし、許《コ》と云ぞ、本より總名《スベナ》にはありける、筥《ハコ》と云も、布多許《フタコ》の切《ツヅマ》りたるにて、もと蓋《フタ》のある籠《コ》の名なり、これらにても、總《スベ》ての名は許《コ》なりしことを知(ル)べし、】萬葉十二【九丁卅四丁卅九丁】に、玉勝間《タマガツマ》とあるも、此(ノ)物なり、【和名抄に、周防國佐波(ノ)郡勝間(ハ)加都萬《カツマ》、讃岐(ノ)國三野(ノ)郡勝間(ハ)加都萬《カツマ》、三代實録卅七に、筑前(ノ)國|賀津萬《カツマノ》神、萬葉十六に、勝間田《カツマダノ》池、これらみな、此(ノ)物に因れる地(ノ)名と聞えたり、加都麻と訓べきこと、これらにてもしるし、又式に紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|堅眞《カタマノ》神社もあり、】さて和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、籠(ハ)竹器也(ト)、和名|古《コ》、また四聲字苑(ニ)云(ク)、※[竹/令]※[竹/青](ハ)小籠也(ト)、漢語抄(ニ)云(ク)賀太美《カタミ》、とある賀太美《カタミ》は、加多麻《カタマ》の轉りたるなり、【古今集よりして後の歌などにも、皆|加多美《カタミ》とのみよめり、さて小籠をしも加多美と云けむは、古(ヘ)と違へり、加多麻はもと、大きなるにも小きにも云りし名なればなり、】
〇小船《ヲブネ》とは、此《ココ》は必しも船の形に造れりとには非じ、何物《ナニ》にまれ乘《ノリ》て水を行(ク)物を、船とは云るなるべし、書紀に以《ヲ》2无目堅間《マナシカタマ》1爲2浮木《ウキキト》1、とあるも同じ、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、艇(ハ)小船也、釋名(ニ)云(ク)、一二人所v乘也、楊氏漢語抄(ニ)云(ク)、艇(ハ)乎夫禰《ヲブネ》、
〇押2流其船(ヲ)1の其は、此《コノ》と云べき處なり、故(レ)今は然訓つ、
〇差暫は、夜々志麻斯《ヤヤシマシ》と訓べし、差を夜々《ヤヤ》と訓るは、萬葉七【二十七丁】にあり、暫は、同十五【十四丁卅一丁】に、思末志久母《シマシクモ》、十八【六丁】に、布禰之麻志可勢《フネシマシカセ》、などあるに依て訓つ、
〇味御路《ウマシミチ》は、書紀に、可怜小汀《ウマシヲバマ》ともありて、可怜此(ヲ)云2于麻師《ウマシト》1と注し、又|可怜御路《ウマシミチ》ともあり、甚善道《イトヨキミチ》と云むが如し、さて此《ココ》に御路と書る、これ美知《ミチ》の本義《モトノココロ》なり、【此處《ココ》にのみ、此(ノ)記にも書紀にも、道と書ずして、御路としも書る所以《ユヱ》は、まづ常には、たゞ知《チ》と云べきにも、美知《ミチ》と云て、けぢめなけれども、美知《ミチ》はもと、道《チ》をほめて、御《ミ》てふ言を添(ヘ)たる名なり、かくて此處《ココ》は、甚善《イトヨキ》道なる由をいふ處にて、美《ミ》てふ言、用有(リ)て重きが故に、本義《モトノココロ》の隨《ママ》に書るなるべし、】
〇乘は、字のまゝに能理弖《ノリテ》と訓べし、此(ノ)道は、尋常《ヨノツネ》の陸《クヌガ》なる道にあらず、水(ノ)中なる故に、乘《ノル》と云る、おもしろし、【萬葉十一に、海原乃路爾乘哉《ウナハラノミチニノリテヤ》云々とよめるは、海路を舟に乘《ノル》を云るなれば、異なり、又靈異記に、乘(ジテ)v路(ニ)而行(ク)時云々ともあるは、路のまに/\など云意にて、これも別《コト》なり、但し此《ココ》も其《ソレ》に准へて、道のまに/\なども訓べきに似たれども、此(ノ)記の例、まに/\と云むに、乘(ノ)字など書べきに非ず、又書紀には、尋《とめて》v路(ヲ)とあれば、此《ココ》も乘(ノ)字は尋を誤れるにや、とも思はるれど、なほ然にはあらじ、】
〇往者は、伊麻志那婆《イマシナバ》と訓べし、凡て由伎坐《ユキマス》と云べきを、伊麻須《イマス》と云ること、古言に常多し、中卷明(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、須久々々登《スクスクト》、和賀伊麻勢婆《ワガイマセバ》、此(ノ)餘《ホカ》萬葉に多く見えたるは、彼(ノ)大御歌の下《トコロ》に引て、委(ク)云べし、【傳卅二の三十九葉】
〇如《ゴト》2魚鱗《イロコノ》1所造之宮室《ツクレルミヤ》、魚鱗は伊呂古《イロコ》と訓べし、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、鱗(ハ)魚(ノ)甲也、文字集略(ニ)云(ク)、龍魚(ノ)之屬(ノ)衣(ヲ)曰(ト)v鱗(ト)、和名|以呂久都《イロクツ》、俗云|伊呂古《イロコ》、字鏡には、鰭(ハ)魚(ノ)脊上(ノ)骨、又|伊呂己《イロコ》とあり、【和名抄に、伊呂久都と云るは心得ず、又伊呂古をば、俗云とあれば、俗には非じ、さて又これを、今は宇呂古《ウロコ》と云(フ)、此(ノ)宇《ウ》と伊《イ》とは、何れか古(ヘ)ならむ、魚をも、中昔には伊袁《イヲ》と云(ヘ)れども、今は多く宇袁《ウヲ》と云を、古言にも宇袁《ウヲ》と云り、然れば鱗も、中昔にこそ伊呂古《イロコ》とのみ云(ヘ)れ、古言は宇呂古《ウロコ》なりけむも知(リ)がたし、されど古書に然云るを未(ダ)見ざれば、姑(ク)和名抄に隨ひて訓るなり、】さて如2魚麟(ノ)1と云は、壯麗《イカメシ》く大きなる宮の、殿門《トノカド》など、數多並立連《アマタナミタチツラナ》りて見ゆる状《サマ》を、譬《タト》へたるなるべし、【屋上《ヤネ》の甍《イラカ》のさまを云るが如くにも聞ゆれども、然にはあらじ、さては所造《ツクレル》と云るにうとし、】うつほ物語藤原(ノ)君(ノ)卷に、四面《シメム》四町の殿に、面《オモテ》ごとに御門を建て、伊呂古《イロコ》の如くに造り重ねたるおとゞに云々、【おとゞほ殿舍《トノ》なり、】又梅(ノ)花笠(ノ)卷に、色々のあげはりを、伊呂古《イロコ》のごと打渡して云々、などいへるも物の稠《シゲ》く重《カサ》なり連《ツラナ》れるさまの譬(ヘ)なり、【からぶみ楚辭の九歌(ノ)河伯(ノ)篇に、魚鱗(ノ)屋兮龍(ノ)堂、注に、言河伯(ノ)所v居、以2魚鱗(ヲ)1蓋v屋(ヲ)、堂畫(ク)2蛟龍(ノ)之文(ヲ)1云々、形容異制、甚鮮好也云々、河伯(ハ)水神也、故(ニ)託(シテ)2魚龍(ノ)之類(ニ)、以爲2宮室(ヲ)1也といひ、また靈|何爲《ナニスレゾ》兮水中(ナル)、注に、言河伯(ノ)之屋、殊(ニ)好(キコト)如(シ)v是(ノ)、何爲(ゾ)居(テ)2水中(ニ)1而沈没(スル)也、また乘(リ)2白※[元/鼈の下](ニ)1兮|逐《シタガフ》2文魚(ヲ)1、また魚隣々(トシテ)兮|※[騰の馬が女]《オクル》v予(ヲ)、注、※[騰の馬が女](ハ)送也、吉江神聞(テ)2己將1v歸(ムト)、亦使(メ)2波流(ヲシテ)滔々(トシテ)來(リ)迎(ヘ)1、河伯遣(ハシテ)v魚(ヲ)、隣々(トシテ)侍從(シテ)而送(ラシム)v我(ヲ)也、など云る、凡て此(ノ)段といとよく似たれば、如2魚鱗(ノ)1造(レル)と云も、此(ノ)文を取て書るかとも云べけれども、彼(レ)は直《タダ》に魚鱗を以て屋を葺《フケ》るよしなり、此《ココ》は其(ノ)状《サマ》を譬へたるなれば、其(ノ)趣異なるをや、なほ又凡ての事の似たることの論ひは、下にあり、】書紀に、其宮也、雉※[土+蝶の旁]整頓、臺宇玲瓏、また城闕崇華、樓臺壯麗、などあるは、ひたぶるに漢文を飾《カザ》れる物にて、さらに古言にかなはざることなり、宮室は、二字を美夜《ミヤ》と訓べし、さて如(ノ)字の上に、有(ノ)字あるべく、若(シ)無くとも、阿良牟《アラム》と云言を讀(ミ)附(ク)べきが如くなれども、上に將《ム》v有(ラ)2味御路1といひ、下にも有《アラム》2湯津香木1と云(ヘ)れば、あまり同言の量《カサナ》らむを厭《イト》ひて、此《ココ》はことさらに省《ハブ》けるならむ、さて有《アラ》むと云(ハ)ざれども、其意と聞えて、足(ラ)はぬこゝちもせず、返りて語の勢(ヒ)宜くぞありける、
〇其《ソレ》は、曾禮《ソレ》と訓べし、上なる物を指(シ)て云言なり、書紀景行(ノ)卷に、有(リ)v女3人《ヲミナ》曰《イフ》2速津媛《ハヤツヒメト》1、爲《ナリキ》2一處(ノ)之|長《ヲサ》1、其《ソレ》聞(テ)2天皇|車駕《イデマセリト》1云々、また以討2土蜘蛛(ヲ)1、若(シ)其《ソレ》畏(リバ)2我(ガ)兵勢(ヲ)1云々、【凡て書紀は、つとめて漢文ざまに書れたるを、これらの其《ソレ》は、漢文の格《サマ》にはたがひて、古言の例なり、まれにはとりはずして、返りてかゝるよきこともあるなり、】萬葉十三【卅丁】に、衣社薄其破者《キヌコソハソレヤブルレバ》、伊勢物語に、女御|高子《タカキコ》と申すいまそかりけり、それうせ給ひて云々、なほ物語|等《ドモ》に此(ノ)たぐひ多く見ゆ、
〇綿津見《ワタツミノ》神は、上に大綿津見(ノ)神ありて、名義《ナノココロ》など其處《ソコ》に云り、又|御禊《ミミソギノ》段に、底中上《ソコナカウヘ》と、三柱(ノ)綿津見(ノ)神あり、其《ソ》は安曇《アヅミノ》連が祖《オヤ》神に坐(ス)よし、其處《ソコ》に見えて、姓氏録に、安曇《アヅミノ》宿禰(ハ)、海神|綿積豐玉彦《ワタツミトヨタマビコノ》神(ノ)子|穗高見《ホダカミノ》命(ノ)之後也とあると、書紀(ノ)此(ノ)段【一書】に、海神豐玉彦とあるとを、合せて見れば、此《ココ》の綿津見(ノ)神は、即(チ)彼(ノ)御禊(ノ)段のなりけり、萬葉九【十八丁】詠(ル)2浦嶋子(ヲ)1歌に、海若《ワタツミノ》、神之宮乃《カミノミヤノ》、内隔之《ウチノヘノ》、細有殿爾《タヘナルトノニ》云々、【此(ノ)歌、凡て此(ノ)段の趣と似たることあり、考へ見べし、】さて海神《ワタノカミ》の宮は、海の底にある國なり、後(ノ)世のなまさかしき説《トキゴト》どもは、古(ヘノ)傳(ヘ)の趣にかなはず、【佛書《ホトケブミ》に龍宮と云る物あり、其(ノ)説《トケ》るさま、あやしきまで此(ノ)段にいとよく似たる處あり、故(レ)書紀の口決纂疏などには、此(ノ)海(ノ)神(ノ)宮を、直《タダ》に龍宮とぞ云れたる、佛書を信《タノ》める人は、然|主客《モトスヱ》の語の別《ワキ》まへだになくて、彼(ノ)所謂《イハユル》龍宮を、主《モト》として云れたるなり、又|漢籍《カラブミ》にもをり/\、水神(ノ)宮の事を云るありて、其《ソレ》はたよく似たる故に、かにかくに此(ノ)段は、異國書《アダシクニブミ》に依て、造れるものかと、疑ふ人あるなり、されどそは、たゞ異國書をのみ信《タノ》みて、皇國の古(ヘノ)傳(ヘ)をば信《ウケ》ざるものなり、凡て皇國のは、其(ノ)書こそ後に出來つれ、其事は、神代より語(リ)傳へ來つるまゝなれば、こよなく古《フル》きを、異國の説どもは、其書こそ、此方《ココ》のよりやゝ先《サキ》なれ、説る事は、己《オノ》がさかしらのみ多くして、古(ヘ)のまゝならねば、返りて皇國書《ミクニブミ》より遙に後なり、然れば此(ノ)段の傳説《ツタヘゴト》は、眞《マコト》なり本なり、佛書の龍宮は、此(ノ)綿津見(ノ)神(ノ)宮の事の、上代におのづから、天竺などにも、かたはし傳はりたるに、種々《クサグサ》の事を造(リ)加《クハ》へて、説たるものなり、又|漢《モロコシ》ぶみにも似たる事のあるも、然なり、そもそも皇國は、萬(ヅノ)國を御照し坐(ス)、天津日(ノ)大御神の本津御國なれば、凡て萬(ヅ)の事も物も、みな皇國ぞ本にして主にして、他國々《アダシクニグニ》へも、おのづから流《ナガ》れ及びたるものにて、相似たることも、もとより多かるは、彼《カレ》が吾(レ)に似たるにこそあれ、吾が彼(レ)に似たるには非ず、然るを世々の物知(リ)人みな、此(ノ)元《ハジメ》の本末をは、得知らずして、たゞ後に萬(ヅ)の事も物も、異國を學び、異國より來り、又物語書などに、異國の故事を取て、作りかへたることのあるなどに傚《ナラ》ひて、萬(ヅ)の事みな、異國を本と心得るから、神代の故事などをさへに、其(ノ)類(ヒ)かと疑ふは、よく異國書に惑へるものなり、よしや本末はしばしおきぬ、天地の中に、人の形を始めて、山川草木、其(ノ)餘《ホカ》の物も、皇國漢天竺と、大かた異なることなく、皆おのづから同じさまなれば、古(ヘ)の傳へ事なども、此方《ココ》と彼方《カシコ》と、などかは同じきこともあらざらむ、同じきからに、必(ズ)彼(レ)を學びたりと思ふは、いと愚なり、人の形も何物《ナニ》も、彼(レ)を學びて造らざれども、おのづから同じきにあらずや、さて又近き代の、なまさかしき人の心には、水(ノ)中に宮室《ミヤ》などのあるべき理(リ)なし、と思ひとるから、かの龍宮などの説をも信《ウケ》ず、此(ノ)段の事をも、實は海底には非ずとして、或は薩摩(ノ)國近き一(ツ)の嶋なりといひ、或は琉球(ノ)國なりといひ、或は對馬なりなども云て、其(ノ)證《シルシ》などをも、とり/”\に云めれど、凡てさる類は、皆古(ヘノ)傳(ヘ)に背《ソム》ける、例の儒者意の私事《ワタクシゴト》なり、さばかりさかしく、漢めきて書れたる書紀にすら、内《イレテ》2彦火々出見(ノ)尊(ヲ)於籠(ノ)中(ニ)1、沈(ム)2之于海(ニ)1、また海(ノ)底(ニ)自(ラ)有(リ)2可怜小汀《ウマシヲハマ》1、などあれば、海(ノ)底なることは、これらの語にても、しるきものをや、】
〇井上は韋能辨《ヰノベ》と訓べし、和名抄に、河内(ノ)國【志紀(ノ)郡】に井於、甲斐(ノ)國【山梨(ノ)郡】に井上と云郷(ノ)名ありて、共に井乃倍《ヰノベ》とあるに依れり、【式に大和(ノ)國平群(ノ)郡|猪上《ヰノベノ》神社、萬葉七に井上《ヰノベ》、これらも地(ノ)名なり、】井のほとりなり、
〇湯津香木《ユツカツラ》の事は、上天若日子(ノ)段に、湯津楓《ユツカツラ》とありて、其處《ソコ》に云り、【傳十三の二十七葉】
〇其(ノ)木(ノ)上《ウヘ》、この上《ウヘ》は、下《モト》に對ふ上《ウヘ》なり、【井(ノ)上の上とは異なり、】次に登《ノボリ》2其(ノ)香木《カツラニ》1とあるにて知(ル)べし、
〇海神は、和多能迦微《ワタノカミ》と訓べし、【他《アダシ》古書には、常に和多都美《ワタツミノ》神にも、海神と書たれど、此(ノ)記には、書(キ)別けたり、】
〇相議者《ハカラムモノゾ》也、こは上大國主(ノ)神(ノ)段に、御祖《ミオヤノ》命|告《ノリタマハク》v子(ニ)云、可2參向《マヰデテヨ》須佐之男(ノ)命(ノ)所坐《マシマス》之根(ノ)堅洲國(ニ)1、必(ズ)其(ノ)大神|議《タバカリタマヒナム》也、とあるに同じ、其(ノ)前後《カミシモ》の凡ての事の趣も、よく似たり、考(ヘ)合すべし、【傳十の卅三葉】さて是(レ)まで、鹽椎(ノ)神の教(ヘ)奉れる語なり、
○註(ニ)、訓香木云々、舊印本などに、訓香云加都良木とあるは、香(ノ)下なる木(ノ)字を、【二行にて並べるに因て、】誤(リ)て良(ノ)下に書るなり、又眞福寺本延佳本などには、香(ノ)下良(ノ)下共に木(ノ)字あり、其《ソレ》も非《ヒガコト》なり、【良(ノ)下に木(ノ)字あるは、決《ウツナ》くわろし、訓を注するに、訓を用ふること、例もことわりもなし、且《ソノウヘ》加都良紀《カツラキ》とは云べくもあらず、若(シ)又|加都良能紀《カツラノキ》ならば、必|能《ノノ》字も有(ル)べきなり、されば此《コレ》は、香(ノ)下なる木を、誤(リ)て良(ノ)下に書る本を見て、香(ノ)下に脱《オチ》たることをばさとりて、補ひながら、良(ノ)下なるが錯《アヤマリ》なることをば、えしらざりしなり、】故(レ)今は一本に從ひつ、書紀一書(ニ)云(ク)、時(ニ)有一長老忽然《アルオキナタチマチ》而|至《キテ》、自|稱《ナノル》2鹽土(ノ)老翁《ヲヂト》1云々、老翁《ヲヂ》即|取《トリイデテ》2嚢(ノ)中(ナル)玄櫛《クシヲ》1、投《ナゲシカバ》v地(ニ)、則|化2成《ナリヌ》五百箇竹林《イホツタカムラニ》1、因《カレ》取(テ)2其(ノ)竹(ヲ)1、作(リ)2大目鹿籠《オホメノアラコヲ》1、内《イレテ》2火々出見(ノ)尊(ヲ)於|籠《コノ》中(ニ)1、投《ナゲイレツ》2之于海(ニ)1、一(ハ)云(ク)、以《ヲ》2無目堅間1爲《シ》2浮木(ト)1、以(テ)2細繩《ホソキナハ》1繋2着《ユヒツケテ》火々出見(ノ)尊(ヲ)1而|沈之《シヅメマツリキ》、所謂(ル)竪間(ハ)是今之之竹籠也、又一書に、是之時弟|往《イデマシテ》2海濱《ウミベタニ》1、※[人偏+互]※[人偏+回]愁吟《ウラブレサマヨヒタマフ》時(ニ)、有川鴈《カハガリノ》嬰《カカリテ》v羂《ワナニ》困厄、即起憐心《クルシムヲミソナハシテアハレトオモホシテ》、解而放去《トキテハナチヤリタマヒキ》、須臾有鹽土《ホドナクシホツチノ》老翁|來《キテ》云々、又一書に、時(ニ)遇《アヘリ》2鹽筒老翁《シホツツノヲヂ》1云々、計曰《ハカリケラク》、海《ワタノ》神(ノ)所乘駿馬者八尋鰐也《ノルヨキウマハヤヒロワニナリ》云々、【文長ければ、此《ココ》には略きぬ、本書《カノフミ》を披きて見べし、】などあり、これら各一(ツ)の傳へなり、
 
故隨教小行《カレヲシヘシマニマニスコシイデマシケルニ》。備如其言《ツブサニソノコトノゴトクナリシカバ》。即登其香木以坐《スナハチソノカツラニノボリテマシマシキ》。爾海神之女豐玉毘賣之從婢《ココニワタノカミノミムスメトトヨタマビメノマカタチ》。持玉器《タマモヒヲモチテ》。將酌水之時《ミヅクマムトスルトキニ》。於井有光《ヰニカゲアリ》。仰見者《アフギテミレバ》。有麗壯夫《ウルハシキヲトコアリ》。【訓壯夫云遠登古下效此】以爲甚異奇《イトアヤシトオモヒキ》。爾火遠理命見其婢《カレホヲリノミコトソノヲミナヲミタマヒテ》。乞欲得水《ミヅヲエシメヨトコヒタマフ》。婢乃酌水《マカタチスナハチミヅヲクミテ》。入玉器貢進《タマモヒニイレテタテマツリキ》。爾不飲水《ココニミヅヲバノミタマハズシテ》。解御頸之※[王+與]《ミクビノタマヲトカシテ》。含口《ミクチニフフミテ》。唾入其玉器《ソノタマモヒニツバキイレタマヒキ》。於是其※[王+與]著器《ココニソノタマイモヒニツキテ》。婢不得離※[王+與]《マカタチタマヲエハナタズ》。故※[王+與]任著《カレタマツケナガラ》。以進豐玉毘賣命《トヨタマビメノミコトニタテマツリキ》。爾見其※[王+與]《カレソノタマヲミテ》。問婢曰。若人有門外哉《マカタチニモシカドノトニヒトアリヤトトヒタマヘバ》。答曰有人坐我井上香木之上《アガヰノベノカツラノウヘニヒトイマス》。甚麗壯夫也《イトウルハシキヲトコニマス》。益我王而甚貴《アガキミニモマサリテイトタフトシ》。故其人乞水故《カレソノヒトミヅヲコハセルユヱニ》。奉水者《タテマツリシカバ》。不飲水《ミヅヲバノマサズテ》。唾入此※[王+與]《コノタマヲナモツバキイレタマヘル》。是不得離故《コレエハナタヌユヱニ》。任入將來而獻《イレナガラモチマヰキテタテマツリヌトマヲシキ》。爾豐玉毘賣命思奇《カレトヨタマビメノミコトアヤシトオモホシテ》。出見《イデミテ》。乃見感《スナハチミメデテ》。目合而《マグハヒシテ》。白其父。曰吾門有麗人《ソノチチニアガカドニウルハシキヒトイマストマヲシタマヒキ》。爾海神自出見云。此人者。天津日高之御子。虚空津日高矣《ココニワタノカミミヅカライデミテコノヒトハアマツヒダカノミコソラツヒダカニマセリトイヒテ》。即於内率入而《スナハチウチニヰテイレマツリテ》。美智皮之疊敷八重《ミチノカハノタタミヤヘヲシキ》。亦※[糸+施の旁]疊八重敷其上《マタキヌダタミヤヘヲソノウヘニシキテ》。坐其上而《ソノウヘニマセマツリテ》。具百取机代物《モモトリノツクエシロノモノヲソナヘテ》。爲御饗《ミアヘシテ》。即令婚其女豐玉毘賣《スナハチソノミムスメトヨタマビメヲアハセマツリキ》。故至三年《カレミトセトイフマデ》。住其國《ソノクニニスミタマヒキ》。
備は都夫佐爾《ツブサニ》と訓べし、上八千矛神の御歌に、麻都夫佐爾《マツブサニ》とあり、漏《オツ》ることなく具備《ソナハ》れる意にて、此《ココ》は、鹽土(ノ)神の教へし如くにて、事々《コトゴト》に【俗言にいふ一々《イチイチ》になり、】違へることなきを云り、さて此(ノ)處の事状《コトノサマ》は、かの教(ヘ)奉りし語に委く云る故に、此《ココ》には略きて、たゞ如2其(ノ)言(ノ)1と云るなり、
〇豐玉毘賣、名(ノ)義、書紀一書に、父神の名豐玉彦とあれば、其《ソレ》に因れるなるべし、【父神の名は、或人の説に、鹽盈珠鹽乾珠を有《タモ》てるによれる名なりと云り、さもあらむか、又たゞ美稱《タタヘナ》にてもあるべし、】但(シ)此(ノ)記にては、父神には其(ノ)名無ければ、豐玉はたゞ比賣の御名にて、容顔《カホ》の美麗《ウルハシ》きを稱《タタ》へたるにもあるべし、山城(ノ)國風土記に、久世(ノ)郡水渡(ノ)社、【祇社】名(ク)2天照高彌牟須比(ノ)命、和多都彌《ワタツミ》豐玉比賣(ノ)命(ト)1と見え、【帳に、水度(ノ)神社三座とある社なり、】神名帳に、阿波(ノ)國名方(ノ)郡|和多都美《ワタツミ》豐玉比賣(ノ)神社あり、【同郡に、天(ノ)石門別豐玉比賣(ノ)神社と云もあり、これは如何《イカ》なる由の名にかあらむ、】
〇從婢は、麻加多知《マカタチ》と訓べし、書紀に此《コレ》を侍者と書き、又欽明卷に從女、遊仙窟に婢また侍婢など、皆然訓り、前子等等《マヘコラタチ》の意なるべし、【幣《ヘ》を省き古良《コラ》を切《ツヅメ》て加《カ》と云】天皇の御前《ミマヘ》に候《サモラ》ふ臣等《オミタチ》を、前《マヘ》つ君【書紀景行(ノ)卷(ノ)歌に、摩幣莵耆彌《マヘツギミ》とあり、後に音便に轉りて、まうちぎみと云、】と云と、意ばへ似たり、子等《コラ》とは、女を云古言なり、萬葉などの歌に多し、【子等《コラ》とは、一人をも云(ヘ)ば、良《ラ》と多知《タチ》と重なること、妨(ゲ)なし】
