古事記傳十六之卷
                      本居宣長謹撰
 
     神代十四之巻《カミヨノトヲマリヨマキトイフマキ》
   
故爾詔天宇受賣命《カレココニアメノウズメノミコトニノリタマハク》。此立御前所仕奉《コノミサキニタチテツカヘマツレリシ》。※[獣偏+爰]田毘古大神者《サルタビコノオホカミヲバ》。專所顯申之汝送奉《モハラアラハシマセルイマシオクリマツレ》。亦其神御名者《マタソノカミノミナハ》.汝負仕奉《イマシオヒテツカヘマツレトノリタマヒキ》。是以※[獣偏+爰]女君等《ココヲモテサルメノキミラ》。負其※[獣偏+爰]田毘古之男神名而《ソノサルタビコノヲガミノナヲオヒテ》。女呼※[獣偏+爰]女君之事是也《ヲミナヲサルメノキミトヨブコトコレナリ》。
此《コノ》立(チテ)2御前(ニ)1云々、此《コノ》は、彼《カノ》と云むが如し、先《サキ》に天降(リ)坐(シ)し時の事を指《サス》なり、【中昔の物語書などにも、彼《カノ》と云べきを、此《コノ》と云ること多し、】又此(ノ)時猿田毘古(ノ)大神、大前《ミマヘ》に侍《ハヘ》り坐(ス)を、直《タダ》に指(シ)て詔ふともすべし、
〇※[獣偏+爰]田毘古(ノ)大神、書紀に、自《ミ》名告《ナノリ》賜ふ言にも、大神《オホカミ》とあり、本より尋常《ヨノツネ》ならぬ神にこそ坐(シ)つらめ、
〇專《モハラ》とは、他神《アダシカミ》は得《エ》問《トハ》ざりしを、此(ノ)宇受賣(ノ)命たゞ獨《ヒトリ》、よく問顯《トヒアラハ》せる意なり、其(ノ)處にも、專汝《モハライマシ》云々とあり、
〇顯申《アラハシマヲセル》とは、彼(ノ)大神の御名をも、又其(ノ)出居《イデヰ》賜へる所以《ユヱ》をも、問聞《トヒキキ》て顯《アラハ》せるを云、上に顯2白《アラハシマヲセリシ》其(ノ)少名毘古那(ノ)神(ヲ)1、所謂《イハユル》久延毘古云々、とあるに同じ、申《マヲス》は、云々《シカシカ》と奏《マヲ》せるを云、【顯《アラハシ》に附(ケ)て云辭には非ず、】書紀に、天鈿女《アメノウズメ》還詣報状《カヘリマヰリテアリサママヲス》とあるに當れり、
○送奉《オクリマツレ》、書紀には、猿田彦(ノ)大神云々、因曰(ク)、發2顯《アラハセル》我(ヲ)1者(ハ)汝(ナリ)也、故(レ)汝可以送我而致之矣《ワレヲオクリテヨ》、また果《ハタシテ》如《ゴト》2先期《サキノチギリノ》1皇孫《ミマノミコトハ》云々、其(ノ)猿田彦(ノ)神(ハ)者、則|到《イタリマシキ》2伊勢(ノ)狹長田五十鈴(ノ)川上(ニ)1、即(チ)天(ノ)鈿女(ノ)命|隨《マニマニ》2猿田彦(ノ)神(ノ)所乞《コハシノ》1、遂以侍送焉《オクリマツリキ》などあり、いさゝか此(ノ)記とは傳(ヘ)の異なるなり、さて此(ノ)記には、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神、何處《イヅク》へ往坐《イマス》とも云(ハ)ずして、たゞ送(リ)奉(シ)とあるは、其(ノ)本郷《モトツクニ》に還りたまふなるべし、【もし本(ツ)郷に還(リ)賜ふに非ずは、必(ズ)往《ユキ》坐(ス)處を云はでは、事|足《タラ》はず、】是(レ)に依(リ)て見れば、伊勢は初目より其(ノ)本(ツ)國なりけり、【伊勢の書どもにも、其趣に云り、】かくて天(ノ)宇受賣(ノ)命の送りしは、書紀の趣は、かの御前《ミサキ》に立(チ)て、天より降(リ)賜ふをりの如くに聞ゆれど、此(ノ)記の趣は、然にあらず、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神は、先(ヅ)伊勢に降(リ)到(リ)て、さて伊勢より、一度《ヒトタビ》日向の宮に朝參《マヰリ》て、【此(ノ)事は傳十五の卅五葉にも云り、】さて暇《イトマ》を賜はりて、日向より伊勢に歸り給ふ時の事と聞えたり、【書紀に、遂以侍送焉とあるをも口決などには、天孫降臨之後の事に云り、さもあるべし、】さて※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の、日向に參り賜ひしことは、此(ノ)記にも書紀にも見えざれども、若(シ)日向に參(リ)給へる事|無《ナ》からむには、既に天降坐て後に、宇受賣(ノ)命の送れるをば、何處《イヅク》よりとかせむ、必(ズ)日向よりとこそ聞えたれ、
〇其(ノ)神(ノ)御名|者《ハ》汝負《イマシオヒテ》、すべて名を負《オフ》と云は、他人《アダシヒト》の名にまれ、物(ノ)名にまれ、取て己が名につくを云(フ)、其名を負持《オヒモツ》よしなり、
〇仕奉《ツカヘマツレ》は、皇朝《スメラミカド》に仕(ヘ)奉(ル)にて、【※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神に仕奉と心得るは、甚《イタ》く違へり、】即(チ)後まである※[獣偏+爰]女《サルメ》の職《ツカサ》これなり、さて是は、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神|躬《ミ》づから皇朝に侍《ハヘリ》て、仕奉り賜ふべきを、此(ノ)神は、幽契《フカキユヱ》ありて、罷退《マカリソキ》て伊勢に坐(ス)べきが故に、宇受賣(ノ)命此(ノ)神の代《カハリ》として、其(ノ)御名を負持《オヒモチ》て、【近(キ)世に、身の代(リ)を名代と云は、此(ノ)義によく當れり、】仕奉れと詔ふなり、【汝負(テ)2其(ノ)神(ノ)御名(ヲ)1、とは云(ハ)ずして、其(ノ)神(ノ)御名(ハ)者汝負(テ)とある、語の勢に心を着《ツケ》て、よく味ふべし、其(ノ)神の代(リ)には、汝仕奉れと詔ふ意、おのづから含めり、】
〇※[獣偏+爰]女君等《サルメノキミラ》、これは後の※[獣偏+爰]女(ノ)君氏の人等《ヒトドモ》を指(シ)て云り、
〇男神《ヲガミ》の名《ミナ》を負てとは、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の代(リ)として、其(ノ)御名を負む者は、男なるべきことなるに、然はあらで、宇受賣(ノ)命よりして後までも、皆女にして其職に供奉る故に、女にして、男の代(リ)を供奉ると云意にて、男神とはことわれるなり、次に女《ヲミナヲ》とあると、相應《アヒテラ》せる言ぞ、【師(ノ)説に、日本紀古語拾遺などと合せて考るに、男神(ノ)名とある男(ノ)字は、下の女(ノ)字の上に在(リ)しが、錯《ミダ》れたるなり、と云れたるは、一わたりのことにて、なほ深く思はれざりしものなり、もしさもあらむには、男(ノ)字の上なる之(ノ)字も、いかゞなり、男神と云むとてこそ、之(ノ)字をも置るなれ、】
〇女(ヲ)呼2※[獣偏+爰]女(ノ)君(ト)1、上の女(ノ)字、袁美那袁《ヲミナヲ》と訓べし、【先(キ)には、書紀古語拾遺などに、男女皆呼とあるに依て、袁美那母《ヲミナモ》と訓て、男も女もと云意としつれども、然にはあらずかし、】此《コ》は女にして、男神の名を負て、仕奉る所由《ユヱ》を云處なる故に、男には用なく、たゞ女を主《ムネ》とは云り、※[獣偏+爰]《サル》と云は、男神の名なるを、女の負て、※[獣偏+爰]女《サルメ》と呼《ヨブ》なり、【然るを、男(ノ)字の脱《オチ》たるかと思ふは、中々にあらず、】呼(ノ)字、師は伊布《イフ》と訓れたり、【與夫《ヨブ》と云は、からぶみ讀《ヨミ》めきたれば、】それも然《サ》ることなれども、なほ此《ココ》などは、與夫《ヨブ》と訓べくおぼゆ、さて此(ノ)處、書紀には、時(ニ)皇孫《ミマノミコト》勅(リタマヒ)3天(ノ)鈿女(ノ)命(ニ)、汝宜以所顯神名《イマシアラハセルカミノミナヲ》爲《セヨト》2姓氏《カバネト》1焉、因(テ)賜(ヒ)2猿女(ノ)君(ト)之號《イフナヲ》故(レ)猿女(ノ)君|等《ラ》、男(モ)女(モ)皆|呼2爲《ヨブ》君(ト)1、此(レ)其(ノ)縁也《コトノモトナリ》、【此(レ)は漢文を修《ツクロ》はれたるにつきて、古(ノ)意の主《ムネ》とある所を失へり、此(ノ)記と合せ見て曉《サト》るべし、且《ソノウヘ》此(ノ)文には、心得ぬ事どもあり、まづ上には姓氏と云て、下には號と云る、姓氏と號と忽(チ)違へり、そも/\此時、いまだ姓氏と云ことあるべくもあらざれば、此(ノ)二字は、此《ココ》にかなはず、たゞ號とあるぞ宜き、次に呼爲君と云るも心得ず、其故は、此《ココ》は※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の名を取て、號とせるなれば、※[獣偏+爰]女と云こそ主《ムネ》なれ、君と云は、たゞ尊稱《アガメナ》のみにて、こゝの由縁に關《アヅカ》れることに非るを、その主《ムネ》とある※[獣偏+爰]女をば略きて、たゞ君と呼(ブ)ことを云るは、何の由ぞや、故(レ)思(フ)に、本は是も、呼爲猿女君とありけむを、上にも猿女君等とある故に、煩はしと思ひて、後(ノ)人のなまさかしらに、猿女(ノ)二字を削れるにこそあらめ、】古語拾遺にも、天(ノ)鈿女(ノ)命(ハ)者、是(レ)猿女(ノ)君(ノ)遠祖(ナリ)、以(テ)2所顯《アラハセル》神(ノ)名(ヲ)1爲2氏姓(ト)1、今彼(ノ)男女皆|號2爲《イフ》猿女(ノ)君(ト)1、此(ノ)縁也《ヨシナリ》とあり、【書紀にも此(ノ)書にも、男女皆と云ることいかゞ、其故は、男女皆呼(ブ)ことは、萬(ノ)姓の常なり、いづれの姓かは然らざらむ、殊更に云べきことにあらず、且《ソノウヘ》此(ノ)號は、女に局《カギ》れる事とおぼしくて、男に猿女(ノ)君と云ることは、諸の書に見えたることなし、故(レ)思(フ)に、こは本は此(ノ)記の如く、女とのみありけむを、例の漢文のあやに、何の意もなく、ふと書れたる物にこそあらめ、さるは男のみならず女もと云意にて、實は女を云むためにはあれども、かにかくに男を云るは、いたづらなるのみならず、事違ひてぞ聞ゆる、】さて書紀に依れば、此(ノ)號《ナ》は、即(チ)宇受賣(ノ)命に賜へる號《ナ》にして、其《ソ》を後々まで嗣々《ツギツギ》傳へたる物なり、上に天(ノ)宇受賣(ノ)命(ハ)者、※[獣偏+爰]女(ノ)君等之祖、書紀に、猿女(ノ)君(ノ)遠祖天(ノ)鈿女(ノ)命、また猿女(ノ)上祖天(ノ)鈿女(ノ)命とあり、さてかくあれば、※[獣偏+爰]女(ノ)君と云は、尋常《ヨノツネ》の姓氏《ウヂ》の如《ゴト》聞ゆれども、鏡作(ノ)連(ノ)祖伊斯許理度賣(ノ)命と、此(ノ)宇受米(ノ)命とは、女神なるに、子孫の氏のあらむこと疑はし、【天照大御神の、皇統の御祖神に坐(ス)などは、殊なる所由《ユヱ》のまし/\て、殊に天上《アメ》の事なれは、例には申しがたし、同じき神代といへども御天降《ミアモリ》の後は、萬の事やう/\に、人(ノ)代のさまと近ければ、此(ノ)神たち、夫《ヲ》なくして子孫のあらむこと、いふかし、若(シ)くは夫神ありつれども、其(ノ)夫神は功なくして、此|婦《メ》神ぞ功ありて、皇朝に仕奉(リ)給ひ、後までも其家の職業《ワザ》は、世々女子の仕奉る氏なる故に、殊に妣神《ハハガミ》を以て、祖とはせるにやあらむ、ともいふべけれど、なほ然にはあらじ、】故(レ)思(フ)にこれらは、尋常《ヨノツネ》の姓の如く、必しも其(ノ)子孫《ウミノコ》にはあらざれども、此(ノ)職業《ワザ》を相嗣《アヒツギ》て仕奉る女|等《ドモ》を、※[獣偏+爰]女(ノ)君と號《イヒ》て、此(ノ)神を祖神とせるにやあらむ、書紀應神(ノ)卷に、百濟王貢(ル)2縫衣工女《キヌヌヒメヲ》1曰(フ)2眞毛津(ト)1、是(レ)今(ノ)來目衣縫《クメノキヌヌヒノ》之始祖也とあるなども、同じ例にやあらむ、【又同卷に、工女《キヌヌヒ》兄媛を、筑紫の御使(ノ)君(ノ)祖とあるは、如何《イカ》にあらむ、しらず、】されば此(ノ)記書紀を始めて、世々の史《フミ》どもに、※[獣偏+爰]女(ノ)君と云姓の人も、見えたることなく、天武天皇の御世に、此(ノ)同(ジ)列《ツラ》の氏々【中臣忌部玉祖など】は、みな加婆泥《カバネ》を賜はれるに、其中にも見えず、又姓氏録にも見えざるも、然《サ》る故にやあらむ、【次に引く書どもに依れば、※[獣偏+爰]女(ノ)君氏とて、一氏ある如くなり、其《ソ》はやゝ後には、世々女子を此(ノ)職に供奉らしむる家の、おのづからに定まりて、例となりて、其(ノ)家の女子を、※[獣偏+爰]女(ノ)君氏とは云るにこそ、古語拾遺に、神武天皇の段などに云るは、氏(ノ)字は、後(ノ)世の稱に依て、書る文なるべし、凡て彼書には、後(ノ)世の稱に依て云る事、此(ノ)類多し、】なほよく考ふべきことなり、さて※[獣偏+爰]女といふ職《ツカサ》は、後まで大嘗會鎭魂祭などに見えたり、次に引く書どもの如し、古語拾遺、神武天皇(ノ)段に、※[獣偏+爰]女(ノ)君氏|供《ツカヘマツル》2神樂(ノ)之事(ニ)1、類聚三代格、弘仁四年十月(ノ)太政官符に、應(キ)v貢(ル)2※[獣偏+爰]女(ヲ)1事、右得(ルニ)2從四位下行左中辨兼攝津守小野(ノ)朝臣野主等(ガ)解(ヲ)1※[人偏+爾](ク)、※[獣偏+爰]女(ノ)之興(リ)、國史(ニ)詳(ナリ)矣、其後不v絶、今猶現在(ス)、又※[獣偏+爰]女(ノ)養田、在2近江(ノ)國和邇村、山城(ノ)國小野郷(ニ)1、今小野(ノ)臣和邇部(ノ)臣等、既邇非(シテ)2其氏(ニ)1、被v供2※[獣偏+爰]女(ニ)1、熟《ツラツラ》捜(ルニ)2事緒(ヲ)1、上件(ノ)兩氏、貪(リ)v人(ヲ)利(シテ)v田(ヲ)、不v顧2恥辱(ヲ)1、拙吏相容(レテ)、無(シ)v加(ルコト)2督察(ヲ)1也、亂(リ)2神事(ヲ)於先代(ニ)1、穢(ス)2氏族(ヲ)於後裔(ニ)1、積(ミ)v日(ヲ)經(バ)v年(ヲ)、恐(クハ)成(ム)2舊貫(ト)1、望(ミ)請(フ)、令(メム)d所司(ヲ)嚴(ニ)加2捉搦(ヲ)1、斷《タタ》uv用(ルコトヲ)2非氏(ヲ)1、然(ルトキハ)則祭禮無(ク)v濫、家門得(ム)v正(ヲ)、謹(テ)請(フ)2官裁(ヲ)1者《テヘリ》、捜2檢(スルニ)舊記(ヲ)1、所v陳(ル)有v實、右大臣宣(ス)奉(ルニ)v勅(ヲ)宜(ク)・《ベシ》v改2正(ス)之(ヲ)1者《テヘリ》、仍(テ)兩氏(ノ)※[獣偏+爰]女從(ヒ)2停廢(ニ)1定(テ)※[獣偏+爰]女(ノ)公氏(ノ)之女一人(ヲ)1、進(リ)2縫殿寮(ニ)1、隨(テ)v闕(ニ)即補(シ)、以(テ)爲《セヨ》2恆例(ト)1、【この小野(ノ)々主等の解文、類聚國史にも載れり、】西宮記に、猿女【依(テ)2縫殿寮(ノ)解(ニ)1、内侍奏(シテ)補(ス)v之(ヲ)、】裏書に、貢(ル)2猿女(ヲ)1事、【弘仁四年十月廿八日、※[獣偏+爰]女(ノ)公氏(ノ)之女一人進(ル)2縫殿寮1、】延喜廿年十月十四日、昨《キノフ》尚侍令(ム)v奏(セ)、縫殿寮申(ス)、以2※[草がんむり/稗]田(ノ)福貞子(ヲ)1、請(フ)v爲(ムト)2※[草がんむり/稗]田(ノ)海子(ガ)死闕(ノ)替(リト)1云々、天暦九年正月廿五日、右大臣令(ム)v奏(セ)、縫殿寮申(ス)、被《ハリ》v給(マ)2官符(ヲ)於大和近江(ノ)國(ノ)氏人(ニ)1、令(メム)v差(シ)2進(セ)猿女三人死闕(ノ)替(リヲ)1云々、貞觀儀式、踐祚大嘗會卯(ノ)日(ノ)儀に、大臣一人、率(テ)2中臣忌部御巫猿女(ヲ)1、前行(ス)、【大臣在2中央(ニ)1、中臣忌部在2左右(ニ)1、】延喜大嘗祭式に、大臣若(シクハ)大中納言一人、率(テ)2中臣忌部【中臣立v左(ニ)忌部立v右(ニ)】御巫※[獣偏+爰]女(ヲ)1、【左右】前行(ス)、【江次第にも見えたり、平戸記に、仁治三年十一月十三日、今夜大嘗祭也云々、祭祀(ノ)之間、又多(シト)2違例等1云々《イヘリ》、無(シト)2猿女1云々《イヘリ》、希代(ノ)勝事(ナリ)也、】鎭魂祭儀式に、縫殿寮率(テ)2猿女(ヲ)1、升(リ)v自2東側(ノ)階1、就(ク)v座(ニ)、また御巫《オホミカムノコ》舞(ヒ)訖(テ)、次(ニ)諸(ノ)御巫《ミカムノコ》猿女舞(ヒ)畢(ル)、【延喜式にも見ゆ、】縫殿寮式に、鎭魂(ノ)齋服【新嘗祭同(ク)用(フ)v之(ヲ)、】云々、猿女四人(ノ)緑(ノ)袖四領、【緑(ノ)表帛(ノ)裏、別《オノオノ》三丈、】綿八屯、【別《オノオノ》二屯、】寮面(ノ)紐四條、【別長(サ)一尺九寸、廣(サ)五寸、】汗衫四領、【別三丈、】緑(ノ)裾四腰、【緑(ノ)表帛(ノ)裏、別三丈、】裾(ノ)腰(ノ)料(ノ)縹(ノ)帛四條、【別一丈五尺、】綿八屯、【別二屯、】下裾四腰、【裾別三丈、腰別一丈五尺、】袴四腰、【別三丈、】綿四屯、【別一屯、】縹(ノ)帶四條、【別長六尺、廣(サ)四寸五分、】細布(ノ)髪※[かみがしら/告]四條、【別二尺、】緋(ノ)※[巾+皮]四條、【緋(ノ)表吊(ノ)裏、別一丈五尺、】細布(ノ)※[衣偏+末]四兩、【別三尺、】線鞋四兩、【この種々の服、儀式には、大嘗祭の處に見えたり、】
〇事是也《コトコレナリ》とは、中卷(ノ)末に、此者神宇禮豆玖之言本者《コハカミウレヅクトイフコトノモトナリ》也【師は是を、後(ノ)人の注なりと云れつれど、然らず、】と見え、又書紀に、多く云々之縁也《シカシカノコトノモトナリ》、とあると同意にて、其事の所由始《ハジメ》と云ことなり、【事の下に、本(ノ)字の脱《オチ》たるにや、さらずとも、意は其意なり、】さて此處の文《コトバ》、上に是以《ココヲモテ》と云て、是也《コレナリ》と結《トヂ》めたるは、とゝのひ宜しからず聞ゆ、【是以《ココヲモテ》をば、故《カレ》と云ると同く、輕く見べし、故《カレ》は多く、たゞ語の首《ハジメ》に輕く置る例なり、】
 
故其猿田毘古神《カレソノサルタビコノカミ》。坐阿邪※[言+可]《アザカニイマシケル》【此三字以音地名】時《トキニ》。爲漁而《スナドリシテ》。於比良夫貝《ヒラブガヒニ》【自比至夫以音】其手見咋合而《ソノテヲクヒアハサエテ》。沈溺海鹽《ウシホニオボレタマヒキ》。故其沈居底之時名《カレソノソコニシヅミヰタマフトキノミナヲ》。謂底度久御魂《ソコドクミタマトマヲシ》。【度久二字以音】其海水之都夫多都時名《ソノウシホニツブタツトキノミナヲ》。謂都美多都御魂《ツブタツミタマトマヲシ》。【自都下四字以音】其阿和佐久時名《ソノアアワサクトキノミナヲ》。謂阿和佐久御魂《アワサクミタマトマヲス》。【自阿至久以音】阿邪※[言+可]《アザカ》は、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡なり、大神宮儀式帳に、次(ニ)壹志(ノ)藤方(ノ)片樋(ノ)宮(ニ)坐(シ)只《キ》、其在阿佐鹿惡神平《ソコナルアザカノアラブルカミシヅマリテ》、驛使《ハユマヅカヒ》阿倍(ノ)大稲彦(ノ)命|即御共仕奉支《ヤガテミトモツカヘマツリキ》、彼時壹志縣造等《ソノトキニイチシノアガタノミヤツコラガ》遠祖建呰子|乎《ヲ》、汝《イマシガ》國(ノ)名|何問《イカニトトヒ》腸(ヒ)支《キ》、白(サ)久《ク》、宍往呰鹿國止《シシユクアザカノクニト》白(シ)只《キ》、即(チ)神御田并神戸進支《カムミタマタカムベタテマツリキ》、【此(ノ)惡神《アラブルカミ》の事、下に云べし、建呰子の呰(ノ)字、倭姫命(ノ)世記には、皆とあり、其一本には、比とも作《カケ》り、呰鹿の呰《アザ》は、字書に毀也とも注せれば、※[魚+委]《アザレ》の意に取て書るか、又靈異記に、呰(ハ)アザケルとあり、此意か、又和名抄備中(ノ)國(ノ)郷(ノ)名の呰部は、安多《アタ》とあり、參河(ノ)國にも、呰見てふ郷あれど、其《ソレ》には注なし、宍往と云る枕詞も、心得がたし、世記には、害行阿佐賀(ノ)國とあり、害は誤字にや、】神鳳抄に、壹志(ノ)郡|大阿射賀《オホアザカノ》御厨、【彼是廿六石凡絹廿匹】小《コ》阿射賀(ノ)御厨、【卅三町八段十五石】また小阿射賀(ノ)神田【二町】とあり、今も大阿坂小阿坂と、北南に並びて、二村あり、【松坂より一里半許(リ)西(ノ)方なり、】其《ソコ》の山をも阿坂山といふ、さて宇受賣(ノ)命の送りて還《カヘ》られたること、下にあれば、※[獣偏+爰]田毘古神の、此(ノ)阿邪※[言+可]に坐(シ)しは、日向より還(リ)腸ふをりの、途《ミチ》の次《ツイデ》かとも云べけれども、坐時《イマシケルトキ》とあるなどを以て思(フ)に、なほ其(ノ)後|或時《アルトキ》の事なるべし、
〇注なる地名(ノ)二字は、例なし、後(ノ)人の加へたるなり、除《ノゾ》くべし、と師の云れたる、然《サ》もあるべし、
〇爲漁而は、須那杼理志弖《スナドリシテ》と訓べし、和名抄に、漁(ハ)、説文(ニ)云(ク)、捕(ル)v魚(ヲ)也(ト)、訓|須奈度利《スナドリ》、書紀欽明(ノ)卷に捕魚《スナドリ》、萬葉四に、奥幣往邊去伊麻夜爲妹吾漁有藻臥束鮒《オキヘユキヘニユキイマヤイモガタメワガスナドレルモプシツカブナ》などあり、師(ノ)云(ク)、須那取《スナドリ》は、伊須那取《イスナドリ》の伊《イ》を略き、須《ス》と佐《サ》は、上(ノ)條【いすくはし】の如く通へば、即(チ)鯨魚取《イサナドリ》なり、然れば鯨魚を取(ル)を本にて、何の魚取(ル)をも云り、【冠辭考いさなとりの條に見ゆ、】さて阿邪※[言+可](ノ)地は、今は海邊やゝ遠けれども、【今の村よりは、海邊まで、一里餘許(リ)あるべし、】古(ヘ)は海邊かけて廣き名なりけむ、又さらずとも、甚《イタ》くは遠からねば、出て漁し給ひつべし、
〇比良夫貝《ヒラブガヒ》は、古(ヘ)世に多かりし物とおぼしくて、人(ノ)名に負る、書紀續紀にいと數多《アマタ》見えたり、【書紀に、大伴(ノ)毘羅夫(ノ)連、巨勢(ノ)臣比良夫、額田部(ノ)連比羅夫、阿曇(ノ)連比羅夫、倭(ノ)漢(ノ)直比羅夫、河部(ノ)引田(ノ)臣比羅夫、續紀に、民(ノ)忌寸比良夫、采女(ノ)朝臣|枚夫《ヒラブ》、田邊(ノ)史比良夫、石川(ノ)朝臣比良夫などあり、これらみな、此(ノ)貝を以て名けたりと見ゆ、】然るに和和抄などに見えざるは、後に名の變《かは》れるにやあらむ、今|詳《サダカ》ならず、【なほくさ/”\思ひめぐらすに、今(ノ)世に月日貝と云あり、殻《カラ》のさま月日に似たり、是(レ)などにや、そは比良《ヒラ》は平《ヒラ》、夫《ブ》は日《ビ》に通ひて、平日《ヒラビ》の意かと思へばなり、又|多比良岐《タヒラギ》と云貝あり、岐《ギ》は賀比《ガヒ》の切《ツヅマ》りたるにて、平貝《タヒラガヒ》の意にて、是(レ)にや、又|佐流煩《サルボ》と云貝あり、※[獣偏+爰]溺《サルオボ》らしてふ意にて、此《ココ》の故事に依れる名にて、是(レ)にや、されどこれら皆、其名につきて、思ひよれるまゝに、こゝろみに云のみなり、かくて後に、志摩(ノ)國の海邊の人に、此(ノ)貝の事問けるに、云く、比良夫貝は、月日貝のことなり、此(ノ)わたりの海に、いと稀《マレ》にある物なり、とぞ云ける、なほ國々の人に尋(ネ)問はば、今も古(ヘ)の名の殘れる處も有(ル)べきなり、さて今飯高(ノ)郡の海邊に、平生と書て、比良於《ヒラオ》と呼(ブ)村あり、壹志(ノ)郡の堺に近くして、阿坂村より一里半ばかり東なり、これ若(シ)くは、古(ヘ)は比良夫にて、此(ノ)貝の此《ココ》の故事より出たる地名にはあらざるか、神鳳抄に、平生(ノ)御厨とある處なり、】
〇海鹽は、【鹽は借字】齊明紀の御歌に、于之〓《ウシホ》とあるに依て、然訓べし、下なる海水も同じ、【師はウナシホと訓れつれども、據なし、】
〇沈溺は、淤煩禮《オボレ》と訓べし、さて此(ノ)神は、如此《カク》て是(ノ)時に薨《ウセ》坐(シ)しにや、然には非ずや、決《サダ》めがたし、
〇底度久《ソコドク》は、底着《ソコヅク》にて、底に沈着《シヅミツク》なり、下なる日子穗々手見(ノ)命の大御歌に、加毛度久《カモドク》とあるを、書紀には※[車+可]茂豆句《カモヅク》【鴨着なり】とある、是(レ)度久《ドク》は着《ツク》なる證《シルシ》なり、
〇都夫多都《ツブタツ》は、師(ノ)説に、物の沈没《シヅミイ》る時に、水の鳴(ル)音なりと云れき、藤原(ノ)實方(ノ)集に、物をだに岩間の水のつぶ/\と云(ハ)ばや行む思ふ心の、【千五百番歌合、顯昭判(ノ)詞に、世俗の口ずさみの歌に、雨ふれば軒の玉水つぶ/\といははや物を心ゆくまで、】萬葉十八【十二丁】に、可治能於登乃《カヂノオトノ》、都波良都婆良爾《ツバラツバラニ》、これも櫓《カヂ》の水に觸《フレ》て鳴(ル)音にて、都婆《ツバ》は都夫《ツブ》に同じ、【此(ノ)つばらを、師は、かぢの舟《フナ》ばたに摩《ス》るゝ音なり、と云れつれど、然にはあらず、】今(ノ)世(ノ)言にも、物の水に没《オチイ》り沈むを、都夫理《ツブリ》と入(ル)など云、これなり、【又|多都《タツ》とあるに就て思へば、音にはあらで、物の沈(ミ)没《イ》る時に、水都煩《ミツボ》の發《タツ》を云にや、水都煩《ミツボ》は、萬葉廿に見えたり、水(ノ)上に圓《マロ》に浮ぶ泡なり、又宇治拾遺物語に、大柑子の膚《ハダ》のやうに、つぶだちてふくれたり、これらも形を云り、然れども此處《ココ》は、次に阿和佐久とあれば、形にしては、同じことの重なれば、なほ音なり、】多都《タツ》とは、上《ノボ》るを云て、【烟のたつ、鳥のたつなど、みなのぼるを云、】底より音の鳴(リ)て上るなり、
〇時(ノ)下なる名(ノ)字、多くの本に無きは、落たるなり、【前後の例に違へり、】今は一本に有(ル)に依れり、
〇阿和佐久《アワサク》は、沫咲なり、佐久は、花の咲《サク》と同くて、沫の起《タチ》出るを云と、師の説なり、浪の立(ツ)をも咲《サク》と云に同じ、書紀に、秀起浪穗《サキタテルナミノホ》、秀起此(ヲ)云2左岐陀弖屡《サキタテルト》1とあり、さて右の三(ツ)の状《アリサマ》は、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の御身の、底に沈着《シヅミツキ》坐るに依て、海水《ウシホ》の都々夫々《ツブツブ》と鳴(リ)上《ノボ》りて、沫《アワ》の起《タテ》るなり、【三(ノ)件の次序《ツイデ》も如此《カクノゴト》し、】
〇阿和佐久御魂《アワサクミタマ》、諸(ノ)本に阿和(ノ)二字無きは、後に脱《オチ》たるなり、故(レ)今|補《クハ》へつ、【延佳は、沫(ノ)字を補て、據(テ)2舊事紀(ニ)1補v之と記せり、されど沫(ノ)字は宜しからず、上に阿和佐久とあれは、此《ココ》も必(ズ)其字なるべきこと、疑《ウツ》なし、舊事紀は、上をも沫佐久と作《カケ》ればこそ、此《ココ》も其字にてはあるなれ、】
〇註の阿(ノ)字、諸(ノ)本に、佐と作《カケ》るは、非《ヒガコト》なり、【もとは阿なりしを、本文の阿和(ノ)二字、脱《オチ》てなきにつきて、佐の誤(リ)ならむと思ひて、後(ノ)人のさかしらに、佐に改めたる物なり、もとより佐久(ノ)二字ならむには、たゞに佐久二字とこそ注すべけれ、凡て自2某字1至(ルマデ)2某字(ニ)1と注するは、三字|以上《ヨリウヘ》の時の例なるをや、二字を然注すべきことわりも、例もなきことなり、此(レ)を以て、本文に脱たるも、必(ズ)阿和二字にして、沫(ノ)字には非ることをも、互に相照して、さとるべし、】故(レ)今これをも、阿に改めつ、