〇玉器は、多麻母比《タマモヒ》と訓べし、書紀武烈(ノ)卷(ノ)歌に、※[木+施の旁]摩暮比爾《タマモヒニ》、瀰逗佐倍母理《ミヅサヘモリ》【玉※[怨の心が皿]《タマモヒ》に水さへ盛《モリ》なり、】とあり、和名抄瓦器類に、説文(ニ)云(ク)、※[怨の心が皿](ハ)小※[于/皿]也、字亦作v椀(ニ)、辨色立成(ニ)云(ク)、末里《マリ》、俗云|毛比《モヒ》、【毛比《モヒ》はいと古き名なるを、俗云とあるは誤なり、】萬葉四に片※[土+完]《カタモヒ》、【※[土+完](ノ)字は、※[土+宛]の誤(リ)か、】大膳式に、片※[土+宛]十二口、片※[土+宛]四十八口、片※[土+宛]八十七口、豐受(ノ)宮(ノ)儀式帳に、御水《ミモヒ》四|毛比《モヒ》、御水六毛比、など見えたり、【主水《モヒトリ》、又さいばら飛鳥井(ノ)歌に、御母比《ミモヒ》も寒しなど云る母比《モヒ》は、水を云り、但し池川などにたゞある水を、凡て母比とはいはず、母比は、汲て飲む水の名なり、其《ソ》はかの武烈紀の歌などを以て思ふに、盛《モ》る器の名より出たるにやあらむ、】また内膳式に、※[瓦+里]十一口、【汲2運(ブ)水(ヲ)1科、】由加《ユカ》十六口、【汲2運水(ヲ)1料とあり、和名抄に、俗人呼(テ)2大桶(ヲ)1、爲2由加乎介(ト)1、】主水式に、汲(ム)v水(ヲ)料(ノ)器に、缶一口、土※[土+宛]一合、【加(フ)v盤(ヲ)】片盤五口など見え、此(ノ)外も水を盛《モル》器|種々《クサグサ》、式に見えたり、さて後(ノ)世には、井より水を汲揚《クミアグ》るには、必(ズ)繩など着《ツキ》たる都流倍《ツルベ》を用ふる事なれども、【和名抄に、罐(ハ) 汲v水(ヲ)器也、楊氏漢語抄云|都流閇《ツルベ》、】上代の井は、淺き泉なるなども多かりしかば、【今も山里などのは然なり、】盛《モル》器を以て、直《タダ》に汲揚《クミアゲ》もしつとおぼしければ、此《ココ》の玉器《タマモヒ》も、盛(ル)器以て汲(ム)にてもあるべく、又汲(ミ)たるを盛《モ》る料にても有べし、【次の文に、酌(テ)v水(ヲ)入(テ)2玉器(ニ)1貢進とあれば、汲揚るのみの料の器には非ず、】書紀には此《ココ》を、玉※[金+宛]玉壺玉瓶など作《カカ》れたり、皆タマモヒと訓べきなり、【玉※[金+宛]をタマヽリと訓たり、麻理《マリ》も、古き名とは聞えたり、なほ玉※[金+宛]の事は、下卷若櫻(ノ)宮(ノ)段に、隱而大※[金+宛]とある處、傳卅八に云べし、】竹取(ノ)物語に、天人のよそほひしたる女、山中より出來て、銀《シロカネ》のかなまりを持て、水を汲(ミ)ありく云々、
〇有光は、加宜阿理《カゲアリ》と訓べし、書紀に、見《ミテ》v人2影在《ヒトノカゲノアルヲ》於|井中《ヰノウチニ》1とあり、【此《ココ》には、影(ノ)字をかゝずして、光(ノ)字を書るを思へば、比加理《ヒカリ》とも訓べきにや、されど白檮原(ノ)宮(ノ)段に、其(ノ)井|有光《ヒカレリ》、とあるなどとは異《コト》にして、是(レ)は光明《ヒカリ》のあるには非ず、たゞ影を云なり、加宜《カゲ》は、かゞやくかぎろひなど云、かゞかぎなどと、本同言なれば、比加里《ヒカリ》と云ても、終《ツヒ》には同意になるなり、】火遠理(ノ)命の樹(ノ)上に坐す影の、井の水にうつりて見え賜ふなり、
〇註(ニ)、訓壯夫云々、此(ノ)注は、既に上大穴牟遲(ノ)神(ノ)段に有れば、又|此處《ココ》には無くてありなむ、
〇見其婢、この婢は、袁美那《ヲミナ》と訓べし、
〇乞欲得水は、美豆袁延志米余登許比賜《ミヅヲエシメヨトコヒタマフ》と訓べし【えしめよは、えさせよと云むがごとし、】萬葉廿【十丁】に、山人乃和禮爾依志米之夜麻都刀曾許禮《ヤマビトノワレニエシメシヤマヅトゾコレ》、
〇婢乃、この婢は、又|麻加多知《マカタチ》と訓べし、
〇御頸之※[王+與]《ミクビノタマ》は、上に出(ヅ)、【傳七の三葉】
〇含口は、美久知爾布々美弖《ミクチニフフミテ》と訓べし、書紀應神(ノ)卷(ノ)大御歌に、府保語茂利《フホゴモリ》、萬葉十四【三十五張】に、布敷麻留《フフマル》、十八【十六丁】に、敷布賣利《フフメリ》、十九【四十六丁】に、布敷賣流波《フフメルハ》、廿【三十一丁】に、保々麻例等《ホホマレド》、又【四十三丁】布敷賣里之《フフメリシ》、また六【十七丁】に、含而《フフミテ》、八【十七丁】に含有《フフメリ》などあり、さて如此《カク》玉を御口に含《フフ》まして、唾出《ツバキイダ》し賜ふは、いかなる由にかあらむ、詳《サダカ》ならず、【前《サキ》には、御口|含《フフミ》給へるは、玉を嚼碎《カミクダ》き賜へるにや、と思ひしかど、下(ノ)文のさま然《サ》は聞えず、若(シ)くは玉を、器《モヒ》に着《ツキ》て、離《ハナ》れざらしむる術《ワザ》にやありけむ、神代にさる類の術《ワザ》、をり/\見ゆ、さて然此(ノ)玉を、器に着《ツキ》て離れざるべく爲《シ》賜ふは、必(ズ)海神(ノ)女に見せ賜はむとてなり、其《ソ》は此(ノ)玉、尋常《ヨノツネ》の飾《カザリ》の玉とは、遙《ハルカ》に絶《スグ》れて、美麗《ウルハシ》きを見て、凡人《タダビト》に非ることを、知(ラ)しめむための御所爲《ミシワザ》なるべし、なほよく考ふべきことなり、】
〇※[王+與]任著は、多麻都氣那賀良《タマツケナガラ》と訓べし、萬葉十六【二十九丁】に、角附奈我良《ツヌツキナガラ》、
〇我井上《アガヰノベ》、この我《アガ》と云言の用《ツカ》ひざま、何とかや漢文めきて聞ゆれども、上代にもありしことにぞ有(リ)けむ、吾君《アガキミ》など云は、もとより古言なるを、それと同じければなり、下なる吾門も同じ、【伊勢物語に、わがみかど六十餘國と云るは、漢文の吾朝を取れる如くなれども、此(レ)も古言に違ひはせじ、凡て右の類の吾は、つねに云吾門吾家などとは、いさゝか異なる故に、かく論ふなり、】今(ノ)俗言《ヨノコト》に許知能《コチノ》と云意なり、
〇我王《アガキミ》は、綿津見(ノ)神を指て云るなり、【伎美《キミ》と云に、王(ノ)字を書るは、佛書の海龍王を思へるにや、こは皇國を離れて、外なる域《クニ》なれば、王と云まじきにも非るが如くなれど、なほ古文には、かゝる處には、いかゞなる文字づかひなり、書紀にも、我王また其王など書れたり、】こゝは阿賀伎美爾母麻佐理弖《アガキミニモマサリテ》と訓べし、爾母《ニモ》とは、此(ノ)婢の心に常に、綿津見(ノ)神をのみ、甚《イト》貴き物に思(ヒ)居(ル)によりて云る辭なり、【たゞ爾《ニ》とのみ讀ては、其意足はず、】書紀一書に、告2其王(ニ)1曰(ク)、吾《アレ》謂《オモヘルニ》2我王獨能絶麗《アガキミノミスグレテウルハシト》1、今有一客《イママラヒトノアルヲミレバ》、彌復遠勝《イヨヨマタハルカニマサレリ》、とあるが如し、
〇貴《タフトシ》は、此卷(ノ)末なる豐玉毘賣(ノ)命(ノ)御歌に、斯良多麻能《シラタマノ》、伎美何余曾比斯《キミガヨソヒシ》、多布斗久阿理祁理《タフトクアリケリ》、萬葉二【二十七丁】に、春花之《ハルハナノ》、貴在等《タフトクアラムト》、催馬樂に、安名多不止《アナタフト》、介不乃太不止左也《ケフノタフトサヤ》、などあると同くて、美《メデタ》く好《ヨ》き意なり、是(レ)貴きの本義《モトノココロ》なり、【太占《フトマニ》太祝詞《フトノリト》太幣《フトミテグラ》、などの類の太《フト》と、同言にて、多布斗伎《タフトキ》は、太《フト》きに、多《タ》の添《ソハ》りたるなり、後(ノ)世には、音便に、多布斗《タフト》をば、とをとと呼《イフ》故に、異なるが如くなれども、古(ヘ)は本(ノ)音のまゝに呼《イヒ》つれば、同じことなり、】
〇奉水者は、たゞ多弖麻都理斯加婆《タテマツリシカバ》と訓べし、水(ノ)字は讀(ム)べからず、【上に水といふことはあればなり、】
〇任入將來は、伊禮那賀良母知麻韋伎弖《イレナガラモチマヰキテ》と訓べし、書紀(ニ)云(ク)、門前有一井《カドノモトニヰアリ》、井上有一湯津杜樹枝菓扶疏《ソノヰノベニユツカツラアリ》、時彦火々出見(ノ)尊|就其樹下《ソノコノモトニ》、徒倚彷徨《タタズミマスニ》、良久有一美人排闥而出《シバシアリテカホヨキヲトメカドヲヒラキテイデキテ》、遂以玉鋺來當汲水《タマモヒヲモチテミヅヲクマムトシテ》、因擧目視之《フトミマツリテ》、乃驚而還入《オドロキテカヘリイリテ》、白其父母曰《ソノオヤタチニマヲシケラク》、有一希客者在門前樹下《カドナルコノモトニメヅラシキヒトイマス》、一書に、有一美人容貌絶世《イトカホヨキヲトメ》、侍者群從《マカタチアマタヰテ》、自内而出《ウチヨリイデキテ》、將以玉壺汲玉水《タマモヒヲモチテミヅクマムトシテ》、仰見《フトミテ》2火々出見(ノ)尊(ヲ)1、便以驚《オドロキテ》還(リテ)、而白2其父神(ニ)1曰、門前井邊樹下《カドノヰノベナルコノモトニ》、有一貴客《タフトキマラヒトマセリ》、骨法非常《タダビトノサマナラズ》云々、一云、豐玉姫(ノ)之|侍者《マカタチ》、以玉瓶汲《タマモヒヲモチテミヅヲクムニ》、終不能滿《ミチガタクテ》、俯視井中《ヰノウチヲミレバ》、則倒映人笑之顔《ヒトノヱメルカゲサカサマニウツレリ》、因以仰觀《カレアフギミレバ》、有一麗神倚於杜樹《ウルハシキカミカツラノキノウヘニマセリ》、故(レ)還(リ)入(テ)白2其王(ニ)1、一書に、門前有一好井《カドノモトニシミヅアリ》、井上有百枝杜樹《ソノシミヅノヘニモモヘカツラアリキ》、故(レ)彦火々出見(ノ)尊|跳昇其樹《ソノヰノウヘニヲドリノボリテ》、而立之《タチテマシキ》、于時《トキニ》海神(ノ)之女豐玉姫、手持玉※[金+宛]來《タマモヒヲモチキテ》、將汲水《ミヅクマムトシテ》、正見人影在於井中乃仰視之《ヒトノカゲノヰノウチニアルヲミテ》、驚而墜※[金+宛]《オドロキテモヒヲオトシテ》、々既破碎《モヒスデニクダケツルヲ》、不顧而《カヘリミズテ》還(リ)入(リテ)謂2父母(ニ)1曰云々、などあり、かくて玉を唾《ツバキ》入《イレ》賜へる事は、書紀には何れの傳(ヘ)にも見えず、
〇見感は、美米傳弖《ミメデテ》と訓べし、米傳《メデ》てふ言は、書紀允恭(ノ)卷(ノ)大御歌を始めて、多く見えたり、【めづらし、めでたしなども、此言より出たるなり、】見感《ミメデ》は、中卷白檮原(ノ)朝(ノ)段、倭建(ノ)命(ノ)段などにも見えて、記中に、見驚《ミオドロキ》見喜《ミヨロコビ》見畏《ミカシコミ》、などある類の古言なり、
〇目合《マグハヒ》の事は、上に云り、【傳十の卅五葉】
〇而白の而(ノ)字、延佳本又一本などには無し、【舊印本には、而(ノ)字は有て、白(ノ)字を脱せり、】今は眞福寺本又一本に有(ル)によれり、
〇天津日高《アマツヒダカ》上に出(ヅ)、【俸十五の三のひら】
〇虚空津日高《ソラツヒダカ》、谷川氏、天津日高は天子の稱、虚空津日高は太子の稱なりと云り、【此説古(ノ)意に非るが如《ゴト》聞ゆれど、よく考るに、】信《マコト》に然るべし、其故は先(ヅ)、邇々藝(ノ)命穗々手見(ノ)命鵜葺草葺不合(ノ)命、みな天津日高と申せる、これ天津日嗣|所知        
看《シロシメ》せるうへの大御稱《オホミナ》なり、かくて此《ココ》は、穗々手見(ノ)命、いまだ皇太子《ヒツギノミコ》にて坐(ス)ほどなるが故に、天津日高之御子と申せり、【此《ココ》にては、天津日高は、此(ノ)尊の御稱には非ず、】さて其《ソレ》を虚空津日高と稱《マヲ》す所以《ユヱ》は、虚空《ソラ》は、天《アメ》と地《クニ》との中間《アヒダ》なる故に、天津日高に亞《ツギ》て尊《タフト》み申す御稱《ミナ》なるべし、【常には通はして、天《アメ》をも蘇良《ソラ》といひ、虚空《ソラ》をも阿米《アメ》と云ことも多きは、地よりいへば、虚空《ソラ》も天《アメ》の方なれはなり、故(レ)今(ノ)世の言には、上《カミ》を蘇良《ソラ》と云こともあるなり、また地上即(チ)天など云は、漢籍の意なれば、云べきにあらず、】書紀神功(ノ)卷に、於天事代《アメニコトシロ》、於虚事代《ソラニコトシロ》云々、これ天《アメ》と虚空《ソラ》とを別言《ワケイヘ》る例なり、書紀一書に、白2其父神(ニ)1曰、門前井邊樹下《カドノヰノベナルコノモトニ》、有一貴客《タフトキマラヒトマセリ》、骨法非常《タダビトノサマナラズ》、若從天降者《モシアメヨリクダレラバ》、當有天垢《アメノケアルベク》、從地來者《ツチヨリキタレラバ》、當有地垢《ツチノケアルベキヲ》、實是妙美之虚空彦者歟《マコトコハマグハシソラツヒコトイフモノニヤアラム》とあるは、いたく異なる傳(ヘ)なれども、虚空彦《ソラツヒコ》と云|稱《ナ》、又|虚空《ソラ》を、天と地との間《アヒダ》に取れるなどは、此《ココ》に似依《ニヨ》れることなり、【右の書紀の意は、天垢《アメノケ》もなく、地垢《ツチノケ》もなしと云て、虚空《ソラ》を殊に勝《スグ》れたる意に取れるものなり、然れば此(ノ)記の虚空津日高も、其意かとも云べけれど、此記には、天津日高と申す至《キハメ》て尊き御稱ありて、其(ノ)御子とあれば、其《ソレ》に亞《ツゲ》る御稱《ミナ》なること論なし、然れば虚空《ソラ》を、天と地との中間にとれることは同くて、其(ノ)中間を、亞《ツゲ》るかたに取ると、勝《スグ》れたる方に取れるとは、異なり、さて此記には、虚空津日高とあるを、書紀には虚空彦《ソラツヒコ》とあり、邇々藝(ノ)命の御名の天津日高も、天津彦とありて、凡て書紀には、日高と申す御名なし、此《コ》は思ふに、當代《ソノミヨ》の天皇の大御名、氷高《ヒダカ》と申せるを諱《イミ》て、撰者の心しらひを以て、みな彦《ヒコ》に改められたるにぞあるべき、されど其《ソ》はいみしきひがことなり、御末の天皇の御名に觸《フル》ればとても、皇祖神の御名を改むべきにあらず、且《ソノウヘ》天津彦彦云々と、彦と云ことの重なれるもいかゞ、】