〇此(ノ)三(ツ)の御魂《ミタマ》は、此(ノ)時の事に就て、各分れたる、※[獣偏+爰]田昆古(ノ)神の神靈《ミタマ》なり、【或(ル)伊勢人の説に、此(ノ)三(ノ)御魂は、※[獣偏+爰]田彦(ノ)神の、三人の妃《ミメ》を云るなり、凡て妻を御魂《ミタマ》と云る例多しと云るは、さらに由なく、論ふにも足らぬ、ひがことなり、】神名帳に、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡、阿邪加《アザカノ》神社三座、【並名神大とあり、續後紀に、承和二年十二月、奉v授2阿邪賀(ノ)大神(ニ)、從五位下(ヲ)1、此(ノ)神、坐2伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡(ニ)1、文徳實録に、嘉祥三年十月、授2伊勢(ノ)國阿邪賀(ノ)神(ニ)從五位上(ヲ)1、齊衡二年正月、以2伊勢(ノ)國阿那賀(ノ)神(ヲ)1預2於名神(ニ)1、同月、加2從四位下(ヲ)1、三代實録に、貞觀元年正月、奉v授2伊勢(ノ)國阿邪加(ノ)神(ニ)從四位上(ヲ)1、同八年十一月、伊勢(ノ)國阿邪加(ノ)神(ニ)授2從三位(ヲ)1、】これ此(ノ)三(ツ)の御魂《ミタマ》を齋祀《イハヒマツ》れるなり、今(ノ)世、阿邪※[言+可](ノ)神社、大阿坂村と小阿坂村と、二處にあり、【二方共に、俗に龍天(ノ)社と申すなり、】同じほどの森にて、共に古く見え、神殿《ミアラカ》も各|三宇《ミツ》あり、何方《イヅレノカタ》か古(ヘ)の本よりの御社ならむ、別《ワキ》まへがたし、【小阿坂村なる圓座藥師と云寺の縁起文に、小阿坂なる神社は、昔行基僧が歡請せるよし記せり、もし是(レ)實ならば、大阿坂なるや、本よりのなるべき、】さて此(ノ)阿邪※[言+可](ノ)神、上古《イニシヘ》に荒《アラ》び坐(シ)し事あり、倭姫(ノ)命(ノ)世記に、十八年己酉、遷(リ)2坐(ス)于|阿佐加《アザカノ》藤方片樋(ノ)宮(ニ)1、積(テ)v年(ヲ)歴(テ)2四箇年《ヨトセヲ》1奉(ル)v齋、是(ノ)時|爾《ニ》阿佐加乃彌尼爾坐而《アザカノミネニマシテ》、伊豆速布留《イヅハヤブル》神、百往人者《モモユクヒトハ》、五十人取死《イヒトトリコロシ》、※[卅に縦棒一つ追加]人往人《ヨソユクヒトハ》、廿人取死《ハタヒトトリコロス》、如此伊豆速布留時爾《カクイヅハヤブルトキニ》、倭比賣(ノ)命、於《ニ》2朝廷1大若子|乎《ヲ》進上而《タテマツリアゲテ》、彼神事乎申之者《カノカミノコトヲマヲシタマヒシカバ》、種々大御手津物彼神進《クサグサメオホミテツモノソイカミニタテマツリ》、屋波志志豆目《ヤハシシヅメ》、平奉止《ムケマツレト》詔(ヒテ)、遣下《ツカハシクダシ》給(ヒ)支《キ》、于v時其(ノ)神|乎《ヲ》、阿佐加乃山嶺《アザカノヤマノミネニ》社作(リ)定(メ)而《テ》、其(ノ)神|乎《ヲ》夜波志志都米上奉天《ヤハシシヅメアゲマツリテ》、勞祀支《ネギラヒマツリキ》、【初(メ)に歴(テ)2四箇年(ヲ)1奉v齋とあるは、皇大御神の御事なり、】また一書(ニ)曰(ク)、天照大神、自2美濃(ノ)國1廻(リ)2到(リ)安濃《アヌノ》藤方片樋宮(ニ)1坐(シキ)、于v時|安佐賀山《アザカノヤマニ》有(リ)2荒《アラブル》神1云々、因(リテ)v茲《》倭姫(ノ)命、不v入(リ)2坐(サ)度會(ノ)郡|宇遲《ウヂノ》村五十鈴(ノ)川上(ノ)之宮(ニ)1云々、即賜(ヒテ)2種々(ノ)幣(ヲ)1而、返《カヘシ》2遣(ハシテ)大若子(ノ)命(ヲ)1、祭(ラシム)2其(ノ)神(ヲ)1、已保平《スデニヤハシシヅメテ》、定(メ)2社(ヲ)於|安佐賀《アザカニ》1以(テ)祭之矣《マツリタマヒキ》、而後《シカシテノチニ》倭姫(ノ)命即(チ)得《エ》入《イリ》坐(シキ)、とある是なり、かの儀式帳に、惡神平《アラブルカミシヅマリテ》とあるも、此(ノ)事なり、【阿邪加(ノ)神社は、正《マサ》しく此(ノ)荒び坐(シ)し神を祀《マツ》れる社と聞えたれば、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神には非じか、とも云べけれども、荒びましし神、即(チ)此《ココ》の※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の三(ツ)の御魂なるべし、三座に坐(ス)も、必(ズ)然思はる、さて※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の御魂ならむには、皇大御神の幸行《イデマシ》の前途《ミチ》をしも、妨げ給はむこと、あるべくもあらじと、なほ疑ふ人もあらむか、其《ソ》は凡人心《タダビトゴコロ》なり、凡て神の御所爲《ミシワザ》は、測《ハカ》りがたき物なれば、さる理(リ)あらじなどは、さだむべきにあらず、そも/\此(ノ)三(ツ)の御魂(ノ)神、當時《ソノカミ》いまだ朝廷より祭り賜ふ事もなく、社などもはか/”\しきもあらざりし故に、祟《タタ》らして、諭《サト》し給ひしにぞありけむ、かの崇神天皇の御世に、大物主(ノ)神の祟《タタ》らして、疫病《エヤミ》のいみしく起《オコリ》し事など、思(ヒ)合すべし、大物主(ノ)神は、皇京の御守(リ)神に坐(ス)すら、疫病をおこし賜へれば、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神の御魂の、荒び賜ひけむこと、何か疑ふべき、〇或書に、多氣(ノ)郡神山(ノ)神社は、猿田彦(ノ)命なり、里人|鑰取《カイトリノ》神と稱す、鑰取《カイトリ》貝取《カヒトリ》と通ふ、と云て、此(ノ)段を引るは、あたらぬことなり、】
 
於是送※[獣偏+爰]田毘古神而《ココニサルタビコノカミヲオクリテ》。還到《マカリイタリテ》。乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以《スナハナコトゴトニハタノヒロモノハタノサモノヲオヒアツメテ》。問言汝者天神御子仕奉耶之時《イマシハアマツカミノミコニツカヘマツラムヤトトフトキニ》。諸魚皆仕奉白之中《モロモロノウヲドモミナツカヘマツラムトマヲスナカニ》。海鼠不白《コマヲサズ》。爾天宇受賣命謂海鼠云《カレアメノウズメノミコトコニイヒケラク》。此口乎不答之口而《コノクチヤコタヘセヌクチトイヒテ》。以紐小刀拆其口《ヒモガタナモチテソノクチヲサキキ》。故於今海鼠口拆也《カレイマニコノクチサケタリ》。是以御世《ココヲモテミヨミヨ》。嶋之速贄獻之時《シマノハヤニヘタテマツレルトキニ》。給※[獣偏+爰]女君等也《サルメノキミラニタマフ》。
於是の下に、天宇受賣命とあらまほし、
〇還到、還(ノ)字は、罷を誤れるなるべし、麻加理伊多理弖《マカリイタリテ》と訓べし、伊勢に到れるなり、其由は、下に斷《コトワ》るべし、【若(シ)本の如く還ならば、日向(ノ)京にかへれるなり、然れども然《サ》ては叶はず、下に云がごとし、】
〇鰭廣物ひれ狹物は、波多能比呂母能波多能佐母能《ハタノヒロモノハタノサモノ》と訓べし、【然るに、廣瀬(ノ)大忌(ノ)祭(ノ)祝詞に、毛能和支物《ケノニゴキモノ》、毛能荒支物《ケノアラキモノ》、鰭能廣支物《ハタノヒロキモノ》、鰭能狹支物《ハタノサキモノ》、とあるを據として、師は各|此《コ》の如く、伎《キ》てふ辭を添(ヘ)て訓れしかども、伎《キ》と云ては、よろしからず、必(ズ)ひろものさものと云べき言の格《サマ》なり、故(レ)此(ノ)言、もろ/\の祝詞に多かる、何れも支(ノ)字あるはなし、右の廣瀬祭なる一(ツ)にのみあるは、心得ぬことなり、】魚の大きなる小《チヒサ》きを云る、古(ヘ)の雅言《ミヤビコト》なり、【獣に毛和物《ケノニゴモノ》毛麁物《ケノアラモノ》と云、下に見えたり、】鰭《ハタ》の事は、上に云り、【傳十四の六十七葉】萬葉廿【二十一丁】に、※[盧+鳥]河立取左牟安由能之我波多波吾等爾可伎无氣念之念婆《ウカハタチトラサムアユノシガハタハワレニカキムケオモヒシオモハバ》、【三の句、爾之鰭者《シガハタハ》なり、之我《シガ》は、それがと云むがごとし、】これらも、魚には鰭《ハタ》を主《ムネ》としてかく云り、書紀に、鰭廣《ハタノヒロモノ》鰭狹《ハタノサモノ》、祈年(ノ)祭(ノ)祝詞に、青海原住物者《アヲウナハラニスムモノハ》、鰭能廣物《ハタノヒロモノ》鰭能狹物《ハタノサモノ》、春日(ノ)祭(ノ)祝詞に、青海原|乃《ノ》物|者《ハ》、波多能廣物《ハタノヒロモノ》波多能狹物《ハタノサモノ》、此(ノ)餘《ホカ》龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭、平野(ノ)祭、鎭火(ノ)祭、道饗(ノ)条、鎭御魂(ノ)祭、遷却祟神、などの祝詞にも、如此《カク》あり、童蒙抄に、海原の底まですめる月影に數《カゾ》へつべしや鰭のせば物、古歌なり、鰭のせば物とは、小き魚なり、とあり、【狹《サ》は世婆《セバ》の切《ツヅマ》りたるなれば、せば物も同じ、】
○追聚《オヒアツメ》、魚なる故に追《オヒ》と云り、【魚は、方々より追(ヒ)寄《ヨ》せて集むればなり、】海神(ノ)宮(ノ)段に、召2集《ヨビアツメテ》海之大小魚《ハタノヒロモノハタノサモノヲ》1問曰云々、書紀の同段にも、盡《コトゴトニ》召《ヨビテ》2鰭廣鰭狹《ハタノヒロモノハタノサモノヲ》1而|問《トフ》之、
〇天神御子仕奉乎《アマツカミノミコツカヘマツラムヤ》とは、皇孫《ミマノ》命の大御|饌《ケ》の御贄《ミニヘ》になりなむや否《イナ》やを問(フ)なり、萬葉十六【卅丁】に、爲(メ)v鹿(ノ)述(ル)v痛(ヲ)歌に、佐男鹿乃來立嘆久頓爾吾可死王爾吾仕牟《サヲシカノキタチナゲカクタチマチニアレシヌベシオホキミニワレツカヘム》云々、また爲(メニ)v蟹(ノ)述(ル)v痛(ヲ)歌に、葦河爾乎王召跡何爲牟爾吾乎召良米夜《アシガニヲオホキミメストナニセムニワヲメスラメヤ》云々、これらも御贄《ミニヘ》になるを云り、
〇諸魚、諸は母呂母呂能《モロモロノ》と訓べし、【カタヘノと訓(ム)はひがことなり、】
〇海鼠は、和名抄に、崔禹錫(ガ)食經(ニ)云(ク)、海鼠(ハ)、似(テ)v蛭(ニ)而大(ナル)者(ノ)也(ト)、和名|古《コ》、本朝式(ニ)、加(ヘテ)2熬(ノ)字(ヲ)1云2伊里古《イリコト》1とあり、【今(ノ)世、なまこくしこきんこなど云名もあり、】内陣式、供御月料の中に、熬海鼠《イリコ》八斤四兩、また海鼠腸《コノワタ》四升五合など見ゆ、
〇此口乎《コノクチヤ》、かゝる處に乎《ヤ》と云は、余《ヨ》と云むが如し、例上に出(ヅ)、【傳五の六十四葉】
〇紐小刀は、【紐(ノ)字、諸(ノ)本に細に誤り、眞福寺本には釼に誤れり、今は延佳本に改めたるに依れり、】比母賀多那《ヒモガタナ》と訓べし、此(ノ)物、海神《ワタツミノ》宮(ノ)段にも見え、中卷玉垣(ノ)宮(ノ)段には、八鹽折之紐小刀《ヤシホヲリノヒモガタナ》とあり、書紀には匕首《ヒモガタナ》と書れたり、【史記刺客傳云々、索隱曰、匕首、劉氏云短劔也、鹽鐵論以爲長尺八寸云々、】和名抄に、大刀(ハ)太知《タチ》、小刀(ハ)加多奈《カタナ》とありて、【大刀《タチ》と加多那《カタナ》との事、傳九の卅六葉に云り、】加多那《カタナ》は片刃の小刀なり、紐《ヒモ》と云は、懷中《フトコロノウチ》に佩て、下帶《シタヒモ》に挿《サ》す故の名なり、此(ノ)小刀《カタナ》は、彼(ノ)玉垣(ノ)宮(ノ)段に見えたる、密《ヒソカ》に天皇を刺《サシ》奉む料なれば、必(ズ)懷中《フトコロノウチ》に隱《カク》し賜ひたるべし、【書紀に、是《コノ》匕首《ヒモガタナヲ》佩(テ)2于|※[衣+因]中《コロモノウチニ》1云々とあり、】倭建(ノ)命(ノ)段に、以《ヲ》v劔《タチヲ》納《イレテ》2于|御懷《ミフトコロニ》1幸行《イデマス》、などもあり、今宇受賣(ノ)命も、女なる故に、懷(ノ)中に佩たるにや、【或人(ノ)云(ク)、今(ノ)世に脇差《ワキザシ》と云物は、脇差(シ)の刀とて、古(ヘ)のは、六七寸ばかりの長さにて、懷(ノ)中に、隱《カク》してさす物なり、脇の方へよせてさす故に、脇差と云り、用心のために隱しさして、身を守る刀なる故に、守(リ)刀とも云り、東山殿のころより、下部の者など、顯《アラハ》して腰にさし初めしと見ゆ、今(ノ)世の脇差は、其形大に變じたり、と云り、此(ノ)中昔の脇差(ノ)刀と云物、即(チ)上代の紐小刀の傳はりしなるべし、】但し此《ココ》は、海鼠《コ》は小き物なる、其口を拆《サク》料なる故に、小刀を用ひたるよしにもあるべし、さて此《ココ》に海鼠の事を記せるは、仕(ヘ)奉(リ)仕(ヘ)奉らぬことには關《アヅカ》らず、たゞ此(ノ)物の口の裂《サケ》たる事本《コトノモト》の談《モノガタリ》なり、
〇是以《ココヲモテ》とは、上の追2聚鰭(ノ)廣物鰭(ノ)狹物(ヲ)1云々の事を承《ウケ》て云り、【海鼠の事には係《カカ》らず、】
〇御世は、御々世々《ミヨミヨ》と重ねてありけむが、脱《オチ》たるなるべし、舊事紀に、御世御世速贄《ミヨミヨハヤニヘ》とあり、
〇嶋は、志摩(ノ)國なり、【舊事紀に、嶋之(ノ)二字無きは、作者のさかしらに省《ハブ》けるか、又後に脱《オチ》たるかなるべし、然るを此(ノ)舊事紀に依て、此(ノ)記の嶋(ノ)字を、御世(ノ)二字の誤とするはわろし、其由は下に云べし、】
〇速贄《ハヤニヘ》、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、苞苴(ハ)、裹(ム)2魚肉(ヲ)1也、日本紀私記(ニ)云(ク)於保邇倍《オホニヘ》、俗(ニ)云2阿良萬岐《アラマキト》1、【苞苴の注には、裹2魚肉(ヲ)1といへれども、爾閇《ニヘ》は、魚肉にほ限らざるなり、】書紀(ノ)神武(ノ)卷、人(ノ)名の訓注には、苞苴を珥倍《ニヘ》とあり、爾閇《ニヘ》と云名は、爾比阿閇《ニヒアヘ》の切《ツヅマ》れるにて、【此(ノ)事、傳八の六葉、大嘗《オホニヘ》の處に云り、】もと新物《ニヒモノ》を、神にも人にも饗《アヘ》、みづからも食《ク》ふより出たり、【苞苴又贄(ノ)字などは、末なり、爾閇《ニヘ》の本(ノ)義《ココロ》にはうとし】さて朝廷《ミカド》に貢《タテマツ》る御贄《ミニヘ》を、大爾閇《オホニヘ》とは云なり、【中卷に大贄とあり、書紀仁徳(ノ)卷に、苞苴をオホニヘと訓るも、天皇に獻るところなる故なり、又大嘗をおほにへと云は、名の本は一(ツ)なれども、事は異なり、】其(ノ)御贄《ミニヘ》は、御食津國々《ミケツクニグニ》より、土産物種々《クニツモノクサグサ》貢るなり、【師(ノ)云(ク)、御食津國《ミケツクニ》とは、大御饌《オホミケ》の御贄《ミニヘ》を貢る國を云り、食國《ヲスクニ》と云とは異なり、】内膳司式に、諸國貢進御贄云々、右諸國所v貢、並(ニ)依(テ)2前件(ニ)1、仍(テ)收(テ)2贄殿《ニヘドノニ》1擬(ス)2供御(ニ)1とありて、其(ノ)品物《シナジナ》なども、委く擧られたり、【西宮記(ニ)云(ク)、贄殿(ハ)、在2内膳(ノ)中(ニ)1、太宰及諸國(ヨリ)所(ノ)v進(ル)御贄(ヲ)納(テ)備2供御(ニ)1、】さて速贄《ハヤニヘ》とは、初物《ハツモノ》を云なるべし、速《ハヤ》と初《ハツ》とは意通へり、【波都《ハツ》は、即|速津《ハヤツ》と云にてもあるべし、】今(ノ)世に、初物《ハツモノ》を走《ハシリ》と云も、速《ハヤ》き意なり、【又は、定まれる時節《トキ》より速《ハヤ》く貢る物を云にもあらむか、萬の物、早く出來たるを殊に賞《メヅ》るは、今も古(ヘ)も同じかるべし、内膳式に、五月五日、山科(ノ)園進2早瓜一捧(ヲ)1、と云たぐひならむか、とも思へど、なほ初物《ハツモノ》なるべし、】此(ノ)目《ナ》此處《ココ》より外に、古(キ)書には未(ダ)見あたらず、源(ノ)俊頼(ノ)朝臣(ノ)集に、垣根には百舌鳥《モズ》の早贄《ハヤニヘ》たててけりしでの田長にしのびかねつゝ、さて志摩(ノ)國は、殊に御贄を獻れりし國にて、萬葉六【三十九丁】に、御食國志麻《ミケツクニシマ》、【神鳳抄に、此(ノ)國に贄嶋と云もあり、】十三【五丁】に、御食都國神風之伊勢乃國《ミケツクニカムカゼノイセノクニ》、【志摩、伊勢の内なり、】などあり、今(ノ)京になりても、三代實録に、元慶六年十月廿五日、志摩(ノ)國年貢(ノ)御贄、四百三十一荷、令(メテ)2近江伊賀伊勢等(ノ)國(ヲシテ)驛傳(セ)1貢進(ス)、内膳式に、諸國貢進(ノ)御贄、旬料云々、志摩(ノ)國(ノ)御厨、鮮鰒螺、起(リ)2九月(ニ)1盡(ク)2明年(ノ)三月(ニ)1、月別上下旬、各二擔、味漬腸漬蒸鰒玉貫御取夏鰒等、月別(ニ)惣(テ)五擔、雜魚十三擔、【並(ニ)以2傜丁(ヲ)1運進(ス)、】云々節料云々志摩(ノ)國、【正月元日、新嘗會、二節各八擔、正月七日、十六日、五月五日、七月七日、九月九日、五節各三擔、】年料云々、伊勢(ノ)國、【鯛舂酢二擔二十籠二度鮨年魚二擔四壺二度蠣礒蠣】志摩(ノ)國、【藻海松】主税式に、凡志摩(ノ)國供2御贄(ニ)1潜女《カヅキメ》卅人云々、など見えたり、【又此(ノ)國より、大神宮に御贄獻る事は、後(ノ)世までも絶ず、伊勢の書どもに見えて、今(ノ)世にものこれる事おほし、】
〇給(フ)2※[獣偏+爰]女(ノ)君等(ニ)1、此(ノ)事、上(ツ)代には例にてありけむを、やゝ後には絶やしにけむ、此處《ココ》の外には、物に見えたることなし、【但し事は有(リ)つれども、漏《モレ》て記せることのなきにてもあるべし、】さて上の還到は、罷到《マカリイタリ》の誤(リ)にて、其《ソコ》より拆2其(ノ)口(ヲ)1と云までは、伊勢(ノ)國にての事なり、【もし本の如く、還到ならば、此(ノ)段、日向に還りて後の事なり、若(シ)然るときは、※[獣偏+爰]田毘古(ノ)神を送れることには、さらに關《アヅカ》らず、縁《ヨシ》なき事なれば、別に端《ハシ》を更《アラタ》めてこそ記すべけれ、彼(ノ)神を送れるに引連《ヒキツヅ》けて云るは、送りて伊勢に到(リ)て、其(ノ)國にての事なればなり、】故(レ)其處《ソコ》の志摩の速贄《ハヤニヘ》を獻れる時に、給ふ例とはなれるなり、【若(シ)舊事紀に依て、嶋(ノ)字を、御世(ノ)二字の誤(リ)とするときは、此(ノ)速贄は、何《イヅレ》の國より獻れるとかせむ、その獻る處を、何處《イヅク》とも云(ハ)ずして、たゞに御世々々の速贄と云ことやはあるべき、されば此(レ)も、必(ズ)嶋にてこそ宜しけれ、さて志摩は、もと伊勢の内にて、嶋々の多くある處を、分て一国とはせられしものにて、後までも伊勢に附《ツキ》たる國なり、然れば此《ココ》に嶋とあるも、伊勢の海の嶋にて、即(チ)志摩(ノ)國なり、】如此《カク》てこそ、此(ノ)段《クダリ》の趣は、明らかなりけれ、さて給《タマフ》とは、其(ノ)内を分(ケ)て給ふを云なり、【みながら給ふと云にはあらず、】
  
於是天津日高日子番能邇邇藝能命《ココニアマツヒダカヒコホノニニギノミコト》。於笠沙御前遇靈美人《カササノミサキニカホヨキヲトメノアヘルニ》。爾問誰女《タガムスメゾトトヒタマヒキ》。答白之《コタヘマヲシタマハク》。大山津見神之女《オホヤマツミノカミノムスメ》。名神阿多都比賣《ナハカムアタツヒメ》。【此神名以音】亦名謂木花之佐久夜毘賣《マタノナハコノハナノサクヤビメトマヲシタマヒキ》。【此五字以音】又問有汝之兄弟乎《マタイマシガハラカラアリヤトトヒタマヘバ》。答白我姉石長比賣在也《アガアネイハナガヒメアリトマヲシタマヒキ》。爾詔《カレノリタマハク》。吾欲目合汝奈何《アレイマシニマグハヒセムトオモフハイカニトノリタマヘバ》。答白僕不得白《アハエマヲサジ》。僕父大山津見神將白《アガチチオホヤマツミノカミゾマヲサムトマヲシタマヒキ》。故乞遣其父大山津見神之時《カレソノチチオホヤマツミノカミニコヒニツカハシケルトキニ》。大歡喜而《イタクヲヨロコビテ》。副其姉石長比賣《ソノアネイハナガヒメヲソヘテ》。令持百取机代之物奉出《モモトリノツクヱシロノモノヲモタシメテタテマダシキ》。故爾其姉者《カレココニソノアネハ》。困甚凶醜《イトミニクキニヨリテ》。見畏而《ミカシコミテ》。返送《カヘシオクリタマヒテ》。唯留其弟木花之佐久夜毘賣以《タダソノオトコノハナノサクヤビメヲノミトドメテ》。一宿爲婚《ヒトヨミトアタハシツ》。爾大山津見神《ココニオホヤマツミノカミ》。因返石長比賣而《イハナガヒメヲカヘシタマヘルニヨリテ》。大恥《イタクハヂテ》。白送言《マヲシオクリタマヒケルコトハ》。我之女二竝立奉由者《アガムスメフタリナラベテタテマツレルユヱハ》。使石長比賣者《イハナガヒメヲツカハシテバ》。天神御子之命《アマツカミノミコノミイノチイ》。雖雪零風吹恆如石而《アメフリカゼフケドモトコシヘナルイハノゴトク》。常堅不動坐《トキハニカキハニマシマセ》。亦使木花之佐久夜毘賣者《マタコノハナノサクヤビメヲツカハシテバ》。如木花之榮榮坐宇氣比弖《コノハナノサカユルガゴトサカエマセトウケヒテ》【自字下四字以音】貢進《タテマツリキ》。此令返石長比賣而《カカルニイマイハナガヒメヲカヘシテ》。獨留木花之佐久夜毘賣故《コノハナノサクヤピメヒトリトドメタマヒツレバ》。天神御子之御壽者《アマツカミノミコノミイノチハ》。木花之阿摩比能微【此五字以音】坐《コノハナノアマヒノミマシナムトストマヲシタマヒキ》。故是以至于今《カレココヲモテイマニイタルマデ》。天皇命等之御命不長也《スメラミコトタチノミイノチナガクハマサザルナリ》。
遇麗美人は、加本余伎袁登賣能阿幣流爾《カホヨキヲトメノアヘルニ》と訓べし、是(レ)雅言《ミヤビコト》の格《サダマリ》なり、【近(キ)世にはかゝる處は、美人爾《ヲトメニ》と云例なれども、雅言は然らず、美人爾《ヲトメニ》と云ときは、此方《コナタ》より美人に遇(フ)なり、美人遇《ヲトメアフ》、また美人之遇《ヲトメノアフ》など云ときは、其(ノ)美人の方より遇(フ)なり、かゝれば爾《ニ》てふ辭のあるとなきとは、此《コナタ》と彼《カナタ》との違《タガ》ひあるを、いかなればにか雅語には、凡て爾《ニ》とは云ざる例なり、左にこれかれ擧るがごとし、】萬葉十三【二十三丁】に、裏觸而妻者會登人曾告鶴《ウラブレテツマハアヘリトヒトゾツゲツル》、【妻者《ツマハ》と云も、妻之會《ツマノアヘル》なり、】古今集【春(ノ)部】端詞に、志賀の山越《ヤマゴエ》に女の多く遇《アヘ》りけるに、伊勢物語に、宇都《ウツ》の山に至りて云々、修行者《スギヤウザ》遇《アヒ》たり、拾遺集又六帖【伊勢の歌】に、散散《チリチ》らず聞《キカ》まほしきを故郷の花見て還る人も遇《ア》はなむ、【人もと云も、人のあはなむなり、忠見集に、云々ゆく道に知(リ)たる人あひて、兼盛集に、旅人いくあひだに、ぬす人あひたり、赤染衛門集に、同じ道に恥《ハヅ》かしげなる男のいきあひたりしかば云々、後の物ながら宇治拾遺物語にも、道に狐のあひたりけるを、又與佐の山に、白髪の武士一騎あひたりなど云(ヒ)、徒然草にすら、細道にて、馬に乗たる女の行(キ)遇(ヒ)けるがなど云り、其ころまでも、云(ヒ)ざまを失はざりしなり、】などあるを以て心得べし、凡て道などにして行(キ)遇(ヒ)たる事をば、皆|如此《カク》云り、【然るを近き世には、某《ソレ》に遇《アフ》と云ことになれるは、漢文よみよりうつれるものなるべし、漢文にては、遇(ノ)字、上に在て、返りてよむ故に、爾《ニ》とよみならへるなり、今此(ノ)記などにも、遇(ノ)字を上に置るは、漢文の格に依れるなり、】中卷輕嶋(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、許波多能美知邇《コハタノミチニ》、阿波志斯袁登賣《アハシシヲトメ》、下卷若櫻(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、淤富佐迦邇《オホサカニ》、阿布夜袁登賣《アフヤヲトメ》、これらの遇《アフ》も、袁登賣《ヲトメ》の方より遇《アフ》にて、同じ、【袁登賣に週《アヒ》給ふと云意にはあらず、】さて麗をかほよきと訓(ム)は、萬葉十四【十三丁】に、可抱與吉《カホヨキ》と見え、書紀に、麗又美麗又艶妙又容姿麗美など、みな然訓り、美人は、記中に、孃子孃女媛女などあると同くて、並《ミナ》をとめと訓べき例なり、
〇大山津見(ノ)神|之《ノ》女《ムスメ》、こは何地《イヅク》にまれ、此(ノ)神の鎭坐《シヅマリマス》社の御靈《ミタマ》の、現壯士《ウツシヲトコ》に化《ナリ》て、婦人《ヲミナ》に婚《ミアヒ》て、生《ウミ》賜へる御女《ミムスメ》なるべし、其例は、上に淤迦美《オカミノ》神|之《ノ》女とある處【傳十一の七十二葉】に云るが如し、
〇神阿多都《カムアタツ》比賣、御名(ノ)義は、神《カム》は、例の美稱《タタヘナ》、阿多は地(ノ)名、和名抄に、薩摩(ノ)國阿多(ノ)郡阿多、これなるべし、
〇木花之佐久夜《コノハナノサクヤ》毘賣、上に大山津見(ノ)神|之《ノ》女、木花知流《コノハナチル》比賣と云もあり、名(ノ)意、木花《コノハナ》は、字の意の如し、佐久夜は、開光映《サキハヤ》の伎波《キハ》を切《ツヅ》めて加《カ》なるを、通はして久《ク》と云なり、【若子《ワカゴ》を、和久碁《ワクゴ》と云類なり、】さて光映《ハエ》を波夜《ハヤ》と云は、上なる下照比賣の歌に、阿那陀麻波夜《アナダマハヤ》とある、波夜の如し、【此事は、傳十三の七十葉に委し、】かくて萬(ヅ)の木花《コノハナ》の中に、櫻ぞ勝《スグ》れて美《メデタ》き故に、殊に開光映《サキハヤ》てふ名を負て、佐久良《サクラ》とは云り、夜《ヤ》と良《ラ》とは、横通音《ヨコニカヨフコヱ》なり、【小兒《チゴ》のいまだ舌のえよくもめぐらぬほどの言には、良理流禮呂を、夜伊由延余と云て、櫻をも、佐久夜《サクヤ》と云、これおのづから通ふ音なればなり、さて此(ノ)御名も、庭つ鳥かけ、野つ鳥きゞし、などの例として、直《タダ》に木(ノ)花の櫻、と云ことともすべけれど、木(ノ)花知流比賣と云もあると、合せて思ふにも、佐久夜はなほ開光映《サキハヤ》の意に云るなり、もし即(チ)櫻ならば、下に如2木(ノ)花(ノ)之榮(ル)1、また木(ノ)花(ノ)之阿摩比など云處も、直《タダ》に如2佐久夜(ノ)之榮(ル)1、また佐久夜(ノ)之阿摩比、とこそあるべきに、さはあらぬは、此(ノ)佐久夜は、花(ノ)名には非るが故なり、】されば此(ノ)御名も、何の花とはなく、たゞ木(ノ)花の咲光映《サキハヤ》ながら、即(チ)主《》と櫻(ノ)花に困(リ)て、然云なるべし、やゝ後には、木花《コノハナ》と云て、即(チ)櫻にせるもあり、古今集(ノ)序の歌に、難波津に咲(ク)や木(ノ)花とある、是なり、【これも何の花となく、たゞ木(ノ)花ともすべけれど、然にはあらず、又梅(ノ)花とするは、由なし、そは冬隱(リ)今は春べとと云語を、あしく心得て、おしあてに定めたる、ひがことなり、然るを其説に泥《ナヅ》みて、此《ココ》の御名の木花をさへに、梅なりと云説は、いよゝ云にもたらず、】又萬葉八【廿丁】に、藤原(ノ)朝臣廣嗣、櫻(ノ)花(ヲ)贈(ル)2娘子(ノ)1歌に、此花乃《コノハナノ》云々、和《コタヘタル》歌にも、此花乃《コノハナノ》云々とよめる、是(レ)は贈る花を指(シ)て、【字の如く】此(ノ)花と云る物ながら、櫻を木(ノ)花と云から、其《ソ》を兼《カネ》たりげに聞ゆるなり、さていよゝ後には、たゞ花といへば、もはら櫻のこととなれり、【それもおのづから、上代の意に叶へり、】さて此(ノ)處、書紀には、到(リマシキ)2於|吾田《アタノ》長屋(ノ)笠狹《カササノ》之|碕《ミサキニ》1云々、故(レ)皇孫就而留住《ミマノミコトソコニトドマリマシキ》、時(ニ)彼國《ソノクニニ》有(リ)2美人《カホヨキヲトメ》1、名《ナハ》曰(フ)2鹿葦津《カアシツ》姫(ト)1、亦(ノ)名(ハ)神吾田津《カムアタツ》姫、亦(ノ)名(ハ)木(ノ)花(ノ)之|開耶《サクヤ》姫、皇孫問2此(ノ)美人《ヲトメニ》1曰、汝(ハ)誰《タガ》之|女子耶《ムスメゾ》、對曰、妾《アレハ》是天(ツ)神娶大山祇神|所生兒也《ウメルコナリ》とあり、【彼(ノ)國(ニ)有2美人1とのみにては、皇孫問2此(ノ)美人(ニ)1と云こと、由なく聞ゆ、いかなるをりに問(ヒ)賜ふとかせむ、又天神娶大山祇(ノ)神と云こと、通《キコ》えがたし、女《ムスメノ》字|脱《オチ》たるなるべし、若(シ)然らば、此(ノ)傳(ヘ)は、大山津見(ノ)神の外孫なり、】
〇兄弟は、此《ココ》は波良賀良《ハラガラ》と訓べし、【イロネイロドと訓(ム)はわろし、】
〇答白我の、白(ノ)字、諸(ノ)本には、曰と作《ア》れど、今は眞幅寺本に依れり、前後《カミシモ》の例皆白なればなり、
〇姉は、和名抄に、爾雅(ニ)云(ク)、女子先(ニ)生(ルルヲ)爲v姉(ト)、女兄(ナリト)、和名|阿禰《アネ》、
○石長比賣、名(ノ)義、下なる宇氣比詞《ウケヒゴト》にある如く、常磐堅石《トキハカキハ》に長久《ナガ》き由なり、さて此(ノ)二女《フタヲトメ》の御名、石《イハ》も木(ノ)花も、主《ムネ》と山の物にて、父神に緑《ヨシ》あり、書紀一書に、云々|天孫《アマツカミノミコ》又問曰、其《カノ》於《ニ》2秀起浪穗《サキダテルナミノホノ》之|上《ウヘ》1起《タテテ》2八尋殿《ヤヒロドノヲ》1、而|手玉玲瓏織※[糸+壬]《タタマモユラニハタオル》之|少女者《ヲトメハ》、是|誰《タガ》之|子女耶《ムスメゾ》、答曰、大山祇(ノ)神(ノ)之|女等《ムスメタチ》、太《アネハ》號《マヲシ》2磐長姫(ト)1、少《オトハ》號(ス)2木(ノ)花(ノ)開耶姫、亦(ノ)名(ハ)豐吾田津姫(ト)1ともあり、