〇美智皮《ミチノカハ》、書紀に、海驢と作《カキ》て、此(ヲ)云2美知《ミチト》1とあり、釋に海馬也と注し、【海馬は漢名《カラノナ》なり、本草に、陳藏器曰、海驢海馬等、皮毛在2陸地(ニ)1、皆候2風潮1則毛起、】口決には、海驢(ノ)之皮、在(テ)v陸(ニ)而潮滿(ルトキハ)則自起(ツ)v毛(ヲ)、とのみ云て、其物のさまは云(ハ)ず、建長八年百首に、衣笠(ノ)内大臣、我戀は海驢の寐流《ネナガ》れ寤《サメ》やらぬ夢なりながら絶やはてなむ、【夫木集に出(ヅ)】紀(ノ)國人の云く、今紀の海に、阿志加《アシカ》と云物あり、其處にて昔より、字には海馬と書(キ)來れるよし、日高(ノ)郡の海中に、阿志加嶋《アシカジマ》と云嶋のあるに、年毎の秋冬のころ、多く來て、岩(ノ)上に睡《ネム》り、又波(ノ)上に浮びながらも熟《ヨク》睡《ネムリ》て、凡て寤《サム》ることの遲《オソ》き物なり、大きなるは、長さ一丈許(リ)なるもあり、足は無くて、水掻《ミヅカキ》の如くなる物あり、此(ノ)物西國の海にもあるなり、和名抄に、葦鹿《アシカ》と云物を載(セ)て、本文未v詳としるせり、思ふに是(レ)海驢なるべし、と云り、【或人は、阿志加《アシカ》は、本草綱目に海獺とある物なりと云り、】或書には、山東志(ニ)曰(ク)、海驢(ハ)、出(ヅ)2文登(ノ)海中(ヨリ)1、状如(シ)v驢(ノ)、常(ニ)於(テ)2秋(ノ)月(ニ)1、登(テ)v嶋(ニ)産乳(ス)、其(ノ)皮製(シテ)爲2雨具(ト)1、水不v能v潤(スコト)、今按に、海中に登騰《トド》と云物あり、岩屋の内に上《アガ》り、よく睡《ネム》る物なり、皮は馬具に用ふ、其首馬に似て、大さは小馬ばかりなり、これ海驢なるべし、陸奥松前蝦夷、又國々の海邊にも、稀にあるなり、と云り、【本草綱目に、東海(ノ)嶋中出(ス)2海驢(ヲ)1、能入(テ)v水(ニ)不v濡、】又或人の云く、今も北(ノ)海に海驢あり、其皮、潮滿れば柔《ヤハラカ》に、潮|干《ヒ》れば枯る、今も敷皮《シキガハ》にするなり、と云り、右の説どもの内、何《イヅ》れか正しく美智《ミチ》に當《アタ》るべき、【かの紀(ノ)國人の云る阿志加《アシカ》と、或書に云る登騰《トド》とは一(ツ)物の、地によりて名の異なるか、はた別物か、なほよく尋ぬべし、相遠からぬ物とは聞えたり、又近き年、西(ノ)國の海にて捕《ト》れりとて、水豹と云物を、觀《ミ》せ物にしたる、長さ三尺許ありて、阿志加のたぐひなる物と見えたり、こは己(レ)正《マサ》しく見たる物なる故に、云なり、水豹と云名は、新にみだりに着《ツケ》たるなるべければ、依るに足らざることなり、】今(ノ)世にも、美智《ミチ》と云名の遣《ノコ》れる地《トコロ》は無きにや、尋ねて定むべし、
〇疊《タタミ》は、白檮原(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、須賀多々美《スガタタミ》、伊夜佐夜斯岐弖《イヤサヤシキテ》、倭建(ノ)命(ノ)御歌に、多々美許母《タタミコモ》、幣具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》、遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)段(ノ)歌に、和賀多々彌《ワガタタミ》、などありて、いと/\古き名なり、皮を以て疊《タタミ》とせる例、此次に引る、弟橘比賣(ノ)命云々、萬葉十六、韓國乃《カラクニノ》云々、などのごとし、さて皮疊《カハタタミ》※[糸+施の旁]疊《キヌタタミ》などあるを以て見れば、上代には、氈茵《カモシトネ》などのたぐひをも、凡て多々美《タタミ》と云りしなり、【右の白檮原(ノ)朝の大御歌に、菅疊《スガタタミ》を敷て、二人|御寢坐《ミネマシ》しよしあれば、敷て寢る物をも、疊と云しこと知らる、】和名抄に、疊、和名|太々美《タタミ》、【此(ノ)ころに至りては、疊と云は、今(ノ)世にいふ疊にて、皮※[糸+施の旁]《カハキヌ》などのをば、疊とはいはず、氈茵《カモシトネ》席《ムシロ》など、おの/\別なり、さてその疊に、又品々あり、長帖短帖狹帖半帖、又厚帳薄帖などあり、帖(ノ)字は、疊と音を通はして用るなるべし、さて又其(ノ)端《ハシ》に、暈※[糸+間]端、錦端、兩面端、布端、緑端、黄端など、くさ/”\あり、掃部寮式などに委く見えたり、海人藻芥に、疊(ノ)事、帝王院(ハ)※[糸+雲]※[糸+間]縁也、神佛前半疊、用2※[糸+間]※[糸+雲]縁(ヲ)1、此(ノ)外更に不v可v用者也、大紋(ノ)高麗縁、親王大臣用v之、以下更に不v用v之、大臣以下(ノ)公卿、小紋(ノ)高麗縁也、僧中(ハ)、僧正以下、同(ク)有職非職、紫縁也、六位侍(ハ)黄縁也、諸寺諸社(ノ)三綱等、管用2黄縁(ヲ)1云々、四位五位雲客(ハ)、用2紫縁(ヲ)1也、】
〇※[糸+施の旁]は伎奴《キヌ》なり、和名抄には、絹(ハ)、和名|岐沼《キヌ》、帛(ハ)、俗云|波久乃岐奴《ハクノキヌ》、※[糸+施の旁](ハ)、和名|阿之岐沼《アシギヌ》、【阿之岐沼《アシギヌ》とは、唐韻(ニ)云(ク)、※[糸+施の旁](ハ)※[糸+曾](ノ)似v布(ニ)也、と云る如く、麁《アラ》く惡《アシ》き絹と云意の名なり、】などありて、各|差別《ワキ》あれども、古書には、たゞ伎奴《キヌ》に、絹(ノ)字をも※[糸+施の旁](ノ)字をも、通(ハシ)用ひたり、
〇八重《ヤヘ》は、例の彌重《イヤヘ》にて、たゞ幾重《イクヘ》もと云ことなり、書紀に、海神於是|鋪2設《シキマケテ》八重席薦《ヤヘタタミヲ》1、以延内之《ヰテイレマツリキ》とあり、此(ノ)記中卷倭建(ノ)命(ノ)段、弟橘《オトタチバナ》比賣(ノ)命の、海に入(リ)坐(ス)處に、以《ヲ》2菅疊《スガタタミ》八重、皮疊《カハタタミ》八重、絹疊《キヌタタミ》八重1、敷(テ)2于波(ノ)上(ニ)1、而|下2坐《オリマシキ》其(ノ)上(ニ)1ともあり、さて萬葉九【十一丁】に、吾疊三重乃河原之《ワガタタミミヘノカハラノ》、【三重とつゞくるは、三《ミ》にはかゝはらず、たゞ重《ヘ》にかゝれり、然るを三重は、表中裏を云など云は、後(ノ)世意なり、】十六【二十一丁】に、薦疊平群《コモタタミヘグリ》、又【二十九丁】韓國乃《カラクニノ》、虎云神乎《トラチフカミヲ》、生取爾《イケドリニ》、八頭取持來《ヤツトリモチキ》、其皮乎《ソノカハヲ》、多々彌爾刺《タタミニサシ》、八重疊《ヤヘタタミ》、平群乃山爾《ヘグリノヤマニ》、【八重疊まで七句は、みな序なり、】又右に引る、倭建(ノ)命の御歌などみな、疊は幣《ヘ》てふ言に係《カケ》たる序にて、【幣《ヘ》は、即(チ)一重二重などの重《ヘ》の意なり、】幾重《イクヘ》も重《カサ》ぬる物なる故に、然つゞけたるなり、さて物を重《カサ》ぬるを、多々牟《タタム》とも云(ヘ)ば、疊《タタミ》と云名も、重《カサ》ぬるよしなり、【廣き物を、狹く折約《ヲリツヅ》むるを、多々牟《タタム》と云も、折れば重なる故なり、】然れば疊は、上代には、必|幾重《イクヘ》も重ね敷《シキ》たる物なり、【萬葉十一に、疊薦隔編數《タタミゴモカサネアムカズ》、十二にも、疊薦重編數《タタミゴモカサネアムカズ》とある、此(レ)は薦を幾重《イクヘ》も重ね編て、一(ツ)の疊に造るを云り、こはやゝ後の事にて、かの上代の如く、幾重《イクヘ》も敷《シク》べきを、便(リ)よく一(ツ)に編重《アミカサ》ねて、厚く造(リ)成せる物なるべし、上代の疊は、後(ノ)世の如く、厚き物とは見えず、】後世神今食新嘗祭などに神座《カミノミマシ》に、八重疊と云を設けらるゝは、上代の儀なり、
〇敷2其上(ニ)1の其(ノ)字、舊印本又一本などには、具とあり、今は眞福寺本延佳本に依れり、
〇坐2其上(ニ)1の坐は、麻世麻都理弖《マセマツリテ》と訓べし、書紀清寧(ノ)卷に、起《タテテ》2柴(ノ)宮(ヲ)1權《カリニ》奉(リ)2安置《マセ》1、敏達(ノ)卷に、請《マセテ》2其佛(ノ)像二躯(ヲ)1、孝徳(ノ)卷に、迎(ヘテ)2佛(ノ)像四躯(ヲ)1、使2坐《マセ》于塔(ノ)内(ニ)1、萬葉十二【十八丁】に、君乎座而《キミヲイマセテ》、この餘《ホカ》にも麻世《マセ》と訓ること多し、令《セ》v坐《マサ》を約《ツヅ》めたる古言なり、
〇百取(ノ)机代(ノ)物、上に出(ヅ)、
〇具は曾那幣弖《ソナヘテ》と訓べし、祝詞に、置足弖《オキタラハシテ》と云ると同くて、今(ノ)俗言《ヨノコト》に、とりそろえてと云意なり、【俗に、神に物を獻るを、曾那布流《ソナフル》と云は、具《ソナ》へて獻るより轉れるなり、】
〇令婚は、阿波世麻都理伎《アハセマツリキ》と訓べし、書紀一書(ニ)云(ク)、於是豐玉彦|遣《ヤリテ》v人(ヲ)問曰、客是誰者《マラヒトハタレゾ》、何以至此《イカニシテカココニキマセル》、火々出見(ノ)尊|對2曰《ノリタマヒテ》我《ワレハ》是天(ツ)神(ノ)之|孫《ミコナリト》1也、乃遂言來意《キマセルユヱヲツゲタマフ》、時(ニ)海(ノ)神|迎拜《ムカヘヲロガミニ》、延入《ヰテイレマツリ》、慇懃奉慰《ネモコロニツカヘマツリテ》、因|以《ヲ》2女《ムスメ》豐玉姫1妻之《アハセマツリキ》、故《カレ》留2住《スミタマヒテ》海宮《ワタツミノミヤニ》1、已經三載《ミトセニナリヌ》、一書に、是時海神自迎延入、乃|鋪2設《シキマケテ》海驢《ミチノ》皮八重(ヲ)1、使(メ)v坐2其上(ニ)1、兼《マタ》設《ソナヘテ》2饌百机《モモトリノツクヱシロノモノヲ》1、以盡主人之禮《ヰヤヰヤシクアロジシタマヒキ》、一書に、海神|聞之《コレヲキキテ》曰(テ)試以察之《ココロミテムト》1、乃設(テ)2三床《ミツノトコヲ》1請入《イレマツリキ》、於是|天孫於邊床則《アマツカミノミコヘツトコニシテハ》拭《ノゴヒ》2其兩足《ソノミアシヲ》1、於中床則《ナカツトコニシテハ》據《オシ》2其兩手《ソノミテヲ》1、於内床則《ウチツトコニシテハ》、寛2坐《アグミヰタマヒキ》於|眞床覆衾之上《マトコオフフスマノウヘニ》1、海神|見之《ソヲミテゾ》乃知(テ)2是天神之孫《アマツカミノミコニマスコトヲ》1、益加崇敬《マスマスヰヤヒマツリケル》、
 