〇目合《マグハヒ》は、麻具波比《マグハヒ》と訓べし、此(ノ)言の事、上に云り、【傳十の三十五葉】
〇僕《アハ》不《ジ》2得《エ》白《マヲサ》1云々は、上の建御雷(ノ)神の問給へる、大國主(ノ)神の答(ヘ)に、僕者《アハ》不《ジ》2得《エ》白《マヲサ》1、我(ガ)子八重事代主(ノ)神(ゾ)是可(キ)v白(ス)、とあると同じ、此《ココ》は殊に、父の心に隨ひ賜ふこと、さもあるべし、書紀一書(ニ)云(ク)、皇孫《ミマノミコト》後(ニ)遊1幸《イデマセルニ》海濱《ウミベタニ》1、見一美人《カホヨキヲトメアヘリ》、皇孫問曰、汝是誰《イマシハタガ》之|子耶《ムスメゾ》、對曰、妾是《ワレハ》大山祇(ノ)神(ノ)之|子《ムスメ》、名(ハ)神吾田鹿筆津姫、亦(ノ)名(ハ)木(ノ)花(ノ)開耶姫、因《マタ》白(ス)2亦|吾姉《アガアネ》磐長姫(モ)在《アリト》1、皇孫曰、吾《ワレ》欲《オモフハ》2以汝爲妻《イマシニマグハヒセムト》1如之何《イカニ》、對曰、妾父《アガチチ》大山祇(ノ)神|在《アリ》、請以垂問《トヒタマヘ》、
〇乞遣は、許比爾都加波志《コヒニツカハシ》と訓べし、【コヒツカハシと訓(ム)はわろし、】
〇副《ソヘテ》は、並《ナラ》べてと云むが如し、中卷黒田(ノ)宮(ノ)段に、二柱|相副而《アヒソハシテ》、また明(ノ)宮(ノ)段(ノ)大御歌に、伊蘇比袁流迦母《イソヒヲルカモ》、續紀卅に、歌垣の處に、男女相並分(テ)v行《ツラヲ》徐(ニ)進(テ)歌(テ)曰(ク)、乎止賣良爾乎止古多智蘇比《ヲトメラニヲトコタチソヒ》云々、これらも皆、同じさまに並び配《タグ》ふを、蘇布《ソフ》と云り、【世の言に、夫婦にて在(ル)を、某と曾布《ソフ》と云も同じ、されば此《ココ》も、木花之佐久夜毘賣を主《ムネ》として、其《ソレ》に附副《ツケソフ》る意には非ず、副(ノ)字に拘《カカハ》るべからず、】
〇百取机代之物《モモトリノツクエシロノモノ》、百《モモ》とは、其數の甚《イト》多きを云るなり、【必しも百に限れるには非ず、】取《トリ》は、書紀神功(ノ)卷に、荷持田《ノトリダノ》村、荷持此(ヲ)云2能登利《ノトリト》1、とある持《トリ》の如し、【書紀には、百机とあれども、これは、机の數を云には非ず、机に置(ク)物の數百取なり、又私記に、百人共(ニ)擧(グ)2一机(ヲ)1、言2其高大(ヲ)1也、と云るは、殊にいみしきひがことなり、】机《ツクヱ》は杯居《ツキスヱ》にて、【伎須ほ久と切《ツヅ》まる、】飲食《ヲシモノ》の器を居《スウ》る由の名なり、和名抄に、唐韻(ニ)云(ク)、机(ハ)案(ノ)屬也、和名|都久惠《ツクヱ》とあり、【杯居《ツクヱ》を本にて、又和名抄文書具に、書案(ハ)、俗云|不美都久惠《フミツクヱ》もあり、又坐臥具に、几(ハ)、和名|於之萬都岐《オシマヅキ》もあり、於之萬都岐は、押坐凡《オシマシツクヱ》の約まりたる名にて、脇足のたぐひなり、さて古書には、字は案几机など通はし用ひて、皆|杯居《ツキスヱ》の意なり、】代《シロ》は、書紀崇神(ノ)卷に、倭(ノ)國(ノ)之|物實《モノシロ》、物實此(ヲ)云2望能志呂《モノシロト》1、とある實《シロ》にて、何《ナニ》にまれ其物を指(シ)て云、机代《ツクエシロ》は、机に居《スウ》る種々《クサグサ》の物なり、【今(ノ)世に、代物《シロモノ》と云言、此《コレ》によく叶へり、】禮物《ヰヤノモノ》を、祝詞に禮代《ヰヤシロ》と云るも是なり、さて此(ノ)靈代を、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞には、禮自利《ヰヤジリ》とあるを、師の考に、自利《シリ》は、志流志《シルシ》の約まりたるなりとあり、然れば志呂《シロ》ももと其意にて、其《ソレ》と現《アラハ》れたる物を云るにて、灼然《イチシロシ》など云|志呂《シロ》と同じ、【志流志《シルシ》と志呂志《シロシ》と同じ、文|社《ヤシロ》御船代《ミフナシロ》御樋代《ミヒシロ》の類、又|苗代《ナハシロ》などの代《シロ》も是より出たり、又物の代《カハ》りを云も、是より轉《ウツ》れるなり、】貞觀儀式、及《マタ》臨時祭式の、鎭魂祭(ノ)條に、大膳職造酒司、供(ル)2八代《ツクエシロノ》物(ヲ)1、【其(ノ)品目《シナジナ》は、大膳式造酒式に見えたり、】遷却祟神祝詞に、云々|横山之如久《ヨコヤマノゴトク》、八物爾置所足弖奉留《ツクエシロニオキタラハシテタテマツル》、などあり、これらの八(ノ)字は、几《ツクヱ》を誤れるなり、【八物を、師のヤトリノモノと訓れたるは、誤なることを考へられざりしなり、】書紀(ノ)保食《ウケモチノ》神(ノ)段に、夫品物悉《ソノクサグサノモノヲコトゴトニ》備2貯《オキタラハシテ》之|百机《モモトリノツクヱニ》1而|饗之《アヘマツリキ》、萬葉十六【二十九丁】に、高坏爾盛机爾立而《タカツキニモリツクヱニタテテ》、大神宮儀式帳に、御饌《ミケ》奉(ル)机二具などあり、【書紀孝徳(ノ)卷に兵代之物草代之物など云ことも見えたり、又續後紀一に出雲(ノ)國造奏(ス)2神壽(ヲ)1時に獻れる物の中に倉代物《クラシロノモノ》五十荷とあるは、臨時祭式に御贄五十舁とあると同物と聞ゆれば、置座《オキクラ》に置く物を云るにて、即(チ)机代之物と同じかるべし、又大神宮儀式帳に机代貳佰拾前また机代七十一前などあるは、机の代りと云意もて名けたる一(ツノ)器の名にて別《コト》なり、】さて今|如此《カク》て獻るは、聟取《ムコドリ》の禮物《ヰヤシロ》なり、下卷穴穗(ノ)宮之段に、天皇爲(メニ)2大長谷(ノ)王子《ミコノ》1、大日下(ノ)王の妹若日下(ノ)王を聘《ツマドハ》しめ賜ふに、大日下(ノ)王、恐《カシコシ》隨《マニマニ》2大命(ノ)1奉進《タテマツラム》云々と白《マヲ》して、即(チ)爲《シテ》1其妹(ノ)之|禮物《ヰヤシロト》1、令(メテ)v持(タ)2押木之|玉縵《タマカヅラヲ》1而|貢獻《タテマツル》とあり、
〇奉出は、多弖麻陀志伎《タテマダシキ》と訓べし、【伎《キ》は例の辭なり、】類聚國史、天長四年十一月、告2柏原(ノ)山陵(ニ)1詞に、云々|差使天《サシツカハシテ》、奉出須止申賜布状乎《タテマダストマヲシタマフサマヲ》、同五年八月、祭2北山(ノ)神ゐ詞に、禮代乃幣乎《ヰヤシロノミテグラヲ》令《シメ》2捧齎《ササゲモタ》1天《テ》、獻出事乎《タテマダスコトヲ》、續後紀、承和三年五月(ノ)宣命に、云々|令《シメ》2捧持1弖《テ》、奉出事乎《タテマダスコトヲ》、同八年五月(ノ)宣命に、奉出状乎《タテマダスサマヲ》、同六月(ノ)宣命に、奉出此状乎《タテマダスコノサマヲ》、嘉祥三年二月(ノ)宣命に、云々|差使天《サシツカハシテ》、奉出須此状乎聞食天《タテマダスコノサマヲキコシメシテ》、三代實録、貞觀十八年五月(ノ)宣命に、云々|差使天《サシツカハシテ》、聞江奉出之賜不《キコエマダシタマフ》、元慶元年六月、渤海國(ノ)使に賜ふ、太政官(ノ)宣詞に、彼國王此制爾違天《ソノコクワウコノノリニタガヒテ》、使乎奉出世利《ツカヒヲタテマダセリ》、など見え、書紀に、奉遣《タテマダシ》【十四の十四丁、十七の二丁、二十四の一丁、】遣《タテマダシ》【十九の廿四丁、】奉【十七の十八丁】遣《タテマダシ》【十九の九丁、卅二丁】奉施《オクリマダシタマフ》、【三十の十四丁】頒2幣帛《ミテグラアカチマダシタマフ》於諸(ノ)神祇(ニ)1、【廿九の卅二丁】萬葉に、奉《マダス》【四の三十七丁十の五十八丁】奉有《マダセル》、【十一の二十丁】藤原(ノ)高光集に、忠清の右衛門(ノ)督、五節たてまだし賜ふに云々、それに入れてたてまだすとて云々、など見えたり、貞觀儀式、奉(ル)2山陵(ニ)幣(ヲ)1儀の處に、貴所(ニハ)稱(シ)2獻出(ト)1、凡所(ニハ)稱(ス)2奉出(ト)1とあるは、文字のさだなり、【續紀卅四宣命に、歡奉出禮波《ヨロコビマツレバ》、三代實録卅一に、奉出流《タテマツル》、これらはマダスとは訓がたければ、餘《ホカ》の奉出をも、皆タテマツルと訓べきかとも思へど、上に引る宣命どもに、奉出須、また奉出世利なども書れたれば、然らず、さて又萬葉二の詞に、奉入歌、祝詞式に、齋内親王奉入時、また天長五年の宣命に、大神(ノ)御杖代|止之弖《トシテ》奉入|多留《タル》、これら奉入は、タテマツルとよむ外なし、さて出と入とは、反對《ウラウヘ》ながら、又同意になることも多し、參出《マヰデ》と參入《マヰル》と同きが如し、然れば奉出も奉入も、意は同じことなり、】さて麻陀須《マダス》と云言は、萬葉十五【三十六丁】に、麻都里太須《マツリダス》、可多美乃母能乎《カタミノモノヲ》とあれば、【師は、此(ノ)須を流の誤ならむと云れつれど、然には非ず、太も必(ズ)濁音の假字なり、】麻都理陀須《マツリダス》の省言《ハブキコト》なるべし、【然らば奉出を、直《タダ》にマツリダスと訓べきが如くなれど、なほ然は訓(ム)まじきなり、〇萬葉二長歌に、遣使御門之人毛《タテマダスミカドノヒトモ》、とある訓は、ひがことなり、此(ノ)遣使は、必(ズ)ツカハシシと訓べき處なり、此(ノ)外も麻陀須《マダス》をば、つかはすの古言と心得て、遣(ノ)字を、凡てみだりにマダスと訓るは、皆非なり、麻陀須は、奉ると云意なれば、敬ふ處に遣《ツカハ》す事ならでは、云(ハ)ぬ言なり、】書紀一書に、皇孫因謂2大山祇(ノ)神(ニ)1曰、吾|見《ミツ》2汝(ノ)之|女子《ムスメヲ》1、欲2以《オモフ》爲妻《マグハヒセムト》1、於是大山祇(ノ)神乃|使《シメテ》3二女《フタリノムスメニ》、持《モタ》2百机飲食《モモトリノツクヱシロノモノヲ》1奉進《タテマダシキ》、
〇甚凶醜は、【甚(ノ)字、諸本に其と作るは誤なり、今は眞福寺本に依れり、】伊刀美爾久伎《イトミニクキ》と訓べし、【師はシコメケルと訓れつれど、いかゞ、】書紀神武(ノ)卷に、大醜此(ヲ)云2鞅奈瀰※[人偏+爾]句《アナミニクト》1、と見えたり、中卷玉垣(ノ)宮(ノ)段に、其(ノ)弟王《オトノミコ》二柱(ハ)者、因《ヨリテ》2甚凶醜《イトミニクキニ》1返2送《カヘシオクリキ》本土《モトツクニニ》1、
〇見畏而《ミカシコミテ》、此(ノ)詞の例、何《イヅ》れも怖《オソロ》しき事を見たる處に云れば、此《ココ》も石長比賣の顔貌《カホ》、たゞ尋常《ヨノツネ》の醜《ミニク》きのみには非《アラ》で、可怖畏《オソロ》しかりしにやあらむ、
〇弟《オト》は淤登《オト》と訓べし、【伊呂杼《イロド》と訓て宜きもあれど、所によることなり、】和名抄に、爾雅(ニ)云(ク)、男子(ノ)後(ニ)生(レ)爲(ト)v弟(ト)、和名|於止宇止《オトウト》、【とあれども、淤登《オト》は男女にわたりて云稱なり、又もとはたゞ淤登《オト》と云(ヘ)りしを、淤登宇登《オトウト》と云は、夫《ヲ》を袁宇登《ヲウト》、妹《イモ》を伊毛宇登《イモウト》と云類にて、宇登《ウト》は皆人にて、弟人《オトヒト》夫人《ヲヒト》妹人《イモヒト》なり、かく人と添(ヘ)て云は、後のことぞ、】また爾雅(ニ)云(ク)、女子(ノ)後(ニ)生(レタルヲ)爲(ト)v妹(ト)、和名|伊毛宇止《イモウト》とあれども、古(ヘ)は、姉《アネ》に對へて、後に生《ウマ》れたるをば、女をも弟《オト》と云て、妹《イモ》とはいはず、記中の例皆然り、心を着《ツケ》て見べし、中昔までも、然にぞありける、【後に生れたる女子を、妹と云は、男兄《アニ》に對へ云稱なり、姉に對へては、弟《オト》とのみ云て、妹と云ることなかりき、然るを後(ノ)世には、姉にむかへても、妹《イモウト》とのみ云て、男ならでは、弟《オトウト》とは云ぬこととなれるは、漢籍には、姉妹と云るに、めなれたる、うつりにして、皇國の古(ヘノ)稱《ナ》にたがへり、和名抄なども、たゞ漢ざまによりて云るものなり、實は中昔までも、古(ヘ)如くにて、姉に對へては、弟《オトウト》とこそ云つれ、古今集雜上詞書に、妻《メ》の弟をもて侍りける人に云々、源氏物語花(ノ)宴(ノ)卷に、朧月夜(ノ)君のことを、女御の御おとうとたちにこそあらめ、などある類にて、姉に對へて、妹と云ことは無かりき、】
〇一宿は比登與《ヒトヨ》と訓べし、一夜なり、
〇爲婚は、美刀阿多波志都《ミトアタハシツ》と訓べし、上に、故(レ)八上《ヤカミ》比賣|者《ハ》如《ゴト》2先期《サキノチギリノ》1美刀阿多波志都《ミトアタハシツ》とあり、言の意は、彼處《カシコ》に云り、【傳十の六十七葉】書紀(ニ)云(ク)、時(ニ)皇孫|謂姉爲醜不御而罷《アネハミニクキニヨリテメサズテカヘシタマヒ》、妹有國色引而幸之《オトゾカホヨカリケレバミトアタハシツ》、則一夜有身《カレヒトヨニハラメリキ》、
〇白送言は、麻袁志淤久理賜比祁流許登波《マヲシオクリタマヒケルコトハ》と訓べし、【送は贈なり、】
〇二並は、布多理那良倍弖《フタリナラベテ》と訓べし、萬葉三【五十六丁】に、水鴨成二人雙居《ミカモナスフタリナラビヰ》、五【五丁】に、爾保鳥能布多利那良毘爲《ニホトリノフタリナラビヰ》などあり、【又思ふに、二人と書ずして、二と書るは、書紀應神(ノ)卷の大御歌に、淡路嶋|異椰敷多那羅弭《イヤフタナラビ》、小豆鳴いやふたならぴ云々、萬葉九に、二並《フタナラビ》筑波乃山、などありて、物の二(ツ)並《ナラ》べるを、布多那良毘《フタナラビ》と云(ヘ)れば、人の二人並べるをも、然云りしにや、然らば此《ココ》も、直《タダ》に布多那良毘と訓べきか、されど人に然云る例を未(ダ)見ざれば、姑く上の如く訓つ、】
〇立奉《タテマツレル》と、立(ノ)字を添(ヘ)て書る例、上【傳九の廿七葉】に云るが如し、【師は、立(ノ)字は、出の誤なりとて、イダシマツルと訓れしかど、其《ソ》は例を考へられざりしなり、】
〇使-者は、都迦波志弖婆《ツカハシテバ》と訓べし、【婆は濁るべし、】部迦比賜弖阿良婆《ツカヒタマヒテアヲバ》と云意なり、都迦波志《ツカハシ》は、都迦比《ツカヒ》を延(ヘ)たるにて、尊む言にもなるなり、書紀推古(ノ)卷(ノ)大御歌に、宇倍之※[言+可]茂《ウベシカモ》、蘇餓能古羅烏《ソガノコラヲ》、於朋枳彌能《オホキミノ》、兎伽破須羅志枳《ツカハスラシキ》、續紀、天平元年八月、立(テテ)2正三位藤原(ノ)夫人(ヲ)1爲《シタマフ》2皇后(ト)1詔に、加爾加久爾《カニカクニ》、年乃六年乎《トシノムトセヲ》、試賜使賜弖《ココロミタマヒツカヒタマヒテ》、此皇后位乎授賜《コノオホギサキノクラヰヲサヅケタマフ》、書紀安康(ノ)卷に、天皇爲(メニ)2大泊瀬(ノ)皇子(ノ)1、欲v聘2大草香(ノ)皇子(ノ)殊幡梭(ノ)皇女(ヲ)1、云々、大草香皇子對言云々、今陛下不v嫌2其醜(ヲ)1、將《ス》v滿《ツカヒタマハムト》2※[草がんむり/行]菜之數《ヲムナメノカズニ》1、是甚大恩也、などあり、なほ玉垣(ノ)宮(ノ)段に、茲二女王《コノフタバシラノヒメミコナモ》、淨公民故《キヨキオホミタカラナレバ》、宜使也《ツカヒタマフベシ》、とある處を考(ヘ)合すべし、【傳廿四の六十葉】
〇天神御子《アマツカミノミコ》は、此《ココ》は邇々藝《ニニギノ》命のみならず、大御末々《オホミスヱズヱ》までをかけて申せるなり、書紀に、生兒永壽とあるが如し、萬葉二【二十三丁】に、大王之《オホキミノ》、御壽者長久《ミイノチハナガク》、天足有《アマタラシタリ》、
〇雖《ドモ》2雪零風吹《アメフリカゼフケ》1は、雪(ノ)字は、雨を誤れるなり、【舊印本又一本又一本舊事紀(ノ)舊印本などには、並《ミナ》雪雨と作《カケ》り、今は姑く眞福寺本延佳本に依れり、然れども、雪はいかゞなり、其由は次に云、】故(レ)阿米《アメ》と訓つ、其(ノ)故は、此(ノ)言は、木《コノ》花の雨風に移落《ウツロ》ふに對へて云るなれば、必(ズ)雨をいふべし、木(ノ)花は春の物にて、雪の降(ル)時に非ず、雨と風とに傷《ソコナ》はるゝ物なればなり、【もし又、木草を枯《カラ》す物を云とならば、雪よりも、霜をこそ云べけれ、されば霜(ノ)字を誤れるかとも云べけれど、然にはあらじ、さて又諸本に、雪雨とあるを取らざるは、雪のいかゞなることは、右の如くなるうへに、風一(ツ)に並べて、雪と雨と二(ツ)を云べきに非ず、風も一(ツ)なれば、上も必(ズ)一(ツ)なるべき、文《コトバ》のならひなり、古言はかゝる處、必(ズ)しらべ宜き物なるをや、然れば此《コ》は、もと雨とありしを、雪に誤れる本に就て、又雨とある本を見合せて、さかしらに其(ノ)字をも加へたるなどにやあらむ、そはいかにまれ、雪とあるも、雪雨とあるも、よろしからず、かならず雨とあるべきことなり、】さて其《ソ》は、石の恆《トコシヘ》なるよしを云るにて、如(ク)d雖《ドモ》2雨零(リ)風吹(ケ)1恆(ナル)石(ノ)uと、如(ノ)字、雖の上にある意なり、呵米布理加是布氣杼母《アメフリカゼフケドモ》と訓べし、【布氣杼母《フケドモ》を、若(シ)布久登母《フクトモ》と訓て、如(ノ)字の在(リ)所を、文のまゝに心得るときは、此(ノ)言の意たがふなり、】書紀一書に、弟則雖逢風雨《オトミコハアメフリカゼフケドモ》、其幸不惑《ソノサチタガハザリキ》、
〇恆如石は、登許志幣那流伊波能碁登久《トコシヘナルイハノゴトク》と訓べし、さて恆《トコシヘナル》は、雨ふり風|吹《フケ》ども【移落《ウツロフ》ことなく】恆《トコシヘ》なるよしにて、上に屬《ツケ》る言なり、【是(レ)はた風ふけどもと切(リ)て、恆(ナル)石と心得ては違へり、】
〇常堅不動、此(ノ)四字を、登伎波爾加伎波爾《トキハニカキハニ》と訓べし、登伎波《トキハ》は、常石《トコイハ》の切《ツヅマ》れるにて、【即(チ)常に常磐《トキハ》と書り、許伊《コイ》は伎《キ》と切《ツヅ》まる、】萬葉六にすなはち、人皆乃壽毛吾毛三吉野乃多吉能床磐乃常有沼鴨《ヒトミナノイノチモワレモミヨシヌノタギノトコイハノツネニアラヌカモ》とあり、【床は借字なり、】加伎波《カキハ》は、堅《カタ》き石《イハ》の、多《タ》の省《ハブ》かりたるなり、【又|加多《カタ》を切《ツヅ》めても、加《カ》となる、伊《イ》は伎《キ》の、韻《ヒビキ》にあれば、省《ハブ》くこともとよりなり、】書紀雄略(ノ)卷に、堅磐此(ヲ)云2柯陀之波《カタシハト》1ともあり、さて此《ココ》に、たゞ常堅と書て、二(ツ)共に石(ノ)字を略《ハブ》けるは、上に既に如(ク)v石(ノ)とあればなり、【こは漢文の方の字面を思へるものなり、】又不動(ノ)二字を添(ヘ)たるも、意を以てなり、【延佳本には、常石堅石不動とあり、こは舊事紀にかくの如くあるに依て、さかしらに、二(ツ)の石(ノ)字を加へたるものなり、諸(ノ)本に石(ノ)字あるはなし、眞福寺本に、常の上に一(ツ)石(ノ)字あれど、其《ソ》は上なる石(ノ)字よりまぎれたる衍《アヤマリ》なるべし、もし常の下なりしを、誤(リ)て上に書るならば、堅の下にもあるべきに、堅の下にはなけれは、然にはあらず、又師は、不動を別に、ウゴカズと訓れつれども、古(ヘ)の雅言《ミヤビコト》ともおぼえず、後の宣命又歌などに、うごきなきなどあれど、古言とは聞えず、然れば此《ココ》はたゞ、意を以て添(ヘ)たる字とすべし、】萬葉三【二十五丁】に、常磐成石室《トキハナスイハヤ》、五【十丁】に、等伎波奈周迦久期母何母等《トキハナスカクシモガモト》、十一【九丁】に、常石有命哉《トキハナルイノチニアレヤ》などよみ、祈年祭(ノ)祝詞に、皇御孫(ノ)命(ノ)御世|乎《ヲ》、手長《タナガノ》御世|登《ト》、堅磐爾常磐爾齋比奉《カキハニトキハニイハヒマツリ》、春日祭(ノ)祝詞に、常石爾堅石爾福閇奉利《トキハニカキハニサキハヘマツリ》、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞に、天皇命能《スメラミコトノ》手長(ノ)大御世|乎《ヲ》、堅石爾常石爾伊波比奉《カキハニトキハニイハヒマツリ》など、なほ餘《ホカ》の祝詞どもにも、此言多く見えたり、さて上に如(ク)v石(ノ)と云て、又|登伎波加伎波《トキハカキハ》と云むは、石《イハ》と云言、煩《ワヅラ》はしく重なるに似たれど、此《コ》はあまねく云なれたる壽詞《ホキコト》なれば、然《サ》も云(フ)、常の事なり、萬葉六に、春草者後波落易巖成常盤爾座貴吾君《ハルクサハノチハウツロフイハホナストキハニイマセタフトキワギミ》、月次祭文神嘗祭(ノ)祝詞に、御壽乎《ミイノチヲ》、手長乃御壽止《タナガノミイノチト》、湯津如磐村《ユツイハムラノゴト》、常磐堅磐爾《トキハカキハニ》、これらも然なり、
〇佐久夜毘賣、こゝの毘(ノ)字、諸(ノ)本に比と作《カケ》れど、今は一本に依れり、【此(ノ)御名、前後なる皆毘とありて、比にあらず】
〇如《ゴト》2木花榮《コノハナノサカユル》1榮《サカエ》、佐加延《サカエ》は咲光映《サキハエ》にて、【伎波《キハ》は加《カ》と切《ツヅ》まる、】すなはち御名の佐久夜《サクヤ》これなり、【上に云る佐久夜の義《ココロ》と、考(ヘ)合すべし、さて榮《サカエ》とは、花を本にて、他《コト》物にも云言なり、上卷沼河比賣の歌に、阿佐比能惠美佐迦延《アサヒノヱミサカエ》と、朝日にも、人の顔にも云り、さてその惠牟《ヱム》と、花の開《サク》と、共に咲(ノ)字を書(キ)ならへるも、榮《サカエ》は咲光映《サキハエ》にて、同意なるが故なり、】萬葉二【三十五丁】に、木綿花乃榮時爾《ユフバナノサカユルトキニ》、七【十丁】に、安志妣成榮之君之《アシビナスサカエシキミガ》、また三に、青丹吉寧樂乃京師者咲花乃薫如今盛有《アヲニヨシナラノミヤコハサクハナノニホフガゴトクイマサカリナリ》、などもあり、佐加理《サカリ》も、もと咲《サキ》の延《ノビ》たる言にて、咲光映《サキハエ》たるを云なれば、榮《サカエ》と同じ、
〇宇氣比《ウケヒ》は上に出(ヅ)、【傳七の四十四葉】
〇此令は、姑《シバラ》く加々流爾伊麻《カカルニイマ》と訓つ、【かくの如き處に、此と云るは、めづらし、爾(ノ)字に准へて、許々爾《ココニ》とも訓べけれど、然訓(マ)むよりは、加々流爾と訓むぞ、まさるべき、】加々流爾《カカルニ》は、如此有《カクアル》になり、令は、今(ノ)字を誤れるなるべし、【今既(ニ)不v然と、書紀にあるにあたれり、】
〇木花之《コノハナノ》は、此《ココ》は木(ノ)花の如くと云意なり、【某之《ナニノ》と云て、某之如《ナニノゴト》くと云意なる、古語に常多し、】
〇阿摩比能微《アマヒノミ》は、微(ノ)字は、諸(ノ)本|並《ミナ》徴と作《カケ》るは、決《ウツナ》く誤なり、【此(ノ)記は更にもいはず、凡て古書に、徴(ノ)字を假字に用ひたる例なし、且《ソノウヘ》徴(ノ)字は、チヨウの音なり、チといふ音はたゞ、宮商角徴羽などの時のみなるを、いかでかチの假字には用ふべき、】舊事紀(ノ)舊印本に、微と作《あ》るぞ正しかりける、故(レ)今は然改めつ、さて書紀に、故(レ)磐長姫|大慙而詛之曰《イタクハヂテウケヒケラク》、假使天孫《モシアマツカミノミコ》不《ズテ》v斥《カヘサ》v妾《アレヲ》而|御者《メサマシカバ》、生兒永壽《アレマサムミコノミイノチハ》、有如磐石之常存《トキハカキハニマシマサマシヲ》、今既不然《イマシカアラズテ》、唯弟獨見御故《タダオトヒトリメサエツレバ》、其生兒《ソノウミマツラムミコハ》、必(ズ)如木華之移落《コノハナノアマヒノミマサム》、一云、磐長船|恥恨而唾泣《ハヂウラミテツバキナキテ》之曰(ク)、顯見蒼生如木華之俄遷轉當衰去矣《ウツシキアヲヒトクサノイノチハコノハナノアマヒノミコソアラメトイヒキ》、此《コレ》世(ノ)人(ノ)短折之縁也《イノチミジカキヨシナリ》、【此(ノ)詛(ヒ)を、石長比賣の自《ミヅカラ》の言とせるは、此(ノ)記と傳(ヘ)の異なるなり、】とあると相照して考るに、阿摩比《アマヒ》は、脆《モロ》く不堅固《ハカナ》き意と聞えて、【或説に、脆弱也と云る、然《サ》ることなり、】甘《アマ》と同言なり、【花の脆《モロ》く移《ウツロ》ひ落(チ)る類(ヒ)のことを、阿麻《アマ》と云る例は、いまだ見あたらざれども、物の堅固《カタ》からぬを、あましと云ることは、漢ぶみにも、莊子(ノ)天道(ノ)篇に、※[劉+斤]v輪(ヲ)徐(キ)則《トキハ》甘(クシテ)而不v固(カラ)、注に、甘(ハ)緩也、など云り、今の俗語にも多く云ことなり、甘《アマ》い事をいふ、甘い事では行(カ)ぬ、甘《アマ》い奴ぢや、などの如し、又人の身の病無く健なるを、堅《カタ》いといひ、病ありて弱きを、柔《ヤハラカ》なといふ、此(ノ)柔《ヤハラカ》も、甘きに近し、又|天《ソラ》の清く晴て、雨のふるべきけしきのさらに無きを、日よりの堅《カタ》いと云(ヒ)、堅からぬを、甘《アマ》いと云り、これらみな、脆《モロ》く不堅固《ハカナ》きと、其意|遠《トホ》からぬことなり、】小兒《チゴ》に髪《カミ》固《カタ》し髪《カミ》甘《アマ》しと云言のあるは、正《マサ》しく此《ココ》の意にあたれり、さて甘《アマ》は、甘《アマ》し甘く甘きなど活用《ハタラ》く言なるを、比《ヒ》としも云るは、其(ノ)甘《アマ》き状《サマ》を云る辭か、【されど此(レ)と同格に活用《ハタラ》く言に、比《ヒ》と云る例は、をさ/\おぼえず、若(シ)くは殊に阿治波比《アヂハヒ》、業《ナリ》に那理波比《ナリハヒ》など云たぐひの、波比《ハヒ》の切《ツヅ》まりたるか、】はた異意《コトココロ》あるか、此《コ》はなほよく考ふべし、【さきには、此(ノ)比《ヒ》は、濁る音に讀て、荒きを阿良備《アラビ》と云と同格にて、夫流《ブル》と活用《ハタラ》く備《ビ》ならむと云つるを、さては言の意はよく聞ゆれども、なほよく思ふに、清音の比を用ひたるは、其意にはあらじ、比と毘とは、互に寫(シ)誤れる例もあれば、さも云べきなれど、荒備《アラビ》の類には、記中、備(ノ)字をのみ用ひて、毘を用ひたる例は見えず、】萬葉五【三十八丁】に、水沫奈須微命母《ミナワナスモロキイノチモ》、【此(ノ)微命を、アマキイノチとも訓べし、】六【四十三丁】に、春花乃遷日易《ハルハナノウツロヒカハリ》、七【四十二丁】に、玉梓之妹者花可毛足日木乃此山影爾麻氣者失留《タマヅサノイモハハナカモアシヒキノコノヤマカゲニマケバウセヌル》、などよめり、能微《ノミ》は、而已にて、御世御世の天皇、何れも皆|然而已《シカノミ》坐て、然らざるは無《マサザ》らむと云意の而已《ノミ》なり、
〇至《イタルマデ》2于|今《イマニ》1とは、此(ノ)宇氣比言《ウケヒゴト》の驗《シルシ》の、遠き代まで延及《ヒキオヨ》べることを云るなり、
〇天皇命、かくの如く命(ノ)字を添(ヘ)ても書(キ)奉れること、出雲(ノ)國造(ノ)神賀詞にも、二處あり、續紀の【一の卷三の卷など】詔(ノ)詞の中などにも見えたり、三字を須賣良美許登《スメラミコト》と訓べし、儀制令(ノ)義解に、須明樂美御徳《スメラミコト》、【此(ノ)假字は、異國人に示さむために書れたる物と見えて、好字《ヨキモジ》のかぎりをあつめたるほどに、御(ノ)字など、清濁さへ叶はず、此(ノ)字に據《ヨリ》て、許《コ》を濁るはひがことなり、なほ此(ノ)假字の事は、馭戎慨言に云り、】書紀竟宴(ノ)歌に、數女良美己度《スメラミコト》【又|須女羅乃支美《スメラノキミ》とも、數梅羅機瀰《スメラキミ》ともよめるあり、】などあり、須賣《スメ》とも、須賣良《スメラ》とも、須賣良藝《スメラギ》とも申(シ)奉れり、須賣良朕《スメラワガ》と、御自《ミミヅカラ》も詔へり、【續紀十の卷の詔に、高天(ノ)原|由《ユ》天降|坐之《マシシ》天皇御世始而とあるは、邇々藝(ノ)命をも、天皇と申せるなり、さて天皇(ノ)字を當《アテ》奉りしも、いと上代よりの事と見えたり、若(シ)は仁徳天皇などの御世に、和邇《ワニ》などの如き博士の、申(シ)定(メ)奉(リ)しにやあらむ、さるは漢國孔丘が春秋に、かの王を天王と書るなどに本づきて、皇に天(ノ)字をは冠《クハ》へ奉りけるなるべし、彼(ノ)國にても、遙《ハルカ》の後に、唐(ノ)高宗が時に、天皇と云號を、新に立たることありしかども、末とほらざりしを、たゞ吾(ガ)須賣良尊《スメラミコト》の此(ノ)御號ぞ、眞《マコト》の理(リ)にかなひて、天地のかぎり、竪《タテ》にも横《ヨコ》にも往通《ユキトホ》り足《タラ》はして、動くことなく、變《カハ》ることなき大御號《オホミナ》にはありける、】