於是火遠理命《ココニホヲリノミコト》。思其初事而《ソノハジメノコトヲオモホシテ》。大一歎《オホキナルナゲキヒトツシタマヒキ》。故豐玉毘賣命問其歎《カレトヨタマビメノミコトソノミナゲキヲキカシテ》。以白其父言《ソノチチニマヲシタマハク》。三年雖住《ミトセスミタマヘドモ》。恆無歎《ツネハナゲカスコトモナカリシニ》。今夜爲大一歎《コヨヒオホキナルナゲキヒトツシタマヒツルハ》。若有何由故《モシナニノユヱアルニカトマフシタマヘバ》。其父大神《ソノチチノオホカミ》。問其聟夫曰《ソノミムコノキミニトヒマツラク》。今且聞我女之語云《ケサアガムスメノカタルヲキケバ》。三年雖坐《ミトセマシマセドモ》。恆無歎《ツネハナゲカスコトモナカリシニ》。今夜爲大歎《コヨヒオホキナルナゲキシタマヒツトマヲセリ》。若有由哉《モシユヱアリヤ》。亦到此間之由奈何《マタココニキマセルユヱハイカニゾトトヒマツリキ》。爾語其大神。備如其兄罸失鉤之状《カレソノオホカミニツブサニソノイロセノウセニシツリバリヲハタレルサマヲカタリタマヒキ》。是以海神《ココヲモテワタノカミ》。悉召集海之大小魚問曰。若有取此鉤魚乎《コトゴトニハタノヒロモノハタノサモノヲヨビアツメテモシコノツリバリヲトレルウヲアリヤトトヒタマフ》。故諸魚白之《カレモロモロノウヲドモマヲサク》。頃者赤海※[魚+即]魚《コノゴロタヒナモ》。於喉※[魚+更]《ノミトニノギアリテ》。物不得食愁言《モノエクハズトウレフナレバ》。故必是取《カナラズコレトリツラムトマヲシキ》。於是探赤海※[魚+即]魚之喉者《ココニタヒノノミトヲサグリシカバ》。有鉤《ツリバリアリ》。即取出而清洗《スナハチトリイデテスマシテ》。奉火遠理命之時《ホヲリノミコトニタテマツルトキニ》。其綿津見大神誨曰之《ソノワタツミノオホカミヲシヘマツリケラク》。以此鉤《コノハリヲ》。給其兄時《ソノイロセニタマハムトキニ》。言状者《ノリタマハムサマハ》。此鉤者《コノハリハ》。淤煩鉤《オボチ》。須須鉤《ススヂ》。貧鉤釣《マヂチ》。宇流鉤云而《ウルヂトイヒテ》。於後手賜《シリヘデニタマヘ》。【於煩及須須亦宇流六字以音】然而《シカシテ》。其兄作高田者《ソノイロセアゲタヲツクラバ》。汝命營下田《ナガミコトハクボタヲツクリタマヘ》。其兄作下田者《ソノイロセクボタヲツクラバ》。汝命營高田《ナガミコトハアゲタヲツクリタマヘ》。爲然者《シカシタマハバ》。吾掌水故《アレミヅヲシレバ》。三年之間《ミトセノアヒダ》。必其兄貧窮《カナラズソノイロセマヅシクナリナム》。若恨怨其爲然之事而《モシソレシカシタマフコトヲウラミテ》。攻戰者《セメナバ》。出鹽盈珠而溺《シホミツタマヲイダシテオボラシ》。若其愁請者《モシソレウレヒマヲサバ》。出鹽乾珠而活《シホヒルタマヲイダシテイカシ》。如此令惚苦云《カクシテタシナメタマヘトマヲシテ》。授鹽盈珠鹽乾珠并兩箇《シホミツタマシホヒルタマアハセテフタツヲサヅケマツリテ》。即悉召集和邇魚《スナハチコトゴトニワニドモヲヨビアツメテ》。問曰《トヒタマハク》。今天津日高之御子虚空津日高《イマアマツヒダカノミコソラツヒダカ》。爲將出幸上國《ウハツクニニイデマサムトス》。誰者幾日送奉而覆奏《タレハイクカニオクリマツリテカヘリコトマヲサムトトヒタマヒキ》。故各隨己身之尋長《カレオノモオノモミノナガサノマニマニ》。限日而白之中《ヒヲカギリテマヲスナカニ》。一尋和邇白《》。僕者一日送《》。即還來《ヒトヒロワニワレハヒトヒニオクリマツリテカヘリキナムトマヲス》。故爾告其一尋和邇《カレソノヒトヒロワニニ》。然者汝送奉《シカラバナレオクリマツリテヨ》。若渡海中時《モシワタナカヲワタルトキ》。無令惶畏《ナカシコマセマツリソトノリテ》。即載共和邇之頸《スナハチソノワニノクビニノセマツリテ》。送出《オクリダシマツリキ》。故如期《カレイヒシガゴト》。一日之内送奉也《ヒトヒノウチニオクリマツリキ》。其和邇將返之時《ソノワニカヘリナムトセシトキニ》。解所佩之紐小刀《ミハカセルヒモガタナヲトカシテ》。著其頸而返《ソノクビニツケテナモカヘシタマヒケル》。故其一尋和邇者《カレソノヒトヒロワニヲバ》。於今謂佐比持所也《イマニサヒモチノカミトゾイフナル》。
思2其(ノ)初(メノ)事(ヲ)1とは、たゞ本國《モトツクニ》を戀しく所念看《オモホシメス》なり、【かの御兄の、鉤を責賜ひし事を指《サス》が如く聞ゆめれど、然にはあらず、】さるは三年にもなりぬる前《サキ》の事なる故に、初(メノ)事とは云るなり、書紀に、仍留佐海宮《ワタツミノミヤニスミタマヒテ》、已經三年《ミトセニナリヌ》、彼處雖復安樂《ソコハタヌシキトコロナレドモ》、猶有憶郷之情《ナホクニシヌヒタマフミココロアリ》、故時復太息《カレヲリヲリイタクナゲキクマヒキ》、豐玉姫聞之、謂其父曰、天孫悽然數歎《アマツカミノミコウラブレテシバシバナゲキクマフハ》、蓋懷土之憂乎《クニシヌヒタマフナラム》、一書に、是後火々出見(ノ)尊|數有歎息《シバシバナゲキシタマヒキ》、豐玉姫問曰、天孫豈欲還故郷歟《アマツカミノミコモシモトツクニニカヘラムトオモホスカモ》、對曰|然《シカナリ》、豐玉姫即白父神曰、在此貴客《ココニマスウマヒト》、意望欲還上國《ウハツクニニカヘラムトオモホスナリ》、などあるを以見べし、
〇大一歎は、意富伎那流那宜伎比登都志賜比伎《オホキナルナゲキヒトツシタマヒキ》と訓べし、【舊印本延佳本などには、オホキニナゲキマスとよみ、師は、イタクナゲキタマヘリと訓れき、かくさまに訓(マ)むは、なべてのことなれども、若(シ)然訓べくは、一(ノ)字を加へては書(ク)まじきに、此《ココ》にも下にも、一(ノ)字あるは、必(ズ)用あるべきものなり、故(レ)くさ/”\思ひめぐらすに、字のまゝに、オホキニヒトタビ云々、なども訓べきかとおもへど、それも古(ヘ)の雅言《ミヤビコト》のさまにあらじ、】郡宜伎《ナゲキ》は長息《ナガイキ》にて、心に思ひ結《ムス》ぼるゝ事あるをりは、長き息の衝《ツカ》るゝを云、【さるは哀《カナシ》き事|憂《ウレハ》しき事などは、もとよりにて、喜《ウレ》しきこと愛《ハシ》きことなども、凡て心にあまりて、こめがたき時には、長息《ナゲキ》あり、漢國にても、歎(ノ)字など、何れにもわたること、此間《ココ》と異なることなし、さて其中にも、哀《カナシ》き事|憂《ウレハ》しき事などは、殊に深く心に結《ムス》ぼるる物なる故に、後には、もはら其方にのみ取て、那宜伎《ナゲキ》と云へば、やがて哀《カナシ》み憂《ウレ》ふることにもなれり、】萬葉十三【十六丁】に、吾嗟八尺之嗟《ワガナゲクヤサカノナゲキ》、又【三十四丁】杖不足八尺乃嘆《ツヱタラズヤサカノナゲキ》、十四【二十九丁】に、也左可杼利《ヤサカドリ》、伊伎豆久伊毛乎《イキヅクイモヲ》【これ※[石+辛+鳥]※[乕+鳥]《ニホ》は、息の長き鳥なる故に、八尺《ヤサカ》鳥と云て、息衝《イキヅク》の枕詞とせり、】などあり、これら息のいと/\長き由に、八尺《ヤサカ》と云り、伊伎豆久伊毛《イキヅクイモ》など、よめるも、長き息を衝《ツキ》て、戀思ふ妹と云ことなり、同五【六丁】に、和何那宜久《ワガナゲク》、於伎蘇乃可是《オキソノカゼ》【長き息の風なり、於伎蘇《オキソ》は、息嘯《オキウソ》なるべし、】などもよめり、大《オホキナル》とは、其(ノ)長息《ナゲキ》の聲の、高く大(キ)なるを云、【漢文にも、長大息と常に云リ、】思ひの深きまゝに、其聲も大なるなり、萬葉十三【十四丁】に、此床乃《コノトコノ》、比師跡鳴左右《ヒシトナルマデ》、嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》、廿【三十四丁】に、於比曾箭乃《オヒソヤノ》、曾與等奈流麻※[泥/土]《ソヨトナルマデ》、奈氣吉都流香母《ナゲキツルカモ》、古今集戀に、つれもなき人をこふとて山彦の答(ヘ)するまで歎きつるかも、これら長息《ナゲキ》の聲の大きにて、物に響《ヒビ》きたるよしなり、一《ヒトツ》は、一聲なり、長息《ナゲキ》に數を云ること、中卷倭建(ノ)命の、阿豆麻波夜《アヅマハヤ》と詔へる處にも、三歎とあり、【されど彼《カレ》は、三をミタビなどは訓(ム)まじきこと、彼處《カシコ》に云が如し、漢文に一唱三歎など云り、】萬葉四【三十九丁】に、遍多嘆久嘆《タビマネクナゲクナゲキ》などあり、さて此《ココ》は、所念す《オモホ》ことの淺くて、唯一聲なるには非ず、此(ノ)時まで御心に隱《コメ》て、顯《アラハ》し賜はざりしを、三年にもなりて、甚《イト》久《ヒサ》しきほどに、今は得忍び敢《アヘ》たまはで、思ほえず出たる一聲なり、一(ツ)と云るに、其意見えたり、【次なる言に依るに、豐玉毘賣、此(ノ)御長息を聞て、驚き賜へるさまなれば、此(ノ)比賣にも、國|思《シヌ》ひ給ふことを、語り賜はざりしなり、然れば御心に隱《コメ》給へりしこと、いよゝしるし、書紀に、此(ノ)長息を、數《シバシバ》或は時《ヨリヨリ》などあるとは、趣異なり、】
〇恆無歎は、都泥波那宜加須許登母那加理斯爾《ツネハナゲカスコトモナカリシニ》と訓べし、都泥波《ツネハ》は、今まではと云意なり、【故(レ)者《ハ》と云|辭《テニヲハ》を添て訓り、】其《ソ》は中卷倭建(ノ)命(ノ)段に、吾心《アガココロ》恆《ツネハ》念《オモヒツルヲ》2自(リモ)v虚《ソラ》翔行《カケリユカムト》1、萬葉七【三丁】に、常者曾不念物乎此月之過匿卷惜夕香裳《ツネハカツテオモハヌモノヲコノツキノスギカクレマクヲシキヨヒカモ》、などの如し、
〇今夜《コヨヒ》は、昨夜を云るなり、此《コ》は次の父神の言に、今旦《ケサ》云々とあれば、御歎《ミナゲキ》を聞賜ひし、明朝《ツトメテ》の詞なれはなり、其夜|明《アケ》て後も、なほ今夜《コヨヒ》と云こと、津(ノ)國(ノ)風土記、夢野(ノ)鹿(ノ)事を記せる處に、明旦《ツトメテ》、牡鹿《ヲシカ》語(リ)2其嫡《ソノメニ》1云《ケラク》、今夜《コヨヒ》夢(ニ)吾(ガ)背|爾《ニ》雪|零於祁利止見支《フリオケリトミキ》、伊勢物語に、今夜《コヨヒ》夢になむ見え給ひつると云りければ、源氏物語野分(ノ)卷、野分せし明旦《ツトメテ》の詞に、今夜《コヨヒ》の風とあり、和泉式部物語に、いたく零明《フリアカ》して、明旦《ツトメテ》、今夜の雨の音は云々、
あるか、と云意に見れば、若と云言、積なる如くなれども、何と云言を、然用ひたること、雅言には未見あたらず、】
〇若有何由は、母志那爾能由惠阿流爾加《モシナニノユヱアルニカ》と訓べし、若《モシ》と何《ナニ》とを重ね言ること、穩ならず聞ゆれども、下(ノ)文に、若《モシ》渡(ル)2海中(ヲ)1時|無令惶畏《ナカシコマセマツリソ》とあるも、若《モシ》と無《ナ》と重なれる、古言には、かく格《サマ》にも云けむかし、【書紀仁徳(ノ)卷大后(ノ)御歌に、あによくもあらず、萬葉四に、豈不益歟《アニマサラジカ》などある、豈《アニ》の用格《ツカヒザマ》も、聞つかぬこゝちす、これらの類なり、今(ノ)俗《ヨノ》言の格をもていはば、何ぞの由《ユヱ》あるか、と云意に見れば、若《モシ》と云言、穩なる如くなれども、何《ナニ》と云言を然用ひたること雅言には未(ダ)見あたらず、】
〇父大神《チチノオホカミ》、こゝに至りて大神《オホカミ》と云るは、火遠理(ノ)命の御|婦翁《シウト》になり賜へる故にやあらむ、
〇聟夫は、御牟古能君《ミムコノキミ》と訓べし、【たゞ牟古《ムコ》とのみ訓(マ)むは、輕《ナメシ》きが如くなればなり、】和名抄に、爾雅(ニ)云(ク)、女子(ノ)之夫(ヲ)爲v※[土+婿の旁](ト)作(ルト)2聟※[恐の心が耳](ニ)1、和名|無古《ムコ》と見え、字鏡には、聟(ハ)毛古《モコ》とあり、
〇今且、且(ノ)字、諸本|並《ミナ》如此《カク》あれども、決《ウツナ》く旦を誤れるなり、祁佐《ケサ》と訓べし、
〇爲大歎《オホキナルナゲキシタマヒツ》、こゝには一(ノ)字なし、さもあるべき處なり、
〇若《モシ》有《アリ》v由《ユヱ》哉《ヤ》、書紀には、海神乃延2彦火々出見(ノ)尊(ヲ)1、從容語曰、天孫若(シ)欲v還v郷(ニ)者、吾當v奉v送とあり、