〇御命不長也《ミイノチナガクハマサザルナリ》、そも/\上代の天皇|等タチ《》は、百歳《モモトセ》に多く餘《アマ》らせ賜ふが、あまた坐(シ)ましけるは、人(ノ)代にては、御壽《ミイノチ》長かりしなれども、神代の人の壽の、なほこよなく長かりし時を以て云へば、甚《イタ》く短きなり、此(ノ)詛(ヒ)の後、日子穗々出見《ヒコホホデミノ》命は、坐(スコト)2高千穗(ノ)宮(ニ)1五百八十歳、とあれども、これなほ不長《ナガカラザ》りしなり、さて同じことながら、短《ミジカ》しといはずして、不v長と云るは、天照大御神の皇統《ミツイデ》を承傳《ウケツタ》へ坐て、天津日嗣所知看《アマツヒツギシロシメス》天皇に坐(シ)ませば、大御|壽《ミイノチ》は、必(ズ)長かるべき理(リ)なるに、と云意を含《フク》めり、【書紀に、世人短折《ヨノヒトノイノナミジカキ》とあるも、人(ノ)代の中《ウチ》にての短命なるを云には非ず、神代の長壽《イノチナガ》かりし時に比《クラ》べて云るなり、さて此(ノ)記などには、天津紳(ノ)御子の御命《ミイノチ》を詛ひたるばかりにて、諸人の命までを詛ひたる由には非れども、天皇の御命の、長く坐(サ)ざるうへは、天(ノ)下にあらゆる人の命も、隨ひて短きは、本より然るべきことわりなりかし、さて書紀の纂疏に、皇胤蒼生(ノ)短壽(ナルハ)者、謂(ル)定業不(ル)v可v轉(ス)也、豈|由《ヨラムヤ》2磐長姫(ノ)之詛(ニ)1乎とあるは、いと/\心得ず、そも/\神(ノ)御典《ミフミ》を説《トク》とて、其(ノ)古(ヘ)にはよらずして、由なき異國の説を信じ給へるは、いかに惑ひ給へるひがことぞや、萬國《ヨノナカ》の人の命の、神代の如く長からざることは、もはら此(ノ)時の詛に由《ヨ》るものなり、】
 
故後木花之佐久夜毘賣《カレノチニコノハナノサクヤビメ》。參出白《マヰデテマヲシタマハク》。妾妊身《アレハラメルヲ》。今臨産時《イマコウムベキトキニナリヌ》。是天神之御子《コノアマツカミノミコ》。私不可産《ワタクシニウミマツルベキニアラズ》。故請《カレマヲストマヲシタマヒキ》。爾詔《ココニノリタマハク》。佐久夜毘賣《サクヤビメ》。一宿哉妊《ヒトヨニヤハラメル》。是非我子《ソハワガミコニアラジ》。必國神之子《カナラズクニツカミノコニコソアラメト》。爾答白《ノリタマヘバ》。吾妊之子《アガハラメルミコ》。若國神之子者《モシクニツカミノコナラムニハ》。産不幸《ウムコトサキカラジ》。若天神之御子者《モシアマツカミノミコニマサバ》。幸《サキカラムトマヲシテ》。即作無戸八尋殿《スナハチトナキヤヒロドノヲツクリテ》。入其殿内《ソノトノヌチニイリマシテ》。以土塗塞而《ハニモテヌリフタギテ》。方産時《ウマストキニアタリテ》。以火著其殿而産也《ソノトノニヒヲツケテナモウマシケル》。故其火盛燒時《カレソノヒノマサカリニモユルトキニ》。所生之子名火照命《アレマセルミコノミナハホデリノミコト》。【此者隼人阿多君之祖《コハハヤビトアタノキミノオヤ》。】次生子名火須勢理命《ツギニアレマセルミコノミナハホスセリノミコト》。【須勢理三字以音】次生子御名火遠理命《ツギニアレマセルミコノミナハホヲリノミコト》。亦名天津日高日子穗穗手見命《マタノミナハアマツヒダカヒコホホデミノミコト》。【三柱】
 
參出《マヰデ》は、邇々藝《ニニギノ》命の御許《ミモト》に詣《マヰヅ》るなり、萬葉十八【二十七丁】に、麻爲泥許之《マヰデコシ》、廿【三十二丁】に、麻爲弖枳爾之乎《マヰデキニシヲ》、などあり、【麻宇傳《マウデ》と云は、音便にくづれたる言なり、】
〇臨産時は、古宇牟倍伎時爾那理奴《コウムベキトキニナリヌ》と訓べし、
〇佐久夜毘賣とは、其名を呼出て、嘲り賜ふなり、
〇一宿哉妊は、比登用爾夜波良米流《ヒトヨニヤハラメル》と訓べし、一夜にて妊めるかと、嘲りて詔へるなり、書紀一書に、天孫見(テ)2其(ノ)子等《ミコタチヲ》1、嘲之《アザケリテ》曰(ク)、妍哉《アナニヤ》、吾皇子者《ワガミコトハ》、聞喜而生之歟《キキヨクテモウメルカモ》とあると、意ばへ同じ、【また皇孫|未之信《ウタガハシテ》曰(ク)、雖復天神《アマツカミナラムカラニ》、何能一夜之間令人有娠乎《イカデカヒトヨノカラニハラマシメム》、とあるによらば、」ヒトヨニヤハラマムと訓べけれど、もし其意ならば、一宿妊我と書(ク)べきを、哉(ノ)字、妊の上にあるは、其意とは少し異なるべし、】又同書に、天孫|報曰《コタヘタマハク》、我《アレ》知《シリニキ》2本是吾兒《モトヨリアガミコナルコトハ》1、但一夜而有身《サレドヒトヨニシテハラメレバ》、慮《オモヒテ》v有(ムト)2疑(フ)者(モ)1、欲《オモヒ》v使(メムト)3衆人皆《モロヒトミナニ》、知(ラ)2是吾兒《アガミコナルコトヲモ》、并亦《マタ》天(ツ)神(ハ)能令一夜有娠《ヒトヨニモハラマシムルモノゾトイフコトヲモ》1、云々、故有前日之嘲辭也《カレサキニハアザケリツルゾトノリタマヒキ》とあるも、一(ツ)の傳(ヘ)なるべけれど、此《ココ》は然らず、只|實《マコト》に疑ひて詔へるものとすべし、書紀雄略(ノ)卷に、童女君(ハ)者|本《モト》是|采女《ウネベナリキ》、天皇|與一夜而娠《ヒトヨアタハシテハラミテ》、遂(ニ)生《ウミキ》2女子(ヲ)1、天皇疑(テ)不《ズ》v養《ヤシナヒタマハ》云々、物取(ノ)目《メノ》大連(ノ)曰(ク)、比(ノ)娘子《ヲトメ》以2清(キ)身意(ヲ)1、奉(レリ)2與一宵《ヒトヨアタハシ1、安輙生疑《ナドテウタガヒタマハム》、臣2聞《ウケタマハレ》易産腹《ウミヤスキハラハ》者、以褌《シタモヲ》觸《フルルカラニ》v體《ミニ》、即便懷※[月+辰]《ヤガテハラムトコソ》1、況與終宵而《マシテヨモスガラアタハシテ》、妄生疑也《ミダリニケクガヒタマフカモ》、天皇命(セテ)2大連(ニ)1、以《ヲ》2女子1爲《シ》2皇女《ミコト》1、以母《ハハヲモ》爲v妃《ミメト》、
〇産不幸は、宇牟許登佐伎加良士《ウムコトサキカラジ》と訓べし、眞福寺本延佳本には、産の下に時(ノ)字あり、其《ソレ》も佳《ヨ》し、さて此(ノ)次なる幸は、佐伎加良牟《サキカラム》と訓べし、幸《サキ》とは、無恙《ツツミナ》く平安《タヒラカ》なるを云り、萬葉五【三十一丁】に、佐伎久伊麻志弖《サキクイマシテ》、十三【十丁】には、眞福《マサキク》また福《サキク》ともあり、此(ノ)ほか幸《サキク》眞幸《マサキク》と、いと多く見ゆ、
〇八尋殿《ヤヒロドノ》は、上【傳四の十八葉】に出たり、無戸《トナキ》とは、土《ハニ》以て塗塞《ヌリフタ》ぎたる上《ウヘ》を以て云なるべし、【書紀には何れの傳(ヘ)にも、土以て塗塞ぐ事は見えず、たゞ無戸室とのみあり、これ無戸室と云(ヘ)ば、必(ズ)塗塞ぎたる室にて、今の世俗《ヨ》に牟呂《ムロ》と云物のさまなるべし、故(レ)塗れることをば、殊に云ざるなるべし、】初(メ)より出(デ)入(ル)べき口のひたぶるに無くてはあるまじければなり、
〇土は波邇《ハニ》と訓べし、塗《ヌ》るは必(ズ)埴土《ハニ》なるべければなり、
〇塞は布多岐《フタギ》と訓べし、かく塗(リ)塞ぎ給ふ故は、火を避《サケ》て外《ト》へ遁《ノガレ》出(ヅ)べき由(シ)無かるべく構へたるなり、
〇方産時は、宇麻須登伎爾阿多理弖《ウマストキニアタリテ》と訓べし、
〇以火著其殿は、其殿爾肥袁著弖《ソノトノニヒヲツケテ》と訓べし、【火を、師の、すべて皆|本《ホ》と訓れたるは、一偏《カタムキ》なり、】其《ソ》は外《ト》をば塗(リ)塞ぎて、内より放《ツク》るなり、書紀に、故(レ)鹿葦津姫|忿恨《ウレタミテ》、乃作(リテ)2無戸室《ウツムロヲ》1、入(リ)2居(テ)其(ノ)内(ニ)1、而|誓之曰《ウケヒタマハク》、妾所娠《アガハラメルコ》、若(シ)非(ズハ)2天孫之胤《アマツカミノミコニ》1、必(ズ)當※[隹三つ/れっか]滅《ヤケホロビナム》、如《モシ》實(ニ)天孫之胤《アマツカミノミコニマサバ》、火不能害《ヒモエソコナハジ》、即《カクイヒテ》放《ツケテ》v火(ヲ)燒《ヤキキ》v室(ヲ)、一書に、吾所娠《アガハラメルコ》、是若他神之子者《モシアダシカミノコナラバ》、必(ズ)不幸《サキカラジ》矣、是實天孫之子者《マコトニアマツカミノミコニマサバ》、必(ズ)當全生《ズサキクアレマスベシ》云々、などあり、又一書に、一夜有身《ヒトヨニハラマシテ》、遂(ニ)生2四子(ヲ)1、故(レ)吾田鹿葦津姫抱(テ)v子《ミコヲ》而|來進曰《マヰキテミセマツリテ》、天(ツ)神(ノ)之|子《ミコ》、寧可以私養乎《ワタクシニヒタシマツルベキニアラズ》、故(レ)告状知聞《マヲシテシロシメサス》云々ともあり、
〇其火(ノ)盛(ニ)燒(ル)時、盛燒は、麻佐加理爾毛由流《マサカリニモユル》と訓べし、火の燒《モユ》る時に當《アタ》りてと云むが如し、書紀に、顧眄之間、此(ヲ)云2美屡摩沙可利爾《ミルマサカリニト》1と見え、【間(ノ)字、麻沙可利《マサカリ》てふ言にあたれり、】又|方産《ミサカリニコウムトキ》ともあり、【麻《マ》と美《ミ》と同じ、萬葉七に壯子時《ミサカリニ》、】これらの如し、然れば此《コ》は、三柱(ノ)御子の生《アレ》坐る時を、廣く凡て云るにて、火折《ホヲリノ》命の生《アレ》坐るまでに係《カカ》れる言なり、【火照《ホデリノ》命一柱の生坐る時のみを、分て云にはあらず、然るに書紀には、始起烟末《ハジメテオコルケブリノスエヨリ》生出云々、次(ニ)避(テ)v熱(ヲ)而居生出、あるひは焔(ノ)初(テ)起(ル)時(ニ)云々次(ニ)火盛(ナル)時(ニ)云々、あるひは其火(ノ)初(テ)明《アカル》時(ニ)云々、次(ニ)火(ノ)盛(ナル)時(ニ)云々、次(ニ)火炎(ノ)衰《シメル》時(ニ)云々、次(ニ)避《サル》2火熱《ホトホリヲ》1時(ニ)云々など、一柱毎に、生坐る時の火の状《サマ》を、別《ワケ》て云るに就て、准へ見れば、此記はたゞ火照(ノ)命の生坐る時の状をのみ云て、次の二柱には、火の事を云(ハ)ざるは、事足らず、脱《オチ》たる如く聞ゆめれど、よく考ふれば然らず、此記は、書紀の如く各|別《ワケ》ては云(ハ)ず、三柱を惣《スベ》て云る物にして、盛《マサカリ》とは、必しもl初(メテ)起(ル)時と、衰《シメ》れる時とに對へて、云るには非ず、書紀なる盛とは異なり、此(ノ)字に泥《ナヅ》みて、勿《ナ》思ひ惑ひそ、】さて然廣く云る中に、其火の初《ハジメ》起《オコ》れるほどと、中ごろ盛(リ)なるほどと、後|衰《シメ》りたるほどとの次序《ツイデ》ありて、三柱は生《アレ》坐るにて、書紀の傳は、其(ノ)状《サマ》を細《クハシ》く云るものなり、
〇火照命、本傳理《ホデリ》と訓べし、本能弖流《ホノテル》と訓(ム)はわろし、【此(ノ)御兄弟《ミハラカラ》三柱の御名、皆|直《タダ》に火某《ホソレ》と訓べし、之《ノ》を添《ソフ》べからず、此記には、火|之《ノ》と之《ノ》の添(ヒ)たる名には、火之《ヒノ》夜藝速男、火之炫《ヒノカガ》毘古、火之《ヒノ》迦具士など、皆之(ノ)字あるをや、又照も、弖流《テル》とは訓まじく、必(ズ)弖理《テリ》なること次の火須勢理火遠理の理《リ》の例を以て知べし、】さて此《コ》は、初(メ)に火の燃起《モエタチ》て、照明《テリアカ》れる時に生《アレ》坐る故の御名なり、書紀一書に、初(メ)火※[餡の旁+炎]明《ホノホアカル》時(ニ)生兒《アレマセルミコ》、火明《ホアカリノ》命、又一書に、其(ノ)火(ノ)初(メテ)明《アカル》時(ニ)、躡誥《フミタケビテ》出(ル)兒《ミコ》、自《ミヅカラ》言《ナノリタマフ》2吾《アレハ》是天(ツ)神之|子《ミコ》、名(ハ)火明(ノ)命(ト)1とある、即(チ)此(ノ)御子にて、照《テリ》と明《アカリ》とは、同意なり、【書紀には、みな火明(ノ)命とのみありて、火照(ノ)命と云る傳(ヘ)は無きは、彼(ノ)天(ノ)忍穗耳(ノ)命の御子、尾張(ノ)連(ノ)祖なる天(ノ)火明(ノ)命と、混《マガ》ひつるなり、故(レ)此(ノ)段の火明(ノ)命を、本書には、尾張(ノ)連等(ガ)始祖也とあり、そはいよいよ混亂《マガヒ》たるものなり、然れば此(ノ)御名は、此記に火照とあるぞ、正しかりける、】
〇隼人阿多《ハヤビトアタノ》君|之《ノ》祖、隼人は、波夜毘登《ハヤビト》と訓べし、和名抄にも、隼人司(ハ)波夜比止乃豆加佐《ハヤビトノツカサ》とあり、【後(ノ)世に波伊登《ハイト》と云は、夜毘《ヤビ》は伊《イ》と約《ツヅ》まれども、なほ訛(リ)なるペし、又書紀の訓などに、ハイトンとあるは、いよゝ正しからず、又今(ノ)世に波夜登《ハヤト》とも云は、波伊登と云たぐひなり、】隼人《ハヤビト》と云者は、今の大隅薩摩二國の人にて、其(ノ)國人は、絶《スグ》れて敏捷《ハヤ》く猛勇《タケ》きが故に、此(ノ)名あるなり、【古言に、猛勇《タケ》きを波夜志《ハヤシ》とも登志《トシ》とも云(ヘ)れば、波夜《ハヤ》と云に、猛勇《タケ》き意もあるなり、隼(ノ)字を書(ク)ことは、迅速《ハヤ》きこと、此(ノ)鳥の如く、又|波夜夫佐《ハヤブサ》てふ名も合へればなり、】景行仲哀の御世のころ、熊曾《クマソ》と云し者も是(レ)にて、即(チ)其(ノ)國を熊曾《クマソノ》國と云き、【熊曾の國の事は、傳五の十五葉に云り、】又|其《ソ》を隼人《ハヤビトノ》國と云るは、續紀二に、大寶二年、先(キ)v是(ヨリ)征(セシ)2薩摩(ノ)隼人ゐ1時云々、唱更《ハヤビトノ》國司等【今(ノ)薩摩(ノ)國也】言(ス)云々とある、唱更これ隼人なり、【拾芥抄(ノ)改名所々(ノ)部に、薩摩(ノ)國元(ハ)唱更とあり、職員令(ノ)隼人司(ノ)義解に、隼人(ハ)者、分番上下、一年(ヲ)爲v限(ト)云々、とある意を以て、其(ノ)ころ唱更とは書たりしなり、今(ノ)薩摩(ノ)國也とは、續紀撰ばれし時の注なり、】萬葉三【十五丁】に、隼人乃薩摩乃迫門《ハヤビトノサツマノセト》、六【二十二丁】に、隼人乃湍門《ハヤビトノセト》、など云るも、國(ノ)名なり、【書紀孝徳(ノ)卷に、薩麻之曲《ツマノクマ》、右に引る續紀に、薩摩(ノ)隼人、萬葉に、薩摩乃迫門、などある薩摩は、國(ノ)名には非ず、隼人(ノ)國の中の地(ノ)名なり、後まで薩摩(ノ)郡あれば、其あたりの名にぞ有けむ、】其《ソ》を薩摩(ノ)國とは、後に改められたるなり、【さて隼人とは、今の大隅薩摩二國の人を云る中にも、隼人(ノ)國と云しは、今の薩摩(ノ)國の域《トコロ》なるべし、大隅は、和銅六年に、日向より分れたる國なればなり、但し上古には、薩摩までかけて、日向(ノ)國とも云しかば、其中に、薩摩より大隅かけてを、殊に隼人(ノ)國と云しにもあるべし、さて國(ノ)名の、薩摩と改まりしは、大寶より靈龜までの間なるべし、其故は、右に引る大寶二年の紀には、唱更《ハヤビトノ》國とありて、養老元年の紀に、始めて大隅薩摩二國(ノ)隼人とある、此(ノ)薩摩は、既に國(ノ)名なればなり、】なほ此(ノ)隼人の、皇朝に仕奉る事などは、海神《ワタツミノ》宮(ノ)段の末に、其(ノ)由縁《ユヱヨシ》の見えたる、彼處《ソコ》に委曲《ツバラカ》に云べし、【傳十七の五十七葉】阿多《アタノ》君は、【多《タ》清《スミ》て讀べし、濁るは非なり、】地(ノ)名に由れる姓なり、書紀海神(ノ)官(ノ)段に、其(ノ)火闌降(ノ)命(ハ)即|吾田《アタノ》君|小橋等之本祖《ヲバシラガオヤ》也、【上には是(レ)隼人等(ノ)姶祖也と云て、此《ココ》には又|如此《カク》云る、同(ジ)本書の内にて、前と後と違ひあるはいかにぞや、小橋の事は、中卷白檮原(ノ)宮(ノ)段、傳廿の初(メ)に云べし、】姓氏録に、【右京神別】阿多御手養《アタノミテカヒハ》、火闌降(ノ)命(ノ)六世(ノ)孫、薩摩若相樂《サツマワカサガラカノ》後也、また 