〇亦《マタ》到《キマセル》2此間《ココニ》1之|由奈何《ユヱハイカニゾ》、書紀には、娶2豐玉姫1と云より前《サキ》に、因《カレ》問2其來意《ココニキマセルユヱヲ》1時(ニ)、彦火々出見(ノ)尊|對《コタヘタマヒキ》2以|情之《アリサマ》委曲《ツバラカニ》1云々とあり、一書どもも同じ、信《マコト》に此(ノ)事は、初(メ)に先(ヅ)問(ヒ)賜ふべきものなり、然るを此記には、此《ココ》に至(リ)て問(ヒ)給ふは、御長息《ミナゲキ》の事を聞(カ)せるに就て、其(ノ)所由《ユヱ》は奈何《イカ》なるにかと所思《オボ》すから、其《ソレ》につきて先(ヅ)初(メ)此處《ココ》に來坐る所由《ユヱ》をも、問給へるなり、【此處《ココ》を此間と書(ク)ことは、漢文に常多くして、萬葉などにも多し、】
〇罸は波多禮流《ハタレル》と訓べし、上には、乞徴とありき、
〇海之大小魚は、波多能比呂母能波多能佐母能《ハタノヒロモノハタノサモノ》と訓べし、【書紀の大小之魚をも、かく訓べきなり、】そは上天(ノ)宇受賣(ノ)命(ノ)段に、悉(ニ)追2聚《オヒアツメ》鰭(ノ)廣物鰭(ノ)狹物(ヲ)1以(テ)問言とあると、語のつゞきさへ全《モハラ》同く、【此記の例、同言を、一(ツ)は言のまゝに書き、一(ツ)は意を以て書るが多きこと、首(ノ)卷に云るが如し、此《ココ》も意を以て書るものにて、訓は上なるに效《ナラ》はせたるなり、】又書紀一書に、此《ココ》をすなはち盡《コトゴトニ》召(テ)2鰭廣鰭狹《ハタノヒロモノハタノサモノヲ》1而問之、としるされたるを以てさとるべし、【かく訓べきことを知らずして、かの大小之魚を、トホヒロクヒキイヲドモ、或はトホシロク云々、など訓るは、古言めきて、何とかや由ありげに聞ゆれど、みなひがよみなり、】
〇頃考《コノゴロ》この言いかゞ、鉤を呑《ノミ》たりしは、三年|前《サキ》なるべきをや、されば此《コ》は、書紀に、【一書】赤女|久有口疾《ヒサシククチヲヤメリ》とある久《ヒサシク》ぞ、當りて聞えたる、
○赤海※[魚+即]魚は、多比《タヒ》ト訓べし、鯛なり、書紀には、赤女《アカメ》とありて、赤女(ハ)鯛魚(ノ)名也と注あり、【但(シ)此(ノ)注は、後(ノ)人のしわざにもあらむか、】一書には、赤女或(ハ)云2赤鯛(ト)1とあり、又一書には、鯛女、又一書には、赤女とありて、即赤鯛也と注せり、さて仲哀(ノ)卷に、海※[魚+即]魚《タヒ》とあると、和名抄に、辨色立成云、海※[魚+即]細魚知沼、とあるとを合せて見れば、赤海※[魚+即]魚は、鯛《タヒ》なること決《ウツナ》し、【知沼《チヌ》は、鯛の色|灰色《クロ》き物にて、黒鯛《クロダヒ》の類なり、和名抄に、知沼《チヌ》と久呂多比《クロダヒ》とは別なれど、遠からぬ物なり、さてつねの鯛は、知沼《チヌ》と形全く同くて、色赤き故に、赤海※[魚+即]魚と書るなり、橿《カシ》を白檮と書るたぐひなり、又仲哀(ノ)卷なるは、色の赤き黒きを一(ツ)にして、海※[魚+即]魚を鯛にあてたるものなり、凡て古書に、物の漢名を書ること、其人の心々にて、右の如く少しづゝの違(ヒ)あり、彼此《コレカレ》をよく考(ヘ)合せて、定むべし、よくせずはまぎれぬべきものぞ、】多比《タヒ》は、和名抄には、崔禹錫食經云、鯛(ハ)、味甘(ク)冷無(シ)v毒、貌似(テ)v鮒《フナニ》、而紅鰭(ナル)者也(ト)、和名|太比《タヒ》と見え、字鏡にも、鯛(ハ)太比《タヒ》とあり、【師は、此《ココ》の赤海※[魚+即]魚をも、書紀に依て、アカメと訓れたり、其《ソレ》もさることなれども、此記の例、若(シ)あかめならむには、直《タダ》に赤女と書(ク)べきなり、さて又書紀の赤女を、赤鯛也とあるに依て、或説に、鯛の中の一種、殊(ニ)色赤きなりとするは、ぁろし、後(ノ)世にこそさもあらめ、上代には、さばかり細《コマカ》に分て、名(ツ)くることはなかりしぞかし、赤鯛とあるも、即(チ)よのつねの鯛にて、黒鯛の類もあるに對へて、赤(ノ)字は添(ヘ)たるものなり、然るにかの仲哀(ノ)卷に、海※[魚+即]魚をタヒと訓るにつきて、此《ココ》の赤海※[魚+即]魚をも、アカダヒと訓て、かの殊に赤き一種と心得るは、非なり、又アカチヌと訓るも、非なり、】さてこの多比《タヒ》の下に、那母《ナモ》てふ辭を讀(ミ)添(フ)べし、語の勢(ヒ)必(ズ)然るべし、
〇喉は能美斗《ノミト》と訓べし、呑門の義《ココロ》なり、和名抄に、喉(ハ)和名|乃無止《ノンド》、【こは美《ミ》を音便にんと云、後のことなり、】萬葉五に、能杼與比《ノドヨヒ》と云言あり、【喉聲《ノドコヱ》に啼(ク)をいへり、】美《ミ》を省《ハブ》けるなり、【かくさまに省き云(フ)下は、多く濁る例なり、今(ノ)世にも能度《ノド》と云り、】
〇※[魚+更]は、能義阿理《ノギアリ》と訓べし、和名抄に、唐韻云、※[魚+更](ハ)魚刺在(ル)v喉(ニ)也(ト)、和名|乃木《ノギ》とあり、【又字書に、骨不(ル)v下(ラ)v咽(ニ)也とも注せり、】
〇愁言故の三字を、宇禮布禮婆《ウレフレバ》と訓べし、身の憂《ウレヒ》を人に告《ツグ》るを、宇禮布《ウレフ》と云故に、愁言(ノ)二字を然訓り、【さて禮婆《レバ》と云に、故(ノ)字の意はあり、】
〇是《コレ》とは、赤海※[魚+即]魚《タヒ》を指(シ)て云なり、【許禮賀《コレガ》と云意なれども、かゝる處を賀《ガ》と云は、雅言に非ず、】古文に此例多し、【漢文の是(ノ)字の格とは、異なり、】書紀(ニ)云(ク)、海神乃集(テ)2大小之魚《ハタノヒロモノハタノサモノヲ》1、逼問之《セメトフニ》、僉《ミナ》曰《マヲス》v不(ト)v識《シラ》、唯赤女、比有口疾而不來《コノゴロクチヲヤミテマヰコザルヲ》、固召之《シヒテヨビテ》、探《サグリシカバ》2其(ノ)口(ヲ)1者、果《ハタシテ》得《アリキ》2失鉤《ウセニシツリバリ》1、一書に、海神於是|總2集《ヨビアツメテ》海(ノ)魚(ヲ)1、覓2問《マギトフニ》其(ノ)鉤(ヲ)1、有一魚對曰《ヒトツノウヲマヲサク》、赤女久(シク)有口疾《クチヲヤメリ》、疑是之呑乎《ケダシコレガノメルナラム》、故(レ)即召2赤女(ヲ)1云々、一書に時(ニ)海神|便起燐心《アハレトオモホシテ》、盡《コトゴトニ》召2鰭廣鰭狹(ヲ)1而問之、皆曰v不v知、但赤女有口疾、不v來、【亦云口女有口疾】云々、於是海神|制曰《オキテケラク》、※[人偏+爾]口女《オレクチメ》、從(リ)v今|以往《ユクサキ》、不得呑餌《ヱヲナノミソ》、又|不2得預《ナアヅカリソ》天孫之饌《アマツカミノミコノミケニ》1、即|以《ヲ》2日女(ノ)魚1所以不進御者《オホミケニタテマツラザルハ》、此其縁也《コノヨシナリ》、【此(ノ)一書、上には赤女と云て、下に口女と云るはいかに、初(メ)に赤女とあるは、口女を寫(シ)誤れるにや、また亦云口女云々の注も心得ず、こは一本にかくありしを、後(ノ)人の注せるにや、】一書に、海神召2赤女口女(ヲ)1【赤女即赤鯛也口女即鯔魚也】問之時、口女自v口出v鉤(ヲ)以奉焉、
〇清洗は須麻志弖《スマシテ》と訓べし、洗《アラ》ひ清《キヨ》むるを須麻須《スマス》と云り、
〇給《タマハム》2其兄(ニ)1、こは火遠理(ノ)命を尊崇《タフト》み、又火照(ノ)命を賤《イヤシ》め惡《ニク》みて、御兄なれども、給《タマ》ふと云るなり、
〇淤煩鉤《オボチ》、書紀一書に、因奉教之曰《カレヲシヘマツリケラク》、以此《コノハリヲ》與《アタヘタマハム》2汝(ノ)兄(ニ)1時(ニ)、乃可稱《ノタマハムハ》、曰《イヒテ》2大鉤踉※[足+旁]鉤貧鉤癡※[馬+矣]鉤《オホヂススノミヂマヂチウルケヂト》1、言訖則《イヒヲヘタマハバ》、可(シ)2以後手授賜《シリヘデニサヅケタマフ》1、とあると相照して考るに、淤煩鉤《オボチ》は、大鉤《オホヂ》に當れり、【大は借字なり、此(ノ)大(ノ)字の意を以て説(ク)は、あたらぬことなり、餘の三鉤は、皆借字に非れども、此(ノ)大のみは、借字とせざれば、意明らかならず、】煩《ボ》は濁音なれども、此(ノ)淤煩《オボ》の煩《ボ》は、清《スミ》ても云り、此(ノ)言は萬葉卷々に、鬱悒《オホホシク》と云こと多かる是なり、四の卷に、朝居雲乃鬱《アサヰルクモノオホホシク》などもあり、明《アキ》らかならざる意なり、【十の十六葉、十二の十八葉などに、不明とあるを、今本にはホノカニモと訓たれど、是もオホヽシクと訓(ム)ぞ宜き、ほのかも、本(ト)おほのかのおの省《ハブ》かりたるなり、】これを假字には、意保々斯久《オホホシク》など、保《ホ》には多く清音の字を用ひたり、【五(ノ)卷十一(ノ)卷十四(ノ)卷十六(ノ)卷】然るに又十七【八丁】には、於煩保之久《オボホシク》と濁音にも書り、【清ても濁りても云る言なるべし、】又おぼつかなし、【此(レ)も常には煩《ボ》を濁るを、萬葉八(ノ)卷十(ノ)卷などには、於保束無《オホツカナク》と、清音の保を書きたり、】おぼろなども、明らかならぬを云て、本同言なり、【又かの鬱悒を、イフカシとも、イフセシとも訓(ム)處ある、これらの伊布《イフ》も、淤煩《オボ》と通ひて、おほゝしくと、本は同じ、淤と伊と通ふは、淤伎と伊伎との如し、さて此(ノ)いふかしいふせしの布も、常に濁れども、萬葉には多く清音に書り、】又おほろかおほよそおろそかおほかたなども、委曲《ツバラカ》ならぬを云(ヘ)ば、本は明らかならざる意にて同じ、淤富《オホ》とのみも云り、さて此《ココ》の淤煩《オボ》は、愁思《ウレヒオモ》ふことの有て、心の晴《ハレ》せぬ意なり、【心を晴らすことを、明らむと、萬葉などに云(ヘ)れば、晴(レ)せぬは、明らかならざるなり、】萬葉二【卅丁】日並《ヒナメシノ》皇子命の薨坐て、舍人等の慟傷歌(ノ)中に、旦日照嶋乃御門爾鬱悒人音毛不爲者眞浦悲毛《アサヒテルシマノミカドニオホホシクヒトオトモセネバマウラカナシモ》、四【三十三丁】に、今更妹爾將相八跡念可聞幾許吾胸鬱悒將有《イマサラニイモニアハメヤトモヘカモココダワガムネオホホシカラム》、五【二十六丁】に、國遠伎路乃長手遠意保々斯久許布夜須疑南己等騰比母奈久《クニトホキミチノナガテヲオホホシクコフヤスギナムコトドヒモナク》、【許布夜《コフヤ》は、戀《コヒ》やなり、】これらの鬱悒《オホホシク》の如し、
〇須々鉤《ススヂ》、師の冠辭考【ふせやたきの條】に、廬八燎須酒師競《フセヤタキススシキソヒ》云々、すゝしきそひとは、壯士《ヲトコ》どもの、心の進みすゝろぎて、身もしらず競《キソ》ふを云、古事記に須々鉤《ススヂ》とあるを、神代紀に踉※[足+旁]鉤と書たり、是もすゝろぐ意なり、又古事記に、美人驚而|立走伊須々岐伎《タチハシリイススギキ》とあるも、立走りすゝろぎたるなり、後の書に、すゞろそゞろなど云るも是なりとあり、又上須佐之男(ノ)命の、於《ニ》2勝佐備《カチサビ》1云々とある處【傳八の四葉】に引る師説に、佐備《サビ》は須佐備《スサビ》なりとある、此《ココ》によく當れり、須佐《スサ》と須々《スス》と同くて、かの須佐備は、進み荒ぶるなれば、こゝの須々も、進みすゝろぎて荒ぶる意なり、書紀に、踉※[足+旁]鉤此(ヲ)云2須々能美※[月+貳]《ススノミヂト》1とあり、【玉篇に、踉※[足+旁](ハ)欲v行(ムト)貌と注し、又※[足+旁](ハ)急行(ナリ)とも注し、又(ノ)字書に、踉(ハ)高(ク)蹈(ム)也とも、また跳踉(ハ)踊躍(ノ)貌なども注せり、すゝみすゝろぐ意に近き字なり、又字鏡に、猖※[羊+厥](ハ)須々乃彌《ススノミ》とあるも、荒ぶる意に近し、※[羊+厥](ノ)字は獗なるべし、さて須々能美《ススノミ》の能美は、其言を活用《ハタラカ》す辭にて、音《オト》をおとなひ、商《アキ》をあきなひなど云、那比《ナヒ》の類なるべし、】此(ノ)記に能美《ノミ》てふ辭なきは、詛言《トコヒコト》なる故に、言の調《シラベ》をなして、淤煩須々麻治宇流《オボススマヂウル》と、皆二音に齊《トトノ》へたる物なり、【書紀一書に、貧窮之本《マヂノモト》、飢饉之始《ウヱノハジメ》、困苦之根《タシナミノネ》とあるも、本《モト》始《ハジメ》根《ネ》と換《カヘ》て、言を文《アヤ》なせるなり、】さて此(ノ)四(ツ)皆本は用言《ハタラキコトバ》なるを、此《ココ》にては體言《ヰコトバ》になせるなり、【其由は下に云、】凡て用にも體にも云(フ)言は、用の時は、下に活《ウゴ》く辭を加《クハ》へ、體の時は、其《ソレ》を除《ノゾ》くこと多くして、【用言に陀、渡《ワタ》り渡《ワタ》ると云を、體言には海《ワタ》と云(ヒ)、用言には、歌《ウタ》ひ歌《ウタ》ふと云を、體言には歌《ウタ》と云たぐひなり、】かの意保々志久《オホホシク》などは用言なるを、
 
此《ココ》には體言に淤煩《オボ》といひ、須々牟《ススム》須々呂久《ススロク》などは用言なるを、此《ココ》には體言に須々《スス》と云り、【又|須々能美《ススノミ》と云は、用言なるを、下なる活《ウゴ》く辭をそのまゝにて、體言になせるにて、渡りと云用言を、そのまゝにて、渡る處を指(シ)て、體言にも渡りと云(ヒ)、歌ひと云用言をそのまゝにて、歌ふ物をも、謠《ウタヒ》と云が如し、此(ノ)例も常のことなり、】
〇貧鉤は、麻治知《マヂチ》と訓べし、書紀にも如此《カク》ありて、昔より然訓來れり、麻治《マヂ》は、麻豆志《マヅシ》の切《ツヅ》まりたるか、はた麻豆志《マヅシ》は、本は麻治志《マヂシ》にてもあらむ、
〇宇流鉤《ウルヂ》は、書紀に、癡※[馬+矣]鉤、此(ヲ)云2于樓該※[月+貳]《ウルケヂト》1とあり、此(ノ)字の意なり、【※[馬+矣]も、字書に癡也と注せり、】又景行(ノ)卷に失意《オロケ》とあるなども、【敏達(ノ)卷に、於閭礙《オロケ》と云人(ノ)名もあり、】同言ならむか、【俗言に、うろたゆ、うろ/\、うるむなど云言も、同言の轉れるなり、又水の寒からざるを、ぬるしと云も、うるしと通へり、物を塗《ヌル》物を、うるしと云にて知べし、叉|俗《ヨ》に、鈍《ニブ》きことを、ぬるしと云も、宇流《ウル》の意なり、】さて書紀には于樓該《ウルケ》とあるを、此記に該《ケ》の無きは、上の須々《スス》の例の如く、皆二音に齊《トトノ》へたるなり、さて右の四(ツ)の鉤は、皆書紀の訓注に、※[月+貳]《ヂ》とあるに依て訓べし、【※[月+貳]は女利(ノ)反にて、知《》の濁音の假字なり、但(シ)淤煩鉤貧鉤の二(ツ)は、清音に訓べし、上の煩治《ボヂ》の濁音と重なればなり、古言に濁音の二(ツ)重なることは、をさ/\例なし、】これに二(ツ)の考(ヘ)あり、一(ツ)には、佐知《サチ》の知《チ》と同くして、取《トリ》なり、【海佐知《ウミサチ》山佐知《ヤマサチ》の佐知は、幸取《サキトリ》の意なること、上に云るがごとし、】其由は、此(ノ)失ひ賜ひし釣鉤《ツリバリ》は、もと海佐知毘古の幸取《サキトリ》なるを、今は詛《トコ》ひて、其(ノ)幸《サキ》の反《ウラ》の不幸《ヨカラヌ》事どもを取具《トルモノ》と云意にて、【幸取《サチ》も、幸《サキ》を取《トル》具と云意なること、上に委(ク)云り、】鬱有取《オボトリ》、踉※[足+旁]取《スストリ》、貧取《マヂトリ》、癡※[馬+矣]取《ウルトリ》なり、【此(ノ)四(ツ)は、不幸《ヨカラヌ》事どものかぎりなり、さてかく某取《ナニトリ》と云ときは、上の言みな體言なり、】さて取《トリ》の意なるに、鉤字を書るはいかにと云に、其(ノ)取(ル)具即(チ)鉤《ツリバリ》にて、備《ツブサ》にいへば、某取鉤《ナニトリバリ》と云ことなればなり、【かの佐知《サチ》も、備《ツブサ》に云(ヘ)ば、幸取弓《サキトリユミ》幸取鉤《サキトリバリ》と云ことなるに同じ、】二(ツ)には、鉤(ノ)字は、もと釣なりけむを、後(ノ)人さかしらに、鉤の誤(リ)として、改めつるか、【書紀今(ノ)本に、此(ノ)二字は、たがひに誤れる處多し、又書紀に效《ナラ》ひて、此記も同く改めたりけむ、眞福寺本には、此(ノ)四(ツ)の鉤、みな釣と作《ア》り、されど彼本は、上なる鉤《ツリバリ》をも、みな誤りて、釣と作《カキ》たれば、據としがたし、】さて釣を知《チ》と訓(ム)は、都理《ツリ》の約《ツヅ》まりたるにて、此(ノ)種々《くさぐさ》の不幸事《ヨカラヌコト》を釣《ツ》る具《モノ》と云意なり、物を釣《ツ》る具を指(シ)て、某釣《ナニツリ》と云も、取《トル》具を取《トリ》と云と同(ジ)格なり、かくて凡ての意は、上の考(ヘ)と同じ、右二(ツ)のうち、見む人、心の向はむ方取べし、但し幸《サキトリ》取を反《カヘ》さまに云るなれば、なほ取《トリ》とせむ方や優《マサ》りたらむ、【此(ノ)知《チ》を、たゞ鉤《ツリバリ》の古(ノ)名と心得、或は都理婆理《ツリバリ》を切《ツヅ》むれば知《チ》なりなど云(ヒ)、此(ノ)段なる鉤(ノ)字をば、すべてみな知《チ》と訓るは、精《クハ》しからぬひがことなり、】
〇後手《シリヘデ》は、上|黄泉《ヨミノ》段に見ゆ、【傳六の廿二葉】此處《ココ》は、是(レ)も詛態《トコヒワザ》なり、書紀一書に、以後手投棄與之《シリヘデニナゲウテテアタヘタマヘ》、勿以向《ムカヒテナアタヘタマヒソ》ともあり、【これをかの逆手《サカデ》と一(ツ)に心得るは非なり、逆手と後手とは異なり、】書紀(ニ)云(ク)、因誨之曰《カレヲシヘマツリケラク》、以此鉤《コノハリヲ》與(ヘタマハム)2汝(ノ)兄(ニ)1時(ニハ)、則|陰呼此鉤《シヌヒニコノハリヲ》曰(ヒテ)3貧鉤《マヂチト》1然後與之《ノチニアタヘタマヘ》、一書に、因教之曰、以鉤《ツリバリヲ》與2汝(ノ)兄(ニ)1時(ニハ)、則可|詛2言《トコヒテ》貧窮之本《マヂノモト》、飢饉之始《ウヱノハジメ》、困苦之根《タシナミノネト》1、而|後與之《ノチニアタヘタマヘ》、一書に、貧鉤《マヂチ》滅鉤《ホロビチ》落薄鉤《オトロヘヂ》、一書に、因奉教之曰、以此《コレヲ》與2汝(ノ)兄(ニ)1時(ニ)、乃|可2稱曰《トコヒテ》大鉤《オホヂ》踉※[足+旁]鉤《ススノミヂ》貧鉤《マヂチ》癡※[馬+矣]鉤《ウルケヂト》1、言訖則可以後手授賜《イヒヲヘテシリヘデニタマヘ》、一書に、因教之曰、還《》2兄《》鉤(ヲ)1時(ニ)、天孫《アマツカミノミコ》則|當2言《イヒテ》汝生子八十連屬之裏《イマシウミノコノヤソツヅキマデ》、 貧鉤《マヂチ》狹々貧鉤《ササマヂチト》1、言訖《イヒヲヘテ》、三下唾與之《ミタピツバキテアタヘタマヘ》、
〇然而《シカシテ》は、然爲而《シカシテ》なり、此之言|此處《ココ》にては、上の事を下へ係《カク》る言なり、
〇高田は阿宜多《アゲタ》と訓べし、書紀に然訓り、【字のまゝにタカタと訓(マ)むも、あしからじ、國々に然云地(ノ)名も多し、されど】萬葉十二【十七丁】にも、水乎多上爾種蒔《ミヅヲオホミアゲニタネマキ》とよめり、【田中(ノ)道麻呂云(ク)、尾張近江美濃などにて、今も田の中の水のつかぬ處を、あげと云り、】地《トコロ》高くて、よく燥《カワ》く田なり、
〇下田は、書紀に※[サンズイ+袴の旁]田《クボタ》とあるに依て、久煩多《クボタ》と訓べし、窪《クボ》み卑《ヒキ》くて、水多き田なり、
〇掌水故は、美豆袁斯禮婆《ミヅヲシレバ》と訓べし、【師は、ミヅヲシレルカラニと訓れき、故をカラニと訓れたるはわろし、此《ココ》は然は云べきに非ず、掌をシレルと訓れたるは、いと宜し、今も其《ソレ》に依れり、此(ノ)字、常にはツカサドルと訓めども、此《ココ》は然訓ては、古言にあらず、】斯流《シル》は、天(ノ)下を知る、國を知るなどの知《シル》にて、水を保有《タモ》ち掌《ツカサド》りて、心に任《マカ》すを云り、されば兄若(シ)高田を佃《ツク》らば、吾|旱《ヒデリ》して水を有《ア》らせじ、若(シ)又下田を佃《ツク》らば、雨を多くふらせて、妨《サマタ》げむとなり、萬葉十八【三十二丁】に、安米布良受《アメフラズ》、日能可左奈禮波《ヒノカサナレバ》、宇惠之田毛《ウヱシタモ》、麻吉之波多氣毛《マキシハタケモ》、安佐其登爾《アサゴトニ》、之保美可禮由苦《シホミカレユク》云々、安之比奇能《アシヒキノ》、夜麻能多乎理爾《ヤマノタヲリニ》、許能見由流《コノミユル》、安麻能之良久母《アマノシラクモ》、和多都美能《ワタツミノ》、於伎都美夜敝爾《オキツミヤヘニ》、多知和多里《タチワタリ》、等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》、安米母多麻波禰《アメモタマハネ》これ海《ワタノ》神水を掌《シリ》賜ふ故に、雨を乞《コ》へるなり、
〇三年之間《ミトセノアヒダ》は、漸《ヤヤヤヤ》に貧窮《マヅシ》くなる間《アヒダ》、三年なるを云、【然るを間《アヒダ》の下に爾《ニ》てふ辭《テニヲハ》を添《ソヘ》て、アヒダニ、或はホドニなど訓(ム)ときは、三年を經《ヘ》て後に、貧くなる如くに聞えて、意違へり、爾《ニ》とはよむべからず、】中卷明(ノ)宮(ノ)段(ノ)末に、其(ノ)兄《》八年|之間干萎病枯《ノアヒダヒシホミヤミコヤシヌ》、とあるも同じ、
〇貧窮は、麻豆志久那理那牟《マヅシクナリナム》と訓べし、下文《シモノコトバ》に、自爾以後稍兪貧《ソレヨリノチヤヤイヨヨマヅシクナリテ》とある是なり、【師はマヂタシナミナムと訓れつれども、言の重《カサ》なりざま、いかにぞや聞ゆ、たしなむは古言にて、窮(ノ)字には近けれども、此《ココ》は貧をむねと云て、窮(ノ)字は輕し、故(レ)下文には、たゞ貧とのみあり、又書紀一書に、貧窮之《マヂノ》本とあるも、貧を主《ムネ》とせり、又書紀に襤褸《ヤツレ》とある、此(ノ)言にあたれども、やつると云言は、形状《カタチアリサマ》につきて云言なれば、貧窮(ノ)字には當らず、】高田《アゲタ》を佃《ツク》れば旱《ヒデリ》し、下田《クボタ》を佃れば雨多くて、毎《イツ》も稔《トシ》を得ずし
て、貴くなりなむとなり、
〇恨怨其の其(ノ)字は、若《モシ》の下にある意にて、火照(ノ)命を指(シ)て云言なり、次に若其愁請者《モシソレウレヒマヲサバ》とある其《ソレ》と同じ、
〇爲然之事《シカシタマフコト》とは、初(メ)の詛事《トコヒワザ》、及田佃《マタタツクリ》て稔得《トシエ》ず、貧くなることなどを、皆|都《スベ》て云なり、其中に、田佃(リ)て稔得ぬなどは、海(ノ)神の所爲《シワザ》なれども、弟(ノ)命の御爲《ミタメ》に爲《シ》給ふなれば、其《ソレ》をも直《タダ》に弟(ノ)命の爲《シ》給ふ事として、かくは云なり、