【山城(ノ)國神別】阿多(ノ)隼人(ハ)、富乃須佐利乃《ホノスサリノ》命(ノ)之後也と見え、續後紀に、承和三年六月、山城(ノ)國(ノ)人右(ノ)大衣阿多(ノ)隼人逆足(ニ)、賜(フ)2姓(ヲ)阿多(ノ)忌寸(ト)1、など見えたり、【これら隼人の國より上《ノボ》りて、皇朝に仕奉れるが子孫の、京畿に遺《ノコ》り住るなり、大衣の事は、傳十七の五十八葉に云り、さて火闌降(ノ)命の後は、右の外にも、大和(ノ)國に二見(ノ)首大角(ノ)隼人、津(ノ)國に日下部《クサカベ》、和泉(ノ)國に坂合部など、姓氏録に見えたり、】さて火照(ノ)命は、廣く隼人の祖と聞えたるに、分て阿多(ノ)君の祖としも云るは、隼人の諸(ノ)姓の中に、殊に顯《アラハ》れたる氏にこそありけめ、【或説に、此《ココ》の隼人阿多(ノ)君を、隼人と阿多(ノ)君と二(ツ)とし、又は隼人(ノ)國の阿多(ノ)君と見たるなど、皆わろし、たゞ阿多(ノ)君は、隼人なる故に隼人とは云るなり、】さて阿多てふ地《トコロ》は、和名抄に、薩摩(ノ)國阿多(ノ)郡阿多(ノ)郷あり、是なり、【此(ノ)名今も存《ア》り、】書紀に、吾田《アタノ》長屋(ノ)笠狹之碕、神武卷に、日向(ノ)國|吾田《アタノ》邑【古(ヘ)は薩摩までかけて、日向(ノ)國と云しこと、上に云るが如し、日向國臼杵(ノ)郡英多あれど、其《ソレ》には非ず、】などある、皆此(ノ)地を云り、天武紀持統紀などに、阿多(ノ)隼人とあるは、此(ノ)地の隼人なり、【又持統紀に、六年閏五月、詔(シテ)2筑紫大宰(ノ)率河内王等(ニ)1曰(ク)、宜(シ)d遣(シテ)3沙門(ヲ)於大隅(ト)與《トニ》2阿多1可uv傳2佛(ノ)教(ヲ)1、】さて書紀に、始(メテ)起(ル)烟(ノ)末(ニ)生出《ナリイヅル》之|兒號《ミコノミナハ》火闌降《ホスソリノ》命、是《コハ》隼人|等《ラガ》始祖《オヤ》也、次(ニ)云々、次(ニ)生出《ナリイヅル》之|兒號《ミコノミナハ》火明《ホアカリノ》命、【一書には、焔《ホノホ》初(メテ)起(ル)時(ニ)共(ニ)生《ナリイヅル》兒號《ミコノミナハ》火酸芹《ホスセリノ》命、次(ニ)火(ノ)盛(ナル)時(ニ)生(ル)兒(ノ)號(ハ)火明(ノ)命、次(ニ)云々、】とあるは、此(ノ)記と、此(ノ)神の生《アレ》坐る次第《ツイデ》も違ひ、又隼人(ノ)祖も異なり、されどその生《アレ》坐る次第《ツイデ》に就《ツキ》て、第一《ハジメ》なるが隼人(ノ)祖なることは同じきなり、又一書には、此(ノ)御兄弟《ミハラカラ》を、火酸芹《ホスセリノ》命と火折《ホヲリノ》尊と二柱として、火明(ノ)命無きは、火酸芹と火明とをば、同(ジ)神とせる傳(ヘ)なり、【又一書に、火折(ノ)命と火々出見(ノ)尊とを、別《コト》神としたる傳(ヘ)もあれば、此(ノ)火酸芹と火明も、或は一神とし、或は二神として、其生坐るついでも、互に前にも後にもなれるなり、】かゝれば此(ノ)二柱の間に、此(ノ)隼人(ノ)祖の錯《マギレ》のあるは、かた/”\由あることなりかし、
〇火須勢理《ホスセリノ》命、これも火之《ホノ》と訓(ム)はわろし、【其由は上に云るが如し、然るに書紀の訓注に、火闌降此(ヲ)云2褒能須素里《ホノスソリト》1とある、能《ノノ》字は、後の訛訓《ヒガヨミ》に耳なれたる人の、さかしらに加へたるなるべし、又姓氏録にも、富乃須佐利《ホノスサリ》ともあれど、是もいかゞ、同書の二見(ノ)首(ノ)條に、富須洗利《ホスセリノ》命とあるぞ、正しかりける、】此《コ》は火の熾《サカリ》に進《スス》み燃《モユ》る時に生《アレ》坐る故の御名なり、書紀一書に、次(ニ)火炎《ホノホノ》盛(リナル)時(ニ)生兒|火進《ホススミノ》命、又|曰《マヲス》2火酸芹《ホスセリノ》命(トモ)1、また一書に、次(ニ)火(ノ)盛(リナル)時(ニ)躡誥《フミタケビテ》出兒、亦《マタ》言《ナノリタマフ》2吾是《アハ》天(ツ)神(ノ)之|子《ミコ》名(ハ)火進《ホススミノ》命(ト)1、とあるを以て心得べし、須勢理《スセリ》は【須素里《スソリ》須佐利《スサリ》も皆同言、】進《ススミ》と同意なり、萬葉十七【四十丁】に、越(ノ)國(ノ)立《タチ》山(ノ)長歌に、之良久母能《シラクモノ》、知邊乎於之和氣《チヘヲオシワケ》、安麻曾々理《アマソソリ》、多可舌多知夜麻《タカキタチヤマ》とある、安麻曾々理《アマソソリ》も、此(ノ)山の甚《イト》高くして、天に進《スス》み登《ノボ》る状《サマ》なるを、思ひ合すべし、【俗《ヨ》に、人の心の浮立進《ウキタチスス》むを、そゝると云も同じ、】然るを書紀に、此(ノ)御名を、火闌降とも書れたる文字は、撰者《ツクレルヒト》の誤《ヒガコト》にぞありける、【其故は、此(ノ)神の生(レ)坐るは、始(メテ)起(ル)烟(ノ)末(ニ)とも、焔(ノ)初(メニ)起(ル)時(ニ)とも、また火炎盛(ナル)時(ニ)ともあれば、此(ノ)御名は、闌降の意なるべき由なし、闌は、衰也とも、殘也とも注せる字なれば、一書に、次(ニ)火炎衰(ル)時(ニ)云々名(ハ)火折(ノ)命とある、火折《ホヲリ》にこそ、よくかなふべき字なれ、然るを初(メテ)起(ル)時に生坐る御子の御名にしも、此(ノ)字を當《アテ》られたるは、進昇《ススミノボ》ると、衰降《オトロヘクダ》ると、反對《ウラウヘ》の違ひなるをや、】
〇火遠理《ホヲリノ》 命、これも火之《ホノ》と訓(ム)はわろきこと、上の二柱に同じ、此《コ》は火の衰へたる時に生《アレ》ませる故の御名にて、火弱《ホヨワ》りの義《ココロ》なり、書紀一書に、火夜織《ホヨオリノ》命ともあるを以て知(ル)べし、【本與《ホヨ》を切《ツヅ》むれば、本《ホ》となり、和《ワ》と袁《ヲ》と通ふ例は、たわやめたをやめ、たわむとをむ、たわゝとをゝ、わなゝくをのゝくなどのごとし、但し折と織と、袁《ヲ》淤《オ》の通ひたる例はめづらし、】又一書に、次(ニ)避《サル》2火炎《ホノホ》1時(ニ)生(ル)兒、火折《ホヲリ》彦火々出見(ノ)尊、また一書に、次(ニ)火炎衰《ホノホシメル》時(ニ)躡誥《フミタケビテ》出(ル)兒、亦|言《ナノリタマフ》2吾是《アハ》天(ツ)神(ノ)之|子《ミコ》名(ハ)火折(ノ)命(ト)1、などもあり、さて右の三柱の中に、終(リ)に火の衰へたる時に生《アレ》坐る御子しも、天津日嗣《アマツヒツギ》を所知看《シロシメ》しけることは、如何《イカ》なる故にか、知(リ)がたけれど、こゝろみに云(ハ)ば、此(ノ)御子|等《タチ》は、父尊の御疑《ミウタガヒ》を明《アキラ》め奉むとして、かく火中《ホナカ》に在て産《ウミ》坐るを、初(メ)に火の發《オコ》れるほどは、御疑(ヒ)いまだ明《ハレ》ざるべく、熾《サカリ》に燃《モユ》るほども、なほ燒《ヤケ》む燒《ヤ》けじは、未(ダ)定めがたかるべきを、其火既に盛(リ)過て、衰(フ)る時に至りてぞ、御母《ミオヤ》も御子も、終《ツヒ》に所燒《ヤケ》坐(サ)ざること定まりて、實に天(ツ)神の御子に坐(ス)徴驗《シルシ》は明らかなりける故に、終《ヲハ》りに生《アレ》坐るが貴きことわりならむか、【かの伊邪那岐(ノ)大神の、阿波岐原の御禊の時も、最後《イヤハテ》に生坐る三柱(ノ)御子ぞ、殊に貴く坐ける、其《ソレ》も漸に穢の除《ノゾコ》りて後、清明《キヨ》かりしこと、此《ココ》もこゝろばへ似たり、】
〇天津日高《アマツヒダカ》は、父尊の御名にて、【傳十五の三葉に出(ヅ)、】傳へ負(ヒ)賜へるなり、
〇日子穗々手見《ヒコホホデミノ》命、穗々《ホホ》は稲穗《イナホ》にて、即(チ)字の如く、重ね云るか、又|大穗《オホホ》にてもあるべし、【大《オホ》を、意《オ》を省きて、富《ホ》と云る例、傳七、忍穗耳(ノ)命の處に委(ク)云るがごとし、】穗々《ホホ》と云例は、書紀一書に、邇々藝《ニニギノ》命を、天之杵火々置瀬《アメノキホホオキセノ》尊ともあり、此(ノ)火々《ホホ》も、稲穗に依れり、【稲穗は、天津日嗣に、重き由縁《ヨシ》あること、上に處々云るが如し、考(ヘ)合すべし、然るにこれらの富々《ホホ》を、書紀の字に依て、火の意とするは非なり、火折《ホヲリ》こそ、生坐る時の火に因れる御名なれ、此(ノ)亦(ノ)御名は、天津日嗣しろしめしての御稱名《ミタタヘナ》にて、彼(ノ)火に因れることには非ず、故(レ)此(ノ)記に、火照火須勢理火遠理と、火に因れる御名には、皆火(ノ)字を書るに、同じつゞきにて、此(ノ)御名のみは、穗(ノ)字を書て、別《ワケ》たるを以ても知べし、但(シ)書紀には、或は彦火々出見(ノ)尊とのみありて、火折てふ御名をば出さず、或は出しながら、亦(ノ)御名とせるなどは、火々出見と申す方を、火明などと並べて、火の義に取れる傳(ヘ)なり、されど其《ソ》はもと混《マガ》ひつるものにて、正しからず、此(ノ)記|及《マタ》一書に、火折(ノ)尊|亦號《マタノミナハ》彦火々出見(ノ)尊とあるぞ、正しかるけり、】手《テ》は根《ネ》に通ひ、見《ミ》は耳《ミミ》と同くて、並《ミナ》美稱《タタヘナ》なり、手《デ》てふ例は、八嶋手《ヤシマデ》【須佐之男(ノ)命の御子にて、書紀に見ゆ、】などあり、又|宇麻志麻遲《ウマシマヂノ》命を、書紀には可美眞手《ウマシマデ》とあれば、手《デ》は遲《ヂ》と通ふにもあるべし、其《ソレ》も同く美稱《タタヘナ》なり、【根《ネ》又|遲《ヂ》などの稱名《タタヘナ》の例は、常多し、又|見《ミ》耳《ミミ》の事は、傳七の五十四葉、五十五葉に委く云り、】手見《デミ》と連《ツヅ》ける例は、浮穴(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇の御名、師木津日子玉手見《シキツヒコタマデミノ》命これなり、【さて書紀に、火折(ノ)命と彦火々出見(ノ)尊とを、二柱としたる一書あり、そはいたく異なる傳(ヘ)なり、また火夜織(ノ)命次(ニ)彦火々出見(ノ)尊とあるもあり、火夜織は火折なれば、是(レ)も二柱とせる傳(ヘ)なり、又火折彦火々出見(ノ)尊と、二(ツ)の御名を、一(ツ)に連《ツラ》ねて擧たる傳(ヘ)もあり、】さて白檮原《カシバラノ》宮(ニ)御宇(シシ)天皇をも、彦火々出見(ノ)尊と申せるよし、書紀に見えたり、天津日嗣に由ある稲穗を以て、美稱《タタヘ》奉れる御號《ミナ》なる故に、又傳(ヘ)負(ヒ)賜へりしなり、
 
古事記傳十七之卷
                    木居宣長謹撰
 
 神代十五之卷《カミヨノトヲマリイツマキトイフマキ》
 
故火照命者《カレホデリノミコトハ》。爲海佐知毘古《ウミサチビコトシ》【此四字以音下效此】而《テ》。取鰭廣物鰭狹物《ハタノヒロモノハタノサモノヲトリタマヒ》。火遠理命者《ホヲリノミコトハ》。爲山佐知毘古而《ヤマサチビコトシテ》。取毛※[鹿三つ]物毛柔物《ケノアラモノケノニコモノヲトリタマヒキ》。爾火遠理命謂其兄火照命《ココニホヲリノミコトソノイロセホデリノミコトニ》。各相易佐知欲用《カタミニサチヲカヘテモチヒテムトイヒテ》。三度雖乞《ミタビコハシシカドモ》。不許《ユルサザリキ》。然遂纔得相易《シカレドモツヒニワヅカニエカヘタマヒキ》。爾火遠理命《カレホヲリノミコト》。以海佐知釣魚《ウミサチヲモチテナツラスニ》。都不得一魚《カツテヒトツモエタマハズ》。亦其鉤失海《マタソノツリバリヲサヘウミニウシナヒタマヒキ》。於是其兄火照命乞其鉤曰《ココニソノイロセホデリノミコトソノハリヲコヒテ》。山佐知母己之佐知佐知《ヤマサチモオノガサチサチ》。海佐知母己之佐知佐知《ウミサチモオノガサチサチ》。今各謂返佐知之時《イマハオノオノサチカヘサムトイフトキニ》。【佐知二字以音】其弟火遠理命答曰《ソノイロトホヲリノミコトノリタマハク》。汝鉤者《ミマシノツリバリハ》。釣魚不得一魚《ナツリシニヒトツモエズテ》。遂失海然《ツヒニウミニウシナヒテキトノリタマヘドモ》。其兄強乞徴《ソノイロセアナガチニコヒハタリキ》。故其弟《カレソノイロト》。破御佩之十拳劔《ミハカシノトツカツルギヲヤブリテ》。作五百鉤雖償《イホハリヲツクリテツグノヒタマヘドモ》。不取《トラズ》。亦作一千鉤雖償《マタチハリヲツクリテツグノヒタマヘドモ》。不受《ウケズテ》。云猶欲得其正本鉤《ナホカノモトノハリヲエムトゾイヒケル》。
海佐知山佐知は、直《タダ》に宇美佐知夜麻佐知《ウミサチヤマサチ》と訓べし、【海之山之《ウミノヤマノ》と、之《ノ》を添(フ)るはわろし、】下なるも皆同じ、書紀に、海幸山幸と書て、宰此(ヲ)云2左知《サチト》1とあれども、幸の意のみには非ず、【幸とのみ心得ては、下に至(リ)てかなはぬことあり、其由は其處に云べし、】佐知《サチ》は、幸取《サキトリ》にて、伎《キ》を省《ハブ》き、登理《トリ》を切《ツヅ》めて、知《チ》と云なり、【登理《トリ》を知《チ》と云例多し、】さてまづ幸《サキ》とは、凡て身のために吉《ヨ》き事を云、【福(ノ)字をも書り、】此《ココ》にては、海にて諸(ノ)魚を得(ル)を、海佐伎《ウミサキ》と云(ヒ)、山にて諸(ノ)獣を得るを、山佐伎《ヤマサキ》