〇鹽盈珠鹽乾珠は、志本美都多麻《シホミツタマ》志本比流多麻《シホヒルタマ》と訓べし、【志本美知陀麻《シホミチダマ》志太比陀麻《シホヒダマ》と訓べきかとも思へど、なほ然には非ず、又乾は、書紀(ノ)景行(ノ)卷に、賦《フ》と訓注あれば、比流《ヒル》とは云(ハ)ず、急居を莵岐于《ツキウ》とあると同格にて、比《ヒ》布《フ》布流《フル》と活用《ハタラ》く言なるべし、されど布流《フル》と云むは、今は耳遠ければ、姑く尋常《ヨノツネ》の如く、比流と訓つ、】中卷(ノ)末に、振浪比禮《ナミフルヒレ》切浪比禮《ナミキルヒレ》振風《カゼフル》比禮|切風《カゼキル》比禮と云物見えたり、比(ノ)類(ヒ)なり、【書紀仲哀(ノ)卷に、皇后泊2豐浦(ノ)津(ニ)1、是日皇后、得2如意珠(ヲ)於海中(ニ)1、と云ることあり、こは土佐(ノ)國の風土記に、吾川(ノ)郡玉嶋、或説(ニ)云(ク)、神功皇后巡國之時、御船泊之、皇后下v嶋(ニ)休息、礒際(ニシテ)得2一白石(ヲ)1、圓(ニシテ)如2鷄卵(ノ)1、皇后|安《オキタマヘバ》2于御掌(ニ)1、光明|四《ヨモニ》出、皇后大喜、詔2左右(ニ)1曰、是海神所賜白眞珠也、故以爲2嶋(ノ)名(ト)1、とあると一(ツ)事なるを、國の異なるは、傳(ヘ)の異なるなるべし、さて書紀に如意珠と書かれたること、心得ず、いかにも訓べき方なし、そのかみ文字なき世に、如意など云名、あるべくもあらぬを、強《アナガチ》に漢をまねび給ふあまりに、かゝる名をさへ物し給へるは、後(ノ)世の人まどはしなり、さてかく如意と書れたる意、たゞ珠の美《メデタ》きを稱《ホメ》たるのみか、又は此(ノ)姫尊新羅を征たまへる時に、彼國中まで潮の押上りし事ある、其《ソ》は即(チ)此(ノ)珠の徳《イサヲ》なりし故に、其意を以て書れたるか、されどかの新羅の國中へ潮の上りし事、此(ノ)珠の徳なりと云ことは、此(ノ)記にも彼紀にも見えざれば、いかなりけむ、宇佐(ノ)宮(ノ)縁起に、神功皇后干珠滿珠を龍宮より得賜ひて、三韓をまつろへたまへる由云るは、古き傳(ヘ)か、はたかの書紀の如意珠と、新羅の國中へ潮の上りし事とを、引合せて、おしあてに云るか、是もたしかならず、又其(ノ)二(ツ)の珠、後に肥前(ノ)國佐嘉(ノ)郡河上(ノ)宮と云に納まれるよし云り、かくて書紀(ノ)釋に、元暦(ノ)之比、宇佐(ノ)宮監行之時、本宮(ノ)注文(ニ)、滿瓊涸瓊二種、在(ルノ)2當宮(ニ)1之由、注進(ス)之云々、二種(ノ)經已(ニ)在2當宮(ニ)1、神功皇后征2伐三韓(ヲ)1之時、就(テ)3新羅(ノ)海潮滿(ルニ)2宮庭(ニ)1思(フニ)v之、定(メテ)令(メテ)v持2此(ノ)瓊(ヲ)1御《マス》歟、然(レドモ)而(シ)2慥(ナル)所見1と云り、此(レ)にもおぼつかなきことあり、神功皇后の珠は、新《アラタ》に海中より得賜へるなれば、かの神代の瓊とは別なるに、神代の瓊の、宇佐(ノ)宮に在(ル)は、何の由縁にか、心得がたし、故(レ)思ふに、宇佐(ノ)宵に在(リ)と云は、神功皇后の得たまへる珠にて、かの肥前(ノ)國河上(ノ)宮に納れる珠ぞ、神代のなりけむを、此(レ)と彼(レ)とを一(ツ)に心得誤りて、左右《カニカク》にまぎれつるにやあらむ、かの河上(ノ)宮と云は、神名式に、佐嘉(ノ)郡|與止《ヨド》日女(ノ)神社とある、是なりと云り、或書に、豐玉姫を祭ると云るも、由あり、さてかの神功皇后の待賜ひし珠も、若(シ)實に干珠滿珠にて、新羅の國中へ潮の上りしも、其(ノ)玉の故ならば、海(ノ)神の有《タモ》てる鹽盈珠鹽乾珠は、今火遠理(ノ)命に授(ケ)奉れるのみにもあらず、なほ幾箇《イクツ》もある物と聞えたり、】萬葉十九【二十九丁】に、和多都民能《ワタツミノ》、可味能美許等乃《カミノミコトノ》、美久之宜爾《ミクシゲニ》、多久波比於伎弖《タクハヒオキテ》、伊都久等布《イツクトフ》、多麻爾末佐里弖《タマニマサリテ》云々、とよめり、
〇若《モシ》其《ソレ》、其(ノ)字|曾禮《ソレ》と訓べし、【此(ノ)下に兄(ノ)字の脱《オチ》たるかとも思へど、然には非ず、】火照(ノ)命を指て云言なり、【漢文に其《ソレ》と云格とは、異なり、】下文にも、其愁請者《ソレウレヒマヲサバ》とあり、
〇令惚苦は、多斯那米賜幣《タシナメタマヘ》と訓べし、書紀に、厄(ノ)字又辛苦困厄劬勞などを、然訓り、【此(ノ)言、多志那美《タシナミ》といへば、自《ミ》のうへなり、多志那米《タシナメ》と云ときは、米《メ》は麻世《マセ》の切《ツヅマ》りたるにて、他《ヒト》をたしなましむるなり、こゝに上に令(ノ)字ある、是にあたれり、】惚(ノ)字上に出たり、【傳六の廿六葉】
〇授2鹽盈珠云々(ヲ)1、此(ノ)言は前《サキ》に先(ヅ)云べきを、云はずして、出(シテ)2鹽盈珠(ヲ)1云々と先(ヅ)云て、後に此《ココ》にかく云るも、文の一(ツノ)格《サマ》なり、書紀(ニ)云(ク)、復《マタ》授2潮滿瓊及潮涸瓊《シホミツタマトシホヒルタマトヲ》1、而誨之曰、漬《ヒタシタマハバ》2潮滿瓊(ヲ)1者、則潮忽(チ)滿《ミチナム》、以此《カクシテ》没2溺《オボラシタマヘ》汝(ノ)兄(ヲ)1、若(シ)兄|悔《クイテ》、而|祈者《ノミマヲサバ》、還《マタ》漬《ヒタシタマヘ》2潮涸瓊(ヲ)1、則潮|自《オ》涸《ヒテム》、以此《シカシテ》救(ヒタマヘ)、如此逼惱《カクタシナメタマヒナバ》、則汝(ノ)兄|自《オ》伏《シタガヒナム》、【これに瓊を漬《ヒタシ》とあるは、此(ノ)記に出《イダシ》とあると、用(ヒ)法《サマ》の傳(ヘ)異なるなり、】又一書に、以|思則潮溢之瓊《オモヘバシホミツルタマ》、思則潮涸之瓊《オモヘバシホヒルタマヲ》、副《ソヘテ》2其(ノ)鉤《ツリバリニ》1、而|奉進之《タテマツリテ》曰(ク)云々、又一書に、復進(リ)2潮滿瓊潮涸瓊二種(ノ)寶物(ヲ)1仍(テ)教2用(フル)v瓊(ヲ)之法《サマヲ》」又教曰、兄作(ラバ)2高田《アゲタヲ》1者、汝可v作2※[さんずい+誇の旁]田《クボタヲ》1、兄作(ラバ)2※[さんずい+誇の旁]田(ヲ)1者、汝可v作2高田(ヲ)1とあり、又一書には、又汝仍兄|渉《ワタラム》v海(ヲ)時、吾必|起《タテテ》2迅風洪濤《ナミカゼヲ》1、令其役溺辛苦《オボラシタシナメム》矣、一書には、又兄|入《イデテ》v海(ニ)釣《ツリセム》時、天孫|宜在海濱《ウミベタニマシテ》、以2作《シタマヘ》風招《カザヲキ》1、如此《シカシタマハバ》、則吾起(シ)2瀛風邊風《オキツカゼヘツカゼヲ》1、以《タテテ》2奔波《ハヤナミヲ》1溺惱《オボラサム》、など云ことありて、瓊の事はなし、
〇和邇魚《ワニ》の魚(ノ)字、讀(ム)べからず、【上にも下にもたゞ和邇とのみあるを、此《ココ》にのみ魚(ノ)字を加へ書るは、漢名に效《ナラ》ひてなるべし、漢名には、鰐とも鰐魚ともいひ、又鯉を鯉魚、鮒を鮒魚など云例なり、】
〇上國《ウハツクニ》は、書紀に、上國此(ヲ)云2羽播豆矩※[人偏+爾]《ウハツクニト》1とあり、海神《ワタツミノ》宮は、海底《ワタノソコ》にして、此(ノ)御國は上《ウヘ》なるが故に、如此《カク》云なり、【或人、漢文にいはゆる上國のことを思ひて、尊める稱なりと云るは、ひがことなり、】鎭火祭(ノ)詞に、吾名※[女+夫]能命波《アガナセノミコトハ》、上津國乎所知食倍志《ウハツクニヲシロシメスベシ》、吾波下津國乎所知牟止申弖《アハシタツクニヲシラムトマヲシテ》、【こは豫美《ヨミノ》國にて申(シ)賜ふ御言なるが故に、此(ノ)現國《ウツシクニ》を、上國《ウハツクニ》と詔へり、豫美《ヨミ》も、根(ノ)國底(ノ)國と云て、下方《シタヘ》に在ればなり、】
〇誰者幾日《タレハイクカニ》、これ言|少《スクナ》くして、意|詳《ツバラカ》に聞えたり、古文《イニシヘコトバ》なりけり、【然るを誰者《タレハ》と云ことを聞なれず思ひて、異《コト》さまに訓るは、非なり、多禮波《タレハ》と云(ハ)ざれば、意明らかならず、】
〇覆奏《カヘリコトマヲサム》、中卷にも如此《カク》書り、覆は復なり、書紀にも、復命を服命とかき、萬葉に、都を堵と書るたぐひ、往々《ヲリヲリ》あり、みな音の通ふまゝに、あらぬ意の字をも書ること、古書の例なり、【漢籍にも、覆奏と云ことあれど、其《ソ》は異意なり、又漢には、覆を復と作《カケ》る例はあれども、復を覆と作《カク》ことはなし、】
〇己身(ノ)二字を、美《ミ》と訓べし、【己(ノ)字を別には訓べからず、】上に各《オノモオノモ》とある、即(チ)己《オノ》も己《オノ》もなればなり、
〇尋長(ノ)二字を、那賀佐《ナガサ》と訓べし、【ヒロとも、ヒロロノナガサとも訓べけれど、】上の八俣遠呂智《ヤマタヲロチ》にも、其長《ソノナガサ》とあり、
〇一尋和邇《ヒトヒロワニ》、【ヒトヒロノと、之《ノ》を讀(ミ)附(ク)るはわろし、下文の八尋和邇《ヤヒロヒロワニ》もしかなり、】書紀一書に、鹽筒老翁《シホツツノヲヂ》計(リテ)曰(ク)、海(ノ)神(ノ)所乘駿馬者《ノルヨキウマハ》、八尋鰐也《ヤヒロワニナリ》、是《ソレ》竪《タテテ》2其鰭背《ハタヲ》1、而|在《ヲリ》2橘(ノ)之|小戸《ヲドニ》1、吾當與彼者共策《ワレカレトトモニハカラムトイヒテ》、乃《スナハチ》將《ヰテマツリテ》2火折(ノ)尊(ヲ)1、共(ニ)往(テ)而|見之《アヘリキ》、是(ノ)時|鰐魚《ワニ》策之《ハカリテ》曰(ク)、吾(ハ)者|八日以後方《ヤカスギテゾ》致《イタシマツラム》2天孫(ヲ)於|海宮《ワタツミノミヤニ》1、唯吾王駿馬一尋鰐魚是當一日之内必奉致焉《タダワガキミノヨキウマヒトヒロワニコソハヒトヒノウチニイタシマツラメ》、故(レ)今我歸(リテ)、而|使彼出來《ソレヲシテイデキシメム》、宜《ベシ》2乘(テ)v彼《ソレニ》入(リタマフ)1v海(ニ)云々、言(ヒ)訖(ヘテ)即(チ)入海去矣《ウミニイリニキ》、故(レ)天孫|隨鰐魚所言《ワニノイヘルママニ》、留居相待《トドマリヰテマチタマフニ》、已八日矣《ヤカヘヌ》、久之方有一尋鰐來《ヒサシクアリテゾヒトヒロワニキケル》、因《カレ》乘(テ)而入(リマシキ)v海(ニ)とあるは、いたく異なる傳(ヘ)なり、【一尋和邇に乘《ノラ》せるは海神(ノ)宮より還(リ)坐(ス)度《タビ》の事なるを、此(ノ)一書の傳(ヘ)は、其(ノ)宮へ幸行《イデマ》すをりの事とせり、】さて是(レ)に依(ル)に、八尋和邇は、八日も經《ヘ》て行(ク)路を、一尋和邇は、一日に行(ク)なるは、纂疏に、短(キ)者(ハ)身輕(クシテ)、而行(クコト)※[馬+決の旁]《トク》、長(キ)者(ハ)身重(クシテ)、而行(クコト)遲(シ)とある、是(ノ)故にや、【よのつねの例を以て思へば、大(キ)なるぞ速《ハヤ》かるべきに、却《カヘリ》て小きが速きは、鰐は實に然る物にや、なほよく尋ぬべし、】隨《マニマニ》2己身之尋長《ミノナガサノ》1、限(リテ)v日(ヲ)而白(ス)とあれば、長き短きに隨て、速き遲きけぢめあるなり、文一書には、乘《ノセ》2火々出見(ノ)尊(ヲ)於大鰐(ニ)1以《テ》、送2致《オクリマツル》本郷《モトツミクニニ》1とあるは、小《チヒサ》きと大(キ)なると、異なる傳(ヘ)なり、又一書に、召2集《ヨビアツメテ》鰐魚《ワニヲ》1、問2之曰《トフ》天(ツ)神(ノ)之|孫《ミコ》、今|當還去《カヘリマサムトス》、※[人偏+爾]等幾日《オライクカノ》之内(ニ)、將作以奉致《オクリマツラムト》1時(ニ)、諸鰐魚《モロモロノワニドモ》、各《オノモオノモ》隨《マニマニ》其(ノ)長短《ミノナガサノ》1、定(ムル)2其(ノ)日數(ヲ)1中(ニ)、有一等鰐《ヒトヒロワニナモ》、自2言《マヲシキ》一日(ノ)之内(ニ)則|當致《イダシマツラムト》1焉、故即遣(ハシテ)2一尋鰐(ヲ)1以奉v送焉、【作(ノ)字は、供の誤か、】とあるは、此記と同じ、
〇若《モシ》渡《ワタル》2海中《ワタナカヲ》1時《トキ》、萬葉一【二十六丁】に、對馬乃渡渡中爾《ツシマノワタリワタナカニ》云々、さて若《モシ》は、惶畏へ係《カカ》れる言なり、【海中を渡るは、もとより定まれる事なれば、若《モシ》と云べきに非ず、】
〇無令惶畏は、那珂志許麻世麻都埋曾《ナカシコマセマツリソ》、と師の訓れたるに從ふべし、こは凡て海中を行(ク)ほどは、可畏《カシコ》き物なる故に、其心して、懼《オソレ》賜はぬさまに物せよと戒《イマシ》め給ふか、將《ハタ》鰐は猛《タケ》くおそろしき物なる故にてもあらむか、
〇載《ノセマツリテ》2其和邇之頸《ソノワニノクビニ》1、背《セ》にこそ乘《ノセ》奉るべき物なるに、頸《クビ》にしも乘《ノセ》奉れる由は、鰐は、書紀に、竪《タテテ》2其(ノ)鰭背《ハタヲ》1などある